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丙午
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丙午(ひのえうま、へいご)は、干支の1つ。
干支の組み合わせの43番目で、前は乙巳、次は丁未である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の午は陽の火で、比和である。
丙午は干・支ともに火性である。
西暦年を60で割って46が余る年が丙午の年となる。
「丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」という迷信がある。これは、江戸時代の初期の「丙午の年には火災が多い」という迷信が、八百屋お七が丙午の生まれだとされたことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる。
江戸時代には人の年齢はすべて数え年であり、もしも八百屋お七が寛文6年(1666年)の丙午生まれならば、放火し火あぶりにされた天和3年(1683年)には18歳になる計算となるが、井原西鶴などの各種の伝記では16歳となっている。しかし、浄瑠璃作家紀海音が浄瑠璃「八百やお七」でお七を丙午生まれとし、それに影響された為長太郎兵衛らの『潤色江戸紫』がそれを引き継ぎ、また馬場文耕はその著作『近世江都著聞集』で谷中感応寺にお七が延宝4年(1676年)に掛けた額が11歳としたことが、生年を寛文6年(1666年)とする根拠となった。
紀海音は演劇界に強い影響力を持ち、文耕の近世江都著聞集も現代では否定されているものの長く実説(実話)とされてきた物語で有り、お七の丙午説はこのあたりから生じていると考えられている。
明治時代以降もこの迷信は続き、1906年(明治39年)の丙午では、前年より出生数が約4%減少した。当時の新聞には元日に産まれた女児の将来を案じる記事があるほか、生まれた男児の出生届を前後の年にずらして届け出ることもあったという。
この1906年生まれの女性が結婚適齢期となる1920年代前半、特に1924年(大正13年)から1926年(大正15年/昭和元年)には、縁談の破談や婚期が遅れる悲観、家族の心無い言葉などが理由である女性の自殺の報道などが相次ぎ、迷信を否定する談話や映画『丙午の女』(石巻良夫:監督、サクラプロダクション)が製作されるなど、丙午生まれの迷信が女性の結婚に影響したことが伺われる。夏目漱石は1907年に発表した小説『虞美人草』において、主人公の男を惑わす悪女、藤尾を「藤尾は丙午である」と表現している。
この年に生まれた小説家坂口安吾は、本名は丙午を意味する炳五という名を付けられ、親類から「男に生まれて良かった」と言われたという話を文章に残している。坂口は、1954年の随筆でこの迷信はなかなか無くならないだろうと予言し、実際1966年もその通りになった。
この迷信は昭和になっても依然根強く、1966年(昭和41年)の出生率は前年に比べて25%下がった。子供をもうけるのを避けたり妊娠中絶を行ったりした夫婦が地方や農村部を中心に多く、出生数は136万974人と他の年に比べて極端に少なくなった。一方で前年(182万人)および翌年(194万人)の出生数は増加している。
1966年に生まれた子供は少なかったことから、この学年度(翌1967年の早生まれを含む人口は約160万人)の高校受験、大学受験が他の年より容易だったのかについては当時からしばしば論じられた話題であったが、大学一般の入学率については有意な差がみられないものの、国公立大学への進学率は1985年に上昇した。またこの年の子供は第一子(初めての子供)率が50.9%で統計史上過去最多であった。
一方で、日本の地方自治体の中には丙午の迷信に対する取り組みを行う自治体があった。1965年11月には山形市で、法務省山形地方法務局が主催となった「ひのえうま追放運動」が展開され、同月21日には市内パレードで啓発を呼びかけた。同法務局によると、子どもを産む産まないで、離婚調停に至ったり、近所から嫌がらせを受けたなどの相談が多発したためである。また、群馬県粕川村(現・前橋市粕川町)でも、村長主導で「迷信追放の村」を宣言して、同様の運動が行われた。村役場が1906年とその前後の年に誕生した女性1400人を調査して、丙午には根拠がないことを広報するなど取り組んだ。福岡県久留米市は、1966年最初の広報紙で丙午を「むかしむかしのおとぎ話」「昨年は二人目のノーベル賞受賞者を出した科学日本に、もっともふさわしくない、まことに奇妙な風習」「童話の世界」と強い語気で否定した。
2023年(令和5年)に大阪教育大学を卒業した学生が、卒業論文の一環で1966年生まれの女性に行ったアンケートでは、回答した142人の半数弱に気性が荒いと決めつけられた経験があり、言動の大半が母や祖母などの女性からのものだった。また、出生数の少なさや結婚できないという偏見から、嫌味を言われたり、厳しくしつけられたと述べた人もいた。しかし、丙午なら結婚や出産を避けるべきかという質問に賛成したのは1%にすぎず、丙午に否定的な印象を持つ人は殆んどいなかった。
西暦年の下1桁が2・7(十干が壬・丁)の年の5月が丙午の月となる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月(芒種から小暑の前日まで)を適用する場合もある。
丙午の日は天一天上の14日目である。また、土以外の比和では唯一八専に含まれない。
四柱推命で注意を要するのは「丙午年生まれ」でなく「丙午日生まれ」で、「戊午日生まれ」や「壬子日生まれ」と共に十二運が最強の帝旺、宿命星日刃がつき、男女とも異常なまでに強い性格となり結婚相手との間に支障をきたしやすいとされる。男性はワンマンな亭主関白、女性もカカア天下で、家長になるべき夫の面目丸潰れになることから「夫を食い殺す」などの迷信が生まれたものと推測する。
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丙午(ひのえうま、へいご)は、干支の1つ。 干支の組み合わせの43番目で、前は乙巳、次は丁未である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の午は陽の火で、比和である。
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{{参照方法|date=2009年12月}}
'''丙午'''(ひのえうま、へいご)は、[[干支]]の1つ。
干支の組み合わせの43番目で、前は[[乙巳]]、次は[[丁未]]である。[[陰陽五行思想|陰陽五行]]では、[[十干]]の[[丙]]は陽の[[火]]、[[十二支]]の[[午]]は陽の[[火]]で、[[五行思想#比和(ひわ)|比和]]である。
== 丙午の年 ==
丙午は干・支ともに火性である。
[[西暦]]年を60で割って46が余る年が丙午の[[年]]となる。
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== 丙午生まれの迷信 ==
{{Anchors|迷信}}
=== 由来 ===
「丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」という迷信がある。これは、江戸時代の初期の「丙午の年には火災が多い」という迷信が、[[八百屋お七]]が丙午の生まれだとされたことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる<ref name="asahi">「〈昭和史探訪〉Vol.78 ひのえうま 迷信追放に挑んだ村」 2010年12月18日付『[[朝日新聞]]』 夕刊(web版:{{Cite web|和書| url= http://doraku.asahi.com/earth/showashi/120118.html | title= 昭和史再訪セレクション Vol.78 ひのえうま 迷信追放に挑んだ村 | publisher=朝日新聞 |accessdate=2012-02-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120123162859/http://doraku.asahi.com/earth/showashi/120118.html |archivedate=2012-01-23}}</ref><ref>[https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/libr/qa/qa_35.htm 東京消防庁・消防雑学]2012.9.20閲覧</ref>。
江戸時代には人の年齢はすべて数え年であり<ref>[http://tatemonoen.jp/special/past_2007.html 江戸東京たてもの園・2007年初春の雅]2012.9.20閲覧</ref>、もしも八百屋お七が[[寛文]]6年(1666年)の丙午生まれならば、放火し火あぶりにされた天和3年(1683年)には18歳になる計算となるが、井原西鶴などの各種の伝記では16歳となっている<ref name="吉行淳之介">井原西鶴 原著、吉行淳之介 現代語訳『好色五人女』[[河出書房新社]]、1979年、pp.66-86</ref><ref name="サライ・十代目桂文治">サライ責任編集『十代目桂文治』昭和の名人完結編、小学館、2011年、pp.11-12および付属CD「八百屋お七」</ref>。しかし、浄瑠璃作家[[紀海音]]が浄瑠璃「八百やお七」でお七を丙午生まれとし、それに影響された為長太郎兵衛らの『潤色江戸紫』がそれを引き継ぎ、また[[馬場文耕]]はその著作『近世江都著聞集』で谷中感応寺にお七が延宝4年(1676年)に掛けた額が11歳としたことが、生年を寛文6年(1666年)とする根拠となった。
紀海音は演劇界に強い影響力を持ち、文耕の近世江都著聞集も現代では否定されているものの長く実説(実話)とされてきた物語で有り、お七の丙午説はこのあたりから生じていると考えられている<ref name="竹野p11">竹野 静男「西鶴-海音の遺産 八百屋お七物の展開」『日本文学』vol.32、日本文学協会編集刊行、1983年、p.11</ref>。
=== 1906年 ===
明治時代以降もこの迷信は続き、[[1906年]](明治39年)の丙午では、前年より出生数が約4%減少した。当時の新聞には元日に産まれた女児の将来を案じる記事がある<ref name="matsuura">松浦國弘「「丙午生まれ」の悲劇 迷信で命を絶った女性たち」溝口常俊・編『愛知の大正・戦前昭和を歩く』[[風媒社]] 2023年 ISBN 978-4-8331-4308-0 P.150-153</ref>ほか、生まれた男児の出生届を前後の年にずらして届け出ることもあったという<ref>高橋眞一「明治大正期における地域人口の自然増加と移動の関連性」『國民經濟雜誌』187巻4号、神戸大学、2003年。</ref>。
この1906年生まれの女性が結婚適齢期となる[[1920年代]]前半、特に[[1924年]](大正13年)から[[1926年]](大正15年/昭和元年)には、縁談の破談や婚期が遅れる悲観、家族の心無い言葉などが理由である女性の自殺の報道などが相次ぎ<ref name="matsuura"/>、迷信を否定する談話や映画『丙午の女』(石巻良夫:監督、サクラプロダクション)<ref name="matsuura"/>が製作されるなど、丙午生まれの迷信が女性の結婚に影響したことが伺われる<ref>報道の一例 「ことし十九歳の迷信に悩む娘たち 縁が遠いと「丙午」をかつぐ」 1924年2月10日付『朝日新聞』朝刊</ref>。[[夏目漱石]]は[[1907年]]に発表した小説『[[虞美人草]]』において、主人公の男を惑わす悪女、藤尾を「藤尾は丙午である」<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card761.html 青空文庫 夏目漱石 『虞美人草』]</ref>と表現している。
この年に生まれた小説家[[坂口安吾]]は、本名は丙午を意味する炳五という名を付けられ、親類から「男に生まれて良かった」と言われたという話を文章に残している。坂口は、[[1954年]]の[[随筆]]でこの迷信はなかなか無くならないだろうと予言し<ref>坂口安吾 「[https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42961_31184.html ヒノエウマの話]」 [[青空文庫]]</ref>、実際1966年もその通りになった。
=== 1966年 ===
[[File:BirthDeath 1950 JP.svg|thumb|right|1950年から2008年までの日本の出生率(赤)。丙午の年に当たる1966年の出生率が極端に低くなっている。]]
この迷信は[[昭和]]になっても依然根強く、1966年(昭和41年)の出生率は前年に比べて25%下がった<ref>[http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2007/12/pdf/017-028.pdf 慶應大学教授赤林英夫「丙午世代のその後-統計から分かること」]2012.9.20閲覧</ref>。子供をもうけるのを避けたり妊娠中絶を行ったりした夫婦が地方や農村部を中心に多く{{efn2|統計上も人工中絶が多いことが報じられた<ref>「異常に多い人工中絶 厚生省・一~三月の調査」 1966年8月22日付『朝日新聞』夕刊</ref>。}}、出生数は136万974人<ref>内閣府『青少年白書』平成18年版</ref>と他の年に比べて極端に少なくなった。一方で[[1965年|前年]](182万人)および[[1967年|翌年]](194万人)の出生数は増加している<ref name="matsuura"/>。
1966年に生まれた子供は少なかったことから、この学年度(翌1967年の[[早生まれ]]を含む人口は約160万人<ref>1966年度生まれの18歳人口は約160万人[https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kihon5/1kai/siryo6-2-7.pdf </ref>)の[[高校受験]]、[[大学受験]]が他の年より容易だったのかについては当時からしばしば論じられた話題であったが、大学一般の入学率については有意な差がみられないものの、国公立大学への進学率は1985年に上昇した<ref>「丙午世代のその後-統計から分かること」赤林英夫(日本労働研究雑誌)[http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2007/12/pdf/017-028.pdf]PDF-P.5</ref>。またこの年の子供は第一子(初めての子供)率が50.9%で統計史上過去最多であった。
一方で、日本の[[地方公共団体|地方自治体]]の中には丙午の迷信に対する取り組みを行う自治体があった。1965年11月には[[山形市]]で、[[法務省]]山形地方法務局が主催となった「ひのえうま追放運動」が展開され、同月21日には市内パレードで啓発を呼びかけた。同法務局によると、子どもを産む産まないで、離婚調停に至ったり、近所から嫌がらせを受けたなどの相談が多発したためである<ref>『[[河北新報]]』1965年11月。</ref>。また、[[群馬県]][[粕川村 (群馬県)|粕川村]](現・[[前橋市]]粕川町)でも、村長主導で「迷信追放の村」を宣言して、同様の運動が行われた。村役場が[[1906年]]とその前後の年に誕生した女性1400人を調査して、丙午には根拠がないことを広報するなど取り組んだ<ref name="asahi"/>。[[福岡県]][[久留米市]]は、1966年最初の広報紙で丙午を「むかしむかしのおとぎ話」「昨年は[[朝永振一郎|二人目のノーベル賞受賞者]]を出した科学日本に、もっともふさわしくない、まことに奇妙な風習」「童話の世界」と強い語気で否定した<ref>「暮らしのしおり」 久留米市役所『市政くるめ』第188号 1966年1月5日</ref>。
[[2023年]](令和5年)に[[大阪教育大学]]を卒業した学生が、[[卒業論文]]の一環で1966年生まれの女性に行ったアンケートでは、回答した142人の半数弱に気性が荒いと決めつけられた経験があり、言動の大半が母や祖母などの女性からのものだった。また、出生数の少なさや結婚できないという偏見から、嫌味を言われたり、厳しくしつけられたと述べた人もいた。しかし、丙午なら結婚や出産を避けるべきかという質問に賛成したのは1%にすぎず、丙午に否定的な印象を持つ人は殆んどいなかった<ref name="yomiuri">{{cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20230405-OYO1T50028/ |title=「丙午」の迷信、若者は気にする? …迫る3年後、「女性の気性激しい」前回は出生数激減|author=島香奈恵|date=2023-4-6|publisher=[[読売新聞社]]|accessdate=2023-5-1}}</ref>{{efn2|丙午出身である[[酒井順子]]は、丙午生まれであることで嫌な思いをしたことがないとした上で、「私たちは「丙午に生まれても心配なく生きていける」という“壮大な実証実験”をしたようなもの」と述べている<ref name="yomiuri"/>。}}。
===2026年===
次回の丙午は[[2026年]]であるが、[[世界銀行]]はこのトレンドは継続しないと予測している<ref>{{Cite web |title=The curse of the Fire-Horse: How superstition impacted fertility rates in Japan |url=https://blogs.worldbank.org/opendata/curse-fire-horse-how-superstition-impacted-fertility-rates-japan |website=blogs.worldbank.org |date=2019-01-22 |access-date=2023-12-14 |language=en}}</ref>。
== 丙午の月 ==
西暦年の下1桁が2・7(十干が[[壬]]・[[丁]])の年の[[5月]]が丙午の[[月 (暦)|月]]となる。ただしここでいう月は、[[旧暦]]の月や[[節月]]([[芒種]]から[[小暑]]の前日まで)を適用する場合もある。
== 丙午の日 ==
=== 選日 ===
丙午の日は[[天一天上]]の14日目である。また、土以外の比和では唯一[[八専]]に含まれない。
=== 四柱推命 ===
{{要出典範囲|[[四柱推命]]で注意を要するのは「丙午年生まれ」でなく「丙午日生まれ」で、「[[戊午]]日生まれ」や「[[壬子]]日生まれ」と共に十二運が最強の帝旺、宿命星[[日刃]]がつき、男女とも異常なまでに強い性格となり結婚相手との間に支障をきたしやすいとされる。男性はワンマンな亭主関白、女性もカカア天下で、家長になるべき夫の面目丸潰れになることから「夫を食い殺す」などの迷信が生まれたものと推測する。|date=2020年4月}}
== 脚注 ==
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== 出典 ==
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== 関連項目 ==
*[[1966年#誕生]]
*[[1906年#誕生]]
*{{prefix}}
*{{intitle}}
*[[寅#五黄の寅|五黄の寅]]
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
|author=新津隆夫
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|coauthors=[[藤原理加]]
|title=1966年生まれ 丙午女(ヒノエウマ・ウーマン)…60年に一度の元気者
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JUNE (雑誌)
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『JUNE』(ジュネ)は、かつてマガジン・マガジンから発行されていた日本の雑誌。1978年10月に『Comic Jun』として創刊され、1995年11月に休刊した。『JUNE』は日本で初めて創刊された女性向け男性同性愛の専門誌であり、漫画と小説を中心に、映画や文学の紹介や読者による投稿が掲載された。
『JUNE』は10代後半から20代前半の女性を読者層とし、多い時でおよそ8万部の発行部数があった。竹宮惠子や中島梓、吉田秋生、柴門ふみといった漫画家・小説家が作品を発表したほか、竹宮や中島による投稿作品の添削コーナーからは津田雅美や西炯子、羅川真里茂といった漫画家のほか、榎田ユウリやたつみや章といった小説家が輩出された。
日本全国で展開された雑誌であった『JUNE』の創刊によって、それまでアクセスが限られていた女性向け男性同性愛のジャンルは急速に体系化された。『JUNE』とそのコンセプトである「耽美」という言葉は男性同性愛を描く作品の通称として広まり、後のやおいやボーイズラブに繋がった。
『JUNE』は、当時サン出版でアルバイトをしていた佐川俊彦を契機として創刊された。熱心な漫画読者であった佐川は、少年同士の世界を描いていた24年組に興味を抱き、サン出版に「女性向けのポルノ、マイルドなポルノ雑誌」の企画を提出した。この企画が認められ、1978年10月に『Comic Jun』が創刊された。佐川によると、「Jun」の由来は石ノ森章太郎の漫画である『ジュン』や、純粋や純文学の「純」などであり、様々な意味が込められていたという。創刊時の価格は380円であり、当時の雑誌としては高い部類だった。
初代編集長にはサン出版が刊行していたゲイ向けの雑誌『さぶ』の編集長を務めていた櫻木哲郎が就任した。『Comic Jun』には24年組の一人に位置づけられる漫画家である竹宮惠子や、小説家である中島梓などが佐川の誘いで参加した。竹宮は参加した理由について、当時『週刊少女コミック』で連載していた『風と木の詩』の援護射撃になることを期待していたと語っている。また、中島は、佐川が早稲田大学在学中に所属していたワセダミステリクラブでの先輩であり、佐川が少年愛分野のブレーンとして誘った。
『Comic Jun』は第3号にあたる1979年2月号から『JUNE』に改題された。改題の理由は同名のファッションブランドである「JUN」から抗議があったためであった。抗議があった時点ですでに第3号の印刷が始まっており、サン出版の社長の提案で急遽「JUN」の後ろに「E」をつけ足して「JUNE」とした。創刊当初は売れ行きの予想が付いておらず、十数万部を印刷しており、それによって返本が多く発生した。この高い返本率は次第に改善されていったものの、1979年8月に刊行された8月号を最後に『JUNE』は一時休刊を余儀なくされた。
休刊後、サン出版のもとには「1,000円までなら出せる」という内容の手紙が大量に寄せられた。こうした声にこたえる形で、発行部数を創刊当初の半分に抑えて定価を倍の760円にしたうえで、1981年10月に刊行された10月号から復刊した。復刊第1号はサン出版から刊行されていた『劇画ジャンプ』の増刊号として刊行された。
1982年10月号から小説をメインとした『小説JUNE』が別冊として発行され始めた。『小説JUNE』は『小JUNE』と呼ばれ、それに対して『JUNE』は『大JUNE』と呼ばれるようになった。佐川によると、『小説JUNE』は創刊してから間もなく『JUNE』の発行部数を抜いたという。『小説JUNE』は1984年2月号から隔月化し、もともと隔月刊であった『JUNE』と毎月交代で出版された。
1980年代後半から「やおい」同人誌が爆発的に流行し、1990年代にはボーイズラブが商業ジャンルとして成立した。1990年代中頃から『JUNE』の発行部数は減少し始めた。『JUNE』は次第に命脈を保つのが困難になり、1995年11月号の第85号で休刊した。佐川は、ソフトな路線を取っていた『JUNE』とハードなセックス描写があったボーイズラブ雑誌は共存可能だと考えていたが、そうはいかなかったと語っている。『JUNE』の休刊後、小説は『小説JUNE』に一本化され、漫画はページ数を増やすため『JUNE新鮮組』と『コミックJUNE』に細分化された。このうち『コミックJUNE』はハードコアなセックスが描かれるボーイズラブ漫画が主に掲載されていた。このことから、溝口彰子は『コミックJUNE』と『JUNE』を混同するべきではないとしている。
1996年には『JUNE』の投稿やグラビア、同人情報といった情報部分をメインにした『Visualtambi JUNE』が創刊されたが、同年4月の2号目で休刊した。また、1997年には『小説JUNE』の増刊として『COMIC美少年』が1号のみ刊行された。『小説JUNE』も、人気作品であった『富士見二丁目交響楽団』の連載が1990年代後半に一段落し、他社から文庫版の刊行が始まると、毎月数百部ずつ部数が減っていった。そして2004年4月に発行された第153号をもって『小説JUNE』は休刊した。また、『コミックJUNE』も2013年2月号で休刊した。
『JUNE』には漫画だけでなく、映画情報や読書ガイド、アイドルへのインタビューなどが掲載されていた。こうした映画情報のほか、文学紹介や絵画紹介は特に初期の『JUNE』によく見られた。このほか、「junetopia」という読者投稿コーナーが存在した。「junetopia」では自らの同人サークルの紹介や「ヒワイ画コンテスト」「美形ギャラリー」と名付けられたイラスト投稿コーナーが設けられた。また、『JUNE』には広告がほとんど掲載されていなかった。
『JUNE』に掲載された作品の多くは少年同士の恋愛を描いていたが、両性具有や少女同士の作品も掲載されていた。竹宮によると、男女の話であっても『JUNE』らしさが描かれていれば掲載するという了解が佐川との間に出来ていたという。中島梓によると、初期の『JUNE』ではサディズムとマゾヒズムの組み合わせが顕著であり、その後もネクロフィリアや近親相姦が高い頻度で見られたほか、カニバリズムもまれに見られたが、スカトロジーや肥満嗜好は決して見られなかった。
『JUNE』に掲載された作品は「耽美的でシリアス」と評される。初期の『JUNE』では無理心中や交通事故、不慮の死や永遠の離別といったバッドエンドとされるものが多かった。石田仁の調査によると、『Comic Jun』の創刊号に掲載された11作品のうち10作品がこのようなバッドエンドに分類された。こうしたことから、『JUNE』の休刊後もシリアスなボーイズラブ作品が「JUNE系」と呼ばれることがある。ただし、休刊が近づくにつれて相思相愛の確認や共同生活の始まりといったグッドエンディングとされる作品が増加していた。
『JUNE』に投稿した作家は24年組を中心とした漫画家やコミックマーケットの同人作家、また、『さぶ』に投稿していた作家などであった。竹宮惠子は様々な描き下ろし漫画や挿絵を発表し、中島梓は『少年派宣言」や「美少年学入門」といった少年愛にまつわるエッセイのほか、様々なペンネームを使い分けて小説を投稿した。常連執筆陣は青池保子や伊東愛子、岸裕子、坂田靖子などであった。このほか、いのまたむつみや柴門ふみ、高野文子、まつざきあけみ、ひさうちみちお、丸尾末広、吉田秋生といった漫画家が作品を投稿した。また、翻訳家である栗原知代が文学紹介のコーナーを担当し、イラストレーターであるおおやちきがイラストコラムを手掛けた。
1982年1月に刊行された復刊第2号から竹宮惠子による「ケーコタンのお絵描き教室」の連載が始まった。佐川によると、彼は「まんがエリートのためのまんが専門誌」をキャッチフレーズとして新人教育に力を入れていた『COM』の少女版を作りたいと考えてこの連載を作ったという。第1回目では男性の唇の、第2回目では男性の手の描き分け方が紹介され、1985年1月号からは投稿作品の添削が始まった。投稿作は「JUNE的な作品であれば自由」であったが、8ページの作品であることが条件として課された。こうした課題を細かく設定する方法は『COM』を参考にしたものであった。第1回には後にプロの漫画家としてデビューする西炯子の初投稿作が掲載された。
1984年1月号からは中島梓による「中島梓の小説道場」の連載が始まった。中島はこの連載において、人称と視点の統一や投稿原稿は鉛筆で執筆しないことといった技法を解説した。また、投稿作の寸評が行われた。この連載に対する読者からの反響は大きかった。その理由について佐川は、読者は書きたいものがあっても漫画を描くのは難しかった。そこに中島が文字で手本を見せたためであると分析している。この連載から秋月こお、榎田尤利といった小説家が輩出され、男性同士の性愛を描く小説をジャンルとして定着させるきっかけとなった。
佐川は創刊時から『JUNE』のコンセプトを「耽美」という言葉で表現していた。創刊号には副題として「Aesthetic Magazine For Gals」(女の子のための耽美雑誌)と記され、グラビア写真コーナーは「耽美写真館」と名付けられた。佐川は耽美という言葉を選んだ理由について、24年組が描く少年が美しいこと、また、24年組の作品において美が理想を示す象徴として用いられているためであると語っている。耽美というコンセプトは少年愛を出発点としたが、しだいに少年だけでなく青年や中年の男性まで含まれるようになり、1990年代初頭までにこの耽美という言葉は男性同性愛の物語を指す言葉として流通した。
この耽美という言葉は1990年代初頭に台湾や中国に流入した。これをきっかけにして耽美(英語版) (danmei、ダンメイ。以下、日本語の耽美との混同を避けるためダンメイと表記する) と呼ばれる中国独自のジャンルが誕生した。ダンメイは中国における男性同性愛作品のジャンルとして発展して大きな経済的・文化的影響力を持つようになり、台湾や韓国、ベトナムといった国々でも人気のあるジャンルになっている。
『JUNE』の読者層は10代後半から20代前半の女性だった。佐川は『JUNE』の読者層について、高校生・大学生以上で、学校の図書委員のような文学少女がメインだったという印象を持っていると語っている。中島梓は『コミュニケーション不完全症候群』において、少女たちは自らを選別し続ける社会からのまなざしに苦しんでおり、そうしたまなざしが存在しない居場所として無意識に選んだのが『JUNE』であると述べている。また、中島は、彼女たちは女性であることに反逆したかった「少年でありたかった少女」であり、しかし女性として育てられていた彼女らにとって自分を愛するのは男性でしかありえなく、それらの論理的な結合として男性同性愛が描かれた『JUNE』に向かっていったと読み解いている。ただし、『JUNE』にはゲイ男性をはじめ男性の読者もいた。前川 (2020)は、あくまで代表性はない個人の体験としたうえで、ゲイ雑誌を近所の書店で買うことは周囲の目を気にして出来なかったため、少女漫画コーナーに置かれていた『JUNE』の存在はありがたかったとしている。
メディア・リサーチ・センターが刊行していた『雑誌新聞総かたろぐ』によると、『JUNE』の発行部数は1983年から1987年で各6万部、1988年から1989年で各7万部、1990年から1997年で各10万部だった。また、『小説JUNE』は1985年から1987年で各6.5万部、1988年から1989年で各8万部、1990年から2004年で各10万部だった。ただし、佐川によると、『雑誌新聞総かたろぐ』における6万部から10万部という発行部数は多めに書かれたものであり、少なくとも佐川が関わっている時期で4万部から6万部、多くて8万部であったという。また、1993年から2004年にかけて編集長を務めていた英保美紀によると、自身の編集長在職時期に限れば『雑誌新聞総かたろぐ』に記載された数字は実際の2倍近い数字であるという。ただし、1992年から1993年の『小説JUNE』の10万部という数字は実際に近い数字であったという。
『JUNE』の誌面のサイズはB5判だった。表紙のイラストは創刊からおよそ10年にわたって竹宮惠子が手掛けた。編集長であった佐川は、竹宮の表紙でなければ成功しなかったかもしれないと語っている。竹宮は表紙について、自分の絵は明るく影が見えるものではないため『JUNE』らしくないが、意識して影があるように描いたことでむしろ『JUNE』らしいものになったのではないかと語っている。竹宮が描いた『JUNE』の表紙は「泣いている男の子」のように物語性があるものであり、竹宮は、このような表紙は少女漫画誌ではまず採用されず、『JUNE』ならではのものであったとしている。竹宮惠子の後は『JUNE』で連載していた岸裕子や西炯子、いのまたむつみ、吉田秋生などが表紙のイラストを手掛けた。
『JUNE』は女性向けの男性同性愛を描いた日本初の専門誌である。また、商業誌としてはほぼ唯一であった。それまでは女性が描く男性同性愛の物語は同人誌などアクセスが限られた領域にとどまっていたが、全国展開の雑誌である『JUNE』が誕生したことでそれが急速に体系化された。『JUNE』や『JUNE』のテーマとなった耽美は女性が作る男性同性愛の物語を指す語として流通し、現在のやおいやボーイズラブに繋がった。溝口 (2015)はボーイズラブの歴史を3期に分け、第1期を「創成期」、第2期を「JUNE期」、第3期を「BL期」であるとし、『JUNE』はプロのボーイズラブ漫画家や小説家を生み出す舞台として重要な機能を果たしたとしている。『JUNE』からは西炯子や津田雅美、羅川真里茂といった漫画家や、秋月こお、榎田尤利といった小説家がデビューした
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『JUNE』(ジュネ)は、かつてマガジン・マガジンから発行されていた日本の雑誌。1978年10月に『Comic Jun』として創刊され、1995年11月に休刊した。『JUNE』は日本で初めて創刊された女性向け男性同性愛の専門誌であり、漫画と小説を中心に、映画や文学の紹介や読者による投稿が掲載された。 『JUNE』は10代後半から20代前半の女性を読者層とし、多い時でおよそ8万部の発行部数があった。竹宮惠子や中島梓、吉田秋生、柴門ふみといった漫画家・小説家が作品を発表したほか、竹宮や中島による投稿作品の添削コーナーからは津田雅美や西炯子、羅川真里茂といった漫画家のほか、榎田ユウリやたつみや章といった小説家が輩出された。 日本全国で展開された雑誌であった『JUNE』の創刊によって、それまでアクセスが限られていた女性向け男性同性愛のジャンルは急速に体系化された。『JUNE』とそのコンセプトである「耽美」という言葉は男性同性愛を描く作品の通称として広まり、後のやおいやボーイズラブに繋がった。
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{{基礎情報 雑誌
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| 誌名 = JUNE
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| 誌名略称 = 大JUNE
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| 読者対象 = 10代後半から20代前半の女性
| 刊行頻度 = 隔月刊{{R|MADB_C119454}}
| 発売国 = {{JPN}}
| 言語 = 日本語
| 定価 = 760円(1981年)
| 出版社 = サン出版(現[[マガジン・マガジン]])
| 編集部名 =
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| 編集人2役職 =
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| 雑誌名コード =
| 刊行期間 = 1978年-1979年, 1981年-1995年
| 発行部数 =
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| 発行部数調査機関 =
| レーベル =
| 姉妹誌 = 『小説JUNE』
| ウェブサイト =
| 特記事項 =
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『'''JUNE'''』(ジュネ)は、かつて[[マガジン・マガジン]]から発行されていた日本の[[雑誌]]。1978年10月に『Comic Jun』として創刊され、1995年11月に休刊した。『JUNE』は日本で初めて創刊された女性向け男性同性愛の専門誌であり、漫画と小説を中心に、映画や文学の紹介や読者による投稿が掲載された。
『JUNE』は10代後半から20代前半の女性を読者層とし、多い時でおよそ8万部の発行部数があった。[[竹宮惠子]]や[[中島梓]]、[[吉田秋生]]、[[柴門ふみ]]といった漫画家・小説家が作品を発表したほか、竹宮や中島による投稿作品の添削コーナーからは[[津田雅美]]や[[西炯子]]、[[羅川真里茂]]といった漫画家のほか、[[榎田ユウリ]]や[[たつみや章]]といった小説家が輩出された。
日本全国で展開された雑誌であった『JUNE』の創刊によって、それまでアクセスが限られていた女性向け男性同性愛のジャンルは急速に体系化された。『JUNE』とそのコンセプトである「耽美」という言葉は男性同性愛を描く作品の通称として広まり、後の[[やおい]]や[[ボーイズラブ]]に繋がった。
== 歴史 ==
=== 創刊から一時休刊へ ===
[[ファイル:Logo-of-Comic-Jun-1978-10.jpg|サムネイル|右|『Comic Jun』のロゴ]]
『JUNE』は、当時サン出版でアルバイトをしていた佐川俊彦を契機として創刊された{{sfn|石田|2020|p=25}}{{Refnest|group="注釈"|サン出版は後に女性向けの部門が独立してマガジン・マガジンとなった{{sfn|白峰|2007|p=151}}。}}。熱心な漫画読者であった佐川は、[[少年愛 (少女漫画)|少年同士の世界]]を描いていた[[24年組]]に興味を抱き、サン出版に「女性向けのポルノ、マイルドなポルノ雑誌」の企画を提出した{{sfn|石田|2020|p=25}}。この企画が認められ、1978年10月に『Comic Jun』が創刊された{{sfn|石田|2020|pp=24-25}}。佐川によると、「Jun」の由来は[[石ノ森章太郎]]の漫画である『[[ジュン (漫画)|ジュン]]』や、純粋や純文学の「純」などであり、様々な意味が込められていたという{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=57}}。創刊時の価格は380円であり、当時の雑誌としては高い部類だった{{sfn|石田|2008|p=332}}。
初代編集長にはサン出版が刊行していたゲイ向けの雑誌『[[さぶ (雑誌)|さぶ]]』の編集長を務めていた櫻木哲郎が就任した{{sfn|石田|2020|p=25}}。『Comic Jun』には24年組の一人に位置づけられる漫画家である竹宮惠子や、小説家である中島梓などが佐川の誘いで参加した{{sfn|石田|2020|p=26}}。竹宮は参加した理由について、当時『[[週刊少女コミック]]』で連載していた『[[風と木の詩]]』の援護射撃になることを期待していたと語っている{{sfn|竹宮|2001|p=210}}{{Refnest|group="注釈"|同性愛が描かれる『風と木の詩』の描写は熱烈な支持を得ていたが、一方で批判も起こっていた{{sfn|中川|2020|p=332}}。}}。また、中島は、佐川が[[早稲田大学]]在学中に所属していた[[ワセダミステリクラブ]]での先輩であり、佐川が少年愛分野のブレーンとして誘った{{sfn|中川|2020|p=332}}。
『Comic Jun』は第3号にあたる1979年2月号から『JUNE』に改題された{{R|MADB_C119454}}{{sfn|石田|2020|p=24}}。改題の理由は同名のファッションブランドである「[[JUN (ファッションブランド)|JUN]]」から抗議があったためであった{{sfn|石田|2008|p=205}}。抗議があった時点ですでに第3号の印刷が始まっており、サン出版の社長の提案で急遽「JUN」の後ろに「E」をつけ足して「JUNE」とした{{sfn|石田|2008|p=205}}{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=37}}。創刊当初は売れ行きの予想が付いておらず、十数万部を印刷しており、それによって返本が多く発生した{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=37}}。この高い返本率は次第に改善されていったものの{{sfn|石田|2012|p=164}}、1979年8月に刊行された8月号を最後に『JUNE』は一時休刊を余儀なくされた{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=37}}。
=== 復刊と『小説JUNE』の創刊 ===
休刊後、サン出版のもとには「1,000円までなら出せる」という内容の手紙が大量に寄せられた{{sfn|石田|2008|p=332}}。こうした声にこたえる形で、発行部数を創刊当初の半分に抑えて定価を倍の760円にしたうえで{{sfn|石田|2008|p=333}}、1981年10月に刊行された10月号から復刊した{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=30}}。復刊第1号はサン出版から刊行されていた『劇画ジャンプ』の増刊号として刊行された{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=30}}。
1982年10月号から小説をメインとした『小説JUNE』が別冊として発行され始めた{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=31}}。『小説JUNE』は『小JUNE』と呼ばれ、それに対して『JUNE』は『大JUNE』と呼ばれるようになった{{sfn|石田|2008|p=205}}。佐川によると、『小説JUNE』は創刊してから間もなく『JUNE』の発行部数を抜いたという{{sfn|石田|2012|p=164}}。『小説JUNE』は1984年2月号から隔月化し、もともと隔月刊であった『JUNE』と毎月交代で出版された{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=31}}{{sfn|石田|2020|p=25}}。
=== 休刊 ===
1980年代後半から「[[やおい]]」同人誌が爆発的に流行し、1990年代には[[ボーイズラブ]]が商業ジャンルとして成立した{{sfn|藤本|2020|p=8}}。1990年代中頃から『JUNE』の発行部数は減少し始めた{{sfn|石田|2012|p=167}}。『JUNE』は次第に命脈を保つのが困難になり、1995年11月号の第85号で休刊した{{sfn|石田|2008|p=205}}{{sfn|藤本|2020|p=8}}。佐川は、ソフトな路線を取っていた『JUNE』とハードなセックス描写があったボーイズラブ雑誌は共存可能だと考えていたが、そうはいかなかったと語っている{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=40}}。『JUNE』の休刊後、小説は『小説JUNE』に一本化され、漫画はページ数を増やすため『JUNE新鮮組』と『コミックJUNE』に細分化された{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=31}}{{Refnest|group="注釈"|[[文化庁]]が運営する[[メディア芸術データベース]]においては『JUNE新鮮組』は『小説JUNE』の増刊として刊行された1号のみが登録されている{{R|MADB_C119452}}。}}。このうち『コミックJUNE』はハードコアなセックスが描かれるボーイズラブ漫画が主に掲載されていた{{sfn|溝口|2015|p=355}}。このことから、溝口彰子は『コミックJUNE』と『JUNE』を混同するべきではないとしている{{sfn|溝口|2015|p=355}}。
1996年には『JUNE』の投稿やグラビア、同人情報といった情報部分をメインにした『Visualtambi JUNE』が創刊されたが、同年4月の2号目で休刊した{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=31}}。また、1997年には『小説JUNE』の増刊として『COMIC美少年』が1号のみ刊行された{{R|MADB_C120414}}。『小説JUNE』も、人気作品であった『[[富士見二丁目交響楽団]]』の連載が1990年代後半に一段落し、他社から文庫版の刊行が始まると、毎月数百部ずつ部数が減っていった{{sfn|石田|2012|p=167}}。そして2004年4月に発行された第153号をもって『小説JUNE』は休刊した{{sfn|石田|2008|p=205}}{{Refnest|group="注釈"|最終号の153号は『小説JUNE DX』という表題で刊行された{{R|MADB_C123332}}。}}。また、『コミックJUNE』も2013年2月号で休刊した{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=31}}{{R|MADB_C120246}}。
== 内容 ==
『JUNE』には漫画だけでなく、映画情報や読書ガイド、アイドルへのインタビューなどが掲載されていた{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=42}}。こうした映画情報のほか、文学紹介や絵画紹介は特に初期の『JUNE』によく見られた{{sfn|藤本|2020|p=8}}。このほか、「junetopia」という読者投稿コーナーが存在した。「junetopia」では自らの[[同人サークル]]の紹介や「ヒワイ画コンテスト」「美形ギャラリー」と名付けられたイラスト投稿コーナーが設けられた{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=43}}。また、『JUNE』には広告がほとんど掲載されていなかった{{sfn|石田|2012|p=162}}。
『JUNE』に掲載された作品の多くは少年同士の恋愛を描いていたが、[[両性具有]]や少女同士の作品も掲載されていた{{sfn|白峰|2007|p=151}}{{Refnest|group="注釈"|ただし中島梓は、女性同士の物語は100分の3から4程度しかなかったとしている{{sfn|中島|1995|p=236}}。}}。竹宮によると、男女の話であっても『JUNE』らしさが描かれていれば掲載するという了解が佐川との間に出来ていたという{{sfn|竹宮|2001|p=212}}。中島梓によると、初期の『JUNE』では[[サディズム]]と[[マゾヒズム]]の組み合わせが顕著であり{{sfn|中島|1995|p=255}}、その後も[[ネクロフィリア]]や[[近親相姦]]が高い頻度で見られたほか、[[カニバリズム]]もまれに見られたが、[[スカトロジー]]や[[肥満嗜好]]は決して見られなかった{{sfn|中島|1995|p=239}}。
『JUNE』に掲載された作品は「耽美的でシリアス」と評される{{sfn|藤本|2020|p=13}}。初期の『JUNE』では無理心中や交通事故、不慮の死や永遠の離別といったバッドエンドとされるものが多かった{{sfn|石田|2012|p=166}}。石田仁の調査によると、『Comic Jun』の創刊号に掲載された11作品のうち10作品がこのようなバッドエンドに分類された{{sfn|石田|2012|p=165}}。こうしたことから、『JUNE』の休刊後もシリアスなボーイズラブ作品が「JUNE系」と呼ばれることがある{{sfn|藤本|2020|p=13}}。ただし、休刊が近づくにつれて相思相愛の確認や共同生活の始まりといったグッドエンディングとされる作品が増加していた{{sfn|石田|2012|p=167}}{{Refnest|group="注釈"|佐川によると、休刊が近づいていた1990年代中頃には「わざわざお金を払って読んだのにバッドエンドで終わる物語だったので損をした」という読者からの手紙が送られてくるようになっており、『JUNE』の読者のニーズが変化していたという{{sfn|西原|2020|p=55}}。}}。
=== 作家 ===
『JUNE』に投稿した作家は24年組を中心とした漫画家や[[コミックマーケット]]の同人作家、また、『さぶ』に投稿していた作家などであった{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=38}}。竹宮惠子は様々な描き下ろし漫画や挿絵を発表し、中島梓は『少年派宣言」や「美少年学入門」といった少年愛にまつわるエッセイのほか、様々なペンネームを使い分けて小説を投稿した{{R|朝日新聞_2018}}。常連執筆陣は[[青池保子]]や[[伊東愛子]]、[[岸裕子]]、[[坂田靖子]]などであった{{sfn|『このマンガがすごい!』編集部|2016|p=111}}。このほか、[[いのまたむつみ]]や[[柴門ふみ]]、[[高野文子]]、[[まつざきあけみ]]、[[ひさうちみちお]]、[[丸尾末広]]、[[吉田秋生]]といった漫画家が作品を投稿した{{R|朝日新聞_2018}}{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=30}}{{sfn|『このマンガがすごい!』編集部|2016|pp=110-111}}。また、翻訳家である[[栗原知代]]が文学紹介のコーナーを担当し{{sfn|守|2020|p=80}}、イラストレーターである[[おおやちき]]がイラストコラムを手掛けた{{sfn|『このマンガがすごい!』編集部|2016|p=111}}。
=== ケーコタンのお絵描き教室 ===
1982年1月に刊行された復刊第2号から竹宮惠子による「ケーコタンのお絵描き教室」の連載が始まった{{sfn|石田|2020|p=30}}。佐川によると、彼は「まんがエリートのためのまんが専門誌」をキャッチフレーズとして新人教育に力を入れていた『[[COM (雑誌)|COM]]』の少女版を作りたいと考えてこの連載を作ったという{{sfn|倉持|2020|p=37}}。第1回目では男性の唇の、第2回目では男性の手の描き分け方が紹介され、1985年1月号からは投稿作品の添削が始まった{{sfn|石田|2020|p=30}}。投稿作は「JUNE的な作品であれば自由」であったが、8ページの作品であることが条件として課された{{sfn|倉持|2020|p=35}}。こうした課題を細かく設定する方法は『COM』を参考にしたものであった{{sfn|倉持|2020|p=37}}。第1回には後にプロの漫画家としてデビューする[[西炯子]]の初投稿作が掲載された{{sfn|倉持|2020|p=35}}。
=== 中島梓の小説道場 ===
1984年1月号からは中島梓による「中島梓の小説道場」の連載が始まった{{sfn|石田|2020|p=30}}。中島はこの連載において、人称と視点の統一や投稿原稿は鉛筆で執筆しないことといった技法を解説した{{sfn|石田|2020|pp=30-31}}。また、投稿作の寸評が行われた{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=44}}。この連載に対する読者からの反響は大きかった{{sfn|石田|2008|p=243}}。その理由について佐川は、読者は書きたいものがあっても漫画を描くのは難しかった。そこに中島が文字で手本を見せたためであると分析している{{sfn|石田|2008|p=345}}。この連載から[[秋月こお]]、[[榎田尤利]]といった小説家が輩出され、男性同士の性愛を描く小説をジャンルとして定着させるきっかけとなった{{sfn|石田|2020|p=31}}。
== コンセプト ==
佐川は創刊時から『JUNE』のコンセプトを「耽美」という言葉で表現していた{{sfn|石田|2020|p=26}}。創刊号には副題として「Aesthetic Magazine For Gals」(女の子のための耽美雑誌)と記され、グラビア写真コーナーは「耽美写真館」と名付けられた{{sfn|石田|2020|p=26}}。佐川は耽美という言葉を選んだ理由について、24年組が描く少年が美しいこと、また、24年組の作品において美が理想を示す象徴として用いられているためであると語っている{{sfn|石田|2020|p=26}}。耽美というコンセプトは少年愛を出発点としたが、しだいに少年だけでなく青年や中年の男性まで含まれるようになり、1990年代初頭までにこの耽美という言葉は男性同性愛の物語を指す言葉として流通した{{sfn|石田|2020|pp=26-27}}。
この耽美という言葉は1990年代初頭に台湾や中国に流入した{{sfn|Feng|2009|p=4}}。これをきっかけにして{{仮リンク|耽美 (ジャンル)|en|Danmei|label=耽美}} (danmei、ダンメイ。以下、日本語の耽美との混同を避けるためダンメイと表記する) と呼ばれる中国独自のジャンルが誕生した{{sfn|Feng|2009|p=4}}。ダンメイは中国における男性同性愛作品のジャンルとして発展して大きな経済的・文化的影響力を持つようになり、台湾や韓国、ベトナムといった国々でも人気のあるジャンルになっている{{sfn|シュウ|ヤン|2019|p=29}}。
== 読者 ==
『JUNE』の読者層は10代後半から20代前半の女性だった{{sfn|石田|2008|p=222}}。佐川は『JUNE』の読者層について、高校生・大学生以上で、学校の図書委員のような文学少女がメインだったという印象を持っていると語っている{{sfn|石田|2008|p=340}}。中島梓は『コミュニケーション不完全症候群』において、少女たちは自らを選別し続ける社会からのまなざしに苦しんでおり、そうしたまなざしが存在しない居場所として無意識に選んだのが『JUNE』であると述べている{{sfn|中島|1995|p=222, 232}}{{sfn|守|2020|p=80}}。また、中島は、彼女たちは女性であることに反逆したかった「少年でありたかった少女」であり、しかし女性として育てられていた彼女らにとって自分を愛するのは男性でしかありえなく、それらの論理的な結合として男性同性愛が描かれた『JUNE』に向かっていったと読み解いている{{sfn|中島|1995|p=236}}。ただし、『JUNE』にはゲイ男性をはじめ男性の読者もいた{{sfn|前川|2020|pp=228-229}}。{{harvtxt|前川|2020}}は、あくまで代表性はない個人の体験としたうえで、ゲイ雑誌を近所の書店で買うことは周囲の目を気にして出来なかったため、少女漫画コーナーに置かれていた『JUNE』の存在はありがたかったとしている{{sfn|前川|2020|p=229}}。
=== 発行部数 ===
メディア・リサーチ・センターが刊行していた『雑誌新聞総かたろぐ』によると、『JUNE』の発行部数は1983年から1987年で各6万部、1988年から1989年で各7万部、1990年から1997年で各10万部だった{{sfn|石田|2012|p=160}}。また、『小説JUNE』は1985年から1987年で各6.5万部、1988年から1989年で各8万部、1990年から2004年で各10万部だった{{sfn|石田|2012|p=160}}。ただし、佐川によると、『雑誌新聞総かたろぐ』における6万部から10万部という発行部数は多めに書かれたものであり、少なくとも佐川が関わっている時期で4万部から6万部、多くて8万部であったという{{sfn|石田|2012|p=164}}。また、1993年から2004年にかけて編集長を務めていた英保美紀によると、自身の編集長在職時期に限れば『雑誌新聞総かたろぐ』に記載された数字は実際の2倍近い数字であるという。ただし、1992年から1993年の『小説JUNE』の10万部という数字は実際に近い数字であったという{{sfn|石田|2012|p=164}}。
== 装丁 ==
『JUNE』の誌面のサイズは[[B5判]]だった{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=37}}。表紙のイラストは創刊からおよそ10年にわたって竹宮惠子が手掛けた{{sfn|石田|2020|p=25}}。編集長であった佐川は、竹宮の表紙でなければ成功しなかったかもしれないと語っている{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=37}}。竹宮は表紙について、自分の絵は明るく影が見えるものではないため『JUNE』らしくないが、意識して影があるように描いたことでむしろ『JUNE』らしいものになったのではないかと語っている{{sfn|竹宮|2001|p=226}}。竹宮が描いた『JUNE』の表紙は「泣いている男の子」のように物語性があるものであり、竹宮は、このような表紙は少女漫画誌ではまず採用されず、『JUNE』ならではのものであったとしている{{sfn|竹宮|2001|p=227}}。竹宮惠子の後は『JUNE』で連載していた岸裕子や西炯子、いのまたむつみ、吉田秋生などが表紙のイラストを手掛けた{{sfn|オフィスJ.B|2021|pp=30-31}}。
== 影響 ==
『JUNE』は女性向けの男性同性愛を描いた日本初の専門誌である{{sfn|中川|2020|p=332}}。また、商業誌としてはほぼ唯一であった{{sfn|溝口|2015|p=32}}{{Refnest|group="注釈"|ただし、1980年から1984年には[[みのり書房]]から刊行されていた『[[ALLAN (雑誌)|ALLAN]]』が存在した{{sfn|溝口|2015|p=356}}。『ALLAN』は「少女のための耽美マガジン」をコンセプトに掲げ、創刊当初は映画やドラマの特集や漫画が中心としていたが、1982年頃からはゲイカルチャーの情報雑誌という面が強くなった{{sfn|オフィスJ.B|2021|p=32}}。}}。それまでは女性が描く男性同性愛の物語は同人誌などアクセスが限られた領域にとどまっていたが、全国展開の雑誌である『JUNE』が誕生したことでそれが急速に体系化された{{sfn|石田|2008|p=204}}。『JUNE』や『JUNE』のテーマとなった耽美は女性が作る男性同性愛の物語を指す語として流通し、現在のやおいやボーイズラブに繋がった{{sfn|石田|2020|pp=26-27}}。{{harvtxt|溝口|2015}}はボーイズラブの歴史を3期に分け、第1期を「創成期」、第2期を「JUNE期」、第3期を「BL期」であるとし{{sfn|溝口|2015|p=21}}、『JUNE』はプロのボーイズラブ漫画家や小説家を生み出す舞台として重要な機能を果たしたとしている{{sfn|溝口|2015|p=33}}。『JUNE』からは[[西炯子]]や[[津田雅美]]、[[羅川真里茂]]といった漫画家や、[[秋月こお]]、[[榎田尤利]]といった小説家がデビューした{{sfn|藤本|2020|p=7}}
== 脚注 ==
=== 脚注 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em|refs=
<ref name="MADB_C119452">{{Cite web|和書
| date = 2022-01-22
| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C119452
| title = JUNE新鮮組
| publisher = メディア芸術データベース
| accessdate = 2022-10-09
}}</ref>
<ref name="MADB_C119454">{{Cite web
| date = 2022-01-22
| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C119454
| title = JUNE
| publisher = [[メディア芸術データベース]]
| accessdate = 2022-10-09
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<ref name="MADB_C120246">{{Cite web|和書
| date = 2022-01-22
| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C120246
| title = コミックJUNE
| publisher = メディア芸術データベース
| accessdate = 2022-10-09
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<ref name="MADB_C120414">{{Cite web|和書
| date = 2022-01-22
| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C120414
| title = COMIC美少年
| publisher = メディア芸術データベース
| accessdate = 2022-10-09
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<ref name="MADB_C123332">{{Cite web|和書
| date = 2022-01-22
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| title = 小説JUNE DX
| publisher = メディア芸術データベース
| accessdate = 2022-10-13
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<ref name="朝日新聞_2018">{{Cite news|和書
| date = 2018-04-27
| author = 倉持佳代子
| title = (いまどきマンガ塾)少年愛、耽美さ貫いた 少女向け雑誌「JUNE」
| newspaper = [[朝日新聞]]
| edition = 夕刊
| page = 4
| publisher = [[朝日新聞社]]
}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{Cite journal|author=Feng, Jin|title="Addicted to Beauty": Consuming and Producing Web-based Chinese "Danmei" Fiction at Jinjiang|journal=Modern Chinese Literature and Culture|volume=21|issue=2|date=2009|pages=1-41|publisher=Foreign Language Publications|jstor=41491008|ref={{SfnRef|Feng|2009}}}}
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* {{Cite book|和書|author = 石田美紀|title = 密やかな教育 : 〈やおい・ボーイズラブ〉前史|publisher = 洛北出版|year = 2008|isbn = 978-4-903127-08-8|ref = {{SfnRef|石田|2008}}}}
*{{Cite book|和書|author=石田美紀|chapter=少年愛と耽美の誕生:1970年代の雑誌メディア|editor=堀あきこ; [[守如子]]|title=BLの教科書|pages=18-34|date=2020|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4-641-17454-2|ref={{SfnRef|石田|2020}}}}
*{{Cite book|和書|editor=オフィスJ.B|title=私たちがトキめいた美少年漫画|publisher=[[辰巳出版]]|date=2021|isbn=978-4-7778-2720-6|ref={{SfnRef|オフィスJ.B|2021}}}}
*{{Cite book|和書|author=倉持佳代子|chapter=竹宮惠子×西炯子:『JUNE』「お絵描き教室」が果たした役割|editor=堀あきこ; 守如子|title=BLの教科書|pages=35-39|date=2020|publisher=有斐閣|isbn=978-4-641-17454-2|ref={{SfnRef|倉持|2020}}}}
*{{Cite book|和書|author=『このマンガがすごい!』編集部|chapter=耽美な美少年雑誌の世界|editor=『このマンガがすごい!』編集部|title=大人の少女漫画手帖 偏愛!美少年の世界|series=TJ Mook|publisher=[[宝島社]]|year=2016|pages=110-112|isbn=978-4-8002-5154-1|ref={{SfnRef|『このマンガがすごい!』編集部|2016}}}}
*{{Cite journal|和書|author=白峰彩子|title=JUNE系|journal=ユリイカ|volume=39|issue=7|pages=151-152|date=2007|publisher=青土社|ref={{SfnRef|白峰|2007}}}}
*{{Cite book|和書|author=シュウ・ヤンルイ; ヤン・リン|translator=佐藤まな|chapter=BLとスラッシュのはざまで:現代中国の「耽美」フィクション、文化越境的媒介、変化するジェンダー規範|editor=ジェームズ・ウェルカー|title=BLが開く扉:変容するアジアのセクシュアリティとジェンダー|date=2019|pages=29-46|publisher=青土社|isbn=978-4-7917-7225-4|ref={{SfnRef|シュウ|ヤン|2019}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[竹宮惠子]]|title=竹宮惠子のマンガ教室|date=2001|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=4-480-88803-9|ref={{SfnRef|竹宮|2001}}}}
* {{Cite book|和書|author = 中川右介|authorlink = 中川右介|title = 萩尾望都と竹宮惠子|publisher = [[幻冬舎]]|series = [[幻冬舎新書]]|year = 2020|isbn = 978-4-344-98586-5|ref = {{SfnRef|中川|2020}}}}
*{{Cite book|和書|author = [[中島梓]]|title=コミュニケーション不完全症候群|series=[[ちくま文庫]]|publisher=筑摩書房|year=1995|isbn=4-480-03134-0|ref={{SfnRef|中島|1995}}}}
*{{Cite book|和書|author=西原麻里|chapter=同人誌と雑誌創刊ブーム、そして「ボーイズラブ」ジャンルへ|editor=堀あきこ; 守如子|title=BLの教科書|pages=40-56|date=2020|publisher=有斐閣|ref={{SfnRef|西原|2020}}}}
*{{Cite book|和書|author=藤本由香里|chapter=少年愛・JUNE/やおい・BL:それぞれの呼称の成立と展開|editor=堀あきこ; 守如子|title=BLの教科書|pages=2-17|date=2020|publisher=有斐閣|ref={{SfnRef|藤本|2020}}}}
*{{Cite book|和書|author=前川直哉|chapter=ゲイ男性はBLをどう読んできたか|editor=堀あきこ; 守如子|title=BLの教科書|pages=221-235|date=2020|publisher=有斐閣|ref={{SfnRef|前川|2020}}}}
*{{Cite book|和書|author=溝口彰子|title=BL進化論|publisher=[[太田出版]]|date=2015|isbn=978-4-7783-1441-5|ref={{SfnRef|溝口|2015}}}}
*{{Cite book|和書|author=守如子|chapter=BLはどのように議論されてきたのか|editor=堀あきこ; 守如子|title=BLの教科書|pages=77-93|date=2020|publisher=有斐閣|ref={{SfnRef|守|2020}}}}
== 関連文献 ==
*{{Cite journal|author=Mizoguchi, Akiko|title=Male-Male Romance by and for Women in Japan: A History and the Subgenres of "Yaoi" Fictions|journal=U.S.-Japan Women's Journal|issue=25|date=2003|pages=49-75|publisher=University of Hawai'i Press|jstor=42771903|ref={{SfnRef|Mizoguchi|2003}}}}
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伽陀
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伽陀(かだ)は、サンスクリット語「gāthā (गाथा)」の音写で、「偈」(げ)「偈頌」(げじゅ)「諷誦」(ふじゅ)などと訳される。原意は「歌」で、サンスクリット語のシラブル(音節)の数や長短などを要素とする韻文のことを指す。 これにいくつかの種類があり、仏典に多く用いられるのは下のようなものである(詳しくはインド古典詩の韻律を参照)。
仏典の記述上の形式からすれば、前に散文の教説を説き終わって直ちに韻文で記された教説を「ガーター」(諷頌)といい、散文の教説が説かれて次に重ねてその内容を韻文で説くものを「ゲーヤ」(geya、祇夜、応頌(おうじゅ))という。区分は十二部経に詳しい。
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これにいくつかの種類があり、仏典に多く用いられるのは下のようなものである(詳しくはインド古典詩の韻律を参照)。 シュローカ(śloka) 8音節4句(16音節2行)より成る
トリシュトゥブ(triṣṭubh) 11音節4句(22-24音節2行)より成る
アーリヤー(āryā) 音節を制限しないで8句2行より成る。各句は4モーラからなるが、行の最後の1句と、2行めの第6句は1音節である。 仏典の記述上の形式からすれば、前に散文の教説を説き終わって直ちに韻文で記された教説を「ガーター」(諷頌)といい、散文の教説が説かれて次に重ねてその内容を韻文で説くものを「ゲーヤ」(geya、祇夜、応頌)という。区分は十二部経に詳しい。 天台声明で、儀式の最初に節をつけて唱え、首座・導師の着座を知らせる偈のこと。一句を独吟する調声を、「伽陀の役」と別に呼ぶことがある。
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'''伽陀'''(かだ)は、[[サンスクリット]]語「{{unicode|gāthā}} (गाथा)」の音写で、「[[偈]]」(げ)「偈頌」(げじゅ)「諷誦」(ふじゅ)などと訳される。原意は「歌」で、[[サンスクリット語]]のシラブル([[音節]])の数や長短などを要素とする[[韻文]]のことを指す。
これにいくつかの種類があり、[[仏典]]に多く用いられるのは下のようなものである(詳しくは[[インド古典詩の韻律]]を参照)。
# [[シュローカ]]({{unicode|śloka}}) 8音節4句(16音節2行)より成る
# トリシュトゥブ({{unicode|triṣṭubh}}) 11音節4句(22-24音節2行)より成る
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仏典の記述上の形式からすれば、前に散文の教説を説き終わって直ちに韻文で記された教説を「ガーター」(諷頌)といい、散文の教説が説かれて次に重ねてその内容を韻文で説くものを「ゲーヤ」(geya、祇夜、応頌(おうじゅ))という。区分は[[十二部経]]に詳しい。
* [[天台]][[声明]]で、儀式の最初に節をつけて唱え、首座・導師の着座を知らせる[[偈]]のこと。一句を独吟する調声を、「伽陀の役」と別に呼ぶことがある。
== 関連項目 ==
* [[頌]]
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Multiple-image Network Graphics
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Multiple-image Network Graphics (MNG、ミングと発音)はコンピュータ上で動画を扱うためのファイルフォーマットの一つ。GIF(特にアニメーションGIF)の代替フォーマットとして開発されたが、GIFのサブマリン特許問題が発生した際に起きたGIFからPNGへの移行ほどの動きは起きておらず正式運用している実例はごく僅かである。
PNGがアニメーションできないことが開発のきっかけとなった。MNGはPNGのスーパーセットであり、PNGの特徴を色濃く引き継いでいる。最も単純なMNGは、拡張子.pngを.mngに変更しただけのものである。また、MNGにはJPEGを含めたJNGフォーマットも存在し、アニメーション時にはPNGやJPEGを素材として使うことが可能である。
日本では、ソフトバンクモバイルが提供するYahoo!ケータイ対応携帯電話にて、ブラウザ上及びJavaアプリケーション(S!アプリ)上での再生に対応している端末が多い。また、地上デジタル放送のコンテンツに使用されているBML(Broadcast Markup Language)では、GIFの特許がらみを避けるため、アニメーション可能なイメージとしてMNGが採用された。
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Multiple-image Network Graphics (MNG、ミングと発音)はコンピュータ上で動画を扱うためのファイルフォーマットの一つ。GIF(特にアニメーションGIF)の代替フォーマットとして開発されたが、GIFのサブマリン特許問題が発生した際に起きたGIFからPNGへの移行ほどの動きは起きておらず正式運用している実例はごく僅かである。 PNGがアニメーションできないことが開発のきっかけとなった。MNGはPNGのスーパーセットであり、PNGの特徴を色濃く引き継いでいる。最も単純なMNGは、拡張子.pngを.mngに変更しただけのものである。また、MNGにはJPEGを含めたJNGフォーマットも存在し、アニメーション時にはPNGやJPEGを素材として使うことが可能である。 日本では、ソフトバンクモバイルが提供するYahoo!ケータイ対応携帯電話にて、ブラウザ上及びJavaアプリケーション(S!アプリ)上での再生に対応している端末が多い。また、地上デジタル放送のコンテンツに使用されているBML(Broadcast Markup Language)では、GIFの特許がらみを避けるため、アニメーション可能なイメージとしてMNGが採用された。
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'''Multiple-image Network Graphics''' ('''MNG'''、ミングと発音)は[[コンピュータ]]上で[[動画]]を扱うための[[ファイルフォーマット]]の一つ。[[Graphics Interchange Format|GIF]](特に[[GIFアニメーション|アニメーションGIF]])の代替フォーマットとして開発されたが、GIFの[[サブマリン特許]]問題が発生した際に起きたGIFから[[Portable Network Graphics|PNG]]への移行ほどの動きは起きておらず正式運用している実例はごく僅かである。
PNGがアニメーションできないことが開発のきっかけとなった。MNGはPNGの[[互換性|スーパーセット]]であり、PNGの特徴を色濃く引き継いでいる。最も単純なMNGは、[[拡張子]]<code>.png</code>を<code>.mng</code>に変更しただけのものである。また、MNGには[[JPEG]]を含めた[[JPEG Network Graphics|JNG]]フォーマットも存在し、アニメーション時にはPNGやJPEGを素材として使うことが可能である。
日本では、[[ソフトバンクモバイル]]が提供する[[Yahoo!ケータイ]]対応[[携帯電話]]にて、ブラウザ上及びJavaアプリケーション(S!アプリ)上での再生に対応している端末が多い。また、地上デジタル放送のコンテンツに使用されているBML([[Broadcast Markup Language]])では、GIFの特許がらみを避けるため、アニメーション可能なイメージとしてMNGが採用された。
<!--
MNGと競合するアニメーションフォーマットとしては、アニメーション[[Graphics Interchange Format|GIF]]の他に[[Macromedia Flash|SWF]]形式がある。
-->
== 関連項目 ==
*[[Portable Network Graphics|PNG]]
*[[Animated Portable Network Graphics|APNG]]
*[[NetFront Browser]]
== 外部リンク ==
*[http://www.libpng.org/pub/mng/ MNGの公式サイト]
*[http://www.otfe.org/ja/raster-image-files/mng-file-extension MNGファイル拡張子 at OTFE.org]
*[http://www.libmng.com/ LIBMNG]
*[http://mng.cocky.to/ NGIF-UG]
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教会旋法
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教会旋法(きょうかいせんぽう、英語:gregorian mode)は、グレゴリオ聖歌の分類に用いられる旋法である。
教会旋法の体系は、主要なグレゴリオ聖歌の作曲よりも後に、ビザンティンのオクトエコスを基盤として成立したものである。したがって、実際のグレゴリオ聖歌は教会旋法の理論に全面的に合致するものではなく、聖歌の中には教会旋法では分類困難なものもある。
8〜9世紀頃以来、少なくとも16世紀頃まで西洋音楽理論の基礎であったが、機能和声の発達によって長調・短調の組織に取って代わられた。しかし19世紀末以降、新たな音楽の可能性の追求の中で教会旋法がしばしば用いられている。
【正格旋法】
【変格旋法】
後に追加された正格旋法
後に追加された変格旋法
※理論的には存在するが、実際には使われなかった旋法
教会旋法はまず終止音(finalis)によって4つに分類される。そのそれぞれは音域(ambitus)によって、終止音から高く上がる正格(authenticus)と、音域を4度下げて終止音からあまり上がらない変格(plagalis)の2つに分けられる。
変格旋法には接頭辞「ヒポ」が付く。例えば、ドリア旋法はレ(ニ音)を終止音とする正格旋法であり、ヒポドリア旋法はその変格旋法である。
正格旋法では朗唱音は終止音の5度上、変格旋法では朗唱音は終止音の3度上だが、いずれの場合も、終止音の5度・3度上がシになる場合は、朗唱音はシではなくドとなる。これは、教会旋法ではシを避ける習慣があったためである。
初めはオクトエコスの組織にラ、シ、ド(イ、ロ、ハ音)を終止音とする旋法が無かったため、教会旋法にもそのような旋法は無かったが、後に、エオリア旋法、ロクリア旋法、イオニア旋法として追加された。 ただし、ロクリア旋法は、終止音が(教会旋法では避けられる)シであること、また、終止音と朗唱音との音程が減5度であることにより、実際の作品で用いられた例はない。その変格であるヒポロクリア旋法も同様である。実際には使われなかったことから、ロクリア旋法とヒポロクリア旋法には番号はない。
各旋法の名称には、古代ギリシアの旋法と同じものを使用しているが、両者はまったく別物である。教会音楽ではギリシア名は一般に使用されず、主に番号を用いるが、現代の音楽理論の教科書ではギリシア名が主に用いられている。
ジャズにおいて、1960年代頃から、教会旋法が利用されるようになってきた。第一は、あるコードにおけるアベイラブル・ノート・スケールとしての利用法である。第二は、モード(旋法)を調としてとらえ、その上でフレージングを行ったり和声を構成したりする利用法である。第二の利用法では、各旋法の主音と特性音とが重視される。
以下の教会旋法が用いられている。
現代において教会旋法が用いられるのは、従来の狭義の調性、つまり長調と短調とによる音楽からの脱却を目的としている。このため、アイオニアン Ionian はあまりにも従来の調性である長調を感じさせるので、用いられない。
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教会旋法は、グレゴリオ聖歌の分類に用いられる旋法である。 教会旋法の体系は、主要なグレゴリオ聖歌の作曲よりも後に、ビザンティンのオクトエコスを基盤として成立したものである。したがって、実際のグレゴリオ聖歌は教会旋法の理論に全面的に合致するものではなく、聖歌の中には教会旋法では分類困難なものもある。 8〜9世紀頃以来、少なくとも16世紀頃まで西洋音楽理論の基礎であったが、機能和声の発達によって長調・短調の組織に取って代わられた。しかし19世紀末以降、新たな音楽の可能性の追求の中で教会旋法がしばしば用いられている。
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{{出典の明記|date=2011年12月}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''教会旋法'''(きょうかいせんぽう、[[英語]]:gregorian mode)は、[[グレゴリオ聖歌]]の分類に用いられる[[旋法]]である。
教会旋法の体系は、主要なグレゴリオ聖歌の作曲よりも後に、[[ビザンティン]]の[[オクトエコス]]を基盤として成立したものである。したがって、実際のグレゴリオ聖歌は教会旋法の理論に全面的に合致するものではなく、聖歌の中には教会旋法では分類困難なものもある。
8〜9世紀頃以来、少なくとも16世紀頃まで西洋音楽理論の基礎であったが、機能[[和声]]の発達によって[[長調]]・[[短調]]の組織に取って代わられた。しかし19世紀末以降、新たな音楽の可能性の追求の中で教会旋法がしばしば用いられている。
== 教会旋法の一覧 ==
【正格旋法】
* 第一旋法:[[ドリア旋法]](終止音レ、朗唱音ラ)
* 第三旋法:[[フリギア旋法]](終止音ミ、朗唱音ド)
* 第五旋法:リディア旋法(終止音ファ、朗唱音ド)
* 第七旋法:[[ミクソリディア旋法]](終止音ソ、朗唱音レ)
【変格旋法】
* 第二旋法:[[ヒポドリア旋法]](終止音レ、朗唱音ファ)
* 第四旋法:ヒポフリギア旋法(終止音ミ、朗唱音ソ)
* 第六旋法:ヒポリディア旋法(終止音ファ、朗唱音ラ)
* 第八旋法:ヒポミクソリディア旋法(終止音ソ、朗唱音ド)
[[File:The eight musical modes.png|600px|thumb|center|8つの教会旋法。'''f'''は終止音を示す(Curtis, 1998)。]]
後に追加された正格旋法
* 第九旋法:[[エオリア旋法]](終止音ラ、朗唱音ミ)
* 第十一旋法:[[イオニア旋法]](終止音ド、朗唱音ソ)
後に追加された変格旋法
* 第十旋法:[[ヒポエオリア旋法]](終止音ラ、朗唱音ド)
* 第十二旋法:[[ヒポイオニア旋法]](終止音ド、朗唱音ミ)
※理論的には存在するが、実際には使われなかった旋法
*[[ロクリア旋法]](終止音シ、朗唱音ファ)
*[[ヒポロクリア旋法]](終止音シ、朗唱音レ)
教会旋法はまず終止音(finalis)によって4つに分類される。そのそれぞれは音域(ambitus)によって、終止音から高く上がる正格(authenticus)と、音域を4度下げて終止音からあまり上がらない変格(plagalis)の2つに分けられる。
変格旋法には接頭辞「ヒポ」が付く。例えば、ドリア旋法はレ(ニ音)を終止音とする正格旋法であり、ヒポドリア旋法はその変格旋法である。
正格旋法では朗唱音は終止音の5度上、変格旋法では朗唱音は終止音の3度上だが、いずれの場合も、終止音の5度・3度上がシになる場合は、朗唱音はシではなくドとなる。これは、教会旋法ではシを避ける習慣があったためである。
初めはオクトエコスの組織にラ、シ、ド(イ、ロ、ハ音)を終止音とする旋法が無かったため、教会旋法にもそのような旋法は無かったが、後に、エオリア旋法、ロクリア旋法、イオニア旋法として追加された。
エオリア旋法とイオニア旋法はそれぞれ後に変質し、現在も使われる短音階・長音階につながることになった旋法である。ただし、エオリア旋法・イオニア旋法と短音階・長音階とは考え方が異なり、両者は同じのものではない。
ロクリア旋法は、終止音が(教会旋法では避けられる)シであること、また、終止音と朗唱音との音程が減5度であることにより、実際の作品で用いられた例はない。その変格であるヒポロクリア旋法も同様である。実際には使われなかったことから、ロクリア旋法とヒポロクリア旋法には番号はない。
各旋法の名称には、古代ギリシアの旋法と同じものを使用しているが、両者はまったく別物である。教会音楽ではギリシア名は一般に使用されず、主に番号を用いるが、現代の音楽理論の教科書ではギリシア名が主に用いられている<ref>『グラウト/パリスカ 新 西洋音楽史〈上〉』 [[音楽之友社]]、86頁。</ref>。
== 現代における教会旋法の利用 ==
[[ジャズ]]において、1960年代頃から、教会旋法が利用されるようになってきた。第一は、あるコードにおけるアベイラブル・ノート・スケールとしての利用法である。第二は、モード(旋法)を調としてとらえ、その上でフレージングを行ったり[[和声]]を構成したりする利用法である。第二の利用法では、各旋法の[[主音]]と[[特性音]]とが重視される。
以下の教会旋法が用いられている。
* ドリアン ''Dorian''
* フリジアン ''Phrygian''
* リディアン ''Lydian''
* ミクソリディアン ''Mixolydian''
* エオリアン ''Aeolian''
* ロクリアン ''Locrian''
現代において教会旋法が用いられるのは、従来の狭義の調性、つまり長調と短調とによる音楽からの脱却を目的としている。このため、アイオニアン ''Ionian'' はあまりにも従来の調性である長調を感じさせるので、用いられない。
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!名称
! ♯や♭が付かない表記
! ハ調における表記
|-
|アイオニアン
|[[File:Ionian mode C.png|200px]]
|[[File:Ionian mode C.png|200px]]
|-
|ドリアン
|[[File:D Dorian mode.png|200px]]
|[[File:Dorian mode C.png|200px]]
|-
|フリジアン
|[[File:Phrygian mode E.png|200px]]
|[[File:Phrygian mode C.png|200px]]
|-
|リディアン
|[[File:Lydian mode F.png|200px]]
|[[File:Lydian mode C.png|200px]]
|-
|ミクソリディアン
|[[File:Mixolydian mode G.png|200px]]
|[[File:Mixolydian mode C.png|200px]]
|-
|エオリアン
|[[File:Aeolian mode A.png|200px]]
|[[File:Aeolian mode C.png|200px]]
|-
|ロクリアン
|[[File:Locrian mode B.png|200px]]
|[[File:Locrian mode C.png|200px]]
|}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[旋法]]
== 外部リンク ==
* [http://www.mab.jpn.org/lib/exp/cmodes/char.html MAB音楽資料室 教会旋法]
{{旋法}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きようかいせんほう}}
[[Category:旋法]]
[[Category:中世西洋音楽]]
[[Category:ルネサンス音楽]]
[[Category:カトリック]]
|
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|
17,376 |
住職
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住職(じゅうしょく)は、本来「住持職」と呼ばれている仏教の職名(宗教上の地位)の略称で、一寺院を管掌する僧侶のこと。
本来は「寺主」や「維那」(いな)などと呼んでいたが、宋代に「住持(じゅうじ)」という呼称が禅宗で使用され、それが後に一般的となり、職も付与して「住持職」と呼ぶようになった。
「住職」には、各宗派毎に資格規定が設けられている。僧侶であるならば誰でも住職になれるとは限らず一定の資格が必要、女性住職を認めないなど宗派によって異なる。一般的には、学校を卒業後、修行道場で一定の期間研鑽に励んで宗派の事務統括所に登録すると住職資格を得る事が出来る。学歴や宗教系学校か否かや、住職となる寺院の規模によって道場の研鑽期間は異なる。
寺院に新たに住職が着任する際には晋山式(浄土真宗では住職継承)という儀式を行う。
住職資格がない僧しか居住していない、だれも居住しておらず遠方の住職が通う寺院もある。僧侶が住職のいない寺院は「無住寺院」と呼ばれる。
浄土真宗系などの寺院は世襲により住職を継承することも多い。
日蓮正宗では、法主の任命により総本山より各寺院へ派遣される体制を採っている。
「法印」は元来、天皇が僧に与えた最高の位。「上人」は仏教用語として悟った人の意で高僧の敬称。「御院」や「院家」は寺の建物の意。「和尚」はもともと戒律を与える師僧をあらわす語といわれる。浄土真宗には戒律がなく、在家仏教としての性格から和尚や上人とは呼ばず、建物をあらわす語を用いた。関西や中部地方の浄土真宗では、「ご院家さん」(ごいんげさん)あるいは「ご院主さん」(ごいんじゅさん)が約まって「御院さん」(ごいんさん)、これがなまって「ごえんさん」または「ごえんさま」と呼ばれることが多い。
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住職(じゅうしょく)は、本来「住持職」と呼ばれている仏教の職名(宗教上の地位)の略称で、一寺院を管掌する僧侶のこと。
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'''住職'''(じゅうしょく)は、本来「'''住持職'''」と呼ばれている[[仏教]]の[[職名]](宗教上の地位)の略称で、一[[寺院]]を管掌する[[僧|僧侶]]のこと<ref name=":0">[[2015年]]([[平成]]27年)10月11日 [[朝日新聞]] [[朝刊]] 1総合</ref>。
== 概要 ==
本来は「寺主」や「[[維那]]」(いな)などと呼んでいたが、[[宋代]]に「'''住持'''(じゅうじ)」という呼称が[[禅宗]]で使用され、それが後に一般的となり、[[職の体系|職]]も付与して「住持職」と呼ぶようになった。
「住職」には、各[[宗派]]毎に資格規定が設けられている。[[僧侶]]であるならば誰でも住職になれるとは限らず一定の資格が必要、女性住職を認めないなど宗派によって異なる。一般的には、[[学校]]を卒業後、修行道場で一定の期間研鑽に励んで宗派の事務統括所に登録すると住職資格を得る事が出来る。学歴や宗教系学校か否かや、住職となる寺院の規模によって道場の研鑽期間は異なる。
寺院に新たに住職が着任する際には[[晋山式]]([[浄土真宗]]では[[住職継承]])という[[儀式]]を行う。
住職資格がない僧しか居住していない、だれも居住しておらず遠方の住職が通う寺院もある。僧侶が住職のいない寺院は「無住寺院」と呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|title=後継者なき寺を救え!関門海峡を渡るお坊さん {{!}} NHK {{!}} WEB特集 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221006/k10013847781000.html |website=NHKニュース |access-date=2022-10-06 |last=日本放送協会}}</ref>。
== 宗派による違い ==
浄土真宗系などの寺院は[[世襲]]により住職を継承することも多い<ref name=":0" />。
[[日蓮正宗]]では、[[大石寺住職一覧|法主]]の任命により[[大石寺|総本山]]より各[[寺院]]へ派遣される体制を採っている。
== 住職の呼称 ==
<!-- おおむね古い宗派順 -->
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|-
! scope="col" |
! scope="col" | 一般住職
! scope="col" | 宗派や本山の長
|-
! scope="row" | [[律宗]]<!-- 中国[[5世紀|5]] - [[6世紀]]、[[日本]][[8世紀]] -->
| 和尚(わじょう、おしょうとも<ref>{{Cite web|和書|title= 住職の仕事内容|url= https://employment.en-japan.com/tenshoku-daijiten/12609/|website=【エン転職】|accessdate= 2020-10-09|language= ja}}</ref>)
| 長老
|-
! scope="row" | [[天台宗]]<!-- 中国6世紀、日本[[9世紀]] -->
| 法印・和尚・[[阿闍梨]]
| 座主(ざす)・執行(しぎょう)
|-
! scope="row" | [[真言宗]]<!-- 9世紀 -->
| 和尚・方丈・阿闍梨・僧正
| 管長・長者・化主(けしゅ)・門跡・座主・貫主(かんしゅ)
|-
! scope="row" | [[臨済宗]]<!-- 中国の禅宗五家の一つ、晩唐9世紀、日本[[12世紀]] -->
| 和尚・方丈・老師
| 管長
|-
! scope="row" | [[曹洞宗]]<!-- 中国の禅宗五家の一つ -->
| 和尚・方丈・老師
| 貫首 (2つの本山の貫首が2年毎に交代で宗派全体の管長を務める)
|-
! scope="row" | [[浄土宗]]<!-- 12世紀 -->
| 和尚・方丈・老師
| 門主(もんす)・法主(ほっす)・管長
|-
! scope="row" | [[浄土真宗]]<!-- [[11世紀|11]] - 12世紀 -->
| 院家・院主・院住・御前・ご院
| 門主・門首・法主
|-
! scope="row" | [[日蓮宗]]<!-- [[13世紀]] -->
| 上人・御前
| 管長・貫首
|-
! scope="row" | その他
| [[尊師]]・教務・院主
| 管主(かんず)・別当・[[能化]](のうげ)
|}
「[[法印]]」は元来、[[天皇]]が[[僧]]に与えた最高の位。「[[上人]]」は仏教用語として悟った人の意で高僧の[[敬称]]。「御院」や「院家」は[[寺]]の[[建物]]の意。「[[和尚]]」はもともと[[戒律]]を与える師僧をあらわす語といわれる。[[浄土真宗]]には戒律がなく、[[在家]]仏教としての性格から和尚や上人とは呼ばず、建物をあらわす語を用いた。[[近畿地方|関西]]や[[中部地方]]の浄土真宗では、「'''ご院家さん'''」(ごいんげさん)あるいは「'''ご院主さん'''」(ごいんじゅさん)が約まって「'''御院さん'''」(ごいんさん)、これがなまって「'''ごえんさん'''」または「'''ごえんさま'''」と呼ばれることが多い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[月刊住職]]
{{Buddhism-stub}}
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[[Category:寺]]
[[Category:仏教僧]]
[[Category:仏教の称号・役職]]
|
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|
17,377 |
寄居駅
|
寄居駅(よりいえき)は、埼玉県大里郡寄居町大字寄居にある、秩父鉄道・東武鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。郡部にある駅では唯一3つの鉄道事業者の路線が乗り入れる。
秩父鉄道の秩父本線(秩父線)、東武鉄道の東上本線(東上線)、JR東日本の八高線の3路線の接続駅となっており、東上線に関しては当駅が終点となっている。東武鉄道の駅にはTJ 39、秩父鉄道の駅にはCR 20の駅番号が付与されている。秩父鉄道の管轄駅で3社線で改札を共用する共同使用駅となっている。八高線内の休日おでかけパスのフリーエリアは当駅までである。
1992年(平成4年)春までは、東上線から秩父線への直通特急が当駅を介して直通運転を実施していた。廃止後にそれまで野上駅まで運転されていた西武鉄道池袋線、西武秩父線からの直通列車が当駅まで延長されるものの、2007年(平成19年)3月6日から長瀞駅までに短縮されている。
島式ホーム3面6線を有する地上駅で、3社がホーム各1面ずつを使用する。橋上駅舎を備えている。
秩父鉄道の直営駅で、東武鉄道とJR東日本は出改札業務を秩父鉄道に委託している。管理駅として、小前田駅 - 和銅黒谷駅(長瀞駅を除く)間の各駅を管理している。
JR駅設備については、以前は高崎支社群馬藤岡駅、2013年6月1日からは同高崎駅が管理している。東上線1・2番線ホーム、秩父線3・4番線ホーム、八高線5・6番線ホームのいずれにも待合室・清涼飲料水自動販売機が設置されている。
改札内でJR、東武、秩父鉄道相互間で乗り換え可能である。八高線でのSuica導入以来、改札口にはJR東日本の簡易Suica改札機が設置されていた。2007年(平成19年)3月18日から東上線でのPASMO導入に伴い、東上線の連絡通路と秩父線の階段付近に乗り換え用の簡易PASMO改札機が設置された。運賃計算の都合上、当駅からICカードで東上線に乗車する利用客は、改札口にある簡易改札機と、東上線の連絡通路にある簡易改札機の計2回タッチを必要としていた(出場の場合は逆の形で計2回タッチ)。東上線用自動改札機が1基のみ設置されていた時期もあったが、他社の乗車券類を間違えて投入するなどのトラブルが相次いだため、2008年(平成20年)6月のダイヤ改正をもって撤去された。これにより、東上線(越生線を除く)では唯一の自動改札機非設置駅となった。
2022年3月12日から秩父鉄道でもPASMOを導入したことに伴い、券売機付近の共通改札機は廃止され(八高線専用として八高線連絡通路上に移設)、当駅から乗車する場合はどの鉄道会社であっても乗車路線の1回タッチだけで乗車可能になった(乗り換えの場合は乗換元路線の出場と乗換先路線の入場で必ず2回タッチが必要)。秩父鉄道の簡易PASMO改札機は専用通路が短いため、ホーム上に設置されている。
自動券売機は各社1基ずつ設置されているが、ICカードへの対応はJRの券売機でのみ可能である(現在のJR券売機には東上線の乗車券口座があるため、ICカードで東上線の乗車券を購入可能)。当駅での東武の券売機は「TJライナー」の座席指定券、東武本線系統の特急券、各種企画乗車券の購入には対応していない。また、秩父線の定期券やフリーきっぷなどを発売する有人窓口が設置されており、JRの定期券は寄居発となるものに限り発売できる(ただし手書きの補充定期券のため自動改札利用不可でICカードでの発売もできない。2021年9月までは東上線の定期券も同様に補充券で発売していた)。
3社線共に発着列車本数は少ないが、特に接続は考慮されていない。
エレベーター・トイレは南口、北口、秩父線ホーム、東上線ホーム、八高線ホームに設置されている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
1999年度(平成11年度)以降の推移は以下のとおりである。
2003年度(平成15年度)以降の推移は以下のとおりである。
橋上駅舎化される前から駅舎があった南口(荒川)側は埼玉県道296号菅谷寄居線(秩父往還)沿いに宿場町としての歴史を持つ商店街が発達している。南口からは「和紙の里」(東秩父村役場方面)行のイーグルバスが発着している。武蔵観光が運行する「深谷駅」行と「本庄駅南口」行のバスは、南口からやや離れた商店街(埼玉県道296号菅谷寄居線上)に寄居駅入口バス停にて連絡する。また、駅南口にはライフ寄居店があったが、2013年8月をもって閉店した。
北口は橋上駅舎供用開始時に新設された出口で、周辺は元々住宅地であったが、旧寄居中学校跡地に寄居町役場が移転し、行政機能が集積するようになった。静かな町並みで国道140号沿いにコンビニエンスストアや小売チェーン店などが立地する。また、本庄・深谷方面の各私立高校や私立大学スクールバスは北口側から発着する。
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"title": "駅周辺"
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] |
寄居駅(よりいえき)は、埼玉県大里郡寄居町大字寄居にある、秩父鉄道・東武鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。郡部にある駅では唯一3つの鉄道事業者の路線が乗り入れる。 秩父鉄道の秩父本線(秩父線)、東武鉄道の東上本線(東上線)、JR東日本の八高線の3路線の接続駅となっており、東上線に関しては当駅が終点となっている。東武鉄道の駅にはTJ 39、秩父鉄道の駅にはCR 20の駅番号が付与されている。秩父鉄道の管轄駅で3社線で改札を共用する共同使用駅となっている。八高線内の休日おでかけパスのフリーエリアは当駅までである。
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{{出典の明記|date=2015年3月}}
{{駅情報
|社色= blue<!-- 秩父鉄道の管轄のため -->
|文字色= white
|駅名= 寄居駅
|画像= Yorii Station South Exit.jpg
|pxl= 300
|画像説明= 南口(2022年1月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|36|7|4.37|N|139|11|40.22|E}}}}
|よみがな= よりい
|ローマ字= Yorii
|所属事業者= [[秩父鉄道]](秩父)<br />[[東武鉄道]](東武)<br />[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|電報略号= ヨリ(秩父・東武・JR東日本)
|所在地= [[埼玉県]][[大里郡]][[寄居町]]大字寄居1071-2
|座標= {{coord|36|7|4.37|N|139|11|40.22|E|type:railwaystation_region:JP-11|display=inline,title}}
|駅構造= [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム= 計3面6線(各1面2線)
|乗車人員= {{Smaller|(秩父鉄道)-2020年-}}<br />897人/日(降車客含まず)<!-- 327,394÷365 埼玉県統計年鑑より算出 --><hr />{{Smaller|(東武)-2020年-}}<br />1,192人/日(降車客含まず)<!-- 434,927÷365 埼玉県統計年鑑より算出 --><hr />{{Smaller|(JR東日本)-2022年-}}<br />357<!--公式HPより-->
|乗降人員= {{Smaller|(秩父鉄道)-2020年-}}<br />1,762人/日<!-- 643,038÷365 埼玉県統計年鑑より算出 --><hr />{{Smaller|(東武)-2022年-}}<br />3,323 <!--公式HPより-->
|統計年度=
|開業年月日= [[1901年]]([[明治]]34年)[[10月7日]](秩父)<br />[[1925年]]([[大正]]14年)[[7月10日]](東武)<br />[[1933年]]([[昭和]]8年)[[1月25日]](JR東日本)<ref name="zeneki46">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =46号 甲府駅・奥多摩駅・勝沼ぶどう郷駅ほか79駅 |date =2013-07-07 |page =27 }}</ref>
|乗入路線数= 3
|所属路線1= {{Color|blue|■}}[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]](秩父鉄道)
|駅番号1= CR 20
|前の駅1= CR19 [[桜沢駅 (埼玉県)|桜沢]]
|駅間A1= 1.9
|駅間B1= 3.9
|次の駅1= CR21 [[波久礼駅|波久礼]]
|キロ程1= 33.8
|起点駅1= [[羽生駅|羽生]]
|所属路線2= {{color|#004098|■}}[[東武東上本線|東上本線]](東武)
|前の駅2= TJ 38 [[玉淀駅|玉淀]]
|駅間A2= 0.6
|駅間B2=
|次の駅2=
|キロ程2= 75.0
|駅番号2= {{駅番号r|TJ|39|#004098|1}}
|起点駅2= [[池袋駅|池袋]]
|所属路線3= {{Color|#b4aa96|■}}[[八高線]](JR東日本)
|前の駅3= [[折原駅|折原]]
|駅間A3= 3.6
|駅間B3= 4.5
|次の駅3= [[用土駅|用土]]
|キロ程3= 63.9 km([[八王子駅|八王子]]起点)<br />[[高麗川駅|高麗川]]から32.8
|起点駅3=
|備考= [[共同使用駅]](秩父鉄道の管轄駅)<br />[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
|備考全幅=
}}
[[ファイル:Yorii Station North Exit.jpg|thumb|250px|北口(2022年4月)]]
'''寄居駅'''(よりいえき)は、[[埼玉県]][[大里郡]][[寄居町]]大字寄居にある、[[秩父鉄道]]・[[東武鉄道]]・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である{{R|zeneki46}}。郡部にある駅では唯一3つの[[鉄道事業者]]の路線が乗り入れる。
秩父鉄道の[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]](秩父線)、東武鉄道の[[東武東上本線|東上本線]](東上線)、JR東日本の[[八高線]]の3路線の接続駅となっており、東上線に関しては当駅が終点となっている。東武鉄道の駅には'''TJ 39'''、秩父鉄道の駅にはCR 20の[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。秩父鉄道の管轄駅で3社線で[[改札]]を共用する[[共同使用駅]]となっている{{R|zeneki46}}。八高線内の[[休日おでかけパス]]のフリーエリアは当駅までである。
== 歴史 ==
[[ファイル:Yorii Station 1901 1.jpg|thumb|250px|初代寄居駅駅舎(1901年)]]
=== 年表 ===
* [[1901年]]([[明治]]34年)[[10月7日]]:上武鉄道(現:秩父鉄道)の駅として開業。
* [[1925年]]([[大正]]14年)[[7月10日]]:東武東上線の駅が開業。
* [[1933年]]([[昭和]]8年)[[1月25日]]:[[鉄道省]]八高北線(当時)当駅 - [[児玉駅]]間が開通{{R|zeneki46}}。
* [[1934年]](昭和9年)[[10月6日]]:小川町 - 当駅間が延伸開業し全通<ref name="mainichi-np-2014-8-26">増田勝彦(2014年8月26日). “JR東日本:八高線で80周年記念号 上越線、信越線はSL−−秋臨時列車”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>。
* [[1974年]](昭和49年)[[4月5日]]:国鉄駅での貨物の取り扱いを廃止。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、八高線の駅はJR東日本の駅となる。
* [[2002年]]([[平成]]14年)[[2月8日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2002年2月 |journal = RAIL FAN |date = 2002-05-01 |issue = 5 |volume = 49 |publisher = 鉄道友の会 |page = 24 }}</ref>。
* [[2007年]](平成17年)[[3月18日]]:東武鉄道でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[10月31日]]:東上本線[[東武竹沢駅]] - [[男衾駅]]間の[[みなみ寄居駅]]開業に合わせ、東武鉄道の駅番号を'''TJ 38'''から'''TJ 39'''に変更<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/51dba5bd3c0fc22ad440481d923095f7/191223_1.pdf?date=20191223103108|format=PDF|language=日本語|title=東上線 新駅の駅名を「みなみ寄居<ホンダ寄居前>」とし、 開業日を2020年10月31日に決定しました!|publisher=東武鉄道|date=2019-12-23|accessdate=2020-10-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191223134054/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/51dba5bd3c0fc22ad440481d923095f7/191223_1.pdf?date=20191223103108|archivedate=2019-12-23}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[3月12日]]:秩父鉄道でICカード「PASMO」の利用が可能となる<ref name="press20220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/20220127_ICcard.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127093258/https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/20220127_ICcard.pdf|format=PDF|language=日本語|title=秩父鉄道、交通系ICカード「PASMO」を導入 〜2022年3月12日(土)よりサービス開始〜|publisher=秩父鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-29|archivedate=2022-01-27}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[7月4日]]:南口駅前広場ロータリーが完成。
* [[2023年]](令和5年)[[4月29日]]:[[Yotteco|南口駅前拠点施設「Yotteco」]]が開業。
=== 付記 ===
[[1992年]](平成4年)春までは、東上線から秩父線への[[東武東上本線#特急|直通特急]]が当駅を介して[[直通運転]]を実施していた。廃止後にそれまで[[野上駅]]まで運転されていた[[西武鉄道]][[西武池袋線|池袋線]]、[[西武秩父線]]からの直通列車が当駅まで延長されるものの、[[2007年]](平成19年)[[3月6日]]から長瀞駅までに短縮されている。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]3面6線を有する[[地上駅]]で、3社がホーム各1面ずつを使用する。[[橋上駅|橋上駅舎]]を備えている。
秩父鉄道の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]で、東武鉄道とJR東日本は出改札業務を秩父鉄道に委託している{{R|zeneki46}}。[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として、[[小前田駅]] - [[和銅黒谷駅]]([[長瀞駅]]を除く)間の各駅を管理している。
JR駅設備については、以前は[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]][[群馬藤岡駅]]、2013年6月1日からは同[[高崎駅]]が管理している。東上線1・2番線ホーム、秩父線3・4番線ホーム、八高線5・6番線ホームのいずれにも[[待合室]]・[[清涼飲料水]][[自動販売機]]が設置されている。
改札内でJR、東武、秩父鉄道相互間で乗り換え可能である。八高線でのSuica導入以来、改札口にはJR東日本の簡易[[Suica]]改札機が設置されていた。2007年([[平成]]19年)3月18日から東上線での[[PASMO]]導入に伴い、東上線の連絡通路と秩父線の階段付近に乗り換え用の簡易PASMO改札機が設置された。運賃計算の都合上、当駅からICカードで東上線に乗車する利用客は、改札口にある簡易改札機と、東上線の連絡通路にある簡易改札機の計2回タッチを必要としていた(出場の場合は逆の形で計2回タッチ)。東上線用[[自動改札機]]が1基のみ設置されていた時期もあったが、他社の[[乗車券]]類を間違えて投入するなどのトラブルが相次いだため、2008年(平成20年)6月の[[ダイヤ改正]]をもって撤去された。これにより、東上線(越生線を除く)では唯一の自動改札機非設置駅となった。
2022年3月12日から秩父鉄道でもPASMOを導入したことに伴い、券売機付近の共通改札機は廃止され(八高線専用として八高線連絡通路上に移設)、当駅から乗車する場合はどの鉄道会社であっても乗車路線の1回タッチだけで乗車可能になった(乗り換えの場合は乗換元路線の出場と乗換先路線の入場で必ず2回タッチが必要)。秩父鉄道の簡易PASMO改札機は専用通路が短いため、ホーム上に設置されている。
自動券売機は各社1基ずつ設置されているが、ICカードへの対応はJRの券売機でのみ可能である(現在のJR券売機には東上線の乗車券口座があるため、ICカードで東上線の乗車券を購入可能)。当駅での東武の券売機は「[[TJライナー]]」の座席指定券<ref>{{Cite web|和書|title=TJライナー座席指定券の購入方法|publisher=東武鉄道|url=https://www.tobu.co.jp/railway/tj/purchase/|accessdate=2023-03-20}}</ref>、[[東武本線]]系統の特急券<ref>{{Cite web|和書|title=購入・予約方法|publisher=東武鉄道|url=https://www.tobu.co.jp/railway/special_express/purchase/|accessdate=2023-03-20}}</ref>、各種企画乗車券の購入には対応していない。また、秩父線の定期券やフリーきっぷなどを発売する有人窓口が設置されており、JRの定期券は寄居発となるものに限り発売できる(ただし手書きの補充定期券のため自動改札利用不可でICカードでの発売もできない。2021年9月までは東上線の定期券も同様に補充券で発売していた)。
3社線共に発着列車本数は少ないが、特に接続は考慮されていない。
エレベーター・[[便所|トイレ]]は南口、北口、秩父線ホーム、東上線ホーム、八高線ホームに設置されている<ref name="station/insidemap/7512">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/7512/ |title=寄居駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-06-04}}</ref>。
=== のりば ===
<!--方面表記は、秩父線は「時刻表」の記載、JR八高線はJR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載、東上線は東武鉄道の「構内マップ」の記載にそれぞれ準拠-->
{| rules="rows" class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先
|-
!1・2
|[[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上線
|rowspan="2" style="text-align:center"|上り
|[[小川町駅 (埼玉県)|小川町]]方面<ref name="station/insidemap/7512" />
|-
!rowspan="2"|3・4
|rowspan="2"|{{Color|blue|■}}秩父線
|[[羽生駅|羽生]]方面<ref name="station/18_yori">{{Cite web|和書|url=http://www.chichibu-railway.co.jp/station/18_yori.html|title=駅情報 - 寄居|publisher=秩父鉄道|accessdate=2019-08-18}}</ref>
|-
|style="text-align:center"|下り
|[[三峰口駅|三峰口]]方面<ref name="station/18_yori" />
|-
!5
|rowspan="2"|{{Color|#b4aa96|■}}八高線
|style="text-align:center"|上り
|[[高麗川駅|高麗川]]・[[八王子駅|八王子]]方面<ref name="stations/1655">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1655.html|title=駅構内図(寄居駅)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-11-24}}</ref>
|-
!6
|style="text-align:center"|下り
|[[児玉駅|児玉]]・[[高崎駅|高崎]]方面<ref name="stations/1655" />
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1655.html JR東日本:駅構内図])
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Yorii Station Vending Machine.jpg|各社線の券売機が並ぶ切符売場(2022年4月)
Yorii Station Manned Gates (20220122).jpg|簡易改札機撤去前の改札口(2022年1月)
Yorii Station Manned Gates (20220410).jpg|簡易改札機撤去後の改札口(2022年4月)
Yorii Station Tōbu Railway Transfer Gates.jpg|東上線の連絡通路にある簡易改札機(2022年1月)
Yorii Station Tōbu Railway Entry Transfer Gates.jpg|秩父鉄道線ホームに設置されていた入場用簡易改札機(2022年1月)
Yorii Station Chichibu Railway Transfer Exit Gates.jpg|秩父鉄道線の連絡通路に設置されていた出場用簡易改札機(2022年1月)
Yorii Station Chichibu Railway Gates.jpg|秩父鉄道線簡易改札機(2022年4月)
Yorii Station JR East Gates.jpg|八高線簡易改札機(2022年4月)
Yorii Station Tōbu Railway Platform 1・2.jpg|東上線ホーム(2022年1月)
Yorii Station Chichibu Railway Platform 3・4.jpg|秩父鉄道線ホーム(2022年1月)
Yorii Station JR East Platform 5・6.jpg|八高線ホーム(2022年1月)
</gallery>
== 利用状況 ==
=== 秩父鉄道・JR東日本 ===
* 秩父鉄道 - 2020年度(令和2年度)の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''897人'''である<!--327,394÷365--><ref group="秩父" name="n20-08-01" />。
* JR東日本 - 2022年度(令和4年度)の1日平均'''乗車'''人員は'''357人'''である<ref group="JR" name="passenger/2022_07" />。
1999年度(平成11年度)以降の推移は以下のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
|- style="background: #ddd;"
!colspan="3"|1日平均乗車人員推移
|-
!年度
!秩父鉄道
!JR東日本
|-
|1999年(平成11年)
|1,732<!--633,942÷366(閏年)--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/28278.xls|title=110 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-824.html 平成12年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506042429/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/28278.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|
|-
|2000年(平成12年)
|1,686<!--615,342÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/28581.xls|title=110 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-843.html 平成13年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506042603/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/28581.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|460<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_04.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|1,666<!--607,942÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/28869.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-863.html 平成14年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506042657/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/28869.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|448<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_04.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|1,630<!--594,901÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/30447.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-864.html 平成15年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506042801/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/30447.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|448<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_04.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|1,577<!--577,323÷366(閏年)--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/30700.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-884.html 平成16年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506042840/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/30700.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|461<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_04.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|1,583<!--577,651÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/52360.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-904.html 平成17年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506042923/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/52360.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|475<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_04.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|1,563<!--570,407÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/29124.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-924.html 平成18年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043010/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/29124.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|473<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_04.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|1,565<!--571,286÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/428345.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-947.html 平成19年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043104/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/428345.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|479<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_04.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|1,585<!--579,947÷366(閏年)--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/29621.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-970.html 平成20年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043142/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/29621.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|482<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_04.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|1,590<!--580,285÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/428385.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a2009.html 平成21年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043220/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/428385.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|494<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_04.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|1,532<!--559,327÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/427746.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a2010.html 平成22年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043309/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/427746.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|470<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_04.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|1,443<!--526,604÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/483030.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a2011.html 平成23年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043346/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/483030.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|423<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_04.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|1,376<!--503,433÷366(閏年)--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/540012.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a2012.html 平成24年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043423/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/540012.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|376<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_04.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|1,401<!--511,378÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/602529.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a2013.html 平成25年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043513/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/602529.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|399<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_07.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|1,419<!--517,797÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/08-01.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a2014.html 平成26年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043550/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/08-01.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|417<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_07.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|1,437<!--524,442÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/n15-08-01.xls|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015.html 平成27年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043626/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/n15-08-01.xls|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|413<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_07.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|1,424<!--521,357÷366(閏年)--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/n16-08-01_r.xlsx|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016.html 平成28年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043724/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/n16-08-01_r.xlsx|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|435<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_07.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|1,408<!--513,764÷365--><ref group="秩父">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/n17-08-01-r1.xlsx|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017.html 平成29年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043811/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/n17-08-01-r1.xlsx|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|421<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_07.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|1,380<!--503,747÷365--><ref group="秩父" name="n18-08-01">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/n18-08-01.xlsx|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018.html 平成30年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2019-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506043854/http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/documents/n18-08-01.xlsx|archivedate=2019-05-06}}</ref>
|401<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_07.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|1,383<!--504,676÷365--><ref group="秩父" name="n19-08-01">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/172695/n19-08-01.xlsx|title=8-1 鉄道による駅別旅客・貨物輸送状況|format=Excel|work=[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019.html 令和元年埼玉県統計年鑑]|publisher=埼玉県|accessdate=2021-04-15}}</ref>
|402<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_07.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-21}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|1,318<!--482,366÷366(閏年)--><ref group="秩父" name="n20-08-01">{{Cite web|和書|url=https://view.officeapps.live.com/op/view.aspx?src=https%3A%2F%2Fwww.pref.saitama.lg.jp%2Fdocuments%2F211455%2Fn21-08-01.xlsx&wdOrigin=BROWSELINK |title=8-1 鉄道による駅別旅客及び貨物輸送状況 |format=Excel |work=[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021.html 令和3年埼玉県統計年鑑] |publisher=埼玉県 |accessdate=2022-8-13}}</ref>
|385<ref group="JR" name="passenger/2019_07">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_07.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-21}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|897<!--327,394÷365--><ref group="秩父" name="n20-08-01" />
|258<ref group="JR" name="passenger/2020_07">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_07.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-28}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|316<ref group="JR" name="passenger/2021_07">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_07.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-12}}</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|
|357<ref group="JR" name="passenger/2022_07">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_07.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-09}}</ref>
|}
=== 東武鉄道 ===
* 東武鉄道 - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''3,323人'''である<ref group="東武" name="station_info" />。
2003年度(平成15年度)以降の推移は以下のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
|- style="background: #ddd;"
!colspan="2"|乗降人員推移
|-
!年度
!1日平均<br />乗降人員
|-
|2003年(平成15年)
|4,923<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0411/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=11|work=[http://www.train-media.net/report/0411/0411.html 平成15年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2020-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304102727/https://www.train-media.net/report/0411/tobu.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|4,946<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0511/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=25|work=[http://www.train-media.net/report/0511/0511.html 平成16年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2020-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170802182242/https://www.train-media.net/report/0511/tobu.pdf|archivedate=2017-08-02}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|4,856<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0611/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=25|work=[http://www.train-media.net/report/0611/0611.html 平成17年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2020-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170802182056/https://www.train-media.net/report/0611/tobu.pdf|archivedate=2017-08-02}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|4,638<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0711/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=25|work=[http://www.train-media.net/report/0711/0711.html 平成18年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310051601/http://www.train-media.net/report/0711/tobu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|4,507<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0811/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=25|work=[http://www.train-media.net/report/0811/0811.html 平成19年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310053001/http://www.train-media.net/report/0811/tobu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|4,520<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0910/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=26|work=[http://www.train-media.net/report/0910/0910.html 平成20年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310053208/http://www.train-media.net/report/0910/tobu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|4,337<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1010/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=24|work=[http://www.train-media.net/report/1010/1010.html 平成21年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310053453/http://www.train-media.net/report/1010/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|4,347<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1110/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=24|work=[http://www.train-media.net/report/1110/1110.html 平成22年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310053813/http://www.train-media.net/report/1110/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|4,108<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1210/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=24|work=[http://www.train-media.net/report/1210/1210.html 平成23年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310055059/http://www.train-media.net/report/1210/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|4,230<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1310/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=24|work=[http://www.train-media.net/report/1310/index.html 平成24年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310055737/http://www.train-media.net/report/1310/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|4,300<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1410/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=22|work=[http://www.train-media.net/report/1410/index.html 平成25年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190320153324/http://www.train-media.net/report/1410/toubu.pdf|archivedate=2019-03-21}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|4,179<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1511/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=22|work=[http://www.train-media.net/report/1511/index.html 平成26年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310060317/http://www.train-media.net/report/1511/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|4,043<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1610/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=22|work=[http://www.train-media.net/report/1610/index.html 平成27年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310060144/http://www.train-media.net/report/1610/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|3,884<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1710/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=22|work=[http://www.train-media.net/report/1710/index.html 平成28年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310060441/http://www.train-media.net/report/1710/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|3,885<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=https://www.train-media.net/report/1810/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=22|work=[https://www.train-media.net/report/1810/1810.html 平成29年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-07-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190721032616/https://www.train-media.net/report/1810/toubu.pdf|archivedate=2019-07-21}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|3,886<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=駅情報(乗降人員) | 企業情報 | 東武鉄道ポータルサイト|publisher=東武鉄道|accessdate=2019-07-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190721032329/http://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2019-07-21}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|3,821<ref group="東武" name="station_info">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=駅情報(乗降人員) | 企業情報 | 東武鉄道ポータルサイト|publisher=東武鉄道|accessdate=2021-04-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210324113259/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2021-03-24}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|2,928<ref group="東武" name="station_info" />
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|3,323
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Chichitetsu JRE TobuTojo Yorii Station 1974.jpg|thumb|220px|寄居駅付近空中写真(1974年撮影 国土画像情報オルソ化空中写真[国土交通省]より)]]
橋上駅舎化される前から駅舎があった南口([[荒川 (関東)|荒川]])側は[[埼玉県道296号菅谷寄居線]]([[秩父往還]])沿いに宿場町としての歴史を持つ[[商店街]]が発達している。南口からは「和紙の里」([[東秩父村]]役場方面)行の[[イーグルバス]]が発着している。[[武蔵観光]]が運行する「[[深谷駅]]」行と「[[本庄駅]]南口」行のバスは、南口からやや離れた商店街(埼玉県道296号菅谷寄居線上)に寄居駅入口バス停にて連絡する。また、駅南口には[[ライフコーポレーション|ライフ]]寄居店があったが、2013年8月をもって閉店した。
北口は橋上駅舎供用開始時に新設された出口で、周辺は元々住宅地であったが、旧寄居中学校跡地に寄居町役場が移転し、行政機能が集積するようになった。静かな町並みで[[国道140号]]沿いに[[コンビニエンスストア]]や小売[[チェーンストア|チェーン店]]などが立地する。また、本庄・深谷方面の各私立高校や私立大学[[スクールバス]]は北口側から発着する。
[[ファイル:寄居駅南口駅前拠点施設「Yotteco」南側.jpg|サムネイル|南口駅前に位置する寄居駅南口駅前拠点施設「Yotteco」]]
=== 南口 ===
* [[Yotteco|寄居駅南口駅前拠点施設「Yotteco」]]
* [[Yotteco|賑わい創出交流広場「YORIBA」]]
* [[寄居郵便局]]
* [[埼玉りそな銀行]]寄居支店
* フォルテ寄居
* 寄居町立寄居小学校
* [[深谷市消防本部#消防署|花園消防署]]寄居分署
* [[玉淀]](玉淀河原)
* [[鉢形城]]公園・鉢形城歴史館
=== 北口 ===
[[ファイル:Yorii town-office.jpg|thumbnail|200px|北口から望む。正面は寄居町役場(2006年12月)。]]
* 寄居町役場
* 寄居町中央公民館
* 寄居町立図書館
* 寄居町立総合体育館・アタゴ記念館
* [[寄居警察署]]
* 寄居桜沢郵便局
* [[国道140号]]
* GREENBOOK/[[TSUTAYA]]寄居店
* [[ヤオコー]]・[[三喜|ファッション市場サンキ]]寄居店
* [[マツモトキヨシ]]寄居店
* [[ゲオ|GEO]]寄居店
== バス路線 ==
=== 南口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
; 寄居駅
* [[イーグルバス]]
** W03:和紙の里行
; 寄居駅入口
* [[武蔵観光バス]]
** [[県北都市間路線代替バス]]:寄居車庫行 / [[本庄駅]]南口行 / [[深谷駅]]行[[ファイル:寄居駅南口駅前拠点施設「Yotteco」北側(遠景).jpg|サムネイル|南口ロータリー(2023年8月)]]
; その他
* 寄居駅入口停留所は、南口から南方約200[[メートル|m]]先の県道296菅谷寄居線上にあり、駅側から見て、深谷・本庄方面は手前側、寄居車庫方面は県道を渡った反対側となる。
* かつては東秩父村営バスにより[[埼玉県立川の博物館|さいたま川の博物館]]行も運転されていたが、2013年3月31日に廃止となった。
=== 北口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
* スクールバス
** [[本庄第一中学校・高等学校]]
** [[本庄東高等学校・附属中学校]]
** [[正智深谷高等学校]]
** [[東京成徳大学深谷中学校・高等学校]]
** [[早稲田大学本庄高等学院]]
** [[埼玉工業大学]]
== 隣の駅 ==
; 秩父鉄道
: <span style="color:blue">■</span>秩父本線
:: 急行「[[SLパレオエクスプレス]]」
::: [[ふかや花園駅]](CR 17) - '''寄居駅(CR 20)''' - [[長瀞駅]](CR 24)
:: 急行「[[秩父路]]」
::: ふかや花園駅(CR 17) - '''寄居駅(CR 20)''' - [[野上駅]](CR 23)
:: 各駅停車
::: [[桜沢駅 (埼玉県)|桜沢駅]](CR 19) - '''寄居駅(CR 20)''' - [[波久礼駅]](CR 21)
; 東武鉄道
: [[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上本線
::: [[玉淀駅]] (TJ 38) - '''寄居駅 (TJ 39)'''
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: {{Color|#b4aa96|■}}八高線
::: [[折原駅]] - '''寄居駅''' - [[用土駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
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==== 出典 ====
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=== 利用状況 ===
==== 秩父鉄道 ====
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==== 東武鉄道 ====
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==== JR東日本 ====
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Yorii Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[日本の共同使用駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=7512}}
* [http://www.chichibu-railway.co.jp/station/18_yori.html 秩父鉄道 寄居駅]
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1655|name=寄居}}
{{秩父鉄道秩父本線}}
{{東武東上線}}
{{八高線 (高崎-高麗川)}}
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[[Category:埼玉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 よ|りい]]
[[Category:秩父鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1901年開業の鉄道駅]]
[[Category:寄居町の交通|よりいえき]]
[[Category:寄居町の建築物|よりいえき]]
[[Category:八高線]]
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釜石線
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釜石線(かまいしせん)は、岩手県花巻市の花巻駅と釜石市の釜石駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。愛称は「銀河ドリームライン釜石線」。
全線盛岡支社の管轄である。
岩手県中部の拠点都市である花巻市と沿岸地域の拠点都市である釜石市を結ぶ路線である。2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で一部が被災し運休したものの、翌月には全線での運行を再開した。
沿線には釜石製鐵所や、そこに供給する鉄鉱石を生産していた釜石鉱山があり、かつては貨物列車も運行されていたが、現在は旅客輸送のみのローカル線となっている。
『銀河鉄道の夜』などの文学作品で知られる宮沢賢治は、沿線の花巻市出身であり、それにちなんだ路線愛称の付与や観光列車の運行を行っている。『銀河鉄道の夜』に登場する沿線風景のモデルは、当線の前身にあたる岩手軽便鉄道といわれ、路線愛称の「銀河ドリームライン釜石線」はそのことにちなむ。同じく宮沢賢治の『シグナルとシグナレス』は、東北本線と釜石線の信号機を擬人化し、男女に見立てた恋物語である。また、宮沢賢治が作品中にエスペラント語の単語をよく登場させていたことから、各駅にエスペラント語による愛称が付けられている。
釜石線は岩手軽便鉄道が敷設した花巻 - 足ケ瀬 - 仙人峠間の釜石西線と、国が敷設した陸中大橋 - 釜石間の釜石東線が、1950年(昭和25年)の足ケ瀬 - 陸中大橋間の開業によって結ばれ成立したものである。
花巻 - 仙人峠(1950年廃止)間は、岩手軽便鉄道が軌間 762 mm の軽便鉄道として敷設したもので、1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて全通した。この間、終点側で部分開業していたことから、花巻 - 岩根橋間の西線と柏木平 - 仙人峠間の東線に分かれて運営を行っていた時期がある。この岩手軽便鉄道時代の西線と東線は、国有化後の路線ではすべて釜石西線側に含まれている。
仙人峠 - 大橋間は距離約4 km に対して標高差が 300 m あり、この間に仙人峠を越えなければならず、建設費の負担に耐えられないことから、鉄道の敷設を断念した。代わりに全長3.6 kmの索道(ロープウェイ)により貨物・郵便を輸送することとし、旅客は同区間約5.5 kmの山道を徒歩連絡とされた。1927年(昭和2年)には、ようやく鉄道敷設法別表第8号の2に「岩手県花巻ヨリ遠野ヲ経テ釜石ニ至ル鉄道」が追加され、1929年(昭和4年)には現在の釜石線となる路線の着工が決定した。1936年(昭和11年)に岩手軽便鉄道は政府によって買収、国有化され、鉄道省の釜石線となった。この時に索道も買収され、国鉄史上唯一の索道営業が行われることになった。1944年(昭和19年)、釜石東線の開業により釜石西線(かまいしさいせん)に改称する。
岩手軽便鉄道は軌間 762 mm であったため、1067 mm への改軌が順次実施された。またこれと並行して仙人峠を越える鉄道の建設が始められた。国有化前に岩手軽便鉄道から国鉄へ依頼して行われた検討では、足ケ瀬駅と仙人峠駅の間に金山駅を設置して分岐し、仙人峠の下を長いトンネルでくぐって東側にループ線を設置し、北進してスイッチバック式の甲子駅を設置、大きく南へカーブして釜石鉱山鉄道の路線に並行して南東へ進み、唄貝駅で合流するという路線構想があった。再検討の後、1936年(昭和11年)6月に実際に国鉄が着工したのは、足ケ瀬駅から分岐して足ケ瀬トンネルで一旦気仙川流域へ出て、上有住駅を経由して土倉峠の下を土倉トンネルで抜けて仙人峠東側斜面を大きく北へ全長1,280 m、半径250 mの「Ω」(オメガ)字状のカーブを描く第二大橋トンネルを通り陸中大橋駅へ降りていくルートとなった。
第二大橋トンネルは急こう配区間であり、蒸気機関車が通過するとトンネル内は煤煙でいっぱいになった。開通後、列車が頻繁に通過するようになると、煤煙がトンネル付近にあった釜石鉱業所の社宅に押し寄せ、洗濯物が真っ黒になるとのクレームが出されたことから、盛岡鉄道管理局はトンネル出口に送風機と組み合わせた煙突を作ることを発案。1950年(昭和25年)12月より模型実験を繰り返し、実際に高さ25 mの角型の煙突が作られた。
改軌工事に関しては、1944年(昭和19年)に花巻 - 柏木平間の工事が完成した。花巻駅は、国鉄の駅前にあったものが国鉄の駅へ乗り入れるように改められ、似内駅までの区間はこの時に大きく線路を付け替えられている。元の花巻駅は花巻温泉電気鉄道(後の花巻電鉄)の駅として残った。これ以降の改軌工事は太平洋戦争の激化のため、仙人峠の新線建設工事と共に中断された。この時点でかなりの部分まで路盤工事もできあがっており、新線区間の土倉トンネルも貫通している状態であった。戦後の1946年(昭和21年)にアイオン台風により壊滅的な被害を受けて長期不通となった山田線の代替路線として、釜石線の建設・改築を優先することとなり、1948年(昭和23年)に工事を再開し、翌年に柏木平 - 遠野間の改軌が完成した。1950年(昭和25年)には遠野 - 足ケ瀬間の改軌が完成し、足ケ瀬 - 陸中大橋間が新線で連絡されて釜石線が全通した。なおこの際、新線建設ルートから外れた足ケ瀬 - 仙人峠間は軌間 762 mm のまま、仙人峠 - 陸中大橋間の索道とともに廃止されている。これにより、国有鉄道の特殊狭軌線(軽便鉄道)はすべて姿を消した。
東(釜石)側は、1944年(昭和19年)に開業した釜石東線(かまいしとうせん)以前に、民営鉄道がすでに開業していた。
まず1880年(明治13年)8月30日に、富国強兵を目指す政府の工部省によって釜石桟橋 - 大橋採鉱所18.3 kmと、小佐野 - 小川山間4.9 kmなど支線を含んで26.3 kmを結ぶ釜石鉱山専用鉄道が敷設された。これは、釜石製鉄所への鉱石を輸送するためのものであり、日本で3番目となる鉄道路線であったが、釜石製鉄所での製鉄が不振で銑鉄生産を1883年(明治16年)に中断してしまったため、官営釜石鉱山は閉山し、そのための鉄道も開業僅か3年で廃線となった。このときの鉄道設備と車両は阪堺鉄道(南海電気鉄道の前身)へ譲渡されている。
その後、1884年(明治17年)に釜石鉱山馬車鉄道(釜石町 - 甲子村間、軌間 762 mm)が岩手県下初の民営鉄道として開業、1911年(明治44年)に個人(田中長兵衛)経営の鉱山鉄道(鈴子 - 大橋間、軌間 762 mm)に移行した。これは、釜石製鉄所の再建を目指す田中によって開業させたものである。1916年(大正5年)に田中鉱山(1924年〈大正13年〉釜石鉱山に改称)に譲渡され、1940年(昭和15年)には日鉄鉱業に譲渡された。前述の岩手軽便鉄道はこれとの接続を目指して計画されたものである。同鉄道は、釜石東線開業後は貨物専用線として残り、1965年(昭和40年)4月1日に廃止された。国道283号で仙人峠を越えて釜石に入ると、釜石線と間近で並走する片側2車線片側1車線の変則区間があるが、これが廃線跡である。
各駅に停車する普通列車は、基本的に花巻駅 - 釜石駅間で2時間に1本程度運行されているが、朝には遠野発釜石行きの区間列車がある。また、一部の列車は東北本線を経由して盛岡駅発着で運転している。東日本大震災前には山田線に直通する宮古駅発着列車もあった。2010年12月3日までは釜石発いわて銀河鉄道線直通好摩行きも1本設定されていた。1994年3月30日から、盛岡車両センター配置のキハ100形気動車によるワンマン運転が行われている。
このほか、盛岡駅 - 釜石駅間に一部指定席の快速「はまゆり」が3往復運転されている。2002年11月30日までは、急行「陸中」として運転されていた列車で、回転リクライニングシートを装備した専用のキハ110系気動車が使用されている。このキハ110系は釜石線に初投入され、はじめは前面が黒色のブラックフェイスであったが視認性向上のために白系に塗り替えられたものである。快速「はまゆり」は基本的に3両編成である。当初キハ110系0番台だけを使用していたが、2007年から指定席に0番台を使用(一部自由席にも使用)し、自由席は100番台を使用している。従来使用していた0番台の一部は、気仙沼線の快速「南三陸」の指定席車両に充当されている。震災前の2010年3月13日改正時点では4号が宮古発で運転されていたが、震災による山田線の不通に伴い釜石駅 - 盛岡駅間のみの運転となった。
列車番号は花巻から釜石方面が「下り」列車に付ける奇数で、その逆(釜石から花巻方面)が「上り」列車に付ける偶数である。
キハ100形導入前にはキハ52系やキハ58系が使用されていた。
かつては東北本線 - 釜石線 - 山田線を回る盛岡発盛岡行きの循環急行列車「五葉」と、逆回りの「そとやま」が存在した。また、かつての「五葉」・「そとやま」辺りと同様のルートを走る観光列車として、一時期「ぐるっとさんりくトレイン」なる列車が運行されたこともあった。
釜石製鉄所が高炉を24時間体制で操業していた時代には、山田線とともに夜勤者用に時刻表非掲載の深夜列車が運行されていた。1979年当時のダイヤでは、釜石を深夜の1時20分に発車し、終着の遠野には午前2時54分に到着していた。
JR東日本の路線におけるニホンジカ・カモシカと列車車両との接触事故は釜石線と山田線で約5割を占めるなど問題となっていたことから、2004年以降は岩手大学と共同開発した忌避剤の散布、2007年以降は線路沿線への侵入防止ネット設置、早朝と夜間のレーザー光照射などの対策を山間部で行ってきた。2017年2月には運行車両のキハ100系1両に排障器を試験的に採用し、車両に接触しても運行への影響が少なくなるようにしている。
このほか、当線には様々な列車が臨時に運行される。その代表的な列車が2014年4月12日から運行を開始した蒸気機関車C58 239牽引による列車「SL銀河」である。前身は、1989年から2001年にかけて毎年運行された蒸気機関車によるイベント列車「SL銀河ドリーム号」で、路線愛称である「銀河ドリームライン釜石線」と、「銀河鉄道の夜」にちなんだもの。2001年で一旦運行は打ち切りとなったが、その後も2004年、2012年と運行された。2014年度より、専用の蒸気機関車となるC58 239を新たに動態復元し、「SL銀河」として週末を中心に定期運行が行われたが、客車の老朽化により、2023年6月11日を最後に運行を終了した。
また、当線を管理する盛岡支社は、宮沢賢治の名前にちなんだジョイフルトレイン「Kenji」を所有していた。この列車も、時折入線し、イベント運行を行っていた。
2020年12月から冬の2泊3日コースで周遊型寝台列車「TRAIN SUITE 四季島」が花巻駅 - 遠野駅間に乗り入れている。専用バスで乗客が遠野市に入り観光をしている間、車両は遠野駅まで回送。客乗せ後、折り返し花巻経由で次の目的地に向かう。なお、途中駅の有効長の関係などから花巻駅 - 遠野駅間は全駅通過、ノンストップで走行する。
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の対象駅は、花巻駅・新花巻駅・遠野駅・釜石駅である。それ以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。なお、新花巻駅については釜石線の区画は無人であるが、接続する東北新幹線の区画が有人となっている。
廃止区間の駅は前節参照。( ) 内は花巻駅からのキロ程。
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"tag": "p",
"text": "かつては東北本線 - 釜石線 - 山田線を回る盛岡発盛岡行きの循環急行列車「五葉」と、逆回りの「そとやま」が存在した。また、かつての「五葉」・「そとやま」辺りと同様のルートを走る観光列車として、一時期「ぐるっとさんりくトレイン」なる列車が運行されたこともあった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "釜石製鉄所が高炉を24時間体制で操業していた時代には、山田線とともに夜勤者用に時刻表非掲載の深夜列車が運行されていた。1979年当時のダイヤでは、釜石を深夜の1時20分に発車し、終着の遠野には午前2時54分に到着していた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "JR東日本の路線におけるニホンジカ・カモシカと列車車両との接触事故は釜石線と山田線で約5割を占めるなど問題となっていたことから、2004年以降は岩手大学と共同開発した忌避剤の散布、2007年以降は線路沿線への侵入防止ネット設置、早朝と夜間のレーザー光照射などの対策を山間部で行ってきた。2017年2月には運行車両のキハ100系1両に排障器を試験的に採用し、車両に接触しても運行への影響が少なくなるようにしている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "このほか、当線には様々な列車が臨時に運行される。その代表的な列車が2014年4月12日から運行を開始した蒸気機関車C58 239牽引による列車「SL銀河」である。前身は、1989年から2001年にかけて毎年運行された蒸気機関車によるイベント列車「SL銀河ドリーム号」で、路線愛称である「銀河ドリームライン釜石線」と、「銀河鉄道の夜」にちなんだもの。2001年で一旦運行は打ち切りとなったが、その後も2004年、2012年と運行された。2014年度より、専用の蒸気機関車となるC58 239を新たに動態復元し、「SL銀河」として週末を中心に定期運行が行われたが、客車の老朽化により、2023年6月11日を最後に運行を終了した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、当線を管理する盛岡支社は、宮沢賢治の名前にちなんだジョイフルトレイン「Kenji」を所有していた。この列車も、時折入線し、イベント運行を行っていた。",
"title": "運行形態"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2020年12月から冬の2泊3日コースで周遊型寝台列車「TRAIN SUITE 四季島」が花巻駅 - 遠野駅間に乗り入れている。専用バスで乗客が遠野市に入り観光をしている間、車両は遠野駅まで回送。客乗せ後、折り返し花巻経由で次の目的地に向かう。なお、途中駅の有効長の関係などから花巻駅 - 遠野駅間は全駅通過、ノンストップで走行する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の対象駅は、花巻駅・新花巻駅・遠野駅・釜石駅である。それ以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。なお、新花巻駅については釜石線の区画は無人であるが、接続する東北新幹線の区画が有人となっている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "廃止区間の駅は前節参照。( ) 内は花巻駅からのキロ程。",
"title": "廃止・廃駅"
}
] |
釜石線(かまいしせん)は、岩手県花巻市の花巻駅と釜石市の釜石駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。愛称は「銀河ドリームライン釜石線」。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 釜石線
|路線色=#0073bf
|画像=Iwate-SL galaxy running on the Megane(eye glasses) Bridge-m.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[宮守川橋梁]](宮守 - 柏木平間)を渡る[[SL銀河]]
|通称=銀河ドリームライン釜石線
|国={{JPN}}
|所在地=[[岩手県]]
|起点=[[花巻駅]]
|終点=[[釜石駅]]
|駅数=24駅<ref name="sone 5">[[#sone21|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻21号 釜石線・山田線・岩泉線・北上線・八戸線 5頁]]</ref>
|電報略号 = カマセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p23">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局|date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=23}}</ref>
|開業=[[1913年]][[10月25日]]
|全通=[[1950年]][[10月10日]]<ref name="sone 5"/>
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)
|車両基地=
|使用車両=[[JR東日本キハ100系気動車|キハ100系、キハ110系]]
|路線距離=90.2 [[キロメートル|km]]<ref name="sone 5"/>
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[単線]]
|電化方式=全線[[非電化]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]<ref name="ats">[https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/pdf_2018/all.pdf サステナビリティレポート2018] 34頁 - JR東日本、2018年9月</ref>
|最高速度=85 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図=File:Kamaishi Line linemap.svg
}}
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#0073bf}}
{{BS-table}}
{{BS5||uexSTR||||||''[[花巻電鉄]]軌道線''|}}
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{{BS5|||eDST|||(35.3)|''中鱒沢駅''<ref group="*">初代(-1928)は一般駅、<br />2代目(1930-1936)は貨物駅</ref>|-1936|}}
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{{BS5||STR||exmBHFe|||''[[仙人峠駅]]''||}}
{{BS5||tSTRa||uexSTR|O4=AETRAM|||''荷物運搬用索道''||}}
{{BS5||tSTRe||uexSTR|||足ケ瀬トンネル||}}
{{BS5||TUNNEL1||uexSTR|||トンネル3か所||}}
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{{BS5||hKRZWae||uexSTR||||[[気仙川]](土倉沢)|}}
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{{BS5||TUNNEL2||uexSTR|||||}}
{{BS5||STRl|tSTRaq|uxmKRZt|tSTR+r||第2大橋トンネル||}}
{{BS5|WASSER+l|WASSERq|WASSERq|WASSERq|O4=uexSTR|tKRZW|||[[甲子川]]|}}
{{BS5|WASSER|exSTR+l|exSTRq|uexKBHFe|O4=exKBHFeq|tSTR||''大橋駅''||}}
{{BS5|WASSER|exSTR|STR+l|tBHFa@fq|tSTRr|73.7|[[陸中大橋駅]]||}}
{{BS5|WASSER|exSTR|TUNNEL1||||||}}
{{BS5|WASSER|exSTRl|eKRZ|exSTRq|exSTR+r|O5=POINTERg@fq|||''[[釜石鉱山鉄道]]'' -1965|}}
{{BS5|WASSERl|WASSERq|hKRZWae|WASSER+r|exSTR||||}}
{{BS5|||STR|WASSER|exHST||||}}
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{{BS5|WASSER|exHST|BHF|||79.6|[[洞泉駅]]||}}
{{BS5|WASSER|exHST|STR||||||}}
{{BS5|WASSER|exSTR|BHF|||83.2|[[松倉駅]]||}}
{{BS5|WASSER|exSTR|TUNNEL1||||||}}
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{{BS5|WASSER+l|O1=WASSER|exhKRZWae|hKRZWae|||||[[小川川 (岩手県)|小川川]]|}}
{{BS5|WASSER|exKHSTe|TUNNEL1|||||''釜石鉱業駅''|}}
{{BS5|WASSER||ABZg+l|STRq|STRq|||[[三陸鉄道]]:[[三陸鉄道リアス線|リアス線]]→|}}
{{BS5|WASSERl|WASSERq|hKRZWae|WASSER+r|||||}}
{{BS5|||BHF|WASSER||90.2|[[釜石駅]]||}}
{{BS5||WASSER+l|hKRZWae|WASSERr||||大渡川(甲子川下流部)|}}
{{BS5|STRq|hKRZWaeq|STRr|||||←三陸鉄道:リアス線|}}
{{BS-colspan}}
----
* おもに[[#imao|今尾 (2008)]] を参考にした
<references group="*" />
|}
|}
'''釜石線'''(かまいしせん)は、[[岩手県]][[花巻市]]の[[花巻駅]]と[[釜石市]]の[[釜石駅]]を結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[地方交通線]])である。[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]は「'''銀河ドリームライン釜石線'''」<ref name="sone 11">[[#sone21|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻21号 釜石線・山田線・岩泉線・北上線・八戸線 11頁]]</ref>。
== 路線データ ==
* 管轄(事業種別):東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 区間([[営業キロ]]):花巻駅 - 釜石駅 90.2 [[キロメートル|km]]<ref name="sone 5"/>
* [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]
* 駅数:24駅(起終点駅含む)<ref name="sone 5"/>
** 釜石線所属駅に限定した場合、起点の花巻駅([[東北本線]]所属)が除外され、23駅となる。
** 終点の釜石駅はかつては[[山田線]]所属であったが、同線の一部区間が[[三陸鉄道]]へ移管されたことに伴い、JRの駅としては釜石線所属に変更された。
* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* 電化区間:なし(全線[[非電化]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]<ref name="ats" />
* [[運転指令所]]:盛岡総合指令室([[列車集中制御装置|CTC]]・[[自動進路制御装置|PRC]])
* 最高速度:85 [[キロメートル毎時|km/h]]
*IC乗車カード対応区間
**[[Suica]]盛岡エリア:花巻駅 - 新花巻駅間
全線[[東日本旅客鉄道盛岡支社|盛岡支社]]の管轄である。
== 概要 ==
岩手県中部の拠点都市である花巻市と沿岸地域の拠点都市である釜石市を結ぶ路線である。[[2011年]]([[平成]]23年)[[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]で一部が被災し運休したものの、翌月には全線での運行を再開した。
沿線には[[新日鐵住金釜石製鐵所|釜石製鐵所]]や、そこに供給する[[鉄鉱石]]を生産していた[[釜石鉱山]]があり、かつては[[貨物列車]]も運行されていたが、現在は旅客輸送のみのローカル線となっている。
『[[銀河鉄道の夜]]』などの文学作品で知られる[[宮沢賢治]]は、沿線の花巻市出身であり、それにちなんだ路線愛称の付与や観光列車の運行を行っている。『銀河鉄道の夜』に登場する沿線風景のモデルは、当線の前身にあたる[[岩手軽便鉄道]]といわれ<ref>{{Cite web|和書|title=「銀河鉄道の夜」地上モデルは 王子軽便鉄道沿線!? |website=WEBみんぽう |date=2016-11-28 |url=https://www.tomamin.co.jp/20161145086 |publisher=苫小牧民報社 |accessdate=2019-12-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161130035832/https://www.tomamin.co.jp/20161145086 |archivedate=2016-11-30 |quote=同作は賢治の故郷の岩手軽便鉄道がモデルとされるが、 }} - この苫小牧民報の記事では[[日高本線]]の前身[[苫小牧軽便鉄道|王子軽便鉄道・浜線]]の沿線風景がモチーフではと指摘する論文がまとめられたことを報じているが、論文著者は「岩手軽便鉄道説を否定しているのではない。」としている。</ref>、路線愛称の「銀河ドリームライン釜石線」はそのことにちなむ。同じく宮沢賢治の『[[シグナルとシグナレス]]』は、東北本線と釜石線の[[鉄道信号機|信号機]]を[[擬人化]]し、男女に見立てた恋物語である。また、宮沢賢治が作品中に[[エスペラント]]語の単語をよく登場させていたことから、各駅にエスペラント語による愛称が付けられている<ref>[http://www.jred.co.jp/works/other/kamaishisen/ 釜石線 駅名標デザイン] - JR東日本建築設計</ref>。
<gallery widths="200">
File:GINGA DREAMLINE Mark.jpg|[[腕木式信号機]]と星をモチーフとした「銀河ドリームライン」のマーク
File:Tono Station Sign.JPG|遠野駅の駅名標<br />エスペラント語の「Folkloro」の愛称も併記されている。
File:Miyamorigawa-Kyoryo Bridge Iwate Japan.jpg|[[宮守川橋梁]](宮守 - 柏木平間)
</gallery>
== 歴史 ==
釜石線は岩手軽便鉄道が敷設した花巻 - 足ケ瀬 - 仙人峠間の釜石西線と、国が敷設した陸中大橋 - 釜石間の釜石東線が、[[1950年]]([[昭和]]25年)の足ケ瀬 - 陸中大橋間の開業によって結ばれ成立したものである<ref name="RJ241">{{Cite journal|和書 |date = 1987-01 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 1 |pages = 112-113 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。
=== 釜石西線(花巻 - 仙人峠間) ===
花巻 - 仙人峠(1950年廃止)間は、[[岩手軽便鉄道]]が[[2フィート6インチ軌間|軌間 762 mm]] の[[軽便鉄道]]として敷設したもので、[[1913年]]([[大正]]2年)から[[1915年]](大正4年)にかけて全通した<ref name="RJ241"/>。この間、終点側で部分開業していたことから、花巻 - 岩根橋間の西線と柏木平 - 仙人峠間の東線に分かれて運営を行っていた時期がある<ref name="RJ241"/>。この岩手軽便鉄道時代の西線と東線は、国有化後の路線ではすべて釜石西線側に含まれている<ref name="RJ241"/>。
仙人峠 - 大橋間は距離約4 km に対して標高差が 300 [[メートル|m]] あり、この間に[[仙人峠 (岩手県)|仙人峠]]を越えなければならず、建設費の負担に耐えられないことから、鉄道の敷設を断念した。代わりに全長3.6 kmの索道([[索道|ロープウェイ]])により貨物・郵便を輸送することとし<ref name="RJ241"/>、旅客は同区間約5.5 kmの山道を徒歩連絡とされた<ref name="sone 10">[[#sone21|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻21号 釜石線・山田線・岩泉線・北上線・八戸線 10頁]]</ref>。[[1927年]](昭和2年)には、ようやく[[鉄道敷設法]]別表第8号の2に「岩手県花巻ヨリ遠野ヲ経テ釜石ニ至ル鉄道」が追加され、[[1929年]](昭和4年)には現在の釜石線となる路線の着工が決定した。[[1936年]](昭和11年)に岩手軽便鉄道は政府によって買収、[[国有化]]され、[[鉄道省]]の'''釜石線'''となった<ref name="RJ241"/>。この時に索道も買収され、国鉄史上唯一の索道営業が行われることになった<ref name="sone 10"/>。[[1944年]](昭和19年)、釜石東線の開業により'''釜石西線'''(かまいしさいせん)に改称する<ref name="sone 11"/>。
岩手軽便鉄道は軌間 762 mm であったため、[[3フィート6インチ軌間|1067 mm]] への[[改軌]]が順次実施された。またこれと並行して仙人峠を越える鉄道の建設が始められた。国有化前に岩手軽便鉄道から国鉄へ依頼して行われた検討では、足ケ瀬駅と仙人峠駅の間に金山駅を設置して分岐し、仙人峠の下を長いトンネルでくぐって東側に[[ループ線]]を設置し、北進して[[スイッチバック]]式の甲子駅を設置、大きく南へカーブして[[釜石鉱山鉄道]]の路線に並行して南東へ進み、唄貝駅で合流するという路線構想があった。再検討の後、1936年(昭和11年)6月に実際に国鉄が着工したのは、足ケ瀬駅から分岐して足ケ瀬トンネルで一旦[[気仙川]]流域へ出て、上有住駅を経由して土倉峠の下を土倉トンネルで抜けて仙人峠東側斜面を大きく北へ全長1,280 m、半径250 mの「[[Ω]]」(オメガ)字状のカーブを描く第二大橋トンネルを通り陸中大橋駅へ降りていくルートとなった。
第二大橋トンネルは急こう配区間であり、[[蒸気機関車]]が通過するとトンネル内は[[煤煙]]でいっぱいになった。開通後、列車が頻繁に通過するようになると、煤煙がトンネル付近にあった釜石鉱業所の社宅に押し寄せ、洗濯物が真っ黒になるとのクレームが出されたことから、[[盛岡鉄道管理局]]はトンネル出口に[[送風機]]と組み合わせた[[煙突]]を作ることを発案。1950年(昭和25年)12月より模型実験を繰り返し、実際に高さ25 mの角型の煙突が作られた<ref>「煙突つきのトンネル 釜石線に国鉄が初の設計」『朝日新聞』昭和26年1月9日</ref>。
改軌工事に関しては、1944年(昭和19年)に花巻 - 柏木平間の工事が完成した<ref name="RJ241"/>。花巻駅は、国鉄の駅前にあったものが国鉄の駅へ乗り入れるように改められ、似内駅までの区間はこの時に大きく線路を付け替えられている。元の花巻駅は花巻温泉電気鉄道(後の[[花巻電鉄]])の駅として残った。これ以降の改軌工事は[[太平洋戦争]]の激化のため、仙人峠の新線建設工事と共に中断された。この時点でかなりの部分まで路盤工事もできあがっており、新線区間の土倉トンネルも貫通している状態であった。戦後の[[1946年]](昭和21年)に[[アイオン台風]]により壊滅的な被害を受けて長期不通となった[[山田線]]の代替路線として、釜石線の建設・改築を優先することとなり<ref name="RJ241"/>、[[1948年]](昭和23年)に工事を再開し、翌年に柏木平 - 遠野間の改軌が完成した<ref name="RJ241"/>。[[1950年]](昭和25年)には遠野 - 足ケ瀬間の改軌が完成し<ref name="RJ241"/>、足ケ瀬 - 陸中大橋間が新線で連絡されて'''釜石線'''が全通した<ref name="RJ241"/>。なおこの際、新線建設ルートから外れた足ケ瀬 - 仙人峠間は軌間 762 mm のまま、仙人峠 - 陸中大橋間の索道とともに廃止されている<ref name="RJ241"/>。これにより、[[国鉄の特殊狭軌線|国有鉄道の特殊狭軌線]](軽便鉄道)はすべて姿を消した。
=== 釜石東線(陸中大橋 - 釜石間) ===
{{See also|釜石鉱山鉄道}}
東(釜石)側は、1944年(昭和19年)に開業した'''釜石東線'''(かまいしとうせん)以前に、[[私鉄|民営鉄道]]がすでに開業していた<ref name="RJ241"/>。
まず[[1880年]](明治13年)[[8月30日]]に、[[富国強兵]]を目指す政府の[[工部省]]によって[[釜石港|釜石桟橋]] - 大橋採鉱所18.3 kmと、小佐野 - 小川山間4.9 kmなど支線を含んで26.3 kmを結ぶ[[釜石鉱山鉄道|釜石鉱山専用鉄道]]が敷設された<ref name="RJ241"/>。これは、[[新日鐵住金釜石製鐵所|釜石製鉄所]]への[[鉄鉱石|鉱石]]を輸送するためのものであり、日本で3番目となる鉄道路線であったが、釜石製鉄所での製鉄が不振で[[銑鉄]]生産を[[1883年]](明治16年)に中断してしまったため、官営釜石鉱山は閉山し、そのための鉄道も開業僅か3年で廃線となった<ref name="sone 10"/>。このときの鉄道設備と車両は[[阪堺鉄道]]([[南海電気鉄道]]の前身)へ譲渡されている<ref name="RJ241"/>。
その後、[[1884年]](明治17年)に[[釜石鉱山鉄道|釜石鉱山馬車鉄道]](釜石町 - 甲子村間、[[2フィート6インチ軌間|軌間 762 mm]])が岩手県下初の民営鉄道として開業、[[1911年]](明治44年)に個人([[田中長兵衛 (2代目)|田中長兵衛]])経営の鉱山鉄道(鈴子 - 大橋間、軌間 762 mm)に移行した<ref name="RJ241"/>。これは、釜石製鉄所の再建を目指す田中によって開業させたものである<ref name="RJ241"/>。[[1916年]](大正5年)に田中鉱山(1924年〈大正13年〉釜石鉱山に改称)に譲渡され、[[1940年]](昭和15年)には日鉄鉱業に譲渡された。前述の岩手軽便鉄道はこれとの接続を目指して計画されたものである。同鉄道は、釜石東線開業後は貨物[[専用鉄道|専用線]]として残り、[[1965年]](昭和40年)[[4月1日]]に廃止された<ref name="sone 11"/>。[[国道283号]]で仙人峠を越えて釜石に入ると、釜石線と間近で並走する片側2車線片側1車線の変則区間があるが、これが廃線跡である。
<!-- 重複?分コメントアウト。なお1877年(明治10年)工部省鉱山寮は工部省鉱山局に改組 -->
=== 年表 ===
==== 岩手軽便鉄道 ====
===== 西線(花巻 - 岩根橋間) =====
* [[1913年]](大正2年)
** [[10月25日]]:'''岩手軽便鉄道'''が花巻 - 土沢間を開業<ref name="RJ241"/>、花巻駅(国有鉄道花巻駅とは別駅)<ref name="sone 10"/>・矢沢停留場・幸田停留場・土沢駅を新設<ref name="sone 10"/>。
** [[12月25日]]:似内停留場を新設<ref name="sone 10"/>。
* [[1914年]](大正3年)。
** [[4月6日]]:幸田を停留場から駅に改める。
** [[4月16日]]:土沢 - 晴山間を延伸開業<ref name="RJ241"/>、晴山駅を新設<ref name="sone 10"/>。
** [[12月15日]]:晴山 - 岩根橋間を延伸開業<ref name="RJ241"/>、岩根橋駅を新設<ref name="sone 10"/>。
* [[1915年]](大正4年)[[4月10日]]:鳥谷ヶ崎停留場を新設。
===== 東線(柏木平 - 仙人峠間) =====
* 1914年(大正3年)
** [[4月18日]]:'''岩手軽便鉄道'''が遠野 - 仙人峠間の貨物線を開業<ref name="sone 10"/>、(貨)遠野駅・(貨)上郷駅・足ケ瀬給水所・(貨)仙人峠駅を新設<ref name="sone 10"/>。
** [[5月15日]]:遠野 - 仙人峠間で旅客営業を開始、遠野・上郷・仙人峠の各駅を貨物駅から一般駅に改める。
** [[10月25日]]:足ケ瀬を給水所から信号所に改める。
** 12月15日:鱒沢 - 遠野間を延伸開業、鱒沢駅(初代)・二日町停留場・綾織駅を新設<ref name="sone 10"/>。
* [[1915年]](大正4年)。
** [[5月1日]]:赤川停留場を新設。
** [[7月30日]]:柏木平 - 鱒沢間を延伸開業<ref name="RJ241"/>、宇洞・柏木平の各駅を新設<ref name="sone 10"/>。
** [[9月1日]]:青笹停留場を新設。
===== 花巻 - 仙人峠間全通から国有化直前まで =====
* 1915年(大正4年)[[11月23日]]:岩根橋 - 柏木平間を延伸開業し全通<ref name="RJ241"/>、宮守駅・平倉停留場を新設<ref name="sone 10"/>、足ケ瀬を信号所から駅に改める、幸田駅を小山田駅に改称。
* [[1916年]](大正5年)
** [[2月10日]]:上郷駅を岩手上郷駅に改称。
** [[2月25日]]:二日町を停留場から駅に改める。
* [[1924年]](大正13年)[[12月16日]]:荒谷前駅を新設<ref name="sone 10"/>、宇洞駅を鱒沢駅(2代)に、鱒沢駅(初代)を中鱒沢駅に、二日町駅を岩手二日町駅にそれぞれ改称。
* [[1926年]](大正15年)[[8月15日]]:関口停留場を新設。
* [[1927年]](昭和2年)[[12月13日]]:赤川停留場を廃止。
* [[1928年]](昭和3年)[[6月1日]]:中鱒沢駅を廃止。
* [[1930年]](昭和5年)[[7月16日]]:(貨)中鱒沢駅を新設。
* [[1936年]](昭和11年)[[3月25日]]:平倉を停留場から駅に改める。
==== 国有化後 ====
===== 釜石線 → 釜石西線 =====
* [[1936年]](昭和11年)[[8月1日]] :岩手軽便鉄道を買収・国有化し花巻 - 仙人峠間 (64.4 km)を'''釜石線'''とする<ref name="RJ241"/>。(貨)中鱒沢駅を廃止、鳥谷ヶ崎・青笹を停留場から駅に改める。
* [[1943年]](昭和18年)[[9月20日]]:花巻 - 柏木平間を762 mmから1067 mmに改軌し<ref name="RJ241"/>似内 - 柏木平間で+0.1 kmの改キロ、花巻 - 似内間を線路付替し<ref name="sone 11"/>-0.2 kmの改キロ、鳥谷ヶ崎駅を廃止。
* [[1944年]](昭和19年)[[10月11日]]:釜石東線開業にともない'''釜石西線'''に改称<ref name="sone 11"/>。
* [[1949年]](昭和24年)[[12月10日]]:柏木平 - 遠野間を762 mmから1067 mmに改軌し<ref name="RJ241"/>-0.1 kmの改キロ。
===== 釜石東線 =====
* 1944年(昭和19年)10月11日:釜石 - 陸中大橋間(貨物線、16.5 km)を'''釜石東線'''として開業<ref name="sone 11"/>、(貨)陸中大橋駅・洞泉信号場・小佐野信号場を新設。
* [[1945年]](昭和20年)[[6月15日]]:釜石 - 陸中大橋間で旅客営業を開始、松倉駅を新設、洞泉・小佐野を信号場から駅に改める<ref name="sone 11"/>。
* [[1946年]](昭和21年)[[4月1日]]:中妻操車場を新設。
* [[1949年]](昭和24年)[[8月1日]]:中妻操車場を廃止。
===== 花巻 - 釜石間全通以後 =====
* [[1950年]](昭和25年)[[10月10日]]:足ケ瀬 - 陸中大橋間 (12.5 km)を延伸開業し全通<ref>記念スタンプ[{{NDLDC|2963672/7}} 「郵政省告示第325号」『官報』1950年10月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、上有住駅を新設、遠野 - 足ケ瀬間を762 mmから1067 mmに改軌し<ref name="RJ241"/>-0.2 kmの改キロ、綾織 - 遠野間を-0.1 kmの改キロ、足ケ瀬 - 仙人峠間 (-3.9 km)を廃止、仙人峠・関口の両駅を廃止、釜石東線を釜石西線に編入して花巻 - 釜石間 (90.2 km)を'''釜石線'''と改称<ref name="sone 11"/>。
* [[1967年]](昭和42年)[[3月20日]]:蒸気機関車([[国鉄D50形蒸気機関車|D50]]・[[国鉄D51形蒸気機関車|D51]])の運転を終了し無煙化<ref name="RJ241"/>。
* [[1981年]](昭和56年)
** [[8月23日]]:[[昭和56年台風第15号|台風15号]]の影響により、足ケ瀬 - 上有住間が不通となる<ref name="交通81">{{Cite news |title=釜石線 全線復旧 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1981-09-19 |page=2 }}</ref>。
** [[9月17日]]:足ケ瀬 - 上有住間が営業再開し、全線で運行再開{{R|交通81}}。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:矢沢駅を廃止、新花巻駅を新設(実質的に矢沢駅の移転改称)<ref name="sone 11"/>。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化に伴い東日本旅客鉄道(第一種)および日本貨物鉄道(第二種)が承継<ref name="sone 11"/>。
* [[1991年]](平成3年)[[7月7日]]:[[JR東日本キハ100系気動車|キハ100系気動車]]の運用を開始<ref>{{Cite news |title=高性能気動車を投入 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-07-09 |page=2 }}</ref>。
* [[1993年]](平成5年)[[10月1日]]:全線[[列車集中制御装置|CTC]]化<ref>“JR釜石線自動制御に移行 7駅が無人化 地元に不満残したまま”. [[岩手日報]] (岩手日報社): p.2 (1993年10月2日 夕刊)</ref>。
* [[1994年]](平成6年)[[3月30日]]:ワンマン運転開始<ref name="jrr96-p191" />
* [[1995年]](平成7年)[[3月1日]]:「銀河ドリームライン釜石線」の路線愛称と、各駅にエスペラント語による愛称を設定。
* [[1997年]](平成9年)[[10月6日]]:天皇・皇后の岩手訪問([[全国豊かな海づくり大会]]への臨席など)に伴い、[[皇室用客車|1号御料車]]編成による[[お召し列車]]を釜石から釜石線経由で花巻へ運転(片道のみ、途中遠野駅で一旦下車。同月4日には盛岡から山田線経由で宮古へ運転)。[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51]] 842牽引(予備機:DD51 895)<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1997-12 |journal = [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |volume = 37 |issue = 12 |pages = 54-57 |publisher = [[交友社]] }}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)[[4月1日]]:日本貨物鉄道が花巻 - 釜石間の第二種鉄道事業を廃止<ref name="sone 11"/>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]]:[[東北地方太平洋沖地震]]が発生し、全線が不通となる。
** [[3月28日]]:花巻 - 遠野間を営業再開。
** [[4月6日]]:遠野 - 釜石間を営業再開し、全線で運行再開。
** [[4月8日]]:7日に発生した[[宮城県沖地震 (2011年)|東北地方太平洋沖地震の余震]]により再び全線不通となる。
** [[4月12日]]:全線で運行再開。
* [[2023年]](令和5年)[[5月27日]]:花巻 - 新花巻間において[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref name="press20221212">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/morioka/20221212_mr01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221212054051/https://www.jreast.co.jp/press/2022/morioka/20221212_mr01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年5月27日(土)北東北3エリアでSuicaがデビューします!|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社・秋田支社|date=2022-12-12|accessdate=2022-12-12|archivedate=2022-12-12}}</ref><ref name="press20210406">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210406050454/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北東北3県におけるSuicaご利用エリアの拡大について 〜2023年春以降、青森・岩手・秋田の各エリアでSuicaをご利用いただけるようになります〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-04-06|accessdate=2021-04-06|archivedate=2021-04-06}}</ref>。
== 運行形態 ==
[[File:Route 283 and Kamaishi Line.jpg|thumb|[[国道283号]]と並行して走る釜石線の[[JR東日本キハ100系気動車|キハ100形]](2008年8月)]]
[[File:JR East Kiha 110-5 Hamayuri at tono 2006.jpg|thumb|[[JR東日本キハ110系気動車|キハ110系]]3両編成で運行される快速「[[はまゆり (列車)|はまゆり]]」(2006年10月、[[遠野駅]])]]
各駅に停車する普通列車は、基本的に花巻駅 - 釜石駅間で2時間に1本程度運行されているが、朝には遠野発釜石行きの区間列車がある。また、一部の列車は[[東北本線]]を経由して盛岡駅発着で運転している。東日本大震災前には山田線に直通する宮古駅発着列車もあった。2010年12月3日までは釜石発[[いわて銀河鉄道線]]直通[[好摩駅|好摩]]行きも1本設定されていた。1994年3月30日から、[[盛岡車両センター]]配置の[[JR東日本キハ100系気動車|キハ100形]]気動車による[[ワンマン運転]]が行われている<ref name="jrr96-p191">『JR気動車客車編成表』'96年版、ジェー・アール・アール、1996年、pp.55,191</ref>。
このほか、盛岡駅 - 釜石駅間に一部指定席の快速「[[はまゆり (列車)|はまゆり]]」が3往復運転されている。2002年11月30日までは、急行「陸中」として運転されていた列車で、[[鉄道車両の座席|回転リクライニングシート]]を装備した専用の[[JR東日本キハ110系気動車|キハ110系]]気動車が使用されている。このキハ110系は釜石線に初投入され、はじめは前面が黒色のブラックフェイスであったが視認性向上のために白系に塗り替えられたものである。快速「はまゆり」は基本的に3両編成である。当初キハ110系0番台だけを使用していたが、2007年から指定席に0番台を使用(一部自由席にも使用)し、自由席は100番台を使用している。従来使用していた0番台の一部は、[[気仙沼線]]の快速「[[南三陸 (列車)|南三陸]]」の指定席車両に充当されている。震災前の2010年3月13日改正時点では4号が宮古発で運転されていたが<ref>『JTB時刻表』2010年3月号、JTBパブリッシング、pp.626-627</ref>、震災による山田線の不通に伴い釜石駅 - 盛岡駅間のみの運転となった。
[[列車番号]]は花巻から釜石方面が「下り」列車に付ける奇数で、その逆(釜石から花巻方面)が「上り」列車に付ける偶数である。
キハ100形導入前には[[国鉄キハ20系気動車|キハ52系]]や[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]が使用されていた。
かつては東北本線 - 釜石線 - 山田線を回る盛岡発盛岡行きの[[循環列車|循環急行列車]]「[[はまゆり (列車)|五葉]]」と、逆回りの「[[はまゆり (列車)|そとやま]]」が存在した。また、かつての「五葉」・「そとやま」辺りと同様のルートを走る観光列車として、一時期「ぐるっとさんりくトレイン」なる列車が運行されたこともあった<ref>{{Cite news |title=山田・釜石線をぐるり |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-05-08 |page=3 }}</ref>。
[[新日鐵住金釜石製鐵所|釜石製鉄所]]が高炉を24時間体制で操業していた時代には、山田線とともに夜勤者用に時刻表非掲載の深夜列車が運行されていた。1979年当時のダイヤでは、釜石を深夜の1時20分に発車し、終着の遠野には午前2時54分に到着していた<ref>石野哲『時刻表名探偵』日本交通公社、1979年、pp.77、79。このダイヤは盛岡鉄道管理局の運転時刻表が出典と記されている。</ref>。
JR東日本の路線における[[ニホンジカ]]・[[カモシカ]]と列車車両との接触事故は釜石線と山田線で約5割を占めるなど問題となっていたことから、2004年以降は[[岩手大学]]と共同開発した忌避剤の散布、2007年以降は線路沿線への侵入防止ネット設置、早朝と夜間のレーザー光照射などの対策を山間部で行ってきた<ref>[https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201908/20190817_33044.html 釜石線をシカから守れ JR東、衝突回避へ薬剤散布] - [[河北新報]]、2019年8月17日</ref><ref name="jr-morioka20170421" />。2017年2月には運行車両のキハ100系1両に[[排障器]]を試験的に採用し、車両に接触しても運行への影響が少なくなるようにしている<ref name="jr-morioka20170421">{{Cite press release |和書 |title=釜石線シカ対策による輸送障害発生防止の取り組みについて |publisher=東日本旅客鉄道 盛岡支社 |date=2017年4月21日 |url=http://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1492754416_1.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年6月22日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170619090627/http://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1492754416_1.pdf |archivedate=2017年6月19日}}</ref>。
=== 臨時列車の運転 ===
[[File:宮守橋梁を走るSL.jpg|thumb|250px|宮守橋梁を走るSL銀河]]
このほか、当線には様々な列車が臨時に運行される。その代表的な列車が2014年4月12日から運行を開始した[[蒸気機関車]][[国鉄C58形蒸気機関車|C58 239]]牽引による列車「'''[[SL銀河]]'''」である。前身は、1989年から2001年にかけて毎年運行された蒸気機関車によるイベント列車「'''[[SL銀河|SL銀河ドリーム号]]'''」で、路線愛称である「銀河ドリームライン釜石線」と、「銀河鉄道の夜」にちなんだもの。2001年で一旦運行は打ち切りとなったが、その後も2004年、2012年と運行された。2014年度より、専用の蒸気機関車となるC58 239を新たに[[動態保存|動態復元]]し、「SL銀河」として週末を中心に定期運行が行われたが、客車の老朽化により、2023年6月11日を最後に運行を終了した<ref name=":0">{{Cite press release|和書|title=「SL銀河」の運行終了について|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|date=2021-11-19|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/morioka/20211119_mr01.pdf|format=PDF|access-date=2022-11-14}}</ref>。2023年12月23日からは[[JR東日本HB-E300系気動車|HB-E300系気動車]]による[[観光列車]]「ひなび(陽旅)」の運行を開始する予定である<ref>{{Cite press release|title=~岩手・青森の新しい観光列車~「ひなび(陽旅)」2023 年 12 月 23 日デビュー|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|date=2023-09-27|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/morioka/20230927_mr02.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-10-29|archive-url=https://web.archive.org/web/20231010141148/https://www.jreast.co.jp/press/2023/morioka/20230927_mr02.pdf|archive-date=2023-10-10}}</ref><ref>{{Cite press release|title=新しい観光列車「ひなび(陽旅)」2023 年 12 月~2024 年 2 月運転日のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|date=2023-10-20|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/morioka/20231020_mr02.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-12-08|archive-url=https://web.archive.org/web/20231101060855/https://www.jreast.co.jp/press/2023/morioka/20231020_mr02.pdf|archive-date=2023-11-01}}</ref>。
また、当線を管理する盛岡支社は、宮沢賢治の名前にちなんだ[[ジョイフルトレイン]]「[[サロンエクスプレスアルカディア|Kenji]]」を所有していた。この列車も、時折入線し、イベント運行を行っていた。
2020年12月から冬の2泊3日コースで周遊型寝台列車「'''[[TRAIN SUITE 四季島]]'''」が花巻駅 - 遠野駅間に乗り入れている<ref>{{Cite press release|和書|title=「TRAIN SUITE 四季島」2020年度12〜3月出発分のコース詳細および申込受付開始、“STAY SMILING”の取組みについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-06-10|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200610_ho01.pdf|format=PDF|access-date=2023-02-28}}</ref>。専用バスで乗客が遠野市に入り観光をしている間、車両は遠野駅まで回送。客乗せ後、折り返し花巻経由で次の目的地に向かう。なお、途中駅の有効長の関係などから花巻駅 - 遠野駅間は全駅通過、ノンストップで走行する。
== 駅一覧 ==
* 停車駅
** 普通…すべての駅に停車
** 快速=快速「[[はまゆり (列車)|はまゆり]]」…●:全列車停車、▲:一部の列車が停車、|:全列車通過
*** 快速「はまゆり」の全停車駅は列車記事を参照
* 線路(全線単線) … ◇・∧:[[列車交換]]可、|:列車交換不可
** ※:花巻駅の釜石線用旅客ホームは1面1線のみだが、ホームのない副本線を用いた列車交換は可能
* 全駅[[岩手県]]内に所在
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|-
!rowspan="2" style="width:7em; border-bottom:3px solid #0073bf;"|駅名
!colspan="2"|営業キロ
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #0073bf; line-height:1.1em;"|{{縦書き|快速}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #0073bf;"|接続路線
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #0073bf;"|{{縦書き|線路}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #0073bf; white-space:nowrap;"|所在地
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #0073bf;"|[[エスペラント]]語による愛称とその意味
|-
!style="width:3em; border-bottom:3px solid #0073bf;"|駅間
!style="width:3em; border-bottom:3px solid #0073bf;"|累計
|-
|[[花巻駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center;"|●
|[[東日本旅客鉄道]]:{{Color|mediumseagreen|■}}[[東北本線]]
|※
|rowspan="6"|[[花巻市]]
|{{lang|eo|Ĉielarko}}(チェールアルコ:[[虹]])
|-
|[[似内駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:center;"||
|
|◇
|{{lang|eo|La Marbordo}}(ラ・マールボルド:[[海岸]])
|-
|[[新花巻駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|6.4
|style="text-align:center;"|●
|東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen jre.svg|17px|■]] [[東北新幹線]]
||
|{{lang|eo|Stelaro}}(ステラーロ:[[星座]])
|-
|[[小山田駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|8.3
|style="text-align:center;"||
|
||
|{{lang|eo|Luna Nokto}}(ルーナ・ノクト:月夜)
|-
|[[土沢駅]]
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|12.7
|style="text-align:center;"|●
|
|◇
|{{lang|eo|Brila Rivero}}(ブリーラ・リヴェーロ:光る[[川]])
|-
|[[晴山駅]]
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|15.9
|style="text-align:center;"||
|
||
|{{lang|eo|Ĉeriz-arboj}}(チェリーズ・アルボイ:[[サクラ|桜]][[並木道|並木]])
|-
|[[岩根橋駅]]
|style="text-align:right;"|5.8
|style="text-align:right;"|21.7
|style="text-align:center;"||
|
||
|rowspan="12"|[[遠野市]]
|{{lang|eo|Fervojponto}}(フェルヴォイポント:[[鉄道橋]])
|-
|[[宮守駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|25.1
|style="text-align:center;"|●
|
|◇
|{{lang|eo|Galaksia Kajo}}<br/>(ガラクシーア・カーヨ:[[銀河]]の[[プラットホーム]])
|-
|[[柏木平駅]]
|style="text-align:right;"|6.1
|style="text-align:right;"|31.2
|style="text-align:center;"||
|
||
|{{lang|eo|Glanoj}}(グラーノイ:[[ドングリ|どんぐり]])
|-
|[[鱒沢駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|33.6
|style="text-align:center;"|▲
|
|◇
|{{lang|eo|Lakta Vojo}}(ラクタ・ヴォーヨ:[[天の川]])
|-
|[[荒谷前駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|36.4
|style="text-align:center;"||
|
||
|{{lang|eo|Akvorado}}(アクヴォラード:[[水車]])
|-
|[[岩手二日町駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|39.3
|style="text-align:center;"||
|
||
|{{lang|eo|Farmista Domo}}(ファルミスタ・ドーモ:[[農家]])
|-
|[[綾織駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|41.1
|style="text-align:center;"||
|
||
|{{lang|eo|Teksilo}}(テクシーロ:[[織機|機織り機]])
|-
|[[遠野駅]]
|style="text-align:right;"|4.9
|style="text-align:right;"|46.0
|style="text-align:center;"|●
|
|◇
|{{lang|eo|Folkloro}}(フォルクローロ:[[民話]])
|-
|[[青笹駅]]
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|50.3
|style="text-align:center;"||
|
||
|{{lang|eo|Kapao}}(カパーオ:[[河童|カッパ]])
|-
|[[岩手上郷駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|53.8
|style="text-align:center;"|▲
|
||
|{{lang|eo|Cervodanco}}(ツェルヴォダンツォ:[[花巻まつり#鹿踊|鹿踊り]])
|-
|[[平倉駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|56.6
|style="text-align:center;"||
|
||
|{{lang|eo|Monta Dio}}(モンタ・ディーオ:[[山の神]])
|-
|[[足ケ瀬駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|61.2
|style="text-align:center;"||
|
|◇
|{{lang|eo|Montopasejo}}(モントパセーヨ:[[峠]])
|-
|[[上有住駅]]
|style="text-align:right;"|4.2
|style="text-align:right;"|65.4
|style="text-align:center;"||
|
||
|[[気仙郡]]<br/>[[住田町]]
|{{lang|eo|Kaverno}}(カヴェルノ:[[洞窟]])
|-
|[[陸中大橋駅]]
|style="text-align:right;"|8.3
|style="text-align:right;"|73.7
|style="text-align:center;"||
|
|◇
|rowspan="5"|[[釜石市]]
|{{lang|eo|Minaĵo}}(ミナージョ:[[鉱石]])
|-
|[[洞泉駅]]
|style="text-align:right;"|5.9
|style="text-align:right;"|79.6
|style="text-align:center;"||
|
||
|{{lang|eo|Cervoj}}(ツェルヴォイ:[[シカ|鹿]])
|-
|[[松倉駅]]
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|83.2
|style="text-align:center;"|●
|
||
|style="white-space:nowrap;"|{{lang|eo|La Suda Kruco}}(ラ・スーダ・クルーツォ:[[南十字星]])
|-
|[[小佐野駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
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|{{lang|eo|Verda Vento}}(ヴェルダ・ヴェント:緑の[[風]])
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|[[三陸鉄道]]:{{Color|red|■}}[[三陸鉄道リアス線|リアス線]]
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|{{lang|eo|La Oceano}}(ラ・オツェアーノ:[[大洋]])
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2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-09}}</ref>の対象駅は、花巻駅・新花巻駅・遠野駅・釜石駅である。それ以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。なお、新花巻駅については釜石線の区画は無人であるが、接続する東北新幹線の区画が有人となっている。
== 廃止・廃駅 ==
=== 廃止区間 ===
; 1943年廃止
: 花巻駅 - 鳥谷ヶ崎駅 - 似内駅 (3.7 km)
; 1950年廃止
: 足ケ瀬駅 - [[仙人峠駅]] (3.9 km)<ref name="sone 11"/>
=== 廃駅 ===
廃止区間の駅は前節参照。( ) 内は花巻駅からのキロ程。
* [[矢沢駅]] : 1985年3月14日廃止、似内駅 - 新花巻駅間 (6.0 km)
* 中鱒沢駅 : 1936年8月1日廃止、鱒沢駅 - 荒谷前駅間 (35.3 km)
* 関口駅 : 1950年10月10日廃止、青笹駅 - 赤川停留場間 (51.7 km)
* 赤川停留場 : 1927年12月13日廃止、関口駅 - 岩手上郷駅間 (52.2 km)
=== 過去の接続路線 ===
* 花巻駅:[[花巻電鉄|花巻電鉄鉄道線(花巻温泉線)・軌道線(鉛線)]](電鉄花巻駅・中央花巻駅)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 白土貞夫「岩手軽便鉄道 歴史拾遺」『[[鉄道ピクトリアル]]』No. 813(2009年1月)pp. 130 - 137。[[電気車研究会]]
* {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 2 東北 | year = 2008 | id = ISBN 978-4-10-790020-3 | ref = imao }}
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=21号 釜石線・山田線・岩泉線・北上線・八戸線|pages=5-11|date=2009-12-06|ref=sone21}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kamaishi Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[宮守川橋梁]]:宮守 - 柏木平間にある釜石線の橋梁。2002年に[[土木学会選奨土木遺産]]に選定。
* [[国鉄の特殊狭軌線]]:花巻 - 足ケ瀬間が該当した。旧線名「釜石西線」。
* [[釜石自動車道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=19=1=%8a%98%90%ce%90%fc 検索結果(釜石線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
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仙台空港鉄道仙台空港線
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仙台空港線(せんだいくうこうせん)は、宮城県名取市の名取駅から同市の仙台空港駅までを結ぶ仙台空港鉄道 (SAT) の鉄道路線である。
様々な名称で呼ばれているため、以下に整理列挙する。
JR線以外で、既存路線の電化ではなく当初から電化路線として開業したものでは希少な全線交流電化路線である。JR線以外の全線交流電化路線は東北地方には他に阿武隈急行線、いわて銀河鉄道線、青い森鉄道線があるが、阿武隈急行線の新規開業区間以外は既存の路線を電化したものである。
東北本線と接続する名取駅付近以外の全線の9割において、高架橋・河川橋・地下トンネルによって地上の道路等・河川・空港敷地と連続的に立体交差している。
全線で開業当初より、SuicaおよびSuicaと相互利用しているICカードが利用できる。2009年3月13日までは相互利用カード(当時はPASMO・TOICA・ICOCA)については有人窓口での扱いとなっていた。仙台まるごとパスは、開業日に合わせて当線がエリア内に設定された。
名取駅を出ると、駅南側の塩手街道踏切を過ぎてから高架橋を上り、増田川の手前で進路を東に向けて東北本線の上り線をオーバークロスしてそのまま高架で直進する。県道杉ヶ袋増田線の上下線に挟まれる形で中央分離帯を東進するが、イオンモール名取の手前で一旦県道の北側に逸れて、杜せきのした駅に着く。杜せきのした駅を出ると再び県道に合流し中央分離帯を走り、宮城県総合教育センターの手前で今度は県道の南側に逸れて、美田園駅に着く。美田園駅を出ると南東に進路を変え、海岸寄りに向かう。高架橋は仙台空港に近づくにつれ地平に下りてゆき、そのまま滑走路の手前で地下トンネルとなる。滑走路の下を潜り抜けると空港の敷地の端を沿って進路を西に変えながら再び高架橋となり、そのまま空港ターミナルに直結した仙台空港駅に着く。
正式な起点は名取駅だが、列車運行および旅客案内では仙台空港駅から名取駅(および仙台駅方面)へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
全列車が東北本線の仙台駅まで直通運転を行っている。仙台空港線のみの運転はない。1日あたり快速2本(1往復)を含む上下計88本(44往復)の列車を運行し、全列車でワンマン運転を実施している。
開業以来、定期列車において東北本線の仙台駅以北及び名取駅以南へ直通する列車は設定されていない。仙台空港アクセス線と東北本線・仙石東北ライン塩釜方面の一部の列車は仙台駅にて同一ホームで乗り換えできるよう便宜が図られている。
列車の運転業務は、自社とJR東日本の双方で担当しており、名取駅で乗務員交代は行わない。自社の乗務員は東北本線仙台駅まで乗務し、JRの乗務員も本路線内全区間を乗務する。自社の乗務員は仙台空港駅構内の運輸管理所に所属している。
ダイヤ・所要時間については公式サイトを参照。
仙台空港線における列車の運行方式は事実上、JR東日本が決定することになっており、同社は東北本線乗り入れ区間を含めて最大6両編成でのワンマン運転を検討していた。しかし、日本の地方鉄道でのワンマン運転は一般的に運転士が目視で安全確認をしやすい4両編成以下で行われている例がほとんどであり、仙台空港から仙台までの各駅にセンサーやホームドアの設置予定もないため、このことが地元マスメディアによって報道された後、安全性を懸念した宮城県がJR東日本に説明を求めるなどした。最終的には、仙台空港鉄道、JR東日本、宮城県がワンマン運転について協議して、これを判断することになった。
開業に備え、運行する車両の運転台にホーム監視用のモニタを、仙台空港線と同線に乗り入れをする東北本線の名取 - 仙台の各駅に監視カメラとその映像を車両へ伝送する装置をそれぞれ設置した。また開業からしばらくの間は混雑時間帯に運転士以外にも乗務員が添乗するほか、停車する各駅のホームに警備員を配置し安全性を確保することとなった。
沿線の宅地開発の進展や、仙台空港を利用する訪日外国人旅行者の急増で、増結が検討されている。増結のための車両を新造する場合は億単位の投資が必要になる。一方、車両運用を見直して他線の車両を直通あるいは転用するにしても、最大6両をワンマン運行する仙台空港線内を運行するためには、ホームに設置したカメラから映像を受信し、運転士がドアの開閉や発車を判断するためのモニターが必要であり、他線の車両を走行させるためには別途モニターを加える改造工事が必要となる。
仙台空港アクセス線のすべての列車は仙台空港駅から仙台駅まで直通で運転されるが、仙台空港 - 名取間は仙台空港鉄道の、名取 - 仙台間はJR東日本の事業区間であり、それぞれ別に運賃が定められている。仙台空港線の各駅と、JR東日本の仙台近郊の各駅では、仙台空港鉄道線区間とJR線区間の連絡乗車券が売られている。
なお、仙台空港駅の自動精算機はICカードに対応していないため、残額不足の際に窓口での処理が必要になるが、その際にはICカード利用時の運賃が適用される。
当路線はJR線では無いため、青春18きっぷなどの、JRの企画乗車券は利用できない。
当初、仙台駅 - 仙台空港駅間の運賃は片道700円程度(JR線区間230円+仙台空港鉄道線区間470円程度)で検討されていた。しかし、自家用車利用者を取り込むために割安な運賃設定が必要であるとの判断から、仙台空港鉄道は名取駅 - 仙台空港駅間の運賃を片道400円として運賃の認可申請を行い、開業時の仙台駅 - 仙台空港駅間の運賃は片道630円となった。開業前に運行されていた仙台市交通局のエアポート・リムジンバス(仙台駅 - 仙台空港間・当時片道運賃910円)に比べて安い運賃となった。
杜せきのした駅と美田園駅の両駅前には、大空港で見られるような空港内ショッピングゾーンなどと似た店舗構成の商業施設が進出、または進出が予定されている。
仙台空港線の構想は、仙台空港と仙台市都心部をつなぐ軌道系交通機関として1984年(昭和59年)3月に仙台地方陸上交通審議会が可能性検討の答申をしたことに始まる。日本政府が1991年(平成3年)11月に、仙台空港の滑走路を大型ジェット機対応の3,000mに拡張することを決定したのに合わせ、12月に空港アクセス鉄道整備検討委員会が宮城県を中心に設置され、仙台市営地下鉄南北線(当時の名称)の延伸、モノレール・新交通システムの新設、JR線分岐などの案が比較検討された結果、1992年(平成4年)8月にJR線分岐案に決定した。しかし、運営母体をJR東日本へ打診したものの、採算面から拒絶され、新たに第三セクターを設立することに決定。2000年(平成12年)4月に仙台空港鉄道株式会社が設立され、6月に第一種鉄道事業の認可を取得した。
仙台空港線の建設は2002年(平成14年)12月5日に着工された。建設費は349億円(総事業費は416億円)である(県の資料では事業費は約331億円)。建設と同時にJR東日本では仙台駅の改良や仙台空港線へ相互に乗り入れるための新形式の車両(E721系電車500番台)の製造を進め、仙台空港鉄道も同形の車両(SAT721系電車)を用意するなど、開業へ向けて準備が進められた。
また、宮城県は2001年(平成13年)に山形県へ仙台空港鉄道への出資を打診した。山形県民の海外渡航において半数以上が仙台空港を利用しており、さらに、仙台空港の国内線旅客の2割が山形県民であることを鑑みて、山形駅から仙山線・東北本線・仙台空港線経由で仙台空港駅まで直通運転(以下、「仙山線直通列車」)されれば同県にもメリットがあると判断し、5,000万円(資本比率として約0.7%)の出資を予算計上した。宮城県も、仙山線は仙台市青葉区を東西に横断する唯一の鉄道路線であり、愛子方面や北仙台駅での乗継客を見込めることから仙山線直通案には前向きに検討していた。だが、後日、山形・宮城両県で仙山線直通列車をJR東日本に要望したところ、ダイヤ上の問題や車両確保の問題から、臨時列車を含めて設定は困難との回答を受けた。出資の前提であった、仙山線直通列車の運行がなくなり、山形県は予算執行停止を決めた。しかし、JTB主催のハワイ旅行商品に合わせて、ゴールデンウィーク中(2007年4月30日・5月4日)に仙山線直通列車が臨時列車で運行されることが決まり、山形県は同年2月9日に予算執行を発表した。
2007年(平成19年)3月18日、JRの春のダイヤ改正に合わせて予定通り開業。この1日で約2万人が仙台空港線を利用した(仙台空港駅・美田園駅・杜せきのした駅の自動改札利用の乗降人数の合計。有人改札利用者含まず)。杜せきのした駅直結のダイヤモンドシティ・エアリ(現・イオンモール名取)への利用客が多かったため、下り快速2本が本来通過する同駅に停車した。
開業1年目の利用人数は、目標乗車数の7割程度であり、1日あたりの利用者も目標10000人のところ、7000人台に留まった。仙台空港鉄道では利用客を空港利用者・沿線から仙台への通勤利用者・沿線ショッピングセンターなどへの買い物利用者の3本立てに設定していた。空港利用者と買い物利用者は目標どおりの乗車率となったが、沿線の開発が始まったばかりであり、通勤利用が低迷していることが目標を達成できなかった主要因とされる。
開業当初は、仙山線との接続の悪さ(仙山線列車が仙台駅7/8番線に入線するのと同時に仙台空港線列車が同駅3番線を出発)が指摘されていたが、2008年(平成20年)3月15日ダイヤ改正では、青葉区(北仙台・愛子)近郊・山形方面からの利用客取り込みのために、仙山線との接続を重視した時刻設定となった。
1967年(昭和42年)には仙台・名取両市を含む仙塩地区3市1町1村での合併協議が、1991年(平成3年)と、1994年(平成6年)から1996年(平成8年)にかけては、仙台・名取両市での合併議論があった。このうち、1991年(平成3年)の合併議論が仙台空港アクセス線構想と特に関係がある。
仙台市が周辺市町と合併して1989年(平成元年)4月1日に政令指定都市に移行した際、合併のバーターとして旧泉市(現・仙台市泉区)には仙台市営地下鉄南北線が泉中央駅まで延伸されたが、仙台空港アクセス鉄道構想が具体化し始めた1991年(平成3年)には地下鉄南北線を空港まで延伸する案もあったため、仙台市と名取市の合併話も生まれた。このとき、名取市が仙台市に編入されることで仙台空港も仙台市内となり、臨空工業地区への工場誘致が容易となるとの意見もあった。一方、名取市では単独での税収増が予想されていたことから、結果として両市の合併は実現しなかった。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)は仙台空港線にも重大な被害をもたらし、特に仙台空港駅および空港トンネルは津波により甚大な被害を被った。鉄道の防音壁は各所で倒壊、崩落が見られ、空港駅1階部分は躯体だけを残し、内部はほぼ壊滅状態となった。レールも一部にゆがみが発生し、路盤のコンクリートも破損した。車両は空港駅及び仙台駅に停車していたので大きな被害はなかった。復旧費用は30億円。4月2日から名取駅 - 美田園駅間、名取駅 - 仙台空港間において、朝夕を中心に代行バスが運行された。また4月21日より仙台駅東口 - 仙台空港間の臨時のシャトルバスを一般社団法人宮城県バス協会が運行開始した。
7月23日より名取 - 美田園間で運行が再開されたが、仙台空港駅に4両2編成が停車している影響で70%ほどの便数で運行した。また代行バスの運転区間が美田園 - 仙台空港間に短縮された。
仙台空港駅に留置されている車両は、21日の夜に仙台空港駅から美田園駅まで、22日の昼に美田園駅から名取駅まで、23日の早朝に名取駅から仙台車両センターまで回送された。
10月1日に全線で運転を再開した。9月30日を以って代行バスと臨時のシャトルバスの運行が終了した。
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"tag": "p",
"text": "1967年(昭和42年)には仙台・名取両市を含む仙塩地区3市1町1村での合併協議が、1991年(平成3年)と、1994年(平成6年)から1996年(平成8年)にかけては、仙台・名取両市での合併議論があった。このうち、1991年(平成3年)の合併議論が仙台空港アクセス線構想と特に関係がある。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "仙台市が周辺市町と合併して1989年(平成元年)4月1日に政令指定都市に移行した際、合併のバーターとして旧泉市(現・仙台市泉区)には仙台市営地下鉄南北線が泉中央駅まで延伸されたが、仙台空港アクセス鉄道構想が具体化し始めた1991年(平成3年)には地下鉄南北線を空港まで延伸する案もあったため、仙台市と名取市の合併話も生まれた。このとき、名取市が仙台市に編入されることで仙台空港も仙台市内となり、臨空工業地区への工場誘致が容易となるとの意見もあった。一方、名取市では単独での税収増が予想されていたことから、結果として両市の合併は実現しなかった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)は仙台空港線にも重大な被害をもたらし、特に仙台空港駅および空港トンネルは津波により甚大な被害を被った。鉄道の防音壁は各所で倒壊、崩落が見られ、空港駅1階部分は躯体だけを残し、内部はほぼ壊滅状態となった。レールも一部にゆがみが発生し、路盤のコンクリートも破損した。車両は空港駅及び仙台駅に停車していたので大きな被害はなかった。復旧費用は30億円。4月2日から名取駅 - 美田園駅間、名取駅 - 仙台空港間において、朝夕を中心に代行バスが運行された。また4月21日より仙台駅東口 - 仙台空港間の臨時のシャトルバスを一般社団法人宮城県バス協会が運行開始した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "7月23日より名取 - 美田園間で運行が再開されたが、仙台空港駅に4両2編成が停車している影響で70%ほどの便数で運行した。また代行バスの運転区間が美田園 - 仙台空港間に短縮された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "仙台空港駅に留置されている車両は、21日の夜に仙台空港駅から美田園駅まで、22日の昼に美田園駅から名取駅まで、23日の早朝に名取駅から仙台車両センターまで回送された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "10月1日に全線で運転を再開した。9月30日を以って代行バスと臨時のシャトルバスの運行が終了した。",
"title": "沿革"
}
] |
仙台空港線(せんだいくうこうせん)は、宮城県名取市の名取駅から同市の仙台空港駅までを結ぶ仙台空港鉄道 (SAT) の鉄道路線である。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Sendai Airport Transit logo.svg|35px|link=仙台空港鉄道]] 仙台空港線
|路線色 = #2A5CAA
|ロゴ =
|ロゴサイズ =
|画像 = SAT-721.JPG
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = SAT721系電車
|通称 = [[仙台空港アクセス線]]
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[宮城県]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[第三セクター鉄道]])
|起点 = [[名取駅]]
|終点 = [[仙台空港駅]]
|駅数 = 4駅
|電報略号 =
|路線記号 =
|開業 = [[2007年]][[3月18日]]
|廃止 =
|所有者 = [[仙台空港鉄道]]
|運営者 = 仙台空港鉄道
|車両基地 =
|使用車両 = [[仙台空港鉄道#車両]]を参照
|路線距離 = 7.1 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数 = 全線[[単線]]
|電化方式 = [[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = [[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式(特殊)]]
|保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-Ps形(変周地上子組合せパターン型)|ATS-Ps]]
|最高速度 = 110 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図 = [[File:Linemap of Sendai Airport Transit.svg|200px|仙台空港線路線図]]<br />仙台空港線路線図<br />(路線図中の赤線が仙台空港線)
}}
{{BS-map
|title = 停車場・施設・接続路線
|title-bg = #2a5caa
|title-color = white
|map =
{{BS2|HST||||[[仙台駅]]|}}
{{BS2|STR||||[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[東北本線]]|}}
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{{BS2||TUNNEL1|||[[仙台空港]]|}}
{{BS2|FLUG|KBHFe|7.1|[[仙台空港駅]]||}}
}}
'''仙台空港線'''(せんだいくうこうせん)は、[[宮城県]][[名取市]]の[[名取駅]]から同市の[[仙台空港駅]]までを結ぶ[[仙台空港鉄道]] (SAT) の[[鉄道路線]]である。
== 路線名称 ==
様々な名称で呼ばれているため、以下に整理列挙する。
* '''仙台空港線''':[[名取駅]] - [[仙台空港駅]]({{googleマップ経路図2|1=%E5%90%8D%E5%8F%96%E9%A7%85|2=%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E9%A7%85|[email protected],140.8379792,19531m|data=!3m1!1e3!4m17!4m16!1m5!1m1!1s0x5f8a24089f4d144b:0x525c1d47a55f93ce!2m2!1d140.882784!2d38.173293!1m5!1m1!1s0x5f8a223f2599b4ed:0x54c07ff627959ac4!2m2!1d140.929504!2d38.137243!2m2!4e2!5e2!3e3}})
*: [[仙台空港鉄道]]が新設した同区間の正式[[鉄道路線|路線]]名。
* '''[[仙台空港アクセス線]]''':[[仙台駅]] - 仙台空港駅({{googleマップ経路図2|1=%E4%BB%99%E5%8F%B0%E9%A7%85,+%E3%80%92980-0021+%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82%E9%9D%92%E8%91%89%E5%8C%BA%E4%B8%AD%E5%A4%AE%EF%BC%91%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%91%EF%BC%90%E2%88%92%EF%BC%91%EF%BC%90|2=%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E9%A7%85|[email protected],140.8379792,19531m|data=!3m2!1e3!4b1!4m17!4m16!1m5!1m1!1s0x5f8a28180c510b87:0xb2a30b91be1ffdbc!2m2!1d140.8824294!2d38.2601231!1m5!1m1!1s0x5f8a223f2599b4ed:0x54c07ff627959ac4!2m2!1d140.929504!2d38.137243!2m2!4e2!5e2!3e3}})
*: [[直通運転]]が行われる「仙台駅 - <small> (JR[[東北本線]]) </small> - 名取駅 - <small> (SAT仙台空港線) </small> - 仙台空港駅」の区間の運行系統上の[[愛称]]。仙台空港鉄道と[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の列車が共通で運行される。車内放送においても、この名称が用いられている。
* '''仙台空港アクセス鉄道'''
*: [[仙台市都心部]]と[[仙台空港]]を結ぶ鉄道事業の構想段階からの[[通称]]。現在も上記2つのいずれかを指して、曖昧に使用され続けている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.senat.co.jp/characteristic/index.html |title=仙台空港アクセス鉄道の特徴 |accessdate=2012年2月12日 |publisher=仙台空港鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150206001719/http://www.senat.co.jp/characteristic/index.html |archivedate=2015年2月6日}} … 正式名称や定義を完全に無視して混用している。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sdj-airport.com/access/page4.html |title=アクセス情報 |accessdate=2012年2月12日 |publisher=仙台空港ポータルサイト |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140410225942/http://www.sdj-airport.com/access/page4.html |archivedate=2014年4月10日 |deadlinkdate=2019年4月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sendai-airport.co.jp/content/view/4/31/lang,ja/ |title=仙台空港へのアクセス情報 |accessdate=2010年2月12日 |publisher=仙台空港ターミナルビル |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131106144533/http://www.sendai-airport.co.jp/content/view/4/31/lang,ja/ |archivedate=2013年11月6日 |deadlinkdate=2019年4月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pa.thr.mlit.go.jp/shiogama/kouwan/airport/access.html |title=アクセス鉄道整備事業 |accessdate=2010年2月12日 |publisher=[[国土交通省]][[東北地方整備局]]塩釜港湾・空港整備事務所 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130617163440/http://www.pa.thr.mlit.go.jp/shiogama/kouwan/airport/access.html |archivedate=2013年6月17日 |deadlinkdate=2019年4月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.miyagi.jp/kurin/railway001.htm |title=アクセス鉄道 |accessdate=2010年2月12日 |publisher=宮城県 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120620192754/http://www.pref.miyagi.jp/kurin/railway001.htm |archivedate=2012年6月20日 |deadlinkdate=2019年4月 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.natori.miyagi.jp/toshijigyou/access.html |title=仙台空港アクセス鉄道整備事業 |accessdate=2010年2月12日 |publisher=名取市 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090103090218/http://www.city.natori.miyagi.jp/toshijigyou/access.html |archivedate=2009年1月3日 |deadlinkdate=2019年4月 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sendai.jp/keizai/sangyou/yuchi-miryoku/network/train.html |title=仙台空港アクセス鉄道 |accessdate=2010年2月12日 |publisher=[[仙台市役所|仙台市]]経済局 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110324074817/https://www.city.sendai.jp/keizai/sangyou/yuchi-miryoku/network/train.html |archivedate=2011年3月24日 |deadlinkdate=2019年4月}}</ref>。
== 路線データ ==
* 管轄(事業種別):仙台空港鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 区間・路線距離([[営業キロ]]):名取 - 仙台空港 7.1km
* 建設主体: [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]が受託業務として建設
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:4駅(起終点駅を含む)
* 複線区間:なし(全線単線)
* 電化区間:全線(交流50Hz 20,000V)
* 閉塞方式:[[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式(特殊)]]
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-Ps形(変周地上子組合せパターン型)|ATS-Ps]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.senat.co.jp/wp-content/uploads/2018/06/anzenhoukoku29.pdf |title=安全報告書2018 |accessdate=2019年4月17日 |date=2018年6月 |publisher=仙台空港鉄道}}</ref>
* 最高速度:110km/h<ref name="terada" />
* 1日の利用者数:9,174人(2014年度)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.senat.co.jp/img/pdf/26/NO15_goriyou.pdf |title=平成26年度のご利用状況について |accessdate=2015年7月17日 |format=PDF |publisher=仙台空港鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150701173805/http://www.senat.co.jp/img/pdf/26/NO15_goriyou.pdf |archivedate=2015年7月1日 |deadlinkdate=2019年4月}}</ref>
* 経路:{{googleマップ経路図2|1=%E5%90%8D%E5%8F%96%E9%A7%85|2=%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E9%A7%85|[email protected],140.873355,9771m|data=!3m2!1e3!4b1!4m17!4m16!1m5!1m1!1s0x5f8a24089f4d144b:0x525c1d47a55f93ce!2m2!1d140.882784!2d38.173293!1m5!1m1!1s0x5f8a223f2599b4ed:0x54c07ff627959ac4!2m2!1d140.929504!2d38.137243!2m2!4e2!5e2!3e3}}
JR線以外で、既存路線の電化ではなく当初から電化路線として開業したものでは希少な全線[[交流電化]]路線である。JR線以外の全線交流電化路線は東北地方には他に[[阿武隈急行線]]、[[いわて銀河鉄道線]]、[[青い森鉄道線]]があるが、阿武隈急行線の新規開業区間以外は既存の路線を電化したものである。
東北本線と接続する名取駅付近以外の全線の9割において、高架橋・河川橋・地下トンネルによって地上の道路等・河川・空港敷地と連続的に[[立体交差]]している。
{| class="wikitable" style="width:15em; text-align:center"
|+構造物の内訳(延長7.1km)<ref>{{Cite web|和書|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/td/pdf/2_4.pdf |title=第2編 各鉄道の被災と復旧 第4章 仙台空港鉄道 |accessdate=2015年7月2日 |work=[https://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/saigai110311.html 東日本大震災復興情報] |format=PDF |publisher=国土交通省東北地方整備局}}</ref>
!種類!!延長!!比率
|-
|路盤||約0.8km||11%
|-
|橋梁||約1.4km||20%
|-
|高架橋||約4.4km||61%
|-
|トンネル||約0.6km||{{0}}8%
|}
全線で開業当初より、[[Suica]]およびSuicaと相互利用しているICカードが利用できる。2009年3月13日までは相互利用カード(当時は[[PASMO]]・[[TOICA]]・[[ICOCA]])については有人窓口での扱いとなっていた。[[仙台まるごとパス]]は、開業日に合わせて当線がエリア内に設定された。
== 沿線概況 ==
名取駅を出ると、駅南側の塩手街道踏切を過ぎてから高架橋を上り、[[増田川 (宮城県)|増田川]]の手前で進路を東に向けて東北本線の上り線をオーバークロスしてそのまま高架で直進する。[[宮城県道127号杉ヶ袋増田線|県道杉ヶ袋増田線]]の上下線に挟まれる形で中央分離帯を東進するが、[[イオンモール名取]]の手前で一旦県道の北側に逸れて、杜せきのした駅に着く。杜せきのした駅を出ると再び県道に合流し中央分離帯を走り、宮城県総合教育センターの手前で今度は県道の南側に逸れて、美田園駅に着く。美田園駅を出ると南東に進路を変え、海岸寄りに向かう。高架橋は仙台空港に近づくにつれ地平に下りてゆき、そのまま滑走路の手前で地下トンネルとなる。滑走路の下を潜り抜けると空港の敷地の端を沿って進路を西に変えながら再び高架橋となり、そのまま空港ターミナルに直結した仙台空港駅に着く。
<gallery widths="200">
20081012SendaiAirport.JPG|仙台空港線の[[高架橋]]区間(白線部分)
SendaiKukoTetsudo.jpg|空港ターミナルより見る仙台空港線
</gallery>
== 運行形態 ==
正式な起点は名取駅だが、列車運行および旅客案内では仙台空港駅から名取駅(および仙台駅方面)へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている<ref group="注釈">直通先の東北本線では東京に向かう方が上りであり、名取駅(および仙台駅方面)から見れば仙台空港駅も東京の方向にある。仙台行きは仙台空港線・東北本線とも下り列車として、仙台空港行きは東北本線・仙台空港線とも上り列車として運行される。</ref>。
全列車が[[東北本線]]の[[仙台駅]]まで[[直通運転]]を行っている。仙台空港線のみの運転はない。1日あたり快速2本(1往復)を含む上下計88本(44往復)の列車を運行し、全列車で[[ワンマン運転]]を実施している。
開業以来、定期列車において東北本線の仙台駅以北及び名取駅以南へ直通する列車は設定されていない<ref group="注釈">団体列車にて仙山線山形駅への入線実績はある。</ref>。仙台空港アクセス線と東北本線・仙石東北ライン塩釜方面の一部の列車は仙台駅にて同一ホームで乗り換えできるよう便宜が図られている。
列車の運転業務は、自社とJR東日本の双方で担当しており、名取駅で乗務員交代は行わない<ref>『[[鉄道ジャーナル]]』2007年5月号(No.487)p.42</ref>。自社の乗務員は東北本線仙台駅まで乗務し、JRの乗務員も本路線内全区間を乗務する。自社の乗務員は仙台空港駅構内の運輸管理所に所属している。
* 所要時間(仙台空港駅 - 仙台駅間)
** [[普通列車]]:24分 - 28分
** [[快速列車]]:17分(途中、名取駅のみ停車)
* 運行頻度:2 - 3本/時
* 編成両数:2両または4両編成(多客時は6両編成)
* 初電・終電<ref>JTBパブリッシング『JTB時刻表』2017年3月号</ref>
** 仙台駅:初電5時45分、終電23時10分
** 仙台空港駅:初電5時31分、終電23時23分
ダイヤ・所要時間については[https://web.archive.org/web/20151207140031/http://www.senat.co.jp/timetable/index.html 公式サイト]を参照。
=== ワンマン運転 ===
仙台空港線における列車の運行方式は事実上、JR東日本が決定することになっており、同社は東北本線乗り入れ区間を含めて最大6両編成での[[ワンマン運転]]を検討していた。しかし、日本の地方鉄道でのワンマン運転は一般的に運転士が目視で安全確認をしやすい4両編成以下で行われている例がほとんどであり<ref>[[地下鉄]]や都市鉄道ではホームなどに安全対策を施した上で6両編成以上でもワンマン運転を行っているケースもある</ref>、仙台空港から仙台までの各駅に[[プラットホーム#安全対策|センサーやホームドア]]の設置予定もないため、このことが地元マスメディアによって報道された後、安全性を懸念した宮城県がJR東日本に説明を求めるなどした。最終的には、仙台空港鉄道、JR東日本、宮城県がワンマン運転について協議して、これを判断することになった<ref>[[都営地下鉄大江戸線]]のように、ホームへのセンサー・ホームドア等が設置される前から8両編成でのワンマン運転を行っていた例もあるため、安全性について一概には判断できない。なお、大江戸線は2013年4月までにホームドアが全駅に設置された</ref>。
開業に備え、運行する車両の運転台にホーム監視用のモニタを、仙台空港線と同線に乗り入れをする東北本線の名取 - 仙台の各駅に監視カメラとその映像を車両へ伝送する装置をそれぞれ設置した。また開業からしばらくの間は混雑時間帯に運転士以外にも乗務員が添乗するほか、停車する各駅のホームに警備員を配置し安全性を確保することとなった。
沿線の宅地開発の進展や、仙台空港を利用する[[訪日外国人旅行]]者の急増で、増結が検討されている。増結のための車両を新造する場合は億単位の投資が必要になる。一方、車両運用を見直して他線の車両を直通あるいは転用するにしても、最大6両をワンマン運行する仙台空港線内を運行するためには、ホームに設置したカメラから映像を受信し、運転士がドアの開閉や発車を判断するためのモニターが必要であり、他線の車両を走行させるためには別途モニターを加える改造工事が必要となる<ref>{{Cite news |title=<仙台空港アクセス線>混雑激化 訪日客増で拍車 JRなど4両編成増検討 |newspaper=[[河北新報]] |date=2019年4月1日 |url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201904/20190401_13020.html |accessdate=2019年4月1日 |at=朝刊1面}}</ref>。
== 車両 ==
=== 自社車両 ===
* [[JR東日本E721系電車#仙台空港鉄道SAT721系|SAT721系]]
=== 乗り入れ車両 ===
* JR東日本
** [[JR東日本E721系電車#500番台|E721系500番台]]
<gallery widths="200">
SAT721.jpg|仙台空港鉄道SAT721系電車
JR East E721-500 series.jpg|JR東日本E721系電車
</gallery>
== 運賃 ==
{{See also|仙台空港鉄道#運賃}}
仙台空港アクセス線のすべての列車は仙台空港駅から仙台駅まで直通で運転されるが、仙台空港 - 名取間は仙台空港鉄道の、名取 - 仙台間はJR東日本の事業区間であり、それぞれ別に運賃が定められている。仙台空港線の各駅と、JR東日本の仙台近郊の各駅では、仙台空港鉄道線区間とJR線区間の[[連絡運輸#連絡乗車券|連絡乗車券]]が売られている。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align: center;"
|+ 大人片道普通旅客運賃(2019年10月1日改定<ref>{{Cite press release|和書|title=消費税率引上げに伴う鉄道旅客運賃の改定申請について |publisher=仙台空港鉄道 |date=2019-07-16 |format=PDF |url=https://www.senat.co.jp/wp-content/uploads/2019/07/a7d01a7b4500a7a246db75534d275f451.pdf |accessdate=2019-10-22}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.senat.co.jp/2019/09/06/2784 |title=2019年10月消費税率引上げに伴う鉄道運賃の改定について |publisher=仙台空港鉄道 |date=2019-09-06 |accessdate=2019-10-22}}</ref>)
|-
!style="font-weight:normal;" rowspan="2" colspan="2"|着発駅
!colspan="4"|ICカード利用時
|-
!名取
!杜せきのした
!美田園
!仙台空港
|-
!style="width:1em;" rowspan="4"|切符購入時
!名取
|―
|178円
|220円
|419円
|-
!杜せきのした
|180円
|―
|178円
|314円
|-
!美田園
|220円
|180円
|―
|220円
|-
!仙台空港
|420円
|310円
|220円
| ―
|}
なお、仙台空港駅の[[自動精算機]]はICカードに対応していないため、残額不足の際に窓口での処理が必要になるが、その際にはICカード利用時の運賃が適用される。
当路線はJR線では無いため、[[青春18きっぷ]]などの、JRの企画乗車券は利用できない。
当初、仙台駅 - 仙台空港駅間の運賃は片道700円程度(JR線区間230円+仙台空港鉄道線区間470円程度)で検討されていた。しかし、自家用車利用者を取り込むために割安な運賃設定が必要であるとの判断から、仙台空港鉄道は名取駅 - 仙台空港駅間の運賃を片道400円として運賃の認可申請を行い、開業時の仙台駅 - 仙台空港駅間の運賃は片道630円となった。開業前に運行されていた仙台市交通局の[[エアポート・リムジンバス (仙台市)|エアポート・リムジンバス]](仙台駅 - 仙台空港間・当時片道運賃910円)に比べて安い運賃となった。
杜せきのした駅と美田園駅の両駅前には、大空港で見られるような空港内ショッピングゾーンなどと似た店舗構成の商業施設が進出、または進出が予定されている。
== 沿革 ==
{{See also|仙台空港鉄道#歴史}}
=== 経緯 ===
[[File:SendaiKukoSen2005-3.jpg|thumb|250px|仙台空港駅付近で建設中の高架部(2005年3月10日撮影)]]
[[File:Sendai Airport station namplate.jpg|thumb|250px|仙台空港駅の銘板]]
仙台空港線の構想は、仙台空港と仙台市都心部をつなぐ軌道系交通機関として[[1984年]]([[昭和]]59年)3月に仙台地方陸上交通審議会が可能性検討の答申をしたことに始まる<ref name="dobokubu">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/44456.pdf |title=仙台空港鉄道株式会社 改革支援プラン |accessdate=2015年6月14日 |date=2009年8月 |format=PDF |publisher=宮城県土木部 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160306165935/http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/44456.pdf |archivedate=2016年3月6日 |deadlinkdate=2019年4月}}</ref>。[[日本国政府|日本政府]]が[[1991年]]([[平成]]3年)11月に、仙台空港の滑走路を大型ジェット機対応の3,000mに拡張することを決定したのに合わせ、12月に空港アクセス鉄道整備検討委員会が宮城県を中心に設置され<ref name="dobokubu"/>、[[仙台市地下鉄南北線|仙台市営地下鉄南北線]](当時の名称)の延伸、[[モノレール]]・[[新交通システム]]の新設、JR線分岐などの案が比較検討された結果、[[1992年]](平成4年)8月にJR線分岐案に決定した。しかし、運営母体をJR東日本へ打診したものの、採算面から拒絶され、新たに[[第三セクター]]を設立することに決定。[[2000年]](平成12年)4月に[[仙台空港鉄道|仙台空港鉄道株式会社]]が設立され<ref name="dobokubu"/>、6月に第一種鉄道事業の認可を取得した。
仙台空港線の建設は[[2002年]](平成14年)[[12月5日]]に着工された。建設費は349億円(総事業費は416億円)である(県の資料では事業費は約331億円<ref name="dobokubu"/>)。建設と同時にJR東日本では[[仙台駅]]の改良や仙台空港線へ相互に乗り入れるための新形式の車両(E721系電車500番台)の製造を進め、仙台空港鉄道も同形の車両(SAT721系電車)を用意するなど、開業へ向けて準備が進められた。
また、宮城県は[[2001年]](平成13年)に[[山形県]]へ仙台空港鉄道への出資を打診した。山形県民の海外渡航において半数以上が仙台空港を利用しており、さらに、仙台空港の国内線旅客の2割が山形県民であること<ref>{{Cite magazine |和書 |magazine=県広報誌「県民のあゆみ」 |issue=平成17年9月号 |publisher=山形県庁 |format=PDF |url=<!-- http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/ayumi_main/kohosi17/ayumi1709_2.pdf -->}}</ref>を鑑みて、[[山形駅]]から[[仙山線]]・東北本線・仙台空港線経由で[[仙台空港駅]]まで[[直通運転]](以下、「仙山線直通列車」)されれば同県にもメリットがあると判断し、5,000万円(資本比率として約0.7%)の出資を予算計上した。宮城県も、仙山線は仙台市青葉区を東西に横断する唯一の鉄道路線であり、愛子方面や北仙台駅での乗継客を見込めることから仙山線直通案には前向きに検討していた。だが、後日、山形・宮城両県で仙山線直通列車をJR東日本に要望したところ、ダイヤ上の問題や車両確保の問題から、[[臨時列車]]を含めて設定は困難との回答を受けた。出資の前提であった、仙山線直通列車の運行がなくなり、山形県は予算執行停止を決めた。しかし、[[JTB]]主催の[[ハワイ]]旅行商品に合わせて、[[ゴールデンウィーク]]中(2007年[[4月30日]]・[[5月4日]])に仙山線直通列車が臨時列車で運行されることが決まり、山形県は同年[[2月9日]]に予算執行を発表した。
[[2007年]](平成19年)[[3月18日]]、[[2001年以降のJRダイヤ改正#2007年(平成19年)|JRの春のダイヤ改正]]に合わせて予定通り開業。この1日で約2万人が仙台空港線を利用した(仙台空港駅・美田園駅・杜せきのした駅の自動改札利用の乗降人数の合計。有人改札利用者含まず)。杜せきのした駅直結のダイヤモンドシティ・エアリ(現・[[イオンモール名取]])への利用客が多かったため、下り快速2本が本来通過する同駅に停車した。
開業1年目の利用人数は、目標乗車数の7割程度であり、1日あたりの利用者も目標10000人のところ、7000人台に留まった。仙台空港鉄道では利用客を空港利用者・沿線から仙台への通勤利用者・沿線ショッピングセンターなどへの買い物利用者の3本立てに設定していた。空港利用者と買い物利用者は目標どおりの乗車率となったが、沿線の開発が始まったばかりであり、通勤利用が低迷していることが目標を達成できなかった主要因とされる{{要出典|date=2011年3月}}。
開業当初は、仙山線との接続の悪さ(仙山線列車が仙台駅7/8番線に入線するのと同時に仙台空港線列車が同駅3番線を出発)が指摘されていたが、[[2008年]](平成20年)[[3月15日]]ダイヤ改正では、青葉区(北仙台・愛子)近郊・山形方面からの利用客取り込みのために、仙山線との接続を重視した時刻設定となった。
=== 名取市と仙台市の合併議論との関連 ===
[[1967年]]([[昭和]]42年)には仙台・名取両市を含む[[仙塩]]地区3市1町1村での合併協議<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.rifu.miyagi.jp/Contents/tyousei/history/history01.html |title=利府町40年の歩み |accessdate=2009年9月5日 |publisher=[[利府町]] |archiveurl=https://archive.is/GHgB |archivedate=2012年12月19日 |deadlinkdate=2019年4月}}</ref>が、[[1991年]]([[平成]]3年)と、[[1994年]](平成6年)から[[1996年]](平成8年)にかけては、仙台・名取両市での合併議論があった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.miyagi.jp/sichouson/gappei/16pdf/sankou5-14.pdf |title=(参考)名取市と仙台市の合併議論の経緯 |accessdate=2007年4月7日 |format=PDF |publisher=名取市・岩沼市合併問題調査研究会 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070930201035/http://www.pref.miyagi.jp/sichouson/gappei/16pdf/sankou5-14.pdf|archivedate=2007年9月30日|deadlinkdate=2010年12月}}</ref>。このうち、1991年(平成3年)の合併議論が仙台空港アクセス線構想と特に関係がある。
仙台市が周辺市町と[[日本の市町村の廃置分合|合併]]して[[1989年]](平成元年)[[4月1日]]に[[政令指定都市]]に移行した際、合併の[[バーター]]として旧[[泉市]](現・仙台市[[泉区 (仙台市)|泉区]])には[[仙台市地下鉄南北線|仙台市営地下鉄南北線]]が[[泉中央駅]]まで延伸されたが、仙台空港アクセス鉄道構想が具体化し始めた1991年(平成3年)には地下鉄南北線を空港まで延伸する案もあったため、仙台市と名取市の合併話も生まれた。このとき、名取市が仙台市に編入されることで仙台空港も仙台市内となり、臨空工業地区への工場誘致が容易となるとの意見もあった{{誰|date=2011年3月}}。一方、名取市では単独での税収増が予想されていたことから、結果として両市の合併は実現しなかった。
=== 東日本大震災の影響 ===
[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])は仙台空港線にも重大な被害をもたらし、特に[[仙台空港駅]]および空港トンネルは津波により甚大な被害を被った。鉄道の[[防音壁]]は各所で倒壊、崩落が見られ、空港駅1階部分は躯体だけを残し、内部はほぼ壊滅状態となった。レールも一部にゆがみが発生し、路盤のコンクリートも破損した。車両は空港駅及び[[仙台駅]]に停車していたので大きな被害はなかった。復旧費用は30億円<ref>{{Cite news |title=仙台空港アクセス線 204日ぶり全面再開 |newspaper=河北新報 |date=2011年10月1日 |url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/10/20111001t15033.htm |accessdate=2011年10月1日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111003072710/http://www.kahoku.co.jp/news/2011/10/20111001t15033.htm |archivedate=2011年10月3日}}</ref>{{Refnest|復旧費用は、県の試算では約40億円だった<ref name="kuurin">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.miyagi.jp/doboku/110311dbk_taiou/kuurin/kuurin_index.htm |title=「東日本大震災」関連公共土木施設被災・復旧状況 |accessdate=2011年5月21日 |publisher=宮城県 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110723050448/http://www.pref.miyagi.jp/doboku/110311dbk_taiou/kuurin/kuurin_index.htm |archivedate=2011年7月23日 |deadlinkdate=2019年4月}}</ref>。}}。[[4月2日]]から[[名取駅]] - [[美田園駅]]間、名取駅 - 仙台空港間において、朝夕を中心に[[代行バス]]が運行された<ref name="kuurin"/>。また[[4月21日]]より仙台駅東口 - 仙台空港間の臨時の[[シャトルバス]]を[[一般社団法人]][[宮城県バス協会]]が運行開始した。
[[7月23日]]より名取 - 美田園間で運行が再開されたが、仙台空港駅に4両2編成が停車している影響で70%ほどの便数で運行した<ref>{{Cite press release|和書|title=仙台空港アクセス線一部区間の運行再開について |publisher=仙台空港鉄道 |date=2011年6月16日 |format=PDF |url=http://www.senat.co.jp/110616_press.pdf |accessdate=2011年6月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110926234750/http://www.senat.co.jp/110616_press.pdf |archivedate=2011年9月26日}}</ref>。また代行バスの運転区間が美田園 - 仙台空港間に短縮された。
仙台空港駅に留置されている車両は、21日の夜に仙台空港駅から美田園駅まで、22日の昼に美田園駅から名取駅まで、23日の早朝に名取駅から仙台車両センターまで回送された。
[[10月1日]]に全線で運転を再開した。9月30日を以って代行バスと臨時のシャトルバスの運行が終了した<ref>{{Cite press release|和書|title=仙台空港アクセス線全線運行再開について |publisher=仙台空港鉄道 |date=2011年8月30日 |format=PDF |url=http://www.senat.co.jp/20110830_press.pdf |accessdate=2011年8月30日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111011182824/http://www.senat.co.jp/20110830_press.pdf |archivedate=2011年8月30日}}</ref><ref>{{Cite news |title=仙台空港アクセス線 10月1日全線再開 震災前の体制に |newspaper=河北新報 |url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/08/20110830t15004.htm |date=2011年8月20日 |accessdate=2011年8月31日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110911153203/http://www.kahoku.co.jp/news/2011/08/20110830t15004.htm |archivedate=2011年9月11日}}</ref>。
== 駅一覧 ==
{{See also|仙台空港アクセス線#駅一覧}}
* 起点駅から順に掲載しているが、列車は仙台空港行きが上り、仙台行きが下り列車である。
* 線路 … 全線単線。∨・◇・∧:[[列車交換]]可能(∨:起点、∧:終点)、|:列車交換不可能
* 普通列車は全列車がすべての駅に停車する。
* 快速…●:停車駅、|:通過駅
* 全駅[[宮城県]][[名取市]]内に所在。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:95%;"
|-
!style="width:7.5em; border-bottom:solid 3px #2A5CAA;" rowspan="2"|駅名
!colspan="2"|営業キロ
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2A5CAA;" rowspan="2"|{{縦書き|快速}}
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #2A5CAA;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2A5CAA;" rowspan="2"|{{縦書き|線路}}
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #2A5CAA;"|駅間
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #2A5CAA;"|累計
|-
|[[名取駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center;"|●
|[[東日本旅客鉄道]]:[[東北本線]]([[仙台駅]]まで直通運転)・[[常磐線]]<ref group="*">線路名称上は[[岩沼駅]]までだが、運転系統上は全列車が仙台駅まで乗り入れており、名取駅でも直通列車が利用できる。</ref>
|style="text-align:center;"|∨
|-
|[[杜せきのした駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[美田園駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[仙台空港駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|7.1
|style="text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"|∧
|}
{{Reflist|group="*"}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[空港連絡鉄道]]
* [[エアポート・リムジンバス (仙台市)|エアポート・リムジンバス]]
* [[イオンモール名取]]([[杜せきのした駅]]直結のショッピングセンター)
<!--*都市計画道路[[大手町下増田線]](仙台空港線の高架下を並走する道路)-->
* [[オムニバスタウン#宮城県仙台市]]
== 外部リンク ==
* [https://www.senat.co.jp/ 仙台空港鉄道株式会社]
* [http://cat-vnet.tv/category150/152/index.html 仙台空港アクセス鉄道]([[仙台CATV]]) - 仙台空港アクセス線の使い方の[[動画]]
* {{Wayback |url=http://www.thr.mlit.go.jp/kansen/03gyoumu/03_2gyoumu/sendai/sen_04.html |title=東北幹線道路調査事務所 |date=20081028131602}}
* [http://mitazono.jp/ なとりりんくうタウン]
* {{Wayback |url=http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/kurin/koudou-keikaku.html |title=アクセス鉄道改革支援プラン |date=20130916062841}}(宮城県)
* {{PDFlink|[https://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/td/pdf/2_4.pdf 第2編 各鉄道の被災と復旧 第4章 仙台空港鉄道]}}(国土交通省東北地方整備局「[https://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/saigai110311.html 東日本大震災復興情報]」)
{{DEFAULTSORT:せんたいくうこうてつとうせんたいくうこうせん}}
[[Category:東北地方の鉄道路線|せんたいくうこうせん]]
[[Category:第三セクター路線]]
[[Category:仙台空港鉄道|路せんたいくうこうせん]]
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[[Category:仙台空港|路 せんたいくうこうてつとうせんたいくうこうせん]]
[[Category:宮城県の交通]]
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17,382 |
天津小湊町
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天津小湊町(あまつこみなとまち)は、かつて千葉県安房郡に存在していた町である。
2005年2月11日に、隣接する鴨川市と合併(新設合併)し、新たに鴨川市となったため消滅した。
房総半島の南部に位置する。温暖な気候で太平洋に面し、すぐ北部は山がせり出している。その山を横断して市街地の渋滞を緩和させる役割の天津バイパスが走っている。魚種が豊富で漁業が盛んに行われている町である。農業は田畑の面積が狭いため適していない地形である。
漁業
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天津小湊町(あまつこみなとまち)は、かつて千葉県安房郡に存在していた町である。 2005年2月11日に、隣接する鴨川市と合併(新設合併)し、新たに鴨川市となったため消滅した。
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{{日本の町村 (廃止)
|画像 = Special_Natural_Monument,_the_habitat_of_Pagrus_major,_TAINOURA.JPG
|画像の説明 = [[鯛の浦]]
|旗 = [[ファイル:Flag of Amatsukominato Chiba.svg|100px|天津小湊町旗]]
|旗の説明 = 天津小湊[[市町村旗|町旗]]
|紋章 = [[ファイル:Emblem of Amatsukominato, Chiba (1981–2005).svg|100px|天津小湊町章]]
|紋章の説明 = 天津小湊[[市町村章|町章]]
|廃止日 = 2005年2月11日
|廃止理由 = 新設合併
|廃止詳細 = 鴨川市、'''天津小湊町''' → '''[[鴨川市]]'''
|現在の自治体 = [[鴨川市]]
|よみがな = あまつこみなとまち
|自治体名 = 天津小湊町
|区分 = 町
|都道府県 = 千葉県
|郡 = [[安房郡]]
|コード = 12472-9
|面積 = 43.95
|境界未定 = なし
|人口 = 7294
|人口の時点 = 2003年
|隣接自治体 = [[勝浦市]]、[[大多喜町]]、[[君津市]]、[[鴨川市]]
|木 = [[杉]]
|花 =
|シンボル名 = 他のシンボル
|鳥など = [[鯛]]
|郵便番号 = 299-5503
|所在地 = 安房郡天津小湊町天津1104<br />[[ファイル:天津小湊支所.jpg|220px|旧天津小湊町役場]]
|外部リンク =
|座標 = {{Coord|format=dms|type:city(7294)_region:JP-12|display=inline,title}}
|位置画像 =
|特記事項 =
}}
'''天津小湊町'''(あまつこみなとまち)は、かつて[[千葉県]][[安房郡]]に存在していた[[町]]である。
[[2005年]][[2月11日]]に、隣接する[[鴨川市]]と[[日本の市町村の廃置分合|合併]](新設合併)し、新たに'''鴨川市'''となったため消滅した。
== 地理 ==
[[ファイル:Amatsu Coast.JPG|right|thumb|300px|天津港付近の海岸線<small>(2011年10月10日撮影)</small>]]
[[房総半島]]の南部に位置する。温暖な気候で[[太平洋]]に面し、すぐ北部は山がせり出している。その山を横断して市街地の渋滞を緩和させる役割の天津バイパスが走っている。魚種が豊富で漁業が盛んに行われている町である。農業は田畑の面積が狭いため適していない地形である。
=== 隣接していた自治体 ===
* 鴨川市
* [[勝浦市]]
* [[君津市]]
* [[夷隅郡]][[大多喜町]]
== 歴史 ==
=== 沿革 ===
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[4月15日]] - 房総線(現在の[[外房線]])上総興津 - 安房鴨川間が開業。
* [[1953年]](昭和28年)[[5月18日]] - [[国道128号]]が制定。
* [[1955年]](昭和30年)[[2月11日]] - 天津町と小湊町が合併し、'''天津小湊町'''が発足。
* [[1992年]](平成4年)[[5月14日]] - [[防災行政無線]]が開局する。
* [[2005年]]([[平成]]17年)[[2月11日]] - 鴨川市と合併し、(新)'''[[鴨川市]]'''が発足。同日天津小湊町廃止。
=== 行政区域変遷 ===
* '''変遷の年表'''
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:x-small"
|-
! colspan="3" style="font-size:small" | 天津小湊町町域の変遷(年表)
|-
| [[1889年]](明治22年)
| [[4月1日]]
| style="text-align:left" | [[町村制]]施行により、以下の町村が発足<ref>角川日本地名大辞典編纂委員会『[[角川日本地名大辞典]] 12 千葉県』、[[角川書店]]、1984年、ISBN 4040011201<nowiki/>より</ref><ref>日本加除出版株式会社編集部『全国市町村名変遷総覧』、[[日本加除出版]]、2006年、ISBN 4817813180<nowiki/>より</ref>。
* [[長狭郡]]
** '''[[天津町]]''' ← 天津村・浜荻村・清澄村
** '''湊村''' ← 内浦村・小湊村
* [[望陀郡]]
** '''[[亀山村 (千葉県)|亀山村]]''' ← 折木沢村・滝原村・川俣村・豊田村・笹村・藤林村・蔵玉村・黄和田畑村・四方木村・<br />草河原村・香木原村・坂畑村・坂畑村と加名盛村飛地
|-
| [[1897年]](明治30年)
| 4月1日
| style="text-align:left" | 長狭郡は[[平郡]]・[[朝夷郡]]とともに[[安房郡]]に編入。安房郡天津町となる。
* 同日、[[亀山村 (千葉県)|亀山村]]は[[望陀郡]]が[[周淮郡]]・[[天羽郡]]とともに合併し君津郡が発足。君津郡亀山村となる
|-
| [[1928年]](昭和3年)
| [[11月10日]]
| style="text-align:left" | 湊村は町制施行・改称し、'''小湊町'''となる。
|-
| [[1954年]](昭和29年)
| [[6月1日]]
| style="text-align:left" | 亀山村の一部(四方木)を天津町が編入。
|-
| [[1955年]](昭和30年)
| [[2月11日]]
| style="text-align:left" | 天津町と小湊町が合併し、'''天津小湊町'''が発足。
|-
| [[2005年]](平成17年)
| [[2月11日]]
| style="text-align:left" | 天津小湊町は鴨川市と合併し、'''[[鴨川市]]'''が発足。天津小湊町は消滅。
|}
* '''変遷表'''
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:x-small"
|-
! colspan="11" style="font-size:small"| 天津小湊町町域の変遷表
|-
! colspan="3" | 1868年<br />以前
! 明治元年 - 明治22年
! 明治22年<br />4月1日
! colspan="2" | 明治22年 - 昭和19年
! 昭和20年 - 昭和64年
! 平成元年 - 現在
! 現在
|-
| rowspan="6" |[[長狭郡]]
| bgcolor="#99CCFF" |
| bgcolor="#99CCFF" | 天津村
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="2" | 明治14年<br />天津村
| bgcolor="#66FFFF" rowspan="4" | ''天津町''
| rowspan="6" | 明治30年4月1日<br />[[安房郡]]に編入
| bgcolor="#66FFFF" rowspan="4" | ''[[天津町]]''
| bgcolor="#66FFFF" rowspan="6" | 昭和30年2月11日<br />'''天津小湊町'''
| rowspan="8" | 平成17年2月11日<br />鴨川市
| rowspan="8" | [[鴨川市]]
|-
| bgcolor="#99CCFF" |
| bgcolor="#99CCFF" | 根本村
|-
| bgcolor="#99CCFF" |
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 浜荻村
|-
| bgcolor="#99CCFF" |
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 清澄村
|-
| bgcolor="#99CCFF" |
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 内浦村
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="2" | ''湊村''
| bgcolor="#66FFFF" rowspan="2" | 昭和3年11月10日<br />''[[小湊町 (千葉県)|小湊町]]''<br />町制改称
|-
| bgcolor="#99CCFF" |
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 小湊村
|-
| [[望陀郡]]
| bgcolor="#99CCFF" |
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 四方木村
| bgcolor="#99CCFF" | 亀山村<br />の一部
| 明治30年4月1日<br />[[君津郡]]が発足
| bgcolor="#99CCFF" | [[亀山村 (千葉県)|亀山村]]<br />の一部
| bgcolor="#66FFFF" | 昭和29年6月1日<br />天津町に編入
|}
== 産業 ==
'''漁業'''
* [[小湊漁港]]
* [[天津漁港]]
* 浜荻漁港
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
** {{color|#ff6600|■}}[[外房線]]
*** [[安房小湊駅]] - [[安房天津駅]]
=== 道路 ===
* '''[[一般国道]]'''
** [[国道128号]]
* '''[[主要地方道]]'''
** [[千葉県道81号市原天津小湊線]]
** [[千葉県道82号天津小湊夷隅線]]
* '''[[都道府県道|一般県道]]'''
** [[千葉県道285号内浦山公園線]]
== 学校 ==
=== 小学校 ===
* 天津小湊町立天津小学校
* 天津小湊町立小湊小学校
* ''合併後に新たに設置された小学校''
** [[鴨川市立天津小湊小学校]](2019年4月、天津小学校・小湊小学校を統合し設立)
=== 中学校 ===
* 天津小湊町立天津中学校
* 天津小湊町立小湊中学校
* ''合併後に新たに設置された中学校''
** 鴨川市立安房東中学校(2006年4月、天津中学校・小湊中学校を統合し設立)
=== 大学 ===
* [[千葉大学]]海洋バイオシステム研究センター([[臨海実験所]])
=== その他 ===
* [[板橋区]]立天津わかしお学園
== 観光 ==
* 小湊地区における釣りのメッカ及び大型宿泊施設の集中
* ロシア人日本初上陸地
* [[鯛の浦]](世界唯一[[真鯛]]浅海生息地[[特別天然記念物]])
* 日本最古のスギの人工林 ([[清澄寺]]妙見山)
* 世界最大の鬼瓦 ([[誕生寺]]は[[日蓮]]聖人の生誕地である)
* こみなと[[水族館]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[千葉県の廃止市町村一覧]]
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[[Category:鴨川市域の廃止市町村]]
[[Category:安房郡]]
[[Category:1955年設置の日本の市町村]]
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流体機械
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流体機械(りゅうたいきかい、Fluid Machinery)とは、流体と機械の間でエネルギー変換をする装置である。一般に機械的エネルギーは電動機などの駆動軸の回転運動エネルギーであるが、プロペラのように直接推力として用いられる場合もある。
人類が農耕を中心とする定住生活を始める上で最も重要な問題は水の確保であり、世界四大文明はいずれも大河の河口付近の肥沃な三角州に始まった。人口が増えるに従って、大量の飲料水と灌漑用水の確保が最大の問題となり、水道を建設し、下水道を整備し、大量の水を汲み上げる装置を考案した。紀元前1000年ごろから中国、ユーフラテス、ナイル地方で水車が使われていた。初期には竹や木材で作られた下掛け水車だったが、水路の構築とともに上掛け水車が使われるようになった。紀元前3世紀ごろエジプトでアルキメデスがアルキメディアン・スクリューを改良したと伝えられている。
はじめて風の力を利用して動力を取り出したのは船の帆であると考えられている。エジプトでは紀元前2800年ごろからナイル川やエジプト沿岸で帆船が使用された。風車は、フェニキア時代の帆船の三角帆から発展したと言われる。
それ以来、人類は水を汲み上げるポンプ、流れる水や空気から動力を取り出す水車・風車に様々な工夫を加えてきたが、今日の機械の原型となるような革新的技術が生まれたのは、ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明して以降である。今日我々が目にする様々な機械は、産業革命以降に発展を遂げてきたものであり、例えば、鉱山の通気を目的として送風機が開発されたのは19世紀に入ってからである。
流体継手やトルクコンバーターなどターボ型流体伝動装置は、1905年にドイツのヘルマン・フェッティンガー(Hermann Föttinger)によって発明された。
過給機はその概念が1885年のゴットリープ・ダイムラーの特許にあらわれている。機械駆動式過給方式は1920年代にレーシングカー、市販のスポーツカーにおいて実用化された。排気タービン式過給方式は1905年にスイスのAlfred Büchiが特許を取得したが、耐熱性に優れた加工性の良い材料の登場を待たねばならなかったため実用化は遅れ、第一次世界大戦で開発が促進された航空用エンジンの分野でさえ、1917年にターボ過給のルノーエンジンを搭載した試験飛行が登場した程度である。本格的なターボ過給を実現したのは1938年のボーイングB-17搭載のエンジンであり、その後、航空機、建設機械、舶用、工業用、機関車用、一般乗用車エンジンへと普及した。
流体機械の分類にはいくつか方法がある。
取り扱う流体(作動流体)の種類によって分類すると以下のようになる。
水や油などの液体を用いるものである。密度、粘度が比較的大きいため、空気機械より低速回転で運転される。圧力が低下しすぎるとキャビテーションが発生し性能低下につながるため、これを起こさないような構造が必要となる。
空気その他のガスを扱う。密度、粘度が比較的小さいため、液体機械より高速回転で運転される。高圧ではガスは圧縮され、同時に温度が上昇することが液体機械との違いである。ただし比較的低圧である送風機の場合は圧縮性の考慮は必要ない。
回転する羽根車を介して連続的にエネルギーを変換する。
流れの方向によってさらに以下のように分類される。
連続的に流れ込む流体を一定量ごとに区切って独立した容器内に吸い込み、これを加圧あるいは減圧して容器から吐き出す。高圧、小流量に適し、油圧や空圧の分野で用いられる。
流体の力学的エネルギーと機械的エネルギーの変換の方向に着目して分類すると以下のようになる。原動機と被動機は方向が逆であるから、損失を考えなければ可逆的な関係にある。
流体エネルギーを機械エネルギーに変換する。
機械エネルギーを流体エネルギーに変換する。入力とする機械エネルギーには、電動機やタービンが用いられる。
機械エネルギーを流体を仲介させて機械エネルギーに変換する。原動機と被動機を組み合わせた構造である。
流体エネルギーを流体エネルギーに変換する。
流体が非圧縮性の場合は体積流量、圧縮性の場合は質量流量またはノルマル立米で示される。
流体が液体の場合は揚程[m]で示されるが、気体の場合はこれを圧力[Pa]として表示される。
流量と揚程の積を用いて表される。
被動機の駆動軸に入力される動力である。
原動機の軸にかかるトルクである。
以上の性能は運転状態によって変化する。それをグラフで図示したものが性能曲線である。グラフの形式は分野によって異なり、ポンプや送風機・圧縮機では横軸を流量に、真空ポンプでは吸込み圧力に、水車では回転速度に、流体継手では速度比(出力軸回転速度/入力軸回転速度)にとって他の性能値をプロットする。
流体機械を運転させると必ずエネルギー損失が生じる。入力エネルギーに対する出力エネルギーの割合を効率という。損失には
の3つがあり、それに対応して効率も3つに分類される。
具体的な効率の値についてはエネルギー効率を参照のこと。
軸動力(駆動軸に入力される動力)P0 に対する水動力(実際に流体に与えられる動力)P の割合を全効率ηといい、
のように3つの効率に分解される。ただし
流量Q の流体が全揚程H で羽根車に流入するので入力P0 は
となり、この入力に対する羽根車の有効出力P の割合、すなわち全効率ηは
となる。ただし
流体機械の性能には機械の寸法、形状はもちろんのこと、作動流体の密度、粘度、圧縮性や、羽根車の回転数など運転条件によっても変化し、そこには多数の物理量が影響している。そのため解析をそのまま行うことは困難である。そこでパラメータを減らすために、流体力学の他の分野でも行われるように、相似則や次元解析といった手法を用いる。
ターボ型の場合、羽根車の直径D [m]、回転数n [s]、作動流体の密度ρ[kg/m]を基準値として用い他の物理量を無次元化(正規化)する。
増速増圧の原理は速度三角形を用いて説明される。
油圧装置 とは油圧を使用して作動する装置全般を表す。
外部の駆動源(電動機や発動機)を元に油圧ポンプを動かし、それによって得られる圧力を持った作動流体(作動油)によってアクチュエータ(油圧モータ、油圧シリンダ)を動作させて求める仕事をする。油圧ショベルなどの建設機械やフォークリフトなどの産業車両、トラクタなどの農業機械、ダンプトラックなどの特装車の駆動源として必ずといって良いほど採用されている。また製鉄機械や工作機械、射出成型機などの一般産業機械の駆動源としても長い間使われており、現代社会において欠かせない物となっている。 他に建築物の免震装置にも使用される。 近年、射出成型機やサーボプレスでは電動化が進展しつつある。
空気ブレーキを除く自動車の液圧式ブレーキやクラッチの断続機構も油圧装置の一種と見ることができる。
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流体機械とは、流体と機械の間でエネルギー変換をする装置である。一般に機械的エネルギーは電動機などの駆動軸の回転運動エネルギーであるが、プロペラのように直接推力として用いられる場合もある。
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'''流体機械'''(りゅうたいきかい、Fluid Machinery)とは、[[流体]]と[[機械]]の間で[[エネルギー]]変換をする装置である。一般に機械的エネルギーは[[電動機]]などの駆動軸の回転運動エネルギーであるが、[[プロペラ]]のように直接推力として用いられる場合もある。
== 歴史 ==
人類が[[農耕]]を中心とする定住生活を始める上で最も重要な問題は水の確保であり、[[世界四大文明]]はいずれも大河の河口付近の肥沃な三角州に始まった。人口が増えるに従って、大量の[[飲料水]]と[[灌漑]]用水の確保が最大の問題となり、[[水道]]を建設し、[[下水道]]を整備し、大量の水を汲み上げる装置を考案した。紀元前1000年ごろから[[中国]]、[[ユーフラテス]]、[[ナイル]]地方で水車が使われていた。初期には竹や木材で作られた下掛け水車だったが、[[水路]]の構築とともに上掛け水車が使われるようになった。紀元前3世紀ごろ[[エジプト]]で[[アルキメデス]]が[[アルキメディアン・スクリュー]]を改良したと伝えられている。
はじめて風の力を利用して動力を取り出したのは船の[[帆]]であると考えられている。エジプトでは紀元前2800年ごろからナイル川やエジプト沿岸で[[帆船]]が使用された。風車は、[[フェニキア]]時代の帆船の三角帆から発展したと言われる。
それ以来、人類は水を汲み上げるポンプ、流れる水や空気から動力を取り出す水車・風車に様々な工夫を加えてきたが、今日の機械の原型となるような革新的技術が生まれたのは、[[ジェームズ・ワット]]が[[蒸気機関]]を発明して以降である。今日我々が目にする様々な機械は、[[産業革命]]以降に発展を遂げてきたものであり、例えば、[[鉱山]]の通気を目的として送風機が開発されたのは19世紀に入ってからである。
流体継手やトルクコンバーターなどターボ型流体伝動装置は、1905年にドイツのヘルマン・フェッティンガー(Hermann Föttinger)によって発明された。
過給機はその概念が1885年の[[ゴットリープ・ダイムラー]]の特許にあらわれている。機械駆動式過給方式は1920年代に[[レーシングカー]]、市販の[[スポーツカー]]において実用化された。排気タービン式過給方式は1905年にスイスのAlfred Büchiが特許を取得したが、耐熱性に優れた加工性の良い材料の登場を待たねばならなかったため実用化は遅れ、[[第一次世界大戦]]で開発が促進された[[航空用エンジン]]の分野でさえ、1917年にターボ過給の[[ルノーエンジン]]を搭載した試験飛行が登場した程度である。本格的なターボ過給を実現したのは1938年の[[ボーイング]][[B-17 (航空機)|B-17]]搭載のエンジンであり、その後、航空機、建設機械、舶用、工業用、機関車用、一般乗用車エンジンへと普及した。
== 分類 ==
流体機械の分類にはいくつか方法がある。
=== 作動流体による分類 ===
取り扱う流体(作動流体)の種類によって分類すると以下のようになる。
==== 液体機械 ====
[[水]]や[[油]]などの[[液体]]を用いるものである。[[密度]]、[[粘度]]が比較的大きいため、空気機械より低速回転で運転される。圧力が低下しすぎると[[キャビテーション]]が発生し性能低下につながるため、これを起こさないような構造が必要となる。
* [[ポンプ]] 液体を扱う被動機全般をポンプという。
* [[油圧モーター]]
* [[水車]]、[[発電用水車]]
* [[トルクコンバーター]]
==== 空気機械 ====
[[空気]]その他の[[気体|ガス]]を扱う。密度、粘度が比較的小さいため、液体機械より高速回転で運転される。高圧ではガスは圧縮され、同時に温度が上昇することが液体機械との違いである。ただし比較的低圧である送風機の場合は圧縮性の考慮は必要ない。
* [[圧縮機]] 空気を扱う被動機のうち、[[圧縮比]]2以上かつ吐き出し圧100kPa以上のもの。
** ターボ圧縮機 遠心圧縮機・軸流圧縮機
** 容積圧縮機 往復圧縮機・スクリュー圧縮機・スクロール圧縮機・ロータリー圧縮機
* [[送風機]]
** ブロワ 圧縮比1.1~2程度。ターボ型と容積型で製作される。
** ファン 圧縮比1.1以下。主にターボ型で製作される。
* [[ガスタービンエンジン]]、[[ターボチャージャー]]、[[風車]]、[[真空ポンプ]]など
* [[空気入れ]]
==== 蒸気機械 ====
* [[蒸気タービン]]など
=== 作動原理による分類 ===
==== ターボ型 ====
{{main|ターボ機械}}
回転する[[インペラー|羽根車]]を介して連続的にエネルギーを変換する。
* [[ターボポンプ]]、[[送風機]]、[[圧縮機#ターボ圧縮機|ターボ圧縮機]]
* [[風車]]、[[ガスタービン]]、[[蒸気タービン]]
流れの方向によってさらに以下のように分類される。
; 遠心式
: 吸い込み流れと吐き出し流れが直交するものである。比較的少流量、高揚程の性能を示す。
* [[シロッコ扇風機]]など
; 斜流式
: 遠心式と軸流式の中間の形態を持つものである。性能上も遠心式と軸流式の中間をとる。
; 軸流式
: 吸い込み流れと吐き出し流れが平行であるものである。比較的多流量、低揚程の性能を示す。
* [[扇風機]]、[[プロペラ]]など
; 横流式
: クロスフローとも呼ばれる。
==== 容積型 ====
連続的に流れ込む流体を一定量ごとに区切って独立した容器内に吸い込み、これを加圧あるいは減圧して容器から吐き出す。高圧、小流量に適し、[[油圧]]や[[空圧]]の分野で用いられる。
; 回転式
: ロータの回転とともに押し退け室が移動して、流体を押し出す。
* [[歯車ポンプ]]、[[ベーンポンプ]]、[[ねじポンプ]]、[[二葉式圧縮機]]、[[ベーン圧縮機]]、[[ねじ圧縮機]]など
; 往復式
: シリンダ内を往復するピストンにより容積の増減を行う。
* [[ピストンポンプ]]、[[往復ポンプ]]、[[往復動圧縮機]]、[[空気入れ]]など
; その他
* [[アルキメディアン・スクリュー]]など
==== 特殊型 ====
* [[渦流ポンプ]]:[[渦流]]による昇圧を利用する。構造が簡単で、低比速度のターボ形ポンプに相当する性能が要求される場合、たとえば家庭用[[井戸]]、[[自動販売機]]用飲料水、[[潤滑油]]等のポンプに使用される。再生ポンプ、カスケードポンプ、摩擦ポンプ、ウェスコポンプとも呼ばれる<ref name=sudo>{{cite|和書 |editor=須藤浩三 |title=流体機械 |publisher=朝倉書店 |year=1990 |isbn=4-254-23603-4 |pagea=49-57}}</ref>。
* [[粘性ポンプ]]:摩擦力を利用する。
* [[ジェットポンプ]]:ポンプ本体には機械的駆動部がなく、別の駆動用ポンプから送られた[[噴流]]の引き込み作用を利用する。低揚程、少吐出量で、[[腐食性]]液、深井戸用、固液[[混相流|二相流]]用のポンプとして使用される。噴流ポンプ、空気イジェクタとも呼ばれる<ref name=sudo/>。
* [[気泡ポンプ]]:液中に挿入した管端部分より[[圧縮空気]]を非連続的に噴出させて、[[気泡]]の浮力を利用し気液二相流として揚水管内を上昇させて揚液する。ポンプ本体には運動部分がなく構造が簡単であり、高温や微粒子を含んだ液でも揚液できる利点がある。[[温泉]]や、砂などを含む井戸用のポンプとして使用される<ref name=sudo/>。
* [[水撃ポンプ]]:[[水撃作用]]を利用する。動力が得られない高山などで用いられる。
=== エネルギーの変換方向による分類 ===
流体の力学的エネルギーと機械的エネルギーの変換の方向に着目して分類すると以下のようになる。原動機と被動機は方向が逆であるから、損失を考えなければ[[可逆]]的な関係にある。
==== [[原動機]] ====
流体エネルギーを機械エネルギーに変換する。
* [[油圧]]を使うもの
** [[油圧シリンダ]]:油圧のエネルギーを直線運動に変換する
** [[油圧モーター]]:油圧のエネルギーを回転運動に変換する
** [[揺動形アクチュエータ]]:油圧のエネルギーを首振り運動に変換する
* [[空圧]]を使うもの
** [[空気シリンダ]]:気体のエネルギーを直線運動に変換する
** [[空気モーター]]:気体のエネルギーを回転運動に変換する。
*** 歯車モーター、ベーンモーター、ピストンモーターなど
** [[風力原動機]]
* [[圧力モーター]]
* [[水車]]、[[発電用水車]]
* [[蒸気タービン]]、[[ガスタービン]]
==== 被動機 ====
機械エネルギーを流体エネルギーに変換する。入力とする機械エネルギーには、[[電動機]]や[[タービン]]が用いられる。
* [[ポンプ]]、[[送風機]]、[[圧縮機]]、[[真空ポンプ]]など
==== 伝動装置 ====
機械エネルギーを流体を仲介させて機械エネルギーに変換する。原動機と被動機を組み合わせた構造である。
* [[流体継手]]、[[トルクコンバータ]]など
==== 流体エネルギーの伝達 ====
流体エネルギーを流体エネルギーに変換する。
* [[ターボチャージャー]]、[[ポンプ水車]]、[[トルクコンバータ]]など
== 性能 ==
=== 流量 ===
流体が[[非圧縮性流れ|非圧縮性]]の場合は体積[[流量]]、[[圧縮性流れ|圧縮性]]の場合は[[質量流量]]または[[ノルマル立米]]で示される。
=== 揚程 ===
流体が液体の場合は[[揚程]][m]で示されるが、気体の場合はこれを[[圧力]][Pa]として表示される。
=== 動力 ===
流量と揚程の積を用いて表される。
: <math>P=\rho gQH</math>
=== 軸動力 ===
被動機の駆動軸に入力される[[動力]]である。
=== トルク ===
原動機の軸にかかる[[トルク]]である。
=== 性能曲線 ===
以上の性能は運転状態によって変化する。それを[[グラフ (関数)|グラフ]]で図示したものが'''性能曲線'''である。グラフの形式は分野によって異なり、ポンプや送風機・圧縮機では横軸を流量に、真空ポンプでは吸込み圧力に、水車では回転速度に、流体継手では速度比(出力軸回転速度/入力軸回転速度)にとって他の性能値をプロットする。
=== 損失と効率 ===
流体機械を運転させると必ずエネルギー損失が生じる。入力エネルギーに対する出力エネルギーの割合を'''効率'''という。損失には
* 機械損失:[[軸受け]]やシールでの摩擦、羽根車の背面などエネルギー変換に直接関係のない部分での流体との摩擦による損失
* 水力損失:流体が機械の中を流れる際に生じる、[[摩擦]]、[[二次流れ]]、[[剥離]]などの流体力学的損失
* 漏れ損失:羽根車など回転部とケーシングなど静止部の間にある隙間を通る漏れ流量に伴う損失
の3つがあり、それに対応して効率も3つに分類される。
具体的な効率の値については[[エネルギー効率]]を参照のこと。
==== 被動機の場合 ====
軸動力(駆動軸に入力される[[動力]])''P''<sub>0</sub> に対する水動力(実際に流体に与えられる動力)''P'' の割合を'''全効率'''ηといい、
: <math>\eta = \frac{P}{P_0} = \frac{P_0-P_\mathrm{m}}{P_0}\cdot\frac{\rho gQ(H_\mathrm{th}-H_\mathrm{l})}{\rho g(Q+q)H_\mathrm{th}} = \eta_\mathrm{m}\eta_\mathrm{h}\eta_\mathrm{v}</math>
のように3つの効率に分解される。ただし
* <math>\eta_\mathrm{m} = \frac{P_0-P_\mathrm{m}}{P_0}</math>:[[機械効率]]
** ''P''<sub>m</sub> :機械損失
* <math>\eta_\mathrm{h} = \frac{H_\mathrm{th}-H_\mathrm{l}}{H_\mathrm{th}}</math>:[[水力効率]]
** ''H''<sub>th</sub> :理論揚程
** ''H''<sub>l</sub> :水力損失による損失揚程
* <math>\eta_\mathrm{v} = \frac{Q}{Q+q}</math>:[[体積効率]]
** ''Q'' :流量
** ''q'' :漏れ流量
==== 原動機の場合 ====
流量''Q'' の流体が全揚程''H'' で羽根車に流入するので入力''P''<sub>0</sub> は
: <math>P_0 = \rho gQH</math>
となり、この入力に対する羽根車の有効出力''P'' の割合、すなわち全効率ηは
:<math>\eta = \frac{P}{P_0} = \frac{P}{P+P_\mathrm{m}}\cdot\frac{\rho g(Q-q)(H-H_\mathrm{l})}{\rho gQH} = \eta_\mathrm{m}\eta_\mathrm{h}\eta_\mathrm{v}</math>
となる。ただし
* <math>\eta_\mathrm{m} = \frac{P}{P+P_\mathrm{m}}</math>:機械効率
** ''P''<sub>m</sub> :機械損失
* <math>\eta_\mathrm{h} = \frac{H-H_\mathrm{l}}{H}</math>:水力効率
** ''H''<sub>l</sub> :水力損失による損失揚程
* <math>\eta_\mathrm{v} = \frac{Q-q}{Q}</math>:体積効率
** ''q'' :漏れ流量
== 理論 ==
=== 無次元数を用いた解析 ===
流体機械の性能には機械の寸法、形状はもちろんのこと、作動流体の密度、粘度、圧縮性や、羽根車の回転数など運転条件によっても変化し、そこには多数の物理量が影響している。そのため解析をそのまま行うことは困難である。そこでパラメータを減らすために、[[流体力学]]の他の分野でも行われるように、[[相似則]]や[[次元解析]]といった手法を用いる。
ターボ型の場合、羽根車の直径''D'' [m]、回転数''n'' [s<sup>-1</sup>]、作動流体の密度ρ[kg/m<sup>3</sup>]を基準値として用い他の物理量を[[無次元化]]([[正規化]])する。
* 流量''Q'' [m<sup>3</sup>/s]は羽根車直径''D'' の3乗と回転数''n'' に比例するので、これらで無次元化し流量係数<math>\phi=\frac{Q}{D^3n}</math>として考える。
* 圧力''p'' [Pa]は流体密度ρ[kg/m<sup>3</sup>]と羽根車直径''D'' [m]の2乗と回転数''n'' [s<sup>-1</sup>]の2乗に比例するので、圧力係数<math>\psi=\frac{p}{\rho D^2 n^2}</math>とする。
* 動力''P'' [W]は流体密度ρ[kg/m<sup>3</sup>]と羽根車直径''D'' [m]の5乗と回転数''n'' [s<sup>-1</sup>]の3乗に比例するので、動力係数<math>\tau=\frac{P}{\rho D^5 n^3}</math>とする。
* 粘度μ[kg/(m s)]は[[レイノルズ数]]<math>Re=\frac{\rho D^2 n}{\mu}</math>とする。ただし、レイノルズ数が大きい(流体の粘度が小さい、または回転数が大きい)場合、レイノルズ数の性能への影響は小さいため、このパラメータは無視されることが多い。
* [[音速]]''a'' [m/s]は[[マッハ数]]<math>Ma=\frac{Dn}{a}</math>とする。ただし、流体の圧縮性が無視できる場合はこのパラメータは無視される。
* [[比速度]]
:: <math>n_\mathrm{s}=n\frac{\sqrt{Q}}{H^{3/4}}</math>
: または
:: <math>n_\mathrm{s}=n\frac{\sqrt{P}}{H^{5/4}}</math>
: をターボ型流体機械の分類法として用いることがある。
=== 速度三角形 ===
{{see also|速度三角形}}
増速増圧の原理は速度三角形を用いて説明される。
'''油圧装置 '''とは油圧を使用して作動する装置全般を表す。
[[file:hydraulic circuit directional control.png|thumb|シンプルな「オープンセンター」油圧回路]]
外部の駆動源(電動機や発動機)を元に[[油圧ポンプ]]を動かし、それによって得られる圧力を持った作動流体(作動油)によって[[アクチュエータ]]([[油圧モータ]]、[[油圧シリンダ]])を動作させて求める仕事をする。[[油圧ショベル]]などの[[建設機械]]や[[フォークリフト]]などの[[産業車両]]、[[トラクタ]]などの[[農業機械]]、[[ダンプトラック]]などの[[特装車]]の駆動源として必ずといって良いほど採用されている。また[[製鉄機械]]や[[工作機械]]、[[射出成型機]]などの一般産業機械の駆動源としても長い間使われており、現代社会において欠かせない物となっている。
他に建築物の[[免震装置]]にも使用される。
近年、射出成型機やサーボプレスでは電動化が進展しつつある。
[[空気ブレーキ]]を除く[[自動車]]の液圧式[[ブレーキ]]や[[クラッチ]]の断続機構も油圧装置の一種と見ることができる。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author = 高橋徹|coauthors = |title = 流体のエネルギーと流体機械|year = 1998|publisher = [[理工学社]]|isbn = 4-8445-2708-8|page = }}
* {{Cite book|和書|author = ターボ機械協会編|coauthors = |title = ターボ機械 入門編|year = 2005|publisher = [[日本工業出版]]|isbn = 978-4-8190-1911-8|page = }}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りゆうたいきかい}}
[[Category:流体機械|*]]
[[Category:機械]]
[[Category:流体力学]]
[[Category:空気調和設備]]
[[Category:機械工学]]
[[Category:機械要素]]
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2003-09-19T08:17:17Z
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2023-12-03T01:34:27Z
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"Template:Cite book"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E4%BD%93%E6%A9%9F%E6%A2%B0
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虫垂炎
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虫垂炎(ちゅうすいえん、英: appendicitis、略してアッペ)は、虫垂に炎症が起きている状態である。急性症 と慢性症 に分類される。
何らかの原因で虫垂内部で細菌が増殖し炎症を起こした状態である。炎症が進行すると虫垂は壊死を起こして穿孔し、膿汁や腸液が腹腔内へ流れ出して腹膜炎を起こし、敗血症により死に至ることもある。
原因は様々であり、明らかにならない事も多いが、ウイルス感染や糞石などの異物によってリンパ小節が腫大、バリウム や異物による内腔の閉塞によって生じる血流停滞が細菌の増殖を招き粘膜を傷つけ炎症に繋がる。例えば、蟯虫迷入、植物の種子、魚骨刺入、肺癌虫垂転移、誤飲した乳歯、義歯 などの報告がある。
若年者から高齢者まで幅広く発症する。男女差はみられない。が、男女とも10代から20代の発症が他の年齢層より若干多い。理由は未解明であるが、急性虫垂炎の発症数には「夏に多く冬は少ない」とする季節変動があると報告されている。
途上国よりも先進国での発症者が多いとする報告がされているが、調査対象の医療機関のサンプル数が少ないため有意な調査とは言えないとの指摘がある。
右下腹部痛がよく知られているが、典型的にはまず心窩部(みぞおち付近)に痛みが出て、時間の経過とともに右下腹部へと移動していくことが多い。その他の主な症状としては、食欲不振、嘔気、発熱などがある。希な合併症として腸腰筋膿瘍。
診断学の世界では、虫垂炎の病態生理は次のように理解されている。まず虫垂に異物などが貯留し、細菌が繁殖することで管腔内圧が上昇し、心窩部の鈍痛という形で関連痛が発生する。さらに腸管粘膜に炎症が起こると、右下腹部の鈍痛という形で内臓痛が発生する。さらに進行すると炎症が管腔の内側から外側、すなわち臓側腹膜に波及する。腸管の動きなどで臓側腹膜が壁側腹膜と接触し、炎症が壁側腹膜に波及すると右下腹部の鋭い痛みとして体性痛が発生する。この頃には、反跳痛(ブルンベルグ徴候)といった腹膜刺激症状が出現する。これは概念上の話であり、炎症が激しくなり組織障害が強くなれば、関連痛、内臓痛、体性痛という順に進行していく。
虫垂炎に特異的な所見はない。炎症反応が指標となる。
虫垂の腫大や、周囲脂肪組織の濃度上昇がみられ、一般的に多くの病院で診断に用いられている。造影剤を用いる造影CT検査ではより正確であり、感度、特異度ともに98%であり、正診率は高い。
比較的解像度の良好な最新の超音波検査機器では虫垂の形態評価に関して極めて有用である。しかし、超音波検査は、虫垂が盲腸の背側に隠れると描出できない、機器の精度・検査技術の技量に大きく左右される、などの理由で正確な診断に至らないこともある。近年、小児の虫垂炎診断においてCTによる検査が減少する一方、エコー検査が増加したが、臨床的な転機に変わりがないことが報告されている。
虫垂炎はありふれた疾患であるが、正確な診断は非常に難しい。腹痛を起こす疾患は数限りなくあり、右下腹部痛だけとっても腸炎、大腸憩室症、卵巣炎、卵管炎、さらには単なる便秘なども考えなくてはならない。超音波検査やCTで炎症性に腫大した虫垂が描出されれば診断はほぼ確定するが、すべての症例にみられるわけではない。したがって、虫垂炎の診断はあらゆる情報を総合的に判断した結果“最も可能性の高い疾患”として下されることになる。
乳幼児や老人では病状の割に症状や炎症所見が弱いことが多く、診断や治療が遅れる原因になる。感染に対する生体反応が弱いためと考えられる。
妊婦では子宮に圧迫されて虫垂が本来の位置から移動しており、典型的な症状が出ないことがある。また炎症が限局せず重症化する傾向にある。
Alvarado スコア も(頭文字を取りMANTRELS スコアとも呼ばれる)が診断の際によく用いられる。10点満点のうち、6点以上で急性虫垂炎を疑う。7点以上の場合、感度は76.3%、特異度は78.8%という報告がある。
極端に太っている人も診断が困難な傾向にあり、俗に「相撲取りが盲腸になると命取り」などと言われる。これは1938年(昭和13年)12月4日に横綱の玉錦三右エ門と、さらに1971年(昭和46年)10月11日にも同じ横綱の玉の海正洋が、それぞれ現役のまま、入院先の病院で開腹手術後間もなく死亡するという衝撃的な事件が起きてから、特に有名になっている。なお、玉錦の場合は虫垂炎にかかっていながら病の可能性を考えずにいたばかりか、医者に診せた方がいいと言われても信じず発見が遅れた結果こじらせて腹膜炎を起こし、化膿箇所の除去手術は受けたものの、医師が指示した療養に本人が全く従わずに、術後に腹膜炎がさらに悪化して死に至った。玉の海も虫垂炎を腹膜炎の一歩手前位までこじらせていながら、ずっと薬で痛みを散らし続けていた。その後除去手術は成功したが術後約1週間が経った頃、退院を翌日に控えていながら術後肺血栓を併発して急死した。力士は腹部の筋肉や脂肪が厚いことから手術が困難であり、しかも肥満体の患者は術後に血栓症を起こしやすいと言われているが、当時そのことは知られていなかった。皮肉にも玉の海は玉錦の孫弟子(玉錦→玉乃海→玉の海)である。
多彩な疾患の症状として下腹部痛が生じるため多岐に渡る。
炎症が軽度であれば絶食・輸液管理を行い、セフェム系抗菌薬投与を行うことで回復することも多い。このような治療は俗に「盲腸を散らす」と呼ばれる。
炎症が高度になる場合などは虫垂切除術を勧められるが、その判断基準はケースバイケースである。一般的に虫垂炎は外科学で扱う古典的な疾患であるくらいに手術の方が確実で2時間ほどの施術で早く、しかもほとんど副作用の無い治療法である。よって炎症の度合いと手術のリスクを天秤にかけ、それに患者本人の希望を入れて決定される。
一般的に手術的加療を考慮するポイントは次のとおりである。
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"text": "途上国よりも先進国での発症者が多いとする報告がされているが、調査対象の医療機関のサンプル数が少ないため有意な調査とは言えないとの指摘がある。",
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"text": "診断学の世界では、虫垂炎の病態生理は次のように理解されている。まず虫垂に異物などが貯留し、細菌が繁殖することで管腔内圧が上昇し、心窩部の鈍痛という形で関連痛が発生する。さらに腸管粘膜に炎症が起こると、右下腹部の鈍痛という形で内臓痛が発生する。さらに進行すると炎症が管腔の内側から外側、すなわち臓側腹膜に波及する。腸管の動きなどで臓側腹膜が壁側腹膜と接触し、炎症が壁側腹膜に波及すると右下腹部の鋭い痛みとして体性痛が発生する。この頃には、反跳痛(ブルンベルグ徴候)といった腹膜刺激症状が出現する。これは概念上の話であり、炎症が激しくなり組織障害が強くなれば、関連痛、内臓痛、体性痛という順に進行していく。",
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"text": "虫垂炎に特異的な所見はない。炎症反応が指標となる。",
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"text": "比較的解像度の良好な最新の超音波検査機器では虫垂の形態評価に関して極めて有用である。しかし、超音波検査は、虫垂が盲腸の背側に隠れると描出できない、機器の精度・検査技術の技量に大きく左右される、などの理由で正確な診断に至らないこともある。近年、小児の虫垂炎診断においてCTによる検査が減少する一方、エコー検査が増加したが、臨床的な転機に変わりがないことが報告されている。",
"title": "検査"
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"text": "極端に太っている人も診断が困難な傾向にあり、俗に「相撲取りが盲腸になると命取り」などと言われる。これは1938年(昭和13年)12月4日に横綱の玉錦三右エ門と、さらに1971年(昭和46年)10月11日にも同じ横綱の玉の海正洋が、それぞれ現役のまま、入院先の病院で開腹手術後間もなく死亡するという衝撃的な事件が起きてから、特に有名になっている。なお、玉錦の場合は虫垂炎にかかっていながら病の可能性を考えずにいたばかりか、医者に診せた方がいいと言われても信じず発見が遅れた結果こじらせて腹膜炎を起こし、化膿箇所の除去手術は受けたものの、医師が指示した療養に本人が全く従わずに、術後に腹膜炎がさらに悪化して死に至った。玉の海も虫垂炎を腹膜炎の一歩手前位までこじらせていながら、ずっと薬で痛みを散らし続けていた。その後除去手術は成功したが術後約1週間が経った頃、退院を翌日に控えていながら術後肺血栓を併発して急死した。力士は腹部の筋肉や脂肪が厚いことから手術が困難であり、しかも肥満体の患者は術後に血栓症を起こしやすいと言われているが、当時そのことは知られていなかった。皮肉にも玉の海は玉錦の孫弟子(玉錦→玉乃海→玉の海)である。",
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"text": "多彩な疾患の症状として下腹部痛が生じるため多岐に渡る。",
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"text": "炎症が軽度であれば絶食・輸液管理を行い、セフェム系抗菌薬投与を行うことで回復することも多い。このような治療は俗に「盲腸を散らす」と呼ばれる。",
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"text": "炎症が高度になる場合などは虫垂切除術を勧められるが、その判断基準はケースバイケースである。一般的に虫垂炎は外科学で扱う古典的な疾患であるくらいに手術の方が確実で2時間ほどの施術で早く、しかもほとんど副作用の無い治療法である。よって炎症の度合いと手術のリスクを天秤にかけ、それに患者本人の希望を入れて決定される。",
"title": "治療"
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"text": "一般的に手術的加療を考慮するポイントは次のとおりである。",
"title": "治療"
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"text": "一般に予後は良好である。しかし腹膜炎を併発すると敗血症に至り、死亡することもある。",
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虫垂炎は、虫垂に炎症が起きている状態である。急性症 と慢性症 に分類される。 虫垂炎は旧来盲腸炎(もうちょうえん)あるいは盲腸と呼ばれていた時期があり、これは昔、診断の遅れから、開腹手術をした時には既に虫垂が化膿や壊死を起こして盲腸に貼り付き、あたかも盲腸の疾患のように見えることがあったためである。
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{{Infobox Disease
| Name = 虫垂炎
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'''虫垂炎'''(ちゅうすいえん、{{lang-en-short|appendicitis}}、略してアッペ<!-- 英語に倣い、アクセントを「ペ」に置く -->)は、[[虫垂]]に[[炎症]]が起きている状態である。急性症<ref name=jjsa.61.991 /> と慢性症<ref>井上秀樹, 澤村明廣, 山口佳之 ほか、「[https://doi.org/10.3919/jjsa.61.2368 大腸内視鏡検査にて虫垂入口部に隆起性変化がみられた慢性虫垂炎の1例]」 『日本臨床外科学会雑誌』 2000年 61巻 9号 p.2368-2371, {{doi|10.3919/jjsa.61.2368}}</ref> に分類される。
* 虫垂炎は旧来'''盲腸炎'''(もうちょうえん)あるいは'''盲腸'''と呼ばれていた時期があり、これは昔<!--盲腸に炎症が起きていたと誤って考えられていたためである。-->、診断の遅れから、開腹手術をした時には既に虫垂が[[化膿]]や[[壊死]]を起こして[[盲腸]]に貼り付き、あたかも盲腸の疾患のように見えることがあったためである。
== 原因 ==
何らかの原因で虫垂内部で[[細菌]]が増殖し炎症を起こした状態である。炎症が進行すると虫垂は壊死を起こして[[穿孔]]し、[[膿|膿汁]]や[[腸液]]が[[腹腔]]内へ流れ出して[[腹膜炎]]を起こし、[[敗血症]]により死に至ることもある。
=== 急性症(急性虫垂炎) ===
原因は様々であり、明らかにならない事も多いが、ウイルス感染や[[糞石]]などの異物によってリンパ小節が腫大、バリウム<ref>横尾直樹, 北村好史, 竹本研史 ほか、「[https://doi.org/10.3919/jjsa.68.1994 上部消化管造影5時間後に発症したバリウム虫垂炎の1例]」 『日本臨床外科学会雑誌』 2007年 68巻 8号 p.1994-1998, {{doi|10.3919/jjsa.68.1994}}</ref> や異物による内腔の閉塞によって生じる血流停滞が細菌の増殖を招き粘膜を傷つけ炎症に繋がる<ref name=jjsa.79.12 />。例えば、[[蟯虫]]迷入<ref>阿部義蔵、富田涼一、松田光郎 ほか、「[https://doi.org/10.11231/jaem1993.13.881 蟯虫迷入を認めた小児急性虫垂炎の1例]」 『日本腹部救急医学会雑誌』 1993年 13巻 6号 p.881-883, {{doi|10.11231/jaem1993.13.881}}</ref>、植物の種子<ref name=jjsa.61.991>大楽耕司、西健太郎、久我貴之 ほか、「[https://doi.org/10.3919/jjsa.61.991 魚骨が原因と考えられた急性虫垂炎の1例]」 『日本臨床外科学会雑誌』 2000年 61巻 4号 p.991-994, {{doi|10.3919/jjsa.61.991}}</ref>、魚骨刺入<ref name=jjsa.61.991 /><ref>築野和男、丸山正董、山崎達雄 ほか、「[https://doi.org/10.5833/jjgs.34.114 魚骨刺入が原因となった急性虫垂炎の1例]」 『日本消化器外科学会雑誌』 2001年 34巻 2号 p.114-117, {{doi|10.5833/jjgs.34.114}}</ref>、肺癌虫垂転移<ref>吉田淳、岩佐真、世古口務 ほか、「[https://doi.org/10.5833/jjgs.14.113 肺癌虫垂転移による急性虫垂炎の1例]」 『日本消化器外科学会雑誌』 1981年 14巻 1号 p.113-116, {{doi|10.5833/jjgs.14.113}}</ref>、誤飲した乳歯<ref name=jjsa.78.532>林憲吾、羽田匡宏、大島正寛 ほか、[https://doi.org/10.3919/jjsa.78.532 誤飲した乳歯による急性虫垂炎の1例] 『日本臨床外科学会雑誌』 2017年 78巻 3号 p.532-535, {{doi|10.3919/jjsa.78.532}}</ref>、義歯<ref>高垣敬一、村橋邦康、岸本圭永子 ほか、「[https://doi.org/10.3919/jjsa.71.2383 義歯が原因となった急性虫垂炎の1例]」 『日本臨床外科学会雑誌』 2010年 71巻 9号 p.2383-2387, {{doi|10.3919/jjsa.71.2383}}</ref> などの報告がある。
== 疫学 ==
[[File:Appendicitis world map - DALY - WHO2004.svg|thumb|2004年の100,000人あたりの虫垂炎の[[障害調整生命年]] (DALY)<ref>{{Cite web|url=http://www.who.int/healthinfo/global_burden_disease/estimates_country/en/index.html |title=WHO Disease and injury country estimates |year=2009 |work=World Health Organization |accessdate=2009-11-11}}</ref><div class="references-small" style="-moz-column-count:3; column-count:3;">
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</div>]]
若年者から高齢者まで幅広く発症する。男女差はみられない。が、男女とも10代から20代の発症が他の年齢層より若干多い。理由は未解明であるが、急性虫垂炎の発症数には「夏に多く冬は少ない」とする季節変動があると報告されている<ref name=jjsa.79.12>荒井智大, 宮田剛, 臼田昌広 ほか、「[https://doi.org/10.3919/jjsa.79.12 【原著】急性虫垂炎の季節性変動]」 『日本臨床外科学会雑誌』 2018年 79巻 1号 p.12-18,{{doi|10.3919/jjsa.79.12}}</ref>。
途上国よりも先進国での発症者が多いとする報告がされているが、調査対象の医療機関のサンプル数が少ないため有意な調査とは言えないとの指摘がある<ref name=jjsa.79.12 />。
== 症状 ==
右下腹部痛がよく知られているが、典型的にはまず心窩部([[みぞおち]]付近)に痛みが出て、時間の経過とともに右下腹部へと移動していくことが多い。その他の主な症状としては、食欲不振、[[吐き気|嘔気]]、[[発熱]]などがある。希な合併症として[[腸腰筋膿瘍]]<ref>坪井俊二, 岡田禎人, 柴原弘明、「[https://doi.org/10.3919/jjsa.66.2573 ドレナージチューブからの色素注入で,虫垂開口部からの流入を確認できた虫垂炎続発腸腰筋膿瘍の1例]」 『日本臨床外科学会雑誌』 2005年 66巻 10号 p.2573-2576, {{doi|10.3919/jjsa.66.2573}}</ref>。
[[診断学]]の世界では、虫垂炎の病態生理は次のように理解されている。まず虫垂に異物などが貯留し、[[細菌]]が繁殖することで管腔内圧が上昇し、心窩部の鈍痛という形で[[関連痛]]が発生する。さらに腸管粘膜に[[炎症]]が起こると、右下腹部の鈍痛という形で内臓痛が発生する。さらに進行すると炎症が管腔の内側から外側、すなわち臓側腹膜に波及する。腸管の動きなどで臓側腹膜が壁側腹膜と接触し、炎症が壁側腹膜に波及すると右下腹部の鋭い痛みとして体性痛が発生する。この頃には、反跳痛([[ブルンベルグ徴候]])といった[[腹膜刺激症状]]が出現する。これは概念上の話であり、炎症が激しくなり組織障害が強くなれば、関連痛、内臓痛、体性痛という順に進行していく。
{{-}}
== 検査 ==
=== 問診 ===
* 自動車で搬送中に、[[減速帯]]を乗り越える振動で痛みが増強すると、虫垂炎である可能性が高い<ref>Ashdown HF et al. "[https://doi.org/10.1136/bmj.e8012 Pain over speed bumps in diagnosis of acute appendicitis :diagnostic accuracy study.]" BMJ 2012;345:e8012., {{doi|10.1136/bmj.e8012}}</ref>。
=== 身体所見 ===
*[[圧痛点]]
**マックバーニー点([[:en:McBurney's point]]):感度 50-94%, 特異度 70-86%。
**ランツ点(Lanz)
**キュンメル点(Kummel)
**モンロー点(Munro)
* [[腹膜刺激徴候]]
:腹部を圧迫してから急に手を離すと痛みが強くなる症状を[[反跳痛]] (Blumberg's sign)、腹部の筋が緊張して固くなっている状態を[[筋性防御]]と呼ぶ。これらは[[腹膜刺激徴候]]と呼ばれ、[[腹膜炎]]を示唆する。
* Rovsing徴候([[:en:Rovsing's sign|en]])
* Rosenstein徴候([[:en:Rosenstein's sign|en]]) : 左側臥位でMcBurney点を圧迫したときに、仰臥位より痛みが増強すること。
* Obturator sign: [[仰臥位]]で、右下肢と右膝関節をともに90度屈曲させた上で、大腿を内旋させる。[[内閉鎖筋]]が虫垂に当たることで疼痛の有無をみる。感度 8%, 特異度 94%<ref>Steeven McGee. Evidence-Baced Physical Diagnosis. W.B Saunders Company,2001</ref>。
* Psoas sign: 二通りの方法がある。
# 仰臥位で、検者が右大腿を手で押さえ、患者に右股関節を屈曲してもらう。
# 左側臥位で右下肢を伸ばさせ、検者が他動的に右股関節を進展させる。
: ともに痛みが増強すれば、[[腸腰筋]]が化膿した虫垂に当たっていると診断する。感度 16%, 特異度 95%。<ref>Wagner JM, et al. Does this patient have appendicitis? JAMA 1996;276:1589-94.</ref>
* Heel drop sign: 被験者が立位でつま先立ちをした後、踵を床に勢いをつけて落とす。痛みが出現すれば陽性。感度 93%<ref>林寛之.ステップビヨンドレジデント2 救急で必ず出会う疾患編.</ref>。
=== 血液検査 ===
虫垂炎に特異的な所見はない。炎症反応が指標となる<ref>生駒茂、迫田晃郎、田畑峯雄 ほか、「[https://doi.org/10.11231/jaem1984.10.783 当院における小児急性虫垂炎と腸重積症の検討]」 『腹部救急診療の進歩』 1990年 10巻 5号 p.783-787 , {{doi|10.11231/jaem1984.10.783}}</ref>。
* [[白血球]]数は炎症に伴って増加する。
* [[C反応性蛋白|CRP]]も同様に上昇する。
=== CT ===
[[File:AppendicitisMark.png|thumb|CT画像例]]
虫垂の腫大や、周囲脂肪組織の濃度上昇がみられ、一般的に多くの病院で診断に用いられている。[[造影剤]]を用いる造影CT検査ではより正確であり、感度、特異度ともに98%であり、正診率は高い。
=== 超音波検査 ===
比較的解像度の良好な最新の[[超音波検査]]機器では虫垂の形態評価に関して極めて有用である。しかし、超音波検査は、虫垂が盲腸の背側に隠れると描出できない、機器の精度・検査技術の技量に大きく左右される、などの理由で正確な診断に至らないこともある。近年、小児の虫垂炎診断においてCTによる検査が減少する一方、エコー検査が増加したが、臨床的な転機に変わりがないことが報告されている<ref>Bachur RG, et al. Effect of Reduction in the Use of Computed Tomography on Clinical Outcomes of Appendicitis. JAMA Pediatr. Published online June 22, 2015. doi:10.1001/jamapediatrics.2015.0479</ref>。
{{-}}
== 診断 ==
虫垂炎はありふれた疾患であるが、正確な診断は非常に難しい。腹痛を起こす疾患は数限りなくあり、右下腹部痛だけとっても[[腸炎]]、[[大腸憩室症]]、卵巣炎、卵管炎、さらには単なる[[便秘]]なども考えなくてはならない。超音波検査やCTで炎症性に腫大した虫垂が描出されれば診断はほぼ確定するが、すべての症例にみられるわけではない。したがって、虫垂炎の診断はあらゆる情報を総合的に判断した結果“最も可能性の高い疾患”として下されることになる。
乳幼児や老人では病状の割に症状や炎症所見が弱いことが多く、診断や治療が遅れる原因になる。感染に対する[[生体反応]]が弱いためと考えられる。
妊婦では[[子宮]]に圧迫されて虫垂が本来の位置から移動しており、典型的な症状が出ないことがある。また炎症が限局せず重症化する傾向にある。
{| class="wikitable" style="float: right; margin-left:15px; text-align:center"
|+ Alvarado スコア
|-
| 痛みの中央から右下方への移動
| 1 点
|-
| 食欲不振
| 1 点
|-
| 嘔吐
| 1 点
|-
| 右下腹部の圧痛
|2 点
|-
| 反跳痛
|1 点
|-
| [[発熱]]
|1 点
|-
| [[白血球]]数>10000 /μL
|2 点
|-
|[[核]]の左方移動(好中球での[[桿状核球]]の増加)
|1 点
|-
!合計
!10 点
|}
Alvarado スコア<ref>Owen TD, et al. Evaluation of the Alvarado score in acute appendicitis. J R Soc Med. 1992; 85(2): 87–88.</ref> も(頭文字を取りMANTRELS スコアとも呼ばれる)が診断の際によく用いられる。10点満点のうち、6点以上で急性虫垂炎を疑う。7点以上の場合、[[感度]]は76.3%、[[特異度]]は78.8%という報告がある。
極端に太っている人も診断が困難な傾向にあり、俗に「相撲取りが盲腸になると命取り」などと言われる。これは1938年(昭和13年)12月4日に[[横綱]]の[[玉錦三右エ門]]と、さらに1971年(昭和46年)10月11日にも同じ横綱の[[玉の海正洋]]が、それぞれ現役のまま、入院先の病院で開腹手術後間もなく死亡するという衝撃的な事件が起きてから、特に有名になっている。なお、玉錦の場合は虫垂炎にかかっていながら病の可能性を考えずにいたばかりか、医者に診せた方がいいと言われても信じず発見が遅れた結果こじらせて[[腹膜炎]]を起こし、化膿箇所の除去手術は受けたものの、医師が指示した療養に本人が全く従わずに、術後に腹膜炎がさらに悪化して死に至った。玉の海も虫垂炎を腹膜炎の一歩手前位までこじらせていながら、ずっと薬で痛みを散らし続けていた。その後除去手術は成功したが術後約1週間が経った頃、退院を翌日に控えていながら[[静脈血栓塞栓症|術後肺血栓]]を併発して急死した。力士は腹部の筋肉や脂肪が厚いことから手術が困難であり、しかも肥満体の患者は術後に血栓症を起こしやすいと言われているが、当時そのことは知られていなかった。皮肉にも玉の海は玉錦の孫弟子(玉錦→[[玉乃海太三郎|玉乃海]]→玉の海)である。
=== 主な鑑別疾患 ===
多彩な疾患の症状として下腹部痛が生じるため多岐に渡る。
* 消化器系
** 腸炎、大腸憩室炎、便秘、腸閉塞
* 生殖器系
** 卵巣炎、卵管炎、異所性妊娠、[[骨盤腹膜炎]]<ref>花城徳一, 石川正志, 西岡将規 ほか、「[https://doi.org/10.3919/jjsa.64.198 急性虫垂炎と診断して手術を行ったクラミジア骨盤腹膜炎の6例]」 『日本臨床外科学会雑誌』 2003年 64巻 1号 p.198-201, {{doi|10.3919/jjsa.64.198}}, 日本臨床外科学会</ref>
* 循環器系
** 大動脈解離
* 泌尿器系
** 腎盂腎炎
* 呼吸器系
** 肺炎
* ほか
** 子宮内膜症<ref>藤澤秀樹、千見寺徹、水谷正彦 ほか、「[https://doi.org/10.5833/jjgs.23.1928 急性虫垂炎症状を呈した虫垂子宮内膜症の1例]」 『日本消化器外科学会雑誌』 1990年 23巻 7号 p.1928-1931, {{doi|10.5833/jjgs.23.1928}}</ref>
== 治療 ==
炎症が軽度であれば絶食・輸液管理を行い、[[セファロスポリン|セフェム系]][[抗菌薬]]投与を行うことで回復することも多い<ref>Svensson JF, et al. Non-operative Treatment With Antibiotics Versus Surgery for Acute Non-perforated Appendicitis in Children: A Pilot Randomized Controlled Trial. Ann Surg. 2014 Jul 28. [Epub ahead of print]</ref><ref>Salminen P, et al. Antibiotic Therapy vs Appendectomy for Treatment of Uncomplicated Acute Appendicitis: The APPAC Randomized Clinical Trial. JAMA. 2015;313(23):2340-2348. doi:10.1001/jama.2015.6154.</ref>。このような治療は俗に「盲腸を散らす」と呼ばれる。
: [[アモキシシリン]]/[[クラブラン酸]](AMPC/CVA)による非手術的治療を受けた急性単純性虫垂炎患者159人を対象とした最近の研究によると、2年全再発率は13.8%であった<ref>Di Saverio S, et al. The NOTA Study (Non Operative Treatment for Acute Appendicitis): prospective study on the efficacy and safety of antibiotics (amoxicillin and clavulanic acid) for treating patients with right lower quadrant abdominal pain and long-term follow-up of conservatively treated suspected appendicitis. Ann Surg. 2014;260(1):109-117.</ref>。
: [[スウェーデン]]で行われた別の研究では、成人の虫垂炎に対し、一次治療に抗菌薬を用いた後に虫垂切除術を必要とした虫垂炎累積再発率は、1年、2年、3年、5年後にでそれぞれ9%、12%、12%、13%であった。最終的に8年後の虫垂切除術の未実施率は86%であった<ref>Lundholm K, et al. Long-Term Results Following Antibiotic Treatment of Acute Appendicitis in Adults. World J Surg. 2017 Mar 24. [Epub ahead of print] doi:10.1007/s00268-017-3987-6.</ref>。
: 米国の虫垂炎に対する抗菌薬と虫垂切除術とを比較する無作為化試験では、抗菌薬は虫垂切除術に対して非劣性を示した。しかし抗菌薬群では、その後90日のフォローにて約30%が最終的に虫垂切除術を受けた。<ref>The CODA Collaborative. A Randomized Trial Comparing Antibiotics with Appendectomy for Appendicitis. N Engl J Med 2020; 383:1907-1919. DOI: 10.1056/NEJMoa2014320</ref>
: フィンランドで行われた経口抗菌薬([[モキシフロキサシン]])群と注射薬 [[エルタペネム]]+[[レボフロキサシン]]群の比較では、奏効率はそれぞれ 70%, 74% であった。一年以内に虫垂切除術が必要となった割合はともに30%近くであった<ref>Sippola S et al. Effect of oral moxifloxacin vs intravenous ertapenem plus oral levofloxacin for treatment of uncomplicated acute appendicitis: The APPAC II randomized clinical trial. JAMA 2021;325(4):353-362. DOI:10.1001/jama.2020.23525</ref>。
炎症が高度になる場合などは[[虫垂切除術]]を勧められるが、その判断基準はケースバイケースである。一般的に虫垂炎は[[外科学]]で扱う古典的な疾患であるくらいに[[手術]]の方が確実で2時間ほどの施術で早く、しかもほとんど副作用の無い治療法である。よって炎症の度合いと手術のリスクを天秤にかけ、それに患者本人の希望を入れて決定される。
一般的に手術的加療を考慮するポイントは次のとおりである。
*'''腹部症状・炎症所見が強い場合''':[[胃腸穿孔|穿孔]]・[[膿瘍]]形成が疑われる場合には原則として手術。
*'''糞石がある場合''':[[糞石]]を取り除かないと症状改善が期待できない。
*'''幼児''':進行が急速で穿孔しやすく、また重症度の判断が難しいため。
*'''妊婦''':重症度の判断が難しく、また万が一穿孔した場合に[[胎児]]への悪影響が懸念されるため。
== 予後 ==
一般に[[予後]]は良好である。しかし[[腹膜炎]]を併発すると敗血症に至り、死亡することもある。
== 歴史 ==
; 検査の歴史的変遷
: CTが登場する以前は虫垂炎の診断は非常に困難であった。医師は自らの経験と感覚を頼りに、文字通り手探りの診療を行っていた。強い腹痛で治療が必要な状態はひっくるめて「急性腹症」と呼ばれ、最終的な診断に至らないまま治療を受けざるを得なかったのである。しかし[[1980年代]]以降、CTや超音波検査に代表される画像診断が急速に発達し詳細な画像が得られるようになったため、診断精度は大幅に向上した。
; 治療の歴史的変遷
: [[鶴岡市立荘内病院]]の[[筒井省二]]は、第二次大戦中の最も困難期に地域医療に挺身し、当時まだ切腹として恐れられていた虫垂炎の手術を定着させた。その後は、虫垂炎といえばすぐ手術であった。診断精度が低く重症例が見逃されるおそれがあったため、手術でさっさと白黒つけた方が安全だったのである。2007年時点においても手術が主な治療であることに変わりはないが、診断精度が格段に向上し、また強力な抗菌薬が開発されたことから、手術以外の治療も行われている。1997年には、[[埼玉医科大学病院]][[小児外科学|小児外科]]が急性虫垂炎に対する[[術式]]ONE-TROCAR法を開発した。
== 出典 ==
*[http://mmccenta.jp/sinryoka/surgery/appendicitis/ 虫垂炎について] 国立病院機構 まつもと医療センター
* [https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/201710/553365.html 「虫垂炎スコア」が小児急性腹症の診断を支援] 日経メディカル 2017年10月26日
* {{PDFlink|[http://medical.radionikkei.jp/kansenshotoday_pdf/kansenshotoday-150218.pdf 小児急性虫垂炎の治療方針]}} ラジオ日経 放送日2015年2月18日
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
<!--項目の50音順-->
* [[さくらももこ]] - 20歳の頃に虫垂炎になり、その体験を「盲腸の朝」という作品で漫画化した。[[りぼんマスコットコミックス]]『[[ちびまる子ちゃん]]』第3巻収録。後に「まるちゃん盲腸になるの巻」でアニメ化(第1期16話、1990年4月22日放送)。
* [[消化器外科学]]
* [[大腸肛門外科学]]
* [[小児外科学]]
* [[疼痛]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|虫垂炎|2=世界大百科事典 第2版}}
* [http://www.jsps.gr.jp/general/disease/gi/sg2qey 急性虫垂炎] 日本小児外科学会
{{Normdaten}}
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17,385 |
伝聞証拠禁止の原則
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伝聞証拠禁止の原則(でんぶんしょうこきんしのげんそく)とは、伝聞証拠(後述)の証拠能力を否定する訴訟法上の原則を言う。これにより、伝聞証拠は原則として証拠とすることができない。単に伝聞法則(でんぶんほうそく)とも呼ばれる。
日本法では、この原則は刑事訴訟にのみ認められる(刑事訴訟法320条1項)。ただし、同法321条以下に伝聞証拠であってもこれを証拠とすることができる例外的な場合に関する規定を置いている(→#伝聞例外)。アメリカ法にあっては、州法・連邦法によって多少の差異はあるものの(大部分の州法は連邦法の伝聞証拠規則を準拠しているが、州法独自の伝聞証拠規則を持つこともある)、民刑事を問わずに妥当する重要な法原則(Hearsay Evidence Rule)の一つである。
この原則の理論的説明は、日本の刑事訴訟法の通説たる学説では次のようになされる。
まず、伝聞証拠とは、公判廷における供述に代えて書面を証拠とする場合、または、公判廷外における他の者の供述を内容とする供述を証拠とする場合であって、原供述(元々の供述)の内容の真実性が問題となる証拠を言う(形式説。この点につき、伝聞証拠を反対尋問によるテストを経ていない供述証拠とする実質説もある)。例としては、関係者の供述を書面に落とした場合にその書面が証拠と認められるかどうか、という形で現れる。また、他の者の供述を内容とする供述とは、例えば、目撃者が犯行状況を話したのを証言者が聞いた、という場合に、目撃者本人ではなく間接的に聞いた証言者の供述のみで、犯行状況に関する証拠として用いてよいかどうか、ということを意味する。
供述証拠は、知覚・記憶・表現・叙述の過程を経て公判廷にあらわれる。そして、この各過程にあって誤りが生じる可能性がある。見間違い、記憶違い、言い間違い、嘘をついているなどの可能性があるからである。この誤りの可能性は、対立当事者などによる(反対)尋問によってただされ、本人の一通りの供述だけをそのまま証拠とするのとくらべて、裁判の過程で証拠として取り扱うのに支障のない程度まで縮減されると考えられている(これは当該供述を証拠として取り扱って良いかどうか、という証拠能力の問題であり、その供述に表れた内容が認定できるかどうかは、証明力の問題として別途吟味される)。
しかし、供述が伝聞証拠という形で公判廷に提示されるとすると、対立当事者などが(反対)尋問をすることはできない。すなわち、書面に反対尋問をすることはできないし、又聞きの場合には、原供述者の誤りについては反対尋問をすることができない。上記の例で言えば、目撃者の供述に誤りがないかは、目撃者を(反対)尋問しなければ確認する過程を経ることができず、それを聞いたと言う供述者を尋問しても、確かに目撃者がそう言っていたかどうかについては検証することができても、それ以上の検討はできない。
したがって、伝聞証拠を証拠とすると事実認定に誤りを生じる可能性が類型的に高いことから、証拠能力を否定して原則これを証拠とすることは出来ない、とするものである。
以上の理論を実定化したものが刑事訴訟法320条である。
刑事訴訟法320条の理論的根拠はもっぱら憲法37条2項の証人審問権にあるとする見解がある。ただ、刑事訴訟法上の伝聞法則が弁護側と検察側とを区別していないことから、証人審問権のみでは伝聞証拠の理論的根拠として不十分であるとの批判がある。
伝聞証拠は原則として証拠とすることができないため(刑事訴訟法320条)、供述内容を証拠としたい場合には、原供述者を公判廷に呼び実際に証言をさせることになる。ところが、原供述者が死亡している場合など、その方策をとることができないことがある。このため、あらゆる場合に伝聞証拠を完全に証拠から排除すると、真実の発見に困難を生じることが予想される。
刑事訴訟法では321条以下に伝聞証拠であってもこれを証拠とすることができる例外的な場合に関する規定を置いている。これら例外のなかでは、原供述者に対する証言ができない場合には、一定の要件のもとで伝聞証拠であっても証拠能力を認めている。その中でも、裁判官や検察官の面前における供述については、通常の場合よりも要件が緩和されている。
「被告人以外の者」には共同被告人も含むと解されている。
|
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伝聞証拠禁止の原則(でんぶんしょうこきんしのげんそく)とは、伝聞証拠(後述)の証拠能力を否定する訴訟法上の原則を言う。これにより、伝聞証拠は原則として証拠とすることができない。単に伝聞法則(でんぶんほうそく)とも呼ばれる。 日本法では、この原則は刑事訴訟にのみ認められる(刑事訴訟法320条1項)。ただし、同法321条以下に伝聞証拠であってもこれを証拠とすることができる例外的な場合に関する規定を置いている(→#伝聞例外)。アメリカ法にあっては、州法・連邦法によって多少の差異はあるものの(大部分の州法は連邦法の伝聞証拠規則を準拠しているが、州法独自の伝聞証拠規則を持つこともある)、民刑事を問わずに妥当する重要な法原則の一つである。
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'''伝聞証拠禁止の原則'''(でんぶんしょうこきんしのげんそく)とは、[[伝聞]]証拠(後述)の[[証拠能力]]を否定する[[訴訟法]]上の原則を言う。これにより、伝聞証拠は原則として[[証拠]]とすることができない。単に'''伝聞法則'''(でんぶんほうそく)とも呼ばれる。
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== 日本法での原則 ==
=== 概要 ===
この原則の理論的説明は、日本の[[刑事訴訟法]]の通説たる学説では次のようになされる。
まず、'''伝聞証拠'''とは、[[公判廷]]における[[供述]]に代えて[[書面]]を証拠とする場合、または、公判廷外における他の者の供述を内容とする供述を証拠とする場合であって、原供述(元々の供述)の内容の真実性が問題となる証拠を言う(形式説。この点につき、伝聞証拠を[[反対尋問]]によるテストを経ていない供述証拠とする実質説もある)。例としては、関係者の供述を書面に落とした場合にその書面が証拠と認められるかどうか、という形で現れる。また、他の者の供述を内容とする供述とは、例えば、目撃者が犯行状況を話したのを証言者が聞いた、という場合に、目撃者本人ではなく間接的に聞いた証言者の供述のみで、犯行状況に関する証拠として用いてよいかどうか、ということを意味する。
供述証拠は、知覚・記憶・表現・叙述の過程を経て公判廷にあらわれる。そして、この各過程にあって誤りが生じる可能性がある。見間違い、記憶違い、言い間違い、嘘をついているなどの可能性があるからである。この誤りの可能性は、対立当事者などによる(反対)尋問によってただされ、本人の一通りの供述だけをそのまま証拠とするのとくらべて、裁判の過程で証拠として取り扱うのに支障のない程度まで縮減されると考えられている(これは当該供述を証拠として取り扱って良いかどうか、という証拠能力の問題であり、その供述に表れた内容が認定できるかどうかは、[[証明力]]の問題として別途吟味される)。
しかし、供述が伝聞証拠という形で公判廷に提示されるとすると、対立当事者などが(反対)尋問をすることはできない。すなわち、書面に反対尋問をすることはできないし、又聞きの場合には、原供述者の誤りについては反対尋問をすることができない。上記の例で言えば、目撃者の供述に誤りがないかは、目撃者を(反対)尋問しなければ確認する過程を経ることができず、それを聞いたと言う供述者を尋問しても、確かに目撃者がそう言っていたかどうかについては検証することができても、それ以上の検討はできない。
したがって、伝聞証拠を証拠とすると事実認定に誤りを生じる可能性が類型的に高いことから、証拠能力を否定して原則これを証拠とすることは出来ない、とするものである。
以上の理論を実定化したものが[[刑事訴訟法]]320条である。
刑事訴訟法320条の理論的根拠はもっぱら[[日本国憲法第37条|憲法37条]]2項の証人審問権にあるとする見解がある。ただ、刑事訴訟法上の伝聞法則が弁護側と検察側とを区別していないことから、証人審問権のみでは伝聞証拠の理論的根拠として不十分であるとの批判がある。
===伝聞例外===
伝聞証拠は原則として証拠とすることができないため([[刑事訴訟法]]320条)、供述内容を証拠としたい場合には、原供述者を公判廷に呼び実際に証言をさせることになる。ところが、原供述者が死亡している場合など、その方策をとることができないことがある。このため、あらゆる場合に伝聞証拠を完全に証拠から排除すると、真実の発見に困難を生じることが予想される。
刑事訴訟法では321条以下に伝聞証拠であってもこれを証拠とすることができる例外的な場合に関する規定を置いている。これら例外のなかでは、原供述者に対する証言ができない場合には、一定の要件のもとで伝聞証拠であっても証拠能力を認めている。その中でも、[[裁判官]]や[[検察官]]の面前における供述については、通常の場合よりも要件が緩和されている。
*被告人以外の者の供述書面(321条)
「被告人以外の者」には共同被告人も含むと解されている。
:*[[裁判官面前調書]](同条1項1号)
::[[裁判官]]の面前における供述を録取した書面は、次の各場合に証拠能力が認められる。「1号書面」、「裁面調書」とも呼ばれる。
::#供述者の死亡・心身故障・所在不明・国外滞在により、[[公判]]期日・公判準備期日に供述できないとき(同号前段)。
::#供述者が公判期日・公判準備期日に、前の供述と異なった供述をしたとき(同号後段)。
:*[[検察官面前調書]](同条1項2号)
::[[検察官]]の面前における供述を録取した書面は、次の各場合に証拠能力が認められる。「2号書面」、「検察官調書」、「検面調書」とも呼ばれる。特に、後段の規定により、証人が公判で捜査段階と異なる供述をした場合に、検察官が捜査段階の検察官調書を提出することができることは、実務上重要な意味を持つ。
::#供述者の死亡・心身故障・所在不明・国外滞在により、公判期日・公判準備期日に供述できないとき(同号前段)。列挙されている事由は例示列挙であると解され、一般的に供述不能の場合を含むと考えられている。例えば、被告人の近親者が供述拒否権(147条)を行使した場合は法律上の供述不能にあたる。
::#供述者が公判期日・公判準備期日に、前の供述と相反するか、若しくは実質的に異なった供述をしたが(実質的相反供述)、前の供述を“信用すべき特別の情況”(特信情況)のある場合(同号後段)。実質的相反供述とは、異なった事実認定を導くおそれのある供述をいう。「前の供述を信用すべき特別の情況」とは、検察官の面前における供述に信用性の情況的保障があるということでもよいし、逆に公判廷での供述に信用性を疑わせる情況があるということでもよい。実務上問題になることが多いのは後者である。
:*[[司法警察員面前調書]]等(同条1項3号)
::1号、2号以外の書面は、次の場合に証拠能力が認められる。警察官([[司法警察員]]、[[司法巡査]])に対する供述調書(「警察官調書」、「員面調書」又は「巡面調書」)はこれに当たり、これを証拠として提出するためには厳格な要件が課されている。被害届などもこれに当たる。「3号書面」とも呼ばれる。私人が録取した書面(弁護人等)も本号に該当する。
:::供述者の死亡・心身故障・所在不明・国外滞在により、公判期日・公判準備期日に供述できないときで(供述不能)、かつ、その供述が犯罪事実の存否の証明に欠くことができず(不可欠性)、しかも、その供述が特に信用すべき情況においてなされたとき(絶対的特信情況)。
:*証人尋問調書・検証調書(同条2項)
::被告人以外の者の公判準備若しくは公判期日における供述を録取した書面は、無条件で証拠能力を認められる。
::[[裁判官]]の[[検証]]の結果を記載した書面も、無条件で証拠能力を認められる。
:*捜査機関の検証調書(同条3項)、鑑定人の鑑定書(同条4項)
::[[捜査機関]]の検証の結果を記載した書面(検証調書)は、作成者の真正作成供述(作成者が公判期日において証人として尋問を受け、真正に作成したことを供述する)を条件に、証拠能力を認められる(同条3項)。[[実況見分]]調書も同様と解されている。
::[[裁判所]]が命じた[[鑑定]]の経過及び結果を記載した書面で、鑑定人の作成した書面(鑑定書)も、鑑定人の真正作成供述を条件に証拠能力を認められる(同条4項)。捜査機関の嘱託を受けた鑑定受託者の作成した書面(科捜研の作成した尿の鑑定書など)は、直接同項には該当しないが、同様の趣旨から証拠能力が認められている。
*被告人の供述書面(322条)
**被告人の供述書及び供述録取書一般(同条1項)
*:[[被告人]]が作成した供述書又は被告人の供述を録取した書面(供述調書)については、不利益な事実の承認を内容とするとき(任意性が必要)又はその供述が特に信用すべき情況においてなされたときに証拠能力が認められる。任意性の立証は319条1項に準じる([[自白法則]]を参照)。
**公判供述調書(同条2項)
*:被告人の公判準備又は公判期日における供述を録取した書面については、供述が任意にされたものであると認められるときに証拠能力が認められる。
*その他の特信文書(323条)
:特に信用すべき情況の下に作成された、と言えるものを列挙している。
:*戸籍謄本、公正証書謄本その他公務員がその職務上証明できる事実についてその公務員の作成した書面(同条1号)
:*商業帳簿、航海日誌その他業務の通常の過程において作成された書面(同条2号)。領収書については、個々の相手方に対して発行されるもので、「業務の通常の過程で作成された書面」にあたらないとした裁判例がある(東京地決昭和56年1月22日判時992号3頁)
:*その他特に信用すべき情況の下に作成された書面(同条3号)
*伝聞供述(324条)
:原供述者が被告人かどうかで分けて規定されている。
:*被告人の供述を内容とする被告人以外の者の供述(同条1項)
::322条の規定が準用される。
:*被告人以外の供述を内容とする被告人以外の者の供述(同条2項)
::321条1項3号の規定が準用される。
*同意書面(326条)
:検察官及び被告人が証拠とすることに同意した書面又は供述は、書面作成時又は供述時の情況を考慮し相当と認めるときは、これを証拠とすることができる。この同意の法的性質をめぐっては、端的に証拠能力の付与と考えるか反対尋問権の放棄と考えるか争いがある。証拠能力の付与と捉える説は、被告人の供述(322条)が同意の対象となっていることを根拠とする。
*合意書面(327条)
:検察官及び被告人又は弁護人が合意の上、文書の内容又は公判期日に出頭すれば供述することが予想されるその供述の内容を書面に記載して提出したときは、その書面を証拠とすることができる。これまで実務上は、合意書面が利用されることは稀であったが、[[裁判員制度]]の実施にあたっては合意書面の利用も必要になるのではないかと指摘されている。
*[[補助証拠]](328条)
:伝聞証拠であって本来は証拠として使用できないものであっても、被告人証人その他の者の供述を争うためには、これを証拠とすることができる。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[証拠]]
* [[事実認定]]
* [[自由心証主義]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|伝聞証拠}}
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[[Category:日本の刑事証拠法]]
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成田市
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成田市(なりたし)は、千葉県の北部中央に位置する市。
印旛地域にある業務核都市で、成田都市圏の中心都市であり、成田商圏を形成する商業中心都市。国家戦略特区、構造改革特区、国際観光モデル地区、国際会議観光都市および拠点空港都市。財政力指数は日本全国813市区中第4位であり、門前町の歴史的町並みは日本遺産に認定されている。
1954年(昭和29年)市制施行。
国際線旅客数および貿易額日本最大の国際拠点空港である成田国際空港を有する国際ビジネス・イノベーションの拠点空港都市である。初詣の寺院参拝客数日本一の成田山新勝寺(成田参詣)などで知られており、市の観光入込客数は推計で約1319万人、宿泊客数は約308万人を記録する日本屈指の観光都市でもある。
訪日観光客がよく利用する所謂「ゴールデンルート」と称される関西国際空港 - 大阪 - 京都 - 名古屋 - 富士山 - 箱根 - 東京 - 成田 - 成田国際空港の訪日観光コース上の拠点(宿泊・周辺観光)となっている。また、観光庁による広域観光周遊ルート形成促進事業の広域関東周遊ルート「東京圏大回廊」においても江戸回廊ルートとして組み込まれている。
古くから成田山新勝寺、宗吾霊堂の二大霊場を有する門前町として栄えた。明治時代には宮内庁下総御料牧場が置かれるなど、1950年代まで観光と農業の振興を二大施策とした純農村型都市であった。1960年代に入ると市の南東部に成田国際空港の建設が決定され、1978年(昭和53年)の空港開港や日本の高度経済成長期(1954年 - 1973年)とともに成田市の市域が拡大し、経済発展の影響から産業構造に多大な変化がもたらされた。現在では農業人口は減少し都市近郊農業型へと転換している。その反面、ゴルフ場や空港関連のサービス業など第三次産業が生まれ、新たな雇用が創出された。また観光面にも力を入れており、成田山新勝寺では正月三が日だけで270万人(非公式)、年間4000万人(成田市推計)ともいわれる参拝客で賑わう。
成田空港における航空機の騒音であるが、成田市街地からは離れた丘陵部に位置しているため、航空機の騒音被害を殆ど受けない地域も多い。航空機の騒音被害を受けるのは、空港の滑走路周辺と航路直下である。空港用地の大部分は成田市に属するため、固定資産税などの関連税収は成田市に入ることが多く、財政の豊かさは全国有数である。しかし、空港用地の一部がかかる芝山町などの被害は見過ごされがちであるのに対し、空港利益を独り占めしているという批判もある。現在、地域と共生する空港づくり掲げ、航空需要の増大に従う騒音問題などに向き合っている。
1986年(昭和61年)には東京一極集中の回避を目的とする業務核都市に指定され、千葉県からは千葉新産業三角構想の中核都市として位置付けられている。国の構造改革特別区域法に基づき2003年(平成15年)4月21日に国際空港特区、同年5月23日には国際教育推進特区に認定された。2006年(平成18年)3月27日、香取郡下総町、大栄町を吸収編入した。
東洋経済新報社による「安心度」「利便度」「快適度」「富裕度」の4つの観点から住みやすい都市を評価する「住みよさランキング」では、2009年度全国総合1位の評価を受けている。また、通勤圏を考慮した新方式では東京都稲城市に次いで2位の評価を受けている。
千葉県の北部中央に位置し、都道府県庁所在地の千葉市から約25キロメートルの距離である。東京都の都心から50 - 60キロメートル圏内である。成田市の中心市街地(市役所の位置)から成田国際空港までは更に約5キロメートル離れている。
下総台地に位置し、成田山新勝寺およびその門前町を中心に展開している。面積は213.84 平方キロメートル(千葉県下6位)で、県土の4.1%。市の南西部に門前町(旧市街地)とニュータウンが、南東部の丘陵地帯に成田国際空港がある。これらの地域郊外には農業地帯が広がる。市の西部にある印旛沼、北辺の茨城県との県境を流れる利根川から農業用水の取り込みを行っており、重要な水源でもある。
位置
千葉県北部中央の北総台地に位置する。標高は最低標高の1メートル(安西地先)から最高標高の42メートル(南三里塚地先)となっている。成田市の市域の5分の3の面積は海抜10メートルから海抜40メートルの丘陵部であり、関東ローム層が地表を覆う高燥な台地となっている。残りは印旛沼や根木名川水系から入る浸食谷による平らな低湿地帯であり、土地利用も全く異なる。
台地部では山林と畑が混在し野菜畑や落花生畑、牧草地などに、低地部は豊かな水に恵まれ水田に利用されてきた。現在も美しい田園風景が広がっている。また、下総台地の崖下に市街地が広がっており、「急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律」に該当する急傾斜崩壊危険区域が市内に68箇所ある。成田層(固結した砂層)が雨水によって侵食され、固結粘土層との間にすべりを生じ関東ローム層とともに崩壊する事例が台風などによる大雨により発生することが度々あり、擁壁工などの整備が進められている。
市域
広袤(こうぼう):東西20.1キロメートル 南北19.9キロメートル
自然
一級河川:利根川、大須賀川、根木名川、派川根木名川、尾羽根川、荒海川、小橋川、取香川、十日川、派川十日川、竜台川
湖沼:北印旛沼、坂田ケ池、弁天池、バタ池(羽田池)、西池、浅間池
年間の平均気温は14.2度、年間降水量は1429.1ミリメートル。年間通して比較的温暖な気候に恵まれる千葉県の中では気温が低い。1月の最低気温の平均は千葉市で1.9度に対し、-2.4度。毎年氷点下5度以下を記録し、年間の0度未満の冬日日数は50 - 80日ほどであり、千葉県の沿岸部とは大きな気候の違いがある。過去最低気温は1984年(昭和59年)1月20日に-10.7度を記録している。春から夏にかけて南西の風が強く吹くことが多く、夜間に放射霧が発生する割合が高い。霧が発生し易い理由として内陸性気候で気温の日較差が激しく、周辺の利根川、印旛沼、中小河川、耕地や水田などが多湿な状況を作り出していることが挙げられる。
猛暑日(35°C以上)最多日数:9日(2022年)
冬日(0度未満)最多日数:86日(2011年)
※成田市内に香取郡多古町一鍬田の飛地が存在する。
成田(なりた)の地名の由来には諸説あり
などの説がある。
※成田市の歴史と、旧下総町・大栄町の歴史とは別項目にわけることとする。
成田付近には旧石器時代の約3万年前から人間が居住していたことが、空港建設に伴う発掘調査(新東京国際空港No.55遺跡(古込))によって判明し、発掘された楕円形石斧は千葉県内最古の遺物として位置づけられている。
縄文時代の南羽鳥中岫第1遺跡では、人頭形土製品などが出土し、国の重要文化財に指定されている。また関東地方最後の大貝塚である荒海貝塚などがあり、縄文時代最後の土器とされる「荒海式土器」が発掘され、国立歴史民俗博物館(佐倉市)の調査では稲作の可能性が明らかにされている。西暦3世紀終わり頃の古墳時代、市内には多くの古墳が出現した。近隣の龍角寺古墳群や日吉倉古墳群を含め、約340基の古墳が存在する。成田市は、水運に恵まれ、大和王権にとっては、重要なルート上に位置し、政治・軍事・経済上重要な地域だったとされる。市域では、成田ニュータウンに位置する船塚古墳が全国的に有名であり、周堀と土堤をめぐらした完全な姿は偉容である。また、古墳用の埴輪を焼いた登り窯(公津原埴輪窯跡)が古墳のすぐ近くで発見されたが、成田ニュータウンの造成により消滅した。千葉県内には他にもう1ヵ所、木更津市畑沢に畑沢埴輪窯跡が発掘されたのみで、貴重な遺跡であった。古文書に成田市域の地名が出るのは755年『万葉集』に「印波郡丈部直大歳、埴生郡大伴部麻与佐」の歌がみえる。埴生郡(はにふのこほり)は、成田市近辺と推測される。
『万葉集』「第20巻4392番」より和歌の詳細については、以下を参照。
成田の文字が確認されるのは、1408年(応永15年)成田村安養寺(現在は永興寺安置)の聖観音菩薩坐像胎内に「成田郷 応永十五年」の銘がみえる。940年(天慶3年)承平天慶の乱(平将門の乱)が平定され、新勝寺が創建されたと同寺縁起(制昨年不明)では記される。
江戸時代中期、成田は門前町としての色を濃くしていった。参拝者の増加と共に、飯屋や居酒屋などが次第に専業化していった。記録によると、1701年(元禄14年)には旅籠が1件もない農村であったが、1843年(天保14年)には旅籠32軒となっている。煙草、刀剣の研、髪結、提灯、蝋燭、傘、下駄屋などがあり、江戸との間を結ぶ成田街道をはじめ、利根川の木下河岸(きおろしがし・現印西市)、常陸国を結ぶ滑川河川、香取・佐原・芝山・九十九里などを結ぶ道などが集中する交通の要衝として栄え、参拝者以外の旅人でも賑わった。1881年(明治14年)6月および1882年(明治15年)6月に、明治天皇が千葉県下の下総種畜場(後の宮内庁下総御料牧場)へ行幸する際に成田山を行在所(あんざいしょ)と定めた。境内には「明治天皇成田行在所」の碑が建てられている。
1871年(明治4年)に旧成田市域は印旛県に属し、1873年(明治6年)千葉県に統合された。1876年(明治9年)の大区小区制では、第10区11-16小区に属す。明治11年、埴生郡は下埴生郡と改称。印旛郡公津新田が八生村に、下埴生郡成木新田が公津村に編入され、1897年(明治30年)下埴生郡が印旛郡へと編入され、旧市域はすべて印旛郡となる。
江戸時代に佐倉七牧と呼ばれた馬の放牧地があり、明治時代に入るとその内の一牧「取香牧」(現・成田市取香・三里塚付近)に牧羊場が開場した。以後、宮内庁管轄となり下総御料牧場の基礎輸入牝馬で知られる「下総御料牧場」となる。この頃から下総台地の佐倉牧や小金牧などで開墾が行われ始め、成田の「十余三」はその13番目の開墾地名である。
明治以後は観光の振興に力を入れ、交通の整備が急速に進んだ。それ以前は東京から成田まで片道二日の行程が普通であったが、乗合馬車の整備により半日で到達可能になった。また鉄道敷設の気運が高まり、1901年(明治34年)成田鉄道(初代)により成田 - 我孫子(現・成田線)が開通、日本鉄道(現・常磐線)と接続し上野駅に直結させた。1910年(明治43年)には、成宗電気軌道(現千葉交通の前身)により成田門前 - 成田駅に県下初の電気軌道が運行を開始する。大正末期には、成田駅の乗降客数は千葉駅に次ぐ千葉県内第2位まで増加した。
明治期の成田は成田山参詣の恩恵を受け、特に活気に満ちていた。しかし急速に交通網が整備されたため、参詣客が増加する反面日帰り客の増加を招き、旅館業者の宿泊客が奪われ、転業するものが増えた。もっとも産業自体は活気に満ちており、この頃登場し、現在でも成田名物として有名な「栗ようかん」など、薬、酒、たばこ、飲食、料理、土産物屋などが参道に店を連ねた。町の発展に伴い、千葉郡にあった物産陳列館も成田町に移され、町立千葉県物産館が開館した。また成田町には佐倉警察署成田分署、佐倉裁判所成田出張所、成田郵便局、大日銀行、九十八銀行、各保険会社の代理店などが置かれ、現市域の中枢としての機能を有していた。
大正時代に入り、第一次世界大戦によってもたらされた活況や、その反動により起こった恐慌にも成田の参詣客数には関係なく、宿泊客数も増加した。この頃から、成田瓦斯会社(後に成宗電気軌道に合併)によって、市内にガス灯が灯るようになる、しかし、成宗電気軌道による電灯用電気供給により、以後ガス灯を圧倒していった。成田の経済を象徴するものとして、この頃成田銀行が一時経営不振に陥るが、その後川崎銀行の元で経営を再建、市内の中小銀行を併合し「総武銀行」、「千葉合同銀行」と改称、後に現在の「千葉銀行」となる。大正期、成田は第二次世界大戦前のピークを形作る。
昭和初期には「高くて、まずくて、不親切」と不評を買っていた、参道商店街がこの評判を払しょくするため、電車内での客引きを禁止したり、強引な呼び込みをやめるため、店舗前での呼び込みは1名、女性に限るなどの自浄作戦を展開するまでになった。
戦時中、『江戸時代、成田山の仁王門再建工事をしていた大工"辰五郎"が誤って高い足場から転落したが、成田山の焼印を押したお守りが二つに割れ、お不動様の霊験により軽い怪我で助かった』という伝承が伝わり、出兵兵士達の間で成田山の「身代わり札」が流行した。太平洋戦争末期、戦争の長期化により物資の不足が深刻化すると、成田山公園に設置されていた銅像やようかんの看板、不要不急線として成田鉄道(2代)の鉄道線(多古線)、次いで軌道線(旧成田電気軌道[成宗電気軌道])が廃線となり国に供出された。また、市内に直接的な空襲被害はなかったが、1945年(昭和20年)2月、八生国民学校校舎に米軍機が撃墜され墜落。校舎が全焼する事件が起き、米兵の引渡し騒動など一部混乱はおきたが特に害はなかった。1945年(昭和20年)8月15日、終戦を迎えたが相次ぐ凶作や急激な物価高騰の影響を受けて戦時下より一層生活困窮に陥った。また、消息不明未帰還者が相次ぐなど、市内にも戦争の残した爪跡は決して少くなかった。
終戦後は成田地域の百姓らは東京圏への行商をするものが多く現れた。一部は、あくどい商売を行い上質な着物一反と腐った芋を交換するなど、成田の評判を落とした行商人もいた。
終戦後、1953年(昭和28年)に町村合併促進法が制定され、翌年の1954年(昭和29年)3月31日、成田町、公津村、中郷村、久住村、豊住村、遠山村の1町6村が合併し、(旧)成田市が誕生する。成田は田園観光都市として、農業を中心とした都市形態であったが、1966年(昭和41年)6月22日の新東京国際空港建設計画(三里塚案)の発表、それに続く佐藤栄作内閣による7月4日の閣議決定(空港の位置及び規模について)によって町は一変することになる。
空港建設の決定に伴い、市議会は即時空港建設反対の決議をしたものの、翌月には決議を白紙に戻し、空港建設を積極的に協力する姿勢を打ち出した。しかし計画地近辺の地元住民らを中心に、何の説明もなく意見を無視し国家権力を振りかざした新空港建設に、激しい憤りの声が挙がった。市民の間では空港建設に対して賛否がわかれ、閣議決定に前後し、地元の約1千戸、3千人もの住民によって三里塚芝山連合空港反対同盟が結成。
1968年(昭和43年)3月10日には、反日共系全学連などと共に決起集会(第2次成田デモ事件)が行われ、警察との間で激しい衝突が繰り返された。 市役所には有刺鉄線を使ったバリケードが設けられたほか、商店はショーウィンドウをトタン板で囲い学生と警察との衝突に備えるなど市民生活にも影響が出るようになった。
その後も反対闘争は強化され、ついには死者を出すなど、深刻な社会問題と発展し、現代史に残る三里塚闘争や成田空港問題となる。相次ぐ流血の惨事に成田市では「暴力行為の排除と信仰の町成田の平和と繁栄の為に市民の協力を願う」との主の声明を出す。こうした混乱の中、1978年(昭和53年)5月20日、全国から約13,000人の機動隊員が動員され、厳戒態勢の中、現在の成田国際空港が開港した。
その後、空港関連事業として、東関東自動車道の開通、内陸工業団地、成田ニュータウンが千葉県北総開発局(現・千葉県企業庁)によって造成され、近年ではベッドタウン化が進み、人口も増加したが、現在は頭打ち傾向が顕著となり、人口の減少化が始まった。東京都内中心部に通勤・通学するには遠く、昭和40~50年代に始まったニュータウンは、徐々に空き地が目立ち始めている。また、旧大栄町、下総町で中途半端に開発された宅地造成の多くは、限界ニュータウンと呼ばれ、公共交通が通わず、空き地がほとんどとなっている。また、百貨店や大型ショッピングセンターが市内に立地し、北総地域の商業都市としての一面もある。しかし、政府による空港建設の強行は、地域住民・日本国政府・地方公共団体との間の信頼関係を崩壊させ、用地買収も進まず、成田空港は開港から35年以上経つ今日でも完全開港が成されていない。
備考
方言
成田の方言は利根川下流地域で使われる言葉である。「...しましょう」「...だろう」、或いは「...でしょう」など、話し手の意思を表すのに「べー」がよく使われる(例:遊んべー、行くべー)。この「べー」も場所により「だっぺ」や「だべー」と違いが見られる(茨城県では「だっぺ」や「ぺ」が使用されており、茨城寄りになるほど「ぺ」が使われる頻度が高まる)。また、単語にも地域の特性を持つものや標準語に近いものもある。おっぺす(押す)、かちゃっぱ(枯葉)などがよくつかわれる。
なまり
成田地方のなまりの特徴として、清音が濁音になることがあげられる。地名で「ねこさく」が「ねこざく」「ねござく」「ねござぐ」になったり、人名の大木「おおき」が「おおぎ」、話し言葉の良いか「いいか」が「いいが」になったりするなまりが顕著である。
2002年(平成15年)12月15日に成田地域任意合併検討協議会が初会合を開催、 2003年(平成15年)2月22日に成田地域任意合併検討協議会で、富里市、下総町、大栄町、多古町、芝山町、栄町、神崎町、栗源町、横芝町、蓮沼村の2市8町1村が法定協議会の規約を承認して翌月の参加各市町村の定例会に法定協議会設置の議案を提出することになった。
合併における争点の一つは、成田空港関連の固定資産税などの税収入をほぼ独占している成田市と、騒音問題を抱えているにもかかわらず、空港収入が少ない周辺市町村との温度差であった。合併の枠組みは、松尾町が山武地区の合併協議会へ参加したため離脱し、2市8町1村による議論になったが、2003年(平成15年)3月5日に成田市議会が11市町村での法定協議会設置を否決して市長の小川国彦(当時)が辞意表明し、空港圏合併任意協議会は解散した。
空港関連収入の取り分が少なくなることを嫌って、その後成田市は「成田市への編入合併」を前提に富里市、香取郡下総町・大栄町・多古町及び芝山町に対し合併協議参加を呼びかけたが、富里市・多古町・芝山町は「新設合併」を主張し不参加。結果、2006年(平成18年)3月27日に下総町と大栄町を編入することが決まった。成田市が富里市との新設合併を拒否した理由として、財政展望が明るくないことに加え、成田空港建設当時、富里・八街地区への空港建設案があり、両町村が激しい空港建設反対運動を展開したため、成田市への建設が閣議決定された経緯がある。
現在の成田市は1954年に新設合併で誕生したものである。それ以前の成田町については当該項目を参照。
1954年の市制施行当時の人口は4万4724人であった。その後、成田空港関連の雇用創出により人口は増加を続け、2005年には10万人を突破した。2006年に下総町、大栄町を併合し12万人を超えた。2015年の国勢調査で13万1190人を記録して以降は横ばいとなっている。
総数 [単位: 人] 各年10月1日現在(2005年までは旧・下総町及び大栄町の人口を含まず。)
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.75%増の131,190人であり、増減率は千葉県下54市町村中10位、60行政区域中13位。
歴代市長
東京圏の都市問題解決を図るため、業務機能をはじめとする諸機能の適正配置の受け皿として地域の広域中心都市となるべき都市が業務核都市に指定された。千葉県では、千葉市を中心とする区域、木更津市を中心とする区域、成田市を中心とする区域及び千葉ニュータウンの中央部・東部の区域、柏市を中心とする4つの区域が業務核都市として位置付けられている。
県は、多極分散型国土形成促進法に基づく、成田・千葉ニュータウン業務核都市基本構想を策定し2004年3月23日主務大臣(国土交通省、総務省、経済産業省、厚生労働省)の承認を得て、同年4月6日県報に告示した。今後は、本基本構想に基づき、成田地域(成田市、富里市(一部))と千葉ニュータウンの中央部・東部の地域(印西市(一部)、白井市(一部))を一体の業務核都市として国、県、地元市町村等と連携を図りながら、積極的に育成整備を推進していくことになる。
千葉県では、1983年6月に「千葉新産業三角構想」を策定した。これは県内陸部への先端技術産業導入推進による工業構造の高度化と均衡のとれた地域構造の実現を目指すものとして推進されてきた。
その後、1994年に「ちば新産業ビジョン」を策定し、県内の国際産業母都市化を目指し一定の成果を収めてきたが、国際化の進展・人口減少社会への移行等の課題に対応し、新たな県の産業振興の戦略・指針として「千葉新産業振興戦略」2006年6月に策定した。
これらを基本に、国際交流拠点として高次の都市機能を備えた国際空港都市の形成をめざすとされている。現在、「成田国際物流複合基地」の事業が進められている。また、近隣の臨空工業団地では、現在100を越える企業が立地し、拠点性が高まっている。
千葉新産業振興戦略
千葉県では、7地域の潜在力・可能性戦略として、東葛地域、京葉臨海地域、かずさ地域、千葉地域、長生・山武地域、安房周辺地域、成田周辺地域を核として産業振興をはかるとしている。成田市が含まれる成田周辺地域では、物流産業の集積と首都圏の食糧生産供給の効率化の推進として空港関連産業・国際物流・新ロジスティック産業が集積するほか、首都圏の食料供給基地としての役割を担うとされている。具体的な政策として、物流施設立地促進のためのインフラ整備・規制緩和、効率的な物流システムの構築が進められている。
歳入のうち市税が全体の55.3%を占める。その中でも固定資産税の比重が高く、固定資産税全体の64.4%にも及び、成田国際空港や関連機関の法人などからの税収が多いことが起因しており増加傾向にある。しかし、住民税は景気低迷とその対策として実施された大規模な特別減税や恒久的減税の影響が大きく、評価替え及び大規模償却資産に対する県課税が発生したことに伴い減少している。また、市税全体の推移を見ると平成10年に落ち込み、以後微増傾向にあったが、平成14年度以降減少傾向である。
財政力指数
地方公共団体の基盤の強弱を示す財政力指数は、平成23年度1.35である。この数値が大きいほど財政力が大きく、「1」以上の場合極めて健全な財政とされ、地方交付税は交付されない。
経常収支比率
経常収支比率は、収入に対し人件費や扶助費など毎年出て行くお金の割合を表したもので、その平均値は80%とされている。成田市は平成16年度78.3%となっており、県内平均は80%を大きく超える91.4%となっている。年々増加する社会福祉費や生活保護費などにより上昇傾向にある。
ラスパイレス指数
全国市町村職員の給与水準を示すラスパイレス指数(国を100としたもの)では、平成24年度111.8と全国で12位の高さとなっている。また県内では、君津市(113.7)、香取郡神崎町(112.7)、市川市(112.4)、鎌ケ谷市(112.0)に次ぐ5位である。
市職員数は1178人(平成25年4月1日現在 市長、副市長及び教育長を除く。)
役所
警察
消防
裁判所
治安・事故
成田市の治安状況は成田空港の影響もあり、平成14年度の刑法犯認知件数4,042件を記録し、平成15年より治安悪化の煽りを受けて成田防犯連合会が組織され、犯罪の予防警戒、自主防犯活動、青少年非行防止及び健全育成のための活動などが行われている。また、成田市交通防犯課では防犯パトロールカー(白黒塗装)で市内を巡回し防犯を呼びかけるアナウンスを流すなどし、現在は認知件数は減少傾向にある。
空港関連機関
国の規制緩和によりご当地ナンバーが認められ、2006年(平成18年)10月10日から「成田」ナンバーが導入された。対象地域は成田市、富里市、山武市、香取郡神崎町・多古町、山武郡芝山町・横芝光町である。なお旧ナンバーは「千葉」。当初、小林攻市長(当時)はローマ字での「NARITA」ナンバーの創設を要望したものの、「地域名は漢字二文字」という原則により2005年7月29日「成田」ナンバーと決定した。排気量125cc以下の二輪車についてはローマ字「NARITA」の併記が認められ、2006年3月27日の新市発足と同時に交付された。
第一次産業
公設の地方卸売市場である成田市公設地方卸売市場(成田市場)がある。国家戦略特別区域に含まれることが決定したことから、市場内で検疫・通関などの輸出手続きをワンストップ化し迅速化を図るなど、国際物流拠点としての機能強化の実証試験も行われている。
かつては農業が盛んであり、近郊農業の中心地の一つであったが、1960年代以降農業従事者は減少している。
組合
第二次産業
製造基地としては、成田空港周辺の工業団地群があり、成田市には3つの工業団地と1つの物流団地がある。これらの工場は成田空港と密接に関連している。製造品出荷額では千葉県内第17位である(平成18年度)。
従業者4人以上の事業所(製造業)
第三次産業
成田市で最も多いのが、三次産業への従事者であり、成田空港関連事業の大半がこれに含まれる。
明治期の文明開化の煽りを受けた頃、成田には煉瓦焼成に向いた粘土が身近にあり、成田には煉瓦建築が建並び、嘗ては、成田山に向かう表参道の仲町坂道も煉瓦舗装されていた。大正の関東大震災以降、煉瓦の弱点である耐震性が露呈し衰退していったが、現在でもその面影を市内で見ることが出来る。また、香取郡高岡村高田(現・成田市高岡)の粘土で作られた煉瓦は銚子市に建つ「犬吠埼灯台」建設の際、実に19万3千枚が使われた。約130年を経た現在でも建ち続ける灯台は、高度な設計と良質な煉瓦でこそ成しえた技である。
下総鬼瓦
かつては工芸品の下総鬼瓦も重要な産業の一つだったが、今では千葉県下唯一の鬼瓦工場がこの町に残るのみとなり、千葉県の伝統的工芸品に指定されている。
北総地域の商業は成田市を中心として成田商圏が形成されている。千葉県の平成18年度消費者購買動向調査(1968年度から3 - 5年ごとに実施、前回調査は平成13年)では、成田市の人口122,776人に対し、商圏地域市町村数9市7町2村。商圏人口892,487人。消費吸引人口272,359人。消費吸引人口率221.8%となっており、千葉県内で最高消費吸引人口率となっている。また周辺の市町村にもその効果が波及し、大型店舗の立地も進みその拠点性を高めている。一方で、競争の激化などからオリンピック成田店が撤退するなどしている。なお、平成18年にジャスコ成田店が撤退したが、平成27年にイオンタウン成田富里がほぼ同じ場所にオープンした。
成田国際空港の商業施設売上高は1246億円(2018年3月期)に達する。流通関係者の間で成田国際空港は「売上高日本一のショッピングセンター(SC)」として知られている。ショッピングセンター業態(テナント集積)として1000億円以上を売るのは成田国際空港だけであり、ららぽーとTOKYO-BAY(三井不動産)、ラゾーナ川崎プラザ(同)などの有力ショッピングセンターを抑えて頭一つ抜けた規模になる。
※合併による行政人口が増加したため、結果として前回調査時より低下している。
市内の主な工場・事務所
成田空港の貨物取扱量は約224万トンで世界第3位(2006年:ICAO)と世界有数であり、成田市や近隣市町村(芝山町・多古町・横芝光町)には多くの物流基地が進出している。現在、千葉県の成田国際空港都市構想の一環として成田国際物流複合基地の整備が進行している。ここ数年の貨物取扱量はほぼ横ばい状態が続いている。
市内の主な物流拠点
主に成田空港利用者や、航空会社クルー向けのホテルが多い。成田駅周辺には、成田山への観光客を主要客としてきた旅館やホテルなどが多いが、成田空港にもほど近いため、外国人観光客の宿泊客も増加傾向にある。
外国人登録者数は約2,400人であるが、海外からの観光客や空港関係者も多く、市内の街中では様々な言語が飛び交う。また、市内の外国人登録数は年々増加傾向にある。
咸陽市(中華人民共和国陝西省)
サンブルーノ市(アメリカ合衆国カリフォルニア州)
仁川広域市中区(大韓民国)
井邑市(大韓民国全羅北道)
ネストベズ市(デンマーク王国ストアストロムス県)
フォクストン(ニュージーランド)
桃園市(中華民国(台湾))
成田市は大まかに成田山新勝寺の門前町(成田地区)、ニュータウン地区、空港地区(遠山地区)、農村地区、工業団地地区に分かれる。市内の地域区分は、市制施行以前の町村区分と平成の合併以前の町で地域区分されている。
成田駅(JR東日本)および京成成田駅(京成電鉄)から成田山新勝寺にかけての地区。成田市の旧市街地にあたる地域で、地元では町中(まちなか)と呼ばれている。昔ながらの成田の住民が多い。週末や祝日は、成田山新勝寺の参拝客で賑わっている。大きな参道としては、表参道、新参道、電車道がある。
このうち、最も大きい参道が表参道であり、京成、JR成田駅から成田山新勝寺までの約1キロメートルの道の両脇に成田名物の羊羹、地酒、鉄砲漬、食堂、土産物屋や、登録有形文化財に登録されている川豊本店など約120店舗ほどの店が並ぶ。人の往来も激しく道幅が狭い為、車道は二輪車・軽車両を除く片側一方通行となっている。2004年(平成16年)には表参道の電線地中化工事が終わり、商店のセットバックによる歩道幅の拡張やファザードの改築など、景観に配慮した街作りが行われている。また、2005年(平成17年)9月30日、表参道の一部でもある、成田市上町地区(約300メートル)が、国土交通省の平成17年度都市景観大賞「美しいまちなみ優秀賞」を受賞している。
新参道は、成田山新勝寺から国道51号線に掛けての参道であり、成田山交通安全祈祷殿や成田山新勝寺の参拝客用駐車場があり、マイカーで成田山新勝寺に訪れる参拝客用の参道となっている。また電車道は成田山新勝寺から京成成田駅方面に掛けての参道であり、かつて千葉県内初の電気軌道「成宗電気軌道」(1910-1944) が路面電車を運営していた路線の名残である。現在でも明治時代に造られた赤煉瓦のトンネルなど、かつての面影が残っている。
これらの地区はJR成田線と京成本線に挟まれるような形になっており、他の地区から孤立した市街地になっている。
現在の成田市の顔とも言える地区。空港通り、新空港道を挟んでホテルの高層ビル群が建ち並び、空港を囲むように、空港関連企業、物流団地、貸し駐車場、病院、公園などが位置する。一つの街を形成していると言っても過言ではない。成田空港と空港関連企業の従業員数を合わせると、約46,000人もの雇用を生み出しているほか、空港周辺道路などのインフラも整備された。またメディアへの露出が高く、この地区が登場するドラマが放映されるたびに、新しい観光スポットが生まれる状況である。未だに一部周辺住民の反発は根強いものの、ニュータウン地区と並んで拡大が続いている。
上記3つの地区を囲むように存在している地区。三里塚闘争で一躍全国区になった三里塚もこの地区である。成田市の農業人口は1950年代から徐々に減っており、現在では昭和中期の 1/3 程度になっている。全国的な農業離れの他、ニュータウン地区と空港地区の拡大も大きな要因となっている。かつては首都圏の近郊農業の一翼を担っており、京成電鉄では行商専用列車を仕立てていたが、1998年からは朝の電車1本のうち1両だけが行商人専用に当てられているのみとなり、2013年に行商列車は廃止された。
離農された農地はゴルフ場などに転換されているが、無人化した農地へのゴミや産業廃棄物の不法投棄が問題になっている。市環境対策課の職員や、地区の監視員、警備会社などによる不法投棄パトロールや、移動式監視カメラなどで不法投棄・不法残土投棄などの警戒を強めている。
成田市には野毛平工業団地、豊住工業団地、大栄工業団地の3つの工業団地がある。また、物流団地である成田新産業パークがある。地域格差の是正と空港の騒音下利用計画の一環として造成された。また、機械工業中心とした非公害型企業のみという珍しい工業団地でもある。成田空港を介して輸出入される製品を取り扱っている。従業員はほとんどが地元雇用者であり、こうした工業団地群は成田空港周辺市町村に多く見られる。
郵便局
郵便番号
うなりくん - 平成時代のゆるキャラの一つ。成田市のマスコットキャラクター。成田市特別観光大使。
上下水道
成田市は、3つの水道が供給されている。
成田市営水道は市内15ヵ所に設置された井戸水と、利根川の表流水の2つを水源としており、井戸水と表流水を混合し供給している。また、同じ市内でも供給元の違いにより水道料金に格差が生じている。成田市の上水道普及率は82.8%(平成23年度末)である。千葉県の上水道普及率は94.7%(平成23年度末)であり、近隣の富里市83.1%、栄町91.1%、酒々井町92.2%、多古町98.1%(いずれも平成23年度末)を下回り、普及率は低いといえる。成田市の下水道普及率は73.8%(平成24年度末)である。千葉県の下水道普及率70.7%(平成24年度末)を上回っている。しかし、旧下総町、大栄町の下水道が未着手であり、市町合併以前の普及率82.6%(平成16年度末)から大幅に普及率が低下した。
成田市の汚水は印旛沼流域下水道を流れ、印旛沼流域の15市町村(成田国際空港)の汚水と共に花見川終末処理場と花見川第二終末処理場に集積・処理し、東京湾につながる河川に放流されている。また、成田市の雨水はそれぞれの地区の自然流下により、雨水幹線通り、根木名川、小橋川、江川及びその他河川へ自然放流されている。
平成22年度の平均寿命は、男性が80.3歳、女性が86.6歳となっている。平成25年4月現在、65歳以上の人口は24,321人で、総人口比の高齢化率は18.6%であり、千葉県内35位である。
二次医療圏(二次保健医療圏)としては印旛医療圏(管轄区域:印旛地域)である。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。
医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。
構造改革特区に指定されており、成田市国際教育推進特区構想が認可されている。
大学
専修学校
義務教育学校
中学校
市立中学校 ※は防音校舎
私立中学校
小学校
市立小学校 ※は防音校舎
私立小学校
幼稚園
市立幼稚園
私立幼稚園
海外帰国子女・外国人子女・障害児等教育
各設置校の詳細については、成田市役所教育指導課へ。
児童福祉施設
市立保育園
私立保育園
公共職業能力開発施設
職業能力開発短期大学校
成田国際文化会館は財団法人成田市教育文化振興財団が運営している。
ホール・コミュニティーセンター
公民館・地区会館
図書館
成田市立図書館は1984年(昭和59年)10月27日、市制30周年記念3大事業の一つとして開館した。開館当初、まだ珍しいコンピュータによる蔵書の管理を導入するなど、規模と設備において全国有数の規模と言われた。その後、各公民館の図書室は成田市立図書館の分館となった。詳しくは成田市立図書館公式ページを参照。(→外部リンク)
体育施設
その他、学校教育施設開放などがある。成田市は2004年11月7日「スポーツ健康都市宣言」を宣言し、健康な心と体を育むスポーツを積極的に推進している。
航空機によるテレビ受信障害を防ぐ為、1993年(平成5年)11月18日「成田テレビ中継放送局」が成田市大袋に開局された。このテレビ放送中継局は、東京タワーからの電波を受信して UHF電波として再送信していた。受信範囲は成田市を含む57,230世帯。高さは200メートルと成田市で一番高い建物であった。その他、「佐原テレビ中継放送局」(香取市、1995年1月20日開局)、「下総光テレビ中継放送局」(横芝光町、1995年3月16日開局)、「江戸崎テレビ中継放送局」(茨城県稲敷市、1995年2月28日開局)があり、全4施設で約8万世帯を対象としている。
2011年7月24日の地上デジタル放送への完全移行後は、航空機によるフラッターの影響は受けにくいということで成田テレビ中継局はデジタルでは置局されず、2015年に鉄塔は解体された。県域放送局である千葉テレビ放送はアナログ時代より成田中継局を置いておらず、三山・千葉本局の受信となる。
成田テレビ中継局送信設備
拠点空港
※東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)にも、リムジンバスや鉄道(京成電鉄)を利用すれば乗換なしで行くことが可能。
アクセス改良計画
東日本旅客鉄道(JR東日本)
京成電鉄
芝山鉄道
関東の駅百選
鉄道施設
鉄道愛好者団体
(廃止)
大阪 - 銚子線
犬吠号・利根ライナー
東京 - 富里・多古線
成田空港へのアクセスバス
新橋駅 - 成田線
新橋駅 - 西船橋、千葉ニュータウン、成田線
新橋駅 - 新松戸、千葉ニュータウン、成田線
銀座駅 - 成田線
成田市内 - 東京駅・浜松町線
成田市内 - 成田空港線
成田山の初詣や、市内の大型ショッピングセンター、成田空港や関連企業、鹿島臨海工業地帯への大型車などの車の流入が多いのが特徴。国道51号では「成田山入口交差点」が主な渋滞箇所。特に初詣期間中は断続的に数キロメートルから十数キロメートルの渋滞も見られる。また、国道51号の千葉区間では成田市の寺台地先が最も交通量が多い(平日24時間自動車交通量41,919台)。国道408号では大型車の通行できる並行道路がなく、成田ニュータウン、つくば方面、我孫子方面、成田空港方面などを結ぶ主要道路が交わる「土屋交差点」が主な渋滞箇所。近年、近隣の大型ショッピングセンターの開店に伴い休日の渋滞が増加したが、交差点改良工事により若干改善した。
高速道路
一般国道
橋梁
空の駅
成田市の数字板設置交差点
市中心部の交差点信号機に1 - 17の数字板が設置されている。これは、成田山新勝寺への初詣客や警備に当る県外からの応援警察官などへの道案内用として設置された。全国的にも栃木県日光市の鬼怒川・川治温泉周辺しかなく事例が少ない。
成田市は周辺市町1市2町(佐倉市、栄町、芝山町)と成田国際観光モデル地区に指定され、また国際会議(コンベンション)推進を目的とする国際会議観光都市にも認定されている。2003年(平成15年)度に成田市を訪れた観光客数1,293万人。そのうちの約9割が成田山新勝寺や宗吾霊堂などの社寺参拝客、催物観光客であり、その他はゴルフ客などによるものである。2007年(平成19年)3月15日、市内の観光名所を巡る観光循環バスが運行を開始した。#路線バス参照。
主な入込数と千葉県内順位(2007年度)
北総四都市江戸紀行
江戸を感じる北総の町並み(佐倉・成田・佐原・銚子):百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群。ただ、江戸を感じるといいながら、江戸らしいものは全くなく、江戸時代の建物は参道には1軒存在しないなど、想像上のイメージで、誇大表現であるとの批判も多い。
その他の観光スポット
公園・庭園
博物館
春 3・4・5月
夏 6・7・8月
秋 9・10・11月
冬 12・1・2月
対象者は以下のとおり。
対象者は以下のとおり。
|
[
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"text": "成田市(なりたし)は、千葉県の北部中央に位置する市。",
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"text": "印旛地域にある業務核都市で、成田都市圏の中心都市であり、成田商圏を形成する商業中心都市。国家戦略特区、構造改革特区、国際観光モデル地区、国際会議観光都市および拠点空港都市。財政力指数は日本全国813市区中第4位であり、門前町の歴史的町並みは日本遺産に認定されている。",
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"text": "1954年(昭和29年)市制施行。",
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"text": "国際線旅客数および貿易額日本最大の国際拠点空港である成田国際空港を有する国際ビジネス・イノベーションの拠点空港都市である。初詣の寺院参拝客数日本一の成田山新勝寺(成田参詣)などで知られており、市の観光入込客数は推計で約1319万人、宿泊客数は約308万人を記録する日本屈指の観光都市でもある。",
"title": "概要"
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"text": "訪日観光客がよく利用する所謂「ゴールデンルート」と称される関西国際空港 - 大阪 - 京都 - 名古屋 - 富士山 - 箱根 - 東京 - 成田 - 成田国際空港の訪日観光コース上の拠点(宿泊・周辺観光)となっている。また、観光庁による広域観光周遊ルート形成促進事業の広域関東周遊ルート「東京圏大回廊」においても江戸回廊ルートとして組み込まれている。",
"title": "概要"
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"text": "古くから成田山新勝寺、宗吾霊堂の二大霊場を有する門前町として栄えた。明治時代には宮内庁下総御料牧場が置かれるなど、1950年代まで観光と農業の振興を二大施策とした純農村型都市であった。1960年代に入ると市の南東部に成田国際空港の建設が決定され、1978年(昭和53年)の空港開港や日本の高度経済成長期(1954年 - 1973年)とともに成田市の市域が拡大し、経済発展の影響から産業構造に多大な変化がもたらされた。現在では農業人口は減少し都市近郊農業型へと転換している。その反面、ゴルフ場や空港関連のサービス業など第三次産業が生まれ、新たな雇用が創出された。また観光面にも力を入れており、成田山新勝寺では正月三が日だけで270万人(非公式)、年間4000万人(成田市推計)ともいわれる参拝客で賑わう。",
"title": "概要"
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"text": "成田空港における航空機の騒音であるが、成田市街地からは離れた丘陵部に位置しているため、航空機の騒音被害を殆ど受けない地域も多い。航空機の騒音被害を受けるのは、空港の滑走路周辺と航路直下である。空港用地の大部分は成田市に属するため、固定資産税などの関連税収は成田市に入ることが多く、財政の豊かさは全国有数である。しかし、空港用地の一部がかかる芝山町などの被害は見過ごされがちであるのに対し、空港利益を独り占めしているという批判もある。現在、地域と共生する空港づくり掲げ、航空需要の増大に従う騒音問題などに向き合っている。",
"title": "概要"
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"text": "1986年(昭和61年)には東京一極集中の回避を目的とする業務核都市に指定され、千葉県からは千葉新産業三角構想の中核都市として位置付けられている。国の構造改革特別区域法に基づき2003年(平成15年)4月21日に国際空港特区、同年5月23日には国際教育推進特区に認定された。2006年(平成18年)3月27日、香取郡下総町、大栄町を吸収編入した。",
"title": "概要"
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"text": "東洋経済新報社による「安心度」「利便度」「快適度」「富裕度」の4つの観点から住みやすい都市を評価する「住みよさランキング」では、2009年度全国総合1位の評価を受けている。また、通勤圏を考慮した新方式では東京都稲城市に次いで2位の評価を受けている。",
"title": "概要"
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"text": "千葉県の北部中央に位置し、都道府県庁所在地の千葉市から約25キロメートルの距離である。東京都の都心から50 - 60キロメートル圏内である。成田市の中心市街地(市役所の位置)から成田国際空港までは更に約5キロメートル離れている。",
"title": "地理"
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"text": "下総台地に位置し、成田山新勝寺およびその門前町を中心に展開している。面積は213.84 平方キロメートル(千葉県下6位)で、県土の4.1%。市の南西部に門前町(旧市街地)とニュータウンが、南東部の丘陵地帯に成田国際空港がある。これらの地域郊外には農業地帯が広がる。市の西部にある印旛沼、北辺の茨城県との県境を流れる利根川から農業用水の取り込みを行っており、重要な水源でもある。",
"title": "地理"
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"text": "位置",
"title": "地理"
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"text": "千葉県北部中央の北総台地に位置する。標高は最低標高の1メートル(安西地先)から最高標高の42メートル(南三里塚地先)となっている。成田市の市域の5分の3の面積は海抜10メートルから海抜40メートルの丘陵部であり、関東ローム層が地表を覆う高燥な台地となっている。残りは印旛沼や根木名川水系から入る浸食谷による平らな低湿地帯であり、土地利用も全く異なる。",
"title": "地理"
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"text": "台地部では山林と畑が混在し野菜畑や落花生畑、牧草地などに、低地部は豊かな水に恵まれ水田に利用されてきた。現在も美しい田園風景が広がっている。また、下総台地の崖下に市街地が広がっており、「急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律」に該当する急傾斜崩壊危険区域が市内に68箇所ある。成田層(固結した砂層)が雨水によって侵食され、固結粘土層との間にすべりを生じ関東ローム層とともに崩壊する事例が台風などによる大雨により発生することが度々あり、擁壁工などの整備が進められている。",
"title": "地理"
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"text": "市域",
"title": "地理"
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"text": "広袤(こうぼう):東西20.1キロメートル 南北19.9キロメートル",
"title": "地理"
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"text": "自然",
"title": "地理"
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"text": "一級河川:利根川、大須賀川、根木名川、派川根木名川、尾羽根川、荒海川、小橋川、取香川、十日川、派川十日川、竜台川",
"title": "地理"
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"text": "湖沼:北印旛沼、坂田ケ池、弁天池、バタ池(羽田池)、西池、浅間池",
"title": "地理"
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"text": "年間の平均気温は14.2度、年間降水量は1429.1ミリメートル。年間通して比較的温暖な気候に恵まれる千葉県の中では気温が低い。1月の最低気温の平均は千葉市で1.9度に対し、-2.4度。毎年氷点下5度以下を記録し、年間の0度未満の冬日日数は50 - 80日ほどであり、千葉県の沿岸部とは大きな気候の違いがある。過去最低気温は1984年(昭和59年)1月20日に-10.7度を記録している。春から夏にかけて南西の風が強く吹くことが多く、夜間に放射霧が発生する割合が高い。霧が発生し易い理由として内陸性気候で気温の日較差が激しく、周辺の利根川、印旛沼、中小河川、耕地や水田などが多湿な状況を作り出していることが挙げられる。",
"title": "地理"
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"text": "猛暑日(35°C以上)最多日数:9日(2022年)",
"title": "地理"
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"text": "冬日(0度未満)最多日数:86日(2011年)",
"title": "地理"
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"text": "※成田市内に香取郡多古町一鍬田の飛地が存在する。",
"title": "地理"
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"text": "成田(なりた)の地名の由来には諸説あり",
"title": "歴史"
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"text": "などの説がある。",
"title": "歴史"
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"text": "※成田市の歴史と、旧下総町・大栄町の歴史とは別項目にわけることとする。",
"title": "歴史"
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"text": "成田付近には旧石器時代の約3万年前から人間が居住していたことが、空港建設に伴う発掘調査(新東京国際空港No.55遺跡(古込))によって判明し、発掘された楕円形石斧は千葉県内最古の遺物として位置づけられている。",
"title": "歴史"
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"text": "縄文時代の南羽鳥中岫第1遺跡では、人頭形土製品などが出土し、国の重要文化財に指定されている。また関東地方最後の大貝塚である荒海貝塚などがあり、縄文時代最後の土器とされる「荒海式土器」が発掘され、国立歴史民俗博物館(佐倉市)の調査では稲作の可能性が明らかにされている。西暦3世紀終わり頃の古墳時代、市内には多くの古墳が出現した。近隣の龍角寺古墳群や日吉倉古墳群を含め、約340基の古墳が存在する。成田市は、水運に恵まれ、大和王権にとっては、重要なルート上に位置し、政治・軍事・経済上重要な地域だったとされる。市域では、成田ニュータウンに位置する船塚古墳が全国的に有名であり、周堀と土堤をめぐらした完全な姿は偉容である。また、古墳用の埴輪を焼いた登り窯(公津原埴輪窯跡)が古墳のすぐ近くで発見されたが、成田ニュータウンの造成により消滅した。千葉県内には他にもう1ヵ所、木更津市畑沢に畑沢埴輪窯跡が発掘されたのみで、貴重な遺跡であった。古文書に成田市域の地名が出るのは755年『万葉集』に「印波郡丈部直大歳、埴生郡大伴部麻与佐」の歌がみえる。埴生郡(はにふのこほり)は、成田市近辺と推測される。",
"title": "歴史"
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"text": "『万葉集』「第20巻4392番」より和歌の詳細については、以下を参照。",
"title": "歴史"
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"text": "成田の文字が確認されるのは、1408年(応永15年)成田村安養寺(現在は永興寺安置)の聖観音菩薩坐像胎内に「成田郷 応永十五年」の銘がみえる。940年(天慶3年)承平天慶の乱(平将門の乱)が平定され、新勝寺が創建されたと同寺縁起(制昨年不明)では記される。",
"title": "歴史"
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"text": "江戸時代中期、成田は門前町としての色を濃くしていった。参拝者の増加と共に、飯屋や居酒屋などが次第に専業化していった。記録によると、1701年(元禄14年)には旅籠が1件もない農村であったが、1843年(天保14年)には旅籠32軒となっている。煙草、刀剣の研、髪結、提灯、蝋燭、傘、下駄屋などがあり、江戸との間を結ぶ成田街道をはじめ、利根川の木下河岸(きおろしがし・現印西市)、常陸国を結ぶ滑川河川、香取・佐原・芝山・九十九里などを結ぶ道などが集中する交通の要衝として栄え、参拝者以外の旅人でも賑わった。1881年(明治14年)6月および1882年(明治15年)6月に、明治天皇が千葉県下の下総種畜場(後の宮内庁下総御料牧場)へ行幸する際に成田山を行在所(あんざいしょ)と定めた。境内には「明治天皇成田行在所」の碑が建てられている。",
"title": "歴史"
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"text": "1871年(明治4年)に旧成田市域は印旛県に属し、1873年(明治6年)千葉県に統合された。1876年(明治9年)の大区小区制では、第10区11-16小区に属す。明治11年、埴生郡は下埴生郡と改称。印旛郡公津新田が八生村に、下埴生郡成木新田が公津村に編入され、1897年(明治30年)下埴生郡が印旛郡へと編入され、旧市域はすべて印旛郡となる。",
"title": "歴史"
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"text": "江戸時代に佐倉七牧と呼ばれた馬の放牧地があり、明治時代に入るとその内の一牧「取香牧」(現・成田市取香・三里塚付近)に牧羊場が開場した。以後、宮内庁管轄となり下総御料牧場の基礎輸入牝馬で知られる「下総御料牧場」となる。この頃から下総台地の佐倉牧や小金牧などで開墾が行われ始め、成田の「十余三」はその13番目の開墾地名である。",
"title": "歴史"
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"text": "明治以後は観光の振興に力を入れ、交通の整備が急速に進んだ。それ以前は東京から成田まで片道二日の行程が普通であったが、乗合馬車の整備により半日で到達可能になった。また鉄道敷設の気運が高まり、1901年(明治34年)成田鉄道(初代)により成田 - 我孫子(現・成田線)が開通、日本鉄道(現・常磐線)と接続し上野駅に直結させた。1910年(明治43年)には、成宗電気軌道(現千葉交通の前身)により成田門前 - 成田駅に県下初の電気軌道が運行を開始する。大正末期には、成田駅の乗降客数は千葉駅に次ぐ千葉県内第2位まで増加した。",
"title": "歴史"
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"text": "明治期の成田は成田山参詣の恩恵を受け、特に活気に満ちていた。しかし急速に交通網が整備されたため、参詣客が増加する反面日帰り客の増加を招き、旅館業者の宿泊客が奪われ、転業するものが増えた。もっとも産業自体は活気に満ちており、この頃登場し、現在でも成田名物として有名な「栗ようかん」など、薬、酒、たばこ、飲食、料理、土産物屋などが参道に店を連ねた。町の発展に伴い、千葉郡にあった物産陳列館も成田町に移され、町立千葉県物産館が開館した。また成田町には佐倉警察署成田分署、佐倉裁判所成田出張所、成田郵便局、大日銀行、九十八銀行、各保険会社の代理店などが置かれ、現市域の中枢としての機能を有していた。",
"title": "歴史"
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"text": "大正時代に入り、第一次世界大戦によってもたらされた活況や、その反動により起こった恐慌にも成田の参詣客数には関係なく、宿泊客数も増加した。この頃から、成田瓦斯会社(後に成宗電気軌道に合併)によって、市内にガス灯が灯るようになる、しかし、成宗電気軌道による電灯用電気供給により、以後ガス灯を圧倒していった。成田の経済を象徴するものとして、この頃成田銀行が一時経営不振に陥るが、その後川崎銀行の元で経営を再建、市内の中小銀行を併合し「総武銀行」、「千葉合同銀行」と改称、後に現在の「千葉銀行」となる。大正期、成田は第二次世界大戦前のピークを形作る。",
"title": "歴史"
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"text": "昭和初期には「高くて、まずくて、不親切」と不評を買っていた、参道商店街がこの評判を払しょくするため、電車内での客引きを禁止したり、強引な呼び込みをやめるため、店舗前での呼び込みは1名、女性に限るなどの自浄作戦を展開するまでになった。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "戦時中、『江戸時代、成田山の仁王門再建工事をしていた大工\"辰五郎\"が誤って高い足場から転落したが、成田山の焼印を押したお守りが二つに割れ、お不動様の霊験により軽い怪我で助かった』という伝承が伝わり、出兵兵士達の間で成田山の「身代わり札」が流行した。太平洋戦争末期、戦争の長期化により物資の不足が深刻化すると、成田山公園に設置されていた銅像やようかんの看板、不要不急線として成田鉄道(2代)の鉄道線(多古線)、次いで軌道線(旧成田電気軌道[成宗電気軌道])が廃線となり国に供出された。また、市内に直接的な空襲被害はなかったが、1945年(昭和20年)2月、八生国民学校校舎に米軍機が撃墜され墜落。校舎が全焼する事件が起き、米兵の引渡し騒動など一部混乱はおきたが特に害はなかった。1945年(昭和20年)8月15日、終戦を迎えたが相次ぐ凶作や急激な物価高騰の影響を受けて戦時下より一層生活困窮に陥った。また、消息不明未帰還者が相次ぐなど、市内にも戦争の残した爪跡は決して少くなかった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "終戦後は成田地域の百姓らは東京圏への行商をするものが多く現れた。一部は、あくどい商売を行い上質な着物一反と腐った芋を交換するなど、成田の評判を落とした行商人もいた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "終戦後、1953年(昭和28年)に町村合併促進法が制定され、翌年の1954年(昭和29年)3月31日、成田町、公津村、中郷村、久住村、豊住村、遠山村の1町6村が合併し、(旧)成田市が誕生する。成田は田園観光都市として、農業を中心とした都市形態であったが、1966年(昭和41年)6月22日の新東京国際空港建設計画(三里塚案)の発表、それに続く佐藤栄作内閣による7月4日の閣議決定(空港の位置及び規模について)によって町は一変することになる。",
"title": "歴史"
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"text": "空港建設の決定に伴い、市議会は即時空港建設反対の決議をしたものの、翌月には決議を白紙に戻し、空港建設を積極的に協力する姿勢を打ち出した。しかし計画地近辺の地元住民らを中心に、何の説明もなく意見を無視し国家権力を振りかざした新空港建設に、激しい憤りの声が挙がった。市民の間では空港建設に対して賛否がわかれ、閣議決定に前後し、地元の約1千戸、3千人もの住民によって三里塚芝山連合空港反対同盟が結成。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1968年(昭和43年)3月10日には、反日共系全学連などと共に決起集会(第2次成田デモ事件)が行われ、警察との間で激しい衝突が繰り返された。 市役所には有刺鉄線を使ったバリケードが設けられたほか、商店はショーウィンドウをトタン板で囲い学生と警察との衝突に備えるなど市民生活にも影響が出るようになった。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "その後も反対闘争は強化され、ついには死者を出すなど、深刻な社会問題と発展し、現代史に残る三里塚闘争や成田空港問題となる。相次ぐ流血の惨事に成田市では「暴力行為の排除と信仰の町成田の平和と繁栄の為に市民の協力を願う」との主の声明を出す。こうした混乱の中、1978年(昭和53年)5月20日、全国から約13,000人の機動隊員が動員され、厳戒態勢の中、現在の成田国際空港が開港した。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "その後、空港関連事業として、東関東自動車道の開通、内陸工業団地、成田ニュータウンが千葉県北総開発局(現・千葉県企業庁)によって造成され、近年ではベッドタウン化が進み、人口も増加したが、現在は頭打ち傾向が顕著となり、人口の減少化が始まった。東京都内中心部に通勤・通学するには遠く、昭和40~50年代に始まったニュータウンは、徐々に空き地が目立ち始めている。また、旧大栄町、下総町で中途半端に開発された宅地造成の多くは、限界ニュータウンと呼ばれ、公共交通が通わず、空き地がほとんどとなっている。また、百貨店や大型ショッピングセンターが市内に立地し、北総地域の商業都市としての一面もある。しかし、政府による空港建設の強行は、地域住民・日本国政府・地方公共団体との間の信頼関係を崩壊させ、用地買収も進まず、成田空港は開港から35年以上経つ今日でも完全開港が成されていない。",
"title": "歴史"
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"text": "備考",
"title": "歴史"
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"text": "方言",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "成田の方言は利根川下流地域で使われる言葉である。「...しましょう」「...だろう」、或いは「...でしょう」など、話し手の意思を表すのに「べー」がよく使われる(例:遊んべー、行くべー)。この「べー」も場所により「だっぺ」や「だべー」と違いが見られる(茨城県では「だっぺ」や「ぺ」が使用されており、茨城寄りになるほど「ぺ」が使われる頻度が高まる)。また、単語にも地域の特性を持つものや標準語に近いものもある。おっぺす(押す)、かちゃっぱ(枯葉)などがよくつかわれる。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "なまり",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "成田地方のなまりの特徴として、清音が濁音になることがあげられる。地名で「ねこさく」が「ねこざく」「ねござく」「ねござぐ」になったり、人名の大木「おおき」が「おおぎ」、話し言葉の良いか「いいか」が「いいが」になったりするなまりが顕著である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2002年(平成15年)12月15日に成田地域任意合併検討協議会が初会合を開催、 2003年(平成15年)2月22日に成田地域任意合併検討協議会で、富里市、下総町、大栄町、多古町、芝山町、栄町、神崎町、栗源町、横芝町、蓮沼村の2市8町1村が法定協議会の規約を承認して翌月の参加各市町村の定例会に法定協議会設置の議案を提出することになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "合併における争点の一つは、成田空港関連の固定資産税などの税収入をほぼ独占している成田市と、騒音問題を抱えているにもかかわらず、空港収入が少ない周辺市町村との温度差であった。合併の枠組みは、松尾町が山武地区の合併協議会へ参加したため離脱し、2市8町1村による議論になったが、2003年(平成15年)3月5日に成田市議会が11市町村での法定協議会設置を否決して市長の小川国彦(当時)が辞意表明し、空港圏合併任意協議会は解散した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "空港関連収入の取り分が少なくなることを嫌って、その後成田市は「成田市への編入合併」を前提に富里市、香取郡下総町・大栄町・多古町及び芝山町に対し合併協議参加を呼びかけたが、富里市・多古町・芝山町は「新設合併」を主張し不参加。結果、2006年(平成18年)3月27日に下総町と大栄町を編入することが決まった。成田市が富里市との新設合併を拒否した理由として、財政展望が明るくないことに加え、成田空港建設当時、富里・八街地区への空港建設案があり、両町村が激しい空港建設反対運動を展開したため、成田市への建設が閣議決定された経緯がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "現在の成田市は1954年に新設合併で誕生したものである。それ以前の成田町については当該項目を参照。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1954年の市制施行当時の人口は4万4724人であった。その後、成田空港関連の雇用創出により人口は増加を続け、2005年には10万人を突破した。2006年に下総町、大栄町を併合し12万人を超えた。2015年の国勢調査で13万1190人を記録して以降は横ばいとなっている。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "総数 [単位: 人] 各年10月1日現在(2005年までは旧・下総町及び大栄町の人口を含まず。)",
"title": "人口"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.75%増の131,190人であり、増減率は千葉県下54市町村中10位、60行政区域中13位。",
"title": "人口"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "歴代市長",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "東京圏の都市問題解決を図るため、業務機能をはじめとする諸機能の適正配置の受け皿として地域の広域中心都市となるべき都市が業務核都市に指定された。千葉県では、千葉市を中心とする区域、木更津市を中心とする区域、成田市を中心とする区域及び千葉ニュータウンの中央部・東部の区域、柏市を中心とする4つの区域が業務核都市として位置付けられている。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "県は、多極分散型国土形成促進法に基づく、成田・千葉ニュータウン業務核都市基本構想を策定し2004年3月23日主務大臣(国土交通省、総務省、経済産業省、厚生労働省)の承認を得て、同年4月6日県報に告示した。今後は、本基本構想に基づき、成田地域(成田市、富里市(一部))と千葉ニュータウンの中央部・東部の地域(印西市(一部)、白井市(一部))を一体の業務核都市として国、県、地元市町村等と連携を図りながら、積極的に育成整備を推進していくことになる。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "千葉県では、1983年6月に「千葉新産業三角構想」を策定した。これは県内陸部への先端技術産業導入推進による工業構造の高度化と均衡のとれた地域構造の実現を目指すものとして推進されてきた。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "その後、1994年に「ちば新産業ビジョン」を策定し、県内の国際産業母都市化を目指し一定の成果を収めてきたが、国際化の進展・人口減少社会への移行等の課題に対応し、新たな県の産業振興の戦略・指針として「千葉新産業振興戦略」2006年6月に策定した。",
"title": "行政"
},
{
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"tag": "p",
"text": "これらを基本に、国際交流拠点として高次の都市機能を備えた国際空港都市の形成をめざすとされている。現在、「成田国際物流複合基地」の事業が進められている。また、近隣の臨空工業団地では、現在100を越える企業が立地し、拠点性が高まっている。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "千葉新産業振興戦略",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "千葉県では、7地域の潜在力・可能性戦略として、東葛地域、京葉臨海地域、かずさ地域、千葉地域、長生・山武地域、安房周辺地域、成田周辺地域を核として産業振興をはかるとしている。成田市が含まれる成田周辺地域では、物流産業の集積と首都圏の食糧生産供給の効率化の推進として空港関連産業・国際物流・新ロジスティック産業が集積するほか、首都圏の食料供給基地としての役割を担うとされている。具体的な政策として、物流施設立地促進のためのインフラ整備・規制緩和、効率的な物流システムの構築が進められている。",
"title": "行政"
},
{
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"tag": "p",
"text": "歳入のうち市税が全体の55.3%を占める。その中でも固定資産税の比重が高く、固定資産税全体の64.4%にも及び、成田国際空港や関連機関の法人などからの税収が多いことが起因しており増加傾向にある。しかし、住民税は景気低迷とその対策として実施された大規模な特別減税や恒久的減税の影響が大きく、評価替え及び大規模償却資産に対する県課税が発生したことに伴い減少している。また、市税全体の推移を見ると平成10年に落ち込み、以後微増傾向にあったが、平成14年度以降減少傾向である。",
"title": "行政"
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{
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"tag": "p",
"text": "財政力指数",
"title": "行政"
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{
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"text": "地方公共団体の基盤の強弱を示す財政力指数は、平成23年度1.35である。この数値が大きいほど財政力が大きく、「1」以上の場合極めて健全な財政とされ、地方交付税は交付されない。",
"title": "行政"
},
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"tag": "p",
"text": "経常収支比率",
"title": "行政"
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{
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"tag": "p",
"text": "経常収支比率は、収入に対し人件費や扶助費など毎年出て行くお金の割合を表したもので、その平均値は80%とされている。成田市は平成16年度78.3%となっており、県内平均は80%を大きく超える91.4%となっている。年々増加する社会福祉費や生活保護費などにより上昇傾向にある。",
"title": "行政"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ラスパイレス指数",
"title": "行政"
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{
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"tag": "p",
"text": "全国市町村職員の給与水準を示すラスパイレス指数(国を100としたもの)では、平成24年度111.8と全国で12位の高さとなっている。また県内では、君津市(113.7)、香取郡神崎町(112.7)、市川市(112.4)、鎌ケ谷市(112.0)に次ぐ5位である。",
"title": "行政"
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"text": "市職員数は1178人(平成25年4月1日現在 市長、副市長及び教育長を除く。)",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "役所",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "警察",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "消防",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "裁判所",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 76,
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"text": "治安・事故",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 77,
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"text": "成田市の治安状況は成田空港の影響もあり、平成14年度の刑法犯認知件数4,042件を記録し、平成15年より治安悪化の煽りを受けて成田防犯連合会が組織され、犯罪の予防警戒、自主防犯活動、青少年非行防止及び健全育成のための活動などが行われている。また、成田市交通防犯課では防犯パトロールカー(白黒塗装)で市内を巡回し防犯を呼びかけるアナウンスを流すなどし、現在は認知件数は減少傾向にある。",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 78,
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"text": "空港関連機関",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "国の規制緩和によりご当地ナンバーが認められ、2006年(平成18年)10月10日から「成田」ナンバーが導入された。対象地域は成田市、富里市、山武市、香取郡神崎町・多古町、山武郡芝山町・横芝光町である。なお旧ナンバーは「千葉」。当初、小林攻市長(当時)はローマ字での「NARITA」ナンバーの創設を要望したものの、「地域名は漢字二文字」という原則により2005年7月29日「成田」ナンバーと決定した。排気量125cc以下の二輪車についてはローマ字「NARITA」の併記が認められ、2006年3月27日の新市発足と同時に交付された。",
"title": "行政"
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"text": "第一次産業",
"title": "経済"
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"text": "公設の地方卸売市場である成田市公設地方卸売市場(成田市場)がある。国家戦略特別区域に含まれることが決定したことから、市場内で検疫・通関などの輸出手続きをワンストップ化し迅速化を図るなど、国際物流拠点としての機能強化の実証試験も行われている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "かつては農業が盛んであり、近郊農業の中心地の一つであったが、1960年代以降農業従事者は減少している。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "組合",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "第二次産業",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "製造基地としては、成田空港周辺の工業団地群があり、成田市には3つの工業団地と1つの物流団地がある。これらの工場は成田空港と密接に関連している。製造品出荷額では千葉県内第17位である(平成18年度)。",
"title": "経済"
},
{
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"tag": "p",
"text": "従業者4人以上の事業所(製造業)",
"title": "経済"
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{
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"tag": "p",
"text": "第三次産業",
"title": "経済"
},
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"text": "成田市で最も多いのが、三次産業への従事者であり、成田空港関連事業の大半がこれに含まれる。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "明治期の文明開化の煽りを受けた頃、成田には煉瓦焼成に向いた粘土が身近にあり、成田には煉瓦建築が建並び、嘗ては、成田山に向かう表参道の仲町坂道も煉瓦舗装されていた。大正の関東大震災以降、煉瓦の弱点である耐震性が露呈し衰退していったが、現在でもその面影を市内で見ることが出来る。また、香取郡高岡村高田(現・成田市高岡)の粘土で作られた煉瓦は銚子市に建つ「犬吠埼灯台」建設の際、実に19万3千枚が使われた。約130年を経た現在でも建ち続ける灯台は、高度な設計と良質な煉瓦でこそ成しえた技である。",
"title": "経済"
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{
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"tag": "p",
"text": "下総鬼瓦",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "かつては工芸品の下総鬼瓦も重要な産業の一つだったが、今では千葉県下唯一の鬼瓦工場がこの町に残るのみとなり、千葉県の伝統的工芸品に指定されている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "北総地域の商業は成田市を中心として成田商圏が形成されている。千葉県の平成18年度消費者購買動向調査(1968年度から3 - 5年ごとに実施、前回調査は平成13年)では、成田市の人口122,776人に対し、商圏地域市町村数9市7町2村。商圏人口892,487人。消費吸引人口272,359人。消費吸引人口率221.8%となっており、千葉県内で最高消費吸引人口率となっている。また周辺の市町村にもその効果が波及し、大型店舗の立地も進みその拠点性を高めている。一方で、競争の激化などからオリンピック成田店が撤退するなどしている。なお、平成18年にジャスコ成田店が撤退したが、平成27年にイオンタウン成田富里がほぼ同じ場所にオープンした。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "成田国際空港の商業施設売上高は1246億円(2018年3月期)に達する。流通関係者の間で成田国際空港は「売上高日本一のショッピングセンター(SC)」として知られている。ショッピングセンター業態(テナント集積)として1000億円以上を売るのは成田国際空港だけであり、ららぽーとTOKYO-BAY(三井不動産)、ラゾーナ川崎プラザ(同)などの有力ショッピングセンターを抑えて頭一つ抜けた規模になる。",
"title": "経済"
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"text": "※合併による行政人口が増加したため、結果として前回調査時より低下している。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "市内の主な工場・事務所",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "成田空港の貨物取扱量は約224万トンで世界第3位(2006年:ICAO)と世界有数であり、成田市や近隣市町村(芝山町・多古町・横芝光町)には多くの物流基地が進出している。現在、千葉県の成田国際空港都市構想の一環として成田国際物流複合基地の整備が進行している。ここ数年の貨物取扱量はほぼ横ばい状態が続いている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "市内の主な物流拠点",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "主に成田空港利用者や、航空会社クルー向けのホテルが多い。成田駅周辺には、成田山への観光客を主要客としてきた旅館やホテルなどが多いが、成田空港にもほど近いため、外国人観光客の宿泊客も増加傾向にある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "外国人登録者数は約2,400人であるが、海外からの観光客や空港関係者も多く、市内の街中では様々な言語が飛び交う。また、市内の外国人登録数は年々増加傾向にある。",
"title": "姉妹都市・提携都市"
},
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"paragraph_id": 100,
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"text": "咸陽市(中華人民共和国陝西省)",
"title": "姉妹都市・提携都市"
},
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"text": "サンブルーノ市(アメリカ合衆国カリフォルニア州)",
"title": "姉妹都市・提携都市"
},
{
"paragraph_id": 102,
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"text": "仁川広域市中区(大韓民国)",
"title": "姉妹都市・提携都市"
},
{
"paragraph_id": 103,
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"text": "井邑市(大韓民国全羅北道)",
"title": "姉妹都市・提携都市"
},
{
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"text": "ネストベズ市(デンマーク王国ストアストロムス県)",
"title": "姉妹都市・提携都市"
},
{
"paragraph_id": 105,
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"text": "フォクストン(ニュージーランド)",
"title": "姉妹都市・提携都市"
},
{
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"text": "桃園市(中華民国(台湾))",
"title": "姉妹都市・提携都市"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "成田市は大まかに成田山新勝寺の門前町(成田地区)、ニュータウン地区、空港地区(遠山地区)、農村地区、工業団地地区に分かれる。市内の地域区分は、市制施行以前の町村区分と平成の合併以前の町で地域区分されている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "成田駅(JR東日本)および京成成田駅(京成電鉄)から成田山新勝寺にかけての地区。成田市の旧市街地にあたる地域で、地元では町中(まちなか)と呼ばれている。昔ながらの成田の住民が多い。週末や祝日は、成田山新勝寺の参拝客で賑わっている。大きな参道としては、表参道、新参道、電車道がある。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "このうち、最も大きい参道が表参道であり、京成、JR成田駅から成田山新勝寺までの約1キロメートルの道の両脇に成田名物の羊羹、地酒、鉄砲漬、食堂、土産物屋や、登録有形文化財に登録されている川豊本店など約120店舗ほどの店が並ぶ。人の往来も激しく道幅が狭い為、車道は二輪車・軽車両を除く片側一方通行となっている。2004年(平成16年)には表参道の電線地中化工事が終わり、商店のセットバックによる歩道幅の拡張やファザードの改築など、景観に配慮した街作りが行われている。また、2005年(平成17年)9月30日、表参道の一部でもある、成田市上町地区(約300メートル)が、国土交通省の平成17年度都市景観大賞「美しいまちなみ優秀賞」を受賞している。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "新参道は、成田山新勝寺から国道51号線に掛けての参道であり、成田山交通安全祈祷殿や成田山新勝寺の参拝客用駐車場があり、マイカーで成田山新勝寺に訪れる参拝客用の参道となっている。また電車道は成田山新勝寺から京成成田駅方面に掛けての参道であり、かつて千葉県内初の電気軌道「成宗電気軌道」(1910-1944) が路面電車を運営していた路線の名残である。現在でも明治時代に造られた赤煉瓦のトンネルなど、かつての面影が残っている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "これらの地区はJR成田線と京成本線に挟まれるような形になっており、他の地区から孤立した市街地になっている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "現在の成田市の顔とも言える地区。空港通り、新空港道を挟んでホテルの高層ビル群が建ち並び、空港を囲むように、空港関連企業、物流団地、貸し駐車場、病院、公園などが位置する。一つの街を形成していると言っても過言ではない。成田空港と空港関連企業の従業員数を合わせると、約46,000人もの雇用を生み出しているほか、空港周辺道路などのインフラも整備された。またメディアへの露出が高く、この地区が登場するドラマが放映されるたびに、新しい観光スポットが生まれる状況である。未だに一部周辺住民の反発は根強いものの、ニュータウン地区と並んで拡大が続いている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "上記3つの地区を囲むように存在している地区。三里塚闘争で一躍全国区になった三里塚もこの地区である。成田市の農業人口は1950年代から徐々に減っており、現在では昭和中期の 1/3 程度になっている。全国的な農業離れの他、ニュータウン地区と空港地区の拡大も大きな要因となっている。かつては首都圏の近郊農業の一翼を担っており、京成電鉄では行商専用列車を仕立てていたが、1998年からは朝の電車1本のうち1両だけが行商人専用に当てられているのみとなり、2013年に行商列車は廃止された。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "離農された農地はゴルフ場などに転換されているが、無人化した農地へのゴミや産業廃棄物の不法投棄が問題になっている。市環境対策課の職員や、地区の監視員、警備会社などによる不法投棄パトロールや、移動式監視カメラなどで不法投棄・不法残土投棄などの警戒を強めている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "成田市には野毛平工業団地、豊住工業団地、大栄工業団地の3つの工業団地がある。また、物流団地である成田新産業パークがある。地域格差の是正と空港の騒音下利用計画の一環として造成された。また、機械工業中心とした非公害型企業のみという珍しい工業団地でもある。成田空港を介して輸出入される製品を取り扱っている。従業員はほとんどが地元雇用者であり、こうした工業団地群は成田空港周辺市町村に多く見られる。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "郵便局",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "郵便番号",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "うなりくん - 平成時代のゆるキャラの一つ。成田市のマスコットキャラクター。成田市特別観光大使。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "上下水道",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "成田市は、3つの水道が供給されている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "成田市営水道は市内15ヵ所に設置された井戸水と、利根川の表流水の2つを水源としており、井戸水と表流水を混合し供給している。また、同じ市内でも供給元の違いにより水道料金に格差が生じている。成田市の上水道普及率は82.8%(平成23年度末)である。千葉県の上水道普及率は94.7%(平成23年度末)であり、近隣の富里市83.1%、栄町91.1%、酒々井町92.2%、多古町98.1%(いずれも平成23年度末)を下回り、普及率は低いといえる。成田市の下水道普及率は73.8%(平成24年度末)である。千葉県の下水道普及率70.7%(平成24年度末)を上回っている。しかし、旧下総町、大栄町の下水道が未着手であり、市町合併以前の普及率82.6%(平成16年度末)から大幅に普及率が低下した。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "成田市の汚水は印旛沼流域下水道を流れ、印旛沼流域の15市町村(成田国際空港)の汚水と共に花見川終末処理場と花見川第二終末処理場に集積・処理し、東京湾につながる河川に放流されている。また、成田市の雨水はそれぞれの地区の自然流下により、雨水幹線通り、根木名川、小橋川、江川及びその他河川へ自然放流されている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "平成22年度の平均寿命は、男性が80.3歳、女性が86.6歳となっている。平成25年4月現在、65歳以上の人口は24,321人で、総人口比の高齢化率は18.6%であり、千葉県内35位である。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "二次医療圏(二次保健医療圏)としては印旛医療圏(管轄区域:印旛地域)である。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "構造改革特区に指定されており、成田市国際教育推進特区構想が認可されている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "大学",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "専修学校",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "義務教育学校",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "中学校",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "市立中学校 ※は防音校舎",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "私立中学校",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "小学校",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "市立小学校 ※は防音校舎",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "私立小学校",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "幼稚園",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "市立幼稚園",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "私立幼稚園",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "海外帰国子女・外国人子女・障害児等教育",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "各設置校の詳細については、成田市役所教育指導課へ。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "児童福祉施設",
"title": "地域"
},
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"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "市立保育園",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "私立保育園",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "公共職業能力開発施設",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 146,
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"text": "職業能力開発短期大学校",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "成田国際文化会館は財団法人成田市教育文化振興財団が運営している。",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "ホール・コミュニティーセンター",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "公民館・地区会館",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "図書館",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "成田市立図書館は1984年(昭和59年)10月27日、市制30周年記念3大事業の一つとして開館した。開館当初、まだ珍しいコンピュータによる蔵書の管理を導入するなど、規模と設備において全国有数の規模と言われた。その後、各公民館の図書室は成田市立図書館の分館となった。詳しくは成田市立図書館公式ページを参照。(→外部リンク)",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "体育施設",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "その他、学校教育施設開放などがある。成田市は2004年11月7日「スポーツ健康都市宣言」を宣言し、健康な心と体を育むスポーツを積極的に推進している。",
"title": "地域"
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{
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"text": "航空機によるテレビ受信障害を防ぐ為、1993年(平成5年)11月18日「成田テレビ中継放送局」が成田市大袋に開局された。このテレビ放送中継局は、東京タワーからの電波を受信して UHF電波として再送信していた。受信範囲は成田市を含む57,230世帯。高さは200メートルと成田市で一番高い建物であった。その他、「佐原テレビ中継放送局」(香取市、1995年1月20日開局)、「下総光テレビ中継放送局」(横芝光町、1995年3月16日開局)、「江戸崎テレビ中継放送局」(茨城県稲敷市、1995年2月28日開局)があり、全4施設で約8万世帯を対象としている。",
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"text": "2011年7月24日の地上デジタル放送への完全移行後は、航空機によるフラッターの影響は受けにくいということで成田テレビ中継局はデジタルでは置局されず、2015年に鉄塔は解体された。県域放送局である千葉テレビ放送はアナログ時代より成田中継局を置いておらず、三山・千葉本局の受信となる。",
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"text": "※東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)にも、リムジンバスや鉄道(京成電鉄)を利用すれば乗換なしで行くことが可能。",
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"text": "成田山の初詣や、市内の大型ショッピングセンター、成田空港や関連企業、鹿島臨海工業地帯への大型車などの車の流入が多いのが特徴。国道51号では「成田山入口交差点」が主な渋滞箇所。特に初詣期間中は断続的に数キロメートルから十数キロメートルの渋滞も見られる。また、国道51号の千葉区間では成田市の寺台地先が最も交通量が多い(平日24時間自動車交通量41,919台)。国道408号では大型車の通行できる並行道路がなく、成田ニュータウン、つくば方面、我孫子方面、成田空港方面などを結ぶ主要道路が交わる「土屋交差点」が主な渋滞箇所。近年、近隣の大型ショッピングセンターの開店に伴い休日の渋滞が増加したが、交差点改良工事により若干改善した。",
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"text": "成田市の数字板設置交差点",
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"text": "市中心部の交差点信号機に1 - 17の数字板が設置されている。これは、成田山新勝寺への初詣客や警備に当る県外からの応援警察官などへの道案内用として設置された。全国的にも栃木県日光市の鬼怒川・川治温泉周辺しかなく事例が少ない。",
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"text": "成田市は周辺市町1市2町(佐倉市、栄町、芝山町)と成田国際観光モデル地区に指定され、また国際会議(コンベンション)推進を目的とする国際会議観光都市にも認定されている。2003年(平成15年)度に成田市を訪れた観光客数1,293万人。そのうちの約9割が成田山新勝寺や宗吾霊堂などの社寺参拝客、催物観光客であり、その他はゴルフ客などによるものである。2007年(平成19年)3月15日、市内の観光名所を巡る観光循環バスが運行を開始した。#路線バス参照。",
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"text": "主な入込数と千葉県内順位(2007年度)",
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"text": "江戸を感じる北総の町並み(佐倉・成田・佐原・銚子):百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群。ただ、江戸を感じるといいながら、江戸らしいものは全くなく、江戸時代の建物は参道には1軒存在しないなど、想像上のイメージで、誇大表現であるとの批判も多い。",
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"text": "その他の観光スポット",
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"text": "対象者は以下のとおり。",
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"text": "対象者は以下のとおり。",
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] |
成田市(なりたし)は、千葉県の北部中央に位置する市。 印旛地域にある業務核都市で、成田都市圏の中心都市であり、成田商圏を形成する商業中心都市。国家戦略特区、構造改革特区、国際観光モデル地区、国際会議観光都市および拠点空港都市。財政力指数は日本全国813市区中第4位であり、門前町の歴史的町並みは日本遺産に認定されている。 1954年(昭和29年)市制施行。
|
{{日本の市
| 画像 = Narita montage2.jpg
| 画像の説明 = {{crlf2}}
{{(!}} style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse"
{{!}} style="width:100%" colspan="2"{{!}}[[成田国際空港]]第2ターミナル
{{!-}}
{{!}} style="width:50%"{{!}}[[成田山新勝寺]]{{!!}} style="width:50%"{{!}}[[成田ニュータウン]]
{{!-}}
{{!}} style="width:50%"{{!}}[[成田市さくらの山]]公園{{!!}} style="width:50%; vertical-align:middle"{{!}}[[宗吾霊堂]]の大本堂
{{!-}}
{{!}} style="width:50%; vertical-align:middle"{{!}}[[旧学習院初等科正堂]]{{!!}} style="width:50%; vertical-align:middle"{{!}}[[成田空港駅]]に到着する[[スカイライナー]]
{{!)}}
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Narita, Chiba.svg|border|100px|成田市旗]]
| 市旗の説明 = 成田[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Narita, Chiba.svg|90px|成田市章]]
| 市章の説明 = 成田[[市町村章|市章]]<br /><small>2006年4月29日制定</small>
| 自治体名 = 成田市
| 都道府県 = 千葉県
| コード = 12211-4
| 隣接自治体 = [[印西市]]、[[富里市]]、[[香取市]]、[[印旛郡]][[酒々井町]]、[[栄町]]、[[香取郡]][[多古町]]、[[神崎町]]、[[山武郡]][[芝山町]]<br />[[茨城県]][[稲敷郡]][[河内町]]
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| 木 = [[ウメ]]
| シンボル名 = 市民の日
| 鳥など = [[3月27日]]
| 郵便番号 = 286-8585
| 所在地 = 成田市花崎町760番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-12|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Narita City Hall, 2020.jpg|center|250px|成田市役所]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|12|211|image=Narita in Chiba Prefecture Ja.svg}}{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
| 特記事項 =
}}
'''成田市'''(なりたし)は、[[千葉県]]の北部中央に位置する[[市]]。
[[印旛地域]]にある[[業務核都市]]で、[[成田都市圏]]の中心都市であり、成田[[商圏]]を形成する商業中心都市<ref name=":02">{{Cite web|和書|title=平成30年度消費者購買動向調査(千葉県の商圏)|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/keishi/toukeidata/shouken/h30/h30kekka.html|website=千葉県|accessdate=2019-05-31|language=ja|last=千葉県}}</ref>。[[国家戦略特区]]、[[構造改革特区]]、国際観光モデル地区、[[国際会議観光都市]]および[[ハブ空港#拠点空港都市|拠点空港都市]]。[[財政力指数]]は日本全国813市区中第4位であり<ref group="注">2014年度地方公共団体の主要財政指標一覧より</ref><ref>{{Cite web|和書|title=総務省|地方財政状況調査関係資料|平成26年度地方公共団体の主要財政指標一覧|url=https://www.soumu.go.jp/iken/zaisei/H26_chiho.html|website=総務省|accessdate=2019-03-12|language=ja}}</ref>、[[門前町]]の歴史的町並みは[[日本遺産]]に認定されている<ref>「[[北総]]四都市[[江戸]]紀行・江戸を感じる北総の町並み」として2016年4月25日に認定</ref>。
1954年(昭和29年)市制施行。
== 概要 ==
国際線旅客数および貿易額日本最大の[[日本の空港#拠点空港|国際拠点空港]]<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://www.mlit.go.jp/common/000029664.pdf|title=「空港の設置及び管理に関する基本方針」の概要|work=6地理的、経済的又は社会的な観点からみて密接な関係を有する空港相互間の連携の確保に関する基本的な事項|format=|publisher=[[国土交通省]]|accessdate=2018-06-15}}</ref>である[[成田国際空港]]を有する国際[[ビジネス]]・[[イノベーション]]の[[ハブ空港#拠点空港都市|拠点空港都市]]である。[[初詣]]の[[寺院]][[参拝]]客数日本一の[[成田山新勝寺]]([[成田参詣]])などで知られており、市の観光入込客数は推計で約1319万人、宿泊客数は約308万人を記録する日本屈指の[[観光都市]]でもある<ref group="注">2017年の延べ数</ref><ref>[https://www.city.narita.chiba.jp/content/000056155.pdf 成田市観光振興基本計画(平成29年度~平成33年度)p17] 成田市</ref>。
訪日観光客がよく利用する所謂「ゴールデンルート<ref group="注">[[関西国際空港]]から入国して[[三大都市圏]]と[[富士山]]を観光して[[成田国際空港]]から離日する国際観光客定番のルートのこと。特に、[[中華人民共和国|中国]]からの観光客の間で呼ばれる。</ref>」と称される[[関西国際空港]] - [[大阪市|大阪]] - [[京都市|京都]] - [[名古屋市|名古屋]] - [[富士山]] - [[箱根町|箱根]] - [[東京]] - 成田 - 成田国際空港の訪日観光コース上の拠点(宿泊・周辺観光)となっている<ref>{{Cite web|和書|title=ゴールデンルート インバウンド用語集|url=https://honichi.com/words/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88/|website=訪日ラボ|accessdate=2019-06-28|language=ja}}</ref>。また、[[観光庁]]による広域観光周遊ルート形成促進事業の広域関東周遊ルート「[[東京圏]]大回廊」においても江戸回廊ルートとして組み込まれている<ref>{{Cite web|和書|title=広域観光周遊ルートについて {{!}} 観光地域づくり {{!}} 政策について {{!}} 観光庁|url=https://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/kankochi/kouikikankou.html|website=www.mlit.go.jp|accessdate=2019-06-28}}</ref>。
古くから[[成田山新勝寺]]、[[東勝寺 (成田市)|宗吾霊堂]]の二大[[霊場]]を有する[[門前町]]として栄えた。[[明治|明治時代]]には[[宮内庁下総御料牧場]]が置かれるなど、[[1950年代]]まで[[観光]]と[[農業]]の振興を二大施策とした[[田園都市|純]]農村型都市であった。[[1960年代]]に入ると市の南東部に成田国際空港<ref group="注">旧称「新東京国際空港」</ref>の建設が決定され、[[1978年]](昭和53年)の空港開港や日本の[[高度経済成長]]期([[1954年]] - [[1973年]])とともに成田市の市域が拡大し、[[経済]]発展の影響から[[産業]]構造に多大な変化がもたらされた。現在では農業人口は減少し都市近郊農業型へと転換している。その反面、[[ゴルフ場]]や空港関連の[[サービス|サービス業]]など[[第三次産業]]が生まれ、新たな[[雇用]]が創出された。また観光面にも力を入れており、成田山新勝寺では[[正月三が日]]だけで270万人(非公式)、年間4000万人(成田市推計)ともいわれる参拝客で賑わう。
成田空港における[[航空機]]の[[航空機騒音|騒音]]であるが、成田市街地からは離れた丘陵部に位置しているため、航空機の騒音被害を殆ど受けない地域も多い。航空機の騒音被害を受けるのは、空港の[[滑走路]]周辺と航路直下である。空港用地の大部分は成田市に属するため、[[固定資産税]]などの関連税収は成田市に入ることが多く、財政の豊かさは全国有数である。しかし、空港用地の一部がかかる[[芝山町]]などの被害は見過ごされがちであるのに対し、空港利益を独り占めしているという批判もある。現在、地域と共生する空港づくり掲げ、航空需要の増大に従う騒音問題などに向き合っている。
[[1986年]](昭和61年)には[[東京一極集中]]の回避を目的とする[[業務核都市]]に指定され、千葉県からは千葉新産業三角構想の中核都市として位置付けられている。国の[[構造改革特別区域]]法に基づき[[2003年]]([[平成]]15年)[[4月21日]]に国際空港特区、同年[[5月23日]]には国際教育推進特区に認定された。[[2006年]](平成18年)[[3月27日]]、[[香取郡]][[下総町]]、[[大栄町 (千葉県)|大栄町]]を吸収編入した<ref name="chibanippo2006328">{{Cite news |title=新4市・町 誕生祝う 香取市 県内初の自治区制導入 山武市 旧4町村、テープカット 新・成田市 NARITAナンバーを交付 横芝光町 2町合併、喜びかみしめ |newspaper=千葉日報 |page=16 |publisher=千葉日報社 |date=2006-03-28}}</ref>。
[[東洋経済新報社]]による「安心度」「利便度」「快適度」「富裕度」の4つの観点から住みやすい都市を評価する「住みよさランキング」では、2009年度全国総合1位の評価を受けている。また、通勤圏を考慮した新方式では[[東京都]][[稲城市]]に次いで2位の評価を受けている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.toyokeizai.net/business/regional_economy/detail/AC/87bf229cee62b003b9d64b2b8962579d/page/1/|title=住みよさランキング 2009年版速報 成田(千葉)が首位、通勤圏を考慮した新方式では稲城(東京)が首位に|work=東洋経済オンライン|publisher=東洋経済新報社|date=2009-03-05|accessdate=2016-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090309030149/http://www.toyokeizai.net/business/regional_economy/detail/AC/87bf229cee62b003b9d64b2b8962579d/page/1|archivedate=2009-03-09}}</ref>。
== 地理 ==
[[千葉県]]の北部中央に位置し、[[都道府県庁所在地]]の千葉市から約25キロメートルの距離である。[[東京都]]の[[都心]]から50 - 60キロメートル圏内である。成田市の中心市街地(市役所の位置)から成田国際空港までは更に約5キロメートル離れている。
[[下総台地]]に位置し、成田山新勝寺およびその[[門前町]]を中心に展開している。面積は213.84 平方キロメートル(千葉県下6位)で、県土の4.1%。市の南西部に門前町(旧市街地)と[[日本のニュータウン|ニュータウン]]が、南東部の丘陵地帯に成田国際空港がある。これらの地域郊外には[[農業]]地帯が広がる。市の西部にある[[印旛沼]]、北辺の[[茨城県]]との県境を流れる[[利根川]]から[[農業用水]]の取り込みを行っており、重要な水源でもある。
'''位置'''
* (極東)所字北割地先 - 東経140度28分21秒
* (極西)北須賀字中外埜地先 - 東経140度14分57秒
* (極南)南三里塚字東地先 - 北緯35度43分24秒
* (極北)小浮字流作地先 - 北緯35度54分09秒
=== 地形 ===
千葉県北部中央の北総台地に位置する。標高は最低標高の1メートル(安西地先)から最高標高の42メートル(南三里塚地先)となっている。成田市の市域の5分の3の面積は海抜10メートルから海抜40メートルの丘陵部であり、[[関東ローム層]]が地表を覆う高燥な台地となっている。残りは印旛沼や根木名川水系から入る浸食谷による平らな低湿地帯であり、土地利用も全く異なる。
台地部では山林と畑が混在し野菜畑や落花生畑、牧草地などに、低地部は豊かな水に恵まれ水田に利用されてきた。現在も美しい田園風景が広がっている。また、[[下総台地]]の崖下に市街地が広がっており、「急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律」に該当する急傾斜崩壊危険区域が市内に68箇所ある。成田層(固結した砂層)が雨水によって侵食され、固結粘土層との間にすべりを生じ関東ローム層とともに崩壊する事例が台風などによる大雨により発生することが度々あり、擁壁工などの整備が進められている。
'''市域'''
広袤(こうぼう):東西20.1キロメートル 南北19.9キロメートル
'''自然'''
[[一級河川]]:[[利根川]]、大須賀川、[[根木名川]]、[[派川根木名川]]、[[尾羽根川]]、荒海川、小橋川、取香川、十日川、派川十日川、竜台川
[[湖沼]]:北印旛沼、坂田ケ池、弁天池、バタ池(羽田池)、西池、浅間池
<gallery widths="200">
Nagatoyo-bridge,narita-city,japan.JPG|[[利根川]]([[長豊橋]])
Jyoso-bridge,narita-city,japan.JPG|[[利根川]]([[常総大橋]])
Nekona-river,Narita,Japan.jpg|[[根木名川]]
This is Sakata Ga Ike.JPG|坂田ケ池
</gallery>
=== 気候 ===
年間の平均気温は14.2度、年間降水量は1429.1ミリメートル。年間通して比較的温暖な気候に恵まれる千葉県の中では気温が低い。1月の最低気温の平均は[[千葉市]]で1.9度に対し、-2.4度。毎年氷点下5度以下を記録し、年間の0度未満の冬日日数は50 - 80日ほどであり、千葉県の沿岸部とは大きな気候の違いがある。過去最低気温は[[1984年]](昭和59年)1月20日に-10.7度を記録している<ref>[https://www.jma-net.go.jp/narita-airport/kansoku/data/siryou/kyokuchi.htm 極値順位表 成田航空地方気象台]</ref>。春から夏にかけて南西の風が強く吹くことが多く、夜間に[[霧#発生要因による分類|放射霧]]が発生する割合が高い。霧が発生し易い理由として[[内陸性気候]]で気温の[[日較差]]が激しく、周辺の利根川、印旛沼、中小河川、耕地や水田などが多湿な状況を作り出していることが挙げられる。
猛暑日(35℃以上)最多日数:9日(2022年)
冬日(0度未満)最多日数:86日(2011年)
* 成田市における平均月別気温と平均降水量
{{Weather box
|location = 成田空港(1981-2010)
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan record high C =
|Feb record high C =
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|year record high C =
|Jan high C = 9.2
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|Sep record low C =
|Oct record low C =
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|Dec record low C =
|year record low C =
|Jan precipitation mm = 61.8
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|Oct precipitation mm = 202.1
|Nov precipitation mm = 99.8
|Dec precipitation mm = 50.7
|year precipitation mm = 1429.1
|source 1 = 成田航空地方気象台<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma-net.go.jp/narita-airport/kansoku/data/siryou/kikou.htm |title=成田空港 1981-2010年 |accessdate=2012-02-06 |publisher=成田航空地方気象台}}</ref>
|date=February 2012
}}
=== 隣接している自治体 ===
* [[印西市]]
* [[富里市]]
* [[香取市]]
* [[印旛郡]] : [[栄町]]、[[酒々井町]]
* [[香取郡]] : [[神崎町]]、[[多古町]]※
* [[山武郡]] : [[芝山町]]
* [[茨城県]][[稲敷郡]] : [[河内町]]
<small>※成田市内に香取郡多古町一鍬田の[[飛地]]が存在する。</small>
== 歴史 ==
=== 地名の由来 ===
'''成田(なりた)'''の地名の由来には諸説あり
* 昔から雷が多い為、雷の良く鳴る田「鳴田(なるた)」→「成田」とされる説。
* 稲の出来が良い土地の為「熟田(なりた)」→「成田」とされる説。
* 最近の研究では、開墾を行い、なりわい(なりわい業)の田「業田(なりた)」→「成田」
などの説がある。
=== 前史(古代) ===
※成田市の歴史と、旧'''下総町'''・'''大栄町'''の歴史とは別項目にわけることとする。
[[ファイル:船塚古墳.jpg|サムネイル|[[船塚古墳 (成田市)|船塚古墳]]([[前方後方墳]])]]
成田付近には[[旧石器時代]]の約3万年前から[[人間]]が居住していたことが、空港建設に伴う発掘調査(新東京国際空港No.55遺跡([[古込]]))によって判明し、発掘された楕円形[[石斧]]は千葉県内最古の遺物として位置づけられている。
縄文時代の南羽鳥中岫第1遺跡では、人頭形土製品などが出土し、国の[[重要文化財]]に指定されている。また関東地方最後の大貝塚である[[荒海貝塚]]などがあり、縄文時代最後の土器とされる「荒海式土器」が発掘され、[[国立歴史民俗博物館]](佐倉市)の調査では稲作の可能性が明らかにされている。西暦3世紀終わり頃の古墳時代、市内には多くの古墳が出現した。近隣の[[龍角寺古墳群]]や日吉倉古墳群を含め、約340基の古墳が存在する。成田市は、水運に恵まれ、大和王権にとっては、重要なルート上に位置し、政治・軍事・経済上重要な地域だったとされる。市域では、成田ニュータウンに位置する[[船塚古墳 (成田市)|船塚古墳]]が全国的に有名であり、周堀と土堤をめぐらした完全な姿は偉容である。また、古墳用の埴輪を焼いた登り窯(公津原埴輪窯跡)が古墳のすぐ近くで発見されたが、成田ニュータウンの造成により消滅した。千葉県内には他にもう1ヵ所、木更津市畑沢に畑沢埴輪窯跡が発掘されたのみで、貴重な遺跡であった。古文書に成田市域の地名が出るのは755年『[[万葉集]]』に「印波郡丈部直大歳、埴生郡大伴部麻与佐」の歌がみえる。''[[下埴生郡|埴生郡]](はにふのこほり)は、成田市近辺と推測される。''
『万葉集』「第20巻4392番」より和歌の詳細については、以下を参照<ref>{{Cite web|和書|title=万葉集/第二十巻 - Wikisource|url=https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%B7%BB|website=ja.wikisource.org|accessdate=2019-06-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=たのしい万葉集(4392): 天地のいづれの神を祈らばか|url=https://art-tags.net/manyo/twenty/m4392.html|website=art-tags.net|accessdate=2019-06-28}}</ref>。{{quotation|『万葉集』「第20巻4392番」より
: ([[原文]])
: 阿米都之乃 以都例乃可美乎 以乃良波加 有都久之波々尓 麻多己等刀波牟
: ([[和歌]])
: 天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ
: (訳)
: 天の神、地の神、どの神に祈ったら、いとしい母に、また話しができるのでしょうか。}}成田の文字が確認されるのは、1408年(応永15年)成田村安養寺(現在は永興寺安置)の聖観音菩薩坐像胎内に「成田郷 応永十五年」の銘がみえる。[[940年]](天慶3年)[[承平天慶の乱]](平将門の乱)が平定され、新勝寺が創建されたと同寺縁起(制昨年不明)では記される。
=== 江戸時代 ===
[[ファイル:Former Shimofusa Imperial Stock Farm Office.JPG|左|サムネイル|[[下総御料牧場]]事務所(三里塚御料牧場記念館)]]
[[江戸時代]]中期、成田は[[門前町]]としての色を濃くしていった。参拝者の増加と共に、飯屋や[[居酒屋]]などが次第に専業化していった。記録によると、[[1701年]](元禄14年)には旅籠が1件もない農村であったが、[[1843年]](天保14年)には旅籠32軒となっている。煙草、刀剣の研、髪結、提灯、蝋燭、傘、下駄屋などがあり、[[江戸]]との間を結ぶ[[成田街道]]をはじめ、利根川の木下河岸(きおろしがし・現[[印西市]])、[[常陸国]]を結ぶ滑川河川、香取・佐原・芝山・九十九里などを結ぶ道などが集中する交通の要衝として栄え、参拝者以外の旅人でも賑わった。[[1881年]](明治14年)6月および[[1882年]](明治15年)6月に、[[明治天皇]]が千葉県下の下総種畜場(後の[[宮内庁下総御料牧場]])へ[[行幸]]する際に成田山を行在所(あんざいしょ)と定めた。境内には「明治天皇成田行在所」の碑が建てられている。
1871年(明治4年)に旧成田市域は[[印旛県]]に属し、1873年(明治6年)千葉県に統合された。1876年(明治9年)の[[大区小区制]]では、第10区11-16小区に属す。明治11年、[[埴生郡]]は[[下埴生郡]]と改称。[[印旛郡]]公津新田が八生村に、下埴生郡成木新田が公津村に編入され、1897年(明治30年)下埴生郡が印旛郡へと編入され、旧市域はすべて印旛郡となる。
江戸時代に[[佐倉牧|佐倉七牧]]と呼ばれた馬の放牧地があり、明治時代に入るとその内の一牧「取香牧」(現・成田市取香・三里塚付近)に牧羊場が開場した。以後、[[宮内庁]]管轄となり[[下総御料牧場の基礎輸入牝馬]]で知られる「[[下総御料牧場]]」となる。この頃から下総台地の佐倉牧や小金牧などで開墾が行われ始め、成田の「十余三」はその13番目の開墾地名である。
{{Clear}}
=== 成田山信仰 ===
[[ファイル:Meiji-Tennou-Narita-Anzaisyo.jpg|サムネイル|[[成田山新勝寺]]「明治天皇成田行在所」]]
明治以後は観光の振興に力を入れ、交通の整備が急速に進んだ。それ以前は東京から成田まで片道二日の行程が普通であったが、乗合馬車の整備により半日で到達可能になった。また鉄道敷設の気運が高まり、1901年(明治34年)成田鉄道(初代)により成田 - 我孫子(現・[[成田線]])が開通、[[日本鉄道]](現・[[常磐線]])と接続し上野駅に直結させた。1910年(明治43年)には、[[成宗電気軌道]](現[[千葉交通]]の前身)により成田門前 - 成田駅に県下初の電気軌道が運行を開始する。大正末期には、成田駅の乗降客数は千葉駅に次ぐ千葉県内第2位まで増加した。
明治期の成田は成田山参詣の恩恵を受け、特に活気に満ちていた。しかし急速に交通網が整備されたため、参詣客が増加する反面日帰り客の増加を招き、旅館業者の宿泊客が奪われ、転業するものが増えた。もっとも産業自体は活気に満ちており、この頃登場し、現在でも成田名物として有名な「[[栗羊羹|栗ようかん]]」など、薬、酒、たばこ、飲食、料理、土産物屋などが参道に店を連ねた。町の発展に伴い、[[千葉郡]]にあった物産陳列館も成田町に移され、町立千葉県物産館が開館した。また成田町には[[佐倉警察署]]成田分署、佐倉裁判所成田出張所、[[成田郵便局]]、大日銀行、九十八銀行、各保険会社の代理店などが置かれ、現市域の中枢としての機能を有していた。
[[大正|大正時代]]に入り、[[第一次世界大戦]]によってもたらされた活況や、その反動により起こった恐慌にも成田の参詣客数には関係なく、宿泊客数も増加した。この頃から、成田瓦斯会社(後に成宗電気軌道に合併)によって、市内に[[ガス灯]]が灯るようになる、しかし、成宗電気軌道による電灯用電気供給により、以後ガス灯を圧倒していった。成田の経済を象徴するものとして、この頃成田銀行が一時経営不振に陥るが、その後川崎銀行の元で経営を再建、市内の中小銀行を併合し「総武銀行」、「千葉合同銀行」と改称、後に現在の「[[千葉銀行]]」となる。大正期、成田は[[第二次世界大戦]]前のピークを形作る。
昭和初期には「高くて、まずくて、不親切」と不評を買っていた、参道商店街がこの評判を払しょくするため、電車内での客引きを禁止したり、強引な呼び込みをやめるため、店舗前での呼び込みは1名、女性に限るなどの自浄作戦を展開するまでになった。
戦時中、『江戸時代、成田山の仁王門再建工事をしていた大工"辰五郎"が誤って高い足場から転落したが、成田山の焼印を押したお守りが二つに割れ、お不動様の霊験により軽い怪我で助かった』という伝承が伝わり、出兵兵士達の間で成田山の「身代わり札」が流行した。太平洋戦争末期、戦争の長期化により物資の不足が深刻化すると、成田山公園に設置されていた銅像やようかんの看板、[[不要不急線]]として成田鉄道(2代)の鉄道線([[成田鉄道多古線|多古線]])、次いで軌道線(旧成田電気軌道[成宗電気軌道])が廃線となり国に供出された。また、市内に直接的な空襲被害はなかったが、1945年(昭和20年)2月、八生国民学校校舎に米軍機が撃墜され墜落。校舎が全焼する事件が起き、米兵の引渡し騒動など一部混乱はおきたが特に害はなかった。1945年(昭和20年)8月15日、終戦を迎えたが相次ぐ凶作や急激な物価高騰の影響を受けて戦時下より一層生活困窮に陥った。また、消息不明未帰還者が相次ぐなど、市内にも戦争の残した爪跡は決して少くなかった。
終戦後は成田地域の百姓らは東京圏への行商をするものが多く現れた。一部は、あくどい商売を行い上質な着物一反と腐った芋を交換するなど、成田の評判を落とした行商人もいた。
=== 成田市の誕生 ===
[[ファイル:Narita International Air Port (cropped).jpg|サムネイル|[[成田国際空港]]|代替文=|左]]
終戦後、1953年(昭和28年)に町村合併促進法が制定され、翌年の1954年(昭和29年)3月31日、成田町、[[公津村]]、[[中郷村 (千葉県印旛郡)|中郷村]]、[[久住村]]、[[豊住村]]、[[遠山村 (千葉県)|遠山村]]の1町6村が合併し、(旧)成田市が誕生する。成田は田園観光都市として、農業を中心とした都市形態であったが、1966年(昭和41年)6月22日の新東京国際空港建設計画(三里塚案)の発表、それに続く[[第1次佐藤内閣 (第1次改造)|佐藤栄作内閣]]による7月4日の[[閣議 (日本)|閣議決定]]([[s:新東京国際空港の位置及び規模について|空港の位置及び規模について]])によって町は一変することになる。
空港建設の決定に伴い、市議会は即時空港建設反対の決議をしたものの、翌月には決議を白紙に戻し、空港建設を積極的に協力する姿勢を打ち出した。しかし計画地近辺の地元住民らを中心に、何の説明もなく意見を無視し国家権力を振りかざした新空港建設に、激しい憤りの声が挙がった。市民の間では空港建設に対して賛否がわかれ、閣議決定に前後し、地元の約1千戸、3千人もの住民によって[[三里塚芝山連合空港反対同盟]]が結成。
1968年(昭和43年)3月10日には、反日共系[[全日本学生自治会総連合|全学連]]などと共に決起集会([[成田デモ事件#第2次成田デモ事件|第2次成田デモ事件]])が行われ、警察との間で激しい衝突が繰り返された。
市役所には[[有刺鉄線]]を使った[[バリケード]]が設けられたほか、商店はショーウィンドウを[[トタン]]板で囲い学生と警察との衝突に備えるなど市民生活にも影響が出るようになった<ref>緊張感ただよう成田市 3.10集会の前夜 有刺鉄線張る市役所『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月10日朝刊 12版 15面</ref>。
その後も反対闘争は強化され、ついには死者を出すなど、深刻な社会問題と発展し、現代史に残る[[三里塚闘争]]や[[成田空港問題]]となる。相次ぐ流血の惨事に成田市では「暴力行為の排除と信仰の町成田の平和と繁栄の為に市民の協力を願う」との主の声明を出す。こうした混乱の中、1978年(昭和53年)5月20日、全国から約13,000人の機動隊員が動員され、厳戒態勢の中、現在の成田国際空港が開港した。
その後、空港関連事業として、[[東関東自動車道]]の開通、内陸工業団地、[[成田ニュータウン]]が千葉県北総開発局(現・千葉県企業庁)によって造成され、近年では[[ベッドタウン]]化が進み、人口も増加したが、現在は頭打ち傾向が顕著となり、人口の減少化が始まった。東京都内中心部に通勤・通学するには遠く、昭和40~50年代に始まったニュータウンは、徐々に空き地が目立ち始めている。また、旧大栄町、下総町で中途半端に開発された宅地造成の多くは、限界ニュータウンと呼ばれ、公共交通が通わず、空き地がほとんどとなっている。また、[[百貨店]]や大型[[ショッピングセンター]]が市内に立地し、北総地域の商業都市としての一面もある。しかし、政府による空港建設の強行は、地域住民・日本国政府・地方公共団体との間の信頼関係を崩壊させ、用地買収も進まず、成田空港は開港から35年以上経つ今日でも完全開港が成されていない。<!-- そのため、成田市を始めとする周辺市町村からはアジアや世界に置ける日本の国際ハブ空港の地位低下を危惧する声も挙がり始めている。(誰?) -->
=== 沿革 ===
{{Main2|成田国際空港の歴史|成田国際空港#歴史|成田空港問題の推移|成田空港問題の年表}}
[[ファイル:成田山開基1070年祭 - panoramio (2).jpg|サムネイル|成田山開基1070年祭(2008年)]]<!-- 事故・事件・自然災害等は後述の事故・事件・自然災害に統合 -->
* [[940年]] ([[天慶]] 3年) : 成田山新勝寺開山(成田山縁起による)正式名称 成田山明王院新護新勝寺。
* [[1408年]]([[応永]]15年): 成田村安養寺の聖観音菩薩坐像胎内に「成田郷 応永十五年」の銘が見える。(成田の地名の初見。安養寺の火災により聖観音菩薩は寺台の永興寺に移される。)
* [[1889年]]([[明治]]22年): [[4月1日]] 町村制施行により成田町、[[八生村]]、[[中郷村 (千葉県印旛郡)|中郷村]]、[[久住村]]、[[豊住村]]、[[遠山村 (千葉県)|遠山村]]([[下埴生郡]])、[[公津村]]([[印旛郡]])の7ヶ町村が誕生。
* [[1897年]](明治30年)1月19日: 成田鉄道の佐倉 - 成田が開通。12月29日には成田 - 滑川も開通。
** [[4月1日]]: 下埴生郡が印旛郡に編入され、成田町以下6町村が印旛郡に属する。
* [[1900年]](明治33年): [[内務省 (日本)|内務省]]より、長沼の沼地無償払い下げが認可される([[長沼事件]])。
* [[1901年]](明治34年)4月1日: 成田鉄道の成田 - 我孫子が開通。
* [[1910年]](明治43年)[[ファイル:Seiso Electric Railroad Narita Chiba Japan03s3.jpg|サムネイル|[[成宗電気軌道]]第1トンネル跡(2012年)]]
** 12月11日: [[成宗電気軌道]]の成田山門前 - 成田駅前間開通。成宗電気軌道の火力発電所から一般家庭に電灯用電力の供給が開始される。県下で2番目の電力供給。
* [[1911年]](明治44年)7月1日: [[千葉県営鉄道]]多古線の成田 - 三里塚間が開通。[[10月5日]]には三里塚 - 多古間が開通。
* [[1914年]]([[大正]] 3年)5月18日: 千葉県営鉄道八街線の三里塚 - 八街間が開通する。
* [[1920年]](大正 9年)9月1日: 成田鉄道が国有化され、成田線と呼称。
* [[1926年]](大正15年)12月24日: 京成電気軌道(現・[[京成電鉄]])酒々井 - 花咲町(仮駅)間が開通。
* [[1930年]]([[昭和]] 5年)4月25日: 京成電気軌道、花咲町 - 京成成田間開業。
* [[1938年]](昭和13年)3月28日: 成田山開基一千年祭記念開帳が始まる。(本来は1940年が1千年となるが、紀元2600年という国家的大祭があるため、協賛金・寄付金が少なくなることを避けるため、2年前倒しで実施された)
* [[1954年]](昭和29年)3月31日: 成田町、公津村、八生村、中郷村、久住村、豊住村、遠山村が合併し、成田市が誕生する。千葉県内で11番目の市制施行。人口44,724人。
* [[1958年]](昭和33年)10月31日: 成田市役所新庁舎落成(それまでは旧成田町役場のものを使用)。
* [[1966年]](昭和41年)
** 6月22日: [[佐藤栄作]][[総理大臣]](当時)から[[友納武人]]県知事(当時)へ、国・県有地を中心に極力民有地の面積を抑えて三里塚に新空港を建設したいとの協力要請がされる。突然の内定に建設予定地は大混乱に陥る。
** 6月25日: 県知事から[[藤倉武男]]成田市長(当時)に三里塚に新空港を建設したいと正式に協力を要請。同日、三里塚小学校にて新空港説明会を実施。大混乱となる。
** 7月4日: [[S:新東京国際空港の位置及び規模について|新東京国際空港の位置及び規模について]]閣議決定。空港の建設予定地が千葉県成田市[[三里塚 (成田市)|三里塚]]の[[宮内庁下総御料牧場]]周辺に決定する。成田市議会が新空港反対決議を採択(賛成17・反対5・白票3)。
** 7月12日: 県は空港建設に伴う移転や、土地売買に関する相談を受け付ける「千葉県国際空港相談所」を開設する。
** 8月2日: 成田市議会、新空港反対決議を白紙撤回。
* [[1967年]](昭和42年)6月27日: [[大橋武夫 (政治家)|大橋武夫]]運輸大臣(当時)が成田入り、反対派が国鉄成田駅を占拠する。
* [[1968年]](昭和43年)
** 1月29日: [[甚兵衛大橋]]が開通。甚兵衛渡しが役目を終える。
** 2月15日: [[長豊橋]]が完成。これにより成田-江戸崎線が開通。茨城県と橋で繋がる。
** 3月26日: 国鉄千葉 - 成田間が[[鉄道の電化|電化]]。
* [[1969年]](昭和44年)
**3月: 印旛沼開発事業竣工。
** 5月7日: 国道51号線(佐倉 - 佐原間)が6年の歳月をかけ舗装化。
* [[1970年]](昭和45年)
** 4月28日: 資材輸送専用線(国鉄成田駅から分岐、大株から土屋地先に至る約2.9キロメートル)が一部開通(全通は8月31日)。
** 8月18日: 新東京国際空港建設に伴い下総御料牧場閉場。以降空港建設反対運動が激化する。
** 8月21日: 押畑に市総合運動場の第1期施設工事として大谷津運動公園野球場が開場。6万7000平方メートルを造成して建設された。
* [[1972年]](昭和47年)
** 4月1日: 成田ニュータウンへの入居が始まる。
** 8月19日 :[[新空港自動車道]](現・[[東関東自動車道]]) 富里IC - 成田IC間供用開始。
** 11月25日: 京成電鉄、[[京成成田駅]] - 成田空港駅(現・東成田駅)間完成。
** 12月21日: [[成田用水事業]]が国営事業として[[水資源開発公団]]により始まる。
* [[1973年]](昭和48年)
** 4月30日: 成田空港A滑走路(4,000メートル)完成。
** 10月14日: 成田ニュータウンに中台運動公園がオープン。中台運動公園野球場が開場。
** 10月15日 - 10月18日: 第28回[[国民体育大会]](若潮国体秋季大会)の軟式野球(一般軟式)会場(大谷津運動公園野球場、中台運動公園野球場、成田高等学校野球場、西中学校野球場、中台中学校グラウンド)となる。
* [[1974年]](昭和49年)
** 6月4日: 成田市公設地方卸売市場(青果部)開場。
** 10月28日: 成田市は、空港関連事業の予算見通しが立たなくなり、財政困難に陥る。「非常事態宣言」を発令し財政再建対策委員会を設置。(成田空港開港と共に解消。以後好転に向かう。)
* [[1975年]](昭和50年)3月28日: 市制20周年記念事業として、成田国際文化会館が開館。
* [[1978年]](昭和53年)
** 4月1日: いずみ清掃工場が開設。収集日が週3日になる。
** 5月12日: 新東京国際空港の安全確保に関する緊急処置法(現:[[成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法]])成立。
** 5月20日: 空港開港、翌日より運行開始。
** 5月21日: 京成[[スカイライナー]]が成田空港駅(現[[東成田駅]])乗り入れ。新空港自動車道 成田IC - 新空港IC間供用開始。
* [[1980年]](昭和55年)5月1日: 成田用水の幹線がほぼ完成。暫定通水開始。翌年本格通水。
* [[1981年]](昭和56年)2月: 国道51号の[[成田橋]]が全面開通。
* [[1983年]](昭和58年)6月: 千葉県は「[[千葉新産業三角構想]]」を策定し、成田市、千葉市、木更津市、の3市を核都市とした。
* [[1984年]](昭和59年)10月27日: 市制30周年記念事業として、成田ニュータウン赤坂地区に市立図書館が開館。
* [[1985年]](昭和60年)2月27日: 東関東自動車道成田IC - 大栄IC間供用開始。
* [[1986年]](昭和61年)
** 2月24日: 国鉄成田線、佐倉 - 成田間が複線化。
** 3月24日: 成田市、佐倉市、栄町、芝山町が国の国際観光モデル地区に指定。
** 4月6日 国鉄成田駅西口広場が供用開始。
** 「第4次首都圏基本計画」において、成田広域連携拠点として[[業務核都市]]に指定される。
* [[1988年]](昭和63年)
** 4月28日 - 5月28日: 成田山開基1050年祭記念開帳。
** 9月14日: [[咸陽市]]と[[友好都市]]提携に調印。
** 11月7日: 成田市役所新庁舎落成。業務開始(現庁舎)。
* [[1990年]]([[平成]] 2年)10月6日: [[サンブルーノ|サンブルーノ市]]と[[姉妹都市]]提携に調印。
* [[1991年]](平成 3年)
** 3月19日: 成田空港駅までJR・京成電鉄が開通。
** 11月21日: 成田空港問題第1回シンポジウム開催。
* [[1992年]](平成 4年)
** 12月6日: 成田空港第2旅客ターミナルビルが開業。
** 7月23日: 京成成田駅と京成成田駅東口広場結ぶ京成成田駅東口地下道が完成。
* [[1993年]](平成 5年)
** 5月1日: [[防災行政無線]]運用開始。
** 5月24日: [[成田空港問題円卓会議|成田空港問題シンポジウム]]が終結。
** 9月20日: 成田空港問題第1回円卓会議が開かれる。
* [[1994年]](平成 6年)10月11日: [[成田空港問題円卓会議]]が終結。
* [[2002年]](平成14年)4月18日: 成田空港暫定平行滑走路(B滑走路)供用開始。
* [[2004年]](平成16年)11月13日: 成田市制施行50周年記念式典が成田国際文化会館で執り行われる。
* [[2005年]](平成17年)11月18日: 人口が10万人に達する。
* [[2006年]](平成18年)
** 3月27日: [[下総町]]・[[大栄町 (千葉県)|大栄町]]を編入合併<ref name="chibanippo2006328" />。人口120,237人となる。
** 3月29日: 環境マネジメントシステムの国際規格「[[ISO14001]]」を認証取得。
* [[2008年]](平成20年)9月27日: 成田山新勝寺表参道の道案内となるモニュメント「時空の舞(ときのまい)」除幕式。
* [[2009年]](平成21年)
** 10月22日 成田空港B滑走路が当初の計画より北側へ延伸され2,500メートル化、供用開始。
* [[2010年]](平成22年)
** 2月5日: 成田市の第1回成田空港成長戦略会議を開催。
** 4月 市の観光キャラクター「うなりくん」がデビュー。
** 9月25日 - 10月5日: 第65回[[国民体育大会]](ゆめ半島千葉国体)の柔道・ゴルフ・ソフトボール会場となる。
** 7月1日: [[成田空援隊]]が設立、活動を開始。
** 7月17日: 成田新高速鉄道([[京成成田空港線]])が開通。市内に[[成田湯川駅]]が設けられる。
** 9月26日: 一坪田に大栄野球場が開場。
** 10月13日: 「成田空港に関する四者協議会」において、成田空港の年間発着容量30万回への容量拡大について国・千葉県・空港周辺9市町およびNAAの四者で合意。
* [[2012年]](平成24年)
** 12月13日: 成田空港A滑走路が開港以来初の4000メートル全面運用を開始。
* [[2013年]](平成25年)
** 3月31日: 成田空港が年間発着容量27万回化し、[[オープンスカイ協定]]を導入。
* [[2015年]](平成27年)
** 2月27日:スカイタウン成田(JR成田駅東口再開発ビル)が完成。
** 4月8日: 成田空港第3旅客ターミナル(LCC専用ターミナル)が開業。
** 6月7日: [[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]] [[神崎インターチェンジ|神崎IC]] - [[大栄ジャンクション|大栄JCT]]間開通、市内に[[下総インターチェンジ|下総IC]]が開設。
'''備考'''
* 成田空港開港直後の1980年の成田市の人口は68,418人であり、2007年までに3万人程度増加している。その殆どが市外からの転入者であり、当時の関係者の高齢化と供に成田空港問題を知らない住民が増えたことが成田空港問題の風化を早めていると言う指摘がある。1995年に誕生した第4代[[小川国彦]]・市長はその象徴であり、元社会党国会議員・一坪運動の地権者の一人(=用地収容反対運動)として登記された人物である。
* 成田市議会では平成9年11月、市内で起きた[[芝山鉄道]]専務宅で発生した爆破事件をきっかけに、同年12月10日「過激派暴力集団の排除等に関する決議」を決議し、極左暴力集団の一掃と根絶を図ることを要望した。また、成田市議会の他に、県内27市議会、千葉県議会、芝山町議会他51町村議会、山武郡市町村会及び [[JFEスチール]]千葉協力会など203団体が同じく「極左暴力集団排除決議」を決議している。
'''方言'''
成田の[[日本語の方言|方言]]は[[利根川]]下流地域で使われる言葉である。「…しましょう」「…だろう」、或いは「…でしょう」など、話し手の意思を表すのに「べー」がよく使われる(例:''遊んべー、行くべー'')。この「べー」も場所により「だっぺ」や「だべー」と違いが見られる(茨城県では「だっぺ」や「ぺ」が使用されており、茨城寄りになるほど「ぺ」が使われる頻度が高まる)。また、単語にも地域の特性を持つものや標準語に近いものもある。おっぺす(押す)、かちゃっぱ(枯葉)などがよくつかわれる。
'''なまり'''
成田地方のなまりの特徴として、清音が濁音になることがあげられる。地名で「ねこさく」が「ねこざく」「ねござく」「ねござぐ」になったり、人名の大木「おおき」が「おおぎ」、話し言葉の良いか「いいか」が「いいが」になったりするなまりが顕著である。
=== 平成の大合併 ===
[[2002年]](平成15年)[[12月15日]]に成田地域任意合併検討協議会が初会合を開催<ref name="chibanippo20021216">{{Cite news |title=空港圏合併に前向き 成田地域任意合併検討協が初会合 10市町の首長、議長出席 |newspaper=千葉日報 |page=14 |publisher=千葉日報社 |date=2002-12-16}}</ref>、
[[2003年]](平成15年)[[2月22日]]に成田地域任意合併検討協議会で、[[富里市]]、[[下総町]]、[[大栄町 (千葉県)|大栄町]]、[[多古町]]、[[芝山町]]、[[栄町]]、[[神崎町]]、[[栗源町]]、[[横芝町]]、[[蓮沼村]]の2市8町1村が法定協議会の規約を承認して翌月の参加各市町村の定例会に法定協議会設置の議案を提出することになった<ref name="chibanippo2003223">{{Cite news |title=法定協規約を承認 成田 空港圏合併で任意検討協 3月定例会に11市町村 |newspaper=千葉日報 |page=14 |publisher=千葉日報社 |date=2003-02-23}}</ref>。
合併における争点の一つは、成田空港関連の[[固定資産税]]などの税収入をほぼ独占している成田市と、騒音問題を抱えているにもかかわらず、空港収入が少ない周辺市町村との温度差であった。合併の枠組みは、[[松尾町]]が山武地区の合併協議会へ参加したため離脱し、2市8町1村による議論になったが、[[2003年]](平成15年)[[3月5日]]に成田市議会が11市町村での法定協議会設置を否決して市長の[[小川国彦]](当時)が辞意表明し<ref name="chibanippo200336">{{Cite news |title=小川市長は辞意表明 成田市議会が法定協設置否決 空港圏合併、白紙に |newspaper=千葉日報 |page=1 |publisher=千葉日報社 |date=2003-03-06}}</ref>、空港圏合併任意協議会は解散した<ref name="chibanippo2003316">{{Cite news |title=空港圏合併任意協が解散 成田市長 構成市町村に陳謝 |newspaper=千葉日報 |page=1 |publisher=千葉日報社 |date=2003-03-16}}</ref>。
空港関連収入の取り分が少なくなることを嫌って、その後成田市は「成田市への編入合併」を前提に[[富里市]]、[[香取郡]][[下総町]]・[[大栄町 (千葉県)|大栄町]]・[[多古町]]及び芝山町に対し合併協議参加を呼びかけたが、富里市・多古町・芝山町は「新設合併」を主張し不参加。結果、2006年(平成18年)3月27日に下総町と大栄町を編入することが決まった。{{要出典|範囲=成田市が富里市との新設合併を拒否した理由として、財政展望が明るくないことに加え、成田空港建設当時、富里・八街地区への空港建設案があり、両町村が激しい空港建設反対運動を展開したため、成田市への建設が閣議決定された経緯がある|date=2022年12月}}。
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |'''平成の大合併沿革'''
*2004年(平成16年)
** 3月1日 成田市・下総町・大栄町合併協議会設置。
** 5月27日 千葉県知事が合併重点支援地域に指定。
* 2005年(平成17年)
** 3月15日 合併協定調印。
** 3月16日 成田市、下総町の議会で合併申請議案可決。
** 3月18日 大栄町の議会で合併申請議案可決。
** 3月25日 県へ合併申請。
** 4月6日 臨時県議会で議決。
** 4月12日 県で合併決定。
** 5月13日 総務大臣による官報告示。
*2006年(平成18年)
** 3月27日 下総町・大栄町が成田市に編入合併。
| valign="top" |'''平成の大合併後の動き'''
* 2007年3月、千葉県により、市町村合併第2ステージ「千葉県市町村合併構想」が発表され、成田空港圏自治体連絡協議会や地域振興連絡協議会に参加した神崎町、栄町を含む、成田市、富里市、多古町、芝山町の2市4町案が提案される。
* 2007年11月より、成田市を除く、富里市、栄町、神崎町、多古町、芝山町の1市4町の首長による合併懇談会が開かれる。
* 2008年8月5日、富里市、栄町、神崎町、多古町、芝山町の1市4町の首長が成田市役所を訪れ、小泉一成市長に「千葉県市町村合併推進構想」に示された、成田市、富里市、栄町、神崎町、多古町、芝山町の2市4町による合併協議の申し入れを提出する。
* 2008年9月2日、成田市、富里市、栄町、神崎町、多古町、芝山町の2市4町の経済団体代表者らが成田市役所を訪れ、小泉一成市長に「2市4町による合併実現に関する要望書」を提出する。
* 2008年9月29日、富里市、栄町、神崎町、多古町、芝山町の1市4町の首長へ「合併協議申入れに関する回答書」で、新たな合併に取り組むよりも、当面の成田市の諸課題に全力を傾けていきたい旨を回答する。
|}
=== 行政区域変遷 ===
''現在の成田市は1954年に新設合併で誕生したものである。それ以前の[[成田町]]については当該項目を参照。''
* '''変遷の年表'''
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:x-small"
|-
! colspan="3" style="font-size:small" | 成田市市域の変遷(年表)
|-
! 年
! 月日
! 現成田市市域に関連する行政区域変遷
|-
| [[1889年]](明治22年)
| [[4月1日]]
| style="text-align:left" | [[町村制]]施行に伴い、以下の町村がそれぞれ発足。<ref>角川日本地名大辞典編纂委員会『[[角川日本地名大辞典]] 8 茨城県』、[[角川書店]]、1983年 ISBN 4040010809<nowiki/>より</ref><ref>角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、[[角川書店]]、1984年 ISBN 4040011201<nowiki/>より</ref>
* '''旧成田市'''
** [[下埴生郡]]
*** '''[[成田町]]''' ← 成田町・郷部村・寺台村・土屋村
*** '''[[八生村]]''' ← 印旛郡松崎村・大竹村・上福田村・下福田村・宝田村・押畑村・山口村と印旛郡公津新田村
*** '''[[中郷村 (千葉県印旛郡)|中郷村]]''' ← 野毛村・東金山村・下金山村・赤荻村・和田村・関戸村・新妻村・芦田村・東和泉村・西和泉村
*** '''[[久住村]]''' ← 幡谷村・荒海村・磯部村・飯岡村・水掛村・大生村・成毛村・小泉村・土室村・大室村
*** '''[[豊住村]]''' ← 北羽鳥村・南羽鳥村・竜台村・興津村・安西新田村・田川村・佐野村・長沼村
*** '''[[遠山村 (千葉県)|遠山村]]''' ← 小菅村・吉倉村・畑ケ田村・川栗村・大山村・馬場村・久米村・取香村・長田村・駒井野村・<br />堀之内村・東和田村・山ノ作村・十余三村の一部
** [[印旛郡]]
*** '''[[公津村]]''' ← 印旛郡公津下方村・公津台方村・公津江弁須村・公津大袋村・公津飯仲村・船形村・<br />八代村・飯田新田村と下埴生郡成木新田村
* '''旧[[下総町]]'''
** [[香取郡]]
*** '''滑河町''' ← 滑川村・西大須賀村・大菅村・猿山村
*** '''[[高岡村 (千葉県)|高岡村]]''' ← 高岡村・大和田村・高村・小浮村・野馬込村・小野村
*** '''[[小御門村]]''' ← 名古屋村・成井村・七沢村・高倉村・倉水村・青山村・名木村・中里村・冬父村・地蔵原新田
* '''旧[[大栄町 (千葉県)|大栄町]]'''
** 香取郡
*** '''[[大須賀村 (千葉県)|大須賀村]]''' ← 伊能村・掘籠村・所村・村田村・桜田村・馬乗里村・南敷村・横山村・柴田村・奈土村
*** '''本大須賀村''' ← 香取郡吉岡村・津富浦村・中野村・稲荷山村・松子村・臼作村・新田村・前林村・<br />一坪田村・久井崎村と下埴生郡十余三村の一部
|-
| [[1897年]](明治30年)
| 4月1日
| style="text-align:left" | 下埴生郡は[[印旛郡]]に編入。
|-
| [[1899年]](明治32年)
| 4月1日
| style="text-align:left" | 豊住村の一部(田川)は[[茨城県]][[金江津村]]に編入。
|-
| [[1932年]](昭和7年)
| [[7月1日]]
| style="text-align:left" | [[富里市|富里村]]の一部(日吉倉の一部)を編入。
|-
| [[1942年]](昭和17年)
| [[8月1日]]
| style="text-align:left" | 本大須賀村は改称し'''[[昭栄村]]'''になる。
|-
| [[1953年]](昭和28年)
|
| style="text-align:left" | 遠山村の一部([[駒井野]]の一部)は富里村と[[千代田村 (千葉県)|千代田村]]に編入。
|-
| rowspan="2" | [[1954年]](昭和29年)
| [[3月30日]]
| style="text-align:left" | 豊住村の一部(興津)が[[安食町]]に編入。
|-
| [[3月31日]]
| style="text-align:left" | 成田町・公津村・八生村・中郷村・久住村・遠山村・豊住村が合併し'''成田市'''が発足。
|-
| rowspan="2" | [[1955年]](昭和30年)
| [[2月11日]]
| style="text-align:left" | 滑河町・高岡村・小御門村が合併し'''滑河町'''が発足。
* 同日、改称し'''[[下総町]]'''になる。
|-
| [[4月15日]]
| style="text-align:left" | 大須賀村と昭栄村が合併して'''[[大栄町 (千葉県)|大栄町]]'''が発足。
|-
| [[2006年]](平成18年)
| [[3月27日]]
| style="text-align:left" | 下総町と大栄町は成田市に編入。
|}
* '''変遷表'''
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:x-small"
|-
! colspan="10" style="font-size:small" | 成田市市域の変遷表(※細かい境界の変遷は省略)
|-
! colspan="3" | 1868年<br />以前
! 明治元年 - 明治22年
! 明治22年<br />4月1日
! colspan="2" | 明治22年 - 昭和19年
! 昭和20年 - 昭和64年
! 平成元年 - 現在
! 現在
|-
| rowspan="53" | [[下埴生郡]]
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" | 成田村
| bgcolor="#66ffff" | 明治19年<br />成田町
| bgcolor="#66ffff" rowspan="4" | ''成田町''
| rowspan="54" | 明治30年4月1日<br />[[印旛郡]]に編入
| bgcolor="#66ffff" rowspan="4" | ''[[成田町]]''
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="63" | 昭和29年3月31日<br />'''成田市'''
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="63" | '''成田市'''
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="104" | '''成田市'''
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 郷部村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 寺台村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 土屋村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 野毛村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="10" | ''中郷村''
| bgcolor="#99ccff" rowspan="10" | ''[[中郷村 (千葉県印旛郡)|中郷村]]''
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 東金山村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 下金山村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 赤荻村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 和田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 関戸村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 新妻村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 芦田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 東和泉村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 西和泉村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 幡谷村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="10" | ''久住村''
| bgcolor="#99ccff" rowspan="10" | ''[[久住村]]''
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 荒海村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 磯部村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 飯岡村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 水掛村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 大生村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 成毛村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 小泉村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 土室村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 大室村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 小菅村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="16" | ''遠山村''
| bgcolor="#99ccff" rowspan="16" | ''[[遠山村 (千葉県)|遠山村]]''
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" | 東吉倉村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="3" | 明治10年<br />吉倉村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" | 西吉倉村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" | 卯酉新田
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 畑ケ田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 川栗村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 大山村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 馬場村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 久米村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 取香村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 長田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 駒井野村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 堀之内村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" |東和田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 山ノ作村
|-
|
|
| bgcolor="#99ccff" | 明治5年<br />十余三村の一部
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 北羽鳥村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="6" | ''豊住村''<br />の一部
| bgcolor="#99ccff" rowspan="6" | ''[[豊住村]]''の一部
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 南羽鳥村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 竜台村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 安西新田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 佐野村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 長沼村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 松崎村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="8" | ''八生村''
| bgcolor="#99ccff" rowspan="8" | ''[[八生村]]''
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 大竹村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 上福田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 下福田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 宝田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 押畑村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 山口村
|-
| rowspan="9" | [[印旛郡]]
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 公津新田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 公津下方村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="9" | ''公津村''
| bgcolor="#99ccff" rowspan="9" colspan="2" | ''[[公津村]]''
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 公津台方村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 公津江弁須村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 公津大袋村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 公津飯仲村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 船形村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 八代村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 飯田新田村
|-
| [[下埴生郡]]
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 成木新田村
|-
| rowspan="40" | [[香取郡]]
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 滑川村
| bgcolor="#66ffff" rowspan="4" | ''滑河町''
| bgcolor="#66ffff" rowspan="4" colspan="2" | ''滑河町''
| bgcolor="#66ffff" rowspan="20" | 昭和30年2月11日<br />''滑河町''<br />即日改称<br />''[[下総町]]''
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="41" | 平成18年3月27日<br />成田市に編入
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 西大須賀村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 大菅村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 猿山村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 高岡村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="6" | ''高岡村''
| bgcolor="#99ccff" rowspan="6" colspan="2" | ''[[高岡村 (千葉県)|高岡村]]''
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 大和田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 高村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 小浮村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 野馬込村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 小野村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 名古屋村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="10" | ''小御門村''
| bgcolor="#99ccff" rowspan="10" colspan="2" | ''[[小御門村]]''
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 成井村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 七沢村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 高倉村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 倉水村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 青山村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 名木村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 中里村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 冬父村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 地蔵原新田
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 伊能村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="10" | ''大須賀村''
| bgcolor="#99ccff" rowspan="10" colspan="2" | ''[[大須賀村 (千葉県)|大須賀村]]''
| bgcolor="#66ffff" rowspan="21" | 昭和30年4月15日<br />''[[大栄町 (千葉県)|大栄町]]''
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 掘籠村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 所村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 村田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 桜田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 馬乗里村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 南敷村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 横山村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 柴田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 奈土村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 吉岡村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="11" | ''本大須賀村''
| bgcolor="#99ccff" rowspan="11" colspan="2" | 昭和17年8月1日<br />''[[昭栄村]]''に改称
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 津富浦村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 中野村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 稲荷山村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 松子村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 臼作村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 新田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 前林村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 一坪田村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" | 久井崎村
|-
| [[下埴生郡]]
|
|
| bgcolor="#99ccff" | [[1871年|明治5年]]<br />十余三村の一部
|}
== 人口 ==
1954年の市制施行当時の[[人口]]は4万4724人であった。その後、成田空港関連の雇用創出により人口は増加を続け、2005年には10万人を突破した。2006年に下総町、大栄町を併合し12万人を超えた。2015年の国勢調査で13万1190人を記録して以降は横ばいとなっている。<!-- 総世帯数:51,531世帯(2007年12月末日現在) -->
=== 人口推移 ===
'''総数 [単位: 人]'''
各年10月1日現在(2005年までは旧・下総町及び大栄町の人口を含まず。)<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.city.narita.chiba.jp/sisei/sosiki/joho/std0012.html |title=統計情報 |work=行政管理課 |publisher=成田市 |date=2016-09-13 |accessdate=2016-09-21}}</ref>
{|style="font-size:smaller"
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|
{|class="wikitable" style="margin:auto"
{{人口統計/fluctuation/item|1920|28415|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1925|29621|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1930|34054|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1935|33529|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1940|30857|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1947|44068|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1950|44724|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1955|44969|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1960|43149|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1965|42407|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1970|42514|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1975|50915|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1980|68418|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1985|77181|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1990|86708|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|1995|91470|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|2000|95704|100717}}
{{人口統計/fluctuation/item|2005|100717|100717}}
|}
|-
|colspan="2" style="text-align:right"|[[総務省]][[統計局]] / [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]
|}
=== 人口構成 ===
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.75%増の131,190人であり、増減率は千葉県下54市町村中10位、60行政区域中13位。{{人口統計|code=12211|name=成田市|image=Demography12211.svg}}
==行政==
=== 市長 ===
* 15-19代 [[小泉一成]] (こいずみ かずなり) - 2007年(平成19年)1月22日 - 現職。
'''歴代市長'''
* 初代 [[石原貞三]] (いしはら ていぞう) - 1954年(昭和29年)4月27日 - 1956年9月24日
* 2 - 5代 [[藤倉武男]] (ふじくら たけお) - 1956年(昭和31年)11月10日 - 1971年4月30日
* 6 - 11代 [[長谷川録太郎]] (はせがわ ろくたろう) - 1971年(昭和46年)5月30日 - 1995年5月29日
* 12・13代 [[小川国彦]] (おがわ くにひこ) - 1995年(平成7年)5月30日 - 2003年3月24日
* 14代 [[小林攻]] (こばやし おさむ) - 2003年(平成15年)4月28日 - 2006年12月4日 (2006年12月2日、収賄容疑で逮捕。2007年9月14日、千葉地裁にて懲役2年、追徴金1200万円の実刑判決<!-- 2006年(平成18年)12月2日: 成田市長の小林攻が清掃工場の管理業務委託を巡り、業者より1千万円の賄賂を受け取ったとして、賄賂を送った会社の元社長・副社長と共に収賄容疑で逮捕された。4日、小林攻市長は市議会に辞職願を提出。市議会は同日午後、臨時本会議を開き全会一致で辞職願に同意した。 -->)
=== 政策 ===
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |'''都市宣言'''
* 世界連邦平和都市宣言 昭和33年10月31日宣言
* 公明選挙都市宣言 昭和39年12月21日宣言
* 交通安全都市宣言 昭和41年9月22日宣言
* [[非核平和都市宣言]] 平成7年2月21日宣言
* スポーツ健康都市宣言 平成16年11月7日宣言
'''市のキャッチフレーズ'''
* 空港(そら)交流(ふれあい)希望(ゆめ)創造都市成田
| valign="top" |'''成田市民憲章'''(昭和46年11月3日制定)
信仰のまち、世界に通ずるまち成田は、わたくしたちのふるさとです。ゆたかな自然と文化にめぐまれてきたわたくしたち成田市民は、大きな希望と誇りをもって世界に伸びようとしています。わたくしたちは、成田のかがやかしい発展とおたがいのしあわせをねがい、市民憲章をさだめます。
* 1, 親切な心で 平和な成田を つくりましょう。
* 1, よろこんで働き 豊かな成田を つくりましょう。
* 1, きまりをまもり 住みよい成田を つくりましょう。
* 1, 自然と文化を大切にし 美しい成田を つくりましょう。
* 1, 若い力をそだて 明るい成田を つくりましょう。
|}
==== 業務核都市基本構想 ====
東京圏の都市問題解決を図るため、業務機能をはじめとする諸機能の適正配置の受け皿として地域の広域中心都市となるべき都市が[[業務核都市]]に指定された。千葉県では、千葉市を中心とする区域、木更津市を中心とする区域、成田市を中心とする区域及び[[千葉ニュータウン#成田・千葉ニュータウン業務核都市基本構想|千葉ニュータウンの中央部・東部の区域]]、柏市を中心とする4つの区域が業務核都市として位置付けられている。
県は、多極分散型国土形成促進法に基づく、成田・千葉ニュータウン業務核都市基本構想<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/seisaku/keikaku/sougoukikaku/narita.html |title=成田・千葉ニュータウン業務核都市基本構想について |work=千葉県総合企画部政策企画課 |publisher=千葉県 |date=2014-05-19 |accessdate=2016-09-21}}</ref>を策定し2004年3月23日主務大臣(国土交通省、[[総務省]]、[[経済産業省]]、厚生労働省)の承認を得て、同年4月6日県報に告示した。今後は、本基本構想に基づき、成田地域(成田市、富里市(一部))と千葉ニュータウンの中央部・東部の地域(印西市(一部)、白井市(一部))を一体の業務核都市として国、県、地元市町村等と連携を図りながら、積極的に育成整備を推進していくことになる。
* 成田地域の業務施設集積地区の区域
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
|-
!<small>地区名</small>
!<small>位置(町名・字名等)</small>
!<small>面積</small>
|-
!<small>成田空港周辺地区</small>
|<small>成田市 [[駒井野]](一部)、[[取香]](一部)、[[天浪]](一部)、駒込(一部)、[[三里塚 (成田市)|三里塚]](一部)、小菅(一部)、[[木の根]](一部)、成田新高速鉄道用地</small>
|<small>約200ha</small>
|-
!<small>成田都心地区</small>
|<small>成田市 土屋(一部)、寺台(一部)、郷部(一部)、成田、幸町、仲町、田町、本町、上町、新町、馬橋、東町、囲護台一丁目、二丁目、三丁目(その他一部)、加良部三丁目、中台五丁目、花崎町(一部)、不動ヶ岡(一部)、南平台(一部)</small>
<small>富里市 日吉台一丁目(一部)、二丁目(一部)、成田新高速鉄道用地</small>
|<small>約435ha</small>
|-
|}
==== 産業政策 ====
千葉県では、1983年6月に「千葉新産業三角構想」を策定した。これは県内陸部への先端技術産業導入推進による工業構造の高度化と均衡のとれた地域構造の実現を目指すものとして推進されてきた。
その後、1994年に「ちば新産業ビジョン」を策定し、県内の国際産業母都市化を目指し一定の成果を収めてきたが、国際化の進展・人口減少社会への移行等の課題に対応し、新たな県の産業振興の戦略・指針として「千葉新産業振興戦略」2006年6月に策定した。
* 千葉新産業三角構想 - 千葉県では、「[[幕張新都心]]構想」、「[[かずさアカデミアパーク]]構想」、「成田国際空港都市構想」の3つ構想を軸とした。成田市が含まれる、成田国際空港都市構想では、空港が持つ国際物流機能を生かしつつ
* 国際物流機能の集積
* 先端技術産業を中心とした臨空工業団地の整備
これらを基本に、国際交流拠点として高次の都市機能を備えた国際空港都市の形成をめざすとされている。現在、「成田国際物流複合基地」の事業が進められている。また、近隣の臨空工業団地では、現在100を越える企業が立地し、拠点性が高まっている。
'''千葉新産業振興戦略'''
千葉県では、7地域の潜在力・可能性戦略として、東葛地域、京葉臨海地域、かずさ地域、千葉地域、長生・山武地域、安房周辺地域、成田周辺地域を核として産業振興をはかるとしている。成田市が含まれる成田周辺地域では、物流産業の集積と首都圏の食糧生産供給の効率化の推進として空港関連産業・国際物流・新ロジスティック産業が集積するほか、首都圏の食料供給基地としての役割を担うとされている。具体的な政策として、物流施設立地促進のためのインフラ整備・規制緩和、効率的な物流システムの構築が進められている。
=== 財政 ===
歳入のうち市税が全体の55.3%を占める。その中でも[[固定資産税]]の比重が高く、固定資産税全体の64.4%にも及び、成田国際空港や関連機関の[[法人]]などからの税収が多いことが起因しており増加傾向にある。しかし、住民税は景気低迷とその対策として実施された大規模な特別減税や恒久的減税の影響が大きく、評価替え及び大規模償却資産に対する県課税が発生したことに伴い減少している。また、市税全体の推移を見ると平成10年に落ち込み、以後微増傾向にあったが、平成14年度以降減少傾向である。
'''財政力指数'''
地方公共団体の基盤の強弱を示す[[財政力指数]]は、平成23年度1.35である。この数値が大きいほど財政力が大きく、「1」以上の場合極めて健全な財政とされ、[[地方交付税]]は交付されない。
'''経常収支比率'''
[[経常収支比率]]は、収入に対し人件費や扶助費など毎年出て行くお金の割合を表したもので、その平均値は80%とされている。成田市は平成16年度78.3%となっており、県内平均は80%を大きく超える91.4%となっている。年々増加する社会福祉費や生活保護費などにより上昇傾向にある。
'''ラスパイレス指数'''
全国市町村職員の給与水準を示す[[ラスパイレス指数]](国を100としたもの)では、平成24年度111.8と全国で12位の高さとなっている。また県内では、君津市(113.7)、香取郡神崎町(112.7)、市川市(112.4)、鎌ケ谷市(112.0)に次ぐ5位である。
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |
*議会運営委員会
* 常任委員会
** 総務
** 教育民生
** 経済環境
** 建設水道
*特別委員会
** 空港対策
** 交通対策
** 健康づくり
** 議会改革
** 大学誘致調査
| valign="top" |
* 平成23年度一般会計決算額
** 歳入647億9,416万円(うち市税307億5,688万円)
** 歳出609億3,741万円
** 差し引き38億5,675万円(※翌年度繰り越し財源18億8,448万円が含まれる為、実質収支額は19億7,227万円。)
* 特別会計決算額
** 歳入206億5,264万円
** 歳出198億7,439万円
|}
=== 行政組織 ===
==== 行政組織図 ====
市職員数は1178人(平成25年4月1日現在 市長、副市長及び教育長を除く。)
* 会計管理者 - 会計室
* 副市長
** 企画政策部 - 企画政策課(成田ブランド推進室・大学誘致推進室)・秘書課・広報課(国際交流室)・人事課
** 総務部 - 総務課・行政管理課・管財課・契約検査課(工事検査室)・危機管理課
** 財政部 - 財政課・市民税課・資産税課・納税課(債権回収対策室)
** 空港部 - 地域振興課・空港対策課
** 市民生活部 - 市民課・保険年金課・市民協働課(市民相談室)・交通防犯課・下総支所・大栄支所
** 環境部 - 環境計画課・環境対策課・クリーン推進課・環境衛生課
** 福祉部 - 社会福祉課・高齢者福祉課・障がい者福祉課・介護保険課
** 健康こども部 - 子育て支援課・保育課・健康増進課
** 経済部 - 観光プロモーション課・商工課・農政課・卸売市場
** 土木部 - 土木課・道路管理課・建築住宅課・下水道課
** 都市部 - 都市計画課・市街地整備課(再開発事業室)・公園緑地課・街路課
* 水道事業 - 水道部 - 業務課・公務課
* 議会 - 事務局
* 監査委員 - 事務局
* 農業委員会 - 事務局
* 選挙管理委員会 - 事務局
* 教育委員会 - 教育長
** 教育総務部 - 教育総務課・学校施設課・学務課・教育指導課・学校給食センター・大栄幼稚園・小学校・中学校
** 生涯学習部 - 生涯学習課・生涯スポーツ課・公民館・図書館
* [[成田市消防本部|消防]] - 消防長
** 消防本部 - 消防総務課・予防課・警防課・指揮指令課
** 署 - 成田消防署・赤坂消防署・三里塚消防署・大栄消防署
'''役所'''{{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Narita city office Shimofusa branch office.JPG|説明1=下総支所庁舎|画像2=Narita International Airport Police Station.JPG|説明2=成田国際空港警察署|画像3=Narita City Fire Department, 2020.jpg|説明3=成田市消防本部}}
* 成田市役所(本庁舎)成田市花崎町760番地
** 成田市下総支所(旧下総町役場)成田市猿山1080番地
** 成田市大栄支所 成田市松子413番地1
'''警察'''
* [[成田警察署]](管内は、成田市・富里市並びに印旛郡栄町の一部<安食地区>)
* [[成田国際空港警察署]](管内は、成田国際空港供用区域)
* [[千葉県警察]]成田合同庁舎
* [[千葉県警察成田国際空港警備隊|成田国際空港警備隊]]
* [[自動車警ら隊]]成田方面隊
* [[交通機動隊]]成田分駐隊
* 高速道路交通警察隊成田分駐隊
* [[機動捜査隊]]成田方面隊
* 北総地区少年センター
'''消防'''
* [[成田市消防本部]]
** 成田消防署
*** 飯岡分署
** 三里塚消防署
*** 空港分署
** 赤坂消防署
*** 公津分署
** 大栄消防署
*** 下総分署
* 消防団(12分団97ヶ部)
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |
*第1分団 成田地区 9ケ部
* 第2分団 公津地区 11ケ部
* 第3分団 八生地区 8ケ部
* 第4分団 中郷地区 8ケ部
* 第4分団 久住地区 11ケ部
* 第6分団 豊住地区 7ケ部
| valign="top" |
* 第7分団 遠山地区 12ケ部
* 第8分団 滑川・小御門 6ケ部
* 第9分団 高岡・名木 5ヶ部
* 第10分団 大須賀・桜田 6ヶ部
* 第11分団 津富浦 7ヶ部
* 第12分団 前林・川上 7ヶ部
|}
* [[成田国際空港株式会社]] - 空港における大規模災害に備えた空港内専用消防署。
** 西分遣所
** 2ビル待機所
'''裁判所'''
* 当市には[[裁判所]]は所在しない。近隣の佐倉市にある、[[千葉地方裁判所]]佐倉支部、[[千葉家庭裁判所]]佐倉支部、[[佐倉簡易裁判所]]を利用する。
'''治安・事故'''
成田市の治安状況は成田空港の影響もあり、平成14年度の刑法犯認知件数4,042件を記録し、平成15年より治安悪化の煽りを受けて成田防犯連合会が組織され、犯罪の予防警戒、自主防犯活動、青少年非行防止及び健全育成のための活動などが行われている。また、成田市交通防犯課では防犯パトロールカー(白黒塗装)で市内を巡回し防犯を呼びかけるアナウンスを流すなどし、現在は認知件数は減少傾向にある。
* 市内で起こった主な事件・事故・自然災害
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
!<small>名称</small>
!<small>発生年月日</small>
!<small>備考</small>
|-
|<small>宗吾門前火災</small>
|<small>1910年(明治43年)9月</small>
|<small>宗吾霊堂の諸堂、門前の民家73戸を焼失。</small>
|-
|<small>米軍機撃墜火災</small>
|<small>1945年(昭和20年)2月</small>
|<small>八生国民学校全焼。</small>
|-
|<small>花咲町火災</small>
|<small>1945年(昭和20年)5月9日</small>
|<small>被災世帯184世帯。</small>
|-
|<small>[[三里塚事件]]</small>
|<small>1954年(昭和29年)2月17日</small>
|
|-
|<small>台風25号(根木名川氾濫)</small>
|<small>1955年(昭和30年)10月11日</small>
|<small>流失家屋3戸、床上浸水33戸、床下浸水99戸、耕地冠水被害。</small>
|-
|<small>[[狩野川台風]](根木名川氾濫)</small>
|<small>1958年(昭和33年)9月27日</small>
|<small>床上浸水17戸、耕地冠水被害。</small>
|-
|<small>[[成田デモ事件]]</small>
|<small>1968年(昭和43年)2月26日、3月10日、3月31日</small>
|
|-
|<small>[[成田空港予定地の代執行]]</small>
|<small>1971年(昭和46年)2月22日 - 3月6日、9月16日 - 9月20日</small>
|
|-
|<small>千葉県警察成田警察署爆破事件</small>
|<small>1971年(昭和46年)8月7日</small>
|
|-
|<small>[[東峰十字路事件]]</small>
|<small>1971年(昭和46年)9月16日</small>
|
|-
|<small>[[成田空港管制塔占拠事件]]</small>
|<small>1978年(昭和53年)3月26日</small>
|
|-
|<small>[[成田空港手荷物爆発事件]]</small>
|<small>1985年(昭和60年)6月23日</small>
|
|-
|<small>[[10.20成田現地闘争]]</small>
|<small>1985年(昭和60年)10月20日</small>
|
|-
|<small>[[千葉県東方沖地震 (1987年)|千葉県東方沖地震]] (M6.7)</small>
|<small>1987年(昭和62年)12月17日</small>
|<small>成田空港など市内に被害。</small>
|-
|<small>東京都東部地震 (M6.0)</small>
|<small>1988年(昭和63年)3月18日</small>
|<small>市内の高速道路、河川堤防に亀裂が生ずる被害。</small>
|-
|[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#成田線大菅踏切事故|<small>成田線大菅踏切事故</small>]]
|<small>1992年(平成4年)9月14日</small>
|
|-
|[[成田ミイラ化遺体事件|<small>ライフスペース成田ミイラ化遺体事件</small>]]
|<small>1999年(平成11年)11月11日</small>
|
|-
|<small>降[[雹]]</small>
|<small>2000年(平成12年)5月24日</small>
|<small>負傷者1名、建物一部損壊103棟、床上浸水2棟、床下浸水6棟。</small>
|-
|<small>佐野地先林野火災</small>
|<small>2002年(平成14年)3月21日</small>
|<small>山林3ヘクタール焼失。</small>
|-
|<small>[[ダウンバースト]]突風被害(規模推測[[藤田スケール]]F1)</small>
|<small>2003年(平成15年)10月13日</small>
|<small>茨城県[[神栖町]]、成田市赤荻地区、宗吾地区などで、置の倒壊、屋根瓦が飛ばされる被害。</small>
|-
|<small>[[フェデックス80便着陸失敗事故]]</small>
|<small>2009年(平成21年)3月23日</small>
|
|-
|<small>[[東北地方太平洋沖地震]](M9.0)</small>
|<small>2011年(平成23年)3月11日</small>
|<small>震度6弱を観測。重傷者1名、建物全壊4棟、半壊64棟、一部損壊1,286棟、断水232戸、停電、道路損壊被害。</small>
|-
|<small>台風26号(猛烈雨)</small>
|<small>2013年(平成25年)10月16日</small>
|<small>市内で土砂崩れ発生。死者1名、建物全壊3棟、建物半壊1棟その他床上・床下浸水被害。</small>
|}
* 成田市刑法犯認知件数の推移<ref group="統計">千葉県警察 事件・事故 / 犯罪統計「刑法犯認知件数の推移」より。</ref>
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
!<small>年\区分</small>!!<small>総数</small>!!<small>凶悪犯</small>!!<small>粗暴犯</small>!!<small>窃盗</small>!!<small>知能犯</small>!!<small>風俗犯</small>!!<small>その他刑法犯</small>!!<small>特別法犯</small>
|-
!<small>昭和50年</small>
|<small>623件</small>||<small>10件</small>||<small>33件</small>||<small>537件</small>||<small>14件</small>||<small>10件</small>||<small>19件</small>||<small>20件</small>
|-
!<small>昭和55年</small>
|<small>1,104件</small>||<small>6件</small>||<small>31件</small>||<small>1,011件</small>||<small>34件</small>||<small>3件</small>||<small>19件</small>||<small>271件</small>
|-
!<small>昭和60年</small>
|<small>1,609件</small>||<small>11件</small>||<small>22件</small>||<small>1,462件</small>||<small>73件</small>||<small>1件</small>||<small>40件</small>||<small>69件</small>
|-
!<small>平成2年</small>
|<small>1,350件</small>||<small>6件</small>||<small>54件</small>||<small>1,114件</small>||<small>90件</small>||<small>7件</small>||<small>79件</small>||<small>34件</small>
|-
!<small>平成7年</small>
|<small>2,685件</small>||<small>8件</small>||<small>66件</small>||<small>2,230件</small>||<small>203件</small>||<small>3件</small>||<small>175件</small>||<small>49件</small>
|-
!<small>平成12年</small>
|<small>3,976件</small>||<small>38件</small>||<small>122件</small>||<small>3,347件</small>||<small>46件</small>||<small>8件</small>||<small>415件</small>||<small>53件</small>
|-
!<small>平成17年</small>
|<small>3,248件</small>||<small>10件</small>||<small>76件</small>||<small>2,643件</small>||<small>156件</small>||<small>8件</small>||<small>355件</small>||<small>74件</small>
|-
!<small>平成20年</small>
|<small>2,265件</small>||<small>9件</small>||<small>100件</small>||<small>1,730件</small>||<small>108件</small>||<small>15件</small>||<small>303件</small>||<small>299件</small>
|-
!<small>平成21年</small>
|<small>2,440件</small>||<small>8件</small>||<small>79件</small>||<small>1,940件</small>||<small>81件</small>||<small>5件</small>||<small>327件</small>||<small>284件</small>
|-
!<small>平成22年</small>
|<small>2,129件</small>||<small>7件</small>||<small>66件</small>||<small>1,671件</small>||<small>93件</small>||<small>5件</small>||<small>287件</small>||<small>193件</small>
|-
!<small>平成23年</small>
|<small>1,743件</small>||<small>4件</small>||<small>60件</small>||<small>1,396件</small>||<small>57件</small>||<small>6件</small>||<small>220件</small>||<small>122件</small>
|-
!<small>平成24年</small>
|<small>1,804件</small>||<small>9件</small>||<small>70件</small>||<small>1,396件</small>||<small>70件</small>||<small>12件</small>||<small>247件</small>||<small>110件</small>
|-
!<small>平成25年</small>
|<small>1,708件</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>
|-
!<small>平成26年</small>
|<small>1,858件</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>
|-
!<small>平成27年</small>
|<small>1,523件</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>
|-
!<small>平成28年</small>
|<small>1,495件</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>
|-
!<small>平成29年</small>
|<small>1,418件</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>
|-
!<small>平成30年</small>
|<small>1,251件</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>||<small>-</small>
|-
|}
*交通事故件数・成田市内の交通事故発生状況(平成24年)<ref group="統計">成田市ホームページ交通防犯課「成田市内の交通事故発生状況(平成24年)」 より。</ref><small>※平成21年より高速道路上で発生した事故を含む。</small>
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
!<small>区分\年</small>!!<small>平成17年</small>!!<small>平成18年</small>!!<small>平成19年</small>!!<small>平成20年</small>!!<small>平成21年</small>!!<small>平成22年</small>!!<small>平成23年</small>!!<small>平成24年</small>
|-
!<small>発生件数</small>
|<small>1,610件</small>||<small>959件</small>||<small>894件</small>||<small>751件</small>||<small>776件</small>||<small>720件</small>||<small>656件</small>||<small>689件</small>
|-
!<small>死者数</small>
|<small>8人</small>||<small>5人</small>||<small>11人</small>||<small>10人</small>||<small>3人</small>||<small>9人</small>||<small>13人</small>||<small>15人</small>
|-
!<small>傷者数</small>
|<small>1,489人</small>||<small>1,202人</small>||<small>1,202人</small>||<small>972人</small>||<small>996人</small>||<small>926人</small>||<small>855人</small>||<small>894人</small>
|-
|}
=== 広域行政 ===
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |'''県議会'''
* 成田市単独で千葉県議会の選挙区(成田市選挙区、定数2)を構成する。[[千葉県#県議会]]も参照。
'''衆議院小選挙区'''
* [[千葉県第10区]]に属する。
'''印旛利根川水防事務組合'''
* [[八千代市]]、[[印西市]]、[[白井市]]、佐倉市、[[四街道市]]、栄町、酒々井町及び本市の6市2町で構成されている。
| valign="top" |[http://i-kouiki.jp/kouiki/ '''印旛郡市広域市町村圏事務組合''']
* 佐倉市、四街道市、印西市、[[白井市]]、[[八街市]]、富里市、酒々井町、栄町及び本市の7市2町で構成されている。
'''八富成田斎場'''
* 八街市、富里市及び本市で管理運営されている。
|}
==== 国の機関 ====
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |'''[[法務省]]'''
* [[東京法務局#千葉地方法務局|千葉地方法務局]]佐倉支局成田出張所
'''[[国税庁]]'''
* [[東京国税局]]成田[[税務署]]
| valign="top" |'''[[厚生労働省]]'''
* [[千葉労働局]]成田[[労働基準監督署]]
*千葉労働局成田[[公共職業安定所]]
*千葉労働局成田パートサテライト
|}
'''空港関連機関'''
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |'''[[国土交通省]]'''
*東京航空局
**成田空港事務所
'''[[外務省]]'''
*大臣官房総務課成田分室
'''[[気象庁]]'''
*成田航空地方気象台
'''[[出入国在留管理庁]]'''
* [[東京出入国在留管理局成田空港支局]]
| valign="top" |'''厚生労働省'''
*成田空港検疫所
'''[[財務省 (日本)|財務省]]'''
* [[東京税関]]成田税関支署
*東京税関成田航空貨物出張所
* [[東京税関監視部麻薬探知犬訓練センター]]
'''[[農林水産省]]'''
*横浜植物防疫所成田支所
* 動物検疫所成田支所
|}
==== 県の機関 ====
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |
*千葉県水道局成田給水場
* 千葉県水道局千葉ニュータウン営業所成田支所
* 千葉県成田土木事務所
| valign="top" |
*千葉県北千葉道路建設事務所
* 千葉県印旛健康福祉センター成田支所([[保健所]])
|}
==== 成田ナンバー ====
国の規制緩和により[[ご当地ナンバー]]が認められ、2006年(平成18年)10月10日から「成田」ナンバーが導入された。対象地域は成田市、富里市、山武市、香取郡神崎町・多古町、山武郡芝山町・[[横芝光町]]である。なお旧ナンバーは「千葉」。当初、小林攻市長(当時)はローマ字での「NARITA」ナンバーの創設を要望したものの、「地域名は漢字二文字」という原則により2005年7月29日「成田」ナンバーと決定した。排気量125cc以下の二輪車についてはローマ字「NARITA」の併記が認められ、2006年3月27日の新市発足と同時に交付された。
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|成田市議会}}
=== 県議会 ===
{{main|千葉県議会}}
*選挙区:成田市選挙区
*定数:2名
*任期:2023年4月30日 - 2027年4月29日
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
!議員名!!会派名!!備考
|-
|林幹人||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]千葉県議会議員会||
|-
|小池正昭||自由民主党千葉県議会議員会||
|}
=== 衆議院 ===
* [[千葉県第10区]]:成田市、[[銚子市]]、[[香取市]]、[[旭市]]、[[匝瑳市]]、[[香取郡]]、[[山武郡]][[横芝光町]](旧[[匝瑳郡]][[光町 (千葉県)|光町]]域)
** 任期:2017年(平成29年)10月22日 - 2021年(令和3年)10月21日(「[[第48回衆議院議員総選挙]]」参照)
{| class="wikitable"
|-
!議員名!!党派名!!当選回数!!備考
|-
| [[林幹雄]] || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 10 || 選挙区
|-
| [[谷田川元]] || [[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]] ||align="center"| 2 ||比例復活
|}
== 経済 ==
=== 産業 ===
'''第一次産業'''
[[ファイル:航空写真1.jpg|サムネイル|成田市公設地方卸売市場]]
公設の地方卸売[[市場]]である[[成田市公設地方卸売市場]](成田市場)がある。[[国家戦略特別区域]]に含まれることが決定したことから、市場内で[[検疫]]・[[通関]]などの輸出手続きをワンストップ化し迅速化を図るなど、国際物流拠点としての機能強化の実証試験も行われている<ref>[http://www.city.narita.chiba.jp/sisei/sosiki/tokku/std0002.html 成田市役所 エアポート都市構想]</ref><ref>[http://www.city.narita.chiba.jp/sisei/sosiki/ichiba/std0031.html 成田市役所 成田市場の輸出拠点化プロジェクト]</ref>。
かつては農業が盛んであり、近郊農業の中心地の一つであったが、1960年代以降農業従事者は減少している。
* 産業別人口<small>(農業のみ平成27年千葉県農業基本調査、そのほかは2000年国勢調査)</small>
*#農業 2,731人
*#漁業 10人
*#林業 2人
*合計 2,743人
'''組合'''
* [[成田市農業協同組合]](本所)
'''第二次産業'''
製造基地としては、成田空港周辺の工業団地群があり、成田市には3つの工業団地と1つの物流団地がある。これらの工場は成田空港と密接に関連している。製造品出荷額では千葉県内第17位である(平成18年度)。
* 産業別人口
#製造業 4,921人 (9.81%)
#建設業 3,013人 (6.00%)
#鉱業 21人 (0.04%)
* 合計 7,955人 (15.85%)
'''従業者4人以上の事業所(製造業)'''<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/hiroba/index.html |title=工業統計調査結果 |work=統計情報の広場(千葉県の統計情報) |publisher=千葉県 |date=2016-09-12 |accessdate=2016-09-21}}</ref>
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
|-
!<small>区分</small>
!<small>平成17年</small>
!<small>平成18年</small>
!<small>前年比増減率(%)</small>
|-
|<small>事業所数(事業所)</small>
|<small>81</small>
|<small>117</small>
|<small>92.1</small>
|-
|<small>従業者数(人)</small>
|<small>3,457</small>
|<small>4,987</small>
|<small>100.5</small>
|-
|<small>製造品出荷額(万円)</small>
|<small>14,387,888</small>
|<small>17,966,703</small>
|<small>93.9</small>
|-
|<small>付加価値額(万円)</small>
|<small>7,965,771</small>
|<small>8,449,524</small>
|<small>86.0</small>
|-
|}
'''第三次産業'''
[[ファイル:Narita International Airport Corporation Building.JPG|サムネイル|成田国際空港株式会社本社ビル]]
成田市で最も多いのが、三次産業への従事者であり、成田空港関連事業の大半がこれに含まれる。
* 産業別人口
#サービス業 14,639人 (29.17%)
#卸売・小売業・飲食業 11,567人 (23.04%)
#運輸・通信業 8,029人 (15.99%)
#公務 3,394人 (6.76%)
#金融・保険業 1,128人 (2.25%)
#不動産業 463人 (0.92%)
#電気・ガス・熱供給・水道業 272人 (0.54%)
* 39,492人 (78.67%)
=== 伝統産業 ===
明治期の[[文明開化]]の煽りを受けた頃、成田には[[煉瓦]]焼成に向いた粘土が身近にあり、成田には煉瓦建築が建並び、嘗ては、成田山に向かう表参道の仲町坂道も煉瓦舗装されていた。大正の[[関東大震災]]以降、煉瓦の弱点である耐震性が露呈し衰退していったが、現在でもその面影を市内で見ることが出来る。また、香取郡高岡村高田(現・成田市高岡)の粘土で作られた煉瓦は[[銚子市]]に建つ「[[犬吠埼灯台]]」建設の際、実に19万3千枚が使われた。約130年を経た現在でも建ち続ける灯台は、高度な設計と良質な煉瓦でこそ成しえた技である。
'''下総鬼瓦'''
かつては工芸品の下総鬼瓦も重要な産業の一つだったが、今では千葉県下唯一の鬼瓦工場がこの町に残るのみとなり、千葉県の伝統的工芸品に指定されている。
=== 商業 ===
{{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Narita Airport Terminal 2 Restrict area void 2018.jpg|説明1=成田国際空港「ナリタ5番街」|画像2=Bon Belta Narita Department Store.JPG|説明2=ボンベルタ百貨店|画像3=ユアエルム成田.jpg|説明3=ユアエルム成田店}}北総地域の商業は成田市を中心として成田商圏が形成されている。千葉県の平成18年度消費者購買動向調査(1968年度から3 - 5年ごとに実施、前回調査は平成13年)では、成田市の人口122,776人に対し、商圏地域市町村数9市7町2村。商圏人口892,487人。消費吸引人口272,359人。消費吸引人口率221.8%となっており、千葉県内で最高消費吸引人口率となっている。また周辺の市町村にもその効果が波及し、大型店舗の立地も進みその拠点性を高めている。一方で、競争の激化などから<!-- 富里市:平成13年にダイエー成田店(所在地は富里市内) -->[[Olympicグループ|オリンピック]]成田店が撤退するなどしている。なお、平成18年に[[ジャスコ]]成田店が撤退したが、平成27年に[[イオンタウン成田富里]]がほぼ同じ場所にオープンした。
成田国際空港の商業施設売上高は1246億円(2018年3月期)に達する。流通関係者の間で成田国際空港は「売上高日本一のショッピングセンター(SC)」として知られている<ref>{{Cite web|和書|title=売上高日本一のSC「成田空港」 数年後1500億円規模に|url=https://www.wwdjapan.com/articles/615395|website=WWD JAPAN.com|date=2018-05-22|accessdate=2019-06-28|language=ja}}</ref>。ショッピングセンター業態(テナント集積)として1000億円以上を売るのは成田国際空港だけであり、[[ららぽーとTOKYO-BAY]]([[三井不動産]])、[[ラゾーナ川崎プラザ]](同)などの有力ショッピングセンターを抑えて頭一つ抜けた規模になる<ref>{{Cite web|和書|title=成田空港改め「成田漁港」? 巨大空港の意外な一面:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASL8L2CF1L8LUTIL008.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2019-06-28|language=ja}}</ref>。
* 商圏構造と成田市の吸引状況
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
|-
!<small>項目</small>
!<small>平成10年度</small>
!<small>平成13年度</small>
!<small>平成18年度</small>
|-
|<small>成田市の人口(人)</small>
|<small>94,064</small>
|<small>96,149</small>
|<small>122,776</small>
|-
|<small>地元購買率(%)</small>
|<small>83.1</small>
|<small>89.3</small>
|<small>87.6※</small>
|-
|<small>商圏地域市町村数</small>
|<small>5市13町2村</small>
|<small>6市16町3村</small>
|<small>9市7町2村</small>
|-
|<small>商圏人口(人)</small>
|<small>537,630</small>
|<small>765,049</small>
|<small>892,487</small>
|-
|<small>消費吸引人口(人)</small>
|<small>189,480</small>
|<small>233,364</small>
|<small>272,359</small>
|-
|<small>消費吸引人口(%)</small>
|<small>201.4</small>
|<small>242.7</small>
|<small>221.8※</small>
|}
<small>※合併による行政人口が増加したため、結果として前回調査時より低下している。</small>
* 主な商業施設(店舗面積が10,000平方メートル以上の店舗もしくは記事化している店舗)
** [[イオンモール成田]](ウイング土屋)
** [[ユアエルム]]成田店(公津の杜)
*** [[ロピア]]がキーテナント
** [[ボンベルタ百貨店]](成田ニュータウン)
***食品売り場は[[マルエツ]]
** [[イオンタウン成田富里]](成田市中心部・富里市日吉倉)
***核店舗は[[マックスバリュ]]<ref group="広報" name="富里">{{Cite press release|和書|url=http://www.mv-kanto.co.jp/images/pdf/20151105.pdf|title=11/19(木)イオン成田富里グランドオープン|publisher=イオンタウン、マックスバリュ関東|accessdate=2022年7月3日}}</ref>
**成田国際空港
*** [[ナリタ5番街]]
** [[ウニクス成田]]
=== 企業 ===
==== 市内に本社・本店を置く企業 ====
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |
* [[成田国際空港 (企業)|成田国際空港]]
* [[ANAエアサービス東京]]
* [[ANA成田エアポートサービス]]
* [[ティエフケー]](航空機用[[機内食]]の製造)
* [[エアージャパン]](本社・航空会社)
* [[ジェットスター・ジャパン]](本社・航空会社)
* [[ZIPAIR Tokyo]](本社・航空会社)
* [[春秋航空日本|スプリング・ジャパン]](本社・航空会社)
* [[日本貨物航空]](本社・航空会社)
* [[エービン]]
* [[国際ラジオ放送]]
* [[サウンドハウス]]
* [[湘南動物プロダクション]]
* [[シンボリ牧場]]
* [[千葉北エンタープライズ]]
* [[千葉急行観光]]
* [[千葉交タクシー]]
| valign="top" |
* [[千葉交通]]
* [[成田空港交通]]
* [[成田空港美整社]]
* [[成田ケーブルテレビ]]
* [[成田自動車教習所]]
* [[なごみの米屋]](羊羹と和菓子の製造)
* [[川豊]]
* [[リゾートクリーニングサービス]]
* [[両総グランドサービス]]
|}
'''市内の主な工場・事務所'''
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |
* [[エスエス製薬]](成田工場・中央研究所)
* [[日本製薬]](成田工場)
* [[TDK]](成田工場・磁石合金の製造など)
* [[戸田建設]](成田PC工場)
* [[サンリツ]](成田事務所、梱包、運輸、倉庫)
* [[MOLDINO]](成田工場)
| valign="top" |
* [[昭和飛行機工業]](成田工場)
* [[堀口エンジニアリング]](成田工場・航空機用支援機材の設計・製作・修理など)
* [[ジャムコ]] 航空機整備カンパニー(東京整備工場・ホイール・客室装備品の整備など)
* [[佐藤ゴム化学工業]](成田工場・自動車用車体部品)
* [[ヤマサ醤油]](成田工場)
* [[IHI回転機械エンジニアリング]](パーツサプライ&テクニカルセンター)
|}
=== 金融 ===
* [[千葉銀行]] - 成田支店(成田空港出張所)、成田西支店、成田空港支店
* [[京葉銀行]] - 成田支店、成田西支店、成田空港第二出張所
* [[千葉興業銀行]] - 成田支店、成田西支店
* [[みずほ銀行]] - 成田支店
* [[三菱UFJ銀行]] - 成田空港支店(成田国際空港出張所、成田空港第2ビル出張所、成田国際空港第三出張所、成田国際空港第二出張所)
* [[りそな銀行]] - 成田支店(成田空港出張所、成田空港第2出張所)
* [[三井住友銀行]] - 成田空港第1旅客ターミナルビル出張所、成田空港第2旅客ターミナルビル出張所、※成田出張所<small>(※所在地は隣接する富里市日吉台)</small>
* [[佐原信用金庫]] - 成田支店、下総支店、大栄支店
* [[千葉信用金庫]] - 成田支店、赤坂支店、三里塚支店
* [[中央労働金庫]] - 成田支店
=== 物流 ===
成田空港の貨物取扱量は約224万トンで世界第3位(2006年:[[国際民間航空機関|ICAO]])と世界有数であり、成田市や近隣市町村(芝山町・多古町・横芝光町)には多くの物流基地が進出している。現在、千葉県の成田国際空港都市構想の一環として成田国際物流複合基地の整備が進行している。ここ数年の貨物取扱量はほぼ横ばい状態が続いている<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.narita-airport.jp/jp/cargo/data.html#01 |title=各種データ - 開港以来の国際航空貨物取扱量実績(暦年) |work=成田空港貨物ターミナル |publisher=成田国際空港 |accessdate=2016-09-21}}</ref>。
'''市内の主な物流拠点'''
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |
* [[プロロジス|AMB]] 成田エアカーゴセンター
** [[商船三井]]ロジスティクス 成田ロジスティクスセンター
** [[DHL]]サプライチェーン株式会社 成田物流センター
* [[フェデックス|フェデラル・エクスプレス・ジャパン]] 成田営業所
* [[佐川急便|佐川]]グローバルロジスティクスセンター
* [[日通航空]] 成田空港物流センター
* [[阪急阪神エクスプレス]] 成田国際ロジスティクスセンター
| valign="top" |
* [[鴻池運輸]] 成田カーゴセンター
* [[SBSロジコム]]成田空港支店
* [[東京エアカーゴサービス]] 成田営業所
* 成田ロジスティック・ターミナル ([[日本航空]]グループ)
* [[ヤマト運輸|ヤマトグローバルフレイト]] 成田オペレーション統括支店 ([[ユナイテッド・パーセル・サービス|UPS]]との業務提携)
* [[日本貿易輸送]] 成田営業所
|}
=== 主な宿泊施設 ===
[[ファイル:ANA Crowne Plaza Narita 01.JPG|サムネイル|ANAクラウンプラザホテル成田]]
主に成田空港利用者や、航空会社クルー向けのホテルが多い。成田駅周辺には、成田山への観光客を主要客としてきた旅館やホテルなどが多いが、成田空港にもほど近いため、外国人観光客の宿泊客も増加傾向にある。
* 成田空港周辺
** [[アートホテル成田]](旧成田ビューホテル)
** [[ホテル日航成田]]
** [[全日空ホテルズ|ANAクラウンプラザホテル成田]] - [[1989年]](平成元年)[[6月16日]]に「成田全日空ホテル」として開業し、[[2007年]](平成19年)[[12月17日]]に名称変更。
** [[ホテルマイステイズプレミア成田]] - [[1985年]](昭和60年)[[7月1日]]に「成田東急イン」として開業し、[[1993年]](平成5年)[[10月13日]]に「ホテル成田東急」、[[2002年]](平成14年)[[4月1日]]に「成田エクセルホテル東急」に名称変更。[[2018年]](平成30年)[[2月1日]]に現名称に変更。
** [[成田東武ホテルエアポート]] - 「ホリディ・イン成田」として地元の地権者が設立したものを[[東武鉄道]]が営業権を継承して[[1987年]](昭和62年)[[9月1日]]に「ホリディ・イン東武成田」として開業。
** [[成田ゲートウェイホテル]]
** [[成田エアポートレストハウス]](成田空港内)
** スカイハートホテル(旧成田ホテルスカイコート成田)
** [[東都自動車グループ|マロウド]]インターナショナルホテル成田 - [[1995年]](平成7年)[[5月6日]]開業。
** [[ヒルトン成田]](イシン・ホテルズ・グループ)
** [[東横イン]]成田空港
* JR・京成成田駅周辺
** [http://www.c-hotel.jp/ センターホテル成田]
** 成田菊水ホテル
** インターナショナルガーデンホテル成田(イシン・ホテルズ・グループ)
** 成田U-シティホテル
** [[ホテルウェルコ成田]](旧メルキュールホテル成田)
** コンフォートホテル成田([[チョイスホテルズインターナショナル]]チェーン)
** [[アパホテル]]京成成田駅前
** [[ロイヤルホールディングス|リッチモンドホテル]]成田 - [[2009年]](平成19年)[[6月1日]]に開業。
== 姉妹都市・提携都市 ==
=== 国際交流 ===
外国人登録者数は約2,400人であるが、海外からの観光客や空港関係者も多く、市内の街中では様々な言語が飛び交う。また、市内の外国人登録数は年々増加傾向にある。
* 外国人登録数:総数2,448人(平成17年12月末)<small>内訳:(単位:人)</small>
{|
!国籍別(上位)
!人数
|-
|[[ペルー]]
|{{bar|g|2|2}} 521(22.0%)
|-
|[[フィリピン]]
|{{bar|g|1|5}} 360(15.0%)
|-
|[[中華人民共和国|中国]]
|{{bar|g|1|4}} 345(14.0%)
|-
|[[大韓民国|韓国]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|朝鮮]]
|{{bar|g|1|3}} 327(13.0%)
|-
|[[タイ王国|タイ]]
|{{bar|g|0|8}} 202(8.0%)
|-
|[[ブラジル]]
|{{bar|g|0|7}} 175(7.0%)
|-
|[[スリランカ]]
|{{bar|g|0|3}} 76(3.0%)
|-
|[[アメリカ合衆国|アメリカ]]
|{{bar|g|0|2}} 46(2.0%)
|-
|[[インド]]
|{{bar|g|0|1}} 15(1.0%)
|-
|[[バングラデシュ]]
|{{bar|g|0|0}} 6(0.7%)
|}
=== 友好都市 ===
{{Flagicon|CHN}} [[咸陽市]]([[中華人民共和国]][[陝西省]])
* [[1988年]][[9月14日]]に[[友好都市]]の締結をした。[[姉妹都市]]といわないのは、「姉」「妹」という上下関係が連想されるためである。
{{Flagicon|USA}} [[サンブルーノ|サンブルーノ市]]([[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]])
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[10月6日]]に姉妹都市(友好都市)となる。もともとは、成田ロータリークラブとサンブルーノ・ロータリークラブが姉妹クラブとなっていたことに由来する。
{{Flagicon|KOR}} [[仁川広域市]]中区([[大韓民国]])
* [[1998年]](平成10年)[[9月21日]]に「友好交流推進協議合意書」を調印し友好都市となる。これ以前より、行政・スポーツの分野での交流が盛んであった。
{{Flagicon|KOR}} [[井邑市]](大韓民国[[全羅北道]])
* [[2002年]](平成14年)[[1月29日]]に「友好交流推進協議合意書」を調印し友好都市となる。[[ホームステイ]]などの交流がある。
{{Flagicon|DEN}} ネストベズ市([[デンマーク|デンマーク王国]]ストアストロムス県)
* [[2003年]](平成15年)[[3月14日]]に「友好交流合意書」に調印し友好都市となる。成田市の福祉関係職員を研修のためにネストベズ市へ派遣し、福祉行政を中心に交流を進めてきた。
{{Flagicon|NZL}} フォクストン([[ニュージーランド]])
* [[1995年]](平成7年)[[1月31日]]旧下総町との間に姉妹都市提携を締結。1992年より下総中生徒を親善大使として派遣するなど交流がある。
{{Flagicon|ROC}} [[桃園市]]([[中華民国]]([[台湾]]))
* [[2016年]](平成28年)[[9月20日]]に友好都市の締結。また、同時に成田国際空港も[[台湾桃園国際空港]]との姉妹空港覚書を締結した。
== 地域 ==
=== 地区 ===
成田市は大まかに成田山新勝寺の門前町(成田地区)、[[日本のニュータウン|ニュータウン]]地区、空港地区(遠山地区)、農村地区、工業団地地区に分かれる。市内の地域区分は、市制施行以前の町村区分と平成の合併以前の町で地域区分されている。
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
|-
!<small>地区</small>
!<small>大字</small>
|-
|'''<small>成田地区</small>'''
|<small>成田、田町、東町(あずまちょう)、本町(ほんちょう)、仲町(なかまち)、幸町(さいわいちょう)、上町(かみちょう)、花崎町(はなざきちょう)、馬橋(まばし)、新町、南平台、土屋、寺台、郷部(ごうぶ)、不動ヶ岡、ウイング土屋、囲護台(いごだい)、美郷台</small>
|-
| style="white-space: nowrap;" |'''<small>ニュータウン地区</small>'''
|<small>赤坂、吾妻(あづま)、加良部(からべ)、橋賀台(はしかだい)、玉造、中台</small>
|-
|'''<small>公津地区</small>'''
|<small>八代、船方、北須賀、台方(だいかた)、下方、大袋、江弁須(えべす)、飯田町(いいだちょう)、並木町、飯仲(いいなか)、宗吾、公津の杜(こうづのもり)、はなのき台</small>
|-
|'''<small>八生地区</small>'''
|<small>松崎(まんざき)、[[大竹 (成田市)|大竹]](おおだけ)、上福田、下福田、宝田、押畑、山口、米野</small>
|-
|'''<small>中郷地区</small>'''
|<small>野毛平(のげだいら)、東金山、関戸、和田、下金山、新妻(にっつま)、芦田、東和泉、西和泉、赤荻</small>
|-
|'''<small>久住地区</small>'''
|<small>芝、大室、土室(つちむろ)、小泉、成毛(なるげ)、大生(おおう)、幡谷(はたや)、飯岡(いのおか)、久住中央、荒海(あらうみ)、磯部、水掛(みずかけ)、新泉(しんいずみ)</small>
|-
|'''<small>豊住地区</small>'''
|<small>北羽鳥、長沼、南羽鳥、佐野、竜台(たつだい)、安西、南部、北部</small>
|-
|'''<small>遠山地区</small>'''
|<small>小菅、大山、馬場、久米、久米野、山之作(やまのさく)、吉倉、東和田(とうわだ)、川栗、畑ヶ田(はたけだ)、[[大清水 (成田市)|大清水]]、本城(ほんじょう)、[[駒井野]](こまいの)、[[取香]](とっこう)、堀之内、新駒井野、長田、[[十余三]](とよみ)、[[天神峰]](てんじんみね)、[[東峰 (成田市)|東峰]](とうほう)、[[古込]](ふるごめ)、[[木の根]]、[[天浪]](てんなみ)、御所の内、[[三里塚 (成田市)|三里塚]]、[[本三里塚]]、[[南三里塚]]、[[東三里塚]]、[[三里塚光ヶ丘]]、[[三里塚御料]]、[[西三里塚]]</small>
|-
|'''<small>下総地区</small>'''
|<small>猿山、大菅、滑川(なめがわ)、西大須賀、四谷、新川、名古屋、高倉、成井、地蔵原新田、青山、倉水、名木(なぎ)、冬父(とぶ)、中里、七沢、高岡、大和田、高(たか)、小野、小浮(こぶけ)、野馬込(のまごめ)、平川</small>
|-
|'''<small>大栄地区</small>'''
|<small>伊能、奈土(など)、柴田、堀籠(ほうめ)、村田、所、桜田、南敷(なじき)、馬乗里(まじょうり)、横山、浅間(せんげん)、東ノ台(ひがしのだい)、大沼、久井崎(くいざき)、稲荷山(とうかやま)、中野、津富浦(つぶうら)、松子(まつこ)、臼作(うすくり)、吉岡(きちおか)、新田(しんでん)、一坪田(ひとつぼた)、前林、水の上(みずのかみ)、川上、多良貝(たらがい)、大栄十余三(たいえいとよみ)、官林(かんりん)、一鍬田(ひとくわだ)</small>
|}
==== 新勝寺門前町 ====
成田駅(JR東日本)および京成成田駅(京成電鉄)から成田山新勝寺にかけての地区。成田市の旧市街地にあたる地域で、地元では'''町中'''(まちなか)と呼ばれている。昔ながらの成田の住民が多い。週末や祝日は、成田山新勝寺の参拝客で賑わっている。大きな参道としては、'''表参道'''、'''新参道'''、'''電車道'''がある。
このうち、最も大きい参道が表参道であり、京成、JR成田駅から成田山新勝寺までの約1キロメートルの道の両脇に成田名物の羊羹、地酒、鉄砲漬、食堂、土産物屋や、[[登録有形文化財]]に登録されている川豊本店など約120店舗ほどの店が並ぶ。人の往来も激しく道幅が狭い為、車道は[[二輪車]]・[[軽車両]]を除く片側一方通行となっている。2004年(平成16年)には表参道の電線地中化工事が終わり、商店のセットバックによる歩道幅の拡張やファザードの改築など、景観に配慮した街作りが行われている。また、2005年(平成17年)9月30日、表参道の一部でもある、成田市上町地区(約300メートル)が、国土交通省の平成17年度都市景観大賞「美しいまちなみ優秀賞」を受賞している。
新参道は、成田山新勝寺から国道51号線に掛けての参道であり、成田山交通安全祈祷殿や成田山新勝寺の参拝客用駐車場があり、マイカーで成田山新勝寺に訪れる参拝客用の参道となっている。また電車道は成田山新勝寺から京成成田駅方面に掛けての参道であり、かつて千葉県内初の電気軌道「[[成宗電気軌道]]」(1910-1944) が路面電車を運営していた路線の名残である。現在でも明治時代に造られた赤煉瓦のトンネルなど、かつての面影が残っている。
これらの地区はJR成田線と京成本線に挟まれるような形になっており、他の地区から孤立した市街地になっている。
==== ニュータウン地区 ====
* [[成田ニュータウン]]
** 成田駅(JR東日本)の西側に広がるのが成田ニュータウン地区である。当初、主に成田空港や空港関連企業で働く従業員向けに計画されたが、現在では成田から東京都心、千葉市をはじめとする千葉県北西部へ通勤する住民も多い。門前町と比較して、新しく成田市に引っ越してきた住民が多いのが特徴である。また、成田市の人口のうちで最も大きな割合を占める。現在では公共施設も移転しており、成田警察署・成田税務署・郵便局・総合運動場・ハローワーク・図書館・保健所・急病診療所等が成田ニュータウン地区に位置している。
* [[公津の杜]]
** 面積117.3ヘクタール、計画人口11,740人。
** 1986年から「成田市公津東土地区画整理組合」によって京成電鉄本線の新駅を中心に全体として複合的な都市開発を目指し区画整理された地区。1994年4月1日に京成電鉄・公津の杜駅を新設。その後、駅前商業エリアに[[ユアエルム]]成田店が1999年12月にオープンした。人と人、人と街の「交流」を目指した「人間にやさしい街づくり」をテーマに、千葉県下有数のグレードの高い街づくりに取り組んでいる。また、旧建設省から「ふるさとの顔づくりモデル土地区画整理事業」に指定されており、千葉県内では京成成田駅東口土地区画整理事業が最初で公津の杜は、この事業が2番目の指定となっている。
* 美郷台(郷部)
** 面積60.2ヘクタール、計画人口6,020人。
** 1980年から「成田第一土地区画整理組合」によって区画整理された地区。成田第一と言うのは成田市で最初の組合施行による土地区画整理事業だった為。現在では中心通りに商業施設が並ぶ新興住宅街。法務局はこの地区内に移転した。
* [[ウイング土屋]][[ファイル:Aeon-mall-narita1.jpg|サムネイル|[[イオンモール成田]]]]
** 国道408号と根木名川にはさまれた面積37ヘクタールの商業地域であり商圏は茨城南部までおよぶ。商業地域であるため計画人口は僅か180人に留まる。農業地区と旧市街地との境界地に位置し、大型ショッピングセンターをはじめ映画館・飲食店・各種店舗が存在する。もとは、成田空港の旧資材輸送基地として提供され、その後[[ケロシン|ジェット燃料]]暫定輸送の燃料中継基地として活用された。その後、新東京国際空港公団所有地を含めた11ヘクタールとその周辺の水田を造成してできた地区。接道の国道408号線を東へ向かうと成田空港に至り、ウイング土屋と成田ニュータウンの間に美郷台が位置する。また、同地区には、[[京成成田空港線]]の新駅「土屋駅(仮称)」用の駅前広場用地が用意されており、新駅設置に向けて署名活動や国や県、運行主体となる京成電鉄に要望(陳情)などを行っているが、未だ計画では何も触れられていないのが現状である。市では、近隣ショッピングセンターに車を駐車し、駅から電車で通勤する「[[パーク・アンド・ライド]]」構想をしている。
* [[成田はなのき台]]
** 成田駅(JR東日本)西口から約2.5キロメートル、成田ニュータウンに隣接した面積37.6ヘクタールの住宅地。「成田市公津西土地区画整理組合」によって2001年から区画整理された地区。四季折々緑豊かな公園が整備され、商業施設や医療施設を誘致を行うなど魅力ある街作りに対して2011年に[[国土交通大臣]]より「まちづくり功労者国土交通大臣表彰」を受賞した。
* その他
** 京成成田駅(京成電鉄)構内から成田市役所奥方に見える住宅地は、富里市[[日吉台ニュータウン|日吉台]]。こちらも成田空港周辺ニュータウンという事では性格を同じくする。
==== 空港地区 ====
現在の成田市の顔とも言える地区。空港通り、新空港道を挟んで[[ホテル]]の[[高層建築物|高層ビル]]群が建ち並び、空港を囲むように、空港関連企業、物流団地、貸し駐車場、病院、公園などが位置する。一つの街を形成していると言っても過言ではない。成田空港と空港関連企業の従業員数を合わせると、約46,000人もの雇用を生み出しているほか、空港周辺道路などのインフラも整備された。またメディアへの露出が高く、この地区が登場するドラマが放映されるたびに、新しい観光スポットが生まれる状況である。未だに一部周辺住民の反発は根強いものの、[[成田市#ニュータウン地区|ニュータウン地区]]と並んで拡大が続いている。
==== 農業地区 ====
上記3つの地区を囲むように存在している地区。三里塚闘争で一躍全国区になった三里塚もこの地区である。成田市の農業人口は1950年代から徐々に減っており、現在では昭和中期の 1/3 程度になっている。全国的な農業離れの他、ニュータウン地区と空港地区の拡大も大きな要因となっている。かつては首都圏の近郊農業の一翼を担っており、京成電鉄では[[行商専用列車]]を仕立てていたが、1998年からは朝の電車1本のうち1両だけが行商人専用に当てられているのみとなり、2013年に行商列車は廃止された。
離農された農地は[[ゴルフ場]]などに転換されているが、無人化した農地へのゴミや産業廃棄物の不法投棄が問題になっている。<!-- 要出典:1996年には、成田市芦田地区で約30トンにも及ぶ感染性医療廃棄物の大量投棄が発覚し、マスコミを巻き込み社会的、行政的にも大問題となった。 -->市環境対策課の職員や、地区の監視員、警備会社などによる不法投棄パトロールや、移動式[[監視カメラ]]などで不法投棄・不法残土投棄などの警戒を強めている。
==== 工業団地 ====
成田市には[[野毛平工業団地]]、豊住工業団地、大栄工業団地の3つの工業団地がある。また、物流団地である成田新産業パークがある。地域格差の是正と空港の騒音下利用計画の一環として造成された。また、機械工業中心とした非公害型企業のみという珍しい工業団地でもある。成田空港を介して輸出入される製品を取り扱っている。従業員はほとんどが地元雇用者であり、こうした工業団地群は成田空港周辺市町村に多く見られる。
=== 郵便事業 ===
[[ファイル:Narita Postoffice, Dec 2.jpg|サムネイル|成田郵便局]]
郵便局
* [[成田郵便局]]
郵便番号
* 下記の地域を除く旧成田市全域 286
* 下記の地域 282
** 木の根 24、36、92
** [[駒井野]] 2071、2112、2121、2131、2159、2162
** 三里塚 御料牧場1番地1、2
** 天浪
** 東三里塚 101番地1
** 古込 1-1、93、124、133、141、151、154、164
* 旧下総町全域 289
* 旧大栄町全域 287
=== キャラクター ===
[[ファイル:Narita City Community Bus.jpg|サムネイル|成田市コミュニティバス(うなりくんラッピング)]]
[[うなりくん]] - 平成時代の[[ゆるキャラ]]の一つ。成田市のマスコットキャラクター。成田市特別観光大使。
=== 清掃・衛生施設 ===
* 成田富里いずみ清掃工場(焼却場)
** [[ガス化溶融炉]]シャフト式の清掃工場、2012年10月より稼働。処理能力は212トン(106トン/日×2炉)。富里市との共同出資により建設された。余熱利用施設や屋外多目的広場などが整備される予定。
* 成田市リサイクルプラザ
** 1998年完成。カン・ビン、不燃性粗大ゴミや可燃物は混在した軟質性粗大ゴミから、資源を効率的に回収する施設。
* 成田クリーンパーク(最終処分場)
** 1988年完成。上記の施設から排出された不燃物を埋め立てる施設。当初、2011年程度まで埋め立てが可能と予測されていたが、成田空港B滑走路北側延伸工事によって2007年3月をもって埋め立てを終了した。
'''上下水道'''
成田市は、3つの水道が供給されている。
* 成田ニュータウン地区:千葉県営水道
* 成田国際空港:千葉県営水道(専用水道)
* 下総・大栄地区:成田市営簡易水道
* その他の地区:成田市営水道
成田市営水道は市内15ヵ所に設置された井戸水と、利根川の表流水の2つを水源としており、井戸水と表流水を混合し供給している。また、同じ市内でも供給元の違いにより水道料金に格差が生じている。成田市の上水道普及率は82.8%(平成23年度末)である。千葉県の上水道普及率は94.7%(平成23年度末)であり、近隣の富里市83.1%、栄町91.1%、酒々井町92.2%、多古町98.1%(いずれも平成23年度末)<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/suisei/documents/honpen.pdf |title=平成23年度 千葉県の水道 |format=PDF |work=千葉県総合企画部水政課 |publisher=千葉県 |accessdate=2016-09-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140203024311/http://www.pref.chiba.lg.jp/suisei/documents/honpen.pdf |archivedate=2014-02-03}}</ref>を下回り、普及率は低いといえる。成田市の下水道普及率は73.8%(平成24年度末)<ref group="統計">[http://www.jswa.jp/rate/ 財団法人 日本下水道協会] 発表 「下水道処理人口普及率」より。</ref>である。千葉県の下水道普及率70.7%(平成24年度末)を上回っている。しかし、旧下総町、大栄町の下水道が未着手であり、市町合併以前の普及率82.6%(平成16年度末)から大幅に普及率が低下した。
成田市の汚水は[[印旛沼]]流域下水道を流れ、印旛沼流域の15市町村(成田国際空港)の汚水と共に花見川終末処理場と花見川第二終末処理場に集積・処理し、[[東京湾]]につながる河川に放流されている。また、成田市の雨水はそれぞれの地区の自然流下により、雨水幹線通り、根木名川、小橋川、江川及びその他河川へ自然放流されている。
=== 健康と福祉 ===
平成22年度の平均寿命は、男性が80.3歳、女性が86.6歳となっている。平成25年4月現在、65歳以上の人口は24,321人で、総人口比の高齢化率は18.6%であり、千葉県内35位である。
* 健康・福祉・子育て施設
** 千葉県印旛健康福祉センター
** 成田市保健福祉館
*** 下総分館・大栄分館
** 成田市急病診療所
=== 医療 ===
[[ファイル:Narita-Red-Cross-Hospital.jpg|サムネイル|成田赤十字病院]]
二次[[医療圏]](二次保健医療圏)としては印旛医療圏(管轄区域:印旛地域)である。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。
[[医療法#医療提供施設|医療提供施設]]は特筆性の高いもののみを記載する<ref>千葉県. 千葉県保健医療計画(平成30年度〜平成35年度)(日本語). ''千葉県''. 2019年6月14日閲覧。</ref>。
* 市内の[[医療機関]]
* 二次医療圏(市内)
** [[成田赤十字病院]] - 病床数719、[[救命救急センター]]、[[災害拠点病院]]<ref>{{Cite web|和書|title=災害拠点病院の指定について|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/iryou/taiseiseibi/saigai/saigaikyotenbyouin.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>の指定を受けている。災害時用ヘリポート完備。
** [[国際医療福祉大学成田病院]] - 病床数642
* 一次医療圏(市内)
** 緊急指定病院
*** 医療法人鳳生会成田病院 - 病床数716、印旛山武郡市2次救急、成田市1次救急指定。
** その他の医療機関
*** 聖マリア記念病院
*** 大栄病院
*** 成田リハビリテーション病院
*** 成田富里徳洲会病院(所在地は[[富里市]]、市域に隣接)
* 二次医療圏
** [[日本医科大学千葉北総病院]]([[印西市]]、基幹災害拠点病院・救命救急センター)
** [[東邦大学医療センター佐倉病院]]([[佐倉市]]、災害拠点病院)
=== 教育 ===
[[構造改革特区]]に指定されており、成田市国際教育推進特区構想が認可されている。
==== 学校教育施設 ====
{{See also|成田市の学校一覧}}{{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Narita-Seiryo High School.JPG|説明1=千葉県立成田西陵高等学校|画像2=Narita Kokusai High School.JPG|説明2=千葉県立成田国際高等学校|画像3=NaritaHighschool seimon.jpg|説明3=成田高等学校・付属中学校}}'''大学'''
* [[国際医療福祉大学]] 成田キャンパス
'''専修学校'''
* [[日本自動車大学校]](NATS)
* [[成田航空ビジネス専門学校]]
* 成田国際福祉専門学校
* 二葉看護学院
==== 高等学校 ====
* 公立高等学校
** [[千葉県立成田西陵高等学校]]
** [[千葉県立成田国際高等学校]]
** [[千葉県立成田北高等学校]]
** [[千葉県立下総高等学校]]
* 私立高等学校
** [[成田高等学校・付属中学校|成田高等学校]]
'''義務教育学校'''
* [[成田市立下総みどり学園]]
* [[成田市立大栄みらい学園]]
'''中学校'''
市立中学校 <small>※は防音校舎</small>
{{col|
* [[成田市立成田中学校]]
* [[成田市立遠山中学校]] ※
* [[成田市立久住中学校]]※
* [[成田市立西中学校]]
|
* [[成田市立中台中学校]]
* [[成田市立吾妻中学校]]
* [[成田市立玉造中学校]]
* [[成田市立公津の杜中学校]]
}}
私立中学校
* [[成田高等学校・付属中学校|成田高等学校付属中学校]]
'''小学校'''
市立小学校 <small>※は防音校舎</small>
{{col|
* [[成田市立成田小学校]]
* [[成田市立遠山小学校]] ※
* [[成田市立三里塚小学校]] ※
* [[成田市立久住小学校]] ※
* [[成田市立豊住小学校]]
* [[成田市立八生小学校]]
* [[成田市立公津小学校]]
|
* [[成田市立向台小学校]]
* [[成田市立加良部小学校]]
* [[成田市立橋賀台小学校]]
* [[成田市立新山小学校]]
* [[成田市立吾妻小学校]]
* [[成田市立玉造小学校]]
* [[成田市立中台小学校]]
|
* [[成田市立神宮寺小学校]]
* [[成田市立平成小学校]]
* [[成田市立本城小学校]] ※
* [[成田市立公津の杜小学校]]
* [[成田市立美郷台小学校]]
}}
私立小学校
* [[成田高等学校付属小学校]]
'''幼稚園'''
市立幼稚園
* 大栄幼稚園
私立幼稚園
{{col|
* 成田幼稚園
* 三里塚幼稚園
* はぼたん幼稚園
|
* [[聖徳大学]]附属成田幼稚園
* くすのき幼稚園
* はしが台幼稚園
|
* はくと幼稚園
* 玉造幼稚園
* 公津の杜幼稚園
}}
'''海外帰国子女・外国人子女・障害児等教育'''
各設置校の詳細については、成田市役所教育指導課へ。
* 外国人子女等学級設置校
** 三里塚小学校、橋賀台小学校、吾妻中学校、西中学校
* 知的障害特殊学級設置校
** 成田小学校、三里塚小学校、公津小学校、加良部小学校、吾妻小学校
** 中台小学校、平成小学校、成田中学校、遠山中学校、西中学校
* 言葉の教室設置校
** 成田小学校、本城小学校、中台小学校
* 情緒障害特殊学級設置校
** 成田小学校、平成小学校、三里塚小学校、中台小学校、橋賀台小学校、吾妻中学校、西中学校
'''児童福祉施設'''
市立保育園{{col|
* 加良部保育園
* 橋賀台保育園
* 中台保育園
* 吾妻保育園
* 中台第二保育園
|
* 新山保育園
* 玉造保育園
* 赤荻保育園
* 松崎保育園
|
* 長沼保育園
* 高岡保育園
* 小御門保育園
* 大栄保育園
}}
私立保育園{{col|
* 大室保育園
* 成田保育園
|
* つのぶえ保育園
* 宗吾保育園
* 公津の杜保育園
|
* 三里塚保育園
* 三里塚第二保育園
* 月かげ保育園
}}
'''公共職業能力開発施設'''
職業能力開発短期大学校
* 関東[[職業能力開発大学校]]付属千葉[[職業能力開発短期大学校]]成田校(愛称:ポリテクカレッジ成田)
==== 生涯学習施設 ====
成田国際文化会館は財団法人成田市教育文化振興財団が運営している。
'''ホール・コミュニティーセンター'''
* 成田国際文化会館
** 友好都市の咸陽市から、友好都市締結10周年を記念して秦始皇帝[[兵馬俑]]のレプリカが贈られ、成田国際文化会館のロビーに展示されている。
* 三里塚コミュニティーセンター
* 公津の杜コミュニティーセンター(もりんぴあこうづ)
'''公民館・地区会館'''{{col|
* 美郷台地区会館
* 中央公民館
* 公津公民館
* 久住公民館
* 橋賀台公民館
* 玉造公民館
* 豊住公民館
|
* 成田公民館
* 八生公民館
* 中郷公民館
* 加良部公民館
* 遠山公民館
* 下総公民館
* 大栄公民館
}}
'''図書館'''
[[ファイル:Naritasan Library for Buddhism.JPG|サムネイル|[[成田山仏教図書館]]]]
成田市立図書館は1984年(昭和59年)10月27日、市制30周年記念3大事業の一つとして開館した。開館当初、まだ珍しい[[コンピュータ]]による蔵書の管理を導入するなど、規模と設備において全国有数の規模と言われた。その後、各公民館の図書室は成田市立図書館の分館となった。詳しくは成田市立図書館公式ページを参照。(→[[#外部リンク|外部リンク]])
* [[成田市立図書館]]
* [[成田山仏教図書館]]([[私立図書館|私立]][[公共図書館]])
'''体育施設'''
* [[中台運動公園]]([[中台運動公園陸上競技場|陸上競技場]]、軟式野球場、[[成田市中台運動公園球技場|球技場]]、体育館、テニスコート、相撲場、プール)
* [[大谷津運動公園]](硬式・軟式野球場、テニスコート、プール、多目的広場) - [[高校野球]]の地区大会の会場としても使用。[[2009年アジア野球選手権大会]]が行われた。
* [[大栄野球場]](ナスパ・スタジアム) - [[第16回世界女子ソフトボール選手権]]が行われた。
* 印東体育館
* 久住体育館
* 大栄[[ブルーシー・アンド・グリーンランド財団|B&G]]海洋センター(体育館、屋内プール)
* 久住テニスコート
* 三里塚記念公園テニスコート
* 大栄テニスコート
* 北羽鳥多目的広場(多目的グラウンド、野球場)
* スポーツ広場(成田、遠山、八生第1・第2、中郷、公津、久住第1・第2、豊住第1・第2)
* 大栄工業団地久茂富第一公園(全天候テニスコート2面)
* 外小代公園(全天候テニスコート2面)神宮寺公園(目的広場、全天候テニスコート1面)北羽鳥多目的広場(多目的広場、野球場)
* 下総サイクリングコース(1周1.5キロメートル)
その他、学校教育施設開放などがある。成田市は2004年11月7日「スポーツ健康都市宣言」を宣言し、健康な心と体を育むスポーツを積極的に推進している。
=== 報道機関 ===
{{See also|成田テレビ中継局}}
航空機によるテレビ受信障害を防ぐ為、1993年(平成5年)11月18日「成田テレビ中継放送局」が成田市大袋に開局された。このテレビ放送中継局は、[[東京タワー]]からの電波を受信して [[極超短波|UHF]]電波として再送信していた。受信範囲は成田市を含む57,230世帯。高さは200メートルと成田市で一番高い建物であった。その他、「佐原テレビ中継放送局」(香取市、1995年1月20日開局)、「下総光テレビ中継放送局」(横芝光町、1995年3月16日開局)、「江戸崎テレビ中継放送局」(茨城県[[稲敷市]]、1995年2月28日開局)があり、全4施設で約8万世帯を対象としている。
2011年7月24日の地上デジタル放送への完全移行後は、航空機によるフラッターの影響は受けにくいということで成田テレビ中継局はデジタルでは置局されず、2015年に鉄塔は解体された。県域放送局である千葉テレビ放送はアナログ時代より成田中継局を置いておらず、[[三山 (船橋市)#三山テレビ・FM放送所|三山・千葉本局]]の受信となる。
==== 放送局 ====
* [[NHK千葉放送局]] 成田支局
* フジテレビ 成田空港民放クラブ
* テレビ朝日 成田支局第一ターミナル
* 千葉テレビ放送 成田空港室
* メディアポート成田(MENAC)- 成田空港内専用放送局
* ケーブルテレビ局
** [[成田ケーブルテレビ]](NCTV)
* FM局
** [[国際ラジオ放送|ラジオ成田]]<ref group="広報">[http://www.narita.fm/ ラジオ成田ホームページ]。</ref>(83.7 MHz):2014年12月27日に開局した[[コミュニティ放送|コミュニティFM局]]<ref>「ラジオナリタ」年内開局 ''YOMIURI ONLINE''(読売新聞社). (2014年9月14日). オリジナルの2014年9月14日時点によるアーカイブ。 2014年9月14日閲覧。</ref>。
** [[エフエムインターウェーブ|Inter FM]](89.7 MHz・76.1 MHz):外国語FM放送局。県内では千葉市と成田国際空港内のみが放送対象地域。
** [[ベイエフエム|bayfm]](78.0 MHz):千葉県の県域FM放送局。成田国際空港第1旅客ターミナルビル5階に[[サテライトスタジオ]]「Narita Airport Studio “SKY GATE”」がある。スタジオはガラスで隔てられており、壁は大空をイメージした青色。
'''成田テレビ中継局送信設備'''
*「チャンネル」の欄は''開局時のチャンネル番号''→2004年5月20日実施の[[2011年問題 (日本のテレビジョン放送)#アナアナ変換|アナアナ変換]]後現在のチャンネル番号
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:center;"
|-
! 放送局名 !![[チャンネル (テレビ放送)|チャンネル]]!![[空中線電力]]!![[実効放射電力|ERP]]!![[放送#放送対象地域|放送対象地域]]!![[放送#放送区域|放送区域]]内世帯数 !![[偏波面]]
|-
|[[日本放送協会|NHK]][[NHK放送センター|東京]][[NHK教育テレビジョン|教育テレビジョン]]||''28''→'''49'''|| rowspan="7" |映像30W<br />/音声7.5W || rowspan="7" |映像290W<br />/音声72W ||[[全国放送]]|| rowspan="7" |57,230世帯 || rowspan="7" |水平偏波
|-
| NHK東京[[NHK総合テレビジョン|総合テレビジョン]]||''30''→'''51'''|| rowspan="6" |[[広域放送|関東広域圏]]
|-
|[[日本テレビ放送網]](NTV) ||''25''→'''53'''
|-
|[[TBSテレビ]](TBS) ||''23''→'''55'''
|-
|[[フジテレビジョン]](CX) ||''21''→'''57'''
|-
|[[テレビ朝日]](EX) ||''19''→'''59'''
|-
|[[テレビ東京]](TX) ||''17''→'''61'''
|-
|[[千葉テレビ放送]](CTC) || colspan="6" |中継局未設置
|}
==== 新聞社 ====
* [[読売新聞]] 成田支局
* [[毎日新聞]] 成田支局
* [[朝日新聞]] 成田支局
* [[産経新聞]] 成田空港第1ターミナル分室
* [[東京新聞]] 成田空港分室
* [[日本経済新聞]] 成田空港第1ターミナル記者室
* [[千葉日報]] 成田支局
==== フリーペーパー ====
*[http://area-station.com 成田エリア新聞]:(毎週日曜日・水曜日・金曜日 発行部数3万部)
*[http://www.elite-joho.com/elite_bk/ エリート情報バックナンバー 成田版]:(毎週土曜日 発行部数9万部)
*[http://www.onionnews.co.jp/ オニオン新聞 成田版]:(68,350部)
*[http://www.chiikinews.co.jp/ 地域新聞 成田版]:(毎週金曜日 発行部数39,683部)
*[http://www.peapop.com/ ぴーぽっぷ]:(毎週土曜日 発行部数10万部)
==== ポータルサイト ====
*[http://www.narita-web.com/ 成田タウンナビ★ナリタウェブ] - アドバンネット運営
*[http://narita.soushin-ichiba.jp/ 成田最大のグルメサイト【ソウシン市場】]
=== 市外局番 ===
* [[市外局番]]:2006年10月1日から市内全域が「0476」に統一された。また、旧大栄町の70局地域は49局へと変更された。
== 交通 ==
=== 空港 ===
[[ファイル:Narita International Airport Terminal 1.JPG|サムネイル|成田国際空港第1ターミナル]]
'''[[日本の空港#拠点空港|拠点空港]]'''
* [[成田国際空港]](成田空港)
**国際線
***第1ターミナル
****北ウイング
****南ウイング
***第2ターミナル
***第3ターミナル
**国内線
***第1ターミナル([[全日本空輸]]、[[Peach Aviation]])
***第2ターミナル([[日本航空]])
***第3ターミナル([[ジェットスター・ジャパン]]、[[春秋航空日本|スプリング・ジャパン]])
※[[東京都]][[大田区]]の[[東京国際空港]](羽田空港)にも、[[リムジンバス]]や[[鉄道]]([[京成電鉄]])を利用すれば乗換なしで行くことが可能。
==== 成田国際空港のアクセス ====
'''アクセス改良計画'''
* 鉄道
** [[京成成田空港線|成田スカイアクセス]](成田新高速鉄道プロジェクト)が、[[2010年]]7月17日に開業(線路の建設および保有は[[成田高速鉄道アクセス]]。運行会社は[[京成電鉄]]の[[上下分離方式]]。)。[[北総鉄道北総線|北総線]]経由で都心と成田空港間を[[スカイライナー]]で30分台で結ぶものであり、具体的には[[印旛日本医大駅]]から[[成田空港高速鉄道]]接続点(土屋地区)までの路線新設ならびに既存路線の設備改良計画である。
** 成田市は千葉県及び茨城県の8市町村(成田市、[[柏市]]、我孫子市、[[白井市]]、[[印西市]]、栄町、[[利根町]]、河内町)で構成されている[[成田線複線化委員会|成田線複線化促進期成会]](我孫子 - 成田)の会員であり、成田線の複線化、成田空港へのアクセス向上(成田スカイアクセス[[成田湯川駅]]との交差部への新駅の設置)の早期実現に向けて活動している。
* 道路
** [[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道)の延伸は、[[神崎インターチェンジ|神崎IC]] - [[大栄ジャンクション|大栄JCT]]間が[[2015年]](平成27年)[[6月7日]]に開通した。大栄JCT - [[松尾横芝インターチェンジ|松尾横芝IC]]間の事業が計画されている<ref>大栄-松尾横芝間 早期完成へ決起 圏央道県民会議 ''千葉日報'' (千葉日報社): p. 4. (2015年7月9日)</ref>。
** 成田スカイアクセスの建設とあわせて、一般国道464号の[[バイパス道路|バイパス]]となる[[北千葉道路]]が計画されている。こちらも起点は印西市岩萩地先(印旛日本医大前)、終点は成田市大山地先となっており、ほとんどの区間で線路と併走する予定。
=== 鉄道路線 ===
{{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=JR Narita Station 2016,Narita city,Japan.jpg|説明1=成田駅(JR東日本・京成電鉄)|画像2=JR-Narita-Airport-station-entrance.jpg|説明2=成田空港駅(JR東日本・京成電鉄)|画像3=Keisei Kozunomori sta 001.jpg|説明3=公津の杜駅(京成電鉄)|画像4=|説明4=}}
'''[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)'''
*{{color|seagreen|■}} [[成田線]]
** 本線
***- [[成田駅]] - [[久住駅]] - [[滑河駅]] -
** 我孫子支線
***成田駅 - [[下総松崎駅]] -
** 空港支線
***成田駅 - [[空港第2ビル駅]] - [[成田空港駅]]
'''[[京成電鉄]]'''
* [[ファイル:Number_prefix_Keisei.svg|15x15ピクセル|KS]] [[京成本線|本線]]
** - [[公津の杜駅]] - [[京成成田駅]] - 空港第2ビル駅 - 成田空港駅
* [[ファイル:Number_prefix_Keisei.svg|15x15ピクセル|KS]] [[東成田線]]
** 京成成田駅 - [[東成田駅]]
* [[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|15x15ピクセル|KS]] [[京成成田空港線|成田空港線]](成田スカイアクセス線)
** - [[成田湯川駅]] - 空港第2ビル駅 - 成田空港駅
'''[[芝山鉄道]]'''
* [[ファイル:Number prefix Shibayama.svg|15x15ピクセル]] [[芝山鉄道線]]
** 東成田駅 - ([[芝山千代田駅]])
** <small>※芝山千代田駅の駅舎は、成田市と[[芝山町]]に跨って存在している(正式な所在地は芝山町)。</small>
'''[[関東の駅百選]]'''
* 公津の杜駅(第1回選定)
* 成田空港駅(第4回選定)
'''鉄道施設'''
* [[駒井野信号場]]
* [[根古屋信号場 (京成)]]
* [[堀之内信号場]]
'''鉄道愛好者団体'''
* [[羅須地人鉄道協会]]
** [[成田ゆめ牧場]]まきば線([[軽便鉄道]]の[[動態保存]])
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |※未成線
* [[成田新幹線]] : [[東京駅]] - 成田空港駅間。
* [[千葉県営鉄道]]北千葉線 : [[本八幡駅]] - [[新鎌ヶ谷駅]] - 成田ニュータウン - [[成田駅]]間。
* [[東京成芝電気鉄道]](成田急行電鉄) : 東京・東平井 - 鎌ケ谷 - 成田 - [[松尾駅 (千葉県)|松尾駅]]間。
| valign="top" |※廃止路線
* [[成宗電気軌道]] - 成田市内を走った[[路面電車]]。[[1944年]](昭和19年)12月11日 [[不要不急線]]として廃線。
* [[成田鉄道多古線]](旧・[[千葉県営鉄道]]多古線) - [[1946年]](昭和21年)[[10月9日]]廃線。
* [[成田鉄道八街線]](旧・千葉県営鉄道八街線) - [[1940年]](昭和15年)[[5月14日]]廃線。
* [[成田空港第2ターミナルシャトルシステム]]
|}
=== バス路線 ===
{{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=JR Narita station and Bus stop 2016,Narita city,Japan.jpg|説明1=成田駅バス停留所|画像2=Narita International Airport - Terminal 2 passenger drop-off.jpg|説明2=成田空港バスターミナル|画像3=Narita Airport Transport 520 Terminal Connection Bus Blue Ribbon Hybrid.jpg|説明3=成田空港ターミナル循環バス}}
==== 路線バス ====
* [[千葉交通]]
** [[千葉交通成田営業所]]
** 成田市に本社を置く[[京成グループ]]の企業。主に成田駅・京成成田駅から、成田市内、周辺の富里市、栄町、香取市、芝山町、茨城県河内町などを結び運行。また、成田空港からは空港内整備地区や周辺の芝山町、多古町方面を運行。
* [[成田空港交通]]
** 成田市に本社を置く京成グループの企業。第1旅客ターミナルビルと第2旅客ターミナルビルとを結ぶターミナル連絡バス、空港と周辺市町村、ホテルなどを結ぶバスや高速バスの運行など。
* [[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]
** JR成田駅と三里塚、多古、[[八日市場駅]]を結ぶバス(多古線)を主に運行している。多古線は、廃線となった成田鉄道の代行路線として開業した官営自動車が前身となっている。
* 成田市コミュニティバス
** 詳しくは「[[成田市コミュニティバス]]」を参照。
'''(廃止)'''
* Circle Bus 成田市内循環バス(通称200円バス)
** 成田ホテルバス連合会が運営する運賃210円均一バス。市内の主な商業施設と7ホテルを結ぶ循環バスを運行している。路線は2ルートあり、Aルートは[[成田空港交通]]、Bルートは[[千葉交通成田営業所|千葉交通]]に委託されている。
** 2019年(令和元年)7月15日に路線廃止。
==== 高速バス====
[[大阪 - 銚子線]]
* 夜行高速バス。大阪なんば・[[京都駅]]八条口 - [[秋葉原駅]]・成田空港・銚子線。市内では、大栄、成田空港第2ターミナル、第1ターミナル、京成成田駅の各駅に停車する。[[千葉交通]]と[[南海バス]]による共同運行。
[[犬吠号 (高速バス)|犬吠号・利根ライナー]]
* [[バスターミナル東京八重洲]] - 大栄 - 東芝町([[銚子駅]]入口)・[[犬吠埼]]太陽の里・[[千葉科学大学]]。市内では、大栄に停車する。[[京成バス]]と千葉交通による共同運行。
[[東京 - 富里・多古線]]
* 東京駅と[[多古町]]とを結ぶ路線。市内では、三里塚公園、住宅入口の各駅に停車する。千葉交通による運行。
成田空港へのアクセスバス
* その他、成田国際空港から各方面へ高速バスが運行されている。詳しくは「[[成田国際空港#バス|成田空港のバス]]」「[[エアポートバス]]」を参照。
==== 深夜急行バス====
新橋駅 - 成田線
* 深夜の終電後に[[新橋駅]]、[[有楽町駅]]、[[津田沼駅]]、[[八千代台駅]]、[[勝田台駅]]と成田ニュータウン、JR成田駅とを結ぶ路線。[[ちばグリーンバス]]による運行。(金曜日のみ運行。)
新橋駅 - 西船橋、千葉ニュータウン、成田線
* 毎日深夜の終電後に新橋駅、有楽町駅、東京駅、[[西船橋駅]]、[[馬込沢駅]]、鎌ヶ谷市内、千葉ニュータウンと成田市内、京成成田駅、成田空港とを結ぶ路線。[[成田空港交通]]による運行。
新橋駅 - 新松戸、千葉ニュータウン、成田線
* 毎日深夜の終電後に新橋駅、有楽町駅、東京駅、[[京成上野駅]]、[[金町駅]]、松戸市内、新鎌ヶ谷駅、千葉ニュータウンと京成成田駅、成田空港とを結ぶ路線。成田空港交通による運行。
銀座駅 - 成田線
* 平日深夜の終電後に[[銀座駅]]、東京駅、兜町と成田市内、JR成田駅とを結ぶ路線。[[平和交通 (千葉県)|平和交通]]による運行。
==== 早朝直行バス====
成田市内 - 東京駅・浜松町線
* 土曜・日曜・祝日の早朝に成田駅、成田市内と東京駅、[[浜松町バスターミナル]]とを結ぶ路線。[[千葉交通]]による運行。
成田市内 - 成田空港線
* 早朝に京成成田駅、松原から成田空港第2旅客ターミナルとを結ぶ路線。片道1便のみ運行。千葉交通による運行。
=== 道路 ===
{{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=HigashiKantoJidosyadoNaritaAirport.jpg|説明1=東関東自動車道|画像2=NaritaSakuranoyamaSakurakan.jpg|説明2=空の駅 さくら館|画像3=|説明3=}}成田山の初詣や、市内の大型ショッピングセンター、成田空港や関連企業、[[鹿島臨海工業地帯]]への大型車などの車の流入が多いのが特徴。国道51号では「成田山入口交差点」が主な渋滞箇所。特に初詣期間中は断続的に数キロメートルから十数キロメートルの渋滞も見られる。また、国道51号の千葉区間では成田市の寺台地先が最も交通量が多い(平日24時間自動車交通量41,919台<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ktr.mlit.go.jp/honkyoku/road/census/h18/chiba.htm|title=千葉県|work=平成17年度 道路交通センサス|publisher=国土交通省関東地方整備局|accessdate=2016-09-21}}</ref>)。国道408号では大型車の通行できる並行道路がなく、成田ニュータウン、[[つくば市|つくば]]方面、[[我孫子市|我孫子]]方面、成田空港方面などを結ぶ主要道路が交わる「土屋交差点」が主な渋滞箇所。近年、近隣の大型ショッピングセンターの開店に伴い休日の渋滞が増加したが、交差点改良工事により若干改善した。
'''[[高速道路]]'''
* [[東関東自動車道]]
** (富里市) - (10)[[成田インターチェンジ|成田IC/JCT]] - (10-1)[[大栄ジャンクション|大栄JCT]] - [[大栄パーキングエリア|大栄PA]] - (11)[[大栄インターチェンジ|大栄IC]] - (香取市)
* [[新空港自動車道]]
** (10)[[成田インターチェンジ|成田スマートIC]] - [[新空港インターチェンジ|新空港IC]]
* [[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道)
** (香取郡神崎町) - (87)[[下総インターチェンジ|下総IC]] - (90)大栄JCT - (計画中区間) - (主)成田小見川鹿島港線IC(仮称・事業中) - (香取郡多古町)
'''[[一般国道]]'''
* [[国道51号]]([[成田街道]]、[[佐原街道]]、[[成田拡幅]])
** 北方面 - [[香取市|香取]]・[[潮来市|潮来]]・[[鹿嶋市|鹿嶋]]・[[水戸市|水戸]]
** 南方面 - [[佐倉市|佐倉]]・[[四街道市|四街道]]・[[千葉市|千葉]]
* [[国道295号]]([[空港通り]])
* [[国道296号]]
* [[国道356号]]
* [[国道408号]]
* [[国道409号]]
* [[国道464号]]
* [[北千葉道路]](建設中)
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |'''[[主要地方道]]'''
* [[千葉県道18号成田安食線]]
* [[千葉県道43号八街三里塚線]]
* [[千葉県道・茨城県道44号成田小見川鹿島港線|千葉県道44号成田小見川鹿島港線]]
* [[千葉県道62号成田松尾線]]([[芝山はにわ道]])
* [[千葉県道63号成田下総線]]
* [[千葉県道70号大栄栗源干潟線]]([[東総有料道路]])
* [[千葉県道79号横芝下総線]]
'''[[自転車道]]'''
* [[千葉県道409号佐原我孫子自転車道線]]
'''市道・農道'''
市道1,946路線681,727メートル、農道1,763路線440,843メートルが認定(平成15年度末時点)。
| valign="top" |'''[[都道府県道|一般県道]]'''
* [[千葉県道102号成田両国線]]
* [[千葉県道103号江戸崎下総線]]
* [[千葉県道106号八日市場佐倉線]]
* [[千葉県道110号郡停車場大須賀線]]
* [[千葉県道112号成田成東線]]
* [[千葉県道113号佐原多古線]]
* [[千葉県道115号久住停車場十余三線]]
* [[千葉県道137号宗吾酒々井線]]
* [[千葉県道161号成田滑河線]]
* [[千葉県道206号下総松崎停車場線]]
* [[千葉県道207号滑河停車場線]]
|}
'''[[橋梁]]'''
* [[常総大橋]]
* [[長豊橋]]
* [[成田橋]]
'''[[空の駅]]'''
* 空の駅 さくら館([[成田市さくらの山]])
'''成田市の数字板設置交差点'''
市中心部の交差点信号機に1 - 17の数字板が設置されている。これは、成田山新勝寺への初詣客や警備に当る県外からの応援警察官などへの道案内用として設置された。全国的にも[[栃木県]][[日光市]]の[[鬼怒川温泉|鬼怒川]]・[[川治温泉]]周辺しかなく事例が少ない。
==== 成田市に残る道路元標 ====
* 大正八年十一月十四日千葉県告示第二百九十五号/大正九年一月九日千葉県告示第一号<ref>「歳月の忘れもの」発行成田市 平成6年11月発行より。</ref>
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
|-
!旧町村名
!番地先
!目標物
!状態
|-
|成田町
|成田字上町496番地先
|成田山薬師堂前
|現存
|-
|公津村
|下方字瓜作557番ノ1地先
|宗吾霊堂駐車場(2008/12復元設置)
|現存
|-
|豊住村
|北羽鳥字下萱場2177番地先
|豊住郵便局前
|現存
|-
|久住村
|飯岡字岩ノ作76番ノ2地先
|不明
|不明
|-
|八生村
|松崎字辺田2058番ノ1地先
|松崎街道沿い
|現存
|-
|中郷村
|新妻字台156番ノ1地先
|県道161号線沿い→赤荻保育園へ移設
|現存
|-
|遠山村
|小菅字法華塚568番ノ1地先
|小菅駐在所前
|現存
|-
|滑河町
|滑川字宿1093番ノ4地先
|滑河観音前
|現存
|-
|小御門村
|名古屋字館ノ内892番ノ2・893番ノ2合併地先
|小御門神社前
|現存
|-
|高岡村
|大和田字谷ツ151番ノ1地先
|不明
|不明
|-
|大須賀村
|伊能字馬場先2108番地先
|大須賀大神前
|現存
|-
|本大須賀村
|吉岡字宿並4番地先
|八坂神社前
|現存
|}
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
成田市は周辺市町1市2町(佐倉市、栄町、芝山町)と成田国際観光モデル地区に指定され、また国際会議(コンベンション)推進を目的とする[[国際会議観光都市]]にも認定されている。[[2003年]](平成15年)度に成田市を訪れた観光客数1,293万人。そのうちの約9割が成田山新勝寺や宗吾霊堂などの社寺参拝客、催物観光客であり、その他はゴルフ客などによるものである。[[2007年]](平成19年)3月15日、市内の観光名所を巡る観光循環バスが運行を開始した。[[#路線バス]]参照。
'''主な入込数と千葉県内順位'''(2007年度<ref group="統計">平成19年 観光入込調査概要 千葉県商工労働部観光課</ref>)
* 成田山新勝寺 1,083万人(県内第2位)
* 宗吾霊堂 110万人(県内第9位)
* ゴルフ場(11施設) 43万人 ゴルフ場入込数(県内第4位)
=== 日本遺産 ===
'''北総四都市江戸紀行'''[[ファイル:Narita-yakushidoumae.jpg|thumb|220px|成田山新勝寺の表参道]]江戸を感じる北総の町並み([[佐倉市|佐倉]]・成田・[[佐原の町並み|佐原]]・[[銚子市|銚子]]):百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群。ただ、江戸を感じるといいながら、江戸らしいものは全くなく、江戸時代の建物は参道には1軒存在しないなど、想像上のイメージで、誇大表現であるとの批判も多い。
* 成田山門前の町並み - [[全国門前町サミット]]参加団体。
** [[成田山新勝寺]] - 房総の魅力500選<ref name="chibanippo1991430">{{Cite news|title=房総の魅力五百選 初夏の旅 成田山新勝寺(成田市) 裏手の公園で文学散歩|newspaper=千葉日報|page=14|publisher=千葉日報社|date=1991-04-30}}</ref>。[[940年]](天慶3年)、[[宇多天皇]]の孫にあたる寛朝(かんじょう)大僧正により開山され、以来一千年余の歴史を持つ全国有数の霊場。[[真言宗]]智山派の大本山。また、[[関東三大不動]]の一つ。[[ミシュラン]]が発行する旅行ガイドの[[ミシュラン・グリーンガイド]]・ジャポン2015年改訂版に2つ星で掲載されている<ref>{{Cite web|和書|title=千葉県内初!「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」に成田山新勝寺が掲載されました|url=https://www.city.narita.chiba.jp/kanko/page151400.html|website=成田市|accessdate=2019-06-28|language=ja|last=成田市}}</ref>。23万平方メートルの広大な境内には額堂、光明堂、釈迦堂、仁王門、三重塔(すべて重要文化財)が点在する。
** [[大野屋旅館]]
** [[三橋薬局店舗]]
** 成田の商業用具店など
* [[東勝寺 (成田市)|宗吾霊堂]](東勝寺) - 房総の魅力500選。「宗吾霊堂」として名高い東勝寺は、真言宗豊山派の古寺。義民[[佐倉惣五郎]](佐倉宗吾)一家の菩提寺であり、宗吾一家が磔刑にされた場所といわれている。桜の名所としても有名。また、女子マラソンの[[高橋尚子]]選手が宗吾霊堂のお守りを付けて[[シドニーオリンピック]]金メダルを取ったことでも有名。
* [[成田祇園祭]](後述)
<gallery widths="200">
ファイル:Narita-san temple by ostolob 01.JPG|成田山新勝寺(総門)
ファイル:Fujikura Shoten (Narita).jpg|藤倉商店(商業用具店)
ファイル:Ichiryugan Mitsuhashi Yakkyoku Tenpo.jpg|三橋薬局店舗
</gallery>
=== 名所・旧跡 ===
[[ファイル:KyuMikogamikeJuutaku20100718.jpg|サムネイル|旧御子神家住宅]]
* [[大須賀大神]]
* [[小御門神社]] - 房総の魅力500選。旧別格官幣社小御門神社は、後醍醐天皇の忠臣贈太政大臣藤原師賢公を祀っている。「回復の神」「身代わりの神」として、世人の篤い崇敬を受けている。境内の森は県内最大規模の常緑針葉樹林で、[[千葉県指定文化財一覧#天然記念物|千葉県指定天然記念物]]に指定されている。
* [[東峰神社]]
* [[二宮神社 (成田市)|二宮神社]]
* [[八幡神社 (成田市芦戸)|八幡神社]]
* [[埴生神社 (成田市)|埴生神社]]
* [[麻賀多神社]] - 房総の魅力500選。印旛郡市内にある麻賀多神社十八社の惣社。古書の「[[延喜式]]」(平安時代)の全国各地の神社名を記載した「神名」という項目があり、[[香取神宮]]などに次いで4番目に記載されている歴史的にも由緒ある神社。神社本殿の左奥には樹齢千二百年という目通り幹廻り8メートル、高さ40メートルもある関東一の大杉がある。
* [[純心寺]]
* [[大慈恩寺 (成田市)|大慈恩寺]] - 房総の魅力500選。[[761年]]([[天平宝字]]5年)唐の鑑真大和尚が創建したとされる真言宗の寺<ref name="chibanippo200415">{{Cite news|title=北総の名刹巡礼 15 大慈恩寺(大栄町) 真言律の高僧招き開山|newspaper=千葉日報|page=15|publisher=千葉日報社|date=2004-01-05}}</ref>。成田山新勝寺よりも80年早く、この地方では、印旛郡栄町の竜角寺と並んで最も古い寺院とされている。本尊には清涼寺様式の釈迦如来実像が安置されており、歴史の深い事から天皇家との関わりもあり、[[香取神宮]]に参詣する天皇の勅使だけが使用した勅使門や、数多くの歴史的資料が残されている。周囲の[[モミ]]の自生林は<ref name="asahi19911018">{{Cite news|title=大慈恩寺 古刹 こもれ日に輝く菊花紋 見事なモミ自生林|newspaper=朝日新聞|page=26|publisher=朝日新聞社|date=1991-10-18}}</ref>千葉県郷土環境保全地区となっている<ref name="asahi1995519">{{Cite news|title=自然 大慈恩寺の森 数少ない環境保全地域|newspaper=朝日新聞|page=28|publisher=朝日新聞社|date=1995-05-19}}</ref>。
* [[龍正院]](滑河観音) - 房総の魅力500選。坂東三十三ヵ所観音霊場の第二十八番札所で、通称滑河観音と呼ばれている。国の重要文化財・仁王門をくぐると右手に夫婦松がある。1698年(元禄11年)建立の本堂は入母屋造の五間堂。本尊は高さ約3.6センチメートルの十一面観音で、後に造られた大観音像の胎内に納められている。延命、安産子育、災難消除の守り本尊として参拝者が跡をたたない。また、本堂は県有形文化財。
* [[ワットパクナム日本別院]] - [[タイの仏教]]の寺院。
* [[長沼城 (下総国)|長沼城]]跡
* [[名古屋城 (下総国)|名古屋城]]跡
* [[荒海貝塚]]
* [[公津原古墳群]]
** [[船塚古墳 (成田市)|船塚古墳]]
* [[千葉県立房総のむら]]内
** [[旧学習院初等科正堂]]
** [[旧御子神家住宅]]
<gallery widths="200">
ファイル:Komikadojinjya-honden-Narita.Nagoya.jpg|[[小御門神社]]
ファイル:Habu-jinja-01.Narita.Japan.jpg|[[埴生神社 (成田市)|埴生神社]]
ファイル:Makata-jinjya-honden.jpg|[[麻賀多神社]]
ファイル:Ryushoin-Narita-Namegawa.jpg|[[龍正院]](滑河観音)
</gallery>
[[ファイル:成田ゆめ牧場.jpg|代替文=|サムネイル|成田ゆめ牧場]]
'''その他の観光スポット'''
* [[印旛沼|北印旛沼]]・甚兵衛渡し - 房総の魅力500選。直訴へと向かう惣五郎が通った「渡し」の跡。渡しの名は、禁を破って惣五郎を対岸に送り届け、捕われるよりと沼に身を投じたとされる仁陜の渡し守甚兵衛に由来する。現在では県立印旛手賀沼自然公園の一部となり、[[コイ]]や[[フナ]]、タナゴや[[ブラックバス]]など、釣りのメッカとしても有名。また、甚兵衛の森公園には、樹齢300年を越える松林があり、1983年5月には「[[日本の名松百選]]」に選定されている。
* [[成田ゆめ牧場]] - [[1987年]](昭和62年)に秋葉牧場の百周年を記念して開場した。[[ヒツジ]]や[[ヤギ]]など色々な動物と触れ合いが出来る、自然を生かした体験型観光牧場。[[キャンプ]]場併設。また、乳製品の販売も行っている。[[全国穴掘り大会]]や園内のお花畑内をアトラクションとしてトロッコ列車が運行している。
* [[成田市公設地方卸売市場]] - 1974年、開場。青果、水産物、各種食材、花などを取り扱う[[卸売市場]]。一般の見学、買い出しも可能。早朝から、新鮮な寿司、海鮮丼などを食べることができる。
'''公園・庭園'''
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |
*総合公園
** 坂田ヶ池総合公園(大竹)
* 運動公園
** 大谷津運動公園(押畑)
** 中台運動公園(中台)
** 下総運動公園(高岡)
* 近隣公園
** 栗山公園(花崎町)[[蒸気機関車]]の[[国鉄D51形蒸気機関車|D51]]やミニSLなどがある。
** 三里塚第1公園(三里塚)
** 神宮寺公園 (玉造)
** 戸崎公園(玉造)
** 加良部台公園(加良部)
** 橋賀台公園(橋賀台)
** 引地公園(吾妻)
** 松ノ下公園 (中台)
** 後谷津公園(中台)
** 浅間公園(郷部)
** 公津の杜公園(公津の杜)
** グリーンウォーターパーク(多良貝)
| valign="top" |
*地区公園
** 三里塚記念公園(三里塚御料)
** 赤坂公園(赤坂)
** 外小代公園(玉造) 市民の森
** 長沼市民の森
** 成毛市民の森
* 空港公園
** [[成田市さくらの山]] - A滑走路での飛行機の離着陸が見える丘 -([[駒井野]])
** [[十余三東雲の丘]] - B滑走路での飛行機の離着陸が見える丘 -([[十余三]])
** [[成田国際空港 (企業)|成田国際空港株式会社 (NAA)]] [[三里塚さくらの丘]]
** 長田地区里山遊歩道
*庭園
**成田山公園 - 成田山の大本堂裏手の丘地に広がる165,000平方メートルの庭園。1928年(昭和3年)竣工。1998年(平成10年)成田山開基1060年の記念事業として大改修を行った。園内中央にある一の池、二の池、三の池などの周辺には桜、梅、紅葉など、四季を通じて園内を艶やかに彩る。また、紅梅・白梅など約500本が植わり、梅の名所としても有名。2月上旬 - 3月上旬の開花期には、「梅祭り」が行われる。
|}
<br /><gallery widths="200">
ファイル:Namegawa - panoramio.jpg|下総運動公園
ファイル:RyuchinoIke20100718.jpg|成田山公園(竜智の池)
ファイル:Sakuranoyama Park.JPG|[[成田市さくらの山]]
ファイル:SakuraNoOkaEnt.jpg|[[三里塚さくらの丘]]
</gallery>
[[ファイル:NaritasanShodoBijutsukan20131012.jpg|サムネイル|成田山書道美術館]]
'''博物館'''
* [[千葉県立房総のむら]] - 成田市・印旛郡栄町にまたがる。房総の魅力500選。豊かな自然環境に囲まれた県立の大史跡公園。歴史情緒ある町並みから、映画やドラマのロケ地としても利用されている。
* [[宮内庁下総御料牧場|三里塚御料牧場記念館]] - 房総の魅力500選。1969年(昭和44年)8月18日、成田空港建設計画に伴い「[[宮内庁下総御料牧場]]」が栃木県に移転。「三里塚御料牧場記念館」は、その跡地におよそ百年間にも及ぶ宮廷牧場としての歴史、皇室と御料牧場などの多数の資料や、日本の畜産振興の実績などの記録を残す為三里塚記念公園内に建てられた。記念館外観は、当時の御料牧場の事務所を復元したもの。3万平方メートルの敷地にはマロニエ並木道や三里塚にゆかりのある水野葉舟、[[高村光太郎]]の文学碑や、日本獣医学発祥の地であり、獣医学実地教育創始記念碑等がある。
*宗吾御一代記館 - 宗吾霊堂内。
* [[下総歴史民俗博物館]] - [[1995年]](平成7年)、旧下総町制施行40周年を記念して下総総合運動公園内に建設された。[[1972年]](昭和47年)、猿山地区の砂採り場で発見された[[ナウマンゾウ]]の頭骨化石(レプリカ、発掘された化石は[[国立科学博物館]]収蔵。)や町内の古墳から発見された遺物、文化財、民俗資料などが多数展示されている。
* [[日本近代文学館]] 成田分館 - 日本近代文学館開館40周年記念事業として、成田市[[駒井野]]に[[2007年]](平成19年)9月15日開館。成田市[[駒井野]]は、詩人[[水野葉舟]]がかつて移住し田園生活を送った駒井野小字大水野に隣接する地域。
* 成田山書道美術館 - 成田山公園内の一角に建つ書の総合専門美術館。面積3,900平方メートルの館内には近代書道の名作の数々が展示され、作品の保存、研究、普及活動としての役割も果たしている。
* 成田霊光館 - 成田山大塔の裏手にあり1946年(昭和21年)に創立された博物館。主に成田山に関する資料を展示している。成田山の創建と隆興、成田もうでと門前町、成田山と市川団十郎、ゆかりの美術品など5つのコーナーに分けられ、豊富な資料と共に成田山のすべてがわかる。
* 成田観光館 - 成田の歴史、観光情報を紹介する“見て聴くおもしろ観光情報館”として1988年(昭和63年)にオープンした。館内には、毎年7月の祇園祭で引き回される2基の[[山車]]が展示されており、また、「成田詣」の今昔や成田街道の今昔を、紹介、展示。その他成田山新勝寺の観光一般の紹介や案内がある。
* [[成田羊羹資料館]] - 新勝寺参道沿いの[[米屋 (和菓子製造)|米屋]]総本店敷地内にある[[企業博物館]]。
<gallery widths="200">
ファイル:下総歴史民族資料館 - panoramio.jpg|下総歴史民族資料館
ファイル:Toshoji-temple sogo-goitidaikikan,narita-city,japan.JPG|宗吾御一代記館(宗吾霊堂内)
ファイル:Nihonkindaibungakukan-Naritabunkan.jpg|日本近代文学館成田分館
ファイル:Narita-yokan-museum,Narita-city,Japan.JPG|成田羊羹資料館
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=== 名産品 ===
[[ファイル:Yoneya-sohonten,Narita-city,Japan.JPG|サムネイル|米屋総本店]]
* [[和菓子]]、[[羊羹]] - 明治15年、成田山新勝寺の精進料理の一つとして出されていた栗かんからヒントを得て、練り羊羹が考案され参詣客への土産物として売り出したところ大ヒット。現在までに品質改良を重ね、現在では多種多様な物が売り出されている。また、[[饅頭|まんじゅう]]や餅菓子等の和菓子が加わり、成田山の名物となっている。([[米屋]]、米分、柳屋など)
* [[漬物]] - 「[[ウリ|瓜]]の鉄砲漬」が代表的。瓜を鉄砲のようにくりぬいて、その中に[[シソ]]の葉を巻いた青[[唐辛子]]を詰め、[[醤油]]、[[みりん]]などの調味料で漬け込んだもの。
* [[酒]] - 千葉産の米と成田層から汲み上げる清冽な[[地下水]]を使用し仕込まれた酒は、酒通の間でも知られている。(鍋店、滝沢本店など)
* [[佃煮]] - 成田の佃煮は、明治20年頃、印旛沼で取れた[[ハゼ]]と小エビを加工する事で開始されたと言われている。印旛沼の[[フナ]]、[[ワカサギ]]などの[[甘露煮]]、スズメ焼きなどが有名。
* [[レンコン]] - 旧下総町の特産品で、国の[[減反政策]]がきっかけで栽培が始まった。現在ではハウス栽培、二年掘り、筋掘りなど多彩な栽培方法を組み合わせも、一年中市場へ出荷されており、その販売戦略などが高く評価され、平成12年、日本農業賞大賞(集団組織の部)を受賞している。
* ベニアズマ - 旧大栄町の特産品で、[[サツマイモ]]は祖生産額・作付面積と共に全国トップクラスで生産量は千葉県内第1位。その品質と味の良さについては最上級といわれ、東京市場に出荷されている。この様な中、新たなブランド品として「大栄愛娘(たいえいまなむすめ)」を作り、生産者が協定を結び、苗から出荷まで高品質に拘ったサツマイモを生産している。
* [[成富うどん]](ご当地うどん)
=== 祭事・催事 ===
[[ファイル:Narita-gion-festival-1,Narita-city,Japan.jpg|サムネイル|[[成田祇園祭]]]]
{{表2列|春 3・4・5月
* おどり花見 4月3日
* 取香の三番叟 4月3日
* 北羽鳥の獅子舞 4月の第1日曜日
* 成田太鼓祭 4月第3土・日曜日
* 大塔まつり(総踊り) 5月中旬
* 奉納梅若 成田山薪能 5月第3日曜日の前日
夏 6・7・8月
* 青葉まつり 6月上旬 - 中旬
* [[成田祇園祭]] 7月7日に近い金・土・日曜日
* 三ノ宮神社([[埴生神社 (成田市)|埴生神社]])祭礼 7月17日
* 麻賀多神社祭礼 7月31日
* 慰霊流燈大法会 8月上旬
* 成田ふるさとまつり 8月下旬
* 成田山みまた祭 8月23日24日|秋 9・10・11月
* 御待夜祭 9月2日 - 3日
* 成田山菊花大会 10月中旬 - 11月中旬
* 御利生祭 〜成田弦まつり〜 10月中旬
* 産業まつり 11月下旬
* [[NARITA花火大会in印旛沼]] 10月中旬
冬 12・1・2月
* 納め不動 12月28日
* 初詣 1月1日
* 節分会 2月3日
* 梅まつり 2月中旬 - 3月中旬}}
=== 文化財 ===
* 市内の'''[[重要文化財]]'''(国指定)一覧
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="background-color: white"
|-
!番号
!種別
!名称
!所在地
!所有者又は管理者
!指定年月日
!備考
|-
|1
|建造物
|龍正院仁王門
|滑川1093-1
|[[龍正院]]
|大正5年5月24日
|[[室町時代]]
|-
|2
|〃
|[[旧御子神家住宅]]
|[[大竹 (成田市)|大竹]]1451
|千葉県
|昭和44年6月20日
|房総風土記の丘へ移築復元、[[安永]]8年([[1779年]])建立
|-
|3
|〃
|[[旧学習院初等科正堂]]
|[[大竹 (成田市)|大竹]]1451
|千葉県
|昭和48年6月2日
|房総風土記の丘へ移築復元、[[明治]]32年([[1899年]])建立
|-
|4
|〃
|[[新勝寺]]
* 光明堂
* 釈迦堂
* [[三重塔]]
* 仁王門
* 額堂
|成田1
|新勝寺
|昭和55年5月31日
|
* 光明堂 [[元禄]]14年([[1701年]])建立
* 釈迦堂 [[安政]]5年([[1858年]])建立
* 三重塔 [[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])建立
* 仁王門 [[文政]]13年([[1830年]])建立
* 額堂 [[文久]]元年([[1861年]])建立
|-
|5
|彫刻
|木造[[不動明王]]及二童子像
|成田1
|新勝寺
|昭和39年5月28日
|新勝寺の本尊
|-
|6
|書跡
|住吉物語
|田町312
|[[成田山新勝寺|成田山]]仏教図書館
|昭和43年4月25日
|[[鎌倉時代]]中期の[[擬古物語]]
|-
|7
|考古資料
|南羽鳥中岫第1遺跡土壙出土遺物
|栄町(千葉県立房総のむら、風土記の丘資料館にて展示)
|成田市
|平成15年5月29日
|人頭形土製品をはじめ[[縄文時代]]前期の[[土器]]・耳飾り・垂飾品など
|-
|}
*市内の'''[[登録有形文化財]]'''一覧
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="background-color: white"
|-
!番号
!種別
!名称
!所在地
!所有者又は管理者
!登録年月日
!登録番号
!備考
|-
|1
|建造物
|長興院山門
|伊能556
|長興院
|平成11年7月8日
|第12-0015号
|江戸時代末期
|-
|2
|〃
|石橋家住宅門
|久井崎
|個人
|平成11年7月8日
|第12-0016号
|明治時代 木造平屋建
|-
|3
|〃
|石橋家住宅南の蔵
|〃
|〃
|〃
|第12-0017号
|明治時代 土蔵造平屋建
|-
|4
|〃
|石橋家住宅東の蔵
|〃
|〃
|〃
|第12-0018号
|明治時代 土蔵造平屋建
|-
|5
|〃
|石橋家住宅土蔵
|〃
|〃
|〃
|第12-0019号
|明治時代 土蔵造平屋建
|-
|6
|〃
|大野屋旅館
|仲町368
|個人
|平成17年2月9日
|第12-0062号
|昭和10年竣工 木造3階建 望楼付
|-
|7
|〃
|一粒丸三橋薬局店舗
|仲町363
|個人
|平成22年1月15日
|第12-0139号
|明治前期 土蔵造2階建 瓦葺
|-
|8
|〃
|一粒丸三橋薬局土蔵
|〃
|〃
|〃
|第12-0140号
|明治前期 土蔵造2階建 瓦葺
|-
|}
* 市内の'''[[史跡]][[名勝]][[天然記念物]]'''一覧
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="background-color: white"
|-
!番号
!種別
!名称
!所在地
!所有者又は管理者
!指定年月日
!備考
|-
|1
|史跡
|龍角寺古墳群・岩屋古墳※
|栄町[[龍角寺 (栄町)|龍角寺]]字台内86-8ほか成田市[[大竹 (成田市)|大竹]]字申内1451-6ほか
|財務省、千葉県、印旛郡栄町、成田市及び個人
|昭和16年1月17日 <small>追加指定平成21年2月12日</small>
| 指定面積が約44万5千平方メートルと県内で最も広い面積の国史跡である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/press/kako/20081114.html |title=国史跡の追加指定及び名称変更について |work=千葉県教育委員会 |publisher=千葉県 |date=2010-12-21 |accessdate=2016-09-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130623201935/http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/press/kako/20081114.html |archivedate=2013-06-23}}</ref> <small>※岩屋古墳の所在地は栄町</small>
|-
|}
* 千葉県指定文化財は[[千葉県指定文化財一覧]]、成田市指定文化財は[[成田市指定文化財一覧]]を参照。
== 成田市出身の人物 ==
{{Div col|2}}
* [[佐倉惣五郎]](義民)
* [[鈴木雅之 (国学者)|鈴木雅之]]([[国学者]])
* [[神山魚貫]](歌人)
* [[三橋鷹女]](俳人<ref name="chibanippo199846">{{Cite news|title=三橋鷹女をしのび有志ら 像建立で寄付呼び掛け 成田市出身の女流俳人|newspaper=千葉日報|page=14|publisher=千葉日報社|date=1998-04-06}}</ref><ref name="chibanippo1998511">{{Cite news|title=俳人・三橋鷹女の像建立へ 地元住民が募金活動 本年度完成目指す|newspaper=千葉日報|page=14|publisher=千葉日報社|date=1998-05-11}}</ref>)
* [[伊藤公平]]([[歌人]]、[[随筆家]]、[[小説家]]、[[作詞家]])
* [[浜野弥四郎]]([[台湾総督府]]技師・台湾の水道建設に尽力)
* [[石橋謹二]]([[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、千葉県多額納税者、資産家、農業、大地主、佐原興業銀行頭取)
* [[柏原文太郎]]([[衆議院議員]])
* [[小川国彦]](政治家。[[衆議院]]議員<ref name="yomiuri1992119">{{Cite news|title=病気回復の小川代議士政界復帰を宣言 成田の新春の集いで|newspaper=読売新聞|page=26|publisher=読売新聞社|date=1992-01-19}}</ref>、市長を歴任<ref name="chibanippo20042104">{{Cite news|title=政治と私生活語る 元成田市長が回想録出版|newspaper=千葉日報|page=14|publisher=千葉日報社|date=2004-10-04}}</ref>。)
* [[東條有伸]](医学者)
* [[戸村一作]](三里塚闘争指導者)
* [[牧野佐二郎]](生物学者)
* [[篠崎輝夫]](洋画家)
* [[田中重雄]](映画監督、演出家)
* [[Yuki Saito]](映像ディレクター)
* [[圓城寺次郎]](記者、元[[日本経済新聞社]]社長)
* [[国本武春]]([[浪曲|浪曲師]])
* [[石原照夫]](元[[プロ野球選手]])
* [[有賀さやか]](女優)
* [[稲葉義男]]([[俳優]])
* [[深瀬なな]]([[グラビアアイドル]])
* [[ゆうたろう (ものまねタレント)|ゆうたろう]]([[石原裕次郎]]の真似で知られる物まねタレント)
* [[ランパンプス#メンバー|寺内ゆうき]]([[お笑いタレント|お笑い芸人]]・[[ランパンプス]])
* [[加瀬あつし]]([[漫画家]])
* [[岩舘学]](元プロ野球選手)
* [[シムラユウスケ]](現代アーティスト[[芸術家]])
* [[島崎毅]](元プロ野球選手、プロ野球投手コーチ)
* [[井川祐輔]]([[サッカー選手]]・[[川崎フロンターレ]])
* [[船山貴之]](サッカー選手・[[ジェフユナイテッド市原・千葉]])
* [[船山祐二]](サッカー選手・[[東京ヴェルディ]])
* [[唐川侑己]](プロ野球選手・[[千葉ロッテマリーンズ]])
* [[内山慶太郎]](元フットサル選手、フットサル指導者)
* [[田中智美]]([[陸上競技選手]])
* [[橋本大輝 (体操選手)|橋本大輝]](体操選手)
* [[渡邉勇人]](柔道選手)
* [[並木月海]] (アマチュアボクサー)
* [[大野恵]]([[北海道テレビ放送]][[アナウンサー]])
* [[永山美穂]]([[フリーアナウンサー]])
* [[堀越純子]] ([[北陸放送]][[アナウンサー]])
* [[藤井浩二]](鉄道愛好家、京成電鉄OB)
* [[小坂由里子]]([[ナレーター]])
{{Div col end}}
== 成田市ゆかりの人物 ==
=== 成田ゆかりの人物 ===
{{Div col|2}}
* [[大須賀政常]](下総国松子城城主)
* [[小野忠明]](剣術家。成田市の永興寺に葬られる。)
* [[二宮尊徳]](農政家、思想家。成田山で開眼、[[報徳思想]]の原理を提唱。)
* [[大原幽学]](農政家。[[先祖株組合]](農業協同組合の前身)を作る。)
* [[市川團十郎]]([[歌舞伎]]役者。成田山に深く信仰。地方文化の向上に貢献する。)
* [[福澤諭吉]](思想家。[[長沼事件]]に尽力。)
* [[中山義秀]](小説家。大正15年、成田中学(現・成田高校)に英語教諭に赴任する<ref name="chibanippo19931119">{{Cite news|title=ご存じですか 中山義秀|newspaper=千葉日報|page=15|publisher=千葉日報社|date=1993-11-19}}</ref><ref name="chibanippo1994523">{{Cite news|title=師弟のきずなは固く 中山義秀の資料寄贈 長谷川市長ら郷里へ 旧制成田中学教諭時代|newspaper=千葉日報|page=14|publisher=千葉日報社|date=1994-05-23}}</ref>。)
* [[木村荘太]](小説家、評論家。大正12年に遠山村(現・成田市)久米に移住する<ref name="chibanippo199458">{{Cite news|title=ご存じですか 木村荘太 木村正辞|newspaper=千葉日報|page=15|publisher=千葉日報社|date=1994-05-08}}</ref><ref name="asahi1994923">{{Cite news|title=散歩道 三里塚周辺 晴耕雨読楽しんだ2人の作家|newspaper=朝日新聞|page=34|publisher=朝日新聞社|date=1994-09-23}}</ref>。)
* [[水野葉舟]](文芸作家。大正13年に遠山村〈現・成田市〉駒井野小字大水野に移住する<ref name="asahi1994923" /><ref name="chibanippo201063">{{Cite news|title=房総の作家 水野葉舟3 駒井野に移り住む|newspaper=千葉日報|page=8|publisher=千葉日報社|date=2010-06-03}}</ref><ref name="chibanippo1994216">{{Cite news|title=ご存じですか 水野葉舟|newspaper=千葉日報|page=15|publisher=千葉日報社|date=1994-02-16}}</ref>。)
* [[下河辺孫一]]([[下河辺牧場]]の創業者。)
* [[伊藤音次郎]](飛行家。日本における民間航空界のパイオニア。終戦後、成田の恵美農場で開墾に従事。)
* [[鈴木貞一]](元[[軍人]]、[[陸軍]][[中将]]。晩年を成田で過ごす。)
* [[鈴木三重吉]](児童文学者。明治41年10月から2年8カ月にわたって旧制成田中学校の教頭を務める<ref name="chibanippo1993111">{{Cite news|title=ご存じですか 鈴木三重吉|newspaper=千葉日報|page=15|publisher=千葉日報社|date=1993-11-01}}</ref>。[[1994年]](平成6年)[[6月26日]]に文学碑が成田市に建立<ref name="chibanippo199478">{{Cite news|title=鈴木三重吉文学碑が完成 「赤い鳥」創刊主宰、児童文学に足跡|newspaper=千葉日報|page=8|publisher=千葉日報社|date=1994-07-08}}</ref>。)
* [[河内良弘]](歴史学者。昭和25年、成田町立成田中学校に赴任する。)
* [[海老原亘]](陸上競技選手。市内の市立中学校に勤務。)
* [[中嶋常幸]]([[ゴルフ|プロゴルファー]]。成田市在住。)
* [[中村中]]([[シンガーソングライター]])
* [[北藤勇]](火山追跡者、[[ビデオジャーナリスト]]。成田市在住。)
{{Div col end}}
=== 三里塚ゆかりの人物 ===
{{Div col|2}}
<!-- 関わりが確認できないか、希薄(御料牧場に訪れた記録があるだけ?)な人物が多数含まれており(コメントアウトする)、三里塚を別記する必要についても疑問。 -->
* [[高村光太郎]](詩人、彫刻家、画家<ref name="chibanippo201071">{{Cite news|title=房総の作家 水野葉舟5 高村光太郎の訪問|newspaper=千葉日報|page=13|publisher=千葉日報社|date=2010-07-01}}</ref>)
<!--
* [[柳田國男]](民俗学者<ref name="chibanippo2010520">{{Cite news|title=房総の作家 水野葉舟2 柳田に遠野を紹介|newspaper=千葉日報|page=13|publisher=千葉日報社|date=2010-05-20}}</ref>)
* [[金田一京助]](言語学者、民俗学者)
* [[野尻抱影]](随筆家、天文研究家)
* [[折口信夫]](民俗学者、国文学者)
* [[窪田空穂]](歌人、国文学者)
* [[前田夕暮]](歌人)
-->
* [[前田俊彦]](旧・[[延永村]]村長、[[どぶろく裁判]]被告人<ref name="asahi1993417">{{Cite news|title=「ドブロク裁判」元被告の著述家 前田さん、自宅で焼死|newspaper=朝日新聞|page=31|publisher=朝日新聞社|date=1993-04-17}}</ref><ref name="chibanippo1994418">{{Cite news|title=前田俊彦さん1周忌 成田闘争などで活躍|newspaper=千葉日報|page=19|publisher=千葉日報社|date=1994-04-18}}</ref>)
<!-- * [[水町京子]](歌人) -->
* [[岩山敬義]]([[宮内庁下総御料牧場]]初代場長、日本牧羊の父<ref name="newlifechiba19693">{{Cite journal|和書|date=1969-03|title=房総風土記 歴史をとじる駒の三里塚 下総御料牧場|journal=ニューライフちば|issue=72|pages=18-19|publisher=千葉県広報協会}}</ref>)
* [[新山荘輔]](宮内庁下総御料牧場5代目場長、日本[[獣医学]]の父)
{{Div col end}}
== 名誉市民・市民栄誉賞 ==
=== 名誉市民 ===
対象者は以下のとおり<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://www.city.narita.chiba.jp/environment/page006100_00004.html|title=『成田市名誉市民』|publisher=成田市|accessdate=2022-09-01}}</ref>。
* 荒木照定 [[1954年]](昭和29年)[[5月20日]] 成田山新勝寺中興第18世貫主
* 諸岡長藏 [[1964年]](昭和39年)[[5月5日]] (株)米屋本店創業者
* [[藤倉武男]] [[1971年]](昭和46年)[[4月28日]] 第2代市長
* [[長谷川録太郎]] [[1996年]](平成8年)[[3月6日]] 第3代市長
=== 市民栄誉賞 ===
対象者は以下のとおり<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://www.city.narita.chiba.jp/environment/page006100_00003.html|title=『成田市市民栄誉賞』|publisher=成田市|accessdate=2022-09-01}}</ref>。
* [[市川團十郎 (12代目)]] [[2004年]](平成16年)[[11月13日]] [[歌舞伎|歌舞伎役者]]
* [[室伏広治]] 2004年(平成16年)11月13日 [[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]] 男子[[ハンマー投]]金メダリスト
* [[橋本大輝 (体操選手)|橋本大輝]] [[2021年]](令和3年)[[9月8日]] [[東京オリンピック (2020年)|東京オリンピック]] 男子[[体操競技|体操]]個人総合・鉄棒金メダリスト
* [[並木月海]] 2021年(令和3年)[[10月25日]] [[東京オリンピック (2020年)|東京オリンピック]] 女子[[ボクシング]]銅メダリスト
== 成田市を舞台・ロケ地とした作品 ==
{{出典の明記|date=2016年8月|section=1}}
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |'''ドキュメンタリー'''
* NHK ある人生「三里塚四十年」(1969年)
* NHK特集「24時間定点ドキュメント 成田空港」(1979年)
* [[NNNドキュメント]]「機影の下の闘い 40年目の成田闘争」(2006年)
'''音楽'''
* NARITA(1979年 [[ライオット]](アメリカのハードロックバンド))
* [[北ウイング]](1984年 作詞:[[康珍化]] 作曲:[[林哲司]] 唄:[[中森明菜]])
* 成田エアポート(2010年 作詞:荒川利夫 作曲:山中博 編曲:伊戸のりお 唄:美咲じゅん子)
* NARITA発(2008年 作詞:福田一三 作曲:[[網倉一也]] 唄:[[チェウニ]])
| valign="top" |
'''ラジオドラマ'''
* [[ラッセ・ハルストレムがうまく言えない]]([[2004年]] - [[2005年]] [[全国FM放送協議会|JFN]]系)
'''漫画'''
* [[ゴッドハンド輝]](劇中ではT県竜宮市という名称)
* [[カメレオン (漫画)|カメレオン]]
'''テレビアニメ'''
* [[コードギアス 反逆のルルーシュ]]
|}
=== 成田市がロケ地である作品 ===
{| width="90%"
| valign="top" width="50%" |
'''映画・ドラマ'''
* おれの行く道(映画)(1975年 配給:[[松竹]] 主演:[[田中絹代]]、[[西城秀樹]]、[[河原崎長一郎]])
* [[青春の殺人者]](1976年 配給:[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]] 主演:[[水谷豊]])
* [[大空港 (テレビドラマ)]](1978 - 1980年 フジテレビ 主演:[[鶴田浩二]]、[[中村雅俊]])
* [[スチュワーデス物語]](1983 - 1984年 TBS系列 主演:[[堀ちえみ]])
* [[新空港物語]](1994年 テレビ朝日系列 主演:[[植木等]]、[[東幹久]])
* [[ストーカー・誘う女]](1997年 TBS系列 主演:[[陣内孝則]]、[[雛形あきこ]])
* [[仮面の女]](1998年 TBS系列 主演:雛形あきこ、[[石田純一]])
* [[シンデレラは眠らない]](2000年 日本テレビ系列 主演:[[原沙知絵]]、[[上川隆也]])
* [[T.R.Y.]](映画)(2003年 配給:[[東映]] 主演:[[織田裕二]]、[[黒木瞳]])
* [[GOOD LUCK!!]](2003年 TBS系列 主演:[[木村拓哉]]、[[堤真一]]、[[柴咲コウ]])
* [[ヤンキー母校に帰る]] 旅立ちの時 不良少年の夢(2005年 TBS系列 主演:[[櫻井翔]])
* [[あぽやん〜走る国際空港|あぽやん]](2013年 TBS系列 主演:[[伊藤淳史]]、[[桐谷美玲]])
| valign="top" |
* [[君が落とした青空#映画|君が落とした青空]](2022年2月18日公開、[[ハピネット|ハピネットファントム・スタジオ]]配給): 「もりんぴあこうづ」<ref name="CFC-kimiao">{{Cite web|和書|author= |url=https://fc.ccb.or.jp/movie/detail.html?CN=332033|title=支援作品紹介/君が落とした青空 |website= 千葉県フィルムコミッション|publisher=|date= |accessdate=2022-02-20}}</ref>
'''コマーシャルメッセージ(CM)'''
* 「ビールの先駆けを飲もう」キャンペーン(2007年:[[麒麟麦酒]]、旧学習院初等科正堂)
'''プロモーションビデオ(PV)'''
* [[ウルフルズ]] 情熱 A GO-GO(2007年) : 中台運動公園
* [[AKB48]] 言い訳Maybe(2009年) : 旧学習院初等科正堂
* [[奥華子]] 初恋(2010年) : 旧学習院初等科正堂
* AKB48 偶然の十字路(2011年) : 旧豊住中学校
* [[乃木坂46]] おいでシャンプー(2012年) : 旧学習院初等科正堂
* [[NMB48]] 奥歯(2013年) : 旧豊住中学校
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==== 統計資料 ====
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==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
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== 関連項目 ==
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* [[全国市町村一覧]]
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宇宙航空研究開発機構
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国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(うちゅうこうくうけんきゅうかいはつきこう、英: Japan Aerospace Exploration Agency、略称: JAXA)は、日本の航空宇宙開発政策を担う国立研究開発法人。本部は東京都調布市にある。
内閣府・総務省・文部科学省・経済産業省が共同して所管し、国立研究開発法人格の組織では最大規模である。
2003年10月1日付で日本の航空宇宙3機関、文部科学省宇宙科学研究所(ISAS)・独立行政法人航空宇宙技術研究所(NAL)・特殊法人宇宙開発事業団(NASDA)が統合されて発足した。
現在の法人設置における根拠法令になる国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構法4条によれば、本法人の目的は以下の通り。
「大学との共同等による宇宙科学に関する学術研究、宇宙科学技術(宇宙に関する科学技術をいう〔略〕)に関する基礎研究及び宇宙に関する基盤的研究開発並びに人工衛星等の開発、打上げ、追跡及び運用並びにこれらに関連する業務を、宇宙基本法第2条の宇宙の平和的利用に関する基本理念にのっとり、総合的かつ計画的に行うとともに、航空科学技術に関する基礎研究及び航空に関する基盤的研究開発並びにこれらに関連する業務を総合的に行うことにより、大学等における学術研究の発展、宇宙科学技術及び航空科学技術の水準の向上並びに宇宙の開発及び利用の促進を図ることを目的とする」
JAXAは、国の行政改革の一環としてのみならず、各宇宙機関の連携不足を解消して相次ぐ失敗により失われた日本の宇宙開発に対する信頼回復をするために発足した組織であるが、統合直後に臨んだ H-IIAロケット6号機(元は事業団が9月中に打ち上げる予定だった)は上昇途中にトラブルを起こし、地上からの指令で爆破される結果に終わった。さらに、宇宙科学研究所が打ち上げた火星探査機「のぞみ」を火星周回軌道に乗せることにも失敗し、発足後は試練の連続となった。
2005年(平成17年)2月26日にはH-IIAロケット7号機でひまわり6号の軌道投入に成功した。7月10日にはM-VロケットによるX線天文衛星すざくの打ち上げにも成功した。X線天文学は日本が世界をリードしている宇宙科学分野である。10月10日には小型超音速実験機NEXST-1による飛行実験に成功した。
2006年(平成18年)には1月から2月にかけての1か月以内に初めて連続3機のロケットを打ち上げた。このとき打ち上げた陸域観測衛星だいちは災害監視に活用され、赤外天文衛星あかりは宇宙科学の発展に貢献している。またひまわり7号は1990年(平成2年)の米国との衛星調達協定以降、初めて成功した国産商用衛星であった。同年には太陽観測衛星ひのでが打ち上げられ、翌2007年12月にはアメリカのサイエンス誌において、さまざまな新発見を掲載した『ひので特集号』が刊行された。
2007年(平成19年)9月に打ち上げたかぐやは、月面のHD画像を地球に送信するなどアポロ計画以来世界最大規模の月探査を成功させ、2009年2月にはこの成果をまとめたサイエンス誌『かぐや特別編集号』が刊行された。
前身のISASが2003年(平成15年)に打ち上げたはやぶさは2010年(平成22年)に地球に帰還し、小惑星からのサンプルリターンを世界で初めて成功させ、2008年7月と2011年8月にサイエンス誌で『はやぶさ特集号』が刊行された。また同2010年に打ち上げたIKAROSは宇宙空間での太陽帆航行を世界で初めて成功させた。世界初の成果を得た「はやぶさ」と「IKAROS」はギネスブックに登録された。
2008年(平成20年)からはきぼう宇宙実験棟の運用が始まり、2009年(平成21年)には H-IIBロケットの打ち上げと宇宙ステーション補給機による国際宇宙ステーションへの物資輸送を成功させたことで、80年代から続けられてきた日本の国際宇宙ステーション計画において大きな成果を収めた。またNASDA時代から引き続きスペースシャトルやソユーズを利用して有人宇宙飛行事業を実施している。
2013年(平成25年)、打ち上げシステムの革新により低コスト化を図った固体燃料ロケットのイプシロンロケット試験機の打ち上げに成功。2014年(平成26年)度からは次世代基幹ロケットのH3ロケットの開発も始まっており、次世代へのロケット技術の継承、発展が進められている。また、コスト削減や打ち上げの商業受注を目指して、2007年にH-IIAの、2013年にH-IIBの打ち上げ業務の大部分が三菱重工へ移管されており、2015年(平成27年)11月に日本初となる純粋な商業打ち上げとなるカナダの通信衛星の打ち上げを、H-IIAロケット高度化適用機体で成功させた。
2015年(平成27年)12月には、2010年(平成22年)5月に打ち上げたあかつきを金星の周回軌道に投入することに成功した。これは、日本初となる地球以外の惑星周回軌道への探査機投入成功であった。
2018年(平成30年)4月には、同年2月のTRICOM-1Rの軌道投入成功により、SS-520ロケットが実際に人工衛星を打ち上げた史上最小のロケットとしてギネス世界記録に認定された。
2019年(令和元年)12月には、超低高度衛星技術試験機のつばめが、地球観測衛星の軌道としてはもっとも低い高度167.4kmを飛行したとしてギネス世界記録に認定された。
2020年(令和2年)5月にH-IIBロケット9号機が打ち上げられ、同年8月に同機により打ち上げられたこうのとり9号機が大気圏に再突入し、H-IIBとHTVの計画をすべて成功させて運用終了した。また同年8月には、トヨタ自動車と開発していた有人月面車の名前をルナクルーザーに決定した。同年12月には2014年(平成26年)に打ち上げられたはやぶさ2の回収カプセルが地球に帰還した。
2021年(令和3年)4月に中国軍が関与していると見られるサイバー攻撃の被害を受けた。警視庁公安部は中国共産党の関係者を書類送検した。
ここでは、JAXAが開発した宇宙機の打ち上げ、もしくはJAXAの衛星打ち上げロケットによる打ち上げのみを列挙する。H-IIAロケットは13号機から、H-IIBロケットは4号機から打ち上げ業務のほとんどが三菱重工に移管されたが、打ち上げ安全管理業務はJAXAが責任を負う。
打ち上げが予定されているロケットと衛星・探査機。状況に合わせて順番などは変更されることがある。2022年(令和4年)12月23日に決定された宇宙基本計画工程表(令和4年度改訂)によると打ち上げスケジュールは次の通りである。
航空技術部門(旧・航空宇宙技術研究所)が保有する実験用航空機飛行システム分野における実証研究を飛躍させることと、先進的航空技術の発展に寄与することを目的に開発され、幅広い高度、速度や、いろいろな飛行特性に応じた飛行実証を行うことができるよう、ヘリコプター、プロペラ機、ジェット機の3機を保有している。
退役
1999年〜2013年に運用された実験用ヘリコプター。MuPAL-ε(ミューパル・イプシロン)の愛称が存在した。JA21ME。定置場所は調布航空宇宙センター。
1962年に航空技術研究所(航空宇宙技術研究所の前身)の実験用航空機として就役し、2011年に老朽化のため退役した。JA5111。定置場所は調布航空宇宙センター。
2007年に中古機(N67933)を導入し、DREAMS(次世代運行システム)プロジェクトの技術実証機として運用。プロジェクト終了にともない2015年に売却。JA36AK
2010年(平成22年)度の宇宙開発予算を先進国の宇宙機関同士で比較すると、アメリカ航空宇宙局(NASA)が約1兆7,597億円(さらに同規模の予算がアメリカ合衆国国防総省から支出、2009年度の宇宙開発予算総額は約4.6兆円)、欧州宇宙機関(ESA)が約5,018億円(2007年度の宇宙開発予算総額は約8,000億円)であるのに対し、JAXAの実質的な予算額はわずか1,800億円とNASAの10分の1程度である。
なお1,800億円という額は、内閣官房予算で開発される情報収集衛星(IGS)の毎年約400億円のJAXA分受託費用を除外した額であり、これを加えた場合のJAXAの予算は約2,200億円、他省庁の予算も含めた宇宙開発予算総額は3,390億円になる。
ロケットの開発費で比較すると、前任者から改良開発されたNASAのデルタIV の開発費は2,750億円、アトラスVの開発費は2,420億円であるのに対し、H-IIを技術的基盤に同じく改良開発されたH-IIAとH-IIBの開発費合計額は約1,802億円であり、2機種合わせても1,000億ほど安く開発されている。
さらに前身のNASDAを見ても、全段新規開発されたESAの主力ロケットのアリアン5シリーズの開発費約8,800億〜9,900億円に対し、同じく全段新規開発されたH-IIの開発費は2,700億円で3分の1以下である。
人員で比較するとアメリカの約4万3,500人(NASA約1万8,500人+アメリカ戦略軍約2万5,000人)、欧州の約1万195人(ESA約1,900人+CNES約2,400人+DLR約5,600人+ASI約250人+BNSC約45人)、インド宇宙研究機関の約1万3,600人に対して、JAXAはNASAの10分の1以下の1,571人である。なおJAXA発足以降、人員は漸減傾向にある。
以下の各部が管理業務を行い、各部門ごとに下部組織に分かれ各研究テーマや開発業務を行っている(2016年3月1日時点)。
電波通信施設を借り受け運用中。
2011年8月検出分
2011年8月11日にJAXA職員用パソコン1台が異常を検出、同月17日コンピューターウイルスに感染していることが判明した。その後、このウイルスを駆除しても異常が続いたため継続して調査したところ、別の新種のウイルスも情報を収集していたこと、7月6日から8月11日までに外部に情報を送信していたことが判明し、この事実を2012年1月13日に発表した。漏洩した可能性のある情報は「端末に保存されていたメールアドレス」、「宇宙ステーション補給機(HTV)の仕様や運用に関連する情報」、「当該端末からアクセスしたシステムへのログイン情報」である。感染経路は、2011年7月6日に職員宛に送られてきたメールの添付ファイルを、新種のウイルスが仕込まれた標的型攻撃メールと気付かずに職員が開けたことによるものであるとされた。この標的型攻撃メールは、職員の知人の送信者名で職員を飲み会へ誘う件名で送信されていた。
2012年3月27日に調査結果が発表され、「当該端末の中に入っていた情報および当該端末が業務中に表示した画面情報が漏洩したが、当該端末内に機微な情報が保存されていなかったこと、ならびに当該端末では当該期間中にHTVの仕様や運用に関する機微な情報が扱われていなかったこと」、「当該端末からアクセスしたシステムへのログイン情報が漏洩したが、当該端末内に機微な情報が保存されていなかったこと、ならびに当該端末では当該期間中にHTVの仕様や運用に関する機微な情報が扱われていなかったこと」、「メールアドレスの個々の漏洩は特定できなかったこと」が明らかにされた。
2012年11月検出分
2012年11月21日、社内ネットワークに接続された筑波宇宙センターの職員業務用パソコン1台でコンピューターウイルスを検知、28日にこのパソコンが「イプシロンロケットの仕様や運用に関わる情報」および「イプシロンロケット開発に関連するM-Vロケット、H-IIAロケットおよびH-IIBロケットの仕様や運用に関わる情報」などの情報を収集し、外部に送信していた可能性があることが判明し、この事実を同月30日に発表した。同30日は三菱重工も宇宙事業関連情報が新型ウイルスにより外部に流出していた可能性があることを発表した。
2013年2月19日に調査結果が発表された。情報流出の原因となったウイルスの感染経路は、東日本大震災の4日後の3月15日に送られてきた被災者への支援金給付の案内を装ったなりすましメールの添付ファイルを、それと気付かずに職員が開けたことにあった。感染した端末に保存されていた情報は2011年3月17日から2012年11月21日までの1年5か月間、外部に送信され続けていた。
2013年4月検出分
2013年4月18日にJAXAのサーバーの定期検査を行ったところ、4月17日深夜に何者かが筑波宇宙ステーションに勤務する職員のIDパスワードを使って不正にサーバに侵入していたことが判明した。また、これにより「国際宇宙ステーション日本実験棟「きぼう」の運用準備に使われる参考情報」、「「きぼう」運用関係者の複数のメーリングリスト」の情報が流出した可能性があることも判明し、JAXAはこの事実を同月23日発表した。その発表によると、不正なアクセスは日本と中国からされており、漏洩した可能性のある情報は、きぼうの作業手順書など18件と、JAXAや米航空宇宙局(NASA)の職員ら延べ約190人のメールアドレスリストだという。
JAXA発足以来、「空に挑み、宇宙を拓く」が使用されてきたが、2013年10月にJAXA発足10周年を記念して、新たに「Explore to Realize」と定められた。
JAXA が2004年(平成16年)末から2005年(平成17年)夏にかけて行った「JAXA宇宙の音楽募集キャンペーン」で募集した曲の中から審査員や一般投票による審査の結果、グランプリとなった E.Bakay / Vocal 河合夕子の『Radio Emission』がJAXAのイメージソングに採用された。また、他の最終審査会出場の作品とともに公開されている。
各省庁ごとに分かれている宇宙開発政策を統合して一元的な宇宙開発を推進することを目的として、2008年8月27日に宇宙基本法が施行され、内閣に日本の宇宙基本計画における最高戦略決定機関となる宇宙開発戦略本部が設置されている。本部長は内閣総理大臣、副本部長は内閣官房長官と宇宙政策担当大臣、本部員はすべての国務大臣が務め、日本の宇宙開発における基本方針となる宇宙基本計画を策定する。宇宙基本計画に付帯される宇宙基本計画工程表では、JAXAも含めた日本の宇宙機関が行う宇宙機の開発と打ち上げの今後の長期的なスケジュールが示される。事務機能は後述の内閣府の宇宙開発戦略推進事務局が行う。
2012年7月13日に、宇宙政策の立案と各省間の統合調整を行う宇宙審議官を長とした要員数約30人の宇宙戦略室が内閣府の下に発足した。各省やJAXAなどの官側の司令塔的存在となる宇宙戦略室は、宇宙開発に関する企画立案と各省の調整を行い、宇宙政策委員会に策定した宇宙開発計画を報告し、調査と審議を受けていた。宇宙戦略室長は内閣官房の宇宙戦略本部事務局の事務局長代理を兼ね、宇宙戦略室の一部の幹部は宇宙戦略本部事務局付の事務局員でもあった。2016年4月1日に、内閣官房のスリム化の一環として宇宙開発戦略本部事務局が廃止、内閣府の宇宙戦略室が宇宙開発戦略推進事務局に改組され、宇宙開発戦略本部の事務機能も受け継ぐことになった。準天頂衛星システムは内閣府が所管することから、宇宙開発戦略推進事務局内には準天頂衛星システム戦略室が設置されている。
2012年7月11日まで、JAXAは文部科学省に付随する審議会である宇宙開発委員会(最初は1968年に総理府に設置)により宇宙開発計画の審議と評価を、航空科学技術委員会により航空科学技術研究計画の審議と評価を受けていた。
2012年7月、宇宙戦略室の発足とともに文部科学省宇宙開発委員会が廃止され、宇宙開発戦略本部の本部長の内閣総理大臣の諮問を受けて宇宙開発計画の妥当性の審議や各省や宇宙機関への勧告を行う、7人以内の非常勤の有識者により構成される宇宙政策委員会と同委員会下の各部会も内閣府の下に発足した。
またJAXAを所掌する省庁別で見れば、宇宙開発委員会が廃止された文部科学省においては、科学技術・学術審議会の研究計画・評価分科会宇宙開発利用部会と航空科学技術委員会が本法人の研究開発に対する審議と評価を行うほか、2015年(平成27年)度以降はJAXAを所掌する総務・文部科学・経済産業の各省下に共通して設置された国立研究開発法人審議会の宇宙航空研究開発機構部会と、内閣府宇宙政策委員会の下に設置された国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構分科会も本法人全体の審議と評価を行う。JAXAはこれらの機関の指導・監督を受けて宇宙開発の実務にあたることになる。以下に2019年(平成31年)度の主な審議・評価機関を列挙する。
内閣府
文部科学省
総務・文部科学・経済産業省共通
条約・協定・法令・政令関係
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宇宙開発ポータル
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"text": "打ち上げが予定されているロケットと衛星・探査機。状況に合わせて順番などは変更されることがある。2022年(令和4年)12月23日に決定された宇宙基本計画工程表(令和4年度改訂)によると打ち上げスケジュールは次の通りである。",
"title": "宇宙機の打ち上げ"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "航空技術部門(旧・航空宇宙技術研究所)が保有する実験用航空機飛行システム分野における実証研究を飛躍させることと、先進的航空技術の発展に寄与することを目的に開発され、幅広い高度、速度や、いろいろな飛行特性に応じた飛行実証を行うことができるよう、ヘリコプター、プロペラ機、ジェット機の3機を保有している。",
"title": "宇宙機の打ち上げ"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "退役",
"title": "宇宙機の打ち上げ"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "1999年〜2013年に運用された実験用ヘリコプター。MuPAL-ε(ミューパル・イプシロン)の愛称が存在した。JA21ME。定置場所は調布航空宇宙センター。",
"title": "宇宙機の打ち上げ"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1962年に航空技術研究所(航空宇宙技術研究所の前身)の実験用航空機として就役し、2011年に老朽化のため退役した。JA5111。定置場所は調布航空宇宙センター。",
"title": "宇宙機の打ち上げ"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "2007年に中古機(N67933)を導入し、DREAMS(次世代運行システム)プロジェクトの技術実証機として運用。プロジェクト終了にともない2015年に売却。JA36AK",
"title": "宇宙機の打ち上げ"
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{
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"text": "",
"title": "宇宙機の打ち上げ"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "2010年(平成22年)度の宇宙開発予算を先進国の宇宙機関同士で比較すると、アメリカ航空宇宙局(NASA)が約1兆7,597億円(さらに同規模の予算がアメリカ合衆国国防総省から支出、2009年度の宇宙開発予算総額は約4.6兆円)、欧州宇宙機関(ESA)が約5,018億円(2007年度の宇宙開発予算総額は約8,000億円)であるのに対し、JAXAの実質的な予算額はわずか1,800億円とNASAの10分の1程度である。",
"title": "予算と人員規模"
},
{
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"text": "なお1,800億円という額は、内閣官房予算で開発される情報収集衛星(IGS)の毎年約400億円のJAXA分受託費用を除外した額であり、これを加えた場合のJAXAの予算は約2,200億円、他省庁の予算も含めた宇宙開発予算総額は3,390億円になる。",
"title": "予算と人員規模"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ロケットの開発費で比較すると、前任者から改良開発されたNASAのデルタIV の開発費は2,750億円、アトラスVの開発費は2,420億円であるのに対し、H-IIを技術的基盤に同じく改良開発されたH-IIAとH-IIBの開発費合計額は約1,802億円であり、2機種合わせても1,000億ほど安く開発されている。",
"title": "予算と人員規模"
},
{
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"text": "さらに前身のNASDAを見ても、全段新規開発されたESAの主力ロケットのアリアン5シリーズの開発費約8,800億〜9,900億円に対し、同じく全段新規開発されたH-IIの開発費は2,700億円で3分の1以下である。",
"title": "予算と人員規模"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "人員で比較するとアメリカの約4万3,500人(NASA約1万8,500人+アメリカ戦略軍約2万5,000人)、欧州の約1万195人(ESA約1,900人+CNES約2,400人+DLR約5,600人+ASI約250人+BNSC約45人)、インド宇宙研究機関の約1万3,600人に対して、JAXAはNASAの10分の1以下の1,571人である。なおJAXA発足以降、人員は漸減傾向にある。",
"title": "予算と人員規模"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "以下の各部が管理業務を行い、各部門ごとに下部組織に分かれ各研究テーマや開発業務を行っている(2016年3月1日時点)。",
"title": "組織"
},
{
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"text": "電波通信施設を借り受け運用中。",
"title": "施設・事業所"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2011年8月検出分",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2011年8月11日にJAXA職員用パソコン1台が異常を検出、同月17日コンピューターウイルスに感染していることが判明した。その後、このウイルスを駆除しても異常が続いたため継続して調査したところ、別の新種のウイルスも情報を収集していたこと、7月6日から8月11日までに外部に情報を送信していたことが判明し、この事実を2012年1月13日に発表した。漏洩した可能性のある情報は「端末に保存されていたメールアドレス」、「宇宙ステーション補給機(HTV)の仕様や運用に関連する情報」、「当該端末からアクセスしたシステムへのログイン情報」である。感染経路は、2011年7月6日に職員宛に送られてきたメールの添付ファイルを、新種のウイルスが仕込まれた標的型攻撃メールと気付かずに職員が開けたことによるものであるとされた。この標的型攻撃メールは、職員の知人の送信者名で職員を飲み会へ誘う件名で送信されていた。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2012年3月27日に調査結果が発表され、「当該端末の中に入っていた情報および当該端末が業務中に表示した画面情報が漏洩したが、当該端末内に機微な情報が保存されていなかったこと、ならびに当該端末では当該期間中にHTVの仕様や運用に関する機微な情報が扱われていなかったこと」、「当該端末からアクセスしたシステムへのログイン情報が漏洩したが、当該端末内に機微な情報が保存されていなかったこと、ならびに当該端末では当該期間中にHTVの仕様や運用に関する機微な情報が扱われていなかったこと」、「メールアドレスの個々の漏洩は特定できなかったこと」が明らかにされた。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2012年11月検出分",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2012年11月21日、社内ネットワークに接続された筑波宇宙センターの職員業務用パソコン1台でコンピューターウイルスを検知、28日にこのパソコンが「イプシロンロケットの仕様や運用に関わる情報」および「イプシロンロケット開発に関連するM-Vロケット、H-IIAロケットおよびH-IIBロケットの仕様や運用に関わる情報」などの情報を収集し、外部に送信していた可能性があることが判明し、この事実を同月30日に発表した。同30日は三菱重工も宇宙事業関連情報が新型ウイルスにより外部に流出していた可能性があることを発表した。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2013年2月19日に調査結果が発表された。情報流出の原因となったウイルスの感染経路は、東日本大震災の4日後の3月15日に送られてきた被災者への支援金給付の案内を装ったなりすましメールの添付ファイルを、それと気付かずに職員が開けたことにあった。感染した端末に保存されていた情報は2011年3月17日から2012年11月21日までの1年5か月間、外部に送信され続けていた。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2013年4月検出分",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2013年4月18日にJAXAのサーバーの定期検査を行ったところ、4月17日深夜に何者かが筑波宇宙ステーションに勤務する職員のIDパスワードを使って不正にサーバに侵入していたことが判明した。また、これにより「国際宇宙ステーション日本実験棟「きぼう」の運用準備に使われる参考情報」、「「きぼう」運用関係者の複数のメーリングリスト」の情報が流出した可能性があることも判明し、JAXAはこの事実を同月23日発表した。その発表によると、不正なアクセスは日本と中国からされており、漏洩した可能性のある情報は、きぼうの作業手順書など18件と、JAXAや米航空宇宙局(NASA)の職員ら延べ約190人のメールアドレスリストだという。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "JAXA発足以来、「空に挑み、宇宙を拓く」が使用されてきたが、2013年10月にJAXA発足10周年を記念して、新たに「Explore to Realize」と定められた。",
"title": "コーポレートスローガン"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "JAXA が2004年(平成16年)末から2005年(平成17年)夏にかけて行った「JAXA宇宙の音楽募集キャンペーン」で募集した曲の中から審査員や一般投票による審査の結果、グランプリとなった E.Bakay / Vocal 河合夕子の『Radio Emission』がJAXAのイメージソングに採用された。また、他の最終審査会出場の作品とともに公開されている。",
"title": "イメージソング"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "各省庁ごとに分かれている宇宙開発政策を統合して一元的な宇宙開発を推進することを目的として、2008年8月27日に宇宙基本法が施行され、内閣に日本の宇宙基本計画における最高戦略決定機関となる宇宙開発戦略本部が設置されている。本部長は内閣総理大臣、副本部長は内閣官房長官と宇宙政策担当大臣、本部員はすべての国務大臣が務め、日本の宇宙開発における基本方針となる宇宙基本計画を策定する。宇宙基本計画に付帯される宇宙基本計画工程表では、JAXAも含めた日本の宇宙機関が行う宇宙機の開発と打ち上げの今後の長期的なスケジュールが示される。事務機能は後述の内閣府の宇宙開発戦略推進事務局が行う。",
"title": "JAXAに関係する日本政府の宇宙開発関連機関"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2012年7月13日に、宇宙政策の立案と各省間の統合調整を行う宇宙審議官を長とした要員数約30人の宇宙戦略室が内閣府の下に発足した。各省やJAXAなどの官側の司令塔的存在となる宇宙戦略室は、宇宙開発に関する企画立案と各省の調整を行い、宇宙政策委員会に策定した宇宙開発計画を報告し、調査と審議を受けていた。宇宙戦略室長は内閣官房の宇宙戦略本部事務局の事務局長代理を兼ね、宇宙戦略室の一部の幹部は宇宙戦略本部事務局付の事務局員でもあった。2016年4月1日に、内閣官房のスリム化の一環として宇宙開発戦略本部事務局が廃止、内閣府の宇宙戦略室が宇宙開発戦略推進事務局に改組され、宇宙開発戦略本部の事務機能も受け継ぐことになった。準天頂衛星システムは内閣府が所管することから、宇宙開発戦略推進事務局内には準天頂衛星システム戦略室が設置されている。",
"title": "JAXAに関係する日本政府の宇宙開発関連機関"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2012年7月11日まで、JAXAは文部科学省に付随する審議会である宇宙開発委員会(最初は1968年に総理府に設置)により宇宙開発計画の審議と評価を、航空科学技術委員会により航空科学技術研究計画の審議と評価を受けていた。",
"title": "JAXAに関係する日本政府の宇宙開発関連機関"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2012年7月、宇宙戦略室の発足とともに文部科学省宇宙開発委員会が廃止され、宇宙開発戦略本部の本部長の内閣総理大臣の諮問を受けて宇宙開発計画の妥当性の審議や各省や宇宙機関への勧告を行う、7人以内の非常勤の有識者により構成される宇宙政策委員会と同委員会下の各部会も内閣府の下に発足した。",
"title": "JAXAに関係する日本政府の宇宙開発関連機関"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "またJAXAを所掌する省庁別で見れば、宇宙開発委員会が廃止された文部科学省においては、科学技術・学術審議会の研究計画・評価分科会宇宙開発利用部会と航空科学技術委員会が本法人の研究開発に対する審議と評価を行うほか、2015年(平成27年)度以降はJAXAを所掌する総務・文部科学・経済産業の各省下に共通して設置された国立研究開発法人審議会の宇宙航空研究開発機構部会と、内閣府宇宙政策委員会の下に設置された国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構分科会も本法人全体の審議と評価を行う。JAXAはこれらの機関の指導・監督を受けて宇宙開発の実務にあたることになる。以下に2019年(平成31年)度の主な審議・評価機関を列挙する。",
"title": "JAXAに関係する日本政府の宇宙開発関連機関"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "内閣府",
"title": "JAXAに関係する日本政府の宇宙開発関連機関"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "文部科学省",
"title": "JAXAに関係する日本政府の宇宙開発関連機関"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "総務・文部科学・経済産業省共通",
"title": "JAXAに関係する日本政府の宇宙開発関連機関"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "条約・協定・法令・政令関係",
"title": "参考資料"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "研究開発関連",
"title": "参考資料"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "各国宇宙航空研究開発公開資料",
"title": "参考資料"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "データ集",
"title": "参考資料"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "宇宙開発ポータル",
"title": "参考資料"
}
] |
国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構は、日本の航空宇宙開発政策を担う国立研究開発法人。本部は東京都調布市にある。 内閣府・総務省・文部科学省・経済産業省が共同して所管し、国立研究開発法人格の組織では最大規模である。 2003年10月1日付で日本の航空宇宙3機関、文部科学省宇宙科学研究所(ISAS)・独立行政法人航空宇宙技術研究所(NAL)・特殊法人宇宙開発事業団(NASDA)が統合されて発足した。
|
{{Infobox 研究所
| 名称 = 国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構
| Width = 200
| 画像 = Jaxa logo.svg
| 脚注 =
| 英語名称 = Japan Aerospace Exploration Agency
| 略称 = JAXA(ジャクサ)
| 組織形態 = [[国立研究開発法人]]
| 上位組織 =
| 所管 = [[日本国政府]]<br>([[内閣府]]・[[総務省]]・[[文部科学省]]・[[経済産業省]])
| 下位組織 =
| 前身 = [[宇宙科学研究所]](ISAS)<br>[[航空宇宙技術研究所]](NAL)<br>[[宇宙開発事業団]](NASDA)
| 活動領域 =
| 代表 =
| 所長 =
| 理事長 = [[山川宏 (宇宙工学者)|山川宏]]
| 代表職名 = <!--組織トップの肩書が特殊な場合のみ、ここにその肩書を記入-->
| 代表氏名 = <!--組織トップの肩書が特殊な場合のみ、すぐ上で肩書を記入し、ここに人物の名前を記入-->
| 設立年月日 = [[2003年]][[10月1日]]
| 設立者 =
| 予算 = 2,212億円 (2022年)
| 歳入内訳 =
| 歳出内訳 =
| 人数 = 1,588人(2022年4月1日時点)
| 所在国 = {{JPN}}
| 所在地郵便番号 = 182-8522
| 所在地 = [[東京都]][[調布市]][[深大寺東町]]七丁目44番地1
| 位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|40|43.3|N|139|33|31.4|E|region:JP}}<!--経緯度を記入-->
| 拠点 = [[#施設・事業所]]の節を参照
| 保有施設 =
| 保有装置 =
| 保有物分類1 = <!--施設でも装置でもない何かを保有している場合に、ここにその種別を記入。例えば船舶、衛星など-->
| 保有物名称1 = <!--すぐ上の種別に属する保有物の名称をここに記入。例えばしんかい6500、など-->
| 保有物分類2 =
| 保有物名称2 =
| 保有物分類3 =
| 保有物名称3 =
| 提供サービス =
| 参加プロジェクト =
| 特記事項 =
| ウェブサイト = https://www.jaxa.jp
}}
'''国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構'''(うちゅうこうくうけんきゅうかいはつきこう、{{lang-en-short|Japan Aerospace Exploration Agency}}、[[略称]]: '''JAXA''')は、[[日本]]の航空宇宙開発政策を担う[[国立研究開発法人]]。本部は[[東京都]][[調布市]]にある。
[[内閣府]]・[[総務省]]・[[文部科学省]]・[[経済産業省]]が共同して所管し、国立研究開発法人格の組織では最大規模である。
[[2003年]][[10月1日]]付で日本の航空宇宙3機関、[[文部科学省]][[宇宙科学研究所]](ISAS)・[[独立行政法人]][[航空宇宙技術研究所]](NAL)・[[特殊法人]][[宇宙開発事業団]](NASDA)が統合されて発足した。
== 目的 ==
現在の法人設置における根拠法令になる[[国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構法]]4条によれば、本法人の目的は以下の通り。
<blockquote>
「大学との共同等による宇宙科学に関する学術研究、宇宙科学技術(宇宙に関する科学技術をいう〔略〕)に関する基礎研究及び宇宙に関する基盤的研究開発並びに人工衛星等の開発、打上げ、追跡及び運用並びにこれらに関連する業務を、[[宇宙基本法]]第2条の宇宙の平和的利用に関する基本理念にのっとり、総合的かつ計画的に行うとともに、航空科学技術に関する基礎研究及び航空に関する基盤的研究開発並びにこれらに関連する業務を総合的に行うことにより、大学等における学術研究の発展、宇宙科学技術及び航空科学技術の水準の向上並びに宇宙の開発及び利用の促進を図ることを目的とする」
</blockquote>
== 沿革 ==
[[ファイル:H-IIA Family.png|200px|thumb|[[H-IIA]] ロケットファミリー]]
{{See also|日本の宇宙開発}}
=== 統合時の状況 ===
JAXAは、国の行政改革の一環としてのみならず、各宇宙機関の連携不足を解消して相次ぐ失敗により失われた[[日本の宇宙開発]]に対する信頼回復をするために発足した組織であるが、統合直後に臨んだ [[H-IIAロケット6号機]](元は事業団が9月中に打ち上げる予定だった)は上昇途中にトラブルを起こし、地上からの指令で爆破される結果に終わった。さらに、[[宇宙科学研究所]]が打ち上げた[[火星探査機]]「[[のぞみ (探査機)|のぞみ]]」を[[火星]]周回軌道に乗せることにも失敗し、発足後は試練の連続となった<ref>[https://web.archive.org/web/20081010230448/http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/space_projects_21.html 日本の宇宙開発の歴史 21世紀]、JAXA情報センター</ref>。
=== 統合後の主な実績 ===
[[ファイル:きぼう Kibō.png|thumb|日本実験棟「[[きぼう]]」]]
[[ファイル:HTV-1 approaches ISS.jpg|thumb|[[宇宙ステーション補給機]]]]
2005年(平成17年)2月26日には[[H-IIAロケット]]7号機で[[MTSAT|ひまわり6号]]の軌道投入に成功した。7月10日には[[M-Vロケット]]によるX線天文衛星[[すざく]]の打ち上げにも成功した。[[X線天文学]]は日本が世界をリードしている宇宙科学分野である<ref>[https://www.jaxa.jp/article/special/xray/p3_j.html 世界をリードする日本の天文学]、JAXA</ref>。10月10日には小型超音速実験機[[NEXST-1 (航空機)|NEXST-1]]による飛行実験に成功した。
2006年(平成18年)には1月から2月にかけての1か月以内に初めて連続3機のロケットを打ち上げた。このとき打ち上げた陸域観測衛星[[だいち]]は災害監視に活用され、赤外天文衛星[[あかり (人工衛星)|あかり]]は宇宙科学の発展に貢献している。また[[MTSAT|ひまわり7号]]は1990年(平成2年)の[[アメリカ合衆国|米国]]との衛星調達協定以降、初めて成功した国産商用衛星であった。同年には太陽観測衛星[[ひので]]が打ち上げられ、翌2007年12月にはアメリカの[[サイエンス]]誌において、さまざまな新発見を掲載した『ひので特集号』が刊行された<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2007/12/07hinode/index-j.shtml 「ひので」の成果が、科学雑誌「サイエンス」の特集と表紙に!]、Astro Arts</ref>。
2007年(平成19年)9月に打ち上げた[[かぐや]]は、月面の[[高精細度|HD]]画像を地球に送信するなど[[アポロ計画]]以来世界最大規模の月探査を成功させ、2009年2月にはこの成果をまとめたサイエンス誌『かぐや特別編集号』が刊行された<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2009/02/16kaguya_science/index-j.shtml 科学誌「サイエンス」が「かぐや」特集号を発行]、Astro Arts</ref>。
前身のISASが2003年(平成15年)に打ち上げた[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]は2010年(平成22年)に地球に帰還し、[[小惑星]]からのサンプルリターンを世界で初めて成功させ、2008年7月と2011年8月にサイエンス誌で『はやぶさ特集号』が刊行された{{R|jaxa20110826}}。また同2010年に打ち上げた[[IKAROS]]は宇宙空間での[[太陽帆]]航行を世界で初めて成功させた。世界初の成果を得た「はやぶさ」と「IKAROS」は[[ギネスブック]]に登録された<ref>[http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2011/0613.shtml 「はやぶさ」ギネス世界記録に認定]、JAXA</ref><ref>{{Cite news |和書|title=世界初の宇宙ヨット JAXA「イカロス」、ギネス認定 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2012-12-12 |author=田中誠士 |url=https://web.archive.org/web/20121212170528/http://www.asahi.com/science/update/1211/TKY201212110326.html |accessdate=2020-01-11 |quote=現在は[[インターネットアーカイブ]]内に残存}}</ref>。
2008年(平成20年)からは[[きぼう]]宇宙実験棟の運用が始まり、2009年(平成21年)には [[H-IIBロケット]]の打ち上げと[[宇宙ステーション補給機]]による国際宇宙ステーションへの物資輸送を成功させたことで、80年代から続けられてきた日本の[[国際宇宙ステーション]]計画において大きな成果を収めた。またNASDA時代から引き続き[[スペースシャトル]]や[[ソユーズ]]を利用して[[日本人の宇宙飛行|有人宇宙飛行事業]]を実施している。
2013年(平成25年)、打ち上げシステムの革新により低コスト化を図った[[固体燃料ロケット]]の[[イプシロンロケット]]試験機の打ち上げに成功。2014年(平成26年)度からは次世代基幹ロケットの[[H3ロケット]]の開発も始まっており、次世代へのロケット技術の継承、発展が進められている。また、コスト削減や打ち上げの商業受注を目指して、2007年にH-IIAの、2013年にH-IIBの打ち上げ業務の大部分が三菱重工へ移管されており、2015年(平成27年)11月に日本初となる純粋な商業打ち上げとなる[[カナダ]]の通信衛星の打ち上げを、[[H-IIAロケット#基幹ロケット高度化|H-IIAロケット高度化適用機体]]で成功させた<ref>{{Cite web|和書|url=https://sorae.info/030201/2015_11_24_h2a-f29-3.html |title=打ち上げ成功おめでとう! H-IIAロケット29号機、通信衛星「テルスター12ヴァンテージ」の打ち上げに成功 |publisher=sorae.jp |date=2015-11-24 |accessdate=2015-12-09}}</ref>。
2015年(平成27年)12月には、2010年(平成22年)5月に打ち上げた[[あかつき (探査機)|あかつき]]を[[金星]]の周回軌道に投入することに成功した。これは、日本初となる地球以外の[[惑星]]周回軌道への探査機投入成功であった<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASGG09H2A_Z01C15A2000000/ 「あかつき」軌道投入成功、日本初の惑星探査へ] JAXA 2015年12月9日</ref>。
2018年(平成30年)4月には、同年2月の[[TRICOM-1#TRICOM-1R|TRICOM-1R]]の軌道投入成功により、[[SS-520ロケット]]が実際に人工衛星を打ち上げた史上最小のロケットとしてギネス世界記録に認定された<ref>[https://www.jaxa.jp/press/2018/04/20180427_guinness_j.html SS-520 5号機がギネス世界記録(R)に認定されました] JAXA 2018年4月27日</ref>。
2019年([[令和]]元年)12月には、超低高度衛星技術試験機の[[つばめ (人工衛星)|つばめ]]が、地球観測衛星の軌道としてはもっとも低い高度167.4kmを飛行したとしてギネス世界記録に認定された<ref>[https://www.sankei.com/article/20191224-PLF6RE6PENKZHIC2RYRAYTBXWQ/ 世界最低高度で飛行 JAXAの地球観測衛星がギネス認定] 産経新聞 2019年12月24日</ref>。
2020年([[令和]]2年)5月にH-IIBロケット9号機が打ち上げられ、同年8月に同機により打ち上げられた[[こうのとり9号機]]が大気圏に再突入し、H-IIBとHTVの計画をすべて成功させて運用終了した。また同年8月には、トヨタ自動車と開発していた有人月面車の名前を[[ルナクルーザー]]に決定した。同年12月には2014年(平成26年)に打ち上げられた[[はやぶさ2]]の回収カプセルが地球に帰還した。
2021年(令和3年)4月に中国軍が関与していると見られるサイバー攻撃の被害を受けた。警視庁公安部は中国共産党の関係者を書類送検した<ref>{{Cite web|和書|title=JAXAなどにサイバー攻撃か 中国共産党員を書類送検|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE200CS0Q1A420C2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-04-20|accessdate=2021-04-20|language=ja}}</ref>。
== 宇宙機の打ち上げ ==
{{See also|日本の宇宙機の一覧|Template:日本の衛星打ち上げロケット}}
ここでは、JAXAが開発した宇宙機の打ち上げ、もしくはJAXAの衛星打ち上げロケットによる打ち上げのみを列挙する<ref>[http://www.sjac.or.jp/common/pdf/jkahojyojigyou/houkoku_h22/ucyuu/H23_infuradb_rocket.pdf 平成23年 世界の宇宙インフラデータブック ロケット編] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20140814141821/http://www.sjac.or.jp/common/pdf/jkahojyojigyou/houkoku_h22/ucyuu/H23_infuradb_rocket.pdf |date=2014年8月14日}}、社団法人 日本宇宙航空工業会</ref>。H-IIAロケットは13号機から、H-IIBロケットは4号機から打ち上げ業務のほとんどが三菱重工に移管されたが、打ち上げ安全管理業務はJAXAが責任を負う。
{| class="wikitable"
!名称
!略字名
!用途
!打上ロケット
!colspan="2"|打上日
!備考
|-
|bgcolor="#FFCCCC"|光学2号機
|bgcolor="#FFCCCC"|
|rowspan="2" bgcolor="#FFCCCC"|[[情報収集衛星]]
|rowspan="2" bgcolor="#FFCCCC"|[[H-IIAロケット6号機]]
|rowspan="2" bgcolor="#FFCCCC" style="width:4em;text-align:center"|2003年
|rowspan="2" bgcolor="#FFCCCC" style="width:5em"|11月29日
|rowspan="2" bgcolor="#FFCCCC"|打ち上げ失敗によりロケットが指令破壊され'''衛星を喪失'''。
|-
|bgcolor="#FFCCCC"|レーダ2号機
|bgcolor="#FFCCCC"|
|-
|[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり6号]]
|MTSAT-1R
|[[運輸多目的衛星]]
|[[H-IIAロケット]]7号機
|rowspan="4" style="text-align:center"|2005年
|2月26日
|[[ロケットシステム|RSC]]サービス
|-
|[[すざく]]
|ASTRO-EII
|X線天文衛星
|[[M-Vロケット]]6号機
|7月10日
|ISAS(宇宙科学研究本部)
|-
|[[きらり (人工衛星)|きらり]]
|OICETS
|光衛星間通信実験衛星
|rowspan="2"|[[ドニエプル (ロケット)|ドニエプルロケット]]
|rowspan="2"|8月24日
|
|-
|[[れいめい]]
|INDEX
|小型科学衛星
|ISAS [[ピギーバック衛星]]
|-
|[[だいち]]
|ALOS
|陸域観測技術衛星
|H-IIAロケット8号機
|rowspan="7" style="text-align:center"|2006年
|1月24日
|
|-
|[[MTSAT|ひまわり7号]]
|MTSAT-2
|運輸多目的衛星
|H-IIAロケット9号機
|2月18日
|RSCサービス<br>初の1か月以内連続打ち上げ。
|-
|[[あかり (人工衛星)|あかり]]
|ASTRO-F
|赤外線天文衛星
|M-Vロケット8号機
|2月22日
|ISAS
|-
|光学2号機
|K2
|情報収集衛星
|H-IIAロケット10号機
|9月11日
|H-IIAロケット6号機の打ち上げ失敗によって失った衛星の代替機。
|-
|[[ひので (人工衛星)|ひので]]
|SOLAR-B
|太陽観測衛星
|M-Vロケット7号機
|9月23日
|ISAS
|-
|[[LDREX#LDREX-2|大型展開アンテナ<br>小型・部分モデル2]]
|LDREX-2
|大型展開アンテナの実証試験
|[[アリアン5|アリアンVロケット]]
|10月14日
|相乗り衛星。
|-
|[[きく8号]]
|ETS-VIII
|[[きく (人工衛星)|技術試験衛星]]VIII型
|H-IIAロケット11号機
|12月18日
|初のH2A204型での打ち上げ。<br>衛星も5.8トンと過去もっとも重い。
|-
|レーダ2号機
|R2
|rowspan="2"|情報収集衛星
|rowspan="2"|H-IIAロケット12号機
|rowspan="3" style="text-align:center"|2007年
|rowspan="2"|2月24日
|H-IIAロケット6号機の打ち上げ失敗によって失った衛星の代替機。
|-
|光学3号実証機
|K3
|
|-
|[[かぐや]]
|SELENE
|月周回衛星
|H-IIAロケット13号機
|9月14日
|
|-
|[[きずな (人工衛星)|きずな]]
|WINDS
|超高速インターネット衛星
|H-IIAロケット14号機
|rowspan="3" style="text-align:center"|2008年
|2月23日
|
|-
|日本実験棟「[[きぼう]]」<br>船内保管室
|
|国際宇宙ステーション|ISS日本実験棟「きぼう」(JEM) の船内保管室
|[[スペースシャトル]]・[[スペースシャトル・エンデバー|エンデバー号]]
|3月11日
|[[土井隆雄]]宇宙飛行士が搭乗し組み立てミッション(1J/A)を行う。[[STS-123]]
|-
|国際宇宙ステーション|日本実験棟「きぼう」<br>船内実験室/ロボットアーム
|
|国際宇宙ステーション|ISS日本実験棟「きぼう」(JEM)の船内実験室とロボットアーム
|スペースシャトル・[[スペースシャトル・ディスカバリー|ディスカバリー号]]
|6月1日
|[[星出彰彦]]宇宙飛行士が搭乗し組み立てミッション(1J)を行う。[[STS-124]]
|-
|[[いぶき (人工衛星)|いぶき]]
|GOSAT
|温室効果ガス観測技術衛星
|rowspan="2" style="text-align:center"|H-IIAロケット15号機
|rowspan="5" style="text-align:center"|2009年
|rowspan="2" style="text-align:center"|1月23日
|rowspan="2" style="text-align:center"|'''他に学校・企業開発の小型衛星6機相乗り。'''
|-
|[[SDS-1|小型実証衛星1型]]
|SDS-1
|技術試験衛星
|-
|国際宇宙ステーション|日本実験棟「きぼう」<br>船外実験プラットフォーム/船外パレット
|
|国際宇宙ステーション|ISS日本実験棟「きぼう」(JEM)の船外実験プラットフォームと船外パレット
|スペースシャトル・エンデバー号
|7月16日
|ISS長期滞在中の[[若田光一]]宇宙飛行士が組み立てミッション(2J/A)を行う。きぼうの完成。[[STS-127]]
|-
|[[HTV技術実証機]]
|HTV-1
|[[宇宙ステーション補給機]](HTV)
|[[H-IIBロケット]]試験1号機
|9月11日
|夜間打ち上げ(2時1分)。
|-
|光学3号機
|
|情報収集衛星
|H-IIAロケット16号機
|11月28日
|5年の耐用年数の切れる情報収集衛星光学1号機の代替。
|-
|[[あかつき (探査機)|あかつき]]
|PLANET-C
|金星探査衛星
|rowspan="2"|H-IIAロケット17号機
|rowspan="3" style="text-align:center"|2010年
|rowspan="2"|5月21日
|rowspan="2" style="text-align:center"|あかつきはISAS [[PLANET計画]]。'''他に大学開発の小型衛星4機相乗り。'''
|-
|[[IKAROS]]
|
|小型[[太陽帆|ソーラー電力セイル]]実証機
|-
|[[準天頂衛星システム#初号機 みちびき|みちびき]]
|QZS-1
|衛星測位システム
|H-IIAロケット18号機
|9月11日
|準天頂衛星システム計画(QZSS)の初号機。
|-
|[[こうのとり2号機]]
|HTV-2
|宇宙ステーション補給機(HTV)
|H-IIBロケット2号機
|rowspan="3" style="text-align:center"|2011年
|1月22日
|
|-
|光学4号機
|
|情報収集衛星
|H-IIAロケット19号機
|9月23日
|5年の耐用年数の切れる情報収集衛星光学2号機の代替。
|-
|レーダ3号機
|
|情報収集衛星
|H-IIAロケット20号機
|12月12日
|
|-
|[[地球環境変動観測ミッション|しずく]]
|GCOM-W1
|水循環変動観測衛星
|rowspan="2" style="text-align:center"|H-IIAロケット21号機
|rowspan="3" style="text-align:center"|2012年
|rowspan="2" style="text-align:center"|5月18日
|rowspan="2" style="text-align:center"|'''他に[[アリラン3号]]と[[鳳龍弐号]]が相乗り。'''
|-
|[[SDS-4|小型実証衛星4型]]
|SDS-4
|技術試験衛星
|-
|[[こうのとり3号機]]
|HTV-3
|宇宙ステーション補給機(HTV)
|H-IIBロケット3号機
|[[7月21日]]
|こうのとり3号機の与圧部には'''5機の[[CubeSat]]'''([[日本|日]]3、[[アメリカ合衆国|米]]1、米[[ベトナム|越]][[スウェーデン|瑞]]共同1{{R|jaxa20120719}})を搭載。ISSに搬入後、[[きぼう]]から軌道へ投入する([[きぼう#小型衛星放出事業|参照]])。<br>H-IIBには新型アビオニクス([[H-IIBロケット#構成と諸元|参照]])を初適用。
|-
|レーダ4号機
|
|情報収集衛星
|rowspan="2" style="text-align:center"|H-IIAロケット22号機
|rowspan="4" style="text-align:center"|2013年
|rowspan="2" style="text-align:center"|1月27日
|rowspan="2"|
|-
|光学5号実証機
|
|情報収集衛星
|-
|[[こうのとり4号機]]
|HTV-4
|宇宙ステーション補給機(HTV)
|H-IIBロケット4号機
|8月4日
|こうのとり4号機の与圧部には'''4機のCubeSat'''(日越共同1、米3)を搭載。ISSに搬入後、2013年10月から2014年3月にかけて順次きぼうから軌道へ投入する。<br>4号機からH-IIBの打ち上げ業務が三菱重工に移管された。
|-
|[[ひさき]]
|SPRINT-A
|惑星分光観測衛星
|[[イプシロンロケット]]試験機
|9月14日
|2度の延期のあとのイプシロンロケットの初打ち上げ。8月22日の打ち上げが信号中継装置の配線誤りにより延期され、再設定された8月27日の打ち上げも、自動点検装置の姿勢制御に関するエラー誤検知により再延期されていた。
|-
|[[全球降水観測計画|全球降水観測主衛星]]
|GPM
|全球降水観測衛星
|H-IIAロケット23号機
|rowspan="4" style="text-align:center"|2014年
|2月28日
|他に大学開発の'''7機の小型衛星'''を搭載。
|-
|[[だいち2号]]
|ALOS-2
|陸域観測技術衛星
|H-IIAロケット24号機
|5月24日
|他に大学や企業開発の'''4機の小型衛星'''を搭載。
|-
|[[ひまわり8号]]
|Himawari-8
|気象衛星
|H-IIAロケット25号機
|10月7日
|
|-
|[[はやぶさ2]]
|Hayabusa2
|小惑星探査機
|H-IIAロケット26号機
|12月3日
|他に大学開発の'''3機の小型衛星'''を搭載。
|-
|-
|レーダ予備機
|
|情報収集衛星
|H-IIAロケット27号機
|rowspan="4" style="text-align:center"|2015年
|2月1日
|
|-
|光学5号機
|
|情報収集衛星
|H-IIAロケット28号機
|3月26日
|
|-
|[[こうのとり5号機]]
|HTV-5
|宇宙ステーション補給機(HTV)
|H-IIBロケット5号機
|8月19日
|こうのとり5号機の与圧部には'''18機のCubeSat'''([[ブラジル]]1、日本1、[[アメリカ合衆国]]14、[[デンマーク]]2)を搭載。
|-
|[[Telstar 12 VANTAGE]]
|
|[[カナダ]]のテレサット社の通信放送衛星
|H-IIAロケット29号機
|11月24日
|官需衛星への相乗りではない日本初の純粋な商業打ち上げ。[[H-IIAロケット#基幹ロケット高度化|基幹ロケット高度化]]のうち「長秒時慣性航行機能の獲得」を初適用し、ロングコースト静止トランスファ軌道への初打ち上げ。
|-
|[[ひとみ (人工衛星)|ひとみ]]
|ASTRO-H
|X線天文衛星
|H-IIAロケット30号機
|rowspan="4" style="text-align:center"|2016年
|2月17日
|他に大学と企業開発の'''3機の小型衛星'''を搭載。
|-
|[[ひまわり9号]]
|Himawari-9
|気象衛星
|H-IIAロケット31号機
|11月2日
|
|-
|[[こうのとり6号機]]
|HTV-6
|宇宙ステーション補給機(HTV)
|H-IIBロケット6号機
|12月9日
|こうのとり6号機の与圧部には'''7機のCubeSat'''(日本7)を搭載。
|-
|[[あらせ]]
|ERG
|小型ジオスペース探査衛星
|イプシロンロケット2号機
|12月20日
|
|-
|bgcolor="#FFCCCC"|
|bgcolor="#FFCCCC"|[[TRICOM-1]]
|bgcolor="#FFCCCC"|超小型実験衛星
|bgcolor="#FFCCCC"|[[SS-520ロケット]]4号機
|rowspan="8" style="text-align:center"|2017年
|bgcolor="#FFCCCC"|1月15日
|bgcolor="#FFCCCC"|打ち上げ20秒後にテレメータのデータが受信できなくなったため、2段目の点火を取りやめミッションを放棄。世界最小のローンチ・ヴィークルによる打ち上げの試み。
|-
|[[Xバンド防衛通信衛星|きらめき2号]]
|DSN-2
|防衛通信衛星
|H-IIAロケット32号機
|1月24日
|[[防衛省]]初の独自衛星。整備から運用まで一括して[[PFI]]方式で行う。
|-
|レーダ5号機
|
|情報収集衛星
|H-IIAロケット33号機
|3月17日
|
|-
|[[準天頂衛星システム#衛星|みちびき2号機]]
|QZS-2
|衛星測位システム
|H-IIAロケット34号機
|6月1日
|準天頂衛星システム計画(QZSS)の2号機。
|-
|[[準天頂衛星システム#衛星|みちびき3号機]]
|QZS-3
|衛星測位システム
|H-IIAロケット35号機
|8月19日
|準天頂衛星システム計画(QZSS)の3号機。
|-
|[[準天頂衛星システム#衛星|みちびき4号機]]
|QZS-4
|衛星測位システム
|H-IIAロケット36号機
|10月10日
|準天頂衛星システム計画(QZSS)の4号機。
|-
|[[地球環境変動観測ミッション|しきさい]]
|GCOM-C
|気候変動観測衛星
|rowspan="2" style="text-align:center"|H-IIAロケット37号機
|rowspan="2" style="text-align:center"|12月23日
|rowspan="2"|
|-
|[[つばめ (人工衛星)|つばめ]]
|SLATS
|超低高度衛星技術試験機
|-
|[[ASNARO|ASNARO-2]]
|
|高性能小型レーダ衛星
|イプシロンロケット3号機
|rowspan="7" style="text-align:center"|2018年
|1月18日
|
|-
|[[TRICOM-1R|たすき]]
|TRICOM-1R
|超小型実験衛星
|SS-520ロケット5号機
|2月3日
|
|-
|光学6号機
|
|情報収集衛星
|H-IIAロケット38号機
|2月27日
|
|-
|レーダ6号機
|
|情報収集衛星
|H-IIAロケット39号機
|6月12日
|
|-
|[[こうのとり7号機]]
|HTV-7
|宇宙ステーション補給機(HTV)
|H-IIBロケット7号機
|9月23日
|
|-
|[[ベピ・コロンボ|みお]]
|MMO
|水星磁気圏探査機
|アリアン5
|10月20日
|[[欧州宇宙機関]]の'''水星表面探査機(MPO)''' と相乗り。
|-
|[[いぶき2号]]
|GOSAT-2
|温室効果ガス観測技術衛星2号
|H-IIAロケット40号機
|10月29日
|他に[[アラブ首長国連邦]]の'''ハリーファサット'''と日本の大学開発の'''5基の小型副衛星'''を搭載。
|-
|革新的衛星技術実証1号機
|RAPIS-1
|革新的技術実証衛星機
|イプシロンロケット4号機
|rowspan="2" style="text-align:center"|2019年
|1月18日
|他に日本の大学・企業が開発した'''3基の超小型副衛星'''と'''3基のCubeSat'''を搭載。
|-
|[[こうのとり8号機]]
|HTV-8
|宇宙ステーション補給機(HTV)
|H-IIBロケット8号機
|9月25日
|他に日本の大学と外国の大学や機関が共同開発した'''3基のCubeSat'''を搭載。
|-
|光学7号機
|
|情報収集衛星
|H-IIAロケット41号機
|rowspan="4" style="text-align:center"|2020年
|2月9日
|
|-
|[[こうのとり9号機]]
|HTV-9
|宇宙ステーション補給機(HTV)
|H-IIBロケット9号機
|5月21日
|H-IIBロケット最終号機
|-
|[[al-Amal|Hope (al-Amal)]]
|
|[[アラブ首長国連邦]]の火星探査機
|H-IIAロケット42号機
|7月20日
|アラブ首長国連邦から受注した商業打ち上げ。
|-
|[[光データ中継衛星|光データ中継衛星・データ中継衛星1号機]]
|
|データ中継衛星
|H-IIAロケット43号機
|11月29日
|JAXA側からの呼称は光データ中継衛星、[[内閣情報調査室#内閣衛星情報センター|内閣衛星情報センター]]側からの呼称はデータ中継衛星1号機。
|-
|[[準天頂衛星システム#衛星|みちびき初号機後継機]]
|OZS-1R
|準天頂衛星システムの初号機後継機
|H-IIAロケット44号機
|rowspan="3" style="text-align:center"|2021年
|10月26日
|
|-
|革新的衛星技術実証2号機
|RAPIS-2
|革新的衛星技術実証機
|イプシロンロケット5号機
|11月9日
|他に'''4基の超小型衛星'''と'''3基のCubeSat'''を搭載
|-
|Inmarsat-6 F1
|
|[[イギリス]]の通信衛星
|H-IIAロケット45号機
|12月22日
|イギリスから受注した商業打ち上げ<ref name="sorae20170912">{{Cite news |url=https://sorae.info/030201/2017_09_12_mhi.html |title=「H-IIA」ロケット、インマルサット衛星「Inmarsat-6」初号機の打ち上げ契約 2020年予定 |author=塚本直樹 |publisher=sorae.jp |date=2017-09-12 |accessdate=2017-09-13}}</ref>。
|-
|bgcolor="#FFCCCC"|革新的衛星技術実証3号機
|bgcolor="#FFCCCC"|RAISE-3
|bgcolor="#FFCCCC"|革新的技術実証衛星機
|bgcolor="#FFCCCC"|イプシロンロケット6号機
|bgcolor="#FFCCCC"|2022年
|bgcolor="#FFCCCC"|10月12日
|bgcolor="#FFCCCC"|他に日本の企業・大学などが開発した'''2基の小型副衛星'''と'''5基のCubeSat'''を搭載。第二段と第三段を切り離す時点で姿勢が目標と異なっていたことから、9時57分11秒に指令破壊信号を送信<ref>{{Cite web|和書|url=https://sorae.info/space/20221012-epsilon6.html|title=JAXA「イプシロンロケット」6号機打ち上げ失敗 ロケットに指令破壊信号送信|publisher=sorae|date=2022-10-12|accessdate=2022-10-12}}</ref>。
|-
|情報収集衛星レーダ7号機
|
|情報収集衛星
|H-IIAロケット46号機
| rowspan="4" style="text-align:center" |2023年
|1月26日
|-
|bgcolor="#FFCCCC"|[[だいち3号]]
|bgcolor="#FFCCCC"|ALOS-3
|bgcolor="#FFCCCC"|陸域観測技術衛星
|bgcolor="#FFCCCC"|H-3ロケット試験機1号機
|bgcolor="#FFCCCC"|3月7日
|bgcolor="#FFCCCC"|1段目切り離し後に2段目エンジンに点火せず、指令破壊信号を送信<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230307/k10014000041000.html|title =H3ロケット打ち上げ失敗 2段目が点火せず JAXAは原因究明へ|agency =NHK}}</ref>。
|-
|
|[[XRISM]]
|X線分光撮像衛星
| rowspan="2" |H-IIAロケット47号機
| rowspan="2" |9月7日
|2016年に姿勢制御系の不具合のため短期間で運用終了したX線天文衛星「[[ひとみ (人工衛星)|ひとみ]] 」の代替機
|-
|
|[[SLIM]]
|無人月面探査機
|
|-
|}
=== 打ち上げ予定 ===
[[ファイル:H-IIA F19 launching IGS-O4.jpg|200px|thumb|H-IIAロケット(19号機)]]
[[ファイル:H-IIB F2 launching HTV2.jpg|200px|thumb|H-IIBロケット(2号機)]]
打ち上げが予定されているロケットと衛星・探査機。状況に合わせて順番などは変更されることがある。2022年(令和4年)12月23日に決定された宇宙基本計画工程表(令和4年度改訂)によると打ち上げスケジュールは次の通りである<ref name="kihon221223">{{Cite web|和書|url=https://www8.cao.go.jp/space/plan/plan2/kaitei_fy04/kaitei_fy04.pdf|title=宇宙基本計画工程表(令和4年度改訂)p.30ほか|archive-url=https://web.archive.org/web/20230125035823/https://www8.cao.go.jp/space/plan/plan2/kaitei_fy04/kaitei_fy04.pdf|publisher=|date=2022-12-23|archive-date=2023-01-25|access-date=2023-01-26}}</ref>。
; [[2023年]]度
* H-IIAロケット:[[情報収集衛星]]光学8号機
* [[H3ロケット]]:[[先進レーダ衛星]] ALOS-4
* H3ロケット:[[Xバンド防衛通信衛星]]3号機(きらめき3号)
* H3ロケット:[[準天頂衛星システム]]5号機
* H3ロケット:[[新型宇宙ステーション補給機]](HTV-X)1号機
* イプシロンロケット:[[ASNARO|LOTUSAT1]](ベトナムへ供与するASNARO-2同型機。LOTUSAT2もNECが受注活動中。)
; [[2024年]]度
* H-IIAロケット:情報収集衛星レーダ8号機
* H-IIAロケット:[[GOSAT-GW|温室効果ガス・水循環観測技術衛星 GOSAT-GW]]
* H3ロケット:準天頂衛星システム6号機
* H3ロケット:準天頂衛星システム7号機
* H3ロケット:[[火星衛星探査計画]] MMX (戦略的中型1)
* H3ロケット:月極域探査機
* H3ロケット:HTV-X 2号機
* イプシロンロケット:革新的衛星技術実証4号機
* イプシロンロケット:[[DESTINY+|DESTINY<sup>+</sup>]](深宇宙探査技術実証機。公募型小型計画2号機)
; [[2025年]]度
* H3ロケット:次期[[きく (人工衛星)|技術試験衛星]]
* H3ロケット:HTV-X 3号機
; [[2026年]]度
* H3ロケット:情報収集衛星光学9号機
* H3ロケット:情報収集衛星光学多様化1号機
* イプシロンロケット:革新的衛星技術実証5号機
; [[2027年]]度
* H3ロケット:情報収集衛星光学多様化2号機
* H3ロケット:情報収集衛星レーダ多様化1号機
* イプシロンロケット:小型[[JASMINE計画|JASMINE]](赤外線位置天文観測衛星 。公募型小型3号機。27年度か28年度)
; [[2028年]]度
* H3ロケット:情報収集衛星レーダ多様化2号機
* H3ロケット:情報収集衛星データ中継衛星2号機
* H3ロケット:先進光学衛星 ALOS-3後継機
* H3ロケット:[[宇宙マイクロ波背景放射]]偏光観測衛星 [[LiteBIRD]](戦略的中型2)
* H3ロケット:ひまわり後続機
* イプシロンロケット:[[Solar-C_EUVST]](高感度太陽紫外線分光観測衛星。公募型小型4号機)
* イプシロンロケット:革新的衛星技術実証6号機
; [[2029年]]度
* H3ロケット:ALOS-4後継機
* H3ロケット:情報収集衛星光学10号機
* H3ロケット:情報収集衛星レーダ9号機
; [[2030年]]度以降
* H3ロケット:情報収集衛星レーダ10号機
* イプシロンロケット:革新的衛星技術実証7号機
==== 検討・提案段階の宇宙機 ====
* 赤外線天文衛星 [[GREX-PLUS]]:2030年代の打ち上げを目指す次世代赤外線天文衛星。
=== 継続予定の航空技術 ===
[[ファイル:Beechcraft B65 Queen Air.JPG|200px|thumb|JAXAが実験機として所有する[[ビーチクラフト]]・クインエア]]
* 国産旅客機([[Mitsubishi SpaceJet]])への技術支援
* 低騒音・低公害ジェットエンジンの研究
* [[低ソニックブーム設計概念実証プロジェクト|低ソニックブーム超音速機の研究]]
* 次世代運航システムの研究開発
* [[スクラムジェットエンジン]]の基礎研究
=== 実験用航空機 ===
航空技術部門(旧・[[航空宇宙技術研究所]])が保有する実験用航空機飛行システム分野における実証研究を飛躍させることと、先進的航空技術の発展に寄与することを目的に開発され、幅広い高度、速度や、いろいろな飛行特性に応じた飛行実証を行うことができるよう、ヘリコプター、プロペラ機、ジェット機の3機を保有している。
<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:left">実験用航空機</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
{|class="wikitable"
!style="text-align:left;background:#aabccc"|名称
!style="text-align:left;background:#aabccc"|愛称
!style="text-align:left;background:#aabccc"|画像
!style="text-align:left;background:#aabccc"|保有数
!style="text-align:left;background:#aabccc"|注釈
|- style="background:#efefef;color:black
|[[ドルニエ 228]]
|MuPAL-α(ミューパル・アルファ)
|
|1機
|1988年導入 JA8858<br>MuPAL-αのMuPALは、Multi Purpose Aviation Labolatory([[多目的実証実験機]])を表し、αはギリシャ語で「飛行機」を表す単語の頭文字を表す。<br>「MuPAL-α」は、母機であるDo228-202型機に、JAXAが開発したフライ・バイ・ワイヤー(FBW)操縦装置や、高精度のデータ収録装置など、飛行試験に必要な機器を組み込んだ飛行機で、インフライト・シミュレーション機能を備えている。インフライト・シミュレーションとは、フライ・バイ・ワイヤー(FBW)操縦装置を用い、実際に飛んでいる航空機において別の航空機の飛行特性や乱気流中の運動などを模擬して行うシミュレーションのことである。<br>定置場所は調布航空宇宙センター([[調布飛行場]])。
|-style="background:#efefef;color:black
|[[セスナ サイテーション]]
|[[飛翔]](ひしょう)
|
|1機
|2012年導入 JA68CE<br>ジェット機が主流である21世紀のニーズに対応し、またより高高度で高速な環境での宇宙航空の技術研究を支援するため、ジェットFTB(Flying Test Bed)「飛翔」を導入。母機であるセスナ式680型に、さまざまな計測装置やデータ収録装置を搭載・改造した機体である。<br>定置場所は名古屋空港飛行研究拠点([[小牧基地]])。
|-style="background:#efefef;color:black
|[[BK117]]
|実験用ヘリコプター
|
|1機
|2013年導入 JA21RH<br>ヘリコプターの利用拡大に向けたヘリコプター飛行技術の開発に活用するため、実験用航空機として改造中である。<br>定置場所は調布航空宇宙センター。
|}
</div></div>
'''退役'''
* [[MH2000]]
1999年〜2013年に運用された実験用ヘリコプター。MuPAL-ε(ミューパル・イプシロン)の愛称が存在した。JA21ME。定置場所は調布航空宇宙センター。
* [[ビーチクラフト クイーンエア]]モデル65
1962年に航空技術研究所(航空宇宙技術研究所の前身)の実験用航空機として就役し、2011年に老朽化のため退役した<ref>航空技術部門 実験用航空機レポート2011年10月28日より</ref>。JA5111。定置場所は調布航空宇宙センター。
* [[ビーチクラフト ボナンザ]]モデルA36
2007年に中古機(N67933)を導入し、DREAMS(次世代運行システム)プロジェクトの技術実証機として運用。プロジェクト終了にともない2015年に売却。JA36AK
== 予算と人員規模 ==
2010年(平成22年)度の宇宙開発予算を先進国の宇宙機関同士で比較すると、[[アメリカ航空宇宙局]](NASA)が約1兆7,597億円(さらに同規模の予算が[[アメリカ合衆国国防総省]]から支出、2009年度の宇宙開発予算総額は約4.6兆円<ref name="nissay">{{Cite web|和書|author=上野剛志(ニッセイ基礎研究所) |date=2010-10-01 |url=https://web.archive.org/web/20101031030628/http://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/08.html |title=第8回:「はやぶさ」で脚光!日本の宇宙予算は「3390億円」 |work=数字で読み解く23歳からの経済学 |publisher=[[日本生命保険]] |accessdate=2020-01-11 |quote=現在はインターネットアーカイブ内に残存}}</ref>)、[[欧州宇宙機関]](ESA)が約5,018億円(2007年度の宇宙開発予算総額は約8,000億円<ref name="nissay" />)であるのに対し、JAXAの実質的な予算額はわずか1,800億円とNASAの10分の1程度である<ref name="kongo22">[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/utyuu/seisaku_kaigi/dai3/siryou3_2.pdf 宇宙航空研究開発機構の事業と今後の課題について 平成22年3月16日] (PDF)</ref>。
なお1,800億円という額は、[[内閣官房]]予算で開発される[[情報収集衛星]](IGS)の毎年約400億円のJAXA分受託費用を除外した額であり、これを加えた場合のJAXAの予算は約2,200億円、他省庁の予算も含めた宇宙開発予算総額は3,390億円になる<ref name="nissay" />。
ロケットの開発費で比較すると、前任者から改良開発されたNASAの[[デルタIV]] の開発費は2,750億円、[[アトラスV]]の開発費は2,420億円であるのに対し、H-IIを技術的基盤に同じく改良開発された[[H-IIAロケット|H-IIA]]と[[H-IIBロケット|H-IIB]]の開発費合計額は約1,802億円であり、2機種合わせても1,000億ほど安く開発されている<ref name="戦略2324">{{PDFlink|[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/utyuu/senmon/dai12/siryou3_2.pdf わが国の宇宙輸送系の現状と今後の方向性 平成23年2月24日]}} 首相官邸公式サイト 宇宙開発戦略本部)</ref>。
さらに前身のNASDAを見ても、全段新規開発されたESAの主力ロケットの[[アリアン5]]シリーズの開発費約8,800億〜9,900億円に対し、同じく全段新規開発された[[H-IIロケット|H-II]]の開発費は2,700億円で3分の1以下である<ref name="戦略2324" />。
人員で比較するとアメリカの約4万3,500人(NASA約1万8,500人+アメリカ戦略軍約2万5,000人)、欧州の約1万195人(ESA約1,900人+[[フランス国立宇宙研究センター|CNES]]約2,400人+[[ドイツ航空宇宙センター|DLR]]約5,600人+[[イタリア宇宙機関|ASI]]約250人+[[イギリス国立宇宙センター|BNSC]]約45人)、[[インド宇宙研究機関]]の約1万3,600人に対して、JAXAはNASAの10分の1以下の1,571人である<ref name="kongo22" />。なおJAXA発足以降、人員は漸減傾向にある<ref>{{Cite report |和書|year=2010 |title=社会環境報告書2010 |url=https://www.jaxa.jp/about/iso/report/pdf/JAXA_2010.pdf#page=28 |format=PDF |publisher=宇宙航空研究開発機構 |pages=28-29 |accessdate=2020-01-11 |quote=『JAXAの経営計画、組織と人員』項より}}
</ref>。
== 組織 ==
=== 役員一覧 ===
* 理事長:[[山川宏 (宇宙工学者)|山川宏]]
* 副理事長:佐野久
* 理事:布野泰広、寺田弘慈、佐々木宏、[[國中均]]、張替正敏、石井康夫、[[大山真未]]
* 監事:三宅正純、小林洋子(非常勤)<ref name="yakuin">{{Cite web|和書|url=https://www.jaxa.jp/about/director/index_j.html |title=役員図 |date=2020-04-01 |accessdate=2020年7月23日 |publisher=JAXA}}</ref>
=== 歴代理事長 ===
* 初代(2003年10月 - 2004年11月):[[山之内秀一郎]](元[[日本国有鉄道]]常務理事・[[東日本旅客鉄道]]会長)
* 第2代(2004年11月 - 2013年3月):[[立川敬二]](元[[NTTドコモ]]社長 相談役)
* 第3代(2013年4月 - 2018年4月) :[[奥村直樹]](元[[新日本製鐵]]副社長)
* 第4代(2018年4月 - ):[[山川宏 (宇宙工学者)|山川宏]](京都大学教授)<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2861760027032018EAF000/ |title=JAXA理事長に山川氏起用 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2018-03-27 |accessdate=2018-09-09}}</ref>
=== 部門 ===
以下の各部が管理業務を行い、各部門ごとに下部組織に分かれ各研究テーマや開発業務を行っている(2016年3月1日時点)<ref name="sosiki160301">{{Cite web|和書|url=https://www.jaxa.jp/about/org/pdf/org_j.pdf |format=PDF |title=組織図 |date=2016-03-01 |accessdate=2016-03-06 |publisher=JAXA}}</ref>。
* 各部
: 経営推進部、評価・監査部、総務部、人事部、財務部、調達部、筑波宇宙センター管理部、広報部、調査国際部などの管理部門。
* 第一宇宙技術部門
: [[H-IIAロケット]]をはじめとする[[ロケット]]の打ち上げおよび[[人工衛星]]システムの研究開発と利用の促進など(旧・[[宇宙開発事業団]])。
* 第二宇宙技術部門
: 詳細不明
* 有人宇宙技術部門
: [[国際宇宙ステーション]]の日本実験モジュール「[[きぼう]]」や宇宙ステーション補給機「[[宇宙ステーション補給機|HTV]]」など有人宇宙システムに関する研究開発や利用の促進など。
* 宇宙探査イノベーションハブ
** 宇宙探査実験棟
[[File:JAXA-Sagamihara-Space-Exploration-Field.jpg|thumb|宇宙探査実験棟]]
* [[宇宙科学研究所]](ISAS=アイサス)
: 惑星探査機、天体観測衛星、工学試験衛星の開発および運用など。[[総合研究大学院大学]]に参加している(旧・宇宙科学研究本部)。
* 航空技術部門
: 日本の航空産業のための航空技術の研究開発(旧・[[航空宇宙技術研究所]]・研究開発本部航空部門)。
* 研究開発部門
: 航空宇宙技術の基盤研究・将来に向けた技術開発や各プロジェクトへの技術支援など(旧・宇宙開発事業団技術開発部門・[[宇宙科学研究所]]技術研究部門)。
== 施設・事業所 ==
=== 事務・駐在員(宇宙飛行士を含む)関係部署および研究所 ===
{{Multiple image
|direction = vertical
|width = 220
|image1 = JAXA Head office.JPG
|caption1 = 宇宙航空研究開発機構本社(東京都調布市)
|image2 = Tsukuba Space Center Main Gate.jpg
|caption2 = 筑波宇宙センター正門
|image3 = H-IIA F13 launching KAGUYA.jpg
|caption3 = [[種子島宇宙センター]]([[鹿児島県]][[種子島]])
}}
* 本社(東京都調布市) - [[調布航空宇宙センター]]の敷地内。
* 東京事務所(東京都[[千代田区]]) - [[御茶ノ水ソラシティ]]内。主務官庁などとの連絡調整部署と衛星利用運用センター。
** [[JAXAi|JAXA i]] - 東京丸の内の[[丸の内オアゾ|OAZO]]内に設置された広報施設。2010年末に閉館した。
** 宇宙利用推進センター大手町分室 - 宇宙利用ミッション本部の分室。主として、今後の宇宙開発利用における企業向けのPRを実施。
* [[JAXA相模原キャンパス|相模原キャンパス]](神奈川県[[相模原市]]) - [[宇宙科学研究所]]のメインキャンパス。
** [[宇宙教育センター]] - コズミックカレッジなどの主催・関連団体と提携し実施<!--
* 名古屋駐在員事務所([[愛知県]][[名古屋市]]) - 開発メーカー事業所との連絡調整部署。(廃止)-->
* 関西サテライトオフィス([[大阪府]][[東大阪市]]) - [[産学官連携]]オフィス。関西の宇宙産業を担う人々の近くに設置されたオフィス。
* [[名古屋空港飛行研究拠点]]([[愛知県]][[西春日井郡]][[豊山町]]) - 飛行実験研究の拠点。
* [[西日本衛星防災利用研究センター]]([[山口県]][[宇部市]])- 政府関係機関の地方移転の一環として、山口県はJAXAの研究拠点の設置を国に提案した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=おいでませ知事室 JAXAが山口県にやって来ました! - 山口県ホームページ |url=https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/soshiki/19/11282.html |website=www.pref.yamaguchi.lg.jp |access-date=2023-03-16}}</ref>。これを受けて、筑波宇宙センターの一部機能を移転し、2017年2月、[[宇部新都市]](あすとぴあ)の[[山口県産業技術センター]]内に設置された施設<ref>{{Cite web|和書|title=JAXA {{!}} 西日本衛星防災利用研究センター |url=https://www.jaxa.jp/about/centers/rscd/index_j.html |website=JAXA {{!}} 宇宙航空研究開発機構 |access-date=2023-03-16 |language=ja}}</ref><ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=JAXAの衛星データ活用、山口県など利用協定 防災などで - 日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLZO07248580U6A910C1LC0000/ |website=www.nikkei.com |access-date=2023-03-16}}</ref>。山口県、[[山口大学]]と協力して、衛星データの自治体防災への活用、災害解析技術の開発、衛星データ解析ができる人材の育成、衛星データを利用した新事業創出の支援などを行っている<ref>{{Cite web|和書|title=事業概要 |url=https://earth.jaxa.jp/ja/about/ |website=JAXA 第一宇宙技術部門 Earth-graphy |access-date=2023-03-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=S-NET 特集FRONT RUNNER 衛星データの活用に取り組む、「山口県モデル」とは?山口県 / 株式会社アグリライト研究所 / 農事組合法人二島西 |url=https://s-net.space/special/frontrunner/26.html |website=S-NET 宇宙ビジネス情報ポータルサイト |access-date=2023-03-16 |language=jp}}</ref>。
* ワシントン駐在員事務所([[アメリカ合衆国]]・[[ワシントン特別区]]) - [[アメリカ航空宇宙局]]などとの連絡調整・広報事務所。
* バンコク駐在員事務所([[タイ王国|タイ]]・[[バンコク]]) - タイ衛星受信局の技術支援、東南アジアの宇宙関連機関との連絡調整。
* パリ駐在員事務所([[フランス]]・[[パリ]]) - [[ヨーロッパ宇宙機関]]との連絡事務所。
=== 有人宇宙利用関連駐在事務所 ===
* ケネディ宇宙センター駐在員事務所(アメリカ合衆国・[[フロリダ州]]) - [[アメリカ航空宇宙局]][[ケネディ宇宙センター]]
* ヒューストン駐在員事務所(アメリカ合衆国・[[テキサス州]]) - [[アメリカ航空宇宙局]][[ジョンソン宇宙センター]]
=== 宇宙航空研究開発・打ち上げ・管制実務担当施設 ===
* [[筑波宇宙センター]](茨城県つくば市)
* [[調布航空宇宙センター]](東京都調布市)
* 相模原キャンパス(神奈川県相模原市)
==== 射場 ====
* [[種子島宇宙センター]]([[鹿児島県]][[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[南種子町]])
* [[内之浦宇宙空間観測所]](鹿児島県[[肝属郡]][[肝付町]])
==== 実験・開発施設 ====
* [[能代ロケット実験場]]([[秋田県]][[能代市]]) - 主に固体ロケットモーターの試験、振動実験や破壊型実験等を行う施設。
* [[角田宇宙センター]]([[宮城県]][[角田市]]) - 液体燃料ロケットエンジン開発を実施している施設。打ち上げ前エンジン燃焼試験などを行う施設を併設。
==== 大気圏観測・宇宙観測施設 ====
* [[三陸大気球観測所]]([[岩手県]][[大船渡市]]) - [[気球]]を用いた、高高度(成層圏)観測を行う施設(2007年で放球実験終了)。
* [[大樹航空宇宙実験場]]([[北海道]][[大樹町]]) - 航空機による試験など実施してきたが、2008年度より大気球実験にも使用。
* [[地球観測センター]]([[埼玉県]][[比企郡]][[鳩山町]])- 1978年10月に設置された。衛星からのデータを受信し、筑波宇宙センターに送り、研究機関や大学、国内外のユーザにコンピュータ処理して提供している。環境問題の解明や災害監視、資源調査などに利用されている。
* [[臼田宇宙空間観測所]]([[長野県]][[佐久市]])
* [[上斎原スペースガードセンター]]([[岡山県]][[苫田郡]][[鏡野町]])- [[宇宙状況認識|宇宙状況把握]](SSA)システムの[[レーダー]]で、高度200~1,000kmの低軌道帯([[地球観測衛星]]などの軌道)にある[[スペースデブリ]]を観測する施設<ref>{{Cite web|和書|title=JAXA {{!}} 上斎原スペースガードセンター |url=https://www.jaxa.jp/about/centers/ksgc/index_j.html |website=JAXA {{!}} 宇宙航空研究開発機構 |access-date=2023-03-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=JAXA|宇宙航空研究開発機構 追跡ネットワーク技術センター |url=https://track.sfo.jaxa.jp/facilities/kamisaibara_bisei.html#kamisaibara |website=track.sfo.jaxa.jp |access-date=2023-03-16}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=JAXA {{!}} 宇宙状況把握(SSA)システム |url=https://www.jaxa.jp/projects/ssa/index_j.html |website=JAXA {{!}} 宇宙航空研究開発機構 |access-date=2023-03-16 |language=ja}}</ref>。
* [[美星スペースガードセンター]]([[岡山県]][[井原市]])- 宇宙状況把握(SSA)システムの[[光学望遠鏡]]で、高度36,000kmの高軌道帯([[通信衛星]]や[[気象衛星]]などの軌道)にあるスペースデブリを観測する施設<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=JAXA {{!}} 美星スペースガードセンター |url=https://www.jaxa.jp/about/centers/bsgc/index_j.html |website=JAXA {{!}} 宇宙航空研究開発機構 |access-date=2023-03-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=JAXA|宇宙航空研究開発機構 追跡ネットワーク技術センター |url=https://track.sfo.jaxa.jp/facilities/kamisaibara_bisei.html#bisei |website=track.sfo.jaxa.jp |access-date=2023-03-16}}</ref>。
==== 宇宙通信施設 ====
* [[勝浦宇宙通信所]]([[千葉県]][[勝浦市]]) - 地球軌道上にある衛星の追跡・管制を行う施設。
* [[増田宇宙通信所]]([[鹿児島県]][[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[中種子町]]) - 打ち上げ後のロケットの追跡、地球軌道上にある衛星の追跡・管制を行う施設。
* [[沖縄宇宙通信所]]([[沖縄県]][[国頭郡]][[恩納村]]) - 地球軌道上にある衛星の追跡・管制を行う施設。
==== 打ち上げ管制施設 ====
* [[小笠原追跡所]]([[東京都]][[小笠原村]]父島) - 打ち上げ後のロケットを追跡を行う施設。
*クリスマス島臨時追跡所([[キリバス共和国]][[キリスィマスィ島|クリスマス島]]) - 静止軌道への衛星の投入の際に衛星本体を追跡し通信を行う施設。JAXAの公式ホームページからは削除。静止衛星投入時のみ、借受運用を実施。
==== 深宇宙ミッション用臨時通信施設 ====
* [[チリ共和国|チリ]][[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ市]]郊外
* [[オーストラリア連邦|オーストラリア]][[パース (西オーストラリア州)|パース市]]郊外
* [[スペイン]]領[[カナリア諸島]]
電波通信施設を借り受け運用中。
== 不祥事 ==
=== 情報漏洩事件 ===
'''2011年8月検出分'''
2011年8月11日にJAXA職員用[[パソコン]]1台が異常を検出、同月17日[[コンピューターウイルス]]に感染していることが判明した。その後、このウイルスを駆除しても異常が続いたため継続して調査したところ、別の新種のウイルスも情報を収集していたこと、7月6日から8月11日までに外部に情報を送信していたことが判明し、この事実を2012年1月13日に発表した。漏洩した可能性のある情報は「端末に保存されていた[[メールアドレス]]」、「宇宙ステーション補給機(HTV)の仕様や運用に関連する情報」、「当該端末からアクセスしたシステムへの[[ログイン]]情報」である{{R|jaxa20120113}}。感染経路は、2011年7月6日に職員宛に送られてきたメールの[[添付ファイル]]を、新種のウイルスが仕込まれた標的型攻撃メールと気付かずに職員が開けたことによるものであるとされた{{R|JAXA12327}}<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20120116/378553/ JAXAのパソコンにウイルス、「こうのとり」の情報などが漏洩の恐れ] It pro 2012年1月16日</ref>。この標的型攻撃メールは、職員の知人の送信者名で職員を飲み会へ誘う件名で送信されていた<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1201/13/news119.html のウイルス感染は標的型メールの疑い、NASA関連の情報も漏えい] ITmedia 2012年1月13日</ref>。
2012年[[3月27日]]に調査結果が発表され、「当該端末の中に入っていた情報および当該端末が業務中に表示した画面情報が漏洩したが、当該端末内に機微な情報が保存されていなかったこと、ならびに当該端末では当該期間中にHTVの仕様や運用に関する機微な情報が扱われていなかったこと」、「当該端末からアクセスしたシステムへのログイン情報が漏洩したが、当該端末内に機微な情報が保存されていなかったこと、ならびに当該端末では当該期間中にHTVの仕様や運用に関する機微な情報が扱われていなかったこと」、「メールアドレスの個々の漏洩は特定できなかったこと」が明らかにされた<ref name="JAXA12327" />。
'''2012年11月検出分'''
2012年11月21日、社内ネットワークに接続された筑波宇宙センターの職員業務用パソコン1台でコンピューターウイルスを検知、28日にこのパソコンが「イプシロンロケットの仕様や運用に関わる情報」および「イプシロンロケット開発に関連するM-Vロケット、H-IIAロケットおよびH-IIBロケットの仕様や運用に関わる情報」などの情報を収集し、外部に送信していた可能性があることが判明し、この事実を同月30日に発表した{{R|jaxa20121130}}<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG30028_Q2A131C1CC0000/ 宇宙機構でPCウイルス感染 ロケットの情報漏洩か] 日本経済新聞 2012年11月30日</ref>。同30日は[[三菱重工]]も宇宙事業関連情報が新型ウイルスにより外部に流出していた可能性があることを発表した<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG3004F_Q2A131C1CC1000/ 三菱重工でもウイルス感染 宇宙関連情報、漏洩か] 日本経済新聞 2012年11月30日</ref>。
2013年2月19日に調査結果が発表された。情報流出の原因となったウイルスの感染経路は、[[東日本大震災]]の4日後の[[3月15日]]に送られてきた被災者への支援金給付の案内を装ったなりすましメールの添付ファイルを、それと気付かずに職員が開けたことにあった<ref>[https://web.archive.org/web/20130223024538/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130220/k10015635651000.html JAXAウイルス感染原因は震災メール] NHKニュース・2013年2月20日付け《2020年1月11日閲覧;現在はインターネットアーカイブ内に残存》</ref>。感染した端末に保存されていた情報は2011年[[3月17日]]から2012年11月21日までの1年5か月間、外部に送信され続けていた{{R|jaxa20130219}}。
'''2013年4月検出分'''
2013年4月18日にJAXAのサーバーの定期検査を行ったところ、4月17日深夜に何者かが筑波宇宙ステーションに勤務する職員のIDパスワードを使って不正にサーバに侵入していたことが判明した。また、これにより「国際宇宙ステーション日本実験棟「きぼう」の運用準備に使われる参考情報」、「「きぼう」運用関係者の複数のメーリングリスト」の情報が流出した可能性があることも判明し、JAXAはこの事実を同月23日発表した{{R|jaxa20130423}}<ref>{{Cite news
|title = JAXAにまた不正アクセス
|url = http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130423/t10014130401000.html
|date = 2013-04-23
|newspaper = NHKニュース
|publisher = 日本放送協会
|accessdate = 2013-04-22
|archiveurl = https://megalodon.jp/2013-0424-0948-29/www3.nhk.or.jp/news/html/20130423/t10014130401000.html
|archivedate = 2013-04-22
}}</ref>。その発表によると、不正なアクセスは日本と[[中国]]からされており、漏洩した可能性のある情報は、きぼうの作業手順書など18件と、JAXAや[[米航空宇宙局]](NASA)の職員ら延べ約190人のメールアドレスリストだという<ref>[https://web.archive.org/web/20130424093423/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130423/crm13042319490015-n1.htm きぼう情報流出か…JAXAに不正アクセス、国内と中国から接続。運用には支障なし] - 産経ニュース・2013年4月23日付け《2020年1月11日閲覧;現在はインターネットアーカイブ内に残存》</ref>。
=== 汚職事件 ===
{{main|文部科学省汚職事件#国際統括官の逮捕}}
=== その他の不祥事 ===
* 2013年5月14日、JAXA[[角田宇宙センター]]に勤務していた46歳の主任研究員が、2009年ごろに知り合った女と共謀し、JAXAのロケット開発に関する[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]更新を架空発注、2011年4月にその女が代表を務めていた東京のペーパーカンパニーに対しJAXAから現金約97万円を振り込ませたとして、[[宮城県警察|宮城県警]]に[[詐欺罪|詐欺]]容疑でその女とともに逮捕された。その後、当該主任研究員は2016年に有罪判決を受け、懲戒解雇されている<ref>{{Cite news |和書|title=JAXA職員が架空発注で97万円だまし取る 詐欺容疑で逮捕 宮城県警 |newspaper=[[産経新聞|MSN産経ニュース]] |date=2013-05-14 |url=https://web.archive.org/web/20130520171739/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130514/crm13051420210022-n1.htm |accessdate=2020-01-11 |quote=現在はインターネットアーカイブ内に残存}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=JAXA元職員、研究開発業務の偽装発注で賠償命令 |newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM(サンスポ)]] |date=2019-01-28 |url=https://www.sanspo.com/geino/news/20190128/tro19012817590003-n1.html |accessdate=2020-01-11}}</ref>{{R|jaxa20130514}}。
== コーポレートスローガン ==
JAXA発足以来、「空に挑み、宇宙を拓く」が使用されてきたが、2013年10月にJAXA発足10周年を記念して、新たに「Explore to Realize」と定められた{{R|jaxa20131009}}。
== イメージソング ==
JAXA が2004年(平成16年)末から2005年(平成17年)夏にかけて行った「JAXA宇宙の音楽募集キャンペーン」で募集した曲の中から審査員や一般投票による審査の結果、グランプリとなった [[ALEX (音楽プロジェクト)|E.Bakay]] / Vocal [[河合夕子]]の『Radio Emission』がJAXAのイメージソングに採用された。また、他の最終審査会出場の作品とともに公開されている<ref>[https://web.archive.org/web/20070222105730/http://www.jaxa.jp/event/music/index_j.html JAXAのイメージソング] - JAXA《2020年1月11日閲覧;現在はインターネットアーカイブ内に残存》</ref>。
== JAXAに関係する日本政府の宇宙開発関連機関 ==
=== 最高戦略決定機関 ===
{{main|宇宙開発戦略本部}}
各省庁ごとに分かれている宇宙開発政策を統合して一元的な宇宙開発を推進することを目的として、2008年8月27日に[[宇宙基本法]]が施行され、[[内閣]]に日本の宇宙基本計画における最高戦略決定機関となる[[宇宙開発戦略本部]]が設置されている。本部長は[[内閣総理大臣]]、副本部長は[[内閣官房長官]]と[[内閣府特命担当大臣(宇宙政策担当)|宇宙政策担当大臣]]、本部員はすべての[[国務大臣]]が務め、日本の宇宙開発における基本方針となる宇宙基本計画を策定する。宇宙基本計画に付帯される宇宙基本計画工程表では、JAXAも含めた日本の宇宙機関が行う宇宙機の開発と打ち上げの今後の長期的なスケジュールが示される。事務機能は後述の[[内閣府]]の宇宙開発戦略推進事務局が行う。
=== 企画立案・省庁間調整機関 ===
2012年7月13日に、宇宙政策の立案と各省間の統合調整を行う宇宙審議官を長とした要員数約30人の宇宙戦略室が[[内閣府]]の下に発足した。各省やJAXAなどの官側の司令塔的存在となる宇宙戦略室は、宇宙開発に関する企画立案と各省の調整を行い、宇宙政策委員会に策定した宇宙開発計画を報告し、調査と審議を受けていた。宇宙戦略室長は[[内閣官房]]の宇宙戦略本部事務局の事務局長代理を兼ね、宇宙戦略室の一部の幹部は宇宙戦略本部事務局付の事務局員でもあった。2016年4月1日に、内閣官房のスリム化の一環として宇宙開発戦略本部事務局が廃止、内閣府の宇宙戦略室が[[宇宙開発戦略本部#宇宙開発戦略推進事務局|宇宙開発戦略推進事務局]]に改組され、宇宙開発戦略本部の事務機能も受け継ぐことになった<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS26H6Z_W5A120C1PP8000/ 内閣府と内閣官房の業務見直し、4つの組織を廃止 行革会議] 日本経済新聞 2016年1月26日</ref><ref>[https://www8.cao.go.jp/space/index.html 内閣府ホーム > 宇宙政策]</ref>。[[準天頂衛星システム]]は内閣府が所管することから、宇宙開発戦略推進事務局内には準天頂衛星システム戦略室が設置されている<ref>[https://www.cao.go.jp/about/meibo.html 内閣府ホーム > 組織・制度 > 内閣府について > 幹部名簿]</ref>。
=== 計画の審議・評価機関 ===
{{main|宇宙政策委員会}}
2012年7月11日まで、JAXAは文部科学省に付随する[[審議会]]である[[宇宙開発委員会]](最初は1968年に[[総理府]]に設置)<ref>[https://web.archive.org/web/20190517071230/http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/uchuu/index.htm 文部科学省:宇宙開発委員会のページ] ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存</ref>により宇宙開発計画の審議と評価を、[[航空科学技術委員会]]<ref>[http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/004/index.html 文部科学省:航空科学技術委員会のページ]</ref>により航空科学技術研究計画の審議と評価を受けていた。
2012年7月、宇宙戦略室の発足とともに文部科学省宇宙開発委員会が廃止され、宇宙開発戦略本部の本部長の内閣総理大臣の諮問を受けて宇宙開発計画の妥当性の審議や各省や宇宙機関への勧告を行う、7人以内の非常勤の有識者により構成される[[宇宙政策委員会]]と同委員会下の各部会も内閣府の下に発足した<ref>[https://www8.cao.go.jp/space/comittee/dai12/siryou1.pdf 第7回宇宙開発戦略本部資料]、宇宙開発戦略本部</ref>。
またJAXAを所掌する省庁別で見れば、宇宙開発委員会が廃止された文部科学省においては、科学技術・学術審議会の研究計画・評価分科会宇宙開発利用部会と航空科学技術委員会が本法人の研究開発に対する審議と評価を行うほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/059/attach/1362302.htm |title=宇宙開発利用部会(第8期)の調査審議について |date=2016-04-19 |accessdate=2016-06-15 |publisher=文部科学省}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/004/houkoku/1338016.htm |title=航空科学技術に関する研究開発の推進のためのロードマップ(2013)|date=2013-06-21 |accessdate=2016-06-15 |publisher=文部科学省}}</ref>、2015年(平成27年)度以降はJAXAを所掌する総務・文部科学・経済産業の各省下に共通して設置された国立研究開発法人審議会の宇宙航空研究開発機構部会と、内閣府宇宙政策委員会の下に設置された国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構分科会も本法人全体の審議と評価を行う<ref>{{Cite web|和書|url=https://www8.cao.go.jp/space/comittee/bunkakai/bunkakai-dai2/siryou1.pdf |format=PDF |title=平成26年度業務実績評価の進め方について |accessdate=2016-06-15 |publisher=宇宙政策委員会}}</ref>。JAXAはこれらの機関の指導・監督を受けて宇宙開発の実務にあたることになる。以下に2019年(平成31年)度の主な審議・評価機関を列挙する。
'''内閣府'''
* 宇宙政策委員会
** 宇宙安全保障部会
** 宇宙民生利用部会
** 宇宙産業・科学技術基盤部会
*** 宇宙法制小委員会
*** 宇宙科学・探査小委員会
** 国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構分科会
'''文部科学省'''
* 科学技術・学術審議会 研究計画・評価分科会 宇宙開発利用部会
* 科学技術・学術審議会 研究計画・評価分科会 航空科学技術委員会
総務・文部科学・経済産業省共通
* 国立研究開発法人審議会 宇宙航空研究開発機構部会
== JAXAに関係する日本政府以外の関連団体 ==
=== 管理運営先 ===
* 財団法人「[[日本宇宙少年団]]」(YAC)
* 財団法人「[[日本宇宙フォーラム]]」(JSF)
* 財団法人「[[リモートセンシング技術センター]]」(RESTEC)
* NPO法人「[[日本スペースガード協会]]」(JSGA)
=== 加盟団体・事務局 ===
* 社団法人[[日本航空宇宙工学会]]
* 社団法人[[日本航空工学会]]
* 社団法人[[日本宇宙工学会]]
* 宇宙開発協議会(産官学連携機構)
=== 業務委託・提携先 ===
* [[ギャラクシーエクスプレス]](倒産)
* [[IHIエアロスペース]]
* [[京セラ]]
* [[三菱重工業]]
* [[宇宙開発協同組合SOHLA]]
* [[日本電気]]
* [[日本飛行機]]
* [[日本航空電子工業]]
* [[明星電気]]
* その他(施設管理や飛行士訓練などで役務を受けている)
=== 加盟団体 ===
* [[惑星協会|日本惑星協会]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|25em|refs=
<ref name="jaxa20110826">{{Cite press release
|和書
|url=https://www.jaxa.jp/press/2011/08/20110826_hayabusa_j.html
|title=米科学誌「サイエンス」における「はやぶさ」特別編集号の発行について
|publisher=JAXA
|date= 2011-08-26}}</ref>
<ref name="jaxa20120113">{{Cite press release
|和書
|url=https://www.jaxa.jp/press/2012/01/20120113_security_j.html
|title=JAXAにおけるコンピュータウイルス感染の発生について
|publisher=JAXA
|date=2012-01-13}}</ref>
<ref name="JAXA12327">{{Cite press release
|和書
|url=https://www.jaxa.jp/press/2012/03/20120327_security_j.html
|title=コンピュータウイルス感染に関する調査結果について
|publisher=JAXA
|date=2012-03-27}}</ref>
<ref name="jaxa20120719">{{Cite press release
|和書
|url=https://www.jaxa.jp/press/2012/07/20120719_kounotori3_j.html
|title=宇宙ステーション補給機「こうのとり」3号機 (HTV3) の打上げについて
|date=2012-07-19
|publisher=JAXA}}</ref>
<ref name="jaxa20121130">{{Cite press release
|和書
|url=https://www.jaxa.jp/press/2012/11/20121130_security_j.html
|title=JAXAにおけるコンピュータウイルス感染の発生及び情報漏洩の可能性について
|publisher=JAXA
|date=2012-11-30}}</ref>
<ref name="jaxa20130219">{{Cite press release
|和書
|url=https://www.jaxa.jp/press/2013/02/20130219_security_j.html
|title=JAXAにおけるコンピュータウィルス感染に関する調査結果について<!--原典が"ウィルス"表記のためそのままにする。なお、ガイドライン等で表記の変更に問題無しの判断がある場合はガイドラインの考えを優先する-->
|publisher=JAXA
|date=2013-02-19}}</ref>
<ref name="jaxa20130423">{{Cite press release
|和書
|url=https://www.jaxa.jp/press/2013/04/20130423_security_j.html
|title=JAXAのサーバーに対する外部からの不正アクセスについて
|publisher=JAXA
|date=2013-04-23}}</ref>
<ref name="jaxa20130514">{{Cite press release
|和書
|url=https://www.jaxa.jp/press/2013/05/20130514_incident_j.html
|title=機構職員の逮捕について
|publisher=JAXA
|date=2013-05-14}}</ref>
<ref name="jaxa20131009">{{Cite press release
|和書
|url=https://www.jaxa.jp/press/2013/10/20131009_jaxa_j.html
|title=新しいJAXA理念とコーポレートスローガンについて
|publisher=JAXA
|date=2013-10-09}}</ref>
}}
== 参考資料 ==
{{参照方法|date=2011年2月|section=1}}
'''条約・協定・法令・政令関係'''
* [https://www.jaxa.jp/library/space_law/contents_j.html 原典宇宙法](JAXA内サイト)
*内閣府, 宇宙計画委員会資料
*日本学術会議、第3部資料
*省庁間連絡会議、宇宙利用推進協議会
'''研究開発関連'''
*文部科学省、高等学術研究審議会資料
* [[国立大学法人]][[総合研究大学院大学]]
* [https://repository.exst.jaxa.jp/dspace/index.jsp?locale=ja JAXAリポジトリ](JAXA内サイト)
* [https://repository.exst.jaxa.jp/dspace/help/press.pdf JAXA出版物について](JAXA内サイト)
* [https://repository.exst.jaxa.jp/dspace// 宇宙航空文献情報公開システム(AIREX)](JAXA内サイト)
'''各国宇宙航空研究開発公開資料'''
* [https://www.nasa.gov/ アメリカ航空宇宙局]
* [https://www.esa.int/ ヨーロッパ宇宙機関]
* [http://www.federalspace.ru/ ロシア連邦宇宙局]
'''データ集'''
* 国立天文台(編) 『[[理科年表]]』 丸善
'''宇宙開発ポータル'''
* [http://www.universe-s.com/ 宇宙のポータルサイトUniverse]
== 関連図書 ==
*『宇宙おもしろ実験図鑑』(協力:宇宙航空研究開発機構 発行:[[PHP研究所]])2012年 {{ISBN2|978-4-569-78228-7}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|宇宙開発|[[ファイル:RocketSunIcon.svg|34px|Portal:宇宙開発]]}}
* [[アジアの宇宙競争]]
* [[日本の宇宙開発]]
** [[日本の宇宙機の一覧]]
** [[日本人の宇宙飛行]]
** [[:Category:日本のロケット|日本のロケット]]
*** [[:Template:日本の衛星打ち上げロケット|衛星打ち上げロケット]] - [[H-IIAロケット|H-IIA]] / [[H-IIBロケット|H-IIB]]
*** [[観測ロケット]] - [[S-310ロケット|S-310]] / [[S-520ロケット|S-520]] / [[SS-520]]
*** テストロケット - [[再使用ロケット実験|RVT]] / [[CALLISTO]]
* [[国際宇宙ステーション]]([[ISS]])
** [[きぼう]]
** [[宇宙ステーション補給機]] (HTV)
** [[船外活動]]([[宇宙遊泳]])
* [[はやぶさ (探査機)]]
* [[はやぶさ2]]
* [[宇宙兄弟]]
* [[J-SPARC]]
== 外部リンク ==
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* {{Official website|https://www.jaxa.jp/|name=JAXA|宇宙航空研究開発機構}}
* {{Twitter|JAXA_jp|JAXA(宇宙航空研究開発機構)}}
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妖しのセレス
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『妖しのセレス』(あやしのセレス)は、渡瀬悠宇による日本の少女漫画作品。また、それを原作にしたテレビアニメ。
天女を題材にし、サスペンスやSF要素を織り交ぜたファンタジー漫画。キャッチコピーは「天空お伽草子」。
『少女コミック』(小学館)にて連載された。第43回(平成9年度)小学館漫画賞を受賞している。
単行本は全14巻、文庫版全7巻。なお、派生作品に外伝および続編を描いた小説版がある。
短編漫画「妖しのセレス外伝」は少女コミック2001年18号付録にて掲載され、後に別の作品「ふしぎ遊戯 玄武開伝」の6巻に収録されている。
御景妖は、大財閥である御景家に連なるものの、両親と双子の兄―明と共に、ごく一般的な家庭で普通の女子高生として暮らしていた。が、16歳の誕生日に御景一族の慣例に従い、家族4人で本家の呼び出しに出向いた時から、人生が一変する。一族が揃う中、ミイラの手首を見た途端に妖は変身、明は全身に切り傷が現れたことで、自らが御景家の祖先であり、一族の災いの元になるといわれる天女の力を最も強く引き継ぐ生まれ変わりであると知らされる。災いを恐れる親族一同に、その場で殺されそうになった妖を助けたのは、危機を察した天女の血を引くという女性―梧納涼だった。納涼とその義弟―雄飛に保護された妖は梧家に居候しながら、徐々に自らの先祖である天女―セレスに目覚めていく。やがてセレスと対話するようになった妖は、セレスが追い求める羽衣を探す旅に出発し、同じく天女の子孫である来間千鳥(パラス)や司珠呂(ジュノー)との出会いで、御景一族によるC計画で、各地の天女の子孫達が次々に悲惨な状況に追いやられている現実を知る。
一方、御景財閥では若き統帥―各臣が、記憶喪失の謎の男―十夜を使って、各地の天女の子孫達を招集・実験するC計画を進めていた。また、御景家の始祖の生まれ変わりだと認められ、一族を率いる者として御景家に手厚い庇護を受けるようになった明は、妖を案じつつも、セレスから羽衣を奪い妻とした御景家始祖―ミカギの歪んだ恋心に侵蝕されていき、過酷な運命をたどることになる。
原作・渡瀬悠宇 作者・西崎めぐみ(パレット文庫)
2000年4月20日から9月28日までWOWOWにて放送。全24話。
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『妖しのセレス』(あやしのセレス)は、渡瀬悠宇による日本の少女漫画作品。また、それを原作にしたテレビアニメ。
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|タイトル= 妖しのセレス
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{{Infobox animanga/Manga
|作者= [[渡瀬悠宇]]
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{{Infobox animanga/TVAnime
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|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
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『'''妖しのセレス'''』(あやしのセレス)は、[[渡瀬悠宇]]による[[日本]]の[[少女漫画]]作品。また、それを原作にした[[テレビアニメ]]。
== 概要 ==
[[天女]]を題材にし、[[サスペンス]]や[[サイエンスフィクション|SF]]要素を織り交ぜた[[ファンタジー漫画]]。[[キャッチコピー]]は'''「天空[[お伽草子]]」'''。
『[[少女コミック]]』([[小学館]])にて連載された。第43回(平成9年度)[[小学館漫画賞]]を受賞している。
単行本は全14巻、文庫版全7巻。なお、派生作品に外伝および続編を描いた小説版がある。
短編漫画「妖しのセレス外伝」は少女コミック2001年18号付録にて掲載され、後に別の作品「[[ふしぎ遊戯 玄武開伝]]」の6巻に収録されている。
== あらすじ ==
=== 本編 ===
'''御景妖'''は、大財閥である御景家に連なるものの、両親と双子の兄―'''明'''と共に、ごく一般的な家庭で普通の女子高生として暮らしていた。が、16歳の誕生日に御景一族の慣例に従い、家族4人で本家の呼び出しに出向いた時から、人生が一変する。一族が揃う中、ミイラの手首を見た途端に妖は変身、明は全身に切り傷が現れたことで、自らが御景家の祖先であり、一族の災いの元になるといわれる[[天女]]の力を最も強く引き継ぐ生まれ変わりであると知らされる。災いを恐れる親族一同に、その場で殺されそうになった妖を助けたのは、危機を察した天女の血を引くという女性―'''梧納涼'''だった。納涼とその義弟―'''雄飛'''に保護された妖は梧家に居候しながら、徐々に自らの先祖である天女―'''セレス'''に目覚めていく。やがてセレスと対話するようになった妖は、セレスが追い求める[[羽衣]]を探す旅に出発し、同じく天女の子孫である'''来間千鳥(パラス)'''や'''司珠呂(ジュノー)'''との出会いで、御景一族によるC計画で、各地の天女の子孫達が次々に悲惨な状況に追いやられている現実を知る。
一方、御景財閥では若き統帥―'''各臣'''が、記憶喪失の謎の男―'''十夜'''を使って、各地の天女の子孫達を招集・実験するC計画を進めていた。また、御景家の始祖の生まれ変わりだと認められ、一族を率いる者として御景家に手厚い庇護を受けるようになった明は、妖を案じつつも、セレスから羽衣を奪い妻とした御景家始祖―'''ミカギ'''の歪んだ恋心に侵蝕されていき、過酷な運命をたどることになる。
=== 小説版「Episode of Tooya」 ===
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=== 小説版「Episode of Shuro」 ===
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=== 小説版「Episode of Aki」 ===
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=== 小説版「Episode of Miku」 ===
{{要あらすじ}}
== 登場人物 ==
=== 主要人物 ===
; 御景妖(みかげ あや)
: [[声優|声]] - [[かかずゆみ]]
: 本作の主人公。今時の女子高生であり、[[ケレース|天女セレス]]の[[生まれ変わり]]。「更科高校の[[安室奈美恵]]と呼ばれた女」と自称する[[カラオケ]]好きだが、勢いだけの音痴。天真爛漫で天衣無縫な性格。先祖代々保存されていた[[ミイラ]]化したセレスの手を見せられたことで覚醒し、御景の親戚に命を狙われることとなる。父親は自分を庇い殺され、母親は夫の死に精神的ダメージを受け[[昏睡]]状態となり、明さえも前世の関わりによって敵対した。戦いの中で次第に十夜と相思相愛となり、共に御景家と戦っていくことを誓う。セレスによると、満ち溢れた生命力があるらしい。
; セレス
: 声 - [[岩男潤子]]
: かつて天から来た[[天女]]。[[羽衣伝説|羽衣]]([[マナ]])を御景から取り返すため、妖の人格となり現れた。依り代である御景家の娘が16歳になるたび覚醒してきたが、御景家によって代々殺されてきた。御景一族を強く憎んでいるが、本来は優しい性格で御景以外の人間には優しい。明が御景一族の始祖ミカギの生まれ変わりと知り、命を狙う。羽衣を奪い、自分を辱め、子を産ませたとしてミカギを恨んでいたが、本心はまた別のところにあった。
; 十夜(とおや)
: 声 - [[小西克幸]]
: [[記憶喪失]]の青年。記憶を取り戻すため御景各臣の元で働いていたが、妖の監視や天女捕獲の命で接触するなかで妖を次第に愛するようになる。赤い髪(地毛)の美青年。
: 正体は羽衣(マナ)によって作られた特異体質の人間。始祖(ミカギ)が生前、妻(セレス)の羽衣を海へと投げ捨てたのが誕生のきっかけ。海中深くで羽衣が物質や微生物を取り込み、自分を動かす宿主を育んだ結果誕生<ref>どんな場所でも生き抜けるよう、記憶のままに生物にも物質にも細胞を変化させる性質を十夜に与えたのは、羽衣そのものである。</ref>。無人島に打ち上げられた際、偶然その島に滞在していた老人(神宮寺辰造)が[[粘膜]]に包まれた状態で浜辺に漂着していたのを発見し、10日の夜で成人に成長したことから「十夜」と名付けた。辰造と過ごしていた時期に幼き頃の妖と出会う。7年間妖を忘れられず、辰造の死をきっかけに妖に会うため東京に上京し、[[交通事故]]に遭って記憶喪失になる。覚えていた言葉が「十夜」と「みかげ(御景)」という言葉のみだったため、御景財閥に近付いた。
; 梧雄飛(あおぎり ゆうひ)
: 声 - [[伊藤健太郎 (声優)|伊藤健太郎]]
: 納涼の[[義兄弟姉妹|義弟]]。納涼の指示で、御景家から狙われる妖を護衛することになる。納涼お手製の「天女に服従しまっせベルト」をつけている。料理が得意。[[菜箸]]を使って戦闘する。次第に妖を愛するようになるが、十夜の存在により身を引いていく。物語終盤では千鳥の想いを受け止めており、千鳥の死に深く傷ついた。
; 梧納涼(あおぎり すずみ)
: 声 - [[浅野まゆみ]]
: 雄飛の義姉(兄の妻)。[[日本舞踊家]]。[[関西方言]]を話す黒髪の着物美人。天女の血を引いているため<!--妖ほどではないが-->念動能力がある。御景家で覚醒した妖の危険を察知し保護した。夫を亡くしたショックで流産した過去を持ち、亡き夫の残した分家と雄飛を守ることを生きる支えにしている。
; 小田玖(おだ きゅう)
: 声 - [[くじら (声優)|くじら]]
: 梧家の家政婦(?)。[[オバケのQ太郎|オバQ]]に瓜二つ。妖曰く「ホットおじさん似」。かなり世話焼きな性格で、アグレッシブな言動を見せる。どんな乗り物でも操る特技を持つ。顔芸が激しい。自分の亡き夫と十夜は似ているらしい(自称であって実際は似ていない)。
; 来間千鳥(くるま ちどり)
: 声 - [[川澄綾子]]
: [[栃木県|栃木]]の天女の血を引くCゲノマー。天女名'''[[パラス]]'''。妖と同じように天女化するとグラマラスな体型に変身し、<!--妖ほどではないが-->強い能力を持っている。親を交通事故で早くに亡くし、祖父母の元で弟と一緒に暮らしていた。小柄かつ童顔だが、妖や雄飛と同い年の高校生である(変身後の姿は前述通り体型に加え、年相応の背丈となる)。雄飛に恋しているが、雄飛の妖に対する気持ちを知っているため、二人の仲を取り持とうとした。御景家に祖父母を殺されたあげく拉致された後、救出に来た雄飛を庇い、アッサムに射殺された。
; 司珠呂(つかさ しゅろ)
: 声 - [[日下ちひろ|佐々木静香]]
: [[沖縄県|沖縄]]の天女の血を引く人気歌手。天女名'''[[ユーノー|ジュノー]]'''。生まれた時から強力な能力を持ち、男として育てられた。敬とGeSANGを結成するも、ほどなくして敬が薬の拒絶反応にて死亡したため、活動休止を経てソロに転向した。敬には恋心を抱いていた。珠呂自身も徐々に拒絶反応が表れ始め、身体を蝕まれる。最期は妖を救うため、コンサート会場で呪力を使いきり死亡した。
: 原作ではレギュラーキャラクターだったが、アニメ版では数話しか登場せず妖とは直接面識がない。原作での妖達との出会い編は[[妖しのセレス ドラマアルバム 天女の歌声〜The Hevenly Voice〜|ドラマCD天女の歌声]]として収録された。
{{節スタブ}}
=== 御景財閥 ===
; 御景明(みかげ あき)
: 声 - [[千葉進歩]]
: 妖の双子の兄で、天女の血を引く。始祖(=ミカギ)の生まれ変わり。先祖代々から保存されていたミイラの手を見せられたことで、体中に切り傷が現れ、始祖の生まれ変わりとして御景家から手厚く保護された。その後、[[フラッシュバック (心理現象)|異常現象(フラッシュバック)]]に苦しめられる日々を送る。妹思いの優しい兄だったが、覚醒したことにより前世の人格に支配される。
; ミカギ
: 声 - [[三木眞一郎]]
: 御景家の始祖で、御景明のもう1つの人格。元はセレスを愛した心優しい人間の青年だったが、セレスに力を与えられたことと、彼女を守ろうとする強い気持ちが引き金となり[[独裁者]]へと変貌した。セレスを失うことに怯え、自分を壊すほどに深く彼女を愛するようになった結果、お互いがすれ違って憎み合うようになった。C計画により復元された羽衣を身に付け、前世の姿を取り戻す。
; 御景各臣(みかげ かがみ)
: 声 - [[杉田智和]]
: 御景財閥の次期社長。C計画の責任者であり、妖と明の従兄。幼少時に再婚した母親の連れ子([[養子]])として御景家に入ったために冷遇され、満足な愛情を得られずに育った<ref>各臣の母親は再婚を通じて御景家に入った後、息子に躾の度を越えた[[虐待]]を受けさせた挙げ句、精神に異常をきたしたために入院生活を送っていた。</ref>。それ故、御影の血は一切引いていない人間であることに劣等感を持つ。御景本家で見つけた天女の写真に心惹かれ、天女(セレス)に強い憧れを持ち、疑似的な母性愛を得たいがために固執する。仕事の裏で、世界から天女の血を引く者達を集めて、能力のある[[子孫]]を作ろうとしている。
; 妖・明の祖父
: 声 - [[納谷六朗]]
: 御景家の当主。セレスとして覚醒した妖の命を狙う。始祖の生まれ変わりである明を溺愛するも、覚醒したミカギにより殺害された。
; 羽山(はやま)
: 御景家の手下。教師に扮し、浦川をCゲノマーに変貌させていた。最期は浦川と共に炎に包まれ死亡した。
{{節スタブ}}
=== 前衛部隊(ガーディナル) ===
; アレクサンダー・O・ハウエル
: 声 - [[関智一]]
: 20歳。IQ250以上の頭脳を持つ天才。イギリス出身。オペレーター・リーダーで武器開発担当。カタコトの日本語をしゃべる。「~でシ」が口癖。かなりの[[オタク]]で、『[[ときめきメモリアル|ときメモ]]』の詩織の大ファン。御景の本人確認のセンサーに「オバQ」などのアニメキャラクターを入れるなど、各臣を呆れさせているが、信頼は厚い。御景財閥の研究部に属しているが、内心では非道なやり方に反感を抱いている。
: 小説版「Episode of Miku」では、御景家の事件後、天女の凍結受精卵を破棄するものの、生きたいと力強く感じた3つの凍結受精卵は破棄できなかった。
; 偉飛麗(ウェイ フェイリー)
: 声 - [[遠近孝一]]
: 18歳。中国出身。十夜が退いた後の、明の直属の護衛者。十夜に左目を傷つけられ、十夜に強い復讐心を抱いている。
: 小説版「Episode of Aki」にて自身の家族について語られている。
; リューリク・レーベジエフ
: 27歳。ロシア出身。生物化学(バイオテクノロジー)担当でアレクの補佐。病気で妻を亡くしている。
; アッサム・バクティ
: インドネシア出身。一流の暗殺者。ゲリラに拾われ、殺人術を身に付ける。誤って千鳥を射殺した。
; グラディス・スミソン
: 声 - [[永島由子]]
: 覚醒したCゲノマーたちの能力開発および養育担当。ミカギからセレスをかばい死亡した。最期まで理想が叶うことを願っていた。
{{節スタブ}}
=== Cゲノマー ===
; 浦川由貴(うらかわ ゆき)
: 声 - [[木村亜希子]]
: 炎を扱うCゲノマー。気弱で鈍臭いため、周囲から[[いじめ]]を受けていた。手先が器用であり、縫い物が得意。御景の手下である羽山に騙され薬を服用し、次第に暴走。最期は羽山とともに炎に包まれ死亡した。
; 司敬(つかさ けい)
: 珠呂の1歳上の[[いとこ|従兄]]。人気歌手。珠呂とGeSANGを結成。珠呂よりも先にCゲノマーとして覚醒するものの、薬が不適合だったため死亡。
; 広部真矢(ひろべ まや)
: 宮城で出会ったCゲノマー。犬(マモル)を飼っている。無意識のうちに呪力で現れた白犬に嫌いな人を襲わせていた。
: アニメ版では未登場。
; 佐原美緒里(さはら みおり)
: 声 - [[矢島晶子]]
: 妖の宿敵。Cゲノマーとして覚醒。セレスと同じ外見に変身でき、呪力も強い。妖たちのいとこだが、母親が[[駆け落ち]]同然で婚約したため、両親共に実家からは縁を切られている。父親は幼い頃に死亡し、母親は妖の儀式に巻き込まれて死亡した<ref>美緒里の母親は生活苦から祖父に援助を頼むため御景家に訪れていた。</ref>。そのため妖を憎んでおり、御景と協力関係を結んだ。彼女への復讐の1つとして偽りの記憶を与えた十夜を自分の恋人にしたものの失敗。最期は「妖への復讐を果たす」という名目により、彼女の目の前で自害した。
{{節スタブ}}
=== その他の登場人物 ===
; 久間翔太(くるま しょうた)
: 声 - [[荒木香衣|荒木香恵]]
: 千鳥の弟。将来の夢はパイロット。事故が原因で歩けなかった。始祖に拉致されるが、十夜によって助け出された。
; 黒塚(くろづか)
: 声 - [[石塚運昇]]
: 新潟の開業医。御景に追われる十夜を偶然保護した。その後、新潟に住み着いた妖と十夜の世話を焼く。開業前は東京の病院で脳神経を専門にしていた。
; 神宮寺辰造(じんぐうじ たつぞう)
: 声 - [[伊井篤史]]
: 十夜の育ての親。出所したことを孫娘に告げず、十夜を見つけるまで独りで暮らしていた。
{{節スタブ}}
=== 小説の登場人物 ===
; 神宮寺舞(じんぐうじ まい)
: 「Episode of Tooya」に登場。
: 辰造の孫娘。東京にいた頃、妖たちと知り合い仲良くなる。[[シエル|天女シエル]]の生まれ変わりで、異性を魅了する特殊体質を持つ。自分に惹かれない十夜に好意を持ち、彼への気持ちがきっかけでシエルが覚醒する。しかし十夜にとっての天女が妖だと知りショックを受ける。
; シエル
: 「Episode of Tooya」に登場。
: もう1人の神宮寺舞。羽衣を探している。
; 誠人(まさと)
: 「Episode of Tooya」に登場。
: 舞の幼馴染。小さい頃から舞が好きだが、舞の特殊体質のせいもあって信じてもらえず相手にされない。
; 天久満(あめく みちる)
: 「Episode of Shuro」に登場。
: ドイツ育ちで高1の頃に珠呂たちの学校へ転校してきた。「GeSANG」(ドイツ語で「海」)の名付け親で、2人が無名の頃に様々な所で歌えるように走り回る。珠呂と敬と別れてからは覆面歌手「Liebe」(ドイツ語で「愛」)として活動していたCゲノマーでもあり、司家とは遠い親戚のため、天女に変身した姿は珠呂が変身した姿と同じだった。珠呂が女性だとは知らず、珠呂に好意を寄せていた。敬と同じく死亡している。
; 久島沙羅(くしま さら)
: 「Episode of Aki」に登場。
: 少年時代の明ら家族が八丈島で出会った少女。同い年の明・妖と仲良くなる。明に好意を持つ。実はミカギのことが好きだった「クマラ」の生まれ変わり。明との再会後、記憶が蘇り、クマラと体の主導権を争うものの、最終的にクマラに勝った。
; クマラ
: 「Episode of Aki」に登場。
: もう1人の久島沙羅。ミカギに想いを寄せていたが、結ばれることはなかった。
; 御景未来(みかげ みく)
: 「Episode of Miku」に登場。
: 妖と十夜の一人娘。父親似。自分の羽衣を持っている。
; チドリ
: 「Episode of Miku」に登場。
: 来間千鳥の遺伝子上の子供。千鳥の記憶が蘇り、翔太に会うものの拒絶された。
; シオリ
: 「Episode of Miku」に登場。
: 名前はアレクの好きなゲームのヒロインが由来。天女遺伝子上の子供であるが、自分の親が誰かも分からず絶望する。妖たちのもとへ記憶喪失と偽り入り込む。アレクが育てた3人の娘の中で唯一、妖たちとは無関係である。親の記憶が蘇ることは無かったが、天女として覚醒する。しかし、未来や妖と違い羽衣が無いために衰弱する。
; ミオリ
: 「Episode of Miku」に登場。
: 佐原美緒里の遺伝子上の子供。美緒里の記憶が蘇った際には、幸せに暮らしている妖に憎悪し、再び彼女に復讐しようとする。
{{節スタブ}}
== 用語 ==
{{節スタブ}}
; [[天女]]
: 本作のキーワード。御景各臣の調査によれば、正体は地球外高等生物(いわゆる[[宇宙人]])とされる。天女の名称は、[[ケレス (準惑星)|セレス]](ケレス)が地球で最初に発見された小惑星の名称に使われているため、千鳥は2番目に発見された小惑星パラス、珠呂は3番目の小惑星ジュノーと呼ばれている。4番目や5番目とベスタ、アストラエア、ヘーベ、イリスとなるので、その名前のCゲノマーもいた筈である(天女に変化した順か、呪力の強度の順かは不明)。同じ天女の子孫、もしくは同等のタイプで括られる場合は「TYPE-A・B・C…」とランク分けされている<ref name=kinsuma>小学館発行の妖しのセレス本誌掲載の妖セレ、マニアック辞典3より</ref>。
; 呪力
: 天女(の子孫)が駆使する一種の[[超能力]]。その力を人間に与えることは可能。
; [[羽衣伝説|羽衣]]/[[マナ]]
: 各国で羽衣・白衣・毛皮・帯・髪飾りetc.に例えられている天女(もしくは[[女神]]etc.)の必須アイテム。これを持たずして天から降りてくる、もしくは天へ帰る天女の伝説もある。これが無ければ天女は衰弱し死にいたる。なお、[[キリスト教]]は「マナ」という空から降ってくる聖なる食べ物(?)があるらしいが、関係は不明<ref name=kinsuma>小学館発行の妖しのセレス本誌掲載の妖セレ、マニアック辞典3より</ref>。
; 天女に服従しまっせベルト
: 納涼が雄飛に贈った物。文字通り、天女に服従させるための拘束具。
; C計画(セレスシャルプロジェクト)
: 強力な子孫を作り出すために始まった極秘計画。ラグナレクの協力を受けていたが、終盤ではミカギの暴走やCゲノマーの自害により計画は破綻した。
; Cゲノマー
: 妖を始めとする、天女の血を引く子孫の女性の総称。専用の薬を使用することで能力を引き出されている。卵子を使用し、強力な[[子孫]]を作り出す材料にもなっていた。
; [[ラグナレク]](神々の黄昏)
: 御影家が籍を置く非政府連盟。各国の陰の実力者(言うなれば金持ちのサークル)。名前は担当者が付けた。様々な研究などに投資しており、C計画にもスポンサーとして協力。聖書などにある「最終戦争([[アルマゲドン]])」を意味したものらしいが、別に暇を持て余した集団なので、特に「黒幕」といえるほどの存在でもないらしい<ref name=kinsuma>小学館発行の妖しのセレス本誌掲載の妖セレ、マニアック辞典3より</ref>。
; ホットおじさん
: 妖曰く、小田玖はこれに似ている。[[東洋水産]]発売のホットヌードルを指していると思われる。
== 書籍情報 ==
=== 単行本 ===
# 妖しのセレス(1996年12月、ISBN 4-09-136354-7)
# 妖しのセレス(1997年4月、ISBN 4-09-136355-5)
# 妖しのセレス(1997年7月、ISBN 4-09-136356-3)
# 妖しのセレス(1997年10月、ISBN 4-09-136357-1)
# 妖しのセレス(1997年12月、ISBN 4-09-136358-X)
# 妖しのセレス(1998年4月、ISBN 4-09-136359-8)
# 妖しのセレス(1998年6月、ISBN 4-09-136360-1)
# 妖しのセレス(1998年9月、ISBN 4-09-137641-X)
# 妖しのセレス(1999年1月、ISBN 4-09-137642-8)
# 妖しのセレス(1999年4月、ISBN 4-09-137643-6)
# 妖しのセレス(1999年7月、ISBN 4-09-137644-4)
# 妖しのセレス(1999年10月、ISBN 4-09-137645-2)
# 妖しのセレス(2000年1月、ISBN 4-09-137646-0)
# 妖しのセレス(2000年4月、ISBN 4-09-137647-9)
=== 文庫版 ===
# 妖しのセレス(2005年10月、ISBN 4-09-191691-0)
# 妖しのセレス(2005年10月、ISBN 4-09-191692-9)
# 妖しのセレス(2005年11月、ISBN 4-09-191693-7)
# 妖しのセレス(2005年11月、ISBN 4-09-191694-5)
# 妖しのセレス(2005年12月、ISBN 4-09-191695-3)
# 妖しのセレス(2005年12月、ISBN 4-09-191696-1)
# 妖しのセレス(2006年1月、ISBN 4-09-191697-X)
=== 小説 ===
原作・[[渡瀬悠宇]] 作者・西崎めぐみ([[パレット文庫]])
* 妖しのセレス Episode of Tooya (2000年6月、ISBN 4-09-421271-X)
* 妖しのセレス Episode of Shuro (2000年9月、ISBN 4-09-421272-8)
* 妖しのセレス Episode of Aki (2001年1月、ISBN 4-09-421273-6)
* 妖しのセレス Episode of Miku 上巻 (2001年6月、ISBN 4-09-421274-4)
* 妖しのセレス episode of Miku 中巻 (2001年7月、ISBN 4-09-421275-2)
* 妖しのセレス episode of Miku 下巻 (2001年8月、ISBN 4-09-421276-0)
== テレビアニメ ==
[[2000年]][[4月20日]]から[[9月28日]]まで[[WOWOW]]にて放送。全24話。
=== スタッフ ===
* 原作 - 渡瀬悠宇([[小学館]]「[[フラワーコミックス]]」)
* 監督 - [[亀垣一]]
* 製作 - 山下暉人、[[渡辺繁]]、[[布川ゆうじ]]
* 企画 - 植田文郎、久保聡、本間道幸
* シリーズ構成 - [[大橋志吉]]
* キャラクターデザイン - [[本橋秀之]]
* 総作画監督 - 本橋秀之、[[北山真理]]
* サブデザイン - [[森山雄治|もりやまゆうじ]]、三好和也、宇佐美皓一、杉藤さゆり、奥田泰弘、鈴木奈都子、小木曽伸吾、[[高橋資祐]]
* 美術監督 - 高田茂祝
* 色彩設計 - [[いわみみか。|いわみみか]]
* 撮影監督 - 石塚知義
* 編集 - 松村正宏
* 音楽 - [[酒井良 (作曲家)|酒井良]]
* 音楽プロデューサー - 中村伸一
* 音響監督 - [[高橋秀雄 (音響監督)|高橋秀雄]]
* 制作プロデューサー - 三上孝一
* 製作 - [[小学館]]、[[バンダイビジュアル]]、[[ぴえろ]]
=== 主題歌 ===
; オープニングテーマ「[[スカーレット (岩男潤子の曲)|スカーレット]]」
: 作詞 - [[高橋研]] / 作曲 - 澤近泰輔 / 編曲 - [[山本はるきち]] / 歌 - [[岩男潤子]]
; エンディングテーマ
:; 「[[ONE (DAY-BREAKの曲)|ONE〜この世が果てても離れない〜]]」(第1話 - 第15話)
:: 作詞 - [[森由里子]] / 作曲・編曲 - [[酒井良 (作曲家)|酒井良]] / 歌 - [[DAY-BREAK]]
:; 「[[Cross My Heart]]」(第16話 - 第23話)
:: 作詞 - 森由里子 / 作曲・編曲 - 酒井良 / 歌 - DAY-BREAK
; 挿入歌「[[妖しのセレス ドラマアルバム 天女の歌声〜The Hevenly Voice〜|無限の風]]」
: 作詞 - [[森雪之丞]] / 作曲・編曲 - 酒井良 / 歌 - [[日下ちひろ|GeSANG]]
=== 各話リスト ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!話!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督
|-
|1||'''2000年'''<br />4月20日||16の星と月が巡る日||rowspan="7"|[[大橋志吉]]||青木佐恵子||[[亀垣一]]||rowspan="7"|[[本橋秀之]]
|-
|2||4月27日||天女のファーストキス||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋
|-
|3||5月11日||下界へ降りし者||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一
|-
|4||5月18日||奪われた羽衣||rowspan="2"|[[わたなべひろし]]||青木佐恵子
|-
|5||5月25日||十夜の宿命||亀垣一
|-
|6||6月1日||Cプロジェクト||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋
|-
|7||6月8日||目覚めたCゲノマー||[[神谷純]]<br />亀垣一||高瀬節夫
|-
|8||rowspan="2"|6月15日||御影家の陰謀||[[富田祐弘]]||西澤晋||山崎隆||松下純子
|-
|9||天女の誓い||大橋志吉||青木佐恵子||松浦錠平||[[平岡正幸]]
|-
|10||6月22日||千鳥の飛翔||富田祐弘||わたなべひろし||亀垣一||rowspan="15"|本橋秀之
|-
|11||6月29日||うごきだす気持(こころ)||rowspan="3"|大橋志吉||rowspan="4"|西澤晋||青木佐恵子
|-
|12||7月6日||銀のチョーカー||西澤晋
|-
|13||7月13日||御影家の御神体||高瀬節夫
|-
|14||7月27日||覚醒した始祖||富田祐弘||[[小坂春女|林有紀]]
|-
|15||8月3日||十夜の過去||rowspan="10"|大橋志吉||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一
|-
|16||8月10日||もうひとりのセレス||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋
|-
|17||rowspan="2"|8月24日||魅きよせられる愛||[[増井壮一]]<br />西澤晋||高瀬節夫
|-
|18||つかの間の幸せ||colspan="2" style="text-align:center"|林有紀
|-
|19||8月31日||千鳥の告白||rowspan="3"|西澤晋||亀垣一
|-
|20||9月7日||十夜死す||西澤晋
|-
|21||9月14日||いにしえの天女||高瀬節夫
|-
|22||9月21日||復讐の歌声||colspan="2" style="text-align:center"|林有紀
|-
|23||rowspan="2"|9月28日||甦ったミカギ||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋
|-
|24||決着をつける時||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一
|}
=== 関連商品 ===
==== VHS、DVD ====
{{節スタブ}}
==== サウンドトラック ====
* 『[[妖しのセレス オリジナル・サウンドトラック]]』(2000年6月21日、[[ポニーキャニオン]])
* 『[[妖しのセレス オリジナル・サウンドトラック Vol.2]]』(2000年9月20日、ポニーキャニオン)
* 『[[妖しのセレス オリジナル・サウンドトラック Vol.3]]』(2000年12月6日、ポニーキャニオン)
* 『[[妖しのセレス ドラマアルバム 天女の歌声〜The Hevenly Voice〜]]』(2000年10月4日、ポニーキャニオン)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20120229132602/http://pierrot.jp/title/ceres/ ぴえろによる公式サイト]
* [http://ayashinoceres.altervista.org/ Ayashi No Ceres] a site dedicated to Ayashi No Ceres
{{前後番組
|放送局= [[WOWOW]]
|放送枠= 木曜18:30枠
|番組名= 妖しのセレス
|前番組= [[OH!スーパーミルクチャン]]
|次番組= [[シネマシネマシネマ]](再放送)
}}
{{妖しのセレス}}
{{小学館漫画賞少女向け部門|第43回|少女部門}}
{{亀垣一監督作品}}
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{{lit-stub}}
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{{DEFAULTSORT:あやしのせれす}}
[[Category:妖しのセレス|*]]
[[Category:渡瀬悠宇の漫画作品]]
[[Category:漫画作品 あ|やしのせれす]]
[[Category:少女コミック]]
[[Category:ファンタジー漫画]]
[[Category:ロー・ファンタジー作品]]
[[Category:スリラー漫画]]
[[Category:双子を題材とした漫画作品]]
[[Category:超能力を題材とした漫画作品]]
[[Category:転生を題材とした漫画作品]]
[[Category:地球外生命体を題材とした漫画作品]]
[[Category:伝説の生物を題材とした漫画作品]]
[[Category:小学館漫画賞少女向け部門の受賞作品]]
[[Category:1996年の漫画]]
[[Category:アニメ作品 あ|やしのせれす]]
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[[Category:ルルル文庫]]
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17,390 |
ふしぎ遊戯
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『ふしぎ遊戯』(ふしぎゆうぎ)は、渡瀬悠宇による日本の少女漫画。また、それを原作としたテレビアニメ。1992年より『少女コミック』(小学館)に連載された。略称は「ふし遊」。また、後に発表された『玄武開伝』、『白虎仙記』との区別から本項にて解説される一連のシリーズ作は『朱雀・青龍編』とも呼ばれ、これを略して『朱青』または『朱雀』とも呼ばれる。2015年11月時点で全シリーズの累計発行部数は2000万部を突破している。
本作品は、古代中国の四神や二十八宿などを題材とし、主要な登場人物の名前は、二十八宿から取られている。また、主人公や国名なども五行説に則って命名されている。身体の文字などは里見八犬伝がルーツとなる。
高校受験を間近に控えた中学3年生の夕城 美朱(ゆうき みあか)と親友の本郷 唯(ほんごう ゆい)は『読み終えた者は主人公と同様の力を得、望みがかなう。』という序文に釣られ、図書館の立ち入り禁止区域で見付けた四神天地書という書物を開いて、中に吸い込まれてしまう。そこに待っていたのは、古代中国に似た異世界―四正国の紅南国と、額に鬼の字を持つ青年―鬼宿(たまほめ)との出会いだった。すぐに現実世界に戻れた2人だったが、帰宅後に母親と口論になり飛び出した美朱は再び本の世界へ入ったまま、現実世界へ帰れなくなってしまう。かくして美朱は、軍事大国―倶東国の前に苦境に立たされていた、若き皇帝にして朱雀七星士―星宿(ほとほり)の紅南国を守るため、現実世界への戻り方を知るために、朱雀の巫女となった。やがて美朱は、各地に点在する七星士を探す方法や戻り方を求め訪れた太極山で、仙人―太一君(たいいつくん)の助言と美朱の行方不明を聞き付けた唯の助けで、なんとか現実世界に帰還する。が、入れ替わりに唯が吸い込まれてしまったことからそれを助けるため、また七星士の一人であった鬼宿と強く惹かれ合うようになっていたこともあって紅南国を平和に導くために、決意新たに美朱は兄―奎介(けいすけ)の制止を振り切って本に戻ってしまう。
一方、美朱と入れ替わりに倶東国に降りた唯は、ゴロツキに襲われたところを青龍の巫女として青龍七星士―心宿(なかご)に助けられる。だが青龍の力の独占を密かに狙う心宿は、ゴロツキ達に唯が強姦されたのは美朱が見捨てたからだと騙り、敵対させるよう仕向けた。こうして唯は心宿の策略により、朱雀を妨害しながらの青龍召喚の旅に出る。心宿により、朱雀・青龍とも七星士達が次々と命を落とす中、一度は不可能かと思われた神獣召喚であったが、玄武・白虎の巫女達の遺産―神座宝を集めれば巫女単体でも神獣を呼び出せると知らされ、争奪戦が始まる。
最終的にこの争いを制したのは、青龍側であった。神獣―青龍を召喚した唯は、第一の願いで朱雀を封印。続く第二の願いで美朱を本の世界から追放し、唯も共に現実世界に帰還する。しかし美朱を離すまいとした鬼宿も、一緒に本の世界から飛び出してしまう。そこでとうとう鬼宿は、美朱と唯には今までの出来事全てが紙面上の虚構に過ぎないこと―――巫女と七星士が結ばれないと言われて来た本当の意味に、衝撃を受ける。
美朱達が本の中で神獣召喚を巡って争っていた頃、奎介も美朱と唯を助けるべく、現実世界で奔走していた。現実世界と巫女を繋ぐ共通物質―媒体である美朱のリボンや四神天地書に浮き上がる文面により、四正国や美朱の言動を追い掛ける一方で奎介は友人―梶原 哲也(かじわら てつや)と共に四神天地書とその訳者―奥田 永之助(おくだ えいのすけ)を調べ始めるが、2人が辿り着いたのは奥田の一人娘―多喜子(たきこ)が元玄武の巫女であった事実と、父娘の非業の死であった。さらに奎介達は、本から無事巫女の役目を遂げて帰還した元白虎の巫女―大杉 鈴乃(おおすぎ すずの)より“巫女とは生贄であり、神獣は願いを叶える代わりに巫女の体を喰らう。ただし、巫女が強い心の持ち主ならばその限りではない”と聞かされ、本の世界を追われた美朱に告げた。この事実は召喚で青龍に蝕まれていく体に怯え、美朱へ助けを求めて来た唯にも伝えられたがショックの引く間もなく、紅南と倶東両国を窮地に陥れた心宿が、遂に現実に現れ、第三の願いを自らにもたらすよう唯に迫った。辛くも、鬼宿の助けを得た美朱に助け出されたことで、ようやく心宿の本心に気付いた唯は、最後の願いで朱雀を呼び出す力を美朱に与え、青龍に取り込まれてしまう。
朱雀を招喚した美朱は、第一の願いで唯を取り戻した後、第二の願いで青龍を封印。世界を破滅から救い、最後の願いで“鬼宿と決して離れない”ことを願った美朱が、唯と現実世界へ戻って数か月後...。奎介の連れて来た、鬼宿の記憶と誓いの指輪を持った後輩―宿南 魏(すくなみ たか)と再会する。
第二部(OVA2参照)では高校生になった美朱が、学校行事で訪れた高松塚古墳で朱雀と再会。救いを求める声と魏に迫る危機に、鬼宿の記憶を探して、魏と再び本の世界へ降り立つ。朱雀七星士達との再会に感激するも束の間、あの朱雀と青龍の激闘の直後に井宿と翼宿の手元に現れた石が魏の記憶だと知り、不気味な気配を感じつつも、戦死した七星士達の石を求めて旅を開始する。しかしその頃、現実世界の美朱の高校や奎介達の大学にも、妖しい影が迫りつつあった。
メディアミックス展開のため、声優のキャスティングが複数存在する。併記なきものはアニメ版。
朱雀を守護神とし、四正国の内南に位置する温暖気候の国。皇帝の治世が行き届いているためか、四正国の中では比較的治安が良い。しかし近年では倶東国の軍事的脅威に晒されている。首都は栄陽(えいよう)。朱雀の象徴色は朱。そのため、朱雀七星士の体に出る文字の色は赤色。朱雀七星士は全員男である。
青龍を守護神とし、四正国の内東に位置する軍事大国。その国風と現皇帝が暴政を敷いていることから国内では内乱が絶えず、治安も非常に悪い。首都は春封(しゅんふう)。青龍の象徴色は青。そのため、青龍七星士の体に出る文字の色は青色。
白虎を守護神とし、四正国の内西に位置する、砂漠などが北アフリカ〜中東を思わせる国。白虎の象徴色は白。そのため、白虎七星士の体に出る文字の色は白。90年前に白虎召喚に成功している。
玄武を守護神とし、四正国の内北に位置する最も広大な国。首都は特烏蘭(トウラン)。国土のほとんどが殺伐とした荒野や山だが、資源が豊富。モンゴルをイメージしている。玄武の象徴色は黒。そのため、玄武七星士の体に出る文字の色は黒く、光り輝く時は銀色。200年前の玄武召喚により、永遠の平和が約束された国である(詳しくはふしぎ遊戯 玄武開伝の項目を参照)。
原作第二部(OVA2)の敵。
1995年4月6日から1996年3月28日までテレビ東京系でアニメ化された。毎週木曜日18時00分から18時30分に放送。全52話。
ほぼ原作通りの進行だが、原作では奎介による美朱への説明のみだった盛岡行きの様子や、鈴乃と婁宿が同時に亡くなるシーンが追加されるなどの相違点も多数ある。
この他、2007年8月1日からTOKYO MXにて再放送された。2017年9月5日からチバテレで再放送されている。
第一部(テレビアニメシリーズ)と第二部の間のストーリーとされるアニメオリジナルエピソードが全3巻、第二部が全6巻、外伝の永光伝が全4巻製作された。TVアニメシリーズと同じスタッフで製作されたが、外伝のみ若干異なる。
TVシリーズ後のアニメオリジナルエピソード。全3巻。何者かによって再び四神天地書の中に戻された鬼宿。本の中では数十年が経過しており、誰も当時の自分を知る者はなかった。宮殿を訪ね、星宿の曾孫だという少年の皇太子に国を救った伝説の朱雀七星士として快く朱雀廟に招かれるが結界に阻まれ入ることができず、朱雀七星士を語る偽者として追い出されてしまう。太一君を頼って太極山を訪ねても、岩の転がった山にしか見えない。そんな時、自分のことを心宿と呼ぶ少女に出会い、鬼宿は苦悩する。
原作第二部をアニメ化したOVAシリーズ。全6巻。高校生になった美朱が、高松塚古墳での朱雀からの救いを求める声と魏に迫る危機に、鬼宿の記憶を求め、魏と再び本の世界へ降り立つ。第一部で故人となった朱雀七星士や唯達とも力を合わせ、四神天地書内だけでなく現実世界をも股に掛けた魔人―天罡との戦いに美朱達が臨む。七星士達の過去や死後の紅南国内での因縁、現実世界の人々を洗脳して襲い来る祀行 斂や神代 魅との対決が描かれる。
小説「ふしぎ遊戯外伝」7&8巻をアニメ化したOVAシリーズ。全4巻。魏への好意から美朱に対する嫉妬心で、自ら四神天地書の世界へ旅立った朱雀の二代目巫女―榊真夜が主人公となっている。数々の経験を経た真夜はやがて、魏と美朱の真実を知ることになる。
『ふしぎ遊戯 朱雀異聞』のタイトルで、オトメイトより2008年5月29日に発売されたPlayStation 2ゲーム。
2009年6月25日には『ふしぎ遊戯 玄武開伝 外伝 鏡の巫女』と『ふしぎ遊戯 朱雀異聞』がカップリングされたニンテンドーDSソフト『ふしぎ遊戯DS』が発売された。限定版にはドラマCDの朱雀編『朱雀七星士、柳宿争奪戦!?』と玄武編『真夜中の激闘! 伝説のキノコを求めて』が同梱。
ここでは、朱雀の巫女と青龍の巫女は、美朱や唯ではない。声優もドラマCD・アニメ版とは大幅に変更されている。
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"text": "一方、美朱と入れ替わりに倶東国に降りた唯は、ゴロツキに襲われたところを青龍の巫女として青龍七星士―心宿(なかご)に助けられる。だが青龍の力の独占を密かに狙う心宿は、ゴロツキ達に唯が強姦されたのは美朱が見捨てたからだと騙り、敵対させるよう仕向けた。こうして唯は心宿の策略により、朱雀を妨害しながらの青龍召喚の旅に出る。心宿により、朱雀・青龍とも七星士達が次々と命を落とす中、一度は不可能かと思われた神獣召喚であったが、玄武・白虎の巫女達の遺産―神座宝を集めれば巫女単体でも神獣を呼び出せると知らされ、争奪戦が始まる。",
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『ふしぎ遊戯』(ふしぎゆうぎ)は、渡瀬悠宇による日本の少女漫画。また、それを原作としたテレビアニメ。1992年より『少女コミック』(小学館)に連載された。略称は「ふし遊」。また、後に発表された『玄武開伝』、『白虎仙記』との区別から本項にて解説される一連のシリーズ作は『朱雀・青龍編』とも呼ばれ、これを略して『朱青』または『朱雀』とも呼ばれる。2015年11月時点で全シリーズの累計発行部数は2000万部を突破している。
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{{Infobox animanga/Header
|タイトル=ふしぎ遊戯
|ジャンル=[[異世界]][[ファンタジー漫画]]
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{{Infobox animanga/Manga
|作者=[[渡瀬悠宇]]
|出版社=[[小学館]]
|他出版社={{flagicon|TWN}} [[大然文化]]、[[尖端出版]](新装版)
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{{Infobox animanga/Novel
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|開始日=1998年1月
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{{Infobox animanga/TVAnime
|原作=渡瀬悠宇
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|放送局=[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]](他、[[#放送局]]参照)
|放送開始=[[1995年]][[4月6日]]
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}}
{{Infobox animanga/OVA
|タイトル=オリジナルビデオシリーズ ふしぎ遊戯
|原作=渡瀬悠宇
|監督=亀垣一
|キャラクターデザイン=本橋秀之
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|製作=バンダイビジュアル、スタジオぴえろ<br />ムービック
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|終了=1997年2月25日
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{{Infobox animanga/OVA
|タイトル=ふしぎ遊戯 第二部
|原作=渡瀬悠宇
|監督=亀垣一
|キャラクターデザイン=本橋秀之
|アニメーション制作=スタジオぴえろ
|製作=バンダイビジュアル、スタジオぴえろ<br />ムービック
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{{Infobox animanga/OVA
|タイトル=ふしぎ遊戯 -永光伝-
|原作=渡瀬悠宇、西崎めぐみ
|監督=[[島崎奈々子]]
|キャラクターデザイン=本橋秀之
|アニメーション制作=ぴえろ
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{{Infobox animanga/Game
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{{Infobox animanga/Footer
|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]・[[プロジェクト:ライトノベル|ライトノベル]]・[[プロジェクト:コンピュータゲーム|コンピュータゲーム]]
|ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]]・[[Portal:ラジオ|ラジオ]]・[[Portal:文学|文学]]・[[Portal:コンピュータゲーム|コンピュータゲーム]]
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『'''ふしぎ遊戯'''』(ふしぎゆうぎ)は、[[渡瀬悠宇]]による[[日本]]の[[少女漫画]]。また、それを原作とした[[テレビアニメ]]。[[1992年]]より『[[少女コミック]]』([[小学館]])に連載された。略称は「'''ふし遊'''」。また、後に発表された『[[ふしぎ遊戯 玄武開伝|玄武開伝]]』、『[[ふしぎ遊戯 白虎仙記|白虎仙記]]』との区別から本項にて解説される一連のシリーズ作は『'''朱雀・青龍編'''』とも呼ばれ、これを略して『'''朱青'''』または『'''朱雀'''』とも呼ばれる。2015年11月時点で全シリーズの累計発行部数は2000万部を突破している<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2062740/full/|title=『ふしぎ遊戯』初のミュージカル化 “原作ファン”田中れいなが主演|work=ORICON NEWS|date=2015-11-23|accessdate=2021-01-26}}</ref>。
== 来歴 ==
本作品は、古代[[中国]]の'''[[四神]]'''や'''[[二十八宿]]'''などを題材とし、主要な登場人物の名前は、[[二十八宿]]から取られている。また、主人公や国名なども[[五行説]]に則って命名されている。身体の文字などは[[南総里見八犬伝|里見八犬伝]]がルーツとなる。
* テレビアニメ:[[1995年]][[4月6日]] - [[1996年]][[3月28日]]、[[テレビ東京]]系列(全52話)。
* [[オーディオブック|CDブック]]:全5巻([[1993年]] - [[1996年]])。
* CDブック『少女コミックCDブック おもちゃ箱 '93』([[1992年]]12月)
* 外伝小説:[[パレット文庫]]より多数。
* [[PlayStation 2|PS2]]用ゲーム:[[2008年]][[5月29日]]に[[オトメイト]]より、'''[[#ゲーム|ふしぎ遊戯 朱雀異聞]]'''のタイトルにて発売された。
* [[2003年]]より新シリーズ『[[ふしぎ遊戯 玄武開伝]]』の連載がスタート。単行本全12巻。[[ドラマCD]]化及び[[ゲーム]]化もされている。
* 完全版の応募者全員サービスはCDブックの声優による復刻版[[キャラクターソング]]であった。
* [[2010年]]、幻想少女◎アドベンチャー『ふしぎ遊戯』として舞台化。3年連続で、『ふしぎ遊戯』(2010年)、『ふしぎ遊戯〜朱雀編〜』(2011年)、『ふしぎ遊戯〜青龍編〜』(2012年)を上演(いずれもamipro主催)。
* [[2015年]]、鬼宿が主役の舞台『ふしぎ遊戯』を上演([[ネルケプランニング]]主催)。
* 2015年、[[読み切り]]作品として『ふしぎ遊戯 白虎異聞』が『[[月刊フラワーズ]]』に掲載。
* [[2016年]]、[[ミュージカル]]『ふしぎ遊戯〜朱ノ章〜』を上演(amipro主催)。
* [[2017年]]より新シリーズ『[[ふしぎ遊戯 白虎仙記]]』の連載がスタート。
* [[2018年]]、ミュージカル『ふしぎ遊戯-蒼ノ章-』を上演(amipro主催)。
* [[2021年]]、7月6日よりゲームアプリ「Alice Closet」と本作がコラボレート<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/435720|title=「ふしぎ遊戯」とゲーム「Alice Closet」がコラボ、美朱や鬼宿のコーデ登場|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-07-06|accessdate=2021-07-06}}</ref>。
* [[2022年]]、連載30周年を迎え、美朱と鬼宿を描いた特別編を『月刊フラワーズ』11月号に掲載<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/495388|title=「ふしぎ遊戯」新作読み切りがflowersに、クリアファイルや渡瀬悠宇インタビューも|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-09-28|accessdate=2022-09-28}}</ref>。
== あらすじ ==
高校受験を間近に控えた中学3年生の夕城 美朱(ゆうき みあか)と親友の本郷 唯(ほんごう ゆい)は『読み終えた者は主人公と同様の力を得、望みがかなう。』という序文に釣られ、[[図書館]]の立ち入り禁止区域で見付けた'''四神天地書'''という書物を開いて、中に吸い込まれてしまう。そこに待っていたのは、古代中国に似た異世界―'''四正国'''の'''紅南国'''と、額に鬼の字を持つ青年―鬼宿(たまほめ)との出会いだった。すぐに現実世界に戻れた2人だったが、帰宅後に母親と口論になり飛び出した美朱は再び本の世界へ入ったまま、現実世界へ帰れなくなってしまう。かくして美朱は、軍事大国―'''倶東国'''の前に苦境に立たされていた、若き皇帝にして'''[[朱雀]]七星士'''―星宿(ほとほり)の紅南国を守るため、現実世界への戻り方を知るために、'''[[朱雀]]の[[巫女]]'''となった。やがて美朱は、各地に点在する七星士を探す方法や戻り方を求め訪れた太極山で、仙人―太一君(たいいつくん)の助言と美朱の行方不明を聞き付けた唯の助けで、なんとか現実世界に帰還する。が、入れ替わりに唯が吸い込まれてしまったことからそれを助けるため、また七星士の一人であった鬼宿と強く惹かれ合うようになっていたこともあって紅南国を平和に導くために、決意新たに美朱は兄―奎介(けいすけ)の制止を振り切って本に戻ってしまう。
一方、美朱と入れ替わりに倶東国に降りた唯は、ゴロツキに襲われたところを'''[[青竜|青龍]]の巫女'''として'''青龍七星士'''―心宿(なかご)に助けられる。だが青龍の力の独占を密かに狙う心宿は、ゴロツキ達に唯が[[強姦]]されたのは美朱が見捨てたからだと騙り、敵対させるよう仕向けた。こうして唯は心宿の策略により、朱雀を妨害しながらの青龍召喚の旅に出る。心宿により、朱雀・青龍とも七星士達が次々と命を落とす中、一度は不可能かと思われた神獣召喚であったが、'''[[玄武]]・[[白虎]]の巫女達'''の遺産―'''神座宝'''を集めれば巫女単体でも神獣を呼び出せると知らされ、争奪戦が始まる。
最終的にこの争いを制したのは、青龍側であった。神獣―青龍を召喚した唯は、第一の願いで朱雀を封印。続く第二の願いで美朱を本の世界から追放し、唯も共に現実世界に帰還する。しかし美朱を離すまいとした鬼宿も、一緒に本の世界から飛び出してしまう。そこでとうとう鬼宿は、美朱と唯には今までの出来事全てが紙面上の虚構に過ぎないこと―――巫女と七星士が結ばれないと言われて来た本当の意味に、衝撃を受ける。
美朱達が本の中で神獣召喚を巡って争っていた頃、奎介も美朱と唯を助けるべく、現実世界で奔走していた。現実世界と巫女を繋ぐ共通物質―媒体である'''美朱のリボン'''や四神天地書に浮き上がる文面により、四正国や美朱の言動を追い掛ける一方で奎介は友人―梶原 哲也(かじわら てつや)と共に四神天地書とその訳者―奥田 永之助(おくだ えいのすけ)を調べ始めるが、2人が辿り着いたのは奥田の一人娘―多喜子(たきこ)が'''元玄武の巫女'''であった事実と、父娘の非業の死であった。さらに奎介達は、本から無事巫女の役目を遂げて帰還した'''元白虎の巫女'''―大杉 鈴乃(おおすぎ すずの)より“巫女とは生贄であり、神獣は願いを叶える代わりに巫女の体を喰らう。ただし、巫女が強い心の持ち主ならばその限りではない”と聞かされ、本の世界を追われた美朱に告げた。この事実は召喚で青龍に蝕まれていく体に怯え、美朱へ助けを求めて来た唯にも伝えられたがショックの引く間もなく、紅南と倶東両国を窮地に陥れた心宿が、遂に現実に現れ、第三の願いを自らにもたらすよう唯に迫った。辛くも、鬼宿の助けを得た美朱に助け出されたことで、ようやく心宿の本心に気付いた唯は、最後の願いで朱雀を呼び出す力を美朱に与え、青龍に取り込まれてしまう。
朱雀を招喚した美朱は、第一の願いで唯を取り戻した後、第二の願いで青龍を封印。世界を破滅から救い、最後の願いで“鬼宿と決して離れない”ことを願った美朱が、唯と現実世界へ戻って数か月後…。奎介の連れて来た、鬼宿の記憶と誓いの指輪を持った後輩―宿南 魏(すくなみ たか)と再会する。
第二部(OVA2参照)では高校生になった美朱が、学校行事で訪れた[[高松塚古墳]]で朱雀と再会。救いを求める声と魏に迫る危機に、鬼宿の記憶を探して、魏と再び本の世界へ降り立つ。朱雀七星士達との再会に感激するも束の間、あの朱雀と青龍の激闘の直後に井宿と翼宿の手元に現れた石が魏の記憶だと知り、不気味な気配を感じつつも、戦死した七星士達の石を求めて旅を開始する。しかしその頃、現実世界の美朱の高校や奎介達の大学にも、妖しい影が迫りつつあった。
== 登場人物 ==
[[メディアミックス]]展開のため、[[声優]]のキャスティングが複数存在する。併記なきものはアニメ版。
* 美朱は、(アニメ版 / CDブック版 / 少女コミックCDブックおもちゃ箱'93版)の順。おもちゃ箱版の鬼宿役・関俊彦と星宿役・松本保典はCDブック版でも続投。
* 朱雀・青龍・玄武周辺については(アニメ版 / CDブック版)の順
* 朱雀・青龍のPS2用ゲーム担当声優については[[#ゲーム|ゲーム]]の項を参照。
* 白虎はアニメ版の声優。
<!--以上を原則とし、それ以外のものは個別に注記する-->
=== 現実世界 ===
; 夕城 美朱(ゆうき みあか)
: 声 - [[荒木香衣|荒木香恵]] / [[日髙のり子]] / [[本多知恵子]]
: 演 - [[橋本愛奈]](舞台初演・朱雀編・青龍編) / [[伊藤梨沙子]](ネルケ版) / [[田中れいな]](朱ノ章・蒼ノ章)
: 年齢 - 15歳(第一部:中学3年生→第二部:高校1年生)
: 誕生日 - [[5月12日]]、血液型 - [[ABO式血液型|B型]]
: 常に明るく大らかで前向き、主人公。食欲旺盛でどんなに大変なときでも食べ物を考えることがあるほど<ref>原作2巻7話</ref>。四神天地書に吸い込まれた朱雀の巫女であり、朱雀七星士集めの旅に出る。両親は離婚しており、母と大学生の兄との3人暮らし。母の期待に応え、また唯と一緒に居たいとの思いから難関進学校・城南高校入学を目指して努力している。
: 大食いだが、料理は大の苦手である。
: 第二部では母が再婚。結局、城南高校は不合格だったが後悔は全くないようであり、唯と同じ進学先に進み、大学生の魏(鬼宿)と付き合っている。最終的には魏と結婚し、子供を儲けた。
: 当初は[[シニヨン|リボンを飾った二つ分けのお団子頭]]。リボンを奎介に託して以降は、髪型は一定していない。TVアニメ版では、奎介との媒体が自分の髪とシニヨンである。第二部では、ウエーブの掛かったロングヘア。
; 本郷 唯(ほんごう ゆい)
: 声 - [[冬馬由美]] / [[山崎和佳奈]]
: 演 - [[秋山ゆりか]](舞台初演・朱雀編・青龍編) / 伊藤菜実子(ネルケ版) / [[坂田しおり]](朱ノ章) / [[宮崎理奈]](蒼ノ章)
: 年齢 - 15歳(第一部:中学3年生→第二部:高校1年生)
: 誕生日 - [[10月26日]]、血液型 - AB型
: もう1人の主人公で、美朱とは幼馴染み兼親友。成績優秀で常に堂々とした強気な美人。昔はロングヘアだったが、男子生徒にモテ過ぎて鬱陶しいからとショートカットにしている。美朱と共に本に吸い込まれた、青龍の巫女。美朱の危機を救った際、入れ替わりで降り立った倶東国で暴漢に襲われたが、すんでのところで心宿たちに救出された{{Efn|唯は極限状態から気を失っており、実際の事の顛末は知らなかった。}}。
: 第2部では再び髪を伸ばし、常に左耳に心宿のピアスを身に付けている。美朱との仲はすっかり修復して同じ進学先に進み、哲也と交際中。
; 夕城 奎介(ゆうき けいすけ)
: 声 - [[三木眞一郎]] / [[飛田展男]]
: 演 - 松浦温生(舞台初演・朱雀編・青龍編) / [[坂本真一 (俳優)|坂本真一]](蒼ノ章)
: 誕生日 - [[1月3日]]、血液型 - O型
: [[中国哲学]]を専攻する大学生で、美朱の兄。母の期待を一身に背負い、ひたすら抑圧されている妹の身を予てより案じていた。美朱に媒体(リボン)を託された、現実世界での唯一の通信相手であり、一番の協力者。美朱が本に入ったことで目の当たりにした四神天地書の不思議に疑問を感じ、哲也を巻き込んで独自に調べ上げる。前向きで呑気。
: 第二部では魏の大学の先輩であり、同校で知り合った神代 魅([[#天罡と地煞四天王|天罡と地煞四天王]]の項目参照)に惑わされる。
; 梶原 哲也(かじわら てつや)
: 声 - [[成田剣]] / [[森川智之]]
: 演 - 松田陽平(舞台初演・朱雀編・青龍編)
: 誕生日 - [[9月21日]]、血液型 - B型
: 奎介の友人。サングラスを掛け、おちゃらけた性格をしているが責任感は強い。コンパで奎介に一万円を貸している。奎介に協力した四神天地書の調査で奥田永之助の書簡を発見し、鈴乃と面会する。
: 第二部では唯の彼氏として、七星士達の死を思い出して深い罪悪感に沈む唯を支える。
; 夕城母
: 美朱と奎介の母。美朱には良い高校に進学してもらいたいと思っている<ref>原作1巻1話</ref>。
; 大杉 鈴乃(おおすぎ すずの)
: 声 - [[中沢みどり]]
: 白虎の巫女。父親は[[ふしぎ遊戯 玄武開伝#現実世界|高雄]]。四神天地書に吸い込まれたのは四正国での90年前で、婁宿とは相思相愛の仲であったが、白虎への願いで西廊国に留まることが叶わず、生死を共にすることを誓い合って現実世界に戻る。現在も存命であったため、四神天地書の情報を求めて訪ねて来た奎介達にその経験を語るが、面会中に死亡する。四神天地書内の婁宿の死亡と同じタイミングであった。回想では、[[セーラー服]]姿の二つ分けしたお下げ髪の女学生。
: 白虎の侵食に打ち勝てるほど、精神力が強くおだやかな女性であった。
; 奥田 多喜子(おくだ たきこ)
: 声 - [[田中敦子 (声優)|田中敦子]](OVAのみ)/ [[ゆきのさつき|雪野五月]](玄武開伝)
: [[玄武]]の巫女。四正国での200年前に現れて玄武を召喚し、北甲国に永遠の平和をもたらした後、神座宝として首飾りを残して現実世界へ帰ったと伝えられている。現実世界では大正時代の女学生であったが、奎介達が調べ上げた現代の記録によれば、本から戻った後に永之助により刺殺されたとされている。回想では、袴姿の[[ハイカラ]]さんスタイルの少女。
; 奥田 永之助(おくだ えいのすけ)
: 声 - [[仲野裕]] / [[大川透]](玄武開伝)
: 大陸で発見した謎の経典―'''四神天地之書'''の魅力に取り憑かれ、大正時代に日本語版を訳出した人物。大杉高雄に宛てた手紙などから、娘が四神天地書に吸い込まれた上、玄武に体を蝕まれたことを深く悔いていたことなどが伺え、当時の記録では多喜子を刺殺した後に自殺したとされている。
; 榊 真夜(さかき まよ)
: 声 - [[野田順子]]
: ふしぎ遊戯 外伝7〜8 -永光伝-及びOVA3の主人公で、朱雀の二代目巫女。魏に好意を抱いていた。魏と美朱の会話から四神天地書の存在を知り、美朱に対する嫉妬が暴走。魏と美朱の仲を無にしようと、自ら四神天地書の世界へ旅立つ。その後、朱雀の巫女としてのさまざまな経験を経て真実を知り、自身の過ちに気付いて美朱とも和解する。
=== 朱雀 紅南国(こうなんこく) ===
朱雀を守護神とし、四正国の内南に位置する温暖気候の国。皇帝の治世が行き届いているためか、四正国の中では比較的治安が良い。しかし近年では倶東国の軍事的脅威に晒されている。首都は栄陽(えいよう)。朱雀の象徴色は[[朱]]。そのため、朱雀七星士の体に出る文字の色は赤色。朱雀七星士は全員男である。
; [[鬼宿]](たまほめ) / 琮 鬼宿(そう きしゅく)
: 声 - [[緑川光]] / [[関俊彦]]
: 演 - [[平野良]](舞台初演・朱雀編・青龍編・朱ノ章・蒼ノ章) / [[喜矢武豊]](ネルケ版)
: 字 - 「鬼」の字で額
: 年齢 - 17歳、身長 - 180cm
: 誕生日 - [[6月28日]]、血液型 - O型
: 美朱と唯が街中で絡まれていたところを助けた、朱雀七星士。現実の服を着せ整えると並の芸能人よりいい男(奎介談)。
: 弟2人妹2人の5人兄弟の長男。家族思いで、病弱な父に代わって幼い弟妹達を養おうと都によく出稼ぎに来ているために大変な守銭奴だが、朗らかな気の良い青年。母が末妹を出産した後に他界したので、特に末妹を可愛がっている。額に浮かぶ鬼の字が原因で幼い頃は(鬼の単語が意味する)“おばけちゃん”と呼ばれ馬鹿にされており、それを見兼ねた奎宿([[#白虎 西廊国(さいろうこく)|白虎 西廊国]]の項目参照)から教わった拳法を得意とする。後に太一君から、気を放つ技を与えられる。第一部終盤で青龍の力を得た唯により朱雀の力を封印されるが、唯の2つ目の願いにより唯と共に現実に戻る事になった美朱に強い想いでしがみついて現実へ行く事になり、そこで自身が本の中の作られた人物だと知る。
: 唯の三つめの願いで朱雀の力を取り戻して心宿を倒した後、宿南魏として現実世界に転生し美朱と結ばれる。
:; 宿南 魏(すくなみ たか)
:: 年齢 - 18歳(誕生日、身長、血液型は鬼宿と同じ)
:: 鬼宿が現実世界に転生した姿。後輩として奎介と同じ大学に入学したことで見出され、美朱と再会した。現在は一人暮らしだが田舎の家族は両親と弟1人、妹1人。今でもお金が大好きでバイトに精を出しては、部屋に小銭の瓶詰めを着々と増やしている。鬼宿だったころの記憶がところどころ抜け落ちている。
; [[星宿]](ほとほり) / 彩賁帝(さいひてい)
: 声 - [[子安武人]] / [[松本保典]]
: 演 - [[植野堀まこと]](舞台初演) / [[末野卓磨]](朱雀編・青龍編) / [[山本一慶]](ネルケ版) / [[前山剛久]](朱ノ章) / [[谷佳樹]](蒼ノ章)
: 字 - 「星」の字で左の首筋
: 年齢 - 18歳、身長 - 182cm
: 誕生日 - [[4月2日]]、血液型 - A型
: 朱雀七星士にして英明且つ誠実な、紅南国の皇帝。剣を使った戦闘を主に得意とし、後には太一君から神剣を授かる。女性と見紛うほどの美形で、極度のナルシスト。権力争いの関係で母親から厳しい幼少期を送らされており、そんな中で聞いた朱雀の巫女という存在に心の拠り所を得ていた。実際に出会ってからも美朱自身の朗らかさに心癒され求婚するが、美朱と鬼宿の想いの強さを認め、二人の幸せを側で見守り、后・鳳綺を娶る。倶東国の軍勢が攻め寄せる中、七星士としての能力を封じられたまま赴いた戦場で、心宿と戦い殉死する。劇中未登場だが、異母兄弟が数名いる。
: 第二部では戦いが終わった後も何故か転生出来ず、霊魂として他の戦死した七星士たちと共に太極山に身を寄せている。鳳綺との間に[[息子|跡取り]]を一人授かっており、それを知った後はかなりの親バカぶりを見せていた。
; [[柳宿]](ぬりこ) / 迢 柳娟(ちょう りゅうえん)
: 声 - [[坂本千夏]] / [[高山みなみ]]
: 演 - [[宮地真緒]](舞台初演・朱雀編・青龍編・朱ノ章・蒼ノ章) / [[染谷俊之]](ネルケ版)
: 字 - 「柳」の字で左胸元
: 年齢 - 18歳、身長 - 166cm
: 誕生日 - [[3月10日]]、血液型 - B型
: 星宿の後宮で暮らしていた朱雀七星士。左目の下に泣きぼくろがある。自身の数倍はある岩をも軽々と持ち上げられる、怪力の持ち主。太一君から力を増幅させる腕輪を授かり、本気になると腕輪は手甲に変化する。美女然としてはいるが青年で、女装は馬車に轢かれた妹―康琳(こうりん)の死と決別出来ずにいた故でもあるが、後宮入り自体を康琳としてしているからでもある。
: 当初は想いを寄せる星宿が惹かれていたため、何かと美朱を虐めていた。しかし良き友人を経て最期には男として美朱を想うようになるも、やがては鬼宿との仲を応援する一番の相談相手として2人のどちらからも頼られる存在となる。玄武の神座宝が納められていた黒山で殿として、尾宿と1人戦い致命傷を負いつつも勝利し、責任感より最期の力で入口を塞いでいた大岩を退けて力尽きた。
: 第二部では他の七星士同様何故か転生出来ず、星宿らと共に霊魂として太極山に身を寄せているが、力を発揮する時のみ美朱達に触れられる。
; [[井宿]](ちちり) / 李 芳准(り ほうじゅん)<ref>苗字は小説版のみ記載。</ref>
: 声 - [[関智一]] / [[山口勝平]]
: 演 - [[矢吹卓也]](舞台初演・朱雀編) / [[関義哉]](青龍編) / [[星野勇太|古川裕太]](ネルケ版) / 橘龍丸(朱ノ章) / [[葉山昴]](蒼ノ章)
: 字 - 「井」の字で右膝
: 年齢 - 24歳、身長 - 175cm
: 誕生日 - [[5月21日]]
: 変身や分身・瞬間移動など多様な術を誇る、最年長の朱雀七星士。それ故に、何かと朱雀七星士達のフォローやストッパー、相談役になりがち。後に太一君から、術の力を高める首飾りを授かる。通常時の語尾は『〜なのだ』であり、声も甲高くよく二頭身になる僧侶。糸目だが実は仮面であり、素顔は美形で、真面目・深刻な話の折には仮面を外すことが多い。かつて大洪水に遭って親友を含め家族や近しい人全てを失った天涯孤独の身で、その際に自身も顔に傷を負っており、仮面は傷を見る者に不快感を与えないための配慮である。
: 第二部では、朱雀七星士の数少ない生き残り。天罡の放った地煞四天王の一人が因縁の親友であり、洪水に流される親友は助けられなかったのか、婚約者を寝取られた恨みから見捨てたのではないかという自責の念に、再び苦しむことになる。
; [[翼宿]](たすき) / 侯 俊宇(こう しゅんう)
: 声 - [[神奈延年|林延年]] / [[矢尾一樹]]
: 演 - [[小澤亮太]](舞台初演) / [[伊崎央登]](朱雀編) / [[小谷嘉一]](青龍編・朱ノ章) / [[碕理人]](ネルケ版) / 薫太(蒼ノ章)
: 字 - 「翼」の字で右腕
: 年齢 - 17歳、身長 - 178cm
: 誕生日 - [[4月18日]]、血液型 - B型
: [[ハリセン]]状の武器'''鉄扇'''による炎攻撃を操る朱雀七星士。太一君により鉄扇は[[ダイヤモンド|金剛石]]のように輝く立派なものへと変化した。紅南国の[[関西弁]]を使う地方の山賊の頭の最有力候補で、通称は幻狼(げんろう)。朱雀七星士の務めを果たすため、跡目(山賊の頭)は幼馴染みである親友の攻児に譲った。喧嘩っ早い熱血漢。男気に溢れ、情に厚く涙脆いお人好し。その裏表のない性格から、素直すぎる[[場の空気|空気]]を読まない発言をしては柳宿にどつかれる。女傑揃いの女系一家で育ったためか、やや女性が苦手。
: 第二部では、朱雀七星士の数少ない生き残りとして美朱と魏の石探しの旅に同行するうち、美朱を意識した部分を飛皋に欲望として増幅され、利用される。両親と姉が五人いる(作中には姉は一人・愛瞳のみ登場)。
; [[軫宿]](みつかけ) / 妙 寿安(みょう じゅあん)
: 声 - [[石井康嗣]] / [[小杉十郎太]]
: 演 - [[中村康介]](舞台初演・朱雀編・青龍編) / [[広瀬友祐]](ネルケ版) / [[滝川英治]](朱ノ章) / [[小笠原健]](蒼ノ章)
: 字 - 「軫」の字で左掌
: 年齢 - 22歳、身長 - 199cm
: 誕生日 - [[5月7日]]、血液型 - O型
: 朱雀七星士一の大柄かつ寡黙な、唯一の治癒能力の使い手。治癒能力は自身の体力・精神力を酷使するため、一日に一回が限度。太一君から授かった聖水は、浸けた手で治療すると服まで再生し、飲むと体力・回復力を向上させる。名医と持て囃され、遠方への診察も請け負ったことで最愛の人の発病に間に合わず病死させたことに絶望し、人里離れた山深くで糸目の猫―たまと共に隠棲していた。戦場にて、青龍七星士達との戦闘での傷を抱えながら、最期の力で死んだ恋人と同名の赤子を治癒して命尽きる。
: アニメでは、赤子を救えず仲間も救えずと己の無力さに嘆くも、在るだけの気を与えればと最期の力を振り絞り周囲の患者等を治療する。
: 第二部ではやはり霊魂のみの存在になっているが、治癒の力は健在である。
; [[張宿]](ちりこ) / 王 道煇(おう どうくん)
: 声 - [[川上とも子]] / [[折笠愛]]
: 演 - 富田大樹(舞台初演・朱雀編・青龍編・朱ノ章・蒼ノ章) / [[日向未来|未来]](ネルケ版)
: 字 - 「張」の字で左足の甲
: 年齢 - 13歳、身長 - 148cm
: 誕生日 - [[3月19日]]、血液型 - A型
: 朱雀七星士中最年少ながら、優秀な成績で科挙に合格した少年。七星士としての能力の知力や冷静な言動は字が出ている間だけのもので、その制御ができないという不安定な状態。普段は臆病な泣き虫のおっとりとした性格で、小柄な体型。七星士集めの噂を耳にはしていたが、字の出ない時期が長く続き、恐怖心からなかなか名乗りを挙げられずにいた。本人は字の出た時と、そうでない時のギャップに非常にコンプレックスを覚え、男らしさに憧れている。太一君からは巻物を授かる。字が消えていた隙に箕宿に体を乗っ取られ、これを滅しようと自ら命を絶つ。
: 第二部では既に故人であり、何故か転生が出来ない。年老いた母に兄が1人おり、兄は張宿の死後に結婚している。
; たま
: 声 - 冬馬由美
: 軫宿の連れている猫。名付け親は美朱。単独行動をする美朱に一時付いていた折のことを、鬼宿にジェスチャーで伝えようとする等の器用さを持つ。原作第一部のギャグ担当。
; 少華(しょうか)
: 声 - [[榊原良子]]
: 演 - [[折井あゆみ]](朱雀編) / [[栗生みな]](朱ノ章)
: キスすることで死人を蘇生させられる女性。村を出ると、その能力を失ってしまう。
: 実は軫宿の最愛の幼馴染であり、人間としては一年前に既に死亡していたが、自身を取り殺した病魔に死後も利用され続ける。蘇生の力も、死体を操ってそう見せかけているだけであった。最終的には軫宿の能力により病魔を払われ二度目の死を迎えるも、軫宿にもう一度出会えたことに満足していた。
; 鳳綺(ほうき)
: 声 - [[坂本千夏]] / [[高山みなみ]]
: 星宿の后で、柳宿にそっくりの美人。後に跡取りの皇子を生むが、夫を失った心労で口を閉ざす。
; 芒辰(ぼうしん)
: 声 - [[矢島晶子]]
: 星宿と鳳綺の息子であり、紅南国の次期皇帝。母親と同じように言葉を発さない。
; 迢 呂候(ちょう ろこう)
: 声 - [[井上和彦 (声優)|井上和彦]]
: 柳宿の兄で、着物屋の店主。容姿は柳宿によく似ているが、性格は非常に気弱。生前は柳宿を頼りにしていたため、彼の死後もなお依存している。
=== 青龍 倶東国(くとうこく) ===
青龍を守護神とし、四正国の内東に位置する軍事大国。その国風と現皇帝が暴政を敷いていることから国内では内乱が絶えず、治安も非常に悪い。首都は春封(しゅんふう)。青龍の象徴色は[[青]]。そのため、青龍七星士の体に出る文字の色は青色。
; [[心宿]] (なかご) / アユル<ref>小説版のみの記載。</ref>
: 声 - [[古澤徹]] / [[置鮎龍太郎]]
: 演 - [[寿里]](舞台初演・朱雀編・青龍編・朱ノ章) / [[吉岡佑]](ネルケ版) / [[輝馬]](蒼ノ章)
: 字 - 「心」の字で額
: 年齢 - 25歳、身長 - 193cm
: 誕生日 - [[11月17日]]
: 青龍七星士にして倶東国将軍であり、国内の兵力の大部分を掌握している。剣術、拳法、[[気功]]にまで長け、武人としても策略家としても優秀な青年。幼い頃から邪教とされる信仰を持つ流浪の異民族であるとして迫害を受け、ある日襲ってきた兵を前に初めて七星士としての力に目覚めたものの、敵兵はおろか、強大過ぎるその力で母親をも殺めてしまう。七星士保護の名目で連れて行かれた宮殿でも、その金髪碧眼から倶東国皇帝の[[男娼|慰み者]]であった。そんな経歴により世界全てを憎悪しており、倶東国や唯の忠臣と見せ掛けて自己のために青龍召喚を狙っている。唯への服従は表向きであり、自分以外の者は仲間である青龍七星士ですら信用していない。しかし自らを慕い、境遇の上でも自分と重なる房宿とは躰だけの関係かに見えたが、実は自覚なしに心を許していたようであり、彼女が自分を庇って死んだ際には動揺を見せていた。
: 後に現実世界での鬼宿との戦いの末、胸を貫かれ死亡。死の間際には母と房宿の姿を見た。常に身につけていたピアスは唯へ贈られて媒体となり、やがて後作では神座宝となった。第二部でも防御壁を作り、唯を守ることになる。
: 作者の一番のお気に入りであり、短編[[パロディ]]『心宿しっかりしなさい!』二編<ref>単行本オマケ漫画『ふしぎ悪戯』の一編。いわゆる楽屋オチ兼[[並行世界]]ネタの漫画であり、各キャラクターを「ドラマ『ふしぎ遊戯』で、その役を演じている役者」として扱っている。そのため(またオマケゆえに)キャラ崩壊が激しい内容となっている。ここでの心宿は気のいい新人の青年俳優で、主演にして長年のキャリアを持つ人気子役の美朱と事務所の先輩の鬼宿にパシリにされイジられている。</ref>の主人公。
; [[亢宿]](あみぼし) / 武 亢徳(ぶ こうとく)
: 声 - [[うえだゆうじ|上田祐司]] / [[岩永哲哉]]
: 演 - [[斉藤祥太]](舞台初演) / [[桑野晃輔]](朱雀編) / [[林明寛]](青龍編) / [[澤田怜央]](ネルケ版) / [[服部翼]](朱ノ章) / [[松岡卓弥]](蒼ノ章)
: 字 - 「亢」の字で右肩
: 誕生日 - [[8月26日]]、血液型 - A型
: 角宿の双子の兄で、青龍七星士。弟思いの優しい性格。笛を媒介にして口から気を発し、美しい音色で人を穏やかにさせる一方、発狂させ殺すことも出来る。張宿を騙って美朱一行に近付き、朱雀招喚を失敗に追い込んだ。追い詰められて川に転落し死亡したと思われていたものの、それを助けた老夫婦の亡くなった息子の代わりとして、懐可(かいか)という名で新たな生活を送っていた。
: その優しい性格から青龍よりも朱雀陣営にシンパシーを感じており、危機に陥った美朱を守るため、戦いに復帰。体を張った戦いで辛くも氐宿を討ち取るが、最終的にはその身を案じた角宿により瀕死だったところへ忘却草を飲まされ、全ての記憶を消される。懐可としての新生活中にも、現実で戦死した角宿を無意識に感じ取り涙した。青龍七星士唯一の生き残り。
: OVAにおいては、危機に陥った唯を助けたいと望んだ弟の願いを叶えるべく、角宿の魂をその身に降臨させる。
; [[角宿]](すぼし) / 武 俊角(ぶ しゅんかく)
: 声 - 上田祐司 / 岩永哲哉
: 演 - [[斉藤慶太]](舞台初演) / [[桑野晃輔]](青龍編) / [[前田隆太朗]](蒼ノ章)
: 字 - 「角」の字で左肩
: 誕生日 - 8月26日、血液型 - A型
: 亢宿の双子の弟で、青龍七星士。[[暗器]]・[[流星錘]]を使って攻撃する。幼くして両親を失い、兄と2人で苦労して育ったことで、兄のためなら人殺しさえ厭わない、猪突猛進型。兄と比べて精神的に幼い分、残酷な一面があり、心宿の入れ知恵から鬼宿の家族を惨殺した。兄以外で初めて優しく接してくれた唯に、仄かな恋心を寄せていた。唯に貰った制服のリボンを媒体に現実世界へ出現するが、鬼宿に敗れて戦死。
: アニメでは、唯により現実に呼ばれて美朱を抹殺しようと鬼宿を追い回して戦闘になるが、鬼宿の死んだ弟妹による強い念に押さえつけられているうちに、自ら放った流星錘によって自滅する。
; [[房宿]](そい) / 白 花婉(はく かえん)
: 声 - [[田中敦子 (声優)|田中敦子]] / 折笠愛
: 演 - [[宮崎麗香|宮﨑麗香]](舞台初演) / [[八代みなせ]](青龍編) / [[花奈澪]](蒼ノ章)
: 字 - 「房」の字で左太腿
: 年齢 - 19歳
: 誕生日 - [[10月30日]]、血液型 - O型
: 雷を操る青龍七星士<ref>国や地方が異なると上手く操れない場合もある。</ref>。心宿とは[[房中術]]で気の力を注ぐのに、度々躰の関係を持っている。幼い頃に娼館から脱走し、連れ戻されようとした際に心宿に助けられて以来、彼を慕っている(結局娼館に連れ戻され、娼婦となる)。心宿の前と鎧を身に纏う戦闘時では言葉遣いも異なり、最後は心宿を庇って討たれる。当初はマントで全身を隠していたが、切れ長の目に長身、長い髪を横で一つに結い上げ、ミニ丈のワンピースの上から鎧に身を包んでいた。心底では、美朱のことを認めている。
; [[氐宿]](とも) / 羅軍<ref>芸名であり、本名ではない。</ref>
: 声 - [[飛田展男]]
: 演 - [[田邉明宏]](舞台初演・青龍編) / [[木田健太]](蒼ノ章)
: 字 - 「氐」の字で右下腹部
: 誕生日 - [[10月13日]]、血液型 - AB型
: [[蜃]]という貝を使って幻覚を見せる能力を持ち、鞭も扱う青龍七星士。貝に複写した他人の記憶を、後に上映することもできる。幼いころに旅の劇団一座で育ったため、独特の美意識を持った派手な隈取りの化粧を常時している。実は美形。心宿を慕う[[男色]]家。美朱を助けた亢宿を殺そうとして、角宿に殺害される。
: OVA第一部で復活し、美朱達に挑戦するが、皮肉にも慕っていた心宿によって阻まれる。
; [[尾宿]](あしたれ)
: 声 - [[大友龍三郎]] / [[古田信幸]]
: 演 - [[來河侑希]](舞台初演) / 保土田充(青龍編) / 宮川智之(蒼ノ章)
: 字 - 「尾」の字で右腰
: 誕生日 - [[11月21日]]
: 巨体から繰り出す怪力と、鋭い爪と牙での攻撃が主な青龍七星士。狼の血が流れる人間で、獣のような姿から見世物にされていたところを、心宿に拾われる。柳宿との戦いで、人間としては死亡するが狼の部分で蘇り、美朱が手にしていた玄武の神座宝を掠め盗って心宿の元へ戻ったものの、その場で殺される。
; [[箕宿]](みぼし)
: 声 - [[中沢みどり]]
: 演 - [[高橋里央]](舞台初演) / 青山太久(青龍編) / 深澤恒太(蒼ノ章)
: 字 - 「箕」の字で襟首
: 誕生日 - [[12月4日]]
: 何年も昔から他人の体に憑依し、魂だけで生き続けてきた邪法使いの青龍七星士。美朱達と出会った時は大寺院の法王で、外見は赤子。張宿に憑依したが彼の精神力に負け、諸共に落命させられる。
=== 白虎 西廊国(さいろうこく) ===
白虎を守護神とし、四正国の内西に位置する、砂漠などが[[北アフリカ]]〜[[中東]]を思わせる国。白虎の象徴色は[[白]]。そのため、白虎七星士の体に出る文字の色は白。90年前に白虎召喚に成功している。
; [[婁宿]](たたら) / カサル=ツォニェ
: 声 - [[山野井仁]]
: 演 - [[藤宮潤]](舞台初演) / [[紅葉美緒]](青龍編) / 及川洸(蒼ノ章)
: 字 - 「婁」の字で右手の甲
: 誕生日 - [[3月21日]]、血液型 - A型
: 植物を操る白虎七星士。鈴乃とは相思相愛の仲だったが、鈴乃と本の世界で共に生きることが叶わなかったため、昴宿の術で肉体の時間を止めて、神座宝を守り続けている。廟を出ると急激に加齢し、寿命を一気に縮める。長い黒髪をお下げにした、褐色の肌の優しげな美青年。
; [[昴宿]](すばる) / ドゥリン=ハム
: 声 - [[土井美加]]
: 字 - 「昴」の字で左胸
: 誕生日 - [[5月1日]]、血液型 - O型
: 奎宿の妻で、白虎七星士の老婆。時間を操ることが出来るため、短時間だけ奎宿共々若返って戦闘に加わった。普段は上半分をシニヨン、下半分の解き髪を緩やかに波打たせている。若かりし頃はかなりのセクシー美人で、爆乳のナイスバディ。
; [[奎宿]](とかき) / ランヴァ=ハム
: 声 - [[石井康嗣]] ・ 若い頃 [[志賀克也]]
: 字 - 「奎」の字で左頬
: 誕生日 - [[11月11日]]、血液型 - B型
: 昴宿の夫で、鬼宿の武術の師匠でもある白虎七星士の老人。能力は瞬間移動で、イヤリングを使い攻撃する。若い頃は褐色の肌をした精悍な顔立ちの美青年でかなり遊んでいたらしく、今でも女好き。妻を『かあちゃん』と呼ぶ。
=== 玄武 北甲国(ほっかんこく) ===
玄武を守護神とし、四正国の内北に位置する最も広大な国。首都は特烏蘭(トウラン)。国土のほとんどが殺伐とした荒野や山だが、資源が豊富。[[モンゴル]]をイメージしている。玄武の象徴色は[[黒]]。そのため、玄武七星士の体に出る文字の色は黒く、光り輝く時は[[銀色]]。200年前の玄武召喚により、永遠の平和が約束された国である(詳しくは[[ふしぎ遊戯 玄武開伝]]の項目を参照)。
; [[虚宿]](とみて) / チャムカ=ターン
: 声 - [[岩永哲哉]] / [[堀川りょう|堀川亮]]
: 演 - 長谷川太紀(舞台初演) / [[小野賢章]](青龍編) / [[高根正樹]](蒼ノ章)
: 字 - 「虚」の字で左肩甲骨上
: 年齢 - 享年16歳、身長 - 173cm
: 誕生日 - [[2月14日]]
: 氷を操る能力の持ち主で、弓の名手でもある玄武七星士。死後も霊体として斗宿と共に、黒山の氷の洞窟で神座宝を護り続けていた。美朱を巫女として認めた後、神座宝を託し、あの世へと帰って行った。当初は気性の荒い態度で朱雀の面々に接したが、美朱を巫女と認めると柔和な態度をとるようになった。
; [[斗宿]](ひきつ) / エムタト=チェン
: 声 - [[檜山修之]] / [[辻谷耕史]]
: 演 - 堤隼人(舞台初演) / [[前内孝文]](青龍編) / [[川﨑優作]](蒼ノ章)
: 字 - 「斗」の字で眼帯で隠された右目
: 年齢 - 享年21歳、身長 - 184cm
: 誕生日 - [[12月16日]]
: 水と氷の術を使う玄武七星士。死後も霊体として虚宿と共に、黒山の氷の洞窟で神座宝を護り続けていた。美朱を巫女として認めた後、神座宝を託す。
=== 天罡と地煞四天王 ===
原作第二部(OVA2)の敵。
; 天罡(てんこう)
: 声 - [[小杉十郎太]] / [[塩沢兼人]]
: [[飛鳥時代]]に四神により、高松塚古墳に封印された魔人。地煞四天王を配下に、全てを我が物としようと企み、四神天地書の力を狙い、魏の鬼宿としての記憶を利用して復活を図る。心宿の民族が信仰していた邪教の神で、第一部では心宿と内通していた。
; 斂芳(れんほう) / 現代名:祀行 斂(しぎょう れん)
: 声 - [[石田彰]]
: 地煞四天王の一人で、美朱のクラスに編入してきた美少年。高校の人間達を操って美朱を貶め、魏や唯達から引き離そうとしていた。美朱と魏の持っていた朱雀の巻物に縛られたことで瀕死となり、魅嵩が匿っていたが、その後に諸共に天罡により消滅させられた。実はかつて姉と恋仲になり、[[近親相姦|禁忌]]を侵したとして追い詰められ、人としてはとうに命を落としていた。
; 魅嵩(みいすう) / 現代名:神代 魅(かみしろ みいる)
: 声 - [[天野由梨]]
: 地煞四天王の一人で、斂芳の姉。魏と美朱の仲を引き裂くため、大学で魏や奎介に近付く。魔物を体に寄生させることで、他人を操る。天罡を信じて従っていたが、最終的には天罡に良い様に利用された挙句、斂芳共々消滅させられた。斂芳と同じく、人間としての命は既に落としている。
; 旱鬼・飛皋(かんき・ひこう)<!--原作表記に基づき、「/」にしていません-->
: 声 - [[高木渉]]
: 地煞四天王の一人であり、井宿が婚約者を奪われた怒りから殺したと語った、親友その人。実は婚約者のことは、親友の横恋慕であった。水を操り、その水で人の理性を奪ったり、心の奥の闇を引き出すことが出来る。最期は井宿と和解して、水に還った。
; 俑帥(ようすい)
: 声 - [[遠近孝一]]・緑川光
: 地煞四天王の一人。糸を操り、捉えた人間を傀儡に変えることができる。その正体は、魏から抜け落ちた鬼宿の記憶の石が入れられた人形であり、鬼宿が魏に転生する以前の記憶と力を全て持つ。最期は鬼宿を受け入れた魏と融合し、消滅。
=== 太極山 ===
; 太一君(たいいつくん)
: 声 - [[京田尚子]] / [[真山亜子|水原リン]]
: 演 - 舞香(舞台初演・朱雀編) / [[藤宮潤]](青龍編・朱ノ章) / 小島ことり(蒼ノ章)
: 極一部の者だけが辿り着ける太極山に住む、四神天地書の世界を見守っている仙人であり、天帝。巫女と七星士を導く存在。普段は老婆の姿をとり、しかも気に入っている。
; 娘娘(にゃんにゃん)
: 声 - [[氷上恭子]](TVアニメ) / 川上とも子(OVAのみ)
: 太一君と太極山に住む、幼女姿の女神。分身の術を心得ており、太一君に代わり美朱達の手助けをすることもある。
=== ゲームのオリジナルキャラクター ===
; 鳳 まどか(おおとり まどか)
: ゲーム『'''ふしぎ遊戯 朱雀異聞'''』の主人公。朱雀の巫女。
; 氷室 深咲(ひむろ みさき)
: 声 - [[小野涼子]]
: ゲーム『'''ふしぎ遊戯 朱雀異聞'''』における主人公の幼馴染。青龍の巫女。
== 用語 ==
; 四正国
: 四神天地書の中の、古代中国に似た世界。南の朱雀が守護する紅南国(こうなんこく)と東の青龍が守護する倶東国(くとうこく)に、北の玄武が守護する北甲国(ほっかんこく)と西の白虎が守護する西廊国(さいろうこく)の四大国、そして他の小国から成る。現実世界よりも時間の流れが早いが規則性は特に無い(例えば四神天地書に『3日後』といった記述が出れば現実では数秒のうちに3日が過ぎる等)<ref>四正国での多喜子の出現は200年前、鈴乃は90年前だが、現実では多喜子の7年後に鈴乃が巫女になっている</ref>。
; 四神の伝説
: 東西南北の四大国に、『国滅亡の危機に異界より一人の娘が現れ、巫女として七星士と共に神獣の力を得て国を救う』もの。
:* 本に選ばれ吸い込まれた現実世界の少女は、いずれかの四神の巫女の役割を否応なく担う。
:* 神獣召喚の儀式は、身を清めた処女なる巫女が七星士全員の居並ぶ中、それぞれの神獣を召喚する独自の詞を読み上げ、巻物―四神天地之書を火にくべる。原則、この4つの条件の内にどれか1つでも欠落があると成功しない(神座宝の項目参照)。詞を読み上げている間、巫女には足元から順に、自身の七星士の文字が対応するそれぞれの場所に現れる。
:* 神通力を使用する際には、巫女の額にはそれぞれの四神の紋章が現れるが、願いを叶える度に巫女の身体は神獣に蝕まれ、その神獣の特徴が体に現れる<ref>青龍は鱗、朱雀は背中に2つの亀裂が入り翼が生えるなど。</ref>。
:* 巫女とは生贄であり、その命と引き換えに神獣は願いを叶えるため、「願いを叶える毎に、神獣に喰われていく」。強い精神力があれば、死なずに済むらしい。
:* 神獣の神通力を手に入れた巫女は、どんな願いも3つだけ叶えられる。ただし死者を生き返らせることと巫女を四正国に留まらせる願いだけは叶わないため、恋仲になったものの添い遂げられなかった巫女と七星士も存在する。
:<!--リスト分断防止-->
; 七星士
: 巫女を守り、神獣を招喚するために選ばれた者。各四神に七星士が各7名で、理論上は一時に28名まで存在することが可能な筈だが、現在確認されている最大出現数は朱雀と青龍の14名。気功術や身体能力の飛躍的な向上などの後天的な場合や、生まれながらにであったり種族的なものであったりと事情は様々だが、それぞれに個別の特殊な能力が与えられる。対応する四神の七宿の内、自身の星宿を表す一文字が一つだけ体のどこかしらに現れ、パワーアップするにつれて文字は行書体になる。
; 神座宝
: 神獣を召喚すると、その時巫女が身に付けていた装身具が神力を宿して神座宝となる。神獣の召喚時に神座宝があれば、成功条件に欠落があっても召喚が可能。唯は七星士の死を、玄武と白虎の神座宝で補い、青龍を召喚した。
:* [[玄武]] - 玄武召喚時、多喜子が身に付けた首飾り。
:* [[白虎]] - 白虎召喚時、鈴乃が持っていた鏡。
:* [[青竜|青龍]] - 青龍召喚時に、唯が身に付けていた心宿の耳飾り。
:* [[朱雀]] - 朱雀召喚時、美朱が身に付けていた鬼宿との結婚指輪<ref>[[#小説|永光伝]]では美朱の身ごもった魏(鬼宿)との子供に変更された。一方永光伝のアニメでは、子供とともに指輪も真夜に移っていた。</ref>。
:<!--リスト分断防止-->
; 媒体
: 巫女となった少女が、本の内と外を行き来する目印となる“肌身離さず身に着けている同質のもの”のこと。これを持ち合う者同士なら本の内と外で別れても、現実で文章を追い掛けている者が本書へ強く呼び掛けると、稀に[[テレパシー|念話]]で遣り取りすることができるようになる。ただし、所持しているお互いの絆が強くなければ同じものを持っていたとしても意味を成さないので、序盤での美朱と唯の中学の制服は、在学生全員と繋ぐ訳ではない。中盤からは美朱と奎介が、美朱のお団子頭に飾っていたリボンで繋がりを持つようになる。
; 四神天地之書と四神天地書
: 現実世界においては、前者が中国に伝わる経典。後者はその経典を元に、奥田永之介が大正時代に日本語訳した和綴じの、美朱達が図書館の立ち入り禁止区域で見付けた古ぼけた本。第二部では既に[[飛鳥時代]]、秘密裏に唐から伝来している。本の中では、前者は神獣召喚の詞が記された、四大国各王家に代々伝わる巻物で神獣召喚時の必需品。
: 現実世界での永之介版は、基準は不明だが少女のみを選んで吸い込む呪われた本。少女を得たと同時に四神いずれかの巫女として認定し、序文以外は完全白紙化、以降は少女の言動や心情・見聞を中心に関係者のことまでが本の中・外の区別なく全て勝手に文章としてページに浮かび上がるようになる。よって元の永之介の和訳は勿論、前巫女達の記録も全ては次の巫女が出た時点で新しく書き換えられてしまうので、永之介から高雄への遺書などで独自に調査する以外、前巫女達について本書だけで知ることはできない。裁断や焚書も跳ね返し、投棄しても神獣を呼び出すまでは巫女の元に、召喚後は新たな少女の前にさり気なく現れるという神出鬼没振り。
== 書誌情報 ==
=== 単行本 ===
<!-- 各単行本の個別ページには発売日が記載されておらず、既刊一覧ページにのみ発売日が記載されているため、このような出典明記方法を取っています。-->
* 渡瀬悠宇 『ふしぎ遊戯』 小学館〈フラワーコミックス〉、全18巻<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/search/site/ふしぎ遊戯?solrsort=ds_created+asc |title=ふしぎ遊戯 既刊一覧 |website=小学館公式サイト |accessdate=2022-03-03}}</ref>
*# 1992年5月26日発売、{{ISBN2|4-09-134351-1}}
*# 1992年8月21日発売、{{ISBN2|4-09-134352-X}}
*# 1992年11月26日発売、{{ISBN2|4-09-134353-8}}
*# 1993年1月26日発売、{{ISBN2|4-09-134354-6}}
*# 1993年4月26日発売、{{ISBN2|4-09-134355-4}}
*# 1993年7月26日発売、{{ISBN2|4-09-134356-2}}
*# 1993年10月26日発売、{{ISBN2|4-09-134357-0}}
*# 1994年1月26日発売、{{ISBN2|4-09-134358-9}}
*# 1994年4月26日発売、{{ISBN2|4-09-134359-7}}
*# 1994年7月26日発売、{{ISBN2|4-09-134360-0}}
*# 1994年10月26日発売、{{ISBN2|4-09-136221-4}}
*# 1995年1月26日発売、{{ISBN2|4-09-136222-2}}
*# 1995年4月26日発売、{{ISBN2|4-09-136223-0}}
*# 1995年7月26日発売、{{ISBN2|4-09-136224-9}}
*# 1995年10月26日発売、{{ISBN2|4-09-136225-7}}
*# 1996年1月26日発売、{{ISBN2|4-09-136226-5}}
*# 1996年4月25日発売、{{ISBN2|4-09-136227-3}}
*# 1996年7月26日発売、{{ISBN2|4-09-136228-1}}
=== 完全版 ===
* 渡瀬悠宇 『ふしぎ遊戯 完全版』 小学館〈フラワーコミックス〉、全9巻
*# 2001年10月発行、{{ISBN2|4-09-138731-4}}
*# 2001年10月発行、{{ISBN2|4-09-138732-2}}
*# 2001年11月発行、{{ISBN2|4-09-138733-0}}
*# 2001年12月発行、{{ISBN2|4-09-138734-9}}
*# 2002年1月発行、{{ISBN2|4-09-138735-7}}
*# 2002年2月発行、{{ISBN2|4-09-138736-5}}
*# 2002年3月発行、{{ISBN2|4-09-138737-3}}
*# 2002年4月発行、{{ISBN2|4-09-138738-1}}
*# 2002年5月発行、{{ISBN2|4-09-138739-X}}
=== 文庫版 ===
* 渡瀬悠宇 『ふしぎ遊戯』 小学館〈小学館文庫〉、全10巻
*# 2003年8月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09191511 |title=ふしぎ遊戯 1(文庫版) |publisher=小学館 |accessdate=2022-03-03}}</ref>、{{ISBN2|4-09-191511-6}}
*# 2003年8月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09191512 |title=ふしぎ遊戯 2(文庫版) |publisher=小学館 |accessdate=2022-03-03}}</ref>、{{ISBN2|4-09-191512-4}}
*# 2003年9月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09191513 |title=ふしぎ遊戯 3(文庫版) |publisher=小学館 |accessdate=2022-03-03}}</ref>、{{ISBN2|4-09-191513-2}}
*# 2003年9月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09191514 |title=ふしぎ遊戯 4(文庫版) |publisher=小学館 |accessdate=2022-03-03}}</ref>、{{ISBN2|4-09-191514-0}}
*# 2003年10月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09191515 |title=ふしぎ遊戯 5(文庫版) |publisher=小学館 |accessdate=2022-03-03}}</ref>、{{ISBN2|4-09-191515-9}}
*# 2003年10月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09191516 |title=ふしぎ遊戯 6(文庫版) |publisher=小学館 |accessdate=2022-03-03}}</ref>、{{ISBN2|4-09-191516-7}}
*# 2003年11月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09191517 |title=ふしぎ遊戯 7(文庫版) |publisher=小学館 |accessdate=2022-03-03}}</ref>、{{ISBN2|4-09-191517-5}}
*# 2003年11月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09191518 |title=ふしぎ遊戯 8(文庫版) |publisher=小学館 |accessdate=2022-03-03}}</ref>、{{ISBN2|4-09-191518-3}}
*# 2003年12月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09191519 |title=ふしぎ遊戯 9(文庫版) |publisher=小学館 |accessdate=2022-03-03}}</ref>、{{ISBN2|4-09-191519-1}}
*# 2003年12月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09191520 |title=ふしぎ遊戯 10(文庫版) |publisher=小学館 |accessdate=2022-03-03}}</ref>、{{ISBN2|4-09-191520-5}}
=== 小説 ===
* 渡瀬悠宇(原作・イラスト) / 西崎めぐみ(著) 『ふしぎ遊戯 外伝』 集英社〈パレット文庫〉、全13巻
*# 「-幻狼伝-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420773-2}}
*# 「-昇龍伝-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420774-0}}
*# 「-雪夜叉伝-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420775-9}}
*# 「-流星伝-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420776-7}}
*# 「-朱雀悲伝-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420777-5}}
*# 「-青藍伝-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420778-3}}
*# 「-永光伝 上巻-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420779-1}}
*# 「-永光伝 下巻-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420780-5}}
*# 「-朱玉伝-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420789-9}}
*# 「-逢命伝-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420790-2}}
*# 「-優愛伝-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420821-6}}
*# 「-三宝伝 上巻-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420822-4}}
*# 「-三宝伝 下巻-」1998年3月発行、{{ISBN2|4-09-420823-2}}
=== イラスト集 ===
* 『不思議遊戯 - 渡瀬悠宇イラスト集』1995年5月発行、{{ISBN2|4-09-199701-5}}
* 『ふしぎ遊戯 ANIMATION WORLD - 渡瀬悠宇イラスト集 Part2』1996年2月発行、{{ISBN2|4-09-199702-3}}
== テレビアニメ ==
[[1995年]][[4月6日]]から[[1996年]][[3月28日]]まで[[テレビ東京]]系でアニメ化された。毎週[[木曜日]]18時00分から18時30分に放送。全52話。
ほぼ原作通りの進行だが、原作では奎介による美朱への説明のみだった盛岡行きの様子や、鈴乃と婁宿が同時に亡くなるシーンが追加されるなどの相違点も多数ある。
=== スタッフ ===
* 原作 - [[渡瀬悠宇]]([[小学館]]文庫刊)<ref name="別冊オトナアニメ2011/09">『別冊オトナアニメ プロフェッショナル100人が選ぶベストアニメ』洋泉社、2011年9月29日発行、144頁、{{ISBN2|978-4-86248-782-7}}</ref>
* 監督 - [[亀垣一]]{{R|別冊オトナアニメ2011/09}}
* シリーズ構成 - [[浦沢義雄]]{{R|別冊オトナアニメ2011/09}}
* キャラクターデザイン・各話エピローグ総作画監督- [[本橋秀之]]
* 美術監督 - 長崎斉{{R|別冊オトナアニメ2011/09}}
* メインカラーデザイン - 長島真弓
* カラーデザイン - [[いわみみか。|いわみみか]]
* オープニングアニメーション - [[金田伊功]]、楠本祐子、田中比呂人
* 撮影監督 - 石塚知義{{R|別冊オトナアニメ2011/09}}
* 音楽 - [[本間勇輔]]
* 音響監督 - [[清水勝則]]{{R|別冊オトナアニメ2011/09}}
* アニメーション制作プロデューサー - 青木茂雄
* プロデューサー - [[岩田圭介]](テレビ東京)、[[木村京太郎 (プロデューサー)|木村京太郎]]、萩野賢
* 製作 - [[テレビ東京]]、[[読売広告社]]、スタジオ[[ぴえろ]]
=== 主題歌 ===
; オープニングテーマ
:; 「[[いとおしい人のために]]」
:: 作詞 - 青木久美子 / 作曲 - [[清岡千穂]] / 編曲 - [[矢野立美]] / 歌 - [[佐藤朱美]]
; エンディングテーマ
:; 「[[ときめきの導火線]]」
:: 作詞 - [[里乃塚玲央]] / 作曲 - [[家原正嗣]] / 編曲 - 山中紀昌 / 歌 - [[今野友加里]]
:; 「[[風の旋律 (坂本千夏の曲)|風の旋律]]」
:: 作詞 - [[柚木美祐]] / 作曲 - 家原正嗣 / 編曲 - [[戸塚修]] / 歌 - [[坂本千夏]](33話のみ)
:; 「[[我・愛・ふしぎワールド!! ふしぎ遊戯 バラエティ・アルバム|for Epilogue…]]」(ときめきの導火線+いとおしい人のためにのインスト)
:: 作曲 - 家原正嗣・清岡千穂 / 編曲 - 矢野立美(52話のみ)
=== 各話リスト ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!話数!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督
|-
|第1章||'''1995年'''<br />4月6日||伝説の少女||[[浦沢義雄]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[亀垣一]]||[[本橋秀之]]
|-
|第2章||4月13日||朱雀の巫女||[[阪口和久]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[紅優|湊屋夢吉]]||本木久年
|-
|第3章||4月20日||朱雀の七星||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|[[鴫野彰|しぎのあきら]]||広田麻由美
|-
|第4章||4月27日||すれちがう想い||阪口和久||西澤晋||亀垣一||本橋秀之
|-
|第5章||5月4日||とまどう鼓動||浦沢義雄||池上誉優||[[島崎奈々子]]||[[菅野宏紀]]
|-
|第6章||5月11日||命果てても||阪口和久||[[望月智充|坂本郷]]||[[貞光紳也]]||本木久年
|-
|第7章||5月18日||帰りたい…||rowspan="2"|浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||本橋秀之
|-
|第8章||5月25日||逢いたい…||しぎのあきら||colspan="2" style="text-align:center"|広田麻由美
|-
|第9章||6月1日||見えざる敵||阪口和久||colspan="2" style="text-align:center"|[[鍋島修]]||時矢義則
|-
|第10章||6月8日||囚われの少女||浦沢義雄||坂本郷||[[篠原俊哉]]||本木久年
|-
|第11章||6月15日||青龍の巫女||阪口和久||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋||本橋秀之
|-
|第12章||6月22日||あなたしかいない||浦沢義雄||貞光紳也||[[元永慶太郎]]||菅野宏紀
|-
|第13章||6月29日||愛するがゆえ||阪口和久||しぎのあきら||広田麻由美||本木久年
|-
|第14章||7月6日||砦の狼||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||本橋秀之
|-
|第15章||7月13日||蘇りの都||[[吉村元希]]||西澤晋||元永慶太郎||山沢実
|-
|第16章||7月20日||哀しき戦い||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|鍋島修||時矢義則
|-
|第17章||7月27日||めぐり逢いの音||吉村元希||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋||本橋秀之
|-
|第18章||8月3日||恋慕の罠||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|織田美浩||本木久年
|-
|第19章||8月10日||ひきさかれる愛||阪口和久||牧野滋人||[[石原立也]]||才谷梅太郎
|-
|第20章||8月17日||とどかぬ願い||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||本橋秀之
|-
|第21章||8月24日||君を護るために||吉村元希||colspan="2" style="text-align:center"|牧野滋人||山沢実
|-
|第22章||8月31日||二度と離れない||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|鍋島修||時矢義則
|-
|第23章||9月7日||謀略の予兆||阪口和久||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋||本橋秀之<br />窪詔之
|-
|第24章||9月14日||炎の決意||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|織田美浩||中田雅夫
|-
|第25章||9月21日||愛されて、悲しくて…||吉村元希||[[石山タカ明]]||黒田やすひろ||児山昌弘
|-
|第26章||9月28日||星見祭りの夜||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|嵯峨敏||清水健一
|-
|第27章||10月5日||誓いの墓標||阪口和久||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||本橋秀之
|-
|第28章||10月12日||第1節 総集編〜古昔之途(いにしえのみち)||colspan="4"|-
|-
|第29章||10月19日||動き出した謎||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋||本橋秀之<br />窪詔之
|-
|第30章||10月26日||戦いの閃光||吉村元希||colspan="2" style="text-align:center"|鍋島修||時矢義則
|-
|第31章||11月2日||不安の渦||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|牧野滋人||山沢実
|-
|第32章||11月9日||朱雀の宿星に殉じて||阪口和久||西澤晋||島崎奈々子||本木久年
|-
|第33章||11月16日||柳宿永遠の別離||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||本橋秀之
|-
|第34章||11月23日||氷の防人||吉村元希||権俵及造||黒田やすひろ||児山昌弘
|-
|第35章||11月30日||奈落の蜃気楼||rowspan="3"|浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|貞光紳也||山沢実
|-
|第36章||12月7日||踏みにじられた愛||colspan="2" style="text-align:center"|織田美浩||中田雅夫
|-
|第37章||12月14日||幻惑のぬくもり||colspan="2" style="text-align:center"|牧野滋人||本木久年
|-
|第38章||12月21日||心の夜明け||阪口和久||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋||本橋秀之
|-
|第39章||12月25日||妖しき幻想||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|鍋島修||時矢義則
|-
|第40章||'''1996年'''<br />1月4日||偽りの恋||吉村元希||colspan="2" style="text-align:center"|島崎奈々子||佐々木守
|-
|第41章||1月11日||復活の陽光||浦沢義雄||権俵及造||黒田やすひろ||児山昌弘
|-
|第42章||1月18日||越えられぬ壁||阪口和久||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||本橋秀之
|-
|第43章||1月25日||決別の来同||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|貞光紳也||本木久年
|-
|第44章||2月1日||刹那の攻防||吉村元希||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋||奥田万つ里
|-
|第45章||2月8日||分岐の光||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|織田美浩||中田雅夫
|-
|第46章||2月15日||虚実の少年||阪口和久||colspan="2" style="text-align:center"|貞光紳也||山沢実
|-
|第47章||2月22日||鎮魂の空||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|西澤晋||本橋秀之
|-
|第48章||2月29日||この命賭けても||吉村元希||colspan="2" style="text-align:center"|鍋島修||時矢義則
|-
|第49章||3月7日||華燭の典||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|牧野滋人||山沢実
|-
|第50章||3月14日||贖罪の瞬間||阪口和久||colspan="2" style="text-align:center"|貞光紳也||本木久年
|-
|第51章||3月21日||託された希望||吉村元希||colspan="2" rowspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||rowspan="2"|本橋秀之
|-
|第52章||3月28日||いとおしい人のために||浦沢義雄
|}
=== 放送局 ===
{{出典の明記|date=2016年8月|section=1}}
{|class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送区分
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]||[[テレビ東京]]||rowspan="6"|[[1995年]][[4月6日]] - [[1996年]][[3月28日]]||rowspan="6"|木曜 18:00 - 18:30<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=1995年10月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=TV STATION NETWORK |pages=113 - 115}}</ref>||rowspan="6"|[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]
|-
|[[大阪府]]||[[テレビ大阪]]
|-
|[[愛知県]]||[[テレビ愛知]]
|-
|[[北海道]]||[[テレビ北海道]]
|-
|[[岡山県]]・[[香川県]]||[[テレビせとうち]]
|-
|[[福岡県]]||[[TVQ九州放送|TXN九州]]
|-
|[[岩手県]]||[[IBC岩手放送]]||1995年4月 - 1996年4月||||rowspan="2"|[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]
|-
|[[富山県]]||[[チューリップテレビ]]||1995年4月 - 1996年4月||月曜 16:27 - 16:57<ref>『[[アニメージュ]]』1995年9月号(徳間書店)全国放送局別放映リスト(204頁)</ref>
|-
|[[京都府]]||[[京都放送|KBS京都]]||1995年4月 - 1996年3月||||rowspan="2"|[[全国独立UHF放送協議会|独立UHF局]]
|-
|[[和歌山県]]||[[テレビ和歌山]]||1995年4月 - 1996年3月||
|}
この他、[[2007年]][[8月1日]]から[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]にて再放送された。[[2017年]][[9月5日]]から[[千葉テレビ放送|チバテレ]]で再放送されている。
{{前後番組
|放送局=[[テレビ東京]]系
|放送枠=木曜18:00枠
|前番組=[[ピンクパンサー (アニメ)|ピンクパンサー]]<br />※1時間繰り上げ
|次番組=[[水色時代]]
}}
=== 関連CD ===
; ふしぎ遊戯ヴォーカル集 (TV Series Songs Complete Collection)2000/08/23発売
* Disc 1
# いとおしい人のために - 佐藤朱美
# ときめきの導火線 - 今野友加里
# わかっていたはず - 佐藤朱美
# Winner - 今野友加里
# 透明なHANEみーつけた! - 佐藤朱美
# GIRL! GIRL! GIRL! - 佐藤朱美
# 平気だよ - 佐藤朱美
# DASH - 佐藤朱美
# ONLY TONIGHT - 佐藤朱美
# いとおしい人のために(ENDヴァージョン) - 佐藤朱美
# 風の旋律 (KARAOKE)
# 伝言 (KARAOKE)
# 紅い伝承 (KARAOKE)
# I wish… (KARAOKE)
# ONLY TONIGHT (KARAOKE)
* Disc 2
# 愛という名の聖戦に… - 緑川光
# そして、闇の先に - 緑川光
# 運命の星 - 子安武人
# 僕の宇宙に君がいる - 子安武人
# 伝言 - 子安武人
# 風の旋律 - 坂本千夏
# 乙女爛漫 - 坂本千夏
# 花鳥風月 - 関智一
# おちゃのこさいさい変幻自在 - 関智一
# Heartにキラ星咲かしたれ!! - 林延年
# Do=Be'sがやって来る。 - 林延年
# 左手の記憶 - 石井康嗣
# 空が見える - 石井康嗣
# 紅い伝承 - 川上とも子
# P.S.愛って永遠ですか? - 川上とも子
# いとおしい人のために(ENDヴァージョン) (KARAOKE)
* Disc 3
# 祈るように愛してる。 - 荒木香恵
# Still - 荒木香恵
# Promise Love - 荒木香恵
# I Wish… - 冬馬由美
# BEST FRIEND - 冬馬由美
# 蒼い嵐 - 冬馬由美
# 彷徨 - 古澤徹
# Blue eyes…blue - 古澤徹
# Never Get Away - 上田祐司
# 夜想曲 - 上田祐司
# 氷たちの自尊心 - 田中敦子
# 震えて下さい - 田中敦子
# 君が微笑むなら - 檜山修之・岩永哲哉
# Seed~種子~ - 山野井仁
# いとおしい人のために (KARAOKE)
# ときめきの導火線 (KARAOKE)
;ふしぎ遊戯 全曲集 〜歌曲天地之箱〜2006/03/22発売
== OVA ==
第一部(テレビアニメシリーズ)と第二部の間のストーリーとされるアニメオリジナルエピソードが全3巻、第二部が全6巻、外伝の永光伝が全4巻製作された。TVアニメシリーズと同じスタッフで製作されたが、外伝のみ若干異なる。
=== オリジナルビデオシリーズ ふしぎ遊戯(OVA1) ===
TVシリーズ後のアニメオリジナルエピソード。全3巻。何者かによって再び四神天地書の中に戻された鬼宿。本の中では数十年が経過しており、誰も当時の自分を知る者はなかった。宮殿を訪ね、星宿の曾孫だという少年の皇太子に国を救った伝説の朱雀七星士として快く朱雀廟に招かれるが結界に阻まれ入ることができず、朱雀七星士を語る偽者として追い出されてしまう。太一君を頼って太極山を訪ねても、岩の転がった山にしか見えない。そんな時、自分のことを心宿と呼ぶ少女に出会い、鬼宿は苦悩する。
==== スタッフ(OVA1) ====
* 原作 - 渡瀬悠宇
* 監督 - [[亀垣一]]
* 脚本 - 吉村元希
* 絵コンテ・演出 - 亀垣一
* キャラクターデザイン・作画監督 - [[本橋秀之]]
* 美術監修 - [[池田祐二]]
* 美術監督 - 長崎斉
* 音楽 - 本間勇輔
* 音楽ディレクター - 藤田昭彦
* 音響監督 - 清水勝則
* 効果 - 加藤昭二
* 調整 - 成清量、武藤雅人
* アニメーション制作 - スタジオぴえろ
* プロデューサー - 菅野知津子、本間道幸、菊池晃一
* 製作 - [[バンダイビジュアル]]、スタジオぴえろ、ムービック
==== 主題歌(OVA1) ====
; オープニングテーマ 「[[夜が明ける前に]]」
: 作詞・歌 - [[佐藤朱美]] / 作曲 - 芦沢和則 / 編曲 - 大友博輝
; 挿入歌(1巻) 「Voice」
: 作詞 - 青木久美子 / 作曲 - 家原正嗣 / 編曲 - 山中紀昌 / 歌 - 緑川光
; 挿入歌(2巻) 「Everything for you」
: 作詞 - [[佐藤朱美]] / 作曲 - 清岡千穂 / 編曲 - 大友博輝 / 歌 - [[佐藤朱美]]
; 挿入歌(2巻) 「Perfect World」
: 作詞 - 青木久美子 / 作曲・編曲 - 大門一也 / 歌 - [[坂本千夏]]
; エンディングテーマ(1~2巻) 「[[明日の私を信じたい]]」
: 作詞 - 青木久美子 / 作曲 - 清岡千穂 / 編曲 - 山中紀昌 / 歌 - [[石塚早織]]
; エンディングテーマ(3巻) 「あしたはいい日になる」
: 作詞 - 青木久美子 / 作曲 - 清岡千穂 / 編曲 - 矢野立美 / 歌 - [[佐藤朱美]]
==== 各話リスト(OVA1) ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!話数!!サブタイトル!!発売日
|-
|巻ノ一||失ひし絆||1996年10月25日
|-
|巻ノ二||悲しき閃光||1996年12月18日
|-
|巻ノ三||別離(わかれ)…そして||1997年2月25日
|}
; 映像特典
# ふしぎ遊戯おつかれ慰安バス旅行〜禁断の女誠温泉篇 その1
# ふしぎ遊戯おつかれ慰安バス旅行〜禁断の女誠温泉篇 その2
# ふしぎ遊戯おつかれ慰安バス旅行〜禁断の女誠温泉篇 その3…カンドーの最終回
=== ふしぎ遊戯 第二部(OVA2) ===
原作第二部をアニメ化したOVAシリーズ。全6巻。高校生になった美朱が、高松塚古墳での朱雀からの救いを求める声と魏に迫る危機に、鬼宿の記憶を求め、魏と再び本の世界へ降り立つ。第一部で故人となった朱雀七星士や唯達とも力を合わせ、四神天地書内だけでなく現実世界をも股に掛けた魔人―天罡との戦いに美朱達が臨む。七星士達の過去や死後の紅南国内での因縁、現実世界の人々を洗脳して襲い来る祀行 斂や神代 魅との対決が描かれる。
==== スタッフ(OVA2) ====
* 原作 - 渡瀬悠宇
* 監督 - [[亀垣一]]
* 脚本 - 吉村元希
* 絵コンテ・演出 - 亀垣一
* キャラクターデザイン・作画監督 - [[本橋秀之]]
* 美術監修 - [[池田祐二]]
* 美術監督 - 長崎斉
* 美術設定 - 高田茂祝
* 色彩設定・色指定 - いわみみか
* 仕上検査 - 滝口佳子
* 特殊効果 - 池田健司
* 音響監督 - 清水勝則
* 音楽 - 本間勇輔
* 音楽ディレクター - 藤田昭彦
* 効果 - 加藤昭二
* 調整 - 西澤規夫、武藤雅人
* プロデューサー - 菅野知津子、本間道幸、菊池晃一
* 製作 - バンダイビジュアル、スタジオぴえろ、ムービック
==== 主題歌(OVA2) ====
; オープニングテーマ 「[[Star (佐藤朱美の曲)|Star]]」
: 作詞 - 青木久美子 / 作曲 - 浅岡千穂 / 編曲 - 矢野立美 / 歌 - 佐藤朱美
; エンディングテーマ 「[[夢かもしれない]]」
: 作詞 - 青木久美子 / 作曲 - 家原正嗣 / 編曲 - 山中紀昌 / 歌 - [[The S・h・e]]
==== 各話リスト(OVA2) ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!話数!!サブタイトル!!発売日
|-
|第一章||蠱惑の胎動||1997年5月25日
|-
|第二章||沈黙の童||1997年9月25日
|-
|第三章||転生の発露||1997年12月18日
|-
|第四章||友誼の焔||1998年2月25日
|-
|第五章||儚き水鏡||1998年5月25日
|-
|第六章||未来(あした)逢うために||1998年10月25日
|}
; 映像特典
* アニメ版 ふしぎ悪戯
: 制作時のミスで第一章は「ふしぎイタズラ」と誤読されたが、第二章以降は「ふしぎアクギ」。
=== ふしぎ遊戯 -永光伝-(OVA3) ===
小説「ふしぎ遊戯外伝」7&8巻をアニメ化したOVAシリーズ。全4巻。魏への好意から美朱に対する嫉妬心で、自ら四神天地書の世界へ旅立った朱雀の二代目巫女―榊真夜が主人公となっている。数々の経験を経た真夜はやがて、魏と美朱の真実を知ることになる。
==== スタッフ(OVA3) ====
* 原作 - 渡瀬悠宇
* 作 - 西崎めぐみ([[小学館]][[パレット文庫]]刊)
* 監督 - [[島崎奈々子]]
* 脚本 - [[佐藤博暉]]
* キャラクターデザイン - [[本橋秀之]]
* 作画監督 - 窪詔之
* 美術監督 - 高田茂祝
* 色彩設計 - いわみみか
* 撮影監督 - 石塚知義
* 音響監督 - [[清水勝則]]、鈴木裕子
* 音楽 - 酒井良
* プロデューサー - 上田文郎、押切万輝、園部幸夫、HIROE TSUKAMOTO
* アニメーション制作 - ぴえろ
* 製作 - 小学館、ぴえろ、FCC、PIONEER ENTERTAINMENT
==== 主題歌(OVA3) ====
; オープニングテーマ 「[[ふしぎ遊戯-永光伝-サウンドトラック|地上の星座]]」
: 作詞 - 森由里子 / 作曲・編曲 - 酒井良 / 歌 - [[上野洋子]]
; エンディングテーマ 「[[White kiss|YES-ここに永遠がある-]]」
: 作詞 - 森由里子 / 作曲・編曲 - 酒井良 / 歌 - 子安武人
==== 各話リスト(OVA3) ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!話数!!サブタイトル!!発売日
|-
|第一章||神話開玄||2001年12月21日
|-
|第二章||流砂彷白||2002年2月25日
|-
|第三章||七星青輪||2002年4月25日
|-
|第四章||朱翼光臨||2002年6月25日
|}
== ゲーム ==
『'''ふしぎ遊戯 朱雀異聞'''』のタイトルで、[[オトメイト]]より[[2008年]][[5月29日]]に発売された[[PlayStation 2]]ゲーム。
[[2009年]][[6月25日]]には『ふしぎ遊戯 玄武開伝 外伝 鏡の巫女』と『ふしぎ遊戯 朱雀異聞』がカップリングされた[[ニンテンドーDS]]ソフト『ふしぎ遊戯DS』が発売された。限定版にはドラマCDの朱雀編『朱雀七星士、柳宿争奪戦!?』と玄武編『真夜中の激闘! 伝説のキノコを求めて』が同梱。
ここでは、朱雀の巫女と青龍の巫女は、美朱や唯ではない。声優もドラマCD・アニメ版とは大幅に変更されている。
=== 声優一覧 ===
; 朱雀
* 本作の主人公:鳳 まどか(おおとり まどか) - キャラクターボイスなし
* 鬼宿 - [[宮野真守]]
* 星宿 - [[小西克幸]]
* 柳宿 - [[皆川純子]]
* 翼宿 - [[鳥海浩輔]]
* 軫宿 - [[三宅健太]]
* 井宿 - [[宮田幸季]]
* 張宿 - [[木村亜希子]]
:<!--リスト分断防止-->
; 青龍
* 青龍の巫女 - 氷室 深咲(ひむろ みさき)声 - [[小野涼子]]
* 心宿 - [[成田剣]]
* 角宿 & 亢宿 - [[柿原徹也]]
* 房宿 - [[本名陽子]]
* 氐宿 - [[中村悠一]]
* 尾宿 - [[乃村健次]]
* 箕宿 - 山内奈緒
:<!--リスト分断防止-->
; 玄武
* 虚宿 - [[岩永哲哉]]
* 斗宿 - [[檜山修之]]
:<!--リスト分断防止-->
; 白虎
* 婁宿 - [[楠田敏之]]
:<!--リスト分断防止-->
; その他
* 太一君 - 葛西佐紀
* 兄<!--誰の?--> - [[野宮一範]]
* 少華 - [[片貝まこ]]
* 土黙勒 - [[西松和彦]]
* 鬼宿の父 - [[杉崎亮]]
* 結蓮 - [[和田カヨ]]
* 忠栄 - [[菊池こころ]]
=== 主題歌(ゲーム) ===
; オープニングテーマ 「[[Discovery (宮野真守の曲)|Discovery]]」
: 作詞 - [[田中秀典]] / 作曲 - 野間康介 / 編曲 - [[Jin Nakamura]] / 歌 - [[宮野真守]]
== 舞台・ミュージカル ==
; {{Anchors|幻想少女◎アドベンチャー『ふしぎ遊戯』}}幻想少女◎アドベンチャー『ふしぎ遊戯』
: 舞台化作品。amipro主催で2010年10月20日 - 24日に中野ザ・ポケットにて上演(全9公演)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.39amipro.com/fushigi/|title=ふしぎ遊戯 渡瀬悠宇の人気コミックが舞台化|publisher=amipro|date=2010-08-27|accessdate=2017-06-19}}</ref>。脚本・演出は菅野臣太朗、主演はTHE ポッシボー(現:[[チャオ ベッラ チンクエッティ]])の[[橋本愛奈]]と[[秋山ゆりか]]が務めた。
; {{Anchors|幻想少女◎アドベンチャー『ふしぎ遊戯〜朱雀編〜』}}幻想少女◎アドベンチャー『ふしぎ遊戯〜朱雀編〜』
: 舞台化作品の続編。amipro主催で2011年3月30日 - 4月3日に[[新宿]]・[[シアターサンモール]]にて上演(全9公演)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.39amipro.com/fushigi-suzaku/|title=ふしぎ遊戯〜朱雀編〜 渡瀬悠宇の人気コミックが舞台化|publisher=amipro|date=2011-02-05|accessdate=2017-06-19}}</ref>。脚本・演出・主演は初演と同じ。
; {{Anchors|幻想少女◎アドベンチャー『ふしぎ遊戯〜青龍編〜』}}幻想少女◎アドベンチャー『ふしぎ遊戯〜青龍編〜』
: 舞台化作品の完結編。amipro主催で2012年4月25日 - 5月2日に[[銀座]]・[[博品館劇場]]にて上演(全12公演)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.39amipro.com/fushigi-seiryu/|title=ふしぎ遊戯〜青龍編〜 渡瀬悠宇の人気コミックが舞台化|publisher=amipro|date=2011-11-30|accessdate=2017-06-19}}</ref>。脚本・演出・主演は初演と同じ。
; {{Anchors|『ふしぎ遊戯』}}『ふしぎ遊戯』
: 鬼宿が主役の舞台化作品。[[ネルケプランニング]]主催で2015年3月19日 - 29日に[[品川プリンスホテル]] クラブeXにて上演(全18公演)<ref>{{Cite web|和書|url=http://stage-fushigiyugi.jp/|title=喜矢武豊 「ふしぎ遊戯」|publisher=ネルケプランニング/ユークリッド・エージェンシー|date=2015-01-26|accessdate=2017-06-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161228232209/http://stage-fushigiyugi.jp/|archivedate=2016-12-28|deadlinkdate=2018-02-06}}</ref>。脚本はうえのけいこ、演出は奥野直義、主演は[[ゴールデンボンバー (バンド)|ゴールデンボンバー]]の[[喜矢武豊]]が務めた<ref>{{Cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0070100|title=金爆・喜矢武豊「ふしぎ遊戯」で舞台初主演!|newspaper=シネマトゥデイ|date=2015-01-27|accessdate=2015-01-27}}</ref>。
; {{Anchors|ミュージカル『ふしぎ遊戯~朱ノ章~』}}ミュージカル『ふしぎ遊戯~朱ノ章~』
: ミュージカル作品。amipro主催で2016年4月8日 - 15日に[[池袋]]・[[豊島区立舞台芸術交流センター|あうるすぽっと]]にて上演(全15公演)<ref>{{Cite web|和書|date=2015-11-23 |url=http://www.39amipro.com/fushigi-shu/ |title=ミュージカル『ふしぎ遊戯〜朱ノ章〜』 |publisher=amipro |accessdate=2017-06-19}}</ref>。脚本・演出は[[吉谷光太郎]]、主演は[[LoVendoЯ]]の[[田中れいな]]が務めた<ref>{{Cite news |date=2016-04-07 |url=https://natalie.mu/comic/news/182661 |title=田中れいなが美朱の気持ち歌い上げる、ミュージカル「ふしぎ遊戯」明日開幕 |newspaper=コミックナタリー |accessdate=2018-10-30}}</ref><ref>{{Cite news |date=2016-04-08 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000126018 |title=田中れいな主演ミュージカル『ふしぎ遊戯〜朱ノ章〜』が開幕。田中「演技は4年ぶり」 |newspaper=BARKS |accessdate=2017-06-19}}</ref>。
; {{Anchors|ミュージカル『ふしぎ遊戯-蒼ノ章-』}}ミュージカル『ふしぎ遊戯-蒼ノ章-』
: ミュージカル作品の続編。amipro主催で2018年10月13日 - 21日に[[代々木]]・[[スペース・ゼロ|全労済ホール/スペース・ゼロ]]にて上演(全15公演)<ref>{{Cite web|和書|date=2018-02-14 |url=http://www.39amipro.com/fushigi-ao/ |title=ミュージカル『ふしぎ遊戯~蒼ノ章~』 |publisher=amipro |accessdate=2018-02-14}}</ref>。脚本・演出は浅井さやか、主演は前作から引き続き田中れいなと[[平野良]]が務めた<ref>{{Cite news |date=2018-10-13 |url=https://theatertainment.jp/japanese-play/15130/ |title=ミュージカル『ふしぎ遊戯-蒼ノ章-』 「自分を信じる、愛してくれる人がいる、だから負けない!」 |newspaper=シアターテイメントNEWS |accessdate=2018-10-30}}</ref><ref>{{Cite news |date=2018-10-13 |url=https://thetv.jp/news/detail/165653/ |title=田中れいな主演「ふしぎ遊戯~蒼ノ章~」開幕!「人見知りで最初は心の距離があったけど」笑いの絶えぬ仲間と作り上げた完結編。歌唱、殺陣、コメディと演者、原作の魅力を凝縮!! |newspaper=ザテレビジョン |accessdate=2018-10-30}}</ref><ref>{{Cite news |date=2018-10-14 |url=https://natalie.mu/stage/news/303627 |title=「ふしぎ遊戯」開幕、田中れいな「2年前よりよくなったと言ってもらえるよう」 |newspaper=ステージナタリー |accessdate=2018-10-30}}</ref>。8年に渡るamipro版『ふしぎ遊戯』の最終作<ref>{{Cite web|和書|date=2018-10-08 |url=https://twitter.com/amipro_info/status/1049276379429101568 |title=amipro@悪ノ娘 (@amipro_info) の2018年10月8日21時32分のツイート |website=Twitter |accessdate=2018-10-29 |quote=8年にわたり幾度となく再演を行ってまいりました『ふしぎ遊戯』は今回で最後になります}}</ref>。
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|-
! style="width:1em;" rowspan="2"| !! rowspan="2"|役名 !! 2010年 !! 2011年 !! 2012年 !! 2015年 !! 2016年 !! 2018年
|-
! {{smaller|舞台}} 初演 !! {{smaller|舞台}} 朱雀編 !! {{smaller|舞台}} 青龍編 !! {{smaller|舞台}} ネルケ版 !! {{smaller|ミュージカル}} 朱ノ章 !! {{smaller|ミュージカル}} 蒼ノ章
|-
! rowspan="8"|朱雀
| 夕城美朱 || colspan="3"|[[橋本愛奈]]<br />{{smaller|([[チャオ ベッラ チンクエッティ|THE ポッシボー]])}} || [[伊藤梨沙子]] || colspan="2"|[[田中れいな]]<br />{{smaller|([[LoVendoЯ]])}}
|-
| 鬼宿 || colspan="3"|[[平野良]] || [[喜矢武豊]]<br />{{smaller|([[ゴールデンボンバー (バンド)|ゴールデンボンバー]])}} || colspan="2"|[[平野良]]
|-
| 星宿 || [[植野堀まこと]] || colspan="2"|[[末野卓磨]] || [[山本一慶]] || [[前山剛久]] || [[谷佳樹]]
|-
| 柳宿 || colspan="3"|[[宮地真緒]] || [[染谷俊之]] || colspan="2"|[[宮地真緒]]
|-
| 井宿 || colspan="2"|[[矢吹卓也]] || [[関義哉]]<br />{{smaller|([[新選組リアン]])}} || [[星野勇太|古川裕太]] || 橘龍丸 || [[葉山昴]]
|-
| 翼宿 || [[小澤亮太]] || [[伊崎央登]] || [[小谷嘉一]] || [[碕理人]] || [[小谷嘉一]] || 薫太
|-
| 軫宿 || colspan="3"|[[中村康介]] || [[広瀬友祐]] || [[滝川英治]] || [[小笠原健]]
|-
| 張宿 || colspan="3"|富田大樹 || [[日向未来|未来]] || colspan="2"|富田大樹
|-
! rowspan="8"|青龍
| 本郷唯 || colspan="3"|[[秋山ゆりか]]<br />{{smaller|([[チャオ ベッラ チンクエッティ|THE ポッシボー]])}} || 伊藤菜実子 || [[坂田しおり]] || [[宮崎理奈]]<br />{{smaller|([[SUPER☆GiRLS]])}}
|-
| 心宿 || colspan="3"|[[寿里]] || [[吉岡佑]] || [[寿里]] || [[輝馬]]
|-
| 亢宿 || [[斉藤祥太]] || [[桑野晃輔]] || [[林明寛]] || [[澤田怜央]] || [[服部翼]] || [[松岡卓弥]]
|-
| 角宿 || [[斉藤慶太]] || {{color|gray|―}} || [[桑野晃輔]] || || || [[前田隆太朗]]
|-
| 房宿 || [[宮崎麗香|宮﨑麗香]] || {{color|gray|―}} || [[八代みなせ]] || || || [[花奈澪]]
|-
| 氐宿 || [[田邉明宏]] || {{color|gray|―}} || [[田邉明宏]] || || || [[木田健太]]
|-
| 尾宿 || [[來河侑希]] || {{color|gray|―}} || 保土田充 || || || 宮川智之
|-
| 箕宿 || [[高橋里央]] || {{color|gray|―}} || 青山太久 || || || 深澤恒太
|-
! 白虎
| 婁宿 || [[藤宮潤]] || {{color|gray|―}} || [[紅葉美緒]] || || || 及川洸
|-
! rowspan="2"|玄武
| 虚宿 || 長谷川太紀 || {{color|gray|―}} || [[小野賢章]] || || || [[高根正樹]]
|-
| 斗宿 || 堤隼人 || {{color|gray|―}} || [[前内孝文]] || || || [[川﨑優作]]
|-
! rowspan="9"|その他
| 太一君 || colspan="2"|舞香{{smaller|(ムカシ玩具)}} || [[藤宮潤]] || || [[藤宮潤]] || 小島ことり
|-
| 少華 || {{color|gray|―}} || [[折井あゆみ]] || {{color|gray|―}} || || [[栗生みな]] ||
|-
| 睿俔 || {{color|gray|―}} || 保土田充 || {{color|gray|―}} || || [[我善導]] ||
|-
| 夕城奎介 || colspan="3"|松浦温生 || || || [[坂本真一 (俳優)|坂本真一]]
|-
| 梶原哲也 || colspan="3"|松田陽平 || || ||
|-
| 美朱の母 || colspan="2"|佐々木三枝 || {{color|gray|―}} || || ||
|-
| 倶東陛下 || {{color|gray|―}} || {{color|gray|―}} || [[田中しげ美]] || || ||
|-
| 攻児 || {{color|gray|―}} || [[來河侑希]] || 佑太 || || ||
|-
| 結蓮 || {{color|gray|―}} || {{color|gray|―}} || 新井順華 || || ||
|}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
<div class="references-small"><references /></div>
== 関連項目 ==
* [[テレビ東京系アニメ]]
== 外部リンク ==
* [https://sho-comi.com/ 小学館コミック -少コミねっと-]
* [https://web.archive.org/web/20060411230407/http://pierrot.jp/title/fushigi/ ぴえろによる『ふしぎ遊戯』公式サイト]
* [http://www.mxtv.co.jp/fushigi/ TOKYO MXによるサイト]
* [https://www.otomate.jp/fusigi/suzaku_ibun/ ふしぎ遊戯 朱雀異聞 ゲーム公式サイト]
* [https://www.otomate.jp/fusigi_ds/ ふしぎ遊戯DS ゲーム公式サイト]
* [http://www.39amipro.com/fushigi/ 舞台『ふしぎ遊戯』公式サイト] - 2010年(amipro版)
* [http://www.39amipro.com/fushigi-suzaku/ 舞台『ふしぎ遊戯〜朱雀編〜』公式サイト] - 2011年
* [http://www.39amipro.com/fushigi-seiryu/ 舞台『ふしぎ遊戯〜青龍編〜』公式サイト] - 2012年
* [https://web.archive.org/web/20161228232209/http://stage-fushigiyugi.jp/ 舞台『ふしぎ遊戯』公式サイト(アーカイブ)] - 2015年(ネルケ版)
* [http://www.39amipro.com/fushigi-shu/ ミュージカル『ふしぎ遊戯〜朱ノ章〜』公式サイト] - 2016年
* [http://www.39amipro.com/fushigi-ao/ ミュージカル『ふしぎ遊戯-蒼ノ章-』公式サイト] - 2018年
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寝台列車
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寝台列車(しんだいれっしゃ)とは、夜行列車のうち寝台車を主体とした列車を指す。
1960年代に発行された日本交通公社の『時刻表』では、「寝台車を主体にして、全部の車両が指定制の列車」と定義していた。同時刻表は1963年7月号まで「寝台専用列車」の表記を用い、8月号から「寝台列車」に変更されている。したがって、自由席を含む座席車が主体で、編成内に少数の寝台車が含まれる「津軽」などは「寝台列車」とされなかった。ただしその後、急行「十和田」(常磐線)や「狩勝」(根室本線)のそれぞれ一部列車や、臨時列車に格下げ後の急行「きたぐに」(北陸本線)のように、寝台車主体で座席車は1〜3両程度でありかつ全車指定制の列車であっても同時刻表で「寝台列車」として扱われなかった例もあり(一方で、寝台特急「明星」や「彗星」の一部は一時期、普通車指定席4両、グリーン車1両の計5両座席車連結で運転していたが、こちらは「寝台列車」の扱いを受けている)、その理由は不明である。
「寝台特急」は、「寝台列車」のうちの特急列車であり、20系客車以降の固定編成客車による「ブルートレイン」や、581・583系電車、285系電車による寝台列車がある。現存するのは285系電車によるものだけである。
かつて大量の寝台車が存在し、"all-Pullman"と呼ばれる寝台専用列車が多数存在したアメリカ合衆国を例外とすれば、世界各国の鉄道で長距離を運行する夜行列車は、優等客と大衆乗客のいずれのニーズにも応じることを目的として、寝台車と一般座席車の混結編成を組むことが普通だった。
日本もその例に漏れず、1900年に山陽鉄道が日本初の寝台車を運行開始して以来、寝台専用列車というものは長らく存在しなかった。たとえ優等客専用の列車であっても、寝台車と座席車の双方が連結されていた。
ただし、例外的な存在として、太平洋戦争中まで東京 - 神戸間を運転していた夜行急行列車1往復には、二等座席車1両の他は、一等・二等寝台車と食堂車のみで編成された時期がある。この列車には長期にわたり「17列車・18列車」の列車番号が与えられ、上流貴顕の乗る列車として、「名士列車」の俗称で知られた。この列車を、日本最初の「寝台列車」とする考え方もあるが、「一・二等の優等客専用の夜行列車」という性格で、三等寝台車を連結した戦後の「寝台列車」とは、やや方向性が異なる。なお、この列車は太平洋戦争が激しさを増す1943年(昭和18年)に廃止されている。
戦後の1950年代以降、日本国内の鉄道では全体の輸送量が著しく増大した。また、1941年に一時廃止されていた三等寝台車が1956年に復活。比較的低廉な運賃で寝台利用が可能になったことで、寝台車そのものへの需要も高まった。なお三等寝台車は、1960年より二等寝台車、1969年よりB寝台車となった。
東海道本線全線電化に伴う1956年11月のダイヤ改正では、東京 - 博多間特急列車「あさかぜ」が新設される。10両編成中に寝台車が5両を占め、当時としては寝台車の比率が高かった。これは好成績を収めた。更に1957年10月からは、東京 - 大阪間夜行急行の「彗星」の組成を変更。14両編成(うち1両は荷物車)中、座席車は最後尾の三等座席指定車1両のみで、残り12両はマロネ40形など二等寝台車とナハネ10形などの三等寝台車が半数ずつだった。この列車は、列車番号が戦前の「名士列車」と謳われた17・18列車と同じで、二等寝台車の割合が他の列車に比べて高かったことから「名士列車の再来」と言われた。この「彗星」を、「(本格的な)寝台専用列車の嚆矢」と見る考え方もある。
1958年には日本初の固定編成客車として20系客車が登場、特急「あさかぜ」に投入された。13両編成中旅客車は座席車が3両のみで、他はすべて寝台車だった。なお、編成には食堂車・電源荷物車各1両が含まれた。
翌1959年9月には、常磐線経由の上野 - 青森間夜行急行「北斗」が寝台列車化された。12両編成中、食堂車1両、荷物車2両のほか、二等寝台車2両、三等寝台車6両で、座席車はやはり三等座席指定車1両のみだった。あぶれた座席利用客は、同じ区間を雁行する急行「十和田」を全車座席車編成として救済している。
なお、「彗星」・「北斗」に1両だけ座席車が連結されていたのは、1950年代より1960年代初頭の寝台車に緩急車がほとんど存在しなかったためである。夜行急行列車の寝台列車化措置は、当初は列車全体の居住性改善や保守・点検の合理化などの目的があったとされる。
1956年以降、国鉄の優等旅客列車には電車・気動車が盛んに用いられるようになった。
当時の電車・気動車には寝台車が存在せず、夜行列車として運転される場合にも全車一般座席列車とならざるを得なかった。そこで寝台需要に対しては、ほとんど寝台車のみで構成された客車寝台特急・急行を運行し、一般座席需要については昼行急行用の電車・気動車を夜行列車にも共用、これらを別便の急行列車として雁行させるという手法が採られるようになった。こうすれば、無動力の寝台車だけを新規製造することで輸送力増強が実現できた。
この傾向は1961年10月の全国白紙ダイヤ大改正から顕著となった。東海道本線の昼行急行列車が153系電車の大量投入で電車化・大増発され、夜行列車に関しても棲み分けが図られた。列車の増発に対して、1961年から1965年にかけて旧形客車の台枠を利用して製造された軽量二等寝台(従前の三等寝台)車オハネ17形合計302両が国鉄工場で製造、増備された。それでも不足する分は、戦前の旧三等寝台車であり、戦時中に三等座席車オハ34形に改造されたスハネ30形ほかを数十両、寝台車に復活改造して充当したほどである。また、戦後初の三等寝台車として製造されたナハネ10形については、1963年に緩急車化されてナハネフ10形となり、寝台列車の全車寝台化がさらに図られた。さらに寝台需要の高い東海道本線では、電車による座席夜行急行の客車寝台列車への置き換えも行われた。
東海道新幹線の開業で東海道本線の夜行急行列車が衰退した後も、山陽本線や東北本線、北陸本線などでは、寝台急行列車と座席夜行急行列車の雁行が行われた。一方、奥羽本線・山陰本線など別仕立てするほどの需要がない亜幹線級の線区では、従来通り寝台車と座席車を併結した客車急行列車が引き続き運転された。
寝台特別急行列車の場合、当初の主な設定区間であった東海道・山陽・九州線、つまり東京対山陽・九州各都市が主な利用客であることや、顕著な寝台車利用も勘案され、東海道新幹線開業前である1962年より座席車連結を当初より減少する編成が現れ、同新幹線開業から4年後の1968年までには「あさかぜ」1往復の一等車ナロ20形1両を除き座席車の連結を終了した。
1964年に初の東京駅以外の発着寝台特急として設定された「はくつる」には二等車が2両連結され、翌1965年に最初の関西発着で東海道新幹線接続寝台特急としても設定された「あかつき」にも二等車1両が設定された。
しかし、山陽・九州方面や東北方面でも電車による昼行特急列車網の整備が進んだことから、20系座席車の利用者は次第に減少し、「あかつき」は1968年に連結を廃止。前者でも「はくつる」の客車を常磐線経由に変更した「ゆうづる」に連結された2両が1970年に廃されている。このため、20系客車のうち、座席車のほとんどは寝台車へと改造され、座席車として全うした車両は「あさかぜ」用ナロ20形3両のみであった。
なお、1967年に運行を開始した寝台電車である581系電車では、二等車は昼は座席で夜は寝台での使用を目的とした構造を用いており、登場当初こそ暫定的な運用もあり一等車は座席・寝台ともに製造されなかった。しかし、本格的な運用となった1968年10月1日ダイヤ改正までに寝台兼用の座席の開発が間に合わなかったことから、一等車(翌1969年より等級制度廃止に伴いグリーン車と名称変更)については一等寝台(後年のA寝台)ではなく座席車として製造された。そのため、昼行列車との兼ね合いで常時1両連結していることが多く、夜行運転時でも座席車を連結する状態になっていた。
1974年4月のダイヤ改正を機に2段式寝台の24系25形が登場したのを機に、国鉄は「星の寝台特急」のキャンペーンを行い、B寝台の設備について星の数で表記を行った他、上記の寝台列車のシンボルマークが時刻表等に登場した。
1975年以降は、運賃・各種料金の大幅な値上げに加え、新幹線や高速道路網、航空路線など高速交通網の整備が進んだ結果、寝台列車を含む夜行列車全体の利用客(特に社用・公用での出張などビジネス目的の利用客)が激減し、最盛期の1960年代に比べ、利用客は大幅に減少した。
なお、1980年代後半以降、客車寝台特急では、高速バスへの対抗を目的として座席車を1両のみ連結するケースが出てきた。純粋な座席車という点では、「あかつき」・「なは」の「レガートシート」があったが、「あかつき」が2008年3月15日付けで廃止になって以降、該当例はなくなった。また、「あけぼの」には、寝台車を使用しながら毛布や浴衣を備え付けずに座席車扱いとした、「ゴロンとシート」という車両(簡易寝台)が連結されていた。
さらに「サンライズ出雲・瀬戸」にも、座席車扱いではあるが毛布が備え付けられて横になることが可能な「ノビノビ座席」という車両(簡易寝台)が連結されている。
青函トンネル開通以降に登場した首都圏・京阪神と北海道を結ぶ寝台特急「北斗星」「トワイライトエクスプレス」は、他の寝台列車がほぼ壊滅状態となった2013年当時でも、依然として根強い人気を保っていた。しかし、航空機との競争により利用客が減少していることや、車両の老朽化が進行していることなどを理由に、「あけぼの」が2014年3月15日のダイヤ改正で廃止(定期運行終了・臨時列車化)され、「トワイライトエクスプレス」も2015年3月14日のダイヤ改正で廃止された。同時に「北斗星」も定期運行も終了し、同年8月22日には「北斗星」の臨時運行も終了した。
移動手段としての競争力を失った2010年代以後、夜間の非活動時間を有効利用した移動手段ではなく、純粋に鉄道旅行を楽しむ事に役割が変わりつつあり、そうしたコンセプトを持つ列車(「クルーズトレイン」)が計画・登場している。JR九州は、九州を一周する豪華寝台列車「ななつ星 in 九州」を2013年10月15日から運行を開始した。同様の列車はJR東日本でも「TRAIN SUITE 四季島(トランスイート しきしま)」が2017年5月1日に運行を開始したほか、JR西日本でも「TWILIGHT EXPRESS 瑞風(トワイライトエクスプレス みずかぜ)」が2017年6月17日に運行を開始した。
また、2016年6月以降に、「カシオペア」の上野 - 札幌間について「カシオペア紀行」の名称でのツアー専用列車として運行の再開が決定した。
JR西日本は、2020年9月11日より「WEST EXPRESS 銀河」の運行を開始した。ただしこれは、寝台に近い設備は有するものの座席車扱いであり、「寝台列車」ではない。
19世紀の末から20世紀の中ごろにかけてのアメリカ合衆国では、旅客の移動における鉄道輸送の占める割合が非常に高かった。
国土の広さゆえ、数日を要する鉄道旅行は当たり前で、経済水準が比較的高かった事から寝台車への需要も高く、鉄道会社はプルマン社などの寝台車保有会社と提携して、寝台車を連結した旅客列車の運行を盛んに行った。
中でも、需要の高かった東海岸の路線や、シカゴとロサンゼルスを結ぶ路線などでは、19世紀の終わりごろから、座席車を連結しないプルマン寝台車のみの旅客列車"all-Pullman"を運行する事が常態化していた。
寝台専用列車として有名な列車としては、ニューヨークとシカゴを結んだ「20世紀特急 (The 20th Century Limited) 」、「ブロードウェイ特急 (Broadway Limited) 」、ワシントンとシカゴを結んだ「キャピトル特急 (Capitol Limited) 」、ニューヨークとニューオーリンズを結んだ「クレセント (Crescent Limited) 」、シカゴとサンフランシスコを結んだ、「オーバーランド特急」、シカゴとロサンゼルスを結んだ「カリフォルニア特急 (California Limited) 」、「スーパー・チーフ (Super Chief) 」、ロサンゼルスとサンフランシスコを結んだ「ラーク」などが挙げられる。プルマン寝台車の利用には通常、ファーストクラス運賃が必要で、優等旅客のみを相手にし、フルコースを提供する食堂車や豪華なラウンジ車を売り物にしていた。いくつかの列車については1930年代以降、全車の個室寝台化も行われた。これらの列車は座席車のみならず、主に西部に向かう列車に連結されていた、通常運賃と安価な寝台料金で利用できる「ツーリスト寝台」すら連結されていなかった。
第2次大戦後の飛行機の普及はアメリカの鉄道旅客輸送に大打撃を与えた。旅客列車は激減し、従来寝台専用列車だった列車にも座席車が連結されるようになった。1967年、最後まで"all-Pullman"として残っていた「ブロードウェイ特急」に座席車が連結され、アメリカから寝台専用列車は消滅した。現在のアムトラックの夜行列車はすべて寝台・座席併結列車である。
観光列車を別にすれば、寝台専用列車が盛んに運行され、現在ホテルトレインといわれる。 各小部屋にシャワー、トイレ、洗面台まで備えられており移動するホテルである。代表的な鉄道にマドリッド・バルセロナとパリ・ミラノ・チューリッヒを結ぶエリプソスがある。
ベルギー人のジョルジュ・ナエルマーケス (Georges Nagelmackers, 1845 - 1905) が1872年に発足させた国際寝台車会社(Compagnie Internationale des Wagons-Lits、日本での通称ワゴン・リ社)は、個室寝台車を欧州各国の鉄道で運行して成功を収めた。同社の車両による「オリエント急行 (L'Orient-Express) 」、「トラン・ブルー (Train Bleu) 」といった列車は、寝台車を中心に編成され、豪華で利便性の高い列車として世界的な名声を得た。
その後、1960年代以降は航空路線網の整備が進んだこともあり、1977年にオリエント急行は廃止され、さらに1981年のTGV開業以後は、トラン・ブルーをはじめとしたフランス国内の寝台列車も、クシェットと二等リクライニング座席車からなるコライユ・ルネアに次々と置き換えられた。他の列車も座席車を連結するものが増え、現在も寝台専用列車として残っているのは、ユーロナイトのアルテシアナイト(フランス - イタリア間)、"Berlin Night Express"(ベルリン - マルメ間)、シティナイトライン"Aurora"(コペンハーゲン - バーゼル間)など、ごく一部となった。
2017年、フランス国鉄は他に交通手段の選択肢がある路線の寝台列車を廃止。わずかにパリとブリアンソン、パリとセルベール間を結ぶ2路線のみが残された。一方で2020年代に二酸化炭素の排出量削減が政府の課題になると再び寝台列車に注目が集まるようになり、2021年、パリとニース間を結ぶ寝台列車が復活した。同区間は高速鉄道TGVの倍の時間を要するものの運賃は半分以下となっている。
国土が広大なインドにも寝台専用列車が存在する。貧富の差の問題などもあり、インドの鉄道ではほとんどの列車に座席車が連結されているが、同時に運転時間が長時間に渡るため寝台車の比重が高くなっている。
特にラージダーニー急行は全車エアコン付き寝台車を用いた豪華列車として知られてきた。最近はインドでの中産階級の成長により利用者が急増している。そのため、日本のブルートレインに近い寝台特急列車に実質的には近づいている。
また、インドの急行列車は約20両に及ぶ編成のうち、2 - 3両の座席車を除いては寝台車ばかりで構成されることが多い。
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"text": "寝台列車(しんだいれっしゃ)とは、夜行列車のうち寝台車を主体とした列車を指す。",
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"text": "1960年代に発行された日本交通公社の『時刻表』では、「寝台車を主体にして、全部の車両が指定制の列車」と定義していた。同時刻表は1963年7月号まで「寝台専用列車」の表記を用い、8月号から「寝台列車」に変更されている。したがって、自由席を含む座席車が主体で、編成内に少数の寝台車が含まれる「津軽」などは「寝台列車」とされなかった。ただしその後、急行「十和田」(常磐線)や「狩勝」(根室本線)のそれぞれ一部列車や、臨時列車に格下げ後の急行「きたぐに」(北陸本線)のように、寝台車主体で座席車は1〜3両程度でありかつ全車指定制の列車であっても同時刻表で「寝台列車」として扱われなかった例もあり(一方で、寝台特急「明星」や「彗星」の一部は一時期、普通車指定席4両、グリーン車1両の計5両座席車連結で運転していたが、こちらは「寝台列車」の扱いを受けている)、その理由は不明である。",
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"text": "「寝台特急」は、「寝台列車」のうちの特急列車であり、20系客車以降の固定編成客車による「ブルートレイン」や、581・583系電車、285系電車による寝台列車がある。現存するのは285系電車によるものだけである。",
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"text": "かつて大量の寝台車が存在し、\"all-Pullman\"と呼ばれる寝台専用列車が多数存在したアメリカ合衆国を例外とすれば、世界各国の鉄道で長距離を運行する夜行列車は、優等客と大衆乗客のいずれのニーズにも応じることを目的として、寝台車と一般座席車の混結編成を組むことが普通だった。",
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"text": "日本もその例に漏れず、1900年に山陽鉄道が日本初の寝台車を運行開始して以来、寝台専用列車というものは長らく存在しなかった。たとえ優等客専用の列車であっても、寝台車と座席車の双方が連結されていた。",
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"text": "ただし、例外的な存在として、太平洋戦争中まで東京 - 神戸間を運転していた夜行急行列車1往復には、二等座席車1両の他は、一等・二等寝台車と食堂車のみで編成された時期がある。この列車には長期にわたり「17列車・18列車」の列車番号が与えられ、上流貴顕の乗る列車として、「名士列車」の俗称で知られた。この列車を、日本最初の「寝台列車」とする考え方もあるが、「一・二等の優等客専用の夜行列車」という性格で、三等寝台車を連結した戦後の「寝台列車」とは、やや方向性が異なる。なお、この列車は太平洋戦争が激しさを増す1943年(昭和18年)に廃止されている。",
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"text": "戦後の1950年代以降、日本国内の鉄道では全体の輸送量が著しく増大した。また、1941年に一時廃止されていた三等寝台車が1956年に復活。比較的低廉な運賃で寝台利用が可能になったことで、寝台車そのものへの需要も高まった。なお三等寝台車は、1960年より二等寝台車、1969年よりB寝台車となった。",
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"text": "東海道本線全線電化に伴う1956年11月のダイヤ改正では、東京 - 博多間特急列車「あさかぜ」が新設される。10両編成中に寝台車が5両を占め、当時としては寝台車の比率が高かった。これは好成績を収めた。更に1957年10月からは、東京 - 大阪間夜行急行の「彗星」の組成を変更。14両編成(うち1両は荷物車)中、座席車は最後尾の三等座席指定車1両のみで、残り12両はマロネ40形など二等寝台車とナハネ10形などの三等寝台車が半数ずつだった。この列車は、列車番号が戦前の「名士列車」と謳われた17・18列車と同じで、二等寝台車の割合が他の列車に比べて高かったことから「名士列車の再来」と言われた。この「彗星」を、「(本格的な)寝台専用列車の嚆矢」と見る考え方もある。",
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"text": "1958年には日本初の固定編成客車として20系客車が登場、特急「あさかぜ」に投入された。13両編成中旅客車は座席車が3両のみで、他はすべて寝台車だった。なお、編成には食堂車・電源荷物車各1両が含まれた。",
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"text": "翌1959年9月には、常磐線経由の上野 - 青森間夜行急行「北斗」が寝台列車化された。12両編成中、食堂車1両、荷物車2両のほか、二等寝台車2両、三等寝台車6両で、座席車はやはり三等座席指定車1両のみだった。あぶれた座席利用客は、同じ区間を雁行する急行「十和田」を全車座席車編成として救済している。",
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"text": "なお、「彗星」・「北斗」に1両だけ座席車が連結されていたのは、1950年代より1960年代初頭の寝台車に緩急車がほとんど存在しなかったためである。夜行急行列車の寝台列車化措置は、当初は列車全体の居住性改善や保守・点検の合理化などの目的があったとされる。",
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"text": "1956年以降、国鉄の優等旅客列車には電車・気動車が盛んに用いられるようになった。",
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"text": "当時の電車・気動車には寝台車が存在せず、夜行列車として運転される場合にも全車一般座席列車とならざるを得なかった。そこで寝台需要に対しては、ほとんど寝台車のみで構成された客車寝台特急・急行を運行し、一般座席需要については昼行急行用の電車・気動車を夜行列車にも共用、これらを別便の急行列車として雁行させるという手法が採られるようになった。こうすれば、無動力の寝台車だけを新規製造することで輸送力増強が実現できた。",
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"text": "この傾向は1961年10月の全国白紙ダイヤ大改正から顕著となった。東海道本線の昼行急行列車が153系電車の大量投入で電車化・大増発され、夜行列車に関しても棲み分けが図られた。列車の増発に対して、1961年から1965年にかけて旧形客車の台枠を利用して製造された軽量二等寝台(従前の三等寝台)車オハネ17形合計302両が国鉄工場で製造、増備された。それでも不足する分は、戦前の旧三等寝台車であり、戦時中に三等座席車オハ34形に改造されたスハネ30形ほかを数十両、寝台車に復活改造して充当したほどである。また、戦後初の三等寝台車として製造されたナハネ10形については、1963年に緩急車化されてナハネフ10形となり、寝台列車の全車寝台化がさらに図られた。さらに寝台需要の高い東海道本線では、電車による座席夜行急行の客車寝台列車への置き換えも行われた。",
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"text": "東海道新幹線の開業で東海道本線の夜行急行列車が衰退した後も、山陽本線や東北本線、北陸本線などでは、寝台急行列車と座席夜行急行列車の雁行が行われた。一方、奥羽本線・山陰本線など別仕立てするほどの需要がない亜幹線級の線区では、従来通り寝台車と座席車を併結した客車急行列車が引き続き運転された。",
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"text": "寝台特別急行列車の場合、当初の主な設定区間であった東海道・山陽・九州線、つまり東京対山陽・九州各都市が主な利用客であることや、顕著な寝台車利用も勘案され、東海道新幹線開業前である1962年より座席車連結を当初より減少する編成が現れ、同新幹線開業から4年後の1968年までには「あさかぜ」1往復の一等車ナロ20形1両を除き座席車の連結を終了した。",
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"text": "1964年に初の東京駅以外の発着寝台特急として設定された「はくつる」には二等車が2両連結され、翌1965年に最初の関西発着で東海道新幹線接続寝台特急としても設定された「あかつき」にも二等車1両が設定された。",
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"text": "しかし、山陽・九州方面や東北方面でも電車による昼行特急列車網の整備が進んだことから、20系座席車の利用者は次第に減少し、「あかつき」は1968年に連結を廃止。前者でも「はくつる」の客車を常磐線経由に変更した「ゆうづる」に連結された2両が1970年に廃されている。このため、20系客車のうち、座席車のほとんどは寝台車へと改造され、座席車として全うした車両は「あさかぜ」用ナロ20形3両のみであった。",
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"text": "なお、1967年に運行を開始した寝台電車である581系電車では、二等車は昼は座席で夜は寝台での使用を目的とした構造を用いており、登場当初こそ暫定的な運用もあり一等車は座席・寝台ともに製造されなかった。しかし、本格的な運用となった1968年10月1日ダイヤ改正までに寝台兼用の座席の開発が間に合わなかったことから、一等車(翌1969年より等級制度廃止に伴いグリーン車と名称変更)については一等寝台(後年のA寝台)ではなく座席車として製造された。そのため、昼行列車との兼ね合いで常時1両連結していることが多く、夜行運転時でも座席車を連結する状態になっていた。",
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"text": "1974年4月のダイヤ改正を機に2段式寝台の24系25形が登場したのを機に、国鉄は「星の寝台特急」のキャンペーンを行い、B寝台の設備について星の数で表記を行った他、上記の寝台列車のシンボルマークが時刻表等に登場した。",
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"text": "1975年以降は、運賃・各種料金の大幅な値上げに加え、新幹線や高速道路網、航空路線など高速交通網の整備が進んだ結果、寝台列車を含む夜行列車全体の利用客(特に社用・公用での出張などビジネス目的の利用客)が激減し、最盛期の1960年代に比べ、利用客は大幅に減少した。",
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"text": "なお、1980年代後半以降、客車寝台特急では、高速バスへの対抗を目的として座席車を1両のみ連結するケースが出てきた。純粋な座席車という点では、「あかつき」・「なは」の「レガートシート」があったが、「あかつき」が2008年3月15日付けで廃止になって以降、該当例はなくなった。また、「あけぼの」には、寝台車を使用しながら毛布や浴衣を備え付けずに座席車扱いとした、「ゴロンとシート」という車両(簡易寝台)が連結されていた。",
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"text": "さらに「サンライズ出雲・瀬戸」にも、座席車扱いではあるが毛布が備え付けられて横になることが可能な「ノビノビ座席」という車両(簡易寝台)が連結されている。",
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"text": "青函トンネル開通以降に登場した首都圏・京阪神と北海道を結ぶ寝台特急「北斗星」「トワイライトエクスプレス」は、他の寝台列車がほぼ壊滅状態となった2013年当時でも、依然として根強い人気を保っていた。しかし、航空機との競争により利用客が減少していることや、車両の老朽化が進行していることなどを理由に、「あけぼの」が2014年3月15日のダイヤ改正で廃止(定期運行終了・臨時列車化)され、「トワイライトエクスプレス」も2015年3月14日のダイヤ改正で廃止された。同時に「北斗星」も定期運行も終了し、同年8月22日には「北斗星」の臨時運行も終了した。",
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"text": "移動手段としての競争力を失った2010年代以後、夜間の非活動時間を有効利用した移動手段ではなく、純粋に鉄道旅行を楽しむ事に役割が変わりつつあり、そうしたコンセプトを持つ列車(「クルーズトレイン」)が計画・登場している。JR九州は、九州を一周する豪華寝台列車「ななつ星 in 九州」を2013年10月15日から運行を開始した。同様の列車はJR東日本でも「TRAIN SUITE 四季島(トランスイート しきしま)」が2017年5月1日に運行を開始したほか、JR西日本でも「TWILIGHT EXPRESS 瑞風(トワイライトエクスプレス みずかぜ)」が2017年6月17日に運行を開始した。",
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"text": "また、2016年6月以降に、「カシオペア」の上野 - 札幌間について「カシオペア紀行」の名称でのツアー専用列車として運行の再開が決定した。",
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"text": "19世紀の末から20世紀の中ごろにかけてのアメリカ合衆国では、旅客の移動における鉄道輸送の占める割合が非常に高かった。",
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"text": "中でも、需要の高かった東海岸の路線や、シカゴとロサンゼルスを結ぶ路線などでは、19世紀の終わりごろから、座席車を連結しないプルマン寝台車のみの旅客列車\"all-Pullman\"を運行する事が常態化していた。",
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"text": "寝台専用列車として有名な列車としては、ニューヨークとシカゴを結んだ「20世紀特急 (The 20th Century Limited) 」、「ブロードウェイ特急 (Broadway Limited) 」、ワシントンとシカゴを結んだ「キャピトル特急 (Capitol Limited) 」、ニューヨークとニューオーリンズを結んだ「クレセント (Crescent Limited) 」、シカゴとサンフランシスコを結んだ、「オーバーランド特急」、シカゴとロサンゼルスを結んだ「カリフォルニア特急 (California Limited) 」、「スーパー・チーフ (Super Chief) 」、ロサンゼルスとサンフランシスコを結んだ「ラーク」などが挙げられる。プルマン寝台車の利用には通常、ファーストクラス運賃が必要で、優等旅客のみを相手にし、フルコースを提供する食堂車や豪華なラウンジ車を売り物にしていた。いくつかの列車については1930年代以降、全車の個室寝台化も行われた。これらの列車は座席車のみならず、主に西部に向かう列車に連結されていた、通常運賃と安価な寝台料金で利用できる「ツーリスト寝台」すら連結されていなかった。",
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"text": "観光列車を別にすれば、寝台専用列車が盛んに運行され、現在ホテルトレインといわれる。 各小部屋にシャワー、トイレ、洗面台まで備えられており移動するホテルである。代表的な鉄道にマドリッド・バルセロナとパリ・ミラノ・チューリッヒを結ぶエリプソスがある。",
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"text": "ベルギー人のジョルジュ・ナエルマーケス (Georges Nagelmackers, 1845 - 1905) が1872年に発足させた国際寝台車会社(Compagnie Internationale des Wagons-Lits、日本での通称ワゴン・リ社)は、個室寝台車を欧州各国の鉄道で運行して成功を収めた。同社の車両による「オリエント急行 (L'Orient-Express) 」、「トラン・ブルー (Train Bleu) 」といった列車は、寝台車を中心に編成され、豪華で利便性の高い列車として世界的な名声を得た。",
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"text": "その後、1960年代以降は航空路線網の整備が進んだこともあり、1977年にオリエント急行は廃止され、さらに1981年のTGV開業以後は、トラン・ブルーをはじめとしたフランス国内の寝台列車も、クシェットと二等リクライニング座席車からなるコライユ・ルネアに次々と置き換えられた。他の列車も座席車を連結するものが増え、現在も寝台専用列車として残っているのは、ユーロナイトのアルテシアナイト(フランス - イタリア間)、\"Berlin Night Express\"(ベルリン - マルメ間)、シティナイトライン\"Aurora\"(コペンハーゲン - バーゼル間)など、ごく一部となった。",
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寝台列車(しんだいれっしゃ)とは、夜行列車のうち寝台車を主体とした列車を指す。
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[[画像:JNR EF66 42 20050308.jpg|thumb|right|300px|[[富士 (列車)|寝台特急「富士・はやぶさ」]]<br>(2004年6月15日 [[真鶴駅]] - [[湯河原駅]]間)]]
'''寝台列車'''(しんだいれっしゃ, Sleeper trains)とは、[[夜行列車]]のうち[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]を主体とした列車を指す。
{{Seealso|夜行列車}}
== 日本 ==
=== 寝台列車の定義 ===
[[画像:JNR Sleeping Limited Express.png|thumb|right|200px|寝台特急のシンボルマーク。寝台急行は「JTB時刻表」では白黒が反転して表記された。]]
1960年代に発行された[[JTB|日本交通公社]]の『[[JTB時刻表|時刻表]]』では、「寝台車を主体にして、全部の車両が指定制の列車」と定義していた。同時刻表は1963年7月号まで「寝台専用列車」の表記を用い、8月号から「寝台列車」に変更されている<ref>日本交通公社『時刻表』各号参照。1963年8月号で56頁増の組み換えが行なわれた際に変更。</ref>。<!--1970年代までは「寝台専用列車」の表記を用いていた<ref>[[原口隆行]]著『時刻表でたどる特急・急行史』[[JTB]]キャンブックス2001年刊 ISBN 4-533-03869-7 、時刻表OB会編『「時刻表」舞台裏の職人たち』[[JTB]]マイロネブックス2002年刊 ISBN 4-533-04438-7 による。</ref>--><!-- 上記を確認しましたので、2次文献の記述の方を確認する必要があるかと思われます。-->したがって、[[自由席]]を含む[[座席車]]が主体で、編成内に少数の寝台車が含まれる「[[あけぼの (列車)|津軽]]」などは「寝台列車」とされなかった。ただしその後、急行「十和田」(常磐線)や「狩勝」(根室本線)のそれぞれ一部列車や、臨時列車に格下げ後の急行「きたぐに」(北陸本線)のように、寝台車主体で座席車は1〜3両程度でありかつ全車指定制の列車であっても同時刻表で「寝台列車」として扱われなかった例もあり(一方で、寝台特急「明星」や「彗星」の一部は一時期、普通車指定席4両、グリーン車1両の計5両座席車連結で運転していたが、こちらは「寝台列車」の扱いを受けている)、その理由は不明である。
「寝台特急」は、「寝台列車」のうちの[[特別急行列車|特急列車]]であり、[[国鉄20系客車|20系客車]]以降の[[編成 (鉄道)|固定編成]][[客車]]による「[[ブルートレイン (日本)|ブルートレイン]]」や、[[国鉄583系電車|581・583系電車]]、[[JR西日本285系電車|285系電車]]による寝台列車がある。現存するのは285系電車によるものだけである。
<!--
座席車が主体の列車でも寝台車が連結されている列車も数多く見られた。[[2008年]]までに、いずれも廃止されたが、[[北海道]]内の「[[まりも (列車)|まりも]]」、「[[オホーツク (列車)|オホーツク]]」、「[[利尻 (列車)|利尻]]」の各夜行列車で、[[気動車]]で編成された列車に1-2両の寝台車が連結されている例があった。(「寝台列車でも座席者を主体としている列車があった」例ではない。「寝台列車」の定義に「寝台車を主体として」が入っているため)-->
=== 歴史 ===
{{出典の明記|section=1|date=2011-3}}
==== 前史 ====
かつて大量の寝台車が存在し、"all-[[:en:Pullman (car or coach)|Pullman]]"と呼ばれる寝台専用列車が多数存在した[[アメリカ合衆国]]を例外とすれば、[[世界の鉄道一覧|世界各国の鉄道]]で[[長距離列車|長距離]]を運行する夜行列車は、優等客と[[大衆]]乗客のいずれのニーズにも応じることを目的として、寝台車と一般[[座席車]]の混結編成を組むことが普通だった。
[[日本]]もその例に漏れず、[[1900年]]に[[山陽鉄道]]が日本初の寝台車を運行開始して以来、'''寝台専用列車'''というものは長らく存在しなかった。たとえ優等客専用の列車であっても、寝台車と座席車の双方が連結されていた。
ただし、例外的な存在として、[[太平洋戦争]]中まで[[東京駅|東京]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]間を運転していた夜行[[急行列車]]1往復には、[[二等車#三等級制時代の二等車(1960年以前。旧二等)|二等座席車]]1両の他は、[[A寝台#等級制時代|一等]]・二等寝台車と[[食堂車]]のみで編成された時期がある。この列車には長期にわたり「17列車・18列車」の[[列車番号]]が与えられ、[[上流階級|上流]]貴顕の乗る列車として、「'''[[名士列車]]'''」の俗称で知られた。この列車を、日本最初の「寝台列車」とする考え方もあるが、「一・二等の優等客専用の夜行列車」という性格で、[[B寝台#戦前の三等寝台車|三等寝台車]]を連結した戦後の「寝台列車」とは、やや方向性が異なる。なお、この列車は[[太平洋戦争]]が激しさを増す[[1943年]](昭和18年)に廃止されている。
==== 寝台列車の出現 ====
[[戦後]]の[[1950年代]]以降、日本国内の鉄道では全体の輸送量が著しく増大した。また、[[1941年]]に一時廃止されていた三等寝台車が[[1956年]]に復活<ref>「これでいいのか、夜行列車」p.24</ref>。比較的低廉な[[運賃]]で寝台利用が可能になったことで、寝台車そのものへの需要も高まった。なお三等寝台車は、[[1960年]]より二等寝台車、[[1969年]]より[[B寝台|B寝台車]]となった。
[[東海道本線]]全線[[鉄道の電化|電化]]に伴う1956年[[11月]]の[[ダイヤ改正]]では、[[東京駅|東京]] - [[博多駅|博多]]間[[特別急行列車|特急列車]]「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ]]」が新設される。10両編成中に寝台車が5両を占め<ref>[[あさかぜ (列車)#19561119]]</ref>、当時としては寝台車の比率が高かった。これは好成績を収めた。更に[[1957年]][[10月]]からは、東京 - [[大阪駅|大阪]]間夜行急行の「[[東海道本線優等列車沿革#黄金時代|彗星]]」の組成を変更。14両編成(うち1両は[[荷物車]])中、座席車は最後尾の三等座席指定車1両のみで、残り12両は[[国鉄マロネ40形客車|マロネ40形]]など二等寝台車と[[国鉄10系客車|ナハネ10形]]などの三等寝台車が半数ずつだった。この列車は、列車番号が戦前の「[[名士列車]]」と謳われた17・18列車と同じで、二等寝台車の割合が他の列車に比べて高かったことから「名士列車の再来」と言われた。この「彗星」を、「(本格的な)寝台専用列車の嚆矢」と見る考え方もある{{要出典|date=2013年6月}}。
[[1958年]]には日本初の[[編成 (鉄道)|固定編成]][[客車]]として[[国鉄20系客車|20系客車]]が登場、特急「あさかぜ」に投入された。13両編成中旅客車は座席車が3両のみで、他はすべて寝台車だった<ref>[[あさかぜ (列車)#19581001]]</ref>。なお、編成には食堂車・[[電源車|電源]]荷物車各1両が含まれた。
翌[[1959年]][[9月]]には、[[常磐線]]経由の[[上野駅|上野]] - [[青森駅|青森]]間夜行急行「[[東北本線優等列車沿革|北斗]]」が寝台列車化された。12両編成中、食堂車1両、荷物車2両のほか、二等寝台車2両、三等寝台車6両で、座席車はやはり三等座席指定車1両のみだった。あぶれた座席利用客は、同じ区間を雁行する急行「[[東北本線優等列車沿革|十和田]]」を全車座席車編成として救済している。
なお、「彗星」・「北斗」に1両だけ座席車が連結されていたのは、1950年代より[[1960年代]]初頭の寝台車に[[緩急車]]がほとんど存在しなかったためである。夜行急行列車の寝台列車化措置は、当初は列車全体の居住性改善や保守・点検の合理化などの目的があったとされる{{要出典|date=2013年6月}}。
==== 増加 ====
1956年以降、[[日本国有鉄道|国鉄]]の優等旅客列車には[[電車]]・[[気動車]]が盛んに用いられるようになった。
当時の電車・気動車には寝台車が存在せず、夜行列車として運転される場合にも全車一般座席列車とならざるを得なかった。そこで寝台需要に対しては、ほとんど寝台車のみで構成された[[客車]]寝台[[特別急行列車|特急]]・[[急行列車|急行]]を運行し、一般座席需要については昼行急行用の電車・気動車を夜行列車にも共用、これらを別便の急行列車として雁行させるという手法が採られるようになった。こうすれば、無動力の寝台車だけを新規製造することで輸送力増強が実現できた。
この傾向は[[1961年]]10月の[[サンロクトオ|全国白紙ダイヤ大改正]]から顕著となった。[[東海道本線]]の昼行急行列車が[[国鉄153系電車|153系電車]]の大量投入で電車化・大増発され、夜行列車に関しても棲み分けが図られた。列車の増発に対して、1961年から[[1965年]]にかけて旧形客車の台枠を利用して製造された軽量二等寝台(従前の三等寝台)車[[国鉄オハネ17形客車|オハネ17形]]合計302両が国鉄工場で製造、増備された。それでも不足する分は、戦前の旧三等寝台車であり、戦時中に三等座席車オハ34形に改造されたスハネ30形ほかを数十両、寝台車に復活改造して充当したほどである。また、戦後初の三等寝台車として製造されたナハネ10形については、[[1963年]]に緩急車化されてナハネフ10形となり、寝台列車の全車寝台化がさらに図られた。さらに寝台需要の高い東海道本線では、電車による座席夜行急行の客車寝台列車への置き換えも行われた。{{要出典|date=2013年6月}}
[[東海道新幹線]]の開業で東海道本線の夜行急行列車が衰退した後も、[[山陽本線]]や[[東北本線]]、[[北陸本線]]などでは、寝台急行列車と座席夜行急行列車の雁行が行われた。一方、[[奥羽本線]]・[[山陰本線]]など別仕立てするほどの需要がない亜幹線級の線区では、従来通り寝台車と座席車を併結した客車急行列車が引き続き運転された。
==== 一般化 ====
寝台特別急行列車の場合、当初の主な設定区間であった東海道・山陽・九州線、つまり東京対山陽・九州各都市が主な利用客であることや、顕著な寝台車利用も勘案され、東海道新幹線開業前である[[1962年]]より座席車連結を当初より減少する編成<ref group="注釈">[[Template:Mizuho JNRPC 20 Format 1963 6|「みずほ」20系化当初編成図]]を参照されたいが、従前より運行している[[Template:Sakura Hayabusa by JNR PC 20 1960-1963|「さくら」・「はやぶさ」]]に比べ、一等座席車がなく代わりに二等寝台車が連結されている。</ref>が現れ、同新幹線開業<ref group="注釈">東海道新幹線開業前は東京 - 名古屋・京阪神といった区間において、初発列車や最終列車として20系の座席車を利用する者も多かったが、同新幹線の開業でそれらの利用者は新幹線利用に転移していった。</ref>から4年後の[[1968年]]までには「あさかぜ」1往復の一等車ナロ20形1両を除き座席車の連結を終了した<ref group="注釈">なお、「あさかぜ」の一等車の後身となる[[グリーン車]]連結は[[山陽新幹線]]全通となる[[1975年]]3月に終了した。</ref>。
1964年に初の東京駅以外の発着寝台特急として設定された「[[東北本線優等列車沿革|はくつる]]」には二等車が2両連結され、翌[[1965年]]に最初の関西発着で東海道新幹線接続寝台特急としても設定された「[[あかつき (列車)|あかつき]]」にも二等車1両が設定された。
しかし、山陽・九州方面や東北方面でも電車による昼行特急列車網の整備が進んだことから、20系座席車の利用者は次第に減少し、「あかつき」は1968年に連結を廃止。前者でも「はくつる」の客車を常磐線経由に変更した「[[東北本線優等列車沿革|ゆうづる]]」に連結された2両が[[1970年]]に廃されている。このため、20系客車のうち、座席車のほとんどは寝台車へと改造され、座席車として全うした車両は「あさかぜ」用ナロ20形3両のみであった。
なお、[[1967年]]に運行を開始した寝台電車である[[国鉄583系電車|581系電車]]では、二等車は昼は座席で夜は寝台での使用を目的とした構造を用いており、登場当初こそ暫定的な運用もあり一等車は座席・寝台ともに製造されなかった。しかし、本格的な運用となった[[ヨンサントオ|1968年10月1日ダイヤ改正]]までに寝台兼用の座席の開発が間に合わなかったことから、一等車(翌[[1969年]]より等級制度廃止に伴い[[グリーン車]]と名称変更)については一等寝台(後年の[[A寝台]])ではなく座席車として製造された。そのため、昼行列車との兼ね合いで常時1両連結していることが多く、夜行運転時でも座席車を連結する状態になっていた。
1974年4月のダイヤ改正を機に2段式寝台の24系25形が登場したのを機に、国鉄は「星の寝台特急」のキャンペーンを行い、B寝台の設備について星の数で表記を行った他、上記の寝台列車のシンボルマークが時刻表等に登場した。
==== 衰退 ====
1975年以降は、運賃・各種料金の大幅な値上げに加え、[[新幹線]]や[[高速道路]]網、[[航空会社|航空路線]]など高速交通網の整備が進んだ結果、<!--[[自家用車]]の普及や、明らかに安い値段で利用できたり、前日の夕夜間に出発しなくても当日の朝に出発すれば同じ位から逆に早く遠方まで到着できるようになったこと、ターミナル駅前に安価な[[ビジネスホテル]]が建つようになり寝台に乗るより現地で快適に就寝できること、[[修学旅行]]においても航空機や新幹線、さらに[[バス]]が利用できるようになったこと、[[国鉄分割民営化]]の影響などから車両更新・スピードアップが停滞したことなどの結果、他の交通機関に対する競争力を失ったため、:独自研究か-->寝台列車を含む夜行列車全体の利用客(特に社用・公用での出張などビジネス目的の利用客)が激減し、最盛期の1960年代に比べ、利用客は大幅に減少した。
なお、[[1980年代]]後半以降、客車寝台特急では、[[高速バス]]への対抗を目的として座席車を1両のみ連結するケースが出てきた。純粋な座席車という点では、「あかつき」・「[[なは (列車)|なは]]」の「レガートシート」があったが、「あかつき」が[[2008年]][[3月15日]]付けで廃止になって以降、該当例はなくなった。また、「[[あけぼの (列車)|あけぼの]]」には、寝台車を使用しながら毛布や浴衣を備え付けずに座席車扱いとした、「ゴロンとシート」という車両(簡易寝台)が連結されていた。
さらに「[[サンライズ出雲]]・[[サンライズ瀬戸|瀬戸]]」にも、座席車扱いではあるが毛布が備え付けられて横になることが可能な「ノビノビ座席」という車両(簡易寝台)が連結されている。
[[青函トンネル]]開通以降に登場した首都圏・京阪神と北海道を結ぶ寝台特急「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」「[[トワイライトエクスプレス]]」は、他の寝台列車がほぼ壊滅状態となった2013年当時でも、依然として根強い人気を保っていた。しかし、航空機との競争により利用客が減少していることや、車両の老朽化が進行していることなどを理由に、「[[あけぼの (列車)|あけぼの]]」が2014年3月15日のダイヤ改正で廃止(定期運行終了・臨時列車化)され、「トワイライトエクスプレス」も2015年3月14日のダイヤ改正で廃止された。同時に「北斗星」も定期運行も終了し、同年8月22日には「北斗星」の臨時運行も終了した。
==== 旅行目的への特化 ====
移動手段としての競争力を失った2010年代以後、夜間の非活動時間を有効利用した移動手段ではなく、純粋に[[鉄道旅行]]を楽しむ事に役割が変わりつつあり、そうしたコンセプトを持つ列車(「クルーズトレイン」)が計画・登場している。JR九州は、九州を一周する豪華寝台列車「[[ななつ星 in 九州]]」を2013年10月15日から運行を開始した。同様の列車はJR東日本でも「[[TRAIN SUITE 四季島]](トランスイート しきしま)」が2017年5月1日に運行を開始したほか<ref>[http://www.jreast.co.jp/press/2013/20130603.pdf 「日本を楽しむあなただけの上質な体験」を感じる旅が始まります。〜 クルーズトレインの新造について 〜 2013年6月4日 JR東日本プレスリリース]</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2014/20141005.pdf|format=PDF|title=「日本を楽しむあなただけの上質な体験」を感じる旅が始まります。〜クルーズトレインの列車名について〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2014-10-07|accessdate=2014-10-07|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref name="jreast.co.jp_20160502.pdf">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2016/20160502.pdf|format=PDF|title=「日本を楽しむあなただけの上質な体験」を感じる旅が始まります。「TRAIN SUITE 四季島」 〜運行開始日、運行日程、運行ルートの詳細、旅行商品の受付開始について〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-05-10|accessdate=2016-05-10}}</ref>、JR西日本でも「[[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]](トワイライトエクスプレス みずかぜ)」が2017年6月17日に運行を開始した<ref>【鉄道】豪華寝台列車で巡る世界遺産…JR西日本が計画 読売新聞 2013年5月4日</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2015/02/page_6815.html|title=新たな寝台列車の列車名と食を監修する料理人について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2015-02-19|accessdate=2015-02-19|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
また、2016年6月以降に、「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」の上野 - 札幌間について「カシオペア紀行」の名称でのツアー専用列車として運行の再開が決定した<ref>{{Cite press release|和書|title=鉄道開業140周年・「大人の休日倶楽部」会員限定 東北応援特別ツアー「カシオペア・クルーズ」の発売〜寝台列車「カシオペア」初の日本海ルートで東日本を巡る旅〜 |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2012-7-24 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2012/20120715.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2015-11-22 |archiveurl= |archivedate=}}</ref>。
JR西日本は、2020年9月11日より「[[WEST EXPRESS銀河|WEST EXPRESS 銀河]]」の運行を開始した。ただしこれは、寝台に近い設備は有するものの座席車扱いであり、「寝台列車」ではない。
== アメリカ合衆国 ==
{{See also|アメリカ合衆国の鉄道}}
[[19世紀]]の末から[[20世紀]]の中ごろにかけての[[アメリカ合衆国]]では、旅客の移動における鉄道輸送の占める割合が非常に高かった。
国土の広さゆえ、数日を要する[[鉄道旅行]]は当たり前で、経済水準が比較的高かった事から寝台車への需要も高く、鉄道会社は[[プルマン (企業)|プルマン社]]などの寝台車保有会社と提携して、寝台車を連結した旅客列車の運行を盛んに行った。
中でも、需要の高かった東海岸の路線や、[[シカゴ]]と[[ロサンゼルス]]を結ぶ路線などでは、19世紀の終わりごろから、座席車を連結しない[[寝台車_(鉄道)|プルマン寝台車]]のみの旅客列車"all-Pullman"を運行する事が常態化していた。
寝台専用列車として有名な列車としては、[[ニューヨーク]]とシカゴを結んだ「[[20世紀特急]] (The 20th Century Limited) 」、「[[ペンシルバニア鉄道#ブロードウェイ特急|ブロードウェイ特急]] (Broadway Limited) 」、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]とシカゴを結んだ「[[キャピトル・リミテッド|キャピトル特急]] (Capitol Limited) 」、ニューヨークと[[ニューオーリンズ]]を結んだ「[[クレセント (旅客列車)|クレセント]] (Crescent Limited) 」、シカゴと[[サンフランシスコ]]を結んだ、「[[オーヴァーランド・リミテッド|オーバーランド特急]]」、シカゴと[[ロサンゼルス]]を結んだ「[[カリフォルニア特急]] (California Limited) 」、「[[スーパー・チーフ]] (Super Chief) 」、ロサンゼルスとサンフランシスコを結んだ「[[ラーク (旅客列車)|ラーク]]」などが挙げられる。プルマン寝台車の利用には通常、ファーストクラス運賃が必要で、優等旅客のみを相手にし、フルコースを提供する食堂車や豪華なラウンジ車を売り物にしていた。いくつかの列車については[[1930年代]]以降、全車の個室寝台化も行われた。これらの列車は座席車のみならず、主に西部に向かう列車に連結されていた、通常運賃と安価な寝台料金で利用できる「ツーリスト寝台」すら連結されていなかった。
[[第二次世界大戦|第2次大戦]]後の飛行機の普及はアメリカの鉄道旅客輸送に大打撃を与えた。旅客列車は激減し、従来寝台専用列車だった列車にも座席車が連結されるようになった。[[1967年]]、最後まで"all-Pullman"として残っていた「ブロードウェイ特急」に座席車が連結され、アメリカから寝台専用列車は消滅した。現在のアムトラックの夜行列車はすべて寝台・座席併結列車である。
== ヨーロッパ諸国 ==
[[File:Map_night_trains_in_europe.png|thumb|right|350px|ヨーロッパの夜行列車路線]]
{{See also|寝台車 (鉄道)#ヨーロッパの寝台車}}
観光列車を別にすれば、寝台専用列車が盛んに運行され、現在ホテルトレインといわれる。
各小部屋にシャワー、トイレ、洗面台まで備えられており移動するホテルである。代表的な鉄道にマドリッド・バルセロナとパリ・ミラノ・チューリッヒを結ぶエリプソスがある。
[[ベルギー人]]のジョルジュ・ナエルマーケス (Georges Nagelmackers, 1845 - 1905) が[[1872年]]に発足させた[[国際寝台車会社]](Compagnie Internationale des Wagons-Lits、日本での通称ワゴン・リ社)は、個室寝台車を欧州各国の鉄道で運行して成功を収めた。同社の車両による「[[オリエント急行]] (L'Orient-Express) 」、「[[青列車|トラン・ブルー]] (Train Bleu) 」といった列車は、寝台車を中心に編成され、豪華で利便性の高い列車として世界的な名声を得た。
その後、1960年代以降は航空路線網の整備が進んだこともあり、1977年にオリエント急行は廃止され、さらに1981年の[[TGV]]開業以後は、トラン・ブルーをはじめとしたフランス国内の寝台列車も、クシェットと二等リクライニング座席車からなる[[コライユ (鉄道車両)|コライユ・ルネア]]に次々と置き換えられた。他の列車も座席車を連結するものが増え、現在も寝台専用列車として残っているのは、[[ユーロナイト]]の[[アルテシア|アルテシアナイト]](フランス - イタリア間)、"Berlin Night Express"([[ベルリン中央駅|ベルリン]] - [[マルメ中央駅|マルメ]]間)、[[シティナイトライン]]"Aurora"([[コペンハーゲン中央駅|コペンハーゲン]] - [[バーゼルSBB駅|バーゼル]]間)など、ごく一部となった。
[[2017年]]、フランス国鉄は他に交通手段の選択肢がある路線の寝台列車を廃止。わずかにパリと[[ブリアンソン]]、パリと[[セルベール]]間を結ぶ2路線のみが残された。一方で2020年代に[[二酸化炭素]]の排出量削減が政府の課題になると再び寝台列車に注目が集まるようになり、[[2021年]]、パリと[[ニース]]間を結ぶ寝台列車が復活した。同区間は高速鉄道TGVの倍の時間を要するものの運賃は半分以下となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3348227 |title=動画:パリ-ニース間、寝台列車復活 エコ意識高い若年層狙う |publisher=AFP |date=2021-05-25 |accessdate=2021-12-29}}</ref>。
== インド ==
{{See also|寝台車 (鉄道)#インドの寝台車|インドの鉄道#長距離優等列車}}
国土が広大な[[インド]]にも寝台専用列車が存在する。[[貧富の差]]の問題などもあり、[[インドの鉄道]]ではほとんどの列車に座席車が連結されているが、同時に運転時間が長時間に渡るため寝台車の比重が高くなっている。
特に[[ラージダーニー急行]]は全車[[エア・コンディショナー|エアコン]]付き寝台車を用いた豪華列車として知られてきた。最近はインドでの[[中産階級]]の成長により利用者が急増している。そのため、[[ブルートレイン (日本)|日本のブルートレイン]]に近い寝台[[特別急行列車|特急列車]]に実質的には近づいている。
また、インドの急行列車は約20両に及ぶ編成のうち、2 - 3両の座席車を除いては寝台車ばかりで構成されることが多い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Sleeping_cars_(rail_transport)}}
* [[寝台券]]
* [[夜行列車]]
* [[ブルートレイン (日本)]]
* [[日本の列車愛称一覧]]
{{宿泊施設}}
{{現存する夜行列車}}
{{DEFAULTSORT:しんたいれつしや}}
[[Category:列車|種しんたいれつしや]]
[[Category:列車種別|†]]
[[Category:日本の列車|種しんたいれつしや]]
[[Category:宿泊]]
[[Category:防災施設]]
[[Category:夜行列車]]
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2023-12-18T14:07:58Z
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高速バス
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高速バス(こうそくバス)は、主に高速道路を通行する路線バスのことを指す。以下、特記ない限り、日本国内の高速バス(道路運送法第3条に規定される「一般乗合旅客自動車運送事業」の形態として運行されるバス)について記述する。
日本の法令上では道路運送法第3条の規定のほか、第5条において路線を定めて定期に運行する自動車による乗合旅客の運送(路線定期運行)に関し、国土交通省へ許可申請が必要となる。道路運送法施行規則第10条において「専ら一の市町村(特別区を含む。以下同じ。)の区域を越え、かつ、その長さが概ね五十キロメートル以上の路線又は空港法第二条に規定する空港若しくは同法附則第二条第一項の政令で定める飛行場を起点若しくは終点とする路線において、停車する停留所を限定して運行する自動車により乗合旅客を運送するもの」を長距離急行運送等として運賃届出が区分され、同15条の13にて運行計画の届出が定められている。日本の高速バスの多くが、長距離急行運送等に該当する。
一般的には、距離が数十から数百キロの都市間輸送(北海道や沖縄県以外では都府県を跨ぐ事例が多い)、ないしは都市と観光地を結ぶものの中で、高速道路を利用するものを指す。ただ、「高速バス」という語の法律的な定義はされていない。そのため旅行業者が自社商品を「高速バス」と呼称している事実もあった。高速道路上では「路線バス」と記載されている。観光バスなどとの識別のため、バスのフロントガラスの運転席寄りに「路線バス」の標識を付けている。
空港へのアクセスを担う高速バスは事業者によってリムジンバスとも案内されるが、リムジンバスを高速バスの下位概念と見なすことがある。高速道路は通過しないが中長距離の都市間連絡を担う特急・急行バスも場合によっては制度上は高速バスと同等に扱う。
特急、急行バスは多くは一般道経由のバスとして高速バスと区別されるが、事業者によっては高速バス内の上位種別として特急、急行バスと称する場合や、路線名としてそのように称する場合もある。また、路線全長の内、高速道路走行区間が短い路線を準高速バスと称する場合もある。
東名ハイウェイバス、名神ハイウェイバス、中国ハイウェイバスの各停便は、種別が急行となる。ただし、名神ハイウェイバスの急行便は2006年(平成18年)現在名称上廃止している。
高速道路を通過する際には、法規によりバスの着席定員を超える乗客を乗せて運行することが禁じられているので、所要時間1から2時間程度までの短距離路線など一部を除き、事前に席を予約する座席指定制を採用することが多い。一部では、一般路線バスと同様に予約不要だが、定員を超えて乗車できない定員制を採用している。また、ほぼすべての路線で全席禁煙となっている。
他の交通機関と比較して安価である場合が多く、鉄道と異なり道路を利用する関係上、天気などの気象状態のほか、大型連休・旧盆・年末年始などの行楽シーズンや、集中工事期間、突発的な交通事故などの発生による渋滞・交通規制などにより、定時運行ができないことがある。以下の記載は、基本的に路線バスとしての高速バスに限定して記述する。
観光バスタイプの車両に類似するが、路線バスとして運行するため行き先表示装置・自動放送装置・降車ボタン・運賃表示器・運賃箱等の一般路線バス車両と同様の機器を取り付けている。逆に必要のない出入口部のガイド席や客席のマイクなどは装備されていない。ただし、完全予約制の路線やツーマン運行の路線などについては自動放送装置・運賃表示器・運賃箱のない車両が利用される場合もある。室内のシートはほとんどがリクライニングシートで、昼行路線が3列(2+1)または4列、夜行路線が3列独立シートの場合が多く、車両によってはこれらを組み合わせて等級を設定していることもある。また、わずかながら2010年代後期あたりからホスピタリティを重視した二列独立かつ個室ブース化した座席も登場するようになった。なお2+1タイプの3列シートでは、出入り口側に通路がある車両と運転席側に通路がある車両が混在する。
また、観光バスとして用いていた車両に、運賃箱や放送装置などを取り付けて、高速バスに転用した車両も多い。観光バスからの転用の場合、ある程度の距離を走る路線でもトイレ無しの場合がある。西日本鉄道などでは、夜行車を昼行用に転用したことがある。逆に、JRバス関東では昼行用の車両を独立3列シートに改造の上、夜行用に転用したことがある。
黎明期の高速バスでは、通常に比べ出力(馬力)の大きい専用のエンジンを搭載したバスをメーカーに特別注文したものもあった(その代表例が国鉄専用型式)が、通常の観光バスと比べ価格が高く、また市販の観光バスの車両も出力が大きくなったために、必要性が薄れ、現在では製造されていない。
ただし、前述のように各メーカとも通常の観光バスをベースとして、行き先表示装置(サボで代用する場合もある)など路線バスとしての装備と、車内を最小限の簡素な仕様とした高速バス向けの車両を用意している。さらに、夜行高速車の場合、3列シート、交代乗務員の床下仮眠室など夜行バス向けの装備と、高出力エンジンと制動力に優れたフルエアブレーキを装備したインターシティ仕様を各メーカーが設定している。
またコストダウンとバリアフリー化のため、近距離高速バスについては高出力エンジン仕様のトップドア路線バスや、いわゆる「ワンロマ」をベースとした車両もあり、一部事業者(特に首都圏や九州地方)で集中的に導入されている。
一部事業者では、運行コスト削減のためマイクロバスを使用する事例もある(中国バスが運行していたフライングフィッシュ号やオーシャンライナー、南部バスの軽米高速線、北九西鉄タクシーの福北リムジンバス、神園交通のすーぱーばんぺいゆなど)。また、曜日限定ではあるもののジャンボタクシー車両を使用した路線も存在した(両備バスがかつて運行していた広島つやまエクスプレス)。
中長距離用の場合は車両中央部の床下または最後部に便所を設けてあるものが多いが、盆や正月などで増便する場合、観光バス車両など、トイレを設置していないバスが使用されることがある。その場合は高速道路のサービスエリア・パーキングエリアでの休憩をこまめにとることがある。また、高速バス自体は禁煙となっているので、休憩先の喫煙所は、高速バスが停まっている間は混雑する傾向にある。トイレはハイデッカー・スーパーハイデッカーでは中央部か最後部、ダブルデッカーでは1階の最後部に設置されている例が多く見られる。設置場所の制約からコンパクトにまとめられており、下の写真にあるように、用を足すための最小限の広さのものが多いが、広さを横幅いっぱいに拡大し、便器のほかに洗面台や鏡を備えたパウダールームを設置している例もある。
床下には大きな荷物を収納するためのトランク(荷物入れ)が設置されており、車外から車体側面下部にあるトランクリッドを開けて荷物を出し入れするようになっている。また夜行高速車では床下もしくは最後部、2階建て車の場合は階下席前扉脇にカプセルホテルに似た形状の乗務員仮眠室も設置されており、運転しない乗務員は横になって仮眠することができる。床下配置の場合は中央床下トイレの脇に仮眠室の出入口があり、また外部からもトランクルーム同様のドアがあり出入りが可能になっている。続行便等で仮眠室を装備していない車両を使用する場合は、運転席後部の座席を仮眠スペースとして使用するケースが多い。JRバス各社では、中継地点で乗務員交代を実施する路線では夜行高速車であっても仮眠室を省略するケースがある。
かつては長距離路線を中心にAVサービス機器(ビデオやテレビ放送の放映、マルチチャンネルオーディオ、ラジオなど)が装備されていたが、近年は縮小・省略の傾向にある。座席に個別の液晶テレビを備えている例もある。また長距離路線を中心に給茶機・冷蔵庫によるセルフサービスでの飲物の提供、あるいは自動販売機による飲物の販売、100円硬貨もしくはテレホンカード専用車内電話などの設備・サービスが実施されていたが、これらも縮小・省略の傾向にある(自動車公衆電話は、NTTドコモのPDC方式の携帯電話が、2012年3月31日を以て停波した際に、自動車公衆電話サービス自体も終了しているため、それに先だってあるいはそれに併せる形でサービスを終了し、自動車公衆電話端末を撤去している)。一方、近年では乗客がノートパソコンやスマートフォンを利用して車内でインターネットに接続することを可能にするため、車両に公衆無線LANを導入したり、座席にモバイル機器充電用のコンセントやUSBポート を設置したりする事例も増えている。
同一の区間で設備と運賃に格差をつけた複数の便が運行されている例がある。また同じ車両であっても設備と価格に格差をつけている場合がある。
高速バスで使用される車両の寿命は、目安として走行距離が100万kmを超えた頃とされており、運行距離が長い路線の車両では10年を待たずに新車と入れ替えて廃車にされるサイクルにあった。しかし、2010年代に入ると観光バスの需給が逼迫し始めたことから、徹底した整備を施し高速路線で運用を続けたり、観光バスへ転用される車両もみられるようになっている。中古車市場では、極端な多走行車であっても取引が行われる事例がある。
戦前にも省営自動車広浜線(広島 - 浜田間)など長距離路線が存在したが、第二次世界大戦による燃料統制でバスの運行は極めて困難な状態となった。
戦後、燃料統制が解除された1950年代から再び長距離路線が増え始める。1950年(昭和25年)には一畑電気鉄道(現一畑バス)が広島 - 松江線を直通急行バスとして運行開始(1960年には 広島電鉄バスも参入)。九州の福岡 - 熊本間(西日本鉄道・九州産業交通)や福岡 - 小倉 - 大分間などで長距離バスの運行が開始され、その後は自動車技術の発達や、舗装や拡幅、車線の上下完全分離などといった道路改良に伴って、各地に一般道路経由の長距離バスが誕生した。
関門急行線以降、長距離バスにはパワーステアリング・エアブレーキ・エアサスペンション・冷房装置・リクライニングシートといった長距離輸送に適した装備を備える車両が使用されるようになっていった。
当時は、道路の方も一級国道でさえ未舗装区間や車両の行き違いの困難な道幅の狭い区間が残るなど道路事情は良くなかったが、まだマイカー普及前で交通量も少なかったことで渋滞が少なかったうえ、国鉄の輸送も近代化される前で幹線でも単線・非電化で輸送力の低い路線が多く、バス利用者も多かった。その頃の長距離バスは、鉄道のライバルというより、むしろ鉄道の補完的な役割であった。
運行距離が100km以上の長距離乗合バスは、昭和33年度末には102系統あったが、昭和37年度末には204系統、昭和40年度末には323倍と増加していった。
日本では、以下のバス路線が緒とされている。
1960年代初頭~半ば頃からは、旧盆や年末に、貸切バスを利用した会員制「帰省バス」と銘打った大都市から地方都市への長距離バス(主に夜行)が運行されるようになる。当時は東名・名神以外の高速道路はまだ開通しておらず、ほとんどは一般国道での運行で所要時間もかかったが、帰省ピーク時でも座席が確保されるということもあって、好評を博していた。
また、一般道路経由の長距離バスも国道改良が更に進み、いわゆる「バス黄金時代」を迎えていたため多数の路線が開設され、その受け皿になる沿線バス事業者出資の合弁バス事業者も数多く設立された。
1970年代後半は、新幹線などの鉄道輸送網が所要時間などの面で優位に立ち、近距離ではモータリーゼーションによるマイカーへの転移が進み、その上2度にわたるオイルショックの影響も重なり、高速バス路線の運営が硬直化していったこともあって、本州の高速バスにとっては厳しい時代を迎える。
1980年代に入ると、旧国鉄の運賃・料金値上げや夜行列車の削減・廃止が相次ぎ、さらにサービス水準も旧態依然のままであったため、鉄道輸送網が次第に競争力を下げてゆき、高速バスの運賃面での優位性が際立ってきた。また路線の運営面でもより合理的なシステムが生まれた。そのため次第に高速バス路線が増加の傾向を見せる様になった。
この時代は、好景気や高速道路網の拡大、さらには国鉄の分割民営化も相まって、大都市のバス事業者と地方の事業者が相互乗り入れ(共同運行)する形で路線拡大が急速に進み、全国ネットを確立していった時代である。
全国の高速バス路線網が一通り完成して「開設ブーム」が終わり、新規路線拡大が落ち着きを見せる。バブル崩壊後の不況とも相まって、利用者のニーズに合わない路線が淘汰されていった時代といえる。
2001年2月の改正道路運送法施行により、バスの新規路線開設、さらにバス事業自体の免許制から許可制への移行など、規制緩和されたことから、貸切バス事業を中心とした新規参入、さらにこれを利用した会員制都市間ツアーバスの運行が活発に行われるようになり、高速バスは厳しい競争の時代を迎える。また過剰な設備を排し、高速バスの最大のメリットである低運賃を今までよりさらに追求していく傾向が出て来た。また、JRバスグループはその頃から、既に利用者が減少して不採算に陥っていた地方の一般路線を廃止・縮小し、利用が堅調な高速バス(特に大都市発着の路線)に特化させる傾向が強まった。
2010年以前から「ツアーバス」形態について各種の問題点が指摘され、ツアーバスのあり方が検討されてきたが、2012年に発生した関越自動車道高速バス居眠り運転事故を受けてツアーバスと高速路線バス(乗合バス)の一本化が行われることとなった。一本化後の制度は「新高速乗合バス」として、2013年7月31日夜から運用開始されている。
この過程で従来の乗合バス事業に対しても、運賃設定や管理の受委託などに関する規制緩和が行われ、既存事業者にもそれらの制度を活用する例が現れた。その一方で、ツアーバス事業者のうち新高速乗合バスに移行したものは3割程度にとどまっている。旧ツアーバスの事業者については、新高速乗合バスへ移行後にさらに新規路線を運行開始する事業者もある一方、いったんは新高速乗合バスへ移行して運行開始したものの、その後に事業を廃止し、路線を休廃止したり他社に譲渡したりした事業者もある。
2000年代に行われたバス事業規制緩和と引き替えに、交通違反などの各種法令に違反した場合の行政処分の規定が新たに設定された。
違反した場合は道路運送法40条に基づき、状況に応じて事業者・営業所単位で違反点数(使用停止台数と使用停止日数の積を10で割った数値)が付加され累計違反点数が一定以上になると、50点以上でバス事業の停止、80点以上で事業の許可取消処分が行われる。そのため、違反した事業者は国土交通大臣及び各運輸局長・運輸支局長・自動車検査登録事務所長の命令により、一定期間違反した事業者・営業所での事業拡大(路線の開設や参入)が禁止される(このことを服喪期間という。ただし地元自治体などからの要請があれば特例で路線開設を認める場合もある)。
違反点数の累積期間は原則3年間である。ただし、違反点数が付加されていない営業所において行政処分以前の2年間に違反行為がなく、かつ違反点数が付加された営業所において2年間違反行為がない場合は、行政処分から2年経過した時点で消滅する。なお事業者が分割・譲渡した場合は事業者・営業所単位の累積違反点数が承継される。
なお2004年(平成16年)8月1日に基準が改正され、事業拡大の禁止期間がそれまでの2年間から5点以下の処分で3か月、19点以下で6か月、20点以上や悪質違反で1年間に緩和されたが、車両停止の処分については厳格化され従来は使用停止台数と使用停止日数の積を10で割った数値が整数でない場合は端数を切り上げていたが、改正後は使用停止車両のうち1台の使用停止日数を延長して整数となるように変更された(端数調整により日数が延長されるのでより厳しくなっている)。2006年(平成18年)5月には、飲酒運転を放置した事業者に対しては、違反点数に関係なく事業停止の処分が下せるようにするといった法案が提出された。
座席指定なしで発売される。この場合は事前予約はできないので、乗車時にバスターミナルの窓口で乗車券を購入するか、一般の路線バスの様に車内で直接運賃を支払うことになる。
先着順に乗車し、空いている席に自由に座ることができる。満席となった場合は補助席を利用することになる。しかし、法令により高速道路では立ちっぱなしの乗車はできないため、補助席も埋まると乗車できず、次発の便に回されてしまう。
近距離(100 km程度まで)の高速バスはこの方式を採用している路線が多い。
基本的には座席定員制と同じだが、事前に乗車する便を指定して予約することが原則である。
座席は指定せず、空いている席に自由に座ることができるが、予約していれば、その便の座席が1席分確保されているので満席で乗れない心配はない。予約せずに乗る場合は予約した乗客が優先されるため満席で乗れないことも有り得る。その場合も座席定員制と同様、補助席を利用する。補助席も埋まると次発便へ回される。
予約指定制ともいう。 事前予約を原則とし、発券時に乗車便・座席も指定するもの。ほぼすべての夜行路線や、私鉄・専業系バスの中・長距離路線の大半で、この方式が採用されている。乗車券はバスターミナルなどにあるバス事業者の直営窓口や旅行会社で事前に購入する。購入前に電話で予約ができる路線がほとんどである。
次のようなシステムがある。
ツアーバスから移行した新高速乗合バスの場合、上記とは異なる独自の予約サイトを持ち、窓口を持たず支払方法をクレジットカードまたはマルチメディアステーションでの支払いに限定し、乗車券を発券しない場合が多い。
また、新高速乗合バスでない高速乗合バスは乗車券を発券した際に座席も指定されるが、新高速乗合バスは運賃を支払ってもその時点では座席が指定されず、当日の乗車時に乗客の性別などを考慮して座席が設定され、各乗客に連絡される場合が多い。
日本の高速バスでは便または路線ごとで愛称を付けているケースが多い。理由については様々だが座席指定制の場合は発券、事務処理上の便宜として付けているほか路線・目的地の宣伝広告の意味で付けているケースがほとんどである。自由席の路線でも路線・目的地のアピールとして付けているケースがある。つけ方としては以下のようなつけ方がみられる。
鉄道や航路の未発達な途上国を中心に利用されているが、先進国・準先進国でも、高速道路が発達した地域では、多くの路線が設定されていることが多い。フィリピンやペルー、ドイツや台湾、韓国はそれぞれの例である(台湾のバス交通及び韓国のバスも参照)。特に鉄道・航空機との競争が激しい台湾では、路線によっては2列シート・按摩・おしぼり・個人テレビ・バスガール付きの豪華な都市間高速バスが24時間体制で運行されている。中華人民共和国でも都市部の急激な経済成長による出稼ぎ労働者の増加に伴って高速バスが発展しており中には車内に寝台を備え付けた「寝台バス」も運行されている。
一方アメリカでは長い歴史を持ち、アラスカを除く本土全土に路線網を有する「グレイハウンド」高速バスがあるが、鉄道のアムトラック同様以下の理由により都市間交通は高速な航空機(格安航空会社)の独擅場と化し、都市間バスは淘汰されつつある。
ヨーロッパでは、ほとんどの国が陸続きになっていることから国際(EU域内)間の路線バスも多く、各国のバス会社が加盟するユーロラインズという協業組織がある。
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"text": "高速バス(こうそくバス)は、主に高速道路を通行する路線バスのことを指す。以下、特記ない限り、日本国内の高速バス(道路運送法第3条に規定される「一般乗合旅客自動車運送事業」の形態として運行されるバス)について記述する。",
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"text": "日本の法令上では道路運送法第3条の規定のほか、第5条において路線を定めて定期に運行する自動車による乗合旅客の運送(路線定期運行)に関し、国土交通省へ許可申請が必要となる。道路運送法施行規則第10条において「専ら一の市町村(特別区を含む。以下同じ。)の区域を越え、かつ、その長さが概ね五十キロメートル以上の路線又は空港法第二条に規定する空港若しくは同法附則第二条第一項の政令で定める飛行場を起点若しくは終点とする路線において、停車する停留所を限定して運行する自動車により乗合旅客を運送するもの」を長距離急行運送等として運賃届出が区分され、同15条の13にて運行計画の届出が定められている。日本の高速バスの多くが、長距離急行運送等に該当する。",
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},
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"text": "一般的には、距離が数十から数百キロの都市間輸送(北海道や沖縄県以外では都府県を跨ぐ事例が多い)、ないしは都市と観光地を結ぶものの中で、高速道路を利用するものを指す。ただ、「高速バス」という語の法律的な定義はされていない。そのため旅行業者が自社商品を「高速バス」と呼称している事実もあった。高速道路上では「路線バス」と記載されている。観光バスなどとの識別のため、バスのフロントガラスの運転席寄りに「路線バス」の標識を付けている。",
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},
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"text": "空港へのアクセスを担う高速バスは事業者によってリムジンバスとも案内されるが、リムジンバスを高速バスの下位概念と見なすことがある。高速道路は通過しないが中長距離の都市間連絡を担う特急・急行バスも場合によっては制度上は高速バスと同等に扱う。",
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"text": "特急、急行バスは多くは一般道経由のバスとして高速バスと区別されるが、事業者によっては高速バス内の上位種別として特急、急行バスと称する場合や、路線名としてそのように称する場合もある。また、路線全長の内、高速道路走行区間が短い路線を準高速バスと称する場合もある。",
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},
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"text": "東名ハイウェイバス、名神ハイウェイバス、中国ハイウェイバスの各停便は、種別が急行となる。ただし、名神ハイウェイバスの急行便は2006年(平成18年)現在名称上廃止している。",
"title": "概要"
},
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"text": "高速道路を通過する際には、法規によりバスの着席定員を超える乗客を乗せて運行することが禁じられているので、所要時間1から2時間程度までの短距離路線など一部を除き、事前に席を予約する座席指定制を採用することが多い。一部では、一般路線バスと同様に予約不要だが、定員を超えて乗車できない定員制を採用している。また、ほぼすべての路線で全席禁煙となっている。",
"title": "概要"
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"text": "他の交通機関と比較して安価である場合が多く、鉄道と異なり道路を利用する関係上、天気などの気象状態のほか、大型連休・旧盆・年末年始などの行楽シーズンや、集中工事期間、突発的な交通事故などの発生による渋滞・交通規制などにより、定時運行ができないことがある。以下の記載は、基本的に路線バスとしての高速バスに限定して記述する。",
"title": "概要"
},
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"text": "観光バスタイプの車両に類似するが、路線バスとして運行するため行き先表示装置・自動放送装置・降車ボタン・運賃表示器・運賃箱等の一般路線バス車両と同様の機器を取り付けている。逆に必要のない出入口部のガイド席や客席のマイクなどは装備されていない。ただし、完全予約制の路線やツーマン運行の路線などについては自動放送装置・運賃表示器・運賃箱のない車両が利用される場合もある。室内のシートはほとんどがリクライニングシートで、昼行路線が3列(2+1)または4列、夜行路線が3列独立シートの場合が多く、車両によってはこれらを組み合わせて等級を設定していることもある。また、わずかながら2010年代後期あたりからホスピタリティを重視した二列独立かつ個室ブース化した座席も登場するようになった。なお2+1タイプの3列シートでは、出入り口側に通路がある車両と運転席側に通路がある車両が混在する。",
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"text": "また、観光バスとして用いていた車両に、運賃箱や放送装置などを取り付けて、高速バスに転用した車両も多い。観光バスからの転用の場合、ある程度の距離を走る路線でもトイレ無しの場合がある。西日本鉄道などでは、夜行車を昼行用に転用したことがある。逆に、JRバス関東では昼行用の車両を独立3列シートに改造の上、夜行用に転用したことがある。",
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},
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"text": "黎明期の高速バスでは、通常に比べ出力(馬力)の大きい専用のエンジンを搭載したバスをメーカーに特別注文したものもあった(その代表例が国鉄専用型式)が、通常の観光バスと比べ価格が高く、また市販の観光バスの車両も出力が大きくなったために、必要性が薄れ、現在では製造されていない。",
"title": "車両"
},
{
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"text": "ただし、前述のように各メーカとも通常の観光バスをベースとして、行き先表示装置(サボで代用する場合もある)など路線バスとしての装備と、車内を最小限の簡素な仕様とした高速バス向けの車両を用意している。さらに、夜行高速車の場合、3列シート、交代乗務員の床下仮眠室など夜行バス向けの装備と、高出力エンジンと制動力に優れたフルエアブレーキを装備したインターシティ仕様を各メーカーが設定している。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "またコストダウンとバリアフリー化のため、近距離高速バスについては高出力エンジン仕様のトップドア路線バスや、いわゆる「ワンロマ」をベースとした車両もあり、一部事業者(特に首都圏や九州地方)で集中的に導入されている。",
"title": "車両"
},
{
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"text": "一部事業者では、運行コスト削減のためマイクロバスを使用する事例もある(中国バスが運行していたフライングフィッシュ号やオーシャンライナー、南部バスの軽米高速線、北九西鉄タクシーの福北リムジンバス、神園交通のすーぱーばんぺいゆなど)。また、曜日限定ではあるもののジャンボタクシー車両を使用した路線も存在した(両備バスがかつて運行していた広島つやまエクスプレス)。",
"title": "車両"
},
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"text": "中長距離用の場合は車両中央部の床下または最後部に便所を設けてあるものが多いが、盆や正月などで増便する場合、観光バス車両など、トイレを設置していないバスが使用されることがある。その場合は高速道路のサービスエリア・パーキングエリアでの休憩をこまめにとることがある。また、高速バス自体は禁煙となっているので、休憩先の喫煙所は、高速バスが停まっている間は混雑する傾向にある。トイレはハイデッカー・スーパーハイデッカーでは中央部か最後部、ダブルデッカーでは1階の最後部に設置されている例が多く見られる。設置場所の制約からコンパクトにまとめられており、下の写真にあるように、用を足すための最小限の広さのものが多いが、広さを横幅いっぱいに拡大し、便器のほかに洗面台や鏡を備えたパウダールームを設置している例もある。",
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},
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"text": "床下には大きな荷物を収納するためのトランク(荷物入れ)が設置されており、車外から車体側面下部にあるトランクリッドを開けて荷物を出し入れするようになっている。また夜行高速車では床下もしくは最後部、2階建て車の場合は階下席前扉脇にカプセルホテルに似た形状の乗務員仮眠室も設置されており、運転しない乗務員は横になって仮眠することができる。床下配置の場合は中央床下トイレの脇に仮眠室の出入口があり、また外部からもトランクルーム同様のドアがあり出入りが可能になっている。続行便等で仮眠室を装備していない車両を使用する場合は、運転席後部の座席を仮眠スペースとして使用するケースが多い。JRバス各社では、中継地点で乗務員交代を実施する路線では夜行高速車であっても仮眠室を省略するケースがある。",
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"text": "かつては長距離路線を中心にAVサービス機器(ビデオやテレビ放送の放映、マルチチャンネルオーディオ、ラジオなど)が装備されていたが、近年は縮小・省略の傾向にある。座席に個別の液晶テレビを備えている例もある。また長距離路線を中心に給茶機・冷蔵庫によるセルフサービスでの飲物の提供、あるいは自動販売機による飲物の販売、100円硬貨もしくはテレホンカード専用車内電話などの設備・サービスが実施されていたが、これらも縮小・省略の傾向にある(自動車公衆電話は、NTTドコモのPDC方式の携帯電話が、2012年3月31日を以て停波した際に、自動車公衆電話サービス自体も終了しているため、それに先だってあるいはそれに併せる形でサービスを終了し、自動車公衆電話端末を撤去している)。一方、近年では乗客がノートパソコンやスマートフォンを利用して車内でインターネットに接続することを可能にするため、車両に公衆無線LANを導入したり、座席にモバイル機器充電用のコンセントやUSBポート を設置したりする事例も増えている。",
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"text": "この過程で従来の乗合バス事業に対しても、運賃設定や管理の受委託などに関する規制緩和が行われ、既存事業者にもそれらの制度を活用する例が現れた。その一方で、ツアーバス事業者のうち新高速乗合バスに移行したものは3割程度にとどまっている。旧ツアーバスの事業者については、新高速乗合バスへ移行後にさらに新規路線を運行開始する事業者もある一方、いったんは新高速乗合バスへ移行して運行開始したものの、その後に事業を廃止し、路線を休廃止したり他社に譲渡したりした事業者もある。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2000年代に行われたバス事業規制緩和と引き替えに、交通違反などの各種法令に違反した場合の行政処分の規定が新たに設定された。",
"title": "行政処分の規定"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "違反した場合は道路運送法40条に基づき、状況に応じて事業者・営業所単位で違反点数(使用停止台数と使用停止日数の積を10で割った数値)が付加され累計違反点数が一定以上になると、50点以上でバス事業の停止、80点以上で事業の許可取消処分が行われる。そのため、違反した事業者は国土交通大臣及び各運輸局長・運輸支局長・自動車検査登録事務所長の命令により、一定期間違反した事業者・営業所での事業拡大(路線の開設や参入)が禁止される(このことを服喪期間という。ただし地元自治体などからの要請があれば特例で路線開設を認める場合もある)。",
"title": "行政処分の規定"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "違反点数の累積期間は原則3年間である。ただし、違反点数が付加されていない営業所において行政処分以前の2年間に違反行為がなく、かつ違反点数が付加された営業所において2年間違反行為がない場合は、行政処分から2年経過した時点で消滅する。なお事業者が分割・譲渡した場合は事業者・営業所単位の累積違反点数が承継される。",
"title": "行政処分の規定"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "なお2004年(平成16年)8月1日に基準が改正され、事業拡大の禁止期間がそれまでの2年間から5点以下の処分で3か月、19点以下で6か月、20点以上や悪質違反で1年間に緩和されたが、車両停止の処分については厳格化され従来は使用停止台数と使用停止日数の積を10で割った数値が整数でない場合は端数を切り上げていたが、改正後は使用停止車両のうち1台の使用停止日数を延長して整数となるように変更された(端数調整により日数が延長されるのでより厳しくなっている)。2006年(平成18年)5月には、飲酒運転を放置した事業者に対しては、違反点数に関係なく事業停止の処分が下せるようにするといった法案が提出された。",
"title": "行政処分の規定"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "座席指定なしで発売される。この場合は事前予約はできないので、乗車時にバスターミナルの窓口で乗車券を購入するか、一般の路線バスの様に車内で直接運賃を支払うことになる。",
"title": "乗車券"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "先着順に乗車し、空いている席に自由に座ることができる。満席となった場合は補助席を利用することになる。しかし、法令により高速道路では立ちっぱなしの乗車はできないため、補助席も埋まると乗車できず、次発の便に回されてしまう。",
"title": "乗車券"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "近距離(100 km程度まで)の高速バスはこの方式を採用している路線が多い。",
"title": "乗車券"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "基本的には座席定員制と同じだが、事前に乗車する便を指定して予約することが原則である。",
"title": "乗車券"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "座席は指定せず、空いている席に自由に座ることができるが、予約していれば、その便の座席が1席分確保されているので満席で乗れない心配はない。予約せずに乗る場合は予約した乗客が優先されるため満席で乗れないことも有り得る。その場合も座席定員制と同様、補助席を利用する。補助席も埋まると次発便へ回される。",
"title": "乗車券"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "予約指定制ともいう。 事前予約を原則とし、発券時に乗車便・座席も指定するもの。ほぼすべての夜行路線や、私鉄・専業系バスの中・長距離路線の大半で、この方式が採用されている。乗車券はバスターミナルなどにあるバス事業者の直営窓口や旅行会社で事前に購入する。購入前に電話で予約ができる路線がほとんどである。",
"title": "乗車券"
},
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"text": "次のようなシステムがある。",
"title": "乗車券"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ツアーバスから移行した新高速乗合バスの場合、上記とは異なる独自の予約サイトを持ち、窓口を持たず支払方法をクレジットカードまたはマルチメディアステーションでの支払いに限定し、乗車券を発券しない場合が多い。",
"title": "乗車券"
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"text": "また、新高速乗合バスでない高速乗合バスは乗車券を発券した際に座席も指定されるが、新高速乗合バスは運賃を支払ってもその時点では座席が指定されず、当日の乗車時に乗客の性別などを考慮して座席が設定され、各乗客に連絡される場合が多い。",
"title": "乗車券"
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{
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"text": "日本の高速バスでは便または路線ごとで愛称を付けているケースが多い。理由については様々だが座席指定制の場合は発券、事務処理上の便宜として付けているほか路線・目的地の宣伝広告の意味で付けているケースがほとんどである。自由席の路線でも路線・目的地のアピールとして付けているケースがある。つけ方としては以下のようなつけ方がみられる。",
"title": "高速バスの愛称"
},
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"text": "鉄道や航路の未発達な途上国を中心に利用されているが、先進国・準先進国でも、高速道路が発達した地域では、多くの路線が設定されていることが多い。フィリピンやペルー、ドイツや台湾、韓国はそれぞれの例である(台湾のバス交通及び韓国のバスも参照)。特に鉄道・航空機との競争が激しい台湾では、路線によっては2列シート・按摩・おしぼり・個人テレビ・バスガール付きの豪華な都市間高速バスが24時間体制で運行されている。中華人民共和国でも都市部の急激な経済成長による出稼ぎ労働者の増加に伴って高速バスが発展しており中には車内に寝台を備え付けた「寝台バス」も運行されている。",
"title": "日本国外の高速バス"
},
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"paragraph_id": 49,
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"text": "一方アメリカでは長い歴史を持ち、アラスカを除く本土全土に路線網を有する「グレイハウンド」高速バスがあるが、鉄道のアムトラック同様以下の理由により都市間交通は高速な航空機(格安航空会社)の独擅場と化し、都市間バスは淘汰されつつある。",
"title": "日本国外の高速バス"
},
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"paragraph_id": 50,
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"text": "ヨーロッパでは、ほとんどの国が陸続きになっていることから国際(EU域内)間の路線バスも多く、各国のバス会社が加盟するユーロラインズという協業組織がある。",
"title": "日本国外の高速バス"
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高速バス(こうそくバス)は、主に高速道路を通行する路線バスのことを指す。以下、特記ない限り、日本国内の高速バス(道路運送法第3条に規定される「一般乗合旅客自動車運送事業」の形態として運行されるバス)について記述する。
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| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
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[[ファイル:H654-08406 Kanto BKG-MS96JP SeishunDream.jpg|200px|right|thumb|[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]] [[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]] [[ドリーム大阪号|青春ドリーム大阪号]]]]
[[ファイル:Meitetsu-bus-1919.jpg|200px|right|thumb|[[名鉄バス]] [[さぬきエクスプレス名古屋|さぬきエクスプレス名古屋号]]]]
[[ファイル:Keihanbus-tokyouji-newselega-20070323.jpg|200px|right|thumb|[[京阪バス]] [[東京ミッドナイトエクスプレス京都号]]]]
'''高速バス'''(こうそくバス)は、主に[[高速道路]]を通行する[[路線バス]]のことを指す。以下、特記ない限り、日本国内の高速バス([[道路運送法]]第3条に規定される「一般乗合旅客自動車運送事業」の形態として運行されるバス)について記述する。
== 概要 ==
日本の法令上では[[道路運送法]]第3条の規定のほか、第5条において路線を定めて定期に運行する自動車による乗合旅客の運送(路線定期運行)に関し、国土交通省へ許可申請が必要となる。道路運送法施行規則<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=326M50000800075 道路運送法施行規則] - e-gov 法令検索</ref>第10条において「専ら一の市町村(特別区を含む。以下同じ。)の区域を越え、かつ、その長さが概ね五十キロメートル以上の路線又は[[空港法]]第二条に規定する[[空港]]若しくは同法附則第二条第一項の政令で定める[[飛行場]]を起点若しくは終点とする路線において、停車する停留所を限定して運行する自動車により乗合旅客を運送するもの」を'''長距離急行運送等'''として運賃届出が区分され、同15条の13にて運行計画の届出が定められている。日本の高速バスの多くが、長距離急行運送等に該当する。
一般的には、距離が数十から数百キロの[[都市]]間輸送([[北海道]]や[[沖縄県]]以外では都府県を跨ぐ事例が多い)、ないしは都市と[[観光地]]を結ぶものの中で、高速道路を利用するものを指す。ただ、「高速バス」という語の法律的な定義はされていない。そのため旅行業者が自社商品を「高速バス」と呼称している事実もあった<ref>[http://travel.rakuten.co.jp/bus/ 高速バス予約]([[楽天トラベル]])や [http://www.bus-sagasu.com/ バスサガス](スタイルサーチ)など(両サイトで扱っている路線は全てツアーバスであった。新制度導入のため現在はツアーバスは存在しない)。</ref>。高速道路上では「路線バス」と記載されている。[[観光バス]]などとの識別のため、バスのフロントガラスの運転席寄りに「路線バス」の標識を付けている。
[[空港]]へのアクセスを担う高速バスは事業者によって'''[[リムジンバス]]'''とも案内されるが、リムジンバスを高速バスの下位概念と見なすことがある<ref group="注">例えば[[千葉交通]]では成田空港リムジンバスと都市間高速バスを高速バスと称している。</ref>。高速道路は通過しないが中長距離の都市間連絡を担う特急・急行バスも場合によっては制度上は高速バスと同等に扱う<ref group="注">[[盛岡市|盛岡]]〜[[宮古市|宮古]]間の「[[106急行バス]]」や、[[熊本市|熊本]]〜[[大分市|大分]]の[[やまびこ号 (特急バス)|やまびこ号]]、[[京阪京都交通]]と[[京都京阪バス]]の[[立命館大学]](BKC)線など。</ref>。
'''[[急行バス|特急、急行バス]]'''は多くは一般道経由のバスとして高速バスと区別されるが、事業者によっては高速バス内の上位種別として[[急行バス|特急、急行バス]]と称する場合や、路線名としてそのように称する場合もある。また、路線全長の内、高速道路走行区間が短い路線を'''[[中国ジェイアールバス#準高速バス|準高速バス]]'''と称する場合もある。
[[東名ハイウェイバス]]、[[名神ハイウェイバス]]、[[中国ハイウェイバス]]の各停便は、種別が'''急行'''となる。ただし、名神ハイウェイバスの急行便は[[2006年]](平成18年)現在名称上廃止している。<!--この前段すなわち国鉄バスが高速バスを運行する前には専用路線を運行していた[[白棚線]]では「白棚急行線」を名乗っていた。--白棚高速線だったはず-->
高速道路を通過する際には、法規によりバスの着席定員を超える乗客を乗せて運行することが禁じられているので、所要時間1から2時間程度までの短距離路線など一部を除き、事前に席を予約する[[座席指定券|座席指定制]]を採用することが多い。一部では、一般路線バスと同様に予約不要だが、定員を超えて乗車できない'''定員制'''を採用している。また、ほぼすべての路線で全席禁煙となっている。
他の交通機関と比較して安価である場合が多く、[[鉄道]]と異なり[[道路]]を利用する関係上、[[天気]]などの[[気象]]状態のほか、大型連休・[[旧盆]]・[[年末年始]]などの行楽シーズンや、集中工事期間、突発的な交通事故などの発生による[[渋滞]]・交通規制などにより、定時運行ができないことがある。以下の記載は、基本的に路線バスとしての高速バスに限定して記述する。
== 車両 ==
観光バスタイプの車両に類似するが、路線バスとして運行するため[[方向幕|行き先表示装置]]・[[車内放送|自動放送]]装置・[[降車ボタン]]・[[運賃表示器]]・[[運賃箱]]等の一般路線バス車両と同様の機器を取り付けている。逆に必要のない出入口部の[[バスガイド|ガイド]]席や客席の[[マイクロフォン|マイク]]などは装備されていない。ただし、完全予約制の路線やツーマン運行の路線などについては自動放送装置・運賃表示器・運賃箱のない車両が利用される場合もある。[[日本のバスの座席|室内のシート]]はほとんどが[[リクライニングシート]]で、昼行路線が3列(2+1)または4列、夜行路線が3列独立シートの場合が多く、車両によってはこれらを組み合わせて等級を設定していることもある。また、わずかながら2010年代後期あたりからホスピタリティを重視した二列独立かつ個室ブース化した座席も登場するようになった。なお2+1タイプの3列シートでは、出入り口側に通路がある車両と運転席側に通路がある車両が混在する。
また、観光バスとして用いていた車両に、運賃箱や放送装置などを取り付けて、高速バスに転用した車両も多い。観光バスからの転用の場合、ある程度の距離を走る路線でもトイレ無しの場合がある。西日本鉄道などでは、夜行車を昼行用に転用したことがある。逆に、JRバス関東では昼行用の車両を独立3列シートに改造の上、夜行用に転用したことがある。
黎明期の高速バスでは、通常に比べ出力(馬力)の大きい専用のエンジンを搭載したバスをメーカーに特別注文したものもあった(その代表例が[[国鉄専用型式]])が、通常の観光バスと比べ価格が高く、また市販の観光バスの車両も出力が大きくなったために、必要性が薄れ、現在では製造されていない。
ただし、前述のように各メーカとも通常の観光バスをベースとして、行き先表示装置([[行先標|サボ]]で代用する場合もある)など路線バスとしての装備と、車内を最小限の簡素な仕様とした高速バス向けの車両を用意している。さらに、夜行高速車の場合、3列シート、交代乗務員の床下仮眠室など夜行バス向けの装備と、高出力エンジンと制動力に優れた[[空気ブレーキ#自動車の空気ブレーキ|フルエアブレーキ]]を装備したインターシティ仕様を各メーカーが設定している。
またコストダウンとバリアフリー化のため、近距離高速バスについては高出力エンジン仕様のトップドア路線バスや、いわゆる「[[ワンロマ]]」をベースとした車両もあり、一部事業者(特に首都圏や九州地方)で集中的に導入されている。
一部事業者では、運行コスト削減のため[[マイクロバス]]を使用する事例もある([[中国バス]]が運行していた[[フライングフィッシュ号]]や[[オーシャンライナー]]、[[南部バス]]の軽米高速線、[[北九西鉄タクシー]]の[[福北リムジンバス]]、[[神園交通]]のすーぱーばんぺいゆなど)。また、曜日限定ではあるもののジャンボタクシー車両を使用した路線も存在した([[両備バス]]がかつて運行していた[[広島つやまエクスプレス]])。
中長距離用の場合は車両中央部の床下または最後部に[[便所#バスの便所|便所]]を設けてあるものが多いが、盆や正月などで増便する場合、観光バス車両など、トイレを設置していないバスが使用されることがある。その場合は高速道路の[[サービスエリア]]・[[パーキングエリア]]での休憩をこまめにとることがある<ref group="注">[[新直轄方式]]で建設された区間など、サービスエリアやパーキングエリアが設置されていない区間が長距離にわたる経路を走行する場合、高速道路を降りて[[インターチェンジ]]付近の[[道の駅]]で休憩をとる場合もある。</ref><ref group="注">バス路線によっては、乗務員交代や車両点検など乗客の休憩以外の目的でサービスエリアやパーキングエリアに停車する場合もある。</ref>。また、高速バス自体は[[禁煙]]となっているので、休憩先の[[喫煙所]]は、高速バスが停まっている間は混雑する傾向にある。トイレはハイデッカー・スーパーハイデッカーでは中央部か最後部、ダブルデッカーでは1階の最後部に設置されている例が多く見られる。設置場所の制約からコンパクトにまとめられており、下の写真にあるように、用を足すための最小限の広さのものが多いが、広さを横幅いっぱいに拡大し、便器のほかに洗面台や鏡を備えたパウダールームを設置している例もある。
床下には大きな荷物を収納するためのトランク(荷物入れ)が設置されており、車外から車体側面下部にあるトランクリッドを開けて荷物を出し入れするようになっている。また夜行高速車では床下もしくは最後部、2階建て車の場合は階下席前扉脇に[[カプセルホテル]]に似た形状の乗務員仮眠室も設置されており、運転しない乗務員は横になって仮眠することができる。床下配置の場合は中央床下トイレの脇に仮眠室の出入口があり、また外部からもトランクルーム同様のドアがあり出入りが可能になっている。続行便等で仮眠室を装備していない車両を使用する場合は、運転席後部の座席を仮眠スペースとして使用するケースが多い。[[JRバス]]各社では、中継地点で乗務員交代を実施する路線では夜行高速車であっても仮眠室を省略するケースがある。
かつては長距離路線を中心にAVサービス機器(ビデオやテレビ放送の放映、マルチチャンネルオーディオ、ラジオなど)が装備されていたが、近年は縮小・省略の傾向にある。座席に個別の液晶テレビを備えている例もある。また長距離路線を中心に[[給茶機]]・[[冷蔵庫]]によるセルフサービスでの飲物の提供、あるいは[[自動販売機]]による飲物の販売、100円硬貨もしくは[[テレホンカード]]専用[[自動車電話|車内電話]]などの設備・サービスが実施されていたが、これらも縮小・省略の傾向にある([[自動車公衆電話]]は、[[NTTドコモ]]のPDC方式の[[携帯電話]]が、2012年3月31日を以て停波した際に、自動車公衆電話サービス自体も終了しているため、それに先だってあるいはそれに併せる形でサービスを終了し、自動車公衆電話端末を撤去している)。一方、近年では乗客が[[ノートパソコン]]や[[スマートフォン]]を利用して車内で[[インターネット]]に接続することを可能にするため、車両に[[公衆無線LAN]]を導入したり、座席にモバイル機器充電用の[[配線用差込接続器|コンセント]]や[[ユニバーサル・シリアル・バス#USB給電|USBポート]]<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.lecip.co.jp/lecip/news/16/0106.html |title = バス車内用USB充電器「すまぽうと」を開発~観光バスに乗りながら、スマートフォンが充電できる~ |publisher = レシップ株式会社 |date= 2016-01-06 |accessdate= 2016-09-23}}</ref> を設置したりする事例も増えている。
同一の区間で設備と運賃に格差をつけた複数の便が運行されている例がある。また同じ車両であっても設備と価格に格差をつけている場合がある。
高速バスで使用される車両の寿命は、目安として走行距離が100万kmを超えた頃とされており、運行距離が長い路線の車両では10年を待たずに新車と入れ替えて廃車にされるサイクルにあった。しかし、2010年代に入ると観光バスの需給が逼迫し始めたことから、徹底した整備を施し高速路線で運用を続けたり、観光バスへ転用される車両もみられるようになっている。中古車市場では、極端な多走行車であっても取引が行われる事例がある<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-03-31|url= https://trafficnews.jp/post/80123/2|title= バスはどれほど長持ちするのか|publisher= 乗り物ニュース|accessdate=2018-03-31}}</ref>。
<gallery>
ファイル:Kamenoi Bus - Oita 200 ka 250 - Cabin.JPG|4列シートの高速バス車内の例
ファイル:Nishitetsu Highway Bus Interior.jpg|3列シートの高速バス車内の例
ファイル:Miyakobus-5662.JPG|観光バスの改造により高速バスに転用した車両の例(ミヤコーバス)
ファイル:Nishi-Nippon Railroad - 9367.JPG|路線バスをベースとした車両の例(西日本鉄道)
ファイル:Satsuki.liesse.jpg|小型車の例(さつき観光)
ファイル:D674-03510-Water-Closet.jpg|高速バスの車内トイレの例
ファイル:Mitsubishi Fuso Aero Ace Highway Liner Driver sleeping room.jpg|夜行高速バスの床下仮眠室の例(三菱ふそう・エアロエース ハイウェイライナー)
ファイル:Tokyu Bus NI3740 Super Cabin LECIP Sma-port USB Charger.jpg|高速バスの客席に設置された充電用USBポート
</gallery>
{{-}}
== 沿革 ==
{{独自研究|section=1|date=2014年10月3日 (金) 09:11 (UTC)}}
=== 1950年代・高速道路開通前 ===
戦前にも省営自動車[[広浜線]](広島 - 浜田間)など長距離路線が存在したが、[[第二次世界大戦]]による燃料統制でバスの運行は極めて困難な状態となった。
戦後、燃料統制が解除された1950年代から再び長距離路線が増え始める。[[1950年]](昭和25年)には一畑電気鉄道(現[[一畑バス]])が[[グランドアロー号|広島 - 松江線]]を直通急行バスとして運行開始([[1960年]]には [[広電バス|広島電鉄バス]]も参入)。九州の[[ひのくに号|福岡 - 熊本間]]([[西鉄バス|西日本鉄道]]・[[九州産交バス|九州産業交通]])や[[とよのくに号|福岡 - 小倉 - 大分間]]などで長距離バスの運行が開始され、その後は自動車技術の発達や、舗装や拡幅、車線の上下完全分離などといった道路改良に伴って、各地に一般道路経由の長距離バスが誕生した。
* 1947年(昭和22年)6月 - [[全但バス|全但交通]]が 豊岡 - 姫路 - 神戸 間 で直通運行を開始(165.5km)
* 1950年(昭和25年)4月 - [[日ノ丸自動車]]・[[神姫バス|神姫合同自動車]]が、姫路 - 大原 - 鳥取 線を開業
* 1950年(昭和25年)10月 - [[一畑バス|一畑電気鉄道]]が[[グランドアロー号|松江 - 広島線]]を開業(195km)
* 1955年(昭和30年)- [[北海道中央バス]]が 札幌 - 千歳 - 室蘭 線を開業(131km<ref name=":2" />)
* [[1958年]](昭和33年)3月 - [[関門トンネル (国道2号)|関門国道トンネル]]開通に伴い[[関門急行線]](山口 - 福岡線)が開業(173km<ref name=":2" />)
* [[1961年]](昭和36年)7月 - 東京急行電鉄(現[[東急バス]])が東京 - 長野線を開設(230km<ref name=":2" />)
* [[1962年]](昭和37年)8月 - [[東北急行バス]]が東京 - 仙台・山形・会津若松線を開設(384km<ref name=":2" />)
関門急行線以降、長距離バスには[[パワーステアリング]]・エアブレーキ・[[空気ばね|エアサスペンション]]・冷房装置・[[リクライニングシート]]といった長距離輸送に適した装備を備える車両が使用されるようになっていった。
当時は、道路の方も[[一級国道]]でさえ未舗装区間や車両の行き違いの困難な道幅の狭い区間が残るなど道路事情は良くなかったが、まだ[[マイカー]]普及前で交通量も少なかったことで[[渋滞]]が少なかったうえ、[[日本国有鉄道|国鉄]]の輸送も近代化される前で幹線でも単線・非電化で輸送力の低い路線が多く、バス利用者も多かった。その頃の長距離バスは、鉄道のライバルというより、むしろ鉄道の補完的な役割であった。
運行距離が100km以上の長距離乗合バスは、昭和33年度末には102系統あったが、昭和37年度末には204系統、昭和40年度末には323倍と増加していった。<ref>{{Cite book|和書 |title=日本自動車大鑑 1968年 |year=1967 |publisher=交通毎日新聞社 |pages=270-273}}</ref><ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=観光便覧 昭和39年版 |year=1964 |publisher=国民生活研究所 |pages=248-249 |author=総理府大臣官房審議室}}</ref>
=== 1960年代・草創期 ===
[[ファイル:RA900P.jpg|200px|right|thumb|初期の高速バス車両 国鉄・日野RA900P]]
日本では、以下のバス路線が緒とされている。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[名神高速道路]]の部分開通により、同年9月16日に、[[近江鉄道]](京都駅~木本地蔵、京都三条~八日市、京都三条~日野車庫系統)、[[京阪バス|京阪自動車]](京阪特急線 大阪天満橋~京都三条、八日市特急線 京都三条~八日市)、[[阪急バス]](京都急行線 大阪本町四丁目~京都河原町御池)に、高速道路を経由するバス路線の認可が下りた。近江鉄道は10月5日と9月29日に、京阪バスは10月8日、阪急バスは12月19日にそれぞれ開業した<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=高速自動車道における乗合自動車停留施設の設置基準の作成に関する調査 |date=1966.3 |publisher=建設省道路局高速道路課 |pages=48-49}}</ref>。これは、名神高速経由のバス乗入れ問題が未解決であった頃、運輸省は尼崎〜栗東間の部分開通に際して「'''起終点が変わらず、たまたま並行して高速道路がある関係上、速達を期し、かつ従来の路線上のサービス低下につながらないもの'''」「'''主要都市間の連絡を計画するもの'''」という条件のもとで措置がとられた<ref>{{Cite book|和書 |title=阪急バス50年史 |date=1979.4 |publisher=阪急バス |page=191}}</ref>。
** 名古屋~新大阪・神戸・京都間には、1964年9月28日に[[国鉄バス]](現在は[[JRバス]]として、[[ジェイアール東海バス|JR東海バス]]・[[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]]の2社が共同運行)・[[日本急行バス]](後に[[名古屋観光日急]]〜[[名鉄観光バス]]を経て、現在は[[名鉄バス]]へ移管)、1965年2月17日に[[日本高速自動車]](現:[[名阪近鉄バス]])に認可が下り、国鉄バスは1964年10月5日、日本急行バスが1964年10月14日、日本高速自動車が1965年3月6日にそれぞれ運行を開始したことで、[[名神ハイウェイバス]](名古屋〜京都・大阪・神戸間)が開業した<ref name=":1" />。
* [[1968年]](昭和43年) - [[中央自動車道]]の一部区間の完成により、新宿〜[[富士五湖]]間の長距離バスを中央自動車道(調布〜八王子)に乗り入れ、[[中央高速バス]]として運行開始。
* [[1969年]](昭和44年) - [[東名高速道路]]の開通により、国鉄バス・[[東名急行バス]]([[1975年]](昭和50年)廃業)2社による[[東名ハイウェイバス|東名高速バス]](東京〜名古屋間)及び東京〜関西地区を結ぶ[[ドリーム号 (高速バス)|夜行バス]]が開業。
1960年代初頭~半ば頃からは、[[旧盆]]や年末に、貸切バスを利用した会員制「[[ツアーバス|'''帰省バス''']]」と銘打った大都市から地方都市への長距離バス(主に夜行)が運行されるようになる。当時は東名・名神以外の高速道路はまだ開通しておらず、ほとんどは一般国道での運行で所要時間もかかったが、帰省ピーク時でも座席が確保されるということもあって、好評を博していた。
また、一般道路経由の長距離バスも国道改良が更に進み、いわゆる「バス黄金時代」を迎えていたため多数の路線が開設され、その受け皿になる沿線バス事業者出資の[[急行バス|合弁バス事業者]]も数多く設立された。
* [[1965年]](昭和40年) - [[坊っちゃんエクスプレス|高松-松山間]]([[国鉄バス]]・[[四国急行バス]])が開業
* [[1966年]](昭和41年)7月 - 大阪-鳥取・倉吉・米子間「[[山陰特急バス]]」(澤タクシー(現・[[日本交通 (鳥取県)|日本交通]]))が開業
* [[1966年]](昭和41年)9月- 福岡-長崎間「[[九州号]]」([[九州急行バス]])が開業
=== 1970年代後半・冬の時代 ===
[[1970年代]]後半は、[[新幹線]]などの鉄道輸送網が所要時間などの面で優位に立ち、近距離では[[モータリーゼーション]]による[[自家用自動車|マイカー]]への転移が進み、その上2度にわたる[[オイルショック]]の影響も重なり、高速バス路線の運営が硬直化していったこともあって、本州の高速バスにとっては厳しい時代を迎える。
* [[東名急行バス]]の事業撤退([[1975年]](昭和50年)3月限り、会社自体が廃業)
* 日本急行バス・日本高速自動車の両社が、沿線合弁事業会社から単一企業系列会社(前者は[[名古屋鉄道]]系、後者は[[近畿日本鉄道]]系)へ転換した。さらに再編が行われ、前者は[[名古屋観光日急]]〜[[名鉄観光バス]]を経て、現在は[[名鉄バス]]に移管された。また後者は、中部地区の近鉄系路線バス会社と合併し[[名阪近鉄バス]]に改称された後、同じ近鉄グループである[[三重交通]]と経営統合した([[三重交通グループホールディングス]]傘下へ)。
* 名神ハイウェイバス名神茨木〜神戸間運行休止([[1977年]])
* [[ドリーム号 (高速バス)|ドリーム号]]東京〜神戸間運行休止(1977年)
* 国鉄自動車局のハイウェイバス拡大中止(1975年の[[中国ハイウェイバス]]開業で国鉄[[姫新線]]乗客が減少したことで自動車局に圧力がかかった)
* [[1975年]](昭和50年)の[[中央自動車道]][[恵那山トンネル]]開通により、名古屋〜飯田間に[[中央道高速バス|中央道特急バス]]が運転を開始するなど、一部では新たな路線も開設された。
* [[1978年]]に[[北陸自動車道]][[黒埼インターチェンジ|新潟黒埼IC]]〜[[長岡インターチェンジ|長岡IC]]間が開通したことにより、[[長岡 - 新潟線|新潟〜長岡]]間に地方都市間高速バスが運転を開始。高速バス銀座となる路線が、このころ開設された。特にこの路線は、併走する[[信越本線]]や[[上越新幹線]]等、[[JR]]線(鉄道)の乗客を奪うほどの路線に成長しており、JR側がどちらかというと苦戦を強いられているところでもある。このためJRでは多数の[[特別企画乗車券|トクトクきっぷ]]を発売して対抗している。
=== 1980年代前半・現在の原型ができ、盛り返しの兆し ===
[[ファイル:Echigokotsu134.JPG|200px|right|thumb|[[東京 - 新潟線]]([[越後交通]])]]
[[ファイル:Kyushu Kyuko Bus - Nagasaki 200 ka 436.JPG|200px|right|thumb| [[九州号]]([[九州急行バス]])]]
[[1980年代]]に入ると、[[日本国有鉄道|旧国鉄]]の運賃・料金値上げや夜行列車の削減・廃止が相次ぎ、さらにサービス水準も旧態依然のままであったため、鉄道輸送網が次第に競争力を下げてゆき、高速バスの運賃面での優位性が際立ってきた。また路線の運営面でもより合理的なシステムが生まれた。そのため次第に高速バス路線が増加の傾向を見せる様になった。
* [[クローズドドアシステム]](出発地周辺で乗車のみ、目的地周辺で降車のみ取り扱い、途中の経路地では乗降を行わない)導入により、大阪〜[[新見駅|新見]]間([[阪急バス]])に久々の高速バス路線新設が行われた。
* [[中国自動車道]]では、他に[[日本交通 (鳥取県)|日本交通]]・[[全但バス]]・[[中国ジェイアールバス|国鉄中国地方自動車局]](現・[[中国ジェイアールバス]])で高速道への乗せ替えが積極的に行われた。
* [[1983年]]の大阪〜[[博多駅|福岡]]間夜行高速バス[[ムーンライト号 (高速バス)|「ムーンライト号」]]では発着地の事業者([[阪急バス]]・[[西日本鉄道]])による共同運行方式及び運賃収入のプール精算制(均等配分)といった現在の高速バスの原型となる施策が始められた。
* さらに東北新幹線接続の「[[ヨーデル号]]」、大阪〜[[三次駅|三次]]間といった都市間昼行路線の新設も進んだ。
* 特に[[1985年]](昭和60年)に開業した「[[東京 - 新潟線]]」は、併走する[[上越新幹線]]等の乗客を奪うくらいの路線に成長し、高速バス開業ブームの火付け役の一つとなった。またこの時期は国鉄で[[夜行列車]]が削減されていた時代でもあったが、東京池袋〜新潟線に対抗して、[[団体専用列車|企画ものの列車]]として全車指定の臨時快速『ムーンライト』を運転し、安売り切符を発売していった。これが現在の『[[ムーンライトえちご]]』である。
* この頃から、国鉄は並行する鉄道路線への影響を理由として、危機感を抱くようになる。新宿〜[[駒ケ根駅|駒ケ根]]・[[飯田駅|飯田]]間の高速バス路線開設に関する「[[中央高速バス#国鉄・JRバスとの対立|中央高速バス問題]]」は、国鉄が公式に路線開設反対を唱えたということで、それが最初に表面化した路線であった。
* その一方、新宿〜駒ヶ根・飯田間の高速バスは、赤字続きだったバス会社が運行開始の翌年度に単年度黒字を計上することになり、高速バスがバス会社にとって重要な位置付けになることが明らかになってくる。
* 九州地方では[[九州自動車道]]の延伸と共に[[西日本鉄道]]、[[九州産交バス|九州産業交通]]を先導に次々と高速バスを開設し、国鉄の[[特別急行列車|特急列車]]を圧倒する。また[[長崎自動車道]]の延伸が進んだころに長崎方面への便を出していた[[九州急行バス]]『[[九州号]]』も一般道経由から今の高速道路経由へと移行していった。
* この時期までの座席は、昼行・夜行とも4列座席ばかりだった。
=== 1980年代後半 - 1990年代前半・新規路線の増加 ===
この時代は、好景気や高速道路網の拡大、さらには国鉄の分割民営化も相まって、大都市のバス事業者と地方の事業者が相互乗り入れ(共同運行)する形で路線拡大が急速に進み、全国ネットを確立していった時代である。
* [[ムーンライト号 (高速バス)|「ムーンライト号」]]で座席を一脚ずつの独立タイプとしてスペースにゆとりを持たせた初の独立3列シートを採用。これが東京発着の新規事業者に採用された。
[[ファイル:Nocturne-shinagawa.jpg|200px|right|thumb|高速バスブームの立役者「ノクターン」([[京浜急行バス]]・[[弘南バス]])]]
* [[1986年]]の[[品川駅|品川]] - [[弘前駅|弘前]]「[[ノクターン号]]」では、それまでの夜行高速バスが大都市間を結んだ路線だったのに対し、初めて大都市と地方都市を結ぶ夜行高速バスとなった。「ノクターン号」の成功はバス業界全体にショックを与え、高速バス路線開設ブームへつながってゆく。
* [[首都圏 (日本)|首都圏]]地域 - [[京阪神]]地域では[[大手私鉄]]系のバス会社が次々と参入していき、この時期から競合が激しくなったと言える。これに触発されて既設の[[JRバス]]の[[ドリーム号 (高速バス)|ドリーム号]]が4列シートから、3列独立シートへ移行していった。利用客も爆発的に伸び、各社も[[ダブルデッカー]]も使われるようになっていった。
[[ファイル:Ashigara Service Area for Tokyo midnightbus.jpg|200px|right|thumb|明け方にサービスエリアで休憩する各社の高速バス]]
* この時期は「ノクターン号」・新宿 - 福岡「[[はかた号]]」など東京と北海道・南九州地方を除く全国各地とを結ぶ長距離夜行路線が新規開設路線の中心であった。その当時の珍しいルートとしては品川 - 徳島間の「[[エディ号 (東京 - 徳島線)|エディ]]」(当時は京浜急行電鉄バスと徳島バス)で途中の[[神戸市]]内 - [[淡路島]]間では[[フェリー]]を使っていた。
* その後、新宿 - [[高山駅|高山]]間・難波 - [[東京ディズニーランド]]間など鉄道や[[航空会社|飛行機]]が直行しない路線にも広がりを見せた。
* 筑波地区では<!-- [[1985年]](昭和60年)の[[科学万博]]会場の跡地に筑波研究学園都市([[つくばセンター]])を開発し -->1980年代以降の[[筑波研究学園都市]]の発展に伴い、[[1987年]](昭和62年)より東京 - [[つくばセンター]]間の高速バス([[つくば号]])が開設された。運行後は、乗り切れない乗客が発生するケースも多く、絶頂期には輸送力増強を目的に一回りサイズの大きいバス([[メガライナー]])の導入も行われた。しかし[[2005年]](平成17年)の[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]] (TX) の開業で、バス利用客の多くがTXに移行し、激しい競争にさらされている。
* [[大鳴門橋]]開通で[[徳島駅|徳島]] - 津名港(現在の[[淡路市]])に[[淡路交通]]・[[徳島バス]]共同運行として淡路・徳島線が新設され、乗客は[[共同汽船]]に乗り換える形であった。
* [[中国地方]](特に[[山陽地方|山陽]]地区)においては[[山陽自動車道]]の開通で広島市内発着([[広島バスセンター]]、[[広島駅]]前)から中国地方の各都市への路線が開設ラッシュとなり、特に福山 - 広島間の「ローズライナー」はJR西日本の[[山陽新幹線|新幹線]]と[[山陽本線|在来線]]からシェアを奪っていった。
* [[九州地方]]では1980年代前半に引き続き路線の拡大が行われ、昼行路線にも3列シート(夜行用とは違い1-2列シート)が導入される路線が相次ぎ、3列シート化にグレードアップすることにより利用客を増やした路線もある([[させぼ号]]など)。対する[[九州旅客鉄道|JR九州]]も新型車両の導入や割引切符の拡充などで高速バスに応戦した。ただ最近では利用客増で4列シートに戻した路線もある。
=== 1990年代後半・淘汰の時代 ===
[[ファイル:Honshikaikyobus-MO201-20070308.jpg|200px|right|thumb|関西から[[淡路島]]・[[四国]]への高速バスも盛況(写真は本四海峡バス)]]
[[ファイル:Keikyu-shinaki.jpg|200px|right|thumb|アクアライン高速バス(写真は[[京浜急行バス]]の品川〜木更津線)]]
全国の高速バス路線網が一通り完成して「開設ブーム」が終わり、新規路線拡大が落ち着きを見せる。[[バブル崩壊]]後の不況とも相まって、利用者のニーズに合わない路線が淘汰されていった時代といえる。
* 利用客が伸び悩み、採算の取れない路線の多くが廃止されていった。
* 運行時間が5時間以上に及ぶ長距離昼行便は全体的に利用が伸びず、廃止されたケースが多かった<ref group="注">当時の長距離昼行便は同じ区間を走行する夜行便と車両を共通運用していたケースが多く、ダイヤの設定が事業者側の都合で決められがちで、必ずしも利用者のニーズに合致していなかったということも一因であった。</ref>。
* 大都市と地方都市を結ぶ夜行高速バスにおいて、大都市側の事業者が運行から撤退するケースが相次いだ。[[東急バス]]の様に夜行高速バス自体から完全撤退した例もある<ref group="注">1998年9月の東急バスの夜行高速バス事業の撤退後、2016年4月より子会社の[[東急トランセ]]が夜行高速バス事業に再参入した。</ref>。これは大都市側では乗務員の人件費が高いことに加え、一般に大都市と地方都市を結ぶ高速バスは、地方都市の事業者の方が利用者も多く運行に熱心であることも影響しているといわれる。
* 加えて、[[首都圏 (日本)|首都圏]]・[[近畿圏]]では[[ディーゼルエンジン|ディーゼル自動車]]の排気ガスによる[[大気汚染]]を規制する「[[自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法]](自動車NOx・PM法)」が施行されたことから、主力事業である[[路線バス]]で年式の古い車両(おおむね車齢が10年以上)の大量代替を迫られたことも、大都市圏事業者において高速バスの縮小・撤退や子会社移管が進んだ一因と考えられる。
==== 明石海峡大橋・アクアラインの開通と高速バス ====
* 一方では[[明石海峡大橋]]が[[1998年]]に開通したことで[[京阪神]]と[[淡路島]]・[[四国地方]]を結ぶ路線が次々と開設され、[[瀬戸大橋]]とは異なり、平行する[[鉄道]]路線が無いため現在に至るまで増便が繰り返されているほどの盛況である。なお、徳島〜津名港間の淡路・徳島線は津名港発着の高速船がすべて廃止されたことから利用客が激減し便数が特急10便・急行6便から特急1便・急行5便に減らされ、淡路交通単独運行に切り替えた。同時に淡路島・四国方面のフェリー航路は次々と廃止に追い込まれ<ref group="注">四国への航空路線も[[大阪国際空港|伊丹]]と[[徳島飛行場|徳島]]・[[高松空港|高松]]を結ぶ路線は、明石海峡大橋開通後は廃止に追い込まれている。</ref>、フェリー会社の離職者対策として高速バス会社が設立された([[本四海峡バス]]<!--[[高松エクスプレス]]は時期が違う-->など)。また本四海峡バスとJR系のバスでは淡路島、四国(徳島・高松)方面では「'''BLUEネットワーク'''」を形成し、さらには[[JR神戸線]]の[[舞子駅]]に[[快速列車|快速電車]]、[[山陽電気鉄道本線]]の[[舞子公園駅]]に[[直通特急 (阪神・山陽)|直特]]・[[特別急行列車|特急]](ただし、舞子公園駅は明石海峡大橋開通から8.5年後の[[2006年]](平成18年)[[10月]]より毎日停車)を停車させて、高速バスとの接続を改善するなど、連携の構築を計った。
* [[房総半島]]方面では[[東京湾アクアライン]]が開通し、東京都心部・羽田空港・川崎・横浜への所要時間が大幅に短縮された。このために品川駅、羽田空港、[[川崎駅]]から木更津方面のバスがフェリーの代替で新設された。明石海峡大橋と同じく通行料が高いため高速バスへの乗り継ぎ需要が大きく、東京湾アクアライン周辺では[[袖ケ浦バスターミナル]]、[[木更津金田バスターミナル]]、[[君津バスターミナル]]など高速バス利用を前提とした[[パークアンドライド]]が推進されている。これにより、房総地区から[[東京国際空港|羽田空港]]アクセス、[[東京駅]]・[[品川駅]]への新幹線接続の利便が向上した。またこのルートでは通勤客の利用が多いことが特徴であり、2000年代に入って、高速バスの[[定期乗車券|定期券]]が発売されるようになったり、深夜バス(運賃は2倍になる)の新設を行うなど通勤・通学客に特化したサービスを展開している。通行台数が少なく赤字が続くアクアラインであるが、高速バスによって東京湾東西方向の利便性は格段に向上した。
=== 2000年代・新たな生き残りの模索 ===
[[ファイル:West JR Bus Seishun Mega Dream.jpg|200px|right|thumb|[[西日本JRバス]] [[ネオプラン・メガライナー|メガライナー]]]]
2001年2月の改正[[道路運送法]]施行により、バスの新規路線開設、さらにバス事業自体の免許制から許可制への移行など、[[規制緩和]]されたことから、貸切バス事業を中心とした新規参入、さらにこれを利用した会員制都市間ツアーバスの運行が活発に行われるようになり、高速バスは厳しい競争の時代を迎える。また過剰な設備を排し、高速バスの最大のメリットである低運賃を今までよりさらに追求していく傾向が出て来た。また、JRバスグループはその頃から、既に利用者が減少して不採算に陥っていた地方の一般路線を廃止・縮小し、利用が堅調な高速バス(特に大都市発着の路線)に特化させる傾向が強まった。
==== 首都圏 - 京阪神圏での激しい競合 ====
* JRバスグループは生き残りのため、従来は考え得なかった夜行便より運賃を下げ(8,610円→6,000円)、550 [[キロメートル|km]]以上を日中に長距離走行する東京・新宿〜大阪・京都間の「[[昼特急]]」を新設した。JRバスグループは乗り換えを億劫がる[[高齢者|高齢層]]をターゲットに考えていたが、実際は[[学生]]など予算は抑えたいが時間は取れる客層にも受け、学生の長期休暇などの時期では予約が困難なほどの人気を博している。
* この「昼特急」の人気は、長引く不況などによる乗客のニーズの変化で、不人気で廃止路線が多かった長距離昼行便の需要が高まって来たことの証左とも言え<ref group="注">昼特急の車両は夜行便との共通運用だが、事業者側の都合を優先したダイヤではなく、あくまでも昼行便として利用しやすい時間帯に設定されたことも成功した一因であった。</ref>、東京〜弘前間の「[[ノクターン号|スカイターン号]]」のようにこれまで夜行便しかなかった路線に昼行便が運行開始された例もあったが(「[[ノクターン号|スカイターン号]]」は、「昼特急」のように夜行便より運賃を下げている訳ではなく、夜行便と同一運賃で設定されたが、後に後発格安便の「[[青森上野号]]」に統合されている)、1990年代後半〜2000年代前半に昼行便を廃止した路線で見直されたところはほとんどなかった。
[[ファイル:Kamigo-sa-20070601.jpg|200px|thumb|高速バスとツアーバスの競争が激化している([[京急観光バス|京急]]高速バス「[[京急観光バス#ラメール号|ラメール号]]」(右)とツアーバス(左))]]
* 東京(周辺)〜大阪([[京阪神]])間をはじめとする主要都市間では、[[企画旅行|主催旅行(ツアー)]]の形態を取った格安(東京〜大阪間で片道3,000円台から)夜行[[ツアーバス]]([[観光バス|貸切バス]])の設定が増加している。[[バスターミナル]]が利用できないため、周辺の駐車場等からの発着が多い。きっぷは当日購入できなかったり、取り消しや変更の制約が大きい場合が多い、集客状況によって経由地でバス乗換など、通常の路線バスと異なる面もあるが、価格の優位性から利用を伸ばしている。
** これに対抗して、東京〜大阪間では[[1980年代]]前半以前に主流だった4列座席に戻し、さらに一部の路線では所要乗務員を減らすため運行時間を長く(途中で2時間以上の仮眠時間を設定すればワンマン運行可能)して運賃を下げた(東京〜大阪間で5,000円)「[[ドリーム号 (高速バス)|青春ドリーム号]]」「[[西東京バス#新宿_-_大阪線|カジュアルツィンクル号]]」「[[フライングライナー号|フライングスニーカー大阪号]]」の夜行便が設定され、逆に座席や車内設備をデラックス化して運賃を上乗せした便の運行を始めたり、それぞれのグレードに女性専用便を設定するなど、多様なニーズに対応している。
** 一方で、ツアーバスが台頭し始めた[[2005年]]頃から、高速路線バスの運行から撤退したり、路線を再編・廃止したりするケースが相次いでいる。
* 行き先のニーズによって立ち寄る停留所を増やす傾向もある。東名高速道路経由便は[[江田バスストップ|東名江田]]、[[向ヶ丘バスストップ|東名向ヶ丘]]に、中央道経由便(主に新宿駅発着)は[[日野バスストップ|中央道日野]]に停車させ、乗客の利便性を図っている。一方で京阪神側では2010年7月のダイヤ改正で京都駅始終着便を廃止したり、神戸での発着地を三ノ宮駅のみに集約した上で本数を減便するなどで発着地の集約を行っている。
==== 高速道路の延伸による地方部への展開 ====
[[ファイル:KO-42-K50362.jpg|200px|right|thumb|[[新宿・渋谷 - 浜松線|渋谷・新宿ライナー浜松号(開設当初浜松新宿ハイウェイバス)]]([[京王バス東]])]]
[[ファイル:JR-bus-kanto-H658-05404.JPG|200px|right|thumb|[[しみずライナー]]([[ジェイアールバス関東]])]]
[[ファイル:Fujikyu-yakisobaexp-20070516.jpg|200px|right|thumb|[[やきそばエクスプレス]]([[富士急静岡バス]])]]
[[ファイル:JR-tokai bus kofu.jpg|thumb|200px|right|[[名古屋ライナー甲府号]]([[ジェイアール東海バス]])]]
* 1980年代後半より鉄道では直行できない区間を走る高速バスが急速に増えつつある。
** [[北関東]]ではJRバス関東を主導に鉄道では乗り換えが強いられる新宿駅発着のバスを新設する傾向が続いている。
** 名古屋以東では東京都とを結ぶ「[[知多シーガル号]]」(夜行便を含む)、「[[新宿・渋谷 - 浜松線|浜松新宿ハイウェイバス]]」、「[[しみずライナー]]」、「[[やきそばエクスプレス|かぐや姫エクスプレス・やきそばエクスプレス]]」などが相次いで開設された。<br />各都市から東京への移動需要がありながらも新幹線の駅から離れていたり、東海道新幹線「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」が新横浜から名古屋まで無停車であり、静岡県内・愛知県東部から利用できる新幹線「ひかり」の本数も1〜2時間に1本程度と少ないこと、かたや[[在来線]]は近年のダイヤ改正で東京へ直通する列車が大幅に減少するなど、各地域から東京へ直行できる鉄道がなくなったことが背景であり、直行需要を狙って高速バス路線を開設したものである。なおこれらの路線や[[東名ハイウェイバス]]では[[首都高速道路|首都高速]]での渋滞を懸念し、[[東急田園都市線]]の[[用賀駅]]で乗り継いだ際に運賃割引を行う社会実験を経て本格運用した。
** それまで中央高速バス以外の路線が存在しなかった[[山梨県]]では[[2000年]]に大阪・京都〜[[甲府駅]]間「[[クリスタルライナー]]」を皮切りに名古屋〜甲府駅間「[[名古屋ライナー甲府号]]」、大阪・京都〜[[富士山駅]](開業当初は富士吉田駅)間「[[フジヤマライナー]]」、横浜〜[[河口湖駅]]間「[[レイクライナー]]」が相次いで開通。また中央高速バスも新宿から[[南アルプス市]]・[[身延山]]へ行く「身延線」や山梨県北部の中央本線から外れたところを走る「[[北杜市|北社]]・[[白州町|白州]]線」などそれまで直通する交通機関のなかった都市間の高速バスが次々と開通した。特にクリスタルライナーと名古屋ライナー甲府号、中央高速バス身延線は利用率が好調で、車両の大型化や専用車両の導入、増発などが行われている。
** [[名古屋駅]]・[[オアシス21|栄]]発着の東海・中部地方内路線においても[[名鉄バス|名鉄]]系が拡大[[戦略]]をとっており、[[豊田市駅|豊田市]]、[[可児]]、[[関市|関]]・[[美濃市|美濃]]、[[郡上八幡インターチェンジ#郡上八幡バスストップ|郡上八幡]]、[[高山濃飛バスセンター|高山]]の系統では増発傾向にある。特に高山系統は長年[[名鉄犬山線]][[直通運転|直通列車]]としての伝統を持っていた「[[名鉄特急|北アルプス]]」の廃止に至るなど、鉄道から高速バスへの転換が進む格好となった。
** 京阪神地区では大阪梅田〜伊賀上野の路線が新規に開設され、さらに[[新名神高速道路]]開通に伴い、[[近鉄特急]]では大回りになる[[京都 - 四日市・津・伊勢線|京都と三重県北中部とを直行する路線]]を新たに開設した。また[[舞鶴若狭自動車道]]の延伸で[[福井県]]の[[若狭町|若狭]]地区へのバスも新設されている。
* 反対に、[[大都市]]内の道路[[渋滞]]を避け、かつ従来はバスの通過を横目で見ていた大都市[[郊外]]の[[居住]]者層をターゲットとするため、敢えて都市圏の外縁部にターミナルを設定する高速バスも登場した。これは「あだたら号」([[新越谷駅]]〜[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]間)や[[守谷駅|守谷]]〜[[日立駅|日立]]線([[2008年]](平成20年)[[7月]]で廃線)などが該当するが、頻繁にダイヤ改正を行うなど試行錯誤を繰り返し苦戦している現状である。
* [[南東北]]では、各都市と東京・大阪・名古屋などとの間で格安のツアーバスが参入する一方、一時期[[仙台市]]を中心とする[[東北地方]]内の都市間高速バス路線における新規参入事業者と既存運行会社との値引き競争<!--・新規路線開拓-->が行われたことにより、陸上交通の再編が起きた。
* 九州地区では福岡・北九州都市高速と九州自動車道等の高速道路が直結し、福岡発着路線の福岡側の定時性が確保されるようになるとともに、片道運賃ないしは[[往復乗車券]]・[[回数乗車券]]をわかりやすい運賃に値下げする戦略が取られるようになった。例えば[[昭和自動車]]の「[[からつ号]]」「[[いまり号]]」ように既存事業者([[西鉄バス]])の撤退により大幅な増便や運賃[[回数券]]の値下げといった独自の拡大戦略が可能となり急成長した路線もある。
** [[2005年]]から[[宮崎県|宮崎]]、[[鹿児島県|鹿児島]]以外の[[九州]]地区の高速バスが乗り放題となる「[[SUNQパス]]」を発売した。翌[[2006年]]からは路線バスも乗り放題の対象にするとともに、[[宮崎県]]・[[鹿児島県]]でも使用できるようにした'''全九州版'''の発売も開始された([[福岡県]]・[[佐賀県]]・[[長崎県]]・[[熊本県]]・[[大分県]]のみを対象とするパスも、同じく路線バスを乗り放題の対象に加えて'''北部九州版'''として発売している)。[[2008年]]からは全券種ともに[[山口県]][[下関市]]の[[サンデン交通]]バスでも使用できるようになっており、九州への渡航客が多い[[大韓民国|韓国]]国内での購入も可能となっている。さらに[[2018年]]からは[[熊本県]]・[[宮崎県]]・[[鹿児島県]]のみを対象とする'''南部九州版'''の発売も開始された。また、高速バス路線の集中する[[基山パーキングエリア|高速基山]]での高速バス間の[[乗り継ぎ料金制度|乗り継ぎによる割引制度]]を導入し、九州各地対福岡間以外でも利便性の向上を図っている。
* 四国地方(特に[[香川県]]と[[徳島県]])では、京阪神方面への高速バスの充実ぶりによって新たなる動きが見られる。高速バス利用者を対象に、バスターミナル付近の[[駐車場]]の駐車料金を24時間または48時間以内なら無料にするいわゆる「[[パークアンドライド]]」システムの採用が増えてきている。特に四国東部は[[公共交通機関]]が乏しく、[[自家用車]]の利用が主流になっていることを主眼にした施策とも言える。
* 一方で老舗の[[名神ハイウェイバス]]は、モータリーゼーションの進捗に伴うマイカーへの転移や、並行する鉄道路線の輸送改善などによって<ref group="注">特に[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が[[新快速]]の運転区間拡大・増発・スピードアップを図り、[[滋賀県]] - 京阪神の交通は高速バスよりも鉄道(JR)が優位に立ったことも原因である。</ref>、岐阜・滋賀両県内にある途中停留所で乗降する利用者が減少したため、[[2002年]]に開業時から運行していた急行便を廃止し、途中の停留所を大幅に削減・集約して、[[中京圏]] - 京阪神の都市間輸送に特化する方針に転換している。その傾向は、[[2008年]]の[[新名神高速道路]]開通後はさらに顕著になっている。
==== ETC休日特別割引に対する懸念 ====
* [[2009年]](平成21年)[[3月]]からの[[ETC割引制度#生活対策|ETC大幅割引]]によって<ref name="etc01">[https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000059.html 高速道路料金の引下げの実施について] 国土交通省</ref> 普通車・軽自動車で高速道路を安価で移動することができるようになり、出発日・到着日共に土日・祝日となる便で普通車・軽自動車利用へのシフトによる高速バスの乗客減少が懸念されている。
** また、ETC大幅割引によって高速道路上の普通車・軽自動車の交通量が増えるために[[渋滞]]が起こりやすく、かつ高速道路上に[[バスレーン]]が無いため<ref group="注">[[日本の高速道路]]にはバスレーンが無いが、海外では[[京釜高速道路]]の一部区間でバスレーンがある。</ref>、高速バスの出発日・到着日共に土日・祝日となる便で渋滞に巻き込まれて定時運行が困難になることも懸念され、その懸念が的中して、[[鳴門・淡路エクスプレス号]]の廃止<ref>[http://www.topics.or.jp/localNews/news/2010/01/2010_126352033565.html 鳴門-阪神線21日廃止 高速バス路線で初、「1000円」影響]([[徳島新聞]] [[2010年]][[1月15日]])</ref><ref>[http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000001001160003 高速バス廃止相次ぐ 「上限千円」が影響]([[朝日新聞]] 2010年[[1月16日]])</ref><ref>[http://www.topics.or.jp/localNews/news/2010/01/2010_126412346131.html 鳴門-阪神線が廃止 高速バス、他社も路線削減の動き](徳島新聞 2010年[[1月22日]])</ref> や西鉄では高速バス12路線の減便<ref>[http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1540940.article.html 福岡空港―佐賀、3月から減便 西鉄高速バス]([[佐賀新聞]] [[2009年]][[7月31日]])</ref> など廃止・減便が生じている路線がある。
** また、高速バス利用減に伴い高速バスの収益によって過疎路線を補填してきた会社([[岩手県北自動車]]・[[信南交通]]等)において過疎路線の廃止に拍車がかかる事が懸念されている<ref>[https://www.j-cast.com/2009/09/29050358.html 高速料金「上限1000円」 地方にもたらした意外な弊害] J-CASTニュース 2009年9月29日</ref>。
** なお、今後はこの割引が観光バス・高速バスにも適用される予定(30 [[パーセント|%]]割引)となっている<ref name="etc01"/><ref group="注">高速バスは明言されていないが、割引対象車種には「一般乗合旅客自動車運送業を営むものが運行するバス」も含まれている。</ref>。
**なお[[2011年]](平成23年)3月11日に発生した[[東日本大震災]]の影響で[[6月]]にETC休日割引、高速道路無料化の[[社会実験]]は取りやめになった。しかし東北地方では[[復興]]支援として高速道路無料措置<ref>[http://www.e-nexco.co.jp/road_info/important_info/h23/1121/ お客さまへの大切なお知らせ]</ref> が行われており、依然として定時運行を難しくさせている。
=== 2010年代・ツアーバス系との競合と座席の高級化 ===
*[[2010年代]]の初年度である[[2010年]]はこれまでと比較して近距離の都市間バスも設定されることが多くなった(例:厳密には[[2009年]]設定であるが[[京成バス]]グループの[[マイタウン・ダイレクトバス]]や、[[京阪バス]]の[[ダイレクトエクスプレス直Q京都号]]など)。また、一般路線バスを専門とする事業者の高速バス事業への参入(例:[[遠鉄バス|遠州鉄道]]の[[e-LineR]])など、更なる競争激化の一途を辿る。
*大都市では中心駅周辺の再開発に伴うバスターミナルの整備が進んでいる。福岡では[[2011年]](平成23年)[[3月]]の[[九州新幹線]]鹿児島ルートの全通開業に向けた[[博多駅]]再開発に伴い、博多駅交通センターのリニューアルが行われ更に[[博多バスターミナル]]と改称された。大阪では2011年5月に大阪駅北側の[[ノースゲートビルディング]]が完成し、駅南側の桜橋口にあったJRバス系の高速バス乗り場が[[大阪駅周辺バスのりば#大阪駅JR高速バスターミナル(西日本JRバス)|大阪駅JR高速バスターミナル]]として同ビル1階に移転した。東京では、東京駅周辺の再開発事業により既に2007年に[[八重洲]]南口のJRハイウェイバスのりばが少々北側へ移動しているが、工事の状況によっては若干の乗り場変更や再移動の可能性もある。また、新宿では新宿駅南口地区基盤整備事業に伴い、今まで事業者毎に分散していた高速バス乗り場を一本化した[[バスタ新宿]]が2016年4月にオープンした。
*首都圏と京阪神を結ぶドリーム号はツアーバスとの競争に晒されながら好調を維持してきたが、更に競争力をつけるため、2010年7月よりプレミアムシートを装備した「プレミアムドリーム」を大増発する一方、その分通常の「ドリーム号」は減便となっている。プレミアム化は他社でも広がっており、ドリーム号の四国方面便(2009年から、[[JR四国バス]]運行便のみ)や「はかた号」でも2009年末ダブルデッカーに置換えと同時に[[プレミアムシート]]とエコノミーシートを導入した。また安さを求めるニーズがある廉価版は「青春エコドリーム号」に一本化する一方で運賃制度を多様化した。
**更に[[中国バス]]は座席は2列シート定員僅か14名の個室付きの「[[メイプルハーバー|ドリームスリーパー]]」の運行を開始した。
**プレミアムシートの導入は夜行便のみならず、首都圏発着の昼行便でも進んでいる。
<!--*「[[静岡甲府線]]」のように開業当初は[[急行バス]]として一般国道のみを走行し、その後のモータリゼーションと地域過疎化のため長年にわたり運休していた路線が高速バスとして復活するケースも現れた。再開した[[2012年]]の時点で高速道路を走行する区間は[[新東名高速道路]]1区間と[[中部横断自動車道]]2区間のみでそれ以外は急行バス時代同様一般国道を利用し、途中の休憩もサービスエリアではなく[[道の駅]]を使用している。ただし中部横断自動車道が延伸した場合は順次高速道路を走行する区間が増える予定である。-->
*関西圏では2010年に[[第二京阪]]全通後、京阪間の短距離高速バスの拡充を行った。[[京阪バス]]の[[ダイレクトエクスプレス直Q京都号]]を皮切りに新規参入路線として[[大阪バス]]の[[京都特急ニュースター号]]や[[近鉄バス]]の八尾・京都特急線が運行開始となった。いずれも大阪東部と京都駅を直結する路線で鉄道では大阪市内経由で乗り継ぎが要する一方で高速道路ではほぼ直結できるという利便性を買っている。また同時に[[松井山手駅]]の近くに[[高速京田辺|高速京田辺バスストップ]]を新設し、[[南海バス]]の高速路線バスやドリーム号の客扱いも開始している。
<!--*アクアライン高速バスについて、さらなる拡大の動きが目立った。[[2012年]][[4月]]にはアクアラインの木更津側の入口となる[[木更津金田インターチェンジ|木更津金田IC]]近くに、[[三井アウトレットパーク 木更津]](以下、MOP木更津と記述)がオープンし、東京駅・品川駅・新宿駅・川崎駅・横浜駅とMOP木更津を結ぶ路線が新設された。そして、[[2012年]][[12月]]からは[[相模大野駅]]・[[町田駅]]とMOP木更津を結ぶ路線が新設され、鉄道では直通できない地域を結ぶアクセスが強化された。これまでの路線展開は内房方面が中心となっていたが、[[2013年]][[4月27日]]に[[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道 千葉県区間)が開業したことにより、外房方面への路線が強化された。[[茂原駅]]と[[東京駅]]を結ぶ路線が圏央道経由で新設されたほか、これまでより運行されていた茂原駅と羽田空港・横浜駅を結ぶ路線、勝浦駅・安房小湊と東京駅を結ぶ路線についても圏央道経由に変更され、外房方面へのアクセスが改善された。-->
*2012年になると従来のツアーバスとの競争に加え、[[格安航空会社]](LCC)との競争も無視できなくなった。一部の路線では「キャンペーン運賃」と銘打って運賃を半額近くに値引く例もあるが<ref>{{PDFlink|[http://www.nishitetsu.co.jp/release/2013/oshirase/130531_getsumokubargain.pdf 「どんたく」「ムーンライト」片道運賃大幅割引キャンペーン]}} 西鉄バスインフォメーション</ref>、一方で競争激化に耐えられず廃止される路線も出てきている<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.nagasaki.jp/koho/hodo/upfile/20130218153418.pdf 高速乗合バス長崎-大阪線の廃止について]|長崎県報道発表資料(交通局営業部運輸課) 2013年2月18日}}</ref>。
*2013年8月には「ツアーバス」の形態による都市間バスの運行ができなくなり、乗合バスに一本化された([[#ツアーバスとの一本化|次項]])。
**また、新高速乗合バスとの一本化に伴い曜日別や便別など多様な運賃設定が可能になり、多くの従来からの高速乗合バスが幅運賃を採用した。例えば西武バス・越後交通・新潟交通が運行する「東京―新潟線」は2000年代まではどの日・どの便でも同一運賃だったが、2014年現在では東京―新潟間が6,200〜3,100円と同じ路線でありながら2倍の差がついている<ref>[http://www.seibubus.co.jp/kousoku/fare/niigata.html 西武高速バス 新潟線運賃表]</ref>。
*その後新高速乗合バスとの競争激化や更なるニーズの増加などの情勢をふまえ、「[[e-LineR|横浜イーライナー]]」や「[[ドリーム号 (高速バス)|ドリーム静岡・浜松号]]」など、比較的近距離においては4列シートの夜行便が新規に運行を開始したり3列シートから車両変更したりする例が現れている。
*2010年代後半よりバス運転士不足が社会問題化してきたが、高速バスにもその影響が出てきている。繁忙期の[[続行便]]を大幅に減らしたり<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39457630X21C18A2TJ2000/ 夜行バス臨時便、年末年始なのに運行減 運転手不足で] –日本経済新聞電子版 2018年12月27日掲載 2019年11月23日閲覧</ref>、路線の休廃止する<ref>[https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=583934&comment_sub_id=0&category_id=112 芸陽バス、高速2系統休止] –中国新聞デジタル 2019年10月30日掲載 2019年11月23日閲覧</ref> 事業者も出始めている。
==== ツアーバスとの一本化 ====
2010年以前から「[[ツアーバス]]」形態について各種の問題点が指摘され、ツアーバスのあり方が検討されてきたが、2012年に発生した[[関越自動車道高速バス居眠り運転事故]]を受けてツアーバスと高速路線バス(乗合バス)の一本化が行われることとなった。一本化後の制度は「'''新高速乗合バス'''」として、[[2013年]][[7月31日]]夜から運用開始されている<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha03_hh_000146.html 7月31日夜からの新高速乗合バスの運行開始について] [[国土交通省]]自動車局旅客課、2013年7月30日(2013年8月5日閲覧)。</ref>。
この過程で従来の乗合バス事業に対しても、運賃設定や[[管理の受委託 (バス)|管理の受委託]]などに関する規制緩和が行われ、既存事業者にもそれらの制度を活用する例が現れた。その一方で、ツアーバス事業者のうち新高速乗合バスに移行したものは3割程度にとどまっている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130730-OYT1T01076.htm?from=ylist 高速ツアーバス、7割撤退…8月から規制強化で] [[読売新聞社]]、2013年7月31日(2013年8月5日閲覧)。</ref>。旧ツアーバスの事業者については、新高速乗合バスへ移行後にさらに新規路線を運行開始する事業者もある一方、いったんは新高速乗合バスへ移行して運行開始したものの、その後に事業を廃止し、路線を休廃止したり他社に譲渡したりした事業者もある。{{main|ツアーバス#「新高速乗合バス」制度の施行}}
=== 2020年代・新型コロナウイルス感染症拡大の影響 ===
* [[2010年代|2020年]]に入り、日本国内でも[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス(COVID-19)]]の[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|感染拡大]]による影響が高速バスにおいても現れた。
**2020年[[4月16日]]に[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]が全国に対して発令されたことで、大都市と地方都市を結ぶ路線を中心に多くの都市間高速バスが運休となった。
** 運休となった路線の中にはその路線が該当する地域の緊急事態宣言が解除された後も運行を再開することなく、そのまま休止・廃止となった路線もある。
***特に[[京浜急行バス]]は需要の回復が見込めないとして、2021年3月15日限りで長距離夜行バス事業から完全に撤退した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXZQOFB222MG0S1A220C2000000/|title=京急、長距離バスから撤退 東北・四国・山陰路線(日本経済新聞)|accessdate=2021年10月3日}}</ref>。「[[キャメル号]]」([[日ノ丸自動車]]、[[日本交通 (鳥取県)|日本交通]]との共同運行)と「[[エディ号 (東京 - 徳島線)|エディ号]]」([[徳島バス]]との共同運行)に至っては共同運行会社も運行継続を断念したため、路線廃止となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.traicy.com/posts/20210221199275/|title=京浜急行バス、長距離夜行高速バスから事実上の撤退(TRAICY)|accessdate=2021年10月3日}}</ref>。
***[[北陸鉄道]]は1992年から運行していた「金沢 - 仙台線」([[富山地方鉄道]]との共同運行。かつて[[宮城交通]]と共同運行していた頃は「エトアール号」の愛称があった。)を緊急事態宣言の解除を受けて一度は運行を再開するも、2021年4月1日より再び運休し、同年9月1日付けで路線廃止となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokutetsu.co.jp/media/archives/39645/39645.pdf|title=高速バス「金沢・富山~山形・仙台線」の路線廃止について(北陸鉄道ニュースリリース)|accessdate=2021年10月3日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC105LE0Q1A810C2000000/|title=富山地方鉄道と北陸鉄道 高速バス仙台線廃止(日本経済新聞)|accessdate=2021年10月3日}}</ref>。
**国土交通省の調査では高速バスも含めた乗合バスの2020年8月の輸送人員・運送収入は、コロナ流行前の2019年8月に対して約6〜7割減となっていることが明かされている<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001363025.pdf|title=新型コロナウイルス感染症による関係業界への影響について(国土交通省)|accessdate=2021年10月3日}}</ref>。
**こうした事態に対し、従業員を休業させることで国から支給される雇用調整助成金を約7割の事業者が活用しているとされている<ref name=":0" />。
**貸切バス需要の激減による減収を補うため、都市間高速バス事業に参入する貸切バス事業者が現れている<ref>[https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/96885?display=1 コロナ禍で売り上げ8割以上減のバス会社 Wi-Fi、トイレなし「格安高速バス」で活路]</ref>。
== 現状 ==
{{独自研究|section=1|date=2020年3月9日 (月) 22:42 (UTC)}}
=== 座席 ===
* 夜行バスは3列独立座席が主流になった。また、西日本地区では長距離を走るバスは昼行便でも3列独立座席が主流となる(例:[[京阪神]] - [[高知市|高知]]、[[松山市|松山]] 〈[[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]]、[[ジェイアール四国バス|JR四国バス]]〉、[[大阪]]・[[神戸]] - [[鳥取]]・[[米子]] 〈日本交通〉、九州地区の長距離路線)。一方、東日本地区では夜行バスでも比較的短い距離であれば4列シートのバスが運用に就くことがある。
* [[北海道]]における高速バス
** [[札幌駅バスターミナル|札幌]]発着の多くの路線が[[北海道中央バス]]単独の運行か、北海道中央バスが幹事会社となる他のバス会社との共同運行である。道内の[[東京バス]]グループ各社による路線も運行されている。
** 札幌発着の夜行便もある4路線([[高速はこだて号]]、[[スターライト釧路号]]、ドリーミントオホーツク号、イーグルライナー)では、昼行便にも3列独立座席(一部車両、後部4列)の車両が使われている。また、夜行便は運行時間が夜間のみに限られるため、途中の乗客のための休憩は無い(乗務員休憩はある)。
[[ファイル:NishinihonJRbus-PremiumDream.jpg|200px|right|thumb|西日本JRバス「プレミアムドリーム」]]
* 特別シートの設置など
** 他の座席より幅が広く座り心地の良い座席を数席程度設置し、通常の運賃に特別料金を足した金額を支払うことで利用できる特別シートを設置している路線がある。[[弘南バス]]の「[[ノクターン号]]」の『スーパーシート』(プラス3,870円)、[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]の「[[上州ゆめぐり号]]」の『Gシート』(プラス500円)、[[西日本鉄道|西鉄]]の「[[はかた号]]」の『プレミアムシート』(プラス4,000円)など。JRバス関東・[[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]]の「[[ドリーム号 (東京 - 京阪神)|プレミアムドリーム号]]」は1階が『プレミアムシート』(プラス1300円)・2階が『スーパーシート』(プラス700円)であり全席とも同一路線の他の便より高額となる。
*** 座席を幅広く座り心地の良いものにするだけでなく、座席の前後と通路に仕切りを設け、個室のようになる特別シートもある。[[海部観光]]の「マイフローラ」や、[[中国バス]]の「[[メイプルハーバー|ドリームスリーパー]]」など。
** 逆に、幅が狭く、通常の運賃より安い価格で利用できる座席を設置している路線もある。[[福岡 - 宮崎線|フェニックス号]]の『セレクトシート』など。
** [[中央高速バス]]伊那・飯田線では、4列座席の車両を使用し、通常の運賃に追加料金を支払うことで隣り合う2席を独占できるサービスを実施している [https://news.mynavi.jp/article/20111109-a026/]。
*シートベルト着用義務他
**一般の高速道路を走行するバスでは、乗客全員[[シートベルト]]の着用が義務となる<ref>{{Cite web |url=https://www.jrbustohoku.co.jp/express/info_detail.php?id=7&c=4 |title=車内での安全(シートベルトの着用)について |publisher=JRバス東北 |date=2019 |accessdate=2023-12-21}}</ref>が、一定の要件を満たす場合には、急行バスなどで立ち席の乗車が認められることがある。この場合、シートベルトの装着は必ずしも義務ではない<ref>{{Cite web |url=https://nnr-nx.jp/article/detail/109 |title=西鉄の路線バスが都市高速をシートベルトなしで走れるのは |publisher=西日本鉄道 |date=2023-12-06 |accessdate=2023-12-21}}</ref>。
=== 鉄道との競合 ===
* [[運賃]]が鉄道の普通運賃並みかそれ以下と安価なこと、国鉄が分割民営化前に中距離の昼行[[急行列車]]を軒並み[[特別急行列車|特急]]に格上げさせ料金を上げたこと、さらに幹線から支線への直通列車や座席付き[[夜行列車]]を国鉄・JRが減便させたのも相まって、価格の特に安い旧ツアーバス系列の便を中心に女性や学生からの人気を獲得している。
* 安価な都市間交通手段として以下の路線で人気がある。煩わしく、時間のかかる[[乗換駅|乗り換え]]が不要で、必ず着席できることから[[通勤]]用としての需要もある<ref>[https://trafficnews.jp/post/80200 「高速バス通勤」の実態とは 住宅街から座って都心へ 理想的スタイルは現実的か] - 乗り物ニュース(2018.04.23版)2018年4月26日閲覧</ref>。
** 東京都内([[東京駅]]・[[新宿駅]]) - 名古屋・京都・大阪・神戸市内や東京都内 - 仙台、大阪市内 - 金沢・岡山・広島・福岡などの昼行便(JR系会社 〈[[ジェイアールバス東北|JRバス東北]]・JRバス関東・[[ジェイアール東海バス|JR東海バス]]・西日本JRバス・[[中国ジェイアールバス|中国JRバス]]・JR四国バス・JR九州バス〉 ・近鉄系 〈[[防長交通]]〉 の[[昼特急]]など)
** 観光バスと同様の4列座席とし、定員を増やして運賃を下げた夜行便(JR系 〈JRバス関東・JR東海バス・西日本JRバス〉 の「青春ドリーム号」、京王・近鉄系 〈[[多摩バス]]・[[近鉄バス]]〉 の「カジュアルツインクル号」、東武・近鉄系 〈[[東北急行バス]]・近鉄バス〉 の「フライングスニーカー号」)
[[ファイル:Rinkobus 3017.jpg|200px|right|thumb|アクアライン高速バス [[川崎駅]] - [[木更津駅]]線(川崎鶴見臨港バス)]]
* 鉄道利用よりバス利用の方が所要時間が短い路線もある<!--「本数希少」は別に述べる-->。このような路線も人気が高い。
**仙台市内 - 山形市内、([[宮城交通]]、[[山交バス (山形県)|山交バス]])
**福島市内 - いわき・会津若松、会津若松 - 郡山 - いわき<ref group="注">ただし現在は郡山市内のルート変更と停留所の増加で以前ほど差はなくなっており、ラッシュ時では鉄道より遅くなる傾向にある。</ref>、([[福島交通]]、[[新常磐交通]]、[[会津乗合自動車]])
** 会津若松 - 新潟(会津乗合自動車、[[新潟交通]])
** [[東京湾アクアライン|アクアライン]]高速バス:東京都内(東京駅・[[品川駅]]・[[東京国際空港|羽田空港]])・神奈川([[横浜駅]]・[[川崎駅]]) - 房総半島 ([[京成バス]]・[[京浜急行バス]]・[[東京空港交通]]・[[川崎鶴見臨港バス]]・[[日東交通 (千葉県)|日東交通]]・[[小湊鉄道]]・[[東京湾横断道路サービス]]・JRバス関東)
** [[かしま号]]:東京駅 - [[鹿島セントラルホテル]]・[[鹿島神宮駅]]・[[茨城県立カシマサッカースタジアム]](JRバス関東・京成バス・[[関東鉄道]])
** [[中央高速バス]]:新宿 - 富士五湖、飯田、身延([[京王バス]]・[[富士急行]]・[[山梨交通]]・[[アルピコ交通]]・[[信南交通]]・[[伊那バス]])
** [[中央道高速バス]]:名古屋 - 飯田・伊那・箕輪・駒ヶ根([[名鉄バス]]・信南交通・伊那バス)
** [[中国ハイウェイバス]]:大阪駅 - 津山、北条、西脇(西日本JRバス、[[神姫バス]])
** 京都・大阪・神戸市内 - 淡路島・徳島方面(西日本JRバス、JR四国バス、[[本四海峡バス]]、神姫バス、[[淡路交通]]【淡路島方面】、[[みなと観光バス (南あわじ市)]]【淡路島方面】、[[徳島バス]]【徳島・阿南方面】、関西の大手私鉄系バスなど)
** 名古屋 - 伊賀上野間の高速バス([[三重交通]])
** [[高速八幡線]]岐阜 - 郡上八幡・郡上白鳥([[岐阜乗合自動車]]([[岐阜バスコミュニティ八幡]]))
** 広島([[広島駅]]・[[広島バスセンター]]) - 備北地区(三次・庄原)、山陰方面(出雲・浜田・松江)([[備北交通]]、[[広電バス]]、[[中国JRバス]]、[[一畑バス]]など)
** 福岡市内(天神、博多) - 宮崎県内(西日本鉄道、JR九州バス、宮崎交通、九州産交バス)
* 抽選で当該路線の目的地の名物などが当たるキャンペーンなど、車外から利用促進キャンペーンを行う例も見られる。
=== 客貨混載 ===
* バスの小荷物輸送
** 九州の一部の高速バスでは1970年代から高速バスによる小荷物輸送を行っている<ref>[http://www.kyusanko.co.jp/sankobus/parcel/ 産交バスポータルサイト 便利な小荷物便] 2015年8月22日閲覧</ref>。
** [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]グループの高速バスでは[[ジェイアール東日本物流]]および東北鉄道運輸とで設立した地域活性化物流LLP(有限責任事業組合)による地産品の輸送を行っている。
***2016年4月から[[ラ・フォーレ号]]の東京駅行きJRバス東北便で青森県産の「おやつタイムズ」南部せんべいラスクと長芋チップスを輸送する<ref>{{Cite web|和書|url=http://logistics.jp/media/2016/04/11/721 |publisher=物流ニッポン新聞社 |title=JR東日本物流、地域活性物流スタート 青森から第1号便 |date=2016-04-11 |accessdate=2016-08-15}}</ref>。
***2018年4月から[[いわき号]]の東京駅行きJRバス関東便で[[JRとまとランドいわきファーム]]産のトマトを輸送する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrbutsuryu.jregroup.ne.jp/pdf/20180424_01.pdf |format=PDF |publisher=地域活性化物流有限責任事業組合 |title=高速バスを活用した農産物の輸送開始について |date=2018-04-24 |accessdate=2018-07-03}}</ref>。
** [[新宿・東京 - 常陸太田線]]では、2016年10月4日から[[常陸太田市]]内で収穫された[[野菜]]を、[[道の駅ひたちおおた]]から都内([[中野区]])に向け輸送している<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2016-10-04 |url=http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/102500/d023163.html |title=2016年10月4日 常陸太田市と連携 中野区内で朝採り新鮮野菜を販売 |publisher=中野区 |accessdate=2016-11-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2016-07-21 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO05052990Q6A720C1L83000/ |title=中野区と常陸太田市、高速バスで野菜直送 |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2016-11-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2016-10-26 |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201610/CK2016102602000168.html |title=新鮮・早い・安い 高速バス「相乗り」野菜 常陸太田→都内 採れたて昼前に |publisher=東京新聞 |accessdate=2016-11-14}}</ref>。
** 京王バスでは中央高速バス高山線<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr170908_bus.pdf |format=PDF |publisher=京王電鉄 |title=高速バス路線を活用した“貨客混載”による 飛騨高山の農産物の販路拡大事業をスタートします |date=2017-09-08 |accessdate=2018-10-29}}</ref> と伊那線<ref>{{Cite web|和書|title=高速バス路線を活用した“貨客混載”による農産物等の販路拡大事業に長野県駒ヶ根市が加わります! |url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr180621_kakyakukonsai.pdf |format=PDF |publisher=京王電鉄 |date=2018-06-21 |accessdate=2018-10-03}}</ref> の新宿行きで野菜を輸送する。
=== 休憩 ===
* 長時間にわたり運行する高速バスでは、適宜、サービスエリアなどで乗務員の休憩時間が設けられる。厚生労働省では連続2時間程度の運行ごとに10分以上の休憩を設けることが提案されているほか、法令(旅客自動車運送事業運輸規則)により最低でも連続運転で4時間ごとに30分の休憩、実車距離500km超の運行については1時間以上(1回20分以上で分割可)の休憩を取るように定められている<ref>{{Cite web |url=https://travel.willer.co.jp/willer-colle/6539/ |title=高速バス・夜行バスには休憩はある?高速バスの休憩時間と回数、過ごし方を解説 |publisher=ウィーラートラベル |date=2022年03月17日 |accessdate=2023-12-21}}</ref>。乗客が外に出ることが認められる休憩では、運転手から発車時刻が提示される。予定した時刻をすぎると外出した乗客が戻らなくとも発車することがある。この場合、乗車券は無効となり払戻し変更はできない<ref>{{Cite web |url=https://www.jrbustohoku.co.jp/information/detail.php?id=1253 |title=【ご案内】年末年始に高速バスをご利用のお客さまへ |publisher=JRバス東北 |date=2023 |accessdate=2023-12-21}}</ref>。
== 行政処分の規定 ==
[[2000年代]]に行われたバス事業規制緩和と引き替えに、交通違反などの各種法令に違反した場合の行政処分の規定が新たに設定された。
[[違反]]した場合は[[道路運送法]]40条に基づき、状況に応じて事業者・営業所単位で違反点数(使用停止台数と使用停止日数の積を10で割った数値)が付加され累計違反点数が一定以上になると、50点以上でバス事業の停止、80点以上で事業の許可取消処分が行われる。そのため、違反した事業者は国土交通大臣及び各運輸局長・運輸支局長・自動車検査登録事務所長の命令により、一定期間違反した事業者・営業所での事業拡大(路線の開設や参入)が禁止される(このことを服喪期間という。ただし地元自治体などからの要請があれば特例で路線開設を認める場合もある<ref group="注">一例として、[[名鉄バス]]は分社前の[[名古屋鉄道]]時代だった[[2003年]]に無免許運転の隠蔽事件を起こし2年間の新規バス路線の開設禁止処分を受けたが、これを適用すると[[2005年]]1月開港の[[中部国際空港]]への系統や同年開催の[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]関連の輸送系統が運行できなくなる事態が考慮されたためこの特例が認められ、実際に地元自治体からの要請により新規系統の開設が認可されている。</ref>)。
違反点数の累積期間は原則3年間である。ただし、違反点数が付加されていない営業所において行政処分以前の2年間に違反行為がなく、かつ違反点数が付加された営業所において2年間違反行為がない場合は、行政処分から2年経過した時点で消滅する。なお事業者が分割・譲渡した場合は事業者・営業所単位の累積違反点数が承継される。
なお[[2004年]](平成16年)[[8月1日]]に基準が改正され、事業拡大の禁止期間がそれまでの2年間から5点以下の処分で3か月、19点以下で6か月、20点以上や悪質違反で1年間に緩和されたが、車両停止の処分については厳格化され従来は使用停止台数と使用停止日数の積を10で割った数値が整数でない場合は端数を切り上げていたが、改正後は使用停止車両のうち1台の使用停止日数を延長して整数となるように変更された(端数調整により日数が延長されるのでより厳しくなっている)。[[2006年]](平成18年)[[5月]]には、飲酒運転を放置した事業者に対しては、違反点数に関係なく事業停止の処分が下せるようにするといった法案が提出された。
== 乗車券 ==
=== 座席定員制 ===
[[ファイル:Kominato-highway-20070702.jpg|thumb|200px|座席定員制を採る[[小湊鉄道]]のアクアライン高速バス]]
座席指定なしで[[発売]]される。この場合は事前予約はできないので、乗車時に[[バスターミナル]]の窓口で[[乗車券]]を購入するか、一般の路線バスの様に車内で直接[[運賃]]を支払うことになる。
先着順に乗車し、空いている席に自由に座ることができる。満席となった場合は[[補助席]]を利用することになる。しかし、[[法令]]により高速道路では立ちっぱなしの乗車はできないため、補助席も埋まると乗車できず、次発の便に回されてしまう。
近距離(100 km程度まで)の高速バスはこの方式を採用している路線が多い。
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=== 予約定員制 ===
[[ファイル:Odakyuhakone-hanedaline-20070826.jpg|thumb|200px|予約定員制を採る[[小田急箱根高速バス]]]]
基本的には座席定員制と同じだが、事前に乗車する便を指定して[[予約]]することが原則である。
座席は指定せず、空いている席に自由に座ることができるが、予約していれば、その便の座席が1席分確保されているので満席で乗れない心配はない。予約せずに乗る場合は予約した乗客が優先されるため満席で乗れないことも有り得る。その場合も座席定員制と同様、補助席を利用する。補助席も埋まると次発便へ回される。
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=== 座席指定制 ===
[[ファイル:Keio-bus-east-K60507.jpg|200px|right|thumb|座席指定制を採る[[中央高速バス]]([[京王バス東]])]]
予約指定制ともいう。
事前予約を原則とし、発券時に乗車便・座席も指定するもの。ほぼすべての夜行路線や、[[私鉄]]・専業系バスの中・長距離路線の大半で、この方式が採用されている。乗車券はバスターミナルなどにある[[バス事業者]]の直営窓口や[[旅行会社]]で事前に購入する。購入前に電話で予約ができる路線がほとんどである。
====バスターミナルや旅行会社以外での購入方法====
次のようなシステムがある。
; [[みどりの窓口]]
: [[JRバス]]が運行に関わる中・長距離路線の中には全国のJR[[鉄道駅]]などに設置されている「[[みどりの窓口]]」で購入できる路線がある。なお、[[ジェイアール四国バス]]のようにみどりの窓口での発売を全廃したケースもある([[2016年]]6月時点で、[[ジェイアールバス東北]]では、[[みどりの窓口]]での取扱いを明言しているのは、[[北東北]] - 首都圏間を運行する2路線となっている。いずれも同社単独運行であり、電話予約も北東北側の出発地の担当支店ではなく、[[仙台駅のバス乗り場#仙台駅東口|仙台駅東口の同社高速バス案内所]]で受け付けている)。
; インターネット予約システム
: インターネットの普及に伴い、予約用[[ウェブサイト]]で空席の照会・予約を受け付けるサービスが1990年代末から始まり、多くの事業者に普及している。ウェブサイトにより空席照会・予約に登録を要するものと登録不要のものがある。予約後にバス事業者の窓口、または次に述べる主要[[コンビニエンスストア]]に設置されている多機能端末機([[マルチメディアステーション]])で申込券を発行してレジで運賃を支払い、乗車券の発券を受ける。また、予約時に予約サイト上で[[クレジットカード]]により支払い、乗車券を[[プリンター]]で印刷したり、乗車券の内容を携帯電話の画面に表示させることができる場合もある。
* [[高速バスネット]] - JRバス(原則としてJRバス関東・JR東海バス・西日本JRバスの3社が関与している路線のみ。例外は[[B&Sみやざき号]])の高速バスの大半。[[ドリーム号 (高速バス)|ドリーム号]]([[ジェイアールバス東北]]路線分は、後述の[[発車オ〜ライネット]]との併用)の大半、[[中央ライナー (高速バス)|中央ライナー]]、[[昼特急]]など。
* [[発車オ〜ライネット]] - 私鉄系バスの中・長距離の大半路線、東京〜京阪神系統以外の主なJR高速バス、[[ジェイアールバス東北]]及び[[東北地方]]を主要基盤とするバス会社が担当する路線のほとんど
* [[ハイウェイバスドットコム]] - [[中央高速バス]]・[[中央道高速バス]]など、主に[[京王電鉄バス|京王バス]]と[[名鉄バス]]が運行に関わる中・長距離路線および九州のバス事業者が運行に係わる中・長距離路線
* 両備高速バス予約システム - [[両備ホールディングス]](両備バス)が運行に関わる中・長距離路線
; [[マルチメディアステーション]]
: 上記のように、コンビニエンスストアに備え付けられているマルチメディアステーションで乗車券を予約・購入し発券できる路線が多い。
: この場合、マルチメディアステーションで路線や便を検索して直接予約する方法と、あらかじめ電話や前述のインターネットサイトで予約した便の乗車券を、マルチメディアステーションで予約番号などを入力の上で申込券を発券する方法がある(電話窓口や予約サイトでコンビニ払いを指定した場合)。取扱い路線はそれぞれ異なる。これらの場合、乗車券購入時にマルチメディアステーションで出力される申込券をレジへ持参し、運賃を支払った後、レジに接続されているプリンターから乗車券が発券される。
=====高速バス乗車券・乗車票・指定券一例=====
<gallery>
File:Nocturne ticket.JPG|[[京浜急行電鉄]](当時)窓口発行
File:Ticket Hakone Highway Bus.jpg|小田急SRシステム発行
File:Ticket-JRTomei.jpg|[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]窓口発行 [[回数乗車券]]
File:BusTicket 04p0822sa.jpg|[[ジェイアール東海バス|JR東海バス]]車内発行
File:Ticket Hakone Highway Bus from farebox 1.jpg|[[小田急箱根高速バス]]車内発行[[PASMO]]精算
File:Ticket DreamMatsuyama 2 kousokubus.net.jpg|[[高速バスネット]] 窓口発行
File:Ticket Tomei51 kousokubus.net.jpg|高速バスネット 自動券売機発行
File:Kousokubus.net ticket.jpg|高速バスネット 携帯電話画面に表示
File:We liner ticket.JPG|[[日本旅行]]バスぷらざ 自身で印刷
File:Rhobi Highwaybus ticket Loppi.jpg|両備高速バス予約サイト [[ローソン]]にて発券
File:Seven-11 highwaybus ticket.jpg|[[発車オ〜ライネット]]予約 [[セブン-イレブン]]にて発券
</gallery>
===== 旧ツアーバス転換路線 =====
ツアーバスから移行した新高速乗合バスの場合、上記とは異なる独自の予約サイトを持ち、窓口を持たず支払方法を[[クレジットカード]]またはマルチメディアステーションでの支払いに限定し、乗車券を発券しない場合が多い。
また、新高速乗合バスでない高速乗合バスは乗車券を発券した際に座席も指定されるが、新高速乗合バスは運賃を支払ってもその時点では座席が指定されず、当日の乗車時に乗客の性別などを考慮して座席が設定され、各乗客に連絡される場合が多い。
== 高速バスの愛称 ==
日本の高速バスでは便または路線ごとで愛称を付けているケースが多い。理由については様々だが座席指定制の場合は発券、事務処理上の便宜として付けているほか路線・目的地の宣伝広告の意味で付けているケースがほとんどである。自由席の路線でも路線・目的地のアピールとして付けているケースがある。つけ方としては以下のようなつけ方がみられる。
* 事業所毎…その事業所のすべての高速バス路線に付与する([[阪神バス]]「[[サラダエクスプレス]]」や、[[東京バス]]グループの「ニュースター号」など。また、[[ツアーバス]]から移行した事業者の大半がこれに該当する。)
* 路線・系統毎…その路線・系統のすべての便に付与する(福岡〜鹿児島間「[[桜島号]]」など)
* 便毎…その路線の特定の便に対して付与される([[東名高速線]]「東名ライナー」など)
== 日本国外の高速バス ==
[[ファイル:KKBus FC666 Front.jpg|200px|right|thumb|台湾の高速バスの例([[国光汽車客運]] MCI MC9)]]
[[ファイル:Hyundai New Premium Universe Xpress Noble 2013.png|200px|right|thumb|韓国の高速バスの例(錦湖高速 現代ユニバースエクスプレスノーブル)]]
[[ファイル:ABU361 at Jinrong St, Yufa Rd (20190823134230).jpg|200px|right|thumb|中華人民共和国の高速バスの例(北京新国線客運 [[宇通客車|宇通]]ZK6115BEV5)]]
鉄道や航路の未発達な途上国を中心に利用されているが、先進国・準先進国でも、高速道路が発達した地域では、多くの路線が設定されていることが多い。[[フィリピン]]や[[ペルー]]、[[ドイツ]]や[[台湾]]、[[大韓民国|韓国]]はそれぞれの例である([[台湾のバス交通]]及び[[韓国のバス]]も参照)。特に鉄道・航空機との競争が激しい台湾では、路線によっては2列シート・按摩・[[おしぼり]]・個人[[テレビ]]・バスガール付きの豪華な都市間高速バスが24時間体制で運行されている。[[中華人民共和国]]でも都市部の急激な経済成長による[[出稼ぎ]]労働者の増加に伴って高速バスが発展しており中には車内に寝台を備え付けた「寝台バス」も運行されている。
一方[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では長い歴史を持ち、[[アラスカ州|アラスカ]]を除く本土全土に路線網を有する「[[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド]]」高速バスがあるが、鉄道の[[アムトラック]]同様以下の理由により都市間交通は高速な航空機([[格安航空会社]])の独擅場と化し、[[都市間バス]]は淘汰されつつある。
* 国土が広いため、全土の移動手段としては時間が掛かり過ぎる(日本の高速バスの距離程度の[[サンフランシスコ]]〜[[ロサンゼルス]]間で8〜10時間程度、大陸横断では乗り継ぎで最短でも3日程度は要する)。
* [[1980年代]]以降の航空自由化により国内線航空運賃の値下げが行われた結果、[[飛行機|航空機]]での移動が一般的になり、高速バスの客層が低所得者層や移民、[[バックパッカー]]らが主体になった。
* [[バスターミナル]](デポーまたはディーポ)周辺環境の悪化。特に[[ロサンゼルス]]などの都市部では夜間は危険な場所にあることが多いといわれる。そのため、白人を中心とする中間層が遠ざかるようになった。
[[ヨーロッパ]]では、ほとんどの国が陸続きになっていることから国際(EU域内)間の路線バスも多く、各国のバス会社が加盟する[[ユーロラインズ]]という協業組織がある。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[都市間バス]]
* [[直行便]]
* [[青春18きっぷ]]
* [[急行バス]]
* [[水曜どうでしょう]] - 「[[サイコロの旅]]」内で出演者一行が度々夜行高速バス(番組では『深夜バス』と表現)に乗車。
* [[沖縄本島のバス路線#111:高速バス/117:高速バス(美ら海直行)|111番/117番・高速バス]] - 路線の系統名そのものが「高速バス」である。[[沖縄自動車道]]全区間([[那覇インターチェンジ|那覇]]〜[[許田インターチェンジ|許田]]間)を経由する。予約制、及び切符制ではなく、乗車のとき[[乗車整理券|整理券]]を取り、降車の時に運賃を払う、一般路線バスとほとんど同じ方式を取るが、運賃は一般道経由の路線に比べ最大190円高くなっている。
* [[名古屋市営バス鳴尾営業所#高速1号系統|高速1号系統]] - 2022年3月まで運行していた[[名古屋市営バス]]の路線。路線の系統名に「高速」が入っており、区間途中で[[名古屋高速3号大高線|名古屋高速3号線]]([[高辻出入口|高辻]]〜[[大高出入口|大高]]間)を通行していた。前後に一般道区間を多く含むこともあり通常の路線バスと同様の乗車方法であったが、高速区間を跨いで乗車する場合は運賃の他に追加料金として10円が必要であった。
* [[高速バス限定の旅]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mlit.go.jp/jidosha/index.html 国土交通省自動車局]
** [https://www.mlit.go.jp/jidosha/jidosha_tk3_000020.html バス産業勉強会] - {{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000162028.pdf 報告書]}}
** [https://www.mlit.go.jp/jidosha/jidosha_tk3_000040.html バス事業のあり方検討会] - {{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000211900.pdf 報告書]}}
* [https://www.bus.or.jp/ 公益社団法人 日本バス協会]
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[[Category:乗合バス事業]]
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フランツ・シューベルト
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フランツ・ペーター・シューベルト(ドイツ語: Franz Peter Schubert, 1797年1月31日 - 1828年11月19日)は、オーストリアの作曲家。
シューベルトはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。メーレン(モラヴィア)から移住したドイツ系植民の農夫の息子である父のフランツ・テオドール(1763年 - 1830年)は教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツ(1756年 - 1812年)は結婚前にウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年 - 1844年)、次男フェルディナント(1794年 - 1859年)、三男カール(1795年 - 1855年)、次いで第12子のフランツ、娘のテレジア(1801年 - 1878年)だった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。
フランツは5歳のときに父から普通教育を受け始め、6歳のときにリヒテンタールの学校に入学した。このころ、父は末息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは7歳ごろになると父の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、父はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。聖歌隊の仲間たちは、フランツの音楽的才能に一目を置いた。当時は演奏家として聴衆に注目されなければ音楽家としての成功の機会はないという時代だったため、しばしば聖歌隊の建物に隣接するピアノ倉庫にフランツを案内して、ピアノの練習を自由にできるように便宜を図った。そのおかげで、貧しい彼には触れられなかったような良質な楽器で練習、勉強をすることができた。
1808年10月、フランツはコンヴィクト(ドイツ語版)(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにフランツはおよそ17歳まで所属、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが聖シュテファン大聖堂で得た教育とほとんど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。フランツを支えた友人たちの多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun、1788年 - 1865年)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多くの友人たちが貧しいフランツを助け、彼には買えない五線紙など、誠実な支持と励ましを与えた。また、このコンヴィクトでヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。一方、才能は作曲の分野ですでに示しつつあった。1810年4月8日 - 5月1日の日付がある32ページにわたりびっしりと書かれた四手ピアノのための『幻想曲 ト長調』(D 1)、続いて1811年にはヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク(1760年 - 1802年)が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、弦楽五重奏のための『序曲 ハ短調』(D 8)、『弦楽四重奏曲第1番 ト短調/変ロ長調』(D 18)、『幻想曲 ト短調』(D 9)がある。室内楽曲が目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でカルテット演奏会が行われていたためである。これは後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものだった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残した。また野心的に力を注いだのは、1812年の母の葬儀用と言われる『キリエ』(D 31)と『サルヴェ・レジーナ』(D 106)(それぞれ合唱聖歌)、『管楽八重奏曲 ヘ長調』(D 72)である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなるカンタータ『父の聖名の祝日のために』(D 80)を残した。学校生活の最後には最初の交響曲である『交響曲第1番 ニ長調』(D 82)が生まれた。
1813年の終わりにシューベルトは、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職した。このころ、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。彼は2年以上この仕事に就いていたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補った。サリエリから個人的な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。またシューベルトはグロープ一家と親密に交際しており、その家の娘テレーゼ・グロープ(1798年 - 1875年)は歌がうまくよい友人だった。彼は時間があれば素早く大量に作曲をした。完成された最初のオペラ『悪魔の別荘』(Des Teufels Lustschloß, D 84)と、最初の『ミサ曲第1番 ヘ長調』(D 105)はともに1814年に書かれ、同じ年に3曲の弦楽四重奏曲(第4番 ハ短調 D 46、第6番 ニ長調 D 74、第10番 変ホ長調 D 87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲第1番』の第1楽章、『潜水者』(D 77)や『糸を紡ぐグレートヒェン』(D 118)といった傑作を含む7つの歌曲が書かれた。
1815年には、学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『交響曲第2番 変ロ長調』(D 125)が完成し、『交響曲第3番 ニ長調』(D 200)もそれに続いた。また、『ミサ曲第2番 ト長調』(D 167)と『ミサ曲第3番 変ロ長調』(D 324)の2つのミサ曲(前者は6日間で書き上げられた)、その他『ミサ曲第1番』のための新しい『ドナ・ノビス』(D 185)、『スターバト・マーテル イ短調』(D 383)、『サルヴェ・レジナ ヘ長調』(D 379)、オペラは『4年間の歩哨兵勤務』(Der Vierjahrige Posten, D 190)、『フェルナンド』(Fernando, D 220)、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ』(Claudine von Villa Bella, D 239)、『アドラスト』(Adrast, D 137、研究により1819年の作曲と推定)、『サラマンカの友人たち』(Die Freunde von Salamanka, D 326、会話の部分が失われている)の5曲が作曲された。他に『弦楽四重奏曲第9番 ト短調』(D 173)、3曲のピアノソナタ(第1番 ホ長調 D 157、第2番 ハ長調 D 279、第3番 ホ長調 D 459)、数曲のピアノ小品がある。これらの最盛期をなすのは146曲もの歌曲で、中にはかなり長い曲もあり、そのうち8曲は10月15日、7曲は10月19日の日付がある。
1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(英語版)(1787年 - 1836年)と知り合った。この出会いは間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱のときもあったが、突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方でマイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。2人の関係は、シューベルトに対して一方的に奉仕するものだったという。
シューベルトの運命に最初の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた法律学生フランツ・フォン・ショーバー(1796年 - 1882年)がシューベルトを訪問し、教師を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛りつけられているという思いが強まっていた。父親の了解はすぐに得られ、春が去るころにはシューベルトはショーバーの客人になった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成させるとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたという。
1816年に作曲された作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のためのカンタータ『サリエリ氏の音楽活動50周年を祝して』(D 407)、もう1つのカンタータ『プロメテウス』(D 451)はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒たちのためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。彼は雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『ヨーゼフ・シュペンドゥを讃えるカンタータ』(作品128, D 472)である。もっとも重要な作品は、シューベルト自身の手によって『悲劇的』と名付けられた『交響曲第4番 ハ短調《悲劇的》』(D 417) であり、次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『交響曲第5番 変ロ長調』(D 485)、その他多少の教会音楽であった。これらはゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩だった。
この時期、友人の輪が次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768年 - 1840年)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタや幻想曲を演奏した。ゾンライトナー家は裕福な商人で、長男がコンヴィクトに所属していた縁もあって自宅を自由に使わせていたが、それは間もなく「シューベルティアーデ(ドイツ語版)」と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。
シューベルトは貧しかった。それというのも教師を辞めたうえ、公演で稼ぐこともできなかったからである。しかも、音楽作品をただでももらうという出版社はなかった。しかし、友人たちは真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、裕福な者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい人が紹介されたときの、「彼ができることは何か?」という質問がこの会の特徴をよく表している。
1818年は前年と同様、創作上は比較的実りがなかったものの、2つの点で特筆すべき年だった。1つ目は作品の公演が初めて行われたことである。演目は『イタリア風序曲第1番 ニ長調』(D 590)で、これはジョアキーノ・ロッシーニをパロディ化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。2つ目は初めて公式の招聘があったことである。これは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。
この年の作品には『ミサ曲第4番 ハ長調』(D 452)や『交響曲第6番 ハ長調』(D 589)、ツェレスでの生徒たちのための一連の四手ピアノのための作品、『孤独に』(D 620)、『聖母マリア像』(D 623)などを含む歌曲がある。秋のウィーンへの帰りに、ショーバーのところには滞在する部屋がないことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食のあと田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、あるいはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。歌曲の作曲家としての最初の公演は1819年2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌』(D121)が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取り、フォーグルとともに北部オーストリアを旅行した。シュタイアーでは『ピアノ五重奏曲 イ長調《ます》』(作品114, D 667)のパート譜をスコアなしで書き、友人を驚かせた。秋に自作の3曲をヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに送ったが、返事はなかった。
1820年に作られた作品には、進歩と形式の成熟が見られる。小品の数々に混じって、『水上を飛ぶ霊たちの歌』(D 705)や『詩篇第23《主は私の牧者で》』(作品132, D 706)などの声楽曲や、『弦楽四重奏曲第12番 ハ短調《四重奏断章》』(D 703)、ピアノ曲『幻想曲 ハ長調《さすらい人》』(作品15, D 760)などが誕生している。
6月14日にオペラ『双子の兄弟』(Die Zwillingsbrüder, D 647)が、8月19日に劇付随音楽『魔法の竪琴』(Die Zauberharfe, D 644)が公演された。それまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭でのカルテット演奏会から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接することが求められ始めた。相変わらず出版社は冷淡だったが、友人のフォーグルが1821年2月8日にケルントナートーア劇場で歌曲『魔王』(作品1, D 328)を歌い、ようやくアントン・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781年 - 1858年)がシューベルトの作品の取次販売に同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後、この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてわずかな版権を受け取り始めた。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについては、多くの記事が見られる。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより舞台に向けられた。
1821年の年の瀬にかけて、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アンフォンゾとエストレッラ』(Alfonso und Estrella, D 732)は受け入れられず、『フィエラブラス』(Fierrabras, D 796)も同じだった。『謀反人たち』(Die Verschworenen, D 787)は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠だった)。劇付随音楽『キプロスの女王ロザムンデ』(Rosamunde, Prinzessin von Zypern, D 797)は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アンフォンゾとエストレッラ』と『フィエラブラス』は、規模の点で公演が困難だった(たとえば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜)。しかし、『謀反人たち』は明るく魅力的な喜劇であり、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。
1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと知り合う。両者ともに親しい関係にはならなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの才能を認めていた。シューベルトもベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による8つの変奏曲 ホ短調』(作品10, D 624)を同年に出版するにあたり献呈している。しかしウェーバーはウィーンを離れ、新しい友人も現れなかった。この2年は全体として、彼の人生でもっとも暗い年月だった。
1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲 ヘ長調』(作品166, D 803)や『大交響曲』のためのスケッチを書き、再びツェレスに戻った。また、ハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風ディヴェルティメント ト短調』(作品54, D 818)を作曲した。
舞台作品や公的な義務で忙しかったが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。まず1822年に『ミサ曲第5番 変イ長調』(D 678)が完成。さらに同年には『未完成交響曲』として知られる『交響曲第7番(旧第8番)ロ短調《未完成》』(D 759)にも着手している。さらにヴィルヘルム・ミュラー(1794年 - 1827年)の詩による歌曲集『美しき水車小屋の娘』(作品25, D 795)と、素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれた。
1824年までに、前記の作品を除き『《萎れた花》の主題による序奏と変奏曲 ホ短調』(D 802)、『弦楽四重奏曲第13番 イ短調《ロザムンデ》』(作品29, D 804)と『弦楽四重奏曲第14番 ニ短調《死と乙女》』(D 810)の2つの弦楽四重奏曲が作られている。また、同年11月に完成した『アルペジオーネソナタ イ短調』(D 821)は、当時、ウィーンのギター製作家であるヨハン・ゲオルク・シュタウファー(1778年 – 1853年)により開発されたばかりの新しい楽器「アルペジオーネ」を用いた試みである。
過去数年の苦難は1825年の幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスからしばらくは解放された。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中にはウォルター・スコット(1771年 - 1832年)の詩による、有名な『エレンの歌第3番(アヴェ・マリア)』(D 839)を含む歌曲集『湖上の美人』(作品52)や歌曲『ノルマンの歌』(D 846)、『囚われし狩人の歌』(D 843)や『ピアノソナタ第16番 イ短調』(作品42, D 845)を作曲。スコットの詩による歌曲では、それまでの作品で最高額の収入を得ることができた。
1827年にグラーツへ短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。
晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。1つ目は1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。2つ目はオペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけ、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したが拒否され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして3つ目は1828年3月26日(ベートーヴェンの命日)に行われた、人生で初めてで生前唯一の、彼自身の作品の演奏会である。
1827年に、シューベルトは歌曲集『冬の旅』(作品89, D 911)やヴァイオリンとピアノのための『幻想曲 ハ長調』(作品159, D 934)、2つのピアノ三重奏曲(第1番 変ロ長調 作品99, D 898、第2番 変ホ長調 作品100, D 929)を書いた。
1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトはウィーン市民2万人の大葬列の中の一人として葬儀に参列した。その後、友人たちと酒場に行き、「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたという。そして、彼の寿命はその翌年で尽きた。
最晩年の1828年、『ミサ曲第6番 変ホ長調』(D 950)、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ』(D 962)、『弦楽五重奏曲 ハ長調』(D 956)、『ミサ曲第4番』のための2度目の『ベネディクトス』(D 961)、最後の3つのピアノソナタ(第19番 ハ短調 D 958、第20番 イ長調 D 959、第21番 変ロ長調 D 960)、『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D 957/965A)を完成させた。この歌曲集の内の6曲はハインリヒ・ハイネの詩につけられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集『歌の本』は1827年秋に出版されている。
また上記の通り、同年3月26日のベートーヴェンの命日には、シューベルトにとって最初で最後の自作による演奏会が行われており、演奏会自体は大衆的にも財政的にも成功したものの、直後にニコロ・パガニーニがウィーンで演奏会を行ったことで影が薄くなってしまった。
シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(のちにアントン・ブルックナーの師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。しかし何度かのレッスンのあと、ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされた。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトの最後の手紙となった。
その後、シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。31歳没。フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。
遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあったヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も2人の当時の墓石が残っている。
死後間もなく小品が出版されたが、当時の出版社はシューベルトを「シューベルティアーデ(ドイツ語版)のための作曲家」とみなして、大規模作品を出版することはなかった。
シューベルトの死因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。シューベルト生誕200年の1997年には、改めてその人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。
没後は「歌曲の王」という位置づけがなされ、歌曲以外の作品は『未完成交響曲』や『弦楽四重奏曲《死と乙女》』のような重要作を除いて放置に等しい状況だった。
1838年にロベルト・シューマンがウィーンに立ち寄った際に、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問した。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった当時のままの状態で保存しており、シューマンはその机上で『ザ・グレート』の愛称で知られる『ハ長調の交響曲』がほこりに埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持ち帰った。その後フェリックス・メンデルスゾーンの指揮によって演奏され、『ノイエ・ツァイトシュリフト』紙で絶賛された。ちなみにこの交響曲の番号は、母国語がドイツ語の学者は「第7番」、再版のドイツのカタログでは「第8番」、英語を母国語とする学者は「第9番」として掲載するなど、いまだに統一されていない(下記を参照)。
その他の埋もれていた作品の復活に、1867年にウィーンを旅行したジョージ・グローヴ(1820年 - 1900年)とアーサー・サリヴァン(1842年 - 1900年)の2人が大きな功績を挙げた。この2人は7曲の交響曲、『ロザムンデ』の音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出した。こうして聴衆は埋もれていた音楽に興味を抱くようになり、最終的には楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定版として世に送り出された。
グローヴとサリヴァンに由来し、長年にわたって《失われた》交響曲にまつわる論争が続いてきた。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアルト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を1828年の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものではないが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「ニ長調」(D 963A)のスケッチを指していることは、音楽学者によってある程度受け入れられている。これは1970年代に発見され、ブライアン・ニューボールド(英語版)によって『交響曲第10番』として理解されている。シューベルトはリストの言葉でよく要約されている。曰く、「シューベルトはもっとも詩情豊かな音楽家である」。
シューベルトの多くの作品に即興性が見られるが、これは彼が筆にインクの染みをつけたことがないほどの速筆だったことも関係している。
シューベルトは歌曲以外にも、未公開作品や未出版作品を大量に遺したため、研究は難航した。
ピアノソナタなど、その他の作品が脚光を浴びるようになるのはシューベルト没後百年国際作曲コンクール(優勝者はクット・アッテルベリ)が1927年に開催される頃からであり、同時期にエルンスト・クルシェネクがシューベルトのピアノソナタの補筆完成版を出版した。
シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンより格下に見られていたために、録音しようというピアニストは少数だったが、その黎明期に録音を果たした人物にヴァルター・ギーゼキングがいる。没後150年を迎えた1977年ごろになると、シューベルトのピアノソナタは演奏会で聴かれるようになり、長大なピアノソナタを繰り返しなしで演奏することが可能になった(かつては省略が当たり前だった)。現在は初期から後期までの作品が演奏会に現れる。補筆して演奏するパウル・バドゥラ=スコダ(ピアノソナタ第11番)のようなピアニストも珍しくない。
新シューベルト全集(英語版)は現在、ベーレンライター出版社が全責任を取る形で出版に努めているが、オペラなどの部分はこれからも順次刊行予定である。音符の形やスコア全体のレイアウトはすべてコンピュータ出力で修正されているが、合唱作品はCarus社なども新しい版を出版している。
現在の浄書技術をもってしても、デクレッシェンドなのかアクセントなのかの謎は、完全には解明されていない。そのため、『未完成交響曲』の管楽器についた音は、いまだに奏者や指揮者によって解釈が異なり定着していない。
小惑星(3917) Franz Schubertはフランツ・シューベルトにちなんで命名された。
シューベルトは一般的にロマン派の枠に入れられるが、その音楽、人生はウィーン古典派の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属している。貴族社会の作曲家から市民社会の作曲家へという点ではロマン派的であり、音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にあるが、年代的にはシューベルトの一生はベートーヴェンの後半生とほぼ重なっており、音楽的にも後期のベートーヴェンより時に古典的である。
同様に、時期的にも様式的にも古典派にかかる部分が大きいにもかかわらず、初期ロマン派として挙げられることの多い作曲家としてカール・マリア・フォン・ウェーバーがいるが、シューベルトにも自国語詞へのこだわりがあった。ドイツ語オペラの確立者としての功績を評価されるウェーバーと比べると大きな成果は挙げられなかったものの、オペラ分野ではイタリア・オペラの大家サリエリの門下でありながら、未完も含めてドイツ語ジングシュピールに取り組みつづけた。当時のウィーンではドイツ語オペラの需要は低く、ただでさえ知名度の低いシューベルトは上演機会すら得られないことが多かったにもかかわらず、この姿勢は変わらなかった。教会音楽は特性上ラテン語詞の曲が多いものの、それでも数曲のドイツ語曲を残し、歌曲に至ってはイタリア語曲が9曲に対してドイツ語曲が576曲という比率となっている。
「ドイツの国民的、民族的な詩」に対し「もっともふさわしい曲をつけて、本当にロマン的な歌曲を歌いだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語を介した民族主義をロマン派幕開けの一要素とする見解もある。
シューベルトは幼いころからハイドンやその弟のミヒャエル、モーツァルトやベートーヴェンの弦楽四重奏曲を家族で演奏し、コンヴィクトでもそれらの作曲家の交響曲をオーケストラで演奏、指揮していた。
シューベルトは当時ウィーンでもっとも偉大な音楽家だったベートーヴェンを尊敬していたが、それは畏怖の念に近いもので、ベートーヴェンの音楽自体は日記の中で「今日多くの作曲家に共通して見られる奇矯さの原因」としてむしろ敬遠していた。シューベルトは主題労作といった構築的な作曲法が苦手だったと考えられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来シューベルトの作風ではなかった。
むしろシューベルトが愛した作曲家はモーツァルトである。1816年6月14日、モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトはモーツァルトをこれ以上ないほど賞賛している。またザルツブルクへの旅行時、聖ペーター教会のミヒャエル・ハイドンの記念碑を訪れ、感動とともに涙を流したという日記も残されている。
コンヴィクトからの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが書き残した回想文は、シューベルトが11歳のとき、「ベートーヴェンのあとで、何ができるだろう」と言ったと伝えている。さらにオーケストラでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲を演奏したときにはハイドンの交響曲のアダージョ楽章に深く心が動かされ、モーツァルトのト短調の交響曲(おそらく『第40番 K. 550』)については、なぜか全身が震えると言い、さらにメヌエットのトリオでは天使が歌っているようだと言った。ベートーヴェンについてはニ長調(第2番)、変ロ長調(第4番)、イ長調(第7番)に対して夢中になっていたが、のちにはハ短調(第5番)の方が一層優れていると言ったと伝えている。
ウェーバーとも生前に親交があった。1822年のウィーンでの『魔弾の射手』上演の際に知り合い、シューベルトのオペラ『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演する協力を約束したが、のちの『オイリアンテ』についてシューベルトが、「『魔弾の射手』の方がメロディがずっと好きだ」と言ったために、その約束は果たされなかった。
シューベルトはのちの作曲家に大きな影響を与えた。『ザ・グレート』を発見したシューマンは言うに及ばず、特に歌曲、交響曲においてフェリックス・メンデルスゾーン、ヨハネス・ブラームス、アントン・ブルックナー、ヨーゼフ・シュトラウス、フーゴ・ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウス、アントニン・ドヴォルザークなど、シューベルトの音楽を愛し、影響を受けた作曲家は多い。
シューベルトが私的に行った夜会は、彼の名前にちなんで「シューベルティアーデ(ドイツ語版)」と呼ばれた。現在もキャッチフレーズとして使われることがある。彼は協奏曲を作曲することはほとんどなく、その慎ましいイメージも「シューベルティアーデ」の性格を助長させた。
生前に出版された最後の作品が、1828年に出版された四手ピアノのための『ロンド イ長調』(作品107, D 951)だったことからうかがえるように、生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。同じ時代に、これと同数の作品を作曲できたライバルはカール・チェルニーのみである(31歳前後のチェルニーにはオペラや交響曲などの大規模出版作品は見当たらない)。それらに大規模作品は含まれず、極端な場合は委嘱作すら生前の出版はなく(『アルペジオーネソナタ』など)、没後も長期間にわたり出版が継続されている。最後の作品番号は1867年に出版された「作品173」であり、すでにシューベルト死去から30年以上が経過していた。
31歳でこの膨大な量は無名の作曲家では不可能であり、作曲家としてすでに成功と考えてよいという理由から、シューベルトが本当に貧しかったのか疑問視する声もある。また、シューベルトを描いた肖像画は何点も作成されており、それらは対象を美化している。名士であれば肖像画を実物より美しく描くことが当時の画家の責務だったため、こうした待遇は、シューベルトが名士であった証拠と考えることができる。シューベルトはグラーツ楽友協会から名誉ディプロマを授与された(未完成交響曲)ときには25歳に過ぎず、この時点で彼は無名ではなかったと考えられる。
また、シューベルトの死に際して、新聞は訃報を出している。
シューベルト作品の校訂は21世紀に入った現在でも簡単ではない。とくに「ヘアピン」とも呼ばれえる特大のアクセントのような記号をどう解釈するかが問題になっている。小節間をまたぐようにヘアピンがわたっているものもある。これをデクレッシェンドと解釈するか、もしくはアクセントと解釈するかが問題となる。また、シューベルトは鋭いスタッカティシモのような縦線を使う(「未完成」の第2楽章)こともあり、19世紀の出版譜では通常のスタッカートに直されている。これも元に戻す動きが見られる。
シューベルトはMM表記を出版作品以外は全く行っていないため、演奏家によって解釈の開きが大きい。
ピアノ作品には、現代ピアノでは非常に難しいオクターヴの連続が『さすらい人幻想曲』ほかで頻繁に現れるが、これは当時の軽いダブル・エスケープメント発案以前のシングル・アクションではオクターヴ・グリッサンドが可能だったためである。親指と小指をアーチの形にして、横にスライドするだけでオクターブのレガートが達成できるが、ダブル・エスケープメントを含めたダブル・アクションを持ち鍵盤の深さが倍になった現代ピアノでは困難である。
ラテン語のミサ曲では6曲すべてで典礼文の一部が欠落しているが、これも理由がわかっていない。典礼文の写しを所持しておりそれに誤脱があったという見解が一般的だが、聖歌隊で数多くのミサ曲を歌ってきたシューベルトが、クレドでのカトリック教会の信仰の本質的な部分の欠如に気づかなかったという説には無理があると思われる。おそらく自身はプロテスタント教会やカトリック教会に対して一線を引いたキリスト教信者という意味で、あえて削除したという説を唱える学者もいる。
シューベルトの1000近いスケッチ、未完を含む作品群は、オーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュ(Otto Erich Deutsch)により1951年に作られた英語の作品目録『Franz Schubert – Thematic Catalogue of all his works in chronological order』のドイチュ番号によって整理されている。シューベルトの場合、出版に際しての作品番号(op.)を持つものは170程度であるため、通常はドイチュ番号が使用されている。1978年にヴァルター・デュル(ドイツ語版)、アルノルト・ファイル(ドイツ語版)などによってドイツ語の改訂版『Franz Schubert – Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge』も作られた。
日本語の完全な作品目録はまだ存在せず、かつての日本では作品番号を優先し、ドイチュ番号を後回しにしていたたが、現在はNHK-FMのアナウンサーもドイチュ番号をアナウンスするようになっている。
ドイチュ自身は目録の序文において、「D」を自分の名前の略記ではなくシューベルトの作品を示す記号と捉えてほしいと述べている。これに応え、「D. ○○」とピリオドを打たず、Dと数字の間に半角スペースのみを入れ「D ○○」と表記するのがドイツ語圏や英語圏をはじめ国際的に主流となっている。通常「ドイチュ番号○○」などと読まれる。オーストリアなどではDeutsch-Verzeichnisという読み方のとおり、「DV ○○」と表記されることもある(オーストリア放送協会などで見られる)。
シューベルトは現在楽譜が残っているものだけで14曲の交響曲の作曲を試みている。そのうち有名な「未完成」も含め6曲が未完成に終わっている。よく演奏されるのは、『ロ短調交響曲』(D 759、通称『未完成』)と、最後の完成された交響曲である『大ハ長調交響曲』(D 944、通称『ザ・グレート』)である。それ以外では『第5番 変ロ長調』(D 485)も親しまれている。
シューベルト自身による標題は『悲劇的』と題された『第4番 ハ短調』(D 417)の1曲だけで、他は後世によるものである。『未完成』はその名の通り、完成したのは第2楽章までで、第3楽章が20小節(ピアノ・スケッチも途中まで)で終わっていることからこう呼ばれるようになった。第8番(旧第9番)の通称である『ザ・グレート』という名前はイギリスの出版社によってつけられたタイトルだと考えられているが、ドイツ語では《Die große Sinfonie C-Dur》であり、「偉大な」という意味合いはない(同じハ長調である第6番と比較して「大きい方」程度の意味しか持たない)。
古い番号づけでは、完成された7曲に順に第7番まで番号が振られた。そして『未完成交響曲』は、4楽章構成の交響曲としては未完だが2楽章は完成しており、非常に美しい旋律で多くの人に愛好されているため「第8番」の番号が振られた。
他の未完の交響曲のうち、『交響曲 ホ長調』(D 729)は4楽章のピアノスケッチで完成に近く(楽譜に「Fine」と書き添えてあることから、一応は完成したとみなす音楽学者もいる)、シューベルトの死後フェリックス・ヴァインガルトナーやブライアン・ニューボールド(英語版)らの手によって補筆され、全曲の演奏が可能になっている。このため、1951年のドイチュの目録では作曲年代順に、D 729に「第7番」が割り当てられ、『未完成』が「第8番」、『ザ・グレート』が「第9番」とされた。
しかし、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)が1978年のドイチュ目録改訂で見直し、『未完成』が「第7番」、『ザ・グレート』が「第8番」とされた。最近ではこれに従うことが多くなってきているが、依然として1951年のドイチュ目録のまま『第7番 ホ長調 D 729』、『第8番 ロ短調 D 759』(『未完成』)、『第9番 ハ長調 D 944』(『ザ・グレート』)とされることもまだあり、さらには後述の『グムンデン=ガスタイン交響曲』を第9番、『ザ・グレート』を第10番とすることもあるなど、21世紀に入った現在でも番号づけは混乱している。日本では、NHKがドイチュ目録に合わせて「未完成=第7番」「ザ・グレート=第8番」にしている一方で、音楽評論家の金子建志は「長く親しみ慣れた番号を繰り上げるのは、単に混乱を引き起こすだけ」と主張している。そして、「ナンバー抜きで〈未完成〉〈グレイト〉というニックネームで呼べば、一番簡単で、問題が生じない」とこの問題に対する見解を述べている。
交響曲の同定のために調性も古くから使われてきた。すなわち、第5番(D 485)を「変ロ長調交響曲」、『未完成』を「ロ短調交響曲」と呼ぶなどである。なお、ハ長調の交響曲は2曲あり、編成などから先に作曲された方(第6番 D 589)を「小ハ長調(交響曲)」(ドイツ語で「ディー・クライネ(Die kleine)」)、のちに作曲された方(D 944)を「大ハ長調(交響曲)」と呼ぶ。『ザ・グレート』(独語「ディー・グローセ(Die große)」の英訳)の呼称もここから来ている。
シューベルトの手紙に言及があるものの楽譜が見つからず、幻の存在とされてきた『グムンデン=ガスタイン交響曲』(Gmunden-Gasteiner Sinfonie, D 849, 1825年)は、研究により20世紀中葉以降は『ザ・グレート』を指している可能性がきわめて高いとされている。もともとD 944は1828年の作曲と考えられていたためにこのD番号を持ち、「D 849」とは別であると考えられてきたが、この根拠となっていた楽譜の年号の記述が後世の加筆によると判明し、加筆前は1825年だったものと考えられている。このことが、グムンデン=ガスタイン交響曲は『ザ・グレート』であるという証拠とされている。
一時は『グラン・デュオ』として知られる『四手のためのピアノソナタ ハ長調(英語版)』(D 812)が「D 849」の原曲ではないかと言われ、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがその説に基づいてオーケストレーションを施したこともある。
シュトゥットガルトで「D 849」にあたるとされるホ長調の交響曲の筆写譜が「発見された」ことがある。この曲は、ギュンター・ノイホルト指揮のシュトゥットガルト放送交響楽団による演奏で録音され、南ドイツ放送でFM放送された。主題とその展開が『ザ・グレート』にそっくりで、シューベルトには『ロザムンデ』序曲の前によく似た「D 590」の序曲を書いていた前例があることから、スケッチのような意味で作ったという学説もあった。この曲は『ザ・グレート』と同じ素材と展開方法が使われ、下書き的役割を果たしたとも考えられた。
楽器編成は「D 944」とまったく同じであり(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2、トロンボーン3、ティンパニ1対、弦五部)、
からなる、演奏時間約50分の作品となっていた。現在シュトゥットガルトのゴルドーニ (Goldoni) 出版社からヴェルナー・マーザー (Werner Maser) 校訂による楽譜が入手できる。録音は上述のものに続いて、ゲルハルト・ザムエル指揮シンシナティ・フィルハーモニー管弦楽団によるもの(Centaur: CRC2139)も発売された。しかし後日、このD 849とされたホ長調の交響曲は、1973年にヘンレ社に楽譜のコピーを提供したグンター・エルショルツ (Gunter Elsholz) がシューベルトの残した断片を再構成した偽作であることが判明した。
このため、グムンデン=ガスタイン交響曲は『ザ・グレート』であるという説が現在も有力である。
シューベルトが最後に着手した交響曲である『交響曲 ニ長調(英語版)』(D 936A)には、ペーター・ギュルケ(ドイツ語版)補筆版、ブライアン・ニューボールド補筆版などがある。異色なのはイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオの手による『レンダリング』である。『レンダリング』はスケッチの部分はスケッチのままで、それ以外の判然としないスケッチとスケッチの間の部分は現代音楽の手法でつなぎ合わせている。
「D 936A」は自筆譜のままでは完成しておらず、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)は番号を附していないが、「第10番」などとされる場合もある。
日本語版記事へのリンクを太字で示す。
いくつかの歌曲には、後世の作曲家による管弦楽伴奏版やピアノ独奏への編曲版も存在する。ピアノ独奏用編曲についてはフランツ・リストやレオポルド・ゴドフスキーによるものが知られている。
多くの分野に代表作を残したシューベルトとしてはもっとも評価が低い領域で、上演機会は少ない。クレメンス・フォン・メッテルニヒによるカールスバート決議に基づく検閲の被害に遭っている。
シューベルトは詩の芸術性に無頓着で、時折凡庸な詩に作曲してしまうこともあったと言われている。確かに彼の歌曲にはゲーテやシラーといった大詩人以外に、現在その中にしか名を留めていない詩人の手によるものが多く存在している。ただしこれは「シューベルティアーデ」で友人たちの詩に作曲したものを演奏するという習慣があったことも影響している。
シューベルトが作曲した詩人は多い順にゲーテ、マイアホーファー、ミュラー、シラー、そして重要な詩人としてマティソン(英語版)、ヘルティ(英語版)、コーゼガルテン(英語版)、クラウディウス(英語版)、クロップシュトック、ザイドル、リュッケルト、ハイネなどがいる。自分より前の世代に評価が定着していた詩人から、新しい時代の感性を持った詩人まで幅広い。
シューベルトが入手したピアノとして、ベニグヌス・ザイドナーのピアノとアントン・ワルター&サンのピアノが挙げられる。ザイドナー製のピアノは、現在ウィーンのシューベルトの生家(Schubert Geburtshaus)に展示され、ワルター&サン製のピアノはウィーンの美術史美術館が所有している。シューベルトはまた、ウィーンのピアノ製作者コンラート・グラーフの楽器をよく知っていたことがわかっている。
現在シューベルトの名が附されたコンクールは2つある。ひとつは長い伝統を持つドルトムントで行われる「シューベルト国際コンクールドルトムント」で、現在はリートデュオ部門とピアノソロ部門が交互に行われる。もうひとつはグラーツで行われる「フランツ・シューベルトと現代音楽のための国際室内楽コンクール」で、作曲部門と室内楽部門が併設されている。どちらもシューベルト作品のみでは競わないが、関連した楽曲や編成が焦点になっている。
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"text": "シューベルトはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。メーレン(モラヴィア)から移住したドイツ系植民の農夫の息子である父のフランツ・テオドール(1763年 - 1830年)は教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツ(1756年 - 1812年)は結婚前にウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年 - 1844年)、次男フェルディナント(1794年 - 1859年)、三男カール(1795年 - 1855年)、次いで第12子のフランツ、娘のテレジア(1801年 - 1878年)だった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。",
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"text": "フランツは5歳のときに父から普通教育を受け始め、6歳のときにリヒテンタールの学校に入学した。このころ、父は末息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは7歳ごろになると父の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、父はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。聖歌隊の仲間たちは、フランツの音楽的才能に一目を置いた。当時は演奏家として聴衆に注目されなければ音楽家としての成功の機会はないという時代だったため、しばしば聖歌隊の建物に隣接するピアノ倉庫にフランツを案内して、ピアノの練習を自由にできるように便宜を図った。そのおかげで、貧しい彼には触れられなかったような良質な楽器で練習、勉強をすることができた。",
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"text": "1808年10月、フランツはコンヴィクト(ドイツ語版)(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにフランツはおよそ17歳まで所属、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが聖シュテファン大聖堂で得た教育とほとんど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。フランツを支えた友人たちの多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun、1788年 - 1865年)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多くの友人たちが貧しいフランツを助け、彼には買えない五線紙など、誠実な支持と励ましを与えた。また、このコンヴィクトでヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。一方、才能は作曲の分野ですでに示しつつあった。1810年4月8日 - 5月1日の日付がある32ページにわたりびっしりと書かれた四手ピアノのための『幻想曲 ト長調』(D 1)、続いて1811年にはヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク(1760年 - 1802年)が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、弦楽五重奏のための『序曲 ハ短調』(D 8)、『弦楽四重奏曲第1番 ト短調/変ロ長調』(D 18)、『幻想曲 ト短調』(D 9)がある。室内楽曲が目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でカルテット演奏会が行われていたためである。これは後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものだった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残した。また野心的に力を注いだのは、1812年の母の葬儀用と言われる『キリエ』(D 31)と『サルヴェ・レジーナ』(D 106)(それぞれ合唱聖歌)、『管楽八重奏曲 ヘ長調』(D 72)である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなるカンタータ『父の聖名の祝日のために』(D 80)を残した。学校生活の最後には最初の交響曲である『交響曲第1番 ニ長調』(D 82)が生まれた。",
"title": "生涯"
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"text": "1813年の終わりにシューベルトは、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職した。このころ、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。彼は2年以上この仕事に就いていたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補った。サリエリから個人的な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。またシューベルトはグロープ一家と親密に交際しており、その家の娘テレーゼ・グロープ(1798年 - 1875年)は歌がうまくよい友人だった。彼は時間があれば素早く大量に作曲をした。完成された最初のオペラ『悪魔の別荘』(Des Teufels Lustschloß, D 84)と、最初の『ミサ曲第1番 ヘ長調』(D 105)はともに1814年に書かれ、同じ年に3曲の弦楽四重奏曲(第4番 ハ短調 D 46、第6番 ニ長調 D 74、第10番 変ホ長調 D 87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲第1番』の第1楽章、『潜水者』(D 77)や『糸を紡ぐグレートヒェン』(D 118)といった傑作を含む7つの歌曲が書かれた。",
"title": "生涯"
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"text": "1815年には、学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『交響曲第2番 変ロ長調』(D 125)が完成し、『交響曲第3番 ニ長調』(D 200)もそれに続いた。また、『ミサ曲第2番 ト長調』(D 167)と『ミサ曲第3番 変ロ長調』(D 324)の2つのミサ曲(前者は6日間で書き上げられた)、その他『ミサ曲第1番』のための新しい『ドナ・ノビス』(D 185)、『スターバト・マーテル イ短調』(D 383)、『サルヴェ・レジナ ヘ長調』(D 379)、オペラは『4年間の歩哨兵勤務』(Der Vierjahrige Posten, D 190)、『フェルナンド』(Fernando, D 220)、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ』(Claudine von Villa Bella, D 239)、『アドラスト』(Adrast, D 137、研究により1819年の作曲と推定)、『サラマンカの友人たち』(Die Freunde von Salamanka, D 326、会話の部分が失われている)の5曲が作曲された。他に『弦楽四重奏曲第9番 ト短調』(D 173)、3曲のピアノソナタ(第1番 ホ長調 D 157、第2番 ハ長調 D 279、第3番 ホ長調 D 459)、数曲のピアノ小品がある。これらの最盛期をなすのは146曲もの歌曲で、中にはかなり長い曲もあり、そのうち8曲は10月15日、7曲は10月19日の日付がある。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 7,
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"text": "1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(英語版)(1787年 - 1836年)と知り合った。この出会いは間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱のときもあったが、突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方でマイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。2人の関係は、シューベルトに対して一方的に奉仕するものだったという。",
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"text": "シューベルトの運命に最初の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた法律学生フランツ・フォン・ショーバー(1796年 - 1882年)がシューベルトを訪問し、教師を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛りつけられているという思いが強まっていた。父親の了解はすぐに得られ、春が去るころにはシューベルトはショーバーの客人になった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成させるとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたという。",
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"text": "1816年に作曲された作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のためのカンタータ『サリエリ氏の音楽活動50周年を祝して』(D 407)、もう1つのカンタータ『プロメテウス』(D 451)はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒たちのためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。彼は雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『ヨーゼフ・シュペンドゥを讃えるカンタータ』(作品128, D 472)である。もっとも重要な作品は、シューベルト自身の手によって『悲劇的』と名付けられた『交響曲第4番 ハ短調《悲劇的》』(D 417) であり、次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『交響曲第5番 変ロ長調』(D 485)、その他多少の教会音楽であった。これらはゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩だった。",
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"text": "この時期、友人の輪が次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768年 - 1840年)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタや幻想曲を演奏した。ゾンライトナー家は裕福な商人で、長男がコンヴィクトに所属していた縁もあって自宅を自由に使わせていたが、それは間もなく「シューベルティアーデ(ドイツ語版)」と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。",
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"text": "シューベルトは貧しかった。それというのも教師を辞めたうえ、公演で稼ぐこともできなかったからである。しかも、音楽作品をただでももらうという出版社はなかった。しかし、友人たちは真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、裕福な者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい人が紹介されたときの、「彼ができることは何か?」という質問がこの会の特徴をよく表している。",
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"text": "1818年は前年と同様、創作上は比較的実りがなかったものの、2つの点で特筆すべき年だった。1つ目は作品の公演が初めて行われたことである。演目は『イタリア風序曲第1番 ニ長調』(D 590)で、これはジョアキーノ・ロッシーニをパロディ化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。2つ目は初めて公式の招聘があったことである。これは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。",
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"text": "この年の作品には『ミサ曲第4番 ハ長調』(D 452)や『交響曲第6番 ハ長調』(D 589)、ツェレスでの生徒たちのための一連の四手ピアノのための作品、『孤独に』(D 620)、『聖母マリア像』(D 623)などを含む歌曲がある。秋のウィーンへの帰りに、ショーバーのところには滞在する部屋がないことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食のあと田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、あるいはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。歌曲の作曲家としての最初の公演は1819年2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌』(D121)が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取り、フォーグルとともに北部オーストリアを旅行した。シュタイアーでは『ピアノ五重奏曲 イ長調《ます》』(作品114, D 667)のパート譜をスコアなしで書き、友人を驚かせた。秋に自作の3曲をヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに送ったが、返事はなかった。",
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"text": "1820年に作られた作品には、進歩と形式の成熟が見られる。小品の数々に混じって、『水上を飛ぶ霊たちの歌』(D 705)や『詩篇第23《主は私の牧者で》』(作品132, D 706)などの声楽曲や、『弦楽四重奏曲第12番 ハ短調《四重奏断章》』(D 703)、ピアノ曲『幻想曲 ハ長調《さすらい人》』(作品15, D 760)などが誕生している。",
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"paragraph_id": 15,
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"text": "6月14日にオペラ『双子の兄弟』(Die Zwillingsbrüder, D 647)が、8月19日に劇付随音楽『魔法の竪琴』(Die Zauberharfe, D 644)が公演された。それまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭でのカルテット演奏会から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接することが求められ始めた。相変わらず出版社は冷淡だったが、友人のフォーグルが1821年2月8日にケルントナートーア劇場で歌曲『魔王』(作品1, D 328)を歌い、ようやくアントン・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781年 - 1858年)がシューベルトの作品の取次販売に同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後、この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてわずかな版権を受け取り始めた。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについては、多くの記事が見られる。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより舞台に向けられた。",
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"paragraph_id": 16,
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"text": "1821年の年の瀬にかけて、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アンフォンゾとエストレッラ』(Alfonso und Estrella, D 732)は受け入れられず、『フィエラブラス』(Fierrabras, D 796)も同じだった。『謀反人たち』(Die Verschworenen, D 787)は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠だった)。劇付随音楽『キプロスの女王ロザムンデ』(Rosamunde, Prinzessin von Zypern, D 797)は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アンフォンゾとエストレッラ』と『フィエラブラス』は、規模の点で公演が困難だった(たとえば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜)。しかし、『謀反人たち』は明るく魅力的な喜劇であり、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと知り合う。両者ともに親しい関係にはならなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの才能を認めていた。シューベルトもベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による8つの変奏曲 ホ短調』(作品10, D 624)を同年に出版するにあたり献呈している。しかしウェーバーはウィーンを離れ、新しい友人も現れなかった。この2年は全体として、彼の人生でもっとも暗い年月だった。",
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"paragraph_id": 18,
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"text": "1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲 ヘ長調』(作品166, D 803)や『大交響曲』のためのスケッチを書き、再びツェレスに戻った。また、ハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風ディヴェルティメント ト短調』(作品54, D 818)を作曲した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "舞台作品や公的な義務で忙しかったが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。まず1822年に『ミサ曲第5番 変イ長調』(D 678)が完成。さらに同年には『未完成交響曲』として知られる『交響曲第7番(旧第8番)ロ短調《未完成》』(D 759)にも着手している。さらにヴィルヘルム・ミュラー(1794年 - 1827年)の詩による歌曲集『美しき水車小屋の娘』(作品25, D 795)と、素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1824年までに、前記の作品を除き『《萎れた花》の主題による序奏と変奏曲 ホ短調』(D 802)、『弦楽四重奏曲第13番 イ短調《ロザムンデ》』(作品29, D 804)と『弦楽四重奏曲第14番 ニ短調《死と乙女》』(D 810)の2つの弦楽四重奏曲が作られている。また、同年11月に完成した『アルペジオーネソナタ イ短調』(D 821)は、当時、ウィーンのギター製作家であるヨハン・ゲオルク・シュタウファー(1778年 – 1853年)により開発されたばかりの新しい楽器「アルペジオーネ」を用いた試みである。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "過去数年の苦難は1825年の幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスからしばらくは解放された。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中にはウォルター・スコット(1771年 - 1832年)の詩による、有名な『エレンの歌第3番(アヴェ・マリア)』(D 839)を含む歌曲集『湖上の美人』(作品52)や歌曲『ノルマンの歌』(D 846)、『囚われし狩人の歌』(D 843)や『ピアノソナタ第16番 イ短調』(作品42, D 845)を作曲。スコットの詩による歌曲では、それまでの作品で最高額の収入を得ることができた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 22,
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"text": "1827年にグラーツへ短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。1つ目は1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。2つ目はオペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけ、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したが拒否され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして3つ目は1828年3月26日(ベートーヴェンの命日)に行われた、人生で初めてで生前唯一の、彼自身の作品の演奏会である。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1827年に、シューベルトは歌曲集『冬の旅』(作品89, D 911)やヴァイオリンとピアノのための『幻想曲 ハ長調』(作品159, D 934)、2つのピアノ三重奏曲(第1番 変ロ長調 作品99, D 898、第2番 変ホ長調 作品100, D 929)を書いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトはウィーン市民2万人の大葬列の中の一人として葬儀に参列した。その後、友人たちと酒場に行き、「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたという。そして、彼の寿命はその翌年で尽きた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "最晩年の1828年、『ミサ曲第6番 変ホ長調』(D 950)、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ』(D 962)、『弦楽五重奏曲 ハ長調』(D 956)、『ミサ曲第4番』のための2度目の『ベネディクトス』(D 961)、最後の3つのピアノソナタ(第19番 ハ短調 D 958、第20番 イ長調 D 959、第21番 変ロ長調 D 960)、『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D 957/965A)を完成させた。この歌曲集の内の6曲はハインリヒ・ハイネの詩につけられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集『歌の本』は1827年秋に出版されている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "また上記の通り、同年3月26日のベートーヴェンの命日には、シューベルトにとって最初で最後の自作による演奏会が行われており、演奏会自体は大衆的にも財政的にも成功したものの、直後にニコロ・パガニーニがウィーンで演奏会を行ったことで影が薄くなってしまった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(のちにアントン・ブルックナーの師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。しかし何度かのレッスンのあと、ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされた。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトの最後の手紙となった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "その後、シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。31歳没。フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあったヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も2人の当時の墓石が残っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "死後間もなく小品が出版されたが、当時の出版社はシューベルトを「シューベルティアーデ(ドイツ語版)のための作曲家」とみなして、大規模作品を出版することはなかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "シューベルトの死因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。シューベルト生誕200年の1997年には、改めてその人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "没後は「歌曲の王」という位置づけがなされ、歌曲以外の作品は『未完成交響曲』や『弦楽四重奏曲《死と乙女》』のような重要作を除いて放置に等しい状況だった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1838年にロベルト・シューマンがウィーンに立ち寄った際に、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問した。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった当時のままの状態で保存しており、シューマンはその机上で『ザ・グレート』の愛称で知られる『ハ長調の交響曲』がほこりに埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持ち帰った。その後フェリックス・メンデルスゾーンの指揮によって演奏され、『ノイエ・ツァイトシュリフト』紙で絶賛された。ちなみにこの交響曲の番号は、母国語がドイツ語の学者は「第7番」、再版のドイツのカタログでは「第8番」、英語を母国語とする学者は「第9番」として掲載するなど、いまだに統一されていない(下記を参照)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "その他の埋もれていた作品の復活に、1867年にウィーンを旅行したジョージ・グローヴ(1820年 - 1900年)とアーサー・サリヴァン(1842年 - 1900年)の2人が大きな功績を挙げた。この2人は7曲の交響曲、『ロザムンデ』の音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出した。こうして聴衆は埋もれていた音楽に興味を抱くようになり、最終的には楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定版として世に送り出された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "グローヴとサリヴァンに由来し、長年にわたって《失われた》交響曲にまつわる論争が続いてきた。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアルト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を1828年の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものではないが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「ニ長調」(D 963A)のスケッチを指していることは、音楽学者によってある程度受け入れられている。これは1970年代に発見され、ブライアン・ニューボールド(英語版)によって『交響曲第10番』として理解されている。シューベルトはリストの言葉でよく要約されている。曰く、「シューベルトはもっとも詩情豊かな音楽家である」。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "シューベルトの多くの作品に即興性が見られるが、これは彼が筆にインクの染みをつけたことがないほどの速筆だったことも関係している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "シューベルトは歌曲以外にも、未公開作品や未出版作品を大量に遺したため、研究は難航した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ピアノソナタなど、その他の作品が脚光を浴びるようになるのはシューベルト没後百年国際作曲コンクール(優勝者はクット・アッテルベリ)が1927年に開催される頃からであり、同時期にエルンスト・クルシェネクがシューベルトのピアノソナタの補筆完成版を出版した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンより格下に見られていたために、録音しようというピアニストは少数だったが、その黎明期に録音を果たした人物にヴァルター・ギーゼキングがいる。没後150年を迎えた1977年ごろになると、シューベルトのピアノソナタは演奏会で聴かれるようになり、長大なピアノソナタを繰り返しなしで演奏することが可能になった(かつては省略が当たり前だった)。現在は初期から後期までの作品が演奏会に現れる。補筆して演奏するパウル・バドゥラ=スコダ(ピアノソナタ第11番)のようなピアニストも珍しくない。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "新シューベルト全集(英語版)は現在、ベーレンライター出版社が全責任を取る形で出版に努めているが、オペラなどの部分はこれからも順次刊行予定である。音符の形やスコア全体のレイアウトはすべてコンピュータ出力で修正されているが、合唱作品はCarus社なども新しい版を出版している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "現在の浄書技術をもってしても、デクレッシェンドなのかアクセントなのかの謎は、完全には解明されていない。そのため、『未完成交響曲』の管楽器についた音は、いまだに奏者や指揮者によって解釈が異なり定着していない。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "小惑星(3917) Franz Schubertはフランツ・シューベルトにちなんで命名された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "シューベルトは一般的にロマン派の枠に入れられるが、その音楽、人生はウィーン古典派の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属している。貴族社会の作曲家から市民社会の作曲家へという点ではロマン派的であり、音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にあるが、年代的にはシューベルトの一生はベートーヴェンの後半生とほぼ重なっており、音楽的にも後期のベートーヴェンより時に古典的である。",
"title": "歴史的位置"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "同様に、時期的にも様式的にも古典派にかかる部分が大きいにもかかわらず、初期ロマン派として挙げられることの多い作曲家としてカール・マリア・フォン・ウェーバーがいるが、シューベルトにも自国語詞へのこだわりがあった。ドイツ語オペラの確立者としての功績を評価されるウェーバーと比べると大きな成果は挙げられなかったものの、オペラ分野ではイタリア・オペラの大家サリエリの門下でありながら、未完も含めてドイツ語ジングシュピールに取り組みつづけた。当時のウィーンではドイツ語オペラの需要は低く、ただでさえ知名度の低いシューベルトは上演機会すら得られないことが多かったにもかかわらず、この姿勢は変わらなかった。教会音楽は特性上ラテン語詞の曲が多いものの、それでも数曲のドイツ語曲を残し、歌曲に至ってはイタリア語曲が9曲に対してドイツ語曲が576曲という比率となっている。",
"title": "歴史的位置"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "「ドイツの国民的、民族的な詩」に対し「もっともふさわしい曲をつけて、本当にロマン的な歌曲を歌いだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語を介した民族主義をロマン派幕開けの一要素とする見解もある。",
"title": "歴史的位置"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "シューベルトは幼いころからハイドンやその弟のミヒャエル、モーツァルトやベートーヴェンの弦楽四重奏曲を家族で演奏し、コンヴィクトでもそれらの作曲家の交響曲をオーケストラで演奏、指揮していた。",
"title": "歴史的位置"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "シューベルトは当時ウィーンでもっとも偉大な音楽家だったベートーヴェンを尊敬していたが、それは畏怖の念に近いもので、ベートーヴェンの音楽自体は日記の中で「今日多くの作曲家に共通して見られる奇矯さの原因」としてむしろ敬遠していた。シューベルトは主題労作といった構築的な作曲法が苦手だったと考えられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来シューベルトの作風ではなかった。",
"title": "歴史的位置"
},
{
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"text": "むしろシューベルトが愛した作曲家はモーツァルトである。1816年6月14日、モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトはモーツァルトをこれ以上ないほど賞賛している。またザルツブルクへの旅行時、聖ペーター教会のミヒャエル・ハイドンの記念碑を訪れ、感動とともに涙を流したという日記も残されている。",
"title": "歴史的位置"
},
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"paragraph_id": 50,
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"text": "コンヴィクトからの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが書き残した回想文は、シューベルトが11歳のとき、「ベートーヴェンのあとで、何ができるだろう」と言ったと伝えている。さらにオーケストラでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲を演奏したときにはハイドンの交響曲のアダージョ楽章に深く心が動かされ、モーツァルトのト短調の交響曲(おそらく『第40番 K. 550』)については、なぜか全身が震えると言い、さらにメヌエットのトリオでは天使が歌っているようだと言った。ベートーヴェンについてはニ長調(第2番)、変ロ長調(第4番)、イ長調(第7番)に対して夢中になっていたが、のちにはハ短調(第5番)の方が一層優れていると言ったと伝えている。",
"title": "歴史的位置"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "ウェーバーとも生前に親交があった。1822年のウィーンでの『魔弾の射手』上演の際に知り合い、シューベルトのオペラ『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演する協力を約束したが、のちの『オイリアンテ』についてシューベルトが、「『魔弾の射手』の方がメロディがずっと好きだ」と言ったために、その約束は果たされなかった。",
"title": "歴史的位置"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "シューベルトはのちの作曲家に大きな影響を与えた。『ザ・グレート』を発見したシューマンは言うに及ばず、特に歌曲、交響曲においてフェリックス・メンデルスゾーン、ヨハネス・ブラームス、アントン・ブルックナー、ヨーゼフ・シュトラウス、フーゴ・ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウス、アントニン・ドヴォルザークなど、シューベルトの音楽を愛し、影響を受けた作曲家は多い。",
"title": "歴史的位置"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "シューベルトが私的に行った夜会は、彼の名前にちなんで「シューベルティアーデ(ドイツ語版)」と呼ばれた。現在もキャッチフレーズとして使われることがある。彼は協奏曲を作曲することはほとんどなく、その慎ましいイメージも「シューベルティアーデ」の性格を助長させた。",
"title": "歴史的位置"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "生前に出版された最後の作品が、1828年に出版された四手ピアノのための『ロンド イ長調』(作品107, D 951)だったことからうかがえるように、生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。同じ時代に、これと同数の作品を作曲できたライバルはカール・チェルニーのみである(31歳前後のチェルニーにはオペラや交響曲などの大規模出版作品は見当たらない)。それらに大規模作品は含まれず、極端な場合は委嘱作すら生前の出版はなく(『アルペジオーネソナタ』など)、没後も長期間にわたり出版が継続されている。最後の作品番号は1867年に出版された「作品173」であり、すでにシューベルト死去から30年以上が経過していた。",
"title": "歴史的位置"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "31歳でこの膨大な量は無名の作曲家では不可能であり、作曲家としてすでに成功と考えてよいという理由から、シューベルトが本当に貧しかったのか疑問視する声もある。また、シューベルトを描いた肖像画は何点も作成されており、それらは対象を美化している。名士であれば肖像画を実物より美しく描くことが当時の画家の責務だったため、こうした待遇は、シューベルトが名士であった証拠と考えることができる。シューベルトはグラーツ楽友協会から名誉ディプロマを授与された(未完成交響曲)ときには25歳に過ぎず、この時点で彼は無名ではなかったと考えられる。",
"title": "歴史的位置"
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"text": "また、シューベルトの死に際して、新聞は訃報を出している。",
"title": "歴史的位置"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "シューベルト作品の校訂は21世紀に入った現在でも簡単ではない。とくに「ヘアピン」とも呼ばれえる特大のアクセントのような記号をどう解釈するかが問題になっている。小節間をまたぐようにヘアピンがわたっているものもある。これをデクレッシェンドと解釈するか、もしくはアクセントと解釈するかが問題となる。また、シューベルトは鋭いスタッカティシモのような縦線を使う(「未完成」の第2楽章)こともあり、19世紀の出版譜では通常のスタッカートに直されている。これも元に戻す動きが見られる。",
"title": "作品演奏の諸問題"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "シューベルトはMM表記を出版作品以外は全く行っていないため、演奏家によって解釈の開きが大きい。",
"title": "作品演奏の諸問題"
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{
"paragraph_id": 59,
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"text": "ピアノ作品には、現代ピアノでは非常に難しいオクターヴの連続が『さすらい人幻想曲』ほかで頻繁に現れるが、これは当時の軽いダブル・エスケープメント発案以前のシングル・アクションではオクターヴ・グリッサンドが可能だったためである。親指と小指をアーチの形にして、横にスライドするだけでオクターブのレガートが達成できるが、ダブル・エスケープメントを含めたダブル・アクションを持ち鍵盤の深さが倍になった現代ピアノでは困難である。",
"title": "作品演奏の諸問題"
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{
"paragraph_id": 60,
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"text": "ラテン語のミサ曲では6曲すべてで典礼文の一部が欠落しているが、これも理由がわかっていない。典礼文の写しを所持しておりそれに誤脱があったという見解が一般的だが、聖歌隊で数多くのミサ曲を歌ってきたシューベルトが、クレドでのカトリック教会の信仰の本質的な部分の欠如に気づかなかったという説には無理があると思われる。おそらく自身はプロテスタント教会やカトリック教会に対して一線を引いたキリスト教信者という意味で、あえて削除したという説を唱える学者もいる。",
"title": "作品演奏の諸問題"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "シューベルトの1000近いスケッチ、未完を含む作品群は、オーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュ(Otto Erich Deutsch)により1951年に作られた英語の作品目録『Franz Schubert – Thematic Catalogue of all his works in chronological order』のドイチュ番号によって整理されている。シューベルトの場合、出版に際しての作品番号(op.)を持つものは170程度であるため、通常はドイチュ番号が使用されている。1978年にヴァルター・デュル(ドイツ語版)、アルノルト・ファイル(ドイツ語版)などによってドイツ語の改訂版『Franz Schubert – Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge』も作られた。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "日本語の完全な作品目録はまだ存在せず、かつての日本では作品番号を優先し、ドイチュ番号を後回しにしていたたが、現在はNHK-FMのアナウンサーもドイチュ番号をアナウンスするようになっている。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "ドイチュ自身は目録の序文において、「D」を自分の名前の略記ではなくシューベルトの作品を示す記号と捉えてほしいと述べている。これに応え、「D. ○○」とピリオドを打たず、Dと数字の間に半角スペースのみを入れ「D ○○」と表記するのがドイツ語圏や英語圏をはじめ国際的に主流となっている。通常「ドイチュ番号○○」などと読まれる。オーストリアなどではDeutsch-Verzeichnisという読み方のとおり、「DV ○○」と表記されることもある(オーストリア放送協会などで見られる)。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 64,
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"text": "シューベルトは現在楽譜が残っているものだけで14曲の交響曲の作曲を試みている。そのうち有名な「未完成」も含め6曲が未完成に終わっている。よく演奏されるのは、『ロ短調交響曲』(D 759、通称『未完成』)と、最後の完成された交響曲である『大ハ長調交響曲』(D 944、通称『ザ・グレート』)である。それ以外では『第5番 変ロ長調』(D 485)も親しまれている。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 65,
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"text": "シューベルト自身による標題は『悲劇的』と題された『第4番 ハ短調』(D 417)の1曲だけで、他は後世によるものである。『未完成』はその名の通り、完成したのは第2楽章までで、第3楽章が20小節(ピアノ・スケッチも途中まで)で終わっていることからこう呼ばれるようになった。第8番(旧第9番)の通称である『ザ・グレート』という名前はイギリスの出版社によってつけられたタイトルだと考えられているが、ドイツ語では《Die große Sinfonie C-Dur》であり、「偉大な」という意味合いはない(同じハ長調である第6番と比較して「大きい方」程度の意味しか持たない)。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "古い番号づけでは、完成された7曲に順に第7番まで番号が振られた。そして『未完成交響曲』は、4楽章構成の交響曲としては未完だが2楽章は完成しており、非常に美しい旋律で多くの人に愛好されているため「第8番」の番号が振られた。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "他の未完の交響曲のうち、『交響曲 ホ長調』(D 729)は4楽章のピアノスケッチで完成に近く(楽譜に「Fine」と書き添えてあることから、一応は完成したとみなす音楽学者もいる)、シューベルトの死後フェリックス・ヴァインガルトナーやブライアン・ニューボールド(英語版)らの手によって補筆され、全曲の演奏が可能になっている。このため、1951年のドイチュの目録では作曲年代順に、D 729に「第7番」が割り当てられ、『未完成』が「第8番」、『ザ・グレート』が「第9番」とされた。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "しかし、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)が1978年のドイチュ目録改訂で見直し、『未完成』が「第7番」、『ザ・グレート』が「第8番」とされた。最近ではこれに従うことが多くなってきているが、依然として1951年のドイチュ目録のまま『第7番 ホ長調 D 729』、『第8番 ロ短調 D 759』(『未完成』)、『第9番 ハ長調 D 944』(『ザ・グレート』)とされることもまだあり、さらには後述の『グムンデン=ガスタイン交響曲』を第9番、『ザ・グレート』を第10番とすることもあるなど、21世紀に入った現在でも番号づけは混乱している。日本では、NHKがドイチュ目録に合わせて「未完成=第7番」「ザ・グレート=第8番」にしている一方で、音楽評論家の金子建志は「長く親しみ慣れた番号を繰り上げるのは、単に混乱を引き起こすだけ」と主張している。そして、「ナンバー抜きで〈未完成〉〈グレイト〉というニックネームで呼べば、一番簡単で、問題が生じない」とこの問題に対する見解を述べている。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "交響曲の同定のために調性も古くから使われてきた。すなわち、第5番(D 485)を「変ロ長調交響曲」、『未完成』を「ロ短調交響曲」と呼ぶなどである。なお、ハ長調の交響曲は2曲あり、編成などから先に作曲された方(第6番 D 589)を「小ハ長調(交響曲)」(ドイツ語で「ディー・クライネ(Die kleine)」)、のちに作曲された方(D 944)を「大ハ長調(交響曲)」と呼ぶ。『ザ・グレート』(独語「ディー・グローセ(Die große)」の英訳)の呼称もここから来ている。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "シューベルトの手紙に言及があるものの楽譜が見つからず、幻の存在とされてきた『グムンデン=ガスタイン交響曲』(Gmunden-Gasteiner Sinfonie, D 849, 1825年)は、研究により20世紀中葉以降は『ザ・グレート』を指している可能性がきわめて高いとされている。もともとD 944は1828年の作曲と考えられていたためにこのD番号を持ち、「D 849」とは別であると考えられてきたが、この根拠となっていた楽譜の年号の記述が後世の加筆によると判明し、加筆前は1825年だったものと考えられている。このことが、グムンデン=ガスタイン交響曲は『ザ・グレート』であるという証拠とされている。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "一時は『グラン・デュオ』として知られる『四手のためのピアノソナタ ハ長調(英語版)』(D 812)が「D 849」の原曲ではないかと言われ、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがその説に基づいてオーケストレーションを施したこともある。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "シュトゥットガルトで「D 849」にあたるとされるホ長調の交響曲の筆写譜が「発見された」ことがある。この曲は、ギュンター・ノイホルト指揮のシュトゥットガルト放送交響楽団による演奏で録音され、南ドイツ放送でFM放送された。主題とその展開が『ザ・グレート』にそっくりで、シューベルトには『ロザムンデ』序曲の前によく似た「D 590」の序曲を書いていた前例があることから、スケッチのような意味で作ったという学説もあった。この曲は『ザ・グレート』と同じ素材と展開方法が使われ、下書き的役割を果たしたとも考えられた。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "楽器編成は「D 944」とまったく同じであり(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2、トロンボーン3、ティンパニ1対、弦五部)、",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "からなる、演奏時間約50分の作品となっていた。現在シュトゥットガルトのゴルドーニ (Goldoni) 出版社からヴェルナー・マーザー (Werner Maser) 校訂による楽譜が入手できる。録音は上述のものに続いて、ゲルハルト・ザムエル指揮シンシナティ・フィルハーモニー管弦楽団によるもの(Centaur: CRC2139)も発売された。しかし後日、このD 849とされたホ長調の交響曲は、1973年にヘンレ社に楽譜のコピーを提供したグンター・エルショルツ (Gunter Elsholz) がシューベルトの残した断片を再構成した偽作であることが判明した。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "このため、グムンデン=ガスタイン交響曲は『ザ・グレート』であるという説が現在も有力である。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "シューベルトが最後に着手した交響曲である『交響曲 ニ長調(英語版)』(D 936A)には、ペーター・ギュルケ(ドイツ語版)補筆版、ブライアン・ニューボールド補筆版などがある。異色なのはイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオの手による『レンダリング』である。『レンダリング』はスケッチの部分はスケッチのままで、それ以外の判然としないスケッチとスケッチの間の部分は現代音楽の手法でつなぎ合わせている。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "「D 936A」は自筆譜のままでは完成しておらず、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)は番号を附していないが、「第10番」などとされる場合もある。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "日本語版記事へのリンクを太字で示す。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "いくつかの歌曲には、後世の作曲家による管弦楽伴奏版やピアノ独奏への編曲版も存在する。ピアノ独奏用編曲についてはフランツ・リストやレオポルド・ゴドフスキーによるものが知られている。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "多くの分野に代表作を残したシューベルトとしてはもっとも評価が低い領域で、上演機会は少ない。クレメンス・フォン・メッテルニヒによるカールスバート決議に基づく検閲の被害に遭っている。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "シューベルトは詩の芸術性に無頓着で、時折凡庸な詩に作曲してしまうこともあったと言われている。確かに彼の歌曲にはゲーテやシラーといった大詩人以外に、現在その中にしか名を留めていない詩人の手によるものが多く存在している。ただしこれは「シューベルティアーデ」で友人たちの詩に作曲したものを演奏するという習慣があったことも影響している。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "シューベルトが作曲した詩人は多い順にゲーテ、マイアホーファー、ミュラー、シラー、そして重要な詩人としてマティソン(英語版)、ヘルティ(英語版)、コーゼガルテン(英語版)、クラウディウス(英語版)、クロップシュトック、ザイドル、リュッケルト、ハイネなどがいる。自分より前の世代に評価が定着していた詩人から、新しい時代の感性を持った詩人まで幅広い。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "シューベルトが入手したピアノとして、ベニグヌス・ザイドナーのピアノとアントン・ワルター&サンのピアノが挙げられる。ザイドナー製のピアノは、現在ウィーンのシューベルトの生家(Schubert Geburtshaus)に展示され、ワルター&サン製のピアノはウィーンの美術史美術館が所有している。シューベルトはまた、ウィーンのピアノ製作者コンラート・グラーフの楽器をよく知っていたことがわかっている。",
"title": "楽器"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "現在シューベルトの名が附されたコンクールは2つある。ひとつは長い伝統を持つドルトムントで行われる「シューベルト国際コンクールドルトムント」で、現在はリートデュオ部門とピアノソロ部門が交互に行われる。もうひとつはグラーツで行われる「フランツ・シューベルトと現代音楽のための国際室内楽コンクール」で、作曲部門と室内楽部門が併設されている。どちらもシューベルト作品のみでは競わないが、関連した楽曲や編成が焦点になっている。",
"title": "国際音楽コンクール"
}
] |
フランツ・ペーター・シューベルトは、オーストリアの作曲家。
|
{{半保護}}
{{Redirect|シューベルト}}
{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
|名前 = フランツ・シューベルト<br />Franz Schubert
|画像 = Franz Schubert by Wilhelm August Rieder 1875.jpg
|画像説明 = 1875年に描かれた油絵
|画像サイズ = 200px
|背景色 = classic
|出生名 = フランツ・ペーター・シューベルト<br />Franz Peter Schubert
|別名 = 歌曲の王
|出生 = [[1797年]][[1月31日]]<br />{{HRR1512}}<br />{{AUT1358}}、[[リヒテンタール (ウィーン)|リヒテンタール]]
|死没 = {{死亡年月日と没年齢|1797|1|31|1828|11|19}}<br />{{AUT1804}}、[[ウィーン]]
|ジャンル = [[ロマン派音楽]]
|職業 = [[作曲家]]
|活動期間 = [[1810年]] - 1828年
}}
[[File:Franz Schubert Signature.svg|180px|right]]
{{Portal クラシック音楽}}
'''フランツ・ペーター・シューベルト'''({{lang-de|Franz Peter Schubert}}{{Refnest|group="注釈"|「'''シューベルト'''({{IPA-de|ʃúːbərt}})」は[[舞台ドイツ語]]の発音を基にした読み方・表記だが、現代[[ドイツ語]]の発音では「'''シューバト'''({{IPA-de|'ʃuːbɐt}})」がより近い<ref>{{Cite book|year= 2005 | title =[[Duden]] Das Aussprachewörterbuch | publisher = Dudenverlag | edition = 6 | page = 712 | isbn =978-3-411-04066-7}}</ref>。}}, [[1797年]][[1月31日]] - [[1828年]][[11月19日]])は、[[オーストリア]]の[[作曲家]]。
== 生涯 ==
=== 誕生 ===
[[File:Alsergrund (Wien) - Schuberthaus (1).JPG|thumb|right|300px|シューベルトの生家]]
シューベルトは[[ウィーン]]郊外の[[リヒテンタール (ウィーン)|リヒテンタール]]で生まれた。メーレン([[モラヴィア]])から移住した[[ドイツ人|ドイツ系]][[東方植民|植民]]の農夫の息子である父のフランツ・テオドール(1763年 - 1830年)は[[教区]]の教師をしており、母エリーザベト・フィッツ(1756年 - 1812年)は結婚前にウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年 - 1844年)、次男[[フェルディナント・シューベルト|フェルディナント]](1794年 - 1859年)、三男カール(1795年 - 1855年)、次いで第12子の'''フランツ'''、娘のテレジア(1801年 - 1878年)だった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に[[音楽]]を教えた。
フランツは5歳のときに父から普通教育を受け始め、6歳のときにリヒテンタールの学校に入学した。このころ、父は末息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは7歳ごろになると父の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、父はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。聖歌隊の仲間たちは、フランツの音楽的才能に一目を置いた。当時は演奏家として聴衆に注目されなければ音楽家としての成功の機会はないという時代だったため、しばしば聖歌隊の建物に隣接するピアノ倉庫にフランツを案内して、ピアノの練習を自由にできるように便宜を図った。そのおかげで、貧しい彼には触れられなかったような良質な楽器で練習、勉強をすることができた。
=== コンヴィクト ===
[[1808年]]10月、フランツは{{仮リンク|コンヴィクト|de|Konvikt}}(寄宿制神学校)の[[奨学金]]を得た。その学校は[[アントニオ・サリエリ]]の指導の下にあり、[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン楽友協会音楽院]]の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにフランツはおよそ17歳まで所属、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]が聖シュテファン大聖堂で得た教育とほとんど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。フランツを支えた友人たちの多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun、1788年 - 1865年)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多くの友人たちが貧しいフランツを助け、彼には買えない五線紙など、誠実な支持と励ましを与えた。また、このコンヴィクトで[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。一方、才能は作曲の分野ですでに示しつつあった。[[1810年]]4月8日 - 5月1日の日付がある32ページにわたりびっしりと書かれた四手ピアノのための『幻想曲 ト長調』(D 1)、続いて[[1811年]]には[[ヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク]](1760年 - 1802年)が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、[[弦楽五重奏]]のための『序曲 ハ短調』(D 8)、『[[弦楽四重奏曲第1番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲第1番 ト短調/変ロ長調]]』(D 18)、『幻想曲 ト短調』(D 9)がある。室内楽曲が目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄が[[ヴァイオリン]]、父が[[チェロ]]、自分が[[ヴィオラ]]を受け持って、自宅で[[弦楽四重奏|カルテット]]演奏会が行われていたためである。これは後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものだった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残した。また野心的に力を注いだのは、[[1812年]]の母の葬儀用と言われる『キリエ』(D 31)と『[[サルヴェ・レジーナ]]』(D 106)(それぞれ合唱聖歌)、『管楽八重奏曲 ヘ長調』(D 72)である。[[1813年]]には父の[[聖名祝日]]のために、歌詞と音楽からなるカンタータ『父の聖名の祝日のために』(D 80)を残した。学校生活の最後には最初の交響曲である『[[交響曲第1番 (シューベルト)|交響曲第1番 ニ長調]]』(D 82)が生まれた。
=== 1813年 - 1815年 ===
[[File:Therese Grob.JPG|thumb|right|210px|シューベルトの初恋の相手といわれる[[テレーゼ・グロープ]]の肖像画]]
[[1813年]]の終わりにシューベルトは、[[変声|変声期]]を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職した。このころ、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。彼は2年以上この仕事に就いていたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補った。サリエリから個人的な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。またシューベルトはグロープ一家と親密に交際しており、その家の娘[[テレーゼ・グロープ]](1798年 - 1875年)は歌がうまくよい友人だった。彼は時間があれば素早く大量に作曲をした。完成された最初のオペラ『悪魔の別荘』(''Des Teufels Lustschloß'', D 84)と、最初の『[[ミサ曲第1番 (シューベルト)|ミサ曲第1番 ヘ長調]]』(D 105)はともに[[1814年]]に書かれ、同じ年に3曲の弦楽四重奏曲([[弦楽四重奏曲第4番 (シューベルト)|第4番 ハ短調 D 46]]、[[弦楽四重奏曲第6番 (シューベルト)|第6番 ニ長調 D 74]]、[[弦楽四重奏曲第10番 (シューベルト)|第10番 変ホ長調 D 87]])、数多くの短い器楽曲、『交響曲第1番』の第1楽章、『潜水者』(D 77)や『[[糸を紡ぐグレートヒェン]]』(D 118)といった傑作を含む7つの歌曲が書かれた。
[[1815年]]には、学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『[[交響曲第2番 (シューベルト)|交響曲第2番 変ロ長調]]』(D 125)が完成し、『[[交響曲第3番 (シューベルト)|交響曲第3番 ニ長調]]』(D 200)もそれに続いた。また、『[[ミサ曲第2番 (シューベルト)|ミサ曲第2番 ト長調]]』(D 167)と『[[ミサ曲第3番 (シューベルト)|ミサ曲第3番 変ロ長調]]』(D 324)の2つのミサ曲(前者は6日間で書き上げられた)、その他『ミサ曲第1番』のための新しい『ドナ・ノビス』(D 185)、『スターバト・マーテル イ短調』(D 383)、『サルヴェ・レジナ ヘ長調』(D 379)、オペラは『[[4年間の歩哨兵勤務]]』(''Der Vierjahrige Posten'', D 190)、『フェルナンド』(''Fernando'', D 220)、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ』(''Claudine von Villa Bella'', D 239)<ref group="注釈">シューベルトの友人である[[アンゼルム・ヒュッテンブレンナー]]のもとで自筆譜を保管中、ヒュッテンブレンナーが留守中に同居人が全3幕中、2・3幕の楽譜を焚き付けにしたため失われた。</ref>、『アドラスト』(''Adrast'', D 137、研究により1819年の作曲と推定)、『サラマンカの友人たち』(''Die Freunde von Salamanka'', D 326、会話の部分が失われている)の5曲が作曲された。他に『[[弦楽四重奏曲第9番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲第9番 ト短調]]』(D 173)、3曲のピアノソナタ([[ピアノソナタ第1番 (シューベルト)|第1番 ホ長調 D 157]]、[[ピアノソナタ第2番 (シューベルト)|第2番 ハ長調 D 279]]、[[ピアノソナタ第3番 (シューベルト)|第3番 ホ長調 D 459]])、数曲のピアノ小品がある。これらの最盛期をなすのは146曲もの歌曲で、中にはかなり長い曲もあり、そのうち8曲は10月15日、7曲は10月19日の日付がある。
1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人{{仮リンク|ヨハン・マイアホーファー|en|Johann Mayrhofer}}(1787年 - 1836年)と知り合った。この出会いは間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱のときもあったが、突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方でマイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。2人の関係は、シューベルトに対して一方的に奉仕するものだったという。
=== 1816年 ===
[[File:Karikatur_von_Johann_Michael_Voglund_Franz_Schubert%2C_circa_1825.jpg|thumb|right|210px|[[フランツ・フォン・ショーバー]]によって描かれたフォーグルとシューベルトの似顔絵(1825年)]]
シューベルトの運命に最初の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた法律学生[[フランツ・フォン・ショーバー]](1796年 - 1882年)がシューベルトを訪問し、教師を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトはライバッハ(現在の[[リュブリャナ]])の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛りつけられているという思いが強まっていた。父親の了解はすぐに得られ、春が去るころにはシューベルトはショーバーの客人になった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成させるとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたという。
1816年に作曲された作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のためのカンタータ『サリエリ氏の音楽活動50周年を祝して』(D 407)、もう1つのカンタータ『プロメテウス』(D 451)はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒たちのためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。彼は雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『ヨーゼフ・シュペンドゥを讃えるカンタータ』(作品128, D 472)である。もっとも重要な作品は、シューベルト自身の手によって『悲劇的』と名付けられた『[[交響曲第4番 (シューベルト)|交響曲第4番 ハ短調《悲劇的》]]』(D 417) であり、次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『[[交響曲第5番 (シューベルト)|交響曲第5番 変ロ長調]]』(D 485)、その他多少の[[教会音楽]]であった。これらは[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]や[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]からシューベルト自身が選んだ詩だった。
この時期、友人の輪が次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手[[ヨハン・ミヒャエル・フォーグル]](1768年 - 1840年)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタや幻想曲を演奏した。ゾンライトナー家は裕福な商人で、長男がコンヴィクトに所属していた縁もあって自宅を自由に使わせていたが、それは間もなく「{{仮リンク|シューベルティアーデ|de|Schubertiade}}」と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。
シューベルトは貧しかった。それというのも教師を辞めたうえ、公演で稼ぐこともできなかったからである。しかも、音楽作品をただでももらうという出版社はなかった。しかし、友人たちは真の[[ボヘミアン]]の寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、裕福な者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい人が紹介されたときの、「彼ができることは何か?」という質問がこの会の特徴をよく表している。
=== 1818年 ===
[[1818年]]は前年と同様、創作上は比較的実りがなかったものの、2つの点で特筆すべき年だった。1つ目は作品の公演が初めて行われたことである。演目は『[[イタリア風序曲 (シューベルト)|イタリア風序曲第1番 ニ長調]]』(D 590)で、これは[[ジョアキーノ・ロッシーニ]]を[[パロディ]]化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。2つ目は初めて公式の招聘があったことである。これは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。
この年の作品には『[[ミサ曲第4番 (シューベルト)|ミサ曲第4番 ハ長調]]』(D 452)や『[[交響曲第6番 (シューベルト)|交響曲第6番 ハ長調]]』(D 589)、ツェレスでの生徒たちのための一連の四手ピアノのための作品、『孤独に』(D 620)、『聖母マリア像』(D 623)などを含む歌曲がある。秋のウィーンへの帰りに、ショーバーのところには滞在する部屋がないことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食のあと田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、あるいはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。歌曲の作曲家としての最初の公演は[[1819年]]2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌』(D121)が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取り、フォーグルとともに北部オーストリアを旅行した。[[シュタイアー]]では『[[ピアノ五重奏曲 (シューベルト)|ピアノ五重奏曲 イ長調《ます》]]』(作品114, D 667)のパート譜をスコアなしで書き、友人を驚かせた。秋に自作の3曲を[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]に送ったが、返事はなかった。
=== 1820年・1821年 ===
[[1820年]]に作られた作品には、進歩と形式の成熟が見られる。小品の数々に混じって、『水上を飛ぶ霊たちの歌』(D 705)や『詩篇第23《主は私の牧者で》』(作品132, D 706)などの声楽曲や、『[[弦楽四重奏曲第12番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲第12番 ハ短調《四重奏断章》]]』(D 703)、ピアノ曲『[[さすらい人幻想曲|幻想曲 ハ長調《さすらい人》]]』(作品15, D 760)などが誕生している。
6月14日にオペラ『双子の兄弟』(''Die Zwillingsbrüder'', D 647)が、8月19日に[[付随音楽|劇付随音楽]]『魔法の竪琴』(''Die Zauberharfe'', D 644)が公演された。それまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭でのカルテット演奏会から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接することが求められ始めた。相変わらず出版社は冷淡だったが、友人のフォーグルが1821年2月8日に[[ケルントナートーア劇場]]で歌曲『[[魔王 (シューベルト)|魔王]]』(作品1, D 328)を歌い、ようやく[[アントン・ディアベリ]](作曲家・出版業者、1781年 - 1858年)がシューベルトの作品の取次販売に同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後、この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてわずかな版権を受け取り始めた。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについては、多くの記事が見られる。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより舞台に向けられた。
[[1821年]]の年の瀬にかけて、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アンフォンゾとエストレッラ』(''Alfonso und Estrella'', D 732)は受け入れられず、『[[フィエラブラス]]』(''Fierrabras'', D 796)も同じだった。『謀反人たち』(''Die Verschworenen'', D 787)は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠だった)。劇付随音楽『[[キプロスの女王ロザムンデ]]』(''Rosamunde, Prinzessin von Zypern'', D 797)は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アンフォンゾとエストレッラ』と『フィエラブラス』は、規模の点で公演が困難だった(たとえば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜)。しかし、『謀反人たち』は明るく魅力的な喜劇であり、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。
=== 1822年 - 1825年 ===
[[File:Franz Schubert by Wilhelm August Rieder.jpeg|thumb|right|300px|{{仮リンク|ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー|de|Wilhelm August Rieder}}によって描かれたシューベルトの肖像画(1825年)]]
[[1822年]]に[[カール・マリア・フォン・ウェーバー]]、そして[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]と知り合う。両者ともに親しい関係にはならなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの才能を認めていた。シューベルトもベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による8つの変奏曲 ホ短調』(作品10, D 624)を同年に出版するにあたり献呈している。しかしウェーバーはウィーンを離れ、新しい友人も現れなかった。この2年は全体として、彼の人生でもっとも暗い年月だった。
[[1824年]]春、シューベルトは壮麗な『[[八重奏曲 (シューベルト)|八重奏曲 ヘ長調]]』(作品166, D 803)や[[八重奏曲 (シューベルト)#「大交響曲」|『大交響曲』のためのスケッチ]]を書き、再びツェレスに戻った。また、ハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風ディヴェルティメント ト短調』(作品54, D 818)を作曲した。
舞台作品や公的な義務で忙しかったが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。まず1822年に『[[ミサ曲第5番 (シューベルト)|ミサ曲第5番 変イ長調]]』(D 678)が完成。さらに同年には『未完成交響曲』として知られる『[[交響曲第7番 (シューベルト)|交響曲第7番(旧第8番)ロ短調《未完成》]]』(D 759)にも着手している。さらに[[ヴィルヘルム・ミュラー]](1794年 - 1827年)の詩による歌曲集『[[美しき水車小屋の娘]]』(作品25, D 795)と、素晴らしい歌曲の数々が[[1825年]]に書かれた。
1824年までに、前記の作品を除き『《萎れた花》の主題による序奏と変奏曲 ホ短調』(D 802)、『[[弦楽四重奏曲第13番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲第13番 イ短調《ロザムンデ》]]』(作品29, D 804)と『[[弦楽四重奏曲第14番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲第14番 ニ短調《死と乙女》]]』(D 810)の2つの弦楽四重奏曲が作られている。また、同年11月に完成した『[[アルペジョーネソナタ|アルペジオーネソナタ イ短調]]』(D 821)は、当時、ウィーンのギター製作家であるヨハン・ゲオルク・シュタウファー(1778年 – 1853年)により開発されたばかりの新しい楽器「[[アルペジョーネ|アルペジオーネ]]」を用いた試みである。
過去数年の苦難は[[1825年]]の幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスからしばらくは解放された。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中には[[ウォルター・スコット]](1771年 - 1832年)の詩による、有名な『[[エレンの歌第3番|エレンの歌第3番(アヴェ・マリア)]]』(D 839)を含む歌曲集『湖上の美人』(作品52)や歌曲『ノルマンの歌』(D 846)、『囚われし狩人の歌』(D 843)や『[[ピアノソナタ第16番 (シューベルト)|ピアノソナタ第16番 イ短調]]』(作品42, D 845)を作曲。スコットの詩による歌曲では、それまでの作品で最高額の収入を得ることができた。
=== ウィーンでの晩年(1826年 - 1828年) ===
[[File:Franz Schubert c1827.jpg|thumb|right|210px|[[フランツ・アイブル]]によって描かれたシューベルトの肖像画(1827年)]]
[[File:Zentralfriedhof,Schubert,Franz.jpg|thumb|right|210px|[[ウィーン中央墓地]]にあるシューベルトの墓]]
[[1827年]]に[[グラーツ]]へ短い訪問をしていることを除けば、[[1826年]]から[[1828年]]にかけてウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。
晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。1つ目は1826年、新しい交響曲を[[ウィーン楽友協会]]に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。2つ目はオペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけ、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したが拒否され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして3つ目は1828年3月26日(ベートーヴェンの命日)に行われた、人生で初めてで生前唯一の、彼自身の作品の演奏会である。
1827年に、シューベルトは歌曲集『[[冬の旅]]』(作品89, D 911)やヴァイオリンとピアノのための『[[ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 (シューベルト)|幻想曲 ハ長調]]』(作品159, D 934)、2つのピアノ三重奏曲([[ピアノ三重奏曲第1番 (シューベルト)|第1番 変ロ長調 作品99, D 898]]、[[ピアノ三重奏曲第2番 (シューベルト)|第2番 変ホ長調 作品100, D 929]])を書いた。
1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトはウィーン市民2万人の大葬列の中の一人として葬儀に参列した。その後、友人たちと酒場に行き、「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたという<ref>[[前田昭雄]]『シューベルト(カラー版作曲家の生涯)』 (新潮文庫、1993年) ISBN 4101272115</ref><ref>山本藤枝『カラー版・子どもの伝記 シューベルト』(ポプラ社、1973年)</ref>。そして、彼の寿命はその翌年で尽きた。
最晩年の1828年、『[[ミサ曲第6番 (シューベルト)|ミサ曲第6番 変ホ長調]]』(D 950)、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ』(D 962)、『[[弦楽五重奏曲 (シューベルト)|弦楽五重奏曲 ハ長調]]』(D 956)、『ミサ曲第4番』のための2度目の『ベネディクトス』(D 961)、最後の3つのピアノソナタ([[ピアノソナタ第19番 (シューベルト)|第19番 ハ短調 D 958]]、[[ピアノソナタ第20番 (シューベルト)|第20番 イ長調 D 959]]、[[ピアノソナタ第21番 (シューベルト)|第21番 変ロ長調 D 960]])、『[[白鳥の歌 (シューベルト)|白鳥の歌]]』として有名な歌曲集(D 957/965A)を完成させた。この歌曲集の内の6曲は[[ハインリヒ・ハイネ]]の詩につけられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集『歌の本』は1827年秋に出版されている。
また上記の通り、同年3月26日のベートーヴェンの命日には、シューベルトにとって最初で最後の自作による演奏会が行われており、演奏会自体は大衆的にも財政的にも成功したものの、直後に[[ニコロ・パガニーニ]]がウィーンで演奏会を行ったことで影が薄くなってしまった。
シューベルトは[[対位法]]の理論家として高名だった作曲家[[ジーモン・ゼヒター]](のちに[[アントン・ブルックナー]]の師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。しかし何度かのレッスンのあと、ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされた。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトの最後の手紙となった。
その後、シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。31歳没。フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。
遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあったヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。1888年に両者の遺骸は[[ウィーン中央墓地]]に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も2人の当時の墓石が残っている。
死後間もなく小品が出版されたが、当時の出版社はシューベルトを「{{仮リンク|シューベルティアーデ|de|Schubertiade}}のための作曲家」とみなして、大規模作品を出版することはなかった。
シューベルトの死因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの[[腸チフス]]であったとも、エステルハージ家の女中から感染した[[梅毒]]の治療のために投与された[[水銀]]が体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。シューベルト生誕200年の1997年には、改めてその人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。
=== 死後 ===
==== 19世紀 ====
没後は「歌曲の王」という位置づけがなされ、歌曲以外の作品は『[[交響曲第7番 (シューベルト)|未完成交響曲]]』や『[[弦楽四重奏曲第14番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲《死と乙女》]]』のような重要作を除いて放置に等しい状況だった。
[[1838年]]に[[ロベルト・シューマン]]がウィーンに立ち寄った際に、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問した。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった当時のままの状態で保存しており、シューマンはその机上で『ザ・グレート』の愛称で知られる『[[交響曲第8番 (シューベルト)|ハ長調の交響曲]]』がほこりに埋もれているのを発見し、[[ライプツィヒ]]に持ち帰った。その後[[フェリックス・メンデルスゾーン]]の指揮によって演奏され、『ノイエ・ツァイトシュリフト』紙で絶賛された。ちなみにこの交響曲の番号は、母国語がドイツ語の学者は「第7番」、再版のドイツのカタログでは「第8番」、英語を母国語とする学者は「第9番」として掲載するなど、いまだに統一されていない(下記を参照)。
その他の埋もれていた作品の復活に、[[1867年]]にウィーンを旅行した[[ジョージ・グローヴ]](1820年 - 1900年)と[[アーサー・サリヴァン]](1842年 - 1900年)の2人が大きな功績を挙げた。この2人は7曲の交響曲、『ロザムンデ』の音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出した。こうして聴衆は埋もれていた音楽に興味を抱くようになり、最終的には楽譜出版社[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]による決定版として世に送り出された。
グローヴとサリヴァンに由来し、長年にわたって《失われた》交響曲にまつわる論争が続いてきた。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアルト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を[[1828年]]の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものではないが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「ニ長調」(D 963A)のスケッチを指していることは、音楽学者によってある程度受け入れられている。これは1970年代に発見され、{{仮リンク|ブライアン・ニューボールド|en|Brian Newbould}}によって『交響曲第10番』として理解されている。シューベルトは[[フランツ・リスト|リスト]]の言葉でよく要約されている。曰く、「シューベルトはもっとも詩情豊かな音楽家である」。
シューベルトの多くの作品に即興性が見られるが、これは彼が筆にインクの染みをつけたことがないほどの速筆だったことも関係している。
==== 20世紀 ====
[[File:Schubert-Klimt.jpg|thumb|right|300px|[[グスタフ・クリムト]]によって描かれたシューベルト<br>「ピアノを弾くシューベルト」(1899年)]]
シューベルトは歌曲以外にも、未公開作品や未出版作品を大量に遺したため、研究は難航した。
ピアノソナタなど、その他の作品が脚光を浴びるようになるのは[[シューベルト没後百年国際作曲コンクール]](優勝者は[[クット・アッテルベリ]])が1927年に開催される頃からであり、同時期に[[エルンスト・クルシェネク]]がシューベルトのピアノソナタの補筆完成版を出版した。
シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンより格下に見られていたために、録音しようというピアニストは少数だったが、その黎明期に録音を果たした人物に[[ヴァルター・ギーゼキング]]がいる。没後150年を迎えた1977年ごろになると、シューベルトのピアノソナタは演奏会で聴かれるようになり、長大なピアノソナタを繰り返しなしで演奏することが可能になった(かつては省略が当たり前だった)。現在は初期から後期までの作品が演奏会に現れる。補筆して演奏する[[パウル・バドゥラ=スコダ]]([[ピアノソナタ第11番 (シューベルト)|ピアノソナタ第11番]])のようなピアニストも珍しくない。
{{仮リンク|新シューベルト全集|en|New Schubert Edition}}は現在、[[ベーレンライター出版社]]が全責任を取る形で出版に努めているが、オペラなどの部分はこれからも順次刊行予定である。音符の形やスコア全体のレイアウトはすべてコンピュータ出力で修正されているが、合唱作品はCarus社なども新しい版を出版している。
現在の浄書技術をもってしても、デクレッシェンドなのかアクセントなのかの謎は、完全には解明されていない。そのため、『[[交響曲第7番 (シューベルト)|未完成交響曲]]』の管楽器についた音は、いまだに奏者や指揮者によって解釈が異なり定着していない。
[[小惑星]][[フランツ・シューベルト (小惑星)|(3917) Franz Schubert]]はフランツ・シューベルトにちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=3917|title=(3917) Franz Schubert = 1961 CX = 1976 GT2 = 1977 RU1 = 1981 TY3 = 1987 HU1|publisher=MPC|accessdate=2021-09-23}}</ref>。
== 歴史的位置 ==
=== ロマン派の幕開け ===
シューベルトは一般的に[[ロマン派音楽|ロマン派]]の枠に入れられるが、その音楽、人生はウィーン[[古典派音楽|古典派]]の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属している。貴族社会の作曲家から市民社会の作曲家へという点ではロマン派的であり、音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にあるが、年代的にはシューベルトの一生はベートーヴェンの後半生とほぼ重なっており、音楽的にも後期のベートーヴェンより時に古典的である。
同様に、時期的にも様式的にも古典派にかかる部分が大きいにもかかわらず、初期ロマン派として挙げられることの多い作曲家として[[カール・マリア・フォン・ウェーバー]]がいるが、シューベルトにも自国語詞へのこだわりがあった。ドイツ語オペラの確立者としての功績を評価されるウェーバーと比べると大きな成果は挙げられなかったものの、オペラ分野ではイタリア・オペラの大家[[アントニオ・サリエリ|サリエリ]]の門下でありながら、未完も含めてドイツ語[[ジングシュピール]]に取り組みつづけた。当時のウィーンではドイツ語オペラの需要は低く、ただでさえ知名度の低いシューベルトは上演機会すら得られないことが多かったにもかかわらず、この姿勢は変わらなかった<ref>井形ちずる『シューベルトのオペラ』([[水曜社]]、2004年)</ref>。[[教会音楽]]は特性上[[ラテン語]]詞の曲が多いものの、それでも数曲のドイツ語曲を残し、歌曲に至っては[[イタリア語]]曲が9曲に対して[[ドイツ語]]曲が576曲という比率となっている。
「ドイツの国民的、民族的な詩」に対し「もっともふさわしい曲をつけて、本当にロマン的な歌曲を歌いだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語を介した[[民族主義]]をロマン派幕開けの一要素とする見解もある<ref>[[門馬直美]]『西洋音楽史概説』(春秋社、1976年)</ref>。
=== 他の作曲家との関係 ===
シューベルトは幼いころから[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]やその弟の[[ミヒャエル・ハイドン|ミヒャエル]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の弦楽四重奏曲を家族で演奏し、コンヴィクトでもそれらの作曲家の交響曲をオーケストラで演奏、指揮していた。
シューベルトは当時ウィーンでもっとも偉大な音楽家だったベートーヴェンを尊敬していたが、それは畏怖の念に近いもので、ベートーヴェンの音楽自体は日記の中で「今日多くの作曲家に共通して見られる奇矯さの原因」としてむしろ敬遠していた。シューベルトは[[主題労作]]といった構築的な作曲法が苦手だったと考えられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来シューベルトの作風ではなかった。
むしろシューベルトが愛した作曲家はモーツァルトである。1816年6月14日、モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトはモーツァルトをこれ以上ないほど賞賛している。また[[ザルツブルク]]への旅行時、[[聖ペーター教会]]のミヒャエル・ハイドンの記念碑を訪れ、感動とともに涙を流したという日記も残されている。
コンヴィクトからの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが書き残した回想文は、シューベルトが11歳のとき、「ベートーヴェンのあとで、何ができるだろう」と言ったと伝えている。さらにオーケストラでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲を演奏したときにはハイドンの交響曲のアダージョ楽章に深く心が動かされ、モーツァルトのト短調の交響曲(おそらく『[[交響曲第40番 (モーツァルト)|第40番 K. 550]]』)については、なぜか全身が震えると言い、さらにメヌエットのトリオでは天使が歌っているようだと言った。ベートーヴェンについては[[交響曲第2番 (ベートーヴェン)|ニ長調(第2番)]]、[[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|変ロ長調(第4番)]]、[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|イ長調(第7番)]]に対して夢中になっていたが、のちには[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|ハ短調(第5番)]]の方が一層優れていると言ったと伝えている。
ウェーバーとも生前に親交があった。1822年のウィーンでの『[[魔弾の射手]]』上演の際に知り合い、シューベルトのオペラ『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演する協力を約束したが、のちの『[[オイリアンテ]]』についてシューベルトが、「『魔弾の射手』の方がメロディがずっと好きだ」と言ったために、その約束は果たされなかった。
シューベルトはのちの作曲家に大きな影響を与えた。『ザ・グレート』を発見したシューマンは言うに及ばず、特に歌曲、交響曲において[[フェリックス・メンデルスゾーン]]、[[ヨハネス・ブラームス]]、[[アントン・ブルックナー]]、[[ヨーゼフ・シュトラウス]]、[[フーゴ・ヴォルフ]]、[[リヒャルト・シュトラウス]]、[[アントニン・ドヴォルザーク]]など、シューベルトの音楽を愛し、影響を受けた作曲家は多い。
=== シューベルティアーデ ===
[[File:Julius Schmid Schubertiade.jpg|thumb|right|360px|{{仮リンク|ユリウス・シュミット|de|Julius Schmid (painter)}}による絵画『{{仮リンク|シューベルティアーデ|de|Schubertiade}}』]]
シューベルトが私的に行った夜会は、彼の名前にちなんで「{{仮リンク|シューベルティアーデ|de|Schubertiade}}」と呼ばれた。現在もキャッチフレーズとして使われることがある。彼は協奏曲を作曲することはほとんどなく、その慎ましいイメージも「シューベルティアーデ」の性格を助長させた。
生前に出版された最後の作品が、1828年に出版された四手ピアノのための『ロンド イ長調』(作品107, D 951)だったことからうかがえるように、生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。同じ時代に、これと同数の作品を作曲できた[[ライバル]]は[[カール・チェルニー]]のみである(31歳前後のチェルニーには[[オペラ]]や[[交響曲]]などの大規模出版作品は見当たらない)。それらに大規模作品は含まれず、極端な場合は委嘱作すら生前の出版はなく(『アルペジオーネソナタ』など)、没後も長期間にわたり出版が継続されている。最後の作品番号は1867年に出版された「作品173」であり、すでにシューベルト死去から30年以上が経過していた。
31歳でこの膨大な量は無名の作曲家では不可能であり、作曲家としてすでに成功と考えてよいという理由から、シューベルトが本当に貧しかったのか疑問視する声もある<ref>[http://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?code=000090 音楽之友社 新訂標準音楽辞典 第二版]のシューベルトの項</ref>。また、シューベルトを描いた肖像画は何点も作成されており、それらは対象を美化している。名士であれば肖像画を実物より美しく描くことが当時の画家の責務だったため、こうした待遇は、シューベルトが名士であった証拠と考えることができる。シューベルトはグラーツ楽友協会から名誉ディプロマを授与された([[交響曲第7番 (シューベルト)|未完成交響曲]])ときには25歳に過ぎず、この時点で彼は無名ではなかったと考えられる。
また、シューベルトの死に際して、新聞は訃報を出している。
== 作品演奏の諸問題 ==
シューベルト作品の校訂は21世紀に入った現在でも簡単ではない。とくに「ヘアピン」とも呼ばれえる特大のアクセントのような記号<ref>{{Cite web |url = https://www.baerenreiter.com/en/shop/product/details/BA9121/|title = Lieder, Volume 1 |publisher = www.baerenreiter.com |date = |accessdate = 2019-12-02}}</ref>をどう解釈するかが問題になっている。小節間をまたぐようにヘアピン<ref>{{Cite web |url = https://archive.is/e6zUN|title = The accent question in Schubert: An old theme with new variations |publisher = www.henle.de |date = |accessdate = 2019-12-02}}</ref>がわたっているものもある。これをデクレッシェンドと解釈するか、もしくはアクセントと解釈するかが問題となる。また、シューベルトは鋭い[[演奏記号#アーティキュレーションを示す記号|スタッカティシモ]]のような縦線を使う(「未完成」の第2楽章)こともあり、19世紀の出版譜では通常のスタッカートに直されている。これも元に戻す動きが見られる。
シューベルトは[[メトロノーム|MM表記]]を出版作品<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191204170147/http://openaccess.city.ac.uk/id/eprint/16965/1/Rakitzis,%20Vasileios.pdf|title = Figure 20 Schubert D 935/3 bar 28, Cortot's tempo flexibility (1920 recording) |publisher = openaccess.city.ac.uk |date = |accessdate = 2019-12-04}}</ref>以外は全く行っていないため<ref>{{Cite web |url = https://www.google.co.jp/search?q=schubert+the+great+manuscript&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwi_l4OJvJzmAhXW6XMBHbc3Bg0Q_AUoAXoECA4QAw&biw=1366&bih=663|title = Schubert's Maniscripts |publisher = www.google.co.jp/ |date = |accessdate = 2019-12-04}}</ref>、演奏家によって解釈の開きが大きい。
ピアノ作品には、現代ピアノでは非常に難しい[[オクターヴ]]の連続が『[[さすらい人幻想曲]]』ほかで頻繁に現れるが、これは当時の軽いダブル・エスケープメント発案以前のシングル・アクションではオクターヴ・グリッサンドが可能だったためである<ref>ベートーヴェンの『[[ピアノソナタ第21番 (ベートーヴェン)|ヴァルトシュタイン]]』あるいは『[[ピアノ協奏曲第1番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第1番]]』。</ref>。親指と小指をアーチの形にして、横にスライドするだけでオクターブのレガートが達成できるが、ダブル・エスケープメントを含めたダブル・アクションを持ち鍵盤の深さが倍になった現代ピアノでは困難である<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20191204112427/https://orca.cf.ac.uk/54278/1/U584082.pdf|title = Howard Ferguson has drawn attention to the double-octave triplets in the final phrase of D784・・・ |publisher = orca.cf.ac.uk |date = |accessdate = 2019-12-03}}</ref>。
[[ラテン語]]の[[ミサ曲]]では6曲すべてで典礼文の一部が欠落しているが<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191204112256/https://currentmusicology.columbia.edu/wp-content/uploads/sites/13/2015/03/current.musicology.70.gingerich.61-99.pdf|title = The one passage omitted in all of Schubert's masses is "Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ec- clesiam" |publisher = currentmusicology.columbia.edu |date = |accessdate = 2019-12-03}}</ref>、これも理由がわかっていない。典礼文の写しを所持しておりそれに誤脱があったという見解が一般的だが、聖歌隊で数多くのミサ曲を歌ってきたシューベルトが、クレドでのカトリック教会の信仰の本質的な部分の欠如に気づかなかったという説には無理があると思われる。おそらく自身はプロテスタント教会やカトリック教会に対して一線を引いたキリスト教信者という意味で、あえて削除したという説を唱える学者もいる<ref>『最新名曲解説全集 第22巻 声楽曲2』のシューベルトの項</ref>。
== おもな作品 ==
{{See also|シューベルトの楽曲一覧}}
=== ドイチュ番号 ===
シューベルトの1000近いスケッチ、未完を含む作品群は、オーストリアの音楽学者[[オットー・エーリヒ・ドイチュ]](Otto Erich Deutsch)により1951年に作られた英語の作品目録『Franz Schubert – Thematic Catalogue of all his works in chronological order』の[[ドイチュ番号]]によって整理されている。シューベルトの場合、出版に際しての[[作品番号]](op.)を持つものは170程度であるため、通常はドイチュ番号が使用されている。1978年に{{仮リンク|ヴァルター・デュル|de|Walther Dürr}}、{{仮リンク|アルノルト・ファイル|de|Arnold Feil}}などによってドイツ語の改訂版『Franz Schubert – Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge』も作られた。
日本語の完全な作品目録はまだ存在せず、かつての日本では作品番号を優先し、ドイチュ番号を後回しにしていたたが、現在は[[NHK-FM]]のアナウンサーもドイチュ番号をアナウンスするようになっている。
ドイチュ自身は目録の序文において、「D」を自分の名前の略記ではなくシューベルトの作品を示す記号と捉えてほしいと述べている。これに応え、「D. ○○」とピリオドを打たず、Dと数字の間に半角スペースのみを入れ「D ○○」と表記するのがドイツ語圏や英語圏をはじめ国際的に主流となっている<ref group="注釈">[[:de:Deutsch-Verzeichnis]], [[:en:Schubert Thematic Catalogue]], [[:it:Catalogo_Deutsch]]の本文における表記を参照のこと。</ref>。通常「ドイチュ番号○○」などと読まれる。オーストリアなどではDeutsch-Verzeichnisという読み方のとおり、「DV ○○」と表記されることもある([[オーストリア放送協会]]などで見られる<ref>[http://oe1.orf.at/programm/20151116/409591 Guten Morgen Österreich]</ref>)。
=== 交響曲 ===
シューベルトは現在楽譜が残っているものだけで14曲の交響曲の作曲を試みている。そのうち有名な「未完成」も含め6曲が未完成に終わっている。よく演奏されるのは、『[[交響曲第7番 (シューベルト)|ロ短調交響曲]]』(D 759、通称『'''未完成'''』)と、最後の完成された交響曲である『[[交響曲第8番 (シューベルト)|大ハ長調交響曲]]』(D 944、通称『'''ザ・グレート'''』)である。それ以外では『[[交響曲第5番 (シューベルト)|第5番 変ロ長調]]』(D 485)も親しまれている。
シューベルト自身による標題は『悲劇的』と題された『[[交響曲第4番 (シューベルト)|第4番 ハ短調]]』(D 417)の1曲だけで、他は後世によるものである。『未完成』はその名の通り、完成したのは第2楽章までで、第3楽章が20小節(ピアノ・スケッチも途中まで)で終わっていることからこう呼ばれるようになった。第8番(旧第9番)の通称である『ザ・グレート』という名前はイギリスの出版社によってつけられたタイトルだと考えられているが、ドイツ語では《Die große Sinfonie C-Dur》であり、「偉大な」という意味合いはない(同じハ長調である[[交響曲第6番 (シューベルト)|第6番]]と比較して「大きい方」程度の意味しか持たない)。
==== 交響曲の番号づけ ====
古い番号づけでは、完成された7曲に順に第7番まで番号が振られた。そして『未完成交響曲』は、4楽章構成の交響曲としては未完だが2楽章は完成しており、非常に美しい旋律で多くの人に愛好されているため「第8番」の番号が振られた。
他の未完の交響曲のうち、『[[交響曲ホ長調 (シューベルト)|交響曲 ホ長調]]』(D 729)は4楽章のピアノスケッチで完成に近く(楽譜に「Fine」と書き添えてあることから、一応は完成したとみなす音楽学者もいる<ref>金子建志『交響曲の名曲 1 こだわり派のための名曲徹底分析』(音楽之友社、1997年)、25ページ。</ref>)、シューベルトの死後[[フェリックス・ワインガルトナー|フェリックス・ヴァインガルトナー]]や{{仮リンク|ブライアン・ニューボールド|en|Brian Newbould}}らの手によって補筆され、全曲の演奏が可能になっている。このため、1951年のドイチュの目録では作曲年代順に、D 729に「第7番」が割り当てられ、『未完成』が「第8番」、『[[交響曲第8番 (シューベルト) |ザ・グレート]]』が「第9番」とされた。
しかし、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)が1978年のドイチュ目録改訂で見直し、『未完成』が「第7番」、『ザ・グレート』が「第8番」とされた。最近ではこれに従うことが多くなってきているが、依然として1951年のドイチュ目録のまま『第7番 ホ長調 D 729』、『第8番 ロ短調 D 759』(『未完成』)、『第9番 ハ長調 D 944』(『ザ・グレート』)とされることもまだあり、さらには[[#グムンデン=ガスタイン交響曲|後述]]の『グムンデン=ガスタイン交響曲』を第9番、『ザ・グレート』を第10番とすることもあるなど、21世紀に入った現在でも番号づけは混乱している。日本では、[[日本放送協会|NHK]]がドイチュ目録に合わせて「未完成=第7番」「ザ・グレート=第8番」にしている一方で、音楽評論家の[[金子建志]]は「長く親しみ慣れた番号を繰り上げるのは、単に混乱を引き起こすだけ」と主張している<ref>金子建志『交響曲の名曲 1 こだわり派のための名曲徹底分析』(音楽之友社、1997年)、133ページ。</ref>。そして、「ナンバー抜きで〈未完成〉〈グレイト〉というニックネームで呼べば、一番簡単で、問題が生じない」とこの問題に対する見解を述べている。
交響曲の同定のために[[調|調性]]も古くから使われてきた。すなわち、第5番(D 485)を「変ロ長調交響曲」、『未完成』を「ロ短調交響曲」と呼ぶなどである。なお、ハ長調の交響曲は2曲あり、編成などから先に作曲された方(第6番 D 589)を「小ハ長調(交響曲)」(ドイツ語で「ディー・クライネ(Die kleine)」)、のちに作曲された方(D 944)を「大ハ長調(交響曲)」と呼ぶ。『ザ・グレート』(独語「ディー・グローセ(Die große)」の英訳)の呼称もここから来ている。
==== グムンデン=ガスタイン交響曲 ====
シューベルトの手紙に言及があるものの楽譜が見つからず、幻の存在とされてきた『グムンデン=ガスタイン交響曲』(''Gmunden-Gasteiner Sinfonie'', D 849, 1825年)は、研究により20世紀中葉以降は『ザ・グレート』を指している可能性がきわめて高いとされている。もともとD 944は1828年の作曲と考えられていたためにこのD番号を持ち、「D 849」とは別であると考えられてきたが、この根拠となっていた楽譜の年号の記述が後世の加筆によると判明し、加筆前は1825年だったものと考えられている。このことが、グムンデン=ガスタイン交響曲は『ザ・グレート』であるという証拠とされている。
一時は『グラン・デュオ』として知られる『{{仮リンク|四手のためのピアノソナタD812|label=四手のためのピアノソナタ ハ長調|en|Sonata in C major for piano four-hands, D 812 (Schubert)}}』(D 812)が「D 849」の原曲ではないかと言われ、ヴァイオリニストの[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]がその説に基づいて[[管弦楽法|オーケストレーション]]を施したこともある。
===== グムンデン=ガスタイン交響曲の偽作 =====
[[シュトゥットガルト]]で「D 849」にあたるとされるホ長調の交響曲の筆写譜が「発見された」ことがある<ref>[https://groups.google.com/forum/#!topic/rec.music.classical/K1br6hAv5wA Schubert's Symphonies - A New Symphony & A Review - Dave Lampson]</ref>。この曲は、[[ギュンター・ノイホルト]]指揮の[[シュトゥットガルト放送交響楽団]]による演奏で録音され、[[南ドイツ放送]]でFM放送された。主題とその展開が『ザ・グレート』にそっくりで、シューベルトには『[[ロザムンデ]]』序曲の前によく似た「D 590」の序曲を書いていた前例があることから、スケッチのような意味で作ったという学説もあった。この曲は『ザ・グレート』と同じ素材と展開方法が使われ、下書き的役割を果たしたとも考えられた。
楽器編成は「D 944」とまったく同じであり([[フルート]]、[[オーボエ]]、[[クラリネット]]、[[ファゴット]]、[[ホルン]]、[[トランペット]]各2、[[トロンボーン]]3、[[ティンパニ]]1対、[[弦五部]])、
* 第1楽章:Andante molto-Allegro(8分の6拍子 - 2分の3拍子、[[ホ長調]]、446小節)
* 第2楽章:Scherzo un poco agitato(4分の3拍子、[[嬰ハ短調]]、117小節)
* 第3楽章:Andante con moto(4分の2拍子、[[ホ短調]]、146小節)
* 第4楽章:Finale Presto(8分の6拍子、[[ホ長調]]、1066小節)
からなる、演奏時間約50分の作品となっていた。現在シュトゥットガルトのゴルドーニ (Goldoni) 出版社からヴェルナー・マーザー (Werner Maser) 校訂<ref>full score SCHUBERT d.849 E major symphony GOLDONI ISBN 3 922044 05 0 GOLDONI , November 1982 . hardback in linenboards , 23x28cm; full score in facsimile of the purported d.849 GASTEIN symphony; Includes full critical analysis (in german) by Gunter Elsholz & Reimut Vogel 39 + 277pages</ref>による楽譜が入手できる。録音は上述のものに続いて、ゲルハルト・ザムエル指揮シンシナティ・フィルハーモニー管弦楽団によるもの(Centaur: CRC2139)<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20131203052113/http://www.prestoclassical.co.uk/r/Centaur/CRC2139|title = Schubert: Symphony in E major, "1825"|publisher = www.prestoclassical.co.uk|date = |accessdate = 2019-12-02}}</ref>も発売された。しかし後日、このD 849とされたホ長調の交響曲は、1973年にヘンレ社に楽譜のコピーを提供したグンター・エルショルツ (Gunter Elsholz) がシューベルトの残した断片を再構成した偽作であることが判明した<ref>{{Cite web |url = https://www.augsburger-allgemeine.de/kultur/Wie-faelsche-ich-richtig-id15364606.html|title = Wie fälsche ich richtig?|website = www.augsburger-allgemeine.de|publisher = augsburger-allgemeine|date = 2011-06-03|accessdate = 2020-05-20}}</ref>。
このため、グムンデン=ガスタイン交響曲は『ザ・グレート』であるという説が現在も有力である。
==== 最後の交響曲 ====
シューベルトが最後に着手した交響曲である『{{仮リンク|交響曲ニ長調D936A|en|Symphony No. 10 (Schubert)|label=交響曲 ニ長調}}』(D 936A)には、{{仮リンク|ペーター・ギュルケ|de|Peter Gülke}}補筆版、ブライアン・ニューボールド補筆版などがある。異色なのはイタリアの作曲家[[ルチアーノ・ベリオ]]の手による『[[レンダリング (ベリオ)|レンダリング]]』である。『レンダリング』はスケッチの部分はスケッチのままで、それ以外の判然としないスケッチとスケッチの間の部分は[[現代音楽]]の手法でつなぎ合わせている。
「D 936A」は自筆譜のままでは完成しておらず、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)は番号を附していないが、「第10番」などとされる場合もある。
==== 交響曲の一覧 ====
日本語版記事へのリンクを太字で示す。
{| border="1" class="wikitable" style="text-align:center;"
!colspan=3|番号!!rowspan=2|調!!rowspan=2|[[ドイッチュ番号|D]]!!rowspan=2|作曲年代!!rowspan=2|付記
|-
!現〔国際シューベルト協会版〕!!旧!!20<br />世<br />紀<br />中<br />頃
|-
| || || ||ニ長調||2B||1811年頃||style="text-align:left;"|未完{{enlink|Symphony, D. 2b (Schubert)|英語版記事}}
|-
|'''[[交響曲第1番 (シューベルト)|1]]'''||1||1||ニ長調||'''[[交響曲第1番 (シューベルト)|82]]'''||1813年||
|-
|'''[[交響曲第2番 (シューベルト)|2]]'''||2||2||変ロ長調||'''[[交響曲第2番 (シューベルト)|125]]'''||1814年-1815年||style="text-align:left;"|
|-
|'''[[交響曲第3番 (シューベルト)|3]]'''||3||3||ニ長調||'''[[交響曲第3番 (シューベルト)|200]]'''||1815年||
|-
|'''[[交響曲第4番 (シューベルト)|4]]'''||4||4||ハ短調||'''[[交響曲第4番 (シューベルト)|417]]'''||1816年||style="text-align:left;"|「悲劇的」:唯一、シューベルト自身による副題
|-
|'''[[交響曲第5番 (シューベルト)|5]]'''||5||5||変ロ長調||'''[[交響曲第5番 (シューベルト)|485]]'''||1816年||style="text-align:left;"|
|-
|'''[[交響曲第6番 (シューベルト)|6]]'''||6||6||ハ長調||'''[[交響曲第6番 (シューベルト)|589]]'''||1817年-1818年||style="text-align:left;"|「小ハ長調」
|-
| || || ||ニ長調||615||1818年||style="text-align:left;"|未完{{enlink|Symphony, D. 615 (Schubert)|英語版記事}}・{{仮リンク|ペーター・ギュルケ|de|Peter Gülke}}版
|-
| || || ||ニ長調||708A||1820年頃||style="text-align:left;"|未完{{enlink|Symphony, D. 708a (Schubert)|英語版記事}}・ギュルケ版
|-
| || ||7||ホ長調||'''[[交響曲ホ長調 (シューベルト)|729]]'''||1821年||style="text-align:left;"|未完、スケッチのみ。ヴァインガルトナー補筆作曲版は[[ウニヴェルザール出版社]]から出版、他にブライアン・ニューボールド補筆版がある。
|-
|'''[[交響曲第7番 (シューベルト)|7]]'''||8||8||ロ短調||'''[[交響曲第7番 (シューベルト)|759]]'''||1822年||style="text-align:left;"|「未完成」。第1・2楽章のみ完成、第3楽章は冒頭のみオーケストレーション、続くトリオの最初の反復までのスケッチが残存。
|-
| || || ||ホ長調||849||1825年||style="text-align:left;"|「グムンデン=ガスタイン交響曲」([[#グムンデン=ガスタイン交響曲|グムンデン=ガスタイン交響曲]]の記述を参照)
|-
|'''[[交響曲第8番 (シューベルト)|8]]'''||7||9||ハ長調||'''[[交響曲第8番 (シューベルト)|944]]'''||1825年-1826年||style="text-align:left;"|「ザ・グレート」、「大ハ長調」
|-
| || ||10|| ニ長調||936A||1828年頃||style="text-align:left;"|未完{{enlink|Symphony No. 10 (Schubert)|英語版記事}}。補筆版にペーター・ギュルケ版、ブライアン・ニューボールド版、バルトロメー版。ベリオ補筆版『レンダリング』はシューベルトの様式で作られていない。
|}
=== 室内楽曲 ===
* [[八重奏曲 (シューベルト)|八重奏曲 ヘ長調]] 作品166, D 803(1824年)
*: クラリネット、ホルン、ファゴット、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバスのための作品。
* [[弦楽五重奏曲 (シューベルト)|弦楽五重奏曲 ハ長調]] 作品163, D 956(1828年)
*: シューベルト晩年の傑作で、演奏に50分近くを要する大曲である。編成はヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ2。
* [[ピアノ五重奏曲 (シューベルト)|ピアノ五重奏曲 イ長調『ます』]] 作品114, D 667(1819年)
*: 第4楽章が歌曲『[[鱒 (歌曲)|ます]]』(作品32, D 550)の旋律による変奏曲であるために『ます』(''Die Forelle'')という愛称で呼ばれるようになった。
* [[弦楽四重奏曲第12番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲第12番 ハ短調『四重奏断章』]] D 703(1820年)
*: 第1楽章のみ完成。第2楽章が未完。4楽章構成の弦楽四重奏曲と捉えれば未完だが、美しい旋律によりしばしば演奏される。
* [[弦楽四重奏曲第13番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲第13番 イ短調『ロザムンデ』]] 作品29, D 804(1824年)
*: 第2楽章が劇付随音楽『[[キプロスの女王ロザムンデ]]』(作品26, D 797)の「間奏曲第3番」の旋律による変奏曲であるため『ロザムンデ』(''Rosamunde'')という愛称で呼ばれるようになった。
* [[弦楽四重奏曲第14番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲第14番 ニ短調『死と乙女』]] D 810(1824年)
*: 第2楽章が歌曲『[[死と乙女]]』(D 531)の旋律による変奏曲であるために『死と乙女』(''Der Tod und Das Mädchen'')という愛称呼ばれるようになった。[[グスタフ・マーラー]]の編曲による[[弦楽合奏]]版がある。
* [[弦楽四重奏曲第15番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲第15番 ト長調]] 作品161, D 887(1826年)
*: 1826年6月20日から30日にかけて作曲された、弦楽四重奏曲としては最後の作品。
* [[ピアノ三重奏曲第1番 (シューベルト)|ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調]] 作品99, D 898
* [[ピアノ三重奏曲第2番 (シューベルト)|ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調]] 作品100, D 929
*: [[ピアノ三重奏曲]]は番号つきが以上の2曲で、ともにピアノ三重奏曲の名曲として親しまれている。
* [[アルペジョーネソナタ|アルペジオーネソナタ イ短調]] D 821(1824年)
*: [[アルペジョーネ|アルペジオーネ]]は現代ではほとんど廃れてしまった楽器であるため、代わりに[[チェロ]]などを用いてピアノ伴奏で演奏される。[[ガスパール・カサド]]編曲の管弦楽伴奏版もある。
=== ピアノ曲 ===
* [[ピアノソナタ第3番 (シューベルト)|ピアノソナタ第3番 ホ長調]] D 459(1815年)
*: 『5つのピアノ曲』と表記される場合もある。10代でモーツァルトの傑作([[ピアノソナタK.545|ピアノソナタ ハ長調 K. 545]])を模倣する早熟さを発揮している。
* [[ピアノソナタ第4番 (シューベルト)|ピアノソナタ第4番 イ短調]] 作品164, D 537(1817年)
*: 中間楽章の主題が最晩年の作品([[ピアノソナタ第20番 (シューベルト)|D 959]])の終楽章に引用されている。
* [[ピアノソナタ第7番 (シューベルト)|ピアノソナタ第7番 変ニ長調]] D 567
*: ピアニスティックな完成作品。主調を「変ニ長調」に移調した別稿が存在する。
* [[ピアノソナタ第8番 (シューベルト)|ピアノソナタ第8番 嬰ヘ短調]] D 571(1817年、第1楽章の途中までの未完作)
* [[ピアノソナタ第13番 (シューベルト)|ピアノソナタ第13番 イ長調]] 作品120, D 664(1819年)
*: 同じ調性の第20番と比較して「イ長調の小ソナタ」とも呼ばれる。
* [[ピアノソナタ第14番 (シューベルト)|ピアノソナタ第14番 イ短調]] 作品143, D 784(1823年)
* [[ピアノソナタ第15番 (シューベルト)|ピアノソナタ第15番 ハ長調『レリーク』]] D 840(1825年)
*: 愛称の『レリーク』(''Reliquie'')は「遺作」や「文化遺品」という意味であるが、これはこのソナタが発見された当時に、シューベルトが最後に作曲したピアノソナタだと誤認されたためである。
* [[ピアノソナタ第16番 (シューベルト)|ピアノソナタ第16番 イ短調]] 作品42, D 845(1825年)
* [[ピアノソナタ第17番 (シューベルト)|ピアノソナタ第17番 ニ長調]] 作品53, D 850(1825年)
* [[ピアノソナタ第18番 (シューベルト)|ピアノソナタ第18番 ト長調『幻想』]] 作品78, D 894 (1826年)
*: シューマンに有機的な楽曲構造の美を絶賛されている。
* [[ピアノソナタ第19番 (シューベルト)|ピアノソナタ第19番 ハ短調]] D 958(1828年)
* [[ピアノソナタ第20番 (シューベルト)|ピアノソナタ第20番 イ長調]] D 959(1828年)
*: 同じ調性の第13番と比較して「イ長調の大ソナタ」とも呼ばれる。
* [[ピアノソナタ第21番 (シューベルト)|ピアノソナタ第21番 変ロ長調]] D 960(1828年)
*: 最晩年の傑作。第19番からの3曲はともに[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]様式を模している。
* [[楽興の時 (シューベルト)|楽興の時]] ''Moments Musicaux'' D 780, 作品94(1823~28年、全6曲)
* [[さすらい人幻想曲|幻想曲 ハ長調『さすらい人』]] 作品15, D 760(1822年)
** 第2楽章が歌曲『さすらい人』(D 489)に基づいていることから、『さすらい人』(''Wanderer'')または『さすらい人幻想曲』(''Wandererfantasie'')という愛称で呼ばれるようになった。
* [[4つの即興曲D899|4つの即興曲]] 作品90, D 899(1827年)
* [[4つの即興曲D935|4つの即興曲]] 作品142, D 935(1827年)
* [[3つのピアノ曲 (シューベルト)|3つのピアノ曲]] D 946(1828年)
* [[軍隊行進曲 (シューベルト)|3つの軍隊行進曲]] 作品51, D 733(1818年、四手連弾曲)
* [[幻想曲D940|幻想曲 ヘ短調]] 作品103, D 940(1828年、四手連弾曲)
=== 歌曲 ===
いくつかの歌曲には、後世の作曲家による管弦楽伴奏版やピアノ独奏への編曲版も存在する。ピアノ独奏用編曲については[[フランツ・リスト]]や[[レオポルド・ゴドフスキー]]によるものが知られている。
* 歌曲集『[[美しき水車小屋の娘]]』 ''Die Schöne Müllerin'' 作品25, D 795(1823年、全20曲)
* 歌曲集『[[冬の旅]]』 ''Winterreise'' 作品89, D 911(1827年、全24曲)
* 歌曲集『[[白鳥の歌 (シューベルト)|白鳥の歌]]』 ''Schwanengesang'' D 957/965A(1828年、全14曲)
* [[野ばら]] ''Heidenröslein'' 作品3-3, D 257(1815年)
* [[魔王 (シューベルト)|魔王]] ''Erlkönig'' 作品1, D 328(1815年頃)
* [[死と乙女]] ''Der Tod und das Mädchen'' 作品7-3, D 531(1817年)
* [[鱒 (歌曲)|ます]] ''Die Forelle'' 作品32, D 550(1816~21年)
* [[エレンの歌第3番|エレンの歌第3番(アヴェ・マリア)]] ''Ellens Gesang III (Ave Maria)'' 作品52-6, D 839(1825年)
* [[子守歌 (シューベルト)|子守歌]] ''Wiegenlied'' 作品98-2, D 498(1816年)
* [[糸をつむぐグレートヒェン]] ''Gretchen am Spinnrade'' D 118(1814年)
* [[タルタルスの群れ]] ''Gruppe aus dem Tartarus'' D 583
* [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の小説「[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代]]」による3つの竪琴弾きの歌 ''3 Gesänge des Harfners'' 作品12, D 478
* [[さすらい人]] ''Der Wanderer'' 作品4-1, D 493(D 489)
* ギリシャの神々 ''Die Götter Griechenlands'' D 677
* [[ガニュメート (シューベルト)|ガニュメート]] ''Ganymed'' D 544
* [[音楽に寄せて]](樂に寄す) ''An die Musik'' 作品88-4, D 547(1817年3月)
* 御者クロノスに ''An Schwager Kronos'' D 369
* ミューズの息子 ''Der Musensohn'' D 764
* [[秋 (シューベルト)|秋]] ''Herbst'' D 945
* 侏儒(小人) ''Der Zwerg'' D 771
* ブルックにて ''Auf der Bruck'' D 853
* 恋人のそばに ''Nähe des Geliebten'' D 162
* [[夜と夢]] ''Nacht und Träume'' D 827
* 夜曲 ''Nachtstück'' D 672
* [[夕映えに]] ''Im Abendrot'' D 799
* [[ヘリオポリスよりII|“ヘリオポリス”よりII]]「岩に岩が重なるところ」 ''Aus "Heliopolis" II'' D 754
* [[万霊節のための連禱]] ''Litanei auf das Fest Allerseelen'' 作品13-2, D 343(1816年頃)
* [[春に (シューベルト)|春に]] ''Im Frühling'' D 738
* [[シルヴィアに]] ''Gesang (Was ist Silvia? / An Silvia)'' 作品106-4, D 891
* [[湖上にて]] ''Auf dem See'' 作品92-2, D 543
* [[至福 (歌曲)|至福]] ''Seligkeit'' D 433
* ハナダイコン ''Nachtviolen'' D 752
==== シューベルトの歌曲のおもな管弦楽編曲版 ====
* [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]:「魔王」
* [[フランツ・リスト|リスト]]:「糸をつむぐグレートヒェン」D 118、「ミニョンの歌」、「魔王」、「若い尼僧」D 828、「別れ」D 957-7(紛失)、「ドッペルゲンガー」D 957-13(紛失)
* [[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]:「馭者クロノスに」D 369、「メムノン」D 541、「ひめごと」D 719、「エレンの歌第2」D 838
*[[マックス・レーガー|レーガー]]:「糸をつむぐグレートヒェン」、「魔王」、「音楽に寄せて」D 547、「タルタルスの群れ」D 583、「プロメテウス」D 674、「夕映えの中で」D 799、「夜と夢」D 827
* [[アントン・ヴェーベルン|ヴェーベルン]]:「君こそは憩い」D 776、「涙の雨」D 795-10、「道しるべ」D 911-20、「彼女の肖像」D 957-9、他1曲
* [[ジャック・オッフェンバック|オッフェンバック]]:「セレナード」
* [[フェリックス・モットル]]:「セレナード」, 「死と乙女」
* [[ベンジャミン・ブリテン|ブリテン]]:「ます」
* [[ハンス・ツェンダー|ツェンダー]]:「冬の旅」
=== オペラ ===
多くの分野に代表作を残したシューベルトとしてはもっとも評価が低い領域で、上演機会は少ない。[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]による[[カールスバート決議]]に基づく[[検閲]]の被害に遭っている<ref>[https://www.acros.or.jp/magazine/music36.html 歴史を彩った名曲たち #36メッテルニヒ体制♪ミサ・ソレムニス]、[[アクロス福岡]]</ref>。
* 鏡の騎士 ''Der Spiegelritter'' D 11(1811年、未完)
* 悪魔の別荘 ''Des Teufels Lustschloß'' D 84(1813年/1814年、2つ稿があり)
* [[4年間の歩哨兵勤務|4年間の哨兵勤務]] ''Der vierjährige Posten'' D 190(1815年)
* サラマンカの友人たち ''Die Freunde von Salamanka'' D 326(1815年)
* 双子の兄弟 ''Die Zwillingsbrüder'' D 647(1818年/1820年)
* [[アルフォンゾとエストレッラ]] ''Alfonso und Estrella'' D 732(1821年/1822年)
* 謀反人たち ''Die Verschworenen'' D 787(1823年)
*: 『陰謀者』とも。検閲により『家庭争議』(''Der häusliche Krieg'')と改名。
* [[フィエラブラス]] ''Fierrabras'' D 796(1823年)
=== 劇付随音楽 ===
* [[魔法の竪琴]] ''Die Zauberharfe'' D 644(1820年)
* [[キプロスの女王ロザムンデ]] ''Rosamunde, Fürstin von Zypern'' 作品26, D 797(1823年、全11曲)
=== 教会音楽 ===
* [[ミサ曲第1番 (シューベルト)|ミサ曲第1番 ヘ長調]] D 105
* [[ミサ曲第2番 (シューベルト)|ミサ曲第2番 ト長調]] D 167
* [[ミサ曲第3番 (シューベルト)|ミサ曲第3番 変ロ長調]] D 324
* [[ミサ曲第4番 (シューベルト)|ミサ曲第4番 ハ長調]] 作品48, D 452
* [[ミサ曲第5番 (シューベルト)|ミサ曲第5番 変イ長調]] D 678
* [[ミサ曲第6番 (シューベルト)|ミサ曲第6番 変ホ長調]] D 950
* [[ドイツ・ミサ曲|ドイツ・ミサ曲 ヘ長調]] D 872
* スターバート・マーテル イ短調 D 383(1816年)
=== シューベルトと詩人 ===
シューベルトは詩の芸術性に無頓着で、時折凡庸な詩に作曲してしまうこともあったと言われている。確かに彼の歌曲には[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]や[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]といった大詩人以外に、現在その中にしか名を留めていない詩人の手によるものが多く存在している。ただしこれは「シューベルティアーデ」で友人たちの詩に作曲したものを演奏するという習慣があったことも影響している。
シューベルトが作曲した詩人は多い順にゲーテ、マイアホーファー、ミュラー、シラー、そして重要な詩人として{{仮リンク|フリードリヒ・フォン・マティソン|en|Friedrich von Matthisson|label=マティソン}}、{{仮リンク|ルートヴィヒ・クリストフ・ハインリヒ・ヘルティ|en|Ludwig Christoph Heinrich Hölty|label=ヘルティ}}、{{仮リンク|ルートヴィヒ・ゴットハルト・コーゼガルテン|en|Ludwig Gotthard Kosegarten|label=コーゼガルテン}}、{{仮リンク|マティアス・クラウディウス|en|Matthias Claudius|label=クラウディウス}}、[[フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック|クロップシュトック]]、[[ヨーハン・ガブリエル・ザイドル|ザイドル]]、[[フリードリヒ・リュッケルト|リュッケルト]]、ハイネなどがいる。自分より前の世代に評価が定着していた詩人から、新しい時代の感性を持った詩人まで幅広い。
== 楽器 ==
シューベルトが入手したピアノとして、ベニグヌス・ザイドナーのピアノと[[アントン・ワルター]]&サンのピアノが挙げられる。ザイドナー製のピアノは、現在ウィーンの[[:en:Vienna_Museum#Birthplace_of_Franz_Schubert|シューベルトの生家]]([https://www.wienmuseum.at/de/standorte/schubert-geburtshaus Schubert Geburtshaus])に展示され、ワルター&サン製のピアノはウィーンの[[美術史美術館]]が所有している。シューベルトはまた、ウィーンのピアノ製作者[[コンラート・グラーフ]]の楽器をよく知っていたことがわかっている<ref>"[https://www.collectionscanada.gc.ca/eppp-archive/100/202/300/inditer/2001/05-14/dane/pianos/pianos.htm Jeffrey Dane – The Composers' Pianos]". ''www.collectionscanada.gc.ca''. Retrieved 5 February2021.</ref>。
== 国際音楽コンクール ==
現在シューベルトの名が附されたコンクールは2つある。ひとつは長い伝統を持つ[[ドルトムント]]で行われる「[[シューベルト国際コンクールドルトムント]]」で、現在はリートデュオ部門とピアノソロ部門が交互に行われる。もうひとつは[[グラーツ]]で行われる「[[フランツ・シューベルトと現代音楽のための国際室内楽コンクール]]」で、作曲部門と室内楽部門が併設されている。どちらもシューベルト作品のみでは競わないが、関連した楽曲や編成が焦点になっている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* 映画『[[未完成交響楽]]』(1933年) - シューベルトを扱った伝記映画(内容はフィクション)。「わが恋の終わらざる如く、この曲もまた終わらざるべし」の台詞が有名。
* [[ジャン・カスー]] - フランスの文学者(1897年 - 1986年)。シューベルトを主人公にした長編小説『ウィーンの調べ』''Les Harmonies viennoises''(1926年)を書いた。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Franz Schubert}}
* [http://www.classicalmusicdb.com/composers/view/12 シューベルトの楽曲一覧]{{en icon}}
* [https://web.archive.org/web/20090130013609/http://www.trovar.com/Deutsch.html フランツ・シューベルトの全作品リスト]([[オットー・エーリヒ・ドイチュ]]による作品番号){{en icon}}
* [https://www.jsglieder.com/ 一般社団法人日本シューベルト協会] - シューベルトのリートの普及発展を目的とする。
* {{IMSLP|id=Schubert%2C_Franz|cname=フランツ・シューベルト}}
{{Normdaten}}
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[[Category:フランツ・シューベルト|*]]
[[Category:オーストリアの作曲家]]
[[Category:ロマン派の作曲家]]
[[Category:オペラ作曲家]]
[[Category:19世紀の音楽家]]
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[[Category:モラヴィア・ドイツ系オーストリア人]]
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[[Category:1797年生]]
[[Category:1828年没]]
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電気関係法令
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電気関係法令 (でんきかんけいほうれい) は、電気保安・電気事業・電気工事・電気用品関係の法令である。
電気事業法・電気工事士法・電気工事業の業務の適正化に関する法律・電気用品安全法の4本の法律は、慣例的に電気保安四法と総称される。
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'''電気関係法令''' (でんきかんけいほうれい) は、[[電気保安]]・[[電気事業]]・[[電気工事]]・[[電気用品]]関係の[[法令]]である。
[[電気事業法]]・[[電気工事士法]]・[[電気工事業の業務の適正化に関する法律]]・[[電気用品安全法]]の4本の法律は、慣例的に'''電気保安四法'''と総称される。
==電気保安・電気事業関係==
*[[電気事業法]]
*[[電気関係報告規則]]
*[[電気設備に関する技術基準を定める省令]]
*[[電気設備技術基準の解釈]]
==電気工事関係==
*[[電気工事士法]]
*[[電気工事業の業務の適正化に関する法律]]
==電気用品関係==
*[[電気用品安全法]]
==電気関係規格==
*[[内線規程]]
*[[劇場等演出空間電気設備指針]]
*[[演出空間仮設電気設備指針]]
*[[高圧受電設備規程]]
:その他[[日本電気技術規格委員会規格]]
*[[日本産業規格]]
==その他の関連法令==
*[[エネルギーの使用の合理化等に関する法律]]
*[[労働安全衛生法]]
*[[製造物責任法]]
*[[建築基準法]]
*[[建設業法]]
*[[建築士法]]
*[[消防法]]
*[[航空法]]
*[[電波法]]
*[[電気通信事業法]]
*[[有線電気通信法]]
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ジョージ・グローヴ
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ジョージ・グローヴ(Sir George Grove, 1820年8月13日 - 1900年5月28日)は、イギリスの音楽学者、音楽評論家。「グローヴ音楽事典」初版を編纂した。グローヴ音楽事典は現在も「ニューグローヴ世界音楽大事典」として改訂版、増補版が出版されている。ロンドン生まれ。
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ジョージ・グローヴは、イギリスの音楽学者、音楽評論家。「グローヴ音楽事典」初版を編纂した。グローヴ音楽事典は現在も「ニューグローヴ世界音楽大事典」として改訂版、増補版が出版されている。ロンドン生まれ。
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[[File:George-grove-caricature.jpg|thumb|ジョージ・グローヴ]]
'''ジョージ・グローヴ'''('''Sir George Grove''', [[1820年]][[8月13日]] - [[1900年]][[5月28日]])は、[[イギリス]]の[[音楽学者]]、音楽評論家。「[[グローヴ音楽事典]]」初版を編纂した。グローヴ音楽事典は現在も「[[ニューグローヴ世界音楽大事典]]」として改訂版、増補版が出版されている。[[ロンドン]]生まれ。
== 略歴 ==
*[[1839年]] 技術学校を卒業。[[グラスゴー]]、[[ジャマイカ]]、[[バミューダ諸島]]で機械技師として働く
*[[1846年]] イギリスに戻る
*[[1850年]] 芸術協会書記となる
*[[1852年]] [[ロンドン万国博覧会 (1851年)|前年の万博]]で作られた[[水晶宮|クリスタルパレス]]の書記となる
*[[1856年]] クリスタルパレスで開かれる演奏会の解説を書くようになる(1896年まで)
*[[1867年]] [[アーサー・サリヴァン]]と共に[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の未発見楽譜の調査のため[[ウィーン]]へ赴き、「[[キプロスの女王ロザムンデ]]」のスコアを発見
*[[1868年]] ''"Macmillan's Magazine"''の編集者となり、15年間この雑誌に携わる
*[[1883年]] [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]より[[ナイト]]に叙せられる
*[[1882年]] [[王立音楽大学]]の創設に伴い校長となる(1894年まで)
*[[1879年]] 「音楽辞典」刊行開始、当初2巻の予定
*[[1889年]] 「音楽辞典」全4巻で完結
==邦訳==
*『[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートヴエン]]と彼の交響曲』ヂヨーヂ・グローヴ [[遠藤宏]]訳 [[岩波書店]] 音楽叢書 1925
*『フランツ・シユウベルト』グロウヴ [[辻荘一]]訳 [[岩波文庫]] 1935
*『ニューグローヴ世界音楽大事典』第1-21巻別巻2 Stanley Sadie [ほか編] [[柴田南雄]],[[遠山一行]]総監修 [[講談社]] 1993-95
{{Normdaten}}
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[[Category:イギリスの音楽学者]]
[[Category:イギリスの辞典編纂者]]
[[Category:イングランドの書籍編集者]]
[[Category:19世紀の学者]]
[[Category:王立音楽大学の教員]]
[[Category:クラシック音楽史の人物]]
[[Category:ヴィクトリア朝の人物]]
[[Category:ランベス区出身の人物]]
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17,396 |
鉄道車両の座席
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鉄道車両の座席(てつどうしゃりょうのざせき)では、鉄道車両における座席のうち、椅子を使用したものの配置や形態について扱う。
客車(広義の旅客用鉄道車両)には通常座席が備わっている。客車は座席が主に椅子からなる座席車と寝台を座席として用いる寝台車に大別されるが、寝台車についてはその形態や配置について別に扱う。ただし、座席車のうち個室車の座席についてはコンパートメント席で扱い、ここではその区分がない開放式と称される座席について述べる。
座面の高さと幅は、乗客の体格や快適性と車両の収容力のバランスで決定される。快適性を重視して座面を下げて奥行きを大きくすると、足を投げ出すような形になるため乗客一人当たりの占有スペースは大きくなる。また、収容力を重視して座面を上げて奥行きを小さくすると、直立した姿勢に近くなり、乗客一人当たりの占有スペースは小さくなる。
乗客が着座する座面と、背中を押し付ける背もたれの部分には、モケットという布が張られている場合のほか、革を張っているものや、座面・背もたれに木・FRP、ビニールレザーなどを使用している例もある。
固定式座席の場合、車両の床に枠を設置して蹴込板で囲い(暖房用ヒーター等は内部に収容)、その枠の上に座席を組み付ける。固定式の座席は回転式の座席に比べて、保守の手間や終着駅での座席の方向転換の手間が省ける利点がある。
欧米など日本以外では座席は固定式のものが多く、座席を回転できない車両が多い。進行方向に応じた座席の転換はできず、集団見合式(車両前部の座席と車両後部の座席を向かい合わせにしている固定式)と集団離反式(車両前部の座席と車両後部の座席を反対向きにしている方式)がある。ヨーロッパでは固定式2人掛けクロスシートも多く採用されているが、日本では座席が前方を向いていないことに乗客の抵抗があるとされほとんど採用されていない。
回転式クロスシートの場合、車両の床に台座を設置し(暖房用ヒーター等は台座内部に収容)、その上に回転軸やフレームを取り付けて座席を組み付ける。
台座や蹴込板を設置する座席の支持構造では床上が複雑になり清掃が難しくなる欠点がある。そこで床にはこれらの支持物を設置せず、壁面から座席を支持する片持式座席(かたもちしきざせき)またはカンチレバーシートが採用されるようになった。
東日本旅客鉄道(JR東日本)が1991年より運行開始した「成田エクスプレス」に使用される253系の普通車において、椅子の下も荷物置き場とするためにこの構造が採用されたのが最初である。その後、通勤形車両においても209系のロングシートに採用され、その後全国の事業者に採用されるようになった。
ロングシートは車両側壁に沿って座席を設置する形式である。座席スペースを最低限に抑えて立席スペースを広くすることができ、乗客の乗降を円滑にすることが可能である。
クロスシートは横向きの座席の形式で、固定式クロスシート、回転式クロスシート、転換式クロスシートなどに分類される。固定式クロスシートにはボックスシートと同一方向での固定方式がある。
クロスシート車では座席間隔と窓の配置等が設計上不可分の関係にある。日本国外の高速列車では窓と座席の配置が必ずしも合っていない場合がある。クロスシート車では、座席の回転、壁からのテーブルの張り出し等を考慮に入れた設計が必要となる。
観光客の多い路線ではロングシートよりもクロスシートのほうが好まれるため、観光輸送と通勤通学輸送の両立が課題となる。
婦人・子供専用車(昨今の女性専用車設定は新設ではなく復活したもの)廃止以降、1973年の中央線快速を皮切りに「シルバーシート」が設けられた。しかし、バリアフリーを目指す社会の要請に合わせて「優先席」の呼び名に変更し、高齢者だけでなく傷病人・妊婦など立つことが辛い人に優先的に着席してもらうよう改められた。
2000年頃から携帯電話による医療機器への悪影響を防ぐため、優先席付近では携帯電話の電源を切るよう呼びかけがされるようになり、2005年頃からは該当箇所の吊り革の色で区別を図るなどの方策をとっていた。その後携帯電話の技術進歩で医療機器への影響が少なくなったこともあり、2014年7月より、関西の鉄道事業者では携帯電話の電源を切るマナーを「混雑時のみ」と変更した。関東・信越地区では2015年10月から、東海地区・九州地区では2015年12月から、それ以外の地区でも2016年3月までに変更となった事業者がある。
混雑の激しい路線では着席よりも収容力や乗降のしやすさを優先しロングシートを採用することがほとんどであり、国鉄・私鉄・JRの通勤形電車や近郊形・一般形車両に採用されている。クロスシート車から改造、あるいは増備途中からロングシートに切り替えた車両も多い(名鉄6000系、JR九州817系、JR東海キハ25形など)。また、静岡地区の東海道本線の大多数の普通列車のように、乗車時間が比較的短いことからあえてロングシート車を投入している例もある。
一方、車窓が見づらく、窓框高さとの関係から背もたれを低くせざるを得ず、傾斜も付けにくい(ごく一部の車両を除く)など構造上長時間乗車に向かないことから、閑散時や中〜長距離の乗車(都市間連絡や観光目的での利用など)ではあまり好ましい評価を受けない。1990年代以降では、四国旅客鉄道(JR四国)のように「鉄道のライバルは鉄道以外にも自家用車やバスなどにある」との輸送モード間競争の観点から、オールロングシート車の新造を止めた事業者もある。
2000年代後半以降は快適性の向上を図るため、背もたれを高くしたハイバック形やヘッドレストを持つロングシート車も登場しており、後述するデュアルシート車や京阪8000系(リニューアル車の車端部)、東急2020系等に採用例がある。
先に示したとおり、座席前のスペースを広く取れることから、車両の幅が狭かった時代は一等車や二等車といった特別車両に採用されていた。日本でも大正時代中期までの官設鉄道や鉄道省では、貫通・非貫通式のいずれでも優等車はほとんど長手式であり、車体幅の広がった昭和時代以降にシートピッチの広いボックスシートや転換クロスシートに移行したが、展望車などは1930年代末期のスイテ37049(後のスイテ49)やスイテ37050形(後のスイテ37形)などの時点でも長手方向に向けてソファーを置いたものになっていた。少数ながらソファータイプのロングシートを採用したサロン調の特別車両が見られる(「おいこっと」など)。しかしながら、そのような車両は大変コストがかかるため、比較的少ないスペースでプライベートな空間を提供できること、窓の大きさを犠牲にすることなく背ずりの高さを上げられることなどから、特別料金を必要とする座席にはクロスシートを採用する例が大勢を占め、ロングシートは通勤・近郊形車両に使われている例がほとんどである。なお、通路部分に大きいテーブルを設置して、イベント車に使用することもある。こちらはさほどコストはかからないため、ローカル線や路面電車の車両でもロングシート車をイベント対応車として設定しているケースも見られる。
特殊な配置では、JR東日本キハ100系の一部や、伊豆急行2100系、叡山電鉄900系のように、観光客が車窓風景を楽しめるように中央部から窓を向いたロングシートが設置されたものがある。このタイプは乗客の出入りの関係から1 - 2人が着席できるものが多く、また観光目的であることからロマンスシートに準じた背もたれの高いものが用いられることが多い。近年では南海電気鉄道高野線「天空」や九州旅客鉄道(JR九州)の観光特急「指宿のたまて箱」のように、このタイプのロングシートに限って有料座席(指定席)として発売されることがある。なおこれらの座席について「天空」は「ワンビュー座席」、「指宿のたまて箱」は「ソファーシート」と呼ばれており、公式にはロングシートと呼ばれない。
かつては『普通鉄道構造規則』(2002年廃止)の中で、座席数を車両定員の3分の1以上、かつ1人当たりの着席幅を400 mm以上とすることが規定されていた。国鉄時代は約430 mmに設定していた。この規定はJR東日本の6扉車導入を機に廃止されたが、そうした特殊な例をのぞけば2000年代以降もおおむね守られている。
1人当たりの着席幅は体格向上に応じて拡大の傾向にあり、最新の車両では450 mmから480 mm程度である。
なお、改定後の条文は次の通り。
国鉄・JRの近郊型電車や一般型気動車、大手私鉄の特急型車両や地方私鉄などにおいて採用されている。関西圏・中京圏などでは以前から鉄道会社間の競合が激しく、都市間列車を中心にJR、私鉄双方とも転換式クロスシートの採用例が多い。一方首都圏では東武伊勢崎線・東武日光線の6050系、京浜急行電鉄の快特のうち泉岳寺・品川駅発着の列車中心に運転される2100形、西武池袋線・西武秩父線の4000系など、主に中距離の都市間利用や行楽客を目的とした列車向けの車両への採用例がある。しかし、首都圏では関西・中京圏に比べ混雑率が高く、ロングシートに比べ乗降しづらくラッシュ時の遅延の原因になることや、立ち席スペースが狭いことや、狭い空間で他人と隣り合うもしくは向き合って座ることを好まない昨今の風潮などから料金不要車両での採用例は少ない。その反面クロスシートの要望が完全に消えたわけではなく、車端部のみクロスシートとした車両も登場している。
なお、ケーブルカーは車体の構造上、座席は必ずクロスシートを採用している。
なお、回転式、転換式にかかわらず、鉄道用語としては進行方向に向けることのできる2人掛け座席をロマンスシートと呼ぶ。このような構造の座席設備を持つ車両をロマンスカーと呼び、特に小田急電鉄の小田急ロマンスカーは列車名としても広く親しまれている。
主に有料特急用車両に装備され、向きを転換するときには床面に垂直な回転軸を中心に180度回転する。着席者が進行方向を向いて座ることができ、また必要に応じて前後の座席を向かい合わせにして利用できる。観光路線を運行する車両や、ジョイフルトレインなどの団体利用を念頭に置いた車両においては45度あるいは90度回転させ、通路の反対側の座席と向かい合わせにしたり、窓側に向けて固定したりできるものなどもある。座席の背面に後席の乗客のためのテーブル・小物入れ・足置きなどを備えるもの、肘掛の中にテーブルや灰皿を内蔵しているものもある。かつての国鉄形の標準座席間隔は、近郊形グリーン車で970mm、特急形普通車で910mmまたは940mm(国鉄キハ183系・キハ185系)であった。
昭和30年代から40年代に製造された国鉄の特急形車両の普通車、準急形車両の二等車(のちの一等車)、近郊形車両のグリーン車ではリクライニング機能のない回転式クロスシートが採用されていた。現在採用されている回転式クロスシートの大部分は背もたれの傾斜を変えられるリクライニングシートである。リクライニング機能のない座席を備える車両は、特急などの有料優等専属で使用されるものでは東武300系やE4系「Max」の2階自由席車、後述するデュアルシート(回転できるのはクロス状態時のみ)などがある。
背もたれだけが前後に移動する機構により、着席方向を切り替えられる座席である。特に会社間競争の激しい中京・関西地方の近郊形車両に多く採用されているが、関東・東北地方では採用する鉄道会社が少ない。特急形車両では新幹線0系電車や185系、キハ185系の普通車(キロハ186のみ)座席に採用例があるほか、既存車両でも座席改良の際に採用した例がある(キハ80系やキハ58系など)。
比較的簡易な機構で、回転クロスシートと同様に進行方向を向いて座り、前後の座席を向かい合わせにすることが可能である。背もたれに中折れ機構を設け、着座姿勢をより改善しているものもある。戦前から昭和30年代までは二等車・特急形車両などの特別料金を要する列車で用いられることも多かったが、回転式クロスシートに比べると座り心地が悪く、背もたれの背面に設備品を装備できず、また基本的にリクライニング機構も設けられないため、この分野では回転式に移行した。代わりに1980年代末期以降ではJR東日本をのぞいたJR各社の普通列車用車両や、一部の私鉄で運行される特別料金不要の特急・急行用車両に導入される例が増えている。座席間隔は国鉄型が910mm、私鉄では900mmとする例が多く、必要に応じて変更される。なお、転換クロスシート車といわれる車両であっても、近郊形・私鉄の特急形では車端部や扉横の座席は転換クロスシート並みに背もたれを傾斜させた固定式とし、中間の座席のみを転換式としているものが多い。これは、背もたれ後部のデッドスペースの発生による乗車定員の減少を防ぐためである。
終着駅で車掌がスイッチを操作することにより一斉に各席の方向が転換する、座席の自動転換装置を備える車両もある。このうち京急2100形は向かい合わせ使用をしないことを前提に座席間隔を詰め、より多くの座席配置とする設計を採っており、営業時の座席は進行方向に固定され、乗客が転換することはできない。運行開始直後はこれを知らない者が強引に転換させようと座席を引っ張り故障が多発した。そのため、背もたれには座席を転換できない旨の注意書きがある。
背もたれの傾斜角度を調節することができる座席である。
国鉄では、1949年(昭和24年)戦後初の特別急行列車「へいわ」復活に際し、一等展望車に使用するため復活されたマイテ39の座席で初めて採用された。本格的な使用は翌年に登場した特別二等車スロ60形からで、このとき採用された機械式5段階ロック・足載せ台付の座席は以後大きな変更もなく国鉄末期まで特急・急行用二等車(→一等車→現グリーン車)の標準装備とされた。なお、スロ60形客車は最初は一等車「スイ60」として設計されたため座席間隔を1,250mmとしていたが、その後製造されたスロ53形では1,160mmとなり、これはJR移行後でも特急形車両におけるグリーン車の標準座席間隔である。客車特急列車の展望車の代替車両として151系電車で設計・製造された「パーラーカー」クロ151形車両の1人用リクライニングシートの座席間隔は1,100mmだった。また例外的に普通車(当時は3等車)より改造されたスロ62形の座席間隔は1,270mmで、当時の国鉄型では最大だった。
新幹線では1964年の東海道新幹線開業時における新幹線0系の一等車から、現在に通じる座席幅のものを採用している。車体幅が在来線より大きい新幹線では、横一列あたりの座席数が普通車の大多数は3+2列なのに対し、グリーン車は2+2列として、座席幅にゆとりを持たせている。
普通車で最初に採用されたのは、国鉄183系の簡易式(後述)である。その後、1985年の新幹線100系、在来線用も1986年のキハ183系500番台から普通車においてもフリーストップ式のリクライニングシートを採用しており、現在は一部車種を除き特急型車両では標準装備となっている。
国鉄分割民営化以降、普通車用座席の改良が重ねられた結果、1990年代後半には普通車用座席とグリーン車用座席との差は小さくなった。差は傾きや座席の大きさ、シートピッチ(座席間隔)などである。そのため在来線用のグリーン車では横一列当たりの座席数を2+2から2+1に減らし、新幹線と同様に1人あたり座席幅をゆとりを持たせて普通車用座席との差別化を図る場合も多い。
また、夜行列車の一部では、高速バス等との競争のため、普通車であっても傾きの大きさがグリーン車用に近い座席、あるいはグリーン車から転用した座席を設置し、シートピッチもグリーン車に近い寸法として居住性を高めたものもあった。2003年3月まで「ムーンライトえちご」に充当された165系が始まりとされている。かつての「なは」「あかつき」では夜行高速バス並みに全席1人掛けで傾きの角度が大きい「レガートシート」があった。これ以前にも、1980年代からは四国や九州の気動車急行においてグリーン車を座席を交換することなく普通車に格下げして使用する例もあった。
1972年に登場した183系普通車で初めて採用された、リクライニングシートの一種である。同時期に製造された14系座席車、485系(1974年度以降の新製車)、381系やまた113系グリーン車の一部などにも採用された。座席下部に設置された受け皿のようなものの上にシートを配置する形状で、座面を前後移動させることにより背もたれをリクライニングさせる構造である。このためリクライニング角度は小さく、リクライニングさせると座席の前後間隔が狭くなるという欠点がある。
初期のものは背もたれにストッパーが無く、体重を掛けていないと座席の傾きが元に戻り、体を起こすたびに大きな音と衝撃が生じることから、1976年以降に製造された車両からは完全にリクライニングさせた時のみ作動するストッパーが追加された。国鉄分割民営化前後から指定席車用座席を中心にフリーストップ式への換装が行われたが、一部廃車まで無改造で残存した車両も見られた。
このシートは埼玉県さいたま市の鉄道博物館のヒストリーゾーン(現:車両展示ゾーン)で、背もたれのストッパーがあるものと無いもの両方に座ることができたが、現在は撤去されている。
クロスシートは、おおむね以下の構成である。
座席幅の寸法は、特急用車両の場合普通車で430 - 460mm、グリーン車の場合2+2配列で450mm前後、2+1配列のものや新幹線車両では470 - 500mm程度が一般的である。数値のみで見た場合普通車とグリーン車との間の差、また前述のロングシート車の数値と大差がないとされるが、座席幅の数値は肘掛部分をのぞいた幅で計測されるのが通常であるため、横方向における体感的なゆとりは座席幅よりもむしろ肘掛の有無や、肘掛の幅の差に表れる。
なお、一部の車両には車椅子を固定するために標準の配列から1人分減じた区画がある。
ロングシートとクロスシートを組み合わせた配置で、通常は乗降が円滑になるようドア付近をロングシート、ドア間にクロスシートを配置する。クロスシートは固定式がほとんどだが、JR西日本のように転換クロスシートを採用した例もある。
日本では1920年代の第二次都市間高速電気鉄道(インターアーバン)建設ブームの頃から、長距離輸送とラッシュ時対策の両立や、電動車の主電動機点検蓋(トラップドア)とクロスシートの干渉を防ぐ目的などで採用され始め、第二次世界大戦後も都市間輸送用を中心に採用が続いている。
国鉄時代の車両では近郊形車両である113系や415系等の3ドア車や、80系、711系やキハ40系等の2ドア車が存在している。また、交直流急行電車やキハ58系などの急行形車両には「近郊形改造」として、ドア付近の座席を一部ロングシートに改造した2ドアのセミクロスシート車が存在する。ロングシートで落成した車両でも、輸送需要の変化に即してセミクロスシートに改造された車両もある(JR東日本209系(房総地区向け)、阪神8000系など)。私鉄の例では、東武6050系や西武4000系、名鉄6000系、西鉄3000形などが挙げられる。
いわゆる国鉄型車両の場合、新規製造した時点では、3ドアの電車では通常ドア間に左右各2ボックス16名分の固定クロスシートを配していた。また、2ドア車両の場合ではデッキ付きのものはドア間すべてに固定クロスシートを配しており、デッキがないものについては客用扉付近をロングシートにし、扉間中央部にクロスシートを配する例が多かった。
1990年代以降は4ドアの車両でもクロスシートを導入する車両が増えている。日本で初めて登場した4ドアのクロスシート車は1970年に製造された近鉄2600系電車および量産型の2610系・2680系であるが、ロングシート部分はなく全座席が固定クロスシート設置として製造されたため、セミクロスシート車ではない。首都圏の場合、相鉄新7000系電車(7755F)が比較的混まない一部車両のドア間に左右1組ずつ固定クロスシートを試験的に設置した。これを筆頭に同等の設備を同社の8000系、9000系、JR東日本のE217系、E231系(近郊タイプ)、E531系や首都圏新都市鉄道TX-2000系電車で採用されている。また、名鉄300系電車や名古屋市営地下鉄7000形電車のようにロングシートと転換式クロスシートを扉を境に交互に配置した例、近畿日本鉄道のL/Cカーや関東私鉄の一部の通勤形車両に見られるデュアルシートなどがある。
なお、東急9000系電車、東京都交通局6300形(1、2次車のみ)、東京メトロ南北線9000系(1次車のみ)、京急新1000形、京急2000形(格下げ改造後)、南海1000系、南海2000系(後期車のみ)、香港鉄路(MTR)のメトロキャメル電車 (交流)(通勤化改造後)などの通勤形車両で、車端部に少数のボックスシートを配した例がある。
また、JR西日本125系・223系5500番台・521系、阪急6300系のように、クロスシート主体で運転席後部や妻面側車端部などに少数のロングシートを配する例もある。
また、トイレを有する車両で、便所使用者の直視を避けるため、当該便所前の座席のみをクロスシートとしている車両も存在する。採用例ではキハ35系、211系、JR東日本107系、JR東日本E233系3000番台の一部編成の6号車等がある。
その他、通路の左右でロングシートとクロスシートを組み合わせて設置する方式もある。第二次世界大戦前の日本では主に琵琶湖鉄道汽船100形電車や山陽電鉄100形電車など、通路の両側を2人掛けのクロスシートとするのに十分な車体幅を確保できない形式に採用された。戦後も草軽電気鉄道や仙北鉄道(キハ2406)、下津井電鉄(モハ1001・2000系“メリーベル”)など、762mm軌間で車体幅が狭い軽便鉄道の車両においてクロスシートを配置する方式として利用された。近年ではJR四国7000系、JR東日本701系5000番台、JR九州キハ220系200番台など、主にラッシュ対策と長距離輸送の両立を求められる3扉構成の車両において、クロスシートとロングシートの組み合わせを車体中央を中心に点対称に配置した千鳥配置のレイアウトで採用されている。通常のセミクロスシートに対して通路のスペースが広く取れるほか、ロングシートとクロスシートとの壁が無いために開放的であるなどの利点がある。ただし、クロスシートに座る客にとっては、ロングシートに座る客から横顔を見られる恰好となるので、居心地がよくないという欠点もある。
JR東日本719系電車のクロスシート座席部分は集団見合い型、名鉄6000系電車の一部では集団離反型の配置である。
ロングシート・クロスシートの両方に転換可能なタイプの座席である。
基本的に、混雑時には背もたれを窓に向けるように並べたロングシートとして使用し、閑散時には回転軸を中央に寄せて回転式クロスシートとして使用する目的で開発されたが、混雑の激しい首都圏では夕方のラッシュ時などにクロスシートとして主に有料ライナー列車の運用に就き、それ以外の時間帯はロングシートとして一般列車の運用に就くという目的で導入されている。機構が複雑であるが、利用率に合わせてロング・クロス両配置の適した方で運用することが可能である。クロスシートの状態では、足元にあるペダルを踏むか肘掛けの後部にあるレバーを引くことで乗客が座席を回転させて向きを変えることができる。ロングシートの状態ではロックされて足元のペダルも収納されるため、乗客が座席の向きを変えることはできない。座席は背もたれが固定されておりリクライニング機能を持つものは存在しなかったが、2022年下期に投入された京王5000系増備車では初めてリクライニング機能が搭載されている(クロスシート時のみ使用可能)。
登場自体は古く、1972年に国鉄が阪和線鳳電車区所属のクハ79929号車を吹田工場で試験的に改造したのが最初である。この改造車は後年実用化された車両と異なり、クロスシート時の背もたれ高さがロングシートに合わせた低いものとなっていたため実用化されなかったが、後に1996年に近畿日本鉄道の長距離急行用車両として製造された2610系の一部を改造して試験的に採用され、実用化された。以後L/Cカーの愛称が与えられ、翌年には新造車として5800系が、2000年には5820系(シリーズ21)が登場し本格的に採用された。いずれの車両も車端部は固定の4人掛けロングシートとなっている。現在は特急を除き列車種別に関係なく使用されている。
JRグループでは、JR東日本仙石線用に改造した205系でも5編成の石巻方先頭車に2WAYシートの名称を与えて採用している。この場合は観光路線として仙石線の利用を促進する狙いもあったが、仙石東北ラインの開業で仙石線快速列車が廃止されたため、2015年以降はロングシートに固定された状態のままで運行されている。同社では209系(八高線向け3000番台の一部車両)、E331系の先頭車で座席を収納して転換させるタイプのシート(手動での転換は不可能)を試験的に運用していたが、いずれも実用化はされなかった。
近鉄以外の私鉄では、東武50090型、70090型、西武40000系(0番台)、京王5000系、東急6000系 (2代目)・6020系・5050系(4000番台)、しなの鉄道SR1系、京急1000形1890番台に同種の座席が導入されている。なお、東武ではマルチシートと呼称しているが、東武以外の各社は座席自体の愛称を付していない(東急での「Qシート」は座席指定サービス名であり、非転換座席も含まれる)。
デュアルシートのメーカーは、近鉄・西武は天龍工業製(L/Cカーは近鉄と天龍工業との共同で特許を取得)、東武は50090型が住江工業製・70090型が天龍工業製、京王・東急・しなの鉄道・京急はコイト電工製である(JR東日本については不明)。
なお、デュアルシート車は全て電車に装備されており、客車や気動車への導入実績はない。
折り畳み座席は収容式座席または収納式座席として採用されている例がある。
通勤車両における採用事例としては京阪5000系が最初であり、収納時は座席が天井部に移動する。座面折りたたみ式は、JR東日本が山手線の205系に増結した6扉車「サハ204形車両」で広く知られるようになった。6扉車はラッシュ時にすべての座席が折り畳まれるが、731系・キハ201系のようにドア付近の席のみ折りたたみ可能としたものや、名鉄3500系の一部には、1人掛けでロック機構の無い簡便なものが設けられたこともある。京成新3100形は、空港アクセス列車として使用されることからロングシートの中心部に荷物置き場を兼ねた収納座席を採用している。
クロスシート車では、JR西日本223系(阪和線用0番台、2500番台をのぞく。クハ222形のうち1000番台はボックスシートのうち車椅子スペースに該当する部分にも採用)及び225系(阪和線用5000・5100番台をのぞく)、京阪8000系(8000系30番台となった8531Fを含む)、阪急6300系及び9300系(ロングシートのうち車椅子スペースに該当する部分にも採用)、名鉄5700系及び1200系、京急2100形のようにドア付近に設置されているものや、2階建て新幹線「Max」や近鉄特急の一部のようにデッキに設けた例や24系のように通路に設けられた例がある。JR西日本、京阪、阪急では「補助いす」と称している。類似したものとして東武鉄道の特急用車両だった5700系には観光バスで採用された型式の補助席が設けられていた。この他、南海2300系は車椅子スペースにロング状態の折畳式シートがある。
阪急京都本線や京阪電気鉄道の特急では、1970年代前半まで折りたたみ式のパイプ椅子が扉付近に取り付けられており、乗客が自由に取り外して座ることができた。
特徴的なものとしては、京急600形電車で「ツイングルシート」が採用されていた。同形式は日本の地下鉄対応車両としては珍しい全席固定式クロスシート車として登場したが、立席収容力確保のため2人掛け座席の一部を収納して1人掛けとし、座席数が増減できるようにしたものである。しかし、登場から数年で座席の収納は中止となり、ロングシート化の際にツイングルシートも撤去されている。詳細は同車項目を参照。
欧米では座席は固定式のものが多く、座席を回転できない車両が多い。
ヨーロッパでは固定式2人掛けクロスシートも多く採用されている。進行方向に応じた座席の転換はできず、集団見合式(車両前部の座席と車両後部の座席を向かい合わせにしている固定式)と集団離反式(車両前部の座席と車両後部の座席を反対向きにしている方式)があるが、TGV-SEは集団見合式を採用している。
アメリカ合衆国では座席をすべて一方向の固定式とし、終端の駅でデルタ線やループ線などを使って方向転換している例もある。
ドイツやスイスの通勤近郊車両では、車いす対応の共用スペースに、折りたたみ座席を設置している例がある。折り畳みボックスシートや折り畳みロングシートがある。
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"text": "鉄道車両の座席(てつどうしゃりょうのざせき)では、鉄道車両における座席のうち、椅子を使用したものの配置や形態について扱う。",
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"text": "客車(広義の旅客用鉄道車両)には通常座席が備わっている。客車は座席が主に椅子からなる座席車と寝台を座席として用いる寝台車に大別されるが、寝台車についてはその形態や配置について別に扱う。ただし、座席車のうち個室車の座席についてはコンパートメント席で扱い、ここではその区分がない開放式と称される座席について述べる。",
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"text": "座面の高さと幅は、乗客の体格や快適性と車両の収容力のバランスで決定される。快適性を重視して座面を下げて奥行きを大きくすると、足を投げ出すような形になるため乗客一人当たりの占有スペースは大きくなる。また、収容力を重視して座面を上げて奥行きを小さくすると、直立した姿勢に近くなり、乗客一人当たりの占有スペースは小さくなる。",
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"text": "乗客が着座する座面と、背中を押し付ける背もたれの部分には、モケットという布が張られている場合のほか、革を張っているものや、座面・背もたれに木・FRP、ビニールレザーなどを使用している例もある。",
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"text": "固定式座席の場合、車両の床に枠を設置して蹴込板で囲い(暖房用ヒーター等は内部に収容)、その枠の上に座席を組み付ける。固定式の座席は回転式の座席に比べて、保守の手間や終着駅での座席の方向転換の手間が省ける利点がある。",
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"text": "欧米など日本以外では座席は固定式のものが多く、座席を回転できない車両が多い。進行方向に応じた座席の転換はできず、集団見合式(車両前部の座席と車両後部の座席を向かい合わせにしている固定式)と集団離反式(車両前部の座席と車両後部の座席を反対向きにしている方式)がある。ヨーロッパでは固定式2人掛けクロスシートも多く採用されているが、日本では座席が前方を向いていないことに乗客の抵抗があるとされほとんど採用されていない。",
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"text": "回転式クロスシートの場合、車両の床に台座を設置し(暖房用ヒーター等は台座内部に収容)、その上に回転軸やフレームを取り付けて座席を組み付ける。",
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"text": "台座や蹴込板を設置する座席の支持構造では床上が複雑になり清掃が難しくなる欠点がある。そこで床にはこれらの支持物を設置せず、壁面から座席を支持する片持式座席(かたもちしきざせき)またはカンチレバーシートが採用されるようになった。",
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"text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)が1991年より運行開始した「成田エクスプレス」に使用される253系の普通車において、椅子の下も荷物置き場とするためにこの構造が採用されたのが最初である。その後、通勤形車両においても209系のロングシートに採用され、その後全国の事業者に採用されるようになった。",
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"text": "ロングシートは車両側壁に沿って座席を設置する形式である。座席スペースを最低限に抑えて立席スペースを広くすることができ、乗客の乗降を円滑にすることが可能である。",
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"text": "クロスシートは横向きの座席の形式で、固定式クロスシート、回転式クロスシート、転換式クロスシートなどに分類される。固定式クロスシートにはボックスシートと同一方向での固定方式がある。",
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"text": "クロスシート車では座席間隔と窓の配置等が設計上不可分の関係にある。日本国外の高速列車では窓と座席の配置が必ずしも合っていない場合がある。クロスシート車では、座席の回転、壁からのテーブルの張り出し等を考慮に入れた設計が必要となる。",
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"text": "観光客の多い路線ではロングシートよりもクロスシートのほうが好まれるため、観光輸送と通勤通学輸送の両立が課題となる。",
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"text": "婦人・子供専用車(昨今の女性専用車設定は新設ではなく復活したもの)廃止以降、1973年の中央線快速を皮切りに「シルバーシート」が設けられた。しかし、バリアフリーを目指す社会の要請に合わせて「優先席」の呼び名に変更し、高齢者だけでなく傷病人・妊婦など立つことが辛い人に優先的に着席してもらうよう改められた。",
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"text": "2000年頃から携帯電話による医療機器への悪影響を防ぐため、優先席付近では携帯電話の電源を切るよう呼びかけがされるようになり、2005年頃からは該当箇所の吊り革の色で区別を図るなどの方策をとっていた。その後携帯電話の技術進歩で医療機器への影響が少なくなったこともあり、2014年7月より、関西の鉄道事業者では携帯電話の電源を切るマナーを「混雑時のみ」と変更した。関東・信越地区では2015年10月から、東海地区・九州地区では2015年12月から、それ以外の地区でも2016年3月までに変更となった事業者がある。",
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"text": "混雑の激しい路線では着席よりも収容力や乗降のしやすさを優先しロングシートを採用することがほとんどであり、国鉄・私鉄・JRの通勤形電車や近郊形・一般形車両に採用されている。クロスシート車から改造、あるいは増備途中からロングシートに切り替えた車両も多い(名鉄6000系、JR九州817系、JR東海キハ25形など)。また、静岡地区の東海道本線の大多数の普通列車のように、乗車時間が比較的短いことからあえてロングシート車を投入している例もある。",
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"text": "一方、車窓が見づらく、窓框高さとの関係から背もたれを低くせざるを得ず、傾斜も付けにくい(ごく一部の車両を除く)など構造上長時間乗車に向かないことから、閑散時や中〜長距離の乗車(都市間連絡や観光目的での利用など)ではあまり好ましい評価を受けない。1990年代以降では、四国旅客鉄道(JR四国)のように「鉄道のライバルは鉄道以外にも自家用車やバスなどにある」との輸送モード間競争の観点から、オールロングシート車の新造を止めた事業者もある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2000年代後半以降は快適性の向上を図るため、背もたれを高くしたハイバック形やヘッドレストを持つロングシート車も登場しており、後述するデュアルシート車や京阪8000系(リニューアル車の車端部)、東急2020系等に採用例がある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
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"text": "先に示したとおり、座席前のスペースを広く取れることから、車両の幅が狭かった時代は一等車や二等車といった特別車両に採用されていた。日本でも大正時代中期までの官設鉄道や鉄道省では、貫通・非貫通式のいずれでも優等車はほとんど長手式であり、車体幅の広がった昭和時代以降にシートピッチの広いボックスシートや転換クロスシートに移行したが、展望車などは1930年代末期のスイテ37049(後のスイテ49)やスイテ37050形(後のスイテ37形)などの時点でも長手方向に向けてソファーを置いたものになっていた。少数ながらソファータイプのロングシートを採用したサロン調の特別車両が見られる(「おいこっと」など)。しかしながら、そのような車両は大変コストがかかるため、比較的少ないスペースでプライベートな空間を提供できること、窓の大きさを犠牲にすることなく背ずりの高さを上げられることなどから、特別料金を必要とする座席にはクロスシートを採用する例が大勢を占め、ロングシートは通勤・近郊形車両に使われている例がほとんどである。なお、通路部分に大きいテーブルを設置して、イベント車に使用することもある。こちらはさほどコストはかからないため、ローカル線や路面電車の車両でもロングシート車をイベント対応車として設定しているケースも見られる。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "特殊な配置では、JR東日本キハ100系の一部や、伊豆急行2100系、叡山電鉄900系のように、観光客が車窓風景を楽しめるように中央部から窓を向いたロングシートが設置されたものがある。このタイプは乗客の出入りの関係から1 - 2人が着席できるものが多く、また観光目的であることからロマンスシートに準じた背もたれの高いものが用いられることが多い。近年では南海電気鉄道高野線「天空」や九州旅客鉄道(JR九州)の観光特急「指宿のたまて箱」のように、このタイプのロングシートに限って有料座席(指定席)として発売されることがある。なおこれらの座席について「天空」は「ワンビュー座席」、「指宿のたまて箱」は「ソファーシート」と呼ばれており、公式にはロングシートと呼ばれない。",
"title": "日本の鉄道車両"
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{
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"text": "かつては『普通鉄道構造規則』(2002年廃止)の中で、座席数を車両定員の3分の1以上、かつ1人当たりの着席幅を400 mm以上とすることが規定されていた。国鉄時代は約430 mmに設定していた。この規定はJR東日本の6扉車導入を機に廃止されたが、そうした特殊な例をのぞけば2000年代以降もおおむね守られている。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
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"text": "1人当たりの着席幅は体格向上に応じて拡大の傾向にあり、最新の車両では450 mmから480 mm程度である。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
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"text": "なお、改定後の条文は次の通り。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "国鉄・JRの近郊型電車や一般型気動車、大手私鉄の特急型車両や地方私鉄などにおいて採用されている。関西圏・中京圏などでは以前から鉄道会社間の競合が激しく、都市間列車を中心にJR、私鉄双方とも転換式クロスシートの採用例が多い。一方首都圏では東武伊勢崎線・東武日光線の6050系、京浜急行電鉄の快特のうち泉岳寺・品川駅発着の列車中心に運転される2100形、西武池袋線・西武秩父線の4000系など、主に中距離の都市間利用や行楽客を目的とした列車向けの車両への採用例がある。しかし、首都圏では関西・中京圏に比べ混雑率が高く、ロングシートに比べ乗降しづらくラッシュ時の遅延の原因になることや、立ち席スペースが狭いことや、狭い空間で他人と隣り合うもしくは向き合って座ることを好まない昨今の風潮などから料金不要車両での採用例は少ない。その反面クロスシートの要望が完全に消えたわけではなく、車端部のみクロスシートとした車両も登場している。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
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"text": "なお、ケーブルカーは車体の構造上、座席は必ずクロスシートを採用している。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "なお、回転式、転換式にかかわらず、鉄道用語としては進行方向に向けることのできる2人掛け座席をロマンスシートと呼ぶ。このような構造の座席設備を持つ車両をロマンスカーと呼び、特に小田急電鉄の小田急ロマンスカーは列車名としても広く親しまれている。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "主に有料特急用車両に装備され、向きを転換するときには床面に垂直な回転軸を中心に180度回転する。着席者が進行方向を向いて座ることができ、また必要に応じて前後の座席を向かい合わせにして利用できる。観光路線を運行する車両や、ジョイフルトレインなどの団体利用を念頭に置いた車両においては45度あるいは90度回転させ、通路の反対側の座席と向かい合わせにしたり、窓側に向けて固定したりできるものなどもある。座席の背面に後席の乗客のためのテーブル・小物入れ・足置きなどを備えるもの、肘掛の中にテーブルや灰皿を内蔵しているものもある。かつての国鉄形の標準座席間隔は、近郊形グリーン車で970mm、特急形普通車で910mmまたは940mm(国鉄キハ183系・キハ185系)であった。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "昭和30年代から40年代に製造された国鉄の特急形車両の普通車、準急形車両の二等車(のちの一等車)、近郊形車両のグリーン車ではリクライニング機能のない回転式クロスシートが採用されていた。現在採用されている回転式クロスシートの大部分は背もたれの傾斜を変えられるリクライニングシートである。リクライニング機能のない座席を備える車両は、特急などの有料優等専属で使用されるものでは東武300系やE4系「Max」の2階自由席車、後述するデュアルシート(回転できるのはクロス状態時のみ)などがある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "背もたれだけが前後に移動する機構により、着席方向を切り替えられる座席である。特に会社間競争の激しい中京・関西地方の近郊形車両に多く採用されているが、関東・東北地方では採用する鉄道会社が少ない。特急形車両では新幹線0系電車や185系、キハ185系の普通車(キロハ186のみ)座席に採用例があるほか、既存車両でも座席改良の際に採用した例がある(キハ80系やキハ58系など)。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "比較的簡易な機構で、回転クロスシートと同様に進行方向を向いて座り、前後の座席を向かい合わせにすることが可能である。背もたれに中折れ機構を設け、着座姿勢をより改善しているものもある。戦前から昭和30年代までは二等車・特急形車両などの特別料金を要する列車で用いられることも多かったが、回転式クロスシートに比べると座り心地が悪く、背もたれの背面に設備品を装備できず、また基本的にリクライニング機構も設けられないため、この分野では回転式に移行した。代わりに1980年代末期以降ではJR東日本をのぞいたJR各社の普通列車用車両や、一部の私鉄で運行される特別料金不要の特急・急行用車両に導入される例が増えている。座席間隔は国鉄型が910mm、私鉄では900mmとする例が多く、必要に応じて変更される。なお、転換クロスシート車といわれる車両であっても、近郊形・私鉄の特急形では車端部や扉横の座席は転換クロスシート並みに背もたれを傾斜させた固定式とし、中間の座席のみを転換式としているものが多い。これは、背もたれ後部のデッドスペースの発生による乗車定員の減少を防ぐためである。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "終着駅で車掌がスイッチを操作することにより一斉に各席の方向が転換する、座席の自動転換装置を備える車両もある。このうち京急2100形は向かい合わせ使用をしないことを前提に座席間隔を詰め、より多くの座席配置とする設計を採っており、営業時の座席は進行方向に固定され、乗客が転換することはできない。運行開始直後はこれを知らない者が強引に転換させようと座席を引っ張り故障が多発した。そのため、背もたれには座席を転換できない旨の注意書きがある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
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"text": "背もたれの傾斜角度を調節することができる座席である。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "国鉄では、1949年(昭和24年)戦後初の特別急行列車「へいわ」復活に際し、一等展望車に使用するため復活されたマイテ39の座席で初めて採用された。本格的な使用は翌年に登場した特別二等車スロ60形からで、このとき採用された機械式5段階ロック・足載せ台付の座席は以後大きな変更もなく国鉄末期まで特急・急行用二等車(→一等車→現グリーン車)の標準装備とされた。なお、スロ60形客車は最初は一等車「スイ60」として設計されたため座席間隔を1,250mmとしていたが、その後製造されたスロ53形では1,160mmとなり、これはJR移行後でも特急形車両におけるグリーン車の標準座席間隔である。客車特急列車の展望車の代替車両として151系電車で設計・製造された「パーラーカー」クロ151形車両の1人用リクライニングシートの座席間隔は1,100mmだった。また例外的に普通車(当時は3等車)より改造されたスロ62形の座席間隔は1,270mmで、当時の国鉄型では最大だった。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
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"paragraph_id": 33,
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"text": "新幹線では1964年の東海道新幹線開業時における新幹線0系の一等車から、現在に通じる座席幅のものを採用している。車体幅が在来線より大きい新幹線では、横一列あたりの座席数が普通車の大多数は3+2列なのに対し、グリーン車は2+2列として、座席幅にゆとりを持たせている。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
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"paragraph_id": 34,
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"text": "普通車で最初に採用されたのは、国鉄183系の簡易式(後述)である。その後、1985年の新幹線100系、在来線用も1986年のキハ183系500番台から普通車においてもフリーストップ式のリクライニングシートを採用しており、現在は一部車種を除き特急型車両では標準装備となっている。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "国鉄分割民営化以降、普通車用座席の改良が重ねられた結果、1990年代後半には普通車用座席とグリーン車用座席との差は小さくなった。差は傾きや座席の大きさ、シートピッチ(座席間隔)などである。そのため在来線用のグリーン車では横一列当たりの座席数を2+2から2+1に減らし、新幹線と同様に1人あたり座席幅をゆとりを持たせて普通車用座席との差別化を図る場合も多い。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "また、夜行列車の一部では、高速バス等との競争のため、普通車であっても傾きの大きさがグリーン車用に近い座席、あるいはグリーン車から転用した座席を設置し、シートピッチもグリーン車に近い寸法として居住性を高めたものもあった。2003年3月まで「ムーンライトえちご」に充当された165系が始まりとされている。かつての「なは」「あかつき」では夜行高速バス並みに全席1人掛けで傾きの角度が大きい「レガートシート」があった。これ以前にも、1980年代からは四国や九州の気動車急行においてグリーン車を座席を交換することなく普通車に格下げして使用する例もあった。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "1972年に登場した183系普通車で初めて採用された、リクライニングシートの一種である。同時期に製造された14系座席車、485系(1974年度以降の新製車)、381系やまた113系グリーン車の一部などにも採用された。座席下部に設置された受け皿のようなものの上にシートを配置する形状で、座面を前後移動させることにより背もたれをリクライニングさせる構造である。このためリクライニング角度は小さく、リクライニングさせると座席の前後間隔が狭くなるという欠点がある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "初期のものは背もたれにストッパーが無く、体重を掛けていないと座席の傾きが元に戻り、体を起こすたびに大きな音と衝撃が生じることから、1976年以降に製造された車両からは完全にリクライニングさせた時のみ作動するストッパーが追加された。国鉄分割民営化前後から指定席車用座席を中心にフリーストップ式への換装が行われたが、一部廃車まで無改造で残存した車両も見られた。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "このシートは埼玉県さいたま市の鉄道博物館のヒストリーゾーン(現:車両展示ゾーン)で、背もたれのストッパーがあるものと無いもの両方に座ることができたが、現在は撤去されている。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "クロスシートは、おおむね以下の構成である。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "座席幅の寸法は、特急用車両の場合普通車で430 - 460mm、グリーン車の場合2+2配列で450mm前後、2+1配列のものや新幹線車両では470 - 500mm程度が一般的である。数値のみで見た場合普通車とグリーン車との間の差、また前述のロングシート車の数値と大差がないとされるが、座席幅の数値は肘掛部分をのぞいた幅で計測されるのが通常であるため、横方向における体感的なゆとりは座席幅よりもむしろ肘掛の有無や、肘掛の幅の差に表れる。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "なお、一部の車両には車椅子を固定するために標準の配列から1人分減じた区画がある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ロングシートとクロスシートを組み合わせた配置で、通常は乗降が円滑になるようドア付近をロングシート、ドア間にクロスシートを配置する。クロスシートは固定式がほとんどだが、JR西日本のように転換クロスシートを採用した例もある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本では1920年代の第二次都市間高速電気鉄道(インターアーバン)建設ブームの頃から、長距離輸送とラッシュ時対策の両立や、電動車の主電動機点検蓋(トラップドア)とクロスシートの干渉を防ぐ目的などで採用され始め、第二次世界大戦後も都市間輸送用を中心に採用が続いている。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "国鉄時代の車両では近郊形車両である113系や415系等の3ドア車や、80系、711系やキハ40系等の2ドア車が存在している。また、交直流急行電車やキハ58系などの急行形車両には「近郊形改造」として、ドア付近の座席を一部ロングシートに改造した2ドアのセミクロスシート車が存在する。ロングシートで落成した車両でも、輸送需要の変化に即してセミクロスシートに改造された車両もある(JR東日本209系(房総地区向け)、阪神8000系など)。私鉄の例では、東武6050系や西武4000系、名鉄6000系、西鉄3000形などが挙げられる。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "いわゆる国鉄型車両の場合、新規製造した時点では、3ドアの電車では通常ドア間に左右各2ボックス16名分の固定クロスシートを配していた。また、2ドア車両の場合ではデッキ付きのものはドア間すべてに固定クロスシートを配しており、デッキがないものについては客用扉付近をロングシートにし、扉間中央部にクロスシートを配する例が多かった。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降は4ドアの車両でもクロスシートを導入する車両が増えている。日本で初めて登場した4ドアのクロスシート車は1970年に製造された近鉄2600系電車および量産型の2610系・2680系であるが、ロングシート部分はなく全座席が固定クロスシート設置として製造されたため、セミクロスシート車ではない。首都圏の場合、相鉄新7000系電車(7755F)が比較的混まない一部車両のドア間に左右1組ずつ固定クロスシートを試験的に設置した。これを筆頭に同等の設備を同社の8000系、9000系、JR東日本のE217系、E231系(近郊タイプ)、E531系や首都圏新都市鉄道TX-2000系電車で採用されている。また、名鉄300系電車や名古屋市営地下鉄7000形電車のようにロングシートと転換式クロスシートを扉を境に交互に配置した例、近畿日本鉄道のL/Cカーや関東私鉄の一部の通勤形車両に見られるデュアルシートなどがある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "なお、東急9000系電車、東京都交通局6300形(1、2次車のみ)、東京メトロ南北線9000系(1次車のみ)、京急新1000形、京急2000形(格下げ改造後)、南海1000系、南海2000系(後期車のみ)、香港鉄路(MTR)のメトロキャメル電車 (交流)(通勤化改造後)などの通勤形車両で、車端部に少数のボックスシートを配した例がある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "また、JR西日本125系・223系5500番台・521系、阪急6300系のように、クロスシート主体で運転席後部や妻面側車端部などに少数のロングシートを配する例もある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、トイレを有する車両で、便所使用者の直視を避けるため、当該便所前の座席のみをクロスシートとしている車両も存在する。採用例ではキハ35系、211系、JR東日本107系、JR東日本E233系3000番台の一部編成の6号車等がある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "その他、通路の左右でロングシートとクロスシートを組み合わせて設置する方式もある。第二次世界大戦前の日本では主に琵琶湖鉄道汽船100形電車や山陽電鉄100形電車など、通路の両側を2人掛けのクロスシートとするのに十分な車体幅を確保できない形式に採用された。戦後も草軽電気鉄道や仙北鉄道(キハ2406)、下津井電鉄(モハ1001・2000系“メリーベル”)など、762mm軌間で車体幅が狭い軽便鉄道の車両においてクロスシートを配置する方式として利用された。近年ではJR四国7000系、JR東日本701系5000番台、JR九州キハ220系200番台など、主にラッシュ対策と長距離輸送の両立を求められる3扉構成の車両において、クロスシートとロングシートの組み合わせを車体中央を中心に点対称に配置した千鳥配置のレイアウトで採用されている。通常のセミクロスシートに対して通路のスペースが広く取れるほか、ロングシートとクロスシートとの壁が無いために開放的であるなどの利点がある。ただし、クロスシートに座る客にとっては、ロングシートに座る客から横顔を見られる恰好となるので、居心地がよくないという欠点もある。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "JR東日本719系電車のクロスシート座席部分は集団見合い型、名鉄6000系電車の一部では集団離反型の配置である。",
"title": "日本の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ロングシート・クロスシートの両方に転換可能なタイプの座席である。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "基本的に、混雑時には背もたれを窓に向けるように並べたロングシートとして使用し、閑散時には回転軸を中央に寄せて回転式クロスシートとして使用する目的で開発されたが、混雑の激しい首都圏では夕方のラッシュ時などにクロスシートとして主に有料ライナー列車の運用に就き、それ以外の時間帯はロングシートとして一般列車の運用に就くという目的で導入されている。機構が複雑であるが、利用率に合わせてロング・クロス両配置の適した方で運用することが可能である。クロスシートの状態では、足元にあるペダルを踏むか肘掛けの後部にあるレバーを引くことで乗客が座席を回転させて向きを変えることができる。ロングシートの状態ではロックされて足元のペダルも収納されるため、乗客が座席の向きを変えることはできない。座席は背もたれが固定されておりリクライニング機能を持つものは存在しなかったが、2022年下期に投入された京王5000系増備車では初めてリクライニング機能が搭載されている(クロスシート時のみ使用可能)。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "登場自体は古く、1972年に国鉄が阪和線鳳電車区所属のクハ79929号車を吹田工場で試験的に改造したのが最初である。この改造車は後年実用化された車両と異なり、クロスシート時の背もたれ高さがロングシートに合わせた低いものとなっていたため実用化されなかったが、後に1996年に近畿日本鉄道の長距離急行用車両として製造された2610系の一部を改造して試験的に採用され、実用化された。以後L/Cカーの愛称が与えられ、翌年には新造車として5800系が、2000年には5820系(シリーズ21)が登場し本格的に採用された。いずれの車両も車端部は固定の4人掛けロングシートとなっている。現在は特急を除き列車種別に関係なく使用されている。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "JRグループでは、JR東日本仙石線用に改造した205系でも5編成の石巻方先頭車に2WAYシートの名称を与えて採用している。この場合は観光路線として仙石線の利用を促進する狙いもあったが、仙石東北ラインの開業で仙石線快速列車が廃止されたため、2015年以降はロングシートに固定された状態のままで運行されている。同社では209系(八高線向け3000番台の一部車両)、E331系の先頭車で座席を収納して転換させるタイプのシート(手動での転換は不可能)を試験的に運用していたが、いずれも実用化はされなかった。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "近鉄以外の私鉄では、東武50090型、70090型、西武40000系(0番台)、京王5000系、東急6000系 (2代目)・6020系・5050系(4000番台)、しなの鉄道SR1系、京急1000形1890番台に同種の座席が導入されている。なお、東武ではマルチシートと呼称しているが、東武以外の各社は座席自体の愛称を付していない(東急での「Qシート」は座席指定サービス名であり、非転換座席も含まれる)。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "デュアルシートのメーカーは、近鉄・西武は天龍工業製(L/Cカーは近鉄と天龍工業との共同で特許を取得)、東武は50090型が住江工業製・70090型が天龍工業製、京王・東急・しなの鉄道・京急はコイト電工製である(JR東日本については不明)。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "なお、デュアルシート車は全て電車に装備されており、客車や気動車への導入実績はない。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "折り畳み座席は収容式座席または収納式座席として採用されている例がある。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "通勤車両における採用事例としては京阪5000系が最初であり、収納時は座席が天井部に移動する。座面折りたたみ式は、JR東日本が山手線の205系に増結した6扉車「サハ204形車両」で広く知られるようになった。6扉車はラッシュ時にすべての座席が折り畳まれるが、731系・キハ201系のようにドア付近の席のみ折りたたみ可能としたものや、名鉄3500系の一部には、1人掛けでロック機構の無い簡便なものが設けられたこともある。京成新3100形は、空港アクセス列車として使用されることからロングシートの中心部に荷物置き場を兼ねた収納座席を採用している。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "クロスシート車では、JR西日本223系(阪和線用0番台、2500番台をのぞく。クハ222形のうち1000番台はボックスシートのうち車椅子スペースに該当する部分にも採用)及び225系(阪和線用5000・5100番台をのぞく)、京阪8000系(8000系30番台となった8531Fを含む)、阪急6300系及び9300系(ロングシートのうち車椅子スペースに該当する部分にも採用)、名鉄5700系及び1200系、京急2100形のようにドア付近に設置されているものや、2階建て新幹線「Max」や近鉄特急の一部のようにデッキに設けた例や24系のように通路に設けられた例がある。JR西日本、京阪、阪急では「補助いす」と称している。類似したものとして東武鉄道の特急用車両だった5700系には観光バスで採用された型式の補助席が設けられていた。この他、南海2300系は車椅子スペースにロング状態の折畳式シートがある。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "阪急京都本線や京阪電気鉄道の特急では、1970年代前半まで折りたたみ式のパイプ椅子が扉付近に取り付けられており、乗客が自由に取り外して座ることができた。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "特徴的なものとしては、京急600形電車で「ツイングルシート」が採用されていた。同形式は日本の地下鉄対応車両としては珍しい全席固定式クロスシート車として登場したが、立席収容力確保のため2人掛け座席の一部を収納して1人掛けとし、座席数が増減できるようにしたものである。しかし、登場から数年で座席の収納は中止となり、ロングシート化の際にツイングルシートも撤去されている。詳細は同車項目を参照。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "欧米では座席は固定式のものが多く、座席を回転できない車両が多い。",
"title": "欧米の鉄道車両"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでは固定式2人掛けクロスシートも多く採用されている。進行方向に応じた座席の転換はできず、集団見合式(車両前部の座席と車両後部の座席を向かい合わせにしている固定式)と集団離反式(車両前部の座席と車両後部の座席を反対向きにしている方式)があるが、TGV-SEは集団見合式を採用している。",
"title": "欧米の鉄道車両"
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"text": "アメリカ合衆国では座席をすべて一方向の固定式とし、終端の駅でデルタ線やループ線などを使って方向転換している例もある。",
"title": "欧米の鉄道車両"
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"text": "ドイツやスイスの通勤近郊車両では、車いす対応の共用スペースに、折りたたみ座席を設置している例がある。折り畳みボックスシートや折り畳みロングシートがある。",
"title": "欧米の鉄道車両"
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鉄道車両の座席(てつどうしゃりょうのざせき)では、鉄道車両における座席のうち、椅子を使用したものの配置や形態について扱う。 客車(広義の旅客用鉄道車両)には通常座席が備わっている。客車は座席が主に椅子からなる座席車と寝台を座席として用いる寝台車に大別されるが、寝台車についてはその形態や配置について別に扱う。ただし、座席車のうち個室車の座席についてはコンパートメント席で扱い、ここではその区分がない開放式と称される座席について述べる。
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{{複数の問題
|出典の明記 = 2018年3月
|独自研究 = 2018年3月
}}
'''鉄道車両の座席'''(てつどうしゃりょうのざせき)では、[[鉄道車両]]における[[座席]]のうち、[[椅子]]を使用したものの配置や形態について扱う。
[[客車]](広義の[[旅客車|旅客用鉄道車両]])には通常座席が備わっている。客車は座席が主に椅子からなる'''[[座席車]]'''と寝台を座席として用いる'''[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]'''に大別されるが、寝台車についてはその形態や配置について別に扱う。ただし、座席車のうち個室車の座席についてはコンパートメント席で扱い、ここではその区分がない'''開放式'''と称される座席について述べる。
== 車両と座席 ==
=== 座面 ===
座面の高さと幅は、乗客の体格や快適性と車両の収容力のバランスで決定される<ref name="井上P125">井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、125頁</ref>。快適性を重視して座面を下げて奥行きを大きくすると、足を投げ出すような形になるため乗客一人当たりの占有スペースは大きくなる<ref name="井上P125" />。また、収容力を重視して座面を上げて奥行きを小さくすると、直立した姿勢に近くなり、乗客一人当たりの占有スペースは小さくなる<ref name="井上P125" />。
乗客が着座する座面と、背中を押し付ける背もたれの部分には、モケットという布が張られている場合のほか、[[皮革|革]]を張っているものや、座面・背もたれに木・[[繊維強化プラスチック|FRP]]、ビニールレザーなどを使用している例もある。
=== 座席の支持構造 ===
==== 固定式座席の場合 ====
固定式座席の場合、車両の床に枠を設置して蹴込板で囲い(暖房用ヒーター等は内部に収容)、その枠の上に座席を組み付ける<ref name="井上P126" />。固定式の座席は回転式の座席に比べて、保守の手間や終着駅での座席の方向転換の手間が省ける利点がある<ref name="井上P137">井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、137頁</ref>。
欧米など日本以外では座席は固定式のものが多く、座席を回転できない車両が多い<ref name="toyokeizai91367" />。進行方向に応じた座席の転換はできず、集団見合式(車両前部の座席と車両後部の座席を向かい合わせにしている固定式)と集団離反式(車両前部の座席と車両後部の座席を反対向きにしている方式)がある<ref name="井上P136-137">井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、136-137頁</ref>。ヨーロッパでは固定式2人掛けクロスシートも多く採用されているが、日本では座席が前方を向いていないことに乗客の抵抗があるとされほとんど採用されていない<ref name="井上P136-137" />。
==== 回転式座席の場合 ====
回転式クロスシートの場合、車両の床に台座を設置し(暖房用ヒーター等は台座内部に収容)、その上に回転軸やフレームを取り付けて座席を組み付ける<ref name="井上P126">井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、126頁</ref>。
==== 片持式座席 ====
[[ファイル:JRE Moha209-1001 7-Seat.jpg|thumb|片持ち式座席の例([[JR東日本209系電車]])]]
台座や蹴込板を設置する座席の支持構造では床上が複雑になり清掃が難しくなる欠点がある<ref name="井上P126" />。そこで床にはこれらの支持物を設置せず、壁面から座席を支持する'''片持式座席'''(かたもちしきざせき)または'''[[カンチレバー]]シート'''が採用されるようになった<ref name="井上P126" />。
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が1991年より運行開始した「[[成田エクスプレス]]」に使用される253系の普通車において、椅子の下も荷物置き場とするためにこの構造が採用されたのが最初である。その後、通勤形車両においても209系のロングシートに採用され、その後全国の事業者に採用されるようになった。
=== 座席の配置 ===
==== ロングシート(縦座席) ====
[[ファイル:Series-205-500 Inside.jpg|thumb|240px|right|ロングシート([[国鉄205系電車|JR東日本205系電車]])]]
{{Anchors|ロングシート}}ロングシートは車両側壁に沿って座席を設置する形式である<ref name="井上P130">井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、130頁</ref>。座席スペースを最低限に抑えて立席スペースを広くすることができ、乗客の乗降を円滑にすることが可能である<ref name="井上P130" />。
==== クロスシート(横座席) ====
{{Anchors|クロスシート}}
クロスシートは横向きの座席の形式で、固定式クロスシート、回転式クロスシート、転換式クロスシートなどに分類される<ref name="井上P130">井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、130頁</ref>。固定式クロスシートにはボックスシートと同一方向での固定方式がある<ref name="井上P130" />。
* 固定式クロスシート - 方向転換しないクロスシート。固定式クロスシート全般の利点は、方向転換機構がない分構造が簡便で、軽量化・省コスト化と剛性確保を両立しやすく、座席構造部の軋み音がしにくいことが挙げられる。
* 回転式クロスシート - 座面が回転することができるクロスシート<ref name="井上P126" />。
* 転換式クロスシート - 背ズリ部の前後移動で方向転換を行うクロスシート<ref>井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、133頁</ref>
* 簡易お座敷 - 上記ボックス(クロスシート)の座面に畳を敷いてお座敷列車風にしたもの。
クロスシート車では座席間隔と窓の配置等が設計上不可分の関係にある<ref>井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、144頁</ref>。日本国外の高速列車では窓と座席の配置が必ずしも合っていない場合がある<ref name="井上P142" />。クロスシート車では、座席の回転、壁からのテーブルの張り出し等を考慮に入れた設計が必要となる<ref name="井上P142">井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、142頁</ref>。
観光客の多い路線ではロングシートよりもクロスシートのほうが好まれるため、観光輸送と通勤通学輸送の両立が課題となる<ref>井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、130頁</ref>。
=== 座席の付帯設備 ===
* 肘掛け
* [[灰皿]] - 禁煙化の流れにより灰皿は設置されなくなっている<ref name="井上P127">井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、127頁</ref>。回転式クロスシートでは肘掛けの内部、それ以外では壁面に設置して共有する方式が多かった<ref name="井上P127" />。
* [[テーブル (家具)|テーブル]] - ロングシートではテーブルは設置しない<ref name="井上P127" />。固定式クロスシートや転換式クロスシートでは壁面に固定式テーブルが設置される<ref name="井上P127" />。回転式クロスシートでは肘掛けの内部、前の座席の背面、側壁(折り畳み式)のいずれかに設置されるが、背面テーブルが主流となっている<ref name="井上P127" />。
* 網袋 - 回転式クロスシートにみられる網状(またはバンド状)の付帯設備でここにパンフレットなどを収容する<ref>井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、127-128頁</ref>。
* カップホルダー - 回転式クロスシートなどにはカップホルダーを設置した設計もみられる<ref name="井上P128">井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、128頁</ref>。
=== 優先席 ===
{{main|優先席}}
[[日本の女性専用車両|婦人・子供専用車]](昨今の女性専用車設定は新設ではなく復活したもの)廃止以降、1973年の[[中央線快速]]を皮切りに「シルバーシート」が設けられた。しかし、[[バリアフリー]]を目指す社会の要請に合わせて「[[優先席]]」の呼び名に変更し、高齢者だけでなく傷病人・妊婦など立つことが辛い人に優先的に着席してもらうよう改められた。
2000年頃から[[携帯電話]]による医療機器への悪影響を防ぐため、優先席付近では携帯電話の電源を切るよう呼びかけがされるようになり、2005年頃からは該当箇所の吊り革の色で区別を図るなどの方策をとっていた。その後携帯電話の技術進歩で医療機器への影響が少なくなったこともあり、2014年7月より、関西の鉄道事業者では携帯電話の電源を切るマナーを「混雑時のみ」と変更した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20140626-OYO1T50014.html 優先席携帯オフは混雑時だけ…関西のJRと私鉄]読売新聞 2014年06月26日</ref>。関東・信越地区では2015年10月から<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASH9Z3QQKH9ZUTIL00G.html 優先席で携帯電話、今日からOKに 東日本の鉄道37社]朝日新聞 2015年10月01日</ref>、東海地区・九州地区では2015年12月から<ref>[http://trafficnews.jp/post/45919/ 優先席付近の携帯「混雑時オフ」にルール変更 スマホ普及など受け]</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015年11月24日|url=http://www.jrkyushu.co.jp/top_info/pdf/668/keitaimanahennkou.pdf|title=優先席付近における携帯電話使用マナーを「混雑時には電源をお切りください」に変更します。|format=PDF|publisher=北九州高速鉄道・熊本電気鉄道・福岡市交通局・九州旅客鉄道・筑豊電気鉄道・松浦鉄道・くま川鉄道・西日本鉄道・熊本市交通局・肥薩おれんじ鉄道|accessdate=2019年4月25日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180617142252/http://www.jrkyushu.co.jp/news/pdf/keitaimanahennkou.pdf|archivedate=2018年6月17日|editor=九州旅客鉄道}}</ref>、それ以外の地区でも2016年3月までに変更となった<ref>{{Cite press release|和書|title=優先席付近の携帯電話ご利用ルールを「混雑時には電源をお切り下さい」に変更します|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-3-18|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160318-2.pdf|format=PDF|language=ja|accessdate=2019-04-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190425085911/https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160318-2.pdf|archivedate=2019-04-25}}</ref>事業者がある。
== 日本の鉄道車両 ==
=== ロングシートの採用例 ===
混雑の激しい路線では着席よりも収容力や乗降のしやすさを優先しロングシートを採用することがほとんどであり、国鉄・私鉄・JRの通勤形電車や近郊形・一般形車両に採用されている。クロスシート車から改造、あるいは増備途中からロングシートに切り替えた車両も多い([[名鉄6000系電車|名鉄6000系]]、[[JR九州817系電車|JR九州817系]]、[[JR東海キハ25形気動車|JR東海キハ25形]]など)。また、[[東海道線 (静岡地区)|静岡地区の東海道本線]]の大多数の普通列車のように、乗車時間が比較的短いことからあえてロングシート車を投入している例もある。
一方、車窓が見づらく、窓框高さとの関係から背もたれを低くせざるを得ず、傾斜も付けにくい(ごく一部の車両を除く)など構造上長時間乗車に向かないことから、閑散時や中〜長距離の乗車(都市間連絡や観光目的での利用など)ではあまり好ましい評価を受けない<ref group="注">鉄道紀行作家の[[宮脇俊三]]は「[[旅 (雑誌)|旅]]」で行われたインタビューで「(ロングシートで)酒を飲むと[[アルコール依存症]]に見えてしまう」と語っている。</ref>。[[1990年代]]以降では、[[四国旅客鉄道]](JR四国)のように「鉄道のライバルは鉄道以外にも[[自家用車]]や[[バス_(交通機関)|バス]]などにある」との輸送モード間競争の観点から、オールロングシート車の新造を止めた事業者もある。
[[2000年代]]後半以降は快適性の向上を図るため、背もたれを高くしたハイバック形や[[ヘッドレスト]]を持つロングシート車も登場しており、後述するデュアルシート車や[[京阪8000系電車|京阪8000系]](リニューアル車の車端部)、[[東急2020系電車|東急2020系]]等に採用例がある。
先に示したとおり、座席前のスペースを広く取れることから、車両の幅が狭かった時代は[[一等車]]や[[二等車]]といった[[特別席|特別車両]]に採用されていた<ref>『通勤電車なるほど雑学事典』([[川島令三]]著、[[PHP研究所]] ISBN 9784569573779)</ref>。日本でも[[大正]]時代中期までの[[鉄道省|官設鉄道や鉄道省]]では、貫通・非貫通式のいずれでも優等車はほとんど長手式であり<ref>[[#星1962|(星1962)p.11・55]]</ref>、車体幅の広がった[[昭和]]時代以降にシートピッチの広いボックスシートや転換クロスシートに移行したが、展望車などは[[1930年代]]末期のスイテ37049(後の[[国鉄スハ32系客車#展望車(丸屋根車)|スイテ49]])やスイテ37050形(後の[[国鉄オハ35系客車#展望車|スイテ37形]])などの時点でも長手方向に向けてソファーを置いたものになっていた<ref>[[#星1962|(星1962)p.148-149]]</ref>。少数ながら[[ソファー]]タイプのロングシートを採用したサロン調の特別車両が見られる(「[[おいこっと]]」など)。しかしながら、そのような車両は大変コストがかかるため、比較的少ないスペースでプライベートな空間を提供できること、窓の大きさを犠牲にすることなく背ずりの高さを上げられることなどから、特別料金を必要とする座席には[[#クロスシート(横座席)|クロスシート]]を採用する例が大勢を占め、ロングシートは通勤・近郊形車両に使われている例がほとんどである。なお、[[通路]]部分に大きいテーブルを設置して、イベント車に使用することもある。こちらはさほどコストはかからないため、[[ローカル線]]や路面電車の車両でもロングシート車をイベント対応車として設定しているケースも見られる。
特殊な配置では、[[JR東日本キハ100系気動車|JR東日本キハ100系]]の一部や、[[伊豆急行2100系電車|伊豆急行2100系]]、[[叡山電鉄900系電車|叡山電鉄900系]]のように、観光客が車窓風景を楽しめるように中央部から窓を向いたロングシートが設置されたものがある。このタイプは乗客の出入りの関係から1 - 2人が着席できるものが多く、また観光目的であることからロマンスシートに準じた背もたれの高いものが用いられることが多い。近年では[[南海電気鉄道]][[南海22000系電車#観光列車「天空」|高野線「天空」]]や[[九州旅客鉄道]](JR九州)の観光特急「[[指宿のたまて箱]]」のように、このタイプのロングシートに限って有料座席([[指定席]])として発売されることがある。なおこれらの座席について「天空」は「ワンビュー座席」、「指宿のたまて箱」は「ソファーシート」と呼ばれており、公式にはロングシートと呼ばれない。
<gallery>
ファイル:KEIHAN8000 R LONG.jpg|京阪8000系電車リニューアル車の車端部ロングシート(優先席)の様子
ファイル:EIDEN900-syanai02.jpg|叡山電鉄900系電車車内(登場時)。一部が窓側を向いたロングシートを採用している。
ファイル:Kuha821.jpg|[[JR九州821系電車]]の車内。通常のロングシートはハイバックで、車端部はヘッドレストの付いた仕様となっている。
</gallery>
==== 椅子の形態 ====
; 色分け
: 座席表皮の色の一部分を変えて、心理的な誘導効果をねらったもの。始まりは[[国鉄201系電車]](登場時)の、7人掛けの中央1人分のモケット色を他とは変える方式である。その後[[千葉ニュータウン鉄道]][[住宅・都市整備公団2000形電車|9000形]]では2人掛けと4人掛けの座面で生地の色を変えたものや、 乗客1人ずつの着席位置を示す模様を織り込んだ生地([[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]][[大阪市交通局20系電車|20系]]など)を使用したものが見られる。
; シート分割
: それまでロングシートは長手方向に一体もしくは二分割(4人掛け×2や4人掛け+3人掛けなど)であることが一般的だった。これをさらに小さく分割し座席定員の明確化を狙ったものである。[[北総鉄道]][[北総開発鉄道7000形電車|7000形]]では2人分ずつに区切っている。九州旅客鉄道(JR九州)が発足後に新規開発したロングシート車([[JR九州815系電車|815系]]・[[JR九州303系電車|303系]]・[[JR九州813系電車#500番台(8次車)|サハ813形500番台]]など)には1人分ずつ座布団が独立したロングシートを採用している。
<gallery>
ファイル:Seibu-Series6000 Seat.jpg|区分柄の入った座席([[西武6000系電車|西武6000系]])
ファイル:Inside-Toyorapid2000-2.jpg|1人分ごとに色分けされた座席([[東葉高速鉄道2000系電車|東葉高速鉄道2000系]])
</gallery>
; [[バケットシート]]
: 体形にあった定員分の凹みを座席に設け、より快適な着座感を期待するほか定員着席を誘導する方式。凹みの形状は各社各様で、その形状によって効果も異なる<ref group="注">共通して凹みが浅いほど効果が無くなり、凹みが深いほど効果が出る。</ref>。[[1980年代]]頃から採用例が増えている([[国鉄211系電車|国鉄211系]]など)。一方、[[アジア]]圏の都市鉄道ではベンチ状に成形したプラスチック製・金属製のシートを取り入れられている例も見られ、日本でも[[大阪市交通局30系電車|大阪市交通局30系]](後に通常タイプに改造)や[[名鉄モ880形電車|名鉄モ880形]]などの採用例が見られる。
<gallery>
ファイル:Toei Series5320-8 8-Seat.jpg|バケットシート([[東京都交通局5300形電車|都営5300形]])
</gallery>
; 仕切り
: 座席の中間に1 - 2か所の袖仕切りを設け、色分けや座席形状よりも強制的に着席位置を誘導する構造である。色分けやバケットシートによる区切り方は、色や座席の凹みを無視され過剰に広く座られるなど強制力が弱かったため、それらに代わる着席範囲の明確化手段として登場した。袖仕切りの箇所数によってその効果が異なるが、7人掛けの場合に2+3+2の位置で配置するのが主流である。日本では1986年の[[東急9000系電車|東急9000系]]を先駆として採用されはじめ、1990年代後半から徐々に採用例が増えた。仕切りには板状のものと、立ち客の握り棒([[スタンションポール]])を兼ねた直立棒のものがある。特に握り棒を兼ねたものは、[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|交通バリアフリー法]]の施行以後に製造された多くの車両に採用されている。
<gallery>
ファイル:Hankyu-Series1300-Inside.jpg|仕切りが採用された座席([[阪急1300系電車|阪急1300系]])
</gallery>
==== 座席数・寸法 ====
かつては『普通鉄道構造規則』(2002年廃止)の中で、座席数を車両定員の3分の1以上、かつ1人当たりの着席幅を400 mm以上とすることが規定されていた。国鉄時代は約430 mmに設定していた<ref name=":0">{{Cite web|和書|author=枝久保達也|date=2019-04-22|url=https://trafficnews.jp/post/85450/2|title=通勤電車は平成にこれだけ変わった! いまでは「当たり前」の座席・設備、いつから?|publisher=メディア・ヴァーグ|website=乗りものニュース|accessdate=2019-04-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190422152053/https://trafficnews.jp/post/85450/2|archivedate=2019-04-22}}</ref>。この規定はJR東日本の6扉車導入を機に廃止されたが、そうした特殊な例をのぞけば2000年代以降もおおむね守られている。
1人当たりの着席幅は体格向上に応じて拡大の傾向にあり、最新の車両では450 mmから480 mm程度である<ref name=":0" />。
なお、改定後の条文は次の通り。
;(旅客用座席)第百九十六条
: 旅客車には、適当な数の旅客用座席を設けなければならない。ただし、特殊な車両にあっては、この限りでない。
=== クロスシートの採用例 ===
国鉄・JRの近郊型電車や一般型気動車、大手私鉄の特急型車両や地方私鉄などにおいて採用されている。関西圏・中京圏などでは以前から鉄道会社間の競合が激しく、都市間列車を中心にJR、私鉄双方とも転換式クロスシートの採用例が多い。一方首都圏では[[東武伊勢崎線]]・[[東武日光線]]の[[東武6050系電車|6050系]]、[[京浜急行電鉄]]の[[京急本線#列車種別|快特]]のうち[[泉岳寺]]・[[品川駅]]発着の列車中心に運転される[[京急2100形電車|2100形]]、[[西武池袋線]]・[[西武秩父線]]の[[西武4000系電車|4000系]]など、主に中距離の都市間利用や行楽客を目的とした列車向けの車両への採用例がある<ref group="注">1990年代から2000年代初めの時期にはJR東日本でも[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]の快速「アクティー」にオールクロスシートで2階建ての[[JR東日本215系電車|215系]]が使用された例もあった。</ref>。しかし、首都圏では関西・中京圏に比べ混雑率が高く、ロングシートに比べ乗降しづらくラッシュ時の遅延の原因になることや、立ち席スペースが狭いことや、狭い空間で他人と隣り合うもしくは向き合って座ることを好まない昨今の風潮などから料金不要車両での採用例は少ない。その反面クロスシートの要望が完全に消えたわけではなく、車端部のみクロスシートとした車両も登場している。
なお、[[ケーブルカー]]は車体の構造上、座席は必ずクロスシートを採用している。
なお、回転式、転換式にかかわらず、鉄道用語としては進行方向に向けることのできる2人掛け座席を'''ロマンスシート'''と呼ぶ。このような構造の座席設備を持つ車両を'''[[ロマンスカー]]'''と呼び、特に[[小田急電鉄]]の[[小田急ロマンスカー]]は列車名としても広く親しまれている。
==== 椅子の形態 ====
===== 回転式クロスシート(回転腰掛) =====
[[ファイル:JRH Kiha183-1555 Inside.jpg|thumb|回転式クロス(リクライニング)シート([[国鉄キハ183系気動車]])]]
主に有料特急用車両に装備され、向きを転換するときには床面に垂直な回転軸を中心に180度回転する。着席者が進行方向を向いて座ることができ、また必要に応じて前後の座席を向かい合わせにして利用できる。観光路線を運行する車両や、ジョイフルトレインなどの団体利用を念頭に置いた車両においては45度あるいは90度回転させ、通路の反対側の座席と向かい合わせにしたり、窓側に向けて固定したりできるものなどもある。座席の背面に後席の乗客のためのテーブル・小物入れ・足置きなどを備えるもの、肘掛の中にテーブルや灰皿を内蔵しているものもある。かつての国鉄形の[[座席#シートピッチ|標準座席間隔]]は、近郊形グリーン車で970mm、特急形普通車で910mmまたは940mm([[国鉄キハ183系気動車|国鉄キハ183系]]・[[国鉄キハ185系気動車|キハ185系]])であった。
昭和30年代から40年代に製造された国鉄の特急形車両の普通車、準急形車両の二等車(のちの一等車)、近郊形車両のグリーン車ではリクライニング機能のない回転式クロスシートが採用されていた{{要出典|date=2023年7月}}。現在採用されている回転式クロスシートの大部分は背もたれの傾斜を変えられる[[リクライニングシート]]である。リクライニング機能のない座席を備える車両は、特急などの有料優等専属で使用されるものでは[[東武300系電車|東武300系]]や[[新幹線E4系電車|E4系「Max」]]の2階自由席車、後述する[[#デュアルシート|デュアルシート]](回転できるのはクロス状態時のみ)などがある。
===== 転換式クロスシート(転換腰掛) =====
[[ファイル:Seat of Kintetsu 5200.JPG|thumb|転換式クロスシート([[近鉄5200系電車]])]]
背もたれだけが前後に移動する機構により、着席方向を切り替えられる座席である。特に会社間競争の激しい中京・関西地方の近郊形車両に多く採用されているが、関東・東北地方では採用する鉄道会社が少ない。特急形車両では[[新幹線0系電車]]や[[国鉄185系電車|185系]]、[[国鉄キハ185系気動車|キハ185系]]の普通車(キロハ186のみ)座席に採用例があるほか、既存車両でも座席改良の際に採用した例がある([[国鉄キハ80系気動車|キハ80系]]や[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]など)。
比較的簡易な機構で、回転クロスシートと同様に進行方向を向いて座り、前後の座席を向かい合わせにすることが可能である。背もたれに中折れ機構を設け、着座姿勢をより改善しているものもある。戦前から昭和30年代までは二等車・[[特急形車両]]などの特別料金を要する列車で用いられることも多かったが、回転式クロスシートに比べると座り心地が悪く、背もたれの背面に設備品を装備できず、また基本的にリクライニング機構も設けられないため<ref group="注">一時期[[小田急2300形電車]]で転換式リクライニングシートが試用された例があるが定着しなかった。</ref>、この分野では回転式に移行した。代わりに1980年代末期以降ではJR東日本をのぞいたJR各社の普通列車用車両や、一部の私鉄で運行される特別料金不要の特急・急行用車両に導入される例が増えている。[[座席#シートピッチ|座席間隔]]は国鉄型が910mm、私鉄では900mmとする例が多く、必要に応じて変更される。なお、転換クロスシート車といわれる車両であっても、近郊形・私鉄の特急形では車端部や扉横の座席は転換クロスシート並みに背もたれを傾斜させた固定式とし、中間の座席のみを転換式としているものが多い。これは、背もたれ後部のデッドスペースの発生による乗車定員の減少を防ぐためである。
終着駅で[[車掌]]がスイッチを操作することにより一斉に各席の方向が転換する、座席の自動転換装置を備える車両もある。このうち[[京急2100形電車|京急2100形]]は向かい合わせ使用をしないことを前提に座席間隔を詰め、より多くの座席配置とする設計を採っており、営業時の座席は進行方向に固定され、乗客が転換することはできない。運行開始直後はこれを知らない者が強引に転換させようと座席を引っ張り故障が多発した。そのため、背もたれには座席を転換できない旨の注意書きがある。
===== 固定式クロスシート =====
{{Double image aside|right|Kiha40 shanai hokkaido.jpg|200|Sotetsu 8000 BoxSeat.jpg|177|クロス(ボックス)シート([[国鉄キハ40系気動車 (2代)]])|横から見たクロス(ボックス)シート([[相鉄8000系電車]])}}
; ボックスシート
: 向かい合わせに掛ける配置。国鉄・JRの伝統的なクロスシート車がこれで、旧式の[[客車]]や[[急行形車両]]の三等車(後の二等車→[[普通車 (鉄道車両)|普通車]])における一般的配置であり、各地で多く見られた。構造上、席の半数程度は進行方向と逆向きに座る。[[座席#シートピッチ|向かい合わせ間隔]]は、国鉄型だけでも1,335mmから1,580mmまでの範囲で数種類あったが、急行形車両の多くは1,460mm、1977年以降に製造された近郊形車両は1,470mmである。なおJR東日本発足後に新製された近郊形電車・[[一般形車両 (鉄道)|一般形電車]]([[JR東日本E217系電車|E217系]]・[[JR東日本E231系電車|E231系]]・[[JR東日本E233系電車|E233系]]・[[JR東日本E531系電車|E531系]]近郊タイプ)のボックスシートは1,500mm、仙台支社向け([[JR東日本E721系電車|E721系]]など)は1,585mmと、従来型よりも拡大されている。また[[1950年代]]以前の普通列車用車両の二等車(後の一等車→[[グリーン車]])ではゆったりとしたシートピッチのボックスシート(80系300番台では1,910mmなど)が採用されたが、後の車両では回転クロスシート等に置き換わり、近郊形では通路幅880mmを確保するため座席幅・シートピッチとも著しく狭くなっている。
: その他、前述の転換クロスシートを採用している近郊型車両の大半や、[[京急1000形電車 (2代)|京急新1000形]]1-5次車・[[南海2000系電車|南海2000系]]5-7次車・[[南海1000系電車 (2代)|1000系]]などのロングシート車は車端部のみボックスシートである。ただし前者は転換クロスシート部分を向かい合わせにした場合と同じ寸法になるよう調節されており、後者はスペースに余裕があることからいずれもシートピッチ1,750mm前後のゆったりした寸法が取られている。ただしピッチ拡大部分のほぼ全てがシートの背もたれ部分が転換クロスシートと同じ角度となるよう傾斜をつけるために充てられており、足元空間の広さは旧来のボックスシートと比べてほとんど変わりがない。
: 昭和時代の戦前から戦後間もない頃には[[国鉄オハ35系客車|オロ36形]]や[[国鉄80系電車|サロ85形]]など二等車(後の一等車・グリーン車)において三等車に比べ座り心地が良く向かい合わせ間隔の広いボックスシートを設置した例があったが、これらは1960年代以降、二等車(旧三等車)・普通車に格下げされている。
: 特急用としては、[[国鉄583系電車|国鉄581・583系]]普通車(昼間座席使用時)、改修前の[[JR東日本253系電車|JR東日本253系]](「[[成田エクスプレス]]」)普通車(座席下を荷物置き場として活用するため)や[[JR東日本251系電車|251系]](「[[踊り子 (列車)|スーパービュー踊り子]]」)の一部などで採用されていた。
; 一方向向き
: すべての座席を同一方向に向けて座席を固定した2人がけクロスシートで、[[国鉄スハ43系客車|スハ44形]]等、戦前から戦後にかけての[[特急形車両|特急用]][[普通車 (鉄道車両)|三等客車]]で多く見られた。衝動や騒音への配慮から機関車の次位を[[荷物車]]または座席荷物[[合造車]]とし、最後部に[[展望車]]を置く編成に適している。[[終着駅]]到着後は、[[デルタ線]]を利用した、編成まるごとの方向転換を前提としていた。
: 特異な例として[[小田急70000形電車|小田急70000形]]や[[名鉄1000系電車|名鉄1000系]]のように、展望車において座席を前方向きに固定して配置する例がある。
: また、[[無軌条電車]]は車両の構造上進行方向に固定された座席が大半である。
; {{Anchors|集団見合型|集団離反型}}集団見合型・集団離反型
[[Image:集団お見合い式シート.jpg|thumb|200px|集団見合型シート([[国鉄キハ54形気動車|キハ54形500番台]])]]
: 客室の中央(3扉以上の車体の場合は扉間中央)を境に2群に分け、全席が車両(扉間)中央を向く配置が集団見合型、逆に車端方向を向くのが集団離反型である。集団見合型は欧州の長距離用開放式客車で採用例が多い。日本では登場時の[[京急2000形電車|京急2000形]]や[[JR東日本719系電車|JR東日本719系]]、2004年以降改修されたJR東日本253系電車普通車、固定クロスシート化後の[[京急600形電車 (3代)|京急600形]]などで、この構造が採用されている。
: 離反型はかつて東北・上越新幹線開業時の[[新幹線200系電車|新幹線200系]]や、新幹線0系の3人掛けシートで採用されていた。これは[[#簡易リクライニングシート|簡易型リクライニングシート]]を備える際、横幅が大きい3人掛けシートは当時回転ができないためであった。現在は[[山陽電気鉄道3000系電車|山陽3000系]]・[[山陽電気鉄道5000系電車|5000系]]の一部で見られる。また、登場時の[[京阪9000系電車|京阪9000系]]のように車端部は車体中央を、中央部は車端方向を向いて掛ける配置や、叡山電鉄900系や[[近鉄260系電車|近鉄260系]]のように、前の車両が進行方向向き・後ろの車両が逆向きといった、2両以上にわたる座席配置もある。
: 利点として、座面・背もたれともに(基本的に)前後対称形状が求められる転換クロスシートや、空間効率上直立に近い形状の背もたれであるボックスシートと比較して、座席本体(座面・背もたれ)の形状を最適化しやすいことが挙げられる。言い換えれば、固定式クロスシートとしての簡便さ、回転クロスシートなみの座席本体設計の自由度、座席定員数の確保(特に新幹線のような3人掛けでは回転式に比べシートピッチを狭くできる)を兼ね備えている。さらに見合式の場合は中央部が対面し、ボックスシートの強みであるグループへの対処も可能となる。
===== リクライニングシート(自在腰掛) =====
[[ファイル:Reclining Seat JRW Kiro180-12.jpg|thumb|リクライニングシート([[国鉄キハ181系気動車]]キロ180形)]]
背もたれの傾斜角度を調節することができる座席である。
国鉄では、[[1949年]](昭和24年)戦後初の特別急行列車「[[東海道本線優等列車沿革|へいわ]]」復活に際し、[[一等車|一等]][[展望車]]に使用するため復活されたマイテ39の座席で初めて採用された。本格的な使用は翌年に登場した[[特別二等車]][[国鉄60系客車|スロ60形]]からで、このとき採用された機械式5段階ロック・足載せ台付の座席は以後大きな変更もなく国鉄末期まで特急・急行用[[二等車]](→一等車→現[[グリーン車]])の標準装備とされた。なお、スロ60形客車は最初は一等車「スイ60」として設計されたため[[座席#シートピッチ|座席間隔]]を1,250mmとしていたが、その後製造された[[国鉄スハ43系客車|スロ53形]]では1,160mmとなり、これはJR移行後でも特急形車両におけるグリーン車の標準座席間隔である。客車特急列車の展望車の代替車両として[[国鉄151系・161系・181系電車#20系→151系|151系電車]]で設計・製造された「パーラーカー」クロ151形車両の1人用リクライニングシートの座席間隔は1,100mmだった。また例外的に普通車(当時は3等車)より改造された[[国鉄60系客車|スロ62形]]の座席間隔は1,270mmで、当時の国鉄型では最大だった。
[[新幹線]]では1964年の[[東海道新幹線]]開業時における[[新幹線0系電車|新幹線0系]]の一等車から、現在に通じる座席幅のものを採用している。車体幅が在来線より大きい新幹線では、横一列あたりの座席数が普通車の大多数は3+2列なのに対し、グリーン車は2+2列として、座席幅にゆとりを持たせている。
普通車で最初に採用されたのは、[[国鉄183系電車|国鉄183系]]の[[#簡易リクライニングシート|簡易式]](後述)である。その後、1985年の[[新幹線100系電車|新幹線100系]]、在来線用も1986年の[[国鉄キハ183系気動車|キハ183系500番台]]から普通車においてもフリーストップ式のリクライニングシートを採用しており、現在は一部車種を除き特急型車両では標準装備となっている。
[[国鉄分割民営化]]以降、普通車用座席の改良が重ねられた結果、1990年代後半には普通車用座席とグリーン車用座席との差は小さくなった。差は傾きや座席の大きさ、シートピッチ(座席間隔)<ref group="注">新幹線電車の普通車では3列座席を回転式とするために1,040mmに拡大されている。</ref>などである。そのため在来線用のグリーン車では横一列当たりの座席数を2+2から2+1に減らし、新幹線と同様に1人あたり座席幅をゆとりを持たせて普通車用座席との差別化を図る場合も多い。
また、[[夜行列車]]の一部では、[[高速バス]]等との競争のため、普通車であっても傾きの大きさがグリーン車用に近い座席、あるいはグリーン車から転用した座席を設置し、シートピッチもグリーン車に近い寸法として居住性を高めたものもあった。[[2003年]]3月まで「[[ムーンライトえちご]]」に充当された[[国鉄165系電車|165系]]が始まりとされている。かつての「[[なは (列車)|なは]]」「[[あかつき (列車)|あかつき]]」では夜行高速バス並みに全席1人掛けで傾きの角度が大きい「レガートシート」があった。これ以前にも、1980年代からは四国や九州の気動車急行においてグリーン車を座席を交換することなく普通車に格下げして使用する例もあった<ref group="注">なお、電車でも[[国鉄457系電車|455系]]のグリーン車を座席交換なしで普通車に改造した例(形式はクハ455-600)があるが、こちらは先頭車化および近郊形への格下げ改造工事も兼ねていたため急行列車の運用には使われず、後年セミクロスシートに再改造された。</ref>。
===== 簡易リクライニングシート =====
[[ファイル:JNR EC113 Green Car seat.jpg|thumb|113系グリーン車の簡易リクライニングシート]]
[[1972年]]に登場した183系[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]で初めて採用<ref group="注">[[国鉄591系電車|591系]]で試用されたR50形を元にしている。</ref>された、リクライニングシートの一種である。同時期に製造された[[国鉄14系客車|14系座席車]]、[[国鉄485系電車|485系]](1974年度以降の新製車)、[[国鉄381系電車|381系]]やまた[[国鉄113系電車#サロ110形1200番台|113系グリーン車]]の一部などにも採用された。座席下部に設置された受け皿のようなものの上にシートを配置する形状で、座面を前後移動させることにより背もたれをリクライニングさせる構造である。このためリクライニング角度は小さく、リクライニングさせると座席の前後間隔が狭くなるという欠点がある。
初期のものは背もたれにストッパーが無く、体重を掛けていないと座席の傾きが元に戻り、体を起こすたびに大きな音と衝撃が生じることから、1976年以降に製造された車両からは完全にリクライニングさせた時のみ作動するストッパーが追加された。国鉄分割民営化前後から[[座席指定席|指定席]]車用座席を中心にフリーストップ式への換装が行われたが、一部廃車まで無改造で残存した車両も見られた。
このシートは[[埼玉県]][[さいたま市]]の[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]のヒストリーゾーン(現:車両展示ゾーン)で、背もたれのストッパーがあるものと無いもの両方に座ることができたが、現在は撤去されている。
==== 椅子の配列 ====
[[ファイル:JRH Kiro280-2 Inside.jpg|thumb|2+1配列の例([[JR北海道キハ281系気動車|JR北海道キハ281系]]グリーン車)]]
クロスシートは、おおむね以下の構成である。
座席幅の寸法は、特急用車両の場合普通車で430 - 460mm、グリーン車の場合2+2配列で450mm前後、2+1配列のものや新幹線車両では470 - 500mm程度が一般的である。数値のみで見た場合普通車とグリーン車との間の差、また前述のロングシート車の数値と大差がないとされるが、座席幅の数値は肘掛部分をのぞいた幅で計測されるのが通常であるため、横方向における体感的なゆとりは座席幅よりもむしろ肘掛の有無や、肘掛の幅の差に表れる<ref group="注">例えば東海道・山陽新幹線車両の場合、座席幅は普通車が430 - 460mm、グリーン車は475 - 480mmが一般的であるが、肘掛部分の幅が普通車は約40mm、グリーン車は両端部が約80mm、中央部が約135 - 140mm程度あるため、肘掛部分を含めた実効的な座席幅は普通車が約490 - 500mm、グリーン車は約625mm前後である。</ref>。
なお、一部の車両には[[車椅子]]を固定するために標準の配列から1人分減じた区画がある。
; 2+2配列
: 一列あたり中央の通路を挟んで2人掛けの椅子が並んでいる配列。日本の鉄道車両の場合ほとんどのクロスシートがこの構成である。新幹線車両ではグリーン車で採用されているが、一部普通車でも採用例がある。
; 2+3配列
: 標準規格の新幹線の普通車で採用されている配列。[[東海道新幹線]]では、海側の座席が3人掛け、山側が2人掛け座席である。在来線車両では[[修学旅行列車]]用の[[国鉄155系・159系電車|155・159系]]と、着席定員増加を企図した[[国鉄415系電車#1500・1600番台|415系]](1900番台の2階席)に採用例があるのみとなっている。
; 3+3配列
: JR東日本の2階建て新幹線「[[Max (鉄道車両)|Max]]」の2階自由席車で採用されている配列。通路の両側に3人掛け座席が並ぶ。回転式クロスシートではあるが、横幅の関係で肘掛がないことからリクライニングはできない。
; 2+1配列
: 1人掛けと2人掛けの座席が組となっており、JR化以降の在来線特急グリーン車で採用されている事例が増えている。[[振り子式車両]]では、客室内で左右の重量を揃えるため千鳥式の座席配置が見られる。新幹線車両では在来線車両規格の[[新幹線400系電車|400系]]と[[グランクラス]]で採用されている。
: 一方、一部の普通・快速列車用車両にもこの配列が見られるが、これは通路を広げ立席定員を増やすためで、1座席の幅は2+2配列で利用されるものとほぼ同じである。
: [[関空快速・紀州路快速|関空快速]]用車両の[[JR西日本223系電車#0番台|223系0番台]]は当初空港利用客の[[スーツケース]]などの荷物置き場を確保する目的でこの配列とされたが、ラッシュ時の輸送力確保にも有効であったため後継車両の[[JR西日本225系電車#5000番台|225系5000・5100番台]]にもこの配列が踏襲され、最終的に阪和線は特急以外の全列車がこの座席配置となった。当初はノルウェー製の座席であり、1人掛け座席の肘掛け下に荷物を固定するためのワイヤーが備え付けられていたが、国産の住江工業の座席に交換した際に廃止された。
: [[山陽電気鉄道5030系電車|山陽電気鉄道5030系]]、[[京阪3000系電車 (2代)|2代目京阪3000系]]や[[名鉄2200系電車|名鉄2200系]]の一般車などラッシュ時と閑散時の運用を両立させるための目的や、[[京阪京津線]]専用車である[[京阪800系電車 (2代)|800系]]や[[2階建車両]]であった[[JR東海371系電車|JR東海371系]]のサロハ371形など、室内幅の都合でこの配列を採用した車両も存在する。
; 1+1配列
: 一列あたり中央の通路を挟んで1人掛けの椅子が並んでいる配列。かつての[[一等車]]や、それを元にした[[東海道本線優等列車沿革|東海道本線特別急行列車群]]に使用された[[国鉄181系電車|クロ151形「パーラーカー」]]の開放式[[グリーン車|一等席]]で用いられた。1990年代に「[[成田エクスプレス]]」用253系の開放式グリーン席で採用された事例があるが、2004年までに上記の「2+1配列」に変更されている。なお、この配置は座席定員が限られることから少なく、例えば、一般形車両においては[[三岐鉄道]][[近鉄270系電車|270系電車]]や[[四日市あすなろう鉄道]][[近鉄260系電車|260系電車]]などの[[軽便鉄道]]や[[路面電車]]の様に車両幅が狭い場合や、側面方向の[[展望車|展望席]]などに限られる。
; その他
: 1990年から2008年まで「[[あかつき_(列車)|あかつき]]」で、1990年から2005年までは「[[なは_(列車)|なは]]」に連結していた普通車座席指定席である「レガートシート」用車両では[[高速バス]]の[[日本のバスの座席|座席配置]]にならい、1人掛け座席を独立させ3列に配置していた('''1+1+1配列''')。
: [[JR東日本E127系電車|JR東日本E127系]](100番台)、[[伊豆急行8000系電車|伊豆急行8000系]]などでは2人掛けクロスシートとロングシートを車両の左右で別に配置している。
=== セミクロスシート ===
{{右|
[[ファイル:JRW 413 interior.JPG|thumb|240px|none|2ドアセミクロスシートの例(413系電車)]]
[[ファイル:JR-Kuha211-1 Inside.jpg|thumb|240px|none|3ドアセミクロスシートの例(211系電車)]]
[[ファイル:Series-E233-3000 Inside-Semicross.jpg|thumb|240px|none|4ドアセミクロスシートの例([[JR東日本E233系電車]]3000番台)]]
[[ファイル:C301-Interior-Motor.JPG|thumb|240px|none|日本国外では標準的な4ドアセミクロスシートの例([[台北捷運301型電車]]車内)]]
[[ファイル:JRS Series7000 Inside.jpg|thumb|240px|none|交互にロングシートとクロスシートを設置した例([[JR四国7000系電車]])]]
}}
[[#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]と[[#クロスシート(横座席)|クロスシート]]を組み合わせた配置で、通常は乗降が円滑になるようドア付近をロングシート、ドア間にクロスシートを配置する。クロスシートは固定式がほとんどだが、JR西日本のように転換クロスシートを採用した例もある。
日本では[[1920年代]]の第二次都市間高速電気鉄道([[インターアーバン]])建設ブームの頃から、長距離輸送とラッシュ時対策の両立や、電動車の主電動機点検蓋(トラップドア)とクロスシートの干渉を防ぐ目的<ref group="注">特急車時代の[[京阪1900系電車]]のように、電動車はセミクロスシートだが、中間の付随車や制御車は全席クロスシートとした例がある。</ref>などで採用され始め、第二次世界大戦後も都市間輸送用を中心に採用が続いている。
国鉄時代の車両では[[近郊形車両]]である[[国鉄113系電車|113系]]や[[国鉄415系電車|415系]]等の3ドア車や、[[国鉄80系電車|80系]]、[[国鉄711系電車|711系]]や[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系]]等の2ドア車が存在している。また、[[国鉄457系電車|交直流急行電車]]や[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]などの[[急行形車両]]には「近郊形改造」として、ドア付近の座席を一部ロングシートに改造した2ドアのセミクロスシート車が存在する。ロングシートで落成した車両でも、輸送需要の変化に即してセミクロスシートに改造された車両もある([[JR東日本209系電車|JR東日本209系]](房総地区向け)、[[阪神8000系電車|阪神8000系]]など)。私鉄の例では、[[東武6050系電車|東武6050系]]や[[西武4000系電車|西武4000系]]、[[名鉄6000系電車|名鉄6000系]]、[[西鉄3000形電車|西鉄3000形]]などが挙げられる。
いわゆる国鉄型車両の場合、新規製造した時点では、3ドアの電車では通常ドア間に左右各2ボックス16名分の固定クロスシートを配していた。また、2ドア車両の場合ではデッキ付きのものはドア間すべてに固定クロスシートを配しており、デッキがないものについては客用扉付近をロングシートにし、扉間中央部にクロスシートを配する例が多かった。
1990年代以降は4ドアの車両でもクロスシートを導入する車両が増えている。日本で初めて登場した4ドアのクロスシート車は1970年に製造された[[近鉄2600系電車]]および量産型の2610系・2680系であるが、ロングシート部分はなく全座席が固定クロスシート設置として製造されたため、セミクロスシート車ではない。首都圏の場合、[[相鉄7000系電車#新7000系|相鉄新7000系電車]](7755F)が比較的混まない一部車両<ref group="注">5号車と8号車</ref>のドア間に左右1組ずつ固定クロスシートを試験的に設置した。これを筆頭に同等の設備を同社の[[相鉄8000系電車|8000系]]、[[相鉄9000系電車|9000系]]、JR東日本のE217系、E231系(近郊タイプ)、E531系や[[首都圏新都市鉄道TX-2000系電車]]で採用されている。また、[[名鉄300系電車]]や[[名古屋市交通局7000形電車|名古屋市営地下鉄7000形電車]]のようにロングシートと転換式クロスシートを扉を境に交互に配置した例、近畿日本鉄道のL/Cカーや関東私鉄の一部の通勤形車両に見られる[[#デュアルシート|デュアルシート]]などがある。
なお、東急9000系電車、[[東京都交通局6300形電車|東京都交通局6300形]](1、2次車のみ)、[[東京メトロ南北線]][[営団9000系電車|9000系]](1次車のみ)、京急新1000形、京急2000形(格下げ改造後)、南海1000系、南海2000系(後期車のみ)、[[九広鉄路メトロキャメル電車 (交流)|香港鉄路(MTR)のメトロキャメル電車 (交流)]](通勤化改造後)などの通勤形車両で、車端部に少数のボックスシートを配した例がある。
また、[[JR西日本125系電車|JR西日本125系]]・[[JR西日本223系電車#5500番台|223系5500番台]]・[[JR西日本521系電車|521系]]、[[阪急6300系電車|阪急6300系]]のように、クロスシート主体で運転席後部や妻面側車端部などに少数のロングシートを配する例もある。
また、[[列車便所|トイレ]]を有する車両で、便所使用者の直視を避けるため、当該便所前の座席のみをクロスシートとしている車両も存在する。採用例では[[国鉄キハ35系気動車|キハ35系]]、211系、[[JR東日本107系電車|JR東日本107系]]、[[JR東日本E233系電車#3000番台|JR東日本E233系3000番台]]の一部編成の6号車等がある。
その他、通路の左右でロングシートとクロスシートを組み合わせて設置する方式もある。第二次世界大戦前の日本では主に[[琵琶湖鉄道汽船100形電車]]や[[宇治川電気51形電車|山陽電鉄100形電車]]など、通路の両側を2人掛けのクロスシートとするのに十分な車体幅を確保できない形式に採用された。戦後も[[草軽電気鉄道]]や[[仙北鉄道]](キハ2406)、[[下津井電鉄線|下津井電鉄]](モハ1001・2000系“メリーベル”)など、762mm軌間で車体幅が狭い軽便鉄道の車両においてクロスシートを配置する方式として利用された。近年では[[JR四国7000系電車|JR四国7000系]]、JR東日本701系5000番台、JR九州キハ220系200番台など、主にラッシュ対策と長距離輸送の両立を求められる3扉構成の車両において、クロスシートとロングシートの組み合わせを車体中央を中心に点対称に配置した千鳥配置のレイアウト<ref group="注">つまり、中央扉を境に通路左右の座席の種類が入れ替わる。</ref>で採用されている。通常のセミクロスシートに対して通路のスペースが広く取れるほか、ロングシートとクロスシートとの壁が無いために開放的であるなどの利点がある。ただし、クロスシートに座る客にとっては、ロングシートに座る客から横顔を見られる恰好となるので、居心地がよくないという欠点もある。
[[JR東日本719系電車]]のクロスシート座席部分は[[鉄道車両の座席#固定式クロスシート|集団見合い型]]、名鉄6000系電車の一部では[[鉄道車両の座席#固定式クロスシート|集団離反型]]の配置である。
{{-}}
<div id="デュアルシート(2WAYシート・L/Cカー)"><!-- 他の記事から左記の見出し名で直接リンクしているものがあるため。 -->
=== デュアルシート ===
{{see also|L/Cカー}}
[[#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]・[[#クロスシート(横座席)|クロスシート]]の両方に転換可能なタイプの座席である。
基本的に、混雑時には背もたれを窓に向けるように並べたロングシートとして使用し、閑散時には回転軸を中央に寄せて回転式クロスシートとして使用する目的で開発されたが、混雑の激しい首都圏では夕方のラッシュ時などにクロスシートとして主に[[ホームライナー|有料ライナー]]列車の運用に就き、それ以外の時間帯はロングシートとして一般列車の運用に就くという目的で導入されている。機構が複雑であるが、利用率に合わせてロング・クロス両配置の適した方で運用することが可能である。クロスシートの状態では、足元にあるペダルを踏むか肘掛けの後部にあるレバーを引くことで乗客が座席を回転させて向きを変えることができる。ロングシートの状態ではロックされて足元のペダルも収納されるため、乗客が座席の向きを変えることはできない。座席は背もたれが固定されており[[リクライニング]]機能を持つものは存在しなかったが、[[2022年]]下期に投入された[[京王5000系電車 (2代)|京王5000系]]増備車では初めてリクライニング機能が搭載されている(クロスシート時のみ使用可能)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20210414_5000rikuraininngu.pdf|format=PDF|language=日本語|title=5000系新造車両を1編成導入 日本初 リクライニング機能付きロング/クロスシート転換座席搭載! |publisher=京王グループ|date=2021-04-14|accessdate=2021-04-14}}</ref>。
登場自体は古く、[[1972年]]に国鉄が[[阪和線]][[鳳電車区]]所属の[[国鉄72系電車#ロング・クロスシート可変改造車|クハ79929]]号車を[[西日本旅客鉄道吹田工場|吹田工場]]で試験的に改造したのが最初である。この改造車は後年実用化された車両と異なり、クロスシート時の背もたれ高さがロングシートに合わせた低いものとなっていたため実用化されなかったが、後に[[1996年]]に[[近畿日本鉄道]]の長距離急行用車両として製造された2610系の一部を改造して試験的に採用され、実用化された。以後、座席を含めての車両全体の愛称として、'''[[L/Cカー]]'''と名付けられ、翌[[1997年]]には新造車として[[近鉄5800系電車|5800系]]が、[[2000年]]には[[近鉄5820系電車|5820系]]([[シリーズ21]])が登場し本格的に採用された。また2024年より製造を開始する新型車両(形式未定)も、L/Cカーとなる予定である。いずれの車両も車端部は固定の4人掛けロングシートとなっている。現在は特急を除き[[列車種別]]に関係なく使用されている。
[[JR|JRグループ]]では、JR東日本[[仙石線]]用に改造した205系でも5編成の石巻方先頭車に'''2WAYシート'''の名称を与えて採用している。この場合は観光路線として仙石線の利用を促進する狙いもあったが、[[仙石東北ライン]]の開業で仙石線快速列車が廃止されたため、2015年以降はロングシートに固定された状態のままで運行されている。同社では209系([[八高線]]向け3000番台の一部車両)、[[JR東日本E331系電車|E331系]]の先頭車で座席を収納して転換させるタイプのシート(手動での転換は不可能)を試験的に運用していたが、いずれも実用化はされなかった。
近鉄以外の[[私鉄]]では、[[東武50000系電車#50090型|東武50090型]]、[[東武70000系電車#70090型|70090型]]、[[西武40000系電車|西武40000系]](0番台)、京王5000系、[[東急6000系電車 (2代)#Qシート車の組み込み|東急6000系 (2代目)]]・[[東急2020系電車#Qシート車両|6020系]]・[[東急5000系電車 (2代)#Qシート車両|5050系]](4000番台)、[[しなの鉄道]][[しなの鉄道SR1系電車|SR1系]]、[[京急1000形電車 (2代)#20次車「Le Ciel」|京急1000形1890番台]]に同種の座席が導入されている。なお、東武では'''マルチシート'''と呼称しているが、東武以外の各社は座席自体の愛称を付していない(東急での「[[Qシート]]」は[[座席指定席|座席指定サービス]]名であり、非転換座席も含まれる)。
デュアルシートのメーカーは、近鉄・西武は[[天龍工業]]製(L/Cカーは近鉄と天龍工業との共同で特許を取得)<ref>{{Cite web|和書|title=沿革 {{!}} 天龍工業株式会社|url=http://www.tenryu-kogyo.co.jp/?cat=11|website=www.tenryu-kogyo.co.jp|accessdate=2021-04-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=西武鉄道 {{!}} 天龍工業株式会社|url=http://www.tenryu-kogyo.co.jp/?p=1585|website=www.tenryu-kogyo.co.jp|accessdate=2021-04-02}}</ref><ref name="RM202009">[[レイルマガジン]] 2020年9月号「ロング/クロス転換シート車の概要」 P22-23</ref>、東武は50090型が[[住江工業]]製<ref name="RM202009" />・70090型が天龍工業製<ref>[http://www.tenryu-kogyo.co.jp/?p=3003 東武鉄道株式会社様 70090型L/C腰掛納入] - 天龍工業株式会社、2020年8月7日。2020年9月20日閲覧。</ref>、京王・東急・しなの鉄道・京急は[[コイト電工]]製<ref>{{Cite web|和書|title=「2代目」の特徴は?…京王電鉄の新型車両「5000系」を見る|url=https://response.jp/article/2017/07/20/297657.html|website=レスポンス(Response.jp)|accessdate=2021-04-02|language=ja}}</ref><ref name="RM202009" /><ref>『鉄道CATALOGUE』コイト電工株式会社カタログ2021年11月版、pp.17-18</ref>である(JR東日本については不明)。
なお、デュアルシート車は2023年時点では全て電車に装備されており、客車や気動車への導入実績はない。
<gallery widths="200" style="font-size:90%">
ファイル:Dual Seat.JPG|近鉄5820系電車「L/Cカー」
ファイル:205-3100kei 2way seat.JPG|JR東日本205系電車3100番台「2WAYシート」
ファイル:Seat of Tobu 50090.jpg|東武50090型電車「マルチシート」<br />[[TJライナー]]、[[川越特急]]の全列車と一部の快速急行での使用時
ファイル:Seibu railway 40000 kei interior 2 seat.jpg|西武40000系電車のデュアルシート<br />[[S-TRAIN]]、[[拝島ライナー]]での使用時
ファイル:Keio 5000 series interior 2 seat.jpg|京王5000系電車のデュアルシート<br />[[京王ライナー|京王ライナー、Mt.TAKAO号]]での使用時
ファイル:Tokyu 6020 kei Q seat.jpg|東急6020系電車のデュアルシート<br />「[[Qシート]]」サービス実施列車での使用時
</gallery>
=== 収容式座席 ===
{{Double image stack|right|OER 8263 reception seat close.jpg|OER 8263 reception seat open.jpg|240|収容式座席([[小田急8000形電車]])}}
折り畳み座席は収容式座席または収納式座席として採用されている例がある。
[[通勤形車両 (鉄道)|通勤車両]]における採用事例としては[[京阪5000系電車|京阪5000系]]が最初であり、収納時は座席が天井部に移動する。座面折りたたみ式は、JR東日本が[[山手線]]の[[国鉄205系電車|205系]]に増結した6扉車「サハ204形車両」で広く知られるようになった。6扉車はラッシュ時にすべての座席が折り畳まれるが、[[JR北海道731系電車|731系]]・[[JR北海道キハ201系気動車|キハ201系]]のようにドア付近の席のみ折りたたみ可能としたものや、[[名鉄3500系電車 (2代)|名鉄3500系]]の一部には、1人掛けでロック機構の無い簡便なものが設けられたこともある。[[京成3100形電車 (2代)|京成新3100形]]<!--(50番台)-->は、空港アクセス列車として使用されることからロングシートの中心部に荷物置き場を兼ねた収納座席を採用している。
<gallery>
ファイル:Keihan5000 5door New Coor Seat.JPG|京阪5000系の収容式座席。写真は展開時
ファイル:Inside-Tokyu5000-6door1.jpg|東急5000系6扉車の車内。朝ラッシュ時には座席が収納できる。
ファイル:Inside-Tokyu5000-6door2.jpg|収納可能な構造の座席
ファイル:Keihan 3505 inside collapsible spare seat.jpg|初代京阪3000系の補助シート
ファイル:Keisei 3100 inside 8 seat Partly foldable long seat 20200712.jpg|京成新3100形の一部収納座席
ファイル:Keikyu 600 Series EMU (III) 001.JPG|京急600形電車のツイングルシート
</gallery>
クロスシート車では、[[JR西日本223系電車|JR西日本223系]](阪和線用0番台、2500番台をのぞく。クハ222形のうち1000番台はボックスシートのうち[[車椅子スペース]]に該当する部分にも採用)及び[[JR西日本225系電車|225系]](阪和線用5000・5100番台をのぞく)、[[京阪8000系電車|京阪8000系]]([[京阪3000系電車 (初代)#8000系への編入|8000系30番台となった8531Fを含む]])、[[阪急6300系電車|阪急6300系]]及び[[阪急9300系電車|9300系]](ロングシートのうち車椅子スペースに該当する部分にも採用)、[[名鉄5700系電車|名鉄5700系]]及び[[名鉄1000系電車#1200系|1200系]]、[[京急2100形電車|京急2100形]]のようにドア付近に設置されているものや、2階建て新幹線「Max」や[[近鉄特急]]の一部のようにデッキに設けた例や[[24系客車|24系]]のように通路に設けられた例がある。JR西日本、京阪、阪急では「補助いす」と称している。類似したものとして[[東武鉄道]]の特急用車両だった[[東武5700系電車|5700系]]には[[観光バス]]で採用された型式の補助席が設けられていた。この他、[[南海2300系電車|南海2300系]]は車椅子スペースにロング状態の折畳式シートがある。
[[阪急京都本線]]や京阪電気鉄道の[[京阪特急|特急]]では、[[1970年代]]前半まで折りたたみ式のパイプ椅子が扉付近に取り付けられており、乗客が自由に取り外して座ることができた。
特徴的なものとしては、京急600形電車で「'''ツイングルシート'''」が採用されていた。同形式は日本の[[地下鉄対応車両]]としては珍しい全席固定式クロスシート車として登場したが、立席収容力確保のため2人掛け座席の一部を収納して1人掛けとし、座席数が増減できるようにしたものである。しかし、登場から数年で座席の収納は中止となり、ロングシート化の際にツイングルシートも撤去されている。詳細は[[京急600形電車 (3代)|同車項目]]を参照。
== 欧米の鉄道車両 ==
=== 座席の固定 ===
欧米では座席は固定式のものが多く、座席を回転できない車両が多い<ref name="toyokeizai91367">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/91367?page=3 |title=外国人が驚く!ニッポンの「鉄道作法」10選 |publisher=東洋経済 |accessdate=2021-01-19|page=3}}</ref>。
ヨーロッパでは固定式2人掛けクロスシートも多く採用されている<ref name="井上P136">井上孝司『車両研究で広がる鉄の世界』秀和システム、2010年、130頁</ref>。進行方向に応じた座席の転換はできず、集団見合式(車両前部の座席と車両後部の座席を向かい合わせにしている固定式)と集団離反式(車両前部の座席と車両後部の座席を反対向きにしている方式)があるが、TGV-SEは集団見合式を採用している<ref name="井上P136" />。
[[アメリカ合衆国]]では座席をすべて一方向の固定式とし、終端の駅でデルタ線やループ線などを使って方向転換している例もある<ref name="toyokeizai91367" />。
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Bundesarchiv Bild 183-55802-0001, Berlin, U-Bahn, Zeitungslektüre zur Abschaffung der Lebensmittelkarten.jpg|[[西ベルリン]] [[ベルリン地下鉄|Uバーン]]<br />[[:en:BVG Class A|A形電車]](1901年製造開始・[[1958年]]撮影)
London Underground tube coach (CJ Allen, Steel Highway, 1928).jpg|[[ロンドン地下鉄スタンダード形電車|ロンドン地下鉄<br />スタンダード形電車]]<br />([[1928年]]撮影)
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=== 折り畳み座席 ===
ドイツやスイスの通勤近郊車両では、車いす対応の共用スペースに、折りたたみ座席を設置している例がある<ref name="Newsletter07-0910">{{Cite web|和書|url=https://www.iaud.net/file/2009/10/Newsletter07-0910.pdf |title=IAUD Newsletter vol.2 第7号 (2009年10月号) |publisher=一般財団法人 国際ユニヴァーサルデザイン協議会(IAUD) |accessdate=2021-01-19}}</ref>。折り畳みボックスシートや折り畳みロングシートがある<ref name="Newsletter07-0910" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[リクライニングシート]]
* [[バケットシート]]
* [[日本のバスの座席]]
* [[アブレスト]]
* シートメーカー
** [[池田物産]]
** [[岡村製作所]]
** [[KIホールディングス|コイト電工]]
** [[墨田加工]]
** [[住江工業]]
** [[タチエス]]
** [[天龍工業]]
** [[難波プレス工業]]
** [[レカロ]](ドイツ)
** [[佳豊機械設計工業]](台湾)
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書| author = 日本の客車編さん委員会(代表:星晃)|origdate = 1962年 | edition = 復刻版 | date =2010年復刻 | title = <small>写真で見る客車の90年</small>日本の客車(復刻版)|publisher = 株式会社 電気車研究会 鉄道図書刊行会|isbn=978-4-88548-115-4| ref =星1962}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Vehicle seats|Vehicle seats}}
* [http://www.trainspace.net/ Trainspace.net 車内学ページ]
* [http://www62.tok2.com/home/tsubame787/seat.html -SONIC RAIL GARDEN-座席探訪]
* {{Cite web|和書|author=児山 計 |date=2021-05-01 |url=https://trafficnews.jp/post/106612 |title=「座席鉄」が選ぶ乗り心地◎な鉄道車両シート5選 普通車でG車並み 秀逸ロングシートも |publisher=乗りものニュース |accessdate=2021-05-01}}
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[[Category:鉄道車両の車内設備|させき]]
[[Category:椅子]]
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17,397 |
コジェネレーション
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コジェネレーション、またはコージェネレーション (cogeneration) 、英語では“combined heat and power”ともいわれ、内燃機関、外燃機関等の排熱を利用して動力・温熱・冷熱を取り出し、総合エネルギー効率を高めるエネルギー供給システムである。
略してコージェネ、コジェネとも呼ばれ、一般的には熱併給発電(ねつへいきゅうはつでん)または熱電併給(ねつでんへいきゅう)と訳されている。訳語から廃熱発電を用いるものと思われがちだが、給湯や蒸気吸収冷凍機で冷熱を製造するなど発電以外の運用もある。
日本においては、京都議定書の発効に伴い製造サイドとして電機メーカーやガス会社が、需要者サイドとしてイメージ向上の効果も狙うスーパーマーケットや大エネルギー消費者である大規模工場などで関心が高まっている。
コジェネレーションを発展させて二酸化炭素(CO2)も利用するようにしたトリジェネレーションがある。
発電用ガスタービンエンジンの排気を利用して蒸気を製造するもの。
発電効率23 % - 39 %、総合効率で69 % - 86 %。
ガスタービン発電機とその排熱を利用した蒸気タービン発電機を組み合わせて発電を行うものをコンバインドサイクル発電という。
発電用ガスエンジンの排気排熱ボイラで熱交換を行うもの。
発電効率26 % - 49 %、総合効率で72 % - 92 %。
ガスエンジンでヒートポンプを駆動する形式もある。
発電用ディーゼルエンジンの排気排熱を蒸気製造や給湯に利用し、エンジン冷却水で水道水を加熱し給湯するもの。
発電効率33 % - 45 %、総合効率で64 % - 81 %。
水素と空気中の酸素から電気をつくりだし、副次的に発生する熱を蒸気や温水として回収する。水素はシステム内でガス・灯油・アルコール・バイオマスなどから取り出す。排出されるものは、CO2、水以外ほとんどなく騒音や振動も少ない。大型で高効率のものは実証実験段階にあるが、コストと耐久性が課題となっている。
排熱を利用して更なる発電も可能であり、より先進的、高効率なコンバインドサイクル発電として研究が進められている。
発電効率35%〜65%、総合効率で80%〜90%。
自動車の内燃エンジンからの排熱は、車内暖房(カーヒーター)の熱源として利用されている。
建物内部で必要となる熱量を電力量で割った値を熱電比という。熱電比は建物の用途によって異なり、ホテルや病院では大きく、オフィスビルやデパートなどでは小さい値をとる。コジェネレーションシステムによって供給される熱電比が、建物の需要する熱電比と大きく異なる場合、コジェネレーションを導入してもエネルギーを有効に利用することができない。また、住宅など熱需要の大きい時間帯と電力需要の大きい時間帯がずれている建物もあり、このような場合も大きな省エネ効果を期待することはできない。そこで、生成する熱電比をある程度変えることのできるコジェネレーションシステムも存在する。
従来は事業所がメインだったが、最近では燃料電池や都市ガスを利用した家庭用のコジェネレーションも登場してきている。
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コジェネレーション、またはコージェネレーション (cogeneration) 、英語では“combined heat and power”ともいわれ、内燃機関、外燃機関等の排熱を利用して動力・温熱・冷熱を取り出し、総合エネルギー効率を高めるエネルギー供給システムである。 略してコージェネ、コジェネとも呼ばれ、一般的には熱併給発電(ねつへいきゅうはつでん)または熱電併給(ねつでんへいきゅう)と訳されている。訳語から廃熱発電を用いるものと思われがちだが、給湯や蒸気吸収冷凍機で冷熱を製造するなど発電以外の運用もある。 日本においては、京都議定書の発効に伴い製造サイドとして電機メーカーやガス会社が、需要者サイドとしてイメージ向上の効果も狙うスーパーマーケットや大エネルギー消費者である大規模工場などで関心が高まっている。 コジェネレーションを発展させて二酸化炭素(CO2)も利用するようにしたトリジェネレーションがある。
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{{持続可能エネルギー}}
'''コジェネレーション'''、または'''コージェネレーション''' (''cogeneration'') 、英語では“'''combined heat and power'''”ともいわれ、[[内燃機関]]、[[外燃機関]]等の排[[熱]]を利用して動力・温熱・冷熱を取り出し、総合[[エネルギー]]効率を高めるエネルギー供給システムである。
略して'''コージェネ'''、'''コジェネ'''とも呼ばれ、一般的には'''熱併給発電'''(ねつへいきゅうはつでん)または'''熱電併給'''(ねつでんへいきゅう)と訳されている。訳語から[[廃熱発電]]を用いるものと思われがちだが、給湯や蒸気[[吸収式冷凍機|吸収冷凍機]]で冷熱を製造するなど[[発電]]以外の運用もある。
日本においては、[[京都議定書]]の発効に伴い製造サイドとして[[電機メーカー]]や[[天然ガス|ガス]]会社が、需要者サイドとしてイメージ向上の効果も狙う[[スーパーマーケット]]や大エネルギー消費者である大規模[[工場]]などで関心が高まっている。
コジェネレーションを発展させて[[二酸化炭素]](CO<sub>2</sub>)も利用するようにした[[トリジェネレーション]]がある。
== 構成 ==
=== ガスタービンエンジンシステム ===
発電用[[ガスタービンエンジン]]の排気を利用して蒸気を製造するもの。
[[発電]]効率23 % - 39 %、総合効率で69 % - 86 %。
ガスタービン発電機とその排熱を利用した[[蒸気タービン]]発電機を組み合わせて発電を行うものを[[コンバインドサイクル発電]]という。
=== ガスエンジンシステム ===
発電用ガスエンジンの排気排熱ボイラで熱交換を行うもの。
発電効率26 % - 49 %、総合効率で72 % - 92 %。
ガスエンジンで[[ヒートポンプ]]を駆動する形式もある。
=== ディーゼルエンジンシステム ===
発電用[[ディーゼルエンジン]]の排気排熱を蒸気製造や給湯に利用し、エンジン冷却水で水道水を加熱し給湯するもの。
発電効率33 % - 45 %、総合効率で64 % - 81 %。
=== 燃料電池システム ===
水素と空気中の酸素から電気をつくりだし、副次的に発生する熱を蒸気や温水として回収する。水素はシステム内で[[ガス燃料|ガス]]・[[灯油]]・[[アルコール]]・[[バイオマス]]などから取り出す。排出されるものは、CO2、水以外ほとんどなく騒音や振動も少ない。大型で高効率のものは実証実験段階にあるが、コストと耐久性が課題となっている。
排熱を利用して更なる発電も可能であり、より先進的、高効率な[[コンバインドサイクル発電#石炭ガス化燃料電池複合発電 (IGFC)|コンバインドサイクル発電]]として研究が進められている。
発電効率35%〜65%、総合効率で80%〜90%。
=== 自動車 ===
自動車の内燃エンジンからの排熱は、車内暖房([[カーヒーター]])の熱源として利用されている。
==導入条件==
建物内部で必要となる熱量を電力量で割った値を熱電比という。熱電比は建物の用途によって異なり、ホテルや病院では大きく、オフィスビルやデパートなどでは小さい値をとる。コジェネレーションシステムによって供給される熱電比が、建物の需要する熱電比と大きく異なる場合、コジェネレーションを導入してもエネルギーを有効に利用することができない。また、住宅など熱需要の大きい時間帯と電力需要の大きい時間帯がずれている建物もあり、このような場合も大きな省エネ効果を期待することはできない。そこで、生成する熱電比をある程度変えることのできるコジェネレーションシステムも存在する。
== 家庭用 ==
従来は事業所がメインだったが、最近では[[燃料電池]]や[[都市ガス]]を利用した家庭用のコジェネレーションも登場してきている。
*[[燃料電池]]([[エネファーム]])
*[[エコウィル]](小型ガスエンジン発電) - 2017年9月販売終了
*コレモ(小型ガスエンジン発電) - 北海道・東北など寒冷地で販売
==関連項目==
*[[トリジェネレーション]]
*[[コンバインドサイクル発電]]
*[[熱力学サイクル]]
*[[廃熱発電]]
*[[火力発電]]
*[[燃料電池]]
*[[分散型電源]]
*[[地球温暖化]]
*[[エネルギー]]
{{電力供給}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こしえねれいしよん}}
[[Category:発電]]
[[Category:環境技術]]
[[Category:エネルギー政策]]
[[Category:気候変動に関する政策]]
[[Category:省エネルギー]]
[[Category:ヒートアイランド]]
[[Category:発電所技術]]
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[[Category:空気調和設備]]
[[Category:持続可能な技術]]
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"Template:持続可能エネルギー",
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團藤重光
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團藤 重光(だんどう しげみつ、1913年11月8日 - 2012年6月25日)は、日本の法学者。専門は、刑法・刑事訴訟法。裁判官。学位は、法学博士(東京大学・論文博士 1962年)。東京大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。文化勲章受章。位階は正三位。勲等は勲一等。団藤 重光とも表記される。
東京帝国大学法学部助教授、東京大学法学部教授、東京大学法学部学部長、慶應義塾大学法学部教授、最高裁判所判事、社団法人学士会理事長などを歴任した。
山口県生まれ、岡山県育ちの法学者である。専門は刑事法全般に及び、戦後の日本刑事法学の第一人者である。東京帝国大学、東京大学、慶應義塾大学で教鞭を執ったのち、最高裁判所判事に就任した。また、宮内庁東宮職参与や宮内庁参与も務め、学士会の理事長も務めた。また死刑廃止論者の代表的人物でもあった。温厚な性格で弟子を厳しく指導することはなかったという。酒(ワイン)を嗜み、料理によって赤白を厳格に飲み分けた。
1913年(大正2年)、山口地方裁判所検事局次席検事團藤安夫(1878年 - 1935年)の長男として、山口県吉敷郡山口町で誕生した。翌1914年(大正3年)、父が弁護士に転身するにあたり、父の郷里の岡山県高梁に近い岡山市へ家族で転居した。以後、團藤は高等学校卒業まで岡山において成長する。團藤自身が出身地を岡山であると言及するのは、山口での生活は物心つく前の短期間にすぎず、幼少期を過ごしたのが岡山だからである。
1925年(大正14年)、岡山県女子師範学校附属小学校を飛び級で卒業(第5年で卒業)。1929年(昭和4年)、旧制第二岡山中学校(現:岡山県立岡山操山中学校・高等学校)第4学年を飛び級で修了。第六高等学校を経て、1935年、東京帝国大学法学部を首席で卒業。
1974年(昭和49年) - 1983年(昭和58年)、最高裁判所判事。1981年(昭和56年)、日本学士院会員。1987年(昭和62年)、勲一等旭日大綬章。1995年(平成7年)、文化勲章。2012年(平成24年)、東京都内の自宅で老衰のため死去。葬儀(ミサ)は東京都千代田区麹町の聖イグナチオ教会主聖堂で行われた。墓所は雑司ヶ谷霊園の義父勝本正晃の墓所。
團藤の研究は刑事訴訟法から始まった。当時、民事訴訟法学においては基礎理論の研究が既にドイツでなされていたが、これに対して刑事訴訟法学の基礎理論研究は全くなされていなかった。そこで、法学部生時代に聴いた兼子一の講義の中で、兼子がジェイムズ・ゴルトシュミット(ドイツ語版)の説を引用していたことに示唆を得て『法律状態としての訴訟』を読み込み、またヴィルヘルム・ザウアー(ドイツ語版)の『訴訟法の基礎』を読み込み、民事訴訟法学の基礎理論を構築し、これを刑事訴訟法に応用しようとした。ザウアーが訴訟の発展過程を訴追過程、手続過程、実体形成過程の三面に分けたのに対して、團藤はそのような区分に疑問を呈し、刑事訴訟手続を手続発展過程と実体形成過程の二面として分析した。また、そのような観点から、刑事手続上の訴訟行為として実体形成行為と手続形成行為の概念を提唱した。以上の研究は助手論文として「刑事訴訟行為の無効」(法学協会雑誌55巻1号〜3号、1937年)にまとめられた。
その後も團藤は刑事訴訟の基礎理論の研究を進め、その構築を自身の学問上の最も重要なテーマの一つと位置づけるに至った。前述の助手論文など、刑事訴訟基礎理論に関する論文は『訴訟状態と訴訟行為』(弘文堂、1949年)に収められている。
團藤は、師である小野清一郎と同じく後期旧派にたち、刑罰を道義的応報とした上で、犯罪論において、構成要件を違法有責類型であるとする小野理論を継承するが、小野理論が犯罪限定機能を有しなかったことから、戦時中全体主義に取り込まれた点を批判し、罪刑法定主義の見地から構成要件を形式的、定型的なものであるとしてその自由保障機能を重視する定型説を提唱した。かかる見地からは、みずから実行行為に出ていない共謀共同正犯は定型性を欠くものとして否定されるが、團藤は後掲のとおり後に改説することになる。
違法性の実質については、小野と同じく規範違反説をとりつつも、その内容を小野が国家的法秩序違反としていた点を批判し、法は道徳の最低限を画すものであるとの考えから、国家の制定法とは独立した社会倫理秩序違反をさすとして行為無価値論の立場をとり、後に結果無価値論に立つことを明確にした平野龍一と対立した。
責任論において、小野がとる道義的責任論とその師である牧野英一がとる新派刑法理論に基づく性格責任論との争いを止揚することを企図して、道義的責任論を基礎としつつも、二次的に背後の行為者の人格形成責任を問う人格的責任論を提唱した。
以上のように、團藤は、新派と旧派に分かれて大きく対立していた戦前の刑法理論を発展的に解消した上で継承し、戦後間もない刑法学の基礎を形成した。
刑事訴訟法においては、小野と同じくドイツ法に由来する職権主義構造を本質とする立場をとるが、現実の審判の対象は訴因だが、潜在的な審判の対象に公訴事実が含まれるとの折衷説をとる。この点を当事者主義構造を本質とする平野から徹底的に批判された。
團藤の法思想は、著書『法学入門』(筑摩書房、1974年)で体系的に明らかにされ、最高裁判事としての経験を踏まえ『法学の基礎』(有斐閣、1996年、2007年第2版)でさらに展開されている。『法学入門』はその難解さから「法学出門」であると批評された。
團藤の思想の根本にあるのは「主体的」な人間の存在である。人間は権利義務ないし法律関係の主体として、その立場から法を捉える点で主体性を有すると同時に、客観的な法を動かす原動力でありかつ担い手であるという点でも法において主体的であるとする。團藤によれば、罪刑法定主義の根拠や刑法が自己の責任に帰することができる場合にのみ刑罰を科する責任刑法であることも、根源的には人間を主体的に見ていくで根拠付けられるものとされる。
戦後の新憲法制定に伴う法制改革の際に、各種の立法に関与した。刑事訴訟法(1948年(昭和23年)制定)の立案担当者の一人である(その他の担当者として、中野次雄、植松正、岸盛一、西村宏一、佐藤藤佐など)。アメリカ刑事法に倣って逮捕要件を緩和しようと考えたがうまくいかず、代わりに準現行犯・緊急逮捕の規定を考案した。
東大退官後、1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)まで最高裁判所判事に就任した。
強制採尿令状は彼の考えによるものと言われる。
大阪空港訴訟では、毎日21時から翌日7時までの空港の利用差止めを認めるべきか否かという問題について、訴えを却下した多数意見に対して、差止めを認めるべきとの反対意見を述べた。団藤はこの訴訟の経緯をノートに記録し、没後の2023年4月に公表された内容には、第一小法廷で審理されていた段階では差し止めを認めた2審判決(大阪高等裁判所)を追認する方向だったが、被告の国が大法廷での審理を求める上申書が出された際、元最高裁判所長官の村上朝一から大法廷で審理するよう電話があったと第一小法廷の裁判長から聞き、「この種の介入は怪(け)しからぬことだ」と記していた。この団藤のノートについては、同月放映されたETV特集でも取り上げられた。
自白の証拠採否について「共犯者の自白も本人の自白と解すべきである」という補足意見を書いて、捜査における自白偏向主義に一石を投じた(もっとも、共犯者の自白が相互に補強証拠になりうるとしているため、当該事案の結論に影響はない。最判昭51.10.28参照)。
学者時代は共謀共同正犯を否定する代表的な論者であったが、最高裁判事としては、実行行為に出ていないものの、犯罪事実について行為支配を持った者を正犯として評価することを是認する肯定説の立場にたった。この点について、團藤は実務家としては判例の体系を踏まえなければならず、学者としての良心と実務家としての良心は必ずしも一致しないという見解を示している。そして團藤は、肯定説に立ちながら行為支配の理論等による修正を提唱している。
團藤は死刑廃止論者として知られているが、従来は死刑に賛成の立場であった。しかし、ある事件(この事件を名張毒ぶどう酒事件とする見解もあるが、同事件は就任前の1972年(昭和47年)の最高裁判決であるため誤りである。実際は1976年(昭和51年)の波崎事件の最高裁判決である)で陪席として死刑判決を出した際に、傍聴席から「人殺し」とヤジが飛んだ。この事件では、團藤は冤罪ではないかと一抹の不安を持っていたうえに、被告人も否認していた事件であった。これを契機として、被告人が有罪であるとの絶対的な自信がなかったこと、そして冤罪の可能性がある被告人に対して死刑判決を出したことへの後悔と実際に傍聴人から非難されたことなどから、死刑に対する疑念が出てきたとのことである。
最高裁判事退官後は、宮内庁東宮職参与、宮内庁参与を歴任しながら死刑廃止運動や少年法改定反対運動関連の活動など、刑事被告人の権利確立のための活動に重点を置いた。「人間の終期は天が決めることで人が決めてはならない」と発言している。
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團藤 重光は、日本の法学者。専門は、刑法・刑事訴訟法。裁判官。学位は、法学博士。東京大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。文化勲章受章。位階は正三位。勲等は勲一等。団藤 重光とも表記される。 東京帝国大学法学部助教授、東京大学法学部教授、東京大学法学部学部長、慶應義塾大学法学部教授、最高裁判所判事、社団法人学士会理事長などを歴任した。
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'''團藤 重光'''(だんどう しげみつ、[[1913年]][[11月8日]] - [[2012年]][[6月25日]])は、[[日本]]の[[日本の法学者一覧#刑法|法学者]]。専門は、[[刑法]]・[[刑事訴訟法]]。[[裁判官]]。[[学位]]は、[[博士(法学)|法学博士]]([[東京大学]]・[[博士#博士学位の取得方法|論文博士]] [[1962年]])。東京大学名誉教授。[[日本学士院]]会員、[[文化功労者]]。[[文化勲章]]受章。[[位階]]は[[正三位]]。[[勲等]]は[[勲一等]]。'''団藤 重光'''とも表記される。
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== 概要 ==
[[山口県]]生まれ、[[岡山県]]育ちの[[法学者]]である。専門は[[刑事法]]全般に及び、戦後の日本刑事法学の第一人者である。[[東京帝国大学]]、[[東京大学]]、[[慶應義塾大学]]で教鞭を執ったのち、[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]]に就任した。また、[[宮内庁東宮職]][[参与]]や[[宮内庁]]参与も務め、[[学士会]]の[[理事|理事長]]も務めた。また[[死刑存廃問題|死刑廃止]]論者の代表的人物でもあった。温厚な性格で弟子を厳しく指導することはなかったという<ref>『論究ジュリスト(2013年冬号)』所収「【特集】團藤重光先生の人と学問 座談会 團藤重光先生を偲んで」2頁ほか。松尾浩也、福田平、内藤謙、岩井宜子、平川宗信、井上正仁による証言</ref>。酒(ワイン)を嗜み、料理によって赤白を厳格に飲み分けた<ref>上掲『論究ジュリスト(2013年冬号)』所収「【特集】團藤重光先生の人と学問 座談会 團藤重光先生を偲んで」10頁ほか。井上正仁による証言</ref>。
== 来歴 ==
1913年(大正2年)、[[山口地方裁判所]]検事局[[検察官|次席検事]]團藤安夫(1878年 - 1935年)の長男として、[[山口県]][[吉敷郡]][[山口町]]で誕生した。翌1914年(大正3年)、父が[[弁護士]]に転身するにあたり、父の郷里の岡山県[[高梁市|高梁]]に近い[[岡山市]]へ家族で転居した。以後、團藤は高等学校卒業まで岡山において成長する。團藤自身が出身地を岡山であると言及するのは、山口での生活は物心つく前の短期間にすぎず、幼少期を過ごしたのが岡山だからである<ref>團藤重光『この一筋につながる 新装版』(岩波書店、2006年、ISBN 978-4000228640)p.83など。</ref>。
1925年(大正14年)、岡山県女子師範学校附属小学校を飛び級で卒業(第5年で卒業)。1929年(昭和4年)、旧制第二岡山中学校(現:[[岡山県立岡山操山中学校・高等学校]])第4学年を飛び級で修了。[[第六高等学校 (旧制)|第六高等学校]]を経て、1935年、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]]を首席で卒業。
1974年(昭和49年) - 1983年(昭和58年)、[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]]。1981年(昭和56年)、[[日本学士院]]会員。1987年(昭和62年)、[[勲一等旭日大綬章]]。1995年(平成7年)、[[文化勲章]]。2012年(平成24年)<ref name="nikkei20120625">{{Cite news | url = https://r.nikkei.com/article/DGXNASDG25028_V20C12A6000000 | title = 「死刑廃止論」の団藤重光氏が死去 元最高裁判事 | newspaper = 日本経済新聞電子版 | publisher = [[日本経済新聞社]] | date = 2012-6-25 | accessdate = 2020-5-1 }}</ref>、東京都内の自宅で老衰のため死去<ref name="nikkei20120625"/>。葬儀([[ミサ]])は東京都[[千代田区]][[麹町]]の[[聖イグナチオ教会]]主聖堂で行われた<ref name="nikkei20120625"/>。墓所は[[雑司ヶ谷霊園]]の義父[[勝本正晃]]の墓所。
== 学説 ==
=== 刑事訴訟法学 ===
團藤の研究は刑事訴訟法から始まった<ref>『わが心の旅路』80頁</ref>。当時、民事訴訟法学においては基礎理論の研究が既に[[ドイツ]]でなされていたが、これに対して刑事訴訟法学の基礎理論研究は全くなされていなかった。そこで、法学部生時代に聴いた[[兼子一]]の講義の中で、兼子が{{仮リンク|ジェイムズ・ゴルトシュミット|de|James_Goldschmidt}}の説を引用していたことに示唆を得て『法律状態としての訴訟』を読み込み、また{{仮リンク|ヴィルヘルム・ザウアー|de|Wilhelm Sauer (Jurist)}}の『訴訟法の基礎』を読み込み、民事訴訟法学の基礎理論を構築し、これを刑事訴訟法に応用しようとした<ref>『わが心の旅路』83頁</ref>。ザウアーが訴訟の発展過程を訴追過程、手続過程、実体形成過程の三面に分けたのに対して、團藤はそのような区分に疑問を呈し、刑事訴訟手続を手続発展過程と実体形成過程の二面として分析した。また、そのような観点から、刑事手続上の訴訟行為として実体形成行為と手続形成行為の概念を提唱した。以上の研究は助手論文として「刑事訴訟行為の無効」(法学協会雑誌55巻1号〜3号、1937年)にまとめられた。
その後も團藤は刑事訴訟の基礎理論の研究を進め、その構築を自身の学問上の最も重要なテーマの一つと位置づけるに至った<ref>『訴訟状態と訴訟行為』はしがき</ref>。前述の助手論文など、刑事訴訟基礎理論に関する論文は『訴訟状態と訴訟行為』(弘文堂、1949年)に収められている。
=== 刑法学 ===
團藤は、師である[[小野清一郎]]と同じく後期旧派にたち、[[刑罰]]を道義的応報とした上で、[[犯罪]]論において、[[構成要件]]を違法有責類型であるとする小野理論を継承するが、小野理論が犯罪限定機能を有しなかったことから、戦時中[[全体主義]]に取り込まれた点を批判し、[[罪刑法定主義]]の見地から構成要件を形式的、定型的なものであるとしてその自由保障機能を重視する'''定型説'''を提唱した<ref>『刑法綱要総論〔改訂版〕』106頁</ref>。かかる見地からは、みずから実行行為に出ていない'''共謀共同正犯'''は定型性を欠くものとして否定されるが、團藤は後掲のとおり後に改説することになる。
[[違法性]]の実質については、小野と同じく規範違反説をとりつつも、その内容を小野が国家的法秩序違反としていた点を批判し、法は道徳の最低限を画すものであるとの考えから、国家の制定法とは独立した社会倫理秩序違反をさすとして[[行為無価値]]論の立場をとり、後に[[結果無価値]]論に立つことを明確にした[[平野龍一]]と対立した。
[[責任]]論において、小野がとる'''道義的責任論'''とその師である[[牧野英一]]がとる新派刑法理論に基づく'''性格責任論'''との争いを止揚することを企図して、道義的責任論を基礎としつつも、二次的に背後の行為者の人格形成責任を問う'''人格的責任論'''を提唱した<ref>上掲『刑法綱要総論〔改訂版〕』240頁</ref>。
以上のように、團藤は、新派と旧派に分かれて大きく対立していた戦前の刑法理論を発展的に解消した上で継承し、戦後間もない[[刑法学]]の基礎を形成した。
[[刑事訴訟法]]においては、小野と同じくドイツ法に由来する[[職権主義]]構造を本質とする立場をとるが、現実の審判の対象は訴因だが、潜在的な審判の対象に公訴事実が含まれるとの折衷説をとる<ref>上掲『新刑事訴訟法綱要』148頁</ref>。この点を[[当事者主義]]構造を本質とする平野から徹底的に批判された<ref>平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣、1958年)131〜144頁</ref>。
=== 法思想 ===
團藤の法思想は、著書『法学入門』(筑摩書房、1974年)で体系的に明らかにされ、最高裁判事としての経験を踏まえ『法学の基礎』(有斐閣、1996年、2007年第2版)でさらに展開されている。『法学入門』はその難解さから「法学出門」であると批評された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/4641027218|title=『法学の基礎』はしがき|website=有斐閣ウェブサイト|accessdate=2023-04-21}}</ref>。
團藤の思想の根本にあるのは「主体的」な人間の存在である<ref>『法学の基礎〔第2版〕』3頁以下</ref>。人間は権利義務ないし法律関係の主体として、その立場から法を捉える点で主体性を有すると同時に、客観的な法を動かす原動力でありかつ担い手であるという点でも法において主体的であるとする。團藤によれば、罪刑法定主義の根拠や刑法が自己の責任に帰することができる場合にのみ刑罰を科する責任刑法であることも、根源的には人間を主体的に見ていくで根拠付けられるものとされる<ref>『わが心の旅路』143頁</ref>。
== 社会的活動 ==
=== 現行刑事訴訟法の立法への関与 ===
戦後の[[日本国憲法|新憲法]]制定に伴う法制改革の際に、各種の立法に関与した。[[刑事訴訟法]](1948年(昭和23年)制定)の立案担当者の一人である(その他の担当者として、[[中野次雄]]、[[植松正]]、[[岸盛一]]、西村宏一、[[佐藤藤佐 (司法官)|佐藤藤佐]]など)。アメリカ刑事法に倣って逮捕要件を緩和しようと考えたがうまくいかず、代わりに準現行犯・緊急逮捕の規定を考案した<ref>『論究ジュリスト(2013年冬号)』所収「【特集】團藤重光先生の人と学問 座談会 團藤重光先生を偲んで」18頁松尾浩也による証言</ref>。
=== 最高裁判所判事 ===
東大退官後、1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)まで[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]]に就任した。
[[強制採尿令状]]は彼の考えによるものと言われる{{誰によって|date=2023-04}}。
[[大阪空港訴訟]]では、毎日21時から翌日7時までの空港の利用差止めを認めるべきか否かという問題について、訴えを却下した多数意見に対して、差止めを認めるべきとの[[反対意見]]を述べた。団藤はこの訴訟の経緯をノートに記録し、没後の2023年4月に公表された内容には、第一小法廷で審理されていた段階では差し止めを認めた2審判決([[大阪高等裁判所]])を追認する方向だったが、被告の国が大法廷での審理を求める上申書が出された際、元最高裁判所長官の[[村上朝一]]から大法廷で審理するよう電話があったと第一小法廷の裁判長から聞き、「この種の介入は怪(け)しからぬことだ」と記していた<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230420/2000073045.html|title=最高裁元裁判官のノート公開 大阪空港公害訴訟で「介入」記載|newspaper=[[NHK大阪放送局]]|date=2023-04-20|accessdate=2023-04-28}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230420-OYT1T50070/|title=団藤重光・元最高裁判事「この種の介入はけしからぬ」…公害訴訟の内幕、ノートに残す|newspaper=[[読売新聞]]|date=2023-04-20|accessdate=2023-04-28}}</ref>。この団藤のノートについては、同月放映された[[ETV特集]]でも取り上げられた<ref>[https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/VG6R7M2KK3/ 誰のための司法か〜團藤重光 最高裁・事件ノート〜] - [[日本放送協会]](ETV特集ウェブサイト)2023年4月28日閲覧。</ref>。
[[自白]]の証拠採否について「共犯者の自白も本人の自白と解すべきである」という[[補足意見]]を書いて、捜査における自白偏向主義に一石を投じた(もっとも、共犯者の自白が相互に補強証拠になりうるとしているため、当該事案の結論に影響はない。最判昭51.10.28参照)。
学者時代は共謀共同正犯を否定する代表的な論者であったが<ref>今井猛嘉・小林憲太郎・島田聡一郎・橋爪隆『刑法総論』383頁[島田聡一郎執筆]</ref>、最高裁判事としては、実行行為に出ていないものの、犯罪事実について行為支配を持った者を正犯として評価することを是認する肯定説の立場にたった。この点について、團藤は実務家としては判例の体系を踏まえなければならず、学者としての良心と実務家としての良心は必ずしも一致しないという見解を示している<ref>『わが心の旅路』252頁</ref>。そして團藤は、肯定説に立ちながら行為支配の理論等による修正を提唱している<ref>『刑法綱要総論 第3版』397頁</ref>。
=== 死刑廃止論 ===
團藤は[[死刑存廃問題|死刑廃止論]]者として知られているが、従来は死刑に賛成の立場であった。しかし、ある事件(この事件を[[名張毒ぶどう酒事件]]とする見解もあるが、同事件は就任前の1972年(昭和47年)の最高裁判決であるため誤りである。実際は1976年(昭和51年)の[[波崎事件]]の最高裁判決である)で陪席として死刑判決を出した際に、傍聴席から「人殺し」とヤジが飛んだ。この事件では、團藤は冤罪ではないかと一抹の不安を持っていたうえに、被告人も否認していた事件であった。これを契機として、被告人が有罪であるとの絶対的な自信がなかったこと、そして冤罪の可能性がある被告人に対して死刑判決を出したことへの後悔と実際に傍聴人から非難されたことなどから、死刑に対する疑念が出てきたとのことである。
最高裁判事退官後は、[[宮内庁東宮職]]参与、[[宮内庁]]参与を歴任しながら死刑廃止運動や[[少年法]]改定反対運動関連の活動など、刑事被告人の権利確立のための活動に重点を置いた。「人間の終期は天が決めることで人が決めてはならない」と発言している。
== 略歴 ==
{{出典の明記|date=2020年5月|section=1}}
* 1934年 - [[高等文官試験]]行政科試験及び司法科試験合格。
* 1935年 - 東京帝国大学法学部卒業、同助手。
* 1937年 - 同助教授。
* 1947年 - 同教授。
* 1962年 - 「訴訟の発展と判断の標準」で東京大学より[[博士(法学)|法学博士]]の学位を取得<ref>[[国立国会図書館]]における書誌ID:000007803514</ref>。
* 1963年 - 1965年 東京大学法学部長。
* 1963年 - 1975年 [[日本刑法学会]]理事長。
* 1974年 - 東京大学定年退官(名誉教授)、[[慶應義塾大学]]教授(4月 - 10月)。
* 1974年 - 1983年 [[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]判事。
* 1981年 - [[日本学士院]]会員。
* 1981年 - 1989年 東宮職参与。
* 1987年 - アメリカ芸術・科学アカデミー外国名誉会員。
* 1989年 - 2000年 [[宮内庁]]参与。
* 1993年 - 2009年 [[社団法人]][[学士会]]理事長。
* 2008年 - 死刑廃止論者で法哲学者の[[イエズス会]][[ホセ・ヨンパルト]]司祭により[[カトリック教会|カトリック]]での[[洗礼]]を受ける。洗礼名は[[トマス・アクィナス]]。
* 2012年 - [[老衰]]のため死去。98歳没<ref>{{Cite web2 |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201206/2012062500571 |title=元最高裁判事の団藤重光氏死去=刑法学の権威、死刑廃止訴え |date=2012-06-25 |publisher=時事ドットコム |archiveurl=https://archive.is/er9F |df=ja |url-status=dead |archivedate=2012-07-11 |accessdate=2012-07-11}}</ref>。葬儀(ミサ)は[[聖イグナチオ教会]]で行われた。葬儀委員長は[[松尾浩也]]東大名誉教授。
== 賞歴 ==
* 1968年 - [[日本エッセイスト・クラブ賞]]。
== 栄典 ==
* 1986年 - [[文化功労者]]。
* 1987年 - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>「秋の叙勲に4575人 女性が史上最高の379人」『読売新聞』1987年11月3日朝刊</ref>。
* 1991年 - [[文化勲章]]。
* 1991年 - オーストリア科学芸術一等名誉十字章。
* 2012年 - [[正三位]](正六位より進階)<ref>官報平成24年7月26日本紙より</ref>。
== 主著 ==
* 『刑事訴訟法綱要』([[弘文堂]]、1943年)
* 『刑法の近代的展開』(弘文堂、1948年)
* 『新刑事訴訟法綱要』(弘文堂、初版1948年、[[創文社]](7訂版)、1967年)
* 『訴訟状態と訴訟行為』(弘文堂、1949年)
* 『刑法と刑事訴訟法との交錯』(弘文堂、1950年)
* 『条解刑事訴訟法(上)』(弘文堂、1950年)。下巻は未刊行。
* 『刑法綱要総論』([[創文社]]、初版1957年、3版1990年)
* 『刑法綱要各論』(創文社、初版1964年、3版1990年)
* 『刑法紀行』(創文社、1967年)。第16回[[日本エッセイスト・クラブ賞]]受賞。
* 『法学入門』([[筑摩書房]]、1973年、増補1988年)
* 『実践の法理と法理の実践』(創文社、1986年)
* 『この一筋につながる』([[岩波書店]]、1986年、新装版2006年)
* 『わが心の旅路』([[有斐閣]]、1986年)
* 『死刑廃止論』(有斐閣、初版1991年、第6版2000年)
* 『法学の基礎』(有斐閣、1996年、第2版2007年)
* 『The Criminal Law of Japan: The General Part』(Fred B Rothman & Co、1997年)。「刑法綱要総論」の英訳版。
* 『反骨のコツ』([[朝日新聞社]]〈[[朝日新書]]〉、2007年)。[[伊東乾 (作曲家)|伊東乾]]との共著(対談)で、学士会ブログ「團藤ブログ」を書籍化。
== 門下生 ==
* [[福田平]]
* [[大塚仁]]
* [[内藤謙]]
* [[香川達夫]]
* [[藤木英雄]]
* [[松尾浩也]]
* [[田宮裕]]
* [[板倉宏]]
* [[平川宗信]]
* [[井上正仁]]
* [[川端博]]
* [[小暮得雄]]
* [[渥美東洋]]
* [[岩井宜子]]
* [[所一彦]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
{{Wikiquote}}
* [[勝本正晃]](義父)
* [[死刑廃止を求める刑事法研究者のアピール]]
* [[裁判官]]
* [[東京大学の人物一覧]]
* [[慶應義塾大学の人物一覧]]
* [[三島由紀夫]] - 團藤の刑事訴訟法講義を受講しており、徹底した論理の進行は後の創作にも影響を与えた。
== 外部リンク ==
* [https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=54227 最高裁判所昭和56年12月16日大法廷判決 昭和51(オ)395大阪国際空港夜間飛行禁止等]
{{学士会理事長}}
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[[Category:20世紀日本の法学者]]
[[Category:21世紀日本の法学者]]
[[Category:日本の刑法学者]]
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[[Category:刑事政策学者]]
[[Category:日本の宮内庁関係者]]
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逗子開成中学校・高等学校
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逗子開成中学校・高等学校(ずしかいせいちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、神奈川県逗子市新宿にある、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。
運営母体は学校法人逗子開成学園。略称は逗開(ずかい)。
神奈川県下では最も歴史の古い私立男子校で、現在は高等学校からの生徒募集を行わない完全中高一貫校である。
2023年4月現在、理事長は志村理俊、校長は小和田亜土(2023年4月就任)。
1903年、東京府北豊島郡日暮里町(現:東京都荒川区西日暮里)にある開成中学校の分校第二開成中学校として設立された。創設者の田邊新之助は当時開成中学校の校長で、哲学者田邊元の実父。大日本帝国海軍による横須賀海軍鎮守府の軍人の子弟教育の要請を受けてのことであった。東京本校である開成中学校の生徒のうち、学業についていけない者や、体が弱く大自然の中での療養が必要だとされた者は、神奈川の分校である第二開成中学校に一時的に転校させられたことも多かった。1909年、独立組織となり逗子開成中学校に改名する。
改名翌年の1910年1月23日、休日に無断で学校所有のボートを海に出した生徒ら12人が七里ヶ浜沖で遭難し、全員死亡する事故が発生した。捜索は地元漁船などの他に横須賀鎮守府の駆逐艦2隻の出動もあり、また当時葉山御用邸で静養中であった皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が急遽逗子開成を訪問した。社会科教師の石塚巳三郎は当時、学生寮の監督(舎監)を担当し、艇庫の管理も石塚の担当であった。やがて世間の風潮は事故から監督・管理不行き届きによる事件へと変貌した。新聞紙上に実名が掲載された石塚は世間のさらし者となり、遺族らの恨みを買い、学校を去った。田邊新之助は東京本校の校長を引責辞任し、莫大な損害賠償による学校存続危機に対応するため数年間逗子開成校長職に留まった。この事故の補償のため、当時経営母体が同一であった鎌倉女学院が所有地の売却などをした。のちに同女学院教諭の三角錫子の作詞で鎮魂歌として「真白き富士の根」(七里ヶ浜の哀歌)が作られ、遭難地点に近い稲村ヶ崎に慰霊碑を建立した。石塚の息子である宮内寒弥は、事件をもとにした小説『七里ヶ浜』を1978年に発表し、平林たい子文学賞を受賞。遭難生徒たちは不良で江の島へ「鳥撃ち」に行くためにボートを出しており、その中には三角との恋仲が噂される生徒(木下三郎、5年生)もいたが、宮内は同小説でこの噂を否定している。この事故の日曜日、石塚は転勤する同僚を見送った後、体育教師の三村永一(生徒監)と鎌倉を散策していた。三村の目的は石塚と三角との縁談であった。しかし皮肉にも三角が披露した合唱曲による遭難生徒の美化が石塚を窮地に追いやり、石塚は何もかも決別して西へ旅立った。
太平洋戦争前は帝国海軍の退役将官が校長を歴任し、学年を「中隊」・学級を「小隊」と改称したり、「振武隊」と称する楽隊(現在の吹奏楽部)を作って軍艦行進曲を演奏させるなど、校風はきわめて軍隊調となっていった。これらの海軍寄りの校風から卒業後の進路として海軍兵学校を志す者も多く、終戦を迎えるまで逗子開成は半ば海軍兵学校の予備校のようになっていた。
太平洋戦争後、学制改革に伴い、逗子開成中学校・逗子開成高等学校が設置され、1953年 (昭和28年)には創立50周年を迎えた。その時には教職員86名、生徒数1910名を数える大規模な学校に発展していた。
戦後は帝国海軍の消滅に伴ってエリート校としての地位を失う。1960年(昭和35年)には学園の教育改善と近代化をめぐる紛争が経営側と教職員組合との間で起こり、神奈川県知事の斡旋を仰ぐ事態にまで混乱した。また学校の経営方針に不満を抱く生徒会が同盟休校を敢行したり、校内の風紀は次第に荒廃してゆく。
また、高度経済成長期の公立教育の充実の中、逗子開成中学校への志願者は年々減少し、1973年(昭和48年)には中学校生徒募集中止を余儀なくされた。しかしこの時期、運動部の活動が非常に盛んで、全国レベルの選手を多数生み出していたのは事実である。
その当時逗子開成にしかプールがなく横三地区の学校の水泳部がプールを借りに来ていた。
1980年12月に山岳部が八方尾根で遭難し6名が死亡した。
その後、1984年に旧経営陣を一掃し自ら理事長兼校長となった徳間康快の下で種々の改革が行われた。その中軸となったのが中等部再設置である。1985年の募集再開から、徐々に中高6か年コース生徒の割合を増やして一貫教育によるエリート化が図られ、2003年からは高校3か年コースの募集が廃止された。これにより、横浜南部から湘南・三浦半島にかけた地区において有数の進学校へ成長を遂げた。徳間はこの他にも、後述のような立地を活かした「海洋教育」や、名作映画による情操育成を目的とする「映像教育」などを推進した。
2003年に創立百周年を迎えるのに際して、1990年代末から大規模な校内の改装工事が行われ、校舎リニューアル・新プール建設・全館冷暖房設置・敷地周囲の塀撤去など、施設の充実が図られた。
正規授業の枠内では海に近接した立地を生かしておよそ1.5kmの遠泳やヨット実習(中学校のみ)などを行う「海洋教育」、校内に設けられた本格的な映写施設(徳間記念ホール)を用いて世界の映画を年数回鑑賞する「映像教育」などの特徴的な教育活動を行っている。
また、中学3年次にニュージーランド、高校2年次には日本国内を含む東アジア各国やオーストラリア(生徒が選択する)への研修旅行が実施される。国際交流が主な目的となっているが、現地観光も行うなど修学旅行としての側面もある。さらに、希望者は夏休みを利用した海外研修や1年間のカナダ長期留学などが可能である。
演劇部は2019年の全国高等学校総合文化祭で最優秀賞を受賞している。
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逗子開成中学校・高等学校(ずしかいせいちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、神奈川県逗子市新宿にある、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。 運営母体は学校法人逗子開成学園。略称は逗開(ずかい)。 神奈川県下では最も歴史の古い私立男子校で、現在は高等学校からの生徒募集を行わない完全中高一貫校である。 2023年4月現在、理事長は志村理俊、校長は小和田亜土(2023年4月就任)。
|
{{統合文字|逗}}
{{Infobox 日本の学校
|校名 = 逗子開成中学校・高等学校
|画像 = Zushi-Kaisei highschool.jpg
|過去校名 = 第二開成中学校<br>逗子開成中学校
|国公私立 = [[私立学校]]
|設置者 = 学校法人逗子開成学園
|設立年月日 = [[1903年]][[4月18日]]<ref name="town-news-2013-5-3">“逗子開成 継承と発展胸に 創立120周年で式典”. タウンニュース 横須賀 ([[タウンニュース社]]). (2013年5月3日)</ref>
|創立者 = [[田邊新之助]]
|共学・別学 = [[男女別学|男子校]]
|中高一貫教育 = 完全一貫制
|課程 = [[高等学校#全日制|全日制課程]]
|単位制・学年制 = [[学年制と単位制|学年制]]
|設置学科 = [[普通科 (学校)|普通科]]
|学期 = [[2学期制]]
|高校コード = 14562K
|郵便番号 = 249-8510
|所在地 = [[神奈川県]][[逗子市]]新宿2丁目5番1号
|緯度度 = 35 |緯度分 = 17 |緯度秒 = 38.5
|経度度 = 139 |経度分 = 34 |経度秒 = 23.0
|地図ズーム = 13
|地図WikiData = yes
|公式サイト = [https://www.zushi-kaisei.ac.jp/ 公式サイト]
}}
'''逗子開成中学校・高等学校'''(ずしかいせいちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、[[神奈川県]][[逗子市]]新宿にある、[[中高一貫教育]]を提供する[[私立学校|私立]][[男女別学|男子]][[中学校]]・[[高等学校]]。
運営母体は[[学校法人]]逗子開成学園。略称は'''逗開'''(ずかい)。
神奈川県下では最も歴史の古い私立男子校で<ref name="town-news-2013-5-3" />、現在は高等学校からの生徒募集を行わない[[日本の中高一貫校#完全中高一貫校|完全中高一貫校]]である{{efn|[https://chukou.passnavi.com/chugaku/62040 逗子開成中学校の学校情報 - 中学受験パスナビ]([[旺文社]])の冒頭には「※系列高校での募集はない。」と掲載されている。}}。
2023年4月現在、[[理事長]]は志村理俊、[[校長]]は[[小和田亜土]](2023年4月就任)。
== 沿革 ==
=== 創設 ===
[[1903年]]、[[東京府]][[北豊島郡]][[日暮里町]](現:[[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]])にある[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]の[[分校]]'''第二開成中学校'''として設立された。創設者の[[田邊新之助]]は当時開成中学校の校長で、哲学者[[田邊元]]の実父。[[大日本帝国海軍]]による[[横須賀鎮守府|横須賀海軍鎮守府]]の軍人の子弟教育の要請を受けてのことであった<ref>[https://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/402_3.html 情報紙『有鄰』No.402 P3 - 隔月刊情報紙「有鄰」] 2001年5月10日</ref>。東京本校である開成中学校の生徒のうち、学業についていけない者や、体が弱く大自然の中での療養が必要だとされた者は、神奈川の分校である第二開成中学校に一時的に転校させられたことも多かった{{efn|[[橋本龍太郎]]の父・[[橋本龍伍]]なども[[急性灰白髄炎|小児麻痺]]で病弱だったため、東京本校に通いながら、体の調子が悪くなると分校に通うという生活を続けていた。}}。[[1909年]]、独立組織となり逗子開成中学校に改名する。
==== ボート遭難事故 ====
改名翌年の[[1910年]]1月23日、休日に無断で学校所有のボート{{efn|このボートは爆発沈没事故を起こした帝国海軍の[[巡洋艦]][[松島 (防護巡洋艦)]]の払い下げ品であった(無償)。}}を海に出した生徒ら12人{{efn|逗子開成中学校5年生6名(21歳、20歳、19歳、19歳、18歳、16歳)、4年生2名(19歳、17歳)、2年生3名(15歳、14歳、14歳)、逗子小学校高等科2年生1名(10歳)。}}が[[七里ヶ浜]]沖で遭難し、全員死亡する事故が発生した{{efn|定員オーバーが事故の原因だったといわれている。}}。捜索は地元漁船などの他に横須賀鎮守府の駆逐艦2隻の出動もあり<ref name=mai-b20130124>{{cite news|url=https://www.mai-b.co.jp/guide/2013/01/post-214.html|title=「真白き富士の根」の遭難は東京日日新聞で連日報道|date=2013年1月24日|publisher=[[パレスサイドビルディング]]}}</ref>、また当時[[葉山御用邸]]で静養中であった[[皇太子]]嘉仁親王(のちの[[大正天皇]])が急遽逗子開成を訪問した<ref>{{cite news|url=https://www.mai-b.co.jp/guide/2013/01/26-1.html|title=明日23日はかつて山と海で大きな遭難がありました|date=2013年1月22日|publisher=パレスサイドビルディング}}</ref>。社会科教師の石塚巳三郎は当時、学生寮の監督(舎監)を担当し、艇庫の管理も石塚の担当であった<ref name=jac>{{citation|和書|title=甲斐山岳|url=https://jac1.or.jp/wp-content/uploads/2022/03/ymn-kaisangaku13.pdf|date=2022年3月|issue=13|publisher=公益社団法人 日本山岳会山梨支部}}</ref>。やがて世間の風潮は事故から監督・管理不行き届きによる事件へと変貌した<ref name=jac />。新聞紙上に実名が掲載された石塚は世間のさらし者となり、遺族らの恨みを買い、学校を去った<ref name=jac />。田邊新之助は東京本校の校長を引責辞任し、莫大な損害賠償による学校存続危機に対応するため数年間逗子開成校長職に留まった。この事故の補償のため、当時経営母体が同一であった[[鎌倉女学院中学校・高等学校|鎌倉女学院]]が所有地の売却などをした。のちに同女学院教諭の[[三角錫子]]の作詞で[[鎮魂歌]]として「[[真白き富士の根]]」(七里ヶ浜の哀歌)が作られ{{efn|歌詞の原作は[[福田正夫]]ら[[神奈川師範学校]]の生徒たち<ref name=koiwa2010>{{citation|和書|author=[[小岩昌宏]]|chapter=続 歌をめぐる物語 — 琵琶湖哀歌,七里ヶ浜哀歌 —|title=[https://www.suiyokwai.jp/pdf/WB24-03.pdf 水曜㑹誌 第24巻 第3号]|date=2010年10月|pages=395-402|publisher=[[京都大学工学部]]水曜会|issn=0371-408X}}</ref>。}}、遭難地点に近い[[稲村ヶ崎]]に[[慰霊碑]]を建立した。石塚の息子である[[宮内寒弥]]は、事件をもとにした小説『七里ヶ浜』を[[1978年]]に発表し、[[平林たい子文学賞]]を受賞。遭難生徒たちは不良で[[江の島]]へ「鳥撃ち」に行くためにボートを出しており{{efn|首謀者の5年生(徳田勝治)は県立校で素行不良により退校に処せられ逗子開成に転入し、ボートを出すために艇庫番の女性を脅かした<ref name=koiwa2010 />。海鳥を闇鍋の食材にする企てであった。遺体として引き上げられた徳田勝治は小学生の弟である徳田武三を帯でつなぎとめていた<ref name=mai-b20130124 />。この行動は美談として語られ、稲村ヶ崎の慰霊碑の兄弟像になっている<ref name=mai-b20130124 />。徳田勝治には義侠心があり、生徒に対する教師の横暴を許さず決闘を挑むほどであったという逸話もある<ref name=mai-b20130124 />。}}、その中には三角との恋仲が噂される生徒(木下三郎、5年生)もいたが、宮内は同小説でこの噂を否定している。この事故の日曜日、石塚は転勤する同僚を見送った後、体育教師の三村永一(生徒監)と鎌倉を散策していた。三村の目的は石塚と三角との[[縁談]]であった。しかし皮肉にも三角が披露した合唱曲による遭難生徒の美化が石塚を窮地に追いやり、石塚は何もかも決別して西へ旅立った<ref name=koiwa2010 />。
=== 戦前・戦中期 ===
[[太平洋戦争]]前は帝国海軍の退役[[将官]]が校長を歴任し、学年を「中隊」・学級を「小隊」と改称したり、「振武隊」と称する楽隊(現在の[[吹奏楽部]])を作って[[軍艦行進曲]]を演奏させるなど、校風はきわめて軍隊調となっていった。これらの海軍寄りの校風から卒業後の進路として[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]を志す者も多く、終戦を迎えるまで逗子開成は半ば海軍兵学校の予備校のようになっていた。
=== 戦後 ===
太平洋戦争後、[[学制改革]]に伴い、逗子開成中学校・逗子開成高等学校が設置され、[[1953年]] (昭和28年)には創立50周年を迎えた。その時には教職員86名、生徒数1910名を数える大規模な学校に発展していた。
戦後は帝国海軍の消滅に伴ってエリート校としての地位を失う。[[1960年]](昭和35年)には学園の教育改善と近代化をめぐる紛争が経営側と教職員組合との間で起こり、神奈川県[[都道府県知事|知事]]の斡旋を仰ぐ事態にまで混乱した。また学校の経営方針に不満を抱く生徒会が同盟休校を敢行したり、校内の風紀は次第に荒廃してゆく<ref name=":0">{{Cite web |title=沿革 |url=https://www.zushi-kaisei.ac.jp/about/history.html |website=逗子開成中学校・高等学校 |accessdate=2022-04-23}}</ref>。
また、[[高度経済成長]]期の公立教育の充実の中、逗子開成中学校への志願者は年々減少し、[[1973年]](昭和48年)には中学校生徒募集中止を余儀なくされた。しかしこの時期、運動部の活動が非常に盛んで、全国レベルの選手を多数生み出していたのは事実である<ref name=":0" />。
その当時逗子開成にしかプールがなく[[横三]]地区の学校の水泳部がプールを借りに来ていた。
==== 八方尾根遭難事故 ====
1980年12月に山岳部が[[八方尾根]]で遭難し6名が死亡した。
{{See also|逗子開成高校八方尾根遭難事故}}
=== 近年 ===
その後、[[1984年]]に旧経営陣を一掃し自ら理事長兼校長となった[[徳間康快]]の下で種々の改革が行われた。その中軸となったのが中等部再設置である。[[1985年]]の募集再開から、徐々に中高6か年コース生徒の割合を増やして一貫教育によるエリート化が図られ、[[2003年]]からは高校3か年コースの募集が廃止された。これにより、横浜南部から[[湘南]]・[[三浦半島]]にかけた地区において有数の進学校へ成長を遂げた。徳間はこの他にも、後述のような立地を活かした「海洋教育」や、名作映画による情操育成を目的とする「映像教育」などを推進した{{efn|徳間自身も[[スタジオジブリ]]作品などの映画制作に数多く関与している。}}。
2003年に創立百周年を迎えるのに際して、[[1990年代]]末から大規模な校内の改装工事が行われ、校舎リニューアル・新プール建設・全館冷暖房設置・敷地周囲の塀撤去など、施設の充実が図られた。
=== 年表 ===
* [[1903年]]([[明治]]36年) - 私立東京開成中学校の分校として、第二開成学校を開校(4月)。現在地に移転(9月)。
* [[1904年]](明治37年) - 中学校として正式認可を受ける(5月)。
* [[1907年]](明治40年) - 東京開成中学校から独立、私立逗子開成中学校と改称(7月)。
* [[1910年]](明治43年) - 七里ヶ浜沖ボート遭難事故(1月)。追悼法会で鎌倉女学校生徒により「七里ヶ浜の哀歌([[真白き富士の根]])」が歌われる(2月)。
* [[1925年]]([[大正]]14年) - [[校歌]](作詞:[[井上司朗]]、作曲:[[弘田龍太郎]])制定<ref>[https://www.zushi-kaisei.ac.jp/about/about.html 逗子開成について] - 逗子開成中学校・高等学校</ref>。
* [[1928年]]([[昭和]]3年) - 校章のペン・剣の交叉の上の「二」を「桜花」に改める(4月)。
* [[1931年]](昭和6年) - 学校を[[財団法人]]化(12月)。
* [[1947年]](昭和22年) - 財団法人逗子開成学園と改称し、新制逗子開成中学校設置(4月)。校舎連続放火事件発生(4月・6月・7月)。
* [[1948年]](昭和23年) - 新制逗子開成高等学校設置(4月)
* [[1951年]](昭和26年) - 財団法人から学校法人へと改組(3月)。
* [[1953年]](昭和28年) - [[定時制]]高等学校を新設(2月)。
* [[1961年]](昭和36年) - 教職員の解雇を巡り、教職員組合と学校側が紛争状態に陥る(3月)。学校運営への不満により、生徒会が同盟休校([[ストライキ]])を決行(6月)。
* [[1967年]](昭和42年) - 定時制高等学校廃止
* [[1973年]](昭和48年) - 中学校生徒の募集中止決定(1月)。
* [[1980年]](昭和55年) - 山岳部部員5名と顧問教諭1名、北アルプス八方尾根で遭難(12月)。
* [[1981年]](昭和56年) - 八方尾根遭難者が全員遺体で発見(5月)。
* [[1982年]](昭和57年) - 八方尾根事故の責任所在を巡って生徒遺族と学校との交渉が決裂、遺族側が学校へ総額4億1千3百万円の損害賠償を求める[[民事訴訟]]を[[横浜地方裁判所]]に提起(5月)。
* [[1984年]](昭和59年) - 八方尾根事故裁判で遺族と[[和解]]成立(1月)。八方尾根遭難者の合同慰霊祭(4月)。
* [[1986年]](昭和61年) - 中学校再開 中学・高校の校章を「ペンと剣と桜花」に統一(4月)。
* [[1989年]]([[平成]]元年) - [[三学期制]]を[[二学期制]]に変更(4月)。
* [[1998年]](平成10年) - [[学校週5日制|週5日制]]実施(4月)
* [[2003年]](平成15年) - 高等学校入学者募集廃止(3月)。第1回[[アメリカ合衆国]]長期[[留学]]開始(8月)。
* [[2006年]](平成18年) - 専門科目校舎3棟(理科棟・芸術棟・K++棟)を改修。旧理科棟が[[メディア (媒体)|メディア]]棟に、旧芸術棟が理科棟に、旧K++棟が芸術棟にそれぞれ転用された。
* [[2009年]](平成21年) - 徳間記念ホール隣の[[早稲田大学]]研修センターを購入し逗子開成研修センターと改称。本館1階の自習室を研修センター1階に移動、2階は宿泊施設となった。
== 特徴 ==
正規授業の枠内では海に近接した立地を生かしておよそ1.5kmの遠泳{{efn|中学3年次に原則全員参加の大会が催される。}}やヨット実習(中学校のみ)などを行う「海洋教育」、校内に設けられた本格的な映写施設(徳間記念ホール)を用いて世界の映画を年数回鑑賞する「映像教育」などの特徴的な教育活動を行っている。
また、中学3年次に[[ニュージーランド]]、高校2年次には日本国内を含む[[東アジア]]各国や[[オーストラリア]](生徒が選択する)への研修旅行が実施される。国際交流が主な目的となっているが、現地観光も行うなど[[修学旅行]]としての側面もある。さらに、希望者は夏休みを利用した海外研修や1年間の[[カナダ]]長期留学などが可能である。
== アクセス ==
* [[東日本旅客鉄道|JR]][[横須賀線]][[逗子駅]]・[[京急逗子線]][[逗子・葉山駅]] 徒歩12分<ref>[https://www.zushi-kaisei.ac.jp/about/access.html アクセス] - 逗子開成中学校・高等学校</ref>
== 部活動 ==
演劇部は2019年の[[全国高等学校総合文化祭]]で最優秀賞を受賞している。
* 運動部 - 空手道、剣道、硬式テニス、サッカー、柔道、水泳、卓球、バスケットボール、バドミントン、バレーボール、野球、ヨット、陸上競技
* 文化部 - 囲碁、[[インターアクト]]、演劇、[[奇術]]、[[軽音楽]]、コンピュータ、[[サブカルチャー]]研究、[[社会科学]]、将棋、吹奏楽、生物、美術、鉄道研究、電気、フィジカルアート、[[釣り|フィッシング]]、[[物理]][[化学]]、[[文学|文芸]]、和太鼓、写真
== 著名な出身者 ==
=== 政治・行政 ===
* [[橋本龍伍]] - [[厚生大臣]]、[[大蔵省]][[官僚]]、[[橋本龍太郎]]の父親
* [[篠原豪]] - [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]([[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]])
* [[山田俊介]] - 第42代[[青森県]]知事、第35代[[福岡県]]知事、第2代逗子町長、第1・2・3・4代逗子市長、逗子開成学園理事長
* [[廣枝音右衛門]] - [[台湾総督府警察]]の[[警察官]]
* [[土田慎]] - 衆議院議員([[自由民主党 (日本)|自由民主党]])
* [[冨吉榮二]] - [[農民運動]]家、[[逓信大臣]]、退学{{efn|冨吉の長男の話によると校舎2階からの放尿による放校処分(在学名簿に名前はない)<ref>{{citation|和書|author=宮下正昭|url=https://ir.kagoshima-u.ac.jp/records/15971|title=翼賛選挙無効判決を勝ち取った大衆政治家・冨吉栄二伝|periodical=九州地区国立大学教育系・文系研究論文集|volume=8|issue=2|date=2022-03-31|publisher=九州地区国立大学間の連携事業に係る企画委員会リポジトリ部会|issn=18828728}}</ref>。}}
=== 教育・学術 ===
* [[小畠郁生]] - [[古生物学]]者
* [[横尾義貫]] - [[建築学]]者、建築教育者
* [[吉野敬介]] - [[予備校]][[講師 (教育)|講師]]
=== 企業・実業 ===
* [[徳間康快]] - [[徳間書店]]創業者・社長、逗子開成高等学校長・逗子開成学園理事長
* [[上村英輔]] - [[日本石油]]社長、逗子開成学園理事長
=== 文化・芸術 ===
* [[三村明]] - [[映画監督]]、[[カメラマン]]
* [[鈴木竹柏]] - [[日本画家]]
* [[奥村博史]] - [[洋画家]]、[[工芸家]]、[[平塚らいてう]]の夫
* [[徳山璉]] - [[声楽家]]([[バリトン]])、[[歌手]]
* [[竹田悠一郎]] - [[演出家]]([[宝塚歌劇団]])
* [[瀧川鯉丸]] - [[落語家]]
* [[安部譲二]] - [[作家]]、中退
* [[平野威馬雄]] - [[詩人]]、[[フランス文学者|仏文学者]]、中退
=== 芸能・マスコミ・エンタメ ===
* [[hide]](松本秀人) - [[X JAPAN]]のギタリスト{{efn|彼は逗子開成高等学校の[[推薦入学]]試験当日までこの高校が[[エレキギター]]禁止であることや、さらに男子校であるという基本的事実すら知らなかった<ref name=president2021>{{cite news|author=大島暁美|url=https://president.jp/articles/-/45347?page=3|title=「伝説はここから始まった」目立たなかった少年・松本秀人が"X JAPANのhide"になるまで hideの素顔に隠された伝説 (3/5ページ)|date=2021-05-01|publisher=[[PRESIDENT Online]]}}</ref>。[[X JAPAN|X]]加入前のバンド「[[横須賀サーベルタイガー|サーベルタイガー]]」を逗子開成時代に校外で結成し、高校(他校)の文化祭や[[横須賀市]][[本町 (横須賀市)|本町]][[どぶ板通り]]のロックミュージックバー「ROCK CITY」で演奏を行った<ref name=president2021 />。}}
* [[川地民夫]] - 俳優
* [[小杉十郎太]] - 声優
* [[谷啓]] - コメディアン、俳優
* [[円谷弘之]] - 歌手
* [[長谷川康]] - [[テレビドラマ]]の[[ディレクター]]
* [[堀内賢雄]] - 声優
* [[南川直]] - 俳優
* [[三宅弘城]] - 俳優
* [[吉村明宏]] - タレント
* [[門田和弘]] - [[山形放送]]アナウンサー
* [[岡田時彦]] - 俳優、中退
* [[和田侑也]] - [[九州朝日放送]]アナウンサー
* [[大下哲矢]] - 俳優
* [[橋山メイデン]] - お笑い芸人
=== スポーツ・その他 ===
* [[荒岡昭]] - 元[[プロ野球選手]]
* [[金彦任重]] - 元プロ野球選手
* [[原田八州生]] - 元プロ野球選手
* [[久保寺昭]] - 元プロ野球選手
* [[棟居進]] - 元プロ野球選手
* [[宮崎一夫]] - 元プロ野球選手
* [[服部信雄]] - 元バスケットボール選手
* {{仮リンク|小池一守|en|Kazumori Koike}}(小池隆興) - 元カヌー選手
* [[原貫太]] - [[フリーランス]]国際協力師、[[ジャーナリスト]]
* [[花山院親忠]] - [[神職]]、[[侯爵]]
== 関連人物 ==
* [[田邊元]] - 哲学者、創設者田辺新之助の息子
* [[橋健三]] - [[漢学]]者、[[三島由紀夫]]の祖父、第二開成中学校[[幹事]]
* [[国分三亥]] - [[検察]]官僚、[[朝鮮総督府]]官僚、逗子開成中学校理事長
* [[鹿江三郎]] - 海軍軍人、教育者、逗子開成中学校長
* [[岡田三善]] - 海軍軍人、政治家、逗子開成中学校長
* [[奥宮衛]] - 海軍軍人、政治家、逗子開成中学校長
* [[三木愛花]] - ジャーナリスト、逗子開成中学校漢文講師
* [[逗子八郎]](井上司朗) - 歌人、逗子開成学園校歌作詞、逗子開成中学校講師(英語、国語、漢文)
* [[弘田龍太郎]] - 作曲家、逗子開成学園校歌作曲
* [[小長谷宗一]] - 作曲家、逗子開成吹奏楽部演奏曲「Japanese tune」(日本の調べ)作曲
* [[團伊玖磨]] - 作曲家、逗子開成[[アンセム|讃歌]]「海」作曲
* [[三船久蔵]] - 柔道家、逗子開成中学校柔道指導者
* [[高野佐三郎]] - 剣道家、逗子開成中学校剣道指導者
* [[徳間康快]] - [[実業家]]、逗子開成中学校卒業生、逗子開成高等学校長、逗子開成学園理事長
* [[山田俊介]] - 政治家、ボート事故の同乗を断念した小学生、逗子開成中学校卒業生、逗子開成学園理事長
* [[上村英輔]] - [[経営者]]、ボート事故の同乗を断念した小学生、逗子開成中学校卒業生、逗子開成学園理事長
* [[宮内寒弥]] - 小説家、ボート事故で辞職した社会科教師[[石塚巳三郎]]の息子、ボート事件をもとに小説『七里ヶ浜』発表
* [[菅沼五郎]] - 彫刻家、ボート事故慰霊像制作
* [[三角錫子]] - 教育者、ボート事故鎮魂歌「[[真白き富士の根]]」作詞、弟3人が東京開成中学校出身{{efn|鎌三、康正、武雄。}}、石塚巳三郎教諭と[[見合い]]予定があった<ref name=jac />
* [[神田鐳蔵]] - 実業家、ボート事故の[[債務]]を引き受け校主(学校経営責任者)となる
* [[大浦兼武]] - 政治家、ボート事故後の学校の経営難に神田鐳蔵を斡旋
* [[松尾寛三]] - 実業家、ボート事故犠牲者松尾寛之の父
* [[松尾臣善]] - [[日本銀行|日銀]][[総裁]]、ボート事故犠牲者松尾寛之の叔父
* [[東郷慎十郎]] - [[篤志家]]、[[共立学校]]卒業生、第二開成中学校に千円の寄付
== 関連学校 ==
=== 姉妹校 ===
* Rangitoto College
=== かつての系列校 ===
* [[開成中学校・高等学校]]
* [[鎌倉女学院中学校・高等学校]]{{efn|現在では経営[[資本]]が異なるため公式交流は途絶えているが、100周年式典の際には旧姉妹校として鎌倉女学院と合同合唱などを行った。}}
== 脚注 ==
===注釈===
{{脚注ヘルプ}}
{{notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[神奈川県中学校一覧]]
* [[神奈川県高等学校一覧]]
* [[日本の男女別学校一覧]]
* [[旧制中学校]] - [[旧制中等教育学校の一覧 (神奈川県)]]
* [[私立育英学校]]
* [[唐松岳]]
* [[賢崇寺]]
* [[平沙の北に]]
* [[北辰斜に]]
== 外部リンク ==
* [https://www.zushi-kaisei.ac.jp/ 逗子開成中学校・高等学校]
{{DEFAULTSORT:すしかいせい}}
[[Category:神奈川県の私立高等学校]]
[[Category:神奈川県の私立中学校]]
[[Category:私立中高一貫校]]
[[Category:日本の男子中学校]]
[[Category:日本の男子高等学校]]
[[Category:全日本吹奏楽コンクール全国大会 金賞受賞校]]
[[Category:全日本高等学校選抜吹奏楽大会出場校]]
[[Category:逗子市の高等学校]]
[[Category:逗子市の学校]]
[[Category:学校記事]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%97%E5%AD%90%E9%96%8B%E6%88%90%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
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複々線
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複々線(ふくふくせん、quadruple track)とは、2つの複線軌道、すなわち4本の軌道が敷設された線路を指す。言い換えると四線(しせん)。
同様に、6本が敷かれている3組の複線は三複線、8本が敷かれている4組の複線は四複線と呼ぶ。
複線線路が隣接して敷設された状態。一般的にそれぞれの複線は列車の種別や系統によって使い分けられる。一部には立体的に複線を並べる場合もある。
緩急分離運転を行っている場合、速達列車が走行する線路を急行線または快速線、普通列車が走行する線路を緩行線と呼ぶ。JR線では歴史的な経緯から、それぞれを電車線・列車線と呼ぶ場合がある。
複々線は、複線と比較して停車場以外でも列車の追い越しが可能である。そのため、様々な速度帯、種別の列車を運行している路線では、適切に線路を使い分けることで、待避列車の待ち合わせ時間をなくすなど、効率的なダイヤが設定できる。
異なる事業者の複線が並行している場合や、同一事業者の複線路線が並行する区間でも、完全に別系統として運行管理されている場合は、複々線として扱われることは少ない。
日本一長い複々線区間は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の東海道本線草津駅 - 山陽本線西明石駅間 (120.9 km) 。一方、JR四国はJR6社で唯一、複々線が存在しない。日本の私鉄で最も長い複々線区間は、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の北千住駅 - 北越谷駅間 (18.9 km) 。
複々線の配線は、方向別複々線と線路別複々線(系統別複々線)の2種類に大別できる。方向別複々線は、4線を上・上・下・下のように2線ずつ方向をそろえて敷設。線路別複々線はA線上・A線下・B線上・B線下のように路線別に並べて敷設。
同じ方向への列車が隣り合って走行するため、間に島式ホームを設置することで、同方向の列車の対面乗り換えが可能。緩急分離運転を行っていれば、速達列車と緩行列車の連絡は容易。旅客にとっては便利な構造といえるが、後述のとおり事業者側にとっては不都合な側面もある。
なお、1970年代以降にラッシュ緩和を目的として整備された複々線は方向別が多い。
隣り合う線路を走る列車は上下逆となるため、同方向へ向かう列車の乗り換えでは別のホームへ移動する必要がある。緩急分離運転であっても、列車同士の連絡は悪くなり、旅客にとっては不便な構造といえるが、後述のとおり事業者側にとっては好都合な側面もある。
なお、日本の首都圏のJR線では、複々線の多くが通勤五方面作戦で建設され、線路別複々線の方式がとられた。これは工事のしやすさや、駅ホームのスペースを重視したためである。利用客の反発をうけ、急行線でも各駅停車運転を行った例もある。
複々線の分類は、緩急分離運転と系統分離運転の2つの分類。またこれらを併せ持つ場合もある。
運転系統を各駅停車(緩行)と速達列車(急行)に分離する方法。これにより、速達列車の速度が向上し、緩行列車の待避も解消できる。
長距離列車を運行する列車線と短距離電車を運行する電車線の分離は、本質的には系統分離運転に属するが、分離した結果として実質的に緩急分離になることが多い。
列車を運転系統で分離する方法。旅客列車と貨物列車を分離する貨客分離(かきゃくぶんり)のほか、京浜急行電鉄や京成電鉄、名古屋鉄道のように支線が合流する駅と隣の拠点駅までの1駅間のみ複々線化する例もある。
複線に線路を1線追加したものを、三線(さんせん)、複単線(ふくたんせん)または1.5複線という。
別路線に直通する線路を敷設する場合に、駅と分岐点の間に敷かれる。なお、引き上げ線などをこれに充当することもある。
上りまたは下りの一方のみ2線を使用させ緩急分離している場合と、列車種別ごとに複線と単線を割り当てる場合がある。後者の場合、単線を割り当てられた種別は途中駅で列車交換を行う場合もある。さらに三線は、輸送需要が時間帯によって偏りが出るケース、すなわち、都市中心部と郊外を結ぶ路線で、朝に都心方向、夕に郊外方向への輸送需要が増大するときなどに、輸送力の増強手段、途中駅を通過する列車の速度向上手段などとして活用できる可能性をもっている。複々線に比べ、必要とする用地が4分の3であることが最大の利点であるが、双方向に運行可能とするための信号・保安設備の扱いの難しさや車両運用の問題などから、日本では以下の例のみに限られる。
JR東海道本線の南荒尾信号場 - 関ケ原駅間は、関ヶ原越えの勾配緩和のため垂井駅を経由しない下り線(新垂井線)と、垂井駅に下り普通列車を停車させるための単線の垂井線が並行し、合計で三線となっている。なお、新垂井線は特急列車と貨物列車・回送列車のみが、垂井線は普通列車のみが走行するため、結果的には前記の緩急分離運転にも該当する。
JR湖西線の山科駅 - 長等山トンネル内は、通常の複線に加え、貨物列車の牽引(けんいん)定数確保用の下り貨物線が併走している。貨物列車の他に特急列車もこの貨物線を走行し、ダイヤが乱れた場合は、貨物線を走行しない新快速や普通列車が琵琶湖線との分岐点から長等山トンネル入り口までの高架区間を使って特急を待避することがある(この区間で待避することで、後続の琵琶湖線電車に影響を及ぼさない)。
西武池袋線の秋津駅(正確には同駅の数百m先) - 所沢駅間では通常の複線に加え、東日本旅客鉄道(JR東日本)武蔵野線との連絡線を併走させ、三線としている。新車の甲種輸送や譲渡車の引渡しの時のみ使用され、営業列車がこの連絡線を走行することはない。
複々線に1線追加した五線の区間もある。
例
どの範囲までを複々線とするかは、明確な定義はない。とりわけ複々線とするか別線扱いとするかは、鉄道事業者により、また時代により統一されていない。一例として『鉄道要覧』において、民営鉄道の摘要欄に複々線区間が記載されているが、形態上は複々線でも別線扱いとして記載されていない場合も多いうえ、JR路線はほとんど記載されていない。そのため、解釈によって下記以外の事例もある。
以下の路線は基本的に方向別複々線だが、対面乗り換えを考慮して駅間で線路配置が変わる。
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"text": "複々線の配線は、方向別複々線と線路別複々線(系統別複々線)の2種類に大別できる。方向別複々線は、4線を上・上・下・下のように2線ずつ方向をそろえて敷設。線路別複々線はA線上・A線下・B線上・B線下のように路線別に並べて敷設。",
"title": "配線による分類"
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"text": "同じ方向への列車が隣り合って走行するため、間に島式ホームを設置することで、同方向の列車の対面乗り換えが可能。緩急分離運転を行っていれば、速達列車と緩行列車の連絡は容易。旅客にとっては便利な構造といえるが、後述のとおり事業者側にとっては不都合な側面もある。",
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"title": "配線による分類"
},
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"text": "なお、日本の首都圏のJR線では、複々線の多くが通勤五方面作戦で建設され、線路別複々線の方式がとられた。これは工事のしやすさや、駅ホームのスペースを重視したためである。利用客の反発をうけ、急行線でも各駅停車運転を行った例もある。",
"title": "配線による分類"
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"text": "複々線の分類は、緩急分離運転と系統分離運転の2つの分類。またこれらを併せ持つ場合もある。",
"title": "運転方法による分類"
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"text": "運転系統を各駅停車(緩行)と速達列車(急行)に分離する方法。これにより、速達列車の速度が向上し、緩行列車の待避も解消できる。",
"title": "運転方法による分類"
},
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"text": "長距離列車を運行する列車線と短距離電車を運行する電車線の分離は、本質的には系統分離運転に属するが、分離した結果として実質的に緩急分離になることが多い。",
"title": "運転方法による分類"
},
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"text": "列車を運転系統で分離する方法。旅客列車と貨物列車を分離する貨客分離(かきゃくぶんり)のほか、京浜急行電鉄や京成電鉄、名古屋鉄道のように支線が合流する駅と隣の拠点駅までの1駅間のみ複々線化する例もある。",
"title": "運転方法による分類"
},
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"text": "複線に線路を1線追加したものを、三線(さんせん)、複単線(ふくたんせん)または1.5複線という。",
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"text": "別路線に直通する線路を敷設する場合に、駅と分岐点の間に敷かれる。なお、引き上げ線などをこれに充当することもある。",
"title": "三線"
},
{
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"text": "上りまたは下りの一方のみ2線を使用させ緩急分離している場合と、列車種別ごとに複線と単線を割り当てる場合がある。後者の場合、単線を割り当てられた種別は途中駅で列車交換を行う場合もある。さらに三線は、輸送需要が時間帯によって偏りが出るケース、すなわち、都市中心部と郊外を結ぶ路線で、朝に都心方向、夕に郊外方向への輸送需要が増大するときなどに、輸送力の増強手段、途中駅を通過する列車の速度向上手段などとして活用できる可能性をもっている。複々線に比べ、必要とする用地が4分の3であることが最大の利点であるが、双方向に運行可能とするための信号・保安設備の扱いの難しさや車両運用の問題などから、日本では以下の例のみに限られる。",
"title": "三線"
},
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"text": "JR東海道本線の南荒尾信号場 - 関ケ原駅間は、関ヶ原越えの勾配緩和のため垂井駅を経由しない下り線(新垂井線)と、垂井駅に下り普通列車を停車させるための単線の垂井線が並行し、合計で三線となっている。なお、新垂井線は特急列車と貨物列車・回送列車のみが、垂井線は普通列車のみが走行するため、結果的には前記の緩急分離運転にも該当する。",
"title": "三線"
},
{
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"text": "JR湖西線の山科駅 - 長等山トンネル内は、通常の複線に加え、貨物列車の牽引(けんいん)定数確保用の下り貨物線が併走している。貨物列車の他に特急列車もこの貨物線を走行し、ダイヤが乱れた場合は、貨物線を走行しない新快速や普通列車が琵琶湖線との分岐点から長等山トンネル入り口までの高架区間を使って特急を待避することがある(この区間で待避することで、後続の琵琶湖線電車に影響を及ぼさない)。",
"title": "三線"
},
{
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"text": "西武池袋線の秋津駅(正確には同駅の数百m先) - 所沢駅間では通常の複線に加え、東日本旅客鉄道(JR東日本)武蔵野線との連絡線を併走させ、三線としている。新車の甲種輸送や譲渡車の引渡しの時のみ使用され、営業列車がこの連絡線を走行することはない。",
"title": "三線"
},
{
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"text": "複々線に1線追加した五線の区間もある。",
"title": "五線"
},
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"text": "例",
"title": "五線"
},
{
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"text": "どの範囲までを複々線とするかは、明確な定義はない。とりわけ複々線とするか別線扱いとするかは、鉄道事業者により、また時代により統一されていない。一例として『鉄道要覧』において、民営鉄道の摘要欄に複々線区間が記載されているが、形態上は複々線でも別線扱いとして記載されていない場合も多いうえ、JR路線はほとんど記載されていない。そのため、解釈によって下記以外の事例もある。",
"title": "日本における複々線の例"
},
{
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"text": "以下の路線は基本的に方向別複々線だが、対面乗り換えを考慮して駅間で線路配置が変わる。",
"title": "日本以外の複々線の例"
}
] |
複々線とは、2つの複線軌道、すなわち4本の軌道が敷設された線路を指す。言い換えると四線(しせん)。 同様に、6本が敷かれている3組の複線は三複線、8本が敷かれている4組の複線は四複線と呼ぶ。
|
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2022年2月
| 独自研究 = 2022年2月
}}
[[File:Sharon Hill station from passing train, January 2016.JPG|thumb|アメリカ[[北東回廊]]ペンシルベニア州の複々線区間]]
[[ファイル:Keihan Electric Railway 012.JPG|210px|thumb|[[京阪電気鉄道]][[京阪本線]]の複々線区間]]
[[ファイル:Tōhoku Main Line.JPG|thumb|210px|[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[東北本線]]の三複線区間([[蕨駅]])。<br>写真では計7本の線路が写っているが、左から2番目の線路は未使用の[[停車場#側線|側線]]。]]<!-- より厳密な三複線の画像が適切では? -->
'''複々線'''(ふくふくせん、[[:en:Quadruple track|quadruple track]])とは、2つの[[複線]][[軌道 (鉄道)|軌道]]、すなわち4本の軌道が敷設された線路を指す<ref name="mintetsukyo">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220220004757/https://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/16413.html|url=https://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/16413.html|accessdate=2022-02-23|archivedate=2022-02-20|date=|title=鉄道用語事典 単線・複線・複々線|publisher=[[日本民営鉄道協会]]}}</ref>。言い換えると'''四線'''(しせん)。
同様に、6本が敷かれている3組の複線は'''三複線'''、8本が敷かれている4組の複線は'''四複線'''と呼ぶ。
== 概要 ==
複線線路が隣接して敷設された状態。一般的にそれぞれの複線は列車の種別や系統によって使い分けられる。一部には立体的に複線を並べる場合もある{{Efn|[[東京メトロ有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線]]の[[小竹向原駅]] - [[池袋駅]]間など<ref name="tetsupic776-23">{{Cite journal|和書 |author=和久田康雄 |coauthors=|title=民鉄の複々線区間 |journal=鉄道ピクトリアル |volume= |issue=776 |date=2006-06 |naid=|page=23}}</ref>。}}。
[[#緩急分離運転|緩急分離運転]]を行っている場合、速達列車が走行する線路を[[急行線]]または快速線、普通列車が走行する線路を緩行線と呼ぶ。JR線では歴史的な経緯から、それぞれを[[電車線・列車線]]と呼ぶ場合がある。
複々線は、複線と比較して停車場以外でも列車の追い越しが可能である。そのため、様々な速度帯、種別の列車を運行している路線では、適切に線路を使い分けることで、待避列車の待ち合わせ時間をなくすなど、効率的なダイヤが設定できる。
異なる[[鉄道事業者|事業者]]の複線が並行している場合や、同一事業者の複線路線が並行する区間でも、完全に別系統として運行管理されている場合は、複々線として扱われることは少ない<ref group="注釈">どの範囲までを複々線とするかについては、明確な定義はない。例えば線路別複々線の場合、2つの運行系統を相互に変えるためには2本分の線路を移動しなければならないため、通常は運行系統を跨ぐ列車は頻繁には設定されていない。その場合でも、同一事業者であり<!-- これに外れるため複々線とみなされないことが多い例:金山駅 - 名古屋駅間のJR在来線(複線分のみ考慮)と名鉄線 -->、かつ[[鉄道の電化|電気方式]]や[[軌間]]が同一であり<!-- 同様に赤羽駅 - 大宮駅間の東北新幹線と埼京線 -->、加えて同一平面に線路が敷設されていれば<!-- 同様に赤羽駅 - 大宮駅間の京浜東北線、宇都宮線・高崎線、湘南新宿ラインのうちの任意の複線分のみと埼京線) -->複々線として扱われることが多い。ただし分岐駅近くで複線同士が並行する場合など、2駅間にまたがらない短距離区間は複々線区間として扱われないことが多い<!-- 東海道本線の熱海駅・富士駅・豊橋駅のそれぞれ西側など -->。なお、より広義として捉える解釈をするならば、「[[新幹線]]と並行する[[在来線]](複線の場合)で複々線を形成している」という考え方も可能。</ref>。
日本一長い複々線区間は、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[東海道本線]][[草津駅 (滋賀県)|草津駅]] - [[山陽本線]][[西明石駅]]間 (120.9 [[キロメートル|km]]) 。一方、[[四国旅客鉄道|JR四国]]はJR6社で唯一、複々線が存在しない。日本の私鉄で最も長い複々線区間は、[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)の[[北千住駅]] - [[北越谷駅]]間 (18.9 km) 。
== 配線による分類 ==
複々線の配線は、'''方向別複々線'''と'''線路別複々線(系統別複々線)'''の2種類に大別できる。方向別複々線は、4線を上・上・下・下のように2線ずつ方向をそろえて敷設。線路別複々線はA線上・A線下・B線上・B線下のように路線別に並べて敷設。
=== 方向別複々線 ===
[[ファイル:Tokyu5080 Tokyu9000.jpg|210px|thumb|方向別複々線を並走する列車([[東急東横線]]・[[東急目黒線]])]]
同じ方向への列車が隣り合って走行するため、間に島式ホームを設置することで、同方向の列車の[[対面乗り換え]]が可能。[[#緩急分離運転|緩急分離運転]]を行っていれば、速達列車と緩行列車の連絡は容易。旅客にとっては便利な構造といえるが、後述のとおり事業者側にとっては不都合な側面もある。
:*複線区間を途中から方向別複々線にする場合は問題にならないが、二方から複線線路が合流してできる複々線区間を線路別複々線とするには、合流部分で内側の2線を互いに交差させるか外側の1線と内側の2線を交差させなければならない。
:**この交差部を立体交差とする場合は建設費用が大きくなり、建設自体困難な場合もあり、平面交差とする場合はダイヤ構成に制約が生じる。
:*また、複々線区間で外側の線路を走行する列車を折り返す場合、内側の2線を横断する必要があるため、運転上の制約が生じる。
:**これを完全に回避するためには引上げ線の立体交差化が求められる(例:[[萱島駅]])が、内側の線路の間に引上げ線を設ける(例:[[京都駅]])ことで制約を軽減できる場合もある。
:*上記とは逆に、内側の線路を走行する列車の車両基地が線路外に存在する場合にも外側の2線を横断する必要がある。(例:東武伊勢崎線竹ノ塚駅高架化前の東京地下鉄[[千住検車区竹ノ塚分室]])
:*可動式のホームドアが設置されていない駅において、急行線を走行する列車に通過列車と停車列車が混在する場合、急行線に面するホームを完全に壁や柵で塞ぐことはできないため、混雑時は安全上の懸念が生じる。ただし、一部の時間帯だけ急行線のホームが使用され、大半の時間帯が全列車通過となる路線において、当該急行ホームにロープを張って安全性を高めているケースもある([[JR京都線]]・[[JR神戸線]]など)。
なお、[[1970年代]]以降にラッシュ緩和を目的として整備された複々線は方向別が多い。
=== 線路別複々線 ===
[[ファイル:Jre chuoline dualline asagaya.jpg|210px|thumb|線路別複々線を並走する列車(JR東日本[[中央本線]])]]
隣り合う線路を走る列車は上下逆となるため、同方向へ向かう列車の乗り換えでは別のホームへ移動する必要がある。[[#緩急分離運転|緩急分離運転]]であっても、列車同士の連絡は悪くなり、旅客にとっては不便な構造といえるが、後述のとおり事業者側にとっては好都合な側面もある。
:*2つの複線路線を合流させて線路別複々線区間とする場合、交差は生じない。
:**逆に複線区間を途中から線路別複々線区間とする場合は交差が生じる。
なお、日本の首都圏のJR線では、複々線の多くが[[通勤五方面作戦]]で建設され、線路別複々線の方式がとられた。これは工事のしやすさや、駅ホームのスペースを重視したためである<ref name="RP710">曽根悟「都市鉄道における急行運転の技術」『鉄道ピクトリアル』710号 10-21頁、14頁。</ref>。利用客の反発をうけ、急行線でも各駅停車運転を行った例もある<ref name="RP736">佐藤信之「大都市圏での快速運転の発達」『鉄道ピクトリアル』736号 10-24頁。</ref>。
== 運転方法による分類 ==
複々線の分類は、'''緩急分離運転'''と'''系統分離運転'''の2つの分類。またこれらを併せ持つ場合もある。
=== 緩急分離運転 ===
運転系統を[[各駅停車]](緩行)と速達列車(急行)に分離する方法。これにより、速達列車の[[速度]]が向上し、緩行列車の待避も解消できる。
長距離列車を運行する[[列車線]]と短距離電車を運行する[[電車線・列車線|電車線]]の分離は、本質的には系統分離運転に属するが、分離した結果として実質的に緩急分離になることが多い。
=== 系統分離運転 ===
列車を運転系統で分離する方法。[[旅客列車]]と[[貨物列車]]を分離する'''貨客分離'''(かきゃくぶんり)のほか、[[京浜急行電鉄]]や[[京成電鉄]]、[[名古屋鉄道]]のように支線が合流する駅と隣の拠点駅までの1駅間のみ複々線化する例もある。
== 三線 ==
{{混同|単複線|三線軌条|第三軌条方式}}
[[複線]]に線路を1線追加したものを、'''三線'''(さんせん)、'''複単線'''(ふくたんせん)または'''1.5複線'''<ref name="mintetsukyo"/>という。
=== 別路線が合流する場合 ===
別路線に直通する線路を敷設する場合に、駅と分岐点の間に敷かれる。なお、引き上げ線などをこれに充当することもある。
;ターミナル駅と分岐駅の間で、複線の線路と単線の線路が併走する例
* [[函館本線]]:[[札幌駅]] - [[桑園駅]] (函館本線の複線と[[札沼線]]〈学園都市線〉用の単線が併走。構造的には函館本線の下り列車も札沼線の単線を走行可能で、函館本線から見れば下りのみ2線となる。)
* [[鹿児島本線]]:[[博多駅]] - [[吉塚駅]](鹿児島本線の複線と[[篠栗線]]用の単線が併走。)
=== 緩急分離運転の場合 ===
上りまたは下りの一方のみ2線を使用させ緩急分離している場合と、列車種別ごとに複線と単線を割り当てる場合がある。後者の場合、単線を割り当てられた種別は途中駅で[[列車交換]]を行う場合もある。さらに三線は、輸送需要が時間帯によって偏りが出るケース、すなわち、都市中心部と郊外を結ぶ路線で、朝に都心方向、夕に郊外方向への輸送需要が増大するときなどに、輸送力の増強手段、途中駅を通過する列車の速度向上手段などとして活用できる可能性をもっている<ref name="mintetsukyo"/>。複々線に比べ、必要とする用地が4分の3であることが最大の利点であるが、双方向に運行可能とするための信号・保安設備の扱いの難しさや車両運用の問題などから、日本では以下の例のみに限られる。
;上りまたは下りの一方のみ2線を使用させ緩急分離している例
* [[京急本線]]:[[神奈川新町駅]] - [[子安駅]]間(上りが2線)
* [[小田急小田原線]]:[[登戸駅]] - [[向ヶ丘遊園駅]]間(上りが2線。[[土地区画整理事業]]が複々線化工事に間に合わなかったための暫定措置。将来的には下りも2線化し[[#方向別複々線|方向別複々線]]となる予定)
* JR九州[[鹿児島本線]]:[[春日駅 (福岡県)|春日駅]] - [[南福岡駅]](春日駅を出て上りが2線となる)
;列車本数の多い種別に複線、少ない種別に単線を割り当てる例
* [[スイス連邦鉄道]]:[[コルナヴァン駅|ジュネーブ]] - コペ([[:fr:Coppet]])間(列車本数の多い急行線を複線、列車本数の少ない緩行線を単線とし、緩行線列車は途中駅で列車交換を行う<ref>{{Cite web|title=Streckendaten|url=https://www.fahrplanfelder.ch/fileadmin/fap_pdf_graphic_tt/2017/G000.pdf|format=PDF|page=1|date=2016-12-11|editor=スイス連邦鉄道|publisher=スイス交通省|accessdate=2021-3-29}}</ref><ref>{{Cite web|title=Grafische Fahrpläne 101 La Plaine – Genève – Coppet|url=https://www.fahrplanfelder.ch/fileadmin/fap_pdf_graphic_tt/2017/G101.pdf|format=PDF|date=2016-12-11|editor=スイス連邦鉄道|publisher=スイス交通省|accessdate=2021-3-29}}</ref>。)
* スイス連邦鉄道:コペ - フネ([[:fr:Founex]])間(一部の貨物列車は単線を走らせ、速度の高い旅客列車に追い抜かれる<ref>{{Cite web|title=Coppet–Founex: Freight passing track.|url=https://company.sbb.ch/en/the-company/projects/western-switzerland-and-the-valais/leman-2030/projects/coppet-founex.html|publisher=スイス連邦鉄道|accessdate=2021-3-25}}</ref>。)
=== 勾配緩和のため ===
JR[[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]]の[[南荒尾信号場]] - [[関ケ原駅]]間は、関ヶ原越えの勾配緩和のため[[垂井駅]]を経由しない下り線([[新垂井線]])と、垂井駅に下り普通列車を停車させるための単線の[[垂井線]]が並行し、合計で三線となっている。なお、新垂井線は特急列車と貨物列車・回送列車のみが、垂井線は普通列車のみが走行するため、結果的には前記の緩急分離運転にも該当する。
JR[[湖西線]]の[[山科駅]] - [[長等山トンネル]]内は、通常の複線に加え、貨物列車の牽引(けんいん)定数確保用の下り貨物線が併走している。貨物列車の他に特急列車もこの貨物線を走行し、ダイヤが乱れた場合は、貨物線を走行しない[[新快速]]や普通列車が[[琵琶湖線]]との分岐点から長等山トンネル入り口までの高架区間を使って特急を待避することがある(この区間で待避することで、後続の琵琶湖線電車に影響を及ぼさない)。
=== その他 ===
[[西武池袋線]]の[[秋津駅]](正確には同駅の数百[[メートル|m]]先) - [[所沢駅]]間では通常の[[複線]]に加え、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[武蔵野線]]との連絡線を併走させ、三線としている。新車の[[甲種輸送]]や譲渡車の引渡しの時のみ使用され、営業列車がこの連絡線を走行することはない。
== 五線 ==
複々線に1線追加した'''五線'''の区間もある。
'''例'''
* [[東海道本線]]:[[京都駅]] - [[向日町駅]](方向別複々線に単線1線追加。この単線は、京都駅30番のりば発の特急「[[はるか (列車)|はるか]]」や[[京都総合運転所]]への[[回送|回送列車]]、[[京都貨物駅]]発の貨物列車が走行)
* [[山陽本線]]:[[兵庫駅]] - [[鷹取駅]](方向別から線路別に変わる複々線に単線1線追加。この単線は、[[和田岬線]]の出入庫用や訓練用として使用)
== 日本における複々線の例 ==
どの範囲までを複々線とするかは、明確な定義はない。とりわけ複々線とするか別線扱いとするかは、鉄道事業者により、また時代により統一されていない<ref name="tetsupic776-23"/>。一例として『[[鉄道要覧]]』において、[[私鉄#日本の私鉄|民営鉄道]]の摘要欄に複々線区間が記載されているが、形態上は複々線でも別線扱いとして記載されていない場合も多いうえ、[[JR線|JR路線]]はほとんど記載されていない{{efn|[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[名古屋駅]] - [[稲沢駅]]間などにわずかに記載がある<ref>{{Cite book|和書|title=平成十四年度 鉄道要覧|author=国土交通省鉄道局|authorlink=国土交通省|publisher=[[電気車研究会]]|date=2002-09-20|page=40}}</ref>。}}。そのため、解釈によって下記以外の事例もある。
=== 現存事例 ===
{|class="wikitable" style="font-size:90%"
!style="width:7em"|事業者
!style="width:6em"|路線
!style="width:9em"|区間
!style="width:4em"|長さ (km)
!style="width:23em"|内訳(系統)
!style="width:30em"|備考
|-
|[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]
|[[函館本線]]
|[[札幌駅]] - [[白石駅 (JR北海道)|白石駅]]
|5.8
|函館本線<br />[[千歳線]]
|方向別
|-
| rowspan="8" |[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]
|[[東海道本線]]
|[[東京駅]] - [[小田原駅]]
|83.9
|[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]](東京駅 - 小田原駅)<br />[[横須賀・総武快速線]](東京駅 - [[品川駅]]、[[鶴見駅]] - [[大船駅]])<br />[[京浜東北線]](東京駅 - [[横浜駅]])<br />[[山手線]](東京駅 - 品川駅)<br />[[東海道貨物線]]([[東戸塚駅]] - 小田原駅)
|京浜東北線と山手線は東京駅 - [[田町駅]]の各駅で方向別<br />東海道線と横須賀・総武快速線は[[戸塚駅]]で方向別<br />横須賀・総武快速線は[[湘南新宿ライン]]も走行<br />東海道貨物線は貨物列車以外に特急「[[湘南 (列車)|湘南]]」が走行
|-
|山手線
|品川駅 - [[田端駅]]
|20.6
|山手線<br>山手貨物線
|山手貨物線は貨物列車以外に[[埼京線]]・湘南新宿ラインなどが走行
|-
|rowspan="2"|[[東北本線]]
|東京駅 - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]
|30.5
|[[上野東京ライン]]・[[宇都宮線]]・[[高崎線]](東京駅 - 日暮里駅、赤羽駅 - 大宮駅)<br />京浜東北線(東京駅 - 大宮駅)<br />山手線(東京駅 - [[田端駅]])<br />常磐線([[上野駅]] - [[日暮里駅]])<br />上野駅地平ホーム発着線(上野駅 - 日暮里駅)<br />[[東北貨物線]]田端方面(田端駅 - [[大宮操車場]])<br />東北貨物線西浦和方面([[与野駅]] - 大宮操車場)<br />東北貨物線(大宮操車場 - 大宮駅)
|京浜東北線と山手線は東京駅 - 田端駅の各駅で方向別<br />宇都宮線・高崎線(東北旅客線)と湘南新宿ライン(東北貨物線)は大宮駅で方向別
|-
|日暮里駅 - [[尾久駅]]
|2.6
|宇都宮線・高崎線<br />上野駅地平ホーム発着線
|
|-
|[[中央本線]]
|[[御茶ノ水駅]] - [[三鷹駅]]
|21.5
|急行線([[中央線快速]])<br />緩行線([[中央・総武緩行線]])
|御茶ノ水駅は方向別
|-
|[[常磐線]]
|[[北千住駅]] - [[取手駅]]
|32.2
|快速線([[常磐快速線]])<br />緩行線([[常磐緩行線]])
|北千住駅 - [[綾瀬駅]]間の緩行線は[[東京メトロ千代田線]]。
|-
|[[総武本線]]
|[[錦糸町駅]] - [[千葉駅]]
|34.4
|快速線(横須賀・総武快速線)<br />緩行線(中央・総武緩行線)
|
|-
|[[品鶴線]]
|[[新川崎駅]] / [[新鶴見信号場]] - [[鶴見駅]]
|3.9
|旅客線(新川崎駅 - 鶴見駅)<br />貨物線(新鶴見信号場 - 鶴見駅)
|旅客線は横須賀・総武快速線と湘南新宿ラインが走行(鶴見駅は旅客ホームがないため通過)。<br />貨物線は[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]が走行し(新鶴見信号場には[[新川崎駅]]横を通過し、鶴見駅は旅客ホームがないため通過)、[[武蔵野線]](貨物線である「武蔵野南線」)および[[南武線]](尻手短絡線)と共用する。
|-
|[[東海旅客鉄道|JR東海]]
|東海道本線
|[[金山駅 (愛知県)|金山駅]] - [[稲沢駅]]
|14.4
|旅客線、中央西線<br />貨物線([[稲沢線]])
|
|-
|rowspan="4"|[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]
|[[東海道本線]]<br />[[山陽本線]]
|[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]] - [[西明石駅]]
|120.9
|外側線(草津駅 - 西明石駅)<br />内側線(草津駅 - 西明石駅)<br />回送線([[京都駅]] - [[向日町駅]]・単線)<br />[[梅田貨物線]]([[吹田貨物ターミナル駅]] - [[新大阪駅]] - [[大阪駅]])
|外側線と内側線は草津駅 - [[新長田駅]]の各駅で方向別<br>梅田貨物線は貨物列車以外に特急「[[はるか (列車)|はるか]]」「[[くろしお (列車)|くろしお]]」が走行。なお、大阪駅梅田貨物線ホームは2023年3月18日開業。こちらは日本最長複々線である。
|-
|[[関西本線]]
|[[天王寺駅]] - [[今宮駅]]
|2.2
|[[大阪環状線]]<br />関西本線([[大和路線]])
|[[新今宮駅]] - [[天王寺駅]]は方向別
|-
|[[片町線]]
|[[放出駅]] - [[鴫野駅]]
|1.6
|[[おおさか東線]]<br />片町線(学研都市線)
|放出駅は方向別
|-
|山陽本線
|[[海田市駅]] - [[広島駅]]
|6.4
|旅客線<br />貨物線
|方向別(海田市駅を除く)
|-
| rowspan="2" |[[九州旅客鉄道|JR九州]]
| rowspan="2" |[[鹿児島本線]]
|[[門司駅]] - [[折尾駅]]
|24.6
|鹿児島本線旅客線(門司駅 - 折尾駅)<br />鹿児島本線貨物線(門司駅 - [[黒崎駅]])<br />[[福北ゆたか線]](黒崎駅 - 折尾駅)
|
|-
|[[博多駅]]- [[竹下駅]]
|2.7
|本線
竹下小運転線(回送線)
|竹下小運転線の一部は[[筑肥線]]廃止区間の名残
|-
|rowspan="3"|[[東武鉄道]]
|rowspan="2"|[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)
|[[とうきょうスカイツリー駅]]・[[押上駅]] - [[曳舟駅]]
|1.3
|[[浅草駅]]発着系統<br>[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]直通系統
|曳舟駅は方向別
|-
|[[北千住駅]] - [[北越谷駅]]
|18.9
|
|[[西新井駅]] - 北越谷駅の各駅は方向別<br />関東私鉄初の方向別複々線で、JR以外では最長
|-
|[[東武東上本線|東上線]]
|[[和光市駅]] - [[志木駅]]
|5.3
|
|方向別
|-
|[[西武鉄道]]
|[[西武池袋線|池袋線]]
|[[練馬駅]] - [[石神井公園駅]]
|4.6
|
|方向別
|-
|[[京成電鉄]]
|[[京成本線|本線]]
|[[青砥駅]] - [[京成高砂駅]]
|1.2
|本線系統<br />[[京成押上線|押上線]]・[[北総鉄道]][[北総鉄道北総線|北総線]]系統
|方向別
|-
|[[京王電鉄]]
|[[京王線]]
|[[新宿駅]] - [[笹塚駅]]
|3.6
|京王線<br />[[京王新線]]
|笹塚駅は方向別
|-
|[[小田急電鉄]]
|[[小田急小田原線|小田原線]]
|[[代々木上原駅]] - [[登戸駅]]
|11.7
|
|代々木上原駅 - [[東北沢駅]]間と[[梅ヶ丘駅]] - 登戸駅の各駅は方向別、その間の区間は二層式
|-
|rowspan="2"|[[東急電鉄]]
|[[東急東横線|東横線]]
|[[田園調布駅]] - [[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]
|5.4
|東横線<br />[[東急目黒線|目黒線]]
|方向別<br />[[武蔵小杉駅]] - [[元住吉駅]]間は二層式<br>田園調布駅 - [[多摩川駅]]間は1927年から2000年まで線路別
|-
|[[東急田園都市線|田園都市線]]
|[[二子玉川駅]] - [[溝の口駅]]
|2.0
|田園都市線<br />[[東急大井町線|大井町線]]
|方向別
|-
|[[京浜急行電鉄]]
|[[京急本線|本線]]
|[[金沢文庫駅]] - [[金沢八景駅]]
|1.4
|本線<br />[[京急逗子線|逗子線]]
|方向別
|-
|[[東京地下鉄]](東京メトロ)
|[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]<br />有楽町新線([[東京メトロ副都心線|副都心線]])
|[[小竹向原駅]] - [[池袋駅]]
|3.0<ref group="注釈">有楽町線の同区間距離は3.2 km。</ref>
|有楽町線<br />有楽町新線(副都心線)
|路線別二層式(小竹向原のみ方向別)
|-
|[[名古屋鉄道]]
|[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]
|[[神宮前駅]] - [[金山駅 (愛知県)|金山駅]]
|2.2
|名古屋本線<br />[[名鉄常滑線|常滑線]]
|方向別
|-
|[[近畿日本鉄道]]
|[[近鉄大阪線|大阪線]]
|[[大阪上本町駅]] - [[布施駅]]
|4.1
|大阪線<br />[[近鉄奈良線|奈良線]]
|[[鶴橋駅]]・[[今里駅 (近鉄)|今里駅]]は方向別([[1975年]]以前は線路別)、布施駅は二層式
|-
|rowspan="2"|[[南海電気鉄道]]
|rowspan="2"|[[南海本線]]
|[[難波駅 (南海)|難波駅]] - [[岸里玉出駅]]
|3.9
|南海本線<br />[[南海高野線|高野線]]
|
|-
|[[岸里玉出駅]] - [[住ノ江駅]]
|2.8
|
|方向別
|-
|[[阪神電気鉄道]]
|[[阪神本線]]<br />[[阪神なんば線]]
|[[大物駅]] - [[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]
|0.9
|阪神本線<br />阪神なんば線
|尼崎駅は方向別
|-
|[[京阪電気鉄道]]
|[[京阪本線]]
|[[天満橋駅]] - [[寝屋川信号所]]
|12.6
|
|[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]] - [[萱島駅]]の各駅は方向別、JR西日本 東海道・山陽線西明石駅 - 草津駅以外では関西最長
|-
|[[阪急電鉄]]
|[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]
|[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] - [[十三駅]]
|2.4
|宝塚本線<br />[[阪急京都本線|京都本線]]
|[[阪急神戸本線|神戸本線]]も併走するため、事実上の三複線。JR以外かつ日本の私鉄営業路線で唯一の三複線{{Refnest|group="注釈"|回送用の線路も含めたら、[[東急電鉄]]の[[田園調布駅]] - [[多摩川駅]]間も三複線<ref>{{Cite journal|和書 |author=祖田圭介 |coauthors=|title=東京圏複々線区間の配線と運転の興味 |journal=鉄道ピクトリアル |volume= |issue=776 |date=2006-06 |naid=|page=53}}</ref>。}}。
|}
=== 廃止事例 ===
{|class="wikitable" style="font-size:90%"
!style="width:7em"|事業者
!style="width:6em"|路線
!style="width:9em"|区間
!style="width:4em"|長さ (km)
!style="width:23em"|内訳(系統)
!style="width:30em"|備考
|-
|[[九州旅客鉄道|JR九州]]
|[[筑豊本線]]
|[[折尾駅]] - [[中間駅]]
|4.1
|筑豊本線<br />貨物線
|
|-
|[[IRいしかわ鉄道]]
|[[IRいしかわ鉄道線]]
|[[金沢駅]] - [[森本駅]]
|5.4
|旅客線<br />貨物線
|旅客線に[[東金沢駅]]設置。[[北陸新幹線]]建設に伴い廃止。
|}
== 日本における三線の例 ==
=== 現存事例 ===
{|class="wikitable" style="font-size:90%"
!style="width:7em"|事業者
!style="width:6em"|路線
!style="width:9em"|区間
!style="width:4em"|長さ (km)
!style="width:23em"|内訳(系統)
!style="width:30em"|備考
|-
|rowspan="2"|JR北海道
|rowspan="2"|[[函館本線]]
|[[桑園駅]] - [[札幌駅]]
|1.6
|函館本線(複線)<br />[[札沼線]](学園都市線、単線)
|
|-
|[[札幌貨物ターミナル駅]] - [[厚別駅]]
|1.6
|旅客線(複線)<br />貨物線(単線)
|
|-
|rowspan="3"|JR東日本
|[[東北本線]]
|[[東仙台駅]] - [[東仙台信号場]]
|1.7
|旅客線(複線)<br />貨物線(単線)
|
|-
||[[南武線]]
|[[八丁畷駅]] - [[川崎新町駅]]
|0.9
|[[東海道貨物線]](複線)<br />南武線(単線)
|
|-
||[[青梅線]]
|[[立川駅]] - [[西立川駅]]
|1.9
|青梅線(複線)<br />[[青梅線#青梅短絡線|青梅短絡線]](単線)
|青梅短絡線は南武線との直通列車、[[中央線快速]]からの直通列車が走行
|-
|JR西日本
|[[大阪環状線]]
|[[福島駅 (JR西日本)|福島駅]] - [[西九条駅]]
|2.6
|大阪環状線(複線)<br />[[梅田貨物線]](単線)
|梅田貨物線は貨物列車以外に特急「[[はるか (列車)|はるか]]」「[[くろしお (列車)|くろしお]]」が走行
|-
| rowspan="2" |JR九州
| rowspan="2" |[[鹿児島本線]]
|[[吉塚駅]] - [[博多駅]]
|1.8
|鹿児島本線(複線)<br />[[福北ゆたか線]](単線)
|
|-
|[[南福岡駅]] - [[春日駅 (福岡県)|春日駅]]
|1.2
|上り線(2線)
下り線(1線)
|上り副本線は廃止された引き込み線を転用。
信号機等には「大蔵線」と表記される。
|-
|[[小田急電鉄]]
|[[小田急小田原線|小田原線]]
|[[登戸駅]] - [[向ヶ丘遊園駅]]
|0.6
|上り線(2線)<br />下り線(1線)
|
|-
|[[京浜急行電鉄]]
|[[京急本線|本線]]
|[[子安駅]] - [[神奈川新町駅]]
|0.7
|上り線(2線)<br />下り線(1線)
|
|}
=== 廃止事例 ===
{|class="wikitable" style="font-size:90%"
!style="width:7em"|事業者
!style="width:6em"|路線
!style="width:9em"|区間
!style="width:4em"|長さ (km)
!style="width:23em"|内訳(系統)
!style="width:30em"|備考
|-
|[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]
|[[山陽本線]]
|[[宇部駅]] - [[厚狭駅]]
|9.8
|山陽本線<br />貨物線(美祢線-宇部線直通)
|style="width:50em"|[[美祢線]]から[[宇部線]][[宇部港駅]]方面への貨物輸送が盛んであったことに加え、本数の多かった山陽本線を平面交差することがダイヤ上困難であったため、貨客分離の三線(旅客複線・貨物単線)となっていた。また、山陽本線下関方面や美祢線から宇部線に直通する旅客列車もこの貨物線を走行していた。<br />その後美祢線貨物列車の減少および、[[山陽新幹線]]開業に伴う山陽本線の列車減少により、貨物単線が撤去され複線になっている。
|-
|}
== 日本以外の複々線の例 ==
=== アメリカ ===
* [[ニューヨーク市地下鉄]] - ニューヨーク市地下鉄においては、マンハッタン島内を中心に複々線区間が数多く存在し、日常的に急行運転 (Express Service) が行われている。また、[[クイーンズ区|クイーンズ]]や[[ブロンクス区|ブロンクス]]には三線区間があり、一部はラッシュ時にピーク方向限定の急行運転に活用されている。
*[[メトロノース鉄道]] - [[メトロノース鉄道ニューヘイブン線|ニューヘイブン線]]の[[グランド・セントラル駅|グランドセントラル]] - [[ユニオン駅 (ニューヘイブン)|ニュー・ヘイブン=ユニオン]]間は複々線である。([[ミルフォード駅 (コネチカット州)|ミルフォード駅]]周辺は一部三線)
* [[シカゴ]]の高架鉄道線([[シカゴ・L]])、通勤鉄道線([[メトラ]]) - シカゴの高架鉄道線の三線区間は、ビルの谷間を走るために複々線への線増困難な地域に設けられ、限られた用地における線増の事例としては画期的なものであったが、その後撤去された。通勤鉄道線の三線区間は現在も残り、ニューヨーク地下鉄同様急行運転で活用されていた。
=== 台湾 ===
* [[台湾鉄路管理局]][[縦貫線 (台湾鉄路管理局)|縱貫線]] [[八堵駅|八堵]] - [[南港駅|南港]]場内信号機手前の間は三単線。
* [[台湾鉄路管理局]][[縦貫線 (台湾鉄路管理局)|縱貫線]] [[樹林駅|樹林]] - [[南樹林駅|南樹林]]間は三単線。
* [[台湾鉄路管理局]][[縦貫線 (台湾鉄路管理局)|縱貫線]]・[[内湾線]] [[新竹駅|新竹]] - [[北新竹駅|北新竹]]間は線路別複々線。
=== 韓国 ===
==== 韓国鉄道公社 ====
* [[京釜線]][[ソウル駅|ソウル]]・[[ソウル駅駅|地下ソウル駅]] - [[九老駅|九老]]間は線路別三複線、[[九老駅|九老]] - [[斗井駅|斗井]]間は方向別複々線。
* [[京仁線]][[九老駅|九老]] - [[東仁川駅|東仁川]]間 - 方向別複々線
* [[京元線]]及び[[中央線 (韓国)|中央線]][[清凉里駅|清凉里]] - [[回基駅|回基]]間 - 線路別複々線
* [[中央線 (韓国)|中央線]]及び[[京春線]][[上鳳駅|上鳳]] - [[忘憂駅|忘憂]]間 - 線路別複々線
* [[京義線]][[陵谷駅|陵谷]] - [[デジタルメディアシティ駅|デジタルメディアシティ]]間 - 方向別複々線
=== 香港 ===
* [[香港鉄路有限公司]][[東涌線]]および[[機場快線]][[九龍駅 (香港)|九龍]] - [[茘景駅|茘景]]手前の区間は方向別複々線、茘景駅構内 - 青茘橋手前(藍巴勒海峡を渡る橋梁)までは線路別複々線、青茘橋 - [[青衣駅|青衣]]間は上下二層式方向別複々線(上層は上り東涌・博覧館方面、下層は下り香港方面)。
以下の路線は基本的に方向別複々線だが、[[対面乗り換え]]を考慮して駅間で線路配置が変わる。
* 香港鉄路有限公司[[港島線]]および[[将軍澳線]][[鰂魚涌駅|鰂魚涌]] - [[北角駅|北角]]
* 香港鉄路有限公司[[観塘線]]および[[将軍澳線]][[調景嶺駅|調景嶺]] - [[油塘駅|油塘]]
* 香港鉄路有限公司[[観塘線]]および[[荃湾線]][[太子駅|太子]] - [[油麻地駅|油麻地]]
=== 中国 ===
* [[広州鉄路集団公司]][[広深線]][[深圳駅|深圳]] - [[広州駅|広州]]は線路別複々線。
* [[北京地下鉄]][[北京地下鉄1号線|1号線]]および[[北京地下鉄八通線|八通線]][[四恵東駅|四恵東]] - [[四恵駅|四恵]]は線路別複々線{{Efn|2021年8月から四恵東駅 - 四恵駅間に[[直通運転|相互直通運転]]を実施している。}}。
* [[中国鉄路総公司]][[京滬高速鉄道]]および[[滬寧都市間鉄道]][[上海虹橋駅|上海虹橋]] - [[崑山南駅|崑山南]]は線路別複々線。
=== タイ ===
* [[タイ国有鉄道]][[北本線]] [[ランシット駅|ランシット]] - [[バーンパーチー駅|バーンパーチー]]間は三単線。
* タイ国有鉄道[[東本線]] [[フアマーク駅|フアマーク]] - [[チャチューンサオ駅|チャチューンサオ]]間は三単線。
* [[SRTダークレッドライン|ダークレッドライン]] [[クルンテープ・アピワット中央駅|クルンテープ・アピワット中央]] - [[ランシット駅|ランシット]]間は複々線{{Efn|一部駅では緩行線に本線列車が入線できる配線になっているほか、将来に備え急行線も電化済(基本的にタイ国鉄の本線は非電化)である。ちなみに[[チャトゥチャック駅|チャトゥチャック]] - [[ドンムアン駅|ドンムアン]]間は方向別複々線でありながら、対面乗り換え可能なホーム配置の駅が存在しない。}}。
<!-- ダークレッドラインと地上本線を合わせれば三複線と解釈することもできるが、2022年時点では不確定要素が多いため省略した。 -->
=== インド ===
* [[ムンバイ近郊鉄道]]のセントラルライン(中心部線)[[チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅]] - {{仮リンク|カリヤン・ジャンクション駅|en|Kalyan_Junction_railway_station}}の間
* ムンバイ近郊鉄道のウェスタンライン(西部線)[[チャーチゲート駅]] - [[ビラール駅]]の間
* {{仮リンク|ガジアバド・ジャンクション駅|en|Ghaziabad_Junction_railway_station}} - {{仮リンク|アナンド・ビハール・ターミナル駅|en|Anand_Vihar_Terminal_railway_station}}の間の本線
* [[ニューデリー駅]] - {{仮リンク|パルハール駅|en|Palwal_railway_station}} (ハリヤーナー州) 間の本線
* [[チェンナイ近郊鉄道]]の[[チェンナイ・ビーチ駅]] - {{仮リンク|チェンガルパットゥ・ジャンクション駅|en|Chengalpattu_Junction_railway_station}}の間
* チェンナイ近郊鉄道の[[チェンナイ・セントラル駅]] - [[ティルヴァッルール|ティルヴァッルール駅]]の間
* {{仮リンク|ハウラー - デーリー線|en|Howrah–Delhi main line}}の[[バルダマーン・ジャンクション駅]] - [[アサンソル]]駅の間
=== イタリア ===
* [[北ミラノ鉄道]]([[ミラノ近郊鉄道]])[[ミラノ・カドルナ駅|ミラノ・カドルナ]] - [[サロンノ駅|サロンノ]]間。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[電車線・列車線]]
* [[複線]]
* [[単線並列]]
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ウィリアム1世
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ウィリアム1世(William I)はイギリスの君主の名前。
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ウィリアム1世はイギリスの君主の名前。 イングランド王ウィリアム1世
スコットランド王ウィリアム1世
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'''ウィリアム1世'''(William I)は[[イギリス]]の君主の名前。
*イングランド王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]](征服王、在位 : [[1066年]] - [[1087年]])
*スコットランド王[[ウィリアム1世 (スコットランド王)|ウィリアム1世]](獅子王、在位 : [[1165年]] - [[1214年]])
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白髪三千丈
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白髪三千丈(はくはつさんぜんじょう)は、8世紀、唐代の詩人・李白の五言絶句「秋浦歌」第十五首の冒頭の一句。
白髪三千丈は一句の冒頭であり、後に「縁愁似箇長(うれいによりてかくのごとくながし)」と続き、合わせると「積もる愁いに伸びた白髪の長さは、三千丈(約9キロメートル)もあるかのように思われる」と解釈されている。
小学館刊『故事成語を知る辞典』によれば「人を驚かせる豪快な表現で知られた李白らしい、極端な誇張表現」と解説されている。ただし、同書によれば現在では極端すぎる誇張表現の例であり、特に、用法としては中国人の大げさな表現に対する暗喩として用いられる旨も説明されている。
「三千丈」という表現の背景には、作詩上の制約がある。
「白髪三千丈」の平仄について見れば、最初の二字「白髪」が仄仄であり、近体詩の規則によれば、続く二字は平平でなくてはいけない。一方、一〜九までの漢数字及び十・百・千・万・億・兆という位数のうち、平声の字は「三」と「千」のみである(京も平であるが、通常使用される位数ではない)。この結果、句頭に「白髪」を示した時点で、次に続く数字はほぼ選択の余地なく「三千」に定まってしまうことになる。また、句末の一字は、仄でなくてはいけないため、ここに長さを示す字を置くとなると、仄声である「寸」、「尺」、「丈」等から選択するしかない。
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白髪三千丈(はくはつさんぜんじょう)は、8世紀、唐代の詩人・李白の五言絶句「秋浦歌」第十五首の冒頭の一句。
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'''白髪三千丈'''(はくはつさんぜんじょう)は、[[8世紀]]、[[唐]]代の詩人・[[李白]]の[[絶句|五言絶句]]「秋浦歌」第十五首の冒頭の一句<ref name=kotobank>{{Cite Kotobank|白髪三千丈|accessdate=2021-05-06}}</ref>。
== 概要 ==
白髪三千丈は一句の冒頭であり、後に「'''縁愁似箇長'''(うれいによりてかくのごとくながし)」と続き{{R|kotobank}}、合わせると「'''積もる愁いに伸びた白髪の長さは、三千丈(約9キロメートル)もあるかのように思われる'''」と解釈されている{{R|kotobank}}。
[[小学館]]刊『故事成語を知る辞典』によれば「人を驚かせる豪快な表現で知られた李白らしい、極端な誇張表現」と解説されている{{R|kotobank}}。ただし、同書によれば現在では極端すぎる誇張表現の例であり、特に、用法としては中国人の大げさな表現に対する暗喩として用いられる旨も説明されている{{R|kotobank}}。
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{{Quotation|{{Lang|zh|
白髮三千丈<br />
縁愁似箇長<br />
不知明鏡裏<br />
何處得秋霜
}}|[[李白]]|秋浦歌 其十五}}
|<code>
白髮 三千丈<br />
愁ひに縁りて かくのごとく長し<br />
知らず 明鏡の裏<br />
何れの処にか 秋霜を得る
</code>
}}
==どうして「三千丈」か==
「三千丈」という表現の背景には、作詩上の制約がある。
「[[白髪]]三千丈」の[[平仄]]について見れば、最初の二字「白髪」が'''仄仄'''であり、[[近体詩|近体詩の規則]]によれば、続く二字は'''平平'''でなくてはいけない。一方、一〜九までの漢数字及び十・百・千・万・億・兆という位数のうち、平声の字は「三」と「千」のみである(京も平であるが、通常使用される位数ではない)。この結果、句頭に「白髪」を示した時点で、次に続く数字はほぼ選択の余地なく「三千」に定まってしまうことになる。<ref>{{Cite book|和書|author=高島俊男|authorlink=高島俊男|title=イチレツランパン破裂して お言葉ですが(6) |publisher=[[文藝春秋]] 文春文庫|pages=138-143|accessdate=2008-12-24|date=2005-07-08}}</ref>また、句末の一字は、'''仄'''でなくてはいけないため、ここに長さを示す字を置くとなると、仄声である「寸」、「尺」、「丈」等から選択するしかない。
==脚注==
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[[Category:李白]]
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バス停留所
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バス停留所(バスていりゅうじょ、バスていりゅうしょ、英:Bus stop)は、路線バスや高速バスにおいて旅客が乗降できる地点(停留所)である。日本においてはバス停(バスてい)と略称され、法令・行政用語としては乗合自動車停留所と表現されることもある。
バス停留所は公道上に多くあるほか、バス乗客の目的地となる鉄道駅や空港・飛行場といった交通結節点、自治体の役場など官公庁、大規模な医療機関、商業・観光施設の敷地内や近くにも置かれる。
時刻表付き標識が立てられているだけの簡素なバス停もあれば、屋根や椅子・ベンチ、これらに壁を加えた待合所を備えたバス停もある。バス停留所のうちバスの始発・終着地を施設化したものはバスターミナルと呼ばれる。バス事業者の営業所や車庫に、始発・終着バス停が併設されていることも多い。
また、日本の高速道路上にあるバス停留所と付随する施設については、「バスストップ」と呼ばれることがある。この点については、後節を参照。
なお、運行する路線において停留所以外の任意の場所で乗降できる制度をフリー乗降制と呼ぶ。
路線を定めて運行を行う乗合バス(路線バス)では、始発地点と終着地点及び区間途中に旅客が乗降する地点を定め、標識を立てるなどしてバス停留所であることを示す。フリー乗降制を除いて基本的に、停留所においてのみ乗降の取扱を行う(急行バスなど、バス停が設定されていても利用できない便も一部にある)。原則として、区間中の停留所は乗降車ともに可能だが、場所により乗車専用や降車専用のバス停もある(「クローズドドアシステム」も参照)。
バス停留所の標識の多くは「標識版(標示柱、標柱、ポール)」と呼ばれ、停留所の名称、時刻表や路線図などが印字あるいは掲示されている。バスターミナルを除く多くのバス停は、屋根やベンチ、待合所があっても、鉄道駅などに比べ、設備は簡素である。標識のみのバス停では、利用者が屋外で立ったままバスを待つことになる。このため群馬県は、バス停100メートル圏内でバス利用者の待合所としてスペースを提供してくれる店舗や企業を「バスまち協力施設」として登録している。利用者の自宅などとの往来に自転車駐輪場やパークアンドライド用駐車場を併設しているバス停もある。
国・地域や事業者にもよるが、停留所の名称が付されている場合とそうでない場合がある。
一つのバス停留所には、上り方面と下り方面の2つの乗降場が、道路を挟んで向かい合わせに設けられるものが一般的で、方向毎の外側車線に乗降場があることが多い。このとき、一つの停留所に複数の路線や異なる事業者のバスが停留する場合、路線別、事業者別に独立した標識を立てる場合と、複数の路線、事業者をまとめた標識を立て、時に数字等で乗降場を区別する場合があり、後者の場合はバスターミナルなどで用いられることが多い。路線が分岐する地点などにおいては、路線の方向毎に異なる道路上に乗降場を設けることがある。また、分岐点ではないバス停留所においても、同名の停留所であっても路線や事業者によって乗降場が異なる場合や、一方で同じ乗降場であるにも関わらず路線や事業者によって停留所名が異なる場合もある。他に、一方通行道路を経由する場合や、環状運転になるような場合、および用地が確保不可能である場合などには、乗降場が片方向のみ設置される場合がある。また、諸般の事情(交差点の形状、道路に接する住宅・商店などの状況など)により千鳥状に乗降場が設けられる場合もある。場所によっては、乗降客の少ないバス停留所は標識をどちらか1本のみ立て、上下兼用とする場合もある。この時、標識が設けられていない方向のバスを利用したい場合は、標識の真向かいに立っているとバスが停車する。
狭い範囲に点在しているバス停留所を一か所に集約してバスターミナルを設置する場合もある(例:バスタ新宿)。
道路運送法第15条の3(運行計画)および第16条(事業計画等に定める業務の確保)により、上記の制度を導入していない事業者がバス停以外の場所で乗客を乗降させることは認められておらず、違反した場合その事業者の全ての車両が使用停止処分となる。また無許可でバス停の位置を変えることも同様に処罰の対象となる。
一般道路においては、それを示す標識板(標示柱)が道路上に存在し、時刻表や路線図が掲示されている。形状は歩道または路肩に標識版を設置するだけのものが一般的だが、屋根や待合室などの施設を設置しているものや、屋根とベンチを備えたものはバスシェルターともいい、この中には壁面を持つものもある。
このほか、医療機関や鉄道駅、大型ショッピングセンター、官公署など公共施設(市町村役場・運動公園・文化ホールなど)では広い施設敷地内にバス停を設置し、路線バスがそこまで乗り入れる場合もある。自治体など、地域が関与する割合の高いコミュニティバスにおいて特に顕著に見られる。
バス停留所のうち、複数のバス路線の発着点に設置される施設をバスターミナルという。日本では自動車ターミナル法によって、「乗り合いバス車両を2両以上停留させることを目的とし、道路・駅前広場など一般交通に供する場所以外の場所に施設を持つもの」とされている。交通の拠点であり、きっぷ売り場や広い待合室、トイレ、売店などが設置される。
バスセンターまたは駅(国鉄の自動車路線では自動車駅といった)と呼ばれることもある。前者の例は広島バスセンター(広島市)、万代シテイバスセンター(新潟市)、後者の例では十和田湖駅(青森県十和田湖町)などがある。
ただし、被災した鉄道線の代替としてJRグループの旅客鉄道会社が事業主体となって運行するバス路線では、ターミナル機能がなくても「駅」と称している。東日本大震災で被災した鉄道の代替として東日本旅客鉄道(JR東日本)が開設した気仙沼線・大船渡線BRT、平成29年7月九州北部豪雨で被災した鉄道の代替として九州旅客鉄道(JR九州)が事業を行う日田彦山線BRTが該当する。
高速道路の本線車道上にバス停留所が設けられることがあり、高速バスなどが発着する。
そうした停留所の設置形態として大別して2種類ある。一つは、停留所とその前後に、路線バス用に一般用とは独立した車線を設ける形態である。これは本線車道の一部だが路線バスに限って通行が許され発着が可能である。もう一つは、パーキングエリアやサービスエリア、インターチェンジなどの本線車道から一旦離れた場所に設ける形態である。ただし後者の場合、高速バスの表定速度が落ちる。
他に、一般路線バスと接続させることを企図した場合には、インターチェンジの料金所外にバスストップが設置される事があり、この場合は料金所を出るごとに通行料金が区々別々となるため運賃が余分にかかることになる。また、この形態の場合、料金所での渋滞に巻き込まれやすく、都市部を中心に交通量が大きい道路ではこのような形態の停留所は減少傾向にある。
一般的に、高速道路は都市の中心部から少し外れた場所を通っているため、高速道路上のバス停留所も都市の外れにあるものがほとんどである。都市中心部とその停留所の間を結ぶ路線バスが運行されている場合もあるが、自家用車やタクシー以外のアクセス手段がない所も少なくない。また高速道路上のバス停まで、階段や坂道を登らなくてはいけない所もある。
大分自動車道の大板井バスストップのように、高速道路に並行する鉄道路線(甘木鉄道甘木線)に大板井駅を設置してアクセス向上を図った例もある。
バス停留所の構造には、以下のような形式がある。
バスベイ(バスカット、バスターンアウト、バスプルアウト、バスレイバイともいう)は、バスやトラムが交通の流れから外れて停車できる乗降場のことを指す。多くの場合、歩道または歩行者専用区域に切り欠いて設置される。
テラス(バスバルブ、ボーダーともいう)は、停留所を歩道から車道側(路肩、停車帯、または車道)に張り出し、バス利用者と歩行者の衝突などを回避しながら、待合所などを含む利用者のアメニティの為のスペースが提供できる乗降場のことを指す。
道路の全幅員に余裕がなく、歩道を切り欠いて停車帯を設けることができない場合等に用いられる型式の乗降場のことを指す。
バスを中央走行方式で運行している場合に、乗降場を道路の中央に島式の形状で設けたものを指す。道路中央にバス専用レーンを持つ基幹バスやバス・ラピッド・トランジット(BRT)では、バス停留所も路面電車の安全地帯のように道路中央寄りに設けられている。
日本のバス停留所のほとんどが、停留所に標識を備え、停留所の名称、時刻表(当該停留所の通過予定時刻)の掲出がさなれている。路線図が掲出される停留所もある。標識柱に貼付する場合が多いが、吊下式の看板や塀・電柱・壁など掲出方式は色々ある。夜間にも時刻表等が視認できるようになんらかの照明を備えている標識柱もあり、パネル部が白色の合成樹脂製で電灯が内蔵された「行灯式ポール」と呼ばれる標識もある。
付帯施設としてベンチ・屋根・待合所、バス接近表示器等が設置されることも多く、広告を掲げる目的でバス事業者以外の業者が設置していることもあり、中には無許可・無管理の施設もある。
多くのバス停留所がバス営業所との特段の連絡設備(無線・有線通信や電光掲示板など)などを欠くため、悪天候(たとえば強風・大雪)や災害などを原因としてバスが大幅遅延や臨時運休になったとしても、基本的には何ら臨時の掲示・案内もされない。係員が掲示などの対応を行なう事やバス停前の商店が案内を受託している例も見られる。逆に、IoT対応の情報受信機能とディスプレイを備え、バス運行状況の提供や広告、ダイヤ改正時の時刻表を遠隔操作で随時に更新できる「スマートバス停」が日本では西日本鉄道(西鉄)グループ企業などにより開発・導入されつつある。スマートバス停化はダイヤ改正時の時刻表貼替の手間を省くメリットもあり、商用電源が使えない人里離れたバス停では太陽光発電を利用することもある。
旅客自動車運送事業運輸規則(昭和31年運輸省令第44号)第5条第2項により、事業者及び停留所の名称、運行系統、発車時刻、乗降場所または停留所が近接している場合にその案内・業務が限定されている場合にその範囲などを掲示することが定められている。また、同規則第6条により、ダイヤや系統などの変更がある場合は、緊急時などを除いて、少なくとも7日前に告知しなければならないことになっている。道路交通法においては、第31条の2により、停留所から発車しようとしている乗り合いバスの発車を追い越し等で妨害することが禁止されており、違反したものは乗合自動車発進妨害という違反行為となる。また、道路交通法第44条により、停留所の標識板(標示柱)から半径10メートル以内の部分は、運行時間中は反対車線を含め一般車両の駐停車を禁じられている。
バス停が横断歩道や交差点に近いと、バス車体が死角となり、バス降車客ら歩行者に自動車が衝突する交通事故を誘発する危険性が高い。国土交通省が神奈川県横浜市での小学5年生女児死亡事故(2018年8月)を受けて対策に着手した。国交省が2019年9月から全国のバス停約40万カ所を調査し、危険度をA~Cの3ランクで分類したところ、バス停での乗降時にバスの車体が横断歩道の上にある危険度Aだけで約2000カ所あった。バス停の移設が対策となるが、周辺での適地探し、地権者や自治体、警察などの合意形成が課題となる。移設が難しいため、警備員の配置や過密ダイヤグラムの緩和、バス車体への注意喚起ステッカー貼付で対応している地域やバス事業者もある。
2020年10月30日、国交省は全国の横断歩道や交差点そばにある危険なバス停についての実態調査リストを初公表した。茨城県、長野県など6県分のバス停名や所在地をまとめたもので、危険なバス停は6県だけで計780か所に上っており、全国では数千か所を超えるとみられる。国交省は年内にも残りの都道府県分を公表し、順次、安全対策を実施すると伝えられた。2021年3月にまとめられた国交省全国調査では、合計1万195カ所あることが判明。危険度Aは1615カ所、Bが5660カ所、Cが2920カ所で、国交省は運輸支局とバス事業者などによる合同検討会で順次対策していくとしている。
中華人民共和国(中国)のバス停には時刻表の掲示がないことが多い。バス停の位置などの情報は携帯電話やパソコンで検索できる。
また、 書店などでは公共交通機関(バスや地下鉄、空港リムジンバス)の情報を網羅した本が販売されており、大学、病院、公園や観光地など主な路線を通過するバス停の一覧が掲載されている。
シンガポールではバスの運行形態は乗合バス(Basic Bus Services)、乗合プラスバス(Basic-Plus Bus Services)、補足的バス(Supplementary Bus Services)、プレミアムバス(Premium Bus Services)、特別バス(Special Bus Services)、シャトルバス(Shuttle Bus Services)の6種類に分けられている。
乗合バス(Basic Bus Services)の場合は、定時制やユニバーサル・サービス(USO)のため約400mごとにバス停が設置される。10路線以上の営業運転を行う事業者は、公共交通会議法(Public Transport Council ACT)に基づくサービス基準(QoS;Quality of Service Standards)を満たして、公共交通会議からバスサービス事業者免許(BSOL)を取得する必要がある。サービス基準のうちサービス品質基準(Service Provision Standards:SPS)によると、半径400m以内に最低一つのバス停を設置することと、20分以上の待ち時間の場合のバス停での予定時刻の情報提供が定められている。
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "一般道路においては、それを示す標識板(標示柱)が道路上に存在し、時刻表や路線図が掲示されている。形状は歩道または路肩に標識版を設置するだけのものが一般的だが、屋根や待合室などの施設を設置しているものや、屋根とベンチを備えたものはバスシェルターともいい、この中には壁面を持つものもある。",
"title": "設置箇所"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "このほか、医療機関や鉄道駅、大型ショッピングセンター、官公署など公共施設(市町村役場・運動公園・文化ホールなど)では広い施設敷地内にバス停を設置し、路線バスがそこまで乗り入れる場合もある。自治体など、地域が関与する割合の高いコミュニティバスにおいて特に顕著に見られる。",
"title": "設置箇所"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "バス停留所のうち、複数のバス路線の発着点に設置される施設をバスターミナルという。日本では自動車ターミナル法によって、「乗り合いバス車両を2両以上停留させることを目的とし、道路・駅前広場など一般交通に供する場所以外の場所に施設を持つもの」とされている。交通の拠点であり、きっぷ売り場や広い待合室、トイレ、売店などが設置される。",
"title": "設置箇所"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "バスセンターまたは駅(国鉄の自動車路線では自動車駅といった)と呼ばれることもある。前者の例は広島バスセンター(広島市)、万代シテイバスセンター(新潟市)、後者の例では十和田湖駅(青森県十和田湖町)などがある。",
"title": "設置箇所"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ただし、被災した鉄道線の代替としてJRグループの旅客鉄道会社が事業主体となって運行するバス路線では、ターミナル機能がなくても「駅」と称している。東日本大震災で被災した鉄道の代替として東日本旅客鉄道(JR東日本)が開設した気仙沼線・大船渡線BRT、平成29年7月九州北部豪雨で被災した鉄道の代替として九州旅客鉄道(JR九州)が事業を行う日田彦山線BRTが該当する。",
"title": "設置箇所"
},
{
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"text": "高速道路の本線車道上にバス停留所が設けられることがあり、高速バスなどが発着する。",
"title": "設置箇所"
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{
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"text": "そうした停留所の設置形態として大別して2種類ある。一つは、停留所とその前後に、路線バス用に一般用とは独立した車線を設ける形態である。これは本線車道の一部だが路線バスに限って通行が許され発着が可能である。もう一つは、パーキングエリアやサービスエリア、インターチェンジなどの本線車道から一旦離れた場所に設ける形態である。ただし後者の場合、高速バスの表定速度が落ちる。",
"title": "設置箇所"
},
{
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"text": "他に、一般路線バスと接続させることを企図した場合には、インターチェンジの料金所外にバスストップが設置される事があり、この場合は料金所を出るごとに通行料金が区々別々となるため運賃が余分にかかることになる。また、この形態の場合、料金所での渋滞に巻き込まれやすく、都市部を中心に交通量が大きい道路ではこのような形態の停留所は減少傾向にある。",
"title": "設置箇所"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "一般的に、高速道路は都市の中心部から少し外れた場所を通っているため、高速道路上のバス停留所も都市の外れにあるものがほとんどである。都市中心部とその停留所の間を結ぶ路線バスが運行されている場合もあるが、自家用車やタクシー以外のアクセス手段がない所も少なくない。また高速道路上のバス停まで、階段や坂道を登らなくてはいけない所もある。",
"title": "設置箇所"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "大分自動車道の大板井バスストップのように、高速道路に並行する鉄道路線(甘木鉄道甘木線)に大板井駅を設置してアクセス向上を図った例もある。",
"title": "設置箇所"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "バス停留所の構造には、以下のような形式がある。",
"title": "バス停留所の構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "バスベイ(バスカット、バスターンアウト、バスプルアウト、バスレイバイともいう)は、バスやトラムが交通の流れから外れて停車できる乗降場のことを指す。多くの場合、歩道または歩行者専用区域に切り欠いて設置される。",
"title": "バス停留所の構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "テラス(バスバルブ、ボーダーともいう)は、停留所を歩道から車道側(路肩、停車帯、または車道)に張り出し、バス利用者と歩行者の衝突などを回避しながら、待合所などを含む利用者のアメニティの為のスペースが提供できる乗降場のことを指す。",
"title": "バス停留所の構造"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "道路の全幅員に余裕がなく、歩道を切り欠いて停車帯を設けることができない場合等に用いられる型式の乗降場のことを指す。",
"title": "バス停留所の構造"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "バスを中央走行方式で運行している場合に、乗降場を道路の中央に島式の形状で設けたものを指す。道路中央にバス専用レーンを持つ基幹バスやバス・ラピッド・トランジット(BRT)では、バス停留所も路面電車の安全地帯のように道路中央寄りに設けられている。",
"title": "バス停留所の構造"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "日本のバス停留所のほとんどが、停留所に標識を備え、停留所の名称、時刻表(当該停留所の通過予定時刻)の掲出がさなれている。路線図が掲出される停留所もある。標識柱に貼付する場合が多いが、吊下式の看板や塀・電柱・壁など掲出方式は色々ある。夜間にも時刻表等が視認できるようになんらかの照明を備えている標識柱もあり、パネル部が白色の合成樹脂製で電灯が内蔵された「行灯式ポール」と呼ばれる標識もある。",
"title": "世界のバス停留所"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "付帯施設としてベンチ・屋根・待合所、バス接近表示器等が設置されることも多く、広告を掲げる目的でバス事業者以外の業者が設置していることもあり、中には無許可・無管理の施設もある。",
"title": "世界のバス停留所"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "多くのバス停留所がバス営業所との特段の連絡設備(無線・有線通信や電光掲示板など)などを欠くため、悪天候(たとえば強風・大雪)や災害などを原因としてバスが大幅遅延や臨時運休になったとしても、基本的には何ら臨時の掲示・案内もされない。係員が掲示などの対応を行なう事やバス停前の商店が案内を受託している例も見られる。逆に、IoT対応の情報受信機能とディスプレイを備え、バス運行状況の提供や広告、ダイヤ改正時の時刻表を遠隔操作で随時に更新できる「スマートバス停」が日本では西日本鉄道(西鉄)グループ企業などにより開発・導入されつつある。スマートバス停化はダイヤ改正時の時刻表貼替の手間を省くメリットもあり、商用電源が使えない人里離れたバス停では太陽光発電を利用することもある。",
"title": "世界のバス停留所"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "旅客自動車運送事業運輸規則(昭和31年運輸省令第44号)第5条第2項により、事業者及び停留所の名称、運行系統、発車時刻、乗降場所または停留所が近接している場合にその案内・業務が限定されている場合にその範囲などを掲示することが定められている。また、同規則第6条により、ダイヤや系統などの変更がある場合は、緊急時などを除いて、少なくとも7日前に告知しなければならないことになっている。道路交通法においては、第31条の2により、停留所から発車しようとしている乗り合いバスの発車を追い越し等で妨害することが禁止されており、違反したものは乗合自動車発進妨害という違反行為となる。また、道路交通法第44条により、停留所の標識板(標示柱)から半径10メートル以内の部分は、運行時間中は反対車線を含め一般車両の駐停車を禁じられている。",
"title": "世界のバス停留所"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "バス停が横断歩道や交差点に近いと、バス車体が死角となり、バス降車客ら歩行者に自動車が衝突する交通事故を誘発する危険性が高い。国土交通省が神奈川県横浜市での小学5年生女児死亡事故(2018年8月)を受けて対策に着手した。国交省が2019年9月から全国のバス停約40万カ所を調査し、危険度をA~Cの3ランクで分類したところ、バス停での乗降時にバスの車体が横断歩道の上にある危険度Aだけで約2000カ所あった。バス停の移設が対策となるが、周辺での適地探し、地権者や自治体、警察などの合意形成が課題となる。移設が難しいため、警備員の配置や過密ダイヤグラムの緩和、バス車体への注意喚起ステッカー貼付で対応している地域やバス事業者もある。",
"title": "世界のバス停留所"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "2020年10月30日、国交省は全国の横断歩道や交差点そばにある危険なバス停についての実態調査リストを初公表した。茨城県、長野県など6県分のバス停名や所在地をまとめたもので、危険なバス停は6県だけで計780か所に上っており、全国では数千か所を超えるとみられる。国交省は年内にも残りの都道府県分を公表し、順次、安全対策を実施すると伝えられた。2021年3月にまとめられた国交省全国調査では、合計1万195カ所あることが判明。危険度Aは1615カ所、Bが5660カ所、Cが2920カ所で、国交省は運輸支局とバス事業者などによる合同検討会で順次対策していくとしている。",
"title": "世界のバス停留所"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "中華人民共和国(中国)のバス停には時刻表の掲示がないことが多い。バス停の位置などの情報は携帯電話やパソコンで検索できる。",
"title": "世界のバス停留所"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "また、 書店などでは公共交通機関(バスや地下鉄、空港リムジンバス)の情報を網羅した本が販売されており、大学、病院、公園や観光地など主な路線を通過するバス停の一覧が掲載されている。",
"title": "世界のバス停留所"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "シンガポールではバスの運行形態は乗合バス(Basic Bus Services)、乗合プラスバス(Basic-Plus Bus Services)、補足的バス(Supplementary Bus Services)、プレミアムバス(Premium Bus Services)、特別バス(Special Bus Services)、シャトルバス(Shuttle Bus Services)の6種類に分けられている。",
"title": "世界のバス停留所"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "乗合バス(Basic Bus Services)の場合は、定時制やユニバーサル・サービス(USO)のため約400mごとにバス停が設置される。10路線以上の営業運転を行う事業者は、公共交通会議法(Public Transport Council ACT)に基づくサービス基準(QoS;Quality of Service Standards)を満たして、公共交通会議からバスサービス事業者免許(BSOL)を取得する必要がある。サービス基準のうちサービス品質基準(Service Provision Standards:SPS)によると、半径400m以内に最低一つのバス停を設置することと、20分以上の待ち時間の場合のバス停での予定時刻の情報提供が定められている。",
"title": "世界のバス停留所"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "シャトルバス(Shuttle Bus Services)の場合は、始点と終点の間に3カ所に限りバス停を置くことが許可されている。",
"title": "世界のバス停留所"
}
] |
バス停留所は、路線バスや高速バスにおいて旅客が乗降できる地点(停留所)である。日本においてはバス停(バスてい)と略称され、法令・行政用語としては乗合自動車停留所と表現されることもある。 バス停留所は公道上に多くあるほか、バス乗客の目的地となる鉄道駅や空港・飛行場といった交通結節点、自治体の役場など官公庁、大規模な医療機関、商業・観光施設の敷地内や近くにも置かれる。 時刻表付き標識が立てられているだけの簡素なバス停もあれば、屋根や椅子・ベンチ、これらに壁を加えた待合所を備えたバス停もある。バス停留所のうちバスの始発・終着地を施設化したものはバスターミナルと呼ばれる。バス事業者の営業所や車庫に、始発・終着バス停が併設されていることも多い。 また、日本の高速道路上にあるバス停留所と付随する施設については、「バスストップ」と呼ばれることがある。この点については、後節を参照。 なお、運行する路線において停留所以外の任意の場所で乗降できる制度をフリー乗降制と呼ぶ。
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{{加筆依頼|世界のバス停留所について|date=2020年3月14日 (土) 05:29 (UTC)}}{{Otheruses||1956年のアメリカ合衆国の映画|バス停留所 (映画)}}
{{Redirect|バスストップ}}
'''バス停留所'''(バスていりゅうじょ、バスていりゅうしょ、英:Bus stop)は、[[路線バス]]や[[高速バス]]において旅客が乗降できる地点(停留所)である。[[日本]]においては'''バス停'''(バスてい)と略称され、法令・行政用語としては'''乗合自動車停留所'''と表現されることもある<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/sign/sign/annai/90directions.htm 乗合自動車停留所(124-A)~(124-C)]国土交通省 道路 案内標識一覧(2020年1月26日閲覧)</ref>。
バス停留所は[[公道]]上に多くあるほか、バス乗客の目的地となる[[鉄道駅]]や[[空港]]・[[飛行場]]といった[[交通結節点]]、自治体の役場など[[官公庁]]<ref group="注">一例として、[[秋田中央交通]]の[[リムジンバス]]は[[秋田市|秋田市役所]]と[[秋田駅]]、[[秋田空港]]を結んでいる。[https://www.akita-chuoukotsu.co.jp/rimzin.html 秋田空港 リムジンバス時刻表](2020年1月26日閲覧)参照。</ref>、大規模な[[医療機関]]<ref group="注">一例として、[[長野県]][[飯田市]]のバス路線網は、[[飯田駅]]のほか[[飯田市立病院]]を経由するよう編成されている。[https://www.city.iida.lg.jp/site/yuiturn/basu.html 市民バス・広域バス] 飯田市ホームページ(2020年1月26日閲覧)参照。</ref>、商業・観光施設<ref group="注">一例として、[[道の駅とよはし]]([[愛知県]][[豊橋市]])の[https://www.michinoeki-toyohashi.jp/access/index.php シャトルバス案内](2020年1月26日閲覧)参照。</ref>の敷地内や近くにも置かれる。
[[時刻表]]付き[[標識]]が立てられているだけの簡素なバス停もあれば、[[屋根]]や[[椅子]]・[[ベンチ]]、これらに[[壁]]を加えた[[待合所]]を備えたバス停もある。バス停留所のうちバスの始発・終着地を施設化したものは'''[[バスターミナル]]'''と呼ばれる。バス事業者の営業所や車庫に、始発・終着バス停が併設されていることも多い<ref group="注">[[神奈川中央交通]]の[https://www.kanachu.co.jp/bus/route/office.html 営業所案内](2020年1月26日閲覧)には、「車庫」「営業所」がついた最寄停留所が多数掲載されている。</ref>。
また、[[日本]]の[[高速道路]]上にあるバス停留所と付随する施設については、「'''バスストップ'''」と呼ばれることがある。この点については、[[#高速道路上|後節]]を参照。
なお、運行する路線において停留所以外の任意の場所で乗降できる制度を[[フリー乗降制]]と呼ぶ。
{{main2|[[停留場]]については、当該項目や[[路面電車停留場]]を}}
== 概要 ==
路線を定めて運行を行う乗合バス(路線バス)では、始発地点と終着地点及び区間途中に旅客が乗降する地点を定め、標識を立てるなどしてバス停留所であることを示す。フリー乗降制を除いて基本的に、停留所においてのみ乗降の取扱を行う([[急行バス]]など、バス停が設定されていても利用できない便も一部にある)。原則として、区間中の停留所は乗降車ともに可能だが、場所により乗車専用や降車専用のバス停もある<ref group="注">北海道バスの[[高速バス]]「ニュースター号」の[http://www.hokkaidoubus-newstar.jp/guide/guide4 ご利用ガイド](2020年1月16日閲覧)には、乗車専用バス停と降車専用バス停が存在することが記載されている。</ref>(「[[クローズドドアシステム]]」も参照)。
バス停留所の標識の多くは「標識版(標示柱、標柱、ポール)」と呼ばれ、停留所の名称、[[時刻表]]や[[路線図]]などが印字あるいは掲示されている。バスターミナルを除く多くのバス停は、屋根やベンチ、待合所があっても、[[鉄道駅]]などに比べ、設備は簡素である。標識のみのバス停では、利用者が屋外で立ったままバスを待つことになる。このため[[群馬県]]は、バス停100メートル圏内でバス利用者の待合所としてスペースを提供してくれる店舗や企業を「バスまち協力施設」として登録している<ref>[https://www.pref.gunma.jp/04/h21g_00083.html 群馬県「バスまち協力施設」を募集します【随時募集】](2020年1月26日閲覧)</ref>。利用者の自宅などとの往来に[[自転車]][[駐輪場]]や[[パークアンドライド]]用[[駐車場]]を併設しているバス停もある。
国・地域や事業者にもよるが、停留所の名称が付されている場合とそうでない場合がある。
一つのバス停留所には、上り方面と下り方面の2つの乗降場が、道路を挟んで向かい合わせに設けられるものが一般的で、方向毎の外側車線に乗降場があることが多い。このとき、一つの停留所に複数の路線や異なる事業者のバスが停留する場合、路線別、事業者別に独立した標識を立てる場合と、複数の路線、事業者をまとめた標識を立て、時に数字等で乗降場を区別する場合があり、後者の場合はバスターミナルなどで用いられることが多い。路線が分岐する地点などにおいては、路線の方向毎に異なる道路上に乗降場を設けることがある。また、分岐点ではないバス停留所においても、同名の停留所であっても路線や事業者によって乗降場が異なる場合や、一方で同じ乗降場であるにも関わらず路線や事業者によって停留所名が異なる場合もある。他に、[[一方通行]]道路を経由する場合や、[[環状運転]]になるような場合、および用地が確保不可能である場合などには、乗降場が片方向のみ設置される場合がある。また、諸般の事情(交差点の形状、道路に接する住宅・商店などの状況など)により千鳥状に乗降場が設けられる場合もある。場所によっては、乗降客の少ないバス停留所は標識をどちらか1本のみ立て、上下兼用とする場合もある。この時、標識が設けられていない方向のバスを利用したい場合は、標識の真向かいに立っているとバスが停車する。
<gallery>
ファイル:Sakaemachieki kotuhiroba.jpg|北海道[[札幌市]][[東区 (札幌市)|東区]]の[[栄町駅 (札幌市)#バス路線|栄町]]交通広場。駐輪場と待合所が整備されている。
ファイル:Toppara HighwayBusStop ParkAndRide March2020.jpg|バス停の脇に併設されたパークアンドライド用駐車場。
ファイル:Fukusumi bus stop 20180119.jpg|alt=|1つの乗降場で事業者毎に標識を立てる事例。
</gallery>
狭い範囲に点在しているバス停留所を一か所に集約してバスターミナルを設置する場合もある(例:[[バスタ新宿]])。
===法令===
[[道路運送法]]第15条の3(運行計画)および第16条(事業計画等に定める業務の確保)により、上記の制度を導入していない事業者がバス停以外の場所で乗客を乗降させることは認められておらず、{{要検証|=違反した場合その事業者の全ての車両が使用停止処分となる|date=2022年9月}}。また{{要検証|=無許可でバス停の位置を変えることも同様に処罰の対象となる|date=2022年9月}}。
== 設置箇所 ==
=== 一般道路など ===
[[一般道路]]においては、それを示す標識板(標示柱)が道路上に存在し、時刻表や路線図が掲示されている。形状は[[歩道]]または[[路肩]]に標識版を設置するだけのものが一般的だが、屋根や待合室などの施設を設置しているものや、屋根とベンチを備えたものは'''バスシェルター'''ともいい、この中には壁面を持つものもある。
[[ファイル:Bus_Stops_2_curitiba_brasil.jpg|サムネイル|220x220ピクセル|[[ブラジル]]の[[クリチバ]]にある[[:en:Rede Integrada de Transporte|RITシステム]]のバスシェルター。<br />"''tubo''"(''tube'')の名で知られている。]]
このほか、医療機関や鉄道駅、大型[[ショッピングセンター]]、官公署など公共施設(市町村役場・運動公園・文化ホールなど)では広い施設敷地内にバス停を設置し、路線バスがそこまで乗り入れる場合もある。自治体など、地域が関与する割合の高い[[コミュニティバス]]において特に顕著に見られる。
=== バスターミナル ===
[[ファイル:Shinjuku_Expressway_Bus_Terminal-1.jpg|サムネイル|220x220ピクセル|新宿南口交通ターミナル<br />通称「[[バスタ新宿]]」]]
バス停留所のうち、複数のバス路線の発着点に設置される施設を'''[[バスターミナル]]'''という<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%AB-601415|title=バスターミナル|publisher=[[コトバンク]]|accessdate=2019-08-22}}</ref><ref group="注">特に、バスターミナル内にある個々の停留所について、'''バススタンド'''と称することがある。</ref>。日本では[[自動車ターミナル法]]によって、「乗り合いバス車両を2両以上停留させることを目的とし、道路・駅前広場など一般交通に供する場所以外の場所に施設を持つもの」とされている。交通の拠点であり、きっぷ売り場や広い[[待合室]]、[[トイレ]]、[[売店]]などが設置される。
'''バスセンター'''または'''駅'''([[国鉄バス|国鉄の自動車路線]]では'''[[自動車駅]]'''といった)と呼ばれることもある。前者の例は[[広島バスセンター]]([[広島市]])、[[万代シテイバスセンター]]([[新潟市]])、後者の例では[[十和田湖駅]]([[青森県]][[十和田湖町]])などがある。
ただし、被災した鉄道線の代替として[[JR|JRグループ]]の旅客鉄道会社が事業主体となって運行するバス路線では、ターミナル機能がなくても「駅」と称している。[[東日本大震災]]で被災した鉄道の代替として[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が開設した[[気仙沼線・大船渡線BRT]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/railway/train/brt/guide.html#g_sec04|title=BRTの駅について|website=気仙沼線・大船渡線BRT|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-01-26}}
</ref>、[[平成29年7月九州北部豪雨]]で被災した鉄道の代替として[[九州旅客鉄道]](JR九州)が事業を行う[[日田彦山線BRT]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/train/hikoboshiline/station/|title=ひこぼしラインの駅について|website=日田彦山線BRTひこぼしライン|publisher=九州旅客鉄道|accessdate=2023-09-03}}
</ref>が該当する。
=== 高速道路上 ===
==== 設置形態 ====
高速道路の[[本線車道]]上にバス停留所が設けられることがあり、[[高速バス]]などが発着する。
そうした停留所の設置形態として大別して2種類ある。一つは、停留所とその前後に、路線バス用に一般用とは独立した車線を設ける形態である。これは本線車道の一部だが路線バスに限って通行が許され発着が可能である。もう一つは、[[パーキングエリア]]や[[サービスエリア]]、[[インターチェンジ]]などの本線車道から一旦離れた場所に設ける形態である。ただし後者の場合、高速バスの[[表定速度]]が落ちる。
他に、一般路線バスと接続させることを企図した場合には、インターチェンジの[[料金所]]外にバスストップが設置される事があり、この場合は料金所を出るごとに通行料金が区々別々となるため[[運賃]]が余分にかかることになる。また、この形態の場合、料金所での渋滞に巻き込まれやすく、都市部を中心に交通量が大きい道路ではこのような形態の停留所は減少傾向にある。
==== アクセス ====
[[ファイル:Ooitai Bus stop near Ooitai-Station.jpg|サムネイル|220x220ピクセル|大板井バスストップと大板井駅]]
一般的に、高速道路は都市の中心部から少し外れた場所を通っているため、高速道路上のバス停留所も都市の外れにあるものがほとんどである。都市中心部とその停留所の間を結ぶ路線バスが運行されている場合もあるが、[[自家用車]]や[[タクシー]]以外のアクセス手段がない所も少なくない。また高速道路上のバス停まで、[[階段]]や坂道を登らなくてはいけない所もある。
[[大分自動車道]]の[[大板井バスストップ]]のように、高速道路に並行する[[鉄道路線]]([[甘木鉄道甘木線]])に[[大板井駅]]を設置してアクセス向上を図った例もある。
== バス停留所の構造 ==
バス停留所の構造には、以下のような形式がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/data/chap4.pdf|title=道路の移動円滑化整備ガイドライン第2部第4章乗合自動車停留所|accessdate=2019-11-27|publisher=国土交通省}}</ref>。
=== バスベイ型 ===
[[File:富土バス停_-_panoramio.jpg|thumb|歩道を切り欠いて設置されたバスベイ型のバス停留所]]
'''バスベイ'''('''バスカット'''、'''バスターンアウト'''、'''バスプルアウト'''、'''バスレイバイ'''ともいう)は、バスや[[トラム]]が交通の流れから外れて停車できる乗降場のことを指す。多くの場合、[[歩道]]または歩行者専用区域に切り欠いて設置される。
: '''利点'''
:* バスが停留所に[[停車]]している間、他の交通の妨げにならず、後続車が停車中のバスを[[追い越し]]することが容易。
: '''欠点'''
:* 切り込みの形状や周辺の路上[[駐車]]、停留所内の違法駐車の状況によっては、バスが停留所から離れずにぴったり停車(正着)することが難しい。
:* [[交通渋滞]]時の発車が難しく、遅延の原因となりやすい。縦列停車したバスがある場合、後続のバスは前のバスの影響を受けやすい。
:* 歩道を切り欠くため、対策をしない限りは歩道の幅員が狭くなる。
:* 停車時のバスの車体の向きによっては運転手が後方確認を行うことが困難になる。
:* 安全に停車できる区域であるため、バス以外の一般車両等による違法駐停車が多く、バスの運行に支障をきたす。
=== テラス型 ===
[[ファイル:Przystanek półwyspowy w Budapeszcie.jpg|サムネイル|[[ハンガリー]]の首都[[ブダペスト]]にあるテラス型のバス停留所]]
'''テラス'''('''バスバルブ'''、'''ボーダー'''ともいう)は、停留所を歩道から車道側([[路肩]]、[[停車帯]]、または[[車道]])に張り出し、バス利用者と歩行者の衝突などを回避しながら、待合所などを含む利用者の[[アメニティ]]の為のスペースが提供できる乗降場のことを指す。
: '''利点'''
:* テラス部の幅が十分にあれば、周囲の路上駐車の状況に関わらずに停留所に正着できる。
:* 歩道の有効幅員を狭めることがなく待機所を設けられるため、歩道の混雑を低減できる。
:* バスが出発しやすく、遅延拡大を防ぎやすい。
: '''欠点'''
:* 道路が狭まるため、広い路肩や停車帯を持たない道路では適用が困難。
:* 外側車線を走行する[[自転車]]がバス停前後で車道中央に寄るため危険。
:* 後続車の追い越しが困難である。
=== ストレート型 ===
[[ファイル:Hirabari License Center Stop 20180217.jpg|サムネイル|愛知県[[名古屋市]]にあるストレート型のバス停留所]]
道路の全幅員に余裕がなく、歩道を切り欠いて停車帯を設けることができない場合等に用いられる型式の乗降場のことを指す。
: '''利点'''
:* 既存の道路構造を比較的大きく変更せずに設置できる。
: '''欠点'''
:* 停留所に必要な施設を設置することで歩道の幅員が狭まる。
:* 駐車車両があると停留所に正着することが難しくなる。
:* 後続車の追い越しが困難である。
=== 島式型 ===
[[ファイル:PDG-KV234N2 NagoyaCity NKH-18 PJ-MP35JM Meitetsu 1635 Kikan2 Shirakabe.jpg|サムネイル|愛知県名古屋市にある[[基幹バス (名古屋市)|基幹バス]]の島式のバス停留所]]
バスを中央走行方式で運行している場合に、乗降場を道路の中央に島式の形状で設けたものを指す。道路中央に[[バス専用レーン]]を持つ[[基幹バス]]や[[バス・ラピッド・トランジット]](BRT)では、バス停留所も[[路面電車]]の[[安全地帯 (交通)|安全地帯]]のように道路中央寄りに設けられている。
: '''利点'''
:* 駐停車車両の影響を受けにくく正着しやすい。
: '''欠点'''
:* バス利用者は必ず道路を横断しなければならない。
== 世界のバス停留所 ==
{{節スタブ|日本国外のバス停留所について|date=2020年3月14日 (土) 05:22 (UTC)}}
=== 日本 ===
[[File:猿ヶ京のバス停.jpg|thumb|[[待合所]]と[[公衆便所|公衆トイレ]]があるバス停([[群馬県]][[猿ヶ京温泉|猿ヶ京]])]]
日本のバス停留所のほとんどが、停留所に標識を備え、停留所の名称、[[時刻表]](当該停留所の通過予定時刻)の掲出がさなれている。[[路線図]]が掲出される停留所もある。標識柱に貼付する場合が多いが、吊下式の看板<ref>[http://www.oitabus.co.jp/busj/noriba1.jpg 大分バス・本社前停留所1番のりば(トキハ本店前)]など乗客の多い中心市街の停留所に多い。</ref>や塀・電柱・壁<ref>[http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/d7/09b4789abbd0cf18709aaf682af156f1.jpg 東武バスセントラル・神明障害福祉施設前停留所]のように狭隘道路でポール型の標識を設置できない場合など。</ref>など掲出方式は色々ある。夜間にも時刻表等が視認できるようになんらかの照明を備えている標識柱もあり、パネル部が白色の合成樹脂製で[[電灯]]が内蔵された「[[行灯]]式ポール」と呼ばれる標識もある。
付帯施設としてベンチ・屋根・待合所、[[バスロケーションシステム|バス接近表示器]]等が設置されることも多く、[[広告]]を掲げる目的でバス事業者以外の業者が設置していることもあり、中には無許可・無管理の施設もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/chubu/tsukuro/library/pdf/bus_stop_report.pdf|title=適切なバス停車施設のあり方に関する調査報告書|accessdate=2020-05-12|publisher=国土交通省 中部運輸局|year=2018|month=3|language=日本語}}</ref>。
==== スマートバス停と運行障害、ダイヤ改正 ====
{{main|スマートバス停}}
多くのバス停留所がバス営業所との特段の連絡設備([[無線]]・[[有線通信]]や[[電光掲示板]]など)などを欠くため、悪天候(たとえば強風・[[大雪]])や災害などを原因としてバスが大幅遅延や臨時運休になったとしても、基本的には何ら臨時の掲示・案内もされない。係員が掲示などの対応を行なう事やバス停前の商店が案内を受託している例も見られる。逆に、[[モノのインターネット|IoT]]対応の情報受信機能と[[ディスプレイ]]を備え、バス運行状況の提供や広告、ダイヤ改正時の時刻表を遠隔操作で随時に更新できる「スマートバス停」が日本では[[西日本鉄道]](西鉄)グループ企業などにより開発・導入されつつある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53180330Q9A211C1LX0000/ 「西鉄グループ、YEデジタルと連携 スマートバス停で」][[日本経済新聞]]ニュースサイト(2019年12月10日)2020年1月26日閲覧</ref>。スマートバス停化は[[ダイヤ改正]]時の時刻表貼替の手間を省くメリットもあり、[[商用電源]]が使えない人里離れたバス停では[[太陽光発電]]を利用することもある<ref>『[[朝日新聞]]』朝刊2023年2月7-8日経済面「けいざい+」スマートバス停編:[https://www.asahi.com/articles/DA3S15549112.html (上)][https://www.asahi.com/articles/DA3S15550194.html (下)]</ref>。
==== 法令や道路行政での位置づけ ====
旅客自動車運送事業運輸規則([[昭和31年]][[運輸省]][[省令|令]]第44号)第5条第2項により、事業者及び停留所の名称、[[運行系統]]、発車時刻、乗降場所または停留所が近接している場合にその案内・業務が限定されている場合にその範囲などを掲示することが定められている。また、同規則第6条により、[[ダイヤグラム|ダイヤ]]や系統などの変更がある場合は、緊急時などを除いて、少なくとも7日前に告知しなければならないことになっている。[[道路交通法]]においては、第31条の2により、停留所から発車しようとしている乗り合いバスの発車を追い越し等で妨害することが禁止されており、違反したものは乗合自動車発進妨害という違反行為となる。また、道路交通法第44条により、停留所の標識板(標示柱)から半径10メートル以内の部分は、運行時間中は反対車線を含め一般車両の駐停車を禁じられている。
==== 「危険なバス停」問題 ====
バス停が[[横断歩道]]や[[交差点]]に近いと、バス車体が死角となり、バス降車客ら歩行者に自動車が衝突する[[交通事故]]を誘発する危険性が高い。[[国土交通省]]が[[神奈川県]][[横浜市]]での小学5年生女児死亡事故(2018年8月)を受けて対策に着手した。国交省が2019年9月から全国のバス停約40万カ所を調査し、危険度をA~Cの3ランクで分類したところ、バス停での乗降時にバスの車体が横断歩道の上にある危険度Aだけで約2000カ所あった<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20191213-OYT1T50334/ 「危険なバス停」、全都道府県に検討会…事故リスク高いものから移設] [[読売新聞]]オンライン(2019年12月14日)2020年1月26日閲覧</ref><ref>バス停2000か所「最も危険」国交省調査 横断歩道上に車体『読売新聞』朝刊2020年9月6日1面</ref>。バス停の移設が対策となるが、周辺での適地探し、地権者や自治体、警察などの合意形成が課題となる<ref>【#危険なバス停】2年かけ70メートル移設バス停2000か所/横浜市や警察 候補地の調整難航『読売新聞』朝刊2020年9月6日(社会面)</ref>。移設が難しいため、警備員の配置や過密ダイヤグラムの緩和、バス車体への注意喚起ステッカー貼付で対応している地域やバス事業者もある<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/stream/article/17200/ 【#危険なバス停】警備員配置■注意ステッカー 事故繰り返さぬため]『読売新聞』朝刊2021年3月20日(社会面)2021年3月30日閲覧</ref>。
2020年10月30日、国交省は全国の横断歩道や交差点そばにある危険なバス停についての実態調査リストを初公表した。[[茨城県]]、[[長野県]]など6県分のバス停名や所在地をまとめたもので、危険なバス停は6県だけで計780か所に上っており、全国では数千か所を超えるとみられる。国交省は年内にも残りの都道府県分を公表し、順次、安全対策を実施すると伝えられた<ref>{{Citenews|title=【独自】危険なバス停、茨城や長野など6県だけで780か所…国交省初の公表|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20201031-OYT1T50033/|newspaper=讀賣新聞オンライン|date=2020-10-31|accessdate=2020-10-31}}</ref>。2021年3月にまとめられた国交省全国調査では、合計1万195カ所あることが判明。危険度Aは1615カ所、Bが5660カ所、Cが2920カ所で、国交省は運輸支局とバス事業者などによる合同検討会で順次対策していくとしている<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20210319-OYT1T50272/ 「危険なバス停 1万195か所/国交省 全国調査結果」]『読売新聞』朝刊2021年3月20日1面(2021年3月30日閲覧)</ref>。
==== 設置箇所 ====
; 一般道路など
: 日本では2003年に広告パネル付きのバスシェルターについてその設置・管理に[[PFI]]手法が認められ、以後各都市で設置されている。また、近年では[[バスロケーションシステム]]を内蔵したものや[[発光ダイオード|LED]]式のもの、鉄道駅のように音声アナウンスが流れるものなども増えてきている。また、前後の歩道と比べて路面を高くし、バスのステップに合わせているものもある。
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ファイル:Bus location.jpg|[[京都市営バス]]がバス停で提供する[[バスロケーションシステム]]
ファイル:Bus-Location-Board Kumamoto.jpg|[[熊本都市圏]]における接近表示の例
ファイル:Osaka Highway bus station 20111029.jpg|[[バスターミナル]]での標識例([[大阪駅]]JR高速バスターミナル)
</gallery>
; 高速道路
[[ファイル:Chuo Expressway -02.jpg|サムネイル|高速道路上にあるバス停の例(東京都[[調布市]]の[[深大寺バスストップ]])。上下各2線の本線の他に、外側に1線ずつバス専用の道路とバス停が置かれている。]]
: [[ネクスコ|高速道路管理会社]]で用いられている高速バスの停留所の正式名称は'''バスストップ'''である(減速車線・加速車線の部分までを含める)。そのため、道路管理上の正式名称である「バスストップ」という呼称を、そのまま利用者への案内(停留所の名前)に使用している所もある。
: 高速バス運行会社の利用者の案内の際には、一般に前述の「○○バスストップ」のほか「□□道○○」、「高速○○」(□□は走行する高速道路の略称([[東名高速道路]]、[[名神高速道路]]、[[新名神高速道路]]はそれぞれ東名、名神、新名神)、○○はバス停の名称)など様々な表記がある。
=== 中国 ===
[[中華人民共和国]](中国)のバス停には時刻表の掲示がないことが多い<ref name="clair">{{Cite web|和書|url=http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/pdf_286/06_kaigai02.pdf|title=北京でバスに乗ってみれば|publisher=一般財団法人[[自治体国際化協会]]|accessdate=2019-02-09}}</ref>。バス停の位置などの情報は携帯電話やパソコンで検索できる<ref name="clair" />。
また、 書店などでは[[公共交通機関]](バスや地下鉄、空港リムジンバス)の情報を網羅した本が販売されており、大学、病院、公園や観光地など主な路線を通過するバス停の一覧が掲載されている<ref name="clair" />。
=== シンガポール ===
[[シンガポール]]ではバスの運行形態は乗合バス(Basic Bus Services)、乗合プラスバス(Basic-Plus Bus Services)、補足的バス(Supplementary Bus Services)、プレミアムバス(Premium Bus Services)、特別バス(Special Bus Services)、シャトルバス(Shuttle Bus Services)の6種類に分けられている<ref name="Singapore">{{Cite web|和書|author=仲田知弘|date=|url=https://www.itej.or.jp/assets/seika/jijyou/201403_00.pdf|title=シンガポールにおけるバス事業の仕組みと取り組み|website=|publisher=交通経済研究所|accessdate=2022-01-09}}</ref>。
乗合バス(Basic Bus Services)の場合は、定時制やユニバーサル・サービス(USO)のため約400mごとにバス停が設置される<ref name="Singapore" />。10路線以上の営業運転を行う事業者は、公共交通会議法(Public Transport Council ACT)に基づくサービス基準(QoS;Quality of Service Standards)を満たして、公共交通会議からバスサービス事業者免許(BSOL)を取得する必要がある<ref name="Singapore" />。サービス基準のうちサービス品質基準(Service Provision Standards:SPS)によると、半径400m以内に最低一つのバス停を設置することと、20分以上の待ち時間の場合のバス停での予定時刻の情報提供が定められている<ref name="Singapore" />。
シャトルバス(Shuttle Bus Services)の場合は、始点と終点の間に3カ所に限りバス停を置くことが許可されている<ref name="Singapore" />。
=== オランダ ===
<gallery>
ファイル:Haltestelle Venlo Mgr. Nolensplein.JPG|現代的な円柱状をした[[オランダ]]のバス停標識 ([[フェンロー]])
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=== 中東、中央アジア ===
<gallery>
File:Bus stop in Eilat with air conditioning Dereh HaArava street.png|[[イスラエル]]の[[エイラート]]にある空調付きバス停
File:Ashgabat bus stop IMG 5626 (26018624282).jpg|[[トルクメニスタン]]の[[アシガバート]]にあるテレビと空調があるバス停
</gallery>
== バス停留所の文化 ==
;台風前は倒す
:倒れて事故などが起きないようにあらかじめ倒して、なぜ倒したのか張り紙が設置される<ref>{{Cite web|和書|url=https://withnews.jp/article/f0220921002qq000000000000000W08k10201qq000025113A |title=道路に倒れたバス停 実は台風のせいじゃなかった! |access-date=2022-09-21 |last=松川希実 |website=[[withnews]] |language=ja}}</ref>。
;認知症者のための偽のバス停留所
:ドイツや日本などでは養護施設などの[[認知症]]者が集まる場所の近くに{{ill2|偽のバス停留所|de|Scheinbushaltestelle}}を設置して、既に存在しない自宅や家族のもとに行こうとして行方不明にならないようにしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://project.nikkeibp.co.jp/hitomachi/atcl/study/00114/ |title=バスの来ないバス停の利用者を見守る 地域の鉄道会社の取り組み:ひとまち結び |access-date=2022-09-21 |last=ひとまち結び |website=project.nikkeibp.co.jp |publisher=[[日経BP]] |language=ja}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat}}
{{multimedia|バス停画像}}
* [[バス (交通機関)]]
* 停車方法
**[[フリー乗降制]]
**[[千鳥停車]]
**[[リクエスト・ストップ]]
**[[クローズドドアシステム]]
* [[バス停飛ばし]]
* [[バスロケーションシステム]]
* [[バス専用レーン]]
* [[都市新バスシステム]]
{{公共交通}}
{{小屋}}
{{DEFAULTSORT:はすていりゆうしよ}}
[[Category:乗合バス事業]]
[[Category:バス停|*はすていりゆうしよ]]
[[Category:バス営業所]]
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東京都写真美術館
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東京都写真美術館(とうきょうとしゃしんびじゅつかん)は、東京都目黒区三田一丁目にある、写真・映像(動画)専門の公立美術館である。指定管理者制度により、東京都歴史文化財団グループ(公益財団法人東京都歴史文化財団、鹿島建物総合管理株式会社、アサヒビール株式会社の共同事業体)が管理・運営している。
日本における初の本格的な写真映像の文化施設として設けられた美術館。個人名を冠したものを除いた写真一般の美術館としては日本初である。
展示施設としては、3階(写真共催展向けまたは貸出会場、495m2)、2階(写真独自企画展向け会場、495m2)・地下1階(写真以外の映像一般展向け映像展示室、532m2)の3つがある。4階は図書室となっており、図書36,500冊、雑誌1,400種を所蔵する。1階ホール(283m2)では新作映画の封切公開をしている。そのほか、ミュージアムショップ、カフェなども備える。
一次開館以降、多彩な企画展を中心に積極的に内外の写真作品を紹介し、また近年はアニメやテレビゲームといった写真以外の映像文化にも力を入れている。
収蔵品として、荒木経惟、植田正治、木村伊兵衛、須田一政、東松照明、奈良原一高、濱谷浩、林忠彦、細江英公、森山大道、渡辺義雄など、日本を代表する作家の作品を多く収蔵している。
2012年現在、東京都写真美術館ニュース「eyes」(季刊)、東京都写真美術館紀要(年刊)、東京都写真美術館年報を発行している。
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東京都写真美術館(とうきょうとしゃしんびじゅつかん)は、東京都目黒区三田一丁目にある、写真・映像(動画)専門の公立美術館である。指定管理者制度により、東京都歴史文化財団グループ(公益財団法人東京都歴史文化財団、鹿島建物総合管理株式会社、アサヒビール株式会社の共同事業体)が管理・運営している。
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{{博物館
|名称=東京都写真美術館<br /><small>Tokyo Photographic Art Museum</small>
|画像=[[ファイル:Tokyo Metropolitan Museum of Photography entrance 2011 January.jpg|250px]]
|正式名称=東京都写真美術館<ref>[https://www.reiki.metro.tokyo.lg.jp/reiki_menu.html 東京都写真美術館条例]</ref>
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|前身=
|専門分野=[[写真]]・映像([[動画]])
|事業主体=[[東京都]]
|管理運営=[[公益財団法人]] [[東京都歴史文化財団]]
|開館=[[1990年]]
|所在地郵便番号=153-0062
|所在地=[[東京都]][[目黒区]]三田一丁目13番3号<br/>[[恵比寿ガーデンプレイス]]内
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 38 | 緯度秒 = 30.12 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 42 | 経度秒 = 47.52 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
| 座標右上表示 = 1
| map_type = Tokyo city
|URL = {{URL|https://www.topmuseum.jp/}}
}}
'''東京都写真美術館'''(とうきょうとしゃしんびじゅつかん)は、[[東京都]][[目黒区]][[三田 (目黒区)|三田]]一丁目にある、[[写真]]・映像([[動画]])専門の公立[[美術館]]である。[[指定管理者]]制度により、[[東京都歴史文化財団]]グループ([[公益財団法人]]東京都歴史文化財団、鹿島建物総合管理株式会社、アサヒビール株式会社<!--恵比寿ガーデンプレイス(サッポロビールの事実上の管理地)の中ではあるが、アサヒビールが運営に関与。-->の共同事業体)が管理・運営している<ref>[http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/siteikanri/index.html 都立文化施設の指定管理者について]</ref>。
== 概要 ==
[[日本]]における初の本格的な写真映像の文化施設として設けられた美術館。個人名を冠したものを除いた写真一般の美術館としては日本初である。
展示施設としては、3階(写真共催展向けまたは貸出会場、495㎡)、2階(写真独自企画展向け会場、495㎡)・地下1階(写真以外の映像一般展向け映像展示室、532㎡)の3つがある。4階は図書室となっており、図書36,500冊、雑誌1,400種を所蔵する。1階ホール(283㎡)では新作映画の封切公開をしている。そのほか、[[ミュージアムショップ]]、カフェなども備える。
一次開館以降、多彩な企画展を中心に積極的に内外の写真作品を紹介し、また近年は[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[テレビゲーム]]といった写真以外の映像文化にも力を入れている。
収蔵品として、[[荒木経惟]]、[[植田正治]]、[[木村伊兵衛]]、[[須田一政]]、[[東松照明]]、[[奈良原一高]]、[[濱谷浩]]、[[林忠彦]]、[[細江英公]]、[[森山大道]]、[[渡辺義雄]]など、日本を代表する作家の作品を多く収蔵している<ref>[http://www.syabi.com/contents/collection/index.html 『収集の基本方針』より]</ref>。
== 沿革 ==
* [[1986年]](昭和61年)11月 - 第二次東京都長期計画で「写真文化施設の設置」を発表。
* [[1990年]](平成2年)6月 - [[渋谷区]][[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]]四丁目19-24 にあったライブハウスの建物を利用し、一時施設として開館。(区界を挟んでいるものの目黒区三田の現所在地から300mほどの位置)
* [[1991年]](平成3年)8月 - [[恵比寿ガーデンプレイス]]およびその一角を占める当館総合施設が着工。
* [[1994年]](平成6年)8月 - 総合施設が竣工。
* [[1995年]](平成7年)1月 - 「東京都写真美術館」として正式に総合施設が開館。
* [[2014年]](平成26年)9月 - 改修工事のため長期休館。
* [[2016年]](平成28年)9月 - リニューアルオープン。愛称を「トップミュージアム(TOP MUSEUM)」に制定。
== 館長 ==
*初代:[[渡辺義雄]](1990年6月 - 1995年3月)
*第2代:[[三木多聞]](1995年4月 - 2000年3月)
*第3代:[[徳間康快]](2000年4月 - 2000年9月)
*第4代:[[福原義春]](2000年11月 - 2016年3月)
*第5代:[[伊東信一郎]](2016年3月 - 2021年4月現在)
== 刊行物 ==
2012年現在、東京都写真美術館ニュース「eyes」(季刊)、東京都写真美術館紀要(年刊)、東京都写真美術館年報を発行している。
== ギャラリー ==
<gallery>
File:Tokyo Metropolitan Museum of Photography1.jpg|美術館入り口(2008年1月6日撮影)
File:Tokyo Metropolitan Museum of Photography2.jpg|美術館のエントランス(2008年1月6日撮影)
File:Tokyo Metropolitan Museum of Photography3.jpg|美術館のホール(2008年1月6日撮影)
</gallery>
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tokyo Metropolitan Museum of Photography}}
* [https://www.topmuseum.jp/ 東京都写真美術館「TOP MUSEUM」]
* {{Twitter|topmuseum}}
* {{Artscape|1195804_1900}}
* {{インターネットミュージアム|2487}}
{{日本の美術館 (公立)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とうきようとしやしんひしゆつかん}}
[[Category:日本の写真美術館とギャラリー]]
[[Category:目黒区の博物館]]
[[Category:東京都区部の美術館]]
[[Category:東京都の映画館]]
[[Category:東京都生活文化局]]
[[Category:1990年開設の博物館]]
[[Category:東京・ミュージアムぐるっとパス対象施設]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%86%99%E7%9C%9F%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
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17,420 |
ワンマン運転
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ワンマン運転(ワンマンうんてん)とは、車掌が乗務せず、運転士一人によるバスや旅客列車の運行方法である。車掌の業務である運賃収受や発車時の安全確認などは運転士が兼務する。ワンマン運行(ワンマンうんこう)ともいう。
ワンマン運行の路面電車をワンマンカー、バスをワンマンバスもしくはワンマンカー、列車をワンマン列車(ワンマンれっしゃ、ワンマン電車〈ワンマンでんしゃ〉ということもある)もしくはワンマンカーと呼び、すべて合わせるとワンマン車両(ワンマンしゃりょう)と呼ぶ。
日本の貨物列車でもすでに機関助士と車掌は廃止されており、特大貨物などの特殊な列車を除いて車掌車の連結も行われなくなっているため、複数機関車による非総括制御運転を除き運転士のみのワンマンオペレーション(一人乗務)である。
ワンマン運転は鉄道や路面電車、バスを中心に実施されている。都市部の地下鉄では、運転士は運転業務のみを行い、運賃収受は行わない都市型ワンマン運転も多い。
「ワンマン」は One-man operation (OMO) という語句でアメリカ合衆国でも用いられている。また、英語でconductorless(車掌抜き)とも表記されるため、京阪電気鉄道などではワンマン表示の下に、conductorlessの英字を併記している。
運賃収受システムとしては、運賃箱に運賃を投入する方式(日本、韓国、ハワイ州のバスなど)、運賃支払い時に乗車券を発行する方式(オーストラリアクイーンズランド州ゴールドコーストのサーフサイドバス、台湾の距離比例運賃制のバス、シンガポールやイギリスのバスなど)、信用乗車方式(ヨーロッパの路面電車や鉄道など)がある。また、乗車カードの普及も進んでおり、日本のSuicaシステムに先がけて実用化された香港の八達通(オクトパス)をはじめ、ICカード乗車券の普及も進んでいる。電子マネーが普及している地域ではつり銭の用意がない場合が多く、乗客にとっても利便性が高い。なお、世界的にはこれらの乗車券を「スマートカード」と呼称するのが一般的である。
日本では、主に路面電車、路線バス、列車あたりの輸送量が小さい鉄道路線において、人件費削減のために実施されており、特に、路面電車や路線バスではほとんどがワンマン運転となっている。このため、従来からの複数人による分業よりも運転手にかかる負担が大きい。 夜行高速路線バスなどで運転手が2名乗務し、1名が運転を担当している間にもう1名が仮眠をとり、数時間ごとに運転を交代しながら運行するケースがみられるが、業務に当たっているのは1名のみであるため、認可上はこれもワンマン運行という扱いである。
ワンマン列車であっても、乗降客の多い時間帯や区間を運行する場合、車両数が多く運転士のみでは客扱いしきれない場合、ワンマン化されて間もない場合などには、車掌ではなく添乗員が乗務することがある。添乗員は乗客への案内や乗車券販売、車内改札といった補助業務のみを行い、扉開閉など列車の運転業務は運転士が行う。例えば、京阪石山坂本線では朝ラッシュ時、後方車両に列車防護要員が乗務する。列車防護要員には運転士の資格を持つ者とそうでない者とが存在する。
鉄道の場合、原則的に列車防護要員の乗務が必要であったため、赤字ローカル線や中小私鉄路線、地下鉄などの踏切の無い路線以外でワンマン運転が導入されることは無かった。しかし、列車制御や鉄道保安の技術発達に伴って鉄道営業法とそれに基づく国土交通省令も改訂されており、大都市部の通勤路線でもワンマン運転が増えており、10両編成の列車を3分程度の間隔で運転する例も見られる。
首都圏に多数の通勤路線を擁するJR東日本でも2025年(令和7年)以降、山手線や京浜東北線を始めとする各路線への導入を検討しており、ATOの高性能化に加え無線式列車制御システム(ATACS)の導入により、将来的な「ドライバレス運転」も視野に入れている 。
日本の大量交通輸送機関において、運転士が単独乗務する事例は1950年代以降に本格化し、広く普及し始めたのは1960年代以降である。
ごく古い車掌省略の例では、1923年(大正12年)に関東大震災で寸断された路面電車網の補完のため、東京市電気局がフォードT型トラックシャーシに簡易車体を架装して運行した市内バス(通称「円太郎バス」)がある。あくまで災害に伴う緊急措置であり、路面電車網が復旧し、またより本格的な路線バスの運行が行われるようになると車掌乗務が復活している。
鉄道では、馬車鉄道や小型客車を人力で推進する人車軌道(明治 - 大正期に各地で若干の例が存在)等を除けば、762 mm軌間の軽便鉄道だった岡山県の井笠鉄道が確認できる最初と見られる。同社は1927年(昭和2年)7月に「軌道自動車」と呼ばれる当時の量産自動車のパワートレインを流用した、定員20人の超小型ガソリンカーを導入したが、車両定員が極端に少ないこともあり、同年10月に監督官庁へ車掌省略の特別許可を申請、認められている(運賃収受は駅で実施)。いつごろまで車掌省略運転が行われたかは不明である。
車掌省略は、井笠鉄道に続いて超小型ガソリンカーを導入した下津井鉄道(のちの下津井電鉄)、播丹鉄道(国家買収により加古川線ほかとなる)でも一時行われていたという。
日本の大量輸送型交通機関における本格的なワンマン運転は、1951年6月から大阪市交通局が一部路線のバス(当時の今里 - あべの橋)で夜間に限り行った例が最初とされる。これには、1947年(昭和22年)に制定された労働基準法の女子の保護規定(深夜勤務の制限)により、女性車掌の深夜乗務が不可能となったことが大きく影響している。
1960年代以降、地方では自家用自動車の普及(モータリゼーション)や人口減少(特に若年人口の減少による通学者の減少)が進行し、公共交通機関は乗客の減少による経営難に直面するようになった。また、都市部においても路線建設費の高騰(減価償却費の増大)や求人難への対処が求められるようになり、合理化策として車掌乗務の廃止が進められていった。
路線バスでは、1960年代以降に大都市からワンマン化が広がり始め、やがて地方のバスも山間部や狭隘路線のように保安要員として車掌を要する特殊な路線以外はワンマン化されていった。
路面電車では名古屋市電が合理化策として、郊外閑散路線の下之一色線・築地線で1954年2月から実施したのが最初である。ワンマン電車の普及が進むと同時に、路面電車自体が廃止により激減したこともあり、現存するほとんどの路面電車がワンマン運転である。なお、広島電鉄・熊本市交通局では連接車を中心に車掌を乗務させている。
一般の鉄道における現代的なワンマン運行は関東鉄道竜ヶ崎線で1971年8月1日より実施され、日立電鉄線(2005年廃止)が同年10月1日に続いた。その後は大手民鉄のローカル線、国鉄(→JR)へと拡大していった。国鉄では分割民営化のわずか5日前である1987年3月27日、関西本線の四日市 - 河原田間において伊勢鉄道の列車に限って運行を開始したのが初の事例であり、純粋なJR車両による区間としては1988年3月13日の南武線浜川崎支線、大湊線、美祢線大嶺支線(1997年廃止)、山陰本線仙崎支線、香椎線、三角線が最初の例である。
また、都市圏の鉄道でも人件費削減を目的に、中小私鉄の都市部路線、そして大手民鉄の本線に対する支線や末端区間を中心に都市型ワンマンと呼ばれる運行形態が増えている。地方鉄道のワンマン運転と最も異なるのは、車内で整理券の発行や運賃の受け渡しを行わず、運賃収受は従来どおり駅で行う点である。都市型ワンマンは1975年に静岡鉄道静岡清水線で始まり、大手民鉄では1980年9月1日の西鉄宮地岳線(現:西鉄貝塚線)で最初に始まった。関東では西武多摩川線、東武伊勢崎線館林駅 - 伊勢崎駅間・東武東上線小川町駅 - 寄居駅間など、関西では京阪交野線・宇治線・京津線・石山坂本線、神戸電鉄全線など各地に広がっている。国土交通省通達による、デッドマン装置・ワンマン表示灯・後方確認用ミラーなどの装置を取り付ければワンマン運転は可能であるが、実際には運転士の業務負担を減らすため、自動放送装置や、運転席に座ったまま操作できるドアスイッチなどが装備される場合も多い。
地下鉄を含む利用者の多い路線においても人件費削減を目的にワンマン化が進んでいる。本格的なものとしては1984年1月20日の福岡市地下鉄空港線が最初の例であり、営団地下鉄(現:東京メトロ)南北線、都営地下鉄大江戸線、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスなどに拡大した。また少子高齢化時代を見据えて、ツーマン運転を前提に開業した路線に各種支援機器を設置してワンマン運転に移行した路線もあり、東京メトロ丸ノ内線・都営地下鉄三田線・横浜市営地下鉄ブルーライン・東京モノレール羽田空港線などが該当する。各路線とも、自動列車運転装置(ATO)による自動運転やホームドアの整備、運転席からホームを監視できるモニタなど各種支援機器の整備によって、運転士の負担の軽減と安全性の一層の向上を図っている。近年では安全を担保しつつ設備コストを抑えるため、フルスクリーンタイプのホームドアから可動式ホーム柵へ、ATOは停車時のみ自動制御を行なう定位置停止装置(TASC)とするなどの工夫も見られる。なお、東急池上線、東急多摩川線、名鉄三河線、近鉄けいはんな線などではホームドアの代わりにホーム柵を設置し、その間に光センサーを利用したホームセンサーを取りつけることで、人が立ち入った場合には列車に自動的にブレーキをかけたり、列車の発車ができないようにすることで安全性を図っている。2023年現在、大手私鉄においてワンマン運転を行う路線が一切存在しないのは小田急電鉄、京浜急行電鉄、相模鉄道の3社のみである。
なお、ワンマン運転を行うことと列車種別には相関はなく、特に地方線区においては優等列車であっても需要などに応じてワンマン運転は行われる。別途料金を必要とする種別でもワンマン運転を行う場合があり、JR九州では一部の特急列車でワンマン運転を行っている。ただし客室乗務員あるいは機動改札員が乗務している列車もあり、その場合は運転士が接客業務を行うことは少ない。
AGT等の新交通システムでは運転士すら乗務せず、すべての操作が中央指令室から自動で行われる完全な無人運転としている路線が多く、有人運転の場合は運転士のみの乗務(前述の地下鉄と同様の形)となる。一方で東京ディズニーリゾートを走行するモノレール路線のディズニーリゾートラインは、逆に通常時に運転士に相当する「ドライバーキャスト」は乗務せず、ドア扱い、安全確認、案内などを担当する車掌に相当する「ガイドキャスト」のみが乗務する、一般的なものとは逆の形態となっている。
ワンマン運転を行う車両における運転士は、機長や船長と同様に、運行される列車やバスの最高責任者であり、乗客は安全確保のために運転士が下す指示に従わなければならない(車内掲示の「禁止事項」に明記されている)。拒否した場合、乗客は強制的に降車させられる場合もある。
バス停留所や駅では、運転士が戸を開け客扱いを行う。出発する際には、運転士が安全確認を行い戸閉め操作を行う。車内放送も運転士が行うが、テープなどによる自動放送を主体とし、運転士は自動放送で対処できない内容を補助的に放送するようになっていることが多い。
鉄道の場合、運転士の失神などで一定時間機器操作がなされなかったときに非常ブレーキを動作させる緊急列車停止装置や、事故時に付近の列車を停止させる列車防護無線装置、車内の乗客との非常通報・通話装置などが設けられる。また、プラットホームに後方確認用ミラーやビデオカメラ・モニターを設置し、照明の増設や上屋高さの向上など安全確認をしやすくする改良も行われる。
バスの場合、バスジャックが発生した際の非常通報装置が設けられることもある。また狭隘区間を有する路線では、後部モニター装置つき車両を導入したり、狭隘区間のみ誘導員を乗車させたりすることがある。韓国のバスや、サーフサイドバスでは、安全対策(運転手への暴力行為)、および不正対策として運転席付近に監視カメラが設置されている。
ワンマン運転の運賃収受は駅または車内で行われる。定期利用客は定期券を提示するのみという場合が多い。路線バスはもとより、無人駅を多く抱える地方の鉄道などでは車内収受となる場合が多い。車内収受は乗降時間が延びる欠点があるものの、駅員の配置を省略できるため特に経済性が高い。以下に示すのは、主に車内料金収受に関する事象である。
乗車箇所を証明するため、乗客は車内に設置された機械で発行される整理券や、駅に設置された機械で発行される(駅に備え付けている場合もある)乗車駅証明書を取得しておく。始発駅・停留所から乗車する場合は「整理券なし」区分とし、整理券などの発行が省略されることもある。
大都市部の路線バスに多い均一運賃制の場合は、乗車時に運賃を支払うケースがほとんどである。また、あらかじめ乗車時に降車停留所を告げた上で運賃を支払う方式もある。これは「前乗り後降り」の節で詳述する。
鉄道の場合、駅によっては乗車前に自動券売機や業務委託先などの発券窓口で乗車券を購入できる場合もある。バスにおいても、一部のバスターミナルなどでは乗車券を販売している。
降車時には、運転席横の運賃箱へ整理券・乗車駅証明書および運賃を投入する。運賃は車内の運賃表示器に表示される。通常つり銭は出ず、運賃箱に両替機能が内蔵されている。乗車券を購入している場合は降車時に運賃箱へ乗車券を投入する。運転士は、運賃着服(横領)防止のため、運賃を手で受け取ることが原則として禁止されている(「手受け」の記事参照)。
さらに、有人駅や改札口付きバスターミナルで降車する際には運賃を駅で支払う場合もある。有人駅で下車する場合、一部を除き駅改札口(規模が大きい駅では精算窓口)で運賃を支払うことが多い。なお整理券は自動改札に投入できないため、自動改札のある駅では整理券を専用の回収箱に投入するよう注意を促している。
改札内で他社線と接続する駅などでは、収受漏れを防ぐ目的などから運賃を車内で精算し、乗務員から受け取った「精算済証」を駅員に渡すことが多い。なお、ICカード対応路線内のワンマン運転列車に関しては、車内運賃収受ではなく駅自動改札(簡易改札を含む)で行われる場合も多い。
ワンマン列車から車掌乗務の列車に乗り換える際は、乗車券を未購入ならば整理券を提示して駅窓口で購入する。ただし、乗換時間が少ない場合は乗継いだ列車の車掌あるいは機動改札員から購入する(車内補充券は通常のきっぷ類に加え、一部の往復割引きっぷも購入が可能)。乗換駅が無人駅の場合、乗車券を持っていなければ乗換駅までの運賃をいったん精算した上で「精算済証」を受け取り、乗継いだ列車を下車する際に証明書および差額分の運賃を支払う場合もある。
均一運賃制のバスの場合、乗車カードで運賃を支払うには運賃箱付近に設置されたカードリーダー(運賃箱との一体型が多い)を利用する。
多区間運賃制(整理券方式)のバスの場合、基本的に乗車時に整理券発行機付近のカードリーダーで乗車停留所を記録し、降車時に降車口付近のカードリーダーで運賃を精算する。乗車停留所の記録がなければ降車時にエラーとなり、乗車停留所の申告を受けた運転士が手操作で引落し金額を設定する場合が多い。ただし、一部の事業者は始発停留所からの運賃を差引いている。
このほか、バーコードが印刷された整理券を受け取って乗車し、降車時に運賃箱がバーコードから運賃を計算して引落す方式や、乗車時には整理券を取り、降車時に運転士が整理券から手操作で金額を設定する方式を採るバスもある。
鉄道では、通常は駅の自動改札機またはセンサーとカードリーダーのみを備えた簡易改札機(無人駅に設置)を利用するほか、路線によっては京福電鉄・叡山電鉄などのように車両にカードリーダーを搭載している場合もある。また名鉄蒲郡線など、カードシステム対応の鉄道会社であっても、ワンマン運転の路線内ではカード利用を認めていないところもある。
いずれの場合も、カード残額が不足する場合は別のカードか現金で不足分を支払う。ICカード等、チャージ(積み増し)が可能なカードではチャージして精算することもできる。
地下鉄や都市近郊鉄道など、有人駅や自動改札が完備されている場合は基本的にすべてのドアが開閉される。一方、路線バスや路面電車、閑散路線の列車など車内で運賃を支払う場合は混雑度や途中地点での乗り降りの頻度などにより、各種の方法が取られる。
鉄道や路面電車では原則として利用者の有無に関わらず、各駅(停留所)に停車して客扱いを行う。対してバスや一部の路面電車では、到着までに降車ボタンが押されず、乗車を待つ利用者がいない場合は停留所を通過するものがある。
乗降客が少ない区間、もしくは路線運賃体系上で整理券を発行しない第一区間以外で用いられるものである。前払い方式と整理券方式の後払いがある。
主に乗降口が一箇所しかない高速バスやそれに準じた車両(トップドア車)を用いる一般路線バスで用いられる。また、2ドア車の中(後)ドアを半永久的に締め切り、事実上のトップドア車として前乗り前降り方式で使用する場合もある。そのほかに、箱根登山バス、会津乗合自動車、また沖縄県内各社では、後部ドアも開閉可能ではあるが通常は使わず(車椅子で乗降する場合のみ使用)、前乗り前降り方式で運行する路線がある。この場合、大部分の路線ではベビーカーは乗降する際、折りたたむ必要がある。濃飛乗合自動車及び羽後交通では豪雪対策として採用している。大・中型車両の入口と出口が分かれている事業者であっても、小型車両においては以前のマイクロバスが構造上原則としてトップドアであるために前乗り前降りを採用している場合もある。かつて神奈川中央交通の多区間運賃制でも、この方式が採用されていたが、沿線利用者の要望や、バリアフリーに対応するため、中乗り前降りに変更された。
鉄道でも採用があり、JR北海道はすべてこの方式である。改札業務を行っている駅ではホーム側の全ドアが開くが、朝晩の無人時間帯(窓口営業時間外)は無人駅と同様に前ドアのみが開く。JR東日本の左沢線もこれとほぼ同様の方式になっている。また、JR九州では日豊本線の宗太郎駅で採用されている。またJR西日本では2020年3月14日ダイヤ改正に伴い和歌山線五条 - 和歌山間も同様の乗降方法に切り替わる。私鉄でも弘南鉄道や上田電鉄別所線などの採用例がある。
乗車時に乗務員のいる前方のドアから入り、運賃を支払ったうえで車内に進み、降りるときに後方のドアから降りる方式である。終点ですべてのドアが利用できるので降車時間が短くなる。
主に均一運賃の路線で用いられる方式である。この場合、乗車時に所定の運賃を運賃箱へ投入する。事業者によっては釣り銭を出すことができる(できない場合は両替して投入する)。大都市部の一般路線バスに多いほか、軌道線では都電荒川線・東急世田谷線・豊橋鉄道東田本線などで採用されている。世田谷線は2両編成の最前部と最後部のドアに乗務員(運転士・案内係)を配置し、降車は乗務員が配置されていない中間部のドアから行う。この方式を「連結2人乗り」と称しており、前身の東急玉川線時代より行われている。なお、車両後部に配置される案内係はドア開閉や安全確認を行わず、すべて運転士が行っている。
バスにおいては、大都市圏の一部を中心に、前乗り中(後)降り式で区間制運賃としている路線もある。この場合、乗客は乗務員に降車地を申告し、その降車地までの運賃を支払う。信用乗車制前払い(または運賃申告方式)とも呼ばれ、東急バス・京浜急行バス・神奈川中央交通・江ノ電バス・西武バス・奈良交通・東武バス・京成バスなどの一部路線で採用されている。利点として、ラッシュ時間帯における降車時間の短縮などが挙げられるが、運賃の誤収受が起こりやすいほか、普及が進むICカードでは引き落とし額設定のため乗車に要する時間が増えるため、バスの遅延が指摘されている。
ワンマン運転は当初、大都市の均一区間から導入が始められたため前乗り中(後)降りが主流だったが、大阪市交通局や京都市交通局(バス)や近鉄バス(近鉄直営の近畿日本鉄道自動車局時代)、船橋新京成バス、松戸新京成バスなどの様に中(後)乗り前降りに変えた例もある。
また、本来は中(後)乗り前降りであっても始発停留所のみ乗車扱いの関係で前乗りを行なっている場合もある。
後払い(整理券)方式の乗降客が比較的多い区間、または路線運賃体系上の第一区間(整理券発行不要区間)で用いられる。乗車時に後扉(入口)付近の発行機で整理券を取り、降車時に整理券番号に応じた運賃を払う。多くの路線バスのほか、本州・四国・九州のローカル鉄道路線やほとんどの路面電車で採用されている。関西地方では、整理券を発行しない均一料金制の路線バスも一部を除き後乗り前降り(降車時払い)になっている。
ワンマン化の過渡期(ワンマン運転は当初、大都市の均一区間から導入が始められたため前乗り中(後)降りが主流だった)や同じ地域内で事業者の運行形態や乗降の扱いの違いなどで前乗り中(後)降りと混在している例がある。神奈川中央交通では中(後)乗り前降り 、前乗り前降り 、前乗り中(後)降りの3通りの乗車方法を採用していたため、乗り方が複雑になっていたことから、2012年より前乗り前降りの路線を中(後)乗り前降りに変更している。
キセル防止のため、乗車用の後ろ扉を降車用の前扉から少し遅れて開けるようにしたり、ホームに乗客がいない場合は後ろ扉を開けないか、すぐに閉める運転士も多い。半自動扉(客用ドアボタンで開閉するもの)の場合(無人駅での停車中)は乗車用の後ろ扉の「開」ボタン(車内)では開扉できない(車外の「開」ボタン、車内の「閉」ボタンは操作可能)。降車用の前扉は車内の「開」「閉」ボタンの操作は可能。またその観点から、駅の出入口付近に列車を停車させるようにした駅もある。
鉄道において、鉄道の有人駅や遠隔監視・巡回による自動改札化区間では、すべてのドアが乗降に利用できる場合が多い。これを自由乗降方式と呼ぶ(JR四国のように、有人駅でも後乗り前降りを採用する場合もある)。ただし、路線バスにおいて「自由乗降」という言葉は「停留所以外でも乗降できる方式」を指す。こちらについてはフリー乗降制を参照。
例えば広島電鉄の場合、有人の広島駅と広電西広島(己斐)駅(いずれも早朝・深夜等の閑散時間帯を除く)及び広電宮島口駅での降車は改札員への後払い方式で行われている。また伊予鉄道の軌道線でもラッシュ時は一部の停留所に係員が配置され、すべての扉から降車ができる。しかし、ICカード対応機器の都合で、後扉から降車できるのは現金と定期券、1日乗車券(紙券)の旅客に限られ、ICカード利用客は前扉からしか下車できない。
JRでは、ラッシュ時など乗降時間が延びて遅延を引き起こす可能性がある場合、ワンマン運転を行う路線でも指令所の判断により無人駅ですべてのドアを開くこともある。JR九州では2006年3月18日の改正で、一部の区間を除いてワンマン運転時に無人駅でもすべてのドアを開くようになった。また、JR西日本では無人駅であってもICOCAが利用できる駅であれば(一部の路線を除く)すべてのドアが開くようになっている。
また、近畿日本鉄道の一部路線や養老鉄道などでは、設備費の削減や効率的な運行を実施するために無人駅でもすべてのドアが開く、いわゆる信用乗車方式を取り入れている。
富山地方鉄道富山港線では、降車時間の短縮対策としてICカード「ecomyca(自社発行)」および「passca(旧・富山ライトレール発行)」の利用者に限り、全てのドアから降車できる「信用降車」を取り入れていたが、2020年3月21日より富山地方鉄道富山軌条線への乗り入れに伴って「信用降車」を取り止めた。
前述の通り地方ではモータリゼーションや人口減少が進行、都市部でも人件費削減のためワンマン運転が増加した。近年開業した路線は、都市部では開業時からホームドアやATOなど導入してワンマン運転を導入している路線が非常に多い。特に旧国鉄建設線や近年開業の地下鉄(特に近年多く開業しているリニアメトロ)、モノレールや有人運転の新交通システムは原則開業当時からワンマン運転を実施している。この節では自社路線内で運行される自社車両による普通列車を対象とし、必ずしも全列車ワンマン運転である必要はないものとする。また、路面電車や無人運転の路線を除く。
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"text": "ワンマン運転(ワンマンうんてん)とは、車掌が乗務せず、運転士一人によるバスや旅客列車の運行方法である。車掌の業務である運賃収受や発車時の安全確認などは運転士が兼務する。ワンマン運行(ワンマンうんこう)ともいう。",
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"text": "ワンマン運行の路面電車をワンマンカー、バスをワンマンバスもしくはワンマンカー、列車をワンマン列車(ワンマンれっしゃ、ワンマン電車〈ワンマンでんしゃ〉ということもある)もしくはワンマンカーと呼び、すべて合わせるとワンマン車両(ワンマンしゃりょう)と呼ぶ。",
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"text": "日本の貨物列車でもすでに機関助士と車掌は廃止されており、特大貨物などの特殊な列車を除いて車掌車の連結も行われなくなっているため、複数機関車による非総括制御運転を除き運転士のみのワンマンオペレーション(一人乗務)である。",
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"text": "ワンマン運転は鉄道や路面電車、バスを中心に実施されている。都市部の地下鉄では、運転士は運転業務のみを行い、運賃収受は行わない都市型ワンマン運転も多い。",
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"text": "「ワンマン」は One-man operation (OMO) という語句でアメリカ合衆国でも用いられている。また、英語でconductorless(車掌抜き)とも表記されるため、京阪電気鉄道などではワンマン表示の下に、conductorlessの英字を併記している。",
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"text": "運賃収受システムとしては、運賃箱に運賃を投入する方式(日本、韓国、ハワイ州のバスなど)、運賃支払い時に乗車券を発行する方式(オーストラリアクイーンズランド州ゴールドコーストのサーフサイドバス、台湾の距離比例運賃制のバス、シンガポールやイギリスのバスなど)、信用乗車方式(ヨーロッパの路面電車や鉄道など)がある。また、乗車カードの普及も進んでおり、日本のSuicaシステムに先がけて実用化された香港の八達通(オクトパス)をはじめ、ICカード乗車券の普及も進んでいる。電子マネーが普及している地域ではつり銭の用意がない場合が多く、乗客にとっても利便性が高い。なお、世界的にはこれらの乗車券を「スマートカード」と呼称するのが一般的である。",
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"text": "日本では、主に路面電車、路線バス、列車あたりの輸送量が小さい鉄道路線において、人件費削減のために実施されており、特に、路面電車や路線バスではほとんどがワンマン運転となっている。このため、従来からの複数人による分業よりも運転手にかかる負担が大きい。 夜行高速路線バスなどで運転手が2名乗務し、1名が運転を担当している間にもう1名が仮眠をとり、数時間ごとに運転を交代しながら運行するケースがみられるが、業務に当たっているのは1名のみであるため、認可上はこれもワンマン運行という扱いである。",
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"text": "ワンマン列車であっても、乗降客の多い時間帯や区間を運行する場合、車両数が多く運転士のみでは客扱いしきれない場合、ワンマン化されて間もない場合などには、車掌ではなく添乗員が乗務することがある。添乗員は乗客への案内や乗車券販売、車内改札といった補助業務のみを行い、扉開閉など列車の運転業務は運転士が行う。例えば、京阪石山坂本線では朝ラッシュ時、後方車両に列車防護要員が乗務する。列車防護要員には運転士の資格を持つ者とそうでない者とが存在する。",
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"text": "鉄道の場合、原則的に列車防護要員の乗務が必要であったため、赤字ローカル線や中小私鉄路線、地下鉄などの踏切の無い路線以外でワンマン運転が導入されることは無かった。しかし、列車制御や鉄道保安の技術発達に伴って鉄道営業法とそれに基づく国土交通省令も改訂されており、大都市部の通勤路線でもワンマン運転が増えており、10両編成の列車を3分程度の間隔で運転する例も見られる。",
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"text": "首都圏に多数の通勤路線を擁するJR東日本でも2025年(令和7年)以降、山手線や京浜東北線を始めとする各路線への導入を検討しており、ATOの高性能化に加え無線式列車制御システム(ATACS)の導入により、将来的な「ドライバレス運転」も視野に入れている 。",
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"text": "また、都市圏の鉄道でも人件費削減を目的に、中小私鉄の都市部路線、そして大手民鉄の本線に対する支線や末端区間を中心に都市型ワンマンと呼ばれる運行形態が増えている。地方鉄道のワンマン運転と最も異なるのは、車内で整理券の発行や運賃の受け渡しを行わず、運賃収受は従来どおり駅で行う点である。都市型ワンマンは1975年に静岡鉄道静岡清水線で始まり、大手民鉄では1980年9月1日の西鉄宮地岳線(現:西鉄貝塚線)で最初に始まった。関東では西武多摩川線、東武伊勢崎線館林駅 - 伊勢崎駅間・東武東上線小川町駅 - 寄居駅間など、関西では京阪交野線・宇治線・京津線・石山坂本線、神戸電鉄全線など各地に広がっている。国土交通省通達による、デッドマン装置・ワンマン表示灯・後方確認用ミラーなどの装置を取り付ければワンマン運転は可能であるが、実際には運転士の業務負担を減らすため、自動放送装置や、運転席に座ったまま操作できるドアスイッチなどが装備される場合も多い。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "地下鉄を含む利用者の多い路線においても人件費削減を目的にワンマン化が進んでいる。本格的なものとしては1984年1月20日の福岡市地下鉄空港線が最初の例であり、営団地下鉄(現:東京メトロ)南北線、都営地下鉄大江戸線、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスなどに拡大した。また少子高齢化時代を見据えて、ツーマン運転を前提に開業した路線に各種支援機器を設置してワンマン運転に移行した路線もあり、東京メトロ丸ノ内線・都営地下鉄三田線・横浜市営地下鉄ブルーライン・東京モノレール羽田空港線などが該当する。各路線とも、自動列車運転装置(ATO)による自動運転やホームドアの整備、運転席からホームを監視できるモニタなど各種支援機器の整備によって、運転士の負担の軽減と安全性の一層の向上を図っている。近年では安全を担保しつつ設備コストを抑えるため、フルスクリーンタイプのホームドアから可動式ホーム柵へ、ATOは停車時のみ自動制御を行なう定位置停止装置(TASC)とするなどの工夫も見られる。なお、東急池上線、東急多摩川線、名鉄三河線、近鉄けいはんな線などではホームドアの代わりにホーム柵を設置し、その間に光センサーを利用したホームセンサーを取りつけることで、人が立ち入った場合には列車に自動的にブレーキをかけたり、列車の発車ができないようにすることで安全性を図っている。2023年現在、大手私鉄においてワンマン運転を行う路線が一切存在しないのは小田急電鉄、京浜急行電鉄、相模鉄道の3社のみである。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "なお、ワンマン運転を行うことと列車種別には相関はなく、特に地方線区においては優等列車であっても需要などに応じてワンマン運転は行われる。別途料金を必要とする種別でもワンマン運転を行う場合があり、JR九州では一部の特急列車でワンマン運転を行っている。ただし客室乗務員あるいは機動改札員が乗務している列車もあり、その場合は運転士が接客業務を行うことは少ない。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "AGT等の新交通システムでは運転士すら乗務せず、すべての操作が中央指令室から自動で行われる完全な無人運転としている路線が多く、有人運転の場合は運転士のみの乗務(前述の地下鉄と同様の形)となる。一方で東京ディズニーリゾートを走行するモノレール路線のディズニーリゾートラインは、逆に通常時に運転士に相当する「ドライバーキャスト」は乗務せず、ドア扱い、安全確認、案内などを担当する車掌に相当する「ガイドキャスト」のみが乗務する、一般的なものとは逆の形態となっている。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ワンマン運転を行う車両における運転士は、機長や船長と同様に、運行される列車やバスの最高責任者であり、乗客は安全確保のために運転士が下す指示に従わなければならない(車内掲示の「禁止事項」に明記されている)。拒否した場合、乗客は強制的に降車させられる場合もある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "バス停留所や駅では、運転士が戸を開け客扱いを行う。出発する際には、運転士が安全確認を行い戸閉め操作を行う。車内放送も運転士が行うが、テープなどによる自動放送を主体とし、運転士は自動放送で対処できない内容を補助的に放送するようになっていることが多い。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "鉄道の場合、運転士の失神などで一定時間機器操作がなされなかったときに非常ブレーキを動作させる緊急列車停止装置や、事故時に付近の列車を停止させる列車防護無線装置、車内の乗客との非常通報・通話装置などが設けられる。また、プラットホームに後方確認用ミラーやビデオカメラ・モニターを設置し、照明の増設や上屋高さの向上など安全確認をしやすくする改良も行われる。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "バスの場合、バスジャックが発生した際の非常通報装置が設けられることもある。また狭隘区間を有する路線では、後部モニター装置つき車両を導入したり、狭隘区間のみ誘導員を乗車させたりすることがある。韓国のバスや、サーフサイドバスでは、安全対策(運転手への暴力行為)、および不正対策として運転席付近に監視カメラが設置されている。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ワンマン運転の運賃収受は駅または車内で行われる。定期利用客は定期券を提示するのみという場合が多い。路線バスはもとより、無人駅を多く抱える地方の鉄道などでは車内収受となる場合が多い。車内収受は乗降時間が延びる欠点があるものの、駅員の配置を省略できるため特に経済性が高い。以下に示すのは、主に車内料金収受に関する事象である。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "乗車箇所を証明するため、乗客は車内に設置された機械で発行される整理券や、駅に設置された機械で発行される(駅に備え付けている場合もある)乗車駅証明書を取得しておく。始発駅・停留所から乗車する場合は「整理券なし」区分とし、整理券などの発行が省略されることもある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "大都市部の路線バスに多い均一運賃制の場合は、乗車時に運賃を支払うケースがほとんどである。また、あらかじめ乗車時に降車停留所を告げた上で運賃を支払う方式もある。これは「前乗り後降り」の節で詳述する。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "鉄道の場合、駅によっては乗車前に自動券売機や業務委託先などの発券窓口で乗車券を購入できる場合もある。バスにおいても、一部のバスターミナルなどでは乗車券を販売している。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "降車時には、運転席横の運賃箱へ整理券・乗車駅証明書および運賃を投入する。運賃は車内の運賃表示器に表示される。通常つり銭は出ず、運賃箱に両替機能が内蔵されている。乗車券を購入している場合は降車時に運賃箱へ乗車券を投入する。運転士は、運賃着服(横領)防止のため、運賃を手で受け取ることが原則として禁止されている(「手受け」の記事参照)。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "さらに、有人駅や改札口付きバスターミナルで降車する際には運賃を駅で支払う場合もある。有人駅で下車する場合、一部を除き駅改札口(規模が大きい駅では精算窓口)で運賃を支払うことが多い。なお整理券は自動改札に投入できないため、自動改札のある駅では整理券を専用の回収箱に投入するよう注意を促している。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "改札内で他社線と接続する駅などでは、収受漏れを防ぐ目的などから運賃を車内で精算し、乗務員から受け取った「精算済証」を駅員に渡すことが多い。なお、ICカード対応路線内のワンマン運転列車に関しては、車内運賃収受ではなく駅自動改札(簡易改札を含む)で行われる場合も多い。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ワンマン列車から車掌乗務の列車に乗り換える際は、乗車券を未購入ならば整理券を提示して駅窓口で購入する。ただし、乗換時間が少ない場合は乗継いだ列車の車掌あるいは機動改札員から購入する(車内補充券は通常のきっぷ類に加え、一部の往復割引きっぷも購入が可能)。乗換駅が無人駅の場合、乗車券を持っていなければ乗換駅までの運賃をいったん精算した上で「精算済証」を受け取り、乗継いだ列車を下車する際に証明書および差額分の運賃を支払う場合もある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "均一運賃制のバスの場合、乗車カードで運賃を支払うには運賃箱付近に設置されたカードリーダー(運賃箱との一体型が多い)を利用する。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "多区間運賃制(整理券方式)のバスの場合、基本的に乗車時に整理券発行機付近のカードリーダーで乗車停留所を記録し、降車時に降車口付近のカードリーダーで運賃を精算する。乗車停留所の記録がなければ降車時にエラーとなり、乗車停留所の申告を受けた運転士が手操作で引落し金額を設定する場合が多い。ただし、一部の事業者は始発停留所からの運賃を差引いている。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "このほか、バーコードが印刷された整理券を受け取って乗車し、降車時に運賃箱がバーコードから運賃を計算して引落す方式や、乗車時には整理券を取り、降車時に運転士が整理券から手操作で金額を設定する方式を採るバスもある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "鉄道では、通常は駅の自動改札機またはセンサーとカードリーダーのみを備えた簡易改札機(無人駅に設置)を利用するほか、路線によっては京福電鉄・叡山電鉄などのように車両にカードリーダーを搭載している場合もある。また名鉄蒲郡線など、カードシステム対応の鉄道会社であっても、ワンマン運転の路線内ではカード利用を認めていないところもある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "いずれの場合も、カード残額が不足する場合は別のカードか現金で不足分を支払う。ICカード等、チャージ(積み増し)が可能なカードではチャージして精算することもできる。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "地下鉄や都市近郊鉄道など、有人駅や自動改札が完備されている場合は基本的にすべてのドアが開閉される。一方、路線バスや路面電車、閑散路線の列車など車内で運賃を支払う場合は混雑度や途中地点での乗り降りの頻度などにより、各種の方法が取られる。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "鉄道や路面電車では原則として利用者の有無に関わらず、各駅(停留所)に停車して客扱いを行う。対してバスや一部の路面電車では、到着までに降車ボタンが押されず、乗車を待つ利用者がいない場合は停留所を通過するものがある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "乗降客が少ない区間、もしくは路線運賃体系上で整理券を発行しない第一区間以外で用いられるものである。前払い方式と整理券方式の後払いがある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "主に乗降口が一箇所しかない高速バスやそれに準じた車両(トップドア車)を用いる一般路線バスで用いられる。また、2ドア車の中(後)ドアを半永久的に締め切り、事実上のトップドア車として前乗り前降り方式で使用する場合もある。そのほかに、箱根登山バス、会津乗合自動車、また沖縄県内各社では、後部ドアも開閉可能ではあるが通常は使わず(車椅子で乗降する場合のみ使用)、前乗り前降り方式で運行する路線がある。この場合、大部分の路線ではベビーカーは乗降する際、折りたたむ必要がある。濃飛乗合自動車及び羽後交通では豪雪対策として採用している。大・中型車両の入口と出口が分かれている事業者であっても、小型車両においては以前のマイクロバスが構造上原則としてトップドアであるために前乗り前降りを採用している場合もある。かつて神奈川中央交通の多区間運賃制でも、この方式が採用されていたが、沿線利用者の要望や、バリアフリーに対応するため、中乗り前降りに変更された。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "鉄道でも採用があり、JR北海道はすべてこの方式である。改札業務を行っている駅ではホーム側の全ドアが開くが、朝晩の無人時間帯(窓口営業時間外)は無人駅と同様に前ドアのみが開く。JR東日本の左沢線もこれとほぼ同様の方式になっている。また、JR九州では日豊本線の宗太郎駅で採用されている。またJR西日本では2020年3月14日ダイヤ改正に伴い和歌山線五条 - 和歌山間も同様の乗降方法に切り替わる。私鉄でも弘南鉄道や上田電鉄別所線などの採用例がある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "乗車時に乗務員のいる前方のドアから入り、運賃を支払ったうえで車内に進み、降りるときに後方のドアから降りる方式である。終点ですべてのドアが利用できるので降車時間が短くなる。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "主に均一運賃の路線で用いられる方式である。この場合、乗車時に所定の運賃を運賃箱へ投入する。事業者によっては釣り銭を出すことができる(できない場合は両替して投入する)。大都市部の一般路線バスに多いほか、軌道線では都電荒川線・東急世田谷線・豊橋鉄道東田本線などで採用されている。世田谷線は2両編成の最前部と最後部のドアに乗務員(運転士・案内係)を配置し、降車は乗務員が配置されていない中間部のドアから行う。この方式を「連結2人乗り」と称しており、前身の東急玉川線時代より行われている。なお、車両後部に配置される案内係はドア開閉や安全確認を行わず、すべて運転士が行っている。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "バスにおいては、大都市圏の一部を中心に、前乗り中(後)降り式で区間制運賃としている路線もある。この場合、乗客は乗務員に降車地を申告し、その降車地までの運賃を支払う。信用乗車制前払い(または運賃申告方式)とも呼ばれ、東急バス・京浜急行バス・神奈川中央交通・江ノ電バス・西武バス・奈良交通・東武バス・京成バスなどの一部路線で採用されている。利点として、ラッシュ時間帯における降車時間の短縮などが挙げられるが、運賃の誤収受が起こりやすいほか、普及が進むICカードでは引き落とし額設定のため乗車に要する時間が増えるため、バスの遅延が指摘されている。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ワンマン運転は当初、大都市の均一区間から導入が始められたため前乗り中(後)降りが主流だったが、大阪市交通局や京都市交通局(バス)や近鉄バス(近鉄直営の近畿日本鉄道自動車局時代)、船橋新京成バス、松戸新京成バスなどの様に中(後)乗り前降りに変えた例もある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "また、本来は中(後)乗り前降りであっても始発停留所のみ乗車扱いの関係で前乗りを行なっている場合もある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "後払い(整理券)方式の乗降客が比較的多い区間、または路線運賃体系上の第一区間(整理券発行不要区間)で用いられる。乗車時に後扉(入口)付近の発行機で整理券を取り、降車時に整理券番号に応じた運賃を払う。多くの路線バスのほか、本州・四国・九州のローカル鉄道路線やほとんどの路面電車で採用されている。関西地方では、整理券を発行しない均一料金制の路線バスも一部を除き後乗り前降り(降車時払い)になっている。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ワンマン化の過渡期(ワンマン運転は当初、大都市の均一区間から導入が始められたため前乗り中(後)降りが主流だった)や同じ地域内で事業者の運行形態や乗降の扱いの違いなどで前乗り中(後)降りと混在している例がある。神奈川中央交通では中(後)乗り前降り 、前乗り前降り 、前乗り中(後)降りの3通りの乗車方法を採用していたため、乗り方が複雑になっていたことから、2012年より前乗り前降りの路線を中(後)乗り前降りに変更している。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "キセル防止のため、乗車用の後ろ扉を降車用の前扉から少し遅れて開けるようにしたり、ホームに乗客がいない場合は後ろ扉を開けないか、すぐに閉める運転士も多い。半自動扉(客用ドアボタンで開閉するもの)の場合(無人駅での停車中)は乗車用の後ろ扉の「開」ボタン(車内)では開扉できない(車外の「開」ボタン、車内の「閉」ボタンは操作可能)。降車用の前扉は車内の「開」「閉」ボタンの操作は可能。またその観点から、駅の出入口付近に列車を停車させるようにした駅もある。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "鉄道において、鉄道の有人駅や遠隔監視・巡回による自動改札化区間では、すべてのドアが乗降に利用できる場合が多い。これを自由乗降方式と呼ぶ(JR四国のように、有人駅でも後乗り前降りを採用する場合もある)。ただし、路線バスにおいて「自由乗降」という言葉は「停留所以外でも乗降できる方式」を指す。こちらについてはフリー乗降制を参照。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "例えば広島電鉄の場合、有人の広島駅と広電西広島(己斐)駅(いずれも早朝・深夜等の閑散時間帯を除く)及び広電宮島口駅での降車は改札員への後払い方式で行われている。また伊予鉄道の軌道線でもラッシュ時は一部の停留所に係員が配置され、すべての扉から降車ができる。しかし、ICカード対応機器の都合で、後扉から降車できるのは現金と定期券、1日乗車券(紙券)の旅客に限られ、ICカード利用客は前扉からしか下車できない。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "JRでは、ラッシュ時など乗降時間が延びて遅延を引き起こす可能性がある場合、ワンマン運転を行う路線でも指令所の判断により無人駅ですべてのドアを開くこともある。JR九州では2006年3月18日の改正で、一部の区間を除いてワンマン運転時に無人駅でもすべてのドアを開くようになった。また、JR西日本では無人駅であってもICOCAが利用できる駅であれば(一部の路線を除く)すべてのドアが開くようになっている。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、近畿日本鉄道の一部路線や養老鉄道などでは、設備費の削減や効率的な運行を実施するために無人駅でもすべてのドアが開く、いわゆる信用乗車方式を取り入れている。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "富山地方鉄道富山港線では、降車時間の短縮対策としてICカード「ecomyca(自社発行)」および「passca(旧・富山ライトレール発行)」の利用者に限り、全てのドアから降車できる「信用降車」を取り入れていたが、2020年3月21日より富山地方鉄道富山軌条線への乗り入れに伴って「信用降車」を取り止めた。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "前述の通り地方ではモータリゼーションや人口減少が進行、都市部でも人件費削減のためワンマン運転が増加した。近年開業した路線は、都市部では開業時からホームドアやATOなど導入してワンマン運転を導入している路線が非常に多い。特に旧国鉄建設線や近年開業の地下鉄(特に近年多く開業しているリニアメトロ)、モノレールや有人運転の新交通システムは原則開業当時からワンマン運転を実施している。この節では自社路線内で運行される自社車両による普通列車を対象とし、必ずしも全列車ワンマン運転である必要はないものとする。また、路面電車や無人運転の路線を除く。",
"title": "日本におけるワンマン運転"
}
] |
ワンマン運転(ワンマンうんてん)とは、車掌が乗務せず、運転士一人によるバスや旅客列車の運行方法である。車掌の業務である運賃収受や発車時の安全確認などは運転士が兼務する。ワンマン運行(ワンマンうんこう)ともいう。 ワンマン運行の路面電車をワンマンカー、バスをワンマンバスもしくはワンマンカー、列車をワンマン列車(ワンマンれっしゃ、ワンマン電車〈ワンマンでんしゃ〉ということもある)もしくはワンマンカーと呼び、すべて合わせるとワンマン車両(ワンマンしゃりょう)と呼ぶ。 日本の貨物列車でもすでに機関助士と車掌は廃止されており、特大貨物などの特殊な列車を除いて車掌車の連結も行われなくなっているため、複数機関車による非総括制御運転を除き運転士のみのワンマンオペレーション(一人乗務)である。
|
{{複数の問題
|出典の明記 = 2018年2月
|独自研究 = 2018年5月
}}
[[ファイル:ワンマン表示.JPG|thumb|220 px|一般的なワンマン表示器<br />蛍光灯内蔵の表示器を用いる]]
[[ファイル:E131-0 LED.gif|thumb|220 px|LED行先表示器におけるワンマン表示<br />路線によって表示色も異なる]]
[[ファイル:Takayama Honsen -One man operation.jpg|thumb|220 px|<div style="text-align:center;">[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[高山本線]]にて</div>]]
{{Sound|Kitami02.OGG|ワンマン運転車内放送例|[[きたみ (列車)|きたみ]] [[旭川駅]]発車後}}
'''ワンマン運転'''(ワンマンうんてん)とは、[[車掌]]が乗務せず、[[運転士]]一人による[[バス (交通機関)|バス]]や[[旅客列車]]の運行方法である。車掌の業務である[[運賃]]収受や発車時の安全確認などは運転士が兼務する。'''ワンマン運行'''(ワンマンうんこう)ともいう<ref>[http://www.nishitetsu.co.jp/museum/library/01/055.html 宮地岳線ワンマン運行開始(1980年)](西日本鉄道)</ref>。
ワンマン運行の[[路面電車]]を'''ワンマンカー'''、バスを'''ワンマンバス'''もしくは'''ワンマンカー'''、列車を'''ワンマン列車'''(ワンマンれっしゃ、'''ワンマン電車'''〈ワンマンでんしゃ〉ということもある)もしくは'''ワンマンカー'''と呼び、すべて合わせると'''ワンマン車両'''(ワンマンしゃりょう)と呼ぶ<ref group="*" name="twomen">ワンマン運転と区別するため、運転士と車掌が乗務している運行を'''ツーマン運転'''もしくは'''ツーメン運転'''と呼ぶことがある。</ref><ref>千歳篤・奥野和弘「函館市電ワンマンカー運転進む」『鉄道ファン Vol.9 No.98 1969年8月号』、交友社、pp.52-54、1969年。『世界の鉄道’73』、朝日新聞社、pp.44・70・72・80・91・95、1973年。東京工業大学鉄道研究部 『路面電車ガイドブック』、誠文堂新光社、pp.201-211・278、1976年など。</ref>。
[[日本の鉄道史|日本]]の[[貨物列車]]でもすでに機関助士と車掌は廃止されており、[[大物車|特大貨物]]などの特殊な列車を除いて[[車掌車]]の連結も行われなくなっているため、複数[[機関車]]による非[[総括制御]]運転<ref group="*">[[補助機関車]](補機)にも機関士/運転士が乗務し、運転操作を行う場合。[[編成 (鉄道)|編成]]の前後に機関車が連結されている場合、本務機は牽引、後補機は後押しの状態となるため、日本では[[昭和]]末期頃からこれをプッシュプル方式と呼ぶようになり、編成両端の機関車にそれぞれ機関士/運転士が常務したまま進行方向を逆転する場合もプッシュプル列車と呼ぶようになっているが、これは本来の'''[[プッシュプル列車]]'''とは用法が異なる。一方、総括制御の場合は、[[重連運転]]でも運転士は一名のみである。</ref>を除き[[動力車操縦者|運転士]]のみのワンマンオペレーション(一人乗務)である。
== 概説 ==
ワンマン運転は鉄道や[[路面電車]]、バスを中心に実施されている。都市部の地下鉄では、運転士は運転業務のみを行い、運賃収受は行わない[[#都市型ワンマン|都市型ワンマン運転]]も多い。
「ワンマン」は [[:en:One-man operation|One-man operation (OMO)]] という語句<ref group="*">一部事業者ではOne person train operation(OPTO)など独自の呼び方を使用するものもある</ref>で[[アメリカ合衆国]]でも用いられている。また、英語で'''conductorless'''(車掌抜き)とも表記されるため、[[京阪電気鉄道]]などではワンマン表示の下に、conductorlessの英字を併記している。
運賃収受システムとしては、[[運賃箱]]に[[運賃]]を投入する方式(日本、[[大韓民国|韓国]]、[[ハワイ州]]のバスなど)、運賃支払い時に乗車券を発行する方式([[オーストラリア]][[クイーンズランド州]][[ゴールドコースト (クイーンズランド州)|ゴールドコースト]]のサーフサイドバス、台湾の距離比例運賃制のバス、[[シンガポール]]や[[イギリス]]のバスなど)、[[信用乗車方式]](ヨーロッパの路面電車や鉄道など)がある。また、乗車カードの普及も進んでおり、日本の[[Suica]]システムに先がけて実用化された香港の[[八達通]](オクトパス)をはじめ、[[ICカード]]乗車券の普及も進んでいる。電子マネーが普及している地域ではつり銭の用意がない場合が多く、乗客にとっても利便性が高い。なお、世界的にはこれらの乗車券を「[[スマートカード]]」と呼称するのが一般的である。
== 日本におけるワンマン運転 ==
[[ファイル:One-man.jpg|thumb|一般的な表示形態(緑地に白文字)]]
日本では、主に[[路面電車]]、[[路線バス]]、列車あたりの[[輸送量]]が小さい[[鉄道路線]]において、人件費削減のために実施されており、特に、路面電車や路線バスではほとんどがワンマン運転となっている。このため、従来からの複数人による[[分業]]よりも運転手にかかる負担が大きい。
[[高速バス|夜行高速路線バス]]などで運転手が2名乗務し、1名が運転を担当している間にもう1名が仮眠をとり、数時間ごとに運転を交代しながら運行するケースがみられるが、業務に当たっているのは1名のみであるため、認可上はこれもワンマン運行という扱いである<ref>[[鈴木文彦]]『高速バス大百科』p200(1989年8月9日初版・ISBN 4924420360)</ref>。
ワンマン列車であっても、乗降客の多い時間帯や区間を運行する場合、車両数が多く運転士のみでは客扱いしきれない場合、ワンマン化されて間もない場合などには、車掌ではなく添乗員が乗務することがある。添乗員は乗客への案内や乗車券販売、[[改札#車内改札|車内改札]]といった補助業務のみを行い、扉開閉など列車の運転業務は運転士が行う。例えば、[[京阪石山坂本線]]では朝ラッシュ時、後方車両に列車防護要員が乗務する。列車防護要員には運転士の資格を持つ者とそうでない者とが存在する。
鉄道の場合、原則的に列車防護要員の乗務が必要であったため<ref>{{Cite web|和書|author=小島好己|date=2020-07-15|url=https://toyokeizai.net/articles/-/362000|title=鉄道「ワンマン運転」、車掌がいらない法的根拠|publisher=[[Impress Watch]]|accessdate=2023-10-26}}</ref>、赤字[[ローカル線]]や中小[[私鉄]]路線、[[地下鉄]]などの[[踏切]]の無い路線以外でワンマン運転が導入されることは無かった<ref group="*">[[1990年]](平成2年)開業の[[Osaka Metro長堀鶴見緑地線]]や、[[1997年]](平成9年)開業の[[東京メトロ南北線]](1997年開業)のように、[[自動列車運転装置]](ATO)による運行支援や[[ホームドア|ホームドア/スクリーン]]の整備により、ワンマン運転を実施している路線がある。長堀鶴見緑地線は2010年(平成22年)より順次各駅にホームドアを設置している。</ref>。しかし、列車制御や鉄道保安の技術発達に伴って[[鉄道営業法]]とそれに基づく国土交通省令も改訂されており、大都市部の通勤路線でもワンマン運転が増えており、10両[[編成 (鉄道)|編成]]の列車を3分程度の間隔で運転する例も見られる。
[[首都圏 (日本)|首都圏]]に多数の通勤路線を擁する[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]でも[[2025年]](令和7年)以降、[[山手線]]や[[京浜東北線]]を始めとする各路線への導入を検討しており、ATOの高性能化に加え[[ATACS|無線式列車制御システム]](ATACS)の導入により、将来的な「[[動力車操縦士|ドライバ]]レス運転<ref group="*">完全無人化ではなく、運転士に代わって監視や異常時の対応に当たる「添乗員」が乗務する自動運転システム。</ref>」も視野に入れている<ref>{{Cite web|和書|date=2021-12-07|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20211207_ho03.pdf|title=首都圏の輸送システムの変革を進めます|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|accessdate=2023-10-30}}</ref> <ref>{{Cite web|和書|author=加藤綾|date=2021-12-08|url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1372485.html|title=山手線がワンマン運転に。ドライバレスも視野にJR東がシステム変革|publisher=[[Impress Watch]]|accessdate=2023-10-26}}</ref> <ref>{{Cite web|和書|date=2013-03-08|url=https://trafficnews.jp/post/124760|title=山手線ほか横浜線や常磐線でもワンマン運転を予定 JR東日本、2030年ごろにかけ|publisher=[[メディア・ヴァーグ|乗りものニュース]]|accessdate=2023-10-26}}</ref>。
=== 歴史 ===
日本の大量交通輸送機関において、運転士が単独乗務する事例は[[1950年代]]以降に本格化し、広く普及し始めたのは[[1960年代]]以降である。
==== 戦前 ====
ごく古い車掌省略の例では、[[1923年]]([[大正]]12年)に[[関東大震災]]で寸断された路面電車網の補完のため、[[東京都交通局|東京市電気局]]が[[フォード・モデルT|フォードT型]][[貨物自動車|トラック]][[シャシ (自動車)|シャーシ]]に簡易車体を架装して運行した市内バス(通称「[[円太郎バス]]」)がある<ref><!-- 404 date=2013年1月 title=URL移動 [http://www.hokkaido-bus-kyokai.jp/reki2.html -->[http://www.hokkaido-bus-kyokai.jp/rekishi/reki2.html 第2章北海道バス懇和会の誕生]([[北海道バス協会]])</ref>。あくまで[[災害]]に伴う緊急措置であり、路面電車網が復旧し、またより本格的な[[路線バス]]の運行が行われるようになると車掌乗務が復活している。
鉄道では、[[馬車鉄道]]や小型[[客車]]を人力で推進する[[人車軌道]]([[明治]] - [[大正]]期に各地で若干の例が存在)等を除けば、762 mm[[軌間]]の[[軽便鉄道]]だった[[岡山県]]の[[井笠鉄道]]<ref group="*">鉄道線は[[1971年]](昭和46年)廃線</ref>が確認できる最初と見られる<ref>澤内一晃「ワンマン運転の歴史過程」『鉄道ピクトリアル No.887 2014年3月号』、電気車研究会、p.11、2014年。</ref>。同社は[[1927年]](昭和2年)7月に「軌道自動車」と呼ばれる当時の量産[[自動車]]のパワートレインを流用した、定員20人の超小型[[気動車|ガソリンカー]]を導入したが、車両定員が極端に少ないこともあり、同年10月に監督官庁へ車掌省略の特別許可を申請、認められている([[運賃]]収受は[[鉄道駅|駅]]で実施)。いつごろまで車掌省略運転が行われたかは不明である。
車掌省略は、井笠鉄道に続いて超小型ガソリンカーを導入した下津井鉄道(のちの[[下津井電鉄]])<ref group="*">鉄道線は[[1990年]]([[平成]]2年)廃線</ref>、[[播丹鉄道]](国家買収により[[加古川線]]ほかとなる)でも一時行われていたという。
==== 戦後 ====
{{Anchors|都市型ワンマン}}
日本の大量輸送型交通機関における本格的なワンマン運転は、[[1951年]]6月から[[大阪市交通局]]が一部路線のバス(当時の[[今里 (大阪市)|今里]] - あべの橋)で夜間に限り行った例が最初とされる<ref>[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1986年4月号(通巻300号)p94 GROUP ALL STATES LINE プラスバス</ref><ref group="*">京成電鉄の資料「京成電鉄85年のあゆみ」では1957年に市川 - 松戸線のバスで自社が行ったのが最初という記述があるが、これは大阪市交の先行事例や、1957年以前に複数の事業者が導入していることから、誤った記述である。</ref>。これには、[[1947年]](昭和22年)に制定された[[労働基準法]]の女子の保護規定([[深夜業|深夜勤務]]の制限)により、女性車掌の深夜乗務が不可能となったことが大きく影響している<ref group="*">[[1999年]](平成11年)の労働基準法改正まで、[[看護師]](看護婦)など一部の職種を除き、22時から翌朝5時までの深夜帯に女性の勤務はできなかった。近年まで鉄道やバスの車掌や運転士などの乗務員、駅員が男性ばかりだったのは深夜時間帯の勤務があったことによる。</ref>。
[[1960年代]]以降、地方では[[自家用自動車]]の普及([[モータリゼーション]])や[[人口]]減少(特に若年人口の減少による通学者の減少)が進行し、[[公共交通機関]]は乗客の減少による経営難に直面するようになった。また、都市部においても[[鉄道路線|路線]]建設費の高騰([[減価償却]]費の増大)や求人難への対処が求められるようになり、合理化策として車掌乗務の廃止が進められていった。
路線バスでは、1960年代以降に大都市からワンマン化が広がり始め<ref group="*">[[札幌市交通局]]では雇用確保の観点からワンマン化に消極的で、この時期は市営バスのごく一部のみへの導入にとどまっている。同局でワンマン化が進むのは、市電が[[1969年]](昭和44年)、バスに至っては[[1972年]](昭和47年)の[[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]終了後となる。</ref>、やがて地方のバスも山間部や[[狭隘路線]]のように保安要員として車掌を要する特殊な路線以外はワンマン化されていった。
[[路面電車]]では[[名古屋市電]]が合理化策として、郊外閑散路線の[[名古屋市電下之一色線|下之一色線]]・[[名古屋市電築地線|築地線]]で[[1954年]]2月から実施したのが最初である<ref>『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション12 路面電車の時代 1970』、電気車研究会、pp.23・56、2007年。</ref>。ワンマン電車の普及が進むと同時に、路面電車自体が廃止により激減したこともあり、現存するほとんどの路面電車がワンマン運転である。なお、[[広島電鉄]]・[[熊本市交通局]]では[[連接台車|連接車]]を中心に車掌を乗務させている。
一般の鉄道における現代的なワンマン運行は[[関東鉄道]][[関東鉄道竜ヶ崎線|竜ヶ崎線]]で[[1971年]][[8月1日]]より実施され、[[日立電鉄線]](2005年廃止)が同年[[10月1日]]に続いた<ref>[http://jdream2.jst.go.jp/jdream/action/JD71001Disp?APP=jdream&action=reflink&origin=JGLOBAL&versiono=1.0&lang-japanese&db=JSTPlus&doc=01A0626225&fulllink=no&md5=46c75a1ade39247a8af3f4fb5e9fda1d 我が社(日立電鉄)のワンマン運転とその背景]([[川崎勉]]([[日立電鉄]])、2001.6 [[運転協会誌]]Vol.43, No.6, Page17-20、リンク先は[[科学技術振興機構]]の文献検索[[JDreamII]])</ref>。その後は[[大手私鉄|大手民鉄]]のローカル線、[[日本国有鉄道|国鉄]](→[[JR]])へと拡大していった。国鉄では[[国鉄分割民営化|分割民営化]]のわずか5日前である[[1987年]]3月27日、[[関西本線]]の[[四日市駅|四日市]] - [[河原田駅|河原田]]間において[[伊勢鉄道]]の列車に限って運行を開始したのが初の事例であり、純粋なJR車両による区間としては[[1988年]]3月13日の[[南武線]]浜川崎支線、[[大湊線]]、[[美祢線]]大嶺支線(1997年廃止)、[[山陰本線]][[仙崎駅|仙崎支線]]、[[香椎線]]、[[三角線]]が最初の例である。
また、都市圏の鉄道でも人件費削減を目的に、[[地方鉄道#中小民鉄(50社)|中小私鉄]]の都市部路線、そして[[大手私鉄|大手民鉄]]の本線に対する支線や末端区間を中心に'''都市型ワンマン'''と呼ばれる運行形態が増えている。地方鉄道のワンマン運転と最も異なるのは、車内で[[乗車整理券#乗車票・乗車駅証明書|整理券]]の発行や運賃の受け渡しを行わず、運賃収受は従来どおり駅で行う点である。都市型ワンマンは[[1975年]]に[[静岡鉄道静岡清水線]]で始まり、大手民鉄では[[1980年]]9月1日の西鉄宮地岳線(現:[[西鉄貝塚線]])で最初に始まった。関東では[[西武多摩川線]]、[[東武伊勢崎線]]館林駅 - 伊勢崎駅間・[[東武東上本線|東武東上線]]小川町駅 - 寄居駅間など、関西では[[京阪交野線]]・[[京阪宇治線|宇治線]]・[[京阪京津線|京津線]]・[[京阪石山坂本線|石山坂本線]]、[[神戸電鉄]]全線など各地に広がっている。国土交通省通達による、[[デッドマン装置]]・ワンマン表示灯・後方確認用ミラーなどの装置を取り付ければワンマン運転は可能であるが、実際には運転士の業務負担を減らすため、自動放送装置や、運転席に座ったまま操作できる[[車掌スイッチ|ドアスイッチ]]などが装備される場合も多い。
[[地下鉄]]を含む利用者の多い路線においても人件費削減を目的にワンマン化が進んでいる。本格的なものとしては[[1984年]]1月20日の[[福岡市地下鉄空港線]]が最初の例であり<ref>澤内一晃「ワンマン運転の歴史過程」『鉄道ピクトリアル No.887 2014年3月号』、電気車研究会、pp.17-18、2014年。</ref>、[[東京メトロ南北線|営団地下鉄(現:東京メトロ)南北線]]、[[都営地下鉄大江戸線]]、[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]などに拡大した。また少子高齢化時代を見据えて、ツーマン運転<ref group="*" name="twomen" />を前提に開業した路線に各種支援機器を設置してワンマン運転に移行した路線もあり、[[東京メトロ丸ノ内線]]・[[都営地下鉄三田線]]・[[横浜市営地下鉄ブルーライン]]・[[東京モノレール羽田空港線]]などが該当する。各路線とも、[[自動列車運転装置]](ATO)による自動運転や[[ホームドア]]の整備、運転席からホームを監視できるモニタなど各種支援機器の整備によって、運転士の負担の軽減と安全性の一層の向上を図っている。近年では安全を担保しつつ設備コストを抑えるため、フルスクリーンタイプのホームドアから可動式ホーム柵へ、ATOは停車時のみ自動制御を行なう[[定位置停止装置]](TASC)とするなどの工夫も見られる。なお、[[東急池上線]]、[[東急多摩川線]]、[[名鉄三河線]]、[[近鉄けいはんな線]]などではホームドアの代わりにホーム柵を設置し、その間に光センサーを利用したホームセンサーを取りつけることで、人が立ち入った場合には列車に自動的にブレーキをかけたり、列車の発車ができないようにすることで安全性を図っている。2023年現在、大手私鉄においてワンマン運転を行う路線が一切存在しないのは[[小田急電鉄]]、[[京浜急行電鉄]]、[[相模鉄道]]の3社のみである<ref>{{Cite journal|和書|journal=大手民鉄の素顔|title=ワンマン運転導入状況|page=47|publisher=[[日本民営鉄道協会]]|date=2023-10-01|url=https://www.mintetsu.or.jp/activity/databook/pdf/23databook_p47.pdf|language=ja|format=PDF|accessdate=2023-10-27}}</ref>。
なお、ワンマン運転を行うことと列車種別には相関はなく、特に地方線区においては[[優等列車]]であっても需要などに応じてワンマン運転は行われる<ref group="*">例えば、2022年3月まで[[山陽本線]]の岡山地区で運転されていた快速[[サンライナー]]では、全ての停車駅にゲートを備えた自動改札機が設置されていることを理由に都市型ワンマン運転を行っていた。なお同地区の普通列車には車掌が乗務している。</ref>。別途料金を必要とする種別でもワンマン運転を行う場合があり、JR九州では一部の[[特別急行列車|特急列車]]<ref group="*">基本的に[[ハウステンボス (列車)|ハウステンボス]]号の早岐 - ハウステンボス間、[[日豊本線]]のうち、[[JR九州787系電車|787系]]の4両編成で運転される特急([[にちりん (列車)|にちりん]]・[[ひゅうが (列車)|ひゅうが]]・[[きりしま (列車)|きりしま]])ならびに2両編成の気動車列車が対象で、多客期に増発・増結される場合は車掌も乗務する。</ref>でワンマン運転を行っている。ただし[[客室乗務員]]あるいは[[改札|機動改札員]]が乗務している列車もあり、その場合は運転士が接客業務を行うことは少ない。
[[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]]等の[[新交通システム]]では運転士すら乗務せず、すべての操作が中央指令室から自動で行われる完全な無人運転としている路線が多く、有人運転の場合は運転士のみの乗務(前述の地下鉄と同様の形)となる。一方で[[東京ディズニーリゾート]]を走行するモノレール路線の[[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]]は、逆に通常時に運転士に相当する「ドライバーキャスト」は乗務せず、ドア扱い、安全確認、案内などを担当する車掌に相当する「ガイドキャスト」のみが乗務する、一般的なものとは逆の形態となっている。
=== 運転士の役割と車両などの装備 ===
[[ファイル:Kiha 52 tobira switch.JPG|thumb|200 px|JR西日本大糸線で[[国鉄キハ20系気動車#キハ52形|キハ52形]]で使われていた運転席にあるワンマン運転用の扉の開閉スイッチ、中央にあるのはATS-S型の警報確認ボタン]]
ワンマン運転を行う車両における運転士は、[[機長]]や[[船長]]と同様に、運行される列車やバスの最高責任者であり、乗客は安全確保のために運転士が下す指示に従わなければならない(車内掲示の「禁止事項」に明記されている)。拒否した場合、乗客は強制的に降車させられる場合もある。
バス停留所や駅では、運転士が戸を開け客扱いを行う。出発する際には、運転士が安全確認を行い戸閉め操作を行う。車内放送も運転士が行うが、テープなどによる自動放送を主体とし、運転士は自動放送で対処できない内容を補助的に放送するようになっていることが多い。
鉄道の場合、運転士の失神などで一定時間機器操作がなされなかったときに非常ブレーキを動作させる[[緊急列車停止装置]]や、事故時に付近の列車を停止させる[[列車防護無線装置]]、車内の乗客との非常通報・通話装置などが設けられる。また、[[プラットホーム]]に後方確認用ミラーや[[ビデオカメラ]]・モニターを設置し、照明の増設や上屋高さの向上など安全確認をしやすくする改良も行われる。
バスの場合、[[バスジャック]]が発生した際の非常通報装置が設けられることもある。また[[狭隘路線|狭隘区間を有する路線]]では、[[バックミラー#後方モニター|後部モニター装置]]つき車両を導入したり、狭隘区間のみ誘導員を乗車させたりすることがある。韓国のバスや、サーフサイドバスでは、安全対策(運転手への暴力行為)、および不正対策として運転席付近に監視カメラが設置されている。
=== 運賃支払方法 ===
[[ファイル:JR East DC E130 Unchinbako and SeirikenHakkouki.JPG|thumb|バスでも使われる、一般的な運賃箱と整理券発行機([[JR東日本キハE130系気動車]]の例)]]
ワンマン運転の運賃収受は駅または車内で行われる。定期利用客は[[定期乗車券|定期券]]を提示するのみという場合が多い。[[路線バス]]はもとより、無人駅を多く抱える地方の鉄道などでは車内収受となる場合が多い。車内収受は乗降時間が延びる欠点があるものの、駅員の配置を省略できるため特に経済性が高い。以下に示すのは、主に車内料金収受に関する事象である。
==== 乗車時 ====
乗車箇所を証明するため、乗客は車内に設置された機械で発行される[[乗車整理券#乗車票・乗車駅証明書|整理券]]や、駅に設置された機械で発行される(駅に備え付けている場合もある)乗車駅証明書を取得しておく。[[始発]]駅・停留所から乗車する場合は「整理券なし」区分<ref group="*">ただし、ICカードの導入・普及により、始発駅・停留所からの乗車において、「整理券なし」から、整理券を発券する事業者<!---青森県の弘南バスなど--->もある。</ref>とし、整理券などの発行が省略されることもある。
大都市部の[[路線バス]]に多い均一運賃制の場合は、乗車時に運賃を支払うケースがほとんどである。また、あらかじめ乗車時に降車停留所を告げた上で運賃を支払う方式もある。これは「[[#前乗り後降り|前乗り後降り]]」の節で詳述する。
鉄道の場合、駅によっては乗車前に自動券売機や業務委託先などの発券窓口で[[乗車券]]を購入できる場合もある。バスにおいても、一部の[[バスターミナル]]などでは乗車券を販売している<ref group="*">青森県の弘南バスでは、地域連携ICカード「MegoICa」導入に伴い、弘前バスターミナル・五所川原ターミナルでの<!---普通--->乗車券の発売を取り止めた。</ref>。
==== 降車時 ====
[[ファイル:Odawara multiBlock Unchinhyou HachinoheCityBus.jpg|thumb|バス車内の運賃表の例([[八戸市営バス]]) 現在はこのように電光表示、または液晶ディスプレイだが、かつては方向幕と同じ方式で変わり、そのたびに「運賃が変わります、ご注意下さい」の録音アナウンスが流れていた]]
[[ファイル:Kiha110-Untinhyoujiki.JPG|thumb|鉄道車両の運賃表の例([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[磐越東線]]キハ110形)]]
降車時には、運転席横の[[運賃箱]]へ整理券・乗車駅証明書および運賃を投入する。運賃は車内の[[運賃表示器]]に表示される。通常つり銭は出ず、運賃箱に両替機能が内蔵されている。乗車券を購入している場合は降車時に運賃箱へ乗車券を投入する。運転士は、運賃着服([[横領罪|横領]])防止のため、運賃を手で受け取ることが原則として禁止されている(「[[手受け]]」の記事参照)。
さらに、有人駅や[[改札口]]付きバスターミナルで降車する際には運賃を駅で支払う場合もある。有人駅で下車する場合、一部を除き駅改札口(規模が大きい駅では精算窓口)で運賃を支払うことが多い。なお整理券は自動改札に投入できないため、自動改札のある駅では整理券を専用の回収箱に投入するよう注意を促している。
改札内で他社線と接続する駅などでは、収受漏れを防ぐ目的などから運賃を車内で精算し、乗務員から受け取った「精算済証」を駅員に渡すことが多い。なお、ICカード対応路線内のワンマン運転列車に関しては、車内運賃収受ではなく駅自動改札(簡易改札を含む)で行われる場合も多い。
ワンマン列車から車掌乗務の列車に乗り換える際は、乗車券を未購入ならば整理券を提示して駅窓口で購入する。ただし、乗換時間が少ない場合は乗継いだ列車の車掌あるいは機動改札員から購入する(車内補充券は通常のきっぷ類に加え、一部の往復割引きっぷも購入が可能)。乗換駅が無人駅の場合、乗車券を持っていなければ乗換駅までの運賃をいったん精算した上で「精算済証」を受け取り、乗継いだ列車を下車する際に証明書および差額分の運賃を支払う場合もある。
==== 乗車カードの利用方法 ====
均一運賃制のバスの場合、[[乗車カード]]で運賃を支払うには運賃箱付近に設置されたカードリーダー(運賃箱との一体型が多い)を利用する。
多区間運賃制(整理券方式)のバスの場合、基本的に乗車時に整理券発行機付近のカードリーダーで乗車停留所を記録し、降車時に降車口付近のカードリーダーで運賃を精算する。乗車停留所の記録がなければ降車時にエラーとなり、乗車停留所の申告を受けた運転士が手操作で引落し金額を設定する場合が多い。ただし、一部の事業者は始発停留所からの運賃を差引いている。
このほか、[[バーコード]]が印刷された整理券を受け取って乗車し、降車時に運賃箱がバーコードから運賃を計算して引落す方式や、乗車時には整理券を取り、降車時に運転士が整理券から手操作で金額を設定する方式を採るバスもある。
鉄道では、通常は駅の[[自動改札機]]またはセンサーとカードリーダーのみを備えた簡易改札機(無人駅に設置)を利用するほか、路線によっては[[京福電気鉄道|京福電鉄]]・[[叡山電鉄]]などのように車両にカードリーダーを搭載している場合もある。また[[名鉄蒲郡線]]など、カードシステム対応の鉄道会社であっても、ワンマン運転の路線内ではカード利用を認めていないところもある{{Refnest|group="*"|ただし、名鉄蒲郡線及び[[名鉄広見線]](新可児 - 御嵩間)の場合、利用客の著しい減少により存廃問題が発生しており、名鉄はこれらの線区について廃線としたい意向を示しているものの、沿線自治体の補助を受けて路線が存続されているという現状がある<ref name="chunichi-np-2015-3-27">林知孝(2015年3月27日). “西蒲線 現行継続求める 西尾・蒲郡市 名鉄に支援金方針”. [[中日新聞]] (中日新聞社)</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.gifu-np.co.jp/blog/tetsu/2007/12/12/187|title=広見線存廃で名鉄が打診|work=「鉄」記者ブログ|newspaper=岐阜新聞|date=2007-12-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100817012716/https://www.gifu-np.co.jp/blog/tetsu/2007/12/12/187|archivedate=2010-08-17|accessdate=2021-10-12}}</ref>。このためかどうかは明言されていないものの、これらの線区については乗車カードシステムを導入しない方針<ref name="MW080327">[http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2007/20080327.html 平成20年度設備投資計画-鉄道事業を中心に総額22,127百万円-] - 名古屋鉄道、2014年10月19日閲覧。</ref>がとられており、ワンマン運転の実施と乗車カードシステム未対応に直接的な関係はない。実際、当該線区を除く名鉄のすべての線区(ワンマン運転実施の有無を問わない)に、乗車カードシステムが導入されている<ref>[https://www.meitetsu.co.jp/manaca/transportation/area/ ご利用いただけるエリア - manaca・MEITETSU μ's Card | 名古屋鉄道]</ref>。}}。
いずれの場合も、カード残額が不足する場合は別のカードか現金で不足分を支払う。ICカード等、チャージ(積み増し)が可能なカードではチャージして精算することもできる。
=== 乗客の乗降方法 ===
地下鉄や都市近郊鉄道など、有人駅や自動改札が完備されている場合は基本的にすべてのドアが開閉される。一方、路線バスや路面電車、閑散路線の列車など車内で運賃を支払う場合は混雑度や途中地点での乗り降りの頻度などにより、各種の方法が取られる。
鉄道や路面電車では原則として利用者の有無に関わらず、各駅(停留所)に停車して客扱いを行う。対してバスや一部の路面電車では、到着までに[[降車ボタン]]が押されず、乗車を待つ利用者がいない場合は停留所を通過するものがある。
==== 前乗り前降り ====
乗降客が少ない区間、もしくは路線運賃体系上で整理券を発行しない第一区間以外で用いられるものである。前払い方式と整理券方式の後払いがある。
主に乗降口が一箇所しかない[[高速バス]]やそれに準じた車両(トップドア車)を用いる一般路線バスで用いられる。また、2ドア車の中(後)ドアを半永久的に締め切り、事実上のトップドア車として前乗り前降り方式で使用する場合もある。そのほかに、[[箱根登山バス]]、[[会津乗合自動車]]、また沖縄県内各社<ref group="*">那覇バスの市外線車両、琉球バス交通のノンステップバス、沖縄バスのノンステップバス及び新車ワンステップバス、東運輸のバリアフリー対応の車両がこれに該当。</ref>では、後部ドアも開閉可能ではあるが通常は使わず(車椅子で乗降する場合のみ使用)、前乗り前降り方式で運行する路線がある。この場合、大部分の路線ではベビーカーは乗降する際、折りたたむ必要がある。[[濃飛乗合自動車]]及び[[羽後交通]]では豪雪対策として採用している。大・中型車両の入口と出口が分かれている事業者であっても、小型車両においては以前のマイクロバスが構造上原則としてトップドアであるために前乗り前降りを採用している場合もある。かつて[[神奈川中央交通]]の多区間運賃制でも、この方式が採用されていたが、沿線利用者の要望や、バリアフリーに対応するため、中乗り前降りに変更された<ref>[[神奈川中央交通]] お知らせ 2017年3月17日 3/21(火)から町田・多摩営業所管内で乗降方式変更(一部系統除く)</ref>。
鉄道でも採用があり、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]はすべてこの方式である。改札業務を行っている駅ではホーム側の全ドアが開くが<ref group="*">運転士が使用する携帯時刻表では全ドアが開扉する駅では停車場名(駅名)の横に丸印の「全」という赤文字の押印がされている。</ref>、朝晩の無人時間帯(窓口営業時間外)は無人駅と同様に前ドアのみが開く。[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[左沢線]]もこれとほぼ同様の方式になっている。また、[[九州旅客鉄道|JR九州]]では[[日豊本線]]の[[宗太郎駅]]で採用されている。また[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]では2020年3月14日ダイヤ改正に伴い[[和歌山線]]五条 - 和歌山間も同様の乗降方法に切り替わる。私鉄でも[[弘南鉄道]]や[[上田交通|上田電鉄]][[上田電鉄別所線|別所線]]などの採用例がある。
==== 前乗り中(後)降り ====
乗車時に乗務員のいる前方のドアから入り、運賃を支払ったうえで車内に進み、降りるときに後方のドアから降りる方式である。終点ですべてのドアが利用できるので降車時間が短くなる。
主に均一運賃の路線で用いられる方式である。この場合、乗車時に所定の運賃を運賃箱へ投入する。事業者によっては釣り銭を出すことができる(できない場合は両替して投入する)。大都市部の一般路線バスに多いほか、軌道線では[[都電荒川線]]・[[東急世田谷線]]・[[豊橋鉄道東田本線]]などで採用されている。世田谷線は2両編成の最前部と最後部のドアに乗務員(運転士・案内係)を配置し、降車は乗務員が配置されていない中間部のドアから行う。この方式を「連結2人乗り」と称しており、前身の[[東急玉川線]]時代より行われている。なお、車両後部に配置される案内係はドア開閉や安全確認を行わず、すべて運転士が行っている。
バスにおいては、大都市圏の一部を中心に、前乗り中(後)降り式で区間制運賃としている路線もある。この場合、乗客は乗務員に降車地を申告し、その降車地までの運賃を支払う。信用乗車制前払い(または運賃申告方式)とも呼ばれ、[[東急バス]]・[[京浜急行バス]]・[[神奈川中央交通]]・[[江ノ電バス]]・[[西武バス新座営業所|西武バス]]・[[奈良交通]]・[[東武バス]]・[[京成バス]]などの一部路線で採用されている。利点として、ラッシュ時間帯における降車時間の短縮などが挙げられるが、運賃の誤収受が起こりやすいほか、普及が進むICカードでは引き落とし額設定のため乗車に要する時間が増えるため、バスの遅延が指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/47710|title=路線バスは難しいは間違い? 乗り方、基本は3通り しかし特殊例も|accessdate=2019-01-05|publisher=乗りものニュース}}</ref>。
ワンマン運転は当初、大都市の均一区間から導入が始められたため前乗り中(後)降りが主流だったが、大阪市交通局や[[京都市交通局]](バス)や[[近鉄バス]](近鉄直営の近畿日本鉄道自動車局時代)、[[船橋新京成バス]]、[[松戸新京成バス]]などの様に中(後)乗り前降りに変えた例もある。
また、本来は中(後)乗り前降りであっても始発停留所のみ乗車扱いの関係で前乗りを行なっている場合もある。<ref group="*">近鉄バスは長年、布施線の徳庵停留所で折り返しの際にバス停の構造の関係で前乗りを行なっていた。また、他にも同様の事例がいくつかあった。</ref>
==== 中(後)乗り前降り ====
[[ファイル:Kiha52 oneman.JPG|thumb|大糸線[[国鉄キハ20系気動車#キハ52形|キハ52形]]のワンマン装備。後乗り前降り。国鉄形車両でドア配置がワンマンに対応していない場合は整理券発行機と運賃箱との間に距離がある。]]
後払い(整理券)方式の乗降客が比較的多い区間、または路線運賃体系上の第一区間(整理券発行不要区間)で用いられる。乗車時に後扉(入口)付近の発行機で整理券を取り、降車時に整理券番号に応じた運賃を払う。多くの路線バスのほか、[[本州]]・[[四国]]・[[九州]]のローカル鉄道路線やほとんどの路面電車で採用されている。関西地方では、整理券を発行しない均一料金制の路線バスも一部を除き後乗り前降り(降車時払い)になっている。
ワンマン化の過渡期(ワンマン運転は当初、大都市の均一区間から導入が始められたため前乗り中(後)降りが主流だった)や同じ地域内で事業者の運行形態や乗降の扱いの違い<ref group="*">[[尼崎市]]や[[伊丹市]]の各交通局は均一区間の前乗り中(後)降りに対して[[阪急バス]]や[[阪神バス]]は整理券方式の中(後)乗り前降り、[[奈良交通]]の場合は同じ事業者でも[[奈良市]]中心部では系統によって前乗り中(後)降り先払いと中(後)乗り前降り後払いで運賃支払いの扱いが違う</ref>などで前乗り中(後)降りと混在している例がある。神奈川中央交通では中(後)乗り前降り 、前乗り前降り 、前乗り中(後)降りの3通りの乗車方法を採用していたため、乗り方が複雑になっていたことから、2012年より前乗り前降りの路線を中(後)乗り前降りに変更している<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/47710|title=路線バスは難しいは間違い? 乗り方、基本は3通り しかし特殊例も|accessdate=2019-01-05|publisher=乗りものニュース}}</ref>。
[[不正乗車|キセル]]防止のため、乗車用の後ろ扉を降車用の前扉から少し遅れて開けるようにしたり、ホームに乗客がいない場合は後ろ扉を開けないか、すぐに閉める運転士も多い。半自動扉(客用ドアボタンで開閉するもの)の場合(無人駅での停車中)は乗車用の後ろ扉の「開」ボタン(車内)では開扉できない(車外の「開」ボタン、車内の「閉」ボタンは操作可能)。降車用の前扉は車内の「開」「閉」ボタンの操作は可能。またその観点から、駅の出入口付近に列車を停車させるようにした駅もある。
; 備考
: 一部のバスや路面電車では、特定の停留所で「[[のりかえ券]]」を発行する場合がある。乗り換え時に最終目的先までの運賃を支払って発行を受け、乗り継いだバスや電車では降車時に乗り換え券を運賃箱に投入する方式、乗り換え地点までの運賃を支払って発行を受け、乗り継いだバスや電車では降車時に乗り換え券と差額運賃を運賃箱に投入する方式([[札幌市交通局]]など)、乗車時に「整理券・乗りつぎ券」と記されたものを受け取り、乗継指定停留所でその地点までの運賃を支払い、その券片を所持したまま次のバスに乗り継ぎ、最終目的地で差額を支払う方式([[南海バス堺営業所]])がある。
: 終点での下車客が多いバス路線では、ラッシュ時など特に降車客が多い時間帯は停留所へ係員を配置し、中(後)ドアからも降車を行って降車時間短縮を図ることもある。この場合、運賃は中(後)ドア横の係員に支払う。この方式は[[甲子園駅]]や[[広電西広島駅]]でしばしば見ることができる。また路面電車でも同様の取り扱いをするところがあるが、これについては次項を参照。
==== 自由乗降 ====
鉄道において、鉄道の有人駅や遠隔監視・巡回による自動改札化区間では、すべてのドアが乗降に利用できる場合が多い。これを自由乗降方式と呼ぶ([[四国旅客鉄道|JR四国]]のように、有人駅でも後乗り前降りを採用する場合もある)。ただし、路線バスにおいて「自由乗降」という言葉は「停留所以外でも乗降できる方式」を指す。こちらについては[[フリー乗降制]]を参照。
例えば[[広島電鉄]]の場合、有人の[[広島駅#広島電鉄|広島駅]]と[[広電西広島駅|広電西広島(己斐)駅]](いずれも早朝・深夜等の閑散時間帯を除く)及び[[広電宮島口駅]]での降車は改札員への後払い方式で行われている。また[[伊予鉄道]]の[[伊予鉄道#路線|軌道線]]でもラッシュ時は一部の停留所に係員が配置され、すべての扉から降車ができる。しかし、ICカード対応機器の都合で、後扉から降車できるのは現金と定期券、1日乗車券(紙券)の旅客に限られ、ICカード利用客は前扉からしか下車できない。
JRでは、ラッシュ時など乗降時間が延びて遅延を引き起こす可能性がある場合、ワンマン運転を行う路線でも指令所の判断により無人駅ですべてのドアを開くこともある。JR九州では2006年3月18日の改正で、一部の区間を除いてワンマン運転時に無人駅でもすべてのドアを開くようになった。また、JR西日本では無人駅であっても[[ICOCA]]が利用できる駅であれば(一部の路線を除く)すべてのドアが開くようになっている。
また、[[近畿日本鉄道]]の一部路線や[[養老鉄道]]などでは、設備費の削減や効率的な運行を実施するために無人駅でもすべてのドアが開く、いわゆる[[信用乗車方式]]を取り入れている。
[[富山地方鉄道富山港線]]では、降車時間の短縮対策としてICカード「[[ecomyca]](自社発行)」および「[[passca]](旧・[[富山ライトレール]]発行)」の利用者に限り、全てのドアから降車できる「信用降車」を取り入れていたが<ref>[http://www.t-lr.co.jp/news/news0336.html 信用降車を終日実施いたします] 富山ライトレール 2017年10月5日 2016年10月16日閲覧。</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.t-lr.co.jp/news/update/file_0336.pdf 信用降車を終日実施いたします]}} - 富山ライトレール 2017年10月5日 2016年10月16日閲覧。</ref><ref>テレビ朝日系 [[モーニングショー|羽鳥慎一モーニングショー]] 「ショーアップ」コーナー 2017年10月10日放送</ref><ref>{{Citenews|title=富山ライトレールの「信用降車」を終日に拡大 10月15日から… ICカードに限定|url=https://response.jp/article/2017/10/10/300861.html|publisher=Response|date=2017-10-10|accessdate=2017-10-16}}</ref><ref>{{Citenews|title=富山ライトレール、係員ノーチェックの「信用降車」終日実施へ 不正は大丈夫?|url=https://trafficnews.jp/post/78786|publisher=乗りものニュース|date=2017-10-14|accessdate=2017-10-16}}</ref>、2020年3月21日より[[富山地方鉄道富山軌道線|富山地方鉄道富山軌条線]]への乗り入れに伴って「信用降車」を取り止めた<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/340820 柚原誠『富山LRT、直通運転で消えた便利な「セルフ乗車」』] - 東洋経済オンライン、2020年4月3日</ref>。
=== (参考)開業当初からワンマン運転を実施している路線 ===
{{出典の明記|section=1|date=2021-01-19}}
[[#戦後|前述]]の通り地方ではモータリゼーションや人口減少が進行、都市部でも人件費削減のためワンマン運転が増加した。近年開業した路線は、都市部では開業時から[[ホームドア]]や[[自動列車運転装置|ATO]]など導入してワンマン運転を導入している路線が非常に多い。特に[[特定地方交通線#日本鉄道建設公団建設線の開業|旧国鉄建設線]]や近年開業の[[地下鉄]](特に近年多く開業している[[日本の地下鉄#ミニ地下鉄|リニアメトロ]])、[[モノレール]]や有人運転の[[新交通システム]]は原則開業当時からワンマン運転を実施している。この節では自社路線内で運行される自社車両による普通列車を対象とし、必ずしも全列車ワンマン運転である必要はないものとする<!--と注記を入れないとJR特急乗り入れのほくほく線、智頭線、宿毛線が対象外になる。阿佐東線にもJR四国キハ185の乗り入れ実績あり。大洗鹿島線は7000形「マリンライナーはまなす」が非ワンマン運転だった。-->。また、路面電車や無人運転の路線を除く。
:★印は開業と同時にホームドアも設置。
:☆印は旧国鉄建設線
:●印はリニアメトロ地下鉄。
:■印はモノレールや有人運転の新交通システム。
:▲印は開業当初からワンマン運転は普通列車などに留めて[[特急列車]]などの優等列車は全列車車掌が乗務する路線。
:×印は現在は廃止された路線。
* [[仙台空港鉄道仙台空港線]]
* [[仙台市地下鉄]]
** [[仙台市地下鉄南北線|南北線]]<ref group="*">仙台市地下鉄は日本で初めて開業以来車掌が乗務しない地下鉄でもある。</ref>
** [[仙台市地下鉄東西線|東西線]]★●
* [[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線]]☆<ref group="*">以前運転されていた[[鹿島臨海鉄道#旧在籍車両|7000形]]「[[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線#マリンライナーはまなす|マリンライナーはまなす]]」が非ワンマン運転だった。</ref>
* [[埼玉新都市交通伊奈線]]■
* [[東京地下鉄|東京メトロ]]・[[埼玉高速鉄道]]・[[都営地下鉄]]
** [[東京メトロ南北線|南北線]]・[[埼玉高速鉄道線]](埼玉スタジアム線)★
** [[東京メトロ副都心線|副都心線]]★
** [[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]●
* [[多摩都市モノレール線]]★■
* [[千葉都市モノレール]]
** [[千葉都市モノレール1号線|1号線]]■
** [[千葉都市モノレール2号線|2号線]]■
* [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]★
* [[横浜市営地下鉄]]
** [[横浜市営地下鉄グリーンライン|グリーンライン]]★●
* [[東急新横浜線]]★
* [[北越急行ほくほく線]]☆▲
* [[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線]]★
* [[桃花台新交通桃花台線]]★■×<ref group="*">[[2006年]][[10月1日]]に廃線となった。</ref>
* [[名古屋市営地下鉄上飯田線]]★
* [[京都市営地下鉄東西線]]★
* [[大阪モノレール]]
** [[大阪モノレール本線|本線]]■
** [[大阪モノレール彩都線|彩都線(国際文化公園都市モノレール線)]]■
* [[Osaka Metro今里筋線]]★●<ref group="*">同じ[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]のリニアメトロの[[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|長堀鶴見緑地線]]は開業当初は車掌が乗務していた。</ref>
* [[神戸市営地下鉄海岸線]]●<ref group="*">リニアメトロではあるがホームドアの設置予定は今のところ無い。</ref>
* [[神戸電鉄公園都市線]]
* [[智頭急行智頭線]]☆▲
* [[井原鉄道井原線]]☆
* [[広島高速交通広島新交通1号線]]★■
* [[阿佐海岸鉄道阿佐東線]]☆
* [[土佐くろしお鉄道]]
** [[土佐くろしお鉄道宿毛線|宿毛線]]☆▲
** [[土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線|ごめん・なはり線]]☆
* [[北九州高速鉄道小倉線]]■
* [[福岡市地下鉄七隈線]]★●
* [[沖縄都市モノレール線]]★■<ref group="*">[[沖縄県]]唯一の鉄道。このため、沖縄県の鉄道は全てワンマン運転である。</ref>
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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[[Category:バス事業]]
[[Category:鉄道運転業務]]
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阪急嵐山線
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嵐山線(あらしやません)は、京都府京都市西京区の桂駅から嵐山駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。
沿線に嵐山などの観光地を控え、行楽客や年末年始の初詣客で賑わう。かつては嵐山支線と表記した例も見られた。
なお、正式な起点は桂駅だが、列車運行上は嵐山駅から桂駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。また甲陽線と同様、停車場間の閉塞信号機は設置されていない。
通常は線内折り返しの普通列車のみの運行で、朝夕は毎時6往復、日中は毎時4往復運行している。運行間隔は不均一で、朝夕のラッシュ時は交互に約8分と約12分の間隔、日中は交互に約13分と約17分の間隔となっている。通常は4両編成であるが、行楽シーズンの土曜・休日や大文字五山送り火の日には6両編成が使用されたり、約10分間隔(交換設備の関係で完全な10分間隔ではない)に増発されたりすることがある。
例年、春・秋の行楽シーズン(主に3月下旬から5月のゴールデンウィークまでと11月)には嵐山への行楽輸送を目的とした京都本線等と直通する臨時列車が運転されている。基本的に土休日ダイヤでの運転であるが平日に設定される場合もある。以下、特記がなければ土休日での運転である。一部列車は嵐山線内の定期列車と統合され、臨時列車が運転される時間帯は線内折り返しの普通が減少することがある。なお、嵐山線内のホーム有効長の関係上、各線から嵐山線まで全区間で最大で6両編成で運行される。
臨時列車の運行の変遷については以下の通りである。
かつて梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 嵐山駅間で運行していた臨時急行である。歴史は古く、戦前から運転を開始し、途中中断したものの戦後になり再開。明確な再開時期は不明であるが、鉄道ピクトリアル2017年4月号の阪急電鉄京都線特集の記事によると、1953年には既に再開していたとの記述がある。
愛称は1992年秋の運転より付けられたものであり、このシーズンのみ「さがのエクスプレス」であったが、早くも翌1993年の春の運転からは「嵯峨野エクスプレス」に変更された。愛称が付けられる前は、起終点のそれぞれ1文字を取って「梅嵐(ばいらん)急行」あるいは単に「梅嵐」とも呼ばれた。
梅嵐急行の運行標識板は1960年代後半頃までは「大阪 臨急 嵐山」と文字だけのものであったが、1970年代に春はさくらを、秋はもみじを模したものに変更され、さらに1981年春の運転からは「大阪」の部分を「梅田」に変更した(1981年3月1日に運行標識板の様式を全面的に改定したことによる措置)。この運行標識板は1992年秋の運転で愛称が付けられた後も運転終了まで継続して使用されていたが、表示幕車には取り付けられなかった。また、愛称が付けられた1992年秋以降は愛称表示板も取り付けられるようになったが、これについては表示幕車にも前面貫通扉下部に掲示されていた(標識板使用車の場合は車掌台側に掲示)。この愛称表示板についても愛称表示開始から2度様式を変更している。
1982年の秋は、桂駅改良工事の影響で、京都本線と嵐山線の直通運転が一時的に不可能となっていたため、梅田駅 - 嵐山駅間の直通急行は設定されず、代わりに梅田駅 - 桂駅間の臨時急行「梅桂(ばいけい)急行」が設定された。運行標識板はもみじを模したデザインではなく「桂 臨急 梅田」という、文字だけのシンプルなデザインのものが使用された。また、梅田駅工事の関係で1966年春の梅嵐急行は十三駅発着で運転され「十嵐(じゅうらん)急行」となったが、同年秋の運転より元の梅田駅発着に戻った。この時の運行標識板は当時の梅嵐急行同様の文字だけのデザインであったが、「大阪」の部分を「十三」に変更していた。
運転最終日は2000年11月26日であった。2001年3月24日のダイヤ改正で行楽ダイヤ設定時に新たに「いい古都エクスプレス」が設定されるなど京都本線で大規模なダイヤ改正が行われたことに伴い廃止となった。
2001年春には、嵐山線の列車を桂駅 - 長岡天神駅間で延長し、長岡天神駅の同一ホームで特急と嵐山線を接続させるダイヤが設定された。これは、このシーズンより設定がなくなった「嵯峨野エクスプレス」を補完すると共に、桂駅で嵐山線 - 京都線の乗り換えには地下道または跨線橋を渡らなければならない、という不便を解消するためだった。20分間隔で運転され、夕方に嵐山発長岡天神行きのみ設定された。長岡天神駅到着後は桂駅まで回送された。車両は6両編成が使用された。
しかし、長岡天神駅まで乗車する乗客はごくわずかで、桂駅で乗り換えする乗客が大半であった。またこの延長運転のため、桂駅すぐ南側の川岡踏切が長時間開かずの踏切となること、すでに京都本線に6両編成の定期運用がなく、この列車のためだけに各種標識類(停車位置表示など)が必要となることから、以降は設定されていない。
その後、2008年春の行楽シーズンまでは、嵐山線内折り返しの普通列車の増発と6両編成での運行を行うに過ぎなかった。
2008年秋からは、阪急電鉄自身による嵐山誘客キャンペーンの一環として、神戸本線から京都本線を介して嵐山線に直通する臨時列車が運転された。
2010年3月14日のダイヤ改正以降はさらに発着駅を増やし、宝塚本線や今津線からの直通列車が運転されることになり、同年春より運転されていた。2011年5月14日のダイヤ改正以後は大阪市営地下鉄堺筋線(現在のOsaka Metro堺筋線)からの直通列車も設定された。
各年ごとの詳細は以下の通り。
2008年11月、阪急自身による嵐山誘客キャンペーンの一環として臨時列車が設定された。運転日は11月17日から21日までの5日間(すべて平日)で、1日1往復の運転であった。
使用された車両は西宮車庫所属の7000系6両編成で、ヘッドマークは急行の運行標識板に似た赤丸に「臨時」の赤文字と黒文字で右に「嵐山」、左に「西宮北口」のマークで、側面にはステッカーが貼付された。種別幕は「臨時」、方向幕は白地の表示であった。車内の停車駅案内図も、この臨時列車のための専用の停車駅案内図が用意された。
運転区間は西宮北口駅 - 梅田駅 - 嵐山駅間で、神戸本線西宮北口駅 - 十三駅間と嵐山線内は各駅に停車し、京都本線内(梅田駅 - 桂駅間)はノンストップ運転となった。往復共に十三駅での客扱いは神戸本線ホームで行い、また列車を方向転換させるために梅田駅6号線にも乗り入れたが運転停車とし、客扱いは行わなかった。嵐山駅到着後は夕方に折り返すまで、そのまま同駅に留置された。
なお、この臨時列車については通勤特急ほかすべての列車が停車している高槻市駅は通過となっており、これ以降現在までこの手の臨時列車については高槻市駅は通過である。なお、営業列車の高槻市駅通過は1997年のダイヤ改正以来である。
2009年春、嵐山誘客キャンペーンの一環として、神戸本線・神戸高速線・宝塚本線・千里線・堺筋線および、京都本線河原町駅(現在の京都河原町駅) - 嵐山駅間で臨時列車が運転された。前年度の運転が好評だったため2009年は運転区間を拡大して設定された。神戸本線・宝塚本線からの直通列車は平日のみの運転で、日によって異なる発着駅で設定されていた。
堺筋線と嵐山線を直通する列車は初めて設定された。京都本線河原町方面と嵐山線を直通する列車は1965年頃に普通列車で運転されて以来となる。神戸本線・宝塚本線と直通する列車は2008年の運転と同様に、往復共に列車を方向転換させるために梅田駅にも客扱いなし(運転停車)で乗り入れた。神宝線から京都線に乗り入れた車両は、2008年11月と同じく、西宮車庫所属の7000系6両編成が使用された。運転本数は神戸・宝塚方面からはそれぞれ1往復で、河原町駅発着は嵐山行き10本・河原町行き12本の運転であった。
秋からは土曜・休日にも神戸本線・宝塚本線からの臨時列車が設定された。秋は春とは異なり宝塚本線経由の設定が廃止され、今津線経由宝塚駅発着列車が設定された。この神戸本線・今津線からの列車のスイッチバックはこれまでの梅田駅6号線ではなく、一時期使用を中止していた十三駅9号線(駅南側にある、神戸本線と宝塚本線の間の引き込み線)を使用して行なっていた。これ以降、神宝線と京都本線を直通する列車は全て十三駅でスイッチバックしている。神宝線から京都線に乗り入れた車両は、同年春と同じく、西宮車庫所属の7000系6両編成が使用された。
一方、天下茶屋駅発着については、堺筋線と千里線・京都本線が直通運転を開始して40周年となったことを記念して大阪市交通局(現在の大阪市高速電気軌道〈Osaka Metro〉)の車両が使用され、66系が6両に減車(8両編成のうち、3 - 4号車引き抜き)された上で、初めて嵐山駅に乗り入れた。
4月29日・5月1日 - 5日・8日・9日に梅田駅・河原町駅・高速神戸駅・宝塚駅(今津線経由)からそれぞれ嵐山駅までの直通列車が運転された。2009年秋と異なり、停車駅に淡路駅が追加されている。また、正式に列車種別が設定され、梅田駅・河原町駅 - 嵐山駅間の列車は快速特急、高速神戸駅・宝塚駅(今津線経由) - 嵐山駅間の列車は直通特急であった。
神戸本線との直通列車は、十三駅でスイッチバックするため、梅田駅には乗り入れない。また、神戸本線・京都本線の両ホームで客扱い(嵐山行きは2号線→5号線、嵐山発は6号線→1号線の順)を行う。
これに加えて、宝塚本線からは特急「日生エクスプレス」梅田行き臨時列車を運転の上、十三駅で嵐山線直通列車と接続するダイヤとなった。
2011年5月14日にダイヤ改正が行われ、以下のような追加・変更が行われた。
嵐山駅 - 河原町駅間の快速特急は、1運用で神戸線の車両(「あたご」の編成)を使用する。
梅田駅 - 嵐山駅間の快速特急で使用されていた6300系「京とれいん」はこのダイヤ改正から梅田駅 - 河原町駅間の快速特急での定期運用開始に伴い、直通列車の運用から外れた。
2015年春には梅田駅 - 嵐山駅間の快速特急にラッピング列車「古都」、同年秋には高速神戸駅 - 嵐山駅間の直通特急にもラッピング列車(2016年に「爽風(かぜ)」と愛称決定)が充当されるようになり、2016年にはそれぞれの列車愛称もラッピング列車の愛称と同じ「古都」「爽風」になった。
2018年3月17日から2019年10月31日には同じ「古都」の愛称で、絵本作家の永田萠のイラストによるラッピング列車を運行している(2018年11月17日にデザイン一部リニューアル)が、嵐山駅直通の臨時列車の愛称は「さがの」「あたご」に戻された。
2019年春からは運行系統の再編が行われ、現在の運行形態となった。河原町駅発着の快速特急「おぐら」、天下茶屋駅発着の直通特急「ほづ」、高速神戸駅発着の直通特急「あたご」、宝塚駅発着(今津線経由)の直通特急「とげつ」の運転が取りやめられ、大阪梅田駅発着の快速特急「さがの」3往復の運転に統合された。また、一部の火・水・木曜日には7000系「京とれいん 雅洛」を使用する西宮北口駅発着の直通特急(愛称なし、停車駅は「あたご」と同じ)が運転された。
2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言発令の影響や利用状況を踏まえ、運行を取り止めている。
直通特急の英語表記は特急と同じ「Limited Express」が使用されていたが、2019年1月のダイヤ改正で「Direct Limited Express」に変更された。
主に以下の車両が使用される。
京都線所属車両のうち4両編成または6両編成が使用される。京都本線との直通臨時列車は全て6両編成での運行。2018年秋シーズンまでは前述の臨時直通列車が運行される期間は神宝線の7000系6両編成も区間運用列車に充当されていた。
京都電燈が所有していた鉄道敷設免許を譲り受け、京阪電気鉄道傘下の新京阪鉄道が複線で全線を開業させた。嵐山駅は6面5線構造であったが、当初予想したほどの需要が得られず、開業のわずか2年後には複線の設備を残したまま単線運行になった。戦局の悪化で金属供出令により不要不急線として単線化され、現在に至っている。その名残で、路盤や架線柱は複線分の幅があり、橋台や橋桁が残っている部分もある。ただし、桂駅の京都本線との分岐部は、戦後の構内改造によって路盤が単線分に削られた。
すべての駅で天神橋筋六丁目駅経由・Osaka Metro各駅への連絡きっぷならびに、Osaka Metro堺筋線天下茶屋駅経由・南海関西空港駅への連絡きっぷがそれぞれ購入でき、また年に2度発売されている「高野山1dayチケット」でも天下茶屋駅経由で南海高野線への乗車が認められている。さらに2011年5月14日からは、京都本線と接続する桂駅のみではあるが、先述の連絡きっぷよりもさらに割安な「関空アクセスきっぷ」も発売している(こちらは発売開始当初から同ルート経由で設定)。
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"text": "例年、春・秋の行楽シーズン(主に3月下旬から5月のゴールデンウィークまでと11月)には嵐山への行楽輸送を目的とした京都本線等と直通する臨時列車が運転されている。基本的に土休日ダイヤでの運転であるが平日に設定される場合もある。以下、特記がなければ土休日での運転である。一部列車は嵐山線内の定期列車と統合され、臨時列車が運転される時間帯は線内折り返しの普通が減少することがある。なお、嵐山線内のホーム有効長の関係上、各線から嵐山線まで全区間で最大で6両編成で運行される。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "臨時列車の運行の変遷については以下の通りである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "かつて梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 嵐山駅間で運行していた臨時急行である。歴史は古く、戦前から運転を開始し、途中中断したものの戦後になり再開。明確な再開時期は不明であるが、鉄道ピクトリアル2017年4月号の阪急電鉄京都線特集の記事によると、1953年には既に再開していたとの記述がある。",
"title": "運行形態"
},
{
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"text": "愛称は1992年秋の運転より付けられたものであり、このシーズンのみ「さがのエクスプレス」であったが、早くも翌1993年の春の運転からは「嵯峨野エクスプレス」に変更された。愛称が付けられる前は、起終点のそれぞれ1文字を取って「梅嵐(ばいらん)急行」あるいは単に「梅嵐」とも呼ばれた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 8,
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"text": "梅嵐急行の運行標識板は1960年代後半頃までは「大阪 臨急 嵐山」と文字だけのものであったが、1970年代に春はさくらを、秋はもみじを模したものに変更され、さらに1981年春の運転からは「大阪」の部分を「梅田」に変更した(1981年3月1日に運行標識板の様式を全面的に改定したことによる措置)。この運行標識板は1992年秋の運転で愛称が付けられた後も運転終了まで継続して使用されていたが、表示幕車には取り付けられなかった。また、愛称が付けられた1992年秋以降は愛称表示板も取り付けられるようになったが、これについては表示幕車にも前面貫通扉下部に掲示されていた(標識板使用車の場合は車掌台側に掲示)。この愛称表示板についても愛称表示開始から2度様式を変更している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "1982年の秋は、桂駅改良工事の影響で、京都本線と嵐山線の直通運転が一時的に不可能となっていたため、梅田駅 - 嵐山駅間の直通急行は設定されず、代わりに梅田駅 - 桂駅間の臨時急行「梅桂(ばいけい)急行」が設定された。運行標識板はもみじを模したデザインではなく「桂 臨急 梅田」という、文字だけのシンプルなデザインのものが使用された。また、梅田駅工事の関係で1966年春の梅嵐急行は十三駅発着で運転され「十嵐(じゅうらん)急行」となったが、同年秋の運転より元の梅田駅発着に戻った。この時の運行標識板は当時の梅嵐急行同様の文字だけのデザインであったが、「大阪」の部分を「十三」に変更していた。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 10,
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"text": "運転最終日は2000年11月26日であった。2001年3月24日のダイヤ改正で行楽ダイヤ設定時に新たに「いい古都エクスプレス」が設定されるなど京都本線で大規模なダイヤ改正が行われたことに伴い廃止となった。",
"title": "運行形態"
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"text": "2001年春には、嵐山線の列車を桂駅 - 長岡天神駅間で延長し、長岡天神駅の同一ホームで特急と嵐山線を接続させるダイヤが設定された。これは、このシーズンより設定がなくなった「嵯峨野エクスプレス」を補完すると共に、桂駅で嵐山線 - 京都線の乗り換えには地下道または跨線橋を渡らなければならない、という不便を解消するためだった。20分間隔で運転され、夕方に嵐山発長岡天神行きのみ設定された。長岡天神駅到着後は桂駅まで回送された。車両は6両編成が使用された。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 12,
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"text": "しかし、長岡天神駅まで乗車する乗客はごくわずかで、桂駅で乗り換えする乗客が大半であった。またこの延長運転のため、桂駅すぐ南側の川岡踏切が長時間開かずの踏切となること、すでに京都本線に6両編成の定期運用がなく、この列車のためだけに各種標識類(停車位置表示など)が必要となることから、以降は設定されていない。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "その後、2008年春の行楽シーズンまでは、嵐山線内折り返しの普通列車の増発と6両編成での運行を行うに過ぎなかった。",
"title": "運行形態"
},
{
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"text": "2008年秋からは、阪急電鉄自身による嵐山誘客キャンペーンの一環として、神戸本線から京都本線を介して嵐山線に直通する臨時列車が運転された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2010年3月14日のダイヤ改正以降はさらに発着駅を増やし、宝塚本線や今津線からの直通列車が運転されることになり、同年春より運転されていた。2011年5月14日のダイヤ改正以後は大阪市営地下鉄堺筋線(現在のOsaka Metro堺筋線)からの直通列車も設定された。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "各年ごとの詳細は以下の通り。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2008年11月、阪急自身による嵐山誘客キャンペーンの一環として臨時列車が設定された。運転日は11月17日から21日までの5日間(すべて平日)で、1日1往復の運転であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "使用された車両は西宮車庫所属の7000系6両編成で、ヘッドマークは急行の運行標識板に似た赤丸に「臨時」の赤文字と黒文字で右に「嵐山」、左に「西宮北口」のマークで、側面にはステッカーが貼付された。種別幕は「臨時」、方向幕は白地の表示であった。車内の停車駅案内図も、この臨時列車のための専用の停車駅案内図が用意された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "運転区間は西宮北口駅 - 梅田駅 - 嵐山駅間で、神戸本線西宮北口駅 - 十三駅間と嵐山線内は各駅に停車し、京都本線内(梅田駅 - 桂駅間)はノンストップ運転となった。往復共に十三駅での客扱いは神戸本線ホームで行い、また列車を方向転換させるために梅田駅6号線にも乗り入れたが運転停車とし、客扱いは行わなかった。嵐山駅到着後は夕方に折り返すまで、そのまま同駅に留置された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "なお、この臨時列車については通勤特急ほかすべての列車が停車している高槻市駅は通過となっており、これ以降現在までこの手の臨時列車については高槻市駅は通過である。なお、営業列車の高槻市駅通過は1997年のダイヤ改正以来である。",
"title": "運行形態"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2009年春、嵐山誘客キャンペーンの一環として、神戸本線・神戸高速線・宝塚本線・千里線・堺筋線および、京都本線河原町駅(現在の京都河原町駅) - 嵐山駅間で臨時列車が運転された。前年度の運転が好評だったため2009年は運転区間を拡大して設定された。神戸本線・宝塚本線からの直通列車は平日のみの運転で、日によって異なる発着駅で設定されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "堺筋線と嵐山線を直通する列車は初めて設定された。京都本線河原町方面と嵐山線を直通する列車は1965年頃に普通列車で運転されて以来となる。神戸本線・宝塚本線と直通する列車は2008年の運転と同様に、往復共に列車を方向転換させるために梅田駅にも客扱いなし(運転停車)で乗り入れた。神宝線から京都線に乗り入れた車両は、2008年11月と同じく、西宮車庫所属の7000系6両編成が使用された。運転本数は神戸・宝塚方面からはそれぞれ1往復で、河原町駅発着は嵐山行き10本・河原町行き12本の運転であった。",
"title": "運行形態"
},
{
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"tag": "p",
"text": "秋からは土曜・休日にも神戸本線・宝塚本線からの臨時列車が設定された。秋は春とは異なり宝塚本線経由の設定が廃止され、今津線経由宝塚駅発着列車が設定された。この神戸本線・今津線からの列車のスイッチバックはこれまでの梅田駅6号線ではなく、一時期使用を中止していた十三駅9号線(駅南側にある、神戸本線と宝塚本線の間の引き込み線)を使用して行なっていた。これ以降、神宝線と京都本線を直通する列車は全て十三駅でスイッチバックしている。神宝線から京都線に乗り入れた車両は、同年春と同じく、西宮車庫所属の7000系6両編成が使用された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "一方、天下茶屋駅発着については、堺筋線と千里線・京都本線が直通運転を開始して40周年となったことを記念して大阪市交通局(現在の大阪市高速電気軌道〈Osaka Metro〉)の車両が使用され、66系が6両に減車(8両編成のうち、3 - 4号車引き抜き)された上で、初めて嵐山駅に乗り入れた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "4月29日・5月1日 - 5日・8日・9日に梅田駅・河原町駅・高速神戸駅・宝塚駅(今津線経由)からそれぞれ嵐山駅までの直通列車が運転された。2009年秋と異なり、停車駅に淡路駅が追加されている。また、正式に列車種別が設定され、梅田駅・河原町駅 - 嵐山駅間の列車は快速特急、高速神戸駅・宝塚駅(今津線経由) - 嵐山駅間の列車は直通特急であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "神戸本線との直通列車は、十三駅でスイッチバックするため、梅田駅には乗り入れない。また、神戸本線・京都本線の両ホームで客扱い(嵐山行きは2号線→5号線、嵐山発は6号線→1号線の順)を行う。",
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},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "これに加えて、宝塚本線からは特急「日生エクスプレス」梅田行き臨時列車を運転の上、十三駅で嵐山線直通列車と接続するダイヤとなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2011年5月14日にダイヤ改正が行われ、以下のような追加・変更が行われた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "嵐山駅 - 河原町駅間の快速特急は、1運用で神戸線の車両(「あたご」の編成)を使用する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "梅田駅 - 嵐山駅間の快速特急で使用されていた6300系「京とれいん」はこのダイヤ改正から梅田駅 - 河原町駅間の快速特急での定期運用開始に伴い、直通列車の運用から外れた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2015年春には梅田駅 - 嵐山駅間の快速特急にラッピング列車「古都」、同年秋には高速神戸駅 - 嵐山駅間の直通特急にもラッピング列車(2016年に「爽風(かぜ)」と愛称決定)が充当されるようになり、2016年にはそれぞれの列車愛称もラッピング列車の愛称と同じ「古都」「爽風」になった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日から2019年10月31日には同じ「古都」の愛称で、絵本作家の永田萠のイラストによるラッピング列車を運行している(2018年11月17日にデザイン一部リニューアル)が、嵐山駅直通の臨時列車の愛称は「さがの」「あたご」に戻された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2019年春からは運行系統の再編が行われ、現在の運行形態となった。河原町駅発着の快速特急「おぐら」、天下茶屋駅発着の直通特急「ほづ」、高速神戸駅発着の直通特急「あたご」、宝塚駅発着(今津線経由)の直通特急「とげつ」の運転が取りやめられ、大阪梅田駅発着の快速特急「さがの」3往復の運転に統合された。また、一部の火・水・木曜日には7000系「京とれいん 雅洛」を使用する西宮北口駅発着の直通特急(愛称なし、停車駅は「あたご」と同じ)が運転された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言発令の影響や利用状況を踏まえ、運行を取り止めている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "直通特急の英語表記は特急と同じ「Limited Express」が使用されていたが、2019年1月のダイヤ改正で「Direct Limited Express」に変更された。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 36,
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"text": "主に以下の車両が使用される。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "京都線所属車両のうち4両編成または6両編成が使用される。京都本線との直通臨時列車は全て6両編成での運行。2018年秋シーズンまでは前述の臨時直通列車が運行される期間は神宝線の7000系6両編成も区間運用列車に充当されていた。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "京都電燈が所有していた鉄道敷設免許を譲り受け、京阪電気鉄道傘下の新京阪鉄道が複線で全線を開業させた。嵐山駅は6面5線構造であったが、当初予想したほどの需要が得られず、開業のわずか2年後には複線の設備を残したまま単線運行になった。戦局の悪化で金属供出令により不要不急線として単線化され、現在に至っている。その名残で、路盤や架線柱は複線分の幅があり、橋台や橋桁が残っている部分もある。ただし、桂駅の京都本線との分岐部は、戦後の構内改造によって路盤が単線分に削られた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "すべての駅で天神橋筋六丁目駅経由・Osaka Metro各駅への連絡きっぷならびに、Osaka Metro堺筋線天下茶屋駅経由・南海関西空港駅への連絡きっぷがそれぞれ購入でき、また年に2度発売されている「高野山1dayチケット」でも天下茶屋駅経由で南海高野線への乗車が認められている。さらに2011年5月14日からは、京都本線と接続する桂駅のみではあるが、先述の連絡きっぷよりもさらに割安な「関空アクセスきっぷ」も発売している(こちらは発売開始当初から同ルート経由で設定)。",
"title": "駅一覧"
}
] |
嵐山線(あらしやません)は、京都府京都市西京区の桂駅から嵐山駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。 沿線に嵐山などの観光地を控え、行楽客や年末年始の初詣客で賑わう。かつては嵐山支線と表記した例も見られた。 なお、正式な起点は桂駅だが、列車運行上は嵐山駅から桂駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。また甲陽線と同様、停車場間の閉塞信号機は設置されていない。
|
{{画像提供依頼|嵐山線内を走る「京とれいん雅洛」|date=2019年3月|cat=京都市|cat2=鉄道}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Hankyu Railway Logo.svg|22px|阪急電鉄|link=阪急電鉄]] 嵐山線
|路線色=#2a9b50
|画像=Hankyu-6353F.JPG
|画像サイズ=300px
|画像説明=嵐山線で運行される[[阪急6300系電車|6300系]]4両編成(桂駅)
|国={{JPN}}
|所在地=[[京都府]]
|起点=[[桂駅]]
|終点=[[嵐山駅 (阪急)|嵐山駅]]
|駅数=4駅
|路線記号=[[File:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|21px|HK]] HK
|開業=[[1928年]][[11月9日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[阪急電鉄]]
|運営者=阪急電鉄
|車両基地=[[桂車庫]]
|使用車両=[[#運行形態|運行形態]]の節を参照
|路線距離=4.1 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]])
|線路数=[[単線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=
|最高速度=70 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図=File:Hankyu Corporation Linemap.svg
}}
{{阪急嵐山線路線図}}
'''嵐山線'''(あらしやません)は、[[京都府]][[京都市]][[西京区]]の[[桂駅]]から[[嵐山駅 (阪急)|嵐山駅]]までを結ぶ[[阪急電鉄]]の[[鉄道路線]]。
沿線に[[嵐山]]などの観光地を控え、行楽客や[[年末年始]]の[[初詣]]客で賑わう。かつては'''嵐山支線'''と表記した例も見られた。
なお、正式な起点は桂駅だが、列車運行上は嵐山駅から桂駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。また甲陽線と同様、停車場間の[[日本の鉄道信号#閉塞信号機|閉塞信号機]]は設置されていない。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):4.1km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:4駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式(特殊)
* 最高速度:70km/h<ref name="terada" />
* 車両基地:[[桂車庫]]
== 運行形態 ==
=== 線内列車 ===
通常は線内折り返しの普通列車のみの運行で、朝夕は毎時6往復、日中は毎時4往復運行している。運行間隔は不均一で、朝夕のラッシュ時は交互に約8分と約12分の間隔、日中は交互に約13分と約17分の間隔となっている。通常は4両編成であるが、行楽シーズンの土曜・休日や[[五山送り火|大文字五山送り火]]の日には6両編成が使用されたり、約10分間隔([[列車交換|交換設備]]の関係で完全な10分間隔ではない)に増発されたりすることがある。
=== 臨時列車 ===
<!-- 運行形態の変更が前のシーズンからほとんどなかったシーズンについては基本的に省略しています -->
例年、春・秋の行楽シーズン(主に3月下旬から5月の[[ゴールデンウィーク]]までと11月)には嵐山への行楽輸送を目的とした[[阪急京都本線|京都本線]]等と直通する[[臨時列車]]が運転されている。基本的に土休日ダイヤでの運転であるが平日に設定される場合もある。以下、特記がなければ土休日での運転である。一部列車は嵐山線内の定期列車と統合され、臨時列車が運転される時間帯は線内折り返しの普通が減少することがある。なお、嵐山線内のホーム[[有効長]]の関係上、各線から嵐山線まで全区間で最大で6両編成で運行される。
<!-- 現在は京都本線[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] - 嵐山駅間の快速特急「さがの」が3往復(午前に嵐山行き、夕方に大阪梅田行き)が、一部の火・水・木曜には[[阪急7000系電車|7000系]]「[[京とれいん|京とれいん 雅洛]]」を使用した神戸本線[[西宮北口駅]] - 嵐山駅間の直通特急が運行されている。 --><!--コロナ禍でしばらくは運行が見込めないのでコメントアウト-->
臨時列車の運行の変遷については以下の通りである。
==== 臨時急行「嵯峨野エクスプレス」(梅嵐急行) ====
かつて梅田駅(現在の[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]) - 嵐山駅間で運行していた臨時急行である。歴史は古く、戦前から運転を開始し、途中中断したものの戦後になり再開。明確な再開時期は不明であるが、鉄道ピクトリアル2017年4月号の阪急電鉄京都線特集の記事によると、[[1953年]]には既に再開していたとの記述がある。
愛称は1992年秋の運転より付けられたものであり、このシーズンのみ「'''さがのエクスプレス'''」であったが、早くも翌1993年の春の運転からは「'''嵯峨野エクスプレス'''」に変更された<ref group="注釈">ただし、駅の案内表示などでは「さがのエクスプレス」のままであり、運転終了まで変更されなかった。</ref>。愛称が付けられる前は、起終点のそれぞれ1文字を取って「'''梅嵐(ばいらん)急行'''」あるいは単に「'''梅嵐'''」とも呼ばれた。
梅嵐急行の運行標識板は1960年代後半頃までは「大阪 臨急 嵐山」と文字だけのものであったが、1970年代に春はさくらを、秋はもみじを模したものに変更され、さらに1981年春の運転からは「大阪」の部分を「梅田」に変更した(1981年3月1日に運行標識板の様式を全面的に改定したことによる措置)。この運行標識板は1992年秋の運転で愛称が付けられた後も運転終了まで継続して使用されていたが、表示幕車には取り付けられなかった。また、愛称が付けられた1992年秋以降は愛称表示板も取り付けられるようになったが、これについては表示幕車にも前面貫通扉下部に掲示されていた(標識板使用車の場合は車掌台側に掲示)。この愛称表示板についても愛称表示開始から2度様式を変更している。
1982年の秋は、桂駅改良工事の影響で、京都本線と嵐山線の直通運転が一時的に不可能となっていたため、梅田駅 - 嵐山駅間の直通急行は設定されず、代わりに梅田駅 - 桂駅間の臨時急行「梅桂(ばいけい)急行」が設定された。運行標識板はもみじを模したデザインではなく「桂 臨急 梅田」という、文字だけのシンプルなデザインのものが使用された。また、梅田駅工事の関係で1966年春の梅嵐急行は十三駅発着<ref>神戸新聞総合印刷『阪急電車 僕らの青春』[[奥田英夫]]、[[正垣修]]共著 pp.108-111</ref><ref group="注釈">1976年に廃止された折り返し専用の7号線ホームで発着していた。</ref>で運転され「十嵐(じゅうらん)急行」となったが、同年秋の運転より元の梅田駅発着に戻った。この時の運行標識板は当時の梅嵐急行同様の文字だけのデザインであったが、「大阪」の部分を「十三」に変更していた。
運転最終日は[[2000年]][[11月26日]]であった。[[2001年]][[3月24日]]のダイヤ改正で行楽ダイヤ設定時に新たに「いい古都エクスプレス」が設定されるなど京都本線で大規模なダイヤ改正が行われたことに伴い廃止となった。
;運行形態(2000年11月時点)
:*梅田発嵐山行き 9 - 11時台 計10本程度嵐山駅到着後は折り返し桂行き普通となり、桂駅到着後は[[桂車庫]]へ入庫するか、梅田駅まで回送され再び嵐山行きとして運転されるか、そのまま折り返し嵐山線内を普通列車として往復する、のいずれかである。
:*嵐山発梅田行き 14 - 17時台 計15本程度…梅田駅到着後は桂車庫または正雀車庫への回送列車となる。
:上記はいずれも15分間隔で運転されていた。また、梅田行きは淡路駅で特急を待避していた。
;停車駅
:梅田駅 - [[十三駅]] - [[淡路駅]] - [[茨木市駅]] - [[高槻市駅]] - [[長岡天神駅]] - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅(現在の松尾大社駅)- 嵐山駅
;使用車両
:6両編成で運転されており、京都本線の編成を使用していた。
==== 嵐山線延長運転 ====
2001年春には、嵐山線の列車を桂駅 - 長岡天神駅間で延長し、長岡天神駅の同一ホームで特急と嵐山線を接続させるダイヤが設定された。これは、このシーズンより設定がなくなった「嵯峨野エクスプレス」を補完すると共に、桂駅で嵐山線 - 京都線の乗り換えには地下道または[[跨線橋]]を渡らなければならない、という不便を解消するためだった。20分間隔で運転され、夕方に嵐山発長岡天神行きのみ設定された。長岡天神駅到着後は桂駅まで回送された。車両は6両編成が使用された。
しかし、長岡天神駅まで乗車する乗客はごくわずかで、桂駅で乗り換えする乗客が大半であった。またこの延長運転のため、桂駅すぐ南側の川岡踏切が長時間[[開かずの踏切]]となること、すでに京都本線に6両編成の定期運用がなく、この列車のためだけに各種標識類(停車位置表示など)が必要となることから、以降は設定されていない。
その後、2008年春の行楽シーズンまでは、嵐山線内折り返しの普通列車の増発と6両編成での運行を行うに過ぎなかった。
==== 各地からの嵐山線直通列車の運転へ ====
[[2008年]]秋からは、阪急電鉄自身による嵐山誘客キャンペーンの一環として、[[阪急神戸本線|神戸本線]]から京都本線を介して嵐山線に直通する臨時列車が運転された。
[[2010年]][[3月14日]]のダイヤ改正以降はさらに発着駅を増やし、[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]や[[阪急今津線|今津線]]からの直通列車が運転されることになり<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200912092N1.pdf 京都線のダイヤ改正について]}} - 阪急電鉄、2009年12月9日。</ref>、同年春より運転されていた。[[2011年]][[5月14日]]のダイヤ改正以後は大阪市営地下鉄堺筋線(現在の[[Osaka Metro堺筋線]])からの直通列車も設定された。
各年ごとの詳細は以下の通り。
===== 2008年 =====
[[2008年]]11月、阪急自身による嵐山誘客キャンペーンの一環として臨時列車が設定された。運転日は[[11月17日]]から[[11月21日|21日]]までの5日間(すべて平日)で、1日1往復の運転であった<ref>[http://railf.jp/news/2008/11/18/153200.html 阪急 西宮北口〜嵐山間 直通臨時列車を運行] - 鉄道ファン railf.jp</ref><ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200810241N1.pdf 嵐山誘客キャンペーンを展開します]}} - 阪急電鉄プレスリリース(2008年10月24日)</ref>。
使用された車両は[[西宮車庫]]所属の[[阪急7000系電車|7000系]]6両編成で、ヘッドマークは急行の運行標識板に似た赤丸に「臨時」の赤文字と黒文字で右に「嵐山」、左に「西宮北口」のマークで、側面にはステッカーが貼付された。種別幕は「臨時」、方向幕は白地の表示であった。車内の停車駅案内図も、この臨時列車のための専用の停車駅案内図が用意された。
運転区間は[[西宮北口駅]] - 梅田駅 - 嵐山駅間で、神戸本線西宮北口駅 - 十三駅間と嵐山線内は各駅に停車し、京都本線内(梅田駅 - 桂駅間)はノンストップ運転となった。往復共に十三駅での客扱いは神戸本線ホームで行い、また列車を[[スイッチバック|方向転換]]させるために梅田駅6号線にも乗り入れたが[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]とし、客扱いは行わなかった。嵐山駅到着後は夕方に折り返すまで、そのまま同駅に留置された。
;停車駅
:西宮北口駅 - [[武庫之荘駅]] - [[塚口駅 (阪急)|塚口駅]] - [[園田駅]] - [[神崎川駅]] - 十三駅(神戸本線ホーム) - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅
なお、この臨時列車については通勤特急ほかすべての列車が停車している高槻市駅は通過となっており、これ以降現在までこの手の臨時列車については高槻市駅は通過である。なお、営業列車の高槻市駅通過は1997年のダイヤ改正以来である。
===== 2009年 =====
[[ファイル:Hankyu-7017F arashiyama extra.JPG|thumb|right|200px|7000系嵐山行き臨時列車<br />(2009年4月15日 [[崇禅寺駅]]にて)]]
[[2009年]]春、嵐山誘客キャンペーンの一環として、神戸本線・神戸高速線・宝塚本線・[[阪急千里線|千里線]]・堺筋線および、京都本線河原町駅(現在の[[京都河原町駅]]) - 嵐山駅間で臨時列車が運転された<ref>[http://railf.jp/news/2009/04/14/145500.html 阪急 川西能勢口〜嵐山線直通臨時列車を運転] - 鉄道ファン railf.jp</ref><ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200903242N1.pdf 沿線各地にて臨時直通列車を運行します]}} - 阪急電鉄プレスリリース(2009年3月24日)</ref><ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200904092N2.pdf 天下茶屋発 嵐山ゆき 臨時直通列車を運行します]}} - 阪急電鉄プレスリリース(2009年4月9日)</ref>。前年度の運転が好評だったため2009年は運転区間を拡大して設定された。神戸本線・宝塚本線からの直通列車は平日のみの運転で、日によって異なる発着駅で設定されていた。
堺筋線と嵐山線を直通する列車は初めて設定された。京都本線河原町方面と嵐山線を直通する列車は[[1965年]]頃に普通列車で運転されて以来となる<ref name="名前なし-1">{{Cite book|和書|author=高山禮蔵|year=2002|title=関西 電車のある風景 今昔II|publisher=JTB|isbn=4-533-04375-5|pages=78頁}}</ref>。[[阪急神戸本線|神戸本線]]・宝塚本線と直通する列車は2008年の運転と同様に、往復共に列車を方向転換させるために梅田駅にも客扱いなし(運転停車)で乗り入れた。神宝線から京都線に乗り入れた車両は、2008年11月と同じく、西宮車庫所属の7000系6両編成が使用された。運転本数は神戸・宝塚方面からはそれぞれ1往復で、河原町駅発着は嵐山行き10本・河原町行き12本の運転であった。
;停車駅
:宝塚本線発着
::[[川西能勢口駅]] - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅(4月13日 - 15日)
::[[豊中駅]] - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅(4月14日・15日)
:神戸本線発着
::[[高速神戸駅]] - [[三宮駅]](現在の神戸三宮駅) - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅(4月20日・21日)
::西宮北口駅 - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅(4月22日 - 24日)
:河原町駅発着
::河原町駅 - [[烏丸駅]] - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅
:堺筋線発着
::[[天下茶屋駅]] - (堺筋線内は各駅に停車) - [[天神橋筋六丁目駅]] - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅(5月16日・17日・23日・24日)
秋からは土曜・休日にも神戸本線・宝塚本線からの臨時列車が設定された<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200910221N2.pdf 沿線各地にて臨時直通列車を運行します]}} - 阪急電鉄プレスリリース(2009年10月22日)</ref>。秋は春とは異なり宝塚本線経由の設定が廃止され、[[阪急今津線|今津線]]経由[[宝塚駅]]発着列車が設定された。この神戸本線・今津線からの列車のスイッチバックはこれまでの梅田駅6号線ではなく、一時期使用を中止していた十三駅9号線(駅南側にある、神戸本線と宝塚本線の間の引き込み線)を使用して行なっていた。これ以降、神宝線と京都本線を直通する列車は全て十三駅でスイッチバックしている。神宝線から京都線に乗り入れた車両は、同年春と同じく、西宮車庫所属の7000系6両編成が使用された。
一方、天下茶屋駅発着については、堺筋線と千里線・京都本線が直通運転を開始して40周年となったことを記念して[[大阪市交通局]](現在の[[大阪市高速電気軌道]]〈Osaka Metro〉)の車両が使用され、[[大阪市交通局66系電車|66系]]が6両に減車(8両編成のうち、3 - 4号車引き抜き)された上で、初めて嵐山駅に乗り入れた<ref>{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/legacy_data/ir/data/ER200910222N2.pdf 市営地下鉄堺筋線 - 阪急京都線相互直通運転開始40周年を迎えます〜臨時直通列車の運行等記念事業を実施します〜]}} - 大阪市交通局・阪急電鉄、2009年10月22日</ref><ref>[https://railf.jp/news/2009/12/07/155100.html 大阪市交66系,臨時直通列車で嵐山へ] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2009年12月7日</ref>。
;停車駅
:神戸本線発着
::高速神戸駅 - [[花隈駅]] - 三宮駅 - [[六甲駅]] - [[岡本駅 (兵庫県)|岡本駅]] - [[夙川駅]] - 西宮北口駅 - 塚口駅 - 十三駅 - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅
:今津線発着
::[[宝塚駅]] - [[宝塚南口駅]] - [[逆瀬川駅]] - [[小林駅 (兵庫県)|小林駅]] - [[仁川駅]] - [[甲東園駅]] - [[門戸厄神駅]] - 塚口駅 - 十三駅 - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅
===== 2010年以降 =====
4月29日・5月1日 - 5日・8日・9日に梅田駅・河原町駅・高速神戸駅・宝塚駅([[阪急今津線|今津線]]経由)からそれぞれ嵐山駅までの直通列車が運転された。2009年秋と異なり、停車駅に[[淡路駅]]が追加されている。また、正式に列車種別が設定され、梅田駅・河原町駅 - 嵐山駅間の列車は'''快速特急'''、高速神戸駅・宝塚駅(今津線経由) - 嵐山駅間の列車は'''直通特急'''であった。
神戸本線との直通列車は、十三駅でスイッチバックするため、梅田駅には乗り入れない。また、神戸本線・京都本線の両ホームで客扱い(嵐山行きは2号線→5号線、嵐山発は6号線→1号線の順)を行う。
;停車駅
*梅田駅 - 嵐山駅間の快速特急:梅田駅 - 十三駅 - 淡路駅 - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅
*:1往復にすでに定期運用を撤退していた6300系を6両編成に減車して使用した<ref>[http://railf.jp/news/2010/04/30/182700.html 阪急6300系が6連で臨時快速特急に] - 鉄道ファン・railf.jp</ref>。
*:2011年3月8日からは一部列車に6300系改造の観光車両「[[京とれいん]]」を使用して、2011年5月14日の土休日ダイヤ改正実施まで暫定運行していた<ref name="kyoto-np20110222">[http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110221000069 乗ればそこはもう嵐山 3月19日から阪急が梅田直通電車]- [[京都新聞]]、2011年2月21日。</ref><ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201102212N1.pdf この春、電車から“京旅”気分!「京とれいん」がデビューします]}} - 阪急電鉄、2011年2月22日。</ref>。
*河原町駅 - 嵐山駅間の快速特急:河原町駅 - 烏丸駅 - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅
*高速神戸駅 - 嵐山駅間の直通特急:高速神戸駅 - 花隈駅 - 三宮駅 - 六甲駅 - 岡本駅 - 夙川駅 - 西宮北口駅 - 塚口駅 - 十三駅 - 淡路駅 - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅
*宝塚駅 - 嵐山駅間の直通特急:宝塚駅 - 宝塚南口駅 - 逆瀬川駅 - 小林駅 - 仁川駅 - 甲東園駅 - 門戸厄神駅 - 塚口駅 - 十三駅 - 淡路駅 - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾駅 - 嵐山駅
これに加えて、宝塚本線からは特急「[[日生エクスプレス]]」梅田行き臨時列車を運転の上、十三駅で嵐山線直通列車と接続するダイヤとなった。
===== 2011年5月14日以降 =====
[[ファイル:Osaka Subway 66 ltdexp.JPG|thumb|6両に減車された大阪市交66系による地下鉄堺筋線からの直通特急<br />(2011年5月15日 [[水無瀬駅]]にて)]]
[[ファイル:HANKYU-KOBE ATAGO.JPG|thumb|[[高速神戸駅]]に停車中の直通特急「あたご」<br />(2011年11月23日)]]
2011年5月14日にダイヤ改正が行われ、以下のような追加・変更が行われた<ref>{{Cite press release |和書 |title=京都線の土・休日ダイヤの改正について |publisher=阪急電鉄 |date=2011-02-21 |url=http://holdings.hankyu.co.jp:80/ir/data/ER201102213N1.pdf |format=PDF |accessdate=2017-11-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110515181243/http://holdings.hankyu.co.jp:80/ir/data/ER201102213N1.pdf#page=4 |archivedate=2011-05-15 }}</ref>。
*新たに堺筋線天下茶屋駅からも直通特急として運行を開始した。堺筋線からの直通運転は2009年の秋以来である。
*;停車駅
*:天下茶屋駅 - [[日本橋駅 (大阪府)|日本橋駅]] - [[天神橋筋六丁目駅]] - 淡路駅 - 桂駅 - 上桂駅 - 松尾大社駅 - 嵐山駅
**2011年春の運用車両は6両編成に減車した大阪市交66系、2011年秋以降は阪急車で、交通局およびOsaka Metro車での直特運用はなし。
*神戸・宝塚方面からの直通特急と梅田駅・河原町駅からの快速特急には今回から各系統に列車愛称が与えられ、特製のヘッドマークも付けられる。それぞれの愛称は以下の通りである<ref>[http://railf.jp/news/2011/11/04/205600.html 阪急 嵐山への直通列車にヘッドマーク] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2011年11月4日</ref>。
**快速特急 梅田駅 - 嵐山駅間:「'''さがの'''」(「[[嵯峨野]]」に由来)
**快速特急 河原町駅 - 嵐山駅間:「'''おぐら'''」(「[[小倉山 (京都市)|小倉山]]」に由来)
**直通特急 高速神戸駅 - 嵐山駅間:「'''あたご'''」(「[[愛宕山 (京都市)|愛宕山]]」に由来)
**直通特急 宝塚駅 - (今津線経由) - 嵐山駅間:「'''とげつ'''」(「[[渡月橋]]」に由来)
**直通特急 天下茶屋駅 - 嵐山駅間:「'''ほづ'''」(「[[桂川 (淀川水系)|保津川]]」に由来。2011年秋の運転から名称がつけられた)
嵐山駅 - 河原町駅間の快速特急は、1運用で神戸線の車両(「あたご」の編成)を使用する。
梅田駅 - 嵐山駅間の快速特急で使用されていた6300系「京とれいん」はこのダイヤ改正から梅田駅 - 河原町駅間の快速特急での定期運用開始に伴い、直通列車の運用から外れた。
2015年春には梅田駅 - 嵐山駅間の快速特急に[[ラッピング車両|ラッピング列車]]「古都」、同年秋には高速神戸駅 - 嵐山駅間の直通特急にもラッピング列車(2016年に「爽風(かぜ)」と愛称決定<ref name="hankyu4031">{{Cite press release |和書 |title=神戸線・宝塚線のラッピング列車の愛称が決定しました 沿線の観光スポットなどをあしらったラッピング列車の愛称 神戸線は「爽風(kaze)」、宝塚線は「宝夢(YUME)」 |publisher=阪急電鉄 |date=2016-03-23 |url=http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/4031.pdf |format=PDF |accessdate=2017-11-17}}</ref>)が充当されるようになり<ref>[http://railf.jp/news/2015/11/22/204500.html 阪急で秋の行楽用臨時列車運転] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2015年11月22日</ref>、2016年にはそれぞれの列車愛称もラッピング列車の愛称と同じ「'''古都'''」「'''爽風'''」になった<ref>{{Cite web|和書|date=2016-3-29 |url=http://tokk.hankyu-ad.jp:80/160401/rinji.pdf |format=PDF |title=春の臨時列車運転のご案内 |publisher=阪急電鉄 |accessdate=2017-11-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160418211239/http://tokk.hankyu-ad.jp:80/160401/rinji.pdf |archivedate=2016-04-18}}</ref><ref>[http://railf.jp/news/2016/05/01/203000.html 阪急で嵐山への臨時直通列車運転] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2016年5月1日掲載</ref>。
2018年3月17日から2019年10月31日には同じ「古都」の愛称で、[[絵本作家]]の[[永田萠]]のイラストによるラッピング列車を運行している(2018年11月17日にデザイン一部リニューアル)<ref name="hhhd20180315">{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/5800.pdf 神戸線・宝塚線・京都線に沿線の観光スポットなどを新たにデザインしたラッピング列車が登場します!]}} - 阪急電鉄、2018年3月15日</ref><ref name="hhhd20181115">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/6422_e4f3287602e08b63081d38379752678522fede6a.pdf 神戸線・宝塚線・京都線で運行中のラッピング列車のデザインをリニューアルします!]}} - 阪急電鉄、2018年11月15日</ref>が、嵐山駅直通の臨時列車の愛称は「さがの」「あたご」に戻された<ref>{{Cite web|和書|date=2018年 |url=http://www.hankyu.co.jp/area_info/sakura2018/pdf/rinji.pdf |format=PDF |title=春の臨時直通列車情報 |publisher=阪急電鉄 |accessdate=2018-04-02}}</ref>。
===== 2019年以降 =====
[[ファイル:Hankyu 8300 Series 8314F Rapid Limited Express "Sagano".jpg|thumb|快速特急「さがの」<br/>(2019年3月)]]
[[ファイル:阪急7006F(直通特急).jpg|thumb|7000系「京とれいん 雅洛」による直通特急 西宮北口行き]]
2019年春からは運行系統の再編が行われ、現在の運行形態となった。河原町駅発着の快速特急「おぐら」、天下茶屋駅発着の直通特急「ほづ」、高速神戸駅発着の直通特急「あたご」、宝塚駅発着(今津線経由)の直通特急「とげつ」の運転が取りやめられ、大阪梅田駅発着の快速特急「さがの」3往復の運転に統合された。また、一部の火・水・木曜日には7000系「[[京とれいん|京とれいん 雅洛]]」を使用する西宮北口駅発着の直通特急(愛称なし、停車駅は「あたご」と同じ)が運転された<ref>{{Cite web|和書|date=2019-03-25 |url=http://www.hankyu.co.jp/area_info/sakura2019/pdf/rinji.pdf |format=PDF |title=春の臨時列車情報 |publisher=阪急電鉄 |accessdate=2019-03-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-11 |url=https://www.hankyu.co.jp/area_info/autumn2019/pdf/rinji.pdf |format=PDF |title=秋の嵐山へは便利な直通列車で! |publisher=阪急電鉄 |accessdate=2019-11-03}}</ref>。
2020年以降は[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染拡大]]に伴う緊急事態宣言発令の影響や利用状況を踏まえ、運行を取り止めている<ref>{{Cite web|和書|date=2020-03-20 |url=https://www.hankyu.co.jp/topics/details/1109.html |title=春の臨時列車 運行中止について |work=阪急電鉄からのお知らせ |publisher=阪急電鉄 |accessdate=2020-05-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200403174133/https://www.hankyu.co.jp/topics/details/1109.html |archivedate=2020-04-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-09 |url=https://www.hankyu.co.jp/topics/details/1117.html |title=「京とれいん雅洛」「京とれいん」の 運休と春の臨時列車 運行中止について |work=阪急電鉄からのお知らせ |publisher=阪急電鉄 |accessdate=2020-05-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200417141643/https://www.hankyu.co.jp/topics/details/1117.html |archivedate=2020-04-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-11-10|url=https://www.hankyu.co.jp/topics/details/1204.html|title=秋期の列車運行ダイヤについて|work=阪急電鉄からのお知らせ|accessdate=2020-11-29|publisher=阪急電鉄|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113080400/https://www.hankyu.co.jp/topics/details/1204.html|archivedate=2020-11-13}}</ref>。
直通特急の英語表記は特急と同じ「'''Limited Express'''」が使用されていたが、2019年1月のダイヤ改正で「'''Direct Limited Express'''」に変更された。
== 使用車両 ==
{{See also|阪急京都本線#使用車両}}主に以下の車両が使用される。
* [[阪急6300系電車|6300系]]
* [[阪急7300系電車|7300系]]
* [[阪急8300系電車|8300系]]
京都線所属車両のうち4両編成または6両編成が使用される。京都本線との直通臨時列車は全て6両編成での運行。2018年秋シーズンまでは前述の臨時直通列車が運行される期間は[[神宝線]]の[[阪急7000系電車|7000系]]6両編成も区間運用列車に充当されていた。
<gallery>
ファイル:Hankyu-6353F.JPG|6300系4両編成
ファイル:Hankyu 7300 Series 7321F at Katsura on Arashiyama line.jpg|7300系6両編成
ファイル:Hankyu 8300 Series 8313F at Katsura on Arashiyama line 01.jpg|8300系6両編成
</gallery>
== 歴史 ==
[[ファイル:Hankyu arashiyama line.jpg|thumb|上桂駅 - 桂駅間。路盤や架線柱は複線分の幅があるが、線路は単線。]]
[[京都電燈]]が所有していた鉄道敷設免許を譲り受け、[[京阪電気鉄道]]傘下の[[新京阪鉄道]]が複線で全線を開業させた。嵐山駅は6面5線構造であったが、当初予想したほどの需要が得られず、開業のわずか2年後には複線の設備を残したまま単線運行になった。{{要出典範囲|date=2021年4月|戦局の悪化で金属供出令により[[不要不急線]]として}}単線化され、現在に至っている。その名残で、路盤や架線柱は複線分の幅があり、橋台や橋桁が残っている部分もある。ただし、桂駅の京都本線との分岐部は、戦後の構内改造によって路盤が単線分に削られた。<!--今後、高架化や複線化する予定は無い。-->
* 1924年(大正13年)5月13日:京都電燈に対し鉄道免許状下付(葛野郡松尾村-乙訓郡[[海印寺村]]間)<ref>[{{NDLDC|2955664/5}} 「鉄道免許状下付」『官報』1924年5月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* 1927年(昭和2年)10月13日:鉄道敷設権を新京阪鉄道へ譲渡(許可)<ref>[{{NDLDC|2956702/6}} 「鉄道敷設権譲渡」『官報』1927年10月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1928年]](昭和3年)[[11月9日]]:新京阪鉄道により桂駅 - 嵐山駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2957034/12}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年11月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1930年]](昭和5年)[[9月15日]]:新京阪鉄道の京阪電気鉄道への[[合併 (企業)|合併]]により、同社の路線となる。このころ、乗客の激減により複線の片側だけ用いた単線運行になる<ref name = "kyoto_np20140814" />。
* [[1943年]](昭和18年)[[10月1日]]:京阪電気鉄道の[[阪神急行電鉄]]への合併により、[[阪急電鉄|京阪神急行電鉄]]の保有路線となる。
* [[1944年]](昭和19年)[[1月9日]]{{要出典|date=2014-8}}:[[太平洋戦争]]の戦局悪化に伴う物資の欠乏による[[金属供出]]の対象となり単線となる<ref name = "kyoto_np20140814" />。途中[[列車交換]]設備なし。
* [[1948年]](昭和23年)[[1月1日]]:松尾神社前駅を松尾駅に改称。
* [[1950年]](昭和25年)[[3月13日]]:上桂駅と松尾駅に列車交換設備を設置<ref>京阪神急行電鉄『京阪神急行電鉄五十年史』(1957) p. 55</ref>。
* [[1965年]](昭和40年):京都本線から直通する河原町駅 - 嵐山駅間の普通列車がこのころを最後に運行されなくなった<ref name="名前なし-1"/>。
* [[1982年]](昭和57年)秋:桂駅の改造工事の影響で京都本線との直通運転ができないため、梅田駅 - 嵐山駅間の臨時急行の運行を休止し、梅田駅 - 桂駅間の臨時急行を設定。
* [[1984年]](昭和59年)6月:桂駅の配線改造で、嵐山線の発着ホームを京都本線の上下線に挟まれた4・5号線からC・1号線に変更。
* [[1992年]](平成4年)秋:梅田駅 - 嵐山駅間の臨時急行に「さがのエクスプレス」の愛称がつく。翌年春から「嵯峨野エクスプレス」となる。
* [[2000年]](平成12年)[[11月26日]]:梅田駅 - 嵐山駅間の臨時急行「嵯峨野エクスプレス」運転終了。
* [[2009年]](平成21年)[[4月2日]]:京都線特急用だった[[阪急6300系電車|6300系]]電車をリニューアルした4両編成の運行開始<ref name="raifjp20090403">[http://railf.jp/news/2009/04/03/110900.html 阪急6300系リニューアル車,嵐山線で営業運転開始] - railf.jp 2009年4月3日</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[12月21日]]:松尾駅を松尾大社駅に改称、同時に全駅に[[駅ナンバリング]]導入<ref name="hankyu20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201304306N1.pdf 〜すべてのお客様に、よりわかりやすく〜「西山天王山」駅開業にあわせて、「三宮」「服部」「中山」「松尾」4駅の駅名を変更し、全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年4月30日</ref><ref name="hankyu20130605">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201306051N2.pdf 阪急京都線 大山崎駅〜長岡天神駅間で建設中の『西山天王山駅』を2013年12月21日に開業します!]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年6月5日。</ref>。
*[[2027年]]([[令和]]9年)春頃(予定):[[ワンマン運転]]を開始<ref name="hankyu20240323">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/040acf91061bbe61374f567a69bdc960b9c103f3.pdf 伊丹線・箕面線・嵐山線においてワンマン運転を開始します]}} - 阪急電鉄、2023年11月13日</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[京都府]][[京都市]][[西京区]]内に所在。
* 臨時で運転される快速特急・直通特急も含め、全列車が各駅に停車。
* 快速特急・直通特急の直通区間は「[[#臨時列車]]」を参照。
* 線内の全ての駅で[[列車交換]]が可能。
* 途中駅(上桂駅、松尾大社駅)では阪急電鉄では珍しいスプリングポイントを使用している。
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は2013年12月21日より導入<ref name="hankyu20130430" /><ref name="hankyu20130605" />。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|駅番号
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|累計<br />営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|接続路線
|-
!HK-81
|[[桂駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[阪急電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|18px|HK]] [[阪急京都本線|京都本線]]
|-
!HK-96
|[[上桂駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|1.4
|
|-
!HK-97
|[[松尾大社駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|2.8
|
|-
!HK-98
|[[嵐山駅 (阪急)|嵐山駅]]<br />(嵯峨野)
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|4.1
|
|}
すべての駅で[[天神橋筋六丁目駅]]経由・[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]各駅への連絡きっぷならびに、[[Osaka Metro堺筋線]][[天下茶屋駅]]経由・[[南海電気鉄道|南海]][[関西空港駅]]への連絡きっぷがそれぞれ購入でき、また年に2度発売されている「[[高野山1dayチケット]]」でも天下茶屋駅経由で[[南海高野線]]への乗車が認められている。<!--そのため大阪[[ミナミ]]はもとより、大阪府南部方面へもアクセス面で優れている。 -->さらに[[2011年]][[5月14日]]からは、京都本線と接続する桂駅のみではあるが、先述の連絡きっぷよりもさらに割安な「[[京都アクセスきっぷ|関空アクセスきっぷ]]」も発売している(こちらは発売開始当初から同ルート経由で設定)<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110509000135 河原町-関空1200円 阪急、南海、大阪市地下鉄が協力] - 京都新聞、2011年5月9日。</ref><ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/kotsu/0000124088.html 【報道発表資料】関西国際空港~大阪~京都間の新たなアクセス手法の提案について 〜関西から日本の元気を発信します〜] - 大阪市公式サイト、2011年5月9日(ただし、発信元の名義は「交通局」であり、逆に南海関西空港駅でも「京都アクセスきっぷ」を同時発売開始した旨も併載)。</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist |2|
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<ref name = "kyoto_np20140814">{{cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 2014-8-14 | page = 朝刊 p.16 | title = 銃後の痕跡 京のまちに今も 3 金属供出 | author = 浅井佳穂、冨田芳夫}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[新京阪鉄道]]
== 外部リンク ==
*[http://www.hankyu.co.jp/area_info/arashiyama-navi/ 嵐山なび] - 阪急電鉄による嵐山駅周辺関連の情報を扱うサイト。
{{阪急電鉄の路線}}
{{京阪電気鉄道の路線}}
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[[Category:近畿地方の鉄道路線|あらしやません]]
[[Category:阪急電鉄の鉄道路線|あらしやま]]
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[[Category:京都府の交通]]
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JPEG 2000
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JPEG 2000(ジェイペグにせん)は、静止画像圧縮技術及び同技術を用いた画像フォーマットの呼称である。ISOとITUの共同組織であるJoint Photographic Experts Groupによって、国際標準化が進められており、ISO/IECの規格書15444およびITU-Tの勧告書Rec.T.800シリーズとして出版されている。
JPEG2000と詰めて書かずに、JPEG 2000と書くのが正式な表記である。JPEG 2000では、JPEGを上回る圧縮効率とスケーラビリティなどの機能を付加することを目的に規格策定作業が進められた。なお、国際標準の規格書/勧告書で規定されているのは、JPEG 2000のコードストリームをデコードするための手順である。したがって、エンコーダの仕様については何も定められていない。どのように実装されたとしても、エンコーダに要求されるのは、標準によって規定された手順でデコードできるコードストリームを出力することである。
JPEG 2000では、JPEGと同様、入力画像に対して周波数変換を施し、その変換係数に対して量子化、エントロピー符号化を適用することで画像の持つデータ量を圧縮する。JPEGとの要素技術における主な相違点は、以下の通り。
JPEG 2000は、一つの圧縮画像を様々な解像度やビットレート等で利用できるというスケーラビリティ機能を有しているが、これは特に、量子化された変換係数から圧縮されたビットストリームを生成する役割を担うEBCOT(Embedded Block Coding with Optimized Truncation)アルゴリズムの持つ、高い符号化効率、圧縮後のレート制御(Post Compression Rate Distortion Optimization:PCRD-opt)などの特長に依るところが大きい。
2020年6月現在、JPEG 2000はPart1からPart16までが標準化されている。
ITU-T側で出版されている勧告書のうち、無料で入手可能なものには参照を付した。
JPEG 2000のコードストリーム構造の例を以下の図に示す。図内の用語のうち、タイルパート・レイヤ・DWTレベル・コンポーネント・プリシンクト・パケットヘッダ・サブバンドについては後述する。
基本的には、SOC(Start of Codestream)マーカから始まるバイナリデータであり、その終端はEOC(End of Codestream)である。
SOCマーカの直後からメインヘッダが格納されており、各種符号化パラメータに関する情報がここに記録されている。メインヘッダの直後より、タイルパートが格納される。各タイルパートはタイルパートヘッダから始まる。タイルパートヘッダの直後より、そのタイルパートに含まれる圧縮データが格納される。
この圧縮データは、プログレッション順序に基づいて格納される。プログレッション順序とは、レイヤ(ある画質あるいはビットレートに対応する圧縮データの集合)、DWTレベル(DWTの分解レベルに対応する圧縮データの集合)、コンポーネント(色コンポーネント成分に対応する圧縮データの集合)、プリシンクト(DWT係数内の部分空間に対応する圧縮データの集合)の4つの要素のうち、優先的にデコードする要素の階層構造を意味する。コードストリームが取り得るプログレッション順序については後述する。
下図は、JPEG 2000 Part 1の符号化手順のブロック図である。なお、本符号化手順は参考例であり、規格化されたものではないことに注意されたい。以下では、Part 1エンコーダにおける各ブロックの処理内容について述べる。以後、ここでは非可逆符号化をロッシーモード、可逆符号化をロスレスモードと呼ぶ。
規格上サポートされる入力画像のサイズ・ビット深度・色コンポーネント数などを以下にまとめる。各値は、実際にはエンコーダ・デコーダの実装上の制約を受ける。
入力画像はタイルと呼ばれる任意サイズの矩形領域に分割可能である。タイル分割は、エンコーダで利用できるメモリに制限がある場合などに有用である。各タイルは完全に独立して符号化されるため、分割数やビットレートによってJPEGで見られるようなブロックノイズが現れる場合もある。タイルの符号化結果であるバイトストリームは、上述のようなエンコーダの制約に応じて複数の部分集合(タイルパート)に分割することも可能である。
入力画像が符号なしデータの場合、後述するDWT後の画像の直流成分が0中心になることを期待して、そのダイナミックレンジの1/2を入力画像から差し引く。
入力画像を I {\displaystyle I} 、入力画像のビット深度を b i t {\displaystyle bit} 、DCレベルシフト後の画像を I ′ {\displaystyle I'} とおくと、
I ′ = I − 2 b i t − 1 {\displaystyle I'=I-2^{bit-1}}
と表すことができる。
入力画像がRGB色空間で定義されている場合、各色コンポーネント間の冗長性を排除するために、輝度-色差色空間(YUV)への変換を行う。用いる色空間変換はICT(Irreversible Color Transform)とRCT(Reversible Color Transform)の2種類が規定されている。ロッシーモードではICTを、ロスレスモードではRCTを用いる。以下では最初に、ICT、続いてRCTについて述べる。入力画像 I {\displaystyle I} の各色コンポーネントを R , G , B {\displaystyle R,G,B} とする。ICTおよびRCTは以下の式で表すことができる。以下の式において、変換後の輝度コンポーネントは Y {\displaystyle Y} または Y ′ {\displaystyle Y'} 、色差コンポーネントは C b , C r {\displaystyle C_{b},C_{r}} または C b ′ , C r ′ {\displaystyle C'_{b},C'_{r}} である。
[ Y C b C r ] = [ 0.299 0.587 0.114 − 0.16875 − 0.331260 0.5 0.5 − 0.41869 − 0.08131 ] [ R G B ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}Y\\C_{b}\\C_{r}\end{bmatrix}}={\begin{bmatrix}0.299&0.587&0.114\\-0.16875&-0.331260&0.5\\0.5&-0.41869&-0.08131\end{bmatrix}}{\begin{bmatrix}R\\G\\B\end{bmatrix}}}
Y ′ = ⌊ R + 2 G + B 4 ⌋ C b ′ = B − G C r ′ = R − G {\displaystyle {\begin{matrix}Y'=&\left\lfloor {\frac {R+2G+B}{4}}\right\rfloor \\C'_{b}=&B-G\\C'_{r}=&R-G\\\end{matrix}}}
JPEG 2000では、2分割フィルタバンクに基づく分離型2次元DWTが採用されている。分離型2次元DWTは、1次元に対する処理を、水平・垂直方向に施すことによって2次元の変換係数を得る手法である。Part 1では、ロッシーモード用とロスレスモード用の2つのDWTが定義されている。それぞれのDWTは、リフティングと呼ばれる構成法を取ることによって実現される。リフティング構成を取る理由は、数学的に可逆な変換が、変換係数の精度を有限(例えば整数)にしたとしても実現できることにある。下図は、3レベルの2次元DWTの実行例である。水平方向・垂直方向の各次元で、ローパスおよびハイパスフィルタがかけられるため、1レベルのDWTによって、4つのサブバンド(LL:水平垂直ローパス、HL:水平ハイパス、垂直ハイパス、LH:水平ローパス、垂直ハイパス、HH:水平垂直ハイパス)が生成される。各レベルでは、LLサブバンドを次々に分解していくオクターブ分割が実行される。Part 1で許されるDWTレベル数は0〜32と規定されている。
各々のDWTレベルにおいて、下図に示すようにプリシンクトと呼ばれる矩形領域が定義される。
プリシンクトのサイズは2のべき乗の整数でなければならず、最大で 2 15 × 2 15 {\displaystyle 2^{15}\times 2^{15}} のサイズを取ることができる。同一番号のプリシンクトは画像の部分領域を構成するDWT係数と考えることができ、後述するパケットおよびプログレッション順序の構成要素となる。
Part 1では、スカラー量子化のみがサポートされている。Part 2ではTCQ(Trellis Coded Quantization)と呼ばれる量子化方法も使用可能である。
サブバンド b {\displaystyle b} のDWT変換係数を x b {\displaystyle x_{b}} 、ステップサイズを Δ b {\displaystyle \Delta _{b}} とおくと、スカラー量子化後の変換係数 Q ( x b ) {\displaystyle Q(x_{b})} は次式で表される。
Q ( x b ) = s i g n ( x b ) ⌊ | x b | Δ b ⌋ {\displaystyle Q(x_{b})=sign(x_{b})\left\lfloor {\frac {|x_{b}|}{\Delta _{b}}}\right\rfloor }
ロスレスモードでは、量子化による情報の損失は許されないため、 Δ b = 1 {\displaystyle \Delta _{b}=1} で固定である。ロッシーモードにおけるステップサイズは、各DWTレベル、各サブバンドごとに異なる値を指定できる。
画像中の特定の領域を興味領域(ROI)として、他の領域(背景領域)と比べて符号化の優先度を高めるための処理である。興味領域内のDWT係数をMAXSHIFTと呼ばれる方法でシフトアップすることで、符号化の優先度を高めることができる。サブバンド b {\displaystyle b} のDWT係数のダイナミックレンジを M b {\displaystyle M_{b}} (bit)とすると、MAXSHIFT法によるシフト量 s {\displaystyle s} は次式で表される。
s ≥ max ( M b ) {\displaystyle s\geq \max(M_{b})}
MAXSHIFT法によるROI機能では、優先度の調節は不可能であるものの、デコーダに際してROIの形状に関する情報が不要という特長がある。
下図に示すように、EBCOTでは、各サブバンドは、コードブロックと呼ばれる矩形領域に分割される。コードブロックはEBCOTにおける最小符号化単位であり、各コードブロックはそれぞれ独立に符号化可能である。
コードブロックのサイズは、水平・垂直方向それぞれのサイズが4以上1024以下、面積が4096以下の条件を満たす2のべき乗の整数から自由に選ぶことができる。一般に64x64や、32x32のサイズが用いられることが多い。メインヘッダに記録されるコードブロックのサイズは一つであるが、実際のコードブロックサイズは画像サイズやDWTレベル数、プリシンクトサイズなどの様々なパラメータによって決定され、かならずしも全てのコードブロックで同一とはならない。コードブロック内の量子化されたDWT係数は、符号絶対値表現(符号付数値表現)で表される2進数として表現され、以後の処理はビットプレーンごとに進められる。
上図は、EBCOTにおけるビットプレーンの概念を示している。なお、図中の K m s b {\displaystyle K_{msb}} は、各コードブロックごとに計測されたゼロビットプレーン数である。ゼロビットプレーンとは、符号ビットを除く振幅係数において、プレーン内の係数ビットがすべて0であるプレーンが最上位ビットから連続する数である。このゼロビットプレーンに対する処理はスキップされ、その数のみが後述するパケットヘッダに記録される。
各コードブロックは、ビットプレーンに分割される。各ビットプレーンは、最上位ビットに位置するプレーンから順に最下位ビットプレーン至るまで処理される。各ビットプレーン内のDWT係数ビットは、周辺係数ビットの状態に応じて、最大3つの符号化パスに分割される。各符号化パスは、Significance Propagation(SP), Magnitude Refinement(MR), Cleanup(CU)と呼ばれる。各係数ビットは、必ずこれらの符号化パスのいずれかに一度だけ属する。
各ビットプレーンのスキャンパターンを下図に示す。スキャンの際には 1 × 4 {\displaystyle 1\times 4} 係数ビットからなるstripeという単位が存在し、各stripe内は上から下へと順にスキャンされる。
最上位ビットプレーンをスキャンする際には、上位のビットプレーンに関する情報が得られないため、必ずCleanupパスとして処理される。最上位のすぐ次のビットプレーンからは、SP→MR→CUの順に属する符号化パスが決定される。
符号化パスの決定には、現在の係数ビットと、その周辺8近傍の係数ビットの状態が用いられる。係数ビットは"1"か"0"の値をとるが、それぞれ"有意"および"非有意"状態とみなされる。
SPパスは自身が非有意かつ周辺にすでに有意となった係数ビット存在する係数ビットが属する。このとき、現在の係数ビットは非有意から有意の状態へと更新される。
MRパスは、上位ビットプレーンですでに有意となっている係数ビットが属する。
CUパスは、SPパスにもMRパスにも属さない係数ビットが属する。
なお、それぞれの符号化パスは、さらにその周辺係数ビットの有意状態の情報に、コンテクスト(CX)と呼ばれるラベルが付けられる。規格で規定されたコンテクストの数は19である。
SP、MR、CUの各符号化パスに属する係数ビットは、そのコンテクストCXの値と共に2値算術符号化器であるMQ-coderへと送られ、算術符号化される。MQ-coderは、各コンテクストごとに独立した確率遷移テーブルを持つ。この確率遷移テーブルのエントリ数は46である。
MQ-coderは、係数ビットの正負を表す符号ビットと、値ビットから計算されるディシジョンビットDと、CXを入力として、出力ビットを計算する。符号ビットが入力されるのは、初めて有意となる係数ビットが符号化されるときに限られる。MQ-coder内には5つのレジスタが存在し、そのうちの出力ビットを蓄えているレジスタ上でバイト境界に達すると、バイトストリームとして1バイトが新たに出力される。この際、デコーダにとって重要なマーカとなるFF90h〜の値がバイトストリーム内に出現するのを回避するため、直前のバイト出力がFFhであった場合には、レジスタ内における次のバイト境界の先頭1ビットをスキップし、データを書き込まないようにする処理が追加される。これはビットスタッフィングと呼ばれる。
コードブロック内の全ての係数ビットを符号化した後でも、通常、MQ-coder内のレジスタにはバイト境界に満たない符号語が残っているため、終端処理によって全ての係数ビットをデコードするのに必要な長さの符号語を出力する。
MQ-coderには、符号化モードとして、以下の6つのモードがオプションとして用意されている。
EBCOTでは、MQ符号化後のバイトストリームに対して、符号化パスを最小単位として符号切り捨てを行うことで圧縮後のレート歪最適化(PCRD-opt)を行うことが可能である。レート制御については、エンコーダにおける処理であるため規定された技術はないが、一般的に以下の処理によって実現されることが多い。
コードブロック n {\displaystyle n} 内の切り捨て点として、符号化パス z n {\displaystyle z_{n}} を考える。 z n {\displaystyle z_{n}} までのデータ量を L n z n {\displaystyle L_{n}^{z_{n}}} 、そのパスでバイトストリームを切り捨てることで増加する歪みの推定量を D ( L n z n ) {\displaystyle D(L_{n}^{z_{n}})} とおく。所望のビットレートを L m a x {\displaystyle L_{max}} として、 ∑ L i z i ≤ L m a x {\displaystyle \sum {L_{i}^{z_{i}}}\leq L_{max}} の条件のもと、 ∑ D ( L i z i ) {\displaystyle \sum D(L_{i}^{z_{i}})} を最小化する z i {\displaystyle z_{i}} を各コードブロックごとに決定する。この一連の手順はラグランジュの未定乗数法を用いることで実現できる。
また、上述のレート制御処理は、コードストリームのプログレッション順序の構成要素の一つであるレイヤを形成するためにも用いられる。レイヤとは、SNR(Signal-to-Noise Ratio, SNR)スケーラビリティを実現するための概念である。
レイヤを用いたSNRスケーラビリティとは。最上位レイヤから最下位レイヤにデコード処理が進むにしたがって、段階的にデコード画像の画質が向上する(SNRが向上する)機能を意味する。レート制御処理によって、各コードブロックの符号化パスがどの程度画質に寄与するかが予測できるため、この情報を用いてレイヤを生成する。具体的には、各コードブロックにおいて、どのレイヤに符号化パスがいくつ属するかをレート制御によって得られる情報をもとに決定する。このレイヤごとのパス数は、パケットヘッダ生成アルゴリズムによってパケットヘッダに記録される。
MQ-coderからの出力バイトストリームは、プリシンクトを単位とした「パケット」として整列される。各パケットには、パケットヘッダとして以下の情報が付加される。
各パケットヘッダの先頭1bitは、そのパケットのデータが空である場合には0、それ以外には1となるフラグである。
2. 3.については、タグツリーと呼ばれるデータ構造によって符号化される。
生成されたパケットヘッダは、各パケットの先頭あるいは、メインヘッダ内、あるいはタイルパートヘッダ内のいずれか一つの場所に格納される。
各パケットは、指定されたプログレッション順序に応じて並べ替えられる。指定可能なプログレッション順序は、
の5つである。
デジタルシネマ、公文書や芸術作品のアーカイブ、医療用画像の圧縮、業務用途の画像配信システム、監視カメラ、PDFファイル内の画像フォーマットなどでは既に広く使われている。高い圧縮効率や豊富な機能を備えていることから、発表当初はコンシューマ向け分野でも急激に普及することが期待されたが、JPEGと比較すると計算負荷が高くバッテリー消費が激しいことや、またスループットを稼げず連写速度の向上が難しいことから、デジタルカメラ用途での採用は進んでいない。
Part 15(High Throughput JPEG 2000)では、EBCOTの弱点であった計算負荷の高さとそれに起因する低スループットおよびバッテリー消費量の問題を解決するべく、新しいブロック符号化アルゴリズムが標準化された。若干の圧縮効率の低下と引き換えに、10倍以上のスループット向上が達成されている。また、決して並列化向きのアルゴリズムではなかったEBCOTとは異なり、GPUなどによる並列化を強く意識したアルゴリズムとなっており、並列化によるスループットのさらなる向上が期待できる。
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"text": "プリシンクトのサイズは2のべき乗の整数でなければならず、最大で 2 15 × 2 15 {\\displaystyle 2^{15}\\times 2^{15}} のサイズを取ることができる。同一番号のプリシンクトは画像の部分領域を構成するDWT係数と考えることができ、後述するパケットおよびプログレッション順序の構成要素となる。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "Part 1では、スカラー量子化のみがサポートされている。Part 2ではTCQ(Trellis Coded Quantization)と呼ばれる量子化方法も使用可能である。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "サブバンド b {\\displaystyle b} のDWT変換係数を x b {\\displaystyle x_{b}} 、ステップサイズを Δ b {\\displaystyle \\Delta _{b}} とおくと、スカラー量子化後の変換係数 Q ( x b ) {\\displaystyle Q(x_{b})} は次式で表される。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "Q ( x b ) = s i g n ( x b ) ⌊ | x b | Δ b ⌋ {\\displaystyle Q(x_{b})=sign(x_{b})\\left\\lfloor {\\frac {|x_{b}|}{\\Delta _{b}}}\\right\\rfloor }",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ロスレスモードでは、量子化による情報の損失は許されないため、 Δ b = 1 {\\displaystyle \\Delta _{b}=1} で固定である。ロッシーモードにおけるステップサイズは、各DWTレベル、各サブバンドごとに異なる値を指定できる。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "画像中の特定の領域を興味領域(ROI)として、他の領域(背景領域)と比べて符号化の優先度を高めるための処理である。興味領域内のDWT係数をMAXSHIFTと呼ばれる方法でシフトアップすることで、符号化の優先度を高めることができる。サブバンド b {\\displaystyle b} のDWT係数のダイナミックレンジを M b {\\displaystyle M_{b}} (bit)とすると、MAXSHIFT法によるシフト量 s {\\displaystyle s} は次式で表される。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "s ≥ max ( M b ) {\\displaystyle s\\geq \\max(M_{b})}",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "MAXSHIFT法によるROI機能では、優先度の調節は不可能であるものの、デコーダに際してROIの形状に関する情報が不要という特長がある。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "下図に示すように、EBCOTでは、各サブバンドは、コードブロックと呼ばれる矩形領域に分割される。コードブロックはEBCOTにおける最小符号化単位であり、各コードブロックはそれぞれ独立に符号化可能である。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "コードブロックのサイズは、水平・垂直方向それぞれのサイズが4以上1024以下、面積が4096以下の条件を満たす2のべき乗の整数から自由に選ぶことができる。一般に64x64や、32x32のサイズが用いられることが多い。メインヘッダに記録されるコードブロックのサイズは一つであるが、実際のコードブロックサイズは画像サイズやDWTレベル数、プリシンクトサイズなどの様々なパラメータによって決定され、かならずしも全てのコードブロックで同一とはならない。コードブロック内の量子化されたDWT係数は、符号絶対値表現(符号付数値表現)で表される2進数として表現され、以後の処理はビットプレーンごとに進められる。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "上図は、EBCOTにおけるビットプレーンの概念を示している。なお、図中の K m s b {\\displaystyle K_{msb}} は、各コードブロックごとに計測されたゼロビットプレーン数である。ゼロビットプレーンとは、符号ビットを除く振幅係数において、プレーン内の係数ビットがすべて0であるプレーンが最上位ビットから連続する数である。このゼロビットプレーンに対する処理はスキップされ、その数のみが後述するパケットヘッダに記録される。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "各コードブロックは、ビットプレーンに分割される。各ビットプレーンは、最上位ビットに位置するプレーンから順に最下位ビットプレーン至るまで処理される。各ビットプレーン内のDWT係数ビットは、周辺係数ビットの状態に応じて、最大3つの符号化パスに分割される。各符号化パスは、Significance Propagation(SP), Magnitude Refinement(MR), Cleanup(CU)と呼ばれる。各係数ビットは、必ずこれらの符号化パスのいずれかに一度だけ属する。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "各ビットプレーンのスキャンパターンを下図に示す。スキャンの際には 1 × 4 {\\displaystyle 1\\times 4} 係数ビットからなるstripeという単位が存在し、各stripe内は上から下へと順にスキャンされる。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "最上位ビットプレーンをスキャンする際には、上位のビットプレーンに関する情報が得られないため、必ずCleanupパスとして処理される。最上位のすぐ次のビットプレーンからは、SP→MR→CUの順に属する符号化パスが決定される。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "符号化パスの決定には、現在の係数ビットと、その周辺8近傍の係数ビットの状態が用いられる。係数ビットは\"1\"か\"0\"の値をとるが、それぞれ\"有意\"および\"非有意\"状態とみなされる。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "SPパスは自身が非有意かつ周辺にすでに有意となった係数ビット存在する係数ビットが属する。このとき、現在の係数ビットは非有意から有意の状態へと更新される。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "MRパスは、上位ビットプレーンですでに有意となっている係数ビットが属する。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "CUパスは、SPパスにもMRパスにも属さない係数ビットが属する。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "なお、それぞれの符号化パスは、さらにその周辺係数ビットの有意状態の情報に、コンテクスト(CX)と呼ばれるラベルが付けられる。規格で規定されたコンテクストの数は19である。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "SP、MR、CUの各符号化パスに属する係数ビットは、そのコンテクストCXの値と共に2値算術符号化器であるMQ-coderへと送られ、算術符号化される。MQ-coderは、各コンテクストごとに独立した確率遷移テーブルを持つ。この確率遷移テーブルのエントリ数は46である。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "MQ-coderは、係数ビットの正負を表す符号ビットと、値ビットから計算されるディシジョンビットDと、CXを入力として、出力ビットを計算する。符号ビットが入力されるのは、初めて有意となる係数ビットが符号化されるときに限られる。MQ-coder内には5つのレジスタが存在し、そのうちの出力ビットを蓄えているレジスタ上でバイト境界に達すると、バイトストリームとして1バイトが新たに出力される。この際、デコーダにとって重要なマーカとなるFF90h〜の値がバイトストリーム内に出現するのを回避するため、直前のバイト出力がFFhであった場合には、レジスタ内における次のバイト境界の先頭1ビットをスキップし、データを書き込まないようにする処理が追加される。これはビットスタッフィングと呼ばれる。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "コードブロック内の全ての係数ビットを符号化した後でも、通常、MQ-coder内のレジスタにはバイト境界に満たない符号語が残っているため、終端処理によって全ての係数ビットをデコードするのに必要な長さの符号語を出力する。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "MQ-coderには、符号化モードとして、以下の6つのモードがオプションとして用意されている。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "EBCOTでは、MQ符号化後のバイトストリームに対して、符号化パスを最小単位として符号切り捨てを行うことで圧縮後のレート歪最適化(PCRD-opt)を行うことが可能である。レート制御については、エンコーダにおける処理であるため規定された技術はないが、一般的に以下の処理によって実現されることが多い。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "コードブロック n {\\displaystyle n} 内の切り捨て点として、符号化パス z n {\\displaystyle z_{n}} を考える。 z n {\\displaystyle z_{n}} までのデータ量を L n z n {\\displaystyle L_{n}^{z_{n}}} 、そのパスでバイトストリームを切り捨てることで増加する歪みの推定量を D ( L n z n ) {\\displaystyle D(L_{n}^{z_{n}})} とおく。所望のビットレートを L m a x {\\displaystyle L_{max}} として、 ∑ L i z i ≤ L m a x {\\displaystyle \\sum {L_{i}^{z_{i}}}\\leq L_{max}} の条件のもと、 ∑ D ( L i z i ) {\\displaystyle \\sum D(L_{i}^{z_{i}})} を最小化する z i {\\displaystyle z_{i}} を各コードブロックごとに決定する。この一連の手順はラグランジュの未定乗数法を用いることで実現できる。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また、上述のレート制御処理は、コードストリームのプログレッション順序の構成要素の一つであるレイヤを形成するためにも用いられる。レイヤとは、SNR(Signal-to-Noise Ratio, SNR)スケーラビリティを実現するための概念である。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "レイヤを用いたSNRスケーラビリティとは。最上位レイヤから最下位レイヤにデコード処理が進むにしたがって、段階的にデコード画像の画質が向上する(SNRが向上する)機能を意味する。レート制御処理によって、各コードブロックの符号化パスがどの程度画質に寄与するかが予測できるため、この情報を用いてレイヤを生成する。具体的には、各コードブロックにおいて、どのレイヤに符号化パスがいくつ属するかをレート制御によって得られる情報をもとに決定する。このレイヤごとのパス数は、パケットヘッダ生成アルゴリズムによってパケットヘッダに記録される。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "MQ-coderからの出力バイトストリームは、プリシンクトを単位とした「パケット」として整列される。各パケットには、パケットヘッダとして以下の情報が付加される。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "各パケットヘッダの先頭1bitは、そのパケットのデータが空である場合には0、それ以外には1となるフラグである。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2. 3.については、タグツリーと呼ばれるデータ構造によって符号化される。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "生成されたパケットヘッダは、各パケットの先頭あるいは、メインヘッダ内、あるいはタイルパートヘッダ内のいずれか一つの場所に格納される。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "各パケットは、指定されたプログレッション順序に応じて並べ替えられる。指定可能なプログレッション順序は、",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "の5つである。",
"title": "符号化手順"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "デジタルシネマ、公文書や芸術作品のアーカイブ、医療用画像の圧縮、業務用途の画像配信システム、監視カメラ、PDFファイル内の画像フォーマットなどでは既に広く使われている。高い圧縮効率や豊富な機能を備えていることから、発表当初はコンシューマ向け分野でも急激に普及することが期待されたが、JPEGと比較すると計算負荷が高くバッテリー消費が激しいことや、またスループットを稼げず連写速度の向上が難しいことから、デジタルカメラ用途での採用は進んでいない。",
"title": "動向"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "Part 15(High Throughput JPEG 2000)では、EBCOTの弱点であった計算負荷の高さとそれに起因する低スループットおよびバッテリー消費量の問題を解決するべく、新しいブロック符号化アルゴリズムが標準化された。若干の圧縮効率の低下と引き換えに、10倍以上のスループット向上が達成されている。また、決して並列化向きのアルゴリズムではなかったEBCOTとは異なり、GPUなどによる並列化を強く意識したアルゴリズムとなっており、並列化によるスループットのさらなる向上が期待できる。",
"title": "動向"
}
] |
JPEG 2000(ジェイペグにせん)は、静止画像圧縮技術及び同技術を用いた画像フォーマットの呼称である。ISOとITUの共同組織であるJoint Photographic Experts Groupによって、国際標準化が進められており、ISO/IECの規格書15444およびITU-Tの勧告書Rec.T.800シリーズとして出版されている。 JPEG2000と詰めて書かずに、JPEG 2000と書くのが正式な表記である。JPEG 2000では、JPEGを上回る圧縮効率とスケーラビリティなどの機能を付加することを目的に規格策定作業が進められた。なお、国際標準の規格書/勧告書で規定されているのは、JPEG 2000のコードストリームをデコードするための手順である。したがって、エンコーダの仕様については何も定められていない。どのように実装されたとしても、エンコーダに要求されるのは、標準によって規定された手順でデコードできるコードストリームを出力することである。
|
{{Infobox file format
| name = JPEG 2000
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| caption = オリジナルのJPEGフォーマットとJPEG 2000との比較
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| owner = [[Joint Photographic Experts Group]]
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| genre = [[画像ファイルフォーマット]]
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| extendedto =
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'''JPEG 2000'''(ジェイペグにせん)は、静止画像[[データ圧縮|圧縮]]技術及び同技術を用いた[[画像]][[ファイルフォーマット|フォーマット]]の呼称である。[[国際標準化機構|ISO]]と[[国際電気通信連合|ITU]]の共同組織である[[Joint Photographic Experts Group]]によって、国際標準化が進められており、[[国際標準化機構|ISO]]/[[国際電気標準会議|IEC]]の規格書15444およびITU-Tの勧告書Rec.T.800シリーズとして出版されている。
JPEG2000と詰めて書かずに、'''JPEG 2000'''と書くのが正式な表記である。JPEG 2000では、[[JPEG]]を上回る圧縮効率とスケーラビリティなどの機能を付加することを目的に規格策定作業が進められた<ref>{{Cite book|title=JPEG2000 : image compression fundamentals, standards, and practice|url=https://www.worldcat.org/oclc/47737760|publisher=Kluwer Academic Publishers|date=2002|location=Boston|isbn=079237519X|oclc=47737760|others=Marcellin, Michael W.|last=Taubman, David S.}}</ref><ref>{{Cite book|title=The JPEG 2000 suite|url=https://www.worldcat.org/oclc/441886987|publisher=J. Wiley|date=2009|location=Chichester, West Sussex, U.K.|isbn=9780470744635|oclc=441886987|others=Schelkens, Peter., Skodras, Athanassios., Ebrahimi, Touradj.}}</ref>。なお、国際標準の規格書/勧告書で規定されているのは、JPEG 2000のコードストリームをデコードするための手順である。したがって、エンコーダの仕様については何も定められていない。どのように実装されたとしても、エンコーダに要求されるのは、標準によって規定された手順でデコードできるコードストリームを出力することである。
== 技術の概要 ==
JPEG 2000では、JPEGと同様、入力画像に対して周波数変換を施し、その変換係数に対して[[量子化]]、[[エントロピー符号化]]を適用することで画像の持つデータ量を圧縮する。JPEGとの要素技術における主な相違点は、以下の通り。
* 周波数変換に[[離散コサイン変換]]ではなく、[[離散ウェーブレット変換]] (Discrete Wavelet Transform:DWT)を用いること
* エントロピー符号に[[ハフマン符号]]ではなく、[[算術符号]]を用いること
* 可逆符号化(ロスレス)と非可逆(ロッシー)符号化を同一の方式にて実現可能であること
JPEG 2000は、一つの圧縮画像を様々な解像度やビットレート等で利用できるというスケーラビリティ機能を有しているが、これは特に、量子化された変換係数から圧縮されたビットストリームを生成する役割を担うEBCOT(Embedded Block Coding with Optimized Truncation<ref>{{Cite journal|last=Taubman|first=D.|date=2000-7|title=High performance scalable image compression with EBCOT|url=http://ieeexplore.ieee.org/document/847830/|journal=IEEE Transactions on Image Processing|volume=9|issue=7|pages=1158–1170|doi=10.1109/83.847830}}</ref>)アルゴリズムの持つ、高い符号化効率、圧縮後のレート制御(Post Compression Rate Distortion Optimization:PCRD-opt)などの特長に依るところが大きい。
== Part ==
2020年6月現在、JPEG 2000はPart1からPart16までが標準化されている<ref>{{Cite web|title=JPEG - JPEG 2000|url=https://jpeg.org/jpeg2000/index.html|website=jpeg.org|accessdate=2019-08-12}}</ref>。
ITU-T側で出版されている勧告書のうち、無料で入手可能なものには参照を付した。
{| class="wikitable"
|+JPEG 2000の各パートの名称と内容
!Part
!内容
!ISO/IEC IS
!ITU-
T Rec.
|-
|1
|基本方式, 基本ファイルフォーマット .jp2
|15444-1
|T.800
|-
|2
|拡張
|15444-2
|T.801
|-
|3
|Motion JPEG 2000, 動画像向けファイルフォーマット .mj2
|15444-3
|T.802
|-
|4
|適合性試験
|15444-4
|T.803<ref>{{Cite web|title=T.803 : Information technology - JPEG 2000 image coding system: Conformance testing|url=https://www.itu.int/rec/T-REC-T.803|website=www.itu.int|accessdate=2019-09-06}}</ref>
|-
|5
|参照ソフトウェア
|15444-5
|T.804<ref>{{Cite web|title=T.804 : Information technology - JPEG 2000 image coding system: Reference software|url=https://www.itu.int/rec/T-REC-T.804|website=www.itu.int|accessdate=2019-09-06}}</ref>
|-
|6
|複合画像(文字と写真等が混在した画像)向けファイルフォーマット .jpm
|15444-6
|T.805<ref>{{Cite web|title=T.805 : Information technology - JPEG 2000 image coding system: Compound image file format|url=https://www.itu.int/rec/T-REC-T.805|website=www.itu.int|accessdate=2019-09-06}}</ref>
|-
|7
|
|
|
|-
|8
|Secure JPEG 2000, JPEG 2000画像のためのセキュリティサービス (JPSEC)
|15444-8
|T.807<ref>{{Cite web|title=T.807 : Information technology - JPEG 2000 image coding system: Secure JPEG 2000|url=https://www.itu.int/rec/T-REC-T.807|website=www.itu.int|accessdate=2019-09-06}}</ref>
|-
|9
|双方向通信のためのツール, API, JPIPプロトコル
|15444-9
|T.808<ref>{{Cite web|title=T.808 : Information technology - JPEG 2000 image coding system: Interactivity tools, APIs and protocols|url=https://www.itu.int/rec/T-REC-T.808|website=www.itu.int|accessdate=2019-09-06}}</ref>
|-
|10
|3次元画像データのための拡張
|15444-10
|T.809<ref>{{Cite web|title=T.809 : Information technology - JPEG 2000 image coding system: Extensions for three-dimensional data|url=https://www.itu.int/rec/T-REC-T.809|website=www.itu.int|accessdate=2019-09-06}}</ref>
|-
|11
|ワイヤレス通信のための誤り検出・訂正符号化 (JPWL)
|15444-11
|T.810<ref>{{Cite web|title=T.810 : Information technology - JPEG 2000 image coding system: Wireless|url=https://www.itu.int/rec/T-REC-T.810|website=www.itu.int|accessdate=2019-09-06}}</ref>
|-
|12
|
|
|
|-
|13
|エントリレベルエンコーダ
|15444-13
|T.812<ref>{{Cite web|title=T.812 : Information technology - JPEG 2000 image coding system: An entry level JPEG 2000 encoder|url=https://www.itu.int/rec/T-REC-T.812|website=www.itu.int|accessdate=2019-09-06}}</ref>
|-
|14
|XMLによるファイルフォーマットあるいはコードストリームの記述法 (JPXML)
|15444-14
|T.813<ref>{{Cite web|title=T.813 : Information technology - JPEG 2000 image coding system: XML structural representation and reference|url=https://www.itu.int/rec/T-REC-T.813|website=www.itu.int|accessdate=2019-09-06}}</ref>
|-
|15
|高スループットブロック符号化, High Throughput JPEG 2000 (HTJ2K), .jph
|15444-15
|T.814
|-
|16
|JPEG 2000画像のHEIF(ISO/IEC 23008-12)へのカプセル化
|15444-16
|T.815
|}
== コードストリーム構造 ==
JPEG 2000のコードストリーム構造の例を以下の図に示す。図内の用語のうち、タイルパート・レイヤ・DWTレベル・コンポーネント・プリシンクト・パケットヘッダ・サブバンドについては後述する。
[[ファイル:Structure_j2c.png|代替文=|中央|サムネイル|800x800ピクセル|JPEG 2000コードストリームの構造の例(LRCPプログレッション)]]
基本的には、SOC(Start of Codestream)マーカから始まるバイナリデータであり、その終端はEOC(End of Codestream)である。
SOCマーカの直後からメインヘッダが格納されており、各種符号化パラメータに関する情報がここに記録されている。メインヘッダの直後より、タイルパートが格納される。各タイルパートはタイルパートヘッダから始まる。タイルパートヘッダの直後より、そのタイルパートに含まれる圧縮データが格納される。
この圧縮データは、プログレッション順序に基づいて格納される。プログレッション順序とは、レイヤ(ある画質あるいはビットレートに対応する圧縮データの集合)、DWTレベル(DWTの分解レベルに対応する圧縮データの集合)、コンポーネント(色コンポーネント成分に対応する圧縮データの集合)、プリシンクト(DWT係数内の部分空間に対応する圧縮データの集合)の4つの要素のうち、優先的にデコードする要素の階層構造を意味する。コードストリームが取り得るプログレッション順序については後述する。
== 符号化手順 ==
下図は、JPEG 2000 Part 1の符号化手順のブロック図である。なお、本符号化手順は参考例であり、規格化されたものではないことに注意されたい。以下では、Part 1エンコーダにおける各ブロックの処理内容について述べる。以後、ここでは非可逆符号化をロッシーモード、可逆符号化をロスレスモードと呼ぶ。
[[ファイル:Jpeg2000encoder.png|代替文=JPEG 2000 Part 1 符号化の手順|中央|サムネイル|800x800ピクセル|JPEG 2000 Part 1 符号化の手順]]
=== 入力画像 ===
規格上サポートされる入力画像のサイズ・ビット深度・色コンポーネント数などを以下にまとめる。各値は、実際にはエンコーダ・デコーダの実装上の制約を受ける。
* サイズ:<math>1\times 1</math>〜<math>(2^{32}-1)\times (2^{32}-1)</math>
* ビット深度(1画素あたりのビット数):1〜38(符号付きデータの場合、符号ビットも含む)
* 色コンポーネント数:1〜16384
=== タイル分割(オプション) ===
入力画像はタイルと呼ばれる任意サイズの矩形領域に分割可能である。タイル分割は、エンコーダで利用できるメモリに制限がある場合などに有用である。各タイルは完全に独立して符号化されるため、分割数やビットレートによってJPEGで見られるような[[ブロックノイズ]]が現れる場合もある。タイルの符号化結果であるバイトストリームは、上述のようなエンコーダの制約に応じて複数の部分集合(タイルパート)に分割することも可能である。
=== DCレベルシフト(オプション) ===
入力画像が符号なしデータの場合、後述するDWT後の画像の直流成分が0中心になることを期待して、そのダイナミックレンジの1/2を入力画像から差し引く。
入力画像を<math>I</math>、入力画像の[[ビット深度]]を<math>bit</math>、DCレベルシフト後の画像を<math>I'</math>とおくと、
<math>I'=I-2^{bit-1}</math>
と表すことができる。
=== 色空間変換(オプション) ===
入力画像が[[RGB]]色空間で定義されている場合、各色コンポーネント間の冗長性を排除するために、輝度-色差色空間([[YUV]])への変換を行う。用いる色空間変換はICT(Irreversible Color Transform)とRCT(Reversible Color Transform)の2種類が規定されている。ロッシーモードではICTを、ロスレスモードではRCTを用いる。以下では最初に、ICT、続いてRCTについて述べる。入力画像<math>I</math>の各色コンポーネントを<math>R, G, B</math>とする。ICTおよびRCTは以下の式で表すことができる。以下の式において、変換後の輝度コンポーネントは<math>Y</math>または<math>Y'</math>、色差コンポーネントは<math>C_b,C_r</math>または<math>C'_b,C'_r</math>である。
==== ICT (Irreversible Color Transform) ====
<math>\begin{bmatrix}
Y \\ C_b \\ C_r
\end{bmatrix}
=
\begin{bmatrix}
0.299 & 0.587 & 0.114 \\
-0.16875 & -0.331260 & 0.5 \\
0.5 & -0.41869 & -0.08131
\end{bmatrix}
\begin{bmatrix}
R \\ G \\ B
\end{bmatrix}</math>
==== RCT (Reversible Color Transform) ====
<math>\begin{matrix}
Y' =& \left \lfloor \frac{R+2G+B}{4} \right \rfloor\\
C'_b =& B-G\\
C'_r =& R-G\\
\end{matrix}</math>
=== DWT ===
JPEG 2000では、2分割[[フィルタバンク]]に基づく分離型2次元DWTが採用されている。分離型2次元DWTは、1次元に対する処理を、水平・垂直方向に施すことによって2次元の変換係数を得る手法である。Part 1では、ロッシーモード用とロスレスモード用の2つのDWTが定義されている。それぞれのDWTは、リフティングと呼ばれる構成法を取ることによって実現される。リフティング構成を取る理由は、数学的に可逆な変換が、変換係数の精度を有限(例えば整数)にしたとしても実現できることにある。下図は、3レベルの2次元DWTの実行例である。水平方向・垂直方向の各次元で、ローパスおよびハイパスフィルタがかけられるため、1レベルのDWTによって、4つのサブバンド(LL:水平垂直ローパス、HL:水平ハイパス、垂直ハイパス、LH:水平ローパス、垂直ハイパス、HH:水平垂直ハイパス)が生成される。各レベルでは、LLサブバンドを次々に分解していくオクターブ分割が実行される。Part 1で許されるDWTレベル数は0〜32と規定されている。
[[ファイル:DWTexample.png|代替文=|サムネイル|800x800px|順方向2次元DWTの例|中央]]
各々のDWTレベルにおいて、下図に示すようにプリシンクトと呼ばれる矩形領域が定義される。
[[ファイル:Jpeg2000precinct.png|代替文=|中央|サムネイル|440x440ピクセル|JPEG 2000におけるプリシンクト]]
プリシンクトのサイズは2のべき乗の整数でなければならず、最大で<math>2^{15}\times 2^{15}
</math>のサイズを取ることができる。同一番号のプリシンクトは画像の部分領域を構成するDWT係数と考えることができ、後述するパケットおよびプログレッション順序の構成要素となる。
=== 量子化 ===
Part 1では、スカラー量子化のみがサポートされている。Part 2ではTCQ(Trellis Coded Quantization<ref>{{Cite journal|last=Kasner|first=J.H.|last2=Marcellin|first2=M.W.|last3=Hunt|first3=B.R.|date=Dec./1999|title=Universal trellis coded quantization|url=http://ieeexplore.ieee.org/document/806615/|journal=IEEE Transactions on Image Processing|volume=8|issue=12|pages=1677–1687|doi=10.1109/83.806615}}</ref>)と呼ばれる量子化方法も使用可能である。
サブバンド<math>b</math>のDWT変換係数を<math>x_b</math>、ステップサイズを<math>\Delta_b</math>とおくと、スカラー量子化後の変換係数<math>Q(x_b)</math>は次式で表される。
<math id="scalarQ">Q(x_b) = sign(x_b)\left \lfloor \frac{|x_b|}{\Delta_b} \right \rfloor</math>
ロスレスモードでは、量子化による情報の損失は許されないため、<math>\Delta_b=1</math>で固定である。ロッシーモードにおけるステップサイズは、各DWTレベル、各サブバンドごとに異なる値を指定できる。
=== ROI(Region of Interest)(オプション) ===
画像中の特定の領域を興味領域(ROI)として、他の領域(背景領域)と比べて符号化の優先度を高めるための処理である。興味領域内のDWT係数をMAXSHIFT<ref>{{Cite journal|last=Christopoulos|first=C.|last2=Askelof|first2=J.|last3=Larsson|first3=M.|date=2000-9|title=Efficient methods for encoding regions of interest in the upcoming JPEG2000 still image coding standard|url=http://ieeexplore.ieee.org/document/863146/|journal=IEEE Signal Processing Letters|volume=7|issue=9|pages=247–249|doi=10.1109/97.863146|issn=1070-9908}}</ref>と呼ばれる方法でシフトアップすることで、符号化の優先度を高めることができる。サブバンド<math>b</math>のDWT係数のダイナミックレンジを<math>M_b</math>(bit)とすると、MAXSHIFT法によるシフト量<math>s</math>は次式で表される。
<math>s\geq\max(M_b)</math>
MAXSHIFT法によるROI機能では、優先度の調節は不可能であるものの、デコーダに際してROIの形状に関する情報が不要という特長がある。
=== EBCOT ===
==== コードブロック分割 ====
下図に示すように、EBCOTでは、各サブバンドは、コードブロックと呼ばれる矩形領域に分割される。コードブロックはEBCOTにおける最小符号化単位であり、各コードブロックはそれぞれ独立に符号化可能である。
[[ファイル:Codeblock.png|代替文=|中央|サムネイル|344x344ピクセル|コードブロック分割の例]]
コードブロックのサイズは、水平・垂直方向それぞれのサイズが4以上1024以下、面積が4096以下の条件を満たす2のべき乗の整数から自由に選ぶことができる。一般に64x64や、32x32のサイズが用いられることが多い。メインヘッダに記録されるコードブロックのサイズは一つであるが、実際のコードブロックサイズは画像サイズやDWTレベル数、プリシンクトサイズなどの様々なパラメータによって決定され、かならずしも全てのコードブロックで同一とはならない。コードブロック内の量子化されたDWT係数は、符号絶対値表現([[符号付数値表現]])で表される2進数として表現され、以後の処理は[[ビットプレーン]]ごとに進められる。
[[File:Bitplanecoding.png|代替文=|中央|サムネイル|799x251ピクセル|EBCOTにおけるビットプレーン]]
上図は、EBCOTにおけるビットプレーンの概念を示している。なお、図中の<math>K_{msb}</math>は、各コードブロックごとに計測されたゼロビットプレーン数である。ゼロビットプレーンとは、符号ビットを除く振幅係数において、プレーン内の係数ビットがすべて0であるプレーンが最上位ビットから連続する数である。このゼロビットプレーンに対する処理はスキップされ、その数のみが後述するパケットヘッダに記録される。
==== ビットモデリング ====
各コードブロックは、ビットプレーンに分割される。各ビットプレーンは、最上位ビットに位置するプレーンから順に最下位ビットプレーン至るまで処理される。各ビットプレーン内のDWT係数ビットは、周辺係数ビットの状態に応じて、最大3つの符号化パスに分割される。各符号化パスは、Significance Propagation(SP), Magnitude Refinement(MR), Cleanup(CU)と呼ばれる。各係数ビットは、必ずこれらの符号化パスのいずれかに一度だけ属する。
各ビットプレーンのスキャンパターンを下図に示す。スキャンの際には<math>1\times 4</math>係数ビットからなるstripeという単位が存在し、各stripe内は上から下へと順にスキャンされる。
[[File:Ebcotstripescan.png|thumb|EBCOTにおける係数ビットのスキャンパターン|代替文=|中央|449x449ピクセル]]
最上位ビットプレーンをスキャンする際には、上位のビットプレーンに関する情報が得られないため、必ずCleanupパスとして処理される。最上位のすぐ次のビットプレーンからは、SP→MR→CUの順に属する符号化パスが決定される。
符号化パスの決定には、現在の係数ビットと、その周辺8近傍の係数ビットの状態が用いられる。係数ビットは"1"か"0"の値をとるが、それぞれ"有意"および"非有意"状態とみなされる。
SPパスは自身が非有意かつ周辺にすでに有意となった係数ビット存在する係数ビットが属する。このとき、現在の係数ビットは非有意から有意の状態へと更新される。
MRパスは、上位ビットプレーンですでに有意となっている係数ビットが属する。
CUパスは、SPパスにもMRパスにも属さない係数ビットが属する。
なお、それぞれの符号化パスは、さらにその周辺係数ビットの有意状態の情報に、コンテクスト(CX)と呼ばれるラベルが付けられる。規格で規定されたコンテクストの数は19である。
==== MQ符号化 ====
===== 概要 =====
SP、MR、CUの各符号化パスに属する係数ビットは、そのコンテクストCXの値と共に2値算術符号化器であるMQ-coderへと送られ、算術符号化される。MQ-coderは、各コンテクストごとに独立した確率遷移テーブルを持つ。この確率遷移テーブルのエントリ数は46である。
MQ-coderは、係数ビットの正負を表す符号ビットと、値ビットから計算されるディシジョンビットDと、CXを入力として、出力ビットを計算する。符号ビットが入力されるのは、初めて有意となる係数ビットが符号化されるときに限られる。MQ-coder内には5つのレジスタが存在し、そのうちの出力ビットを蓄えているレジスタ上でバイト境界に達すると、バイトストリームとして1バイトが新たに出力される。この際、デコーダにとって重要なマーカとなるFF90h〜の値がバイトストリーム内に出現するのを回避するため、直前のバイト出力がFFhであった場合には、レジスタ内における次のバイト境界の先頭1ビットをスキップし、データを書き込まないようにする処理が追加される。これはビットスタッフィングと呼ばれる。
===== 終端処理 =====
コードブロック内の全ての係数ビットを符号化した後でも、通常、MQ-coder内のレジスタにはバイト境界に満たない符号語が残っているため、終端処理によって全ての係数ビットをデコードするのに必要な長さの符号語を出力する。
===== 符号化モード =====
MQ-coderには、符号化モードとして、以下の6つのモードがオプションとして用意されている。
* Selective arithmetic coding bypass:
** 最上位から数えて5つ目のビットプレーン以降のSPおよびMRパスに属する係数ビットをRAWデータのまま符号語とするモード。CUパスは常に算術符号化される。
* Reset context probabilities on coding pass boundaries
** 各符号化パスの符号化開始時に各コンテクストごとの確率遷移テーブルを初期状態にリセットするモード。
* Termination on each coding pass
** 各符号化パスの符号化終了時に終端処理を呼び出すモード。
* Vertically causal context
** コンテクストの値を求める際のウインドウが、ひとつ下のstripeにまたがれないように制約を与えるモード。
* Predictable termination
** 終端処理を規定された方法で行うモード。
* Segmentation symbol
** エラー耐性機能のために、CUパス符号化終了時に特別なシンボルを挿入し符号語に加えるモード。
==== レート制御(オプション) ====
===== レート歪み最適化(Rate-Distortion Optimization) =====
EBCOTでは、MQ符号化後のバイトストリームに対して、符号化パスを最小単位として符号切り捨てを行うことで圧縮後のレート歪最適化(PCRD-opt)を行うことが可能である。レート制御については、エンコーダにおける処理であるため規定された技術はないが、一般的に以下の処理によって実現されることが多い。
コードブロック<math>n</math>内の切り捨て点として、符号化パス<math>z_n</math>を考える。<math>z_n</math>までのデータ量を<math>L_n^{z_n}</math>、そのパスでバイトストリームを切り捨てることで増加する歪みの推定量を<math>D(L_{n}^{z_n})</math>とおく。所望のビットレートを<math>L_{max}</math>として、<math>\sum {L_i^{z_i}} \leq L_{max}
</math>の条件のもと、<math>\sum D(L_{i}^{z_i})</math>を最小化する<math>z_i
</math>を各コードブロックごとに決定する。この一連の手順はラグランジュの未定乗数法を用いることで実現できる。
===== レイヤ(Layer)生成 =====
また、上述のレート制御処理は、コードストリームのプログレッション順序の構成要素の一つであるレイヤを形成するためにも用いられる。レイヤとは、SNR(Signal-to-Noise Ratio, [[SNR]])スケーラビリティを実現するための概念である。
レイヤを用いたSNRスケーラビリティとは。最上位レイヤから最下位レイヤにデコード処理が進むにしたがって、段階的にデコード画像の画質が向上する(SNRが向上する)機能を意味する。レート制御処理によって、各コードブロックの符号化パスがどの程度画質に寄与するかが予測できるため、この情報を用いてレイヤを生成する。具体的には、各コードブロックにおいて、どのレイヤに符号化パスがいくつ属するかをレート制御によって得られる情報をもとに決定する。このレイヤごとのパス数は、パケットヘッダ生成アルゴリズムによってパケットヘッダに記録される。
==== パケットヘッダ生成 ====
MQ-coderからの出力バイトストリームは、プリシンクトを単位とした「パケット」として整列される。各パケットには、パケットヘッダとして以下の情報が付加される。
# emptyパケットフラグ(1bit)
# レイヤ番号<math>l</math>におけるコードブロックの包含情報
# ゼロビットプレーン数
# 符号化パス数
# バイトストリームの長さ
各パケットヘッダの先頭1bitは、そのパケットのデータが空である場合には0、それ以外には1となるフラグである。
2. 3.については、タグツリーと呼ばれるデータ構造によって符号化される。
生成されたパケットヘッダは、各パケットの先頭あるいは、メインヘッダ内、あるいはタイルパートヘッダ内のいずれか一つの場所に格納される。
=== パケット生成 ===
各パケットは、指定されたプログレッション順序に応じて並べ替えられる。指定可能なプログレッション順序は、
* レイヤ、DWTレベル、色コンポーネント、プリシンクト(LRCP)
* DWTレベル、レイヤ、色コンポーネント、プリシンクト(RLCP)
* DWTレベル、プリシンクト、色コンポーネント、レイヤ(RPCL)
* プリシンクト、色コンポーネント、DWTレベル、レイヤ(PCRL)
* 色コンポーネント、プリシンクト、DWTレベル、レイヤ(CPRL)
の5つである。
== 動向 ==
[[デジタルシネマ]]<ref>{{Cite web|title=Digital Cinema Initiatives (DCI) - DIGITAL CINEMA SYSTEM SPECIFICATION, VERSION 1.2|url=https://www.dcimovies.com/specification/index.html|website=www.dcimovies.com|accessdate=2019-08-12}}</ref>、公文書や芸術作品のアーカイブ<ref>{{Cite web|和書|title=国立公文書館 デジタルアーカイブ|url=https://www.digital.archives.go.jp/data/howto.html|website=www.digital.archives.go.jp|accessdate=2019-08-12}}</ref>、医療用画像の圧縮<ref>{{Cite web|title=8.2.4 JPEG 2000 Image Compression|url=http://dicom.nema.org/medical/dicom/2017c/output/chtml/part05/sect_8.2.4.html|website=dicom.nema.org|accessdate=2019-08-12}}</ref>、業務用途の画像配信システム、[[監視カメラ]]、[[Portable Document Format|PDF]]ファイル内の画像フォーマットなどでは既に広く使われている。高い圧縮効率や豊富な機能を備えていることから、発表当初はコンシューマ向け分野でも急激に普及することが期待されたが、JPEGと比較すると計算負荷が高くバッテリー消費が激しいことや、またスループットを稼げず連写速度の向上が難しいことから、デジタルカメラ用途での採用は進んでいない。
Part 15(High Throughput JPEG 2000)では、EBCOTの弱点であった計算負荷の高さとそれに起因する低スループットおよびバッテリー消費量の問題を解決するべく、新しいブロック符号化アルゴリズムが標準化された。若干の圧縮効率の低下と引き換えに、10倍以上のスループット向上が達成されている。また、決して並列化向きのアルゴリズムではなかったEBCOTとは異なり、GPUなどによる並列化を強く意識したアルゴリズムとなっており、並列化によるスループットのさらなる向上が期待できる。
== 対応ソフトウェア ==
* OS
** macOS
** iOS
* [[アドビ]]
** [[Adobe Photoshop]]/[[Adobe Photoshop Elements]]
** [[Adobe Acrobat]]/Adobe Reader(6.0以降)
* [[GIMP]]
* [[CorelDRAW]]
* {{仮リンク|Digital Cinema Initiatives|en|Digital Cinema Initiatives}} (DCI) 規格の[[デジタルシネマ]]
* [[GTK (ツールキット)|GTK]] <ref>{{Cite web |url=https://git.gnome.org/browse/gdk-pixbuf/commit/gdk-pixbuf/io-jasper.c?id=6ecfe5ad19ea8684b86adaa8940e60d5fd959a5e |title=gdk-pixbuf - An image loading library |accessdate=2014-07-16}}</ref>
* [[Qt]] <ref>{{Cite web |url=http://qt-project.org/doc/qt-5/qtimageformats-index.html |title=Qt Image Formats {{!}} QtImageFormats 5.3 {{!}} Documentation {{!}} Qt Project |accessdate=2014-07-16}}</ref>
* [https://www.bandisoft.com/jp/honeyview/ Honeyview]
* [http://www.woodybells.com/jtrim.html JTrim]
* [[MATLAB]]
* [http://www.wolfram.com/index.ja.html?source=nav&source=footer Mathematica]
* [[Graphicconverter]]
* [[ImageMagick]]
* [[IrfanView]](プラグインが必要)
* [[Susie]](プラグインが必要)
* [[XnView]](プレビュー、変換ともに可能)
* [[Blender]]
* JuGeMu JPEG 2000 viewer(JPEG2000 Part1対応ビューア)
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://jpeg.org/jpeg2000/ JPEG 2000]{{en icon}}
* [https://jpeg.org/ The JPEG committee home page]{{en icon}}
* {{PDFlink|[http://www.intopix.com/pdf/JPEG%202000%20Handbook.pdf Everything you always wanted to know about JPEG 2000]}}{{リンク切れ|date=2021年3月}} - published by intoPIX in 2008 {{en icon}}
* [http://www.ece.uvic.ca/~mdadams/jasper/ The Jasper Project Homepage]{{en icon}} C言語によるJPEG 2000の実装(Part 5の一部)
* [http://jj2000.epfl.ch/ JJ2000 Public Homepage]{{en icon}}{{リンク切れ|date=2021年3月}} JavaによるJPEG 2000の実装(Part 5の一部)
* [http://www.openjpeg.org/ OpenJPEG Homepage]{{en icon}} オープンソース(BSDライセンス)のJPEG 2000の実装(Part 5の一部)
* [http://www.kakadusoftware.com/ Kakadu JPEG 2000 SDK Home Page]{{en icon}} C++言語によるJPEG 2000の実装
* [http://www.keiyou.jp/archive/download/ JuGeMu JPEG 2000 viewer](JPEG2000 Part1対応ビューア)
{{圧縮フォーマット}}
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郵便記号
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郵便記号(ゆうびんきごう、〒)または郵便マーク(ゆうびんマーク)は、日本の郵便事業・郵便局の記号・シンボルマーク。明治20年(1887年)に逓信省が徽章として考案・発表し、後身の郵政省・郵政事業庁・日本郵政公社へと引き継がれ、民営化後の日本郵政グループのブランドマークとなっている。
郵便(日本郵政グループ)以外では、旧郵政省の電気通信関連部門を引き継いだ総務省の技術基準適合マークとして使用されている。過去には旧通産省の電気用品取締法の合格マークとしても使用された。→後述
郵便マーク(ゆうびんマーク)と呼ばれることが多いが、日本産業規格(JIS)において「〒」は「郵便記号」(ゆうびんきごう)と呼称されており、「郵便マーク」は「〠」(顔郵便マーク)を指す。Unicode のコードポイントは、郵便記号(〒)が U+3012、郵便マーク(〠)が U+3020 である。
郵便記号(〒)は日本国独自のものであり、日本国外では郵便記号として利用することはできない。また、郵便番号を表示するときにもしばしば用いられ、はがきや封筒に郵便番号と併せて郵便記号も書いているケースがあるが、日本郵便が定めている「内国郵便約款」では不可となっている。
明治4年4月20日(1871年6月7日)に日本の郵便事業が始まったが、当初は特に定められた徽章はなく、「郵便」の文字だけであった。明治10年(1877年)頃から、大きな赤丸(いわゆる「日の丸」的な徽章)に太い横線を重ねた赤い「丸に一引き」が郵便マークとして用いられ始めたとされている。「丸に一引き」は郵便配達員の制帽・制服・郵便旗などに記されており、明治17年(1884年)6月23日太政官布達第15号により、正式に「郵便徽章」と定められた。その後、後述のように明治20年(1887年)に「〒」が逓信省の徽章に定められた際、この郵便徽章は自然消滅に属するとされ、新調するまでの間は、そのまま使用できるものとした。
なお、郵便等の所管官庁として逓信省が創設されるのは、その翌年、明治18年(1885年)である。
2月8日は郵便マークの日となっている。
明治20年(1887年)2月8日、当時の逓信省は「今より (T) 字形を以って本省全般の徽章とす」と告示(明治20年2月8日逓信省告示第11号)した。ところが、2月14日に「〒」に変更し、2月19日の官報で「実は「〒」の誤りだった」ということで訂正されてしまった。
この経緯に関しては、諸説あることで知られている。
どれが有力か、ということはないが、一般には 2. のほうが多く語られている。また、「Tの上に棒を一本加える」というアイディアは、初代逓信大臣であった榎本武揚が出したとも言われている。
なお、「T」マークの由来にも諸説あり、漢字の「丁」(てい)を図案化したもので、これは「甲乙丙丁」の「丁」が逓信(ていしん)の「てい」の読みに合うからだという説や、「逓信」をローマ字で表した「Teishin」の頭文字だという説もある。
いずれにせよ、これ以降は「〒」の徽章が、郵便配達員が身につける帽子(丸笠)の正面や制服上着の袖口、郵便旗(英語版)、あるいは書状集め箱(現在の郵便ポスト)につけられるようになった。また、当初は上述の「丸に一引き」や封筒をモチーフにしていた「郵便局」を示す地図記号も、「〒」を丸で囲んだものと定められた。
なお、郵便記号の縦横比は、昭和25年(1950年)の郵政省告示第35号により幅のほうが広く高さが低いのが正しい記号である。
顔郵便マーク(〠)は「ナンバーくん」という名前で、かつては切手にも登場したことがある。しかし、1996年に新キャラクターの「ポストン」が登場したことから郵政の場では公式には使われなくなった。さらに民営化により、日本郵政グループでは「撤去が望ましい」扱いとされた。なお、ポストンは引き続き使用可能となっている。
郵便以外で利用される〒マークとして、次のようなものが存在する。
家庭用電気製品やその他の電気器具について、電気用品取締法に基づく試験に合格した証印として、逆三角形(甲種)や円形(乙種)の中に「〒」を描いたマークが使われていた。その由来はかつて「逓信省電気試験所」が電気製品に関する試験を行っていたためとされている。なお、逓信省電気試験所は商工省に移管の後、電気試験業務は日本電気計器検定所(経済産業省所管)に引き継がれている。
なお、2001年(平成13年)に電気用品取締法が電気用品安全法に改称され、同義のマークもひし形や円形の中に「PSE」を描いたものに変更され、これ以降に製造された電気製品に「〒」は使われていない。
1985年(昭和60年)より電話機やファックスなどの端末機器について電気通信事業法の技術基準適合認定として、 また、1987年(昭和62年)より携帯電話端末やPHS端末などの無線機器について電波法の技術基準適合証明として、 「〒」を用いた円形マークを用いていたが、1991年(平成3年)に統一され、1995年(平成7年)より稲妻のデザインと「〒」を組み合わせた円形の技適マークが使用されている。 なお、2010年(平成22年)からは、印刷やラベル貼付以外にディスプレイ表示させることも認められた。
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郵便記号(ゆうびんきごう、〒)または郵便マーク(ゆうびんマーク)は、日本の郵便事業・郵便局の記号・シンボルマーク。明治20年(1887年)に逓信省が徽章として考案・発表し、後身の郵政省・郵政事業庁・日本郵政公社へと引き継がれ、民営化後の日本郵政グループのブランドマークとなっている。 郵便(日本郵政グループ)以外では、旧郵政省の電気通信関連部門を引き継いだ総務省の技術基準適合マークとして使用されている。過去には旧通産省の電気用品取締法の合格マークとしても使用された。→後述 郵便マーク(ゆうびんマーク)と呼ばれることが多いが、日本産業規格(JIS)において「〒」は「郵便記号」(ゆうびんきごう)と呼称されており、「郵便マーク」は「〠」(顔郵便マーク)を指す。Unicode のコードポイントは、郵便記号(〒)が U+3012、郵便マーク(〠)が U+3020 である。 郵便記号(〒)は日本国独自のものであり、日本国外では郵便記号として利用することはできない。また、郵便番号を表示するときにもしばしば用いられ、はがきや封筒に郵便番号と併せて郵便記号も書いているケースがあるが、日本郵便が定めている「内国郵便約款」では不可となっている。
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{{混同|x1=カタカナの|テ|link2=テンゲ|カザフスタンの通貨「テンゲ」の通貨記号}}
{{Otheruses|日本の事例|ヨーロッパのいくつかの国|郵便ラッパ|アメリカ合衆国|アメリカ合衆国郵便公社|その他|郵便マーク}}
{{出典の明記|date=2017年9月}}
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[[ファイル:Postal Mark (Japan).svg|thumb|200px|郵便記号・郵便マーク]]
'''郵便記号'''(ゆうびんきごう、'''〒''')または'''郵便マーク'''(ゆうびんマーク)は、[[日本]]の[[郵便]]事業・[[郵便局]]の[[記号]]・[[シンボルマーク]]。[[明治]]20年([[1887年]])に[[逓信省]]が[[徽章]]として考案・発表し、後身の[[郵政省]]・[[郵政事業庁]]・[[日本郵政公社]]へと引き継がれ、民営化後の[[日本郵政|日本郵政グループ]]の[[ブランド]]マークとなっている。
郵便(日本郵政グループ)以外では、旧郵政省の電気通信関連部門を引き継いだ[[総務省]]の技術基準適合マークとして使用されている。過去には旧通産省の電気用品取締法の合格マークとしても使用された。→[[#郵便以外の〒マーク|後述]]
'''郵便マーク'''(ゆうびんマーク)と呼ばれることが多いが、[[日本産業規格]](JIS)において「〒」は「'''郵便記号'''」(ゆうびんきごう)と呼称されており、「郵便マーク」は「〠」([[顔郵便マーク]])を指す。[[Unicode]] のコードポイントは、郵便記号(〒)が U+3012、郵便マーク(〠)が U+3020 である。
郵便記号(〒)は日本国独自のものであり、日本国外では郵便記号として利用することはできない。また、[[日本の郵便番号|郵便番号]]を表示するときにもしばしば用いられ、[[はがき]]や[[封筒]]に郵便番号と併せて郵便記号も書いているケースがあるが、[[日本郵便]]が定めている「内国郵便約款<ref>別記1「郵便番号を記載する方法」の1-(2)-(キ) [https://www.post.japanpost.jp/about/yakkan/1-3.pdf#page=3]</ref>」では不可となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/160979 |title=意外な事実 「〒マークは必要なし」日本郵便に聞いたその理由|日刊ゲンダイDIGITAL |publisher=[[日刊ゲンダイ]] |date=2015-06-21 |accessdate=2022-03-01 }}</ref>。
== 丸に一引き(明治17年6月第15号布達郵便徽章) ==
[[ファイル:Old japan post flag.jpg|thumb|200px|丸に一引き]]
明治4年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]([[1871年]][[6月7日]])に[[日本の郵便]]事業が始まったが、当初は特に定められた[[徽章]]はなく、「郵便」の文字だけであった。明治10年([[1877年]])頃から、大きな赤丸(いわゆる「[[日本の国旗|日の丸]]」的な徽章)に太い横線を重ねた赤い「'''丸に一引き'''」<ref>[http://www.rocky7.org/bike/mark/mark.html 頭文字(イニシャル)〒]</ref>が郵便マークとして用いられ始めたとされている。「丸に一引き」は郵便配達員の制帽・制服・郵便旗などに記されており、明治17年([[1884年]])6月23日太政官布達第15号により、正式に「郵便徽章」と定められた。その後、後述のように明治20年([[1887年]])に「'''〒'''」が逓信省の徽章に定められた際、この郵便徽章は自然消滅に属するとされ、新調するまでの間は、そのまま使用できるものとした。
なお、郵便等の所管官庁として逓信省が創設されるのは、その翌年、明治18年([[1885年]])である。
== 郵便マークの日と誕生までのいきさつ ==
[[ファイル:Postal Mark (Japan).svg|thumb|200px|郵便記号・郵便マーク]]
[[ファイル:Hijetcargo.jpg|thumb|200px|ボンネット上に「〒」[[マーク]]を表示した旧[[日本郵政公社]](現・日本郵政グループ)委託会社の[[郵便車]]]]
[[ファイル:Japan Mailbox Red.jpg|thumb|200px|表面に「〒」[[マーク]]を表示した旧[[日本郵政公社]](現・日本郵政グループ)設置の[[郵便ポスト]]]]
[[2月8日]]は'''郵便マークの日'''となっている。
明治20年(1887年)[[2月8日]]、当時の[[逓信省]]は「今より (T) 字形を以って本省全般の[[徽章]]とす」と[[告示]](明治20年2月8日逓信省告示第11号)した。ところが、[[2月14日]]に「'''〒'''」に変更し、[[2月19日]]の官報で「実は「〒」の誤りだった」ということで訂正されてしまった。
この経緯に関しては、諸説あることで知られている。
#「T」を第一案とし、「テイシンショウ」の片仮名の「[[テ]]」を図案化した「〒」を第二案として提出したところ、第二案の「〒」が採用された。しかし、告示の時「T」と誤ってしまったために、これを訂正した、という説。
#「T」にすることで最初から決まっていたものの、後日調べてみると「T」は[[国際郵便]]の取扱いでは、郵便料金不足の印として万国共通に使用されていた。そのため、これによく似たマークは適当ではないということで、「〒」に訂正した、という説。また、この訂正では、「テイシンショウ」の片仮名の「テ」からの説と、単純に「T」の上に一本足して「〒」とした、という説の2つがある。
# 船会社([[日本郵船]])の[[ファンネルマーク]]が横二本で、同社の社員から、これは日本を意味するもので、この下に縦棒をつけて「〒」とした説(NHK総合テレビで2018年8月17日に放送された『[[チコちゃんに叱られる!]]』で取り上げられた<ref group="注釈">番組内でこの説を取り上げた後、補足として、日本郵船のファンネルマークの意味は郵便汽車三菱会社と共同運輸会社の2社が合併し、さらなる発展を目指し地球を横断するという決意が込められているためであるとの説明がされた。参照:[https://datazoo.jp/tv/%E3%83%81%E3%82%B3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AB%E5%8F%B1%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%EF%BC%81/1188892 チコちゃんに叱られる! 2018/08/17(金)19:30 の放送内容 ページ1 | TVでた蔵]([[TVでた蔵]]、[[ワイヤーアクション (企業)]])</ref>)。
どれが有力か、ということはないが、一般には 2. のほうが多く語られている。また、「Tの上に棒を一本加える」というアイディアは、初代[[逓信大臣]]であった[[榎本武揚]]が出したとも言われている<ref>{{Cite book|和書|title=望月武司『敗軍の将、輝く』、ISBN 978-4-89115-285-7。|year=2013|publisher=中西出版|page=p303}}</ref>。
なお、「T」マークの由来にも諸説あり、漢字の「[[丁]]」(てい)を図案化したもので、これは「甲乙丙丁」の「丁」が[[逓信]](ていしん)の「てい」の読みに合うからだという説や、「逓信」をローマ字で表した「Teishin」の頭文字だという説もある。
いずれにせよ、これ以降は「〒」の徽章が、[[郵便配達員]]が身につける帽子(丸笠)の正面や制服上着の袖口、{{仮リンク|郵便旗|en|List of Japanese flags#Cultural flags}}、あるいは'''書状集め箱'''(現在の[[郵便ポスト]])につけられるようになった。また、当初は上述の「丸に一引き」や封筒をモチーフにしていた「郵便局」を示す[[地図記号]]も、「〒」を丸で囲んだものと定められた。
なお、郵便記号の縦横比は、昭和25年([[1950年]])の郵政省告示第35号により幅のほうが広く高さが低いのが正しい記号である。
== 年譜 ==
*[[1887年]][[2月8日]] - 逓信省告示第11号(本省徽章ヲ創定ス)「自今 (T) 字形ヲ以テ本省全般ノ徽章トス」
*[[1950年]] - 郵政省告示第35号(郵政省において掲揚する旗章)
*[[1968年]][[7月1日]] - [[日本の郵便番号|郵便番号]]導入
*[[2001年]]
**[[1月5日]] - 上記の2つの告示を中央省庁等改革に伴い廃止
**[[1月19日]] - 郵政事業庁告示第1号「〒字形をもって郵政事業庁の'''き章'''とする(平成13年1月6日付)」
**[[1月22日]] - 告示で、郵政事業庁において掲揚する旗章を定めた
*[[2003年]][[2月7日]] - 日本郵政公社のシンボルマークに「〒」を引き続き採用と発表<ref>[https://web.archive.org/web/20030622201020/http://www.japanpost.jp/pressrelease/japanese/sonota/030207j901.html 日本郵政公社 新ロゴマーク・新ユニフォーム等 4月1日より導入](2003年6月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>
*[[2007年]][[3月19日]] - [[郵政民営化]]後の日本郵政グループのブランドマークに「〒」を引き続き採用と発表<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20070322173123/http://www.japanpost.co.jp/topics/2006/pdf/070319.pdf 日本郵政グループ 10月の民営化に向け新スローガン、新ロゴマーク、新ユニフォームを発表]}}(2007年3月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>
== 顔郵便マーク ==
{{main|顔郵便マーク}}
顔郵便マーク(〠)は「ナンバーくん」という名前で、かつては[[切手]]にも登場したことがある。しかし、[[1996年]]に新キャラクターの「ポストン」が登場したことから郵政の場では公式には使われなくなった。さらに民営化により、日本郵政グループでは「撤去が望ましい」扱いとされた。なお、ポストンは引き続き使用可能となっている。
== 郵便以外の〒マーク ==
郵便以外で利用される〒マークとして、次のようなものが存在する。
=== 電気用品取締法 ===
[[家庭用電気機械器具|家庭用電気製品]]やその他の電気器具について、[[電気用品安全法#電気用品取締法|電気用品取締法]]に基づく試験に合格した証印として、逆三角形(甲種)や円形(乙種)の中に「〒」を描いたマークが使われていた。その由来はかつて「逓信省電気試験所」が電気製品に関する試験を行っていたためとされている。なお、逓信省電気試験所は[[商工省]]に移管の後、電気試験業務は[[日本電気計器検定所]]([[経済産業省]]所管)に引き継がれている。
なお、2001年(平成13年)に電気用品取締法が[[電気用品安全法]]に改称され、同義のマークもひし形や円形の中に「PSE」を描いたものに変更され、これ以降に製造された電気製品に「〒」は使われていない。
=== 電波法及び電気通信事業法 ===
1985年(昭和60年)より[[電話機]]や[[ファクシミリ|ファックス]]などの端末機器について[[電気通信事業法]]の[[技術基準適合認定]]として、
また、1987年(昭和62年)より[[携帯電話]]端末や[[PHS]]端末などの無線機器について[[電波法]]の[[技術基準適合証明]]として、
「〒」を用いた円形マークを用いていたが、1991年(平成3年)に統一され、1995年(平成7年)より稲妻のデザインと「〒」を組み合わせた円形の'''[[技適マーク]]'''が使用されている。
なお、2010年(平成22年)からは、印刷やラベル貼付以外に[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]表示させることも認められた。
<gallery>
OLD PSEimage.jpg|旧電気用品取締法・甲種
旧丸〒マーク.jpg|旧電気用品取締法・乙種
Telec-bluetooth-label.jpg|技術基準適合認定及び技術基準適合証明。左端が技適マーク
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== 符号位置 ==
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!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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{{CharCode|12342|3036||(丸付きの日本の)郵便記号}}
{{CharCode|127971|1F3E3||[[日本の郵便局]]}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[地図記号]]
** [[日本の地図記号の一覧]]
== 外部リンク ==
*[https://www.post.japanpost.jp/index.html 日本郵便ホームページ]
*[http://www.postalmuseum.jp/ 郵政博物館公式ホームページ]
*{{Webarchive |url=https://archive.is/20130430225521/http://bunzo.jp/archives/entry/001487.html |title=〒マークのものがたり(2月8日) |date=2013年4月30日}}
{{日本郵便のサービス}}
{{DEFAULTSORT:ゆうひんきこう}}
[[Category:日本の郵便|*]]
[[Category:約物]]
[[Category:シンボル]]
[[Category:日本郵政グループ]]
|
2003-09-19T16:22:41Z
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17,430 |
ルドヴィコ・ザメンホフ
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ラザーロ・ルドヴィゴ・ザメンホフ(エスペラント:Lazaro Ludoviko Zamenhof 、ポーランド語: Ludwik Łazarz Zamenhof 1859年12月15日 - 1917年4月14日)は、ユダヤ系ポーランド人で、職業としては眼科医。人工言語エスペラントの創案者。
本名はエリエゼル・レヴィ・ザメンホフ(ヘブライ語:אֱלִיעֶזֶר לֵוִי זאַמענהאָף 、ドイツ語転写:Eliezer Lewi Samenhof )。ファーストネームは、少年時代はエリエゼルのイディッシュ語形レイゼル(Lejzer)とそのロシア語形ラーザリもしくはラーザリ・マルコヴィチ(Лазарь (Маркович))を併用し、大学以降はレヴィの欧州語代用名ルードヴィク(Ludwik)とリュードヴィク(Людвик)、そして1901年にエスペラントでルドヴィーコ(Ludoviko)と名乗り、"Dr. L. L. Zamenhof"と署名するようになった(Lを重ねたのは弟のレオン(1875年-1934年)も医師であったため)。
弟のフェリクス・ザメンホフ(1868年-1933年)もエスペランティストとなり、"FEZ"の筆名で兄を助けた。
ザメンホフは1859年にポーランド北東部のビャウィストクで生まれた。当時、ポーランドは帝政ロシア領で、町の人々は4つの主な民族(ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、イディッシュ語を話す大勢のユダヤ人)のグループに分断されていた。ザメンホフはグループの間に起こる不和に悲嘆し、また憤りを覚えていた。彼は憎しみや偏見の主な原因が、民族的・言語的な基盤の異なる人々の間で中立的なコミュニケーションの道具として働くべき共通の言語がないことから起こる相互の不理解にあると考えた。
ワルシャワの中等学校に通いながら、ザメンホフはある種の国際語を作ろうと試みた。それは文法が非常に豊富な一方で、大変複雑なものでもあった。ザメンホフは(ドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語と共に)英語を学んだ際に、国際補助語には動詞の人称変化は必要ではなく、比較的簡単な文法を持ちながら、語の新しい形を作るのに接頭辞・接尾辞を幅広く用いるようなものでなくてはならない、という構想を固める。
1878年までにザメンホフの「リングヴェ・ウニヴェルサーラ」(普遍語)はほとんど完成しかけていたが、若すぎたために著書を出版することができなかった。卒業後すぐにザメンホフは医学を、最初はモスクワで、次にワルシャワで学び始める。1885年には大学を卒業し、眼科医として開業する。患者を治療する傍ら、ザメンホフは国際語の計画を進める。
ザメンホフは国際語を述べた著書を出版すべく、2年にわたって基金を設立しようと試みるが、後に妻となる女性クララ・ジルベルニクの父親から経済的な援助を受けることで、その必要はなくなった。1887年には "Doktoro Esperanto. Lingvo internacia. Antaŭparolo kaj plena lernolibro"(「エスペラント(希望する人)博士、国際語、序文と完全なテキスト」)と題された著書が出版されることになる。ザメンホフにとってこの言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、異なる人々や文化の平和的な共存という自らの理念を広げる手段でもあった。
ザメンホフは1917年にワルシャワで心臓病のために亡くなった。
ザメンホフは一男二女に恵まれたが、いずれもホロコーストのために命を落としている。特に二女のリディアはバハイ教徒として布教活動をする傍らエスペラントの翻訳活動を行った。ザメンホフの家族のその後については、家族の中でただ一人ホロコーストから生き延びた孫のルイ・クリストフ・ザレスキ=ザメンホフの著書『ザメンホフ通り―エスペラントとホロコースト』(原書房、2005年、ISBN 4-562-03861-6)に詳しい。
ザメンホフの著作全集(PVZ)はいとうかんじ(筆名Ludovikito)らの編集により出版されている。
ザメンホフは、エスペラントの文学的表現を高めるために積極的に文学作品を翻訳した。
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ラザーロ・ルドヴィゴ・ザメンホフは、ユダヤ系ポーランド人で、職業としては眼科医。人工言語エスペラントの創案者。 本名はエリエゼル・レヴィ・ザメンホフ。ファーストネームは、少年時代はエリエゼルのイディッシュ語形レイゼル(Lejzer)とそのロシア語形ラーザリもしくはラーザリ・マルコヴィチ(Лазарь )を併用し、大学以降はレヴィの欧州語代用名ルードヴィク(Ludwik)とリュードヴィク(Людвик)、そして1901年にエスペラントでルドヴィーコ(Ludoviko)と名乗り、"Dr. L. L. Zamenhof"と署名するようになった(Lを重ねたのは弟のレオンも医師であったため)。 弟のフェリクス・ザメンホフ(1868年-1933年)もエスペランティストとなり、"FEZ"の筆名で兄を助けた。
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{{Redirect|ザメンホフ|小惑星の'''ザメンホフ'''|ザメンホフ (小惑星)}}
{{Infobox 人物
|氏名= Ludwik Lejzer Zamenhof
|ふりがな=ルドヴィコ・ラザーロ・ザメンホフ
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|画像説明= Ludwik Lejzer Zamenhof, 1908
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}}
'''ラザーロ・ルドヴィゴ・ザメンホフ'''([[エスペラント]]:{{lang|eo|'''Lazaro Ludoviko Zamenhof'''}} 、{{lang-pl|Ludwik Łazarz Zamenhof}} [[1859年]][[12月15日]] - [[1917年]][[4月14日]])は、[[ユダヤ人|ユダヤ系]][[ポーランド]]人で、職業としては[[眼科学|眼科医]]。[[人工言語]][[エスペラント]]の創案者。
本名は'''エリエゼル・レヴィ・ザメンホフ'''([[ヘブライ語]]:{{lang|he|'''אֱלִיעֶזֶר לֵוִי זאַמענהאָף'''}} 、ドイツ語転写:{{lang|de|Eliezer Lewi Samenhof}} )。[[ファーストネーム]]は、少年時代はエリエゼルのイディッシュ語形'''レイゼル'''(Lejzer)とそのロシア語形'''ラーザリ'''もしくは'''ラーザリ・マルコヴィチ'''({{lang|ru|Лазарь (Маркович)}})を併用し、大学以降はレヴィの欧州語代用名'''ルードヴィク'''(Ludwik)と'''リュードヴィク'''({{lang|ru|Людвик}})、そして[[1901年]]にエスペラントで'''ルドヴィーコ'''(Ludoviko)と名乗り、"Dr. L. L. Zamenhof"と署名するようになった(Lを重ねたのは弟のレオン([[1875年]]-[[1934年]])も医師であったため)。
弟の[[フェリクス・ザメンホフ]]([[1868年]]-[[1933年]])もエスペランティストとなり、"FEZ"の筆名で兄を助けた。
== 各言語による名前の表記 ==
{|class=wikitable
!言語
!表記
!カタカナ
|-
|[[エスペラント]]
|Ludoviko Lazaro Zamenhof/Zamenhofo
|ルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフ/ザメンホーフォ
|-
|[[イディッシュ語]]
|לודוויג לײזער זאַמענהאָף
|ルードヴィク・レイゼル・ザメンホフ
|-
|[[ロシア語]]
|Лю́двик Ла́зарь За́менгоф
|リュードヴィク・ラーザリ・ザーメンゴフ
|-
|[[ポーランド語]]
|Ludwik Łazarz Zamenhof {{IPA-pl|ˈludvʲik ˈwazaʃ zãˈmɛ̃nxɔf|}}
|ルードヴィク・ワーザシュ・ザメンホフ
|-
|[[ドイツ語]]
|Ludwig Lazarus Samenhof/Zamenhof {{IPA-de|ˈzamɛnxɔf|}}<ref>Duden Aussprachewörterbuch (Duden Band 6), Auflage 6, ISBN 978-3-411-04066-7</ref>/{{IPA-de|zaˈmɛnhɔf|}}
|ルートヴィヒ・ラーツァルス・ザメンホフ
|}
== 来歴 ==
=== 言語への強い興味 ===
ザメンホフは[[1859年]]に[[ポーランド]]北東部の[[ビャウィストク]]で生まれた。当時、ポーランドは[[ロシア帝国|帝政ロシア]]領で、町の人々は4つの主な民族([[ロシア人]]、[[ポーランド人]]、[[ドイツ人]]、[[イディッシュ語]]を話す大勢の[[ユダヤ人]])のグループに分断されていた。ザメンホフはグループの間に起こる不和に悲嘆し、また憤りを覚えていた。彼は憎しみや[[偏見]]の主な原因が、[[民族]]的・[[言語]]的な基盤の異なる人々の間で中立的な[[コミュニケーション]]の道具として働くべき共通の言語がないことから起こる相互の不理解にあると考えた。
=== 国際語を作る試み ===
[[ワルシャワ]]の中等学校に通いながら、ザメンホフはある種の国際語を作ろうと試みた。それは文法が非常に豊富な一方で、大変複雑なものでもあった。ザメンホフは([[ドイツ語]]、[[フランス語]]、[[ラテン語]]、[[ギリシャ語]]と共に)[[英語]]を学んだ際に、[[国際補助語]]には[[動詞]]の[[人称変化]]は必要ではなく、比較的簡単な[[文法]]を持ちながら、語の新しい形を作るのに[[接頭辞]]・[[接尾辞]]を幅広く用いるようなものでなくてはならない、という構想を固める。
[[1878年]]までにザメンホフの「[[プラ-エスペラント|リングヴェ・ウニヴェルサーラ]]」(普遍語)はほとんど完成しかけていたが、若すぎたために著書を[[出版]]することができなかった。[[卒業]]後すぐにザメンホフは[[医学]]を、最初は[[モスクワ]]で、次にワルシャワで学び始める。[[1885年]]には[[大学]]を卒業し、眼科医として開業する。患者を治療する傍ら、ザメンホフは国際語の計画を進める。
===エスペラント創案 ===
ザメンホフは国際語を述べた著書を出版すべく、2年にわたって基金を設立しようと試みるが、後に妻となる女性クララ・ジルベルニクの父親から経済的な援助を受けることで、その必要はなくなった。[[1887年]]には {{lang|eo|''"Doktoro Esperanto. Lingvo internacia. Antaŭparolo kaj plena lernolibro"''}}(「エスペラント(希望する人)博士、国際語、序文と完全なテキスト」)と題された著書が出版されることになる。ザメンホフにとってこの言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、異なる人々や文化の平和的な共存という自らの理念を広げる手段でもあった{{要出典|date=2020-7}}。
ザメンホフは[[1917年]]にワルシャワで心臓病のために亡くなった。
ザメンホフは一男二女に恵まれたが、いずれも[[ホロコースト]]のために命を落としている。特に二女の[[リディア・ザメンホフ|リディア]]は[[バハイ教|バハイ教徒]]として布教活動をする傍らエスペラントの翻訳活動を行った。ザメンホフの家族のその後については、家族の中でただ一人ホロコーストから生き延びた孫のルイ・クリストフ・ザレスキ=ザメンホフの著書『ザメンホフ通り―エスペラントとホロコースト』([[原書房]]、[[2005年]]、ISBN 4-562-03861-6)に詳しい。
== 著書 ==
ザメンホフの著作全集(PVZ)は[[いとうかんじ]](筆名Ludovikito)らの編集により出版されている。
* [[Unua Libro]]([[1887年]]):エスペラントの教科書。
* [[Dua Libro]]([[1888年]]):『第二の書』とも。[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]などの翻訳を収める。
* [[エスペラントの基礎]](Fundamento de Esperanto、[[1905年]])
* エスペラント訳ことわざ集([[1910年]])
=== 翻訳 ===
ザメンホフは、エスペラントの文学的表現を高めるために積極的に文学作品を翻訳した。
* [[ショーレム・アレイヘム]]:『ギムナジウム(La Gimnazio)』…1914年。日本では『受験地獄』の表題で知られる。
* [[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]]:童話集
* [[エリザ・オルゼシュコヴァ]]:『寡婦マルタ(Marta)』(1910年)…邦題は[[清見陸郎]]の重訳による。
* [[フリードリヒ・フォン・シラー]]:『群盗(La rabistoj)』(1908年)
* [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]:『[[タウリス島のイフィゲーニエ]](Ifigenio en Taurido)』(1908年)
* [[ニコライ・ゴーゴリ]]:『[[検察官]](La revizoro)』(1907年)
* [[ウィリアム・シェイクスピア]]:『[[ハムレット]](Hamleto)』(1894年)
* [[チャールズ・ディケンズ]]:『[[人生の戦い]](La batalo de l' vivo)』(1891年/1910年)
* [[ハインリヒ・ハイネ]]:『バッヘラッハのラビ({{lang|eo|La rabeno de baĥaraĥ}})』(1914年)
* [[モリエール]]:『ジョルジュ・ダンダン:あるいは、やり込められた夫({{lang|eo|Georgo Dandin aŭ la Senmaskigita Edzo}})』(1908年)
* [[旧約聖書]]([[1910年]]-[[1914年]]):最初の5巻のみ翻訳。ザメンホフの死後、全訳は[[英国外国聖書協会]]により[[1926年]]に「La Sankta Biblio」として完成。
== 関連項目 ==
* [[ザメンホフ (小惑星)]] - [[ユルィヨ・バイサラ]]により命名された。
* {{仮リンク|ザメンホフの日|en|Zamenhof_Day}}
* [[言語差別]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{wikiquote|ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ}}
{{Commons|Ludwik Lejzer Zamenhof}}
* [http://www.visitbialystok.com {{lang|po|VisitBiałystok.com}}]
* [http://lo31.szkoly.lodz.pl/index_en.php XXXI High School of L. Zamenhof, Lodz, Poland] (in English)
* {{gutenberg author| id=L.+L.+Zamenhof | name=L. L. Zamenhof}} (In Esperanto)
* [http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=20&letter=Z ZAMENHOF, LAZARUS LUDWIG] by Joseph Jacobs, Isidore Harris. [[Jewish Encyclopedia]], 1906 ed.
* [http://donh.best.vwh.net/Esperanto/Literaturo/Revuoj/nlr/nlr35/cionistau.html N. Z. Maimon "La cionista periodo en la vivo de Zamenhof" (in Esperanto)]
{{DEFAULTSORT:さめんほふ るとういこ}}
[[Category:ルドヴィコ・ザメンホフ|*]]
[[Category:エスペラント|+]]
[[Category:19世紀のエスペランティスト|さめんほふ るとういこ]]
[[Category:20世紀のエスペランティスト|さめんほふ るとういこ]]
[[Category:ポーランドの言語学者]]
[[Category:ポーランドの眼科医]]
[[Category:聖書翻訳者]]
[[Category:シェイクスピアの翻訳者]]
[[Category:人工言語の発案者]]
[[Category:ポーランドの翻訳家]]
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[[Category:ロシア帝国のユダヤ人]]
[[Category:ビャウィストク出身の人物]]
[[Category:1859年生]]
[[Category:1917年没]]
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2003-09-19T16:40:52Z
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ZIP (ファイルフォーマット)
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ZIP(ジップ)は、データ圧縮やアーカイブのフォーマット。Windowsでよく使用されるフォーマットである。
ZIPファイルフォーマット(以下ZIPフォーマット、またはZIP)は複数のファイルを一つのファイルとしてまとめて取り扱うアーカイブフォーマットであり、1つ以上のファイルが格納されているものである。必要に応じて各種ある圧縮アルゴリズムを選択・使用し、ファイルサイズを圧縮して格納することも可能である。
ZIPフォーマットは1989年にフィル・カッツが考案したもので、トム・ヘンダーソンが考案したそれまでのARCフォーマットに置き換わるものとして、PKWAREのPKZIPユーティリティ に実装された。 ZIPフォーマットは現在多くのユーティリティによってサポートされている(ファイルアーカイバのリストを参照)。オペレーティングシステムでのサポートとしては、マイクロソフトがWindows 98以降の各バージョンに「圧縮フォルダー」という名前でZIPの機能を組み込んでいるほか、AppleもMac OS X v10.3以降に他の圧縮フォーマットも含めてZIPの機能を組み込んでいる。
ZIPファイルは一般的に ".zip" か ".ZIP" といった拡張子が付けられる。MIMEタイプはapplication/zip。ZIPフォーマットは、圧縮伸長を主目的としない多くのアプリケーションでも使用されているが、その際、拡張子には個々のアプリケーション固有に ".zip" とは異なる名前が用いられていることが多い。例えば、Java Archiveの拡張子は ".jar"であるが、このフォーマットの実態はZIPフォーマットである。他の具体例については「#ソフトにおける固有の拡張子」節を参照のこと。
「zip」 (「速さ」を意味する) という名前はフィル・カッツの友人であるロバート・マホーニーの提案によるものであり、従来から有るARCやその他の圧縮フォーマットの圧縮時間よりも、自分たちのプロダクトの方が速いということをほのめかすという意図を持っていた。
ZIPファイルフォーマット仕様は、PKZIP0.9のパッケージに同梱されていたファイルで初めて公開された。
ZIPフォーマットはオープンフォーマットとしてパブリックドメインでリリースされたものであり、ZIPフォーマットは誰しもが自由に利用でき、個人、団体、組織、あらゆる形態の利用において法的にもモラル的にも全くは制約はない。
PKWAREもまた基本フォーマットをパブリックドメインとしており、誰でもZIPファイルを扱うアプリケーションを開発することができる。同じ見解がFLOSS Info-ZIPバージョンのプロダクトに付属するUNIX/LINUXドキュメント内でも見られる。そのドキュメントではzipファイルフォーマット、圧縮フォーマット、.ZIPの拡張子やファイルフォーマットへの小さな変更をパブリックドメインに置いたフィル・カッツへの感謝の念を示している。
ZIPファイルフォーマットはPKWAREのフィル・カッツが考案し、PKZIPで実装された。ちなみにカッツは以前に「PKXARC」なるアーカイブ・ユーティリティーを公開していたが、システム・エンハンス・アソシエイツ社のARCというユーティリティの著作権を著しく侵害しているとして民事訴訟を起こされている。
名前の一部に「zip」という名前を使った標準化仕様やフォーマットがたくさんある。フィル・カッツはどんなアーカイブ種別でも「zip」という名前を使って良いと表明した。同じDeflate圧縮アルゴリズムを使用していながら、ヘッダー・フッターの異なる物としては、gzip (RFC 1952) や zlib (RFC 1950) などがある。その他、よく似た名前の異なるファイルフォーマットや圧縮アルゴリズムとして7z、bzip2、rzipなどがある。
.ZIPファイルフォーマット仕様にはバージョン番号がある。しかし、それは必ずしもPKZIPツールのバージョン番号とは対応せず、特にPKZIPバージョン 6以降がそれに該当する。PKWAREは、 PKZIP製品が先進的な機能を利用してアーカイブを展開できるように予備的な機能を幾度も追加している。しかし、そのようなアーカイブを作成するPKWARE仕様はPKZIPの次の主要なリリースまで公開されない。他の会社や組織は自分たちのペースでPKWAREの仕様をサポートしている。
PKWARE仕様による各バージョンの主な機能は以下の通り。
WinZipのバージョン12.1からDeflateよりも新しい圧縮メソッド、特にBZipやLZMA、PPMd、Jpeg、Wavpackのメソッドを使用したファイルの拡張子に.zipxが使用されている。JpegとWavPackは「最適メソッド」圧縮が選択されたときに適切なファイル種別に対して適用されている。
2010年4月ISO/IEC JTC 1で、ZIP互換のISO / IECの国際標準フォーマットを作成するために開始されるプロジェクトを決めるための投票が行われた。「ドキュメントパッケージング」という表題で提案されたプロジェクトはOpenDocument、Office Open XMLやEPUBを含む既存の標準規格の利用に適したZIP互換の最小圧縮アーカイブフォーマットと考えられる。そして2015年、ISO/IEC 21320-1:2015 Information technology — Document Container File — Part 1: Coreが制定された。
現在のZIPフォーマットはオープンフォーマットの要求仕様にあわないことがある。それは目に見える形で公開されたコミュニティ駆動開発を通して開発されていないからである。オープンな産業機構や標準化団体が賛同してメンテナンスされているものでもない。現在の ZIP フォーマットの一部は フリー なファイルフォーマットの要求仕様にあっていない。誰もが ZIP フォーマットを、如何なる目的であっても金銭的な負担がなく利用できるようにするため、著作権、特許、商標などの制約がない。 PKWARE サイトにある最新の資料は、著作権表示があるが、フォーマット仕様とその機能拡張がパブリックドメインに置かれていることを認めている。
ZIPは複数のファイルを格納するシンプルなアーカイブフォーマットである。圧縮はzipアーカイブのオプションであり、圧縮が行われる場合はファイル単位に圧縮される。
ZIPは、データの破損に備えて優れた保護機構を提供するため、32ビットのCRCアルゴリズムを利用し、またアーカイブのディレクトリ構造を2箇所に含んでいる。
ZIPファイルはファイルの最後に置かれるセントラルディレクトリの終端レコード(EOCD)の存在によって正しく認識される。この仕組みにより、新たなファイルを追加することが容易である。ZIPファイルに格納されているエントリ(ファイルまたはディレクトリ)数がゼロで無い場合、格納されている各エントリの名前、エントリに関するその他のメタデータ、ZIPファイル内でエントリデータが位置するオフセットが、セントラルディレクトリエントリに記載される。これにより、ファイルリストを参照するためにアーカイブ全体を読み込む必要がないため、アーカイブのファイルリストを比較的速く表示することが可能である。また冗長性の確保のため、各エントリも、エントリ情報をローカルファイルヘッダとして保持している。zipファイルが追加されることもあるため、ファイルの最後にあるセントラルディレクトリに載っているファイルだけが、正しいファイルである。セントラルディレクトリが、いくつかのファイルは削除された、あるい更新された、と宣言していることもありうるため、ZIPファイル全体を検索してローカルファイルヘッダを探しても、正しい情報は得られない(ただし、アーカイブが破損している場合は、そのような探索は役に立つだろう)。
セントラルディレクトリ内でのファイルエントリの順番は、アーカイブの中での実際のファイルエントリの順番と同じである必要はない。
ZIPファイル内のそれぞれのエントリは、ローカルファイルヘッダ(コメント、ファイルサイズやファイル名などの情報を含む)と、オプションの 「拡張」 データフィールドと、ファイルデータそのもの(圧縮されたり暗号化されている場合もある)で構成されている。「拡張」フィールドは、ZIP64フォーマット、WinZip互換のAES暗号化、ファイル属性やより詳細なNTFSやUnixファイルのタイムスタンプをサポートするために使用される。その他にも「拡張」フィールドを使用して機能拡張することが可能。認識しない拡張フィールドを無視するための機能をZIPツールに組み込む必要がある。
ZIPフォーマットはファイル内の様々な構造を表すために、特定の4バイトの「シグネチャ」を使用する。それぞれのファイルエントリは、ある特定のシグネチャによって目印が付けられる。セントラルディレクトリの終端レコードは、それ用のシグネチャでマークされ、セントラルディレクトリ内の各エントリは別の特定の4バイトシグネチャによって目印が付けられる。
ZIPの仕様にはBOFもしくはEOFといった目印がない。慣例として、ZIPファイルの最初にはZIPエントリが置かれ、そのシグネチャによって簡単にそれとわかる。しかし、ZIPの仕様においては、ZIPエントリで始まる必要はなく、特に、自己解凍型のアーカイブは、実行可能なファイルヘッダで始まる。
ZIPアーカイブを正しく読み込むには、まず初めにセントラルディレクトリの終端レコードのシグネチャを探し、次に、適宜、他のセントラルレコードを探索する必要がある。ファイルチャンクが開始する場所を特定するのはセントラルディレクトリのみであるため、ZIPファイルの頭からエントリを検査すべきではない。ZIPフォーマットは、チャンク間に他のデータを含めることや、シグネチャと同じ4バイト列を含むようなデータを禁止していないため、そのようなスキャンは誤検出(フォールス・ポジティブ)を起こすだろう。 ただし、破損したZIPアーカイブからデータを修復するためのツールは、ローカルヘッダシグネチャを探索するのが普通である。この場合、ファイルチャンクの後ろにファイルチャンクの圧縮サイズが格納されることが、シーケンシャルな処理を困難にしている。
また ZIPの仕様では、複数のファイルシステムにまたがって分散したアーカイブを扱うこともサポートしている。もともとは、複数の1.44MBフロッピーディスク にまたがった大きなzipファイルの格納を目的としていた。現在この機能は、ZIPアーカイブを分割してメールなどで送ったり、リムーバブルメディアで持ち運ぶのに使用されている。
DOSのFATファイルシステムは2秒単位でタイムスタンプを保持し、ZIPファイルレコードはこれを模倣している。結果として、ZIPアーカイブ内にあるファイルのタイムスタンプも2秒単位で丸められる。但し、より正確なタイムスタンプを格納するために拡張フィールドを使用することができる。なお、ZIPフォーマットにはタイムゾーンという概念がないため、タイムスタンプが意味を持つのは、作成されたタイムゾーンを知っている場合だけである。
2007年9月にPKZIPは、UTF-8のファイル名を格納するための仕組みを含むZIP仕様のリビジョンをリリースした。それは最終的にZIPに対するユニコード互換を追加するものである。
全てのヘッダ内の複数バイトの値は、リトルエンディアンで格納される。全ての長さを示すフィールドは、バイト単位で数える。
拡張フィールドはOSに特化した属性のような様々なオプションデータを含む。それは16ビットIDと16ビット長のチャンクに分割される。
このヘッダの直後には圧縮データのデータが続く。
汎用目的のビットフラグフィールドの3ビット目がセットされている場合、ヘッダの書き込み時にはCRC-32とファイルサイズが不明である。ローカルヘッダのCRC-32とファイルサイズのフィールドにはゼロが書き込まれ、CRC-32とファイルサイズは圧縮データの後ろに12バイトのデータとして追加される。(オプションの4バイトのシグネチャが前に付く場合もある。)
セントラルディレクトリエントリはローカルファイルヘッダを拡張したものである。
全てのセントラルディレクトリエントリの後に、ZIPファイルの終わりを表すセントラルディレクトリの終端レコードが続く。
この順番により、ZIPファイルをワンパスで作成することができるが、通常、展開では最後のセントラルディレクトリを最初に読み込むことになる。
現在のZIPファイルフォーマット仕様では次のメソッドの詳細が記載されている。stored(無圧縮)、Shrunk、Reduced(メソッド 1-4)、Imploded、Tokenizing、Deflated、Deflate64、BZIP2、LZMA (EFS)、WavPack、PPMd。最も一般的な圧縮メソッドはDEFLATEでIETF RFC 1951に記載されている。
圧縮メソッドに挙げられていても、PKWARE Data Compression Library (DCL) Imploding (old IBM TERSE), IBM TERSE (new), IBM LZ77 z Architecture (PFS) の仕様の詳細は記載されていない。
ZIPはシンプルなパスワードベースの共通鍵暗号をサポートすると仕様に記載されている。但し、重大な脆弱性があることが知られている。特に、既知平文攻撃に対して脆弱性があり、貧弱なランダム数生成器の実装によってさらに安全性が低くなる場合もある。
バージョン5.2以降の.ZIPファイルフォーマット仕様には、圧縮 と 暗号化 (例えば AES) を含む新しい機能のメソッドが追加されている、と記載されている。WinZipはAESベースの標準規格を使用し、それは7-Zip、XCeedやDotNetZipでも使用されている。しかし、ベンダによっては他のフォーマットを使用するものである PKZIP また、SecureZIP は RC2, RC4, DES, Triple DES 暗号メソッド, 電子証明書ベースの暗号 / 認証 (X.509) やアーカイブヘッダ暗号化をサポートする。
オリジナルのZIPフォーマットは、ZIPアーカイブ内のエントリに 65535 の制限があるのと同様に、様々なサイズ(ファイルの圧縮/非圧縮サイズ、アーカイブの合計サイズ)に4 GiBの制限があった。仕様のバージョン4.5(それは特定ツールのバージョン4.5と同じではない) では、PKWAREはこういった制限を回避するために16 EiB(2 バイト)まで増加させた "ZIP64" フォーマット拡張を導入した。ZIP64サポートは新規に発生したものである。例えば、Windows XPのファイルエクスプローラーはZIP64をサポートしないが、 Windows Vistaのエクスプローラーではサポートする。同様にDotNetZipやPerlのIO::Compress::Zip、PythonのzipfileのようなライブラリはZIP64をサポートする。Javaの組み込みモジュールjava.util.zipは 2010年9月現在ではサポートしていない。今後、OpenJDKに追加されてJava 7への同梱を予定している。
ZIPファイルのようにファイルを分割して圧縮するとランダムアクセスが可能である。他のデータを読み込むことなく個々のファイルを取り出すことができる。DEFLATE圧縮の可能性を限定するときでさえ、それぞれのファイルのために違う辞書圧縮を利用するとアーカイブ全体のサイズをより小さくできることがある。
この圧縮の手法は一般的に小さなファイルが大量にあるときのアーカイブとしては適切ではない。ZIPアーカイブフォーマットでは、個々のエントリに関する情報を持つメタデータは圧縮しない。これは、特に個々のエントリのサイズを小さくして、そのエントリ向けのメタデータのサイズを扱うようにアーカイブ可能な最大圧縮比率を設けて制限されているためである。
別の手法としては 圧縮されたtarアーカイブ(.tar.gz または .tgz) が使用される。 それはファイルデータとメタデータがgzipで圧縮される1つの単位として圧縮される。この手法の欠点はランダムアクセスの効率が悪くなってしまうことである。
ZIPファイルフォーマットでは、セントラルディレクトリの後(ファイルの末尾)に、65,535バイト以下のデータを入れることのできるコメント欄がある。また、セントラルディレクトリがアーカイブ内の各ファイルの開始位置を表すオフセットを指定しているため、最初のエントリがオフセットゼロの位置から開始していなくてもよい。(gzipのようないくつかのツールでは、ファイルエントリがオフセットゼロで始まらないようなZIPファイルを処理できないが。)つまり、ZIPアーカイブの前や後に任意のデータを配置しても、ZIPアプリケーションはそのアーカイブを読み込むことができる。
この事実を利用すると、ZIPアーカイブとしても、別のフォーマットとしても扱えるようなファイルを作成することができる。ただし、別のフォーマットでは、ファイルの最初か末尾かあるいは中ほどに任意のデータを配置できる必要がある。WinZipやDotNetZipがサポートするSelf-extracting archives (SFX) はこの利点を活用している。そういったファイルはPKZIP AppNote.txtの仕様に準拠した.exeファイルであり、規格に準拠したzipツールやライブラリで読み込むことができる。
ZIPフォーマットやZIPの亜種であるJARフォーマットが持つこのような特性は、一見普通のファイルに見えるが、コンピューター内部に害を及ぼすJavaクラスを隠すことに悪用できてしまう。例えば、ウェブにアップロードされるGIFイメージがある。これはGIFARと呼ばれる手法で、Facebookのようなウェブアプリケーションに対して効率的な攻撃として知られている。
多くのZIPツールとZIPライブラリは様々なプログラミング環境の上で利用できる。ライセンスは商用やオープンソースのものがある。例えば、WinZipはWindows上で動作する有名なZIPツールである。他にも様々なプラットホームでWinRAR、IZarc、Info-ZIP、7-Zip、PeaZipやDotNetZip等が利用できる。これらのツールのいくつかはライブラリ、またはプログラミングインタフェースを持つ。
オープンソースで開発されているライブラリの例としてはGNUプロジェクトのgzipやInfo-ZIPがある。JavaではJava Platform, Standard Editionに標準的なzipファイルを扱う java.util.zip パッケージがある。Zip64Fileライブラリは特別に4GBを超える巨大なファイルをサポートして、ランダムアクセスを使用してZIPファイルを扱う。Apache AntツールにはApache Software Licenseでより完全なツールが実装されている。
.NETアプリケーションでは、.NET Framework 4.5で追加されたSystem.IO.Compression名前空間のZipArchiveクラスやZipFileクラスなどが使用できる。それ以前の場合、Microsoft Public License でソースとバイナリが利用できる DotNetZipと呼ばれる無償のオープンソースライブラリがある。従来のパスワードを用いたZIP暗号化、WinZip互換のAES暗号化、ユニコード、ZIP64、コメント、分割アーカイブ、自己展開アーカイブといった多くのZIP機能をサポートする。Microsoft .NET 3.5 ランタイムライブラリはZIPフォーマットをサポートするクラスSystem.IO.Packaging.Packageを含む。主としてISO/IEC国際標準Open Packaging Conventionsを使用するドキュメントフォーマットのために設計されている。
ZIPフォーマットのInfo-ZIP実装は、ユーザやグループID、ファイルパーミッション、シンボリックリンクのようなUnixファイルシステムの機能のサポートを追加する。Apache Antの実装はUnixパーミッションが事前に定義されたファイルを作成できる範囲に対して注意を払っている。Info-ZIPの実装もZIP圧縮フォーマットに組み込まれたエラー訂正機能の使用方法が分かっている。(IZarcのような)一部のプログラムはエラーがあるファイルの処理中に失敗する可能性がある。
また Info-ZIP WindowsツールもNTFSファイルシステムパーミッションをサポートする。展開時にNTFSパーミッションをUnixパーミッションへ、もしくはその逆へ変換しようとする。これは潜在的な意図しない結果をもたらすことがある。例として、NTFSボリューム上で実行権限を付けて作成された.exeファイルは拒否されることなどが挙げられる。
Windowsでは、Windows 98のためにリリースされたPlus!パック以降、エクスプローラーからZIP形式の圧縮と展開をサポートしている。マイクロソフトはこの機能を「圧縮フォルダー」と呼んでいる。圧縮フォルダーはZIPの機能を全てサポートしているわけではなく、例えばWindows 10ではAES暗号化、分割アーカイブ、パスワード付き圧縮などが行えない。また圧縮時にはシステムロケールが日本語に設定されたWindowsではファイル名にMicrosoftコードページ932を使用している。(Windows NT系の内部文字コード及びファイルシステムの文字コードはUnicodeであるが、互換性のためにMicrosoftコードページ932に変換している。変換できない文字が含まれるファイル名は圧縮できない。)展開時はhotfixを適用したWindows 7もしくはWindows 8以降でUTF-8に対応したため、ファイル名がMicrosoftコードページ932とUTF-8のどちらであっても問題なく展開できる。macOSのFinderでは原則として圧縮・展開ともにUTF-8を想定しているため、macOSで作成したZIPファイルはhotfixを適用したWindows 7以降であればで問題なく展開できるが、逆にWindowsで作成したZIPファイルをmacOSで展開するとファイル名によっては文字化けもしくはエラーとなる。(これはファイル名の話でファイルの内容には影響しない。)
2003年にWinZip 9.0パブリックベータをリリースしたとき、WinZipは独自のAES-256暗号を導入した。それは違うファイルフォーマットを用いた新たな仕様としてドキュメントに記載された。暗号の標準規格はプロプライエタリでは無いが、 PKWARE は2001年以降、PKZIP 5.0や6.0では使用されていた強力な暗号化仕様 (SES) を含めるようにAPPNOTE.TXTを更新しなかった。WinZipの技術コンサルタント Kevin KearneyやスタッフイットプロダクトマネージャMathew CovingtonはSESを差し控えるようにPKWAREを非難。これに対し、PKZIPチーフ技術オフィサーのJim Petersonは承認に基づく暗号化規格はまだ完全ではないと主張。しかし、バージョン 4.5の頃(PKWARE の FTP サイトで確認できる)に公開された最新のAPPNOTE.TXTには、SESだけではなく、同時期に存在したPKZIPプロダクトで作成された.ZIPファイルが用いたDeflate64、DCL Implode、BZip2も除外された。
この欠点を克服するためにPentaZipのような同時期に存在したプロダクトは違うファイルフォーマットにZIPアーカイブを暗号化する強力なZIP暗号化を実装した。
また別の議論では、PKWAREは2003年7月16日に安全な.ZIPファイルを作成するために強力な暗号と.ZIPを組み合わせるための方法を記載した特許を適用した。
結局PKWAREとWinZipはお互いのプロダクトをサポートすることに同意した。2004年1月21日にPKWAREはWinZipベースのAES互換フォーマットをサポートするとアナウンスした。WinZipベータの次のバージョンではSESベースのZIPファイルのサポートが行われた。PKWAREは最終的にSESを記載した.ZIPファイルフォーマット仕様のバージョン 5.2を公式にリリースした。フリーソフトウェア プロジェクト 7-Zipも(そのPOSIX 移植された p7zip が行うことで)ZIPファイルのAESをサポートしている。
アプリケーション固有のファイル形式のなかには、あるファイルを一定のディレクトリの階層構造に格納しZIP形式で圧縮したものが存在する。そのようなファイルの大半はそのアプリケーション固有の物であることを示すために専用の拡張子を定義しており、以下に示す例はその一部である。ただし、圧縮アルゴリズムにzlibを使っているものでも、ZIP互換の格納方式を使っていないものは掲載しない。
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"text": "ZIPファイルフォーマット(以下ZIPフォーマット、またはZIP)は複数のファイルを一つのファイルとしてまとめて取り扱うアーカイブフォーマットであり、1つ以上のファイルが格納されているものである。必要に応じて各種ある圧縮アルゴリズムを選択・使用し、ファイルサイズを圧縮して格納することも可能である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ZIPフォーマットは1989年にフィル・カッツが考案したもので、トム・ヘンダーソンが考案したそれまでのARCフォーマットに置き換わるものとして、PKWAREのPKZIPユーティリティ に実装された。 ZIPフォーマットは現在多くのユーティリティによってサポートされている(ファイルアーカイバのリストを参照)。オペレーティングシステムでのサポートとしては、マイクロソフトがWindows 98以降の各バージョンに「圧縮フォルダー」という名前でZIPの機能を組み込んでいるほか、AppleもMac OS X v10.3以降に他の圧縮フォーマットも含めてZIPの機能を組み込んでいる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "ZIPファイルは一般的に \".zip\" か \".ZIP\" といった拡張子が付けられる。MIMEタイプはapplication/zip。ZIPフォーマットは、圧縮伸長を主目的としない多くのアプリケーションでも使用されているが、その際、拡張子には個々のアプリケーション固有に \".zip\" とは異なる名前が用いられていることが多い。例えば、Java Archiveの拡張子は \".jar\"であるが、このフォーマットの実態はZIPフォーマットである。他の具体例については「#ソフトにおける固有の拡張子」節を参照のこと。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "「zip」 (「速さ」を意味する) という名前はフィル・カッツの友人であるロバート・マホーニーの提案によるものであり、従来から有るARCやその他の圧縮フォーマットの圧縮時間よりも、自分たちのプロダクトの方が速いということをほのめかすという意図を持っていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "ZIPファイルフォーマット仕様は、PKZIP0.9のパッケージに同梱されていたファイルで初めて公開された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ZIPフォーマットはオープンフォーマットとしてパブリックドメインでリリースされたものであり、ZIPフォーマットは誰しもが自由に利用でき、個人、団体、組織、あらゆる形態の利用において法的にもモラル的にも全くは制約はない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "PKWAREもまた基本フォーマットをパブリックドメインとしており、誰でもZIPファイルを扱うアプリケーションを開発することができる。同じ見解がFLOSS Info-ZIPバージョンのプロダクトに付属するUNIX/LINUXドキュメント内でも見られる。そのドキュメントではzipファイルフォーマット、圧縮フォーマット、.ZIPの拡張子やファイルフォーマットへの小さな変更をパブリックドメインに置いたフィル・カッツへの感謝の念を示している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "ZIPファイルフォーマットはPKWAREのフィル・カッツが考案し、PKZIPで実装された。ちなみにカッツは以前に「PKXARC」なるアーカイブ・ユーティリティーを公開していたが、システム・エンハンス・アソシエイツ社のARCというユーティリティの著作権を著しく侵害しているとして民事訴訟を起こされている。",
"title": "起源"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "名前の一部に「zip」という名前を使った標準化仕様やフォーマットがたくさんある。フィル・カッツはどんなアーカイブ種別でも「zip」という名前を使って良いと表明した。同じDeflate圧縮アルゴリズムを使用していながら、ヘッダー・フッターの異なる物としては、gzip (RFC 1952) や zlib (RFC 1950) などがある。その他、よく似た名前の異なるファイルフォーマットや圧縮アルゴリズムとして7z、bzip2、rzipなどがある。",
"title": "よく似た名前のフォーマット"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": ".ZIPファイルフォーマット仕様にはバージョン番号がある。しかし、それは必ずしもPKZIPツールのバージョン番号とは対応せず、特にPKZIPバージョン 6以降がそれに該当する。PKWAREは、 PKZIP製品が先進的な機能を利用してアーカイブを展開できるように予備的な機能を幾度も追加している。しかし、そのようなアーカイブを作成するPKWARE仕様はPKZIPの次の主要なリリースまで公開されない。他の会社や組織は自分たちのペースでPKWAREの仕様をサポートしている。",
"title": "バージョン履歴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "PKWARE仕様による各バージョンの主な機能は以下の通り。",
"title": "バージョン履歴"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "WinZipのバージョン12.1からDeflateよりも新しい圧縮メソッド、特にBZipやLZMA、PPMd、Jpeg、Wavpackのメソッドを使用したファイルの拡張子に.zipxが使用されている。JpegとWavPackは「最適メソッド」圧縮が選択されたときに適切なファイル種別に対して適用されている。",
"title": "バージョン履歴"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "2010年4月ISO/IEC JTC 1で、ZIP互換のISO / IECの国際標準フォーマットを作成するために開始されるプロジェクトを決めるための投票が行われた。「ドキュメントパッケージング」という表題で提案されたプロジェクトはOpenDocument、Office Open XMLやEPUBを含む既存の標準規格の利用に適したZIP互換の最小圧縮アーカイブフォーマットと考えられる。そして2015年、ISO/IEC 21320-1:2015 Information technology — Document Container File — Part 1: Coreが制定された。",
"title": "標準化"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "現在のZIPフォーマットはオープンフォーマットの要求仕様にあわないことがある。それは目に見える形で公開されたコミュニティ駆動開発を通して開発されていないからである。オープンな産業機構や標準化団体が賛同してメンテナンスされているものでもない。現在の ZIP フォーマットの一部は フリー なファイルフォーマットの要求仕様にあっていない。誰もが ZIP フォーマットを、如何なる目的であっても金銭的な負担がなく利用できるようにするため、著作権、特許、商標などの制約がない。 PKWARE サイトにある最新の資料は、著作権表示があるが、フォーマット仕様とその機能拡張がパブリックドメインに置かれていることを認めている。",
"title": "標準化"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ZIPは複数のファイルを格納するシンプルなアーカイブフォーマットである。圧縮はzipアーカイブのオプションであり、圧縮が行われる場合はファイル単位に圧縮される。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ZIPは、データの破損に備えて優れた保護機構を提供するため、32ビットのCRCアルゴリズムを利用し、またアーカイブのディレクトリ構造を2箇所に含んでいる。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ZIPファイルはファイルの最後に置かれるセントラルディレクトリの終端レコード(EOCD)の存在によって正しく認識される。この仕組みにより、新たなファイルを追加することが容易である。ZIPファイルに格納されているエントリ(ファイルまたはディレクトリ)数がゼロで無い場合、格納されている各エントリの名前、エントリに関するその他のメタデータ、ZIPファイル内でエントリデータが位置するオフセットが、セントラルディレクトリエントリに記載される。これにより、ファイルリストを参照するためにアーカイブ全体を読み込む必要がないため、アーカイブのファイルリストを比較的速く表示することが可能である。また冗長性の確保のため、各エントリも、エントリ情報をローカルファイルヘッダとして保持している。zipファイルが追加されることもあるため、ファイルの最後にあるセントラルディレクトリに載っているファイルだけが、正しいファイルである。セントラルディレクトリが、いくつかのファイルは削除された、あるい更新された、と宣言していることもありうるため、ZIPファイル全体を検索してローカルファイルヘッダを探しても、正しい情報は得られない(ただし、アーカイブが破損している場合は、そのような探索は役に立つだろう)。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "セントラルディレクトリ内でのファイルエントリの順番は、アーカイブの中での実際のファイルエントリの順番と同じである必要はない。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ZIPファイル内のそれぞれのエントリは、ローカルファイルヘッダ(コメント、ファイルサイズやファイル名などの情報を含む)と、オプションの 「拡張」 データフィールドと、ファイルデータそのもの(圧縮されたり暗号化されている場合もある)で構成されている。「拡張」フィールドは、ZIP64フォーマット、WinZip互換のAES暗号化、ファイル属性やより詳細なNTFSやUnixファイルのタイムスタンプをサポートするために使用される。その他にも「拡張」フィールドを使用して機能拡張することが可能。認識しない拡張フィールドを無視するための機能をZIPツールに組み込む必要がある。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ZIPフォーマットはファイル内の様々な構造を表すために、特定の4バイトの「シグネチャ」を使用する。それぞれのファイルエントリは、ある特定のシグネチャによって目印が付けられる。セントラルディレクトリの終端レコードは、それ用のシグネチャでマークされ、セントラルディレクトリ内の各エントリは別の特定の4バイトシグネチャによって目印が付けられる。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ZIPの仕様にはBOFもしくはEOFといった目印がない。慣例として、ZIPファイルの最初にはZIPエントリが置かれ、そのシグネチャによって簡単にそれとわかる。しかし、ZIPの仕様においては、ZIPエントリで始まる必要はなく、特に、自己解凍型のアーカイブは、実行可能なファイルヘッダで始まる。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ZIPアーカイブを正しく読み込むには、まず初めにセントラルディレクトリの終端レコードのシグネチャを探し、次に、適宜、他のセントラルレコードを探索する必要がある。ファイルチャンクが開始する場所を特定するのはセントラルディレクトリのみであるため、ZIPファイルの頭からエントリを検査すべきではない。ZIPフォーマットは、チャンク間に他のデータを含めることや、シグネチャと同じ4バイト列を含むようなデータを禁止していないため、そのようなスキャンは誤検出(フォールス・ポジティブ)を起こすだろう。 ただし、破損したZIPアーカイブからデータを修復するためのツールは、ローカルヘッダシグネチャを探索するのが普通である。この場合、ファイルチャンクの後ろにファイルチャンクの圧縮サイズが格納されることが、シーケンシャルな処理を困難にしている。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "また ZIPの仕様では、複数のファイルシステムにまたがって分散したアーカイブを扱うこともサポートしている。もともとは、複数の1.44MBフロッピーディスク にまたがった大きなzipファイルの格納を目的としていた。現在この機能は、ZIPアーカイブを分割してメールなどで送ったり、リムーバブルメディアで持ち運ぶのに使用されている。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "DOSのFATファイルシステムは2秒単位でタイムスタンプを保持し、ZIPファイルレコードはこれを模倣している。結果として、ZIPアーカイブ内にあるファイルのタイムスタンプも2秒単位で丸められる。但し、より正確なタイムスタンプを格納するために拡張フィールドを使用することができる。なお、ZIPフォーマットにはタイムゾーンという概念がないため、タイムスタンプが意味を持つのは、作成されたタイムゾーンを知っている場合だけである。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2007年9月にPKZIPは、UTF-8のファイル名を格納するための仕組みを含むZIP仕様のリビジョンをリリースした。それは最終的にZIPに対するユニコード互換を追加するものである。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "全てのヘッダ内の複数バイトの値は、リトルエンディアンで格納される。全ての長さを示すフィールドは、バイト単位で数える。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "拡張フィールドはOSに特化した属性のような様々なオプションデータを含む。それは16ビットIDと16ビット長のチャンクに分割される。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "このヘッダの直後には圧縮データのデータが続く。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "汎用目的のビットフラグフィールドの3ビット目がセットされている場合、ヘッダの書き込み時にはCRC-32とファイルサイズが不明である。ローカルヘッダのCRC-32とファイルサイズのフィールドにはゼロが書き込まれ、CRC-32とファイルサイズは圧縮データの後ろに12バイトのデータとして追加される。(オプションの4バイトのシグネチャが前に付く場合もある。)",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "セントラルディレクトリエントリはローカルファイルヘッダを拡張したものである。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "全てのセントラルディレクトリエントリの後に、ZIPファイルの終わりを表すセントラルディレクトリの終端レコードが続く。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "この順番により、ZIPファイルをワンパスで作成することができるが、通常、展開では最後のセントラルディレクトリを最初に読み込むことになる。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "現在のZIPファイルフォーマット仕様では次のメソッドの詳細が記載されている。stored(無圧縮)、Shrunk、Reduced(メソッド 1-4)、Imploded、Tokenizing、Deflated、Deflate64、BZIP2、LZMA (EFS)、WavPack、PPMd。最も一般的な圧縮メソッドはDEFLATEでIETF RFC 1951に記載されている。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "圧縮メソッドに挙げられていても、PKWARE Data Compression Library (DCL) Imploding (old IBM TERSE), IBM TERSE (new), IBM LZ77 z Architecture (PFS) の仕様の詳細は記載されていない。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ZIPはシンプルなパスワードベースの共通鍵暗号をサポートすると仕様に記載されている。但し、重大な脆弱性があることが知られている。特に、既知平文攻撃に対して脆弱性があり、貧弱なランダム数生成器の実装によってさらに安全性が低くなる場合もある。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "バージョン5.2以降の.ZIPファイルフォーマット仕様には、圧縮 と 暗号化 (例えば AES) を含む新しい機能のメソッドが追加されている、と記載されている。WinZipはAESベースの標準規格を使用し、それは7-Zip、XCeedやDotNetZipでも使用されている。しかし、ベンダによっては他のフォーマットを使用するものである PKZIP また、SecureZIP は RC2, RC4, DES, Triple DES 暗号メソッド, 電子証明書ベースの暗号 / 認証 (X.509) やアーカイブヘッダ暗号化をサポートする。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "オリジナルのZIPフォーマットは、ZIPアーカイブ内のエントリに 65535 の制限があるのと同様に、様々なサイズ(ファイルの圧縮/非圧縮サイズ、アーカイブの合計サイズ)に4 GiBの制限があった。仕様のバージョン4.5(それは特定ツールのバージョン4.5と同じではない) では、PKWAREはこういった制限を回避するために16 EiB(2 バイト)まで増加させた \"ZIP64\" フォーマット拡張を導入した。ZIP64サポートは新規に発生したものである。例えば、Windows XPのファイルエクスプローラーはZIP64をサポートしないが、 Windows Vistaのエクスプローラーではサポートする。同様にDotNetZipやPerlのIO::Compress::Zip、PythonのzipfileのようなライブラリはZIP64をサポートする。Javaの組み込みモジュールjava.util.zipは 2010年9月現在ではサポートしていない。今後、OpenJDKに追加されてJava 7への同梱を予定している。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ZIPファイルのようにファイルを分割して圧縮するとランダムアクセスが可能である。他のデータを読み込むことなく個々のファイルを取り出すことができる。DEFLATE圧縮の可能性を限定するときでさえ、それぞれのファイルのために違う辞書圧縮を利用するとアーカイブ全体のサイズをより小さくできることがある。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "この圧縮の手法は一般的に小さなファイルが大量にあるときのアーカイブとしては適切ではない。ZIPアーカイブフォーマットでは、個々のエントリに関する情報を持つメタデータは圧縮しない。これは、特に個々のエントリのサイズを小さくして、そのエントリ向けのメタデータのサイズを扱うようにアーカイブ可能な最大圧縮比率を設けて制限されているためである。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "別の手法としては 圧縮されたtarアーカイブ(.tar.gz または .tgz) が使用される。 それはファイルデータとメタデータがgzipで圧縮される1つの単位として圧縮される。この手法の欠点はランダムアクセスの効率が悪くなってしまうことである。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ZIPファイルフォーマットでは、セントラルディレクトリの後(ファイルの末尾)に、65,535バイト以下のデータを入れることのできるコメント欄がある。また、セントラルディレクトリがアーカイブ内の各ファイルの開始位置を表すオフセットを指定しているため、最初のエントリがオフセットゼロの位置から開始していなくてもよい。(gzipのようないくつかのツールでは、ファイルエントリがオフセットゼロで始まらないようなZIPファイルを処理できないが。)つまり、ZIPアーカイブの前や後に任意のデータを配置しても、ZIPアプリケーションはそのアーカイブを読み込むことができる。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この事実を利用すると、ZIPアーカイブとしても、別のフォーマットとしても扱えるようなファイルを作成することができる。ただし、別のフォーマットでは、ファイルの最初か末尾かあるいは中ほどに任意のデータを配置できる必要がある。WinZipやDotNetZipがサポートするSelf-extracting archives (SFX) はこの利点を活用している。そういったファイルはPKZIP AppNote.txtの仕様に準拠した.exeファイルであり、規格に準拠したzipツールやライブラリで読み込むことができる。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ZIPフォーマットやZIPの亜種であるJARフォーマットが持つこのような特性は、一見普通のファイルに見えるが、コンピューター内部に害を及ぼすJavaクラスを隠すことに悪用できてしまう。例えば、ウェブにアップロードされるGIFイメージがある。これはGIFARと呼ばれる手法で、Facebookのようなウェブアプリケーションに対して効率的な攻撃として知られている。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "多くのZIPツールとZIPライブラリは様々なプログラミング環境の上で利用できる。ライセンスは商用やオープンソースのものがある。例えば、WinZipはWindows上で動作する有名なZIPツールである。他にも様々なプラットホームでWinRAR、IZarc、Info-ZIP、7-Zip、PeaZipやDotNetZip等が利用できる。これらのツールのいくつかはライブラリ、またはプログラミングインタフェースを持つ。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "オープンソースで開発されているライブラリの例としてはGNUプロジェクトのgzipやInfo-ZIPがある。JavaではJava Platform, Standard Editionに標準的なzipファイルを扱う java.util.zip パッケージがある。Zip64Fileライブラリは特別に4GBを超える巨大なファイルをサポートして、ランダムアクセスを使用してZIPファイルを扱う。Apache AntツールにはApache Software Licenseでより完全なツールが実装されている。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": ".NETアプリケーションでは、.NET Framework 4.5で追加されたSystem.IO.Compression名前空間のZipArchiveクラスやZipFileクラスなどが使用できる。それ以前の場合、Microsoft Public License でソースとバイナリが利用できる DotNetZipと呼ばれる無償のオープンソースライブラリがある。従来のパスワードを用いたZIP暗号化、WinZip互換のAES暗号化、ユニコード、ZIP64、コメント、分割アーカイブ、自己展開アーカイブといった多くのZIP機能をサポートする。Microsoft .NET 3.5 ランタイムライブラリはZIPフォーマットをサポートするクラスSystem.IO.Packaging.Packageを含む。主としてISO/IEC国際標準Open Packaging Conventionsを使用するドキュメントフォーマットのために設計されている。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ZIPフォーマットのInfo-ZIP実装は、ユーザやグループID、ファイルパーミッション、シンボリックリンクのようなUnixファイルシステムの機能のサポートを追加する。Apache Antの実装はUnixパーミッションが事前に定義されたファイルを作成できる範囲に対して注意を払っている。Info-ZIPの実装もZIP圧縮フォーマットに組み込まれたエラー訂正機能の使用方法が分かっている。(IZarcのような)一部のプログラムはエラーがあるファイルの処理中に失敗する可能性がある。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また Info-ZIP WindowsツールもNTFSファイルシステムパーミッションをサポートする。展開時にNTFSパーミッションをUnixパーミッションへ、もしくはその逆へ変換しようとする。これは潜在的な意図しない結果をもたらすことがある。例として、NTFSボリューム上で実行権限を付けて作成された.exeファイルは拒否されることなどが挙げられる。",
"title": "技術的な情報"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "Windowsでは、Windows 98のためにリリースされたPlus!パック以降、エクスプローラーからZIP形式の圧縮と展開をサポートしている。マイクロソフトはこの機能を「圧縮フォルダー」と呼んでいる。圧縮フォルダーはZIPの機能を全てサポートしているわけではなく、例えばWindows 10ではAES暗号化、分割アーカイブ、パスワード付き圧縮などが行えない。また圧縮時にはシステムロケールが日本語に設定されたWindowsではファイル名にMicrosoftコードページ932を使用している。(Windows NT系の内部文字コード及びファイルシステムの文字コードはUnicodeであるが、互換性のためにMicrosoftコードページ932に変換している。変換できない文字が含まれるファイル名は圧縮できない。)展開時はhotfixを適用したWindows 7もしくはWindows 8以降でUTF-8に対応したため、ファイル名がMicrosoftコードページ932とUTF-8のどちらであっても問題なく展開できる。macOSのFinderでは原則として圧縮・展開ともにUTF-8を想定しているため、macOSで作成したZIPファイルはhotfixを適用したWindows 7以降であればで問題なく展開できるが、逆にWindowsで作成したZIPファイルをmacOSで展開するとファイル名によっては文字化けもしくはエラーとなる。(これはファイル名の話でファイルの内容には影響しない。)",
"title": "Windows 圧縮フォルダー"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2003年にWinZip 9.0パブリックベータをリリースしたとき、WinZipは独自のAES-256暗号を導入した。それは違うファイルフォーマットを用いた新たな仕様としてドキュメントに記載された。暗号の標準規格はプロプライエタリでは無いが、 PKWARE は2001年以降、PKZIP 5.0や6.0では使用されていた強力な暗号化仕様 (SES) を含めるようにAPPNOTE.TXTを更新しなかった。WinZipの技術コンサルタント Kevin KearneyやスタッフイットプロダクトマネージャMathew CovingtonはSESを差し控えるようにPKWAREを非難。これに対し、PKZIPチーフ技術オフィサーのJim Petersonは承認に基づく暗号化規格はまだ完全ではないと主張。しかし、バージョン 4.5の頃(PKWARE の FTP サイトで確認できる)に公開された最新のAPPNOTE.TXTには、SESだけではなく、同時期に存在したPKZIPプロダクトで作成された.ZIPファイルが用いたDeflate64、DCL Implode、BZip2も除外された。",
"title": "強力な暗号化についての議論"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この欠点を克服するためにPentaZipのような同時期に存在したプロダクトは違うファイルフォーマットにZIPアーカイブを暗号化する強力なZIP暗号化を実装した。",
"title": "強力な暗号化についての議論"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "また別の議論では、PKWAREは2003年7月16日に安全な.ZIPファイルを作成するために強力な暗号と.ZIPを組み合わせるための方法を記載した特許を適用した。",
"title": "強力な暗号化についての議論"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "結局PKWAREとWinZipはお互いのプロダクトをサポートすることに同意した。2004年1月21日にPKWAREはWinZipベースのAES互換フォーマットをサポートするとアナウンスした。WinZipベータの次のバージョンではSESベースのZIPファイルのサポートが行われた。PKWAREは最終的にSESを記載した.ZIPファイルフォーマット仕様のバージョン 5.2を公式にリリースした。フリーソフトウェア プロジェクト 7-Zipも(そのPOSIX 移植された p7zip が行うことで)ZIPファイルのAESをサポートしている。",
"title": "強力な暗号化についての議論"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "アプリケーション固有のファイル形式のなかには、あるファイルを一定のディレクトリの階層構造に格納しZIP形式で圧縮したものが存在する。そのようなファイルの大半はそのアプリケーション固有の物であることを示すために専用の拡張子を定義しており、以下に示す例はその一部である。ただし、圧縮アルゴリズムにzlibを使っているものでも、ZIP互換の格納方式を使っていないものは掲載しない。",
"title": "ソフトにおける固有の拡張子"
}
] |
ZIP(ジップ)は、データ圧縮やアーカイブのフォーマット。Windowsでよく使用されるフォーマットである。
|
{{簡易区別|この項目では、[[拡張子]].zipの[[圧縮ファイル]]について記載しています。“[[ZIP (記憶媒体)]]のフォーマット”}}
{{Infobox file format
| name = ZIP
| icon = <!--[[Image:The Unarchiver zip.png|64px]]-->
| screenshot =
| caption = <!--zip アーカイブアイコンは [[:en:The Unarchiver|The Unarchiver]] のアイコンセットを使用しています。-->
| extension = <tt>.zip</tt><br /><tt>.zipx</tt> <small>(WinZip固有の拡張子)</small>
| mime = <code>application/zip</code>
| type code =
| uniform type = com.pkware.zip-archive
| magic = <!-- ありませんと書かれていたが、本文中にないケースが書かれていないので、本文との矛盾を解消するためにコメントアウトします。マジックナンバーがないケースがあるなら、本文中でその旨を言及して、「ない。但しPK...が一般的」と変更してください --><code>PK\003\004</code><br /><code>PK\005\006</code>(空のアーカイブ)<br /><code>PK\007\008</code>(またがったアーカイブ)
| owner = [[フィル・カッツ]], [[:en:PKWARE|PKWARE]]
| genre = [[データ圧縮]]
| container for =
| contained by =
| extended from =
| extended to = [[EAR (ファイルフォーマット)|EAR]]、<br>[[EPUB]]、<br>[[JAR (ファイルフォーマット)|JAR]]、<br>[[Office Open XML]]、<br>[[OpenDocument]]、<br>[[Resource Adapter|RAR (Java)]]、<br>[[WAR (Sun ファイルフォーマット)|WAR]]、<br>[[XPI]]
| standard = {{Plainlist|
* PKWARE が提供する {{URL|https://pkware.cachefly.net/webdocs/casestudies/APPNOTE.TXT|APPNOTE}}
* {{URL|https://www.iso.org/standard/60101.html|ISO/IEC 21320-1:2015}}
}}
}}
'''ZIP'''(ジップ)は、[[データ圧縮]]や[[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイブ]]の[[ファイルフォーマット|フォーマット]]。[[Microsoft Windows|Windows]]でよく使用されるフォーマットである<ref>{{Cite web|url=http://www.catb.org/~esr/jargon/html/Z/zip.html|title=Jargon File - zip|accessdate=2010-11-29|date=2003-12-29}}<!-- Jargon File ver.4.4.7: http://www.catb.org/~esr/jargon/html/online-preface.html--></ref><!-- 一般的という部分については左記出典(spreading、流布されている)で担保されていると思います。より具体的なシェアの資料が必要という人がいれば、要出典を再付与してください。ただ、そのレベルの記述は冒頭ではなく本文中に欲しいと個人的には思います。 -->。
== 概要 ==
ZIPファイルフォーマット(以下ZIPフォーマット、またはZIP)は複数のファイルを一つのファイルとしてまとめて取り扱うアーカイブフォーマットであり、1つ以上のファイルが格納されているものである。必要に応じて各種ある圧縮アルゴリズムを選択・使用し、ファイルサイズを圧縮して格納することも可能である。
ZIPフォーマットは1989年に[[フィル・カッツ]]が考案したもので、[[:en:Thom Henderson|トム・ヘンダーソン]]が考案したそれまでの[[:en:ARC (file format)|ARC]]フォーマットに置き換わるものとして、[[:en:PKWARE|PKWARE]]の[[:en:PKZIP|PKZIP]]ユーティリティ
<ref>{{cite news | title = Phillip Katz, Computer Software Pioneer, 37 | publisher = The New York Times | date = Monday, May 1, 2000 | url = http://www.nytimes.com/2000/05/01/us/phillip-katz-computer-software-pioneer-37.html | accessdate = 2009-06-14}}</ref>に実装された。
ZIPフォーマットは現在多くのユーティリティによってサポートされている([[:en:List of file archivers#Archive format support|ファイルアーカイバのリスト]]を参照)。[[オペレーティングシステム]]でのサポートとしては、[[マイクロソフト]]が[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]以降の各バージョンに「圧縮フォルダー」という名前でZIPの機能を組み込んでいるほか、[[Apple]]も[[macOS|Mac OS X]] [[Mac OS X v10.3|v10.3]]以降に他の圧縮フォーマットも含めてZIPの機能を組み込んでいる。
ZIPファイルは一般的に ".zip" か ".ZIP" といった[[拡張子]]が付けられる。[[メディアタイプ|MIMEタイプ]]は<code>application/zip</code>。ZIPフォーマットは、圧縮伸長を主目的としない多くのアプリケーションでも使用されているが、その際、拡張子には個々のアプリケーション固有に ".zip" とは異なる名前が用いられていることが多い。例えば、[[JAR (ファイルフォーマット)|Java Archive]]の拡張子は ".jar"であるが、このフォーマットの実態はZIPフォーマットである。他の具体例については「[[#ソフトにおける固有の拡張子]]」節を参照のこと。
==歴史==
「zip」 (「速さ」を意味する) という名前はフィル・カッツの友人であるロバート・マホーニーの提案によるものであり、従来から有るARCやその他の圧縮フォーマットの圧縮時間よりも、自分たちのプロダクトの方が速いということをほのめかすという意図を持っていた。
ZIPファイルフォーマット仕様は、PKZIP0.9のパッケージに同梱されていたファイル<ref>APPNOTE.TXT</ref>で初めて公開された。
ZIPフォーマットは[[オープンフォーマット]]として[[パブリックドメイン]]でリリースされたものであり、ZIPフォーマットは誰しもが自由に利用でき、個人、団体、組織、あらゆる形態の利用において法的にもモラル的にも全くは制約はない<ref>{{cite web|url=http://brianlivingston.com/eweek/article2/0,4149,1257562,00.html|accessdate=2014-03-29|title=PKZip Must Open Up|date=2003-09-08|author=Brian Livingston|publisher=eWEEK}}</ref>。
PKWAREもまた基本フォーマットをパブリックドメインとしており、誰でもZIPファイルを扱うアプリケーションを開発することができる。同じ見解が[[FLOSS]] [[Info-ZIP]]バージョンのプロダクトに付属するUNIX/LINUXドキュメント内でも見られる。そのドキュメントではzipファイルフォーマット、圧縮フォーマット、.ZIPの拡張子やファイルフォーマットへの小さな変更をパブリックドメインに置いたフィル・カッツへの感謝の念を示している。<!-- ここにlinkを入れたい -->
== 起源 ==
{{Main|フィル・カッツ}}
ZIPファイルフォーマットはPKWAREのフィル・カッツが考案し、PKZIPで実装された。ちなみにカッツは以前に「PKXARC」なるアーカイブ・ユーティリティーを公開していたが、システム・エンハンス・アソシエイツ社の[[ARC]]というユーティリティの著作権を著しく侵害しているとして[[民事訴訟]]を起こされている。
<!-- 敗訴については フィル・カッツの出典リンクが切れており、出典が確保できず。 -->
== よく似た名前のフォーマット ==
名前の一部に「zip」という名前を使った標準化仕様やフォーマットがたくさんある。フィル・カッツはどんなアーカイブ種別でも「zip」という名前を使って良いと表明した{{Citation needed|date=May 2009}}。同じ[[Deflate]]圧縮アルゴリズムを使用していながら、ヘッダー・フッターの異なる物としては、[[gzip]] ({{IETF RFC|1952}}) や [[zlib]] ({{IETF RFC|1950}}) などがある。その他、よく似た名前の異なるファイルフォーマットや圧縮アルゴリズムとして[[7z]]、[[bzip2]]、[[:en:rzip|rzip]]などがある。
== バージョン履歴 ==
.ZIPファイルフォーマット仕様にはバージョン番号がある。しかし、それは必ずしもPKZIPツールのバージョン番号とは対応せず、特にPKZIPバージョン 6以降がそれに該当する。PKWAREは、 PKZIP製品が先進的な機能を利用してアーカイブを展開できるように予備的な機能を幾度も追加している。しかし、そのようなアーカイブを作成するPKWARE仕様はPKZIPの次の主要なリリースまで公開されない。他の会社や組織は自分たちのペースでPKWAREの仕様をサポートしている。
PKWARE仕様による各バージョンの主な機能は以下の通り。
* 2.0: ファイルエントリを[[Deflate]]で圧縮可能となった。
* 4.5: 64ビットZIPフォーマットが記載された。
* 5.0: DES、Triple DES、RC2、RC4を暗号化のためにサポートした。
* 5.2: RC2-64を暗号化のためにサポートした。
* 6.1: 承認されたストレージについて記載した。
* 6.2.0: セントラルディレクトリの暗号化について記載した。
* 6.3.0: Unicode (UTF-8) ファイル名のストレージについて記載した。サポートされるハッシュ、圧縮、暗号化アルゴリズムが追加された。
* 6.3.1: SHA-256 / 384 / 512の標準的なハッシュ値に訂正した。
* 6.3.2: 圧縮メソッド 97 ([[WavPack]]) について記載した。
[[WinZip]]のバージョン12.1からDeflateよりも新しい圧縮メソッド、特にBZipや[[Lempel-Ziv-Markov chain-Algorithm|LZMA]]、PPMd、Jpeg、Wavpackのメソッドを使用したファイルの拡張子に'''<tt>.zipx</tt>'''が使用されている。JpegとWavPackは「最適メソッド」圧縮が選択されたときに適切なファイル種別に対して適用されている<ref>{{cite web | url = http://www.winzip.com/comp_info.htm | title = Additional Compression Methods Specification | work = WinZip | publisher = [[WinZip]] Computing, S.L | location = [[Mansfield, CT]] | date = 2009-05-19 | accessdate = 2009-05-24}}</ref><ref>{{cite web |url=http://kb.winzip.com/kb/entry/7/ |title=What is a Zipx File? |work=Winzip: Knowledgebase |publisher=[[WinZip]] Computing, S.L |location=[[Mansfield, CT]] |date=August 13, 2010 |accessdate=August 17, 2010}}</ref>。
== 標準化 ==
2010年4月[[ISO/IEC JTC 1]]で、ZIP互換のISO / IECの国際標準フォーマットを作成するために開始されるプロジェクトを決めるための投票が行われた<ref>http://www.itscj.ipsj.or.jp/sc34/open/1414.pdf</ref>。「ドキュメントパッケージング」という表題で提案されたプロジェクトは[[OpenDocument]]、[[Office Open XML]]や[[EPUB]]を含む既存の標準規格の利用に適したZIP互換の最小圧縮アーカイブフォーマットと考えられる。そして2015年、ISO/IEC 21320-1:2015 Information technology — Document Container File — Part 1: Coreが制定された。
現在のZIPフォーマットは[[オープンフォーマット]]の要求仕様にあわないことがある。それは目に見える形で公開されたコミュニティ駆動開発を通して開発されていないからである。オープンな産業機構や標準化団体が賛同してメンテナンスされているものでもない。現在の ZIP フォーマットの一部は [[フリーソフトウェア|フリー]] なファイルフォーマットの要求仕様にあっていない。誰もが ZIP フォーマットを、如何なる目的であっても金銭的な負担がなく利用できるようにするため、著作権、特許、商標などの制約がない。 [http://www.linfo.org/free_file_format.html] PKWARE サイトにある最新の資料は、著作権表示があるが、フォーマット仕様とその機能拡張がパブリックドメインに置かれていることを認めている。[http://www.pkware.com/security-software-company/philkatz]
== 技術的な情報 ==
ZIPは複数のファイルを格納するシンプルなアーカイブフォーマットである。圧縮はzipアーカイブのオプションであり、圧縮が行われる場合はファイル単位に圧縮される。
ZIPは、データの破損に備えて優れた保護機構を提供するため、32ビットのCRCアルゴリズムを利用し、またアーカイブのディレクトリ構造を2箇所に含んでいる。
=== 構造 ===
ZIPファイルはファイルの最後に置かれるセントラルディレクトリの終端レコード(EOCD)の存在によって正しく認識される。この仕組みにより、新たなファイルを追加することが容易である。ZIPファイルに格納されているエントリ(ファイルまたはディレクトリ)数がゼロで無い場合、格納されている各エントリの名前、エントリに関するその他のメタデータ、ZIPファイル内でエントリデータが位置するオフセットが、セントラルディレクトリエントリに記載される。これにより、ファイルリストを参照するためにアーカイブ全体を読み込む必要がないため、アーカイブのファイルリストを比較的速く表示することが可能である。また冗長性の確保のため、各エントリも、エントリ情報をローカルファイルヘッダとして保持している。zipファイルが追加されることもあるため、ファイルの最後にあるセントラルディレクトリに載っているファイルだけが、正しいファイルである。セントラルディレクトリが、いくつかのファイルは削除された、あるい更新された、と宣言していることもありうるため、ZIPファイル全体を検索してローカルファイルヘッダを探しても、正しい情報は得られない(ただし、アーカイブが破損している場合は、そのような探索は役に立つだろう)。
セントラルディレクトリ内でのファイルエントリの順番は、アーカイブの中での実際のファイルエントリの順番と同じである必要はない。
ZIPファイル内のそれぞれのエントリは、ローカルファイルヘッダ(コメント、ファイルサイズやファイル名などの情報を含む)と、オプションの '''「拡張」''' データフィールドと、ファイルデータそのもの(圧縮されたり暗号化されている場合もある)で構成されている。「拡張」フィールドは、ZIP64フォーマット、WinZip互換のAES暗号化、ファイル属性やより詳細な[[NT File System|NTFS]]やUnixファイルのタイムスタンプをサポートするために使用される。その他にも「拡張」フィールドを使用して機能拡張することが可能。認識しない拡張フィールドを無視するための機能をZIPツールに組み込む必要がある。
[[Image:ZIPformat_ja.jpg|600px]]
ZIPフォーマットはファイル内の様々な構造を表すために、特定の4バイトの「シグネチャ」を使用する。それぞれのファイルエントリは、ある特定のシグネチャによって目印が付けられる。セントラルディレクトリの終端レコードは、それ用のシグネチャでマークされ、セントラルディレクトリ内の各エントリは別の特定の4バイトシグネチャによって目印が付けられる。
ZIPの仕様にはBOFもしくはEOFといった目印がない。慣例として、ZIPファイルの最初にはZIPエントリが置かれ、そのシグネチャによって簡単にそれとわかる。しかし、ZIPの仕様においては、ZIPエントリで始まる必要はなく、特に、自己解凍型のアーカイブは、実行可能なファイルヘッダで始まる。
ZIPアーカイブを正しく読み込むには、まず初めにセントラルディレクトリの終端レコードのシグネチャを探し、次に、適宜、他のセントラルレコードを探索する必要がある。ファイルチャンクが開始する場所を特定するのはセントラルディレクトリのみであるため、ZIPファイルの頭からエントリを検査すべきではない。ZIPフォーマットは、チャンク間に他のデータを含めることや、シグネチャと同じ4バイト列を含むようなデータを禁止していないため、そのようなスキャンは[[偽陽性|誤検出]](フォールス・ポジティブ)を起こすだろう。 {{Citation needed|date=July 2010}} ただし、破損したZIPアーカイブからデータを修復するためのツールは、ローカルヘッダシグネチャを探索するのが普通である。この場合、ファイルチャンクの後ろにファイルチャンクの圧縮サイズが格納されることが、シーケンシャルな処理を困難にしている。
また ZIPの仕様では、複数のファイルシステムにまたがって分散したアーカイブを扱うこともサポートしている。もともとは、複数の1.44MB[[フロッピーディスク]] にまたがった大きなzipファイルの格納を目的としていた。{{要出典|date=2020年6月12日 (金) 00:16 (UTC)}}現在この機能は、ZIPアーカイブを分割してメールなどで送ったり、リムーバブルメディアで持ち運ぶのに使用されている。
DOSの[[File Allocation Table|FATファイルシステム]]は2秒単位でタイムスタンプを保持し、ZIPファイルレコードはこれを模倣している。結果として、ZIPアーカイブ内にあるファイルのタイムスタンプも2秒単位で丸められる。但し、より正確なタイムスタンプを格納するために拡張フィールドを使用することができる。なお、ZIPフォーマットにはタイムゾーンという概念がないため、タイムスタンプが意味を持つのは、作成されたタイムゾーンを知っている場合だけである。
2007年9月にPKZIPは、[[UTF-8]]のファイル名を格納するための仕組みを含むZIP仕様のリビジョンをリリースした。それは最終的にZIPに対するユニコード互換を追加するものである<ref name="appnote">http://www.pkware.com/documents/casestudies/APPNOTE.TXT</ref>。
==== ファイルヘッダ ====
全てのヘッダ内の複数バイトの値は、[[リトルエンディアン]]で格納される。全ての長さを示すフィールドは、バイト単位で数える。
{|class="wikitable"
|+ ZIPローカルファイルヘッダ
|-
! オフセット !! サイズ !! 内容<ref name="appnote"/>
|-
| 0 || 4 || ローカルファイルヘッダのシグネチャ = 0x504B0304(PK\003\004)
|-
| 4 || 2 || 展開に必要なバージョン (最小バージョン)
|-
| 6 || 2 || 汎用目的のビットフラグ
|-
| 8 || 2 || 圧縮メソッド
|-
| 10 || 2 || ファイルの最終変更時間
|-
| 12 || 2 || ファイルの最終変更日付
|-
| 14 || 4 || CRC-32
|-
| 18 || 4 || 圧縮サイズ
|-
| 22 || 4 || 非圧縮サイズ
|-
| 26 || 2 || ファイル名の長さ (''n'')
|-
| 28 || 2 || 拡張フィールドの長さ (''m'')
|-
| 30 || ''n'' || ファイル名
|-
| 30+''n'' || ''m'' || 拡張フィールド
|}
拡張フィールドはOSに特化した属性のような様々なオプションデータを含む。それは16ビットIDと16ビット長のチャンクに分割される。
このヘッダの直後には圧縮データのデータが続く。
汎用目的のビットフラグフィールドの3ビット目がセットされている場合、ヘッダの書き込み時にはCRC-32とファイルサイズが不明である。ローカルヘッダのCRC-32とファイルサイズのフィールドにはゼロが書き込まれ、CRC-32とファイルサイズは圧縮データの後ろに12バイトのデータとして追加される。(オプションの4バイトのシグネチャが前に付く場合もある。)
{|class="wikitable"
|+ Data descriptor
|-
! オフセット !! サイズ !! 内容 <ref name="appnote"/>
|-
| 0 || 0/4 || (オプショナル) data descriptor シグネチャ = 0x08074b50
|-
| 0/4 || 4 || CRC-32
|-
| 4/8 || 4 || 圧縮サイズ
|-
| 8/12 || 4 || 非圧縮サイズ
|}
セントラルディレクトリエントリはローカルファイルヘッダを拡張したものである。
{|class="wikitable"
|+ セントラルディレクトリエントリ
|-
! オフセット !! サイズ !! 内容<ref name="appnote"/>
|-
| 0 || 4 || セントラルディレクトリエントリのシグネチャ = 0x504B0102(PK\001\002)
|-
| 4 || 2 || 作成されたバージョン
|-
| 6 || 2 || 展開に必要なバージョン (最小バージョン)
|-
| 8 || 2 || 汎用目的のビットフラグ
|-
| 10 || 2 || 圧縮メソッド
|-
| 12 || 2 || ファイルの最終変更時間
|-
| 14 || 2 || ファイルの最終変更日付
|-
| 16 || 4 || CRC-32
|-
| 20 || 4 || 圧縮サイズ
|-
| 24 || 4 || 非圧縮サイズ
|-
| 28 || 2 || ファイル名の長さ (''n'')
|-
| 30 || 2 || 拡張フィールドの長さ (''m'')
|-
| 32 || 2 || ファイルコメントの長さ (''k'')
|-
| 34 || 2 || ファイルが開始するディスク番号
|-
| 36 || 2 || 内部ファイル属性
|-
| 38 || 4 || 外部ファイル属性
|-
| 42 || 4 || ローカルファイルヘッダの相対オフセット
|-
| 46 || ''n'' || ファイル名
|-
| 46+''n'' || ''m'' || 拡張フィールド
|-
| 46+''n''+''m'' || ''k'' || ファイルコメント
|}
全てのセントラルディレクトリエントリの後に、ZIPファイルの終わりを表すセントラルディレクトリの終端レコードが続く。
{|class="wikitable"
|+ ZIPセントラルディレクトリの終端レコード(EOCD)
|-
! オフセット !! サイズ !! 内容<ref name="appnote" />
|-
| 0 || 4 || セントラルディレクトリの終端レコードのシグネチャ = 0x504B0506(PK\005\006)
|-
| 4 || 2 || このディスクの数
|-
| 6 || 2 || セントラルディレクトリが開始するディスク
|-
| 8 || 2 || このディスク上のセントラルディレクトリレコードの数
|-
| 10 || 2 || セントラルディレクトリレコードの合計数
|-
| 12 || 4 || セントラルディレクトリのサイズ (バイト)
|-
| 16 || 4 || セントラルディレクトリの開始位置のオフセット
|-
| 20 || 2 || ZIPファイルのコメントの長さ (''n'')
|-
| 22 || ''n'' || ZIPファイルのコメント
|}
この順番により、ZIPファイルをワンパスで作成することができるが、通常、展開では最後のセントラルディレクトリを最初に読み込むことになる。
=== 圧縮メソッド ===
現在のZIPファイルフォーマット仕様では次のメソッドの詳細が記載されている。stored(無圧縮)、Shrunk、Reduced(メソッド 1-4)、Imploded、Tokenizing、Deflated、Deflate64、[[BZIP2]]、LZMA (EFS)、[[WavPack]]、[[Prediction by Partial Matching|PPMd]]。最も一般的な圧縮メソッドは[[Deflate|DEFLATE]]でIETF {{IETF RFC|1951}}に記載されている。
圧縮メソッドに挙げられていても、PKWARE Data Compression Library (DCL) Imploding (old IBM TERSE), IBM TERSE (new), IBM LZ77 z Architecture (PFS) の仕様の詳細は記載されていない。
=== 暗号化 ===
{{See also|#強力な暗号化についての議論}}
ZIPはシンプルな[[パスワード]]ベースの[[共通鍵暗号]]をサポートすると仕様に記載されている。但し、重大な脆弱性があることが知られている。特に、既知平文攻撃に対して脆弱性があり、貧弱な[[:en:random number generator|ランダム数生成器]]の実装によってさらに安全性が低くなる場合もある<ref>Stay, Michael. "ZIP Attacks with Reduced Known Plaintext". http://math.ucr.edu/~mike/zipattacks.pdf</ref>。
バージョン5.2以降の.ZIPファイルフォーマット仕様には、[[データ圧縮|圧縮]] と [[暗号化]] (例えば [[Advanced Encryption Standard|AES]]) を含む新しい機能のメソッドが追加されている、と記載されている。WinZipはAESベースの標準規格を使用し、それは[[7-Zip]]、XCeedやDotNetZipでも使用されている。しかし、ベンダによっては他のフォーマットを使用するものである<ref>[http://www.winzip.com/aes_info.htm AES Encryption Information: Encryption Specification AE-1 and AE-2]</ref> PKZIP また、SecureZIP は RC2, RC4, DES, Triple DES 暗号メソッド, 電子証明書ベースの暗号 / 認証 ([[X.509]]) やアーカイブヘッダ暗号化をサポートする<ref name="pkware">[http://www.pkware.com/index.php?option=com_content&task=view&id=64&Itemid=107 Application Note on the .ZIP file format]</ref>。
=== ZIP64 ===
オリジナルのZIPフォーマットは、ZIPアーカイブ内のエントリに 65535 の制限があるのと同様に、様々なサイズ(ファイルの圧縮/非圧縮サイズ、アーカイブの合計サイズ)に4 GiBの制限があった。仕様のバージョン4.5(それは特定ツールのバージョン4.5と同じではない) では、PKWAREはこういった制限を回避するために16 EiB(2<sup>64</sup> バイト)まで増加させた "ZIP64" フォーマット拡張を導入した。ZIP64サポートは新規に発生したものである。例えば、Windows XPのファイルエクスプローラーはZIP64をサポートしないが、 Windows Vistaのエクスプローラーではサポートする。同様にDotNetZipやPerlのIO::Compress::Zip、PythonのzipfileのようなライブラリはZIP64をサポートする。Javaの組み込みモジュールjava.util.zipは 2010年9月現在ではサポートしていない。今後、[[OpenJDK]]に追加されて[[:en:Java_version_history#Java_SE_7.0|Java 7]]への同梱を予定している<ref>{{cite web | url=http://blogs.sun.com/xuemingshen/entry/zip64_support_for_4g_zipfile | title=ZIP64, The Format for > 4G Zipfile, Is Now Supported | accessdate=2010-09-27 | author=Shen, Xueming | date=2009-04-17 | work=Xueming Shen's Blog | publisher=Sun|deadlinkdate=2023-11-28}}</ref>。
=== 長所と短所 ===
ZIPファイルのようにファイルを分割して圧縮するとランダムアクセスが可能である。他のデータを読み込むことなく個々のファイルを取り出すことができる。DEFLATE圧縮の可能性を限定するときでさえ、それぞれのファイルのために違う辞書圧縮を利用するとアーカイブ全体のサイズをより小さくできることがある。
この圧縮の手法は一般的に小さなファイルが大量にあるときのアーカイブとしては適切ではない。ZIPアーカイブフォーマットでは、個々のエントリに関する情報を持つメタデータは圧縮しない。これは、特に個々のエントリのサイズを小さくして、そのエントリ向けのメタデータのサイズを扱うようにアーカイブ可能な最大圧縮比率を設けて制限されているためである。
別の手法としては [[tar|圧縮されたtarアーカイブ(<code>.tar.gz</code> または <code>.tgz</code>)]] が使用される。
それはファイルデータとメタデータが[[gzip]]で圧縮される1つの単位として圧縮される。この手法の欠点はランダムアクセスの効率が悪くなってしまうことである。
=== ZIPと他のファイルフォーマットとの組み合わせ ===
ZIPファイルフォーマットでは、セントラルディレクトリの後(ファイルの末尾)に、65,535バイト以下のデータを入れることのできるコメント欄がある<ref name="appnote" />。また、セントラルディレクトリがアーカイブ内の各ファイルの開始位置を表すオフセットを指定しているため、最初のエントリがオフセットゼロの位置から開始していなくてもよい。(gzipのようないくつかのツールでは、ファイルエントリがオフセットゼロで始まらないようなZIPファイルを処理できないが。)つまり、ZIPアーカイブの前や後に任意のデータを配置しても、ZIPアプリケーションはそのアーカイブを読み込むことができる。
この事実を利用すると、ZIPアーカイブとしても、別のフォーマットとしても扱えるようなファイルを作成することができる。ただし、別のフォーマットでは、ファイルの最初か末尾かあるいは中ほどに任意のデータを配置できる必要がある。WinZipやDotNetZipがサポートする[[:en:Self-extracting archives|Self-extracting archives]] (SFX) はこの利点を活用している。そういったファイルはPKZIP AppNote.txtの仕様に準拠した.exeファイルであり、規格に準拠したzipツールやライブラリで読み込むことができる。
ZIPフォーマットやZIPの亜種であるJARフォーマットが持つこのような特性は、一見普通のファイルに見えるが、コンピューター内部に害を及ぼすJavaクラスを隠すことに悪用できてしまう。例えば、ウェブにアップロードされるGIFイメージがある。これは[[GIFAR]]と呼ばれる手法で、Facebookのようなウェブアプリケーションに対して効率的な攻撃として知られている<ref>[http://www.infoworld.com/article/08/08/01/A_photo_that_can_steal_your_online_credentials_1.html A photo that can steal your online credentials]</ref>。
=== 実装 ===
多くのZIPツールとZIPライブラリは様々なプログラミング環境の上で利用できる。ライセンスは商用や[[オープンソース]]のものがある。例えば、WinZipはWindows上で動作する有名なZIPツールである。他にも様々なプラットホームで[[WinRAR]]、[[:en:IZarc|IZarc]]、[[Info-ZIP]]、[[7-Zip]]、[[PeaZip]]やDotNetZip等が利用できる。これらのツールのいくつかはライブラリ、またはプログラミングインタフェースを持つ。
オープンソースで開発されているライブラリの例としては[[GNUプロジェクト]]の[[gzip]]や[[Info-ZIP]]がある。Javaでは[[Java Platform, Standard Edition]]に標準的なzipファイルを扱う <code>java.util.zip</code> パッケージがある。Zip64Fileライブラリは特別に4GBを超える巨大なファイルをサポートして、ランダムアクセスを使用してZIPファイルを扱う。[[Apache Ant]]ツールには[[Apache_License|Apache Software License]]でより完全なツールが実装されている。
.NETアプリケーションでは、.NET Framework 4.5で追加されたSystem.IO.Compression名前空間のZipArchiveクラスやZipFileクラスなどが使用できる<ref>{{Cite web|和書|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/1502/03/news080.html|title=ZIPファイルを解凍するには?(ZipArchive編)[C#、VB]|accessdate=2017-06-24|author=山本康彦|date=2015-02-03|work=Insider.NET .NET TIPS|publisher=atmarkIT}}</ref>。それ以前の場合、Microsoft Public License <ref>http://www.codeplex.com/DotNetZip/license</ref> でソースとバイナリが利用できる DotNetZip<ref>http://www.codeplex.com/DotNetZip</ref>と呼ばれる無償のオープンソースライブラリがある。従来のパスワードを用いたZIP暗号化、WinZip互換のAES暗号化、ユニコード、ZIP64、コメント、分割アーカイブ、自己展開アーカイブといった多くのZIP機能をサポートする。[[.NET Framework|Microsoft .NET 3.5]] ランタイムライブラリはZIPフォーマットをサポートするクラスSystem.IO.Packaging.Package<ref>http://msdn.microsoft.com/en-us/library/system.io.packaging.package.aspx</ref>を含む。主として[[International Organization for Standardization|ISO]]/[[International Electrotechnical Commission|IEC]]国際標準[[:en:Open Packaging Conventions|Open Packaging Conventions]]を使用するドキュメントフォーマットのために設計されている。
ZIPフォーマットの[[Info-ZIP]]実装は、ユーザやグループID、ファイルパーミッション、シンボリックリンクのようなUnixファイルシステムの機能のサポートを追加する。[[Apache Ant]]の実装はUnixパーミッションが事前に定義されたファイルを作成できる範囲に対して注意を払っている。Info-ZIPの実装もZIP圧縮フォーマットに組み込まれたエラー訂正機能の使用方法が分かっている。([[:en:IZarc|IZarc]]のような)一部のプログラムはエラーがあるファイルの処理中に失敗する可能性がある。
また Info-ZIP Windowsツールも[[NT File System|NTFS]][[ファイルシステム]]パーミッションをサポートする。展開時にNTFSパーミッションをUnixパーミッションへ、もしくはその逆へ変換しようとする。これは潜在的な意図しない結果をもたらすことがある。例として、NTFSボリューム上で実行権限を付けて作成された[[EXEフォーマット|.exe]]ファイルは拒否されることなどが挙げられる。
== Windows 圧縮フォルダー ==
Windowsでは、Windows 98のためにリリースされたPlus!パック以降、エクスプローラーからZIP形式の圧縮と展開をサポートしている。マイクロソフトはこの機能を「圧縮フォルダー」と呼んでいる。圧縮フォルダーはZIPの機能を全てサポートしているわけではなく、例えばWindows 10ではAES暗号化、分割アーカイブ、パスワード付き圧縮などが行えない。また圧縮時にはシステムロケールが日本語に設定されたWindowsではファイル名に[[Microsoftコードページ932]]を使用している。([[Windows NT系]]の内部文字コード及びファイルシステムの文字コードは[[Unicode]]であるが、互換性のために[[Microsoftコードページ932]]に変換している。変換できない文字が含まれるファイル名は圧縮できない。)展開時はhotfix<ref>[http://support.microsoft.com/kb/2704299/en-us File names are corrupted after you decompress a .zip file in Windows 7 or in Windows Server 2008 R2]</ref>を適用したWindows 7もしくはWindows 8以降で[[UTF-8]]に対応したため、ファイル名が[[Microsoftコードページ932]]と[[UTF-8]]のどちらであっても問題なく展開できる。{{要出典範囲|[[macOS]]のFinderでは原則として圧縮・展開ともに[[UTF-8]]を想定しているため、macOSで作成したZIPファイルはhotfixを適用したWindows 7以降であればで問題なく展開できるが、逆にWindowsで作成したZIPファイルをmacOSで展開するとファイル名によっては文字化けもしくはエラーとなる。(これはファイル名の話でファイルの内容には影響しない。)|date=2021-06-28}}
== 強力な暗号化についての議論 ==
2003年に[[WinZip]] 9.0パブリックベータをリリースしたとき、WinZipは独自の[[Advanced Encryption Standard|AES-256]]暗号を導入した。それは違うファイルフォーマットを用いた新たな仕様としてドキュメントに記載された<ref>[http://www.winzip.com/aes_info.htm WinZip - AES Encryption Information<!-- Bot generated title -->]</ref>。暗号の標準規格は[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]では無いが、 PKWARE は2001年以降、PKZIP 5.0や6.0では使用されていた強力な暗号化仕様 (SES) を含めるようにAPPNOTE.TXTを更新しなかった。WinZipの[[技術コンサルタント]] Kevin Kearneyや[[StuffIt|スタッフイット]]プロダクトマネージャMathew CovingtonはSESを差し控えるようにPKWAREを非難。これに対し、PKZIPチーフ技術オフィサーのJim Petersonは承認に基づく暗号化規格はまだ完全ではないと主張。しかし、バージョン 4.5の頃(PKWARE の FTP サイトで確認できる)に公開された最新のAPPNOTE.TXTには、SESだけではなく、同時期に存在したPKZIPプロダクトで作成された.ZIPファイルが用いたDeflate64、DCL Implode、BZip2も除外された。
この欠点を克服するために[[PentaZip]]のような同時期に存在したプロダクトは違うファイルフォーマットにZIPアーカイブを暗号化する強力なZIP暗号化を実装した<ref>[http://www.infoworld.com/article/03/06/10/HNzipsplinters_1.html The .zip standard splinters | InfoWorld | News | 2003-06-10 | By Lincoln Spector, PC World.com<!-- Bot generated title -->]</ref>。
また別の議論では、PKWAREは2003年7月16日に安全な.ZIPファイルを作成するために強力な暗号と.ZIPを組み合わせるための方法を記載した特許を適用した<ref>[http://www.infoworld.com/article/03/07/25/HNpkware_1.html PKWare seeks patent for .zip file format | InfoWorld | News | 2003-07-25 | By Robert McMillan, IDG News Service<!-- Bot generated title -->]</ref>。
結局PKWAREとWinZipはお互いのプロダクトをサポートすることに同意した。2004年1月21日にPKWAREはWinZipベースのAES互換フォーマットをサポートするとアナウンスした<ref>[http://www.news.com/2100-1012_3-5145491.html?tag=fd_nbs_ent Software makers patch Zip tiff - CNET News.com<!-- Bot generated title -->]</ref>。WinZipベータの次のバージョンではSESベースのZIPファイルのサポートが行われた<ref>http://www.theregister.co.uk/2004/01/21/zip_file_encryption_compromise_thrashed/</ref>。PKWAREは最終的にSESを記載した.ZIPファイルフォーマット仕様のバージョン 5.2を公式にリリースした。[[フリーソフトウェア]] プロジェクト [[7-Zip]]も(その[[POSIX]] [[移植_(ソフトウェア)|移植された]] [[:en:p7zip|p7zip]] が行うことで)ZIPファイルのAESをサポートしている。
== ソフトにおける固有の拡張子 ==
[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]固有のファイル形式のなかには、あるファイルを一定の[[ディレクトリ]]の[[階層構造]]{{efn2|ルートのみの場合もある。}}に格納しZIP形式で圧縮したものが存在する。そのようなファイルの大半はそのアプリケーション固有の物であることを示すために専用の拡張子を定義しており、以下に示す例はその一部である。ただし、圧縮アルゴリズムにzlibを使っているものでも、ZIP互換の格納方式を使っていないものは掲載しない。
; [[APK (ファイル形式)|apk]]
: [[Android (オペレーティングシステム)|Android]] のアプリケーションアーカイブ
; crx
: [[Google Chrome]]や[[Chromium]]の[[拡張機能]]のアーカイブファイル
; [[Office Open XML|docx, xlsx, pptx]]
: [[Microsoft Office]]([[Microsoft Office 2007|2007]]以降)の文書フォーマット ([[Office Open XML]])
; [[EPUB|epub]]
: [[IDPF]]が提唱する[[電子書籍]]の標準フォーマット
;[[IPA (ファイルフォーマット)|ipa]]
: [[iPhone]]シリーズをはじめとした[[iOS]]搭載デバイス向けのアプリケーションアーカイブ
; ipg
: [[iPod]]ゲームのアーカイブファイル
; [[jar]]
: [[Java]]のアーカイブファイル
; kmz
: [[Google Earth]]の標準ファイル形式。[[kml]]をZIP圧縮したもの。
; nar
: [[伺か]]のINSTALL/1.x仕様に準拠したアーカイブファイル
; [[OpenDocument|odt, ods, odp, odb, odg, odf]]
: [[OpenDocument]]の文書フォーマット
; smzip
: [[StepMania]]の各種の自動インストール型パッケージファイル
; wgt
: [[W3C Packaged Web Apps]] (W3C Widgets) のパッケージファイル。[[Bada]] widget、[[Tizen]] Web application、[[Opera]] widget など。
; wsz
: [[Winamp]]用のスキンファイル
; wmz
: [[Windows Media Player]]用のスキンファイル
; xpi
: [[Mozilla Firefox]](及びそれをベースとする[[Netscapeシリーズ]]のウェブブラウザなど)や[[Mozilla Thunderbird]]などの[[拡張機能 (Mozilla)|拡張機能]](アドオン)のインストーラファイル ([[XPInstall]])
; 3mf
: [[3Dプリンター]]向けの3Dファイル
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{columns-list|3|
*[[:en:PKZIP|PKZIP]]
*[[:en:List of archive formats|アーカイブフォーマットのリスト]]
*[[Lempel–Ziv–Welch]] (LZW)
*[[:en:Comparison of file archivers|ファイルアーカイバの比較]]
* [[WinZip]]
* [[Deflate|DEFLATE]]
* [[Implode]]
* [[Bzip2]]
* [[7-Zip]]
* [[PeaZip]]
* [[Info-ZIP]]
* [[LHA]]
* [[CAB]]
* [[DGCA]]
* [[GCA]]
* [[RAR]]
* [[ZIPボム]]
* [[tar]]
}}
== 外部リンク ==
* {{IETF RFC|1950}} (zlib)
* {{IETF RFC|1951}} (Deflate)
*[http://www.bbsdocumentary.com/library/CONTROVERSY/LAWSUITS/SEA/judgment.txt Judgment in favor of SEA in ''SEA v. PKWARE and Phil Katz'']
*[https://pkware.cachefly.net/webdocs/casestudies/APPNOTE.TXT Current file format specification from PKWARE (including many recent features that are not widely supported)]
*[http://rlwpx.free.fr/WPFF/comploc.htm Comparison of the performances of various methods of data compression (french)]
*[http://www.dlugosz.com/ZIP2/index.html ZIP2 file format specification]
*[https://research.swtch.com/zip Zip Files All The Way Down]
*[https://alf.nu/ZipQuine ZIP File Quine]
*[https://www.mindprod.com/jgloss/zip.html#GOTCHAS Limitations of <tt>java.util.zip</tt>]
<!-- 66.8.201.152さんほか ここにBetterZipを追加しようと思った方へ
[[利用者‐会話:Masao#"宣伝"とされた記述について]]にある理由により当該書き込みは宣伝とみなされています。
なにか問題がありましたらこのページのノート、上記リンク先、もしくは私の会話ページでどうぞ。[[利用者:S.A Studio|S.A Studio]] 2006年9月20日 (水) 15:07 (UTC)
-->
{{アーカイブファイルフォーマット}}
[[Category:データ圧縮規格]]
[[Category:ファイルフォーマット]]
|
2003-09-19T16:45:58Z
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2023-12-14T04:16:38Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ZIP_(%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%88)
|
17,432 |
記号
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記号(きごう、英: sign)とは、それ自身ではなく、それを解釈することによって理解される意味を伝える媒体のことである。身近な例では、交通信号機や交通標識、非常口を示す印(アイコンやピクトグラム)などがある。信号機の青色(緑色)の電球そのものに「進め」の意味はないが、そのルールを解釈することで「進め」の意味が理解される。狭義には、文字やマーク、絵など、意味を付された図形を指すが、広義には表現物、ファッションや様々な行為(およびその結果など)までをも含む。
記号それ自体は、紙の上のインクや造形された物体、空気の振動などでしかないが、人間がこれらを何らかの意味と結び付けることにより、記号として成立する。そして記号は、他の記号と共にまとまった集合体となったり、あるいは相互に作用し合ったりして、何かを指し示す。
19世紀後半から20世紀にかけて、人類は、科学や技術、政治・経済、思想などの面で大きな飛躍を遂げたが、その中で記号の使用は重要な役割を果たした。とりわけ自然科学においては、自然現象を記号化し操作できるようにすることが、新たな認識を深めることにつながった。
これにより、あらゆる認識は記号によってのみ実現するとまで言われた。今日に通じる記号論も同時期に研究が始まった。記号論は言語学の中から出てきたものであるが、単に言語における記号の働きを研究しただけでなく、記号(なお、記号論や記号学でいう「記号」は sign でも symbol でもなく、semiosis である)が人類にもたらす諸作用をも研究対象としていき、哲学における大きな柱の一つとなった。
具体の記号・標識の例としては、次のものがある。
同一の主題を元に類似した作品が多数作成された宗教画などでは、約束事に従って書き込まれたアトリビュートによって作品を読み解く。図像学や図像解釈学は伝統化された絵画や図像の中から記号を読み解く学問である。
アニメや漫画などの評論では登場人物の象徴的なものを記号と呼ぶことがある。また、作品が違ってもキャラクターデザインが似たり寄ったりになる状況を「記号化が進んだ」と言うことがある。1980年代の現代思想ブームの影響を受けた評論家が使うことが多い(大塚英志、岡田斗司夫など)。またアニメ監督や作品などでもこの言葉は使われるようになってきている(谷口悟朗など)。
記号論における記号過程 (semiosis) とは、記号がそれを解釈する人に意味を教えることをいい、記号により指し示されるものを所記 (signified)、指し示す記号を能記 (signifier) と呼ぶ。日本の言語学では伝統的にフェルディナン・ド・ソシュールが用いたフランス語の音訳であるシニフィアンとシニフィエが用いられる場合が多い。
所記はその部体から連想されることをいい、能記は物体が存在している特徴をいう。例えば、りんごで考えると、前者は、果物や企業のApple、後者は赤いがあげられる。
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記号とは、それ自身ではなく、それを解釈することによって理解される意味を伝える媒体のことである。身近な例では、交通信号機や交通標識、非常口を示す印(アイコンやピクトグラム)などがある。信号機の青色(緑色)の電球そのものに「進め」の意味はないが、そのルールを解釈することで「進め」の意味が理解される。狭義には、文字やマーク、絵など、意味を付された図形を指すが、広義には表現物、ファッションや様々な行為(およびその結果など)までをも含む。
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== 概説 ==
記号それ自体は、紙の上の[[インク]]や造形された物体、[[空気]]の振動などでしかないが、[[人間]]がこれらを何らかの意味と結び付けることにより、記号として成立する。そして記号は、他の記号と共にまとまった集合体となったり、あるいは相互に作用し合ったりして、何かを指し示す。
[[19世紀]]後半から[[20世紀]]にかけて、[[人類]]は、[[科学]]や[[技術]]、[[政治]]・[[経済]]、[[思想]]などの面で大きな飛躍を遂げたが、その中で記号の使用は重要な役割を果たした。とりわけ[[自然科学]]においては、自然現象を記号化し操作できるようにすることが、新たな認識を深めることにつながった。
これにより、あらゆる認識は記号によってのみ実現するとまで言われた。今日に通じる[[記号論]]も同時期に[[研究]]が始まった。記号論は[[言語学]]の中から出てきたものであるが、単に[[言語]]における記号の働きを研究しただけでなく、記号(なお、[[記号論]]や'''記号学'''でいう「記号」は sign でも symbol でもなく、semiosis である)が人類にもたらす諸作用をも研究対象としていき、[[哲学]]における大きな柱の一つとなった。
=== 記号の例 ===
具体の記号・標識の例としては、次のものがある。
* [[数学記号]]
* [[論理記号]]
* [[単位記号]]
* [[地図記号]]
* [[国際単位系#量記号と単位記号|量記号]]
* [[道路標識]]
* [[鉄道標識]]
* [[安全標識]]
=== 図像・アニメ・漫画などでの記号 ===
同一の主題を元に類似した作品が多数作成された宗教画などでは、約束事に従って書き込まれた[[アトリビュート]]によって作品を読み解く。[[図像学]]や[[図像解釈学]]は伝統化された絵画や図像の中から記号を読み解く学問である<ref name="Nagata">ジョシュア・モストウ;島尾新、彬子女王、亀田和子(編)「図像と写し」『写しの力:創造と継承のマトリクス』 思文閣出版 2013 ISBN 9784784217113 pp.113-116.</ref>。
[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[漫画]]などの[[評論]]では登場人物の象徴的なものを記号と呼ぶことがある。また、作品が違っても[[キャラクターデザイン]]が似たり寄ったりになる状況を「記号化が進んだ」と言うことがある。[[1980年代]]の[[現代思想]]ブームの影響を受けた[[評論家]]が使うことが多い([[大塚英志]]、[[岡田斗司夫]]など)。またアニメ監督や作品などでもこの言葉は使われるようになってきている([[谷口悟朗]]など)。
=== 記号論における記号 ===
記号論における'''記号過程''' (semiosis) とは、記号がそれを解釈する人に意味を教えることをいい、記号により指し示されるものを'''所記''' (signified)、指し示す記号を'''能記''' (signifier) と呼ぶ。日本の言語学では伝統的に[[フェルディナン・ド・ソシュール]]が用いたフランス語の音訳である[[シニフィアンとシニフィエ]]が用いられる場合が多い。
'''所記'''はその部体から連想されることをいい、'''能記'''は物体が存在している特徴をいう。例えば、[[リンゴ|りんご]]で考えると、前者は、[[果物]]や企業の[[Apple]]、後者は赤いがあげられる。
{{see also|データベース消費}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|記号}}
* [[シンボル]]
* [[記号学]]
* [[数理論理学|記号論理学]]
* [[地図記号]]
* [[約物]]
* [[数学記号の表]]
* [[アイコン]] - [[絵文字]] - [[ピクトグラム]]
* [[空 (仏教)]]
== 外部リンク ==
* [http://link.ww3.jp/tool/kigou/ 特殊記号一覧表]
{{Normdaten}}
{{Philos-stub}}
{{Language-stub}}
{{Manga-stub}}
{{DEFAULTSORT:きこう}}
[[Category:記号|*]]
[[Category:記号学|*]]
[[Category:情報]]
[[Category:コミュニケーション]]
[[Category:コミュニケーション学]]
[[Category:チャールズ・サンダース・パース]]
[[Category:表記]]
[[Category:漫画・アニメの表現]]
[[Category:和製漢語]]
[[Category:哲学の和製漢語]]
[[ast:Signu clínicu]]
[[ca:Signe clínic]]
[[cs:Klinický příznak]]
[[en:Sign (semiotics)]]
[[es:Signo clínico]]
[[fr:Signe clinique]]
[[io:Medikala signo]]
[[it:Segno (medicina)]]
[[no:Sykdomstegn]]
[[pt:Sinal (saúde)]]
[[sr:Знаци болести]]
[[sv:Fynd (diagnostik)]]
[[th:อาการแสดง]]
|
2003-09-19T17:02:06Z
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2023-12-22T09:37:40Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E5%8F%B7
|
17,433 |
7z
|
7z(セブンゼット)とは、コンピュータで使用するデータ圧縮形式およびファイルフォーマットである。
7z形式ではZIP形式に比べ高圧縮のファイルが作成できるほか、様々な圧縮アルゴリズムを組み合わせて使うことができる。 また、Unicodeで全てのデータを格納しているため文字体系の違う名前のファイルを混在させることができる。
2010年3月現在、7z形式に対応している主なファイル・アーカイバは次の通り。
完全対応(圧縮および伸張)
対応(伸張のみ)
|
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"text": "対応(伸張のみ)",
"title": "対応ソフト"
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] |
7z(セブンゼット)とは、コンピュータで使用するデータ圧縮形式およびファイルフォーマットである。
|
{{Infobox file format
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| mime = <code>application/x-7z-compressed</code>
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| latest release version =
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| genre = [[データ圧縮]]
| container for =
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| extended to =
| standard =
| url = {{URL|https://www.7-zip.org/7z.html}}
}}
'''7z'''(セブンゼット<ref>日本での発音。</ref>)とは、[[コンピュータ]]で使用する[[データ圧縮]]形式および[[ファイルフォーマット]]である。
== 概要 ==
7z形式では[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]形式に比べ高圧縮のファイルが作成できるほか、様々な圧縮[[アルゴリズム]]を組み合わせて使うことができる。
また、[[Unicode]]で全てのデータを格納しているため[[文字#文字体系と表記体系|文字体系]]の違う名前のファイルを混在させることができる。
== 特徴 ==
* [[オープンアーキテクチャ | オープン・アーキテクチャ]]
* 高い圧縮率
* [[Advanced Encryption Standard|AES-256]]による強力な[[暗号化]]機能
<!--* どんな圧縮及び変換方式にも対応可能-->
* 16 [[エクスビバイト|EiB]] (2<sup>64</sup>バイト) までのファイルサイズに対応
* ファイル名に[[Unicode]]を使用可能
* [[ソリッド圧縮]]が可能
* 書庫のヘッダ圧縮が可能
== 対応アルゴリズム ==
* [[Lempel-Ziv-Markov chain-Algorithm]] (LZMA) - 7zの標準
* [[Lempel-Ziv-Markov chain-Algorithm|LZMA2]] - LZMAの改良版
* [[Deflate]] - [[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]形式等で用いられる圧縮アルゴリズム
* [[Prediction_by_Partial_Matching#PPMd|PPMd]] - Dmitry ShkarinのPPMdHを改良したもの
* [[BCJ (ファイルフォーマット)|BCJ]] - 32ビットx86実行ファイル向けのコンバーター
* [[BCJ2]] - 32ビットx86実行ファイル向けのコンバーター
* [[BZIP2]] - BWT([[ブロックソート]])アルゴリズム
== 対応ソフト ==
2010年3月現在、7z形式に対応している主なファイル・アーカイバは次の通り。
'''完全対応'''(圧縮および伸張)
* [[7-Zip]] (p7zip)
* [[Ark (コンピュータ)|Ark]](p7zip の[[フロントエンド]]として動作)
* [[Explzh]](※7-ZIP32.DLL の導入により対応)
* IZArc(※超圧縮およびソリッド圧縮は非対応)
* [[PeaZip]]
* Squeez
* [[TUGZip]]
* Lhaz([https://chitora.com/lhaz.html ちとらソフト])
'''対応'''(伸張のみ)
* [[Microsoft Windows 11|Windows 11]]<ref>{{Cite web |url=https://blogs.windows.com/windows-insider/2023/06/29/announcing-windows-11-insider-preview-build-23493/ |title=Announcing Windows 11 Insider Preview Build 23493 |publisher=Windows Insider Blog |accessdate=2023-06-29}}</ref>
* [[ESTsoft#ALTools|ALZip]](無償版はユーザーのデータ収集及び使用をすると使用許諾書に記載されている)
* [[WinRAR]]
* [[WinZip]]
* [[Lhaplus]]
== 関連項目 ==
*[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]
*[[LHA]]
*[[CAB]]
*[[DGCA]]
*[[GCA]]
*[[RAR]]
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* {{Official website}} {{en icon}}
* {{Official website|https://sevenzip.osdn.jp/7z.html}} {{ja icon}}
{{アーカイブファイルフォーマット}}
[[Category:データ圧縮規格]]
[[Category:ファイルフォーマット]]
[[Category:ロシアの発明]]
|
2003-09-19T17:03:23Z
|
2023-11-05T06:31:32Z
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[
"Template:Infobox file format",
"Template:Cite web",
"Template:Official website",
"Template:En icon",
"Template:Ja icon",
"Template:アーカイブファイルフォーマット"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/7z
|
17,438 |
海軍記念日
|
海軍記念日(かいぐんきねんび)は、海軍を祝う記念日。
日本では、第二次世界大戦以前に5月27日を海軍記念日としていた。1905年(明治38年)5月27日に行われた日本海海戦を記念して制定された。1945年(昭和20年)を最後に、日本の太平洋戦争敗戦により廃止された。
日露戦争は、日本が欧州の大国ロシアに勝利を収めた。その中でも、ヨーロッパ・バルト海から回航された強力なバルチック艦隊(ロシア名:第2・第3太平洋艦隊)を迎え撃ち、これを撃滅した日本海海戦(ロシア名:ツシマ海戦)は、陸上での奉天会戦の勝利(3月10日の陸軍記念日)と並んで日本国民が記念すべき日とされ、海軍記念日として祝われた。
現在の海上自衛隊も、この日の前後に基地祭などの祝祭イベントを設けている。主なものに、例年金刀比羅宮で行われる掃海殉職者慰霊祭がある。
また、1952年(昭和27年)4月26日に海上自衛隊の前身である海上警備隊が創設されたことを記念し、「海上自衛隊の歴史と伝統を考える日」として、2013年(平成25年)に4月26日が「海上自衛隊の日」に制定された。
一方で海上保安庁には旧海軍記念日を祝う文化は無い。海上保安庁における祝祭の日は5月12日の海上保安の日、9月12日の水路記念日、11月1日の灯台記念日である。
アメリカ合衆国では、海軍に理解のある大統領であったセオドア・ルーズベルトの誕生日を記念して、1922年に10月27日に制定された。1949年に国防総省の指示により、合衆国海軍は海軍記念日を取りやめ、5月の第3土曜日の軍隊記念日(Armed Forces Day)を祝うようになった。民間団体などは、その後も引き続き海軍記念日の祝賀行事を行っている。
インドでは12月4日。1971年の第三次印パ戦争において、カラチ港爆撃に成功したことにちなむ。
王立オーストラリア海軍では、3月中に行われる。
チリでは、Día de las Glorias Navalesとして、5月21日に祝われる。太平洋戦争におけるイキケの海戦での勝利を記念して制定された。
ロシアでは7月の最終日曜日に祝われる。
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[[Image:Imperial Japanese Navy Commemoration Day in 1944.JPG|thumb|250px|日本の海軍記念日式典(1944年)<br/>頭上にはためく旗は[[朝日新聞]]の社旗]]
[[ファイル:Mon-Mon-Tue-Wed-Thu-Fri-Fri.JPG|thumb|150px|「輝く海軍記念日」[[1942年]]のポスター]]
'''海軍記念日'''(かいぐんきねんび)は、[[海軍]]を祝う[[記念日]]。
== 日本 ==
日本では、[[第二次世界大戦]]以前に[[5月27日]]を海軍記念日としていた。[[1905年]]([[明治]]38年)[[5月27日]]に行われた[[日本海海戦]]を記念して制定された。[[1945年]]([[昭和]]20年)を最後に、日本の[[大東亜戦争|太平洋戦争]]敗戦により廃止された。
[[日露戦争]]は、[[日本]]が欧州の大国[[ロシア]]に勝利を収めた。その中でも、ヨーロッパ・[[バルト海]]から回航された強力な[[バルチック艦隊]](ロシア名:第2・第3太平洋艦隊)を迎え撃ち、これを撃滅した日本海海戦(ロシア名:ツシマ海戦)は、陸上での[[奉天会戦]]の勝利([[3月10日]]の[[陸軍記念日]])と並んで日本国民が記念すべき日とされ、海軍記念日として祝われた。
現在の[[海上自衛隊]]も、この日の前後に基地祭などの祝祭イベントを設けている。主なものに、例年[[金刀比羅宮]]で行われる掃海殉職者慰霊祭がある。
{{Main|海上自衛隊#気風}}また、[[1952年]](昭和27年)[[4月26日]]に海上自衛隊の前身である[[海上警備隊]]が創設されたことを記念し、「海上自衛隊の歴史と伝統を考える日」として、[[2013年]]([[平成]]25年)に4月26日が「海上自衛隊の日」に制定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://zatsuneta.com/archives/104269.html|title=雑学ネタ帳 今日は何の日 海上自衛隊の日(4月26日 記念日)|accessdate=2021年5月26日}}</ref>。
一方で[[海上保安庁]]には旧海軍記念日を祝う文化は無い。海上保安庁における祝祭の日は[[5月12日]]の[[海上保安の日]]、[[9月12日]]の[[水路記念日]]、[[11月1日]]の[[灯台記念日]]である。
== アメリカ合衆国 ==
[[アメリカ合衆国]]では、海軍に理解のある大統領であった[[セオドア・ルーズベルト]]の誕生日を記念して、[[1922年]]に[[10月27日]]に制定された。[[1949年]]に[[国防総省]]の指示により、合衆国海軍は海軍記念日を取りやめ、5月の第3土曜日の軍隊記念日(Armed Forces Day)を祝うようになった。民間団体などは、その後も引き続き海軍記念日の祝賀行事を行っている。
== インド ==
[[インド]]では[[12月4日]]。[[1971年]]の[[第三次印パ戦争]]において、[[カラチ]]港爆撃に成功したことにちなむ。
== オーストラリア ==
王立[[オーストラリア]]海軍では、3月中に行われる。
== チリ ==
[[チリ]]では、Día de las Glorias Navalesとして、[[5月21日]]に祝われる。[[太平洋戦争 (1879年-1884年)|太平洋戦争]]における[[イキケの海戦]]での勝利を記念して制定された。
== ロシア ==
[[ロシア]]では7月の最終日曜日に祝われる。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
*[[日本海海戦記念式典]]
*[[祝祭日#祝祭日一覧|戦前の祝日]](祝祭日)
*[[東郷平八郎]]
*[[軍隊記念日]]
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[[Category:海軍]]
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[[Category:大日本帝国海軍の文化]]
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LHA
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LHAとは、ファイルの圧縮とアーカイブを行うソフトウェアのひとつ。また、圧縮ファイルの形式はその拡張子からLZHと呼ばれる。ここではLZH形式についても述べる。
LHAは、奥村晴彦が考案したアルゴリズムをもとに、吉崎栄泰が実装したもので、1988年にパソコン通信で公開した。
登場当時はLHarc()という名前で、1991年頃に全面的に作り直したのに併せLHAに改称した。当初はLHに改称の予定で、実際にバージョン2.00はLHとして公開したが、MS-DOSバージョン5.0の内部コマンドLOADHIGHの略称LHと被ったためLHAとした。ごく初期には「LHx/LHa」という名称・表記だった。
発音は、初期バージョンではLHAを「ラー」とすると作者による説明があったが、後期バージョンではその説明はない。また、RARとの混同を避けるためにも、「エルエイチエー」「エルハ」等といった発音が大勢である。
LZH形式の圧縮アルゴリズムは、LZSS法で圧縮したデータをさらにハフマン法を用いて圧縮するLZHUFアルゴリズムを用いる。LZHUFは奥村晴彦のLZARI(LZSS + 算術符号)の効率を向上するために吉崎栄泰が考案したものである。
LZSS法ではスライド窓や最大一致長を大きく取るほどに圧縮率の向上が見込めるが、一方でむやみに大きくすると最長一致列の探索に時間がかかり、また多くのメモリも必要になる。このため初期の版ではスライド窓や最大一致長の大きさは小さくとられていたが、探索アルゴリズムの改良やコンピュータの性能向上などにより、次第に大きな値が採用されるようになった。
LZH圧縮形式は大きくlh0、lh1、lh4/5/6/7に分けられる。 圧縮率を高めたlh6/7方式が公開されているが、開発途中ということで同形式を使ったファイルの配布は推奨されていない。
lh0形式は一切の圧縮を行わない。可逆圧縮では圧縮前よりも圧縮後のデータの方がサイズが大きくなる場合があり、lh0形式はそれを避けるために使用される。ユーザーが意図してこの形式を使う場合は、ファイルの破損のチェックに使ったり、複数のファイルをまとめるだけのアーカイバとして利用される。
lh1形式のスライド窓の大きさは4Kバイト、最大一致長は60バイト。文字と一致長は動的ハフマン法で符号化されるが、一致位置はハフマン法を用いずに符号化される。LHarc 1.xではこの形式。
各形式はスライド窓の大きさのみが異なり、それぞれ4K/8K/32K/64Kバイトである。最大一致長は256バイト。
圧縮データの展開速度の向上を目的として、符号化がlh1形式の動的ハフマン法から静的ハフマン法に変更されている。また、一致位置も、文字、一致長とは別にハフマン法で符号化される。
「MacLHA」(旧MacLHarc)はMacintosh(Mac OS)のファイルシステム上のファイルを、LHA形式で圧縮するフリーソフトとして、石崎一明によって開発され配布されたフリーウェア。当時一般的であった他のアーカイバ(StuffItおよびCompact Pro)はシェアウェアであったり、クロスプラットフォームでなかったりしたため、国内では広く使われた。基本圧縮アルゴリズムはMS-DOS用のLHAと同じだが、Mac OSのファイルシステムで使用されるリソースフォークを含んだ状態で圧縮する為にMacBinary形式にエンコードするという機能が加えられている。このため、MacLHAの圧縮ファイルはMS-DOSやWindows上のLHA及び互換ソフトでは正常に展開する事ができない。また、ソフトウェア次第ではMacで解凍してもMacBinary形式のファイルが出てくるという事態も起こる。実際、StuffIt Expanderで解凍を行った場合はMacBinaryをデコードしないため混乱したユーザは多い。この場合、出てきたファイルを再度StuffIt Expanderに通せばMacBinaryがデコードされる。
この回避策としてMacBinaryに変換せずに圧縮するオプションが付随しているが、この方法で圧縮した場合、逆に解凍時にMac OS (Classic Mac OS) ではファイル識別が出来ない状態になる。それが実行ファイルであった場合、正常に起動できなくなる場合もある。これを防ぐため、バージョンによっては、このオプションを有効にしてリソースフォークを含むファイルを追加しようとすると、MacBinaryで保存するか、データフォークのみ保存するか(リソースフォークとFinder情報は失われる)、処理を中止するかの選択を促すダイアログが表示される。
LHAとLZH形式は、1988年の登場以来、パソコン通信やフロッピーディスクでのデータやり取りが主流の時代に重宝されて、MS-DOSのみならず各種のOSに移植されて発展を続けた。ZIP形式アーカイブを作成するためのPKZIPが有料のシェアウェア(展開用のPKUNZIPはフリーソフトウェアであった)だったこともあり、日本国内はもとより海外でも広く使われるようになった。例えば、id Softwareの初期のゲームであるDOOMとQuakeのインストーラの圧縮形式として採用されている。1990年代にハードディスクやインターネットが広く普及する時代となっても、日本国内では事実上のデータ圧縮の標準的な形式として浸透していた。海外でLHAが標準的な圧縮形式として普及したケースとしてはAmigaがある。
MS-DOSの後継OSであるWindowsへの対応としては、1995年にNIFTY-Serve上でバージョン3.0に向けたテスト版の位置づけでバージョン2.67が公開された。しかし作者である吉崎栄泰の本業(医師)が忙しくなったためなのか、これを最後に新バージョンは公開されておらず、LHAならびにLZH形式の開発は中断している。このためWindowsでは、すでに公開されているソースコードや仕様を元に他の人物が開発したアプリケーション(unlha32.dll、Lhaplus、Lhasa、+Lhacaなど)によってLZH形式の圧縮・展開が行われた。バージョン2.67はEXE形式として提供されたが、正式バージョンである3.0ではエンジン部分のみをDLLとして提供する構想だった。結果的にその役割はMicco作のUnlha32.dllが担うことになる。
21世紀に入った頃からは、他の形式の方が圧縮率で上回ることが多くなった他、ファイル名にUnicodeが含まれたデータを扱えないこと、暗号化機能がないなど不便さが目立ち、またZIP形式の圧縮復元機能がMac OS XやWindows MeおよびWindows XP以降に内蔵されたことにより、ZIPがデファクトスタンダードとなった。
ただし、LZHアーカイブを展開する需要は、既存のアーカイブ(特に日本産オンラインソフトウェア)の展開など依然存在している。このためWindows XPの「Webサービスを使用して適切なプログラムを探す」機能では、LZHによるものが常に最多だったという。それを受けてマイクロソフト社はLZH展開アドオン「Microsoft 圧縮 (LZH 形式) フォルダ」(Windows XPおよびWindows Server 2003用)を正式に配布し、日本語版のWindows 7ではZIP形式と同様に「圧縮フォルダ」として利用できるようになった。ただし、いずれもLZH形式での圧縮機能は搭載されておらず、圧縮には別途ソフトが必要となる。また、WinRAR、PeaZip、7-Zipなどの海外製のアーカイブツールでもLZHに対しては解凍のみ対応している場合が多い。
日本では、アーカイブから中のファイルを取り出したり、圧縮データを展開(伸張)すること(たいていの人が識別できず、混同している)を「解凍」と呼ぶことが多いが、これはLHAのマニュアルを通して広まった、という面がある(当時のパソコン通信に参加した人数はそれほど多くなかったが、LHAはフリーソフト等を使うために必須のツールとなったため、雑誌の付録ディスクなどを通して、多くの人が入手したツールとなったことから。アーカイブへの格納(同時に圧縮するかもしれない)は「凍結」と呼んでいる。なお、英語メッセージも同様に、meltとfreezeとなっている)。LHAの開発にも関わっている奥村晴彦によればこの意味の「解凍」という表現自体は、LHAより古くからパソコン通信で広く使われていた。
対応ツールの1つであるUnlha32.dllの作者は、アンチウイルスソフトの多くが一部のLZHアーカイブ(新しい圧縮形式、巨大な拡張ヘッダー、多数の拡張ヘッダーのいくつか)を正しく検疫できないことを2006年に発見し、情報処理推進機構や各セキュリティベンダーに報告した。しかしZIPやCABといった他の形式では同様のケースに対応しているのにLZHについては4年後の2010年になっても対応が進まないことから、6月5日にLZH形式の利用を控えるよう呼びかけを行っている。
これを受けて、ベクターがLZH形式での新規受付を中止している。
この問題はLHAおよびLZH形式そのものの脆弱性ではない(問題点はアンチウイルスソフトが対応しない点である)ものの、LZH形式に含まれるマルウェアをアンチウイルスソフトが検出できないケースが存在するため、注意が必要となる。
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LHAとは、ファイルの圧縮とアーカイブを行うソフトウェアのひとつ。また、圧縮ファイルの形式はその拡張子からLZHと呼ばれる。ここではLZH形式についても述べる。
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{{Otheruses}}
{{Infobox Software
| 名称 = LHA
| ロゴ =
| スクリーンショット = File:LHarc usage message in Japanese.jpg
| 説明文 = MS-DOS上で動作するLHarc
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| 開発元 =
| 初版 =
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}}
{{Infobox Software
| 名称 = LHA32
| ロゴ =
| スクリーンショット =
| 説明文 =
| 開発者 = [[吉崎栄泰]]
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| 初版 =
| 最新版 = 正式バージョンは未公開
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| 最新評価版 = 2.67
| 最新評価版発表日 ={{Start date and age|1995|10|8|br=yes}}
| プログラミング言語 = [[アセンブラ]]([[x86]])、[[C言語]]
| 対応OS = [[Microsoft Windows]]
| エンジン =
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| 対応言語 =
| サポート状況 =
| 種別 = [[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイバ]]
| ライセンス = [[フリーウェア]]
| 公式サイト =
}}
{{Infobox file format
| name = LZH
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'''LHA'''とは、[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]の圧縮と[[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイブ]]を行う[[ソフトウェア]]のひとつ。また、圧縮ファイルの形式はその拡張子から'''LZH'''と呼ばれる<ref>{{Cite web|url=http://e-words.jp/w/LHA.html|title=e-Words : LHA|accessdate=2021-04-02|publisher=インセプト|website=情報・通信事典 e-Words|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021217020537/http://e-words.jp/w/LHA.html|archivedate=2002-11-28}}</ref>。ここではLZH形式についても述べる。
== プログラム ==
LHAは、[[奥村晴彦]]が考案した[[アルゴリズム]]をもとに、[[吉崎栄泰]]が実装したもので、1988年に[[パソコン通信]]で公開した。
登場当時は{{読み仮名|'''LHarc'''|エルエイチアーク}}という名前で<ref>{{Cite journal|和書|year=1991|title=フリーソフトウェアの世界|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=15|issue=3|page=306|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|ISSN=0386-5428}}</ref>、1991年頃に全面的に作り直したのに併せ'''LHA'''に改称した。当初はLHに改称の予定で、実際にバージョン2.00はLHとして公開したが、[[MS-DOS]]バージョン5.0の内部コマンドLOADHIGHの略称LHと被ったため'''LHA'''とした。ごく初期には「LHx/LHa」という名称・表記だった。
発音は、初期バージョンではLHAを「'''ラー'''」とすると作者による説明があったが{{要出典|date=2021年4月}}、後期バージョンではその説明はない。また、[[RAR]]との混同を避けるためにも{{要出典|date=2021年4月}}、「エルエイチエー」「エルハ」等といった発音が<!--ここを「ユーザが」等とすると、「大勢」が「たいせい」ではなく「おおぜい」になって「おおぜいである」となるが、それではおかしいはず-->大勢である<ref>{{Cite web|url=http://www.nttpc.co.jp/yougo/lzh.html|title=【lzh】|accessdate=2021-04-02|publisher=[[NTTPCコミュニケーションズ]]|website=用語解説辞典|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120418224238/http://www.nttpc.co.jp/yougo/lzh.html|archivedate=2012-04-18}}</ref>。
== フォーマット ==
LZH形式の圧縮アルゴリズムは、[[Lempel–Ziv–Storer–Szymanski|LZSS]]法で圧縮したデータをさらに[[ハフマン符号|ハフマン法]]を用いて圧縮するLZHUFアルゴリズムを用いる。LZHUFは奥村晴彦の[[奥村晴彦#LZARI法|LZARI]](LZSS + [[算術符号]])の効率を向上するために吉崎栄泰が考案したものである。<!--なお、拡張子が“.lzh”であるためよくLZHアルゴリズムと混同されるが、全くの別物である。--><!-- ←どうやらこれ書いた編集者自身がSLHのことを間違えて覚え込んでいる?(参: https://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/2220 ) -->
LZSS法ではスライド窓や最大一致長を大きく取るほどに圧縮率の向上が見込めるが、一方でむやみに大きくすると最長一致列の探索に時間がかかり、また多くのメモリも必要になる。このため初期の版ではスライド窓や最大一致長の大きさは小さくとられていたが、探索アルゴリズムの改良や[[コンピュータ]]の性能向上などにより、次第に大きな値が採用されるようになった。
LZH圧縮形式は大きくlh0、lh1、lh4/5/6/7に分けられる。
[[圧縮率]]を高めたlh6/7方式が公開されているが、開発途中ということで同形式を使ったファイルの配布は推奨されていない。
=== lh0形式 ===
lh0形式は一切の圧縮を行わない。[[可逆圧縮]]では圧縮前よりも圧縮後のデータの方がサイズが大きくなる場合があり、lh0形式はそれを避けるために使用される。ユーザーが意図してこの形式を使う場合は、ファイルの破損のチェックに使ったり{{efn2|CRC値のみでハッシュ値でのチェックは無いため、意図的な改竄は検出できず、破損の検出以上のチェックには使えない。}}、複数のファイルをまとめるだけの[[アーカイブ_(コンピュータ)|アーカイバ]]として利用される。
=== lh1形式 ===
lh1形式のスライド窓の大きさは4Kバイト、最大一致長は60バイト。文字と一致長は動的ハフマン法で符号化されるが、一致位置はハフマン法を用いずに符号化される。LHarc 1.xではこの形式。
=== lh4/5/6/7形式 ===
各形式はスライド窓の大きさのみが異なり、それぞれ4K/8K/32K/64Kバイトである。最大一致長は256バイト。
圧縮データの展開速度の向上を目的として、符号化がlh1形式の動的ハフマン法から静的ハフマン法に変更されている。また、一致位置も、文字、一致長とは別にハフマン法で符号化される。
=== MacLHA形式 ===
「'''MacLHA'''」(旧MacLHarc)は[[Macintosh]]([[Mac OS]])のファイルシステム上のファイルを、LHA形式で圧縮するフリーソフトとして、石崎一明によって開発され配布された[[フリーウェア]]。当時一般的であった他のアーカイバ([[StuffIt]]および[[Compact Pro]])はシェアウェアであったり、クロスプラットフォームでなかったりしたため、国内では広く使われた。基本圧縮アルゴリズムはMS-DOS用のLHAと同じだが、Mac OSのファイルシステムで使用される[[リソースフォーク]]を含んだ状態で圧縮する為に[[Macバイナリ|MacBinary]]形式にエンコードするという機能が加えられている。このため、MacLHAの圧縮ファイルはMS-DOSや[[Microsoft Windows|Windows]]上のLHA及び互換ソフトでは正常に展開する事ができない。また、ソフトウェア次第ではMacで解凍してもMacBinary形式のファイルが出てくるという事態も起こる。実際、[[StuffIt|StuffIt Expander]]で解凍を行った場合はMacBinaryをデコードしないため混乱したユーザは多い。この場合、出てきたファイルを再度StuffIt Expanderに通せばMacBinaryがデコードされる。
この回避策としてMacBinaryに変換せずに圧縮するオプションが付随しているが、この方法で圧縮した場合、逆に解凍時に[[Mac OS]] (Classic Mac OS) ではファイル識別が出来ない状態になる。それが実行ファイルであった場合、正常に起動できなくなる場合もある。これを防ぐため、バージョンによっては、このオプションを有効にしてリソースフォークを含むファイルを追加しようとすると、MacBinaryで保存するか、データフォークのみ保存するか(リソースフォークと[[Finder情報]]は失われる)、処理を中止するかの選択を促すダイアログが表示される。
== 経緯 ==
{{出典の明記|date=2016年7月|section=1}}
=== MS-DOS時代 ===
LHAとLZH形式は、1988年の登場以来、[[パソコン通信]]や[[フロッピーディスク]]での[[データ]]やり取りが主流の時代に重宝されて、MS-DOSのみならず各種のOSに移植されて発展を続けた。[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]形式アーカイブを作成するためのPKZIPが有料の[[シェアウェア]](展開用のPKUNZIPは[[フリーソフトウェア]]であった)だったこともあり、[[日本]]国内はもとより海外でも広く使われるようになった。例えば、[[id Software]]の初期のゲームである[[DOOM]]と[[Quake]]のインストーラの圧縮形式として採用されている。[[1990年代]]に[[ハードディスク]]や[[インターネット]]が広く普及する時代となっても、[[日本]]国内では事実上のデータ圧縮の標準的な形式として浸透していた。海外でLHAが標準的な圧縮形式として普及したケースとしては[[Amiga]]がある。
=== Windows 時代===
MS-DOSの後継OSであるWindowsへの対応としては、1995年に[[NIFTY-Serve]]上でバージョン3.0に向けたテスト版の位置づけでバージョン2.67が公開された。しかし作者である[[吉崎栄泰]]の本業(医師)が忙しくなった<ref name="LHAWORLD">[https://web.archive.org/web/19990506162851/www.clione.ne.jp/lha/lha4.html 吉崎栄泰のLHAワールド - LHAの今とこれから] - [[インターネットアーカイブ]]の1999年5月8日付のキャッシュ</ref>ためなのか、これを最後に新バージョンは公開されておらず、LHAならびにLZH形式の開発は中断している。このためWindowsでは、すでに公開されているソースコードや仕様を元に他の人物が開発したアプリケーション(unlha32.dll、[[Lhaplus]]、[[Lhasa]]、[[+Lhaca]]など)によってLZH形式の圧縮・展開が行われた。バージョン2.67は[[EXEフォーマット|EXE形式]]として提供されたが、正式バージョンである3.0ではエンジン部分のみを[[DLL]]として提供する構想<ref name="LHAWORLD"></ref><ref>バージョン2.67付属ドキュメント</ref>だった。結果的にその役割はMicco作のUnlha32.dllが担うことになる。
21世紀に入った頃からは、他の形式の方が圧縮率で上回ることが多くなった他、[[ファイル名]]に[[Unicode]]が含まれたデータを扱えないこと、[[暗号化]]機能がないなど不便さが目立ち、またZIP形式の圧縮復元機能が[[macOS|Mac OS X]]や[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Me]]および[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]以降に内蔵されたことにより、ZIPが[[デファクトスタンダード]]となった{{efn2|両者ではファイル名のエンコードが異なり、macOSの機能([[UTF-8]]でエンコード)で作成したアーカイブをWindowsの機能([[Microsoftコードページ932]]でエンコード)で復元すると、ファイル名によっては文字化けする。内容には影響しない。Windows → macOSでは問題ない。}}。
ただし、LZHアーカイブを展開する需要は、既存のアーカイブ(特に日本産[[オンラインソフトウェア]])の展開など依然存在している。このためWindows XPの「Webサービスを使用して適切なプログラムを探す」機能では、LZHによるものが常に最多だったという<ref>{{Cite web|和書|author=三柳英樹|date=2005-04-07|url=https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2005/04/07/7180.html|title=マイクロソフト、Windows XPの正規ユーザー特典としてLZH形式対応を提供|work=INTERNET Watch|publisher=Impress Watch|accessdate=2009-04-07}}</ref>。それを受けて[[マイクロソフト]]社はLZH展開アドオン「[[Microsoft 圧縮 (LZH 形式) フォルダ]]」(Windows XPおよび[[Microsoft Windows Server 2003|Windows Server 2003]]用)を正式に配布し<ref>{{Cite web|和書|date=2005-04-07|url=http://www.microsoft.com/japan/presspass/detail.aspx?newsid=2250|title=「圧縮(LZH 形式)フォルダ」をWindows(R) XPの追加機能として4月28日(木)より提供開始|publisher=マイクロソフト|accessdate=2009-04-07}}</ref>、日本語版の[[Windows 7]]ではZIP形式と同様に「圧縮フォルダ」として利用できるようになった。ただし、いずれもLZH形式での圧縮機能は搭載されておらず、圧縮には別途ソフトが必要となる。また、[[WinRAR]]、[[PeaZip]]、[[7-Zip]]などの海外製のアーカイブツールでもLZHに対しては解凍のみ対応している場合が多い。
=== エピソード ===
日本では、アーカイブから中のファイルを取り出したり、圧縮データを展開(伸張)すること(たいていの人が識別できず、混同している)を「解凍」と呼ぶことが多いが、これはLHAのマニュアルを通して広まった、という面がある(当時のパソコン通信に参加した人数はそれほど多くなかったが、LHAはフリーソフト等を使うために必須のツールとなったため、雑誌の付録ディスクなどを通して、多くの人が入手したツールとなったことから。アーカイブへの格納(同時に圧縮するかもしれない{{efn2|全く圧縮できない場合など、lh0形式で格納する場合は圧縮しない。}})は「凍結」と呼んでいる。なお、英語メッセージも同様に、meltとfreezeとなっている)。LHAの開発にも関わっている[[奥村晴彦]]によれば<ref>[https://twitter.com/h_okumura/status/818784959280205824 Haruhiko, Okumura. (@h_okumura). "「解凍」はLHAより古くからパソコン通信で広く使われていました https://t.co/Ln2jA65uvf " 2017年1月9日, 20:42 (JST). Tweet.]</ref>この意味の「解凍」という表現自体は、LHAより古くからパソコン通信で広く使われていた。<!--また、LZHの「アーカイブ」は「書庫」と和訳される。これはLHA/LHarc以前のアーカイバLArc(奥村晴彦・三木和彦・益山健 作。前述のLZARIを採用、圧縮形式lzs/lz4/lz5、拡張子.lzs)がファイルを「本」、アーカイブを「書庫」になぞらえたことに倣っている。--><!-- "archive" が「書庫」であるのは、日英対訳として全く一般的であり、何ら特筆事項でない。「凍結」「解凍」という表現が、格納・取出し、及び、圧縮・伸長を指す語としては特殊であることがエピソードなのである-->
== LZH形式の使用中止の呼びかけ ==
対応ツールの1つであるUnlha32.dllの作者は、[[アンチウイルスソフトウェア|アンチウイルスソフト]]の多くが一部のLZHアーカイブ(新しい圧縮形式、巨大な拡張ヘッダー、多数の拡張ヘッダーのいくつか)を正しく検疫できないことを2006年に発見し<ref>[http://micco.mars.jp/notes/headerBOF.htm MHVI#20061019:LZH 書庫のヘッダー処理における脆弱性について]</ref>、[[情報処理推進機構]]や各セキュリティベンダーに報告した。しかしZIPや[[CAB]]といった他の形式では同様のケースに対応しているのにLZHについては4年後の[[2010年]]になっても対応が進まない<ref>[http://micco.mars.jp/vul/2010/mhvi20100425.htm MHVI#20100425:LZH 書庫のヘッダー処理における脆弱性について (2010 年版)]</ref>ことから、[[6月5日]]にLZH形式の利用を控えるよう呼びかけを行っている<ref name="lha-impress">{{Cite web|和書|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/372729.html |title=圧縮・解凍用DLL「UNLHA32.DLL」が開発中止、作者はLZHの利用中止を呼びかけ |accessdate=2017-10-17 |author=柳英俊 |date=2010-06-07 |publisher=[[インプレス]]}}</ref>。
これを受けて、[[ベクター (企業)|ベクター]]がLZH形式での新規受付を中止している<ref>[http://www.vector.co.jp/for_authors/upload/warn_lzh.html LZH形式でファイルをご登録いただいている作者のみなさまへ] - ベクター 2010年6月9日</ref>。
この問題はLHAおよびLZH形式そのものの脆弱性ではない(問題点はアンチウイルスソフトが対応しない点である)ものの、LZH形式に含まれる[[マルウェア]]をアンチウイルスソフトが検出できないケースが存在するため、注意が必要となる<ref name="lha-impress"/>。
日本語版[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]から標準搭載されるようになったLZHの展開機能は引き続き[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]にも標準搭載されたが、[[2017年]][[4月]]にリリースされたWindows 10 Creators Update以降、この機能は削除されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{columns-list|3|
* [[7z]]
* [[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]
* [[CAB]]
* [[DGCA]]
* [[GCA]]
* [[RAR]]
* [[データ圧縮]]
* [[ハフマン符号]]
}}
== 参考文献 ==
* 奥村晴彦・吉崎栄泰「圧縮アルゴリズム入門」『C MAGAZINE』1991年1月号、ソフトバンク、44-68頁、1991年。
== 外部リンク ==
* [https://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/compression/oldstory.html データ圧縮の昔話](奥村晴彦のページでLHA開発の経緯や当時のパソコン通信におけるやりとりを読むことができる)
* [https://www.madobe.net/archiver/index.html 統合アーカイバプロジェクト]
* [https://micco.mars.jp/micindex.html Micco's HomePage](UNLHA32.DLL作者 "Micco" のウェブページ)
* {{リンク切れ|date=2012年2月}} [http://go.microsoft.com/fwlink/?LinkId=41654 Windows XP用 LZH形式圧縮フォルダ](リンク切れ)
** 上記と同じものと思われる拡張機能は[https://support.microsoft.com/ja-jp/help/896133 サポート文書番号896133]「Microsoft 圧縮 (LZH 形式) フォルダの使い方」として継続掲載。 (2013年2月15日閲覧)<!--なお、WGAが必須か否かに関してはWindows 8でダウンロードを試行したため不明。-->
* [https://ja.osdn.net/projects/lha/ LHa for UNIX] ([[SourceForge]].JP プロジェクトページ)
* [https://fragglet.github.io/lhasa/ lhasa]
以下は吉崎栄泰作のLHAダウンロードページ
* [https://www.vector.co.jp/soft/dos/util/se002413.html LHA ver2.55]
* [https://www.vector.co.jp/soft/win95/util/se347175.html LHA32 ver 2.67]
* [https://www.vector.co.jp/soft/dos/util/se002340.html LHAソースファイル集]
{{アーカイブファイルフォーマット}}
{{データ圧縮}}
{{DEFAULTSORT:LHA}}
[[Category:フリーウェア]]
[[Category:解凍ソフト]]
[[Category:データ圧縮規格]]
[[Category:1988年のソフトウェア]]
[[Category:ユーティリティソフトウェア]]
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撥弦楽器
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撥弦楽器(はつげんがっき)とは、何らかの方法で弦をはじく(撥)ことによって音を出す楽器(弦楽器)の総称である。共鳴胴を利用して音を増幅させる構造の物が多い。ギターのように抱えて演奏するものや、琴のように置いた状態で演奏するものなどがあり、それぞれが地域によって改良・発展をしているためにバリエーションは多い。広義においては、鍵盤楽器であるチェンバロ等も含まれる。
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撥弦楽器(はつげんがっき)とは、何らかの方法で弦をはじく(撥)ことによって音を出す楽器(弦楽器)の総称である。共鳴胴を利用して音を増幅させる構造の物が多い。ギターのように抱えて演奏するものや、琴のように置いた状態で演奏するものなどがあり、それぞれが地域によって改良・発展をしているためにバリエーションは多い。広義においては、鍵盤楽器であるチェンバロ等も含まれる。
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'''撥弦楽器'''(はつげんがっき)とは、何らかの方法で[[弦 (楽器)|弦]]をはじく(撥)ことによって音を出す[[楽器]]([[弦楽器]])の総称である。[[共鳴]]胴を利用して音を増幅させる構造の物が多い。[[ギター]]のように抱えて演奏するものや、[[箏|琴]]のように置いた状態で演奏するものなどがあり、それぞれが地域によって改良・発展をしているためにバリエーションは多い。広義においては、[[鍵盤楽器]]である[[チェンバロ]]等も含まれる。
==主な撥弦楽器==
{{see also|楽器分類別一覧#撥弦楽器}}
{{columns-list|colwidth=20em|
* [[アコースティック・ベース]]
* [[アーチリュート]]
* [[ウード]]
* [[ウクレレ]]
* [[オートハープ]]
* [[カーヌーン]]
* [[カヤグム]](カヤッゴ、伽耶琴)
* [[カンテレ]]
* [[ギター]]
* [[キタラ]]
* [[ギタロン]]
* [[月琴]]
* [[古琴]]
* [[古筝]]
* [[箏]](こと)
* [[竪琴]]
* [[コムンゴ]](玄琴)
* [[サズ]]
* [[三線]](蛇皮線)
* [[シタール]]
* [[シターン]]
* [[三味線]]
* [[ショダルガー]]
* [[セタール]]
* [[大正琴]]
* {{仮リンク|タンブール|en|Tanbur}}
* [[チェンバロ]]
* [[チャランゴ]]
* [[ツィター]]
* [[テオルボ]]
* [[ドタール]]([[:en:Dutar|Dutar]]、[[:en:Dotara|Dotara]]の2種類がある)
* {{仮リンク|トプショール|ru|Топшур|en|Topshur}}
* [[ドンブラ]]
* [[ハープ]]
* [[バラライカ]]
* {{仮リンク|バルバット|en|Barbat (lute)}}
* [[バンジョー]]
* [[ビウエラ]]
* [[琵琶]]
* [[マンドラ]]
* [[マンドーラ]]
* [[マンドリン]]
* [[マンドローネ]]
* [[マンドロンチェロ]]
* [[リラ (楽器)|リラ]] (ライアー)
* [[リュート]]
}}
== 関連項目 ==
* [[弦楽器]]
** [[擦弦楽器]]
** [[打弦楽器]]
* [[ピッツィカート]]
{{音楽}}
{{Normdaten}}
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[[Category:弦楽器]]
[[Category:楽器]]
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2023-05-03T16:50:03Z
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小室直樹
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小室 直樹(こむろ なおき、1932年〈昭和7年〉9月9日 - 2010年〈平成22年〉9月4日)は、日本の社会学者、批評家、社会・政治・国際問題評論家。
学位は法学博士(東京大学・1974年)。東京工業大学世界文明センター特任教授、現代政治研究所(東京都千代田区)所長などを歴任。
社会学、数学、経済学、心理学、政治学、宗教学、法学などの多分野を第一人者から直接学び、「社会科学の統合」に取り組んだ。東京大学の伝説の自主ゼミナール「小室ゼミ」主宰者。著書に『ソビエト帝国の崩壊』や『痛快!憲法学』などがある。
出生名爲田直樹として東京府荏原郡玉川村(現・東京都世田谷区奥沢)に生まれる。私生児であった。妹の誕生日が1933年3月16日であることから、村上篤直は直樹の本当の誕生日を1932年5月以前、ひょっとすると1931年だったかもしれないと推測している。
1937年、5歳の時に同盟通信の記者であった父が死去し、母の故郷である福島県河沼郡会津柳津村(現会津柳津町)に転居する。典型的な軍国少年で、日本の敗戦の知らせを聞いたときの悔しさが学問を志す原体験と自身が述べている。母子家庭ということで幼少時の生活はかなり苦しかった。
福島県立会津高等学校入学。数学、物理などの学力は高校教師を凌ぐほどであり、後に政治家となる渡部恒三、弁護士の渡部喬一(第二東京弁護士会所属)と知り合う。会津高校時代は昼食の弁当を用意できず、昼休みになるといつも教室から姿を消していた。ある時それを知った渡部恒三が、自分の下宿に頼んで弁当を2個用意してもらうように手配し、以後昼食にありつけるようになった。
会津高校在学中に湯川秀樹博士のノーベル賞受賞を聞くと、日本がアメリカ合衆国を打ち倒し、世界から尊敬を受けることができるようになる国になるための研究ができると思い、京大理学部を志望。1951年に福島県立会津高等学校を卒業し、京都大学理学部に入学した。東京大学理学部に進むことも考えていたが、進学適性検査の結果が芳しくなかったため足切りされた。
京大受験の際も渡部恒三の父の友人から京都までの往復の旅費を援助してもらったが、京都滞在中の費用がかさみ帰途の交通費が無くなってしまう(渡部恒三曰く「合格して嬉しくなり、有り金を全部飲んでしまったんだろう」とのこと)。支援者の手前追加の金を無心するわけにも行かず、小室はやむなく京都から福島まで徒歩で帰ってきたという。
京大ではもともと物理学科志望だったが成績上の理由で数学科に進み、位相幾何学を専攻する。ところが、小室が京大に入学したころはすでに湯川が研究の第一線を退いていた。小室は失意の日々を送るが、ジョン・ヒックスの『価値と資本』の解説を書いていた市村真一の論文を読んで、理論物理学のようなエレガントさに魅了されて、理論経済学に興味を持つに至る。
1955年、京大を卒業し、大阪大学大学院経済学研究科に進学。当時高田保馬が森嶋通夫、安井琢磨、二階堂副包ら日本のトップレベルの経済学者を大阪大学社会経済研究所に集め、阪大ゴールデン時代とまで呼ばれており、小室によれば「正当な学問」を身につけた。市村真一を指導教官とし、市村の家に泊まり指導を受け、高田、森嶋、安井、二階堂らの下で理論経済学の研究を始める。小室は、レオン・ワルラスの一般均衡理論によって初めて経済学が単なる思想ではなく、科学として成立したとした上で、この「正当な学問」としての経済学を日本に正しく紹介したのは高田であるとする。高田は「私が一生かかっても十分に理解できない学者が二人いる。ケインズとヴェーバーだ」と告白しており、小室は高田が2人の理論・学説研究に道筋をつけたと述べている。
1958年、阪大大学院博士課程に進学し、森嶋から、小室ともう一人の特別優秀な院生だけが選ばれ、大域的安定性の収束過程について特別の指導を受けた。
1959年、阪大大学院を中退したが、市村の推薦で、第2回フルブライト留学生として経済学の本場アメリカのミシガン大学大学院に留学。ダニエル・スーツから計量経済学を学び、さらに奨学金を得て研究を続けた。1960年、マサチューセッツ工科大学大学院で、ポール・サミュエルソン、ロバート・ソロー、ハーバード大学大学院ではケネス・アロー、チャリング・クープマンスらから経済学を学ぶ。しかし、研究を進めるに連れて、ヒックス、サミュエルソン、アローなどにより理論経済学の研究は完成されてしまったと考え、社会学と政治学の理論化を研究しようと決意する。そのためには、当時実証科学の条件を満たしていた心理学を学ぶことが社会学や政治学の理論化に有益であると考えた。翌1961年、再びハーバード大でバラス・スキナー博士から心理学(行動主義心理学)、タルコット・パーソンズ博士から社会学、ジョージ・ホーマンズ教授から社会心理学など学問の分野を超えて社会科学を学んだ。
フルブライト留学生の限度が3年だったため、1962年、帰国。しかし、経済学から転向することを告げると市村から破門された。
1963年、東京大学大学院法学政治学研究科に進学。丸山眞男が指導教官となり政治学を学ぶが、小室が心理学ばかり勉強しているので、丸山の弟子の京極純一に預けられた。その他にも、東大のゼミナールを渡り歩き、中根千枝から社会人類学を、篠原一から計量政治学を、川島武宜から法社会学をそれぞれ学ぶ。
1965年には、高田保馬の『社会学概論』(岩波書店)の解説を書いた富永健一から社会学を学ぶ。富永の紹介で社会学の雑誌に立て続けに一連の論文を発表し、論文「構造機能分析と均衡分析」では行動主義心理学を社会学に応用したパーソンズの構造機能分析を日本で他に先駆けて発表した。
1967年から、ボランティアで所属・年齢・専攻を問わない自主ゼミ(小室ゼミ)を開講し、経済学を筆頭に、法社会学、比較宗教学、線型代数学、統計学、抽象代数学、解析学などを幅広く無償で教授していた。小室ゼミ出身者には橋爪大三郎・宮台真司・副島隆彦・盛山和夫・志田基与師・今田高俊・山田昌弘・大澤真幸らがいる。以後、橋爪、宮台、副島、大澤らは小室を学問上の師匠として深く尊敬することになる。橋爪と副島と宮台は一般向けの書籍や雑誌で人々の目にふれることが多くなりそれぞれが一定のファン層を獲得して「小室三兄弟」とも呼ばれた。この伝説のゼミ運営に最も貢献したのが、10年にわたって活躍した橋爪大三郎であった(このゼミに関しては村上篤直『評伝 小室直樹』に詳しい)。
1970年、大塚久雄の近所に引越し、直接マックス・ヴェーバーについて学びながら、宗教についての研究を始める。後掲「社会科学における行動理論の展開」で城戸浩太郎賞受賞。1972年、東京大学から「衆議院選挙区の特性分析」で法学博士の学位を取得し、東京大学非常勤講師に就任。
1976年、日本研究賞を受賞した論文「危機の構造」と、いくつかの雑誌に発表した論文をまとめ、加筆した最初の単著『危機の構造』(ダイヤモンド社)刊行。
1979年12月、それまで清貧な学究生活を送っていた小室は、自宅アパートで研究に没頭し栄養失調で倒れているところを門下生に発見され病院に運ばれた。しばらく入院し身体は回復したが自身で入院費用が払えず、友人知人のカンパで費用を支払い、小室の才能を知る友人の渡部喬一弁護士や山本七平などの勧めで本を出版することにし、光文社の用意したホテルにて『ソビエト帝国の崩壊』の執筆にとりかかった。小室の奇行ぶりには、担当者も少々辟易したようであるが、出来上がった原稿は想像以上の価値があった。1980年、光文社から初の一般向け著作である『ソビエト帝国の崩壊 瀕死のクマが世界であがく』(光文社カッパ、のち文庫)が刊行されベストセラーになり、評論家として認知されるようになる。この本の中で小室は、ソ連における官僚制、マルクス主義が宗教であり、ユダヤ教に非常に似ていること、1956年のスターリン批判によってソ連国民が急性アノミー(無規制状態)に陥ったことなどをこれまでの学問研究を踏まえて指摘し、またスイスの民間防衛に倣い日本も民間防衛を周知させることなどを訴えた。そしてこの本の「予言」通り、1991年にソビエト連邦の崩壊となる。
『ソビエト帝国の崩壊』の出版から続編『ソビエト帝国の最期 “予定調和説”の恐るべき真実』(1984年、光文社)など十数年間にわたって光文社のカッパビジネス、カッパブックスより27冊の著作が刊行され、光文社にとって小室の著作群はドル箱になった。光文社以外にも徳間書店、文藝春秋、祥伝社などから著作を刊行、こうした著作活動の成功により経済的安定を得ることができた。ベストセラーを書くまでの主な収入は家庭教師で、受験生のほか、大学の研究者(教授など)まで教えていた。
1983年1月26日、ロッキード事件被告田中角栄への求刑公判の日、テレビ朝日の番組「こんにちは2時」の生放送にゲスト出演した。小室は田中角栄の無罪を主張し、田中角栄を優秀な政治家と評価していた。番組で小沢遼子ら反角栄側2人と小室による討論を行った。ところが冒頭、突然立ち上がってこぶしをふり上げ、「田中がこんなになったのは検察が悪いからだ。有能な政治家を消しさろうとする検事をぶっ殺してやりたい。田中を起訴した検察官は全員死刑だ!」とわめき出し、田中批判を繰り広げた小沢遼子を足蹴にしてスタッフに退場させられた。ところが翌日朝、同局はその小室を「モーニングショー」に生出演させた。その際さらに口調はパワーアップ、カメラの面前で「政治家は賄賂を取ってもよいし、汚職をしてもよい。それで国民が豊かになればよい。政治家の道義と小市民的な道義はちがう。政治家に小市民的な道義を求めることは間違いだ。政治家は人を殺したってよい。黒田清隆は自分の奥さんを殺したって何でもなかった!」などと叫び、そのまま放送されてしまった。この事件以後、奇人評論家と評されることになった。
テレビでの小室の発言は新聞や雑誌などで取り上げられ、新聞の投書欄にも一般の人から意見が寄せられた。それらの多くは小室を奇矯な発言をする人物として非難していた。当時毎日新聞に連載されていた加藤芳郎の『まっぴら君』にも小室事件をモチーフにしたものが登場し、道端で小室らしき人物が、「検事を殺せ」「田中に一兆円やれ」などと叫んでいると、聞いている一人が「わーい、一理ある」と拍手を送っているのを見てまっぴら君らが、「例の評論家ですか」「サクラだよ」と話をする内容であった。
2006年秋、副センター長を務める弟子の橋爪大三郎に招聘されて東京工業大学世界文明センター特任教授に着任。4年余りであったが終生の仕事とする。
2010年9月4日、心不全のため東京大学医学部附属病院で死去した。77歳没。9月9日に葬儀を終えたが公式に発表されず、翌9月10日に副島隆彦が自らの公式ウェブサイトの掲示板に投稿し、すでに葬儀を終えたとする小室の訃報を同投稿の前日の9日に受けた旨の記述を行った。9月28日になり東京工業大学が死去を発表し、これを受けて広く報道された。
論文「社会動学の一般理論構築の試み」を発表すると、この論文が川島武宜の目に止まり、川島編集の後掲『法社会学講座』の編集協力・執筆に富永と共に加わることとなった。『法社会学講座』は、日本を代表する教授・助教授が執筆者として名を連ねているが、当時無名であった小室の経歴だけが「京大卒」とのみ書かれており、異例の大抜擢であった。その論文の内容は、理論経済学を社会学に応用しようとする、ホマンズの社会行動論を踏まえながら、ワルラスの一般均衡理論を構造機能分析を利用して法社会学に応用し、自身が提唱した「規範動学モデル」によって、日本とは全く社会的な条件が異なる西欧社会の法体系を日本に導入した場合、全く同じ条文でも、母法の国と継受国では全く異なる機能を果たすことがある現象の分析が可能になるとするものである。これにより小室の学説の一般理論は一通り完成するが、その特徴は、スキナー、ホマンズ、パーソンズらから学んだ「正当な学問」を分野を超えて統合した点にあるといえ、以後その一般理論によって現実の社会現象を分析し、これを予測するという応用の研究を始める。『ソビエト帝国の崩壊』は、正にその構造機能分析を応用し、予言を的中させたものであるとされる。
小室は、人類学の研究を進めていくにつれ、その研究対象が様々な未開社会の親族構造の研究にとどまっていることに不満を持ち、近代資本主義の解明のためには、ヴェーバーを学ぶ必要があると考えるようになり、大塚久雄から直接指導を受ける。そして、西欧において近代資本主義が発達したのは、宗教改革によって西欧社会のエートスが変化し、プロテスタントが禁欲的労働というエートスを得たからであり、このことから社会における「構造」が絶対不変のものではなく、変化し得るとのアイデアを得る。そして、このアイデアを構造機能分析に応用して、日本において資本主義が定着していったのは、西欧と日本は同じ禁欲的労働というエートスをもっているからであり、その日本における象徴が二宮尊徳であるとする。その後、小室は、西欧における近代資本主義と日本の資本主義の違いについて研究するため、山本七平の知遇を得て、日本独自の宗教ともいうべき「日本教」、天皇の研究を始め、これが西欧の古典だけでなく、中国や朝鮮の古典、儒教、官僚制の研究に繋がっていく。
小室は、自身の応用研究をさらに深め、近代資本主義が成立するためには絶対性と抽象性を特徴とする近代的所有権が制度として確立されていることが必要であるとの川島武宜の学説を承継した上で、これを経済学の研究と結びつけてセイの法則が機能を停止し、自由放任が資源の最適分配を行い得なくなった現代社会では近代的所有権の概念は修正されざるを得ないとして発展させた。
小室は、大塚久雄から「川島先生の法社会学を完成させることができるのは小室さんだけだ。完成させてよ」との遺言を預かるが、小室は「遂げられなかった」とした。
『ソビエト帝国の崩壊』で、ソビエト連邦の崩壊とその過程を10年以上も前から予言していた。後の『ソビエト帝国の最期』(1984年)には富永の推薦文があり、小室を天才だと評し、「しばらくしたら再びアカデミズムの世界に戻ってくるように」とまで書いている。
1976年のロッキード事件では渡部昇一らと共に田中角栄の無罪を主張した。その論拠は、刑事免責を付与して得られた嘱託証人尋問調書は、反対尋問権を保障した憲法に反するという点にあった。後に最高裁は、この論点には触れず、刑事免責に関する立法の欠如を理由に、嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定したが、その点を考慮しても他の関係証拠によって犯罪事実は認定できるとした。なお、この最高裁判決には、反対尋問の機会を一切否定する嘱託証人尋問調書は、刑事訴訟法1条の精神に反し証拠能力が否定されるとする補足意見がある。このように田中角栄を徹底して擁護した小室であるが、藤原弘達の創価学会批判の書の差し止め問題が起きたときは、公明党の差し止め要求を受け入れようとした田中を批判しており、田中への評価は公平を期したものだったといえる。
左右の政治対立図式では保守系に分類されることが多い。渡部昇一や西尾幹二、日下公人らとの対談本も多く刊行しており、また熱心な改憲論者であった。しかしそうした反面、政治学方面での師匠であった(戦後左派の教祖的存在である)丸山眞男を生涯尊敬するなどの面もあって、かならずしもまったくの保守主義陣営の論者だったというわけではない(横田喜三郎のことは戦後最悪の犯罪的学者として罵倒している)。
大東亜戦争については、善悪論や事実論で論じるよりも、日本陸軍が指導者個人の意思を離れて、組織として独立して歯止めがきかなくなっていったという理論を中心に提唱しているが、これは丸山の政治論と山本七平の日本文化論を折衷したものである。また、戦時国際法を加味しない哲学的視点で「かくて捏造したのが「南京大虐殺」です」と語っている。
著作数は、単著は約60冊(著作内容が同じかほぼ改題同一である再刊版はカウントしない)。共著書は10数冊、新版再刊も生前、没後共に各10数冊ある。
1966年
1967年
1968年
1969年
1972年
1974年
1976年
1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2007年
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"text": "小室 直樹(こむろ なおき、1932年〈昭和7年〉9月9日 - 2010年〈平成22年〉9月4日)は、日本の社会学者、批評家、社会・政治・国際問題評論家。",
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"text": "学位は法学博士(東京大学・1974年)。東京工業大学世界文明センター特任教授、現代政治研究所(東京都千代田区)所長などを歴任。",
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"text": "社会学、数学、経済学、心理学、政治学、宗教学、法学などの多分野を第一人者から直接学び、「社会科学の統合」に取り組んだ。東京大学の伝説の自主ゼミナール「小室ゼミ」主宰者。著書に『ソビエト帝国の崩壊』や『痛快!憲法学』などがある。",
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"text": "出生名爲田直樹として東京府荏原郡玉川村(現・東京都世田谷区奥沢)に生まれる。私生児であった。妹の誕生日が1933年3月16日であることから、村上篤直は直樹の本当の誕生日を1932年5月以前、ひょっとすると1931年だったかもしれないと推測している。",
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"text": "1937年、5歳の時に同盟通信の記者であった父が死去し、母の故郷である福島県河沼郡会津柳津村(現会津柳津町)に転居する。典型的な軍国少年で、日本の敗戦の知らせを聞いたときの悔しさが学問を志す原体験と自身が述べている。母子家庭ということで幼少時の生活はかなり苦しかった。",
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"text": "福島県立会津高等学校入学。数学、物理などの学力は高校教師を凌ぐほどであり、後に政治家となる渡部恒三、弁護士の渡部喬一(第二東京弁護士会所属)と知り合う。会津高校時代は昼食の弁当を用意できず、昼休みになるといつも教室から姿を消していた。ある時それを知った渡部恒三が、自分の下宿に頼んで弁当を2個用意してもらうように手配し、以後昼食にありつけるようになった。",
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"text": "会津高校在学中に湯川秀樹博士のノーベル賞受賞を聞くと、日本がアメリカ合衆国を打ち倒し、世界から尊敬を受けることができるようになる国になるための研究ができると思い、京大理学部を志望。1951年に福島県立会津高等学校を卒業し、京都大学理学部に入学した。東京大学理学部に進むことも考えていたが、進学適性検査の結果が芳しくなかったため足切りされた。",
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"text": "京大受験の際も渡部恒三の父の友人から京都までの往復の旅費を援助してもらったが、京都滞在中の費用がかさみ帰途の交通費が無くなってしまう(渡部恒三曰く「合格して嬉しくなり、有り金を全部飲んでしまったんだろう」とのこと)。支援者の手前追加の金を無心するわけにも行かず、小室はやむなく京都から福島まで徒歩で帰ってきたという。",
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"text": "京大ではもともと物理学科志望だったが成績上の理由で数学科に進み、位相幾何学を専攻する。ところが、小室が京大に入学したころはすでに湯川が研究の第一線を退いていた。小室は失意の日々を送るが、ジョン・ヒックスの『価値と資本』の解説を書いていた市村真一の論文を読んで、理論物理学のようなエレガントさに魅了されて、理論経済学に興味を持つに至る。",
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"text": "1955年、京大を卒業し、大阪大学大学院経済学研究科に進学。当時高田保馬が森嶋通夫、安井琢磨、二階堂副包ら日本のトップレベルの経済学者を大阪大学社会経済研究所に集め、阪大ゴールデン時代とまで呼ばれており、小室によれば「正当な学問」を身につけた。市村真一を指導教官とし、市村の家に泊まり指導を受け、高田、森嶋、安井、二階堂らの下で理論経済学の研究を始める。小室は、レオン・ワルラスの一般均衡理論によって初めて経済学が単なる思想ではなく、科学として成立したとした上で、この「正当な学問」としての経済学を日本に正しく紹介したのは高田であるとする。高田は「私が一生かかっても十分に理解できない学者が二人いる。ケインズとヴェーバーだ」と告白しており、小室は高田が2人の理論・学説研究に道筋をつけたと述べている。",
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"text": "1958年、阪大大学院博士課程に進学し、森嶋から、小室ともう一人の特別優秀な院生だけが選ばれ、大域的安定性の収束過程について特別の指導を受けた。",
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"text": "1959年、阪大大学院を中退したが、市村の推薦で、第2回フルブライト留学生として経済学の本場アメリカのミシガン大学大学院に留学。ダニエル・スーツから計量経済学を学び、さらに奨学金を得て研究を続けた。1960年、マサチューセッツ工科大学大学院で、ポール・サミュエルソン、ロバート・ソロー、ハーバード大学大学院ではケネス・アロー、チャリング・クープマンスらから経済学を学ぶ。しかし、研究を進めるに連れて、ヒックス、サミュエルソン、アローなどにより理論経済学の研究は完成されてしまったと考え、社会学と政治学の理論化を研究しようと決意する。そのためには、当時実証科学の条件を満たしていた心理学を学ぶことが社会学や政治学の理論化に有益であると考えた。翌1961年、再びハーバード大でバラス・スキナー博士から心理学(行動主義心理学)、タルコット・パーソンズ博士から社会学、ジョージ・ホーマンズ教授から社会心理学など学問の分野を超えて社会科学を学んだ。",
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"text": "フルブライト留学生の限度が3年だったため、1962年、帰国。しかし、経済学から転向することを告げると市村から破門された。",
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"text": "1963年、東京大学大学院法学政治学研究科に進学。丸山眞男が指導教官となり政治学を学ぶが、小室が心理学ばかり勉強しているので、丸山の弟子の京極純一に預けられた。その他にも、東大のゼミナールを渡り歩き、中根千枝から社会人類学を、篠原一から計量政治学を、川島武宜から法社会学をそれぞれ学ぶ。",
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"text": "1965年には、高田保馬の『社会学概論』(岩波書店)の解説を書いた富永健一から社会学を学ぶ。富永の紹介で社会学の雑誌に立て続けに一連の論文を発表し、論文「構造機能分析と均衡分析」では行動主義心理学を社会学に応用したパーソンズの構造機能分析を日本で他に先駆けて発表した。",
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"text": "1967年から、ボランティアで所属・年齢・専攻を問わない自主ゼミ(小室ゼミ)を開講し、経済学を筆頭に、法社会学、比較宗教学、線型代数学、統計学、抽象代数学、解析学などを幅広く無償で教授していた。小室ゼミ出身者には橋爪大三郎・宮台真司・副島隆彦・盛山和夫・志田基与師・今田高俊・山田昌弘・大澤真幸らがいる。以後、橋爪、宮台、副島、大澤らは小室を学問上の師匠として深く尊敬することになる。橋爪と副島と宮台は一般向けの書籍や雑誌で人々の目にふれることが多くなりそれぞれが一定のファン層を獲得して「小室三兄弟」とも呼ばれた。この伝説のゼミ運営に最も貢献したのが、10年にわたって活躍した橋爪大三郎であった(このゼミに関しては村上篤直『評伝 小室直樹』に詳しい)。",
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"text": "大東亜戦争については、善悪論や事実論で論じるよりも、日本陸軍が指導者個人の意思を離れて、組織として独立して歯止めがきかなくなっていったという理論を中心に提唱しているが、これは丸山の政治論と山本七平の日本文化論を折衷したものである。また、戦時国際法を加味しない哲学的視点で「かくて捏造したのが「南京大虐殺」です」と語っている。",
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小室 直樹は、日本の社会学者、批評家、社会・政治・国際問題評論家。 学位は法学博士(東京大学・1974年)。東京工業大学世界文明センター特任教授、現代政治研究所(東京都千代田区)所長などを歴任。 社会学、数学、経済学、心理学、政治学、宗教学、法学などの多分野を第一人者から直接学び、「社会科学の統合」に取り組んだ。東京大学の伝説の自主ゼミナール「小室ゼミ」主宰者。著書に『ソビエト帝国の崩壊』や『痛快!憲法学』などがある。
|
{{Infobox 学者
|名前 = 小室 直樹<br />(こむろ なおき)
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|画像代替説明 =
|画像説明 = '''小室直樹'''の画像
|全名 = 小室 直樹<br />(こむろ なおき)
|別名 = 爲田 直樹
|誕生名 = {{生年月日と年齢|1932|9|9|死去}}
|生年月日 = {{JPN}}・[[東京府]][[荏原郡]][[玉川村 (東京府)|玉川村]]<br />(現・[[東京都]][[世田谷区]])
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1932|9|9|2010|9|4}}
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|学派 =
|研究分野 = [[法学]]<br />[[社会学]]<br />[[法社会学]]<br />[[政治学]]
|研究機関 = [[東京大学]]<br />[[東京工業大学]]
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|影響を受けた人物 =
|影響を与えた人物 = 門下生([[橋爪大三郎]]、[[宮台真司]]、[[副島隆彦]]、[[盛山和夫]]、[[志田基与師]]、[[今田高俊]]、[[山田昌弘]]、[[大澤真幸]])など
|学会 =
|主な受賞歴 = [[城戸賞]]など
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'''小室 直樹'''(こむろ なおき、[[1932年]]〈[[昭和]]7年〉[[9月9日]] - [[2010年]]〈[[平成]]22年〉[[9月4日]]<ref>[[9月28日]]、[[東京工業大学]]が発表した([[時事通信社]])</ref>)は、[[日本]]の[[社会学者]]、批評家、社会・政治・国際問題[[評論家]]。
[[学位]]は[[博士(法学)|法学博士]]([[東京大学]]・[[1974年]]<ref>博士論文のタイトルは「衆議院選挙区の特性分析」、甲第3244号</ref>)。[[東京工業大学]]世界文明センター特任教授、現代政治研究所(東京都千代田区)所長などを歴任。
社会学、数学、経済学、心理学、政治学、宗教学、法学などの多分野を第一人者から直接学び、「社会科学の統合」に取り組んだ<ref>{{cite news|author= 坪井賢一 ダイヤモンド社論説委員|url=https://diamond.jp/articles/-/183882|title=天才学者・小室直樹が40年前に示した「危機の構造」は、今もなおこの国を支配している 『評伝 小室直樹』著者インタビュー[後編]|date=2018-11-3|publisher=[[ダイヤモンド社|ダイヤモンド・オンライン]]}}</ref>。東京大学の伝説の自主[[ゼミナール]]「小室ゼミ」主宰者。著書に『ソビエト帝国の崩壊』や『痛快!憲法学』などがある。
== 生涯 ==
出生名'''爲田直樹'''として[[東京府]][[荏原郡]][[玉川村 (東京府)|玉川村]]<ref>[http://www.interq.or.jp/sun/atsun/komuro/chronicle.html <nowiki>| 小室直樹文献目録 | 文献年譜 |</nowiki>]の現世田谷区奥沢町の記述より</ref>(現・[[東京都]][[世田谷区]]奥沢)に生まれる<ref name="村上598">村上篤直『評伝小室直樹』上巻598頁(ミネルヴァ書房、2018年)</ref>。私生児であった<ref name="村上598" />。妹の誕生日が1933年3月16日であることから、村上篤直は直樹の本当の誕生日を1932年5月以前、ひょっとすると1931年だったかもしれないと推測している<ref name="村上598" />。
[[1937年]]、5歳の時に[[同盟通信]]の記者であった父が死去し、母の故郷である[[福島県|福島県河沼郡会津柳津村(現会津柳津町)]]に転居する<ref>『評伝小室直樹(上)』(村上篤直、2018年)</ref>。典型的な[[軍国少年]]で、日本の敗戦の知らせを聞いたときの悔しさが[[学問]]を志す原体験と自身が述べている<ref name="gendai">『現代の預言者・小室直樹の学問と思想』</ref>。母子家庭ということで幼少時の生活はかなり苦しかった<ref name=tospo/>。
=== 理学部から経済学へ ===
[[福島県立会津高等学校]]入学。数学、物理などの学力は高校教師を凌ぐほどであり<ref>『ビッグ・トゥモロウ』1984年4月号</ref>、後に[[政治家]]となる[[渡部恒三]]、[[弁護士]]の[[渡部喬一]]([[第二東京弁護士会]]所属)と知り合う。会津高校時代は昼食の弁当を用意できず、昼休みになるといつも教室から姿を消していた<ref name=tospo/>。ある時それを知った渡部恒三が、自分の下宿に頼んで弁当を2個用意してもらうように手配し、以後昼食にありつけるようになった<ref name=tospo>[[東京スポーツ]]・2011年2月16日付 島地勝彦「グラマラスおやじの人生智」</ref>。
会津高校在学中に[[湯川秀樹]]博士の[[ノーベル賞]]受賞を聞くと、日本が[[アメリカ合衆国]]を打ち倒し、世界から尊敬を受けることができるようになる国になるための研究ができると思い、[[京都大学大学院理学研究科・理学部|京大理学部]]を志望<ref name="gendai"/>。[[1951年]]に[[福島県立会津高等学校]]を卒業し、京都大学理学部に入学した。東京大学理学部に進むことも考えていたが、進学適性検査の結果が芳しくなかったため足切りされた<ref>村上篤直『評伝小室直樹』上巻70頁(ミネルヴァ書房、2018年)</ref>。
京大受験の際も渡部恒三の父の友人から京都までの往復の旅費を援助してもらったが、京都滞在中の費用がかさみ帰途の交通費が無くなってしまう(渡部恒三曰く「合格して嬉しくなり、有り金を全部飲んでしまったんだろう」とのこと)。支援者の手前追加の金を無心するわけにも行かず、小室はやむなく京都から福島まで徒歩で帰ってきたという<ref name=tospo />。
京大ではもともと物理学科志望だったが成績上の理由で数学科に進み<ref>村上篤直『評伝小室直樹』上巻125頁(ミネルヴァ書房、2018年)</ref>、[[位相幾何学]]を専攻する<ref>「特集 日本の選択 毎日・日本研究賞 喜びの入賞者 「危機の構造」小室直樹(政治学者)」『毎日新聞』1975年(昭和50年)2月7日(金曜日)付朝刊、第6版、第13面。</ref>。ところが、小室が京大に入学したころはすでに湯川が研究の第一線を退いていた<ref name="gendai"/>。小室は失意の日々を送るが<ref name="gendai"/>、[[ジョン・ヒックス]]の『価値と資本』の解説を書いていた[[市村真一]]の[[論文]]を読んで、理論物理学のようなエレガントさに魅了されて、理論経済学に興味を持つに至る<ref name="gendai"/>。
[[1955年]]、京大を卒業し、[[大阪大学大学院経済学研究科・経済学部|大阪大学大学院経済学研究科]]に進学。当時[[高田保馬]]が[[森嶋通夫]]、[[安井琢磨]]、[[二階堂副包]]ら日本のトップレベルの[[経済学者]]を[[大阪大学社会経済研究所]]に集め、阪大ゴールデン時代とまで呼ばれており、小室によれば「正当な学問」を身につけた。[[市村真一]]を指導教官とし、市村の家に泊まり指導を受け、高田、森嶋、安井、二階堂らの下で[[理論経済学]]の研究を始める。小室は、[[レオン・ワルラス]]の[[一般均衡理論]]によって初めて経済学が単なる思想ではなく、科学として成立したとした上で、この「正当な学問」としての[[経済学]]を日本に正しく紹介したのは高田であるとする。高田は「私が一生かかっても十分に理解できない学者が二人いる。[[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ]]と[[マックス・ヴェーバー|ヴェーバー]]だ」と告白しており、小室は高田が2人の理論・学説研究に道筋をつけたと述べている<ref>『経済学をめぐる巨匠たち』 243頁。</ref>。
[[1958年]]、阪大大学院博士課程に進学し、森嶋から、小室ともう一人の特別優秀な院生だけが選ばれ、大域的安定性の収束過程について特別の指導を受けた<ref>『経済学をめぐる巨匠たち』 254-255頁。</ref>。
=== アメリカ留学 ===
[[1959年]]、阪大大学院を中退したが、市村の推薦で、第2回[[フルブライト・プログラム|フルブライト留学生]]として[[経済学]]の本場[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ミシガン大学]]大学院に留学。[[ダニエル・スーツ]]から[[計量経済学]]を学び、さらに奨学金を得て研究を続けた。[[1960年]]、[[マサチューセッツ工科大学]]大学院で、[[ポール・サミュエルソン]]、[[ロバート・ソロー]]、[[ハーバード大学]]大学院では[[ケネス・アロー]]、[[チャリング・クープマンス]]らから経済学を学ぶ<ref name="kyoji">『経済学をめぐる巨匠たち』 319頁。</ref>。しかし、研究を進めるに連れて、ヒックス、サミュエルソン、アローなどにより理論経済学の研究は完成されてしまったと考え、[[社会学]]と[[政治学]]の理論化を研究しようと決意する。そのためには、当時実証科学の条件を満たしていた[[心理学]]を学ぶことが[[社会学]]や[[政治学]]の理論化に有益であると考えた。翌[[1961年]]、再びハーバード大で[[バラス・スキナー]]博士から心理学([[行動主義心理学]])、[[タルコット・パーソンズ]]博士から[[社会学]]、[[ジョージ・ホーマンズ]]教授から[[社会心理学]]など[[学問]]の分野を超えて社会科学を学んだ<ref name="kyoji" />。
フルブライト留学生の限度が3年だったため、[[1962年]]、帰国。しかし、[[経済学]]から転向することを告げると市村から破門された<ref>『経済学をめぐる巨匠たち』{{要ページ番号|date=2015年3月}}</ref>。
[[1963年]]、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学大学院法学政治学研究科]]に進学。[[丸山眞男]]が指導教官となり[[政治学]]を学ぶが、小室が心理学ばかり勉強しているので、丸山の弟子の[[京極純一]]に預けられた。その他にも、東大の[[ゼミナール]]を渡り歩き、[[中根千枝]]から[[社会人類学]]を、[[篠原一 (政治学者)|篠原一]]から[[計量政治学]]を、[[川島武宜]]から[[法社会学]]をそれぞれ学ぶ。
[[1965年]]には、[[高田保馬]]の『社会学概論』([[岩波書店]])の解説を書いた[[富永健一]]から社会学を学ぶ。富永の紹介で社会学の雑誌に立て続けに一連の[[論文]]を発表し、論文「構造機能分析と均衡分析」では行動主義心理学を社会学に応用したパーソンズの[[構造機能分析]]を日本で他に先駆けて発表した。
=== 自主ゼミ ===
[[1967年]]から、ボランティアで所属・年齢・専攻を問わない自主ゼミ(小室ゼミ)を開講し、経済学を筆頭に、法社会学、比較宗教学、[[線型代数学]]、[[統計学]]、[[抽象代数学]]、[[解析学]]などを幅広く無償で教授していた。小室ゼミ出身者には[[橋爪大三郎]]・[[宮台真司]]・[[副島隆彦]]・[[盛山和夫]]・[[志田基与師]]・[[今田高俊]]・[[山田昌弘]]・[[大澤真幸]]らがいる<ref>橋爪大三郎、副島隆彦共著『現代の預言者・小室直樹の学問と思想――ソ連崩壊はかく導かれた』(弓立社, 1992年) </ref><ref>「小室直樹博士記念シンポジウム-社会科学の復興をめざして-」(2011年2月6日東京工業大学世界文明センターにて開催)より。</ref>。以後、橋爪、宮台、副島、大澤らは小室を学問上の師匠として深く尊敬することになる。橋爪と副島と宮台は一般向けの書籍や雑誌で人々の目にふれることが多くなりそれぞれが一定のファン層を獲得して「小室三兄弟」とも呼ばれた<ref>必ずしも仲がいいという意味で「三兄弟」といわれたわけではない。</ref>。この伝説のゼミ運営に最も貢献したのが、10年にわたって活躍した橋爪大三郎であった(このゼミに関しては[[#村上篤直|村上篤直『評伝 小室直樹』]]に詳しい)。
[[1970年]]、[[大塚久雄]]の近所に引越し、直接[[マックス・ヴェーバー]]について学びながら、[[宗教]]についての研究を始める。後掲「社会科学における行動理論の展開」で[[城戸幡太郎|城戸浩太郎賞]]受賞。[[1972年]]、東京大学から「衆議院選挙区の特性分析」で[[博士(法学)|法学博士]]の[[学位]]を取得し、東京大学非常勤講師に就任。
=== 著述活動の成功 ===
[[1976年]]、日本研究賞を受賞した論文「危機の構造」と、いくつかの雑誌に発表した論文をまとめ、加筆した最初の単著『[[危機の構造]]』([[ダイヤモンド社]])刊行。
;『ソビエト帝国の崩壊』
1979年12月、それまで清貧な学究生活を送っていた小室は、自宅アパートで研究に没頭し栄養失調で倒れているところを門下生に発見され病院に運ばれた。しばらく入院し身体は回復したが自身で入院費用が払えず、友人知人のカンパで費用を支払い、小室の才能を知る友人の[[渡部喬一]]弁護士や[[山本七平]]などの勧めで本を出版することにし<ref>渡部喬一『商法の読み方』(祥伝社)</ref>、[[光文社]]の用意したホテルにて『[[ソビエト帝国の崩壊]]』の執筆にとりかかった<ref name="matu" />。小室の奇行ぶりには、担当者も少々辟易したようであるが<ref name="matu" />、出来上がった原稿は想像以上の価値があった<ref name="matu">松原隆一郎「小室直樹の悲劇」宝島30,1993年10月号</ref>。[[1980年]]、[[光文社]]から初の一般向け著作である『[[ソビエト帝国の崩壊]] 瀕死のクマが世界であがく』(光文社カッパ、のち文庫)が刊行されベストセラーになり、[[評論家]]として認知されるようになる。この本の中で小室は、ソ連における[[官僚制]]、[[マルクス主義]]が宗教であり、[[ユダヤ教]]に非常に似ていること、1956年の[[スターリン批判]]によってソ連国民が急性[[アノミー]](無規制状態)に陥ったことなどをこれまでの学問研究を踏まえて指摘し、またスイスの[[民間防衛]]に倣い日本も民間防衛を周知させることなどを訴えた。そしてこの本の「予言」通り、1991年に[[ソビエト連邦の崩壊]]となる。
『ソビエト帝国の崩壊』の出版から続編『ソビエト帝国の最期 “予定調和説”の恐るべき真実』(1984年、光文社)など十数年間にわたって[[光文社]]のカッパビジネス、[[カッパブックス]]より27冊の著作が刊行され、光文社にとって小室の著作群はドル箱になった。光文社以外にも[[徳間書店]]、[[文藝春秋]]、[[祥伝社]]などから著作を刊行、こうした著作活動の成功により経済的安定を得ることができた。ベストセラーを書くまでの主な収入は家庭教師で、受験生のほか、大学の研究者(教授など)まで教えていた<ref>『データバンクにっぽん人』</ref>。
=== テレビ生放送での発言事件 ===
[[1983年]]1月26日、[[ロッキード事件]]被告[[田中角栄]]への求刑公判の日、[[テレビ朝日]]の番組「[[こんにちは2時]]」の生放送にゲスト出演した<ref name="masukomi-shimin198309">{{Cite journal|和書|title=マスコミ・デスクメモ――一九八三年一月 / 編集部|journal=マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌|issue=183|publisher=日本マスコミ市民会議|date=1983-09-01|pages=58 - 62}}{{NDLJP|3463907/31}}</ref>。小室は[[田中角栄]]の無罪を主張し、田中角栄を優秀な政治家と評価していた。番組で[[小沢遼子]]ら反角栄側2人と小室による討論を行った。ところが冒頭、突然立ち上がってこぶしをふり上げ、「田中がこんなになったのは[[検察]]が悪いからだ。有能な政治家を消しさろうとする検事をぶっ殺してやりたい。田中を起訴した検察官は全員死刑だ!」とわめき出し、田中批判を繰り広げた[[小沢遼子]]を足蹴にしてスタッフに退場させられた<ref name="masukomi-shimin198309"/><ref>上掲「鉄の処女」136頁</ref>。ところが翌日朝、同局はその小室を「[[モーニングショー]]」に生出演させた<ref name="masukomi-shimin198309"/>。その際さらに口調はパワーアップ、カメラの面前で「政治家は[[賄賂]]を取ってもよいし、[[汚職]]をしてもよい。それで国民が豊かになればよい。政治家の道義と小市民的な道義はちがう。政治家に小市民的な道義を求めることは間違いだ。政治家は人を殺したってよい。[[黒田清隆]]は自分の奥さんを殺したって何でもなかった!」などと叫び、そのまま放送されてしまった<ref name="masukomi-shimin198309"/><ref>[[立花隆]]『ロッキード裁判とその時代 4』朝日文庫 1994年</ref>。この事件以後、奇人評論家と評されることになった。
テレビでの小室の発言は新聞や雑誌などで取り上げられ、新聞の投書欄にも一般の人から意見が寄せられた。それらの多くは小室を奇矯な発言をする人物として非難していた。当時[[毎日新聞]]に連載されていた[[加藤芳郎]]の『[[まっぴら君]]』にも小室事件をモチーフにしたものが登場し、道端で小室らしき人物が、「検事を殺せ」「田中に一兆円やれ」などと叫んでいると、聞いている一人が「わーい、一理ある」と拍手を送っているのを見てまっぴら君らが、「例の評論家ですか」「サクラだよ」と話をする内容であった。
=== 晩年 ===
[[2006年]]秋、副センター長を務める弟子の橋爪大三郎に招聘されて[[東京工業大学]]世界文明センター特任教授に着任。4年余りであったが終生の仕事とする。
[[2010年]][[9月4日]]、心不全のため[[東京大学医学部附属病院]]で死去した。77歳没。[[9月9日]]に葬儀を終えた<ref name="yomiuri20100928">{{Cite news
|url = http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100928-OYT1T00640.htm
|title = 小室直樹氏が死去…異色の評論家、ソ連崩壊予言
|work = YOMIURI ONLINE
|newspaper = [[読売新聞]]
|date = 2010-09-28
|accessdate = 2010-09-28
}}</ref>が公式に発表されず、翌[[9月10日]]に副島隆彦が自らの公式ウェブサイトの掲示板に投稿し、すでに葬儀を終えたとする小室の訃報を同投稿の前日の9日に受けた旨の記述を行った<ref name="副島80">[http://www.snsi.jp/bbs/page/1 80 追悼 小室直樹 先生]、[[副島隆彦]]、副島隆彦の学問道場、2010年9月10日付、2010年9月13日閲覧。</ref>。[[9月28日]]になり東京工業大学が死去を発表し<ref name=yomiuri20100928 />、これを受けて広く報道された。
== 学説・思想 ==
=== 一般理論 ===
論文「社会動学の一般理論構築の試み」を発表すると、この[[論文]]が[[川島武宜]]の目に止まり、川島編集の後掲『法社会学講座』の編集協力・執筆に富永と共に加わることとなった。『法社会学講座』は、日本を代表する教授・助教授が執筆者として名を連ねているが、当時無名であった小室の経歴だけが「京大卒」とのみ書かれており、異例の大抜擢であった。その[[論文]]の内容は、理論経済学を[[社会学]]に応用しようとする、ホマンズの社会行動論を踏まえながら、ワルラスの一般均衡理論を構造機能分析を利用して法社会学に応用し、自身が提唱した「規範動学モデル」によって、日本とは全く社会的な条件が異なる西欧社会の法体系を日本に導入した場合、全く同じ条文でも、母法の国と継受国では全く異なる機能を果たすことがある現象の分析が可能になるとするものである<ref>上掲「規範社会学」</ref>。これにより小室の学説の一般理論は一通り完成するが、その特徴は、スキナー、ホマンズ、パーソンズらから学んだ「正当な学問」を分野を超えて統合した点にあるといえ、以後その一般理論によって現実の社会現象を分析し、これを予測するという応用の研究を始める。『ソビエト帝国の崩壊』は、正にその構造機能分析を応用し、予言を的中させたものであるとされる<ref>『現代の預言者・小室直樹の学問と思想――ソ連崩壊はかく導かれた』</ref>。
=== 近代資本主義研究 ===
小室は、[[人類学]]の研究を進めていくにつれ、その研究対象が様々な未開社会の[[親族]]構造の研究にとどまっていることに不満を持ち、近代資本主義の解明のためには、ヴェーバーを学ぶ必要があると考えるようになり、[[大塚久雄]]から直接指導を受ける。そして、西欧において近代資本主義が発達したのは、[[宗教改革]]によって西欧社会の[[エートス]]が変化し、[[プロテスタント]]が禁欲的労働というエートスを得たからであり、このことから[[社会]]における「構造」が絶対不変のものではなく、変化し得るとのアイデアを得る。そして、このアイデアを構造機能分析に応用して、日本において[[資本主義]]が定着していったのは、西欧と日本は同じ禁欲的労働というエートスをもっているからであり、その日本における象徴が[[二宮尊徳]]であるとする。その後、小室は、西欧における近代資本主義と日本の[[資本主義]]の違いについて研究するため、[[山本七平]]の知遇を得て、日本独自の[[宗教]]ともいうべき「日本教」、[[天皇]]の研究を始め、これが西欧の古典だけでなく、[[中国]]や[[朝鮮]]の古典、[[儒教]]、[[官僚]]制の研究に繋がっていく。
小室は、自身の応用研究をさらに深め、近代資本主義が成立するためには絶対性と抽象性を特徴とする近代的[[所有権]]が制度として確立されていることが必要であるとの[[川島武宜]]の学説を承継した上で、これを[[経済学]]の研究と結びつけて[[セイの法則]]が機能を停止し、自由放任が[[資源]]の最適分配を行い得なくなった現代社会では近代的[[所有権]]の概念は修正されざるを得ないとして発展させた。
小室は、[[大塚久雄]]から「川島先生の[[法社会学]]を完成させることができるのは小室さんだけだ。完成させてよ」との遺言を預かるが<ref>『経済学をめぐる巨匠たち』 281頁。</ref>、小室は「遂げられなかった」とした。
=== ソ連崩壊 ===
『ソビエト帝国の崩壊』で、[[ソビエト連邦の崩壊]]とその過程を10年以上も前から予言していた。後の『ソビエト帝国の最期』(1984年)には富永の推薦文があり、小室を天才だと評し、「しばらくしたら再びアカデミズムの世界に戻ってくるように」とまで書いている。
=== 田中角栄論 ===
1976年の[[ロッキード事件]]では[[渡部昇一]]らと共に[[田中角栄]]の無罪を主張した。その論拠は、刑事免責を付与して得られた嘱託証人尋問調書は、反対尋問権を保障した憲法に反するという点にあった。後に最高裁は、この論点には触れず、刑事免責に関する立法の欠如を理由に、嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定したが、その点を考慮しても他の関係証拠によって犯罪事実は認定できるとした。なお、この最高裁判決には、反対尋問の機会を一切否定する嘱託証人尋問調書は、刑事訴訟法1条の精神に反し証拠能力が否定されるとする補足意見がある。このように田中角栄を徹底して擁護した小室であるが、[[藤原弘達]]の[[創価学会]]批判の書の差し止め問題が起きたときは、[[公明党]]の差し止め要求を受け入れようとした田中を批判しており、{{独自研究範囲|date=2023年1月|田中への評価は公平を期したものだったといえる。}}
=== 戦争・歴史 ===
左右の政治対立図式では保守系に分類されることが多い。[[渡部昇一]]や[[西尾幹二]]、[[日下公人]]らとの対談本も多く刊行しており、また熱心な改憲論者であった。しかしそうした反面、政治学方面での師匠であった(戦後左派の教祖的存在である)[[丸山眞男]]を生涯尊敬するなどの面もあって、かならずしもまったくの保守主義陣営の論者だったというわけではない([[横田喜三郎]]のことは戦後最悪の犯罪的学者として罵倒している{{要出典|date=2023年1月}})。
大東亜戦争については、善悪論や事実論で論じるよりも、日本陸軍が指導者個人の意思を離れて、組織として独立して歯止めがきかなくなっていったという理論を中心に提唱しているが、これは丸山の政治論と山本七平の日本文化論を折衷したものである。また、[[戦時国際法]]を加味しない哲学的視点で「かくて捏造したのが「[[南京事件|南京大虐殺]]」です」と語っている<ref>小室直樹・渡部昇一『封印の昭和史-「戦後50年」自虐の終焉』(徳間書店、1995年8月)</ref>。
== 人物 ==
*[[京都大学吉田寮]]に在寮していた。寮内屈指の変人だったらしく、他の寮生からは「小室将軍」と呼ばれていた{{要出典|date=2023年1月}}。
*その行動から奇人と評されることが多い<ref>1980年代前半の雑誌[''具体的に'']。1982年[[テレビ朝日]]の深夜番組『トゥナイト』の取材を受け、「最近ベストセラーを何冊も出している風変わりな学者」として放送された。他にも小室の本のカバーの推薦文で「常人のワクを超えた奇行のために不遇で」(富永健一)、「奇人でなければ語れぬこともある」([[松原正]])、「彼と同行するのはある種の覚悟が必要だという人もいるが」(山本七平)等の言葉が見られる。[[栗本慎一郎]]は自著の中で小室について、その学識を非常に高く評価した上で、「奇行ばかりが有名で、・・・フシギな人物」と書いている。</ref>が、その[[思想]]・学説は全て各分野で支配的な原理、原則に基づくもので、その意味では徹底した正統派学者タイプの人物であった。小室自身も学生や一般読者に向けて「正当な[[学問]]」を学ぶことの重要性を繰り返し説いている。
*[[立川談志]]は小室を深く尊敬し、「師匠」「大先生」と呼び個人的親交があり、幾度も一緒にテレビ出演もしている。あるとき[[消費税]]について対談を深夜番組で二人で行ったが、小室が泥酔酩酊して出演し問題発言を連発、さらに対談途中で呂律が回らない状態になってしまい対談中止、後日、対談やり直しになってしまった(中止になってしまった対談の収録の一部は後日放送された)
*他の研究者が驚くほどの読書力を持っているようで、本人の話では日本語、英語の普通の本ならば、1時間で読破し<ref>『私の書斎活用術』(「知的生産の技術」研究会編、講談社、1983年)</ref>、また重要と思われる本は最低10回は読むとのことで、学生にもテキストの徹底した精読をアドバイスしている<ref>『現代の預言者・小室直樹の学問と思想』弓立社</ref>。長い貧困時代、狭い小室のアパートの部屋にはほとんど本がなく(金がなくて本が買えなかった)「小室は自宅に本をほとんどもっていないのになぜあんなに知識が豊富なのだろう」と友人や教官は訝しんでいたが、実は小室は本屋の立ち読みでこうした速読・精読術を使いこなしており、それによって知識を身につけていた。
*ベストセラー書を出して経済的に裕福になってからもしばらく、石神井のワンルームの木造アパートに住んでいた。電話もおいていないばかりか、本人がアパートを何週間も留守にすることは普通、ポストは広告やチラシが荒れ放題に放り込まれたままで、手紙を送っても読んでもらえるかわからなかった。そこで編集者や友人は用件があるときはいつも小室のアパートにまで来て、伝言をドアに貼り付けていった。
== 伝記 ==
*{{citation|和書|editor=橋爪大三郎・[[副島隆彦]]|title=小室直樹の学問と思想|publisher=[[弓立社]]|date=1992年}}ビジネス社(増訂版)、2011年4月、新装版2022年9月。
*{{citation|和書|editor=橋爪大三郎|title=小室直樹の世界|publisher=ミネルヴァ書房|date=2013年10月}}論考・シンポジウム+「小室直樹博士著作目録・略年譜」。
*{{citation|和書|author=村上篤直|title=評伝 小室直樹(上下)|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|date=2018年9月|ref=村上篤直}}上記の目録・年譜を改訂収録。
== 論文・著書・共著 ==
著作数は、単著は約60冊(著作内容が同じかほぼ改題同一である再刊版はカウントしない)。共著書は10数冊、新版再刊も生前、没後共に各10数冊ある。
1966年
*「社会動学の一般理論構築の試み」([[岩波書店]]『思想』)
*「構造機能分析と均衡分析」([[社会学評論]])
1967年
*「構造機能分析の原理」(社会学評論)
1968年
*「社会科学における行動理論の展開」(岩波書店『思想』)
1969年
*「構造機能分析の理論と方法」(社会学評論)
1972年
*「規範社会学」川島武宜編『法社会学講座4-法社会学の基礎2-』(岩波書店)
1974年
*「構造-機能分析の論理と方法」[[青井和夫]]編『社会学講座1-理論社会学Ⅰ』([[東京大学出版会]])
1976年
*『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』([[ダイヤモンド社]]、増補版1982年、新訂版2022年)。[[中公文庫]]、1991年、但し1976年版を文庫化
1980年
*『ソビエト帝国の崩壊 瀕死のクマが世界であがく』([[光文社]]カッパブックス、のち文庫・新版)
*『アメリカの逆襲 宿命の対決に日本は勝てるか』(光文社カッパブックス、のち文庫)、以下略
1981年
*『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』(光文社、のち文庫)、改題『国民のための戦争と平和』[[ビジネス社]]
*『超常識の方法』 頭のゴミが取れる数学発想の使い方』(祥伝社ノンブック)、改題『数学を使わない数学の講義』ワック出版
*『日本教の社会学』([[講談社]]、山本七平と共著)、新版・ビジネス社
*『アメリカの標的 日本はレーガンに狙われている』(講談社)
*『小室直樹の日本大封鎖 世界の孤児日本は生き残れるか』(対談集、ロングセラーズ)
*『日本人の可能性』([[プレジデント社]]、並木信義・山本七平と共著)
1982年
*『資本主義中国の挑戦 孔子と近代経済学の大ゲンカ』(光文社)
*『日本「衆合」主義の魔力 危機はここまで拡がっている』([[ダイヤモンド社]])
*『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』(太陽企画出版)
*『脱ニッポン型思考のすすめ』(ダイヤモンド社、[[藤原肇 (評論家)|藤原肇]]と共著)
1983年
*『田中角栄の呪い “角栄”を殺すと、日本が死ぬ』([[光文社]])
*『田中角栄の大反撃 盲点をついた指揮権発動の秘策』(光文社)、新編『田中角栄 政治家の条件』ビジネス社
*『日本の「一九八四年」 G.オーウェルの予言した世界がいま日本に出現した』([[PHP研究所]]・新書判)
*『政治が悪いから世の中おもしろい 乱世に嵐を呼ぶ』(KKベストセラーズ)、天山文庫。改題『政治無知が日本を滅ぼす』ビジネス社、2012年
1984年
*{{Cite book|和書|title=ソビエト帝国の最期 “予定調和説”の恐るべき真実|publisher=光文社|date=1984-07|id={{NDLJP|12185188}}}}
*『偏差値が日本を滅ぼす 親と教師は何をすればいいか』(光文社)
*『親子関係は親分と子分だ 息子(娘)に脅える親に告ぐ』(ベストセラーズ・ワニの本)
1985年
*{{Cite book|和書|title=奇蹟の今上天皇|publisher=[[PHP研究所|PHP]]|date=1985-05|id={{NDLJP|12189309}}}}
*{{Cite book|和書|title=韓国の悲劇 誰も書かなかった真実|publisher=光文社|date=1985-10|id={{NDLJP|12173056}}}}
*『[[三島由紀夫]]が復活する』([[マイナビ|毎日コミュニケーションズ]])、新版・[[毎日ワンズ]]、2002年・2022年、新書版2019年。『三島由紀夫と「天皇」』天山文庫
*『世界戦略を語る』([[展転社]]、[[倉前盛通]]と共著)
1986年
*{{Cite book|和書|title=韓国の呪い 広がるばかりの日本との差|publisher=光文社|date=1986-04|id={{NDLJP|12172206}}}}
*『罵論・ザ・犯罪-日本「犯罪」共同体を語る』(アス出版、[[栗本慎一郎]]・[[長谷川和彦]]と共著)
*『天皇恐るべし 誰も考えなかった日本の不思議』(文藝春秋ネスコ)、新版・ビジネス社
1987年
*『大国日本の崩壊 アメリカの陰謀とアホな日本人』(光文社)
*『大国日本の復活 アメリカの崩壊にどう対処するか』(光文社)
1988年
*『大国日本の逆襲 アメリカの悪あがきにトドメを刺せ』(光文社)
*『韓国の崩壊 太平洋経済戦争のゆくえ』(光文社)
1989年
*『[[昭和天皇]]の悲劇 日本人は何を失ったか』(光文社)
*『消費税の呪い 日本のデモクラシーが危ない』(光文社)、『悪魔の消費税』天山文庫
*『中国共産党帝国の崩壊 呪われた五千年の末路』(光文社)
1990年
*『ソビエト帝国の分割 日・米・独の分捕り合戦がはじまる』(光文社)
*『アラブの逆襲 イスラムの論理とキリスト教の発想』(光文社)
*『社会主義大国日本の崩壊 新自由市場主義10年の意識革命』(青春出版社)
1991年
*『ソビエト帝国の復活 日本が握るロシアの運命』(光文社)
*『ロシアの悲劇 資本主義は成立しない』(光文社)
*『日米の悲劇 “宿命の対決”の本質』(光文社)
1992年
*『信長の呪い かくて、近代日本は生まれた』(光文社)、増補・改題『信長 近代日本の曙と資本主義の精神』ビジネス社
*『日本資本主義崩壊の論理 山本七平“日本学”の預言』(光文社)
*『日本経済破局の論理 [[ポール・サミュエルソン|サムエルソン]]「経済学」の読み方』(光文社)、増補・改題『経済学のエッセンス』講談社+α文庫、2004年
1993年
*『国民のための経済原論 Ⅰ・Ⅱ』(光文社)
*『天皇の原理』([[文藝春秋]]、のち徳間書店・新書判)
*『国民のための戦争と平和の法 国連とPKOの問題点』(総合法令、[[色摩力夫]]と共著)
*『自ら国を潰すのか 「平成の改革」その盲点を衝く』([[徳間書店]]、[[渡部昇一]]と共著)
1994年
*『田中角栄の遺言 官僚栄えて国滅ぶ』(クレスト社)、改題新版『日本いまだ近代国家に非ず 国民のための法と政治と民主主義』ビジネス社
1995年
*『大東亜戦争ここに甦る 戦争と軍隊、そして国運の大研究』(クレスト社)
*『封印の昭和史-戦後50年自虐の終焉-』(徳間書店、渡部昇一との共著)、新版『― 戦後日本に仕組まれた「歴史の罠」の終焉』2020年
*『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社、[[日下公人]]との共著)、改題『大東亜戦争、こうすれば勝てた』講談社+α文庫、2001年
1996年
*『これでも国家と呼べるのか 万死に値する大蔵・外務官僚の罪』(クレスト社) 、新版・ザ・マサダ
*『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、必ず滅亡する』(クレスト社)、新版・ワック出版
*『小室直樹の中国原論』(徳間書店、のち新版)
1997年
*『世紀末・戦争の構造 国際法知らずの日本人へ』(徳間文庫)、新版「戦争と国際法を知らない日本人へ」同・選書判
*『人にはなぜ教育が必要なのか』(総合法令、色摩力夫と共著)
*『小室直樹の資本主義原論』([[東洋経済新報社]] のち新版)
*『悪の民主主義-民主主義原論』(青春出版社)
1998年
*『日本人のための経済原論』(東洋経済)
*『[[韓非子]]の帝王学』(プレジデント社、[[西尾幹二]]・[[市川宏 (中国文学者)|市川宏]]と共著)
*『マジメな話―[[岡田斗司夫]] 世紀末・対談』([[アスキー (企業)|アスキー]]、岡田・小室対談を収録)
1999年
*『歴史に観る日本の行く末 予言されていた現実!』(青春出版社)
2000年
*『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』(講談社)、講談社+α文庫、2001年
*『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』(徳間書店、のち新版)
*『資本主義のための革新(イノベーション)小室直樹経済ゼミナール』([[日経BP]]社)
2001年
*『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』(祥伝社、[[谷沢永一]]・渡部昇一と共著)
*『痛快!憲法学 アメージング・スタディ』([[集英社]])、改題『日本人のための憲法原論』集英社インターナショナル、2006年
*『数学嫌いな人のための数学 数学原論』(東洋経済新報社)
2002年
*『人を作る教育、国を作る教育 いまこそ、吉田松陰に学べ!』(日新報道、[[大越俊夫]]と共著)
*『日本人のためのイスラム原論』([[集英社]])
*『日本国憲法の問題点』(集英社)
2003年
*『論理の方法 社会科学のためのモデル』(東洋経済新報社)
2004年
*『経済学をめぐる巨匠たち 経済思想ゼミナール』(ダイヤモンド社)
2007年
*『硫黄島 [[栗林忠道]]大将の教訓』(ワック出版)
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.interq.or.jp/sun/atsun/komuro/ 小室直樹文献目録]
{{Normdaten}}
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17,446 |
CAB
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CAB(キャブ)は、主にMicrosoft Windowsで用いられるデータ圧縮のファイルフォーマットの一つ。CABはCabinet(キャビネット)の略語。
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'''CAB'''(キャブ)は、主に[[Microsoft Windows]]で用いられる[[データ圧縮]]の[[ファイルフォーマット]]の一つ。'''CAB'''はCabinet([[キャビネット]])の略語。
[[ActiveX]]の自動[[ダウンロード]]や[[Microsoft Windows Installer|Windows Installer]]では標準に用いられるほか、圧縮率が[[LHA]]等よりも高い<ref>{{Cite web|和書|url=https://forest.watch.impress.co.jp/article/1998/11/16/compress.html|title=窓の杜 - ファイル圧縮対決6番勝負!(総合成績)|accessdate=2008-12-14}}</ref>ため汎用のデータ圧縮形式としても用いられることがある。[[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイブ]]ファイルに[[デジタル署名|署名]]が付けられるという変わった特性を持つ。アルゴリズムとしては[[マイクロソフト]]が独自に改良したMSZipか[[LZX]]があり、LZXの方が圧縮率では高いが、処理速度は遅い。[[Windows CE]]プラットフォーム(Windows Mobile、Pocket PC、Handheld PC等)では、アプリケーション インストーラが用いる標準コンテナとなっており、同プラットフォーム上では.CABファイルの関連付けはアーカイバ プログラムではなくインストーラの開始となる。
[[Windows API|Win32 API]]では、SetupIterateCabinet()で展開できる<ref>{{cite web|url=http://support.microsoft.com/kb/189085/en-us|title=HOWTO: Use the SetupAPI's SetupIterateCabinet() Function|accessdate=2008-12-14}}</ref>。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]
*[[7-Zip]]
*[[LHA]]
*[[DGCA]]
*[[GCA]]
*[[RAR]]
*[[拡張子]]
== 外部リンク ==
* [http://ja.fileextension.info/file/cab .CABファイル拡張子]
{{アーカイブファイルフォーマット}}
[[Category:データ圧縮規格]]
[[Category:Windowsアドミニストレーション]]
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17,447 |
GCA
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GCA(ジーシーエー)とはデータ圧縮の形式、及びその形式への圧縮を行うソフトウェアのことである。「G Compression Archiver」の略語。
鶴田真一が開発したもので、動画・音声のバイナリファイルの圧縮に特に威力を発揮し、時折いくつかのウェブサイトで用いられている。現在は開発が後継であるDGCAに移行されている。
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[DGCA]]
* [[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]
* [[7-Zip]]
* [[LHA]]
* [[CAB]]
* [[RAR]]
== 外部リンク ==
* {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20210226070221/http://emit.jp/ |title=とってもごはん}}
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17,448 |
木管楽器
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木管楽器(もっかんがっき)は奏者の唇の振動によらない方法で発音する管楽器の総称であり、概ね日本語の「笛」に相当する。
かつては主に木製の管状構造のものが多かったためにこのように呼ばれるが、今日では金管楽器以外の管楽器という意味で用いられ、『木』でできているかどうか、『管』状であるかどうかには依存しない。例えば、フルートやサクソフォンは主に金属で作られており、またオカリナは木製でも管状でもないが、いずれも唇の振動を用いないため、木管楽器に分類される。逆にツィンクやセルパン、スーザフォン、法螺貝などは非金属素材で作られるが、いずれも唇の振動で音を出すため金管楽器に分類される。
弦楽器においては、発音体である弦の振動数は主に弦の長さや張力及び線密度(単位長さあたりの質量)によって決まるため、音の高さ(ピッチ)は共鳴胴の寸法や形状には依存しない。一方、管楽器の発音体であるリード(エアーリードを含む)の振動数は、管楽器の共鳴体である管内部の空気柱の長さ、音速、および構造(開管であるか閉管であるか)によって決まるため、単なる筒構造では基音とその倍音しか出すことができない。
そのため、一般的な管状の管楽器では、共鳴管の長さを変化させることによって共鳴する音の高さを変え、様々な高さの音を得る。金管楽器ではバルブ機構や二重管を用いたスライド機構(トロンボーン等)で実際の管の長さを変えることがほとんどだが、木管楽器の場合には、主として、管に側孔を開け、それを指または指に代わる機構によって開閉することにより、共鳴管の音響学的な長さを変化させる。このために開放する穴を音孔(トーンホール)という。邦楽・民族音楽・西洋の古楽で使われるような単純な(キー機構がない)木管楽器においては「音孔」を「指穴」と呼ぶことが多い。
音孔を全て塞いだ状態が、その木管楽器の最も長い共鳴長となる。歌口から遠い方の音孔から順次開放していくと、共鳴長は歌口から最初の開放音孔までの長さに対応し、より高い音が得られる。順次音孔を開放していき、最初の倍音(閉管であるクラリネットでは第3倍音、その他では第2倍音)に達したら、再び全ての音孔を塞いで、閉管であるクラリネットでは1オクターヴ+完全5度、その他では1オクターヴ高い倍音を奏する(実際の楽器では多少の例外が生じる)。
歌口から遠い方の音孔から単純に順次開放していったときの基本的な音に含まれない音(基本的な音をピアノの白鍵に相当する音とすれば、黒鍵に相当する音や微分音など)を出す方法としては、(特にキー機構がない指穴などの場合)塞いだ音孔のうち最も歌口から遠い音孔を半分等一定の割合で空ける方法もあるが、その他に音孔を1つ以上飛ばして塞ぐ方法もある。また、最初の倍音より更に上の倍音(閉管であるクラリネットでは第5倍音以上の奇数倍音、その他では第3倍音以上)を出す場合は、その運指は複雑かつ不規則なものとなる。
一方、共鳴器が管状でないオカリナなどはヘルムホルツ共鳴器に分類され、指穴を開閉すると共鳴空洞の体積に対する開口面積が変わり、これによって音高が変化する。
そのほか民族音楽では各種の笛が使われている
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木管楽器(もっかんがっき)は奏者の唇の振動によらない方法で発音する管楽器の総称であり、概ね日本語の「笛」に相当する。
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{{出典の明記|date=2012年3月|ソートキー=楽}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''木管楽器'''(もっかんがっき)は奏者の唇の振動によらない方法で発音する[[管楽器]]の総称であり、概ね日本語の「[[笛]]」に相当する。
== 名称の由来 ==
かつては主に木製の管状構造のものが多かったためにこのように呼ばれるが、今日では[[金管楽器]]以外の管楽器という意味で用いられ、『木』でできているかどうか、『管』状であるかどうかには依存しない。例えば、[[フルート]]や[[サクソフォン]]は主に金属で作られており、また[[オカリナ]]は木製でも管状でもないが、いずれも唇の振動を用いないため、木管楽器に分類される。逆に[[ツィンク]]や[[セルパン]]、[[スーザフォン]]、[[法螺貝]]<ref>[[橋本尚 (電気技術者)|橋本尚]]『[[楽器の科学]]』[[講談社ブルーバックス]]、1997年7月22日第20刷、31〜32ページ</ref>などは非金属素材で作られるが、いずれも唇の振動で音を出すため[[金管楽器]]に分類される。
{{see also|楽器分類学}}
== 振動源(励振系)の種類 ==
* [[リード (楽器)|リード]]を用いた発音
** 一枚リード(シングルリード、単簧)
** 二枚リード([[ダブルリード]]、複簧)
** フリーリード(自由簧)
*[[リード (楽器)#エアリード|エアーリード]](無簧):息などによる空気の流れが楽器の吹き口の角に当たって発音する。[[リコーダー]]のように[[フィップル|ウィンドウェイ]]により空気の通り道を形成するものと、[[フルート]]のように奏者の唇([[アンブシュア]])によりエアーリードを形成するものとに大別される。一般的には、「横笛」というとフルートのようにウィンドウェイが無いもの、「[[縦笛]]」というとリコーダーのようにウィンドウェイを有するものというイメージを持たれているが、尺八やケーナのように縦笛でもウィンドウェイが無いものもあり、奏法的にはフルート([[横笛]])に近い。このため、「横笛」、「縦笛」という分類は楽器の構え方(角度)の違いに過ぎず、奏法や振動系による分類においては重要ではない。
== 共振系(共鳴系)の種類 ==
* 閉管(円筒管):一端が開放され、他端が閉じている管
* 開管:両端が開放されている管
* 閉管であるが円錐管であるため、音響学的に開管に分類されるもの
** (円筒管とは内径が全長に亘って一定の管である。円錐管とは一端の内径が小さく、他端に向かって次第に大きくなる管のことである。)
* 不定形の空洞([[オカリナ]]など)
* 共振系を持たないもの([[ハーモニカ]]など)
== 音の高さを変える方法 ==
[[弦楽器]]においては、発音体である[[弦 (楽器)|弦]]の[[振動数]]は主に弦の長さや張力及び線密度(単位長さあたりの質量)によって決まるため、[[音高|音の高さ(ピッチ)]]は[[音響共鳴|共鳴]]胴の寸法や形状には依存しない。一方、管楽器の発音体であるリード(エアーリードを含む)の振動数は、管楽器の共鳴体である管内部の空気柱の長さ、[[音速]]、および構造(開管であるか閉管であるか)によって決まるため、単なる筒構造では基音とその[[倍音]]しか出すことができない。
そのため、一般的な管状の管楽器では、共鳴管の長さを変化させることによって共鳴する[[音高|音の高さ]]を変え、様々な高さの音を得る。金管楽器ではバルブ機構や二重管を用いたスライド機構([[トロンボーン]]等)で実際の管の長さを変えることがほとんどだが、木管楽器の場合には、主として、管に側孔を開け、それを指または指に代わる機構によって開閉することにより、共鳴管の音響学的な長さを変化させる。このために開放する穴を[[音孔]](トーンホール)という。[[邦楽]]・[[民族音楽]]・西洋の古楽で使われるような単純な(キー機構がない)木管楽器においては「音孔」を「指穴」と呼ぶことが多い。
音孔を全て塞いだ状態が、その木管楽器の最も長い共鳴長となる。[[歌口]]から遠い方の音孔から順次開放していくと、共鳴長は歌口から最初の開放音孔までの長さに対応し、より高い音が得られる。順次音孔を開放していき、最初の倍音(閉管であるクラリネットでは第3倍音、その他では第2倍音)に達したら、再び全ての音孔を塞いで、閉管であるクラリネットでは1オクターヴ+完全5度、その他では1オクターヴ高い倍音を奏する(実際の楽器では多少の例外が生じる)。
歌口から遠い方の音孔から単純に順次開放していったときの基本的な音に含まれない音(基本的な音をピアノの白鍵に相当する音とすれば、黒鍵に相当する音や微分音など)を出す方法としては、(特にキー機構がない指穴などの場合)塞いだ音孔のうち最も歌口から遠い音孔を半分等一定の割合で空ける方法もあるが、その他に音孔を1つ以上飛ばして塞ぐ方法もある。また、最初の倍音より更に上の倍音(閉管であるクラリネットでは第5倍音以上の奇数倍音、その他では第3倍音以上)を出す場合は、その運指は複雑かつ不規則なものとなる。
一方、共鳴器が管状でないオカリナなどはヘルムホルツ共鳴器に分類され、指穴を開閉すると共鳴空洞の体積に対する開口面積が変わり、これによって音高が変化する。
== 主な木管楽器 ==
=== 無簧木管楽器 ===
* 無簧(エアーリード)開管楽器
**[[横笛]]
***[[フルート]]属
**** フルート(コンサートフルート)
****[[アルトフルート]]
****[[バスフルート]]
****コントラバスフルート
****[[ピッコロ]]
***その他の横笛
****[[龍笛]](りゅうてき、竜笛)
****[[神楽笛]]
****[[能管]](のうかん)
****[[篠笛]](しのぶえ、しのふえ)
****ファイフ
****[[フラウト・トラヴェルソ]]
****[[:zh:笛子|笛子]](てきし)
****[[テグム]]
****[[サオ (楽器)|サオ]]
****[[バーンスリー]]
** [[縦笛]]
*** ウィンドウェイ有
****[[リコーダー]]属
*****[[クライネソプラニーノ]]
*****[[ソプラニーノ]]
*****[[ソプラノリコーダー]]
*****[[アルトリコーダー]]
*****[[テナー(リコーダー)|テナーリコーダー]]
*****[[グレートバス|グレートバスリコーダー]]
*****[[コントラバス(リコーダー)|コントラバスリコーダー]]
****その他
*****[[フラジオレット (楽器)|フラジオレット]]
*****[[ティン・ホイッスル]]
*****ヘリエーダルスピーパ
*****テイバーパイプ
*****[[ネイティブアメリカンフルート|ネイティブアメリカンフルート(インディアンフルート)]]
*****[[スリン]]
*****[[:en:Khlui|クルイ]]
*****[[:en:Fujara|フジャラ]]
*****タルカ、ピンキージョ、モセーニョ
*****オーバートーン・フルート(コンチョーヴカ、カリューカ、ウィロウフルート )
*** ウィンドウェイ無
****尺八属
*****[[尺八]](しゃくはち)
*****[[一節切]](ひとよぎり)
***** 天吹(てんぷく)
****その他
*****[[簫]](しょう)
*****[[ケーナ]]
*****[[ナーイ|ナーイ(ネイ)]]
*****[[カバル]]
*****カップホイッスル
* 無簧(エアーリード)閉管楽器
**ウィンドウェイ有
***[[オカリナ]]
***[[スライドホイッスル]]
***[[サンバホイッスル]]
** ウィンドウェイ無
***[[パンパイプ]](パンフルート、[[サンポーニャ]]、[[ロンダドール]])
***[[:zh:排簫|排簫]](はいしょう)
***[[シュン (楽器)|シュン]]
=== 有簧木管楽器 ===
* 単簧(シングルリード)円筒管楽器
**[[クラリネット]]属
*** [[小クラリネット]](ピッコロクラリネット、Esクラリネット)
*** [[クラリネット|ソプラノクラリネット]]
*** [[アルトクラリネット]]
*** [[バセットホルン]]
*** [[バスクラリネット]]
*** [[コントラアルトクラリネット]]
*** [[コントラバスクラリネット]]
*** [[バセットクラリネット]]
** その他
***[[シャリュモー]]
***[[ザフーン]]
***シプシ
* 単簧(シングルリード)円錐管楽器
**[[サクソフォーン]]属
*** [[サクソフォーン#種類|ソプラニッシモサクソフォーン]]
*** [[サクソフォーン#種類|ソプラニーノサクソフォーン]]
*** [[サクソフォーン#種類|ソプラノサクソフォーン]]
*** [[サクソフォーン#種類|アルトサクソフォーン]]
*** [[サクソフォーン#種類|テナーサクソフォーン]]
*** [[サクソフォーン#種類|バリトンサクソフォーン]]
*** [[サクソフォーン#種類|バスサクソフォーン]]
*** [[サクソフォーン#種類|コントラバスサクソフォーン]]
*** [[サクソフォーン#種類|サブコントラバスサクソフォーン]]
**その他
*** [[ターロガトー]]([[:en:Tárogató|Tárogató]])
***オクタヴィン
* 複簧(ダブルリード)円錐管楽器
**[[オーボエ]]属
*** オーボエ
*** [[コーラングレ]](イングリッシュホルン)
*** [[オーボエダモーレ]]
*** [[バリトンオーボエ]](バスオーボエ)
*** [[ヘッケルフォン]]
** [[ファゴット]]属
*** [[ファゴット#概要|ファゴッティーノ]](クイントファゴット、テナルーン)
*** ファゴット(バスーン)
*** [[コントラファゴット]](ダブルバスーン、コントラバスーン)
*** [[ファゴット#概要|バソン]](バッソン)
*** [[コントラファゴット#特徴・音域など|コントラフォルテ]]
**その他
***[[サリュソフォーン]]
***[[ドゥルシアン]]
***[[ミュゼット]]
***[[ショーム]]
***[[クルムホルン]]
***[[ズルナ]]
***[[チャルメラ]]
* 複簧(ダブルリード)円筒管楽器
**[[篳篥]](ひちりき)
**[[ドゥドゥク]]
* 自由簧(フリーリード)楽器
** [[笙]](しょう、鳳笙)
* 気鳴自由簧楽器<!--(共鳴管長が音程を作っていないので木管楽器とは言い難い)『木管楽器の中には共鳴管長が音程を作るものがある』のは事実ですが、『共鳴管長が音程を作っていないから木管楽器ではない』というのは間違っている。オカリナも『共鳴管長』が音程を作っているのではない。-->
** [[ハーモニカ]]
** [[アコーディオン]]、[[バンドネオン]]
* そのほか
** 鼻笛(ポリネシアなどで使われている鼻で吹く笛)
そのほか[[民族音楽]]では各種の[[笛]]が使われている
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Woodwind instruments}}
* [[楽器]]
* [[アンブシュア]]
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{{オーケストラの楽器}}
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[[Category:管楽器]]
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17,449 |
鍵盤楽器
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鍵盤楽器(けんばんがっき)は、鍵盤を操作することによって演奏する楽器の総称である。オルガン、チェンバロ、ピアノなどが代表的な鍵盤楽器である。1980年代以降はシンセサイザーなど電子楽器としての鍵盤楽器も一般的になっている。
鍵盤楽器と言えるもので最も古いものは、紀元前3世紀頃に発明されたヒュドラウリス(水オルガン)である。
ヒュドラウリスはその後ヨーロッパにおいてオルガンとして発展し、11世紀にテオフィルスが書いたオルガンの機構図には、並べた平板をそれぞれ前後させて操作する様子が見られる。12世紀頃に書かれたハーディング聖書の挿絵には、上下に作動させるスライダーが描かれている。
より複雑な楽句や音楽を演奏するためには、鍵盤の形状・配列の工夫や小型化が必要であり、手や拳などによる一動作によって一音を奏するよりも、指一本ずつによって奏する形となった。
中世の奏楽図からは、横に並べられたボタン状のキーを押し下げて発音させる楽器になっていったことを見てとることができる。15世紀の「ヘントの祭壇画」では、ほぼ現在の形の鍵盤を見ることが出来る。
オルガンの手鍵盤が現在のものと同様な形状にほぼ定着した頃には、弦を利用したクラヴィコードやチェンバロといった鍵盤楽器も一般的になっていた。
また手鍵盤の補佐のために、足で操作する鍵盤も考案され、小型のボタンやペダルの配列などによる様々な形状の鍵盤が作られたが、最終的には手鍵盤と類似した棒が並んだ形状の大きな足鍵盤が設置されるようになった。
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鍵盤楽器(けんばんがっき)は、鍵盤を操作することによって演奏する楽器の総称である。オルガン、チェンバロ、ピアノなどが代表的な鍵盤楽器である。1980年代以降はシンセサイザーなど電子楽器としての鍵盤楽器も一般的になっている。
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{{出典の明記|date=2023年4月}}
[[File:piano-keyboard.jpg|thumb|[[鍵盤 (楽器)#手鍵盤|手鍵盤]]の例。現代の代表的な鍵盤楽器であるピアノの鍵盤]]
[[File:Bandoneonphoto3.jpg|thumb|[[鍵盤 (楽器)#ボタン式鍵盤|ボタン式鍵盤]]の例([[バンドネオン]])]]
'''鍵盤楽器'''(けんばんがっき)は、[[鍵盤 (楽器)|鍵盤]]を操作することによって[[演奏]]する[[楽器]]の総称である。[[オルガン]]、[[チェンバロ]]、[[ピアノ]]などが代表的な鍵盤楽器である。1980年代以降は[[シンセサイザー]]など電子楽器としての鍵盤楽器も一般的になっている。
== 歴史 ==
[[File:Portativ.png|thumb|15世紀に描かれた[[オルガン#パイプオルガンの種類|ポルタティフ・オルガン]]]]
鍵盤楽器と言えるもので最も古いものは、紀元前3世紀頃に発明されたヒュドラウリス(水オルガン)である。
ヒュドラウリスはその後ヨーロッパにおいてオルガンとして発展し、11世紀にテオフィルスが書いたオルガンの機構図には、並べた平板をそれぞれ前後させて操作する様子が見られる。12世紀頃に書かれたハーディング聖書の挿絵には、上下に作動させるスライダーが描かれている。
より複雑な楽句や音楽を演奏するためには、鍵盤の形状・配列の工夫や小型化が必要であり、手や拳などによる一動作によって一音を奏するよりも、指一本ずつによって奏する形となった。
中世の奏楽図からは、横に並べられたボタン状のキーを押し下げて発音させる楽器になっていったことを見てとることができる。15世紀の「[[ヘントの祭壇画]]」では、ほぼ現在の形の鍵盤を見ることが出来る。
オルガンの手鍵盤が現在のものと同様な形状にほぼ定着した頃には、弦を利用した[[クラヴィコード]]やチェンバロといった鍵盤楽器も一般的になっていた。
また手鍵盤の補佐のために、足で操作する鍵盤も考案され、小型のボタンやペダルの配列などによる様々な形状の鍵盤が作られたが、最終的には手鍵盤と類似した棒が並んだ形状の大きな足鍵盤が設置されるようになった。
== 鍵盤楽器の一覧 ==
{{see also|楽器分類学}}
=== 弦鳴楽器 ===
* [[クラヴィコード]]
* [[チェンバロ|チェンバロ/ハープシコード/クラヴサン]]
** [[スピネット]]
* [[フォルテピアノ]]
* [[ピアノ]]
* [[ニッケルハルパ]]
* [[ハーディ・ガーディ]]
* [[クラヴィネット]]
=== 気鳴楽器 ===
* [[アコーディオン]]
** [[バンドネオン]]
** [[コンサーティーナ]]
* [[オルガン]]
** [[パイプ・オルガン]]
** [[リード・オルガン]]
** [[ハーモニウム]]
* [[鍵盤ハーモニカ]](商標:[[ピアニカ]]、[[メロディオン]]等)
=== 体鳴楽器 ===
*[[カリヨン]]
*[[鍵盤付きグロッケンシュピール]]
*[[チェレスタ]]
*[[ローズ・ピアノ]]
*[[トイピアノ]]
=== 電子楽器 ===
* [[オンド・マルトノ]]
* [[電子オルガン]]
* [[電子ピアノ]]
* [[メロトロン]]
* [[シンセサイザー]]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Keyboard instruments}}
{{wiktionary|鍵盤楽器}}
*[[キーボーディスト]]
*[[鍵盤楽器公正取引協議会]]
{{Musical-instrument-stub}}
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{{オーケストラの楽器}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けんはんかつき}}
[[Category:鍵盤楽器|*]]
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17,450 |
打楽器
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打楽器(だがっき、英語: Percussion)とは、打つ、こする、振るなどして音を出す楽器の総称で、各民族に様々な楽器がある。弦楽器や管楽器と比べて原始的で、長い歴史を持つと考えられている。楽器分類学では体鳴楽器と膜鳴楽器に分けられる。
ただし、上記原理で音を出す楽器でも弦楽器や管楽器、鍵盤楽器に含まれる楽器や打撃する部分が内部に隠されている楽器などは通常は打楽器から除外される(ピアノは打撃により音を出すが、その機構は内部に隠されている)。
人類学者や歴史家たちはしばしば、最初に作り出された音楽用の道具は打楽器であったろうと推測している。人類最初の楽器は人間の声だったと思われるが、手足、それから棒、石、丸太といったものがほぼ間違いなく音楽の進歩の次の一歩であった。
一番古い打楽器は我々自身の手と足で、それから棒や丸太やお尻といった「発見した」物体が続いた。人類が狩猟や農業のための道具を発達させていくにつれ、その技能や技術でより複雑な楽器を作り出すことが可能になった。例えば、丸太は彫りを入れることでより大きな音を出せるようになり(スリットドラム)、組み合わせることで複数の音を出せるようになったのであろう(スリットドラムの「ドラムセット」)。
打楽器には明確な音高を持つものと持たないものとがある。後者はリズムを奏でる。前者はリズムだけではなく、単音の演奏により旋律を奏でたり、和音の演奏による和声も奏でたりする。
打楽器は一般に合奏の「背骨」や「心拍」と形容され、(いるならば)しばしば低音楽器と緊密に連携して機能する。ジャズやその他のポピュラー音楽では、ベーシストとドラマーはしばしばリズム隊と呼ばれる。ハイドンやモーツァルトの時代以降に作曲されたフルオーケストラのためのクラシック作品の大半は、擦弦楽器・木管楽器・金管楽器に重点を置くように作られている。しかしながら、少なくとも1対のティンパニは含められていることが多い。継続的に演奏することは稀で、どちらかと言えば必要に応じて付加的なアクセントを添える役割を担う。18・19世紀には、他の打楽器(トライアングルやシンバルのような)も使われたが、ここでも全体としては控え目にであった。20世紀のクラシック音楽では打楽器はより頻繁に使用されるようになった。
ほとんどありとあらゆる形の音楽で、打楽器は枢要な機能を演じている。軍隊のマーチングバンドやパイプバンド(pipes and drums)では、バスドラムのビートが兵士を行軍させ続け一定の速度を保たせ、スネアドラムが楽隊のメロディにあのキビキビとした決然たる空気を与えている。古典的なジャズでは、「スイング」という言葉を聞けば誰もがすぐにハイハットやライドシンバルの独特のリズムを思い浮かべる。今日のポピュラー音楽文化において、ロックやヒップホップやラップやファンクやソウルなどなどのチャートや楽曲で、何らかの打楽器的なビートがメロディにリズムを与えていないものを探すのはほとんど不可能である。
打楽器は実に多種多様なので、打楽器のみで構成される大きな楽団も珍しいものではない。こうした音楽グループではリズム、メロディ、ハーモニーはいずれも鮮明で活き活きとしたものであり、その生演奏は実に壮観である。
音高のある打楽器は、打楽器以外の楽器の大半と同様にト音記号・ヘ音記号を用いて五線譜に記譜することができる。一定の音高がない打楽器のための音楽は、特化したリズム記号や打楽器記号で記譜される。しばしば、ト音記号やヘ音記号の代わりにリズム記号が用いられる。
[編集]
膜をたたく楽器で、すなわち太鼓である。
気鳴楽器は本来管楽器に含まれるべきであるが、打楽器奏者によって演奏されるために便宜上打楽器に分類されるものがある。
楽器として著名な物、および著名な作曲家が指示した物のみ羅列している。
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"text": "打楽器(だがっき、英語: Percussion)とは、打つ、こする、振るなどして音を出す楽器の総称で、各民族に様々な楽器がある。弦楽器や管楽器と比べて原始的で、長い歴史を持つと考えられている。楽器分類学では体鳴楽器と膜鳴楽器に分けられる。",
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打楽器とは、打つ、こする、振るなどして音を出す楽器の総称で、各民族に様々な楽器がある。弦楽器や管楽器と比べて原始的で、長い歴史を持つと考えられている。楽器分類学では体鳴楽器と膜鳴楽器に分けられる。 ただし、上記原理で音を出す楽器でも弦楽器や管楽器、鍵盤楽器に含まれる楽器や打撃する部分が内部に隠されている楽器などは通常は打楽器から除外される(ピアノは打撃により音を出すが、その機構は内部に隠されている)。
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{{No footnotes|date=2021年9月3日 (金) 16:00 (UTC)}}
[[Image:Percussion Beaters.jpg|thumb|right|300px|打楽器をならす桴(ばち)類。スティックやビーター、マレットなど。]]
'''打楽器'''(だがっき、{{lang-en|Percussion}})とは、打つ、こする、振るなどして音を出す[[楽器]]の総称で、各[[民族]]に様々な楽器がある。[[弦楽器]]や[[管楽器]]と比べて原始的で、長い歴史を持つと考えられている。[[楽器分類学]]では[[体鳴楽器]]と[[膜鳴楽器]]に分けられる。
ただし、上記原理で音を出す楽器でも弦楽器や管楽器、[[鍵盤楽器]]に含まれる楽器や打撃する部分が内部に隠されている楽器などは通常は打楽器から除外される(ピアノは打撃により音を出すが、その機構は内部に隠されている)。
== 歴史 ==
[[Image:Eastern Zhou Dynasty Bronze Bells.jpg|right|thumb|200px|古代中国、東[[周王朝]]の青銅製ベル(鐸)。紀元前6世紀頃。]]
人類学者や歴史家たちはしばしば、最初に作り出された音楽用の道具は打楽器であったろうと推測している。人類最初の楽器は人間の[[声]]だったと思われるが、手足、それから棒、石、丸太といったものがほぼ間違いなく音楽の進歩の次の一歩であった。
一番古い打楽器は我々自身の手と足で、それから棒や丸太やお尻といった「発見した」物体が続いた。人類が[[狩猟]]や[[農業]]のための道具を発達させていくにつれ、その技能や[[テクノロジー|技術]]でより複雑な楽器を作り出すことが可能になった。例えば、丸太は彫りを入れることでより大きな音を出せるようになり([[スリットドラム]])、組み合わせることで複数の音を出せるようになったのであろう(スリットドラムの「ドラムセット」)。
== 機能 ==
打楽器には明確な音高を持つものと持たないものとがある。後者は[[リズム]]を奏でる。前者はリズムだけではなく、単音の演奏により[[メロディ|旋律]]を奏でたり、[[和音]]の演奏による[[和声]]も奏でたりする。
打楽器は一般に合奏の「背骨」や「心拍」と形容され、(いるならば)しばしば低音楽器と緊密に連携して機能する。[[ジャズ]]やその他のポピュラー音楽では、[[ベーシスト]]と[[ドラマー]]はしばしば[[リズム体|リズム隊]]と呼ばれる。[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の時代以降に作曲されたフルオーケストラのためのクラシック作品の大半は、[[弦楽器|擦弦楽器]]・[[木管楽器]]・[[金管楽器]]に重点を置くように作られている。しかしながら、少なくとも1対の[[ティンパニ]]は含められていることが多い。継続的に演奏することは稀で、どちらかと言えば必要に応じて付加的なアクセントを添える役割を担う。18・19世紀には、他の打楽器([[トライアングル]]や[[シンバル]]のような)も使われたが、ここでも全体としては控え目にであった。20世紀のクラシック音楽では打楽器はより頻繁に使用されるようになった。
ほとんどありとあらゆる形の音楽で、打楽器は枢要な機能を演じている。軍隊の[[マーチングバンド]]やパイプバンド([[:en:pipe band|pipes and drums]])では、バスドラムのビートが兵士を行軍させ続け一定の速度を保たせ、スネアドラムが楽隊のメロディにあのキビキビとした決然たる空気を与えている。古典的なジャズでは、「[[シャッフル (音楽)|スイング]]」という言葉を聞けば誰もがすぐに[[ハイハット]]やライドシンバルの独特のリズムを思い浮かべる。今日のポピュラー音楽文化において、[[ロック (音楽)|ロック]]や[[ヒップホップ]]や[[ラップ]]や[[ファンク]]や[[ソウルミュージック|ソウル]]などなどのチャートや楽曲で、何らかの打楽器的なビートがメロディにリズムを与えていないものを探すのはほとんど不可能である。
<!-- XXX 訳文いまいち -->
打楽器は実に多種多様なので、打楽器のみで構成される大きな楽団も珍しいものではない。こうした音楽グループではリズム、メロディ、ハーモニーはいずれも鮮明で活き活きとしたものであり、その生演奏は実に壮観である。
== 打楽器の記譜法 ==
音高のある打楽器は、打楽器以外の楽器の大半と同様に[[ト音記号]]・[[ヘ音記号]]を用いて[[五線譜]]に[[記譜法|記譜]]することができる。一定の音高がない打楽器のための音楽は、特化したリズム記号や打楽器記号で記譜される。しばしば、ト音記号やヘ音記号の代わりにリズム記号が用いられる。
<!-- rhythm clef: とりあえず「リズム記号」――定着した訳語があれば置き換えて下さい("rhythm clef"でgoogle検索すると91件しかありませんが) -->
[[Image:Drumkit notation cymbals.png|シンバルの記譜例]]
==打楽器の分類・主な打楽器==
[[Image:2002-dmuseum-musik002-800.jpg|thumb|right|200px|[[民族楽器|民族打楽器]]の例]]
<!-- Audio samples from [[:en:Hand percussion]] -->
{{Listen|filename=Caxixi.ogg|title=カシシ|description=大小2個のカシシによる演奏|filesize=620 KB}}
{{Listen|filename=shekere.ogg|title=シェケレ|description=シェケレの基本的なグルーヴ|filesize=600 KB}}
{{Listen|filename=Tambourine.ogg|title=現代のタンバリン|description=半月型タンバリンの音色|filesize=710 KB}}
{{Listen|filename=Guiro.ogg|title=現代のギロ|description=ギロの音|filesize=280 KB}}
{{Listen|filename=clave_pattern.ogg|title=クラベス|description=クラベスのパターン|filesize=160 KB}}
{{Listen|filename=Agogo.ogg|title=現代のアゴゴ|description=現代アゴゴのリズムパターン|filesize=150 KB}}
{{Listen|filename=Cowbell.ogg|title=カウベル|description=カウベルのパターン|filesize=200 KB}}
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{{Listen|filename=handpercs.ogg|title=ではみんな一緒に|description=ハンドパーカッションのアンサンブル|filesize=200 KB}}
{{打楽器分類一覧}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2021年9月3日 (金) 16:00 (UTC)}}
*[[:en:James Blades]], ''Percussion Instruments and Their History'', (1970).
*Shen, Sinyan, Acoustics of Ancient Chinese Bells, Scientific American, 256, 94 (1987).
==関連項目==
{{Commonscat|Percussion instruments|打楽器}}
{{Commonscat|Percussion sound|打楽器の音}}
*[[パーカッション]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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{{オーケストラの楽器}}
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17,451 |
DGCA
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DGCA(ディージーシーエー)は、データ圧縮およびアーカイブの形式、もしくはそのファイル形式を取り扱うソフトウェアの名称。DGCAはDigital G Codec Archiverの略称とされる。通称でじこアーカイバ。開発者はGCA形式と同じ鶴田真一。
GCAの後継とされるアーカイブフォーマット。圧縮性能は非常に高く、7-ZipやRAR等の圧縮形式と比べても、ほぼ同等の圧縮率を有する。
基本的な圧縮・展開処理の他にも、破損ファイルの修復や隠蔽、Unicodeファイル名対応など数多くの付加的な機能を備えており、GCAの欠点がほぼ解消されていることも特徴である。
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DGCA(ディージーシーエー)は、データ圧縮およびアーカイブの形式、もしくはそのファイル形式を取り扱うソフトウェアの名称。DGCAはDigital G Codec Archiverの略称とされる。通称でじこアーカイバ。開発者はGCA形式と同じ鶴田真一。
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'''DGCA'''(ディージーシーエー)は、[[データ圧縮]]および[[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイブ]]の形式、もしくはそのファイル形式を取り扱う[[ソフトウェア]]の名称。'''DGCA'''は'''Digital G Codec Archiver'''の略称とされる。通称'''でじこアーカイバ'''。開発者は[[GCA]]形式と同じ鶴田真一。
== 概要 ==
[[GCA]]の後継とされる[[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイブフォーマット]]。圧縮性能は非常に高く、[[7-Zip]]や[[RAR]]等の圧縮形式と比べても、ほぼ同等の[[圧縮率]]を有する。
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== 関連項目 ==
*[[GCA]]
*[[7-Zip]]
*[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]
*[[LHA]]
*[[CAB]]
*[[RAR]]
== 外部リンク ==
* {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20210226070221/http://emit.jp/ |title=とってもごはん}}
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17,453 |
1645年
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1645年(1645 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1645年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛永]]21年12月4日 - 12月15日、[[正保]]元年12月16日 - 正保2年11月14日
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2305年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[順治]]2年
*** [[順 (王朝)|順]]([[李自成]]) : [[永昌 (李自成)|永昌]]2年(旧5月まで)
*** [[張献忠]] : [[大順 (張献忠)|大順]]2年
*** [[胡守龍]] : [[清光]]元年
** [[南明]] : [[弘光]]元年正月 - 5月、[[隆武]]元年7月 -
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]23年
** [[檀君紀元|檀紀]]3978年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[福泰]]3年
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]8年
* [[仏滅紀元]] : 2187年 - 2188年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1054年 - 1055年
* [[ユダヤ暦]] : 5405年 - 5406年
* [[ユリウス暦]] : 1644年12月22日 - 1645年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1645}}
== できごと ==
* [[1月13日]](正保元年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[日本]]:[[元号]]を[[正保]]に改元。
* [[2月8日]] - [[ブレムセブルー条約]]。[[ゴットランド島]]が[[デンマーク]]領から[[スウェーデン]]領となる。
* [[6月14日]] - [[ネイズビーの戦い]]で議会軍が国王軍に勝利。
* [[ヤマサ醤油]]創業。
* [[ヴェネツィア共和国]]、[[オスマン帝国]]に対する海上封鎖( - [[1656年]])
== 誕生 ==
{{see also|Category:1645年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月11日]](寛永21年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[林鳳岡]]、[[江戸幕府]]の[[日本の儒教|儒官]](+ [[1732年]])
* [[2月24日]] - [[ヨハン・アンブロジウス・バッハ]]、[[音楽家]]、大バッハの父(+ [[1695年]])
* [[5月14日]] - [[フランソワ・ド・カリエール]]、[[外交官]]・[[言語学者]]・[[文芸評論家]](+ [[1717年]])
* [[10月26日]] - [[アールト・デ・ヘルデル]]、[[画家]](+ [[1727年]])
* 月日不明 - [[六姫]]、[[池田光政]]の娘、[[悪妻]]として知られる(+ [[1680年]])
* 月日不明 - [[本因坊道策]]、[[囲碁]][[棋士 (囲碁)|棋士]](+ [[1702年]])
* 月日不明 - [[尚貞王|尚貞]]、[[琉球王国]][[国王]](+ [[1709年]])
* 月日不明 - [[ウィリアム・キッド]]、[[私掠船]][[船長]]、[[海賊]](+ [[1701年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1645年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月10日]] - [[ウィリアム・ロード]]、[[イングランド]]の[[政治家]]・[[聖職者]](* [[1573年]])
* [[3月4日]](正保2年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - [[天秀尼]]、[[豊臣秀頼]]の娘、[[豊臣秀吉]]直系の最後の人物(* [[1609年]])
* [[4月16日]] - [[トバイアス・ヒューム]]、[[作曲家]]、[[ヴィオール]]奏者(* [[1569年]]?)
* [[4月19日]] - [[アントニオ・ヴァン・ディーメン|ヴァン・ディーメン]]、[[オランダ]][[植民地]][[総督]](* [[1593年]])
* [[4月30日]](正保2年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]) - [[前田光高]]、[[大名]]、[[加賀藩]]第3代藩主(* [[1616年]])
* [[6月13日]](正保2年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[宮本武蔵]]、兵法家、剣豪(* [[1584年]]?)
* [[7月13日]] - [[ミハイル・ロマノフ]]、[[ツァーリ|ロシア皇帝]](* [[1596年]])
* [[7月22日]] - [[ガスパール・デ・グスマン|ガスパール・デ・グスマン(オリバーレス伯公爵)]]、[[スペイン]]、[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]の寵臣(* [[1587年]])
* [[8月28日]] - [[フーゴー・グローティウス]]、[[オランダ]]の[[法学者]]、[[政治家]](* [[1583年]])
* [[9月20日]](正保2年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[松平忠昌]]、[[越前国]][[福井藩]]第3代[[藩主]](* [[1598年]])
* [[9月24日]] - [[ウィリアム・ローズ]]、作曲家(* [[1602年]])
* [[10月29日]](正保2年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[上杉定勝]]、[[大名]]、[[米沢藩]]第2代藩主(* [[1604年]])
* 月日不明 - [[劉宗周]]、明朝の[[儒学者]](* [[1587年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1645}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}}
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17,454 |
Lhasa
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Lhasa(ラサ)は、LHA及びZIP形式の圧縮ファイルの解凍に用いられるソフトウェアの名称。画像閲覧ソフトとして知られる『Susie』の開発者、竹村嘉人が開発した。国内では書庫解凍ソフトである。また名称は、Lhで始まるプログラム名ということから選ばれたもので、チベットの地名ラサ(Lhasa、拉薩)を示す。
Microsoft Windows登場後、比較的早い時期に公開された。一発で圧縮解凍のできるソフトの先駆者的存在であり、同じようなコンセプトの解凍ソフトはまとめてLhasa系ソフトという呼び方をされる。
圧縮ファイルを扱うソフトは多くあるが、LHAやZIPの解凍ルーチンを内蔵しているため別途にDLLなどが不要なこと、解凍に特化していること、複数の手順を踏まなくても一発で解凍できることなど簡素な操作性である。
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Lhasa(ラサ)は、LHA及びZIP形式の圧縮ファイルの解凍に用いられるソフトウェアの名称。画像閲覧ソフトとして知られる『Susie』の開発者、竹村嘉人が開発した。国内では書庫解凍ソフトである。また名称は、Lhで始まるプログラム名ということから選ばれたもので、チベットの地名ラサ(Lhasa、拉薩)を示す。 Microsoft Windows登場後、比較的早い時期に公開された。一発で圧縮解凍のできるソフトの先駆者的存在であり、同じようなコンセプトの解凍ソフトはまとめてLhasa系ソフトという呼び方をされる。
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{{Otheruses|ソフトウェア|La'cryma Christiのアルバム|Lhasa (アルバム)|その他のラサ|ラサ (曖昧さ回避)}}
{{Infobox Software
| 名称 = Lhasa
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| スクリーンショット =
| 説明文 =
| 開発元 = 竹村嘉人
| 最新版 = 0.20
| 最新版発表日 = [[2010年]][[10月10日]]
| 最新評価版 =
| 最新評価版発表日 =
| 対応OS = [[Microsoft Windows|Windows]]
| 対応プラットフォーム =
| 種別 = [[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイバ]]
| ライセンス = [[フリーウェア]]
| 公式サイト = [http://www.digitalpad.co.jp/~takechin/ Susieの部屋]
}}
'''Lhasa'''(ラサ)は、[[LHA]]及び[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]形式の[[データ圧縮|圧縮]]ファイルの[[LHA#経緯|解凍]]に用いられる[[ソフトウェア]]の名称。画像閲覧ソフトとして知られる『[[Susie]]』の開発者、竹村嘉人が開発した。国内では書庫解凍ソフトである。また名称は、Lhで始まる[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]名ということから選ばれたもので、[[チベット]]の地名[[ラサ]](Lhasa、拉薩)を示す<ref>LHASA.TXTより。</ref>。
[[Microsoft Windows]]登場後、比較的早い時期に公開された。一発で圧縮解凍のできるソフトの先駆者的存在であり、同じようなコンセプトの解凍ソフトはまとめてLhasa系ソフトという呼び方をされる。
== 特徴 ==
圧縮ファイルを扱うソフトは多くあるが、LHAやZIPの解凍[[ルーチン]]を内蔵しているため別途に[[ダイナミックリンクライブラリ|DLL]]などが不要なこと、解凍に特化していること、複数の手順を踏まなくても一発で解凍できることなど簡素な操作性である。
== Lhasa系ソフト ==
*[[Lhaplus]]
*[[+Lhaca]]
*[[Lhaz]]
*[[Lhaforge]]
== 関連項目 ==
*[[アーカイブ (コンピュータ)]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.digitalpad.co.jp/~takechin/ Susieの部屋]
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[[Category:フリーウェア]]
[[Category:解凍ソフト]]
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2019-12-15T00:26:20Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Lhasa
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和楽器
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和楽器(わがっき)とは、日本で伝統的に使われてきた楽器。和太鼓・和琴・尺八・三味線など、先史時代に原形があるものから近世生まれのものまで、種類は多種多様である。
「和」は「日本」を意味するが、「邦(くに、国)」と「楽器」を合わせた邦楽器(ほうがっき)も結果的同義。日本の伝統楽器などという表現もある。英語では "traditional Japanese musical instruments " あるいは "Japanese traditional instruments " と表現する。
大陸文化の影響を受ける以前から伝承される日本固有の楽器としては、和琴が挙げられ、神楽笛(かぐらぶえ)や笏拍子(しゃくびょうし)も日本固有の物と見なされる。その他の和楽器は殆どが、大陸から渡来した楽器を基としているが、日本の文化の中でその形を変え、独自に進化を遂げていった。「雅楽の琵琶」 (楽琵琶) の様に、大陸では既に失われてしまった楽器もある。
アイヌ音楽の楽器であるムックリやトンコリ、沖縄音楽の楽器三線、南九州地方のゴッタンもこの項の解説に含む。
和楽器では、極めて微細な音色の変化を尊重、追求する。そのため、特に室内系和楽器の音色の洗練度は非常に高い。例えば三味線では駒ひとつで大きく音色が変化し、中でも地歌三味線では、一人の奏者が何個もの駒を持ち、その日の天候、楽器のコンディション、曲の雰囲気などに合わせて使い分ける。駒の重さといった細かい差異も追求されている。
また西洋楽器が操作機能や音域拡大、分担化の追求により分化、発展したのに比べ、和楽器は音色の追求により分化・発展していった。三味線音楽の種目ごとに楽器各部や撥、駒、弦 (糸) に僅かな差異があるのがその好例である。胡弓の弓も、ヴァイオリンの弓が機能的に改良されたのとは違って、音色の追求により改良され現在の形になった。弦楽器は現在でも絹糸の弦にこだわるが(箏は経済的な事情でテトロンが多くなった)、これも絹糸でしか出せない音色を尊重するためである。
和楽器では雑音(噪音) の美が認められ、その要素が取り入れられていることが大きな特徴である。近代以降の西洋音楽の楽器(洋楽器)は、倍音以外を出そうとすることはなく、また近隣の中国や朝鮮の音楽と比べても、和楽器には噪音(倍音以外の音)を多く含む音を出す楽器の比率が高い。三味線や楽琵琶を除く各種琵琶の雑音付加機構「さわり」はその代表例である。また通常は噪音を出さない楽器にも噪音を出すための奏法がある。これには、楽器が大陸から日本に伝来し定着する過程で、そのような変化や工夫が加わっていったためと推測される。
和楽器は、西洋音楽のモダンな同属楽器と比較すると音量が小さいものが多い。古典派以降の西洋音楽では、建築学の進化とともに建設された大規模なコンサートホールのような広い空間で演奏するためにより大音量を要求され、奏法や楽器自体に大きな音が出るように改良され(ヴァイオリン、フルートなど)、それに向かなかった楽器(ヴィオール属、リュート、リコーダーなど)が淘汰されたのに対し、日本では比較的小規模な空間で演奏することが多く、楽器の多くが音量による淘汰を免れたためである。そのため和楽器では、耳をこらして微細な音色の変化を賞玩するために音色が洗練・追求された。ただし音量の増大を目的とした改良も行なわれている(山田検校の箏改良など)。
一方、祭礼(祭囃子、神楽など)のために屋外で演奏される分野の楽器は、西洋と比較しても音量が大きい。和太鼓、鉦、鐘、篳篥、横笛、法螺がこれに相当する。また、浄瑠璃や長唄の三味線は歌舞伎・文楽・日本舞踊といった伝統芸能と共に用いられてきたため、広い劇場でもよく聞こえるよう、音量を増す方向に進化した。
また、楽器の改良もシンプルな方向に進むことが多かった。尺八、幕末の一弦琴や二弦琴はその最たる例である。これは、簡潔さの中にこそ美があり、そこに魂や霊が宿り神や仏に近づくという日本独特の美意識・思想が音に反映されたものである。ただし、近親調への転調は近世邦楽では非常に多い。
和琴などを除き、ほとんどの楽器は大陸伝来のものに変化が加えられたものである。日本古来の歌舞や日本人の感性に合うような改良や、材料が国内で入手しやすいものに変えられていった点(ただし三味線や琵琶では江戸時代でも輸入材である唐木が使われたことが少なくない)と、また前述の「噪音」の追加が主な変化である。
和楽器の場合、弦楽器は糸 (絹糸) を用い 、管楽器は竹でできているので、楽器、ひいては音楽を「糸竹 (いとたけ・しちく)」と呼ぶこともある。古代中国では楽器を材料で8種に分類し、これを「八音」と呼んだ。日本でも古くはこれに従ったが、普通は「弾き物 (弦楽器) 」「吹き物 (管楽器) 」「打ち物 (打楽器)」に分けることが多い。和楽器においても西洋楽器と同様に弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器に分ける事はできる。
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"text": "和琴などを除き、ほとんどの楽器は大陸伝来のものに変化が加えられたものである。日本古来の歌舞や日本人の感性に合うような改良や、材料が国内で入手しやすいものに変えられていった点(ただし三味線や琵琶では江戸時代でも輸入材である唐木が使われたことが少なくない)と、また前述の「噪音」の追加が主な変化である。",
"title": "特徴"
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"text": "和楽器の場合、弦楽器は糸 (絹糸) を用い 、管楽器は竹でできているので、楽器、ひいては音楽を「糸竹 (いとたけ・しちく)」と呼ぶこともある。古代中国では楽器を材料で8種に分類し、これを「八音」と呼んだ。日本でも古くはこれに従ったが、普通は「弾き物 (弦楽器) 」「吹き物 (管楽器) 」「打ち物 (打楽器)」に分けることが多い。和楽器においても西洋楽器と同様に弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器に分ける事はできる。",
"title": "主な和楽器"
}
] |
和楽器(わがっき)とは、日本で伝統的に使われてきた楽器。和太鼓・和琴・尺八・三味線など、先史時代に原形があるものから近世生まれのものまで、種類は多種多様である。 「和」は「日本」を意味するが、「邦(くに、国)」と「楽器」を合わせた邦楽器(ほうがっき)も結果的同義。日本の伝統楽器などという表現もある。英語では "traditional Japanese musical instruments " あるいは "Japanese traditional instruments " と表現する。
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[[ファイル:Giant Taiko Drum Nagoya.jpg|thumb|300px|【[[#打楽器|打楽器]]】大型の祭太鼓([[祭事]]で用いる大型の鋲打太鼓){{r|"kb_大太鼓"}}の演奏/画像は[[志多ら]]の公演。]]
[[ファイル:Genji emaki Yadorigi.JPG|thumb|370px|【[[#弦楽器|弦楽器]]】[[平安貴族]]の男性が[[琵琶]]を奏で、女性が聴き惚れている。/男性は『[[源氏物語]]』の[[主人公]]の一人である[[匂宮]]、女性は[[宇治の中君]]。絵は『[[源氏物語絵巻]]』[[宿木]]の一場面。[[平安時代]]後期頃の作。]]
[[ファイル:Suzakumon no tsuki.jpg|thumb|210px|【[[#管楽器|管楽器]]】名笛を奏でる[[朱雀門の鬼]]に挑む[[雅楽]]の名手・[[源博雅]](手前)/[[月岡芳年]]『月百姿 朱雀門の月 博雅三位』/[[浮世絵]][[連作 (作品)|揃物]]『[[月百姿]]』の第19図。1886年(明治19年)刊行。縦大判[[錦絵]]。]]
'''和楽器'''(わがっき)とは、[[日本]]で[[伝統]]的に使われてきた[[楽器]]{{r|kb}}。[[和太鼓]]・[[和琴]]・[[尺八]]・[[三味線]]など、[[先史時代]]に原形があるものから[[近世]]生まれのものまで、種類は多種多様である。
「[[和]]」は「[[日本]]」を意味するが、「[[wikt:邦|邦]]([[wikt:くに|くに]]、[[国]])」と「楽器」を合わせた'''邦楽器'''{{Sfnp|奈良部|2004|loc=書籍名}}(ほうがっき)も結果的[[同義語|同義]]。'''日本の伝統楽器'''{{Sfnp|若林|2019|loc=書籍名}}などという表現もある。[[英語]]では "traditional Japanese musical instruments {{r|"英辞郎_01"}}" あるいは "Japanese traditional instruments {{r|"英辞郎_02"}}" と表現する。
== 概要 ==
大陸文化の影響を受ける以前から伝承される日本固有の楽器としては、[[和琴]]が挙げられ、[[神楽笛]](かぐらぶえ)や[[笏拍子]](しゃくびょうし)も日本固有の物と見なされる。その他の和楽器は殆どが、大陸から渡来した楽器を基としているが、日本の文化の中でその形を変え、独自に進化を遂げていった。「[[雅楽]]の[[琵琶]]」 (楽琵琶) の様に、大陸では既に失われてしまった楽器もある。
[[アイヌ音楽]]の楽器である[[ムックリ]]や[[トンコリ]]、[[沖縄音楽]]の楽器[[三線]]、南九州地方の[[ゴッタン]]もこの項の解説に含む。
== 特徴 ==
=== 音色の追求 ===
[[ファイル:Chikushi and Fue.jpg|thumb|right|[[竹紙]]を貼り付けるために作られた笛の響穴。竹紙の振動、乾湿具合で音色が変わる。]]
和楽器では、極めて微細な音色の変化を尊重、追求する。そのため、特に室内系和楽器の音色の洗練度は非常に高い。例えば三味線では[[駒 (弦楽器)|駒]]ひとつで大きく音色が変化し、中でも[[地歌]]三味線では、一人の奏者が何個もの駒を持ち、その日の天候、楽器のコンディション、曲の雰囲気などに合わせて使い分ける。駒の重さといった細かい差異も追求されている。
また[[洋楽器|西洋楽器]]が操作機能や音域拡大、分担化の追求により分化、発展したのに比べ、和楽器は音色の追求により分化・発展していった。三味線音楽の種目ごとに楽器各部や[[撥]]、[[駒 (弦楽器)|駒]]、[[弦 (楽器)|弦]] ([[糸]]) に僅かな差異があるのがその好例である。[[胡弓]]の[[弓 (楽器)|弓]]も、[[ヴァイオリン]]の弓が機能的に改良されたのとは違って、音色の追求により改良され現在の形になった。弦楽器は現在でも[[絹糸]]の弦にこだわるが(箏は経済的な事情で[[ポリエステル|テトロン]]が多くなった)、これも絹糸でしか出せない音色を尊重するためである。
=== 雑音の美 ===
和楽器では雑音([[倍音|噪音]]) の美が認められ、その要素が取り入れられていることが大きな特徴である。近代以降の[[西洋音楽]]の楽器([[洋楽器]])は、[[倍音]]以外を出そうとすることはなく、また近隣の中国や朝鮮の音楽と比べても、和楽器には噪音(倍音以外の音)を多く含む音を出す楽器の比率が高い。[[三味線]]や楽琵琶を除く各種[[琵琶]]の雑音付加機構「[[さわり]]」はその代表例である。また通常は噪音を出さない楽器にも噪音を出すための奏法がある。これには、楽器が大陸から日本に伝来し定着する過程で、そのような変化や工夫が加わっていったためと推測される。
=== 小さい音量 ===
和楽器は、[[西洋音楽]]のモダンな同属楽器と比較すると音量が小さいものが多い。[[古典派音楽|古典派]]以降の西洋音楽では、[[建築学]]の進化とともに建設された大規模な[[コンサートホール]]のような広い空間で演奏するためにより大音量を要求され、奏法や楽器自体に大きな音が出るように改良され([[ヴァイオリン]]、[[フルート]]など)、それに向かなかった楽器([[ヴィオール属]]、[[リュート]]、[[リコーダー]]など)が淘汰されたのに対し、日本では比較的小規模な空間で演奏することが多く、楽器の多くが音量による淘汰を免れたためである。そのため和楽器では、耳をこらして微細な音色の変化を賞玩するために音色が洗練・追求された。ただし音量の増大を目的とした改良も行なわれている(山田[[検校]]の箏改良など)。
一方、[[祭礼]]([[祭囃子]]、[[神楽]]など)のために屋外で演奏される分野の楽器は、西洋と比較しても音量が大きい。[[和太鼓]]、[[鉦]]、[[鐘]]、[[篳篥]]、[[横笛]]、[[ホラガイ|法螺]]がこれに相当する。また、[[浄瑠璃]]や[[長唄]]の[[三味線]]は[[歌舞伎]]・[[文楽]]・[[日本舞踊]]といった[[伝統芸能]]と共に用いられてきたため、広い[[劇場]]でもよく聞こえるよう、音量を増す方向に進化した。
=== シンプルに改良 ===
また、楽器の改良もシンプルな方向に進むことが多かった。[[尺八]]、幕末の一弦琴や二弦琴はその最たる例である。これは、簡潔さの中にこそ美があり、そこに魂や霊が宿り神や仏に近づくという日本独特の美意識・思想が音に反映されたものである。ただし、[[近親調]]への転調は近世邦楽では非常に多い。
: 例:[[箏]]・[[三味線]]における「楽曲途中での[[調弦]]変更(『転調』)([[地歌]]を参照」)や、[[尺八]]・[[篠笛]]の「指穴半開」、「持ち替え」
[[和琴]]などを除き、ほとんどの楽器は大陸伝来のものに変化が加えられたものである。日本古来の歌舞や日本人の感性に合うような改良や、材料が国内で入手しやすいものに変えられていった点(ただし三味線や琵琶では江戸時代でも輸入材である[[唐木]]が使われたことが少なくない)と、また前述の「[[倍音|噪音]]」の追加が主な変化である。
== 主な和楽器 ==
<!--※読みの表記について、「大太鼓;おおだいこ」のように連濁している語を「おお だいこ」のように分割するのは間違っています。連濁した語を発音だけ“ひっぺがす”ことなんて出来ません。-->
和楽器の場合、弦楽器は[[糸]] (絹糸) を用い 、管楽器は[[竹]]でできているので、楽器、ひいては音楽を「糸竹 (いとたけ・しちく)」と呼ぶこともある。古代中国では楽器を材料で8種に分類し、これを「[[八音]]」と呼んだ。日本でも古くはこれに従ったが、普通は「弾き物 (弦楽器) 」「吹き物 (管楽器) 」「打ち物 (打楽器)」に分けることが多い。和楽器においても西洋楽器と同様に[[弦楽器]]、[[木管楽器]]、[[金管楽器]]、[[打楽器]]に分ける事はできる。
=== 弦楽器 ===
==== [[チター属|ツィター属]] ====
[[ファイル:Koto (sou)-overview.jpeg|thumb|right|一般的な十三絃の箏]]<!--
[[ファイル:Lady playing koto.jpg|thumb|280px|[[長谷川雪堤]]『箏を弾く女性』/1878年(明治11年)の作。[[大和絵]]。[[アメリカ議会図書館]]収蔵 。]]-->
* [[和琴]](わごん) - 大和琴/倭琴(やまとごと)ともいう。
* [[箏]](そう、こと)
** [[楽箏]](がくそう)
** 筑紫箏
** [[俗箏]](ぞくそう、ぞくごと)
*** 琉球箏
** [[短箏]](たんごと)
** 十五絃(じゅうごげん)
** [[十七絃箏]](じゅうしちげん そう)
** [[二十絃箏]](にじゅうげん こと)
** 二十一絃箏(にじゅういちげん こと)
** [[二十五絃箏]](にじゅうごげん こと)
** [[三十絃]](さんじゅうげん)
** [[八十絃]](はちじゅうげん)
* [[一絃琴]] (いちげん きん)
* [[二絃琴]] (にげん きん)
** 八雲琴 (やぐも ごと)
** 東流二弦琴 (あずまりゅう にげんきん)
* [[新羅琴]] (しらぎ ごと)
* [[大正琴]](たいしょうこと)
* [[正倉院瑟]] (しょうそういん しつ)
*三弦琴 (さんげんきん)
==== [[ハープ]]属 ====
* [[箜篌]](くご)
==== [[リュート]]属 ====
[[ファイル:真壁型・人工皮の三線.jpg|thumb|三線]]
* [[琵琶]](びわ)
** [[楽琵琶]](がく びわ)
** 五弦琵琶 (ごげん びわ)
** [[盲僧琵琶]](もうそう びわ)
** 平家琵琶(へいけ びわ)
** [[薩摩琵琶]](さつま びわ)
** [[筑前琵琶]](ちくぜん びわ)
**[[錦琵琶]] (にしき びわ)
**[[鶴田琵琶]] (つるた びわ)
* [[三味線]](しゃみせん)
** 柳川三味線(やながわ しゃみせん)、京三味線(きょうしゃみせん)
** 細棹(ほそざお)
** 中棹(ちゅうざお)
** 地歌用三絃(じうた よう さんげん) - 地歌用の三絃。中棹に分類されることが多いが、構造等に若干の違いがある。
** 太棹(ふとざお)
* [[三線]](さんしん)、[[蛇皮線]](じゃびせん)
* [[ゴッタン]](ごったん)
* [[トンコリ]](とんこり)
* [[カ]] (か)アイヌの擦弦楽器
* [[胡弓]](こきゅう)
** 三弦胡弓 (さんげん こきゅう)
** 藤植流四弦胡弓 (ふじうえりゅう よんげん こきゅう)
** 大胡弓 (だい こきゅう)
** 明治胡弓 (めいじ こきゅう)
** 五絃胡弓 (ごげん こきゅう)
** 四絃胡弓(よんげん こきゅう) - 藤植流のものとは別。
** 玲琴 (れいきん)
** 胡弓 (くーちょー)
** 提琴 (ていきん)
=== 管楽器 ===
==== 無簧管楽器 (木管楽器に相当) ====
[[ファイル:Uta-you Shinobue and Nohkan.jpg|thumb|250px|right|上部より篠笛8本と能管1本]]
* [[横笛]](よこぶえ、おうてき、ようじょう)
** [[神楽笛]](かぐらぶえ)
** [[龍笛]](りゅうてき、竜笛)
** [[高麗笛]](こまぶえ、狛笛)
** [[能管]](のうかん)
** [[篠笛]](しのぶえ)
* 古代尺八 (こだい しゃくはち)
* [[尺八]](しゃくはち)
** [[一節切]](ひとよぎり)
** [[天吹]](てんぷく)
==== 複簧管楽器 (木管楽器に相当) ====
* [[篳篥]](ひちりき)
* 大篳篥 (おお ひちりき)
[[ファイル:Sho,katori-jingu-shrine,katori-city,japan.JPG|thumb|right|150px|笙。[[香取神宮]]にて]]
==== 自由簧管楽器 ====
* [[笙]](しょう、[[鳳笙]](ほうしょう))
* [[竽]] (う) - 用字は「[[wikt:竽|竽]]」([[竹部]]に[[wikt:于|于]])。
==== 唇簧管楽器 (金管楽器に相当) ====
* [[ホラガイ|法螺]](ほら、ほら貝)
=== 打楽器 ===
和太鼓
==== 体鳴楽器 ====
[[ファイル:Japanese-gong,kane,katori-city,japan.JPG|thumb|right|鉦]]
[[ファイル:Naruko1.JPG|thumb|right|鳴子]]
* [[拍子]](ひょうし)
** [[笏拍子]](しゃくびょうし)
** [[拍子木]](ひょうしぎ)、[[ツケ (歌舞伎)]]、[[柝]](き)
** [[小切子]](こきりこ)
** [[四つ竹]](よつだけ)
* [[鉦]](かね、しょう)
** [[鉦鼓]](しょうこ)
** [[金鉦]](きんしょう)
** 「[[鈴|りん]]」、「[[鈴|おりん]]」、「[[鈴|きん]]」
** [[コンチキ]]
** [[当たり鉦]](あたりがね)、[[摺鉦]](すりがね)、[[チャンギリ]]、[[チャンチキ]]
* [[鈴]](すず、れい、りん)
* [[銅鑼]](どら)、[[和ドラ]]
* [[妙八]](みょうばち)、[[妙鉢]]
** [[チャッパ]]、[[銅鉢]](どうばち)、[[銅拍子]](どびょうし)
* [[方響]] (ほうきょう)
* [[鳴物]](なりもの)
** [[ささら]](すりざさら、棒ささら、ささらこ)
** [[こきりこ]]、びんささら(びんざさら、こきりこささら)
** [[鳴子 (楽器)|鳴子]](なるこ)
** [[オルゴール (鳴物)]]
* [[石琴]](せっきん)
** [[サヌカイト]]
* [[ムックリ]]、[[口琴]](こうきん)
==== 膜鳴楽器 ====
[[ファイル:Japanese small hand drum,kotsudumi,katori-city,japan.JPG|thumb|小鼓o]]
[[ファイル:Japanese-small-drum,tsuke-daiko,katori-city,japan.JPG|thumb|right|締太鼓]]
* 最広義の[[和太鼓]](わだいこ) - 日本の太鼓([[楽器分類学#膜鳴楽器|膜鳴楽器]])の総称。
* 枠太鼓(わくだいこ) - [[フレームドラム]]の日本での名称。
* [[鼓]](つづみ)
** [[羯鼓]]/鞨鼓(かっこ)
** [[三ノ鼓]] (さんのつづみ)
** 手鼓(てつづみ、しゅこ) - フレームドラム(枠太鼓)の一種。柄が付いていて、桴({{small|ばち}})を用いないで手で打ち鳴らす鼓。特に、[[能楽]]や[[長唄]][[囃子]]で用いる小鼓。ただし、桴で打ち鳴らす「柄太鼓({{small|えだいこ}})」も「手鼓({{small|しゅこ}})」と呼ばれる。
** [[能楽#囃子|小鼓]](こつづみ)
** [[能楽#囃子|大鼓]](おおかわ、おおつづみ)
** [[壱鼓]] (いっこ)
** [[振鼓]](ふりつづみ) - [[中国]]の{{zh|鼗}}(とう。別表記:{{zh|鞉}}、{{zh|鞀}})の日本での名称。[[舞楽]]で舞人が用いる枠太鼓。似せて作られた[[玩具]]は「[[でんでん太鼓]]」という。
* [[団扇太鼓]](うちわだいこ) - フレームドラム(枠太鼓)の一種。宗教道具(例:[[日蓮宗]]と[[法華宗]]の題目太鼓)、民具(例:[[盆踊]]、[[総踊]])、伝統芸能(例:[[歌舞伎]][[囃子]])などとして用いられる。
* [[パーランクー]] - [[沖縄]]特有の、柄の無い手持ちのフレームドラム(枠太鼓)。
* 広義の[[和太鼓]](わだいこ)<!--※現状では、下位分類の太鼓の殆どは「和太鼓」へリダイレクトされるだけですので、みだりにリンクを張らないで下さい。-->
** 大太鼓(おおだいこ)、小太鼓(こだいこ) - 世界に偏在する太鼓を大きさで区別した場合の名称。楽太鼓の{{ja|鼉太鼓}}/大太鼓({{small|だだいこ}})も大太鼓({{small|おおだいこ}})の一種。
** 鋲打太鼓(びょううちだいこ) - ほとんどは狭義の和太鼓であるが、楽太鼓にも鋲打太鼓はある。
** 楽太鼓(がくだいこ。別名:火焔太鼓)
[[ファイル:Five-panel picture for the Hisakataya Group - Hanging Drum (CBL J 2813).jpg|サムネイル|鼉太鼓、釣太鼓]]
*** {{ja|鼉太鼓}}/大太鼓(だだいこ)、釣太鼓(つりだいこ)、担太鼓/荷太鼓(にないだいこ)
** 狭義の[[和太鼓]](わだいこ)
*** [[長胴太鼓]](ながどうだいこ)、桶胴太鼓(たるどうだいこ)、締太鼓(しめだいこ)、大拍子(だいびょうし)、柄太鼓(えだいこ) - これらは構造に基づく区別。柄太鼓は柄付きか否かの区別。
*** 宮太鼓(みやだいこ)、祭太鼓(まつりだいこ)、触れ太鼓(ふれだいこ)、櫓太鼓(やぐらだいこ)、曳太鼓(ひきだいこ)、担太鼓/荷太鼓(にないだいこ、にだいこ)、題目太鼓(だいもくだいこ) - これらは用途に基づく区別。
*** 猿楽太鼓(さるがくだいこ)、平丸太鼓(ひらまるだいこ。別名:平釣太鼓。とりわけ小さなものは豆太鼓〈{{small|まめだいこ}}〉という) - 用いる分野ごとにある個別の名称。
=== 宗教用具 ===
==== 弦 ====
* [[梓弓]](あずさゆみ)
==== 打 ====
* [[太鼓]] (たいこ)
** [[団扇太鼓]](うちわだいこ) - [[日蓮宗]]と[[法華宗]]が題目太鼓として用いる。
* [[鐘]](かね、しょう)
** [[梵鐘]](ぼんしょう)
** [[半鐘]](はんしょう)
* [[木魚]](もくぎょ)
** [[木鉦]](もくしょう)
** [[魚板]](ぎょばん)、[[板木]](ばんぎ)
* [[鈴]](すず、れい、りん)
** [[巡礼鈴]](じゅんれいすず)、[[振鈴]](しんれい)
** [[巫女鈴]](みこすず)
* [[杖|錫杖]](しゃくじょう)
=== 民具的・玩具的楽器 ===
* 笛玩具
** [[鳩笛]](はとぶえ)
* 太鼓
** [[団扇太鼓]](うちわだいこ)
** [[でんでん太鼓]] - 振鼓({{small|ふりつづみ}})に似せて作られた[[玩具]]。元の名「振鼓」で呼ばれることもある。
* [[鈴]] (すず)
** [[風鈴]] (ふうりん)
** [[土鈴]](どれい)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}<!--
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2
<ref name=kb>{{Cite web|和書|title=和楽器 |url=https://kotobank.jp/word/和楽器-664604 |author=[[小学館]]『デジタル[[大辞泉]]』|publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2020-05-09 }}</ref>
<ref name="英辞郎_01">{{Cite web|和書|title=和楽器 |url=https://eow.alc.co.jp/search?q=和楽器 |publisher=[[アルク]] |website=[[英辞郎]] on the WEB |accessdate=2020-05-09 }}</ref>
<ref name="英辞郎_02">{{Cite web |title=Japanese traditional instrument |url=https://eow.alc.co.jp/search?q=japanese+traditional+instrument |publisher=アルク |website=英辞郎 on the WEB |accessdate=2020-05-09 }}</ref>
<ref name="kb_大太鼓">{{Cite web|和書|title=大太鼓 |url=https://kotobank.jp/word/大太鼓-39326 |author=[[平凡社]]『[[百科事典マイペディア]]』、ほか |publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-09 }}</ref>
|refs=}}
== 参考文献 ==
*<!--ならべ-->{{Cite book |和書 |author=奈良部和美(聞き手)|date=2004-06-07 |title=邦楽器づくりの匠たち {{small|笛、太鼓、三味線、箏、尺八}} |publisher=[[ヤマハミュージックメディア]] (YMM) |series=音楽の匠シリーズ |oclc=123069773 |ref={{SfnRef|奈良部|2004}} }}ISBN 4-636-20351-8、ISBN 978-4-636-20351-6。
*<!--わかばやし-->{{Cite book |和書 |author=若林忠宏|authorlink=若林忠宏 |date=2019-08-20 |title=日本の伝統楽器─知られざるルーツとその魅力 |url=https://www.minervashobo.co.jp/book/b461577.html |publisher=[[ミネルヴァ書房]] |series=シリーズ・ニッポン再発見 11 |oclc=1121077572 |ref={{SfnRef|若林|2019}} }}ISBN 4-623-08737-9、ISBN 978-4-623-08737-2。
<!--
{{参照方法|section=1|date=2020-05-09}}
{{Cite book |和書 |editor=郡司すみ|translator=ヘンリー・ジョンソン{{space}} |date=2012-09 |title=A Dictionary of Traditional Japanese Musical Instruments: From Prehistory to the Edo Period |location= |publisher=エイデル研究所 |language= |oclc= |ref={{SfnRef|郡司・ジョンソン|2012}} }}ISBN 4-87168-513-6、ISBN 978-4-87168-513-9
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<!-- ↑「Wikipedia:スタイルマニュアル/レイアウト#参考文献」や「Wikipedia:出典を明記する」に基づき、暫定的処置として関連文献の項へ移しました。どこの記述に出典として用いられたか分かれば再移動をお願いします。(当該編集者が関連書籍として誤って参考文献に追加した可能性も考えられます)-->
== 関連書籍 ==
*{{Cite book |和書 |editor=郡司すみ|translator=ヘンリー・ジョンソン{{space}} |date=2012-09 |title=A Dictionary of Traditional Japanese Musical Instruments: From Prehistory to the Edo Period |location= |publisher=エイデル研究所 |language= |oclc= |ref={{SfnRef|郡司・ジョンソン|2012}} }}ISBN 4-87168-513-6、ISBN 978-4-87168-513-9
== 関連項目 ==
* [[和楽器奏者を含むポピュラー音楽グループの一覧]]
* [[楽器]]
* [[雅楽]]
* [[邦楽]]
* [[三曲]]
* [[民族楽器]]
* [[洋楽器]]
* [[アイヌ音楽]]
== 外部リンク ==
* [http://www.gs.kunitachi.ac.jp/j_catalogue.html 国立音楽大学楽器学資料館 所蔵楽器目録] 所蔵楽器の画像・音声データベース。
* [https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/ 文化デジタルライブラリー (独立行政法人日本芸術文化振興会)]
** [http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc6/ 日本の伝統音楽 楽器編]
** [http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc8/ 日本の伝統音楽 歌唱編]
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[[Category:日本の伝統音楽]]
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ラサ (インド文化)
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ラサ(Rasa)はインドの伝統的な美学で使われる、カーマ(Kama = 愛)の学問の系統の用語。ある特定の心理的気分や雰囲気を意味し、「感情」「香り」などと訳される。インド舞踊の世界においては「観客の感動」とも。
ラサの考えは、もともと味覚が出発点になっていると言われており、何か口にした時に生じる甘い、辛い、酸っぱいなどの感覚を、詩文鑑賞や演劇鑑賞、音楽鑑賞、ダンス鑑賞の時に感じる「気分」「感情」に拡張したもので、人間の基本的感情を表す。
ラサの内容は明確に統一されてはいないが、例えばインド古典音楽の世界では恋情、滑稽な笑い、悲しみ、怒り、勇ましさ、恐れ、嫌悪、驚き、平和の9つの感情(ナヴァ・ラサ)があるといわれ、音楽家はこのラサを正しく表現しなければならない。つまり、聴衆に「悲しみ」のラサを生じさせる目的で歌をうたって、「怒り」のラサを生じさせてしまってはいけない。ヒンドゥスターニー音楽(北インド古典音楽)の「ラーガ・ジョーンプリ(Raga Jaunpuri)」は悲哀のラサに基づく、代表的なラーガである。ほとばしるような深い悲しみを表現する一方で、その悲しみの中に優しさや力強さを秘める一面を持つ。
インド舞踊の目的は、観客にラサを呼び起こすことにある。演技者(踊り手)の演技表現や顔の表情などで、観客にさまざまな感情を起こさせるように計算されてダンスが作られている。インド舞踊におけるナヴァ・ラサは、以下の通りである。
ダンサーは舞台で感情を表現し、観客はそのダンサーの感情表現に感動する。ここに一種のカタルシスが生まれる。これを「ラサ」といい、「ナヴァ」はダンサーの舞台における基本的な9つの表情をいう。
アーユルヴェーダ(インド伝統医学)の世界では6つのラサ(マドゥー(甘味)、アムラ(酸味)、ラヴァナ(塩味)、カトゥ(辛味)、テクタ(苦味)、ケシャイ(渋味))がある。
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ラサ(Rasa)はインドの伝統的な美学で使われる、カーマの学問の系統の用語。ある特定の心理的気分や雰囲気を意味し、「感情」「香り」などと訳される。インド舞踊の世界においては「観客の感動」とも。 ラサの考えは、もともと味覚が出発点になっていると言われており、何か口にした時に生じる甘い、辛い、酸っぱいなどの感覚を、詩文鑑賞や演劇鑑賞、音楽鑑賞、ダンス鑑賞の時に感じる「気分」「感情」に拡張したもので、人間の基本的感情を表す。 ラサの内容は明確に統一されてはいないが、例えばインド古典音楽の世界では恋情、滑稽な笑い、悲しみ、怒り、勇ましさ、恐れ、嫌悪、驚き、平和の9つの感情(ナヴァ・ラサ)があるといわれ、音楽家はこのラサを正しく表現しなければならない。つまり、聴衆に「悲しみ」のラサを生じさせる目的で歌をうたって、「怒り」のラサを生じさせてしまってはいけない。ヒンドゥスターニー音楽(北インド古典音楽)の「ラーガ・ジョーンプリ(Raga Jaunpuri)」は悲哀のラサに基づく、代表的なラーガである。ほとばしるような深い悲しみを表現する一方で、その悲しみの中に優しさや力強さを秘める一面を持つ。 インド舞踊の目的は、観客にラサを呼び起こすことにある。演技者(踊り手)の演技表現や顔の表情などで、観客にさまざまな感情を起こさせるように計算されてダンスが作られている。インド舞踊におけるナヴァ・ラサは、以下の通りである。 シュリンガーラ (शृङ्गारं) 恋情
ハスィヤ (हास्यं) 気品、笑い、ユーモア
ラウドラ (रौद्रं) 怒り
カルナ (कारुण्यं) 悲しみ
ビーバッア (बीभत्सं) 嫌悪
バヤナカ (भयानकं) 恐怖
ヴィーラ (वीरं) 活力、勇敢
アドゥブタ (अद्भुतं) 驚き
シャンタ (शांत) 平安、寂静 ダンサーは舞台で感情を表現し、観客はそのダンサーの感情表現に感動する。ここに一種のカタルシスが生まれる。これを「ラサ」といい、「ナヴァ」はダンサーの舞台における基本的な9つの表情をいう。 アーユルヴェーダ(インド伝統医学)の世界では6つのラサ(マドゥー、アムラ、ラヴァナ、カトゥ、テクタ、ケシャイ)がある。
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[[Image:Mani Madhava Chakyar-Sringara-new.jpg|thumb|right|250px|[[Koodiyattam]]([[:en:Koodiyattam|英語版]])での「シュリンガラ(恋情)」の表現]]
[[ファイル:Acteur de Kathakali (Kochi, Inde) (14219962516).jpg|サムネイル|[[カタカリ]]の踊り手が見せる9つの表情。[[コーチ (インド)|コーチ]]、インド。]]
'''ラサ'''(Rasa)は[[インド]]の[[伝統]]的な[[美学]]で使われる、[[カーマ (ヒンドゥー教)|カーマ]](Kama = [[愛]])の学問の[[系統]]の用語。ある特定の[[心理]]的[[気分]]や[[雰囲気]]を意味し、「[[感情]]」「[[におい|香り]]」などと[[翻訳|訳]]される。インド[[舞踊]]の世界においては「[[観客]]の感動」とも。
ラサの考えは、もともと[[味覚]]が出発点になっていると言われており、何か口にした時に生じる[[甘味|甘い]]、[[辛味|辛い]]、[[酸味|酸っぱい]]などの[[感覚]]を、[[詩|詩文]][[鑑賞]]や[[演劇]]鑑賞、[[音楽]]鑑賞、[[ダンス]]鑑賞の時に感じる「気分」「感情」に拡張したもので、人間の基本的感情を表す。
ラサの内容は明確に統一されてはいないが、例えばインド古典音楽の世界では[[恋情]]、[[滑稽]]な[[笑い]]、[[悲しみ]]、[[怒り]]、[[勇気|勇ましさ]]、[[恐怖|恐れ]]、[[嫌悪]]、[[驚愕|驚き]]、[[平和]]の9つの感情(ナヴァ・ラサ)があるといわれ、[[音楽家]]はこのラサを正しく[[表現]]しなければならない。つまり、[[聴衆]]に「悲しみ」のラサを生じさせる目的で[[歌]]をうたって、「怒り」のラサを生じさせてしまってはいけない。[[ヒンドゥスターニー音楽]]([[北インド]]古典音楽)の「ラーガ・ジョーンプリ(Raga Jaunpuri)」は悲哀のラサに基づく、代表的な[[ラーガ]]である。ほとばしるような深い悲しみを表現する一方で、その悲しみの中に優しさや力強さを秘める一面を持つ。
インド舞踊の目的は、観客にラサを呼び起こすことにある。演技者(踊り手)の[[演技]]表現や[[顔]]の[[表情]]などで、観客にさまざまな感情を起こさせるように[[計算]]されてダンスが作られている。インド舞踊におけるナヴァ・ラサは、以下の通りである。
# '''シュリンガーラ''' (शृङ्गारं) 恋情
# '''ハスィヤ''' (हास्यं) 気品、笑い、ユーモア
# '''ラウドラ''' (रौद्रं) 怒り
# '''カルナ''' (कारुण्यं) 悲しみ
# '''ビーバッア''' (बीभत्सं) 嫌悪
# '''バヤナカ''' (भयानकं) 恐怖
# '''ヴィーラ''' (वीरं) 活力、勇敢
# '''アドゥブタ''' (अद्भुतं) 驚き
# '''シャンタ''' (शांत) [[平安]]、寂静
ダンサーは[[舞台]]で感情を表現し、観客はそのダンサーの感情表現に感動する。ここに一種の[[カタルシス]]が生まれる。これを「ラサ」といい、「ナヴァ」はダンサーの舞台における基本的な9つの表情をいう。
[[アーユルヴェーダ]](インド[[伝統医学]])の世界では6つのラサ(マドゥー(甘味)、アムラ(酸味)、ラヴァナ([[塩味]])、カトゥ(辛味)、テクタ([[苦味]])、ケシャイ([[渋味]]))がある。
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== 関連項目 ==
* [[ナーティヤ・シャーストラ]]
== 外部リンク ==
* 平凡社「音楽大事典」 - インド項
* [http://www.ffac.or.jp/magazine/09/art.html 福岡市文化芸術振興財団 情報誌 季刊WA[アート入門]アジアの芸能 インド舞踊]
* [http://www.darpana.net/dance/yougo/「インド舞踊用語集 - インド舞踊のこと」のアビナヤ (Abhinaya) 項 ]
* [http://www2u.biglobe.ne.jp/~india/home40-3.htm ナバラサ]
* [http://www.pure.co.jp/~fueya/josyo/1113text.html インド上昇気流4パンフテキスト]
* [http://hena.ohah.net/dental/7.shtml インド伝統的な歯磨き方法は小枝を使用/ハーブで歯磨きデンタルケアー]
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[[category:インドの文化]]
[[Category:美学の概念]]
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17,458 |
RAR
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RAR(ラー、アールエーアール)はデータ圧縮のファイルフォーマットの一つ。元々は MS-DOS ベースのファイル圧縮ソフトウェアの名前及びファイルフォーマットである。
ZIP に比べ高い圧縮率であり、他の圧縮形式にはあまり見られない特色としてリカバリレコードが挙げられる。リカバリレコードとは、一種のハミング符号を付加することで圧縮ファイルの破損をある程度まで修復可能とするものである。また、一定のサイズごとに分割して圧縮することができる。
WinRAR や MacRAR などのソフトウェアで処理を行うことができる。ただし、このフォーマットを扱えるフリーソフトウェアは存在しない。展開専用のソフトウェアunrarは無料で利用できるが、これもフリーソフトウェアではない。
2013年にリリースされたWinRAR5より新フォーマットRAR5が登場した。拡張子は.rarと同じであるが、古いバージョンのソフトウェアでは扱うことができない。
通常のファイルは.rar、.RAR。マルチボリューム(分割)ファイルは古バージョンではrar、.r00、r01、r02のような拡張子の連番ファイルとなる(現在のバージョンでは.part1.rar、.part2.rarのようになる)。.revはリカバリーボリュームファイル。
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RAR(ラー、アールエーアール)はデータ圧縮のファイルフォーマットの一つ。元々は MS-DOS ベースのファイル圧縮ソフトウェアの名前及びファイルフォーマットである。
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{{otheruses|ファイルフォーマット|その他|Rar}}
{{出典の明記|date=2020年9月}}
{{Infobox file format
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'''RAR'''(ラー、アールエーアール)は[[データ圧縮]]の[[ファイルフォーマット]]の一つ。元々は [[MS-DOS]] ベースのファイル圧縮ソフトウェアの名前及びファイルフォーマットである。
== 概要 ==
[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]] に比べ高い圧縮率であり、他の圧縮形式にはあまり見られない特色としてリカバリレコードが挙げられる。リカバリレコードとは、一種の[[ハミング符号]]を付加することで圧縮ファイルの破損をある程度まで修復可能とするものである。また、一定のサイズごとに分割して圧縮することができる。
[[WinRAR]] や [[MacRAR]] などの[[ソフトウェア]]で処理を行うことができる。ただし、このフォーマットを扱えるフリーソフトウェアは存在しない。展開専用のソフトウェアunrarは無料で利用できるが、これもフリーソフトウェアではない。
[[2013年]]にリリースされたWinRAR5より新フォーマットRAR5が登場した。拡張子は.rarと同じであるが、古いバージョンのソフトウェアでは扱うことができない。
== 拡張子 ==
通常のファイルは.rar、.RAR。マルチボリューム(分割)ファイルは古バージョンではrar、.r00、r01、r02のような拡張子の連番ファイルとなる(現在のバージョンでは.part1.rar、.part2.rarのようになる)。.revはリカバリーボリュームファイル。
==フォーマット==
* v1.3 (オリジナル、"Rar!"のシグネチャーを持たない)
* v1.5
* v2.0 - WinRAR 2.0とMS-DOS2.0向けの Rarにてリリース。以下の特徴を持つ:
** トゥルーカラービットマップ画像、非圧縮オーディオ向けのマルチメディア圧縮
** 1MBまでの圧縮辞書サイズ
** リカバリーレコード
* v2.9 - WinRAR 3.00にてリリース
** 拡張子が従来の {ボリューム名}.rar, {ボリューム名}.r00, {ボリューム名}.r01, etc. から、{ボリューム名}.part001.rar, {ボリューム名}.part002.rar, etc. に変更
** ファイルヘッダとファイルのデータ両方が暗号化されるようになった(従来はファイル名だけは閲覧可能だった)。
** 圧縮方式として 4 MB の辞書を使用、テキストデータには Dmitry Shkarin の PPMII アルゴリズムが使用可能、他のデータにはプラットフォームとファイルタイプに応じた事前処理のためのフィルタを使用する。
** 暗号化方式が[[暗号利用モード#CBC|Cipher Block Chaining]]から[[Advanced Encryption Standard|AES]] の 128 ビット長の暗号鍵に変更可能
** リカバリーボリューム(.rev)が作成可能。ボリュームセットの欠損ファイルを修復できる。
** 9 GB以上の圧縮ファイルが作成可能。
** [[Unicode]]対応、ファイル名は[[UTF-16]]リトルエンディアンで保存。
* v5.0 - WinRAR 5.0以降でサポート
** 最大圧縮辞書サイズが1GBにアップ。デフォルトが32MBに(WinRAR 4、v2.9フォーマットでのデフォルトは4MB)。
** RAR、ZIPフォーマットでのファイル名の最大長が2048文字までにアップ。
** [[リード・ソロモン符号]]によるリカバリーレコードにより、複数エリアに損傷があるアーカイブの復元性能がアップ。有効なリカバリーレコードサイズ上限が256MBから無制限に。
** リカバリーボリュームの高速化。上限が通常ボリュームファイル含めて255個から65535個に
** [[UTF-8]]にてファイル名を保存
** ファイルタイムスタンプを[[UTC]]で保存
** 解凍時のマルチスレッドサポート
** 256ビットAESによる暗号化.
** 32ビットCRCに加えオプションで256ビット[[BLAKE|BLAKE2sp]]チェックサムをサポート
** 重複ファイルを検出し、重複ファイルのうち1つだけを保存する機能。解凍時に重複ファイルも復元される。
** [[NTFS]] ハードリンク、シンボリックリンク、リパース・ポイント保存に対応
** クイックオープンレコード。アーカイブに格納されるファイルのヘッダーコピーをまとめて、アーカイブ末尾に加えることで、アーカイブファイルを高速に読み込むことが可能。ヘッダーサイズ分アーカイブ容量が増えるため、デフォルトではファイルサイズの大きなアーカイブのみ有効。
**
** テキスト圧縮、マルチメディア圧縮、Itanium実行ファイル圧縮アルゴリズムの削除。これにより一部のファイルはRAR5より従来フォーマットのほうが圧縮率が高い。
== 関連項目 ==
* [[CDisplay RAR Archived Comic Book File|CBR]] - RAR を用いたデータフォーマット
* [[7-Zip]]
* [[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]
* [[LHA]] - 同じく「ラー」と呼ぶユーザーがいる
* [[CAB]]
* [[DGCA]]
* [[GCA]]
== 外部リンク ==
* [https://www.rarlab.com/ RARLAB] - 開発元
* [https://www.winrarjapan.com/ WinRAR in Japan] - 日本オフィシャルページ
* [https://osdn.net/projects/sfnet_macrar/ MacRAR Project] - SourceForge.jp
* [https://macitbetter.com/ BetterZip 2] ([[macOS]])
{{アーカイブファイルフォーマット}}
[[Category:データ圧縮規格]]
[[Category:ロシアの発明]]
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2022-03-06T04:03:03Z
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[
"Template:Otheruses",
"Template:出典の明記",
"Template:Infobox file format",
"Template:アーカイブファイルフォーマット"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/RAR
|
17,459 |
ウンマ (シュメールの都市国家)
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ウンマ(シュメール語:𒄑𒆵𒆠 umma、現:イラク、ジーカール県、ウンム・アル=アカリブ〈Umm al-Aqarib〉、公式にはジシバン〈Gishban〉とも呼ばれる)はシュメールの古代都市。この遺跡のシュメール語とアッカド語の名称については学術的な議論がある。伝統的にウンマはテル・ジョハ(Tell Jokha)であるとされていた。最近では南東方向に7キロメートル弱の位置にあるウンム・アル=アカリブがウンマであった、あるいはこの両方の名前がウンマであったという説が出されている。
初期のシュメールのテキスト、『イナンナの冥界下り』において、イナンナ女神は貧困の中で暮らしていたウンマの都市神シャラ(英語版)を冥界に連れ去ろうとする悪魔を思いとどまらせる。悪魔たちは最終的に、豪華絢爛な生活をしていたウルクの王ドゥムジをシャラの代わりに連れ去った。
前2400年頃、エンメテナ王によって記録されたラガシュとの長期にわたる国境紛争が最も良く知られている。この都市は前2275年頃、ルガルザゲシ王の統治の下で最盛期を迎えた。彼はウルとウルクをも支配していた。ウル第3王朝の下で、ウンマは重要な地方的中心となった。ウンマの遺跡で発見された30,000枚を超える粘土板の大半は当時の行政的・政治的文書である。これらによってウンマの出来事について非常に良く見通すことが可能になっている。シュルギ王(在位:前21世紀頃)のウンマ暦は後のバビロニア暦の先駆を成すものであり、パレスチナからの追放後のユダヤ人たちの暦(ユダヤ暦)にも間接的には関わりがある。ウンマは青銅器時代中盤に放棄されたと考えられる。
1854年、ウィリアム・ロフタス(英語版)がテル・ジョハの遺跡を訪れ、1885年にはペンシルベニア大学のジョン・パネット・ピーターズ(英語版)がここを訪れた。1900年代初頭、ウンマから違法に発掘されたウル第3王朝時代の粘土板が数多く骨董市場に出回り始めた。テル・ジョハはウンマの属領であったギシャ(Gisha、Kissa)であると特定されており、ウンマそれ自体の遺跡は約6.5キロメートル南東にあるウンム・アル=アカリブ〈Umm al-Aqarib〉にある。ウンム・アル=アカリブにおいて、考古学者たちは初期王朝時代(英語版)(前2900年頃-前2300年頃)まで遡る層を発見した。この層には神殿や宮殿であるとされている大規模建造物が含まれている。
2017年にスロヴァキア考古・歴史学研究所(the Slovak Archaeological and Historical Institute)がテル・ジョハの発掘を始めた。
2003年のイラク侵攻の間、連合軍が爆撃を開始した後、略奪者(英語版)たちがウンマの遺跡にやってきた。現在、この場所には数百もの溝、盗掘孔があばたのようにあけられている。この過程で、将来の公的な発掘と調査の見通しは非常に暗いものとなった 。
2011年、発展途上国の文化遺産への脅威を監視するアメリカのNGO団体のプロジェクト、グローバル・ヘリテージ・ネットワーク(英語版)(GHN)が2003年と2010年の航空写真の比較画像を公開し、全体でおおよそ1.12平方キロメートルの範囲における、この期間の略奪者の盗掘孔による破壊の状況を示した。ウンム・アル=アカリブの状況に関連するさらなる画像は、イラクの考古学遺産の破壊についてのタッカー(Tucker)の記事に掲載されている。
キシュの王アッガ(前26世紀頃)は恐らくウンマを占領し、その結果初期王朝時代(英語版)の間、ザバラ(英語版)は彼に従属していた。
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ウンマはシュメールの古代都市。この遺跡のシュメール語とアッカド語の名称については学術的な議論がある。伝統的にウンマはテル・ジョハであるとされていた。最近では南東方向に7キロメートル弱の位置にあるウンム・アル=アカリブがウンマであった、あるいはこの両方の名前がウンマであったという説が出されている。
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[[Image:Sumer map.jpg|thumb|260px|シュメールにおけるウンマ市の位置]]
'''ウンマ'''([[シュメール語]]:{{cuneiform|𒄑𒆵𒆠}} ''umma<sup>KI</sup>''<ref>{{cite web|url=http://oracc.museum.upenn.edu/epsd2/o0048182|title=ORACC – Umma|accessdate=2020年10月13日}}</ref>、現:[[イラク]]、[[ジーカール県]]、ウンム・アル=アカリブ〈''Umm al-Aqarib''〉、公式にはジシバン〈''Gishban''〉とも呼ばれる)は[[シュメール]]の古代都市。この遺跡のシュメール語とアッカド語の名称については学術的な議論がある<ref>W. G. Lambert, "The Names of Umma", ''[[:en:Journal of Near Eastern Studies|Journal of Near Eastern Studies]]'', 49 (1990), pp. 75–80.</ref>。伝統的にウンマはテル・ジョハ(''Tell Jokha'')であるとされていた。最近では南東方向に7キロメートル弱の位置にあるウンム・アル=アカリブがウンマであった、あるいはこの両方の名前がウンマであったという説が出されている<ref>[http://cdli.ucla.edu/pubs/cdlb/2015/cdlb2015_002.html] Vitali Bartash, "On the Sumerian City UB-meki, the Alleged “Umma”, Cuneiform Digital Library Bulletin 2015:2, Cuneiform Digital Library Initiative, November 2015, ISSN 1540-8760</ref><ref name=Bryce>Trevor Bryce, ''The Routledge Handbook of The Peoples and Places of Ancient Western Asia: The Near East from the Early Bronze Age to the fall of the Persian Empire'', Routledge, 2009, pp. 738–739.</ref>。
== 歴史 ==
初期のシュメールのテキスト、『イナンナの冥界下り』において、[[イナンナ]]女神は貧困の中で暮らしていたウンマの都市神{{仮リンク|シャラ (神)|label=シャラ|en|Shara (god)}}を冥界に連れ去ろうとする悪魔を思いとどまらせる。悪魔たちは最終的に、豪華絢爛な生活をしていたウルクの王[[タンムーズ|ドゥムジ]]をシャラの代わりに連れ去った<ref>[http://etcsl.orinst.ox.ac.uk/cgi-bin/etcsl.cgi?text=t.1.4.1# Inanna's descent to the netherworld - ETCSL]</ref>。
前2400年頃、[[エンメテナ]]王によって記録された[[ラガシュ]]との長期にわたる国境紛争が最も良く知られている<ref>Jerrold S. Cooper, ''History from Ancient Inscriptions: The Lagash-Umma Border Conflict'', Undena, 1983, {{ISBN2|0-89003-059-6}}</ref>。この都市は前2275年頃、[[ルガルザゲシ]]王の統治の下で最盛期を迎えた。彼は[[ウル]]と[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]をも支配していた。[[ウル第3王朝]]の下で、ウンマは重要な地方的中心となった。ウンマの遺跡で発見された30,000枚を超える粘土板の大半は当時の行政的・政治的文書である。これらによってウンマの出来事について非常に良く見通すことが可能になっている<ref>P. A. Parr, "A Letter of Ur-Lisi: Governor of Umma", ''[[:en:Journal of Cuneiform Studies|Journal of Cuneiform Studies]]'', 24 (1972), pp. 135–136</ref>。[[シュルギ]]王(在位:前21世紀頃)の[[バビロニア暦|ウンマ暦]]は後の[[バビロニア暦]]の先駆を成すものであり、パレスチナからの[[バビロン捕囚|追放後]]のユダヤ人たちの暦([[ユダヤ暦]])にも間接的には関わりがある。ウンマは青銅器時代中盤に放棄されたと考えられる<ref name=Bryce/>。
== 考古学 ==
1854年、{{仮リンク|ウィリアム・ロフタス|en|William Loftus (archaeologist)}}がテル・ジョハの遺跡を訪れ、1885年には[[ペンシルベニア大学]]の{{仮リンク|ジョン・パネット・ピーターズ|en|John Punnett Peters}}がここを訪れた。1900年代初頭、ウンマから違法に発掘された[[ウル第3王朝]]時代の粘土板が数多く骨董市場に出回り始めた<ref>Georges Contenau, ''Contribution a l'Histoire Economique d'Umma, Librairie Champion'', 1915</ref>。テル・ジョハはウンマの属領であったギシャ(''Gisha''、''Kissa'')であると特定されており、ウンマそれ自体の遺跡は約6.5キロメートル南東にあるウンム・アル=アカリブ〈''Umm al-Aqarib''〉にある。ウンム・アル=アカリブにおいて、考古学者たちは{{仮リンク|シュメール初期王朝時代|label=初期王朝時代|en|Early Dynastic Period (Mesopotamia)}}(前2900年頃-前2300年頃)まで遡る層を発見した。この層には神殿や宮殿であるとされている大規模建造物が含まれている<ref name=Bryce/><ref>Haider Oraibi Almamori, "The Early Dynastic Monumental Buildings At Umm Al-Aqarib", ''Iraq'', 76 (December 2014), pp. 149-187</ref>。
2017年にスロヴァキア考古・歴史学研究所(the Slovak Archaeological and Historical Institute)がテル・ジョハの発掘を始めた<ref>Drahoslav Hulínek and Tibor Lieskovský, Report Archaeological project SAHI - Tell Jokha, 2016, Slovak Archaeological and Historical Institute, 2016</ref>。
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File:Stele_of_Ushumgal_MET_DT849.jpg|{{仮リンク|ウシュムガルの碑|en|Stele of Ushumgal}}。前2900年-前2700年頃。恐らくウンマから発見<ref>{{cite web|title=Stele of Ushumgal|url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/329079|website=www.metmuseum.org|accessdate=2020年10月13日}}</ref>。
File:This cuneiform text gives the city of Umma's account of its long-running border dispute with Lagash. Circa 2350 BCE. From Umma, Iraq. The British Museum, London.jpg|{{仮リンク|ウルルンマ|en|Ur-Lumma}}の子、ウンマ王[[:en:Gishakidu|Gishakidu]]の壺。刻まれている楔形文字文書にはラガシュとの間で争われた長期の国境紛争の記録がある。前2350年頃、イラク、ウンマで発見。[[ロンドン]]の[[大英博物館]]収蔵。
File:Votive plaque of a beard-IMG 6857.JPG|ウンマの王妃[[:en:Bara-irnun|Bara-irnun]]が、助命されたことを感謝して[[シャラ]]神に奉納した飾り板。前2370年頃<ref>{{cite web |title=Site officiel du musée du Louvre |url=http://cartelfr.louvre.fr/cartelfr/visite?srv=car_not_frame&idNotice=11850 |website=cartelfr.louvre.fr|accessdate=2020年10月13日}}</ref>。
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=== 略奪 ===
[[File:Imprisoned man of Umma on the Stele of the Vultures.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|ハゲワシの碑|en|Stele of the Vultures}}に描かれた捕らわれた男。]]
[[File:Gutian inscription-AO 4783-gradient.jpg|thumb|upright|前2130年頃のウンマの碑文。「ウンマのエンシ、{{仮リンク|ルガルアンナトゥム|en|Lugalannatum}}は... この<small>''E.GIDRU''</small>[王笏]神殿をウンマに建て、彼の基礎を埋めこみ、[そして]命令を行使した{{訳語疑問点|date=2020年10月}}。この時Si'umが[[グティ人]]の王であった。」。[[ルーブル美術館]]収蔵。]]
{{仮リンク|イラク侵攻 (2003年)|label=2003年のイラク侵攻|en|2003 invasion of Iraq}}の間、連合軍が爆撃を開始した後、{{仮リンク|イラクにおける考古学遺物の略奪|label=略奪者|en|Archaeological looting in Iraq}}たちがウンマの遺跡にやってきた。現在、この場所には数百もの溝、盗掘孔があばたのようにあけられている。この過程で、将来の公的な発掘と調査の見通しは非常に暗いものとなった<ref>[https://www.theguardian.com/commentisfree/story/0,,2098272,00.html] ''Guardian'' article on Umma looting</ref> 。
2011年、[[発展途上国]]の文化遺産への脅威を監視するアメリカのNGO団体のプロジェクト、{{仮リンク|グローバル・ヘリテージ・ネットワーク|en|Global Heritage Network}}(GHN)が2003年と2010年の航空写真の比較画像を公開し、全体でおおよそ1.12平方キロメートルの範囲における、この期間の略奪者の盗掘孔による破壊の状況を示した<ref>[http://globalheritagefund.org/images/uploads/docs/GHNBriefingDocument.pdf] Satellite Imagery Briefing: Monitoring Endangered Cultural Heritage</ref>。ウンム・アル=アカリブの状況に関連するさらなる画像は、イラクの考古学遺産の破壊についてのタッカー(Tucker)の記事に掲載されている<ref>{{cite news
|url=http://www.uruknet.info/?p=58169|title=Brutal Destruction of Iraq's Archaeological Sites Continues|author=Diane Tucker|publisher=uruknet.info|date=21 September 2009}}</ref>。
== ウンマの君主 ==
キシュの王[[アッガ]](前26世紀頃)は恐らくウンマを占領し、その結果{{仮リンク|シュメール初期王朝時代|label=初期王朝時代|en|Early Dynastic Period (Mesopotamia)}}の間、{{仮リンク|ザバラ (シュメール)|label=ザバラ|en|Zabala (Sumer)}}は彼に従属していた<ref>{{cite book |last1=Frayne |first1=Douglas |title=The Struggle for Hegemony in "Early Dynastic II" Sumer |publisher=The Canadian Society for Mesopotamian Studies 2010 |date=2009 |page=65-66 |url=https://www.academia.edu/4032059 |language=en}}</ref>。
=== ウンマ第1王朝 ===
{| class="nowraplinks" cellspacing="0" cellpadding="3" rules="all" style="background:#fbfbfb; border-style: solid; border-width: 1px; font-size:90%; empty-cells:show; border-collapse:collapse"
|- bgcolor="#F6E6AE"
! 君主 !! !! 推定在位年代 !! 備考
|-
| {{仮リンク|パビルガガルトゥク|en|Pabilgagaltuku}} || || 前26世紀 || ウンマのエンシ。彼はラガシュの[[ウル・ナンシェ]]によって捕らわれた<ref name="WS74">{{cite book |last1=Sallaberger |first1=Walther |last2=Schrakamp |first2=Ingo |title=History & Philology |date=2015 |publisher=Walther Sallaberger & Ingo Schrakamp (eds), Brepols |isbn=978-2-503-53494-7 |pages=74–80 |url=https://www.assyriologie.uni-muenchen.de/personen/professoren/sallaberger/publ_sallaberger/wasa_schrakamp_2015_arcane1.pdf}}</ref>。
|-
|{{仮リンク|ウシュ (ウンマの王)|label=ウシュ|en|Ush, king of Umma}}<br>(ニンタ(''Ninta'')) || [[File:Imprisoned_man_of_Umma_on_the_Stele_of_the_Vultures.jpg|50px]] || 前2500年頃 || [[ラガシュ]]を攻撃し、{{仮リンク|メシリム|en|Mesilim}}が設置した境界石を除去した。その後、[[エアンナトゥム]]によって破られた.<ref name="WS74"/>。
|-
|{{仮リンク|エンアカルレ|en|Enakalle}} ||<center>[[File:Enakalle_on_the_plate_of_queen_Bara-irnun.jpg|25px]]</center> || 前2500年頃-前2400年頃 ||[[エアンナトゥム]]と国境画定の条約を結んだ<ref name="HANEA">{{cite book |last1=Van De Mieroop |first1=Marc |title=A History of the Ancient Near East: Ca. 3000-323 BC |date=2004 |publisher=Wiley |isbn=9780631225522 |pages=50–51 |url=https://books.google.com/books/about/A_History_of_the_Ancient_Near_East.html}}</ref>。
|-
|{{仮リンク|ウルルンマ|en|Ur-Lumma}} || [[File:Ur-Lumma,_king_of_Umma,_son_of_En-a-Kale_tablet.jpg|50px]] ||前2500年頃-前2400年頃 ||エンアカルレの息子。[[エンアンナトゥム1世]]に挑んだが、彼の後継者[[エンメテナ]]に敗れた<ref name="HANEA"/><ref name="WS74"/>。
|-
|{{仮リンク|イル (ウンマ王)|label=イル|en|Il, king of Umma}} || [[File:Stone_tablet_re_Il,_king_of_Umma,_c._2400_BC_-_Oriental_Institute_Museum,_University_of_Chicago_-_DSC07155_(orientation).jpg|50px]] ||前2500年頃-前2400年頃 ||ウルルンマの後継者。彼は{{仮リンク|エンアンナトゥム2世|en|Enannatum II}}に対して反乱を起こし、ウルナンシェの王朝を滅ぼした。<ref name="HANEA"/>
|-
|{{仮リンク|ギシャキドゥ|en|Gishakidu}} || [[File:This_cuneiform_text_gives_the_city_of_Umma's_account_of_its_long-running_border_dispute_with_Lagash._Circa_2350_BCE._From_Umma,_Iraq._The_British_Museum,_London.jpg|50px]] ||2500–2400 BCE ||イルの息子<ref name="WS74"/>。
|-
|エディン || ||前2500年頃-前2400年頃 || ウンマの君主<ref name="WS74"/>。
|-
|メアンネドゥ(''Meanedu'') || ||前2500年頃-前2400年頃 || ウンマの君主<ref name="WS74"/>。
|-
|ウシュルドゥ(''Ushurdu'') || ||前2500年頃-前2400年頃 || ウンマの君主<ref name="WS74"/>。
|-
|{{仮リンク|ウクシュ|en|Ukush}} ||[[File:Lugalzagesi_king_of_Uruk_king_of_the_Land_son_of_Ukush.jpg|50px]] ||2400–2300 BCE ||[[ルガルザゲシ]]の父.<ref name="WS74"/>。
|-
|[[ルガルザゲシ]] ||[[File:Prisoner_exiting_a_cage,_on_an_Akkadian_Empire_victory_stele_circa_2300_BCE,_Louvre_Museum.jpg|50px]] ||2400–2300 BCE ||全シュメールを征服し、[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]第3王朝を築いた。その後アッカドの王[[サルゴン (アッカド王)|サルゴン]]によって打ち破られた<ref name="WS74"/>。
|}
=== ウンマ第2王朝 ===
{| class="nowraplinks" cellspacing="0" cellpadding="3" rules="all" style="background:#fbfbfb; border-style: solid; border-width: 1px; font-size:90%; empty-cells:show; border-collapse:collapse"
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! 君主 !! !! 推定在位年代 !! 備考
|-
|{{仮リンク|ルガルアンナトゥム|en|Lugalanatum}} || [[File:Gutian_inscription-AO_4783-gradient.jpg|50px]] ||前2113年頃 ||[[グティ人]]の王朝の臣下<ref name="WS74"/>。
|}
{{multiple image|perrow=2|total_width=300|caption_align=center
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| header=ウンマの役人。前2400年頃。
| image1 = Diorite statue of Lupad, official in town of Umma, Early Dynastic Period III, c. 2400 BC.jpg
| image2 = Upad of Umma.jpg
| footer=ウンマの役人ルパド(''Lupad'')の[[閃緑岩]]製の像。[[ラガシュ]]の土地の購入記録の碑文がある。初期王朝時代3期、前2400年頃<ref>{{cite book |last1=King |first1=L. W. (Leonard William) |title=A history of Sumer and Akkad : an account of the early races of Babylonia from prehistoric times to the foundation of the Babylonian monarchy |date=1910 |publisher=London : Chatto & Windus |page=96 |url=https://archive.org/details/historyofsumera00king/page/96/mode/2up}}</ref>。
}}
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* {{仮リンク|古代オリエントの都市一覧|en|Cities of the Ancient Near East}}
* [[古代オリエントの編年|低年代説]]
== 参考文献 ==
* B. Alster, Geštinanna as Singer and the Chorus of Uruk and Zabalam: UET 6/1 22, JCS, vol. 37, pp. 219–28, 1985
* Tonia M. Sharlach, Provincial taxation and the Ur III State, Brill, 2003, {{ISBN2|90-04-13581-2}}
* Trevor Bryce, ''The Routledge Handbook of The Peoples and Places of Ancient Western Asia: The Near East from the Early Bronze Age to the fall of the Persian Empire'', Routledge, 2009
* B. R. Foster, Umma in the Sargonic Period, Memoirs of the Connecticut Academy of Arts and Sciences, vol. 20, Hamden, 1982
* Georges Contenau, Umma sous la Dynastie d'Ur, Librarie Paul Geuthner, 1916
* Jacob L. Dahl, The Ruling Family of Ur III Umma: A Prosopographical Analysis of an Elite Family in Southern Iraq 4000 Years ago, Nederlands Instituut voor het Nabije Oosten/Netherlands Institute for the Near East (NINO), 2007, {{ISBN2|90-6258-319-9}}
* Shin T. Kang, Sumerian economic texts from the Umma archive, {{仮リンク|イリノイ大学出版|label=University of Illinois Press|en|University of Illinois Press}}, 1973, {{ISBN2|0-252-00425-6}}
* Diana Tucker, "Brutal Destruction of Iraq's Archaeological Sites Continues", online article from September 21, 2009 posted on www.uruknet.info, http://www.uruknet.info/?p=58169
== 外部リンク ==
* {{commons category-inline}}
* [http://oi.uchicago.edu/OI/IRAQ/dbfiles/farchakh/farchakh_180.htm 遺跡略奪の写真 - Oriental Institute]
* [https://web.archive.org/web/20110617025307/http://cdli.ucla.edu/wiki/doku.php/the_ur_iii_province_of_umma ウンマ州(ウル第3王朝) - CDLI]
* [https://web.archive.org/web/20111007062251/http://ghn.globalheritagefund.org/explore.php?id=1183 Global Heritage Networkのウンマ調査]
* [http://www.uruknet.info/?p=58169 継続するイラクの考古学遺跡の凄惨な破壊Brutal Destruction of Iraq's Archaeological Sites Continues]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:うんま}}
[[Category:イラクの考古遺跡]]
[[Category:シュメールの都市]]
[[Category:ジーカール県]]
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2022-10-31T00:13:09Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%9E_(%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%9B%BD%E5%AE%B6)
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オーケストラの一覧
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オーケストラの一覧(オーケストラのいちらん)は、世界のオーケストラ(交響楽団)についての一覧である。
ここでは古楽器を用いて演奏し、古典派音楽以降も演奏範囲に含める比較的規模の大きいオーケストラを列記する。古楽#主要な古楽演奏団体も参照のこと。
※ 日本オーケストラ連盟の準会員は☆。
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オーケストラの一覧(オーケストラのいちらん)は、世界のオーケストラ(交響楽団)についての一覧である。
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{{Portal クラシック音楽}}
'''オーケストラの一覧'''(オーケストラのいちらん)は、世界の[[オーケストラ]](交響楽団)についての一覧である。
== フル・オーケストラ(通常サイズのオーケストラ) ==
=== アジア ===
==== 東アジア ====
===== 大韓民国 =====
* [[インチョン・フィルハーモニック管弦楽団]]
* [[韓国交響楽団]]
* [[KBS交響楽団]]
* [[光州交響楽団]]
* [[ソウル市立交響楽団]]
* [[ソウルフィルハーモニック|ソウル・フィルハーモニック]]
* [[スウォン・フィルハーモニック管弦楽団]]
* [[大邱市立交響楽団]]
* [[テジョン・フィルハーモニック管弦楽団]]
* [[釜山フィルハーモニック管弦楽団]]
* [[プチョン・フィルハーモニック管弦楽団]]
===== 台湾(中華民国) =====
* [[国家交響楽団]]
* [[台北市立交響楽団]]
* [[高雄市立交響楽団]]
* [[国立台灣交響楽団]]
* [[長榮交響楽団]]
===== 中華人民共和国 =====
* [[廈門フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[広州交響楽団]]
* [[昆明交響楽団]]
* [[四川交響楽団]]
* [[上海交響楽団]]
* [[中国国家交響楽団]]
* [[天津交響楽団]]
* [[ハルビン・黒龍江交響楽団]]
* [[武漢交響楽団]]
* [[香港フィルハーモニー管弦楽団]]
===== 朝鮮民主主義人民共和国 =====
* [[朝鮮民主主義人民共和国国立交響楽団]]
===== 日本 =====
:※ [[日本オーケストラ連盟]]の正会員は★、準会員は☆。
:※ 括弧内は本拠地(事務局)がある都市、及び定期演奏会を行う主な[[ホール]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.orchestra.or.jp/library/uploads/ba62efacf9382064b47ef1e8e91de8e6d09ea889.pdf|title=日本のプロフェッショナル・オーケストラ年鑑 2019|publisher=公益社団法人 日本オーケストラ連盟|accessdate=2020-11-19}}</ref>。
====== 北海道地方 ======
* [[北海道]]
** ★[[札幌交響楽団]]([[札幌市]]、[[札幌コンサートホールKitara|札幌コンサートホール Kitara]])
====== 東北地方 ======
* [[宮城県]]
** ★[[仙台フィルハーモニー管弦楽団]]([[仙台市]]、[[仙台市青年文化センター|日立システムズホール仙台]])
* [[山形県]]
** ★[[山形交響楽団]]([[山形市]]、[[山形テルサ]])
====== 関東地方 ======
* [[群馬県]]
** ★[[群馬交響楽団]]([[高崎市]]、[[高崎芸術劇場]])
* [[千葉県]]
** ☆[[千葉交響楽団]](旧ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉)([[千葉市]]、[[千葉県文化会館]])
* [[東京都]]
** ★[[NHK交響楽団]]([[港区 (東京都)|港区]]、[[NHKホール]]・[[サントリーホール]])
** ★[[新日本フィルハーモニー交響楽団]]([[墨田区]]、[[すみだトリフォニーホール]]・サントリーホール)
** ★[[東京交響楽団]]([[新宿区]]・神奈川県[[川崎市]]、サントリーホール・[[ミューザ川崎シンフォニーホール]]など)
** ★[[東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団]]([[江東区]]、[[東京オペラシティ]]コンサートホール・[[ティアラこうとう]])
** ★[[東京都交響楽団]]([[台東区]]、[[東京文化会館]]・サントリーホールなど)
** ★[[パシフィックフィルハーモニア東京]]([[練馬区]]、[[東京芸術劇場]]など)(旧東京ニューシティ管弦楽団)
** ★[[東京フィルハーモニー交響楽団]](新宿区、[[オーチャードホール|Bunkamura オーチャードホール]]・サントリーホールなど)(※2001年に旧東京フィルハーモニー交響楽団と[[新星日本交響楽団]]が合併)
** ★[[日本フィルハーモニー交響楽団]]([[杉並区]]、サントリーホール・[[横浜みなとみらいホール]])
** ★[[読売日本交響楽団]]([[千代田区]]、サントリーホール・東京芸術劇場など)
** ☆[[藝大フィルハーモニア管弦楽団]](台東区、[[東京芸術大学|東京藝術大学]]奏楽堂)
** ☆[[東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団]]([[大田区]]、[[アロマスクエア|大田区民ホール・アプリコ]])
** [[東京ニューフィルハーモニック管弦楽団]](港区、全国各地)
** [[フューチャー・オーケストラ・クラシックス]]
** [[オーケストラ・ニッポニカ]]
** [[シアター・オーケストラ・トーキョー]]
* [[神奈川県]]
** ★[[神奈川フィルハーモニー管弦楽団]]([[横浜市]]、横浜みなとみらいホール・[[神奈川県民ホール]]など)
====== 中部地方 ======
* [[静岡県]]
** ☆[[静岡交響楽団|富士山静岡交響楽団]]([[静岡市]]、[[静岡市清水文化会館|静岡市清水文化会館(マリナート)]]など)(※旧静岡交響楽団と[[浜松フィルハーモニー管弦楽団]]が合併)
* [[愛知県]]
** ★[[セントラル愛知交響楽団]]([[名古屋市]]、[[三井住友海上しらかわホール]]・[[愛知県芸術劇場]]など)
** ★[[名古屋フィルハーモニー交響楽団]](名古屋市、[[名古屋市民会館|日本特殊陶業市民会館]]・愛知県芸術劇場)
** ☆[[中部フィルハーモニー交響楽団]]([[小牧市]]、[[小牧市市民会館]]・三井住友海上しらかわホールなど)
* [[岐阜県]]
** [[ウィーン岐阜管弦楽団]](愛知県[[一宮市]]、[[岐阜市民会館]]・[[長良川国際会議場]]など)<ref>事務局は愛知県一宮市に置かれているが、名称の通り、活動は岐阜県内において行っている。</ref>
====== 近畿地方 ======
* [[奈良県]]
** ☆[[奈良フィルハーモニー管弦楽団]]([[大和郡山市]]、[[奈良県文化会館]]など)
** [[ジャパン・ナショナル・オーケストラ]]
* [[京都府]]
** ★[[京都市交響楽団]]([[京都市]]、[[京都コンサートホール]])
* [[大阪府]](→[[在阪オーケストラ]]も参照)
** ★[[大阪交響楽団]](旧大阪シンフォニカー交響楽団)([[堺市]]、[[ザ・シンフォニーホール]]・[[いずみホール]])
** ★[[大阪フィルハーモニー交響楽団]]([[大阪市]]、[[フェスティバルホール]])
** ★[[関西フィルハーモニー管弦楽団]](大阪市、ザ・シンフォニーホール)
** ★[[日本センチュリー交響楽団]](旧大阪センチュリー交響楽団)([[豊中市]]、ザ・シンフォニーホール・いずみホール)
** ☆[[ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団]](豊中市、[[ザ・カレッジ・オペラハウス]])
** ☆[[アマービレフィルハーモニー管弦楽団]](茨木市、[[アマービレホール]])
* [[兵庫県]]
** ★[[兵庫芸術文化センター管弦楽団]]([[西宮市]]、[[兵庫県立芸術文化センター]])
====== 中国地方 ======
* [[岡山県]]
** ☆[[岡山フィルハーモニック管弦楽団]]([[岡山市]]、[[岡山シンフォニーホール]])
* [[広島県]]
** ★[[広島交響楽団]]([[広島市]]、[[広島市文化交流会館|広島文化学園 HBGホール]])
====== 四国地方 ======
* [[香川県]]
** ☆[[瀬戸フィルハーモニー交響楽団]]([[高松市]]、[[高松市文化芸術ホール|サンポートホール高松]])
====== 九州・沖縄地方 ======
* [[福岡県]]
** ★[[九州交響楽団]]([[福岡市]]、[[アクロス福岡]]シンフォニーホール)
* [[沖縄県]]
** [[琉球交響楽団]]([[浦添市]]、[[アイム・ユニバース てだこホール]]など)
==== 東南アジア ====
===== ベトナム =====
* [[ベトナム国立交響楽団]]
* [[ホーチミン市交響楽団]]
===== シンガポール =====
* [[シンガポール交響楽団]]
===== タイ =====
* [[サヤーム・フィルハーモニック管弦楽団]]
* [[タイ・フィルハーモニック管弦楽団]]
* [[バンコク交響楽団]]
===== マレーシア =====
* [[マレーシア国立交響楽団]]
* [[マレーシア・フィルハーモニー管弦楽団]]
===== インドネシア =====
* [[ヌサンタラ交響楽団]]
===== フィリピン =====
* [[フィリピン・フィルハーモニック管弦楽団]]
==== 西アジア ====
===== アゼルバイジャン =====
* [[アゼルバイジャン国立交響楽団]]
===== アルメニア =====
* [[アルメニア・フィルハーモニー管弦楽団]]
===== イスラエル =====
* [[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[エルサレム交響楽団]]
===== トルコ =====
* [[イスタンブール国立交響楽団]]
* [[トルコ国立大統領交響楽団]]
* [[ビルケント交響楽団]]
=== アメリカ ===
==== 北アメリカ ====
===== アメリカ合衆国 =====
* [[アトランタ交響楽団]]
* [[アメリカ交響楽団]]
* [[アラバマ交響楽団]]
* [[アンカレッジ交響楽団]]
* [[インディアナポリス交響楽団]]
* [[エリー・フィルハーモニック]]
* [[オレゴン交響楽団]]
* [[オレゴンイースト交響楽団]]
* [[クリーヴランド管弦楽団]]
* [[コロラド交響楽団]](旧[[デンバー交響楽団|デンヴァー交響楽団]]を解消して設立)
* [[サンアントニオ交響楽団]]
* [[サンフランシスコ交響楽団]]
* [[シアトル交響楽団]]
* [[シカゴ交響楽団]]
* [[ジュノー交響楽団]]
* [[シンシナティ交響楽団]]
* [[スポーケン交響楽団]]
* [[セントルイス交響楽団]]
* [[ダラス交響楽団]]
* [[チャールストン交響楽団]]
* [[デトロイト交響楽団]]
* [[ナショナル交響楽団]](ワシントン・ナショナル交響楽団)
* [[ナッシュヴィル交響楽団]]
* [[ニューヨーク・フィルハーモニック]]
* [[バッファロー・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ハワイ交響楽団]](旧ホノルル交響楽団)
* [[ピッツバーグ交響楽団]]
* [[ヒューストン交響楽団]]
* [[ヒルズボロ交響楽団]]
* [[フィラデルフィア管弦楽団]]
* [[フェニックス交響楽団]]
* [[フラッグスタッフ交響楽団]]
* [[ポートランド交響楽団]]
* [[ボストン交響楽団]]
* [[ボルティモア交響楽団]]
* [[ミネソタ管弦楽団]](旧ミネアポリス交響楽団)
* [[メトロポリタン歌劇場管弦楽団]](MET管弦楽団)
* [[ユージン交響楽団]]
* [[ユタ交響楽団]]
* [[ロサンジェルス・フィルハーモニック]]
* [[ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団]]
===== カナダ =====
* [[トロント交響楽団]]
* [[バンクーバー交響楽団]]
* [[モントリオール交響楽団]]
====中・南アメリカ ====
===== アルゼンチン =====
* [[ブエノスアイレス・フィルハーモニー管弦楽団]]
===== ブラジル =====
* [[ブラジル交響楽団]]
===== ベネズエラ =====
* [[シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ|シモン・ボリバル交響楽団]](旧シモン・ボリバル・ユース管弦楽団)
===== メキシコ =====
* [[メキシコ国立交響楽団]]
=== オセアニア ===
==== オーストラリア ====
* [[西オーストラリア交響楽団]]
* [[クイーンズランド交響楽団]]
* [[シドニー交響楽団]]
* [[タスマニア交響楽団]]
* [[メルボルン交響楽団]]
==== ニュージーランド ====
* [[クライストチャーチ交響楽団]]
* [[ニュージーランド交響楽団]]
=== ヨーロッパ ===
==== 西ヨーロッパ ====
===== アイスランド =====
* [[アイスランド交響楽団]]
===== アイルランド =====
* [[アイルランド国立交響楽団]]
===== イギリス =====
* [[アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ]](アカデミー室内管弦楽団)
* [[アルスター管弦楽団]]
* [[バーミンガム市交響楽団]]
* [[ハレ管弦楽団]]
* [[BBC交響楽団]]
* [[BBCウェールズ・ナショナル管弦楽団]](BBCウェールズ交響楽団)
* [[BBCスコティッシュ交響楽団]]
* [[BBCフィルハーモニック]](旧BBCノーザン管弦楽団)
* [[フィルハーモニア管弦楽団]](1964年から1977年はニュー・フィルハーモニア管弦楽団)
* [[ボーンマス交響楽団]]
* [[ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団]](コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団)
* [[ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団]](スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)
* [[ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ロンドン交響楽団]]
* [[ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団]]
===== イタリア =====
* [[聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団]](サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団)
* [[ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団|ミラノ・スカラ座管弦楽団]](スカラ・フィルハーモニー管弦楽団)
* [[ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団]]
* [[イ・ポメリッジ・ムジカーリ]]
* [[ボルツァーノ・トレント・ハイドン管弦楽団]]
* [[アルトゥーロ・トスカニーニ・フィルハーモニー管弦楽団]](トスカニーニ交響楽団)
* [[RAI国立交響楽団]](イタリア国立放送交響楽団、旧[[トリノ・イタリア放送交響楽団]]と[[ローマ・イタリア放送交響楽団]]と[[ミラノ・イタリア放送交響楽団]]と[[ナポリ・イタリア放送アレッサンドロ・スカルラッティ管弦楽団]]が合併)
* [[シチリア交響楽団]]
* [[トスカーナ管弦楽団]]
* [[フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団]](フィレンツェ歌劇場管弦楽団)
* [[フェニーチェ劇場管弦楽団]]
* [[ボローニャ市立劇場管弦楽団]]
===== オーストリア =====
* [[ウィーン交響楽団]]
* [[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]([[ウィーン国立歌劇場管弦楽団]]を母体とする)
* [[ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団]]
* [[ウィーン放送交響楽団]](旧オーストリア放送交響楽団)
* [[ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団|ニーダーエスターライヒ・トーンキュンストラー管弦楽団]](ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団)
* [[ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団]]
* [[グラーツ・フィルハーモニー管弦楽団]]([[グラーツ歌劇場管弦楽団]])
* [[ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団]]
* [[リンツ・ブルックナー管弦楽団]]
===== オランダ =====
* [[オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[北オランダ・フィルハーモニー管弦楽団|北ホラント・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ハーグ・レジデンティ管弦楽団]](ハーグ・フィルハーモニー管弦楽団)
* [[ネーデルラント・フィルハーモニー管弦楽団]](オランダ・フィルハーモニー管弦楽団、旧アムステルダム・フィルハーモニー管弦楽団とユトレヒト交響楽団と[[オランダ室内管弦楽団]]が合併)
* [[南ネーデルラント・フィルハーモニー管弦楽団]](旧[[ブラバント管弦楽団]]と[[リンブルフ交響楽団]]が合併)
* [[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団]](旧アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団)
* [[ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団]]
===== スイス =====
* [[スイス・イタリアーナ管弦楽団]](旧スイス・イタリア語放送管弦楽団またはルガーノ放送管弦楽団)
* [[スイス・ロマンド管弦楽団]]
* [[フィルハーモニア・チューリッヒ]](チューリヒ歌劇場管弦楽団)
* [[チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団]]
* [[バーゼル交響楽団]](旧バーゼル交響楽団と[[バーゼル放送交響楽団]]が合併)
* [[ベルン交響楽団]]
* [[ルツェルン交響楽団]]
===== スペイン =====
* [[スペイン国立管弦楽団]](エスパーニャ国立管弦楽団)
* [[RTVE交響楽団]](スペイン国立放送交響楽団)
* [[バレンシア自治州管弦楽団]]
* [[バルセロナ交響楽団]]
===== ドイツ =====
* [[ヴッパタール交響楽団]]
* [[エッセン・フィルハーモニー管弦楽団 ]]
* [[NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団]](旧北ドイツ放送交響楽団)
* [[ゲッティンゲン交響楽団]]
* [[ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団]]
* [[ケルンWDR交響楽団]](旧ケルン放送交響楽団)
* [[ケルン放送管弦楽団]]
* [[ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団]](旧ザールブリュッケン放送交響楽団とカイザースラウテルンSWR放送管弦楽団が合併)
* [[シュトゥットガルト・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[南西ドイツ放送交響楽団|SWR交響楽団]](旧[[シュトゥットガルト放送交響楽団]]と[[バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団]]が合併)
* [[MDR交響楽団]](中部ドイツ放送交響楽団、旧ライプツィヒ放送交響楽団とライプツィヒ放送フィルハーモニー管弦楽団が合併)
* [[シュターツカペレ・ドレスデン|ドレスデン・ザクセン州立管弦楽団]](シュターツカペレ・ドレスデン、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)
* [[ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[南西ドイツ・フィルハーモニー交響楽団]]
* [[ニュルンベルク交響楽団]]
* [[バイエルン国立管弦楽団|バイエルン州立管弦楽団]](バイエルン州立歌劇場管弦楽団、バイエルン国立管弦楽団)
* [[バイエルン放送交響楽団]]
* [[ハイデルベルク交響楽団]]
* [[ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団]](NDR放送フィルハーモニー管弦楽団)
* [[ハンブルク交響楽団]]
* [[ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団]](ハンブルク州立歌劇場管弦楽団、ハンブルク国立フィルハーモニー管弦楽団)
* [[バンベルク交響楽団]]
* [[hr交響楽団]](旧フランクフルト放送交響楽団)
* [[フランクフルト・ムゼウム管弦楽団]](フランクフルト歌劇場管弦楽団)
* [[ベルリン交響楽団]](旧西ベルリン)
* [[ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団]](旧東ベルリンのベルリン交響楽団)
* [[ベルリン国立歌劇場管弦楽団|ベルリン州立管弦楽団]](シュターツカペレ・ベルリン、ベルリン国立歌劇場管弦楽団)
* [[ベルリン・ドイツ交響楽団]](旧西ベルリンのベルリン放送交響楽団)
* [[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ベルリン放送交響楽団]](旧東ベルリン)
* [[北西ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[北東ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ボン・ベートーヴェン管弦楽団]]
* [[マイニンゲン宮廷楽団]]
* [[ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ミュンヘン放送管弦楽団]]
* [[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]
* [[ライン州立フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ラインラント=プファルツ州立フィルハーモニー管弦楽団]](ドイツ・ラインラント=プファルツ州立フィルハーモニー管弦楽団)
* [[ロストック北ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ワールド・ドクターズ・オーケストラ]](ドイツ発祥だが活動は世界中)
===== フランス =====
* [[イル・ド・フランス国立管弦楽団]]
* [[ギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団]]
* [[コンセール・コロンヌ]](コロンヌ管弦楽団)
* [[ストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団]](トゥールーズ・キャピトル劇場管弦楽団)
* [[コンセール・パドルー]](パドルー管弦楽団)
* [[パリ管弦楽団]]([[パリ音楽院管弦楽団]]を発展的解消して設立)
* [[パリ国立歌劇場管弦楽団]](パリ・オペラ座管弦楽団、パリ国立オペラ管弦楽団、パリ・バスティーユ管弦楽団)
* [[フランス国立管弦楽団]](旧フランス国立放送管弦楽団)
* [[フランス放送フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ミュルーズ交響楽団]]
* [[コンセール・ラムルー]](ラムルー管弦楽団)
* [[リヨン国立管弦楽団]]
===== ベルギー =====
* [[ベルギー国立管弦楽団]]
* [[アントワープ交響楽団|アントウェルペン交響楽団]](アントワープ交響楽団、旧ロイヤル・フランダース・フィルハーモニー管弦楽団)
* [[ブリュッセル・フィルハーモニック]](旧BRTフィルハーモニー管弦楽団、フランダース放送管弦楽団)
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===== ポルトガル =====
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===== モナコ =====
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===== ルクセンブルク =====
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===== ノルウェー =====
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===== スロヴェニア =====
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===== チェコ =====
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* [[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]]
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* [[プラハ交響楽団]]
* [[プラハ放送交響楽団]]
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===== クロアチア =====
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===== ラトヴィア =====
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===== ロシア =====
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* [[サンクトペテルブルク国立アカデミー交響楽団]]
* [[サンクトペテルブルク国立交響楽団《クラシカ》]]
* [[サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団]](旧レニングラード・フィルハーモニー交響楽団)
* [[ボリショイ劇場管弦楽団]]
* [[“ノーヴァヤ・ロシア”国立交響楽団]]
* [[マリインスキー劇場管弦楽団]](旧キーロフ劇場管弦楽団)
* [[モスクワ市交響楽団]]
* [[モスクワ放送交響楽団]](モスクワ・チャイコフスキー交響楽団)
* [[モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ロシア国立交響楽団]](旧ソヴィエト国立交響楽団)
* [[ロシア国立シンフォニー・カペラ]](旧ソヴィエト国立文化省交響楽団)
* [[ロシア・ナショナル管弦楽団]]
* [[ロシア・ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[ロストフ・アカデミー交響楽団]](旧ロストフ交響楽団)
== 室内管弦楽団、弦楽合奏団 ==
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== 古楽器オーケストラ ==
ここでは古楽器を用いて演奏し、[[古典派音楽]]以降も演奏範囲に含める比較的規模の大きいオーケストラを列記する。[[古楽#主要な古楽演奏団体]]も参照のこと。
=== 日本 ===
※ 日本オーケストラ連盟の準会員は☆。
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* ☆[[テレマン室内オーケストラ]]
* [[クラシカル・プレイヤーズ東京]]([[東京バッハ・モーツァルト・オーケストラ]])
* [[バッハ・コレギウム・ジャパン]]
* [[レ・ボレアード]]
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=== 西ヨーロッパ ===
==== イギリス ====
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* [[イングリッシュ・バロック・ソロイスツ]](イギリス・バロック管弦楽団)
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* [[オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティック]]
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* [[コレギウム・ムジクス90]]
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==== イタリア ====
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* [[ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団|ラ・バロッカ]](LaBaroca)
* [[ヴェニス・バロック・オーケストラ]] (Venice Baroque Orchestra)
==== オーストリア ====
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=== 北ヨーロッパ ===
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=== アメリカ ===
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マリンライナー
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マリンライナー(英語: Marine Liner)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)と四国旅客鉄道(JR四国)が岡山駅 - 高松駅間を宇野線・本四備讃線・予讃線(瀬戸大橋線)経由で運行する快速列車。列車名はJR西日本による一般公募によって決定された。
ここでは、宇野線及び本四備讃線経由の本州対四国連絡列車の沿革についても記述する。
快速「マリンライナー」は、1988年4月10日に瀬戸大橋の完成に伴い、本四備讃線が開通したことにより運転を開始した。それまで本四間の主要なルートだった宇野線(岡山 - 宇野)と宇高航路(宇野 - 高松、連絡船とホーバークラフトが就航していた)による岡山 - 高松間の輸送の役割を引き継いでいる。
JRグループの快速・普通列車は1990年代から2000年代前半にかけて順次車内全面禁煙化が図られたのに対し、当列車は快速「備讃ライナー」として運行を開始した際から全車禁煙となっており、当時としては思い切った施策であった。なお、普通列車の車内が原則として全面禁煙となったのはJR西日本では1993年(岡山・広島支社管内では1992年)、JR四国では1994年である。ただし、JR四国管内の電車や1000形気動車は導入当初から車内全面禁煙である。
岡山駅 - 高松駅間を52分 - 63分で運行している。全列車がこの区間で運転されており、定期列車での他区間への乗り入れや区間列車は設定されていない。前身の「備讃ライナー」時代より列車番号は3120M+号数だったが、増発により3190番台まで達したため、2008年3月15日のダイヤ改正で3100M+号数に変更されている。
基本的に1時間あたり2本運転されている。かつては岡山発の最終列車は山陽新幹線下り岡山着最終列車に接続しており、発時刻は日付を跨いだ0時12分発であった。この列車は高松到着が1時21分であり、2021年3月13日のダイヤ改正での関東地方・関西地方における終電時刻繰上げに伴い、日本一終電の到着時刻が遅い列車となっていたが、2022年3月12日のダイヤ改正で廃止された。
強風等により瀬戸大橋線が不通になった場合は、児島駅での折り返し運転の措置がとられることがある。宇高航路が民間海運業者によって就航していた当時は、始発・終着駅を宇野駅へ変更の上で(この場合茶屋町駅 - 宇野駅間は通過扱い)、宇野港 - 高松港間において船舶による代行輸送を実施することがあったが、2019年12月に全ての航路が休航となったため、現在は行われていない。
岡山駅 -(大元駅)-(備前西市駅)-(妹尾駅)-(早島駅)- 茶屋町駅 -(植松駅)-(木見駅)-(上の町駅)- 児島駅 - 坂出駅 -(鴨川駅)-(国分駅)-(端岡駅)-(鬼無駅)- 高松駅
2003年10月1日から、高松運転所(JR四国)に所属する5000系電車(3両編成)と、下関総合車両所岡山電車支区(2022年9月30日までは岡山電車区、JR西日本)に所属する223系電車(5000番台、2両編成)が使用されている。これらの車両が、中国地方のJR在来線で民営化後に製造された初めての電車車両であった。
基本的に両車を併結した5両編成で運転されているが、早朝・深夜には5000系(69号)または223系(1‐3・71・73号)のみで運転される列車も存在する。逆に、8・10号は223系をさらに2両増結した7両編成で運転されている。
2007年6月下旬からの一時、混雑対策として網干総合車両所から223系2000番台を借り受けて、サハ223形を223系5000番台編成の中間に組み込んで3両編成とした。これにより早朝・深夜が5000系または223系のみの3両編成、日中が6両編成、ラッシュ時の一部が9両編成となり、年末年始・大型連休・お盆などの多客期の一部の列車は終日9両編成で運用されることがあった。
その後、2010年1月19日から1月23日にかけて223系は2両編成に戻され、網干総合車両所に返却された。これにより1月24日以降は9両編成が7両編成に、6両編成が5両編成に、3両編成の一部が2両編成での運転に変更された。
高松側の先頭車両は2階建て車両であり、2階および前頭部側の平屋席はグリーン車指定席、1階および後部側の平屋席は普通車指定席である。高松方のデッキはグリーン車のデッキとして扱われ、ここでの立席乗車はグリーン料金が発生する。
なお、223系のみで運転される列車は例外なく全車自由席となる。
1988年4月10日の運行開始時から、1987年以降「備讃ライナー」で先行使用されていたステンレス製軽量車体の213系を引き続き使用したが、高松側の先頭車両は瀬戸大橋の眺望を望めるように新製された普通鋼製のグリーン車を連結していた。同年7月には一部の列車に普通車指定席も設けられている。折からの瀬戸大橋架橋記念博覧会などの影響による盛況に呼応して、一部列車は3両のグリーン車を組み込んだ11両編成で運転された。
2003年9月30日をもって運用を終了し、転用できないサハ213形の一部が廃車になった他は岡山支社エリア各線の普通列車運用に転用されている。
2007年2月に早島駅付近で踏切事故の被害を受けた223系5000番台が使用不能となった際、修理中の代走として、全車普通車自由席の2・77号において同年3月末まで213系の運用が復活した。
通勤・通学需要は岡山駅 - 坂出駅間で多く、終日混雑している。
運行開始当初は1時間あたり1本の設定であり、当時の瀬戸大橋ブームも相俟って、指定席がグリーン車のみで即日完売となるなど人気が集中したことから、瀬戸大橋線開業当日には「マリンライナー」2号の続行で2本の臨時列車(1本はキハ181系で茶屋町駅まで)が運行されたほか、翌4月11日からもJR西日本持ちの115系・JR四国持ちの111系などを使用した臨時快速が岡山駅 - 宇多津駅・坂出駅・高松駅間(一部は岡山駅 - 茶屋町駅・児島駅間の普通を延長運転)に運行された。当初、これらの列車は市販の全国版時刻表には掲載されておらず、沿線で配布された修正時刻表にのみ記載される列車であった。その後も折からのバブル景気もあり、瀬戸大橋線の利用が好調であったことからスーパーサルーン「ゆめじ」編成のクモロ211形+モロ210形電動車ユニットも繁忙期を中心に増結に入るようになり、同年7月からは普通車にも指定席を設定するとともに、大型連休・お盆などの多客期の一部の列車は終日12両編成や11両編成で運用された。さらにJR西日本の117系100番台(指定席あり)や115系3000番台などを使用した臨時「マリンライナー」や、167系や115系を使用した臨時快速が岡山駅 - 高松駅間に設定され、213系の増備落成にともなう増発が実施される1989年3月までの間、毎日運転の臨時列車として運行された。臨時「マリンライナー」はその後も繁忙期に運行された時期があり、JR西日本の221系が使用されたこともあった。また、2010年代に入ってからは、2010年より隔年で開催されている瀬戸内国際芸術祭の効果で、利用者数はわずかに増えている。
2003年10月11日から13日までの3日間、快速「マリンライナー京阪神ホリデー号」が運転された。高松駅 - 京都駅間を全車指定席で1往復運転された。途中の客扱い停車駅は、坂出駅・三ノ宮駅・大阪駅のみで、5000系と223系5000番台が使用された。今のところ京阪神地区での運用はこのとき限りとなっている。
なお、5000系と223系5000番台にはATS-Pが準備工事のみのため、上郡駅以東でATS-Pが整備されている2021年現在は、本設工事を行わない限りこのような区間での営業運転が不可能となっている。
瀬戸大橋開通20周年を迎えた2008年4月10日に「懐かしの213系マリンライナー号」(リバイバルトレイン)が運転された。運転区間は高松駅 → 岡山駅間の上り1本のみで、6両編成の全車指定席であった。グリーン車はスーパーサルーン「ゆめじ」編成のうちの1両でかつて「マリンライナー」でも使用されたクロ212-1001が使用された。
もともと、宇高連絡船との連絡の関係で宇野線には東京駅・大阪駅発着のものを中心に、多くの列車が運行されていた。
1972年3月15日の山陽新幹線岡山駅乗り入れにより、従来の東京駅や大阪駅からの昼行の連絡列車を廃止し、代わりに岡山駅 - 宇野駅間の快速列車を設定して新幹線などから宇高連絡船への連絡とした。当初は153系など廃止された急行列車用の車両が充当されたが、普通車の混雑緩和を目的として宮原電車区の113系に置き換えられ、さらに京阪神地区での車両の所要増から1980年に岡山電車区に新製配置された115系1000番台に置き換えられ、この際にグリーン車が廃止された(なお、グリーン車は横須賀線・総武快速線直通運転開始に伴う所要増のため関東地区に転用された)。さらに1987年3月より「備讃ライナー」の名称が与えられて213系が使用されるようになった。「備讃ライナー」は「マリンライナー」に投入する車両の先行使用の性格が強い列車であった。
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"text": "瀬戸大橋開通20周年を迎えた2008年4月10日に「懐かしの213系マリンライナー号」(リバイバルトレイン)が運転された。運転区間は高松駅 → 岡山駅間の上り1本のみで、6両編成の全車指定席であった。グリーン車はスーパーサルーン「ゆめじ」編成のうちの1両でかつて「マリンライナー」でも使用されたクロ212-1001が使用された。",
"title": "臨時列車"
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"text": "もともと、宇高連絡船との連絡の関係で宇野線には東京駅・大阪駅発着のものを中心に、多くの列車が運行されていた。",
"title": "宇野線・本四備讃線優等列車沿革"
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"text": "1972年3月15日の山陽新幹線岡山駅乗り入れにより、従来の東京駅や大阪駅からの昼行の連絡列車を廃止し、代わりに岡山駅 - 宇野駅間の快速列車を設定して新幹線などから宇高連絡船への連絡とした。当初は153系など廃止された急行列車用の車両が充当されたが、普通車の混雑緩和を目的として宮原電車区の113系に置き換えられ、さらに京阪神地区での車両の所要増から1980年に岡山電車区に新製配置された115系1000番台に置き換えられ、この際にグリーン車が廃止された(なお、グリーン車は横須賀線・総武快速線直通運転開始に伴う所要増のため関東地区に転用された)。さらに1987年3月より「備讃ライナー」の名称が与えられて213系が使用されるようになった。「備讃ライナー」は「マリンライナー」に投入する車両の先行使用の性格が強い列車であった。",
"title": "宇野線・本四備讃線優等列車沿革"
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マリンライナーは、西日本旅客鉄道(JR西日本)と四国旅客鉄道(JR四国)が岡山駅 - 高松駅間を宇野線・本四備讃線・予讃線(瀬戸大橋線)経由で運行する快速列車。列車名はJR西日本による一般公募によって決定された。 ここでは、宇野線及び本四備讃線経由の本州対四国連絡列車の沿革についても記述する。
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{{Otheruseslist|岡山駅 - 高松駅間で運行されている快速列車「マリンライナー」|JR北海道がかつて運行していた快速列車「マリンライナー」|ニセコライナー|鹿島臨海鉄道がかつて運行していた快速列車「マリンライナーはまなす」|鹿島臨海鉄道大洗鹿島線#マリンライナーはまなす}}
{{Infobox 列車名
|列車名=マリンライナー
|ロゴ=
|ロゴサイズ=
|画像=JRS 5000 series M3 20230120.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=マリンライナー(2023年1月)
|国={{JPN}}
|種類=[[快速列車]]
|現況=運行中
|地域=[[岡山県]]・[[香川県]]
|前身=快速「備讃ライナー」
|運行開始=[[1988年]][[4月10日]]
|運行終了=
|後継=
|運営者=[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)<br/>[[四国旅客鉄道]](JR四国)
|旧運営者=
|平均乗客数=
|起点=[[岡山駅]]
|停車地点数=
|終点=[[高松駅 (香川県)|高松駅]]
|営業距離={{Convert|71.8|km|mi|abbr=on}}
|平均所要時間=52分 - 63分
|運行間隔=下り38本/上り35本
|列車番号=3100M+号数
|使用路線=JR西日本:[[宇野線]]・[[本四備讃線]]([[瀬戸大橋線]])<br/>JR四国:本四備讃線(瀬戸大橋線)・[[予讃線]]
|クラス=[[グリーン車]]・[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]
|身障者対応=1号車
|座席=[[#使用車両・編成]]を参照
|展望=1号車(5000系使用時)
|その他=
|車両=[[JR西日本223系電車#5000番台|223系電車]](JR西日本[[下関総合車両所]][[岡山電車区|岡山電車支区]])<br />[[JR四国5000系電車|5000系電車]](JR四国[[高松運転所]])
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
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|最高速度=130 [[キロメートル毎時|km/h]]
|線路所有者=
|備考=
|路線図=
|路線図表示=<!--collapsed-->
}}
'''マリンライナー'''({{Lang-en|Marine Liner}})は、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)と[[四国旅客鉄道]](JR四国)が[[岡山駅]] - [[高松駅 (香川県)|高松駅]]間を[[宇野線]]・[[本四備讃線]]・[[予讃線]]([[瀬戸大橋線]])経由で運行する[[快速列車]]。列車名はJR西日本による一般公募によって決定された。
ここでは、宇野線及び本四備讃線経由の[[本州]]対[[四国]]連絡列車の沿革についても記述する。
== 概要 ==
快速「マリンライナー」は、[[1988年]][[4月10日]]に[[瀬戸大橋]]の完成に伴い、本四備讃線が開通したことにより運転を開始した。それまで本四間の主要なルートだった宇野線(岡山 - 宇野)と[[宇高連絡船|宇高航路]](宇野 - 高松、連絡船とホーバークラフトが就航していた)による岡山 - 高松間の輸送の役割を引き継いでいる。
JRグループの快速・普通列車は[[1990年代]]から[[2000年代]]前半にかけて順次車内全面禁煙化が図られたのに対し、当列車は快速「備讃ライナー」として運行を開始した際から全車禁煙となっており、当時としては思い切った施策であった。なお、普通列車の車内が原則として全面禁煙となったのはJR西日本では[[1993年]]([[西日本旅客鉄道岡山支社|岡山]]・[[西日本旅客鉄道広島支社|広島支社]]管内では[[1992年]])、JR四国では[[1994年]]である。ただし、JR四国管内の電車や[[JR四国1000形気動車|1000形気動車]]は導入当初から車内全面禁煙である。
== 運行概況 ==
岡山駅 - 高松駅間を52分 - 63分で運行している。全列車がこの区間で運転されており、定期列車での他区間への乗り入れや区間列車は設定されていない。前身の「備讃ライナー」時代より[[列車番号]]は3120M+号数だったが、増発により3190番台まで達したため、[[2008年]][[3月15日]]のダイヤ改正で3100M+号数に変更されている。
基本的に1時間あたり2本運転されている。かつては岡山発の最終列車は山陽新幹線下り岡山着最終列車に接続しており、発時刻は日付を跨いだ0時12分発であった。この列車は高松到着が1時21分であり、2021年3月13日のダイヤ改正での関東地方・関西地方における終電時刻繰上げに伴い、日本一終電の到着時刻が遅い列車となっていたが、2022年3月12日のダイヤ改正で廃止された<ref>{{Cite web|和書|title=2022年3月12日(土)ダイヤ改正に関するお知らせ|url=https://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/time-revision/#marine|website=www.jr-shikoku.co.jp|accessdate=2022-03-24}}</ref>。
[[強風]]等により瀬戸大橋線が不通になった場合は、児島駅での折り返し運転の措置がとられることがある。[[宇高航路]]が民間海運業者によって就航していた当時は、始発・終着駅を[[宇野駅]]へ変更の上で(この場合茶屋町駅 - 宇野駅間は通過扱い)、[[宇野港]] - [[高松港]]間において[[船舶]]による[[振替輸送|代行輸送]]を実施することがあったが、2019年12月に全ての航路が休航となったため、現在は行われていない。
=== 停車駅 ===
[[岡山駅]] -([[大元駅]])-([[備前西市駅]])-([[妹尾駅]])-([[早島駅]])- [[茶屋町駅]] -([[植松駅]])-([[木見駅]])-([[上の町駅]])- [[児島駅]] - [[坂出駅]] -([[鴨川駅]])-([[国分駅 (香川県)|国分駅]])-([[端岡駅]])-([[鬼無駅]])- [[高松駅 (香川県)|高松駅]]
* 括弧内の駅は一部の列車のみ停車。
* [[宇多津駅]]では構内の短絡線を経由するため、通過扱いとなる。
* 妹尾駅と早島駅は、全列車が必ずどちらか片方もしくは両駅ともに停車する。日中は妹尾駅に停車する列車と早島駅に停車する列車が交互に運行される。
=== 使用車両・編成 ===
{{Main|JR西日本223系電車#5000番台|JR四国5000系電車}}
{| style="text-align:center; margin:1em 0em 1em 1em; border:solid 1px #999; float:right;"
|+ 2018年3月以降の編成図{{efn2|2003年10月から2007年6月にかけてもこの編成で運転されていた。}}
|style="background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #999;"|マリンライナー
|-
|style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|高松|岡山}}
|-
|
{| class="wikitable" style="font-size:80%; margin:auto;"
|+ 下記以外
|style="border-bottom:solid 4px #1cadca;"|1
|style="border-bottom:solid 4px #1cadca;"|2
|style="border-bottom:solid 4px #1cadca;"|3
|style="border-bottom:solid 4px #0072bc;"|4
|style="border-bottom:solid 4px #0072bc;"|5
|-
|colspan="3"|5000系
|colspan="2"|223系
|-
|style="background-color:#cf9;"|G
|rowspan="2"|自
|rowspan="2"|自
|rowspan="2"|(自)
|rowspan="2"|自
|-
|(指)
|}
|-
|
{| class="wikitable" style="font-size:80%; margin:auto;"
|+ 8・10号
|style="border-bottom:solid 4px #1cadca;"|1
|style="border-bottom:solid 4px #1cadca;"|2
|style="border-bottom:solid 4px #1cadca;"|3
|style="border-bottom:solid 4px #0072bc;"|4
|style="border-bottom:solid 4px #0072bc;"|5
|style="border-bottom:solid 4px #0072bc;"|6
|style="border-bottom:solid 4px #0072bc;"|7
|-
|colspan="3"|5000系
|colspan="4"|223系
|-
|style="background-color:#cf9;"|G
|rowspan="2"|自
|rowspan="2"|自
|rowspan="2"|(自)
|rowspan="2"|自
|rowspan="2"|(自)
|rowspan="2"|自
|-
|(指)
|}
|-
|
{|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:auto;"
|+69号
|style="border-bottom:solid 4px #1cadca;"|1
|style="border-bottom:solid 4px #1cadca;"|2
|style="border-bottom:solid 4px #1cadca;"|3
|-
|colspan="3"|5000系
|-
|style="background-color:#cf9;"|G
|rowspan="2"|自
|rowspan="2"|自
|-
|(指)
|}
|-
|
{| class="wikitable" style="font-size:80%; margin:auto;"
|+1・3・71・73号・2号
|style="border-bottom:solid 4px #0072bc;"|1
|style="border-bottom:solid 4px #0072bc;"|2
|-
|colspan="2"|223系
|-
|rowspan="2"|(自)
|rowspan="2"|自
|-
|}
|-
|style="text-align:left; font-size:80%;"|
* 全車禁煙
* 多客期は7-9両編成で運転
; 凡例
: {{bgcolor|#cf9|G}}=[[グリーン車]][[座席指定席|指定席]]
: 指=[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]指定席
: 自=普通車[[自由席]]
: ()=[[バリアフリー]]対応設備設置車
|}
[[2003年]][[10月1日]]から、[[高松運転所]](JR四国)に所属する[[JR四国5000系電車|5000系電車]](3両編成)と、[[下関総合車両所]][[岡山電車区|岡山電車支区]](2022年9月30日までは[[岡山電車区]]、JR西日本)に所属する[[JR西日本223系電車#5000番台|223系電車]](5000番台、2両編成)が使用されている。これらの車両が、[[中国地方]]のJR在来線で民営化後に製造された初めての電車車両であった。
基本的に両車を併結した5両編成で運転されているが、早朝・深夜には5000系(69号)または223系(1‐3・71・73号)のみで運転される列車も存在する。逆に、8・10号は223系をさらに2両増結した7両編成で運転されている。
[[2007年]]6月下旬からの一時、混雑対策として[[網干総合車両所]]から[[JR西日本223系電車#2000番台|223系2000番台]]を借り受けて、サハ223形を223系5000番台編成の中間に組み込んで3両編成とした。これにより早朝・深夜が5000系または223系のみの3両編成、日中が6両編成、ラッシュ時の一部が9両編成となり、[[年末年始]]・[[ゴールデンウィーク|大型連休]]・[[お盆]]などの多客期の一部の列車は終日9両編成で運用されることがあった。
その後、2010年1月19日から1月23日にかけて223系は2両編成に戻され、網干総合車両所に返却された。これにより1月24日以降は9両編成が7両編成に、6両編成が5両編成に、3両編成の一部が2両編成での運転に変更された<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成22年春ダイヤ改正について |publisher=西日本旅客鉄道岡山支社 |date=2009-12-18 |url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/20091218_kaisei_okayama.pdf |format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091228213247/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/20091218_kaisei_okayama.pdf |archivedate=2009年12月28日 |accessdate=2017-02-21 |deadurldate=2017年9月 }}</ref><ref name="jrs_20091218">{{Cite press release |和書 |title=快速「マリンライナー」の編成減車について |publisher=四国旅客鉄道 |date=2009-12-18 |url=http://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/press/09-12-18/01.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091221062545/http://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/press/09-12-18/01.htm |archivedate=2009年12月21日 |accessdate=2017-02-21 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
高松側の先頭車両は[[2階建車両|2階建て車両]]であり、2階および前頭部側の平屋席は[[グリーン車]][[座席指定席|指定席]]、1階および後部側の平屋席は[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]指定席である。高松方のデッキはグリーン車のデッキとして扱われ、ここでの立席乗車はグリーン料金が発生する。
なお、223系のみで運転される列車は例外なく全車自由席となる。
<gallery>
ファイル:JRW 223 series 5002 20210214.jpg|223系5000番台
ファイル:5000 M1+P+M4.jpg|2003年度の年末年始に運転された8両編成
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
1988年4月10日の運行開始時から、[[1987年]]以降「備讃ライナー」で先行使用されていた[[ステンレス鋼|ステンレス]]製軽量車体の[[国鉄213系電車|213系]]を引き続き使用したが、高松側の先頭車両は瀬戸大橋の眺望を望めるように新製された[[炭素鋼|普通鋼]]製のグリーン車を連結していた。同年7月には一部の列車に普通車指定席も設けられている。折からの[[瀬戸大橋架橋記念博覧会]]などの影響による盛況に呼応して、一部列車は3両のグリーン車を組み込んだ11両編成で運転された。
2003年9月30日をもって運用を終了し、転用できないサハ213形の一部が[[廃車 (鉄道)|廃車]]になった他は岡山支社エリア各線の普通列車運用に転用されている。
2007年2月に早島駅付近で[[踏切障害事故|踏切事故]]の被害を受けた223系5000番台が使用不能となった際、修理中の代走として、全車普通車自由席の2・77号において同年3月末まで213系の運用が復活した<ref>{{Cite news |title=JR瀬戸大橋線の列車とクルマ衝突 |newspaper=[[Response.]] |author=石田真一 |date=2007-02-11 |url=http://response.jp/article/2007/02/11/91416.html |agency=イード |accessdate=2017-02-21}}</ref>。
<gallery>
ファイル:JRW-Kumoha213.jpg|213系クモハ213形(岡山方先頭車)
ファイル:JRW 213 series Kuro 212-1.jpg|213系クロ212形(高松方先頭車)
ファイル:JRW-Okayama-213kei.JPG|下り最終「マリンライナー77号」の運用についた213系
ファイル:Kokutetsu 213 marine liner-11.jpg|「スーパーサルーンゆめじ」2両とC12編成連結の11両編成
</gallery>
== 利用状況 ==
通勤・通学需要は岡山駅 - 坂出駅間で多く、終日混雑している<ref>{{Cite news|title=利便性高まるJR瀬戸大橋線|newspaper=[[四国新聞]]|date=2003-10-05|author=福岡茂樹|author2=谷本昌憲|url=https://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/228/|agency=四国新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20031122123551/http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/228/|archivedate=2003年11月22日|accessdate=2017-02-21|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
運行開始当初は1時間あたり1本の設定であり、当時の瀬戸大橋ブームも相俟って、指定席がグリーン車のみで即日完売となるなど人気が集中したことから、瀬戸大橋線開業当日には「マリンライナー」2号の続行で2本の[[臨時列車]](1本は[[国鉄キハ181系気動車|キハ181系]]で茶屋町駅まで)が運行されたほか、翌4月11日からもJR西日本持ちの[[国鉄115系電車|115系]]・JR四国持ちの[[国鉄113系電車|111系]]などを使用した臨時快速が岡山駅 - 宇多津駅・坂出駅・高松駅間(一部は岡山駅 - 茶屋町駅・児島駅間の普通を延長運転)に運行された。当初、これらの列車は市販の全国版[[時刻表]]には掲載されておらず、沿線で配布された修正時刻表にのみ記載される列車であった。その後も折からの[[バブル景気]]もあり、瀬戸大橋線の利用が好調であったことから[[国鉄211系電車#スーパーサルーンゆめじ|スーパーサルーン「ゆめじ」]]編成のクモロ211形+モロ210形[[動力車#MM'ユニット方式|電動車ユニット]]も繁忙期を中心に増結に入るようになり、同年7月からは普通車にも指定席を設定するとともに、大型連休・お盆などの多客期の一部の列車は終日12両編成や11両編成で運用された。さらにJR西日本の117系100番台(指定席あり)や[[国鉄115系電車#3000番台|115系3000番台]]などを使用した臨時「マリンライナー」や、[[国鉄165系電車#167系|167系]]や115系を使用した臨時快速が岡山駅 - 高松駅間に設定され、213系の増備落成にともなう増発が実施される[[1989年]]3月までの間、毎日運転の臨時列車として運行された。臨時「マリンライナー」はその後も繁忙期に運行された時期があり、{{要出典|範囲=JR西日本の[[JR西日本221系電車|221系]]が使用されたこともあった。|date=2023年7月}}また、2010年代に入ってからは、2010年より隔年で開催されている[[瀬戸内国際芸術祭]]の効果で、利用者数はわずかに増えている<ref>{{Cite news |title=JR四国、瀬戸大橋線利用1%増 13年度、芸術祭など貢献 |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2014-04-04 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNZO69356810T00C14A4LA0000/ |agency=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2017-02-21}}</ref>。
== 臨時列車 ==
=== マリンライナー京阪神ホリデー号 ===
2003年10月11日から13日までの3日間、快速「マリンライナー京阪神ホリデー号」が運転された。高松駅 - [[京都駅]]間を全車指定席で1往復運転された。途中の客扱い停車駅は、坂出駅・[[三ノ宮駅]]・[[大阪駅]]のみで、5000系と223系5000番台が使用された。今のところ京阪神地区での運用はこのとき限りとなっている<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成15年度【秋】の臨時列車の運転 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2003-08-22 |url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030822b.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20031001170756/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030822b.html |archivedate=2003年10月1日 |accessdate=2017-02-21 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
なお、5000系と223系5000番台にはATS-Pが準備工事のみのため、上郡駅以東でATS-Pが整備されている2021年現在は、本設工事を行わない限りこのような区間での営業運転が不可能となっている。
=== 懐かしの213系マリンライナー号 ===
瀬戸大橋開通20周年を迎えた2008年4月10日に「懐かしの213系マリンライナー号」([[リバイバルトレイン]])が運転された<ref name="jrs_20080128">{{Cite press release |和書 |title=「瀬戸大橋線開業20周年」に関する事業概要 |publisher=四国旅客鉄道 |date=2008-01-28 |url=http://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/press/08-01-28/04.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080320094633/http://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/press/08-01-28/04.htm |archivedate=2008年3月20日 |accessdate=2017-02-21 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。運転区間は高松駅 → 岡山駅間の上り1本のみで、6両編成の全車指定席であった。グリーン車はスーパーサルーン「ゆめじ」編成のうちの1両でかつて「マリンライナー」でも使用されたクロ212-1001が使用された。
; 停車駅
: 高松駅 - 坂出駅 - 児島駅 - 茶屋町駅 - 早島駅 - 妹尾駅 - 岡山駅
== 宇野線・本四備讃線優等列車沿革 ==
もともと、[[宇高連絡船]]との連絡の関係で宇野線には[[東京駅]]・[[大阪駅]]発着のものを中心に、多くの列車が運行されていた。
[[1972年]][[3月15日]]の[[山陽新幹線]]岡山駅乗り入れにより、従来の東京駅や大阪駅からの昼行の連絡列車を廃止し、代わりに岡山駅 - 宇野駅間の快速列車を設定して新幹線などから宇高連絡船への連絡とした。当初は[[国鉄153系電車|153系]]など廃止された[[急行形車両|急行列車用の車両]]が充当されたが、普通車の混雑緩和を目的として[[宮原総合運転所|宮原電車区]]の[[国鉄113系電車|113系]]に置き換えられ、さらに京阪神地区での車両の所要増から[[1980年]]に岡山電車区に新製配置された[[国鉄115系電車#1000番台|115系1000番台]]に置き換えられ、この際にグリーン車が廃止された(なお、グリーン車は[[横須賀線]]・[[総武快速線]]直通運転開始に伴う所要増のため関東地区に転用された)。さらに1987年3月より「'''備讃ライナー'''」の名称が与えられて213系が使用されるようになった。「備讃ライナー」は「マリンライナー」に投入する車両の先行使用の性格が強い列車であった。
=== 宇野線開業と直通列車の運行開始 ===
* [[1910年]]([[明治]]43年)[[6月12日]]:岡山駅 - 宇野駅間の宇野線と[[宇野港]] - [[高松港]]間の宇高航路が開業し、[[岡山港]](三蟠港) - 高松駅間航路が廃止。
* [[1930年]]([[昭和]]5年)[[10月1日]]:京都駅 - 宇野間に[[夜行列車|夜行]][[普通列車]]と大阪駅 - 宇野駅間下り夜行・上り昼行の[[臨時列車|不定期]]快速列車がそれぞれ1往復運転開始。夜行普通列車の方は[[A寝台|二等寝台車]]も連結。
* [[1934年]](昭和9年)[[12月1日]]:京都駅発着の夜行普通列車が[[参宮線]][[鳥羽駅]]発着になる。
* [[1943年]](昭和18年)[[2月15日]]:[[閣議 (日本)#大日本帝国憲法下|閣議決定]]された「戦時陸運非常体制」に基づくダイヤ改正が行われ、[[旅客列車]]を大幅に削減。大阪駅 - 宇野駅間の不定期快速列車と鳥羽駅直通列車が廃止される。
=== 戦後の直通列車 ===
[[ファイル:JRW 165 Revival Washu Uno Line 2002-03-30.jpg|thumb|right|200px|2002年3月30日に宇野線で165系により運行されたリバイバルトレイン「リバイバル鷲羽」]]
[[ファイル:485 uzushio uno.jpg|thumb|right|200px|1983年7月に485系により運行されたリバイバルトレイン「うずしお」]]
* [[1950年]](昭和25年)10月1日:東京駅 - 宇野駅間に夜行[[急行列車]]1往復が運転開始(東京駅 - 岡山駅間は「[[あさかぜ (列車)|安芸]]」と併結運転)し、東京駅発着の四国連絡列車が初登場。また、大阪駅 - 宇野駅間にも夜行[[準急列車]]が設定された([[広島駅|広島]]行きと併結)が、こちらの方は宇高連絡船に[[客車]]の一部を積み込み、[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]([[愛媛県]])と[[須崎駅]]([[高知県]])まで直通運転を行い、「'''海を行く汽車'''」として話題になった。
* [[1951年]](昭和26年)[[12月2日]]:東京駅 - 宇野駅間の夜行急行列車に「'''[[サンライズ瀬戸|せと]]'''」と命名される。
* [[1953年]](昭和28年)[[11月11日]]:大阪駅 - 宇野駅間の夜行準急列車が独立運行となる。
* [[1955年]](昭和30年)[[5月11日]]:宇高連絡船で[[紫雲丸事故#5度目の事故|沈没事故]]が発生。これにより安全上の観点(客車内にいる乗客が、船が沈没する際に脱出することは困難である)から、乗客の乗った客車の航送が中止される。
* [[1956年]](昭和31年)[[11月19日]]:「せと」が「'''[[サンライズ瀬戸|瀬戸]]'''」に変更して独立運行されるとともに、大阪駅 - 宇野駅間の夜行準急列車が普通列車に変更される。その代替として京都駅 - 宇野駅間に昼行の準急列車が広島行き準急列車と併結ながら設定される。
* [[1958年]](昭和33年)10月1日:京都駅 - 宇野駅間運行の準急列車が独立運行になる。
* [[1959年]](昭和34年)[[9月22日]]:京都駅発着の準急列車に「'''わしう'''」と命名される。
* [[1960年]](昭和35年)10月1日:「わしう」は「'''鷲羽'''」と漢字表記に変更。また、山陽本線の[[倉敷駅]]までと宇野線の[[鉄道の電化|電化]]が完成したため、「鷲羽」は[[国鉄153系電車|153系]]を使用して客車から電車化され、さらに3往復に増発。運行区間も京都駅・大阪駅 - 宇野駅間になる。
* [[1961年]](昭和36年)10月1日 :[[サンロクトオ]]のダイヤ改正により、次のように変更。
*# 東京駅 - 宇野駅間で[[特別急行列車|特急]]「'''[[富士 (列車)#戦後における「富士」の変遷|富士]]'''」が[[国鉄181系電車|151系電車]]で1往復運転開始。宇野線に初めて特急列車が運転される。その[[間合い運用]]として、大阪駅 - 宇野駅間に特急「'''うずしお'''」を1往復設定。
*# [[山陰地方|山陰]]方面からの直通列車として岡山駅 - [[出雲市駅]] - [[博多駅]]間運行の準急「'''[[やくも#しんじ|しんじ]]'''」が宇野駅まで乗り入れ。
* [[1962年]](昭和37年)[[9月1日]]:宇野駅 - 鳥取駅間の準急「'''[[つやま (列車)|砂丘]]'''」が設定され、岡山駅 - 宇野駅間で「しんじ」と併結して乗り入れるようになる。
* [[1964年]](昭和39年)10月1日:[[東海道新幹線]]開業に伴い[[東海道本線]]の昼行特急列車を全廃することになったため、「富士」は廃止。「富士」の東海道新幹線と重複しない新大阪駅 - 宇野駅間に関しては「'''ゆうなぎ'''」と名称変更して存続。また「瀬戸」の補助列車として同区間に急行「'''[[サンライズ瀬戸|さぬき]]'''」を設定する。
* [[1965年]](昭和40年)10月1日:宇野線列車の大増発が行われ、「鷲羽」は夜行1往復も設定され下り7本・上り8本になる。また宇野駅 - 出雲市駅間で準急「'''[[やくも#伯備線優等列車沿革|たまつくり]]'''」が運転開始。
* [[1966年]](昭和41年)[[3月5日]]:走行距離100km以上の準急列車を急行列車に格上げさせることになったため、「鷲羽」「砂丘」「しんじ」は急行列車となる。
* [[1968年]](昭和43年)10月1日:[[ヨンサントオ|ヨン・サン・トオ]]と呼ばれるダイヤ改正により、「うずしお」が「ゆうなぎ」を統合し、1往復増発して3往復、「瀬戸」が「さぬき」を統合して2往復、「しんじ」も「たまつくり」を統合して2往復、「鷲羽」は定期9往復・不定期2往復の11往復となる。
=== 新幹線岡山開業後 ===
* [[1972年]](昭和47年)[[3月15日]]:[[山陽新幹線]]の新大阪駅 - 岡山駅間が開業。これに伴う[[1972年3月15日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]により、以下のように変更。
*# 新幹線開業区間における輸送は多くが新幹線に振り替えられることになったことから、「うずしお」は全廃、「鷲羽」も夜行1往復を残して廃止となる。
*# 「砂丘」・「しんじ」の宇野駅乗り入れも廃止。
*# 「瀬戸」は1往復に統合し特急へ格上げ。
*# それらの列車の代替として途中茶屋町駅のみ停車する快速列車が岡山駅 - 宇野駅間にほぼ1時間間隔で運行を開始(通称「'''宇野快速'''」<ref>[https://doi.org/10.1299/jsmemag.90.825_1090 『日本機械学会誌』90巻1090頁(825号158頁)]</ref>)。快速列車は「鷲羽」で運用されていた153系を転用し、グリーン車も連結した。快速列車の運行されない早朝・夜間の時間帯には、普通列車ながら利用客の少ない小駅を通過する列車を運行し、車両は快速列車と共通運用として四国連絡の利便を確保した。なお、153系は[[2022年]][[3月11日]]まで運行していた「[[サンライナー]]」に相当する山陽本線岡山駅 - 三原駅間の快速列車にグリーン車も営業して使用された。
*#* その後、混雑を緩和するために快速列車は宮原電車区(現:[[網干総合車両所]]宮原支所)所属の113系に置き換えられ、153系は山陽本線快速主体の運用となる。113系編成の送り込みのため大阪駅 - 岡山駅間の直通普通列車(大阪駅 - 西明石駅間快速)が設定され、宇野線快速のグリーン車廃止・岡山電車区移管後も、直通普通列車は網干電車区(現:網干総合車両所本所)に移管の上で民営化初期まで運転されていた。
* [[1980年]](昭和55年)
** [[2月13日]]:京阪神地区の増発に宮原電車区の113系を、また横須賀線・総武快速線直通運転開始に際して113系グリーン車をそれぞれ捻出する必要が生じたことと、国鉄の度重なる運賃・料金の値上げから利用が減少したことにより、快速列車のグリーン車を夜行急行「鷲羽」の間合い運用であった1往復をのぞいて廃止、車両も岡山電車区に新製配置された115系1000番台に置き換え。
** 10月1日:利用客の減少により夜行急行「鷲羽」を廃止。これにより間合い運用されていた快速列車1往復も115系に代替され、快速列車のグリーン車は全廃。
** 急行「鷲羽」廃止時の停車駅
** [[新大阪駅]] - 大阪駅 - 三ノ宮駅 - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - [[明石駅]] - [[加古川駅]] - [[姫路駅]] - [[相生駅 (兵庫県)|相生駅]] - [[和気駅]] - 岡山駅 - 茶屋町駅 - 宇野駅
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:快速列車の一部が妹尾駅に停車。
* [[1987年]](昭和62年)
** [[3月22日]]:翌年の[[瀬戸大橋]]の完成を前にして快速列車に115系に代わって213系の使用を開始<ref name="railf 200901">{{Cite journal |和書 |journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |date=2009年1月号 |publisher=[[交友社]] |page=126}}</ref>。
** [[4月1日]]:快速列車に「'''備讃ライナー'''」の愛称を命名、1号車(高松方先頭車)は指定席とされる<ref name="railf 200901" />。
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ファイル:JR west 213 bisanliner okayama.jpg|9両編成で運転する備讃ライナー(1987年)
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{{-}}
=== 本四備讃線(瀬戸大橋線)開業後 ===
* [[1988年]](昭和63年)[[4月10日]]:瀬戸大橋の完成に伴うダイヤ改正により、次のように変更。
*# 「備讃ライナー」と宇高航路の連絡船ならびにホーバークラフトを廃止し、岡山駅 - 高松駅間に快速「'''マリンライナー'''」を運転開始。
*# 特急「瀬戸」を高松駅発着に変更。
*# 特急「'''[[しおかぜ (列車)|しおかぜ]]'''」「'''[[うずしお (列車)|うずしお]]'''」「'''[[南風 (列車)|南風]]'''」の岡山駅乗り入れを開始。
* [[1998年]]([[平成]]10年)[[7月10日]]:「瀬戸」が[[JR西日本285系電車|285系電車]]に使用車両を変更し「'''[[サンライズ瀬戸]]'''」となる。
* [[1999年]](平成11年)[[3月13日]]:「マリンライナー」の岡山発15時以降の高松行きの全列車が妹尾駅に停車するようになる。
* [[2001年]](平成13年)5月:高松駅改修による駅複合施設[[サンポート高松]]開業に伴う祝賀列車として臨時急行列車「'''サンポート高松号'''」が、[[国鉄485系電車|485系]]により[[大阪駅]] - 高松駅間で運行。
* [[2003年]](平成15年)10月1日:「マリンライナー」の使用車両を5000系・223系5000番台に置き換え、一部区間での最高速度を110km/hから130km/hに変更<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成15年秋 ダイヤ改正 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2003-07-30 |url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030730b.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20031001163934/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030730b.html |archivedate=2003年10月1日 |accessdate=2017-02-21 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)6月下旬:223系5000番台編成に同2000番台[[付随車]]1両が組み込まれる。
* [[2008年]](平成20年)4月10日:瀬戸大橋開通20周年を記念し、「懐かしの213系マリンライナー号」を運転<ref name="jrs_20080128" />。
* [[2009年]](平成21年)3月14日:宇野線早島駅 - [[久々原駅]]間の[[複線]]化により、「マリンライナー」の岡山駅 - 児島駅間での所要時間が1 - 2分短縮される。
* [[2010年]](平成22年)[[1月24日]]:223系5000番台編成に組み込まれていた同2000番台1両の減車が完了<ref name="jrs_20091218" />。
* [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:この日より[[改札|車内改札]]を簡略化<ref>{{Cite news |title=「マリンライナー」指定席、車内改札簡略化へ |newspaper=乗りものニュース |date=2015-03-09 |url=https://trafficnews.jp/post/38617/ |publisher=メディア・ヴァーグ |accessdate=2017-02-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=JR四国客室乗務員 |date=2015-03-16 |url=http://jrshikoku.blog.fc2.com/blog-entry-525.html |title=快速マリンライナーからのお知らせです! |work=JR四国客室乗務員BLOG |publisher=[[FC2ブログ]] |accessdate=2017-02-21}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:12号と47号が上の町駅を、68号が大元駅を通過するダイヤに変更し、所要時間が3 - 5分短縮された<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成28年春ダイヤ改正について |publisher=西日本旅客鉄道岡山支社 |date=2015-12-18 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/151218_04_okayama.pdf |format=PDF |accessdate=2015-12-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151220003323/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/151218_04_okayama.pdf |archivedate=2015年12月20日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:8号が備前西市駅に停車するダイヤに変更し、10号と12号の両数を入れ替え<ref>[http://www.sanyonews.jp/article/642586 JR18年春のダイヤ改正発表 山陽、瀬戸大橋線快速で停車駅増] - 山陽新聞 2017年12月17日</ref>。
* 2018年(平成30年)4月10日:運行開始30周年を迎え、5000系M5編成の高松方に記念ヘッドマークが取り付けられ 、高松駅と岡山駅にて記念式典が開催された<ref>{{Cite web|和書|date=2018-04-10|url= https://news.mynavi.jp/article/20180410-614548/ |title= 瀬戸大橋線開業30周年、快速「マリンライナー」に記念ヘッドマーク |publisher=マイナビニュース|accessdate=2022-07-02}}</ref><ref>{{Cite news |和書|url= https://railf.jp/news/2018/04/11/180000.html |title= "マリンライナー“瀬戸大橋30周年記念ヘッドマーク|newspaper=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |publisher=[[交友社]] |date=2018-04-11 |accessdate=2022-07-02}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[5月16日]]:[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]による乗客減に伴い、この日から[[6月12日]]までの間、下り19・23・27・31・35号の児島駅 ‐ 高松駅間、上り22・26・30・34・38号の高松駅 ‐ 児島駅間が運休<ref>{{Cite web|和書|title=特急・快速・普通列車の運休(5月16日~6月12日) :JR四国|url=http://www.jr-shikoku.co.jp/02_information/14_tokkyu0508/sp/#marine|website=www.jr-shikoku.co.jp|accessdate=2020-05-26}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[9月4日]]:JR西日本岡山支社「岡山デスティネーションキャンペーン」の「おか鉄フェス」の一環で、団体専用列車として姫路駅 - 宇野駅間で115系電車による「鷲羽」を復活運転<ref>[https://www.sanyonews.jp/article/1284651/ 急行「鷲羽」9月4日限りの復活「おか鉄フェス」で姫路―宇野間] [[山陽新聞]]、2022年7月15日閲覧。</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Marine Liner (train)}}
* [[日本の列車愛称一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR西日本車両案内|marineliner|快速 マリンライナー|223系・5000系}}
* [http://www.jr-shikoku.co.jp/01_trainbus/syaryou/marine.shtm 車両情報 マリンライナー] - 四国旅客鉄道
{{JR四国の列車}}
{{デフォルトソート:まりんらいなあ}}
[[Category:西日本旅客鉄道の列車]]
[[Category:四国旅客鉄道の列車]]
[[Category:瀬戸大橋|列まりんらいなあ]]
[[Category:予讃線]]
[[Category:列車愛称 ま|りんらいなあ]]
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一次電池
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一次電池(いちじでんち)とは、直流電力の放電のみができる電池(化学電池)であり、二次電池に対するそれ以外の電池のことである。二次電池が登場した際にレトロニムとして区分された呼称である。
放電が進むと放電生成物が生じ、逆起電力によって電圧が下がる。放電に伴って生成した放電生成物を減極剤と反応させることにより放電に無害な物質に変える。 使用に伴って放電電圧は徐々に低下し、ある一定限度以下では実際上役に立たなくなるためその時点で寿命となる。この点では、充放電を繰り返す間での性能低下を寿命とする二次電池とは対照的である。充電すると実際には電圧が回復するが、液漏れや破裂の危険を伴うためメーカーでは推奨しておらず行わない方が良い。化学反応であるため、温かな環境では反応が進み放電電圧も維持傾向があり、逆に寒冷地では電圧が低下する。
19世紀初頭、商用電力の普及以前には、二次電池である鉛蓄電池などを充電するにはダニエル電池のような一次電池からの充電が唯一の手段であったため、充電電力を供給する側の電池に対し一次電池 (Primary Cell)、充電される側の電池に対し、二次電池 (Secondary Cell) の名が与えられた。
日常生活で多用される一般的な乾電池として、マンガン乾電池とアルカリマンガン乾電池がある。アルカリマンガン乾電池はマンガン乾電池に比べ電気容量が大きく、容量と価格の比でもおおむね優位であるが、大容量である代わりに自己放電の割合も大きいため使用しなくとも比較的早期に寿命が尽きる。このため短期間に大電流を消費するデジタル機器や照明用途などに向く。
マンガン乾電池は電気容量が小さく大電流も得られないが安価であり、何より放電後しばらくすると電圧が回復する特性を持つため、時計やガスコンロの点火用など小電力で長時間使ったり、一度使えばその後はあまり使わないような用途に向く。
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一次電池(いちじでんち)とは、直流電力の放電のみができる電池(化学電池)であり、二次電池に対するそれ以外の電池のことである。二次電池が登場した際にレトロニムとして区分された呼称である。 放電が進むと放電生成物が生じ、逆起電力によって電圧が下がる。放電に伴って生成した放電生成物を減極剤と反応させることにより放電に無害な物質に変える。
使用に伴って放電電圧は徐々に低下し、ある一定限度以下では実際上役に立たなくなるためその時点で寿命となる。この点では、充放電を繰り返す間での性能低下を寿命とする二次電池とは対照的である。充電すると実際には電圧が回復するが、液漏れや破裂の危険を伴うためメーカーでは推奨しておらず行わない方が良い。化学反応であるため、温かな環境では反応が進み放電電圧も維持傾向があり、逆に寒冷地では電圧が低下する。 19世紀初頭、商用電力の普及以前には、二次電池である鉛蓄電池などを充電するにはダニエル電池のような一次電池からの充電が唯一の手段であったため、充電電力を供給する側の電池に対し一次電池、充電される側の電池に対し、二次電池 の名が与えられた。
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'''一次電池'''(いちじでんち)とは、[[直流]]電力の[[放電]]のみができる[[電池]]([[電池#化学電池|化学電池]])であり、[[二次電池]]に対するそれ以外の電池のことである。二次電池が登場した際に[[レトロニム]]として区分された呼称である。
放電が進むと放電生成物が生じ、逆起電力によって電圧が下がる。放電に伴って生成した放電生成物を[[減極剤]]と反応させることにより放電に無害な物質に変える。
使用に伴って放電電圧は徐々に低下し、ある一定限度以下では実際上役に立たなくなるためその時点で寿命となる。この点では、充放電を繰り返す間での性能低下を寿命とする二次電池とは対照的である。充電すると実際には電圧が回復するが、液漏れや破裂の危険を伴うためメーカーでは推奨しておらず行わない方が良い。化学反応であるため、温かな環境では反応が進み放電電圧も維持傾向があり、逆に寒冷地では電圧が低下する。
19世紀初頭、商用電力の普及以前には、二次電池である鉛蓄電池などを充電するにはダニエル電池のような一次電池からの充電が唯一の手段であったため、充電電力を供給する側の電池に対し一次電池 (Primary Cell)、充電される側の電池に対し、二次電池 (Secondary Cell) の名が与えられた。
==特性==
* [[公称電圧]]
* [[放電容量]]
* [[出力密度]]
* [[自然放電]]
==分類==
* [[乾電池]]
** [[マンガン乾電池]]
** [[アルカリマンガン乾電池]]
** [[オキシライド乾電池]]
** [[ニッケル乾電池]](ニッケルマンガン乾電池)
* [[酸化銀電池]]
* [[水銀電池]]
* [[空気亜鉛電池]]
* [[リチウム電池]]
* [[海水電池]]
* [[溶融塩電池|熱電池]]<!--熱賦活型電池としての熱電池-->
== 形状 ==
{{main|IEC 60086}}
* 単1形
* 単2形
* 単3形
* 単4形
* 単5形
* 006P形
* ボタン形
* ピン形
== 適用 ==
日常生活で多用される一般的な乾電池として、マンガン乾電池とアルカリマンガン乾電池がある。アルカリマンガン乾電池はマンガン乾電池に比べ電気容量が大きく、容量と価格の比でもおおむね優位であるが、大容量である代わりに自己放電の割合も大きいため使用しなくとも比較的早期に寿命が尽きる。このため短期間に大電流を消費するデジタル機器や照明用途などに向く。
マンガン乾電池は電気容量が小さく大電流も得られないが安価であり、何より放電後しばらくすると電圧が回復する特性を持つため、時計やガスコンロの点火用など小電力で長時間使ったり、一度使えばその後はあまり使わないような用途に向く<ref>梅尾良之著、『新しい電池の科学』、講談社、2006年9月20日第1刷発行、ISBN 4062575302</ref>。
== 出典 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[電池]]
* [[乾電池]]
* [[二次電池]]
* [[ボタン電池]]
*[[全固体電池]]
{{ガルバニ電池}}
{{DEFAULTSORT:いちしてんち}}
[[Category:電池]]
[[Category:電気化学]]
[[Category:レトロニム]]
[[it:Pila (chimica)]]
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2022-06-01T01:27:11Z
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[
"Template:ガルバニ電池",
"Template:Main"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%AC%A1%E9%9B%BB%E6%B1%A0
|
17,470 |
ホワイト
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ホワイト(英: White(古英語:[hwait];現代英語:[wait]))は、白という意味の英単語である。姓の場合は、whyteという綴りもある。
英語圏の姓として用いられている。
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ホワイトは、白という意味の英単語である。姓の場合は、whyteという綴りもある。
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{{Wiktionary|white}}
'''ホワイト'''({{lang-en-short|White}}([[古英語]]:[hwait];[[現代英語]]:[wait]))は、[[白]]という意味の英単語である。姓の場合は、whyteという綴りもある。
== 一般的な意味 ==
* [[英語]]の[[形容詞]]で'''[[白]]い'''、白色の、[[白人|白色人種]]([[コーカソイド]])などの意味。
* 好ましいもの、潔白さの[[象徴]]。例:[[ホワイトリスト]]、[[ホワイト企業]]、[[キャッチオール規制#グループA(輸出管理優遇措置対象国)|ホワイト国]]
* 美しいもの、[[清潔]]さの象徴。例:[[美白]]、[[純白]]の[[ウェディングドレス]]、[[白鳥]]
* 白色の[[顔料]]、[[絵具]]。[[鉛白]](シルバーホワイト)、[[酸化チタン(IV)|二酸化チタン]](チタニウムホワイト)、[[酸化亜鉛|亜鉛華]](ジンクホワイト)などがある。
* 修正に用いる白い[[ポスターカラー]]のこと。転じて[[修正液]]のこと。
== 人名 ==
英語圏の姓として用いられている。
* [[アラン・ホワイト]] - [[イギリス]]のドラマー。
* [[ウィリアム・ホワイト]] - イギリスの来日宣教師
* [[ウィリアム・フート・ホワイト]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の社会学者。
* [[エドワード・ホワイト]] - アメリカの宇宙飛行士。
* [[エレン・グールド・ホワイト]] - [[セブンスデー・アドベンチスト教会]]の創設者・指導者。
* [[エレン・トニ・ホワイト]] - [[イングランド]]の女子サッカー選手。
* [[キャリー・C・ホワイト]] - アメリカの長寿記録者。
* [[キャリン・ホワイト]] - アメリカの歌手。
* [[ジェリー・ホワイト]] - アメリカの野球選手。
* [[ショーン・ホワイト]] - アメリカのスノーボード・スケートボード選手。
* [[ダグラス・ホワイト]] - [[南アフリカ共和国]]の騎手。
* [[テッド・ホワイト]] - アメリカのSF作家。
* [[デリック・ホワイト]] - アメリカの野球選手。
* [[トーマス・D・ホワイト]] - アメリカの軍人。
* [[パット・ホワイト]] - アメリカのアメリカンフットボール選手。
* [[パトリック・ホワイト]] - [[オーストラリア]]の小説家。
* [[ハリー・ホワイト]] - アメリカの政治家。
* [[バリー・ホワイト]] - アメリカの歌手。
* [[ピーター・ホワイト]] - イギリスのギタリスト。
* [[マイク・ホワイト]] - アメリカの脚本家・俳優。
* [[マット・ホワイト]] - アメリカの野球選手。
* [[モーリス・ホワイト]] - アメリカのミュージシャン。
* レオン・ホワイト - アメリカのプロレスラー、[[ビッグバン・ベイダー]]の本名。
* [[レジー・ホワイト]] - アメリカのアメリカンフットボール選手。
* [[レニー・ホワイト]] - アメリカのドラマー。
* [[ロイ・ホワイト]] - アメリカの野球選手。
* [[ロバート・ホワイト]] - イングランドの作曲家。
* [[ロンデル・ホワイト]] - アメリカの野球選手。
* [[オーウェン・ホワイト]] - アメリカ合衆国のプロ野球選手
;複合姓
* [[マーガレット・バーク=ホワイト]] - アメリカの写真家。
; 架空の人物・キャラクター
* ホワイト選手 - [[ソフトバンクモバイル]]の初期CMシリーズの一環として登場する人物。[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク球団]]の選手という設定。
* [[キュアホワイト]] - テレビアニメ『[[ふたりはプリキュア]]』シリーズの登場人物。
* [[ポケットモンスターSPECIALの登場人物|ホワイト]] - ゲームから派生した漫画『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』に登場する架空の人物。
; バンド名
* [[ホワイト (バンド)]] - アラン・ホワイトによって結成された[[プログレッシブ・ロック]]・バンド。
== 企業 ==
* {{仮リンク|ホワイト・モーター|en|White Motor Company}}社 - アメリカの自動車会社。
** [[M3スカウトカー]] - 上記会社の製品。第二次大戦中の[[装甲車]]。
== 作品 ==
; 音楽作品
* [["white"]] - [[井上陽水]]のアルバム。
* [[WHITE (舟木一夫のアルバム)]] - [[舟木一夫]]のアルバム。
* [[WHITE (アンジェラ・アキのアルバム)]] - [[アンジェラ・アキ]]のアルバム。
* [[White (NEWSのアルバム)]] - [[NEWS (グループ)|NEWS]]のアルバム。
* [[WHITE (Superflyのアルバム)]] - [[Superfly]]のアルバム。
* [[White (shelaのシングル)]] - [[shela]]のシングル。
* [[white (隆吉の曲)]] - [[尼丁隆吉|隆吉]]のシングル曲。
* [[WHITE (KAT-TUNの曲)]] - [[KAT-TUN]]のシングル曲。
; ゲーム
* [[ポケットモンスター ブラック・ホワイト]] - ニンテンドーDS用ロールプレイングゲーム。
* [[White 〜セツナサのカケラ〜]] - [[ねこねこソフト]]の[[アダルトゲーム]]。同社の処女作に当たる。
* [[White 〜blanche comme la lune〜]] - 同上。同社の12作目(活動復帰後2作目)に当たる。
; 映画
* [[ホワイト_(映画)|ホワイト]](2011) - [[ハム・ウンジョン]]主演の映画
; その他
* [[WHITE (倉田淳の戯曲)]]
== 関連項目 ==
* [[ホワイトニング]]
* {{prefix}}
* {{intitle}}
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二次電池
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二次電池(にじでんち)は、充電を行うことにより繰り返し使用することが出来る電池(化学電池)のことである。充電池(じゅうでんち)、蓄電池(ちくでんち)ともいう。
二次電池は、使用していなくても時間と共に蓄えた電気が徐々に失われる(自然放電)ため、長期保存後に使用する前には充電を行った方がよい。自然放電の大小は二次電池の種類や保存状態などによって異なる。
化学電池では充電、放電をするためには、金属が酸化還元するイオン化傾向を利用して酸化還元電位を発生させる。(鉛蓄電池の場合、鉛の電極を、希硫酸でつなぐと電力と水が発生し、電位が下がる)
電極をつなぐ物質を電解質という。通常は酸化還元作用のある液体が使われる。さらに、固体の電解質で、正負両極をつなぐことで、安定・安全な電池が作れると研究されている。電池の名称は全固体電池という。近年はこの全固体電池が次世代電池として注目されている。
新原理の半導体二次電池では、エネルギー準位に電子を捕獲し充電を行う。全固体の二次電池であり電解液、電解質自体が不要である(化学電池ではなく物理電池に属する)。
近年、関連業界および一般流通分野では、「充電式電池」の略称して充電池(じゅうでんち)と呼ぶようになってきており、製品名としても見られる。さらに一般流通分野、特に家庭向けとしてリチウムイオンバッテリーが充電池の名称で販売された結果、自動車などに搭載するような大型のものを蓄電池、単三などの小型のものを充電池と使い分ける語法ができた。
ただし、学術的には電気工学や電気化学における学術用語としては「二次電池」「蓄電池」が認められている名称であることに注意が必要である。日本で従来、車両(主に自動車)に用いられてきた鉛蓄電池を「バッテリー」と呼んできたため、単にバッテリー (battery) といえば、通常は鉛蓄電池を指すことが多い。
しかし実際の日本語における外来語であるバッテリーという言葉の意味は、特にリチウムイオンバッテリーの普及以降、一般にはスマートフォンなどをはじめとしたモバイル端末やその他、ワイヤレススピーカーを含む無線のアクセサリ等に内蔵するリチウムイオンバッテリーを指し、転じてバッテリー残量のことを指す場合もある。つまり一般に、「バッテリーがなくなった」と言う場合、「充電がなくなった」と同様に実際は「バッテリー残量がなくなった(少なくなった)」を意味することがほとんどである。
各種二次電池の比較を示す
二次電池は自動車や航空機、農業機械など各種車両のほか、ノートパソコンやデジタルカメラ、携帯電話などのさまざまな機器に幅広く利用されている。
(主要な例)
特に携帯機器の場合、蓄電容量が重要な製品仕様の重要な要素となることも多い。サイズ上の制約を強く受け、できる限り小型軽量、かつ大きな容量を備えると言う相反した要求がある。蓄蔵エネルギーを高密度化すると言う点で二次電池の技術革新を後押ししている面がある。
充電可能な内蔵バッテリーを採用している製品では、電池パックの部分が取替可能になっている場合が多くある。電池パックの経年劣化により性能が十分でなくなった時に交換したり、あるいは単一では使用のうえで容量が不足する場合に複数の電池パックを準備して使用することもある。電池パックは通常その製品に特化した専用の物を使用するが、純正またはサードパーティー製品として販売されている場合もある。本体に適合し保証のある物を使用しないと、故障や発火など重大なトラブルに繋がる場合がある。
携帯電話やスマートフォンの普及に伴い、日常的に使用するそれらの機器が、内蔵電池では容量不足となる機会も増えた。そのため、携行に適した形状でUSBタイプの汎用端子により充電可能な二次電池である「モバイルバッテリー」が広く利用されるようになった。「モバイルバッテリー」は和製英語であり、英語圏では「パワーバンク」(Powerbank)と呼ばれることが多い。
日本でモバイルバッテリーが普及した契機は、2007年(平成19年)12月に三洋電機(現パナソニック)が発売した『eneloop mobile booster(モバイルブースター)』であった。携帯電話やデジタルカメラ、携帯型ゲーム機(PSPなど)を屋外で充電できる利便性が話題となった。翌2008年(平成20年)のiPhone 3Gの発売や、2011年(平成23年)3月の東日本大震災に伴い、緊急時の充電機として注目された。当時は競合機器が少なく、またeneloopのブランド力が高かったことから「モバイルバッテリーといえば『モバイルブースター』」と認識され、製品名を略した「モバブ」がモバイルバッテリー全般の略称として用いられるほどであった。
同国では特に前述の東日本大震災の影響によってモバイルバッテリーの販売数は大きく伸び、2011年3月から翌2012年12月までの期間においては、前年比で350%以上もの売り上げを記録した。2010年3月の販売数に対して2013年3月のそれは95.2倍にも達するほどであり、「スマートフォンの定番アクセサリ」として定着した。さらに2016年(平成28年)7月に同国でサービスを開始した位置情報ゲームアプリ「ポケモンGO」の影響によっても売れ行きを伸ばした。一方で普及に伴い発火などの事故も増加しており、消費者庁には2013年6月からの6年間で162件の事故情報が寄せられた。そのような事情から2018年より電気用品安全法の規制対象となり、2019年からは同法に基づきPSEマークがないものの流通が禁止された。しかしその後も、日本国内の基準を満たさない海外製のモバイルバッテリーによる発火事故は後を絶たない状況であり、規制強化が検討されている。 2018年現在、モバイルバッテリーには上述のリチウムイオン二次電池を用いる場合が大半なので、飛行機内持ち込み時の計算には、3.7Vを表示されているmAh数を乗ずることで、電力定格量(Wh)を算出できる(ニッケル・水素充電池の場合は1.2V)。
なお、USBはもともと高アンペア(1A〜)の電力供給用に設計された規格ではなかったので、USB 1.x/2.0を備えるもので規格電流を超えるものについては各メーカー/製品毎の独自規格であり、適合性や保証に関して注意が必要である。
航空機への搭載は各規制がある。航空旅客便については160Whを上限としたリチウムイオン二次電池を機内への持ち込みのみ可としている(100Wh以下は個数無制限、100Whを超え160Wh以下は2個まで)。宅配便では航空機を使っての輸送ができず、その場合は陸路や船便を利用している。
モバイルバッテリーよりも大型・大容量の蓄電池を内蔵し、AC100V・DC12V・USBなどの電源端子を備え、モバイル機器だけでなく家庭用電化製品も使用可能なバッテリー。
小型二次電池および小型二次電池使用製品は、資源有効利用促進法により、事業者による自主回収および再資源化が義務付けられている。代表的な小型二次電池の共同回収スキームとして JBRC があり、JBRC会員の製品は協力店・協力自治体で回収され再資源化されることでリサイクルされる。
また、自動車用の鉛蓄電池に関しては、SBRA(鉛蓄電池再資源化協会)が活動しており会員の製品を排出する事業者に対して回収・リサイクルを行っている。
二次電池を店舗・自治体の回収拠点などへ持ち込む際には危険防止の為に短絡防止の措置などが求められる。なお、この措置は世界的に共通な一般事項である。
輸送時に「航空機による爆発物等の輸送基準等を定める告示」の制約を受ける。電池のみを航空輸送することは出来ない。
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二次電池(にじでんち)は、充電を行うことにより繰り返し使用することが出来る電池(化学電池)のことである。充電池(じゅうでんち)、蓄電池(ちくでんち)ともいう。
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'''二次電池'''(にじでんち)は、[[充電]]を行うことにより繰り返し使用することが出来る[[電池]]([[電池#化学電池|化学電池]])のことである。'''充電池'''(じゅうでんち)<ref name=":0">{{Cite news|title=新しいIoTデバイスの実用化のためにバッテリーの開発を加速――ソフトバンクが「次世代電池Lab.」を公開|newspaper=[[ITmedia]]|date=2021-11-09|url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/2111/09/news161.html|author=小山安博|accessdate=2021-11-09}}</ref>、'''蓄電池'''(ちくでんち)ともいう<ref>{{Cite web|和書|title=蓄電池とは|url=https://kotobank.jp/word/%E8%93%84%E9%9B%BB%E6%B1%A0-96008|website=コトバンク|accessdate=2021-01-11|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,化学辞典|last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。
[[ファイル:Mobile Battery Solar Charger.jpg |thumb|220x124px|right|ソーラー充電が可能なモバイルバッテリー]]
== 概要 ==
二次電池は、使用していなくても時間と共に蓄えた電気が徐々に失われる('''[[自然放電]]''')ため、長期保存後に使用する前には充電を行った方がよい。自然放電の大小は二次電池の種類や保存状態などによって異なる。
[[化学電池]]では充電、放電をするためには、金属が酸化還元する[[イオン化傾向]]を利用して[[酸化還元電位]]を発生させる。(鉛蓄電池の場合、鉛の電極を、希硫酸でつなぐと電力と水が発生し、電位が下がる)
電極をつなぐ物質を[[電解質]]という。通常は酸化還元作用のある液体が使われる。さらに、[[固体電解質|固体の電解質]]で、正負両極をつなぐことで、安定・安全な電池が作れると研究されている。電池の名称は[[全固体電池]]という。近年はこの[[全固体電池]]が次世代電池として注目されている。
新原理の半導体二次電池では、エネルギー準位に電子を捕獲し充電を行う。全固体の二次電池であり電解液、電解質自体が不要である(化学電池ではなく物理電池に属する)。
== 名称 ==
近年、関連業界および一般流通分野では、「充電式電池」の略称して'''充電池'''(じゅうでんち)と呼ぶようになってきており、製品名としても見られる<ref name=":0" />。さらに一般流通分野、特に[[家電機器|家庭向け]]として[[リチウムイオン二次電池|リチウムイオンバッテリー]]が充電池の名称で販売された結果、[[自動車]]などに搭載するような大型のものを'''蓄電池'''、[[乾電池|単三]]などの小型のものを'''充電池'''と使い分ける語法ができた。
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{{独自研究範囲|ただし、学術的には[[電気工学]]や[[電気化学]]における'''[[学術用語]]'''としては「二次電池」「蓄電池」が認められている名称であることに注意が必要である。日本で従来、車両(主に[[自動車]])に用いられてきた鉛蓄電池を「バッテリー」と呼んできたため、単に'''バッテリー''' (battery) といえば、通常は鉛蓄電池を指すことが多い。|date=2021-11-09}}
-->
[[日本語]]における[[外来語]]である'''バッテリー'''という言葉の意味は、特にリチウムイオンバッテリーの普及以降、一般には[[スマートフォン]]などをはじめとした[[携帯機器|モバイル端末]]やその他、ワイヤレススピーカーを含む無線のアクセサリ等に内蔵するリチウムイオンバッテリーを指し、転じてバッテリー残量のことを指す場合もある。つまり一般に、「バッテリーがなくなった」と言う場合、「充電がなくなった」と同様に実際は「バッテリー残量がなくなった(少なくなった)」を意味することがほとんどである。
== 特性 ==
* [[公称電圧]]
* [[放電容量]]
* [[比エネルギー|重量エネルギー密度]]
* [[充電効率]]
* [[サイクル寿命]]
* [[保存寿命]]([[自然放電]])
== 分類 ==
=== 一般型 ===
* [[鉛蓄電池]]
* [[リチウムイオン二次電池]]
* [[全固体電池]]
* [[ニッケル・水素充電池|ニッケル・水素蓄電池]]
* [[ニッケル・カドミウム蓄電池]]
* [[ニッケル・鉄電池|ニッケル・鉄蓄電池]] ([[トーマス・エジソン|エジソン]]電池)
* [[ニッケル・亜鉛蓄電池]]
* [[酸化銀電池#銀・亜鉛二次電池|酸化銀・亜鉛蓄電池]]
* [[コバルトチタンリチウム二次電池]]
=== 液循環型 ===
* [[レドックス・フロー電池]]
* [[亜鉛・塩素電池]]
* [[亜鉛・臭素電池]]
=== メカニカルチャージ型 ===
* [[アルミニウム・空気電池]]
* [[空気亜鉛電池]]
* [[空気・鉄電池]]
=== 高温動作型 ===
* [[ナトリウム・硫黄電池]]
* [[リチウム・硫化鉄電池]]
=== 電子トラップ型 ===
* [[半導体二次電池]]
=== 電解質による分類 ===
*水系電解質 通常の二次電池に使用される
*[[非水系電解質]] イオン伝導性のある有機溶媒を使用する。水の[[電気分解]]する電圧よりも高電圧の充放電が可能
*[[高分子固体電解質]] [[スルホ基]]を持つ[[イオン交換膜]]を使用する
*溶融塩電解質 溶融状態でイオン伝導性を持つ
*固体電解質 高温でイオン伝導性を持つ
*[[βアルミナ固体電解質]] 高温でアルカリ金属やアルカリ土類金属のイオン伝導性を持つ
==比較==
{{Main|[[:en:Comparison of battery types]]}}
各種二次電池の比較を示す
{| class="wikitable"
!rowspan="2"|種類
!公称電圧
!colspan="3"|エネルギー密度
!出力対重量比
!充放電効率
!エネルギーコスト
!自己放電率
!耐用充放電サイクル数
!耐用年数
|-
!style="font-weight: normal"|(V)
!style="font-weight: normal"|(MJ/kg)
!style="font-weight: normal"|(Wh/kg)
!style="font-weight: normal"|(Wh/L)
!style="font-weight: normal"|(W/kg)
!style="font-weight: normal"|(%)
!style="font-weight: normal"|{{nowrap|(Wh/US$)}}
!style="font-weight: normal"|(%/月)
!style="font-weight: normal"|(回)
!style="font-weight: normal"|(年)
|-
! [[半導体二次電池(電子トラップ)]]
| 1.5-3
|
| 190-1200<ref name="a-2kajiyama.pdf">{{Citation|和書
| url = http://www.hiroshima-u.ac.jp/upload/83/riezon/2010/hp/a-2kajiyama.pdf
| title = 半導体二次電池(グエラバッテリー)の新規開発
| format = PDF
| publisher = [[広島大学]]
| author = 梶山博司
| deadlinkdate = 2017年12月11日
| archivedate = 2016年10月26日
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20161026231608/http://www.hiroshima-u.ac.jp/upload/83/riezon/2010/hp/a-2kajiyama.pdf }}</ref>
| 500-1800{{R|a-2kajiyama.pdf}}
| 3100
|
|
|
| 100,000
|
|-
! [[鉛蓄電池]]
| 2.1
| 0.11-0.14
| 30-40
| 60-75
| 180
| 70%-92%
| 5-8
| 3%-4%
| 500-800
| 3 (自動車用), 20 (定置式)
|-
![[制御弁式鉛蓄電池]]
| 2.105
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
![[ニッケル・鉄電池|ニッケル・鉄蓄電池]]
| 1.2
| 0.18
| 50
|
| 100
| 65%
| 5-7.3<ref name="batcomp">[http://www.mpoweruk.com/specifications/comparisons.pdf mpoweruk.com: Accumulator and battery comparisons (pdf)]</ref>
| 20%-40%
|
|
|-
![[ニッケル・カドミウム蓄電池]]
| 1.2
| 0.14-0.22
| 40-60
| 50-150
| 150
| 70%-90%
|
| 20%
| 1500
|
|-
![[ニッケル・水素蓄電池]]
| 1.2
| 0.11-0.29
| 30-80
| 140-300
| 250-1000
| 66%
| 1.37 [http://www.harborfreight.com/cpi/ctaf/displayitem.taf?Itemnumber=90148]
| 20%
| 1000
|
|-
![[ニッケル・亜鉛蓄電池]]
| 1.7
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| 170
|
|
| 2-3.3
|
|
|
|-
![[リチウムイオン二次電池]]
| 3.6
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| 2.8-5<ref>http://www.werbos.com/E/WhoKilledElecPJW.htm (which links to {{Cite web|和書|url=http://www.thunder-sky.com/home_en.asp |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2007年11月5日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070929080759/http://www.thunder-sky.com/home_en.asp |archivedate=2007年9月29日 |deadlinkdate=2017年9月 }})</ref>
| 5%-10%
| 1200
| 2-3
|-
![[リチウムイオンポリマー二次電池]]
| 3.7
| 0.47-0.72
| 130-200
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| 3000+
| 99.8%
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|
| ~0.5
|-
![[リチウムイオン二次電池#リン酸鉄リチウムイオン電池|リン酸鉄リチウムイオン電池]]
| 3.25
|
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| 1400
|
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| 2000+<ref>[http://zeva.com.au/tech/LiFePO4.php Zero Emission Vehicles Australia] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111214021610/http://www.zeva.com.au/tech/LiFePO4.php |date=2011年12月14日 }}</ref>
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![[リチウム・硫黄電池]]
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| 87-95%<sup>r</sup>
| 0.5-1.0
|
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!Li箔
| ?
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| ?<sup>p</sup><ref>[http://www.excellatron.com/pilotline.htm Excellatron - the Company]</ref>
|
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|
| 150-220
|
| 4.54<ref>[http://www.evworld.com/article.cfm?storyid=465 EVWORLD FEATURE: Fuel Cell Disruptor - Part 2:BROOKS | FUEL CELL | CARB | ARB | HYDROGEN | ZEBRA | EV | ELECTRIC]</ref>
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|130
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![[アルカリマンガン乾電池#充電式アルカリ電池|充電式アルカリ電池]]
| 1.5
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|}
== 利用例 ==
二次電池は自動車や[[航空機]]、[[農業機械]]など各種車両のほか、[[ノートパソコン]]や[[デジタルカメラ]]、[[携帯電話]]などのさまざまな機器に幅広く利用されている。
(主要な例)
* 車両 - 電装品用のほか動力用としても
** [[電気自動車用蓄電池|自動車]]([[乗用車]]、[[商用車]])、[[建設機械]]、[[農業機械]]など
** [[鉄道車両]]
** [[遊具]]、[[模型]]、[[ラジコン]]など
* [[工具]]
** [[ドライバー (工具)|ドライバー]]から[[チェーンソー]]まで多数
* [[照明]](投光機、作業灯など)
* 電力供給用
* [[無停電電源装置]]
** 発電所 - [[再生可能エネルギー]]蓄電用
* 家電製品
** [[掃除機]]、除雪機、芝刈り機など多数
** [[携帯機器]]
*** ノートパソコン、デジタルカメラ、[[携帯電話]]、[[スマートフォン]]など多数
{{節スタブ}}
特に[[携帯機器]]の場合、蓄電容量が重要な製品仕様の重要な要素となることも多い。サイズ上の制約を強く受け、できる限り小型軽量、かつ大きな容量を備えると言う相反した要求がある。蓄蔵エネルギーを高密度化すると言う点で二次電池の技術革新を後押ししている面がある。
=== 外部バッテリー ===
{{see also|電池パック}}
充電可能な内蔵バッテリーを採用している製品では、[[電池パック]]の部分が取替可能になっている場合が多くある。電池パックの経年劣化により性能が十分でなくなった時に交換したり、あるいは単一では使用のうえで容量が不足する場合に複数の電池パックを準備して使用することもある。電池パックは通常その製品に特化した専用の物を使用するが、純正またはサードパーティー製品として販売されている場合もある。本体に適合し保証のある物を使用しないと、故障や発火など重大なトラブルに繋がる場合がある。
=== モバイルバッテリー ===
[[File:Muji Rechargeable Battery for Smartphone 5000mAh MB50-MJ.jpg|thumb|{{Commonscat-inline|Powerbanks|モバイルバッテリー}}]]
[[携帯電話]]や[[スマートフォン]]の普及に伴い、日常的に使用するそれらの機器が、内蔵電池では容量不足となる機会も増えた。そのため、携行に適した形状で[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]タイプの汎用端子により充電可能な二次電池である「'''モバイルバッテリー」'''が広く利用されるようになった。「モバイルバッテリー」は和製英語であり、英語圏では「パワーバンク」([[:en:Battery charger#Power bank|Powerbank]])と呼ばれることが多い。
[[日本]]でモバイルバッテリーが普及した契機は、[[2007年]]([[平成]]19年)12月に[[三洋電機]](現[[パナソニック]])が発売した『[[eneloop]] mobile booster(モバイルブースター)』であった。携帯電話や[[デジタルカメラ]]、[[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]([[PlayStation Portable|PSP]]など)を屋外で充電できる利便性が話題となった。翌[[2008年]](平成20年)の[[iPhone 3G]]の発売や、[[2011年]](平成23年)3月の[[東日本大震災]]に伴い、緊急時の充電機として注目された。当時は競合機器が少なく、またeneloopのブランド力が高かったことから「モバイルバッテリーといえば『モバイルブースター』」と認識され、製品名を略した「'''モバブ'''」がモバイルバッテリー全般の略称として用いられるほどであった<ref>{{Cite news|title=モバイルバッテリーを略して「モバブ」──“ブ”って何?|newspaper=[[ITmedia]]|date=2017-10-17|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1710/07/news007.html|author=山口恵祐|accessdate=2021-11-09}}</ref>。
同国では特に前述の[[東日本大震災]]の影響によってモバイルバッテリーの販売数は大きく伸び、2011年3月から翌2012年12月までの期間においては、前年比で350%以上もの売り上げを記録した。2010年3月の販売数に対して2013年3月のそれは95.2倍にも達するほどであり、「スマートフォンの定番アクセサリ」として定着した<ref>{{Cite news|title=広がるスマホ用モバイルバッテリ市場…定番アクセサリに昇格|newspaper=[[読売新聞]]|date=2013-04-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130503090028/https://www.yomiuri.co.jp/net/report/20130424-OYT8T00456.htm|archivedate=2013-05-03|accessdate=2021-11-09|url=https://www.yomiuri.co.jp/net/report/20130424-OYT8T00456.htm}}</ref>。さらに[[2016年]](平成28年)7月に同国でサービスを開始した[[位置情報ゲーム]][[モバイルアプリケーション|アプリ]]「[[Pokémon GO|ポケモンGO]]」の影響によっても売れ行きを伸ばした<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20190115/ddm/013/040/008000c|title=デジタル:モバイルバッテリーで備え|accessdate=2019年4月22日|publisher=毎日新聞(2019年1月15日作成)}}</ref>。一方で普及に伴い発火などの事故も増加しており、[[消費者庁]]には2013年6月からの6年間で162件の事故情報が寄せられた<ref>{{PDF|[https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_safety/caution/caution_020/pdf/caution_020_190731_0001.pdf モバイルバッテリーの事故に注意しましょう!] 消費者庁 2023年2月22日閲覧。}}</ref>。そのような事情から2018年より[[電気用品安全法]]の規制対象となり、2019年からは同法に基づきPSEマークがないものの流通が禁止された<ref>{{PDF|[https://www.meti.go.jp/policy/consumer/seian/denan/topics/mlb/mlb-outline.pdf モバイルバッテリーの規制対象化について] 経済産業省 2023年2月22日閲覧。}}</ref>。しかしその後も、日本国内の基準を満たさない海外製のモバイルバッテリーによる発火事故は後を絶たない状況であり、規制強化が検討されている<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20230817-OYO1T50004/ 違法なモバイルバッテリーの発火相次ぐ、大半は安価な海外製…電車内で「ボン」と爆発音] 読売新聞 2023年8月17日</ref>。
2018年現在、モバイルバッテリーには上述の[[リチウムイオン二次電池]]を用いる場合が大半なので、飛行機内持ち込み時の計算には、3.7Vを表示されている[[mAh]]数を乗ずることで、電力定格量([[キロワット時|Wh]])を算出できる([[ニッケル・水素充電池]]の場合は1.2V)。
なお、USBはもともと高アンペア(1A〜)の電力供給用に設計された規格ではなかったので<ref group="注釈">ただし、USB 1.x/2.0/3.x(標準)までの事情であり、USB Battery Charging (BC 1.2)/Type-C/Power Delivery 等の標準化、一部製品化はなされている。</ref>、USB 1.x/2.0を備えるもので規格電流を超えるもの<ref group="注釈">1.x/2.0で500mA、3.xで900mA(いずれも給電拡張無しの標準タイプ)</ref>については各メーカー/製品毎の独自規格であり、適合性や保証に関して注意が必要である。
航空機への搭載は各規制がある。航空旅客便については160Whを上限としたリチウムイオン二次電池を機内への持ち込みのみ可としている(100Wh以下は個数無制限、100Whを超え160Wh以下は2個まで)<ref>[https://www.jal.co.jp/jp/ja/dom/baggage/limit/ 制限のあるお手荷物]([[日本航空]]) [https://ana.force.com/jajp/s/article/answers6174ja リチウムイオン電池が内蔵された一般電子機器・モバイルバッテリーの取り扱いについて。]([[全日本空輸]])</ref>。宅配便では航空機を使っての輸送ができず、その場合は陸路や船便を利用している。
=== ポータブル電源 ===
{{main|ポータブル電源}}
モバイルバッテリーよりも大型・大容量の蓄電池を内蔵し、AC100V・DC12V・USBなどの電源端子を備え、モバイル機器だけでなく家庭用電化製品も使用可能なバッテリー。
== 回収・リサイクル ==
小型二次電池および小型二次電池使用製品は、[[資源の有効な利用の促進に関する法律|資源有効利用促進法]]により、事業者による自主回収および再資源化が義務付けられている。代表的な小型二次電池の共同回収スキームとして [https://www.jbrc.com/ JBRC] があり、JBRC会員の製品は協力店・協力自治体で回収され再資源化されることでリサイクルされる。
また、自動車用の鉛蓄電池に関しては、[http://www.sbra.or.jp/ SBRA](鉛蓄電池再資源化協会)が活動しており会員の製品を排出する事業者に対して回収・リサイクルを行っている。
二次電池を店舗・自治体の回収拠点などへ持ち込む際には危険防止の為に短絡防止の措置などが求められる。なお、この措置は世界的に共通な一般事項である。
輸送時に「[[航空機による爆発物等の輸送基準等を定める告示]]」の制約を受ける。電池のみを航空輸送することは出来ない<ref name=JP_2015>{{Citation|和書
| url = http://www.post.japanpost.jp/notification/productinformation/2015/0730_01.html
| title = リチウム電池を内容とする郵便物等の取扱いについて
| publisher = [[日本郵便]]
| date = 2015年7月30日
| deadlinkdate = 2017年12月11日
| archivedate =2016年11月30日
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20161130092010/http://www.post.japanpost.jp/notification/productinformation/2015/0730_01.html
}}</ref>。
*充電器の機能の一つである放電機能を使うか、それが無い場合は機器の電源が勝手に切れるまで電源を入れておく事で完全放電させてからリサイクルに出す事を推奨している。
<!-- *二次電池が入った梱包物を郵便局へ持ち込んで発送する際は、梱包物を郵便局員に見せて確認してもらい、ゆうパックとして取り扱った上でリチウム電池取扱ラベルを貼り付けて発送の必要が有る<ref name=JP_2015 />(コメントアウト理由:記載内容誤り - 出典の記述を読む限り、ゆうパック以外やリチウム電池取扱ラベル貼付無しでも陸送や船便であれば発送可能であると思われる -->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[充電]] - [[充電器]]
* [[メモリー効果]]
* [[一次電池]]
* [[燃料電池]]
* [[全固体電池]]
* [[電池パック]]
* [[電気二重層コンデンサ]]
* [[蓄電]]
* [[エネルギー貯蔵]]
* [[自家発電]]
* [[蓄電池設備整備資格者]]
* [[レアメタル]]
{{ガルバニ電池}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:にしてんち}}
[[Category:二次電池|*]]
[[Category:電気化学]]
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2003-09-19T22:09:13Z
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2023-12-30T06:59:09Z
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17,472 |
日本道路公団
|
日本道路公団(にほんどうろこうだん、英語: Japan Highway Public Corporation、略称:JH)は、かつて日本に存在した、主として日本の高速道路・有料道路(高速自動車国道及びバイパス道路)の建設、管理を行っていた特殊法人。
1956年(昭和31年)4月16日に日本道路公団法に基づき設立された。公団の資本金は全額日本国政府が出資した。
その後、数十年間にわたり日本の有料道路の建設及び管理に当たってきたが、1990年代になり、天下り、談合、道路族議員の暗躍、ファミリー企業、随意契約など、隠れた利権の温床として、負債が雪だるま式に膨らむ「第2の国鉄」と言われ、自由主義経済の原理に反する特殊法人の異常な実態が明らかになるにつれ、道路関係四公団(当公団と首都高速道路公団、阪神高速道路公団、本州四国連絡橋公団)は「その代表例」として、世論の非難を浴びるようになった。
不透明な利権を排し、無責任な放漫経営体質を改める目的で、2001年(平成13年)の小泉内閣発足とともに民営化の計画を始め、2002年(平成14年)12月に道路関係四公団民営化推進委員会を設置。6日に内閣総理大臣宛の「意見書」を提出し、本格的な民営化の議論が始まった。
その後、委員の大半が途中辞任するなど紆余曲折を経て、2004年(平成16年)6月9日に道路関係四公団民営化関係四法案(高速道路株式会社法、独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構法、日本道路公団等の民営化に伴う道路関係法律の整備等に関する法律、日本道路公団等民営化関係法施行法)が可決・成立され、民営化が決定した。
2005年(平成17年)6月1日に、道路関係四公団民営化関係法令が公布され、同年10月1日に道路関係四公団民営化会社と日本高速道路保有・債務返済機構が発足した。 この日の日本道路公団分割民営化に伴い、同公団の業務のうち、施設の管理運営や建設については、東日本高速道路(NEXCO東日本)・中日本高速道路(NEXCO中日本)・西日本高速道路(NEXCO西日本)に、保有施設及び債務は他の道路関係四公団とともに独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構に分割・譲渡された。これら会社・機構の発足とともにほぼ50年続いた当公団は解散した。
なお、公団解散直前のコーポレートスローガンは「ヒューマンロードで未来を結ぶ」だった。
高速自動車国道の設計・建設、有料道路の管理のほか、以下の業務を行うものとされていた。
旧道路整備特別措置法によると、国土交通大臣は日本道路公団のみに対し、高速自動車国道法に規定する整備計画に基く高速自動車国道の新設又は改築を行わせ(施行命令)、料金を徴収させることができた。したがって、高速自動車国道を有料道路として管理できるのは日本道路公団だけだった。
公団は、これらをふまえて策定した工事実施計画書や料金及び料金の徴収期間につき、あらためて国土交通大臣の認可をうけ、建設・管理した。
また、一般国道等については国土交通大臣の許可があれば一般有料道路として管理ができた。
公団は事業年度毎に国土交通大臣から、予算等の認可、財務諸表の承認をうけた。一方、資金の借入のほか、道路債券の発行をおこない、政府の貸付や債券引受、さらには債務保証も認められた。 公団が民間企業同様に試算した平成16年度末の資産合計は33.0兆円、負債合計は28.6兆円であった。
1998年、公団の外債発行に対し野村證券からの収賄を受け取ったとして、公団の経理担当理事(大蔵省OB)が野村證券の元副社長らと共に逮捕された。
2005年、元公団職員が発注先に天下りし、OBによる談合組織「かずら会」を組織しての官製談合を行なっていた橋梁談合事件が発覚。 2004年度公団発注の新東名高速道路の橋梁工事について、公団副総裁と理事は分割発注を職員に指示し、これにより公団に損害を負わせた背任行為が摘発された。
民営化前日までに管理していた道路は以下のとおり。
A'は、高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路。
このほか以下の渡船施設を一般有料道路として管理していたが、いずれもすでに事業譲渡または事業廃止されている。
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日本道路公団は、かつて日本に存在した、主として日本の高速道路・有料道路(高速自動車国道及びバイパス道路)の建設、管理を行っていた特殊法人。
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{{Infobox 組織
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'''日本道路公団'''(にほんどうろこうだん、{{Lang-en|Japan Highway Public Corporation}}、略称:'''JH''')は、かつて日本に存在した、主として[[日本の高速道路]]・[[有料道路]]([[高速自動車国道]]及び[[バイパス道路]])の建設、管理を行っていた[[特殊法人]]。
{{Main2|民営化|道路関係四公団}}
== 概要 ==
[[ファイル:Tokyo-bay aqualine01.jpg|thumb|[[東京湾アクアライン]]]]
[[ファイル:御殿場インターチェンジ001.jpg|thumb|right|[[東名高速道路]][[御殿場インターチェンジ]]]]
[[File:Tokyo Wan Aqualine 01.jpg|thumb|280px|[[海ほたるパーキングエリア]]から見た[[東京湾アクアライン]]の夜景(木更津方面)]]
[[1956年]](昭和31年)[[4月16日]]に日本道路公団法に基づき設立された<ref name="便覧2007-p13">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=13}}</ref>。公団の[[資本金]]は全額[[日本国政府]]が出資した。
その後、数十年間にわたり日本の有料道路の建設及び管理に当たってきたが、1990年代になり、[[天下り]]、[[談合]]、[[族議員|道路族議員]]の暗躍、[[ファミリー企業]]、[[随意契約]]など、隠れた[[利権]]の温床として、[[負債]]が雪だるま式に膨らむ「第2の[[日本国有鉄道|国鉄]]」と言われ、[[自由主義経済]]の原理に反する[[特殊法人]]の異常な実態が明らかになるにつれ、[[道路関係四公団]](当公団と[[首都高速道路公団]]、[[阪神高速道路公団]]、[[本州四国連絡橋公団]])は「その代表例」として、世論の非難を浴びるようになった。
不透明な[[利権]]を排し、無責任な放漫経営体質を改める目的で、[[第1次小泉内閣|2001年(平成13年)の小泉内閣]]発足とともに民営化の計画を始め、2002年(平成14年)12月に[[道路関係四公団民営化推進委員会]]を設置。6日に内閣総理大臣宛の「意見書」を提出し、本格的な[[民営化]]の議論が始まった<ref name="便覧2007-p19">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=19}}</ref>。
その後、委員の大半が途中辞任するなど紆余曲折を経て、[[2004年]](平成16年)6月9日に道路関係四公団民営化関係四法案(高速道路株式会社法、独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構法、日本道路公団等の民営化に伴う道路関係法律の整備等に関する法律、日本道路公団等民営化関係法施行法)が可決・成立され、民営化が決定した<ref name="便覧2007-p19"/>。
2005年(平成17年)6月1日に、道路関係四公団民営化関係法令が公布され{{efn|日本道路公団等民営化関係施工法の施行期日を定める政令公布、高速道路株式会社法施行令公布、独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構法施行令公布、日本道路公団等の民営化に伴う経過措置及び関係政令の整備等に関する政令公布}}、同年10月1日に道路関係四公団民営化会社{{efn|[[東日本高速道路]]、[[中日本高速道路]]、[[西日本高速道路]]、[[本州四国連絡高速道路]]、[[首都高速道路]]及び[[阪神高速道路]]の6社}}と[[日本高速道路保有・債務返済機構]]が発足した<ref name="便覧2007-p20">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=20}}</ref>。
この日の日本道路公団分割民営化に伴い、同公団の業務のうち、施設の管理運営や建設については、[[東日本高速道路]](NEXCO東日本)・[[中日本高速道路]](NEXCO中日本)・[[西日本高速道路]](NEXCO西日本)に{{sfn|武部健一|2015|pp=227–228}}、保有施設及び債務は他の道路関係四公団とともに独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構に分割・譲渡された。これら会社・機構の発足とともにほぼ50年続いた当公団は解散した{{sfn|武部健一|2015|pp=227–228}}。
なお、公団解散直前のコーポレートスローガンは「'''ヒューマンロードで未来を結ぶ'''」だった。
== 業務 ==
[[高速自動車国道]]の設計・建設、[[有料道路]]の管理のほか、以下の業務を行うものとされていた。
*有料の自動車[[駐車場]]の建設・管理
*高速自動車国道の[[サービスエリア]]・[[パーキングエリア]]などにおける道路サービス施設の建設・管理
*関連する[[トラックターミナル]]などの建設・管理
旧[[道路整備特別措置法]]によると、[[国土交通大臣]]は日本道路公団のみに対し、[[高速自動車国道法]]に規定する'''整備計画'''に基く[[高速自動車国道]]の新設又は改築を行わせ(施行命令)、料金を徴収させることができた。したがって、高速自動車国道を有料道路として管理できるのは日本道路公団だけだった。
公団は、これらをふまえて策定した工事実施計画書や料金及び料金の徴収期間につき、あらためて国土交通大臣の認可をうけ、建設・管理した。
また、[[一般国道]]等については国土交通大臣の許可があれば[[一般有料道路]]として管理ができた。
== 財務及び会計 ==
公団は事業年度毎に国土交通大臣から、予算等の認可、財務諸表の承認をうけた。一方、資金の借入のほか、道路債券の発行をおこない、政府の貸付や債券引受、さらには債務保証も認められた。
公団が民間企業同様に試算した平成16年度末の資産合計は33.0兆円、負債合計は28.6兆円であった。
== 汚職事件 ==
=== 1998年 大蔵OB贈収賄事件 ===
{{see also|大蔵省接待汚職事件}}
1998年、公団の外債発行に対し[[野村證券]]からの収賄を受け取ったとして、公団の経理担当理事([[大蔵省]]OB)が野村證券の元副社長らと共に逮捕された<ref name="kokko">{{Cite press release|和書|publisher=大蔵省による官僚汚職事件の全容解明と腐敗構造の改革をもとめる |title=日本国家公務員労働組合連合会 |date=1998-01-28 |url=http://www.kokko-net.org/kokkororen/mondai29.htm}}</ref>。
===2005年 橋梁工事官製談合事件===
{{see also|橋梁談合事件}}
2005年、元公団職員が発注先に[[天下り]]し、OBによる談合組織「かずら会」を組織しての[[官製談合]]を行なっていた[[橋梁談合事件]]が発覚<ref>{{cite news|title=橋梁談合 道路公団発注分も OBと三菱重が調整・決定 |newspaper=しんぶん赤旗 |date=2005-05-29 |url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-05-29/01_04_2.html}}</ref>。
2004年度公団発注の[[新東名高速道路]]の[[橋梁]]工事について、公団副総裁と理事は分割発注を職員に指示し、これにより公団に損害を負わせた背任行為が摘発された。
* 内田道雄公団副総裁 - 2005年7月、[[東京地方検察庁|東京地検]][[特別捜査部|特捜部]]は公団発注の橋梁工事について[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律|独占禁止法]]違反容疑で副総裁を逮捕<ref>{{cite news |title=橋梁談合 内田道路公団副総裁を逮捕 分割発注指示「官製談合」に発展 |newspaper=しんぶん赤旗 |date=2005-07-26 |url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-26/2005072601_02_2.html }}</ref>。2010年9月に最高裁は上告を棄却、懲役2年6か月・執行猶予4年の一審判決が確定<ref>{{cite news |title=内田元副総裁の有罪確定へ 旧道路公団の橋梁談合 |newspaper=共同通信 |date=2010-09-25 |url=https://web.archive.org/web/20130426151707/http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092501000252.html}}</ref>。
* 公団理事 - 2010年7月、最高裁は金子恒夫公団元理事の上告を棄却、懲役2年執行猶予3年の一審判決が確定<ref>{{cite news| title=旧道路公団元理事の有罪確定へ 橋梁談合事件で |newspaper=共同通信 |date=2010-07-22 |url=https://web.archive.org/web/20130426140320/http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010072201000619.html }}</ref> 。
* 公団元理事 - 神田創造元理事、[[横河ブリッジ]]顧問。独禁法違反罪で有罪確定<ref>{{cite news| title=橋梁談合・初公判 天下り、受注に直結 検察指摘メーカー大筋認める |newspaper=しんぶん赤旗 |date=2005-12-17 |url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-12-17/2005121715_01_2.html}}</ref>。
* 橋梁メーカー [[横河ブリッジ]]・[[三菱重工業]]・[[石川島播磨重工業]] を [[公正取引委員会]]が独占禁止法違反の疑いで刑事告発。国土交通省は8か月以上の指名停止処分を下した<ref>{{Cite press release|和書|title=鋼橋上部工事の入札談合事件に係る刑事告発を受けての指名停止措置の加重について |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/00/000701_.html |publisher=[[国土交通省]] |date=2005-07-01 |accessdate=2012-01-18}}</ref>。
== 歴代総裁 ==
#[[岸道三]] [[1956年]][[4月16日]] - [[1962年]][[3月14日]]
#[[上村健太郎]] [[1962年]][[3月20日]] - [[1966年]][[4月30日]]
#[[富樫凱一]] [[1966年]][[5月1日]] - [[1970年]][[6月4日]]
#[[前田光嘉]] [[1970年]][[6月5日]] - [[1978年]][[11月30日]]
#[[高橋国一郎]] [[1978年]][[12月1日]] - [[1986年]][[4月30日]]
#[[宮繁護]] [[1986年]][[5月1日]] - [[1991年]][[5月15日]]
#[[鈴木道雄 (建設事務次官)|鈴木道雄]] [[1991年]][[5月16日]] - [[1998年]][[7月7日]]
#[[緒方信一郎]] [[1998年]][[7月7日]] - [[2000年]][[6月20日]]
#[[藤井治芳]] [[2000年]][[6月20日]] - [[2003年]][[10月27日]]
#[[近藤剛]] [[2003年]][[11月20日]] - [[2005年]][[9月30日]]
== 日本全国の支社・建設局・管理局一覧(民営化前日まで)==
=== 支社 ===
*北海道支社
*東北支社
*北陸支社([[2005年]](平成17年)[[7月1日]]から民営化前日までは関東第一支社新潟管理局、中部支社金沢管理局)
*中部支社
*関西支社
*中国支社
*四国支社
*九州支社
=== 建設局 ===
*東京建設局([[2005年]](平成17年)[[7月1日]]から民営化前日までは関東第一支社・関東第二支社)
*静岡建設局([[2005年]](平成17年)[[7月1日]]から民営化前日までは関東第二支社)
=== 管理局 ===
*東京管理局([[2005年]](平成17年)[[7月1日]]から民営化前日までは関東第二支社)
**東局([[岩槻インターチェンジ|岩槻IC]]内)([[2005年]](平成17年)[[7月1日]]から民営化前日までは関東第一支社)
**西局([[2005年]](平成17年)[[7月1日]]から民営化前日までは関東第二支社八王子管理局)
== 管理していた道路 ==
民営化前日までに管理していた道路は以下のとおり。
=== 高速自動車国道 ===
{{Main|高速自動車国道}}
=== 一般有料道路 ===
==== 高規格幹線道路 ====
A'は、[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]。
*[[深川沼田道路]]([[深川留萌自動車道]])
*[[苫東道路]]([[日高自動車道]])
*[[百石道路]](A' - 東北縦貫自動車道八戸線)
*[[秋田外環状道路]]([[秋田自動車道]]、A' - 東北横断自動車道釜石秋田線)
*[[琴丘能代道路]](秋田自動車道、A' - 日本海沿岸東北自動車道)
*[[湯沢横手道路]](A' - 東北中央自動車道)
*[[仙塩道路]](三陸自動車道、[[三陸縦貫自動車道]])
*[[矢本石巻道路]](三陸自動車道、三陸縦貫自動車道)
*[[仙台東部道路]](A' - 常磐自動車道)
*[[仙台北部道路]](A' - 常磐自動車道)
*[[米沢南陽道路]](A' - 東北中央自動車道)
*[[東水戸道路]](A' - 北関東自動車道)
*圏央道([[首都圏中央連絡自動車道]])
*[[京葉道路]](A' - 東関東自動車道館山線)
*[[千葉東金道路]](首都圏中央連絡自動車道)
*[[富津館山道路]](A' - 東関東自動車道館山線)
*[[安房峠道路]]([[中部縦貫自動車道]])
*[[東海環状自動車道]]
*[[伊勢湾岸自動車道|伊勢湾岸道路]](伊勢湾岸自動車道、A' - 第二東海自動車道、近畿自動車道名古屋神戸線)
*[[京都第二外環状道路]](京滋バイパス、[[京都縦貫自動車道]])
*[[京都丹波道路]](京都縦貫自動車道)
*[[京奈道路]]([[京奈和自動車道]])
*[[湯浅御坊道路]](A' - 近畿自動車道紀勢線)
*[[米子道路]](山陰道、A' - 山陰自動車道)
*[[安来道路]](山陰道、A' - 山陰自動車道)
*[[江津道路]](山陰道、A' - 山陰自動車道)
*[[広島岩国道路]](A' - 山陽自動車道)
*[[今治小松道路]]([[今治小松自動車道]])
*[[高松東道路]]([[高松自動車道]]、A' - 四国横断自動車道)
*[[椎田道路]](A' - 東九州自動車道)
*[[宇佐別府道路]](A' - 東九州自動車道)
*[[武雄佐世保道路]]([[西九州自動車道]])
*[[佐世保道路]](西九州自動車道)
*[[延岡南道路]](A' - 東九州自動車道)
*[[隼人道路]](A' - 東九州自動車道)
*[[南九州西回り自動車道#八代日奈久道路|八代日奈久道路]]([[南九州西回り自動車道]])
*[[南九州西回り自動車道#鹿児島道路|鹿児島道路]](南九州西回り自動車道)
*[[南風原道路]]([[那覇空港自動車道]]の一部区間)
==== 地域高規格道路 ====
*東京湾横断・木更津東金道路([[東京湾アクアライン]])
*[[第三京浜道路]]
*[[横浜新道]]
*[[横浜横須賀道路]]
*[[新湘南バイパス]]
*[[京滋バイパス]]
*[[第二京阪道路]]
*[[第二神明道路]]
*[[南阪奈道路]]
*[[広島呉道路]]
*[[日出バイパス]]([[大分空港道路]])
==== その他の道路 ====
*[[八王子バイパス]]([[国道16号]])
*[[西湘バイパス]]([[国道1号]])
*[[小田原厚木道路]]([[国道271号]])
*[[箱根新道]]([[国道1号]])
*[[東富士五湖道路]]([[国道138号]])
*[[西富士道路]]([[国道139号]])
*[[八木山バイパス]]([[国道201号]])
*[[長崎バイパス]]([[国道34号]])
*[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]([[国道2号]])
==== その他自動車交通施設 ====
* 日比谷自動車駐車場
* 福岡中央自動車駐車場
=== 民営化以前に引継ぎがなされた道路 ===
{{see also|無料開放された道路一覧}}
*[[阿蘇登山道路]] - [[1970年]][[7月1日]]、[[熊本県]]・阿蘇登山有料道路
*[[磐梯吾妻道路]] - [[1972年]][[1月1日]]、[[福島県道路公社]]
*[[第二磐梯吾妻道路]] - [[1972年]][[10月20日]](開通と同時)、福島県道路公社
*[[三重県道32号伊勢磯部線|伊勢道路]] - [[1973年]][[8月1日]]、[[三重県道路公社]]
*[[白浜道路]] - [[1981年]][[6月1日]]、[[和歌山県]]
*[[知多半島道路]] - [[1983年]][[6月1日]]、[[愛知県道路公社]]
*[[大島大橋 (山口県)|大島大橋]] - [[1987年]][[6月1日]]、[[山口県道路公社]]
*[[尾道大橋]] - [[1988年]][[2月1日]]、[[本州四国連絡橋公団]]
*[[北九州道路]] - [[1991年]][[3月31日]]、[[福岡北九州高速道路公社]]・[[北九州高速4号線]]
*[[北九州直方道路]] - [[1991年]][[3月31日]]、福岡北九州高速道路公社・北九州高速4号線
*[[浦戸大橋]] - [[1997年]][[2月1日]]、[[高知県道路公社]]
*[[日光宇都宮道路]] - [[2005年]][[6月28日]]、[[栃木県道路公社]]
*[[真鶴道路]] - [[2005年]][[9月30日]]、[[神奈川県道路公社]]
*[[若戸大橋]] - [[2005年]][[9月30日]]、[[北九州市]]
このほか以下の'''渡船施設'''を一般有料道路として管理していたが、いずれもすでに事業譲渡または事業廃止されている。
*[[厚岸フェリー]] - [[1972年]][[9月11日]]、事業廃止
*[[鳴門フェリー]] - [[1978年]][[6月14日]]、事業廃止
*[[明石フェリー]] - [[1986年]][[11月20日]]、事業譲渡(明岩海峡フェリー株式会社、その後[[明石淡路フェリー]]に譲渡され現在に至る)
*[[国道九四フェリー]] - [[1988年]][[4月1日]]、事業譲渡(国道九四フェリー株式会社)
==ロゴマーク==
*初期からCI制定前には下部に地平線へ続く道と大地、上部に丸くデザイン化された「公」のマークをあしらった円形のマークを用いていた。
*1991年10月にはCI活動「STEP-21!」の一環として設立35周年に合わせ[[原田進]]のデザインによるコミュニケーションネーム「JH」(Japan Highway)のロゴマークを制定<ref>日本道路公団のCI(「STEP-21!」)活動について - 道路行政セミナー1991年11月号</ref>、日本列島の東西両方から向かい合い走る車をモチーフとしたデザインで、高速道路が情報化社会の時間と距離を短縮するとともにコミュニケーションを実現する空間をイメージしたものとした<ref>日本道路公団からのお知らせ - 建設月報1991年11月号</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 参照 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=全国高速道路建設協議会(編) |edition= 第23版|date=2007-08 |title=高速道路便覧 2007 |publisher=全国高速道路建設協議会 |isbn= |ref={{SfnRef|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007}} }}
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[道路関係四公団]]
* [[高速道路交流推進財団|財団法人道路施設協会]] - [[1965年]][[5月27日]]に設立。日本道路公団が管理する高速道路上のSA・PAの運営・管理を一手に引き受けていた[[公益法人]]([[財団法人]]、一部の高速道路、SA・PAを除く)。赤字の道路公団に対して、道路施設協会は黒字だったため、専門家から批判を浴びた。[[国土交通省]]([[建設省]])の[[天下り]]先の1つでもあった。[[1998年]][[9月30日]]付けで[[高速道路交流推進財団|道路サービス機構]](J-Sapa)と[[ハイウェイ交流センター]](HELLO SQUARE)に事業が分割された。
**[[高速道路交流推進財団|財団法人道路サービス機構]](J-Sapa)
**財団法人[[ハイウェイ交流センター]]
** ※上記2団体は共に1998年[[10月1日]]に設立(道路施設協会の法人格は道路サービス機構が継承)。上記の道路施設協会と同様、同じく日本道路公団が管理する高速道路上のSA・PAの運営・管理を引き受けていた[[公益法人]](一部を除く)。国土交通省(建設省)の天下り先の1つでもあった。共に[[2006年]][[3月31日]]付で、大部分の事業を[[ネクセリア東日本]](東日本高速道路のSA・PA運営子会社)・[[中日本エクシス]](中日本高速道路のSA・PA運営子会社)・[[西日本高速道路サービス・ホールディングス]](西日本高速道路のSA・PA運営子会社)に事業を譲渡し、[[高速道路交流推進財団]]に改称(法人格は、道路サービス機構を継承)。
*[[ハイウェイカード]] - かつて発行していた高速道路の通行料用のプリペイドカード。2006年3月31日をもって利用停止。
*[[高速道路]]
*[[一般国道]]
*[[ネクスコ]](NEXCO、全て[[株式会社]])
**[[東日本高速道路]](NEXCO東日本)
**[[中日本高速道路]](NEXCO中日本)
**[[西日本高速道路]](NEXCO西日本)
*[[日本高速道路保有・債務返済機構]]
*[[KDDI]] - 前身である[[日本高速通信]]に[[トヨタ自動車]]と共同で出資していた。[[1998年]]に[[国際電信電話]]と合併してKDDとなる。
*[[日本急行バス]] - [[建設省]]と共に設立に関与した。
*[[内閣総理大臣顕彰]]
==外部リンク==
*{{waid|1185}}
*{{Wayback |url=http://www.japan-highway.go.jp/ |title=公式サイト |date=19961107220414 }}
{{日本の高速道路}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:にほんとうろこうたん}}
[[Category:日本道路公団|*]]
[[Category:日本の道路|廃]]
[[Category:日本の高速道路|廃]]
[[Category:有料道路事業者|廃にほんとうろこうたん]]
[[Category:1956年設立の組織|廃]]
[[Category:2005年廃止の組織]]
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2003-09-19T22:28:23Z
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鉄人28号
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『鉄人28号』(てつじんにじゅうはちごう)は、横山光輝の漫画作品および同作を原作としたラジオドラマ・特撮テレビドラマ・テレビアニメ・特撮映画・劇場版アニメ・舞台演劇・PlayStation 2用テレビゲームの作品名、ならびに作品内に登場する架空のロボットの名称である。また、これらの作品中で使用された主題歌(アニメ化作品の主題歌は作詞・作曲:三木鶏郎)の曲名でもある。海外名はGigantor(ジャイガンター)。
太平洋戦争末期に大日本帝国陸軍が起死回生の秘密兵器として開発していた巨大ロボット「鉄人28号」。この鉄人が戦後に現れた。
鉄人を自由に操れる小型操縦器(リモコン)を巡って悪漢、犯罪組織にスパイ団までもが入り乱れる争奪戦に、主人公の少年探偵・金田正太郎も巻き込まれる。
漫画連載と同時代の昭和30年代(1955年 - 1964年)の日本を舞台に、リモコンの保持者次第で善にも悪にもなるロボットを巡り、少年探偵と悪人たちの攻防を描く物語。リメイクを繰り返し、何度も映像化された人気作品である。『マジンガーZ』を初めとする多くの日本の巨大ロボットものに強い影響を与えている。本来は少年探偵ものであったが、鉄人編が好評を博したため、ロボットものへと方針が変更されたとされる。また、産経新聞記者として工業関係の取材経験のあった横山は、機械の開発・試作について「最初は大きくしかできず、それから小さくなる」と考え、手塚治虫の『鉄腕アトム』を意識して鉄人28号を大型ロボットにしたとも語っていた。
横山によると鉄人28号はフランケンシュタインとB-29から着想を得た。当初、鉄人は「アメリカの憎きB29」から着想しただけあって「悪の権化」だった。そして悪の鉄人は溶鉱炉に落ちて死ぬという短期連載の予定だった。ところが連載第1回で掲載誌『少年』での読者アンケートにおいて上位になった。編集部からは長期連載が可能になるように鉄人を生き延びさせて正義の味方にするように指示された。さらに読者から「悪人をこらしめる鉄人の活躍がみたい」との要望が多く寄せられた。こうした意見に押されて当初鉄人28号として登場していたロボットは実は鉄人27号だったということにされ、後に本物の鉄人28号が登場して正太郎少年の手に渡り「正義の味方」となった。
主人公、金田正太郎の名前のモデルは、元読売ジャイアンツ(連載開始当時は国鉄スワローズ)投手の金田正一。大塚署長の名前は、雑誌『少年』の発行元である光文社の隣にある大塚警察署(文京区)に由来する。
鉄人28号、ブラックオックスについては独立項目を、それ以外のロボットについては鉄人28号の登場ロボットを参照。
マンガにおける開発計画には、連載版とカッパコミックス版の二種類が存在する。
太平洋戦争時、日本軍が進めた軍用ロボット開発計画。岐阜県乗鞍岳山中の地下に建造された研究所で、敷島博士を中心とした開発陣により研究が進められていた。等身大のロボット、1号から26号の開発には成功するものの、それらは銃撃に対する装甲防御が不十分な未完成品だった。実際、耐弾実験の際に頭部を破壊されて機能を失ってしまい、敷島博士を失望させている。
その後、敷島博士はこれまでの失敗を踏まえて設計を大幅に変更、巨人型ロボット27号の開発を進めた。27号は一定の成功を収めたものの、実用機とするまでに至らなかった。27号の成功を活かして建造されたのが28号なのだが、戦時中に建造された機体(便宜上、1号機とする)のスタイルは27号とまったく同じだった。完成した28号の起動実験が行われるが失敗、機体は爆散してしまう。その後、戦況の悪化に伴い軍は鉄人計画の放棄を決定、敷島博士たち技術者陣は南方の孤島に設けられた、秘密の特攻兵器研究所へ移動することになる。
戦争末期、孤島研究所の存在を察知した米海軍による空襲が行われ(空母艦載機を用いている描写がある)研究所は壊滅。辛うじて生き残った敷島博士は日本の降伏を知らず、長年に亘り助けてくれた原住民のもとで暮らしていた。10年後にインドへ渡り、そこで終戦と日本を騒がせている鉄人事件を知って帰国した、と本人が家族と正太郎に語っている。
しかし敷島博士以外にも生き残り、内地へ帰還を果たした技術者がいた。それが改設計28号を建造した「白覆面の男」である。根拠は、敷島博士による「鉄人の作り方は旧研究所員でなくては分からないはずだ」との発言である。
本編中、市街地で暴れる27号(このときは28号と思われていた)を目にした敷島博士は「28号にしてはおかしい」とつぶやき、乗鞍岳の研究所内で暴走する28号を目撃した際には、居合わせた正太郎たちに「あれが本物の28号だ」と言って聞かせるという演出がある。以上のことから、以下のことが推察できる。
太平洋戦争末期、日本軍が起死回生を目論んで構想したロボット兵器開発計画。
南方の島の地下に偽装した秘密研究所を作り、敷島博士などの日本の科学者や技術者を総動員して開発を始めたが、完成前に事態を察知したアメリカ軍の爆撃を受け、計画は灰燼に帰したはずだった。しかし計画の主任で正太郎の父である金田博士が、同様に南方での爆撃を生き残り、鉄人28号の完成をあきらめきれずに、戦後に敷島と共に鉄人28号を誕生させた。アニメ第4作でもこのストーリーを採り、鉄人28号は金田博士が南方の島で完成させたことになっている。
計画では人員不足を補うこと、弾丸などの補給が無くても破壊活動を継続させる能力があること、多少の破損でも戦闘行動を継続できることなどが伺われるが、有用性については謎のままである。
アニメ第4作では、巨大砲弾にて巨大なロボット兵を敵国に送り込み破壊の限りを尽くさせる「鉄人第一計画」、死した兵士の肉体を甦生させ強靭な肉体を持った兵士に作り替える、あるいは人工知能を搭載して鉄人を制御する「鉄人第二計画」が存在した。またこれに付随して、鉄人自体に新元素バギュームを使用した爆弾、太陽爆弾を埋め込み敵地を破壊せしめることを考案されたが、計画責任者である金田博士には却下された。しかし、実際にはビッグファイア博士による独断で、鉄人の心臓部に太陽爆弾が埋め込まれていた。日本軍や戦後の政府関係者は鉄人に太陽爆弾が内蔵された事実を知っていたようである。
2005年11月より「巨匠・横山光輝『鉄人28号』執筆50周年記念」プロジェクトとして潮出版社と光プロダクションの共同企画の元、発刊された。横山の元アシスタントとコンピュータによる最新技術で痛んでいた原画を復元し、コミックス未収録の読み切り8本を加えて発刊された。2007年9月に全24巻で完結。★は読みきり作品。
原作漫画の原稿は一部紛失しており、現存するものも過去の単行本化の際に切り張りされたため部分的に欠損している。「原作完全版」はデジタル画像処理を駆使して原稿を連載当時の形に戻し、紛失・欠損した部分は誌面からのトレースによる復元を行い、現著作権者の許諾を得て再編集し発刊の運びとなった。なお、原作完全版の発売後に新たに原稿の一部が発見され、2009年に刊行された文庫版では、同様の作業を経てそちらに差し替えられている。
1959年8月31日 - 1960年4月29日、ニッポン放送にて放送。あみ印食品工業の1社協賛番組。
1978年11月23日 - 12月22日、ニッポン放送「キリンラジオ劇場」にて放送。主役の正太郎役の高橋和枝を初めとして、主要な登場人物がアニメ第一作のキャストで演じられた。
1960年2月1日 - 同年4月25日に日本テレビ系列で放送された。全13話、モノクロ作品。
ストーリーは、鉄人の出現、村雨兄弟の登場、QX団(原作ではPX団)との攻防、怪ロボットXの出現、サルバチア国(原作ではS国)のスパイ・仮面団との戦いと続くが、敵の基地から脱出した正太郎が謎の爆撃に遭うところで続きがないまま1クール全13話で終了となったため、正太郎が鉄人28号の操縦者になることはなかった。第10話のナレーションによると、第1話から第10話までの間に、数年の月日が経っていることになっている。
鉄人28号は着ぐるみで表現され、身長2メートル程度、第6話までの樽型と第7話以降のドラム缶型の2種類がある。前者は眼から、後者は胸から怪光線を出す。第13話で仮面団のロケットを取り付け、飛行可能になる。ロボットは他にも、鉄人26号、27号、仮面団の怪ロボットXが登場する。鉄人26号には『少年ジェット』に登場したロボットが使われたという説が存在する。
日立製作所がスポンサーであったことから、第1話は日立市で撮影が行われた。
第4話・第12話はフィルムが行方不明のため欠番になっており、そのためビデオ・LD、DVDにも未収録である。2019年現在も、第4話と第12話のフィルムはポジ、ネガフィルム共に行方不明のままになっている。
1963年10月20日 - 1966年5月25日、フジテレビ系列で放送された。84話で一旦終了した後、3か月後に新作13話が放送され、全97話となった。モノクロ作品。詳細は『鉄人28号 (テレビアニメ第1作)』を参照のこと。
1966年『少年』での人気第1位を続けている中、横山はストーリー展開の限界を感じて漫画の連載を終了した。また同時期にテレビアニメの放送も終了した。しかし、1978年ごろから再びその人気に火が付き、繰り返しリメイクが行われ、派生作品が制作された。テレビアニメは2013年4月に5作目を放映、これにより、日本のテレビアニメのリメイク回数が水木しげる原作のアニメゲゲゲの鬼太郎の6回に継いで第2位となる。また、実写映画版も作成された。
その他、ハリウッドで映画化の企画があったが、横山光輝によると条件が合わず断ったという。
阪神大震災後の復興・商店街活性化活動の『KOBE鉄人PROJECT(神戸鉄人プロジェクト)』の一環として、兵庫県神戸市長田区の若松公園内に高さ15.6m(全長18m)の実物大モニュメント像が作られた。外装は耐候性鋼板製、重量は約50t。総工費は1億3,500万円で、神戸市から補助金4,500万円で残りは個人や企業からの寄付や協賛金によって集められた。2009年7月27日に起工式が行われ、9月29日に完成し(完成セレモニーは10月4日)公園内に恒久設置された。なお神戸市ではこれに合わせて、周辺の街路灯も鉄人の頭部を模したデザインのものに変更した(新長田駅南第2地区再開発の景観形成)。
鉄鋼アーティストの倉田光吾郎は鉄人28号の製作を企画していたが、震災復興と地域活性化を目的としたKOBE鉄人PROJECTの鉄人製作を優先することが途中で決まり、版権元からやむなく中止を言い渡された。
パロディとして鳥山明の『Dr.スランプ』のマシリト製作のキャラメルマンシリーズや麻宮騎亜の『快傑蒸気探偵団』の強力、唐沢なをきの『鉄鋼無敵科學大魔號』や『近未来馬鹿』の短篇「鋼鉄人間28号」「大塚署長自身の事件」などがある。
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"text": "『鉄人28号』(てつじんにじゅうはちごう)は、横山光輝の漫画作品および同作を原作としたラジオドラマ・特撮テレビドラマ・テレビアニメ・特撮映画・劇場版アニメ・舞台演劇・PlayStation 2用テレビゲームの作品名、ならびに作品内に登場する架空のロボットの名称である。また、これらの作品中で使用された主題歌(アニメ化作品の主題歌は作詞・作曲:三木鶏郎)の曲名でもある。海外名はGigantor(ジャイガンター)。",
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"text": "太平洋戦争末期に大日本帝国陸軍が起死回生の秘密兵器として開発していた巨大ロボット「鉄人28号」。この鉄人が戦後に現れた。",
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"text": "鉄人を自由に操れる小型操縦器(リモコン)を巡って悪漢、犯罪組織にスパイ団までもが入り乱れる争奪戦に、主人公の少年探偵・金田正太郎も巻き込まれる。",
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"text": "漫画連載と同時代の昭和30年代(1955年 - 1964年)の日本を舞台に、リモコンの保持者次第で善にも悪にもなるロボットを巡り、少年探偵と悪人たちの攻防を描く物語。リメイクを繰り返し、何度も映像化された人気作品である。『マジンガーZ』を初めとする多くの日本の巨大ロボットものに強い影響を与えている。本来は少年探偵ものであったが、鉄人編が好評を博したため、ロボットものへと方針が変更されたとされる。また、産経新聞記者として工業関係の取材経験のあった横山は、機械の開発・試作について「最初は大きくしかできず、それから小さくなる」と考え、手塚治虫の『鉄腕アトム』を意識して鉄人28号を大型ロボットにしたとも語っていた。",
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"text": "横山によると鉄人28号はフランケンシュタインとB-29から着想を得た。当初、鉄人は「アメリカの憎きB29」から着想しただけあって「悪の権化」だった。そして悪の鉄人は溶鉱炉に落ちて死ぬという短期連載の予定だった。ところが連載第1回で掲載誌『少年』での読者アンケートにおいて上位になった。編集部からは長期連載が可能になるように鉄人を生き延びさせて正義の味方にするように指示された。さらに読者から「悪人をこらしめる鉄人の活躍がみたい」との要望が多く寄せられた。こうした意見に押されて当初鉄人28号として登場していたロボットは実は鉄人27号だったということにされ、後に本物の鉄人28号が登場して正太郎少年の手に渡り「正義の味方」となった。",
"title": "概要と作品の背景"
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"text": "主人公、金田正太郎の名前のモデルは、元読売ジャイアンツ(連載開始当時は国鉄スワローズ)投手の金田正一。大塚署長の名前は、雑誌『少年』の発行元である光文社の隣にある大塚警察署(文京区)に由来する。",
"title": "概要と作品の背景"
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"text": "鉄人28号、ブラックオックスについては独立項目を、それ以外のロボットについては鉄人28号の登場ロボットを参照。",
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"text": "マンガにおける開発計画には、連載版とカッパコミックス版の二種類が存在する。",
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"text": "太平洋戦争時、日本軍が進めた軍用ロボット開発計画。岐阜県乗鞍岳山中の地下に建造された研究所で、敷島博士を中心とした開発陣により研究が進められていた。等身大のロボット、1号から26号の開発には成功するものの、それらは銃撃に対する装甲防御が不十分な未完成品だった。実際、耐弾実験の際に頭部を破壊されて機能を失ってしまい、敷島博士を失望させている。",
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"text": "その後、敷島博士はこれまでの失敗を踏まえて設計を大幅に変更、巨人型ロボット27号の開発を進めた。27号は一定の成功を収めたものの、実用機とするまでに至らなかった。27号の成功を活かして建造されたのが28号なのだが、戦時中に建造された機体(便宜上、1号機とする)のスタイルは27号とまったく同じだった。完成した28号の起動実験が行われるが失敗、機体は爆散してしまう。その後、戦況の悪化に伴い軍は鉄人計画の放棄を決定、敷島博士たち技術者陣は南方の孤島に設けられた、秘密の特攻兵器研究所へ移動することになる。",
"title": "用語解説"
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"text": "戦争末期、孤島研究所の存在を察知した米海軍による空襲が行われ(空母艦載機を用いている描写がある)研究所は壊滅。辛うじて生き残った敷島博士は日本の降伏を知らず、長年に亘り助けてくれた原住民のもとで暮らしていた。10年後にインドへ渡り、そこで終戦と日本を騒がせている鉄人事件を知って帰国した、と本人が家族と正太郎に語っている。",
"title": "用語解説"
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"text": "しかし敷島博士以外にも生き残り、内地へ帰還を果たした技術者がいた。それが改設計28号を建造した「白覆面の男」である。根拠は、敷島博士による「鉄人の作り方は旧研究所員でなくては分からないはずだ」との発言である。",
"title": "用語解説"
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"text": "本編中、市街地で暴れる27号(このときは28号と思われていた)を目にした敷島博士は「28号にしてはおかしい」とつぶやき、乗鞍岳の研究所内で暴走する28号を目撃した際には、居合わせた正太郎たちに「あれが本物の28号だ」と言って聞かせるという演出がある。以上のことから、以下のことが推察できる。",
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"text": "太平洋戦争末期、日本軍が起死回生を目論んで構想したロボット兵器開発計画。",
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"text": "南方の島の地下に偽装した秘密研究所を作り、敷島博士などの日本の科学者や技術者を総動員して開発を始めたが、完成前に事態を察知したアメリカ軍の爆撃を受け、計画は灰燼に帰したはずだった。しかし計画の主任で正太郎の父である金田博士が、同様に南方での爆撃を生き残り、鉄人28号の完成をあきらめきれずに、戦後に敷島と共に鉄人28号を誕生させた。アニメ第4作でもこのストーリーを採り、鉄人28号は金田博士が南方の島で完成させたことになっている。",
"title": "用語解説"
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"text": "計画では人員不足を補うこと、弾丸などの補給が無くても破壊活動を継続させる能力があること、多少の破損でも戦闘行動を継続できることなどが伺われるが、有用性については謎のままである。",
"title": "用語解説"
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"text": "アニメ第4作では、巨大砲弾にて巨大なロボット兵を敵国に送り込み破壊の限りを尽くさせる「鉄人第一計画」、死した兵士の肉体を甦生させ強靭な肉体を持った兵士に作り替える、あるいは人工知能を搭載して鉄人を制御する「鉄人第二計画」が存在した。またこれに付随して、鉄人自体に新元素バギュームを使用した爆弾、太陽爆弾を埋め込み敵地を破壊せしめることを考案されたが、計画責任者である金田博士には却下された。しかし、実際にはビッグファイア博士による独断で、鉄人の心臓部に太陽爆弾が埋め込まれていた。日本軍や戦後の政府関係者は鉄人に太陽爆弾が内蔵された事実を知っていたようである。",
"title": "用語解説"
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"text": "2005年11月より「巨匠・横山光輝『鉄人28号』執筆50周年記念」プロジェクトとして潮出版社と光プロダクションの共同企画の元、発刊された。横山の元アシスタントとコンピュータによる最新技術で痛んでいた原画を復元し、コミックス未収録の読み切り8本を加えて発刊された。2007年9月に全24巻で完結。★は読みきり作品。",
"title": "原作完全版"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "原作漫画の原稿は一部紛失しており、現存するものも過去の単行本化の際に切り張りされたため部分的に欠損している。「原作完全版」はデジタル画像処理を駆使して原稿を連載当時の形に戻し、紛失・欠損した部分は誌面からのトレースによる復元を行い、現著作権者の許諾を得て再編集し発刊の運びとなった。なお、原作完全版の発売後に新たに原稿の一部が発見され、2009年に刊行された文庫版では、同様の作業を経てそちらに差し替えられている。",
"title": "原作完全版"
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"text": "1959年8月31日 - 1960年4月29日、ニッポン放送にて放送。あみ印食品工業の1社協賛番組。",
"title": "ラジオドラマ"
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"text": "1978年11月23日 - 12月22日、ニッポン放送「キリンラジオ劇場」にて放送。主役の正太郎役の高橋和枝を初めとして、主要な登場人物がアニメ第一作のキャストで演じられた。",
"title": "ラジオドラマ"
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"tag": "p",
"text": "1960年2月1日 - 同年4月25日に日本テレビ系列で放送された。全13話、モノクロ作品。",
"title": "実写版テレビドラマ"
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"text": "ストーリーは、鉄人の出現、村雨兄弟の登場、QX団(原作ではPX団)との攻防、怪ロボットXの出現、サルバチア国(原作ではS国)のスパイ・仮面団との戦いと続くが、敵の基地から脱出した正太郎が謎の爆撃に遭うところで続きがないまま1クール全13話で終了となったため、正太郎が鉄人28号の操縦者になることはなかった。第10話のナレーションによると、第1話から第10話までの間に、数年の月日が経っていることになっている。",
"title": "実写版テレビドラマ"
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"text": "鉄人28号は着ぐるみで表現され、身長2メートル程度、第6話までの樽型と第7話以降のドラム缶型の2種類がある。前者は眼から、後者は胸から怪光線を出す。第13話で仮面団のロケットを取り付け、飛行可能になる。ロボットは他にも、鉄人26号、27号、仮面団の怪ロボットXが登場する。鉄人26号には『少年ジェット』に登場したロボットが使われたという説が存在する。",
"title": "実写版テレビドラマ"
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"text": "日立製作所がスポンサーであったことから、第1話は日立市で撮影が行われた。",
"title": "実写版テレビドラマ"
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"text": "第4話・第12話はフィルムが行方不明のため欠番になっており、そのためビデオ・LD、DVDにも未収録である。2019年現在も、第4話と第12話のフィルムはポジ、ネガフィルム共に行方不明のままになっている。",
"title": "実写版テレビドラマ"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1963年10月20日 - 1966年5月25日、フジテレビ系列で放送された。84話で一旦終了した後、3か月後に新作13話が放送され、全97話となった。モノクロ作品。詳細は『鉄人28号 (テレビアニメ第1作)』を参照のこと。",
"title": "テレビアニメ第1作"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "1966年『少年』での人気第1位を続けている中、横山はストーリー展開の限界を感じて漫画の連載を終了した。また同時期にテレビアニメの放送も終了した。しかし、1978年ごろから再びその人気に火が付き、繰り返しリメイクが行われ、派生作品が制作された。テレビアニメは2013年4月に5作目を放映、これにより、日本のテレビアニメのリメイク回数が水木しげる原作のアニメゲゲゲの鬼太郎の6回に継いで第2位となる。また、実写映画版も作成された。",
"title": "以降の派生作品"
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"text": "その他、ハリウッドで映画化の企画があったが、横山光輝によると条件が合わず断ったという。",
"title": "以降の派生作品"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "阪神大震災後の復興・商店街活性化活動の『KOBE鉄人PROJECT(神戸鉄人プロジェクト)』の一環として、兵庫県神戸市長田区の若松公園内に高さ15.6m(全長18m)の実物大モニュメント像が作られた。外装は耐候性鋼板製、重量は約50t。総工費は1億3,500万円で、神戸市から補助金4,500万円で残りは個人や企業からの寄付や協賛金によって集められた。2009年7月27日に起工式が行われ、9月29日に完成し(完成セレモニーは10月4日)公園内に恒久設置された。なお神戸市ではこれに合わせて、周辺の街路灯も鉄人の頭部を模したデザインのものに変更した(新長田駅南第2地区再開発の景観形成)。",
"title": "以降の派生作品"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "鉄鋼アーティストの倉田光吾郎は鉄人28号の製作を企画していたが、震災復興と地域活性化を目的としたKOBE鉄人PROJECTの鉄人製作を優先することが途中で決まり、版権元からやむなく中止を言い渡された。",
"title": "以降の派生作品"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "パロディとして鳥山明の『Dr.スランプ』のマシリト製作のキャラメルマンシリーズや麻宮騎亜の『快傑蒸気探偵団』の強力、唐沢なをきの『鉄鋼無敵科學大魔號』や『近未来馬鹿』の短篇「鋼鉄人間28号」「大塚署長自身の事件」などがある。",
"title": "その他"
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『鉄人28号』(てつじんにじゅうはちごう)は、横山光輝の漫画作品および同作を原作としたラジオドラマ・特撮テレビドラマ・テレビアニメ・特撮映画・劇場版アニメ・舞台演劇・PlayStation 2用テレビゲームの作品名、ならびに作品内に登場する架空のロボットの名称である。また、これらの作品中で使用された主題歌の曲名でもある。海外名はGigantor(ジャイガンター)。
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{{Infobox animanga/Header
|タイトル=鉄人28号
|画像=
|サイズ=
|説明=神戸市若松公園に立つ鉄人28号のモニュメント
|ジャンル=[[SF漫画]]、[[メカ]]
}}
{{Infobox animanga/Manga
|タイトル=鉄人28号
|作者=[[横山光輝]]
|作画=
|出版社=[[光文社]]
|掲載誌=[[少年 (雑誌)|少年]]
|レーベル=[[サンデーコミックス]]<br />[[完全版コミックス|原作完全版]]<br />潮漫画文庫
|発売日=
|開始=1956年7月号
|終了=1966年
|巻数=サンデーコミックス 全10巻<br />原作完全版 全24巻<br />潮漫画文庫 全18巻
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{{Infobox animanga/TVDrama
|タイトル=鉄人28号
|監督=[[丸根賛太郎|まるねさんたろう]]
|制作=松崎プロダクション
|放送局=日本テレビ系列
|放送開始=1960年2月1日
|放送終了=1960年4月25日
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{{Infobox animanga/Footer}}
[[ファイル:Wakamatsu Park Nagata-ku Kobe03nLR.jpg|thumb|鉄人28号モニュメント(神戸市長田区)]]
『'''鉄人28号'''』(てつじんにじゅうはちごう)は、[[横山光輝]]の[[漫画]]作品および同作を原作とした[[ラジオドラマ]]・[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]・[[テレビアニメ]]・特撮映画・劇場版アニメ・[[舞台演劇]]・[[PlayStation 2]]用[[テレビゲーム]]の作品名、ならびに作品内に登場する架空のロボットの名称である。また、これらの作品中で使用された主題歌(アニメ化作品の主題歌は作詞・作曲:[[三木鶏郎]])の曲名でもある。海外名は'''Gigantor'''(ジャイガンター)。
== ストーリー ==
[[太平洋戦争]]末期に[[大日本帝国陸軍]]が起死回生の[[秘密兵器]]として開発していた巨大ロボット「鉄人28号」。この鉄人が戦後に現れた。
鉄人を自由に操れる小型操縦器([[リモコン]])を巡って悪漢、犯罪組織にスパイ団までもが入り乱れる争奪戦に、主人公の少年[[探偵]]・金田正太郎も巻き込まれる。
== 概要と作品の背景 ==
漫画連載と同時代の昭和30年代([[1955年]] - [[1964年]])の日本を舞台に、リモコンの保持者次第で善にも悪にもなるロボットを巡り、少年探偵と悪人たちの攻防を描く物語。[[リメイク]]を繰り返し、何度も映像化された人気作品である。『[[マジンガーZ]]』を初めとする多くの日本の巨大ロボットものに強い影響を与えている。本来は少年探偵ものであったが、鉄人編が好評を博したため、ロボットものへと方針が変更されたとされる。また、[[産経新聞]]記者として工業関係の取材経験のあった横山は、機械の開発・試作について「最初は大きくしかできず、それから小さくなる」と考え、手塚治虫の『[[鉄腕アトム]]』を意識して鉄人28号を大型ロボットにしたとも語っていた。
横山によると鉄人28号は[[フランケンシュタイン]]と[[B-29 (航空機)|B-29]]から着想を得た。当初、鉄人は「アメリカの憎きB29」から着想しただけあって「悪の権化」だった。そして悪の鉄人は溶鉱炉に落ちて死ぬという短期連載の予定だった。ところが連載第1回で掲載誌『少年』での読者アンケートにおいて上位になった。編集部からは長期連載が可能になるように鉄人を生き延びさせて正義の味方にするように指示された。さらに読者から「悪人をこらしめる鉄人の活躍がみたい」との要望が多く寄せられた。こうした意見に押されて<ref>ササキバラ・ゴウ『戦時下のオタク』角川書店、2005年</ref>当初鉄人28号として登場していたロボットは実は鉄人27号だったということにされ、後に本物の鉄人28号が登場して正太郎少年の手に渡り「[[正義の味方]]」となった。
主人公、金田正太郎の名前のモデルは、元[[読売ジャイアンツ]](連載開始当時は[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]])投手の[[金田正一]]。大塚署長の名前は、雑誌『[[少年 (雑誌)|少年]]』の発行元である[[光文社]]の隣にある[[大塚警察署]]([[文京区]])に由来する。
== 歴史 ==
* [[1956年]]:[[漫画]]『鉄人28号』が月刊誌『[[少年 (雑誌)|少年]]』で連載開始される。
* [[1959年]]:[[ラジオドラマ]]『[[#ラジオドラマ|鉄人28号]]』が[[ニッポン放送]]で放送される(放送メディアでの作品化はこれが最初)。
* [[1960年]]:実写テレビドラマ『[[#実写版テレビドラマ|鉄人28号]]』(全13話)が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系で放送される。スポンサーは[[日立製作所]]。
* [[1963年]]:テレビアニメ第1作『[[鉄人28号 (テレビアニメ第1作)|鉄人28号]]』(白黒[[テレビアニメ|アニメ]])(全84話)が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系で放送される。スポンサーは[[江崎グリコ]]・[[グリコ乳業]]。
* [[1966年]]:上記作品がニューヨークのテレビ局・WPIXから放送される。アメリカ版タイトルは「Gigantor(ジャイガンター)」。
* [[1978年]]:ラジオドラマ『[[#ラジオドラマ|鉄人28号]]』が[[ニッポン放送]]キリンラジオ劇場で放送される。
* [[1980年]]10月:テレビアニメ第2作『[[太陽の使者 鉄人28号|鉄人28号]]』(全51話)が日本テレビ系で放送される。後年の映像ソフト化の際、『[[太陽の使者 鉄人28号]]』と改題。
* [[1992年]]4月:テレビアニメ第3作『[[超電動ロボ 鉄人28号FX]]』(全47話)が日本テレビ系で放送される。
* [[2004年]]:漫画『[[鉄人28号 皇帝の紋章]]』(原作:横山光輝、漫画:[[長谷川裕一]])が『[[月刊マガジンZ]]』で連載。
* 2004年4月:テレビアニメ第4作『[[鉄人28号 (2004年版アニメ)|鉄人28号]]』(全26話)が[[テレビ東京]]系で放映される。
* [[2005年]]3月:45年ぶりの実写での[[特撮映画]]『[[鉄人28号 (映画)|鉄人28号]]』が[[松竹]]系にて公開([[冨樫森]]監督)
* 2005年11月28日:[[#原作完全版|原作完全版]](全24巻、毎月28日発行)刊行開始。
* [[2006年]]:漫画『[[鉄人奪還作戦]]』(原作:横山光輝、漫画:[[さとうふみや]])が[[マガジンSPECIAL]]で連載開始。<!--鉄人28号以外の横山光輝作品の登場人物をモデルにしたキャラクターも多数登場している。-->
* [[2007年]]3月31日:劇場版アニメ『[[鉄人28号 白昼の残月]]』(監督:[[今川泰宏]])が公開。
* [[2013年]]4月6日:テレビアニメ第5作『[[鉄人28号ガオ!]]』がフジテレビで放送される。
== 登場人物 ==
=== 主人公とその周辺 ===
; 金田 正太郎(かねだ しょうたろう)
[[File:Alfa Romeo Disco Volante.JPG|thumb|200px|正太郎の愛車ディスコ・ボランテ(実車)]]
: 演 - [[内藤雅行|内藤正一]](テレビドラマ)、[[池松壮亮]](映画)
: 声 - [[高橋和枝]](第1作)、[[山田栄子]](第2作)、[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]](FX)、[[折笠愛]](FXにおける少年時代)、[[くまいもとこ]](第4作)、[[齋藤智美]](ガオ!)
: 本作品の主人公の少年探偵。快活で、機敏な行動力と大人顔負けの推理力と発想で事件を解決する。[[自動車]]を運転し、[[拳銃]]の名手であり、ジェット[[戦闘機]]に乗り込んだり、[[ヘリコプター]]の操縦や潜水作業などをも率先してこなす。鉄人事件以前から少年探偵として名を馳せ、[[警視庁]]にも出入りして捜査に協力する。鉄人事件以後は鉄人28号操縦者として、悪に戦いを挑んでいく。洋風の円形をした邸宅に一人で生活している(この邸宅の地下には邸内監視システムを備えた秘密の指令室があり、応接間の作り付けのソファに擬装された階段から降りる)。普段はブレザーと半ズボン、そしてネクタイを締めている。初期の愛車は[[クーペ]]タイプの{{仮リンク|アルファ・ロメオ ディスコ・ボランテ|en|Alfa Romeo Disco Volante}}。重馬敬著の小説版では緑色の[[トライアンフ・TR#TR3A(1957-1961年)|トライアンフTR3A]]を使用。
: アニメ第3作では生年月日が[[1950年]][[3月25日]](ただし、少年時代の回想では[[1974年]]に採用された[[74式戦車]]が度々出ている)とされ、成人(アニメ第1作の正太郎が成長した姿)として登場。とある事件で関わったことが切っ掛けで出逢った榊財団の社長令嬢で女性科学者の榊陽子と結婚し、長男・正人(第3作の主人公)をもうけたとされている。
: 映画『[[鉄人28号 白昼の残月|白昼の残月]]』では、母違いの同名の兄、ショウタロウが登場。
: 正太郎の名前が「[[ショタコン]]」という少年愛を意味する語源となったという説がある。当該項目を参照。
; 敷島(しきしま)博士
: 演 - [[美川陽一郎|美川洋一郎]](テレビドラマ)
: 声 - [[矢田稔]]{{Efn|1話のみ大塚署長役}}(第1作)、[[金内吉男]](第2作)、[[牛山茂]](第4作)、[[山本兼平]](ガオ!)
: 鉄人28号を開発した科学者。普段は穏やかな性格で冷静沈着であり大学教授のような面持ちであるが、銃を持って行動したり、爆破作業も得意である。正太郎にとって模範的な父親のような存在で、自身も正太郎を息子のように思っている。
: 太平洋戦争時、軍の命令で鉄人計画に加わり鉄人28号を開発していた。爆撃後生き残り、近くの島に渡り隠れ住み、戦後の鉄人事件を知って極秘裏に帰国した。帰国後独自に鉄人事件を追っていたが、正太郎と出会ってからは良き協力者として助言や鉄人の修理、科学犯罪の分析にと多岐にわたって活動を共にする。正太郎を実の息子のように思っていると大塚に語ったこともある。また、鉄人開発者として自身が事件の標的になることも多かった。既婚者で、息子の「鉄男」は正太郎の友人でもある。
: アニメ第2作では娘の牧子(ニックネームはマッキー)(声 - [[滝沢久美子]])がいて、正太郎のガールフレンド。
: 実写版では、娘のみよ子、兄の敷島技師と敷島技師の妻が登場するが実写版オリジナルの人物である。逆に敷島博士の父親と思われる敷島老人が原作の序盤で登場するが原作のみでいずれのテレビ版にも登場しない。
: 下の名前はアニメ第2作では大次郎、他のアニメと原作では隆、実写版では俊夫となっている。
: アニメ版第4作では金田博士や鉄人を妄信している節があり、時折、狂気的とも言える言動を見せることもあった。しかし、その敷島博士さえもが太陽爆弾に怯え、鉄人を葬ろうとした時、物語は終幕へと動き出した。
; 大塚(おおつか)署長
: 演 - [[有木山太]](テレビドラマ)、[[柄本明]](映画)
: 声 - [[富田耕生]]{{Efn|第1作1話のみ敷島博士役}}(第1、2作)、[[稲葉実]](第4作)、[[松山鷹志]](ガオ!)
: 警察官として敏腕であるが推理力では少年探偵の正太郎にかなわず、正太郎とは[[シャーロック・ホームズ|ホームズ]]と[[ジョン・H・ワトスン|ワトソン]]を髣髴とさせる関係でもある。正太郎にとっては父親ではなく親戚のおじさんのような存在だが、署長は正太郎を息子のように大事に思っている。既婚者で子供はいないが、妻の加代子はかなりの美人である。
: 正太郎以上に感情の起伏が激しく、大いに泣き・笑い・怒るのであるが、常に冗談や場を和ませる笑いを振りまき、ムードメーカーでもある。行動派であり上官として部下の信頼も厚い。警官としても人間的に正義感溢れる好人物。
: 初期は「大塚」という苗字は付いておらず劇中でも「署長」とだけ呼ばれていた。アニメ第2作では茂という名前がある。
; 村雨 健次(むらさめ けんじ)
: 演 - [[川喜多雄二]](テレビドラマ)、[[高岡奏輔|高岡蒼佑]](映画)
: 声 - [[久野四郎]]→[[安藤敏夫]](第1作)、[[幹本雄之]](第4作)、山本兼平(ガオ!)
: 正太郎のライバルとして登場。[[ギャングスター|ギャング]]の一味であり、初期は鉄人をめぐっての対立があったのだが、途中から味方となる。また正太郎ほどではないがロボットの操縦にも長けている。
: アニメ第1作では以前から正太郎たちの味方という設定になっており、正太郎、大塚署長、敷島博士に次ぐ主要キャラクターとして最終話まで活躍する。やくざ口調で会話する点が特徴。
: アニメ第4作では銃を使わない主義であるため、ナイフを武器としている。こちらでも主要キャラクターとして最終話まで活躍する。
: なお、アニメ第4作や漫画『奪還計画』では、「不死身の村雨」を名乗ることがある。
; 村雨 竜作(むらさめ りゅうさく)
: 演 - [[河野弘]](テレビドラマ)
: 声 - [[若本規夫]](第4作)、山本兼平(ガオ!)
: 村雨一家のボス。村雨健次の兄。ギャング団の頭目として名が通っており、慕って手下がついてくるようである。
: 敷島一家の家に強盗に入った時、ロボット強盗団に横から奪われ、しかもロボット26号の攻撃で部下の辰が殺されたことから仇討ちを決意する。
: 後に28号のリモコンを巡ってPX団と正太郎らが戦っているところに介入、PX団の持つリモコンを奪うもその時にPX団に撃たれ瀕死の重傷を負う。そして自分の死を悟った竜作はリモコンを持って車に乗り鉄人に対し特攻し、自らの命を犠牲にして鉄人を海に落とした。
: アニメ第1作では、暴走して東京で暴れる鉄人のどさくさに紛れて銀行を強盗するも、脱出する際に鉄人の攻撃に巻き込まれ、瓦礫の下敷きとなって死亡する。
: アニメ第4作では、[[特攻隊]]の生き残り(特攻崩れ)で復員後、世間の脱戦後の波に乗りあぐねたという設定がつけられた。鉄人事件に巻き込まれ、原作同様に鉄人に対して特攻して果てた。なお、その時の車は、[[ダイハツ・ミゼット]]となっている。
: [[さとうふみや]]のお気に入りのキャラであり、『鉄人奪還作戦』ではカラーページにも登場したり、投げナイフで正太郎を助けるなど出番がかなり多い(その反面、健次の出番は少なめ)。
: 映画『白昼の残月』ではショウタロウとは特攻隊の同期であったことが語られた。同作では最後まで生存している。
; 村雨一家
: 村雨兄弟を中心に構成される犯罪集団。都内を中心に押し込み強盗などや密輸取引まで行っているが、無駄な血は流さず、身内の義理堅さは古いタイプのヤクザ映画のそれである。また、仕事に合わせて手下の構成も変わるために、詳しい規模や構成は不明。村雨兄弟は実の兄弟で、義理の弟分として「辰」がおり、彼が鉄人に殺されたことから鉄人事件の渦中へ関わっていくことになる。
: 敵対する正太郎に対して「敵ながらも好意に値する」感情を持っているようで、何度となく正太郎に手を貸したり共闘したりもした。頭目である竜作の死後は、弟の健次が頭目的位置に就いて組織運営は行われたようだが、正太郎に肩入れした代償に取引相手の犯罪組織に「裏切り」のレッテルを貼られ襲撃を受けたりもした。
: その後は、大塚署長の説得で健次が警察に協力してニコポンスキーを追いつめたりもしたが、次第に漫画の中では出番が無くなり、存在もうやむやになったままである。
; 辰(たつ)
: 演 - [[山内修]](テレビドラマ)
: 声 - [[関智一]](第4作)
: 村雨一家の配下。敷島邸を襲撃した際、白覆面の男が造ったロボット[[鉄人28号の登場ロボット#鉄人26号|鉄人26号]]に襲われて死亡。彼の死は、村雨一家を鉄人事件に巻き込ませることになる。アニメ第4作では起動直後の鉄人28号に握り潰されて死亡した。
: なお、アニメ版と原作でキャラのデザインが変わっている人物でもある。
: 実写版では設定はそのままで村雨三兄弟の末弟・村雨辰五郎というオリジナルキャラに置き換えられている。
; 源公(げんこう)
: 村雨一家の配下。捕まった健次を保釈させるために保釈金集めに奔走する。
; 金田(かねだ)博士
: 演 - [[阿部寛]](映画)
: 声 - [[池田勝]](第2作)、[[飯塚昭三]](第4作)
: 金田正太郎の父親。戦中に鉄人28号の設計製造に着手、その工程途中で連合国の爆撃で研究は灰になったが、鉄人28号の設計の完成度を諦めきれずに、戦後の1955年秋に完成させる。
: 連載時には存在しなかったキャラクターで、後付けで単行本(カッパコミックス第4巻)に描き加えられた。
: アニメ第4作では、戦争中に鉄人計画をまかされた天才科学者で、不乱拳博士も認める人物であった。バギュームの可能性に気がつき研究をしていたが、ビッグファイア博士の謀略で鉄人の根幹の動力を太陽爆弾として完成させてしまい、鉄人28号を闇に葬ろうとしていた。実際、鉄人28号を単なる兵器として製作したわけではなく、道具としての可能性、未来を築く力を見ていた。鉄人封印の際、連合軍の爆撃と共に死去。遺骨は敷島博士が復員した際に持ち帰られたようである。南方の島には住人の手で作られた墓がある(人柄が判る描写でもある)。
: 映画版では、父の金田正五郎によって軍事用ロボットとして設計された鉄人を平和利用のために改良し鉄人28号を完成させた。
: 『白昼の残月』では、京都に妾が存在していたことになっている。この妾との間にショウタロウが生まれ、後に養子という形で金田家に迎えている。
; 敷島 鉄男(しきしま てつお)
: 声 - [[根谷美智子]](第4作)、[[知桐京子]](第5作)
: 敷島博士の一人息子。正太郎の数少ない同世代の友人。
; 敷島夫人
: 声 - [[谷育子]](第2作)、[[島本須美]](第4作)
: 敷島博士の妻。アニメ第2作では歌子という名前がある。
=== 悪役など ===
; 乗鞍岳の覆面の怪人
: 戦後、乗鞍岳山中の地下研究施設で、独りで鉄人を作り上げた人物。詳しいことは謎に包まれている上に、普段から顔を覆い隠す布を被っているために素顔も不明(アニメ第1作では黒沼、実写版では花井技師と名付けられている)。
: 一説には金田博士ではないかという説も囁かれていたが、横山光輝本人はそれを否定する発言をしている(「金田博士」の存在は後付け設定である)。
: 鉄人26号から28号までを作り上げたが、目的自体が「鉄人28号を完成させること」にあったようで、「御国のために」などといった意義や政治的目的意識は無かったらしい。おそらくは鉄人計画の生き残りの博士、あるいは技術者と敷島博士によって推測されている。
: 如何なる理由からか、26号と27号を使ったロボット強盗団として金銭や機械の強奪事件を起こし、警察や鉄人に興味を持った犯罪者たちに狙われ、完成直前の28号を無理に起動させられたあげく奪われてしまう。PX団と手を結んで鉄人を国外に持ち出そうとして失敗、銃撃戦の中で命を落とした。
; PX団
: 世界規模の大犯罪組織。国際的な密輸や組織犯罪を起こしており、ジェット機や潜水艦など、簡易的な軍事力も有している。各国に支部があり、団員は鉄の掟に縛られている。この鉄の掟は非情なもので、団員は敵対する者より、この掟の方を恐れているほど。鉄人事件に絡んで、正太郎とクロロホルム、果てはS国スパイ団と事を構えているうちに追いつめられて日本支部は壊滅し、支部長はフカ([[鮫]])に食べられるという悲惨な末路を辿る。実写版ではQX団となっている。
; クロロホルム
: 演 - [[三田村隆介]](テレビドラマ)
: 声 - [[西村知道]](第4作)
: PX団を追って[[フランス]]から来た有名な探偵。用心深く、自分の能力に絶対の自信を持っているためプライドが高く、来日した当初は正太郎を子供扱いし、正太郎に頼る日本警察をバカにしていた、しかしすぐに、正太郎の能力を認めて良き協力者になった。助手のニコポンスキーを[[影武者]]に使っていたが、そのニコポンスキーがS国の[[スパイ]]だとは気付かず、逆に自分が影武者に使われてしまう。最後までニコポンスキーの行動力に翻弄され、腕の怪我を機にフランスへ帰っていった。
: アニメ第4作ではフランス出身の探偵として登場。大塚署長から署長の座を奪い取り、背後でニコポンスキーと結託しつつPX団の陰謀を調査していた。
: 『白昼の残月』ではベラネード(後述)の配下として登場。廃墟弾の調査に訪れた南海の研究所でショウタロウと遭遇し、日本へ連れ帰る代わりに大鉄人強奪の手引きをさせる。
; ニコポンスキー
: 声 - 牛山茂(第4作)、山本兼平(ガオ!)
: 探偵クロロホルムの助手。その正体は旧日本軍の鉄人や日本の技術を狙ってやって来たS国スパイ団の団長。
: クロロホルムにそっくりな上に、クロロホルム以上に変装の名人でもある。周到な準備と大胆な行動力で、正太郎たちを翻弄し、死に際して「敵ながら大した男」と大塚署長に云わしめた。後半は来日していたスパイ団がほぼ壊滅し、孤軍奮闘といった感じになり、やや短気で残酷な一面も覗かせているが、危機を好機に変える知己や巧みな交渉能力と演技力は、賞賛される悪役でもある。恐竜ロボットを使って鉄人28号との戦闘に際し、脱出に使用したジェット戦闘機が被弾したためにパラシュートを使って降下を試みたが脱出時の高度が低過ぎてパラシュートが開かず死亡した。
: アニメ第4作では、ブラックオックスを操って正太郎を奇襲した謎の覆面の怪人として登場する。その正体は自殺したと思われていた敷島博士であった。
: 実写版では名前がペトロフとなっている。
; スリル・サスペンス
: 声 - [[秋元羊介]](第4作)
: アメリカの暗黒街で名を馳せたギャング団のボス。残虐非道で目的のためには手段は選ばない男。
: 鉄人を犯罪に使うために鉄人強奪を計画。逃亡中のニコポンスキーから一時は操縦器を手中に納めるも、リモコン争奪戦の海千山千の強者・知者の前には歯が立たずリタイヤしてしまう。しかし、人造人間モンスターと共に脱獄したことをきっかけに不乱拳博士と出会いバッカスを手に入れる。バッカスを手に入れたサスペンスは、鉄人を入手して行なう筈だった犯罪を、バッカスを思いのままに使い、まさに手当り次第に強盗などの荒事に手を染める。
: 短略的な思考の割にギャングのボスだけに胆が据わっていて、大抵のことに驚きつつもそれなりに対応し、自分の利益に繋げてしまう様は古き時代の暴力悪漢の存在と言える。初期こそ鉄人の操縦が判らずニコポンスキーにやり込められたりもしたが、モンスターの説得や不乱拳お手製機器を見て憶えて使いこなす辺りは侮れない。ただし、欲が深いために身を滅ぼす典型でもある。
: 考えるよりも荒事で全て決めてしまう傾向にあり、最終的には不乱拳博士に出し抜かれてバッカスを失い再度投獄。そのニュースを聞いた通行人たちに「死刑にされるだろう」と噂されながら退場した。
: アニメ版第4作では、敗戦国日本は自分たちアメリカ人に支配されるべきという思想を持つ。また鉄人の強奪に成功し、「良いも悪いもリモコン次第」と語っている。
; スリル・サスペンスの部下
: 名前の無い部下たち。いずれも日本人風の顔立ちをしていたが、アニメ第1作では、外人風の顔立ちに変更されていた。
; ジルバ、ロングラン
: 声 - [[宮下タケル]](ジルバ、第4作)、[[室園丈裕]](ロングラン、第4作)
: モンスター登場直後に現れた、原作中で名前が発覚しているサスペンスの部下。ジルバはサスペンスのNo.2的ポジションだった。
: ロングランは正太郎を暗殺しに来ようとした所をモンスターによって絞殺された。ジルバはバッカスを失ったサスペンスと共に逮捕され、共に死刑にされたと思われる。
; ロックロック、タンボリン、ニュージンジャー、マックロイ
: アニメ第1作で登場するスリル・サスペンスの部下。原作における名無しの部下たちがモデルになっている。いずれもサスペンス逮捕時に警官隊との銃撃戦で全滅する。
; ジャネル・ファイブ
: フランスの怪盗紳士。連載ではシャネル・ファイブという名前であったが、[[シャネル]]が元になっていたため、後にジャネル・ファイブに変更される。
: 鉄人の存在を知り、ロボット・コレクションに加えるために来日し、周到に準備をしながら正太郎たちに挑戦して来た。まだら岩に奇巌城を造り、其処を根城に日本で本格的に活動しようとしていた。ニコポンスキーに劣らず変装の名人であり、また荒事においても殺傷を嫌い、女子供には手を出さない。仲間意識が高く部下からも尊敬され慕われる紳士的な犯罪者である。
: とにかく流血沙汰が嫌いで、独自の美意識で犯罪を行なう、この独自のルールや美意識は部下にも浸透しているらしく、正太郎の命の危機を「見捨てたら、お頭に怒られる」と窮地を救っている。厳重な警戒をかいくぐり、華麗に盗みを成功させることそのものが生き甲斐らしく、鉄人争奪戦に置いては「知恵比べ」と称して、正太郎、クロロホルム、ニコポンスキー、スリル・サスペンスに、それぞれ争奪参戦の予告状まで出している。また盗みのスタイルは、相手に気がつかれず盗み出し、相手が悔しがる様を楽しむといったものである。
: この知恵比べと称した挑戦によって事態は混迷し、出し抜かれた正太郎が本気で悔しがったのも相手もジャネル・ファイヴくらいだったことを見ても、正太郎にとって悪気が無いだけに厄介な相手とも言える。自分の頭だけで、金品や美術品、ロボットたちを盗みコレクションしているのが自慢で、それを見せびらかすためだけに手間暇かけて正太郎を誘拐するなど、困った趣味の人物でもある。結果的にクロロホルムと連携した正太郎に追いつめられ、争奪戦には敗れはしたがそれも含めて「悔しい気持ちもするが、楽しい気持ちもするね」という言葉を残し、敗北宣言をして日本を去った。
; 不乱拳酒多飲(ふらんけんしゅたいん)博士
: 声 - [[大木民夫]](第2作)、[[青野武]](FX)、[[鈴木琢磨]](第4作)、山本兼平(ガオ!)
: 正太郎の屈指の好敵手であり、狂気を含んだ天才科学者である。
: 読んで字の如く『[[フランケンシュタイン]]』の主人公ヴィクター・フランケンシュタインがモチーフであろうが、本作品では青年(学生)ではなく如何にも老学者のような風貌の初老の科学者である。好々爺然としたところと、モラルや人道的ルールから逸脱した悪魔的科学者の一面を併せ持つ人物で、自分の研究のためなら手段は選ばず、自らの規定から外れた場合は、ギャングや警察をまとめて敵に回して荒事も厭わない。正太郎をして「大変な人物だった」と云わしめたくらいの大人物。
: 機械工学の他にも、化学、生物学などにも造詣が深く、それらの生み出した物が「空飛ぶアカエイ」「ロボットアカエイ」「人造人間モンスター」「潜航艇」「水中バイク」「バッカス」「ブラックオックス」と製作するにはあらゆる分野、多岐にわたった技術が必要とするばかりであり、これらの多くを1人で作り上げている。特にバッカスとオックスは短期間に製作されたにもかかわらず、鉄人と対等以上に渡り合うという完成度であった。
: 1度目は自らの創造物バッカスに殺されるが、モンスターを生み出した死体蘇生技術を書き遺しており、それを手に入れた黒い覆面団(某国諜報員)の手によって蘇生を遂げる。2度目は逃亡中に自衛隊の砲撃の中で息を引き取った。今際の際の言葉は一度目は「鉄人は素晴らしいぞ」、二度目は「ついに考えるロボットは作れなかった」である。
: モンスター事件中、次は人工生命体を一から作り出そうとしていた節が見られたが、オックス事件では最終的に「物を考え、自ら判断するロボットを作り出す」ことを目標としていた。最後まで好奇心旺盛で知的欲求が強いままであった。
: 不乱拳博士の研究成果はまだら岩の海底墓場に埋められていたが、鉄人や旧日本軍の秘密を探っていた黒い覆面団によって掘り返されているため、某国(海外)へ渡った可能性がある。
: 『FX』では正太郎の回想シーンに登場。ブラックオックスを作り上げて鉄人に挑むもオックスの下敷きとなって死亡したことが語られ、不乱拳に仕えていた執事との交流が描かれるエピソードもある。また、不乱拳のクローンであるフランケン・シュタイナー{{Efn|同名のプロレス技が存在するが、特に関連性は無いと思われる。}}が登場し、新たなブラックオックスを作り上げるなど物語中盤までの強敵として活躍した。
: 重馬敬著の「空想科学小説 鉄人28号」でも登場するが、こちらでは「考えるロボット」とブラックオックスを誕生させている。また、ドイツ人女性を妻とした経歴を持ち、一人娘のレナーテがいる。鉄人との「決着」をつけるために一時は娘に対しても冷酷な態度をとっていたが、終盤では正太郎たちに協力的な姿勢を見せる。現在の全作品では不乱拳博士が死亡しない唯一の作品である。
; 牧村(まきむら)博士
: 声 - [[中田和宏]](第4作)、松山鷹志(ガオ!)
: 長年の研究開発で[[人工知能|自我を持つ電子頭脳]]ロボット・ロビーを作り出した科学者。
: 法律も人命も考慮しない[[マッド・サイエンティスト]]同然の危うい科学者が続出するこの作品の中では例外的に、人格者と言っても差し支えない初老の科学者で、昔はドラグネット博士と一緒に電子頭脳を研究開発していた。
: ロビーを大切に人間の子供と同じように教育してから、世間に発表しようとしていたが助手の助川によってロビーを奪われ、以後、ロビーの犯罪に心を痛めることになり、警察に出頭し事態収拾に正太郎たちに協力することになる。しかし助川の元から逃げ出し、人間に敵対し始めたロビーが世間に被害を与えたことで、電子頭脳研究をやめて引きこもってしまう。
: 後にロビーの事件を聞きつけたドラグネット博士に電子頭脳の教えを請われても、頑として頭を縦には振らなかったほど、後悔の念に取り憑かれてしまう。また、この時のドラグネット博士の言質によれば、牧村博士は自分が決めたことに対しては頑固であるらしい。また、一度はロビーに嫌いだと逃げられたが、人間不信になったロビーがドラグネット博士の言葉を聞くきっかけに「生みの親の牧村博士の友人」であるというところに反応する描写があるため、少なくともロビーにとって、「親」という認識と微妙な感情は向けられていると思われる。
; ドラグネット博士
: 声 - [[宮内幸平]](第2作)、[[有本欽隆]](第4作)
: 自我を持った電子頭脳開発に執念を燃やし、牧村博士の開発したロビーに近づいた天才科学者。[[カニ|蟹]]のような独特のヘアスタイル。原作準拠では片足を失っており、再編集版やその後のアニメ版では足の不自由な設定は無かったことになっている。
: かなり独善的で偏屈な性格だが、とても優秀な科学者であり、そのプライドは高い。その能力もたしかで、急造した安物と評するロボットで鉄人と正太郎を文字通り、煙に撒いたり、乗り付けたお手製の万能カーでロビーのロボットたちを次々と手玉に取って、ロビーを交渉のテーブルに着かせたりと大変優秀な人物。
: 超人間ケリーと高性能ロボット・ギルバートの製作者である。研究にのめり込む余りに常軌を逸した行動をとることがあり、死んだ人間の脳を使って[[サイボーグ]]をより機械化した宇宙人間の研究を進めていたが、当時助手を務めていたケリーの計算ミスにより実験が失敗し、怒りに駆られた博士はケリーを生きたまま実験材料にして超人間を生み出してしまう。
: ただし、この時の超人間ケリーは目覚めることが無く、博士は殺人者として逮捕され、裁判で精神異常が認められ施設に収監されていた。このことにより博士自身はケリーの改造に失敗し、死亡したと思っていた。
: 施設を出所後に電子頭脳を持ったロボットに研究を切り替えたが、自身の理論では完成を見いだせず、牧村博士の完成した電子頭脳ロビーに活路を求めた。
: ロビーに関わったことから、取引材料として鉄人とオックスにも負けないロボットを製作することになり、高性能ロボット・ギルバートを完成させるが、その時にはロビーは正太郎に破壊され、失意のうちに日本を去ろうとするが、暴走して復讐者となったケリーに殺されてしまう。
; 超人間ケリー
: 声 - [[原康義]](第4作)
: 改造人間にされてしまった青年、詳細は[[鉄人28号の登場ロボット#超人間ケリー|超人間ケリー]]を参照。
; ジョンソン
: 声 - 原康義(第4作)
: ケリーの弟。兄と共にドラグネット博士への復讐を果たした。温和な兄と異なり、証拠隠滅のために正太郎を殺害しようとするなど荒事に躊躇のない人物。
: 強い兄弟愛を持っており、復讐へ至る過程を切々と訴えるラストシーンは正太郎たちも同情を禁じ得なかった。
; 門脇
: モンスターに殺された警察官や、その他大勢の中につけられる名前。名前の由来は光文社で横山を担当した編集者から。たまに背景の中にも名前を見ることが出来る。
; 山嵐巌
: 声 - 松山鷹志(ガオ!)
: 白柄組の親分。巨大アリ事件を利用して密輸事件を有利に運ぼうとしたが、正太郎たちに企みを見破られて逃亡。最期は町を襲撃した巨大アリに殺害される。
; ジキルスキー
: S国スパイ。本国ではハバロフ閣下と呼ばれている。鉄人を奪うため偽物とすり替える作戦に失敗し、追い詰められた末に部下と共に毒を飲んで自決する。
; ゴロギル博士
: モンスターを作った、王制を敷くある国(カッパコミックス版および秋田書店各版ではカリー国とするが、連載では国名ははっきりしていない)の科学者。王制打倒と実権掌握を狙う十字結社によりモンスターが強奪され悪用されているため、正太郎に助けを求め来日する。
: 正太郎によって金田邸に匿われるも、十字結社によって隠し部屋を突き止められ、殺害された。
; 十字結社(じゅうじけっしゃ)
: 声 - [[辻親八]](第4作)
: 王制を敷くある国(カッパコミックス版および秋田書店各版ではカリー国とするが、連載では国名ははっきりしていない)で体制転覆を狙う政治結社。自らの主張を通すためにテロ行為も辞さない。しかし、政治的な理想ではなく権力奪取のための活動であり、過激な犯罪組織となんら変わるところが無い非道な集団。ゴロギル博士を追って日本にも侵入し、モンスターを操って暴れるが、正太郎と大塚署長の活躍により撃退される。本国の結社そのものも数々の悪行から国民の怒りを買い、国王軍の総攻撃で壊滅してしまっていた。
: アニメ第4作では第1話のアバンタイトルにて、モンスターと共にゲストキャラとして登場する。
; ブラック博士
: 声 - [[家弓家正]](第4作)
: 体が崩れていくという奇病に悩まされている医師。赤死館という館に住む。同じ病気に感染した息子の脳を、佐良という青年の体に移植しようとした。
: しかし、正太郎が事件に関わったことで陰謀が発覚、さらに用心棒として雇っていた暴漢と小競り合いを起こして手術が不可能になったため、自ら炎上させた赤死館で息子と共に焼け死んだ。
: アニメ版第4作では旧日本軍の軍医という設定であり、南方戦線で感染した熱病と、戦友たちを安楽死させた罪悪感に苦しめられていた。また、息子は既に死んでいたが、その事実から目を逸らし続けていた。
; ビッグファイア博士
: 声 - [[中村正 (声優)|中村正]](第4作)、松山鷹志(ガオ!)
: パガオニア国在住の科学者にしてロボット工場の経営者。自分の名前を持つロボット、[[鉄人28号の登場ロボット#ファイア二世|ファイア2世]]、[[鉄人28号の登場ロボット#ファイア三世|ファイア3世]]を作った。
: 利潤を追求する経営者的な面と科学者らしい知的な面を持つが、短気かつ自己陶酔的な面が目立つ。
: 科学者としては優秀で、学習機能を持った知能回路を開発して商業ラインに乗せる能力を持つが、自らの才能がベラネード財団に認められなかったため、犯罪行為に手を染めた。
: 投獄されながらもファイア3世を操って脱獄を企むが、鉄人にファイア3世を破壊され、「鉄人か……や、やつは怪物だ」と述懐しながら再逮捕された。
: アニメ第4作では後半の悪役として登場。元は金田博士・ドラグネット博士の研究仲間であり、戦後は[[巣鴨プリズン]]に収監されていた。出獄後、鉄人は体内に太陽爆弾が隠された兵器だと暴露、その太陽爆弾を手に入れるためにベラネード(後述)と組んで暗躍する。
: 『白昼の残月』ではかつて廃墟弾の開発に従事し、巣鴨プリズンに収監されていた。しかし、釈放を取り付けたクロロホルム相手に口を滑らせて洗いざらいしゃべってしまい、その直後に「事故死」した。
; ベラネード
: 声 - [[内海賢二]](第4作)
: パガオニア国でベラネード財団を経営する人物。容姿はカイゼル髭を生やした小太りの男性。彼自身は悪人ではないが、財団が[[ゼネコン]]としてダムなどの大規模な工事を行う際は高性能のロボットが大量に必要となるため、メーカーや研究者がその売り込みのため鎬を削っており、それがビッグファイア博士のように犯罪に走る者を生み出す元凶ともなっていた。そのため、ファイア博士の事件解決後は各社から平等にロボットを仕入れる方針を発表している。
: アニメ第4作では容姿が下記のゴムラス司令官のものに変更されたほか、物語中盤以降の悪役として設定が大きく変更されている。世界経済を牛耳る大財団の主として君臨する一方、犯罪結社PX団団長という裏の顔を持ち、表と裏の顔を使い分けながら日本の支配を企んだ。PX団の制服はブラック団のものであり、ベラネード自身も団長用の赤いマスクを装着した。
:『白昼の残月』においてもアニメ第4作と同様の容姿、設定で悪役として登場。クロロホルムを先行させ、自らもロボット軍団を満載した「黒船」と呼ばれる空母に乗って東京へと向かう。
: 初期の単行本では頻繁に「ベ'''ネラ'''ード」と誤植されているがベラネードが正しい。
; ゴムラス司令官
: 砂漠に存在する国の国王。悪政を布いていたため、ギド率いる革命軍によって追い詰められていたが、正太郎を誘拐し、鉄人を使って革命軍を追い返そうと画策する。その際、国外での自分の評判の悪さは自覚していたため、自らを革命軍と偽って正太郎に協力を要求した。正太郎はギドロボットによって革命軍に誘拐されたが、新しく輸入したロボット、サターンを使って革命軍を民間人諸共虐殺。さらに大塚署長を人質として利用したため、正太郎の怒りを買い、鉄人の攻撃を受けて敗走。国外に逃亡する。
; スノー国工作員
: 母国から持ち出された秘密兵器の設計図回収が目的で来日した。だが、公園の地下に基地を建設し、書類が警察に渡るとVL2号による襲撃まで行う様子は潜入工作員としては派手過ぎるように思われる。口封じに殺人を犯したにもかかわらず、正太郎を子供ゆえに見逃す面もあった。VL2号の優れた性能を活かして鉄人を苦戦させるが、不調によって暴走を始めたVL2号に追い詰められ逮捕された。
; ブラック団
: 世界征服を目論む犯罪組織。海底に各国の主要都市に向けたミサイル基地を建設し、世界を支配しようと画策していた。たまたま正太郎が事件に関わって来たため、ギャロンを操って鉄人と交戦するも、敷島博士が操縦する鉄人に海底基地を襲撃されて壊滅してしまった。団員はすべて[[オバケのQ太郎|オバQ]]のような覆面を被り、コードナンバーで呼び合っていた。団長(声 - 山本兼平(第5作))のみ覆面の色が異なるほか、蝶ネクタイとタキシードを身に纏っている。
: プレイステーション2で発売されたゲームでは、「X団」として登場する。アニメ第3作では『ネオブラック団』が登場するが、設定は大きく異なる。
; 怪盗ブラックマスク(かいとうブラックマスク)
: 声 - [[平田広明]](第4作)
: 神出鬼没の銀行強盗。その正体は技師の有本影郎。[[転送装置|次元操作機]]を操ることで瞬間移動する。最後は宝石に付けられた鉄人誘導装置で移動した鉄人によって、次元操作機を破壊され御用となった。
: アニメ第4作では、影郎と父親の有本博士の開発した次元操作機を影郎が持ち出して悪用した(元ネタは[[帝銀事件]])結果、最後は鉄人によって破壊された次元操作機の誤作動で南極に転送されてしまった。
== 登場メカ ==
[[鉄人28号 (架空のロボット)|鉄人28号]]、[[ブラックオックス]]については独立項目を、それ以外のロボットについては[[鉄人28号の登場ロボット]]を参照。
; <span id="X33">X33(万能戦闘機)</span>
: S国スパイ団が使用した、黒い万能戦闘機。先端に装備した[[ドリル (工具)|ドリル]]による地中潜行や、陸上では砲撃や体当たりなどで戦い、折りたたみ式の翼を展開し空戦までもこなす。
: 欠点は活動時間が短いこと。2、3人乗り。
; <span id="XY3号">XY3号</span>
: ジャネル・ファイブの乗る万能メカ。アメリカのシャープ博士が制作した物をジャネル・ファイブが盗み出した物で、「'''シャープXY3号'''」とも呼ばれる。流線形の黒い機体でX33に通じるデザインを持っているが、こちらは先端に複数のドリルを装備している。海底、地底を思いのままに移動し、部下共々複数の人員が乗り込むことも出来る。アカエイの影響を受けながらも振り切って逃げることが出来るほど、なかなか出来た移動メカ。
== 用語解説 ==
=== 鉄人計画 ===
マンガにおける開発計画には、連載版とカッパコミックス版の二種類が存在する。
==== 連載版 ====
太平洋戦争時、日本軍が進めた軍用ロボット開発計画。岐阜県乗鞍岳山中の地下に建造された研究所で、敷島博士を中心とした開発陣により研究が進められていた。等身大のロボット、1号から26号の開発には成功するものの、それらは銃撃に対する装甲防御が不十分な未完成品だった。実際、耐弾実験の際に頭部を破壊されて機能を失ってしまい、敷島博士を失望させている。
その後、敷島博士はこれまでの失敗を踏まえて設計を大幅に変更、巨人型ロボット27号の開発を進めた。27号は一定の成功を収めたものの、実用機とするまでに至らなかった。27号の成功を活かして建造されたのが28号なのだが、戦時中に建造された機体(便宜上、1号機とする)のスタイルは27号とまったく同じだった。完成した28号の起動実験が行われるが失敗、機体は爆散してしまう。その後、戦況の悪化に伴い軍は鉄人計画の放棄を決定、敷島博士たち技術者陣は南方の孤島に設けられた、秘密の特攻兵器研究所へ移動することになる。
戦争末期、孤島研究所の存在を察知した米海軍による空襲が行われ(空母艦載機を用いている描写がある)研究所は壊滅。辛うじて生き残った敷島博士は日本の降伏を知らず、長年に亘り助けてくれた原住民のもとで暮らしていた。10年後にインドへ渡り、そこで終戦と日本を騒がせている鉄人事件を知って帰国した、と本人が家族と正太郎に語っている。
しかし敷島博士以外にも生き残り、内地へ帰還を果たした技術者がいた。それが改設計28号を建造した「白覆面の男」である。根拠は、敷島博士による「鉄人の作り方は旧研究所員でなくては分からないはずだ」との発言である。
本編中、市街地で暴れる27号(このときは28号と思われていた)を目にした敷島博士は「28号にしてはおかしい」とつぶやき、乗鞍岳の研究所内で暴走する28号を目撃した際には、居合わせた正太郎たちに「あれが本物の28号だ」と言って聞かせるという演出がある。以上のことから、以下のことが推察できる。
# 27号と28号1号機のスタイルは同じ。
# 27号と28号1号機はスタイルは同じだが、動作の部分で差異がある。
# 1号機の起動失敗と計画放棄が決定される間には、改設計が行えるほどの時間的余裕がある。
# 1号機爆発後、敷島博士たちはスタイルを大幅に変更する改設計を行った。
==== カッパコミックス版 ====
太平洋戦争末期、日本軍が起死回生を目論んで構想したロボット兵器開発計画。
南方の島の地下に偽装した秘密研究所を作り、敷島博士などの日本の科学者や技術者を総動員して開発を始めたが、完成前に事態を察知したアメリカ軍の爆撃を受け、計画は灰燼に帰したはずだった。しかし計画の主任で正太郎の父である金田博士が、同様に南方での爆撃を生き残り、鉄人28号の完成をあきらめきれずに、戦後に敷島と共に鉄人28号を誕生させた。アニメ第4作でもこのストーリーを採り、鉄人28号は金田博士が南方の島で完成させたことになっている。
計画では人員不足を補うこと、弾丸などの補給が無くても破壊活動を継続させる能力があること、多少の破損でも戦闘行動を継続できることなどが伺われるが、有用性については謎のままである。
アニメ第4作では、巨大砲弾にて巨大なロボット兵を敵国に送り込み破壊の限りを尽くさせる「鉄人第一計画」、死した兵士の肉体を甦生させ強靭な肉体を持った兵士に作り替える、あるいは人工知能を搭載して鉄人を制御する「鉄人第二計画」が存在した。またこれに付随して、鉄人自体に新元素バギュームを使用した爆弾、太陽爆弾を埋め込み敵地を破壊せしめることを考案されたが、計画責任者である金田博士には却下された。しかし、実際にはビッグファイア博士による独断で、鉄人の心臓部に太陽爆弾が埋め込まれていた。日本軍や戦後の政府関係者は鉄人に太陽爆弾が内蔵された事実を知っていたようである。
=== その他 ===
; 少年探偵
: 昭和30年代には、『[[少年探偵団]]』『[[少年ジェット]]』『[[まぼろし探偵]]』のような、少年でありながら、大人に引けを取らない少年探偵がテレビ、漫画、小説で活躍していた。彼らは拳銃を使い、車やバイクを走らせ、刑事や警官と協力して難事件を解決し、悪漢を退治する。
; まだら岩
: 不乱拳博士が根城にしていた、棒状に隆起した岩礁の集まった海域。新型鉱石バギュームの鉱脈でもあった。アニメ第4作では[[海堡#第三海堡|第三海堡]]の別名とされていた。
; 海底の墓場
: まだら岩の近海に存在する海域。不乱拳博士が自らの研究成果を隠匿していた。
; バギューム
: 不乱拳博士がまだら岩で発見し、研究していた新鉱石。強力なエネルギー源であったようである。
; 独立連動装置
: 鉄人28号の持つ機能の1つ。戦闘兵器である鉄人が故障で動けなくならないように、手足などに分散配置された動力機関。これによって手足を1、2本失っても安定して稼働して戦闘を継続することが出来、整備が受けにくい状況などでも闘える。また、鉄人の怪力の源は、これらの機関の出力によって得ているのではないかと考えられている。
; 電子頭脳と知能回路
: 自己判断で動く機械と自我を持つロボットの境界の定義は難しいが、ロビーが持つ電子頭脳とビッグファイア博士の知能回路は微妙に趣きを異ならせている。
; ロボット見本市(博覧会)
: 各国の新型ロボットを展示、その能力を世界に知らしめるために開催された。鉄人と正太郎も日本ロボット代表として招致され、正太郎とビッグファイア博士の出会いの場ともなった。開催国はパガオニア国。
; ロボット王国
: 密かに生き延びていたロビーが人類の支配を目論み、作ろうとした国家。国とは言うものの、人工知能を持ったロボットはロビー以外存在しない。ロビーは数々のロボットを作り出して自衛隊や警察を圧倒、遂には鉄人の鹵獲にすら成功するが、妨害電波発生装置を持つブラックオックスの参戦によって戦況は逆転、手持ちのロボットを鉄人とオックスのタッグにより粉砕されたロビーは、ドラグネット博士に助けを求める。しかし、正太郎の存在に焦って暗殺ロボットを送り込んだ際、逆に隠れ家を突き止められてしまった。結果、ロビーは破壊され、王国の夢は潰えた。
; 巨大アリ
: A国の核実験による放射能により突然変異を起こして巨大化した[[アリ]]。巨大化している分、[[ギ酸|蟻酸]]が人間を死に至らしめるまでに威力が向上しているが鉄人には通用せず、火を嫌うため自衛隊員の[[火炎放射器]]で倒せる。密かに日本に来襲して自衛隊の艦船や戦闘機を襲撃したことで次第に事件の輪郭が見え出し、地上で民間人を殺害したことがきっかけでその姿を現した。劇中設定からアメリカ映画『[[放射能X]]』に登場する巨大アリをほぼそのまま持ち込んだものと考えられる。
== 原作完全版 ==
[[2005年]][[11月]]より「巨匠・[[横山光輝]]『鉄人28号』執筆50周年記念」プロジェクトとして[[潮出版社]]と光プロダクションの共同企画の元、発刊された。横山の元アシスタントとコンピュータによる最新技術で痛んでいた原画を復元し、コミックス未収録の読み切り8本を加えて発刊された。[[2007年]][[9月]]に全24巻で完結。★は読みきり作品。
# 鉄人28号誕生(月刊『少年』1956年7月号別冊付録 - 1957年1月号別冊付録)
#* 第2次世界大戦の末期 敷島家であったギャングと怪人 あいつぐ事件 おそるべき威力 第十一監房 正太郎の活躍 鉄人あらわる 雷雲 秘密科学研究所 鉄人28号 大PX団 くずれるダム 生きていた敷島博士 浮上するモンスター号 おそるべき秘密結社! おそるべき秘密結社その2
# 怪ロボットあらわる(月刊『少年』1957年2月号別冊付録 - 1957年8月号別冊付録、1957年8月増刊『探偵ブック』)
#* 海底にねむる鉄人 魚雷発射命令 海中の戦い 敷島博士邸 第二計画 雨の中の乱戦 怪ロボットあらわる クロロホルム名探偵 暗殺計画 地下の乱戦 あらわれた怪ロボット 脱出できるか 8号車追跡 怪ジェット機 しのびよる影 PX団支部長の最後 正太郎の危機 うばわれた鉄人 ★大金塊の巻
# 鉄人大実験!(月刊『少年』1957年8月号別冊付録 - 1958年1月号別冊付録)
#* 水中の怪物 その場所はどこだ 脱出計画第一歩 脱出と攻げき 怪人対正太郎 大爆発 その顔を見た! なかまわれ 山小屋の怪人 X33 二回目の実験 村雨健次の危機 人体実験 鉄人出動 一大決戦 うばわれた鉄人 海上の乱戦 村雨健次の大てがら ねらわれた正太郎 正太郎暗殺団
# 鉄人暴走する!(月刊『少年』1958年1月号別冊付録 - 1958年6月号別冊付録)
#* なぞの物体 対決 攻撃 空中戦 生きていたニコポンスキー 海底の鉄人 クロロホルムとニコポンスキー 警官隊あぶない ふたりめのクロロホルム サスペンス氏の登場 操縦器のゆくえ 動く巨人 ニコポンスキーの計略 怪盗ジャネル・ファイブ スペードホテル 恐竜の出現! 鉄人の敗北
# 出現! 二つの操縦器(月刊『少年』1958年6月号別冊付録 - 1958年10月号別冊付録、1958年7月増刊『探偵ブック』)
#* てつや作業一週間 ふたりのスパイ ニコポンスキーの計略 敷島博士はにせものか? 正太郎のぎもん ペテンにかかった敷島博士 あばれる恐竜ロボット 敷島博士のかつやく 鉄人対恐竜ロボット 正太郎の地下室 非常線突破 あばれる鉄人 鉄人のかくし場所 奇厳城 正太郎のきけん ★うかぶX島の巻
# 空飛ぶアカエイ軍団(月刊『少年』1958年10月号別冊付録 - 1959年2月号別冊付録、1959年1月増刊『探偵ブック』、1958年11月号付録『とびだすまんが』)
#* おそるべき鉄人 サスペンスたいほ 空とぶアカエイ ゆめかまことか あらわれたアカエイ 奇巖城発見 海底のアカエイ アカエイの襲撃 決戦奇巖城 ふしぎな老人 モンスターあらわる 殺人鬼モンスター 第一のぎせい者 鉄人対モンスター ★なぞの飛行機事故の巻 ★オーパナ博士の挑戦の巻
# 難敵アカエイ & モンスター(月刊『少年』1959年3月号本誌 - 1959年7月号別冊付録)
#* とらわれたモンスター モンスターの脱ごく アカエイの来襲 ついせき アカエイあらわる なぞの「まだら岩」 海底の墓場 まだら岩の正太郎 正太郎とモンスター サスペンスの脱走 サスペンス発見 モンスターの最後 海底の墓場
# 暴れまくるバッカス(月刊『少年』1959年7月号別冊付録 - 1959年11号別冊付録、1959年8月増刊『探偵ブック』)
#* 不乱拳博士の発明 完成したロボット 鉄人対バッカス おそわれたメリー丸 あばれるバッカス 第六非常線突破 にげのびたサスペンス モンスターの復活 鉄人とバッカス とびさったバッカス 正太郎の危機 時限金庫 十時三十七分六秒 おどりこんだモンスター 十時三十七分六秒 あらわれたバッカス ★あやしい落下物体の巻
# 海底墓場の決戦!(月刊『少年』1959年11月号別冊付録 - 1960年3月号別冊付録、1960年1月増刊『探偵ブック』)
#* 人工雷 きえたやしき スーパーアトミック くるったバッカス あばかれていた海底の墓場 ぬすまれていた死体 生きかえった博士 鉄人のかつやく まちぶせていた人夫 つきまとう暗殺者 魚雷攻撃 海底と海上 ★自動車レースの巻
# ブラックオックス始動(月刊『少年』1960年3月号別冊付録 - 1960年7月号別冊付録)
#* かんがえるロボット 岩風と光の爆発 くずれるまだら岩 ブラックオックス あらわれたオックス ブラックオックスの力 ブラックオックスのなぞ たばこの火 鉄人とオックス うばわれた鉄人 陸海空軍出動 おそいかかる鉄人 磁気嵐 ふく面団の最後
# 驚異の電脳ロボ・ロビー(月刊『少年』1960年8月増刊『探偵ブック』、月刊『少年』1960年8月号別冊付録 - 1960年12月号別冊付録、1960年10月号付録『とびだすまんが』)
#* 怪ロボット・ロビーの巻 あらわれた池のぬし 二つの池 鉄人のかつやく うばわれた鉄人 地底のロビー ブラックオックス ロビーのたくらみ 地底のたたかい あらわれたロボット部隊 鉄人をねらうロビー ロビーの新しい基地 ★ロビーの逆襲の巻
# 猛襲! ロビー・ロボ群(月刊『少年』1960年12月号別冊付録 - 1961年4月号別冊付録、1961年1月増刊『探偵ブック』)
#* むかでロボット さらわれた鉄人 オックスのかつやく ドラグネット博士 やってきたロビー 敵か味方か こうかん条件 あらわれた鉄板 なおった操縦器 もぬけのから 海底のロボット 警備艦出動 あやしい男 殺人ロボットV ★怪盗ブラックマスクの巻
# ギルバート強い!(月刊『少年』1961年4月号別冊付録 - 1961年9月号本誌)
#* 殺人ロボット発見 かくれ家発見 新しいロボット 地下室の死体 YE6W5のなぞ 東と西のなぞ ギルバートのゆくえ ドラグネット博士の秘密 追跡 あらしの夜のできごと 4747号車 あらわれたギルバート
# 巨大アリ事件(月刊『少年』1961年9月号別冊付録 - 1962年3月号本誌)
#* がけのほらあな 黒いレインコート かいならした小鳥 洞くつ発見 あばれるケリー ギルバートあらわる オックスの到着 ケリーの最後 なぞのことば ジェット気流 女王アリ 山嵐のたくらみ 密輸ダイヤ 鉄人の出動 足あと発見 浮きあがった死体
# 陰謀の偽鉄人28号(月刊『少年』1962年3月号別冊付録 - 1962年7月号別冊付録)
#* おそってきた大群 事件解決 にせもの事件 うばわれた鉄人 にげだした英二くん たおれていた大木 さらわれた敷島博士 なぞの屋敷 信号 うばわれた鉄人 鉄人の襲撃 救助作業 とらえた怪人 攻撃開始
# 十字結社の野望(月刊『少年』1962年7月号別冊付録 - 1962年11月号別冊付録)
#* 追撃 おそるべき鉄人 電波かくらん器 くるう鉄人 深夜の来訪者 十字結社 十字結社の暗躍 かきのこした手紙 神戸へ うずもれたトラック あらわれたモンスター モンスターを追って
# 十字結社の逆襲(月刊『少年』1962年12月号本誌 - 1963年4月号別冊付録)
#* あばれるモンスター やってきた十字結社 モンスターの来襲 にげたモンスター 非常線突破 モンスターのゆくえ 車体番号5781 被害者の身元 モンスター発見 はかりごと
# ブラック博士の真実(月刊『少年』1963年4月号別冊付録 - 1963年9月号本誌)
#* 地下脱出 決戦 ほろびていった結社 追う者追われる者 怪人ブラック博士 赤死館 その顔を見た者は にせ電話 あの屋敷を見張れ ブラック家の病気 ブラック家の最期 ミスターX
# ファイア博士の大野心(月刊『少年』1963年9月号別冊付録 - 1964年2月号本誌)
#* ファイア二世 ファイア二世の力 ホワイト・バッファロー 鉄人出発 くずれた氷 バッファロー山のなぞ ファイア三世 黒メガネの男 ホワイト・バッファロー山 監視ロボット あらわれた怪ロボット こわされたスカイ・レッド工場 消えた怪ロボット 工場見学
# 激闘!ファイア三世(月刊『少年』1964年2月号別冊付録 - 1964年7月号別冊付録)
#* ファイア三世の内部 カギはだれのもの 行方不明の技師 挑戦 はずれた外装 オリンパスホテル20号 危機一髪 あらわれたファイア三世 勝利 なぞの潜水艦 つれさられたふたり
# 砂漠の鉄人28号(月刊『少年』1964年7月号別冊付録 - 1964年12月号本誌、1964年7月増刊「スリラーブック」)
#* ギド 砂風 ギドの軍隊 到着したロボット サターンの威力 大塚署長の救出 人質 総攻撃 大団円 なぞのカバン ★沈没船のなぞの巻
# 出撃!VL2号(月刊『少年』1964年12月号別冊付録 - 1965年4月号別冊付録)
#* カバンの秘密 あらわれた怪人 きえた自動車 VL2号 脱出 強行突破 VL2号 追跡 軌道 あやしい町工場
# 戦慄の光る物体(月刊『少年』1965年5月号本誌 - 1965年10月号別冊付録)
#* 決戦 死体のなぞ 光る怪物 にげた怪物 あらわれた警部 にげた怪物 山田野ロボット工場 おいつめられた怪物 モンタージュ写真 X2号 あらわれた怪ロボット こわされたスカイ・レッド工場 消えた怪ロボット 工場見学
# 恐竜ロボギャロン(月刊『少年』1965年11月号本誌 - 1966年5月号別冊付録『少年パンチ』、月刊『中一時代』1971年1月号、月刊『少年ジャンプ』1976年9月号、『ソノシート』1964年3月15日、『ソノシート』1964年8月25日)
#* とらわれた署長 なぞの地図 なぞの怪獣 怪物ギャロン ★ベビーハイジャック事件 ★対決モンスターロボットの巻 ★新作鉄人28号 コンピューター殺人事件の巻 ★銀行ギャング粉砕 ★鉄人 超特急を守れ
原作漫画の原稿は一部紛失しており、現存するものも過去の単行本化の際に切り張りされたため部分的に欠損している。「原作完全版」はデジタル画像処理を駆使して原稿を連載当時の形に戻し、紛失・欠損した部分は誌面からのトレースによる復元を行い、現[[著作権者]]の許諾を得て再編集し発刊の運びとなった。なお、原作完全版の発売後に新たに原稿の一部が発見され、2009年に刊行された文庫版では、同様の作業を経てそちらに差し替えられている。
== ラジオドラマ ==
=== 1959年版 ===
1959年8月31日 - 1960年4月29日、[[ニッポン放送]]にて放送。[[あみ印食品工業]]の1社協賛番組。
* 主題歌:『鉄人28号』(作詞:鈴木厚、作曲:渡辺岳夫、歌:上高田少年合唱団)
=== 1978年版 ===
1978年11月23日 - 12月22日、ニッポン放送「キリンラジオ劇場」にて放送。主役の正太郎役の高橋和枝を初めとして、主要な登場人物がアニメ第一作のキャストで演じられた。
== 実写版テレビドラマ ==
[[1960年]][[2月1日]] - 同年[[4月25日]]に日本テレビ系列で放送された。全13話、モノクロ作品。
ストーリーは、鉄人の出現、村雨兄弟の登場、QX団(原作ではPX団)との攻防、怪ロボットXの出現、サルバチア国(原作ではS国)のスパイ・仮面団との戦いと続くが、敵の基地から脱出した正太郎が謎の爆撃に遭うところで続きがないまま1クール全13話で終了となったため、正太郎が鉄人28号の操縦者になることはなかった。第10話のナレーションによると、第1話から第10話までの間に、数年の月日が経っていることになっている。
鉄人28号は着ぐるみで表現され、身長2メートル程度、第6話までの樽型と第7話以降のドラム缶型の2種類がある<ref name = "60年代">{{Cite book|和書 |author=[[石橋春海]] |date = 2013-12-05 |title = '60年代 蘇る昭和特撮ヒーロー |publisher = [[コスミック出版]] |series = COSMIC MOOK |pages=54-55|isbn = 978-4-7747-5853-4 }}</ref>。前者は眼から、後者は胸から怪光線を出す。第13話で仮面団のロケットを取り付け、飛行可能になる。ロボットは他にも、鉄人26号、27号、仮面団の怪ロボットXが登場する。鉄人26号には『[[少年ジェット]]』に登場したロボットが使われたという説が存在する<ref name = "60年代" />。
[[日立製作所]]がスポンサーであったことから、第1話は[[日立市]]で撮影が行われた<ref name = "60年代" />。
=== 放映リスト ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
{|class="wikitable" style="font-size:small;"
!話数!!サブタイトル!!備考
|-
|1||恐怖の一夜||
|-
|2||法師が岳の対決||
|-
|3||深山の雷鳴||
|-
|4||岸壁への追跡||※フィルムが行方不明になっているため、欠番。予告編のみ現存。
|-
|5||怪潜水艦||※第4話の本編フィルムが現存しないため、予告編は欠番になっている。
|-
|6||海辺の争闘||
|-
|7||怪ロボットX出現||前話の次回予告では『三本足の怪物』というタイトルだった。
|-
|8||クロロホルム探偵登場||
|-
|9||QX団本部の急襲||
|-
||10||トラックを追え||
|-
|11||新たなる強敵||
|-
|12||仮面の怪人||※フィルムが行方不明になっているため、欠番。予告編のみ現存。
|-
|13||鉄人空を飛ぶ(最終話)||※第12話の本編フィルムが現存しないため、予告編は欠番になっている。
|}
第4話・第12話はフィルムが行方不明のため欠番になっており、そのためビデオ・LD、DVDにも未収録である。2019年現在も、第4話と第12話のフィルムはポジ、ネガフィルム共に行方不明のままになっている。
=== 出演 ===
* 金田正太郎:[[内藤雅行|内藤正一]]
* 大塚署長:[[有木山太]]
* 敷島技師:[[坂東好太郎]]
* 敷島技師夫人:[[東恵美子]]
* 敷島みよ子:[[戸田井明美]]
* 正太郎の姉:[[尾形節子]]
* クロロホルム探偵:三田村隆介
* ペトロニウス : [[三鬼弘]]
* QX団首領:[[金井修]]
* 仮面団団長:[[正岡三輝弥]]
* 覆面の男(花井技師):[[後藤陽吉]]
=== スタッフ ===
* 制作:[[米山彊]]、[[吉田礼子]]、[[松崎啓次]]
* 脚色:[[丸根賛太郎|まるねさんたろう]]、[[コオロギハルヲ]]
* 撮影:[[池田傅一]]、[[江津禮孝元]]、[[星信夫]]
* 照明:[[飯塚茂 (照明技師)|飯塚茂]]、[[鈴木貞夫]]
* 美術:[[江坂実]]、松崎プロ美術部
* 録音:[[日本録音株式会社]]
* 効果:[[角田陽次郎]]
* 編集:[[与曽田光代]]、[[福島照夫]]
* 記録:[[布施文子]]
* SFアドバイザー:[[星新一]]
* 音楽:[[中林淳眞]]
* 主題歌:「鉄人28号」(作詞:[[松崎啓次|青木義久]]、作曲:宇野誠一郎、歌:[[高毛礼誠]](初期)、[[ビクター児童合唱団]])
*: 主題歌はレコード発売に伴い児童合唱に変更された。切り替え時期に当たる第4話のフィルムが現存しないため、変更された正確な話数は不明だが、少なくとも3話までが高毛礼誠版、5話以降はビクター児童合唱団版となっている。
* 監督:[[丸根賛太郎|まるねさんたろう]]、[[中村純一 (映画監督)|中村純一]]、[[志波裕之]]、[[増田健太郎 (監督)|増田健太郎]]
* 制作:[[松崎啓次|松崎プロダクション]]
* スポンサー:[[日立製作所]]
=== メディア化 ===
* [[1985年]]ごろに[[東映ビデオ]]から[[VHS]]・[[ベータマックス|ベータ]]ソフト全2巻が発売された。第1巻には第1話~第3話、第5話、第6話を収録。第2巻には第7話~第9話を収録。
* [[1998年]][[2月25日]]に、現存する全11話分を収録した[[レーザーディスク|LD-BOX]]が創通映像より発売された<ref name = "宇宙船YB">{{Cite book|和書|date = 1999-05-01|title = 宇宙船YEAR BOOK 1999|series = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊|publisher = [[朝日ソノラマ]] |page = 64|chapter = '98TV映画特撮LD・ビデオ&CD|id = 雑誌コード:01844-05}}</ref>。特典として「うごく実写版ブリキ鉄人」が付属<ref name = "宇宙船YB" />。
* [[2015年]][[4月24日]]に株式会社ベストフィールドからDVD-BOXが発売された(販売元:TCエンタテインメント)。
{{前後番組|
放送局=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]|
放送枠=月曜19:30 - 20:00|
番組名=鉄人28号<br />(実写版テレビドラマ)<br />【当番組まで[[日立製作所|日立]][[一社提供]]】|
前番組=[[日立ファミリースコープ|日立<br />ファミリースコープ]]|
次番組=[[エノケンの爆笑劇場]]|
}}
== テレビアニメ第1作 ==
1963年10月20日 - 1966年5月25日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列で放送された。84話で一旦終了した後、3か月後に新作13話が放送され、全97話となった。モノクロ作品。詳細は『[[鉄人28号 (テレビアニメ第1作)]]』を参照のこと。
== 以降の派生作品 ==
=== 映像作品 ===
1966年『少年』での人気第1位を続けている中、横山はストーリー展開の限界を感じて漫画の連載を終了した。また同時期にテレビアニメの放送も終了した。しかし、1978年ごろから再びその人気に火が付き、繰り返しリメイクが行われ、派生作品が制作された。テレビアニメは2013年4月に5作目を放映、これにより、日本のテレビアニメのリメイク回数が水木しげる原作のアニメ[[ゲゲゲの鬼太郎]]の6回に継いで第2位となる。また、実写映画版も作成された。
* テレビアニメ第2作 - '''[[太陽の使者 鉄人28号]]'''を参照
* テレビアニメ第3作 - '''[[超電動ロボ 鉄人28号FX]]'''を参照
* テレビアニメ第4作 - '''[[鉄人28号 (2004年版アニメ)]]'''を参照
* 劇場版アニメ - '''[[鉄人28号 白昼の残月]]'''を参照
* 実写映画版 - '''[[鉄人28号 (映画)]]'''を参照
* CG映画 - T28(仮)。製作は[[意馬|IMAGI]]の予定であったが製作中止。
* [[28 1/2 妄想の巨人]] - 舞台版を元にしたメイキング風映画。
* テレビアニメ第5作(短編アニメ) - '''[[鉄人28号ガオ!]]'''を参照。
その他、ハリウッドで映画化の企画があったが、横山光輝によると条件が合わず断ったという<ref>小泉俊博『懐かし玩具の王様“鉄人28号”』グリーンアロー出版社、1998年、158頁。ISBN 4-7663-3247-4。</ref>。
=== 漫画 ===
* テレビアニメ第2作のコミカライズ
** 鉄人28号 [[テレビマガジン]] 1980年 - 1981年連載 作画:[[今道英治]]
** 鉄人28号 [[冒険王]] 1980年 - 1981年連載 作画:[[岸森伴]]
** 鉄人28号 [[100てんコミック]]1980年 - 1981年連載 作画:[[あけちみつる]]
* 鉄人28号くん [[コロコロコミック]] 1992年2月号 - 6月号連載 作画:[[立石佳太]]
* [[鉄人28号 皇帝の紋章]] [[マガジンZ]]2004年1月号から2005年1月号まで連載 作画:[[長谷川裕一]]
=== コンピューターゲーム ===
;家庭用ゲーム
* '''鉄人28号''' - ワンダースワン用。横山光輝版をゲーム化。メガハウスより1999年12月22日発売。
* '''[[鉄人28号 (2004年版アニメ)#PS2版ゲーム|鉄人28号(PS2版ゲーム)]]''' - [[鉄人28号 (2004年版アニメ)]]を元にしたゲーム。
* '''[[第2次スーパーロボット大戦Z|第2次スーパーロボット大戦Z 再世篇]]''' - [[太陽の使者 鉄人28号]]が参戦している。
;携帯電話アプリ
* '''鉄人28号 -対決!PX団- ''' - 正太郎と鉄人の2パートの横スクロールアクション。
=== 小説 ===
* '''鉄人28号 東京原爆作戦'''
** 光文社発行。著者は[[樋口明雄]]、竹田明。編集は[[スタジオ・ハード]]。[[ゲームブック]]作品。
* '''鉄人28号-空想科学小説'''
** 角川書店発行。著者は[[重馬敬]]。光プロ公認のオリジナルストーリー。
* '''鉄人28号 THE NOVELS'''
** 小学館クリエイティブ発行。[[瀬名秀明]]「プロメテウスの悪夢」、[[芦辺拓]]「寝台特急あさかぜ鉄人事件」、[[田中啓文]]「夢のなかの巨人」、[[辻真先]]「殺人28号研究 オヨヒ開発完成ニ至ル経過報告書」を収録。トリビュート短編集。
=== 演劇 ===
; [[28 1/2 妄想の巨人#舞台『鉄人28号』|舞台『鉄人28号』]]
: 2009年1月10日より東京および大阪で[[梅田芸術劇場]]により公演。[[押井守]]監督初の舞台脚本演出作品。鉄人デザインは[[末弥純]]。また舞台版を元にしたメイキング風映画『[[28 1/2 妄想の巨人]]』(2010年7月31日公開)も作られている。
: 出演は[[南果歩]]、[[池田成志]]、[[ダイアモンド☆ユカイ]]、[[サンプラザ中野くん]]、ほか。
=== テレビCM ===
* ニッパツ・[[日本発条|日本発条株式会社]] (2008年10月)
: [[テレビ神奈川|tvk]]『[[岡崎五朗のクルマでいこう!]]』番組スポンサーとして提供。
* [[ドコモ for PC]] (2009年10月)
: オリジナルCGデザインの鉄人28号が登場。
: また2011年には[[Xi (携帯電話)|Xi]]キャンペーンとして、約8mの「超巨大 金の鉄人」バルーン像と、価値約100万円の「超微細加工&純金メッキ仕上げの鉄人フィギュア」が10体のみ製作された。
* [[LIXIL住宅研究所]]・ブライトホーム
=== 鉄人28号モニュメント ===
[[阪神・淡路大震災|阪神大震災]]後の復興・商店街活性化活動の『[[KOBE鉄人PROJECT]](神戸鉄人プロジェクト)』の一環として、[[兵庫県]][[神戸市]][[長田区]]の若松公園内に高さ15.6m(全長18m)の実物大[[モニュメント]]像が作られた。外装は[[耐候性]]鋼板製、重量は約50t。総工費は1億3,500万円で、神戸市から補助金4,500万円で残りは個人や企業からの寄付や協賛金によって集められた。2009年7月27日に起工式が行われ、9月29日に完成し(完成セレモニーは10月4日)公園内に恒久設置された。なお神戸市ではこれに合わせて、周辺の[[街路灯]]も鉄人の頭部を模したデザインのものに変更した([[新長田駅]]南第2地区再開発の景観形成)。
鉄鋼アーティストの[[倉田光吾郎]]は鉄人28号の製作を企画していたが、震災復興と地域活性化を目的とした[[KOBE鉄人PROJECT]]の鉄人製作を優先することが途中で決まり、版権元からやむなく中止を言い渡された<ref>[http://monkeyfarm.cocolog-nifty.com/nandemo/2008/02/post_c8b4.html 鉄人の話。(追記)]、なんでも作るよ。(倉田光吾郎ブログ)、2008年2月5日。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20080207064712/http://ironwork.jp/monkey_farm/tetujin/t2.htm 超ごめん。]、鉄人28号を作ってみる。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。
== その他 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年4月}}
* アメリカの会社エンターカラー・テクノロジーズ・コーポレーションが、アメリカの漫画家[[ベン・ダン]]が経営する会社ベン・ダン・コーポレーションに対し、鉄人28号を複製した漫画作品『Gigantor』の発行とその絵を使用したTシャツの販売を許可していたが、これは光プロダクションの許可を得ていなかったため日本国内で訴訟に発展している。訴訟は日本の裁判権がアメリカ合衆国には及ばないとして却下された<ref>[http://www.translan.com/jucc/precedent-2002-11-18.html 「鉄人28号」著作権侵害事件]</ref>。
* テレビアニメ第1作において、オープニング曲と続くスポンサークレジット曲とがつながっている。これは本放送の視聴者のみならず広く知られており、CSで再放送される際には<!--クレジット無しの素材が現存しないためか-->特別に本放送当時のスポンサークレジットがそのまま流れることもある。スポンサーであった[[江崎グリコ]]も了承している。
* テレビアニメ第4作の最終回は、横山が当初予定していた「溶鉱炉に落として退治する」に似た終わり方を行ったことから議論を呼んでいる。これは今川監督とプロデューサーで実質的な企画者でもある[[大月俊倫]]が「本来予定されていた終わり方を踏襲する」ことを製作当初より予定し、横山より承諾を得て決定したものである。ただし「本来予定されていた終わり方」とは先述の通り、短期連載時の構想で、本来ならば(当初の鉄人28号と思わせて登場した)鉄人27号が溶鉱炉に落ちて死ぬ予定だった結末である。そのため、二十一世紀まで鉄人28号が存在することになっている続編「[[鉄人28号FX]]」には続かない内容になってしまった。今川監督はドラマを中心にした展開ではなく、ロボットアニメらしい痛快活劇をやりたかったが、大月俊倫に予算を制限されすぎてできなかったことを吐露している。
=== 他作品からの影響 ===
* 本作品の着想には[[江戸川乱歩]]の小説『[[青銅の魔人]]』とその映画化作品が影響を与えていたとされる<ref>{{Cite book |和書 |editor=竹書房/イオン編 |date=1995-11-30 |title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み |publisher=[[竹書房]] |pages=PP.35、52 |id=C0076 |isbn=4-88475-874-9}}</ref>。
* 少年名探偵の嚆矢は[[ガストン・ルルー]]の『[[黄色い部屋の秘密]]』以下一連の作品に登場する事件記者“ルールタビーユ”ジョゼフ・ジョゼファンである。その影響を受けた[[モーリス・ルブラン]]の『[[奇巌城]]』で[[アルセーヌ・ルパン]]とわたりあう高校生探偵イシドール・ボートルレは、旧学制下で中学生探偵と訳されることがあり、さらに本作品で低年齢化の傾向に拍車がかかった。
* 鉄人28号の誕生シーンは小説『[[フランケンシュタイン]]』の映画版の影響が指摘されている。また、作者の横山はリモコンについても怪物がイゴールの笛で操られるのを置き換えたという主旨の発言をしている。
* リモコンの奪い合いは、[[長谷川海太郎|林不忘]]の『[[丹下左膳]]』でこけ猿の壷を奪い合うのがヒントなのではないかとも言われる。
=== 社会、他作品などへの影響 ===
* [[1980年]]代に少女愛の[[ロリータ・コンプレックス|ロリコン]]が話題になったとき、アニメ雑誌[[ファンロード]]の記事をきっかけに[[ショタコン]]( = 正太郎コンプレックス)なる言葉が用いられるようになった。
* 2215試合連続出場の日本記録を持つ[[衣笠祥雄]]は現役時代「[[鉄人]]」と呼ばれた。その所以は連続試合出場を続けたこともあるが、主な理由は彼の[[背番号]]が入団時から[[1974年]]まで28で「鉄人28号」を想起されるということでその呼び方が定着した。
[[ファイル:Nankai 50000 Rapit in Imamiyaebisu Station DSCN3249 20120831.JPG|thumb|「鉄人28号」こと南海50000系<br>ラピート([[今宮戎駅]])]]
* [[南海電気鉄道]]の[[関西国際空港]]行き特急「[[ラピート]]」に使われている[[南海50000系電車|50000系電車]]はその正面形状から、[[鉄道ファン]]の間では「鉄人28号」という愛称で呼ばれている。同車をデザインした[[若林広幸]]によると、第二次大戦前の[[大陸横断鉄道]]や[[弾丸列車]]のような力強さを追求した結果この前頭部のデザインができ、鉄人28号を意識してデザインしたわけではないが、言われてみると妙に納得したともコメントしている<ref>『[[バビル2世]]』(秋田文庫 第2巻)巻末の解説より。</ref>。
* [[2003年]]5月から、[[愛知工業大学]]がイメージキャラクターに採用している。
==== クリエーターへの影響 ====
* [[永井豪]]はイラスト付エッセイで小学生時代初めて「鉄人」を読んだ時の衝撃を語り、「当時自分はアトムの方が好きだったが、『[[マジンガーZ]]』を読み返すと鉄人の影響をより多く受けていたのがわかる」という趣旨の発言をしている<ref>『「鉄人28号」大研究 - 操縦器(リモコン)の夢』収録</ref>。
** なお永井の『[[けっこう仮面]]』には日本プロレス界の鉄人・似獣八五郎というキャラクターが登場した(ただし、同作は毎回有名作品を元にした敵キャラをゲストにしており、鉄人のみに留まらない)。
* [[富野由悠季]]は小学生のころに鉄人28号を見て{{Efn|富野は[[1941年|昭和16年]]生であり小学生で作品を見ることは不可能。}}、現実的な科学の観点から「'''こんなの嘘だ!'''(あの体格のロボットが、ビルの間で悠然と立ち回って戦闘できるわけが無い)」と毒づいている<ref>『声優グランプリ VOL.23』 ガンダム誕生20周年記念企画「機動戦士ガンダム」座談会 古谷徹の発言より</ref>。そのアンチテーゼは、[[無敵超人ザンボット3]]、[[無敵鋼人ダイターン3]]、[[機動戦士ガンダム]]など富野の手がけた諸作品に表れている。
* 漫画およびアニメ映画となった『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』では、本作品の登場人物に類似した名前の人物がいる。
* [[浦沢直樹]]の漫画『[[20世紀少年]]』では、ロボット工学者の敷島教授なる人物が登場し、リモコン操縦の巨大ロボットを制作する。
* 映画『[[ロボコップ2]]』において、[[ロボコップ]]の開発記録の映像が旧実写版『鉄人28号』の開発記録の映像のパロディであるという指摘がある{{要出典|date=2008年12月}}。
* [[庵野秀明]]が監督したテレビアニメ『[[彼氏彼女の事情]]』では、エンディングテーマの『正太郎マーチ』が、しばしばアバンタイトルのBGMとして使われた。同作品の音楽集CDにもトラック名『此迄ノ荒筋(正太郎マーチ)』として収録された。
* フジテレビ系ドラマ『[[カバチタレ!]]』で[[陣内孝則]]が演じた大野勇は、本作品のファンであるというドラマオリジナルの設定があり、誰も居ないオフィスで鉄人28号のフィギュアを使って遊んでいたことがある。また、ドラマの後半部分では本作品の「良いも悪いもリモコン次第」というコンセプトが物語の大きな主題となっている。自分たちの仕事は決して弱者を守るためだけにあるのでなく、時には自分の意に反する仕事もしなければならないということを、大野は自分たちのような[[行政書士|代書屋]]を「鉄人」、決定権を持つ依頼者を「リモコン」に例えていた。なお、劇中においてアニメ第1作の映像が度々使われている。
==== 横山作品の二次作品への影響 ====
* [[今川泰宏]]監督のOVA『[[ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日]]』には様々な横山作品のキャラが出演しており、『鉄人28号』からも村雨健次(健二と改名される)を筆頭に数人が名を変えて登場している。他にも『鉄人』の敵ロボットが多数オープニングにのみ登場する。
** 同OVAの外伝作品『鉄腕GinRei』では主人公の草間大作が敵方のBF団に寝返り、正太郎同様、格子模様のブレザー姿で「JINTETSU(人鉄)」という鉄人風のロボット(メカデザインは[[石川賢 (漫画家)|石川賢]])を操縦している。
** 同じく外伝作品の『青い瞳の銀鈴』では、アニメ第1作の金田正太郎役だった[[高橋和枝]]が正太郎の姿をした少年のルード役でゲスト出演している。
* 横山の代表作の一つである『[[仮面の忍者 赤影]]』のリメイク漫画、『仮面の忍者 赤影 Remains』([[神崎将臣]]作画)の最終回に、鉄人28号をモチーフにした「伊賀の大鉄人」が登場する。
==== パロディ、ネタなど ====
パロディとして[[鳥山明]]の『[[Dr.スランプ]]』のマシリト製作のキャラメルマンシリーズや[[麻宮騎亜]]の『[[快傑蒸気探偵団]]』の強力、[[唐沢なをき]]の『[[鉄鋼無敵科學大魔號]]』や『近未来馬鹿』の短篇「鋼鉄人間28号」「大塚署長自身の事件」などがある。
* 『[[究極超人あ〜る]]』の主人公「R・田中一郎」の誕生過程は、発端は『[[鉄腕アトム]]』、製作状況は『鉄人28号』のパロディで、製作者である成原博士は「R28号」と呼ぶ。兄は27号。後に妹が開発され、「R29号」(彼女自身は自分を「アール・デコ」と自称)と呼ばれた。
* 『[[機動警察パトレイバー]]』の漫画版で展開された、主役機イングラムのメインシステムを奪取しようという構図と一連の企画七課絡みの事件は、『鉄人28号』のオマージュでもある{{要出典|date=2008年12月}}。同作品に登場する[[機動警察パトレイバーの登場メカ#ブロッケン|ブロッケン]]はバッカス、[[機動警察パトレイバーの登場メカ#グリフォン|グリフォン]]はブラックオックスが下敷きになっている<ref>[http://twitter.com/masyuuki/status/32387047385731072 masyuuki 2011-02-01 19:37:28] グリフォンも、ブラックオックスがモデルと言ってしまうとちょっと語弊がありまして、「イングラムよりちょっと先進的なやつ」と頼んだら「ああ、ブラックオックスね」といった感じでイメージされたのです</ref>。
* 藤子・F・不二雄のSF短編「[[鉄人をひろったよ]]」では「黒部の山奥」(鉄人誕生の地の1つに乗鞍岳秘密研究所がある)「モサドやKGB」などの言葉を途切れ途切れに吐く男が登場し、老人に音声認識タイプのリモコンを渡す。
* 『[[クレヨンしんちゃん]]』の外伝「しんちゃんズエンジェル」において敵のミスタークールキッドがミサイルを遠隔操作するリモコンが鉄人を操るリモコンとほぼ同じデザイン(ただしアンテナが付属)であるが、まつざか先生に「古臭くて正太郎少年が持ってたヤツみたい」と毒づかれた。
* [[江口寿史]]の漫画『[[すすめ!!パイレーツ]]』では、[[千葉パイレーツ]]の猿山さるぞうが犬井犬太郎をリモコン操縦であやつり、「いいも悪いもリモコン次第」と言う場面がある。
* [[フジテレビジョン|フジテレビ]]で放送された子供向け番組『[[ウゴウゴルーガ]]』では、「おやじん28ごう」という本作品の[[パロディ]]作品が存在する。
* フジテレビで放送されたバラエティ番組『[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]』では、ヒーロー物コント「結婚前提戦士ラブラブファイヤー」にて「鉄人2888(てつじんにじゅうバババー)」という本作品のパロディキャラが登場する。
* [[1983年]]に[[TBSテレビ|TBS]]系で放送された[[バラエティ番組]]「[[笑ってポン!]]」には「鉄人28号」のパロディである「木人38号」が登場している。
* [[みなもと太郎]]の歴史ギャグ漫画「[[風雲児たち]]」コミックス17巻以降に登場する[[桜田門外の変]]の指揮者・[[関鉄之介]](作中では「鉄之助」)は、名前の一字と全国を股にかけて行動するタフさから28号そっくりの顔に強引に設定され、髷まで28号の後頭部の突起に似せられている。興奮すると「ガオー」と叫ぶこともある。本人はその容姿のため迷惑することが多く、「作者が考えなしに…」としばしば愚痴を言っている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[飯城勇三]]『「鉄人28号」大研究 - 操縦器(リモコン)の夢』 ISBN 4062691787
* [[小泉俊博]]『懐かし玩具の王様 “鉄人28号”』 ISBN 4766332474
* [[池田啓晶]]編著『鉄腕アトム vs 鉄人28号 - 僕たちの「少年」時代』 ISBN 4900528285
* 『鉄人28号大百科』 [[勁文社|ケイブンシャ]]、1981年
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tetsujin 28-go}}
* [https://www.yokoyama-mitsuteru.com/ 横山光輝オフィシャルサイト]
* {{Wayback |url=http://www.tetsujin28.tv/ |title=鉄人28号 WEB SITE }}(2004年版)
* [http://king-cr.jp/tetsujin/index.html 実写劇場映画鉄人28号 DVDリリースサイト]
* {{Wayback |url=http://www.umegei.com/s2009/tetsujin28.html |title=舞台版鉄人28号 }}(梅田芸術劇場サイト)
** {{Wayback |url=http://www.deiz.com/28go/index.html |title=映画『28 1/2 妄想の巨人』公式サイト }}
* {{Wayback |url=http://www.imagius.com/t28/web/ |title=映画T28公式サイト }}(英語)
* [https://www.kobe-tetsujin.com/ 神戸鉄人プロジェクト]
** [https://www.city.kishiwada.osaka.jp/site/kishiwadai/wadai2009-tetujin28.html 岸和田市公式ブログ]
* [https://www.bandaigames.channel.or.jp/list/tetu28/ プレイステーション2版鉄人28号]
* [https://www.nhkspg.co.jp/ NHKニッパツ] - 広告ライブラリーにCM配信
* {{Wayback |url=http://answer.nttdocomo.co.jp/t28/ |title=ドコモ for PC}}
{{鉄人28号シリーズ}}
{{横山光輝}}
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[[Category:鉄人28号|*]]
[[Category:漫画作品 て|つしんにしゆうはちこう]]
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岸本斉史
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岸本 斉史(きしもと まさし、1974年〈昭和49年〉11月8日 - )は、日本の漫画家である。代表作は『NARUTO -ナルト-』。
漫画家の岸本聖史は双子の弟。
岡山県奈義町にて双子の兄として誕生。幼少期より絵を愛していた。
1996年に『カラクリ』が第132回 2月期ホップ☆ステップ賞にて佳作を受賞し、デビュー。1997年に『赤マルジャンプ』にて初の読み切り作品『NARUTO -ナルト-』を掲載。1999年に『週刊少年ジャンプ』にて『NARUTO -ナルト-』の本格連載を開始。2014年11月に50号掲載の699話・700話を以て『NARUTO -ナルト-』を完結させた。2015年にその成果を認められて芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。
2015年22・23合併号-32号に『週刊少年ジャンプ』にて『NARUTO -ナルト- 外伝 〜七代目火影と緋色の花つ月〜』を短期集中連載。2016年より『BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-』(『NARUTO -ナルト-』のその後を描いたスピンオフ)が『週刊少年ジャンプ』にて連載され、原作・監修を担当。2018年12月に自身による原作の新作『サムライ8 八丸伝』の連載を発表し、2019年24号-2020年17号に『週刊少年ジャンプ』にて連載。2019年に『BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-』が『Vジャンプ』に移籍し、『Vジャンプ』9月号より移籍後連載を開始。2020年の『Vジャンプ』12月号掲載『BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-』52話後のストーリーは岸本の原案をもとにして連載される。
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岸本 斉史は、日本の漫画家である。代表作は『NARUTO -ナルト-』。 漫画家の岸本聖史は双子の弟。
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'''岸本 斉史'''(きしもと まさし、[[1974年]]〈[[昭和]]49年〉[[11月8日]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日、ISBN 4-8169-1760-8、121頁</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]である。代表作は『[[NARUTO -ナルト-]]』。
漫画家の[[岸本聖史]]は[[双生児|双子]]の弟<ref>岸本聖史 著『[[666〜サタン〜]]』1巻おまけページより</ref>。
== 経歴 ==
[[岡山県]][[奈義町]]にて双子の兄として誕生。幼少期より絵を愛していた<ref>『NARUTO 秘伝・兵の書』211ページ</ref>。
[[1996年]]に『カラクリ』が第132回 2月期ホップ☆ステップ賞にて佳作を受賞し、デビュー。[[1997年]]に『[[赤マルジャンプ]]』にて初の読み切り作品『[[NARUTO -ナルト-]]』を掲載。[[1999年]]に『[[週刊少年ジャンプ]]』にて『NARUTO -ナルト-』の本格連載を開始。[[2014年]][[11月]]に50号掲載の699話・700話を以て『NARUTO -ナルト-』を完結させた。[[2015年]]にその成果を認められて[[芸術選奨新人賞|芸術選奨文部科学大臣新人賞]]を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/2015031201.pdf|title=平成26年度(第65回)芸術選奨文部科学大臣賞及び同新人賞の決定について|publisher=[[文化庁]]|date=2015-03-12|accessdate=2019-05-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319164737/http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/2015031201.pdf|archivedate=2015-05-19}}</ref>。
2015年22・23合併号-32号に『週刊少年ジャンプ』にて『NARUTO -ナルト- 外伝 〜七代目火影と緋色の花つ月〜』を短期集中連載。[[2016年]]より『[[BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-]]』(『NARUTO -ナルト-』のその後を描いたスピンオフ)が『週刊少年ジャンプ』にて連載され、原作・監修を担当。[[2018年]][[12月]]に自身による原作の新作『[[サムライ8 八丸伝]]』の連載を発表し、[[2019年]]24号-[[2020年]]17号に『週刊少年ジャンプ』にて連載。2019年に『BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-』が『[[Vジャンプ]]』に移籍し、『Vジャンプ』9月号より移籍後連載を開始。2020年の『[[Vジャンプ]]』12月号掲載『[[BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-]]』52話後のストーリーは岸本の原案をもとにして連載される<ref>{{Cite web|和書|title=NARUTO・BORUTO【原作公式】 on Twitter: "漫画『BORUTO』について Vジャンプ12月号(11/21発売)掲載の『BORUTO』52話をもって、当初からの予定に則り、制作体制が変更となります。 ここまで脚本を務められた小太刀先生、本当にお疲れさまでした。 今後、岸本斉史先生の原案をもとに連載して参ります。" / Twitter |url=https://web.archive.org/web/20220801002519/https://twitter.com/NARUTO_kousiki/status/1328186182681804807?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1328186182681804807%7Ctwgr%5E43dc0990f6776f490944687ff7e037be47ceedc1%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https://dennsisyosekisokuhou.com/archives/3030.html |website=web.archive.org |date=2022-08-01 |access-date=2022-08-01}}</ref>。
== 人物 ==
* [[武井宏之]]は「岸本斉史という人は歪みがなく、とても真正面で正直」と語っており、岸本のまっすぐな人間性は『[[NARUTO -ナルト-]]』主人公の[[うずまきナルト]]に投影されていると見られる<ref>『NARUTO 秘伝・皆の書 41ページ』</ref>。フレデリック・トゥルモンドは「NARUTOの絵のクオリティは他の日本漫画と比較しても圧倒的」と評している<ref>『NARUTO 名言集 絆 ─KIZUNA─ 地ノ巻』</ref>。
* 最も尊敬する漫画家は[[鳥山明]]であり「神様のような存在」と語っている<ref>『NARUTO 秘伝・兵の書』209ページ</ref>。『NARUTO』にも鳥山の代表作『ドラゴンボール』の影響が見られる。影響を受けた人物は鳥山明、[[大友克洋]]、[[沙村広明]]、[[西尾鉄也]]、[[沖浦啓之]]、[[森本晃司]]<ref>『NARUTO -ナルト-』岸本斉史の生い立ちヒストリーより</ref><ref>『マンガ脳の鍛え方』104頁</ref>。影響を受けた漫画・アニメは『[[ドラゴンボール]]』『[[幽☆遊☆白書]]』<ref name="togashi">[[冨樫義博]]と対談した『NARUTO秘伝・皆の書 - オフィシャルプレミアムファンBOOK』収録の「二影対談」より</ref>『[[HUNTER×HUNTER]]』<ref name="togashi" />『[[NINKU -忍空-]]』<ref>「WEBアニメスタイル」の西尾鉄也のインタビューより</ref>『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』<ref name="latimes">[http://www.latimes.com/entertainment/news/arts/la-etw-naruto17-2008dec17,0,4473861.story Los Angels Times Interview: The man behind 'Naruto']</ref>『[[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊]]』<ref name="latimes" />『[[人狼 JIN-ROH]]』<ref name="latimes" />。影響を受けた映画は[[ビートたけし|北野武]]<ref name="latimes" />、[[クエンティン・タランティーノ]]<ref name="latimes" />、[[マイケル・ベイ]]<ref name="latimes" />。
* 既婚者<ref>『NARUTO -ナルト-』53巻の作者コメントより</ref>。
== 作品 ==
=== 連載漫画 ===
* [[NARUTO -ナルト-]](1999年 - 2014年、週刊少年ジャンプ連載)
* [[サムライ8 八丸伝]](2019年 - 2020年、週刊少年ジャンプ連載、原作)
=== 読切漫画 ===
* カラクリ(1998年、週刊少年ジャンプ掲載)
* ベンチ(2010年、週刊少年ジャンプ掲載)
* マリオ(2013年、[[ジャンプスクエア]]掲載)
* [[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]<ref>[[秋本治]]原作の漫画。</ref>(2016年、週刊少年ジャンプ増刊・『こち亀ジャンプ』掲載、岸本が寄稿した描き下ろしの読切)
=== 画集 ===
* UZUMAKI-Jump comics NARUTO(集英社、2004年7月発行)
* NARUTO-ナルト-イラスト集「NARUTO」(集英社、2009年8月発行)
=== その他 ===
* [[ロック・リーの青春フルパワー忍伝]](2012年、原作)
* [[ROAD TO NINJA -NARUTO THE MOVIE-]](2012年、企画・ストーリー・キャラクターデザイン)
* うちはサスケの写輪眼伝(2014年、原作)
* [[THE LAST -NARUTO THE MOVIE-]](2014年、ストーリー総監修・キャラクターデザイン)
* [[高嶋ちさ子]]「Strings on Fire」(2015年7月1日、アルバムジャケット画)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2055327/full/|title=『NARUTO -ナルト-』作者・岸本斉史氏、高嶋ちさ子にジャケット画を提供|publisher=[[オリコン|ORICON]]|date=2015-07-03|accessdate=2015-07-03}}</ref>
* [[BORUTO -NARUTO THE MOVIE-]](2015年、製作総指揮・脚本・キャラクターデザイン)
* [[BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-]](2016年、原作・原案・監修)
* [[BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS- |BORUTO-ボルト- -SAIKYO DASH GENERATIONS]]-(2017年、原作)
== 関連人物 ==
=== アシスタント経験者 ===
* 高橋一浩<ref>Naruto 6巻, 26ページ</ref>
* [[加治佐修]]<ref>Naruto 6巻, 66ページ</ref>
* [[池本幹雄]]<ref>Naruto 6巻, 106ページ</ref>
* 河原武実<ref>Naruto 6巻, 146ページ</ref>
* 西谷浩一<ref>Naruto 13巻, 126ページ</ref>
* 田坂亮<ref>Naruto 13巻, 165ページ</ref>
* [[大久保彰]]
* [[板倉雄一]]<ref>Naruto 24巻, 168ページ</ref>
* 村上正樹<ref>Naruto 28巻, 28ページ</ref>
* 佐藤敦弘
* 白坂彰男
* 平建史<ref>Naruto 43巻, 60ページ</ref>
=== その他 ===
* [[相内優香]]:岸本より「NARUTOアナウンサー」として認定されている。
* 井島由佳:『NARUTO -ナルト-』に感銘を受けている。
== 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:きしもと まさし}}
[[Category:学士(芸術)取得者]]
[[Category:日本出身の双子]]
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:NARUTO -ナルト-]]
[[Category:岡山県出身の人物]]
[[Category:作陽学園高等学校出身の人物]]
[[Category:九州産業大学出身の人物]]
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シャーペン
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シャーペン
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シャーペン シャープペンシルの略。 シャープのパーソナルコンピュータX68000シリーズ用ウィンドウシステム「SX-Window」に付属していたテキストエディタの名称。シャープペンシルに因んでいる。
シャーペン (ドイツ) - ドイツニーダーザクセン州エムスラントの都市。
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'''シャーペン'''
* [[シャープペンシル]]の略。
* [[シャープ]]の[[パーソナルコンピュータ]][[X68000]]シリーズ用[[ウィンドウシステム]]「[[SX-Window]]」に付属していた[[テキストエディタ]]の名称。シャープペンシルに因んでいる。
* {{仮リンク|シャーペン (ドイツ)|de|Schapen|en|Schapen}} - [[ドイツ]][[ニーダーザクセン州]]{{仮リンク|エムスラント|de|Emsland|en|Emsland (region)}}の都市。
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ポタラ宮
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ポタラ宮(ポタラきゅう、チベット文字:ཕོ་བྲང་པོ་ཏ་ལ་; ワイリー方式:pho brang Potala、中国語: 布達拉宮)は1642年、チベット政府「ガンデンポタン」の成立後、その本拠地としてチベットの中心地ラサのマルポリの丘の上に十数年をかけて建設された宮殿。世界遺産ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群を構成する一つ。中国の5A級観光地(2013年認定)でもある。
13階建て、基部からの総高117m、全長約400m、建築面積にして1万3000m2という、単体としては世界でも最大級の建築物。チベット仏教及びチベット在来政権の中心であり、内部に数多くの壁画、霊塔、彫刻、塑像を持つチベット芸術の宝庫でもある。ポタラの名は観音菩薩の住むとされる補陀落のサンスクリット語名「ポータラカ」に由来する。
標高3,700mに位置し、7世紀半ばにチベットを統一した吐蕃第33代のソンツェン・ガンポがマルポリの丘に築いた宮殿の遺跡をダライ・ラマ5世が増補、拡充するかたちで建設された。5世が自らの政権の権威確立を象徴するために着工したものと言われる。内部の部屋数は2000ともいわれ、ダライ・ラマ14世も自伝の中で、いくつ部屋があるのか分からなかったと記しているが、上層に位置する中核の部分は、政治的空間の白宮と宗教的空間の紅宮と呼ばれる2つの領域に大きく分けることが出来る。聖俗両権を掌握するダライ・ラマ政権の「神聖王権」的性格を具現化したものといえる。
現在中国で発行されている50元紙幣の裏面の図柄に採用されている。
白宮は、歴代ダライ・ラマの居住と政治的な執務にあてられた領域である。ダライ・ラマが「世俗王」として権力を行使する場といえる。1645年から8年の歳月をかけて、観音堂を中心に東西に建造されていった。寺全体の外壁が白色に塗られ、人目を引くことから、人々に白宮と呼ばれるようになる。
下層には、集団謁見などの場があり、高層には、建築面積717m2、38本の大支柱に支えられた白宮最大の建物、東大殿(ツォム・チェンシャル)がある。ここでは歴史上、ダライ・ラマの坐床式や親政大典などがおこなわれ、政治的にも宗教的にもきわめて重要な場所といえる。最上層には、私的な謁見と寝室などの居住の場である「日光殿」が存在する。ここは南に面したガラス張りできわめて採光面積が大きく、朝から晩まで太陽がふりそそぐ。寝室の内部には、貴重な宝石や豪華な調度品、金製のお盆、玉製のお椀など百花繚乱であり、主人の気高い地位を顕示している。寝室には広大なベランダがあり、ラサ市街を望むことができる。
白宮の西側に隣接して建てられている紅宮は、宗教的な領域である。ここはチベット仏教の総師ダライ・ラマが「祭司王」としての権威を発揮する場であったといえる。白宮と同じく、外壁全体が赤く塗られているため紅宮と呼ばれた。ここは日常的な機能をほとんどもたない聖空間であると同時に、政権にとって最も重要な象徴性を帯びた場所である。 最下層には位置的に紅宮の中心を占める大集会場があり、この上部の吹き抜けを囲む回廊を介して他の各室が並んでいる。この集会室の西側に面して3層吹き抜けで設けられているのが霊塔殿である。ここには多くの仏塔(チョルテン)が納められているが、なかでも一番豪華なのは、1690年に造られた、高さ15mにもおよぶダライ・ラマ5世の霊塔である。霊塔は、3724kg(霊塔を含む)もの金箔、1500個にも及ぶダイヤモンド、さらには翡翠、瑪瑙など貴重な宝石類で装飾され、塔座には、各種宝器、祭器などが置かれている。この霊廟の奉祀が紅宮の建立の目的といわれる。ダライ・ラマの霊塔殿の横には、面積約700m2の西大殿(ツォク・チェンヌ)がある。内部には、全部で700枚を超える壁画が描かれており、いずれも当時のチベットの風物や人々の生活をリアルに描いたものである。
ダライ・ラマを主としていただくチベット政府「ガンデンポタン」は、1642年、グシ・ハンよりラサをはじめとするチベットの中枢地帯の寄進を受けて発足したが、その当初はダライ・ラマが座主をつとめるデプン寺の兜卒宮(ガンデンポタン)に拠点を置いていた。ダライ・ラマがポタラに常駐するようになったのは1659年からである。このころまでに白宮の主要部が完成したそうだが、紅宮の建設はダライ・ラマ5世が没した82年からであり、完成したのは95年と言われる。この間のポタラ宮の姿は61年にラサを訪れたオーストリア人神父のスケッチにより描かれているが、やはりそこには白宮しか描かれておらず、紅宮が後にデザインされたものであることが裏付けられる。その後、歴代のダライ・ラマの霊塔が建てられたが、政治的に利用されて不遇の人生を送った後、青海に客死した6世のものだけが存在していない。近年では、1930年代に13世の霊塔を納めるため、紅宮西側の増築が行われている。ダライ・ラマ13世は、清国滅亡の後、独立宣言を発したのを機にラサの西郊に新たにノルブリンカ宮を建て、夏はノルブリンカ、冬はポタラ宮を政府の所在地として併用した。
ポタラ宮の地下には「サソリ牢」があり、罪人(そのほとんどは反抗した農奴や奴隷)が毒サソリによって殺されていた。
1950年代に勃発したチベット動乱が1959年中央チベットに波及し、同年3月、ガンデンポタンはダライ・ラマとともにインドへ脱出、ポタラ宮は主を失った。同年、「西蔵地方政府」(ガンデンポタンに対する中国政府の呼称)の廃止を宣言した中国政府はポタラ宮を接収し、現在は博物館として使用されている。
現在はポタラ宮内部は白宮はごく一部の部屋以外は原則的に非公開、紅宮は歴代ダライ・ラマの玉座や霊塔などが公開されている。屋上にも登ることができる。冬季閑散期を除き入場は見学希望日の前日に予約券を入手する必要があるが、夏季最盛期は中国人観光客が激増していることもあり、個人観光客が予約券を手に入れるためには、深夜のうちから予約券発行所に並ぶ必要があるなど、入手は困難になっている。また、外国人の場合パスポートを提示する必要がある。団体入場者は見学時間が1時間以内に制限されている。2008年1月現在入場料はチベット族が1元。漢民族などチベット族以外の民族や外国人は100元となっている。
1994年、周辺の遺跡と合わせてラサのポタラ宮の歴史的遺跡群として、ユネスコ世界遺産(文化遺産)として登録。2000年にジョカン(トゥルナン寺・大昭寺)が拡大登録。2001年にノルブリンカが拡大登録された。
後年、ダライラマ14世は、幼少期にポタラ宮でお化けをよく見かけたと語っている。ダライラマ14世によれば、本人が見たと語る「遠くに仰向けに倒れている白い髪の人影」のほか、宮内では「サルのお化け」の話が語られていたという。その話では、サルのお化けを見た者がお化け目がけて投擲をしたところ、やかんが倒れて火鉢から煙が上がったと語られている。
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ポタラ宮は1642年、チベット政府「ガンデンポタン」の成立後、その本拠地としてチベットの中心地ラサのマルポリの丘の上に十数年をかけて建設された宮殿。世界遺産ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群を構成する一つ。中国の5A級観光地(2013年認定)でもある。 13階建て、基部からの総高117m、全長約400m、建築面積にして1万3000㎡という、単体としては世界でも最大級の建築物。チベット仏教及びチベット在来政権の中心であり、内部に数多くの壁画、霊塔、彫刻、塑像を持つチベット芸術の宝庫でもある。ポタラの名は観音菩薩の住むとされる補陀落のサンスクリット語名「ポータラカ」に由来する。 標高3,700mに位置し、7世紀半ばにチベットを統一した吐蕃第33代のソンツェン・ガンポがマルポリの丘に築いた宮殿の遺跡をダライ・ラマ5世が増補、拡充するかたちで建設された。5世が自らの政権の権威確立を象徴するために着工したものと言われる。内部の部屋数は2000ともいわれ、ダライ・ラマ14世も自伝の中で、いくつ部屋があるのか分からなかったと記しているが、上層に位置する中核の部分は、政治的空間の白宮と宗教的空間の紅宮と呼ばれる2つの領域に大きく分けることが出来る。聖俗両権を掌握するダライ・ラマ政権の「神聖王権」的性格を具現化したものといえる。 現在中国で発行されている50元紙幣の裏面の図柄に採用されている。
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'''ポタラ宮'''(ポタラきゅう、{{bo|t=ཕོ་བྲང་པོ་ཏ་ལ་|w=pho brang Potala}}、{{lang-zh|布達拉宮}})は[[1642年]]、チベット政府「[[ガンデンポタン]]」の成立後、その本拠地として[[チベット]]の中心地[[ラサ]]の[[マルポリ]]の丘の上に十数年をかけて建設された宮殿。世界遺産'''[[ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群]]'''を構成する一つ。[[中国の観光地等級AAAAA|中国の5A級観光地]](2013年認定)でもある<ref>{{Cite web |title=拉萨布达拉宫景区 |url=https://www.mct.gov.cn/tourism/#/view?id=12134&drid=4&page=1 |website=www.mct.gov.cn |access-date=2023-02-03 |publisher=[[中華人民共和国文化観光部]] |date=2021-07-22}}</ref>。
13階建て、基部からの総高117m、全長約400m、建築面積にして1万3000㎡という、単体としては世界でも最大級の建築物。チベット仏教及びチベット在来政権の中心であり、内部に数多くの壁画、霊塔、彫刻、塑像を持つチベット芸術の宝庫でもある。ポタラの名は[[観音菩薩]]の住むとされる[[補陀落]]の[[サンスクリット語]]名「ポータラカ」に由来する。
標高3,700mに位置し、[[7世紀]]半ばにチベットを統一した[[吐蕃 (王朝)|吐蕃]]第33代の[[ソンツェン・ガンポ]]が[[マルポリ]]の丘に築いた宮殿の遺跡を[[ダライ・ラマ5世]]が増補、拡充するかたちで建設された。5世が自らの政権の権威確立を象徴するために着工したものと言われる。内部の部屋数は2000ともいわれ、[[ダライ・ラマ14世]]も自伝の中で、いくつ部屋があるのか分からなかったと記しているが、上層に位置する中核の部分は、政治的空間の白宮と宗教的空間の紅宮と呼ばれる2つの領域に大きく分けることが出来る。聖俗両権を掌握するダライ・ラマ政権の「神聖王権」的性格を具現化したものといえる。
現在中国で発行されている50[[人民元|元]]紙幣の裏面の図柄に採用されている。
== 白宮 ==
白宮は、歴代ダライ・ラマの居住と政治的な執務にあてられた領域である。ダライ・ラマが「世俗王」として権力を行使する場といえる。1645年から8年の歳月をかけて、観音堂を中心に東西に建造されていった。寺全体の外壁が白色に塗られ、人目を引くことから、人々に白宮と呼ばれるようになる。
下層には、集団謁見などの場があり、高層には、建築面積717㎡、38本の大支柱に支えられた白宮最大の建物、東大殿(ツォム・チェンシャル)がある。ここでは歴史上、ダライ・ラマの坐床式や親政大典などがおこなわれ、政治的にも宗教的にもきわめて重要な場所といえる。最上層には、私的な謁見と寝室などの居住の場である「日光殿」が存在する。ここは南に面したガラス張りできわめて採光面積が大きく、朝から晩まで太陽がふりそそぐ。寝室の内部には、貴重な宝石や豪華な調度品、金製のお盆、玉製のお椀など百花繚乱であり、主人の気高い地位を顕示している。寝室には広大なベランダがあり、ラサ市街を望むことができる。
== 紅宮 ==
白宮の西側に隣接して建てられている紅宮は、宗教的な領域である。ここはチベット仏教の総師ダライ・ラマが「祭司王」としての権威を発揮する場であったといえる。白宮と同じく、外壁全体が赤く塗られているため紅宮と呼ばれた。ここは日常的な機能をほとんどもたない聖空間であると同時に、政権にとって最も重要な象徴性を帯びた場所である。
最下層には位置的に紅宮の中心を占める大集会場があり、この上部の吹き抜けを囲む回廊を介して他の各室が並んでいる。この集会室の西側に面して3層吹き抜けで設けられているのが霊塔殿である。ここには多くの仏塔(チョルテン)が納められているが、なかでも一番豪華なのは、1690年に造られた、高さ15mにもおよぶダライ・ラマ5世の霊塔である。霊塔は、3724㎏(霊塔を含む)もの金箔、1500個にも及ぶダイヤモンド、さらには翡翠、瑪瑙など貴重な宝石類で装飾され、塔座には、各種宝器、祭器などが置かれている。この霊廟の奉祀が紅宮の建立の目的といわれる。ダライ・ラマの霊塔殿の横には、面積約700㎡の西大殿(ツォク・チェンヌ)がある。内部には、全部で700枚を超える壁画が描かれており、いずれも当時のチベットの風物や人々の生活をリアルに描いたものである。
ダライ・ラマを主としていただくチベット政府「ガンデンポタン」は、1642年、[[グシ・ハン]]よりラサをはじめとするチベットの中枢地帯の寄進を受けて発足したが、その当初はダライ・ラマが座主をつとめる[[デプン寺]]の兜卒宮(ガンデンポタン)に拠点を置いていた。ダライ・ラマがポタラに常駐するようになったのは1659年からである。このころまでに白宮の主要部が完成したそうだが、紅宮の建設はダライ・ラマ5世が没した82年からであり、完成したのは95年と言われる。この間のポタラ宮の姿は61年にラサを訪れた[[オーストリア]]人神父のスケッチにより描かれているが、やはりそこには白宮しか描かれておらず、紅宮が後にデザインされたものであることが裏付けられる。その後、歴代のダライ・ラマの霊塔が建てられたが、政治的に利用されて不遇の人生を送った後、青海に客死した6世のものだけが存在していない。近年では、1930年代に13世の霊塔を納めるため、紅宮西側の増築が行われている。[[ダライ・ラマ13世]]は、[[清国]]滅亡の後、独立宣言を発したのを機にラサの西郊に新たに[[ノルブリンカ|ノルブリンカ宮]]を建て、夏はノルブリンカ、冬はポタラ宮を政府の所在地として併用した。
ポタラ宮の地下には「[[サソリ]]牢」があり、罪人(そのほとんどは反抗した農奴や奴隷)が毒サソリによって殺されていた。
[[1950年代]]に勃発した[[チベット動乱]]が[[1959年]]中央チベットに波及し、同年3月、ガンデンポタンはダライ・ラマとともに[[インド]]へ脱出、ポタラ宮は主を失った。同年、「西蔵地方政府」(ガンデンポタンに対する中国政府の呼称)の廃止を宣言した中国政府はポタラ宮を接収し、現在は[[博物館]]として使用されている。
現在はポタラ宮内部は白宮はごく一部の部屋以外は原則的に非公開、紅宮は歴代ダライ・ラマの玉座や霊塔などが公開されている。屋上にも登ることができる。冬季閑散期を除き入場は見学希望日の前日に予約券を入手する必要があるが、夏季最盛期は中国人観光客が激増していることもあり、個人観光客が予約券を手に入れるためには、深夜のうちから予約券発行所に並ぶ必要があるなど、入手は困難になっている。また、外国人の場合[[パスポート]]を提示する必要がある。団体入場者は見学時間が1時間以内に制限されている。2008年1月現在入場料は[[チベット民族|チベット族]]が1[[人民元|元]]。[[漢民族]]などチベット族以外の民族や外国人は100元となっている。
[[1994年]]、周辺の遺跡と合わせて[[ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群]]として、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]](文化遺産)として登録。[[2000年]]に[[トゥルナン寺|ジョカン]](トゥルナン寺・大昭寺)が拡大登録。[[2001年]]に[[ノルブリンカ]]が拡大登録された。
== お化け ==
後年、ダライラマ14世は、幼少期にポタラ宮で[[お化け]]をよく見かけたと語っている<ref name="obake">『[http://www.tibethouse.jp/visit_to_japan/2016/161114_hhdl-02.html 不動明王許可灌頂 初日]』ダライ・ラマ法王日本代表部事務所</ref>。ダライラマ14世によれば、本人が見たと語る「遠くに仰向けに倒れている白い髪の人影」のほか、宮内では「[[サル]]のお化け」の話が語られていたという<ref name="obake"/>。その話では、サルのお化けを見た者がお化け目がけて投擲をしたところ、[[やかん]]が倒れて[[火鉢]]から煙が上がったと語られている<ref name="obake"/>。
== ギャラリー ==
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 友田正彦『チベット/天界の建築』INAX出版、1995年10月
* 色川大吉『チベット・曼荼羅の世界―その芸術・宗教・生活』小学館ライブラリー、1995年6月
* 赤烈曲扎著、池上正治訳『チベット : 歴史と文化』東方書店、1999年6月
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Potala Palace}}
* [[ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群]]
* [[世界遺産の一覧 (アジア)|世界遺産の一覧]]
* [[トゥルナン寺]](ジョカン・大昭寺)
* [[チベット仏教]]
* [[外八廟|普陀宗乗之廟]]([[外八廟]])
* [[観世音菩薩]]
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[[Category:ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群]]
[[Category:中国の宮殿]]
[[Category:ラサの歴史]]
[[Category:城関区 (ラサ市)]]
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室山まゆみ
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室山 まゆみ(むろやま まゆみ)は、室山 眞弓(むろやま まゆみ、1955年8月30日 - )と、室山 眞里子(むろやま まりこ、1957年9月27日 - )の姉妹による、日本の漫画家コンビである。代表作に『あさりちゃん』など。熊本県出身。熊本女子商業高等学校(現熊本国府高等学校)卒業。 血液型は姉妹共にA型。
実家のあった熊本県玉名郡玉東町で中学生の頃から姉妹で漫画を描き、雑誌の漫画賞等に投稿をしていた。何度か受賞した後、妹の眞里子の高校卒業と共に上京。姉の眞弓はOL稼業をこなしつつ漫画家デビューを目指す。
上京して1年後の1976年(昭和51年)に姉妹共同名義の「室山まゆみ」として『別冊少女コミック』(小学館)「がんばれ姉子」でデビューした。
その後に幾度か読み切り作品を発表した後、「キントトちゃん」で小学館の学年誌でのデビューを果たし、1977年(昭和52年)に初の連載作品「ハッピー・タンポポ」が開始される。さらに、『小学二年生』にて1978年(昭和53年)から2014年(平成26年)2月まで、代表作である『あさりちゃん』が35年にわたって連載され、人気を博する。以後、小学館の学年誌(『小学一年生』 - 『小学六年生』各誌)、『コロコロコミック』、『ぴょんぴょん』、『ちゃお』などで児童向けギャグ漫画を描き続ける。
同じコンビ漫画家としてはゆでたまごが原作担当と作画担当に分かれているのに対し、室山まゆみは2人とも話と絵の制作に関わる。ちなみに下絵担当は妹の眞里子、姉の眞弓はペン入れを担当している。
もともとは少女漫画家あるいはホラー漫画家志望であり、ギャグ漫画は得意ではなくデビュー前は数話しか描いたことがなかったのだが、編集部からの要望によりギャグ漫画で初連載することになる。これがヒットし、その後も代表作となる『あさりちゃん』などで、30年以上にわたり児童向けギャグ漫画を描き続けることになる。短命が多いといわれるギャグ漫画家の中でこれは希有なことであり、年数だけならば秋本治にほぼ匹敵するほどの長期連載を誇っている。代表作『あさりちゃん』も全100巻と、てんとう虫コミックスでは最長の発巻数を誇る。
作風として過激なギャグにも少女漫画風の美形が多数登場したり、本格ホラー的なストーリーが多数あったりと、かつての少女漫画家あるいはホラー漫画家志望を強く思わせるものが多い。
サービス精神が豊富で、コミックスの巻末や話の区切りに、近況報告やお手軽料理の紹介、読者の質問に答える書き下ろし漫画等を掲載している。またコミックスの書き下ろしが多い。この『作者のぺえじ』では2人共年齢を人に知られるのが嫌いと言っているが、自分からネタを振っていることも多い。
過去に読者から「内容が難しく理解できない」「あさりちゃんの面白さが分かるようでないと高校生とはいえない」などとコメントが寄せられ、内容が子供向けになっていないこと、子供にも分かりやすいストーリー展開になっていないことが悩みの種になっている。
また漫画だけでなく、ボーイズラブ的な要素を含む小説も幾つか発表している。
1985年(昭和60年)、第31回(昭和60年度)小学館漫画賞受賞(『あさりちゃん』)。
自身が主催する自身のファンクラブ「ざしきぶた倶楽部」(通称「ざぶ通」)が存在する。
2014年(平成26年)、「二人組による1コミックシリーズ最多発行巻数(女性作家)」としてギネス世界記録に認定された。
※一部書籍に代表作「NEXT ONE」と書いてあるが、「NEXT ONE」という作品があるわけではない。チャールズ・チャップリンの真似で「次回作が自分(たち)にとって最高の作品になるよう、常に全力を尽くす」という趣旨である。
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室山 まゆみは、室山 眞弓と、室山 眞里子の姉妹による、日本の漫画家コンビである。代表作に『あさりちゃん』など。熊本県出身。熊本女子商業高等学校(現熊本国府高等学校)卒業。
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'''室山 まゆみ'''(むろやま まゆみ)は、'''室山 眞弓'''(むろやま まゆみ、[[1955年]][[8月30日]] - )と、'''室山 眞里子'''(むろやま まりこ、[[1957年]][[9月27日]] - )の姉妹による、[[日本]]の[[漫画家]]コンビである。代表作に『[[あさりちゃん]]』など。[[熊本県]]出身<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、[[2003年]][[2月25日]]初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、374頁</ref>。熊本女子商業高等学校(現[[熊本国府高等学校]])卒業<ref name="mangaseek"/>。
<!-- 2008年夏頃発売の「あさりちゃん」廉価版コミックスで、作者紹介の欄に両氏の「真」の字が旧字体の「眞」で書かれていたので、それに変更しました。 -->血液型は姉妹共にA型。
== 略歴・特徴 ==
実家のあった[[熊本県]][[玉名郡]][[玉東町]]で中学生の頃から姉妹で漫画を描き、雑誌の漫画賞等に投稿をしていた。何度か受賞した後、妹の眞里子の高校卒業と共に上京。姉の眞弓はOL稼業をこなしつつ漫画家デビューを目指す。
上京して1年後の[[1976年]]([[昭和]]51年)に姉妹共同名義の「室山まゆみ」として『[[ベツコミ|別冊少女コミック]]』([[小学館]])「がんばれ姉子」でデビューした<ref name="mangaseek"/>。
その後に幾度か読み切り作品を発表した後、「キントトちゃん」で小学館の[[小学館の学年別学習雑誌|学年誌]]でのデビューを果たし、[[1977年]](昭和52年)に初の連載作品「[[ハッピー・タンポポ]]」が開始される。さらに、『小学二年生』にて[[1978年]](昭和53年)から[[2014年]](平成26年)2月まで、代表作である『[[あさりちゃん]]』が35年にわたって連載され、人気を博する。以後、小学館の学年誌(『小学一年生』 - 『小学六年生』各誌)、『[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]』、『[[ぴょんぴょん]]』、『[[ちゃお]]』などで児童向け[[ギャグ漫画]]を描き続ける。
同じコンビ漫画家としては[[ゆでたまご]]が原作担当と作画担当に分かれているのに対し、室山まゆみは2人とも話と絵の制作に関わる。ちなみに下絵担当は妹の眞里子、姉の眞弓はペン入れを担当している。
もともとは[[少女漫画|少女漫画家]]あるいは[[ホラー漫画]]家志望であり、ギャグ漫画は得意ではなくデビュー前は数話しか描いたことがなかったのだが、編集部からの要望によりギャグ漫画で初連載することになる。これがヒットし、その後も代表作となる『あさりちゃん』などで、30年以上にわたり児童向けギャグ漫画を描き続けることになる。短命が多いといわれるギャグ漫画家の中でこれは希有なことであり、年数だけならば[[秋本治]]にほぼ匹敵するほどの長期連載を誇っている。代表作『あさりちゃん』も全100巻と、[[てんとう虫コミックス]]では最長の発巻数を誇る。
作風として過激なギャグにも少女漫画風の[[美形]]が多数登場したり、本格ホラー的なストーリーが多数あったりと、かつての少女漫画家あるいはホラー漫画家志望を強く思わせるものが多い。
サービス精神が豊富で、コミックスの巻末や話の区切りに、近況報告やお手軽料理の紹介、読者の質問に答える書き下ろし漫画等を掲載している。またコミックスの書き下ろしが多い。この『作者のぺえじ』では2人共年齢を人に知られるのが嫌いと言っているが、自分からネタを振っていることも多い。
過去に読者から「内容が難しく理解できない」「あさりちゃんの面白さが分かるようでないと高校生とはいえない」などとコメントが寄せられ、内容が子供向けになっていないこと、子供にも分かりやすいストーリー展開になっていないことが悩みの種になっている。
また漫画だけでなく、[[ボーイズラブ]]的な要素を含む小説も幾つか発表している。
[[1985年]](昭和60年)、第31回(昭和60年度)[[小学館漫画賞]]受賞(『あさりちゃん』)。
自身が主催する自身のファンクラブ「ざしきぶた倶楽部」(通称「ざぶ通」)が存在する。
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== 人物 ==
* デビュー前に姉妹の名前を合わせた「ゆみまりこ」というペンネームを考えていたが、当時の担当編集者がペンネームが嫌いだったため、勝手にほぼ姉の本名である「室山まゆみ」名義で作品が発表された。そのため、初期の読者の中には作者が2人だということを知らない人もいた。姉妹は「ペンネームの変更はできない」と思いこんでいたため不本意ながらこの名義を使い続けたが、やがてどうでも良くなってしまい、変更しないまま現在に至っている<ref>{{Cite web|和書|date=2014-12-02|url=https://www.narinari.com/Nd/20141229076.html|title=
あさりちゃん作者がバラエティ番組初出演、「マツコが好き」で実現。|publisher=ナリナリドットコム|accessdate=2020-06-05}}</ref>。
* [[アシスタント (漫画)|アシスタント]]は基本的に取らない方針で、常に2人で作業をしているが本当に忙しい時には一時的に読者からアシスタントを募ったことはある。
* かなりの[[酒豪]]であり、姉妹で1か月のビール消費量が120本を超えたことがある。単行本で紹介する一品料理のレシピも酒の肴としてのものがかなりの割合を占める。
* [[ダイエット]]経験の本が出せるくらい(後述)多く、話題になったダイエット方法にはほとんど挑戦している。漫画の中でも小学生向けにかかわらず、ダイエットに絡んだエピソードが数多く登場する。
* 好物は[[エビフライ]]と[[スパゲッティ]]で『あさりちゃん』の作中でもエビフライが絡むネタが存在する。また古くからの激辛マニアであり、父親が「人間の食い物じゃない」と評するほどに辛いレベルの料理を日常的に食している。
* 姉の眞弓は幼い頃に[[タバコ]]でまぶたをやけどしており、そのためか、2人とも嫌煙家であり仕事場は全て禁煙としている。過去には出版社の関係者などには喫煙を許可していたが、その人物が帰宅した直後に慌てて換気や消臭をするため、たまたま忘れ物で戻った担当者にその現場を目撃されたことから完全禁煙になった。
* 学生時代からあだ名や呼び捨てで呼ばれるのを嫌っており、同級生に「ちゃんと名前で呼んで」「さん付けで呼んで」と言っていたが(これは家庭でも両親からさん付けで呼ばれて育ったことに起因すると思われる)、現在は漫画の中で「まゆみかん」「おまりんご」と自分でニックネームをつけている。
* ギャグ漫画家へ転向した動機は、デビュー当時、少女漫画とギャグ漫画を掛け持ちで活動しようとしたが、当時の編集者に「二足の草鞋だと、どっちも下手のまま伸びない」と説得されギャグ一本に専念することを決心した、と言うのと、雑誌社から来た初連載の話がギャグ漫画だったから、という2つの説がある。また、「ギャグマンガは連載であるケースが多いため、とりあえず安定した収入が見込める。だから今は一応ギャグマンガをメインにし、将来的には他にもいろいろなマンガを描いていこう、と二人で話し合った」というインタビュー記事も存在する。
* 学生時代、同人誌で[[やおい]]物を描いていたらしく、自身のファンクラブでその時の原稿を販売したことがある。
* [[日本テレビ]]系列『[[月曜から夜ふかし]]』に出演した際、中学生の頃は漫才師を夢見ていたと明かした。
== 作品 ==
※一部書籍に代表作「NEXT ONE」と書いてあるが、「NEXT ONE」という作品があるわけではない。[[チャールズ・チャップリン]]の真似で「次回作が自分(たち)にとって最高の作品になるよう、常に全力を尽くす」という趣旨である。
=== 漫画 ===
==== 単行本収録作品 ====
大半の作品が紙書籍では絶版となっている。
* [[ハッピー・タンポポ]]
: 室山まゆみ初の連載作品で、[[1976年]](昭和51年)より約4年間、小学館の『小学五年生』『小学六年生』に掲載された。元気な小学5年生の女の子'''野々タンポポ'''と親友の'''藪小路いばら'''が起こす騒動を描いたギャグ作品。藪小路いばらは後に[[あさりちゃん]]のレギュラーキャラとなる。長らくコミックスにはなっていなかったが、『あさりちゃん』94巻に一部エピソードが収録されており、これが初単行本化となる。
* [[あさりちゃん]]
: やんちゃでお転婆な女の子'''浜野あさり'''の騒がしい日常を描いた[[ギャグ漫画]]。秀才の姉'''タタミ'''や怖いママ'''さんご'''とのハチャメチャな展開が見所。主役のタタミ・あさり姉妹の[[誕生日]]と[[ABO式血液型|血液型]]は作者自身と全く同じ日付となっている。[[1978年]](昭和53年)から[[2014年]](平成26年)まで35年にわたって学年誌に連載された。また、本作のテレビアニメ版は[[東映アニメーション]]制作で[[1982年]](昭和57年)に[[テレビ朝日]]系にて放送され、[[1983年]](昭和58年)には同社制作で『あさりちゃん 愛のメルヘン少女』としてアニメ映画化もされた。さらにテレビアニメ版の[[DVD]]が[[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント]]から発売された([[2005年]][[11月30日]]から順次発売)。室山は単行本第1巻では「浜野一家のモデルは作者の家族」と述べているが、実際は全然違っているらしく、後に「このコメントを書き直した方がいい」という趣旨の発言をしている。
* [[どろろんぱっ!]]
: 『ぴょんぴょん』で約5年間掲載され、[[てんとう虫コミックス]]の単行本が全5巻発刊された。また、[[1991年]]([[平成]]3年)に[[シンエイ動画]]の制作でアニメ化もされ、テレビ朝日系で放送された。
* [[すうぱあかぐや姫]]
: [[1987年]](昭和62年)より約4年間、『小学三年生』に掲載され、てんとう虫コミックスの単行本が全3巻発刊された。
* あさりVSどろろんぱっ
: 『てんとう虫コミックススペシャル 室山まゆみ傑作集 (1)』として単行本が発刊された。『あさりちゃん』と『どろろんぱっ!』の[[クロスオーバー作品]]となる。
* [[Mr.ペンペン]]
: [[1983年]](昭和58年)より約3年間、『小学二年生』に掲載され、『てんとう虫コミックススペシャル 室山まゆみ傑作集 (2)』として単行本が発刊された。また、1986年(昭和61年)にシンエイ動画の制作でアニメ化もされ、テレビ朝日系で放送された。アニメ版では『あさりちゃん』の浜野あさりがアサリ売りに扮してゲスト出演を果たしている。
* ペンギンぱあてぃー
: [[フラワーコミックス]](小学館)より単行本が全2巻発刊された。前述の『Mr.ペンペン』のリメイク的な作品。
* [[ひよ子だあ〜!]]
: [[1982年]](昭和57年)より約3年間、[[講談社]]の『[[なかよし]]』に掲載され、『てんとう虫コミックススペシャル 室山まゆみ傑作集 (3)』として単行本が発刊された。本作は前述の「ハッピー・タンポポ」のリメイク版とも言うべき作品で、設定や登場人物の性格が酷似している。
* おまけの柴子
: [[2014年]]より[[増刊フラワーズ]]より連載されていた。作者初の[[動物漫画]]作品となる。単行本は全1巻。
==== 単行本未収録作品 ====
* くるりんモモンガール - [[1995年]](平成7年)より2年間、小学館の学年誌に掲載
* がんばれ姉子 - 別冊少女コミック。室山まゆみデビュー作
* 深海魚 - デビューの頃の作品。ショートショートギャグ
* はっぴいラブゴール - 初期の少女漫画
* キントトちゃん - 学年誌デビュー作
* 1・2とんぼ - 『小学五年生』掲載
* トマトちゃん - 『小学五年生』掲載
* いただきまあ〜す - 学年誌付録。※トマトちゃん番外編
* となりのひよ子 - 学年誌付録。4話程。後の [[ひよ子だあ〜!]]と設定はほぼ同じ
* 名探偵タンポポ - 学年誌付録。※[[ハッピー・タンポポ]]番外編
* よろしくタムタム - 幼児向け。フルカラー連載
* 赤紫タイフーン - 60ページ読切
* おじゃ魔っ子メフィスト - 15ページ読切
* 鬼門学園 - ちゃお掲載。全4話
* コンコンポン - 学年誌付録。2話程
* ドラゴンSOS - 学年誌付録
* スネ湖のうつくっしー - 学年誌付録
* つくしの絵日記 - 学年誌付録
* スルメちゃん - 学年誌付録
* 赤紫絵巻 - 学年誌付録
* 走れ!たら子 - 学年誌付録
* わたしはトンボ - 学年誌付録
* 不滅のバレー部 - 学年誌付録
* らっきいドラコちゃん - 学年誌付録
* ドラゴンバスター ルコちゃん - 学年誌付録
* おじゃ魔キュララ - 学年誌付録。6話程。ドラキュラギャルもの。主人公は大阪弁
=== 小説 ===
* おこげっ娘ラブ(1993年3月、パレット文庫)
* おこげっ娘パニック(1993年9月、パレット文庫)
* 双子の方程式(1994年4月、パレット文庫)
=== エッセイ ===
* ダイエットただいま全敗中!!(1999年3月、小学館文庫) - 室山姉妹が過去に挑戦したダイエットの失敗談を紹介したエッセイ
== メディア出演 ==
=== テレビ ===
* [[月曜から夜ふかし]](2014年12月1日、2021年6月21日、2023年7月24日、2023年9月25日、[[日本テレビ]])
* [[阿佐ヶ谷アパートメント]](2022年9月19日、2023年4月17日・24日、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://family.shogakukan.co.jp/kids/netkun/asari/index.html ☆あさりちゃんのへや☆] - 小学館の公式ページ。
** [http://family.shogakukan.co.jp/kids/netkun/asari/profile/index.html 作者紹介]
** [http://family.shogakukan.co.jp/kids/netkun/asari/making/index.html メイキング] - 作品制作過程の紹介。
* {{Twitter|asarichan927|あさりちゃん (浜野あさり)}} ※室山の告知や近況などを伝えている。
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:共有筆名]]
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[[Category:熊本国府高等学校出身の人物]]
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[[Category:20世紀日本の女性著作家]]
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拼音
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拼音(ピンイン、拼音: pīnyīn、英語: pinyin)は、中国語の発音記号。音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系である。1958年より中華人民共和国が制定した漢語拼音(かんごピンイン、拼音: Hànyǔ Pīnyīn, ハンユーピンイン)とそれに基づく文字・漢語拼音字母がある。当初は、将来的に漢字に代わる中国語の文字として位置づけられていた。
また、中国大陸とは異なる通用拼音のような拼音もあり、ウェード式、イェール式などの他のラテン文字による表記法も中国語では拼音と称することがある。漢語拼音の名称は、それらと特に区別する必要がある場合に用いられる。
1958年の漢語拼音方案成立以来、中華人民共和国では拼音を中国語の唯一の表音方式として強力に推進している。
もとの漢語拼音方案はごく簡単なものだったが、分かち書きや大文字・小文字の使い分けなどの細則が1996年に GB/T 16159 「漢語拼音正詞法基本規則」として制定された(2012年改定)。また、人名の拼音による表記については、2012年の GB/T 28039 で定義されている。
中国以外では長らくウェード・ジャイルズ式などが使われてきたが、1977年には国際連合の地名標準化会議で中国の地名を拼音によって記載することを決定した。また、1982年には国際標準化機構も拼音を ISO 7098 として採用した。現在ではラテンアルファベットを使う諸言語の新聞・書籍などで、中国の固有名詞はほとんど拼音で表記するようになっている。
一方、政治体制が異なる台湾(中華民国)では、標準中国語(国語)の発音表記体系として、漢語拼音ではなく注音符号が使用されてきた。固有名詞を中心としたローマ字表記としては長らくウェード式を用いてきた。ほかに、国語ローマ字(1928年公布)、国語注音符号第二式(1984年公布)もあった。1998年にはさらに通用拼音が考案され、漢語拼音と通用拼音のどちらを採用するかをめぐって関連当局間でも同意を得られない状態が続いたが、最終的に2009年1月1日、公式に漢語拼音を採用した。ただし都市名等の「台北、Taipei」や「高雄、Kaohsiung」のようなウェード式表記や、「基隆、Keelung」のような非北京語音を基にした表記など、国際的に定着しているものについては変更していない(仮にこれらを漢語拼音にするなら、Taibei、Gaoxiong、Jilong となる)。
拼音には v を除く25文字のラテン文字が使われる。ほかに ü, ê と声調符号が使われる。
セル内に太字で拼音を、角括弧内に国際音声字母を示した。
漢字に添えてその発音を示すときは、綴りを短くするため、zh ch sh を ẑ ĉ ŝ と省略することができることになっているが、現実の使用例はほとんどない。
セル内の1段目には国際音声記号を、2段目には声母がなく韻母だけで構成される形の拼音を、3段目には声母と組み合わされる形の拼音を示した。
漢字に添えてその発音を示すときは、綴りを短くするため、ng を ŋ と省略することができることになっているが、実際の使用例はほとんどない。
「而」や「二」などの音 [ɚ] は er と表記する。
児化した音節については、児化する前の形で表記して、その後ろに r を付ける。
あまり多くないが、間投詞として ê /e/ が現れる。漢字では「欸・诶」と書く。
m, n, ng が母音なしで音節をなすことがある。ḿ m̀ ń ň ǹ ńg ňg ǹg hm hng など。
軽声には声調符号を付けない。
ê, m, n の上にも声調符号がつき得る。
第二声を表す記号は正確には右上に向かう(左下が太く右上が細くなる)記号であり、ヨーロッパ系諸言語で用いられるアキュートアクセント記号とは向きが違うが、Unicode および UCS の文字コードでは区別されていない。通常、中国語書体ではアキュートを左下から右上に向かうデザインにしている。
声調符号は主母音の上につける。つまり、複数の母音字があった場合は a に、a がなければ e か o の上につける。主母音が省略されている -iu は後の u のほうに、-ui には i のほうにつける。
第三声が連続する場合に、最後の一つ以外は第二声に変化するが、声調符号は変化しない。(ただし一部の辞典では実際の発音を表示している。)
例えば「你好、nǐ hǎo」は両方とも第三声なので、前の「你」が第二声に変化するが、表記上は本来の声調で書かれる。
数詞の「一、yī」、「七、qī」、「八、bā」の後に音節が続く場合、および否定副詞「不、bù」 の後に音節が続く場合、それぞれ「yíまたはyì, qí, bá, bú」と発音する場合があるが、その場合も本来の声調で表記する。ただし、語学用の書籍では、変化した発音を載せてもよいとされている。
辞書は拼音表記によるアルファベット順で排列される。部首と画数から検索可能な索引が付される。
a, o, e の文字で始まる音節が他の音節の後に続くとき、もし音節の切れ目に混交が起きる場合は区切り記号「ʼ」(隔音符号、アポストロフィー)を用いて区切る。
ただし、その間で改行する場合は、アポストロフィは省略される。中華人民共和国のパスポートの姓名表記でもアポストロフィは省略される。
なお、二つ以上の音節からなる略語、範囲を示す語、対等関係の語を並べた語、二つずつに分解して理解すべき四字熟語などでは、語の間に「-」(ハイフン)を入れてつなげる場合がある。
離合詞では、jiàn//miàn のように//を入れて表記する辞書もある。
拼音では単語を単位とし、分かち書きを行う規則になっているが、どこまでを一区切りとすべきか判断に困る場合も多いため、『漢語拼音正詞法基本規則』というガイドラインが1988年に示されている。大文字で書くべき固有名詞の例や、上記のハイフンによる結合の例なども示している。
中国の基本文字セット GB 2312 や、2000年に制定された日本の拡張文字セット JIS X 0213 には、漢語拼音で用いられる声調符号付きラテン文字が含まれる。
声調符号のついたラテン文字を含む書体の使えない環境で中国語の拼音を書く際には、声調は通常無視される。非母語話者の中国語初学者などのように声調が必要な場合は、音節の後に声調の番号を振って示すことがある。例えば Wǒ shì Rìběn rén(我是日本人、私は日本人です)と書く代わりに Wo3 shi4 Ri4ben3 ren2 と書く。
「ü」の字が使えない場合 v で代用することがある。
拼音は漢字入力方式としても使われる。この場合は v のキーに ü が割り当てられていることが多い。なお入力時には声調の違いは無視される場合が多い。
多くの拼音入力は短縮入力をサポートしている(zg で「中国」に変換されるなど)。
陳淑梅 (2011) は、中国語の音節と片仮名とが1対1に対応する表記法として「jピンイン」を考案した。中国語の知識がない日本人が片仮名を実際に発音して、中国人が正しく聞き取れるかどうかをテストしている。jピンインの音節対応表(Microsoft Excel のファイル)も公表されている。
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"title": "jピンイン"
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拼音は、中国語の発音記号。音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系である。1958年より中華人民共和国が制定した漢語拼音とそれに基づく文字・漢語拼音字母がある。当初は、将来的に漢字に代わる中国語の文字として位置づけられていた。 また、中国大陸とは異なる通用拼音のような拼音もあり、ウェード式、イェール式などの他のラテン文字による表記法も中国語では拼音と称することがある。漢語拼音の名称は、それらと特に区別する必要がある場合に用いられる。
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{{Otheruses|中国語(普通話)のラテン字表記法の一つである'''漢語拼音'''}}
{{複数の問題
|出典の明記=2014年2月
|独自研究=2014年2月
}}
{{中華圏の事物
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|英文=
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|繁体字=拼音
|ピン音=Pīnyīn
|注音符号=ㄆㄧㄣ ㄧㄣ
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|ひらがな=ほうおん<ref>{{Cite book |和書 |editor1=小川環樹 |editor2=西田太一郎 |editor3=赤塚忠 |title=角川新字源 |edition=初版 |publisher=[[角川書店]] |year=1968 |pages=1226-1227 |section=中国語ローマ字表記一覧表}}</ref><br />へいおん<ref name="中国語-世界大百科事典" /><br />ひんおん<ref name="中国語-世界大百科事典">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%99%AE%E9%80%9A%E8%A9%B1-125054 |title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「普通話」の解説 |website=[[世界大百科事典]] 第2版 |publisher=[[平凡社]] |series=[[コトバンク]] |accessdate=2021-04-04}}</ref>
}}
'''拼音'''(ピンイン、{{拼音|{{pinyin|pin1yin1}}}}、{{Lang-en|pinyin}})は、[[中国語]]の[[発音記号]]。[[音節]]を[[音素文字]]に分け、[[ラテン文字化]]して表記する発音表記体系である。[[1958年]]より[[中華人民共和国]]が制定した'''漢語拼音'''(かんごピンイン、{{拼音|{{pinyin|Han4yu3 Pin1yin1}}}}, ハンユーピンイン<!--中国語音節表記ガイドライン[平凡社版]に従った-->)とそれに基づく[[文字]]・'''漢語拼音字母'''がある。当初は、将来的に[[漢字]]に代わる中国語の文字として位置づけられていた。
また、[[中国大陸]]とは異なる[[通用拼音]]のような拼音もあり、[[ウェード式]]、[[イェール式]]などの他のラテン文字による表記法も中国語では拼音と称することがある<ref group="注">例えば[[教育部 (中華民国)|中華民国(台湾)教育部]]ウェブサイトにある[http://crptransfer.moe.gov.tw 中文譯音轉換系統]でウェード式は「威妥瑪拼音」({{pinyin|wei1tuo3ma3 pin1yin1}})、イェール式は「耶魯拼音」({{pinyin|ye2lu3 pin1yin1}}) と表記されている。</ref>。漢語拼音の名称は、それらと特に区別する必要がある場合に用いられる。
== 概要 ==
1958年の'''漢語拼音方案'''成立以来、中華人民共和国では拼音を中国語の唯一の表音方式として強力に推進している。
もとの漢語拼音方案はごく簡単なものだったが、分かち書きや大文字・小文字の使い分けなどの細則が1996年に GB/T 16159 「漢語拼音正詞法基本規則」として制定された(2012年改定)<ref>{{Cite web |url=http://old.moe.gov.cn/ewebeditor/uploadfile/2015/01/13/20150113091717604.pdf |title=汉语拼音正词法基本规则 |trans-title= |accessdate=2018-05-20 |author=中华人民共和国教育部 |authorlink=中華人民共和国教育部 |date=2012-10-01 |format=PDF |publisher=[[中華人民共和国国務院]] |language=[[中国語]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180520182237/http://old.moe.gov.cn/ewebeditor/uploadfile/2015/01/13/20150113091717604.pdf |archivedate=2018-05-20 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。また、人名の拼音による表記については、2012年の GB/T 28039 で定義されている<ref>{{Cite web |url=http://old.moe.gov.cn/ewebeditor/uploadfile/2015/01/13/20150113091249368.pdf |title=中国人名汉语拼音字母拼写规则 |trans-title= |accessdate=2018-05-20 |author=中华人民共和国教育部 |authorlink=中華人民共和国教育部 |date=2012-10-01 |format=PDF |publisher=[[中華人民共和国国務院]] |language=[[中国語]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180520182335/http://old.moe.gov.cn/ewebeditor/uploadfile/2015/01/13/20150113091249368.pdf |archivedate=2018-05-20 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。
中国以外では長らく[[ウェード式|ウェード・ジャイルズ式]]などが使われてきたが、1977年には[[国際連合]]の地名標準化会議で中国の地名を拼音によって記載することを決定した<ref>{{cite book|和書|title=漢字民族の決断|year=1987|author=橋本萬太郎・鈴木孝夫・山田尚勇|publisher=大修館書店|isbn=4469220493|page=425}}</ref>。また、1982年には[[国際標準化機構]]も拼音を ISO 7098 として採用した。現在では[[ラテン文字|ラテンアルファベット]]を使う諸言語の新聞・書籍などで、中国の固有名詞はほとんど拼音で表記するようになっている。
一方、政治体制が異なる[[台湾]]([[中華民国]])では、標準中国語([[国語 (中国語)|国語]])の発音表記体系として、漢語拼音ではなく[[注音符号]]が使用されてきた。固有名詞を中心としたローマ字表記としては長らく[[ウェード式]]を用いてきた。ほかに、[[国語ローマ字]](1928年公布)、[[:zh:國語注音符號第二式|国語注音符号第二式]](1984年公布)もあった。1998年にはさらに[[通用拼音]]が考案され、漢語拼音と通用拼音のどちらを採用するかをめぐって関連当局間でも同意を得られない状態が続いたが、最終的に[[2009年]][[1月1日]]、公式に漢語拼音を採用した。ただし都市名等の「[[台北市|台北]]、Taipei」や「[[高雄市|高雄]]、Kaohsiung」のようなウェード式表記や、「[[基隆市|基隆]]、Keelung」のような非北京語音を基にした表記など、国際的に定着しているものについては変更していない(仮にこれらを漢語拼音にするなら、Taibei、Gaoxiong、Jilong となる)。
== 表記 ==
拼音には v を除く25文字の[[ラテン文字]]が使われる。ほかに {{unicode|ü, ê}} と声調符号が使われる。
=== 声母(音節頭子音) ===
セル内に太字で拼音を、角括弧内に[[国際音声字母]]を示した。<!-- [[無気音]]と[[有気音]]の対立があるものはセルを左右に分けて示した。ただし、'''sh''' と '''r''' で表記される子音は[[無声音]]と[[有声音]]の対立である。 -->
{| class="wikitable" style="text-align: center; margin-left: 2em;"
|-
!colspan="2"| ||[[唇音|唇]]||[[歯茎音|歯茎]]||[[反り舌音|反り舌]]||[[歯茎硬口蓋音|歯茎硬口蓋]]||[[軟口蓋音|軟口蓋]]
|-
!rowspan="2"|[[破裂音]]
![[無声音|無声]][[無気音]]
|style="background:#cfc;"|'''b''' [{{IPA|[[無声両唇破裂音|p]]}}]
|style="background:#ccf;"|'''d''' [{{IPA|[[無声歯茎破裂音|t]]}}]
|
|
|style="background:#fcc;"|'''g''' [{{IPA|[[無声軟口蓋破裂音|k]]}}]
|-
![[無声音|無声]][[有気音]]
|style="background:#cfc;"|'''p''' [{{IPA|[[無声両唇破裂音|pʰ]]}}]
|style="background:#ccf;"|'''t''' [{{IPA|[[無声歯茎破裂音|tʰ]]}}]
|
|
|style="background:#fcc;"|'''k''' [{{IPA|[[無声軟口蓋破裂音|kʰ]]}}]
|-
!colspan="2"|[[鼻音]]
|style="background:#cfc;"|'''m''' [{{IPA|[[両唇鼻音|m]]}}]
|style="background:#ccf;"|'''n''' [{{IPA|[[歯茎鼻音|n]]}}]
|
|
|
|-
!rowspan="2"|[[破擦音]]
![[無声音|無声]][[無気音]]
|
|style="background:#cff;"|'''z''' [{{IPA|[[無声歯茎破擦音|t͡s]]}}]
|style="background:#ffc;"|'''zh''' [{{IPA|[[無声そり舌破擦音|ʈ͡ʂ]]}}]
|style="background:#fcf;"|'''j''' [{{IPA|[[無声歯茎硬口蓋破擦音|t͡ɕ]]}}]
|
|-
![[無声音|無声]][[有気音]]
|
|style="background:#cff;"|'''c''' [{{IPA|[[無声歯茎破擦音|t͡sʰ]]}}]
|style="background:#ffc;"|'''ch''' [{{IPA|[[無声そり舌破擦音|ʈ͡ʂʰ]]}}]
|style="background:#fcf;"|'''q''' [{{IPA|[[無声歯茎硬口蓋破擦音|t͡ɕʰ]]}}]
|
|-
!colspan="2"|[[摩擦音]]
|style="background:#cfc;"|'''f''' [{{IPA|[[無声唇歯摩擦音|f]]}}]
|style="background:#cff;"|'''s''' [{{IPA|[[無声歯茎摩擦音|s]]}}]
|style="background:#ffc;"|'''sh''' [{{IPA|[[無声そり舌摩擦音|ʂ]]}}]
|style="background:#fcf;"|'''x''' [{{IPA|[[無声歯茎硬口蓋摩擦音|ɕ]]}}]
|style="background:#fcc;"|'''h''' [{{IPA|[[無声軟口蓋摩擦音|x]]}}]
|-
!colspan="2"|[[側面接近音]]
|
|style="background:#ccf;"|'''l''' [{{IPA|[[歯茎側面接近音|l]]}}]
|style="background:#ffc;"|'''r''' [{{IPA|[[そり舌接近音|ɻ]]~[[有声そり舌摩擦音|ʐ]]}}]
|
|
|}
{|
|声母の順序は、||style="background:#cfc;"| b p m f ||style="background:#ccf;"| d t n l ||style="background:#fcc;"| g k h ||style="background:#fcf;"| j q x ||style="background:#ffc;"| zh ch sh r ||style="background:#cff;"| z c s ||である。
|}
漢字に添えてその発音を示すときは、綴りを短くするため、zh ch sh を {{unicode|ẑ ĉ ŝ}} と省略することができることになっているが、現実の使用例はほとんどない。
=== 韻母 ===
セル内の1段目には[[国際音声記号]]を、2段目には声母がなく韻母だけで構成される形の拼音を、3段目には声母と組み合わされる形の拼音を示した。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!colspan=2 rowspan=2|
!colspan=12|尾音
|-
!colspan=3|∅!!colspan=2|{{IPA|/i/}}!!colspan=2|{{IPA|/u/}}!!colspan=2|{{IPA|/n/}}!!colspan=3|{{IPA|/ŋ/}}
|-
!rowspan=4|介音
!∅
|{{IPA|[ʐ̩]}}, {{IPA|[z̩]}}<br><br>-i <sup>3</sup> ||{{IPA|[ɤ]}}<br>e<br>-e||{{IPA|[ä]}}<br>a<br>-a
|{{IPA|[ei]}}<br>ei<br>-ei||{{IPA|[ai]}}<br>ai<br>-ai
|{{IPA|[ou]}}<br>ou<br>-ou||{{IPA|[ɑu]}}<br>ao<br>-ao
|{{IPA|[ən]}}<br>en<br>-en||{{IPA|[an]}}<br>an<br>-an
|{{IPA|[ʊŋ]}}<br><br>-ong||{{IPA|[ɤŋ]}}<br>eng<br>-eng||{{IPA|[ɑŋ]}}<br>ang<br>-ang
|-
!{{IPA|/i/}}
|{{IPA|[i]}}<br>yi<br>-i||{{IPA|[iɛ]}}<br>ye<br>-ie||{{IPA|[iä]}}<br>ya<br>-ia
| ||
|{{IPA|[iou]}}<br>you<br>-iu||{{IPA|[iɑu]}}<br>yao<br>-iao
|{{IPA|[in]}}<br>yin<br>-in||{{IPA|[iɛn]}}<br>yan<br>-ian
|{{IPA|[iʊŋ]}}<br>yong<br>-iong||{{IPA|[iŋ]}}<br>ying<br>-ing||{{IPA|[iɑŋ]}}<br>yang<br>-iang
|-
!{{IPA|/u/}}
|{{IPA|[u]}}<br>wu<br>-u||{{IPA|[uo]}}<br>wo<br>-uo <sup>2</sup>||{{IPA|[uä]}}<br>wa<br>-ua
|{{IPA|[uei]}}<br>wei<br>-ui||{{IPA|[uai]}}<br>wai<br>-uai
| ||
|{{IPA|[uən]}}<br>wen<br>-un||{{IPA|[uan]}}<br>wan<br>-uan
| ||{{IPA|[uɤŋ]}}<br>weng<br> ||{{IPA|[uɑŋ]}}<br>wang<br>-uang
|-
!{{IPA|/y/}}
|{{IPA|[y]}}<br>yu<br>-ü <sup>1</sup> ||{{IPA|[yɛ]}}<br>yue<br>-üe <sup>1</sup>||
| ||
| ||
|{{IPA|[yn]}}<br>yun<br>-ün <sup>1</sup>||{{IPA|[yɛn]}}<br>yuan<br>-üan <sup>1</sup>
| || ||
|}
# ü は、j, q, x の後では u と表記する。
# uo は、b, p, m, f の後では o と表記する。現在は表記どおり bo, po, mo, fo は{{IPA|-o}}と発音することが多い。
# -i は zh, ch, sh, r({{IPA|[ʐ̩]}}または{{IPA|[ɨ]}})や z, c, s({{IPA|[z̩]}}または{{IPA|[ɯ]}})のそのままの舌の構えで出される音を表す。したがって、これらの声母に伴って使われ、単独で発音されない。
漢字に添えてその発音を示すときは、綴りを短くするため、ng を {{unicode|ŋ}} と省略することができることになっているが、実際の使用例はほとんどない。
==== erと児化音 ====
「而」や「二」などの音 {{IPA|ɚ}} は er と表記する。
[[児化]]した音節については、児化する前の形で表記して、その後ろに r を付ける。
==== ê, m, n, ng ====
あまり多くないが、間投詞として {{unicode|ê}} {{ipa|e}} が現れる。漢字では「{{lang|zh-cn|欸}}・{{lang|zh-cn|诶}}」と書く。
m, n, ng が母音なしで音節をなすことがある。{{unicode|ḿ}} {{unicode|m̀}} {{unicode|ń}} {{unicode|ň}} {{unicode|ǹ}} {{unicode|ńg}} {{unicode|ňg}} {{unicode|ǹg}} {{unicode|hm}} {{unicode|hng}} など。
=== 声調 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" style="text-align:center"
|-
!
!第一声!!第二声!!第三声!!第四声!!軽声
|-
! 拼音
|{{lang|zh-Hans|ˉ}}||{{lang|zh-Hans| ˊ}}||{{lang|zh-Hans|ˇ}}||{{lang|zh-Hans|ˋ}}||{{lang|zh-Hans|˙}}<br />(使用しない)
|}
[[軽声]]には声調符号を付けない。
ê, m, n の上にも声調符号がつき得る。
第二声を表す記号は正確には右上に向かう(左下が太く右上が細くなる)記号であり、ヨーロッパ系諸言語で用いられるアキュートアクセント記号とは向きが違うが、[[Unicode]] および [[ISO/IEC 10646|UCS]] の文字コードでは区別されていない。通常、中国語書体ではアキュートを左下から右上に向かうデザインにしている。
==== 声調符号の位置 ====
声調符号は主母音の上につける。つまり、複数の母音字があった場合は a に、a がなければ e か o の上につける。主母音が省略されている -iu は後の u のほうに、-ui には i のほうにつける。
==== 声調が変化する場合 ====
第三声が連続する場合に、最後の一つ以外は第二声に変化するが、声調符号は変化しない。(ただし一部の辞典では実際の発音を表示している。)
例えば「{{lang|zh|你好}}、{{lang|zh-latn|nǐ hǎo}}」は両方とも第三声なので、前の「{{lang|zh|你}}」が第二声に変化するが、表記上は本来の声調で書かれる。
数詞の「{{lang|zh|一}}、{{lang|zh-latn|yī}}」、「{{lang|zh|七}}、{{lang|zh-latn|qī}}」、「{{lang|zh|八}}、{{lang|zh-latn|bā}}」の後に音節が続く場合、および否定副詞「{{lang|zh|不}}、{{lang|zh-latn|bù}}」 の後に音節が続く場合、それぞれ「{{lang|zh-latn|yí}}または{{lang|zh-latn|yì}}, {{lang|zh-latn|qí}}, {{lang|zh-latn|bá}}, {{lang|zh-latn|bú}}」と発音する場合があるが、その場合も本来の声調で表記する。ただし、語学用の書籍では、変化した発音を載せてもよいとされている<ref>GB/T 16159-2012 6.5.2</ref>。
==== 辞書の配列 ====
辞書は拼音表記によるアルファベット順で排列される。部首と画数から検索可能な索引が付される<ref>{{Cite web |url=http://www.ideainst.com/blog/?p=877 |title=辞書の使い方(中国語編) |website=翻訳会社イデアのブログ |publisher=株式会社イデア・インスティテュート |date=2015-12-25 |accessdate=2023-02-18}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |editor=中国社会科学院語言研究所詞典編輯室 |title=現代漢語詞典 |version=第5版 |publisher=商務印書館 |year=2005 |ISBN=7-100-04385-9}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |editor={{lang|zh|《汉英词典》組}} |title={{lang|zh|汉英词典}} |version={{lang|zh|修订版 (缩印本)}} |publisher={{lang|zh|外语教学与研究出版社}} |year=1997 |ISBN=7-5600-1325-2}}</ref>。
== 区切り符号 ==
a, o, e の文字で始まる音節が他の音節の後に続くとき、もし音節の切れ目に混交が起きる場合は区切り記号「ʼ」(隔音符号、[[アポストロフィー]])を用いて区切る。
*例:「{{lang|zh-hant|皮襖}}/{{lang|zh-hans|皮袄}}、{{lang|zh-latn|píʼǎo}}」 ≠ 「{{lang|zh-hant|朴}}/{{lang|zh-hans|朴}}、{{lang|zh-latn|piáo}}」
ただし、その間で改行する場合は、アポストロフィは省略される<ref>GB/T 16159-2012 6.6.2</ref>。中華人民共和国のパスポートの姓名表記でもアポストロフィは省略される<ref>GB/T 28039-2011 5.1.6</ref>。
なお、二つ以上の音節からなる略語、範囲を示す語、対等関係の語を並べた語、二つずつに分解して理解すべき四字熟語などでは、語の間に「{{lang|zh-latn|-}}」([[ハイフン]])を入れてつなげる場合がある。
*例:「{{lang|zh-hant|環保}}/{{lang|zh-hans|环保}}、{{lang|zh-latn|huán-bǎo}}」(環境保護)、「{{lang|zh|五六天}}、{{lang|zh-latn|wǔ-liù tiān}}」(五六日)、「{{lang|zh-hant|陸海空軍}}/{{lang|zh-hans|陆海空军}}、{{lang|zh-latn|lù-hǎi-kōngjūn}}」(陸海空軍)、「{{lang|zh-hant|愛憎分明}}/{{lang|zh-hans|爱憎分明}}、{{lang|zh-latn|àizēng-fēnmíng}}」(愛憎分明)
離合詞では、{{lang|zh-latn|jiàn//miàn}} のように//を入れて表記する辞書もある<ref>{{Cite web | |url=https://cjjc.weblio.jp/content/%E8%A7%81%E9%9D%A2 |title={{lang|zh|见面の解説}} |work=[[白水社]] 中国語辞典 |website=Weblio 日中中日辞典 |publisher=GRASグループ株式会社 |accessdate=2023-02-18}}</ref>。
== 分かち書き ==
拼音では単語を単位とし、[[わかち書き|分かち書き]]を行う規則になっているが、どこまでを一区切りとすべきか判断に困る場合も多いため、『漢語拼音正詞法基本規則』というガイドラインが[[1988年]]に示されている。大文字で書くべき固有名詞の例や、上記のハイフンによる結合の例なども示している。
*例:「{{lang|zh-hant|中華人民共和國}}/{{lang|zh-hans|中华人民共和国}}、{{lang|zh-latn|Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó}}」(中華人民共和国)、「{{lang|zh-hant|各國}}/{{lang|zh-hans|各国}}、{{lang|zh-latn|gè guó}}」(各国)、「{{lang|zh-hant|非金屬}}/{{lang|zh-hans|非金属}}、{{lang|zh-latn|fēijīnshǔ}}」(非金属)、「{{lang|zh-hant|泰山}}、{{lang|zh-latn|Tài Shān}}」(泰山)、「{{lang|zh-hant|梅蘭芳}}/{{lang|zh-hans|梅兰芳}}、{{lang|zh-latn|Méi Lánfāng}}」(梅蘭芳)、「{{lang|zh-hant|中山服}}、{{lang|zh-latn|zhōngshānfú}}」(人民服)、「{{lang|zh-hant|進行了}}/{{lang|zh-hans|进行了}}、{{lang|zh-latn|jìnxíngle}}」(進行した)、「{{lang|zh-hant|寫得不好}}/{{lang|zh-hans|写得不好}}、{{lang|zh-latn|xiě de bù hǎo}}」(下手に書く)。
== コンピュータ上での取り扱い ==
中国の基本[[文字セット]] [[GB 2312]] や、2000年に制定された日本の拡張文字セット [[JIS X 0213]] には、漢語拼音で用いられる声調符号付きラテン文字が含まれる。
声調符号のついたラテン文字を含む書体の使えない環境で中国語の拼音を書く際には、声調は通常無視される。非母語話者の中国語初学者などのように声調が必要な場合は、音節の後に声調の番号を振って示すことがある。例えば {{lang|zh-latn|Wǒ shì Rìběn rén}}({{lang|zh-cn|我是日本人}}、私は日本人です)と書く代わりに Wo3 shi4 Ri4ben3 ren2 と書く。
「{{lang|zh-latn|ü}}」の字が使えない場合 v で代用することがある。
=== 拼音入力 ===
拼音は漢字入力方式としても使われる。この場合は v のキーに {{lang|zh-latn|ü}} が割り当てられていることが多い。なお入力時には声調の違いは無視される場合が多い。
多くの拼音入力は短縮入力をサポートしている(zg で「中国」に変換されるなど)。
== jピンイン ==
陳淑梅 (2011) は、中国語の音節と[[片仮名]]とが[[全単射|1対1に対応]]する表記法として「jピンイン」を考案した{{sfn|陳淑梅|2011}}。中国語の知識がない日本人が片仮名を実際に発音して、中国人が正しく聞き取れるかどうかをテストしている。jピンインの音節対応表([[Microsoft Excel]] のファイル<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toho-shoten.co.jp/export/sites/default/toho/toho368-chen.xls |accessdate=2023-02-25 |title=jピンイン音節表 |author=東京工科大学jピンイン研究プロジェクト |date=2011-10}}</ref>)も公表されている。
== 注釈 ==
{{Reflist|group="注"}}
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal |和書 |author=陳 淑梅 |title=現代中国語のカタカナ発音表記をめぐって 「jピンイン」という名前の中国語音節の仮名表記案 |journal=東方 |number=368 |pages=14-17 |date=2011-10 |url=https://www.toho-shoten.co.jp/export/sites/default/toho/toho368-chen.pdf |format=PDF |accessdate=2023-02-25 |ref={{sfnref|陳淑梅|2011}} }}
== 関連項目 ==
* [[漢語拼音音節一覧]]
* [[通用拼音]]
* [[注音符号]]
* [[ウェード式]]
* [[ラテン化新文字]]
* [[周有光]] - ピンインの考案者の一人
* [[倉石武四郎]] - ピンインを日本に紹介
== 外部リンク ==
拼音のカタカナ表記
* {{Cite web |author=福嶋亮大 |date=2011-08-01 |url=http://cn.heibonsha.co.jp/ |title=中国語音節表記ガイドライン[平凡社版] |publisher=[[平凡社]] |accessdate=2016-04-29}} - [[福嶋亮大]](文芸批評家)が、中国語研究者の[[池田巧]](京都大学人文科学研究所准教授)の監修の下、中国語の音節表記(ピン音のカタカナ表記)を平凡社のウェブサイト上で公開したもの。
** 拼音カタカナ対応表: {{Cite web |date=2011-08-01 |url=http://cn.heibonsha.co.jp/media.pdf |title=中国語音節表記ガイドライン[メディア用]Ver. 1 |format=PDF |publisher=平凡社 |accessdate=2016-04-29}}
** [http://cn.heibonsha.co.jp/media_simplified.pdf 上記の早見表]<small> (PDF)</small>
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひんいん}}
[[Category:中国語]]
[[Category:中国語表音法]]
[[Category:言語の転写と翻字]]
[[Category:ISO標準]]
[[Category:ISOのローマ字表記規格|07098]]
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2003-09-20T01:36:42Z
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2023-11-22T14:19:41Z
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金田正太郎
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金田 正太郎(かねだ しょうたろう)
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金田 正太郎 『鉄人28号』の主人公
『AKIRA』の主人公 - 上記の『鉄人28号』の主人公の名前に由来。
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宮崎まさる(漫画原作者)の別ペンネーム
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'''金田 正太郎'''(かねだ しょうたろう)
# 『[[鉄人28号]]』の主人公
# 『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』の主人公 - 上記の『鉄人28号』の主人公の名前に由来。
# 映画『[[20世紀少年 (映画)|20世紀少年]]』に登場する名前 -上記の『鉄人28号』の主人公の名前に由来。
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{{人名の曖昧さ回避}}
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"Template:人名の曖昧さ回避"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%A4%AA%E9%83%8E
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JH
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JH
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JH 鉄道のサインシステムにおいて、JR横浜線 (Jr-yokoHama)、JR長崎線(鳥栖駅〜佐賀駅)(Jr) の路線記号として用いられる。
国立高度専門医療研究センター医療研究連携推進本部の略称。
NEXCOの前身である日本道路公団の略称。
フジドリームエアラインズのIATA航空会社コード。
かつてのハーレクィンエアのIATA航空会社コード。
ホームセンター・ジョイフル本田の略称。
チューリップテレビのコールサイン(JOJH-DTV)。
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'''JH'''
* [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[JR東日本|JR]][[横浜線]] ('''J'''r-yoko'''H'''ama)、[[JR九州|JR]][[長崎線]]([[鳥栖駅]]〜[[佐賀駅]])('''J'''r) の[[路線記号]]として用いられる。
*[[国立高度専門医療研究センター医療研究連携推進本部]]('''J'''apan '''H'''ealth Research Promotion Bureau)の略称。
* [[NEXCO]]の前身である[[日本道路公団]] ('''J'''apan '''H'''ighway Public Corporation)の略称。
* [[フジドリームエアラインズ]]の[[国際航空運送協会|IATA]][[航空会社コード]]。
* かつての[[ハーレクィンエア]]の[[国際航空運送協会|IATA]][[航空会社コード]]。
* [[ホームセンター]]・[[ジョイフル本田]]の略称。
* [[チューリップテレビ]]の[[コールサイン]](JO'''JH'''-DTV)。
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17,500 |
コンプレックス
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心理学・精神医学用語のコンプレックス(独:Komplex)とは、衝動・欲求・観念・記憶等の様々な心理的構成要素が無意識に複雑に絡み合って形成された観念の複合体をいう。ふだんは意識下に抑圧されているものの、現実の行動に影響力をもつ。「感情複合」とも言われる。
もっとも、この意味でのコンプレックスは、フロイト派、アドラー派、ユング派など、深層心理学諸学派の間でだけ流通する概念であり、心理学や精神医学の世界で広く受け入れられているわけではない。
この語を最初に持ち込んだのはヨーゼフ・ブロイアーとされる。しかし、この語を有名にしたのはユングである。ユングの定義によれば、コンプレックスとは、何らかの感情によって統合されている心的内容の集まりである。ある事柄と、本来無関係な感情とが結合された状態であり、これを「心的複合体」とも訳す。
日本では、早くから西洋医学の導入と共に、フロイトの精神分析もまた心理学・精神医学上の学説として入って来ていた。フロイトの精神分析においては、「エディプス複合(エディプス・コンプレックス)」が中心的な位置を占めていた。しかし、意識・無意識の動力学理論でもあった精神分析は、当時の日本人には親しみがなく、その理論が一般的に流通することはなかった。
戦後、アメリカ合衆国よりアルフレッド・アドラーの「人格心理学」が日本に流入した。アドラーの理論は当時「劣等複合(inferiority complex)」を理論の中心に置いていた。この劣等複合の克服を通じて人格の発達が成立するとしたこの理論は日本人には親しみがあったようで、戦後の日本ではフロイトの理論よりもアドラーの理論が流通し、また、その理論の中心概念である「劣等複合」が一般になった。
「劣等複合」とは「劣等コンプレックス」のことであるが、日本においてはこのアドラーの理論が一般的に受容された上に、コンプレックスのうちの劣等コンプレックスが特に流布したため、コンプレックスの名で「劣等複合」を指すような日常の用語法が生まれた。日本では今なお、「コンプレックス」と言えば、暗黙に「劣等コンプレックス」のことを指す傾向がある。
分析心理学上フェティシズムがコンプレックスとほぼ同義であるため、フェティシズムの分野にもコンプレックスという用語が使われることもある。心理学用語ではなく俗語であるが、概念的には間違っているとは言い切れない。この場合、正確には「あるフェティシズムから想起されるコンプレックス」のことを意味する。
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心理学・精神医学用語のコンプレックスとは、衝動・欲求・観念・記憶等の様々な心理的構成要素が無意識に複雑に絡み合って形成された観念の複合体をいう。ふだんは意識下に抑圧されているものの、現実の行動に影響力をもつ。「感情複合」とも言われる。 もっとも、この意味でのコンプレックスは、フロイト派、アドラー派、ユング派など、深層心理学諸学派の間でだけ流通する概念であり、心理学や精神医学の世界で広く受け入れられているわけではない。
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{{加筆|コンプレックスとはそもそも何か|date=2016年4月}}
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[[心理学]]・[[精神医学]]用語の'''コンプレックス'''(独:Komplex)とは、衝動・[[欲求]]・[[観念]]・[[記憶]]等の様々な心理的構成要素が無意識に複雑に絡み合って形成された観念の複合体をいう。普段は意識下に抑圧されているものの、現実の行動に影響力をもつ。「'''感情複合'''」とも言われる。
もっとも、この意味でのコンプレックスは、[[ジークムント・フロイト|フロイト]]派、[[アルフレッド・アドラー|アドラー]]派、[[カール・グスタフ・ユング|ユング]]派など、[[深層心理学]]諸学派の間でだけ流通する概念であり、心理学や精神医学の世界で広く受け入れられているわけではない。
== 歴史と発展 ==
この語を最初に持ち込んだのは[[ヨーゼフ・ブロイアー]]とされる。しかし、この語を有名にしたのは[[カール・グスタフ・ユング|ユング]]である。ユングの定義によれば、コンプレックスとは、何らかの[[感情]]によって統合されている心的内容の集まりである。ある事柄と、本来無関係な感情とが結合された状態であり、これを「'''心的複合体'''」とも訳す。
[[日本]]では、早くから西洋医学の導入と共に、[[ジークムント・フロイト|フロイト]]の精神分析もまた心理学・精神医学上の学説として入って来ていた。フロイトの精神分析においては、「'''エディプス複合'''('''エディプス・コンプレックス''')」が中心的な位置を占めていた。しかし、意識・無意識の動力学理論でもあった精神分析は、当時の[[日本人]]には親しみがなく、その理論が一般的に流通することはなかった。
[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]、[[アメリカ合衆国]]より[[アルフレッド・アドラー]]の「人格心理学」が日本に流入した。アドラーの[[理論]]は当時「'''劣等複合'''(inferiority complex)」を理論の中心に置いていた。この劣等複合の克服を通じて人格の発達が成立するとしたこの理論は日本人には親しみがあったようで、戦後の日本ではフロイトの理論よりもアドラーの理論が流通し、また、その理論の中心概念である「劣等複合」が一般になった。
「劣等複合」とは「劣等コンプレックス」のことであるが、日本においてはこのアドラーの理論が一般的に受容された上に、コンプレックスのうちの劣等コンプレックスが特に流布したため、コンプレックスの名で「劣等複合」を指すような日常の用語法が生まれた。日本では今なお、「コンプレックス」と言えば、暗黙に「'''劣等コンプレックス'''」のことを指す傾向がある。
[[分析心理学]]上[[フェティシズム]]がコンプレックスとほぼ同義であるため、フェティシズムの分野にもコンプレックスという用語が使われることもある。心理学用語ではなく俗語であるが、概念的には間違っているとは言い切れない。この場合、正確には「あるフェティシズムから想起されるコンプレックス」のことを意味する。
== コンプレックスからの派生事例 ==
=== 主に男性が抱くコンプレックス ===
*[[ロリータ・コンプレックス|ロリータコンプレックス]](ロリコン) - 少女に対する愛着
*[[マザーコンプレックス]](マザコン) - 子供が母親に抱く愛着
*[[エディプスコンプレックス]] - 息子の父親に対する対抗心
*[[アグリッピーナコンプレックス]] - 息子の母親に対する嫌悪
*[[アブラハムコンプレックス]] - 父親の息子に対する憎悪
*[[シスターコンプレックス]](シスコン) - 姉妹に対する愛着
*[[カメリアコンプレックス]] - 不幸な女性を救おうとする男性の心理
*[[オレステスコンプレックス]] - 父親の掟と母親の呪縛の中で心が引き裂かれる心理
*[[ナポレオン・コンプレックス]] - 身長の低さによる劣等感
*[[ベビーコンプレックス]] - 乳児に対する愛着
=== 主に女性が抱くコンプレックス ===
*[[ショタコン|正太郎コンプレックス]](ショタコン) - 少年に対する愛着
*[[ファーザー・コンプレックス|ファザーコンプレックス]](ファザコン) - 子供が父親に抱く愛着
*[[エレクトラコンプレックス]] - 娘の母親に対する対抗心
*[[イオカステーコンプレックス]] - 母親の息子に対する愛着
*[[阿闍世コンプレックス]] - 母親と子供の心理葛藤
*[[ブラザーコンプレックス]](ブラコン) - 兄弟に対する愛着
*[[シンデレラコンプレックス]] - 女性の高い男性志向
*[[白雪姫コンプレックス]] - 被虐待児症候群及び母親の娘に対する憎悪
*[[ダイアナコンプレックス]] - 男性には負けたくないという女性心理
*[[ダフネコンプレックス]] - 処女の男性恐怖
=== その他 ===
*[[カインコンプレックス]] - 兄弟姉妹間の親の愛をめぐる葛藤
*[[二次元コンプレックス]] - 二次元キャラに対する愛着
*[[メサイアコンプレックス]] - 強迫的に人を援助する心理
*[[スペクタキュラコンプレックス]] - 性嗜好が行動を規律する心理
*[[ピグマリオンコンプレックス]] - 人形に対する愛着
*[[フランケンシュタイン・コンプレックス]] - 人工存在を創造する欲望とその対象に対する恐怖
*[[身体醜形障害|容姿コンプレックス]] - 自身の顔や身体への嫌悪
*[[ぼっち・ざ・ろっく!|青春コンプレックス]] - 青春への憧憬
*[[白人コンプレックス]] - 非白人国の国民が持つ[[欧米]][[白人]]の[[容姿]]や[[ライフスタイル]]に対する[[憧れ]]と、自国民や自身の容姿に対する[[劣等感]]
<!--
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-67579 コトバンク]
*[https://psychoterm.jp/applied/clinical/a13.html 心理学用語集サイコタム]
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|コンプレックス|complex}}
* [[見 (仏教)]]
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[[Category:コンプレックス|*]]
[[Category:精神分析用語]]
[[Category:分析心理学]]
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営団02系電車
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営団02系電車(えいだん02けいでんしゃ)は、1988年(昭和63年)10月17日に営業運転を開始した、帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
丸ノ内線で開業以来使用していた300形・500形等が車両更新時期の目安である30年が経過したことや、銀座線用の01系が乗客に好評であったことから、本系列が導入されることとなった。
01系をベースに設計・製造したため、外観や機器などは01系に準拠したものとなっている 。これは検査業務を担当する中野車両基地での取り扱いを考慮したものである 。丸ノ内線においても本系列への統一後(本線は1995年2月、方南町支線は1996年7月に統一)の1998年(平成10年)3月には保安装置の新CS-ATC化が実施され、最高速度が従来の65 km/hから75 km/hに引き上げられた。
以下の項目は本線用車両の落成当時の仕様について述べ、方南町支線用車両(80番台)については別途記述する。
本系列のデザインを検討するにあたっては、ベースとなった01系との違いを外観デザインで表現するため、丸ノ内線開業以来使用してきた300形のイメージを本系列に残すことが意識され、デザインテーマは「従来車の面影」・「エレガント」とされた。しかし、無塗装のアルミ車体に300形のイメージを残すことには苦労があり、側面ラインカラー帯は「スカーレット(赤)」と「白色」の2色のラインを組み合わせることで、従来の丸ノ内線車両のサインウェーブのイメージを表現した。内装も赤色を基調としたものとした。
車体はアルミニウム合金製で、片側3扉構造である。車両の製作工法は01系と同様、アルミニウム合金の大型押出形材・中空形材(床板など)を組み合わせて連続ミグ溶接工法によって組み立てるというものである。銀座線に比べて丸ノ内線の方がトンネル断面を拡大している分車両限界も大きいため、01系の全長16 m・幅2,550 mmに対して本系列は全長18 m・幅2,780 mmと、一回り大きくなっている。
車体には丸ノ内線のラインカラーであるスカーレット(赤色)の帯が入っており、アクセントとしてホワイトの細い帯も入っている(前述)。側面はラッシュ時に赤坂見附駅で銀座線と乗り間違えることを防ぐ目的もあり、扉上部に赤帯が巻かれている。
01系は直線性を強調した角ばった形状であるのに対し、本系列では「優しさ」を求めて屋根肩部や前面形状などに丸みをつけている。フロントガラスは横方向に大きな曲線を描いており、上部には飾り窓をはめ込んでいる。前面にはプラグドアによる非常口が設置されている。丸ノ内線は第三軌条方式であり、線路に下りると感電の危険があることから非常用のハシゴは設置していなかったが、後年に設置された。
車体側面には営団時代より営団団章(Sマーク)が配されていた。これは東京メトロへの移行時に「ハートM」マークに交換され、さらに正面左窓上と側面乗務員室扉直後にも同様のマークが貼り付けされた。
丸ノ内線ではかつて駅冷房に加えトンネル冷房を実施していたため、初期に落成した2次車までは01系初期編成と同様に非冷房車として落成したが、1990年(平成2年)夏より銀座線と並行して丸ノ内線も車両冷房を導入することが決定され、3次車からは新製時より薄型集約分散式冷房装置を搭載している。非冷房車である2次車までも1990年(平成2年)7月 - 1996年(平成8年)6月までに冷房装置搭載改造を実施した。冷房改造車は側面上部に通風口を塞いだ跡があり、新製冷房車とは判別は容易である。
冷房装置は三菱電機製のCU-766形で、1基当たりの能力は16.3 kW (14,000 kcal/h) であり、これを車端部の屋根に埋め込む形で1両あたり2基を設置している。非冷房車は落成当初の車内の天井が高く、外気循環形の軸流送風機「ファンデリア」が各車6台設けられていた。冷房車として落成した3次車からは平天井構造とされ、天井に冷房用ダクト・吹き出し口・補助送風機としてはラインデリアが設けられた。非冷房車も後の冷房改造時に同様の構造へと改造された。
なお、本系列は丸ノ内線としては初めての暖房装置搭載車両でもある。
車内内張りにはベージュ系の色を採用し、床材は01系よりも明るい色の茶色とクリーム色で2色フットライン入りのものとした。当初は床に主電動機点検蓋(トラップドア)があったが、第20編成よりメンテナンスが軽減された主電動機の三相交流化に伴い省略された。
側窓は車端部が2連窓、ドア間が3連窓で、いずれも開閉可能な下降窓である。車内側の窓枠は1・2次車がアルミ製であったが、3次車からはFRP製に変更された。なお、丸ノ内線には地上走行区間があるが、ロール式カーテンは設置していない。
座席モケットは全車両が赤系色で総柄プリント品のバケットシートである。1人分の掛け幅は5次車までが440 mm、6次車からは450 mmに拡大されたほか、袖仕切上部のパイプにモケットが巻かれたものとなった。優先席部は同柄で、青色の表地である。なお、当初の1 - 5次車は赤色の区分柄入りで非バケットタイプ(3次車からバケットタイプ)であったが、後年に前述した6次車以降と同じものへ交換された。
客用ドアは在来車両より100 mm広い1,400 mmに拡大し、ラッシュ時の乗降をスムーズにするようにしている。車内側も化粧板仕上げであり、ドアガラスは2次車までは単板ガラス、3次車以降では複層ガラスが採用された。連結面は各車に貫通扉が設置されており、妻面には窓が設置されている。
座席端の袖仕切りは荷棚の端と一体になったもので、形状は01系のものに似ているがそれよりも丸みを帯びている。荷棚はステンレス線を格子状にスポット溶接したものである。つり革は白色の三角形であり、線路方向は全長に渡って、枕木方向はドア付近上部に設置している。2006年(平成18年)初頭頃からは優先席部分のつり革がオレンジ色のものに交換されている。
車椅子スペースは5次車から設置が開始され、車内に2か所ずつ設けた。さらに非常通報器は警報式から乗務員との相互通話可能な対話式のものへ変更された。のちにワンマン運転への対応のため、全車両が対話式へ交換されている。連結面間貫通路は6次車からは車椅子での通行を考慮して800 mm幅から870 mm幅に拡幅された。
2007年(平成19年)頃から、車内号車札・非常通報装置・非常用ドアコック・消火器の表記類を10000系と同じ蓄光性シールへの交換が実施されている。
乗務員室の内装は緑色、運転台の筐体は紺色である。現行の運転台仕様は「ワンマン運転への対応」を参照のこと。
本線用車両では01系と同じ横軸式で、マスコンハンドル(1 - 4ノッチ)とブレーキ操作器(常用ブレーキ1 - 7段・非常)が別個の2ハンドル式であった。計器盤の配置は01系とはやや異なるものである。速度計は白地の2針式で90 km/h表示としている。
乗務員室と客室の仕切りには、前面窓と同じような面積割合で仕切窓が3枚ある(車内から見たとき、左から大窓・乗務員室扉窓・小窓の順)。遮光幕は大窓と乗務員室扉窓の2箇所に設置されている。フロントガラスが緩い曲面ガラスであることによる映り込みを防止するため、残りの右側の小窓は灰色の着色ガラスを使用している。
なお、乗務員室扉窓は初期車ではオレンジ色の着色ガラスが使用されていたが、第20編成からは透明ガラスに変更された。さらに後述のワンマン化改造時には透明ガラスで電磁鎖錠付扉へ交換された。なお、第20編成からは仕切窓の大きさをやや縮小したため、初期車では後期車に合わせた仕切扉を使用するために窓の高さが不揃いである。
走行機器は、第01 - 19編成は銀座線用の01系とほぼ同形の高周波分巻チョッパ制御が採用された。ただし、本系列では電機子チョッパ装置の素子はGTOサイリスタ(2,500V - 2,000A)であるが、界磁チョッパ装置には高耐圧パワートランジスタ(1,200V - 300Aを2個直列接続)に変更し、機器の小型軽量化を図った。元々、01系新製時に採用した分巻チョッパ装置は、近い将来丸ノ内線においても新車を導入することが想定されていたため、より路線条件の厳しい丸ノ内線に使用できるものとして製作されていた。このため、銀座線ではやや過剰性能となっていた。台車は01系と同じ住友金属工業(現・日本製鉄)製の緩衝ゴム式軸箱支持方式のボルスタ付空気ばね台車(FS-520A・FS-020A形台車)を使用する。ただし、第07編成の02-107・02-207号車は日本車輌製造製の円錐積層ゴム式軸箱支持方式の試作ボルスタレス台車(ND-717・717T形台車)を使用し、従来の緩衝ゴム式との比較を行った。同様の例は東西線用の05系第07編成においても見られる。チョッパ制御装置は三菱電機製・日立製作所製がほとんどだが、第04編成のみ東芝製を搭載する。
その後の第20 - 53編成と方南町支線用の第81 - 86編成ではIGBT素子による3レベルVVVFインバータ制御に変更された。制御方式は前者が1C2M2群制御、後者が1C2M3群制御である。台車はモノリンク式軸箱支持方式のボルスタレス台車(SS-130・SS-030形台車)に変更した。基礎ブレーキはいずれも片押し式踏面ブレーキである。5次車からはシングルブレーキからユニットブレーキ方式として保守の向上を図った。VVVF制御装置は、第20 - 42編成と支線用が三菱電機製、第43 - 49編成が日立製作所製、第50 - 53編成が東芝製である。
空気圧縮機 (CP) は、第19編成までのチョッパ車では直流駆動のC-2000LA形を、第20編成以降のVVVF車(方南町支線用車含む)では交流駆動で、容量増を図ったC-2500LB形を搭載する。補助電源装置は制御用としては両先頭車に搭載しており、チョッパ車では日立製作所製の15 kVA出力電動発電機 (MG) を搭載、VVVF車では東洋電機製造製のGTOサイリスタ素子を使用した40 kVA出力の静止形インバータ (SIV) を搭載する。さらに02-300形(T車)には冷房電源用として三菱電機または東芝製の110 kVA出力SIVを搭載する。方南町支線用では02-180形に東洋電機製造製のIGBT素子を使用した75 kVA出力SIVを1台搭載する。
ブレーキ装置は01系と同様の回生ブレーキ併用の全電気指令式だが、01系の均一ブレーキ制御に対し、本系列では遅れ込め制御を併用している。全車が対雪ブレーキ・保安ブレーキを装備する。
保安装置は車内信号式新CS-ATC装置を搭載している。さらにTASC(定位置停止制御)を搭載し、力行時は運転士による手動操作、駅停車時におけるブレーキ操作はTASCにより自動停止する。なお、当初の保安装置として全車両が打子式ATS装置を搭載していたが、ATC切り換え後は撤去された。
先頭車の連結器はトムリンソン式であり、当初は500形の救援のために電気連結器を搭載していたが、500形全廃後は電気連結器が撤去された。なお、分岐線用の80番代は当初から電気連結器は搭載していなかったが、電気連結器を取り付けるためのボルトの穴だけが突出して存在した。
なお、2009年から2014年まで全19編成の改修工事に伴い、同年3月をもって落成時からのオリジナルの高周波分巻チョッパ制御を備える制御装置の車両は消滅した(更新後は後述)。
1 - 4次車と方南町支線用は字幕式、5 - 7次車はLED式の行先表示器を先頭車前面に設置している。1編成あたり計2台で、側面表示器は設置していない。なお、1 - 4次車は後述の改修工事によりLED式に交換され、現在は存在しない。
方南町支線用編成は、側面の中央ドアの上部に中野坂上 - 方南町間の運行であることを示すステッカーを貼り付けしている。
側面に車外案内用スピーカーが2台あり、乗降促進音(本線用、支線用共にオリジナルメロディ)を搭載している。
全編成に自動放送装置を搭載している。製造当初の1次車と方南町支線用車両(後述)は搭載していなかったが、1次車は1994年度までに設置された。
本線用の車両は、各乗降ドア上に現在の位置とその電車の終点を表示する路線図式案内表示装置とドアチャイムを設置した。さらに次駅の開くドア方向を予告する「次駅開扉予告灯」が設置された。なお、当初の1次車は終点ではなく、進行方向の現在駅からその列車の終着駅までの開くドア方向を表示をしていたが、冷房搭載改造時に現行の終点表示タイプに改修した。
西新宿駅開業時には1 - 6次車が対応品へ交換されたが、7次車は製造当初から対応しており、同駅開業時に駅名を表記した透明ステッカーを貼り付けした。
後述のワンマン運転改造に合わせて全編成が千鳥配置となり、路線図は駅ナンバリングに対応したものに交換されている。なお、駅ナンバリング開始当初は上から駅ナンバリングが印刷されたステッカーが貼り付けされていたが、ワンマン運転改造時に駅ナンバリングに対応した正規の路線図タイプに交換した。なお、チョッパ制御車は後述の改修工事に合わせてLED式の旅客案内表示器とともに撤去された。路線図式の案内表示器は丸ノ内線本線と方南町支線の全駅が横並びに表示され、「この電車の行先は■で示します」(赤ランプが点灯する)と隅の方に表記されている。
なお、後述のB修工事の対象外となっている第20編成以降は、2014年より第47編成を皮切りに路線図式・LED式の旅客案内表示器をコイト電工の「パッとビジョン」へと交換する工事が行われている。
1996年(平成8年)に登場した方南町支線用の80番台(3両編成)は、本線用と比較して一部仕様が異なっている。
車体はアルミニウム合金の材質統一を図り、廃車時におけるリサイクルを考慮したものとした。車体帯は本線用との識別として赤色に白と黒を配したものとし、側面上部の赤帯は省略された。前面上部の飾り窓は廃止されている。落成当初は車両間転落防止幌が設置してあったが、後に方南町支線へホームドアが設置されたために撤去された。
コストダウンのため、側窓は車端部が2枚のうち片側を固定化、ドア間3連側窓のうち中央の1枚を固定化した。窓枠はリサイクルを考慮したアルミ製に、客用ドアガラスは単板ガラスへ戻された。行先表示器は4次車までと同じ字幕式に戻された。
内装も車両コストの低減を図るため仕様が一部見直された。内張りは色調を変更し、床材は茶色1色の柄入りへ変更された。座席モケットはプリント柄のバケットシートだが、本線用とは異なる柄とされた。車椅子スペースは中間車に1か所設置されている。袖仕切りはパイプ形状に、荷棚はパイプ式に変更した。室内蛍光灯や補助送風機(ラインデリア)の設置台数が一部削減された。落成当初、車両間貫通扉は中間車のみの設置としていたが、後に先頭車にも設置された。運用区間が短いことから車内案内表示器、自動放送装置も製造当初は省略されており、全てのドア上部中央がドアチャイムのスピーカーのみで、両端に路線図とSFメトロカードの広告ステッカーを貼り付けしていた。
運転台は当初よりワンマン運転化を想定してT字形ワンハンドルマスコン(ノッチ数は本線用と同じ)を採用している。計器盤の配置は本線用と同じだが、マスコン台はワンマン運転用のドア開閉ボタン等が取り付けられる形状とされている。本線用はレバーにより進行方向の前後を認識させる方向切換器を設置していたが、ワンマン化を想定した支線用では戸閉制御切換装置を搭載し、方向切換器は省略した。
2022年8月27日のダイヤ改正で丸ノ内線の本線・支線の全列車を6両編成へ統一したことにより、前日の26日に引退した。
前述したが、方南町支線用の80番台編成は落成時よりワンマン運転を想定しており、運転台にはワンハンドル式マスコンを採用していた。
2004年夏のワンマン運転開始時には、先頭車は正面フロントガラスの右上と側面乗務員室扉の上部に、中間車は区間行先シールの右側にそれぞれ「ワンマン」ステッカーを貼り付けした。また、ホームドアの設置により車体側面下部の車両番号表記が見えなくなるため、車体側面上部にも車両番号が表記された。
運転台はメインハンドルにデッドマン装置を設置したほか、ドア開閉スイッチ、2画面式車上CCTV(Closed Circuit Television、ホーム監視用モニター)とミリ波画像受信器、ホームドア表示灯や右端に運転士操作器(車内/車外放送用マイク)を新設した。
客室との仕切扉を電磁鎖錠付扉へ交換し、前灯点滅制御器を新設した。この他、各ドア上部にLED文字スクロール式の案内表示器と自動放送装置を設置した。
機器面ではTASC装置の設置・誘導無線装置は防護発報機能付へ変更し、非常通報装置の運転指令所との対話機能の追加などが実施された。
その他、方南町支線にホームドアとともに可動式ステップが設置されたためにステップ収納前の誤発車防止のため、ATC表示が停止になる連動が行われている。この機能はホームドア設置後の本線においても実施している。
2022年8月下旬、本線・支線の全列車の6両編成への統一に伴い、方南町支線で運行されていた3両編成は廃止され、80番台は運行を終了した。
本線用の編成は、ワンマン運転およびホームドア設置準備工事のため、2005年(平成17年)3月から順次ワンマン運転に対応した改造が進められ、2007年(平成19年)8月までに全編成の改造が完了した。その後、同年11月からATO装置設置のための改造工事が開始され、2009年(平成21年)1月までに全編成の改造工事が完了した 。
ワンマン化改造された編成は運転台のマスコンハンドル・ブレーキ設定器をデッドマン付T字型ワンハンドル式マスコン(三菱電機製)に改造し、さらに故障表示灯を液晶式のモニター画面(表示操作器)に変更した。これにより行先表示の設定機能・放送装置の制御機能も内蔵され、従来の車内放送に加えて優先席や携帯電話などのマナー放送が放送可能となった。この表示操作器は1分間何も操作しないと自動的に表示内容が消えるようになっている。また、計器台周囲を改造し、ドア開閉スイッチ、勾配起動スイッチ、ホームドア表示灯の新設やATC保安表示灯の改修などを実施した。
さらに防護発報付誘導無線を搭載し、操作器は運転士操作器(車内/車外放送マイク)と一体化させた。さらに客室の非常通報装置は乗務員との対話式化(未設置車のみ)し、非常通報受報器は運転席背面から運転台右下にを移設した(未設置車は新設)。
誘導無線については運転指令所からの一斉放送機能や非常通報装置と運転指令所との通話機能も追加した。ほかには運客室仕切部の仕切扉を電磁鎖錠付へ交換を実施した。 車上のTASC受信器(1重系)をTASC送受信器(2重系)に改造し、TASC制御情報に加え、車両ドア・ホームドア連動制御機能を使用できるようにした。
2007年9月から、第53編成を最初に運転台上部への4画面式車上CCTV(ホーム監視用モニター)とミリ波画像受信器の設置を開始し、第08編成を最後に全編成が設置された。車外では運転席前のフロントガラスに遮光フィルムを貼り付けたほか、方南町支線車両同様に車体側面上部にも車両番号表記を追加している。
その後、TASC装置をATO装置に改造する工事を開始した。運転台ではATO出発ボタン・非常停止ボタン・ノッチ表示灯・手動 - ATO切換スイッチなどを追加した。また、車掌スイッチは折り返し時の操作の簡易化のため、方南町支線車と同様に間接制御式(リレー式)に改修した。床下ではATC装置を撤去し、ATC・ATO一体形の装置とし、02-600形にはATO送受信器(トランスポンダ京三製作所製)を新設した。また、戸閉制御切換装置を搭載し、方向切換器を廃止した。
ワンマン運転対応改造された編成は、ドア上部の1・4・5番案内表示器が路線図式からLED式に置き換えられ、路線図式とLED式で交互に千鳥配置している。LED式の案内表示器は03系・05系などと同じ文字スクロール式で、次駅案内や行先表示の他に東京メトロからのお知らせなどが表示されるようになった。これに伴ってドアチャイムの音色が03系や05系などと同じものに、自動放送もワンマン運転に対応したものに変更された。なお、路線図式の案内表示器も駅ナンバリングに対応したものに変更されている。
2008年6月14日より、従来の乗車促進ブザー音に代わりメロディが導入されている。加えてメロディ後の乗車促進放送も「ドアが閉まります、手荷物をお引き下さい。」に変更された。2009年3月28日から本線でワンマン運転が開始され、各駅でそれぞれの発車メロディが導入されたがすぐに使用を停止し、その後は引き続き乗車促進メロディを使用していた。2012年2月1日よりラッシュ時間帯を除いて各駅の発車メロディを使用するようになったため、乗車促進メロディはラッシュ時間帯のみの使用となった。
02系においても初期車の落成から20年を迎え、大規模改修工事(B修工事)の施工時期に達した 。このため、2009年度よりチョッパ制御車(第01 - 19編成)を対象としたB修工事が実施された。
この改修工事は2009年(平成21年)9月より第02編成を最初として開始し、翌2010年(平成22年)1月28日に報道向け公開が行われた。なお、当初は全53編成を大規模改修する計画であったが、CBTC導入による計画変更でチョッパ制御車の19編成のみに大幅に縮小し、最初からVVVF制御車として落成した編成は更新対象外となり、後継の2000系に置き換えることとなった。なお、大規模改修工事施工車についても最終的には2000系に置き換える計画である。
その後、同年2月16日から営業運転を開始した 。報道向け公開の時点では年間3 - 4編成程度を施工する方針としており2013年度末までに対象の全19編成の改修工事を完了する予定としており 、2012年3月末時点では計9編成に施工が完了していた。
初期には中野工場において改修工事を施工したが、本系列の大規模改修工事に対応するために小石川CRは施設の改修工事が実施され、工事完成後の2010年9月以降の入場車両は全て小石川CRにおいて施工されている。
丸ノ内線の旧型車(300・500形など)の特徴の一つに、側面帯にあしらわれたサインウェーブがあった。前述の通り、02系は設計時より旧型車のイメージの再現が意識され、赤色(旧型車の車体色)を基調とした帯が採用されたが、サインウェーブは02系に引き継がれることなく、1996年(平成8年)の旧型車運行終了と同時に丸ノ内線から消滅した。
すると、多くの乗客から「丸ノ内線のシンボルだったのに」とサインウェーブの消滅を惜しむ声が寄せられる。これを踏まえ、改修工事の対象車には旧型車のイメージをより一層反映させた新しいデザインを与えることとなり、側面の帯がサインウェーブ入りのものへと変更された。これは、「スカーレット」(赤帯)の上に白色のサインウェーブを加えたものである。
なお、前面のラインカラーは当初赤帯のみであったが、3番目の施工となる第10編成からはラインカラー上にホワイトのラインとサインウェーブを模したカラーリングを追加し、改修工事車であることをアピールするものへ変更している。
このほか、前面の行先表示器が字幕式の車両は、LED式への交換が行われている。
特に車内設備の更新に合わせてバリアフリーやユニバーサルデザインの充実を図ったものとなっている。
車内の化粧板は竣工時の300形を意識した薄いサーモンピンク色または白色、床敷物は緑色を採用したものに一新し、座席端の袖仕切板は、車椅子スペース以外の個所を全て大形の仕切板に交換をした。
最初に施工する第02編成では改修工事時には設置しないが、以降の編成では座席間にスタンションポール(握り棒)を8人掛け部に2本、5人掛け部では1本を設置する。なお、第02編成はその後の定期入場時に施工されている 。
従来、車椅子スペースを設置していなかった編成は2・5号車に車椅子スペースを新設し、丸ノ内線全車両への設置を図る。また、優先席部においては袖仕切部の握り棒に黄色着色を施し、この付近のつり革は床面高さ1,660 mmから1,580 mmに低下させて使いやすさの向上を図っている。
出入口部では床面に黄色の出入口識別表示板を新設(後述)し、ドア上部にはドア開閉時に赤く点滅する「ドア開閉表示灯」を設置した。これに合わせてドアエンジンには戸閉力弱め機構が追加されている。これは閉扉後に一定時間戸閉力を弱めるものである。ドアチャイムは10000系などと同じ3打式に変更された。
乗務員室については大きな変更はないが、客室にドア開閉表示灯の設置に伴い、乗降促進スイッチの2接点化を実施した他、運転士行路表差しは左壁からマスコン台右端に移設し、天井に行路表灯を新設した(後述)。
車内案内表示装置は従来の路線図式・LED式から17インチのワイド液晶ディスプレイ(LCD・TVIS装置)式2台設置へ交換を実施した。これは左側にTokyo Metro ビジョンと称する広告動画を表示し、右側には乗客への行先案内画面として使用するものである。
乗客への行先案内画面には運行支障時など異常時に総合指令所からの運行情報を配信するシステムを装備している。ただし、これは改修工事車が一定数確保されてから実施を行う(2011年5月時点では未実施)。また、広告動画は主要駅や車両基地(池袋駅・新宿駅・荻窪駅・中野富士見町駅・中野検車区小石川分室入出庫線)に地上配信設備を設け、高速無線通信(ミリ波装置)で自動更新を行っている。この案内表示装置は02-100形の床下に設置したメディア中央装置と送受信装置(TVIS床下箱内に収納)を基本として、各車に配信映像を記録するメディア端末装置、さらに映像を表示するメディア表示器で構成される。表示操作は運転台にある既存の表示操作器経由で行われる。
送受信装置は携帯電話通信アダプタ(運行情報を受信)・ミリ波車上装置(広告映像を受信)、LAN差込口(PCと接続可)の3点で構成される。受信された動画情報はメディア中央装置で情報処理の上、各車両のメディア端末装置に高速メタルケーブル経由で伝送される他、映像表示系統にはイーサネットケーブルを用いて高速伝送を行っている。
主回路システムは従来、チョッパ制御車両の更新工事には三相誘導電動機を用いたVVVFインバータ制御へと改造をしてきた。
一方、東京地下鉄では2007年秋から銀座線01系第38編成においてPMSM主回路システムと呼ばれる永久磁石同期電動機を用いたVVVFインバータ制御の走行試験を実施してきた。この走行試験の結果は良好であることから、本系列の改修工事車において本格的に採用することとなった。この永久磁石同期電動機を用いた制御方式は東日本旅客鉄道(JR東日本)E331系で営業運転に使用されているが、同車のDDMに対し、試験車を除いた通常の歯車減速駆動方式の車両としては日本の鉄道車両で初めての本格採用となる。
制御装置は東芝製のIGBT素子を使用した2レベル方式のVVVFインバータ制御装置を採用した。各軸個別制御(1C1M)となるが、2台のインバータを1台の冷却フィンに集約した2in1形インバータユニットを採用、これを2群搭載として装置の大形化を抑えている。
主電動機は前述した120 kW出力の永久磁石同期電動機(端子電圧400 V、相電流198 A、周波数63 Hz、1時間定格出力120 kW、定格回転数1,890 rpm、最高使用回転数3,664 rpm)で、従来の誘導電動機よりも高効率の運用が出来、電力消費量の約10 %減少などが図れるものである。さらに全密閉方式とすることで騒音低減効果も実現している。
なお、改修工事では台車や駆動装置の更新は行わないことから、主電動機の取り付け構造は従来の電動機と同一構造としている。車両性能は従来の3レベルVVVFインバータ車に合わせて起動加速度を3.2 km/h/sに向上させた。
丸ノ内線は車両限界の関係から車両に埋め込む形で冷房装置を搭載しており、冷房装置の能力向上には装置寸法を変更せずに能力向上を必要とされた。これには東芝キヤリアが開発した新形の冷房装置を採用した。
この装置は従来の16.3 kW (14,000 kcal/h) から23.3 kW (20,000 kcal/h) と現行の冷房装置と同一形状としながら能力を40 %向上させている。特に負荷の増大する通勤ラッシュ時に十分な冷房能力を発揮できることが期待された。さらに同一能力を持つ冷房装置と比較しても約60 %の小型化、さらには低騒音や低振動に配慮したものとなっている。
ただし、能力向上に伴う排出熱の増加などが懸念されることから、当初は一部の試験車以外は従来能力で限定運転をさせた。排出熱の検証を経た後に能力向上運転を実施している。
冷房装置の能力向上に伴い、02-300形に搭載する冷房電源用補助電源装置(静止形インバータ)は110 kVAから160 kVA出力の能力向上形に更新されている。
また、改修に伴う電気機器の増加で蓄電池の負荷が増加することから、容量の増加とメンテナンスの容易な焼結式アルカリ蓄電池に交換した。また、先頭車に搭載する電動発電機 (MG) とMG制御器はオーバーホールを行い、継続使用とした。
ブレーキ制御装置は床下艤装スペースの確保とメンテナンス省略化のため、ブレーキ作用装置と保安ブレーキ装置を一体化し、ブレーキ制御は1両単位制御から各台車単位制御に更新されている。付加工事とし誘導無線装置機器の更新や車内・車外スピーカーや放送増幅器などの放送関連機器は新品に交換が実施されている。
この大規模改修工事車は外観・車内とも、丸ノ内線開業当初使用していた300形をイメージしたものであり、乗客に懐かしさや親しまれることを目指したものとしている。
なお、2010年9月までに改修工事を完了する第02・05・10編成は改修工事施工場所の都合から1回目の工事では床面への出入口識別表示板の設置と冷房装置更新工事、運転台の行路表差し位置変更は実施しない。このため、同年9月以降に再度改修期間を設けて床敷物の交換とともに実施されている。2010年9月以降に改修工事を完了する編成は全ての更新内容を1回で実施した。
本線用の6両編成53本(計56編成、330両)が所属している。本系列の編成総数は、東京地下鉄における同一形式の最大編成数である。
また、東京メトロ移行後初期まで前面に「U LINER」という車内広告1社のみのラッピング装飾編成が存在した。
また、東京マラソンが開催される時期には銀座線用車両とともに応援列車を走らせている。車内は、扉に東京マラソンのゴールをイメージしたラッピングと窓部にランナーのラッピングが施されている。車内広告は、東京マラソンの協賛をしている会社の広告のみとなっている。
東京メトロでは営団時代より、経年12年目でC修工事と称する簡易な改修工事(ゴム材や床関係の改修)、3回目の全般検査になる24年目でB修工事と称する大規模な改修工事(内装取り替えと電気品の更新)、36年目でC修工事、6回目の全般検査になる48年目で廃車となるライフサイクルを見込んでいるが、これはモデルケースであり、必ずしもこの時期に改修工事や廃車が実施されるとは限らず、東京メトロでは01系や一部の03系のようにB修工事を施工することなく置き換えられている事例もある。
本系列の一部車両に見劣りが目立ってきたことと、丸ノ内線に導入予定のCBTC(無線式列車制御システム)に02系が対応できないため、東京メトロの中期経営計画で、2018年度から2022年度にかけて6両編成の新型車両を53編成投入すると発表した。2018年3月に詳細が公表され、形式も2000系に決定した。ただし前述のように、当初は全53編成に大規模改修工事を施工する予定であったが、CBTC導入決定により第20編成以降の改修を中止し、新型車両導入に変更された。
その後2019年1月26日のダイヤ改正で方南町駅のホーム延伸工事が完成し、2000系を含めて支線の6連入線が可能となったが、この時点では3連の運用は未定となっていた。後年の利用状況の変化もあり、2022年7月7日のプレスリリースにて同年8月27日のダイヤ改正をもって3連の運用が取りやめられ丸ノ内線全列車を6両編成に統一する事が発表された。これにより、3両編成である02系80番台は運用を離脱し、全車廃車となった。
東京メトロでは、国際協力機構発注の「フィリピン国フィリピン鉄道訓練センター設立・運営能力強化支援プロジェクト」に参加し、フィリピンでの鉄道人材育成に携わっており、FEATI大学(ファーッティ大学)ともプロジェクトを通し関係を築き、FEATI大学は同国の私立大学では初めて鉄道関係学科を新設することとなった。今回FEATI大学からの鉄道関係設備寄贈依頼に応え、02系2両(02-151・02-251)の無償譲渡を決定した。2020年2月に同大学へ設置され、教材として活用される。東京メトロは、引き続きフィリピンにおける鉄道人材の育成への支援を行い、フィリピンの都市交通機能向上、日比両国の友好関係の強化につながるよう努めるとしている。
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"text": "営団02系電車(えいだん02けいでんしゃ)は、1988年(昭和63年)10月17日に営業運転を開始した、帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。",
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"text": "丸ノ内線で開業以来使用していた300形・500形等が車両更新時期の目安である30年が経過したことや、銀座線用の01系が乗客に好評であったことから、本系列が導入されることとなった。",
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"text": "01系をベースに設計・製造したため、外観や機器などは01系に準拠したものとなっている 。これは検査業務を担当する中野車両基地での取り扱いを考慮したものである 。丸ノ内線においても本系列への統一後(本線は1995年2月、方南町支線は1996年7月に統一)の1998年(平成10年)3月には保安装置の新CS-ATC化が実施され、最高速度が従来の65 km/hから75 km/hに引き上げられた。",
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"text": "以下の項目は本線用車両の落成当時の仕様について述べ、方南町支線用車両(80番台)については別途記述する。",
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"text": "本系列のデザインを検討するにあたっては、ベースとなった01系との違いを外観デザインで表現するため、丸ノ内線開業以来使用してきた300形のイメージを本系列に残すことが意識され、デザインテーマは「従来車の面影」・「エレガント」とされた。しかし、無塗装のアルミ車体に300形のイメージを残すことには苦労があり、側面ラインカラー帯は「スカーレット(赤)」と「白色」の2色のラインを組み合わせることで、従来の丸ノ内線車両のサインウェーブのイメージを表現した。内装も赤色を基調としたものとした。",
"title": "外観"
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"text": "車体はアルミニウム合金製で、片側3扉構造である。車両の製作工法は01系と同様、アルミニウム合金の大型押出形材・中空形材(床板など)を組み合わせて連続ミグ溶接工法によって組み立てるというものである。銀座線に比べて丸ノ内線の方がトンネル断面を拡大している分車両限界も大きいため、01系の全長16 m・幅2,550 mmに対して本系列は全長18 m・幅2,780 mmと、一回り大きくなっている。",
"title": "外観"
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"text": "車体には丸ノ内線のラインカラーであるスカーレット(赤色)の帯が入っており、アクセントとしてホワイトの細い帯も入っている(前述)。側面はラッシュ時に赤坂見附駅で銀座線と乗り間違えることを防ぐ目的もあり、扉上部に赤帯が巻かれている。",
"title": "外観"
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"text": "01系は直線性を強調した角ばった形状であるのに対し、本系列では「優しさ」を求めて屋根肩部や前面形状などに丸みをつけている。フロントガラスは横方向に大きな曲線を描いており、上部には飾り窓をはめ込んでいる。前面にはプラグドアによる非常口が設置されている。丸ノ内線は第三軌条方式であり、線路に下りると感電の危険があることから非常用のハシゴは設置していなかったが、後年に設置された。",
"title": "外観"
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"text": "車体側面には営団時代より営団団章(Sマーク)が配されていた。これは東京メトロへの移行時に「ハートM」マークに交換され、さらに正面左窓上と側面乗務員室扉直後にも同様のマークが貼り付けされた。",
"title": "外観"
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"text": "丸ノ内線ではかつて駅冷房に加えトンネル冷房を実施していたため、初期に落成した2次車までは01系初期編成と同様に非冷房車として落成したが、1990年(平成2年)夏より銀座線と並行して丸ノ内線も車両冷房を導入することが決定され、3次車からは新製時より薄型集約分散式冷房装置を搭載している。非冷房車である2次車までも1990年(平成2年)7月 - 1996年(平成8年)6月までに冷房装置搭載改造を実施した。冷房改造車は側面上部に通風口を塞いだ跡があり、新製冷房車とは判別は容易である。",
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"text": "冷房装置は三菱電機製のCU-766形で、1基当たりの能力は16.3 kW (14,000 kcal/h) であり、これを車端部の屋根に埋め込む形で1両あたり2基を設置している。非冷房車は落成当初の車内の天井が高く、外気循環形の軸流送風機「ファンデリア」が各車6台設けられていた。冷房車として落成した3次車からは平天井構造とされ、天井に冷房用ダクト・吹き出し口・補助送風機としてはラインデリアが設けられた。非冷房車も後の冷房改造時に同様の構造へと改造された。",
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"text": "なお、本系列は丸ノ内線としては初めての暖房装置搭載車両でもある。",
"title": "外観"
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"text": "車内内張りにはベージュ系の色を採用し、床材は01系よりも明るい色の茶色とクリーム色で2色フットライン入りのものとした。当初は床に主電動機点検蓋(トラップドア)があったが、第20編成よりメンテナンスが軽減された主電動機の三相交流化に伴い省略された。",
"title": "内装"
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"text": "側窓は車端部が2連窓、ドア間が3連窓で、いずれも開閉可能な下降窓である。車内側の窓枠は1・2次車がアルミ製であったが、3次車からはFRP製に変更された。なお、丸ノ内線には地上走行区間があるが、ロール式カーテンは設置していない。",
"title": "内装"
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"text": "座席モケットは全車両が赤系色で総柄プリント品のバケットシートである。1人分の掛け幅は5次車までが440 mm、6次車からは450 mmに拡大されたほか、袖仕切上部のパイプにモケットが巻かれたものとなった。優先席部は同柄で、青色の表地である。なお、当初の1 - 5次車は赤色の区分柄入りで非バケットタイプ(3次車からバケットタイプ)であったが、後年に前述した6次車以降と同じものへ交換された。",
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"text": "客用ドアは在来車両より100 mm広い1,400 mmに拡大し、ラッシュ時の乗降をスムーズにするようにしている。車内側も化粧板仕上げであり、ドアガラスは2次車までは単板ガラス、3次車以降では複層ガラスが採用された。連結面は各車に貫通扉が設置されており、妻面には窓が設置されている。",
"title": "内装"
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"text": "座席端の袖仕切りは荷棚の端と一体になったもので、形状は01系のものに似ているがそれよりも丸みを帯びている。荷棚はステンレス線を格子状にスポット溶接したものである。つり革は白色の三角形であり、線路方向は全長に渡って、枕木方向はドア付近上部に設置している。2006年(平成18年)初頭頃からは優先席部分のつり革がオレンジ色のものに交換されている。",
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"text": "車椅子スペースは5次車から設置が開始され、車内に2か所ずつ設けた。さらに非常通報器は警報式から乗務員との相互通話可能な対話式のものへ変更された。のちにワンマン運転への対応のため、全車両が対話式へ交換されている。連結面間貫通路は6次車からは車椅子での通行を考慮して800 mm幅から870 mm幅に拡幅された。",
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"text": "2007年(平成19年)頃から、車内号車札・非常通報装置・非常用ドアコック・消火器の表記類を10000系と同じ蓄光性シールへの交換が実施されている。",
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"text": "乗務員室の内装は緑色、運転台の筐体は紺色である。現行の運転台仕様は「ワンマン運転への対応」を参照のこと。",
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"text": "本線用車両では01系と同じ横軸式で、マスコンハンドル(1 - 4ノッチ)とブレーキ操作器(常用ブレーキ1 - 7段・非常)が別個の2ハンドル式であった。計器盤の配置は01系とはやや異なるものである。速度計は白地の2針式で90 km/h表示としている。",
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"text": "乗務員室と客室の仕切りには、前面窓と同じような面積割合で仕切窓が3枚ある(車内から見たとき、左から大窓・乗務員室扉窓・小窓の順)。遮光幕は大窓と乗務員室扉窓の2箇所に設置されている。フロントガラスが緩い曲面ガラスであることによる映り込みを防止するため、残りの右側の小窓は灰色の着色ガラスを使用している。",
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"text": "なお、乗務員室扉窓は初期車ではオレンジ色の着色ガラスが使用されていたが、第20編成からは透明ガラスに変更された。さらに後述のワンマン化改造時には透明ガラスで電磁鎖錠付扉へ交換された。なお、第20編成からは仕切窓の大きさをやや縮小したため、初期車では後期車に合わせた仕切扉を使用するために窓の高さが不揃いである。",
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"text": "走行機器は、第01 - 19編成は銀座線用の01系とほぼ同形の高周波分巻チョッパ制御が採用された。ただし、本系列では電機子チョッパ装置の素子はGTOサイリスタ(2,500V - 2,000A)であるが、界磁チョッパ装置には高耐圧パワートランジスタ(1,200V - 300Aを2個直列接続)に変更し、機器の小型軽量化を図った。元々、01系新製時に採用した分巻チョッパ装置は、近い将来丸ノ内線においても新車を導入することが想定されていたため、より路線条件の厳しい丸ノ内線に使用できるものとして製作されていた。このため、銀座線ではやや過剰性能となっていた。台車は01系と同じ住友金属工業(現・日本製鉄)製の緩衝ゴム式軸箱支持方式のボルスタ付空気ばね台車(FS-520A・FS-020A形台車)を使用する。ただし、第07編成の02-107・02-207号車は日本車輌製造製の円錐積層ゴム式軸箱支持方式の試作ボルスタレス台車(ND-717・717T形台車)を使用し、従来の緩衝ゴム式との比較を行った。同様の例は東西線用の05系第07編成においても見られる。チョッパ制御装置は三菱電機製・日立製作所製がほとんどだが、第04編成のみ東芝製を搭載する。",
"title": "機器類"
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"text": "その後の第20 - 53編成と方南町支線用の第81 - 86編成ではIGBT素子による3レベルVVVFインバータ制御に変更された。制御方式は前者が1C2M2群制御、後者が1C2M3群制御である。台車はモノリンク式軸箱支持方式のボルスタレス台車(SS-130・SS-030形台車)に変更した。基礎ブレーキはいずれも片押し式踏面ブレーキである。5次車からはシングルブレーキからユニットブレーキ方式として保守の向上を図った。VVVF制御装置は、第20 - 42編成と支線用が三菱電機製、第43 - 49編成が日立製作所製、第50 - 53編成が東芝製である。",
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"text": "空気圧縮機 (CP) は、第19編成までのチョッパ車では直流駆動のC-2000LA形を、第20編成以降のVVVF車(方南町支線用車含む)では交流駆動で、容量増を図ったC-2500LB形を搭載する。補助電源装置は制御用としては両先頭車に搭載しており、チョッパ車では日立製作所製の15 kVA出力電動発電機 (MG) を搭載、VVVF車では東洋電機製造製のGTOサイリスタ素子を使用した40 kVA出力の静止形インバータ (SIV) を搭載する。さらに02-300形(T車)には冷房電源用として三菱電機または東芝製の110 kVA出力SIVを搭載する。方南町支線用では02-180形に東洋電機製造製のIGBT素子を使用した75 kVA出力SIVを1台搭載する。",
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ブレーキ装置は01系と同様の回生ブレーキ併用の全電気指令式だが、01系の均一ブレーキ制御に対し、本系列では遅れ込め制御を併用している。全車が対雪ブレーキ・保安ブレーキを装備する。",
"title": "機器類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "保安装置は車内信号式新CS-ATC装置を搭載している。さらにTASC(定位置停止制御)を搭載し、力行時は運転士による手動操作、駅停車時におけるブレーキ操作はTASCにより自動停止する。なお、当初の保安装置として全車両が打子式ATS装置を搭載していたが、ATC切り換え後は撤去された。",
"title": "機器類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "先頭車の連結器はトムリンソン式であり、当初は500形の救援のために電気連結器を搭載していたが、500形全廃後は電気連結器が撤去された。なお、分岐線用の80番代は当初から電気連結器は搭載していなかったが、電気連結器を取り付けるためのボルトの穴だけが突出して存在した。",
"title": "機器類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "なお、2009年から2014年まで全19編成の改修工事に伴い、同年3月をもって落成時からのオリジナルの高周波分巻チョッパ制御を備える制御装置の車両は消滅した(更新後は後述)。",
"title": "機器類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1 - 4次車と方南町支線用は字幕式、5 - 7次車はLED式の行先表示器を先頭車前面に設置している。1編成あたり計2台で、側面表示器は設置していない。なお、1 - 4次車は後述の改修工事によりLED式に交換され、現在は存在しない。",
"title": "旅客への情報提供"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "方南町支線用編成は、側面の中央ドアの上部に中野坂上 - 方南町間の運行であることを示すステッカーを貼り付けしている。",
"title": "旅客への情報提供"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "側面に車外案内用スピーカーが2台あり、乗降促進音(本線用、支線用共にオリジナルメロディ)を搭載している。",
"title": "旅客への情報提供"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "全編成に自動放送装置を搭載している。製造当初の1次車と方南町支線用車両(後述)は搭載していなかったが、1次車は1994年度までに設置された。",
"title": "旅客への情報提供"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "本線用の車両は、各乗降ドア上に現在の位置とその電車の終点を表示する路線図式案内表示装置とドアチャイムを設置した。さらに次駅の開くドア方向を予告する「次駅開扉予告灯」が設置された。なお、当初の1次車は終点ではなく、進行方向の現在駅からその列車の終着駅までの開くドア方向を表示をしていたが、冷房搭載改造時に現行の終点表示タイプに改修した。",
"title": "旅客への情報提供"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "西新宿駅開業時には1 - 6次車が対応品へ交換されたが、7次車は製造当初から対応しており、同駅開業時に駅名を表記した透明ステッカーを貼り付けした。",
"title": "旅客への情報提供"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "後述のワンマン運転改造に合わせて全編成が千鳥配置となり、路線図は駅ナンバリングに対応したものに交換されている。なお、駅ナンバリング開始当初は上から駅ナンバリングが印刷されたステッカーが貼り付けされていたが、ワンマン運転改造時に駅ナンバリングに対応した正規の路線図タイプに交換した。なお、チョッパ制御車は後述の改修工事に合わせてLED式の旅客案内表示器とともに撤去された。路線図式の案内表示器は丸ノ内線本線と方南町支線の全駅が横並びに表示され、「この電車の行先は■で示します」(赤ランプが点灯する)と隅の方に表記されている。",
"title": "旅客への情報提供"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なお、後述のB修工事の対象外となっている第20編成以降は、2014年より第47編成を皮切りに路線図式・LED式の旅客案内表示器をコイト電工の「パッとビジョン」へと交換する工事が行われている。",
"title": "旅客への情報提供"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1996年(平成8年)に登場した方南町支線用の80番台(3両編成)は、本線用と比較して一部仕様が異なっている。",
"title": "80番台"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "車体はアルミニウム合金の材質統一を図り、廃車時におけるリサイクルを考慮したものとした。車体帯は本線用との識別として赤色に白と黒を配したものとし、側面上部の赤帯は省略された。前面上部の飾り窓は廃止されている。落成当初は車両間転落防止幌が設置してあったが、後に方南町支線へホームドアが設置されたために撤去された。",
"title": "80番台"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "コストダウンのため、側窓は車端部が2枚のうち片側を固定化、ドア間3連側窓のうち中央の1枚を固定化した。窓枠はリサイクルを考慮したアルミ製に、客用ドアガラスは単板ガラスへ戻された。行先表示器は4次車までと同じ字幕式に戻された。",
"title": "80番台"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "内装も車両コストの低減を図るため仕様が一部見直された。内張りは色調を変更し、床材は茶色1色の柄入りへ変更された。座席モケットはプリント柄のバケットシートだが、本線用とは異なる柄とされた。車椅子スペースは中間車に1か所設置されている。袖仕切りはパイプ形状に、荷棚はパイプ式に変更した。室内蛍光灯や補助送風機(ラインデリア)の設置台数が一部削減された。落成当初、車両間貫通扉は中間車のみの設置としていたが、後に先頭車にも設置された。運用区間が短いことから車内案内表示器、自動放送装置も製造当初は省略されており、全てのドア上部中央がドアチャイムのスピーカーのみで、両端に路線図とSFメトロカードの広告ステッカーを貼り付けしていた。",
"title": "80番台"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "運転台は当初よりワンマン運転化を想定してT字形ワンハンドルマスコン(ノッチ数は本線用と同じ)を採用している。計器盤の配置は本線用と同じだが、マスコン台はワンマン運転用のドア開閉ボタン等が取り付けられる形状とされている。本線用はレバーにより進行方向の前後を認識させる方向切換器を設置していたが、ワンマン化を想定した支線用では戸閉制御切換装置を搭載し、方向切換器は省略した。",
"title": "80番台"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2022年8月27日のダイヤ改正で丸ノ内線の本線・支線の全列車を6両編成へ統一したことにより、前日の26日に引退した。",
"title": "80番台"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "前述したが、方南町支線用の80番台編成は落成時よりワンマン運転を想定しており、運転台にはワンハンドル式マスコンを採用していた。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2004年夏のワンマン運転開始時には、先頭車は正面フロントガラスの右上と側面乗務員室扉の上部に、中間車は区間行先シールの右側にそれぞれ「ワンマン」ステッカーを貼り付けした。また、ホームドアの設置により車体側面下部の車両番号表記が見えなくなるため、車体側面上部にも車両番号が表記された。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "運転台はメインハンドルにデッドマン装置を設置したほか、ドア開閉スイッチ、2画面式車上CCTV(Closed Circuit Television、ホーム監視用モニター)とミリ波画像受信器、ホームドア表示灯や右端に運転士操作器(車内/車外放送用マイク)を新設した。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "客室との仕切扉を電磁鎖錠付扉へ交換し、前灯点滅制御器を新設した。この他、各ドア上部にLED文字スクロール式の案内表示器と自動放送装置を設置した。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "機器面ではTASC装置の設置・誘導無線装置は防護発報機能付へ変更し、非常通報装置の運転指令所との対話機能の追加などが実施された。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "その他、方南町支線にホームドアとともに可動式ステップが設置されたためにステップ収納前の誤発車防止のため、ATC表示が停止になる連動が行われている。この機能はホームドア設置後の本線においても実施している。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2022年8月下旬、本線・支線の全列車の6両編成への統一に伴い、方南町支線で運行されていた3両編成は廃止され、80番台は運行を終了した。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "本線用の編成は、ワンマン運転およびホームドア設置準備工事のため、2005年(平成17年)3月から順次ワンマン運転に対応した改造が進められ、2007年(平成19年)8月までに全編成の改造が完了した。その後、同年11月からATO装置設置のための改造工事が開始され、2009年(平成21年)1月までに全編成の改造工事が完了した 。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ワンマン化改造された編成は運転台のマスコンハンドル・ブレーキ設定器をデッドマン付T字型ワンハンドル式マスコン(三菱電機製)に改造し、さらに故障表示灯を液晶式のモニター画面(表示操作器)に変更した。これにより行先表示の設定機能・放送装置の制御機能も内蔵され、従来の車内放送に加えて優先席や携帯電話などのマナー放送が放送可能となった。この表示操作器は1分間何も操作しないと自動的に表示内容が消えるようになっている。また、計器台周囲を改造し、ドア開閉スイッチ、勾配起動スイッチ、ホームドア表示灯の新設やATC保安表示灯の改修などを実施した。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "さらに防護発報付誘導無線を搭載し、操作器は運転士操作器(車内/車外放送マイク)と一体化させた。さらに客室の非常通報装置は乗務員との対話式化(未設置車のみ)し、非常通報受報器は運転席背面から運転台右下にを移設した(未設置車は新設)。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "誘導無線については運転指令所からの一斉放送機能や非常通報装置と運転指令所との通話機能も追加した。ほかには運客室仕切部の仕切扉を電磁鎖錠付へ交換を実施した。 車上のTASC受信器(1重系)をTASC送受信器(2重系)に改造し、TASC制御情報に加え、車両ドア・ホームドア連動制御機能を使用できるようにした。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2007年9月から、第53編成を最初に運転台上部への4画面式車上CCTV(ホーム監視用モニター)とミリ波画像受信器の設置を開始し、第08編成を最後に全編成が設置された。車外では運転席前のフロントガラスに遮光フィルムを貼り付けたほか、方南町支線車両同様に車体側面上部にも車両番号表記を追加している。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "その後、TASC装置をATO装置に改造する工事を開始した。運転台ではATO出発ボタン・非常停止ボタン・ノッチ表示灯・手動 - ATO切換スイッチなどを追加した。また、車掌スイッチは折り返し時の操作の簡易化のため、方南町支線車と同様に間接制御式(リレー式)に改修した。床下ではATC装置を撤去し、ATC・ATO一体形の装置とし、02-600形にはATO送受信器(トランスポンダ京三製作所製)を新設した。また、戸閉制御切換装置を搭載し、方向切換器を廃止した。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ワンマン運転対応改造された編成は、ドア上部の1・4・5番案内表示器が路線図式からLED式に置き換えられ、路線図式とLED式で交互に千鳥配置している。LED式の案内表示器は03系・05系などと同じ文字スクロール式で、次駅案内や行先表示の他に東京メトロからのお知らせなどが表示されるようになった。これに伴ってドアチャイムの音色が03系や05系などと同じものに、自動放送もワンマン運転に対応したものに変更された。なお、路線図式の案内表示器も駅ナンバリングに対応したものに変更されている。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2008年6月14日より、従来の乗車促進ブザー音に代わりメロディが導入されている。加えてメロディ後の乗車促進放送も「ドアが閉まります、手荷物をお引き下さい。」に変更された。2009年3月28日から本線でワンマン運転が開始され、各駅でそれぞれの発車メロディが導入されたがすぐに使用を停止し、その後は引き続き乗車促進メロディを使用していた。2012年2月1日よりラッシュ時間帯を除いて各駅の発車メロディを使用するようになったため、乗車促進メロディはラッシュ時間帯のみの使用となった。",
"title": "ワンマン運転への対応"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "02系においても初期車の落成から20年を迎え、大規模改修工事(B修工事)の施工時期に達した 。このため、2009年度よりチョッパ制御車(第01 - 19編成)を対象としたB修工事が実施された。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "この改修工事は2009年(平成21年)9月より第02編成を最初として開始し、翌2010年(平成22年)1月28日に報道向け公開が行われた。なお、当初は全53編成を大規模改修する計画であったが、CBTC導入による計画変更でチョッパ制御車の19編成のみに大幅に縮小し、最初からVVVF制御車として落成した編成は更新対象外となり、後継の2000系に置き換えることとなった。なお、大規模改修工事施工車についても最終的には2000系に置き換える計画である。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "その後、同年2月16日から営業運転を開始した 。報道向け公開の時点では年間3 - 4編成程度を施工する方針としており2013年度末までに対象の全19編成の改修工事を完了する予定としており 、2012年3月末時点では計9編成に施工が完了していた。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "初期には中野工場において改修工事を施工したが、本系列の大規模改修工事に対応するために小石川CRは施設の改修工事が実施され、工事完成後の2010年9月以降の入場車両は全て小石川CRにおいて施工されている。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "丸ノ内線の旧型車(300・500形など)の特徴の一つに、側面帯にあしらわれたサインウェーブがあった。前述の通り、02系は設計時より旧型車のイメージの再現が意識され、赤色(旧型車の車体色)を基調とした帯が採用されたが、サインウェーブは02系に引き継がれることなく、1996年(平成8年)の旧型車運行終了と同時に丸ノ内線から消滅した。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "すると、多くの乗客から「丸ノ内線のシンボルだったのに」とサインウェーブの消滅を惜しむ声が寄せられる。これを踏まえ、改修工事の対象車には旧型車のイメージをより一層反映させた新しいデザインを与えることとなり、側面の帯がサインウェーブ入りのものへと変更された。これは、「スカーレット」(赤帯)の上に白色のサインウェーブを加えたものである。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "なお、前面のラインカラーは当初赤帯のみであったが、3番目の施工となる第10編成からはラインカラー上にホワイトのラインとサインウェーブを模したカラーリングを追加し、改修工事車であることをアピールするものへ変更している。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "このほか、前面の行先表示器が字幕式の車両は、LED式への交換が行われている。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "特に車内設備の更新に合わせてバリアフリーやユニバーサルデザインの充実を図ったものとなっている。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "車内の化粧板は竣工時の300形を意識した薄いサーモンピンク色または白色、床敷物は緑色を採用したものに一新し、座席端の袖仕切板は、車椅子スペース以外の個所を全て大形の仕切板に交換をした。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "最初に施工する第02編成では改修工事時には設置しないが、以降の編成では座席間にスタンションポール(握り棒)を8人掛け部に2本、5人掛け部では1本を設置する。なお、第02編成はその後の定期入場時に施工されている 。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "従来、車椅子スペースを設置していなかった編成は2・5号車に車椅子スペースを新設し、丸ノ内線全車両への設置を図る。また、優先席部においては袖仕切部の握り棒に黄色着色を施し、この付近のつり革は床面高さ1,660 mmから1,580 mmに低下させて使いやすさの向上を図っている。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "出入口部では床面に黄色の出入口識別表示板を新設(後述)し、ドア上部にはドア開閉時に赤く点滅する「ドア開閉表示灯」を設置した。これに合わせてドアエンジンには戸閉力弱め機構が追加されている。これは閉扉後に一定時間戸閉力を弱めるものである。ドアチャイムは10000系などと同じ3打式に変更された。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "乗務員室については大きな変更はないが、客室にドア開閉表示灯の設置に伴い、乗降促進スイッチの2接点化を実施した他、運転士行路表差しは左壁からマスコン台右端に移設し、天井に行路表灯を新設した(後述)。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "車内案内表示装置は従来の路線図式・LED式から17インチのワイド液晶ディスプレイ(LCD・TVIS装置)式2台設置へ交換を実施した。これは左側にTokyo Metro ビジョンと称する広告動画を表示し、右側には乗客への行先案内画面として使用するものである。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "乗客への行先案内画面には運行支障時など異常時に総合指令所からの運行情報を配信するシステムを装備している。ただし、これは改修工事車が一定数確保されてから実施を行う(2011年5月時点では未実施)。また、広告動画は主要駅や車両基地(池袋駅・新宿駅・荻窪駅・中野富士見町駅・中野検車区小石川分室入出庫線)に地上配信設備を設け、高速無線通信(ミリ波装置)で自動更新を行っている。この案内表示装置は02-100形の床下に設置したメディア中央装置と送受信装置(TVIS床下箱内に収納)を基本として、各車に配信映像を記録するメディア端末装置、さらに映像を表示するメディア表示器で構成される。表示操作は運転台にある既存の表示操作器経由で行われる。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "送受信装置は携帯電話通信アダプタ(運行情報を受信)・ミリ波車上装置(広告映像を受信)、LAN差込口(PCと接続可)の3点で構成される。受信された動画情報はメディア中央装置で情報処理の上、各車両のメディア端末装置に高速メタルケーブル経由で伝送される他、映像表示系統にはイーサネットケーブルを用いて高速伝送を行っている。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "主回路システムは従来、チョッパ制御車両の更新工事には三相誘導電動機を用いたVVVFインバータ制御へと改造をしてきた。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "一方、東京地下鉄では2007年秋から銀座線01系第38編成においてPMSM主回路システムと呼ばれる永久磁石同期電動機を用いたVVVFインバータ制御の走行試験を実施してきた。この走行試験の結果は良好であることから、本系列の改修工事車において本格的に採用することとなった。この永久磁石同期電動機を用いた制御方式は東日本旅客鉄道(JR東日本)E331系で営業運転に使用されているが、同車のDDMに対し、試験車を除いた通常の歯車減速駆動方式の車両としては日本の鉄道車両で初めての本格採用となる。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "制御装置は東芝製のIGBT素子を使用した2レベル方式のVVVFインバータ制御装置を採用した。各軸個別制御(1C1M)となるが、2台のインバータを1台の冷却フィンに集約した2in1形インバータユニットを採用、これを2群搭載として装置の大形化を抑えている。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "主電動機は前述した120 kW出力の永久磁石同期電動機(端子電圧400 V、相電流198 A、周波数63 Hz、1時間定格出力120 kW、定格回転数1,890 rpm、最高使用回転数3,664 rpm)で、従来の誘導電動機よりも高効率の運用が出来、電力消費量の約10 %減少などが図れるものである。さらに全密閉方式とすることで騒音低減効果も実現している。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "なお、改修工事では台車や駆動装置の更新は行わないことから、主電動機の取り付け構造は従来の電動機と同一構造としている。車両性能は従来の3レベルVVVFインバータ車に合わせて起動加速度を3.2 km/h/sに向上させた。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "丸ノ内線は車両限界の関係から車両に埋め込む形で冷房装置を搭載しており、冷房装置の能力向上には装置寸法を変更せずに能力向上を必要とされた。これには東芝キヤリアが開発した新形の冷房装置を採用した。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "この装置は従来の16.3 kW (14,000 kcal/h) から23.3 kW (20,000 kcal/h) と現行の冷房装置と同一形状としながら能力を40 %向上させている。特に負荷の増大する通勤ラッシュ時に十分な冷房能力を発揮できることが期待された。さらに同一能力を持つ冷房装置と比較しても約60 %の小型化、さらには低騒音や低振動に配慮したものとなっている。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ただし、能力向上に伴う排出熱の増加などが懸念されることから、当初は一部の試験車以外は従来能力で限定運転をさせた。排出熱の検証を経た後に能力向上運転を実施している。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "冷房装置の能力向上に伴い、02-300形に搭載する冷房電源用補助電源装置(静止形インバータ)は110 kVAから160 kVA出力の能力向上形に更新されている。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "また、改修に伴う電気機器の増加で蓄電池の負荷が増加することから、容量の増加とメンテナンスの容易な焼結式アルカリ蓄電池に交換した。また、先頭車に搭載する電動発電機 (MG) とMG制御器はオーバーホールを行い、継続使用とした。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "ブレーキ制御装置は床下艤装スペースの確保とメンテナンス省略化のため、ブレーキ作用装置と保安ブレーキ装置を一体化し、ブレーキ制御は1両単位制御から各台車単位制御に更新されている。付加工事とし誘導無線装置機器の更新や車内・車外スピーカーや放送増幅器などの放送関連機器は新品に交換が実施されている。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "この大規模改修工事車は外観・車内とも、丸ノ内線開業当初使用していた300形をイメージしたものであり、乗客に懐かしさや親しまれることを目指したものとしている。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "なお、2010年9月までに改修工事を完了する第02・05・10編成は改修工事施工場所の都合から1回目の工事では床面への出入口識別表示板の設置と冷房装置更新工事、運転台の行路表差し位置変更は実施しない。このため、同年9月以降に再度改修期間を設けて床敷物の交換とともに実施されている。2010年9月以降に改修工事を完了する編成は全ての更新内容を1回で実施した。",
"title": "改修工事"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "本線用の6両編成53本(計56編成、330両)が所属している。本系列の編成総数は、東京地下鉄における同一形式の最大編成数である。",
"title": "編成と運用"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "また、東京メトロ移行後初期まで前面に「U LINER」という車内広告1社のみのラッピング装飾編成が存在した。",
"title": "受賞・ラッピング車両など"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "また、東京マラソンが開催される時期には銀座線用車両とともに応援列車を走らせている。車内は、扉に東京マラソンのゴールをイメージしたラッピングと窓部にランナーのラッピングが施されている。車内広告は、東京マラソンの協賛をしている会社の広告のみとなっている。",
"title": "受賞・ラッピング車両など"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "東京メトロでは営団時代より、経年12年目でC修工事と称する簡易な改修工事(ゴム材や床関係の改修)、3回目の全般検査になる24年目でB修工事と称する大規模な改修工事(内装取り替えと電気品の更新)、36年目でC修工事、6回目の全般検査になる48年目で廃車となるライフサイクルを見込んでいるが、これはモデルケースであり、必ずしもこの時期に改修工事や廃車が実施されるとは限らず、東京メトロでは01系や一部の03系のようにB修工事を施工することなく置き換えられている事例もある。",
"title": "置き換え"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "本系列の一部車両に見劣りが目立ってきたことと、丸ノ内線に導入予定のCBTC(無線式列車制御システム)に02系が対応できないため、東京メトロの中期経営計画で、2018年度から2022年度にかけて6両編成の新型車両を53編成投入すると発表した。2018年3月に詳細が公表され、形式も2000系に決定した。ただし前述のように、当初は全53編成に大規模改修工事を施工する予定であったが、CBTC導入決定により第20編成以降の改修を中止し、新型車両導入に変更された。",
"title": "置き換え"
},
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"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "その後2019年1月26日のダイヤ改正で方南町駅のホーム延伸工事が完成し、2000系を含めて支線の6連入線が可能となったが、この時点では3連の運用は未定となっていた。後年の利用状況の変化もあり、2022年7月7日のプレスリリースにて同年8月27日のダイヤ改正をもって3連の運用が取りやめられ丸ノ内線全列車を6両編成に統一する事が発表された。これにより、3両編成である02系80番台は運用を離脱し、全車廃車となった。",
"title": "置き換え"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "東京メトロでは、国際協力機構発注の「フィリピン国フィリピン鉄道訓練センター設立・運営能力強化支援プロジェクト」に参加し、フィリピンでの鉄道人材育成に携わっており、FEATI大学(ファーッティ大学)ともプロジェクトを通し関係を築き、FEATI大学は同国の私立大学では初めて鉄道関係学科を新設することとなった。今回FEATI大学からの鉄道関係設備寄贈依頼に応え、02系2両(02-151・02-251)の無償譲渡を決定した。2020年2月に同大学へ設置され、教材として活用される。東京メトロは、引き続きフィリピンにおける鉄道人材の育成への支援を行い、フィリピンの都市交通機能向上、日比両国の友好関係の強化につながるよう努めるとしている。",
"title": "置き換え"
}
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営団02系電車(えいだん02けいでんしゃ)は、1988年(昭和63年)10月17日に営業運転を開始した、帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
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{{出典の明記|date=2023年2月12日 (日) 11:24 (UTC)}}
{{鉄道車両
| 車両名 = 営団地下鉄02系電車
| 背景色 = #109ED4
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Tokyo-Metro Series02-653.jpg
| 画像説明 = 本線用02系第53編成(原型車)<br />(2022年7月 後楽園駅)
| 運用者 = [[帝都高速度交通営団]]<br />[[東京地下鉄]](東京メトロ)
| 製造所 = [[日本車輌製造]]<br>[[川崎車両|川崎重工業車両カンパニー]]<br />[[近畿車輛]]<br />[[東急車輛製造]]
| 製造年 = 1988年 - 1996年
| 製造数 = 6両編成53本(本線用)<br>3両編成6本(支線用)
| 運用開始 = 1988年10月17日
| 運用終了 = 2022年8月26日(支線用)
| 運用範囲 = [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]
| 編成 = 6両編成(本線用)<br>3両編成(支線用)
| 軌間 = 1,435 mm([[標準軌]])
| 電気方式 = [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]]<br>([[第三軌条方式]])
| 最高運転速度 = 75 km/h(本線)<br /> 65 km/h(支線)
| 設計最高速度 = 75 km/h(チョッパ車)<br> 80 km/h(VVVFインバータ車)
| 起動加速度 = 3.0 km/h/s(チョッパ車)<br> 3.2 km/h/s(VVVFインバータ車)
| 常用減速度 = 4.0 km/h/s
| 非常減速度 = 5.0 km/h/s
| 車両定員 = 先頭車124(座席42)人<br>中間車136(座席52または50)<br>・第23編成以降の中間車135(座席52または50)人
| 自重 = 24.9 - 31.2 t(チョッパ車)<br> 23.1 - 28.4 t(VVVFインバータ車)<br> 26.6 - 29.4 t(支線用)
| 全長 = 18,000 mm<!-- 各項目のカンマは消さないこと -->
| 全幅 = 2,780 mm
| 全高 = 3,495 mm
| 台車 = 第01 - 19編成: FS-520A・FS-020A形<br />上記以外の編成: SS-130・SS-030形
| 主電動機 = [[分巻整流子電動機|直流分巻電動機]]<br />[[かご形三相誘導電動機]]<br>[[永久磁石同期電動機]](B修施工車)
| 主電動機出力 = 120 [[ワット|kW]]
| 駆動方式 = [[WN駆動方式]]
| 歯車比 = 101:15 (6.73)
| 制御方式 = [[電機子チョッパ制御#高周波分巻チョッパ制御|高周波分巻チョッパ制御]]<br>[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]
| 制御装置 =
| 制動装置 = ATC連動[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]([[回生ブレーキ]]併用)
| 保安装置 = 本線用: [[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]・[[自動列車運転装置|ATO]]<br>支線用: 新CS-ATC・[[定位置停止装置|TASC]]<br>[[打子式ATS]](登場時)
| 備考 = 台車は02-107・207号車のみND-717形を使用
}}
'''営団02系電車'''(えいだん02けいでんしゃ)は、[[1988年]]([[昭和]]63年)[[10月17日]]に営業運転を開始した<ref name="TRTA60th-95P">帝都高速度交通営団「60年のあゆみ - 営団地下鉄車両2000両突破記念 -」95頁</ref>、[[帝都高速度交通営団]](営団)の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]][[電車]]である。[[2004年]](平成16年)4月の営団民営化にともない、[[東京地下鉄]](東京メトロ)に継承された。
== 概要 ==
[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]で開業以来使用していた[[営団500形電車|300形・500形等]]が車両更新時期の目安である30年が経過したこと<ref name="TRTA60th-95P"/>や、[[東京メトロ銀座線|銀座線]]用の[[営団01系電車|01系]]が乗客に好評であったこと<ref name="TRTA60th-95P"/>から、本系列が導入されることとなった<ref name="TRTA60th-95P"/>。
01系をベースに設計・製造したため、外観や機器などは01系に準拠したものとなっている<ref name="Drive2002-6">日本鉄道運転協会「運転協会誌」2002年6月号「営団0系車両のデザイン」p.8。</ref> 。これは[[日本の鉄道車両検査|検査業務]]を担当する[[中野車両基地]]での取り扱いを考慮したものである<ref name="PIC1989-5EX">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1989年5月臨時増刊号新車年鑑1989年版「帝都高速度交通営団02系」</ref><ref name="Fan1988-11">交友社「鉄道ファン」1988年11月号新車ガイド「丸ノ内線02系誕生」pp.8 - 12。</ref> 。丸ノ内線においても本系列への統一後(本線は1995年2月、方南町支線は1996年7月に統一)の[[1998年]](平成10年)3月には保安装置の[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]化が実施され、最高速度が従来の65 [[キロメートル毎時|km/h]]から75 km/hに引き上げられた。
== 外観 ==
以下の項目は本線用車両の落成当時の仕様について述べ、方南町支線用車両(80番台)については別途記述する。
本系列のデザインを検討するにあたっては、ベースとなった01系との違いを外観デザインで表現するため<ref name="Drive2002-6" />、丸ノ内線開業以来使用してきた300形のイメージを本系列に残すことが意識され、デザインテーマは'''「従来車の面影」・「エレガント」'''とされた<ref name="Drive2002-6" /><ref name="RP-1991-9">鉄道ファン1991年9月号記事「6000系から01・02・03・05系に至るデザインプロセス」pp.29 - 31・40 - 41。</ref>。しかし、無塗装のアルミ車体に300形のイメージを残すことには苦労があり<ref name="TRTA60th-95P" /><ref name="RP-1991-9" />、側面ラインカラー帯は「スカーレット(赤)」と「白色」の2色のラインを組み合わせることで、従来の丸ノ内線車両の[[正弦波|サインウェーブ]]のイメージを表現した<ref name="Drive2002-6" />。内装も赤色を基調としたものとした<ref name="RP-1991-9"/>。
車体は[[アルミニウム合金]]製で、片側3扉構造である<ref name="Fan1988-11" />。車両の製作工法は01系と同様、アルミニウム合金の[[押出成形|大型押出形材]]・[[ダブルスキン構造|中空形材]](床板など)を組み合わせて連続[[ミグ溶接]]工法によって組み立てるというものである<ref name="Fan1988-11" />。銀座線に比べて丸ノ内線の方が[[トンネル]]断面を拡大している分[[車両限界]]も大きいため、01系の全長16 [[メートル|m]]・幅2,550 [[ミリメートル|mm]]に対して本系列は全長18 m・幅2,780 mmと、一回り大きくなっている。
車体には丸ノ内線の[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]であるスカーレット(赤色)の帯が入っており、アクセントとしてホワイトの細い帯も入っている(前述)<ref name="RP-1991-9" />。側面は[[ラッシュ時]]に[[赤坂見附駅]]で銀座線と乗り間違えることを防ぐ目的もあり、扉上部に赤帯が巻かれている<ref name="TRTA60th-95P" /><ref name="RP-1991-9" />。
01系は直線性を強調した角ばった形状であるのに対し、本系列では「優しさ」を求めて屋根肩部や前面形状などに丸みをつけている<ref name="RP-1991-9"/>。フロントガラスは横方向に大きな曲線を描いており、上部には[[飾り窓]]をはめ込んでいる<ref name="Drive2002-6"/>。前面には[[プラグドア]]による[[非常口]]が設置されている<ref name="Fan1988-11"/>。丸ノ内線は[[第三軌条方式]]であり、線路に下りると[[感電]]の危険があることから非常用の[[梯子|ハシゴ]]は設置していなかったが、後年に設置された。
車体側面には営団時代より営団団章(Sマーク)が配されていた。これは東京メトロへの移行時に「ハートM」マークに交換され、さらに正面左窓上と側面乗務員室扉直後にも同様のマークが貼り付けされた。
=== 次車分類と仕様一覧 ===
* 本系列の次車分類と製造当初の仕様は下表の通り。
{|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;"
|-
!style="background-color:#ccc;"| !!1次車!!2次車!!3次車!!4次車!!colspan="2"|5次車!!6次車!!7次車!!方南町支線用
|-style="border-top:solid 3px #f99;"
!製造年度
|1988年度||1989年度||1990年度||1991年度||colspan="2"|1992年度||1993年度||1994年度||1996年度
|-
!該当編成
|01 - 04||05 - 07||08 - 10||11・12||13 - 19||20 - 22||23 - 30||31 - 53<ref group="*" name="7jisha">当初、1994年度は10本投入の予定であったが、500形などの置き換えを早めるため予定が変更され23本が竣工した(「鉄道ジャーナル」1994年9月号「営団地下鉄1994年の事業計画」56頁記事。同記事では丸ノ内線の新造車投入予定数は60両と記載されている)。</ref>||81 - 86
|-
!運用線区
|colspan="8"|本線(池袋 - 荻窪)<br />支線(中野坂上 - 方南町)
|支線のみ<br>(中野坂上 - 方南町)
|-style="border-top:solid 5px #f33;"
!冷房装置
|colspan="2"|非冷房車として登場
|colspan="7"|新製時より冷房を搭載
|-
!行先表示器
|colspan="4"|字幕式
|colspan="4"|LED式
|字幕式
|-
!制御方式
|colspan="5"|高周波分巻チョッパ
|colspan="4"|IGBT素子VVVFインバータ
|-
!起動加速度
|colspan="5"|3.0 km/h/s
|colspan="4"|3.2 km/h/s
|-
!台車
|colspan="5"|緩衝ゴム式<br />ボルスタ付台車
|colspan="4"|モノリンク式<br />ボルスタレス台車
|-
!基礎ブレーキ装置
|colspan="4"|シングルブレーキ
|colspan="5"|ユニットブレーキ
|-
!主電動機出力
|colspan="9"|120 kW
|-
!車椅子スペース
|colspan="4"|なし
|colspan="5"|あり
|-
|}
{{Reflist|group="*"}}
=== 冷房装置について ===
丸ノ内線ではかつて駅冷房に加えトンネル冷房<ref group="注">駅間のトンネル部を冷房化し、車両の窓を開けて冷気を取り入れる冷房方式であった。車両の冷房化が進んだ1990年代前半以降に廃止された。</ref>を実施していたため、初期に落成した2次車までは01系初期編成と同様に非冷房車として落成したが、[[1990年]](平成2年)夏より銀座線と並行して丸ノ内線も車両冷房を導入することが決定され、3次車からは新製時より薄型[[集約分散式冷房装置|集約分散式]][[エア・コンディショナー|冷房装置]]を搭載している。非冷房車である2次車までも1990年(平成2年)7月 - 1996年(平成8年)6月までに冷房装置搭載改造を実施した。冷房改造車は側面上部に[[ベンチレーター|通風口]]を塞いだ跡があり、新製冷房車とは判別は容易である。
冷房装置は[[三菱電機]]製のCU-766形で、1基当たりの[[冷凍能力|能力]]は16.3 [[キロワット|kW]] (14,000 [[冷凍能力|kcal/h]]) であり、これを車端部の屋根に埋め込む形で1両あたり2基を設置している。非冷房車は落成当初の車内の天井が高く、外気循環形の軸流送風機「ファンデリア」が各車6台設けられていた。冷房車として落成した3次車からは平天井構造とされ、天井に冷房用ダクト・吹き出し口・補助送風機としてはラインデリアが設けられた。非冷房車も後の冷房改造時に同様の構造へと改造された。
なお、本系列は丸ノ内線としては初めての暖房装置搭載車両でもある<ref name="PIC1989-5EX"/>。
== 内装 ==
車内内張りにはベージュ系の色を採用し<ref name="PIC1989-5EX"/>、床材は01系よりも明るい色の茶色とクリーム色で2色フットライン入りのものとした。当初は床に主電動機点検蓋(トラップドア)があったが、第20編成よりメンテナンスが軽減された主電動機の[[三相交流]]化に伴い省略された。
側窓は車端部が2連窓、ドア間が3連窓で、いずれも開閉可能な下降窓である<ref name="Fan1988-11"/>。車内側の窓枠は1・2次車がアルミ製であったが、3次車からは[[繊維強化プラスチック|FRP]]製に変更された。なお、丸ノ内線には地上走行区間があるが、ロール式[[カーテン]]は設置していない。
[[鉄道車両の座席|座席モケット]]は全車両が赤系色で総柄プリント品の[[バケットシート]]である。1人分の掛け幅は5次車までが440 mm、6次車からは450 mmに拡大された<ref name="PIC1993-10EX">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1993年10月臨時増刊号新車年鑑1993年版123頁「帝都高速度交通営団02系増備車(VVVF車)」</ref>ほか、袖仕切上部のパイプにモケットが巻かれたものとなった。[[優先席]]部は同柄で、青色の表地である。なお、当初の1 - 5次車は赤色の区分柄入りで非バケットタイプ(3次車からバケットタイプ)であったが、後年に前述した6次車以降と同じものへ交換された。
客用ドアは在来車両より100 mm広い1,400 mmに拡大し、ラッシュ時の乗降をスムーズにするようにしている<ref name="PIC1989-5EX"/>。車内側も化粧板仕上げであり、ドアガラスは2次車までは[[単板ガラス]]、3次車以降では[[複層ガラス]]が採用された。連結面は各車に[[貫通扉]]が設置されており、妻面には窓が設置されている<ref group="注">一部、冷房装置の配電盤があるために窓がない箇所もある。</ref>。
座席端の袖仕切りは荷棚の端と一体になったもので、形状は01系のものに似ているがそれよりも丸みを帯びている。[[網棚|荷棚]]はステンレス線を格子状にスポット溶接したものである。[[つり革]]は白色の三角形であり、線路方向は全長に渡って、枕木方向はドア付近上部に設置している。[[2006年]](平成18年)初頭頃からは優先席部分のつり革がオレンジ色のものに交換されている。
[[車椅子スペース]]は5次車から設置が開始され、車内に2か所ずつ設けた。さらに[[車内非常通報装置|非常通報器]]は警報式から[[乗務員]]との相互通話可能な対話式のものへ変更された<ref name="PIC1993-10EX"/>。のちに[[ワンマン運転]]への対応のため、全車両が対話式へ交換されている。連結面間貫通路は6次車からは[[車椅子]]での通行を考慮して800 mm幅から870 mm幅に拡幅された<ref name="PIC1993-10EX"/>。
[[2007年]](平成19年)頃から、車内号車札・非常通報装置・非常用[[ドアコック]]・[[消火器]]の表記類を[[東京メトロ10000系電車|10000系]]と同じ[[蓄光]]性シールへの交換が実施されている。
<gallery>
Tokyometro02inside-1.jpg|02系2次車・第06編成の車内
Tokyometro02inside-2.jpg|02系5次車・第16編成の車内<br>窓枠をFRPとしたのが前の2次車との相違
Tokyometro02inside-3.jpg|02系7次車・第38編成の車内<br>このグループは袖仕切上部のパイプがモケット貼りで、連結面の貫通扉幅を拡大している
Tokyometro02car.jpg|優先席と車椅子スペース
Tokyometro02intercom.jpg|車内の対話式の非常通報器<br>全車両に搭載
Tokyo-Metro Series02-284 Inside.jpg|方南町支線用02系の車内<br>袖仕切や荷棚がパイプ式となっている
Tokyo-Metro Series02-284 Priority-seat.jpg|方南町支線用の優先席
Tokyo-Metro Series02-284 Wheelchair-space.jpg|方南町支線用の車椅子スペース
</gallery>
=== 乗務員室 ===
[[操縦席|乗務員室]]の内装は緑色、運転台の筐体は紺色である。現行の運転台仕様は「[[#ワンマン運転への対応|ワンマン運転への対応]]」を参照のこと。
本線用車両では01系と同じ横軸式で、[[マスター・コントローラー|マスコンハンドル]](1 - 4[[ノッチ]])とブレーキ操作器(常用ブレーキ1 - 7段・[[非常ブレーキ|非常]])が別個の2ハンドル式であった<ref name="Fan1988-11"/>。計器盤の配置は01系とはやや異なるものである<ref name="Fan1988-11"/>。[[速度計]]は白地の2針式で90 km/h表示としている。
乗務員室と客室の仕切りには、前面窓と同じような面積割合で仕切窓が3枚ある(車内から見たとき、左から大窓・乗務員室扉窓・小窓の順)。[[遮光幕]]は大窓と乗務員室扉窓の2箇所に設置されている。フロントガラスが緩い曲面ガラスであることによる映り込みを防止するため、残りの右側の小窓は灰色の着色ガラスを使用している。
なお、乗務員室扉窓は初期車ではオレンジ色の着色ガラスが使用されていたが、第20編成からは透明ガラスに変更された。さらに後述のワンマン化改造時には透明ガラスで[[オートロック#鉄道車両の電磁鎖錠システム|電磁鎖錠]]付扉へ交換された。なお、第20編成からは仕切窓の大きさをやや縮小したため、初期車では後期車に合わせた仕切扉を使用するために窓の高さが不揃いである。
<gallery>
Tokyometro02back-1.jpg|02系第16編成の乗務員室仕切<br />仕切窓が大きいため、仕切扉と窓高さが不揃いである
Tokyometro02back-2.jpg|02系第29編成の乗務員室仕切<br />仕切扉と窓の大きさが揃っている
</gallery>
== 機器類 ==
走行機器は、第01 - 19編成は銀座線用の01系とほぼ同形の[[電機子チョッパ制御#高周波分巻チョッパ制御|高周波分巻チョッパ制御]]が採用された<ref name="PIC1989-5EX"/>。ただし、本系列では電機子チョッパ装置の[[半導体素子|素子]]は[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]](2,500V - 2,000A)であるが、界磁チョッパ装置には高耐圧[[トランジスタ|パワートランジスタ]](1,200V - 300Aを2個直列接続)に変更し、機器の小型軽量化を図った<ref name="PIC1989-5EX"/><ref name="TRTA60th-110P">帝都高速度交通営団『60年のあゆみ -営団地下鉄車両2000両突破記念-』110頁。</ref>。元々、01系新製時に採用した分巻チョッパ装置は、近い将来丸ノ内線においても新車を導入することが想定されていたため、より路線条件の厳しい丸ノ内線に使用できるものとして製作されていた<ref name="SUBWAY1983-7">日本地下鉄協会『SUBWAY』1983年7月号レポート「営団地下鉄銀座線用01系試作車について」pp.28 - 37。</ref>。このため、銀座線ではやや[[過剰性能]]となっていた<ref name="SUBWAY1983-7"/>。[[鉄道車両の台車|台車]]は01系と同じ[[住友金属工業]](現・[[日本製鉄]])製の緩衝ゴム式軸箱支持方式の[[ボルスタアンカー|ボルスタ]]付[[空気ばね]]台車(FS-520A・FS-020A形台車)を使用する<ref name="Fan1988-11"/>。ただし、第07編成の02-107・02-207号車は[[日本車輌製造]]製の円錐積層ゴム式軸箱支持方式の試作ボルスタレス台車(ND-717・717T形台車)を使用し<ref name="Nihonsharyou2000">鉄道史資料保存会『日車の車輌史 写真・図面集 - 台車篇』p.44。</ref>、従来の緩衝ゴム式との比較を行った。同様の例は[[東京メトロ東西線|東西線]]用の[[営団05系電車|05系]]第07編成においても見られる。チョッパ制御装置は[[三菱電機]]製・[[日立製作所]]製がほとんどだが、第04編成のみ[[東芝]]製を搭載する。
その後の第20 - 53編成と方南町支線用の第81 - 86編成では[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子による3レベル[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]に変更された。制御方式は前者が1C2M2群制御<ref name="PIC1993-10EX"/>、後者が1C2M3群制御である<ref name="PIC1997-10EX">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1997年10月臨時増刊号新車年鑑1997年版「帝都高速度交通営団02系(丸ノ内分岐線用)」p.116。</ref>。台車はモノリンク式軸箱支持方式の[[鉄道車両の台車|ボルスタレス台車]](SS-130・SS-030形台車)に変更した<ref name="PIC1993-10EX"/>。基礎ブレーキはいずれも片押し式[[踏面ブレーキ]]である。5次車からはシングルブレーキからユニットブレーキ方式として保守の向上を図った。VVVF制御装置は、第20 - 42編成<ref name="MITSUBISHI-EL1993-11">三菱電機『三菱電機技報』1993年11月号「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1993(vol67)/Vol67_11.pdf IGBT応用車両用3レベルVVVFインバータ制御装置」]}}」pp.78 - 83。</ref>と支線用が三菱電機製、第43 - 49編成が日立製作所製、第50 - 53編成が東芝製である。
[[圧縮機|空気圧縮機]] (CP) は、第19編成までのチョッパ車では直流駆動のC-2000LA形を、第20編成以降のVVVF車(方南町支線用車含む)では交流駆動で、容量増を図ったC-2500LB形を搭載する<ref name="PIC1993-10EX"/>。補助電源装置は制御用としては両先頭車に搭載しており、チョッパ車では日立製作所製の15 [[キロボルトアンペア|kVA]]出力[[電動発電機]] (MG) を搭載、VVVF車では[[東洋電機製造]]製のGTOサイリスタ素子を使用した40 kVA出力の[[静止形インバータ]] (SIV) を搭載する<ref name="PIC1993-10EX"/><ref name="TDK1993-8">東洋電機製造「東洋電機技報」1993年8月号(第87号)「93年総集編」p.9。</ref>。さらに02-300形(T車)には冷房電源用として三菱電機または東芝製の110 kVA出力SIVを搭載する。方南町支線用では02-180形に東洋電機製造製のIGBT素子を使用した75 kVA出力SIVを1台搭載する<ref name="TDK1997-4">東洋電機製造「東洋電機技報」1997年4月号(第98号)「96年総集編」p.7。</ref>。
ブレーキ装置は01系と同様の[[回生ブレーキ]]併用の[[電気指令式ブレーキ|全電気指令式]]だが、01系の均一ブレーキ制御に対し、本系列では[[遅れ込め制御]]を併用している<ref name="Fan1988-11"/>。全車が[[鉄道のブレーキ#耐雪ブレーキ|対雪ブレーキ]]<!-- 東京メトロの正式な名称。「耐雪」ではない。 -->・[[保安ブレーキ]]を装備する。
保安装置は[[車内信号]]式[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC装置]]を搭載している。さらに[[定位置停止装置|TASC(定位置停止制御)]]を搭載し、力行時は[[運転士]]による手動操作、駅停車時におけるブレーキ操作はTASCにより自動停止する<ref group="注">その後、後述するATOに改修済み。</ref>。なお、当初の保安装置として全車両が[[自動列車停止装置#打子式ATS|打子式ATS装置]]を搭載していたが、ATC切り換え後は撤去された。
先頭車の連結器は[[連結器#トムリンソン式密着連結器|トムリンソン式]]であり、当初は500形の救援のために[[連結器#電気連結器|電気連結器]]を搭載していたが、500形全廃後は電気連結器が撤去された。なお、分岐線用の80番代は当初から電気連結器は搭載していなかったが、電気連結器を取り付けるためのボルトの穴だけが突出して存在した。
なお、2009年から2014年まで全19編成の改修工事に伴い、同年3月をもって落成時からのオリジナルの[[電機子チョッパ制御#高周波分巻チョッパ制御|高周波分巻チョッパ制御]]を備える制御装置の車両は消滅した(更新後は[[#改修工事|後述]])。
== 旅客への情報提供 ==
=== 車外向け ===
1 - 4次車と方南町支線用は字幕式、5 - 7次車は[[発光ダイオード|LED]]式の[[方向幕|行先表示器]]を先頭車前面に設置している<ref name="PIC1993-10EX"/>。1編成あたり計2台で、側面表示器は設置していない。なお、1 - 4次車は後述の改修工事によりLED式に交換され、現在は存在しない。
方南町支線用編成は、側面の中央ドアの上部に[[中野坂上駅|中野坂上]] - [[方南町駅|方南町]]間の運行であることを示す[[シール|ステッカー]]を貼り付けしている。
側面に車外案内用[[スピーカー]]が2台あり、[[発車メロディ|乗降促進音]](本線用、支線用共にオリジナルメロディ)を搭載している。
=== 車内向け ===
全編成に[[車内放送|自動放送]]装置を搭載している。製造当初の1次車と方南町支線用車両(後述)は搭載していなかったが、1次車は[[1994年]]度までに設置された。
==== 本線用 ====
本線用の車両は、各乗降ドア上に現在の位置とその電車の終点を表示する[[車内案内表示装置|路線図式案内表示装置]]と[[ドアチャイム]]を設置した。さらに次駅の開くドア方向を予告する「次駅開扉予告灯」が設置された<ref group="注">表示器両端の緑色のランプが点灯。途中から「このドアが開きます」のランプ形に変更。</ref>。なお、当初の1次車は終点ではなく、進行方向の現在駅からその列車の終着駅までの開くドア方向を表示をしていたが、冷房搭載改造時に現行の終点表示タイプに改修した。
[[西新宿駅]]開業時には1 - 6次車が対応品へ交換されたが、7次車は製造当初から対応しており<ref group="注">「新宿」と「中野坂上」の間隔を空けて設置した。</ref>、同駅開業時に駅名を表記した透明ステッカーを貼り付けした。
後述のワンマン運転改造に合わせて全編成が千鳥配置となり<ref group="注">撤去された分にはLED式の旅客案内表示器が設置された。</ref>、路線図は[[駅ナンバリング]]に対応したものに交換されている。なお、駅ナンバリング開始当初は上から駅ナンバリングが印刷されたステッカーが貼り付けされていたが、ワンマン運転改造時に駅ナンバリングに対応した正規の路線図タイプに交換した。なお、チョッパ制御車は後述の改修工事に合わせてLED式の旅客案内表示器とともに撤去された。路線図式の案内表示器は丸ノ内線本線と方南町支線の全駅が横並びに表示され、「この電車の行先は{{Color|red|■}}で示します」(赤ランプが点灯する)と隅の方に表記されている<ref group="注">これによると、本線用6両編成では[[池袋駅|池袋]]・[[茗荷谷駅|茗荷谷]]・[[後楽園駅|後楽園]]・[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]・[[銀座駅|銀座]]・[[四谷三丁目駅|四谷三丁目]]・[[新宿三丁目駅|新宿三丁目]]・[[新宿駅|新宿]]・[[中野坂上駅|中野坂上]]・[[新中野駅|新中野]]・[[荻窪駅|荻窪]]・[[中野富士見町駅|中野富士見町]]・[[方南町駅|方南町]]行の列車が設定出来るようになっているが、このうち御茶ノ水・四谷三丁目・新中野は通常ダイヤでは使用されず、事故発生時の折り返し運転があった場合にしか使用されない他、銀座は終夜運転時のみで使用、方南町に関しては2019年7月5日のダイヤ改正までは入線不可だったため使用されていなかった。</ref>。
なお、後述のB修工事の対象外となっている第20編成以降は、[[2014年]]より第47編成を皮切りに路線図式・LED式の旅客案内表示器を[[KIホールディングス|コイト電工]]の「パッとビジョン」へと交換する工事が行われている<ref>[http://www.koito-ind.co.jp/new_product/popup/tokyometro_01.html 東京メトロ丸ノ内線、半蔵門線にパッとビジョン] {{Wayback|url=http://www.koito-ind.co.jp/new_product/popup/tokyometro_01.html |date=20160304225142 }} - コイト電工</ref>。
<gallery>
Tokyometro02map.jpg|02系本線用の路線図式案内表示器
Tokyo-Metro Series02-284 LED.jpg|02系支線用のLED式案内表示器
Tokyo-Metro Series02-450 LCD.jpg|パッとビジョンに更新された旅客案内表示器
</gallery>
== 80番台 ==
[[File:TeitoRapidTransitAuthority-0285.jpg|thumb|200px|方南町支線用80番台編成<br>(2006年12月20日 方南町駅)]]
[[1996年]](平成8年)に登場した方南町支線用の80番台(3両編成)は、本線用と比較して一部仕様が異なっている。
車体はアルミニウム合金の材質統一を図り、[[廃車 (鉄道)|廃車]]時における[[リサイクル]]を考慮したものとした<ref name="PIC1997-10EX"/>。車体帯は本線用との識別として赤色に白と黒を配したものとし、側面上部の赤帯は省略された<ref name="PIC1997-10EX"/>。前面上部の飾り窓は廃止されている。落成当初は車両間[[転落防止幌]]が設置してあったが<ref name="PIC1997-10EX"/>{{refnest|group="注"|これは営団地下鉄の車両としては初めての設置で、試験的なものであったとされている<ref>東京地下鉄「帝都高速度交通営団史」</ref>。}}、後に方南町支線へ[[ホームドア]]が設置されたために撤去された。
コストダウンのため、側窓は車端部が2枚のうち片側を固定化、ドア間3連側窓のうち中央の1枚を固定化した<ref name="PIC1997-10EX"/>。窓枠はリサイクルを考慮したアルミ製に、客用ドアガラスは単板ガラスへ戻された。[[方向幕|行先表示器]]は4次車までと同じ字幕式に戻された<ref name="PIC1997-10EX"/>。
内装も車両コストの低減を図るため仕様が一部見直された。内張りは色調を変更し、床材は茶色1色の柄入りへ変更された<ref name="PIC1997-10EX"/>。座席モケットはプリント柄のバケットシートだが、本線用とは異なる柄とされた。車椅子スペースは中間車に1か所設置されている。袖仕切りはパイプ形状に、荷棚はパイプ式に変更した<ref name="PIC1997-10EX"/>。室内[[蛍光灯]]や補助送風機(ラインデリア)の設置台数が一部削減された<ref name="PIC1997-10EX"/>。落成当初、車両間貫通扉は中間車のみの設置としていたが<ref name="PIC1997-10EX"/>、後に先頭車にも設置された。運用区間が短いことから[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]、[[車内放送|自動放送装置]]も製造当初は省略されており<ref name="PIC1997-10EX"/>、全てのドア上部中央がドアチャイムのスピーカーのみで、両端に路線図と[[メトロカード (東京)|SFメトロカード]]の[[広告]]ステッカーを貼り付けしていた。
運転台は当初よりワンマン運転化を想定してT字形ワンハンドルマスコン(ノッチ数は本線用と同じ)を採用している<ref name="PIC1997-10EX"/>。計器盤の配置は本線用と同じだが、マスコン台はワンマン運転用のドア開閉ボタン等が取り付けられる形状とされている。本線用はレバーにより進行方向の前後を認識させる方向切換器を設置していたが、ワンマン化を想定した支線用では[[車掌スイッチ#方向切換器と戸閉制御切換装置|戸閉制御切換装置]]を搭載し、方向切換器は省略した<ref name="PIC1997-10EX"/>。
2022年8月27日のダイヤ改正で丸ノ内線の本線・支線の全列車を6両編成へ統一したことにより、前日の26日に引退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/121032|title=丸ノ内線02系「支線用」80番台はどこが違う? 支線6両化で順次見納め|website=乗りものニュース|date=2022-08-09|accessdate=2022-08-24}} {{Wayback|url=https://trafficnews.jp/post/121032 |date=20220824083206 }}</ref>。
== ワンマン運転への対応 ==
=== 方南町支線用 ===
[[File:Tokyo-Metro Series02-184 Cab.jpg|thumb|200px|02系支線用編成<br />ワンマン対応改造後の運転台(02-184)]]
前述したが、方南町支線用の80番台編成は落成時よりワンマン運転を想定しており、運転台にはワンハンドル式マスコンを採用していた。
[[2004年]]夏のワンマン運転開始時には、先頭車は正面フロントガラスの右上と側面乗務員室扉の上部に、中間車は区間行先シールの右側にそれぞれ「ワンマン」[[シール|ステッカー]]を貼り付けした。また、[[ホームドア]]の設置により車体側面下部の[[鉄道の車両番号|車両番号]]表記が見えなくなるため、車体側面上部にも車両番号が表記された。
運転台はメインハンドルに[[デッドマン装置]]を設置したほか、ドア開閉スイッチ<ref group="注">片側ずつ左右に設置し、「ドア開・乗降促進・ドア閉」の3つで構成される。再開閉ボタンはない。</ref>、2画面式車上CCTV(Closed Circuit Television、[[プラットホーム|ホーム]]監視用モニター)と[[ミリ波]]画像受信器、ホームドア表示灯や右端に運転士操作器(車内/車外放送用マイク)を新設した。
客室との仕切扉を[[オートロック#鉄道車両の電磁鎖錠システム|電磁鎖錠]]付扉へ交換し、前灯点滅制御器を<ref group="注">異常時に駅間で列車が停車した場合、後方車の前照灯を点滅させて後続列車に異常を知らせる防護機能のこと。</ref>新設した。この他、各ドア上部にLED文字[[スクロール]]式の案内表示器と自動放送装置を設置した。
機器面では[[定位置停止装置|TASC装置]]の設置・[[誘導無線]]装置は[[列車防護無線装置|防護発報]]機能付へ変更し、[[車内非常通報装置|非常通報装置]]の[[運転指令所]]との対話機能の追加<ref group="注">乗客が非常通報装置の通報ボタンを押し、一定時間運転士が応答しない場合に自動的に[[列車無線]]に接続され、運転指令所の指令員が応答する。</ref>などが実施された<ref>鉄道ピクトリアル2005年4月臨時増刊号「東京地下鉄特集」</ref>。
その他、方南町支線にホームドアとともに可動式ステップ<ref group="注">一部のカーブがある駅で、車両と駅ホームとの隙間が広い駅に設置される可動式のステップ(踏み板)のこと。ホームドアと連動して動作する。なお、収納されないと車両に接触してしまい、車両は発車出来ない。</ref>が設置されたためにステップ収納前の誤発車防止のため、ATC表示が停止になる連動が行われている。この機能はホームドア設置後の本線においても実施している。
2022年8月下旬、本線・支線の全列車の6両編成への統一に伴い、方南町支線で運行されていた3両編成は廃止され、80番台は運行を終了した。
=== 本線用 ===
本線用の編成は、ワンマン運転およびホームドア設置準備工事のため、[[2005年]](平成17年)3月から順次ワンマン運転に対応した改造が進められ、[[2007年]](平成19年)8月までに全編成の改造が完了した<ref group="注">改造内容は運転台の改造が中心となり、形態はTASCによるワンマン運転を行う方南町支線用車両に近いレイアウトとなった。</ref>。その後、同年11月から[[自動列車運転装置|ATO装置]]設置のための改造工事が開始され、[[2009年]](平成21年)1月までに全編成の改造工事が完了した<ref name="RP-09-10">鉄道ピクトリアル2009年10月臨時増刊号 鉄道車両年鑑「東京地下鉄02系改造工事(ホーム柵・ワンマン対応・ATO化)」</ref> 。
==== 運転台関連 ====
ワンマン化改造された編成は運転台のマスコンハンドル・ブレーキ設定器をデッドマン付T字型ワンハンドル式マスコン(三菱電機製)に改造し、さらに[[鉄道車両のモニタ装置|故障表示灯]]を[[液晶ディスプレイ|液晶]]式のモニター画面(表示操作器)に変更した。これにより行先表示の設定機能・放送装置の制御機能も内蔵され、従来の[[車内放送]]に加えて[[優先席]]や[[携帯電話]]などの[[マナー]]放送が放送可能となった<ref group="注">ツーマン運転時代は乗務する[[車掌]]により頻度は異なるが、適宜使用していた。</ref>。この表示操作器は1分間何も操作しないと自動的に表示内容が消えるようになっている。また、計器台周囲を改造し、ドア開閉スイッチ、勾配起動スイッチ、ホームドア表示灯の新設やATC保安表示灯の改修などを実施した。
さらに防護発報付誘導無線を搭載し、操作器は運転士操作器(車内/車外放送マイク)と一体化させた。さらに客室の非常通報装置は乗務員との対話式化(未設置車のみ)し、非常通報受報器は運転席背面から運転台右下にを移設した(未設置車は新設)。
誘導無線については運転指令所からの一斉放送機能や非常通報装置と運転指令所との通話機能も追加した。ほかには運客室仕切部の仕切扉を電磁鎖錠付へ交換を実施した<ref name="RP-09-10" />。 車上のTASC受信器(1重系)をTASC送受信器(2重系)に改造し、TASC制御情報に加え、車両ドア・ホームドア連動制御機能を使用できるようにした。
2007年9月から、第53編成を最初に運転台上部への4画面式車上CCTV(ホーム監視用モニター)とミリ波画像受信器の設置を開始し、第08編成を最後に全編成が設置された。車外では運転席前のフロントガラスに遮光フィルムを貼り付けたほか、方南町支線車両同様に車体側面上部にも車両番号表記を追加している。
==== ATO運転への改修 ====
その後、TASC装置をATO装置に改造する工事を開始した。運転台ではATO出発ボタン・非常停止ボタン・[[ノッチ]]表示灯・手動 - ATO切換スイッチなどを追加した。また、[[車掌スイッチ]]は折り返し時の操作の簡易化のため、方南町支線車と同様に間接制御式(リレー式)に改修した。床下ではATC装置を撤去し、ATC・ATO一体形の装置とし、02-600形にはATO送受信器([[トランスポンダ]][[京三製作所]]製)を新設した。また、[[車掌スイッチ#方向切換器と戸閉制御切換装置|戸閉制御切換装置]]を搭載し、方向切換器を廃止した。
<gallery>
Tokyo-Metro Series02-650 Cab.jpg|02系本線用編成<br />ATOワンマン改造車の運転台(02-650)
Tokyometro02cabLEFT.jpg|左側の拡大<br />非常停止ボタン・ドア開閉スイッチなどがある
Tokyometro02cabRIGHT.jpg|右側の拡大<br />ATO出発ボタン・ドア開閉スイッチなどがある
Tokyometro02cabRADDER.jpg|運転台に設置されている非常用の梯子<br>右は添乗者用の椅子
</gallery>
==== 案内機器関連 ====
ワンマン運転対応改造された編成は、ドア上部の1・4・5番案内表示器が路線図式からLED式に置き換えられ、路線図式とLED式で交互に千鳥配置している。LED式の案内表示器は[[営団03系電車|03系]]・[[営団05系電車|05系]]などと同じ文字[[スクロール]]式で、次駅案内や行先表示の他に東京メトロからのお知らせなどが表示されるようになった。これに伴って[[ドアチャイム]]の音色が03系や05系などと同じものに、自動放送もワンマン運転に対応したものに変更された。なお、路線図式の案内表示器も駅ナンバリングに対応したものに変更されている。
[[2008年]][[6月14日]]より、従来の乗車促進ブザー音に代わりメロディが導入されている。加えてメロディ後の乗車促進放送も「ドアが閉まります、手荷物をお引き下さい。」に変更された。2009年[[3月28日]]から本線でワンマン運転が開始され、各駅でそれぞれの[[発車メロディ]]が導入されたがすぐに使用を停止し、その後は引き続き乗車促進メロディを使用していた。2012年2月1日よりラッシュ時間帯を除いて各駅の発車メロディを使用するようになったため、乗車促進メロディはラッシュ時間帯のみの使用となった。
== 改修工事 ==
02系においても初期車の落成から20年を迎え、大規模改修工事(B修工事)の施工時期に達した<ref name="Rail-Tech162-1">レールアンドテック出版「鉄道車両と技術」No.162「東京メトロ02系改造工事と改造車の概要」27-29頁</ref> 。このため、2009年度よりチョッパ制御車(第01 - 19編成)を対象としたB修工事が実施された<ref name="Rail-Tech162-1"/>。
この改修工事は2009年(平成21年)9月より第02編成を最初として開始し、翌2010年(平成22年)1月28日に報道向け公開が行われた。なお、当初は全53編成を大規模改修する計画であったが、CBTC導入による計画変更でチョッパ制御車の19編成のみに大幅に縮小し、最初からVVVF制御車として落成した編成は更新対象外となり、後継の2000系に置き換えることとなった。なお、大規模改修工事施工車についても最終的には2000系に置き換える計画である。
その後、同年2月16日から営業運転を開始した<ref name="PICT2010-10">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2010年10月臨時増刊号鉄道車両年鑑2010年版「東京地下鉄02系大規模改修」</ref> 。報道向け公開の時点では年間3 - 4編成程度を施工する方針としており2013年度末までに対象の全19編成の改修工事を完了する予定としており<ref name="Untenkyokai2011-8">日本鉄道運転協会「運転協会誌」2011年8月号新型車両プロフィールガイド「東京地下鉄丸ノ内線02系大規模改修工事車両の概要」</ref> 、2012年3月末時点では計9編成に施工が完了していた<ref name="Rfan2012-8">交友社「鉄道ファン」2012年8月号付録「大手私鉄車両ファイル2012」</ref>。
初期には中野工場において改修工事を施工したが、本系列の大規模改修工事に対応するために小石川CRは施設の改修工事が実施され、工事完成後の2010年9月以降の入場車両は全て小石川CRにおいて施工されている<ref>日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」2010年11月号メンテナンス「東京地下鉄 小石川CR(更新修繕場)の改良」</ref>。
=== 改修内容 ===
==== 改修前後の仕様の比較 ====
{|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;"
|-
!style="background-color:#ccc;"|
!第01 - 12編成<br>(B修前)
!第13 - 19編成<br>(B修前)
!第01 - 19編成<br>(B修後)<ref group="*">現在の第1 - 19編成は全てこの形態。</ref>
!第20 - 53編成
!第81 - 86編成
|-style="border-top:solid 5px #f33;"
!制御方式
|colspan="2"|高周波分巻チョッパ
|colspan="3"|IGBT素子VVVFインバータ
|-
!起動加速度
|colspan="2"|3.0 km/h/s
|colspan="3"|3.2 km/h/s
|-
!主電動機出力
|colspan="5"|120 kW
|-
!行先表示器
|字幕式
|colspan="3"|LED式
|字幕式
|-
!運用線区
|colspan="4"|本線(池袋 - 荻窪)<br />支線(中野坂上 - 方南町)
|支線のみ<br>(中野坂上 - 方南町)
|}
==== 外観 ====
<gallery>
ファイル:Marunouchi Line 02-102 Korakuen 20100305.jpg|B修工事を施工した赤帯一色時代の第02編成(2010年3月 後楽園駅)
ファイル:Tokyo-Metro Series02R-602.jpg|前面に細帯とサインウェーブが追加されたB修施工後の第02編成<br>ライトと行先表示器の交換がされている(2022年7月 後楽園駅)
</gallery>
丸ノ内線の旧型車(300・500形など)の特徴の一つに、側面帯にあしらわれたサインウェーブがあった<ref name="Rail-Tech162-1"/>。前述の通り、02系は設計時より旧型車のイメージの再現が意識され、赤色(旧型車の車体色)を基調とした帯が採用されたが、サインウェーブは02系に引き継がれることなく、[[1996年]](平成8年)の旧型車運行終了と同時に丸ノ内線から消滅した<ref name="Rail-Tech162-1"/>。
すると、多くの乗客から「丸ノ内線のシンボルだったのに」とサインウェーブの消滅を惜しむ声が寄せられる<ref name="Rail-Tech162-1"/>。これを踏まえ、改修工事の対象車には旧型車のイメージをより一層反映させた新しいデザインを与えることとなり、側面の帯がサインウェーブ入りのものへと変更された<ref name="Rail-Tech162-1"/>。これは、「スカーレット」(赤帯)の上に白色のサインウェーブを加えたものである<ref name="Rail-Tech162-1"/><ref group="注">旧型車では、全体を赤く塗られた車体に白い帯が塗装され、そこに銀色のサインウェーブがあしらわれていた。</ref>。
なお、前面のラインカラーは当初赤帯のみであったが、3番目の施工となる第10編成からはラインカラー上にホワイトのラインとサインウェーブを模したカラーリングを追加し、改修工事車であることをアピールするものへ変更している<ref name="PICT2010-10"/>。
このほか、前面の行先表示器が字幕式の車両は、LED式への交換が行われている<ref name="Rail-Tech162-1"/>。
==== 内装 ====
特に車内設備の更新に合わせて[[バリアフリー]]や[[ユニバーサルデザイン]]の充実を図ったものとなっている。
車内の[[デコラ|化粧板]]は竣工時の300形を意識した薄いサーモンピンク色または白色<ref group="注">落成時の300形はダスキーピンク色に[[塗装]]されていた。</ref>、床敷物は緑色を採用したものに一新し、座席端の袖仕切板は、車椅子スペース以外の個所を全て大形の仕切板に交換をした<ref name="Rail-Tech162-1"/><ref name="Untenkyokai2011-8"/>。
最初に施工する第02編成では改修工事時には設置しないが、以降の編成では座席間にスタンションポール(握り棒)を8人掛け部に2本、5人掛け部では1本を設置する。なお、第02編成はその後の定期入場時に施工されている<ref name="Rail-Tech162-2">レールアンドテック出版「鉄道車両と技術」No.162「東京メトロ02系改造工事と改造車の概要」30-32頁</ref> 。
従来、車椅子スペースを設置していなかった編成は2・5号車に[[車椅子スペース]]を新設し、丸ノ内線全車両への設置を図る<ref name="Rail-Tech162-1"/>。また、[[優先席]]部においては袖仕切部の握り棒に黄色着色を施し、この付近の[[つり革]]は床面高さ1,660 mmから1,580 mmに低下させて使いやすさの向上を図っている<ref name="Rail-Tech162-1"/>。
出入口部では床面に黄色の出入口識別表示板を新設(後述)し、ドア上部にはドア開閉時に赤く点滅する「ドア開閉表示灯」を設置した<ref name="Rail-Tech162-1"/>。これに合わせてドアエンジンには戸閉力弱め機構が追加されている<ref name="Untenkyokai2011-8"/>。これは閉扉後に一定時間戸閉力を弱めるものである<ref name="Untenkyokai2011-8"/>。ドアチャイムは10000系などと同じ3打式に変更された。
<gallery>
ファイル:Tokyo-Metro Series02R-316 Inside.jpg|更新後の白色基調の車内(02-316)
ファイル:Tokyo-Metro Series02R-305 Inside.jpg|更新後のピンク色基調の車内(02-305)
ファイル:Tokyo-Metro Series02R-305 Priority-seat.jpg|優先席(02-305)
ファイル:Tokyo-Metro Series02R-505 Wheelchair-space.jpg|車椅子スペース(02-505)
</gallery>
==== 乗務員室 ====
[[File:TokyoMetro02-zyokosokushinbutton.JPG|thumb|200px|上 : 未更新車のドア開閉スイッチ・乗降促進スイッチ<br>下 : 更新車のドア開閉スイッチ・乗降促進スイッチ。乗降促進スイッチは2接点化が実施されている。]]
乗務員室については大きな変更はないが、客室にドア開閉表示灯の設置に伴い、乗降促進スイッチの2接点化を実施<ref name="Untenkyokai2011-8"/>した他、運転士行路表差しは左壁からマスコン台右端に移設し、天井に行路表灯を新設した(後述)<ref name="Untenkyokai2011-8"/>。
==== 車内案内表示器 ====
[[File:Tokyo-Metro Series02R-216 LCD.jpg|thumb|200px|ドア上部に設置されたLCD式車内案内表示器]]
車内案内表示装置は従来の路線図式・LED式から17インチのワイド[[液晶ディスプレイ]](LCD・[[VIS (鉄道システム)|TVIS装置]])式2台設置へ交換を実施した<ref name="Rail-Tech162-2"/>。これは左側に[[Tokyo Metro ビジョン]]と称する[[広告]][[動画]]を表示し、右側には乗客への行先案内画面として使用するものである<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
乗客への行先案内画面には運行支障時など異常時に[[運転指令所|総合指令所]]からの運行情報を配信するシステムを装備している<ref name="Untenkyokai2011-8"/>。ただし、これは改修工事車が一定数確保されてから実施を行う(2011年5月時点では未実施<ref name="Untenkyokai2011-8"/>)。また、広告動画は主要駅や車両基地([[池袋駅]]・[[新宿駅]]・[[荻窪駅]]・[[中野富士見町駅]]・[[小石川車両基地|中野検車区小石川分室]]入出庫線)に地上配信設備を設け、高速無線通信([[ミリ波]]装置)で自動更新を行っている<ref name="Untenkyokai2011-8"/>。この案内表示装置は02-100形の床下に設置したメディア中央装置と送受信装置(TVIS床下箱内に収納)を基本として、各車に配信映像を記録するメディア端末装置、さらに映像を表示するメディア表示器で構成される。表示操作は運転台にある既存の表示操作器経由で行われる<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
送受信装置は携帯電話通信アダプタ(運行情報を受信)・ミリ波車上装置(広告映像を受信)、[[Local Area Network|LAN差込口]]([[パーソナルコンピュータ|PC]]と接続可)の3点で構成される<ref name="Rail-Tech162-2"/>。受信された動画情報はメディア中央装置で情報処理の上、各車両のメディア端末装置に高速メタルケーブル経由で伝送される他、映像表示系統には[[イーサネット]]ケーブルを用いて高速伝送を行っている<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
==== 制御装置 ====
主回路システムは従来、チョッパ制御車両の更新工事には[[かご形三相誘導電動機|三相誘導電動機]]を用いたVVVFインバータ制御へと改造をしてきた<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
一方、東京地下鉄では[[2007年]]秋から[[東京メトロ銀座線|銀座線]][[営団01系電車|01系]]第38編成において'''PMSM主回路システム'''と呼ばれる[[永久磁石同期電動機]]を用いたVVVFインバータ制御の走行試験を実施してきた。この走行試験の結果は良好であることから、本系列の改修工事車において本格的に採用することとなった<ref name="Rail-Tech162-2"/><ref>東芝レビュー2009年9月号{{PDFlink|[https://www.global.toshiba/content/dam/toshiba/migration/corp/techReviewAssets/tech/review/2009/09/64_09pdf/a03.pdf 「低騒音と省エネを実現した東京メトロ丸ノ内線車両用のPMSM主回路システム」]}}</ref>。この永久磁石同期電動機を用いた制御方式は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[JR東日本E331系電車|E331系]]で営業運転に使用されているが、同車の[[ダイレクトドライブ|DDM]]に対し、[[試験車]]を除いた通常の歯車減速駆動方式の車両としては日本の鉄道車両で初めての本格採用となる<ref>交友社「鉄道ファン」2010年4月号CAR INFO「東京地下鉄02系大規模改修車」</ref>。
制御装置は[[東芝]]製のIGBT素子を使用した2レベル方式のVVVFインバータ制御装置を採用した。各軸個別制御(1C1M)となるが、2台のインバータを1台の冷却フィンに集約した2in1形インバータユニットを採用、これを2群搭載として装置の大形化を抑えている<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
主電動機は前述した120 [[キロワット|kW]]出力の永久磁石同期電動機(端子電圧400 [[ボルト (単位)|V]]、相電流198 [[アンペア|A]]、周波数63 [[ヘルツ (単位)|Hz]]、1時間定格出力120 kW、定格回転数1,890 [[rpm (単位)|rpm]]、最高使用回転数3,664 rpm)で、従来の誘導電動機よりも高効率の運用が出来、[[消費電力|電力消費量]]の約10 [[パーセント|%]]減少などが図れるものである。さらに全密閉方式とすることで[[騒音]]低減効果も実現している<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
なお、改修工事では台車や駆動装置の更新は行わないことから、主電動機の取り付け構造は従来の電動機と同一構造としている<ref name="Rail-Tech162-2"/>。車両性能は従来の3レベルVVVFインバータ車に合わせて[[起動加速度]]を3.2 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]]に向上させた<ref name="PICT2010-10"/>。
==== 冷房装置 ====
丸ノ内線は[[車両限界]]の関係から車両に埋め込む形で冷房装置を搭載しており、冷房装置の能力向上には装置寸法を変更せずに能力向上を必要とされた<ref name="Rail-Tech162-2"/>。これには[[キヤリア (会社)#日本における法人および合弁企業|東芝キヤリア]]が開発した新形の冷房装置を採用した<ref name="Toshiba-Aircon">東芝レビュー2009年9月号{{PDFlink|[https://www.global.toshiba/content/dam/toshiba/migration/corp/techReviewAssets/tech/review/2009/09/64_09pdf/a13.pdf 「通勤ラッシュ時の冷房能力を改善した車両用空調システム」]}}</ref>。
この装置は従来の16.3 [[キロワット|kW]] (14,000 [[冷凍能力|kcal/h]]) から23.3 kW (20,000 kcal/h) と現行の冷房装置と同一形状としながら能力を40 %向上させている<ref name="Rail-Tech162-2"/>。特に負荷の増大する通勤[[ラッシュ時]]に十分な[[冷凍能力|冷房能力]]を発揮できることが期待された<ref name="Toshiba-Aircon"/>。さらに同一能力を持つ冷房装置と比較しても約60 %の小型化、さらには低騒音や低振動に配慮したものとなっている<ref name="Toshiba-Aircon"/>。
ただし、能力向上に伴う排出熱の増加などが懸念されることから、当初は一部の試験車以外は従来能力で限定運転をさせた。排出熱の検証を経た後に能力向上運転を実施している<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
==== 付加工事 ====
冷房装置の能力向上に伴い、02-300形に搭載する冷房電源用補助電源装置(静止形インバータ)は110 kVAから160 kVA出力の能力向上形に更新されている<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
また、改修に伴う電気機器の増加で[[二次電池|蓄電池]]の負荷が増加することから、容量の増加とメンテナンスの容易な焼結式アルカリ蓄電池に交換した<ref name="Rail-Tech162-2"/>。また、先頭車に搭載する[[電動発電機]] (MG) とMG制御器は[[オーバーホール]]を行い、継続使用とした<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
ブレーキ制御装置は床下艤装スペースの確保とメンテナンス省略化のため、ブレーキ作用装置と[[保安ブレーキ]]装置を一体化し、ブレーキ制御は1両単位制御から各台車単位制御に更新されている<ref name="Rail-Tech162-2"/>。付加工事とし[[誘導無線]]装置機器の更新や車内・車外[[スピーカー]]や放送増幅器などの放送関連機器は新品に交換が実施されている<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
この大規模改修工事車は外観・車内とも、丸ノ内線開業当初使用していた300形をイメージしたものであり、乗客に懐かしさや親しまれることを目指したものとしている<ref name="Untenkyokai2011-8"/>。
なお、2010年9月までに改修工事を完了する第02・05・10編成は改修工事施工場所の都合から1回目の工事では床面への出入口識別表示板の設置と冷房装置更新工事、運転台の行路表差し位置変更は実施しない。このため、同年9月以降に再度改修期間を設けて床敷物の交換とともに実施されている。2010年9月以降に改修工事を完了する編成は全ての更新内容を1回で実施した<ref name="Rail-Tech162-2"/>。
== 編成と運用 ==
本線用の6両編成53本(計56編成、330両)が所属している。本系列の編成総数は、東京地下鉄における同一形式の最大編成数である。
=== 本線 ===
; 所属両数<nowiki>:</nowiki> 6両編成53本(318両、第01 - 53編成)
: 最大運用数は50本であり、残る3本は予備編成である。全編成が[[中野車両基地|中野検車区]]所属である。
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-
!rowspan="3" style="background-color:#ccc;"|
!rowspan="3"|形式
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[荻窪駅|荻窪]]・[[方南町駅|方南町]] | [[池袋駅|池袋]] }}
|-style="border-top:solid 3px #ffffff;"
!1号車
!2号車
!3号車
!4号車
!5号車
!6号車
|-
!02-100形<br />(CT1)
!02-200形<br />(M)
!02-300形<br />(T)
!02-400形<br />(M')
!02-500形<br />(M)
!02-600形<br />(CT2)
|-style="border-top:solid 5px #ED1A3D; background-color:#eee;"
!rowspan="2" style="background-color:#fdf"|分巻チョッパ車<ref group="*">現在は全編成更新済みで消滅。</ref>
!機器配置
|MG<br/>CP<br/>BT
|CHP
|SIV2
|CHP
|CHP
|MG<br/>CP<br/>BT
|-
!車両番号
|colspan="6"|消滅
|-style="border-top:solid 3px #999;"
!rowspan="2" style="background-color:#fda;"|VVVFインバータ車<br /><small>(B修工事前はチョッパ車)</small>
!機器配置
|MG<br/>CP<br/>BT
|VVVF
|SIV4
|VVVF
|VVVF
|MG<br/>CP<br/>BT
|-
!車両番号
|02-101<br />:<br />02-119||02-201<br />:<br />02-219||02-301<br />:<br />02-319
|02-401<br />:<br />02-419||02-501<br />:<br />02-519||02-601<br />:<br />02-619
|-style="border-top:solid 3px #999;"
!rowspan="2" style="background-color:#ffc;"|VVVFインバータ車
!機器配置
|SIV1<br/>CP<br/>BT
|VVVF
|SIV2
|VVVF
|VVVF
|SIV1<br/>CP<br/>BT
|-
!車両番号
|02-120<br />:<br />02-153||02-220<br />:<br />02-253||02-320<br />:<br />02-353
|02-420<br />:<br />02-453||02-520<br />:<br />02-553||02-620<br />:<br />02-653
|}
{{-}}
{{Reflist|group="*"}}
{|style="font-size:80%; text-align:left; vertical-align:top;"
|-
|colspan="2"|
;凡例
|
;備考
|-
|style="vertical-align:top;"|
* CHP: チョッパ制御装置
* VVVF: VVVFインバータ装置
* CP: 空気圧縮機
* BT: 蓄電池
|style="vertical-align:top;"|
* MG: 15 kVA電動発電機
* SIV1: 40 kVA静止形インバータ
* SIV2: 110 kVA静止形インバータ
* SIV4: 160 kVA静止形インバータ
|style="vertical-align:top;"|
* 前述のように分巻チョッパ車はVVVFインバータ制御に改修中で、<br />改修を終えた編成はM車の制御装置がVVVFインバータ装置に、<br />02-300形の補助電源が160 kVA静止形インバータに交換されている。
* 第16編成および第50編成は[[1995年]][[3月20日]]に発生した[[地下鉄サリン事件]]で被害を受けた編成
|}
{{-}}
== 受賞・ラッピング車両など ==
* [[1989年]](平成元年)[[12月20日]]、[[鉄道友の会]]の1989年[[グローリア賞]]を受賞した<ref name="TRTA60th-95P"/>。これは営団地下鉄[[営団01系電車|01系]]、02系、[[営団03系電車|03系]]、[[営団05系電車|05系]]の各新系列車両に対しての賞である。
* [[2003年]](平成15年)末から、丸ノ内線池袋 - 御茶ノ水間開業50周年を記念して第50編成に開業当時の車両の塗装の[[ラッピング車両|ラッピング]]が施された。この編成は[[2004年]](平成16年)[[1月24日]]に[[臨時列車]]に充当された後、[[小石川車両基地|小石川検車区]]で構内イベントが開催された。その後、[[2月25日]]から[[3月31日]]まで通常ダイヤに組み込まれて運転された。なおこれは、[[ロッテ]]の[[ガーナチョコレート]]のプロモーションによるものである。
また、東京メトロ移行後初期まで前面に「[[ADトレイン|U LINER]]」という車内広告1社のみのラッピング装飾編成が存在した。
また、[[東京マラソン]]が開催される時期には銀座線用車両とともに応援列車を走らせている。車内は、扉に東京マラソンのゴールをイメージしたラッピングと窓部にランナーのラッピングが施されている。車内広告は、東京マラソンの協賛をしている会社<ref group="注">東京メトロ自体も東京マラソン協賛企業の一つである。</ref>の広告のみとなっている。
== 置き換え ==
東京メトロでは営団時代より、経年12年目で'''C修工事'''と称する簡易な改修工事(ゴム材や床関係の改修)、3回目の全般検査になる24年目で'''B修工事'''と称する大規模な改修工事(内装取り替えと電気品の更新)、36年目でC修工事、6回目の全般検査になる48年目で[[廃車 (鉄道)|廃車]]となるライフサイクルを見込んでいるが、これはモデルケースであり、必ずしもこの時期に改修工事や廃車が実施されるとは限らず、東京メトロでは01系や一部の03系のようにB修工事を施工することなく置き換えられている事例もある。
本系列の一部車両に見劣りが目立ってきたことと、丸ノ内線に導入予定の[[CBTC]](無線式列車制御システム)に02系が対応できないため、東京メトロの中期経営計画で、2018年度から2022年度にかけて6両編成の新型車両を53編成投入すると発表した。2018年3月に詳細が公表され、形式も[[東京メトロ2000系電車|2000系]]に決定した<ref name="press20180326">{{Cite press release |1=和書 |title=丸ノ内線新型車両2000系を導入します |url=http://www.tokyometro.jp/news/2018/191831.html |publisher=東京地下鉄 |date=2018-03-26 |accessdate=2018-03-26 |archive-date=2018年4月28日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180428184439/http://www.tokyometro.jp/news/2018/191831.html |url-status=live }}</ref>。ただし前述のように、当初は全53編成に大規模改修工事を施工する予定であったが、CBTC導入決定により第20編成以降の改修を中止し、新型車両導入に変更された。
その後2019年1月26日のダイヤ改正で[[方南町駅]]のホーム延伸工事が完成し、2000系を含めて支線の6連入線が可能となったが、この時点では3連の運用は未定となっていた<ref>{{Cite web|和書|title=中期経営計画「東京メトロプラン 2018」 |url=http://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf |publisher=東京地下鉄 |format=PDF |page=15 |accessdate=2016-05-26 }} {{Wayback|url=http://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf |date=20210130122303 }}</ref>。後年の利用状況の変化もあり、2022年7月7日のプレスリリースにて同年8月27日のダイヤ改正をもって3連の運用が取りやめられ丸ノ内線全列車を6両編成に統一する事が発表された<ref>{{Cite press release |1=和書 |url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220707_38.pdf |title=銀座線、丸ノ内線、東西線、千代田線2022年8月ダイヤ改正のお知らせ |publisher=東京地下鉄 |format=pdf |date=2022-07-07 |accessdate=2022-07-07 |archive-date=2022年7月7日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220707121650/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220707_38.pdf |url-status=live }}</ref>。これにより、3両編成である02系80番台は運用を離脱し、全車廃車となった。
東京メトロでは、国際協力機構発注の「フィリピン国フィリピン鉄道訓練センター設立・運営能力強化支援プロジェクト」に参加し、フィリピンでの鉄道人材育成に携わっており、FEATI大学(ファーッティ大学)ともプロジェクトを通し関係を築き、FEATI大学は同国の私立大学では初めて鉄道関係学科を新設することとなった。今回FEATI大学からの鉄道関係設備寄贈依頼に応え、02系2両(02-151・02-251)の無償譲渡を決定した。2020年2月に同大学へ設置され、教材として活用される。東京メトロは、引き続きフィリピンにおける鉄道人材の育成への支援を行い、フィリピンの都市交通機能向上、日比両国の友好関係の強化につながるよう努めるとしている<ref>{{Cite web|和書|title=フィリピンFEATI大学へ丸ノ内線02系車両を譲渡します |url=https://www.tokyometro.jp/news/2020/205531.html |publisher=東京地下鉄 |accessdate=2020-01-21 }} {{Wayback|url=https://www.tokyometro.jp/news/2020/205531.html |date=20200222072941 }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 帝都高速度交通営団『60年のあゆみ - 営団地下鉄車両2000両突破記念 - 』
* 交通新聞社『営団地下鉄車両写真集 - 4Sを支えてきた車両たち - 』
*[[日本鉄道運転協会]]『運転協会誌』2002年6月号「営団0系車両のデザイン」(岩根喜広 帝都高速度交通営団・車両部設計課 主任)
* 交友社「[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]」
** 1988年11月号 新車ガイド:丸ノ内線02系誕生(資料提供:帝都高速度交通営団)
** 1991年9月号 特集:営団地下鉄50年/6000系電車20年
** 1993年4月号CAR INFO 営団02系VVVF車
** 1996年10月号 特集:カラフル営団地下鉄2401両
** 2004年9月号 特集:東京メトロ
* [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]『[[鉄道ピクトリアル]]』
** 1989年5月臨時増刊号新車年鑑1989年版「帝都高速度交通営団02系」(帝都高速度交通営団車両部設計課 本堂繁 著)
** 1995年7月号臨時増刊号 帝都高速度交通営団特集
** 2005年4月号臨時増刊号 東京地下鉄特集
** 新車年鑑/鉄道車両年鑑 1990年版以降各年版
* 改修工事車について
** 交友社「鉄道ファン」2010年4月号 CAR INFO「東京地下鉄02系大規模改修車」(資料提供・取材協力:東京地下鉄)
** レールアンドテック出版「鉄道車両と技術」No.162号記事「東京メトロ02系改造工事と改造車の概要」(東京地下鉄株式会社 鉄道本部車両部設計課 北島誠 著)
**日本鉄道運転協会「運転協会誌」2011年8月号新型車両プロフィールガイド「東京地下鉄丸ノ内線02系大規模改修工事車両の概要」(東京地下鉄 (株) 鉄道本部車両部設計課 島崎宏文 著)
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tokyo Metro 02 series}}
* [https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/cars/working/marunouchi_02/index.html 線別車両紹介(東京メトロの車両→丸ノ内線02系)]
* [https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/cars/working/marunouchi_02b/index.html 線別車両紹介(東京メトロの車両→丸ノ内線02系分岐車)]
* 改修車について
** 鉄道ホビダス [https://web.archive.org/web/20160809225747/http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2010/01/post_1197.html 編集長敬白「東京メトロ02系大規模改修工事車輌にサインウエーブ復活。」](インターネットアーカイブ)
** 「[https://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-01.html 丸ノ内線車両に懐かしのサインウェーブが復活いたします]」 東京メトロニュースリリース 2010年1月14日
{{東京地下鉄の車両}}
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[[Category:東京地下鉄の電車|02]]
[[Category:1988年製の鉄道車両|えいたん電02]]
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2003-09-20T02:48:30Z
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17,506 |
営団03系電車
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営団03系電車(えいだん03けいでんしゃ)は、1988年に登場した、帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
老朽化した3000系の取り替えと列車増発、さらに日比谷線の車両冷房実施を目的として投入された。製造メーカーは第01編成が川崎重工業、第02編成が日本車輌製造、それ以外は近畿車輛と東急車輛製造である。全車3扉の編成(22本)と両端の2両を5扉車とした編成(20本)に大別される。
1980年代後半に入った当時、日比谷線は混雑が年々増加しており、それまでは駅施設やダイヤの改良で輸送力増強を行ってきたが、1988年に急きょ車両増備(新形車両を投入)による輸送力増強を実施することになった。この新形車両の製作決定から搬入の予定までは非常に短かったが、当時銀座線用の01系をベースとした東西線輸送力増強用の新形車両(現在の05系)の設計・開発が進んでいたことから、基本的な設計や機器は05系とほぼ同様なものとした。
当初は3000系の車齢が30年に達する1990年(平成2年)頃に新形車両を投入することを検討していたが 、投入時期が前倒しとなった。このため、製作決定から営業運転までの期間は約10か月と短く、設計を担当する側には多くの苦労があった 。また、設計にあたっては営団内でも技術面やデザイン的に優れていた3000系を意識し、「ハイクォリティ」・「アダルトセンス」をテーマにした。
1989年(平成元年)12月20日、鉄道友の会の1989年グローリア賞を受賞した。これは本系列および01系・02系・05系の各新系列車両に対しての賞である。
全長18m・片側3扉、直流1,500V架線集電方式の狭軌線用アルミ製車両であり、MT比4M4Tの8両編成を構成する。構体・外板などはアルミニウムの大形押出形材・中空構造のを使用し、連続ミグ溶接工法により組み立てている。
外観は曲線形状の前面やフロントガラスなど3000系のイメージを残している。前面ガラス上部には行先表示器・運行表示器と車両番号表記の2つの窓があり、これらは周囲を黒く塗装することで前面ガラスと一体感を持たせた。前面には地下鉄線内におけるプラグドアを用いた非常扉を設置する。日比谷線のラインカラーであるシルバーライン(表記上は灰色)に、アクセントとしてダークブラウン・アイボリーの細い帯が上下に入る。
前面に行先表示器・運行番号表示器が、側面には行先表示器が設置されている。4次車までは前面・側面ともに日本語とローマ字表記の入った字幕式である。5次車以降は行先・運行番号表示器ともLED式で、側面のみローマ字表記が入る。
冷房装置は集中式を1基搭載し、冷凍能力は48.84kW(42,000kcal/h)であり、営団の新規系列では初の冷房装置搭載車である。装置にはきめ細かな温度制御や省エネルギー効果の高いインバータ制御方式を採用した。これはDCコンバータからの直流600Vを電源とし、クーラー内のインバータで交流に変換しながら乗車率(応荷重装置で検知)や車内外の温度に応じてマイコンが最適な室温となるよう可変制御するものである。
初期車では外観形状は角型で、手動操作式(冷房・暖房・除湿・送風モードを選択)のものである。第26編成以降は外気導入方式とし、さらにマイコンが最適な空調モードを選択する「全自動」モードを搭載した。このタイプの装置は外観形状が変更され、端部には丸みを帯びたFRPカバーが設置された。さらに初期車では車外スピーカーが外板取り付けだが、第26編成以降ではこのFRPカバー内に内蔵された。
車外スピーカーが全車に搭載されている。乗務員によるアナウンスのほか、乗務員室の車掌スイッチ近くにある乗降促進ブザースイッチ操作によりブザー音と自動アナウンスを流すことが可能である。上述のように、チョッパ仕様車は車体側面に車外スピーカーが設置されているが、後期型であるVVVF仕様車については冷房装置キセ内蔵型に変更された。
客室内装はベージュ系で「ラージサラサ模様」と呼ばれる柄入りの化粧板、床材はベージュとオリーブグリーンの2色である。袖仕切りは01系に準じた仕切りと荷棚の端が一体になったものである。網棚にはステンレス線を格子状にスポット溶接したものを使用している。
3扉車における側窓はドア間が3連窓、車端部は単窓である。3連窓のうち中央は固定式で、それ以外は開閉可能な下降窓である。いずれも遮光用に薄い灰色のカーテンが設置してある。ラッシュ時の乗降がスムーズになるように客用乗車口は有効幅を1,400mmと3000系よりも100mm広くしている。客用ドアは客室側も化粧板仕上げで、ドアガラスは3次車までは単板ガラス、4次車以降は複層ガラス構造である。各車妻面には妻面窓と貫通扉を設置する。
落成時点では座席表地が全車茶色系区分柄であったが、2001年 - 2006年(平成18年)にかけて定期検査施工の際に非バケットシート車(1 - 3次車)は紅紫色系区分柄に、バケットシート車(4次車以降)は紅紫色(優先席は青色)の総柄モケットに変更された。座席は3扉車でドア間が9人掛けの座席、車端部は4人掛けである。1人分の掛け幅は当初440mm幅だが、6次車以降は450mm幅に拡大されている。
天井は冷房用ダクトが車体全長にあり、中央に先頭車6台・中間車7台の補助送風機(ラインデリア)が収納された整風板、その両端には冷風の吹出口がある。また、この中に車内放送用スピーカーが6台設置してある。つり革は白色であり、現在は線路方向は全長に渡って、枕木方向はドア付近のみに設置される。2006年頃からは優先席部のつり革がオレンジ色に変更されている。
4次車からは座席端のスタンションポール(握り棒)は圧迫感を軽減させるために直線状から外側に向かってカーブした形状に変更された。5次車からは車内2か所に車椅子スペースを設置し、非常通報器が警報式より乗務員と相互通話可能な対話式に変更されている。その後は第01・02編成のみ後年に改造で車椅子スペースを設置した。
6次車からは前年度に落成した06系・07系の仕様が取り入れられ、袖仕切部では仕切上部のパイプに座席モケットと同じ布地を巻いた。連結面では貫通路を800mm幅から900mmに拡大し、貫通扉はガラスを下方まで広げて見通しを良くした。
2007年頃からは号車札・非常コック・非常通報器などの車内表記類を10000系と同じ蓄光製のシールへの交換が実施されている。
客用ドアの車内側上部にはLED式の車内案内表示器、ドアチャイムがある。これに行先・駅名・乗り換え路線を表示する。日比谷線内では全ての編成で自動放送と共に表示することが出来る。
初期の編成ではLEDのドットが角型であり、駅停車中の次駅表示がスクロールするようになっていたが、後期の編成はLEDのドットが丸型となり、駅停車中の次駅表示も静止表示となった。
VVVFインバータ車の第26 - 42編成は東武線内でも自動放送とともに車内案内表示器に次駅名などの情報を表示することが出来るが、チョッパ制御車の第01 - 25編成は東武線内での車内案内表示器は「この電車は東武動物公園ゆき」のように行先のみの固定表示で、自動放送も行われていない。
また、以前はドアチャイムも東急線内では全編成、東武線内でも第25編成までは鳴動していなかったが、その後全編成が鳴動するようになった。
薄い緑色、運転台計器盤周辺は紺色を基調としたデスクタイプである。本形式からは乗務員の居住性向上のため、室内スペースを線路方向に1,900mmと広めに確保するようになった。運転台には縦軸回転式マスコンハンドル(デッドマン装置付・力行1 - 4ノッチ)、ブレーキ設定器は電気指令式のもの(常用ブレーキ1 - 7段・非常)を設置する。
第26編成以降は運転台計器盤の形状が変更されたほか、マスコン・ブレーキ設定器はカム式から無接点式に変更した。さらにブレーキ設定器は挿入式(チョッパ制御車)から固定式(VVVFインバータ制御車)に変更された。
速度計は120km/h表示であり、白地でオレンジ色に電照するものである。当初は黒地に平板であったが、1997年(平成9年)3月の東横線のATC-P化時に車内信号対応タイプに交換された。車掌台には行先表示器・車内表示器の操作器がある。
計器盤右側には車両制御情報管理装置(TIS・後述)のモニター画面が設置される。当初はオレンジ色の単色モニターであったが、2003年までにカラーモニターに交換をした。
乗務員室仕切りは運転席背面に大窓・右側に乗務員室仕切扉があるもので、遮光幕は大窓部分のみに設置され、乗務員室扉部に遮光幕は設置していない。同様の仕切窓配置は後の06系・07系でも見られる。
1 - 4次車と5次車の前期車(第01 - 25編成)は銀座線用の01系で実績のある高周波分巻チョッパ制御(1C8M制御、主電動機出力160kW)を採用しており、素子には大容量のGTOサイリスタ(電機子チョッパは4,500 V - 3,000A・界磁チョッパは4,500V - 600A)を採用した。制御論理部には16 bit 高性能マイコンによる全デジタル制御を採用しており、「高粘着制御」と「加速度一定制御」を導入し、さらなる車両性能の向上が図られている(アンチスリップ・スライド制御。日立製作所の資料ではアダプティブクリープ制御と書かれている)。制御マイコンにより、走行中常に変化する各車軸の粘着係数を最大限に引き出すことにより、期待粘着係数19.1%、MT比1:1で起動加速度3.3km/h/sを実現している。チョッパ装置の素周波数は、電機子チョッパが力行時300Hz⇔600Hz⇔900Hz(可逆周波数制御付)、ブレーキ時は900Hz(二相一重・合成周波数は最大1,800Hz)、界磁チョッパが300Hz(単相)である。第01編成・3次・4次車は三菱電機製、第02編成・2次・5次車(前半)は日立製作所製を搭載する。台車はSUミンデン式(U形ゴムパッドを挿入した片板バネ式)ボルスタレス台車(SS-111・SS-011形)を使用する。
5次車の後期車(第26 - 42編成)からはIGBT素子(三菱電機製の耐圧は1,700V - 400A 日立製作所製の耐圧は2000V/325A)を使用した3レベルVVVFインバータ制御(1C2M4群制御、主電動機出力190kW)をそれぞれ採用している。メーカーは5次(後半)・6次車が日立製、7次車は三菱電機製である。台車はモノリンク式ボルスタレス台車(SS-135・SS-035)に変更されている。この第26編成以降、電動車に設置されていた主電動機点検蓋は廃止された。VVVFインバータ車は識別のために前面ガラス下部に「V」と表記したシールを貼り付けしている。
ブレーキ装置はATCと連動した回生ブレーキ併用の全電気指令式ブレーキであり、遅れ込め制御形である(保安ブレーキ・耐雪ブレーキ付き)。本形式では基礎ブレーキに保守の容易なユニットブレーキを採用した。
空気圧縮機 (CP) は01系で採用したC-2000LA形をベースに、電動機を交流化したC-2500LB形が採用された。このCPは以降、2002年(平成14年)に製造される半蔵門線用08系まで、02系を除く新造車に採用が続いた。
補助電源装置はDC-DCコンバータと呼ばれる直流変換装置が採用された。これは架線からの直流1,500Vを直流600Vに変換し、冷房装置・暖房器やCPに供給、さらにコンバータに内蔵した静止形インバータで単相交流に変換や整流器で直流電源に変換して各機器に供給する。チョッパ制御車ではコンバータ素子にGTOサイリスタを使用した装置を、VVVFインバータ車ではIGBT素子を使用した装置を使用している。メーカーはどちらも三菱電機製である。
日比谷線が相互直通運転を行う東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)・日光線、及び2013年(平成25年)3月15日まで相互直通運転を行っていた東急東横線に全編成が入線を可能とした。3000系では乗り入れ先の保安設備の搭載が編成によりまちまちであり、東武線のみ入線可能な編成、東横線のみ入線可能な編成、東武線・東横線の双方に入線可能な編成の3種が存在したため、これを反省点とし、全編成に東急型ATS及び東武型ATSが搭載された。
東急型ATSについては、東横線(渋谷 - 菊名間)の保安装置が1997年(平成9年)3月にATC-Pとなって以降は使用されなくなった。2004年に千住工場が廃止されると、鷺沼工場への入出場(詳細は後述)の際に東急大井町線において再び使用されるようになったが、同線も2008年にATC化されてからは使用されていない。その後、一部編成は東急型ATSが撤去された。
ATC装置については、1997年(平成9年)3月に東急東横線の保安装置がATC-Pに変更されたため、これに対応した車上装置の更新を実施した。さらに2003年(平成15年)10月には日比谷線の新CS-ATC化が実施され、この際にも車上装置の更新が実施された。これらの更新されたATC装置は車内信号現示方式である。
本形式では、三菱電機が1988年に完成させた車両制御情報管理装置 (TIS・Train control Information management System) を採用した。これは従来の故障表示モニタを大幅に発展させたものに、マスコンからの制御指令伝送機能と定期検査時(月検査)に使用する車上検査機能を統合したものである。システム構成は先頭車にTIS中央装置を、中間車にTISユニット局を搭載し、搭載機器とは伝送線で接続してインタフェースを行うものである。主な機能は
TIS装置の採用で、車両艤装配線の削減や乗務員支援、定期検査時の効率化などを可能とした。これ以降、TIS装置は営団地下鉄の新系列車両で標準搭載となった(02系を除く)。
1990年(平成2年)9月に朝ラッシュ時の乗降時間を短縮するために編成の両端の2両(1・2・7・8号車)を5扉車とした試作車の第09編成が製造された。これは日比谷線では駅出入口がホームの前後にある場合が多いためで、乗客の集中する位置に組み込むことで乗降時間の短縮を図るものである。同時期に東武も乗り入れ車20000系の5扉車である20050型を投入している(1992年(平成4年)12月運転開始)。
外観は3扉車に準じているが、車両の構造上から客用ドアは全て1,300mm幅、車端部の窓以外が戸袋窓(固定式)とされたので、長時間停車時の換気を考慮して屋根上に強制換気装置を2台搭載している。扉間の座席は3人掛けとなり、座席定員は減少しているが立席定員は増加した。
5扉車の戸袋部の窓枠はクリーム色に着色されたFRP製で、カーテンはレールがなく、下側の金具に引っ掛けて使用するものである。ただし、車端部の窓枠は3扉車と同じ構造だが、クリーム色に着色されている。なお、編成中の3扉車の窓枠は従来と同じくアルミの無塗装品(シルバー)である。
5扉車では2扉(第2・4番目の扉 (3A/3B・4A/4B・7A/7B・8A/8B))を締め切りにすることも可能で、締め切り中は車外の扉横と車内の扉上部に「このドアは開きません」と表記したメッセージが点灯する。また、締め切り対応扉は車内側の化粧板色が通常のベージュ色ではなく薄緑色とされている。
この5扉車編成の先頭車正面には「5DOORS」と表記したマークを掲出している。新製当初はこの「5DOORS」マークは非常扉窓の下部に貼られていた。その後、視認性向上のために助士側の前面窓上部に変更された。さらにその後、東京メトロへの移行時に同位置に「ハートM」マークを貼り付けすることから、非常扉上部に変更された。
このほか、日比谷線内の各駅に設置されている乗車位置標識は、5扉車のみが該当する標識に「5DOORS」と表記したマークが入る。
試作した第09編成において朝ラッシュ時の効果が認められ(各駅の停車時分は10秒程度短縮)、本格的に量産された。第28編成までは5扉車で落成したが、ラッシュ時の必要本数の20本に達し、第29編成以降はオール3扉車に戻った。なお、5扉車は朝ラッシュピーク時の北千住発車の列車に入っていた。
なお、当初は、東武線内では整列乗車が乱れるという理由から5扉のうち2扉を締め切って運行していた。しかし、1993年(平成5年)2月末に試験的に全扉の使用を開始し、翌3月から本格的に全扉を使用する運用にした経緯がある。
東京地下鉄では2010年度時点では、工場検査の入場時期となる4年を基準に車両改修時期を定めている。経年12年目でC修工事と称する簡易な改修工事(ゴム材や床関係の改修)、24年目でB修工事と称する大規模な改修工事(内装取り替えと電気品の更新)、36年目でC修工事、48年目で廃車となるライフサイクルを見込んでいる。ただし、これはモデルケースであり、必ずしもこの時期に改修工事や廃車が実施されるとは限らない。
本系列のうち初期に製造された車両は大規模な改修工事の施工時期となる24年目に達した後も、2014年(平成26年)4月までは東京地下鉄から発表はなかった。ただし、千住検車区での施工により、2012年より制御装置の更新工事(VVVFインバータ制御化)が開始されている。改造工事は2012年12月末時点で第01 - 04編成が完了し、2015年3月末時点では08編成までの8本が施工されている。また、扉上に設置された車内案内表示器の解像度変更や2・7号車への車椅子スペース設置も同時に施工された。
2000年(平成12年)3月8日に、中目黒駅手前で死者5名、負傷者63名を発生させた列車脱線事故(営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故)を起こしている。事故の原因は、曲線区間においてボルスタレス台車の輪重の不均衡から、競り上がり脱線が起きた。この結果、脱線・大破した1両(03-802号)が廃車され、2001年(平成13年)6月に鷺沼工場に搬入され、解体された。また、同年9月に同一番号の事故代替車が日本車輌製造で製造された。車内外の表示器や運転台などは初代の車両に準じている。
この事故以降、東京メトロは新規に設計した車両にはボルスタレス台車を採用せず、全てボルスタ付き台車を採用している。なお、増備車についてはこの限りでなく、05系13次車において2004年まで採用されていた。
2016年3月から引退(2020年2月28日)までの運用線区は以下の通り。
定期検査は、千住工場の廃止以降鷺沼工場において行われていた。その際の回送では、中目黒駅 - (東急東横線) - 武蔵小杉駅 - (東急目黒線) - 元住吉検車区 - (東急目黒線) - 大岡山駅 - (東急大井町線) - 二子玉川駅 - (東急田園都市線) - 鷺沼駅間を走行する。
2013年3月16日、東横線と副都心線との直通運転開始にあわせ、日比谷線は東横線との相互直通運転を終了(終了時点では菊名駅まで乗り入れ)し、営業運転での東急への乗り入れは終了したため、以後の03系の旅客営業での直通運転先は東武線のみとなった。
2014年(平成26年)4月30日、東京地下鉄は日比谷線の車両新製及びホームドア設置について発表し、18m3扉車と5扉車が混用される日比谷線・東武スカイツリーライン直通列車の車両を全て20m級の4扉車に統一することを明らかにした。その後新型車両は7両編成となることと、近畿車輛が一括受注する事が発表され、2015年(平成27年)6月17日に形式が13000系になることが決まり、翌2016年(平成28年)12月23日から25日まで特別営業運転を実施し、2017年(平成29年)3月25日より本格的な営業運転を開始した。
13000系の営業運転開始に先行して、同年2月1日には第14編成が北館林荷扱所まで廃車回送されており、前述の中目黒駅脱線衝突事故を除いた廃車第1号となった。5扉車は2018年10月2日をもって全廃され、2020年(令和2年)2月28日をもって最後まで残った第36編成が運用を離脱したことにより、本系列の日比谷線における運用は終了した。
なお、本系列の運用終了に際してさよなら運転等のイベントは行われなかった。これについて東京メトロは「千代田線6000系の引退時、一部の鉄道ファンが車両やホームに殺到したことによる混乱により、運行に支障や、多くのお客様にご迷惑がかかる事態となったことに鑑み、引退イベント等は見合わせることとした」と理由を公表している。
廃車になった一部の車両は深川検車区行徳分室や千住検車区などに搬入・留置され、後に他社へ譲渡されている。
廃車後は、一部車両が他の鉄道事業者に譲渡された。
本系列は、新車搬入時に下記の経路で搬入されている。
車両メーカーから甲種車両輸送で東鷲宮駅まで輸送され、その後久喜駅から伊勢崎線へ入線して業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)まで輸送、折り返して竹ノ塚検車区(現・千住検車区竹ノ塚分室)へと搬入した。なお、東武線内の車両輸送にはED5080形などが使用された。
これは伊勢崎線上り線から竹ノ塚検車区へ入線するには下り線を2回横切るため、業平橋で折り返して下り線を走行して竹ノ塚検車区へと搬入するためであった。ただし、同駅の地平ホーム増設工事の開始のため、6次車は下記のルートで搬入されている。
車両メーカーから甲種車両輸送で長津田駅へと輸送され、同駅から田園都市線へ入り、鷺沼検車区へと搬入して各種整備を実施した。その後、鷺沼駅 - 二子玉川駅 - 大岡山駅- 元住吉駅折り返し- 中目黒駅 - 千住検車区へと自力回送した。
車両メーカーから甲種車両輸送で東鷲宮駅まで輸送され、その後久喜駅から伊勢崎線へ入線して東武動物公園駅へ輸送、そこから自力走行で業平橋で折り返し、竹ノ塚検車区へと搬入した。
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"text": "営団03系電車(えいだん03けいでんしゃ)は、1988年に登場した、帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。",
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"text": "老朽化した3000系の取り替えと列車増発、さらに日比谷線の車両冷房実施を目的として投入された。製造メーカーは第01編成が川崎重工業、第02編成が日本車輌製造、それ以外は近畿車輛と東急車輛製造である。全車3扉の編成(22本)と両端の2両を5扉車とした編成(20本)に大別される。",
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"text": "1980年代後半に入った当時、日比谷線は混雑が年々増加しており、それまでは駅施設やダイヤの改良で輸送力増強を行ってきたが、1988年に急きょ車両増備(新形車両を投入)による輸送力増強を実施することになった。この新形車両の製作決定から搬入の予定までは非常に短かったが、当時銀座線用の01系をベースとした東西線輸送力増強用の新形車両(現在の05系)の設計・開発が進んでいたことから、基本的な設計や機器は05系とほぼ同様なものとした。",
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"text": "当初は3000系の車齢が30年に達する1990年(平成2年)頃に新形車両を投入することを検討していたが 、投入時期が前倒しとなった。このため、製作決定から営業運転までの期間は約10か月と短く、設計を担当する側には多くの苦労があった 。また、設計にあたっては営団内でも技術面やデザイン的に優れていた3000系を意識し、「ハイクォリティ」・「アダルトセンス」をテーマにした。",
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"text": "1989年(平成元年)12月20日、鉄道友の会の1989年グローリア賞を受賞した。これは本系列および01系・02系・05系の各新系列車両に対しての賞である。",
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"text": "全長18m・片側3扉、直流1,500V架線集電方式の狭軌線用アルミ製車両であり、MT比4M4Tの8両編成を構成する。構体・外板などはアルミニウムの大形押出形材・中空構造のを使用し、連続ミグ溶接工法により組み立てている。",
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"text": "外観は曲線形状の前面やフロントガラスなど3000系のイメージを残している。前面ガラス上部には行先表示器・運行表示器と車両番号表記の2つの窓があり、これらは周囲を黒く塗装することで前面ガラスと一体感を持たせた。前面には地下鉄線内におけるプラグドアを用いた非常扉を設置する。日比谷線のラインカラーであるシルバーライン(表記上は灰色)に、アクセントとしてダークブラウン・アイボリーの細い帯が上下に入る。",
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"text": "前面に行先表示器・運行番号表示器が、側面には行先表示器が設置されている。4次車までは前面・側面ともに日本語とローマ字表記の入った字幕式である。5次車以降は行先・運行番号表示器ともLED式で、側面のみローマ字表記が入る。",
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"text": "冷房装置は集中式を1基搭載し、冷凍能力は48.84kW(42,000kcal/h)であり、営団の新規系列では初の冷房装置搭載車である。装置にはきめ細かな温度制御や省エネルギー効果の高いインバータ制御方式を採用した。これはDCコンバータからの直流600Vを電源とし、クーラー内のインバータで交流に変換しながら乗車率(応荷重装置で検知)や車内外の温度に応じてマイコンが最適な室温となるよう可変制御するものである。",
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"text": "初期車では外観形状は角型で、手動操作式(冷房・暖房・除湿・送風モードを選択)のものである。第26編成以降は外気導入方式とし、さらにマイコンが最適な空調モードを選択する「全自動」モードを搭載した。このタイプの装置は外観形状が変更され、端部には丸みを帯びたFRPカバーが設置された。さらに初期車では車外スピーカーが外板取り付けだが、第26編成以降ではこのFRPカバー内に内蔵された。",
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"text": "車外スピーカーが全車に搭載されている。乗務員によるアナウンスのほか、乗務員室の車掌スイッチ近くにある乗降促進ブザースイッチ操作によりブザー音と自動アナウンスを流すことが可能である。上述のように、チョッパ仕様車は車体側面に車外スピーカーが設置されているが、後期型であるVVVF仕様車については冷房装置キセ内蔵型に変更された。",
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"text": "客室内装はベージュ系で「ラージサラサ模様」と呼ばれる柄入りの化粧板、床材はベージュとオリーブグリーンの2色である。袖仕切りは01系に準じた仕切りと荷棚の端が一体になったものである。網棚にはステンレス線を格子状にスポット溶接したものを使用している。",
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"text": "3扉車における側窓はドア間が3連窓、車端部は単窓である。3連窓のうち中央は固定式で、それ以外は開閉可能な下降窓である。いずれも遮光用に薄い灰色のカーテンが設置してある。ラッシュ時の乗降がスムーズになるように客用乗車口は有効幅を1,400mmと3000系よりも100mm広くしている。客用ドアは客室側も化粧板仕上げで、ドアガラスは3次車までは単板ガラス、4次車以降は複層ガラス構造である。各車妻面には妻面窓と貫通扉を設置する。",
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"text": "落成時点では座席表地が全車茶色系区分柄であったが、2001年 - 2006年(平成18年)にかけて定期検査施工の際に非バケットシート車(1 - 3次車)は紅紫色系区分柄に、バケットシート車(4次車以降)は紅紫色(優先席は青色)の総柄モケットに変更された。座席は3扉車でドア間が9人掛けの座席、車端部は4人掛けである。1人分の掛け幅は当初440mm幅だが、6次車以降は450mm幅に拡大されている。",
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"text": "天井は冷房用ダクトが車体全長にあり、中央に先頭車6台・中間車7台の補助送風機(ラインデリア)が収納された整風板、その両端には冷風の吹出口がある。また、この中に車内放送用スピーカーが6台設置してある。つり革は白色であり、現在は線路方向は全長に渡って、枕木方向はドア付近のみに設置される。2006年頃からは優先席部のつり革がオレンジ色に変更されている。",
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"text": "4次車からは座席端のスタンションポール(握り棒)は圧迫感を軽減させるために直線状から外側に向かってカーブした形状に変更された。5次車からは車内2か所に車椅子スペースを設置し、非常通報器が警報式より乗務員と相互通話可能な対話式に変更されている。その後は第01・02編成のみ後年に改造で車椅子スペースを設置した。",
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"text": "6次車からは前年度に落成した06系・07系の仕様が取り入れられ、袖仕切部では仕切上部のパイプに座席モケットと同じ布地を巻いた。連結面では貫通路を800mm幅から900mmに拡大し、貫通扉はガラスを下方まで広げて見通しを良くした。",
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"text": "2007年頃からは号車札・非常コック・非常通報器などの車内表記類を10000系と同じ蓄光製のシールへの交換が実施されている。",
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"text": "客用ドアの車内側上部にはLED式の車内案内表示器、ドアチャイムがある。これに行先・駅名・乗り換え路線を表示する。日比谷線内では全ての編成で自動放送と共に表示することが出来る。",
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"text": "初期の編成ではLEDのドットが角型であり、駅停車中の次駅表示がスクロールするようになっていたが、後期の編成はLEDのドットが丸型となり、駅停車中の次駅表示も静止表示となった。",
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"text": "VVVFインバータ車の第26 - 42編成は東武線内でも自動放送とともに車内案内表示器に次駅名などの情報を表示することが出来るが、チョッパ制御車の第01 - 25編成は東武線内での車内案内表示器は「この電車は東武動物公園ゆき」のように行先のみの固定表示で、自動放送も行われていない。",
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"text": "また、以前はドアチャイムも東急線内では全編成、東武線内でも第25編成までは鳴動していなかったが、その後全編成が鳴動するようになった。",
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"text": "薄い緑色、運転台計器盤周辺は紺色を基調としたデスクタイプである。本形式からは乗務員の居住性向上のため、室内スペースを線路方向に1,900mmと広めに確保するようになった。運転台には縦軸回転式マスコンハンドル(デッドマン装置付・力行1 - 4ノッチ)、ブレーキ設定器は電気指令式のもの(常用ブレーキ1 - 7段・非常)を設置する。",
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"text": "第26編成以降は運転台計器盤の形状が変更されたほか、マスコン・ブレーキ設定器はカム式から無接点式に変更した。さらにブレーキ設定器は挿入式(チョッパ制御車)から固定式(VVVFインバータ制御車)に変更された。",
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"text": "速度計は120km/h表示であり、白地でオレンジ色に電照するものである。当初は黒地に平板であったが、1997年(平成9年)3月の東横線のATC-P化時に車内信号対応タイプに交換された。車掌台には行先表示器・車内表示器の操作器がある。",
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"text": "計器盤右側には車両制御情報管理装置(TIS・後述)のモニター画面が設置される。当初はオレンジ色の単色モニターであったが、2003年までにカラーモニターに交換をした。",
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"text": "乗務員室仕切りは運転席背面に大窓・右側に乗務員室仕切扉があるもので、遮光幕は大窓部分のみに設置され、乗務員室扉部に遮光幕は設置していない。同様の仕切窓配置は後の06系・07系でも見られる。",
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"text": "1 - 4次車と5次車の前期車(第01 - 25編成)は銀座線用の01系で実績のある高周波分巻チョッパ制御(1C8M制御、主電動機出力160kW)を採用しており、素子には大容量のGTOサイリスタ(電機子チョッパは4,500 V - 3,000A・界磁チョッパは4,500V - 600A)を採用した。制御論理部には16 bit 高性能マイコンによる全デジタル制御を採用しており、「高粘着制御」と「加速度一定制御」を導入し、さらなる車両性能の向上が図られている(アンチスリップ・スライド制御。日立製作所の資料ではアダプティブクリープ制御と書かれている)。制御マイコンにより、走行中常に変化する各車軸の粘着係数を最大限に引き出すことにより、期待粘着係数19.1%、MT比1:1で起動加速度3.3km/h/sを実現している。チョッパ装置の素周波数は、電機子チョッパが力行時300Hz⇔600Hz⇔900Hz(可逆周波数制御付)、ブレーキ時は900Hz(二相一重・合成周波数は最大1,800Hz)、界磁チョッパが300Hz(単相)である。第01編成・3次・4次車は三菱電機製、第02編成・2次・5次車(前半)は日立製作所製を搭載する。台車はSUミンデン式(U形ゴムパッドを挿入した片板バネ式)ボルスタレス台車(SS-111・SS-011形)を使用する。",
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"paragraph_id": 31,
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"text": "補助電源装置はDC-DCコンバータと呼ばれる直流変換装置が採用された。これは架線からの直流1,500Vを直流600Vに変換し、冷房装置・暖房器やCPに供給、さらにコンバータに内蔵した静止形インバータで単相交流に変換や整流器で直流電源に変換して各機器に供給する。チョッパ制御車ではコンバータ素子にGTOサイリスタを使用した装置を、VVVFインバータ車ではIGBT素子を使用した装置を使用している。メーカーはどちらも三菱電機製である。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "日比谷線が相互直通運転を行う東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)・日光線、及び2013年(平成25年)3月15日まで相互直通運転を行っていた東急東横線に全編成が入線を可能とした。3000系では乗り入れ先の保安設備の搭載が編成によりまちまちであり、東武線のみ入線可能な編成、東横線のみ入線可能な編成、東武線・東横線の双方に入線可能な編成の3種が存在したため、これを反省点とし、全編成に東急型ATS及び東武型ATSが搭載された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "東急型ATSについては、東横線(渋谷 - 菊名間)の保安装置が1997年(平成9年)3月にATC-Pとなって以降は使用されなくなった。2004年に千住工場が廃止されると、鷺沼工場への入出場(詳細は後述)の際に東急大井町線において再び使用されるようになったが、同線も2008年にATC化されてからは使用されていない。その後、一部編成は東急型ATSが撤去された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ATC装置については、1997年(平成9年)3月に東急東横線の保安装置がATC-Pに変更されたため、これに対応した車上装置の更新を実施した。さらに2003年(平成15年)10月には日比谷線の新CS-ATC化が実施され、この際にも車上装置の更新が実施された。これらの更新されたATC装置は車内信号現示方式である。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "本形式では、三菱電機が1988年に完成させた車両制御情報管理装置 (TIS・Train control Information management System) を採用した。これは従来の故障表示モニタを大幅に発展させたものに、マスコンからの制御指令伝送機能と定期検査時(月検査)に使用する車上検査機能を統合したものである。システム構成は先頭車にTIS中央装置を、中間車にTISユニット局を搭載し、搭載機器とは伝送線で接続してインタフェースを行うものである。主な機能は",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "TIS装置の採用で、車両艤装配線の削減や乗務員支援、定期検査時の効率化などを可能とした。これ以降、TIS装置は営団地下鉄の新系列車両で標準搭載となった(02系を除く)。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1990年(平成2年)9月に朝ラッシュ時の乗降時間を短縮するために編成の両端の2両(1・2・7・8号車)を5扉車とした試作車の第09編成が製造された。これは日比谷線では駅出入口がホームの前後にある場合が多いためで、乗客の集中する位置に組み込むことで乗降時間の短縮を図るものである。同時期に東武も乗り入れ車20000系の5扉車である20050型を投入している(1992年(平成4年)12月運転開始)。",
"title": "5扉車"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "外観は3扉車に準じているが、車両の構造上から客用ドアは全て1,300mm幅、車端部の窓以外が戸袋窓(固定式)とされたので、長時間停車時の換気を考慮して屋根上に強制換気装置を2台搭載している。扉間の座席は3人掛けとなり、座席定員は減少しているが立席定員は増加した。",
"title": "5扉車"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "5扉車の戸袋部の窓枠はクリーム色に着色されたFRP製で、カーテンはレールがなく、下側の金具に引っ掛けて使用するものである。ただし、車端部の窓枠は3扉車と同じ構造だが、クリーム色に着色されている。なお、編成中の3扉車の窓枠は従来と同じくアルミの無塗装品(シルバー)である。",
"title": "5扉車"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "5扉車では2扉(第2・4番目の扉 (3A/3B・4A/4B・7A/7B・8A/8B))を締め切りにすることも可能で、締め切り中は車外の扉横と車内の扉上部に「このドアは開きません」と表記したメッセージが点灯する。また、締め切り対応扉は車内側の化粧板色が通常のベージュ色ではなく薄緑色とされている。",
"title": "5扉車"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "この5扉車編成の先頭車正面には「5DOORS」と表記したマークを掲出している。新製当初はこの「5DOORS」マークは非常扉窓の下部に貼られていた。その後、視認性向上のために助士側の前面窓上部に変更された。さらにその後、東京メトロへの移行時に同位置に「ハートM」マークを貼り付けすることから、非常扉上部に変更された。",
"title": "5扉車"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "このほか、日比谷線内の各駅に設置されている乗車位置標識は、5扉車のみが該当する標識に「5DOORS」と表記したマークが入る。",
"title": "5扉車"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "試作した第09編成において朝ラッシュ時の効果が認められ(各駅の停車時分は10秒程度短縮)、本格的に量産された。第28編成までは5扉車で落成したが、ラッシュ時の必要本数の20本に達し、第29編成以降はオール3扉車に戻った。なお、5扉車は朝ラッシュピーク時の北千住発車の列車に入っていた。",
"title": "5扉車"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なお、当初は、東武線内では整列乗車が乱れるという理由から5扉のうち2扉を締め切って運行していた。しかし、1993年(平成5年)2月末に試験的に全扉の使用を開始し、翌3月から本格的に全扉を使用する運用にした経緯がある。",
"title": "5扉車"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "東京地下鉄では2010年度時点では、工場検査の入場時期となる4年を基準に車両改修時期を定めている。経年12年目でC修工事と称する簡易な改修工事(ゴム材や床関係の改修)、24年目でB修工事と称する大規模な改修工事(内装取り替えと電気品の更新)、36年目でC修工事、48年目で廃車となるライフサイクルを見込んでいる。ただし、これはモデルケースであり、必ずしもこの時期に改修工事や廃車が実施されるとは限らない。",
"title": "修繕工事"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "本系列のうち初期に製造された車両は大規模な改修工事の施工時期となる24年目に達した後も、2014年(平成26年)4月までは東京地下鉄から発表はなかった。ただし、千住検車区での施工により、2012年より制御装置の更新工事(VVVFインバータ制御化)が開始されている。改造工事は2012年12月末時点で第01 - 04編成が完了し、2015年3月末時点では08編成までの8本が施工されている。また、扉上に設置された車内案内表示器の解像度変更や2・7号車への車椅子スペース設置も同時に施工された。",
"title": "修繕工事"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)3月8日に、中目黒駅手前で死者5名、負傷者63名を発生させた列車脱線事故(営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故)を起こしている。事故の原因は、曲線区間においてボルスタレス台車の輪重の不均衡から、競り上がり脱線が起きた。この結果、脱線・大破した1両(03-802号)が廃車され、2001年(平成13年)6月に鷺沼工場に搬入され、解体された。また、同年9月に同一番号の事故代替車が日本車輌製造で製造された。車内外の表示器や運転台などは初代の車両に準じている。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "この事故以降、東京メトロは新規に設計した車両にはボルスタレス台車を採用せず、全てボルスタ付き台車を採用している。なお、増備車についてはこの限りでなく、05系13次車において2004年まで採用されていた。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2016年3月から引退(2020年2月28日)までの運用線区は以下の通り。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "定期検査は、千住工場の廃止以降鷺沼工場において行われていた。その際の回送では、中目黒駅 - (東急東横線) - 武蔵小杉駅 - (東急目黒線) - 元住吉検車区 - (東急目黒線) - 大岡山駅 - (東急大井町線) - 二子玉川駅 - (東急田園都市線) - 鷺沼駅間を走行する。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2013年3月16日、東横線と副都心線との直通運転開始にあわせ、日比谷線は東横線との相互直通運転を終了(終了時点では菊名駅まで乗り入れ)し、営業運転での東急への乗り入れは終了したため、以後の03系の旅客営業での直通運転先は東武線のみとなった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2014年(平成26年)4月30日、東京地下鉄は日比谷線の車両新製及びホームドア設置について発表し、18m3扉車と5扉車が混用される日比谷線・東武スカイツリーライン直通列車の車両を全て20m級の4扉車に統一することを明らかにした。その後新型車両は7両編成となることと、近畿車輛が一括受注する事が発表され、2015年(平成27年)6月17日に形式が13000系になることが決まり、翌2016年(平成28年)12月23日から25日まで特別営業運転を実施し、2017年(平成29年)3月25日より本格的な営業運転を開始した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "13000系の営業運転開始に先行して、同年2月1日には第14編成が北館林荷扱所まで廃車回送されており、前述の中目黒駅脱線衝突事故を除いた廃車第1号となった。5扉車は2018年10月2日をもって全廃され、2020年(令和2年)2月28日をもって最後まで残った第36編成が運用を離脱したことにより、本系列の日比谷線における運用は終了した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なお、本系列の運用終了に際してさよなら運転等のイベントは行われなかった。これについて東京メトロは「千代田線6000系の引退時、一部の鉄道ファンが車両やホームに殺到したことによる混乱により、運行に支障や、多くのお客様にご迷惑がかかる事態となったことに鑑み、引退イベント等は見合わせることとした」と理由を公表している。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "廃車になった一部の車両は深川検車区行徳分室や千住検車区などに搬入・留置され、後に他社へ譲渡されている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "廃車後は、一部車両が他の鉄道事業者に譲渡された。",
"title": "他社への譲渡"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "本系列は、新車搬入時に下記の経路で搬入されている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "車両メーカーから甲種車両輸送で東鷲宮駅まで輸送され、その後久喜駅から伊勢崎線へ入線して業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)まで輸送、折り返して竹ノ塚検車区(現・千住検車区竹ノ塚分室)へと搬入した。なお、東武線内の車両輸送にはED5080形などが使用された。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "これは伊勢崎線上り線から竹ノ塚検車区へ入線するには下り線を2回横切るため、業平橋で折り返して下り線を走行して竹ノ塚検車区へと搬入するためであった。ただし、同駅の地平ホーム増設工事の開始のため、6次車は下記のルートで搬入されている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "車両メーカーから甲種車両輸送で長津田駅へと輸送され、同駅から田園都市線へ入り、鷺沼検車区へと搬入して各種整備を実施した。その後、鷺沼駅 - 二子玉川駅 - 大岡山駅- 元住吉駅折り返し- 中目黒駅 - 千住検車区へと自力回送した。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "車両メーカーから甲種車両輸送で東鷲宮駅まで輸送され、その後久喜駅から伊勢崎線へ入線して東武動物公園駅へ輸送、そこから自力走行で業平橋で折り返し、竹ノ塚検車区へと搬入した。",
"title": "その他"
}
] |
営団03系電車(えいだん03けいでんしゃ)は、1988年に登場した、帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
|
{{鉄道車両
| 車両名 = 営団地下鉄03系電車
| 背景色 = #109ED4
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Tokyo-Metro Series03-133.jpg
| 画像説明 = 営団03系電車<br>(2018年12月 [[幸手駅]] - [[杉戸高野台駅]]間)
| 運用者 = [[帝都高速度交通営団]]<br />[[東京地下鉄]]
| 製造所 = [[近畿車輛]]<br />[[東急車輛製造]]<br />[[川崎重工業]][[川崎車両|車両カンパニー]]<ref group="*">第1編成のみ</ref></small><br />[[日本車輌製造]]<ref group="*">第2編成のみ</ref>
| 製造年 = 1988年 - 1994年・2001年(代替新造)
| 製造数 = 42編成336両+代替新造1両
| 運用開始 = 1988年7月1日
| 運用終了 = 2020年2月28日<ref name="end" />
| 投入先 = [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]
| 編成 = 8両編成(4M4T)
| 軌間 = 1,067 mm([[狭軌]])
| 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br />([[架空電車線方式]])
| 最高運転速度 = 80 km/h(日比谷線内)<br /> 100 km/h(東武伊勢崎線内)<br /> 110 km/h(東急東横線)
| 設計最高速度 = 110 km/h
| 起動加速度 = 3.3 km/h/s
| 常用減速度 = 4.0 km/h/s
| 非常減速度 = 5.0 km/h/s
| 編成定員 =
| 車両定員 =
| 自重 = 21.9 - 32.7 t(高周波分巻チョッパ車)<br /> 21.3 - 31.0 t(VVVFインバータ車)
| 編成重量 =
| 全長 = 18,100 mm(先頭車)<br /> 18,000 mm(中間車)
| 全幅 = 2,780 mm
| 全高 = 3,990 mm(第01 - 25編成)<br /> 3,973 mm(第26 - 42編成)<br /> 3,995 mm(パンタグラフ付き車両全車)
| 車体材質 = [[アルミニウム合金]]
| 台車 = SS-111・SS-011(高周波分巻チョッパ車)<br /> SS-135・SS-035(VVVFインバータ車)
| 主電動機 = [[分巻整流子電動機|直流分巻電動機]] 160[[ワット|kW]]<br />[[かご形三相誘導電動機]] 185kW<ref group="*">第01 - 08編成の更新後のみ</ref>,190kW
| 主電動機出力 =
| 駆動方式 = [[WN平行カルダン駆動方式|WN平行カルダン]]
| 歯車比 = 分巻チョッパ車 86:15 (5.73)<ref group="*">VVVF化後もこの値。</ref><br />VVVFインバータ車 109:14 (7.79)
| 編成出力 =
| 制御方式 = [[電機子チョッパ制御#高周波分巻チョッパ制御|高周波分巻チョッパ制御]]<br />[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]
| 制御装置 =
| 制動装置 = ATC連動[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]([[回生ブレーキ]]併用)
| 保安装置 = [[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]・[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]<br />[[自動列車停止装置#東武鉄道TSP式|東武型ATS]]・[[自動列車停止装置#東急型ATS|東急型ATS]]
| 備考 = '''脚注'''<br/><references group="*"/>
}}
'''営団03系電車'''(えいだん03けいでんしゃ)は、[[1988年]]に登場した<ref name="TRTA60th-95P">帝都高速度交通営団『60年のあゆみ -営団地下鉄車両2000両突破記念-』95頁</ref>、[[帝都高速度交通営団]](営団)の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である<ref name="Fan1988-9-1">交友社『鉄道ファン』1988年9月号新車ガイド「日比谷線用03系の概要」61-62頁</ref>。[[2004年]](平成16年)4月の営団民営化にともない、[[東京地下鉄]](東京メトロ)に継承された。
== 概要 ==
老朽化した[[営団3000系電車|3000系]]の取り替えと列車増発、さらに[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]の車両冷房実施を目的として投入された<ref name="PIC1988-9-1">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1988年9月号「営団地下鉄日比谷線 03系」104-105頁</ref>。製造メーカーは第01編成が[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]、第02編成が[[日本車輌製造]]、それ以外は[[近畿車輛]]と[[東急車輛製造]]である。全車3扉の編成(22本)と両端の2両を[[#5扉車|5扉車]]とした編成(20本)に大別される。
[[1980年代]]後半に入った当時、日比谷線は混雑が年々増加しており<ref name="TRTA60th-95P"/>、それまでは駅施設や[[ダイヤ改正|ダイヤの改良]]で輸送力増強を行ってきたが、1988年に急きょ車両増備(新形車両を投入)による輸送力増強を実施することになった<ref name="TRTA60th-95P"/>。この新形車両の製作決定から搬入の予定までは非常に短かったが<ref name="TRTA60th-95P"/>、当時[[東京メトロ銀座線|銀座線]]用の[[営団01系電車|01系]]をベースとした[[東京メトロ東西線|東西線]]輸送力増強用の新形車両(現在の[[営団05系電車|05系]])の設計・開発が進んでいたことから、基本的な設計や機器は05系とほぼ同様なものとした<ref name="TRTA60th-95P"/><ref name="Fan1991-9"/>。
当初は3000系の車齢が30年に達する[[1990年]]([[平成]]2年)頃に新形車両を投入することを検討していたが 、投入時期が前倒しとなった<ref name="PIC1988-9-1"/>。このため、製作決定から営業運転までの期間は約10か月と短く、設計を担当する側には多くの苦労があった<ref name="PIC1988-9-3">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1988年9月号「営団地下鉄日比谷線 03系」108-109頁</ref> 。また、設計にあたっては営団内でも技術面やデザイン的に優れていた3000系を意識し、'''「ハイクォリティ」・「アダルトセンス」'''をテーマにした<ref name="Fan1991-9">『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1991年9月号「6000系から01・02・03・05系に至るデザインプロセス」pp.40 - 41</ref>。
[[1989年]](平成元年)[[12月20日]]、[[鉄道友の会]]の1989年[[グローリア賞]]を受賞した<ref name="TRTA60th-95P"/>。これは本系列および01系・[[営団02系電車|02系]]・05系の各新系列車両に対しての賞である。
== 車両概説 ==
=== 車体 ===
全長18m・片側3扉、[[直流電化|直流]]1,500V[[架空電車線方式|架線集電方式]]の[[狭軌]]線用[[アルミニウム合金|アルミ]]製車両であり、[[MT比]]4M4Tの8両編成を構成する<ref name="Fan1988-9-1" />。構体・外板などはアルミニウムの[[押出成形|大形押出形材]]・[[ダブルスキン構造|中空構造]]のを使用し、連続[[ミグ溶接]]工法により組み立てている<ref name="PIC1988-9-2">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1988年9月号「営団地下鉄日比谷線 03系」106-107頁</ref><ref name="Fan1988-9-1" />。
外観は曲線形状の前面やフロントガラスなど3000系のイメージを残している<ref name="PIC1988-9-1" /><ref name="Fan1991-9"/>。前面ガラス上部には[[方向幕|行先表示器]]・[[列車番号|運行表示器]]と[[鉄道の車両番号|車両番号]]表記の2つの窓があり、これらは周囲を黒く塗装することで前面ガラスと一体感を持たせた<ref name="Fan1991-9"/>。前面には地下鉄線内における[[プラグドア]]を用いた[[非常口|非常扉]]を設置する<ref name="PIC1988-9-1" />。日比谷線の[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]であるシルバーライン(表記上は灰色)に、アクセントとしてダークブラウン・アイボリーの細い帯が上下に入る<ref name="Fan1988-9-2">交友社「鉄道ファン」1988年9月号新車ガイド「日比谷線用03系の概要」63-64頁</ref><ref name="Fan1991-9"/>。
前面に行先表示器・運行番号表示器が、側面には行先表示器が設置されている。4次車までは前面・側面ともに日本語とローマ字表記の入った字幕式である。5次車以降は行先・運行番号表示器とも[[発光ダイオード|LED]]式で、側面のみローマ字表記が入る。
[[エア・コンディショナー|冷房装置]]は[[集中式冷房装置|集中式]]を1基搭載し、冷凍能力は48.84kW(42,000kcal/h)であり、営団の新規系列では初の冷房装置搭載車である。装置にはきめ細かな温度制御や[[省エネルギー]]効果の高い[[インバータ]]制御方式を採用した。これはDCコンバータからの[[直流]]600Vを電源とし、クーラー内のインバータで交流に変換しながら乗車率([[応荷重装置]]で検知)や車内外の温度に応じて[[マイクロコンピュータ|マイコン]]が最適な室温となるよう可変制御するものである<ref name="Fan1988-9-3">交友社「鉄道ファン」1988年9月号新車ガイド「日比谷線用03系の概要」64-65頁</ref>。
初期車では外観形状は角型で、手動操作式(冷房・[[暖房]]・除湿・送風モードを選択)のものである。第26編成以降は外気導入方式とし、さらにマイコンが最適な空調モードを選択する「全自動」モードを搭載した<ref name="PIC1993-10"/>。このタイプの装置は外観形状が変更され、端部には丸みを帯びた[[繊維強化プラスチック|FRP]]カバーが設置された。さらに初期車では車外[[スピーカー]]が外板取り付けだが、第26編成以降ではこのFRPカバー内に内蔵された。
車外スピーカーが全車に搭載されている。乗務員によるアナウンスのほか、乗務員室の車掌スイッチ近くにある[[発車メロディ|乗降促進ブザー]]スイッチ操作によりブザー音と自動アナウンスを流すことが可能である。上述のように、チョッパ仕様車は車体側面に車外スピーカーが設置されているが、後期型であるVVVF仕様車については冷房装置キセ内蔵型に変更された。
=== 内装 ===
[[File:TokyoMetro03-802-inside.JPG|thumb|200px|初期車の車内]]
客室内装はベージュ系で「ラージサラサ模様」と呼ばれる柄入りの[[デコラ|化粧板]]、床材はベージュとオリーブグリーンの2色である<ref name="PIC1988-9-2" />。袖仕切りは01系に準じた仕切りと荷棚の端が一体になったものである<ref name="Fan1991-9"/>。[[網棚]]には[[ステンレス鋼|ステンレス線]]を格子状に[[スポット溶接]]したものを使用している<ref name="PIC1988-9-2" />。
3扉車における側窓はドア間が3連窓、車端部は単窓である<ref name="Fan1988-9-1" />。3連窓のうち中央は固定式で、それ以外は開閉可能な下降窓である。いずれも遮光用に薄い灰色の[[カーテン]]が設置してある。[[ラッシュ時]]の乗降がスムーズになるように客用乗車口は有効幅を1,400mmと3000系よりも100mm広くしている<ref name="PIC1988-9-1" />。客用ドアは客室側も化粧板仕上げで、ドアガラスは3次車までは[[単板ガラス]]、4次車以降は[[複層ガラス]]構造である。各車妻面には妻面窓と[[貫通扉]]を設置する。
落成時点では[[鉄道車両の座席|座席]]表地が全車[[茶色]]系区分柄であったが、[[2001年]] - [[2006年]](平成18年)にかけて定期検査施工の際に非バケットシート車(1 - 3次車)は[[マゼンタ|紅紫色]]系区分柄に、[[バケットシート]]車(4次車以降)は紅紫色([[優先席]]は[[青|青色]])の総柄モケットに変更された。座席は3扉車でドア間が9人掛けの座席、車端部は4人掛けである。1人分の掛け幅は当初440mm幅だが、6次車以降は450mm幅に拡大されている<ref name="PIC1993-10">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1993年10月臨時増刊号新車年鑑1993年版「帝都高速度交通営団 03系増備車(VVVF車)」p.122。</ref>。
天井は冷房用ダクトが車体全長にあり、中央に先頭車6台・中間車7台の補助送風機(ラインデリア)が収納された整風板、その両端には冷風の吹出口がある<ref name="Fan1988-9-1" />。また、この中に車内放送用[[スピーカー]]が6台設置してある<ref name="PIC1988-9-1" />。[[つり革]]は白色であり、現在は線路方向は全長に渡って、枕木方向はドア付近のみに設置される。[[2006年]]頃からは優先席部のつり革がオレンジ色に変更されている。
4次車からは座席端のスタンションポール(握り棒)は圧迫感を軽減させるために直線状から外側に向かってカーブした形状に変更された。5次車からは車内2か所に[[車椅子スペース]]を設置し、[[車内非常通報装置|非常通報器]]が警報式より[[乗務員]]と相互通話可能な対話式に変更されている。その後は第01・02編成のみ後年に改造で車椅子スペースを設置した。
6次車からは前年度に落成した[[営団06系電車|06系]]・[[営団07系電車|07系]]の仕様が取り入れられ、袖仕切部では仕切上部のパイプに座席モケットと同じ布地を巻いた。連結面では貫通路を800mm幅から900mmに拡大し、貫通扉はガラスを下方まで広げて見通しを良くした<ref name="PIC1993-10"/>。
[[2007年]]頃からは号車札・[[ドアコック|非常コック]]・非常通報器などの車内表記類を[[東京メトロ10000系電車|10000系]]と同じ蓄光製のシールへの交換が実施されている。
[[ファイル:Tokyometro03 inside first information board.png|thumb|240px|初期編成の車内案内表示器]]
客用ドアの車内側上部にはLED式の[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]、[[ドアチャイム]]がある。これに行先・駅名・乗り換え路線を表示する。日比谷線内では全ての編成で[[車内放送|自動放送]]と共に表示することが出来る。
初期の編成ではLEDのドットが角型であり、駅停車中の次駅表示がスクロールするようになっていたが、後期の編成はLEDのドットが丸型となり、駅停車中の次駅表示も静止表示となった。
VVVFインバータ車の第26 - 42編成は東武線内でも自動放送とともに車内案内表示器に次駅名などの情報を表示することが出来る<ref group="注">ただし、自動放送は2013年3月までは東武線内の英語放送には対応していなかった。</ref>が、チョッパ制御車の第01 - 25編成は東武線内での車内案内表示器は「この電車は東武動物公園ゆき」のように行先のみの固定表示で、自動放送も行われていない。
また、以前はドアチャイムも東急線内では全編成、東武線内でも第25編成までは鳴動していなかったが、その後全編成が鳴動するようになった。
==== 乗務員室 ====
薄い緑色、運転台計器盤周辺は紺色を基調としたデスクタイプである。本形式からは乗務員の居住性向上のため、室内スペースを線路方向に1,900mmと広めに確保するようになった<ref name="Fan1991-9"/>。運転台には縦軸回転式[[マスター・コントローラー|マスコンハンドル]]([[デッドマン装置]]付・[[力行]]1 - 4[[ノッチ]])、ブレーキ設定器は[[電気指令式ブレーキ|電気指令式]]のもの(常用ブレーキ1 - 7段・[[非常ブレーキ|非常]])を設置する。
第26編成以降は運転台計器盤の形状が変更されたほか、マスコン・ブレーキ設定器はカム式から無接点式に変更した<ref name="PIC1993-10"/>。さらにブレーキ設定器は挿入式(チョッパ制御車)から固定式(VVVFインバータ制御車)に変更された<ref name="PIC1993-10"/>。
[[速度計]]は120km/h表示であり、白地でオレンジ色に電照するものである。当初は黒地に平板であったが、[[1997年]](平成9年)3月の東横線のATC-P化時に[[車内信号]]対応タイプに交換された。車掌台には行先表示器・車内表示器の操作器がある。
計器盤右側には[[鉄道車両のモニタ装置|車両制御情報管理装置]](TIS・後述)のモニター画面が設置される。当初はオレンジ色の単色モニターであったが、2003年までにカラーモニターに交換をした。
乗務員室仕切りは運転席背面に大窓・右側に乗務員室仕切扉があるもので、[[遮光幕]]は大窓部分のみに設置され、乗務員室扉部に遮光幕は設置していない。同様の仕切窓配置は後の06系・07系でも見られる。
=== 機器類 ===
1 - 4次車と5次車の前期車(第01 - 25編成)は銀座線用の01系で実績のある[[電機子チョッパ制御#高周波分巻チョッパ制御|高周波分巻チョッパ制御]](1C8M制御、[[分巻整流子電動機|主電動機]]出力160kW)を採用しており、[[半導体素子|素子]]には大容量の[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]](電機子チョッパは4,500 V - 3,000A・界磁チョッパは4,500V - 600A)を採用した<ref name="Fan1988-9-1" />。制御論理部には16 [[ビット|bit]] 高性能マイコンによる全[[デジタル制御]]を採用しており、「高粘着制御」と「加速度一定制御」を導入し、さらなる車両性能の向上が図られている<ref name="TRTA60th-110P">帝都高速度交通営団『60年のあゆみ -営団地下鉄車両2000両突破記念-』110頁</ref><ref name="PIC1988-9-2"/><ref name="MITSUBISHI1989-1"/>(アンチスリップ・スライド制御。日立製作所の資料ではアダプティブクリープ制御と書かれている<ref>日立製作所『日立評論』1988年7月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1988/07/1988_07_04.pdf 最近の直流電車制御システム]}}」</ref>)。制御マイコンにより、走行中常に変化する各車軸の粘着係数を最大限に引き出すことにより、期待粘着係数19.1%、[[MT比]]1:1で[[起動加速度]]3.3km/h/sを実現している<ref name="TRTA60th-110P"/><ref name="PIC1988-9-2"/><ref name="Fan1988-9-2"/>。チョッパ装置の素周波数は、電機子チョッパが力行時300Hz⇔600Hz⇔900Hz(可逆周波数制御付)、ブレーキ時は900Hz(二相一重・合成周波数は最大1,800Hz)、界磁チョッパが300Hz(単相)である<ref name="PIC1988-9-2"/><ref name="Cyber25th">日本鉄道サイバネティクス協議会「鉄道サイバネ・シンポジウム論文集」第25回(1988年)「営団日比谷線向1500V四象限チョッパ制御装置」論文番号309。</ref>。第01編成・3次・4次車は[[三菱電機]]製、第02編成・2次・5次車(前半)は[[日立製作所]]製を搭載する。[[鉄道車両の台車|台車]]はSUミンデン式(U形ゴムパッドを挿入した片板バネ式)ボルスタレス台車(SS-111・SS-011形)を使用する<ref name="Fan1988-9-1" />。
5次車の後期車(第26 - 42編成)からは[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子(三菱電機製の耐圧は1,700V - 400A 日立製作所製の耐圧は2000V/325A)を使用した3レベル[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]](1C2M4群制御、[[かご形三相誘導電動機|主電動機]]出力190kW)をそれぞれ採用している<ref name="PIC1993-10"/>。メーカーは5次(後半)・6次車が日立製、7次車は三菱電機製である<ref name="MITSUBISHI1995-1">三菱電機『三菱電機技報』1995年1月号特集「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1995(vol69)/Vol69_01.pdf IGBT応用VVVFインバータ制御装置]}}」p.73。</ref>。台車はモノリンク式ボルスタレス台車(SS-135・SS-035)に変更されている<ref name="PIC1993-10"/>。この第26編成以降、[[動力車|電動車]]に設置されていた主電動機点検蓋は廃止された。VVVFインバータ車は識別のために前面ガラス下部に「V」と表記したシールを貼り付けしている。
ブレーキ装置はATCと連動した[[回生ブレーキ]]併用の[[電気指令式ブレーキ|全電気指令式ブレーキ]]であり、[[遅れ込め制御]]形である([[保安ブレーキ]]・[[鉄道のブレーキ#耐雪ブレーキ|対雪ブレーキ]]付き<ref group="注">営団地下鉄 - 東京地下鉄では耐雪ブレーキではなく、'''対'''雪ブレーキの名称を使用する。</ref>)<ref name="Fan1988-9-1" />。本形式では基礎ブレーキに保守の容易な[[踏面ブレーキ|ユニットブレーキ]]を採用した<ref name="Fan1988-9-1" />。
[[圧縮機|空気圧縮機 (CP)]] は01系で採用したC-2000LA形をベースに、電動機を交流化したC-2500LB形が採用された。このCPは以降、[[2002年]](平成14年)に製造される[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]用[[営団08系電車|08系]]まで、02系を除く新造車に採用が続いた。
補助電源装置はDC-DCコンバータと呼ばれる直流変換装置が採用された<ref name="Fan1988-9-3" /><ref name="MITSUBISHI1989-1"/>。これは[[架線]]からの直流1,500Vを[[直流]]600Vに変換し、冷房装置・[[暖房]]器やCPに供給<ref group="注">なお、冷暖房やCPは[[三相交流]]440Vを電源とするため、これらには専用のインバータで三相交流に変換される。</ref>、さらにコンバータに内蔵した[[静止形インバータ]]で[[単相交流]]に変換や[[整流器]]で直流電源に変換して各機器に供給する<ref name="Fan1988-9-3" /><ref name="MITSUBISHI1989-1"/>。チョッパ制御車ではコンバータ素子にGTOサイリスタを使用した装置を、VVVFインバータ車ではIGBT素子を使用した装置を使用している。メーカーはどちらも三菱電機製である。[[File:Tokyometro03-ATC.jpg|thumb|180px|両先頭車床下に搭載するATC・ATS装置]]日比谷線が[[直通運転|相互直通運転]]を行う[[東武伊勢崎線|東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]]・[[東武日光線|日光線]]、及び[[2013年]](平成25年)[[3月15日]]まで相互直通運転を行っていた[[東急東横線]]に全編成が入線を可能とした。3000系では乗り入れ先の[[自動列車保安装置|保安設備]]の搭載が編成によりまちまちであり、東武線のみ入線可能な編成、東横線のみ入線可能な編成、東武線・東横線の双方に入線可能な編成の3種が存在したため、これを反省点とし、全編成に[[自動列車停止装置#東急型ATS|東急型ATS]]及び[[自動列車停止装置#東武鉄道TSP式|東武型ATS]]が搭載された。
東急型ATSについては、東横線([[渋谷駅|渋谷]] - [[菊名駅|菊名]]間)の保安装置が[[1997年]](平成9年)3月にATC-Pとなって以降は使用されなくなった。[[2004年]]に[[千住検車区|千住工場]]が廃止されると、[[鷺沼車両基地#鷺沼工場|鷺沼工場]]への入出場(詳細は後述)の際に[[東急大井町線]]において再び使用されるようになったが、同線も[[2008年]]にATC化されてからは使用されていない。その後、一部編成は東急型ATSが撤去された。
ATC装置については、[[1997年]](平成9年)3月に東急東横線の保安装置が[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]に変更されたため、これに対応した車上装置の更新を実施した。さらに[[2003年]](平成15年)10月には日比谷線の新CS-ATC化が実施され、この際にも車上装置の更新が実施された。これらの更新されたATC装置は[[車内信号]]現示方式である。
本形式では、三菱電機が[[1988年]]に完成させた[[鉄道車両のモニタ装置|車両制御情報管理装置]] ('''TIS'''・'''T'''rain control '''I'''nformation management '''S'''ystem) を採用した<ref name="MITSUBISHI1989-1">三菱電機『三菱電機技報』1989年1月号特集「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1989(vol63)/Vol63_01.pdf 技術の進歩特集]}}」p.17・90 - 91。</ref>。これは従来の故障表示モニタを大幅に発展させたものに、マスコンからの制御指令伝送機能と定期検査時(月検査)に使用する車上検査機能を統合したものである<ref name="MITSUBISHI1989-1"/>。システム構成は先頭車にTIS中央装置を、中間車にTISユニット局を搭載し、搭載機器とは伝送線で接続して[[インタフェース]]を行うものである<ref name="MITSUBISHI1989-1"/>。主な機能は
* マスコン指令(制御指令)や常用ブレーキ指令を直列伝送化(制御伝送機能)
* 機器の動作状態を監視し、異常時には乗務員室にモニタ表示して故障データの収集と記録する(モニタリング機能)
* 定期検査時(月検査)の車上検査機能・[[試運転]]時のデータ収集機能
TIS装置の採用で、車両[[配線|艤装配線]]の削減や乗務員支援、定期検査時の効率化などを可能とした。これ以降、TIS装置は営団地下鉄の新系列車両で標準搭載となった(02系を除く)。
;機器画像
*東京地下鉄では左右側面の呼称方法として、03-100形の進行方向から見て右側面を1側、左側面を2側と呼称する。
<gallery>
File:Tokyometro03-SS111.jpg|SS111形動力台車。SUミンデン式ボルスタレス台車
File:Tokyometro03-SS011.jpg|SS011形付随台車
File:Tokyometro03-MITSUBISHI-CHP.jpg|三菱電機製の高周波分巻チョッパ装置(2側)
File:Tokyometro03-HITACHI-CHP1.jpg|日立製作所製の高周波分巻チョッパ制御装置(2側)
File:Tokyometro03-HITACHI-CHP2.jpg|日立製チョッパ装置の1側。突起のある右半分が界磁チョッパ装置、左半分がチョッパ装置の心臓部にあたるゲート制御ドライブ
File:Tokyometro03-VFI-HR4820A.jpg|5・6次車の日立製作所製VVVFインバータ装置(VFI-HR4820A形)
File:Tokyometro03-MAP-198-15V46.jpg|7次車の三菱電機製VVVFインバータ装置(MAP-198-15V46形)
File:Tokyometro03-SS135.jpg|SS135形動力台車。モノリンク式ボルスタレス台車
File:Tokyometro03-SS035.jpg|SS035形付随台車
File:Tokyometro03-C2500LB.jpg|C-2500LB形空気圧縮機
File:Tokyometro03-DDC1.jpg|チョッパ車が搭載するGTO-DCコンバータ装置(2側)
File:Tokyometro03-DDC2.jpg|VVVF車が搭載するIGBT-DCコンバータ装置(1側)
</gallery>
=== 次車分類 ===
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;"
|-
! style="background-color:#ccc;" |
!1次車
!2次車
! colspan="2" |3次車
!4次車
! colspan="2" |5次車
! colspan="2" |6次車
!7次車
|- style="border-top:solid 3px #000;"
!製造年度
|1988年度
|1989年度
| colspan="2" |1990年度
|1991年度
| colspan="2" |1992年度
| colspan="2" |1993年度
|1994年度
|-
!編成番号
|01 - 02
|03 - 05
|06 - 08
|09
|10 - 15
|16 - 25
|26 - 27
|28
|29 - 35
|36 - 42
|- style="border-top:solid 5px #9caeb7;"
!制御方式
| colspan="6" style="background-color:#eb8;" |高周波分巻チョッパ
| colspan="4" style="background-color:#ebb;" |IGBT素子VVVFインバータ
|-
!5扉車組込
| colspan="3" |なし
| colspan="5" |あり
| colspan="2" |なし
|-
!貫通路幅
| colspan="7" |800mm
| colspan="3" |900mm
|-
!行先表示器
| colspan="5" |字幕式
| colspan="5" |LED式
|-
!主電動機出力
| colspan="6" |160kW
| colspan="4" |190kW
|-
!歯車比
| colspan="6" |5.73 (86:15)
| colspan="4" |7.79 (109:14)
|-
!台車
| colspan="6" |SUミンデン式ボルスタレス台車
| colspan="4" |モノリンク式ボルスタレス台車
|}
== 5扉車 ==
[[ファイル:TRTA SERIES03 03113F.JPG|thumb|240px|03系5扉車<br />(2008年10月9日 / 東武伊勢崎線東武動物公園駅)]]
[[1990年]](平成2年)9月に朝[[ラッシュ時]]の乗降時間を短縮するために編成の両端の2両(1・2・7・8号車)を5扉車とした[[プロトタイプ|試作車]]の第09編成が製造された<ref>{{Cite news |title=乗り降りスムーズに 営団日比谷線 5扉車来月17日デビュー |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-08-31 |page=4 }}</ref>。これは日比谷線では駅出入口が[[プラットホーム|ホーム]]の前後にある場合が多いためで、乗客の集中する位置に組み込むことで乗降時間の短縮を図るものである。同時期に東武も乗り入れ車20000系の5扉車である[[東武20000系電車|20050型]]を投入している([[1992年]](平成4年)12月運転開始)。
外観は3扉車に準じているが、車両の構造上から客用ドアは全て1,300mm幅、車端部の窓以外が[[戸袋]]窓(固定式)とされたので、長時間停車時の[[換気]]を考慮して屋根上に[[換気扇|強制換気装置]]を2台搭載している。扉間の座席は3人掛けとなり、座席定員は減少しているが立席定員は増加した。
5扉車の戸袋部の窓枠はクリーム色に着色された[[繊維強化プラスチック|FRP]]製で、カーテンはレールがなく、下側の金具に引っ掛けて使用するものである。ただし、車端部の窓枠は3扉車と同じ構造だが、クリーム色に着色されている。なお、編成中の3扉車の窓枠は従来と同じくアルミの無塗装品(シルバー)である。
5扉車では2扉(第2・4番目の扉 (3A/3B・4A/4B・7A/7B・8A/8B))を[[ドアカット|締め切り]]にすることも可能<ref group="注">現在は中目黒・北千住などの始発駅のみ終日締切り、発車後に車掌より次の駅から5扉全て開閉する旨のアナウンスがなされることがある。</ref>で、締め切り中は車外の扉横と車内の扉上部に「このドアは開きません」と表記したメッセージが点灯する。また、締め切り対応扉は車内側の化粧板色が通常のベージュ色ではなく薄緑色とされている。
この5扉車編成の先頭車正面には「5DOORS」と表記したマークを掲出している。新製当初はこの「5DOORS」マークは[[非常口|非常扉]]窓の下部に貼られていた。その後、視認性向上のために助士側の前面窓上部に変更された。さらにその後、東京メトロへの移行時に同位置に「ハートM」マークを貼り付けすることから、非常扉上部に変更された。
このほか、日比谷線内の各駅に設置されている乗車位置標識は、5扉車のみが該当する標識に「5DOORS」と表記したマークが入る。
試作した第09編成において朝ラッシュ時の効果が認められ(各駅の停車時分は10秒程度短縮)、本格的に量産された<ref name="Fan1991-9"/>。第28編成までは5扉車で落成したが、ラッシュ時の必要本数の20本に達し、第29編成以降はオール3扉車に戻った。なお、5扉車は朝ラッシュピーク時の北千住発車の列車に入っていた。
なお、当初は、東武線内では整列乗車が乱れるという理由から5扉のうち2扉を締め切って運行していた。しかし、[[1993年]](平成5年)2月末に試験的に全扉の使用を開始し、翌3月から本格的に全扉を使用する運用にした経緯がある。
=== 3扉車と5扉車の比較 ===
: 以下の表は、初期の3扉車(第01 - 08編成)と初期の5扉車(第09 - 15編成)の定員(いずれも車いすスペースのない車両のもの)を比較したものである。
: なお、第16編成以降では車椅子スペースの設置等により定員が一部変更されている。
{| class="wikitable" summary="車両定員 3扉車と5扉車の比較" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-
! rowspan="2" style="background-color:#ccc;" |
| colspan="2" |'''先頭車'''<span style="font-size:smaller;">(1・8号車)</span>
| colspan="2" |'''中間車'''
|-
|'''3扉車'''
|'''5扉車'''
|'''3扉車'''
|'''5扉車'''<br /><span style="font-size:smaller;">(2・7号車)</span>
|- style="border-top:solid 5px #9caeb7;"
!車両定員
|124||124||136||137 (+1)
|-
!座席定員
|44||32 (-12)||52||40 (-12)
|-
!立席定員
|80||92 (+12)||84||97 (+13)
|-
!混雑時定員
|204||216 (+12)||220||234 (+14)
|}
<gallery>
File:TokyoMetro03-209-inside.JPG|5扉車(初期車)の車内(第09編成)
File:TokyoMetro03-109-doorcut.JPG|2扉を締め切った様子<br />(第09編成, 北千住駅, 現行版[[ドアステッカー]])
File:Hibiya Linie 5DOORS position.PNG|日比谷線の各駅に設置されている、5扉車のみが該当する乗車位置標識<br />(入谷駅)
</gallery>
== 編成表 ==
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
|-
!rowspan="3" style="background-color:#ccc;"|
!rowspan="3" style="background-color:#ddd;"|形式
|colspan="8" style="background-color:#ddf" |{{TrainDirection| [[中目黒駅|中目黒]]|[[北千住駅|北千住]]</span>・[[南栗橋駅|南栗橋]] }}
|-
!8号車
!7号車
!6号車
!5号車
!4号車
!3号車
!2号車
!1号車
|-
|'''03-100形'''<br />(CT1)
|'''03-200形'''<br />(M1)
|'''03-300形'''<br />(M2)
|'''03-400形'''<br />(Tc)
|'''03-500形'''<br />(Tc')
|'''03-600形'''<br />(M1)
|'''03-700形'''<br />(M2)
|'''03-800形'''<br />(CT2)
|-style="border-top:solid 5px #9caeb7;"
!rowspan="2" style="background-color:#eb8;"|高周波分巻チョッパ車
!機器配置
| ||CHP||DDC,CP,BT|| || ||CHP||DDC,CP,BT||
|-
!車両番号
|03-101<br />:<br />03-125||03-201<br />:<br />03-225||03-301<br />:<br />03-325||03-401<br />:<br />03-425
|03-501<br />:<br />03-525||03-601<br />:<br />03-625||03-701<br />:<br />03-725||03-801<br />:<br />03-825
|-style="border-top:solid 3px #9caeb7;"
!rowspan="2" style="background-color:#ebb;"|VVVFインバータ車
!機器配置
| ||VVVF||DDC,CP,BT|| || ||VVVF||DDC,CP,BT||
|-
!車両番号
|03-126<br />:<br />03-142||03-226<br />:<br />03-242||03-326<br />:<br />03-342||03-426<br />:<br />03-442
|03-526<br />:<br />03-542||03-626<br />:<br />03-642||03-726<br />:<br />03-742||03-826<br />:<br />03-842
|-
! rowspan="2" !rowspan="2" style="background-color:#ffc;"|B修繕車
(VVVFインバータ)
!機器配置
|
|VVVF
|SIV,CP,BT
|
|
|VVVF
|SIV,CP,BT
|
|-
!車両番号
|03-101<br />:<br />03-108
03-135
03-136
|03-201<br />:<br />03-208
03-235
03-236
|03-301<br />:<br />03-308
03-335
03-336
|03-401<br />:<br />03-408
03-435
03-436
|03-501<br />:<br />03-508
03-535
03-536
|03-601<br />:<br />03-608
03-635
03-636
|03-701<br />:<br />03-708
03-735
03-736
|03-801<br />:<br />03-808
03-835
03-836
|}
<div style="font-size:80%; text-align:left; float:left; vertical-align:top;">
;凡例'''
* CHP:チョッパ制御装置
* VVVF:VVVFインバータ装置
* DDC:補助電源装置(DC-DCコンバータ)
* CP:空気圧縮機
* BT:蓄電池
*SIV:補助電源装置(静止型インバータ)
</div>
<div style="font-size:80%; text-align:left; float:left; vertical-align:top;">
;備考
* M1車に[[集電装置|パンタグラフ]]を2台搭載する
* [[車椅子スペース]]は第01~04編成と第16編成以降の前後からそれぞれ2両目(2・7号車)に設置されている。
* [[弱冷房車]]は3号車(北千住寄り3両目・中目黒寄り6両目)に設定されている。
* 第10編成は[[1995年]][[3月20日]]に発生した[[地下鉄サリン事件]]の被害編成
</div>
{{-}}
== 定員 ==
{|class="wikitable" summary="車両定員 3扉車と5扉車の比較" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-
!rowspan="4" style="background-color:#ccc;"|
|colspan="6"|'''3扉車'''
|colspan="3"|'''5扉車'''<span style="font-size:smaller;">(第09 - 28編成)</span>
|-
|rowspan="3"|'''先頭車'''<br /><span style="font-size:smaller;">第01 - 08編成</span>
|rowspan="3"|'''先頭車'''<br /><span style="font-size:smaller;">第29 - 42編成</span>
|rowspan="2" colspan="2"|'''中間車'''<br /><span style="font-size:smaller;">第01 - 08編成の2 - 7号車<br />第09 - 27編成の3 - 6号車</span>
|rowspan="2" colspan="2"|'''中間車'''<br /><span style="font-size:smaller;">第28編成の3 - 6号車<br />第29 - 42編成の2 - 7号車</span>
|rowspan="3"|'''先頭車'''<br /><span style="font-size:smaller;">(1・8号車)</span>
|colspan="2" colspan="2"|'''中間車'''<br /><span style="font-size:smaller;">(2・7号車)</span>
|- style="font-size:smaller;"
|rowspan="2"|第09 - 15編成<br />車いすスペース<br />なし
|rowspan="2"|第16 - 28編成<br />車いすスペース<br />あり
|- style="font-size:smaller;"
|車いすスペース<br />なし
|車いすスペース<br />あり
|車いすスペース<br />なし
|車いすスペース<br />あり
|-style="border-top:solid 5px #9caeb7;"
!車両定員
|124||122||136||136||135||135||124||137||137
|-
!座席定員
|44||44||52||50||52||50||32||40||38
|-
!立席定員
|80||78||84||86||83||85||92||97||99
|-
!混雑時定員
|204||200||220||222||218||220||216||234||236
|}
== 修繕工事 ==
東京地下鉄では2010年度時点では、工場検査の入場時期となる4年を基準に車両改修時期を定めている<ref>日本鉄道車両機械技術協会「R&m」2010年9月号「千代田線16000系車両の登場にあたって」</ref>。経年12年目で'''C修工事'''と称する簡易な改修工事(ゴム材や床関係の改修)、24年目で'''B修工事'''と称する大規模な改修工事(内装取り替えと電気品の更新)、36年目でC修工事、48年目で廃車となるライフサイクルを見込んでいる。ただし、これはモデルケースであり、必ずしもこの時期に改修工事や廃車が実施されるとは限らない。
本系列のうち初期に製造された車両は大規模な改修工事の施工時期となる24年目に達した後も、[[2014年]](平成26年)4月までは東京地下鉄から発表はなかった。ただし、千住検車区での施工により、[[2012年]]より制御装置の更新工事(VVVFインバータ制御化)が開始されている<ref>[http://www.metosha.co.jp/srvc/srvc01.html 車両改修工事業務] {{Wayback|url=http://www.metosha.co.jp/srvc/srvc01.html |date=20150904020333 }} - メトロ車両</ref>。改造工事は2012年12月末時点で第01 - 04編成が完了し<ref name="Rfan2012-8">交友社「鉄道ファン」2012年8月号付録「大手私鉄車両ファイル2012」</ref><ref name="DJ2013-1">交通新聞社「鉄道ダイヤ情報」2013年1月号「私鉄車両のうごき」125-127頁</ref><ref name="DJ2013-4">交通新聞社「鉄道ダイヤ情報」2013年4月号「私鉄車両のうごき」126-128頁</ref>、2015年3月末時点では08編成までの8本が施工されている<ref>交友社「鉄道ファン」2015年8月号付録「大手私鉄車両ファイル2015」</ref>。また、扉上に設置された車内案内表示器の解像度変更や2・7号車への車椅子スペース設置も同時に施工された<ref name="bizspa20200804" />。
==事故==
[[2000年]](平成12年)[[3月8日]]に、中目黒駅手前で死者5名、負傷者63名を発生させた[[列車脱線事故]]([[営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故]])を起こしている。事故の原因は、曲線区間においてボルスタレス台車の輪重の不均衡から、[[列車脱線事故|競り上がり脱線]]が起きた。この結果、脱線・大破した1両(03-802号)が[[廃車 (鉄道)|廃車]]され、[[2001年]](平成13年)6月に[[鷺沼車両基地#鷺沼工場|鷺沼工場]]に搬入され、解体された。また、同年9月に同一番号の事故代替車が日本車輌製造で製造された。車内外の表示器や運転台などは初代の車両に準じている。
この事故以降、東京メトロは新規に設計した車両にはボルスタレス台車を採用せず、全てボルスタ付き台車を採用している。なお、増備車についてはこの限りでなく、05系13次車において[[2004年]]まで採用されていた。
== 運用 ==
2016年3月から引退(2020年2月28日)までの運用線区は以下の通り。
* '''東京メトロ日比谷線''' : [[中目黒駅]] - [[北千住駅]]間
* 東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン):北千住駅 - [[東武動物公園駅]]間
* 東武日光線:東武動物公園駅 - [[南栗橋駅]]間
[[日本の鉄道車両検査|定期検査]]は、[[千住検車区|千住工場]]の廃止以降[[鷺沼車両基地#鷺沼工場|鷺沼工場]]において行われていた。その際の[[回送]]では、中目黒駅 - (東急東横線) - [[武蔵小杉駅]] - ([[東急目黒線]]) - [[元住吉検車区]] - (東急目黒線) - [[大岡山駅]] - ([[東急大井町線]]) - [[二子玉川駅]] - ([[東急田園都市線]]) - [[鷺沼駅]]間を走行する。
2013年[[3月16日]]、東横線と[[東京メトロ副都心線|副都心線]]との直通運転開始にあわせ、日比谷線は東横線との相互直通運転を終了(終了時点では[[菊名駅]]まで乗り入れ)し、営業運転での東急への乗り入れは終了した<ref>{{cite press_release|title=東急東横線と東京メトロ副都心線 相互直通運転の開始日が2013年3月16日に決定!|publisher=[[東京急行電鉄]]|date=2012-07-24|url=http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/120724-1.pdf|format=PDF|accessdate=2012-07-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140331144252/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/120724-1.pdf|archivedate=2014年3月31日}}</ref><ref>{{cite press_release|title=平成25年3月16日(土)から相互直通運転開始 副都心線と東急東横線・横浜高速みなとみらい線がつながります|publisher=東京地下鉄|date=2012-07-24|url=http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20120724metronews_soutyoku.pdf|format=PDF|accessdate=2012-07-24|archive-date=2012年8月2日|archive-url=https://web.archive.org/web/20120802141630/http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20120724metronews_soutyoku.pdf|url-status=live}}</ref>ため、以後の03系の旅客営業での直通運転先は東武線のみとなった。
[[2014年]](平成26年)[[4月30日]]、東京地下鉄は日比谷線の車両新製及び[[ホームドア]]設置について発表し<ref>{{cite press_release|title=東京メトロ日比谷線、東武スカイツリーラインに新型車両を導入します -日比谷線・東武スカイツリーライン新型車両を導入し、日比谷線にホームドアを設置-|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2014-04-30|url=http://www.tokyometro.jp/news/2014/pdf/metroNews20140430_h93.pdf|format=PDF|archive-url=https://web.archive.org/web/20140502005919/http://www.tokyometro.jp/news/2014/pdf/metroNews20140430_h93.pdf|archive-date=2014-05-02|accessdate=2014-04-30}}</ref>、18m3扉車と5扉車が混用される日比谷線・東武スカイツリーライン直通列車の車両を全て20m級の4扉車に統一することを明らかにした。その後新型車両は7両編成となることと、[[近畿車輛]]が一括受注する事<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/news/news141106.htm |title=東京地下鉄株式会社殿日比谷線新型車両受注に関するお知らせ |access-date=2023-01-20 |publisher=近畿車輛株式会社 |date=2014-11-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200322065938/http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/news/news141106.htm |archive-date=2020-03-22 |deadlinkdate=2023-01-20 }} {{Wayback|url=http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/news/news141106.htm |date=20200322065938 }}</ref>が発表され、2015年(平成27年)6月17日に形式が'''[[東京メトロ13000系電車|13000系]]'''になることが決まり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/20150617metroNews_g18n91.pdf |title=東京メトロ日比谷線・東武スカイツリーライン新型車両の形式と基本仕様が決定 相互直通車両の仕様共通化を促進し、すべての車両をご利用いただきやすくします! ~ 2019年度までに導入を進めます ~ |access-date=2023-01-20 |publisher=東京地下鉄株式会社 |date=2015-06-17 |website=東京メトロ |archive-url=https://web.archive.org/web/20220830153047/https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/20150617metroNews_g18n91.pdf |archive-date=2022-08-31 |format=PDF }} {{Wayback|url=https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/20150617metroNews_g18n91.pdf |date=20220830153047 }}</ref>、翌[[2016年]](平成28年)12月23日から25日まで特別営業運転を実施し、[[2017年]](平成29年)3月25日より本格的な営業運転を開始した<ref name="metro-release20170315">[http://www.tokyometro.jp/news/2017/188151.html 日比谷線新型車両13000系 2017年3月25日(土)から本格運行開始します! 東武スカイツリーラインとの直通運転にて使用、2020年中に全編成導入します!] {{Wayback|url=http://www.tokyometro.jp/news/2017/188151.html |date=20200923093107 }} - 東京地下鉄、2017年3月15日</ref><ref name="railf170326">[http://railf.jp/news/2017/03/26/204500.html 東京メトロ13000系が本格的な営業運転を開始] {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2017/03/26/204500.html |date=20170327025845 }} - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2017年3月26日</ref>。
13000系の営業運転開始に先行して、同年[[2月1日]]には第14編成が[[北館林荷扱所]]まで廃車回送されており、前述の中目黒駅脱線衝突事故を除いた廃車第1号となった<ref>[http://railf.jp/news/2017/02/03/163000.html 東京メトロ03系が北館林まで廃車回送される] {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2017/02/03/163000.html |date=20170204171232 }} - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2017年2月3日</ref>。5扉車は2018年10月2日をもって全廃され<ref name=bizspa191019/>、2020年(令和2年)2月28日をもって最後まで残った第36編成が運用を離脱したことにより、本系列の日比谷線における運用は終了した<ref name=bizspa20200804>{{Cite news|1=和書|url=https://bizspa.jp/post-337653/|title=東京メトロ03系がなぜ長野に?長野電鉄3000系デビューを追う|author=岸田法眼|newspaper=bizSPA!フレッシュ|date=2020-8-4|access-date=2021年1月15日|archive-date=2021年1月27日|archive-url=https://web.archive.org/web/20210127223359/https://bizspa.jp/post-337653/}}</ref><ref name="railwaypressnet20200302">{{Cite web|和書|url=https://news.railway-pressnet.com/archives/5177 |title=東京メトロ日比谷線「03系」2月28日に運転終了 乗り入れ車の東武20000系も残りわずか |access-date=2023-01-21 |date=2020-03-02 |website=鉄道プレスネット |archive-url=https://web.archive.org/web/20230120151553/https://news.railway-pressnet.com/archives/5177 |archive-date=2023-01-21 }} {{Wayback|url=https://news.railway-pressnet.com/archives/5177 |date=20230120151553 }}</ref>。
なお、本系列の運用終了に際して[[さよなら運転]]等のイベントは行われなかった<ref name="railwaypressnet20200302" />。これについて東京メトロは「[[東京メトロ千代田線|千代田線]][[営団6000系電車|6000系]]の引退時、一部の鉄道ファンが車両やホームに殺到したことによる混乱により、運行に支障や、多くのお客様にご迷惑がかかる事態となったことに鑑み、引退イベント等は見合わせることとした」と理由を公表している<ref name="railwaypressnet20200302" />。
廃車になった一部の車両は[[深川検車区行徳分室]]や千住検車区などに搬入・留置され、後に他社へ譲渡されている<ref>[https://railf.jp/news/2019/07/12/180000.html 東京メトロ03系4両が甲種輸送される] {{Wayback|url=https://railf.jp/news/2019/07/12/180000.html |date=20190712122658 }} - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース2019年7月12日</ref><ref name="bizspa191019">{{Cite news |1=和書 |url=https://bizspa.jp/post-220675/3/ |title=東京メトロ03系が熊本電鉄に“転職”。波瀾万丈な車両の現況 |author=岸田法眼 |newspaper=bizSPA!フレッシュ |date=2019-10-19 |access-date=2023年1月20日 |archive-date=2023年1月20日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230120153024/https://bizspa.jp/post-220675/3/ }}</ref>。
== 他社への譲渡 ==
廃車後は、一部車両が他の鉄道事業者に譲渡された。
;[[熊本電気鉄道]]
: {{Main|[[熊本電気鉄道03形電車]]}}
: [[2018年]][[1月15日]]に[[西日本新聞]]が「2018年度から2020年度にかけて計3編成を導入する予定」と報じた<ref>{{Cite news|url=https://www.nishinippon.co.jp/sp/nnp/kumamoto/article/386502/|title=中古車両、熊本電鉄で「第二の人生」5車種すべて移籍組 東京メトロの3編成導入へ|newspaper=西日本新聞|date=2018-01-15|accessdate=2018-01-15|archive-date=2018年1月16日|archive-url=https://web.archive.org/web/20180116044343/https://www.nishinippon.co.jp/sp/nnp/kumamoto/article/386502/}}</ref>。そのうち、03-131と03-831が[[2019年]][[3月15日]]付で「'''[[熊本電気鉄道03形電車|03形]]'''」として入籍し<ref name=":0">『鉄道ピクトリアル』 2019年10月号 146P</ref>、[[2019年]][[4月4日]]に営業運行を開始した<ref name=":1">[https://railf.jp/news/2019/04/05/163000.html 熊本電鉄03形が営業運転を開始] {{Wayback|url=https://railf.jp/news/2019/04/05/163000.html |date=20190513144221 }} - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2019年4月5日</ref><ref name=bizspa191019/>。
;[[長野電鉄]]
: {{Main|[[長野電鉄3000系電車]]}}
: [[2020年]][[1月31日]]に[[日本経済新聞]]が「2020年度から2022年度にかけて5編成を投入し、[[長野電鉄3500系電車|3500系]]を置き換える予定」と報じた<ref name="nikkei20200131">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55048330Q0A130C2L31000/|title=長野電鉄、東京メトロ日比谷線の「03系」を導入|newspaper=日本経済新聞|date=2020-01-31|accessdate=2020-10-01|archive-date=2020年1月31日|archive-url=https://web.archive.org/web/20200131075243/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55048330Q0A130C2L31000/}}</ref>。同年春の大型連休時に「'''[[長野電鉄3000系電車|3000系]]'''」として2編成6両の導入を予定していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nagaden-net.co.jp/news/2020/01/post-244.php|title=新型通勤車両の導入について|publisher=長野電鉄|date=2020-1-31|accessdate=2020-1-31}} {{Wayback|url=https://www.nagaden-net.co.jp/news/2020/01/post-244.php |date=20200131080510 }}</ref>が、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]感染拡大防止のため、運行開始が延期された<ref>[https://www.nagaden-net.co.jp/news/2020/04/3000-debut-postponement.php 新型通勤車両3000系運行開始の延期について] {{Wayback|url=https://www.nagaden-net.co.jp/news/2020/04/3000-debut-postponement.php |date=20200414123651 }} - 長野電鉄、2020年4月14日</ref>。[[5月30日]]に予告しない形で運行し<ref>[https://www.nagaden-net.co.jp/news/2020/05/20200530-100th.php 長野電鉄は創立100周年を迎えました] {{Wayback|url=https://www.nagaden-net.co.jp/news/2020/05/20200530-100th.php |date=20200626134554 }}(2020年5月30日)長野電鉄</ref>、その後[[6月22日]]に通常の運行を開始した<ref>[https://www.nagaden-net.co.jp/news/2020/06/3000.php 3000系の運行について] {{Wayback|url=https://www.nagaden-net.co.jp/news/2020/06/3000.php |date=20200813133721 }} - 長野電鉄、2020年6月22日</ref><ref name="nikkei20200622">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60641580S0A620C2L21000/|title=長野電鉄、新車両「3000系」の本格運用開始|newspaper=日本経済新聞|date=2020-06-22|accessdate=2020-10-01|archive-date=2020年9月18日|archive-url=https://web.archive.org/web/20200918214533/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60641580S0A620C2L21000/}}</ref><ref name=bizspa20200804/>。
;[[北陸鉄道]]
: {{Main|北陸鉄道03系電車}}
: [[2019年]][[7月13日]]に[[北陸中日新聞]]が「4両が[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[金沢総合車両所]]に輸送され、同所内で[[JR西日本テクノス]]が改造工事を実施し、[[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]に導入する予定」と報じた<ref>{{Cite news |title=北鉄車両 ちょっぴり若返り 東京メトロの譲渡で50歳超 → 30歳 |url=https://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2019071702100043.html |newspaper=北陸中日新聞 |date=2019-07-13 |accessdate=2019-07-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190724233645/https://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2019071702100043.html|archivedate=2019-07-24}}</ref>。第29編成と第39編成の先頭車4両で、実際の改造はメトロ車両の請負工事により行われた<ref name=bizspa210619>{{Cite news|1=和書|url=https://bizspa.jp/post-469833|title=引退した東京メトロ03系車両が、北陸鉄道で再デビュー。変身ぶりをルポ|author=岸田法眼|newspaper=bizSPA!フレッシュ|date=2021-6-19|access-date=2022年1月10日|archive-date=2021年12月20日|archive-url=https://web.archive.org/web/20211220143351/https://bizspa.jp/post-469833/}}</ref>。
: このうち39編成は、[[2020年]][[1月11日]]に[[内灘駅]]へ陸送された<ref>{{Cite news | title=もと東京メトロ03系が北陸鉄道へ | newspaper=鉄道ニュース (鉄道ファン・railf.jp) | date=2020年1月12日 | url=https://railf.jp/news/2020/01/12/202500.html | access-date=2020年1月18日 | archive-date=2020年2月16日 | archive-url=https://web.archive.org/web/20200216141214/https://railf.jp/news/2020/01/12/202500.html }}</ref>。形式は地下鉄時代と同様の「'''[[北陸鉄道03系電車|03系]]'''」となり、浅野川線で[[2020年]][[12月21日]]に営業運転を開始している<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.hokutetsu.co.jp/media/archives/36269/news.pdf?ver1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201130112942/http://www.hokutetsu.co.jp/media/archives/36269/news.pdf?ver1|format=PDF|language=日本語|title=浅野川線新型車両03系の営業運転開始に関するイベントについて|publisher=北陸鉄道|date=2020-11-30|accessdate=2020-11-30|archivedate=2020-11-30}}</ref><ref name="newshokuriku03kei">{{Cite news|url=https://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20201201305.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201201115424/https://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20201201305.htm|title=浅野川線、21日に新車両 北鉄|newspaper=北國新聞|date=2020-12-02|accessdate=2020-12-02|archivedate=2020-12-01}}</ref><ref name=bizspa210619/>。
: 帯色は東京メトロ時代のグレーからオレンジに改められ、正面の方向幕をフルカラーLED化。また、正面連結器下には[[スノープラウ]]が新設された。車内には[[液晶ディスプレイ|LCD]]式の[[デジタルサイネージ]]を新設している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokutetsu.co.jp/railway/asaden-03|title=浅野川線03系導入の軌跡|website=北陸鉄道公式サイト|accessdate=2021-01-08}} {{Wayback|url=http://www.hokutetsu.co.jp/railway/asaden-03 |date=20201221050140 }}</ref><ref name=bizspa210619/>。
: [[2024年]]度までに計5編成10両を導入する予定<ref name="newshokuriku03kei"/><ref name=bizspa210619/>。
;[[上毛電気鉄道]]
: 2023年11月に、2024年からの3年間で2両編成3本を譲受・導入すると複数紙が報じた。形式は「'''800形'''」となり、[[上毛電気鉄道700型電車|700形]]3編成を置き換える予定<ref>{{Cite news|和書|url=https://nordot.app/1100723983927509646|title=上毛電鉄が約20年ぶりに車両更新 元東京メトロ03系に|newspaper=群馬テレビ|accessdate=2023-11-26|archiveurl= https://web.archive.org/web/20231125212309/https://nordot.app/1100723983927509646 | archivedate=2023-11-26}}</ref><ref>{{Cite news|和書 |title=突然の引退、惜しまれた日比谷線の03系 群馬・上毛電鉄で復活 |newspaper=毎日新聞 |date=2023-11-24 |url=https://mainichi.jp/articles/20231124/k00/00m/040/171000c |access-date=2023-11-26 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20231125102901/https://mainichi.jp/articles/20231124/k00/00m/040/171000c | archivedate=2023-11-25 |publisher=毎日新聞社 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=新型車両800形の運用を開始します|publisher=上毛電気鉄道|date=2023-11-25|url=https://jomorailway.com/images/info/202311new800.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-11-26 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20231125085414/https://jomorailway.com/images/info/202311new800.pdf | archivedate=2023-11-25}}</ref>。
<gallery>
Kumaden 03 2.jpg|熊本電気鉄道03形
Nagano Electric Railway 3000 Series M5 set 2.jpg|長野電鉄3000系
Hokutetsu-03 839 Uchinada 20210514.jpg|北陸鉄道03系
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== その他 ==
本系列は、新車搬入時に下記の経路で搬入されている<ref>交友社「鉄道ファン」1996年10月号特集「カラフル営団地下鉄2401両」50頁</ref>。
;1 - 5次車
車両メーカーから[[車両輸送|甲種車両輸送]]で[[東鷲宮駅]]まで輸送され、その後[[久喜駅]]から伊勢崎線へ入線して<ref name="kuki" group="注">当時は久喜駅でJR[[東北本線]]と東武伊勢崎線が接続され、[[貨物列車]]の連絡があった。</ref>業平橋駅(現・[[とうきょうスカイツリー駅]])まで輸送、折り返して竹ノ塚検車区(現・[[千住検車区竹ノ塚分室]])へと搬入した。なお、東武線内の車両輸送には[[東武ED5060形電気機関車|ED5080形]]などが使用された<ref>交友社「鉄道ファン」1988年9月号読者記事「POST」</ref>。
これは伊勢崎線上り線から竹ノ塚検車区へ入線するには下り線を2回横切るため、業平橋で折り返して下り線を走行して竹ノ塚検車区へと搬入するためであった。ただし、同駅の地平ホーム増設工事の開始のため、6次車は下記のルートで搬入されている。
;6次車
車両メーカーから甲種車両輸送で[[長津田駅]]へと輸送され、同駅から田園都市線へ入り、鷺沼検車区へと搬入して各種整備を実施した<ref>交友社「鉄道ファン」1993年7月号読者記事「POST」</ref>。その後、鷺沼駅 - 二子玉川駅 - 大岡山駅- [[元住吉駅]]折り返し- 中目黒駅 - 千住検車区へと自力回送した<ref>交友社「鉄道ファン」1993年8月号読者記事「POST」</ref>。
;7次車
車両メーカーから甲種車両輸送で東鷲宮駅まで輸送され、その後久喜駅から伊勢崎線へ入線して<ref name="kuki" group="注" />東武動物公園駅へ輸送、そこから自力走行で業平橋で折り返し、竹ノ塚検車区へと搬入した。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
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<ref name="end">{{Cite news|url=https://trafficnews.jp/post/94213|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200303063721/https://trafficnews.jp/post/94213|title=東京メトロ日比谷線03系電車が引退 イベントもなく 営団地下鉄で初の新製冷房車|newspaper=乗りものニュース|date=2020-03-03|accessdate=2020-03-03|archivedate=2020-03-03}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* 交通新聞社「営団地下鉄車両写真集 - 4Sを支えてきた車両たち - 」
* 帝都高速度交通営団「60年のあゆみ - 営団地下鉄車両2000両突破記念 - 」
* 交友社「[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]」
** 1988年9月号 新車ガイド:日比谷線用03系の概要
** 1990年11月号 新車ガイド:営団地下鉄03系5扉車登場
** 1991年9月号 営団地下鉄50年/6000系電車20年
** 1993年5月号 営団03系VVVF車
** 1996年10月号 特集:カラフル営団地下鉄2401両
** 2004年9月号 特集:東京メトロ
* [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]「[[鉄道ピクトリアル]]」
** 1988年9月号 営団地下鉄日比谷線 03系(帝都高速度交通営団車両部設計課)
** 1995年7月号臨時増刊号 特集:帝都高速度交通営団特集
** 2005年4月号臨時増刊号 特集:東京地下鉄特集
** 新車年鑑/鉄道車両年鑑 1989年版以降各年版
== 外部リンク ==
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* [https://web.archive.org/web/20200110144332/https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/cars/working/hibiya_03/index.html 線別車両紹介(東京メトロの車両 > 日比谷線03系)] - 2020年1月10日時点でのアーカイブ
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営団05系電車
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営団05系電車(えいだん05けいでんしゃ)は、1988年に登場した帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化に伴い、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
本項では、インドネシアのPT Kereta Commuter Indonesia(PT KCI)に譲渡された車両についても述べる。
1988年(昭和63年)に東西線の輸送力増強及び5000系を置き換えるために登場し、幾度の仕様変更を経ながら2004年(平成16年)度までに10両編成43本(430両)が製造された。
05系の車両数は1994年(平成6年)を以て5000系を上回った。当初、東西線の車両冷房化は全て05系の新製で対応する予定であったが、同線は車両数が多く更新完了までの期間が長くなることが予想された。このため、5000系に対しても冷房化改造をはじめとした延命工事を行い、最終的に同系列の置き換えは2007年(平成19年)までとなり、それまでの銀座・丸ノ内・日比谷各線に比べ19年という長期間を要した。
また、計画では2005年(平成17年)度に最終編成として10両編成4本(40両)を新製し、最後まで残存する5000系をすべて置き換える計画であったが、有楽町線・副都心線用の新型車両10000系の投入による計画の変更で07系が転入することとなり、05系の増備は中止された。また、東西線の混雑緩和・遅延防止を目的として2010年度から2011年度にかけて導入されたワイドドア車体の新型車両も当初は本系列の第14次車として計画されていたが、10000系の仕様を取り入れたことによる仕様の変更で新系列となる15000系として製造された。
1989年(平成元年)12月20日、鉄道友の会の1989年グローリア賞を受賞した。これは本系列および01系・02系・03系の各新系列車両に対しての賞である。
16年間にわたって製造されており、また途中での仕様の変更も多い。先頭車の前面形状も7次車までと8次車以降で大きく異なっていることから、以下では7次車までの05系と8次車以降の(通称)05N系に分けて解説する。
同時期に計画が進められていた日比谷線用の03系と基本設計は共通としている。当初は本系列が先に登場予定だったが、日比谷線の輸送力増強が優先され、03系が先行登場することとなった。
東西線は当時の営団では唯一快速列車の運転を実施している路線であることから、「スピード感」を強調したデザインを採用した。前面は傾斜をつけて流線型に近くし、フロントガラスは横曲線をとった曲面ガラスを使用している。同時期の「0x系列」同様に前照灯・尾灯はコンビネーション化して下のラインカラー部に収めた。
車体はアルミニウム製で、「0x系列」では初めて長さ20 m・片側4扉の車体を持つ。ラインカラーであるスカイブルーの帯をメインに、アクセントとしてホワイトとダークブルーの帯を配している。
座席は脚台(蹴込み)支持方式で、1人分の掛け幅は5次車まで440 mmである。座席の袖仕切りの形状は、千代田線用の6000系以来の流れを汲む網棚の高さまでつながっている形状のもので、第24編成まではほぼ同じ形状である。
車内にはサービス機器として各扉上にLED式車内案内表示器・ドアチャイムを設置している。運転台の主幹制御器は縦軸回転式のツーハンドルで、ブレーキ設定器は電気指令式で、ノッチが刻んである。
以下の開設は落成当時の仕様を説明し、B修工事については後述する。
主回路には同時期に製造が開始された03系と同様、素子にGTOサイリスタを使用した高周波分巻チョッパ制御(4象限チョッパ制御)車で登場した。この制御装置はMT比1:1で起動加速度3.3 km/h/sを確保するために「高粘着制御」と「加速度一定制御」を導入し、車両性能の向上を図ったものである。台車はSUミンデン式ボルスタレス台車を使用している。
編成中の電動車(M)と付随車(T)の構成は(MT比)5M5Tで、主電動機出力160 kW/台、チョッパ制御車の歯車比は5.73。制御方式はパンタグラフを2基搭載する05-200形と05-800形は1C8M制御、1基搭載する05-500形は1C4M制御方式である。
冷房装置はインバータによる容量可変式の能力48.84 kW(42,000 kcal/h)、装置キセ(カバー)は角型となっている。補助電源装置は170 kW出力のDC-DCコンバータ(DDC)を採用した。このタイプの電源装置は後の9次車まで使用されている。
座席は20 m車体で一般的な3-7-7-7-3人掛けになっており側窓は中間車の場合W-d-B-d-B-d-B-d-W(便宜上、dは側扉、Bは2連窓、Wは1枚窓を表している)であるが、同じ座席割りを持つ第34編成以降とは窓割の寸法が若干異なっている。
1988年度製造の第01 - 03編成が該当する。現存車は第1・3編成(いずれも千代田線に転用)。
このグループの投入により、東西線に暫定配置されていた8000系の8112 - 8114Fが、半蔵門線に転属した。
1989年度製造の第04 - 06編成が該当する。現存編成は千代田線に転用された第6編成のみ。また、この投入から、5000系の置き換えが始まっている。
1990年度製造の第07 - 09編成が該当する。全車がインドネシアに譲渡されたが、第7編成はのちに廃車となった。
1991年度製造の第10 - 14編成が該当する。現存している編成は第13・14編成(第13編成は千代田線)のみ。
1992年度製造の第15 - 18編成が該当する。
ワイドドア車の量産車で、主回路は初期ロットと同じ高周波分巻チョッパ制御、編成構成は5M5Tに戻る。
主回路に同時期(1992年)に製造された千代田線用の06系と同一のIGBT素子のVVVFインバータ制御(東芝製、3レベル、1200 V / 500 A、1C1M4群制御)とモノリンク式ボルスタレス台車を採用した。主電動機出力は205 kW/台とされ、第14編成とは異なり、起動加速度は3.3 km/h/sとされている。
前面窓の内側にはインバータ制御車であることを示す小さな「V」マークが貼り付けされている。MT比は第14編成と同じ4M6Tだが、編成構成が異なり各電動車はすべて1M方式となった。パンタグラフは各電動車に1基を搭載する。
そのうち、第24編成は廃車となった5000系アルミ車(5453号車)から一部の部品がリサイクルされた車両(アルミ・リサイクルカー、詳細は後述)である。
車外では窓割付も06系・07系と同一に変更され、座席配置が4-6-7-6-4人掛けとなっている。このグループから側面の窓の一部が固定窓となっており、開閉できるのは両側面2か所ずつ(6人掛け座席部分)の計4か所である。側窓の配置は中間車の場合W-d-W-d-W-d-W-d-W(便宜上、dは側扉、Wは1枚窓を表している)である。
車内は設備に見直しがあり、1人分の座席幅を440 mmから450 mmに拡大、袖仕切上部のパイプには座席用のモケット布地が巻かれている。側窓は大きさが拡大されたためにカーテンは「引っ掛け式」から「フリーストップ式」に変更された。窓枠は以後アルミ製に戻されている。
さらに車椅子での乗降・移動を考慮して床面高さを1,175 mmから1,150 mmに下げ、連結面は貫通路幅を800 mmから900 mm幅に拡大した。貫通扉はドアガラスを下方まで拡大したものに変更し、妻面窓は廃止された。車椅子スペースではその脇に2人分の座席を設置した。第14編成と同様に電動車の床に設置されていたトラップドアは廃止された。
冷房装置はインバータ式だが、外気導入形となり、さらにマイコンにより最適な空調を選択する「全自動空調機能」が追加された。装置キセには前後にFRP製のカバーを取り付けた丸みを帯びた形状に変更された。また、車外案内用スピーカーは外板取り付けからクーラーキセ内蔵形に変更した。電源装置であるDC-DCコンバータはメーカー・出力に変更はないが、素子にIGBT素子を使用したものに変更された。
線区による配色・前面・装備機器等の違いを除くと、06・07系とは以下のような相違点がある。
1993年度製造の第19 - 21編成が該当する。
1994年度製造の第22 - 24編成が該当する。
第24編成の投入で東西線からは5000系の非冷房車が一掃され、冷房車は延命工事も受けていたため、05系の投入は一旦中断し、1999年度から投入が再開された。
同編成の落成以来から5年が経過していたため、新造車であることを強くアピールするために全面的に設計変更され、別形式とも思わせるスタイルで登場した。
外観はデザインコンセプトは「スピード感」だが、正面のデザインをマイナーチェンジし、縦曲線主体の形状とした。フロントガラスも縦曲面で、全体的に八角形に近い形となった。下部には新たにスカートが設置された。前照灯と尾灯は丸型となり斜めに設置され、この部分には前照灯と尾灯を納める成形品が装着されている。
車体ラインカラー2本は、濃い方の帯は紺色に近くなり、明るい色の帯の色も変更され、2色の帯の色の差が大きくなった。
さらに営団車両であることを強調するため、側面の乗務員室扉直後へ大形「S」マークの貼り付け、さらに側窓上の「S」マークもやや大きくした(東京メトロ発足後に落成した13次車を除く)。行先表示器はLED式で変わりないが、正面・側面ともに高輝度のLEDを使用し、視認性の向上を図った。車両間転落防止幌が新製時から取り付けられた。
客室内装は全面的に変更され、カラースキームが茶色系をベースとした色調に一新された。(後述の車内記述参照)座席は側壁で支持する片持ち式となり、バケット形状も変更された。乗務員室においても配色が見直され、また運転台は左手操作式のワンハンドルマスコンとなるなど仕様が大幅に見直された。
これらのことから「05N系」や「新05系」とも呼ばれるが、正式の称号は従来通り05系のままである。鉄道雑誌など会社が発信する外部向け資料には正式に「05N系」と表記されていることが多いため、ここでは表記を「05N系」に統一する。ただしNが05系の前に表記されて「N05系」とされることもある。なお、2000年2月に発売されたデビュー記念SFメトロカードや2007年1月27日開催の「さよなら5000系イベント」の告知には「新05系」と表記されているほか、東西線40周年イベントでは「05系最新車」と案内されていた。
車体構造は既存の05系と同様にアルミニウムの大形押出形材を組み合わせたものである。ただし、使用材料は廃車時におけるリサイクル性を向上させるために亜鉛の使用を少なくした材質に統一(本車両では6N01合金を使用)を図ったほか、側構体の溶接の一部に摩擦攪拌接合(FSW)を採用し、出来栄えの向上をさせている。床構体には9000系2次車に続いて神戸製鋼所が開発したアルミ制振形材「ダンシェープ」を採用しており、騒音や振動の大幅な低減を図った。
主回路はIPMの2レベルに変更したVVVFインバータ制御を採用した。制御装置は回路の簡略化・小型化が図られ、制御素子は高耐圧の3,300 V - 1,200 Aに増強、個別制御から1C2M2群制御に変更された。制御方式にはベクトル制御やファイン・ファジーコントロール(空転再粘着制御)を採用することでトルク制御の向上が図られている。また、騒音対策として高周波変調、特定周波を分散させるゼロベクトル変調方式を採用している。
主回路用の断流器、高速度遮断器(HB)には電磁接触器を採用しており、保守性の向上が図られている。空気圧縮機は従来のレシプロ式のC-2500LB形で変更はないが、除湿装置は吸着剤方式から中空糸膜式方式とすることで、装置の小型軽量化が図られている。
編成形態は6・7次車と同様の4M6T構成、主電動機出力は205 kW/台である。台車は6・7次車と基本的には同一のモノリンク式ボルスタレス方式だが、保守性の向上を目的に一部改良した。集電装置は従来車両と同様の菱形だが、同時期に千代田線用の6000系・有楽町線用7000系の先頭車より撤去したパンタグラフの台枠、鉤外し装置、下げシリンダなどの一部部品を改造し、本車両に搭載した。
客室内装は前述したが、座席周りでは袖仕切が大型の丸みを帯びた形状となった。
袖仕切りは同時期に製造された南北線用の9000系4次車と同様の形状のものであるが、以下のような相違点がある。
そのほか妻面は貫通扉の戸袋となっている個所へ妻面窓が設置された。また、座席の片持ち式化によりドアコックは座席下から側扉上部右側に移設した。合わせて暖房器も蹴込み内蔵の反射形から座席つり下げ式の輻射形に変更した。さらに側扉、連結面貫通扉について従来は化粧板を骨組みに強固に接着する、貼り替え不能式でドア本体の再利用が不可能であったが、これを取り替え式に変更し、更新時にドア本体の再利用が可能なように変更した。
1999年度製造の第25 - 27編成が該当する。
2000年度製造の第28 - 30編成が該当する。
2001年度製造の第31 - 33編成が該当する。
同時期に半蔵門線用として製造される08系の設計思想を取り入れ、仕様変更により安全性の向上、コストダウン等を図った。08系同様に2000年(平成12年)3月に発生した日比谷線脱線事故を踏まえた車体構造の強化と安全性の向上を目的に設計変更した台車を採用した。
車体の窓割は営団とこれに乗り入れる鉄道事業者で協議して定めた規格に基づいたものとなり、座席配置は標準的な3-7-7-7-3人掛けとなっている。車体は構造が見直され、側構体を従来のシングルスキン構造からダブルスキン構造(セミダブルスキン構造)に変更し、車体強度の向上を図った。合わせて車端部(側窓下 - 台枠下面間)の隅柱を強化・三角形断面構造とし、側構体は戸袋部および下部構造(7人掛け座席間は台枠との接合部付近のみ、車端部は側窓下全体)を中空形材による二重構造(ダブルスキン構造)とした。これらの技術により、万が一衝突事故が発生した際には、相手車体が自車体へ侵入することを防止できるほか、衝撃により各構体が分離するのを防止することができ、事故の拡大を抑えることができる構造となっている
併せて台車はモノリンク式ボルスタレス方式で変更はないが、曲線通過性の向上や保守性の向上を目的に構造を変更したものとなった。具体的には「異方性空気ばね」、「非線形軸ばね」、「応荷重差圧弁」、「不感帯が小さい高さ調整弁」が採用された。製造メーカーが異なるが、08系で採用した日本車輌製のND-730形と同一構造である(本系列は住友金属製のSS161・SS061形)。
さらにバリアフリーの観点から床面高さをそれまでの1,150 mmから1,140 mmへ低下させた。前照灯は自動車などにも普及しているHID灯を搭載し、視認性の確保も併せて行っている。車外の車両番号表記など各種表記をプレート式からステッカー貼り付け式に変更している。これは車内の各種表記も同様である。(車外の「S」マーク表記はプレート式を踏襲。)
側窓はドア間で均等な配置となり、ドア間の7人掛け部は2分割で開閉可能な窓、車端部は固定式の単窓に変更された。連結面はすべてに妻面窓が設置されたが、それまでよりも若干小さくなった。袖仕切形状が変更され、7人掛けロングシート部には3+4で区切るスタンションポール(握り棒)が設けられた。このほか、網棚形状(荷棚受け、荷棚網)は簡易な構造に、車いすスペース部にあった座席は廃止した。
乗務員室内ほぼ同じだがブレーキ指示計(減速度km/h/s表示)はアナログ計器式から08系と同様の力行ノッチも表示するLED表示灯式のものとなった。車掌スイッチは機械式から間接制御式(リレー式)に変更した。
また、機器についても変更点があり、MT比はチョッパ制御車と同じ5M5Tに戻っている。
ただし、線区による違いを除いても以下のような相違点がある。
このグループから集電装置はシングルアーム式パンタグラフに変更した。これは05-200形と05-800形に2基、05-500形に1基搭載されている。
その後、このグループは編成中のパンタグラフを2台搭載した車両の降下(5→3基)が行われている。当初は第35編成で行われていたが、現在では第34編成を除き3基使用となっている。降下したパンタグラフの側面上部には黄色い印が付けられている。
2002年度製造の第34 - 36編成が該当する。
2003年度製造の第37 - 39編成が該当する。この3編成が、帝都高速度交通営団として最後の新製車両となる。
東京地下鉄(東京メトロ)発足後の2004年度製造の第40 - 43編成が13次車に該当する。
このグループは「新技術を投入した次世代形通勤車両」・「今後の標準車両」として東葉高速鉄道と共同開発したものである。東葉高速2000系と仕様の共通化、同時発注・複数年一括発注の新契約方式により、今までの05N系と比べて約15 %のコストダウンを図った。設計にあたっては車体のコストダウン・衝突安全性向上・リサイクル性向上・火災対策・車体の高精度化と上質化・快適性向上をコンセプトとした。
東葉高速鉄道との協定により日立製作所提唱の『A-train』の構体を採用している。なお、日立製作所製車両の導入は、営団時代1964年の丸ノ内線用500形の801・802号車以来、40年ぶりの導入となった。また、「標準車両」の規格にも適合する。
従来の車両構体はアルミニウムの骨組みを基本とし、これらを溶接棒を用いたミグ溶接を基本に組み立てていた。13次車では屋根構体・側構体・台枠など全ての構体をダブルスキン構造の中空押出形材で構成し、これらを20 mを通して摩擦攪拌接合(FSW)にて接合する「オールダブルスキン構造」を採用した。さらに複雑な形状をする先頭車前頭部側面は骨組み構成をやめ、1枚のアルミ板から削り出し加工にて製作している。
内装や床下機器の製作にはモジュール化・アウトワーク化を実施している。従来は内装・床下配線・配管は骨組みに対し、現物合わせで組み立てていた。13次車では中央天井、側天井、つり手・腰掛の各モジュールや配線・配管モジュールを前もってアウトワークにて製作し、これらの各モジュールをダブルスキン構体の一部であるマウンティングレールにボルトで固定する方法を採用している。これにより構造の簡素化、部品点数削減、コストダウンを図っている。
外観では屋根構造が張り上げ屋根となり、車端部の窓は車体との段差をほぼなくしたほか、車外の側扉引き込み防止ゴムが省略された。車端部では隅柱を強化した三角形の断面構造とし、屋根 - 台枠下面間へ強固に接合させた。ダブルスキン構造の採用と合わせて車体強度を向上させ、衝突事故時の安全性をさらに向上させている。妻構体と側構体の接合部(面取り部)は、一体成形加工(ダイレスフォーミング)と称する曲げ加工とすることで溶接を廃止している。
客室においては韓国・大邱地下鉄放火事件を教訓として、火災発生時に塩素ガスやシアン化水素等の有毒ガスの発生源となる塩化ビニルやFRP等の合成樹脂系材料の使用を取りやめている。内装部品はリサイクル性の向上のため、車体材料と同じアルミニウムの使用部材を多用する「モノアロイ化」(単一合金化)を図っている。
座席は1人分ごとに区分されたセパレートシートとされ、1人分の掛け幅は460 mmに拡大した。袖仕切は形状が変更された。床敷物は塩化ビニル系から火災発生時に有毒ガスの発生しない灰色のゴム材となった。側扉横の手すりは戸袋内柱と一体化したアルミ形材に、車両間貫通扉はドアクローザ式から傾斜式に変更、持ち手は従来よりも長い手すり状となった。
火災対策としてつり革のベルトは溶融滴下のしないナイロン繊維とした。つり手棒受けは従来車ではアルミの中空品に白色の焼付塗装をしたものであったが、このグループはアルミの無塗装品で板状のものに変更した。
車体の上質化として側壁の非常通報器、ドアコック、ドア上の鴨居点検カバー部の車内案内表示器を内装パネルとの段差をなくし、見付けをすっきりさせた。仕様の見直しによって、ラインデリアの台数を各車2台削減、側扉ガラスの単板ガラス化、側窓のカーテンは引っ掛け式に戻された。さらに車内案内表示器は全扉上配置から千鳥配置とし、表示器のないドア上部には「このドアが開きます」「反対側のドアが開きます」の表示ランプが設置された。
中間車は2・9号車に車椅子スペースを設置しているが、新たに3 - 8号車にはフリースペースを設置した。フリースペースは座席のない点では車椅子スペースと同様だが、車椅子スペースは車椅子利用者の安全確保から非常通報器と車椅子固定ベルト(固定ベルトは13次車で初採用)を設置するが、フリースペースは大きな荷物を持った乗客のためのスペースとしており、非常通報器と固定ベルトは省略されている。
制御装置は三菱電機製だが、PGセンサレス方式、純電気ブレーキ対応形となった(素子耐圧は8次車以降3,300 V - 1,200 A)。編成組成は11次車以降と同じであるが、パンタグラフは編成で5台から3台に削減された。床下機器では従来は別々に艤装していた主回路用断流器と高速度遮断器(HB)は1つの箱(断流器箱)に集約したほか、補助回路用高速度遮断器(SIV HB)も1つの箱(変圧器箱)に集約した。
付随車3両に設置されていた第二元空気だめ(空気溜め = 空気タンク)は、空気圧縮機(CP)搭載車の第一元空気だめの容量を大きくすることで廃止したほか、別々であった保安空気だめと戸閉空気だめは2室空気だめとして一体化されている。独立して設置していた機器類(各種接触器類、通報制御器、TISモニタ局、接地スイッチ等)は共通機器箱に集約しており、艤装工程の削減、コストダウン、省メンテナンス化した。
概要にある通り、このグループは当初東葉高速車を含めて19本投入する計画となっていたが、計画が変更され、10000系の投入に伴う07系の有楽町線から東西線への転属で補充することとなった。このため、第44 - 47編成の製造計画は中止され、2004年度に製造された第40 - 43編成4本(13次車)と東葉車11本(当初の予定通り)の15本で終了となった。
ここでは共通事項や基本項目などについて説明する。
上記の内容は落成時点のものである。改造による変更点は後述する。
前述のように、7次車まで(05系)と8次車以降(05N系)でデザインが大幅に異なっている。しかし、基本的な窓配置は、車外から見て右半分を占める大窓上部に行先表示器があり、その左側に非常扉窓があり、上部に白字で車両番号が表記され、さらに左側に細長い窓があり、上部に運行番号表示器が収められている。尾灯は全車LED式である。
ワイパーは右側の大窓のみに設置されている。連結器は密着連結器である。非常扉はプラグドアを採用し、車外から見て左側にスライドする。電気笛は07系などより音の低いものが使用されている。現在は第04編成を除いて運転席前の大窓に遮光フィルムを貼り付けする。なお、運転台上部には日除けとしてアクリル製の光線ヨケ(遮光パネル)がある。
前述のように、製造年次によって側窓配置が異なっているが、どの編成も側窓の上部と側扉の上部の高さがほぼ揃っている。開閉可能窓はすべて1段下降窓である。
車外放送用スピーカーは5次車までは車体側面に直接取り付けられているが、6次車以降は冷房装置キセに内蔵されている。屋根構造は13次車のみ張り上げ屋根となっている。
連結間にある車両間転落防止幌は、05系では1999年 - 2000年頃に改造で設置したが、05N系では全車が新製時より設置されている。
ラインカラーの帯は前述のように7次車までと05N系で異なっているが、共に側面には腰部に貼られており、側扉及び乗務員室扉にも貼られている。05N系の方が貼り付け位置はやや低く、太い帯(水色帯)の幅がやや広くなっている。7次車までは前面と帯がつながっているが、05N系ではデザイン上前面の帯とはつながっていない。
冷房装置は集中式を搭載する。
装置は1 - 5次車はインバータ制御式で、外観キセ(カバー)形状は角ばった形状である。インバータ制御方式はきめ細かな温度制御や省エネルギー効果が高いという特徴がある。能力は9次車まで48.84 kW(42,000 kcal/h)である。
6次車からは外気導入形のインバータ制御式とし、外観向上を目的に端部をFRP製の曲面カバーを取り付け、さらに薄型化と細長い形状に変更した。空調運転モードは「冷房」「暖房」「除湿」「送風」に加え、カレンダー機能と車内外の外気に応じてマイコンにより自動選択をする「全自動」モードを追加した(この空調運転モードは13次車まで共通)。
その後、10次車以降は快適性向上を目的に、能力を58.14 kW(50,000 kcal/h)に強化した。さらにインバータ制御方式をやめ、一般的な稼働率制御方式(ON/OFF制御方式)に変更し、外観キセ(カバー)形状も角ばった形状となった。
これはインバータ制御方式ではコスト面で不利なことや特に夏季におけるドア開閉による車内温度上昇に対処ができないためであるとしている。なお、6・7次車も後年にこの方式へと改造された。
先頭車の屋根上にはJR線用の列車無線アンテナと信号炎管が設置されている。また、3号車または4号車の連結面妻面と床下には東西線・東葉高速線用の誘導無線アンテナが設置されている。
パンタグラフは菱形搭載車はPT-4301-S形、シングルアーム車はPT-7136-E形である。
落成当初の行先表示器は前面・側面ともに第01 - 13編成が字幕式、第14編成以降は3色LEDであったが、B修工事施工後の第14 - 18編成はフルカラーLED式、千代田線転用後の第01・03・06・13編成は8色カラーLED式に変更されている。側面の設置位置はワイドドア車のみ車体中央部の側窓の上に設置されている。それ以外の編成では横から見て中央より1つ右の側窓上部に設置している。
幕式の車両は前面・側面ともにローマ字併記で書体はゴシック体であった。なお、落成当初は側面にローマ字併記はなかったが、1996年(平成8年)の東葉高速鉄道線開業に伴い、1999年(平成11年)までに順次、前面・側面ともに方向幕が交換され、ローマ字入りとなった。
3色LED車では書体は明朝体として、側面はローマ字併記があるが、前面は側面表示器よりもドットが粗く日本語のみである。前面・側面ともにLED表示器は05系のものは低輝度品だが、05N系では高輝度品を使用し、視認性の向上が図られている。なお、後に05系も前面・側面ともに05N同様の高輝度品への交換が実施された。
フルカラーLED車は書体はゴシック体を使用しており、前面・側面ともローマ字併記である。
種別表示は各駅停車の場合は当初は無表示であったが、2016年頃から順次「各停」または「各駅停車」と表示されるように変更された。3色LED車は、4文字の種別は2文字で表記される。千代田線北綾瀬支線については「綾瀬⇔北綾瀬」および「ワンマン」の交互表示である。
シンボルマークは営団時代は前面では非常扉の帯部分に、側面では側窓上部に営団団章「S」マークを1か所設置していた。その後の05N系からは乗務員室扉直後に大形の「S」マークを追加した。
民営化時には全編成が東京メトロ「ハートM」マークへの貼り替えが実施された。前面は左側の細長い窓上部へ、側面側窓上部は同じ位置に「ハートM」マークへと交換した。
さらに側面乗務員室扉直後には「ハートM」と「Tokyo Metro」2つのロゴマーク(コミュニケーションマーク)が貼り付けられた。
また、東京地下鉄への移行期である2003年末からは先頭車の非常口部と側面にあった営団マークを撤去し、先頭車の前面上部、乗務員扉直後と側面に東京地下鉄のマークを貼り付けていた。ただし、前面上部は黒シール、乗務員室扉直後は白シール、側面は上から営団マークを貼って隠していた。
05系1 - 7次車の内装は、内板はラインカラーである水色をベージュ系にアレンジしたものとした。床敷物は中央をベージュ、外側を青緑色としたフットライン入りである。
袖仕切は03系とほぼ同じ形状で、荷棚端と一体形状のものである。網棚はステンレス線を格子状にスポット溶接したもので、10次車まで同様のものが使用されている。側窓のロールアップ式カーテンは水色の単色品である。その後、6・7次車については床敷物は灰色の単色品に、カーテンは8次車以降と同様の波線状の模様入り(水色)に交換されている。
05N系では仕様が全面的に変更され、内板は光沢仕上げから つや消しの明るいベージュ色に、床敷物は8 - 10次車は濃い茶色系の2色、11・12次車は濃い茶色系単色品を使用している。13次車では火災対策からそれまでの塩化ビニル系材料をやめ、灰色のゴム材を使用した。ゴム材自体が滑りにくい素材のため、出入口部の滑り止め加工は省略した。
ただし、13次車ならびに一部の初期車両で施工したゴム製の床敷物は、本来はアルミ材を敷いた上でゴム製の床敷物を貼り付けるものであるが、現車ではアルミ材が敷かれておらず、鉄道車両の火災対策基準を満たさないことから、国土交通省より改善指示が出されている。
袖仕切は濃いベージュ色で8 - 10次車、11・12次車、13次車で形状が異なる。荷棚形状は8 - 10次車では座席前の網棚受けは板状のアルミ材に化粧シートを貼った形状だが、11次車以降ではコストダウンのため簡易な構造とされ、荷棚受け形状を変更、荷棚網も簡単な金網式に変更されている。
一般席の座席モケットは1 - 7次車は濃いピンク色の「ドビー織り」で、背もたれの部分に区分柄があるものを使用し、優先席は紺色にシルバーライン入りの表地を使用している。8次車以降の一般席の座席モケットは濃い赤色系でシャクヤクの花弁をイメージした「ジャカード織り(模様入り)」の「ピアニーレッド」色(区分柄なし)に変更され、優先席は同仕上げで青色の表地を使用している。
1 - 5次車では車端部の壁は段差があり、消火器はそこの収納キセに収められている。6 - 10次車では車両の構造上段差はなく、消火器キセは客室側に出っ張っている。11次車以降は初期車と同形へ戻されている。
側扉は室内側も化粧板貼り付けで、ドアガラスは単板ガラス車は金属押さえ、複層ガラス車は白色成形品とゴムによる支持方式である。12次車までは室内側扉脇に手すりが設置されているが、13次車では側扉脇の縦面と一体化したアルミの形材に変更された。また、側扉の取っ手は12次車までは両側の扉に設置しているが、13次車では片側の扉だけに付けられている。
各車両間の貫通扉は片開き式で、扉のガラスは6次車以降では下方向に長いものとなっている。この扉も室内側は化粧板仕上げとしており、8 - 12次車は袖仕切と同一の濃い茶色だが、それ以外の編成は室内の化粧板と同様のものである。
車椅子スペースは、設置をする編成では2・9号車に設置されている。車端部が4人掛け座席構造となる6 - 10次車では2人掛け座席を設置するが、それ以外の編成では座席の設置はない。また、この部分は側窓と重なるために8次車以降では袖仕切の高さが低いものとなっている。
つり革は12次車までは東京地下鉄標準のポリカーボネート製で、白色の三角形のものである。その後、優先席部は2005年(平成17年)末にオレンジ色のものに交換されている。また、乗務員室直後の部分では枕木方向のつり革が設置されている編成と設置されていない編成がある。
なお、13次車においては火災対策からつり輪材質がポリエステル樹脂に変更され、つり革のベルトは塩化ビニル製からナイロン製とされた。
車内冷房の拡散にはダクト方式を採用し、天井中央には補助送風機であるラインデリアの収納された整風板がある。12次車まではラインデリアは先頭車9台、中間車10台を設置し、また車内放送用スピーカーも6台収納されている。13次車では仕様の見直しによって冷房吹出口は蛍光灯反射板と一体化、ラインデリアは設置台数は先頭車7台、中間車8台へと削減され、また車内放送用スピーカーは5台となった。
05系1 - 7次車では日比谷線用の03系とほぼ同じ構成で乗務員室内は緑色、運転台計器盤は紺色の配色とされた。さらに右側に仕切壁を設置している。乗務員室の奥行き(広さ)は05N系も含めて1,900 mmと広めに確保している。
操作面はデスクタイプの運転台で、計器盤は傾斜が緩く、TISモニター部分のみ計器盤が上部に出っ張っている。6次車以降では操作面やTIS部の計器盤形状が変更されたほか、種別表示灯がTISに内蔵された。右側の仕切壁には配電盤などが設けられている。
主幹制御器は縦軸回転式のツーハンドルマスコン式である。マスコンハンドルはデッドマン装置付(力行1 - 4段)、ブレーキ設定器は5次車までは取り外し式、6・7次車は黒色の固定式(常用1 - 7段・非常)である。
その後の05N系では全面的に見直され、室内はアイボリー色、運転台計器盤はダークグレーの配色とされた。さらに右側の仕切壁を廃止した。
計器盤は傾斜がきつくなり、視認性を向上させたほか計器盤の配置は南北線用の9000系に準じた配置とされた。また、13次車ではTIS部の計器盤に段差がある。
主幹制御器は左手操作形のデッドマン装置付ワンハンドルマスコン(ノッチ数はツーハンドル車と同じ)に変更された。右側には勾配起動スイッチ内蔵の右手用グリップがある。配電盤は左壁に移設され、そこにあった誘導無線操作器と非常通報受報器は操作面右端に移設され、操作性の向上を図った。
いずれも現在の速度計は白地に黒文字で120 km/hまで目盛りが刻んであり、オレンジ色に電照できるものである。落成当初、新CS-ATC非対応であった編成もあったが、それらの編成は新CS-ATC改造時に速度計自体が交換された。
また、10次車まではブレーキの減速度(km/s)を表示するブレーキ指示計(ブレーキ指令)が設置されていたが、11次車以降は力行ノッチも表示できるLED表示灯式に変更されている。
2008年3月頃より、JR線用の列車無線装置をアナログ無線からデジタル無線に変更する改造された。これにより、デジタル無線モニター・ICカードリーダー・ワイヤレス電話機設置箱が設置されている。
乗務員室と客室との仕切壁には、客室から見て左から大窓・乗務員室扉窓・細長い窓の3枚窓が並んでいる。遮光幕は大窓と乗務員室扉窓の2か所に設置されている。いずれの窓の客室側には手すりが設置されている。 なお、乗務員室扉窓はバランサー付で開閉可能である。9次車まではオレンジ色、10次車以降はグレーの着色ガラスが使用されている。
03系に採用された車両制御情報管理装置「TIS(Train control Information management System)」が本系列でも採用されている。この装置はマスコンや常用ブレーキの制御指令(制御伝送)や機器を動作監視し、故障時には運転台にモニタリングする機能がある。また、検修作業や試験・試運転データの収集など検修用としても大きな機能がある。
運転台の表示器は7次車まではELディスプレイによる単色モニターである。右上のボタンで機能を切り替えて使用するが、7次車では下部にボタンがあり、操作性の向上が図られている。このグループまではサービス機器の操作は空調装置の温度補正のみができる。後の2007年までに全車がカラー液晶式に交換された。
8次車以降では性能向上により機能拡充がされている。信頼性の向上のため伝送システムを変更、完全二重伝送化して制御伝送にRS-485を採用した。画面はカラー液晶となり、7次車までの機能に加え、従来は別な設定器で行っていた「行先表示」「車内表示」「自動放送」の設定機能も追加され、乗務員の操作性向上、車両間引き通し線の削減が図られた。その後も11次車以降では機能の改良がされている。
新製時の床下機器色は明るい灰色である。
基礎ブレーキはいずれも保守性に優れたユニット式片押し踏面ブレーキ(ユニットブレーキ)である。軸距はSUミンデン式・円錐積層ゴム式台車は2,200 mm、それ以外は2,100 mmとして曲線通過性を向上させている。
全車に停車駅通過防止装置が取り付けられている。東陽町以東あるいは直通先で使われる。
音は通常の警報音に加えて注意を促すための音があり、駅に近づくとまず注意を促す音(「ピー、ピー、ピー」という伸びた音)が流れ、その後運転士がブレーキ操作をすると警報音が流れる。05系1 - 7次車はこの警報音が0.5秒ほど間隔をあけて「ピッ、ピッ、ピッ」と連続発音をするのに対し、8次車以降は「ピッピッピッピッ」と間隔を空けずに連続発音をする。
最初に製造された1次車以外は落成当初から自動放送装置を搭載しており、1次車も2000年頃に自動放送装置が設置されている。現在、東西線内ではすべての編成で自動放送を流している。
自動放送は各車AVC(オート・ボリューム・コントロール)付き分散増幅式というシステムを採用しており、走行音によって自動的に自動放送の音量が調節される仕組みになっている。 車内ドア上のパンチネット部分がそのセンサである。
放送は相手会社の仕様で東西線内とは異なっているが、車両により放送内容に差異が見られる。
また、車外案内用スピーカーを搭載しており、車掌による車外放送が使用できるほか、押しボタンによる乗降促進放送が流せる。
民営化前は日本語のみの自動放送が05系とJRのE231系800番台で使用されていたが、細部が1 - 10次車とそれ以外で異なっていた。民営化後は放送が一新された。
東京メトロ東西線を走る全車両でドアチャイム付の車内案内表示器がドア上に付いているが、概要は車両によって様々である。
B修施工車以外はLEDスクロール式車内案内表示器を設置しており、設置位置については1 - 7次車では側扉上部の中央部であるが、8 - 12次車では表示器の横にドアコックがある関係で左に寄って設置されている。1 - 12次車は全扉上部の設置であるが、13次車だけは側扉点検蓋(鴨居部)と一体形のアルミ材へ変更され、左右交互配置(千鳥配置)となっている。全車1段表示で、16×16ドットで1文字を表示し、これを11枚並べた16×176ドットで構成される。
B修施工車については液晶ディスプレイ(LCD)式の車内案内表示器に交換された。
8次車以降・東葉高速2000系でも東西線内と他社線内とでも多少の違いが見られ、表示内容に関しても多少異なる。
東京地下鉄では2010年度時点では、工場検査の入場時期となる4年を基準に車両改修時期を定めている。
05系(05N系以外)では2000年(平成12年)からC修工事を実施している。施工内容はラインカラーの貼り替え、床敷物は張り替え、ゴム材、シール材の交換などである。また、6・7次車では前述の内容に加え、冷房装置の交換や補助電源装置の改良なども施工している。
東西線用については、05系初期車(第01 - 13編成)については15000系を導入することで置き換えが実施されたが、第14編成以降の車両については今後も使用を継続する予定である。第14編成において落成から20年以上が経過したため、2012年度より大規模改修工事を開始、5次車の第15 - 18編成についても2013年度以降に年間1本ずつ改修されている。2014年の第18編成を皮切りに、2015年に第16編成、2016年に第15編成、2017年には第17編成に施工した。制御装置もVVVFインバータに更新されたため、第17編成のB修を以って東西線で運用される車両は全てVVVFインバータ制御に統一された。その後2019年には第21編成が6次車初の大規模改修工事を完了し試運転を行ったが、第14 - 18編成とは施工内容が多少変更されている。
千代田線用については、従来北綾瀬支線で使用してきた5000系および6000系ハイフン車の車両老朽化、また2014年(平成26年)3月15日ダイヤ改正に伴う運用数増への対応として東西線で使用されていた05系に大規模改修工事を実施し千代田線の北綾瀬支線用に改造した。その後、2014年(平成26年)4月28日より千代田線北綾瀬支線(綾瀬駅 - 北綾瀬駅間)での営業運転を開始している。
東西線用の車体外観については05系8次車の仕様に近づけるため、ラインカラー帯の配色変更を実施したほか、前面下部に排障器(スカート)を設置した。第21編成以降は排障器の形状が変更されている。前面の車両番号表記については、従来配置されていた非常扉上部に地上設備とのデータ送受信機器を設置したことに伴い、非常扉下部への配置に変更された。車外の前面・側面行先表示器は3色LED方式を種別表示をフルカラーLED、行先表示を白色LED表示に更新した。
千代田線用のラインカラー帯は同線で運用されている16000系と同じ緑色系の3色帯に貼り替え、合わせてホームドアのあるホームからも見えるよう側窓上部にも新たに貼り付けしている。同線用も前面の車両番号表記については、従来配置されていた非常扉上部に車上CCTV(ホーム監視用モニター)の映像受信用のミリ波受信装置を設置したことに伴い、非常扉下部への配置に変更された。前面行先表示器は8色カラーLEDに更新している。
車内は化粧板、客用ドア、床敷物の取り替えが実施されており、東西線用の内装カラーは15000系ベースとしたライトグレー系とした。床敷物については火災対策にも適合したゴム素材のものとなっている。千代田線用は内装カラーをアイボリー系、床敷物と座席表地は紺色とした。座席端部に設置した袖仕切板は大型化させているほか、各座席間にスタンションポール(縦握り棒)を新設している。いずれもLEDの車内照明に交換された。
バリアフリーの促進を図るため、車内に車椅子スペースを新設しているほか(千代田線用の第06編成は設置済み)、各客用ドア上部(鴨居点検フタ)にはドア開閉時または乗降促進ブザー鳴動時に赤く点滅する「ドア開閉表示灯」を新設、また各客用ドア下部には車内と出入り口の識別を図る「出入口識別表示板」を新設した。
優先席部は座席表地の色調変更に加え、付近のつり革と座席端の袖仕切縦握り棒をオレンジ色着色として識別している。また、優先席前のつり革高さは1,660 mmから1,580 mmへと低下させて使いやすさを向上させている。
車内の各ドア上部には17インチ液晶ディスプレイ (LCD・TVIS) を用いた車内案内表示器を設置した。LCD画面は2台が設置され、左側をTokyo Metro ビジョンの広告動画用として、右側を行先案内・乗り換え案内等の旅客案内用として使用する。
放送装置は機器の更新を実施するとともに、車内非常通報装置については警報式から乗務員と相互に通話が可能な通話式に更新された。戸閉装置(ドアエンジン)は空気式だが、閉扉後に一定時間戸閉力を弱める戸閉力弱め制御機構が追加されている。
冷房装置はインバータ制御方式から稼働率制御方式(ON/OFF制御方式)で冷房能力58.14 kW(50,000 kcal/h)に更新した。この冷房装置端部には車外放送用スピーカーが内蔵されている。
東西線用の乗務員室については15000系と同様の仕様・配置に一新された。運転台ユニットは15000系と同等の左手操作形ワンハンドル式に変更し、乗務員の機器取り扱いの統一を図っている。千代田線用の運転台ユニットは両手操作形ワンハンドルマスコンに更新し、ワンマン運転への対応として、運転台上部には車上CCTV(ホーム監視用モニター画面)を設置している。車掌スイッチについては電気的に保持する間接制御式(リレー式)に交換されている。
東西線用4次車の第14編成は編成におけるMT比4M6Tに変更はないが、5次車の第15 - 18編成のワイドドア車は車両の仕様を統一するため編成形態の変更が実施され、1両を電装解除してMT比を第14編成にそろえている。なお、機器の更新により、起動加速度は従来の3.0 km/h/sから3.3 km/h/sに向上している。制御装置は、第14 - 18編成は千代田線16000系1 - 3次車と同等の永久磁石同期電動機(1時間定格出力205 kW)を用いた東芝製のIGBT素子使用の2レベルVVVFインバータ制御(レゾルバレス・ベクトル制御・純電気ブレーキ対応)に一新した。6次車となる第19編成以降は、制御装置を16000系4次車と同等の三菱電機製IGBT-VVVFインバータ(MAP-214-15V306)に変更している。
東西線用の制御方式は各軸個別方式の1C1M4群制御としており、個別制御の場合には制御装置本体の大形化が予想されるが、本改修車では2群分のインバータユニットを1つに集約した「2in1形」を採用することで装置本体の小型化図った。歯車比は109:14 (7.79) を踏襲し、主電動機はPMSM を採用することで従来の三相誘導電動機よりも高効率での使用(従来の92 %を96 %まで向上)が可能となっている。
千代田線用の編成は東西線で使用されていた両先頭車(05-100形および05-000形)と中間車1両(05-200形)を3両編成化した。編成形態(MT比)は2M1Tだが、実質的には1.5M1.5Tとなっている。素子にはハイブリッドSiC(シリコンカーバイト)モジュール素子を使用したVVVFインバータ制御を採用した(PGセンサレスベクトル制御)。SiCモジュール素子の採用により、装置の小型化および電力消費量の大幅な削減が図られている。電動車2両中、各車とも綾瀬側から数えて3軸目は付随軸(それ以外の1・2・4軸目は動力軸)となっていることから、制御は1C3M2群構成となっている。主電動機は日比谷線用03系更新車で採用した185 kW出力のかご形三相誘導電動機を採用した。
両線用ともブレーキ装置は保守性向上のため、中継弁を介した方式から各車1台のブレーキ作用装置(保安ブレーキ一体形・一部はブレーキ受信装置一体形)に集約している。また、東西線用のブレーキ制御は16000系で実績のある車両制御情報管理装置 (TIS) を活用した編成単位での遅れ込め制御を採用した(編成統括回生ブレンディング制御)。これはブレーキ指令 = 編成で必要なブレーキ力から全電動車(M車4両)で負担できる回生ブレーキ力を引いた不足分(空気ブレーキで補足する)を全制御車・付随車(CT車とT車・計6両)の空気ブレーキで負担する方式である。
東西線用の集電装置は編成形態の変更により、各電動車にシングルアーム式パンタグラフを1基の搭載とした(05-200形・05-800形は2基から1基へ、05-300形・05-900形は1基を新設)。また、運転台のTISモニター画面でパンタグラフの上昇を確認するためのパンタ上昇検知装置を新設している。千代田線用の集電装置は従来のひし形タイプを流用しながら、パンタ上昇検知装置を新設している。
東西線用の台車は東西線の走行条件(乗車定員が多い)を考慮して台車枠の改修を行い、強度の向上を図っている。そのほか、走行安全性の向上を目的に各種改良が施されている。千代田線用においても、上記のほか、廃車車両から電動台車枠を流用することで、すべての台車枠が電動台車枠となっている。両線用とも空気圧縮機は実績のあるスクロール式コンプレッサ(吐出量 1,600 L/min)が採用されている。この装置は周辺機器を含めて一体の箱に収めたもので、騒音低減やメンテナンス性に優れたものである。
東西線用の補助電源装置はDC-DCコンバータ(DDC)に代わり、IGBT素子を使用した容量 240 kVA の静止形インバータ (SIV) を編成で2台搭載した(出力電圧は三相交流 440 V )。千代田線用の補助電源装置はハイブリッドSiCモジュール素子(素子容量 1,700 V - 1,200 A ・3レベル)を使用した150 kVA出力の待機2重系構成の静止形インバータ(SIV)を採用している。蓄電池は保守性向上のため、ポケット式を焼結式に更新し、合わせて車内電気機器の増加に伴い容量の増加、編成での搭載台数を3台から2台に削減している(千代田線用は編成で1台)。
東西線用は車両搭載機器の制御を行う車両制御情報管理装置(TIS)を15000系と同等のラダー形伝送方式に更新し、新たに車両の検査期限管理機能、パンタグラフ不一致検知機能、運転状況記録装置の代わりとしてトレインコンディションレコーダー機能が追加されている。千代田線用についても、ラダー形伝送方式への更新が実施されている。
東西線用の編成は深川検車区に所属している。東京地下鉄車の運用(列車番号の末尾がSの運用)全てに入ることができる。同じく深川に所属する07系、15000系と共通で運用されている。
重要部・全般検査は深川工場で行われる。編成を2分割しても走行できるようになっている。なお、編成の中間に簡易運転台があるが、非先頭車を先頭に走行する場合、簡易運転台ではなく無車籍の牽引車を使用している。
千代田線北綾瀬支線用の編成は綾瀬検車区に所属している。綾瀬 - 北綾瀬間での営業運転のほか、新木場車両基地内にある総合研修訓練センターの訓練車としても使用されている。
05系を使用したヘッドマーク付き列車には、以下のようなものがあった。
東京地下鉄では2009年(平成21年)度末から2011年(平成23年)度にかけて15000系を導入し、05系の1 - 4次車を置き換える予定と発表した。まず、2010年に第02・07 - 11編成が運用を終了し、最後まで残った第01・03 - 06・12・13編成も2011年夏で運用終了となった。このうち01・03・06・13編成の4本については上述の改造工事を実施し、千代田線北綾瀬支線用へと転用された。
第11編成は2010年5月に両先頭車2両(05-111・05-011)と05-511の3両が深川検車区行徳分室から搬出され、途中東京港から神戸港まで船舶輸送された後、近畿車輛へ陸送で搬入された。
第02・04・05・07 - 10・12編成については2010-2012年中にインドネシアのPT Kereta Commuter Indonesiaへと譲渡され、4M4Tの8両で運用されている。なお第07編成は2014年末に事故で廃車された。
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"text": "営団05系電車(えいだん05けいでんしゃ)は、1988年に登場した帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化に伴い、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。",
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"text": "本項では、インドネシアのPT Kereta Commuter Indonesia(PT KCI)に譲渡された車両についても述べる。",
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"text": "1988年(昭和63年)に東西線の輸送力増強及び5000系を置き換えるために登場し、幾度の仕様変更を経ながら2004年(平成16年)度までに10両編成43本(430両)が製造された。",
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"text": "05系の車両数は1994年(平成6年)を以て5000系を上回った。当初、東西線の車両冷房化は全て05系の新製で対応する予定であったが、同線は車両数が多く更新完了までの期間が長くなることが予想された。このため、5000系に対しても冷房化改造をはじめとした延命工事を行い、最終的に同系列の置き換えは2007年(平成19年)までとなり、それまでの銀座・丸ノ内・日比谷各線に比べ19年という長期間を要した。",
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"text": "また、計画では2005年(平成17年)度に最終編成として10両編成4本(40両)を新製し、最後まで残存する5000系をすべて置き換える計画であったが、有楽町線・副都心線用の新型車両10000系の投入による計画の変更で07系が転入することとなり、05系の増備は中止された。また、東西線の混雑緩和・遅延防止を目的として2010年度から2011年度にかけて導入されたワイドドア車体の新型車両も当初は本系列の第14次車として計画されていたが、10000系の仕様を取り入れたことによる仕様の変更で新系列となる15000系として製造された。",
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"text": "1989年(平成元年)12月20日、鉄道友の会の1989年グローリア賞を受賞した。これは本系列および01系・02系・03系の各新系列車両に対しての賞である。",
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"text": "16年間にわたって製造されており、また途中での仕様の変更も多い。先頭車の前面形状も7次車までと8次車以降で大きく異なっていることから、以下では7次車までの05系と8次車以降の(通称)05N系に分けて解説する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "同時期に計画が進められていた日比谷線用の03系と基本設計は共通としている。当初は本系列が先に登場予定だったが、日比谷線の輸送力増強が優先され、03系が先行登場することとなった。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "東西線は当時の営団では唯一快速列車の運転を実施している路線であることから、「スピード感」を強調したデザインを採用した。前面は傾斜をつけて流線型に近くし、フロントガラスは横曲線をとった曲面ガラスを使用している。同時期の「0x系列」同様に前照灯・尾灯はコンビネーション化して下のラインカラー部に収めた。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "車体はアルミニウム製で、「0x系列」では初めて長さ20 m・片側4扉の車体を持つ。ラインカラーであるスカイブルーの帯をメインに、アクセントとしてホワイトとダークブルーの帯を配している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "座席は脚台(蹴込み)支持方式で、1人分の掛け幅は5次車まで440 mmである。座席の袖仕切りの形状は、千代田線用の6000系以来の流れを汲む網棚の高さまでつながっている形状のもので、第24編成まではほぼ同じ形状である。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "車内にはサービス機器として各扉上にLED式車内案内表示器・ドアチャイムを設置している。運転台の主幹制御器は縦軸回転式のツーハンドルで、ブレーキ設定器は電気指令式で、ノッチが刻んである。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "以下の開設は落成当時の仕様を説明し、B修工事については後述する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "主回路には同時期に製造が開始された03系と同様、素子にGTOサイリスタを使用した高周波分巻チョッパ制御(4象限チョッパ制御)車で登場した。この制御装置はMT比1:1で起動加速度3.3 km/h/sを確保するために「高粘着制御」と「加速度一定制御」を導入し、車両性能の向上を図ったものである。台車はSUミンデン式ボルスタレス台車を使用している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "編成中の電動車(M)と付随車(T)の構成は(MT比)5M5Tで、主電動機出力160 kW/台、チョッパ制御車の歯車比は5.73。制御方式はパンタグラフを2基搭載する05-200形と05-800形は1C8M制御、1基搭載する05-500形は1C4M制御方式である。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "冷房装置はインバータによる容量可変式の能力48.84 kW(42,000 kcal/h)、装置キセ(カバー)は角型となっている。補助電源装置は170 kW出力のDC-DCコンバータ(DDC)を採用した。このタイプの電源装置は後の9次車まで使用されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "座席は20 m車体で一般的な3-7-7-7-3人掛けになっており側窓は中間車の場合W-d-B-d-B-d-B-d-W(便宜上、dは側扉、Bは2連窓、Wは1枚窓を表している)であるが、同じ座席割りを持つ第34編成以降とは窓割の寸法が若干異なっている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1988年度製造の第01 - 03編成が該当する。現存車は第1・3編成(いずれも千代田線に転用)。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "このグループの投入により、東西線に暫定配置されていた8000系の8112 - 8114Fが、半蔵門線に転属した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1989年度製造の第04 - 06編成が該当する。現存編成は千代田線に転用された第6編成のみ。また、この投入から、5000系の置き換えが始まっている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1990年度製造の第07 - 09編成が該当する。全車がインドネシアに譲渡されたが、第7編成はのちに廃車となった。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1991年度製造の第10 - 14編成が該当する。現存している編成は第13・14編成(第13編成は千代田線)のみ。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1992年度製造の第15 - 18編成が該当する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ワイドドア車の量産車で、主回路は初期ロットと同じ高周波分巻チョッパ制御、編成構成は5M5Tに戻る。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "主回路に同時期(1992年)に製造された千代田線用の06系と同一のIGBT素子のVVVFインバータ制御(東芝製、3レベル、1200 V / 500 A、1C1M4群制御)とモノリンク式ボルスタレス台車を採用した。主電動機出力は205 kW/台とされ、第14編成とは異なり、起動加速度は3.3 km/h/sとされている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "前面窓の内側にはインバータ制御車であることを示す小さな「V」マークが貼り付けされている。MT比は第14編成と同じ4M6Tだが、編成構成が異なり各電動車はすべて1M方式となった。パンタグラフは各電動車に1基を搭載する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "そのうち、第24編成は廃車となった5000系アルミ車(5453号車)から一部の部品がリサイクルされた車両(アルミ・リサイクルカー、詳細は後述)である。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "車外では窓割付も06系・07系と同一に変更され、座席配置が4-6-7-6-4人掛けとなっている。このグループから側面の窓の一部が固定窓となっており、開閉できるのは両側面2か所ずつ(6人掛け座席部分)の計4か所である。側窓の配置は中間車の場合W-d-W-d-W-d-W-d-W(便宜上、dは側扉、Wは1枚窓を表している)である。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "車内は設備に見直しがあり、1人分の座席幅を440 mmから450 mmに拡大、袖仕切上部のパイプには座席用のモケット布地が巻かれている。側窓は大きさが拡大されたためにカーテンは「引っ掛け式」から「フリーストップ式」に変更された。窓枠は以後アルミ製に戻されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "さらに車椅子での乗降・移動を考慮して床面高さを1,175 mmから1,150 mmに下げ、連結面は貫通路幅を800 mmから900 mm幅に拡大した。貫通扉はドアガラスを下方まで拡大したものに変更し、妻面窓は廃止された。車椅子スペースではその脇に2人分の座席を設置した。第14編成と同様に電動車の床に設置されていたトラップドアは廃止された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "冷房装置はインバータ式だが、外気導入形となり、さらにマイコンにより最適な空調を選択する「全自動空調機能」が追加された。装置キセには前後にFRP製のカバーを取り付けた丸みを帯びた形状に変更された。また、車外案内用スピーカーは外板取り付けからクーラーキセ内蔵形に変更した。電源装置であるDC-DCコンバータはメーカー・出力に変更はないが、素子にIGBT素子を使用したものに変更された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "線区による配色・前面・装備機器等の違いを除くと、06・07系とは以下のような相違点がある。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1993年度製造の第19 - 21編成が該当する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1994年度製造の第22 - 24編成が該当する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "第24編成の投入で東西線からは5000系の非冷房車が一掃され、冷房車は延命工事も受けていたため、05系の投入は一旦中断し、1999年度から投入が再開された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "同編成の落成以来から5年が経過していたため、新造車であることを強くアピールするために全面的に設計変更され、別形式とも思わせるスタイルで登場した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "外観はデザインコンセプトは「スピード感」だが、正面のデザインをマイナーチェンジし、縦曲線主体の形状とした。フロントガラスも縦曲面で、全体的に八角形に近い形となった。下部には新たにスカートが設置された。前照灯と尾灯は丸型となり斜めに設置され、この部分には前照灯と尾灯を納める成形品が装着されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "車体ラインカラー2本は、濃い方の帯は紺色に近くなり、明るい色の帯の色も変更され、2色の帯の色の差が大きくなった。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "さらに営団車両であることを強調するため、側面の乗務員室扉直後へ大形「S」マークの貼り付け、さらに側窓上の「S」マークもやや大きくした(東京メトロ発足後に落成した13次車を除く)。行先表示器はLED式で変わりないが、正面・側面ともに高輝度のLEDを使用し、視認性の向上を図った。車両間転落防止幌が新製時から取り付けられた。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "客室内装は全面的に変更され、カラースキームが茶色系をベースとした色調に一新された。(後述の車内記述参照)座席は側壁で支持する片持ち式となり、バケット形状も変更された。乗務員室においても配色が見直され、また運転台は左手操作式のワンハンドルマスコンとなるなど仕様が大幅に見直された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "これらのことから「05N系」や「新05系」とも呼ばれるが、正式の称号は従来通り05系のままである。鉄道雑誌など会社が発信する外部向け資料には正式に「05N系」と表記されていることが多いため、ここでは表記を「05N系」に統一する。ただしNが05系の前に表記されて「N05系」とされることもある。なお、2000年2月に発売されたデビュー記念SFメトロカードや2007年1月27日開催の「さよなら5000系イベント」の告知には「新05系」と表記されているほか、東西線40周年イベントでは「05系最新車」と案内されていた。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "車体構造は既存の05系と同様にアルミニウムの大形押出形材を組み合わせたものである。ただし、使用材料は廃車時におけるリサイクル性を向上させるために亜鉛の使用を少なくした材質に統一(本車両では6N01合金を使用)を図ったほか、側構体の溶接の一部に摩擦攪拌接合(FSW)を採用し、出来栄えの向上をさせている。床構体には9000系2次車に続いて神戸製鋼所が開発したアルミ制振形材「ダンシェープ」を採用しており、騒音や振動の大幅な低減を図った。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "主回路はIPMの2レベルに変更したVVVFインバータ制御を採用した。制御装置は回路の簡略化・小型化が図られ、制御素子は高耐圧の3,300 V - 1,200 Aに増強、個別制御から1C2M2群制御に変更された。制御方式にはベクトル制御やファイン・ファジーコントロール(空転再粘着制御)を採用することでトルク制御の向上が図られている。また、騒音対策として高周波変調、特定周波を分散させるゼロベクトル変調方式を採用している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "主回路用の断流器、高速度遮断器(HB)には電磁接触器を採用しており、保守性の向上が図られている。空気圧縮機は従来のレシプロ式のC-2500LB形で変更はないが、除湿装置は吸着剤方式から中空糸膜式方式とすることで、装置の小型軽量化が図られている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "編成形態は6・7次車と同様の4M6T構成、主電動機出力は205 kW/台である。台車は6・7次車と基本的には同一のモノリンク式ボルスタレス方式だが、保守性の向上を目的に一部改良した。集電装置は従来車両と同様の菱形だが、同時期に千代田線用の6000系・有楽町線用7000系の先頭車より撤去したパンタグラフの台枠、鉤外し装置、下げシリンダなどの一部部品を改造し、本車両に搭載した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "客室内装は前述したが、座席周りでは袖仕切が大型の丸みを帯びた形状となった。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "袖仕切りは同時期に製造された南北線用の9000系4次車と同様の形状のものであるが、以下のような相違点がある。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "そのほか妻面は貫通扉の戸袋となっている個所へ妻面窓が設置された。また、座席の片持ち式化によりドアコックは座席下から側扉上部右側に移設した。合わせて暖房器も蹴込み内蔵の反射形から座席つり下げ式の輻射形に変更した。さらに側扉、連結面貫通扉について従来は化粧板を骨組みに強固に接着する、貼り替え不能式でドア本体の再利用が不可能であったが、これを取り替え式に変更し、更新時にドア本体の再利用が可能なように変更した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1999年度製造の第25 - 27編成が該当する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2000年度製造の第28 - 30編成が該当する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2001年度製造の第31 - 33編成が該当する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "同時期に半蔵門線用として製造される08系の設計思想を取り入れ、仕様変更により安全性の向上、コストダウン等を図った。08系同様に2000年(平成12年)3月に発生した日比谷線脱線事故を踏まえた車体構造の強化と安全性の向上を目的に設計変更した台車を採用した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "車体の窓割は営団とこれに乗り入れる鉄道事業者で協議して定めた規格に基づいたものとなり、座席配置は標準的な3-7-7-7-3人掛けとなっている。車体は構造が見直され、側構体を従来のシングルスキン構造からダブルスキン構造(セミダブルスキン構造)に変更し、車体強度の向上を図った。合わせて車端部(側窓下 - 台枠下面間)の隅柱を強化・三角形断面構造とし、側構体は戸袋部および下部構造(7人掛け座席間は台枠との接合部付近のみ、車端部は側窓下全体)を中空形材による二重構造(ダブルスキン構造)とした。これらの技術により、万が一衝突事故が発生した際には、相手車体が自車体へ侵入することを防止できるほか、衝撃により各構体が分離するのを防止することができ、事故の拡大を抑えることができる構造となっている",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "併せて台車はモノリンク式ボルスタレス方式で変更はないが、曲線通過性の向上や保守性の向上を目的に構造を変更したものとなった。具体的には「異方性空気ばね」、「非線形軸ばね」、「応荷重差圧弁」、「不感帯が小さい高さ調整弁」が採用された。製造メーカーが異なるが、08系で採用した日本車輌製のND-730形と同一構造である(本系列は住友金属製のSS161・SS061形)。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "さらにバリアフリーの観点から床面高さをそれまでの1,150 mmから1,140 mmへ低下させた。前照灯は自動車などにも普及しているHID灯を搭載し、視認性の確保も併せて行っている。車外の車両番号表記など各種表記をプレート式からステッカー貼り付け式に変更している。これは車内の各種表記も同様である。(車外の「S」マーク表記はプレート式を踏襲。)",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "側窓はドア間で均等な配置となり、ドア間の7人掛け部は2分割で開閉可能な窓、車端部は固定式の単窓に変更された。連結面はすべてに妻面窓が設置されたが、それまでよりも若干小さくなった。袖仕切形状が変更され、7人掛けロングシート部には3+4で区切るスタンションポール(握り棒)が設けられた。このほか、網棚形状(荷棚受け、荷棚網)は簡易な構造に、車いすスペース部にあった座席は廃止した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "乗務員室内ほぼ同じだがブレーキ指示計(減速度km/h/s表示)はアナログ計器式から08系と同様の力行ノッチも表示するLED表示灯式のものとなった。車掌スイッチは機械式から間接制御式(リレー式)に変更した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "また、機器についても変更点があり、MT比はチョッパ制御車と同じ5M5Tに戻っている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ただし、線区による違いを除いても以下のような相違点がある。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "このグループから集電装置はシングルアーム式パンタグラフに変更した。これは05-200形と05-800形に2基、05-500形に1基搭載されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "その後、このグループは編成中のパンタグラフを2台搭載した車両の降下(5→3基)が行われている。当初は第35編成で行われていたが、現在では第34編成を除き3基使用となっている。降下したパンタグラフの側面上部には黄色い印が付けられている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2002年度製造の第34 - 36編成が該当する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2003年度製造の第37 - 39編成が該当する。この3編成が、帝都高速度交通営団として最後の新製車両となる。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "東京地下鉄(東京メトロ)発足後の2004年度製造の第40 - 43編成が13次車に該当する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "このグループは「新技術を投入した次世代形通勤車両」・「今後の標準車両」として東葉高速鉄道と共同開発したものである。東葉高速2000系と仕様の共通化、同時発注・複数年一括発注の新契約方式により、今までの05N系と比べて約15 %のコストダウンを図った。設計にあたっては車体のコストダウン・衝突安全性向上・リサイクル性向上・火災対策・車体の高精度化と上質化・快適性向上をコンセプトとした。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "東葉高速鉄道との協定により日立製作所提唱の『A-train』の構体を採用している。なお、日立製作所製車両の導入は、営団時代1964年の丸ノ内線用500形の801・802号車以来、40年ぶりの導入となった。また、「標準車両」の規格にも適合する。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "従来の車両構体はアルミニウムの骨組みを基本とし、これらを溶接棒を用いたミグ溶接を基本に組み立てていた。13次車では屋根構体・側構体・台枠など全ての構体をダブルスキン構造の中空押出形材で構成し、これらを20 mを通して摩擦攪拌接合(FSW)にて接合する「オールダブルスキン構造」を採用した。さらに複雑な形状をする先頭車前頭部側面は骨組み構成をやめ、1枚のアルミ板から削り出し加工にて製作している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "内装や床下機器の製作にはモジュール化・アウトワーク化を実施している。従来は内装・床下配線・配管は骨組みに対し、現物合わせで組み立てていた。13次車では中央天井、側天井、つり手・腰掛の各モジュールや配線・配管モジュールを前もってアウトワークにて製作し、これらの各モジュールをダブルスキン構体の一部であるマウンティングレールにボルトで固定する方法を採用している。これにより構造の簡素化、部品点数削減、コストダウンを図っている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "外観では屋根構造が張り上げ屋根となり、車端部の窓は車体との段差をほぼなくしたほか、車外の側扉引き込み防止ゴムが省略された。車端部では隅柱を強化した三角形の断面構造とし、屋根 - 台枠下面間へ強固に接合させた。ダブルスキン構造の採用と合わせて車体強度を向上させ、衝突事故時の安全性をさらに向上させている。妻構体と側構体の接合部(面取り部)は、一体成形加工(ダイレスフォーミング)と称する曲げ加工とすることで溶接を廃止している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "客室においては韓国・大邱地下鉄放火事件を教訓として、火災発生時に塩素ガスやシアン化水素等の有毒ガスの発生源となる塩化ビニルやFRP等の合成樹脂系材料の使用を取りやめている。内装部品はリサイクル性の向上のため、車体材料と同じアルミニウムの使用部材を多用する「モノアロイ化」(単一合金化)を図っている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "座席は1人分ごとに区分されたセパレートシートとされ、1人分の掛け幅は460 mmに拡大した。袖仕切は形状が変更された。床敷物は塩化ビニル系から火災発生時に有毒ガスの発生しない灰色のゴム材となった。側扉横の手すりは戸袋内柱と一体化したアルミ形材に、車両間貫通扉はドアクローザ式から傾斜式に変更、持ち手は従来よりも長い手すり状となった。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "火災対策としてつり革のベルトは溶融滴下のしないナイロン繊維とした。つり手棒受けは従来車ではアルミの中空品に白色の焼付塗装をしたものであったが、このグループはアルミの無塗装品で板状のものに変更した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "車体の上質化として側壁の非常通報器、ドアコック、ドア上の鴨居点検カバー部の車内案内表示器を内装パネルとの段差をなくし、見付けをすっきりさせた。仕様の見直しによって、ラインデリアの台数を各車2台削減、側扉ガラスの単板ガラス化、側窓のカーテンは引っ掛け式に戻された。さらに車内案内表示器は全扉上配置から千鳥配置とし、表示器のないドア上部には「このドアが開きます」「反対側のドアが開きます」の表示ランプが設置された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "中間車は2・9号車に車椅子スペースを設置しているが、新たに3 - 8号車にはフリースペースを設置した。フリースペースは座席のない点では車椅子スペースと同様だが、車椅子スペースは車椅子利用者の安全確保から非常通報器と車椅子固定ベルト(固定ベルトは13次車で初採用)を設置するが、フリースペースは大きな荷物を持った乗客のためのスペースとしており、非常通報器と固定ベルトは省略されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "制御装置は三菱電機製だが、PGセンサレス方式、純電気ブレーキ対応形となった(素子耐圧は8次車以降3,300 V - 1,200 A)。編成組成は11次車以降と同じであるが、パンタグラフは編成で5台から3台に削減された。床下機器では従来は別々に艤装していた主回路用断流器と高速度遮断器(HB)は1つの箱(断流器箱)に集約したほか、補助回路用高速度遮断器(SIV HB)も1つの箱(変圧器箱)に集約した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "付随車3両に設置されていた第二元空気だめ(空気溜め = 空気タンク)は、空気圧縮機(CP)搭載車の第一元空気だめの容量を大きくすることで廃止したほか、別々であった保安空気だめと戸閉空気だめは2室空気だめとして一体化されている。独立して設置していた機器類(各種接触器類、通報制御器、TISモニタ局、接地スイッチ等)は共通機器箱に集約しており、艤装工程の削減、コストダウン、省メンテナンス化した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "概要にある通り、このグループは当初東葉高速車を含めて19本投入する計画となっていたが、計画が変更され、10000系の投入に伴う07系の有楽町線から東西線への転属で補充することとなった。このため、第44 - 47編成の製造計画は中止され、2004年度に製造された第40 - 43編成4本(13次車)と東葉車11本(当初の予定通り)の15本で終了となった。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "ここでは共通事項や基本項目などについて説明する。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "上記の内容は落成時点のものである。改造による変更点は後述する。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "前述のように、7次車まで(05系)と8次車以降(05N系)でデザインが大幅に異なっている。しかし、基本的な窓配置は、車外から見て右半分を占める大窓上部に行先表示器があり、その左側に非常扉窓があり、上部に白字で車両番号が表記され、さらに左側に細長い窓があり、上部に運行番号表示器が収められている。尾灯は全車LED式である。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ワイパーは右側の大窓のみに設置されている。連結器は密着連結器である。非常扉はプラグドアを採用し、車外から見て左側にスライドする。電気笛は07系などより音の低いものが使用されている。現在は第04編成を除いて運転席前の大窓に遮光フィルムを貼り付けする。なお、運転台上部には日除けとしてアクリル製の光線ヨケ(遮光パネル)がある。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "前述のように、製造年次によって側窓配置が異なっているが、どの編成も側窓の上部と側扉の上部の高さがほぼ揃っている。開閉可能窓はすべて1段下降窓である。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "車外放送用スピーカーは5次車までは車体側面に直接取り付けられているが、6次車以降は冷房装置キセに内蔵されている。屋根構造は13次車のみ張り上げ屋根となっている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "連結間にある車両間転落防止幌は、05系では1999年 - 2000年頃に改造で設置したが、05N系では全車が新製時より設置されている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ラインカラーの帯は前述のように7次車までと05N系で異なっているが、共に側面には腰部に貼られており、側扉及び乗務員室扉にも貼られている。05N系の方が貼り付け位置はやや低く、太い帯(水色帯)の幅がやや広くなっている。7次車までは前面と帯がつながっているが、05N系ではデザイン上前面の帯とはつながっていない。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "冷房装置は集中式を搭載する。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "装置は1 - 5次車はインバータ制御式で、外観キセ(カバー)形状は角ばった形状である。インバータ制御方式はきめ細かな温度制御や省エネルギー効果が高いという特徴がある。能力は9次車まで48.84 kW(42,000 kcal/h)である。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "6次車からは外気導入形のインバータ制御式とし、外観向上を目的に端部をFRP製の曲面カバーを取り付け、さらに薄型化と細長い形状に変更した。空調運転モードは「冷房」「暖房」「除湿」「送風」に加え、カレンダー機能と車内外の外気に応じてマイコンにより自動選択をする「全自動」モードを追加した(この空調運転モードは13次車まで共通)。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "その後、10次車以降は快適性向上を目的に、能力を58.14 kW(50,000 kcal/h)に強化した。さらにインバータ制御方式をやめ、一般的な稼働率制御方式(ON/OFF制御方式)に変更し、外観キセ(カバー)形状も角ばった形状となった。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "これはインバータ制御方式ではコスト面で不利なことや特に夏季におけるドア開閉による車内温度上昇に対処ができないためであるとしている。なお、6・7次車も後年にこの方式へと改造された。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "先頭車の屋根上にはJR線用の列車無線アンテナと信号炎管が設置されている。また、3号車または4号車の連結面妻面と床下には東西線・東葉高速線用の誘導無線アンテナが設置されている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "パンタグラフは菱形搭載車はPT-4301-S形、シングルアーム車はPT-7136-E形である。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "落成当初の行先表示器は前面・側面ともに第01 - 13編成が字幕式、第14編成以降は3色LEDであったが、B修工事施工後の第14 - 18編成はフルカラーLED式、千代田線転用後の第01・03・06・13編成は8色カラーLED式に変更されている。側面の設置位置はワイドドア車のみ車体中央部の側窓の上に設置されている。それ以外の編成では横から見て中央より1つ右の側窓上部に設置している。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "幕式の車両は前面・側面ともにローマ字併記で書体はゴシック体であった。なお、落成当初は側面にローマ字併記はなかったが、1996年(平成8年)の東葉高速鉄道線開業に伴い、1999年(平成11年)までに順次、前面・側面ともに方向幕が交換され、ローマ字入りとなった。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "3色LED車では書体は明朝体として、側面はローマ字併記があるが、前面は側面表示器よりもドットが粗く日本語のみである。前面・側面ともにLED表示器は05系のものは低輝度品だが、05N系では高輝度品を使用し、視認性の向上が図られている。なお、後に05系も前面・側面ともに05N同様の高輝度品への交換が実施された。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "フルカラーLED車は書体はゴシック体を使用しており、前面・側面ともローマ字併記である。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "種別表示は各駅停車の場合は当初は無表示であったが、2016年頃から順次「各停」または「各駅停車」と表示されるように変更された。3色LED車は、4文字の種別は2文字で表記される。千代田線北綾瀬支線については「綾瀬⇔北綾瀬」および「ワンマン」の交互表示である。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "シンボルマークは営団時代は前面では非常扉の帯部分に、側面では側窓上部に営団団章「S」マークを1か所設置していた。その後の05N系からは乗務員室扉直後に大形の「S」マークを追加した。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "民営化時には全編成が東京メトロ「ハートM」マークへの貼り替えが実施された。前面は左側の細長い窓上部へ、側面側窓上部は同じ位置に「ハートM」マークへと交換した。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "さらに側面乗務員室扉直後には「ハートM」と「Tokyo Metro」2つのロゴマーク(コミュニケーションマーク)が貼り付けられた。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "また、東京地下鉄への移行期である2003年末からは先頭車の非常口部と側面にあった営団マークを撤去し、先頭車の前面上部、乗務員扉直後と側面に東京地下鉄のマークを貼り付けていた。ただし、前面上部は黒シール、乗務員室扉直後は白シール、側面は上から営団マークを貼って隠していた。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "05系1 - 7次車の内装は、内板はラインカラーである水色をベージュ系にアレンジしたものとした。床敷物は中央をベージュ、外側を青緑色としたフットライン入りである。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "袖仕切は03系とほぼ同じ形状で、荷棚端と一体形状のものである。網棚はステンレス線を格子状にスポット溶接したもので、10次車まで同様のものが使用されている。側窓のロールアップ式カーテンは水色の単色品である。その後、6・7次車については床敷物は灰色の単色品に、カーテンは8次車以降と同様の波線状の模様入り(水色)に交換されている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "05N系では仕様が全面的に変更され、内板は光沢仕上げから つや消しの明るいベージュ色に、床敷物は8 - 10次車は濃い茶色系の2色、11・12次車は濃い茶色系単色品を使用している。13次車では火災対策からそれまでの塩化ビニル系材料をやめ、灰色のゴム材を使用した。ゴム材自体が滑りにくい素材のため、出入口部の滑り止め加工は省略した。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "ただし、13次車ならびに一部の初期車両で施工したゴム製の床敷物は、本来はアルミ材を敷いた上でゴム製の床敷物を貼り付けるものであるが、現車ではアルミ材が敷かれておらず、鉄道車両の火災対策基準を満たさないことから、国土交通省より改善指示が出されている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "袖仕切は濃いベージュ色で8 - 10次車、11・12次車、13次車で形状が異なる。荷棚形状は8 - 10次車では座席前の網棚受けは板状のアルミ材に化粧シートを貼った形状だが、11次車以降ではコストダウンのため簡易な構造とされ、荷棚受け形状を変更、荷棚網も簡単な金網式に変更されている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "一般席の座席モケットは1 - 7次車は濃いピンク色の「ドビー織り」で、背もたれの部分に区分柄があるものを使用し、優先席は紺色にシルバーライン入りの表地を使用している。8次車以降の一般席の座席モケットは濃い赤色系でシャクヤクの花弁をイメージした「ジャカード織り(模様入り)」の「ピアニーレッド」色(区分柄なし)に変更され、優先席は同仕上げで青色の表地を使用している。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "1 - 5次車では車端部の壁は段差があり、消火器はそこの収納キセに収められている。6 - 10次車では車両の構造上段差はなく、消火器キセは客室側に出っ張っている。11次車以降は初期車と同形へ戻されている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "側扉は室内側も化粧板貼り付けで、ドアガラスは単板ガラス車は金属押さえ、複層ガラス車は白色成形品とゴムによる支持方式である。12次車までは室内側扉脇に手すりが設置されているが、13次車では側扉脇の縦面と一体化したアルミの形材に変更された。また、側扉の取っ手は12次車までは両側の扉に設置しているが、13次車では片側の扉だけに付けられている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "各車両間の貫通扉は片開き式で、扉のガラスは6次車以降では下方向に長いものとなっている。この扉も室内側は化粧板仕上げとしており、8 - 12次車は袖仕切と同一の濃い茶色だが、それ以外の編成は室内の化粧板と同様のものである。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "車椅子スペースは、設置をする編成では2・9号車に設置されている。車端部が4人掛け座席構造となる6 - 10次車では2人掛け座席を設置するが、それ以外の編成では座席の設置はない。また、この部分は側窓と重なるために8次車以降では袖仕切の高さが低いものとなっている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "つり革は12次車までは東京地下鉄標準のポリカーボネート製で、白色の三角形のものである。その後、優先席部は2005年(平成17年)末にオレンジ色のものに交換されている。また、乗務員室直後の部分では枕木方向のつり革が設置されている編成と設置されていない編成がある。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "なお、13次車においては火災対策からつり輪材質がポリエステル樹脂に変更され、つり革のベルトは塩化ビニル製からナイロン製とされた。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "車内冷房の拡散にはダクト方式を採用し、天井中央には補助送風機であるラインデリアの収納された整風板がある。12次車まではラインデリアは先頭車9台、中間車10台を設置し、また車内放送用スピーカーも6台収納されている。13次車では仕様の見直しによって冷房吹出口は蛍光灯反射板と一体化、ラインデリアは設置台数は先頭車7台、中間車8台へと削減され、また車内放送用スピーカーは5台となった。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "05系1 - 7次車では日比谷線用の03系とほぼ同じ構成で乗務員室内は緑色、運転台計器盤は紺色の配色とされた。さらに右側に仕切壁を設置している。乗務員室の奥行き(広さ)は05N系も含めて1,900 mmと広めに確保している。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "操作面はデスクタイプの運転台で、計器盤は傾斜が緩く、TISモニター部分のみ計器盤が上部に出っ張っている。6次車以降では操作面やTIS部の計器盤形状が変更されたほか、種別表示灯がTISに内蔵された。右側の仕切壁には配電盤などが設けられている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "主幹制御器は縦軸回転式のツーハンドルマスコン式である。マスコンハンドルはデッドマン装置付(力行1 - 4段)、ブレーキ設定器は5次車までは取り外し式、6・7次車は黒色の固定式(常用1 - 7段・非常)である。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "その後の05N系では全面的に見直され、室内はアイボリー色、運転台計器盤はダークグレーの配色とされた。さらに右側の仕切壁を廃止した。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "計器盤は傾斜がきつくなり、視認性を向上させたほか計器盤の配置は南北線用の9000系に準じた配置とされた。また、13次車ではTIS部の計器盤に段差がある。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "主幹制御器は左手操作形のデッドマン装置付ワンハンドルマスコン(ノッチ数はツーハンドル車と同じ)に変更された。右側には勾配起動スイッチ内蔵の右手用グリップがある。配電盤は左壁に移設され、そこにあった誘導無線操作器と非常通報受報器は操作面右端に移設され、操作性の向上を図った。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "いずれも現在の速度計は白地に黒文字で120 km/hまで目盛りが刻んであり、オレンジ色に電照できるものである。落成当初、新CS-ATC非対応であった編成もあったが、それらの編成は新CS-ATC改造時に速度計自体が交換された。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "また、10次車まではブレーキの減速度(km/s)を表示するブレーキ指示計(ブレーキ指令)が設置されていたが、11次車以降は力行ノッチも表示できるLED表示灯式に変更されている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "2008年3月頃より、JR線用の列車無線装置をアナログ無線からデジタル無線に変更する改造された。これにより、デジタル無線モニター・ICカードリーダー・ワイヤレス電話機設置箱が設置されている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "乗務員室と客室との仕切壁には、客室から見て左から大窓・乗務員室扉窓・細長い窓の3枚窓が並んでいる。遮光幕は大窓と乗務員室扉窓の2か所に設置されている。いずれの窓の客室側には手すりが設置されている。 なお、乗務員室扉窓はバランサー付で開閉可能である。9次車まではオレンジ色、10次車以降はグレーの着色ガラスが使用されている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "03系に採用された車両制御情報管理装置「TIS(Train control Information management System)」が本系列でも採用されている。この装置はマスコンや常用ブレーキの制御指令(制御伝送)や機器を動作監視し、故障時には運転台にモニタリングする機能がある。また、検修作業や試験・試運転データの収集など検修用としても大きな機能がある。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "運転台の表示器は7次車まではELディスプレイによる単色モニターである。右上のボタンで機能を切り替えて使用するが、7次車では下部にボタンがあり、操作性の向上が図られている。このグループまではサービス機器の操作は空調装置の温度補正のみができる。後の2007年までに全車がカラー液晶式に交換された。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "8次車以降では性能向上により機能拡充がされている。信頼性の向上のため伝送システムを変更、完全二重伝送化して制御伝送にRS-485を採用した。画面はカラー液晶となり、7次車までの機能に加え、従来は別な設定器で行っていた「行先表示」「車内表示」「自動放送」の設定機能も追加され、乗務員の操作性向上、車両間引き通し線の削減が図られた。その後も11次車以降では機能の改良がされている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "新製時の床下機器色は明るい灰色である。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "基礎ブレーキはいずれも保守性に優れたユニット式片押し踏面ブレーキ(ユニットブレーキ)である。軸距はSUミンデン式・円錐積層ゴム式台車は2,200 mm、それ以外は2,100 mmとして曲線通過性を向上させている。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "全車に停車駅通過防止装置が取り付けられている。東陽町以東あるいは直通先で使われる。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "音は通常の警報音に加えて注意を促すための音があり、駅に近づくとまず注意を促す音(「ピー、ピー、ピー」という伸びた音)が流れ、その後運転士がブレーキ操作をすると警報音が流れる。05系1 - 7次車はこの警報音が0.5秒ほど間隔をあけて「ピッ、ピッ、ピッ」と連続発音をするのに対し、8次車以降は「ピッピッピッピッ」と間隔を空けずに連続発音をする。",
"title": "製造次ごとの仕様の違い"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "最初に製造された1次車以外は落成当初から自動放送装置を搭載しており、1次車も2000年頃に自動放送装置が設置されている。現在、東西線内ではすべての編成で自動放送を流している。",
"title": "旅客案内設備"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "自動放送は各車AVC(オート・ボリューム・コントロール)付き分散増幅式というシステムを採用しており、走行音によって自動的に自動放送の音量が調節される仕組みになっている。 車内ドア上のパンチネット部分がそのセンサである。",
"title": "旅客案内設備"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "放送は相手会社の仕様で東西線内とは異なっているが、車両により放送内容に差異が見られる。",
"title": "旅客案内設備"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "また、車外案内用スピーカーを搭載しており、車掌による車外放送が使用できるほか、押しボタンによる乗降促進放送が流せる。",
"title": "旅客案内設備"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "民営化前は日本語のみの自動放送が05系とJRのE231系800番台で使用されていたが、細部が1 - 10次車とそれ以外で異なっていた。民営化後は放送が一新された。",
"title": "旅客案内設備"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "東京メトロ東西線を走る全車両でドアチャイム付の車内案内表示器がドア上に付いているが、概要は車両によって様々である。",
"title": "旅客案内設備"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "B修施工車以外はLEDスクロール式車内案内表示器を設置しており、設置位置については1 - 7次車では側扉上部の中央部であるが、8 - 12次車では表示器の横にドアコックがある関係で左に寄って設置されている。1 - 12次車は全扉上部の設置であるが、13次車だけは側扉点検蓋(鴨居部)と一体形のアルミ材へ変更され、左右交互配置(千鳥配置)となっている。全車1段表示で、16×16ドットで1文字を表示し、これを11枚並べた16×176ドットで構成される。",
"title": "旅客案内設備"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "B修施工車については液晶ディスプレイ(LCD)式の車内案内表示器に交換された。",
"title": "旅客案内設備"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "8次車以降・東葉高速2000系でも東西線内と他社線内とでも多少の違いが見られ、表示内容に関しても多少異なる。",
"title": "旅客案内設備"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "東京地下鉄では2010年度時点では、工場検査の入場時期となる4年を基準に車両改修時期を定めている。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "05系(05N系以外)では2000年(平成12年)からC修工事を実施している。施工内容はラインカラーの貼り替え、床敷物は張り替え、ゴム材、シール材の交換などである。また、6・7次車では前述の内容に加え、冷房装置の交換や補助電源装置の改良なども施工している。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "東西線用については、05系初期車(第01 - 13編成)については15000系を導入することで置き換えが実施されたが、第14編成以降の車両については今後も使用を継続する予定である。第14編成において落成から20年以上が経過したため、2012年度より大規模改修工事を開始、5次車の第15 - 18編成についても2013年度以降に年間1本ずつ改修されている。2014年の第18編成を皮切りに、2015年に第16編成、2016年に第15編成、2017年には第17編成に施工した。制御装置もVVVFインバータに更新されたため、第17編成のB修を以って東西線で運用される車両は全てVVVFインバータ制御に統一された。その後2019年には第21編成が6次車初の大規模改修工事を完了し試運転を行ったが、第14 - 18編成とは施工内容が多少変更されている。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "千代田線用については、従来北綾瀬支線で使用してきた5000系および6000系ハイフン車の車両老朽化、また2014年(平成26年)3月15日ダイヤ改正に伴う運用数増への対応として東西線で使用されていた05系に大規模改修工事を実施し千代田線の北綾瀬支線用に改造した。その後、2014年(平成26年)4月28日より千代田線北綾瀬支線(綾瀬駅 - 北綾瀬駅間)での営業運転を開始している。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "東西線用の車体外観については05系8次車の仕様に近づけるため、ラインカラー帯の配色変更を実施したほか、前面下部に排障器(スカート)を設置した。第21編成以降は排障器の形状が変更されている。前面の車両番号表記については、従来配置されていた非常扉上部に地上設備とのデータ送受信機器を設置したことに伴い、非常扉下部への配置に変更された。車外の前面・側面行先表示器は3色LED方式を種別表示をフルカラーLED、行先表示を白色LED表示に更新した。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "千代田線用のラインカラー帯は同線で運用されている16000系と同じ緑色系の3色帯に貼り替え、合わせてホームドアのあるホームからも見えるよう側窓上部にも新たに貼り付けしている。同線用も前面の車両番号表記については、従来配置されていた非常扉上部に車上CCTV(ホーム監視用モニター)の映像受信用のミリ波受信装置を設置したことに伴い、非常扉下部への配置に変更された。前面行先表示器は8色カラーLEDに更新している。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "車内は化粧板、客用ドア、床敷物の取り替えが実施されており、東西線用の内装カラーは15000系ベースとしたライトグレー系とした。床敷物については火災対策にも適合したゴム素材のものとなっている。千代田線用は内装カラーをアイボリー系、床敷物と座席表地は紺色とした。座席端部に設置した袖仕切板は大型化させているほか、各座席間にスタンションポール(縦握り棒)を新設している。いずれもLEDの車内照明に交換された。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "バリアフリーの促進を図るため、車内に車椅子スペースを新設しているほか(千代田線用の第06編成は設置済み)、各客用ドア上部(鴨居点検フタ)にはドア開閉時または乗降促進ブザー鳴動時に赤く点滅する「ドア開閉表示灯」を新設、また各客用ドア下部には車内と出入り口の識別を図る「出入口識別表示板」を新設した。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "優先席部は座席表地の色調変更に加え、付近のつり革と座席端の袖仕切縦握り棒をオレンジ色着色として識別している。また、優先席前のつり革高さは1,660 mmから1,580 mmへと低下させて使いやすさを向上させている。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "車内の各ドア上部には17インチ液晶ディスプレイ (LCD・TVIS) を用いた車内案内表示器を設置した。LCD画面は2台が設置され、左側をTokyo Metro ビジョンの広告動画用として、右側を行先案内・乗り換え案内等の旅客案内用として使用する。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "放送装置は機器の更新を実施するとともに、車内非常通報装置については警報式から乗務員と相互に通話が可能な通話式に更新された。戸閉装置(ドアエンジン)は空気式だが、閉扉後に一定時間戸閉力を弱める戸閉力弱め制御機構が追加されている。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "冷房装置はインバータ制御方式から稼働率制御方式(ON/OFF制御方式)で冷房能力58.14 kW(50,000 kcal/h)に更新した。この冷房装置端部には車外放送用スピーカーが内蔵されている。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "東西線用の乗務員室については15000系と同様の仕様・配置に一新された。運転台ユニットは15000系と同等の左手操作形ワンハンドル式に変更し、乗務員の機器取り扱いの統一を図っている。千代田線用の運転台ユニットは両手操作形ワンハンドルマスコンに更新し、ワンマン運転への対応として、運転台上部には車上CCTV(ホーム監視用モニター画面)を設置している。車掌スイッチについては電気的に保持する間接制御式(リレー式)に交換されている。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "東西線用4次車の第14編成は編成におけるMT比4M6Tに変更はないが、5次車の第15 - 18編成のワイドドア車は車両の仕様を統一するため編成形態の変更が実施され、1両を電装解除してMT比を第14編成にそろえている。なお、機器の更新により、起動加速度は従来の3.0 km/h/sから3.3 km/h/sに向上している。制御装置は、第14 - 18編成は千代田線16000系1 - 3次車と同等の永久磁石同期電動機(1時間定格出力205 kW)を用いた東芝製のIGBT素子使用の2レベルVVVFインバータ制御(レゾルバレス・ベクトル制御・純電気ブレーキ対応)に一新した。6次車となる第19編成以降は、制御装置を16000系4次車と同等の三菱電機製IGBT-VVVFインバータ(MAP-214-15V306)に変更している。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "東西線用の制御方式は各軸個別方式の1C1M4群制御としており、個別制御の場合には制御装置本体の大形化が予想されるが、本改修車では2群分のインバータユニットを1つに集約した「2in1形」を採用することで装置本体の小型化図った。歯車比は109:14 (7.79) を踏襲し、主電動機はPMSM を採用することで従来の三相誘導電動機よりも高効率での使用(従来の92 %を96 %まで向上)が可能となっている。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "千代田線用の編成は東西線で使用されていた両先頭車(05-100形および05-000形)と中間車1両(05-200形)を3両編成化した。編成形態(MT比)は2M1Tだが、実質的には1.5M1.5Tとなっている。素子にはハイブリッドSiC(シリコンカーバイト)モジュール素子を使用したVVVFインバータ制御を採用した(PGセンサレスベクトル制御)。SiCモジュール素子の採用により、装置の小型化および電力消費量の大幅な削減が図られている。電動車2両中、各車とも綾瀬側から数えて3軸目は付随軸(それ以外の1・2・4軸目は動力軸)となっていることから、制御は1C3M2群構成となっている。主電動機は日比谷線用03系更新車で採用した185 kW出力のかご形三相誘導電動機を採用した。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "両線用ともブレーキ装置は保守性向上のため、中継弁を介した方式から各車1台のブレーキ作用装置(保安ブレーキ一体形・一部はブレーキ受信装置一体形)に集約している。また、東西線用のブレーキ制御は16000系で実績のある車両制御情報管理装置 (TIS) を活用した編成単位での遅れ込め制御を採用した(編成統括回生ブレンディング制御)。これはブレーキ指令 = 編成で必要なブレーキ力から全電動車(M車4両)で負担できる回生ブレーキ力を引いた不足分(空気ブレーキで補足する)を全制御車・付随車(CT車とT車・計6両)の空気ブレーキで負担する方式である。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "東西線用の集電装置は編成形態の変更により、各電動車にシングルアーム式パンタグラフを1基の搭載とした(05-200形・05-800形は2基から1基へ、05-300形・05-900形は1基を新設)。また、運転台のTISモニター画面でパンタグラフの上昇を確認するためのパンタ上昇検知装置を新設している。千代田線用の集電装置は従来のひし形タイプを流用しながら、パンタ上昇検知装置を新設している。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "東西線用の台車は東西線の走行条件(乗車定員が多い)を考慮して台車枠の改修を行い、強度の向上を図っている。そのほか、走行安全性の向上を目的に各種改良が施されている。千代田線用においても、上記のほか、廃車車両から電動台車枠を流用することで、すべての台車枠が電動台車枠となっている。両線用とも空気圧縮機は実績のあるスクロール式コンプレッサ(吐出量 1,600 L/min)が採用されている。この装置は周辺機器を含めて一体の箱に収めたもので、騒音低減やメンテナンス性に優れたものである。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "東西線用の補助電源装置はDC-DCコンバータ(DDC)に代わり、IGBT素子を使用した容量 240 kVA の静止形インバータ (SIV) を編成で2台搭載した(出力電圧は三相交流 440 V )。千代田線用の補助電源装置はハイブリッドSiCモジュール素子(素子容量 1,700 V - 1,200 A ・3レベル)を使用した150 kVA出力の待機2重系構成の静止形インバータ(SIV)を採用している。蓄電池は保守性向上のため、ポケット式を焼結式に更新し、合わせて車内電気機器の増加に伴い容量の増加、編成での搭載台数を3台から2台に削減している(千代田線用は編成で1台)。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "東西線用は車両搭載機器の制御を行う車両制御情報管理装置(TIS)を15000系と同等のラダー形伝送方式に更新し、新たに車両の検査期限管理機能、パンタグラフ不一致検知機能、運転状況記録装置の代わりとしてトレインコンディションレコーダー機能が追加されている。千代田線用についても、ラダー形伝送方式への更新が実施されている。",
"title": "更新工事"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "東西線用の編成は深川検車区に所属している。東京地下鉄車の運用(列車番号の末尾がSの運用)全てに入ることができる。同じく深川に所属する07系、15000系と共通で運用されている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "重要部・全般検査は深川工場で行われる。編成を2分割しても走行できるようになっている。なお、編成の中間に簡易運転台があるが、非先頭車を先頭に走行する場合、簡易運転台ではなく無車籍の牽引車を使用している。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "千代田線北綾瀬支線用の編成は綾瀬検車区に所属している。綾瀬 - 北綾瀬間での営業運転のほか、新木場車両基地内にある総合研修訓練センターの訓練車としても使用されている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "05系を使用したヘッドマーク付き列車には、以下のようなものがあった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "東京地下鉄では2009年(平成21年)度末から2011年(平成23年)度にかけて15000系を導入し、05系の1 - 4次車を置き換える予定と発表した。まず、2010年に第02・07 - 11編成が運用を終了し、最後まで残った第01・03 - 06・12・13編成も2011年夏で運用終了となった。このうち01・03・06・13編成の4本については上述の改造工事を実施し、千代田線北綾瀬支線用へと転用された。",
"title": "廃車・譲渡"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "第11編成は2010年5月に両先頭車2両(05-111・05-011)と05-511の3両が深川検車区行徳分室から搬出され、途中東京港から神戸港まで船舶輸送された後、近畿車輛へ陸送で搬入された。",
"title": "廃車・譲渡"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "第02・04・05・07 - 10・12編成については2010-2012年中にインドネシアのPT Kereta Commuter Indonesiaへと譲渡され、4M4Tの8両で運用されている。なお第07編成は2014年末に事故で廃車された。",
"title": "廃車・譲渡"
}
] |
営団05系電車(えいだん05けいでんしゃ)は、1988年に登場した帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化に伴い、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。 本項では、インドネシアのPT Kereta Commuter Indonesiaに譲渡された車両についても述べる。
|
{{鉄道車両
| 車両名 = 営団・東京メトロ<!--民営化(東京メトロ化後も製造されたため)-->05系電車
| 背景色 = #109ED4
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = 2022-2-11-nishikasai.jpg
| 画像説明 = 05系第42編成(左)と第23編成(右)<br/>(2022年 [[西葛西駅]])
| 運用者 = {{plainlist|
* [[帝都高速度交通営団]]
* [[東京地下鉄]]
}}
| 製造所 ={{plainlist|
* [[日本車輌製造]]<ref group="*">1・6次車</ref>
* [[川崎車両|川崎重工業車両カンパニー]]<ref group="*">1 - 5・8・11・12次車</ref>
* [[近畿車輛]]<ref group="*">7・9次車</ref>
* [[日立製作所笠戸事業所]]<ref group="*">13次車</ref>
* [[東急車輛製造]]<ref group="*">10次車</ref>
}}
| 製造年 = 1988年 - 2005年
| 製造数 = 43編成430両
| 運用開始 = 1988年11月16日
| 投入先 = [[東京メトロ東西線|東西線]]
| 編成 = {{plainlist|
* 10両編成(東西線)
* 3両編成(千代田線北綾瀬支線)
}}
| 軌間 = 1,067 mm([[狭軌]])
| 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線]]方式)
| 最高運転速度 = 100 km/h(東西線内)
| 設計最高速度 = {{plainlist|
* 第01 - 33編成 110 km/h
* 第34編成以降 120 km/h
}}
| 起動加速度 = {{plainlist|
* 3.54 km/h/s
* 第14編成改修前 3.0 km/h/s
}}
| 常用減速度 = 3.5 km/h/s
| 非常減速度 = 5.0 km/h/s
| 編成定員 =
| 車両定員 =
| 自重 =
| 編成重量 =
| 全長 = {{plainlist|
* 先頭車 20,270 mm
* 中間車 20,000 mm
}}
| 全幅 = 2,800 mm<!-- 車体基準幅 -->
| 全高 = {{plainlist|
* 4,022 - 4,135 mm
* パンタ付車両 4,080 - 4,145 mm
}}
| 台車 = ボルスタレス方式[[空気ばね]]台車
| 主電動機 = {{plainlist|
* [[分巻整流子電動機|直流分巻電動機]]
* [[かご形三相誘導電動機]]
* [[永久磁石同期電動機]]
}}
| 主電動機出力 =
| 駆動方式 = [[WN駆動方式]]
| 歯車比 =
| 編成出力 =
| 制御方式 = {{plainlist|
* [[電機子チョッパ制御#高周波分巻チョッパ制御|高周波分巻チョッパ制御]]
* [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]
}}
| 制御装置 =
| 制動装置 = ATC連動[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]([[回生ブレーキ]]併用)
| 保安装置 = {{plainlist|
* 東西線用:[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]
* JR線用:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
* 東葉高速線用:[[自動列車制御装置#WS-ATC (WaysideSignal-ATC)|WS-ATC]]
}}
| 備考 = 上記は東西線車両(改修工事車を含む)のデータ。千代田線転籍改造車は後述。<br/>'''脚注'''<br/><references group="*"/>
}}
'''営団05系電車'''(えいだん05けいでんしゃ)は、[[1988年]]に登場した[[帝都高速度交通営団]](営団)の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。[[2004年]]([[平成]]16年)4月の営団民営化に伴い、[[東京地下鉄]](東京メトロ)に継承された。
本項では、インドネシアの[[KRLコミューターライン|PT Kereta Commuter Indonesia]](PT KCI)に譲渡された車両についても述べる。
== 概要 ==
[[1988年]]([[昭和]]63年)に[[東京メトロ東西線|東西線]]の輸送力増強及び[[営団5000系電車|5000系]]を置き換えるために登場し、幾度の仕様変更を経ながら[[2004年]]([[平成]]16年)度までに10両編成43本(430両)が製造された。
05系の車両数は[[1994年]](平成6年)を以て5000系を上回った。当初、東西線の車両冷房化は全て05系の新製で対応する予定であったが、同線は車両数が多く更新完了までの期間が長くなることが予想された<ref>鉄道ピクトリアル1990年10月臨時増刊号新車年鑑1990年版「帝都高速度交通営団東西線5000系(冷房改造車)」</ref>。このため、5000系に対しても冷房化改造をはじめとした延命工事を行い、最終的に同系列の置き換えは[[2007年]](平成19年)までとなり、それまでの銀座・丸ノ内・日比谷各線に比べ19年という長期間を要した。
また、計画では[[2005年]](平成17年)度に最終編成として10両[[編成 (鉄道)|編成]]4本(40両)を新製し、最後まで残存する5000系をすべて置き換える計画であった<ref name="Fan2005-2-2"/>が、[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]用の新型車両[[東京メトロ10000系電車|10000系]]の投入による計画の変更で[[営団07系電車|07系]]が転入することとなり、05系の増備は中止された。また、東西線の混雑緩和・遅延防止を目的として2010年度から2011年度にかけて導入されたワイドドア車体の新型車両も当初は本系列の第14次車として計画されていたが、10000系の仕様を取り入れたことによる仕様の変更で新系列となる[[東京メトロ15000系電車|15000系]]として製造された<ref>交友社「鉄道ファン」2010年8月号新車ガイド2「東京地下鉄15000系」</ref>。
1989年(平成元年)[[12月20日]]、[[鉄道友の会]]の1989年[[グローリア賞]]を受賞した<ref name="Eidan60" />。これは本系列および[[営団01系電車|01系]]・[[営団02系電車|02系]]・[[営団03系電車|03系]]の各新系列車両に対しての賞である。
16年間にわたって製造されており、また途中での仕様の変更も多い。先頭車の前面形状も7次車までと8次車以降で大きく異なっていることから、以下では7次車までの05系と8次車以降の(通称)05N系に分けて解説する。
== 形態分類 ==
=== 05系 ===
同時期に計画が進められていた[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]用の[[営団03系電車|03系]]と基本設計は共通としている。当初は本系列が先に登場予定だったが、日比谷線の輸送力増強が優先され、03系が先行登場することとなった<ref name="TRTA60th-95P">帝都高速度交通営団「60年のあゆみ - 営団地下鉄車両2000両突破記念 -」95頁</ref>。
東西線は当時の営団では唯一[[快速|快速列車]]の運転を実施している路線であることから、「スピード感」を強調したデザインを採用した<ref> 『鉄道ファン』1991年9月号「6000系から01・02・03・05系に至るデザインプロセス」pp.40 - 41。</ref>。前面は傾斜をつけて流線型に近くし、フロントガラスは横曲線をとった曲面ガラスを使用している。同時期の「0x系列」同様に[[前照灯]]・[[尾灯]]はコンビネーション化して下のラインカラー部に収めた。
車体は[[アルミニウム合金|アルミニウム]]製で、「0x系列」では初めて長さ20 m・片側4扉の車体を持つ。[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]であるスカイブルーの帯をメインに、アクセントとしてホワイトとダークブルーの帯を配している。
[[鉄道車両の座席|座席]]は脚台(蹴込み)支持方式で、1人分の掛け幅は5次車まで440 [[ミリメートル|mm]]である。座席の袖仕切りの形状は、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]用の[[営団6000系電車|6000系]]以来の流れを汲む[[網棚]]の高さまでつながっている形状のもので、第24編成まではほぼ同じ形状である。
車内にはサービス機器として各扉上に[[発光ダイオード|LED]]式[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]・[[ドアチャイム]]を設置している。[[操縦席|運転台]]の[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]は縦軸回転式のツーハンドルで、ブレーキ設定器は[[電気指令式ブレーキ|電気指令式]]で、[[ノッチ]]が刻んである。
以下の開設は落成当時の仕様を説明し、B修工事については後述する。
==== 第01 - 14編成 (1 - 4次車) ====
主回路には同時期に製造が開始された03系と同様、[[半導体素子|素子]]に[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]]を使用した[[電機子チョッパ制御#高周波分巻チョッパ制御|高周波分巻チョッパ制御]](4象限チョッパ制御)車で登場した<ref name="MITSUBISHI1989-1">三菱電機『三菱電機技報』1989年1月号特集「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1989(vol63)/Vol63_01.pdf 技術の進歩特集]}}」p.17・90 - 91。</ref>。この制御装置は[[MT比]]1:1で[[起動加速度]]3.3 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]]を確保するために「高粘着制御」と「加速度一定制御」を導入し、車両性能の向上を図ったものである<ref name="Eidan60">帝都高速度交通営団『60年のあゆみ -営団地下鉄車両2000両突破記念-』p.110。</ref><ref name="MITSUBISHI1989-1"/>。[[鉄道車両の台車|台車]]はSUミンデン式ボルスタレス台車を使用している。
編成中の[[動力車|電動車]](M)と[[付随車]](T)の構成は(MT比)5M5Tで、[[分巻整流子電動機|主電動機]][[出力]]160 [[キロ|k]][[ワット|W]]/台、チョッパ制御車の[[歯車比]]は5.73。制御方式は[[集電装置|パンタグラフ]]を2基搭載する05-200形と05-800形は1C8M制御、1基搭載する05-500形は1C4M制御方式である。
* 東京地下鉄では左右側面の呼称方法として、中野駅から西船橋駅方面に向かう列車を基準として右側面を「1側」、左側面を「2側」と称する。
<gallery>
File:TokyoMetro05-CHOP2.jpg|高周波分巻チョッパ装置(2側の主チョッパ装置)
File:TokyoMetro05-CHOP1.jpg|高周波分巻チョッパ装置(1側の界磁チョッパ装置とゲート制御部)
</gallery>
[[エア・コンディショナー|冷房装置]]は[[インバータ]]による容量可変式の[[冷凍能力|能力]]48.84 kW(42,000 kcal/h)、装置キセ(カバー)は角型となっている。補助電源装置は170 kW出力のDC-DCコンバータ(DDC)を採用した。このタイプの電源装置は後の9次車まで使用されている。
座席は20 m車体で一般的な3-7-7-7-3人掛けになっており側窓は中間車の場合W-d-B-d-B-d-B-d-W<span style="font-size:90%">(便宜上、dは側扉、Bは2連窓、Wは1枚窓を表している)</span>であるが、同じ座席割りを持つ第34編成以降とは窓割の寸法が若干異なっている。
===== 1次車 =====
[[1988年]]度製造の第01 - 03編成が該当する。現存車は第1・3編成(いずれも千代田線に転用)。
このグループの投入により、東西線に暫定配置されていた[[営団8000系電車|8000系]]の8112 - 8114Fが、[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]に転属した。
* 第04 - 24編成と比べるとごくわずかながら前面窓の上部高さが低い。
* 第03編成だけは[[日立製作所]]製チョッパ装置を同系列チョッパ制御車の中で唯一採用していた(他車はすべて三菱電機製である)が、どちらも音はほぼ同じである。
<gallery>
Tokyo-Metro-type05.JPG|第01編成(1次車)<br>1次車は前面窓高さがやや低くなっている。<br>(2006年8月10日 妙典駅)
</gallery>
===== 2次車 =====
[[1989年]]度製造の第04 - 06編成が該当する。現存編成は千代田線に転用された第6編成のみ。また、この投入から、5000系の置き換えが始まっている。
* 登場時から[[車内放送|自動放送装置]]を搭載。後年の2000年(平成12年)頃に1次車も改造で搭載を実施した。
* 後に改造で[[車椅子スペース]]を設置した。
** この場所のみ側窓が固定式とされ、対話式の[[車内非常通報装置|非常通報器]]も設けられている<ref group="注">この場所以外の非常通報器は警報式のままである。</ref>。
* 後に05系では前面窓へ遮光フィルムの貼り付けが実施されたが、第04編成のみ実施されなかった。
<gallery>
Tozai 05-104F.jpg|第04編成(2次車)<br>この編成は前面窓の遮光フィルム貼り付けが行われていない<br>(2005年5月29日 [[南砂町駅]] - [[西葛西駅]]間)
</gallery>
===== 3次車 =====
[[1990年]]度製造の第07 - 09編成が該当する。全車がインドネシアに譲渡されたが、第7編成はのちに廃車となった。
* LED式車内案内表示器の表示ドットが角型から丸型に変更された。
* このグループからはJR線用の保安装置を、従来の[[自動列車停止装置#B形(軌道電流形)・S形(地上子形)|ATS-B]]に加え、[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]を搭載した。同時期に1・2次車もATS-Pの設置工事を施行した。
* 第07編成05-407号・05-507号車のみ、比較試験のために他の分巻チョッパ車と異なる台車を使用していた(詳細は後述の[[#床下機器|床下機器]]の項目を参照)。
* 輸送力増強用に投入した3次車は車両価格が公表されており、3編成で40億2,869万6,000円、1編成あたり約13億4,289万円である<ref name="Namboku-Const142">[[#Hanzomon-Con1|東京地下鉄道半蔵門線建設史(渋谷〜水天宮前)]]、p.279の「平成2年度新線建設費支出 東西線」。</ref>。
===== 4次車 =====
[[1991年]]度製造の第10 - 14編成が該当する。現存している編成は第13・14編成(第13編成は千代田線)のみ。
* 座席が[[バケットシート|バケットタイプ]]に変更された。
* 側扉窓が[[単板ガラス]]から[[複層ガラス]]となった。
* 第13編成の05-913には、[[2005年]](平成17年)3月から一時的にSS-122Aという試験台車枠が取り付けられていた。後に試験台車枠は第14編成に譲り、元に戻っている。
; 第14編成
<gallery>
Tokyometrotozai05-114F.JPG|B修施行前の第14編成<br>VVVFインバータ・ワイドドア試作車<br>(2006年8月6日 南砂町駅 - 西葛西駅間)
</gallery>
:;
:この編成も4次車グループであるが、ワイドドア車体の[[プロトタイプ|試作車]]であり、また[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]の試作車<ref>鉄道ファン1991年12月号</ref>として落成した。主回路には同時期(1990年)に製造された[[東京メトロ南北線|南北線]]用の[[営団9000系電車|9000系]]試作車および1次車の第5-第7編成と同じ[[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]][[半導体素子|素子]]によるVVVFインバータ制御(三菱電機製、1C4M2群制御)とESミンデン式ボルスタレス台車を採用した。
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TokyoMetro05-MAP-198-15V29-01.jpg|MAP-198-15V29形VVVFインバータ装置・写真は2側のU相とV相
TokyoMetro05-MAP-198-15V29-02.jpg|同インバータ装置の反対側・1側のW相とゲート制御部
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:編成形態はチョッパ車に近いが、05-500形が[[付随車]]となり、MT比は4M6Tの構成となった。[[起動加速度]]は3.0 km/h/sと、他編成の3.3 km/h/sより低くなっているが、定加速度領域を上げているため、中高速域での加速性能はチョッパ制御車を上回っている。[[かご形三相誘導電動機|主電動機]]出力は200 kW/台。[[集電装置|パンタグラフ]]は05-200形と05-800形に2台搭載する。この編成と第19 - 33編成の4M6T車は歯車比が7.79と低速向けである。
:東西線は日本でも有数の混雑率が高い路線であるため、[[ラッシュ時]]の乗降時間短縮を目的に、通常の1,300 mmドア幅よりも500 mm広げた1,800 mmドア幅(ただし、乗務員室直後の扉のみ通常の1,300 mmドア幅)とした'''ワイドドア車'''と呼ばれる車両が製造された。しかし、JRなどで導入されている6扉車と比較した場合、乗降に掛かる時間は6扉車の方が短く、ドア幅が広がった分開閉時間が掛かることで余計な乗降や[[駆け込み乗車]]が多く発生し、時間短縮どころか遅延の原因を生み出す結果となり、第14 - 18編成の5本でワイドドア車の製造を中止した。
:この編成から[[方向幕|行先表示器]]が字幕式から[[発光ダイオード|LED]]式となった。当初は先頭車の正面下部に黄色で両側の矢印と「WIDE DOOR」をあしらった[[シール|ステッカー]]を貼り付けしていたが、[[1999年]](平成11年)頃より剥がされている。さらにワイドドア車のみ、車外側窓上部スペースの関係から側面行先表示器と[[車側表示灯|車側灯]]の位置が入れ替わっている。
:車体はドア口の開口幅を広げると構体強度が低下するため、側柱、側梁などを厚くしている。このために車内の室内幅が通常の車両よりも20 mm狭くなっている。また、この編成では主電動機の[[三相交流]]化により保守が軽減されたことから[[動力車|電動車]]の床に設置していた主電動機点検蓋(トラップドア)は廃止されている。
:車内は従来とほぼ同様だが、窓枠(側窓・[[戸袋]]窓・妻面窓)の車内窓枠がアルミ製から[[繊維強化プラスチック|FRP]]製に変更された。側窓の[[カーテン]]はレールがなく、下の金具に引っ掛けるだけの構造とした。座席の掛け幅はドア間で440 mmだが、車端部の2人掛けではスペースの関係上475 mmとやや広めになった。
:ワイドドア化により座席数が減少し、2-6-6-6-2配置となっている。また、一般車には戸袋窓がないがワイドドア車には運転室後部以外にある。側窓の配置は中間車の場合、以下のようになっている。
:* F-d-FWF-d-FWF-d-FWF-d-F <span style="font-size:90%">(便宜上、dは側扉、Fは戸袋窓、Wは1枚窓の側窓を表している)</span>
:このワイドドア車グループは 新製時よりドア上部の線路方向に[[つり革]]が設置されている。混雑時の事故防止がその最大の理由だが、これは他編成にも波及し、05系全編成がドア付近でのつり革増設工事を終えている。(後の製造の6・7次車でも新製時は未設置であった。)
:* この編成は2005年(平成17年)3月から9号車の05-914に対してSS-122Aという試験台車枠が取り付けられていた。後に同編成の電動車に対してSS-122Aが取り付けられている。
==== 第15 - 18編成(5次車) ====
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Tozai05-115Ffukagawa.JPG|深川工場に入場中の第15編成<br>(2006年8月6日 深川車両基地付近の公道より)
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:; 以下の説明はB修工事施工前のものである。
[[1992年]]度製造の第15 - 18編成が該当する。
ワイドドア車の量産車で、主回路は初期ロットと同じ高周波分巻チョッパ制御、編成構成は5M5Tに戻る。
* 第14編成と同じく先頭車の正面下部に両側の矢印と「WIDE DOOR」をあしらったステッカーを貼り付けしていたが、1999年頃から剥がされている。
* この編成から2・9号車に[[車椅子スペース]]が設置されている。さらに[[車内非常通報装置|非常通報器]]は警報式から[[乗務員]]と相互通話可能な対話式へ変更、台数は各側面1か所と車いすスペース部に設置した。(各車2台または3台)
* それまでの車両で搭載していたJR線用の保安装置のATS-Bは省略され、ATS-Pのみとなった。このグループの第18編成が営団最後のチョッパ制御車となった。
==== 第19 - 24編成(6 - 7次車) ====
主回路に同時期(1992年)に製造された[[東京メトロ千代田線|千代田線]]用の[[営団06系電車|06系]]と同一の[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子のVVVFインバータ制御([[東芝]]製、3レベル、1200 [[ボルト (単位)|V]] / 500 [[アンペア|A]]、1C1M4群制御)とモノリンク式ボルスタレス台車を採用した。[[かご形三相誘導電動機|主電動機]]出力は205 kW/台とされ、第14編成とは異なり、起動加速度は3.3 km/h/sとされている。
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TokyoMetro05-SVF009-B0.jpg|6・7次車用の東芝製VVVFインバータ装置(SVF009-B0形)
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前面窓の内側にはインバータ制御車であることを示す小さな「V」マークが貼り付けされている<ref group="注">インバータ車でも第14編成ならびに後述の第25編成以降には貼り付けされていない。また、同様に日比谷線の[[営団03系電車|03系]]5次車以降でも貼り付けしている。</ref>。[[MT比]]は第14編成と同じ4M6Tだが、編成構成が異なり各[[動力車|電動車]]はすべて1M方式となった。パンタグラフは各電動車に1基を搭載する。
そのうち、第24編成は[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった5000系アルミ車(5453号車)から一部の部品が[[リサイクル]]された車両(アルミ・リサイクルカー、詳細は後述)である。
車外では窓割付も06系・07系と同一に変更され、座席配置が4-6-7-6-4人掛けとなっている。このグループから側面の窓の一部が固定窓となっており、開閉できるのは両側面2か所ずつ(6人掛け座席部分)の計4か所<ref group="注">固定窓には「この窓は開けられません」と表示されたステッカーが窓の上部に貼られている。</ref>である。側窓の配置は中間車の場合W-d-W-d-W-d-W-d-W(便宜上、dは側扉、Wは1枚窓を表している)である。
車内は設備に見直しがあり、1人分の座席幅を440 mmから450 mmに拡大、袖仕切上部のパイプには座席用のモケット布地が巻かれている。側窓は大きさが拡大されたために[[カーテン]]は「引っ掛け式」から「フリーストップ式」に変更された。窓枠は以後アルミ製に戻されている。
さらに[[車椅子]]での乗降・移動を考慮して床面高さを1,175 mmから1,150 mmに下げ、連結面は貫通路幅を800 mmから900 mm幅に拡大した。[[貫通扉]]はドアガラスを下方まで拡大したものに変更し、妻面窓は廃止された。車椅子スペースではその脇に2人分の座席を設置した。第14編成と同様に電動車の床に設置されていたトラップドアは廃止された。
[[エア・コンディショナー|冷房装置]]はインバータ式だが、外気導入形となり、さらに[[マイクロコンピュータ|マイコン]]により最適な空調を選択する「全自動空調機能」が追加された。装置キセには前後にFRP製のカバーを取り付けた丸みを帯びた形状に変更された。また、車外案内用[[スピーカー]]は外板取り付けからクーラーキセ内蔵形に変更した。電源装置であるDC-DCコンバータはメーカー・出力に変更はないが、素子にIGBT素子を使用したものに変更された。
線区による配色・前面・装備機器等の違いを除くと、06・07系とは以下のような相違点がある。
* 06・07系とは[[樋 (建築)|雨樋]]付近の構造が異なり、この2系列は側面も張り上げ屋根になっているのに対し、この編成は張り上げ屋根になっていない。
* 基本的な乗務員室内のレイアウトや配色は第18編成までと、大きくは変更されていない。
* 先頭車の車体長が200 mm長く、乗務員室扉とその隣の側扉の寸法が200 mm広い。
===== 6次車 =====
[[1993年]]度製造の第19 - 21編成が該当する。
* 6・7次車のVVVFインバータ装置は前述した東芝製(素子耐圧は2,000 V - 400 A)で、素子の冷却方式は[[冷媒]]に[[純水]]を使用した[[ヒートパイプ]]冷却方式である。
* 6次車と次項の7次車(計6編成)では後年にやや大掛かりな改修工事を実施した<ref group="注">第20編成は2006年(平成18年)2月頃クーラーを交換。</ref>。
** 車内は床敷物を灰色単色柄への張り替え、また側窓のカーテンを水色の模様入りに交換を実施した。
** 冷房装置をインバータ制御式から[[メトロ車両]]組み立て(製造は三菱電機)の稼働率制御方式(ON/OFF制御方式)クーラーに変更されている。<!-- キセ形状および装置本体は13次車だけが同じである。他編成は型番などが異なる。 -->
** これに合わせて補助電源装置は[[富士電機システムズ|富士電機]]製の240 [[キロボルトアンペア|kVA]]出力[[静止形インバータ]](SIV)に改修されている。<!-- 富士電機製の電源装置は東京地下鉄では前例がない。 -->
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Tokyo-Metro-Series05-120.jpg|第20編成(6次車)<br>(2019年3月18日 [[吉祥寺駅]] - [[西荻窪駅]]間)
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===== 7次車 =====
[[1994年]]度製造の第22 - 24編成が該当する。
* 前述のように、第24編成はアルミ・リサイクルカーと愛称が付けられ、このことを示すステッカーが車体前面・側面と車内各妻面(妻面はプレート式)に貼り付けされている。これは1993年8月に廃車となった5000系アルミ車の5453号から選別して回収された約5 [[トン|t]]のアルミニウムを車体各部の部材として再利用したものである。これは1992年度から当時の営団が[[社団法人]][[日本アルミニウム協会|軽金属協会]]と共同[[プロジェクト]]としてアルミニウムのリサイクルについて研究、実験をしていた実績を反映したものである。
** リサイクルされた部品はつり手棒受け、荷棚支え材、腰掛受け(脚台基部)、屋根上クーラー用シールゴム受け、屋根構体縦桁、屋根構体垂木(たるき)、ラインデリア受け、床下機器つり枠の8点である<ref name="RWP1995-7">鉄道ピクトリアル1995年7月臨時増刊号</ref>。なお、つり手棒受け、荷棚支え材以外の部材は乗客が直接目にできない場所にある。
* 相互直通先の[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)に合わせて、製造当初から4号車を弱冷房車に設定している(後に以前のグループに対しても設定)。
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Tokyo-Metro Series05-124F.jpg|第24編成「アルミ・リサイクルカー」(7次車)<br>(2022年5月 [[八千代中央駅]])
Tokyometro05-124-1.jpg|車両側面にあるステッカー
Tokyometro05-124-2.jpg|10号車の車内妻面にあるリサイクル銘板
Tokyometro05-124-5.jpg|リサイクル部品、つり手棒受け(天井からの棒の支え材)<br>(写真は別編成の同一品)
Tokyometro05-124-4.jpg|リサイクル部品、荷棚支え材
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=== 05N系 ===
第24編成の投入で東西線からは[[営団5000系電車|5000系]]の非冷房車が一掃され、冷房車は延命工事も受けていたため、05系の投入は一旦中断し、[[1999年]]度から投入が再開された。
同編成の落成以来から5年が経過していたため、新造車であることを強くアピールするために全面的に設計変更され、別形式とも思わせるスタイルで登場した<ref name="PIC2000-3-1">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2000年3月号「帝都高速度交通営団05系増備車(8次車)」p.69。</ref><ref name="SUBWAY2000-3-1">日本地下鉄協会「SUBWAY」2000年3月号車両紹介「営団地下鉄 東西線05系8次車概要」pp.65 - 66。</ref>。
外観はデザインコンセプトは「スピード感」だが、正面のデザインを[[モデルチェンジ|マイナーチェンジ]]し、縦曲線主体の形状とした<ref name="SUBWAY2000-3-1"/>。フロントガラスも縦曲面で、全体的に八角形に近い形となった<ref name="PIC2000-3-1"/>。下部には新たに[[排障器|スカート]]が設置された<ref name="PIC2000-3-1"/>。[[前照灯]]と[[尾灯]]は丸型となり斜めに設置され、この部分には前照灯と尾灯を納める成形品が装着されている。
車体[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]2本は、濃い方の帯は紺色に近くなり、明るい色の帯の色も変更され、2色の帯の色の差が大きくなった<ref name="SUBWAY2000-3-1"/>。
さらに営団車両であることを強調するため、側面の乗務員室扉直後へ大形[[帝都高速度交通営団#4S|「S」マーク]]の貼り付け、さらに側窓上の「S」マークもやや大きくした<ref name="SUBWAY2000-3-1"/>(東京メトロ発足後に落成した13次車を除く)。[[方向幕|行先表示器]]はLED式で変わりないが、正面・側面ともに高輝度のLEDを使用し、視認性の向上を図った。車両間[[転落防止幌]]が新製時から取り付けられた。
客室内装は全面的に変更され、カラースキームが茶色系をベースとした色調に一新された。(後述の車内記述参照)[[鉄道車両の座席|座席]]は側壁で支持する片持ち式となり、バケット形状も変更された<ref name="PIC2000-3-1"/>。[[操縦席|乗務員室]]においても配色が見直され<ref name="SUBWAY2000-3-2">日本地下鉄協会「SUBWAY」2000年3月号車両紹介「営団地下鉄 東西線05系8次車概要」67-68頁</ref>、また運転台は左手操作式の[[マスター・コントローラー|ワンハンドルマスコン]]となるなど仕様が大幅に見直された<ref name="SUBWAY2000-3-2"/>。
これらのことから「'''05N系'''」や「'''新05系'''」とも呼ばれるが、正式の称号は従来通り'''05系'''のままである。鉄道雑誌など会社が発信する外部向け資料には正式に「05N系」と表記されていることが多いため、ここでは表記を「05N系」に統一する。ただしNが05系の前に表記されて「N05系」とされることもある。なお、[[2000年]]2月に発売されたデビュー記念[[メトロカード (東京)|SFメトロカード]]や[[2007年]][[1月27日]]開催の「さよなら5000系イベント」の告知には「新05系」と表記されているほか、東西線40周年イベントでは「05系最新車」と案内されていた。
==== 第25 - 33編成(8 - 10次車) ====
車体構造は既存の05系と同様にアルミニウムの大形押出形材を組み合わせたものである<ref name="PIC2000-3-1"/>。ただし、使用材料は廃車時における[[リサイクル]]性を向上させるために[[亜鉛]]の使用を少なくした材質に統一(本車両では6N01合金を使用)を図った<ref name="PIC2000-3-1"/><ref name="SUBWAY2000-3-1"/>ほか、側構体の[[溶接]]の一部に[[摩擦攪拌接合]](FSW)を採用し、出来栄えの向上をさせている<ref name="PIC2000-3-1"/>。床構体には[[営団9000系電車|9000系]]2次車に続いて[[神戸製鋼所]]が開発したアルミ制振形材「[[ダブルスキン構造#ダンシェープ|ダンシェープ]]」を採用しており、騒音や振動の大幅な低減を図った<ref name="SUBWAY2000-3-1"/>。
主回路は[[インテリジェントパワーモジュール|IPM]]の2レベルに変更したVVVFインバータ制御を採用した<ref name="R&M2000-3-1">日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」2000年3月号研究と開発「東西線05系8次車の概要」pp.11 - 14。</ref>。制御装置は回路の簡略化・小型化が図られ、制御素子は高耐圧の3,300 V - 1,200 Aに増強、個別制御から1C2M2群制御に変更された<ref name="R&M2000-3-1"/>。制御方式にはベクトル制御やファイン・ファジーコントロール(空転再粘着制御)<ref name="R&M2000-3-1"/>を採用することでトルク制御の向上が図られている<ref name="R&M2000-3-1"/>。また、騒音対策として高周波変調、特定周波を分散させるゼロベクトル変調方式を採用している<ref name="R&M2000-3-1"/>。
主回路用の断流器、高速度遮断器(HB)には電磁接触器を採用しており、保守性の向上が図られている<ref name="R&M2000-3-1"/>。空気圧縮機は従来のレシプロ式のC-2500LB形で変更はないが、除湿装置は吸着剤方式から[[中空糸膜]]式方式とすることで、装置の小型軽量化が図られている<ref name="R&M2000-3-1"/>。
* 8次車以降では制御装置が小形化されており、外観では7次車の3分の2程度に小形化されている。以降の装置は2側に素子冷却装置を配置し、1側にゲート制御ドライブ(制御回路)を配置している。
; 8 - 10次車のVVVFインバータ装置
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TokyoMetro05-MAP-214-15V83.jpg|8・9次車用三菱製MAP-214-15V83形・写真は2側のドライパネル素子冷却部
TokyoMetro05-VFI-HR2420D-02.jpg|10次車の日立製VFI-HR2420D形・2側の素子冷却フィン
TokyoMetro05-VFI-HR2420D-01.jpg|10次車用で左写真の反対側・1側のゲート制御部
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編成形態は6・7次車と同様の4M6T構成、主電動機出力は205 kW/台である<ref name="SUBWAY2000-3-2"/>。台車は6・7次車と基本的には同一のモノリンク式ボルスタレス方式だが、保守性の向上を目的に一部改良した<ref name="SUBWAY2000-3-2"/>。[[集電装置]]は従来車両と同様の菱形だが、同時期に千代田線用の6000系・有楽町線用[[営団7000系電車|7000系]]の先頭車より撤去したパンタグラフの台枠、鉤外し装置、下げシリンダなどの一部部品を改造し、本車両に搭載した<ref name="SUBWAY2000-3-2"/>。
客室内装は前述したが、座席周りでは袖仕切が大型の丸みを帯びた形状となった。
袖仕切りは同時期に製造された[[東京メトロ南北線|南北線]]用の9000系4次車と同様の形状のものであるが、以下のような相違点がある。
* 05N系は完全な片持ち式座席であるのに対し、9000系のものは小型化されながらも脚台が残っている。
* 同系列のものは荷棚の横に[[営団6000系電車|6000系]]以来の一体型袖仕切りの名残りともとれる成形品が取り付けられているのに対し、05N系では取り付けられておらず、袖仕切りの手すりと荷棚との接合部は一般的な構造となっている。
* 座席のバケット形状が異なり、クッションは硬めに設計している。
そのほか妻面は貫通扉の[[戸袋]]となっている個所へ妻面窓が設置された。また、座席の片持ち式化により[[ドアコック]]は座席下から側扉上部右側に移設した<ref name="SUBWAY2000-3-1"/>。合わせて[[暖房]]器も蹴込み内蔵の反射形から座席つり下げ式の輻射形に変更した<ref name="R&M2000-3-1"/>。さらに側扉、連結面貫通扉について従来は[[デコラ|化粧板]]を骨組みに強固に接着する、貼り替え不能式でドア本体の再利用が不可能であったが、これを取り替え式に変更し、更新時にドア本体の再利用が可能なように変更した<ref name="SUBWAY2000-3-1"/>。
===== 8次車 =====
[[1999年]]度製造の第25 - 27編成が該当する。
* [[1999年]](平成11年)11月に竣工したが、仕様変更により乗り入れ先を含めて[[習熟運転|乗務員訓練]]が実施されたために営業運転は翌[[2000年]](平成12年)[[2月3日]]となった。
* 制御装置は[[三菱電機]]製に変更し、素子の冷却方式も列車走行風を利用したドライパネル冷却方式(自然通風ドライパネル冷却)となった<ref name="R&M2000-3-1"/>。
===== 9次車 =====
[[2000年]]度製造の第28 - 30編成が該当する。
* 仕様は8次車と同様であるが、9次車から11次車までの[[自動列車制御装置|WS-ATC]]は[[営団5000系電車|5000系]]の流用である。
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Tokyo-Metro-Series05-030.jpg|第30編成(9次車)<br>(2020年10月14日 行徳駅)
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===== 10次車 =====
[[2001年]]度製造の第31 - 33編成が該当する。
* 乗務員室と客室の仕切りドアの着色ガラス(オレンジ色)をやめ、灰色の遮光ガラスに変更。
* 冷房装置をインバータ制御方式から稼働率制御方式(ON/OFF制御方式)に変更し、さらに[[冷凍能力|冷房能力]]を58.14 kW(50,000 kcal/h)に向上したものに変更された。
* 冷房装置の冷媒に[[代替フロン]]を用い、キセ(カバー)形状は角ばった形状に変更された。以後の車両は同タイプの冷房装置が搭載される。
* VVVFインバータ制御装置が[[日立製作所]]製となったため、形状が変更されている。また、以後は素子の冷却方式を純水によるヒートパイプ冷却方式に戻されている。
* 補助電源装置は直流を出力するDC-DCコンバータから[[三相交流]]を出力する220 kVA出力[[静止形インバータ]](SIV)に変更した。
==== 第34 - 39編成(11 - 12次車) ====
同時期に[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]用として製造される[[営団08系電車|08系]]の設計思想を取り入れ、仕様変更により安全性の向上、コストダウン等を図った<ref name="JARi225">日本鉄道車輌工業会『車両技術』225号(2003年3月)「帝都高速度交通営団 半蔵門線08系電車 東西線05系電車」pp.64 - 85。</ref><ref name="Hanzomon647">帝都高速度交通営団「東京地下鉄道半蔵門線建設史(水天宮前 - 押上)」647・653頁。</ref>。08系同様に2000年(平成12年)3月に発生した[[営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故|日比谷線脱線事故]]を踏まえた車体構造の強化と安全性の向上を目的に設計変更した[[鉄道車両の台車|台車]]を採用した<ref name="JARi225"/>。
車体の窓割は営団とこれに乗り入れる[[鉄道事業者]]で協議して定めた規格に基づいたものとなり、座席配置は標準的な3-7-7-7-3人掛けとなっている<ref name="JARi225"/>。車体は構造が見直され、側構体を従来の[[シングルスキン構造]]から[[ダブルスキン構造]](セミダブルスキン構造)に変更し、車体強度の向上を図った。合わせて車端部(側窓下 - 台枠下面間)の隅柱を強化・三角形断面構造とし、側構体は戸袋部および下部構造(7人掛け座席間は台枠との接合部付近のみ、車端部は側窓下全体)を中空形材による二重構造(ダブルスキン構造)とした<ref name="JARi225"/><ref name="NationalDiet">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20140427192615/http://www.mlit.go.jp/common/000025222.pdf 車両の衝突安全性に関するこれまでの研究成果のまとめ]}}(インターネットアーカイブ)pp.15 - 16。</ref>。これらの技術により、万が一[[列車衝突事故|衝突事故]]が発生した際には、相手車体が自車体へ侵入することを防止できるほか、衝撃により各構体が分離するのを防止することができ、事故の拡大を抑えることができる構造となっている<ref name="JARi225"/><ref name="NationalDiet"/>
併せて台車はモノリンク式ボルスタレス方式で変更はないが、曲線通過性の向上や保守性の向上を目的に構造を変更したものとなった<ref name="JARi225"/>。具体的には「異方性空気ばね」、「非線形軸ばね」、「応荷重差圧弁」、「不感帯が小さい高さ調整弁」が採用された<ref name="JARi225"/>。製造メーカーが異なるが、08系で採用した[[日本車輌製造|日本車輌]]製のND-730形と同一構造である(本系列は[[住友金属工業|住友金属]]製のSS161・SS061形)<ref name="Hanzomon667">帝都高速度交通営団「東京地下鉄道半蔵門線建設史(水天宮前 - 押上)」667 - 671頁。</ref>。
さらに[[バリアフリー]]の観点から床面高さをそれまでの1,150 mmから1,140 mmへ低下させた<ref name="JARi225"/>。[[前照灯]]は[[自動車]]などにも普及している[[ディスチャージヘッドランプ|HID灯]]を搭載し、視認性の確保も併せて行っている<ref name="JARi225-2">日本鉄道車輌工業会『車両技術』225号(2003年3月)「帝都高速度交通営団 半蔵門線08系電車 東西線05系電車」pp.83 - 85。</ref>。車外の車両番号表記など各種表記をプレート式から[[シール|ステッカー]]貼り付け式に変更している。これは車内の各種表記も同様である。(車外の「S」マーク表記はプレート式を踏襲。)
側窓はドア間で均等な配置となり、ドア間の7人掛け部は2分割で開閉可能な窓、車端部は固定式の単窓に変更された<ref name="JARi225"/>。連結面はすべてに妻面窓が設置されたが、それまでよりも若干小さくなった。袖仕切形状が変更され、7人掛け[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]部には3+4で区切るスタンションポール(握り棒)が設けられた<ref name="JARi225"/>。このほか、[[網棚]]形状(荷棚受け、荷棚網)は簡易な構造に、車いすスペース部にあった座席は廃止した。
乗務員室内ほぼ同じだがブレーキ指示計(減速度km/h/s表示)はアナログ計器式から08系と同様の[[力行]][[ノッチ]]も表示するLED表示灯式のものとなった<ref name="JARi225"/>。[[車掌スイッチ]]は機械式から間接制御式(リレー式)に変更した。
また、機器についても変更点があり、MT比はチョッパ制御車と同じ5M5Tに戻っている<ref name="JARi225"/>。
* VVVFインバータ制御装置は11・13次車が三菱製、12次車が日立製となっている。いずれも[[磁励音]]は8 - 10次車とは異なっている。
* 上記の変更に伴い、1C4M1群/2群制御方式となる<ref name="JARi225"/>。
* 主電動機出力165 kW/台。165 kW車の歯車比は6.21である<ref name="JARi225"/>。
** ただし、この主電動機出力は東西線では[[過剰性能]]となる<ref name="Hanzomon654">帝都高速度交通営団「東京地下鉄道半蔵門線建設史(水天宮前 - 押上)」654頁。</ref>。
* 電動車比率を5M5Tと引き上げたため、編成全体出力は3,280 kWから3,300 kWとなっている。設計最高速度が120 [[キロメートル毎時|km/h]]に向上した。
* 補助電源の静止形インバータは、以降三菱電機製から[[東芝]]製となり、出力は220 [[キロボルトアンペア|kVA]]から240 kVAに増強した。
; 11・12次車のVVVFインバータ装置
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TokyoMetro05-MAP-178-15V106.jpg|11次車の三菱製MAP-178-15V106形・写真は2側の素子冷却フィン
TokyoMetro05-VFI-HR2820E-02.jpg|12次車の日立製VFI-HR2820E形・写真は2側の素子冷却フィン
TokyoMetro05-VFI-HR2820E-01.jpg|12次車の左写真の反対側・1側のゲート制御部
</gallery>
ただし、線区による違いを除いても以下のような相違点がある。
* 雨樋付近の構造が異なり、08系は側面も張り上げ屋根であるが、この編成ではそうなってはいない。なお05系でも第40編成以降では形態は異なるものの、側面も張り上げ屋根となっている。
* 08系では連結面に大形の縦雨樋があるが、本系列ではそれまでの車両同様に車体埋め込み形となっている<ref name="JARi225"/>。
* 正面LED行先表示器はドットが粗く、英字併記されていないままである。
* 車内の[[車内案内表示装置|LED式車内案内表示器]]も1段表示である<ref name="JARi225-2"/>。
* 05-535は、[[東洋電機製造]]製IGBT-VVVF装置の試験車両となっている。改造当初はラッシュ時専用となっていたが、その後他の編成と共通で運用されるようになった。{{要出典範囲|2011年時点では、ほかの号車と同様に三菱製に更新されている|date=2011年2月}}。
このグループから[[集電装置]]はシングルアーム式パンタグラフに変更した<ref name="JARi225"/>。これは05-200形と05-800形に2基、05-500形に1基搭載されている。
その後、このグループは編成中のパンタグラフを2台搭載した車両の降下(5→3基)が行われている。当初は第35編成で行われていたが、現在では第34編成を除き3基使用となっている<ref group="注">第34編成は現在も5基使用である。</ref>。降下したパンタグラフの側面上部には黄色い印が付けられている。
===== 11次車 =====
[[2002年]]度製造の第34 - 36編成が該当する。
* 第35編成はパンタグラフ降下試験に最初に使用された編成であり、運転席には、3パンタ試験車と書いてある。
===== 12次車 =====
[[2003年]]度製造の第37 - 39編成が該当する。この3編成が、帝都高速度交通営団として最後の新製車両となる。
* 帝都高速度交通営団の民営化直前である2003年12月から[[2004年]]1月にかけて投入されたため、当時3 - 4ヵ月後に迫っていた東京メトロ移行を考慮し、前面と側面側窓上部のSマークはステッカーとなっていた。営団地下鉄を証明するSマークで見られた時期が大変短く、貴重な写真とされている。
* [[二次電池|蓄電池]]の台数を見直し、編成で3台から2台へ集約した。
==== 第40 - 43編成(13次車) ====
東京地下鉄(東京メトロ)発足後の2004年度製造の第40 - 43編成が13次車に該当する。
このグループは「新技術を投入した次世代形通勤車両」・「今後の標準車両」として[[東葉高速鉄道]]と共同開発したものである<ref name="Fan2005-2-2">交友社「鉄道ファン」2005年2月号CAR INFO「東京地下鉄05系13次車」78-79頁。</ref>。[[東葉高速鉄道2000系電車|東葉高速2000系]]と仕様の共通化、同時発注・複数年一括発注の新契約方式により、今までの05N系と比べて約15 %のコストダウンを図った<ref name="Fan2005-2-2"/>。設計にあたっては車体のコストダウン・衝突安全性向上・[[リサイクル]]性向上・[[火災]]対策・車体の高精度化と上質化・快適性向上を[[概念|コンセプト]]とした<ref name="Fan2005-2-2"/>。
東葉高速鉄道との協定により[[日立製作所]]提唱の『[[A-train (日立製作所)|A-train]]』の構体を採用している。なお、日立製作所製車両の導入は、営団時代1964年の丸ノ内線用[[営団500形電車|500形]]の801・802号車以来、40年ぶりの導入となった。また、「[[通勤・近郊電車の標準仕様ガイドライン|標準車両]]」の規格にも適合する。
; 新技術の導入
従来の[[構体 (鉄道車両)|車両構体]]はアルミニウムの骨組みを基本とし、これらを溶接棒を用いた[[ミグ溶接]]を基本に組み立てていた<ref name="SUBWAY2005-2-3">日本地下鉄協会「SUBWAY」2004年11月号車両紹介「東京地下鉄・東西線05系13次車」31-34頁。</ref>。13次車では屋根構体・側構体・[[台枠]]など全ての構体を[[ダブルスキン構造]]の中空押出形材で構成し、これらを20 mを通して[[摩擦攪拌接合]](FSW)にて接合する「オールダブルスキン構造」を採用した<ref name="SUBWAY2005-2-3"/>。さらに複雑な形状をする先頭車前頭部側面は骨組み構成をやめ、1枚のアルミ板から[[削り出し]]加工にて製作している<ref name="SUBWAY2005-2-3"/>。
内装や床下機器の製作には[[モジュール]]化・アウトワーク化を実施している<ref name="SUBWAY2005-2-3"/>。従来は内装・[[配線|床下配線]]・[[配管]]は骨組みに対し、現物合わせで組み立てていた<ref name="SUBWAY2005-2-3"/>。13次車では中央天井、側天井、つり手・腰掛の各モジュールや配線・配管モジュールを前もってアウトワークにて製作し、これらの各モジュールをダブルスキン構体の一部であるマウンティングレールに[[ボルト (部品)|ボルト]]で固定する方法を採用している<ref name="SUBWAY2005-2-3"/>。これにより構造の簡素化、部品点数削減、コストダウンを図っている<ref name="SUBWAY2005-2-3"/>。
外観では屋根構造が張り上げ屋根となり、車端部の窓は車体との段差をほぼなくしたほか、車外の側扉引き込み防止ゴムが省略された。車端部では隅柱を強化した[[三角形]]の断面構造とし、屋根 - 台枠下面間へ強固に接合させた<ref name="NationalDiet"/><ref name="SUBWAY2005-2-3"/>。ダブルスキン構造の採用と合わせて車体強度を向上させ、[[列車衝突事故|衝突事故]]時の安全性をさらに向上させている<ref name="NationalDiet"/>。妻構体と側構体の接合部([[面取り]]部)は、一体成形加工(ダイレスフォーミング)と称する曲げ加工とすることで溶接を廃止している<ref name="Railandtech107">レールアンドテック出版『鉄道車両と技術』No.107「東京地下鉄05系車両(13次車)、東葉高速鉄道2000系車両の概要」」p.13 - 25。</ref>。
; 火災対策・有毒ガス対策
客室においては[[大韓民国|韓国]]・[[大邱地下鉄放火事件]]を教訓として、[[火災]]発生時に[[塩素|塩素ガス]]や[[シアン化水素]]等の[[毒|有毒]][[気体|ガス]]の発生源となる[[ポリ塩化ビニル|塩化ビニル]]や[[繊維強化プラスチック|FRP]]等の[[合成樹脂]]系材料の使用を取りやめている<ref name="SUBWAY2005-2-3"/>。内装部品はリサイクル性の向上のため、車体材料と同じアルミニウムの使用部材を多用する「モノアロイ化」(単一合金化)を図っている<ref name="SUBWAY2005-2-3"/>。
[[鉄道車両の座席|座席]]は1人分ごとに区分されたセパレートシートとされ、1人分の掛け幅は460 mmに拡大した<ref name="SUBWAY2005-2-5">日本地下鉄協会「SUBWAY」2004年11月号車両紹介「東京地下鉄・東西線05系13次車」28-30頁。</ref>。袖仕切は形状が変更された。床敷物は塩化ビニル系から火災発生時に有毒ガスの発生しない灰色の[[ゴム]]材となった<ref name="SUBWAY2005-2-5"/>。側扉横の手すりは戸袋内柱と一体化したアルミ形材に、車両間[[貫通扉]]は[[ドアクローザ]]式から傾斜式に変更<ref group="注">10000系にも普及されたが、2010年頃により平行式へ戻された。</ref>、持ち手は従来よりも長い手すり状となった。
火災対策として[[つり革]]のベルトは溶融滴下のしない[[ナイロン]]繊維とした<ref name="SUBWAY2005-2-3"/>。つり手棒受けは従来車ではアルミの中空品に白色の焼付[[塗装]]をしたものであったが、このグループはアルミの無塗装品で板状のものに変更した。
; 車体の上質化とコストダウン
車体の上質化として側壁の[[車内非常通報装置|非常通報器]]、[[ドアコック]]、ドア上の鴨居点検カバー部の[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]を内装パネルとの段差をなくし、見付けをすっきりさせた<ref name="SUBWAY2005-2-5"/>。仕様の見直しによって、ラインデリアの台数を各車2台削減、側扉ガラスの[[単板ガラス]]化、側窓のカーテンは引っ掛け式に戻された。さらに車内案内表示器は全扉上配置から千鳥配置とし、表示器のないドア上部には「このドアが開きます」「反対側のドアが開きます」の表示ランプ<ref group="注">前者は緑色、後者はオレンジ色のランプが点灯する。</ref>が設置された。
中間車は2・9号車に[[車椅子スペース]]を設置しているが<ref name="Fan2005-2-2"/>、新たに3 - 8号車にはフリースペースを設置した<ref name="Fan2005-2-2"/>。フリースペースは座席のない点では車椅子スペースと同様だが、車椅子スペースは車椅子利用者の安全確保から非常通報器と車椅子[[シートベルト|固定ベルト]](固定ベルトは13次車で初採用)を設置する<ref name="SUBWAY2005-2-5"/>が、フリースペースは大きな荷物を持った乗客のためのスペースとしており、非常通報器と固定ベルトは省略されている<ref name="Fan2005-2-2"/>。
制御装置は三菱電機製だが、PGセンサレス方式、[[純電気ブレーキ]]対応形となった(素子耐圧は8次車以降3,300 V - 1,200 A)<ref name="SUBWAY2005-2-5"/>。編成組成は11次車以降と同じであるが、パンタグラフは編成で5台から3台に削減された<ref name="SUBWAY2005-2-5"/>。床下機器では従来は別々に艤装していた主回路用[[断流器]]と高速度遮断器(HB)は1つの箱(断流器箱)に集約したほか、補助回路用高速度遮断器(SIV HB)も1つの箱(変圧器箱)に集約した<ref name="SUBWAY2005-2-5"/>。
付随車3両に設置されていた第二元空気だめ(空気溜め = 空気タンク)は、空気圧縮機(CP)搭載車の第一元空気だめの容量を大きくすることで廃止したほか、別々であった保安空気だめと戸閉空気だめは2室空気だめとして一体化されている<ref name="SUBWAY2005-2-5"/>。独立して設置していた機器類(各種接触器類、通報制御器、TISモニタ局、接地スイッチ等)は共通機器箱に集約しており、艤装工程の削減、コストダウン、省メンテナンス化した<ref name="SUBWAY2005-2-5"/>。
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Tokyo-Metro Series05-143F.jpg|第43編成(13次車)<br>(2022年5月 南行徳駅)
ToyoRapid2000-MAP-178-15V134-02.jpg|MAP-178-15V134形VVVFインバータ装置・2側の素子冷却フィン(写真は東葉高速2000系の同一品)
TokyoMetro05N-SBB.jpg|機器が集約された共通機器箱。写真は05-440号車の例で、設置機器は車両によって一部異なる
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概要にある通り、このグループは当初東葉高速車を含めて19本投入する計画となっていたが、計画が変更され、10000系の投入に伴う[[営団07系電車|07系]]の有楽町線から東西線への転属で補充することとなった。このため、第44 - 47編成の製造計画は中止され、2004年度に製造された第40 - 43編成4本(13次車)と東葉車11本(当初の予定通り)の15本で終了となった。
== 製造次ごとの仕様の違い ==
ここでは共通事項や基本項目などについて説明する。
=== 仕様一覧 ===
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center"
|-
!style="background-color:#ccc;"| ||colspan="8" style="background-color:#9df;"|05系||colspan="6" style="background-color:#bef;"|05N系
|-
!style="background-color:#eee;"|編成番号
|'''01 - 03'''||'''04 - 06'''||'''07 - 09'''||'''10 - 13'''||'''14'''||'''15 - 18'''||'''19 - 21'''||'''22 - 24'''||'''25 - 27'''||'''28 - 30'''||'''31 - 33'''||'''34 - 36'''||'''37 - 39'''||'''40 - 43'''
|-
!style="background-color:#eee;"|製造次<br/><small>(製造年度)</small>
|1<br/><small>(1988)</small>||2<br/><small>(1989)</small>||3<br/><small>(1990)</small>||colspan="2"|4<br/><small>(1991)</small>||5<br/><small>(1992)</small>||6<br/><small>(1993)</small>||7<br/><small>(1994)</small>||8<br/><small>(1999)</small>||9<br/><small>(2000)</small>||10<br/><small>(2001)</small>||11<br/><small>(2002)</small>||12<br/><small>(2003)</small>||13<br/><small>(2004)</small>
|-style="background-color:#eee; border-bottom:solid 3px #999;"
|style="background-color:#ddd;"|
|colspan="4"|'''第01 - 13編成'''<br/>(1 - 4次車)||'''第14編成'''<br/>(4次車)||'''第15 - 18編成'''<br/>(5次車)||colspan="2"|'''第19 - 24編成'''<br/>(6・7次車)||colspan="3"|'''第25 - 33編成'''<br/>(8 - 10次車)||colspan="2"|'''第34 - 39編成'''<br/>(11 - 12次車)||'''第40 - 43編成'''<br/>(13次車)
|-
!style="background-color:#cff;"|前面形状
|colspan="8"|角型前照・尾灯<br/>スカートなし||colspan="6"|丸型前照・尾灯<br/>スカートあり
|-
!style="background-color:#cff;"|前照灯
|colspan="11"|シールドビーム||colspan="3"|HID
|-
!style="background-color:#cff;"|行先表示装置
|colspan="4"|字幕|| colspan="10"|3色LED
|-
!style="background-color:#cff;"|車内案内表示器
|colspan="13"|全扉上設置|| colspan="1" |千鳥配置
|-
!style="background-color:#cff;"|側扉幅
|colspan="4"|1.3 m||colspan="2"|1.8 m||colspan="8"|1.3 m
|-
!style="background-color:#cff;"|車体構造
|colspan="11"|シングルスキン||colspan="2"|セミダブルスキン||オールダブルスキン
|-
!style="background-color:#cff;"|制御方式
|colspan="4"|高周波<br/>分巻チョッパ||GTO素子<br/>VVVFインバータ||高周波<br/>分巻チョッパ||colspan="8"|IGBT素子<br/>VVVFインバータ
|-
!style="background-color:#cff;"|MT比
|colspan="4"|5M5T||4M6T||5M5T||colspan="5"|4M6T||colspan="3"|5M5T
|-
!style="background-color:#cff;"|主電動機出力
|colspan="4"|160 kW||200 kW||160 kW||colspan="5"|205 kW||colspan="3"|165 kW
|-
!style="background-color:#cff;"|編成総出力
|colspan="6"|3,200 kW||colspan="5"|3,280 kW||colspan="3"|3,300 kW
|-
!style="background-color:#cff;"|歯車比
|colspan="4"|5.73<br/>(86:15)||7.79<br/>(109:14)||5.73<br/>(86:15)||colspan="5"|7.79<br/>(109:14)||colspan="3"|6.21<br/>(87:14)
|-
!style="background-color:#cff;"|パンタグラフ
|colspan="4"|菱形5基||菱形4基||菱形5基||colspan="5"|菱形4基||colspan="2"|シングルアーム式<br/>5基<ref group="*">第35 - 39編成は2基降下させている。</ref>||シングルアーム式<br/>3基
|-
!style="background-color:#cff;"|運転台
|colspan="8"|回転式ツーハンドル||colspan="6"|ワンハンドル
|-
!style="background-color:#cff;"|座席形状
|colspan="8"|区分柄あり<br/>非片持ち式||colspan="6"|区分柄なし<br/>片持ち式
|-
!style="background-color:#cff;"|袖仕切り
|colspan="8"|小型||colspan="6"|大型
|-
!style="background-color:#cff;"|座席中間握り棒
|colspan="11"|なし||colspan="3"|あり
|-
!style="background-color:#cff;"|座席定員減<br/><small>(※1)</small>
|colspan="4"|3名<ref group="*">第04 - 06編成のみに該当車がある。</ref>||該当車なし||colspan="6"|2名||colspan="3"|3名
|-
!style="background-color:#cff;"| 座席定員<br/><small>(※2)</small>
|colspan="4"|先頭車:48名<br/>中間車:54名<br/>(3-7-7-7-3)||colspan="2"|先頭車:40名<br/>中間車:44名<br/>(2-6-6-6-2)||colspan="5"|先頭車:46名<br/>中間車:54名<br/>(4-6-7-6-4)||colspan="3"|先頭車:48名<br/>中間車:54名<ref group="*">第40 - 43編成の中間車は、全車とも1箇所ずつ車椅子スペースまたはフリースペースがあるため、51名。</ref><br/>(3-7-7-7-3)
|-
!style="background-color:#cff;"|開閉可能窓
|colspan="4"|7人掛け部||colspan="2"|6人掛け部(戸袋除く)||colspan="5"|6人掛け部||colspan="3"|7人掛け部
|-
!style="background-color:#cff;"|定員
|colspan="14"|先頭車:141 - 143名<br/>中間車:152 - 155名<br/>10両編成定員:1,506名前後 詳細は編成表を参照
|}
: ※1: 車椅子スペースまたはフリースペース 1箇所あたり
: ※2: 車椅子スペース・フリースペース 非設置車
{{reflist|group="*"}}
{{-}}上記の内容は落成時点のものである。改造による変更点は後述する。
=== 主要部寸法 ===
<ref>鉄道ピクトリアル2005/3増刊号・営団地下鉄車両写真集</ref>
* 全長:先頭車前面形状にかかわらず20,270 mm・中間車20,000 mm
* 車体幅:2,800 mm
* 全幅(車側灯間):2,850 mm
* 全高
** 1 - 5次車:パンタグラフ付車両4,145 mm・それ以外4,135 mm
** 6 - 7次車:パンタグラフ付車両4,140 mm・それ以外4,060 mm
** 8 - 10次車:パンタグラフ付車両4,120 mm・それ以外4,020 mm
** 11 - 13次車:パンタグラフ付車両4,080 mm・それ以外4,022 mm
* 屋根までの高さ:1 - 5次車3,670 mm、6 - 10次車3,645 mm、11 - 13次車3,635 mm
* 床面高さ:1 - 5次車:1,175 mm、6 - 10次車1,150 mm、11 - 13次車1,140 mm
* 連結器中心の高さ:先頭880 mm、中間790 mm
* 側扉部室内幅:8 - 12次車2,550 mm、13次車2,590 mm
* 側出入口高さ・連結面貫通路高さ:1,850 mm
{{-}}
=== 車両外観 ===
前述のように、7次車まで(05系)と8次車以降(05N系)で[[デザイン]]が大幅に異なっている。しかし、基本的な窓配置は、車外から見て右半分を占める大窓上部に[[方向幕|行先表示器]]があり、その左側に[[非常口|非常扉]]窓があり、上部に白字で[[鉄道の車両番号|車両番号]]が表記され、さらに左側に細長い窓があり、上部に[[列車番号|運行番号]]表示器が収められている。[[尾灯]]は全車LED式である。
[[ワイパー]]は右側の大窓のみに設置されている。連結器は[[連結器#密着連結器|密着連結器]]である。非常扉は[[プラグドア]]を採用し、車外から見て左側にスライドする。[[警笛|電気笛]]は07系などより音の低いものが使用されている。現在は第04編成を除いて[[操縦席|運転席]]前の大窓に[[スモークフィルム|遮光フィルム]]を貼り付けする。なお、運転台上部には日除けとして[[アクリル樹脂|アクリル]]製の光線ヨケ(遮光パネル)がある。
前述のように、製造年次によって側窓配置が異なっているが、どの編成も側窓の上部と側扉の上部の高さがほぼ揃っている。開閉可能窓はすべて1段下降窓である。
車外放送用[[スピーカー]]は5次車までは車体側面に直接取り付けられているが、6次車以降は冷房装置キセに内蔵されている。屋根構造は13次車のみ張り上げ屋根となっている。
連結間にある車両間[[転落防止幌]]は、05系では1999年 - 2000年頃に改造で設置したが、05N系では全車が新製時より設置されている。
ラインカラーの帯は前述のように7次車までと05N系で異なっているが、共に側面には腰部に貼られており、側扉及び乗務員室扉にも貼られている。05N系の方が貼り付け位置はやや低く、太い帯(水色帯)の幅がやや広くなっている。7次車までは前面と帯がつながっているが、05N系ではデザイン上前面の帯とはつながっていない。
<gallery>
Tokyometrotozai05-130F.JPG |第30編成(9次車)の側面<br>6 - 10次車はドア間隔が不揃いである<br>(2006年4月30日 西船橋駅 - [[原木中山駅]]間)
Train head of Tozailine.JPG|5000系・07系を含めた先頭部形状や帯高さの比較<br>(2007年1月27日 深川車両基地)
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=== 屋根上搭載機器 ===
[[エア・コンディショナー|冷房装置]]は[[集中式冷房装置|集中式]]を搭載する。
装置は1 - 5次車は[[インバータ]]制御式で、外観キセ(カバー)形状は角ばった形状である。インバータ制御方式はきめ細かな温度制御や[[省エネルギー]]効果が高いという特徴がある。能力は9次車まで48.84 kW(42,000 kcal/h)である。
6次車からは外気導入形のインバータ制御式とし、外観向上を目的に端部を[[繊維強化プラスチック|FRP]]製の曲面カバーを取り付け、さらに薄型化と細長い形状に変更した。空調運転モードは「冷房」「暖房」「除湿」「送風」に加え、カレンダー機能と車内外の外気に応じてマイコンにより自動選択をする「全自動」モードを追加した(この空調運転モードは13次車まで共通)。
その後、10次車以降は快適性向上を目的に、能力を58.14 kW(50,000 kcal/h)に強化した。さらにインバータ制御方式をやめ、一般的な稼働率制御方式(ON/OFF制御方式)に変更し、外観キセ(カバー)形状も角ばった形状となった。
これはインバータ制御方式ではコスト面で不利なことや特に夏季におけるドア開閉による車内温度上昇に対処ができないためであるとしている<ref name="Hanzomon683">帝都高速度交通営団「東京地下鉄道半蔵門線建設史(水天宮前 - 押上)」683頁。</ref>。なお、6・7次車も後年にこの方式へと改造された。
先頭車の屋根上にはJR線用の[[列車無線]][[列車無線アンテナ|アンテナ]]と[[信号炎管]]が設置されている。また、3号車または4号車の連結面妻面と床下には東西線・東葉高速線用の[[誘導無線]]アンテナが設置されている。
[[集電装置|パンタグラフ]]は菱形搭載車はPT-4301-S形、シングルアーム車はPT-7136-E形である。
=== 行先表示器 ===
落成当初の[[方向幕|行先表示器]]は前面・側面ともに第01 - 13編成が字幕式、第14編成以降は3色LEDであったが、B修工事施工後の第14 - 18編成はフルカラーLED式、千代田線転用後の第01・03・06・13編成は8色カラーLED式に変更されている。側面の設置位置はワイドドア車のみ車体中央部の側窓の上に設置されている。それ以外の編成では横から見て中央より1つ右の側窓上部に設置している。
幕式の車両は前面・側面ともに[[ローマ字]]併記で[[書体]]は[[ゴシック体]]であった。なお、落成当初は側面にローマ字併記はなかった<ref group="注">さらに前面・側面とも誤乗車防止のために[[三鷹駅|三鷹]]・[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[西船橋駅|西船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]の行先に「地下鉄経由」と書かれていた。</ref>が、[[1996年]](平成8年)の[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速鉄道線]]開業に伴い、[[1999年]](平成11年)までに順次、前面・側面ともに方向幕が交換され、ローマ字入りとなった。
3色LED車では書体は[[明朝体]]として、側面はローマ字併記があるが、前面は側面表示器よりもドットが粗く日本語のみである。前面・側面ともにLED表示器は05系のものは低輝度品だが、05N系では高輝度品を使用し、視認性の向上が図られている。なお、後に05系も前面・側面ともに05N同様の高輝度品への交換が実施された。
フルカラーLED車は書体はゴシック体を使用しており、前面・側面ともローマ字併記である。
[[列車種別|種別表示]]は[[各駅停車]]の場合は当初は無表示であったが、2016年頃から順次「各停」または「各駅停車」と表示されるように変更された。3色LED車は、4文字の種別は2文字で表記される<ref group="注">各駅停車・通勤快速・東葉快速(2014年3月15日ダイヤ改正で廃止)はそれぞれ各停・通快・東快と表示される。</ref>。千代田線北綾瀬支線については「綾瀬⇔北綾瀬」<ref group="注">北綾瀬から折り返さずに入庫する場合は「北綾瀬」のみの表示となる。</ref>および「ワンマン」の交互表示である。
* 種別表示色は以下のとおり。
**字幕式:快速は赤地に白文字、通快は白地に深緑色の文字、東快は白地に赤文字。
**3色LED式:各停は橙地、快速・東快は赤文字、通快は黄緑文字。
**フルカラーLED式(第14 - 18編成):各駅停車は青地、快速は赤地、通勤快速は緑地、東葉快速は橙地。
=== シンボルマーク ===
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Tozai05-110Fnomark.jpg|東京地下鉄移行直前の第10編成(現在は廃車)<br>前面左側窓上部の黒い部分に東京地下鉄マークが隠されている。<br>(2004年3月 深川車両基地敷地外にて撮影)
</gallery>
[[シンボルマーク]]は営団時代は前面では非常扉の帯部分に、側面では側窓上部に営団団章「S」マークを1か所設置していた。その後の05N系からは乗務員室扉直後に大形の「S」マークを追加した。
民営化時には全編成が東京メトロ「ハートM」マークへの貼り替えが実施された。前面は左側の細長い窓上部へ、側面側窓上部は同じ位置に「ハートM」マークへと交換した。
さらに側面乗務員室扉直後には「ハートM」と「Tokyo Metro」2つのロゴマーク(コミュニケーションマーク)が貼り付けられた。
また、東京地下鉄への移行期である2003年末からは先頭車の非常口部と側面にあった営団マークを撤去し、先頭車の前面上部、乗務員扉直後と側面に東京地下鉄のマークを貼り付けていた。ただし、前面上部は黒シール、乗務員室扉直後は白シール、側面は上から営団マークを貼って隠していた。
=== 車内 ===
05系1 - 7次車の内装は、[[デコラ|内板]]はラインカラーである水色をベージュ系にアレンジしたものとした。床敷物は中央をベージュ、外側を青緑色としたフットライン入りである。
袖仕切は03系とほぼ同じ形状で、荷棚端と一体形状のものである。[[網棚]]は[[ステンレス鋼|ステンレス線]]を格子状にスポット[[溶接]]したもので、10次車まで同様のものが使用されている。側窓のロールアップ式[[カーテン]]は水色の単色品である。その後、6・7次車については床敷物は灰色の単色品に、カーテンは8次車以降と同様の波線状の模様入り(水色)に交換されている。
; 05系の車内写真
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Tokyometro05-inside1.jpg|1次車の車内<br>(第13編成までほぼ共通)
Tokyometro05-inside2.jpg|1次車の座席
Tokyometro05-inside3.jpg|1次車の優先席部
TokyoMetro05-314-inside.JPG|ワイドドア車の車内
TokyoMetro05WideDoor-seat.JPG|ワイドドア車の座席<br>(座席のスタンションポールは後年に設置されたもの)
TokyoMetro05WideDoor-Priorityseat.JPG|ワイドドア車の優先席部
Tokyometro05 inside.jpg|6次車の車内(床敷物は交換前)
Tokyo-Metro Series05-722 Inside.jpg|7次車の車内<br>(灰色の床敷物へ交換後)
Tokyo-Metro Series05-922 Priority-seat.jpg|7次車の優先席と車いすスペース(左側)
Tokyometro05-intercom.jpg|車内の警報式非常通報器
TokyoMetro05-Net.jpg|ステンレス線を組んだ荷棚網
</gallery>
05N系では仕様が全面的に変更され、内板は光沢仕上げから つや消しの明るいベージュ色に、床敷物は8 - 10次車は濃い茶色系の2色、11・12次車は濃い茶色系単色品を使用している。13次車では[[火災]]対策からそれまでの[[ポリ塩化ビニル|塩化ビニル]]系材料をやめ、灰色の[[ゴム]]材を使用した。ゴム材自体が滑りにくい素材のため、出入口部の滑り止め加工は省略した。
ただし、13次車ならびに一部の初期車両で施工したゴム製の床敷物は、本来はアルミ材を敷いた上でゴム製の床敷物を貼り付けるものであるが<ref name="mlit20101115">[https://web.archive.org/web/20110323175351/https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo01_hh_000027.html 鉄道車両の床材料の交換指示について](国土交通省報道発表資料・インターネットアーカイブ)。</ref><ref name="mlit20101217">[https://web.archive.org/web/20110111140506/http://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo01_hh_000029.html 鉄道車両の床材料の改良計画について](国土交通省報道発表資料)。</ref>、現車ではアルミ材が敷かれておらず、鉄道車両の火災対策基準を満たさないことから、[[国土交通省]]より改善指示が出されている<ref name="mlit20101115"/><ref name="mlit20101217"/>。
袖仕切は濃いベージュ色で8 - 10次車、11・12次車、13次車で形状が異なる。荷棚形状は8 - 10次車では座席前の網棚受けは板状のアルミ材に化粧シートを貼った形状だが、11次車以降ではコストダウンのため簡易な構造とされ、荷棚受け形状を変更、荷棚網も簡単な金網式に変更されている。
; 05N系の車内写真
<gallery>
Tokyometro05 -inside9th.jpg|9次車の車内<br>(この仕様は8次-10次車共通)
Tokyometro05-inside9thC.jpg|9次車の車いすスペース
Tokyometro05 -inside9thSEAT.jpg|9次車の座席
Tokyometro05 intercom2.jpg|車内の対話式非常通報器
05-135F at fukagawa.JPG|11次車の座席を取り外した様子
Tokyometro05 -inside12th.jpg|12次車車内<br>(この仕様は11次車も同様)
Tokyometro05 Tokyometro05 -inside12thC.jpg|12次車の車いすスペース
Tokyometro05-inside12thSEAT.jpg|12次車の座席
Tokyometro05 -inside12thPSEAT.jpg|12次車の優先席
05-13zisya_syanai.jpg|13次車の車内
</gallery>
; 座席モケット
一般席の[[鉄道車両の座席|座席モケット]]は1 - 7次車は濃いピンク色の「ドビー織り」で、背もたれの部分に区分柄があるものを使用し、[[優先席]]は紺色にシルバーライン入りの表地を使用している。8次車以降の一般席の座席モケットは濃い赤色系で[[シャクヤク]]の[[花弁]]をイメージした「ジャカード織り(模様入り)」の「ピアニーレッド」色(区分柄なし)に変更され、優先席は同仕上げで青色の表地を使用している。
* 1人分の座席掛け幅は以下の通り
** 1 - 5次車:440 mm
** ワイドドア車:ドア間440 mm、車端部の2人掛けシートは475 mm
** 6 - 12次車:450 mm
** 13次車:460 mm
; その他
1 - 5次車では車端部の壁は段差があり、[[消火器]]はそこの収納キセに収められている。6 - 10次車では車両の構造上段差はなく、消火器キセは客室側に出っ張っている。11次車以降は初期車と同形へ戻されている。
側扉は室内側も化粧板貼り付けで、ドアガラスは[[単板ガラス]]車は金属押さえ、[[複層ガラス]]車は白色成形品とゴムによる支持方式である。12次車までは室内側扉脇に手すりが設置されているが、13次車では側扉脇の縦面と一体化したアルミの形材に変更された。また、側扉の取っ手は12次車までは両側の扉に設置しているが、13次車では片側の扉だけに付けられている。
各車両間の[[貫通扉]]は片開き式で、扉のガラスは6次車以降では下方向に長いものとなっている。この扉も室内側は化粧板仕上げとしており、8 - 12次車は袖仕切と同一の濃い茶色だが、それ以外の編成は室内の化粧板と同様のものである。
[[車椅子スペース]]は、設置をする編成では2・9号車に設置されている。車端部が4人掛け座席構造となる6 - 10次車では2人掛け座席を設置するが、それ以外の編成では座席の設置はない。また、この部分は側窓と重なるために8次車以降では袖仕切の高さが低いものとなっている。
[[つり革]]は12次車までは東京地下鉄標準の[[ポリカーボネート]]製で、白色の[[三角形]]のものである。その後、優先席部は2005年(平成17年)末にオレンジ色のものに交換されている。また、乗務員室直後の部分では枕木方向のつり革が設置されている編成と設置されていない編成がある。
なお、13次車においては火災対策からつり輪材質が[[ポリエステル]]樹脂に変更され、つり革のベルトは塩化ビニル製から[[ナイロン]]製とされた。
車内冷房の拡散にはダクト方式を採用し、天井中央には補助送風機であるラインデリアの収納された整風板がある。12次車まではラインデリアは先頭車9台、中間車10台を設置し、また車内放送用[[スピーカー]]も6台収納されている。13次車では仕様の見直しによって冷房吹出口は[[蛍光灯]]反射板と一体化、ラインデリアは設置台数は先頭車7台、中間車8台へと削減され、また車内放送用スピーカーは5台となった。
=== 乗務員室 ===
{{Vertical_images_list
|幅=240px
|枠幅=240px
|1=TokyometrotozaiN05-4M6Tuntendai.JPG
|2=8 - 10次車の運転台<br/>(新ATC改造前)
|3=TokyometrotozaiN05-5M5Tuntendai.JPG
|4=11次車の運転台(新ATC改造前)<br/>ノッチの表示方法が10次車までとは<br/>変更されている
}}
05系1 - 7次車では[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]用の[[営団03系電車|03系]]とほぼ同じ構成で[[操縦席|乗務員室]]内は緑色、運転台計器盤は紺色の配色とされた。さらに右側に仕切壁を設置している。乗務員室の奥行き(広さ)は05N系も含めて1,900 mmと広めに確保している。
操作面はデスクタイプの運転台で、計器盤は傾斜が緩く、TISモニター部分のみ計器盤が上部に出っ張っている。6次車以降では操作面やTIS部の計器盤形状が変更されたほか、種別表示灯がTISに内蔵された。右側の仕切壁には配電盤などが設けられている。
[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]は縦軸回転式のツーハンドルマスコン式である。マスコンハンドルは[[デッドマン装置]]付([[力行]]1 - 4段)、ブレーキ設定器は5次車までは取り外し式、6・7次車は黒色の固定式(常用1 - 7段・[[非常ブレーキ|非常]])である。
その後の05N系では全面的に見直され、室内はアイボリー色、運転台計器盤はダークグレーの配色とされた。さらに右側の仕切壁を廃止した。
計器盤は傾斜がきつくなり、視認性を向上させたほか計器盤の配置は[[東京メトロ南北線|南北線]]用の[[営団9000系電車|9000系]]に準じた配置とされた。また、13次車ではTIS部の計器盤に段差がある。
主幹制御器は左手操作形のデッドマン装置付[[マスター・コントローラー#ワンハンドルマスコン|ワンハンドルマスコン]]([[ノッチ]]数はツーハンドル車と同じ)に変更された。右側には勾配起動スイッチ内蔵の右手用グリップがある。配電盤は左壁に移設され、そこにあった誘導無線操作器と非常通報受報器は操作面右端に移設され、操作性の向上を図った。
いずれも現在の[[速度計]]は白地に黒文字で120 km/hまで目盛りが刻んであり、オレンジ色に電照できるものである。落成当初、新CS-ATC非対応であった編成もあったが、それらの編成は新CS-ATC改造時に速度計自体が交換された。
また、10次車まではブレーキの減速度(km/s)を表示するブレーキ指示計(ブレーキ指令)が設置されていたが、11次車以降は力行ノッチも表示できるLED表示灯式に変更されている。
2008年3月頃より、JR線用の[[列車無線]]装置をアナログ無線からデジタル無線に変更する改造された。これにより、デジタル無線モニター・ICカードリーダー・ワイヤレス電話機設置箱が設置されている。
乗務員室と客室との仕切壁には、客室から見て左から大窓・乗務員室扉窓・細長い窓の3枚窓が並んでいる。[[遮光幕]]は大窓と乗務員室扉窓の2か所に設置されている。いずれの窓の客室側には手すりが設置されている。 なお、乗務員室扉窓はバランサー付で開閉可能である。9次車まではオレンジ色、10次車以降はグレーの着色ガラスが使用されている。
<gallery>
Tokyometro05-back1.jpg|1次車(第02編成)の乗務員室仕切<br>(仕切窓はオレンジ色の着色ガラスを使用)
Tokyometro05-back2.jpg|8次車(第26編成)の乗務員室仕切<br>(初期車とほぼ同一)
Tokyometro05-back3.jpg|12次車(第38編成)の乗務員室仕切<br>(11次車より仕切窓はグレーの遮光ガラスを使用)
</gallery>
=== 車両制御情報管理装置 ===
03系に採用された[[鉄道車両のモニタ装置|車両制御情報管理装置]]「TIS(Train control Information management System)」が本系列でも採用されている<ref name="MITSUBISHI1989-1"/>。この装置はマスコンや常用ブレーキの制御指令(制御伝送)や機器を動作監視し、故障時には運転台にモニタリングする機能がある。また、検修作業や試験・[[試運転]]データの収集など検修用としても大きな機能がある。
運転台の表示器は7次車まではELディスプレイによる単色モニターである。右上のボタンで機能を切り替えて使用するが、7次車では下部にボタンがあり、操作性の向上が図られている。このグループまではサービス機器の操作は空調装置の温度補正のみができる。後の2007年までに全車がカラー液晶式に交換された。
8次車以降では性能向上により機能拡充がされている。信頼性の向上のため伝送システムを変更、完全二重伝送化して制御伝送に[[EIA-485|RS-485]]を採用した。画面はカラー液晶となり、7次車までの機能に加え、従来は別な設定器で行っていた「行先表示」「車内表示」「自動放送」の設定機能も追加され、乗務員の操作性向上、車両間引き通し線の削減が図られた。その後も11次車以降では機能の改良がされている。
=== 床下機器 ===
新製時の床下機器色は明るい灰色である。
* [[制御装置]]については本文を参照。
* 駆動装置は[[WN駆動方式|WN平行カルダン駆動]]である。
* 主電動機と台車については以下の表の通りである。
** [[鉄道車両の台車|台車]]はすべて[[住友金属工業]]製のボルスタレスの[[空気ばね]]台車である。
*** ただし第07編成の05-407号車はND-718T、05-507号車はND-718という名称の、<br/>[[日本車輌製造]]製の'''円錐積層ゴム式軸箱支持式ボルスタレス台車'''(試作台車)を使用する<ref name="Nihonsharyou2000">鉄道史資料保存会『日車の車輌史 写真・図面集 - 台車篇』pp.45・297。なお、同誌では05-409、05-509号車と書かれているが、これは誤記と思われる。</ref>。また、[[蛇行動#ヨーダンパ|ヨーダンパ]]が設置されていた<ref name="Nihonsharyou2000"/>。
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%;"
|-
!colspan="3" style="background-color:#ddd;"|編成!!01 - 13!!15 - 18(B修施工前)!!14(B修施工前)!!14 - 18(B修施工後)!!19 - 24!!25 - 33!!34 - 43
|-
!rowspan="3" style="border-top:solid 5px #adf;"|主電動機
!colspan="2" style="border-top:solid 5px #adf;"|種類
|colspan="2" style="border-top:solid 5px #adf;"|[[分巻整流子電動機|直流分巻電動機]]
|style="border-top:solid 5px #adf;"|[[かご形三相誘導電動機]]
|style="border-top:solid 5px #adf;"|[[永久磁石同期電動機]]
|colspan="3" style="border-top:solid 5px #adf;"|[[かご形三相誘導電動機]]
|-
!colspan="2"|形式
|colspan="2"|MM-2A||MM-I7B||MM-S5A||MM-I5A||MM-I5B||MM-I11A
|-
!colspan="2"|出力
|colspan="2"|160 kW||200 kW||colspan="3"|205 kW||165 kW
|-
!rowspan="3" style="border-top:solid 5px #7af;"|台車
!colspan="2" style="border-top:solid 5px #7af;"|種類
|colspan="2" style="border-top:solid 5px #7af;"|SUミンデン式<br/>軸箱支持式
|colspan="2" style="border-top:solid 5px #7af;"|ESミンデン式<br/>軸箱支持式
|colspan="3" style="border-top:solid 5px #7af;"|モノリンク式<br/>軸箱支持式
|-
!rowspan="2"|形式
!電動車
|colspan="2"|SS112||colspan="2"|SS122||SS135||SS135C||SS161
|-
!電動車以外
|colspan="2"|SS012||colspan="2"|SS022||SS035||SS035C||SS061
|}
基礎ブレーキはいずれも保守性に優れたユニット式片押し[[踏面ブレーキ]](ユニットブレーキ)である。軸距はSUミンデン式・円錐積層ゴム式台車は2,200 mm、それ以外は2,100 mmとして曲線通過性を向上させている。
<gallery>
TokyoMetro05-SS135C.jpg|9次車のSS135C形モノリンク式ボルスタレス台車
TokyoMetro05-SS161.jpg|11次車のSS161形モノリンク式ボルスタレス台車
SS161 of 05.JPG|第34 - 43編成の電動車が使用するSS161台車
</gallery>
* ブレーキ装置はATCと連動した[[電気指令式ブレーキ|全電気指令式]]で、[[回生ブレーキ]]・[[遅れ込め制御]]を併用する。このほか耐雪ブレーキ、[[保安ブレーキ]]を装備する。
* [[圧縮機|空気圧縮機]] (CP) は電動機に[[誘導電動機]]を使用したレシプロ式C-2500LB形を搭載する。
* 補助電源装置は2種類がある。
* DC-DCコンバータ(DDC) 170 kW出力(1 - 9次車、全て[[三菱電機]]製)
** [[架線]]からの[[直流]]1,500 Vを直流600 Vに降圧し、空調装置や空気圧縮機に電源を供給する。低圧補助回路にはCVCFインバータや[[変圧器|トランス]]により[[単相交流]]200 V、100 Vを出力するほか、[[整流器|整流装置]]で直流100 V、24 Vを出力する。
** 1 - 5次車では[[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]]素子を使用したダイレクトパラ2相2重チョッパにより直流600 Vに降圧する。このタイプのCVCFインバータは[[トランジスタ|パワートランジスタ]]素子を使用している。
** 6 - 9次車では[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子を使用した高周波リンクモジュールと呼ばれるインバータユニットで直流600 Vに降圧する。このタイプのCVCFインバータはIGBT素子を使用している。
* [[静止形インバータ]](SIV)
** 10次車は三菱電機製の220 kVA出力、11次車以降は[[東芝]]製の240 kVA出力である。改造された6・7次車は[[富士電機システムズ]]製の240 kVA出力である。
** 架線からの直流1,500 VをIGBT素子を使用したインバータユニットで[[三相交流]]440 Vに変換し、空調装置や空気圧縮機に電源を供給する。低圧補助回路にはトランスにより単相交流200 V、100 Vを出力するほか、整流装置で直流100 V、24 Vを出力する。
; 空気圧縮機と補助電源装置
<gallery>
TokyoMetro05-C-2500LB.jpg|第19編成のC-2500LB形空気圧縮機(各編成共通品)
TokyoMetro05-CN-DA170A.jpg|1 - 5次車のDC-DCコンバータ<br>(写真は2側・CN-DA170A形)
TokyoMetro05-CDA-SIV.jpg|6・7次車の更新型静止形インバータ<br>(富士電機製)
TokyoMetro05-TN-AA170C.jpg|8・9次車のDC-DCコンバータ<br>(TN-AA170C形・写真は1側)
TokyoMetro05-NC-EAT220A.jpg|10次車の三菱製静止形インバータ<br>(NC-EAT220A形)
TokyoMetro05-INV154-C0.jpg|11 - 13次車の東芝製静止形インバータ<br>(写真は12次車・INV154-C0形)。
</gallery>
=== 停車駅通過防止装置 ===
全車に[[停車駅通過防止装置]]が取り付けられている。東陽町以東あるいは直通先で使われる。
音は通常の警報音に加えて注意を促すための音があり、駅に近づくとまず注意を促す音(「ピー、ピー、ピー」という伸びた音)が流れ、その後運転士がブレーキ操作をすると警報音が流れる。05系1 - 7次車はこの警報音が0.5秒ほど間隔をあけて「ピッ、ピッ、ピッ」と連続発音をするのに対し、8次車以降は「ピッピッピッピッ」と間隔を空けずに連続発音をする。
== 旅客案内設備 ==
=== 自動放送 ===
最初に製造された1次車以外は落成当初から[[車内放送|自動放送装置]]を搭載しており、1次車も[[2000年]]頃に自動放送装置が設置されている。現在、東西線内ではすべての編成で自動放送を流している。
自動放送は各車AVC(オート・ボリューム・コントロール)付き分散増幅式というシステムを採用しており、走行音によって自動的に自動放送の音量が調節される仕組みになっている。
車内ドア上のパンチネット部分がそのセンサである。
放送は相手会社の仕様で東西線内とは異なっているが、車両により放送内容に差異が見られる。
また、車外案内用[[スピーカー]]を搭載しており、車掌による車外放送が使用できるほか、[[押しボタン]]による[[発車メロディ|乗降促進放送]]が流せる。
==== 民営化以後の自動放送の移り変わり ====
民営化前は日本語のみの自動放送が05系とJRの[[JR東日本E231系電車|E231系800番台]]で使用されていたが、細部が1 - 10次車とそれ以外で異なっていた。民営化後は放送が一新された。
=== 車内案内表示器 ===
東京メトロ東西線を走る全車両で[[ドアチャイム]]付の[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]がドア上に付いているが、概要は車両によって様々である。
B修施工車以外はLED[[スクロール]]式車内案内表示器を設置しており、設置位置については1 - 7次車では側扉上部の中央部であるが、8 - 12次車では表示器の横に[[ドアコック]]がある関係で左に寄って設置されている。1 - 12次車は全扉上部の設置であるが、13次車だけは側扉点検蓋(鴨居部)と一体形のアルミ材へ変更され、左右交互配置(千鳥配置)となっている。全車1段表示で、16×16ドットで1文字を表示し、これを11枚並べた16×176ドットで構成される。
B修施工車については[[液晶ディスプレイ]](LCD)式の車内案内表示器に交換された。
* タイプ1:1・2次車は旧タイプの角型LEDとなる。表示方法が独特であり、停車中の一部表示が他車と異なり、次駅が「右から流れて来て止まる」(3次車以降のLEDは静止表示)特徴があった<ref group="注">停車中の次駅案内は後に表示内容を更新した際に廃止された。</ref>。アルファベット大文字、括弧、数字、ハイフンなどの記号は全角でしか表示できない。字形もあまり美しくない。また、スクロール表示時には、周期が変わるときの敏捷性に劣る。タイプ2までは中央線・総武線・東葉高速線内での車内案内表示器は「[[西船橋駅|西船橋]] ゆき」、「快速 [[三鷹駅|三鷹]] ゆき」のように行先のみの固定表示で、自動放送も行われていない。現在このタイプは千代田線転用に伴うB修施工及び廃車により現存しない。
* タイプ2:3 - 7次車は両方スピーカーあり丸型LEDタイプ。半角となった。
* タイプ3:8 - 12次車は片側スピーカー・片側ドアコックとなり従来と少し異なる。このタイプからは直通先の案内も行うようになった。12次車は表示器の表面処理がつや消し仕上げから光沢仕上げとなり、表示内容に東葉高速鉄道の社章も表示できるようになった。
* タイプ4:13次車は別型から鴨居点検蓋一体型となり、従来とだいぶ異なる。字体も、日本語は[[明朝体]]の特徴があらわれたもの、英語は大文字の飾り部分の角度が直角のものに変わった。東葉高速2000系もこのタイプとなる。
* タイプ5:B修施工車に搭載されているLCD。
8次車以降・東葉高速2000系でも東西線内と他社線内とでも多少の違いが見られ、表示内容に関しても多少異なる。
<gallery>
Tozai05-syokisya-hyojiki.jpg|初期車の車内表示器周辺<br>四角いLEDによる表示である<br>側扉窓は金属押さえである
Tokyo-Metro Series05-122F Inside-LED.jpg|7次車の車内表示器<br>文字の表示方法が変更された
Tozai05-Atra-hyojiki.jpg|13次車の車内表示器周辺<br>側扉窓は金属支持であるが、初期車とは多少形状が異なる
</gallery>
== 更新工事 ==
東京地下鉄では2010年度時点では、工場検査の入場時期となる4年を基準に車両改修時期を定めている<ref>日本鉄道車両機械技術協会「R&m」2010年9月号「千代田線16000系車両の登場にあたって」</ref>。
*経年12年目で'''C修工事'''と称する簡易な改修工事(ゴム材や床関係の改修)、24年目で'''B修工事'''と称する大規模な改修工事(内装取り替えと電気品の更新)、36年目でC修工事、48年目で廃車となるライフサイクルを見込んでいる。ただし、これはモデルケースであり、必ずしもこの時期に改修工事や廃車が実施されるとは限らない。
=== C修工事 ===
05系(05N系以外)では[[2000年]](平成12年)からC修工事を実施している。施工内容はラインカラーの貼り替え、床敷物は張り替え、[[ゴム]]材、[[コーキング|シール材]]の交換などである<ref>交友社「鉄道ファン」2006年3月号記事</ref>。また、6・7次車では前述の内容に加え、冷房装置の交換や補助電源装置の改良なども施工している。
=== B修工事 ===
{{鉄道車両
| 車両名 = 05系千代田線転用車
| 背景色 = #109ED4
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Tokyo Metro 05-013F Chiyoda line Kita-Ayase branch line for test run.jpg
| 画像幅 = 200px
| 画像説明 = 千代田線の北綾瀬支線向けに改造された05系第13編成
| 運用者 = [[東京地下鉄]]
| 総数 = 4編成12両
| 運用開始 = 2014年4月28日
| 投入先 = [[東京メトロ千代田線|千代田線]]北綾瀬支線
| 編成 = 3両編成
| 最高運転速度 = 60 km/h
| 設計最高速度 = 110 km/h
| 起動加速度 = 3.3 km/h/s
| 常用減速度 = 3.7 km/h/s
| 非常減速度 = 4.7 km/h/s
| 台車 = ボルスタレス方式[[空気ばね]]台車
| 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]
| 主電動機出力 = 185 kW
| 駆動方式 = [[WN駆動方式]]
| 歯車比 = 86:15 (5.73)
| 編成出力 =
| 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]](ハイブリッドSiC素子)
| 制御装置 =
| 制動装置 = ATC連動[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]([[回生ブレーキ]]併用)[[純電気ブレーキ]]
| 保安装置 = [[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]・[[自動列車運転装置|ATO]]
| 備考 = 上記は千代田線転籍改造車のデータ。東西線用改修車は冒頭の表を参照。
}}
東西線用については、05系初期車(第01 - 13編成)については[[東京メトロ15000系電車|15000系]]を導入することで置き換えが実施されたが、第14編成以降の車両については今後も使用を継続する予定<ref name="R&M2013-1-1" />である。第14編成において落成から20年以上が経過したため、2012年度より大規模改修工事を開始<ref name="R&M2013-1-1">日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」2013年1月号研究と開発「東西線05系車両 大規模改修の概要」20-24頁</ref><ref>[http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2012/12/post_355.html 編集長敬白:東京地下鉄05系14編成が更新] {{Wayback|url=http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2012/12/post_355.html |date=20121209034036 }} - ネコ・パブリッシング『鉄道ホビダス』</ref>、5次車の第15 - 18編成についても2013年度以降に年間1本ずつ改修されている<ref>鉄道ジャーナル社「鉄道ジャーナル」2013年2月号RAILWAY TOPICS「東京メトロ東西線の05系に更新車が登場」154頁</ref>。2014年の第18編成を皮切りに、2015年に第16編成、2016年に第15編成、2017年には第17編成に施工した。制御装置もVVVFインバータに更新されたため、第17編成のB修を以って東西線で運用される車両は全てVVVFインバータ制御に統一された。その後2019年には第21編成が6次車初の大規模改修工事を完了し試運転を行ったが、第14 - 18編成とは施工内容が多少変更されている。
千代田線用については、従来北綾瀬支線で使用してきた5000系および6000系ハイフン車の車両老朽化、また[[2014年]](平成26年)3月15日ダイヤ改正に伴う運用数増への対応として東西線で使用されていた05系に大規模改修工事を実施し千代田線の北綾瀬支線用に改造した<ref name="RandM2014-5-1">日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」2014年5月号研究と開発「千代田線転籍車改造工事の概要」18-20頁</ref>。その後、[[2014年]](平成26年)[[4月28日]]より[[東京メトロ千代田線|千代田線]]北綾瀬支線([[綾瀬駅]] - [[北綾瀬駅]]間)での営業運転を開始している<ref name="railf140503">[http://railf.jp/news/2014/05/03/184000.html 05系改造車が千代田線綾瀬—北綾瀬間で営業運転を開始] {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2014/05/03/184000.html |date=20160822072328 }} - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2014年5月3日</ref>。
東西線用の車体外観については05系8次車の仕様に近づけるため、ラインカラー帯の配色変更を実施したほか、前面下部に[[排障器]](スカート)を設置した<ref name="R&M2013-1-1" />。第21編成以降は排障器の形状が変更されている。前面の車両番号表記については、従来配置されていた非常扉上部に地上設備とのデータ送受信機器を設置したことに伴い、非常扉下部への配置に変更された<ref name="R&M2013-1-1" />。車外の前面・側面行先表示器は3色LED方式を種別表示を[[フルカラー]]LED、行先表示を白色LED表示に更新した<ref name="R&M2013-1-3">日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」2013年1月号研究と開発「東西線05系車両 大規模改修の概要」26-27頁</ref>。
千代田線用のラインカラー帯は同線で運用されている[[東京メトロ16000系電車|16000系]]と同じ緑色系の3色帯に貼り替え、合わせて[[ホームドア]]のあるホームからも見えるよう側窓上部にも新たに貼り付けしている<ref name="RandM2014-5-1" />。同線用も前面の車両番号表記については、従来配置されていた非常扉上部に車上CCTV(ホーム監視用モニター)の映像受信用の[[ミリ波]]受信装置を設置したことに伴い、非常扉下部への配置に変更された<ref name="RandM2014-5-1" />。前面行先表示器は8色カラーLEDに更新している<ref name="RandM2014-5-1" />。
;車内
車内は化粧板、客用ドア、床敷物の取り替えが実施されており<ref name="Fan2013-2">交友社「鉄道ファン」2013年2月号CAR INFO「東京地下鉄05系B修施行車」68-70頁</ref>、東西線用の内装カラーは15000系ベースとしたライトグレー系とした<ref name="R&M2013-1-1" />。床敷物については火災対策にも適合した[[ゴム]]素材のものとなっている<ref name="R&M2013-1-1" />。千代田線用は内装カラーをアイボリー系、床敷物と座席表地は紺色とした<ref name="RandM2014-5-1" />。座席端部に設置した袖仕切板は大型化させているほか、各座席間に[[スタンションポール]](縦握り棒)を新設している<ref name="R&M2013-1-1" /><ref name="RandM2014-5-1" />。いずれもLEDの車内照明に交換された。
[[バリアフリー]]の促進を図るため、車内に車椅子スペースを新設しているほか(千代田線用の第06編成は設置済み)、各客用ドア上部(鴨居点検フタ)にはドア開閉時または乗降促進ブザー鳴動時に赤く点滅する「ドア開閉表示灯」を新設、また各客用ドア下部には車内と出入り口の識別を図る「出入口識別表示板」を新設した<ref name="R&M2013-1-1" /><ref name="RandM2014-5-1" />。
優先席部は座席表地の色調変更に加え、付近の[[つり革]]と座席端の袖仕切縦握り棒をオレンジ色着色として識別している<ref name="R&M2013-1-1" /><ref name="RandM2014-5-1" />。また、優先席前のつり革高さは1,660 mmから1,580 mmへと低下させて使いやすさを向上させている<ref name="R&M2013-1-1" /><ref name="RandM2014-5-1" />。
車内の各ドア上部には17インチ[[液晶ディスプレイ]] (LCD・[[VIS (鉄道システム)|TVIS]]) を用いた[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]を設置した<ref name="R&M2013-1-3" /><ref name="RandM2014-5-1" />。LCD画面は2台が設置され、左側を[[Tokyo Metro ビジョン]]の[[広告]][[動画]]用として、右側を行先案内・乗り換え案内等の旅客案内用として使用する<ref name="R&M2013-1-3" /><ref name="RandM2014-5-1" />。
<gallery>
File:Tokyo-Metro-Series05R-018.jpg|第18編成 B修工事施工車
File:TokyoMetro 05-014 new machine.JPG|東西線用の非常扉上部に新設された機器 (05-014号車)
File:Tokyo-Metro Series05R Inside.jpg|東西線用の更新後の車内
File:Tokyo-Metro Series05R Priority-seat.jpg|更新後の優先席と車いすスペース
File:Tokyo-Metro Series05R Inside LCD.jpg|東西線用のドア上部に設置されたLCD式車内案内表示器
File:TokyoMetro05-001-inside.JPG|千代田線用の更新後の車内
File:Tokyo Metoro series05 information LCD-Chiyoda.jpg|千代田用のLCD式車内案内表示器
</gallery>
放送装置は機器の更新を実施するとともに、[[車内非常通報装置]]については警報式から乗務員と相互に通話が可能な通話式に更新された<ref name="R&M2013-1-3" /><ref name="RandM2014-5-2">日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」2014年5月号研究と開発「千代田線転籍車改造工事の概要」21-23頁</ref>。戸閉装置(ドアエンジン)は空気式だが、閉扉後に一定時間戸閉力を弱める戸閉力弱め制御機構が追加されている<ref name="R&M2013-1-3" /><ref name="RandM2014-5-2" />。
冷房装置はインバータ制御方式から稼働率制御方式(ON/OFF制御方式)で冷房能力58.14 kW(50,000 kcal/h)に更新した<ref name="R&M2013-1-2" /><ref name="RandM2014-5-2" />。この冷房装置端部には車外放送用スピーカーが内蔵されている<ref name="Fan2013-2" />。
東西線用の乗務員室については15000系と同様の仕様・配置に一新された<ref name="R&M2013-1-1" />。運転台ユニットは15000系と同等の左手操作形ワンハンドル式に変更し、乗務員の機器取り扱いの統一を図っている<ref name="R&M2013-1-1" />。千代田線用の運転台ユニットは両手操作形ワンハンドルマスコンに更新し、ワンマン運転への対応として、運転台上部には車上CCTV(ホーム監視用モニター画面)を設置している。[[車掌スイッチ]]については電気的に保持する間接制御式(リレー式)に交換されている<ref name="R&M2013-1-3" /><ref name="RandM2014-5-2" />。
<gallery>
File:TokyoMetro05_cab.JPG|北綾瀬支線向けに改造された05系第1編成の運転台
File:TokyoMetro05 Rollsign.JPG|千代田線用の側面の行先表示器は埋められた。
File:TokyoMetro05-201 VehicleNumber.JPG|千代田線用は02系と同様に、戸袋部への車両番号表記が追加された。
</gallery>
;走行機器など
東西線用4次車の第14編成は編成におけるMT比4M6Tに変更はないが、5次車の第15 - 18編成のワイドドア車は車両の仕様を統一するため編成形態の変更が実施され<ref name="R&M2013-1-1" />、1両を電装解除してMT比を第14編成にそろえている。なお、機器の更新により、起動加速度は従来の3.0 km/h/sから3.3 km/h/sに向上している<ref name="Fan2013-2" />。制御装置は、第14 - 18編成は千代田線16000系1 - 3次車と同等の[[永久磁石同期電動機]](1時間定格出力205 kW)を用いた[[東芝]]製<ref>交通新聞社「鉄道ダイヤ情報」2013年1月号DJNEWS FILE「東京地下鉄 東西線05系14編成がリニューアル」</ref>の[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]]使用の2レベル[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]](レゾルバレス・ベクトル制御・[[純電気ブレーキ]]対応)に一新した<ref name="R&M2013-1-1" />。6次車となる第19編成以降は、制御装置を16000系4次車と同等の三菱電機製IGBT-VVVFインバータ(MAP-214-15V306)に変更している。
東西線用の制御方式は各軸個別方式の1C1M4群制御としており、個別制御の場合には制御装置本体の大形化が予想されるが、本改修車では2群分のインバータユニットを1つに集約した「2in1形」を採用することで装置本体の小型化図った<ref name="R&M2013-1-1" />。[[歯車比]]は109:14 (7.79) を踏襲し、主電動機はPMSM を採用することで従来の[[かご形三相誘導電動機|三相誘導電動機]]よりも高効率での使用(従来の92 %を96 %まで向上)が可能となっている<ref name="R&M2013-1-2">日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」2013年1月号研究と開発「東西線05系車両 大規模改修の概要」24-25頁</ref>。
千代田線用の編成は東西線で使用されていた両先頭車(05-100形および05-000形)と中間車1両(05-200形)を3両編成化した<ref name="RandM2014-5-1" />。編成形態(MT比)は2M1Tだが、実質的には1.5M1.5Tとなっている<ref name="RandM2014-5-1" />。素子にはハイブリッド[[炭化ケイ素|SiC]](シリコンカーバイト)モジュール素子を使用したVVVFインバータ制御を採用した(PGセンサレスベクトル制御)<ref name="RandM2014-5-1" />。SiCモジュール素子の採用により、装置の小型化および電力消費量の大幅な削減が図られている<ref name="RandM2014-5-2" />。電動車2両中、各車とも綾瀬側から数えて3軸目は付随軸(それ以外の1・2・4軸目は動力軸)となっていることから、制御は1C3M2群構成となっている<ref name="RandM2014-5-1" />。主電動機は[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]用[[営団03系電車|03系]]更新車で採用した185 kW出力のかご形三相誘導電動機を採用した<ref name="RandM2014-5-2" />。
両線用ともブレーキ装置は保守性向上のため、中継弁を介した方式から各車1台のブレーキ作用装置([[保安ブレーキ]]一体形・一部はブレーキ受信装置一体形)に集約している<ref name="R&M2013-1-2" /><ref name="Fan2013-2" /><ref name="RandM2014-5-2" />。また、東西線用のブレーキ制御は16000系で実績のある[[鉄道車両のモニタ装置|車両制御情報管理装置]] (TIS) を活用した編成単位での[[遅れ込め制御]]を採用した(編成統括回生ブレンディング制御)<ref name="R&M2013-1-2" />。これはブレーキ指令 = 編成で必要なブレーキ力から全[[動力車|電動車]](M車4両)で負担できる[[回生ブレーキ]]力を引いた不足分([[空気ブレーキ]]で補足する)を全[[制御車]]・付随車(CT車とT車・計6両)の空気ブレーキで負担する方式である<ref name="R&M2013-1-2" />。
東西線用の集電装置は編成形態の変更により、各電動車にシングルアーム式パンタグラフを1基の搭載とした(05-200形・05-800形は2基から1基へ、05-300形・05-900形は1基を新設)<ref name="R&M2013-1-2" />。また、運転台のTISモニター画面でパンタグラフの上昇を確認するためのパンタ上昇検知装置を新設している<ref name="R&M2013-1-2" />。千代田線用の集電装置は従来のひし形タイプを流用しながら、パンタ上昇検知装置を新設している<ref name="RandM2014-5-2" />。
東西線用の[[鉄道車両の台車|台車]]は東西線の走行条件(乗車定員が多い)を考慮して台車枠の改修を行い、強度の向上を図っている<ref name="R&M2013-1-3" />。そのほか、走行安全性の向上を目的に各種改良が施されている<ref name="R&M2013-1-3" />。千代田線用においても、上記のほか、廃車車両から電動台車枠を流用することで、すべての台車枠が電動台車枠となっている<ref name="RandM2014-5-2" />。両線用とも[[圧縮機|空気圧縮機]]は実績のあるスクロール式コンプレッサ(吐出量 1,600 L/min)が採用されている<ref name="R&M2013-1-3" /><ref name="RandM2014-5-2" />。この装置は周辺機器を含めて一体の箱に収めたもので、騒音低減や[[メンテナンス]]性に優れたものである<ref name="R&M2013-1-3" /><ref name="RandM2014-5-2" />。
東西線用の補助電源装置はDC-DCコンバータ(DDC)に代わり、IGBT素子を使用した容量 240 kVA の[[静止形インバータ]] (SIV) を編成で2台搭載した(出力電圧は[[三相交流]] 440 V )<ref name="R&M2013-1-2" />。千代田線用の補助電源装置はハイブリッドSiCモジュール素子(素子容量 1,700 V - 1,200 A ・3レベル)を使用した<ref name="RandM2014-11">日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」2014年11月号技術レポート「SiC適用鉄道車両用補助電源装置の製品化」pp.57 - 60。</ref>150 [[キロボルトアンペア|kVA]]出力の待機2重系構成の静止形インバータ(SIV)を採用している<ref name="RandM2014-5-2" /><ref name="RandM2014-11" />。[[二次電池|蓄電池]]は保守性向上のため、ポケット式を焼結式に更新し、合わせて車内電気機器の増加に伴い容量の増加、編成での搭載台数を3台から2台に削減している(千代田線用は編成で1台)<ref name="R&M2013-1-2" /><ref name="RandM2014-5-2" />。
東西線用は車両搭載機器の制御を行う[[鉄道車両のモニタ装置|車両制御情報管理装置]](TIS)を15000系と同等のラダー形伝送方式に更新し、新たに車両の検査期限管理機能、パンタグラフ不一致検知機能、運転状況記録装置の代わりとしてトレインコンディションレコーダー機能が追加されている<ref name="R&M2013-1-3" />。千代田線用についても、ラダー形伝送方式への更新が実施されている<ref name="RandM2014-5-2" />。
==== 編成表 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|+東西線 4次車(第14編成)
|-
| style="background:#ccc;" |
| colspan="10" |{{TrainDirection|西船橋・東葉勝田台・津田沼|中野・三鷹}}
|-
| rowspan="2" style="background-color:#ccc;" |
|1号車||2号車||3号車||4号車||5号車||6号車||7号車||8号車||9号車||10号車
|-
|'''05-100'''<br />(CT)||'''05-200'''<br />(M1)||'''05-400'''<br />(T)||'''05-800'''<br />(M2)||'''05-500'''<br />(Tc1)||'''05-600'''<br />(Tc2)||'''05-300'''<br />(M3)||'''05-700'''<br />(T')||'''05-900'''<br />(M2')||'''05-000'''<br />(CT2)
|- style="border-top:solid 4px #00BFFF;"
!搭載機器
| ||VVVF・CP|| ||VVVF||SIV||SIV||VVVF・CP|| ||VVVF・CP||
|-
!車両番号
|05-114||05-214||05-414||05-814||05-514||05-614||05-314||05-714||05-914||05-014
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|+東西線 5次車
|-
| style="background:#ccc;" |
| colspan="10" |{{TrainDirection|西船橋・東葉勝田台・津田沼|中野・三鷹}}
|-
| rowspan="2" style="background-color:#ccc;" |
|1号車||2号車||3号車||4号車||5号車||6号車||7号車||8号車||9号車||10号車
|-
|'''05-100'''<br />(CT)||'''05-200'''<br />(M1)||'''05-400'''<br />(T)||'''05-800'''<br />(M2)||'''05-300'''<br />(Tc1)||'''05-600'''<br />(Tc2)||'''05-500'''<br />(M3)||'''05-700'''<br />(T')||'''05-900'''<br />(M2')||'''05-000'''<br />(CT2)
|- style="border-top:solid 4px #00BFFF;"
!搭載機器
| ||VVVF・CP|| ||VVVF||SIV||SIV||VVVF・CP|| ||VVVF・CP||
|-
!車両番号
|05-115<br />05-116<br />05-117<br />05-118
|05-215<br />05-216<br />05-217<br />05-218
|05-415<br />05-416<br />05-417<br />05-418
|05-815<br />05-816<br />05-817<br />05-818
|05-315<br />05-316<br />05-317<br />05-318
|05-615<br />05-616<br />05-617<br />05-618
|05-515<br />05-516<br />05-517<br />05-518
|05-715<br />05-716<br />05-717<br />05-718
|05-915<br />05-916<br />05-917<br />05-918
|05-015<br />05-016<br />05-017<br />05-018
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|+千代田線分岐線編成<ref>鉄道ファン(交友社)2014年8月号(通巻640号) p68</ref>
|-
| style="border-bottom:solid 3px #0040FF; background-color:#ccc;" |
| colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #0040FF;" |{{TrainDirection|綾瀬|北綾瀬}}
|-
| rowspan="2" style="background-color:#ccc;" |
|1号車||2号車||3号車
|-
|'''05-100'''<br />(CM)||'''05-200'''<br />(M1)||'''05-000'''<br />(CT)
|- style="border-top:solid 5px #2a9b50;"
!搭載機器
|SIV||VVVF||CP
|-
!車両番号
|05-101<br />05-103<br />05-106<br />05-113||05-201<br />05-203<br />05-206<br />05-213||05-001<br />05-003<br />05-006<br />05-013
|}
== 本系列を用いた試験 ==
* [[1992年]](平成4年)5月から7月にかけて05系に東芝・三菱・日立の順番で[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子によるVVVFインバータ装置を取り付け、実車走行試験を実施した。この結果から[[東京メトロ千代田線|千代田線]]用06系・[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]用07系に同様の装置が採用されることとなった<ref name="RWP1995-7" />。
* [[2003年]](平成15年)9月から本形式の第36編成に試作スクロール式[[圧縮機|空気圧縮機]]を搭載し、約1年7か月の長期試験を行った。この結果から有楽町線・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]向けの[[東京メトロ10000系電車|10000系]]にスクロール式空気圧縮機が採用されることとなった<ref>東京地下鉄「東京地下鉄道副都心線建設史」</ref>。
== 運用 ==
東西線用の編成は[[深川車両基地|深川検車区]]に所属している。東京地下鉄車の運用([[列車番号]]の末尾がSの運用)全てに入ることができる。同じく深川に所属する[[営団07系電車|07系]]、[[東京メトロ15000系電車|15000系]]と共通で運用されている。
[[日本の鉄道車両検査|重要部・全般検査]]は[[深川車両基地#深川工場|深川工場]]で行われる。編成を2分割しても走行できるようになっている。なお、編成の中間に簡易運転台があるが、非先頭車を先頭に走行する場合、簡易運転台ではなく無車籍の牽引車を使用している。
千代田線北綾瀬支線用の編成は[[綾瀬車両基地|綾瀬検車区]]に所属している。綾瀬 - 北綾瀬間での営業運転のほか、[[新木場車両基地]]内にある総合研修訓練センターの訓練車としても使用されている<ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/750126.html 東京メトロ、総合研修訓練センターを公開] {{Wayback|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/750126.html |date=20221206205155 }} - トラベルWatch 2016年3月26日</ref>。
=== ヘッドマークを装着した列車 ===
[[File:Tokyo Metro 05-142 running from Minami-Sunamachi to Nish-Kasai.jpg|thumb|240px|東京メトロ1周年ヘッドマークを掲出した第42編成<br />(2005年5月3日 / 南砂町 - 西葛西)]]
05系を使用したヘッドマーク付き列車には、以下のようなものがあった。
* [[1996年]](平成8年)4月には、東葉高速鉄道との相互直通運転開始を記念して前面に円形のヘッドマークが付けられた。なお、[[営団5000系電車|5000系]]にも貼り付けられた。
* [[2000年]](平成12年)[[1月22日]]の[[妙典駅]]開業時には前面にステッカーを貼り付けた。なお、同駅開業直後に営業を開始した05N系や[[営団5000系電車|5000系]]にも貼り付けられた。
* [[東京ミレナリオ]]に伴う[[臨時列車]]「東京ミレナリオ記念トレイン」では、[[2003年]](平成15年)は05N系が使用された(翌[[2004年]]は[[東葉高速鉄道2000系電車|東葉高速2000系]]を使用。マークは前年と同じものを使用。)。
** ヘッドマークはステッカーで、B線列車は東葉勝田台始発[[九段下駅|九段下]]行、折り返しA線列車は[[大手町駅 (東京都)|大手町]]始発快速東葉勝田台行として運転された。
** 最初の2日間(12月20日・21日)は第30編成が使用されたが、1日置いた3日目(23日・最終日)は第38編成が使用された。なお、第30編成は22日にはマークを貼ったまま朝のラッシュ時のみの運用に入っていた。
* [[2005年]](平成17年)4月 - 5月には東京地下鉄1周年記念ヘッドマークが各系列1編成ずつに装着され、05系では第42編成が使用された。ヘッドマークは各系列共通の円形の物である。なお、東西線では5000系5809編成にも装着され、西船橋や中野でマーク付き列車が並ぶシーンも見られた。
* [[2006年]](平成18年)4月 - 5月には、東葉高速鉄道との相互直通運転10周年を記念して、第36編成に円形のヘッドマークが付けられた。05N系と東葉高速2000系の絵が書かれたもので2000系と共通のヘッドマークであった。
== 編成表 ==
{|style="text-align:left; font-size:90%;"
|-
|style="vertical-align:top;"|
; 凡例
* 車内設備
** [椅]…車椅子スペース設置車
** [フ]…フリースペース設置車(13次車のみ)
* 装備機器
** 制…制御装置
** 電…補助電源装置
** CP…空気圧縮機
** 誘…誘導無線装置
** ◇…菱形パンタグラフ
** <・>…シングルアームパンタグラフ
|style="vertical-align:top;"|
; 備考
* 左側が西船橋方、右側が中野方
* 車両の形式は、車種構成に関わらず、全て[[西船橋駅|西船橋]]方から05-100形 ─ 05-200形 ─ … ─ 05-900形 ─ 05-000形となっている。
* '''▲'''の車両では、西船橋側のパンタグラフは現在使用していない。
* 日付は書類上のものであるため、実質的な車両自体の完成日ではない。
* 特記のない数値は鉄道ピクトリアル759号P.246 - P.248による。<!--←座席定員は一部間違っている-->
* 座席定員は[[#製造次ごとの仕様の違い|仕様一覧表]]を参照。
* 号車番号は05-100形が1号車、05-200形が2号車、…、05-900形が9号車、05-000形が10号車となる。
|}
{{-}}
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:75%;"
|-
|colspan="2" style="background-color:#ccc; width:10em"|
|colspan="10" style="background-color:#eee;"|{{TrainDirection| [[中央・総武緩行線|JR線]][[津田沼駅|津田沼]]・[[東葉高速鉄道]][[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]・[[西船橋駅|西船橋]] | [[中野駅 (東京都)|中野]]・[[中央・総武緩行線|JR線]][[三鷹駅|三鷹]] }}
|colspan="3" style="background-color:#ccc;"|
|-
|colspan="15" style="background-color:#00BFFF;"|
|-style="background-color:#adf;"
!colspan="2" style="background-color:#eee;"|1次車-4次車
|rowspan="3" style="width:5.5em;"|<br/>'''05-100形'''<br/>(CT)
|rowspan="3" style="width:6.5em;"|◇ ◇<br/>'''05-200形'''<br/>(M)
|rowspan="3" style="width:5.5em;"|<br/>'''05-300形'''<br/>(M)
|rowspan="3" style="width:5.5em;"|<br/>'''05-400形'''<br/>(Tc)
|rowspan="3" style="width:5.5em;"|◇<br/>'''05-500形'''<br/>(Mc)
|rowspan="3" style="width:5.5em;"|<br/>'''05-600形'''<br/>(T)
|rowspan="3" style="width:5.5em;"|<br/>'''05-700形'''<br/>(T)
|rowspan="3" style="width:6.5em;"|◇ ◇<br/>'''05-800形'''<br/>(M)
|rowspan="3" style="width:6.5em;"|<br/>'''05-900形'''<br/>(M)
|rowspan="3" style="width:5.5em;"|<br/>'''05-000形'''<br/>(CT)
!rowspan="6"|車籍編入日
!rowspan="6"|車両製造所
!rowspan="6"|備考
|-
|colspan="2"|第01 - 13編成
|-
|主電動機出力<br/>160 kW
|5M5T
|-
!colspan="2"|機器配置
|||制||電,CP||誘||制,CP||||||制||電,CP||
|-
!colspan="2"|自重
|25.4||33.4||33.5||23.3||33.7||23.8||23.1||33.4||33.5||25.4
|-style="border-bottom:solid 3px #999;"
!colspan="2"|定員
|142||154||154||154||154||154||154||154||154||142
|-
!style="background-color:#9ff;" rowspan="13"|車両番号
!style="background-color:#cff;" rowspan="3"|1次車
|05-101||05-201||05-301||05-401||05-501||05-601||05-701||05-801||05-901||05-001||1988年10月21日||川崎重工||
|-
|05-102||05-202||05-302||05-402||05-502||05-602||05-702||05-802||05-902||05-002||1988年11月7日||川崎重工||
|-
|05-103||05-203||05-303||05-403||05-503||05-603||05-703||05-803||05-903||05-003||1988年12月1日||日本車輌||制御装置が日立製
|-
!style="background-color:#cff;" rowspan="3"|2次車
|05-104||<small>[椅]</small> 05-204||05-304||05-404||05-504||05-604||05-704||05-804||<small>[椅]</small> 05-904||05-004||1989年6月8日||川崎重工||前面遮光シート未設置
|-
|05-105||<small>[椅]</small> 05-205||05-305||05-405||05-505||05-605||05-705||05-805||<small>[椅]</small> 05-905||05-005||1989年6月21日||川崎重工||
|-
|05-106||<small>[椅]</small> 05-203||05-306||05-406||05-506||05-606||05-706||05-806||<small>[椅]</small> 05-906||05-006||1989年6月28日||川崎重工||
|-
!style="background-color:#cff;" rowspan="3"|3次車
|05-107||05-207||05-307||05-407||05-507||05-607||05-707||05-807||05-907||05-007||1990年6月28日||川崎重工||
|-
|05-108||05-208||05-308||05-408||05-508||05-608||05-708||05-808||05-908||05-008||1990年6月1日||川崎重工||
|-
|05-109||05-209||05-309||05-409||05-509||05-609||05-709||05-809||05-909||05-009||1990年6月13日||川崎重工||
|-
!style="background-color:#cff;" rowspan="4"|4次車
|05-110||05-210||05-310||05-410||05-510||05-610||05-710||05-810||05-910||05-010||1991年5月15日||川崎重工||
|-
|05-111||05-211||05-311||05-411||05-511||05-611||05-711||05-811||05-911||05-011||1991年5月25日||川崎重工||
|-
|05-112||05-212||05-312||05-412||05-512||05-612||05-712||05-812||05-912||05-012||1991年6月7日||川崎重工||
|-
|05-113||05-213||05-313||05-413||05-513||05-613||05-713||05-813||05-913||05-013||1991年6月19日||川崎重工||
|-style="border-top:solid 3px #999;"
!style="background-color:#ddd;" colspan="2"|備考
|colspan="10" style="text-align:left;"|3-8号車の定員は、5次車(ワイドドア車)と共通
|colspan="3" style="background-color:#ccc;"|
<!--*第4 - 6編成の2・9号車は、車椅子スペースの分定員が異なると思われる-->
|-
|colspan="15" style="background-color:#00BFFF;"|
|-style="background-color:#adf;"
!colspan="2"|第14編成
|rowspan="3"|<br/>'''05-100形'''<br/>(CT)
|rowspan="3"|◇ ◇<br/>'''05-200形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-300形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-400形'''<br/>(Tc)
|rowspan="3"|<br/>'''05-500形'''<br/>(Tc)
|rowspan="3"|<br/>'''05-600形'''<br/>(T)
|rowspan="3"|<br/>'''05-700形'''<br/>(T)
|rowspan="3"|◇ ◇<br/>'''05-800形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-900形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-000形'''<br/>(CT)
!rowspan="6"|車籍編入日
!rowspan="6"|車両製造所
!rowspan="6"|備考
|-
|colspan="2"|ワイドドア試作車<br/>(4次車グループ)
|-
|主電動機出力<br/>200 kW
|4M6T
|-
!style="background-color:#eee;" colspan="2"|機器配置
|||制||電,CP||誘||制,CP||||||制||電,CP||
|-
!colspan="2"|自重
|24.8||33.8||31.6||23.0||24.0||23.4||22.7||33.8||31.6||24.8
|-style="border-bottom:solid 3px #999;"
!colspan="2"|定員
|143||154||154||154||154||154||154||154||154||143
|-
!style="background-color:#9ff" rowspan="1"|車両番号
!style="background-color:#cff" rowspan="1"|4次車
|05-114||05-214||05-314||05-414||05-514||05-614||05-714||05-814||05-914||05-014||1991年8月21日||川崎重工||ワイドドア車<br/>GTO素子VVVF制御
|-style="border-top:solid 3px #999;"
!style="background-color:#ddd;" colspan="2"|備考
|colspan="10" style="text-align:left;"|この編成表はB修工事施工前のもの。B修工事施工後は一部車両が組み替えられている。<br/>B修工事施工後の編成表は下表を参照。
|colspan="3" style="background-color:#ccc;"|
|-
| colspan="15" style="background-color:#00BFFF;"|
|-style="background-color:#adf;"
!colspan="2" style="background-color:#eee;"|5次車
|rowspan="3"|<br/>'''05-100形'''<br/>(CT)
|rowspan="3"|◇ ◇<br/>'''05-200形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-300形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-400形'''<br/>(Tc)
|rowspan="3"|◇<br/>'''05-500形'''<br/>(Mc)
|rowspan="3"|<br/>'''05-600形'''<br/>(T)
|rowspan="3"|<br/>'''05-700形'''<br/>(T)
|rowspan="3"|◇ ◇<br/>'''05-800形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-900形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-000形'''<br/>(CT)
!rowspan="6"|車籍編入日
!rowspan="6"|車両製造所
!rowspan="6"|備考
|-
|colspan="2"|第15 - 18編成<br/>ワイドドア編成
|-
|主電動機出力<br/>160 kW
|5M5T
|-
!colspan="2"|機器配置
|||制||電,CP||誘||制,CP||||||制||電,CP||
|-
!colspan="2"|自重
|26.4||34.0||33.3||23.5||33.6||24.1||23.3||34.0||33.3||26.4
|-style="border-bottom:solid 3px #999;"
!colspan="2"|定員
|143||155||154||154||154||154||154||154||155||143
|-
!style="background-color:#9ff" rowspan="4"|車両番号
!style="background-color:#cff" rowspan="4"|5次車
|05-115||<small>[椅]</small> 05-215||05-315||05-415||05-515||05-615||05-715||05-815||<small>[椅]</small> 05-915||05-015||1992年4月11日||川崎重工||rowspan="4"|ワイドドア車
|-
|05-116||<small>[椅]</small> 05-216||05-316||05-416||05-516||05-616||05-716||05-816||<small>[椅]</small> 05-916||05-016||1992年4月26日||川崎重工
|-
|05-117||<small>[椅]</small> 05-217||05-317||05-417||05-517||05-617||05-717||05-817||<small>[椅]</small> 05-917||05-017||1992年5月16日||川崎重工
|-
|05-118||<small>[椅]</small> 05-218||05-318||05-418||05-518||05-618||05-718||05-818||<small>[椅]</small> 05-918||05-018||1992年5月28日||川崎重工
|-style="border-top:solid 3px #999;"
!style="background-color:#ddd;" colspan="2"|備考
|colspan="10" style="text-align:left;"|3 - 8号車の定員は、1 - 4次車(第01 - 13編成)と共通<br />この編成表はB修工事施工前のもの。B修工事施工後は一部車両が組み替えられている。<br/>B修工事施工後の編成表は下表を参照。
|colspan="3" style="background-color:#ccc;"|
<!--*第4 - 6編成の2・9号車は、車椅子スペースの分定員が異なると思われる-->
|-
|colspan="15" style="background-color:#00BFFF;"|
|-style="background-color:#adf;"
!colspan="2"|6次車-7次車
|rowspan="3"|<br/>'''05-100形'''<br/>(CT)
|rowspan="3"| ◇<br/>'''05-200形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-300形'''<br/>(T)
|rowspan="3"| ◇<br/>'''05-400形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-500形'''<br/>(Tc)
|rowspan="3"|<br/>'''05-600形'''<br/>(Tc)
|rowspan="3"| ◇<br/>'''05-700形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-800形'''<br/>(T)
|rowspan="3"| ◇<br/>'''05-900形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-000形'''<br/>(CT)
!rowspan="6"|車籍編入日
!rowspan="6"|車両製造所
!rowspan="6"|備考
|-
|colspan="2"|第19 - 24編成
|-
|主電動機出力<br/>205 kW
|4M6T
|-
!colspan="2"|機器配置
|||制,CP||誘||制||電||電||制,CP||||制,CP||
|-
!colspan="2"|自重
|25.0||31.9||21.5||30.9||24.1||23.9||31.5||21.8||31.9||25.0
|-style="border-bottom:solid 3px #999;"
!colspan="2"|定員
|141||153||152||152||152||152||152||152||153||141
|-
!style="background-color:#9ff" rowspan="6"|車両番号
!style="background-color:#cff" rowspan="3"|6次車
|05-119||<small>[椅]</small> 05-219||05-319||05-419||05-519||05-619||05-719||05-819||<small>[椅]</small> 05-919||05-019||1993年6月20日||日本車輌||冷房更新車
|-
|05-120||<small>[椅]</small> 05-220||05-320||05-420||05-520||05-620||05-720||05-820||<small>[椅]</small> 05-920||05-020||1993年6月27日||日本車輌||冷房更新車
|-
|05-121||<small>[椅]</small> 05-221||05-321||05-421||05-521||05-621||05-721||05-821||<small>[椅]</small> 05-921||05-021||1993年7月5日||日本車輌||冷房更新車
|-
!style="background-color:#cff" rowspan="3"|7次車
|05-122||<small>[椅]</small> 05-222||05-322||05-422||05-522||05-622||05-722||05-822||<small>[椅]</small> 05-922||05-022||1994年4月21日||近畿車輛||冷房更新車
|-
|05-123||<small>[椅]</small> 05-223||05-323||05-423||05-523||05-623||05-723||05-823||<small>[椅]</small> 05-923||05-023||1994年5月4日||近畿車輛||冷房更新車
|-
|05-124||<small>[椅]</small> 05-224||05-324||05-424||05-524||05-624||05-724||05-824||<small>[椅]</small> 05-924||05-024||1994年5月18日||近畿車輛||冷房更新車<br/>アルミリサイクルカー
|-
|colspan="15" style="background-color:#00BFFF;"|
|-
!colspan="15" style="background-color:#fcf"|これ以降の編成は外観や室内を大幅に変更した車両(05N系)である。
|-style="background-color:#adf;"
! colspan="2" style="background-color:#eee;"|8次車-10次車
|rowspan="3"|<br/>'''05-100形'''<br/>(CT)
|rowspan="3"| ◇<br/>'''05-200形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-300形'''<br/>(T)
|rowspan="3"| ◇<br/>'''05-400形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-500形'''<br/>(Tc)
|rowspan="3"|<br/>'''05-600形'''<br/>(Tc)
|rowspan="3"| ◇<br/>'''05-700形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-800形'''<br/>(T)
|rowspan="3"| ◇<br/>'''05-900形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-000形'''<br/>(CT)
!rowspan="6"|車籍編入日
!rowspan="6"|車両製造所
!rowspan="6"|備考
|-
|colspan="2"|第25 - 33編成
|-
|主電動機出力<br/>205 kW
|4M6T
|-
!style="background-color:#eee;" colspan="2"|機器配置
|||制,CP||誘||制||電||電||制,CP||||制,CP||
|-
!style="background-color:#eee;" colspan="2"|自重
|25.2||31.4||22.2||30.3||24.2||24.2||30.7||21.9||31.4||25.2
|-style="border-bottom:solid 3px #999;"
!style="background-color:#eee;" colspan="2"|定員
|141||153||152||152||152||152||152||152||153||141
|-
!style="background-color:#9ff" rowspan="9"|車両番号
!style="background-color:#cff" rowspan="3"|8次車
|05-125||<small>[椅]</small> 05-225||05-325||05-425||05-525||05-625||05-725||05-825||<small>[椅]</small> 05-925||05-025||1999年11月11日||川崎重工||
|-
|05-126||<small>[椅]</small> 05-226||05-326||05-426||05-526||05-626||05-726||05-826||<small>[椅]</small> 05-926||05-026||1999年11月18日||川崎重工||
|-
|05-127||<small>[椅]</small> 05-227||05-327||05-427||05-527||05-627||05-727||05-827||<small>[椅]</small> 05-927||05-027||1999年11月23日||川崎重工||
|-
!style="background-color:#cff" rowspan="3"|9次車
|05-128||<small>[椅]</small> 05-228||05-328||05-428||05-528||05-628||05-728||05-828||<small>[椅]</small> 05-928||05-028||2000年12月21日||近畿車輛||
|-
|05-129||<small>[椅]</small> 05-229||05-329||05-429||05-529||05-629||05-729||05-829||<small>[椅]</small> 05-929||05-029||2001年1月20日||近畿車輛||
|-
|05-130||<small>[椅]</small> 05-230||05-330||05-430||05-530||05-630||05-730||05-830||<small>[椅]</small> 05-930||05-030||2001年1月31日||近畿車輛||
|-
!style="background-color:#cff" rowspan="3"|10次車
|05-131||<small>[椅]</small> 05-231||05-331||05-431||05-531||05-631||05-731||05-831||<small>[椅]</small> 05-931||05-031||2002年3月8日||東急車輛||
|-
|05-132||<small>[椅]</small> 05-232||05-332||05-432||05-532||05-632||05-732||05-832||<small>[椅]</small> 05-932||05-032||2002年3月11日||東急車輛||
|-
|05-133||<small>[椅]</small> 05-233||05-333||05-433||05-533||05-633||05-733||05-833||<small>[椅]</small> 05-933||05-033||2002年3月22日||東急車輛||
|-
|colspan="15" style="background-color:#00BFFF;"|
|-style="background-color:#adf;"
!colspan="2" style="background-color:#eee;"|11次車-12次車
|rowspan="3"|<br/>'''05-100形'''<br/>(CT)
|rowspan="3"|< ><br/>'''05-200形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-300形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-400形'''<br/>(T)
|rowspan="3"| ><br/>'''05-500形'''<br/>(Mc)
|rowspan="3"|<br/>'''05-600形'''<br/>(Tc)
|rowspan="3"|<br/>'''05-700形'''<br/>(T)
|rowspan="3"|< ><br/>'''05-800形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-900形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-000形'''<br/>(CT)
!rowspan="6"|車籍編入日
!rowspan="6"|車両製造所
!rowspan="6"|備考
|-
|colspan="2"|第34 - 39編成
|-
|主電動機出力<br/>165 kW
|5M5T
|-
!style="background-color:#eee;" colspan="2"|機器配置
|||制||電,CP||誘||制,CP||||||制||電,CP||
|-
!style="background-color:#eee;" colspan="2"|自重
|25.7||30.9||31.9||22.5||31.2||22.5||22.7||30.9||31.9||25.7
|-style="border-bottom:solid 3px #999;"
!style="background-color:#eee;" colspan="2"|定員
|143||155||154||154||154||154||154||154||155||143
|-
!style="background-color:#9ff;" rowspan="6"|車両番号
!style="background-color:#cff;" rowspan="3"|11次車
|05-134||<small>▲[椅]</small> 05-234||05-334||05-434||05-534||05-634||05-734||<small>▲[椅]</small> 05-834||<small>[椅]</small> 05-934||05-034||2003年2月18日||川崎重工||
|-
|05-135||<small>▲[椅]</small> 05-235||05-335<br/><small>(※1)</small>||05-435||05-535||05-635||05-735||<small>▲[椅]</small> 05-835||<small>[椅]</small> 05-935||05-035||2003年3月3日||川崎重工||<br/>※1 制御装置が東洋電機製
|-
|05-136||<small>▲[椅]</small> 05-236||05-336||05-436||05-536||05-636||05-736||<small>▲[椅]</small> 05-836||<small>[椅]</small> 05-936||05-036||2003年2月18日||川崎重工||
|-
!style="background-color:#cff" rowspan="3"|12次車
|05-137||<small>▲[椅]</small> 05-237||05-337||05-437||05-537||05-637||05-737||<small>▲[椅]</small> 05-837||<small>[椅]</small> 05-937||05-037||2003年11月5日||川崎重工||
|-
|05-138||<small>▲[椅]</small> 05-238||05-338||05-438||05-538||05-638||05-738||<small>▲[椅]</small> 05-838||<small>[椅]</small> 05-938||05-038||2003年11月11日||川崎重工||
|-
|05-139||<small>▲[椅]</small> 05-239||05-339||05-439||05-539||05-639||05-739||<small>▲[椅]</small> 05-839||<small>[椅]</small> 05-939||05-039||2003年12月6日||川崎重工||
|-
|colspan="15" style="background-color:#00BFFF;"|
|-style="background-color:#adf;"
!colspan="2"|13次車
|rowspan="3"|<br/>'''05-100形'''<br/>(CT)
|rowspan="3"| ><br/>'''05-200形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-300形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-400形'''<br/>(T)
|rowspan="3"| ><br/>'''05-500形'''<br/>(Mc)
|rowspan="3"|<br/>'''05-600形'''<br/>(Tc)
|rowspan="3"|<br/>'''05-700形'''<br/>(T)
|rowspan="3"| ><br/>'''05-800形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-900形'''<br/>(M)
|rowspan="3"|<br/>'''05-000形'''<br/>(CT)
!rowspan="6"|車籍編入日
!rowspan="6"|車両製造所
!rowspan="6"|備考
|-
|colspan="2"|第40 - 43編成<br/>日立製作所A-train構体
|-
|主電動機出力<br/>165 kW
|5M5T
|-
!style="background-color:#eee;" colspan="2"|機器配置
|||制||電,CP||誘||制,CP||||||制||電,CP||
|-
!style="background-color:#eee;" colspan="2"|自重
|24.5||30.3||32.0||22.2||30.3||22.3||22.0||30.5||32.0||24.5
|-style="border-bottom:solid 3px #999;"
!style="background-color:#eee;" colspan="2"|定員
|143||154||154||154||154||154||154||154||154||143
|-
!style="background-color:#9ff" rowspan="4"|車両番号
!style="background-color:#cff" rowspan="4"|13次車
|05-140||<small>[椅]</small> 05-240||<small>[フ]</small> 05-340||<small>[フ]</small> 05-440||<small>[フ]</small> 05-540||<small>[フ]</small> 05-640||<small>[フ]</small> 05-740||<small>[フ]</small> 05-840||<small>[椅]</small> 05-940||05-040||2004年11月21日||日立製作所||5000系57Fの置き換え
|-
|05-141||<small>[椅]</small> 05-241||<small>[フ]</small> 05-341||<small>[フ]</small> 05-441||<small>[フ]</small> 05-541||<small>[フ]</small> 05-641||<small>[フ]</small> 05-741||<small>[フ]</small> 05-841||<small>[椅]</small> 05-941||05-041||2004年11月24日||日立製作所||5000系58Fの置き換え
|-
|05-142||<small>[椅]</small> 05-242||<small>[フ]</small> 05-342||<small>[フ]</small> 05-442||<small>[フ]</small> 05-542||<small>[フ]</small> 05-642||<small>[フ]</small> 05-742||<small>[フ]</small> 05-842||<small>[椅]</small> 05-942||05-042||2005年1月4日||日立製作所||5000系63Fの置き換え
|-
|05-143||<small>[椅]</small> 05-243||<small>[フ]</small> 05-343||<small>[フ]</small> 05-443||<small>[フ]</small> 05-543||<small>[フ]</small> 05-643||<small>[フ]</small> 05-743||<small>[フ]</small> 05-843||<small>[椅]</small> 05-943||05-043||2005年3月27日||日立製作所||5000系97Fの置き換え
|-style="border-top:solid 3px #999;"
!style="background-color:#ddd;" colspan="2"|備考
|colspan="10" style="text-align:left"|3-8号車にフリースペースを設置
|colspan="3" style="background-color:#ccc"|
|-
|colspan="15" style="background-color:#00BFFF;"|
|}
== 廃車・譲渡 ==
東京地下鉄では[[2009年]](平成21年)度末から[[2011年]](平成23年)度にかけて[[東京メトロ15000系電車|15000系]]を導入し、05系の1 - 4次車を置き換える予定と発表した。まず、2010年に第02・07 - 11編成が運用を終了し、最後まで残った第01・03 - 06・12・13編成も2011年夏で運用終了となった。このうち01・03・06・13編成の4本については上述の改造工事を実施し、千代田線北綾瀬支線用へと転用された<ref name="Fan2012-3">交友社「鉄道ファン」2012年3月号特集「日本の地下鉄2012」</ref>。
第11編成は2010年5月に両先頭車2両(05-111・05-011)と05-511の3両が深川検車区行徳分室から搬出され<ref>[http://railf.jp/news/2010/05/28/184300.html 東京メトロ05系が陸送される] {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2010/05/28/184300.html |date=20100604013405 }} - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2010年5月28日</ref>、途中[[東京港]]から[[神戸港]]まで船舶輸送された後、[[近畿車輛]]へ陸送で搬入された<ref>[http://railf.jp/news/2010/06/02/154300.html 東京メトロ05系3両が近畿車輌へ] {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2010/06/02/154300.html |date=20100605041124 }} - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2010年6月2日</ref>。
=== インドネシアの05系 ===
第02・04・05・07 - 10・12編成については2010-2012年中にインドネシアの[[KRLコミューターライン|PT Kereta Commuter Indonesia]]へと譲渡され<ref name="Rfan2012-8">交友社「鉄道ファン」2012年8月号付録「大手私鉄車両ファイル2012」</ref>、4M4Tの8両で運用されている<ref>エリエイ「とれいん誌」2011年5月号記事「インドネシアへ渡ったメトロ車輛」</ref>。なお第07編成は2014年末に事故で廃車された。
<gallery>
File:05-109F Jabodetabek KCJ 05 Series EMU.jpg|KCI譲渡後の05系(第09編成)
File:Jabodetabek 05 Series - 05 110F EMU.jpg|第10編成
File:05-105 Cimonyong Parungpanjang.jpg|第5編成
File:Tokyo Metro 05-110F New Livery.jpg|灰赤白塗装に変更された後の05系(第10編成)
File:05 Series DP.jpg|デポックKRL車両基地に留置されている第4編成
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 交通新聞社「営団地下鉄車両写真集 - 4Sを支えてきた車両たち - 」
* 帝都高速度交通営団「60年のあゆみ 車両2000両突破記念」
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hanzomon.html/|date=1999-03-31|title=東京地下鉄道半蔵門線建設史(渋谷〜水天宮前)|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Hanzomon-Con1}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hanzomon_oshiage.html/|title=東京地下鉄道半蔵門建設史(水天宮前〜押上)|date=2004-03-05|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Hanzomon-Con2}}(本文中の08系車両の解説記事に05N系のことが一部書かれている。)
* 交友社「[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]」
** 1988年12月号 新車ガイド:東西線用05系完成
** 1991年 9月号 特集:営団地下鉄50年/6000系電車20年
** 1991年12月号 CAR INFO:営団05系第14編成ワイド扉車
** 1993年 9月号 CAR INFO:営団NEW05系VVVF車
** 1994年 8月号 CAR INFO:営団05系リサイクルカー
** 1996年10月号 特集:カラフル営団地下鉄2401両
** 2000年 2月号 CAR INFO:営団地下鉄05系8次車
** 2004年 9月号 特集:東京メトロ
** 2005年 2月号 CAR INFO:東京地下鉄05系13次車
** 2006年 3月号 大手私鉄の多数派系列ガイド13「東京地下鉄05系」
* [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]「[[鉄道ピクトリアル]]」
** 1989年 1月号:営団地下鉄東西線 05系
** 2000年3月号:帝都高速度交通営団05系増備車(8次車)(生方伸幸 帝都高速度交通営団車両部設計課)
** 1995年 7月臨時増刊号 帝都高速度交通営団特集
** 2005年 3月臨時増刊号 東京地下鉄特集
** 新車年鑑・鉄道車両年鑑 各年版
* [[日本地下鉄協会]]「SUBWAY」
** 2000年3月号 車両紹介「営団地下鉄 東西線05系8次車概要」(帝都高速度交通営団 車両部設計課 鮫島 博 著)
** 2004年11月号 車両紹介「東京地下鉄・東西線05系13次車」(東京地下鉄 (株) 鉄道本部 車両部 設計課 村田 博 著)
* 日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」
** 2000年3月号研究と開発「東西線05系8次車の概要」(帝都高速度交通営団 車両部 鮫島 博)
;大規模改修車
* [[交友社]][[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]」2013年2月号CAR INFO「東京地下鉄05系B修施行車」(資料提供・取材協力:東京地下鉄)
*[[交通新聞社]]「[[鉄道ダイヤ情報]]」2013年1月号DJNEWS FILE「東京地下鉄 東西線05系14編成がリニューアル」
*日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」
** 2013年1月号研究と開発「東西線05系車両 大規模改修の概要」(東京地下鉄(株)鉄道本部車両部設計課 石川 一)
** 2014年5月号研究と開発「千代田線転籍車改造工事の概要」(東京地下鉄(株)鉄道本部 車両部設計課 吉川 裕司)
== 関連項目 ==
{{commonscat|Tokyo Metro 05 series}}
*[[東葉高速鉄道2000系電車]] - ほぼ同一仕様。
{{-}}
== 外部リンク ==
* [http://www.tokyometro.jp/corporate/data/sharyo/rosen_touzai05.html 線別車両紹介(東京メトロの車両 > 東西線05系)]<br/>車両諸元表は第19 - 24編成のものであるためそれ以外の編成では一部諸元が異なる。
* [http://www.tokyometro.jp/corporate/data/sharyo/rosen_touzai05new.html 線別車両紹介(東京メトロの車両 > 東西線05系new)]<br/>第25 - 33編成についての紹介が中心のため、第34 - 43編成は一部異なる部分がある。
* [https://web.archive.org/web/20160304052744/http://www.tokyometro.jp/news/2004/2004-m20_1.html 第40 - 43編成諸元表]([[インターネットアーカイブ]])
* [http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/products/sh/05.htm 東京メトロ05系] - 近畿車輛
* [https://web.archive.org/web/20170810131829/http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2012/12/post_355.html 編集長敬白:東京地下鉄05系14編成が更新。 - 鉄道ホビダス]
* [https://web.archive.org/web/20200704093056/http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2014/06/post_458.html 編集長敬白:東京メトロ 千代田線05系更新車登場。 - 鉄道ホビダス]
{{東京地下鉄の車両}}
{{DEFAULTSORT:えいたん05けい}}
[[Category:東京地下鉄の電車|05けい]]
[[Category:インドネシアの電車]]
[[Category:1988年製の鉄道車両]]
[[Category:日本車輌製造製の電車]]
[[Category:川崎重工業製の電車]]
[[Category:近畿車輛製の電車]]
[[Category:日立製作所製の電車]]
[[Category:東急車輛製造製の電車]]
[[Category:鉄道車両関連]]
|
2003-09-20T02:57:35Z
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2023-12-13T00:44:02Z
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17,508 |
営団01系電車
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営団01系電車(えいだん01けいでんしゃ)は、帝都高速度交通営団(営団)が保有していた銀座線用の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
半蔵門線用の8000系までの実績にさらに新しい技術を導入し、各種の改良・検討を実施した上で1983年(昭和58年)に試作車1編成が落成し、翌1984年(昭和59年)から量産が開始された。1997年(平成9年)までに6両編成38本(228両)が製造された。
1980年代当時、銀座線において運用されている車両には銀座線開業初期の程ない黎明期から使用している車両(1200形・1300形等)が存在し、その後に投入した2000系等も同様なデザインから「銀座線は古い」というイメージが一般乗客に多くあった。このため、従来の銀座線車両のイメージを大きく変えるデザインを採用し、同線のイメージアップを図ることを目指した。本系列のデザインコンセプトは「機能性」・「明るさ」・「シックさ」としている。
車両番号は従来のX000系列をやめ、新しく「0x系列」の車両番号表記を採用した。いわゆる「0x系」シリーズの最初の系列であり、以降営団時代に設計された他路線の旧型車の置換え用車両および列車増発用増備車には一部例外を除いて「0x系」の系列名が与えられている。走行性能は従来の銀座線車両を大幅に上回り、高速性能はかつて日比谷線に在籍していた3000系に匹敵する。
1985年(昭和60年)の鉄道友の会ローレル賞、1989年(平成元年)鉄道友の会グローリア賞受賞。
車体は全長16 m、車体幅は2,550 mmの3扉車である。千代田線用の6000系以降の車両と同じくアルミニウム合金製の無塗装車体であるが、車体構造は従来の骨組構造からアルミ合金の大形押出形材や中空形材(床板、側梁、軒桁)を多用し、これを連続ミグ溶接で組み立てる新しい工法を採用して品質向上とコスト低減を図っている。床板は横梁を省略しており、中空形材に一体成形されたカーテンレール状の機器のつり溝があり、特殊ボルトを介して床下機器を吊り下げている。
外観では車両限界を有効活用するために屋根肩部をトンネル形状に合わせて直線的にカットし、併せて先頭車前面の角も直線状にカットして、全体的に直線性を強調したデザインを採用した。
側窓の下に銀座線のラインカラーであるオレンジ色の帯と、アクセントとして帯上部に黒・白の細帯が入っている。検討段階では側窓の幅いっぱいにオレンジ色のマーキングフィルムを貼る案もあったが、軽快さに欠けるということで採用されなかった。
デザインが決まった頃には、18個の星(当時の銀座線の駅数から)が「G」を囲むシンボルマークを運転室後部側面に付けるという案もあった。
前面形状は左右非対称で非常口貫通式(スイング式プラグドア)である。第三軌条方式のため、線路に降りると感電の危険性があることから非常階段・梯子は設置していなかったが、2008年ごろより非常用梯子が運転室内に設置されるようになった。6000系から8000系にある貫通扉の階段は設置されていない。前面ガラスは青みかかった熱線吸収ガラスを使用して3分割されているが、窓間の柱を黒く塗装し、一体感を持たせている。窓上部には行先表示器・運行番号表示器と車両番号表記を配している。行先表示器は前面のみで、側面には設置していない。
銀座線は他社線との直通運転を行わないため、営団時代は車外にシンボルマーク(団章、Sマーク)の表示は妻面の形式・車両重量表記部にしかなかった(02系は側面のみ)が、東京地下鉄発足時にはシンボルマークの「ハートM」が正面と側面に貼り付けされた。
配色はベージュ系の模様入りで、天井は白色系の「セシリア」、側壁にベージュ系の「ストーンワークアイボリー」、袖仕切にはベージュに茶色で斜めのストライプが入った「バイヤクロス」と呼ばれる化粧板を使用した。
座席は6次車まで共通で1人分の掛け幅が440 mmのロングシートである。床敷物は中央をベージュ・外側を茶色とした2色である。これは床を色分けすることで座客の足を投げ出すことを防止するためのフットラインとした。側窓はすべて開閉可能な一段下降窓である。なお、営業区間の地上部は渋谷駅付近のみであることから、巻き上げカーテンは設置していない。
客用ドアは客室側も化粧板仕上げである。ドア窓は従来車両では面積の小さいガラスが使用されていたが、本系列より下方向に大きいガラスを採用した。ドアエンジンは低騒音で、従来よりも保守が容易な鴨居取り付け形を採用した。連結面は8000系同様各車端に貫通扉を設置し、妻窓も設置する。
各客用ドアの室内側上部には路線図式車内案内表示器が設置され、あわせてドアチャイムも鳴動する。このような設備は当時は珍しく、乗客にも好評であった。量産車からは案内表示器の両端には次の駅のドアが開く方向を予告点灯するランプが設置された(表示器両端の緑色のランプが点灯、途中から「このドアが開きます」のランプ形に変更)。試作車はこの案内表示器が量産車と仕様が異なっていたが、溜池山王駅開業準備時に量産車と同じものに更新された。また駅ナンバリングを導入した際に、駅名表記部には駅番号を表記したステッカーが貼り付けされた。
荷棚にはステンレス線を格子状にスポット溶接した新しいデザインのものを採用した。車内のつり革は三角形であり、当初は座席前の線路方向のみ設置していた。その後、2次車からは枕木方向へつり革が増設された。さらにドア上部の線路方向へは後年に全車が増設された。
このほかに車内放送装置には自動音量調整機能を設置し、乗客へ聞き取りやすいものとしたほか、路線図式車内案内表示器、ドアチャイムや車外スピーカーなどサービス向上のための新しい機器が多く採用された。
2007年(平成19年)夏頃から非常通報装置と非常コックの案内表示・車内号車表示と消火器表示のシールが10000系に準じた蛍光塗料の塗られたものに変更された。
無電区間走行時の室内灯の照度についても、先代の1500N(N2を含む)形より大きく改善され、照度は少々落ちるものの問題ないレベルにまで改善された。なお、無電区間通過時の室内灯照度の低下が完全に無くなったのは後継の1000系からである。
乗務員室内装は緑色、運転台計器盤は紺色のデスクタイプである。
主幹制御器は前後にスライドする横軸レバーのツーハンドル式である。計器盤中央にはアナログ計器式の速度計(90 km/h表示)が、左端には故障表示器がある。
乗務員室と客室の仕切りには前面窓と同じような比率で窓が3枚あり、遮光幕は全ての仕切り窓に設置してあるが、原則として大窓と乗務員室仕切扉窓が使用される。なお、仕切扉窓は開閉可能な窓で、ガラスにはオレンジ色の着色ガラスを使用、客室から見て1番右側の窓は透明ガラスを使用する。仕切扉にオレンジ色の着色ガラスを使用したのは、運転士が遮光幕を使用しなくても運転に支障がないようにするためや車掌が案内放送の際に、乗客の視線を気にせずに出来ることを考慮したものである。
01系の導入当初、銀座線では駅冷房とトンネル冷房を実施しており、また、車両限界が小さく車両の冷房化は困難と考えられていたため、第23編成までは非冷房車で落成した。
その後、1990年(平成2年)に三菱電機において厚さ240 mmと薄形の冷房装置が開発された。冷凍能力は14,000 kcal/h(16.2 kW)であり、これを屋根に埋め込む形で各車2基搭載した(集約分散式・三菱電機製CU-766形)。
試作車として1990年(平成2年)8月に第16編成に冷房装置を搭載し、機能確認後に本格採用へ踏み切った。冷房化改造を施工した車両では車外スピーカー部を除き側面上部の通風口を塞いでおり、当初より冷房付きで登場した編成とは明確に区別できる。
冷房未搭載で竣工した車両は就役開始の時点では天井が高く、通風用に外気循環形のファンデリアが各車6台設置されていた。冷房車・冷房改造車では冷房用ダクトと補助送風機のラインデリアの設置で天井が低くなり、さらに車端部は冷房装置本体があるため、この場所は中央部よりもさらに110 mm低くなっている。
試作車及び1次車は暖房装置を搭載せずに落成した。銀座線は渋谷駅付近のごく一部を除き地下を走行するため、冬季でも車内温度の低下がほぼ生じないと判断されたためである。渋谷駅電留線に留置中の車内温度低下を考慮し、2次車以降は暖房装置が搭載されたが、試作車・1次車は冷房装置搭載後も暖房装置の設置は行われなかった。1次車以前の座席下のカバーには、温風の吹き出し口となるスリットが存在しない(#内装の画像も参照のこと)。
走行機器類
2008年(平成20年)時点での座席モケットの表地・床材は経年劣化により、張替えが実施されており、いずれも落成時のものとは異なる。2008年現在の座席モケットは非バケットシート車(第01 - 20・22・23編成)はオリジナルに近い茶色の区分柄モケットに、バケットシート車(第24編成以降)は赤色のプリント柄にそれぞれ変更されている。21編成のみ交換されずにオリジナルのモケットを使用していた。なお、優先席付近の座席は青色であり、この付近のつり革はオレンジ色のものに交換されている。また2010年(平成22年)11月現在、第05・15・17・38編成に転落防止幌が取り付けられている。
編成表
形式番号は、5桁の数字で表される。最初の2桁は系列を表す「01」で、小さく標記される。その後の3桁の数字では、百位は編成内の順位、十位と一位で編成番号を表す。
MT比は3M3Tである。各電動車 (M) に制御装置、制御車 (CT) に15 kVA出力の電動発電機(第37・38編成は40 kVA出力の静止形インバータ (SIV))・空気圧縮機 (CP) ・蓄電池を搭載。また、冷房電源として付随車 (T) には110 kVA出力のSIVを搭載している。付随車01-300形は、将来車両性能向上が必要な場合、電動車化することを考慮していた(冷房化後はSIVを搭載したため、制御装置の取り付けは不可)。
編成は38本すべてが上野検車区に配置されている。最大運用本数は35本であり、3本は予備編成である。運用区間は銀座線全線である。また、本系列の重要部検査・全般検査は丸ノ内線方南分岐線の中野富士見町駅付近にある中野工場において施工されているため、同工場への入出場回送列車が不定期に運行される。
なお、過去にイベント列車などの臨時列車で丸ノ内線(主に荻窪 - 赤坂見附間)を走行する場合があった。しかし、同線各駅へのホームドアの設置後はドア位置の関係から営業列車としての入線は原則不可能となった。過去のイベント列車の実績では元日終夜運転時に運転された「初詣新春らいなー」やその後継である「新春ライナー浅草号」「新春ライナー荻窪号」、隅田川花火大会開催日に運転された「花火ライナー」などがある。
2010年5月2日には映画『仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー』の公開を記念したイベント列車「メトロデンライナー」が上野 - 赤坂見附 - 中野富士見町間で運転され、第2編成が使用された。
2010年度時点での東京メトロでは、工場検査の入場時期となる4年を基準に車両改修時期を定めており、本系列に関しても車両改修時期に達していたものの、ワンマン運転やホームドアの設置や昇圧が検討段階にあった。しかし、銀座線車両は小形であり、これらの対応改造などが困難かつ01系がワンマン運転に対応できない仕様であったこと、さらに01系編成全体の半分以上を占める一次車が車齢30年に迫っていたこともあり、1000系車両の導入に伴い置き換えられることになった。
置き換え車となる1000系は2012年4月11日から1編成が営業運転を開始した。2013年度に入り、第31編成(2013年4月1日付け除籍)を皮切りに本系列の廃車が開始されており、2017年3月10日をもって最後に残った第30編成が営業運転を終了、12日の中野検車区への廃車回送を兼ねた臨時団体列車をもって完全引退した。
廃車された車両のうち第35・36編成は西鉄筑紫工場での改造を経て熊本電気鉄道へ譲渡され、同社の01形となった。
また、複数箇所で車両の保存が行われている。
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"text": "営団01系電車(えいだん01けいでんしゃ)は、帝都高速度交通営団(営団)が保有していた銀座線用の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。",
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{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "半蔵門線用の8000系までの実績にさらに新しい技術を導入し、各種の改良・検討を実施した上で1983年(昭和58年)に試作車1編成が落成し、翌1984年(昭和59年)から量産が開始された。1997年(平成9年)までに6両編成38本(228両)が製造された。",
"title": "概要"
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{
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"tag": "p",
"text": "1980年代当時、銀座線において運用されている車両には銀座線開業初期の程ない黎明期から使用している車両(1200形・1300形等)が存在し、その後に投入した2000系等も同様なデザインから「銀座線は古い」というイメージが一般乗客に多くあった。このため、従来の銀座線車両のイメージを大きく変えるデザインを採用し、同線のイメージアップを図ることを目指した。本系列のデザインコンセプトは「機能性」・「明るさ」・「シックさ」としている。",
"title": "概要"
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"text": "車両番号は従来のX000系列をやめ、新しく「0x系列」の車両番号表記を採用した。いわゆる「0x系」シリーズの最初の系列であり、以降営団時代に設計された他路線の旧型車の置換え用車両および列車増発用増備車には一部例外を除いて「0x系」の系列名が与えられている。走行性能は従来の銀座線車両を大幅に上回り、高速性能はかつて日比谷線に在籍していた3000系に匹敵する。",
"title": "概要"
},
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"text": "1985年(昭和60年)の鉄道友の会ローレル賞、1989年(平成元年)鉄道友の会グローリア賞受賞。",
"title": "概要"
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{
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"tag": "p",
"text": "車体は全長16 m、車体幅は2,550 mmの3扉車である。千代田線用の6000系以降の車両と同じくアルミニウム合金製の無塗装車体であるが、車体構造は従来の骨組構造からアルミ合金の大形押出形材や中空形材(床板、側梁、軒桁)を多用し、これを連続ミグ溶接で組み立てる新しい工法を採用して品質向上とコスト低減を図っている。床板は横梁を省略しており、中空形材に一体成形されたカーテンレール状の機器のつり溝があり、特殊ボルトを介して床下機器を吊り下げている。",
"title": "外観"
},
{
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"tag": "p",
"text": "外観では車両限界を有効活用するために屋根肩部をトンネル形状に合わせて直線的にカットし、併せて先頭車前面の角も直線状にカットして、全体的に直線性を強調したデザインを採用した。",
"title": "外観"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "側窓の下に銀座線のラインカラーであるオレンジ色の帯と、アクセントとして帯上部に黒・白の細帯が入っている。検討段階では側窓の幅いっぱいにオレンジ色のマーキングフィルムを貼る案もあったが、軽快さに欠けるということで採用されなかった。",
"title": "外観"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "デザインが決まった頃には、18個の星(当時の銀座線の駅数から)が「G」を囲むシンボルマークを運転室後部側面に付けるという案もあった。",
"title": "外観"
},
{
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"tag": "p",
"text": "前面形状は左右非対称で非常口貫通式(スイング式プラグドア)である。第三軌条方式のため、線路に降りると感電の危険性があることから非常階段・梯子は設置していなかったが、2008年ごろより非常用梯子が運転室内に設置されるようになった。6000系から8000系にある貫通扉の階段は設置されていない。前面ガラスは青みかかった熱線吸収ガラスを使用して3分割されているが、窓間の柱を黒く塗装し、一体感を持たせている。窓上部には行先表示器・運行番号表示器と車両番号表記を配している。行先表示器は前面のみで、側面には設置していない。",
"title": "外観"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "銀座線は他社線との直通運転を行わないため、営団時代は車外にシンボルマーク(団章、Sマーク)の表示は妻面の形式・車両重量表記部にしかなかった(02系は側面のみ)が、東京地下鉄発足時にはシンボルマークの「ハートM」が正面と側面に貼り付けされた。",
"title": "外観"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "配色はベージュ系の模様入りで、天井は白色系の「セシリア」、側壁にベージュ系の「ストーンワークアイボリー」、袖仕切にはベージュに茶色で斜めのストライプが入った「バイヤクロス」と呼ばれる化粧板を使用した。",
"title": "内装"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "座席は6次車まで共通で1人分の掛け幅が440 mmのロングシートである。床敷物は中央をベージュ・外側を茶色とした2色である。これは床を色分けすることで座客の足を投げ出すことを防止するためのフットラインとした。側窓はすべて開閉可能な一段下降窓である。なお、営業区間の地上部は渋谷駅付近のみであることから、巻き上げカーテンは設置していない。",
"title": "内装"
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{
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"text": "客用ドアは客室側も化粧板仕上げである。ドア窓は従来車両では面積の小さいガラスが使用されていたが、本系列より下方向に大きいガラスを採用した。ドアエンジンは低騒音で、従来よりも保守が容易な鴨居取り付け形を採用した。連結面は8000系同様各車端に貫通扉を設置し、妻窓も設置する。",
"title": "内装"
},
{
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"tag": "p",
"text": "各客用ドアの室内側上部には路線図式車内案内表示器が設置され、あわせてドアチャイムも鳴動する。このような設備は当時は珍しく、乗客にも好評であった。量産車からは案内表示器の両端には次の駅のドアが開く方向を予告点灯するランプが設置された(表示器両端の緑色のランプが点灯、途中から「このドアが開きます」のランプ形に変更)。試作車はこの案内表示器が量産車と仕様が異なっていたが、溜池山王駅開業準備時に量産車と同じものに更新された。また駅ナンバリングを導入した際に、駅名表記部には駅番号を表記したステッカーが貼り付けされた。",
"title": "内装"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "荷棚にはステンレス線を格子状にスポット溶接した新しいデザインのものを採用した。車内のつり革は三角形であり、当初は座席前の線路方向のみ設置していた。その後、2次車からは枕木方向へつり革が増設された。さらにドア上部の線路方向へは後年に全車が増設された。",
"title": "内装"
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{
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"tag": "p",
"text": "このほかに車内放送装置には自動音量調整機能を設置し、乗客へ聞き取りやすいものとしたほか、路線図式車内案内表示器、ドアチャイムや車外スピーカーなどサービス向上のための新しい機器が多く採用された。",
"title": "内装"
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{
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"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)夏頃から非常通報装置と非常コックの案内表示・車内号車表示と消火器表示のシールが10000系に準じた蛍光塗料の塗られたものに変更された。",
"title": "内装"
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{
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"tag": "p",
"text": "無電区間走行時の室内灯の照度についても、先代の1500N(N2を含む)形より大きく改善され、照度は少々落ちるものの問題ないレベルにまで改善された。なお、無電区間通過時の室内灯照度の低下が完全に無くなったのは後継の1000系からである。",
"title": "内装"
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{
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"text": "乗務員室内装は緑色、運転台計器盤は紺色のデスクタイプである。",
"title": "内装"
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{
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"text": "主幹制御器は前後にスライドする横軸レバーのツーハンドル式である。計器盤中央にはアナログ計器式の速度計(90 km/h表示)が、左端には故障表示器がある。",
"title": "内装"
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{
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"text": "乗務員室と客室の仕切りには前面窓と同じような比率で窓が3枚あり、遮光幕は全ての仕切り窓に設置してあるが、原則として大窓と乗務員室仕切扉窓が使用される。なお、仕切扉窓は開閉可能な窓で、ガラスにはオレンジ色の着色ガラスを使用、客室から見て1番右側の窓は透明ガラスを使用する。仕切扉にオレンジ色の着色ガラスを使用したのは、運転士が遮光幕を使用しなくても運転に支障がないようにするためや車掌が案内放送の際に、乗客の視線を気にせずに出来ることを考慮したものである。",
"title": "内装"
},
{
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"text": "01系の導入当初、銀座線では駅冷房とトンネル冷房を実施しており、また、車両限界が小さく車両の冷房化は困難と考えられていたため、第23編成までは非冷房車で落成した。",
"title": "内装"
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{
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"text": "その後、1990年(平成2年)に三菱電機において厚さ240 mmと薄形の冷房装置が開発された。冷凍能力は14,000 kcal/h(16.2 kW)であり、これを屋根に埋め込む形で各車2基搭載した(集約分散式・三菱電機製CU-766形)。",
"title": "内装"
},
{
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"tag": "p",
"text": "試作車として1990年(平成2年)8月に第16編成に冷房装置を搭載し、機能確認後に本格採用へ踏み切った。冷房化改造を施工した車両では車外スピーカー部を除き側面上部の通風口を塞いでおり、当初より冷房付きで登場した編成とは明確に区別できる。",
"title": "内装"
},
{
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"tag": "p",
"text": "冷房未搭載で竣工した車両は就役開始の時点では天井が高く、通風用に外気循環形のファンデリアが各車6台設置されていた。冷房車・冷房改造車では冷房用ダクトと補助送風機のラインデリアの設置で天井が低くなり、さらに車端部は冷房装置本体があるため、この場所は中央部よりもさらに110 mm低くなっている。",
"title": "内装"
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{
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"tag": "p",
"text": "試作車及び1次車は暖房装置を搭載せずに落成した。銀座線は渋谷駅付近のごく一部を除き地下を走行するため、冬季でも車内温度の低下がほぼ生じないと判断されたためである。渋谷駅電留線に留置中の車内温度低下を考慮し、2次車以降は暖房装置が搭載されたが、試作車・1次車は冷房装置搭載後も暖房装置の設置は行われなかった。1次車以前の座席下のカバーには、温風の吹き出し口となるスリットが存在しない(#内装の画像も参照のこと)。",
"title": "内装"
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"text": "走行機器類",
"title": "形態分類"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)時点での座席モケットの表地・床材は経年劣化により、張替えが実施されており、いずれも落成時のものとは異なる。2008年現在の座席モケットは非バケットシート車(第01 - 20・22・23編成)はオリジナルに近い茶色の区分柄モケットに、バケットシート車(第24編成以降)は赤色のプリント柄にそれぞれ変更されている。21編成のみ交換されずにオリジナルのモケットを使用していた。なお、優先席付近の座席は青色であり、この付近のつり革はオレンジ色のものに交換されている。また2010年(平成22年)11月現在、第05・15・17・38編成に転落防止幌が取り付けられている。",
"title": "形態分類"
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{
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"text": "編成表",
"title": "運用と編成"
},
{
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"tag": "p",
"text": "形式番号は、5桁の数字で表される。最初の2桁は系列を表す「01」で、小さく標記される。その後の3桁の数字では、百位は編成内の順位、十位と一位で編成番号を表す。",
"title": "運用と編成"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "MT比は3M3Tである。各電動車 (M) に制御装置、制御車 (CT) に15 kVA出力の電動発電機(第37・38編成は40 kVA出力の静止形インバータ (SIV))・空気圧縮機 (CP) ・蓄電池を搭載。また、冷房電源として付随車 (T) には110 kVA出力のSIVを搭載している。付随車01-300形は、将来車両性能向上が必要な場合、電動車化することを考慮していた(冷房化後はSIVを搭載したため、制御装置の取り付けは不可)。",
"title": "運用と編成"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "編成は38本すべてが上野検車区に配置されている。最大運用本数は35本であり、3本は予備編成である。運用区間は銀座線全線である。また、本系列の重要部検査・全般検査は丸ノ内線方南分岐線の中野富士見町駅付近にある中野工場において施工されているため、同工場への入出場回送列車が不定期に運行される。",
"title": "運用と編成"
},
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"tag": "p",
"text": "なお、過去にイベント列車などの臨時列車で丸ノ内線(主に荻窪 - 赤坂見附間)を走行する場合があった。しかし、同線各駅へのホームドアの設置後はドア位置の関係から営業列車としての入線は原則不可能となった。過去のイベント列車の実績では元日終夜運転時に運転された「初詣新春らいなー」やその後継である「新春ライナー浅草号」「新春ライナー荻窪号」、隅田川花火大会開催日に運転された「花火ライナー」などがある。",
"title": "運用と編成"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2010年5月2日には映画『仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー』の公開を記念したイベント列車「メトロデンライナー」が上野 - 赤坂見附 - 中野富士見町間で運転され、第2編成が使用された。",
"title": "運用と編成"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2010年度時点での東京メトロでは、工場検査の入場時期となる4年を基準に車両改修時期を定めており、本系列に関しても車両改修時期に達していたものの、ワンマン運転やホームドアの設置や昇圧が検討段階にあった。しかし、銀座線車両は小形であり、これらの対応改造などが困難かつ01系がワンマン運転に対応できない仕様であったこと、さらに01系編成全体の半分以上を占める一次車が車齢30年に迫っていたこともあり、1000系車両の導入に伴い置き換えられることになった。",
"title": "1000系導入による置き換え"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "置き換え車となる1000系は2012年4月11日から1編成が営業運転を開始した。2013年度に入り、第31編成(2013年4月1日付け除籍)を皮切りに本系列の廃車が開始されており、2017年3月10日をもって最後に残った第30編成が営業運転を終了、12日の中野検車区への廃車回送を兼ねた臨時団体列車をもって完全引退した。",
"title": "1000系導入による置き換え"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "廃車された車両のうち第35・36編成は西鉄筑紫工場での改造を経て熊本電気鉄道へ譲渡され、同社の01形となった。",
"title": "1000系導入による置き換え"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "また、複数箇所で車両の保存が行われている。",
"title": "1000系導入による置き換え"
}
] |
営団01系電車(えいだん01けいでんしゃ)は、帝都高速度交通営団(営団)が保有していた銀座線用の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
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{{鉄道車両
|車両名=営団地下鉄01系電車
|背景色=#109ED4
|文字色=#FFFFFF
|画像=Tokyo-Metro-Series01-130F.jpg
|画像説明=01系130編成(2017年3月 渋谷駅 - 表参道駅間)
|運用者=[[帝都高速度交通営団]]<br />[[東京地下鉄]]
|製造所=[[川崎重工業]][[川崎車両|車両カンパニー]]<ref group="*">試作車・1次車</ref><br/>[[日本車輌製造]]<ref group="*">1 - 5次車</ref><br />[[東急車輛製造]]<ref group="*">1次車</ref><br/>[[近畿車輛]]<ref group="*">1・6次車</ref>
|製造年=1983年 - 1997年
|製造数=38編成228両
|運用開始=試作車:1984年1月1日<br />量産車:1984年11月30日
| 運用終了 = 2017年3月12日
| 投入先 = [[東京メトロ銀座線|銀座線]]
|編成=6両編成 (3M3T)
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]])
|電気方式=[[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]]<br />([[第三軌条方式]])
|最高運転速度=65 [[キロメートル毎時|km/h]]
|設計最高速度=75 km/h(分巻チョッパ車)<br />80 km/h(VVVFインバータ車)
|起動加速度=3.0 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]]
|常用減速度=4.0 km/h/s
|非常減速度=4.5 km/h/s
|編成定員=608(座席248または244)人
|車両定員=先頭車100(座席36)人<br />中間車102(座席44または42)人
|車両重量=チョッパ車23.5 - 29.3 t<br />VVVFインバータ車21.5 - 26.8 t<br/>チョッパ車のうち試作車である第01編成は一部異なる。
|編成重量=分巻チョッパ車164.8 t<br />VVVFインバータ車151.6 t
|全長=16,000 mm
|全幅=2,550 mm
|全高=3,485 mm(試作車)<br/>3,465 mm(量産車)
| 床面高さ = 995 mm
|車体=[[アルミニウム合金]]
|台車=分巻チョッパ車FS-520・FS-020<br />VVVFインバータ車SS-130A・SS-030A
|主電動機=[[分巻整流子電動機|直流分巻電動機]]<br />[[かご形三相誘導電動機]]<br />[[永久磁石同期電動機]](試験車)
|主電動機出力=定格出力はいずれも120 [[キロワット|kW]]
|編成出力=1,440 kW
|歯車比=101:15 (6.73)
|駆動方式=[[WN駆動方式|WNドライブ]]
|制御方式=[[電機子チョッパ制御#高周波分巻チョッパ制御|高周波分巻チョッパ制御]]<br />[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]<br />[[炭化ケイ素|SiC]]素子VVVFインバータ制御<br/>(01-237)
|制動装置=ATC連動[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]([[回生ブレーキ]]併用)
|保安装置=[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]・[[定位置停止装置|TASC]]<br>[[自動列車停止装置#打子式ATS|打子式ATS]](登場時)
|備考='''脚注'''<br/><references group="*"/>
|備考全幅={{ローレル賞|25|1985|link=no}}
}}
'''営団01系電車'''(えいだん01けいでんしゃ)は、[[帝都高速度交通営団]](営団)が保有していた[[東京メトロ銀座線|銀座線]]用の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]][[電車]]である。[[2004年]]([[平成]]16年)4月の営団民営化にともない、[[東京地下鉄]](東京メトロ)に継承された。
== 概要 ==
[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]用の[[営団8000系電車|8000系]]までの実績にさらに新しい技術を導入し、各種の改良・検討を実施した上で[[1983年]](昭和58年)に試作車1編成が落成し、翌[[1984年]](昭和59年)から量産が開始された<ref name="60th-94">帝都高速度交通営団「60年のあゆみ」pp.94 - 95。</ref>。[[1997年]](平成9年)までに6両編成38本(228両)が製造された。
[[1980年代]]当時、銀座線において運用されている車両には銀座線開業初期の程ない黎明期から使用している車両([[東京地下鉄道1200形電車|1200形]]・1300形等)が存在し、その後に投入した[[営団2000形電車|2000系]]等も同様なデザインから「銀座線は古い」というイメージが一般乗客に多くあった<ref name="Fan1983-8-1">交友社『鉄道ファン』1983年8月号新車ガイド「営団銀座線に試作車01系登場」pp.57 - 61。</ref><ref name="60th-94"/>。このため、従来の銀座線車両のイメージを大きく変えるデザインを採用し、同線のイメージアップを図ることを目指した<ref name="60th-94"/>。本系列のデザインコンセプトは「機能性」・「明るさ」・「シックさ」としている<ref name="Drive2002-6">日本鉄道運転協会「運転協会誌」2002年6月号「営団0系車両のデザイン」p.8。</ref>。
車両番号は従来のX000系列をやめ、新しく「0x系列」の車両番号表記を採用した<ref name="Fan1983-8-1"/>。いわゆる「0x系」シリーズの最初の系列であり、以降営団時代に設計された他路線の旧型車の置換え用車両および列車増発用増備車には一部例外を除いて「0x系」の系列名が与えられている。走行性能は従来の銀座線車両を大幅に上回り、高速性能はかつて[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]に在籍していた[[営団3000系電車|3000系]]に匹敵する<ref name="Fan1983-8-1"/>。
[[1985年]](昭和60年)の[[鉄道友の会]][[ローレル賞]]、[[1989年]](平成元年)鉄道友の会[[グローリア賞]]受賞<ref name="60th">帝都高速度交通営団「60年のあゆみ」</ref><ref group="注">グローリア賞に関しては[[営団02系電車|02系]]・[[営団03系電車|03系]]・[[営団05系電車|05系]]も同時受賞。</ref>。
== 外観 ==
車体は全長16 m、車体幅は2,550 mmの3扉車である。[[東京メトロ千代田線|千代田線]]用の[[営団6000系電車|6000系]]以降の車両と同じく[[アルミニウム]]合金製の無塗装車体であるが、車体構造は従来の骨組構造からアルミ合金の[[押出成形|大形押出形材]]や[[ダブルスキン構造|中空形材]](床板、側梁、軒桁)を多用し、これを連続[[ミグ溶接]]で組み立てる新しい工法を採用して品質向上とコスト低減を図っている<ref group="注">1981年に製造された[[山陽電気鉄道3000系電車#3050系|山陽電気鉄道3050系4次車]]で実績のある工法である。</ref>。床板は横梁を省略しており、中空形材に一体成形された[[カーテンレール]]状の機器のつり溝があり、特殊[[ボルト (部品)|ボルト]]を介して床下機器を吊り下げている。
外観では[[車両限界]]を有効活用するために屋根肩部を[[トンネル]]形状に合わせて直線的にカットし、併せて先頭車前面の角も直線状にカットして、全体的に直線性を強調した[[デザイン]]を採用した<ref name="Fan1983-8-1"/>。
側窓の下に銀座線の[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]であるオレンジ色の帯と、アクセントとして帯上部に黒・白の細帯が入っている<ref name="Fan1983-8-2">交友社『鉄道ファン』1983年8月号新車ガイド「営団銀座線に試作車01系登場」pp.61 - 64。</ref>。検討段階では側窓の幅いっぱいにオレンジ色のマーキングフィルムを貼る案もあったが、軽快さに欠けるということで採用されなかった<ref name="Fan1983-8-2"/>。
デザインが決まった頃には、18個の星(当時の銀座線の駅数から)が「G」を囲むシンボルマークを運転室後部側面に付けるという案もあった。
前面形状は左右非対称で[[非常口]][[貫通扉|貫通]]式(スイング式[[プラグドア]])である<ref name="Fan1983-8-1"/>。[[第三軌条方式]]のため、線路に降りると感電の危険性があることから非常階段・梯子は設置していなかったが、2008年ごろより非常用梯子が運転室内に設置されるようになった。6000系から8000系にある貫通扉の階段は設置されていない<ref name="pic2016"/>。前面ガラスは青みかかった熱線吸収ガラスを使用して3分割されているが、窓間の柱を黒く塗装し、一体感を持たせている<ref name="Fan1983-8-1"/>。窓上部には[[方向幕|行先表示器]]・[[列車番号|運行番号]]表示器と[[鉄道の車両番号|車両番号]]表記を配している<ref name="Fan1983-8-1"/>。行先表示器は前面のみで、側面には設置していない。
銀座線は他社線との[[直通運転]]を行わないため、営団時代は車外に[[シンボルマーク]](団章、Sマーク)の表示は妻面の形式・車両重量表記部にしかなかった([[営団02系電車|02系]]は側面のみ)が、東京地下鉄発足時にはシンボルマークの「ハートM」が正面と側面に貼り付けされた。
== 内装 ==
配色はベージュ系の模様入りで、天井は白色系の「セシリア」、側壁にベージュ系の「ストーンワークアイボリー」、袖仕切にはベージュに茶色で斜めのストライプが入った「バイヤクロス」と呼ばれる[[デコラ|化粧板]]を使用した<ref name="Fan1983-8-2"/>。
[[鉄道車両の座席|座席]]は6次車まで共通で1人分の掛け幅が440 mmの[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]である<ref name="pic2016">電気車研究会「鉄道ピクトリアル」2016年12月号臨時増刊「東京地下鉄」</ref>。床敷物は中央をベージュ・外側を茶色とした2色である<ref name="Fan1983-8-2"/>。これは床を色分けすることで座客の足を投げ出すことを防止するためのフットラインとした<ref name="Fan1983-8-2"/>。側窓はすべて開閉可能な一段下降窓である<ref name="Fan1983-8-1"/>。なお、営業区間の地上部は[[渋谷駅]]付近のみであることから、巻き上げカーテンは設置していない。
客用ドアは客室側も化粧板仕上げである。ドア窓は従来車両では面積の小さいガラスが使用されていたが、本系列より下方向に大きいガラスを採用した<ref name="Fan1983-8-1"/>。[[自動ドア#ドアエンジン|ドアエンジン]]は低騒音で、従来よりも保守が容易な鴨居取り付け形を採用した。連結面は8000系同様各車端に[[貫通扉]]を設置し、妻窓も設置する<ref group="注">ただし、冷房車では冷房用配電盤スペースとするために北側の妻窓が埋め込み・省略されている。</ref>。
各客用ドアの室内側上部には[[路線図]]式[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]が設置され、あわせて[[ドアチャイム]]も鳴動する<ref name="Fan1983-8-3">交友社『鉄道ファン』1983年8月号新車ガイド「営団銀座線に試作車01系登場」pp.64 - 65。</ref>。このような設備は当時は珍しく、乗客にも好評であった。量産車からは案内表示器の両端には次の駅のドアが開く方向を予告点灯するランプが設置された<ref name="Fan1985-5">交友社「鉄道ファン」1985年5月号「営団地下鉄新車の話題」pp.78 - 81</ref>(表示器両端の緑色のランプが点灯、途中から「このドアが開きます」のランプ形に変更)。試作車はこの案内表示器が量産車と仕様が異なっていたが<ref name="Fan1985-5"/>、[[溜池山王駅]]開業準備時に量産車と同じものに更新された。また[[駅ナンバリング]]を導入した際に、駅名表記部には駅番号を表記したステッカーが貼り付けされた。
荷棚にはステンレス線を格子状に[[スポット溶接]]した新しいデザインのものを採用した<ref name="Fan1983-8-2"/>。車内の[[つり革]]は三角形であり、当初は座席前の線路方向のみ設置していた。その後、2次車からは枕木方向へつり革が増設された。さらにドア上部の線路方向へは後年に全車が増設された<ref group="注">第38編成は落成時より設置済みである。</ref>。
このほかに[[車内放送]]装置には自動音量調整機能を設置し、乗客へ聞き取りやすいものとしたほか、路線図式車内案内表示器、ドアチャイムや車外スピーカーなどサービス向上のための新しい機器が多く採用された<ref name="Fan1983-8-2"/>。
2007年(平成19年)夏頃から非常通報装置と[[ドアコック|非常コック]]の案内表示・車内号車表示と[[消火器]]表示のシールが[[東京メトロ10000系電車|10000系]]に準じた蛍光塗料の塗られたものに変更された。
[[デッドセクション|無電区間]]走行時の室内灯の照度についても、先代の1500N(N2を含む)形より大きく改善され、照度は少々落ちるものの問題ないレベルにまで改善された<ref>[[種村直樹]]「新・地下鉄ものがたり」より</ref>。なお、無電区間通過時の室内灯照度の低下が完全に無くなったのは後継の[[東京メトロ1000系電車|1000系]]からである。
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ファイル:TokyoMetro01-101-inside.jpg|第01編成の車内
ファイル:TokyoMetro01-137-inside.jpg|第37編成の車内<br />後期車はバケットシートとなっている
ファイル:TokyoMetro01-seat.jpg|1次車の座席
ファイル:TokyoMetro01-Priorityseat.jpg|1次車の優先席
ファイル:TokyoMetro01-newseat.jpg|試作車・1次車の座席<br />(交換後)
ファイル:TokyoMetro01-newPriorityseat.jpg|試作車・1次車の優先席<br />(交換後)
ファイル:TokyoMetro01-bucketseat.jpg|2次車以降の座席<br />(交換後)
ファイル:TokyoMetro01-bucketPriorityseat.jpg|2次車以降の優先席<br />(交換後)
ファイル:TokyoMetro01-MapInfomation.jpg|ドア上部の路線図式車内案内表示器
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=== 乗務員室 ===
[[操縦席|乗務員室]]内装は緑色、運転台計器盤は紺色のデスクタイプである。
[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]は前後にスライドする横軸レバーのツーハンドル式<ref group="注">マスコンハンドルは[[力行]]1 - 4[[ノッチ]]・ブレーキ操作器は常用ブレーキ1 - 7段・[[非常ブレーキ|非常]]</ref>である<ref name="Fan1983-8-3"/>。計器盤中央にはアナログ計器式の[[速度計]](90 [[キロメートル毎時|km/h]]表示)が、左端には[[鉄道車両のモニタ装置|故障表示器]]<ref group="注">過電流・[[過電圧]]・ブレーキ故障・戸閉故障など8点の故障を表示する。</ref>がある。
乗務員室と客室の仕切りには前面窓と同じような比率で窓が3枚あり、[[遮光幕]]は全ての仕切り窓に設置してあるが、原則として大窓と乗務員室仕切扉窓が使用される。なお、仕切扉窓は開閉可能な窓で、ガラスにはオレンジ色の着色ガラスを使用、客室から見て1番右側の窓は透明ガラスを使用する。仕切扉にオレンジ色の着色ガラスを使用したのは、[[運転士]]が遮光幕を使用しなくても運転に支障がないようにするためや[[車掌]]が案内放送の際に、乗客の視線を気にせずに出来ることを考慮したものである<ref name="Fan1983-8-3"/>。
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ファイル:Tokyometro01cab-1.jpg|01系車両の運転台<br />写真は第38編成のものだが、<br />各編成ともほぼ同一である
ファイル:Tokyometro01cab-2.jpg|後年に設置された非常用はしご
ファイル:InsideTokyometro01-1.jpg|乗務員室仕切部<br />仕切扉のガラスは<br />オレンジ色の着色ガラス
File:Symbol of Teito Rapid Transit Authority (TRTA, "Eidan Chikatetsu").jpg|妻部の型式表示プレート。営団の団章が記されている(2002年頃撮影)
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=== 冷暖房装置 ===
01系の導入当初、銀座線では駅冷房とトンネル冷房<ref group="注">駅間のトンネル部を冷房化し、車両の窓を開けることでそこから冷気を取り入れる冷房方式。</ref>を実施しており、また、[[車両限界]]が小さく車両の冷房化は困難と考えられていたため、第23編成までは非冷房車で落成した。
その後、[[1990年]](平成2年)に[[三菱電機]]において厚さ240 mmと薄形の[[エア・コンディショナー|冷房装置]]が開発された<ref group="注">240 mm厚の車載用冷房機としては、日本初のミニ地下鉄として建設された大阪市交通局長堀鶴見緑地線用の[[大阪市交通局70系電車|70系]]のために1989年に設計された三菱電機CU-741([[冷凍能力]]12,500 kcal/h)が先行して実用化されていた。</ref>。冷凍能力は14,000 [[冷凍能力|kcal/h]](16.2 [[キロワット|kW]])であり、これを屋根に埋め込む形で各車2基搭載した<ref name="pic2016"/>([[集約分散式冷房装置|集約分散式]]・三菱電機製CU-766形)。
試作車として1990年(平成2年)8月に第16編成に冷房装置を搭載し、機能確認後に本格採用へ踏み切った。冷房化改造を施工した車両では車外スピーカー部を除き側面上部の通風口を塞いでおり<ref group="注">最初の冷房改造車の第16編成のみ全ての通風口を塞いでいるが、それ以降の編成では工数削減のために一部を残している。また、第15編成などでは全て残されている。</ref>、当初より冷房付きで登場した編成<ref group="注">新製冷房車は屋根肩部が平滑に仕上がっている。</ref>とは明確に区別できる。
冷房未搭載で竣工した車両は就役開始の時点では天井が高く、通風用に外気循環形のファンデリアが各車6台設置されていた。冷房車・冷房改造車では冷房用ダクトと補助送風機のラインデリアの設置で天井が低くなり、さらに車端部は冷房装置本体があるため、この場所は中央部よりもさらに110 mm低くなっている。
試作車及び1次車は暖房装置を搭載せずに落成した。銀座線は渋谷駅付近のごく一部を除き地下を走行するため、冬季でも車内温度の低下がほぼ生じないと判断されたためである。渋谷駅電留線に留置中の車内温度低下を考慮し、2次車以降は暖房装置が搭載されたが、試作車・1次車は冷房装置搭載後も暖房装置の設置は行われなかった<ref>[http://response.jp/article/2014/02/01/216261.html まもなく消える銀座線の「非暖房車」] {{Wayback|url=http://response.jp/article/2014/02/01/216261.html |date=20140331184814 }} - Response 2014年2月1日</ref>。1次車以前の座席下のカバーには、温風の吹き出し口となるスリットが存在しない([[#内装]]の画像も参照のこと)。
== 形態分類 ==
=== 試作車(1983年度製) ===
* [[1983年]](昭和58年)5月中旬に[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]で落成し、搬入された第01編成が該当する。入籍は9月、営業運転は1983年(昭和58年)[[12月31日]]の[[終夜運転]]からである<ref name="1995-7EX">『鉄道ピクトリアル』1995年7月臨時増刊号212頁 私鉄車両めぐり152『帝都高速度交通営団』</ref>。
** 正確には、1984年(昭和59年)[[1月1日]]0時15分発車の[[上野駅]]発[[浅草駅]]行きより営業運転を開始した<ref>鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1984年10月臨時増刊号新車年鑑1984年版の97・98頁「帝都高速度交通営団銀座線01系試作車」</ref>。ただし、営業運転の数日前より回生ブレーキ時に界磁チョッパ用GTOサイリスタが相次いで[[アヴァランシェ・ブレークダウン|ブレークダウン]]する故障が発生した<ref name="PIC1999-3"/>。このため、営業運転では回生ブレーキをカットして運転し、列車にはメーカーの技術者が乗り込んで[[鉄道事故等報告規則|輸送障害]]に備えた<ref name="PIC1999-3"/>。幸いトラブルもなく乗り切ることができ、この故障はあるメーカー製制御装置のプログラムにミスがあったことが原因と判明した<ref name="PIC1999-3"/>。
** 営業運転は当初の予定は量産車が登場する1984年秋頃であった<ref group="注">『鉄道ファン』1983年8月号新車ガイド3『営団銀座線に試作車01系登場』59頁には『(乗客が)ご利用いただけるのは…来年秋以降となる予定…(この場合1984年秋を指す)』と記載されている。</ref>。本編成は新しい方式の[[制御装置]]を採用したため、制御回路から発生するノイズによる[[軌道回路]]の[[誘導障害]]などの確認と対策が必要とされ、1983年(昭和58年)6月より12月まで各種の性能試験を実施していたが、日中に銀座線で試運転を実施した際に、これを見た乗客から「いつから乗れるのか」といった問い合わせが営団に多く寄せられたため、時期を大幅に早めることとなった<ref name="1995-7EX"/>。
* 銀座線用車両は小形であるため、制御方式には機器の小形化の見込める[[リニアモーター]]駆動・[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]・[[電機子チョッパ制御#高周波分巻チョッパ制御|分巻チョッパ制御]]の3つを検討した<ref name="Fan1983-8-1"/><ref name="PIC1999-3">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1999年3月号特集「電機子チョッパ車の30年」内「電機子チョッパ制御の開発と車両制御技術」pp.16 - 17。</ref>。前者2つはコスト面などから断念し<ref group="注">リニアモーター方式は空隙による電気損失が大きいこと、検査のため回送を行う丸ノ内線にもリアクションプレートの設置が必要なため。</ref>、従来のチョッパ制御の改良型である高周波分巻チョッパ制御(4象限チョッパ制御。1C4M制御方式)を日本の鉄道車両として初めて採用した<ref name="Fan1983-8-1"/><ref name="PIC1999-3"/>。
** このチョッパ装置は、従来営団で設計製作していたチョッパ装置は20 m車用であり、小形の銀座線用車両には筐体が大き過ぎて実装が困難であったことから、同線用として極限まで小型化された<ref name="Fan1983-8-3"/>。[[半導体素子|スイッチング素子]]には設計当時量産段階に到達したばかりの大容量[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]]を採用、これによって主回路構成の簡素化が可能となり<ref>日立製作所『日立評論』1986年3月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1986/03/1986_03_03.pdf 鉄道車両へのパワーエレクトロニクスの応用]}}」。p.14に本形式の主回路つなぎ図が書かれている。</ref>、従来のチョッパ制御装置に比べて重量・スペースなど約20 [[パーセント|%]](営団地下鉄資料)の小形軽量化を実現している<ref name="Fan1983-8-3"/>。
** この試作車では1両ごとに三菱電機<ref name="MITSUBISHI-EL1984-01">三菱電機『三菱電機技報』1984年1月号「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1984(vol58)/Vol58_01.pdf 車両用チョッパ制御装置」]}}」p.111。また、p.112に本試作車のブレーキ作用装置が掲載されている。</ref>・[[日立製作所]]・東京芝浦電気(→[[東芝]])製の制御装置を搭載している<ref name="PIC1995-7">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1995年7月臨時増刊号特集「帝都高速度交通営団」内「営団における電子制御車の移り変わり」pp.190 - 191。</ref><ref group="注">営団地下鉄の制御システムは三菱電機、日立製作所(6000系以降)の2社が担当してきたが、本形式よりGTOサイリスタで実績のある東京芝浦電気(→東芝)が加わる(鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1999年3月号)。</ref>。制御装置は主チョッパ装置(電機子チョッパ)と[[界磁チョッパ制御|界磁チョッパ]]の2種類から構成される。
* [[鉄道車両の台車|台車]]は[[京阪電気鉄道]]で1960年代中盤以降大量採用され、曲線通過性能が良好と評価されていた、軸箱支持装置が側梁緩衝ゴム式の[[住友金属工業]]FS-520(動力台車)・FS-020(付随台車)[[空気ばね]]台車が新規設計された<ref name="60th-101">帝都高速度交通営団「60年のあゆみ」p.101、</ref>。従来車両と比べ軸距は2,200 mmから2,000 mmに短縮、さらに4象限チョッパ制御による[[回生ブレーキ]]の常用を前提にして基礎ブレーキを両抱き[[踏面ブレーキ|踏面式]]から片押し踏面式に変更し、曲線通過時の転向性能の向上と軽量化、それに床下艤装スペースの拡大を図った<ref name="60th-101"/>。
* [[主電動機]]は前述の通り高周波分巻チョッパ制御であることから、[[分巻整流子電動機|直流分巻他励式整流子電動機]](分巻電動機)が採用された。営団の社内形式はMM-3A<ref group="注">三菱電機MB-3290-A、東芝SE-639、[[東洋電機製造]]TDK-87010-Aの総称。</ref>であり、定格値は端子電圧300 V、電流440 A、出力120 kW、回転数1,600 rpmである<ref>ネコ・パブリッシング『復刻版 私鉄の車両22 帝都高速度交通営団』</ref>。
* 銀座線ではその開業以来、[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]用車両向け機器の試験車であった[[営団1400形電車|1400形]]で一時SMEE[[電磁直通ブレーキ]]を採用した以外は、在来車各形式との混用・混結の必要性などから、丸ノ内線向けと同様に[[WN駆動方式|WNドライブ]]を採用した車両を含め、ブレーキシステムとして[[ウェスティングハウス・エア・ブレーキ]]社 (WABCO) 開発のM三動弁によるAMM[[自動空気ブレーキ]]、あるいはこれに電磁給排弁を付加して6両編成化を可能としたAMME電磁自動空気ブレーキが長らく使用されてきた。本系列では将来的な在来車全数の置き換えによる[[自動列車停止装置#打子式ATS|ATS]]などの保安システムを含めた銀座線のシステム全体の刷新を念頭に置いて、在来車との混結を想定しない計画となったことから、応答性に優れシステムの簡素化が可能、しかもチョッパ制御器による回生ブレーキとの同期・連係動作に有利な[[電気指令式ブレーキ]]が採用され、前述したように運転台のブレーキ操作も制御器と一体化した2軸横軸マスコンに統合され、操作の容易化が実現した。
'''走行機器類'''
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ファイル:Tokyometro01-FS520.jpg|FS520形動力台車
ファイル:Tokyometro01-FS020.jpg|FS020形付随台車
ファイル:Tokyometro01-E-CHP.jpg|高周波分巻チョッパ装置の<br />主チョッパ装置<br />(モーターの電機子を制御する)
ファイル:Tokyometro01-F-CHP.jpg|高周波分巻チョッパ装置の<br />界磁チョッパ装置<br />(モーターの界磁を制御する)
</gallery>
* 前述のように、車内の化粧板はつや消し仕上げ、座席[[モケット]]は8000系落成時と同様のワインレッドに区分柄入りのものを、[[優先席|シルバーシート]](当時)はグレーの単色をそれぞれ採用した<ref name="Fan1983-8-2"/>。側窓枠についてはアルミ製である。
* この編成の車内案内表示器はデザインの違いで3種類あり、次駅開扉予告灯は設置されなかった。前記の通り、溜池山王駅開業時に量産タイプに交換されている。また、そのためドアチャイムも第02編成以降とは異なる音色であった。
=== 1次車(1984年度 - 1987年度製) ===
[[File:Tokyometro01-118.jpg|thumb|240px|01系第18編成(1986年度落成)]]
* 第02 - 23編成が該当する。
** 車体メーカーは[[東急車輛製造]]・川崎重工業ほか。
** 試作車での実績にさらに改良を加えた量産車として1984年(昭和59年)[[11月30日]]より順次営業運転に就役した。
** 外観では屋根天井の曲線を大きくし、車両の高さを20 mm低くした<ref name="Fan1985-5"/>。
** 車外スピーカーを外板取付けから通風口と同じ位置に変更<ref name="Fan1985-5"/>。[[尾灯]]、[[車側灯]]を[[白熱電球|白熱球]]から[[発光ダイオード|LED]]に変更<ref name="Fan1985-5"/>。
*** なお、車側灯・尾灯は試作車も後にLED式に改造されている。
** ファンデリアカバーの形状を丸型→角型に変更した<ref name="Fan1985-5"/>。
** 座席モケットは茶色系でエコーラインの区分柄に<ref name="Fan1985-5"/>、[[優先席|シルバーシート]](当時)は青系でシルバーライン入りにそれぞれ変更された<ref name="Fan1985-5"/>。
** 床敷物は中央部の汚れが目立つことから、数色の砂目模様を追加することで汚れを目立ちづらくした<ref name="Fan1985-5"/>。また、車内案内表示器は大型化され、同時に次駅開扉予告灯も設置された<ref name="Fan1985-5"/>。
** 1986年度投入の第13編成から消火器が従来の車端部天井付近から車端部下のケースに格納された。
** チョッパ制御装置は試作車で採用した3社の装置を編成ごとに分けている<ref name="MITSUBISHI-EL1985-01">三菱電機『三菱電機技報』1985年1月号「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1985(vol59)/Vol59_01.pdf 車両用チョッパ制御装置」]}}」p.110。</ref>。なお、車両重量も試作車より1 [[トン|t]]ほど軽くなった。
*** 試作車登場時(非冷房):編成重量:164.7 t・車両重量:22.0 - 29.5 t
*** 量産1次車登場時(非冷房):編成重量:158.6 t・車両重量:21.1 - 28.5 t
** 将来のCS-ATC化に備えて誘導障害防止のためチョッパ装置の周波数変更(高周波化)を実施した<ref name="Fan1985-5"/>。
** 車両に使用される電線は従来から難燃性電線を使用してきたが、万が一の火災発生時に有毒ガスの発生しないノンハロゲン電線(難燃性低煙電線)の使用に変更した<ref name="Fan1985-5"/>。
** このグループまでは非冷房で落成したが、1990年 - 1995年に冷房装置搭載改造を施工した<ref name="pic2016"/>。
*** 非冷房時代は車内天井にファンデリアが設置されていたが、冷房化の際にラインデリアに変更されたほか車体全長に冷風ダクトの新設が行われた。
* 暖房装置は冷房搭載後も設置されていない(試作車も同様)。
=== 2・3次車(1990・1991年度製) ===
* 第24 - 31編成が該当する。
* 車体メーカーは[[日本車輌製造]]、制御器メーカーは日立製作所、モータは三菱電機。
* 新製時より冷房装置と客室暖房装置を搭載<ref name="pic2016"/>。銀座線では初めての冷暖房搭載車である。
*冷房操作盤取り付けの関係で、北側の妻窓が消滅<ref name="pic2016"/><ref>{{Cite journal|和書|author=電気車研究会|year=2016|title=【特集】東京地下鉄|journal=鉄道ピクトリアル|volume=2016年12月号臨時増刊|page=|pages=236-240}}</ref>。
* 車内は化粧板を光沢のあるものに変更。座席は[[バケットシート]]、窓枠も[[繊維強化プラスチック|FRP]]成形品に変更された<ref name="pic2016"/>。
* [[車内放送|自動放送]]装置を新製時より設置した。これは1990年から1993年の2000形全廃までに在来車にも設置されたが、放送に起用されている声優や内容は東京メトロ移行時に変更された。
* 側引戸は結露防止と戸袋への引き込み防止のため[[複層ガラス]]とされた<ref name="pic2016"/>。
* 3次車からは新製時よりCS-ATC装置を搭載した<ref name="pic2016"/>。在来車も1991年度から1993年度にかけて搭載された<ref name="pic2016"/>。
** ATC装置は([[定位置停止装置]](TASC)も同様)、床下に艤装スペースを確保できないことから、客室内の座席下(蹴込み)に収容している<ref name="KYOSAN1994">京三製作所『京三サーキュラー』Vol.45 No.1(1994年)「営団地下鉄銀座線信号保安システム」pp.1 - 19。</ref>。
* ATC装置の搭載に合わせて常用減速度を2次車までの3.5 km/h/sから丸ノ内線用02系と同じ4.0 km/h/sに変更した<ref name="1995-7EX"/>。
* 車体構造も一部変更されており、妻部の角の処理が丸みを帯びたもの(ネジ留めあり)から直線的(溶接処理)なものになっている(03系も1次車は01系1次車と同じ処理になっている)。
*また、30編成はラストランに使用された編成でもある。
=== 4次車(1992年度製) ===
* 第32 - 36編成が該当する。
* 車体メーカーは日本車輌製造、制御器メーカーは東芝、モータは三菱電機。
* 前面の行先表示器と運行番号表示器が字幕式からLED式とされ<ref name="pic2016"/>、行先表示から英字表記が廃止された。
* [[ユニバーサルデザイン]]の一環として[[車椅子スペース|車いすスペース]]を車内の2か所<ref group="注">2号車と5号車の南側。</ref>に設置<ref name="pic2016"/>。また[[車内非常通報装置|非常通報装置]]を警報式から乗務員と相互通話可能な通話式に変更した。
* 保守性の向上を目的に基礎ブレーキをシングルブレーキからユニットブレーキに変更した<ref group="注">形式名はFS520,FS020のまま。</ref><ref name="pic2016"/>。
=== 5・6次車(1993・1997年度製) ===
[[File:Tokyometro01-138.jpg|thumb|240px|01系第38編成<br />(VVVFインバータ制御で、1997年に溜池山王駅開業に伴い落成)]]
* 第37・38編成が該当する。
* 制御方式はVVVFインバータ制御([[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]]・3レベル・1C2M2群制御)に変更された<ref name="PIC1994-10EX">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1994年10月臨時増刊号新車年鑑112頁「帝都高速度交通営団01系増備車」</ref>。インバータ装置は第37編成が三菱電機製<ref name="MITSUBISHI-EL1993-11">三菱電機『三菱電機技報』1993年11月号「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1993(vol67)/Vol67_11.pdf IGBT応用車両用3レベルVVVFインバータ制御装置」]}}」pp.78 - 83。</ref>、第38編成は東芝製である。台車も軸箱支持装置がモノリンク式の[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]](SS-130A・SS-030A形)に変更され<ref>[https://web.archive.org/web/20210807102544/https://rail.hobidas.com/bogie/archives/2009/08/ss130ass030a_01.html SS130A SS030A 帝都高速度交通営団01系](鉄道ホビダス台車近影・インターネットアーカイブ)。</ref>、軸距も1,900 mmに小形化した<ref name="PIC1994-10EX"/>。
* 制御用補助電源装置は15 kVAの[[電動発電機]](MG)をやめ、40 kVAの[[静止形インバータ]](SIV・[[東洋電機製造]]製・GTOサイリスタ使用)に変更した<ref name="TOYODENKI88">東洋電機製造『東洋電機技報』第89号(1994年7月)1993年総集編「補助電源装置」p.8。</ref><ref name="PIC1994-10EX"/>。
* 第37編成の車内では座席モケットを茶色に変更、袖仕切上部のパイプにモケットが巻かれ、床材のデザインも変更された。
* 第37編成の投入により最後まで残っていた[[営団1500形電車|1500N形]]・[[営団2000形電車|2000形]]は営業運転を終了し、銀座線は全て本系列に統一された。また、[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]導入と合わせて銀座線のスピードアップが実現した。
* 第38編成は[[1997年]](平成9年)9月に溜池山王駅が開業することに伴い、運用数が増えるために増備された。仕様は第37編成に準拠しているが、座席モケット・床材の変更や窓枠を着色のアルミに変更し、脇仕切のモケットを廃した<ref name="pic2016"/>。また、この編成は本系列で初めて[[転落防止幌]]が取り付けられた編成である。
* [[かご形三相誘導電動機|主電動機]]の[[三相交流]]化に伴い、車内床の主電動機点検蓋(トラップドア)は省略された。
=== 仕様一覧表 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-
!style="background-color:#ccc;"| !!試作車!!1次車!!2次車!!3次車!!4次車!!5次車!!6次車
|-style="border-top:solid 3px #000;"
!製造年度
|1983年度||1984 - 87年度||1990年度||1991年度||1992年度||1993年度||1997年度
|-
!編成番号
|01||02 - 23||24 -27||28 - 31||32 - 36||37||38
|-style="border-top:solid 5px #fc3;"
!制御方式
|colspan="5"|高周波分巻チョッパ
|colspan="2"|IGBT素子<br />VVVFインバータ
|-
!台車
|colspan="5"|緩衝ゴム式<br />ボルスタ付台車
|colspan="2"|モノリンク式<br />ボルスタレス台車
|-
!基礎ブレーキ装置
|colspan="4"|シングルブレーキ
|colspan="3"|ユニットブレーキ
|-
!主電動機出力
|colspan="7"|120 kW
|-
!行先表示器
|colspan="4"|字幕式
|colspan="3"|LED式
|-
!座席形状
|colspan="2"|非バケットタイプ
|colspan="5"|バケットタイプ
|-
!車椅子スペース
|colspan="4"|なし
|colspan="3"|あり
|-
!暖房装置
|colspan="2"|なし
|colspan="5"|あり
|}
* 備考
** [[1986年]](昭和61年)11月に、丸ノ内線02系用として高周波分巻チョッパ制御のうち、界磁チョッパ装置の素子に[[トランジスタ|パワートランジスタ]]を使用した装置の実用試験を本系列で実施した<ref name="60th"/>(編成番号は未記載)。
** 2007年秋より、01-238号車にて東芝製の永久磁石同期電動機(PMSM)とPMSMの主回路システムを搭載したVVVFインバータ装置の試験を行っている<ref>『東芝レビュー』2008年6月号{{PDFlink|[https://www.global.toshiba/content/dam/toshiba/migration/corp/techReviewAssets/tech/review/2008/06/63_06pdf/f05.pdf 「東京メトロ銀座線車両向けPMSM主回路システム」]}}</ref>。なお、この試験結果は丸ノ内線[[営団02系電車#改修工事|02系B修工事車]]や千代田線[[東京メトロ16000系電車|16000系]]への採用に反映されている<ref>『東芝レビュー』2009年9月{{PDFlink|[https://www.global.toshiba/content/dam/toshiba/migration/corp/techReviewAssets/tech/review/2009/09/64_09pdf/a03.pdf 「低騒音と省エネを実現した東京メトロ丸ノ内線車両用のPMSM主回路システム」]}}</ref>。
** [[2011年]][[1月23日]]より、第38編成の客室内照明を試験的に[[蛍光灯]]からLEDに変更している<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20110124_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210220224809/https://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20110124_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=環境にやさしい地下鉄を目指して 銀座線でLED照明搭載車両が走ります。35%以上の省エネルギー化を見込んでいます。|publisher=東京地下鉄|date=2011-01-24|accessdate=2021-02-20|archivedate=2021-02-20}}</ref>。照明の変更は中間車のみ行われており、先頭車は比較のため、変更されていない。この試験は1年ほどかけて行われた。
** 2011年[[12月19日]]より、01-237号車の三菱製IGBT-VVVFインバータを取り外し、[[SIC|炭化ケイ素]](SIC)を使用した三菱製の新型VVVFインバータが搭載され、まず中野車両基地にて構内試験を開始し、のち2012年2月19日より営業運転を開始した<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.mitsubishielectric.co.jp/news/2011/pdf/1003-a.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140815140024/http://www.mitsubishielectric.co.jp/news/2011/pdf/1003-a.pdf|format=PDF|language=日本語|title=省エネ、小型・軽量な環境配慮型車両推進制御システム SiC適用鉄道車両用インバーターの製品化|publisher=三菱電機|date=2011-10-03|accessdate=2021-07-18|archivedate=2014-08-15}}</ref>。7月30日から8月17日の期間に行った実測の平均値では、主回路システムの消費電力量が既存システム比38.6 [[パーセント|%]]減 、回生率を51.0 %に向上との実証結果が報告された<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.mitsubishielectric.co.jp/news/2012/pdf/0927-b.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210121142136/http://www.mitsubishielectric.co.jp/news/2012/pdf/0927-b.pdf|format=PDF|language=日本語|title=世界初、鉄道車両の営業運転で省エネを実証「SiC適用鉄道車両用主回路システム」搭載車両での実証結果のお知らせ|publisher=三菱電機|date=2012-09-27|accessdate=2021-07-18|archivedate=2021-01-21}}</ref>。
=== 落成後に行われた改造など ===
[[2008年]](平成20年)時点での座席モケットの表地・床材は経年劣化により、張替えが実施されており、いずれも落成時のものとは異なる。2008年現在の座席モケットは非バケットシート車(第01 - 20・22・23編成)はオリジナルに近い茶色の区分柄モケットに、バケットシート車(第24編成以降)は赤色のプリント柄にそれぞれ変更されている。21編成のみ交換されずにオリジナルのモケットを使用していた。なお、[[優先席]]付近の座席は青色であり、この付近のつり革はオレンジ色のものに交換されている。また[[2010年]](平成22年)11月現在、第05・15・17・38編成に転落防止幌が取り付けられている。
== 運用と編成 ==
'''編成表'''
{|style="font-size:80%; text-align:left; float:left; vertical-align:top;"
|-
|colspan="3"|
'''凡例'''
|-
|style="vertical-align:top;"|
* チョッパ車
** CHP:主制御装置 (1C4M)
** MG:15 kVA電動発電機
** SIV:110 kVA静止形インバータ(冷房電源用)
|style="vertical-align:top;"|
* VVVF車
** VVVF:主制御装置(1C2M2群)
** SIV1:110 kVA静止形インバータ(冷房電源用)
** SIV2:40 kVA静止形インバータ
|style="vertical-align:top;"|
* 共通
** CP:空気圧縮機
** BT:蓄電池
|}
{{-}}
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-style="border-top:solid 6px #f39700;"
!colspan="2" rowspan="3" style="background-color:#ccc;"|
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[渋谷駅|渋谷]] | [[浅草駅|浅草]] }}
!rowspan="4"|車体<br />メーカー
!rowspan="4"|竣工時期
|-
!1号車
!2号車
!3号車
!4号車
!5号車
!6号車
|-
!01-<br/>100形<br />(CT1)
!01-<br/>200形<br />(M)
!01-<br/>300形<br />(T)
!01-<br/>400形<br />(M')
!01-<br/>500形<br />(M)
!01-<br/>600形<br />(CT2)
|-
!colspan="2"|搭載機器
|<small>MG<br/>CP<br/>BT</small>||CHP||SIV||CHP||CHP||<small>MG<br/>CP<br/>BT</small>
|-style="border-top:solid 3px #666;"
!試作車
!1983年度製
|01-101||01-201||01-301||01-401||01-501||01-601||川崎重工||1983年9月20日
|-
!rowspan="4"|1次車
!1984年度製
|01-102<br />01-103<br />01-104<br />01-105<br />01-106
|01-202<br />01-203<br />01-204<br />01-205<br />01-206
|01-302<br />01-303<br />01-304<br />01-305<br />01-306
|01-402<br />01-403<br />01-404<br />01-405<br />01-406
|01-502<br />01-503<br />01-504<br />01-505<br />01-505
|01-602<br />01-603<br />01-604<br />01-605<br />01-606
|川崎重工<br />川崎重工<br />日本車輌<br />東急車輛<br />近畿車輛
|1984年11月<br />1984年12月<br />1984年12月<br />1985年3月<br />1985年3月
|-
!1985年度製
|01-107<br />01-108<br />01-109<br />01-110<br />01-111<br />01-112
|01-207<br />01-208<br />01-209<br />01-210<br />01-211<br />01-212
|01-307<br />01-308<br />01-309<br />01-310<br />01-311<br />01-312
|01-407<br />01-408<br />01-409<br />01-410<br />01-411<br />01-412
|01-507<br />01-508<br />01-509<br />01-510<br />01-511<br />01-512
|01-607<br />01-608<br />01-609<br />01-610<br />01-611<br />01-612
|近畿車輛<br />東急車輛<br />川崎重工<br />川崎重工<br />川崎重工<br />川崎重工
|1985年7月<br />1985年8月<br />1985年10月<br />1985年11月<br />1986年1月<br />1986年3月
|-
!1986年度製
|01-113<br />01-114<br />01-115<br />01-116<br />01-117<br />01-118
|01-213<br />01-214<br />01-215<br />01-216<br />01-217<br />01-218
|01-313<br />01-314<br />01-315<br />01-316<br />01-317<br />01-318
|01-413<br />01-414<br />01-415<br />01-416<br />01-417<br />01-418
|01-513<br />01-514<br />01-515<br />01-516<br />01-517<br />01-518
|01-613<br />01-614<br />01-615<br />01-616<br />01-617<br />01-618
|日本車輌<br />日本車輌<br />日本車輌<br />日本車輌<br />川崎重工<br />川崎重工
|1986年7月1日<br />1986年8月21日<br />1986年9月25日<br />1986年12月<br />1987年2月<br />1987年2月
|-
!1987年度製
|01-119<br />01-120<br />01-121<br />01-122<br />01-123
|01-219<br />01-220<br />01-221<br />01-222<br />01-223
|01-319<br />01-320<br />01-321<br />01-322<br />01-323
|01-419<br />01-420<br />01-421<br />01-422<br />01-423
|01-519<br />01-520<br />01-521<br />01-522<br />01-523
|01-619<br />01-620<br />01-621<br />01-622<br />01-623
|近畿車輛<br />東急車輛<br />日本車輌<br />川崎重工<br />川崎重工
|1987年7月<br />1987年8月<br />1987年11月<br />1987年12月<br />1987年12月
|-
!2次車
!1990年度製
|01-124<br />01-125<br />01-126<br />01-127
|01-224<br />01-225<br />01-226<br />01-227
|01-324<br />01-325<br />01-326<br />01-327
|01-424<br />01-425<br />01-426<br />01-427
|01-524<br />01-525<br />01-526<br />01-527
|01-624<br />01-625<br />01-626<br />01-627
|日本車輌
|1990年12月<br />1991年1月<br />1991年2月<br />1991年2月
|-
!3次車
!1991年度製
|01-128<br />01-129<br />01-130<br />01-131
|01-228<br />01-229<br />01-230<br />01-231
|01-328<br />01-329<br />01-330<br />01-331
|01-428<br />01-429<br />01-430<br />01-431
|01-528<br />01-529<br />01-530<br />01-531
|01-628<br />01-629<br />01-630<br />01-631
|日本車輌
|1991年6月10日<br />1991年6月21日<br />1991年7月2日<br />1991年7月15日
|-
!4次車
!1992年度製
|01-132<br />01-133<br />01-134<br />01-135<br />01-136
|01-232<br />01-233<br />01-234<br />01-235<br />01-236
|01-332<br />01-333<br />01-334<br />01-335<br />01-336
|01-432<br />01-433<br />01-434<br />01-435<br />01-436
|01-532<br />01-533<br />01-534<br />01-535<br />01-536
|01-632<br />01-633<br />01-634<br />01-635<br />01-636
|日本車輌
|1992年4月27日<br />1992年5月14日<br />1992年5月25日<br />1992年6月3日<br />1992年6月12日
|-style="border-top:solid 6px #f39700;"
!colspan="2" rowspan="3" style="background-color:#ccc;"|
|colspan="6"|{{TrainDirection| [[渋谷駅|渋谷]] | [[浅草駅|浅草]] }}
!rowspan="4"|車体<br />メーカー
!rowspan="4"|竣工時期
|-
!1号車
!2号車
!3号車
!4号車
!5号車
!6号車
|-
!01-<br/>100形<br />(CT1)
!01-<br/>200形<br />(M)
!01-<br/>300形<br />(T)
!01-<br/>400形<br />(M')
!01-<br/>500形<br />(M)
!01-<br/>600形<br />(CT2)
|-
!colspan="2"|搭載機器
|<small>SIV2<br/>CP<br/>BT</small>||VVVF||SIV1||VVVF||VVVF||<small>SIV2<br/>CP<br/>BT</small>
|-style="border-top:solid 3px #666;"
!5次車
!1993年度製
|01-137||01-237||01-337||01-437||01-537||01-637||日本車輌||1993年7月20日
|-
!6次車
!1997年度製
|01-138||01-238||01-338||01-438||01-538||01-638||近畿車輛||1997年8月28日
|}
形式番号は、5桁の数字で表される。最初の2桁は系列を表す「01」で、小さく標記される。その後の3桁の数字では、百位は編成内の順位、十位と一位で編成番号を表す。
[[MT比]]は3M3Tである。各[[動力車|電動車]] (M) に制御装置、[[制御車]] (CT) に15 [[キロボルトアンペア|kVA]]出力の[[電動発電機]](第37・38編成は40 kVA出力の[[静止形インバータ|静止形インバータ (SIV)]])・[[圧縮機|空気圧縮機 (CP)]] ・[[二次電池|蓄電池]]を搭載。また、冷房電源として付随車 (T) には110 kVA出力のSIVを搭載している。付随車01-300形は、将来車両性能向上が必要な場合、電動車化することを考慮していた<ref name="Fan1983-8-1"/>(冷房化後はSIVを搭載したため、制御装置の取り付けは不可)。
編成は38本すべてが[[上野検車区]]に配置されている。最大運用本数は35本であり、3本は予備編成である。運用区間は銀座線全線である。また、本系列の[[日本の鉄道車両検査|重要部検査・全般検査]]は丸ノ内線方南分岐線の[[中野富士見町駅]]付近にある[[中野車両基地|中野工場]]において施工されているため、同工場への入出場[[回送]]列車が不定期に運行される{{refnest|group="注"|上野検車区の改修工事のため、月検査の一部は[[茗荷谷駅]]付近にある小石川CRでも施行されており、茗荷谷から赤坂見附間でも入出場回送が運転される<ref>鉄道ピクトリアル2016年12月臨時増刊号記事</ref>。}}。
なお、過去にイベント列車などの[[臨時列車]]で丸ノ内線(主に荻窪 - 赤坂見附間)を走行する場合があった。しかし、同線各駅への[[ホームドア]]の設置後はドア位置の関係から営業列車としての入線は原則不可能となった。過去のイベント列車の実績では元日終夜運転時に運転された「初詣新春らいなー」やその後継である「新春ライナー浅草号」「新春ライナー荻窪号」、[[隅田川花火大会]]開催日に運転された「花火ライナー」などがある。
[[2010年]][[5月2日]]には映画『[[仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー]]』の公開を記念したイベント列車「メトロデンライナー」が上野 - [[赤坂見附駅|赤坂見附]] - 中野富士見町間で運転され、第2編成が使用された。
=== 特別装飾 ===
[[File:Tokyo-Metro-Series-01-630_Kumamon.jpg|thumb|240px|くまモンのラッピングが施された第30編成(2017年2月 渋谷駅 - 表参道駅間)]]
* [[1997年]](平成9年)11月24日から[[1998年]](平成10年)3月まで、第22編成が「地下鉄走って70年」記念列車に使用された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/TW/70anniv.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980630200051/http://www.tokyometro.go.jp/TW/70anniv.html|title=銀座線に「70年記念列車」登場|archivedate=1998-06-30|accessdate=2021-07-18|publisher=営団地下鉄|language=日本語|deadlinkdate=}} {{Wayback|url=http://www.tokyometro.go.jp/TW/70anniv.html |date=20010220063556 }}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/97-20.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980630203219/http://www.tokyometro.go.jp/news/97-20.html|language=日本語|title=人にやさしい、より親しまれる地下鉄を目指して「70年記念列車」登場 未体験ゾーンの運転にご招待! 『地下鉄走って70年』記念イベント|publisher=営団地下鉄|date=1997-09-24|accessdate=2021-07-18|archivedate=2021-07-}}</ref>。先頭車には開業当時の[[東京地下鉄道1000形電車|1000形]]をイメージした黄色い車体色や[[リベット]]の模様がステッカーにより再現された<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1998-3 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 32 |issue = 3 |page = 90 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]の民営化を記念した東京メトロ始発列車発車式には第35編成が使用された。前面には「祝 東京メトロ誕生」のステッカーと車体に記念[[ラッピング車両|ラッピング]]を施して運転された。
* 2007年(平成19年)[[12月2日]]から2008年(平成20年)[[1月11日]]まで、第17編成が80周年記念のラッピング電車として運行された。こちらは6両全車が1000形をイメージした車体カラーになっていた。
* [[2017年]](平成29年)には、前年の[[熊本地震 (2016年)|平成28年熊本地震]]からの復興を祈願し、第30編成にくまモンのラッピングが施され、2017年(平成29年)[[1月1日]]から同年[[2月24日]]まで運行した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20161227_g54_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210128064620/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20161227_g54_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=熊本県の復興を支援します! 銀座線「くまモンラッピング電車」期間限定で運行! 2017年1月1日(日・祝)〜2月24日(金)まで|publisher=東京地下鉄/熊本県東京事務所|date=2016-12-27|accessdate=2021-01-28|archivedate=2021-01-28}}</ref>。
== 1000系導入による置き換え ==
2010年度時点での東京メトロでは、工場検査の入場時期となる4年を基準に車両改修時期を定めており<ref>日本鉄道車両機械技術協会「R&m」2010年9月号「千代田線16000系車両の登場にあたって」</ref>、本系列に関しても車両改修時期に達していたものの、[[ワンマン運転]]や[[ホームドア]]の設置や昇圧が検討段階にあった<ref>郷田恒雄「〜その後の東京メトロ・東武・西武の話題〜」『鉄道ファン』2009年6月号(通巻578号) 66p, 交友社</ref><ref>鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2012年12月臨時増刊号鉄道車両年鑑2012年版記事</ref><ref>郷田恒雄「東京メトロ フレッシュアップ!」『鉄道ファン』2015年10月号(通巻666号) 95p, 交友社</ref><ref>[http://response.jp/article/2017/01/11/288143.html 新型だけど「旧型」?…東京メトロ、銀座線「特別仕様車」公開] {{Wayback|url=http://response.jp/article/2017/01/11/288143.html |date=20170114150201 }} - Response 2017年1月11日</ref>。しかし、銀座線車両は小形であり、これらの対応改造などが困難かつ01系がワンマン運転に対応できない仕様であったこと、さらに01系編成全体の半分以上を占める一次車が車齢30年に迫っていたこともあり、[[東京メトロ1000系電車|1000系]]車両の導入に伴い置き換えられることになった<ref>鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2011年10月臨時増刊号鉄道車両年鑑2011年版記事</ref>。
置き換え車となる1000系は2012年4月11日から1編成が営業運転を開始した<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120326_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718123228/http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120326_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ホームページで運行ダイヤをお知らせいたします 銀座線新型車両1000系いよいよデビュー 平成24年4月11日(水)記念ヘッドマークを掲出|publisher=東京地下鉄|date=2012-03-26|accessdate=2021-01-28|archivedate=2017-07-18}}</ref>。2013年度に入り、第31編成(2013年4月1日付け除籍)を皮切りに本系列の廃車が開始されており<ref>交通新聞社「鉄道ダイヤ情報」2013年10月号「私鉄車両のうごき」</ref>、2017年3月10日をもって最後に残った第30編成が営業運転を終了<ref name="pr20170127" />、12日の中野検車区への廃車回送を兼ねた臨時団体列車をもって完全引退した。
廃車された車両のうち第35・36編成は[[筑紫車両基地|西鉄筑紫工場]]での改造を経て[[熊本電気鉄道]]へ譲渡され、同社の'''[[熊本電気鉄道01形電車|01形]]'''となった<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150518_k93.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210121121023/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150518_k93.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線01系が熊本へ移籍します 東京メトロ銀座線と熊本電鉄で01系車両譲渡記念列車を運行します 2015年5月23日(土)から6月7日(日)まで|publisher=東京地下鉄/熊本電気鉄道|date=2015-05-18|accessdate=2021-02-20|archivedate=2021-01-21}}</ref>。
また、複数箇所で車両の保存が行われている。
[[ファイル:Tokyo Metro 01-630 in Tokyo University.jpg|サムネイル|東京大学柏キャンパスの01-630号車。公開時に撮影。]]
* [[中野車両基地]]にて01-101編成のうち3両が動態保存されている<ref name="pr20170127">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170127_09.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170814215954/http://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170127_09.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線01系車両が引退します! 2017年3月10日(金)に営業運転終了|publisher=東京地下鉄|date=2017-01-27|accessdate=2020-11-14|archivedate=2017-08-14}}</ref>。
* [[東京メトロ東西線|東西線]][[葛西駅]]高架下にある[[地下鉄博物館]]では、[[2016年]](平成28年)[[7月12日]]に開館30周年を迎えたことを記念し、同日より本系列の展示を開始した。展示されたのは第29編成の渋谷方先頭車01-129で、先頭部のみのカットモデルではあるものの本系列の展示はこれが初の事例である。
* [[東京大学]]柏キャンパスにて01-130編成(銀座線での最後の営業運転を行った編成)の6号車(01-630号車)が実験用に使われている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metronews20170515_50.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201213081716/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metronews20170515_50.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線01系車両(01-630号車)を東京大学に譲渡しました 東京大学生産技術研究所において研究用車両として活躍されます|publisher=東京地下鉄|date=2017-05-15|accessdate=2021-01-28|archivedate=2020-12-13}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.nozomi.iis.u-tokyo.ac.jp/kashiwa20170515/WEB%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8%EF%BC%BF201705171100.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210128065534/http://www.nozomi.iis.u-tokyo.ac.jp/kashiwa20170515/WEB%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8%EF%BC%BF201705171100.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京大学 生産技術研究所 附属千葉実験所 ITS R&R 実験フィールド 千葉試験線2.0で活用する 新たな研究用車両の導入について|publisher=東京大学生産技術研究所次世代モビリティ研究センター|date=2017-05-15|accessdate=2021-01-28|archivedate=2021-01-28}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 帝都高速度交通営団『60年のあゆみ - 営団地下鉄車両2000両突破記念 - 』
* 交通新聞社『営団地下鉄車両写真集 - 4Sを支えてきた車両たち - 』(金子元昭 著)
* [[日本鉄道運転協会]]「運転協会誌」2002年6月号「営団0系車両のデザイン」(岩根喜広 帝都高速度交通営団・車両部設計課 主任)
* [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』
** 1983年 8月号 新車ガイド「営団銀座線に試作車01系登場」(帝都高速度交通営団 車両部設計課長 刈田威彦 著)
** 1985年5月号「営団地下鉄新車の話題」(営団地下鉄車両部設計課 加藤吉泰 著)
** 1991年 9月号 特集「営団地下鉄50年/6000系電車20年」
** 1993年10月号 CAR INFO「営団01系VVVF車」
** 1996年10月号 特集「カラフル営団地下鉄2401両」
** 2004年 9月号 特集「東京メトロ」
* [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]『[[鉄道ピクトリアル]]』
** 1983年 8月号 新車ガイド「営団地下鉄銀座線用 01系試作車」(帝都高速度交通営団 車両部長 里田 啓 著)
** 1995年 7月臨時増刊号 「帝都高速度交通営団特集」
** 1999年 3月号 特集「電機子チョッパ車の30年」
** 2005年 4月号臨時増刊号 「東京地下鉄特集」
** 新車年鑑/鉄道車両年鑑 1984年版以降の各年版
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.tokyometro.jp/corporate/data/sharyo/rosen_ginza01.html 線別車両紹介(東京メトロの車両 > 銀座線01系)] - 東京地下鉄
* 三菱電機『三菱電機技報』
** 1984年12月号「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1984(vol58)/Vol58_12.pdf 車両推進制御装置におけるGTOの応用」]}}」pp.10 - 14
** 1987年2月号「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1987(vol61)/Vol61_02.pdf 最近の車両推進制御システム」]}}」pp.14 - 19
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営団06系電車
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営団06系電車(えいだん06けいでんしゃ)は、帝都高速度交通営団(営団)が設計・製造した通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
1993年(平成5年)3月のダイヤ改正で実施された千代田線輸送力増強の際、営団受け持ちの車両運用が1本増加することになった。ただし、6000系は量産車の登場から約20年が経過していたため、同系列の増備ではなく新設計の車両を製造することとなった。
設計にあたっては「Gentle & Mild」をメインテーマとし、列車に関わる全ての人と環境にやさしくあるよう設計した。人とは「乗客、乗務員、検修員、製造作業員」を、環境とは「車内居住環境(音・光・空調など)、社会環境(振動・騒音・リサイクル)」のことを表している。これは、21世紀を目指した車両は「人と環境に心を配り、おだやかで上品であること」を必要としたためである 。このメインテーマを元にして、外観・内装・機器などを一貫した設計を実施した。
同時期に落成した東京メトロ東西線の07系とは基本設計を共通としている。この頃は営団各線で旧世代系列の車両交代が盛んだったため、本系列と類似の仕様を搭載した0x系シリーズの新車が他の営団線にも大量に製造・投入された。製造費用は14億1,063万6,000円である。
外観デザインは「おだやかで、上品な中にやさしさを持ち、長くお客様に親しまれること」をデザインコンセプトにした。車体はアルミニウム合金製で、01系以来となる大形押出形材を組み合わせた工法で製作されている。外観には千代田線のラインカラーである「グリーン」に、白とパープルの細いラインを組み合わせ、「おだやかで落ちついた感じ」をイメージさせた。
前面は約14度の後退角を付け、全体的に丸みを帯びた形状とし、フロントガラスは側面にまで周りこませた曲面ガラスとした。車両側面では屋根を高くし、いわゆる張り上げ屋根タイプとした。先頭車前面下部には排障器(スカート)を装着する。また、地下鉄線内におけるプラグドア式非常口と非常階段が設けられている。
全長を20m程度に収めて、さらに運転室を従来車よりも広く確保するために、車内の座席定員配置を6000系の「3・7・7・7・3」ではなく「4・6・7・6・4」とした。そのため、先頭車では4人がけ座席に相当する部分が運転室のスペースとなり、先頭車では全長は20m より7cm だけ長くなった。後年に車両間転落防止幌が設置された。
前面と側面の行先表示器はLED式である。さらに小田急線内における優等列車での使用のために通過標識灯を設置していたが、1998年(平成10年)4月に同線での使用が停止された。
冷房装置は集中式とし、外観では端部にFRP製のカバーを取り付け、丸みを帯びた形状とした。装置は日立製作所製の外気導入形インバータ制御方式(FTUR300-206形)で、能力は48.84 kW (42,000 kcal/h) である。インバータ制御方式とすることで、きめ細かな温度制御や省エネルギー効果を高めている。空調運転モードは「冷房」・「暖房」・「除湿」・「全自動」・「送風」があり、全自動では内蔵のカレンダー機能や車内外の気温に応じて、冷房・暖房・除湿から自動選択されるものである。車内の冷房風道はラインフローファン方式を採用し、補助送風機(ラインデリア)は先頭車に9台、中間車に10台を設置している。
内装は千代田線沿線の日暮里・千代田・赤坂・神宮前といった歴史ある格式高い街のイメージから日本庭園をイメージさせる和風のデザインとした。デザインコンセプトは07系では「上品で活気あふれる雰囲気」を目指したが、本系列では「おだやかで落ち着いた雰囲気」をめざした。
化粧板は和紙をイメージした香色のものとし、落ち着いた雰囲気を目指した(「香遊」柄)。床敷物は日本庭園の「そよ風に鳴る松の葉音」イメージした「松籟(しょうらい)」柄と称するもので、外側を浅紫色の砂目模様、中央部は「松葉」を浅紫色と利休鼠色で表現した。
車両の屋根曲線の改良や空調ダクトの扁平化など工夫をすることで、天井高さ 2,230 mm とし、従来車両よりも 88 mm 高くした。さらに袖仕切の握り棒は車外に向かって広がるようにし、圧迫感を減らすようにした。
座席表地は山藍色(エメラルド色系)を基調に、細かな砂目模様の入ったもので、「風流樹(かぜりゅうじゅ)」柄と称する。1人分の着座幅を従来の 430mmから450mmに拡大し、バケットシートを採用した。袖仕切部の仕切パイプ(サイドバー)には腰掛と同じモケットを貼り付けしている。2012年には座席間のスタンションポールが増設された。網棚はステンレス線を格子状に溶接したものを使用している。
座席配置の関係で扉間隔が異なり、側窓もすべて大きさが異なる。ガラスはピラーによる分割はなく見通しのよい1枚窓とされ、6人掛座席部の窓のみが開閉する(それ以外は固定窓)。カーテンも幅の広いものとなるが、座席端でも操作しやすいようフリーストップ式を採用している。なお、優先席部は青色の座席であり、この付近のつり革はオレンジ色のものに交換されているが、一般席部のつり革は白色のままである。
本系列では千代田線を走行する車両では初めて車椅子スペースを設置し、車椅子での乗降を考慮して車両床面は6000系の 1,200 mm よりも 50 mm 低い 1,150mm とし、さらに連結面通路幅は 900mm に拡大した。この車椅子スペースは編成中の2号車と9号車に設置され、このスペースには安全手すり、乗務員と通話可能な非常通報装置が用意されている。
客用ドアの窓ガラスは複層ガラスを採用し、各車端部にある連結間貫通扉はガラスが下方向に拡大されたものとなった他、妻面窓は廃止された。
2007年(平成19年)頃には当時新製が進んでいた有楽町線・副都心線向けの10000系と同じく号車札や非常用コック、非常通報器、消火器札などの表記類を蓄光性のシールに変更を実施した。
LED式車内案内表示器(16×16ドットで1文字を表示、11枚ある。16×176ドットで構成)を各客用ドア上部に装備し、次駅および乗り換え案内などの表示が可能になった。表示器は端が丸みを帯びた形状であり、ドアチャイムも鳴動する。この他に自動放送装置を搭載しており、6000系と同様に千代田線と小田急線内で使用されている。車外案内用には車外スピーカーが設置されており、車掌による車外放送や押しボタン操作による「ドアが閉まります。手荷物をお引き下さい」のアナウンスが2回流れる乗降促進放送が操作できる。
乗務員の操作性、居住性の向上と前方視野の拡大、客室からの眺望を配慮した機器形状、色彩とした。機器配置の関係から、奥行きは広く線路方向に約 1,900mm 確保されている。室内はアイボリー色の配色、運転台計器盤はダークグレーの配色である。
運転台は6000系と同様にマスコンハンドルとブレーキハンドルが個別に配置されているが、ブレーキハンドルは固定式である。速度計は 120 km/h 表示で、新CS-ATCに対応した白地で2針式のものである。運転台の右側には車両情報管理装置 (TIS) のモニター画面があり、乗り入れ先の機器などが多い乗務員室機器を出来るだけ集約してユニット化し、凹凸を減らした。
運転室と客室の仕切部には日比谷線用の03系と同様に運転台背後に大窓が1枚、客室から見て右側に窓入りの仕切扉がある。遮光幕は背面の大窓のみ設置されている。当初より大窓はややスモークの入ったガラスを使用している。仕切扉窓は当初は透明であったが、フロントガラスへの反射が大きいのでこちらも後年にスモークの入ったガラスとなった。
同時期に設計・製造された07系と基本的な性能は共通で、設計最高速度 110km/h 、起動加速度 3.3km/h/s である。ただし減速度は07系と異なり、常用 3.7km/h/s・非常 4.7km/h/s である。
主回路は東芝製のVVVFインバータ制御であるが、制御素子には日本の鉄道車両で初めてIGBT(素子耐圧 1,500 V - 600 A)が採用された。1基の制御装置に対して1個の主電動機を駆動する(1C1M制御)3レベル方式である。
10両編成のうち4両が205kW主電動機を4基搭載する動力車 (M) 、6両が付随車 (T) のMT比 4M6T ながら、6M4T の6000系と同等の性能を確保している。歯車比は 7.79 と高めに設定されている。また、万が一1個の主電動機が故障しても、1C1M制御であるために性能の低下を防ぐことが出来る。
この制御装置の採用にあたっては東西線用の05系において1992年(平成4年)5月から7月にかけて東芝・三菱・日立の順番でIGBT素子によるVVVFインバータ装置を取り付け、実車走行試験を実施した。この走行試験結果を受けて本形式の採用に至った。
集電装置は6000系と同様の菱形パンタグラフだが、本形式では車体屋根を高くしたため、折りたたみ高さを 400 mm から 330 mm に変更したPT4322S形パンタグラフを採用した。空気圧縮機 (CP) は03系で実績のある誘導電動機駆動のレシプロ式C-2500LB形を搭載する。
補助電源装置にはIGBT素子を使用した三菱電機製のDC-DCコンバータ(出力 170kW)を採用した。これは架線からの直流 1,500 V を直流 600 V に降圧するもので、これを空気圧縮機や冷房装置に供給する。そのほかの交流回路には静止形インバータ (SIV) や変圧器で単相交流 200 V・100 V に変換して使用する。直流回路には整流器により直流 100 V・24 V が出力される。
ブレーキ装置は回生ブレーキ併用の全電気指令式空気ブレーキとし、保安ブレーキ、降雪時に使用する耐雪ブレーキを設置する。
ブレーキ制御には1両の電動車が自車を組めた2.5両分の回生ブレーキを負担する「1M1.5T新遅れ込め制御方式」を採用した。この新遅れ込め制御方式は、従来よりも回生ブレーキ性能の向上と制輪子減少を図れる新しい方式である。
台車は新たに設計したもので、営団地下鉄における次世代の標準台車を目指したものとして「曲線通過性能向上」「メンテナンス省力化」「軽量化・高粘着化」を設計の基本とした。これには住友金属工業製のモノリンク式軸箱支持方式ボルスタレス台車(動力台車はSS135形・付随台車はSS035形)を採用しており、基礎ブレーキにはユニットブレーキを使用している。
本系列においても03系以来となる車両制御情報管理装置(通称:TIS・Train Control Information Management System)を搭載している。これにより運転情報が集中管理され、乗務員の支援や検修時の効率的な運用を可能としている。さらに本系列においては車両間の伝送線に光ケーブルを採用し、マスコン指令や常用ブレーキ指令などの制御伝送機能を有している。運転台表示器はカラー液晶画面を採用するなど操作性の向上を図ったものとした。また、本系列で使用される装置は、三菱製の機器で称される「TIS」の名称が使用されているが、実際には日立製「ATI・Autonomous Train Integration」が搭載されている。
保安装置には当初よりCS-ATC装置(ATC-4型)を搭載し、小田急線用としてOM-ATSを搭載していた。1999年(平成11年)11月27日の千代田線新CS-ATC化を控えた同年9月30日付で、新CS-ATC(ATC-10型)対応工事が実施された。内容としてはATC車上装置の更新、速度計の双針式(黒針は速度現示用、赤針はATC過走防護信号 (ORP・Over Run Protector) の制限速度表示用)への交換などが施工された。2012年には小田急線用の新保安装置D-ATS-P装置の取り付けが行われている。
2010年(平成22年)2月から営業運転を開始した丸ノ内線02系大規模改修工事車(直流600V用PMSM主回路システム実用車)に続いて、直流1,500 V 用PMSM主回路システムの実車試験が行われた。試験は、第7車両(06-701号車)に東芝製のPMSM主回路システム(VVVFインバータ装置、永久磁石同期電動機(出力205 kW)、断流器等)を艤装した。それ以外の電動車は、IM(誘導電動機)システムのままとした。実車試験は2010年(平成22年)6月30日 - 7月23日にかけて営業列車終了後に実施した。その後、本形式で使用したPMSM主回路システムは、若干の改良を加えることで後継車種の16000系で採用した。
1992年(平成4年)12月に10両編成1本が落成し、営業運転は1993年3月18日から開始された。営業運行開始後しばらくは電動車比率の関係から小田急線には入線しなかったが、後に区別することなく6000系・16000系と共通で運用されるようになった。千代田線はその後も営団→東京メトロ受け持ちの車両運用数に変化がなく、2編成目以降が追加投入されることはなかった。
臨時列車では東京湾大華火祭等のイベント開催に際して、有楽町線に直通する列車に充当された。
その後、2010年(平成22年)から6000系の置き換え用として16000系が順次導入され、千代田線で運用される自社車両を16000系に統一するとともにホームドアの設置が決定したことから、ホームドアに対応できない本形式は他線区に転用されることなく2015年(平成27年)8月8日(資料によっては9月22日)付で廃車された。
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "乗務員の操作性、居住性の向上と前方視野の拡大、客室からの眺望を配慮した機器形状、色彩とした。機器配置の関係から、奥行きは広く線路方向に約 1,900mm 確保されている。室内はアイボリー色の配色、運転台計器盤はダークグレーの配色である。",
"title": "車両概説"
},
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "運転台は6000系と同様にマスコンハンドルとブレーキハンドルが個別に配置されているが、ブレーキハンドルは固定式である。速度計は 120 km/h 表示で、新CS-ATCに対応した白地で2針式のものである。運転台の右側には車両情報管理装置 (TIS) のモニター画面があり、乗り入れ先の機器などが多い乗務員室機器を出来るだけ集約してユニット化し、凹凸を減らした。",
"title": "車両概説"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "運転室と客室の仕切部には日比谷線用の03系と同様に運転台背後に大窓が1枚、客室から見て右側に窓入りの仕切扉がある。遮光幕は背面の大窓のみ設置されている。当初より大窓はややスモークの入ったガラスを使用している。仕切扉窓は当初は透明であったが、フロントガラスへの反射が大きいのでこちらも後年にスモークの入ったガラスとなった。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "同時期に設計・製造された07系と基本的な性能は共通で、設計最高速度 110km/h 、起動加速度 3.3km/h/s である。ただし減速度は07系と異なり、常用 3.7km/h/s・非常 4.7km/h/s である。",
"title": "車両概説"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "主回路は東芝製のVVVFインバータ制御であるが、制御素子には日本の鉄道車両で初めてIGBT(素子耐圧 1,500 V - 600 A)が採用された。1基の制御装置に対して1個の主電動機を駆動する(1C1M制御)3レベル方式である。",
"title": "車両概説"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "10両編成のうち4両が205kW主電動機を4基搭載する動力車 (M) 、6両が付随車 (T) のMT比 4M6T ながら、6M4T の6000系と同等の性能を確保している。歯車比は 7.79 と高めに設定されている。また、万が一1個の主電動機が故障しても、1C1M制御であるために性能の低下を防ぐことが出来る。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "この制御装置の採用にあたっては東西線用の05系において1992年(平成4年)5月から7月にかけて東芝・三菱・日立の順番でIGBT素子によるVVVFインバータ装置を取り付け、実車走行試験を実施した。この走行試験結果を受けて本形式の採用に至った。",
"title": "車両概説"
},
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "集電装置は6000系と同様の菱形パンタグラフだが、本形式では車体屋根を高くしたため、折りたたみ高さを 400 mm から 330 mm に変更したPT4322S形パンタグラフを採用した。空気圧縮機 (CP) は03系で実績のある誘導電動機駆動のレシプロ式C-2500LB形を搭載する。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "補助電源装置にはIGBT素子を使用した三菱電機製のDC-DCコンバータ(出力 170kW)を採用した。これは架線からの直流 1,500 V を直流 600 V に降圧するもので、これを空気圧縮機や冷房装置に供給する。そのほかの交流回路には静止形インバータ (SIV) や変圧器で単相交流 200 V・100 V に変換して使用する。直流回路には整流器により直流 100 V・24 V が出力される。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ブレーキ装置は回生ブレーキ併用の全電気指令式空気ブレーキとし、保安ブレーキ、降雪時に使用する耐雪ブレーキを設置する。",
"title": "車両概説"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ブレーキ制御には1両の電動車が自車を組めた2.5両分の回生ブレーキを負担する「1M1.5T新遅れ込め制御方式」を採用した。この新遅れ込め制御方式は、従来よりも回生ブレーキ性能の向上と制輪子減少を図れる新しい方式である。",
"title": "車両概説"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "台車は新たに設計したもので、営団地下鉄における次世代の標準台車を目指したものとして「曲線通過性能向上」「メンテナンス省力化」「軽量化・高粘着化」を設計の基本とした。これには住友金属工業製のモノリンク式軸箱支持方式ボルスタレス台車(動力台車はSS135形・付随台車はSS035形)を採用しており、基礎ブレーキにはユニットブレーキを使用している。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "本系列においても03系以来となる車両制御情報管理装置(通称:TIS・Train Control Information Management System)を搭載している。これにより運転情報が集中管理され、乗務員の支援や検修時の効率的な運用を可能としている。さらに本系列においては車両間の伝送線に光ケーブルを採用し、マスコン指令や常用ブレーキ指令などの制御伝送機能を有している。運転台表示器はカラー液晶画面を採用するなど操作性の向上を図ったものとした。また、本系列で使用される装置は、三菱製の機器で称される「TIS」の名称が使用されているが、実際には日立製「ATI・Autonomous Train Integration」が搭載されている。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "保安装置には当初よりCS-ATC装置(ATC-4型)を搭載し、小田急線用としてOM-ATSを搭載していた。1999年(平成11年)11月27日の千代田線新CS-ATC化を控えた同年9月30日付で、新CS-ATC(ATC-10型)対応工事が実施された。内容としてはATC車上装置の更新、速度計の双針式(黒針は速度現示用、赤針はATC過走防護信号 (ORP・Over Run Protector) の制限速度表示用)への交換などが施工された。2012年には小田急線用の新保安装置D-ATS-P装置の取り付けが行われている。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2010年(平成22年)2月から営業運転を開始した丸ノ内線02系大規模改修工事車(直流600V用PMSM主回路システム実用車)に続いて、直流1,500 V 用PMSM主回路システムの実車試験が行われた。試験は、第7車両(06-701号車)に東芝製のPMSM主回路システム(VVVFインバータ装置、永久磁石同期電動機(出力205 kW)、断流器等)を艤装した。それ以外の電動車は、IM(誘導電動機)システムのままとした。実車試験は2010年(平成22年)6月30日 - 7月23日にかけて営業列車終了後に実施した。その後、本形式で使用したPMSM主回路システムは、若干の改良を加えることで後継車種の16000系で採用した。",
"title": "本形式を用いた試験"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1992年(平成4年)12月に10両編成1本が落成し、営業運転は1993年3月18日から開始された。営業運行開始後しばらくは電動車比率の関係から小田急線には入線しなかったが、後に区別することなく6000系・16000系と共通で運用されるようになった。千代田線はその後も営団→東京メトロ受け持ちの車両運用数に変化がなく、2編成目以降が追加投入されることはなかった。",
"title": "運用"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "臨時列車では東京湾大華火祭等のイベント開催に際して、有楽町線に直通する列車に充当された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "その後、2010年(平成22年)から6000系の置き換え用として16000系が順次導入され、千代田線で運用される自社車両を16000系に統一するとともにホームドアの設置が決定したことから、ホームドアに対応できない本形式は他線区に転用されることなく2015年(平成27年)8月8日(資料によっては9月22日)付で廃車された。",
"title": "運用"
}
] |
営団06系電車(えいだん06けいでんしゃ)は、帝都高速度交通営団(営団)が設計・製造した通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
|
{{鉄道車両
| 車両名 = 営団地下鉄06系電車
| 背景色 = #109ED4
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Model_06_of_Teito_Rapid_Transit_Authority.JPG
| 画像説明 = 営団06系電車<br/ >(2006年6月5日 [[向ヶ丘遊園駅]])
| 運用者 = [[帝都高速度交通営団]]<br />[[東京地下鉄]]
| 製造所 = [[川崎重工業]][[川崎車両|車両カンパニー]]
| 製造年 = 1992年
| 製造数 = 1編成10両
| 運用開始 = 1993年3月18日
| 廃車 = 2015年
| 投入先 = [[東京メトロ千代田線|千代田線]]
| 編成 = 10両編成
| 軌間 = 1,067 mm([[狭軌]])
| 電気方式 = [[直流電化|直流]] 1,500 [[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]])
| 最高運転速度 = 80 [[キロメートル毎時|km/h]](千代田線内)<br/>90 km/h(常磐緩行線内)<br/>100 km/h(小田急線内)
| 設計最高速度 = 110 km/h
| 起動加速度 = 3.3 [[メートル毎秒毎秒|km/h/s]]
| 常用減速度 = 3.7 km/h/s
| 非常減速度 = 4.7 km/h/s
| 編成定員 = 1,494人(座席 520人)
| 車両定員 = 先頭車:138人(座席 46人)<br/>中間車:152人(座席 54人)<br/>車いすスペース付中間車:153人(座席 52人)
| 自重 = 21.8 - 32.4 [[トン|t]]
| 編成重量 = 271.1 t
| 全長 = 先頭車 20,070 mm<br/>中間車 20,000 mm<!-- 各項目のカンマは消さないこと -->
| 全幅 = 2,800 mm
| 全高 = 4,080 mm<!-- SRアンテナは含まない --><br/> 4,140 mm(パンタグラフ付き車両)
| 台車 = モノリンク式ボルスタレス台車<br/>SS135形・SS035形
| 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]
| 主電動機出力 = 定格出力 205 [[ワット|kW]] × 4基
| 駆動方式 = [[WN駆動方式|WNドライブ]]
| 歯車比 = 109:14 (7.79)
| 編成出力 = 3,280 kW
| 制御方式 = [[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]
| 制御装置 =
| 制動装置 = ATC連動[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]([[回生ブレーキ]]併用)
| 保安装置 = [[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]](ATC-10型)<br/>[[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|OM-ATS]]<br/>[[自動列車停止装置#D-ATS-P(デジタルATS-P)形|D-ATS-P]]
| 備考 =
}}
'''営団06系電車'''(えいだん06けいでんしゃ)は、[[帝都高速度交通営団]](営団)が設計・製造した[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である<ref name="RP1993">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1993年10月臨時増刊号新車年鑑1993年版「帝都高速度交通営団06系・07系」</ref>。[[2004年]](平成16年)4月の営団民営化にともない、[[東京地下鉄]](東京メトロ)に継承された。
== 概要 ==
[[1993年]]([[平成]]5年)3月のダイヤ改正で実施された[[東京メトロ千代田線|千代田線]]輸送力増強の際、営団受け持ちの車両運用が1本増加することになった<ref>[[交友社]]「[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]」2004年9月号「東京メトロ特集」42頁「営団地下鉄の60年」</ref>。ただし、[[営団6000系電車|6000系]]は量産車の登場から約20年が経過していたため、同系列の増備ではなく新設計の車両を製造することとなった<ref name="RF1993-3-1">交友社「鉄道ファン」1993年3月号新車ガイド1「営団千代田線用06系・有楽町線用07系」54-57頁</ref>。
設計にあたっては'''「Gentle & Mild」'''をメインテーマとし、列車に関わる全ての人と環境にやさしくあるよう設計した<ref name="RP1993" />。人とは「乗客、乗務員、検修員、製造作業員」を、環境とは「車内居住環境(音・光・空調など)、社会環境(振動・騒音・リサイクル)」のことを表している<ref name="RP1993" />。これは、21世紀を目指した車両は「人と環境に心を配り、おだやかで上品であること」を必要としたためである 。このメインテーマを元にして、外観・内装・機器などを一貫した設計を実施した<ref name="RF1993-3-1" />。
同時期に落成した東京メトロ東西線の[[営団07系電車|07系]]とは基本設計を共通としている。この頃は営団各線で旧世代系列の車両交代が盛んだったため、本系列と類似の仕様を搭載した0x系シリーズの新車が他の営団線にも大量に製造・投入された。製造費用は14億1,063万6,000円である<ref name="Namboku-Const142">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.142の「平成4年度新線建設費支出 千代田線」。</ref>。
== 車両概説 ==
=== 車体 ===
外観デザインは「おだやかで、上品な中にやさしさを持ち、長くお客様に親しまれること」をデザイン[[概念|コンセプト]]にした<ref name="RF1993-3-1" />。車体は[[アルミニウム合金]]製で、[[営団01系電車|01系]]以来となる大形押出形材を組み合わせた工法で製作されている<ref name="RP1993" />。外観には千代田線の[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]である「グリーン」に、白とパープルの細いラインを組み合わせ、「おだやかで落ちついた感じ」をイメージさせた<ref name="RF1993-3-1" />。
前面は約14度の後退角を付け、全体的に丸みを帯びた形状とし、フロントガラスは側面にまで周りこませた曲面ガラスとした<ref name="RF1993-3-1" />。車両側面では屋根を高くし、いわゆる張り上げ屋根タイプとした<ref name="RF1993-3-1" />。先頭車前面下部には[[排障器]](スカート)を装着する<ref name="RF1993-3-1" />。また、地下鉄線内における[[プラグドア]]式非常口と[[梯子|非常階段]]が設けられている。
全長を20m程度に収めて、さらに[[操縦席|運転室]]を従来車よりも広く確保するために、車内の座席定員配置を6000系の「3・7・7・7・3」ではなく「4・6・7・6・4」とした<ref name="RF1993-3-1"/>。そのため、先頭車では4人がけ座席に相当する部分が運転室のスペースとなり、先頭車では全長は20[[メートル|m]] より7[[センチメートル|cm]] だけ長くなった<ref name="RF1993-3-1"/>。後年に車両間[[転落防止幌]]が設置された。
[[File:Metoro 06.jpg|thumb|240px|丸みを帯びた先頭形状]]
[[File:Outside LED Information Board of TRTA 06.jpg|thumb|240px|LED式種別行先案内板]]
前面と側面の[[方向幕|行先表示器]]はLED式である。さらに小田急線内における[[優等列車]]での使用のために[[通過標識灯]]を設置していたが、[[1998年]](平成10年)4月に同線での使用が停止された。
[[エア・コンディショナー|冷房装置]]は[[集中式冷房装置|集中式]]とし、外観では端部に[[繊維強化プラスチック|FRP]]製のカバーを取り付け、丸みを帯びた形状とした。装置は[[日立製作所]]製の外気導入形インバータ制御方式(FTUR300-206形)で、能力は48.84 kW (42,000 kcal/h) である<ref name="RF1993-3-1"/>。インバータ制御方式とすることで、きめ細かな温度制御や[[省エネルギー]]効果を高めている<ref name="RP1993" />{{refnest|group="注"|ただし、東京メトロは後年、この方式では夏季の温度上昇に対応出来ない欠点があると評している<ref>営団地下鉄「東京地下鉄道半蔵門線建設史」</ref>。}}。空調運転モードは「冷房」・「[[暖房]]」・「除湿」・「全自動」・「送風」があり、全自動では内蔵の[[カレンダー]]機能や車内外の気温に応じて、冷房・暖房・除湿から自動選択されるものである<ref name="RP1993" />。車内の冷房風道はラインフローファン方式を採用し、補助送風機(ラインデリア)は先頭車に9台、中間車に10台を設置している。
=== 内装 ===
内装は千代田線沿線の[[日暮里駅|日暮里]]・[[千代田区|千代田]]・[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]・[[原宿|神宮前]]といった歴史ある格式高い街のイメージから'''[[日本庭園]]'''をイメージさせる和風のデザインとした<ref name="RF1993-3-1" />。デザインコンセプトは07系では「上品で活気あふれる雰囲気」を目指したが、本系列では「'''おだやかで落ち着いた雰囲気'''」をめざした<ref name="RF1993-3-1" />。
[[デコラ|化粧板]]は[[和紙]]をイメージした香色<ref name="Neko-TokyoMetro-171">[[ネコ・パブリッシング]]『公式パンフレットで見る東京地下鉄車両のあゆみ - 1000形から1000系まで」p.171。</ref>のものとし、落ち着いた雰囲気を目指した(「香遊」<ref name="Neko-TokyoMetro-171" />柄)。床敷物は日本庭園の「そよ風に鳴る松の葉音」イメージした「松籟(しょうらい)」柄<ref name="Neko-TokyoMetro-171" />と称するもので、外側を[[浅紫|浅紫色]]の砂目模様、中央部は「松葉」を浅紫色と[[利休鼠|利休鼠色]]で表現した<ref name="RF1993-3-1" /><ref name="Neko-TokyoMetro-171" />。
車両の屋根曲線の改良や空調ダクトの扁平化など工夫をすることで、天井高さ 2,230 mm とし、従来車両よりも 88 mm 高くした<ref name="RP1993"/><ref name="RP1995">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1995年8月臨時増刊号「帝都高速度交通営団特集224・225頁」</ref>。さらに袖仕切の握り棒は車外に向かって広がるようにし、圧迫感を減らすようにした<ref name="RP1993"/>。
[[鉄道車両の座席|座席表地]]は山藍色(エメラルド色系)<ref name="Neko-TokyoMetro-171"/>を基調に、細かな砂目模様の入ったもので、「風流樹(かぜりゅうじゅ)」柄と称する<ref name="Neko-TokyoMetro-171"/>。1人分の着座幅を従来の 430mmから450mmに拡大し、[[バケットシート]]を採用した<ref name="RF1993-3-2"/>。袖仕切部の仕切パイプ(サイドバー)には腰掛と同じモケットを貼り付けしている<ref name="RF1993-3-2"/>。2012年には座席間の[[スタンションポール]]が増設された。[[網棚]]は[[ステンレス鋼|ステンレス]]線を格子状に溶接したものを使用している。
座席配置の関係で扉間隔が異なり、側窓もすべて大きさが異なる<ref name="RF1993-3-2">交友社「鉄道ファン」1993年3月号新車ガイド1「営団千代田線用06系・有楽町線用07系」58-61頁</ref>。ガラスはピラーによる分割はなく見通しのよい1枚窓とされ、6人掛座席部の窓のみが開閉する(それ以外は固定窓)<ref name="RF1993-3-2"/>。カーテンも幅の広いものとなるが、座席端でも操作しやすいようフリーストップ式を採用している<ref name="RF1993-3-2"/>。なお、[[優先席]]部は青色の座席であり、この付近の[[つり革]]はオレンジ色のものに交換されているが、一般席部のつり革は白色のままである。
;車内の写真
<gallery>
Image:Inside of 06-101F.JPG|車内
Image:Seat of 06-101F.JPG|普通席(6人がけ)
Image:Priority seat of TRTA 06.jpg|優先席(4人がけ)
Image:Priority seat of TRTA 06 2.jpg|車椅子スペースおよび優先席<br />(2人がけ)
Image:LED information board of TRTA 06.jpg|LED式車内案内表示器
Image:Inside-TokyoMetro07-05.jpg|ステンレス線を組んだ網棚<br />(07系の同一品)
</gallery>
本系列では千代田線を走行する車両では初めて[[車椅子スペース]]を設置し、車椅子での乗降を考慮して車両床面は6000系の 1,200 mm よりも 50 mm 低い 1,150mm とし、さらに連結面通路幅は 900mm に拡大した<ref name="RP1995"/><ref name="RF1993-3-2"/>。この車椅子スペースは編成中の2号車と9号車に設置され、このスペースには安全手すり、乗務員と通話可能な[[車内非常通報装置|非常通報装置]]が用意されている<ref name="RF1993-3-2"/>。
客用ドアの窓ガラスは[[複層ガラス]]を採用し、各車端部にある連結間[[貫通扉]]はガラスが下方向に拡大されたものとなった他、妻面窓は廃止された<ref name="RP1995"/>。
[[2007年]](平成19年)頃には当時新製が進んでいた有楽町線・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]向けの[[東京メトロ10000系電車|10000系]]と同じく号車札や[[ドアコック|非常用コック]]、非常通報器、[[消火器]]札などの表記類を[[蓄光]]性のシールに変更を実施した。
[[発光ダイオード|LED]]式[[車内案内表示装置|車内案内表示器]](16×16ドットで1文字を表示、11枚ある。16×176ドットで構成)を各客用ドア上部に装備し、次駅および乗り換え案内などの表示が可能になった。表示器は端が丸みを帯びた形状であり、[[ドアチャイム]]も鳴動する。この他に[[車内放送|自動放送装置]]を搭載しており、6000系と同様に千代田線と小田急線内で使用されている。車外案内用には車外[[スピーカー]]が設置されており、[[車掌]]による車外放送や押しボタン操作による「ドアが閉まります。手荷物をお引き下さい」のアナウンスが2回流れる[[発車メロディ|乗降促進放送]]が操作できる。
=== 乗務員室 ===
[[File:TokyoMetro06-cab.JPG|thumb|250px|運転台]]
乗務員の操作性、居住性の向上と前方視野の拡大、客室からの眺望を配慮した機器形状、色彩とした。機器配置の関係から、奥行きは広く線路方向に約 1,900mm 確保されている。室内はアイボリー色の配色、運転台計器盤はダークグレーの配色である。
運転台は6000系と同様に[[マスター・コントローラー|マスコンハンドル]]とブレーキハンドルが個別に配置されているが、ブレーキハンドルは固定式である。[[速度計]]は 120 km/h 表示で、新CS-ATCに対応した白地で2針式のものである。運転台の右側には[[鉄道車両のモニタ装置|車両情報管理装置]] (TIS) のモニター画面があり、乗り入れ先の機器などが多い乗務員室機器を出来るだけ集約してユニット化し、凹凸を減らした。
運転室と客室の仕切部には[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]用の[[営団03系電車|03系]]と同様に運転台背後に大窓が1枚、客室から見て右側に窓入りの仕切扉がある。[[遮光幕]]は背面の大窓のみ設置されている。当初より大窓はややスモークの入ったガラスを使用している。仕切扉窓は当初は透明であったが、フロントガラスへの[[反射 (物理学)|反射]]が大きいのでこちらも後年にスモークの入ったガラスとなった。
=== 機器類 ===
同時期に設計・製造された07系と基本的な性能は共通で、設計最高速度 110km/h 、[[起動加速度]] 3.3km/h/s である。ただし減速度は07系と異なり、常用 3.7km/h/s・非常 4.7km/h/s である。
主回路は[[東芝]]製の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]であるが、制御素子には日本の鉄道車両で初めて[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]](素子耐圧 1,500 V - 600 A)が採用された<ref>東芝「東芝レビュー」1993年3月号「帝都高速度交通営団IGBT VVVFインバータシステム」p.241。</ref>。1基の制御装置に対して1個の[[かご形三相誘導電動機|主電動機]]を駆動する(1C1M制御)3レベル方式である。
10両編成のうち4両が205kW主電動機を4基搭載する[[動力車]] (M) 、6両が[[付随車]] (T) の[[MT比]] 4M6T ながら、6M4T の6000系と同等の性能を確保している。[[歯車比]]は 7.79 と高めに設定されている。また、万が一1個の主電動機が故障しても、1C1M制御であるために性能の低下を防ぐことが出来る。
この制御装置の採用にあたっては[[東京メトロ東西線|東西線]]用の[[営団05系電車|05系]]において[[1992年]](平成4年)5月から7月にかけて東芝・三菱・日立の順番でIGBT素子によるVVVFインバータ装置を取り付け、実車走行試験を実施した。この走行試験結果を受けて本形式の採用に至った<ref>鉄道ピクトリアル1995年7月臨時増刊号参照。</ref>。
;床下機器の写真
<gallery>
Image:Tokyometro06-VVVF.jpg|06系の東芝製VVVFインバータ装置<br />(SVF009-A0形)
Image:Tokyometro06-SS135.jpg|06系の動力台車、SS-135形
Image:Tokyometro06-SS035.jpg|06系の付随台車、SS-035形
Image:Tokyometro06-DDC.jpg|06系の補助電源装置<br />三菱電機製DC-DCコンバータ<br />(170kW出力・TN-AA170A形)
</gallery>
[[集電装置]]は6000系と同様の菱形[[パンタグラフ]]だが、本形式では車体屋根を高くしたため、折りたたみ高さを 400 mm から 330 mm に変更したPT4322S形パンタグラフを採用した。[[圧縮機|空気圧縮機]] (CP) は03系で実績のある[[誘導電動機]]駆動のレシプロ式C-2500LB形を搭載する。
補助電源装置にはIGBT素子を使用した[[三菱電機]]製のDC-DCコンバータ(出力 170[[ワット|kW]])を採用した<ref name="MITSUBISHI-EL1994-01">三菱電機『三菱電機技報』1994年1月号「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1994(vol68)/Vol68_01.pdf IGBT高周波リンク式DC/DCコンバータ」]}}」p.72。</ref>。これは[[架線]]からの[[直流]] 1,500 V を直流 600 V に降圧するもので、これを空気圧縮機や冷房装置に供給する。そのほかの交流回路には[[静止形インバータ]] (SIV) や[[変圧器]]で[[単相交流]] 200 V・100 V に変換して使用する。直流回路には[[整流器]]により直流 100 V・24 V が出力される。
ブレーキ装置は[[回生ブレーキ]]併用の[[電気指令式ブレーキ|全電気指令式空気ブレーキ]]とし、[[保安ブレーキ]]、降雪時に使用する[[鉄道のブレーキ#耐雪ブレーキ|対雪ブレーキ]]<ref group="注">営団地下鉄 - 東京地下鉄では耐雪ブレーキではなく'''対'''雪ブレーキの名称を使用する。</ref>を設置する<ref name="RP1995"/>。
ブレーキ制御には1両の電動車が自車を組めた2.5両分の回生ブレーキを負担する「1M1.5T新[[遅れ込め制御]]方式」を採用した<ref name="RP1995"/>。この新遅れ込め制御方式は、従来よりも回生ブレーキ性能の向上と[[制輪子]]減少を図れる新しい方式である。
[[鉄道車両の台車|台車]]は新たに設計したもので、営団地下鉄における次世代の標準台車を目指したものとして「曲線通過性能向上」「メンテナンス省力化」「軽量化・高粘着化」を設計の基本とした<ref name="RP1993"/>。これには[[住友金属工業]]製のモノリンク式軸箱支持方式ボルスタレス台車(動力台車はSS135形・付随台車はSS035形)を採用しており<ref name="RP1993"/>、基礎ブレーキには[[踏面ブレーキ|ユニットブレーキ]]を使用している。
本系列においても03系以来となる車両制御情報管理装置(通称:'''TIS'''・'''T'''rain Control '''I'''nformation Management '''S'''ystem)を搭載している。これにより運転情報が集中管理され、乗務員の支援や検修時の効率的な運用を可能としている<ref name="RP1993"/>。さらに本系列においては車両間の伝送線に[[光ファイバー|光ケーブル]]を採用し、マスコン指令や常用ブレーキ指令などの制御伝送機能を有している。運転台表示器はカラー液晶画面を採用するなど操作性の向上を図ったものとした<ref name="RP1993"/>。また、本系列で使用される装置は、三菱製の機器で称される「TIS」の名称が使用されているが、実際には日立製「'''ATI'''・'''A'''utonomous '''T'''rain '''I'''ntegration」が搭載されている<ref>{{PDFlink|[http://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1994/05/1994_05_06.pdf 最近の車両情報制御システム]}} - 日立評論1994年5月号</ref>。
保安装置には当初より[[自動列車制御装置|CS-ATC装置]](ATC-4型)を搭載し、小田急線用として[[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御・連続照査型))|OM-ATS]]を搭載していた。[[1999年]](平成11年)[[11月27日]]の千代田線[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]化を控えた同年[[9月30日]]付で、新CS-ATC(ATC-10型)対応工事が実施された<ref>鉄道ピクトリアル新車年鑑2000年版</ref>。内容としてはATC車上装置の更新、[[速度計]]の双針式(黒針は速度現示用、赤針はATC過走防護信号 ('''ORP'''・'''O'''ver '''R'''un '''P'''rotector<ref group="注">終端駅や留置線など「車止め」のある線に入線する際、ATCで速度を監視し、超過した場合に非常ブレーキを動作させる機能。</ref>) の制限速度表示用)への交換などが施工された。2012年には小田急線用の新保安装置[[自動列車停止装置#D-ATS-P(デジタルATS-P)形|D-ATS-P装置]]の取り付けが行われている<ref>[http://railf.jp/news/2012/12/10/140000.html 東京メトロ06系が小田急線内で試運転] {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2012/12/10/140000.html |date=20130321045014 }} - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2012年12月10日</ref>。
== 編成組成 ==
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-
|style="background-color:#ccc;"|
|colspan="10"|{{TrainDirection|[[唐木田駅|唐木田]]・[[代々木上原駅|代々木上原]]|[[綾瀬駅|綾瀬]]・[[取手駅|取手]]}}
|-style="border-top:solid 3px #c9c;"
!号車
|1||2||3||4||5||6||7||8||9||10
|-
!形式
|'''06-100形'''<br />(CT1)
|'''06-200形'''<br />(M1)
|'''06-300形'''<br />(T)
|'''06-400形'''<br />(M2)
|'''06-500形'''<br />(Tc1)
|'''06-600形'''<br />(Tc2)
|'''06-700形'''<br />(M3)
|'''06-800形'''<br />(T')
|'''06-900形'''<br />(M1)
|'''06-000形'''<br />(CT2)
|-
!搭載機器
| ||VVVF,CP,BT|| ||VVVF,BT||DDC||DDC||VVVF,CP|| ||VVVF,CP,BT||
|-style="border-top:solid 5px #3c6;"
!車両番号
|06-101||06-201||06-301||06-401||06-501||06-601||06-701||06-801||06-901||06-001
|}
{| style="text-align:left; font-size:80%;"
|-
|
;凡例
{{Col|
* VVVF:制御装置(1C1M4群)
* DDC:補助電源装置(DC-DCコンバータ)
|
* CP:空気圧縮機
* BT:蓄電池
}}
|}
== 本形式を用いた試験 ==
[[2010年]](平成22年)2月から営業運転を開始した[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]][[営団02系電車|02系]]大規模改修工事車(直流600V用PMSM主回路システム実用車)に続いて<ref name="Cyber2010">日本鉄道サイバネティスク協議会『鉄道サイバネ・シンポジウム論文集』第47回(2010年)「直流1500V用PMSM主回路システム試験報告」論文番号510。</ref>、直流1,500 V 用PMSM主回路システムの実車試験が行われた<ref name="Cyber2010" />。試験は、第7車両(06-701号車)に[[東芝]]製のPMSM主回路システム(VVVFインバータ装置、[[永久磁石同期電動機]](出力205 kW)、[[断流器]]等)を艤装した<ref name="Cyber2010" />。それ以外の電動車は、IM(誘導電動機)システムのままとした<ref name="Cyber2010" />。実車試験は2010年(平成22年)6月30日 - 7月23日にかけて営業列車終了後に実施した<ref name="Cyber2010" />。その後、本形式で使用したPMSM主回路システムは、若干の改良を加えることで後継車種の16000系で採用した<ref name="Cyber2010" />。
== 運用 ==
[[1992年]](平成4年)12月に10両編成1本が落成し、営業運転は1993年[[3月18日]]から開始された<ref name="RP1993" />。営業運行開始後しばらくは電動車比率の関係から小田急線には入線しなかったが、後に区別することなく[[営団6000系電車|6000系]]・[[東京メトロ16000系電車|16000系]]と共通で運用されるようになった。千代田線はその後も営団→東京メトロ受け持ちの車両運用数に変化がなく、2編成目以降が追加投入されることはなかった。
[[臨時列車]]では[[東京湾大華火祭]]等のイベント開催に際して、有楽町線に直通する列車に充当された。
その後、2010年(平成22年)から6000系の置き換え用として16000系が順次導入され、千代田線で運用される自社車両を16000系に統一するとともに<ref>[http://www.tokyometro.jp/news/2015/746.html 千代田線に16000系4次車を導入します] {{Webarchive|url=https://archive.is/20150917053816/http://www.tokyometro.jp/news/2015/746.html |date=2015年9月17日 }} - 2015年9月15日 東京地下鉄ニュースリリース</ref>ホームドアの設置が決定したことから、ホームドアに対応できない本形式は他線区に転用されることなく[[2015年]](平成27年)8月8日<ref name="RF1608">交友社「鉄道ファン」2016年8月号付録「大手私鉄車両ファイル2016」ならびに鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2016年12月臨時増刊号302頁</ref>(資料によっては9月22日<ref>鉄道ダイヤ情報2016年4月号(No.384)p.128</ref>)付で廃車された。
== 付記 ==
*1993年3月14日には[[綾瀬車両基地|綾瀬検車区]]で試乗会と撮影会が実施された。試乗会には07系第02編成が使用され、事前応募の500人が参加して綾瀬検車区 - [[湯島駅]]間を往復走行した。撮影会には本系列と07系第01編成が並べられ、試乗会の参加者を含めた事前応募から選ばれた1,000人が参加した。
*落成当初は先頭車側面にロゴが貼られており、06-101側が営団地下鉄を意味する「TRTA<ref group="注">Teito Rapid Transit Authorityの略</ref>」、06-001側に「EIDAN」ロゴがそれぞれ貼られていたが<ref>交通新聞社「
営団地下鉄車両写真集」 P.68-69</ref>、営業運転開始前までに外されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*交友社「鉄道ファン」
**1993年3月号新車ガイド「営団千代田線用06系・有楽町線用07系」(帝都高速度交通営団 車両部設計課)
*[[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]「[[鉄道ピクトリアル]]」
**1993年3月号「営団千代田線用06系・有楽町線用07系」(帝都高速度交通営団 車両部設計課)
**1993年10月臨時増刊号新車年鑑1993年版「帝都高速度交通営団06系、07系」(帝都高速度交通営団 車両部設計課 関塚實)
*[[鉄道友の会]]の会誌「RAILFAN」1994年2月号
* [[ネコ・パブリッシング]]『公式パンフレットで見る東京地下鉄車両のあゆみ - 1000形から1000系まで」
* 日本鉄道サイバネティスク協議会『鉄道サイバネ・シンポジウム論文集』第47回(2010年)「直流1500V用PMSM主回路システム試験報告」論文番号510
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_nanboku.html/|date=2002-03-31|title=東京地下鉄道南北線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=namboku}}
== 外部リンク ==
*[https://web.archive.org/web/20110221062919/http://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/cars/working/chiyoda_06/index.html 千代田線06系] - 東京メトロ([[インターネットアーカイブ]])
{{Commons|Category:Tokyo Metro 06 series}}
{{東京地下鉄の車両}}
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[[Category:東京地下鉄の電車|06]]
[[Category:1992年製の鉄道車両]]
[[Category:川崎重工業製の電車]]
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電熱
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電熱(でんねつ)は、電力による加熱である。
交番磁界による電気伝導体の渦電流損・強磁性体のヒステリシス損による加熱。
交流電界中の誘電体の誘電損による加熱。
ヒートポンプを用いた逆冷凍サイクルによる加熱。
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電熱(でんねつ)は、電力による加熱である。
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'''電熱'''(でんねつ)は、[[電力]]による[[加熱]]である。
== 分類 ==
=== 抵抗加熱 ===
* 直接抵抗加熱: 被加熱物に直接[[電流]]を流すことによる[[ジュール熱]]での加熱。
* 間接抵抗加熱: 他の[[抵抗器]]に電流を流すことによるジュール熱の[[熱伝導]]・[[対流]]・[[放射]]による被加熱物の加熱。
=== 誘導加熱 ===
[[交番磁界]]による[[電気伝導体]]の[[渦電流損]]・[[強磁性体]]の[[ヒステリシス損]]による加熱。
* [[誘導加熱]]
=== 誘電加熱 ===
[[交流]][[電界]]中の[[誘電体]]の[[誘電損]]による加熱。
* [[誘電加熱]]
=== アーク加熱 ===
* 直接アーク加熱: 被加熱物を[[電極]]またはアーク媒体としてアークを発生させることによる加熱。
* 間接アーク加熱: 他の電極・アーク媒体のアーク発熱の[[熱伝導]]・[[対流]]・[[放射]]による被加熱物の加熱。
=== ヒートポンプ加熱 ===
[[ヒートポンプ]]を用いた逆[[冷凍サイクル]]による加熱。
=== 放射加熱 ===
* [[赤外線加熱]]: 電力で高温に加熱した物体からの[[赤外線]][[放射]]による加熱。
== 関連項目 ==
* [[エネルギー]]
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営団9000系電車
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営団9000系電車(えいだん9000けいでんしゃ)は、1990年(平成2年)に登場した帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線・埼玉高速鉄道線との車両申し合わせ事項」の規格を満たして設計・開発が行われ、「21世紀を指向し、先進技術の導入、地域との調和、人に対するやさしさ」をコンセプトに製造された。
試作車および1次車は、1991年(平成3年)11月29日の南北線の部分開業に併せて運行開始した。南北線の延伸に伴って、2次車から4次車が順次増備され、東京メトロ発足後は5次車および8両編成化の増結用車両が投入されている。
新路線に使用する車両ということで、基本設計は当時増備されていた「0x系列」に準じているが、形式称号は01系など、「0シリーズ」形式の登場以後ながら「09系」というような形式称号になっていない。
製造費用は試作車(第01編成)が4両編成で6億9,018万9,000円(1両あたり約1億7,254万円)、1次車(第02 - 07編成)が4両編成で約7億225万円(1両あたり約1億7,556万円)、1次車(第08編成)が4両編成で7億4,215万2,000円(1両あたり約1億8,553万円)。3次車(第14・15編成)では6両編成で10億6,782万8,500円(1両あたり約1億7,797万円)となっている。
本項では落成時の仕様および共通事項について述べる。次車別の詳細については次項を参照。
東西線用の05系と同じ構造のアルミニウム合金製の20m4扉車体で、大形の押出形材や中空形材(床板など)を使用し、これらを連続ミグ溶接工法で組み立てている。
前頭部は流線型に近く、フロントガラスは側面にもまわり込ませた曲面ガラスを使用し、運転士の視野を確保している。プラグドアによる非常用貫通扉を配し、非常脱出用の梯子も設置してある。ワンマン運転設備の設置で機器が多くなることから従来車よりも広く線路方向に約2.2m確保され、このために先頭車は中間車よりも66cm長い。側窓下には同線のラインカラーであるエメラルドグリーンのツートンが入り、中央部に白の細帯が入っている。
乗務員室内の配色はクリーム色、運転台は茶色の配色である。中央にワンハンドルマスコンがあり、ATO出発ボタン、ドア開閉ボタン、非常停止ボタンなどが設置してある。計器盤右側には車両情報管理装置 (TIS) のモニター画面が収納されている。また、左壁や運転台の右袖部も広げ、機器を設置しており、運転席に座った状態であらゆる操作が出来るよう機器を配置している。運転士用放送操作器(運転士操作器)は使用しやすいようにマイク形で、ワンタッチで連絡(両乗務員室間連絡用)・車内放送・車外放送(各左右別)用が切り換えできるものとなっている。
乗務員室と客室の仕切りには窓が3箇所あり、客室側から見て左から順に大窓・乗務員室扉・細長い窓であり、大窓のみ遮光ガラスが使用されている。遮光幕は大窓、乗務員室扉窓に設置してある。
TISにはワンマン運転時の乗務員支援・機器故障時の車上検査機能・処置ガイダンス機能を搭載した。さらに機器の遠隔操作機能(ブレーキ遠隔開放・制御遠隔開放)があり、故障時における迅速な対応が出来るようにした。
開業時は地上式CCTV(Closed Circuit Television・ホーム監視用モニター)を採用し、運転台からホームドア上部の線路側にあるモニターを見ながら戸閉操作を実施していた。その後、全線開業の際には車上方式に変更し、車掌台上にはホーム監視カメラからの映像を受信するミリ波受信機が設置され、全編成に車上ITV(車上モニター画面)が設置された。
南北線は急曲線や急勾配が多く、従来のチョッパ制御ではそれに対応する直流電動機の出力などにも限界があり、より出力の大きい三相誘導電動機が使用できるVVVFインバータ制御を営団で初めて本格的に採用した。初期の車両ではGTOサイリスタ素子を用いた方式を採用していたが、2次車以降ではIGBT素子に変更された。三相誘導電動機の採用で保守軽減が図られたことから営団地下鉄では初めて車内床面の主電動機点検蓋(トラップドア)は省略された。
保安装置には1段ブレーキ制御機能を持つ新CS-ATCを採用した。これにより細かい速度制御、乗り心地の向上が可能となっている。さらに安全性や停止精度を高めるために人工知能(AI)を組み込んだATOを採用し、これにより出発ボタンを押すだけで加速から駅停車まで自動運転が行われる。ATO運転時には力行・減速操作ともに31段の多段制御を採用、また定速運転機能を採用することで乗り心地を向上させている。
ATO運転時における安定した回生ブレーキが確保できるように変電所3か所に「電力回生用インバータ」を設置している。これは列車の回生ブレーキが他の列車で吸収されない場合には回生ブレーキで発生する電力を変電所のインバータで吸収・変換して駅の照明やエスカレータの電源として使用する。
南北線では列車無線装置に在来方式の誘導無線(IR)方式に代え、漏洩同軸ケーブル(LCX)を使用した より電波品質の良い空間波無線(SR)を営団で初めて採用した。さらに、これまでの非常発報機能に加え、緊急時に列車防護が行える防護発報機能を搭載させた。また、運転指令所より列車無線を通じて運行中の全列車への車内に一斉放送ができる機能がある。
ワンマン運転用としてATO装置を装備し、ホームドアに対応している。また、営団として初めて車椅子スペースや、車内客用ドア上部に2段式のLED式旅客案内表示器を設置した(5次車の案内表示器は液晶ディスプレイ式)。このほかに自動放送装置や車外スピーカーを搭載する。また、通常の車掌用放送操作器、ドア開閉装置(車掌スイッチ)も備えており、鳩ヶ谷駅・浦和美園駅・武蔵小杉駅・日吉駅で入庫の際、運転士が直接目視で閉扉を行う場合や、東急東横線内で臨時列車として車掌が乗務する際などに使用される。
安全対策として、車内客用ドアの戸袋部には戸閉検知センサーがあり、手が引き込まれそうな時には開扉動作を停止する機能やホームドアとの連動機能があり、ホームドアに物が挟まれた場合には2回まで自動でドアの再開閉が行われる。車内の非常通報装置にはワンマン運転用として乗務員と相互通話可能なインターホン方式を採用した。これは各車両の左右の壁に2か所ずつ(1両あたり4台)と車椅子スペース部(同設置車は5台)に設置されている(ただし、5次車は各車両2台の設置)。乗客から通報があっても10秒間運転士が応答しない場合には列車無線に接続し、運転指令所の指令員が応答するシステムとなっている。
また、乗務員室仕切扉が電磁鎖錠対応となっている。これは、緊急時に乗客を避難させるために使用するもので扉上には「通行可」と表示され避難できるようになっている。さらに異常時における列車防護として前灯点滅機能がある。
現行の編成では編成組成や機器の違いからそれぞれ呼称方法がある。
第01・03・05・07編成はA編成、第02・04・06・08編成はB編成、第09 - 15編成はC編成、第16編成 - 第21編成はD編成、東京メトロ移行後に新造された第22・23編成はE編成と呼ばれる。営団の公式な資料においてもこの呼称方法が使用されている。
4次車までの編成では、インバータ制御による集中式の容量48.9 kW(42,000kcal/h)の冷暖房装置を搭載する。南北線ではワンマン運転を行うため、冷暖房装置は細かい操作の不要な全自動モードにより運転することができる。車内は冷房ダクトによるラインフローファン方式で、ラインデリアは先頭車に9台、中間車に10台設置している。また、車内放送用スピーカーは各車6台ある。側窓は車端部は固定窓、それ以外の2連窓は開閉可能な下降窓である。
1990年(平成2年)11月に川崎重工業で第01編成(9101-9201-9301-9801)の4両が製造された。落成当初、行先表示器は前面が字幕式で、側面についてはホームからの視認性が悪いことを理由として準備工事とした(後述の東急目黒線直通改造の項も参照)。先頭車側面の帯は前面から側面まで1本につながっている。
客室のカラースキームは内張りにベージュ系の光沢化粧板を使用した。本車両では試験的にベネチアンレッドの赤系色、オレンジ系の2色を基本とした座席モケットを4種類、床材は石畳の散歩道をイメージしたものを4種類、4両すべてを異なったデザインで試作し、営団関係者にアンケート調査を行い、量産車に反映した。ただし、試作した座席モケット、床材は後年に張り替えられた。車内の座席はバケットタイプのロングシートが基本であるが、車端部にはクロスシートを千鳥配置で設置した。
車内はステンレス製の手すりにはベージュの焼付塗装がされている。荷棚は見通しのよいアクリル板とされ(これは後年に通常の網棚に改造された)、さらに荷棚受けや広告枠・押し面などのアルミ材にもアイボリーの塗装品を使用している。また側窓・妻面窓枠はFRP製であり、当時の南北線は全線地下区間であったことからカーテンは設置していなかった。袖仕切りはFRP成形品とされ、仕切りの内側はモケットが貼られたほか座席下の蹴込み板は茶色に着色された。これらのことから本形式における車内は金属の質感を抑えるための工夫が従来車両よりも多く見られる。
当初の4両編成では9300形に車椅子スペースがあり、この場所の壁には折りたたみ式の2人掛け座席が設置され(ただし1次車も含め後年にこの座席は廃止された)、上部に荷棚も設置された。客用ドアには複層ガラス構造が採用され、連結面の貫通扉には下方までガラスの拡大された扉が採用された。
当初の編成における9201-9301は三菱電機製のGTO素子を用いたVVVFインバータ(1C4M・2群)(4500V/2300A)を搭載している。補助電源装置は三菱電機製の150kW出力、DC-DCコンバータ(出力電圧は直流600V)を採用した。主回路は75kWを2群で構成し、VVVFインバータと合わせて4両編成時における故障時の冗長化を図っている。空気圧縮機 (CP) はレシプロ式のC-2500LB形を両先頭車に搭載した。
台車は03系や05系で使用しているSUミンデン式(片板ばね式)台車を基本として、南北線における急勾配や急曲線においても安定して走行できるよう前後支持剛性をさらに低減させたESミンデン式軸箱支持方式を採用した。さらに、空気ばね (エアサスペンション)をマイコンによる自動制御として直線走行時の安定性や曲線通過性を向上させている。基礎ブレーキには03系・05系でも実績のある保守の容易なユニットブレーキを使用している。
千代田線において各種試験を実施した後、1991年(平成3年)7月にトレーラーで陸送され、地下の王子車両区(現・王子検車区)に搬入された。後述の1次車と同様に、同年11月29日の駒込 - 赤羽岩淵間開業時より営業運転を開始した。
量産車は試作車の試験結果を踏まえて改良が加えられ、1991年(平成3年)6月から7月にかけて落成し、綾瀬検車区に搬入された。同検車区で整備後に試作車同様に王子検車区へ搬入された。このグループは1991年(平成3年)11月29日の南北線第1期開業用に第02 - 07編成が、翌1992年(平成4年)4月に検査時の予備として第08編成が川崎重工業で新製された。
制御装置は第02 - 04編成が日立製作所製のGTO素子、第05 - 08編成は三菱製のGTO素子を搭載した。
外観では先頭車運転室扉部の帯が前面に回り込む帯と側面帯に分かれている。これ以降このスタイルで統一されている。
車内は手すりの塗装をやめステンレス無塗装、荷棚は従来の01系以来使用しているステンレス線を格子状に溶接した網棚式に変更された。座席、床材は9103号車のデザインが正式に採用となり、座席、床材は沿線に点在する公園の藤の花をイメージしたベネチアンレッドの赤系に統一(ただし、優先席部の座席は青色)した。座席はバケット式だが、試作車のセパレートタイプではなく、連続形となった。
当初は試作車と同様に4両編成(9100-9200-9300-9800)で組成されたが、四ツ谷 - 駒込間の延伸開業の際に、6両編成化による編成替えを実施している。
第02・04・06・08編成の9200-9300は、それぞれ第01・03・05・07編成の9600-9700に改番のうえで組み込まれた。残った偶数編成の9100・9800は、新製された2次車の9200-9300-9600-9700を組み込む形で6両編成化された。
なお、9300形は6両編成化時に車椅子スペースを9200形に移設した際、同スペース撤去跡に本来はクロスシートにするべき場所をロングシートにしたため、シート配置が不規則となった。A編成の9700形は当初9300形であったため、その車椅子スペース上部には荷棚が設置されていた。それは9700形改番後も残されているが、9300形から移設した9200形の同スペース部には荷棚が設置されていない。
1992年に増備された第08編成は従来車両とほぼ同一仕様であるが、台車はESミンデン軸箱支持としながら、軸受けを鞍形(くらがた)構造に変更した。なお、後述の編成替えにより、現在は第08編成の両先頭車と、第07編成の9607・9707号車がこの構造である。
1996年(平成8年)3月26日の四ツ谷 - 駒込間の開業用、および6両編成化対応として、1995年(平成7年)11月から1996年(平成8年)2月にかけて、第09 - 13編成の全車両および第02・04・06・08編成の9200-9300-9600-9700が川崎重工業と日本車輌製造で製造された。
9200-9300-9600-9700の制御装置は日立製のIGBT素子によるVVVFインバータ(3レベル方式、2000V/325A、1C2M・4群)に変更され、台車はモノリンク式ボルスタレス台車 (SS135B・SS035B) に変更した。この台車は千代田線用の06系などで採用されたSS135形・SS035形台車をベースに、本形式の従来車両と同様のユニットブレーキ構造を組み合わせた台車である。補助電源装置のDC-DCコンバータは75kWを2台構成から130kW1台に集約、併せてコンバータ素子をGTOからIGBTに変更した。
試作車および1次車の6両編成化にあたっては、VVVFインバータの使用素子が同一編成内で混在することを避けるため、1次車の偶数編成の9200-9300の2両を抜き、奇数編成の9600-9700として組み込み、また余った偶数先頭車に新製した中間車4両を組み込み6両編成化した。なお、この組成変更により第01編成のみ三菱電機製と日立製作所製のVVVFインバータが混在することとなった。同一編成で違うメーカーのVVVFインバータが混在する編成は、第01編成が唯一だった。
車体は1次車とほぼ同じであるが、アルミ合金材質を統一し、廃車時のリサイクル性の向上を図っている。外観では前面の行先表示・運行表示がLED式になった。さらに台車の設計変更により、床面高さを5mm低く(1,155mm→1,150mm)、さらに車体高さも5mm低くなった。床構体には神戸製鋼所が開発したアルミ制振形材「ダンシェープ」を初めて本格採用しており、騒音や振動の大幅な低減を図った。
車内では側窓枠、妻面窓枠はアルミ製に変更となり、側窓枠にはカーテン設置用のレール・引っ掛け用溝も準備された(カーテン自体は未設置)。袖仕切は前年に落成した半蔵門線用の8000系6次車と同じ形状のアルミ製で、丸みを帯びた形状に変更された。座席は掛け幅を440mm→450mmに拡大し、蹴込み板は無塗装品になった。さらに車椅子で車両間の通行ができるように貫通路の幅を800mmから900mmに拡大したため、車端部のボックス式クロスシートは廃止された。車椅子スペースは9200形・9700形に変更し、折りたたみ座席を廃止した。従来のつり革(△形で白色品)は座席前線路方向とドア付近枕木方向のみであったが、新たにドア付近線路方向へ増設がされた。
運転台ではTISはカラー液晶化とシステムの変調方式と伝送速度の向上化、東急乗り入れに備えて運転台保安表示灯を8点から13点に変更した。1次車も同時期にカラー液晶に変更されている。
市ケ谷駅付近に有楽町線との連絡線が設けられたことから、2次車以降はメーカーから甲種輸送後、綾瀬検車区で整備を行い、同連絡線を経て南北線に搬入されている。
1997年(平成9年)9月30日の溜池山王 - 四ツ谷間の開業用に、東急車輛製造で第14・15編成が製造された。室内や外観の仕様は2次車と同じである。電動車は三菱電機製のIGBT素子を搭載している。
2000年(平成12年)9月26日の目黒 - 溜池山王間の開業用に、日本車輌製造で製造された。1999年(平成11年)10月に第16・17編成が、2000年(平成12年)4月から5月に第18 - 21編成が落成した。電動車は東芝製のIGBT素子による高耐圧・大容量の2レベルVVVFインバータ(1C2M・3300V/1200A・3群制御)を搭載している。 ただし、2・3次車の制御装置同様に4群構成としながら、3群を使用しており、将来の8両化時に4群制御化ができるよう配線準備がされている。
当面は6両編成で運用することから、中間車の動力軸分散により、9300の赤羽岩淵・浦和美園方台車と9600の目黒・武蔵小杉方台車の電動機は準備工事として、MT比は3M3T相当となった。台車のマイコンによる空気ばね制御装置は3次車までは装備したが、4次車以降はコスト低減や従来の台車でも十分に安全性が高いことなどから取り止めとなった。
車体では外板溶接の一部に摩擦攪拌接合(FSW)を採用し、外観見付けの向上を図った。行先表示器はLED式で、当初から側面にも設置されている。なお、第20・21編成のみ車両間転落防止幌を装着している。
車内は内張りは化粧板などの内装品の光沢仕上げをやめ、つや消し仕上げに、床材は紺色の2色濃淡柄に変更された。袖仕切りはアルミ製の大形仕切化、座席下にある暖房器はつり下げ式とした。ただし、脚台は小型化されたものの残されている。さらに客用ドアと連結面貫通扉の内張りを更新時に交換可能なものへ変更し、ドア本体のリサイクルが可能なように変更した。相互直通運転開始に伴い地上区間を走行することから、側窓のロールカーテンと側面の行先表示器を新製時より設置した。
当初より東急目黒線対応とされ、ATOにTASC機能を搭載、東急線対応の列車無線装置を搭載した。車上CCTV設置により、地上区間におけるモニターの視認性向上のため前面ガラスに遮光フィルムを貼り付けされた。TISは伝送方式の変更と指令伝送の2重系化、従来は設定器で行っていた自動放送・行先設定をTISに内蔵した。
2009年(平成21年)に、約9年ぶりの新車として第22・23編成の2編成が製造された。4次車以来の増備となるため、以降に新造した半蔵門線用の08系や有楽町線・副都心線用の10000系の設計思想を採り入れている。
5次車は従来車両よりも「車内快適性の向上」・「使い易さの向上」・「環境負荷の低減」・「火災対策の強化」・「車体強度向上」を目指したものとした。導入する2編成のうち、1編成は同年6月6日に実施されたダイヤ改正時の列車増発用、もう1編成は2016年実施開始の大規模改修工事時の予備編成確保用としている。製造は2編成とも日本車輌製造が担当した。
同年1月と3月に搬入され、5月22日から営業運転を開始し、運用上は従来車と何ら区分されることなく共通に使用されている。
約9年ぶりの新造車であることを明確にするために、フロントガラス形状はそのままに、フロントガラス以下のデザインを変更し、スカートを設置した。シールドビーム式前照灯・尾灯はケース形状と灯具形状変更(角型→丸型)し、前面のラインカラー帯はフロントガラス下部の形状に合わせてカーブした形状とし、側面部とは流れるようにつなげた。側面は側窓上にもラインカラーを追加したほか、窓下のラインは配色が上下が逆となり、車端寄りの部分はモザイク状に処理をして一体感と躍動感をイメージした外観とした。側面の車両番号表記は外板下部から戸袋部に変更されている。
車体構造は同じ日本車輌製造製である08系で採用した側構体をシングルスキン構造からダブルスキン構造とする「セミダブルスキン構造」を採用したほか、車体端部には三角形の断面構造を持つ衝突柱を配置し、これを車体台枠から屋根構体まで貫通させ、さらに側構体に直接接合する構造としている。さらに台枠と側構体床上面結合部の溶接位置を変更することで衝突事故時における安全性の向上を図った。
車体は従来車両よりもアルミ合金材質の統一を図る「モノアロイ化」を実施し、廃車時におけるリサイクル性をさらに向上させた。このほか、床面高さを10mm低い1,140mmとし、ホームとの段差を減少させた。また、従来車において正面左上窓に貼り付けしてあったシンボルマークは省略された。
車内は快適性の向上や使い易さの向上などのため、仕様が見直されている。特に火災発生時に有毒ガスの発生源となるFRPや塩化ビニル材料の使用を取りやめている。
内張りは白色系の化粧板仕様とし、床材はエメラルドグリーンのゴム材を採用して車内を明るく見せる配色とした。座席は従来車と同様に一般席は紫色、優先席は青色のバケットシートであるが、掛け幅を450mmから460mmに拡大した。座席詰め物には従来からのポリエステル綿のほか、スプリング構造のクッション材や中空エラストマーを重ねた2重構造として座り心地の改善も図っている。袖仕切は白色の大形仕切で、仕切板上部の外側は黒色として明るい車内をシャープに引き締めるアクセントとした。
ドア間の7人掛け座席部では新たにスタンションポール(握り棒)を2本設置した。車端部では7人掛け座席部よりも網棚高さを100mm低い1,700mmとし、優先席部ではつり革高さを80mm低くして(床面上1,660mmから1,580mmへ)使いやすさを向上させたものとした。優先席袖仕切部の握り棒はオレンジ色のエンボス加工品を使用している。
側面客用扉は扉窓ガラスを複層構造から単板ガラスへと変更したほか、側面出入口下部(クツズリ部)には黄色の出入口識別表示板を配している。ドアチャイムは、10000系などと同じ3打式に変更され、各扉の鴨居下部に扉の開閉に合わせて赤く点滅する「ドア開閉表示灯」が新設された。この開閉表示灯はドア開閉時のほか、運転台の乗降促進放送を鳴動させる際にも点滅する。ドアエンジンは当初より減圧機構付きとされたほか、4次車まで採用されていた車内客用ドアの戸袋部にある戸閉検知センサーは省略された。
各車両間にある扉のドアクローザーは新開発のものを使用し、事故防止・出火対策の観点からドア下部に生ずる隙間を発生させないようにしているほか、緊急時に人力で開き易いようになっている。
車内の案内表示器はLEDによる2段表示式から見やすさ、より多くの情報を表示できる液晶ディスプレイ(LCD)方式に変更し、各客用ドア上部に1台を設置する。表示器を設置していない左側は路線図などを掲出するスペースとされているが、将来的には2画面化(Tokyo Metro ビジョン設置)が可能なよう準備工事を施工している。
冷房装置はインバータ制御による容量48.9 kW(42,000kcal/h)から、稼働率制御方式(ON/OFF制御式・CU768形)による容量58,0 kW(50,000kcal/h)に増強されている。また、5次車では駅部における温度上昇対策のため、駅構内では空調装置からの廃熱を抑制する機能が追加されている。
運転台を始めとした乗務員室内の機器配置などは取り扱いを考慮して従来車に準じているが、一部仕様が変更されている。速度計と両端にある保安表示灯、マスコンノッチ表示灯は10000系と同様の平板な形状としている。また、ホームドア表示灯はマスコン台から保安表示灯部に収納された。車両情報装置(TIS)は空調装置の指令機能と前灯点滅機能を専用スイッチからTISモニター経由の操作に変更した。運転台前のフロントガラスには遮光用カーテンが設置された。
編成形態は一部変更され、9300形(M2)に代わり新区分形式となる9400形(簡易運転台付きT車)を新製し、MT比は完全な3M3T構成とした。走行機器は主電動機出力や歯車比については従来車と同一であるが、機器類は10000系の仕様が採り入れられ設計変更が加えられた。
主回路は三菱電機製の2レベルIGBT-VVVFインバータ方式(PGセンサレスベクトル制御・純電気ブレーキ対応)とし、電動機制御は1C4M1群/2群構成とした。歯車比は従来車と同様だが、10000系で採用した新設計の駆動装置を使用し、振動と騒音の低減、保守性の向上を図っている。
補助電源装置は東芝製の240kVA出力の静止形インバータ (SIV)(三相交流440V出力)に、空気圧縮機はレシプロ式から低騒音かつ保守性に優れた一体箱形状のスクロール式に変更した(三菱電機製・MBU331C形)。
台車は走行安全性向上や輪重調整作業などの保守性向上を目的に住友金属工業製モノリンク式台車であるFS777A形に変更され、南北線では初のボルスタ付台車となった。パンタグラフは菱形からシングルアーム式に変更し、一編成当たり3基搭載とした。
ただし、5次車ならびに一部の初期車両で施工したゴム製の床敷物は、本来はアルミ材を敷いた上でゴム製の床敷物を貼り付けるものであるが、現車ではアルミ材が敷かれておらず、鉄道車両の火災対策基準を満たさないことから、国土交通省より改善指示が出されている。
2000年(平成12年)9月の目黒開業を前に、第01 - 15編成までの全車両に東急目黒線直通対応化改造が施行された。施行内容は以下の通り。
2016年(平成28年)度から2018年(平成30年)度にかけて、本系列のうち1次車である第01 - 08編成のリニューアルが大規模改修工事として実施されることが発表された。最初にリニューアルした第05編成は、2016年8月15日から運行を開始した。2019年に対象編成へのリニューアルが終了した。
車体や車内の主な変更点は以下の通り。
クロスシートは廃止され、現在では京王新5000系クロスシート(デュアルシート)車を2017年9月に79年ぶりに導入した京王電鉄と入れ替わるように、東京メトロは大手私鉄で唯一クロスシート車を有しない鉄道事業者となっている。
運用区間は南北線目黒 - 赤羽岩淵間、相互乗り入れ先である東急目黒線目黒 - 日吉間、2023年3月開業の東急新横浜線日吉 - 新横浜間、埼玉高速鉄道線赤羽岩淵 - 浦和美園間である。営業外列車や臨時列車によってはこれ以外の区間・路線を走行する場合がある。
6両編成23本すべてが王子検車区に所属している。最大運用数は21本で、予備編成は2本である。なお、車体洗浄と車輪転削は埼玉高速鉄道の浦和美園車両基地、定期検査は千代田線の綾瀬工場、B修工事は新木場車両基地の新木場CRにおいて行われる。
本系列では、全編成のうち第09編成以降の車両を2022年度以降に2両増結して8両化することが明らかとなった。当初では、15編成30両分の新造計画があり、編成内の全車が2次車以降となっている第09編成以降の15編成が対象とされていた(後述)。
なお、対象外の編成は従来通り6両編成のままとし、相鉄新横浜線開業後も新横浜駅までの運用に留めている。
東京メトロの2023年度事業計画で、8両編成の運行を開始すると示され、2023年度中に1編成目の営業運転を開始する予定だが、全編成が完了する時期については未定となっている。
2023年12月13日、9000系の最初の8両編成が12月16日に営業運行を開始することが発表されたが、同時に、5次車(第22・23編成)が8両化の対象外となることが明らかになった。
8両編成化の増結用中間車は2021年10月8日に甲種輸送を実施した、第09編成に挿入する車両より順次落成・搬送されているが、2023年時点では第10編成以降の中間車が落成されていない状態となっている。
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"text": "営団9000系電車(えいだん9000けいでんしゃ)は、1990年(平成2年)に登場した帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。",
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"text": "「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線・埼玉高速鉄道線との車両申し合わせ事項」の規格を満たして設計・開発が行われ、「21世紀を指向し、先進技術の導入、地域との調和、人に対するやさしさ」をコンセプトに製造された。",
"title": "概要"
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"text": "試作車および1次車は、1991年(平成3年)11月29日の南北線の部分開業に併せて運行開始した。南北線の延伸に伴って、2次車から4次車が順次増備され、東京メトロ発足後は5次車および8両編成化の増結用車両が投入されている。",
"title": "概要"
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"text": "新路線に使用する車両ということで、基本設計は当時増備されていた「0x系列」に準じているが、形式称号は01系など、「0シリーズ」形式の登場以後ながら「09系」というような形式称号になっていない。",
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"text": "製造費用は試作車(第01編成)が4両編成で6億9,018万9,000円(1両あたり約1億7,254万円)、1次車(第02 - 07編成)が4両編成で約7億225万円(1両あたり約1億7,556万円)、1次車(第08編成)が4両編成で7億4,215万2,000円(1両あたり約1億8,553万円)。3次車(第14・15編成)では6両編成で10億6,782万8,500円(1両あたり約1億7,797万円)となっている。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "本項では落成時の仕様および共通事項について述べる。次車別の詳細については次項を参照。",
"title": "車両概説"
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{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "東西線用の05系と同じ構造のアルミニウム合金製の20m4扉車体で、大形の押出形材や中空形材(床板など)を使用し、これらを連続ミグ溶接工法で組み立てている。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "前頭部は流線型に近く、フロントガラスは側面にもまわり込ませた曲面ガラスを使用し、運転士の視野を確保している。プラグドアによる非常用貫通扉を配し、非常脱出用の梯子も設置してある。ワンマン運転設備の設置で機器が多くなることから従来車よりも広く線路方向に約2.2m確保され、このために先頭車は中間車よりも66cm長い。側窓下には同線のラインカラーであるエメラルドグリーンのツートンが入り、中央部に白の細帯が入っている。",
"title": "車両概説"
},
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "乗務員室内の配色はクリーム色、運転台は茶色の配色である。中央にワンハンドルマスコンがあり、ATO出発ボタン、ドア開閉ボタン、非常停止ボタンなどが設置してある。計器盤右側には車両情報管理装置 (TIS) のモニター画面が収納されている。また、左壁や運転台の右袖部も広げ、機器を設置しており、運転席に座った状態であらゆる操作が出来るよう機器を配置している。運転士用放送操作器(運転士操作器)は使用しやすいようにマイク形で、ワンタッチで連絡(両乗務員室間連絡用)・車内放送・車外放送(各左右別)用が切り換えできるものとなっている。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "乗務員室と客室の仕切りには窓が3箇所あり、客室側から見て左から順に大窓・乗務員室扉・細長い窓であり、大窓のみ遮光ガラスが使用されている。遮光幕は大窓、乗務員室扉窓に設置してある。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "TISにはワンマン運転時の乗務員支援・機器故障時の車上検査機能・処置ガイダンス機能を搭載した。さらに機器の遠隔操作機能(ブレーキ遠隔開放・制御遠隔開放)があり、故障時における迅速な対応が出来るようにした。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "開業時は地上式CCTV(Closed Circuit Television・ホーム監視用モニター)を採用し、運転台からホームドア上部の線路側にあるモニターを見ながら戸閉操作を実施していた。その後、全線開業の際には車上方式に変更し、車掌台上にはホーム監視カメラからの映像を受信するミリ波受信機が設置され、全編成に車上ITV(車上モニター画面)が設置された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "南北線は急曲線や急勾配が多く、従来のチョッパ制御ではそれに対応する直流電動機の出力などにも限界があり、より出力の大きい三相誘導電動機が使用できるVVVFインバータ制御を営団で初めて本格的に採用した。初期の車両ではGTOサイリスタ素子を用いた方式を採用していたが、2次車以降ではIGBT素子に変更された。三相誘導電動機の採用で保守軽減が図られたことから営団地下鉄では初めて車内床面の主電動機点検蓋(トラップドア)は省略された。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "保安装置には1段ブレーキ制御機能を持つ新CS-ATCを採用した。これにより細かい速度制御、乗り心地の向上が可能となっている。さらに安全性や停止精度を高めるために人工知能(AI)を組み込んだATOを採用し、これにより出発ボタンを押すだけで加速から駅停車まで自動運転が行われる。ATO運転時には力行・減速操作ともに31段の多段制御を採用、また定速運転機能を採用することで乗り心地を向上させている。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ATO運転時における安定した回生ブレーキが確保できるように変電所3か所に「電力回生用インバータ」を設置している。これは列車の回生ブレーキが他の列車で吸収されない場合には回生ブレーキで発生する電力を変電所のインバータで吸収・変換して駅の照明やエスカレータの電源として使用する。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "南北線では列車無線装置に在来方式の誘導無線(IR)方式に代え、漏洩同軸ケーブル(LCX)を使用した より電波品質の良い空間波無線(SR)を営団で初めて採用した。さらに、これまでの非常発報機能に加え、緊急時に列車防護が行える防護発報機能を搭載させた。また、運転指令所より列車無線を通じて運行中の全列車への車内に一斉放送ができる機能がある。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ワンマン運転用としてATO装置を装備し、ホームドアに対応している。また、営団として初めて車椅子スペースや、車内客用ドア上部に2段式のLED式旅客案内表示器を設置した(5次車の案内表示器は液晶ディスプレイ式)。このほかに自動放送装置や車外スピーカーを搭載する。また、通常の車掌用放送操作器、ドア開閉装置(車掌スイッチ)も備えており、鳩ヶ谷駅・浦和美園駅・武蔵小杉駅・日吉駅で入庫の際、運転士が直接目視で閉扉を行う場合や、東急東横線内で臨時列車として車掌が乗務する際などに使用される。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "安全対策として、車内客用ドアの戸袋部には戸閉検知センサーがあり、手が引き込まれそうな時には開扉動作を停止する機能やホームドアとの連動機能があり、ホームドアに物が挟まれた場合には2回まで自動でドアの再開閉が行われる。車内の非常通報装置にはワンマン運転用として乗務員と相互通話可能なインターホン方式を採用した。これは各車両の左右の壁に2か所ずつ(1両あたり4台)と車椅子スペース部(同設置車は5台)に設置されている(ただし、5次車は各車両2台の設置)。乗客から通報があっても10秒間運転士が応答しない場合には列車無線に接続し、運転指令所の指令員が応答するシステムとなっている。",
"title": "車両概説"
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、乗務員室仕切扉が電磁鎖錠対応となっている。これは、緊急時に乗客を避難させるために使用するもので扉上には「通行可」と表示され避難できるようになっている。さらに異常時における列車防護として前灯点滅機能がある。",
"title": "車両概説"
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"text": "現行の編成では編成組成や機器の違いからそれぞれ呼称方法がある。",
"title": "形態分類"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "第01・03・05・07編成はA編成、第02・04・06・08編成はB編成、第09 - 15編成はC編成、第16編成 - 第21編成はD編成、東京メトロ移行後に新造された第22・23編成はE編成と呼ばれる。営団の公式な資料においてもこの呼称方法が使用されている。",
"title": "形態分類"
},
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "4次車までの編成では、インバータ制御による集中式の容量48.9 kW(42,000kcal/h)の冷暖房装置を搭載する。南北線ではワンマン運転を行うため、冷暖房装置は細かい操作の不要な全自動モードにより運転することができる。車内は冷房ダクトによるラインフローファン方式で、ラインデリアは先頭車に9台、中間車に10台設置している。また、車内放送用スピーカーは各車6台ある。側窓は車端部は固定窓、それ以外の2連窓は開閉可能な下降窓である。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1990年(平成2年)11月に川崎重工業で第01編成(9101-9201-9301-9801)の4両が製造された。落成当初、行先表示器は前面が字幕式で、側面についてはホームからの視認性が悪いことを理由として準備工事とした(後述の東急目黒線直通改造の項も参照)。先頭車側面の帯は前面から側面まで1本につながっている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "客室のカラースキームは内張りにベージュ系の光沢化粧板を使用した。本車両では試験的にベネチアンレッドの赤系色、オレンジ系の2色を基本とした座席モケットを4種類、床材は石畳の散歩道をイメージしたものを4種類、4両すべてを異なったデザインで試作し、営団関係者にアンケート調査を行い、量産車に反映した。ただし、試作した座席モケット、床材は後年に張り替えられた。車内の座席はバケットタイプのロングシートが基本であるが、車端部にはクロスシートを千鳥配置で設置した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "車内はステンレス製の手すりにはベージュの焼付塗装がされている。荷棚は見通しのよいアクリル板とされ(これは後年に通常の網棚に改造された)、さらに荷棚受けや広告枠・押し面などのアルミ材にもアイボリーの塗装品を使用している。また側窓・妻面窓枠はFRP製であり、当時の南北線は全線地下区間であったことからカーテンは設置していなかった。袖仕切りはFRP成形品とされ、仕切りの内側はモケットが貼られたほか座席下の蹴込み板は茶色に着色された。これらのことから本形式における車内は金属の質感を抑えるための工夫が従来車両よりも多く見られる。",
"title": "形態分類"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "当初の4両編成では9300形に車椅子スペースがあり、この場所の壁には折りたたみ式の2人掛け座席が設置され(ただし1次車も含め後年にこの座席は廃止された)、上部に荷棚も設置された。客用ドアには複層ガラス構造が採用され、連結面の貫通扉には下方までガラスの拡大された扉が採用された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "当初の編成における9201-9301は三菱電機製のGTO素子を用いたVVVFインバータ(1C4M・2群)(4500V/2300A)を搭載している。補助電源装置は三菱電機製の150kW出力、DC-DCコンバータ(出力電圧は直流600V)を採用した。主回路は75kWを2群で構成し、VVVFインバータと合わせて4両編成時における故障時の冗長化を図っている。空気圧縮機 (CP) はレシプロ式のC-2500LB形を両先頭車に搭載した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "台車は03系や05系で使用しているSUミンデン式(片板ばね式)台車を基本として、南北線における急勾配や急曲線においても安定して走行できるよう前後支持剛性をさらに低減させたESミンデン式軸箱支持方式を採用した。さらに、空気ばね (エアサスペンション)をマイコンによる自動制御として直線走行時の安定性や曲線通過性を向上させている。基礎ブレーキには03系・05系でも実績のある保守の容易なユニットブレーキを使用している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "千代田線において各種試験を実施した後、1991年(平成3年)7月にトレーラーで陸送され、地下の王子車両区(現・王子検車区)に搬入された。後述の1次車と同様に、同年11月29日の駒込 - 赤羽岩淵間開業時より営業運転を開始した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "量産車は試作車の試験結果を踏まえて改良が加えられ、1991年(平成3年)6月から7月にかけて落成し、綾瀬検車区に搬入された。同検車区で整備後に試作車同様に王子検車区へ搬入された。このグループは1991年(平成3年)11月29日の南北線第1期開業用に第02 - 07編成が、翌1992年(平成4年)4月に検査時の予備として第08編成が川崎重工業で新製された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "制御装置は第02 - 04編成が日立製作所製のGTO素子、第05 - 08編成は三菱製のGTO素子を搭載した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "外観では先頭車運転室扉部の帯が前面に回り込む帯と側面帯に分かれている。これ以降このスタイルで統一されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "車内は手すりの塗装をやめステンレス無塗装、荷棚は従来の01系以来使用しているステンレス線を格子状に溶接した網棚式に変更された。座席、床材は9103号車のデザインが正式に採用となり、座席、床材は沿線に点在する公園の藤の花をイメージしたベネチアンレッドの赤系に統一(ただし、優先席部の座席は青色)した。座席はバケット式だが、試作車のセパレートタイプではなく、連続形となった。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "当初は試作車と同様に4両編成(9100-9200-9300-9800)で組成されたが、四ツ谷 - 駒込間の延伸開業の際に、6両編成化による編成替えを実施している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "第02・04・06・08編成の9200-9300は、それぞれ第01・03・05・07編成の9600-9700に改番のうえで組み込まれた。残った偶数編成の9100・9800は、新製された2次車の9200-9300-9600-9700を組み込む形で6両編成化された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "なお、9300形は6両編成化時に車椅子スペースを9200形に移設した際、同スペース撤去跡に本来はクロスシートにするべき場所をロングシートにしたため、シート配置が不規則となった。A編成の9700形は当初9300形であったため、その車椅子スペース上部には荷棚が設置されていた。それは9700形改番後も残されているが、9300形から移設した9200形の同スペース部には荷棚が設置されていない。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1992年に増備された第08編成は従来車両とほぼ同一仕様であるが、台車はESミンデン軸箱支持としながら、軸受けを鞍形(くらがた)構造に変更した。なお、後述の編成替えにより、現在は第08編成の両先頭車と、第07編成の9607・9707号車がこの構造である。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1996年(平成8年)3月26日の四ツ谷 - 駒込間の開業用、および6両編成化対応として、1995年(平成7年)11月から1996年(平成8年)2月にかけて、第09 - 13編成の全車両および第02・04・06・08編成の9200-9300-9600-9700が川崎重工業と日本車輌製造で製造された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "9200-9300-9600-9700の制御装置は日立製のIGBT素子によるVVVFインバータ(3レベル方式、2000V/325A、1C2M・4群)に変更され、台車はモノリンク式ボルスタレス台車 (SS135B・SS035B) に変更した。この台車は千代田線用の06系などで採用されたSS135形・SS035形台車をベースに、本形式の従来車両と同様のユニットブレーキ構造を組み合わせた台車である。補助電源装置のDC-DCコンバータは75kWを2台構成から130kW1台に集約、併せてコンバータ素子をGTOからIGBTに変更した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "試作車および1次車の6両編成化にあたっては、VVVFインバータの使用素子が同一編成内で混在することを避けるため、1次車の偶数編成の9200-9300の2両を抜き、奇数編成の9600-9700として組み込み、また余った偶数先頭車に新製した中間車4両を組み込み6両編成化した。なお、この組成変更により第01編成のみ三菱電機製と日立製作所製のVVVFインバータが混在することとなった。同一編成で違うメーカーのVVVFインバータが混在する編成は、第01編成が唯一だった。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "車体は1次車とほぼ同じであるが、アルミ合金材質を統一し、廃車時のリサイクル性の向上を図っている。外観では前面の行先表示・運行表示がLED式になった。さらに台車の設計変更により、床面高さを5mm低く(1,155mm→1,150mm)、さらに車体高さも5mm低くなった。床構体には神戸製鋼所が開発したアルミ制振形材「ダンシェープ」を初めて本格採用しており、騒音や振動の大幅な低減を図った。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "車内では側窓枠、妻面窓枠はアルミ製に変更となり、側窓枠にはカーテン設置用のレール・引っ掛け用溝も準備された(カーテン自体は未設置)。袖仕切は前年に落成した半蔵門線用の8000系6次車と同じ形状のアルミ製で、丸みを帯びた形状に変更された。座席は掛け幅を440mm→450mmに拡大し、蹴込み板は無塗装品になった。さらに車椅子で車両間の通行ができるように貫通路の幅を800mmから900mmに拡大したため、車端部のボックス式クロスシートは廃止された。車椅子スペースは9200形・9700形に変更し、折りたたみ座席を廃止した。従来のつり革(△形で白色品)は座席前線路方向とドア付近枕木方向のみであったが、新たにドア付近線路方向へ増設がされた。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "運転台ではTISはカラー液晶化とシステムの変調方式と伝送速度の向上化、東急乗り入れに備えて運転台保安表示灯を8点から13点に変更した。1次車も同時期にカラー液晶に変更されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "市ケ谷駅付近に有楽町線との連絡線が設けられたことから、2次車以降はメーカーから甲種輸送後、綾瀬検車区で整備を行い、同連絡線を経て南北線に搬入されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1997年(平成9年)9月30日の溜池山王 - 四ツ谷間の開業用に、東急車輛製造で第14・15編成が製造された。室内や外観の仕様は2次車と同じである。電動車は三菱電機製のIGBT素子を搭載している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)9月26日の目黒 - 溜池山王間の開業用に、日本車輌製造で製造された。1999年(平成11年)10月に第16・17編成が、2000年(平成12年)4月から5月に第18 - 21編成が落成した。電動車は東芝製のIGBT素子による高耐圧・大容量の2レベルVVVFインバータ(1C2M・3300V/1200A・3群制御)を搭載している。 ただし、2・3次車の制御装置同様に4群構成としながら、3群を使用しており、将来の8両化時に4群制御化ができるよう配線準備がされている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "当面は6両編成で運用することから、中間車の動力軸分散により、9300の赤羽岩淵・浦和美園方台車と9600の目黒・武蔵小杉方台車の電動機は準備工事として、MT比は3M3T相当となった。台車のマイコンによる空気ばね制御装置は3次車までは装備したが、4次車以降はコスト低減や従来の台車でも十分に安全性が高いことなどから取り止めとなった。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "車体では外板溶接の一部に摩擦攪拌接合(FSW)を採用し、外観見付けの向上を図った。行先表示器はLED式で、当初から側面にも設置されている。なお、第20・21編成のみ車両間転落防止幌を装着している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "車内は内張りは化粧板などの内装品の光沢仕上げをやめ、つや消し仕上げに、床材は紺色の2色濃淡柄に変更された。袖仕切りはアルミ製の大形仕切化、座席下にある暖房器はつり下げ式とした。ただし、脚台は小型化されたものの残されている。さらに客用ドアと連結面貫通扉の内張りを更新時に交換可能なものへ変更し、ドア本体のリサイクルが可能なように変更した。相互直通運転開始に伴い地上区間を走行することから、側窓のロールカーテンと側面の行先表示器を新製時より設置した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "当初より東急目黒線対応とされ、ATOにTASC機能を搭載、東急線対応の列車無線装置を搭載した。車上CCTV設置により、地上区間におけるモニターの視認性向上のため前面ガラスに遮光フィルムを貼り付けされた。TISは伝送方式の変更と指令伝送の2重系化、従来は設定器で行っていた自動放送・行先設定をTISに内蔵した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)に、約9年ぶりの新車として第22・23編成の2編成が製造された。4次車以来の増備となるため、以降に新造した半蔵門線用の08系や有楽町線・副都心線用の10000系の設計思想を採り入れている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "5次車は従来車両よりも「車内快適性の向上」・「使い易さの向上」・「環境負荷の低減」・「火災対策の強化」・「車体強度向上」を目指したものとした。導入する2編成のうち、1編成は同年6月6日に実施されたダイヤ改正時の列車増発用、もう1編成は2016年実施開始の大規模改修工事時の予備編成確保用としている。製造は2編成とも日本車輌製造が担当した。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "同年1月と3月に搬入され、5月22日から営業運転を開始し、運用上は従来車と何ら区分されることなく共通に使用されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "約9年ぶりの新造車であることを明確にするために、フロントガラス形状はそのままに、フロントガラス以下のデザインを変更し、スカートを設置した。シールドビーム式前照灯・尾灯はケース形状と灯具形状変更(角型→丸型)し、前面のラインカラー帯はフロントガラス下部の形状に合わせてカーブした形状とし、側面部とは流れるようにつなげた。側面は側窓上にもラインカラーを追加したほか、窓下のラインは配色が上下が逆となり、車端寄りの部分はモザイク状に処理をして一体感と躍動感をイメージした外観とした。側面の車両番号表記は外板下部から戸袋部に変更されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "車体構造は同じ日本車輌製造製である08系で採用した側構体をシングルスキン構造からダブルスキン構造とする「セミダブルスキン構造」を採用したほか、車体端部には三角形の断面構造を持つ衝突柱を配置し、これを車体台枠から屋根構体まで貫通させ、さらに側構体に直接接合する構造としている。さらに台枠と側構体床上面結合部の溶接位置を変更することで衝突事故時における安全性の向上を図った。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "車体は従来車両よりもアルミ合金材質の統一を図る「モノアロイ化」を実施し、廃車時におけるリサイクル性をさらに向上させた。このほか、床面高さを10mm低い1,140mmとし、ホームとの段差を減少させた。また、従来車において正面左上窓に貼り付けしてあったシンボルマークは省略された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "車内は快適性の向上や使い易さの向上などのため、仕様が見直されている。特に火災発生時に有毒ガスの発生源となるFRPや塩化ビニル材料の使用を取りやめている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "内張りは白色系の化粧板仕様とし、床材はエメラルドグリーンのゴム材を採用して車内を明るく見せる配色とした。座席は従来車と同様に一般席は紫色、優先席は青色のバケットシートであるが、掛け幅を450mmから460mmに拡大した。座席詰め物には従来からのポリエステル綿のほか、スプリング構造のクッション材や中空エラストマーを重ねた2重構造として座り心地の改善も図っている。袖仕切は白色の大形仕切で、仕切板上部の外側は黒色として明るい車内をシャープに引き締めるアクセントとした。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ドア間の7人掛け座席部では新たにスタンションポール(握り棒)を2本設置した。車端部では7人掛け座席部よりも網棚高さを100mm低い1,700mmとし、優先席部ではつり革高さを80mm低くして(床面上1,660mmから1,580mmへ)使いやすさを向上させたものとした。優先席袖仕切部の握り棒はオレンジ色のエンボス加工品を使用している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "側面客用扉は扉窓ガラスを複層構造から単板ガラスへと変更したほか、側面出入口下部(クツズリ部)には黄色の出入口識別表示板を配している。ドアチャイムは、10000系などと同じ3打式に変更され、各扉の鴨居下部に扉の開閉に合わせて赤く点滅する「ドア開閉表示灯」が新設された。この開閉表示灯はドア開閉時のほか、運転台の乗降促進放送を鳴動させる際にも点滅する。ドアエンジンは当初より減圧機構付きとされたほか、4次車まで採用されていた車内客用ドアの戸袋部にある戸閉検知センサーは省略された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "各車両間にある扉のドアクローザーは新開発のものを使用し、事故防止・出火対策の観点からドア下部に生ずる隙間を発生させないようにしているほか、緊急時に人力で開き易いようになっている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "車内の案内表示器はLEDによる2段表示式から見やすさ、より多くの情報を表示できる液晶ディスプレイ(LCD)方式に変更し、各客用ドア上部に1台を設置する。表示器を設置していない左側は路線図などを掲出するスペースとされているが、将来的には2画面化(Tokyo Metro ビジョン設置)が可能なよう準備工事を施工している。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "冷房装置はインバータ制御による容量48.9 kW(42,000kcal/h)から、稼働率制御方式(ON/OFF制御式・CU768形)による容量58,0 kW(50,000kcal/h)に増強されている。また、5次車では駅部における温度上昇対策のため、駅構内では空調装置からの廃熱を抑制する機能が追加されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "運転台を始めとした乗務員室内の機器配置などは取り扱いを考慮して従来車に準じているが、一部仕様が変更されている。速度計と両端にある保安表示灯、マスコンノッチ表示灯は10000系と同様の平板な形状としている。また、ホームドア表示灯はマスコン台から保安表示灯部に収納された。車両情報装置(TIS)は空調装置の指令機能と前灯点滅機能を専用スイッチからTISモニター経由の操作に変更した。運転台前のフロントガラスには遮光用カーテンが設置された。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "編成形態は一部変更され、9300形(M2)に代わり新区分形式となる9400形(簡易運転台付きT車)を新製し、MT比は完全な3M3T構成とした。走行機器は主電動機出力や歯車比については従来車と同一であるが、機器類は10000系の仕様が採り入れられ設計変更が加えられた。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "主回路は三菱電機製の2レベルIGBT-VVVFインバータ方式(PGセンサレスベクトル制御・純電気ブレーキ対応)とし、電動機制御は1C4M1群/2群構成とした。歯車比は従来車と同様だが、10000系で採用した新設計の駆動装置を使用し、振動と騒音の低減、保守性の向上を図っている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "補助電源装置は東芝製の240kVA出力の静止形インバータ (SIV)(三相交流440V出力)に、空気圧縮機はレシプロ式から低騒音かつ保守性に優れた一体箱形状のスクロール式に変更した(三菱電機製・MBU331C形)。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "台車は走行安全性向上や輪重調整作業などの保守性向上を目的に住友金属工業製モノリンク式台車であるFS777A形に変更され、南北線では初のボルスタ付台車となった。パンタグラフは菱形からシングルアーム式に変更し、一編成当たり3基搭載とした。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ただし、5次車ならびに一部の初期車両で施工したゴム製の床敷物は、本来はアルミ材を敷いた上でゴム製の床敷物を貼り付けるものであるが、現車ではアルミ材が敷かれておらず、鉄道車両の火災対策基準を満たさないことから、国土交通省より改善指示が出されている。",
"title": "形態分類"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)9月の目黒開業を前に、第01 - 15編成までの全車両に東急目黒線直通対応化改造が施行された。施行内容は以下の通り。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2016年(平成28年)度から2018年(平成30年)度にかけて、本系列のうち1次車である第01 - 08編成のリニューアルが大規模改修工事として実施されることが発表された。最初にリニューアルした第05編成は、2016年8月15日から運行を開始した。2019年に対象編成へのリニューアルが終了した。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "車体や車内の主な変更点は以下の通り。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "クロスシートは廃止され、現在では京王新5000系クロスシート(デュアルシート)車を2017年9月に79年ぶりに導入した京王電鉄と入れ替わるように、東京メトロは大手私鉄で唯一クロスシート車を有しない鉄道事業者となっている。",
"title": "改造"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "運用区間は南北線目黒 - 赤羽岩淵間、相互乗り入れ先である東急目黒線目黒 - 日吉間、2023年3月開業の東急新横浜線日吉 - 新横浜間、埼玉高速鉄道線赤羽岩淵 - 浦和美園間である。営業外列車や臨時列車によってはこれ以外の区間・路線を走行する場合がある。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "6両編成23本すべてが王子検車区に所属している。最大運用数は21本で、予備編成は2本である。なお、車体洗浄と車輪転削は埼玉高速鉄道の浦和美園車両基地、定期検査は千代田線の綾瀬工場、B修工事は新木場車両基地の新木場CRにおいて行われる。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "本系列では、全編成のうち第09編成以降の車両を2022年度以降に2両増結して8両化することが明らかとなった。当初では、15編成30両分の新造計画があり、編成内の全車が2次車以降となっている第09編成以降の15編成が対象とされていた(後述)。",
"title": "8両編成化"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "なお、対象外の編成は従来通り6両編成のままとし、相鉄新横浜線開業後も新横浜駅までの運用に留めている。",
"title": "8両編成化"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "東京メトロの2023年度事業計画で、8両編成の運行を開始すると示され、2023年度中に1編成目の営業運転を開始する予定だが、全編成が完了する時期については未定となっている。",
"title": "8両編成化"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2023年12月13日、9000系の最初の8両編成が12月16日に営業運行を開始することが発表されたが、同時に、5次車(第22・23編成)が8両化の対象外となることが明らかになった。",
"title": "8両編成化"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "8両編成化の増結用中間車は2021年10月8日に甲種輸送を実施した、第09編成に挿入する車両より順次落成・搬送されているが、2023年時点では第10編成以降の中間車が落成されていない状態となっている。",
"title": "8両編成化"
}
] |
営団9000系電車(えいだん9000けいでんしゃ)は、1990年(平成2年)に登場した帝都高速度交通営団(営団)の通勤形電車である。2004年(平成16年)4月の営団民営化にともない、東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{鉄道車両
| 車両名 = 営団・東京メトロ<!--民営化(東京メトロ化後も製造されたため)-->9000系電車
| 背景色 = #109ED4
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Tokyo Metro 9000 series 9113 20170422.jpg
| 画像説明 = 東急目黒線を走行する9000系<br>(2017年4月22日)
| 運用者 = {{plainlist|
* [[帝都高速度交通営団]]
* [[東京地下鉄]]
}}
| 製造所 = {{plainlist|
* [[川崎重工業]]<ref group="*">試作車及び1・2次車</ref>
* [[川崎車両]]<ref group="*">増結用車両</ref>
* [[東急車輛製造]]<ref group="*">3次車</ref>
* [[日本車輌製造]]<ref group="*">2・4・5次車</ref>
}}
| 製造年 = 1990年 - 2000年・2009年<br />2021年 -(増結用車両)
| 製造数 = 23編成138両
| 運用開始 = 1991年11月29日
| 投入先 = [[東京メトロ南北線|南北線]]
| 編成 = {{plainlist|
* 6両編成(3M3T・4M2T)
* 8両編成(4M4T){{refnest|group=*|2023年12月16日より<ref name="RM_20231213" />}}
}}
| 軌間 = 1,067 mm([[狭軌]])
| 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]]<br />([[架空電車線方式]])
| 最高運転速度 = {{plainlist|
* 80 km/h(南北線・埼玉高速線内)
* 110 km/h(東急線内)
}}
| 設計最高速度 = 110 km/h
| 起動加速度 = 3.3 km/h/s
| 常用減速度 = 3.5 km/h
| 非常減速度 = 4.5 km/h
| 編成定員 =
| 車両定員 = 本文参照
| 自重 = 25.7 - 33.5 t
| 編成重量 =
| 全長 = {{plainlist|
* 20,660 mm(先頭車)
* 20,000 mm(中間車)
}}
| 全幅 = 2,780 mm
| 全高 = {{plainlist|
* 下記は2次車以降。1次車はこれより5 mm高い。
* 4,080 mm(5次車4,042 mm)
* パンタ付車両 4,140 mm
}}
| 車体 = [[アルミニウム合金]]
| 台車 = {{plainlist|
* ボルスタレス台車
* ESミンデン式:SS-122・SS-022
* モノリンク式:SS-135B・SS-035B
* 5次車・増結用車両<ref name="RM_20231213">{{Cite web|和書|work=鉄道ホビダス(特集・コラム) |date=2023-12-13 |url=https://rail.hobidas.com/feature/490015/ |title=【お待たせっ!】東京メトロ南北線9000系、2両増結で8連化。12月16日より運行開始! |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |accessdate=2023-12-13}}</ref>はモノリンク式ボルスタ付台車
* FS777A形
}}
| 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]
| 主電動機出力 = {{plainlist|
* 190 [[ワット|kW]]
* B修施工車 225 kW
}}
| 駆動方式 = [[WN平行カルダン駆動方式|WN平行カルダン]]
| 歯車比 = 109:14(7.79)
| 編成出力 =
| 制御方式 = {{plainlist|
* [[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]](A編成)
* [[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子VVVFインバータ制御(A編成以外)
* [[炭化ケイ素|SiC]]-[[MOSFET]]素子VVVFインバータ制御(B修施工車)
}}
| 制御装置 =
| 制動装置 = ATC連動[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]([[回生ブレーキ]]併用)
| 保安装置 = [[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]・[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]・[[自動列車運転装置|ATO]]および[[定位置停止装置|TASC]]
| 備考 = <references group="*"/>
}}
'''営団9000系電車'''(えいだん9000けいでんしゃ)は、[[1990年]]([[平成]]2年)に登場した[[帝都高速度交通営団]](営団)の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。[[2004年]](平成16年)4月の営団民営化にともない、[[東京地下鉄]](東京メトロ)に継承された。
== 概要 ==
「相互直通運転における[[東急目黒線]]・[[東京メトロ南北線|南北線]]・[[都営地下鉄三田線|三田線]]・[[埼玉高速鉄道線]]との車両申し合わせ事項」の規格を満たして設計・開発が行われ、「21世紀を指向し、先進技術の導入、地域との調和、人に対するやさしさ」をコンセプトに製造された。
試作車および1次車は、1991年([[平成]]3年)[[11月29日]]の南北線の部分開業に併せて運行開始した。南北線の延伸に伴って、2次車から4次車が順次増備され、東京メトロ発足後は5次車および8両編成化の増結用車両が投入されている。
新路線に使用する車両ということで、基本設計は当時増備されていた「0x系列」に準じているが、形式称号は[[営団01系電車|01系]]など、「0シリーズ」形式の登場以後ながら「09系」というような形式称号になっていない。
製造費用は試作車(第01編成)が4両編成で6億9,018万9,000円(1両あたり約1億7,254万円)<ref name="Namboku-Const120">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.120の「平成2年度新線建設費支出 南北線」。</ref>、1次車(第02 - 07編成)が4両編成で約7億225万円(1両あたり約1億7,556万円)<ref name="Namboku-Const131">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.131の「平成3年度新線建設費支出 南北線」。</ref>、1次車(第08編成)が4両編成で7億4,215万2,000円(1両あたり約1億8,553万円)<ref name="Namboku-Const142">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.142の「平成4年度新線建設費支出 南北線」。</ref>。3次車(第14・15編成)では6両編成で10億6,782万8,500円(1両あたり約1億7,797万円)となっている<ref name="Namboku-Const184">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.189の「平成4年度新線建設費支出 南北線」。</ref><ref group="注">「東京地下鉄道南北線建設史」では、2次車(平成7年度増備車)・4次車(平成11年度・平成12年度増備車)は複数年にわたり車両費が計上されており、正確な費用が算出できないことから省略する。</ref>。
== 車両概説 ==
本項では落成時の仕様および共通事項について述べる。次車別の詳細については次項を参照。
=== 車体 ===
[[東京メトロ東西線|東西線]]用の[[営団05系電車|05系]]と同じ構造<ref name="PIC1991-6">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1991年6月号「営団地下鉄9000系試作車」55-57頁</ref>の[[アルミニウム合金]]製の20m4扉車体で、大形の[[押出成形|押出形材]]や[[ダブルスキン構造|中空形材]](床板など)を使用し、これらを連続[[ミグ溶接]]工法で組み立てている。
前頭部は流線型に近く、フロントガラスは側面にもまわり込ませた曲面ガラスを使用し、[[運転士]]の視野を確保している<ref name="PIC1991-6" />。[[プラグドア]]による非常用[[貫通扉]]を配し、非常脱出用の[[梯子]]も設置してある。[[ワンマン運転]]設備の設置で機器が多くなることから従来車よりも広く線路方向に約2.2m確保され、このために先頭車は中間車よりも66cm長い。側窓下には同線の[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]であるエメラルドグリーンのツートンが入り、中央部に白の細帯が入っている。
=== 乗務員室 ===
乗務員室内の配色はクリーム色、運転台は茶色の配色である。中央に[[マスター・コントローラー|ワンハンドルマスコン]]<ref group="注">マスコン[[ノッチ]]数:[[力行]]1 - 4ノッチ・常用ブレーキ1 - 7段・[[非常ブレーキ|非常]]</ref>があり、ATO出発ボタン、ドア開閉ボタン、非常停止ボタンなどが設置してある。計器盤右側には[[鉄道車両のモニタ装置|車両情報管理装置 (TIS)]] のモニター画面が収納されている。また、左壁や運転台の右袖部も広げ、機器を設置しており、運転席に座った状態であらゆる操作が出来るよう機器を配置している。運転士用放送操作器(運転士操作器)は使用しやすいようにマイク形で、ワンタッチで連絡(両乗務員室間連絡用)・車内放送・車外放送(各左右別)用が切り換えできるものとなっている。
乗務員室と客室の仕切りには窓が3箇所あり、客室側から見て左から順に大窓・乗務員室扉・細長い窓であり、大窓のみ遮光ガラスが使用されている。[[遮光幕]]は大窓、乗務員室扉窓に設置してある。
TISにはワンマン運転時の乗務員支援・機器故障時の車上検査機能・処置ガイダンス機能を搭載した<ref group="注">2000年代に入ってからはこれらのシステムを標準搭載している車両が多くなっているが、1991年当時の採用例は少なかった。</ref><ref name="MITSUBISHI1992-1">三菱電機『三菱電機技報』1992年1月号特集「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1992(vol66)/Vol66_01.pdf 8. 交通]}}」pp.107 - 111。本形式のATO装置(p.109)、車両情報管理装置(TIS・p.110)、ブレーキ作用装置と空調装置、列車無線(p.111)が記載されている</ref>。さらに機器の遠隔操作機能(ブレーキ遠隔開放<ref group="注">ブレーキが故障により、緩解でできない場合に強制的にブレーキを緩解させる機能。</ref>・制御遠隔開放<ref group="注">インバータ制御装置故障時に群単位(ユニット単位)で開放させる機能。</ref>)があり、故障時における迅速な対応が出来るようにした。
開業時は地上式CCTV(Closed Circuit Television・[[プラットホーム|ホーム]]監視用モニター)を採用し、運転台からホームドア上部の線路側にあるモニターを見ながら戸閉操作を実施していた。その後、全線開業の際には車上方式に変更し、車掌台上にはホーム監視カメラからの映像を受信するミリ波受信機が設置され、全編成に車上ITV(車上モニター画面)が設置された。
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TokyoMetro9000cab.jpg|運転台
CCTV No1.JPG|運転室にある車上ITV
Tokyometro9000intercom.jpg|4次車までの車内非常通報器
TokyoMetro9000-Wall.jpg|9000系乗務員室背面仕切壁<br />左側のガラスは遮光ガラス
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=== 機器類 ===
南北線は急曲線や急勾配が多く<ref name="Namboku827P">帝都高速度交通営団「東京地下鉄道南北線建設史」827頁</ref>、従来の[[チョッパ制御]]ではそれに対応する直流[[電動機]]の出力などにも限界があり、より出力の大きい[[かご形三相誘導電動機|三相誘導電動機]]が使用できる[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]を営団で初めて本格的に採用した<ref name="Namboku827P"/>。初期の車両では[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]]を用いた方式を採用していたが、2次車以降では[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子に変更された。三相誘導電動機の採用で保守軽減が図られたことから営団地下鉄では初めて車内床面の主電動機点検蓋(トラップドア)は省略された。
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ファイル:Tokyometro9000car.jpg|4次車の[[車椅子スペース]](右側)
ファイル:TokyoMetro9000-LED.jpg|1 - 4次車のドア上部に設置されているLED式案内表示器
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保安装置には1段ブレーキ制御機能を持つ[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]を採用した<ref group="注">この方式は1991年(平成3年)3月に[[東急田園都市線]]で採用したばかりである。</ref>。これにより細かい[[電気車の速度制御|速度制御]]、乗り心地の向上が可能となっている。さらに安全性や停止精度を高めるために[[人工知能]](AI)を組み込んだ[[自動列車運転装置|ATO]]<ref name="nanboku">営団地下鉄「東京地下鉄道南北線建設史」</ref>を採用し、これにより出発ボタンを押すだけで加速から駅停車まで自動運転が行われる<ref name="MITSUBISHI1992-1"/>。ATO運転時には力行・減速操作ともに31段の多段制御を採用、また[[定速運転]]機能を採用することで乗り心地を向上させている。
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TokyoMetro9000-ATCATO.jpg|9811号車のATC装置と一体化されたATO装置
Tokyometro-door-control.jpg|両先頭車に搭載する戸閉制御切換装置
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ATO運転時における安定した回生ブレーキが確保<ref group="注">ATO運転時に回生ブレーキが使用できない場合(回生失効)は空気ブレーキに切り替わり、定位置停止の精度が落ちてしまう。</ref>できるように[[変電所]]3か所に「電力回生用インバータ」を設置している。これは列車の回生ブレーキが他の列車で吸収されない場合には回生ブレーキで発生する電力を変電所のインバータで吸収・変換して駅の照明や[[エスカレータ]]の電源として使用する。
南北線では[[列車無線]]装置に在来方式の[[誘導無線]](IR)方式に代え、[[漏洩同軸ケーブル]](LCX)を使用した より[[電波]]品質の良い空間波無線(SR)を営団で初めて採用した<ref name="MITSUBISHI1992-1"/>。さらに、これまでの非常発報機能に加え、緊急時に列車防護が行える[[列車防護無線装置|防護発報]]機能を搭載させた。また、[[運転指令所]]より列車無線を通じて運行中の全列車への車内に一斉放送ができる機能がある。
=== ワンマン運転用の設備など ===
[[ワンマン運転]]用として[[自動列車運転装置|ATO装置]]を装備し、[[ホームドア]]に対応している。また、営団として初めて[[車椅子スペース]]や、車内客用ドア上部に2段式の[[発光ダイオード|LED]]式[[車内案内表示装置|旅客案内表示器]]を設置した(5次車の案内表示器は[[液晶ディスプレイ]]式)。このほかに[[車内放送|自動放送装置]]や車外[[スピーカー]]を搭載する。また、通常の[[車掌]]用放送操作器、ドア開閉装置([[車掌スイッチ]])も備えており、[[鳩ヶ谷駅]]・[[浦和美園駅]]・[[武蔵小杉駅]]・[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]で入庫の際、運転士が直接目視で閉扉を行う場合や、[[東急東横線]]内で[[臨時列車]]として車掌が乗務する際などに使用される。
安全対策として、車内客用ドアの[[戸袋]]部には戸閉検知[[センサー]]があり、手が引き込まれそうな時には開扉動作を停止する機能やホームドアとの連動機能があり、ホームドアに物が挟まれた場合には2回まで自動でドアの再開閉が行われる。車内の[[車内非常通報装置|非常通報装置]]にはワンマン運転用として乗務員と相互通話可能な[[インターホン]]方式を採用した。これは各車両の左右の壁に2か所ずつ(1両あたり4台)と車椅子スペース部(同設置車は5台)に設置されている(ただし、5次車は各車両2台の設置)。乗客から通報があっても10秒間[[運転士]]が応答しない場合には列車無線に接続し、運転指令所の指令員が応答するシステムとなっている。
また、乗務員室仕切扉が[[オートロック#鉄道車両の電磁鎖錠システム|電磁鎖錠]]対応となっている。これは、緊急時に乗客を避難させるために使用するもので扉上には「'''通行可'''」と表示され避難できるようになっている。さらに異常時における列車防護として前灯点滅機能がある{{Refnest|group="注"|緊急で駅間に列車が停車した場合に後方車の[[前照灯]]を点滅させ、後続列車に停止を促す機能<ref>鉄道ピクトリアル新車年鑑1992年版(9000系量産車記事)</ref>。}}。
== 形態分類 ==
現行の編成では編成組成や機器の違いからそれぞれ呼称方法がある。
第01・03・05・07編成は'''A編成'''、第02・04・06・08編成は'''B編成'''、第09 - 15編成は'''C編成'''、第16編成 - 第21編成は'''D編成'''、東京メトロ移行後に新造された第22・23編成は'''E編成'''と呼ばれる。営団の公式な資料<ref name="nanboku"/>においてもこの呼称方法が使用されている。
=== 試作車から4次車まで ===
4次車までの編成では、[[インバータ]]制御による[[集中式冷房装置|集中式]]の容量48.9 kW(42,000kcal/h)の[[エア・コンディショナー|冷暖房装置]]を搭載する。南北線ではワンマン運転を行うため、冷暖房装置は細かい操作の不要な全自動モードにより運転することができる<ref name="MITSUBISHI1992-1"/>。車内は冷房ダクトによるラインフローファン方式で、ラインデリアは先頭車に9台、中間車に10台設置している。また、車内放送用[[スピーカー]]は各車6台ある。側窓は車端部は固定窓、それ以外の2連窓は開閉可能な下降窓である。
==== 試作車 ====
[[File:Tokyo Metro 9000 series Prototype car transverse seating 20170907.jpg|thumb|240px|試作車・一次車の車端部に配置されたクロスシート]]
[[1990年]](平成2年)11月に[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]で第01編成(9101-9201-9301-9801)の4両が製造された。落成当初、[[方向幕|行先表示器]]は前面が字幕式で、側面についてはホームからの視認性が悪い<ref group="注">南北線の各駅(目黒駅は除く)には天井までの高さがあるタイプの[[ホームドア]]が設置されている。</ref>ことを理由として準備工事とした(後述の東急目黒線直通改造の項も参照)。先頭車側面の帯は前面から側面まで1本につながっている<ref group="注">当時の外観における量産車との識別点である。</ref>。
客室のカラースキームは内張りにベージュ系の光沢[[デコラ|化粧板]]を使用した。本車両では試験的にベネチアンレッドの赤系色<ref group="注">南北線のイメージを[[六義園|沿線にある旧庭園]]をモチーフにベネチアンレッドの赤系色にアレンジしたもの。</ref>、オレンジ系<ref group="注">従来の営団車両のイメージを南北線用にアレンジしてオレンジ色にまとめたもの。</ref>の2色を基本とした[[鉄道車両の座席|座席モケット]]を4種類、床材は[[石畳]]の散歩道をイメージしたものを4種類、4両すべてを異なったデザインで試作し、営団関係者に[[アンケート]]調査を行い、量産車に反映した。ただし、試作した座席モケット、床材は後年に張り替えられた。車内の[[鉄道車両の座席|座席]]は[[バケットシート|バケットタイプ]]の[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]が基本であるが、車端部には[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]を千鳥配置で設置した。
車内はステンレス製の手すり<ref group="注">乗務員室仕切窓部、客用ドア横、袖仕切部、荷棚前、車椅子スペース部である。なお、車椅子スペース移設後の9201号車も同スペース部には着色手すりが流用されている。</ref>にはベージュの焼付塗装がされている。[[網棚|荷棚]]は見通しのよい[[アクリル樹脂|アクリル]]板とされ(これは後年に通常の網棚に改造された)、さらに荷棚受けや[[広告]]枠・押し面<ref group="注">化粧板同士の継ぎ目を隠すアルミ材のこと。</ref>などのアルミ材にもアイボリーの塗装品を使用している。また側窓・妻面窓枠は[[繊維強化プラスチック|FRP]]製であり、当時の南北線は全線地下区間であったことから[[カーテン]]は設置していなかった。袖仕切りはFRP成形品とされ、仕切りの内側はモケットが貼られたほか座席下の蹴込み板は茶色に着色された。これらのことから本形式における車内は金属の質感を抑えるための工夫が従来車両よりも多く見られる。
当初の4両編成では9300形に[[車椅子スペース]]があり、この場所の壁には折りたたみ式の2人掛け座席が設置され(ただし1次車も含め後年にこの座席は廃止された)、上部に荷棚も設置された。客用ドアには[[複層ガラス]]構造が採用され、連結面の[[貫通扉]]には下方までガラスの拡大された扉が採用された。
当初の編成における9201-9301は[[三菱電機]]製のGTO素子を用いたVVVFインバータ(1C4M・2群)(4500V/2300A)を搭載している。補助電源装置は三菱電機製の150kW出力、[[インバータ|DC-DCコンバータ]](出力電圧は[[直流]]600V)を採用した。主回路は75kWを2群で構成し、VVVFインバータと合わせて4両編成時における故障時の[[冗長化]]を図っている。[[圧縮機|空気圧縮機 (CP)]] はレシプロ式のC-2500LB形を両先頭車に搭載した。
[[鉄道車両の台車|台車]]は[[営団03系電車|03系]]や05系で使用しているSUミンデン式(片板ばね式)台車を基本として、南北線における急勾配や急曲線においても安定して走行できるよう前後支持剛性をさらに低減させたESミンデン式軸箱支持方式を採用した。さらに、[[空気ばね]] (エアサスペンション)を[[マイクロコンピュータ|マイコン]]による自動制御として直線走行時の安定性や曲線通過性を向上させている。基礎ブレーキには03系・05系でも実績のある保守の容易な[[踏面ブレーキ|ユニットブレーキ]]を使用している。
[[東京メトロ千代田線|千代田線]]において各種試験を実施した後、1991年(平成3年)7月に[[牽引自動車|トレーラー]]で陸送され、地下の王子車両区(現・[[王子検車区]])に搬入された。後述の1次車と同様に、同年11月29日の[[駒込駅|駒込]] - [[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]間開業時より営業運転を開始した。
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Tokyo Metro 9000 series Prototype car interior 20170907.jpg|試作車車内全景
Tokyo Metro 9000 series Prototype car interior 2 20170907.jpg|優先席車端部
Tokyo Metro 9000 series Prototype car interior 3 20170907.jpg|ボックス席とフリースペース
Tokyo Metro 9000 series Prototype car interior 5 20170907.jpg|優先席とボックス席
Tokyo Metro 9000 series Prototype car interior 4 20170907.jpg|フリースペース
</gallery>
==== 1次車 ====
量産車は試作車の試験結果を踏まえて改良が加えられ、1991年(平成3年)6月から7月にかけて落成し、綾瀬検車区に搬入された。同検車区で整備後に試作車同様に王子検車区へ搬入された。このグループは1991年(平成3年)11月29日の南北線第1期開業用に第02 - 07編成が、翌1992年(平成4年)4月に検査時の予備として第08編成が川崎重工業で新製された。
制御装置は第02 - 04編成が[[日立製作所]]製のGTO素子、第05 - 08編成は三菱製のGTO素子を搭載した。
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Tokyometro-VF-HR136A.jpg|日立製作所製のGTO-VVVFインバータ装置<br />(1サイド側)(VF-HR136形)
Tokyometro-VF-HR136B.jpg|日立製作所製のGTO-VVVFインバータ装置<br />(2サイド側)
Tokyometro-MAP-198-15V28.jpg|三菱電機製のGTO-VVVFインバータ装置<br />(MAP-198-15V28形)
</gallery>
外観では先頭車運転室扉部の帯が前面に回り込む帯と側面帯に分かれている。これ以降このスタイルで統一されている。
車内は手すりの塗装をやめステンレス無塗装、[[網棚|荷棚]]は従来の[[営団01系電車|01系]]以来使用しているステンレス線を格子状に溶接した網棚式に変更された。座席、床材は9103号車のデザインが正式に採用となり、座席、床材は沿線に点在する[[公園]]の[[フジ (植物)|藤の花]]をイメージしたベネチアンレッドの赤系に統一(ただし、[[優先席]]部の座席は青色)した。座席は[[バケットシート|バケット式]]だが、試作車のセパレートタイプ<ref group="注">1人分の掛け幅がごとに縫い目の入った座席のこと。</ref>ではなく、連続形となった。
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Tokyo Metro 9000 series 1th-batch interior 20171021.jpg|1次車B編成車内(先頭車)<br />なお、床材は後年に張り替えられた
Tokyo Metro 9000 series 2th-batch interior 2 20171021.jpg|1次車B編成車内(中間車)
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当初は試作車と同様に4両編成(9100-9200-9300-9800)で組成されたが、四ツ谷 - 駒込間の延伸開業の際に、6両編成化による編成替えを実施している。
第02・04・06・08編成の9200-9300は、それぞれ第01・03・05・07編成の9600-9700に改番のうえで組み込まれた。残った偶数編成の9100・9800は、新製された2次車の9200-9300-9600-9700<ref group="注" name="9200type">9200-9300は2代目。</ref>を組み込む形で6両編成化された。
なお、9300形は6両編成化時に車椅子スペースを9200形に移設した際、同スペース撤去跡に本来はクロスシートにするべき場所をロングシートにしたため、シート配置が不規則となった<ref group="注">このため、ほぼ同様の仕様であるにもかかわらず、座席定員が9300形は55人・9600形は56人と違いがある。</ref>。A編成の9700形は当初9300形であったため、その車椅子スペース上部には荷棚が設置されていた。それは9700形改番後も残されているが、9300形から移設した9200形の同スペース部には荷棚が設置されていない。
1992年に増備された第08編成は従来車両とほぼ同一仕様であるが、台車はESミンデン軸箱支持としながら、軸受けを鞍形(くらがた)構造に変更した。なお、後述の編成替えにより、現在は第08編成の両先頭車と、第07編成の9607・9707号車がこの構造である。
;試作車・1次車 落成時の編成
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-
|style="background-color:#ccc;"|
|colspan="4"|{{TrainDirection| 赤羽岩淵 | 駒込・(目黒) }}
|-style="border-top:solid 5px #cfc;"
!号車
|1||2||3||4
|-
!形式
|'''9100形'''<br />(CT1)||'''9200形'''<br />(M1)||'''9300形'''<br />(M2)||'''9800形'''<br />(CT2)
|-
!機器配置
|CP||VVVF||DDC,BT||CP
|-style="border-top:solid 5px #6fc;"
!試作車
|9101||9201||9301||9801
|-
!1次車
|9102<br />:<br />9108||9202<br />:<br />9208||9302<br />:<br />9308||9802<br />:<br />9808
|}
:'''凡例'''
:* VVVF:主制御器<br />DDC:補助電源装置(DC-DCコンバータ)<br />CP:空気圧縮機<br />BT:蓄電池
==== 2次車 ====
[[1996年]](平成8年)[[3月26日]]の[[四ツ谷駅|四ツ谷]] - 駒込間の開業用、および6両編成化対応として、1995年(平成7年)11月から1996年(平成8年)2月にかけて、第09 - 13編成の全車両および第02・04・06・08編成の9200-9300-9600-9700<ref group="注" name="9200type" />が川崎重工業と日本車輌製造で製造された。
9200-9300-9600-9700の制御装置は日立製のIGBT素子によるVVVFインバータ(3レベル方式、2000V/325A、1C2M・4群)に変更され、台車はモノリンク式ボルスタレス台車 (SS135B・SS035B) に変更した<ref name="RF418">『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』第36巻第2号、[[交友社]]、1996年2月、 66-67頁</ref>。この台車は[[東京メトロ千代田線|千代田線]]用の[[営団06系電車|06系]]などで採用されたSS135形・SS035形台車をベースに、本形式の従来車両と同様のユニットブレーキ構造を組み合わせた台車である。補助電源装置の[[インバータ|DC-DCコンバータ]]は75kWを2台構成から130kW1台に集約、併せてコンバータ素子をGTOからIGBTに変更した。
試作車および1次車の6両編成化にあたっては、VVVFインバータの使用素子が同一編成内で混在することを避けるため、1次車の偶数編成の9200-9300の2両を抜き、奇数編成の9600-9700として組み込み、また余った偶数先頭車に新製した中間車4両を組み込み6両編成化した<ref name="RF418"/>。なお、この組成変更により第01編成のみ三菱電機製と日立製作所製のVVVFインバータが混在することとなった。同一編成で違うメーカーのVVVFインバータが混在する編成は、第01編成が唯一だった。
車体は1次車とほぼ同じであるが、アルミ合金材質を統一し、[[廃車 (鉄道)|廃車]]時の[[リサイクル]]性の向上を図っている。外観では前面の行先表示・[[列車番号|運行表示]]が[[発光ダイオード|LED]]式になった。さらに台車の設計変更により、床面高さを5mm低く(1,155mm→1,150mm)、さらに車体高さも5mm低くなった<ref name="RF418"/>。床構体には[[神戸製鋼所]]が開発したアルミ制振形材「[[ダブルスキン構造#ダンシェープ|ダンシェープ]]」を初めて本格採用しており、騒音や振動の大幅な低減を図った<ref name="KOBECO100">神戸製鋼所『神戸製鋼100年 1905-2005』pp.173・380。</ref>。
車内では側窓枠、妻面窓枠はアルミ製に変更となり、側窓枠にはカーテン設置用のレール・引っ掛け用溝も準備された(カーテン自体は未設置)。袖仕切は前年に落成した[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]用の[[営団8000系電車|8000系6次車]]と同じ形状のアルミ製<ref group="注">骨組はアルミで、外側は化粧板・座席側はモケット張りである。</ref>で、丸みを帯びた形状に変更された<ref name="RF418"/>。座席は掛け幅を440mm→450mmに拡大し、蹴込み板は無塗装品になった。さらに[[車椅子]]で車両間の通行ができるように貫通路の幅を800mmから900mmに拡大したため、車端部のボックス式クロスシートは廃止された<ref name="RF418"/>。車椅子スペースは9200形・9700形に変更し、折りたたみ座席を廃止した。従来の[[つり革]](△形で白色品)は座席前線路方向とドア付近枕木方向のみであったが、新たにドア付近線路方向へ増設がされた。
運転台ではTISはカラー液晶化とシステムの変調方式と伝送速度の向上化、東急乗り入れに備えて運転台保安表示灯を8点から13点に変更した。1次車も同時期にカラー液晶に変更されている。
[[市ケ谷駅]]付近に[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]との[[連絡線]]が設けられたことから、2次車以降はメーカーから[[車両輸送|甲種輸送]]後、[[綾瀬車両基地|綾瀬検車区]]で整備を行い、同連絡線を経て南北線に搬入されている。
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File:Tokyo-Metro-Series9000-Lot-2.jpg|2次車(2018年8月26日)
File:inside-Tokyometro9000-2nd.jpg|2次車の車内<br />袖仕切が丸みを帯びた形状に変更
File:Tokyometro-VFI-HR4820D.jpg|日立製のIGBT素子使用のVVVFインバータ装置<br />(VFI-HR4820D形)
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==== 3次車 ====
[[File:Tokyometro-MAP-198-15V58.jpg|thumb|240px|三菱製のIGBT素子使用のVVVFインバータ装置<br />(MAP-198-15V58形)]]
[[1997年]](平成9年)[[9月30日]]の[[溜池山王駅|溜池山王]] - 四ツ谷間の開業用に、[[東急車輛製造]]で第14・15編成が製造された。室内や外観の仕様は2次車と同じである。[[動力車|電動車]]は三菱電機製のIGBT素子を搭載している。
{{-}}
==== 4次車 ====
[[2000年]](平成12年)[[9月26日]]の目黒 - 溜池山王間の開業用に、[[日本車輌製造]]で製造された。1999年(平成11年)10月に第16・17編成が、2000年(平成12年)4月から5月に第18 - 21編成が落成した。電動車は[[東芝]]製のIGBT素子による高耐圧・大容量の2レベルVVVFインバータ(1C2M・3300V/1200A・3群制御)を搭載している。 ただし、2・3次車の制御装置同様に4群構成としながら、3群を使用しており、将来の8両化時に4群制御化ができるよう配線準備がされている<ref name="nanboku"/>。
当面は6両編成で運用することから、中間車の動力軸分散により、9300の赤羽岩淵・浦和美園方台車と9600の目黒・武蔵小杉方台車の電動機は準備工事として、[[MT比]]は3M3T相当となった。台車のマイコンによる[[空気ばね]]制御装置は3次車までは装備したが、4次車以降はコスト低減や従来の台車でも十分に安全性が高いことなどから取り止めとなった。
車体では外板溶接の一部に[[摩擦攪拌接合]](FSW)を採用し、外観見付けの向上を図った<ref name="nanboku"/>。行先表示器はLED式で、当初から側面にも設置されている。なお、第20・21編成のみ車両間[[転落防止幌]]を装着している。
車内は内張りは化粧板などの内装品の光沢仕上げをやめ、つや消し仕上げに、床材は紺色の2色濃淡柄に変更された。袖仕切りはアルミ製の大形仕切化、[[鉄道車両の座席|座席]]下にある[[暖房]]器はつり下げ式とした。ただし、脚台は小型化されたものの残されている。さらに客用ドアと連結面貫通扉の内張りを更新時に交換可能なものへ変更し、ドア本体のリサイクルが可能なように変更した。相互直通運転開始に伴い地上区間を走行することから、側窓のロール[[カーテン]]と側面の行先表示器を新製時より設置した。
当初より東急目黒線対応とされ、ATOに[[定位置停止装置|TASC機能]]を搭載<ref group="注">東急目黒線内ではATOの駅停車制御機能(TASC機能)のみを使用する。</ref>、東急線対応の[[列車無線]]装置を搭載した。車上CCTV設置により、地上区間におけるモニターの視認性向上のため前面ガラスに遮光フィルムを貼り付けされた。TISは伝送方式の変更と指令伝送の2重系化、従来は設定器で行っていた自動放送・行先設定をTISに内蔵した。
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Tokyo Metro 9000 series 4th-batch interior 20170907.jpg|4次車の車内<br />大形仕切りが目立つ
Tokyo Metro 9000 series 4th-batch interior 2 20170907.jpg|優先席車端部
Tokyometro9000seat.jpg|座席下のヒーターは吊り下げ式に変更した
Tokyometro-SVF043-A0-1.jpg|東芝製VVVFインバータ装置(SVF043-A0形)<br />素子は高耐圧IGBT素子を使用し、2レベル方式
Tokyometro-SVF043-A0-2.jpg|装置自体は4群対応だが、1群は準備工事<br />(左には素子箱が収納されているが、右には設置されていない)
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=== 5次車 ===
[[ファイル:Tokyo Metro 9122 Tamagawa 20170710.jpg|代替文=|サムネイル|240x240ピクセル|5次車<br />前頭部のデザインが大きく変更された<br />(2017年7月10日 / 多摩川駅)]]
[[2009年]](平成21年)に、約9年ぶりの新車として第22・23編成の2編成が製造された<ref>{{PDFlink|[http://www.tokyometro.jp/news/2009/pdf/2009-06.pdf 東京メトロ南北線増備車両9000系車両概要]}} - 東京メトロ</ref>。4次車以来の増備となるため、以降に新造した[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]用の[[営団08系電車|08系]]や[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]用の[[東京メトロ10000系電車|10000系]]の設計思想を採り入れている。
5次車は従来車両よりも「車内快適性の向上」・「使い易さの向上」・「環境負荷の低減」・「火災対策の強化」・「車体強度向上」を目指したものとした。導入する2編成のうち、1編成は同年[[6月6日]]に実施されたダイヤ改正時の列車増発用、もう1編成は2016年実施開始の大規模改修工事時の予備編成確保用としている<ref>[[とれいん (雑誌)|月刊「とれいん」]]2009年3月号記事</ref>。製造は2編成とも[[日本車輌製造]]<ref group="注">日本車輌製造での製造は営団時代の08系以来であり、東京メトロ移行後の新造車両としては初めて[[日立製作所]]以外が製造を担当した(東京メトロ移行後の新造車両は当初は日立製作所のみで製造していた)。</ref>が担当した。
同年1月と3月に搬入され、[[5月22日]]から営業運転を開始し、運用上は従来車と何ら区分されることなく共通に使用されている<ref>[http://railf.jp/news/2009/05/25/094600.html 東京メトロ9000系5次車が営業運転を開始] {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2009/05/25/094600.html |date=20160413091627 }} - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2009年5月25日</ref>。
{|style="float:left; text-align:center; border:solid 1px #999; margin:1em 2em 1em 0em; font-size:80%;"
|-
|style="background-color:#eee; border-bottom:solid 5px #6fc;"|1 - 4次車と5次車の<br />ラインカラーの比較
|-
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{|
|-
! !!前面!!側面
|-
!1 - 4次車
|style="background-color:#f6f6f6;"|
{| style="border-spacing:0em 0.5em; background-color:#fff; margin:1em;"
|-
|style="width:4em; height:0.8em; background-color:#cfc;"|
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|style="width:4em; height:2.4em; background-color:#6fc;"|
|}
|style="background-color:#f6f6f6;"|
{| style="border-spacing:0em 0.5em; background-color:#fff; margin:1em;"
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|style="width:4em; height:0.8em; background-color:#cfc;"|
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|style="width:4em; height:2.4em; background-color:#6fc;"|
|}
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!5次車
|style="background-color:#f6f6f6;"|
{| style="border-spacing:0em 0.5em; background-color:#fff; margin:1em;"
|-
|style="width:4em; height:2.4em; background-color:#cfc;"|
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|style="width:4em; height:0.8em; background-color:#6fc;"|
|}
|style="background-color:#f6f6f6;"|
{| style="border-spacing:0em 0.5em; background-color:#fff; margin:1em;"
|-
|style="width:4em; height:2.4em; background-color:#6fc;"|
|-
|style="width:4em; height:0.8em; background-color:#cfc;"|
|}
|}
|}
==== 外観 ====
約9年ぶりの新造車であることを明確にするため<ref>鉄道ピクトリアル鉄道車両年鑑2009年版「東京地下鉄9000系5次車」</ref>に、フロントガラス形状はそのままに、フロントガラス以下の[[デザイン]]を変更し、[[排障器|スカート]]を設置した。[[シールドビーム]]式[[前照灯]]・[[尾灯]]はケース形状と灯具形状変更(角型→丸型)し、前面のラインカラー帯はフロントガラス下部の形状に合わせてカーブした形状とし、側面部とは流れるようにつなげた。側面は側窓上にもラインカラーを追加したほか、窓下のラインは配色が上下が逆<ref group="注">細帯のグリーン+太帯のエメラルドから、太帯のエメラルド+グリーンの細帯へ変更。</ref>となり、車端寄りの部分はモザイク状に処理をして一体感と躍動感をイメージした外観とした。側面の[[鉄道の車両番号|車両番号]]表記は外板下部から戸袋部に変更されている。
車体構造は同じ日本車輌製造製である08系で採用した側構体を[[シングルスキン構造]]から[[ダブルスキン構造]]とする「セミダブルスキン構造」を採用したほか、車体端部には三角形の断面構造を持つ衝突柱を配置し、これを車体[[台枠]]から屋根構体まで貫通させ、さらに側構体に直接接合する構造としている。さらに台枠と側構体床上面結合部の[[溶接]]位置を変更することで[[列車衝突事故|衝突事故時]]における安全性の向上を図った。
車体は従来車両よりも[[アルミニウム合金|アルミ合金]]材質の統一を図る「モノアロイ化」を実施し、[[廃車 (鉄道)|廃車]]時における[[リサイクル]]性をさらに向上させた。このほか、床面高さを10mm低い1,140mmとし、[[プラットホーム|ホーム]]との段差を減少させた。また、従来車において正面左上窓に貼り付けしてあった[[シンボルマーク]]は省略された<ref group="注">有楽町線・副都心線用の[[東京メトロ10000系電車|10000系]]第13編成以降も同様である。</ref>。
==== 内装 ====
車内は快適性の向上や使い易さの向上などのため、仕様が見直されている。特に[[火災]]発生時に[[毒|有毒]][[気体|ガス]]の発生源となる[[繊維強化プラスチック|FRP]]や[[合成樹脂|塩化ビニル]]材料の使用を取りやめている。
内張りは白色系の[[デコラ|化粧板]]仕様とし、床材はエメラルドグリーンの[[ゴム]]材を採用して車内を明るく見せる配色とした。座席は従来車と同様に一般席は紫色、[[優先席]]は青色の[[バケットシート]]であるが、掛け幅を450mmから460mmに拡大した。座席詰め物には従来からの[[ポリエステル]]綿のほか、スプリング構造のクッション材や中空エラストマーを重ねた2重構造として座り心地の改善も図っている。袖仕切は白色の大形仕切で、仕切板上部の外側は黒色として明るい車内をシャープに引き締めるアクセントとした。
ドア間の7人掛け座席部では新たに[[スタンションポール]](握り棒)を2本設置した。車端部では7人掛け座席部よりも[[網棚]]高さを100mm低い1,700mmとし、優先席部では[[つり革]]高さを80mm低くして(床面上1,660mmから1,580mmへ)使いやすさを向上させたものとした。優先席袖仕切部の握り棒はオレンジ色のエンボス加工品を使用している。
側面客用扉は扉窓ガラスを[[複層ガラス|複層構造]]から[[単板ガラス]]へと変更したほか、側面出入口下部(クツズリ部)には黄色の出入口識別表示板を配している。[[ドアチャイム]]は、10000系などと同じ3打式に変更され、各扉の鴨居下部に扉の開閉に合わせて赤く点滅する「ドア開閉表示灯」が新設された。この開閉表示灯はドア開閉時のほか、運転台の乗降促進放送を鳴動させる際にも点滅する。ドアエンジンは当初より減圧機構付きとされたほか、4次車まで採用されていた車内客用ドアの戸袋部にある戸閉検知センサーは省略された。
各車両間にある扉の[[ドアクローザー]]は新開発のものを使用し、事故防止・出火対策の観点からドア下部に生ずる隙間を発生させないようにしているほか、緊急時に人力で開き易いようになっている<ref>[http://www.sokeinp.com/2009/0608/ [アイスリー]電車の引き戸自閉装置開発 東京メトロが導入] {{Wayback|url=http://www.sokeinp.com/2009/0608/ |date=20130602020552 }} - 相模経済新聞 2009年6月10日</ref>。
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Inside-TokyoMetro9123-1.jpg|5次車の車内<br />内装カラーリングを大きく変更
Inside-TokyoMetro9123-Seat.jpg|7人掛け座席
Inside-TokyoMetro9123-2.jpg|優先席部
Inside-TokyoMetro9123-3.jpg|優先席周りの拡大写真
Inside-TokyoMetro9123-4.jpg|5次車の車椅子スペース(右側)
Inside-TokyoMetro9123-Car.jpg|車椅子スペースの拡大写真
Inside-TokyoMetro9123-6.jpg|客用ドア
Inside-TokyoMetro9123-Info.jpg|客用ドア上部の液晶式案内表示器<br />[[Tokyo Metro ビジョン]]は未設置
Tokyometro9000 inside display.PNG|車内液晶ディスプレイ<br />(ソフト変更前)
Metro9000LCD(2).jpg|車内液晶ディスプレイ<br />(ソフト変更後)
Inside-TokyoMetro9123-7.jpg|客用ドア下部の出入口識別表示板<br />(黄色の帯状の部分)
</gallery>
車内の[[車内案内表示装置|案内表示器]]は[[発光ダイオード|LED]]による2段表示式から見やすさ、より多くの情報を表示できる[[液晶ディスプレイ]](LCD)方式に変更し、各客用ドア上部に1台を設置する<ref group="注">LCDの映像には行先・次の駅と乗り換え案内・駅の設備・所要時分などを表示する。当初は乗り入れ先である東急目黒線内や埼玉高速線内では停車駅の設備や目的地までの所要時分など詳細な項目は表示されなかったが、ソフト変更によって表示されるようになった。表示内容は10000系と同等である。</ref>。表示器を設置していない左側は[[路線図]]などを掲出するスペースとされているが、将来的には2画面化([[Tokyo Metro ビジョン]]設置)が可能なよう準備工事を施工している。
[[エア・コンディショナー|冷房装置]]は[[インバータ]]制御による容量48.9 kW(42,000kcal/h)から、稼働率制御方式(ON/OFF制御式・CU768形)による容量58,0 kW(50,000kcal/h)に増強されている。また、5次車では駅部における温度上昇対策のため、駅構内では空調装置からの廃熱を抑制する機能が追加されている。
運転台を始めとした[[操縦席|乗務員室]]内の機器配置などは取り扱いを考慮して従来車に準じているが、一部仕様が変更されている。[[速度計]]と両端にある保安表示灯、マスコン[[ノッチ]]表示灯は10000系と同様の平板な形状としている。また、[[ホームドア]]表示灯はマスコン台から保安表示灯部に収納された。[[鉄道車両のモニタ装置|車両情報装置]](TIS)は空調装置の指令機能と前灯点滅機能を専用スイッチからTISモニター経由の操作に変更した。運転台前のフロントガラスには遮光用カーテンが設置された。
==== 機器類 ====
編成形態は一部変更され、9300形(M2)に代わり新区分形式となる9400形(簡易運転台付き<!-- 実際は可搬形簡易マスコンの栓受けです。 -->[[付随車|T車]])を新製し、[[MT比]]は完全な3M3T構成とした。走行機器は主電動機出力や[[歯車]]比については従来車と同一であるが、機器類は10000系の仕様が採り入れられ設計変更が加えられた。
主回路は[[三菱電機]]製の2レベルIGBT-VVVFインバータ方式(PGセンサレスベクトル制御・[[純電気ブレーキ]]対応)とし、電動機制御は1C4M1群/2群構成とした。歯車比は従来車と同様だが、10000系で採用した新設計の駆動装置を使用し、[[振動]]と[[騒音]]の低減、保守性の向上を図っている。
補助電源装置は[[東芝]]製の240kVA出力の[[静止形インバータ]] (SIV)([[三相交流]]440V出力)に、[[圧縮機|空気圧縮機]]はレシプロ式から低騒音かつ保守性に優れた一体箱形状のスクロール式に変更した(三菱電機製・MBU331C形)。
[[鉄道車両の台車|台車]]は走行安全性向上や輪重調整作業などの保守性向上を目的に[[住友金属工業]]製モノリンク式台車であるFS777A形<ref group="注">10000系が装備するFS777形と基本設計は同一であるが、[[接尾辞|サフィックス]]が追加されている。</ref>に変更され、南北線では初のボルスタ付台車となった。[[集電装置|パンタグラフ]]は菱形からシングルアーム式に変更し、一編成当たり3基搭載とした。
ただし、5次車ならびに一部の初期車両で施工したゴム製の床敷物は、本来はアルミ材を敷いた上でゴム製の床敷物を貼り付けるものであるが<ref name="mlit20101115">[https://web.archive.org/web/20110323175351/https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo01_hh_000027.html 鉄道車両の床材料の交換指示について](国土交通省報道発表資料・インターネットアーカイブ)。</ref><ref name="mlit20101217">[https://web.archive.org/web/20110111140506/http://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo01_hh_000029.html 鉄道車両の床材料の改良計画について](国土交通省報道発表資料)。</ref>、現車ではアルミ材が敷かれておらず、鉄道車両の火災対策基準を満たさないことから、[[国土交通省]]より改善指示が出されている<ref name="mlit20101115"/><ref name="mlit20101217"/>。
== 改造 ==
=== 東急目黒線直通対応改造 ===
2000年(平成12年)9月の目黒開業を前に、第01 - 15編成までの全車両に東急目黒線直通対応化改造が施行された。施行内容は以下の通り。
* 準備工事であったLED式側面行先表示器の設置、側窓にロールカーテンの設置。
* 4次車に合わせて放送・行先の設定機能をTISに内蔵、従来使用していた設定器は廃止した。
* 運転台へのホーム監視モニターの設置、フロントガラスに遮光フィルムの貼り付け。TASC搭載、東急線対応の列車無線設置などを実施した。
* 第01 - 08編成は、上記に加え前面の行先表示器をLED式に変更、ロールカーテン設置時に側窓枠ごとアルミサッシに変更した(ただし妻面窓はFRP製のままである)。
=== B修工事 ===
[[File:Tokyo-Metro-Series9000R-Lot-1.jpg|thumb|240px|1次車第07編成 B修工事施工車<br />(2018年8月26日)]]
[[2016年]](平成28年)度から[[2018年]](平成30年)度にかけて、本系列のうち1次車である第01 - 08編成のリニューアルが大規模改修工事として実施されることが発表された<ref>{{Cite web|和書|title=中期経営計画「東京メトロプラン 2018」 |url=http://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf |publisher=東京地下鉄 |format=PDF |page=15 |accessdate=2016-05-26 }} {{Wayback|url=http://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf |date=20210130122303 }}</ref>。最初にリニューアルした第05編成は、2016年8月15日から運行を開始した<ref name="RM160329">{{Cite web|和書|title=2016年ニュースリリース|東京メトロ「8月中旬から運行開始! 南北線9000系車両をリニューアルします」 |url=http://www.tokyometro.jp/news/2016/155512.html |publisher=東京地下鉄 |date=2016-03-29 |accessdate=2016-05-26 }} {{Wayback|url=http://www.tokyometro.jp/news/2016/155512.html |date=20160515192437 }}</ref><ref name="RM160526">{{Cite web|和書|title=南北線9000系車両をリニューアルします 別紙 |url=http://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160329_1.pdf |publisher=東京地下鉄 |format=PDF |accessdate=2016-05-26 }} {{Wayback|url=http://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160329_1.pdf |date=20160630050045 }}</ref>。2019年に対象編成へのリニューアルが終了した。
車体や車内の主な変更点は以下の通り<ref name="RM160329" /><ref name="RM160526" /><ref name="RM55850">[http://trafficnews.jp/post/55850 消える「東京メトロ唯一の座席」 南北線開業から四半世紀、初期車両リニューアルで] {{Wayback|url=http://trafficnews.jp/post/55850 |date=20161108222016 }} - 乗りものニュース 2016年8月11日</ref>。
; 車体
* ラインカラー帯の配色を変更し、直線状から波がかった「ウェーブデザイン」とし、直通先である東急目黒線や埼玉高速鉄道線といったハーフハイトタイプのホームドア設置路線内でも判別できるよう、車体側面上部にも直線状のラインカラー帯を追加した<ref name="Fan2016-10">交友社「鉄道ファン」2016年10月号CAR INFO「東京地下鉄9000系リニューアル車」pp.78 - 79。</ref>。
* 車外の[[方向幕|行先表示器]]を3色LED式から[[フルカラー]]LED式に取り替えた<ref name="Fan2016-10"/>。[[書体]]は[[明朝体]]から[[ゴシック体]]に変更した<ref name="Fan2016-10"/>。
* 編成中の9300形を電装解除(M2'車→T車)して、[[MT比]]を 4M2T から 3M3T 構成とした<ref name="Neko-Metro133">ネコ・パブリッシング「東京地下鉄車両のあゆみ」「9000系大規模改修工事概要」p.133。</ref>。
* 前面下部に[[排障器|スカート]]を設置した<ref name="Neko-Metro133"/>。
; 車内
* 内装板をつや消しのアイボリー色に、床敷物を取り替えた<ref name="Fan2016-10"/>。
* 座席端部の袖仕切板を大型化、エッジ部分には床敷物同様に南北線のラインカラーであるエメラルドグリーンを配色した<ref name="Fan2016-10"/>。
* 車端部に設置していたクロスシートを廃止し、3人掛けのロングシートまたは[[車椅子スペース|フリースペース]]に変更した<ref name="Neko-Metro133"/>。
** 2・5号車以外の各車両にも1ヶ所ずつ車椅子・ベビーカー用のフリースペースを設置した<ref name="Neko-Metro133"/>。
* 優先席部は[[つり革]]高さを低下(1,660 mm から 1,580 mm )、縦握り棒をオレンジ着色品に変更した<ref name="Fan2016-10"/>。
* 各客用ドア上の[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]を液晶ディスプレイ (LCD)式に更新した<ref name="Fan2016-10"/>。
** 5次車とは異なり、当初から2画面構成を採用した。左側は映像広告([[Tokyo Metro ビジョン]])用とし、右側は行先・乗り換え案内表示用として使用する。
* 各客用ドア上部(鴨居点検フタ)にはドア開閉時または[[乗車促進音|乗降促進ブザー]]鳴動時に赤く点滅する「ドア開閉表示灯」を新設、また各客用ドア下部には車内と出入り口の識別を図る「出入口識別表示板」を新設した<ref name="Fan2016-10"/>。
* [[車内非常通報装置|非常通報装置]]は目立つよう、赤枠付きのものへ取り替えた<ref name="Neko-Metro133"/>。
* [[エア・コンディショナー|空調装置]]はグループ会社の[[メトロ車両]]が組み立てをした(製造は三菱電機)58.14 kW (50,000 kcal/h)出力品に交換した<ref name="Fan2016-10"/>。また、空調操作スイッチを廃止し、TISモニター経由の操作に変更した<ref name="Neko-Metro133"/>。
* 運転台前のフロントガラスには遮光用カーテン(日除け)を追加<ref name="Neko-Metro133"/>、運転台(計器盤)は大きな変更はないが、ブレーキ指示計(減速度 km/h/s を表示)を[[力行]]・ブレーキ[[ノッチ]]表示灯に変更した<ref name="Neko-Metro133"/>。
* [[列車無線]]送受話器横にハンドマイクを新設し、車内と車外への放送を同時に行えるようにした<ref name="Neko-Metro133"/>。
<gallery>
ファイル:Tokyo Metoro series9000 information LCD.jpg|各ドア上に設置された17インチLCDと防犯カメラ
ファイル:Tokyo Metoro series9000 SOS button.jpg|更新された車内非常通報装置
</gallery>
; 走行機器など
* 制御装置(VVVFインバータ)は[[三菱電機]]製フル[[炭化ケイ素|SiC]] - [[MOSFET]]素子を採用したものへ更新<ref name="Fan2016-10"/>(1C4M2群または1群制御・PGセンサレスベクトル制御・[[純電気ブレーキ]]対応)。
* 主電動機は225 kW 出力品に取り替え<ref name="Fan2016-10"/>。
* 補助電源装置([[静止形インバータ]] (SIV))は[[東京メトロ千代田線|千代田線]]用[[東京メトロ16000系電車|16000系]]4次車で採用した「並列同期/休止運転方式」に更新した<ref name="RM160329" />。
** この方式によって高負荷時には、編成中の2台のSIVが協調して各車両に電力を併給しているが、低負荷時には1台のSIVで編成全体に電力を併給し、もう1台のSIVは休止する。これにより、稼働台数が減らせるため従来よりも[[省エネルギー]]化が図られる<ref name="RM160329" /><ref name="RM55850" />。
* [[二次電池|蓄電池]]をポケット式から焼結式に更新し、合わせて容量を増大した<ref name="Neko-Metro133"/>。
* ブレーキ作用装置は台車ごとに制御する方式(1両に2台)から、車両単位で制御する方式(1両に1台)に更新した<ref name="Fan2016-10"/>。TISによる編成単位での[[遅れ込め制御]](編成統括ブレンディング方式)を採用した<ref name="Fan2016-10"/>。
* 空気圧縮機(CP)は、レシプロ式から[[潤滑油]]の不要なオイルフリースクロール式CPに更新した(1台に小容量のCPを4台搭載する)<ref name="Fan2016-10"/>。
* 集電装置(パンタグラフ)は「ひし形」で変更はないが、運転台TISモニター画面で状態確認を行うため、パンタ上昇検知装置を新設した<ref name="Fan2016-10"/>。
* [[鉄道車両のモニタ装置|車両制御情報管理装置]](TIS)はシステムの更新を行い、伝送経路を完全2重系構成とした<ref name="Neko-Metro133"/>。
クロスシートは廃止され、現在では[[京王5000系電車 (2代)|京王新5000系]]クロスシート(デュアルシート)車を2017年9月に79年ぶりに導入した[[京王電鉄]]と入れ替わるように、東京メトロは大手私鉄で唯一クロスシート車を有しない鉄道事業者となっている<ref name="RM55850" />。
== 編成形態 ==
;1次 - 4次車 編成形態
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-style="border-bottom:solid 3px #CC1669;"
!style="background-color:#ccc;"|
|colspan="6"|{{TrainDirection|浦和美園・赤羽岩淵|目黒・日吉・<br />(新横浜・西谷・<br />海老名・湘南台)}}
!rowspan="4"|制御装置<br />(VVVFインバータ)
!rowspan="4"|備考
|-
!号車
|1||2||3||4||5||6
|-
!形式
|'''9100<br/>形'''<br />(CT1)
|'''9200<br/>形'''<br />(M1)
|'''9300<br/>形'''<br />(M2)
|'''9600<br/>形'''<br />(M1)
|'''9700<br/>形'''<br />(M2)
|'''9800<br/>形'''<br />(CT2)
|-style="border-bottom:solid 5px #00AE95;"
!機器配置
|CP||VVVF||DDC<br/>BT||VVVF||DDC<br/>BT||CP
|-
!rowspan="3"|1次車編成<br />(A編成)
|9101<br />
|9201<br />
|9301<br />
|9601<br /><small>(9202)</small>
|9701<br /><small>(9302)</small>
|9801<br />
|9201・9301は三菱電機製GTO素子(1C4M・2群)<br />9601・9701は日立製作所製GTO素子
|rowspan="3"|1次車の編成替え<br />()内は組換前の旧番号<br />(いずれも初代)
|-
|9103<br />
|9203<br />
|9303<br />
|9603<br /><small>(9204)</small>
|9703<br /><small>(9304)</small>
|9803<br />
|日立製作所製GTO素子
|-
|9105<br /> <br />9107<br />
|9205<br /> <br />9207<br />
|9305<br /> <br />9307<br />
|9605<br /><small>(9206)</small><br />9607<br /><small>(9208)</small>
|9705<br /><small>(9306)</small><br />9707<br /><small>(9308)</small>
|9805<br /> <br />9807<br />
|三菱電機製GTO素子
|-
!1次・2次車<br />(B編成)
|9102<br />9104<br />9106<br />9108||9202<br />9204<br />9206<br />9208||9302<br />9304<br />9306<br />9308
|9602<br />9604<br />9606<br />9608||9702<br />9704<br />9706<br />9708||9802<br />9804<br />9806<br />9808
|日立製作所製IGBT素子<br />(3レベル方式、1C2M・4群)
|先頭車は1次車<br />中間車は新造2次車<br />9200・9300形は2代目
|-
!2次車<br />(C編成)
|9109<br />:<br />9113||9209<br />:<br />9213||9309<br />:<br />9313
|9609<br />:<br />9613||9709<br />:<br />9713||9809<br />:<br />9813
|日立製作所製IGBT素子<br />(3レベル方式、1C2M・4群)
|rowspan="3"|全車新造車編成
|-
!3次車<br />(C編成)
|9114<br />9115||9214<br />9215||9314<br />9315
|9614<br />9615||9714<br />9715||9814<br />9815
|三菱電機製IGBT素子
|-
!4次車<br />(D編成)
|9116<br />:<br />9121||9216<br />:<br />9221||9316<br />:<br />9321
|9616<br />:<br />9621||9716<br />:<br />9721||9816<br />:<br />9821
|東芝製IGBT素子<br />(2レベル方式、1C2M・3群制御)
|}
{|style="text-align:left; font-size:80%;"
|-
|
;凡例
{{Col|
* VVVF:主制御器
* DDC:補助電源装置(DC-DCコンバータ)
|
* CP:空気圧縮機
* BT:蓄電池
}}
|-
|
;備考
*8両編成では、9300形と9600形の間に9400形と9500形を追加している。
|}
;5次車(E編成) 編成形態
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-style="border-bottom:solid 3px #CC1669;"
!style="background-color:#ccc;"|
|colspan="6"|{{TrainDirection|浦和美園・赤羽岩淵|目黒・日吉・<br />(新横浜・西谷・<br />海老名・湘南台)}}
|-
!号車
|1||2||3||4||5||6
|-
!形式
|'''9100<br/>形'''<br />(CT1)
|'''9200<br/>形'''<br />(M1')
|'''9400<br/>形'''<br />(T)
|'''9600<br/>形'''<br />(M1)
|'''9700<br/>形'''<br />(M2)
|'''9800<br/>形'''<br />(CT2)
|-style="border-bottom:solid 5px #00AE95;"
!機器配置
|CP||VVVF1||SIV<br/>BT||VVVF2||SIV<br/>BT||CP
|-
!車両番号
|9122<br />9123
|9222<br />9223
|9422<br />9423
|9622<br />9623
|9722<br />9723
|9822<br />9823
|}
{| style="text-align:left; font-size:80%;"
|-
|
;凡例
{{Col|
* VVVF1:主制御器(1C4M1群)
* VVVF2:主制御器(1C4M2群)
|
* SIV:補助電源装置(静止形インバータ)
* CP:空気圧縮機
* BT:蓄電池
}}
|-
|
;備考
*8両編成化時には、9200形と9400形の間に9300形を、9400形と9600形の間に9500形を追加する予定であったが、2023年の計画変更で中止となった。
|}
;定員一覧表
{|class="wikitable" summary="定員一覧表" style="font-size:80%; text-align:center;"
|-style="border-bottom:solid 5px #00AE95;"
!style="background-color:#ddd;"|形式!!先頭車!!中間車!!中間車<br /><small>(車椅子スペース付)</small>
|-
!1次車
|140人<br />(座席49人)||151人<br />(座席56/55人)||152人<br />(座席52人)
|-
!2次車以降
|140人<br />(座席48人)||150人<br />(座席54人)||151人<br />(座席51人)
|}
== 運用 ==
運用区間は南北線[[目黒駅|目黒]] - [[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]間、相互乗り入れ先である[[東急目黒線]]目黒 - [[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]間、2023年3月開業の[[東急新横浜線]]日吉 - [[新横浜駅|新横浜]]間、[[埼玉高速鉄道線]]赤羽岩淵 - [[浦和美園駅|浦和美園]]間である。営業外列車や臨時列車によってはこれ以外の区間・路線を走行する場合がある。
6両編成23本すべてが王子検車区に所属している。最大運用数は21本で、予備編成は2本である。なお、車体洗浄と車輪転削は埼玉高速鉄道の[[浦和美園車両基地]]、定期検査は[[東京メトロ千代田線|千代田線]]の[[綾瀬車両基地|綾瀬工場]]、B修工事は[[新木場車両基地]]の[[新木場CR]]において行われる。
== 8両編成化 ==
本系列では、全編成のうち第09編成以降の車両を2022年度以降に2両増結して8両化する<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/301101 東急目黒線、「8両化」に備えた新型車両の全貌 水色ラインの「3020系」、今年11月にデビュー] {{Wayback|url=https://toyokeizai.net/articles/-/301101 |date=20200222110441 }} - 東洋経済オンライン 2019年9月5日</ref><ref>[https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf] {{Wayback|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf|date=20190327090906}}</ref>ことが明らかとなった。当初では、15編成30両分の新造計画があり<ref group="注">イカロス出版「東急電鉄 1989-2019」 東急線乗り入れ車両オールカタログ記事内の東京メトロ9000系のページに車両調達30両分の新造計画が一部記されている。</ref><ref>[https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf 東京メトロ公式「東京メトロプラン2021」] {{Wayback|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf |date=20190327090906 }} - 東京地下鉄、2021年10月10日閲覧。</ref>、編成内の全車が2次車以降となっている第09編成以降の15編成が対象とされていた(後述)。
なお、対象外の編成は従来通り6両編成のままとし、[[相鉄新横浜線]]開業後も[[新横浜駅]]までの運用に留めている。
東京メトロの2023年度事業計画で、8両編成の運行を開始すると示され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_2023.pdf |title=2023年度(第20期)事業計画(参考を含む)(PDF:471KB) |access-date=2023-10-01 |publisher=東京メトロ}}</ref>、2023年度中に1編成目の営業運転を開始する予定だが、全編成が完了する時期については未定となっている<ref>{{Cite web|和書|title=「南北線8両化」今後どこまで進む? 東京メトロ車両の8両編成も登場へ 埼玉高速鉄道は? |url=https://trafficnews.jp/post/125186 |website=乗りものニュース |date=2023-04-06 |access-date=2023-10-01 |language=ja}}</ref>。
2023年12月13日、9000系の最初の8両編成が12月16日に営業運行を開始することが発表されたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews231213_78.pdf |title=南北線9000系の8両編成列車運行開始! 2023年12月16日(土)より運行開始します! |date=2023-12-13 |access-date=2023-12-14 |publisher=東京メトロ}}</ref>、同時に、5次車(第22・23編成)が8両化の対象外となることが明らかになった<ref>{{Cite web|和書|title=南北線に「異端の新車」登場!8両化の“増結用” 車内が既存車両と全然違う! |url=https://trafficnews.jp/post/129891 |website=乗りものニュース |date=2023-12-13 |access-date=2023-12-14 |language=ja}}</ref>。
=== 増結用車両 ===
8両編成化の増結用中間車は2021年10月8日に甲種輸送を実施した、第09編成に挿入する車両より順次落成・搬送されている<ref>[https://www.tetsudo.com/topics/11896/ 東京メトロ 9000系中間車 甲種輸送] {{Wayback|url=https://www.tetsudo.com/topics/11896/ |date=20211010095945 }} - 鉄道コム、2021年10月8日発信。</ref>が、2023年時点では第10編成以降の中間車が落成されていない状態となっている。
{{節stub}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 帝都高速度交通営団『[https://metroarchive.jp/content/ebook_nanboku.html/ 東京地下鉄道南北線建設史]』- メトロアーカイブアルバム(公益財団法人メトロ文化財団)
**(9000系に関する記事):pp.36 - 41・843 - 931・934 - 935(車両搬入)
* 交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』
** 1991年5月号 新車ガイド:営団地下鉄9000系
** 1996年10月号 特集:カラフル営団地下鉄2401両
** 2004年9月号 特集:東京メトロ
* [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]『[[鉄道ピクトリアル]]』
** 1991年6月号「営団地下鉄9000系試作車」(盛山保雄 帝都高速度交通営団車両部設計課 課長補佐)
** 1995年7月号臨時増刊号 帝都高速度交通営団特集
** 2005年4月号臨時増刊号 東京地下鉄特集
** 新車年鑑/鉄道車両年鑑 1991年版以降各年版
; 5次車について
* 交友社『鉄道ファン』2009年4月号 CAR INFO「東京地下鉄9000系5次車」
* [[ネコ・パブリッシング]]『[[レイルマガジン|Rail Magazine]]」2009年4月号 NEW COMER GUIDE「東京地下鉄9000系5次車」
* [[交通新聞社]]『[[鉄道ダイヤ情報]]』2009年4月号 DJ NEWS FILE「東京地下鉄9000系5次車 (南北線)」
* 鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』2009年10月臨時増刊号鉄道車両年鑑2009年版「東京地下鉄9000系5次車」
* 日本鉄道車両機械技術協会『ROLLINGSTOCK&MACINERY』2009年4月号研究と開発「東京地下鉄 南北線9000系5次車の概要」(東京地下鉄 (株) 鉄道本部車両部車両課 蓮見 誠 著)
; 大規模改修車について
* 交友社『鉄道ファン」2016年10月号CAR INFO「東京地下鉄9000系リニューアル車」(資料提供・取材協力:東京地下鉄)pp.78 - 79
* ネコ・パブリッシング『東京地下鉄車両のあゆみ』内「9000系大規模改修工事概要」p.133
== 関連項目 ==
{{commonscat|Tokyo Metro 9000 series}}
* [[埼玉高速鉄道2000系電車]]
* [[東急3000系電車 (2代)]]
* [[東急5000系電車 (2代)|東急5080系電車]]
* [[東急2020系電車|東急3020系電車]]
* [[東京都交通局6300形電車]]
* [[東京都交通局6500形電車 (鉄道)]]
* [[相鉄20000系電車|相鉄20000系・21000系電車]]
** 上記の車種は本系列と同じく「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線・埼玉高速鉄道線・相鉄線との直通車両申し合わせ事項」の基準を満たしている。
== 外部リンク ==
* [http://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo/pages/trta9000.htm 東京地下鉄9000系4次車(日本車輌製造)]
* [http://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo/pages/trta9000-n5.htm 東京地下鉄9000系5次車(日本車輌製造)]
* [https://web.archive.org/web/20091231041241/http://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo/topics/tp090323.html 東京地下鉄殿向け南北線用9000系(5次車)完成(日車トピックス)]([[インターネットアーカイブ]])
* [https://web.archive.org/web/20150923192617/http://rail.hobidas.com/blog/natori09/sp/archives/2009/02/9000_2.html 編集長敬白アーカイブ「東京メトロ9000系第5次車公開」](インターネットアーカイブ)
* [http://www.tokyometro.jp/corporate/data/sharyo/rosen_nanboku9000.html 東京メトロ 企業情報 データライブラリー 車両紹介 南北線9000系 (1 - 4次車)]
* [http://www.tokyometro.jp/corporate/data/sharyo/rosen_nanboku9000new.html 東京メトロ 企業情報 データライブラリー 車両紹介 南北線9000系new (5次車)]
* [https://news.mynavi.jp/article/20160807-a100/ 「東京メトロ南北線9000系リニューアル車両を公開、8/15運行開始」 - マイナビ鉄道ニュース]
{{東京地下鉄の車両}}
{{DEFAULTSORT:えいたん9000けいてんしや}}
[[Category:東京地下鉄の電車|9000]]
[[Category:1990年製の鉄道車両]]
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[[Category:鉄道車両関連]]
|
2003-09-20T03:19:21Z
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2023-12-16T22:40:47Z
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17,518 |
高雄 (軍艦)
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高雄(たかお)は、江戸幕府及び大日本帝国海軍の艦船である。同名の艦船は5隻ある。名前の由来は多くが京都の高雄山である。
以下は軍艦ではないが、軍に徴用され特設艦艇となった。
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高雄(たかお)は、江戸幕府及び大日本帝国海軍の艦船である。同名の艦船は5隻ある。名前の由来は多くが京都の高雄山である。 高雄丸→第二回天 - 戊辰戦争中の新政府軍→旧幕府海軍の軍艦。1869年(明治2年)、宮古湾海戦に参加後、沈没。
高雄丸 (日本海軍) - 明治時代の武装輸送船。1874年(明治7年)イギリスより購入された。元の名はシンナンジング。
高雄 (巡洋艦) - 明治時代の巡洋艦。1889年(明治22年)竣工、日清戦争で活躍した。その後は三等海防艦となって第一線を退き、哨戒任務などに用いられた。日本海海戦では第三艦隊第七戦隊の砲艦として参加した。1911年(明治44年)除籍。
高雄 (巡洋戦艦) - 天城型巡洋戦艦の4番艦。1921年(大正10年)に起工するも、ワシントン海軍軍縮条約の締結により1924年(大正13年)に建造中止となり解体された。
高雄 (重巡洋艦) - 高雄型重巡洋艦の1番艦。1932年(昭和7年)に竣工し、太平洋戦争で活躍した。 以下は軍艦ではないが、軍に徴用され特設艦艇となった。 高雄丸 (特設掃海艇) - 元共同漁業→日本水産トロール漁船。第二次世界大戦中、大日本帝国海軍に徴用され第41掃海隊に編入された。
高雄丸 (特設駆潜艇) - 元高雄州漁業指導船。第二次世界大戦中、大日本帝国海軍に2度徴用され雑用船のち特設駆潜艇として使用された。当初は上記の特設掃海艇と区別のため「い号高雄丸」と命名された。
高雄丸 (陸軍輸送船) - 元大阪商船貨客船。大日本帝国陸軍に徴用され上陸作戦に使用された。台湾の高雄が由来。
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'''高雄'''(たかお)は、[[江戸幕府]]及び[[大日本帝国海軍]]の艦船である。同名の艦船は5隻ある。名前の由来は多くが京都の[[高雄山]]である。
* 高雄丸→[[第二回天]] - [[戊辰戦争]]中の[[官軍|新政府軍]]→旧[[幕府海軍]]の軍艦。[[1869年]](明治2年)、[[宮古湾海戦]]に参加後、沈没。
* [[高雄丸 (日本海軍)]] - [[明治]]時代の武装輸送船。[[1874年]](明治7年)[[イギリス]]より購入された。元の名はシンナンジング。
* [[高雄 (巡洋艦)]] - [[明治]]時代の[[巡洋艦]]。[[1889年]](明治22年)竣工、[[日清戦争]]で活躍した。その後は三等海防艦となって第一線を退き、哨戒任務などに用いられた。[[日本海海戦]]では第三艦隊第七戦隊の砲艦として参加した。[[1911年]](明治44年)除籍。
* 高雄 (巡洋戦艦) - [[天城型巡洋戦艦|天城型]][[巡洋戦艦]]の4番艦。[[1921年]](大正10年)に起工するも、[[ワシントン海軍軍縮条約]]の締結により[[1924年]](大正13年)に建造中止となり解体された。
* [[高雄 (重巡洋艦)]] - [[高雄型重巡洋艦|高雄型]][[重巡洋艦]]の1番艦。[[1932年]](昭和7年)に竣工し、[[太平洋戦争]]で活躍した。
以下は軍艦ではないが、軍に徴用され特設艦艇となった。
* 高雄丸 (特設掃海艇) - 元共同漁業→[[日本水産]]トロール漁船。第二次世界大戦中、大日本帝国海軍に徴用され第41掃海隊に編入された。
* 高雄丸 (特設駆潜艇) - 元[[高雄州]]漁業指導船。第二次世界大戦中、大日本帝国海軍に2度徴用され雑用船のち特設駆潜艇として使用された。当初は上記の特設掃海艇と区別のため「い号高雄丸」と命名された。
* {{仮リンク|高雄丸 (陸軍輸送船)|en|SS Takao Maru (1927)}} - 元[[商船三井|大阪商船]]貨客船。[[大日本帝国陸軍]]に徴用され上陸作戦に使用された。台湾の[[高雄市|高雄]]が由来。
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{{デフォルトソート:たかお}}
[[Category:日本海軍・海上自衛隊の同名艦船]]
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2020-09-11T08:57:10Z
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"Template:仮リンク",
"Template:Aimai"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9B%84_(%E8%BB%8D%E8%89%A6)
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17,523 |
水天宮前駅
|
水天宮前駅(すいてんぐうまええき)は、東京都中央区日本橋蛎殻町二丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)半蔵門線の駅である。駅番号はZ 10。
副駅名は東京シティエアターミナル前。
開業前の仮駅名は「蛎殻町」であったが、地元の地名や知名度が高く短くて分かりやすいとして1990年2月13日に営団が駅名を「箱崎」と決定していた。しかし、駅名を巡って営団側と住民側、住民同士で意見が対立したため、営団が「地域を分断するわけにいかないので、地域名を付けられない」とし、同年7月20日に「水天宮前」に駅名を変更した。駅の一部が隣の日本橋箱崎町にかかっていることから「箱崎」、東京シティエアターミナルに直結していることから「水天宮・エアシティターミナル前」、仮称駅名であった「蛎殻町」の3つの要望が地元から出ていた。
島式ホーム1面2線を有する地下駅で、ホームは地下3階に立地する。東側(東京シティエアターミナル側)の出入口には動く歩道(スロープ)が設置されている。このため当駅は、間接的な空港アクセス機能も担っている。
ホームの側壁には、田原町駅と同様に紋章が施されている。
かつては定期券売り場が設置されていたが、押上駅延伸を機に錦糸町駅に移転し閉鎖された。
(出典:東京メトロ:構内図)
2018年(平成30年)9月13日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。
曲は1番線が「川の辺」、2番線が「糸竹の道」(いずれも福嶋尚哉作曲)である。
2022年度の1日平均乗降人員は58,180人であり、東京メトロ全130駅中59位。
近年の1日平均乗降・乗車人員は下表の通りである。
最寄りバス停留所は、新大橋通りと水天宮通りの交差点付近にある水天宮前・水天宮前駅両バス停、およびロイヤルパークホテル正面玄関ロータリーにある地下鉄水天宮前駅バス停である。東京都交通局(都営)と日立自動車交通(日立)、および日の丸自動車興業により運行される以下の路線が発着する。
また、東京シティエアターミナルからは羽田空港や成田空港への空港連絡バスが発着する。詳細は「東京シティエアターミナル#バス路線」を参照。
|
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"text": "水天宮前駅(すいてんぐうまええき)は、東京都中央区日本橋蛎殻町二丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)半蔵門線の駅である。駅番号はZ 10。",
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"text": "副駅名は東京シティエアターミナル前。",
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"text": "開業前の仮駅名は「蛎殻町」であったが、地元の地名や知名度が高く短くて分かりやすいとして1990年2月13日に営団が駅名を「箱崎」と決定していた。しかし、駅名を巡って営団側と住民側、住民同士で意見が対立したため、営団が「地域を分断するわけにいかないので、地域名を付けられない」とし、同年7月20日に「水天宮前」に駅名を変更した。駅の一部が隣の日本橋箱崎町にかかっていることから「箱崎」、東京シティエアターミナルに直結していることから「水天宮・エアシティターミナル前」、仮称駅名であった「蛎殻町」の3つの要望が地元から出ていた。",
"title": "歴史"
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"text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅で、ホームは地下3階に立地する。東側(東京シティエアターミナル側)の出入口には動く歩道(スロープ)が設置されている。このため当駅は、間接的な空港アクセス機能も担っている。",
"title": "駅構造"
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"text": "ホームの側壁には、田原町駅と同様に紋章が施されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "かつては定期券売り場が設置されていたが、押上駅延伸を機に錦糸町駅に移転し閉鎖された。",
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"text": "(出典:東京メトロ:構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "2018年(平成30年)9月13日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。",
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"text": "曲は1番線が「川の辺」、2番線が「糸竹の道」(いずれも福嶋尚哉作曲)である。",
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"text": "2022年度の1日平均乗降人員は58,180人であり、東京メトロ全130駅中59位。",
"title": "利用状況"
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"text": "近年の1日平均乗降・乗車人員は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
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"text": "最寄りバス停留所は、新大橋通りと水天宮通りの交差点付近にある水天宮前・水天宮前駅両バス停、およびロイヤルパークホテル正面玄関ロータリーにある地下鉄水天宮前駅バス停である。東京都交通局(都営)と日立自動車交通(日立)、および日の丸自動車興業により運行される以下の路線が発着する。",
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"text": "また、東京シティエアターミナルからは羽田空港や成田空港への空港連絡バスが発着する。詳細は「東京シティエアターミナル#バス路線」を参照。",
"title": "バス路線"
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水天宮前駅(すいてんぐうまええき)は、東京都中央区日本橋蛎殻町二丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)半蔵門線の駅である。駅番号はZ 10。 副駅名は東京シティエアターミナル前。
|
{{駅情報
|社色 = #109ed4
|文字色 =
|駅名 = 水天宮前駅
|画像 = TokyoMetro-Z10-Suitengumae-station-entrance-8-20200514-134252.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 8番出入口(2020年5月)
|よみがな = すいてんぐうまえ
|ローマ字 = Suitengumae<br / >[Suitengu Shrine]
|副駅名 = 東京シティエアターミナル前{{要出典|date=2023年12月}}
|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=14|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
|type=point|type2=point
|marker=rail-metro|marker2=rail-metro
|coord={{coord|35|40|55.4|N|139|47|9.7|E}}|marker-color=8f76d6|title=水天宮前駅
|coord2={{coord|35|41|10.7|N|139|46|56.2|E}}|marker-color2=b5b5ac|title2=人形町駅
}}左上は乗換駅の人形町駅
|前の駅 = Z 09 [[三越前駅|三越前]]
|駅間A = 1.3
|駅間B = 1.7
|次の駅 = [[清澄白河駅|清澄白河]] Z 11
|電報略号 = スイ
|駅番号 = {{駅番号r|Z|10|#8f76d6|4}}
|所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)
|所属路線 = {{color|#8f76d6|●}}[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]
|キロ程 = 10.8
|起点駅 = [[渋谷駅|渋谷]]
|所在地 = [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋蛎殻町]]二丁目1-1
|座標 = {{coord|35|40|55.4|N|139|47|9.7|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1990年]]([[平成]]2年)[[11月28日]]<ref name="Hanzomon-suitengu274" /><ref name="交通901128">{{Cite news|title=営団半蔵門線が全通|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=1990-11-28|page=4}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />58,180
|統計年度 = 2022年
|乗換 = [[人形町駅]]<br />([[東京メトロ日比谷線]]・[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]])
|備考 =
}}
'''水天宮前駅'''(すいてんぐうまええき)は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋蛎殻町]]二丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''Z 10'''。
{{要出典範囲|date=2023年12月|副駅名は'''[[東京シティエアターミナル]]前'''<ref group="注釈">現在はアナウンスと[[車内案内表示装置|車内モニター]](LED式)のみで使用。</ref>}}。
== 歴史 ==
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[11月28日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)半蔵門線が[[三越前駅]]から延伸された際の[[終着駅]]として開設<ref name="Hanzomon-suitengu274">[[#Hanzomon-Con1|東京地下鉄道半蔵門線建設史(渋谷〜水天宮前)]]、p.274。</ref>{{R|交通901128}}。東京の地下鉄駅で初めて[[動く歩道]](水平部付エスカレーター)を設置。
**なお、当駅への延伸をもって、半蔵門線の計画の原型となる[[都市交通審議会答申第10号]]によって示された「東京11号線」(二子玉川 - 渋谷 - 蛎殻町)及びそれを根拠として営団が取得した11号線の路線免許(渋谷 - 蛎殻町)にあたる区間<ref name="Hanzomon-suitengu17-21">[[#Hanzomon-Con1|東京地下鉄道半蔵門線建設史(渋谷〜水天宮前)]]、pp.17 - 21。</ref>が全て完成したため、半蔵門線は一旦「全線開業」したこととなった<ref name="交通901128" />。
* [[2003年]](平成15年)[[3月19日]]:半蔵門線当駅 - [[押上駅|押上]]間延伸開業に伴い中間駅となる<ref name="pr20020829">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-27.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040204014324/http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-27.html|language=日本語|title=首都圏の地下鉄ネットワークがますます便利に! 半蔵門線 水天宮前・押上間 平成15年3月19日(水)開業(予定) 東武伊勢崎線・日光線南栗橋まで相互直通運転開始!|publisher=営団地下鉄|date=2002-08-29|accessdate=2020-05-02|archivedate=2004-02-04}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:営団地下鉄の民営化に伴い、当駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月17日]]:東京メトロ日比谷線・都営地下鉄浅草線[[人形町駅]]との乗り換え業務を開始<ref name="metro180215">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180215_12.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190427212238/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180215_12.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月17日(土)から新たな乗換駅の設定を開始します 人形町駅(東京メトロ・都営交通)⇔水天宮前駅、築地駅⇔新富町駅|publisher=東京地下鉄|date=2018-02-15|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-04-27}}</ref>。
** [[9月13日]]:[[発車メロディ]]を導入<ref name="2018-09-06">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180906_87.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180913150400/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180906_87.pdf|format=PDF|language=日本語|title=半蔵門線に初めて発車メロディを導入します 半蔵門駅、三越前駅にはその駅にゆかりのある曲を採用|publisher=東京地下鉄|date=2018-09-06|accessdate=2020-03-20|archivedate=2018-09-13}}</ref>。
=== 駅名について ===
開業前の仮称は「蛎殻町」であったが、地元の地名や知名度が高く短くて分かりやすいとして1990年[[2月13日]]に営団が駅名を「箱崎」と決定していた<ref name="Hanzomon-suitengu274" /><ref name="yomiuri19900503">{{Cite news|title=地下鉄半蔵門線蛎殻町の新駅名は水天宮前 営団が町会に提示/東京|newspaper=[[読売新聞]]|date=1990-05-03|publisher=[[読売新聞社]]|page=22 東京朝刊}}</ref><ref name="edotomo93">{{Cite web|和書|url=http://www.edo-tomo.jp/edotomo/h28(2016)/edotomo-No93.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210329025459/http://www.edo-tomo.jp/edotomo/h28%282016%29/edotomo-No93.pdf|title=会報えど友第93号 > 江戸・東京 下町めぐり 日本橋蛎殻町 〜江戸っ子かたぎの粋な町〜|date=2016-09-01|archivedate=2021-03-29|accessdate=2021-03-29|page=2|publisher=江戸東京博物館友の会広報部会|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。しかし、駅名を巡って営団側と住民側、住民同士で意見が対立したため、営団が「地域を分断するわけにいかないので、地域名を付けられない」とし、同年[[7月20日]]に駅名を「水天宮前」に変更した<ref name="Hanzomon-suitengu274" /><ref name="yomiuri19900503" />。なお地元からは、駅の一部が隣の[[日本橋箱崎町]]にかかっていることから「箱崎」、[[東京シティエアターミナル]]に直結していることから「水天宮・エアシティターミナル前」、仮称通りの「蛎殻町」の3つの要望が出ていた<ref name="yomiuri19900509">{{Cite news|title=地下鉄半蔵門線の新駅名 箱崎側が態度を保留/東京・中央区|newspaper=[[読売新聞]]|date=1990-05-09|publisher=[[読売新聞社]]|page=24 東京朝刊}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]で、ホームは地下3階に立地する。東側([[東京シティエアターミナル]]側)の出入口には[[動く歩道]](スロープ)が設置されている。このため当駅は、間接的な空港アクセス機能も担っている。
ホームの側壁には、[[田原町駅 (東京都)|田原町駅]]と同様に紋章が施されている。
かつては[[定期乗車券|定期券]]売り場が設置されていたが、押上駅延伸を機に[[錦糸町駅]]に移転し閉鎖された。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px|Z]] 半蔵門線
|[[渋谷駅|渋谷]]・[[長津田駅|長津田]]・[[中央林間駅|中央林間]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/suitengumae/timetable/hanzomon/b/index.html |title=水天宮前駅時刻表 渋谷・長津田・中央林間方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|-
!2
|[[押上駅|押上〈スカイツリー前〉]]・[[久喜駅|久喜]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/suitengumae/timetable/hanzomon/a/index.html |title=水天宮前駅時刻表 押上・久喜・南栗橋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|}
(出典:[https://www.tokyometro.jp/station/suitengumae/index.html 東京メトロ:構内図])
* 開業から[[押上駅]]へ延伸するまでは[[終着駅]]であり、渋谷側にある[[分岐器#形状による分類|両渡り分岐器]]を使用して折り返し運転が行われた。[[押上駅]]までの延伸後も非常用として設置されている<ref name="RP926_end">{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=鉄道ピクトリアル|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻第926号)|page=巻末|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
* 押上発当駅止まりの[[終電]](平日のみ)と、当駅始発中央林間行の[[始発列車|初電]]が設定されている<ref>[http://www.tokyometro.jp/station/suitengumae/timetable/hanzomon/b/index.html 水天宮前駅時刻表] - 東京地下鉄</ref>。
<gallery>
Suitengumae Station Exit 8.jpg|8番出入口と水天宮(2016年4月)
Suitengumae-Station-CityAirTerminal-Direction.jpg|シティエアターミナル方面改札口(2018年9月)
Suitengumae-Station-Suitengu-Direction.jpg|水天宮方面改札口(2018年9月)
TokyoMetro-Z10-Suitengumae-station-platform-20190324-181647.jpg|ホーム(2019年3月)
Hanzomon-Suitengumae1.JPG|渋谷駅側にある折り返し用の両渡り分岐器(2009年9月)
</gallery>
=== 発車メロディ ===
[[2018年]](平成30年)[[9月13日]]から[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している<ref name="2018-09-06" />。
曲は1番線が「川の辺」、2番線が「糸竹の道」(いずれも[[福嶋尚哉]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ半蔵門線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/361|date=2018-09-10|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2021-03-29|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''58,180人'''であり<ref group="メトロ" name="me2022" />、東京メトロ全130駅中59位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。
* 日比谷線との乗換人員を含んだ2019年度の1日平均'''乗降'''人員は'''88,545人'''である<ref name="report"/>。
近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.chuo.lg.jp/kusei/syokai/chuopocket.html 中央区ポケット案内] - 中央区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref name="report">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|
|<ref group="備考">開業日(11月28日)から翌年3月31日までの計123日間を集計したデータ。</ref>12,350
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|16,098
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|18,589
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|20,096
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|21,299
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|23,213
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|24,510
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|25,208
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|25,992
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|25,981
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|
|26,288
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|
|26,748
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|54,753
|27,485
|<ref name="RJ759_31" /><ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|59,977
|29,249
|<ref name="RJ759_31">{{Cite book|和書|author=瀬ノ上清二|title=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=3|chapter=輸送と運転 近年の動向|publisher=[[電気車研究会]]|page=31|issn=0040-4047}}</ref><ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|60,569
|30,222
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|59,884
|29,978
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|64,081
|32,208
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|68,183
|34,481
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|68,147
|34,334
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|68,365
|34,452
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|69,042
|34,830
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|68,853
|34,710
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|69,837
|35,115
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|69,663
|35,016
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|2017年(平成29年)
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|2018年(平成30年)
|80,533
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|-
|2019年(令和元年)
|84,016
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|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>52,319
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|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>51,091
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>58,180
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|}
; 備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|日本橋蛎殻町|日本橋箱崎町}}
* [[東京シティエアターミナル]] (T-CAT)(駅直結)
** 東京シティターミナル内[[郵便局]]
* [[ロイヤルパークホテル]](駅直結)
* [[ヴィラフォンテーヌ|ホテルヴィラフォンテーヌ日本橋箱崎]]
* [[日本IBM箱崎事業所]]
** IBM箱崎ビル内郵便局
* [[桃屋]]本社
* [[CAC Holdings]]本社
* [[Daiwaリバーゲート]]
** [[吉野家]]本社
* [[水天宮_(東京都中央区)|水天宮]]
* 中央区日本橋区民センター
** [[中央区役所 (東京都)|中央区役所]] 日本橋特別出張所
** 日本橋公会堂
* 中央人形町二郵便局
* [[甘酒横丁]]
* [[人形町駅]]([[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]・[[都営地下鉄浅草線]])
* [[浜町駅]]([[都営地下鉄新宿線]])- 正式な乗換駅ではない。
* [[中央区立有馬小学校]]
== バス路線 ==
最寄り[[バス停留所]]は、新大橋通りと水天宮通りの交差点付近にある'''水天宮前'''・'''水天宮前駅'''両バス停、および[[ロイヤルパークホテル]]正面玄関ロータリーにある'''地下鉄水天宮前駅'''バス停である。[[都営バス|東京都交通局]](都営)と[[日立自動車交通]](日立)、および[[日の丸自動車興業]]により運行される以下の路線が発着する。
; 水天宮前
* [[都営バス臨海支所#錦11系統|錦11]]:[[錦糸町駅]]前・[[亀戸駅]]前行き/[[築地駅]]前行き
* [[都営バス臨海支所#秋26系統|秋26]]:[[秋葉原駅]]前行き
; 水天宮前駅
* [[中央区コミュニティバス]]「江戸バス」[[中央区コミュニティバス#路線|北循環]]:[[中央区役所 (東京都)|中央区役所]]行き
; 地下鉄水天宮前駅
* [[メトロリンク日本橋#メトロリンク日本橋Eライン|メトロリンク日本橋Eライン]]:[[東京駅のバス乗り場#八重洲北口|東京駅八重洲口]]方面
また、東京シティエアターミナルからは[[東京国際空港|羽田空港]]や[[成田国際空港|成田空港]]への空港連絡バスが発着する。詳細は「[[東京シティエアターミナル#バス路線]]」を参照。
== 隣の駅 ==
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px|Z]] 半蔵門線
:: [[三越前駅]] (Z 09) - '''水天宮前駅 (Z 10)''' - [[清澄白河駅]] (Z 11)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
; 東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|22em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|22em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hanzomon.html/|date=1999-03-31|title=東京地下鉄道半蔵門線建設史(渋谷〜水天宮前)|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Hanzomon-Con1}}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.tokyometro.jp/station/suitengumae/index.html 水天宮前駅/Z10 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
{{東京メトロ半蔵門線}}
{{DEFAULTSORT:すいてんくうまえ}}
[[Category:東京都中央区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 す|いてんくうまえ]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:1990年開業の鉄道駅]]
|
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17,525 |
村上ゆみ子
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村上 ゆみ子(むらかみ ゆみこ、本名同じ、1974年4月2日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。 静岡県磐田郡竜洋町(現磐田市)出身。女性。血液型はAB型。東京デザイナー学院(現東京ネットウエイブ)。
スクウェア・エニックス社がかつて発刊していた『月刊少年ギャグ王』で主に作品を描いていた。『トルネコ一家の冒険記』では作画を担当。(脚本小松崎康弘)
下記以外にも『4コママンガ劇場』の4コマ漫画やドラゴンクエストシリーズの攻略本をはじめとしたイラストレーションも手掛ける。
現在ではお茶犬の漫画(マッグガーデン社)と、ゲーム雑誌の漫画『どうぶつの森』を執筆中。
同じく漫画家・イラストレーターの村上サトムは実の妹。
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村上 ゆみ子は、日本の漫画家、イラストレーター。
静岡県磐田郡竜洋町(現磐田市)出身。女性。血液型はAB型。東京デザイナー学院(現東京ネットウエイブ)。
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{{簡易区別|作家の村上ゆみ子}}
'''村上 ゆみ子'''(むらかみ ゆみこ、本名同じ<ref name="DQ412">村上ゆみ子「4コマ劇場楽屋裏」(エニックス出版局編『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場 第12巻』エニックス、1996年 ISBN 4-87025-873-0 113頁)。 </ref>、[[1974年]][[4月2日]]<ref name="DQ412"/> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。
[[静岡県]]<ref name="DQ412"/>[[磐田郡]][[竜洋町]](現[[磐田市]])出身。女性。[[ABO式血液型|血液型]]はAB型<ref name="DQ412"/>。[[専門学校東京デザイナー学院|東京デザイナー学院]](現[[専門学校東京ネットウエイブ|東京ネットウエイブ]])。
== 経歴・人物 ==
[[スクウェア・エニックス]]社がかつて発刊していた『[[月刊少年ギャグ王]]』で主に作品を描いていた。『[[トルネコ一家の冒険記]]』では作画を担当。(脚本[[小松崎康弘]])
下記以外にも『[[4コママンガ劇場]]』の[[4コマ漫画]]や[[ドラゴンクエストシリーズ]]の[[攻略本]]をはじめとした[[イラストレーション]]も手掛ける。
現在ではお茶犬の漫画([[マッグガーデン]]社)と、ゲーム雑誌の漫画『どうぶつの森』を執筆中。
同じく漫画家・イラストレーターの[[村上サトム]]は実の妹。
== 主な作品 ==
* [[トルネコ一家の冒険記]](全4巻)
* [[KIBA!]](全2巻)
* [[ドラゴンクエストキャラクターズ トルネコの大冒険2 不思議のダンジョン#漫画作品|トルネコの大冒険2 不思議のダンジョン]](全2巻)
* [[ゲームセンターCX]]ができるまで(『ゲームセンターCX3』収録/[[岐部昌幸]]・原作)
* [[マッグガーデン|お茶犬ほっとタイム]](全1巻)
* [[マッグガーデン|お茶犬ほっとタイム〜おかわり!〜]](全1巻)
* [[ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド#コミック|1Pコミックドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド]](全1巻)
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [http://blog.y-m.bitter.jp/ 村上ゆみ子公式ブログ「ときどきの村」]
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:むらかみ ゆみこ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本の女性イラストレーター]]
[[Category:静岡県出身の人物]]
[[Category:1974年生]]
[[Category:存命人物]]
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17,526 |
電気楽器
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電気楽器(でんきがっき)とは、楽器の作る振動を、電気信号として取り出し、何らかの処理をして音声を出力する仕組みを持った楽器である。
電子楽器が電子回路を利用しているのに対し、電気楽器は電気回路を利用している点で異なる。
なお、ここで言う電子回路とは、特にトランジスタや真空管といった能動素子を用いたものである。また、ここで言う電気回路とは、電気を動力源として利用する回路や、電子回路であっても受動素子は利用するが能動素子は利用しないものを指す。
楽器として電気を使うが、音声の出力に電気を使わないものは電気楽器とは言わない(ヴィブラフォンや電気モーターで送風されるオルガンなど。)。
特に厳密な定義をしないで、電気回路をつかった楽器を電気楽器とするならば、1748年にプロコプ・ディヴィシュは電磁石を使用したDenis D'Orが最初とされるがその詳細ははっきりしない。1759年にイエズス会の司祭、ドラボルデ(Jean-Baptiste Thillaie Delaborde)が発明したClavecin Électriqueは、カリヨン(複数の鐘を並べた楽器)を電動化したもので、ハンマーの部分を「警報ベル」の原理で電気的に振動させて、音楽を演奏しようとしたものである。同じように、電磁石をつかって、例えばピアノのハンマーを動かす楽器も現れた。1900年にイギリスの電気技術者、ウィリアム・ダッデルが実験して見せた、「singing arc」はアーク灯を点灯するための高周波回路のハム音を、コンデンサなどで周波数を変えて音階を作り、鍵盤で演奏して見せたものである。現在の一般的な意味での電子楽器を構成する技術が現れるのは、電気信号波形を音に変換させる「スピーカー」は19世紀後半には姿を見せ、音量を増加させるために必要な電流増幅のための真空管が出現するのは20世紀初頭である。エレクトリック・ギターに代表される従来の楽器の音色をマイクで拾って、スピーカで再生する楽器は1930年までには作られた。音色にあたる電気波形を作る折衷的な方法として、1930年代にローレンス・ハモンドによって、歯車状の磁性金属製の円盤を定速回転させて、電磁ピックアップにより磁界変化の波を音源とするハモンドオルガンが発明された。1930年代のレフ・テルミンの「テルミン」やモーリス・マルトノの「オンド・マルトノ」など、従来の楽器と違った表現力を持った楽器も作られている。
1748年にプロコプ・ディヴィシュは電磁石を使用したDenis D’Orを発明した。1759年にClavecin Électrique、1785年にClavecin Magnetique、1867年にElectromechanical Piano、1876年にMusical Telegraph、1897年にテルハーモニウム(Telharmonium)、1899年にSinging Arc、1905年にHelmholtz Sound Synthesiser、1909年にChoralcelo、1912年にSound-Producing Deviceが発明された。以後は電子工学を取り入れた電子楽器の時代になる。1914年にWireless Organ、1915年にAudion Piano、1916年にOptophonic Piano、1918年にSynthetic Tone、1921年にElectrophon、Hugoniot Organ、1922年にテルミン、1923年にStaccatone、1924年にSphäraphon、1925年にRadio Harmonium、1926年にPianorad、Keyboard Electric Harmonium、Kurbelsphärophon、1927年にDynaphone、Cellulophone、Clavier à Lampes、Electronde、Robb Wave Organ、Superpiano、Neo Violena、1928年にオンド・マルトノ、Klaviatursphäraphon、1929年にOrgue des Ondes、Croix Sonore、Hellertion & Heliophonが発明された。
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電気楽器(でんきがっき)とは、楽器の作る振動を、電気信号として取り出し、何らかの処理をして音声を出力する仕組みを持った楽器である。 電子楽器が電子回路を利用しているのに対し、電気楽器は電気回路を利用している点で異なる。 なお、ここで言う電子回路とは、特にトランジスタや真空管といった能動素子を用いたものである。また、ここで言う電気回路とは、電気を動力源として利用する回路や、電子回路であっても受動素子は利用するが能動素子は利用しないものを指す。 楽器として電気を使うが、音声の出力に電気を使わないものは電気楽器とは言わない(ヴィブラフォンや電気モーターで送風されるオルガンなど。)。
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'''電気楽器'''(でんきがっき)とは、[[楽器]]の作る振動を、[[電気信号]]として取り出し、何らかの処理をして[[音声]]を出力する仕組みを持った楽器である。
[[電子楽器]]が[[電子回路]]を利用しているのに対し、電気楽器は[[電気回路]]を利用している点で異なる。
なお、ここで言う電子回路とは、特に[[トランジスタ]]や[[真空管]]といった[[能動素子]]を用いたものである。また、ここで言う電気回路とは、[[電気]]を動力源として利用する[[回路]]{{要曖昧さ回避|date=2023年1月}}や、電子回路であっても[[受動素子]]は利用するが[[能動素子]]は利用しないものを指す。
楽器として電気を使うが、音声の出力に電気を使わないものは電気楽器とは言わない([[ヴィブラフォン]]や電気モーターで送風されるオルガンなど。)。
== 歴史 ==
===概要===
特に厳密な定義をしないで、電気回路をつかった楽器を電気楽器とするならば、1748年に[[プロコプ・ディヴィシュ]]は電磁石を使用したDenis D'Orが最初とされるがその詳細ははっきりしない。1759年にイエズス会の司祭、ドラボルデ(Jean-Baptiste Thillaie Delaborde)が発明したClavecin Électriqueは、[[カリヨン]](複数の鐘を並べた楽器)を電動化したもので、ハンマーの部分を「警報ベル」の原理で電気的に振動させて、音楽を演奏しようとしたものである。同じように、電磁石をつかって、例えばピアノのハンマーを動かす楽器も現れた。1900年にイギリスの電気技術者、[[ウィリアム・ダッデル]]が実験して見せた、「singing arc」はアーク灯を点灯するための高周波回路の[[ハム音]]を、コンデンサなどで周波数を変えて音階を作り、鍵盤で演奏して見せたものである。現在の一般的な意味での電子楽器を構成する技術が現れるのは、電気信号波形を音に変換させる「[[スピーカー]]」は19世紀後半には姿を見せ、音量を増加させるために必要な電流増幅のための[[真空管]]が出現するのは20世紀初頭である。[[エレクトリック・ギター]]に代表される従来の楽器の音色をマイクで拾って、スピーカで再生する楽器は1930年までには作られた。音色にあたる電気波形を作る折衷的な方法として、1930年代にローレンス・ハモンドによって、歯車状の磁性金属製の円盤を定速回転させて、電磁ピックアップにより磁界変化の波を音源とする[[ハモンドオルガン]]が発明された。1930年代の[[レフ・テルミン]]の「[[テルミン]]」や[[モーリス・マルトノ]]の「[[オンド・マルトノ]]」など、従来の楽器と違った表現力を持った楽器も作られている。
===タイムライン===
1748年に[[プロコプ・ディヴィシュ]]は[[電磁石]]を使用したDenis D’Orを発明した<ref>{{citation|url=http://120years.net/1748-denis-dor/|title=The Denis D’Or “Golden Dionysis”, Václav Prokop Diviš. Czech republic, 1748 }}</ref>。1759年にClavecin Électrique<ref>{{cite web|url=http://120years.net/clavecin-electrique-1759/|title=‘Clavecin Électrique’ . Jean-Baptiste Delaborde, France. 1759. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1785年にClavecin Magnetique<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-clavecin-magnetique-m-labbe-bertholon-france-1785/|title=The ‘Clavecin Magnetique’. M. l’Abbé Bertholon. France, 1785 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1867年にElectromechanical Piano<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electromechanical-piano-msr-hippsswitzerland1867/|title=‘Electromechanical Piano’ Matthias Hipp, Switzerland,1867 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1876年にMusical Telegraph<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-musical-telegraphelisha-greyusa1876/|title=The ‘Musical Telegraph’ or ‘Electro-Harmonic Telegraph’, Elisha Gray. USA, 1874 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1897年に[[テルハーモニウム]](Telharmonium)<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-telharmonium-thaddeus-cahill-usa-1897/|title=The ‘Telharmonium’ or ‘Dynamophone’ Thaddeus Cahill, USA 1897 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1899年にSinging Arc<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-singing-arcwilliam-duddeluk1899/|title=The ‘Singing Arc’ William Duddell, UK, 1899 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1905年にHelmholtz Sound Synthesiser<ref>{{cite web|url=http://120years.net/helmholtz-sound-synthesiser-max-kohl-germany-1905/ |title=Helmholtz Sound Synthesiser. Max Kohl. Germany, 1905 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1909年にChoralcelo<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-choralcelomelvin-severyusa1909/ |title=The ‘Choralcelo’ Melvin Linwood Severy & George.B. Sinclair. USA, 1909 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1912年にSound-Producing Deviceが発明された<ref>{{cite web|url=http://120years.net/sound-producing-device-melvin-l-severy-usa-1912/ |title=‘Sound-Producing Device’ Melvin Linwood Severy, USA. 1912 |accessdate=2017-04-09}}</ref>。以後は[[電子工学]]を取り入れた[[電子楽器]]の時代になる。1914年にWireless Organ<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-desilets-wireless-organ-georges-desilets-canada-1914/ |title=The ‘Désilets Wireless Organ’. Georges Désilets, Canada, 1914. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1915年にAudion Piano<ref>{{citation|url=https://120years.net/the-audion-pianolee-de-forestusa1915/ |title=The ‘Audion Piano’ and Audio Oscillator. Lee De Forest. USA, 1915 }}</ref>、1916年にOptophonic Piano<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-optophonic-pianovladimir-rossinesoviet-union1916/ |title=The ‘Optophonic Piano’, Vladimir Rossiné, Russia and France. 1916 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1918年にSynthetic Tone<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-synthetic-tone-sewall-cabot-usa-1918/ |title=The ‘Synthetic Tone’ Sewall Cabot, USA, 1918 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1921年にElectrophon<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electrophon-spharaphon-partiturophon-and-the-kaleidophon1921-1930/ |title=The Electrophon (1921), Sphäraphon(1924), kurbelsphärophon (1926), Klaviatursphäraphon(1928), Partiturophon (1930) and Kaleidophon(1939). Jörg Mager, Germany. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Hugoniot Organ<ref>{{cite web|url=http://120years.net/hugoniot-organ-charles-emile-hugoniot-france-1921/ |title=The ‘Hugoniot Organ’. Charles-Emile Hugoniot . France, 1921. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1922年に[[テルミン]]<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-thereminleon-termensoviet-union1922/ |title=The ‘Theremin’ or ‘Thereminvox’. Leon (or Lev) Sergeivitch Termen, Russia. 1922 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1923年にStaccatone<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-staccatonehugo-gernsbakgermany1923/ |title=The ‘Staccatone’. Hugo Gernsback & C.J.Fitch. USA, 1923 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1924年にSphäraphon<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electrophon-spharaphon-partiturophon-and-the-kaleidophon1921-1930/ |title=The Electrophon (1921), Sphäraphon(1924), kurbelsphärophon (1926), Klaviatursphäraphon(1928), Partiturophon (1930) and Kaleidophon(1939). Jörg Mager, Germany. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1925年にRadio Harmonium<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-radio-harmonium-sergei-nikolaevich-rzhevkin-russia-1925/|title=The ‘Radio Harmonium’ Sergeĭ Nikolaevich Rzhevkin, Russia, 1925 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1926年にPianorad<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-pianoradhugo-gernsbakgermany1926/ |title=The ‘Pianorad’, Hugo Gernsback, USA, 1926 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Keyboard Electric Harmonium<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-keyboard-electric-harmonium-lev-sergeyevich-termen-usarussia-1926/ |title=The Keyboard Electric Harmonium . Lev Sergeyevich Termen, USA/Russia, 1926 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Kurbelsphärophon<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electrophon-spharaphon-partiturophon-and-the-kaleidophon1921-1930/ |title=The Electrophon (1921), Sphäraphon(1924), kurbelsphärophon (1926), Klaviatursphäraphon(1928), Partiturophon (1930) and Kaleidophon(1939). Jörg Mager, Germany. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1927年にDynaphone<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-dynaphonerene-bertrandfrance1927/ |title=The ‘Dynaphone’, René Bertrand, France, 1927 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Cellulophone<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-celluphonepierre-toulon-krugg-bassfrance1927/|title=The ‘Cellule Photo Electrique’ or ‘Cellulophone’. Pierre Toulon & Krugg Bass, France, 1927. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Clavier à Lampes<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-clavier-a-lampes-armand-givelet-france-1927/|title=the ‘Clavier à Lampes’ or ‘Piano Radio Èlectrique’ Joseph Armand Marie Givelet, France. 1927 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Electronde<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electronde-martin-taubman-usa-1929/ |title=The ‘Electronde’ Martin Taubman, Germany, 1927 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Robb Wave Organ<ref>{{cite web|url=http://120years.net/robb-wave-organ-morse-robb-canada-1927/|title=The ‘Wave Organ’. Frank Morse Robb. Canada. 1927 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Superpiano<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-superpiano-emerich-spielmann-austria-1927/|title=The ‘Superpiano’ and ‘Symphonium’. Emerich Spielmann, Austria, 1928 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Neo Violena<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-neo-violena-vladimir-a-gurov-v-i-volynkin-lucien-m-varvich-russia-1927/ |title=The ‘Neo Violena’ Vladimir A Gurov, V.I. Volynkin & Lucien M. Varvich. Russia 1927 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1928年に[[オンド・マルトノ]]、Klaviatursphäraphon<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electrophon-spharaphon-partiturophon-and-the-kaleidophon1921-1930/ |title=The Electrophon (1921), Sphäraphon(1924), kurbelsphärophon (1926), Klaviatursphäraphon(1928), Partiturophon (1930) and Kaleidophon(1939). 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== 分類 ==
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== 主な電気楽器 ==
* [[エレクトリック・ギター]](エレキギター)
* [[エレクトリックベース]](エレキベース)
* [[エレクトリックピアノ]](電気ピアノ)
** フェンダーローズ
** ウーリッツァー
** エレピアン
* [[エレクトリック・ヴァイオリン]](電子ヴァイオリン)
** [[エレクトリック・アコースティック・ヴァイオリン]]
** [[ヴィオラフォン]]
** エレクトリック・チェロ
** [[エレクトリック・アップライト・ベース]]
* エレクトリックハープ
* [[クラビネット]]
* [[コンボオルガン]]
** [[ハモンドオルガン]]
* [[メロトロン]]
* [[マグナオルガン]]
* [[オルガン#リード・オルガンとハーモニウム|電気オルガン]] - 一部電気オルガンと言われるものでも、単に送風動作が電気モーターで行われ、発音の部分に電気が使われないものがある。この原理の物は電気楽器ではない。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[楽器分類学]]
** [[楽器分類学#電鳴楽器|電鳴楽器]]
* [[アンプ (楽器用)]]
* [[ディストーション (音響機器)]]
* [[アコースティック楽器]]
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光源
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光源(こうげん)は、自ら光を発する発光体。ただし、広義には他から光を受けた反射や屈折等により光を放つ物体も光源に含む。
光源には天然光源(自然光源)と人工光源がある。
天然光源のうち太陽は他に比類のない重要な光源である。また、月や星などの天体もある。長い間、地球上に生活する人類にとって太陽は主たる光源であり、夜の月や星などを含めた自然光源しか存在しなかった。
さらに青空、雲、霧、虹、暈、その他地表に介在し、直接・間接に日光を反射する物体もすべて天然光源に含められる。このほか大気中の発光体としては稲妻やオーロラがある。このほか地表の天然発光体として噴出する溶岩、燐光を発する動植物、蛍光を放つ鉱物がある。
人工光源にはガス灯、ろうそく等の炎(焔)、電灯、夜光塗料その他非常にたくさんの種類がある。
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光源(こうげん)は、自ら光を発する発光体。ただし、広義には他から光を受けた反射や屈折等により光を放つ物体も光源に含む。
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{{otheruses||Base Ball Bearのアルバム|光源 (アルバム)}}
[[ファイル:Bright sunlight at Cerro de la Campana, Hermosillo, Mexico.jpg|サムネイル|太陽の光。]]
'''光源'''(こうげん)は、自ら[[光]]を発する発光体<ref name="syashin321">{{Cite book |和書 |author1= 福島信之助 |author2= 藤澤信 |others= 田治米亮造執筆部分 |title= 科学写真便覧総説・準備編・操作編 |publisher= 丸善 |page= 321 |year= 1953 }}</ref>。ただし、広義には他から光を受けた反射や屈折等により光を放つ物体も光源に含む<ref name="syashin321"/>。
==光源の種類==
光源には天然光源(自然光源)と人工光源がある<ref name="syashin321"/><ref name="河本" />。
===天然光源===
天然光源のうち[[太陽]]は他に比類のない重要な光源である<ref name="syashin321"/>。また、[[月]]や星などの[[天体]]もある<ref name="syashin321"/>。長い間、地球上に生活する人類にとって太陽は主たる光源であり、夜の月や星などを含めた自然光源しか存在しなかった<ref name="河本">{{Cite journal|和書 |author=河本康太郎 |title=エジソンは偉かった!? 人工光源の光と陰 |journal=照明学会誌 |publisher=照明学会 |year=1996 |volume=80 |issue=1 |pages=6-11 |url=https://doi.org/10.2150/jieij1980.80.1_6 |naid=130006764689 |doi=10.2150/jieij1980.80.1_6 |issn=0019-2341}}</ref>。
さらに青空、[[雲]]、[[霧]]、[[虹]]、[[暈]]、その他[[地表]]に介在し、直接・間接に日光を反射する物体もすべて天然光源に含められる<ref name="syashin321"/>。このほか大気中の発光体としては[[雷|稲妻]]や[[極光|オーロラ]]がある<ref name="syashin321"/>。このほか地表の天然発光体として噴出する[[溶岩]]、[[燐光]]を発する動植物、[[蛍光]]を放つ[[鉱物]]がある<ref name="syashin321"/>。
===人工光源===
[[ファイル:Working LED 016.JPG|サムネイル|発光ダイオードの光]]
人工光源には[[ガス灯]]、[[ろうそく]]等の[[炎]](焔)、[[電灯]]、[[夜光塗料]]その他非常にたくさんの種類がある<ref name="syashin322">{{Cite book |和書 |author1= 福島信之助 |author2= 藤澤信 |others= 田治米亮造執筆部分 |title= 科学写真便覧総説・準備編・操作編 |publisher= 丸善 |page= 322 |year= 1953 }}</ref>。
* [[ろうそく]]
* [[たいまつ]]
* [[ランプ (照明器具)|ランプ]]
* [[ライムライト (照明)|ライムライト]]
* [[アセチレンランプ]]
* [[白熱電球]] - [[電球]] - [[電灯]]
* [[蛍光灯]]
* [[アーク灯]]
* [[無電極放電灯]]
* [[HIDランプ]]
* [[低圧放電灯]]
* [[発光ダイオード]](LED)
* [[OLED]]
* [[冷陰極管|冷陰極型蛍光管]]
* [[外部電極型蛍光管]]([[EEFL]])
* [[エレクトロルミネセンス]]ライト
* [[レーザー]]
* [[放射光]]
==脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[発光]]
* [[照明]]
* [[電力機器]]
* [[電気製品の一覧]]
* [[輝度 (光学)|輝度]]
* [[全光束]]
* [[照度]]
* [[演色性]]
* [[発光効率]]
* [[撮影]]
** [[順光]]
** [[逆光]]
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電子楽器
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電子楽器(でんしがっき、英: electronic instrument)とは、真空管やトランジスタの電気発振をもとに音をつくる楽器の総称。音源に機械的な振動部分を持たず、電子回路による発振音を用いる楽器。
電子回路で音をつくる楽器であり、電子回路で音の波形を作り出し、音の3要素である音程・音量・音色を制御することができる。
一般に、電子楽器にはエレキギターなど従来の楽器と同じ原理で生じる振動(物体的な振動)を電気的に処理する楽器は含まない。
電子楽器が音色を得る方式としては周期パルス列をフィルタリングすることで音色を得る減算方式、オルガンのように正弦波により倍音を合成する加算方式、FM音源などに代表される変調方式、録音した波形などをメモリに蓄えておき音程ごと再生するPCM音源など幾つかの方式がある。
PCM音源の登場で、ありとあらゆる音が楽器に出来るようになった。PCM音源における電子的なメモリの増加は、飛躍的に音色の質を向上させ、多種多様な音色の作成を可能にした。
1748年のプロコプ・ディヴィシュによる電磁石を使用したデニスドール(英語版)の発明を端緒として、1759年にはClavecin Électrique、1785年にClavecin Magnetique、1867年にElectromechanical Piano、1876年にMusical Telegraphが発明された。
ここあたりまでは通常、電気楽器として扱われる。
下では電気楽器でもあり電子楽器でもあるような曖昧なもの、黎明期の電子楽器も含めて解説してゆく。
1897年に発明されたテルハーモニウム(Telharmonium)は、基本は電気楽器ではあるが、電子楽器を予示する性質を備えている。『日本大百科全書』では「世界最初の電子楽器」としており、音を電気的に得ることに関する多くの問題を解決し、「今日の電子楽器の基本的要素はほぼすべて盛り込んだ画期的なものであった」としている、が、総重量200トンという巨大なもので、商業的には失敗した。
1899年にはSinging Arcが発明された。
1915年にリー・ド・フォレストはアメリカ合衆国特許第 1,543,990号を出願した。これはテルミン(テレミン)よりも数年早いものであり、「世界初の電子楽器」とされる。
1920年(あるいは1919年)にはソ連の音響物理学者レフ・テルミン(レフ・テレミン)によって電子楽器として有名なテルミン(テレミン)が発明され、アメリカに紹介され、数人の音楽家がこれのために作曲するなど、一定の成功をおさめた。
その他の電子楽器の発明も紹介すると、1916年にOptophonic Piano、1918年にSynthetic Tone、1921年にElectrophon、Hugoniot Organ、1923年にStaccatone、1924年にSphäraphon、1925年にRadio Harmonium、1926年にPianorad、Keyboard Electric Harmonium、Kurbelsphärophon、1927年にDynaphone、Cellulophone、Clavier à Lampes、Electronde、Robb Wave Organ、Superpiano、Neo Violenaが発明された。
1928年にはフランス人のモーリス・マルトノによってオンド・マルトノが発明され、これはチェンバロに似ていて5オクターブの鍵盤があり、鍵盤の手前にはグリッサンド用のリボンがある楽器で、テルミンより成功をおさめ、この楽器のために作曲した作曲家は多く、有名なところではオネゲル、メシアン、ジョリベなどがいる。
同1928年にKlaviatursphäraphon、1929年にOrgue des Ondes、Croix Sonore、Hellertion & Heliophonが発明された。
そして1930年代にはドイツのフリードリヒ・トラウトバイン(de:Friedrich Trautwein)がトラウトニウム(en:Trautonium)を発明し、これは成功し、1950年代までこの楽器を用いた曲が作曲され続けた。
電子オルガンが発明され、アナログシンセサイザーが発明され、デジタルシンセサイザーが開発された。
シンセサイザーは1990年代までは音源として専用のカスタムICを使用したハードウェア・シンセサイザーが主流だったが、2000年代後半からはPCの性能向上によりソフトウェア・シンセサイザーが主流になっていった。
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電子楽器とは、真空管やトランジスタの電気発振をもとに音をつくる楽器の総称。音源に機械的な振動部分を持たず、電子回路による発振音を用いる楽器。
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{{Otheruses|'''電子'''楽器(electronic instrument)|電子楽器も含みうるが、もう少し範囲が広い概念の'''電気'''楽器(electric instrument)|電気楽器}}
[[ファイル:Bob Moog3.jpg|250px|thumb|[[モーグ・シンセサイザー]]を開発した[[ロバート・モーグ]]]]
'''電子楽器'''(でんしがっき、{{Lang-en-short|electronic instrument}})とは、[[真空管]]や[[トランジスタ]]の電気[[発振]]をもとに[[音]]をつくる[[楽器]]の総称<ref name="Nihondaihyakka">『日本大百科全書』【電子楽器】</ref>。[[音源]]に機械的な振動部分を持たず、[[電子回路]]による発振音を用いる楽器<ref>『デジタル大辞泉』【電子楽器】</ref>。
== 概要 ==
電子回路で音をつくる[[楽器]]であり、電子回路で音の[[波形]]を作り出し、[[音]]の3要素である[[音程]]・[[音量]]・[[音色]]を制御することができる。
一般に、電子楽器にはエレキギターなど従来の楽器と同じ原理で生じる振動(物体的な振動)を電気的に処理する楽器は含まない<ref name="Nihondaihyakka" />。
電子楽器が音色を得る方式としては周期パルス列を[[フィルタリング]]することで音色を得る減算方式、[[オルガン]]のように[[正弦波]]により[[倍音]]を合成する加算方式、[[FM音源]]などに代表される変調方式、[[録音]]した波形などを[[メモリ]]に蓄えておき音程ごと再生する[[PCM音源]]など幾つかの方式がある。
PCM音源の登場で、ありとあらゆる音が楽器に出来るようになった。PCM音源における電子的なメモリの増加は、飛躍的に音色の質を向上させ、多種多様な音色の作成を可能にした。
== 歴史 ==
{{日本語表現|date=2019年3月|section=1}}
;前史 電気楽器(電子楽器以前)
1748年の[[プロコプ・ディヴィシュ]]による[[電磁石]]を使用した{{仮リンク|デニスドール|en|Denis d'or}}の発明を端緒として<ref>{{citation|url=http://120years.net/1748-denis-dor/|title=The Denis D’Or “Golden Dionysis”, Václav Prokop Diviš. Czech republic, 1748 }}</ref>、1759年にはClavecin Électrique<ref>{{cite web|url=http://120years.net/clavecin-electrique-1759/|title=‘Clavecin Électrique’ . Jean-Baptiste Delaborde, France. 1759. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1785年にClavecin Magnetique<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-clavecin-magnetique-m-labbe-bertholon-france-1785/|title=The ‘Clavecin Magnetique’. M. l’Abbé Bertholon. France, 1785 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1867年にElectromechanical Piano<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electromechanical-piano-msr-hippsswitzerland1867/|title=‘Electromechanical Piano’ Matthias Hipp, Switzerland,1867 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1876年にMusical Telegraphが発明された<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-musical-telegraphelisha-greyusa1876/|title=The ‘Musical Telegraph’ or ‘Electro-Harmonic Telegraph’, Elisha Gray. USA, 1874 |accessdate=2017-04-09}}</ref>。
ここあたりまでは通常、電気楽器として扱われる。
;電子楽器の始まり
下では電気楽器でもあり電子楽器でもあるような曖昧なもの、黎明期の電子楽器も含めて解説してゆく。
1897年に発明された[[テルハーモニウム]](Telharmonium)<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-telharmonium-thaddeus-cahill-usa-1897/|title=The ‘Telharmonium’ or ‘Dynamophone’ Thaddeus Cahill, USA 1897 |accessdate=2017-04-09}}</ref>は、基本は電気楽器ではあるが、電子楽器を予示する性質を備えている。『日本大百科全書』では「世界最初の電子楽器」としており、音を電気的に得ることに関する多くの問題を解決し、「今日の電子楽器の基本的要素はほぼすべて盛り込んだ画期的なものであった」としている<ref name="Nihondaihyakka" />、が、総重量200トンという巨大なもので、商業的には失敗した<ref name="Nihondaihyakka" />。
1899年には[[ウィリアム・ダッデル|Singing Arc]]が発明された<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-singing-arcwilliam-duddeluk1899/|title=The ‘Singing Arc’ William Duddell, UK, 1899 |accessdate=2017-04-09}}</ref>。
1915年に[[リー・ド・フォレスト]]は{{US patent|1543990}}を出願した。これは[[テルミン]](テレミン)よりも数年早いものであり、「世界初の電子楽器」とされる<ref>{{citation|url=http://ascii.jp/elem/000/000/982/982273/index-4.html |title=Nutube開発者はなぜ真空管造りに蛍光表示管を選んだのか}}</ref><ref>{{citation|url=https://120years.net/the-audion-pianolee-de-forestusa1915/ |title=The ‘Audion Piano’ and Audio Oscillator. Lee De Forest. USA, 1915 }}</ref>。
1920年(あるいは1919年)には[[ソ連]]の音響物理学者[[レフ・テルミン]](レフ・テレミン)によって電子楽器として有名な'''[[テルミン]]'''(テレミン)が発明され、アメリカに紹介され、数人の音楽家がこれのために[[作曲]]するなど、一定の成功をおさめた<ref name="Nihondaihyakka" />。
その他の電子楽器の発明も紹介すると、1916年にOptophonic Piano<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-optophonic-pianovladimir-rossinesoviet-union1916/ |title=The ‘Optophonic Piano’, Vladimir Rossiné, Russia and France. 1916 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1918年にSynthetic Tone<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-synthetic-tone-sewall-cabot-usa-1918/ |title=The ‘Synthetic Tone’ Sewall Cabot, USA, 1918 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1921年にElectrophon<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electrophon-spharaphon-partiturophon-and-the-kaleidophon1921-1930/ |title=The Electrophon (1921), Sphäraphon(1924), kurbelsphärophon (1926), Klaviatursphäraphon(1928), Partiturophon (1930) and Kaleidophon(1939). Jörg Mager, Germany. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Hugoniot Organ<ref>{{cite web|url=http://120years.net/hugoniot-organ-charles-emile-hugoniot-france-1921/ |title=The ‘Hugoniot Organ’. Charles-Emile Hugoniot . France, 1921. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1923年にStaccatone<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-staccatonehugo-gernsbakgermany1923/ |title=The ‘Staccatone’. Hugo Gernsback & C.J.Fitch. USA, 1923 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1924年にSphäraphon<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electrophon-spharaphon-partiturophon-and-the-kaleidophon1921-1930/ |title=The Electrophon (1921), Sphäraphon(1924), kurbelsphärophon (1926), Klaviatursphäraphon(1928), Partiturophon (1930) and Kaleidophon(1939). Jörg Mager, Germany. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1925年にRadio Harmonium<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-radio-harmonium-sergei-nikolaevich-rzhevkin-russia-1925/|title=The ‘Radio Harmonium’ Sergeĭ Nikolaevich Rzhevkin, Russia, 1925 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1926年にPianorad<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-pianoradhugo-gernsbakgermany1926/ |title=The ‘Pianorad’, Hugo Gernsback, USA, 1926 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Keyboard Electric Harmonium<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-keyboard-electric-harmonium-lev-sergeyevich-termen-usarussia-1926/ |title=The Keyboard Electric Harmonium . Lev Sergeyevich Termen, USA/Russia, 1926 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Kurbelsphärophon<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electrophon-spharaphon-partiturophon-and-the-kaleidophon1921-1930/ |title=The Electrophon (1921), Sphäraphon(1924), kurbelsphärophon (1926), Klaviatursphäraphon(1928), Partiturophon (1930) and Kaleidophon(1939). Jörg Mager, Germany. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1927年にDynaphone<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-dynaphonerene-bertrandfrance1927/ |title=The ‘Dynaphone’, René Bertrand, France, 1927 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Cellulophone<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-celluphonepierre-toulon-krugg-bassfrance1927/|title=The ‘Cellule Photo Electrique’ or ‘Cellulophone’. Pierre Toulon & Krugg Bass, France, 1927. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Clavier à Lampes<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-clavier-a-lampes-armand-givelet-france-1927/|title=the ‘Clavier à Lampes’ or ‘Piano Radio Èlectrique’ Joseph Armand Marie Givelet, France. 1927 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Electronde<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electronde-martin-taubman-usa-1929/ |title=The ‘Electronde’ Martin Taubman, Germany, 1927 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Robb Wave Organ<ref>{{cite web|url=http://120years.net/robb-wave-organ-morse-robb-canada-1927/|title=The ‘Wave Organ’. Frank Morse Robb. Canada. 1927 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Superpiano<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-superpiano-emerich-spielmann-austria-1927/|title=The ‘Superpiano’ and ‘Symphonium’. Emerich Spielmann, Austria, 1928 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Neo Violena<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-neo-violena-vladimir-a-gurov-v-i-volynkin-lucien-m-varvich-russia-1927/ |title=The ‘Neo Violena’ Vladimir A Gurov, V.I. Volynkin & Lucien M. Varvich. Russia 1927 |accessdate=2017-04-09}}</ref>が発明された。
1928年にはフランス人の[[モーリス・マルトノ]]によって'''[[オンド・マルトノ]]'''が発明され<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-ondes-martenotmaurice-martenotfrance1928/ |title=The ‘Ondes-Martenot’ Maurice Martenot, France, 1928 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、これはチェンバロに似ていて5オクターブの鍵盤があり、鍵盤の手前には[[グリッサンド]]用のリボンがある楽器で、テルミンより成功をおさめ、この楽器のために作曲した作曲家は多く、有名なところでは[[アルテュール・オネゲル|オネゲル]]、[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]、[[アンドレ・ジョリヴェ|ジョリベ]]などがいる<ref name="Nihondaihyakka" />。
同1928年にKlaviatursphäraphon<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-electrophon-spharaphon-partiturophon-and-the-kaleidophon1921-1930/ |title=The Electrophon (1921), Sphäraphon(1924), kurbelsphärophon (1926), Klaviatursphäraphon(1928), Partiturophon (1930) and Kaleidophon(1939). Jörg Mager, Germany. |accessdate=2017-04-09}}</ref>、1929年にOrgue des Ondes<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-orgue-des-ondes-armand-givelet-edouard-eloi-coupleux-france-1929/|title=The ‘Orgue des Ondes’ Armand Givelet & Edouard Eloi Coupleux, France. 1929 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Croix Sonore<ref>{{cite web|url=http://120years.net/la-croix-sonore-nicolai-obukhov-france-1929-1934/|title=‘La Croix Sonore’ Nicolai Obukhov. Russia – France, 1929-1934 |accessdate=2017-04-09}}</ref>、Hellertion & Heliophon<ref>{{cite web|url=http://120years.net/the-heliophonbruno-hellbergergermany1936/|title=The ‘Hellertion’ and The ‘Heliophon’. Bruno Hellberger & Peter Lertes, Germany, 1929-1936 |accessdate=2017-04-09}}</ref>が発明された。
そして[[1930年代]]にはドイツのフリードリヒ・トラウトバイン([[:de:Friedrich Trautwein]])が'''トラウトニウム'''([[:en:Trautonium]])を発明し、これは成功し、[[1950年代]]までこの楽器を用いた曲が作曲され続けた<ref name="Nihondaihyakka" />。
{{いつ|date=2023年1月}}[[電子オルガン]]が発明され、{{いつ|date=2023年1月}}[[アナログシンセサイザー]]が発明され、{{いつ|date=2023年1月}}[[デジタルシンセサイザー]]が開発された。
シンセサイザーは1990年代までは[[音源]]として専用の[[カスタムIC]]を使用した[[ハードウェア・シンセサイザー]]が主流だったが、2000年代後半からはPCの性能向上により[[ソフトウェア・シンセサイザー]]が主流になっていった。
== 種類、分類 ==
* [[電子オルガン]]
** [[エレクトーン]](商標)
** [[ドリマトーン]](商標)
** [[テクニトーン]](商標)
** [[ビクトロン]](商標)
** [[ハモンドオルガン]](本来は[[電気楽器]]:商標)
** [[ミュージック・アトリエ]](商標)
* [[電子ピアノ]]
* [[シンセサイザー]]
** [[アナログシンセサイザー]](単にメーカーの違いではなく、独特のキャラクタを持つ)
*** [[モーグ・シンセサイザー]]
*** [[アープ (電子楽器メーカー)#主な機種|アープ]]
** [[デジタルシンセサイザー]]
** [[ミュージックワークステーション]]
** [[シンセベース]]
** [[ギターシンセサイザー]]
** [[ウインドシンセサイザー]]([[ブレス・コントローラ]])
*** [[リリコン]](商標)
*** [[EWI]](エレクトロニック・ウインド・インストゥルメント:商標)
*** [[ヤマハ・WXシリーズ|WX]](ウィンドMIDIコントローラー:商標)
* [[サンプラー]]
* [[ドラムマシン]]
* [[ミュージックシーケンサー]]
* [[テルミン]]
* [[オンド・マルトノ]]
* [[キーボード_(楽器)|キーボード]](鍵盤)
* [[音源モジュール]](トーン・ジェネレータ)
* [[ボーカロイド]](YAMAHA)
* [[ケロミン]](有限会社トゥロッシュ)
== 電子楽器のメーカー ==
* [[AKAI professional]]
* イーミュ(''E-mu'' )
* [[河合楽器製作所]]
* [[コルグ]]
* カーツウェル(''Kurzweil'' )
* [[オーバーハイム]]
* [[ローランド]]
* [[ヤマハ]]
* [[カシオ計算機]]
*有限会社トゥロッシュ [[ケロミン]]のメーカー
== 関連項目 ==
* [[楽器分類学]]
**[[楽器分類学#電鳴楽器|電鳴楽器]]
* [[音響機器]]
**[[音響信号処理]]
* [[電気楽器]]
*[[アコースティック楽器]]
* [[電子音楽]]
* [[MIDI]]
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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17,529 |
仁川広域市
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座標: 北緯37度29分 東経126度38分 / 北緯37.483度 東経126.633度 / 37.483; 126.633
仁川広域市(インチョンこういきし、朝: 인천광역시、英: Incheon Metropolitan City)は、大韓民国西北部の市(京畿道地方)。黄海に面した韓国を代表する港湾都市の一つである。沖合には仁川国際空港がある。
人口は約300万人で、広域市に指定されている。ソウル、釜山に次いで韓国で3番目の人口を誇るが、ソウル市の衛星都市的な性格が強いため、韓国第三の都市は仁川ではなく大邱とされることが多い。
仁川都心部には富平、九月洞、月尾島などの繁華街がある。郊外の埋立地は韓国最大の経済自由区域である仁川経済自由区域に指定されており、松島新都市、青羅国際都市などの建設が進められている。
首都ソウルから西に40キロに位置する港湾都市であり、内陸にあるソウルの外港として発展した。貿易港として栄え、韓国で唯一の中華街(仁川チャイナタウン)がある。中国とのつながりは強く、天津、大連、青島、煙台などの都市とフェリーで結ばれている。1883年に港が開かれたときには人口はわずか4700人あまりで、その当時は済物浦(チェムルポ・さいもっぽ)と呼ばれていた。
ソウルとは首都圏電鉄の各路線で結ばれており、共通の運賃で利用することが出来る。このため、ソウルへの通勤通学客は非常に多く、1つの経済圏を形成している。ソウルのベッドタウンとしての性格が強いため、一般的には「第3の都市」と認識されていない。これは日本の横浜市の状況と類似している。かつては京畿道に属していたが、1981年7月に広域市となった。日本の政令指定都市に近い制度である。ソウル都市圏の拡大に合わせ人口は増加を続け、1979年に人口100万人、1992年に200万人、1999年に250万人を突破した。現在は約300万人で安定している。近代都市としての顔を持つ一方、江華郡など広大な農村部も含み、市の面積の21%は水田であり、44%は森林である。
2001年に仁川国際空港が開港したことで韓国の空の玄関口となり日本の成田市と同じ位置づけになった。仁川国際空港が属する中区と成田市は1998年に友好都市の提携をしている。
2002年の日韓ワールドカップに合わせ建設が進められた仁川国際空港は自由貿易地域に指定されており、もう一つの自由貿易地域である釜山・鎮海自由貿易地域とともに金融・経済のハブとなるべく外資誘致を積極的に行っている。延寿区の松島新都市には韓国版シリコンバレーと呼ばれる情報産業団地も造成中である。
松島新都市に建設予定だった仁川タワーは、151階建て、高さ587メートルとして計画され、完成すれば韓国で最も高い超高層ビルになるはずだったが、2008年の着工直後に、世界金融危機をきっかけとした不動産景気悪化の影響で事実上の建設凍結となった。4兆7千億ウォンが必要な立体複合都市「ルウォンシティ」が計画されたが、これも同様の理由で中止された 。
2014年には、仁川アジア大会が開催されたが、仁川広域市は莫大な負債を抱えている中で、韓国政府の反対を押し切って誘致したものの、直前まで「開催を返上する」と韓国政府と揉めた経緯がある。
プロ野球チームのSSGランダース、プロサッカークラブの仁川ユナイテッドFC、プロバスケットボールチームの仁川電子ランドエレファンツ、プロバレーボールチームの大韓航空ジャンボスなどのプロスポーツチームの本拠地となっている。
先史時代から人が住み、仁川を始め永宗島・江華島で新石器時代及び青銅器時代の遺跡が発掘されている。 特に江華島の三郎城と塹城壇は古朝鮮とかかわる遺跡である。百済の始祖伝説によれば、仁川は沸流が建国した彌鄒忽の都だった。仁川はもともと百済に属したが、5世紀以降は高句麗や統一新羅の領土となり、買召忽と呼ばれていた。
統一新羅の景徳王の時に名称が変更されて仁川は邵城県、富平は長堤郡、江華島は海口郡、甕津郡は鵠島と呼ばれた。高麗時代、仁川は王室と深い関係を結び、慶源郡・仁州・慶源府に昇格した。江華島は940年に県が設置された後、1232年にはモンゴル帝国の侵略に抵抗するため開京の都を移したところである。李氏朝鮮時代、慶源府は1392年に仁州、ついで1413年に仁川郡と改称されて仁川という名前が初めて登場した。海岸の湊は済物浦と呼ばれる。
近代開国期に仁川は丙寅の役・辛未洋擾などで外国艦隊と交戦し、日朝修好条規によって1883年開港したため西欧の文物が仁川港を通じて流入した。1882年には済物浦沖の米軍艦上で米朝修好通商条約が調印された。条約港として発展し、日本統治時代に仁川府(当時の読み方、じんせんふ)が設置され、1949年に仁川府は仁川市と改称した。 1950年9月、国際連合軍は仁川上陸作戦を敢行し、朝鮮戦争の戦局を挽回した。
なお、2022年8月31日に仁川市が発表した9区2郡への行政区画再編推進案によると、中区と東区を「済物浦区」と「永宗区」に再編し、西区の京仁アラベッキル以北の地域を「黔丹区」として分区する行政区画の改編は2026年上半期までに実施する予定である。また、南洞区を分区する計画もある。
仁川広域市には8区が設けられているほか、2郡が含まれている。読みと各種表記は大韓民国の地方行政区画を参照。
2012年の時点で、典型的な箱物行政と月尾銀河レールのような安全性の問題により開業の目処が経たない公共事業など杜撰な開発が祟り、市の予算に対する負債比率は39.8%にまで達し市の財政は完全に破綻し大きな社会問題となっており、市の抱える負債は韓国の自治体では最悪の水準にあった。
2011年現在、市内には151島があり、有人島が39島、無人島が112島である。北方限界線に近い旧黄海道の「西海五島」(白翎島、大青島、小青島、延坪島、隅島)も含まれる。島部の面積は292kmと市域の28%を占める。
最高気温極値は38.9°C(1949年8月16日)、最低気温極値は-21.0°C(1931年1月11日)、過去最深積雪43.8cm(1922年3月23日)である。
2012年に国際連合傘下の気候変動枠組条約国際機関である緑の気候基金(GCF)本部が仁川の松島国際都市に設置され、仁川は韓国で初めて国連所属の国際機関本部を持つ都市となった。
4年制国立大学
4年制私立大学
私立専門大学
キャンパス
仁川 グローバルキャンパス
私立技能専門大学
国立遠隔大学
大学病院
(仁川国際空港)
圏域応急医療センターは、重症救急患者中心の診療、大型災害などの発生時応急医療支援、特定地域内の他の医療機関から移送される重症救急医療患者の収容、その外に保健福祉部長官が指定している圏域内の救急医療業務を遂行させるために、圏域ごとに指定された上級総合病院、または300病床以上の病院であり、全国29の圏域、40か所が指定されている。
このほか、中国の大連、丹東、青島、山東省、烟台、桃園、哈爾濱、ベネズエラのチャカオ市、ブラジルのリオグランデ・ド・スル州、フィリピンのアルバイ州、日本の横浜、ロシアのクロンシュタットと友好協力都市提携している。
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"text": "先史時代から人が住み、仁川を始め永宗島・江華島で新石器時代及び青銅器時代の遺跡が発掘されている。 特に江華島の三郎城と塹城壇は古朝鮮とかかわる遺跡である。百済の始祖伝説によれば、仁川は沸流が建国した彌鄒忽の都だった。仁川はもともと百済に属したが、5世紀以降は高句麗や統一新羅の領土となり、買召忽と呼ばれていた。",
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"text": "統一新羅の景徳王の時に名称が変更されて仁川は邵城県、富平は長堤郡、江華島は海口郡、甕津郡は鵠島と呼ばれた。高麗時代、仁川は王室と深い関係を結び、慶源郡・仁州・慶源府に昇格した。江華島は940年に県が設置された後、1232年にはモンゴル帝国の侵略に抵抗するため開京の都を移したところである。李氏朝鮮時代、慶源府は1392年に仁州、ついで1413年に仁川郡と改称されて仁川という名前が初めて登場した。海岸の湊は済物浦と呼ばれる。",
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"text": "近代開国期に仁川は丙寅の役・辛未洋擾などで外国艦隊と交戦し、日朝修好条規によって1883年開港したため西欧の文物が仁川港を通じて流入した。1882年には済物浦沖の米軍艦上で米朝修好通商条約が調印された。条約港として発展し、日本統治時代に仁川府(当時の読み方、じんせんふ)が設置され、1949年に仁川府は仁川市と改称した。 1950年9月、国際連合軍は仁川上陸作戦を敢行し、朝鮮戦争の戦局を挽回した。",
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"text": "なお、2022年8月31日に仁川市が発表した9区2郡への行政区画再編推進案によると、中区と東区を「済物浦区」と「永宗区」に再編し、西区の京仁アラベッキル以北の地域を「黔丹区」として分区する行政区画の改編は2026年上半期までに実施する予定である。また、南洞区を分区する計画もある。",
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"text": "仁川広域市には8区が設けられているほか、2郡が含まれている。読みと各種表記は大韓民国の地方行政区画を参照。",
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"text": "2012年の時点で、典型的な箱物行政と月尾銀河レールのような安全性の問題により開業の目処が経たない公共事業など杜撰な開発が祟り、市の予算に対する負債比率は39.8%にまで達し市の財政は完全に破綻し大きな社会問題となっており、市の抱える負債は韓国の自治体では最悪の水準にあった。",
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"text": "最高気温極値は38.9°C(1949年8月16日)、最低気温極値は-21.0°C(1931年1月11日)、過去最深積雪43.8cm(1922年3月23日)である。",
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"text": "圏域応急医療センターは、重症救急患者中心の診療、大型災害などの発生時応急医療支援、特定地域内の他の医療機関から移送される重症救急医療患者の収容、その外に保健福祉部長官が指定している圏域内の救急医療業務を遂行させるために、圏域ごとに指定された上級総合病院、または300病床以上の病院であり、全国29の圏域、40か所が指定されている。",
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"text": "このほか、中国の大連、丹東、青島、山東省、烟台、桃園、哈爾濱、ベネズエラのチャカオ市、ブラジルのリオグランデ・ド・スル州、フィリピンのアルバイ州、日本の横浜、ロシアのクロンシュタットと友好協力都市提携している。",
"title": "姉妹都市"
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] |
仁川広域市は、大韓民国西北部の市(京畿道地方)。黄海に面した韓国を代表する港湾都市の一つである。沖合には仁川国際空港がある。 人口は約300万人で、広域市に指定されている。ソウル、釜山に次いで韓国で3番目の人口を誇るが、ソウル市の衛星都市的な性格が強いため、韓国第三の都市は仁川ではなく大邱とされることが多い。 仁川都心部には富平、九月洞、月尾島などの繁華街がある。郊外の埋立地は韓国最大の経済自由区域である仁川経済自由区域に指定されており、松島新都市、青羅国際都市などの建設が進められている。
|
{{Coord|37|29|N|126|38|E|region:KR-28_type:city(3,655,437)|display=title}}
{{韓国の地方行政区ステータス|
|画像=[[ファイル:Incheon montage 2015.PNG|300px]]
|画像の解説=時計回りに上から:[[仁川大橋]]と市街地の空撮、[[仁川アジアド主競技場]]、[[仁川中華街]]から望む[[仁川自由公園|自由公園]]、[[仁川港]]と[[月尾島]]、[[松島新都市]]、[[仁川国際空港]]
|位置画像=[[ファイル:South Korea-Incheon.svg|250px|center|仁川広域市の位置]]
|画像2= [[File:Flag of Incheon.svg|border|100px]] [[File:Emblem of Incheon.svg|100px]]
|画像の解説2= 仁川広域市旗 / 仁川広域市章
|地図画像=[[ファイル:Map Incheon-gwangyeoksi_ja.png|仁川広域市の地図]]
2018年7月1日、南区が彌鄒忽区に改称された。<ref>[https://www.law.go.kr/%EB%B2%95%EB%A0%B9/%EC%9D%B8%EC%B2%9C%EA%B4%91%EC%97%AD%EC%8B%9C%EB%82%A8%EA%B5%AC%EB%AA%85%EC%B9%AD%EB%B3%80%EA%B2%BD%EC%97%90%EA%B4%80%ED%95%9C%EB%B2%95%EB%A5%A0/ 仁川広域市南区名称変更に関する法律](韓国語)</ref>
|ローマ字=Incheon-Gwangyeoksi
|ハングル=인천광역시
|韓国における漢字=仁川廣域市
|平仮名=じんせんこういきし
|片仮名=インチョン=グァンヨクシ
|略称=Incheon;{{Lang|ko|인천}};インチョン
|英語名=Incheon Metropolitan City
|統計の年=2015
|面積=1051.49
|総人口=2,890,451<ref>[http://kosis.kr/ 大韓民国国家統計ポータル > 人口・世帯 > 人口総調査> 人口部門 > 総調査人口(2015) > 全数部門 > 人口、世帯と住宅 - 邑面洞 2015年~2015年], 2016年9月11日閲覧</ref>
|男子人口=1,455,017
|女子人口=1,435,434
|世帯数=1,066,297
|人口密度=2,805
|下位行政区画=8区2郡
|ISO_3166-2=KR-28
|行政区域分類コード=23
|木=ユリノキ
|花=バラ
|鳥=タンチョウヅル
|URL=https://www.incheon.go.kr/
|英語表記=Incheon Metropolitan City}}
[[File:Incheon City Hall.JPG|thumb|300px|仁川広域市庁]]
[[ファイル:Jinsen map circa 1930.PNG|サムネイル|300px|1930年頃の地図]]
'''仁川広域市'''(インチョンこういきし、{{lang-ko-short|인천광역시}}、{{lang-en-short|Incheon Metropolitan City}})は、[[大韓民国]]西北部の市([[京畿道 (朝鮮八道)|京畿道]]地方)。[[黄海]]に面した韓国を代表する[[港湾都市]]の一つである。沖合には[[仁川国際空港]]がある。
人口は約300万人で、[[広域市]]に指定されている。[[ソウル特別市|ソウル]]、[[釜山広域市|釜山]]に次いで韓国で3番目の人口を誇るが、ソウル市の[[衛星都市]]的な性格が強いため、韓国第三の都市は仁川ではなく[[大邱広域市|大邱]]とされることが多い。
仁川都心部には[[富平区|富平]]、九月洞、[[月尾島]]などの[[繁華街]]がある。郊外の埋立地は韓国最大の経済自由区域である仁川経済自由区域に指定されており、[[松島新都市]]、青羅国際都市などの建設が進められている。
==概要==
首都[[ソウル特別市|ソウル]]から西に40キロに位置する港湾都市であり、内陸にあるソウルの[[外港]]として発展した。貿易港として栄え、韓国で唯一の[[中華街]]([[仁川チャイナタウン]])がある。中国とのつながりは強く、[[天津]]、[[大連]]、[[青島市|青島]]、[[煙台]]などの都市とフェリーで結ばれている。[[1883年]]に港が開かれたときには人口はわずか4700人あまりで、その当時は[[済物浦]](チェムルポ・さいもっぽ)と呼ばれていた。
ソウルとは[[首都圏電鉄]]の各路線で結ばれており、共通の運賃で利用することが出来る。このため、ソウルへの通勤通学客は非常に多く、1つの経済圏を形成している。ソウルのベッドタウンとしての性格が強いため、一般的には「第3の都市」と認識されていない。これは[[日本]]の[[横浜市]]の状況と類似している。かつては[[京畿道]]に属していたが、[[1981年]]7月に[[広域市]]となった。日本の[[政令指定都市]]に近い制度である。ソウル都市圏の拡大に合わせ人口は増加を続け、1979年に人口100万人、1992年に200万人、1999年に250万人を突破した。現在は約300万人で安定している。近代都市としての顔を持つ一方、江華郡など広大な農村部も含み、市の面積の21%は[[水田]]であり、44%は[[森林]]である。
[[2001年]]に[[仁川国際空港]]が開港したことで韓国の空の玄関口となり日本の[[成田市]]と同じ位置づけになった。仁川国際空港が属する[[中区 (仁川広域市)|中区]]と成田市は[[1998年]]に[[姉妹都市|友好都市]]の提携をしている。
[[2002年]]の[[2002 FIFAワールドカップ|日韓ワールドカップ]]に合わせ建設が進められた仁川国際空港は自由貿易地域に指定されており、もう一つの自由貿易地域である[[釜山広域市|釜山]]・[[鎮海市|鎮海]]自由貿易地域とともに金融・経済のハブとなるべく外資誘致を積極的に行っている。[[延寿区]]の[[松島新都市]]には韓国版[[シリコンバレー]]と呼ばれる情報産業団地も造成中である。
[[松島新都市]]に建設予定だった[[仁川タワー]]は、151階建て、高さ587メートルとして計画され、完成すれば韓国で最も高い超高層ビルになるはずだったが、2008年の着工直後に、[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]をきっかけとした不動産景気悪化の影響で事実上の建設凍結となった。4兆7千億ウォン<ref>http://news.mt.co.kr/mtview.php?no=2012110121438066478</ref>が必要な立体複合都市「ルウォンシティ」が計画されたが、これも同様の理由で中止された<ref>[http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/wbs/feature/post_76014/ 韓国 アジア大会 盛況の裏側で…]『[[ワールドビジネスサテライト]]』2014年10月2日放送、[[テレビ東京]]系</ref> 。
[[2014年]]には、[[2014年アジア競技大会|仁川アジア大会]]が開催されたが、仁川広域市は莫大な負債を抱えている中で、韓国政府の反対を押し切って誘致したものの、直前まで「開催を返上する」と韓国政府と揉めた経緯がある。
[[韓国野球委員会|プロ野球]]チームの[[SSGランダース]]、[[Kリーグ|プロサッカークラブ]]の[[仁川ユナイテッドFC]]、プロバスケットボールチームの[[仁川電子ランドエレファンツ]]、プロバレーボールチームの[[大韓航空]]ジャンボスなどのプロスポーツチームの本拠地となっている。
==歴史==
先史時代から人が住み、仁川を始め永宗島・江華島で新石器時代及び青銅器時代の遺跡が発掘されている。 特に江華島の三郎城と塹城壇は古朝鮮とかかわる遺跡である。[[百済]]の始祖伝説によれば、仁川は沸流が建国した彌鄒忽の都だった。仁川はもともと百済に属したが、[[5世紀]]以降は[[高句麗]]や[[新羅|統一新羅]]の領土となり、買召忽と呼ばれていた。
統一新羅の[[景徳王]]の時に名称が変更されて仁川は邵城県、富平は長堤郡、江華島は海口郡、甕津郡は鵠島と呼ばれた。高麗時代、仁川は王室と深い関係を結び、慶源郡・仁州・慶源府に昇格した。江華島は[[940年]]に県が設置された後、[[1232年]]には[[モンゴル帝国]]の侵略に抵抗するため開京の都を移したところである。[[李氏朝鮮]]時代、慶源府は[[1392年]]に仁州、ついで[[1413年]]に仁川郡と改称されて仁川という名前が初めて登場した。海岸の湊は済物浦と呼ばれる。
近代開国期に仁川は丙寅の役・辛未洋擾などで外国艦隊と交戦し、[[日朝修好条規]]によって[[1883年]]開港したため西欧の文物が仁川港を通じて流入した。[[1882年]]には済物浦沖の米軍艦上で[[米朝修好通商条約]]が調印された。[[条約港]]として発展し、日本統治時代に仁川府(当時の読み方、じんせんふ)が設置され、[[1949年]]に仁川府は仁川市と改称した。 [[1950年]]9月、[[国連軍 (朝鮮半島)|国際連合軍]]は[[仁川上陸作戦]]を敢行し、[[朝鮮戦争]]の戦局を挽回した。
* 1910年10月1日 - 1910年8月19日の[[韓国併合]]の前の仁川府の管轄区域を維持するという総督府令を発表。
* 1914年4月1日 - 仁川府を分割し、仁川港周辺の区域を新たな'''仁川府'''として指定する。農村部は富平郡と合併し、[[富川市|富川郡]]として編成。
* 1936年 - 富川郡多朱面・文鶴面の各一部を編入。
* 1940年4月1日 - 富川郡文鶴面・南洞面・富内面・西串面を編入。これに合わせて町名を設置。
{{hidden begin | title=朝鮮総督府令第40号 | titlestyle=background:lightgrey;width:50%}}
:{| class="wikitable" style="font-size: 95%;"
| colspan=3 | 朝鮮総督府令第40号
|-
! colspan=2 width="50%"| 旧行政区域 (富川郡) !! width="50%"| 新行政区域 (仁川府)
|-
| 文鶴面 || 官校里、文鶴里、도장리、青鶴里、延寿里、東春町、間石里、九月里 || 元町、文鶴町、舞鶴町、青鶴町、延寿町、東春町、木越町、鄭志町
|-
| 南洞面 || 万寿里、長寿里、雲宴里、西昌里、발산리、桃山里、와우리、論峴町、古桟町 || 万寿町、長寿町、雲宴町、浪速町、寿町、新桃山町、五宝町、論峴町、日向町
|-
| rowspan=3 | 富内面 || 十井里、大井里、山谷里、清川里、효성리、도두리、後井里、葛月里、馬墳里、항동리、九山里 || 大島町、昭和町、白馬町、川上町、曙町、東雲町、三笠町、吉野町、明治町、香取町、伊藤町
|-
| 가현리、신대리、鵲田里、화전리 || 鵲田町
|-
| 부평리、하리 || 大正町
|-
| 西串面 || 佳亭里、佳佐里、黔岩里、고작리、고잔리、公村里、白石里、始川里、新峴里、深谷里、連喜里、포리 || 千代田町、浅間町、瓜生町、村上町、李家町、黒田町、雲揚町、春日町、玄武町、日進町、井上町、久水町
|}
{{hidden end}}
* 1949年8月15日 - 仁川府が'''仁川市'''に改称。
* 1963年1月1日 - 富川郡永宗面の一部(紫燕島)を編入。
* 1968年1月1日 - [[中区 (仁川広域市)|中区]]・[[東区 (仁川広域市)|東区]]・南区・北区を設置。(4区)
* 1981年7月1日 - 京畿道仁川市が'''仁川直轄市'''に昇格。(4区)
* 1988年1月1日 (6区)
** 北区の一部区域を分離し、[[西区 (仁川広域市)|西区]]を設置。
** 南区の一部区域を分離し、[[南洞区]]を設置。
* 1989年1月1日 (6区)
** 京畿道[[金浦郡]]桂陽面が北区に編入。
** 京畿道[[甕津郡 (仁川広域市)|甕津郡]]永宗面・龍遊面が中区に編入。
* 1995年1月1日 - 仁川直轄市が'''仁川広域市'''に改称。(8区2郡)
** 京畿道[[江華郡]]・[[甕津郡 (仁川広域市)|甕津郡]]を編入。
** 京畿道[[金浦郡]]黔丹面が西区に編入。
** 北区が[[富平区]]・[[桂陽区]]に分離。
** 南区の一部が[[延寿区]]として分離。
* 2014年 - [[2014年アジア競技大会|アジア競技大会]]・[[アジアパラ競技大会]]開催。
* 2018年 - 南区が[[弥鄒忽区]]に改称。(8区2郡)
なお、2022年8月31日に仁川市が発表した9区2郡への行政区画再編推進案によると、中区と東区を「[[済物浦区]]」と「[[永宗区]]」に再編し、西区の[[京仁アラベッキル]]以北の地域を「[[黔丹区]]」として分区する行政区画の改編は2026年上半期までに実施する予定である。また、南洞区を分区する計画もある<ref>{{Cite web |title=인천시 “27년 만에 행정구역 개편한다” |url=https://www.donga.com/news/article/all/20220831/115245845/1 |website=동아일보 |date=2022-09-01 |access-date=2023-10-25 |language=ko}}</ref>。
==仁川広域市の自治体==
仁川広域市には8区が設けられているほか、2郡が含まれている。読みと各種表記は[[大韓民国の地方行政区画]]を参照。
[[File:04-00-incheon-ja.svg|400px|thumb|行政区域図]]
===区部===
*[[桂陽区]] ケヤンく (계양구)
*[[弥鄒忽区]] ミチュホルく (미추홀구)
*[[南洞区]] ナムドンく (남동구)
*[[東区 (仁川広域市)|東区]] トンく (동구)
*[[富平区]] プピョンく (부평구)
*[[西区 (仁川広域市)|西区]] ソく (서구)
*[[延寿区]] ヨンスく (연수구)
*[[中区 (仁川広域市)|中区]] チュンく (중구)
===郡部===
*[[江華郡]] カンファぐん (강화군)
*[[甕津郡 (仁川広域市)|甕津郡]] オンジンぐん (옹진군)
{{Wide image|Songdo Panorama.PNG|1200px|[[松島新都市]] [[延寿区]]}}
==行政==
*'''市長''':[[朴南春]](박남춘、パク・ナムチュン、任期:2018年7月1日~現在)民選7期。国会議員を連続2期(19~20代)務めた。
**民選6期:[[劉正福]]({{lang|ko|유정복}}、ユ・ジョンブク。任期:2014年7月1日~2018年6月30日)
**民選5期:[[宋永吉]]({{lang|ko|송영길}}、ソン・ヨンギル。任期:2010年7月1日~2014年6月30日)
**民選4期:[[安相洙]]({{lang|ko|안상수}}、アン・サンス。任期:2006年7月1日~2010年6月30日)
**民選3期:安相洙({{lang|ko|안상수}}、アン・サンス。任期:2002年7月1日~2006年6月30日)
**民選2期:{{仮リンク|崔箕善|ko|최기선}}({{lang|ko|최기선}}、チェ・ギソン。任期:1998年7月1日~2002年6月30日)
**民選1期:崔箕善({{lang|ko|최기선}}、チェ・ギソン。任期:1995年7月1日~1998年6月30日)
:出所:仁川広域市ホームページ「[http://www.incheon.go.kr/icweb/html/web1/001008002.html {{lang|ko|역대시장}} ]」(歴代市長)。民選前も含めた仁川市の歴代市長については'''[[仁川広域市長]]'''を参照。
*'''市議会''':40議席(地域区36議席+比例代表4議席)地域区は[[小選挙区制]]。
:出典:[http://www.icouncil.go.kr/open_content/main/parliament/history08.jsp 의회연혁(議会沿革)]
:{|class=wikitable
|-
|+党派別議席数(2022年6月1日)
!colspan=2 rowspan=2|
!rowspan=2|合計
!colspan=5|党派別内訳
|-
![[国民の力]]
![[共に民主党]]
|-
!colspan=2|合計
!40
|align="center"|26
|align="center"|14
|-
!rowspan=2|内訳
!地域区
!36
|align="center"|24
|align="center"|12
|-
![[比例代表]]
!4
|align="center"|2
|align="center"|2
|}
:出典:[http://www.icouncil.go.kr/ 인천광역시의회(仁川広域市議会)]の[http://www.icouncil.go.kr/open_content/main/member/name.jsp {{lang|ko|의원소개}}(議員紹介)]。2018年7月14日閲覧
2012年の時点で、典型的な箱物行政と[[月尾銀河レール]]のような安全性の問題により開業の目処が経たない公共事業など杜撰な開発が祟り、市の予算に対する負債比率は39.8%にまで達し市の財政は完全に破綻し大きな社会問題となっており<ref>[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/04/04/2012040400924.html 財政破綻の仁川市で給与遅配 (朝鮮日報。2012年4月4日)]</ref>、市の抱える負債は韓国の自治体では最悪の水準にあった。
== 地理 ==
=== 山 ===
* [[摩尼山 (大韓民国)|摩尼山]]
=== 島 ===
2011年現在、市内には151島があり、有人島が39島、無人島が112島である。[[北方限界線]]に近い旧[[黄海道]]の「西海五島」([[白翎島]]、[[大青島]]、[[小青島]]、[[延坪島]]、[[隅島]])も含まれる。島部の面積は292km<sup>3</sup>と市域の28%を占める。
* [[江華島]]
* [[実尾島]]
* [[永宗島]]
==気候==
最高気温極値は38.9℃(1949年8月16日)、最低気温極値は-21.0℃(1931年1月11日)、過去最深積雪43.8cm(1922年3月23日)である。
{{Incheon weatherbox}}
==国際機関・国の機関==
*[[大韓民国国土海洋部|国土海洋部]]所属の[[沿岸警備隊]]である[[海洋警察庁]]本庁及び仁川海洋警察署が設置されている。
*仁川警察庁
2012年に[[国際連合]]傘下の[[気候変動枠組条約]]国際機関である[[緑の気候基金]](GCF)本部が仁川の松島国際都市に設置され、仁川は韓国で初めて国連所属の国際機関本部を持つ都市となった。
==教育・医療==
[[ファイル:Mainhallofnewcampusinsongdo.jpg|サムネイル|仁川大学校]]
===大学===
4年制国立大学
*[[仁川大学校]]
*[[京仁教育大学校]]
4年制私立大学
*[[仁荷大学校]]
*仁川[[カトリック大学校]] (ソンド国際キャンパス)
*[[嘉泉大学校]]
私立専門大学
*[[仁荷工業専門大学]]
*[[仁川才能大学校]]
*[[京仁女子大学校]]
キャンパス
*[[延世大学校]] 国際キャンパス
*[[安養大学校]] 江華キャンパス
*[[青雲大学校]] 仁川キャンパス
仁川 グローバルキャンパス
*韓国[[ニューヨーク州立大学]] (アメリカ)
*[[ジョージ・メイソン大学]] (アメリカ)
*[[ケント大学]] (ベルギー)
*[[ユタ大学]] (アメリカ)
私立技能専門大学
*[[韓国ポリテク大学]] ([[雇用労働部]]傘下の国策の特殊大学)
** 韓国ポリテク大学 南仁川キャンパス
国立遠隔大学
*[[韓国放送通信大学校]] 仁川地域大学
===医療機関===
大学病院
*[[仁荷大学校]] 医科大学 付属病院 (圏域応急医療センター)
**仁荷大学病院 空港医療センター
([[仁川国際空港]])
*[[嘉泉大学校]] キル病院 (圏域応急医療センター)
*[[カトリック大学校]] 仁川聖母病院
*[[カトリック関東大学校]] 国際聖母病院
圏域応急医療センターは、重症救急患者中心の診療、大型災害などの発生時応急医療支援、特定地域内の他の医療機関から移送される重症救急医療患者の収容、その外に[[保健福祉部]]長官が指定している圏域内の救急医療業務を遂行させるために、圏域ごとに指定された上級総合病院、または300病床以上の病院であり、全国29の圏域、40か所が指定されている。
==交通==
[[ファイル:인천역 Incheon Station 20191123.jpg|サムネイル|[[仁川駅 (仁川広域市)|仁川駅 ]]]]
[[ファイル:Incheon Metro Class 2000 A01.jpg|サムネイル|地下鉄2号線]]
*空港 – 「[[仁川国際空港]]」参照
*水運 – [[中華人民共和国]]沿海諸港を結ぶ直通フェリーが就航している。
**[[天津直轄市]]
**[[山東省]][[青島市|青島]]、[[威海]]、[[煙台]]
**[[遼寧省]][[大連市|大連]]、[[営口]]、[[丹東]]
**[[河北省]][[秦皇島]]
*鉄道
**[[京仁線]]([[首都圏電鉄]][[首都圏電鉄1号線|1号線]])
**[[水仁線]]
**[[仁川国際空港鉄道]](A'REX)
**[[仁川空港磁気浮上鉄道]]
*地下鉄(都市鉄道)
**[[仁川都市鉄道]][[仁川都市鉄道1号線|1号線]]・[[仁川都市鉄道2号線|2号線]]
**[[ソウル地下鉄]][[ソウル交通公社7号線|7号線]]
*モノレール
**[[月尾海列車]]
*高速道路
**[[嶺東高速道路]]
**[[京仁高速道路]]
**[[第二京仁高速道路]]
**[[ソウル外郭循環高速道路]]
**[[仁川国際空港高速道路]]
*国道
**[[国道6号線 (韓国)|国道6号]]
**[[国道39号線 (韓国)|国道39号]]
**{{仮リンク|国道42号線 (韓国)|ko|국도 제42호선}} ([[水仁路]])
**[[国道46号線 (韓国)|国道46号]] ([[京仁路]])
**[[国道48号線 (韓国)|国道48号]]
**[[国道77号線 (韓国)|国道77号]]
*その他の道路
**{{仮リンク|仁川大路|ko|인천대로}}
**[[重峯大路]]
**[[ムネミ路]]
**[[富平大路]]
**[[桂陽大路]]
*バス
**{{仮リンク|仁川広域市の市内バス|ko|인천광역시의 시내버스}}
**{{仮リンク|仁川総合バスターミナル|ko|인천종합버스터미널}}
**{{仮リンク|富平駅市外バス停留場|ko|부평역시외버스정류장}}
**{{仮リンク|龍峴洞市外バス停留場|ko|용현동시외버스정류장}}
**{{仮リンク|仁川国際空港の市外バス|ko|인천국제공항의 시외버스}}
== 出身者 ==
{{Main|Category:仁川広域市出身の人物}}
*E-CHAN、アイドル、ミュージシャン([[DKB (音楽グループ)|DKB]])
*[[申泰煥]](初代[[大韓民国国土統一院]]長官、第8代[[ソウル大学校]]総長)
*[[ファン・シネ]](女優)
*[[チョン・グァンリョル]] (俳優)
*[[ユン・シユン]](俳優)
*[[盧廷潤]](元サッカー選手)
*[[金南一]](サッカー選手、[[京都サンガ]]所属)
*[[李根鎬]](サッカー選手、[[蔚山現代FC]]所属)
*[[李康仁]](サッカー選手、[[バレンシアCF]]所属)
*[[春日王克昌]]([[大相撲]][[力士]]、[[ソウル特別市|ソウル]]生まれ)
*[[mink]](歌手)
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*[[ヒョヨン]]([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]]のメンバー)
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*リア([[ITZY]])
*オムジ([[GFRIEND]])
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*ヘイン([[NewJeans]])
==姉妹都市==
* {{flagicon|USA}} [[バーバンク (カリフォルニア州)|バーバンク]]、[[カリフォルニア州]]、[[アメリカ合衆国]] 1961年12月18日
* {{flagicon|USA}} [[フィラデルフィア]]、[[ペンシルベニア州]]、[[アメリカ合衆国]] 1983年8月15日
* {{flagicon|USA}} [[アンカレッジ]]、[[アラスカ州]]、[[アメリカ合衆国]] 1986年10月7日
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* {{flagicon|Panama}} [[パナマ市]]、[[パナマ]] 2000年3月16日
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* {{flagicon|USA}} [[ホノルル]]、[[ハワイ州]]、[[アメリカ合衆国]] 2003年10月15日
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* {{flagicon|Mexico}} [[メリダ (ユカタン州)| メリダ]]、[[メキシコ]] 2007年10月15日
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* {{flagicon|Japan}} [[神戸市]]、[[日本]] 2010年4月6日
* {{flagicon|Italy}} [[ヴェネト州]]、[[イタリア]] 2010年9月6日
このほか、中国の[[大連]]、[[丹東]]、[[青島市|青島]]、[[山東省]]、[[烟台]]、[[桃園]]、[[哈爾濱]]、ベネズエラの[[チャカオ市]]、ブラジルの[[リオグランデ・ド・スル州]]、フィリピンの[[アルバイ州]]、日本の[[横浜市|横浜]]、ロシアの[[クロンシュタット]]と友好協力都市提携している。
==関連項目==
*[[朝鮮八道]]
*[[京畿道 (朝鮮八道)]]
*[[二十三府制]]
*[[京畿道 (日本統治時代)]]
*[[2009仁川世界都市祝典]]
*[[京仁運河]]
*[[国道46号線 (韓国)]]
*[[FEBC]](韓国法人「FEBC-Korea」の本部・[[ソウル特別市|ソウル]]放送局の送信所がある)
*[[仁川広域市有形文化財]]
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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==外部リンク==
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{{Wikivoyage|Incheon|仁川広域市{{en icon}}}}
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*[https://www.incheon.go.kr/jp/index 仁川広域市公式サイト]{{ja icon}}{{ko icon}}{{en icon}}{{zh icon}}
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電力応用
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電力応用(でんりょくおうよう)は、電力機器などを利用して、システムとして構成し、役割を行わせることである。 電動機応用
電気鉄道
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* [[電気化学応用]]
* [[照明]]
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弦楽器
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弦楽器(げんがっき、絃楽器とも)とは、弦に何らかの刺激を与えることによって得られる弦の振動を音とする楽器の総称である。弦の振動を得るために、弦とそれを張力をもって張っておく装置を備え、多くの場合は得られた音を共鳴させて音を拡大するための装置を持つ。
特許「弦楽器」により、特殊な調整や改造を行わずとも右利き用の弦楽器を左利き用に転用することができる。
楽器分類学では弦鳴楽器と呼ぶ。
弦をはじく、または弓のつるで弦をこする、または弦を叩くことによって、弦に刺激を与えると、弦が振動して音が得られる。主たる刺激の与え方により、撥弦楽器、擦弦楽器、打弦楽器に分類することができる。
ただし、一般的に楽器を含む物理的な物に設計時に考えられていない振動などの外乱を加えることで想定外の音を発音させる事は可能である。また、それが正規の演奏法となる場合がある。以下は一例である。
など上記分類以外の方法でも演奏可能である。
チェンバロ、ピアノ等の演奏者が直接弦に触れないものは普通弦楽器ではなく、鍵盤楽器に分類される。
弦楽器では、共鳴体によって音の高さが決まる管楽器と違い、発音体たる弦の振動数(周波数)によって音の高さが決まる。弦の振動は一般には非線形現象だが、多くの弦楽器では以下のような1次元の波動方程式によって十分に近似できる。
また、多くの弦楽器では弦の両端は固定されているため、以下のような境界条件を満たさなければならない。
この偏微分方程式の解は一般に、
で表される。この解のうち音として現れるのはcosの部分である。これは振動数 f n = ω n 2 π {\displaystyle f_{n}={\frac {\omega _{n}}{2\pi }}} の波の和になり、n=1の波が基音、n=2,3,...の波がそれぞれ第2倍音、第3倍音に相当する。これらの倍音の比率は弦楽器の音色を決定する要素となる。弦の基本振動数は次の式によって得られる(メルセンヌの法則)。
l: 弦の長さ (m) T: 張力 (ニュートン)
このように、振動数は弦の長さ、弦の張力、弦の単位長さあたりの質量(弦の太さ、弦の密度)によって変わるので、複数の高さの音を得るためにはこれらを変更すればいいことになる。そのために次のような工夫がされる。
多くの弦楽器は、これらの中から1つ以上の方法によって音の高さを変更している。例えば、エレキギターでは、異なる高さの弦を6本張り、弦の振動する長さを短くするために指板やフレットと呼ばれる装置を備え、さらに演奏にあたって弦を横に引くこと(チョーキング)により張力を変える。
弦楽器では、弦と空気の音響インピーダンスマッチングが悪いので、弦の振動だけではかすかな音しかしないことが多い。聞こえる音量を増大させるために、いったん弦の振動を空気の音響インピーダンスに、より整合した別の振動体(振動板)に伝えてから空気中に輻射させる、いわゆる共鳴の原理が用いられる。
ほとんどの弦楽器の「胴」はこの共鳴を実現するために作られた「共鳴胴」である。その形状は大きく分けて
となるが、最初の2種は位相幾何学的には同一である。ピアノのように単一の板の共鳴体を「響板」と呼ぶ。
共鳴胴の形状は特定の周波数での鋭い共振を避け、幅広い音域で滑らかに共鳴させるために、曲面や曲線で囲まれた平面で構成される。たとえばリュートやウードにでは一面は平面であるが他面は半球である。希に裏板が平面であるコントラバスが存在するが、これはヴィオール属の名残であり、現在は多くが曲面である。ギターでは表裏の板は平面であるが側板は曲面であり、さらに胴の内側で部分的に振動を抑制するような構造(ブレーシング)で共振点の分散を図っている。
共鳴胴から発する音は通常、楽器の音量の大きな部分を占めるので、その材質、寸法、形状、仕上げ、他の部品との接合の具合などは、楽器に音質に大きな影響を与える。共鳴胴の材質は、その適度な内部損失、加工のしやすさ、耐久性、入手の容易さから、木の薄板や組み木を板状にしたものが多く、三味線のように一部に動物のなめし革を使ったものがある。共鳴胴の最初は太鼓であっただろうと考えられている。
楽器分類学的には、共鳴胴を中心とした楽器の構造で分類される。それぞれに含まれる楽器は後述。
弦 (本来は「絃」) は、和楽器においては「糸」と呼ばれ、古来、絹糸、羊腸(ガット)などを材料に作られてきたが、現在では均質性、安定性、耐久性などの点から、合成繊維(ナイロン)の弦を使うことが一般的である。ピアノでは張力が非常に大きい(1本当たり平均約80kg重)ので、特殊な鋼線(ミュージックワイヤー)を使う。低音用の弦では、質量を稼ぐためにナイロンや鋼の芯線の周りに銅などの金属の線やテープを巻く。エレクトリックギターなどの電気楽器は通常電磁ピックアップで弦の振動を拾うので、鉄(ステンレス鋼)やニッケル合金などの磁性体でできた弦を使う。ゴムバンドが弦として用いられる例がある。
弦が複数張られる時、必ずしもすべて違う音の高さに張る必要はない。2・3本ずつ並べて同じ高さの音に張り、まとめて演奏することもある。このひと組をユニゾンといい、ユニゾンの数によって何コースの楽器と呼ぶ。たとえばマンドリンは2本ずつ4コース8弦の楽器である。ピアノは鍵盤の数(普通は88)だけコースがあるが、超低音域では1弦1コースだが、低音域では2弦1コース、その他の音域では3弦1コースである。
これは音量を増したり、2本を同時にはじこうとすると少しずれて2度鳴ることなどを目的とする。
多くは演奏弦と表板の間に張られ、直接弾かれることはないが、演奏弦の特定の音に共鳴して響きを豊かにし残響を持たせる。シタール、サロード、サーランギなど、インドの楽器に特に発達しており、また中央アジアの楽器にも多いが、西洋楽器にもヴィオラダモーレなど共鳴弦を持つ楽器がいくつかが知られている。現代のピアノでも、ハンマーが叩かない共鳴弦を持った製品が市販されている。また共鳴弦を持たない楽器でも、演奏弦の開放弦は共鳴弦と同じ働きをする。
弦の端を楽器に固定するために、結びつける部分を緒止め(テールピース)という。三味線、胡弓では根緒(音緒)という。
一方、棒に巻き付けて、棒を回すことにより張力を変えられるようにしたものを糸巻き(ペグ)という。和楽器では糸巻きのほか、ねじ、転手(てんじゅ)、転軫(てんじん)などとも呼ぶ。
ギターのようにフレットが付いていたり開放弦を多く使う楽器や、コントラバスのように弦の張力が大きい楽器では、演奏中の調弦の安定性を高め微調整がやりやすいようにウォームギアを使った機械式のものを使う。
弦の途中で弦を押さえ(実際には下から押し上げるような形になる)、弦の振動長を限定するとともに弦同士の間隔を適正に保つ(複数弦の場合)部品を駒(ブリッジ)という。駒は、緒留めや糸巻きの手前に付けられる。特に共鳴胴や響板の上に付けられる駒は、弦の振動を共鳴胴に伝える重要な働きを持つ。糸巻き側を「上駒」、胴側を「下駒」ということがある。
エレキギターなどでは、下駒の位置を各弦ごとに弦の長さ方向にねじで微調整できる「イントネーション」機構を持つものが多い。これは、弦を押さえたときの張力の増大による弦の「延び具合」が弦の材質や太さによって微妙に異なるため、実効的な弦長が設計値と一致ぜず、高フレット位置で音程が全般的にずれることを補正するためである。イントネーション機構は、弦高(弦と指板との距離)の微調整機構も兼ね備えていることが多い。粗悪な製品では、そもそもイントネーション機構がなかったり、あっても音程のずれが調整範囲を超えていたりして、あるフレットポジション(例えば開放弦)で音高を正確に調弦しても他のフレットを押さえたときに音程が明らかに狂っている、いわゆる「フレット音痴」のことがある。
駒には、ツゲや竹な木材や、牛骨や硬質プラスティックのような、内部損失が少なく軽くて変形しにくい材質が用いられる。エレクトリックギターなどでは、弦の振動を積極的に胴に伝える必要があまりないことや、上記のような調整機構を容易に実現するために、金属製の下駒が用いられる。
ことのほか三味線では、その音楽ジャンルにより、きわめて多彩かつデリケートな駒のヴァリエーションが存在する。さらに個別のジャンル内においても、いくつもの種類の駒が使用される。特に地歌では、一人の演奏家でも、その日の天候や曲の雰囲気、皮の張り具合などによって多数の駒を使い分けることが普通に行われる。
弦の振動長を自由に短くするためには、指や爪やそれに変わるもので弦を押さえるが、弦を押さえつける板を指板という。リュート属の楽器では、ネック(棹)と指板とが一体化しているものも多い。
指板に指で弦を押さえつけると、指が弦の振動を吸収する。これは高音の撥弦で著しい。このため、指が弦の振動に直接当たらないように、指板上に駒状のものを取り付けることが行われる。これをフレットといい、ギターなどで備えている。フレットは半音刻みの間隔で打たれている。フレットのある楽器では、フレットを挟んで振動しない側の弦を指で押さえる。琵琶では柱()という。
共鳴胴に穿った通気口を響口()という。音色に大きな影響を与える。リュートやギターでは1個で円形ないし楕円形である。ヴァイオリン属ではf字形の穴を左右対称に2つ持ち、f字孔と呼ぶ。琵琶も同様だが半月形をしており、「半月」と呼ぶ。
ヴァイオリン属の楽器では、表板と裏板の間に魂柱という柱が立っていて、駒から伝えられた弦の振動を裏板に伝える。
ギターでは、響板の裏に複数の角材を貼り付け、薄い(約3mm)響板を補強するとともに、固有振動数を分散させて音色をまろやかにする。
琵琶(楽琵琶を除く)、三味線、シタール、タンブーラなどでは、楽器、フレット、駒などに、弦が振動したときに一部が触れて「ビーン」という音が出るしくみがある。これを日本では「さわり」(サワリ)、インドでは「ジュワリ(英語版)」(ジャワリ)という。
指で弦を押さえて音を変える楽器において、指で押さえていない状態を開放弦という。ヴァイオリン属の楽器のようにフレットのない楽器では他の(指で振動が吸収される)音と音色が違ったり、ヴィブラートがかけられないので、使用が控えられることがあるが、音としては、指で押さえて出す音よりも、音量も大きく、豊かな良い音がでるので、意図的に指定して使用することもある。バッハの無伴奏チェロ組曲の第6番は、5弦のチェロでの演奏を前提としており、これを現代の4弦のチェロで演奏しようとすると、本来あるべき5番目の弦の開放を使用できないので、苦労することになる。
逆に三味線などの和楽器は、開放弦に音階上の主要音を設定し多用することが多い。こうすることにより、演奏をしやすくしたり、共鳴を豊かにする効果がある。同様の例は、西洋楽器でもヴィオールなどにみられる。
調弦、チューニングとは、糸巻きで弦の張力を変えるなどして、(開放弦の)音の高さを設定すること。
作曲者の指示などにより、楽器本来の調弦法と違う音に合わせることを、スコルダトゥーラという。ヴァイオリン族ではほとんどの場合どんな曲でも同じ調弦で演奏されるが、三味線や箏にはたくさんの調弦の種類がある。また途中で調弦を変える曲も非常に多い。ギターでは、ほとんどの場合標準チューニングが使われるが、変則チューニングを好む奏者も多い。また、スティールギターではスライドバーを使って弦の振動長を変えるため、和音の音程(音高ではない)が開放弦といつも同じなので、調弦の異なる複数のギターを並べて演奏することがある。
弦の張力を変えて音の高さを変える奏法。楽器によって、弦を横に引いたり、縦に押し込んだりする。
ピッツィカートとは、撥弦楽器でない楽器で弦をはじく奏法。 撥弦楽器であるギターでは、ブリッジ上またはその近くの弦上に手の平の小指側を置き、弦の振動を制限することにより、濁ったポツポツをいう音にする奏法のこと。
ヴィブラートとは、音を揺らす奏法。弦を押さえる指などを揺らして、弦長、張力、弓の当たり方、楽器全体の位置を変えることにより、音高、音色、音強、響き方を小刻みに変化させる。ヴィブラートは耳には音色の変化として捉えられることが多い。ヴィブラートの使用により、音に空間的な響きが与えられ、ピチカート奏法では音の持続時間を多少長くすることができる。また、音高に幅ができるため、音程が合わない不快さが軽減される。和楽器では意味のニュアンスは若干異なるが「揺り」という。
ヴァイオリン属の楽器では、駒に弱音器を付けて、音色を和らげ、音強を弱めることがある。三味線には「忍び駒」という弱音用の駒がある。
弦楽合奏(ストリングス・オーケストラ)とは、弦楽器の合奏形態あるいはその形態で演奏される楽曲のことを指す。ここでいう弦とは、ヴァイオリン属の楽器のことをさす。すなわち、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスで編成される。
弦楽器の合奏形態は他にギターオーケストラ、マンドリンオーケストラなどがある。
江戸時代、当道座に属する盲人音楽家が専門とした三種の弦楽器である地歌三味線、箏、胡弓を総称して三曲と呼び、またこれらの音楽のことも指した。また三曲による合奏を三曲合奏と呼ぶ。幕末、明治以降尺八が参入し、現在は三味線、箏、尺八の編成で行なわれることが多いが、本来の胡弓入り合奏も行なわれている。
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},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "弦楽器では、弦と空気の音響インピーダンスマッチングが悪いので、弦の振動だけではかすかな音しかしないことが多い。聞こえる音量を増大させるために、いったん弦の振動を空気の音響インピーダンスに、より整合した別の振動体(振動板)に伝えてから空気中に輻射させる、いわゆる共鳴の原理が用いられる。",
"title": "共鳴の仕組み"
},
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"text": "ほとんどの弦楽器の「胴」はこの共鳴を実現するために作られた「共鳴胴」である。その形状は大きく分けて",
"title": "共鳴の仕組み"
},
{
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"text": "となるが、最初の2種は位相幾何学的には同一である。ピアノのように単一の板の共鳴体を「響板」と呼ぶ。",
"title": "共鳴の仕組み"
},
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"text": "共鳴胴の形状は特定の周波数での鋭い共振を避け、幅広い音域で滑らかに共鳴させるために、曲面や曲線で囲まれた平面で構成される。たとえばリュートやウードにでは一面は平面であるが他面は半球である。希に裏板が平面であるコントラバスが存在するが、これはヴィオール属の名残であり、現在は多くが曲面である。ギターでは表裏の板は平面であるが側板は曲面であり、さらに胴の内側で部分的に振動を抑制するような構造(ブレーシング)で共振点の分散を図っている。",
"title": "共鳴の仕組み"
},
{
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"text": "共鳴胴から発する音は通常、楽器の音量の大きな部分を占めるので、その材質、寸法、形状、仕上げ、他の部品との接合の具合などは、楽器に音質に大きな影響を与える。共鳴胴の材質は、その適度な内部損失、加工のしやすさ、耐久性、入手の容易さから、木の薄板や組み木を板状にしたものが多く、三味線のように一部に動物のなめし革を使ったものがある。共鳴胴の最初は太鼓であっただろうと考えられている。",
"title": "共鳴の仕組み"
},
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"text": "楽器分類学的には、共鳴胴を中心とした楽器の構造で分類される。それぞれに含まれる楽器は後述。",
"title": "分類"
},
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"text": "弦 (本来は「絃」) は、和楽器においては「糸」と呼ばれ、古来、絹糸、羊腸(ガット)などを材料に作られてきたが、現在では均質性、安定性、耐久性などの点から、合成繊維(ナイロン)の弦を使うことが一般的である。ピアノでは張力が非常に大きい(1本当たり平均約80kg重)ので、特殊な鋼線(ミュージックワイヤー)を使う。低音用の弦では、質量を稼ぐためにナイロンや鋼の芯線の周りに銅などの金属の線やテープを巻く。エレクトリックギターなどの電気楽器は通常電磁ピックアップで弦の振動を拾うので、鉄(ステンレス鋼)やニッケル合金などの磁性体でできた弦を使う。ゴムバンドが弦として用いられる例がある。",
"title": "構造"
},
{
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"text": "弦が複数張られる時、必ずしもすべて違う音の高さに張る必要はない。2・3本ずつ並べて同じ高さの音に張り、まとめて演奏することもある。このひと組をユニゾンといい、ユニゾンの数によって何コースの楽器と呼ぶ。たとえばマンドリンは2本ずつ4コース8弦の楽器である。ピアノは鍵盤の数(普通は88)だけコースがあるが、超低音域では1弦1コースだが、低音域では2弦1コース、その他の音域では3弦1コースである。",
"title": "構造"
},
{
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"text": "これは音量を増したり、2本を同時にはじこうとすると少しずれて2度鳴ることなどを目的とする。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "多くは演奏弦と表板の間に張られ、直接弾かれることはないが、演奏弦の特定の音に共鳴して響きを豊かにし残響を持たせる。シタール、サロード、サーランギなど、インドの楽器に特に発達しており、また中央アジアの楽器にも多いが、西洋楽器にもヴィオラダモーレなど共鳴弦を持つ楽器がいくつかが知られている。現代のピアノでも、ハンマーが叩かない共鳴弦を持った製品が市販されている。また共鳴弦を持たない楽器でも、演奏弦の開放弦は共鳴弦と同じ働きをする。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "弦の端を楽器に固定するために、結びつける部分を緒止め(テールピース)という。三味線、胡弓では根緒(音緒)という。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "一方、棒に巻き付けて、棒を回すことにより張力を変えられるようにしたものを糸巻き(ペグ)という。和楽器では糸巻きのほか、ねじ、転手(てんじゅ)、転軫(てんじん)などとも呼ぶ。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ギターのようにフレットが付いていたり開放弦を多く使う楽器や、コントラバスのように弦の張力が大きい楽器では、演奏中の調弦の安定性を高め微調整がやりやすいようにウォームギアを使った機械式のものを使う。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "弦の途中で弦を押さえ(実際には下から押し上げるような形になる)、弦の振動長を限定するとともに弦同士の間隔を適正に保つ(複数弦の場合)部品を駒(ブリッジ)という。駒は、緒留めや糸巻きの手前に付けられる。特に共鳴胴や響板の上に付けられる駒は、弦の振動を共鳴胴に伝える重要な働きを持つ。糸巻き側を「上駒」、胴側を「下駒」ということがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "エレキギターなどでは、下駒の位置を各弦ごとに弦の長さ方向にねじで微調整できる「イントネーション」機構を持つものが多い。これは、弦を押さえたときの張力の増大による弦の「延び具合」が弦の材質や太さによって微妙に異なるため、実効的な弦長が設計値と一致ぜず、高フレット位置で音程が全般的にずれることを補正するためである。イントネーション機構は、弦高(弦と指板との距離)の微調整機構も兼ね備えていることが多い。粗悪な製品では、そもそもイントネーション機構がなかったり、あっても音程のずれが調整範囲を超えていたりして、あるフレットポジション(例えば開放弦)で音高を正確に調弦しても他のフレットを押さえたときに音程が明らかに狂っている、いわゆる「フレット音痴」のことがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "駒には、ツゲや竹な木材や、牛骨や硬質プラスティックのような、内部損失が少なく軽くて変形しにくい材質が用いられる。エレクトリックギターなどでは、弦の振動を積極的に胴に伝える必要があまりないことや、上記のような調整機構を容易に実現するために、金属製の下駒が用いられる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "ことのほか三味線では、その音楽ジャンルにより、きわめて多彩かつデリケートな駒のヴァリエーションが存在する。さらに個別のジャンル内においても、いくつもの種類の駒が使用される。特に地歌では、一人の演奏家でも、その日の天候や曲の雰囲気、皮の張り具合などによって多数の駒を使い分けることが普通に行われる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "弦の振動長を自由に短くするためには、指や爪やそれに変わるもので弦を押さえるが、弦を押さえつける板を指板という。リュート属の楽器では、ネック(棹)と指板とが一体化しているものも多い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "指板に指で弦を押さえつけると、指が弦の振動を吸収する。これは高音の撥弦で著しい。このため、指が弦の振動に直接当たらないように、指板上に駒状のものを取り付けることが行われる。これをフレットといい、ギターなどで備えている。フレットは半音刻みの間隔で打たれている。フレットのある楽器では、フレットを挟んで振動しない側の弦を指で押さえる。琵琶では柱()という。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "共鳴胴に穿った通気口を響口()という。音色に大きな影響を与える。リュートやギターでは1個で円形ないし楕円形である。ヴァイオリン属ではf字形の穴を左右対称に2つ持ち、f字孔と呼ぶ。琵琶も同様だが半月形をしており、「半月」と呼ぶ。",
"title": "構造"
},
{
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"text": "ヴァイオリン属の楽器では、表板と裏板の間に魂柱という柱が立っていて、駒から伝えられた弦の振動を裏板に伝える。",
"title": "構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ギターでは、響板の裏に複数の角材を貼り付け、薄い(約3mm)響板を補強するとともに、固有振動数を分散させて音色をまろやかにする。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "琵琶(楽琵琶を除く)、三味線、シタール、タンブーラなどでは、楽器、フレット、駒などに、弦が振動したときに一部が触れて「ビーン」という音が出るしくみがある。これを日本では「さわり」(サワリ)、インドでは「ジュワリ(英語版)」(ジャワリ)という。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "指で弦を押さえて音を変える楽器において、指で押さえていない状態を開放弦という。ヴァイオリン属の楽器のようにフレットのない楽器では他の(指で振動が吸収される)音と音色が違ったり、ヴィブラートがかけられないので、使用が控えられることがあるが、音としては、指で押さえて出す音よりも、音量も大きく、豊かな良い音がでるので、意図的に指定して使用することもある。バッハの無伴奏チェロ組曲の第6番は、5弦のチェロでの演奏を前提としており、これを現代の4弦のチェロで演奏しようとすると、本来あるべき5番目の弦の開放を使用できないので、苦労することになる。",
"title": "用語"
},
{
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"tag": "p",
"text": "逆に三味線などの和楽器は、開放弦に音階上の主要音を設定し多用することが多い。こうすることにより、演奏をしやすくしたり、共鳴を豊かにする効果がある。同様の例は、西洋楽器でもヴィオールなどにみられる。",
"title": "用語"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "調弦、チューニングとは、糸巻きで弦の張力を変えるなどして、(開放弦の)音の高さを設定すること。",
"title": "用語"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "作曲者の指示などにより、楽器本来の調弦法と違う音に合わせることを、スコルダトゥーラという。ヴァイオリン族ではほとんどの場合どんな曲でも同じ調弦で演奏されるが、三味線や箏にはたくさんの調弦の種類がある。また途中で調弦を変える曲も非常に多い。ギターでは、ほとんどの場合標準チューニングが使われるが、変則チューニングを好む奏者も多い。また、スティールギターではスライドバーを使って弦の振動長を変えるため、和音の音程(音高ではない)が開放弦といつも同じなので、調弦の異なる複数のギターを並べて演奏することがある。",
"title": "用語"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "弦の張力を変えて音の高さを変える奏法。楽器によって、弦を横に引いたり、縦に押し込んだりする。",
"title": "用語"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ピッツィカートとは、撥弦楽器でない楽器で弦をはじく奏法。 撥弦楽器であるギターでは、ブリッジ上またはその近くの弦上に手の平の小指側を置き、弦の振動を制限することにより、濁ったポツポツをいう音にする奏法のこと。",
"title": "用語"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ヴィブラートとは、音を揺らす奏法。弦を押さえる指などを揺らして、弦長、張力、弓の当たり方、楽器全体の位置を変えることにより、音高、音色、音強、響き方を小刻みに変化させる。ヴィブラートは耳には音色の変化として捉えられることが多い。ヴィブラートの使用により、音に空間的な響きが与えられ、ピチカート奏法では音の持続時間を多少長くすることができる。また、音高に幅ができるため、音程が合わない不快さが軽減される。和楽器では意味のニュアンスは若干異なるが「揺り」という。",
"title": "用語"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ヴァイオリン属の楽器では、駒に弱音器を付けて、音色を和らげ、音強を弱めることがある。三味線には「忍び駒」という弱音用の駒がある。",
"title": "用語"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "弦楽合奏(ストリングス・オーケストラ)とは、弦楽器の合奏形態あるいはその形態で演奏される楽曲のことを指す。ここでいう弦とは、ヴァイオリン属の楽器のことをさす。すなわち、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスで編成される。",
"title": "弦楽合奏"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "弦楽器の合奏形態は他にギターオーケストラ、マンドリンオーケストラなどがある。",
"title": "弦楽合奏"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "江戸時代、当道座に属する盲人音楽家が専門とした三種の弦楽器である地歌三味線、箏、胡弓を総称して三曲と呼び、またこれらの音楽のことも指した。また三曲による合奏を三曲合奏と呼ぶ。幕末、明治以降尺八が参入し、現在は三味線、箏、尺八の編成で行なわれることが多いが、本来の胡弓入り合奏も行なわれている。",
"title": "三曲合奏"
}
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弦楽器(げんがっき、絃楽器とも)とは、弦に何らかの刺激を与えることによって得られる弦の振動を音とする楽器の総称である。弦の振動を得るために、弦とそれを張力をもって張っておく装置を備え、多くの場合は得られた音を共鳴させて音を拡大するための装置を持つ。 特許「弦楽器」により、特殊な調整や改造を行わずとも右利き用の弦楽器を左利き用に転用することができる。 楽器分類学では弦鳴楽器と呼ぶ。
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{{出典の明記|date=2013年4月|ソートキー=楽}}
'''弦楽器'''(げんがっき、'''絃楽器'''とも)とは、[[弦 (楽器)|弦]]に何らかの刺激を与えることによって得られる弦の[[振動]]を[[音]]とする[[楽器]]の総称である。弦の振動を得るために、弦とそれを[[張力]]をもって張っておく装置を備え、多くの場合は得られた音を[[音響共鳴|共鳴]]させて音を拡大するための装置を持つ。
特許「弦楽器」により、特殊な調整や改造を行わずとも右利き用の弦楽器を左利き用に転用することができる。<ref group="注釈">大阪芸術大学准教授の中野圭による発明「[https://patents.google.com/patent/JP6709929B2/ja?oq=6709929 弦楽器]」。</ref>
[[楽器分類学]]では'''[[楽器分類学#弦鳴楽器|弦鳴楽器]]'''と呼ぶ。
== 音の出し方 ==
弦をはじく、または弓のつるで弦をこする、または弦を叩くことによって、弦に刺激を与えると、弦が振動して音が得られる。主たる刺激の与え方により、撥弦楽器、擦弦楽器、打弦楽器に分類することができる。
; [[撥弦楽器]]:弦をはじく。はじくには、指、爪、またはそれに変わるもの(義甲、プレクトラムという)を使う。[[箏]]、[[三味線]]、[[ギター]]、[[エレキベース]]、[[チェンバロ]]などがこうして音を出す。
; [[擦弦楽器]]:弦を弓のつるでこする。[[ヴァイオリン]]の[[ヴァイオリン属|仲間]]や、[[胡弓]]の仲間、[[モリンホール]](馬頭琴)の仲間などがこうして音を出す。弓のつるは馬の尾の毛のような摩擦の大きいものを使い、さらに松脂などによって摩擦を大きくする。韓国の[[牙箏]](アジェン)のように、弓ではなく木の棒で擦るものもある。
; [[打弦楽器]]:弦を打つ。[[ピアノ]]、一部の[[打楽器]]や、和楽器の一部もこれに入る。弦を打つのは、[[ハンマー]]、[[ばち]]などである。
ただし、一般的に楽器を含む物理的な物に設計時に考えられていない振動などの外乱を加えることで想定外の音を発音させる事は可能である。また、それが正規の演奏法となる場合がある。以下は一例である。
* 擦弦楽器である[[ヴァイオリン属]]の楽器には弦を撥弦楽器のように弾いて音を出す[[ピチカート]]という奏法([[コントラバス]]を[[ポピュラー音楽]]で使う場合にはむしろその方が一般的である)。
* 撥弦楽器である[[箏]]には弦を叩いて音を出す[[打ち爪]]という奏法。
* 三味線の撥音には弦だけでなく皮の振動音も複合されており打楽器的な効果もある。
* ギターの胴を手で叩いて打楽器的効果を出だす。弦を弓などで擦って音を出す。
* 三味線、箏には「すり手」「すり爪」といって、爪で弦をこすって「ズー」という効果音的な音色を出す技法
* ピアノの弦を手で擦り音を出す。
* エレキギターなどの電気楽器に電磁気的な信号を送り込む。
* 単なる破壊行為による発音。
など上記分類以外の方法でも演奏可能である。
チェンバロ、ピアノ等の演奏者が直接弦に触れないものは普通弦楽器ではなく、鍵盤楽器に分類される。
弦楽器では、共鳴体によって音の高さが決まる[[管楽器]]と違い、発音体たる弦の振動数(周波数)によって[[音高|音の高さ]]が決まる。弦の振動は一般には[[非線形]]現象だが、多くの弦楽器では以下のような1次元の[[波動方程式]]によって十分に[[近似]]できる。
<div style="margin-left:2em;margin:8px 2em;"><math>\frac{\partial^2}{\partial t^2} u(x,t) = \frac{T}{\sigma} \frac{\partial^2}{\partial x^2} u(x,t)</math></div>
また、多くの弦楽器では弦の両端は固定されているため、以下のような[[境界条件]]を満たさなければならない。
<div style="margin-left:2em;margin:8px 2em;"><math>u(0,t) = u(l,t) = 0</math></div>
この[[偏微分方程式]]の解は一般に、
<div style="margin-left:2em;margin:8px 2em;"><math>u(x,t)=\sum_{n=1}^{\infty}C_n \sin\frac{n\pi x}{l} \cos\omega_n(t-\phi_n)</math><br/>
ただし、<math>\omega_n = \frac{n\pi}{l}\sqrt\frac{T}{\sigma} </math>であり、<math>C_n, \phi_n</math>は[[初期条件]]に依存する定数。</div>
で表される。この解のうち[[音]]として現れるのはcosの部分である。これは振動数 <math>f_n = \frac{\omega_n}{2\pi}</math> の波の和になり、n=1の波が基音、n=2,3,…の波がそれぞれ第2[[倍音]]、第3倍音に相当する。これらの倍音の比率は弦楽器の[[音色]]を決定する要素となる。弦の基本振動数は次の式によって得られる([[メルセンヌの法則]])。
<div style="margin-left:2em;margin:8px 2em;"><math>f_1={1 \over 2l} \sqrt{T \over \sigma}</math></div>
<div style="margin-left:2em;margin:8px 4em;">''f'': 周波数 ([[ヘルツ (単位)|ヘルツ]])<br/>
''l'': 弦の長さ (m)<br/>
''T'': 張力 ([[ニュートン (単位)|ニュートン]])<br/>
''σ'': 単位長さあたりの質量 ([[線密度]], kg/m)</div>
このように、振動数は弦の[[長さ]]、弦の[[張力]]、弦の単位長さあたりの[[質量]](弦の太さ、弦の密度)によって変わるので、複数の高さの音を得るためにはこれらを変更すればいいことになる。そのために次のような工夫がされる。
* 弦の振動する長さを変更する。
* 弦の張力を変更する。
* 得られる音の高さの異なる複数の弦を張る。
多くの弦楽器は、これらの中から1つ以上の方法によって音の高さを変更している。例えば、[[エレキギター]]では、異なる高さの弦を6本張り、弦の振動する長さを短くするために[[指板]]や[[フレット]]と呼ばれる装置を備え、さらに演奏にあたって弦を横に引くこと([[チョーキング]])により張力を変える。
== 共鳴の仕組み ==
弦楽器では、弦と空気の[[音響インピーダンス]]マッチングが悪いので、弦の振動だけではかすかな音しかしないことが多い。聞こえる音量を増大させるために、いったん弦の振動を空気の音響インピーダンスに、より整合した別の振動体([[振動板]])に伝えてから空気中に輻射させる、いわゆる[[共鳴]]の原理が用いられる。
ほとんどの弦楽器の「胴」はこの共鳴を実現するために作られた「共鳴胴」である。その形状は大きく分けて
* 単一の板または適度な張力で張った膜(ピアノ、一部の[[バンジョー]]など)
* 穴の開いた中空の箱(ヴァイオリン属、ギター、琴など)
* 閉じた中空の箱([[三味線]]など)
となるが、最初の2種は[[位相幾何学]]的には同一である。ピアノのように単一の板の共鳴体を「[[響板]]」と呼ぶ。
共鳴胴の形状は特定の周波数での鋭い共振を避け、幅広い音域で滑らかに共鳴させるために、曲面や曲線で囲まれた平面で構成される。たとえば[[リュート]]や[[ウード]]にでは一面は平面であるが他面は半球である。希に裏板が平面であるコントラバスが存在するが、これは[[ヴィオール属]]の名残であり、現在は多くが曲面である。ギターでは表裏の板は平面であるが側板は曲面であり、さらに胴の内側で部分的に振動を抑制するような構造(ブレーシング)で共振点の分散を図っている。
共鳴胴から発する音は通常、楽器の音量の大きな部分を占めるので、その材質、寸法、形状、仕上げ、他の部品との接合の具合などは、楽器に音質に大きな影響を与える。共鳴胴の材質は、その適度な内部損失、加工のしやすさ、耐久性、入手の容易さから、木の薄板や組み木を板状にしたものが多く、三味線のように一部に動物のなめし革を使ったものがある。共鳴胴の最初は[[太鼓]]であっただろうと考えられている。
== 分類 ==
楽器分類学的には、共鳴胴を中心とした楽器の構造で分類される。それぞれに含まれる楽器は後述。
* [[楽弓]] - 湾曲した弓状の棒の両端に弦を結びつけて張ったもの。
* [[ツィター属]] - 共鳴胴の上に(自由な振動ができる程度に共鳴胴から離して)弦を張ったもの。
* [[リラ属]] - 共鳴胴に2本の柱を立て、柱の間に横木を渡して、共鳴胴と横木の間に弦を張ったもの。柱が共鳴胴となっているものや、全体が共鳴胴と一体となっているものもある。
* [[ハープ属]] - 長細い共鳴胴の端に、くの字に棒を付け、共鳴胴と棒の間に弦を張ったもの。支持するためにくの字の両端に支持棒を付けて三角形とすることが多い。
* [[リュート属]] - 共鳴胴に棹を取り付け、棹の上に弦を張ったもの。弦の一端を棹の先に、もう一端を共鳴胴に結びつけるものが多い。棹の上に弦を張ることで、音高を変えるために弦を押さえやすくなる。なお、有棹弦楽器と呼ぶことがある。
== 構造 ==
=== 弦 ===
[[弦 (楽器)|弦]] (本来は「絃」) は、[[和楽器]]においては「[[糸]]」と呼ばれ、古来、[[絹糸]]、羊腸([[ガット]])などを材料に作られてきたが、現在では均質性、安定性、耐久性などの点から、[[合成繊維]]([[ナイロン]])の弦を使うことが一般的である。[[ピアノ]]では張力が非常に大きい(1本当たり平均約80[[重量キログラム|kg重]])ので、特殊な[[鋼]]線([[ピアノ線|ミュージックワイヤー]])を使う。低音用の弦では、質量を稼ぐためにナイロンや鋼の芯線の周りに[[銅]]などの金属の線やテープを巻く。[[エレクトリックギター]]などの電気楽器は通常電磁[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]で弦の振動を拾うので、鉄([[ステンレス鋼]])や[[ニッケル]]合金などの[[磁性体]]でできた弦を使う。ゴムバンドが弦として用いられる例がある<ref group="注釈">芸術ユニットの[[明和電機]]が「ゴムベース」と言う弦にゴムバンドを用いたアコースティックフレットレスベースを独自に製作し、音楽作品において使用している。「ゴムベース」は後にスピーカーを備えて市販化した。99年にはボディをエレキベース風にした「ゴムベースII」も製作。</ref>。
=== コース、ユニゾン、複弦 ===
弦が複数張られる時、必ずしもすべて違う音の高さに張る必要はない。2・3本ずつ並べて同じ高さの音に張り、まとめて演奏することもある。このひと組をユニゾンといい、ユニゾンの数によって何コースの楽器と呼ぶ。たとえば[[マンドリン]]は2本ずつ4コース8弦の楽器である。ピアノは鍵盤の数(普通は88)だけコースがあるが、超低音域では1弦1コースだが、低音域では2弦1コース、その他の音域では3弦1コースである。
これは音量を増したり、2本を同時にはじこうとすると少しずれて2度鳴ることなどを目的とする。
=== 共鳴弦 ===
多くは演奏弦と表板の間に張られ、直接弾かれることはないが、演奏弦の特定の音に共鳴して響きを豊かにし残響を持たせる。[[シタール]]、[[サロード]]、[[サーランギ]]など、インドの楽器に特に発達しており、また中央アジアの楽器にも多いが、西洋楽器にも[[ヴィオラダモーレ]]など共鳴弦を持つ楽器がいくつかが知られている。現代のピアノでも、ハンマーが叩かない共鳴弦を持った製品が市販されている。また共鳴弦を持たない楽器でも、演奏弦の開放弦は共鳴弦と同じ働きをする。
=== 緒止め・糸巻き ===
弦の端を楽器に固定するために、結びつける部分を緒止め(テールピース)という。三味線、胡弓では根緒(音緒)という。
一方、棒に巻き付けて、棒を回すことにより張力を変えられるようにしたものを糸巻き(ペグ)という。和楽器では糸巻きのほか、ねじ、転手(てんじゅ)、転軫(てんじん)などとも呼ぶ。
<gallery>
Image:Husle.jpg|ヴァイオリンの緒止めとあごあて
Image:Guitar_Epiphone_01_tailpiece.jpg|ギターのテールピース
Image:Détail_tête_guitare.jpg|[[クラシックギター]]の糸巻き
Image:Peg_in_box.jpg|[[ヴァイオリン]]の糸巻き
Image:Doublebass_scroll.jpg|[[コントラバス]]の糸巻き
Image:Gayageum_12_string_pegs.jpg|[[カヤグム]]の糸巻き
</gallery>
ギターのようにフレットが付いていたり開放弦を多く使う楽器や、コントラバスのように弦の張力が大きい楽器では、演奏中の調弦の安定性を高め微調整がやりやすいように[[ウォームギヤ|ウォームギア]]を使った機械式のものを使う。
{{seealso|糸巻き (弦楽器)}}
=== 駒、柱(箏) ===
[[Image:Violin bridge.jpg|thumb|ヴァイオリンの駒]]
[[Image:ClassicalGuitar bridge.jpg|thumb|ギターの下駒。緒止めと近接している]]
[[Image:Guitare chevalet2.jpg|thumb|電子ギターの駒]]
弦の途中で弦を押さえ(実際には下から押し上げるような形になる)、弦の振動長を限定するとともに弦同士の間隔を適正に保つ(複数弦の場合)部品を駒(ブリッジ)という。駒は、緒留めや糸巻きの手前に付けられる。特に共鳴胴や響板の上に付けられる駒は、弦の振動を共鳴胴に伝える重要な働きを持つ。糸巻き側を「上駒」、胴側を「下駒」ということがある。
エレキギターなどでは、下駒の位置を各弦ごとに弦の長さ方向にねじで微調整できる「イントネーション」機構を持つものが多い。これは、弦を押さえたときの張力の増大による弦の「延び具合」が弦の材質や太さによって微妙に異なるため、実効的な弦長が設計値と一致ぜず、高フレット位置で音程が全般的にずれることを補正するためである。イントネーション機構は、弦高(弦と指板との距離)の微調整機構も兼ね備えていることが多い。粗悪な製品では、そもそもイントネーション機構がなかったり、あっても音程のずれが調整範囲を超えていたりして、あるフレットポジション(例えば開放弦)で音高を正確に調弦しても他のフレットを押さえたときに音程が明らかに狂っている、いわゆる「[[フレット音痴]]」のことがある。
駒には、ツゲや竹な木材や、牛骨や硬質プラスティックのような、内部損失が少なく軽くて変形しにくい材質が用いられる。エレクトリックギターなどでは、弦の振動を積極的に胴に伝える必要があまりないことや、上記のような調整機構を容易に実現するために、金属製の下駒が用いられる。
ことのほか三味線では、その音楽ジャンルにより、きわめて多彩かつデリケートな駒のヴァリエーションが存在する。さらに個別のジャンル内においても、いくつもの種類の駒が使用される。特に[[地歌]]では、一人の演奏家でも、その日の天候や曲の雰囲気、皮の張り具合などによって多数の駒を使い分けることが普通に行われる。
=== 指板・勘所 ===
{{Main|指板}}
弦の振動長を自由に短くするためには、指や爪やそれに変わるもので弦を押さえるが、弦を押さえつける板を指板という。リュート属の楽器では、ネック(棹)と指板とが一体化しているものも多い。
=== フレット、柱(琵琶) ===
[[Image:Fretboard parallelogram.jpg|thumb|ギターのフレット]]
指板に指で弦を押さえつけると、指が弦の振動を吸収する。これは高音の撥弦で著しい。このため、指が弦の振動に直接当たらないように、指板上に駒状のものを取り付けることが行われる。これを[[フレット]]といい、ギターなどで備えている。フレットは半音刻みの間隔で打たれている。フレットのある楽器では、フレットを挟んで振動しない側の弦を指で押さえる。琵琶では{{読み仮名|柱|じ}}という。
=== 響口、f字孔 ===
共鳴胴に穿った通気口を{{読み仮名|響口|ひびきぐち}}という。音色に大きな影響を与える。リュートやギターでは1個で円形ないし楕円形である。ヴァイオリン属では''f''字形の穴を左右対称に2つ持ち、[[f字孔]]と呼ぶ。琵琶も同様だが半月形をしており、「半月」と呼ぶ。
=== 魂柱 ===
[[Image:Stimmstock.JPG|thumb|ヴァイオリンの魂柱]]
[[ヴァイオリン属]]の楽器では、表板と裏板の間に[[魂柱]]という柱が立っていて、駒から伝えられた弦の振動を裏板に伝える。
=== ブレーシング ===
ギターでは、[[響板]]の裏に複数の角材を貼り付け、薄い(約3mm)響板を補強するとともに、固有振動数を分散させて音色をまろやかにする。
=== サワリ ===
[[琵琶]](楽琵琶を除く)、[[三味線]]、[[シタール]]、タンブーラなどでは、楽器、フレット、駒などに、弦が振動したときに一部が触れて「ビーン」という音が出るしくみがある。これを日本では「[[さわり]]」(サワリ)、インドでは「{{仮リンク|ジュワリ|en|Jivari}}」(ジャワリ)という。
== 用語 ==
=== 開放弦 ===
指で弦を押さえて音を変える楽器において、指で押さえていない状態を[[開放弦]]という。ヴァイオリン属の楽器のようにフレットのない楽器では他の(指で振動が吸収される)音と音色が違ったり、ヴィブラートがかけられないので、使用が控えられることがあるが、音としては、指で押さえて出す音よりも、音量も大きく、豊かな良い音がでるので、意図的に指定して使用することもある。バッハの無伴奏チェロ組曲の第6番は、5弦のチェロでの演奏を前提としており、これを現代の4弦のチェロで演奏しようとすると、本来あるべき5番目の弦の開放を使用できないので、苦労することになる。
逆に三味線などの和楽器は、開放弦に音階上の主要音を設定し多用することが多い。こうすることにより、演奏をしやすくしたり、共鳴を豊かにする効果がある。同様の例は、西洋楽器でもヴィオールなどにみられる。
=== 調弦、チューニング ===
調弦、[[調律|チューニング]]とは、糸巻きで弦の張力を変えるなどして、(開放弦の)音の高さを設定すること。
作曲者の指示などにより、楽器本来の調弦法と違う音に合わせることを、[[スコルダトゥーラ]]という。ヴァイオリン族ではほとんどの場合どんな曲でも同じ調弦で演奏されるが、三味線や箏にはたくさんの調弦の種類がある。また途中で調弦を変える曲も非常に多い。ギターでは、ほとんどの場合標準チューニングが使われるが、変則チューニングを好む奏者も多い。また、[[スティールギター]]では[[スライドバー]]を使って弦の振動長を変えるため、和音の音程(音高ではない)が開放弦といつも同じなので、調弦の異なる複数のギターを並べて演奏することがある。
=== チョーキング、押し手 ===
弦の張力を変えて音の高さを変える奏法。楽器によって、弦を横に引いたり、縦に押し込んだりする。
=== ピッツィカート ===
[[ピッツィカート]]とは、撥弦楽器でない楽器で弦をはじく奏法。
撥弦楽器であるギターでは、ブリッジ上またはその近くの弦上に手の平の小指側を置き、弦の振動を制限することにより、濁ったポツポツをいう音にする奏法のこと。
=== ヴィブラート ===
[[ヴィブラート]]とは、音を揺らす奏法。弦を押さえる指などを揺らして、弦長、張力、弓の当たり方、楽器全体の位置を変えることにより、音高、音色、音強、響き方を小刻みに変化させる。ヴィブラートは耳には音色の変化として捉えられることが多い。ヴィブラートの使用により、音に空間的な響きが与えられ、ピチカート奏法では音の持続時間を多少長くすることができる。また、音高に幅ができるため、音程が合わない不快さが軽減される。和楽器では意味のニュアンスは若干異なるが「揺り」という。
=== 弱音器 ===
[[ヴァイオリン属]]の楽器では、駒に[[弱音器]]を付けて、[[音色]]を和らげ、[[音強]]を弱めることがある。三味線には「忍び駒」という弱音用の駒がある。
== 地域ごとの弦楽器とその大まかな歴史 ==
=== 西洋 ===
* [[チター属|ツィター属]]
** [[チター|ツィター]] - [[オートハープ]] - [[カンテレ]] - [[ダルシマー]] - [[ツィンバロム]] - [[チェンバロ]] - [[ピアノ]] - [[プサルテリウム]]
* [[ハープ属]]
** [[ハープ]] - [[エオリアン・ハープ]]
* [[リュート属]]
** [[リュート]] - [[マンドーラ]] - [[マンドリン]] - [[ブズーキ]] - [[ラウト]]
** [[ギター]] - [[アイリッシュ・ブズーキ]] - [[ウクレレ]]
** [[アルペジョーネ]]
** [[ヴィオール属]]
*** [[ヴィオラ・ダ・ガンバ]] - [[コントラバス]]
** [[ヴァイオリン属]]
*** [[ヴァイオリン]] - [[ヴィオラ]] - [[チェロ]] - [[コントラバス]] - [[ヴィオラ・ダ・ブラッチョ]]
** [[その他]]
*** [[ヴィオラ・ダモーレ]]
=== 東洋 ===
==== 日本 ====
* [[チター属|ツィター属]]
** [[和琴]] - [[箏]](楽箏、筑紫箏、俗箏) - [[一絃琴]] - [[二弦琴|二絃琴]] - [[大正琴]]
** 琉球かれん
* [[リュート属]]
** [[琵琶]]
*** 楽琵琶 - 平家琵琶 - 盲僧琵琶 - 薩摩琵琶 - 筑前琵琶 -
** [[三味線]]
*** 太棹三味線 - 中棹三味線 - 細棹三味線 - 柳川三味線 - ゴッタン - {{読み仮名|[[三線]]|さんしん}}
** [[胡弓]]
*** 三絃胡弓- 四絃胡弓 - 玲琴 - 大胡弓- [[胡弓]](沖縄の胡弓、くーちょー)
** [[一五一会]]
** [[ミンミン (楽器)|みんなの民族楽器ミンミン]]
==== 中国 ====
* [[チター属|ツィター属]]
** [[古筝]] - {{読み仮名|[[古琴|琴]]|チン}} - [[揚琴]] - [[瑟]]
* [[ハープ属]]
** [[箜篌]](くご)
* [[リュート属]]
** {{読み仮名|[[琵琶]]|ピーパー}} - [[阮咸]] - [[月琴]]
** [[三弦]]
**[[胡琴]]- [[二胡]] - [[高胡]] - [[四胡]] - [[板胡]] - [[京胡]] - [[中胡]] - [[墜琴]] - [[秦琴]]
==== モンゴル ====
* [[チター属|ツィター属]]
** [[ヤトガ]]
** [[ピアノ|洋琴]]
* [[リュート属]]
** [[モリンホール]](馬頭琴)
==== 朝鮮 ====
* [[ツィター属]]
** [[コムンゴ]](玄琴)- [[カヤグム]](カヤッゴ、伽耶琴)- [[牙箏]](アジェン)- [[瑟]]
** [[ピアノ|洋琴]]
* [[リュート属]]
** [[奚琴]](ヘグム)
** [[琵琶]]
==== インド亜大陸 ====
* [[リュート属]]
** [[シタール]] - [[ヴィーナ]] - [[ラバーブ]] - [[サーランギ]]
==== 中央アジア ====
* [[リュート属]]
** {{仮リンク|ドゥータール|label=ドゥタール|en|Dutar}} - {{仮リンク|ルバーブ (楽器)|label=ルバーブ|en|Rubab (instrument)}} - {{仮リンク|タンブール|en|Tanbur}} - [[タール (弦楽器)|タール]] - [[ドンブラ]] - [[コムズ]] - [[レワープ]]
=== 中東 ===
* [[チター属|ツィター属]]
** [[カヌーン|カーヌーン]]
* [[リュート属]]
** [[ウード]] - [[ラバーブ]] - [[セタール]]
** [[サズ]]
=== アフリカ ===
* [[リュート属]]
**[[コラ_(楽器)]](Kora)
* ハープ族
** [[ニャティティ]] [[:en:Nyatiti|Nyatiti]]
** [[アドゥング]]
* その他
** ンゴニ
** ベガナ
** ボロン
**インザド
== 弦楽合奏 ==
'''[[弦楽合奏]]'''([[ストリングス]]・オーケストラ)とは、弦楽器の合奏形態あるいはその形態で演奏される楽曲のことを指す。ここでいう'''弦'''とは、ヴァイオリン属の楽器のことをさす。すなわち、[[ヴァイオリン]]、[[ヴィオラ]]、[[チェロ]]、[[コントラバス]]で編成される。
弦楽器の合奏形態は他に[[ギターオーケストラ]]、[[マンドリンオーケストラ]]などがある。
== 三曲合奏 ==
江戸時代、[[当道座]]に属する盲人音楽家が専門とした三種の弦楽器である[[地歌]][[三味線]]、[[箏]]、[[胡弓]]を総称して'''[[三曲]]'''と呼び、またこれらの音楽のことも指した。また三曲による合奏を[[三曲合奏]]と呼ぶ。幕末、明治以降[[尺八]]が参入し、現在は三味線、箏、尺八の編成で行なわれることが多いが、本来の胡弓入り合奏も行なわれている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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{{オーケストラの楽器}}
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[[Category:弦楽器|*]]
[[uk:Хордофон]]
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大門駅
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大門駅(だいもんえき)
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大門駅(だいもんえき) 大門駅 (広島県) - 広島県福山市にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線の駅。
大門駅 (東京都) - 東京都港区にある、都営地下鉄の駅。
大門駅 (愛知県) - 愛知県岡崎市にある、愛知環状鉄道線の駅。
大門駅 (福岡県) - 福岡県北九州市小倉北区にあった、西日本鉄道北九州線の駅。 → #電停一覧
市川大門駅 - 山梨県西八代郡市川三郷町にある、東海旅客鉄道(JR東海)身延線の駅。
越中大門駅 - 富山県射水市にある、あいの風とやま鉄道線の駅。
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'''大門駅'''(だいもんえき)
*[[大門駅 (広島県)]] - [[広島県]][[福山市]]にある、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[山陽本線]]の駅。
*[[大門駅 (東京都)]] - [[港区 (東京都)|東京都港区]]にある、[[都営地下鉄]]の駅。
*[[大門駅 (愛知県)]] - [[愛知県]][[岡崎市]]にある、[[愛知環状鉄道線]]の駅。
*[[大門駅 (福岡県)]] - [[福岡県]][[北九州市]][[小倉北区]]にあった、[[西日本鉄道]][[西鉄北九州線|北九州線]]の駅。 → [[西鉄北九州線#電停一覧|北九州線#電停一覧]]
*[[市川大門駅]] - [[山梨県]][[西八代郡]][[市川三郷町]]にある、[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[身延線]]の駅。
*[[越中大門駅]] - [[富山県]][[射水市]]にある、[[あいの風とやま鉄道線]]の駅。
== 関連項目 ==
*[[大門通駅]] - [[大阪府]][[大阪市]]にあった、[[南海天王寺支線]]の駅。
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[[Category:同名の鉄道駅]]
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市役所前駅
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市役所前駅(しやくしょまええき) は名前の通り、市役所の前にある駅である。市役所前停留場を含めると、日本の鉄道駅では最も多い名称となっている。
本項目では、日本語で同様の意味の名称を持つ日本国外の駅も取り上げる。
フランス語で「オテル・ド・ヴィル(Hôtel de Ville)」は市庁舎を意味する。
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市役所前駅(しやくしょまええき) は名前の通り、市役所の前にある駅である。市役所前停留場を含めると、日本の鉄道駅では最も多い名称となっている。 本項目では、日本語で同様の意味の名称を持つ日本国外の駅も取り上げる。
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'''市役所前駅'''(しやくしょまええき)
<!--[[Wikipedia:曖昧さ回避#名前の一部だけが項目名と共通しているだけの言葉は載せない]]という方針に従って、正式名称が「市役所前駅」の駅だけを記載してください。「○○市役所前駅」や副名称で使われている駅を記載しないで下さい。-->
は名前の通り、[[役所|市役所]]の前にある[[鉄道駅|駅]]である。[[市役所前停留場 (曖昧さ回避)|市役所前停留場]]を含めると、[[日本の鉄道駅]]では最も多い名称となっている<ref>{{Cite journal|和書|year=2008|month=2|title=駅めぐり ([鉄道ピクトリアル]創刊800号記念号) -- (鉄道風景&名所800)|journal=鉄道ピクトリアル|volume=58|issue=2|page=56|publisher=鉄道図書刊行会|issn=00404047|naid=40015748281}}同書では、当時「市役所前」だった[[熊本城・市役所前停留場]]・[[福井城址大名町駅]]を含めている</ref>。
本項目では、日本語で同様の意味の名称を持つ日本国外の駅も取り上げる。
== 日本国内の駅 ==
=== 営業中の駅 ===
* [[市役所前駅 (千葉県)]] - [[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]にある[[千葉都市モノレール]][[千葉都市モノレール1号線|1号線]]の駅。
* [[市役所前駅 (長野県)]] - [[長野県]][[長野市]]にある[[長野電鉄]][[長野電鉄長野線|長野線]]の駅。
* [[市役所前駅 (和歌山県)]] - [[和歌山県]][[御坊市]]にある[[紀州鉄道]]の駅。
=== 廃止された駅 ===
* [[市役所前駅 (岐阜県)]] - [[岐阜県]][[岐阜市]]にあった[[名古屋鉄道|名鉄]][[名鉄岐阜市内線|岐阜市内線本線(長良線)]]の電停。
* 静岡県清水市(現 静岡市清水区)にあった静岡鉄道清水市内線の駅。[[静岡鉄道清水市内線|#駅一覧]]を参照。
* 和歌山県和歌山市にあった南海和歌山軌道線の駅。[[南海和歌山軌道線#停留所一覧|#停留所一覧]]を参照。紀州鉄道の駅とは異なる。
=== かつて市役所前駅だった駅 ===
* [[吹田駅 (阪急)]] - [[大阪府]][[吹田市]]にある[[阪急電鉄|阪急]][[阪急千里線|千里線]]の駅。前身のひとつが「市役所前」を名乗っていたが、1964年4月1日にもうひとつの前身である吹田駅と統合され、現駅名に改称された。現在もなお「吹田市役所前」の副駅称がある。
* [[諏訪町駅]] - [[愛知県]][[豊川市]]にある[[名古屋鉄道|名鉄]][[名鉄豊川線|豊川線]]の駅。1955年に現駅名に改称。
* [[福井城址大名町駅]] - [[福井県]][[福井市]]にある[[福井鉄道]][[福井鉄道福武線|福武線]]の停留場。[[2018年]][[3月24日]]に現停留場名に改称。
== 市役所前と同義の名称を持つ日本国外の駅 ==
=== 市民中心駅 ===
* [[市民中心駅]] - [[中華人民共和国]][[深圳市]][[福田区]]に位置する[[深圳地下鉄]][[深圳地下鉄4号線|竜華線]]及び[[深圳地下鉄2号線|蛇口線]]の駅。中華人民共和国において「市庁舎」を意味する語は一定していないが、当駅は{{仮リンク|深圳市人民政府|zh|深圳市人民政府}}の庁舎である{{仮リンク|市民中心|zh|市民中心 (深圳)}}の最寄り駅。
=== 市政府駅 ===
{{See|市政府駅 (曖昧さ回避)}}
<!--* [[市政府駅 (台北市)]] - [[台湾]][[台北市]]にある[[台北捷運板南線]]の[[鉄道駅|駅]]。「市政府」は台湾の[[直轄市_(中華民国)|直轄市]]及び[[省轄市_(中華民国)|省轄市]]における市役所に相当する。なお、[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]の{{仮リンク|台北市役所|zh|臺北市役所}}の建物が遺されているが当駅とはまったく場所が異なり、現在は[[行政院]]として使われている。
* [[市政府駅 (台中市)]] - 台湾台中市西屯区にある[[台中捷運緑線]]および[[台中捷運藍線|藍線]]の駅。
* {{仮リンク|市政府駅 (フフホト市)|zh|市政府站 (呼和浩特市)}} - 中華人民共和国内モンゴル自治区フフホト市新城区にある[[フフホト地下鉄1号線]]の駅。
* {{仮リンク|市政府駅 (長春市)|zh|市政府站 (长春)}} - 中華人民共和国吉林省長春市南関区にある[[長春軌道交通1号線]]の駅。//曖昧さ回避が別にあるためCO-->
=== 市庁駅 ===
{{See|市庁駅 (曖昧さ回避)}}
<!--* [[市庁駅 (ソウル特別市)]] - [[大韓民国]][[ソウル特別市]][[中区 (ソウル特別市)|中区]]に位置する[[ソウル交通公社]]の駅。
* [[市庁駅 (大田広域市)]] - [[大韓民国]][[大田広域市]][[西区 (大田広域市)|西区]]に位置する[[大田都市鉄道1号線]]の駅。
* [[市庁駅 (釜山広域市)]] - [[大韓民国]][[釜山広域市]][[蓮堤区]]に位置する[[釜山都市鉄道1号線]]の駅。//曖昧さ回避が別にあるためCO-->
=== シティホール駅 ===
* [[シティホール駅 (シンガポール)]] - 駅開業当時既に「市」はなくなっていたが、かつてCity Hall(市役所)であり、今なお "City Hall" と呼ばれている建物の最寄り駅。
* [[シティ・ホール駅 (IRTレキシントン・アベニュー線)]]
* [[シティ・ホール駅 (BMTブロードウェイ線)]]
* [[シティホール駅 (SEPTA)]] - [[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]の鉄道"[[南東ペンシルベニア交通局|SEPTA]]"の駅。
* [[シティホール駅 (PATCO)]] - フィラデルフィアから[[ニュージャージー州]]方面へ伸びる鉄道"[[PATCO]]"の駅。ニュージャージー州[[カムデン (ニュージャージー州)|カムデン]]に位置する。
* [[グレシャムシティホール駅]] - [[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]の[[ライトレール|LRT]]"{{仮リンク|MAX (ライトレール)|label=MAX|en|MAX Light Rail}}"の駅。
* [[ブルックリン・ブリッジ-シティ・ホール駅]]
* [[ブロードウェイ・シティホール駅]] - [[カナダ]]・[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]の[[バンクーバー・スカイトレイン|スカイトレイン]][[カナダライン]]の駅。
=== オテル・ド・ヴィル駅 ===
フランス語で「オテル・ド・ヴィル(Hôtel de Ville)」は市庁舎を意味する。
* [[オテル・ド・ヴィル駅 (パリ)|オテル・ド・ヴィル駅]] - [[フランス]][[パリ4区]]にある[[パリメトロ]]の駅。
<!--=== ラートハウス駅 ===
ドイツ語で「ラートハウス(Rathaus)」は市庁舎を意味する。
*{{仮リンク|ラートハウス駅 (ハンブルク)|en|Rathaus (Hamburg U-Bahn station)}} - [[ドイツ]]・ハンブルクにある[[ハンブルク地下鉄]]3号線の駅
*{{仮リンク|ラートハウス駅 (ケルン)|en|Rathaus (KVB)}} - ドイツ・ケルンにある[[ケルンLRT]]の駅
*{{仮リンク|ラートハウス駅 (ニュルンベルク)|en|Rathaus (Nuremberg U-Bahn)}} - ドイツ・ニュルンベルクにある[[ニュルンベルク地下鉄]]1号線の駅
*{{仮リンク|ラートハウス駅 (ウィーン)|en|Rathaus (Vienna U-Bahn)}} - [[オーストリア]]・ウィーンにある[[ウィーン地下鉄2号線]]の駅
=== スタットハウス駅 ===
オランダ語で「スタッドハウス(Stadhuis)」は市庁舎を意味する。
*{{仮リンク|スタッドハウス駅 (ロッテルダム)|en|Stadhuis metro station}} - [[オランダ王国]][[南ホラント州]][[ロッテルダム]]にある[[ロッテルダム地下鉄]]D線、E線の駅。
*{{仮リンク|スタッドハウス駅 (ズーテルメール)|en|Stadhuis (Zoetermeer) RandstadRail station}} - オランダ王国南ホラント州[[ズーテルメール]]にある[[ランドスタット鉄道]]の駅。//日本語版の記事が1つもないためCO-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* {{intitle|市役所前駅}}
* [[市役所前停留場]] - 路面電車の同名乗降場に関する曖昧さ回避項目。
* [[市役所停留場]] - [[長崎県]][[長崎市]]にある[[長崎電気軌道]]の駅。
* [[南陽市役所駅]] - [[山形県]][[南陽市]]にある[[山形鉄道]][[山形鉄道フラワー長井線|フラワー長井線]]の駅。
* [[名古屋城駅]] - 愛知県[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]にある[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]の駅。かつて「市役所駅」を名乗っていた。
* [[新店区公所駅]] - 台湾[[新北市]][[新店区]]にある[[台北捷運新店線]]の駅。台北県の新北市への昇格・新店市の[[市轄区#台湾の市轄区|市轄区]]化に伴い2011年に改称されるまで、「新店市公所駅」と称していた。「市公所」は台湾の[[県轄市]]における市役所に相当する。
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[[Category:同名の鉄道駅]]
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工具
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工具(こうぐ)とは、工作に用いる道具である。機械加工に用いるもの、電気工事に用いるもの、大工仕事に用いるものなど様々な用途の工具がある。工作機械の刃も工具と呼ばれる。本項目では手動工具(ハンドツール)、電動工具、空圧工具、油圧工具、計測具、大工道具、切削・研削・研磨工具等に分類されるものについて述べる。
工具は、人類を地球上の全ての他の動物から分離した決定的な象徴である。人類が人類たるシンボルといえる。なぜなら、一部の動物は食物を集めるために道具を使う。しかし動物の場合、一旦使用すればそれを捨ててしまう。一方、人間は工具を使用することで終わらず、その工具をより使い易くするか、もしくはより良く仕事をすることが出来るよう改善しようとする。言い換えると、工具には人の思考が加えられている。
工具に人の思考が加えられていることは、各国にある工具の特許記録を見れば明らかである。ほとんどの国の特許庁には、多くの工具の特許が登録されている。 現在に至るまで、本体がどのように動くかという事を追求し、工具の形は進化し続けている。工具デザイナーは、ユーザーがより快適に使える様に、より良く手に合う様に工具作りに取り組んでいる。 あるいは、以前とは異なる方法で働く工具についても考えている。例えば新しいオープンエンドレンチは、一方向に動かす時ナットやボルトの角をつかむが、反対方向に動かすとスパナは空回りする。このスパナは技術者がより早い時間でナットやボルトを取り外すために必要である。
当然のことながら、工具は『それぞれが必要になったので、各工具が開発された』ということである。この例は、火ばさみの開発に見ることができる。 最初、人々が熱い火の中から何か(例えば岩)を取り出す必要があった時、彼らはおそらく一組の棒を使ったであろう。そして、ある日誰かが、棒の中心点がつるで縛られていれば、岩をつかむことがより簡単であると考えた。この人がした事はプライヤを発明したという事である。以降、人類はずっとこのプライヤを改善し続けているということである。
最初にスパナが作られた時、どの同じサイズのナットにも合う工具ではなかった。それは各々の工具は特定の鍛冶屋によって生産され、その鍛冶屋のナットやボルトに合わせられていた。生産者は地元の鍛冶屋であり、彼のネジ回しは彼が製造したネジに合い、彼のスパナは彼が製造したナットまたはボルトにのみ合っていた。
ある町の鍛冶屋は締め金具を決まった1サイズとし、また別の鍛冶屋は異なるサイズとした。こうなると、各地を移動する便利屋などは、ある締め金具をある町で使用するが、次の町では異なるサイズの締め金具を使わなければならなくなる。この問題を解決するため、口幅の調節可能なオープンエンドレンチの開発が必要となった。 また、何世紀もの間溝付きネジ回し(マイナスドライバー)を唯一のネジ回しとして製造する事になった。
産業革命時、メーカーは締め金具や工具の生産をより簡単にした。国の一部で製造される締め金具が、国内の他の地区で製造される工具にも合う為には、サイズの標準化が必要であった。サイズ標準化は様々な工具に及んだ。 この標準化は大量生産につながり、生産単位量が大きくなりコストは引き下げられた。大量産生は、価格を下げ、品質の向上にもつながった。 これにより、現代においては工具は珍しくて高価なものでなく、安価ですぐに手に入るものになった。すなわち工具は、プロの職人に限らず、家庭で一般の人も利用できるようになった。誰もが家のまわりで作業や修理をすることができ、家を建設することさえできた。
工具の発展の経緯を逆説的に遡れば、工具は「迅速かつ容易に何かをしたい」という人類の願望の表れであるともいえる。人が何かを発明するのは、結果的にはその仕事に割く時間を節約するのが目的だった。 例えば、大砲を発砲するために必要だった参照表を書くために必要な計算をしている時間を節約するためにコンピュータが発明された、という具合にである。
今日、店で一般的に買うことができる工具は、一世代前には専門的に使用されていたような工具の仕様を多分に受け継いでいる。他方で、一昔前には夢にも思わなかったような工具があらたに生まれ使用されてもいる。
第二次大戦以降、工業の時代の終わりと情報化社会の始まりが唱えられ、ともするとそれは、器材を修理・製作する必要がないかのように聞こえる。たしかに現在のシステムエンジニアの知識は、旧来の職人のそれとは異なる。しかし現代社会においても、情報を送受信するための器材を修理するには、今までの技術と同じくケースを開けて、構成するパーツを取り除いたり、取り付けたりするため、工具を使う人の能力は重要である。
自動車の分野においては、近代的な自動車生産が開始された当初から、自動車エンジニアが車を修理するために必要な知識は膨大であったが、オートマチック車、さらにはインテリジェントカーなどが普及している今日においても、工具の必要性は相変わらず重要である。 (むしろ、自動車製造者がボンネットの下により多くの機構を詰め込むので、技術者が使用する工具の多様性と数はさらに増えている)。
世の中には膨大な種類の工具が存在し、それらを明確に区分する分類は存在しない。種類の膨大さも相まって、工具を使用する業界(自動車、機械、配管など)によっても分け方が異なる場合もあり、一義的に分類することは不可能である。材質も多岐にわたるが、十分な強度が必要なので金属が主体となり、なかでも機械構造用鋼もしくは工具鋼が多用される傾向にある。本項では使用形態や使用されるジャンル、取引形態などから分類し、次に示す。
手を原動力とした工具である。ハンドツール。作業工具とも呼ぶ。
手動工具にはJIS規格商品が多いが、呼び寸法と実際の商品の全長寸法が異なったり、許容公差が他のJIS規格に比べて大きくなっている(例えばペンチ呼び寸法175は、全長185±4ミリメートル)。これは、規格制定の時にメーカーの立場が強く反映された為、先行していた各社の商品が規格の範囲に合格するように制定された事による。また機械の輸入時に付属工具として入ってきた物を国産化した工具が多く、基本がインチ寸法となっており、それをミリメートル換算の寸法とした事にもよる。
品名についても輸入品名をあいまいに受け継いだり、間違えて呼んだものが一般化してJIS規格の品名となっている物もある(例えばpinch[挟む]がペンチ)。色も同じく海外品を真似て、ペンチは黒染め、プライヤはメッキ、パイプレンチ・ボルトカッタは赤色が主流となったのである。機械工場と自動車関係のユーザーの違いにより、スパナは黒染め品とメッキ仕上げ品がある。
手工具と同様の働きを、電気、圧縮空気などを動力として行う工具。
空圧工具ではコンプレッサーを、油圧工具は油圧ポンプを電動モーターで動かしていることが多いが、これら動力源は電動工具とは呼ばれない。
ある特定の部位、箇所、目的にのみ使用され、一般に使われることの少ない工具。例えば、自動車の特定の部品の脱着のみに使用される工具などが挙げられる。 裏技的に汎用的な使用法も可能なものもある。
大きさ、長さ、トルクなどを計測するための道具。
ほとんどが手で扱うことが可能だが、主に大工仕事に用いるものをここに示す。ホームセンターなどでも先述の工具とは別に陳列されることが多い。
|
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"text": "工具(こうぐ)とは、工作に用いる道具である。機械加工に用いるもの、電気工事に用いるもの、大工仕事に用いるものなど様々な用途の工具がある。工作機械の刃も工具と呼ばれる。本項目では手動工具(ハンドツール)、電動工具、空圧工具、油圧工具、計測具、大工道具、切削・研削・研磨工具等に分類されるものについて述べる。",
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"text": "工具は、人類を地球上の全ての他の動物から分離した決定的な象徴である。人類が人類たるシンボルといえる。なぜなら、一部の動物は食物を集めるために道具を使う。しかし動物の場合、一旦使用すればそれを捨ててしまう。一方、人間は工具を使用することで終わらず、その工具をより使い易くするか、もしくはより良く仕事をすることが出来るよう改善しようとする。言い換えると、工具には人の思考が加えられている。",
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"text": "工具に人の思考が加えられていることは、各国にある工具の特許記録を見れば明らかである。ほとんどの国の特許庁には、多くの工具の特許が登録されている。 現在に至るまで、本体がどのように動くかという事を追求し、工具の形は進化し続けている。工具デザイナーは、ユーザーがより快適に使える様に、より良く手に合う様に工具作りに取り組んでいる。 あるいは、以前とは異なる方法で働く工具についても考えている。例えば新しいオープンエンドレンチは、一方向に動かす時ナットやボルトの角をつかむが、反対方向に動かすとスパナは空回りする。このスパナは技術者がより早い時間でナットやボルトを取り外すために必要である。",
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"text": "当然のことながら、工具は『それぞれが必要になったので、各工具が開発された』ということである。この例は、火ばさみの開発に見ることができる。 最初、人々が熱い火の中から何か(例えば岩)を取り出す必要があった時、彼らはおそらく一組の棒を使ったであろう。そして、ある日誰かが、棒の中心点がつるで縛られていれば、岩をつかむことがより簡単であると考えた。この人がした事はプライヤを発明したという事である。以降、人類はずっとこのプライヤを改善し続けているということである。",
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"text": "最初にスパナが作られた時、どの同じサイズのナットにも合う工具ではなかった。それは各々の工具は特定の鍛冶屋によって生産され、その鍛冶屋のナットやボルトに合わせられていた。生産者は地元の鍛冶屋であり、彼のネジ回しは彼が製造したネジに合い、彼のスパナは彼が製造したナットまたはボルトにのみ合っていた。",
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"text": "ある町の鍛冶屋は締め金具を決まった1サイズとし、また別の鍛冶屋は異なるサイズとした。こうなると、各地を移動する便利屋などは、ある締め金具をある町で使用するが、次の町では異なるサイズの締め金具を使わなければならなくなる。この問題を解決するため、口幅の調節可能なオープンエンドレンチの開発が必要となった。 また、何世紀もの間溝付きネジ回し(マイナスドライバー)を唯一のネジ回しとして製造する事になった。",
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"text": "産業革命時、メーカーは締め金具や工具の生産をより簡単にした。国の一部で製造される締め金具が、国内の他の地区で製造される工具にも合う為には、サイズの標準化が必要であった。サイズ標準化は様々な工具に及んだ。 この標準化は大量生産につながり、生産単位量が大きくなりコストは引き下げられた。大量産生は、価格を下げ、品質の向上にもつながった。 これにより、現代においては工具は珍しくて高価なものでなく、安価ですぐに手に入るものになった。すなわち工具は、プロの職人に限らず、家庭で一般の人も利用できるようになった。誰もが家のまわりで作業や修理をすることができ、家を建設することさえできた。",
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"text": "工具の発展の経緯を逆説的に遡れば、工具は「迅速かつ容易に何かをしたい」という人類の願望の表れであるともいえる。人が何かを発明するのは、結果的にはその仕事に割く時間を節約するのが目的だった。 例えば、大砲を発砲するために必要だった参照表を書くために必要な計算をしている時間を節約するためにコンピュータが発明された、という具合にである。",
"title": "現在"
},
{
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"text": "今日、店で一般的に買うことができる工具は、一世代前には専門的に使用されていたような工具の仕様を多分に受け継いでいる。他方で、一昔前には夢にも思わなかったような工具があらたに生まれ使用されてもいる。",
"title": "現在"
},
{
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"text": "第二次大戦以降、工業の時代の終わりと情報化社会の始まりが唱えられ、ともするとそれは、器材を修理・製作する必要がないかのように聞こえる。たしかに現在のシステムエンジニアの知識は、旧来の職人のそれとは異なる。しかし現代社会においても、情報を送受信するための器材を修理するには、今までの技術と同じくケースを開けて、構成するパーツを取り除いたり、取り付けたりするため、工具を使う人の能力は重要である。",
"title": "現在"
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{
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"text": "自動車の分野においては、近代的な自動車生産が開始された当初から、自動車エンジニアが車を修理するために必要な知識は膨大であったが、オートマチック車、さらにはインテリジェントカーなどが普及している今日においても、工具の必要性は相変わらず重要である。 (むしろ、自動車製造者がボンネットの下により多くの機構を詰め込むので、技術者が使用する工具の多様性と数はさらに増えている)。",
"title": "現在"
},
{
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"text": "世の中には膨大な種類の工具が存在し、それらを明確に区分する分類は存在しない。種類の膨大さも相まって、工具を使用する業界(自動車、機械、配管など)によっても分け方が異なる場合もあり、一義的に分類することは不可能である。材質も多岐にわたるが、十分な強度が必要なので金属が主体となり、なかでも機械構造用鋼もしくは工具鋼が多用される傾向にある。本項では使用形態や使用されるジャンル、取引形態などから分類し、次に示す。",
"title": "代表的な工具"
},
{
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"text": "手を原動力とした工具である。ハンドツール。作業工具とも呼ぶ。",
"title": "代表的な工具"
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"text": "手動工具にはJIS規格商品が多いが、呼び寸法と実際の商品の全長寸法が異なったり、許容公差が他のJIS規格に比べて大きくなっている(例えばペンチ呼び寸法175は、全長185±4ミリメートル)。これは、規格制定の時にメーカーの立場が強く反映された為、先行していた各社の商品が規格の範囲に合格するように制定された事による。また機械の輸入時に付属工具として入ってきた物を国産化した工具が多く、基本がインチ寸法となっており、それをミリメートル換算の寸法とした事にもよる。",
"title": "代表的な工具"
},
{
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"text": "品名についても輸入品名をあいまいに受け継いだり、間違えて呼んだものが一般化してJIS規格の品名となっている物もある(例えばpinch[挟む]がペンチ)。色も同じく海外品を真似て、ペンチは黒染め、プライヤはメッキ、パイプレンチ・ボルトカッタは赤色が主流となったのである。機械工場と自動車関係のユーザーの違いにより、スパナは黒染め品とメッキ仕上げ品がある。",
"title": "代表的な工具"
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"text": "手工具と同様の働きを、電気、圧縮空気などを動力として行う工具。",
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"text": "空圧工具ではコンプレッサーを、油圧工具は油圧ポンプを電動モーターで動かしていることが多いが、これら動力源は電動工具とは呼ばれない。",
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"text": "ある特定の部位、箇所、目的にのみ使用され、一般に使われることの少ない工具。例えば、自動車の特定の部品の脱着のみに使用される工具などが挙げられる。 裏技的に汎用的な使用法も可能なものもある。",
"title": "代表的な工具"
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"text": "大きさ、長さ、トルクなどを計測するための道具。",
"title": "代表的な工具"
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"text": "ほとんどが手で扱うことが可能だが、主に大工仕事に用いるものをここに示す。ホームセンターなどでも先述の工具とは別に陳列されることが多い。",
"title": "代表的な工具"
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工具(こうぐ)とは、工作に用いる道具である。機械加工に用いるもの、電気工事に用いるもの、大工仕事に用いるものなど様々な用途の工具がある。工作機械の刃も工具と呼ばれる。本項目では手動工具(ハンドツール)、電動工具、空圧工具、油圧工具、計測具、大工道具、切削・研削・研磨工具等に分類されるものについて述べる。
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[[File:Hand tools.jpg|thumb|300px|right|ハンドツール]]
'''工具'''(こうぐ)とは、[[工作]]に用いる[[道具]]である。[[機械加工]]に用いるもの、[[電気工事]]に用いるもの、[[大工]]仕事に用いるものなど様々な用途の工具がある。[[工作機械]]の[[刃]]も工具と呼ばれる。本項目では手動工具('''ハンドツール''')、電動工具、空圧工具、油圧工具、計測具、大工道具、切削・研削・研磨工具等に分類されるものについて述べる。
== 歴史 ==
工具は、'''人類を地球上の全ての他の動物から分離した決定的な象徴'''である<ref name="TOOL">THOMAS DUTTON 『THE HAND TOOLS MANUAL』p.1-p.6, 2007年発行、TSTC Publishing ISBN 978-1-934302-36-1</ref>。人類が人類たるシンボルといえる。なぜなら、一部の動物は食物を集めるために道具を使う。しかし動物の場合、一旦使用すればそれを捨ててしまう。一方、人間は工具を使用することで終わらず、その工具をより使い易くするか、もしくはより良く仕事をすることが出来るよう改善しようとする。言い換えると、工具には人の思考が加えられている。
===発明・開発===
工具に人の思考が加えられていることは、各国にある工具の特許記録を見れば明らかである。ほとんどの国の[[特許庁]]には、多くの工具の特許が登録されている。
現在に至るまで、本体がどのように動くかという事を追求し、工具の形は進化し続けている。工具デザイナーは、ユーザーがより快適に使える様に、より良く手に合う様に工具作りに取り組んでいる。
あるいは、以前とは異なる方法で働く工具についても考えている。例えば新しい[[レンチ|オープンエンドレンチ]]は、一方向に動かす時[[ナット]]や[[ボルト (部品) |ボルト]]の角をつかむが、反対方向に動かすと[[スパナ]]は空回りする。このスパナは[[技術者]]がより早い時間でナットやボルトを取り外すために必要である。
当然のことながら、工具は『それぞれが必要になったので、各工具が開発された』ということである。この例は、[[トング|火ばさみ]]の開発に見ることができる。
最初、人々が熱い火の中から何か(例えば岩)を取り出す必要があった時、彼らはおそらく一組の棒を使ったであろう。そして、ある日誰かが、棒の中心点がつるで縛られていれば、岩をつかむことがより簡単であると考えた。この人がした事は[[プライヤ]]を発明したという事である。以降、人類はずっとこのプライヤを改善し続けているということである。
===規格の問題===
最初にスパナが作られた時、どの同じサイズのナットにも合う工具ではなかった。それは各々の工具は特定の[[鍛冶屋]]によって生産され、その鍛冶屋のナットやボルトに合わせられていた。生産者は地元の鍛冶屋であり、彼の[[ネジ]]回しは彼が製造したネジに合い、彼のスパナは彼が製造したナットまたはボルトにのみ合っていた。
ある町の鍛冶屋は締め金具を決まった1サイズとし、また別の鍛冶屋は異なるサイズとした。こうなると、各地を移動する便利屋などは、ある締め金具をある町で使用するが、次の町では異なるサイズの締め金具を使わなければならなくなる。この問題を解決するため、[[モンキーレンチ|口幅の調節可能なオープンエンドレンチ]]の開発が必要となった。
また、何世紀もの間[[ドライバー (工具)|溝付きネジ回し(マイナスドライバー)]]を唯一のネジ回しとして製造する事になった。
===産業革命===
[[産業革命]]時、メーカーは締め金具や工具の生産をより簡単にした。国の一部で製造される締め金具が、国内の他の地区で製造される工具にも合う為には、サイズの標準化が必要であった。サイズ標準化は様々な工具に及んだ。
この標準化は[[大量生産]]につながり、生産単位量が大きくなりコストは引き下げられた。大量産生は、価格を下げ、品質の向上にもつながった。
これにより、現代においては工具は珍しくて高価なものでなく、安価ですぐに手に入るものになった。すなわち工具は、プロの[[職人]]に限らず、家庭で一般の人も利用できるようになった。誰もが家のまわりで作業や修理をすることができ、家を建設することさえできた。
==現在==
工具の発展の経緯を逆説的に遡れば、工具は「迅速かつ容易に何かをしたい」という人類の願望の表れであるともいえる。人が何かを発明するのは、結果的にはその仕事に割く時間を節約するのが目的だった。
例えば、大砲を発砲するために必要だった参照表を書くために必要な計算をしている時間を節約するためにコンピュータが発明された、という具合にである。
今日、店で一般的に買うことができる工具は、一世代前には専門的に使用されていたような工具の仕様を多分に受け継いでいる。他方で、一昔前には夢にも思わなかったような工具があらたに生まれ使用されてもいる。
===情報システム===
第二次大戦以降、工業の時代の終わりと情報化社会の始まりが唱えられ、ともするとそれは、器材を修理・製作する必要がないかのように聞こえる。たしかに現在の[[システムエンジニア]]の知識は、旧来の職人のそれとは異なる。しかし現代社会においても、情報を送受信するための器材を修理するには、今までの技術と同じくケースを開けて、構成するパーツを取り除いたり、取り付けたりするため、工具を使う人の能力は重要である。
===自動車===
[[自動車]]の分野においては、近代的な自動車生産が開始された当初から、自動車エンジニアが車を修理するために必要な知識は膨大であったが、オートマチック車、さらにはインテリジェントカーなどが普及している今日においても、工具の必要性は相変わらず重要である。
(むしろ、自動車製造者が[[ボンネット (自動車) |ボンネット]]の下により多くの機構を詰め込むので、技術者が使用する工具の多様性と数はさらに増えている)<ref name="TOOL">THOMAS DUTTON 『THE HAND TOOLS MANUAL』p.1-p.6, 2007年発行、TSTC Publishing ISBN 978-1-934302-36-1</ref>。
== 代表的な工具 ==
世の中には膨大な種類の工具が存在し、それらを明確に区分する分類は存在しない。種類の膨大さも相まって、工具を使用する業界([[自動車]]、[[機械]]、[[配管]]など)によっても分け方が異なる場合もあり、一義的に分類することは不可能である。材質も多岐にわたるが、十分な強度が必要なので金属が主体となり、なかでも機械構造用鋼もしくは工具鋼が多用される傾向にある。本項では使用形態や使用されるジャンル、取引形態などから分類し、次に示す。
=== 手動工具 ===
手を原動力とした工具である。'''ハンドツール'''。作業工具とも呼ぶ。
手動工具には[[JIS]]規格商品が多いが、呼び寸法と実際の商品の全長寸法が異なったり、許容[[公差]]が他のJIS規格に比べて大きくなっている(例えばペンチ呼び寸法175は、全長185±4ミリメートル)。これは、規格制定の時にメーカーの立場が強く反映された為、先行していた各社の商品が規格の範囲に合格するように制定された事による。また機械の輸入時に付属工具として入ってきた物を国産化した工具が多く、基本がインチ寸法となっており、それをミリメートル換算の寸法とした事にもよる。
品名についても輸入品名をあいまいに受け継いだり、間違えて呼んだものが一般化してJIS規格の品名となっている物もある(例えばpinch[挟む]がペンチ)。色も同じく海外品を真似て、ペンチは黒染め、プライヤは[[メッキ]]、パイプレンチ・ボルトカッタは赤色が主流となったのである。機械工場と自動車関係のユーザーの違いにより、スパナは黒染め品とメッキ仕上げ品がある<ref>技能士の友編集部『作業工具のツカイカタ』48頁から52頁、2002年8月25日13版発行。株式会社 [[大河出版]]。</ref>。
*'''切る'''
**[[ニッパー (工具)|ニッパー]]
**[[ボルトカッタ]] - [[JIS]]規格呼称ではボルトクリッパという。軟質棒等の切断に使用する。
**[[ケーブルカッター]]
**[[ワイヤカッタ]]
**[[斧]]
**[[ピック]]
**[[アイスピック]]
**[[ピッケル]]
**[[エンビカッタ]] - 主に水道用[[塩化ビニル]][[管]]を切断する専用工具である。
**[[鉄筋カッタ]]
**[[金切り鋏]]
**ハンデイカッタ
**[[ニブラ|ハンドニブラ]]
**[[パイプカッタ]]
**[[ナイフ]]
**[[カッターナイフ]]
<gallery widths="50px" heights="80px" perrow="9">
ファイル:ニッパー.jpg|[[ニッパー (工具)|ニッパー]]
File:HKP Bolt Cutter.jpg|[[ボルトカッタ]]
File:Photo cutte 2.jpg|[[ケーブルカッター]]
ファイル:Ratcheting Plastic Pipe Cutters.jpg|[[エンビカッタ]]
File:Forbici da lamiera.jpg|[[金切り鋏|金切り鋏(Tinner's snips)]]
File:Left-right-snips.jpg|[[金切り鋏|金切り鋏(Compound action snips)]]
File:Nibbler1.jpg|[[ニブラ]]
File:Rohrschneider.jpg|[[パイプカッタ]]
File:Box-cutter.jpg|[[カッターナイフ]]
</gallery>
*'''回す'''
**[[レンチ]]
**[[レンチ|スパナ]]
**[[六角棒スパナ]]
**[[めがねレンチ]]
**[[ソケットレンチ]]
**[[ラチェットレンチ]] - [[ラチェット]]機構付きの[[ソケット (電気器具)|ソケット]]がハンドル本体に組み込まれた一体構造となっている[[レンチ]]である
**[[ボックスレンチ]]
**[[パイプレンチ]] - 主にパイプの[[ネジ]]部を締めたり緩めたりする場合等に使用する
**[[チェーンレンチ]]
**[[モンキーレンチ]]
**[[モーターレンチ]]
**[[ドライバー (工具)|ドライバー]]
**ナット回し
<gallery widths="50px" heights="80px" perrow="10">
File:Maulschluessel gr.jpg|[[レンチ|レンチ・スパナ]]
File:BunchOfAllenKeys.JPG|[[六角棒スパナ]]
ファイル:Wrench.jpg|[[めがねレンチ]]
File:Socket wrench and sockets.JPG|[[ソケットレンチ]]
File:Kreuzschlüssel.jpg|[[ボックスレンチ]]
File:Trimo pattern Aluminum Pipe Wrenches.jpg|[[パイプレンチ]]
File:Clé à chaîne.jpg|[[チェーンレンチ]]
File:Adjustable wrench2.svg|[[モンキーレンチ]]
File:Tweedy and Popp - hand-forged adjustable wrench.jpg|[[モーターレンチ]]
ファイル:ScrewDrivers.JPG|[[ドライバー (工具)|ドライバー]]
</gallery>
*'''つかむ'''
**[[やっとこ]]
**[[ペンチ]]
**[[ラジオペンチ]]
**[[プライヤ]](コンビネーションプライヤ・ウォーターポンププライヤ・スナップリングプライヤ・ロッキングプライヤ)
**[[ピンセット]]
<gallery widths="50px" heights="80px" perrow="6">
ファイル:Yattoko.JPG|[[やっとこ]]
File:Plier02.jpg|[[ペンチ]]
File:Needle nose pliers.jpg|[[ラジオペンチ]]
File:Tool-pliers.jpg|[[プライヤ]]
File:Multiple pliers.jpg|[[プライヤ|ウォーターポンププライヤ]]
ファイル:Locking pliers.jpg|[[プライヤ|ロッキングプライヤ]]
</gallery>
*'''叩く'''
**[[槌|ハンマー]]
**[[槌|プラスチックハンマー]]
*'''はぎ取る(むく)'''
**[[ワイヤーストリッパー]](被覆の皮むき工具)
***[[VA線ストリッパー]] - [[VA線]](VVF線)のシースと[[絶縁体]]を剥ぎ取る為の専用工具である。
*'''かしめる'''
**[[圧着工具]]
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ファイル:Hammer2.jpg|[[槌|ハンマー]]
ファイル:Kunststoffhammer.jpg|[[槌#プラスチック・ゴム|プラスチックハンマー]]
ファイル:Automatische Abisolierzange IMGP5360.jpg|[[ワイヤーストリッパー]]
ファイル:Cable strippers.jpg|[[VA線ストリッパー]]
File:Hand crimp tool MH-17 closing.jpg|[[圧着工具]]
</gallery>
*'''削る'''
**[[リーマ]]
**[[やすり]]
**[[紙やすり]]
**[[ダイヤモンドやすり]]
**[[スクレーパー (工具)]]
**[[ワイヤーブラシ]]
<gallery widths="50px" heights="80px" perrow="6">
File:Taper reamer K-442.jpg|[[リーマ]]
File:Grov fladfil.jpg|[[やすり]]
File:Schuurpapier2.JPG|[[紙やすり]]
File:DiamondFiles.jpg|[[ダイヤモンドやすり]]
File:Plamuurmes.jpg|[[スクレーパー (工具)]]
File:Staalborstel.jpg|[[ワイヤーブラシ]]
</gallery>
*'''けがく'''
**[[ポンチ (工具)|ポンチ]]
**[[けがき針]]
*その他
**[[クランプ (工具)]]
**[[タッカー (工具)|タッカー]]
**[[パイプねじ切り器]]
**[[パイプベンダー]]
**[[ワイヤーツイスター]]
<gallery widths="50px" heights="80px" perrow="6">
ファイル:Clamps.jpg|[[クランプ (工具)|クランプ]]
ファイル:Staple-gun.jpg|[[タッカー (工具)|タッカー]]
File:US Navy 050321-N-2385R-153 Construction Electrician 3rd Class Matthew Huston, assigned to Naval Mobile Construction Battalion Four Zero (NMCB-40), Detachment Sasebo, threads a pipe.jpg|[[パイプねじ切り器]]
File:Buigijzer.jpg|[[パイプベンダー]]
File:Safety wire pliers.jpg|[[ワイヤーツイスター]]
</gallery>
=== 動力工具 ===
手工具と同様の働きを、電気、圧縮空気などを動力として行う工具。
空圧工具ではコンプレッサーを、油圧工具は油圧ポンプを[[電動機|電動モーター]]で動かしていることが多いが、これら動力源は電動工具とは呼ばれない。
;電動工具{{Anchors|電動工具}}
:電動モーターを動力として作動する工具。日本の[[商用電源]]には、100 Vと200 Vの2種類がある。200 Vは工作機械用の電源と同じく3相交流と単相交流とがある。100 Vは、単相交流である。キャプタイヤーケーブルを通じて電力を供給するものと、[[二次電池|充電式電池]]を用いることでコードが不要な充電電動工具に分けられる。商用電源の電動工具は、安全の為アースクリップでアースさせる事と電動工具に表示されている[[消費電力]]を上回るコンセントを使用する。モーターは、[[直巻整流子電動機]](単相シリースモーター)か[[誘導電動機]]である。また整流子電動機のカーボンブラシ(整流子)は摩耗により消耗するのでメーカー指定の範囲まで使った場合は、新品と交換する必要がある。近年カーボンブラシの交換をユーザーに知らせるタイプとして交換を必要とするまで摩耗すると通電しなくなるタイプが普及している<ref>技能士の友編集部『作業工具のツカイカタ』134頁135頁、2002年8月25日13版発行、株式会社 [[大河出版]]。</ref>。充電電動工具の[[二次電池]]は電圧が3.6 Vから36 V、種類もニッカド、ニッケル水素、[[リチウムイオン電池]]など、用途・メーカーによって多様である。
:*[[インパクトレンチ]]
:*[[インパクトレンチ|インパクトドライバー]]
:*[[ジャックハンマー]]
:*[[ナットランナー|電動ナットランナー]]
:*[[電気ドリル|ドリルドライバー]]
:*[[電気ドリル|振動・ハンマードリル]]
:*[[電気ドリル]]
:*[[電気丸のこ]]
:*[[コンターマシン]]
:*[[ジグソー (工具)]]
:*[[糸のこ盤]]
:*[[リューター]]
:*[[レシプロソー]]
:*[[グラインダー]]
:*[[パイプマシン]]
:*[[ルータ (工具)]]
:*[[トリマ (工具)]]
:*[[電動サンダー|サンダ]]
:*[[チェーンソー]]
:*[[ナイフ|電工ナイフ]]
:*[[スクラッパー]]
:*[[掃除機]]
<gallery widths="50px" heights="80px" perrow="7">
ファイル:Impact wrench 01.jpg|[[インパクトレンチ]]
File:MakitaISD3.0.JPG|[[インパクトドライバー]]
File:Electric drill.jpg|[[電気ドリル]]
ファイル:Pila tarczowa RB.jpg|[[電気丸のこ]]
File:Skil jigsaw.jpg|[[ジグソー (工具)]]
File:Scroll saw - Dremel.jpg|[[糸のこ盤]]
File:Reciprocating Saw.JPG|[[レシプロソー]]
File:Einhell DSC 125 Pa191756 (Nemo5576).jpg|[[グラインダー]]
ファイル:Pipe Threading Machine PMNA025.jpg|[[パイプマシン]]
File:Electric-chainsaw.jpg|[[チェーンソー|電動チェーンソー]]
</gallery>
;空圧工具(エアツール)
:[[空圧]]([[圧縮機|コンプレッサー]]により圧縮された[[空気]])を動力として作動する工具。電動工具より大きな力が得られ、コンプレッサーの設置に必要な空間の確保も容易なこと、過負荷による故障がない、回転速度の調節が容易で2万回転の高速回転も容易である、逆回転が容易であるため、[[工場]]では空圧工具が用いられることが多い。コンプレッサーから工具まではホースで連結する。特別なものを除き6 kg/cm<sup>2</sup> の圧力で使用する。インパクト工具としては最適である。回転運動の空圧工具は、ピストン式とロータ式があるが現在{{いつ|date=2017年10月}}はほとんどロータ式である。圧縮空気の膨張力をハンマー効果として利用した工具にはつり機・リベッタ・チゼラ等がある<ref>技能士の友編集部『作業工具のツカイカタ』138頁から147頁、2002年8月25日13版発行、株式会社 [[大河出版]]。</ref>。
:*エアインパクトレンチ
:*エアナットランナー
:*エアラチェット
:*[[釘打機]]
:*[[タッカー (工具)|タッカー]]
<gallery widths="50px" heights="80px" perrow="6">
File:Nail gun sweden 20030918.jpg|[[釘打機]]
File:Fur working tools, nailing with stapler .JPG|[[タッカー (工具)|タッカー]]
</gallery>
;油圧工具
:[[油圧]]で作動する工具。電動モーターにより小型で大きな力を得ることが出来る[[油圧ポンプ]]を駆動源とする。ピストン・シリンダを使用して各機能を作動させる。油圧ポンプは、高圧のプランジャーポンプ方式であることが多い。油圧発生部と機能部が一体式と分離式の2タイプがある。
:*[[鉄筋カッター (電動油圧)]] - 1974年に株式会社[[IKK]](DIAMOND・旧石原機械工業株式会社)が国内企業として初めて電動油圧式の鉄筋の切断機を開発。
:*[[油圧トルクレンチ]] - 大型ボルトを所定のトルクで締め付けるトルク管理工具
:*ボルトテンショナー - 油圧によりボルトを強力に引っ張って伸ばし、ナットの締め付けしろを確保する軸力管理の工具
:*[[油圧ナット]] - ナットに内蔵された油圧の力で、ボルトを強力に引っ張って伸ばし締め付ける軸力管理のナット
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ファイル:Hydraulic-wrench.jpg|[[油圧トルクレンチ]]
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=== 専用工具 ===
ある特定の部位、箇所、目的にのみ使用され、一般に使われることの少ない工具。例えば、自動車の特定の部品の脱着のみに使用される工具などが挙げられる。
裏技的に汎用的な使用法も可能なものもある。
=== 計測具 ===
大きさ、長さ、[[トルク]]などを計測するための道具。
*[[ノギス]]
*[[マイクロメータ]]
*[[シクネスゲージ]]
*[[メジャー (測定機器)|メジャー]]
*[[トルクレンチ]]
*[[差し金]]
*[[スコヤ]]
*[[ダイアルゲージ]]
*[[水準器]]
*[[レーザー水準器]]
*[[クリノメーター]]
*[[定規]]
*[[ハイトゲージ]]
*[[壁裏探知器]]
=== 大工道具 ===
ほとんどが手で扱うことが可能だが、主に大工仕事に用いるものをここに示す。ホームセンターなどでも先述の工具とは別に陳列されることが多い。
*[[鋸]](のこぎり)
*[[鉋]](かんな)
*[[鑢]](やすり)
*[[鑿]](のみ)
*[[錐 (工具)|錐]](きり)
*[[釿]](ちょうな)
*[[墨壺]](すみつぼ)
*[[指矩]](さしがね)
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File:Jap saw Dozuki P2100025a.jpg|[[鋸|のこぎり]]
File:Stanley transitional jointer plane.jpg|[[鉋|かんな]]
File:Queue de rat.png|[[鑢|やすり]]
ファイル:Chisel wood 24mm.jpg|[[鑿|のみ]]
ファイル:Gimlet - tool.jpg|[[錐 (工具)|きり]]
Image:Adze.jpg|[[釿|ちょうな]]
ファイル:Sumitsubo.jpg|[[墨壺|すみつぼ]]
File:Sashigane1.jpg|[[指矩|さしがね]]
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=== 切削工具 ===
*[[フライス (工具)|フライス]]
*[[エンドミル]]
*[[メタルソー]]
*[[チップソー]]
*[[バイト (工具)|バイト]]
*[[タップ (工具)|タップ]]
*[[ねじ切りダイス]]
*[[ドリル (工具)|ドリル]]
*[[リーマー]]
*[[ボーリングバー]]
=== Grinding tools ===
*[[シュレッダー]]
*[[砥石]]
=== 研磨工具 ===
*[[研磨ベルト]]
*[[研磨砥石]]
=== その他の工具 ===
*[[磁石]]
*[[電磁石]]
*[[懐中電灯]]
*[[ホットメルト接着剤|グルーガン]]
*[[はんだごて]]
*キサゲ
*[[バール (工具)|バール]]
*[[浮造]](うづくり)
*[[ナイフ|マルチツール]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
*技能士の友編集部『作業工具のツカイカタ』2002年8月25日13版発行、株式会社 [[大河出版]]
*『絵とき 機械用語辞典』2009年10月30日6刷発行、[[日刊工業新聞社]]
*青山元男『DIY工具選びと使い方』2008年11月1日発行、株式会社[[ナツメ社]]
== 関連項目 ==
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*[[工作機械]]、[[治具]]
*[[工具の一覧]]
*[[工具メーカーの一覧]]
*[[工具名の英訳一覧]]
== 外部リンク ==
*[http://www.op.titech.ac.jp/lab/Take-Ishi/html/ki/hg/et/tools/tool.html 東大研究生の「ハンドツール入門」HP]
*[http://www.sagyo-kogu.com/index.html 全国作業工具工業組合]
*[http://www.jmtba.or.jp/ 社団法人 日本工作機械工業会]
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蛍光灯
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蛍光灯(けいこうとう)または蛍光ランプ(fluorescent lamp)、蛍光管(けいこうかん)は、放電で発生する紫外線を蛍光体に当てて可視光線に変換する光源である。方式は 熱陰極管 (HCFL; hot cathode fluorescent lamp) 方式と 冷陰極管 (CCFL; cold cathode fluorescent lamp) 方式とに大別される。一般照明用に使用される蛍光灯は一部の例外を除いてほとんどが熱陰極管方式であり、冷陰極管方式は液晶モニターのバックライト用途などに使用されることが多い。
本稿では主に照明用途で用いられる熱陰極管方式の蛍光灯について記す。冷陰極管方式の詳細については冷陰極管を参照されたい。
最も広く使われているのは、電極をガラス管内に置き(内部電極型)、低圧水銀蒸気中のアーク放電による253.7 nm線を使うものである。
蛍光灯は低圧にしたガラス管内の水銀蒸気中に放電を行い、発生した紫外光(波長253.7 nm)を蛍光体で可視光に変換するもので、蛍光体の種類ごとに異なる光源色や演色性の光を得ることができる。
蛍光灯は、蛍光物質が管内に塗布されたガラス管(白く見えるのは蛍光物質のため)と、両端に取り付けられた電極とで構成されている。電極はコイル状のフィラメントにエミッター(電子放射性物質)を塗装したもので、これが両端に2本ずつ出ている4本の端子に繋がっている。ガラス管内には、放電しやすくするために2–4 hPa(1気圧は1013.25 hPa)の封入ガス(アルゴンあるいは混合希ガス)と少量の水銀の気体が封じ込まれている。発光時の内部温度は1万 °Cに達するが、気圧が非常に低いため、ガラスが溶けることはない。
蛍光灯に使用される水銀は、金属水銀(無機水銀の一種)である。水銀封入量は、1975年には40 W直管形で約50 mgだったが、2007年には約7 mgにまで削減されている。
電極(陰極)に電流を流すと加熱され、高温になったエミッターから大量の熱電子が放出される。放出された電子はもう片方の電極(陽極)に移動し、放電が始まる(通常は交流を流すため、陰極・陽極は同じ形状である)。放電により流れる電子は、ガラス管の中に封入されている水銀原子と衝突する。すると水銀原子が電子のエネルギーを受け、紫外線を発生させる。発生した紫外線はガラス管内に塗布されている蛍光物質に照射され、可視光線が発生する。
白熱灯と比べると、同じ明るさでも消費電力を低く抑えられる。消費したエネルギーの変換比率は、可視放射25 %、赤外放射30 %、紫外放射0.5 %で、残りは熱損失となる。
白熱灯と違い、点灯には安定器(インバータ含む)が必要なため、直接電圧を掛けただけでは使用できない。ただし電球形蛍光灯では安定器を内蔵しているため、直接ソケットに差すだけでよい。
蛍光灯の点灯開始に当たってはフィラメントの予熱が必要なため、始動専用回路が必要である。
2021年現在、日本国内メーカーではパナソニック、東芝ライテック、ホタルクス(旧・NECライティング)の3社のみが蛍光灯を生産している。日本を含む「水俣条約」を締結する全ての国において、全ての蛍光灯は2027年末に生産禁止が予定されている。
以下の3種類がある。この器具に使えるランプは FL・FCL・FPL・FDL・FMLである。
点灯管を用いて電源を入れると自動的に点灯する。蛍光管・安定器・点灯管(グロースタータ)で構成される。かつて一般家庭用として最も普及した。
始動にかかる時間は、従来型の点灯管を使用した場合は3秒程度と、蛍光灯の中では遅い。点灯する際に点灯管から「ピンッ」もしくは「コン、コン」など、若干の音が出る(バイメタルの復帰のため)。電子点灯管に交換すると、約0.6–1.2秒と通常よりも早く点灯する。
2008年現在使用されている点灯管は
である。動作回数は6000回程度(長寿命形は約18000回)である。4–32 Wのランプでも200 V用の安定器を使用している場合はFG-4Pが使用できる。
100 V30 W以下および200 V40–65Wはチョークコイル形安定器を用いる。100 V32–65 Wと100 V/200 V52 Wは放電を維持する電圧まで昇圧する必要があるので、小形で安価になる単巻磁気漏れ変圧器形安定器を用いる。一般にこれら安定器は低力率のため、必要に応じて電源側に適当な値のコンデンサを並列接続し高力率にする。この器具は省エネ形のランプを除き(省電力形のFLR40M/36は安定器に過電流が流れ、過熱・焼損の恐れがあるので不可)ラピッドスタート式のランプを取り付けても使用できる(ただし即時点灯はしない)。
グロースタータの代わりに始動用のスイッチを接続する。始動スイッチを長押しして(プルスイッチを引いて)フィラメントを予熱し、ボタンを放す(プルスイッチを放す)際に安定器にキック電圧が発生して放電が開始される。旧式のデスクスタンドや初期の蛍光灯器具に見受けられる。
グロースタータの代わりに電子点灯管もしくは電子点灯回路を利用したもの。ほぼ瞬時に点灯する(約0.6–1秒)。照明器具内蔵の場合と、別売り品をグローソケットに差し込む場合とがある。始動時の点滅がないので電極に与える負荷が少ない。ランプ寿命時には点滅を繰り返さずに消灯する。無接点なので一般の点灯管にくらべ長寿命である(動作回数は10万–20万回)。大型の円形蛍光灯に多い。
2020年現在市販されている電子点灯管は
がある。
ラピッド(rapid)で「速い」の意。 この器具に使えるランプは FLR である。 点灯管を使用せず始動補助導体を持ったラピッドスタート形ランプと、予熱巻線付きの磁気漏れ変圧器形安定器の組み合わせで始動する。点灯はほぼ即時(1–2秒)。ビル・百貨店・ホテル・駅・病院・学校・会社・スーパーマーケット・コンビニエンスストアなどの公共施設の多くはこの方式の蛍光灯を用いているが、後述のHf式への移行が進んでいる。
安定器は大きい。ビルなどではビルメンテナンス要員が交換することが多いが、重量が重いため交換には手間がかかる。特に直管110H形になると安定器だけで3 kg近い重さ(リードピーク形安定器の場合)になり、2人以上の交換要員が必要になることも多い。
施設照明用電子式安定器(FLR指定)はこの方式の発展で、予熱用電源部・放電用電源部で構成されている。
ランプ背面に茶色の帯が焼き付けられているのと、口金がギザギザの物で端子部の絶縁体が大きいのが特徴。
点灯管が不要でインバーター回路により始動する。高周波点灯により毎秒の発光回数が増えるため、ワット数あたりの明るさは向上するが、使用不可の蛍光灯が多い。
機種によって FL・FCL・FLR・FPL・FPR・FHP・FHC・FHD・FHG・FDL・FHT・FML・FWL・FHF ランプのいずれかが使える。ランプフリータイプもある。
1ピンタイプのスリムライン蛍光灯に使用される。余熱無しで高電圧で瞬時に始動する。
FSLから始まるもの。2ピンのスリムラインFSR・FSLはラピッドスタート式。
電磁安定器、または主材料から銅鉄形安定器とも言う。通常、安定器といえばこちらを指す。磁気回路によって電流を制御する。銅・鉄が材料なので、寸法・重量ともに電子式に比較して大きい。大きなインダクタンス分なので、電源電圧に対して電流の位相に遅れが生じ低力率である。したがって必要に応じて適当な値のコンデンサを電源側もしくは二次回路側に接続して進相電流を流し、高力率にしている。回路形式によってグロー式安定器・ラピッド式安定器の2種類がある。
インバータ式と呼ばれることが多い。以下の種類の器具がある。
回路形式により次のものがある。
従来のスタータ式・ラピッドスタート式ランプ専用の電子式安定器。高周波点灯のためちらつきが少なく、銅鉄形安定器に比較して小型・軽量である。Hfランプは使用できない。
右の回路図の電子式安定器は、セミ共振形と類似した方法で点灯する。回路はハーフブリッジ式が多い。先の一灯用のほか、従来の直列逐次始動形に類似した方法で始動する2灯用の安定器もある。単にインバーター式という場合、この形式を指すことが多い。
大手メーカーは一般住宅用蛍光灯器具のうち「FL型蛍光管」と「FCL型蛍光管」を用いる従来型器具の生産を大幅縮小しており、現行モデルはスリム型(FHF・FHD・スパイラル・二重環型)が殆どである(従来型のFL・FCL蛍光管を用いる器具の現行モデルは浴室灯・流し元灯・物置用のみ)。またグローランプ(点灯管)を用いる従来型器具も一般住宅向けは生産が大幅縮小され、現行モデルは流し元灯や廊下・物置用のみとなった。
ランプを2本以上用いる(点灯管が不要な)インバータ器具の場合、1本でもランプが寿命を迎えると全てのランプが点かなくなるため、(従来型点灯管器具とは異なり)ランプ交換は全て同時に行う必要がある(新しいランプと古いランプを混ぜて使ったり・ランプを一部外して使うと器具が故障するおそれがあるため)。
またランプを2本以上用いる器具の明るさ調節方法も従来型点灯管器具とインバータ器具とで異なっており、前者は点灯本数を増減させるのに対し(「2灯・3灯・4灯いずれか→1灯・2灯いずれか→豆球→切」)、後者はランプ全体の明るさを変える「段調光」を採用している(全灯→段調光→豆球→切)。
棒状の蛍光管。直管蛍光灯は実用化当初は現在に比べ太かった。
太さは38 mmで、型番のワット数を表す数字の後にSが付かないか、またはSが1つのみだった。細い直管蛍光灯が一般的になった当時は、新しい直管蛍光灯に換えたときに、古い直管蛍光灯が太いため新しい直管蛍光灯の箱に入らないという問題も起こった。
通常の器具の場合、太さの異なる直管蛍光灯に交換しても問題ないが、一部の密閉器具(防水型など)の場合、例えばFL20を使用する器具で太さの異なるFL20SS / 18を使用した場合、発熱量が増え危険であるため、この器具では必ずFL20を使用しなければならない。また、口金部に防水パッキンがついている場合も、太さが同じものを使用する必要がある。但し、旧型の直管蛍光灯の専用器具は現在はあまり見かけないが、個人で営んでいる電器屋では、売れ残りで旧型の太い直管蛍光灯が残っている場合がわずかながらある(だいたい処分してしまう店が多いので、希少である)。メーカーによってはSのないタイプをまだ製造している場合がある。
2010年現在世に出回っている直管蛍光管の直径は普通のタイプが32.5 mm、省エネタイプは28 mm、Hfタイプが25.5 mm、T5管が15.5 mmである。省電力設計のランプは、頻繁な点滅や温度変化に弱いといわれる。
丸形、円形ともいう。ドーナツ状の蛍光管(環形蛍光灯を総称して「サークライン」と呼ぶことがあるが、東芝ライテックの登録商標<日本第468682号>である)。
発光管を折り曲げるまたはブリッジで組み合わせることにより小型化した蛍光管。
太字のランプはラピッド式器具もしくは一部のHf器具でも使用できる。
ねじ式口金部分に点灯回路を内蔵し、電球とそのまま差し替えられる蛍光ランプ。
初期のころの発光管は環形・U形・ダブルU形が多かった。点灯回路もチョークコイル・点灯管・トランジスタインバーターを使用していたため、電球に比べて大きく重かった。現在はブリッジ形(東芝など)、スパイラル形(パナソニック(旧松下電器)など)の発光管が多くなり、小形・軽量化・高効率化が進んでいる。点灯回路も小形・軽量化され、点灯回路を口金内に収め、寸法的に一般電球と遜色ないものも現れた。従来は一体式であった発光管を交換できるタイプもある。
従来品は調光器具では使用できなかったが、現在は調光器具対応のランプも市販されている。口金はE26、E17タイプのものが市販されている。
特殊な形状でスリムライン蛍光ランプの一種(管径は20 mmと15.5 mmの2種)。
蛍光灯の色が、暖色系(低色温度)か寒色系(高色温度)かの数値であり、以下の5種類のいずれかに分類されることが多い(以下の温度は色温度)。
これらの呼び名はあくまで基本的なものであり、各メーカーが独自に名前をつける場合もある。2500 K・5700 K・8000 Kなど、上記5色の通常値以外の色温度の製品が増加しつつあり、それらは「ウォーム色」「クール色」「フレッシュ色」など、基本色とは異なる名称をつけて販売されているため、消費者は色温度を確認してから買うことが求められる。白色の近辺にはあまり製品のバリエーションが存在しない。色温度は低い領域ほど少ない温度差で色味の変化が激しく、電球色と温白色の差(500–700 K)は単独の光源を別な機会に目視しても判別がつくが、昼光色と昼白色の差(1500 K)はそれほどではない(色温度#色温度と視覚を参照)。
上記は一般照明用のものであるが、これ以外にも栽培などの特殊用途向けの「海の色(17000 K)」という物も存在する。カメラのホワイトバランス設定などで「冷白色蛍光灯(4150 K)」というものがあるが、この名称を冠した蛍光灯はまず見かけない。おそらく海外のcool - whiteを直訳したものと思われるが、これは日本で言う白色(3900–4500 K)のことである。
太陽光については、太陽そのものの発する光線(直射日光)のみならず、青空などの太陽以外の部分からの放射(天空光)も地表に到達するため、青白い光であっても不思議ではない。このため、天空光のみとなる日陰や、曇天・雨天時の色温度は高くなる(もちろん、宇宙空間から見た太陽光線の色は一定である)。
色彩に関する事業所や病院、美術・博物館向けに、各光源色に演色性を重視した設計の高演色形「SDL」や色評価用「EDL」がある(この場合の演色性とは「特殊演色評価数」、つまり原色を基準色とした見え方の忠実度を指す。これは通常用いられる、中間色を基準色とした「平均演色評価数」よりも達成が難しい)。まれにRaが90を超えていてRaでは演色AAの製品に匹敵する三波長形の製品があるが、この点で演色AAの製品とは異なる。
普通、蛍光ランプの光色としては価格的に安い一般型白色[W]・昼光色[D]のものが事務所などでは広く使われていたが、1980年代以降は住宅や店舗などを主体に三波長域発光型(電球色[EX-L]、昼白色[EX-N]、昼光色[EX-D]など)の普及が進んできた。事務所などでは一般型の白色や昼光色に替わって昼白色[N]が主流になりつつある。住宅用照明器具では、住宅設備照明のカタログに掲載される型番の器具(主にハウスメーカーや電気工事会社向けとされる)では昼白色と電球色のラインナップとする一方、小売店向け型番の器具では昼白色の代わりに昼光色をラインナップに入れているメーカーが多い。
なかでも店舗照明においては色温度や演色性を含めた照明設計が購買意欲(売上)に大きく影響することが認識され、それを実現するためのさまざまな光色、配光性のランプ商品が用いられている。ただし、商品をより良く見せるには演出過剰でもいけないため、特定の波長を強くしたりといった工夫がある(生鮮食品展示用・食肉展示用蛍光ランプなど)。演色性は色温度ごとに決まっているため、演色性が最高でも色温度によって青く見えたり赤く見えたりする。
ランプの明るさ(効率)についても、その光色によって差異がある。最も明るいのは3波長発光型の昼白色と電球色であるが、3波長型でない一般型では白色[W]が最も明るい。昼光色系の場合、見た目には明るく(青白く)感じるが、実際には白色系に比べると10 %前後暗く(照度や輝度が低く)なるものの、実用上はあまり変わらない。自然光への忠実度(特殊演色評価数)を重視したタイプでは、一般照明用と比べて30–40 %も暗い場合もある。
演色性を示す数値は同じでも、メーカーによって個性があり、色の見え方(感じ方)は少し異なる。例えばパナソニックのパルックは、やや緑色の再現が過剰であると写真家から指摘されている。
蛍光管のカタログには、分光分布が載っていることが多い。これはどの色の波長が多いかを示したもので、単に色温度を見るよりも視覚的に分かりやすい。
ただし、分光分布の斜線がなだらかであるほど優れているわけではなく、一般形と高演色形はともに分布図がよく似ており、なだらかな山型のラインにところどころ飛び出ている部分があるが、三波長形は全体的にギザギザである。しかし実際には三波長形は演色性の面では一般形と高演色形の中間である。つまり分布図が不規則であっても、それが色の見え方が悪いということではない。
蛍光灯は、エネルギーを光に変える効率がよい。一般的には白熱電球の5倍の発光効率があるといわれる。白色LED(発光ダイオード)も高効率化が進んでおり、ほぼ同程度の照度が出る物も発売されている。
ランプの明るさの単位は全光束・ルーメン(lm)である。これはランプから放射される、全ての方向の光の合計である。最新型の三波長のものでは、32 W環形のランプは2640 lmに達している。ランプに表示されている全光束の数値は、標準の試験用安定器を使用して測った場合の数値であるため、効率のよいインバータ器具で使用した場合、ランプ表示の全光束を大きく超えることがある(インバータの性能がよいためであり、過負荷というわけではない)。蛍光ランプ自体の発光効率は、1980年代ごろからほとんど進歩していない(新方式のランプを除く)。
蛍光灯器具の発光効率は、ルーメン毎ワットであらわされる。これは器具によって大きく違い、一般的な28 mm管の器具でも90 lm/Wぐらいのものから50 lm/Wぐらいのものまである。インバータ式の物は高効率で、磁気安定器式の物は低効率である。ランプが長い方が発光効率良い。スリム管・スリムツイン管の場合は従来管よりも明るい。
器具のカバーも明るさに影響を及ぼす。和室用照明などの飾りがついているものや、分厚いプラスチック製のカバーは明るさを落とす。経年変化による変色も明るさや色温度が変わる元になる。
蛍光ランプの寿命は、種類により異なるが、およそ6000–20000時間である。
蛍光ランプが点灯しなくなり寿命を迎える原因は、ランプ点灯中に起こる、電極に塗布された電子放出性物質(主にタングステン酸バリウム等)の蒸発、飛散による消耗が主である。蛍光ランプは始動時にもっとも負荷がかかり、グロースタータ(点灯管方式。後述)の場合、一回の点灯で約1時間寿命が縮むため、頻繁に点滅させる用途には向かず、より長時間点灯する場所に向く。蛍光ランプ大手のパナソニックは同社ランプ総合カタログにおいて、消灯時間おおむね数分程度を境に、連続点灯による電力消費の損失が、消灯して再始動することによるランプ寿命の損失を上回る(つまり、数分間の電気代より球の寿命の短縮のほうが安い)としている。
後述の高周波点灯方式では、電子機器で制御することによって始動時の電極予熱を最適化し、従来方式に比べ不点となる寿命の大幅向上を実現した(先に述べた「再始動することによるランプ寿命損失」が減少することを意味する)。
直管は、一般に消費電力が大きいほど定格寿命が長い。よって、器具が選べる場合は20 W管2本のタイプより40 W管1本のタイプを選択することにより、交換の手間を減らすことができる。
蛍光灯器具によってもランプ寿命は変わり、良質な設計の器具であれば長持ちしたり、その逆のことが起こったりもする。グローとインバータによる差のほか、メーカー間の差もある。
点灯することができても輝度は次第に低下するため、JIS規格では光束が当初の70 %に低下した時点も寿命としている。ただし、メーカーによっては80%としている場合もある。また蛍光灯は点灯後に徐々に明るくなるため、数分待ってから計る必要がある。
輝度が低下する原因としては、水銀蒸気がガラス中のナトリウムと反応して黒色の付着物となること、ガラスが紫外線を吸収して透明でなくなること、などがある。
北欧ではガラスからナトリウムが浸出することを防ぐコーティング技術と電子放射物質(タングステン酸バリウム等)のスパッタリングを防ぐ特殊な陰極とを組み合わせることによって、8万時間を超える蛍光管が実用化されている。
グローランプの寿命は蛍光灯の点灯時間ではなく、点灯回数に比例する。グローランプは蛍光灯の交換と同時に取り替えるのが蛍光灯を長持ちさせるコツだといわれることもあるが、あまり消耗していない場合は替えなくてもよい。ただし、蛍光管の終末期に激しく点灯動作が繰り返されると、グローランプもそのたびに消耗するため、この状態で放置すると劣化が激しく進む。
蛍光灯照明器具の寿命については消費者にはあまり認知されていないが、安定器がおよそ8–10年、それ以外の部分についてはおよそ15年が目安とされている。器具の寿命は周囲温度、点灯時間などによって変化する。一般に点灯時間が長く周囲温度が高いほど短くなる。これは熱による安定器の絶縁体の劣化が進みやすくなるからである。
一般家庭向けの製品では安定器のみを交換することは想定されていないため、器具全体の買い替えとなるケースがほとんどである。オフィス向けのものでは安定器のみを交換できる場合が多いが、一般家庭向け、オフィス向けともに設計寿命を超えて使用されることが多く、20年を超えて使用されることも珍しくない。
古くなった安定器は、「ジー」という騒音・振動を発することがある。最近の安定器は安全装置が内蔵され、寿命が来るとコイルやヒューズが切れて電源を遮断するため、発煙・発火の恐れはほとんどない。しかし、安全装置のない古いタイプの安定器をいつまでも使い続けるとレアショートして過熱し、最悪の場合発煙・発火すると共に漏電事故を起こす危険性がある。電子式安定器ではコンデンサの容量抜けなどによりヒューズが飛んだり、コンデンサが破裂・焼損することがある。 しかし、実際には安定器が原因による事故は稀である。
グロー式の器具にラピッドスタート省エネ型(36 W)を点けてしまったがために、騒音が大きくなる、点かなくなることがある。
1957年1月から1972年8月までに製造された業務用・施設用の蛍光灯器具や水銀灯器具、低圧ナトリウム灯器具の安定器内部に組み込まれている力率改善用コンデンサの絶縁体にはPCBが使われており、近年、学校に設置された蛍光灯器具内の安定器が破裂して漏れ出したPCBが児童に降りかかる事故が発生している。これらPCB使用照明器具の安定器は設置から40年以上が経ち既に寿命を迎えている。危険なので早急な交換が必要である。PCB含有安定器は排出者が厳重に安全に保管しなければならない。
シーリングライトなどの蛍光ランプが直接見えない構造の器具の場合は、光を透過するプラスチックが蛍光ランプから出る紫外線によって劣化し、黄色く変色することがある。こうなると照度は低下し、効率が悪くなる。現在は変色しにくく透過率が高いカバーが、メーカーによってクリーンアクリルなどと名づけられて採用されることが多い。
器具本体とは別の寿命だが、袋打ちコードと呼ばれるこたつコードにも似た発熱に耐えられるコードのみで吊り上げている蛍光灯器具の場合、コードが老朽化し、器具の重さによって床に落下するケースもある。心配ならば、鎖で吊り上げるとよい。ほとんどの蛍光灯器具には鎖をかけられる孔が開いている。これは天井側が普通のコンセントかあるいは電球ソケットにセパラボディという組み合わせに考慮したものである。蛍光灯器具によっては引掛シーリングをコンセント用に変換できるプラグを購入しなくても上部のフタを取り外すとコンセントに差し込めるプラグが包まれている場合もある。
これは一般的なHf蛍光灯昼白色32 W形直管の型番である。FHFはHf式の直管を、32は32 W形であることを、EXは三波長を、Nは昼白色(ナチュラル)を示している。FL式においてはSSは直径28 mmであることを、18は実際の定格消費電力を現している(ただし器具によってはこれより高低がある場合もあり、特にインバーター器具では消費電力もそれぞれである)。
直管(FL・FHF)型蛍光灯の場合、メーカー・種類・光色表記がパナソニック ライティングデバイス・三菱電機照明・ホタルクス製品は左側に、東芝ライテック・日立アプライアンス製品は右側にそれぞれ書かれている。: なお、表記中のME、TSP、HLK、SOC、N(「▲▼」のような表記)、PRINCE.D.(またはIWASE.P.D.、もしくはNSD)はそれぞれ実際の製造メーカーであるパナソニック ライティングデバイス、東芝ライテック、日立アプライアンス、三菱電機照明、ホタルクス、プリンス電機を指している。そのため、たとえばメーカーがホタルクスでもMEと表記されていればパナソニック ライティングデバイスが製造した製品ということがわかる。
器具については、磁気安定器式の製品は安く、インバータ式の製品は高い。ただし、デザインやリモコンなどの付加価値をつけた製品はさらに高価であるため、点灯方式による価格差はさほど大きくない。インバーター式でも、オーソドックスなペンダント型器具であれば環形2灯式で5000円程度、直管1灯式のベースライトであれば3000円程度のものもある。近年は、磁気安定器かインバーターかというよりも、環形では従来管かスリム(スリムツイン)管か、直管では従来管かHf管かという点に注目ポイントが移りつつある。
蛍光管については、かつては高価なもので、1950年の大卒公務員初任給が4000円強の時期に20 W管が450円から600円、40 W管900円であった。2010年代には一般型(演色性・明るさが低い)の製品が100円ショップで売られるようになり、まれに電球型蛍光灯も100円で売られることがあるが、ある程度の品質を持った製品は数百円台である。三波長タイプの相場としては、20 W直管は300円台、30 W環形は500円程度、40 W環形は800円程度となっている。ただし、残光型や長寿命型などはより高価である。高演色型は、SDLは三波長タイプより少し高め、EDLは三波長タイプの2倍程度の価格である。ただし明るさが低いので、三波長形と同じ光量を得るには1.5倍程度の本数が必要である。また、美術館やデザイン用途向けの色評価用や紫外線カット、食品製造現場向けなどに飛散防止フィルムコート、誘虫防止型など、特殊用途向けの製品も多数存在し、これらは付加価値に応じた価格となっている。一般型のうち昼白色のものについては、各メーカーとも独自の名称(「ホワイト」が付くことが多い)を与え、やや高価な価格設定をしていることが多い。スタータ型とラピッドスタート型の価格差はあまりない。環形の物については、1ランク下のサイズの管が管の内側に納まるサイズであることと、両方の管を使う器具が多いことから、2種類のサイズの管を同梱して売る場合も多い。
2020年代に入ると、蛍光灯器具の生産終了並びに、LED照明の普及に伴い、生産量が減少などを理由に生産を撤退もしくは値上げするメーカーが増えてきており、蛍光灯の価格が2010年代と比べて2022年現在、価格が約1.7倍まで上昇している。
ランプにほこりや塵が付着すると光出力が減衰するため省エネルギーの見地からも定期的な清掃が必要になる。ランプの清掃にはスポンジが好ましく、清掃時には導電部分、ソケット、安定器、配線部などに水がかからないようにする。
ランプの交換はランプの価格、交換費用、交換作業、美観などを総合的に判断し、定格寿命の70 %程度を経過したときに行うのが経済的とされている。一般家庭においてはランプが点灯しなくなった時点でそのランプを新品と交換する個別交換でよいが、カバー付き照明器具のように蛍光ランプが直接見えずそのうち一個が不点になってもわかりにくいものも多くなっている。ランプの交換には次の方法がある。
蛍光灯はガラス製品のため衝撃を加えると破損するおそれがある。また、取り付けが不十分だと点灯せず落下したり、接触不良によりランプの寿命が短くなったり発熱の原因となる。蛍光灯は点灯中や消灯直後は熱くなる性質がある。なお、エアコンなどによって風の当たりやすい部分には黒化や斑点現象がおきやすい。
適正な電圧は安定器で指定の電圧のプラスマイナス6 %とされている。
事故を防ぐため、設置地域の商用電源周波数に合った蛍光灯器具・安定器を使用する。
蛍光灯は点灯に際し安定器が必要であるが、適合電源周波数で使用しないとさまざまな問題が生じる。施設照明器具の市場の大半を占めるパナソニック(旧:パナソニック電工、松下電工)と東芝ライテックでは、周波数区分が容易に判るように、器具型番のシールと電線色を分けている。
建築基準法による非常灯は、周波数区分にかかわらず赤である。
これは、安定器内部のコイルは周波数の高い交流ほど流しにくくなり、逆にコンデンサは周波数が高いほど交流を流しやすくなるためである。このため、一般の安定器を使用する器具を周波数の違う地域で使用する場合、安定器を交換しなければならない。ただしインバータ式安定器は日本国内であればどこでも使用できる。
子供用学習机に付帯される蛍光灯照明は「チラツキが少なく目に優しい」としてインバータ式の普及が急速に進んだため、現在では見かけることはまずないが、スタータ式の照明の時代には周波数切り替えスイッチが取り付けられているものが多く、これを切り替えることにより周波数の異なる地域でもそのまま使用できた。
適正な周囲温度は5 °Cから40 °Cで5 °C以下になると点灯直後は暗くちらつきなどを起こす。
事故を防ぐため、照明器具の始動方式に合った蛍光管を使用する必要がある。
特に、複数方式に対応するランプフリーの安定器を搭載しているなど方式そのものは問題がない場合であっても、器具全体としては管の支持方法やカバーの取り付け、放熱設計など種々の制約により適合ランプを限定している場合があるので、たとえ下記記述で互換性があるとされる場合であっても、取扱説明書や器具本体の表示等を必ず確認すること。
蛍光灯には水銀を含むガスが封入されているため、割って埋め立て処分するなどの方法では、割った際にガスが環境中に放出されたり、最終処分場が水銀で汚染されてしまうなどの問題がある。そのため適切に回収され再資源化することが望ましい。
米国では廃蛍光ランプは専門業者が回収を行い、この際割らずに回収させなくてはならず、割れた場合には高額な回収費用が請求される。回収された廃蛍光ランプは専門の設備により口金金属部、管状部に丁寧に分割され、中の水銀は銅キャニスターに回収される。残りの部材はアルミ、電極、ガラス、蛍光体へと分別され、完全リサイクルされる体制が確立されている。北欧では、廃棄蛍光灯の総量を減らすため、蛍光灯の長寿命化への取り組みが盛んである。
一方、日本では、回収して水銀をリサイクルできる専用の施設(例: イトムカ鉱山を参照)に処理を委託する方法がとられつつあり、環境マネジメントシステム ISO 14000 の認証を取得している企業などではこちらの方法が一般的である。一般家庭から廃棄される蛍光灯は、一部の自治体が回収を行っているものの、現在でも多くの地方自治体が燃えないごみに出すように定めており、環境意識の高まりとともに改善を求める声があがっている。自治体が回収を行っていない地域であっても、一部の家電量販店や電器店・ホームセンターなどが「蛍光管回収協力店」として店頭で無料で回収している場合、または蛍光灯購入を条件に回収している場合、などがある。また、大日本プロレスが試合会場や郵送で無料回収している。回収された蛍光灯は実際に蛍光灯デスマッチに使用される。
ガラス管の外面全体にポリエステルフィルムの合成樹脂で被膜を施した蛍光管。Pタイプと呼ばれている。
万一の破損に対し、樹脂フィルムで落下や飛散を防ぐ。防飛型とも呼ばれる。薄いガラス素材である蛍光管は、破損の際に非常に細かい破片が飛散し、人の目や口腔をはじめ、気管にも到達する危険がある。そのため異物の混入が事故となる現場や、破片の除去・清掃が困難な製品や機器を扱う環境で利用されている。
公共施設や鉄道・路線バスを始めとする輸送機械、加工食品の工場、学校で使用されている。また、サーバ・コンピュータルーム、国際宇宙ステーションでも使用されている。高価なため、一般家庭には普及していない。
フィルムにUVカット性能を持たせ、防虫(避虫)効果を兼ね備えた製品もある。
蛍光管の表面に酸化チタンの被膜を施した蛍光管。PCタイプと呼ばれている。光触媒の作用でランプ表面に付いた有機物の汚れを分解し、室内の臭いを軽減する機能もある。
夜間活動性の昆虫は明るいところでは視機能が低下する性質を利用して果樹園などでの吸害被害を防止するための蛍光管(黄色蛍光ランプ)。Yタイプと呼ばれている。
夜行性昆虫の捕虫用の蛍光灯で近紫外域の光を効率よく発するようにした蛍光管。BLタイプと呼ばれている。
生鮮食品や食肉を新鮮で美味しく見せるための食品展示用の蛍光灯。冷蔵・冷凍ショーケース内では低温下でも明るさの低下が少なく始動性に優れた低温用蛍光ランプが使用されている。
青色と赤色の発光成分を組合せたランプで、観葉植物や熱帯魚の観賞用と光合成を促進する植物育成用がある。BRタイプと呼ばれている。
蛍光管の内部に紫外放射吸収膜を施した蛍光管。NUタイプと呼ばれている。美術館などで作品の色への影響を軽減するために利用される。また、店舗や食品工場では誘虫を防ぐため白色系のランプが利用される。
繊維、塗装、染色などの分野で利用される表面色評価用の標準光源として自然光に近似した光を出す蛍光灯。色評価用ランプは印刷工場、写真現像所、美術館・博物館でも使用される。
近紫外光のみを有効に放射する、文書や鉱物の鑑定・鑑識、舞台や看板用などの効果照明用のブラックライト蛍光ランプが使用した蛍光灯。BL-Bタイプと呼ばれている。
養鶏場で使用される光放射による産卵時期の制御のための蛍光灯。
半導体工場のクリーンルーム内に使用される純黄色の蛍光灯。Y-Fタイプと呼ばれている。
紫外放射による殺菌を行うための蛍光灯。GLタイプと呼ばれている。
パソコンのモニターやテレビ用の管径の細い蛍光灯。
省エネと環境負荷低減の観点から、2010年代以降はLED照明への移行が急速に進み、一般照明としての蛍光灯と水銀ランプは終息する方向にある。
赤崎勇、天野浩、中村修二らによる、実用的な青色発光ダイオードの発明と高輝度化への成功、これを応用した高輝度白色LEDの開発により、2000年代に実用化したLED照明は、蛍光灯より消費電力が少なく、かつ長寿命のため長期間にわたりランプ交換も不要という利点により、急速に普及し低廉化、日本においては2011年3月11日の東日本大震災に伴って、日本の原子力発電所が全基停止措置による電力不足が普及に拍車をかけた。
これを受け日本の大手電機メーカー各社は、蛍光灯照明器具の新製品発表を2012年以降取りやめており(乾電池や充電式電池で駆動するアウトドアランタンはLEDへ完全移行し、蛍光灯を用いるランタンの生産は終了)、中でも照明器具国内シェア首位のパナソニックは、先陣を切って「2015年度を以て蛍光灯及び白熱電球を用いる一般住宅向け従来型照明器具生産を終了し、今後はLED器具へ完全移行(蛍光ランプ及び電球型蛍光ランプは交換用途のみに絞って生産を継続)する」旨を公式発表した(2014年3月4日付、朝日新聞経済面記事にて報道。なお卓上型の電球&蛍光灯器具生産は、2011年限りで終了しLEDへ完全移行)。こうした「脱蛍光灯」の動きは、今後他社にも広がる可能性がある。なお白熱電球生産は(一部特殊用途を除き)2012年度を以て、日本の製造メーカー全社が完全終了した。
従来型蛍光ランプ(Hf器具専用スリム管も含む)・電球型蛍光ランプ・点灯管・ミニクリプトン電球は「交換用途に絞って」生産が継続されているが、日立グローバルライフソリューションズは「LED器具&電球の普及で従来型蛍光ランプの需要が減少傾向にあり、かつ材料価格高騰で製品の安定供給が今後困難となることが予想されるため、蛍光灯・白熱電球器具に続き蛍光ランプ・点灯管生産を2019年12月限りで完全終了し、今後はLED電球及びLED照明器具のみの生産へ完全移行(日立製蛍光ランプ・点灯管は2020年3月までに在庫品限りで販売終了)する」と発表。蛍光ランプ生産からの完全撤退は、日立グローバルライフソリューションズ(旧・日立ライティング)が大手電機メーカーで初となり、翌2021年3月には三菱電機照明が蛍光ランプ・点灯管・ミニクリプトン電球生産を完全終了(LED電球とLED照明器具のみの生産へ完全移行する)予定。東芝ライテックは2016年限りで蛍光灯の自社生産より撤退し、以降(「メロウZプライド」シリーズを中心とする)「TOSHIBA」ブランド蛍光灯生産はパナソニック ライティングデバイスとホタルクスへの委託へ切り替わっている。
今後、日本の蛍光ランプ&点灯管メーカーはパナソニック ライティングデバイスとホタルクス(NECブランド)のみとなり、日立系列店「日立チェーンストール」と三菱系列店「三菱電機ストアー」で販売される蛍光灯は今後パナソニック ライティングデバイス「パルックプレミア」・東芝「メロウZプライド」・NEC(ホタルクス)「ホタルック」などの他社製品へ置き換わっていく。
2015年11月26日の複数の報道で、日本国政府が省エネ法の政令を改正し、2020年度をメドに蛍光灯や白熱灯の生産や輸入を、実質的に禁止する方向であると報じられたが、経済産業省は「これらを一律禁止するものではない」として、報道内容を否定した。
蛍光灯が使用する水銀は『環境負荷物質』として、EU域内では、RoHS指令による規制の対象であるが、蛍光灯を代替できる他の技術が確立されていなかったことや、蛍光灯が広く普及していたこと、発光原理上水銀を使用せざるを得ないことを理由として、蛍光灯への使用は許容されている。
しかし、水銀の使用と輸出入を2020年以降規制する、水銀に関する水俣条約 が2017年8月16日に発効、これを受け日本でも廃棄物処理法に新たに水銀含有廃棄物の区分が設けられ、廃棄蛍光ランプも『有害廃棄物』として管理を求められるなど、処分費用の負担が増加することから、産業廃棄物処理業者の中には、廃棄蛍光ランプの受け入れを取りやめたり、追加費用を請求する例が出ている。家庭から排出される廃棄蛍光ランプを無料回収していた量販店も、東急ハンズなど一部は有料回収に切り替えている。
蛍光灯を代替する技術として、LED照明も既に実用化されていることから、日本においては、新築のオフィスビルなどでは全館LED照明を採用する事例も増えている。家庭向けにも蛍光灯照明器具の製造・販売を終息するメーカーが相次いでおり、蛍光灯の使用は淘汰される方向へと情勢が大きく変化している。
なお、いわゆるレトロフィットの一種として蛍光灯器具に装着可能なLED管も存在するが、電球型蛍光管からの事実上の発展型である電球型LEDとは異なり、装着にあたって安定器をバイパスする工事を要するものや、スターター式のみ工事不要としているもの、完全工事不要のものなどが製品によりまちまちだったり、LED管自体も元来からのLED器具に装着するものと互換性がない等(元来からのLED器具に装着するものは蛍光灯器具に装着できないよう口金が片方異なる)で電球型LEDほどは普及しているとは言い難い。そもそもが直流駆動であったり、交流でも商用電源とは互換性のない高周波駆動であったりする車内照明用途では管自体の破損対策等もあり器具ごと交換するのが一般的となっている。
2027年末で、直管型蛍光灯の製造を禁止することを国際会議で合意した。電球型蛍光灯は2025年に製造禁止となる。
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"text": "蛍光灯(けいこうとう)または蛍光ランプ(fluorescent lamp)、蛍光管(けいこうかん)は、放電で発生する紫外線を蛍光体に当てて可視光線に変換する光源である。方式は 熱陰極管 (HCFL; hot cathode fluorescent lamp) 方式と 冷陰極管 (CCFL; cold cathode fluorescent lamp) 方式とに大別される。一般照明用に使用される蛍光灯は一部の例外を除いてほとんどが熱陰極管方式であり、冷陰極管方式は液晶モニターのバックライト用途などに使用されることが多い。",
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"text": "本稿では主に照明用途で用いられる熱陰極管方式の蛍光灯について記す。冷陰極管方式の詳細については冷陰極管を参照されたい。",
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"text": "最も広く使われているのは、電極をガラス管内に置き(内部電極型)、低圧水銀蒸気中のアーク放電による253.7 nm線を使うものである。",
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"text": "蛍光灯は低圧にしたガラス管内の水銀蒸気中に放電を行い、発生した紫外光(波長253.7 nm)を蛍光体で可視光に変換するもので、蛍光体の種類ごとに異なる光源色や演色性の光を得ることができる。",
"title": "原理"
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"text": "蛍光灯は、蛍光物質が管内に塗布されたガラス管(白く見えるのは蛍光物質のため)と、両端に取り付けられた電極とで構成されている。電極はコイル状のフィラメントにエミッター(電子放射性物質)を塗装したもので、これが両端に2本ずつ出ている4本の端子に繋がっている。ガラス管内には、放電しやすくするために2–4 hPa(1気圧は1013.25 hPa)の封入ガス(アルゴンあるいは混合希ガス)と少量の水銀の気体が封じ込まれている。発光時の内部温度は1万 °Cに達するが、気圧が非常に低いため、ガラスが溶けることはない。",
"title": "原理"
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"text": "蛍光灯に使用される水銀は、金属水銀(無機水銀の一種)である。水銀封入量は、1975年には40 W直管形で約50 mgだったが、2007年には約7 mgにまで削減されている。",
"title": "原理"
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"text": "電極(陰極)に電流を流すと加熱され、高温になったエミッターから大量の熱電子が放出される。放出された電子はもう片方の電極(陽極)に移動し、放電が始まる(通常は交流を流すため、陰極・陽極は同じ形状である)。放電により流れる電子は、ガラス管の中に封入されている水銀原子と衝突する。すると水銀原子が電子のエネルギーを受け、紫外線を発生させる。発生した紫外線はガラス管内に塗布されている蛍光物質に照射され、可視光線が発生する。",
"title": "原理"
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"tag": "p",
"text": "白熱灯と比べると、同じ明るさでも消費電力を低く抑えられる。消費したエネルギーの変換比率は、可視放射25 %、赤外放射30 %、紫外放射0.5 %で、残りは熱損失となる。",
"title": "原理"
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"tag": "p",
"text": "白熱灯と違い、点灯には安定器(インバータ含む)が必要なため、直接電圧を掛けただけでは使用できない。ただし電球形蛍光灯では安定器を内蔵しているため、直接ソケットに差すだけでよい。",
"title": "原理"
},
{
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"tag": "p",
"text": "蛍光灯の点灯開始に当たってはフィラメントの予熱が必要なため、始動専用回路が必要である。",
"title": "原理"
},
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"text": "2021年現在、日本国内メーカーではパナソニック、東芝ライテック、ホタルクス(旧・NECライティング)の3社のみが蛍光灯を生産している。日本を含む「水俣条約」を締結する全ての国において、全ての蛍光灯は2027年末に生産禁止が予定されている。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "以下の3種類がある。この器具に使えるランプは FL・FCL・FPL・FDL・FMLである。",
"title": "始動方式"
},
{
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"tag": "p",
"text": "点灯管を用いて電源を入れると自動的に点灯する。蛍光管・安定器・点灯管(グロースタータ)で構成される。かつて一般家庭用として最も普及した。",
"title": "始動方式"
},
{
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"tag": "p",
"text": "始動にかかる時間は、従来型の点灯管を使用した場合は3秒程度と、蛍光灯の中では遅い。点灯する際に点灯管から「ピンッ」もしくは「コン、コン」など、若干の音が出る(バイメタルの復帰のため)。電子点灯管に交換すると、約0.6–1.2秒と通常よりも早く点灯する。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2008年現在使用されている点灯管は",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "である。動作回数は6000回程度(長寿命形は約18000回)である。4–32 Wのランプでも200 V用の安定器を使用している場合はFG-4Pが使用できる。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "100 V30 W以下および200 V40–65Wはチョークコイル形安定器を用いる。100 V32–65 Wと100 V/200 V52 Wは放電を維持する電圧まで昇圧する必要があるので、小形で安価になる単巻磁気漏れ変圧器形安定器を用いる。一般にこれら安定器は低力率のため、必要に応じて電源側に適当な値のコンデンサを並列接続し高力率にする。この器具は省エネ形のランプを除き(省電力形のFLR40M/36は安定器に過電流が流れ、過熱・焼損の恐れがあるので不可)ラピッドスタート式のランプを取り付けても使用できる(ただし即時点灯はしない)。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "グロースタータの代わりに始動用のスイッチを接続する。始動スイッチを長押しして(プルスイッチを引いて)フィラメントを予熱し、ボタンを放す(プルスイッチを放す)際に安定器にキック電圧が発生して放電が開始される。旧式のデスクスタンドや初期の蛍光灯器具に見受けられる。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "グロースタータの代わりに電子点灯管もしくは電子点灯回路を利用したもの。ほぼ瞬時に点灯する(約0.6–1秒)。照明器具内蔵の場合と、別売り品をグローソケットに差し込む場合とがある。始動時の点滅がないので電極に与える負荷が少ない。ランプ寿命時には点滅を繰り返さずに消灯する。無接点なので一般の点灯管にくらべ長寿命である(動作回数は10万–20万回)。大型の円形蛍光灯に多い。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2020年現在市販されている電子点灯管は",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "がある。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ラピッド(rapid)で「速い」の意。 この器具に使えるランプは FLR である。 点灯管を使用せず始動補助導体を持ったラピッドスタート形ランプと、予熱巻線付きの磁気漏れ変圧器形安定器の組み合わせで始動する。点灯はほぼ即時(1–2秒)。ビル・百貨店・ホテル・駅・病院・学校・会社・スーパーマーケット・コンビニエンスストアなどの公共施設の多くはこの方式の蛍光灯を用いているが、後述のHf式への移行が進んでいる。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "安定器は大きい。ビルなどではビルメンテナンス要員が交換することが多いが、重量が重いため交換には手間がかかる。特に直管110H形になると安定器だけで3 kg近い重さ(リードピーク形安定器の場合)になり、2人以上の交換要員が必要になることも多い。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "施設照明用電子式安定器(FLR指定)はこの方式の発展で、予熱用電源部・放電用電源部で構成されている。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ランプ背面に茶色の帯が焼き付けられているのと、口金がギザギザの物で端子部の絶縁体が大きいのが特徴。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "点灯管が不要でインバーター回路により始動する。高周波点灯により毎秒の発光回数が増えるため、ワット数あたりの明るさは向上するが、使用不可の蛍光灯が多い。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "機種によって FL・FCL・FLR・FPL・FPR・FHP・FHC・FHD・FHG・FDL・FHT・FML・FWL・FHF ランプのいずれかが使える。ランプフリータイプもある。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1ピンタイプのスリムライン蛍光灯に使用される。余熱無しで高電圧で瞬時に始動する。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "FSLから始まるもの。2ピンのスリムラインFSR・FSLはラピッドスタート式。",
"title": "始動方式"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "電磁安定器、または主材料から銅鉄形安定器とも言う。通常、安定器といえばこちらを指す。磁気回路によって電流を制御する。銅・鉄が材料なので、寸法・重量ともに電子式に比較して大きい。大きなインダクタンス分なので、電源電圧に対して電流の位相に遅れが生じ低力率である。したがって必要に応じて適当な値のコンデンサを電源側もしくは二次回路側に接続して進相電流を流し、高力率にしている。回路形式によってグロー式安定器・ラピッド式安定器の2種類がある。",
"title": "安定器の種類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "インバータ式と呼ばれることが多い。以下の種類の器具がある。",
"title": "安定器の種類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "回路形式により次のものがある。",
"title": "安定器の種類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "従来のスタータ式・ラピッドスタート式ランプ専用の電子式安定器。高周波点灯のためちらつきが少なく、銅鉄形安定器に比較して小型・軽量である。Hfランプは使用できない。",
"title": "安定器の種類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "右の回路図の電子式安定器は、セミ共振形と類似した方法で点灯する。回路はハーフブリッジ式が多い。先の一灯用のほか、従来の直列逐次始動形に類似した方法で始動する2灯用の安定器もある。単にインバーター式という場合、この形式を指すことが多い。",
"title": "安定器の種類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "大手メーカーは一般住宅用蛍光灯器具のうち「FL型蛍光管」と「FCL型蛍光管」を用いる従来型器具の生産を大幅縮小しており、現行モデルはスリム型(FHF・FHD・スパイラル・二重環型)が殆どである(従来型のFL・FCL蛍光管を用いる器具の現行モデルは浴室灯・流し元灯・物置用のみ)。またグローランプ(点灯管)を用いる従来型器具も一般住宅向けは生産が大幅縮小され、現行モデルは流し元灯や廊下・物置用のみとなった。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ランプを2本以上用いる(点灯管が不要な)インバータ器具の場合、1本でもランプが寿命を迎えると全てのランプが点かなくなるため、(従来型点灯管器具とは異なり)ランプ交換は全て同時に行う必要がある(新しいランプと古いランプを混ぜて使ったり・ランプを一部外して使うと器具が故障するおそれがあるため)。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "またランプを2本以上用いる器具の明るさ調節方法も従来型点灯管器具とインバータ器具とで異なっており、前者は点灯本数を増減させるのに対し(「2灯・3灯・4灯いずれか→1灯・2灯いずれか→豆球→切」)、後者はランプ全体の明るさを変える「段調光」を採用している(全灯→段調光→豆球→切)。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "棒状の蛍光管。直管蛍光灯は実用化当初は現在に比べ太かった。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "太さは38 mmで、型番のワット数を表す数字の後にSが付かないか、またはSが1つのみだった。細い直管蛍光灯が一般的になった当時は、新しい直管蛍光灯に換えたときに、古い直管蛍光灯が太いため新しい直管蛍光灯の箱に入らないという問題も起こった。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "通常の器具の場合、太さの異なる直管蛍光灯に交換しても問題ないが、一部の密閉器具(防水型など)の場合、例えばFL20を使用する器具で太さの異なるFL20SS / 18を使用した場合、発熱量が増え危険であるため、この器具では必ずFL20を使用しなければならない。また、口金部に防水パッキンがついている場合も、太さが同じものを使用する必要がある。但し、旧型の直管蛍光灯の専用器具は現在はあまり見かけないが、個人で営んでいる電器屋では、売れ残りで旧型の太い直管蛍光灯が残っている場合がわずかながらある(だいたい処分してしまう店が多いので、希少である)。メーカーによってはSのないタイプをまだ製造している場合がある。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2010年現在世に出回っている直管蛍光管の直径は普通のタイプが32.5 mm、省エネタイプは28 mm、Hfタイプが25.5 mm、T5管が15.5 mmである。省電力設計のランプは、頻繁な点滅や温度変化に弱いといわれる。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "丸形、円形ともいう。ドーナツ状の蛍光管(環形蛍光灯を総称して「サークライン」と呼ぶことがあるが、東芝ライテックの登録商標<日本第468682号>である)。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "発光管を折り曲げるまたはブリッジで組み合わせることにより小型化した蛍光管。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "太字のランプはラピッド式器具もしくは一部のHf器具でも使用できる。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ねじ式口金部分に点灯回路を内蔵し、電球とそのまま差し替えられる蛍光ランプ。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "初期のころの発光管は環形・U形・ダブルU形が多かった。点灯回路もチョークコイル・点灯管・トランジスタインバーターを使用していたため、電球に比べて大きく重かった。現在はブリッジ形(東芝など)、スパイラル形(パナソニック(旧松下電器)など)の発光管が多くなり、小形・軽量化・高効率化が進んでいる。点灯回路も小形・軽量化され、点灯回路を口金内に収め、寸法的に一般電球と遜色ないものも現れた。従来は一体式であった発光管を交換できるタイプもある。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "従来品は調光器具では使用できなかったが、現在は調光器具対応のランプも市販されている。口金はE26、E17タイプのものが市販されている。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "特殊な形状でスリムライン蛍光ランプの一種(管径は20 mmと15.5 mmの2種)。",
"title": "蛍光管の種類"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "蛍光灯の色が、暖色系(低色温度)か寒色系(高色温度)かの数値であり、以下の5種類のいずれかに分類されることが多い(以下の温度は色温度)。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "これらの呼び名はあくまで基本的なものであり、各メーカーが独自に名前をつける場合もある。2500 K・5700 K・8000 Kなど、上記5色の通常値以外の色温度の製品が増加しつつあり、それらは「ウォーム色」「クール色」「フレッシュ色」など、基本色とは異なる名称をつけて販売されているため、消費者は色温度を確認してから買うことが求められる。白色の近辺にはあまり製品のバリエーションが存在しない。色温度は低い領域ほど少ない温度差で色味の変化が激しく、電球色と温白色の差(500–700 K)は単独の光源を別な機会に目視しても判別がつくが、昼光色と昼白色の差(1500 K)はそれほどではない(色温度#色温度と視覚を参照)。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "上記は一般照明用のものであるが、これ以外にも栽培などの特殊用途向けの「海の色(17000 K)」という物も存在する。カメラのホワイトバランス設定などで「冷白色蛍光灯(4150 K)」というものがあるが、この名称を冠した蛍光灯はまず見かけない。おそらく海外のcool - whiteを直訳したものと思われるが、これは日本で言う白色(3900–4500 K)のことである。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "太陽光については、太陽そのものの発する光線(直射日光)のみならず、青空などの太陽以外の部分からの放射(天空光)も地表に到達するため、青白い光であっても不思議ではない。このため、天空光のみとなる日陰や、曇天・雨天時の色温度は高くなる(もちろん、宇宙空間から見た太陽光線の色は一定である)。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "色彩に関する事業所や病院、美術・博物館向けに、各光源色に演色性を重視した設計の高演色形「SDL」や色評価用「EDL」がある(この場合の演色性とは「特殊演色評価数」、つまり原色を基準色とした見え方の忠実度を指す。これは通常用いられる、中間色を基準色とした「平均演色評価数」よりも達成が難しい)。まれにRaが90を超えていてRaでは演色AAの製品に匹敵する三波長形の製品があるが、この点で演色AAの製品とは異なる。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "普通、蛍光ランプの光色としては価格的に安い一般型白色[W]・昼光色[D]のものが事務所などでは広く使われていたが、1980年代以降は住宅や店舗などを主体に三波長域発光型(電球色[EX-L]、昼白色[EX-N]、昼光色[EX-D]など)の普及が進んできた。事務所などでは一般型の白色や昼光色に替わって昼白色[N]が主流になりつつある。住宅用照明器具では、住宅設備照明のカタログに掲載される型番の器具(主にハウスメーカーや電気工事会社向けとされる)では昼白色と電球色のラインナップとする一方、小売店向け型番の器具では昼白色の代わりに昼光色をラインナップに入れているメーカーが多い。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なかでも店舗照明においては色温度や演色性を含めた照明設計が購買意欲(売上)に大きく影響することが認識され、それを実現するためのさまざまな光色、配光性のランプ商品が用いられている。ただし、商品をより良く見せるには演出過剰でもいけないため、特定の波長を強くしたりといった工夫がある(生鮮食品展示用・食肉展示用蛍光ランプなど)。演色性は色温度ごとに決まっているため、演色性が最高でも色温度によって青く見えたり赤く見えたりする。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ランプの明るさ(効率)についても、その光色によって差異がある。最も明るいのは3波長発光型の昼白色と電球色であるが、3波長型でない一般型では白色[W]が最も明るい。昼光色系の場合、見た目には明るく(青白く)感じるが、実際には白色系に比べると10 %前後暗く(照度や輝度が低く)なるものの、実用上はあまり変わらない。自然光への忠実度(特殊演色評価数)を重視したタイプでは、一般照明用と比べて30–40 %も暗い場合もある。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "演色性を示す数値は同じでも、メーカーによって個性があり、色の見え方(感じ方)は少し異なる。例えばパナソニックのパルックは、やや緑色の再現が過剰であると写真家から指摘されている。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "蛍光管のカタログには、分光分布が載っていることが多い。これはどの色の波長が多いかを示したもので、単に色温度を見るよりも視覚的に分かりやすい。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ただし、分光分布の斜線がなだらかであるほど優れているわけではなく、一般形と高演色形はともに分布図がよく似ており、なだらかな山型のラインにところどころ飛び出ている部分があるが、三波長形は全体的にギザギザである。しかし実際には三波長形は演色性の面では一般形と高演色形の中間である。つまり分布図が不規則であっても、それが色の見え方が悪いということではない。",
"title": "光源色の種類"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "蛍光灯は、エネルギーを光に変える効率がよい。一般的には白熱電球の5倍の発光効率があるといわれる。白色LED(発光ダイオード)も高効率化が進んでおり、ほぼ同程度の照度が出る物も発売されている。",
"title": "明るさ"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ランプの明るさの単位は全光束・ルーメン(lm)である。これはランプから放射される、全ての方向の光の合計である。最新型の三波長のものでは、32 W環形のランプは2640 lmに達している。ランプに表示されている全光束の数値は、標準の試験用安定器を使用して測った場合の数値であるため、効率のよいインバータ器具で使用した場合、ランプ表示の全光束を大きく超えることがある(インバータの性能がよいためであり、過負荷というわけではない)。蛍光ランプ自体の発光効率は、1980年代ごろからほとんど進歩していない(新方式のランプを除く)。",
"title": "明るさ"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "蛍光灯器具の発光効率は、ルーメン毎ワットであらわされる。これは器具によって大きく違い、一般的な28 mm管の器具でも90 lm/Wぐらいのものから50 lm/Wぐらいのものまである。インバータ式の物は高効率で、磁気安定器式の物は低効率である。ランプが長い方が発光効率良い。スリム管・スリムツイン管の場合は従来管よりも明るい。",
"title": "明るさ"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "器具のカバーも明るさに影響を及ぼす。和室用照明などの飾りがついているものや、分厚いプラスチック製のカバーは明るさを落とす。経年変化による変色も明るさや色温度が変わる元になる。",
"title": "明るさ"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "蛍光ランプの寿命は、種類により異なるが、およそ6000–20000時間である。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "蛍光ランプが点灯しなくなり寿命を迎える原因は、ランプ点灯中に起こる、電極に塗布された電子放出性物質(主にタングステン酸バリウム等)の蒸発、飛散による消耗が主である。蛍光ランプは始動時にもっとも負荷がかかり、グロースタータ(点灯管方式。後述)の場合、一回の点灯で約1時間寿命が縮むため、頻繁に点滅させる用途には向かず、より長時間点灯する場所に向く。蛍光ランプ大手のパナソニックは同社ランプ総合カタログにおいて、消灯時間おおむね数分程度を境に、連続点灯による電力消費の損失が、消灯して再始動することによるランプ寿命の損失を上回る(つまり、数分間の電気代より球の寿命の短縮のほうが安い)としている。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "後述の高周波点灯方式では、電子機器で制御することによって始動時の電極予熱を最適化し、従来方式に比べ不点となる寿命の大幅向上を実現した(先に述べた「再始動することによるランプ寿命損失」が減少することを意味する)。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "直管は、一般に消費電力が大きいほど定格寿命が長い。よって、器具が選べる場合は20 W管2本のタイプより40 W管1本のタイプを選択することにより、交換の手間を減らすことができる。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "蛍光灯器具によってもランプ寿命は変わり、良質な設計の器具であれば長持ちしたり、その逆のことが起こったりもする。グローとインバータによる差のほか、メーカー間の差もある。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "点灯することができても輝度は次第に低下するため、JIS規格では光束が当初の70 %に低下した時点も寿命としている。ただし、メーカーによっては80%としている場合もある。また蛍光灯は点灯後に徐々に明るくなるため、数分待ってから計る必要がある。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "輝度が低下する原因としては、水銀蒸気がガラス中のナトリウムと反応して黒色の付着物となること、ガラスが紫外線を吸収して透明でなくなること、などがある。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "北欧ではガラスからナトリウムが浸出することを防ぐコーティング技術と電子放射物質(タングステン酸バリウム等)のスパッタリングを防ぐ特殊な陰極とを組み合わせることによって、8万時間を超える蛍光管が実用化されている。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "グローランプの寿命は蛍光灯の点灯時間ではなく、点灯回数に比例する。グローランプは蛍光灯の交換と同時に取り替えるのが蛍光灯を長持ちさせるコツだといわれることもあるが、あまり消耗していない場合は替えなくてもよい。ただし、蛍光管の終末期に激しく点灯動作が繰り返されると、グローランプもそのたびに消耗するため、この状態で放置すると劣化が激しく進む。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "蛍光灯照明器具の寿命については消費者にはあまり認知されていないが、安定器がおよそ8–10年、それ以外の部分についてはおよそ15年が目安とされている。器具の寿命は周囲温度、点灯時間などによって変化する。一般に点灯時間が長く周囲温度が高いほど短くなる。これは熱による安定器の絶縁体の劣化が進みやすくなるからである。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "一般家庭向けの製品では安定器のみを交換することは想定されていないため、器具全体の買い替えとなるケースがほとんどである。オフィス向けのものでは安定器のみを交換できる場合が多いが、一般家庭向け、オフィス向けともに設計寿命を超えて使用されることが多く、20年を超えて使用されることも珍しくない。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "古くなった安定器は、「ジー」という騒音・振動を発することがある。最近の安定器は安全装置が内蔵され、寿命が来るとコイルやヒューズが切れて電源を遮断するため、発煙・発火の恐れはほとんどない。しかし、安全装置のない古いタイプの安定器をいつまでも使い続けるとレアショートして過熱し、最悪の場合発煙・発火すると共に漏電事故を起こす危険性がある。電子式安定器ではコンデンサの容量抜けなどによりヒューズが飛んだり、コンデンサが破裂・焼損することがある。 しかし、実際には安定器が原因による事故は稀である。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "グロー式の器具にラピッドスタート省エネ型(36 W)を点けてしまったがために、騒音が大きくなる、点かなくなることがある。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1957年1月から1972年8月までに製造された業務用・施設用の蛍光灯器具や水銀灯器具、低圧ナトリウム灯器具の安定器内部に組み込まれている力率改善用コンデンサの絶縁体にはPCBが使われており、近年、学校に設置された蛍光灯器具内の安定器が破裂して漏れ出したPCBが児童に降りかかる事故が発生している。これらPCB使用照明器具の安定器は設置から40年以上が経ち既に寿命を迎えている。危険なので早急な交換が必要である。PCB含有安定器は排出者が厳重に安全に保管しなければならない。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "シーリングライトなどの蛍光ランプが直接見えない構造の器具の場合は、光を透過するプラスチックが蛍光ランプから出る紫外線によって劣化し、黄色く変色することがある。こうなると照度は低下し、効率が悪くなる。現在は変色しにくく透過率が高いカバーが、メーカーによってクリーンアクリルなどと名づけられて採用されることが多い。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "器具本体とは別の寿命だが、袋打ちコードと呼ばれるこたつコードにも似た発熱に耐えられるコードのみで吊り上げている蛍光灯器具の場合、コードが老朽化し、器具の重さによって床に落下するケースもある。心配ならば、鎖で吊り上げるとよい。ほとんどの蛍光灯器具には鎖をかけられる孔が開いている。これは天井側が普通のコンセントかあるいは電球ソケットにセパラボディという組み合わせに考慮したものである。蛍光灯器具によっては引掛シーリングをコンセント用に変換できるプラグを購入しなくても上部のフタを取り外すとコンセントに差し込めるプラグが包まれている場合もある。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "これは一般的なHf蛍光灯昼白色32 W形直管の型番である。FHFはHf式の直管を、32は32 W形であることを、EXは三波長を、Nは昼白色(ナチュラル)を示している。FL式においてはSSは直径28 mmであることを、18は実際の定格消費電力を現している(ただし器具によってはこれより高低がある場合もあり、特にインバーター器具では消費電力もそれぞれである)。",
"title": "蛍光ランプと蛍光灯器具の規格表示"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "直管(FL・FHF)型蛍光灯の場合、メーカー・種類・光色表記がパナソニック ライティングデバイス・三菱電機照明・ホタルクス製品は左側に、東芝ライテック・日立アプライアンス製品は右側にそれぞれ書かれている。: なお、表記中のME、TSP、HLK、SOC、N(「▲▼」のような表記)、PRINCE.D.(またはIWASE.P.D.、もしくはNSD)はそれぞれ実際の製造メーカーであるパナソニック ライティングデバイス、東芝ライテック、日立アプライアンス、三菱電機照明、ホタルクス、プリンス電機を指している。そのため、たとえばメーカーがホタルクスでもMEと表記されていればパナソニック ライティングデバイスが製造した製品ということがわかる。",
"title": "蛍光ランプと蛍光灯器具の規格表示"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "器具については、磁気安定器式の製品は安く、インバータ式の製品は高い。ただし、デザインやリモコンなどの付加価値をつけた製品はさらに高価であるため、点灯方式による価格差はさほど大きくない。インバーター式でも、オーソドックスなペンダント型器具であれば環形2灯式で5000円程度、直管1灯式のベースライトであれば3000円程度のものもある。近年は、磁気安定器かインバーターかというよりも、環形では従来管かスリム(スリムツイン)管か、直管では従来管かHf管かという点に注目ポイントが移りつつある。",
"title": "蛍光灯の価格"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "蛍光管については、かつては高価なもので、1950年の大卒公務員初任給が4000円強の時期に20 W管が450円から600円、40 W管900円であった。2010年代には一般型(演色性・明るさが低い)の製品が100円ショップで売られるようになり、まれに電球型蛍光灯も100円で売られることがあるが、ある程度の品質を持った製品は数百円台である。三波長タイプの相場としては、20 W直管は300円台、30 W環形は500円程度、40 W環形は800円程度となっている。ただし、残光型や長寿命型などはより高価である。高演色型は、SDLは三波長タイプより少し高め、EDLは三波長タイプの2倍程度の価格である。ただし明るさが低いので、三波長形と同じ光量を得るには1.5倍程度の本数が必要である。また、美術館やデザイン用途向けの色評価用や紫外線カット、食品製造現場向けなどに飛散防止フィルムコート、誘虫防止型など、特殊用途向けの製品も多数存在し、これらは付加価値に応じた価格となっている。一般型のうち昼白色のものについては、各メーカーとも独自の名称(「ホワイト」が付くことが多い)を与え、やや高価な価格設定をしていることが多い。スタータ型とラピッドスタート型の価格差はあまりない。環形の物については、1ランク下のサイズの管が管の内側に納まるサイズであることと、両方の管を使う器具が多いことから、2種類のサイズの管を同梱して売る場合も多い。",
"title": "蛍光灯の価格"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "2020年代に入ると、蛍光灯器具の生産終了並びに、LED照明の普及に伴い、生産量が減少などを理由に生産を撤退もしくは値上げするメーカーが増えてきており、蛍光灯の価格が2010年代と比べて2022年現在、価格が約1.7倍まで上昇している。",
"title": "蛍光灯の価格"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ランプにほこりや塵が付着すると光出力が減衰するため省エネルギーの見地からも定期的な清掃が必要になる。ランプの清掃にはスポンジが好ましく、清掃時には導電部分、ソケット、安定器、配線部などに水がかからないようにする。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ランプの交換はランプの価格、交換費用、交換作業、美観などを総合的に判断し、定格寿命の70 %程度を経過したときに行うのが経済的とされている。一般家庭においてはランプが点灯しなくなった時点でそのランプを新品と交換する個別交換でよいが、カバー付き照明器具のように蛍光ランプが直接見えずそのうち一個が不点になってもわかりにくいものも多くなっている。ランプの交換には次の方法がある。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "蛍光灯はガラス製品のため衝撃を加えると破損するおそれがある。また、取り付けが不十分だと点灯せず落下したり、接触不良によりランプの寿命が短くなったり発熱の原因となる。蛍光灯は点灯中や消灯直後は熱くなる性質がある。なお、エアコンなどによって風の当たりやすい部分には黒化や斑点現象がおきやすい。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "適正な電圧は安定器で指定の電圧のプラスマイナス6 %とされている。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "事故を防ぐため、設置地域の商用電源周波数に合った蛍光灯器具・安定器を使用する。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "蛍光灯は点灯に際し安定器が必要であるが、適合電源周波数で使用しないとさまざまな問題が生じる。施設照明器具の市場の大半を占めるパナソニック(旧:パナソニック電工、松下電工)と東芝ライテックでは、周波数区分が容易に判るように、器具型番のシールと電線色を分けている。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "建築基準法による非常灯は、周波数区分にかかわらず赤である。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "これは、安定器内部のコイルは周波数の高い交流ほど流しにくくなり、逆にコンデンサは周波数が高いほど交流を流しやすくなるためである。このため、一般の安定器を使用する器具を周波数の違う地域で使用する場合、安定器を交換しなければならない。ただしインバータ式安定器は日本国内であればどこでも使用できる。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "子供用学習机に付帯される蛍光灯照明は「チラツキが少なく目に優しい」としてインバータ式の普及が急速に進んだため、現在では見かけることはまずないが、スタータ式の照明の時代には周波数切り替えスイッチが取り付けられているものが多く、これを切り替えることにより周波数の異なる地域でもそのまま使用できた。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "適正な周囲温度は5 °Cから40 °Cで5 °C以下になると点灯直後は暗くちらつきなどを起こす。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "事故を防ぐため、照明器具の始動方式に合った蛍光管を使用する必要がある。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "特に、複数方式に対応するランプフリーの安定器を搭載しているなど方式そのものは問題がない場合であっても、器具全体としては管の支持方法やカバーの取り付け、放熱設計など種々の制約により適合ランプを限定している場合があるので、たとえ下記記述で互換性があるとされる場合であっても、取扱説明書や器具本体の表示等を必ず確認すること。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "蛍光灯には水銀を含むガスが封入されているため、割って埋め立て処分するなどの方法では、割った際にガスが環境中に放出されたり、最終処分場が水銀で汚染されてしまうなどの問題がある。そのため適切に回収され再資源化することが望ましい。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "米国では廃蛍光ランプは専門業者が回収を行い、この際割らずに回収させなくてはならず、割れた場合には高額な回収費用が請求される。回収された廃蛍光ランプは専門の設備により口金金属部、管状部に丁寧に分割され、中の水銀は銅キャニスターに回収される。残りの部材はアルミ、電極、ガラス、蛍光体へと分別され、完全リサイクルされる体制が確立されている。北欧では、廃棄蛍光灯の総量を減らすため、蛍光灯の長寿命化への取り組みが盛んである。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "一方、日本では、回収して水銀をリサイクルできる専用の施設(例: イトムカ鉱山を参照)に処理を委託する方法がとられつつあり、環境マネジメントシステム ISO 14000 の認証を取得している企業などではこちらの方法が一般的である。一般家庭から廃棄される蛍光灯は、一部の自治体が回収を行っているものの、現在でも多くの地方自治体が燃えないごみに出すように定めており、環境意識の高まりとともに改善を求める声があがっている。自治体が回収を行っていない地域であっても、一部の家電量販店や電器店・ホームセンターなどが「蛍光管回収協力店」として店頭で無料で回収している場合、または蛍光灯購入を条件に回収している場合、などがある。また、大日本プロレスが試合会場や郵送で無料回収している。回収された蛍光灯は実際に蛍光灯デスマッチに使用される。",
"title": "蛍光灯の保守管理"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "ガラス管の外面全体にポリエステルフィルムの合成樹脂で被膜を施した蛍光管。Pタイプと呼ばれている。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "万一の破損に対し、樹脂フィルムで落下や飛散を防ぐ。防飛型とも呼ばれる。薄いガラス素材である蛍光管は、破損の際に非常に細かい破片が飛散し、人の目や口腔をはじめ、気管にも到達する危険がある。そのため異物の混入が事故となる現場や、破片の除去・清掃が困難な製品や機器を扱う環境で利用されている。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "公共施設や鉄道・路線バスを始めとする輸送機械、加工食品の工場、学校で使用されている。また、サーバ・コンピュータルーム、国際宇宙ステーションでも使用されている。高価なため、一般家庭には普及していない。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "フィルムにUVカット性能を持たせ、防虫(避虫)効果を兼ね備えた製品もある。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "蛍光管の表面に酸化チタンの被膜を施した蛍光管。PCタイプと呼ばれている。光触媒の作用でランプ表面に付いた有機物の汚れを分解し、室内の臭いを軽減する機能もある。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 104,
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"text": "夜間活動性の昆虫は明るいところでは視機能が低下する性質を利用して果樹園などでの吸害被害を防止するための蛍光管(黄色蛍光ランプ)。Yタイプと呼ばれている。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "夜行性昆虫の捕虫用の蛍光灯で近紫外域の光を効率よく発するようにした蛍光管。BLタイプと呼ばれている。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "生鮮食品や食肉を新鮮で美味しく見せるための食品展示用の蛍光灯。冷蔵・冷凍ショーケース内では低温下でも明るさの低下が少なく始動性に優れた低温用蛍光ランプが使用されている。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 107,
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"text": "青色と赤色の発光成分を組合せたランプで、観葉植物や熱帯魚の観賞用と光合成を促進する植物育成用がある。BRタイプと呼ばれている。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "蛍光管の内部に紫外放射吸収膜を施した蛍光管。NUタイプと呼ばれている。美術館などで作品の色への影響を軽減するために利用される。また、店舗や食品工場では誘虫を防ぐため白色系のランプが利用される。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "繊維、塗装、染色などの分野で利用される表面色評価用の標準光源として自然光に近似した光を出す蛍光灯。色評価用ランプは印刷工場、写真現像所、美術館・博物館でも使用される。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "近紫外光のみを有効に放射する、文書や鉱物の鑑定・鑑識、舞台や看板用などの効果照明用のブラックライト蛍光ランプが使用した蛍光灯。BL-Bタイプと呼ばれている。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 111,
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"text": "養鶏場で使用される光放射による産卵時期の制御のための蛍光灯。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "半導体工場のクリーンルーム内に使用される純黄色の蛍光灯。Y-Fタイプと呼ばれている。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "紫外放射による殺菌を行うための蛍光灯。GLタイプと呼ばれている。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "パソコンのモニターやテレビ用の管径の細い蛍光灯。",
"title": "特殊加工を施した蛍光管"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "省エネと環境負荷低減の観点から、2010年代以降はLED照明への移行が急速に進み、一般照明としての蛍光灯と水銀ランプは終息する方向にある。",
"title": "終息への流れ"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "赤崎勇、天野浩、中村修二らによる、実用的な青色発光ダイオードの発明と高輝度化への成功、これを応用した高輝度白色LEDの開発により、2000年代に実用化したLED照明は、蛍光灯より消費電力が少なく、かつ長寿命のため長期間にわたりランプ交換も不要という利点により、急速に普及し低廉化、日本においては2011年3月11日の東日本大震災に伴って、日本の原子力発電所が全基停止措置による電力不足が普及に拍車をかけた。",
"title": "終息への流れ"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "これを受け日本の大手電機メーカー各社は、蛍光灯照明器具の新製品発表を2012年以降取りやめており(乾電池や充電式電池で駆動するアウトドアランタンはLEDへ完全移行し、蛍光灯を用いるランタンの生産は終了)、中でも照明器具国内シェア首位のパナソニックは、先陣を切って「2015年度を以て蛍光灯及び白熱電球を用いる一般住宅向け従来型照明器具生産を終了し、今後はLED器具へ完全移行(蛍光ランプ及び電球型蛍光ランプは交換用途のみに絞って生産を継続)する」旨を公式発表した(2014年3月4日付、朝日新聞経済面記事にて報道。なお卓上型の電球&蛍光灯器具生産は、2011年限りで終了しLEDへ完全移行)。こうした「脱蛍光灯」の動きは、今後他社にも広がる可能性がある。なお白熱電球生産は(一部特殊用途を除き)2012年度を以て、日本の製造メーカー全社が完全終了した。",
"title": "終息への流れ"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "従来型蛍光ランプ(Hf器具専用スリム管も含む)・電球型蛍光ランプ・点灯管・ミニクリプトン電球は「交換用途に絞って」生産が継続されているが、日立グローバルライフソリューションズは「LED器具&電球の普及で従来型蛍光ランプの需要が減少傾向にあり、かつ材料価格高騰で製品の安定供給が今後困難となることが予想されるため、蛍光灯・白熱電球器具に続き蛍光ランプ・点灯管生産を2019年12月限りで完全終了し、今後はLED電球及びLED照明器具のみの生産へ完全移行(日立製蛍光ランプ・点灯管は2020年3月までに在庫品限りで販売終了)する」と発表。蛍光ランプ生産からの完全撤退は、日立グローバルライフソリューションズ(旧・日立ライティング)が大手電機メーカーで初となり、翌2021年3月には三菱電機照明が蛍光ランプ・点灯管・ミニクリプトン電球生産を完全終了(LED電球とLED照明器具のみの生産へ完全移行する)予定。東芝ライテックは2016年限りで蛍光灯の自社生産より撤退し、以降(「メロウZプライド」シリーズを中心とする)「TOSHIBA」ブランド蛍光灯生産はパナソニック ライティングデバイスとホタルクスへの委託へ切り替わっている。",
"title": "終息への流れ"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "今後、日本の蛍光ランプ&点灯管メーカーはパナソニック ライティングデバイスとホタルクス(NECブランド)のみとなり、日立系列店「日立チェーンストール」と三菱系列店「三菱電機ストアー」で販売される蛍光灯は今後パナソニック ライティングデバイス「パルックプレミア」・東芝「メロウZプライド」・NEC(ホタルクス)「ホタルック」などの他社製品へ置き換わっていく。",
"title": "終息への流れ"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "2015年11月26日の複数の報道で、日本国政府が省エネ法の政令を改正し、2020年度をメドに蛍光灯や白熱灯の生産や輸入を、実質的に禁止する方向であると報じられたが、経済産業省は「これらを一律禁止するものではない」として、報道内容を否定した。",
"title": "終息への流れ"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "蛍光灯が使用する水銀は『環境負荷物質』として、EU域内では、RoHS指令による規制の対象であるが、蛍光灯を代替できる他の技術が確立されていなかったことや、蛍光灯が広く普及していたこと、発光原理上水銀を使用せざるを得ないことを理由として、蛍光灯への使用は許容されている。",
"title": "終息への流れ"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "しかし、水銀の使用と輸出入を2020年以降規制する、水銀に関する水俣条約 が2017年8月16日に発効、これを受け日本でも廃棄物処理法に新たに水銀含有廃棄物の区分が設けられ、廃棄蛍光ランプも『有害廃棄物』として管理を求められるなど、処分費用の負担が増加することから、産業廃棄物処理業者の中には、廃棄蛍光ランプの受け入れを取りやめたり、追加費用を請求する例が出ている。家庭から排出される廃棄蛍光ランプを無料回収していた量販店も、東急ハンズなど一部は有料回収に切り替えている。",
"title": "終息への流れ"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "蛍光灯を代替する技術として、LED照明も既に実用化されていることから、日本においては、新築のオフィスビルなどでは全館LED照明を採用する事例も増えている。家庭向けにも蛍光灯照明器具の製造・販売を終息するメーカーが相次いでおり、蛍光灯の使用は淘汰される方向へと情勢が大きく変化している。",
"title": "終息への流れ"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "なお、いわゆるレトロフィットの一種として蛍光灯器具に装着可能なLED管も存在するが、電球型蛍光管からの事実上の発展型である電球型LEDとは異なり、装着にあたって安定器をバイパスする工事を要するものや、スターター式のみ工事不要としているもの、完全工事不要のものなどが製品によりまちまちだったり、LED管自体も元来からのLED器具に装着するものと互換性がない等(元来からのLED器具に装着するものは蛍光灯器具に装着できないよう口金が片方異なる)で電球型LEDほどは普及しているとは言い難い。そもそもが直流駆動であったり、交流でも商用電源とは互換性のない高周波駆動であったりする車内照明用途では管自体の破損対策等もあり器具ごと交換するのが一般的となっている。",
"title": "終息への流れ"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "2027年末で、直管型蛍光灯の製造を禁止することを国際会議で合意した。電球型蛍光灯は2025年に製造禁止となる。",
"title": "国際会議"
}
] |
蛍光灯(けいこうとう)または蛍光ランプ、蛍光管(けいこうかん)は、放電で発生する紫外線を蛍光体に当てて可視光線に変換する光源である。方式は 熱陰極管 方式と 冷陰極管 方式とに大別される。一般照明用に使用される蛍光灯は一部の例外を除いてほとんどが熱陰極管方式であり、冷陰極管方式は液晶モニターのバックライト用途などに使用されることが多い。 本稿では主に照明用途で用いられる熱陰極管方式の蛍光灯について記す。冷陰極管方式の詳細については冷陰極管を参照されたい。 最も広く使われているのは、電極をガラス管内に置き(内部電極型)、低圧水銀蒸気中のアーク放電による253.7 nm線を使うものである。
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[[Image:Leuchtstofflampen-chtaube050409.jpg|right|250px|thumb|さまざまな蛍光灯]]
'''蛍光灯'''(けいこうとう)または'''蛍光ランプ'''(fluorescent lamp)、'''蛍光管'''(けいこうかん)は、[[放電]]で発生する[[紫外線]]を[[蛍光体]]に当てて[[可視光線]]に変換する[[光源]]である。方式は 熱陰極管 (HCFL; hot cathode fluorescent lamp) 方式と [[冷陰極管]] (CCFL; cold cathode fluorescent lamp) 方式とに大別される。一般照明用に使用される蛍光灯は一部の例外を除いてほとんどが熱陰極管方式であり、冷陰極管方式は液晶モニターのバックライト用途などに使用されることが多い。
本稿では主に照明用途で用いられる熱陰極管方式の蛍光灯について記す。冷陰極管方式の詳細については[[冷陰極管]]を参照されたい。
最も広く使われているのは、[[電極]]を[[ガラス]]管内に置き(内部電極型)、低圧[[水銀]][[蒸気]]中の[[アーク放電]]による{{val|253.7|ul=nm}}線を使うものである。
== 原理 ==
蛍光灯は低圧にしたガラス管内の水銀蒸気中に放電を行い、発生した紫外光(波長253.7 nm)を蛍光体で可視光に変換するもので、蛍光体の種類ごとに異なる光源色や演色性の光を得ることができる<ref name="guide_keikou">{{Cite web|和書|url= https://www.jlma.or.jp/tisiki/pdf/guide_keikou.pdf |title=蛍光ランプガイドブック |publisher=一般社団法人 日本照明工業会 |accessdate=2019-11-18}}</ref>。
=== 構造 ===
蛍光灯は、蛍光物質が管内に塗布されたガラス管(白く見えるのは蛍光物質のため)と、両端に取り付けられた電極とで構成されている。電極はコイル状の[[フィラメント]]に[[エミッター]](電子放射性物質)を塗装したもので、これが両端に2本ずつ出ている4本の[[端子]]に繋がっている。ガラス管内には、放電しやすくするために2–4 [[ヘクトパスカル|hPa]](1[[気圧]]は1013.25 hPa)の封入ガス([[アルゴン]]あるいは混合希ガス)と少量の[[水銀]]の気体が封じ込まれている。発光時の内部温度は1万 °Cに達するが、気圧が非常に低いため、[[ガラス]]が溶けることはない。
蛍光灯に使用される水銀は、金属水銀(無機水銀の一種)である<ref name="guide_keikou" />。水銀封入量は、1975年には40 W直管形で約50 mgだったが、2007年には約7 mgにまで削減されている<ref name="guide_keikou" />。
=== 点灯の仕組み ===
電極([[陰極]])に[[電流]]を流すと加熱され、高温になったエミッターから大量の[[熱電子]]が放出される。放出された電子はもう片方の電極([[陽極]])に移動し、放電が始まる(通常は交流を流すため、陰極・陽極は同じ形状である)。放電により流れる電子は、ガラス管の中に封入されている水銀[[原子]]と衝突する。すると水銀原子が電子の[[エネルギー]]を受け、紫外線を発生させる。発生した紫外線はガラス管内に塗布されている蛍光物質に照射され、[[可視光線]]が発生する。
白熱灯と比べると、同じ明るさでも[[消費電力]]を低く抑えられる。消費した[[エネルギー]]の変換比率は、可視放射25 %、赤外放射30 %、紫外放射0.5 %で、残りは熱損失となる。
白熱灯と違い、点灯には安定器(インバータ含む)が必要なため、直接電圧を掛けただけでは使用できない。ただし電球形蛍光灯では安定器を内蔵しているため、直接[[ソケット (電気器具)|ソケット]]に差すだけでよい。
蛍光灯の点灯開始に当たってはフィラメントの予熱が必要なため、始動専用回路が必要である。
== 用途 ==
* 全般照明
** [[シーリングライト|シーリング]]や[[ペンダント#装飾品以外のペンダント|ペンダント]]などのタイプがある。家庭用72 [[ワット|W]]以上の商品はほとんどが[[インバータ]]式である。施設用・業務用は以前、磁気安定器式が多かったが、インバータ式の[[高周波]]点灯タイプが現在は広く使用されている。
* 局部照明([[電気スタンド]]など)
** 磁気安定器式からインバーター式に代わっている。
* [[懐中電灯]]
** [[乾電池]]の[[直流]]をインバータで[[交流]]にし、[[変圧器]]で昇圧し点灯する。携帯できる。
* [[液晶パネル]]の[[バックライト]]
** 非常に細い[[冷陰極管]](CCFL)が使われていたが、小型のものから次第に[[発光ダイオード]]への移行が進み、2010年代には大型パネルも含め、LEDに取って代わられた。
== 歴史 ==
* [[1856年]]:[[ドイツ]]のガラス工(後に[[物理学者]])[[ハインリッヒ・ガイスラー]]によって作られた[[ガイスラー管]]が、蛍光灯の起源と考えられている。低圧の[[気体]]を封入したガラス管の中に2個の電極を置き、電極間に[[電磁誘導|誘導]][[コイル]]によって[[高圧#超高圧について|高電圧]]を加えると、放電による気体の発光が観測される。
* [[1859年]]:[[フランス]]の物理学者[[アレクサンドル・エドモン・ベクレル]]は、[[蛍光]]・[[燐光]]・[[放射能]]の研究の際、蛍光性ガスを管に封入することを考案した<ref name="FSU">{{Cite web|url = http://micro.magnet.fsu.edu/optics/timeline/people/becquerel.html|title = Alexandre Edmond Becquerel|accessdate = 2015-11-28|publisher = The Florida State University|work = Molecular Expressions: Pioneers in Optics|author = Michael W. Davidson}}</ref>。
* [[1893年]]:[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会]]では[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イリノイ州]]のパビリオンが、[[ニコラ・テスラ]]による蛍光灯を紹介した。
* [[1894年]]:アメリカの発明家ダニエル・ムーアは、[[ムーアランプ]]<ref>D. F. Moore, [https://books.google.com/books?id=poHOAAAAMAAJ&pg=PA445 "Vacuum-Tube Lighting"], ''[[Cassier's Magazine]]'', Vol. XXVI, No. 5 (Sept. 1904); pages 445-454; includes several photos.</ref>を発明した([[:en:Daniel McFarlan Moore#The Moore lamp]])。このランプは市販用であり、かつて彼が部下として働いていた[[トーマス・エジソン]]の[[白熱電球]]と販売を競う目的でつくられた。使われたガスは特別な[[第18族元素|不活性ガス]]ではなく[[窒素]]と[[二酸化炭素]]で、それぞれピンク色や白色の光を放ち、商業的にもそこそこ成功した<ref>天井の周囲などに張り巡らすことで、今で言う[[間接照明]]を実現できた。[[寺田寅彦]] 『[https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card61021.html ムーア灯]』(1907 [[東京朝日新聞]]) [[青空文庫]]</ref>。
* [[1901年]]:アメリカの電気[[技術者]]ピーター・クーパー・ヒューイットは、青緑色に光る[[水銀灯]]のデモンストレーションを行った。照明としての実用性は低かったが、現代の蛍光灯に非常に近かった。白熱電球よりも光の[[波長]]は短かったが、効率は高かったため、[[写真]][[撮影]]など特別な用途に使われた。
* [[1926年]]:ドイツの発明家エトムント・ゲルマーのグループは、管内の圧力を上げ、蛍光粉末で覆うことで、放たれた紫外線を均一な白い光に変換することを提案した。この発見によってゲルマーは一般に蛍光灯の発明者と認められた。
* [[1934年]]:アメリカの[[電機メーカー]]、[[ゼネラル・エレクトリック]]は、ゲルマーの[[特許]]を購入し、ジョージ・インマンの指導のもと、蛍光灯を実用化した。
* [[1937年]]:[[ゼネラル・エレクトリック]]が蛍光灯を発売開始した。
* [[1939年]]:東京芝浦電気(現・[[東芝]]/[[東芝ライテック]]。以下「東芝」と記す)がGE社インマン博士から直接技術指導を受け、[[日本]]で初めて蛍光ランプの試作に成功した。翌年[[紀元二千六百年記念行事|紀元2600年記念事業]]の[[法隆寺金堂壁画]]模写事業で試作品が採用され、日本で初めて蛍光ランプが実用に使われた<ref>{{Cite web|和書|url=http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/1940fluorescent/index_j.htm|title=東芝未来科学館:日本初の蛍光ランプ|author=東芝未来科学館|accessdate=2019-04-18}}</ref>。[[中谷宇吉郎]]は直射日光のようだと驚きを述べている<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/57329_73208.html 中谷宇吉郎 壁画摸写]</ref>。
* [[1941年]]:東芝が“マツダ蛍光ランプ”として、昼光色15 Wと20 Wを正式に発売した。同年、[[パナソニック|松下電器産業(現・パナソニック)]]が[[灯火管制]]用の「防空用電球」を発売。
* [[1953年]]:東芝が日本で初めて環形蛍光ランプを製作した。電力は32 Wで、米国ではすでに生産されていた。[[1955年]]には、日本の[[配電]][[電圧]]である100 [[ボルト (単位)|V]]で、[[変圧器]]を用いずに簡易な[[チョークコイル]]形安定器で直接点灯できる30 W型を開発した。15型は[[1968年]]、9型は[[1982年]]に発売した。
* [[1973年]]:日本で初めて電球色の蛍光ランプ(直管、Ra70)を[[日本電気]][[オスラム|シルバニア]]が製作した。同年には[[日立製作所]](以下「日立」と記す)が環形の[[色温度]]3900 [[ケルビン|K]]の「[[電球]]色」蛍光ランプを製作している。
* [[1978年]]:[[電球形蛍光灯]]を日立が製作した。
* [[1979年]]:日本で初めて片側に反射用蛍光膜を塗った環形蛍光ランプ「リングパワー」を日立が製作した。現在も東芝が同種の製品を出している。
* [[1989年]]:日本で初めて紫外線褪色シールによるランプ交換時期通知機能付き蛍光ランプ「ひかりの見張番」を日立が製作した。4000時間ほどで黄色のシールが透明になる。
* [[1993年]]:高周波数(Hf)蛍光灯ランプが発売された。
* [[1995年]]:世界で初めて残光形蛍光ランプ「[[ホタルック]]」を[[日本電気ホームエレクトロニクス]]が製作した。
* [[1997年]]:世界で初めてとなる二重環形蛍光ランプ「[[ツインパルック蛍光灯|ツインパルック]]」を[[パナソニック|松下電器産業(現・パナソニック)]]が発売した<ref>{{Cite journal |和書 |author=杉山謙二 |date= |year=1999 |month= |title=高周波点灯専用形蛍光ランプ(2) |journal=照明学会誌 |volume=83 |issue=10 |page= |pages=766-768 |publisher=一般社団法人照明学会 |location=東京 |issn=0019-2341 |doi=10.2150/jieij1980.83.10_766 |id={{全国書誌番号|00033352}} }}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author=高橋喜将 |date= |year=2002 |month= |title=細径環形蛍光ランプの開発と技術動向 |journal=照明学会誌 |volume=86 |issue=1 |page= |pages=12-15 |publisher=一般社団法人照明学会 |location=東京 |issn=0019-2341 |doi=10.2150/jieij1980.86.1_12 |id={{全国書誌番号|00033352}} }}</ref><ref>{{Cite press release |title=高周波点灯専用二重環形蛍光灯「ツインパルック プレミア」を発売 |publisher=松下電器産業 |date=2007-09-05 |df=ja |url=https://news.panasonic.com/jp/press/jn070905-1 |language=ja |accessdate=2023-06-24 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://panasonic.jp/lamp/contents/led/history.html |title=パナソニック あかりの歴史 |accessdate=2023-06-24 |date= |website=「しあわせを照らすあかり」パルックLED スペシャルサイト |work=LED電球・蛍光灯 |publisher=パナソニック }}</ref>。
* [[2007年]]:G-Hf蛍光ランプは従来のHf2本の明るさがG-Hf1本で済んでしまうものが発明された。
* [[2010年]]:スパイラル蛍光ランプ「[[スパイラルパルック蛍光灯|スパイラルパルック]]」を[[パナソニック|松下電器産業(現・パナソニック)]]が制作した。寿命は約20,000時間、1W当たりの発光効率は最大124.3lmと、高周波点灯専用(インバータ)蛍光ランプとしては寿命・省エネ性能ともにトップとなった。
* [[2013年]]:長寿命・高性能で普及が進むLEDに対し、蛍光灯は安いというメリットがあったが、LEDの低価格化により、蛍光灯の最終形態であるスパイラルパルックのコスパを上回り、新規の照明器具としては設置されなくなった。10月、パナソニックはスパイラル蛍光ランプ対応の照明器具の生産を終了。
* [[2015年]]:パナソニックはスパイラル蛍光パルックを作っていたインドネシアの工場閉鎖に伴い、生産を終了した。スパイラル蛍光パルック対応照明器具のユーザーには代替ランプが供給される。
* [[2017年]]:3月、東芝が蛍光灯照明器具の生産を終了。同業他社も照明器具の生産終了を表明している中、同年の[[水俣条約]]の発効に伴い蛍光灯自体の生産も終了されることが予想されていたが、水銀の含有量を少なくした商品にHgマークが付くことを条件に、生産を継続できるようになった。同年、水俣条約とは別に水銀を規制するRoHS指令も施行されたが、蛍光灯に関してはRoHS指令の適用が除外され、生産を継続できるようになった。
* [[2019年]]:3月、国内最大手のパナソニックが全ての蛍光灯照明器具の生産を終了。ただし蛍光灯自体の生産は継続される。3月、日本政府と日本照明工業会が「照明成長戦略 Lighting Vision 2030」を公開し、2030年までに蛍光灯を全てSSL(Solid State Lighting、LED、有機EL、レーザーなど)で置き換えることを表明。日本における蛍光灯の生産終了は[[2030年]]と想定された。12月、三菱電機が全ての蛍光灯の生産を終了。
* [[2021年]]:RoHS指令の適用除外が延長。
* [[2022年]] : 3月、「水俣条約」の第4回締約国会議が開催され、2025年をもって電球型蛍光灯の生産を禁止することで合意。
* [[2023年]] : 11月、「水俣条約」の第5回締約国会議が開催され、2027年をもって蛍光灯の生産を禁止することで合意。
* [[2027年]]:[[12月31日]]、 全ての一般照明用蛍光灯の製造及び[[輸出入]]が禁止される(予定)。ただし、翌年以降も使用や在庫品販売は継続できる<ref>{{Cite web|和書|title=蛍光灯、27年末で製造禁止 水銀規制の水俣条約会議で合意:東京新聞 TOKYO Web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/287902 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2023-11-04 |language=ja}}</ref>。
2021年現在、日本国内メーカーではパナソニック、東芝ライテック、ホタルクス(旧・NECライティング)の3社のみが蛍光灯を生産している。日本を含む「水俣条約」を締結する全ての国において、全ての蛍光灯は2027年末に生産禁止が予定されている。
== 始動方式 ==
=== スタータ式 ===
以下の3種類がある。この器具に使えるランプは FL・FCL・FPL・FDL・FMLである。
==== グロースタート式(点灯管式) ====
[[image:Fluorescent_Light.svg|right|230px|thumb|点灯管方式の[[回路図]]。A: 蛍光管、B: 電源、C: 点灯管、D: [[バイメタル]]式接点、E: 雑音防止コンデンサ(この図では点灯管に内蔵されたタイプ)、F: フィラメント、G: 安定器]]
点灯管を用いて電源を入れると自動的に点灯する。蛍光管・[[#安定器の種類|安定器]]・[[点灯管]](グロースタータ)で構成される。かつて一般家庭用として最も普及した。
* 始動時の動作
*# [[開閉器|スイッチ]]を入れると点灯管の内部で放電が起こり、その放電[[熱]]によって点灯管内の[[バイメタル]]が作動し、閉回路を構成する(点灯管は最初の放電時に光るがその後暗くなる)
*# 点灯管を経由して流れる電流が、蛍光ランプ両端のフィラメントを予熱する(蛍光ランプの両端がオレンジに光る)
*# 点灯管内の放電はすでに止まっているので、バイメタルは冷え、元の位置に復帰し、点灯管を経由する閉回路が開放される
*# すると安定器の[[コイル]]がもつ[[インダクタンス|自己誘導作用]](電流が変化すると起電力を生じる性質)により、高電圧([[キック電圧]]という)が発生する
*# キック電圧をきっかけにして、温められていたフィラメントから電子が放出され、蛍光ランプが始動する
*# 蛍光ランプが点灯している間は、点灯管にかかる電圧が点灯管の放電開始電圧以下に下がるので点灯管が動作することはない(蛍光ランプの点灯前と点灯後では[[インピーダンス]]が異なることによる)
始動にかかる時間は、従来型の点灯管を使用した場合は3秒程度と、蛍光灯の中では遅い。点灯する際に点灯管から「ピンッ」もしくは「コン、コン」など、若干の音が出る(バイメタルの復帰のため)。電子点灯管に交換すると、約0.6–1.2秒と通常よりも早く点灯する。
2008年現在使用されている点灯管は
* E形 - E17口金タイプ
* FG-7E - 4–10 W
* FG-1E - 10–30 W
* P形 - P21口金タイプ、[[雑音]]防止[[コンデンサ]]内蔵
* FG-7P - 4–10 W
* FG-1P - 10–30 W
* FG-5P - 32 W
* FG-4P - 40–65 W
* FG-52P - 52 W
である。動作回数は6000回程度(長寿命形は約18000回)である。4–32 Wのランプでも200 V用の安定器を使用している場合はFG-4Pが使用できる。
100 V30 W以下および200 V40–65Wはチョークコイル形安定器を用いる。100 V32–65 Wと100 V/200 V52 Wは放電を維持する電圧まで昇圧する必要があるので、小形で安価になる単巻磁気漏れ変圧器形安定器を用いる。一般にこれら安定器は低[[力率]]のため、必要に応じて[[電源]]側に適当な値のコンデンサを[[直列回路と並列回路#並列回路|並列接続]]し高力率にする。この器具は省エネ形のランプを除き(省電力形のFLR40M/36は安定器に過電流が流れ、過熱・焼損の恐れがあるので不可)[[#ラピッドスタート式|ラピッドスタート式]]のランプを取り付けても使用できる(ただし即時点灯はしない)。
==== 手動スタート式(マニュアルスタート式) ====
グロースタータの代わりに始動用のスイッチを接続する。始動スイッチを長押しして(プルスイッチを引いて)フィラメントを予熱し、ボタンを放す(プルスイッチを放す)際に安定器にキック電圧が発生して放電が開始される。旧式のデスクスタンドや初期の蛍光灯器具に見受けられる。
==== 電子スタート式 ====
グロースタータの代わりに電子点灯管もしくは電子点灯回路を利用したもの。ほぼ瞬時に点灯する(約0.6–1秒)。照明器具内蔵の場合と、別売り品をグローソケットに差し込む場合とがある。始動時の点滅がないので電極に与える負荷が少ない。ランプ寿命時には点滅を繰り返さずに消灯する。無接点なので一般の点灯管にくらべ長寿命である(動作回数は10万–20万回)。大型の円形蛍光灯に多い。
2020年現在市販されている電子点灯管は
* FE7E - 4–15 W
* FE1E - 10–30 W
* FE5P - 32 W
* FE4P - 40 W
* FE52P - 52 W
がある。
; 直列2灯スターター式
: 日本では見かけないが海外200–250 V圏では直列2灯スターター式も使用されている。4–20 W(30 W)のランプに使用される。グロースタート式、手動スタート式、電子スタート式がある。
=== ラピッドスタート式 ===
ラピッド(rapid)で「速い」の意。 この器具に使えるランプは FLR である。 点灯管を使用せず始動補助導体を持ったラピッドスタート形ランプと、予熱巻線付きの磁気漏れ変圧器形安定器の組み合わせで始動する。点灯はほぼ即時(1–2秒)。[[オフィスビル|ビル]]・[[百貨店]]・[[ホテル]]・[[鉄道駅|駅]]・[[病院]]・[[学校]]・[[会社]]・[[スーパーマーケット]]・[[コンビニエンスストア]]などの[[公共施設]]の多くはこの方式の蛍光灯を用いているが、後述のHf式への移行が進んでいる。
安定器は大きい。ビルなどでは[[ビルメンテナンス]]要員が交換することが多いが、重量が重いため交換には手間がかかる。特に直管110H形になると安定器だけで3 kg近い重さ(リードピーク形安定器の場合)になり、2人以上の交換要員が必要になることも多い。
施設照明用電子式安定器(FLR指定)はこの方式の発展で、予熱用電源部・放電用電源部で構成されている。
* 始動時の動作
** 1灯用
**# ランプ両端のフィラメントが、安定器の予熱巻線から供給される電流で加熱される。
**# 同時に、始動に必要な電圧がランプ両端にかかる。このとき始動補助導体とフィラメントとの間に微弱な放電が発生し、すぐに主放電に発展する。
** 直列2灯用
**# フィラメントの予熱と同時に、始動用コンデンサを経てランプ1に電圧が加わり、微放電を開始する
**# 続いてランプ2も微放電を開始し、その時の電流と始動用コンデンサの積の電圧で始動する
*** ランプ2本を[[直列回路と並列回路#直列回路|直列接続]]し、片方のランプのみコンデンサを並列に接続する。通常40 Wランプが放電開始するには200 V前後の電圧が、直列にすると300 V前後必要となる。また110 Wランプが放電開始するには300 V前後の電圧が、直列にすると450 V前後必要となる。しかし[[電気設備技術基準]]で300 Vを超える安定器類は規制が厳しくなる(ランプを外すと電源が遮断されるインターロック回路の装着など)ため、この方法が取られる。
* 始動補助方式
*; 外面[[シリコン]]式 A
*: ランプ外面に撥水性の被膜を塗布し、始動補助導体(器具反射板で代用)を使用する。一般用・高出力用。
*; 外面導電ストライプ式(外面導電テープ式) M(東芝ライテックは M‐A 環形 J、三菱オスラムはM‐D)
*: パナソニックはランプ外面に導電ストライプを塗布し、一方の電極に高抵抗を介して接続すると共に、ランプの表面に撥水処理する(但しストライプ・口金が反射板や近接導体などに接触する器具には使用できない)。調光器具用・一般用。
*: 東芝・三菱はランプ外面に導電ストライプを塗布し、ランプの表面に撥水処理する。専用器具を使用し導電ストライプを接地させる。調光器具用
ランプ背面に茶色の帯が焼き付けられているのと、口金がギザギザの物で端子部の絶縁体が大きいのが特徴。
*; 内面導電皮膜式 M(パナソニックは M-X)
*: ランプ内面に透明導電性皮膜を塗布する。一般用。
*; 内面導電ストライプ式 M-N
*: ランプ内面に導電ストライプを塗布(現在は余り使われていない)
=== インバーター式 ===
点灯管が不要で[[インバーター]]回路により始動する。高周波点灯により毎秒の発光回数が増えるため、ワット数あたりの明るさは向上するが、使用不可の蛍光灯が多い。
機種によって FL・FCL・FLR・FPL・FPR・FHP・FHC・FHD・FHG・FDL・FHT・FML・FWL・FHF ランプのいずれかが使える。ランプフリータイプもある。
=== 瞬時起動式 ===
1ピンタイプのスリムライン蛍光灯に使用される。余熱無しで高電圧で瞬時に始動する。
FSLから始まるもの。2ピンのスリムラインFSR・FSLはラピッドスタート式。
== 安定器の種類 ==
=== 磁気回路式安定器 ===
電磁安定器、または主材料から銅鉄形安定器とも言う。通常、安定器といえばこちらを指す。[[磁気回路]]によって電流を制御する。[[銅]]・[[鉄]]が材料なので、寸法・[[重量]]ともに[[#電子式安定器|電子式]]に比較して大きい。大きな[[インダクタンス]]分なので、電源電圧に対して電流の[[位相]]に遅れが生じ低力率である。したがって必要に応じて適当な値のコンデンサを電源側もしくは二次回路側に接続して進相電流を流し、高力率にしている。回路形式によってグロー式安定器・ラピッド式安定器の2種類がある。
==== グロー式安定器 ====
; チョークコイル形
: 最も安価で単純である。100 V30 W以下、200 V65 W以下のランプに使用される。低力率・高力率がある。
; 磁気漏れ変圧器形
: 単巻漏れ変圧器を使用している。100 V32 W以上、200 V52 Wのランプに使用される。低力率・高力率がある。
; フリッカレス形
: 進相回路・遅相回路の組み合わせによってちらつきを抑えた回路。高力率。
==== ラピッド式安定器 ====
; 磁気漏れ変圧器形
: フィラメント予熱巻線を持つ単巻漏れ変圧器形の安定器。低力率・高力率がある。
; リードピーク形(ピーク進相形)
: 二次回路にコンデンサを直列に挿入すると共に、安定器の鉄芯にスリットと呼ばれる隙間を設け、鉄芯を部分的に磁気飽和させることによりピークを持った二次電圧を得て、比較的低い実効電圧で始動できるようにした安定器。高力率。
; 2灯直列逐次始動形
: リードピーク形の回路で、2灯のランプを直列に点灯するタイプ。直列点灯なので一灯あたりに必要な電圧が低くなり、小形になるので、現在のラピッド式安定器では多く使われている。高力率。
; フリッカレス形
: 進相回路・遅相回路の組み合わせによってちらつきを抑えた回路。高力率。
; ハイブリッド形
: 電子点灯回路を内蔵し、従来の安定器に比べ小形・軽量化を図った安定器。高力率。
; セミ共振形
: コイル・コンデンサを組み合わせ、始動時にコンデンサへの充電電流で電極を予熱するとともに、[[LC回路|LC]][[共振]]より生じた高電圧を印加し点灯する。高力率。
=== 電子式安定器 ===
インバータ式と呼ばれることが多い。以下の種類の器具がある。
* 従来のスタータ管・ラピッドスタート管が使用できる
* [[#高周波点灯専用安定器(Hfランプ専用もしくはランプフリー)|Hf方式]]の管が使用できる
* FL・FLR・FHF の3種類の管が使える
回路形式により次のものがある。
==== 電子式蛍光灯安定器(スタータ式、ラピッド式ランプ専用) ====
従来のスタータ式・ラピッドスタート式ランプ専用の電子式安定器。高周波点灯のためちらつきが少なく、[[#磁気回路式安定器|銅鉄形安定器]]に比較して小型・軽量である。Hfランプは使用できない。
; 自励式
: 回路はブロッキング形・LC形がある。電源電圧は回路によりDC3 - 100 Vとなっている。回路構成が簡単なため、懐中電灯・[[非常灯]]・[[バス (交通機関)|バス]]車内灯などに使用されている。
; 定電流プッシュプル式
: [[発振回路]]に定電流プッシュプル回路を用いたもの。用途は同上。
; ハーフブリッジ式
==== 高周波点灯専用安定器(Hfランプ専用もしくはランプフリー) ====
[[Image:Fluorescent Lamp Inverter.png|right|200px|thumb|高周波点灯方式の回路図]]
右の回路図の電子式安定器は、[[#ラピッド式安定器|セミ共振形]]と類似した方法で点灯する。回路はハーフブリッジ式が多い。先の一灯用のほか、従来の直列逐次始動形に類似した方法で始動する2灯用の安定器もある。単にインバーター式という場合、この形式を指すことが多い。
* コンデンサの[[充電]]電流が流れる時、ランプ両端の電極が予熱される。そのため点灯管は無い。充電後に電流が流れなくなると、LC直列共振現象で高電圧を生じ主放電へ至る。
* 交流の[[商用電源]]を[[整流回路]]で直流化した後、インバータ装置でより高周波の交流電力に変換し、点灯する。そのため[[電源周波数]]の違いに関係なく使用可能なヘルツフリーであり、施設用照明などでは使用電圧も100–242 Vの範囲内で自由に使用可能なボルトフリー器具も存在する。安全のため、多くの安定器にはランプ寿命時に発振を停止する回路が組み込まれている。
* 即時に点灯でき、高周波点灯により発光効率も上がり、さらにちらつきも少ない。また始動時に適切な時間・電圧で予熱するため蛍光灯の寿命も大幅に延びる。
* 点灯管方式と比べると明るいが、蛍光管の値段はそれと比べて高い。
* 他の安定器に比べ、非常に高力率で器内の回路構成部品が小型のため、器具自体の小型・軽量化も可能。
* 器具からの騒音が小さい。一般に人間の可聴周波数帯以上の20–50 kHzの[[周波数]]が使用される。
* Hfランプ専用以外に、施設用を中心に、従来型(FL・FLR)ランプも使用できる安定器もある。これをランプフリーというが、これはHf管の32 Wと従来管の40 Wの長さが同じことを利用しているので、長さが異なるランプは不可能である(16 WのHf管は日本国内の20 W従来管よりも5 mmほど長いため、日本国内では16 W Hf管と20 W 従来管の互換性はない)。しかし、ランプフリーの安定器は専用安定器に比べると多少高価となるため、どちらの安定器を内蔵した照明器具を導入するか判断し選択する。
* ビルなどのメンテナンス部署においても、従来型の照明器具が故障した際に照明器具ごと交換するのではコストがかかってしまう。そこで、灯具を解体し、安定器のみを交換する場合があるが、交換用部品として販売されている安定器は大抵このランプフリー・ボルトフリータイプになっている。
* 初期照度補正機能により、新品のランプと交換直前のランプの明るさの差をなくし、また初期は明るさを抑えることで省電力にするという器具もある。
== 蛍光管の種類 ==
大手メーカーは一般住宅用蛍光灯器具のうち「FL型蛍光管」と「FCL型蛍光管」を用いる従来型器具の生産を大幅縮小しており、現行モデルはスリム型(FHF・FHD・スパイラル・二重環型)が殆どである(従来型のFL・FCL蛍光管を用いる器具の現行モデルは浴室灯・流し元灯・物置用のみ)。またグローランプ(点灯管)を用いる従来型器具も一般住宅向けは生産が大幅縮小され、現行モデルは流し元灯や廊下・物置用のみとなった。
ランプを2本以上用いる(点灯管が不要な)インバータ器具の場合、1本でもランプが寿命を迎えると全てのランプが点かなくなるため、(従来型点灯管器具とは異なり)ランプ交換は全て同時に行う必要がある(新しいランプと古いランプを混ぜて使ったり・ランプを一部外して使うと器具が故障するおそれがあるため)。
またランプを2本以上用いる器具の明るさ調節方法も従来型点灯管器具とインバータ器具とで異なっており、前者は点灯本数を増減させるのに対し(「2灯・3灯・4灯いずれか→1灯・2灯いずれか→豆球→切」)、後者はランプ全体の明るさを変える「段調光」を採用している(全灯→段調光→豆球→切)。
=== 直管形蛍光管 ===
棒状の蛍光管。直管蛍光灯は実用化当初は現在に比べ太かった。
太さは38 mmで、型番のワット数を表す数字の後にSが付かないか、またはSが1つのみだった。細い直管蛍光灯が一般的になった当時は、新しい直管蛍光灯に換えたときに、古い直管蛍光灯が太いため新しい直管蛍光灯の箱に入らないという問題も起こった。
通常の器具の場合、太さの異なる直管蛍光灯に交換しても問題ないが、一部の密閉器具(防水型など)の場合、例えばFL20を使用する器具で太さの異なるFL20SS / 18を使用した場合、発熱量が増え危険であるため、この器具では必ずFL20を使用しなければならない。また、口金部に防水パッキンがついている場合も、太さが同じものを使用する必要がある。但し、旧型の直管蛍光灯の専用器具は現在はあまり見かけないが、個人で営んでいる電器屋では、売れ残りで旧型の太い直管蛍光灯が残っている場合がわずかながらある(だいたい処分してしまう店が多いので、希少である)。メーカーによってはSのないタイプをまだ製造している場合がある。
2010年現在世に出回っている直管蛍光管の直径は普通のタイプが32.5 mm、省エネタイプは28 mm、Hfタイプが25.5 mm、T5管が15.5 mmである。省電力設計のランプは、頻繁な点滅や温度変化に弱いといわれる。
* スタータ型 - FL(管径16 mm(4-8))口金はG5
** 4、6、8
*** (4、6、8Wは主に非常灯(誘導灯)や懐中電灯)
* スタータ型 - 25 mmまたは28 mm(10・15および省電力形20SS18・40SS37・65SS58)、32.5 mm(20S-52S)、38 mm(20-65) 口金はG13
** 10、15、18、20、25、30、32、35、40、52、65
*** 10、15 Wは鏡台や門灯など。20、40 Wは一般の事務所、家庭用で使われている。30、32、65、52 Wはショーケースや自販機・看板などにも使われるほか、事務所などでも使われているが、家庭用では学習机など一部を除き全く使われていない。
* ラピッドスタート型 - FLR (管径38 mm(20-110H)、32.5 mm(20S、40S、40S36)。会社、店舗、学校などで多く使用されている。Hは高出力型、EHは超高出力型を指す。口金はG13(20-65)、R17d(60H-220EH))
** 20、32、40、65、(60H)、(80H)、110H、(110EH)、(220EH)
* 高周波点灯専用型 - FHF (管径25 mm。会社、学校、商業施設などで多く使用されている、Hf専用器具で使用する。定格点灯のほか安定器によって高出力点灯も可能。近年では道路トンネルの照明にも用いられる。口金はG13、Rx17d(86 Wのみ))
** 16(23)、32(45)、50(65)、86
*** ()は高出力点灯時のW数
* スリムFHF - FHF(管径16 mm、デスクスタンドなど。口金G5)
** 24S、54S
* スリム型 - FHL
** 6、10、(18)、(27)、(36)
* ES型 - FL
** 13、23、27、32
* スリムライン - FSL・FSR・FLR(陳列棚の照明用)
=== 環形蛍光管 ===
{{See also|サークライン}}
丸形、円形ともいう。[[ドーナツ (菓子)|ドーナツ]]状の蛍光管(環形蛍光灯を総称して「サークライン」と呼ぶことがあるが、[[東芝ライテック]]の[[登録商標]]<日本第468682号>である)。
* 一般型 - FCL(現在の家庭用では多く使用されている。口金はG10)
** 9、15、20、30、32、40
* ラピッドスタート型 - FCR(現在はほとんど使われていない)
** 20、30、40
* スリムタイプ - FHC(主に家庭用、高周波点灯専用。口金はGZ10)
** 13、20、27、34、41
* ツインタイプ - FHD(主に家庭用、高周波点灯専用)
** 40、70、85、100
* スクエアタイプ - FHG 、FHW(主に家庭用、高周波点灯専用)
** 30、40、50、60、70、73、103
* スパイラルタイプ - FHSC(主に家庭用、高周波点灯専用)
** 15、20、30、63、75、93
=== コンパクト形蛍光管 ===
発光管を折り曲げるまたはブリッジで組み合わせることにより小型化した蛍光管。
* FUL - 文字通りガラス管をU字形にした蛍光ランプ
** 4、6、9、13、14、18、36
* FPL・FPR(一般用) - 2本のガラス管をブリッジで結合しているタイプ
** 4、6、9、13、18、27、28、30、36、55、96
太字のランプはラピッド式器具もしくは一部のHf器具でも使用できる。
* FHP(Hf専用) - 2本のガラス管をブリッジで結合しているタイプ
** 32、45、105
*** ランプはHf器具専用。
* FDL(一般用)‐4本のガラス管を束にブリッジ結合しているタイプ
** 4、6、9、13、18、27、36
* FHT(Hf専用)‐6本のガラス管を束にブリッジ結合しているタイプ
** 16、24、32、42
*** ()はHf器具専用(ソケット形状が違うのでFDLと互換性なし)
* FML、FMR、FWL‐4本のガラス管を平行にブリッジ結合しているタイプ
** FPLと同様のWサイズがある。
* FGL - 発光管をグローブで覆ったタイプ
=== 電球口金付蛍光灯・電球形蛍光灯 ===
{{Main|電球形蛍光灯}}
ねじ式口金部分に点灯回路を内蔵し、[[電球]]とそのまま差し替えられる蛍光ランプ。
* 一般電球形 - EFA
* 筒形 - EFT
* 発光管形 - EFD
* ボール形 - EFG、BFG
* 環形 - CFL
初期のころの発光管は環形・U形・ダブルU形が多かった。点灯回路もチョークコイル・点灯管・[[トランジスタ]]インバーターを使用していたため、電球に比べて大きく重かった。現在はブリッジ形(東芝など)、[[螺旋|スパイラル形]](パナソニック(旧松下電器)など)の発光管が多くなり、小形・軽量化・高効率化が進んでいる。点灯回路も小形・軽量化され、点灯回路を口金内に収め、寸法的に一般電球と遜色ないものも現れた。従来は一体式であった発光管を交換できるタイプもある。
従来品は[[調光]]器具では使用できなかったが、現在は調光器具対応のランプも市販されている。口金はE26、E17タイプのものが市販されている。
* ネジレ形蛍光灯 - トルーライトなどの名前で販売されている。自然昼光に近い演色性を持つ。
=== シームレス形 ===
特殊な形状でスリムライン蛍光ランプの一種(管径は20 mmと15.5 mmの2種)<ref name="guide_keikou" />。
== 光源色の種類 ==
[[Image:Leuchtstoff spektrum.jpg|right|250px|thumb|'''蛍光灯の発光スペクトル''' 光の三原色に相当する波長に均等なピークを持つため、白色光に見える]]
=== 色温度の種類 ===
蛍光灯の色が、暖色系(低色温度)か寒色系(高色温度)かの数値であり、以下の5種類のいずれかに分類されることが多い(以下の温度は[[色温度]])。
; 昼光色 D
: [[日本工業規格|JIS]]では5700–7100 [[ケルビン|K]]、通常は6500 K
:* [[晴天]]の[[正午]]の[[太陽光|日光]]の色。青味が強い。
:
; 昼白色 N
: JISでは4600–5400 K、通常は5000 K
:* 晴天の正午をはさんだ時間帯の日光の色
:
; 白色 W
: JISでは3900–4500 K、通常は4200 K
:* [[日の出]]2時間後の日光の色。一般形蛍光灯の場合蛍光物質の特性により、薄い黄緑色に感じられる。
:
; 温白色 WW
: JISでは3200–3700 K、通常は3500 K
:* [[夕方]]の日光の色
:
; 電球色 L
: JISでは2600–3150 K、通常は2800 K・3000 K
:* [[白熱電球]]の色である。とはいえ白熱灯にも色温度の幅があり、[[ワット]]数が低いものほど[[赤]]く(色温度が低く)、高い物ほど[[白]]い光(色温度が高い)を放つ。同じ白熱電球でも調光すると、明るい時ほど色温度が高い。これはフィラメントの温度により色温度が決まるためである。
これらの呼び名はあくまで基本的なものであり、各メーカーが独自に名前をつける場合もある。2500 K・5700 K・8000 Kなど、上記5色の通常値以外の色温度の製品が増加しつつあり、それらは「ウォーム色」「クール色」「フレッシュ色」など、基本色とは異なる名称をつけて販売されているため、消費者は色温度を確認してから買うことが求められる。白色の近辺にはあまり製品のバリエーションが存在しない。色温度は低い領域ほど少ない温度差で色味の変化が激しく、電球色と温白色の差(500–700 K)は単独の光源を別な機会に目視しても判別がつくが、昼光色と昼白色の差(1500 K)はそれほどではない([[色温度#色温度と視覚]]を参照)。
上記は一般照明用のものであるが、これ以外にも[[栽培]]などの特殊用途向けの「海の色({{val|17000|u=K}})」という物も存在する。カメラの[[ホワイトバランス]]設定などで「冷白色蛍光灯(4150 K)」というものがあるが、この名称を冠した蛍光灯はまず見かけない。おそらく海外のcool - whiteを直訳したものと思われるが、これは日本で言う白色(3900–4500 K)のことである。
[[太陽光]]については、[[太陽]]そのものの発する光線(直射日光)のみならず、青空などの太陽以外の部分からの放射([[天空光]])も[[地表]]に到達するため、青白い光であっても不思議ではない。このため、天空光のみとなる日陰や、曇天・雨天時の色温度は高くなる(もちろん、[[宇宙空間]]から見た太陽光線の色は一定である)。
=== 演色性の種類 ===
* 三波長発光形蛍光灯 - EX
** 全光束(明るさ)が高く、[[演色性]]もRa80–90とある程度よいため、一般家庭を中心にオフィスなどでも普及している。東芝のメロウ5は5色発光だが、三波長に分類される。食品展示用に四波長としたものもある。長寿命化を謳った高価格帯も存在する。
* 高演色形蛍光灯
** AAとAAAがある。全光束は三波長形の6割程度と低いが、演色性がRa90–99と高いため、美術的にシビアな色彩処理が要求される場所で使用される。ほとんどが直管の製品(スタンド用コンパクト型もある)。太陽光を再現するために意図的に紫外線も放射する物(蛍光色の物の見え方が違う)や、逆に美術品保護のために紫外線吸収膜をつけたものがある。電球色から昼光色までその色温度ごとに高演色形があるが、白色で演色AAAのものはまれ。
* 一般型(普及型)蛍光灯
** 演色性がRa60–75と低く、全光束も三波長形の7.5–8割程度とあまり高くないが、安価である。「一波長形」と呼ばれることもあるが、単色光源ではない。顔色や木質製品の色が悪く見えるため、三波長形が出回る前は蛍光灯を嫌う人も多かった。名称に反して、一般家庭ではあまり使われておらず、スーパーなどでもあまり販売例を見かけないが、インターネット通販やディスカウントストア、100円ショップでは取り扱いが多い。店頭では基本的に安価な包装で販売されているため見分けが付き易いが、特にインターネット通販では販売元の公式サイトやカタログでRa値を確認する必要がある。事務所や倉庫など、色の見え方があまり気にならない場所や、学校のように利用時間帯および太陽光の採光条件がよい環境での補助照明として用いるのに適している。
* その他
** カラー蛍光灯など。近年、[[心理学]]的に[[街灯]]を青くすると[[犯罪]]発生が減るという[[仮説]]があり、ブルー蛍光灯の使用が増えている([[防犯灯#青色防犯灯|青色防犯灯]]、[[自殺#自殺の手法]]も参照)。[[半導体産業|半導体工場]]の[[クリーンルーム]]や[[虫]]除け(忌避灯)には、短波長(500 [[ナノメートル|nm]]–[[紫外線]])をカットした黄色の蛍光灯が使われ、[[アクアリウム]]用には、さまざまな色温度の蛍光管が売られている。それらのほとんどは直管の製品である。
色彩に関する事業所や病院、美術・博物館向けに、各光源色に[[演色性]]を重視した設計の高演色形「SDL」や色評価用「EDL」がある(この場合の演色性とは「特殊演色評価数」、つまり原色を基準色とした見え方の忠実度を指す。これは通常用いられる、中間色を基準色とした「平均演色評価数」よりも達成が難しい)。まれにRaが90を超えていてRaでは演色AAの製品に匹敵する三波長形の製品があるが、この点で演色AAの製品とは異なる。
=== 光色の使い分け ===
普通、蛍光ランプの光色としては価格的に安い一般型白色[W]・昼光色[D]のものが[[事務所]]などでは広く使われていたが、[[1980年代]]以降は[[住宅]]や[[店|店舗]]などを主体に三波長域発光型(電球色[EX-L]、昼白色[EX-N]、昼光色[EX-D]など)の普及が進んできた。事務所などでは一般型の白色や昼光色に替わって昼白色[N]が主流になりつつある。住宅用照明器具では、住宅設備照明のカタログに掲載される型番の器具(主に[[ハウスメーカー]]や[[電気工事]]会社向けとされる)では昼白色と電球色のラインナップとする一方、[[小売]]店向け型番の器具では昼白色の代わりに昼光色をラインナップに入れているメーカーが多い。
なかでも店舗照明においては色温度や[[演色性]]を含めた照明設計が購買意欲([[売上高|売上]])に大きく影響することが認識され、それを実現するためのさまざまな光色、配光性のランプ商品が用いられている。ただし、[[商品]]をより良く見せるには[[演出]]過剰でもいけないため、特定の波長を強くしたりといった工夫がある([[生鮮食品]]展示用・[[食肉]]展示用蛍光ランプなど)。演色性は色温度ごとに決まっているため、演色性が最高でも色温度によって青く見えたり赤く見えたりする<ref group="注">例えば、写真撮影用の蛍光灯は、レンズに補正[[光学フィルター|フィルター]]をかけない状態のデイライト用[[銀塩写真|銀塩]][[写真フィルム|フィルム]]に合わせてあり、人の目には[[マゼンタ]]が強く感じられる。</ref>。
ランプの明るさ(効率)についても、その光色によって差異がある。最も明るいのは3波長発光型の昼白色と電球色であるが、3波長型でない一般型では白色[W]が最も明るい。昼光色系の場合、見た目には明るく(青白く)感じるが、実際には白色系に比べると10 %前後暗く([[照度]]や[[輝度 (光学)|輝度]]が低く)なるものの、[[実用]]上はあまり変わらない。自然光への忠実度(特殊演色評価数)を重視したタイプでは、一般照明用と比べて30–40 %も暗い場合もある。
演色性を示す数値は同じでも、メーカーによって個性があり、色の見え方(感じ方)は少し異なる。例えばパナソニックの[[パルック]]は、やや緑色の再現が過剰であると[[写真家]]から指摘されている。
=== 分光分布 ===
蛍光管のカタログには、[[分光分布]]が載っていることが多い。これはどの色の波長が多いかを示したもので、単に色温度を見るよりも視覚的に分かりやすい。
ただし、分光分布の斜線がなだらかであるほど優れているわけではなく、一般形と高演色形はともに分布図がよく似ており、なだらかな山型のラインにところどころ飛び出ている部分があるが、三波長形は全体的にギザギザである。しかし実際には三波長形は演色性の面では一般形と高演色形の中間である。つまり分布図が不規則であっても、それが色の見え方が悪いということではない。
== 明るさ ==
蛍光灯は、エネルギーを光に変える効率がよい。一般的には白熱電球の5倍の発光効率があるといわれる。白色LED([[発光ダイオード]])も高効率化が進んでおり、ほぼ同程度の照度が出る物も発売されている。
ランプの明るさの単位は全光束・[[ルーメン]](lm)である。これはランプから放射される、全ての方向の光の合計である。最新型の三波長のものでは、32 W環形のランプは2640 lmに達している。ランプに表示されている全光束の数値は、標準の試験用安定器を使用して測った場合の数値であるため、効率のよいインバータ器具で使用した場合、ランプ表示の全光束を大きく超えることがある(インバータの性能がよいためであり、過負荷というわけではない)。蛍光ランプ自体の発光効率は、1980年代ごろからほとんど進歩していない(新方式のランプを除く)。
蛍光灯器具の[[発光効率]]は、ルーメン毎ワットであらわされる。これは器具によって大きく違い、一般的な28 mm管の器具でも90 lm/Wぐらいのものから50 lm/Wぐらいのものまである。インバータ式の物は高効率で、磁気安定器式の物は低効率である。ランプが長い方が発光効率良い。スリム管・スリムツイン管の場合は従来管よりも明るい。
器具のカバーも明るさに影響を及ぼす。和室用照明などの飾りがついているものや、分厚いプラスチック製のカバーは明るさを落とす。経年変化による変色も明るさや色温度が変わる元になる。
== 寿命 ==
蛍光ランプの寿命は、種類により異なるが、およそ6000–20000時間である。
蛍光ランプが点灯しなくなり寿命を迎える原因は、ランプ点灯中に起こる、電極に塗布された電子放出性物質(主にタングステン酸バリウム等)の蒸発、飛散による消耗が主である。蛍光ランプは始動時にもっとも負荷がかかり、グロースタータ(点灯管方式。後述)の場合、一回の点灯で約1時間寿命が縮むため、頻繁に点滅させる用途には向かず、より長時間点灯する場所に向く。蛍光ランプ大手の[[パナソニック]]は同社ランプ総合カタログにおいて、消灯時間おおむね数分程度を境に、連続点灯による電力消費の損失が、消灯して再始動することによるランプ寿命の損失を上回る(つまり、数分間の電気代より球の寿命の短縮のほうが安い)としている。
後述の高周波点灯方式では、電子機器で制御することによって始動時の電極予熱を最適化し、従来方式に比べ不点となる寿命の大幅向上を実現した(先に述べた「再始動することによるランプ寿命損失」が減少することを意味する)。
直管は、一般に消費電力が大きいほど定格寿命が長い。よって、器具が選べる場合は20 W管2本のタイプより40 W管1本のタイプを選択することにより、交換の手間を減らすことができる。
蛍光灯器具によってもランプ寿命は変わり、良質な設計の器具であれば長持ちしたり、その逆のことが起こったりもする。グローとインバータによる差のほか、メーカー間の差もある。
点灯することができても輝度は次第に低下するため、[[日本工業規格|JIS規格]]では光束が当初の70 %に低下した時点も寿命としている。ただし、メーカーによっては80%としている場合もある。また蛍光灯は点灯後に徐々に明るくなるため、数分待ってから計る必要がある。
輝度が低下する原因としては、水銀蒸気がガラス中の[[ナトリウム]]と反応して黒色の付着物となること、ガラスが紫外線を吸収して透明でなくなること、などがある。
[[北ヨーロッパ|北欧]]ではガラスからナトリウムが浸出することを防ぐコーティング技術と電子放射物質(タングステン酸バリウム等)の[[スパッタリング]]を防ぐ特殊な陰極とを組み合わせることによって、8万時間を超える蛍光管が実用化されている。
グローランプの寿命は蛍光灯の点灯時間ではなく、点灯回数に比例する。グローランプは蛍光灯の交換と同時に取り替えるのが蛍光灯を長持ちさせるコツだといわれることもあるが、あまり消耗していない場合は替えなくてもよい。ただし、蛍光管の終末期に激しく点灯動作が繰り返されると、グローランプもそのたびに消耗するため、この状態で放置すると劣化が激しく進む。
=== 外観の経時変化 ===
; アノードスポット
: 寿命末期に発生する。フィラメントに塗布された[[バリウム]]酸化物などの[[エミッター]](電子放射物質)が飛散し、電極付近のガラス管壁に付着したもの。
:* 蛍光ランプでは電極付近が黒くなって見える(殺菌ランプではエミッターが蒸着し[[ゲッター]]状になっている)。
:* 点滅が頻繁だったり電圧や電流、安定器が不適切だとフィラメントに負担がかかり早期に出現することがある。ラピッドスタート型のランプはフィラメントの周囲に保護筒があり管壁へのエミッターの付着を防いでいる。ランプ寿命末期に点滅を繰り返したり、両端のフィラメントのみが赤く光るのは、フィラメントのエミッターが消耗してしまい安定した放電を維持できなくなるからである。
:
; エンドバンド
:点灯中のエミッターの蒸発により発生する微量のガスと水銀が化合したもの。明るさや寿命への影響はほとんどない。
; 内面導電性被膜(EC黒化・黄変)
: ラピッドスタート型ランプの始動補助として管内に塗布された透明導電皮膜と水銀が反応することによって発生する。
; 電極付近の水銀付着による黒ずみ
: 初めてランプを点灯する際にフィラメント内部に入り込んだ水銀が、フィラメントが加熱されることにより蒸発して、管壁に付着することで発生する。しばらく点灯しておくと水銀が蒸発し消滅する。
; ガラス管中央付近の水銀付着による黒化現象
: 冷房の吹き出しなどで管が低温になる部位で発生する。寿命・特性への影響はほとんどない。
=== 器具の寿命 ===
蛍光灯照明器具の寿命については消費者にはあまり認知されていないが、安定器がおよそ8–10年、それ以外の部分についてはおよそ15年が目安とされている。器具の寿命は周囲温度、点灯時間などによって変化する。一般に点灯時間が長く周囲温度が高いほど短くなる。これは熱による安定器の絶縁体の劣化が進みやすくなるからである。
一般家庭向けの製品では安定器のみを交換することは想定されていないため、器具全体の買い替えとなるケースがほとんどである。オフィス向けのものでは安定器のみを交換できる場合が多いが、一般家庭向け、オフィス向けともに設計寿命を超えて使用されることが多く、20年を超えて使用されることも珍しくない。
古くなった安定器は、「ジー」という騒音・振動を発することがある。最近の安定器は安全装置が内蔵され、寿命が来るとコイルやヒューズが切れて電源を遮断するため、発煙・発火の恐れはほとんどない。しかし、安全装置のない古いタイプの安定器をいつまでも使い続けるとレアショートして過熱し、最悪の場合発煙・発火すると共に漏電事故を起こす危険性がある。電子式安定器ではコンデンサの容量抜けなどによりヒューズが飛んだり、コンデンサが破裂・焼損することがある。
しかし、実際には安定器が原因による事故は稀である。
グロー式の器具にラピッドスタート省エネ型(36 W)を点けてしまったがために、騒音が大きくなる、点かなくなることがある。
1957年1月から1972年8月までに製造された業務用・施設用の蛍光灯器具や[[水銀灯]]器具、[[低圧ナトリウム灯]]器具の安定器内部に組み込まれている力率改善用コンデンサの絶縁体には[[ポリ塩化ビフェニル|PCB]]が使われており、近年、学校に設置された蛍光灯器具内の安定器が破裂して漏れ出したPCBが児童に降りかかる事故が発生している。これらPCB使用照明器具の安定器は設置から40年以上が経ち既に寿命を迎えている。危険なので早急な交換が必要である。PCB含有安定器は排出者が厳重に安全に保管しなければならない[https://www.env.go.jp/chemi/pcb2/index.html]。
[[シーリングライト]]などの蛍光ランプが直接見えない構造の器具の場合は、光を透過するプラスチックが蛍光ランプから出る紫外線によって劣化し、黄色く変色することがある。こうなると照度は低下し、効率が悪くなる。現在は変色しにくく透過率が高いカバーが、メーカーによってクリーンアクリルなどと名づけられて採用されることが多い。
器具本体とは別の寿命だが、[[電線#コード|袋打ちコード]]と呼ばれる[[こたつ]]コードにも似た発熱に耐えられるコードのみで吊り上げている蛍光灯器具の場合、コードが老朽化し、器具の重さによって床に落下するケースもある。心配ならば、[[鎖]]で吊り上げるとよい。ほとんどの蛍光灯器具には鎖をかけられる孔が開いている。これは天井側が普通のコンセントかあるいは電球ソケットに[[セパラボディ]]という組み合わせに考慮したものである。蛍光灯器具によっては[[引掛シーリング]]をコンセント用に変換できるプラグを購入しなくても上部のフタを取り外すとコンセントに差し込めるプラグが包まれている場合もある。
== 蛍光ランプと蛍光灯器具の規格表示 ==
* 型番表記例
** FHF32EX-N-H
これは一般的なHf蛍光灯昼白色32 W形直管の型番である。FHFはHf式の直管を、32は32 W形であることを、EXは三波長を、Nは昼白色(ナチュラル)を示している。FL式においてはSSは直径28 mmであることを、18は実際の定格消費電力を現している(ただし器具によってはこれより高低がある場合もあり、特にインバーター器具では消費電力もそれぞれである)。
直管(FL・FHF)型蛍光灯の場合、メーカー・種類・光色表記が[[パナソニック ライティングデバイス]]・[[三菱電機照明]]・[[ホタルクス]]製品は左側に、[[東芝ライテック]]・[[日立アプライアンス]]製品は右側にそれぞれ書かれている。: なお、表記中のME、TSP、HLK、SOC、N(「▲▼」のような表記)、PRINCE.D.(またはIWASE.P.D.、もしくはNSD)はそれぞれ実際の製造メーカーである[[パナソニック ライティングデバイス]]、東芝ライテック、[[日立アプライアンス]]、三菱電機照明、ホタルクス、[[プリンス電機]]を指している。そのため、たとえばメーカーがホタルクスでもMEと表記されていれば[[パナソニック ライティングデバイス]]が製造した製品ということがわかる。
== 蛍光灯の価格 ==
器具については、磁気安定器式の製品は安く、インバータ式の製品は高い。ただし、デザインやリモコンなどの付加価値をつけた製品はさらに高価であるため、点灯方式による価格差はさほど大きくない。インバーター式でも、オーソドックスなペンダント型器具であれば環形2灯式で5000円程度、直管1灯式のベースライトであれば3000円程度のものもある。近年は、磁気安定器かインバーターかというよりも、環形では従来管かスリム(スリムツイン)管か、直管では従来管かHf管かという点に注目ポイントが移りつつある。
蛍光管については、かつては高価なもので、1950年の大卒公務員初任給が4000円強の時期に20 W管が450円から600円、40 W管900円であった<ref>「明るさは電球の三倍」『日本経済新聞』昭和25年7月5日3面</ref>。2010年代には一般型(演色性・明るさが低い)の製品が[[100円ショップ]]で売られるようになり、まれに電球型蛍光灯も100円で売られることがあるが、ある程度の品質を持った製品は数百円台である。三波長タイプの相場としては、20 W直管は300円台、30 W環形は500円程度、40 W環形は800円程度となっている。ただし、残光型や長寿命型などはより高価である。高演色型は、SDLは三波長タイプより少し高め、EDLは三波長タイプの2倍程度の価格である。ただし明るさが低いので、三波長形と同じ光量を得るには1.5倍程度の本数が必要である。また、美術館やデザイン用途向けの色評価用や紫外線カット、食品製造現場向けなどに飛散防止フィルムコート、誘虫防止型など、特殊用途向けの製品も多数存在し、これらは付加価値に応じた価格となっている。一般型のうち昼白色のものについては、各メーカーとも独自の名称(「ホワイト」が付くことが多い)を与え、やや高価な価格設定をしていることが多い。スタータ型とラピッドスタート型の価格差はあまりない。環形の物については、1ランク下のサイズの管が管の内側に納まるサイズであることと、両方の管を使う器具が多いことから、2種類のサイズの管を同梱して売る場合も多い。
2020年代に入ると、蛍光灯器具の生産終了並びに、[[LED照明]]の普及に伴い、生産量が減少などを理由に生産を撤退もしくは値上げするメーカーが増えてきており、蛍光灯の価格が2010年代と比べて2022年現在、価格が約1.7倍まで上昇している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.panasonic.biz/jp/lighting/price_info2021/ |title=照明器具・蛍光灯の価格改定について |access-date=2022-10-21 |publisher=パナソニック株式会社}}</ref>。
== 蛍光灯の保守管理 ==
=== 清掃 ===
ランプにほこりや塵が付着すると光出力が減衰するため省エネルギーの見地からも定期的な清掃が必要になる<ref name="guide_keikou" />。ランプの清掃には[[スポンジ]]が好ましく、清掃時には導電部分、ソケット、安定器、配線部などに水がかからないようにする<ref name="guide_keikou" />。
=== 交換 ===
ランプの交換はランプの価格、交換費用、交換作業、美観などを総合的に判断し、定格寿命の70 %程度を経過したときに行うのが経済的とされている<ref name="guide_keikou" />。一般家庭においてはランプが点灯しなくなった時点でそのランプを新品と交換する個別交換でよいが、カバー付き照明器具のように蛍光ランプが直接見えずそのうち一個が不点になってもわかりにくいものも多くなっている<ref name="guide_keikou" />。ランプの交換には次の方法がある。
; 個別交換
: ランプが点灯しなくなった時点でそのランプを新品と交換する方法<ref name="guide_keikou" />。小規模でランプの交換が容易な場合に適しているが、灯数が多い場所では交換に手間がかかりすぎ不経済となることもある<ref name="guide_keikou" />。
; 個別集団交換
: ランプが点灯しなくなった時点でそのランプを新品と交換しつつ、点灯しなくなったランプ数が増加傾向を示すようになった頃合いをみてすべてのランプを交換する方法<ref name="guide_keikou" />。大規模でランプの交換が容易でない場合に経済的とされている<ref name="guide_keikou" />。
; 一斉集団交換
: 個々のランプが点灯しなくなった時点では交換せず、予定の保守周期または点灯しなくなったランプ数が一定に達したときにすべてのランプを交換する方法<ref name="guide_keikou" />。この方法も大規模でランプの交換が容易でない場合に経済的とされている<ref name="guide_keikou" />。
=== 管理 ===
蛍光灯はガラス製品のため衝撃を加えると破損するおそれがある<ref name="guide_keikou" />。また、取り付けが不十分だと点灯せず落下したり、接触不良によりランプの寿命が短くなったり発熱の原因となる<ref name="guide_keikou" />。蛍光灯は点灯中や消灯直後は熱くなる性質がある<ref name="guide_keikou" />。なお、エアコンなどによって風の当たりやすい部分には黒化や斑点現象がおきやすい<ref name="guide_keikou" />。
==== 適正な電圧 ====
適正な電圧は安定器で指定の電圧のプラスマイナス6 %とされている<ref name="guide_keikou" />。
==== 適正な周波数 ====
事故を防ぐため、設置地域の[[商用電源周波数]]に合った蛍光灯器具・安定器を使用する。
蛍光灯は点灯に際し安定器が必要であるが、適合電源周波数で使用しないとさまざまな問題が生じる。施設照明器具の市場の大半を占める[[パナソニック]](旧:[[パナソニック電工]]、松下電工)と東芝ライテックでは、周波数区分が容易に判るように、器具型番のシールと電線色を分けている。
* 50 Hz用 - シールのメーカーマーク色・型番印刷が緑で、電線色が黒 - 白
* 60 Hz用 - マーク色が赤で、電線色が茶 - 白
* 兼用器具 - マークが青または黒で、電線色が黒 - 白
建築基準法による非常灯は、周波数区分にかかわらず赤である。
* 50 Hz用の安定器を60 Hzで使用
*; チョーク形・漏れ変圧器形低力率の場合
: ランプの明るさはわずかに暗くなり。また点灯しづらくなる。写真フィルム観賞用ライトボックスなどは、50 Hz安定器のみで50–60 Hz共用としている例もあることから、特にワット数が低い(8 W以下)ものは60 Hz設置地域で使用可能な場合がある。
*; フリッカレス形進相回路・2灯直列進相形高力率の場合
: 大きなランプ電流が流れ安定器が過熱する。最悪の場合、焼損・発火する危険性がある。ラピッドスタート形の場合波形のバランスが崩れ点灯しにくくなる場合がある。
* 60 Hz用の安定器を50 Hzで使用
*; チョーク形・漏れ変圧器形低力率の場合
: 安定器のリアクタンスが減少するため、ランプ電流が増加しわずかにランプは明るくなる。ただし安定器内部のコイルを流れる電流も増加し、安定器自体が過熱する。そのまま使用を続けると最悪の場合、焼損・発火する危険性がある。
*; フリッカレス形進相回路・2灯直列進相形高力率の場合
: ランプの明るさは暗くなる。また点灯しづらくなる。ちらつきを生じる場合もある。
これは、安定器内部のコイルは周波数の高い交流ほど流しにくくなり、逆にコンデンサは周波数が高いほど交流を流しやすくなるためである。このため、一般の安定器を使用する器具を周波数の違う地域で使用する場合、安定器を交換しなければならない。ただし[[#インバーター式|インバータ式安定器]]は日本国内であればどこでも使用できる。
子供用学習机に付帯される蛍光灯照明は「チラツキが少なく目に優しい」としてインバータ式の普及が急速に進んだため、現在では見かけることはまずないが、スタータ式の照明の時代には周波数切り替えスイッチが取り付けられているものが多く、これを切り替えることにより周波数の異なる地域でもそのまま使用できた。
==== 適正な周囲温度 ====
適正な周囲温度は5 °Cから40 °Cで5 °C以下になると点灯直後は暗くちらつきなどを起こす<ref name="guide_keikou" />。
==== 蛍光管の点灯方式や省エネタイプ管の互換性 ====
事故を防ぐため、照明器具の始動方式に合った蛍光管を使用する必要がある。
特に、複数方式に対応するランプフリーの安定器を搭載しているなど方式そのものは問題がない場合であっても、器具全体としては管の支持方法やカバーの取り付け、放熱設計など種々の制約により適合ランプを限定している場合があるので、たとえ下記記述で互換性があるとされる場合であっても、取扱説明書や器具本体の表示等を必ず確認すること。
; ラピッドスタート管
: 基本的にすべての器具で物理的に取り付けられれば使用可能である。例外として省エネ管(36 W)をグロー式器具に使うのは好ましくない。なぜならば、ラピッドスタートタイプの省エネ管は低電圧大電流で省エネにしているためである(ランプ電流: FLR40: 0.435 A、FLR40S: 0.42 A、FLR40S36: 0.44 A)。
:* ラピッドスタート式の省エネ管をグロー式器具に取り付けると、安定器に過電流が流れ、最悪の場合安定器が焼損する。
:* 取り付け可能であれば以下のHfインバータ専用管の代替として使用可能である。
:
; グロースタート管
: グロースタート式器具専用である。ラピッドスタート式器具に装着した場合、通常のFLランプは始動性がやや悪いが点灯することがある(2灯式直列及びリードピーク形ラピッドスタート安定器では点灯しやすい)が、一部のランプは放電開始しないものもある。省エネタイプの40形以上のランプFL40SS37等は装着しても放電開始しないことが多い(安定器の種類、周囲温度、近接導体の有無等より極まれに点灯することがある)。また非常に寿命が短くなる。
:* 取り付け可能であれば以下のHfインバータ専用管の代替として使用可能である(但し点滅の多い場所にはあまり適さない)。グロースタートタイプの省エネ管は中電圧小電流の設計であるため(ランプ電流:FL40:0.435 A、FL40S:0.42 A、FL40SS37:0.41-0.415 A)、低温での使用には不向きである(使用推奨温度:FL40SS37 - 10–40 {{℃}})。
:
; 高周波点灯専用管(Hf管)
: このランプは特に注意が必要である。銅鉄安定器式ラピッド器具に装着した場合始動が悪いことがある。電子式ラピッドスタート安定器器具に装着した場合ランプ電圧の上昇により、電子回路が過熱の危険がある(最悪、安全機能が働き器具が使用不可となる)。
:* グロースタート器具に装着した場合、温度や電圧変動により再始動を繰り返すことがあるので適さない。逆にHf器具はランプフリー化が進みランプ指定がなくなりつつあるが、Hf管のみ指定の器具もあるので注意が必要である(本来の明るさにならない、エンドバンドが出やすい、器具サイズの問題でHf管しか収まらない等)。
=== 廃棄 ===
蛍光灯には[[水銀]]を含むガスが封入されているため、割って埋め立て処分するなどの方法では、割った際にガスが環境中に放出されたり、[[最終処分場]]が水銀で[[環境汚染|汚染]]されてしまうなどの問題がある。そのため適切に回収され再資源化することが望ましい。
米国では廃蛍光ランプは専門業者が回収を行い、この際割らずに回収させなくてはならず、割れた場合には高額な回収費用が請求される。回収された廃蛍光ランプは専門の設備により口金金属部、管状部に丁寧に分割され、中の水銀は[[銅]][[キャニスター]]に回収される。残りの部材は[[アルミニウム|アルミ]]、電極、ガラス、蛍光体へと分別され、完全[[リサイクル]]される体制が確立されている。[[北ヨーロッパ|北欧]]では、廃棄蛍光灯の総量を減らすため、蛍光灯の長寿命化への取り組みが盛んである。
一方、日本では、回収して水銀をリサイクルできる専用の施設(例: [[イトムカ鉱山]]を参照)に処理を委託する方法がとられつつあり、[[環境マネジメント]]システム [[ISO 14000]] の認証を取得している企業などではこちらの方法が一般的である。一般家庭から廃棄される蛍光灯は、一部の自治体が回収を行っているものの、現在でも多くの[[地方公共団体|地方自治体]]が燃えないごみに出すように定めており、環境意識の高まりとともに改善を求める声があがっている。自治体が回収を行っていない地域であっても、一部の[[家電量販店]]や[[電器店]]・[[ホームセンター]]などが「蛍光管回収協力店」として店頭で無料で回収している場合、または蛍光灯購入を条件に回収している場合、などがある。また、[[大日本プロレス]]が試合会場や郵送で無料回収している。回収された蛍光灯は実際に[[デスマッチ#蛍光灯デスマッチ|蛍光灯デスマッチ]]に使用される。
== 特殊加工を施した蛍光管 ==
=== 飛散防止膜付蛍光管 ===
ガラス管の外面全体に[[ポリエステル]][[フィルム]]の[[合成樹脂]]で被膜を施した蛍光管。Pタイプと呼ばれている<ref name="guide_keikou" />。
万一の破損に対し、樹脂フィルムで落下や飛散を防ぐ。防飛型とも呼ばれる。薄いガラス素材である蛍光管は、破損の際に非常に細かい破片が飛散し、人の[[目]]や[[口腔]]をはじめ、[[気管]]にも到達する危険がある。そのため異物の混入が[[事故]]となる現場や、破片の除去・清掃が困難な製品や機器を扱う環境で利用されている。
公共施設や[[鉄道車両|鉄道]]・[[路線バス]]を始めとする[[乗り物|輸送機械]]、[[加工食品]]の[[工場]]、学校で使用されている<ref name="guide_keikou" />。また、[[サーバ]]・[[コンピュータ]]ルーム、[[国際宇宙ステーション]]でも使用されている。高価なため、一般家庭には普及していない。
フィルムに[[紫外線|UV]]カット性能を持たせ、防虫(避虫)効果を兼ね備えた製品もある。
=== 光触媒膜付蛍光灯 ===
蛍光管の表面に[[酸化チタン]]の被膜を施した蛍光管<ref name="guide_keikou" />。PCタイプと呼ばれている<ref name="guide_keikou" />。光触媒の作用でランプ表面に付いた有機物の汚れを分解し、室内の臭いを軽減する機能もある<ref name="guide_keikou" />。
=== 低誘虫用蛍光灯 ===
夜間活動性の昆虫は明るいところでは視機能が低下する性質を利用して果樹園などでの吸害被害を防止するための蛍光管(黄色蛍光ランプ)<ref name="guide_keikou" />。Yタイプと呼ばれている<ref name="guide_keikou" />。
=== 捕虫用蛍光灯 ===
夜行性昆虫の捕虫用の蛍光灯で近紫外域の光を効率よく発するようにした蛍光管<ref name="guide_keikou" />。BLタイプと呼ばれている<ref name="guide_keikou" />。
=== 食品展示用蛍光灯 ===
生鮮食品や食肉を新鮮で美味しく見せるための食品展示用の蛍光灯<ref name="guide_keikou" />。冷蔵・冷凍ショーケース内では低温下でも明るさの低下が少なく始動性に優れた低温用蛍光ランプが使用されている<ref name="guide_keikou" />。
=== 鑑賞用・植物育成用蛍光灯 ===
青色と赤色の発光成分を組合せたランプで、観葉植物や熱帯魚の観賞用と光合成を促進する植物育成用がある<ref name="guide_keikou" />。BRタイプと呼ばれている<ref name="guide_keikou" />。
=== 紫外放射吸収膜付蛍光灯 ===
蛍光管の内部に紫外放射吸収膜を施した蛍光管<ref name="guide_keikou" />。NUタイプと呼ばれている<ref name="guide_keikou" />。美術館などで作品の色への影響を軽減するために利用される<ref name="guide_keikou" />。また、店舗や食品工場では誘虫を防ぐため白色系のランプが利用される<ref name="guide_keikou" />。
=== 色彩検査・展示用蛍光灯 ===
繊維、塗装、染色などの分野で利用される表面色評価用の標準光源として自然光に近似した光を出す蛍光灯<ref name="guide_keikou" />。色評価用ランプは印刷工場、写真現像所、美術館・博物館でも使用される<ref name="guide_keikou" />。
=== 鑑定用・効果照明用蛍光灯 ===
{{See|ブラックライト}}
近紫外光のみを有効に放射する、文書や鉱物の鑑定・鑑識、舞台や看板用などの効果照明用のブラックライト蛍光ランプが使用した蛍光灯<ref name="guide_keikou" />。BL-Bタイプと呼ばれている<ref name="guide_keikou" />。
=== 養鶏用蛍光灯 ===
養鶏場で使用される光放射による産卵時期の制御のための蛍光灯<ref name="guide_keikou" />。
=== 半導体工業用蛍光灯 ===
[[半導体]]工場の[[クリーンルーム]]内に使用される純黄色の蛍光灯<ref name="guide_keikou" />。Y-Fタイプと呼ばれている<ref name="guide_keikou" />。
=== 殺菌用蛍光灯 ===
紫外放射による殺菌を行うための蛍光灯<ref name="guide_keikou" />。GLタイプと呼ばれている<ref name="guide_keikou" />。
=== バックライト用蛍光灯 ===
{{See|冷陰極管}}
パソコンのモニターやテレビ用の管径の細い蛍光灯<ref name="guide_keikou" />。
=== その他の特殊な種類 ===
* 高周波点灯専用型蛍光灯(Hf蛍光灯) - FHF・FHP・FHT
* [[外部電極蛍光灯]] - EEFL
* 長時間残光型蛍光灯
* 無電極蛍光灯
* [[殺菌灯]](蛍光体がなく、かつガラスが紫外線を通す石英ガラスになっている。蛍光体がないため、厳密には“蛍光”灯ではない)
* [[第18族元素|希ガス]]蛍光ランプ - 水銀を使わない蛍光灯
== 終息への流れ ==
[[省エネルギー|省エネ]]と[[環境負荷]]低減の観点から、[[2010年代]]以降は[[LED照明]]への移行が急速に進み、一般照明としての蛍光灯と水銀ランプは終息する方向にある。
=== 省エネの観点 ===
[[赤崎勇]]、[[天野浩]]、[[中村修二]]らによる、実用的な[[青色発光ダイオード]]の発明と高輝度化への成功、これを応用した高輝度白色LEDの開発により、[[2000年代]]に実用化したLED照明は、蛍光灯より消費電力が少なく、かつ長寿命のため長期間にわたりランプ交換も不要という利点により、急速に普及し低廉化、日本においては2011年3月11日の[[東日本大震災]]に伴って、[[日本の原子力発電所]]が全基停止措置による電力不足が普及に拍車をかけた。
これを受け日本の大手電機メーカー各社は、蛍光灯照明器具の新製品発表を2012年以降取りやめており([[乾電池]]や充電式電池で駆動するアウトドア[[ランタン]]はLEDへ完全移行し、蛍光灯を用いるランタンの生産は終了)、中でも照明器具国内シェア首位のパナソニックは、先陣を切って「2015年度を以て蛍光灯及び[[白熱電球]]を用いる一般住宅向け従来型照明器具生産を終了し、今後はLED器具へ完全移行(蛍光ランプ及び電球型蛍光ランプは交換用途のみに絞って生産を継続)する」旨を公式発表した(2014年3月4日付、[[朝日新聞]]経済面記事にて報道。なお卓上型の電球&蛍光灯器具生産は、2011年限りで終了しLEDへ完全移行)。こうした「脱蛍光灯」の動きは、今後他社にも広がる可能性がある。なお白熱電球生産は(一部特殊用途を除き)2012年度を以て、日本の製造メーカー全社が完全終了した。
従来型蛍光ランプ(Hf器具専用スリム管も含む)・電球型蛍光ランプ・[[点灯管]]・ミニクリプトン電球は「交換用途に絞って」生産が継続されているが、日立グローバルライフソリューションズは「LED器具&電球の普及で従来型蛍光ランプの需要が減少傾向にあり、かつ材料価格高騰で製品の安定供給が今後困難となることが予想されるため、蛍光灯・白熱電球器具に続き蛍光ランプ・点灯管生産を2019年12月限りで完全終了し、今後はLED電球及びLED照明器具のみの生産へ完全移行(日立製蛍光ランプ・点灯管は2020年3月までに在庫品限りで販売終了)する」と発表。蛍光ランプ生産からの完全撤退は、[[日立グローバルライフソリューションズ]](旧・日立ライティング)が大手電機メーカーで初となり、翌2021年3月には[[三菱電機照明]]が蛍光ランプ・点灯管・ミニクリプトン電球生産を完全終了(LED電球とLED照明器具のみの生産へ完全移行する)予定。東芝ライテックは2016年限りで蛍光灯の自社生産より撤退し、以降(「メロウZプライド」シリーズを中心とする)「TOSHIBA」ブランド蛍光灯生産は[[パナソニック ライティングデバイス]]とホタルクスへの委託へ切り替わっている。
今後、日本の蛍光ランプ&点灯管メーカーは[[パナソニック ライティングデバイス]]と[[ホタルクス]](NECブランド)のみとなり、日立系列店「[[日立チェーンストール]]」と三菱系列店「[[三菱電機ストアー]]」で販売される蛍光灯は今後[[パナソニック ライティングデバイス]]「[[パルック]]プレミア」・東芝「メロウZプライド」・NEC(ホタルクス)「ホタルック」などの他社製品へ置き換わっていく<ref group="注">なお電球型蛍光灯生産については東芝ライテックとホタルクスが2016年までに完全撤退し、LED電球のみの生産へ完全移行している。</ref>。
2015年11月26日の複数の報道で、[[日本国政府]]が[[エネルギーの使用の合理化等に関する法律|省エネ法]]の政令を改正し、2020年度をメドに蛍光灯や白熱灯の生産や輸入を、実質的に禁止する方向であると報じられたが<ref>{{Cite news|date = 2015年11月26日|newspaper = YOMIURI ONLINE 経済|title = 蛍光灯なくなる?政府、照明の省エネ基準強化へ|url = http://www.yomiuri.co.jp/economy/20151126-OYT1T50188.html|accessdate = 2015-11-28}}</ref><ref>{{Cite news|date = 2015年11月26日|newspaper = 朝日新聞デジタル|title = 蛍光灯、実質製造禁止へ 20年度めど、LEDに置換|url = http://www.asahi.com/articles/ASHCT5JHKHCTULFA021.html|accessdate = 2015-11-28}}</ref><ref>{{Cite news|date = 2015年11月27日|newspaper = 東京新聞 TOKYO Web【経済Q&A】|title = 蛍光灯の製造規制へ LED化促進、課題は|url = http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/economic_confe/list/CK2015112702000210.html|accessdate = 2015-11-28}}</ref>、[[経済産業省]]は「これらを一律禁止するものではない」として、報道内容を否定した<ref>{{Cite press release |和書| date = 2015-12-08 | publisher = [[経済産業省]] is |title = 【60秒解説】「蛍光灯は禁止?」の誤解 | url = https://www.meti.go.jp/main/60sec/2015/20151208001.html | accessdate = 2020-07-03 }}</ref>。
=== 環境負荷の観点 ===
蛍光灯が使用する[[水銀]]は『環境負荷物質』として、[[欧州連合|EU]]域内では、[[RoHS指令]]による規制の対象であるが、蛍光灯を代替できる他の技術が確立されていなかったことや、蛍光灯が広く普及していたこと、発光原理上水銀を使用せざるを得ないことを理由として、蛍光灯への使用は許容されている。
しかし、水銀の使用と輸出入を[[2020年]]以降規制する、[[水銀に関する水俣条約]] が[[2017年]][[8月16日]]に発効、これを受け日本でも[[廃棄物処理法]]に新たに水銀含有廃棄物の区分が設けられ、廃棄蛍光ランプも『有害廃棄物』として管理を求められるなど、処分費用の負担が増加することから、[[産業廃棄物]]処理業者の中には、廃棄蛍光ランプの受け入れを取りやめたり、追加費用を請求する例が出ている。家庭から排出される廃棄蛍光ランプを無料回収していた量販店も、[[東急ハンズ]]など一部は有料回収に切り替えている。
蛍光灯を代替する技術として、LED照明も既に実用化されていることから、日本においては、新築のオフィスビルなどでは全館LED照明を採用する事例も増えている。家庭向けにも蛍光灯照明器具の製造・販売を終息するメーカーが相次いでおり、蛍光灯の使用は淘汰される方向へと情勢が大きく変化している。
なお、いわゆるレトロフィットの一種として蛍光灯器具に装着可能なLED管も存在するが、電球型蛍光管からの事実上の発展型である電球型LEDとは異なり、装着にあたって安定器をバイパスする工事を要するものや、スターター式のみ工事不要としているもの、完全工事不要のものなどが製品によりまちまちだったり、LED管自体も元来からのLED器具に装着するものと互換性がない等(元来からのLED器具に装着するものは蛍光灯器具に装着できないよう口金が片方異なる)で電球型LEDほどは普及しているとは言い難い。そもそもが直流駆動であったり、交流でも商用電源とは互換性のない高周波駆動であったりする車内照明用途では管自体の破損対策等もあり器具ごと交換するのが一般的となっている。
== 国際会議 ==
[[2027年]]末で、直管型蛍光灯の製造を禁止することを国際会議で合意した<ref name="sankei20231105">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20231104-HSEQJUP4C5KRDI76GP5PG6HBCA/|title=蛍光灯、27年末で製造禁止 水銀規制の水俣条約会議|accessdate=2023-11-05|publisher=産経新聞}}</ref>。電球型蛍光灯は[[2025年]]に製造禁止となる<ref name="sankei20231105"/>。
==メーカー==
* [[パナソニック ライティングデバイス]]
* [[ホタルクス]](旧・NECライティング)
*[[東光高岳]]
*[[プリンス電機]]
*[[岩瀬プリンス電機]]
*[[フィリップス]]
*[[オスラム]]
*[[ゼネラル・エレクトリック]]
*[[三共電気]]
*[[ラティーノ]]※[[日立グローバルライフソリューションズ]]が2019年限りで蛍光灯事業より撤退したため、[[大創産業]](DAISO)の蛍光灯は日立からラティーノとなった。
*[[オーム電機 (東京都)|オーム電機]]
*[[朝日電器]](ELPA)
*[[ヤザワコーポレーション]]
*エフィ株式会社
* [[シャープ]]株式会社
*[[小泉産業]]
* [[オーヤマ照明]]
*[[山善]]
*大光電機
* [[ノジマ]](ELSONIC)
*[[カインズ]]
*[[コメリ]]セレクト
*[[セブン&アイ・ホールディングス]]
*[[イオントップバリュ]]
**生産を委託していた日立が2019年で撤退したため、販売終了。
* [[東芝ライテック]]※2016年3月限りで蛍光灯自社生産より撤退。
* [[三洋電機]](パナソニック完全子会社化に伴い、[[2011年]][[9月30日]]に「[[パルック]]」シリーズへ吸収合併)
* [[岩崎電気]]([[2018年]][[9月30日]]限りで生産を終了し、LED照明器具の生産へ移行)。
* [[日立グローバルライフソリューションズ]](旧・[[日立アプライアンス]]、[[日立ライティング]]。[[2019年]][[12月31日]]限りで[[点灯管]]含め生産を終了し、LEDの電球と照明器具のみの生産へ完全移行)。
* [[三菱電機照明]]([[2020年]][[3月31日]]限りで生産を終了し、LEDの電球と照明器具のみの生産へ完全移行)。
== 脚注 ==
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
* 『屋内照明のガイド』照明学会編、電気書院、1978年。
* 『大学課程 照明工学』照明学会編、オーム社、1997年。
* 『現代 照明環境システム』石川太郎ほか共編、オーム社、1981年。
* 『サイリスタとその応用』橋本健著、日本放送出版協会、1972年。
== 関連項目 ==
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[[ファイル:Steel cage deathmatch with 200 fluorescent light tubes - Ryuji Ito vs. Yuko Miyamoto - Big Japan Pro Wrestling - May 4, 2010.JPG|200px|thumb|right|蛍光灯デスマッチ]]
* [[デスマッチ#蛍光灯デスマッチ|蛍光灯デスマッチ]] - 使用済み蛍光灯を使用して行う[[プロレス]]の試合。プロレス団体「[[大日本プロレス]]」が名物としている。
* [[蛍光]]
* [[RoHS]] - 蛍光灯はRoHS指令の例外措置として用途・形式によって特定値以下の水銀の含有が許容されている(適用除外用途一覧)。
* [[点灯管]] - 安定器を用いる従来型蛍光灯器具において蛍光灯を点灯させるための放電管、「グローランプ」とも呼ぶ。
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対馬国
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対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
対馬国の初見は、『三国志』魏志倭人伝の對馬國(対馬国)である(三国志のテキストの間でも版によって表記が異なり、現存する最古の版である紹熙〈しょうき〉本では對海國、よりポピュラーな版である紹興〈しょうこう〉本では對馬國となっている)。倭人伝の「今、使訳を通ずるところ三十国」のうちの一国。日本では津島とも書かれたが、7世紀に律令制の地域区分として対馬国が設けられると、「対馬」の表記に定まった。
『古事記』の建国神話には、最初に生まれた島々(「大八洲」)の1つとして「津島」と記されている。『日本書紀』の国産み神話のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。古くからユーラシア大陸との交流があり、歴史的には朝鮮半島と倭国・倭人・ヤマトをむすぶ交通の要衝であった。
対馬国は律令制下で対馬島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。701年(大宝元年)の大宝律令では「対馬島」と改称され、のちに再び「対馬国」に復している。
国内には上県郡、下県郡の2郡が置かれた。上県(かみあがた)郡は伊奈(いな)、久須(くす)、向日(むかい)、三根(みね)、佐護(さご)の5郷、下県(しもあがた)郡は豆酘(つつ)、鶏知(けち)、賀志(かし)、与良(よら)、玉調(たまつき)の5郷から成った。大化以前は上県、下県の両国造の領域であった。
『延喜式』によれば、大宰府からの海路行程は4日、正税3,920束、庸と中男作物は免除され、特産品としては銀を納めることとなっていた。
魏志倭人伝には「対馬国」が倭国の1国として登場し、邪馬台国に服属したことが記されている。「対馬国」の地誌については、同書は以下のように説明している。
始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離。所居絶島 方可四百余里。土地山険 多深林 道路如禽鹿径。有千余戸。無良田 食海物自活 乗船南北市糴。
弥生時代の対馬北部の集落遺跡塔の首遺跡(対馬市上対馬町)では、石棺の内外に朝鮮半島系および中国系のもの(方格規矩文鏡・銅釧・陶質土器など)と北九州系のもの(広鋒銅矛・玉など)が一緒に副葬されており、『魏志』における「南北市糴」の記載を裏づけている。
4世紀になると対馬にも本格的に古墳時代が到来する。4世紀後半以降、東海岸の鶏知浦周辺に畿内型の前期古墳で島内最大の出居塚古墳(対馬市美津島町)が出現し、つづいて前方後円墳をふくむ根曽古墳群(対馬市美津島町)がつくられ、5世紀から6世紀後半におよんでいる。4世紀後半代には北部に大将軍山古墳(対馬市上県町)がつくられたものの、全体からみれば、古墳分布は、旧来の浅茅湾周辺の社会集団と関係を結びながら、ヤマト王権との連絡に好適な東海岸鶏知浦付近に王権と直接つながるような首長層が成立してきたことを物語る。
白村江の戦いののち対馬には防人と烽が置かれ、山城も築かれて外寇の防備としたが、8世紀から9世紀にかけての新羅の入寇、11世紀の刀伊の入寇などしばしば戦火をこうむった。
島の首長について、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では「津島県直」と伝える。古墳時代にはヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵しており、こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載でも認められる。このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』における神功皇后の新羅征討伝承であり、それにかかわって「和珥津(わにのつ)」の地名が登場し、対馬に屯倉を設置したと記述される。朝鮮側の記録としては、『三国史記』に新羅王実聖尼師今の治世7年(408年)に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。
645年の大化の改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府が置かれ、大宰府の管轄下に入った。推古天皇における600年(推古8年)と607年(推古15年)の遣隋使も、また630年(舒明2年)の犬上御田鍬よりはじまる初期の遣唐使もすべて航海は壱岐と対馬を航路の寄港地としていた。
663年(天智2年)の白村江の戦い以後、倭国は、唐・新羅の侵攻に備え、664年には対馬には防人(さきもり)が置かれ、烽(とぶひ)が8ヶ所に設置された。防人はおもに東国から徴発され、『万葉集』には数多くの防人歌がのこっている。667年(天智6年)には浅茅湾南岸に山城金田城を築いて国境要塞とし、674年(天武3年、白鳳2年)には厳原が正式な国府の地に定まって、同年、対馬国司守忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出した銀を朝廷に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。(対馬銀山)
701年(文武5年)、対馬で産出したと称する金を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「大宝」の元号が建てられた。ただし、これは現在では偽鋳であるといわれている。なお、同年制定の大宝律令において対馬国は「対馬島」と表記されている。
防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、737年(天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、757年(天平宝字元年)にはそれも廃して西海道のうち7国(筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国)の兵1,000人をもってこれに代えることとした。741年(天平13年)、「鎮護国家」をめざした聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬にも府中厳原の地に島分寺が建立されたが、講師はいったん廃された。
なお、759年(天平宝字3年)に藤原仲麻呂が新羅征討を準備したとき、東国の船団編成に肥前国2,400人、対馬島200人の水手(かこ)が含まれていたという。
『新撰亀相記』によれば、上県郡に直氏と卜部氏、下県郡に直氏と卜部氏と、夜良直氏がおり、上下の直氏を国造としている。
平安時代に入って桓武天皇の時代には防人制は広く廃止され、軍団制に改められたが、壱岐・対馬の両国に関しては例外として防人を残した。度々起こった新羅の入寇では、813年(弘仁4年)の弘仁の韓寇は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。841年(承和8年)には、大宰府の属官(曹)104人が対馬の防人にあてられた。
律令制の弛緩は対馬国においても例外ではなかった。『日本文徳天皇実録』天安元年(857年)六月条に対馬国守として立野正岑の名がみえるが、同年に上県郡主擬主帳卜部川知麻呂、下県郡擬大領直浦主らが率いる300余の島民が国守立野正岑の館を襲撃し、国司や従者の榎本成岑を惨殺した事件が起こっている。
870年(貞観12年)には対馬に選士50人が配され、874年(貞観16年)には新羅人が対馬に漂着したものの帰国させられた。894年(寛平6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が佐須浦(さすうら)に襲来したが国守文屋善友が撃退している(寛平の韓寇)。
936年(承平6年)、朝鮮半島を高麗が統一し、対馬に高麗の南原府の咸吉兢が対馬に漂着したという。また、10月15日には金海府の李純達が大宰府に到着の報が届いたが国交成立に至らなかったとされる。
1019年(寛仁3年)、正体不明の賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365名、拉致された者1,289名で、有名な対馬銀鉱も焼損した。これは、奴隷にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。のちに賊の正体が刀伊(女真族)であることが判明し、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれるようになる。女真族は、このとき対馬の判官代長岑諸近とその一族を捕虜にしており、諸近は1度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録がのこっている。
対馬国は、古代後半にあっては阿比留氏などの在庁官人による現地支配がなされていた。
1094年(嘉保2年)5月25日、前大宰権帥の正二位権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易をおこない発覚。伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された。
1101年(康和3年)7月7日、対馬守源義親が現地で大宰府の命をきかず、官物を横領し、人民を苦しめるとの報が太宰権帥大江匡房より朝廷にもたらされ、義親追討の官符が発せられる。源義親は天下第一武勇の士として名高い河内源氏の棟梁・八幡太郎義家の嫡男である。義親の追討以降、河内源氏は勢力が衰え、義親に追討に功のあった平氏が台頭する契機となった。
1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度に渡って元寇の襲来を受け、宗助国は迎撃したが戦死。一時元軍に占領された。その際、住民の男性は虐殺され、女性は手に穴を開けられ紐を通して繋がれ連れ去られたと史書には記されている。
倭寇の主要根拠地の1つとされ、この倭寇討伐を目的として李氏朝鮮の軍が1419年(応永26年)に大規模な侵攻を行い、宗氏との1ヶ月にわたる戦闘で大敗を喫し撤退した(応永の外寇)。その後、宗氏は嘉吉3年(1443年)に朝鮮と嘉吉条約を結んで、以後日朝間の窓口となった。
しかし、文明2年(1470年)、朝鮮国王 世祖が対馬守護 宗氏に使節を派遣し、日本の密航者の取り締まりを求めた。1509年(永正6年)4月、朝鮮は対馬島主・宗材盛に在留期限を超えた恒久倭の帰国を求める使節の派遣を予定していたが、材盛の急逝で使節派遣を延期する。
翌1510年(永正7年)、朝鮮で現地在住の対馬の民などにより三浦の乱が発生。宗氏は日朝貿易への影響力拡大を狙い救援軍を派遣するも鎮圧され、在留日本人は追放。対馬と朝鮮の関係も1512年(永正9年)まで途絶する。
また、この頃少弐氏が大内氏によって大宰府を追われると、宗貞盛は九州に出兵して大内氏と戦った。しかし、少弐氏が滅亡したので対馬に戻った。
1592年(文禄元年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った。貿易収入が失われることを恐れた宗氏は戦争回避のため奔走した。開戦後は釜山と名護屋城との中継地となった。
関ヶ原の戦いでは宗氏は西軍に付いたものの、領土を安堵された。
宗氏を藩主とする対馬府中藩(10万石格)が幕末まで支配した。
江戸初期対馬藩は李氏朝鮮との国交再開のために尽力。幕府と李氏朝鮮との関係を保つため、しばしば双方の国書を改竄した。それを有力家臣の柳川氏が告発、柳川一件に発展した。
なお江戸時代には鎖国政策がとられていたが朝鮮とは正式な国交があり、対馬藩は朝鮮通信使の先導役を勤め、現在の釜山市に倭館を置き交易をおこなった。
国府は下県郡にあった。現在の対馬市厳原町国分の対馬市役所(旧厳原町役場)付近と推測されているが、未だ遺跡は見つかっていない。
聖武天皇が741年(天平13年)に発布した「国分寺建立の詔」ののち大日如来を本尊として対馬島分寺(とうぶんじ)が下県郡の国府付近に建てられた記録があり、のちの金石城(厳原城)の位置がこれに比定される。金石城跡の発掘調査によって島分寺の伽藍配置などが解明されつつある。755年(天平宝字7年)、国・島講師(正確には国・島師)が廃され、復されて島分寺に講師が置かれたのは855年(斉衡2年)であった。その財源は、九州本土の諸国に依存するところが大きかったという。857年(天安元年)の国司立野正岑の乱では島分寺を焼失し、翌天安2年、国府嶽山麓に本尊大日如来を移して大日堂が建立された。これはのちに大日寺と称された。現在の臨済宗西山寺である。史料では、貞観年間(859年 - 877年)には、対馬島分寺の島内における財源補強の努力が確認される。
いっぽう、1468年(応仁2年)、対馬府中に居をかまえた宗貞国が弟の甫庵宗睦に国分寺復興を命じ、古代島分寺跡の山際に再建されたと推定されている。これは、江戸時代に入って1665年(寛文5年)に宗義真が金石城を拡張した際に日吉へ移された。さらに1863年(文久3年)になって、以酊庵と振り替わって厳原町天道茂の現在地に移されたのが釈迦如来を本尊とする現存国分寺である。現存寺は、曹洞宗天徳山国分寺と称し、かつては宗家の菩提寺だったこともあり、江戸時代中・後期には朝鮮通信使来聘に際して、その客館として使用された。
なお、島分尼寺(国分尼寺)については詳細不明である。
二宮以下は存在しない。
近代以降は対馬市#出身関連著名人を参照のこと。
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"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離。所居絶島 方可四百余里。土地山険 多深林 道路如禽鹿径。有千余戸。無良田 食海物自活 乗船南北市糴。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "弥生時代の対馬北部の集落遺跡塔の首遺跡(対馬市上対馬町)では、石棺の内外に朝鮮半島系および中国系のもの(方格規矩文鏡・銅釧・陶質土器など)と北九州系のもの(広鋒銅矛・玉など)が一緒に副葬されており、『魏志』における「南北市糴」の記載を裏づけている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "4世紀になると対馬にも本格的に古墳時代が到来する。4世紀後半以降、東海岸の鶏知浦周辺に畿内型の前期古墳で島内最大の出居塚古墳(対馬市美津島町)が出現し、つづいて前方後円墳をふくむ根曽古墳群(対馬市美津島町)がつくられ、5世紀から6世紀後半におよんでいる。4世紀後半代には北部に大将軍山古墳(対馬市上県町)がつくられたものの、全体からみれば、古墳分布は、旧来の浅茅湾周辺の社会集団と関係を結びながら、ヤマト王権との連絡に好適な東海岸鶏知浦付近に王権と直接つながるような首長層が成立してきたことを物語る。",
"title": "歴史"
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"text": "白村江の戦いののち対馬には防人と烽が置かれ、山城も築かれて外寇の防備としたが、8世紀から9世紀にかけての新羅の入寇、11世紀の刀伊の入寇などしばしば戦火をこうむった。",
"title": "歴史"
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"text": "島の首長について、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では「津島県直」と伝える。古墳時代にはヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵しており、こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載でも認められる。このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』における神功皇后の新羅征討伝承であり、それにかかわって「和珥津(わにのつ)」の地名が登場し、対馬に屯倉を設置したと記述される。朝鮮側の記録としては、『三国史記』に新羅王実聖尼師今の治世7年(408年)に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 12,
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"text": "645年の大化の改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府が置かれ、大宰府の管轄下に入った。推古天皇における600年(推古8年)と607年(推古15年)の遣隋使も、また630年(舒明2年)の犬上御田鍬よりはじまる初期の遣唐使もすべて航海は壱岐と対馬を航路の寄港地としていた。",
"title": "歴史"
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"text": "663年(天智2年)の白村江の戦い以後、倭国は、唐・新羅の侵攻に備え、664年には対馬には防人(さきもり)が置かれ、烽(とぶひ)が8ヶ所に設置された。防人はおもに東国から徴発され、『万葉集』には数多くの防人歌がのこっている。667年(天智6年)には浅茅湾南岸に山城金田城を築いて国境要塞とし、674年(天武3年、白鳳2年)には厳原が正式な国府の地に定まって、同年、対馬国司守忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出した銀を朝廷に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。(対馬銀山)",
"title": "歴史"
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{
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"text": "701年(文武5年)、対馬で産出したと称する金を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「大宝」の元号が建てられた。ただし、これは現在では偽鋳であるといわれている。なお、同年制定の大宝律令において対馬国は「対馬島」と表記されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 15,
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"text": "防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、737年(天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、757年(天平宝字元年)にはそれも廃して西海道のうち7国(筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国)の兵1,000人をもってこれに代えることとした。741年(天平13年)、「鎮護国家」をめざした聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬にも府中厳原の地に島分寺が建立されたが、講師はいったん廃された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "なお、759年(天平宝字3年)に藤原仲麻呂が新羅征討を準備したとき、東国の船団編成に肥前国2,400人、対馬島200人の水手(かこ)が含まれていたという。",
"title": "歴史"
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"text": "『新撰亀相記』によれば、上県郡に直氏と卜部氏、下県郡に直氏と卜部氏と、夜良直氏がおり、上下の直氏を国造としている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "平安時代に入って桓武天皇の時代には防人制は広く廃止され、軍団制に改められたが、壱岐・対馬の両国に関しては例外として防人を残した。度々起こった新羅の入寇では、813年(弘仁4年)の弘仁の韓寇は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。841年(承和8年)には、大宰府の属官(曹)104人が対馬の防人にあてられた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "律令制の弛緩は対馬国においても例外ではなかった。『日本文徳天皇実録』天安元年(857年)六月条に対馬国守として立野正岑の名がみえるが、同年に上県郡主擬主帳卜部川知麻呂、下県郡擬大領直浦主らが率いる300余の島民が国守立野正岑の館を襲撃し、国司や従者の榎本成岑を惨殺した事件が起こっている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "870年(貞観12年)には対馬に選士50人が配され、874年(貞観16年)には新羅人が対馬に漂着したものの帰国させられた。894年(寛平6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が佐須浦(さすうら)に襲来したが国守文屋善友が撃退している(寛平の韓寇)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "936年(承平6年)、朝鮮半島を高麗が統一し、対馬に高麗の南原府の咸吉兢が対馬に漂着したという。また、10月15日には金海府の李純達が大宰府に到着の報が届いたが国交成立に至らなかったとされる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "1019年(寛仁3年)、正体不明の賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365名、拉致された者1,289名で、有名な対馬銀鉱も焼損した。これは、奴隷にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。のちに賊の正体が刀伊(女真族)であることが判明し、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれるようになる。女真族は、このとき対馬の判官代長岑諸近とその一族を捕虜にしており、諸近は1度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録がのこっている。",
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"paragraph_id": 23,
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"text": "対馬国は、古代後半にあっては阿比留氏などの在庁官人による現地支配がなされていた。",
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"text": "1094年(嘉保2年)5月25日、前大宰権帥の正二位権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易をおこない発覚。伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "1101年(康和3年)7月7日、対馬守源義親が現地で大宰府の命をきかず、官物を横領し、人民を苦しめるとの報が太宰権帥大江匡房より朝廷にもたらされ、義親追討の官符が発せられる。源義親は天下第一武勇の士として名高い河内源氏の棟梁・八幡太郎義家の嫡男である。義親の追討以降、河内源氏は勢力が衰え、義親に追討に功のあった平氏が台頭する契機となった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 26,
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"text": "1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度に渡って元寇の襲来を受け、宗助国は迎撃したが戦死。一時元軍に占領された。その際、住民の男性は虐殺され、女性は手に穴を開けられ紐を通して繋がれ連れ去られたと史書には記されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "倭寇の主要根拠地の1つとされ、この倭寇討伐を目的として李氏朝鮮の軍が1419年(応永26年)に大規模な侵攻を行い、宗氏との1ヶ月にわたる戦闘で大敗を喫し撤退した(応永の外寇)。その後、宗氏は嘉吉3年(1443年)に朝鮮と嘉吉条約を結んで、以後日朝間の窓口となった。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、文明2年(1470年)、朝鮮国王 世祖が対馬守護 宗氏に使節を派遣し、日本の密航者の取り締まりを求めた。1509年(永正6年)4月、朝鮮は対馬島主・宗材盛に在留期限を超えた恒久倭の帰国を求める使節の派遣を予定していたが、材盛の急逝で使節派遣を延期する。",
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"text": "翌1510年(永正7年)、朝鮮で現地在住の対馬の民などにより三浦の乱が発生。宗氏は日朝貿易への影響力拡大を狙い救援軍を派遣するも鎮圧され、在留日本人は追放。対馬と朝鮮の関係も1512年(永正9年)まで途絶する。",
"title": "歴史"
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"text": "また、この頃少弐氏が大内氏によって大宰府を追われると、宗貞盛は九州に出兵して大内氏と戦った。しかし、少弐氏が滅亡したので対馬に戻った。",
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"text": "1592年(文禄元年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った。貿易収入が失われることを恐れた宗氏は戦争回避のため奔走した。開戦後は釜山と名護屋城との中継地となった。",
"title": "歴史"
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"text": "関ヶ原の戦いでは宗氏は西軍に付いたものの、領土を安堵された。",
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"text": "宗氏を藩主とする対馬府中藩(10万石格)が幕末まで支配した。",
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{
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"text": "江戸初期対馬藩は李氏朝鮮との国交再開のために尽力。幕府と李氏朝鮮との関係を保つため、しばしば双方の国書を改竄した。それを有力家臣の柳川氏が告発、柳川一件に発展した。",
"title": "歴史"
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"text": "なお江戸時代には鎖国政策がとられていたが朝鮮とは正式な国交があり、対馬藩は朝鮮通信使の先導役を勤め、現在の釜山市に倭館を置き交易をおこなった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "国府は下県郡にあった。現在の対馬市厳原町国分の対馬市役所(旧厳原町役場)付近と推測されているが、未だ遺跡は見つかっていない。",
"title": "国内の施設"
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{
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"text": "聖武天皇が741年(天平13年)に発布した「国分寺建立の詔」ののち大日如来を本尊として対馬島分寺(とうぶんじ)が下県郡の国府付近に建てられた記録があり、のちの金石城(厳原城)の位置がこれに比定される。金石城跡の発掘調査によって島分寺の伽藍配置などが解明されつつある。755年(天平宝字7年)、国・島講師(正確には国・島師)が廃され、復されて島分寺に講師が置かれたのは855年(斉衡2年)であった。その財源は、九州本土の諸国に依存するところが大きかったという。857年(天安元年)の国司立野正岑の乱では島分寺を焼失し、翌天安2年、国府嶽山麓に本尊大日如来を移して大日堂が建立された。これはのちに大日寺と称された。現在の臨済宗西山寺である。史料では、貞観年間(859年 - 877年)には、対馬島分寺の島内における財源補強の努力が確認される。",
"title": "国内の施設"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "いっぽう、1468年(応仁2年)、対馬府中に居をかまえた宗貞国が弟の甫庵宗睦に国分寺復興を命じ、古代島分寺跡の山際に再建されたと推定されている。これは、江戸時代に入って1665年(寛文5年)に宗義真が金石城を拡張した際に日吉へ移された。さらに1863年(文久3年)になって、以酊庵と振り替わって厳原町天道茂の現在地に移されたのが釈迦如来を本尊とする現存国分寺である。現存寺は、曹洞宗天徳山国分寺と称し、かつては宗家の菩提寺だったこともあり、江戸時代中・後期には朝鮮通信使来聘に際して、その客館として使用された。",
"title": "国内の施設"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "なお、島分尼寺(国分尼寺)については詳細不明である。",
"title": "国内の施設"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "二宮以下は存在しない。",
"title": "国内の施設"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "近代以降は対馬市#出身関連著名人を参照のこと。",
"title": "人物"
}
] |
対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 対馬国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|対馬国}}
|別称 = 対州(たいしゅう)
|所属 = [[西海道]]
|領域 = [[長崎県]][[対馬市]]([[対馬島]])
|国力 = [[下国]]
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 2郡9郷
|国府 = 長崎県対馬市
|国分寺 = (推定)長崎県対馬市
|国分尼寺 = (未詳)
|一宮 = [[海神神社]](長崎県対馬市)<br/>[[厳原八幡宮]](長崎県対馬市)
}}
'''対馬国'''(つしまのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に属する。
== 概要 ==
対馬国の初見は、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏志倭人伝]]の'''對馬國'''(対馬国)である(三国志のテキストの間でも版によって表記が異なり、現存する最古の版である紹熙〈しょうき〉本では對海國、よりポピュラーな版である紹興〈しょうこう〉本では對馬國となっている)。倭人伝の「今、使訳を通ずるところ三十国」のうちの一国。日本では'''津島'''とも書かれたが、[[7世紀]]に[[律令制]]の地域区分として対馬国が設けられると、「対馬」の表記に定まった。
『[[古事記]]』の建国神話には、最初に生まれた島々(「[[大八島|大八洲]]」)の1つとして「津島」と記されている。『[[日本書紀]]』の[[国産み|国産み神話]]のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。古くから[[ユーラシア大陸]]との交流があり、歴史的には[[朝鮮半島]]と[[倭国]]・[[倭人]]・[[ヤマト王権|ヤマト]]をむすぶ交通の要衝であった。
対馬国は[[律令制]]下で'''対馬島'''とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)の[[大宝律令]]では「対馬島」と改称され、のちに再び「対馬国」に復している。
国内には[[上県郡]]、[[下県郡]]の2郡が置かれた。上県(かみあがた)郡は伊奈(いな)、久須(くす)、向日(むかい)、三根(みね)、佐護(さご)の5郷、下県(しもあがた)郡は豆酘(つつ)、鶏知(けち)、賀志(かし)、与良(よら)、玉調(たまつき)の5郷から成った。[[大化]]以前は上県、下県の両[[国造]]の領域であった。
『[[延喜式]]』によれば、[[大宰府]]からの海路行程は4日、正税3,920束、[[庸]]と中男作物は免除され、特産品としては[[銀]]を納めることとなっていた。
== 歴史 ==
{{main|対馬#歴史}}
=== 先史時代 ===
魏志倭人伝には「対馬国」が[[倭国]]の1国として登場し、[[邪馬台国]]に服属したことが記されている。「対馬国」の地誌については、同書は以下のように説明している。
{{quotation|
始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離。所居絶島 方可四百余里。土地山険 多深林 道路如禽鹿径。有千余戸。無良田 食海物自活 乗船南北市糴。
}}
:訳;はじめて一つ海を渡る。一千余[[里 (尺貫法)|里]]ある。対馬国に至る。そこの大官(長官)は卑狗(ひこ、ひく)といい、副官は[[ヒナモリ|卑奴母離]](ひなもり)という。住んでいるところは海に囲まれた島で、広さは四方四百余里ばかりである。その土地は山が険しく、深い森が多く、道路はけものや鹿の通り道のようである。また人家は千余戸がある。良い田がなく、海の物を食べて自活し、船に乗り南や北に海を渡って穀物を買い入れている。
[[弥生時代]]の対馬北部の集落遺跡[[塔の首遺跡]](対馬市[[上対馬町]])では、[[石棺]]の内外に[[朝鮮半島]]系および[[中国]]系のもの([[方格規矩鏡|方格規矩文鏡]]・銅釧・陶質土器など)と[[北九州]]系のもの(広鋒銅矛・玉など)が一緒に副葬されており、『魏志』における「南北市糴」の記載を裏づけている<ref>新川(1998)p.23</ref>。
4世紀になると対馬にも本格的に[[古墳時代]]が到来する。[[4世紀]]後半以降、東海岸の鶏知浦周辺に畿内型の前期古墳で島内最大の[[出居塚古墳]](対馬市[[美津島町]])が出現し、つづいて[[前方後円墳]]をふくむ[[根曽古墳群]](対馬市美津島町)がつくられ、[[5世紀]]から[[6世紀]]後半におよんでいる<ref name=shin29>新川(1998)p.28-29</ref>。4世紀後半代には北部に[[大将軍山古墳]](対馬市[[上県町]])がつくられたものの、全体からみれば、古墳分布は、旧来の[[浅茅湾]]周辺の社会集団と関係を結びながら、[[ヤマト王権]]との連絡に好適な東海岸鶏知浦付近に[[王権]]と直接つながるような[[首長]]層が成立してきたことを物語る<ref name=shin29/>。
=== 古代 ===
[[白村江の戦い]]ののち対馬には[[防人]]と[[烽火|烽]]が置かれ、山城も築かれて外寇の防備としたが、8世紀から9世紀にかけての[[新羅の入寇]]、11世紀の[[刀伊の入寇]]などしばしば戦火をこうむった。
==== 飛鳥時代 ====
[[File:Kanata Castle, tounan-sekirui-1.jpg|thumb|220px|right|{{center|[[金田城]]}}]]
島の首長について、『[[先代旧事本紀]]』の「国造本紀」では「[[津島県直]]」と伝える。[[古墳時代]]にはヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵しており、こうした状況は『[[日本書紀]]』、『[[好太王碑|広開土王碑文]]』、『[[宋書]]』倭国伝、『[[三国史記]]』の記載でも認められる。このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』における[[神功皇后]]の[[新羅]]征討伝承であり、それにかかわって「和珥津(わにのつ)」の地名が登場し、対馬に[[屯倉]]を設置したと記述される。朝鮮側の記録としては、『三国史記』に新羅王[[実聖尼師今]]の治世7年([[408年]])に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。
[[645年]]の[[大化の改新]]ののち[[律令制]]が施行されると、対馬は[[西海道]]に属する[[令制国]]すなわち対馬国として現在の[[厳原町|厳原]](いづはら)に[[国府]]が置かれ、[[大宰府]]の管轄下に入った。[[推古天皇]]における[[600年]](推古8年)と[[607年]](推古15年)の[[遣隋使]]も、また[[630年]]([[舒明天皇|舒明]]2年)の[[犬上御田鍬]]よりはじまる初期の[[遣唐使]]もすべて航海は[[壱岐]]と対馬を航路の寄港地としていた。
[[663年]]([[天智天皇|天智]]2年)の[[白村江の戦い]]以後、[[倭国]]は、[[唐]]・[[新羅]]の侵攻に備え、[[664年]]には対馬には防人(さきもり)が置かれ、烽(とぶひ)が8ヶ所に設置された。防人はおもに[[東国]]から徴発され、『[[万葉集]]』には数多くの[[防人歌]]がのこっている。[[667年]](天智6年)には浅茅湾南岸に山城[[金田城]]を築いて国境要塞とし、[[674年]]([[天武天皇|天武]]3年、[[白鳳]]2年)には厳原が正式な[[国府]]の地に定まって、同年、対馬[[国司]]守[[忍海造大国]](おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出した[[銀]]を[[ヤマト王権#「大和朝廷」|朝廷]]に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。([[対馬銀山]])
[[701年]]([[文武天皇|文武]]5年)、対馬で産出したと称する[[金]]を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「[[大宝 (日本)|大宝]]」の[[元号]]が建てられた。ただし、これは現在では偽鋳であるといわれている。なお、同年制定の[[大宝律令]]において対馬国は「対馬島」と表記されている<ref>[[池上裕子]]、[[小和田哲男]]、[[小林清治]]、[[池享]]、[[黒川直則]]編『クロニック 日本全史』([[講談社]]、[[1995年]])111頁参照。</ref>。
==== 奈良時代 ====
防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、[[737年]](天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、[[757年]]([[天平宝字]]元年)にはそれも廃して西海道のうち7国([[筑前国]]・[[筑後国]]・[[肥前国]]・[[肥後国]]・[[豊前国]]・[[豊後国]]・[[日向国]])の兵1,000人をもってこれに代えることとした<ref name=kenshi43>新川(1998)p.43-44、池上裕子前掲『クロニック 日本全史』(講談社、1995年)123頁参照。</ref>。[[741年]]([[天平]]13年)、「[[鎮護国家]]」をめざした聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬にも府中厳原の地に島分寺が建立されたが、講師はいったん廃された。
なお、[[759年]](天平宝字3年)に藤原仲麻呂が新羅征討を準備したとき、東国の船団編成に肥前国2,400人、対馬島200人の水手(かこ)が含まれていたという<ref name=kenshi43/>。
『新撰亀相記』によれば、上県郡に直氏と卜部氏、下県郡に直氏と卜部氏と、夜良直氏がおり、上下の直氏を国造としている。
==== 平安時代 ====
[[平安時代]]に入って[[桓武天皇]]の時代には防人制は広く廃止され、[[軍団 (古代日本)|軍団制]]に改められたが、壱岐・対馬の両国に関しては例外として防人を残した<ref name=kenshi43/>。度々起こった[[新羅の入寇]]では、[[813年]]([[弘仁]]4年)の[[新羅の入寇#弘仁の韓寇|弘仁の韓寇]]は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。[[841年]]([[承和 (日本)|承和]]8年)には、大宰府の属官(曹)104人が対馬の防人にあてられた。
律令制の弛緩は対馬国においても例外ではなかった。『[[日本文徳天皇実録]]』[[天安 (日本)|天安]]元年([[857年]])六月条に対馬国守として立野正岑の名がみえるが、同年に上県郡主擬主帳卜部川知麻呂、下県郡擬大領直浦主らが率いる300余の島民が国守立野正岑の館を襲撃し、国司や従者の榎本成岑を惨殺した事件が起こっている<ref name=sakimori>[http://members.jcom.home.ne.jp/ochozt-t/ikihtm/Historyiki.htm 防人の島-壱岐・対馬の歴史]</ref>。
[[870年]]([[貞観 (日本)|貞観]]12年)には対馬に選士50人が配され、[[874年]](貞観16年)には新羅人が対馬に漂着したものの帰国させられた。[[894年]]([[寛平]]6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が[[佐須浦]](さすうら)に襲来したが国守[[文屋善友]]が撃退している([[新羅の入寇#寛平の韓寇|寛平の韓寇]])。
[[936年]]([[承平 (日本)|承平]]6年)、朝鮮半島を[[高麗]]が統一し、対馬に高麗の[[南原府]]の[[咸吉兢]]が対馬に漂着したという。また、10月15日には[[金海府]]の[[李純達]]が大宰府に到着の報が届いたが国交成立に至らなかったとされる<ref>池上裕子前掲『クロニック 日本全史』(講談社、1995年)173頁参照。</ref>。
[[1019年]]([[寛仁]]3年)、正体不明の賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365名、拉致された者1,289名で、有名な対馬銀鉱も焼損した。これは、[[奴隷]]にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。のちに賊の正体が刀伊([[女真]]族)であることが判明し、この事件は「[[刀伊の入寇]]」と呼ばれるようになる。女真族は、このとき対馬の判官代[[長嶺諸近|長岑諸近]]とその一族を捕虜にしており、諸近は1度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録がのこっている<ref name=tbs>田中健夫(1974)</ref>。
対馬国は、古代後半にあっては[[阿比留氏]]などの[[在庁官人]]による現地支配がなされていた。
[[1094年]]([[嘉保]]2年)[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]、[[大宰帥|前大宰権帥]]の[[正二位]][[権官|権]][[中納言]][[藤原伊房]]が前対馬守[[藤原敦輔]]と謀り、[[国禁]]の[[密貿易|私貿易]]をおこない発覚。伊房は[[従二位]]に降格の上、敦輔は[[従五位|従五位下]]の位階を剥奪された<ref>池上裕子前掲『クロニック 日本全史』([[講談社]]、[[1995年]])201頁参照。</ref>。
[[1101年]]([[康和]]3年)[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]、対馬守[[源義親]]が現地で大宰府の命をきかず、官物を横領し、人民を苦しめるとの報が太宰権帥[[大江匡房]]より朝廷にもたらされ、義親追討の官符が発せられる。源義親は天下第一武勇の士として名高い[[河内源氏]]の棟梁・[[源義家|八幡太郎義家]]の嫡男である。義親の追討以降、河内源氏は勢力が衰え、義親に追討に功のあった[[伊勢平氏|平氏]]が台頭する契機となった<ref>池上裕子前掲『クロニック 日本全史』(講談社、1995年) 202頁参照。</ref>。
=== 中世 ===
[[1274年]]([[文永]]11年)と[[1281年]]([[弘安]]4年)の2度に渡って[[元寇]]の襲来を受け、[[宗助国]]は迎撃したが戦死。一時[[元 (王朝)|元]][[軍]]に占領された。その際、住民の男性は虐殺され、女性は手に穴を開けられ紐を通して繋がれ連れ去られたと史書には記されている。
[[倭寇]]の主要根拠地の1つとされ、この倭寇討伐を目的として[[李氏朝鮮]]の軍が[[1419年]](応永26年)に大規模な侵攻を行い、宗氏との1ヶ月にわたる戦闘で大敗を喫し撤退した([[応永の外寇]])。その後、宗氏は[[嘉吉]]3年([[1443年]])に朝鮮と[[嘉吉条約]]を結んで、以後日朝間の窓口となった。
しかし、[[文明 (日本)|文明]]2年([[1470年]])、朝鮮国王 [[世祖 (朝鮮王)|世祖]]が対馬守護 宗氏に使節を派遣し、日本の密航者の取り締まりを求めた<ref>池上裕子、小和田哲男、小林清治、池享、黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社、1995年) 81頁参照。</ref>。[[1509年]]([[永正]]6年)[[4月 (旧暦)|4月]]、朝鮮は[[対馬島主]]・[[宗材盛]]に在留期限を超えた[[恒久倭]]の帰国を求める使節の派遣を予定していたが、材盛の急逝で使節派遣を延期する<ref>池上裕子編前掲『クロニック 戦国全史』(講談社、1995年) 186頁参照。</ref>。
翌1510年(永正7年)、朝鮮で現地在住の対馬の民などにより三浦の乱が発生。宗氏は日朝貿易への影響力拡大を狙い救援軍を派遣するも鎮圧され、在留日本人は追放。対馬と朝鮮の関係も[[1512年]](永正9年)まで途絶する。
また、この頃少弐氏が[[大内氏]]によって大宰府を追われると、宗貞盛は九州に出兵して大内氏と戦った。しかし、少弐氏が滅亡したので対馬に戻った。
=== 近世以降 ===
[[1592年]]([[文禄]]元年)、[[豊臣秀吉]]が[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]を行った。貿易収入が失われることを恐れた宗氏は戦争回避のため奔走した。開戦後は[[釜山広域市|釜山]]と[[名護屋城]]との中継地となった。
[[関ヶ原の戦い]]では宗氏は西軍に付いたものの、領土を安堵された。
{{Main|対馬府中藩}}
宗氏を藩主とする[[対馬府中藩]](10万石格)が幕末まで支配した。
江戸初期対馬藩は[[李氏朝鮮]]との国交再開のために尽力。幕府と李氏朝鮮との関係を保つため、しばしば双方の国書を改竄した。それを有力家臣の柳川氏が告発、[[柳川一件]]に発展した。
なお江戸時代には[[鎖国]]政策がとられていたが朝鮮とは正式な国交があり、対馬藩は[[朝鮮通信使]]の先導役を勤め、現在の釜山市に[[倭館]]を置き交易をおこなった。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では全域が'''[[対馬府中藩]]'''領であった。([[上県郡]]44村・[[下県郡]]64村・全て無高)
* 明治2年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]([[1869年]][[9月12日]]) - 府中藩が改称して'''[[厳原藩]]'''となる。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[厳原県]]'''の管轄となる。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により'''[[伊万里県]]'''の管轄となる。
* 明治5年
** [[5月29日 (旧暦)|5月29日]]([[1872年]][[7月4日]]) - '''[[佐賀県]]'''(第2次)の管轄となる。
** [[8月17日 (旧暦)|8月17日]](1872年[[9月19日]]) - '''[[長崎県]]'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
[[国府]]は下県郡にあった。現在の[[対馬市]]厳原町国分の対馬市役所(旧[[厳原町]]役場)付近と推測されているが、未だ[[遺跡]]は見つかっていない。
=== 島分寺・島分尼寺 ===
[[File:Tsushima Kokubunji Bonsho2.jpg|280px|right|thumb|対馬国分寺梵鐘の拓本[[1500年]](明応9年)]]
[[聖武天皇]]が[[741年]](天平13年)に発布した「[[国分寺建立の詔]]」ののち[[大日如来]]を本尊として対馬島分寺(とうぶんじ)が下県郡の国府付近に建てられた記録があり、のちの[[金石城]](厳原城)の位置がこれに比定される。金石城跡の[[発掘調査]]によって島分寺の[[伽藍]]配置などが解明されつつある。[[755年]]([[天平宝字]]7年)、国・島講師(正確には国・島師)が廃され、復されて島分寺に講師が置かれたのは[[855年]](斉衡2年)であった<ref name=shinkawa55>新川(1998)p.55</ref>。その財源は、九州本土の諸国に依存するところが大きかったという<ref name=shinkawa55/>。[[857年]](天安元年)の国司[[立野正岑の乱]]では島分寺を焼失し、翌天安2年、国府嶽山麓に本尊大日如来を移して大日堂が建立された。これはのちに大日寺と称された。現在の[[臨済宗]]西山寺である<ref>[http://www.tsushima-seizanji.com/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88/%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81%E3%81%AB%EF%BC%8F%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5.html 対馬鶴翼山西山寺]</ref><ref>[http://www.kyuhaku-db.jp/souke/yukari/index_06.html 対馬宗家文書の世界「西山寺」] - [[九州国立博物館]]</ref>。史料では、[[貞観 (日本)|貞観]]年間([[859年]] - [[877年]])には、対馬島分寺の島内における財源補強の努力が確認される<ref name=shinkawa55/>。
いっぽう、[[1468年]](応仁2年)、対馬府中に居をかまえた[[宗貞国]]が弟の甫庵宗睦に[[国分寺]]復興を命じ、古代島分寺跡の山際に再建されたと推定されている。これは、[[江戸時代]]に入って[[1665年]](寛文5年)に宗義真が金石城を拡張した際に日吉へ移された。さらに[[1863年]](文久3年)になって、以酊庵と振り替わって厳原町天道茂の現在地に移されたのが[[釈迦如来]]を本尊とする現存国分寺である。現存寺は、[[曹洞宗]]天徳山国分寺と称し、かつては宗家の[[菩提寺]]だったこともあり、江戸時代中・後期には[[朝鮮通信使]]来聘に際して、その客館として使用された<ref>[http://www.hinocatv.ne.jp/~w-suzuki/tushima.htm 対馬国分寺]</ref><ref>[http://www.kyuhaku-db.jp/souke/yukari/index_04.html 対馬宗家文書の世界「国分寺」] - 九州国立博物館</ref>。
なお、島分尼寺(国分尼寺)については詳細不明である。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社6座6社・小社23座23社の計29座29社が記載されている(「[[対馬国の式内社一覧]]」参照)。大社6社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。
* [[上県郡]] [[和多都美神社]] - 和多都美神社(対馬市豊玉町)または[[海神神社]](対馬市峰町木坂)に比定。
* 上県郡 和多都美御子神社 - [[和多都美御子神社]](対馬市豊玉町)ほか論社3社。
* [[下県郡]] [[高御魂神社]] (対馬市厳原町)
* 下県郡 和多都美神社 - [[厳原八幡宮神社|八幡宮神社]](対馬市厳原町)または[[乙和多都美神社]](対馬市厳原町)に比定。
* 下県郡 [[太祝詞神社]] (対馬市美津島町)
* 下県郡 [[住吉神社 (対馬市)|住吉神社]] (対馬市美津島町雞知) - [[住吉神社]]は元来[[大阪湾]]周辺の海神であったと考えられるが、対馬の住吉神社もまた神功皇后の新羅出兵伝承と不可分なかたちで語り継がれてきたものである<ref>新川(1998)p.29</ref>。
; [[総社]]・[[一宮]]
* 総社 不詳
* 一宮 '''[[海神神社]]'''
二宮以下は存在しない。
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺跡 - 長崎県対馬市上県町佐護。
== 地域 ==
=== 郡・郷 ===
==== 古代 ====
*[[上県郡]]
**伊奈郷、久須郷、向日郷、三根郷、佐護郷
*[[下県郡]]
**豆酘郷、鶏知郷、賀志郷、与良郷、玉調郷
==== 中世 ====
*豊崎郡、佐護郡、伊奈郡、三根郡、仁位郡、佐須郡、与良郡、酘豆郡
==== 江戸時代 ====
*上県郡
**豊崎郷、佐護郷、伊奈郷、三根郷
*下県郡
**仁位郷、佐須郷、与良郷、豆酘郷
=== 江戸時代の藩 ===
*[[対馬府中藩]]、[[宗氏|宗家]](2万石格 → 10万石格)
== 人物 ==
=== 国司 ===
==== 対馬守 ====
*[[忍海大国]] - [[674年]]([[天武天皇]]3年)3月7日見
*[[立野正岑]] - 857年、郡司・百姓らによって惨殺された。
*[[源義親]] - 太宰府の命に服さず、官物横領及び住民を苦しめた罪で追討を受ける。
*[[藤原親光]] - [[源頼朝]]の外戚であったため平氏より追討を受ける(『[[吾妻鏡]]』)<ref>佐伯(1998)p.77</ref>。
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*[[河内義長]]:[[1185年]](文治元年) -?
*[[少弐資能]]:[[1230年]](寛喜2年) -?
*[[少弐貞経]]:[[1323年]](元亨3年) -?
==== 室町幕府 ====
*[[少弐頼尚]]:[[1344年]](南朝:興国5年、北朝:康永3年) -?
*[[宗澄茂]]:[[1378年]](南朝:天授4年、北朝:永和4年)-?
*[[今川貞世|今川了俊]] ? 九州探題
*[[宗頼茂]]:[[1392年]](明徳3年) - [[1398年]](応永5年)
*[[宗貞茂]]:[[1400年]](応永7年) - [[1403年]](応永10年)
*[[宗貞盛]]:[[1414年]](応永21年) - [[1452年]](享徳元年)
*[[宗成職]]:[[1468年]](応仁2年)
*[[宗貞国]]:1468年 - [[1492年]](明応元年)
*[[宗材盛]]:1492年 - [[1508年]](永正5年)
*[[宗義盛]]:[[1510年]](永正7年) - [[1520年]](永正17年)
*[[宗盛長]]:1520年 - [[1521年]](大永元年)
*[[宗晴康]]:[[1542年]](天文11年) - [[1554年]](天文23年)
*[[宗義調]]:[[1555年]](弘治元年) - [[1560年]](永禄3年)
=== 戦国大名 ===
*[[宗氏]]
=== 武家官位としての対馬守 ===
*[[出浦盛清]] - 真田氏家臣
*[[前田長種]] - 加賀八家
*[[松田対馬守]] -丹後国人(桓武平氏流)-室町幕府奉行衆
==== 江戸時代 ====
*[[対馬府中藩]]主[[宗氏|宗家]]
**[[宗義成]]
**[[宗義真]]
**[[宗義倫]]
**[[宗義方]]
**[[宗義誠]]
**[[宗義如]]
**[[宗義蕃]]
**[[宗義暢]]
**[[宗義功 (富寿)|宗義功]]
**[[宗義質]]
**[[宗義章]]
**[[宗義和]]
**[[宗義達]]
*[[土佐藩]]主[[土佐山内氏|山内家]](称、松平)
**[[山内一豊]]:[[1585年]](天正13年) - [[1603年]](慶長8年)
**[[山内忠義]]
**[[山内忠豊]]
**[[山内豊熈]]
*[[鳥羽藩|志摩鳥羽藩]]主[[三河稲垣氏|稲垣家]]
**[[稲垣昭央]]
**[[稲垣長続]]
**[[稲垣長剛]]
**[[稲垣長敬]]
*その他
**[[堀直知 (対馬守)|堀直知]]- [[旗本]]、[[山田奉行]]
=== 対馬国に関連の深い歴史的人物 ===
近代以降は[[対馬市#出身関連著名人]]を参照のこと。
==== 対馬国出身者 ====
*[[長嶺諸近|長岑諸近]] - 刀伊の入寇の際の対馬判官代
*[[宗助国]] - [[元寇]]の際の対馬守護代
*[[宗義智]] - [[対馬府中藩]]初代藩主
*[[宗義真]] - 好学の藩主
*[[陶山鈍翁]] - 対馬藩郡奉行
*[[賀島兵介]] - 対馬藩士で[[肥前国]]田代副代官
*[[中庭茂山]] - 対州焼の名工
*[[平山東山]] - 『津島紀事』の著者
*[[大島友之允]] - [[外交官]]
*[[半井桃水]] - [[小説家]]
==== 対馬国に関係の深い人物 ====
*[[武藤資頼]] - [[源頼朝]]により対馬国[[守護]]に任じられる。
*[[島清興]] - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。対馬に墓がある。
*[[雨森芳洲]] - 対馬府中藩の儒講。厳原の長寿院に墓所がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[新川登亀男]]「1章 海と山野の歴史を開く」[[児玉幸多]]監修『県史42 長崎県の歴史』[[山川出版社]]、1998年5月。ISBN 4-634-32420-2
* 新川登亀男「2章 東アジアのなかの古代統一国家」『県史42 長崎県の歴史』山川出版社、1998年5月。ISBN 4-634-32420-2
* [[佐伯弘次]]「3章 荘園公領と武士団」『県史42 長崎県の歴史』山川出版社、1998年5月。ISBN 4-634-32420-2
* 池上裕子、小和田哲男、小林清治、池享、黒川直則編『クロニック 日本全史』(講談社、1995年)ISBN 406203994X
* {{Cite book |和書 |author=平山棐|year=1917|title=津島紀事|publisher=津島紀事刊行会|page= |id={{国立国会図書館デジタルコレクション|956888|format=NDLJP}}|quote= }}
* [[角川日本地名大辞典]] 42 長崎県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tsushima Province}}
* [[対馬]]
* [[対馬市]]
* [[新羅の入寇]]
* [[刀伊の入寇]]
* [[元寇]]
* [[応永の外寇]]
* [[高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻]]
* [[対馬歴史民俗資料館]]
* [[対馬 (防護巡洋艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[防護巡洋艦]]。[[新高型防護巡洋艦]]の2番艦。艦名は対馬国に因む。
== 外部リンク ==
* [http://www.pref.nagasaki.jp/sima/island/tsushima/history.html 長崎のしま紹介 対馬と韓国の交流史]
* [http://tsmzen.com/ 対馬全カタログ]
* [http://www.kyuhaku-db.jp/souke/ 対馬宗家文書の世界](九州国立博物館)
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白熱電球
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白熱電球(はくねつでんきゅう、英語: incandescent lamp、filament lamp)とは、ガラス管球の中に入れた高抵抗線(High resistance wire)に電流を流し、ジュール熱によって高温となり放射する光を利用するもの。フィラメント電球、白熱球、白熱バルブなどともいう。
白熱灯から放たれる光のスペクトルは黒体放射に近い。電力の多くが赤外線や熱に変換されるため発光効率は低い。日常用いられる100Wガス入り白熱電球では、可視光の放射に使用される電力は10%程度であり、赤外放射は72%で、残りは熱伝導により消費される。
そのかわり、一般の人工光源の中の比較としては白熱灯の光は演色性に特に優れており、写真や映画、テレビの撮影光源として広く利用される。演色性の基準となる光源は、専用の白熱電球と特殊なフィルターの組み合わせで定義されている(CIE標準光源)。
1860年にジョゼフ・スワンが発明した。ただしスワンのフィラメント電球は、フィラメントの経が4mmもあり、様々な難点があり、「実用性」という点では難があった。後から電球という分野に参入したトーマス・エジソンは、さまざまな素材のフィラメントを試し、当時で連続1,200時間点灯という画期的な改良にも成功、つまり実用に耐える電球の開発に成功し、彼が開発したフィラメント電球について1879年にも1880年にも特許を取得し、本格的な商用化と大量生産を実現することになり世界中にフィラメント電球が普及してゆくことになった。→#歴史
2010年代なかばころまで(つまりエジソンの本格的商用化から実に100年以上に渡り)広く一般的に使われ、世界各国の各家庭でもさまざまな店舗などでも広く使われていたものであり、電気式の照明装置としては世界的には一番標準的なものであった。
2010年代にLEDバルブへの置き換えが急激に進んだが、2010年代でも研究は続けられてはおり、今後、LEDバルブを超える高効率の白熱球が開発・実用化される可能性は残されている。→#高効率化
抵抗線としては通常はタングステンが用いられ、それが(高温で)蒸発してしまうことを防ぐためアルゴンおよび窒素ガスが管球内におよそ 0.7 気圧になるように封入されていることが一般的。
電源は直流、交流のどちらでも使用可能である。瞬間的に電流が途切れてもフィラメントの赤熱は持続するため、交流電源の場合でもチラツキは無い。
19世紀後半、電気照明にはアーク灯がもてはやされていた。しかし、アーク灯は花火のような灯りでバチバチという音も伴うもので屋内の照明にはまぶしすぎるものだった。一般家庭の室内照明にはガス灯が普及していたが、爆発の危険性もあるほか室内の壁が黒ずむ問題もあり、硫黄臭やアンモニア臭が発生することもあった。また、ガス灯は大量の酸素を必要としたため、室内の人にめまいや頭痛を引き起こすこともあった。他に電気を使った発光体としてガイスラー管もあったが、高電圧を必要としもっぱら実験用途で照明用には使われなかった。
そこで19世紀半ば以来、電気エネルギーを利用した白熱光による照明の開発に20人以上の発明家が取り組んだ。イギリスのジョゼフ・スワンとアメリカのトーマス・エジソンが開発を競っており、1878年にスワンはエジソンの1年前に白熱電球を発明したが、スワンのフィラメントは径が4mmと太く利便性等の問題があった。
1879年10月19日、エジソンは木綿糸を炭化させてフィラメントにした実用炭素電球を開発した。フィラメントの材料に白金を試していたが加熱するとガスが出て寿命が短くなる問題があった。そこで炭素処理を施した厚紙を使ったが最終的には竹を使用することになった。エジソンは中国と日本に部下を派遣し、最終的に粘着性と柔軟性に富む京都・八幡の真竹がフィラメントに採用された。エジソンの開発した電球のフィラメントは径が0.4mmと細く、自由に点けたり消したりするのに優れた特長をもった。
エジソンは高抵抗のランプを使用することで、電圧100Vに電球を並列に接続しそれぞれ独立して点滅できるようにするとともに、ソケットをねじ込み式(エジソンベース)にして自由に交換できるようにした。そして発電所から各需要家に電気を供給するためのシステムを構築した。
ちなみに、白熱電球が発明されて比較的すぐに、フィギュアスケートや野球などのスポーツの夜間興行(ナイター)が行われている。
1904年、オーストリアのアレクサンダー・ユスト(Alexander Just)とフランツ・ハナマン(Franjo Hanaman)がタングステンのフィラメントを発明したが、資金不足により1906年にやっと押線タングステン電球を商品化した。ただ、この電球に使われたタングステンは脆くて加工が困難で、フィラメントは衝撃に弱く取り扱いに注意が必要だった。1910年、ゼネラル・エレクトリックのウィリアム・クーリッジがその欠点を解消した引線タングステン電球を開発した。
1913年、ゼネラル・エレクトリックのアーヴィング・ラングミュアが、タングステン電球の黒化現象は蒸発したタングステンのガラス面への付着であると確認し、その防止策として不活性ガスを注入したガス入り電球を開発した。これにより電球の効率が向上し、寿命が著しく伸びた。
1921年、東京電気(現・東芝)の三浦順一技師がタングステン電球のコイルを二重にした二重コイル電球を開発し、熱損失の減少と電球の効率向上につながった。
電球の効率向上により、まぶしさが問題となり、1923年に東京電気の不破橘三が電球内部をつや消し処理する方法を開発した。ほぼ同時にゼネラル・エレクトリックのマービン・ピプキンも内面つや消し電球を開発したが、不破の方が約1年早く特許を申請していた。1925年につや消しによる強度劣化を防止する方法を考案し、内面つや消し電球が完成した。後年の1974年に松下電器(現・パナソニックホールディングス)がシリカを内部処理に用いた「シリカ電球」を開発しまぶしさがさらに軽減された。
1950年、通商産業省が白熱電球を産業標準化法に基づき「標準化指定商品」に決定。22の工場に新型標準電球の製造許可を出した。新型の標準電球は、以前の電球より同じワット数でも3%〜8%明るくなる一方、寿命は多少短くなった。1951年よりJISマークが入った新電球の販売が開始された。また、1950年には松下電器(現・パナソニックホールディングス)がフィラメントを二重コイル化(寿命の項を参照)した電球を発売。広告にて「二割明るい お徳用」とアピールを行った。
大出力電球や映写用ランプ等では電球にガスを入れたものでも電球の黒化が生じて問題であった。その対策として1959年、ゼネラル・エレクトリックのツブラーとモスビーが石英ガラス管の内部に不活性ガスとヨウ素を封入することで電球の黒化を抑制するハロゲン電球を開発した。
利用の減少の経緯 - 1993年に日本の中村修二により青色LEDが開発されたことにより白色LEDも可能になったが、最初の頃はかなり高価で白熱灯は使われ続けた。やがて多数のメーカーが白色LED製造に参入するようになり、2010年代に白色LEDの低価格がかなり進み、白色LEDの省エネ効果による電気代の削減額の数年分で白色LEDの購入代金が賄えるレベルにまでなった段階で各国政府がLEDバルブへの置き換え政策を採用するようになり、5年間程度で従来の白熱電灯から白色LEDバルブへの置き換えが進んだことで、白熱電灯の製造・販売は急激に減少した。
口金の形状には多数の種類があり、電球の用途に応じ選択されている。口金は国際規格に整合されたものが多く、日本のJIS規格ではJIS C 7709において規定されている)。
一般照明用白熱電球では、ネジ式のE型口金(エジソンベース、Edison screw)が用いられている。自動車用など耐震性を要求される用途ではS、すなわちスワンベース(引っ掛け式)を用いる。英国では普通の電球にもスワンベースの電球を用いる場合がある。
使用されるガラス管球の形状でも分類されている。右の図を参照のこと。
白熱電球の明るさはかつては燭(カンデラ(cd)にほぼ等しい)を単位とする光度で表されていたが、現在はワット(W)を単位とする消費電力で、明るさの型式を表現されている。ただし、明るさをWで表示するのは白熱電球だけであり、他の光源である電球形蛍光灯とLED電球は、全光束(単位:ルーメン[lm])表示する事と業界団体の規定で定められている。
かつて白熱電球が一般的に販売されていた時代には、40W・60W・100Wの3種類が一般的であった。この他メーカーにより、また稀に10W・30W・50W・80Wなどの種類も販売されていたが、20W刻みで連続数字だと40W・60W・80W・100Wとなるべきところ、80Wの電球の販売が稀であったのは、実際の明るさ的には80Wと100Wは差がなく、100Wの方がいくらか明るく感じるので80Wよりも100Wが出回るようになったためだという。
現在、市販されている白熱電球の多くは1000時間程度の寿命を持つ。ただ使用環境によっては電圧の高い(日本では許容最大値である110Vがかかる)場合もあり、この場合は100V用電球では寿命が短くなる。そのため、特に記載はないが、110Vの電圧を想定した電球も販売されている。電圧が定格より下がると、効率が低下する一方で寿命は向上する(照度参照)。
高温(2200 - 2700°C)となるフィラメントではその構成する素材(今日ではほとんどがタングステンとなっている)が点灯時間の累積と共に徐々に蒸発し、細くなることで素材強度がなくなり、最後に折損(俗に言う「球切れ」)することで寿命となる。また昇華したタングステンがガラス球内に付着し、可視放射効率低下の原因ともなる。フィラメントを真空中に置いた真空電球ではこの昇華が大きい。
ガラス球内を不活性ガスで満たすことで昇華を抑えることが出来るが、ガス中への熱伝導による損失が大きくなる。今日用いられる白熱電球のほとんどがこのガス入り白熱電球と呼ばれるタイプのもので封入する不活性ガスとしては通常、希ガスが用いられるがその分子量が大きいもの程熱伝導による損失が少なくなるため窒素やアルゴン以外に高価なクリプトンあるいはキセノンを用いたものもある。
封入ガスにハロゲン(ヨウ素、臭素、塩素あるいはその化合物)を微量混合し、ガラス球部が高温になるように設計することで、昇華したタングステンをフィラメントへと還元するようにしたものもある(ハロゲンランプ)。
フィラメントの温度を高く設定すると放射光中の可視光成分が多くなり、発光効率が上昇するが、その分フィラメントの蒸散も大きくなり、電球の寿命が短くなる。ハロゲンランプの場合、フィラメントの温度が同じならば通常のガス入り白熱電球の数倍の寿命となるが、その温度を高く設定し、寿命は同じだが効率が高い電球とすることもできる。
フィラメントの温度を低く設定し、長寿命化した製品も存在する。例えばキセノンランプの中には、効率が低く光色も赤色味が強くなる代わりに10000時間前後の寿命を持つものがあり、電球交換の頻度を減らす必要がある、交換が困難な場所(高所など)で用いられている。交流点灯の場合、ダイオードによりフィラメントに流れる電流を半減させ効率と引き換えに寿命を延ばすという手法もある。
他に寿命を伸ばす手法としては、制御回路により、フィラメントが切れることが多い電源投入時に流れるラッシュカレント(電源投入の瞬間からフィラメントの温度が安定するまでの間、規格の8倍程度の電流が流れてしまう現象。消灯時の冷えたフィラメントの抵抗値は点灯中の高温時に比べ低いために発生する。突入電流とも言う)を軽減し、電源投入時のストレスを減らすというものがある。
フィラメントは、通常単コイルまたは二重コイル(小径のコイルを巻き、そのコイル線で大径のコイルを巻く)となっている。これはフィラメントの封入ガスとの接触面積を減らすことで、熱伝導を抑え発光効率を改善するとともにその寿命を延長するのに有効である。
家庭向けには、主にLED電球への移行が推奨されている。電球型蛍光灯への置き換えも行われたが、LEDより寿命が短いなどの点があるため、LEDの低価格化によりあまり使われなくなっている。
地球温暖化防止・環境保護として、白熱電球の生産・販売を一切終了し電球形蛍光灯やLED電球への切替を消費者やメーカーに促す動きが世界的に広がっている。オーストラリア、フランスやアメリカ(州による)などは白熱電球の生産・販売が今後法律で禁止される。
日本では、2008年4月、2012年末までに生産と販売を自主的にやめるよう電機メーカーなどに要請する方針を甘利明経済産業大臣(当時)が表明した。これに応える形で東芝ライテックは同年4月14日に2010年度を目途に白熱電球の生産を原則中止すると発表し、2010年3月17日に国内大手電機メーカーで初めて白熱電球生産事業より撤退(交換用途は除く)。続いて三菱電機照明も(当初の2012年より1年前倒しし)2011年3月限りで生産を終了(一部製品を除く)、NECライティング(現:ホタルクス)・パナソニック ライティングデバイスも2012年内に生産を終了した。ただしこれらの要請や自粛は、とくに大手メーカーにとって利益率の高いLEDの生産に力を傾けたいという意向にある程度沿ったものである。
なお従来の白熱電球、ミニクリプトン電球、シリカ電球はいずれも「交換用途に絞って」生産が継続されている(東芝ライテックは2014年限りで、日立グローバルライフソリューションズは2019年限りで、三菱電機照明とホタルクスは2020年限りでそれぞれミニクリプトン電球生産からも撤退。ミニクリプトン電球の現行メーカーはパナソニック・朝日電器・オーム電機・ヤザワコーポレーションのみ)。
福島第一原子力発電所事故の影響によって電力事情が逼迫しているとし、細野豪志環境大臣兼原発担当大臣(当時)は「節電を促す観点から消費電力の多い白熱電球の販売を自粛するよう電器店に呼びかけ、消費者には消費電力の少ないLED電球や電球型蛍光灯への買い換えを呼びかけていく」方針を明らかにすると共に、2012年6月13日、経済産業省と環境省は白熱電球の製造業、家電量販店など関係する業界に製造や販売の自粛を要請した。これは家庭用・産業用とも、電球形蛍光灯、あるいはLED照明への転換をさらに促すこととなる。この要請を受け、パッケージに代替製品への移行を勧める文言を加えながら家庭用製品の生産を続けていたパナソニック ライティングデバイスも、上記のとおり当初の2013年春より約半年前倒しの2012年10月末で生産を終了した。
ガラス球部分に赤外線反射膜(通常、多重干渉膜によるダイクロイックミラー)を形成し、赤外線を電球内に閉じ込めて、フィラメントの加熱のために再利用されるよう設計された製品は以前からあった。
また、2010年代も研究が続けられており、2019年にメタマテリアルを利用してスペクトルを制御することで可視光線の比率を高める方法が発表された。これを用いればLEDを上回る高効率も実現可能とされている。ただし、実現には光の波長に相当する微細加工(ナノテクノロジー)が必要である。
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"text": "白熱電球(はくねつでんきゅう、英語: incandescent lamp、filament lamp)とは、ガラス管球の中に入れた高抵抗線(High resistance wire)に電流を流し、ジュール熱によって高温となり放射する光を利用するもの。フィラメント電球、白熱球、白熱バルブなどともいう。",
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"text": "白熱灯から放たれる光のスペクトルは黒体放射に近い。電力の多くが赤外線や熱に変換されるため発光効率は低い。日常用いられる100Wガス入り白熱電球では、可視光の放射に使用される電力は10%程度であり、赤外放射は72%で、残りは熱伝導により消費される。",
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"text": "そのかわり、一般の人工光源の中の比較としては白熱灯の光は演色性に特に優れており、写真や映画、テレビの撮影光源として広く利用される。演色性の基準となる光源は、専用の白熱電球と特殊なフィルターの組み合わせで定義されている(CIE標準光源)。",
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"text": "1860年にジョゼフ・スワンが発明した。ただしスワンのフィラメント電球は、フィラメントの経が4mmもあり、様々な難点があり、「実用性」という点では難があった。後から電球という分野に参入したトーマス・エジソンは、さまざまな素材のフィラメントを試し、当時で連続1,200時間点灯という画期的な改良にも成功、つまり実用に耐える電球の開発に成功し、彼が開発したフィラメント電球について1879年にも1880年にも特許を取得し、本格的な商用化と大量生産を実現することになり世界中にフィラメント電球が普及してゆくことになった。→#歴史",
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"text": "2010年代なかばころまで(つまりエジソンの本格的商用化から実に100年以上に渡り)広く一般的に使われ、世界各国の各家庭でもさまざまな店舗などでも広く使われていたものであり、電気式の照明装置としては世界的には一番標準的なものであった。",
"title": "概説"
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"text": "2010年代にLEDバルブへの置き換えが急激に進んだが、2010年代でも研究は続けられてはおり、今後、LEDバルブを超える高効率の白熱球が開発・実用化される可能性は残されている。→#高効率化",
"title": "概説"
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"text": "抵抗線としては通常はタングステンが用いられ、それが(高温で)蒸発してしまうことを防ぐためアルゴンおよび窒素ガスが管球内におよそ 0.7 気圧になるように封入されていることが一般的。",
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"text": "電源は直流、交流のどちらでも使用可能である。瞬間的に電流が途切れてもフィラメントの赤熱は持続するため、交流電源の場合でもチラツキは無い。",
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"text": "19世紀後半、電気照明にはアーク灯がもてはやされていた。しかし、アーク灯は花火のような灯りでバチバチという音も伴うもので屋内の照明にはまぶしすぎるものだった。一般家庭の室内照明にはガス灯が普及していたが、爆発の危険性もあるほか室内の壁が黒ずむ問題もあり、硫黄臭やアンモニア臭が発生することもあった。また、ガス灯は大量の酸素を必要としたため、室内の人にめまいや頭痛を引き起こすこともあった。他に電気を使った発光体としてガイスラー管もあったが、高電圧を必要としもっぱら実験用途で照明用には使われなかった。",
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"text": "そこで19世紀半ば以来、電気エネルギーを利用した白熱光による照明の開発に20人以上の発明家が取り組んだ。イギリスのジョゼフ・スワンとアメリカのトーマス・エジソンが開発を競っており、1878年にスワンはエジソンの1年前に白熱電球を発明したが、スワンのフィラメントは径が4mmと太く利便性等の問題があった。",
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"text": "1879年10月19日、エジソンは木綿糸を炭化させてフィラメントにした実用炭素電球を開発した。フィラメントの材料に白金を試していたが加熱するとガスが出て寿命が短くなる問題があった。そこで炭素処理を施した厚紙を使ったが最終的には竹を使用することになった。エジソンは中国と日本に部下を派遣し、最終的に粘着性と柔軟性に富む京都・八幡の真竹がフィラメントに採用された。エジソンの開発した電球のフィラメントは径が0.4mmと細く、自由に点けたり消したりするのに優れた特長をもった。",
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"text": "エジソンは高抵抗のランプを使用することで、電圧100Vに電球を並列に接続しそれぞれ独立して点滅できるようにするとともに、ソケットをねじ込み式(エジソンベース)にして自由に交換できるようにした。そして発電所から各需要家に電気を供給するためのシステムを構築した。",
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"text": "ちなみに、白熱電球が発明されて比較的すぐに、フィギュアスケートや野球などのスポーツの夜間興行(ナイター)が行われている。",
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"text": "1904年、オーストリアのアレクサンダー・ユスト(Alexander Just)とフランツ・ハナマン(Franjo Hanaman)がタングステンのフィラメントを発明したが、資金不足により1906年にやっと押線タングステン電球を商品化した。ただ、この電球に使われたタングステンは脆くて加工が困難で、フィラメントは衝撃に弱く取り扱いに注意が必要だった。1910年、ゼネラル・エレクトリックのウィリアム・クーリッジがその欠点を解消した引線タングステン電球を開発した。",
"title": "歴史"
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"text": "1913年、ゼネラル・エレクトリックのアーヴィング・ラングミュアが、タングステン電球の黒化現象は蒸発したタングステンのガラス面への付着であると確認し、その防止策として不活性ガスを注入したガス入り電球を開発した。これにより電球の効率が向上し、寿命が著しく伸びた。",
"title": "歴史"
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"text": "1921年、東京電気(現・東芝)の三浦順一技師がタングステン電球のコイルを二重にした二重コイル電球を開発し、熱損失の減少と電球の効率向上につながった。",
"title": "歴史"
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"text": "電球の効率向上により、まぶしさが問題となり、1923年に東京電気の不破橘三が電球内部をつや消し処理する方法を開発した。ほぼ同時にゼネラル・エレクトリックのマービン・ピプキンも内面つや消し電球を開発したが、不破の方が約1年早く特許を申請していた。1925年につや消しによる強度劣化を防止する方法を考案し、内面つや消し電球が完成した。後年の1974年に松下電器(現・パナソニックホールディングス)がシリカを内部処理に用いた「シリカ電球」を開発しまぶしさがさらに軽減された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "1950年、通商産業省が白熱電球を産業標準化法に基づき「標準化指定商品」に決定。22の工場に新型標準電球の製造許可を出した。新型の標準電球は、以前の電球より同じワット数でも3%〜8%明るくなる一方、寿命は多少短くなった。1951年よりJISマークが入った新電球の販売が開始された。また、1950年には松下電器(現・パナソニックホールディングス)がフィラメントを二重コイル化(寿命の項を参照)した電球を発売。広告にて「二割明るい お徳用」とアピールを行った。",
"title": "歴史"
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"text": "大出力電球や映写用ランプ等では電球にガスを入れたものでも電球の黒化が生じて問題であった。その対策として1959年、ゼネラル・エレクトリックのツブラーとモスビーが石英ガラス管の内部に不活性ガスとヨウ素を封入することで電球の黒化を抑制するハロゲン電球を開発した。",
"title": "歴史"
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"text": "利用の減少の経緯 - 1993年に日本の中村修二により青色LEDが開発されたことにより白色LEDも可能になったが、最初の頃はかなり高価で白熱灯は使われ続けた。やがて多数のメーカーが白色LED製造に参入するようになり、2010年代に白色LEDの低価格がかなり進み、白色LEDの省エネ効果による電気代の削減額の数年分で白色LEDの購入代金が賄えるレベルにまでなった段階で各国政府がLEDバルブへの置き換え政策を採用するようになり、5年間程度で従来の白熱電灯から白色LEDバルブへの置き換えが進んだことで、白熱電灯の製造・販売は急激に減少した。",
"title": "歴史"
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"text": "口金の形状には多数の種類があり、電球の用途に応じ選択されている。口金は国際規格に整合されたものが多く、日本のJIS規格ではJIS C 7709において規定されている)。",
"title": "白熱電球の種類・分類"
},
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"text": "一般照明用白熱電球では、ネジ式のE型口金(エジソンベース、Edison screw)が用いられている。自動車用など耐震性を要求される用途ではS、すなわちスワンベース(引っ掛け式)を用いる。英国では普通の電球にもスワンベースの電球を用いる場合がある。",
"title": "白熱電球の種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "使用されるガラス管球の形状でも分類されている。右の図を参照のこと。",
"title": "白熱電球の種類・分類"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "白熱電球の明るさはかつては燭(カンデラ(cd)にほぼ等しい)を単位とする光度で表されていたが、現在はワット(W)を単位とする消費電力で、明るさの型式を表現されている。ただし、明るさをWで表示するのは白熱電球だけであり、他の光源である電球形蛍光灯とLED電球は、全光束(単位:ルーメン[lm])表示する事と業界団体の規定で定められている。",
"title": "明るさの表示"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "かつて白熱電球が一般的に販売されていた時代には、40W・60W・100Wの3種類が一般的であった。この他メーカーにより、また稀に10W・30W・50W・80Wなどの種類も販売されていたが、20W刻みで連続数字だと40W・60W・80W・100Wとなるべきところ、80Wの電球の販売が稀であったのは、実際の明るさ的には80Wと100Wは差がなく、100Wの方がいくらか明るく感じるので80Wよりも100Wが出回るようになったためだという。",
"title": "明るさの表示"
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"text": "現在、市販されている白熱電球の多くは1000時間程度の寿命を持つ。ただ使用環境によっては電圧の高い(日本では許容最大値である110Vがかかる)場合もあり、この場合は100V用電球では寿命が短くなる。そのため、特に記載はないが、110Vの電圧を想定した電球も販売されている。電圧が定格より下がると、効率が低下する一方で寿命は向上する(照度参照)。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "高温(2200 - 2700°C)となるフィラメントではその構成する素材(今日ではほとんどがタングステンとなっている)が点灯時間の累積と共に徐々に蒸発し、細くなることで素材強度がなくなり、最後に折損(俗に言う「球切れ」)することで寿命となる。また昇華したタングステンがガラス球内に付着し、可視放射効率低下の原因ともなる。フィラメントを真空中に置いた真空電球ではこの昇華が大きい。",
"title": "寿命"
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"text": "ガラス球内を不活性ガスで満たすことで昇華を抑えることが出来るが、ガス中への熱伝導による損失が大きくなる。今日用いられる白熱電球のほとんどがこのガス入り白熱電球と呼ばれるタイプのもので封入する不活性ガスとしては通常、希ガスが用いられるがその分子量が大きいもの程熱伝導による損失が少なくなるため窒素やアルゴン以外に高価なクリプトンあるいはキセノンを用いたものもある。",
"title": "寿命"
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"text": "封入ガスにハロゲン(ヨウ素、臭素、塩素あるいはその化合物)を微量混合し、ガラス球部が高温になるように設計することで、昇華したタングステンをフィラメントへと還元するようにしたものもある(ハロゲンランプ)。",
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"text": "フィラメントの温度を高く設定すると放射光中の可視光成分が多くなり、発光効率が上昇するが、その分フィラメントの蒸散も大きくなり、電球の寿命が短くなる。ハロゲンランプの場合、フィラメントの温度が同じならば通常のガス入り白熱電球の数倍の寿命となるが、その温度を高く設定し、寿命は同じだが効率が高い電球とすることもできる。",
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"text": "フィラメントの温度を低く設定し、長寿命化した製品も存在する。例えばキセノンランプの中には、効率が低く光色も赤色味が強くなる代わりに10000時間前後の寿命を持つものがあり、電球交換の頻度を減らす必要がある、交換が困難な場所(高所など)で用いられている。交流点灯の場合、ダイオードによりフィラメントに流れる電流を半減させ効率と引き換えに寿命を延ばすという手法もある。",
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"text": "他に寿命を伸ばす手法としては、制御回路により、フィラメントが切れることが多い電源投入時に流れるラッシュカレント(電源投入の瞬間からフィラメントの温度が安定するまでの間、規格の8倍程度の電流が流れてしまう現象。消灯時の冷えたフィラメントの抵抗値は点灯中の高温時に比べ低いために発生する。突入電流とも言う)を軽減し、電源投入時のストレスを減らすというものがある。",
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"text": "フィラメントは、通常単コイルまたは二重コイル(小径のコイルを巻き、そのコイル線で大径のコイルを巻く)となっている。これはフィラメントの封入ガスとの接触面積を減らすことで、熱伝導を抑え発光効率を改善するとともにその寿命を延長するのに有効である。",
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"text": "家庭向けには、主にLED電球への移行が推奨されている。電球型蛍光灯への置き換えも行われたが、LEDより寿命が短いなどの点があるため、LEDの低価格化によりあまり使われなくなっている。",
"title": "発光ダイオード(LED)照明への移行"
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"text": "地球温暖化防止・環境保護として、白熱電球の生産・販売を一切終了し電球形蛍光灯やLED電球への切替を消費者やメーカーに促す動きが世界的に広がっている。オーストラリア、フランスやアメリカ(州による)などは白熱電球の生産・販売が今後法律で禁止される。",
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"text": "日本では、2008年4月、2012年末までに生産と販売を自主的にやめるよう電機メーカーなどに要請する方針を甘利明経済産業大臣(当時)が表明した。これに応える形で東芝ライテックは同年4月14日に2010年度を目途に白熱電球の生産を原則中止すると発表し、2010年3月17日に国内大手電機メーカーで初めて白熱電球生産事業より撤退(交換用途は除く)。続いて三菱電機照明も(当初の2012年より1年前倒しし)2011年3月限りで生産を終了(一部製品を除く)、NECライティング(現:ホタルクス)・パナソニック ライティングデバイスも2012年内に生産を終了した。ただしこれらの要請や自粛は、とくに大手メーカーにとって利益率の高いLEDの生産に力を傾けたいという意向にある程度沿ったものである。",
"title": "発光ダイオード(LED)照明への移行"
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"text": "なお従来の白熱電球、ミニクリプトン電球、シリカ電球はいずれも「交換用途に絞って」生産が継続されている(東芝ライテックは2014年限りで、日立グローバルライフソリューションズは2019年限りで、三菱電機照明とホタルクスは2020年限りでそれぞれミニクリプトン電球生産からも撤退。ミニクリプトン電球の現行メーカーはパナソニック・朝日電器・オーム電機・ヤザワコーポレーションのみ)。",
"title": "発光ダイオード(LED)照明への移行"
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"text": "福島第一原子力発電所事故の影響によって電力事情が逼迫しているとし、細野豪志環境大臣兼原発担当大臣(当時)は「節電を促す観点から消費電力の多い白熱電球の販売を自粛するよう電器店に呼びかけ、消費者には消費電力の少ないLED電球や電球型蛍光灯への買い換えを呼びかけていく」方針を明らかにすると共に、2012年6月13日、経済産業省と環境省は白熱電球の製造業、家電量販店など関係する業界に製造や販売の自粛を要請した。これは家庭用・産業用とも、電球形蛍光灯、あるいはLED照明への転換をさらに促すこととなる。この要請を受け、パッケージに代替製品への移行を勧める文言を加えながら家庭用製品の生産を続けていたパナソニック ライティングデバイスも、上記のとおり当初の2013年春より約半年前倒しの2012年10月末で生産を終了した。",
"title": "発光ダイオード(LED)照明への移行"
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"text": "ガラス球部分に赤外線反射膜(通常、多重干渉膜によるダイクロイックミラー)を形成し、赤外線を電球内に閉じ込めて、フィラメントの加熱のために再利用されるよう設計された製品は以前からあった。",
"title": "高効率化"
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"text": "また、2010年代も研究が続けられており、2019年にメタマテリアルを利用してスペクトルを制御することで可視光線の比率を高める方法が発表された。これを用いればLEDを上回る高効率も実現可能とされている。ただし、実現には光の波長に相当する微細加工(ナノテクノロジー)が必要である。",
"title": "高効率化"
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白熱電球とは、ガラス管球の中に入れた高抵抗線に電流を流し、ジュール熱によって高温となり放射する光を利用するもの。フィラメント電球、白熱球、白熱バルブなどともいう。
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[[ファイル:Gluehlampe 01 KMJ.png|thumb|200px|白熱電球]]
[[ファイル:Light Bulb Filament.jpg|thumb|200px|フィラメント付近のアップ]]
'''白熱電球'''(はくねつでんきゅう、{{Lang-en|[[:en:incandescent lamp|incandescent lamp]]}}<ref>{{Cite book|和書|author = 文部省|authorlink=文部省|coauthors = [[日本物理学会]]編|title = [[学術用語集]] 物理学編|year = 1990|publisher = [[培風館]]|isbn = 4-563-02195-4}}</ref>、[[:en:filament lamp|filament lamp]])とは、[[ガラス]]管球の中に入れた高抵抗線(High [[:en:Resistance wire|resistance wire]])に[[電流]]を流し、[[ジュール熱]]によって高温となり[[放射]]する[[光]]を利用するもの<ref name="B">『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』【白熱電球】</ref>。'''フィラメント電球'''、'''白熱球'''、'''白熱バルブ'''などともいう。
== 概説 ==
; 特徴
白熱灯から放たれる[[光]]の[[スペクトル]]は[[黒体]]放射に近い。[[電力]]の多くが[[赤外線]]や[[熱]]に変換されるため発光効率は低い。日常用いられる100Wガス入り白熱電球では、可視光の放射に使用される電力は10%程度であり、赤外放射は72%で、残りは熱伝導により消費される。
そのかわり、一般の人工光源の中の比較としては白熱灯の光は[[演色性]]に特に優れており、写真や映画、テレビの撮影光源として広く利用される。演色性の基準となる光源は、専用の白熱電球と特殊な[[フィルター]]の組み合わせで定義されている([[国際照明委員会|CIE]][[標準光源]])。
; 歴史
1860年に[[ジョゼフ・スワン]]が発明した。ただしスワンのフィラメント電球は、フィラメントの経が4mmもあり、様々な難点があり、「実用性」という点では難があった。後から電球という分野に参入した[[トーマス・エジソン]]は、さまざまな素材のフィラメントを試し、当時で連続1,200時間点灯という画期的な改良にも成功、つまり実用に耐える電球の開発に成功し、彼が開発したフィラメント電球について[[1879年]]にも[[1880年]]にも特許を取得し、本格的な商用化と大量生産を実現することになり世界中にフィラメント電球が普及してゆくことになった。→[[#歴史]]
[[2010年代]]なかばころまで(つまりエジソンの本格的商用化から実に100年以上に渡り)広く一般的に使われ、世界各国の各家庭でもさまざまな店舗などでも広く使われていたものであり、電気式の照明装置としては世界的には一番標準的なものであった。
2010年代にLEDバルブへの置き換えが急激に進んだが、2010年代でも研究は続けられてはおり、今後、LEDバルブを超える高効率の白熱球が開発・実用化される可能性は残されている。→[[#高効率化]]
=== 構造と素材 ===
抵抗線としては通常は[[タングステン]]が用いられ、それが(高温で)[[蒸発]]してしまうことを防ぐため[[アルゴン]]および[[窒素]][[気体|ガス]]が管球内におよそ 0.7 [[気圧]]になるように封入されていることが一般的<ref name="B" />。
[[ファイル:Incandescent light bulb.svg|thumb|220px|白熱電球の構造<br />{{Nowrap|1.バルブ}} {{Nowrap|2.不活性ガス}} {{Nowrap|3.フィラメント}} {{Nowrap|4&5.内部導入線}} {{Nowrap|6.吊り子}} {{Nowrap|7.マウント}} {{Nowrap|8.外部導入線(ヒューズ線)}} {{Nowrap|9.口金}} {{Nowrap|10.絶縁材}} {{Nowrap|11.中心電極}}]]
; フィラメント
: 白熱電球の発光部分本体。
; 導入線
:; サポート線(内部導入線)
:: 導入線のうち、バルブ内部分。[[ニッケル]]線などが用いられる。
:; 封着線(封着部導入線)
:: 導入線のうち、バルブを貫通する部分。通常ジュメット線(銅被覆ニッケル鋼線)。ハロゲンランプでは[[モリブデン]]薄箔が用いられる。
:; 外部導入線
:: 銅線が用いられる。
::; [[電力ヒューズ|ヒューズ]]線
::: 外部導入線のうちの1つはフィラメント折損時等に発生する[[アーク放電]]による過電流を防ぐため、ヒューズとなっている。[[コンスタンタン]]線が用いられる。
; アンカ(吊り子)
: フィラメントを支える補助線。モリブデン線が用いられる。
; バルブ
: フィラメント部を封入したガラス球。通常軟質ソーダガラス、ときに硬質硼珪酸ガラス。ハロゲンランプでは石英ガラスが用いられる。
=== 使用する電流 ===
[[電源]]は[[直流]]、[[交流]]のどちらでも使用可能である。瞬間的に電流が途切れてもフィラメントの赤熱は持続するため、交流電源の場合でもチラツキは無い<ref group="注">ただし、調光器に接続されている場合はその制御方式によっては肉眼では目視できなくてもカメラ越しであればわかるようなチラツキがあるものもある。</ref>。
== 歴史 ==
[[19世紀]]後半、電気照明には[[アーク灯]]がもてはやされていた{{sfn|松本|2000|p=154}}。しかし、アーク灯は花火のような灯りでバチバチという音も伴うもので屋内の照明にはまぶしすぎるものだった{{sfn|松本|2000|p=154}}。一般家庭の室内照明には[[ガス灯]]が普及していたが、爆発の危険性もあるほか室内の壁が黒ずむ問題もあり、硫黄[[臭い|臭]]やアンモニア臭が発生することもあった{{sfn|松本|2000|p=154}}。また、ガス灯は大量の[[酸素]]を必要としたため、室内の人にめまいや頭痛を引き起こすこともあった{{sfn|松本|2000|p=154}}。他に電気を使った発光体として[[ガイスラー管]]もあったが、高電圧を必要としもっぱら実験用途で照明用には使われなかった。
そこで19世紀半ば以来、電気エネルギーを利用した白熱光による照明の開発に20人以上の発明家が取り組んだ{{sfn|松本|2000|p=153}}。イギリスの[[ジョゼフ・スワン]]とアメリカの[[トーマス・エジソン]]が開発を競っており、1878年にスワンはエジソンの1年前に白熱電球を発明したが、スワンのフィラメントは径が4mmと太く利便性等の問題があった{{sfn|松本|2000|p=155}}。
[[1879年]]10月19日、エジソンは[[木綿]][[糸]]を炭化させてフィラメントにした実用炭素電球を開発した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=2017-2018 東芝ランプ総合カタログ|url=https://page3.cextension.jp/c4108/book/index.html#target/page_no=191|website=page3.cextension.jp|accessdate=2020-04-18|publisher=東芝ライラック}}</ref>{{sfn|石﨑|2011|p=7}}。フィラメントの材料に[[白金]]を試していたが加熱するとガスが出て寿命が短くなる問題があった{{sfn|松本|2000|p=155}}。そこで炭素処理を施した厚紙を使ったが最終的には竹を使用することになった{{sfn|松本|2000|p=155}}。エジソンは中国と日本に部下を派遣し、最終的に粘着性と柔軟性に富む京都・[[八幡市|八幡]]の[[マダケ|真竹]]がフィラメントに採用された{{sfn|松本|2000|p=155}}<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASR2Q6CVYR1TPCVL006.html 光り輝く竹は「京都の裏鬼門」にあった 探し求めた発明王との縁(朝日新聞2023年2月26日記事)]</ref>。エジソンの開発した電球のフィラメントは径が0.4mmと細く、自由に点けたり消したりするのに優れた特長をもった{{sfn|松本|2000|p=155}}。
エジソンは高抵抗のランプを使用することで、電圧100Vに電球を並列に接続しそれぞれ独立して点滅できるようにするとともに、ソケットをねじ込み式(エジソンベース)にして自由に交換できるようにした{{sfn|松本|2000|p=154}}。そして発電所から各需要家に電気を供給するためのシステムを構築した{{sfn|松本|2000|p=154}}。
ちなみに、白熱電球が発明されて比較的すぐに、[[フィギュアスケート]]や[[野球]]などのスポーツの夜間興行([[ナイター]])が行われている。
[[1904年]]、オーストリアの[[アレクサンダー・ユスト]]([[:en:Alexander Just|Alexander Just]])と[[フランツ・ハナマン]]([[:en:Franjo Hanaman|Franjo Hanaman]])が[[タングステン]]のフィラメントを発明したが、資金不足により1906年にやっと押線タングステン電球を商品化した{{sfn|石﨑|2011|p=11}}。ただ、この電球に使われたタングステンは脆くて加工が困難で、フィラメントは衝撃に弱く{{sfn|石﨑|2011|p=11}}取り扱いに注意が必要だった。[[1910年]]、[[ゼネラル・エレクトリック]]のウィリアム・クーリッジがその欠点を解消した引線タングステン電球を開発した{{sfn|石﨑|2011|pp=11-12}}<ref name=":0" />。
[[1913年]]、ゼネラル・エレクトリックの[[アーヴィング・ラングミュア]]が、タングステン電球の黒化現象は蒸発したタングステンのガラス面への付着であると確認し、その防止策として[[不活性ガス]]を注入したガス入り電球を開発した{{sfn|石﨑|2011|pp=15-17}}<ref name=":0" />。これにより電球の効率が向上し、寿命が著しく伸びた{{sfn|石﨑|2011|pp=15-17}}<ref name=":0" />。
[[1921年]]、東京電気(現・[[東芝]])の三浦順一技師がタングステン電球のコイルを二重にした二重コイル電球を開発し、熱損失の減少と電球の[[効率]]向上につながった{{sfn|石﨑|2011|pp=19-20}}<ref name=":0" />。
電球の効率向上により、まぶしさが問題となり、1923年に東京電気の不破橘三が電球内部をつや消し処理する方法を開発した{{sfn|石﨑|2011|pp=18-19}}<ref name=":0" />。ほぼ同時にゼネラル・エレクトリックのマービン・ピプキンも内面つや消し電球を開発したが、不破の方が約1年早く特許を申請していた{{sfn|石﨑|2011|pp=18-19}}。1925年につや消しによる強度劣化を防止する方法を考案し、内面つや消し電球が完成した{{sfn|石﨑|2011|pp=18-19}}<ref name=":0" />。後年の[[1974年]]に[[松下電器]](現・[[パナソニックホールディングス]])が[[シリカ]]を内部処理に用いた「シリカ電球」を開発しまぶしさがさらに軽減された<ref name="maru-sack-silica">{{Cite web|和書|url = https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column/newtech/580113.html |title = ついに白熱電球の生産が終了、パナソニックの白熱電球76年の歴史を振り返る | 家電Watch |accessdate = 2012-12-27}}</ref>。
[[1950年]]、[[通商産業省]]が白熱電球を[[産業標準化法]]に基づき「標準化指定商品」に決定。22の工場に新型標準電球の製造許可を出した。新型の標準電球は、以前の電球より同じワット数でも3%〜8%明るくなる一方、寿命は多少短くなった。[[1951年]]より[[JIS]]マークが入った新電球の販売が開始された<ref>「明るい新標準電球近く売り出し」『日本経済新聞』昭和25年12月13日</ref>。また、1950年には松下電器(現・パナソニックホールディングス)がフィラメントを二重コイル化(寿命の項を参照)した電球を発売。広告にて「二割明るい お徳用」とアピールを行った<ref>新聞広告『日本経済新聞』昭和25年10月17日2面</ref>。
大出力電球や[[映写機|映写]]用ランプ等では電球にガスを入れたものでも電球の黒化が生じて問題であった。その対策として1959年、ゼネラル・エレクトリックのツブラーとモスビーが石英ガラス管の内部に[[不活性ガス]]と[[ヨウ素]]を封入することで電球の黒化を抑制する[[ハロゲン電球]]を開発した{{sfn|石﨑|2011|pp=20-22}}<ref name=":0" />。
利用の減少の経緯 - 1993年に日本の[[中村修二]]により青色LEDが開発されたことにより白色LEDも可能になったが、最初の頃はかなり高価で白熱灯は使われ続けた。やがて多数のメーカーが白色LED製造に参入するようになり、2010年代に白色LEDの低価格がかなり進み、白色LEDの[[省エネ]]効果による電気代の削減額の数年分で白色LEDの購入代金が賄えるレベルにまでなった段階で各国政府がLEDバルブへの置き換え政策を採用するようになり、5年間程度で従来の白熱電灯から白色LEDバルブへの置き換えが進んだことで、白熱電灯の製造・販売は急激に減少した。
== 白熱電球の種類・分類 ==
=== 用途による分類 ===
* [[一般形電球]]
* [[耐震電球]]
=== 封入ガスによる分類 ===
* [[ハロゲン電球]]
* [[クリプトン電球]]
=== 構造による分類 ===
* クリア電球
* [[シリカ電球]] - クリア電球のバルブ内面にシリカ塗装を施した電球。カバーのない器具で直視しても眩しさが低減するが、シリカ塗装による吸収がある分、同じ消費電力のクリア電球よりも全光束がわずかに減少する。寿命や消費電力は、クリア電球と変わらない。なお、シリカ電球の開発前に内面をつや消ししたものは「ソフト電球」と呼ばれていた<ref name="maru-sack-silica"/>。
=== 口金の分類 ===
口金の形状には多数の種類があり、電球の用途に応じ選択されている。口金は国際規格に整合されたものが多く、日本のJIS規格ではJIS C 7709において規定されている)。
一般照明用白熱電球では、ネジ式のE型口金([[トーマス・エジソン|エジソン]]ベース、Edison screw)が用いられている。自動車用など耐震性を要求される用途ではS、すなわちスワンベース(引っ掛け式)を用いる。英国では普通の電球にもスワンベースの電球を用いる場合がある。
* E39 - 200W以上の大型の電球用である。
* E26 - 一般の電球ソケット、特殊用途以外は200Wまでである(IEC 60061-1(7004-21A-2))
* E17 - 小型の電球ソケット、クリプトン電球に多い(IEC 60061-1(7004-26))
* E12 - 常夜灯や表示灯などに使われるソケット。
* E11 - ハロゲン電球に用いられる。
* E10 - [[電球#形状による分類|豆電球]]用。懐中電灯や表示灯に用いられる。
[[ファイル:Incandescent bulb shapes.svg|thumb|300px|白熱電球のガラス球部分の形状の種類]]
=== ガラス管球の形状による分類 ===
使用されるガラス管球の形状でも分類されている。右の図を参照のこと。
== 明るさの表示 ==
白熱電球の明るさはかつては[[燭]]([[カンデラ]](cd)にほぼ等しい)を単位とする[[光度 (光学)|光度]]で表されていたが、現在は[[ワット]](W)を単位とする消費[[電力]]で、明るさの型式を表現されている<ref group="注">あくまで明るさの目安としてWが使われており、実際の消費電力は高効率白熱電球等では、W表示より低いことがある。</ref>。ただし、明るさをWで表示するのは白熱電球だけであり、他の光源である電球形蛍光灯とLED電球は、全光束(単位:ルーメン[lm])表示する事と業界団体の規定で定められている<ref group="注">そのため、電球形蛍光灯やLED電球では、実際の消費電力とは別に「○○W'''相当'''」というような表記がパッケージに併記されている。</ref>。
かつて白熱電球が一般的に販売されていた時代には、40W・60W・100Wの3種類が一般的であった。この他メーカーにより、また稀に10W・30W・50W・80Wなどの種類も販売されていたが、20W刻みで連続数字だと40W・60W・80W・100Wとなるべきところ、80Wの電球の販売が稀であったのは、実際の明るさ的には80Wと100Wは差がなく、100Wの方がいくらか明るく感じるので80Wよりも100Wが出回るようになったためだという<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/00091137545945/ 80Wの電球がない!?]</ref>。
== 寿命 ==
現在、市販されている白熱電球の多くは1000時間程度の寿命を持つ。ただ使用環境によっては電圧の高い(日本では許容最大値である110Vがかかる)場合もあり、この場合は100V用電球では寿命が短くなる。そのため、特に記載はないが、110Vの電圧を想定した電球も販売されている{{efn2|型番等で110Vと謳っているものもある<ref>[http://ctlg.panasonic.co.jp/sanyo/products/products/etc/LW-110V-100W_00_C/index.html 三洋電機 ホワイト電球]</ref>。同一メーカーで定格消費電力が同じで100Vと110Vの両方がラインナップされている場合、定格電圧が低い方(100V)がわずかに明るいが寿命が短くなる。}}。電圧が定格より下がると、効率が低下する一方で寿命は向上する([[#明るさの表示|照度]]参照)。
高温(2200 - 2700{{℃}})となるフィラメントではその構成する素材(今日ではほとんどが[[タングステン]]となっている)が点灯時間の累積と共に徐々に蒸発し、細くなることで素材強度がなくなり、最後に折損(俗に言う「{{ルビ|球|たま}}切れ」)することで寿命となる{{efn2|なお、新品状態でもガラス球だけでなくフィラメントも衝撃には弱いため、松下電器(現・パナソニックホールディングス)は「丸サック」と呼ばれる円筒形の梱包を特許を取ったうえで採用した<ref name="maru-sack-silica"/>。}}。また昇華したタングステンがガラス球内に付着し、可視放射効率低下の原因ともなる。フィラメントを真空中に置いた真空電球ではこの昇華が大きい。
ガラス球内を[[不活性ガス]]で満たすことで昇華を抑えることが出来るが、ガス中への熱伝導による損失が大きくなる。今日用いられる白熱電球のほとんどがこの'''ガス入り白熱電球'''と呼ばれるタイプのもので封入する不活性ガスとしては通常、希ガスが用いられるがその[[分子量]]が大きいもの程熱伝導による損失が少なくなるため[[窒素]]や[[アルゴン]]以外に高価な[[クリプトン]]あるいは[[キセノン]]を用いたものもある。
封入ガスに[[ハロゲン]]([[ヨウ素]]、[[臭素]]、[[塩素]]あるいはその化合物)を微量混合し、ガラス球部が高温になるように設計することで、昇華したタングステンをフィラメントへと還元するようにしたものもある([[ハロゲンランプ]])。
フィラメントの[[温度]]を高く設定すると放射光中の可視光成分が多くなり、発光効率が上昇するが、その分フィラメントの蒸散も大きくなり、電球の[[寿命]]が短くなる。ハロゲンランプの場合、フィラメントの温度が同じならば通常のガス入り白熱電球の数倍の寿命となるが、その温度を高く設定し、寿命は同じだが効率が高い電球とすることもできる。
フィラメントの温度を低く設定し、長寿命化した製品も存在する。例えばキセノンランプの中には、効率が低く光色も赤色味が強くなる代わりに10000時間前後の寿命を持つものがあり、電球交換の頻度を減らす必要がある、交換が困難な場所(高所など)で用いられている。交流点灯の場合、[[ダイオード]]によりフィラメントに流れる電流を半減させ効率と引き換えに寿命を延ばすという手法もある。
他に寿命を伸ばす手法としては、制御回路により、フィラメントが切れることが多い電源投入時に流れるラッシュカレント(電源投入の瞬間からフィラメントの温度が安定するまでの間、規格の8倍程度の[[電流]]が流れてしまう現象。消灯時の冷えたフィラメントの[[電気抵抗|抵抗値]]は点灯中の高温時に比べ低いために発生する。[[突入電流]]とも言う)を軽減し、電源投入時の[[ストレス]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}を減らすというものがある。
フィラメントは、通常単コイルまたは二重コイル(小径のコイルを巻き、そのコイル線で大径のコイルを巻く)となっている。これはフィラメントの封入ガスとの接触面積を減らすことで、熱伝導を抑え発光効率を改善するとともにその寿命を延長するのに有効である。
== 発光ダイオード(LED)照明への移行 ==
家庭向けには、主に[[LED照明|LED電球]]への移行が推奨されている。電球型蛍光灯への置き換えも行われたが、LEDより寿命が短いなどの点があるため、LEDの低価格化によりあまり使われなくなっている。
=== 使用中止に向けた法令等 ===
[[地球温暖化]]防止・環境保護として、白熱電球の生産・販売を一切終了し電球形蛍光灯やLED電球への切替を消費者やメーカーに促す動きが世界的に広がっている。[[オーストラリア]]、[[フランス]]やアメリカ(州による)などは白熱電球の生産・販売が今後[[法律]]で禁止される。
日本では、[[2008年]]4月、[[2012年]]末までに生産と販売を自主的にやめるよう電機メーカーなどに要請する方針を[[甘利明]]経済産業大臣(当時)が表明した<ref>[[読売新聞]] [[2008年]][[4月5日]]朝刊 11面記事から一部を引用。</ref>。これに応える形で[[東芝ライテック]]は同年[[4月14日]]に[[2010年]]度を目途に白熱電球の生産を原則中止すると発表し<ref>[http://www.tlt.co.jp/tlt/topix/press/p080414/p080414.htm 東芝ライテック2008年4月14日付プレスリリース]</ref>、2010年[[3月17日]]に国内大手電機メーカーで初めて白熱電球生産事業より撤退(交換用途は除く)。続いて[[三菱電機照明]]も(当初の[[2012年]]より1年前倒しし)[[2011年]]3月限りで生産を終了(一部製品を除く)、[[NECライティング]](現:[[ホタルクス]])・[[パナソニック ライティングデバイス]]も2012年内に生産を終了した。ただしこれらの要請や自粛は、とくに大手メーカーにとって利益率の高いLEDの生産に力を傾けたいという意向にある程度沿ったものである。
なお従来の白熱電球、ミニクリプトン電球、シリカ電球はいずれも「交換用途に絞って」生産が継続されている(東芝ライテックは2014年限りで、日立グローバルライフソリューションズは2019年限りで、三菱電機照明とホタルクスは2020年限りでそれぞれミニクリプトン電球生産からも撤退。ミニクリプトン電球の現行メーカーはパナソニック・[[朝日電器]]・[[オーム電機 (東京都)|オーム電機]]・[[ヤザワコーポレーション]]のみ)。
==== 福島第一原発事故の影響 ====
[[福島第一原子力発電所事故]]の影響によって電力事情が逼迫しているとし、[[細野豪志]]環境大臣兼原発担当大臣(当時)は「節電を促す観点から消費電力の多い白熱電球の販売を自粛するよう[[電器店]]に呼びかけ、消費者には消費電力の少ないLED電球や電球型蛍光灯への買い換えを呼びかけていく」方針を明らかにすると共に、[[2012年]][[6月13日]]、[[経済産業省]]と[[環境省]]は白熱電球の[[製造業]]、[[家電量販店]]など関係する[[業界]]に製造や販売の自粛を要請した。これは家庭用・産業用とも、電球形蛍光灯、あるいはLED照明への転換をさらに促すこととなる<ref>{{Cite web|和書|date=2012-06-13|url=http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1206/14/news027.html|title=政府、白熱電球の販売自粛を要請|publisher=[[ITmedia]]|accessdate=2012-06-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2012-06-13 |url=http://www.meti.go.jp/press/2012/06/20120613001/20120613001.html|title=高効率な照明製品の普及促進を関係団体に協力要請しました〜「あかり未来計画」キックオフ会合の開催〜|publisher=[[経済産業省]]|accessdate=2012-06-14}}</ref>{{efn2|ただし、上記のようにLED電球や電球型蛍光灯の製造コストは高く、必然的に販売価格も高くなる。そのため、安価で売れるという理由で、2013年4月現在でも[[朝日電器]]など一部のメーカーでは白熱電球の製造を続けており、家電量販店その他の小売店では、白熱電球の販売を続けている<ref>([https://www.j-cast.com/2014/01/11193819.html?p=all 参照])</ref>。}}。この要請を受け、パッケージに代替製品への移行を勧める文言を加えながら家庭用製品の生産を続けていたパナソニック ライティングデバイスも、上記のとおり当初の[[2013年]]春より約半年前倒しの2012年10月末で生産を終了した<ref>[https://news.panasonic.com/jp/press/jn120712-1 パナソニック 2012年7月12日付プレスリリース]</ref>。
=== 切り替えにおける課題 ===
{{複数の問題|section=1|独自研究=2020年12月|雑多=2020年12月}}
* 「白熱電球にはあるものが蛍光灯やLEDにはない」事による問題
** 蛍光灯やLED照明には紫外線に近い可視光線であるバイオレット光が含まれないため、蛍光灯やLED照明を使用すると生活環境からバイオレット光が欠如してしまう。バイオレット光に近視を防ぐ効果が確認されたことから、蛍光灯やLED照明の使用と近視の世界的な増加に関係がある可能性を[[慶應義塾大学]]医学部が指摘している<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.keio.ac.jp/ja/press-releases/2016/12/26/28-19271/ |title = 現代社会に欠如しているバイオレット光が近視進行を抑制することを発見-近視進行抑制に紫の光- |accessdate = 2019-05-07 }}</ref>。
** 農産物の[[促成栽培|ビニールハウス栽培]]や[[養鶏]]([[ブロイラー]])など、照明の役割と同時に白熱電球の発する熱を利用する用途。及び赤外線を利用する作物の[[光周性]]制御のため。
*** 特に積雪地帯の[[交通信号機|信号機]]は白熱電球の発熱を融雪に利用しているため、発熱の少ないLED電球では信号機本体に着雪しやすく、信号の認識が困難(いわゆる「白信号」状態)になりやすい。実際に信号機の着雪が原因の事故も発生している。更には支柱が曲がる恐れもある。
** 自動車向け用途において、球切れを検知するようになっている用途<ref group="注">[[方向指示器]](ウインカー)や一部の車種の[[尾灯]](テールランプ)等。</ref>に使用する場合、消費電力が減るために誤作動を起こす<ref group="注">対処法としては、[[抵抗器]]を接続するか、[[オートバイ]]のウインカーの場合リレーを交換することもある。</ref>。
* 白熱電球を前提にした器具の中には、蛍光灯やLEDを使用できない器具がある。
** 多くのLED照明は断熱材に覆われた環境で使用できない(LEDや点灯回路の放熱が必須であるため)。
** 非常用照明器具として使用する場合(非常用照明器具としての認定は電球と灯具とのセットであるため指定以外の電球は使用できず、器具自体の交換が必要となる。また2014年及び2017年の改正以前はLED照明による非常用照明器具が認められていなかった<ref>{{Cite web|和書|url = https://shanimu.com/2017/12/12/post-8559/ |title = ようやく追いついた!? LED非常灯の法整備 | シャニム[SHANIMU] |accessdate = 2021-06-21}}</ref>)。
* ノイズ等が発生するため、蛍光灯やLEDを使えない分野がある。
** 蛍光灯は高い周波数で明滅しているため、撮影に影響を及ぼすことがある。また蛍光による光源であるため[[演色性]]も劣る。
** LED照明は電源回路により高周波ノイズを発生させることがあるため、[[電波暗室]]などの電磁波測定施設、[[ラジオ]]などの無線装置周辺など、電波・ノイズに影響を受けやすい環境には向かない。
== 高効率化 ==
ガラス球部分に赤外線反射膜(通常、多重干渉膜による[[ダイクロイックミラー]])を形成し、赤外線を電球内に閉じ込めて、フィラメントの加熱のために再利用されるよう設計された製品は以前からあった。
また、2010年代も研究が続けられており、2019年に[[メタマテリアル]]を利用してスペクトルを制御することで可視光線の比率を高める方法が発表された。これを用いればLEDを上回る高効率も実現可能とされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.netsubussei.jp/group/takahara.pdf|title=メタマテリアルによる熱輻射の制御に向けて|accessdate=2019.4.26|publisher=大阪大学大学院基礎工学研究科|author=高原淳一}}</ref>。ただし、実現には光の波長に相当する微細加工([[ナノテクノロジー]])が必要である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=松本|first=栄寿|title=「はかる」世界|publisher=玉川大学出版部|date=2000-4|isbn=4-472-40111-8}}
* {{Citation|和書|last=石﨑|first=有義|date=2011-3-31|chapter=白熱電球の技術の系統化調査|chapter-url=http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/070.pdf|title=技術の系統化調査報告 共同研究編 第4集|page=|publisher=国立科学博物館、北九州産業技術保存継承センター|ncid=BB05917636|id={{全国書誌番号|21943581}}}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Incandescent lamps}}
* [[光源]]
* [[電球]]
* [[ハロゲンランプ]]
* [[蛍光灯]]
* [[電球形蛍光灯]]
* [[LED照明]]
* [[セパラボディ]]
{{authority control}}
{{デフォルトソート:はくねつてんきゆう}}
[[Category:ランプ]]
[[Category:照明器具]]
[[Category:光学機器]]
[[Category:ガラス]]
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2003-09-20T12:28:09Z
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2023-11-28T19:19:38Z
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土門拳
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土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日 - 1990年〈平成2年〉9月15日)は昭和時代に活躍した日本の写真家。
リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界で屈指の名文家としても知られた。
小惑星「(5187) Domon」は土門に因んで命名された。
土門は、1950年代の前半頃から「社会的リアリズム」を標榜(後年本人が告白したところでは、実質的には社会主義リアリズムであったという)、「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、日本の写真界に一時期を画した。当時、リアリズム系の写真家としては、木村伊兵衛と双璧をなした。木村は「写真はメカニズムである」と捉えたのに対し、土門は「カメラは道具にすぎず、写真を撮るのは人間であり、思想である」と捉えていた。土門は様々なジャンルの写真作品を撮影しているが、いずれにおいても、完全な没個性(無記名)という報道写真ではなく、自分の個性を重視した。
土門はまた、アルス社の「カメラ」誌の月例写真コンテスト審査員として、写真一枚一枚について詳細な批評を加え、懇切丁寧にアマチュア写真家を指導した。(月例土門と称された。)そのことを通じて自らの社会的リアリズムを一つの運動として盛り上げようと試みた。その結果、土門は一時、絶大な支持と人気を集めることには成功したが、運動の成果は土門の満足の行くものではなかった。投稿者にはのちに著名となる東松照明、川田喜久治、福島菊次郎らがいた。
彼は日本工房在籍時から日本人が造った物に深い愛情と憧憬を抱き続け、フリーになってからは仏像や寺院、古陶磁などの伝統工芸品や風景など、一貫して日本の美を撮り続けた。周囲には、彼がとりあげる被写体の変化を趣味または退行と見なす者もいたが、土門は「古いものから新しいものを掬い上げる」報道として捉えていた。
土門の「社会的リアリズム」に対しては当時、さまざまな誤解や非難もなされた。一つにはリアリズムを単なるスナップ写真と解釈する者がいた。また、「パンパン」や浮浪児、傷病兵など、当時の社会の底辺にカメラを向ける土門やその影響下にあるアマチュア写真家の一群の写真を評して乞食写真という批判をなす者もいた。
ライバルとされた木村伊兵衛は浅い被写界深度でソフトなタッチで女性を撮影し好評を博したのに対し、土門は女性のポートレートにおいても「リアリズム」を発揮し、深い被写界深度でシワやシミなども遠慮会釈なく映し出したので、被写体となった女性たちから不評を買うことも少なくなかったが、その一方でどうしても土門に写真を撮ってもらいたいという女性もいた。
1948年に土門は『カメラ』12月号のアンケートに答えて、世界の有名写真家ベスト10を挙げている(現在、当該記事は『写真随筆』(ダヴィッド社)に所収)。
土門は完全主義者としても知られており、生来の不器用さを逆手に取り、膨大な出費や労力をいとわず、何度も撮影を重ねることによって生まれる予想外の成果を尊んだ。撮影時の土門の執拗な追求を伝えるエピソードは数多く、1941年に画家の梅原龍三郎を撮影した際は、土門の粘りに梅原が怒って籐椅子を床に叩きつけたが、土門はそれにも動じずその怒った顔を撮ろうとレンズを向け、梅原が根負けした一件や、1967年に東大寺二月堂のお水取りを取材した際にも、自然光にこだわり、真夜中の撮影にもかかわらず一切人工照明を使わず、度重なる失敗にもめげずに撮影を成功させた逸話などがある。撮影中は飲まず食わずで弟子にも厳しく、「鬼の土門」と称されるほどの鬼気迫る仕事ぶりであったが、人を惹き付ける魅力があり、多くの後進を育てた(「関連項目」を参照)。
土門は、作品発表の場として展覧会よりも写真集を重視し、『古寺巡礼』全五集(美術出版社、1963年-1975年)などでは撮影から製本の一部始終にまでこだわった結果、定価も第一集が23,000円と、大卒者の初任給が40,000円程度であった当時、大変高価なものになった。
2人が対立したのは、著作権の帰属が原因であった。名取洋之助は、ドイツのウルシュタイン社で報道写真家として活躍していた背景から、写真は芸術でも個人の作品でもなく、編集者ひいては雇用者である企業が著作権を持つ物であると考えていた。これに対し写真は表現手段の1つであり、個人の芸術的な所産だと土門は考えていた。この対立には、西洋と東洋、絵画と写真、芸術性・個人性と社会性・集団性・企業性など様々な思想の対立が背景にある。
名取と土門の対立を決定的にした事件は1936年に起こった。当時アメリカ滞在中であった名取は、グラフ誌「ライフ」に土門の作品を名取名義で発表したのである。このことに土門は怒り、2年後の1938年、土門はタイムライフ社からの依頼により、当時の外相の宇垣一成を取材。同時に取材していた木村伊兵衛を出し抜き、「ライフ」誌に「KEN DOMON」の特注のスタンプを捺した自分の作品を投稿した。(LIFE Magazine - September 5, 1938 Fall Fashions)その記事「日曜日の宇垣さん」は採用され、ライバルの木村はもとより、名取への大きな反撃となった。程なくして土門は日本工房を退社、名取との関係に自ら終止符を打った。こうして2人の仲は決裂し、土門は師の名取の葬儀にも参列をしぶる程になってしまった。しかし、土門は写真家としての名取には敬意を払っていたようで、名取の写真集『麦積山石窟』(1957年出版)は、自著で評価を与えている。また名取も、滅多に人を褒めなかったが、土門が辞めたのち『NIPPON』8号に掲載した土門の作品『伊豆』を「傑作だよ。あれはそうそう撮れるもんじゃねぇ」と激賞していたという。
ばさら太師
室生寺
屋久島
土門は、新しい撮影にとりかかる前には、準備のために多くの文献を読むことを自らに課していたが、個人的にも、志賀直哉や武田麟太郎、トーマス・マンなどを愛読するなど、文学好きとしても知られていた。また、1950年代に、カメラ雑誌の審査員を務めていた際には、見どころのある応募作品の裏に、感想や激励の文章をしたためて返送したり、読者からの質問や身の上相談があると、長文の手紙を送るなど、筆まめとして知られていた。写真集の解説も自ら手がけることが多く、『古寺巡礼』全五集(美術出版社)などは、文章だけで一冊の本に相当するほどの解説を書いている。書かれたテーマは写真、美術、人生観や食べ物に関するものなど幅広い。土門の文章は『死ぬことと生きること』正・続(築地書館)、『写真作法』、『写真批評』、『写真随筆』(ダヴィッド社)、『拳眼』、『拳心』、『拳魂』(世界文化社)などでまとめて読むことができる。
また、土門は若い頃から書写を日課としており、大雅堂や大燈国師を手本としていた。『風貌』の撮影の際には、撮影したい人物の名前を自宅の襖に毛筆で列記し、それが終わるたびに新しく襖を張り替えたことは有名である。出版会や展覧会などで筆をとることも多かったが、1968年に脳出血のために半身不随になってからは、左手で揮毫するようになった。自著の題字を書くことも多く、『信楽大壺』、『古窯遍歴』、『死ぬことと生きること』、『骨董夜話』、『私の美学』、『風景』(矢来書院)、『子どもたち』(ニッコールクラブ)、『生きているヒロシマ』、『写真作法』、『写真批評』、『写真随筆』の題字は土門の筆によるものである。
土門は少年時代には画家を志しており、1926年には、地方の展覧会で入選するほどの画才を持っていた。写真家として大成したのちも、機会あるごとに絵筆をとり、1950年には親交のあった画家、原精一や鳥海青児とのグループ展に絵画を出品したこともある。出品作のひとつ「Y嬢」は、モディリアーニ風の優れた油彩として知られている。また1968年に2度目の脳出血で入院した折にはリハビリテーションのために左手で100点以上の水彩画を描いている。美術界での交流も幅広く、前述の二人のほか華道家の勅使河原蒼風と、グラフィックデザイナーの亀倉雄策とは、お互いに風貌が似ているところから、周囲から3兄弟と呼ばれるほどに篤い親交を結んでいた。互いの制作活動に参加することも多く、三人の共同制作による作品にはポスター『仏陀』(1961年)や、随筆集『三人三様』(1977年)などがある。
第二次世界大戦中は、名取洋之助を批判しつつも、それとは別の視点から国策に協力し、海外向け写真誌に掲載する写真の撮影を請け負っているが、海軍飛行予科練習生の撮影時には構図にこだわるあまり訓練を何度もやり直させたため予科練生らには不評だったという。戦後は、この戦時中の活動や自己の考え方については触れることがなかった。これに対しては「ここで沈黙を続けたことで、その後弁明する機会を逸してしまったと理解される」という評価もなされている。
仕事場は築地明石町にあり、本人によると「印画紙の水洗の水の量がすごいので水道代は町内のフロ屋の次だった」という。
『古寺巡礼』の撮影を始めた時には半身不随となり、2度目の脳出血では車椅子生活を送りながらも、弟子に指示しながら精力的に撮影した。
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土門 拳は昭和時代に活躍した日本の写真家。 リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界で屈指の名文家としても知られた。 小惑星「(5187) Domon」は土門に因んで命名された。
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{{脚注の不足|date=2021-06}}
{{年譜のみの経歴|date=2021-06}}
{{記事名の制約|土門[[ファイル:Juki-B1EB.png|17px|link=]]}}
{{Infobox 写真家
| 名前 = 土門 拳
| 画像 = [[File:Domon Ken.JPG|300px]]
| キャプション =
| 本名 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 生年月日 = {{生年月日|1909|10|25|no}}
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1909|10|25|1990|9|15}}
| 出身地 = [[山形県]][[飽海郡]]酒田町(現・[[酒田市]])
| 血液型 =
| 身長 =
| 言語 =
| 最終学歴 = (旧制)神奈川県立横浜第二中学校<br />(現・[[神奈川県立横浜翠嵐高等学校]])
| 師匠 =
| 出身 =
| グループ名 =
| 撮影スタイル =
| 使用カメラ = [[#使用した機材]]参照
| 事務所 =
| 活動時期 =
| 同期 =
| 作品 = 『[[古寺巡礼 (土門拳の写真集)|古寺巡礼]]』
| 他の活動 = [[文筆家]]、[[画家]]
| 弟子 =
| 公式サイト =
| 受賞歴 =
}}
[[File:Samantabhadra Fugen Bosatsu Okura.JPG|thumb|土門拳が撮影した木造[[普賢菩薩]]騎象像(国宝、[[大倉集古館]]所蔵)([[美術出版社]]『日本の彫刻 Ⅴ「平安時代」』 [[1952年]][[3月5日]]発行<ref>{{PDFlink|[http://www.momat.go.jp/ge/wp-content/uploads/sites/2/2015/01/15_pp.6_22.pdf 鑑賞の位相―美術出版社刊『日本の彫刻』をめぐって]}}(増田玲 [[東京国立近代美術館]])</ref>)]]
'''土門 拳'''(どもん けん、[[1909年]]〈[[明治]]42年〉[[10月25日]] - [[1990年]]〈[[平成]]2年〉[[9月15日]]<ref name="clacamesenka17-161">『クラシックカメラ専科No.17、フォクトレンダーのすべて』p.161。</ref>)は[[昭和時代]]に活躍した[[日本]]の[[写真家]]。
[[リアリズム]]に立脚する[[報道写真]]、日本の[[著名人]]や[[庶民]]などの[[人物写真|ポートレート]]や[[スナップ写真]]、[[寺院]]、[[仏像]]などの[[伝統文化]]財を撮影し、[[第二次世界大戦]]後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界で屈指の名文家としても知られた。
[[小惑星]]「[[人名に因む名を持つ小惑星の一覧|(5187) Domon]]」は土門に因んで命名された<ref>{{cite web|url=https://www.minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=5187 |title=(5187) Domon = 1975 VU4 = 1979 ON4 = 1985 UB4 = 1985 VT3 = 1990 TK1|accessdate=2022-12-22}}</ref>。
== 年譜 ==
*1909年10月25日 - [[山形県]][[飽海郡]]酒田町鷹町(現・[[酒田市]]相生町)に父熊造、母とみえの長男として誕生。
*1916年 - 一家で[[東京]]へ移住。
*1917年 - 麻布区飯倉小学校に入学。
*1918年 - 一家で[[横浜市]][[磯子区]]へ移転、磯子小学校へ編入。
*1921年 - 一家で同市の神奈川区へ移転、二ッ谷小学校へ編入。絵画を描きはじめる。
*1926年 - 土門が描いた十五[[キャンバス|号]]の薔薇の[[油彩]]が横浜美術展覧会で入選。審査員は[[安井曾太郎]]。
*1927年 - [[考古学]]に興味を持ち、学校の周囲で[[土器]]や[[石器]]掘りに熱中する。
*1928年 - 旧制神奈川県立第二中学校(現・[[神奈川県立横浜翠嵐高等学校]])卒業。[[日本大学]]専門部法科に進学するが中退、<ref>現代物故者事典1988~1990:日外アソシエーツ編、紀伊国屋書店発行 1993</ref> [[逓信省]]の倉庫用務員になる。
*1929年 - [[三味線]]に熱中し、[[常盤津]]の師匠に弟子入りする。
*1932年 - 農民運動に参加し、検挙される。
*1933年 - 遠縁にあたる[[宮内幸太郎]]の写真場に内弟子として住み込み、写真の基礎を学ぶ。
*1935年 - 8月1日に電車内であくびをする幼い兄弟を[[ダゴール]]付き[[アンゴー]]8×10.5cm(手札)判でスナップ撮影した「アーアー」が『[[アサヒカメラ]]』10月号で月例第一部(初心者)二等に初入選した<ref name="clacamesenka17-161" />。またその号に出ていた[[名取洋之助]]主宰の第2次[[日本工房]]の求人広告に応募、名取のもとで[[報道写真]]を撮り始めた<ref name="clacamesenka17-161" />。
*1936年 - 日本工房発行の欧文雑誌『[[NIPPON (グラフ誌)|NIPPON]]』の記事作成のため、[[伊豆]]を取材。この時撮影した「伊豆の週末」や、「かんじっこ」などは、初期の土門の傑作に数えられる。
*1937年 - [[早稲田大学]]の卒業アルバムの写真撮影を担当。これは実質的に土門の初めての作品集となる。なお同書は2009年に復刻された。
*1938年 - 土門が撮影した、当時の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]・[[宇垣一成]]の[[ルポルタージュ]]、「日曜日の宇垣さん」が、「婦人画報」の9月号と、アメリカのグラフ誌「[[ライフ (雑誌)|ライフ]]」9月5日号に掲載される。[[濱谷浩]]、[[藤本四八]]、[[光墨弘]]、[[田村茂]]、[[林忠彦]]、[[加藤恭平 (写真家)|加藤恭平]]、[[杉山吉良]]らと「[[青年報道写真研究会]]」を結成。
*1939年 - [[著作権]]の取り扱いをめぐって名取と対立し、日本工房を退社(→「[[#名取洋之助との対立|名取洋之助との対立]]」の節を参照)。美術評論家、[[水澤澄夫]]の案内で初めて[[室生寺]]を撮影。
*1941年 - [[文楽]]の撮影を開始する。[[徴兵検査]]を受けるが不合格となり帰郷。
*1943年 - 写真雑誌「写真文化」([[石津良介]]編集長)に掲載した人物写真に対して[[アルス (出版社)|アルス]]写真文化賞受賞。[[荻原碌山|荻原守衛]]の彫刻作品を撮影する。
*1946年 - 戦後はじめてとなる[[古寺]]の撮影を開始する。
*1949年 - 写真雑誌「[[カメラ (雑誌)|カメラ]]」の企画で[[桑原甲子雄]]編集長とともに大阪、中国地方の旅に出る。大阪でははじめて[[安井仲治]]のオリジナルプリントの作品にふれる。鳥取では[[植田正治]]らと撮影会をおこなう。
*1950年 - [[木村伊兵衛]]とともに「カメラ」誌の月例写真審査員になり、リアリズム写真を提唱。また木村とともに[[三木淳]]の結成した「集団フォト」の顧問になる。
[[File:Ebizō Ichikawa IX 1951.jpg|thumb|土門拳が撮影した[[市川團十郎 (11代目)|十一代目 市川團十郎]]「海老さま」(1951年)]]
*1953年 - [[江東区]]の子どもたちを撮りはじめる。写真集『風貌』(アルス社)刊行。このころから[[ネガフィルム|カラーフィルム]]を使いはじめる。
*1954年 - 写真集『室生寺』([[美術出版社]])刊行。
*1957年 - [[広島市|広島]]を取材。
*1958年 - 写真集『ヒロシマ』([[研光社]])刊行。同社のカメラ誌「[[フォトアート]]」月例審査員を1963年まで断続的に務める。
*1959年 - [[筑豊]]炭鉱労働者を取材する。
*1960年 - 写真集『[[筑豊のこどもたち]]』(パトリア書店)を100円で刊行。続編『るみえちゃんはお父さんが死んだ』([[研光社]])を完成直後、[[脳出血]]を発症。回復後、ライフワークとなる大型カメラによる『[[古寺巡礼 (土門拳の写真集)|古寺巡礼]]』の撮影を開始。[[古美術商]]の近藤金吾の知己を得、[[骨董品|骨董]]に興味を持つ。
*1961年 - 「芸術新潮」に『私の美学』を連載。
*1962年 - [[装幀]]家の[[菅野梅三郎]]との交流がきっかけとなり古[[陶磁]]の撮影を始める。
*1963年 - 写真集『古寺巡礼』第一集(美術出版社)を刊行。7月に創刊された平凡社の雑誌「[[平凡社|太陽]]」の連載記事「日本のあけぼの」の写真を手がける。後年『日本人の原像』として単行本化。
*1964年 - [[京都]]の[[東寺]](教王護国寺)を撮影する。
*1965年 - 写真集『[[甲賀市|信楽]]大壺』(東京中日新聞社)、『古寺巡礼』第二集(美術出版社)、『[[大師]]のみてら 東寺』(東寺保存会 非売品)刊行。
*1966年 - [[草柳大蔵]]とのコンビで、[[平凡社]]「太陽」に『日本名匠伝』を連載。土門が撮影を担当した勅使河原蒼風の作品集「[[私の花]]」(講談社)刊行。考古学研究書『日本人の原像』(平凡社)刊行。[[芹沢長介]]と[[坪井清足]]がテキストを執筆、[[福沢一郎]]が挿画、土門が写真を担当した。同年、[[日本リアリズム写真集団]]の顧問に就任。
[[File:Chunichi1967-03-11-1.jpg|thumb|平凡社『太陽』新聞広告<br/>(1967年)]]
*1967年 - 1月秋田県木地山のこけし職人小椋久太郎を撮影する。『太陽』の依頼で2月と6月の二回にわたり[[屋久島]]を訪れ、藪椿や石楠花を撮影。同じく3月に[[東大寺]]二月堂の[[お水取り]]を撮影。11月には[[羽田事件|羽田闘争]]を撮影(最後の報道写真)する。
*1968年 - 前年に取材した東大寺のお水取りの模様が平凡社「太陽」1月号に特集記事として掲載される。10年ぶりに再び広島を取材。写真展「失意と憎悪の日々-ヒロシマはつづいている」を開催。写真集『古寺巡礼』第三集(美術出版社)刊行。6月、雑誌「太陽」の取材で滞在していた[[山口県]][[萩市]]で二度目の脳出血を発症し[[九州大学]]付属病院に緊急入院。右半身不随となるが、左手で[[水彩画]]を描いたりして[[リハビリテーション]]に励む。撮影は助手として同行していた弟の牧直視が引き継ぎ、同誌の9月号に特集記事として掲載される。なお、写真のクレジットは牧直視名義となっており、土門の作品が使用されているかは不明。
*1969年 - 6月、[[長野県]][[鹿教湯温泉]]にある[[東京大学]]療養所に転院。[[リハビリテーション]]を続ける。
*1970年 - 車椅子にて撮影を再開。風景写真を数多く撮る。
*1971年 - 写真集『古寺巡礼』第四集(美術出版社)、『[[薬師寺]]』([[毎日新聞社]])、『荻原守衛』([[筑摩書房]])刊行。『古寺巡礼』の業績に対し第19回[[菊池寛]]賞受賞。
*1972年 - 写真集『文楽』([[駸々堂]])刊行。本書のテキストは[[武智鉄二]]が担当。
*1973年 - 写真集『東大寺』(平凡社)刊行。平凡社「太陽」に『骨董夜話』を連載。
*1974年 - 写真集『古窯遍歴』(矢来書院)、『日本名匠伝』(駸々堂)を刊行。初めての[[随筆]]集『死ぬことと生きること』正・続([[築地書館]])刊行。[[紫綬褒章]]受章。[[酒田市]]の名誉市民第一号となる。
*1975年 - 写真集『古寺巡礼』第五集(美術出版社)、『私の美学』(駸々堂)、随筆集『[[骨董夜話]]』(共著、平凡社)刊行。
*1976年 - 初めての風景写真集『風景』(矢来書院)刊行。写真集『子どもたち』([[ニッコールクラブ]] 非売品)、写真論集『写真作法』([[ダヴィッド社]])刊行。5月より[[箱根 彫刻の森美術館]]の野外彫刻の撮影を始める。
*1977年 - [[日本経済新聞]]に25回にわたって「[[私の履歴書]]」を連載。随筆集『三人三様』(共著、[[講談社]])刊行。写真集『土門拳自選作品集』全三巻([[世界文化社]])を翌年にかけて刊行。
*1978年 - 3月、初めて雪景の室生寺を撮影。またこの時初めて[[エレクトロニックフラッシュ|ストロボ]]を使用する。写真集『女人高野室生寺』(美術出版社)、『日本の美』([[伊藤ハム]]栄養食品 非売品)、『生きているヒロシマ』(築地書館)刊行。カメラ誌の月例審査をまとめた『写真批評』(ダヴィッド社)刊行。
*1979年 - 写真集『現代彫刻』([[産業経済新聞社|サンケイ新聞社]])、随筆集『写真随筆』(ダヴィッド社)刊行。7月に生前最期の撮影地となった[[福井県]][[丹生郡]]にて越前[[甕墓]]や[[越前海岸]]などを撮影。これらの写真は「[[カメラ毎日]]」1979年11月号などに掲載された。9月11日に[[脳血栓]]を発症、昏睡状態となる<ref name="okai">{{Cite book|和書|author=岡井耀毅|title=土門拳の格闘 リアリズム写真から古寺巡礼への道|publisher=[[成甲書房]]|date=2005年|page=408}}</ref>。
*1980年 - [[勲四等旭日小綬章]]受章。
*1990年 - 9月15日、11年間の昏睡状態を経て、心不全のため当時入院していた東京都[[港区 (東京都)|港区]]にある[[虎の門病院]]で80歳で亡くなった<ref name="okai" />。墓所は[[東京都立八柱霊園|八柱霊園]]。
== 作風 ==
{{言葉を濁さない|section=1|date=2011年12月}}
=== リアリズム写真 ===
土門は、1950年代の前半頃から「社会的リアリズム<ref>「月例総評」『カメラ』1953年6月号。</ref>」を標榜(後年本人が告白したところでは、実質的には[[社会主義リアリズム]]であったという)、「絶対非演出の絶対スナップ<ref>「月例総評」『カメラ』1953年10月号。</ref>」を主張し、日本の写真界に一時期を画した。当時、リアリズム系の写真家としては、[[木村伊兵衛]]と双璧をなした。木村は「写真はメカニズムである」と捉えたのに対し、土門は「カメラは道具にすぎず、写真を撮るのは人間であり、思想である」と捉えていた。土門は様々なジャンルの写真作品を撮影しているが、いずれにおいても、完全な没個性(無記名)という[[報道写真]]ではなく、自分の個性を重視した。
=== 月例土門 ===
土門はまた、アルス社の「カメラ」誌の月例写真コンテスト審査員として、写真一枚一枚について詳細な批評を加え、懇切丁寧にアマチュア写真家を指導した。('''月例土門'''と称された。)そのことを通じて自らの社会的リアリズムを一つの運動として盛り上げようと試みた。その結果、土門は一時、絶大な支持と人気を集めることには成功したが、運動の成果は土門の満足の行くものではなかった。投稿者にはのちに著名となる[[東松照明]]、[[川田喜久治]]、[[福島菊次郎]]らがいた。
=== 日本文化への傾斜 ===
彼は[[日本工房]]在籍時から日本人が造った物に深い愛情と憧憬を抱き続け、フリーになってからは仏像や寺院、古陶磁などの[[伝統工芸品]]や風景など、一貫して日本の美を撮り続けた。周囲には、彼がとりあげる被写体の変化を[[趣味]]または[[退行]]と見なす者もいたが、土門は「古いものから新しいものを掬い上げる」報道として捉えていた。
=== 「乞食写真」 ===
土門の「社会的リアリズム」に対しては当時、さまざまな誤解や非難もなされた。一つにはリアリズムを単なるスナップ写真と解釈する者がいた。また、「[[パンパン]]」や[[浮浪児]]、[[傷病兵]]など、当時の社会の底辺にカメラを向ける土門やその影響下にあるアマチュア写真家の一群の写真を評して'''乞食写真'''という批判をなす者もいた。
=== 女性ポートレート ===
ライバルとされた[[木村伊兵衛]]は浅い被写界深度でソフトなタッチで女性を撮影し好評を博したのに対し、土門は女性のポートレートにおいても「リアリズム」を発揮し、深い[[被写界深度]]でシワやシミなども遠慮会釈なく映し出したので、被写体となった女性たちから不評を買うことも少なくなかったが、その一方でどうしても土門に写真を撮ってもらいたいという女性もいた。
=== 土門が選んだ世界の写真家ベスト10 ===
1948年に土門は『[[カメラ (雑誌)|カメラ]]』12月号のアンケートに答えて、世界の有名写真家ベスト10を挙げている(現在、当該記事は『写真随筆』(ダヴィッド社)に所収)。
*第1位 - [[エドワード・スタイケン]]
*第2位 - [[ムンカーチ・マールトン]]
*第3位 - [[マン・レイ]]
*第4位 - [[ブラッシャイ]]
*第5位 - [[アーウィン・ブルーメンフェルド]]
*第6位 - [[セシル・ビートン]]
*第7位 - [[ハーバート・リスト]]
*第8位 - [[エドワード・ウェストン]]
*第9位 - [[ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン]]
*第10位 - [[マーガレット・バーク=ホワイト]]
=== 追求と寛容 ===
[[File:Portrait of Umehara Ryūzaburō - 1940 - Domon Ken.png|thumb|200px|土門拳が撮影した梅原龍三郎 (1940年)]]
土門は完全主義者としても知られており、生来の不器用さを逆手に取り、膨大な出費や労力をいとわず、何度も撮影を重ねることによって生まれる予想外の成果を尊んだ。撮影時の土門の執拗な追求を伝えるエピソードは数多く、1941年に画家の[[梅原龍三郎]]を撮影した際は、土門の粘りに梅原が怒って[[籐]]椅子を床に叩きつけたが、土門はそれにも動じずその怒った顔を撮ろうとレンズを向け、梅原が根負けした一件や、1967年に東大寺二月堂のお水取りを取材した際にも、自然光にこだわり、真夜中の撮影にもかかわらず一切人工照明を使わず、度重なる失敗にもめげずに撮影を成功させた逸話などがある。撮影中は飲まず食わずで弟子にも厳しく、「鬼の土門」と称されるほどの鬼気迫る仕事ぶりであったが、人を惹き付ける魅力があり、多くの後進を育てた(「関連項目」を参照)。
=== 写真集へのこだわり ===
土門は、作品発表の場として[[展覧会]]よりも[[写真集]]を重視し、『[[古寺巡礼 (土門拳の写真集)|古寺巡礼]]』全五集([[美術出版社]]、1963年-1975年)などでは撮影から製本の一部始終にまでこだわった結果、定価も第一集が23,000円と、大卒者の初任給が40,000円程度であった当時、大変高価なものになった。
=== 使用した機材 ===
*[[ダゴール]]付き[[アンゴー]]8×10.5cm(手札)判
*[[ジナー]]S4x5in判
*[[ニコン]]SP+ニッコール85mmF1.5、35mmF2.8、28mmF3.5
*[[ミランダカメラ|ミランダ]]T
*[[ライカ]]M3+ズミクロン50mmF2、沈胴式エルマー90mmF4<ref name="kikanclacame1-010">『季刊クラシックカメラNo.1ライカ』p.010。</ref>
*ニコンF2フォトミック+マイクロニッコール105mmF4<ref>『ニコンの世界第6版』p.146-149。</ref>
== 名取洋之助との対立 ==
=== 写真は芸術か? ===
2人が対立したのは、著作権の帰属が原因であった。[[名取洋之助]]は、[[ドイツ]]のウルシュタイン社で報道写真家として活躍していた背景から、写真は芸術でも個人の作品でもなく、編集者ひいては雇用者である企業が著作権を持つ物であると考えていた。これに対し写真は表現手段の1つであり、個人の芸術的な所産だと土門は考えていた。この対立には、西洋と東洋、絵画と写真、芸術性・個人性と社会性・集団性・企業性など様々な思想の対立が背景にある。
=== ライフ投稿事件 ===
名取と土門の対立を決定的にした事件は1936年に起こった。当時アメリカ滞在中であった名取は、グラフ誌「[[ライフ (雑誌)|ライフ]]」に土門の作品を名取名義で発表したのである。このことに土門は怒り、2年後の1938年、土門はタイムライフ社からの依頼により、当時の外相の[[宇垣一成]]を取材。同時に取材していた木村伊兵衛を出し抜き、「ライフ」誌に「KEN DOMON」の特注のスタンプを捺した自分の作品を投稿した。(LIFE Magazine - September 5, 1938 Fall Fashions)その記事「日曜日の宇垣さん」は採用され、ライバルの木村はもとより、名取への大きな反撃となった。程なくして土門は日本工房を退社、名取との関係に自ら終止符を打った。こうして2人の仲は決裂し、土門は師の名取の葬儀にも参列をしぶる程になってしまった。しかし、土門は写真家としての名取には敬意を払っていたようで、名取の写真集『[[麦積山石窟 (名取洋之助の写真集)|麦積山石窟]]』(1957年出版)は、自著で評価を与えている。また名取も、滅多に人を褒めなかったが、土門が辞めたのち『NIPPON』8号に掲載した土門の作品『伊豆』を「傑作だよ。あれはそうそう撮れるもんじゃねぇ」と激賞していたという<ref>{{Cite book|和書| author = 石川保昌解説、小柳次一写真 | title =従軍カメラマンの戦争 |year=1993-08-05 | publisher = 新潮社 | ref=石川、小柳(1993) |isbn= 4-10-393601-0 |page=84 }}</ref>。
== 土門拳が写したもの ==
[[ファイル:Yukio Mishima, 1955.jpg|サムネイル|土門拳が撮影した[[三島由紀夫]](1955年)]]
=== 人物(著名人) ===
<!--ご注意:名跡を襲名している者は代数を含めないと人物が特定できません。-->
;'''あ行'''
:[[会津八一]]、[[朝倉響子]]、[[朝倉文夫]]、[[安部公房]]、[[阿部次郎]]、[[安倍能成]]、[[天野貞祐]]、[[新珠三千代]]、[[有馬稲子]]、[[井口基成]]、[[池田成彬]]、[[池部良]]、[[イサム・ノグチ]]、[[市川團十郎 (11代目)|九代目市川海老蔵]]、[[松本幸四郎 (9代目)|六代目市川染五郎]] [[井伏鱒二]]、[[今井正]]、[[岩下志麻]]、[[上村松園]]、[[宇垣一成]]、[[梅原龍三郎]]、[[円地文子]]、[[大江健三郎]]、[[大山郁夫]]、[[岡田茉莉子]]、[[岡本太郎]]、[[小椋久太郎]]、[[尾崎行雄]]、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]、[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]]、[[小原豊雲]]
;'''か行'''
:[[加賀まりこ]]、[[勝沼精蔵]]、[[鏑木清方]]、[[亀倉雄策]]、[[鴨居羊子]]、[[川合玉堂]]、[[川端康成]]、[[北大路魯山人]]、[[喜多六平太 (14世)|十四世喜多六平太]]、[[喜多村録郎]]、[[黒田辰秋]]、[[桑野みゆき]]、[[幸田露伴]]、[[木暮実千代]]、[[近衛秀麿]]、[[小林古径]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[古今亭志ん生 (5代目)|五代目古今亭志ん生]]
;'''さ行'''
:[[斎藤秀雄]]、[[斎藤茂吉]]、[[榊原仟]]、[[坂田栄男]]、[[坂田昌一]]、[[坂本繁二郎]]、[[佐久間良子]]、[[桜間弓川]]、[[佐々木隆興]]、[[笹森礼子]]、[[椎名麟三]]、[[ジェラール・フィリップ]]、[[志賀潔]]、[[志賀直哉]]、[[實川延若 (2代目)|二代目實川延若]]、[[島崎藤村]]、[[新村出]]、[[末川博]]、[[杉村春子]]、[[鈴木大拙]]、[[諏訪根自子]]、[[千宗室_(15代)|十五代千宗室]]
;'''た行'''
:[[高木貞治]]、[[高田美和]]、[[高浜虚子]]、[[高見順]]、[[高峰秀子]]、[[高村光太郎]]、[[滝沢修]]、[[武田麟太郎]]、[[武原はん]]、[[武谷三男]]、[[辰野隆]]、[[田中館愛橘]]、[[谷崎潤一郎]]、[[谷桃子 (バレエダンサー)|谷桃子]]、[[田村秋子]]、[[田村憲造]]、[[丹下健三]]、[[司葉子]]、[[鶴澤清六]]、[[勅使河原蒼風]]、[[徳田秋声]]、[[土井晩翠]]、[[富本憲吉]]、[[豊竹山城少掾]]、[[豊福知徳]]
;'''な行'''
:[[永井荷風]]、[[中里恒子]]、[[中野重治]]、[[中村歌右衛門 (6代目)|六代目中村歌右衛門]]、[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]、[[中村梅玉 (3代目)|三代目中村梅玉]]、[[仁科芳雄]]、[[野上弥生子]]、[[野口兼資]]、[[野口米次郎]]、[[野村万蔵 (6世)|六世野村万蔵]]
;'''は行'''
:[[長谷川如是閑]]、[[濱田庄司]]、[[浜美枝]]、[[林武]]、[[広津和郎]]、[[藤田嗣治]]、[[藤原銀次郎]]、[[林春雄]]、[[福田平八郎]]、[[藤村志保]]、[[藤原あき]]、[[藤由紀子]]、[[星由里子]]
;'''ま行'''
:[[牧野富太郎]]、[[正宗白鳥]]、[[真杉静枝]]、[[升田幸三]]、[[松本治一郎]]、[[松永安左エ門]]、[[マルセル・マルソー]]、[[三上孝子]]、[[三島由紀夫]]、[[水谷八重子 (初代)|初代水谷八重子]]、[[三田佳子]]、[[水戸光子]]、[[宮城まり子]]、[[宮本百合子]]、[[棟方志功]]
;'''や行'''
:[[安井曾太郎]]、[[安田靫彦]]、[[山口淑子]]、[[山田耕筰]]、[[山田抄太郎]]、[[湯川秀樹]]、[[柳田國男]]、[[吉田一穂]]、[[吉田栄三]]、[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]、[[吉田文五郎]]、[[吉永小百合]]、山根敏子
:
;'''ら行'''
:[[レオニード・クロイツァー]]
;'''わ行'''
:[[若尾文子]]、[[和辻哲郎]]
=== 人物(一般人・こども) ===
{{節スタブ}}
=== 文楽 ===
{{節スタブ}}
=== 寺院・仏像 ===
{{節スタブ}}ばさら太師
室生寺
=== 古美術・伝統工芸品 ===
{{節スタブ}}
=== 風景 ===
屋久島{{節スタブ}}
===その他===
{{節スタブ}}
== 文筆家としての活動 ==
=== 土門の文章 ===
土門は、新しい撮影にとりかかる前には、準備のために多くの文献を読むことを自らに課していたが、個人的にも、[[志賀直哉]]や[[武田麟太郎]]、[[トーマス・マン]]などを愛読するなど、文学好きとしても知られていた。また、[[1950年代]]に、カメラ雑誌の審査員を務めていた際には、見どころのある応募作品の裏に、感想や激励の文章をしたためて返送したり、読者からの質問や身の上相談があると、長文の手紙を送るなど、筆まめとして知られていた。写真集の解説も自ら手がけることが多く、『[[古寺巡礼 (土門拳の写真集)|古寺巡礼]]』全五集(美術出版社)などは、文章だけで一冊の本に相当するほどの解説を書いている。書かれたテーマは写真、美術、人生観や食べ物に関するものなど幅広い。土門の文章は『[[死ぬことと生きること]]』正・続(築地書館)、『写真作法』、『写真批評』、『写真随筆』(ダヴィッド社)、『拳眼』、『拳心』、『拳魂』(世界文化社)などでまとめて読むことができる。
=== 土門の書 ===
また、土門は若い頃から[[書写]]を日課としており、[[池大雅|大雅堂]]や[[宗峰妙超|大燈国師]]を手本としていた。『風貌』の撮影の際には、撮影したい人物の名前を自宅の[[襖]]に毛筆で列記し、それが終わるたびに新しく襖を張り替えたことは有名である。出版会や展覧会などで筆をとることも多かったが、1968年に脳出血のために半身不随になってからは、左手で揮毫するようになった。自著の題字を書くことも多く、『信楽大壺』、『古窯遍歴』、『死ぬことと生きること』、『骨董夜話』、『私の美学』、『風景』(矢来書院)、『子どもたち』(ニッコールクラブ)、『生きているヒロシマ』、『写真作法』、『写真批評』、『写真随筆』の題字は土門の筆によるものである。
=== 土門の絵画 ===
土門は少年時代には画家を志しており、1926年には、地方の展覧会で入選するほどの画才を持っていた。写真家として大成したのちも、機会あるごとに絵筆をとり、1950年には親交のあった画家、[[原精一]]や[[鳥海青児]]とのグループ展に絵画を出品したこともある。出品作のひとつ「Y嬢」は、[[アメデオ・モディリアーニ|モディリアーニ]]風の優れた油彩として知られている。また1968年に2度目の脳出血で入院した折にはリハビリテーションのために左手で100点以上の水彩画を描いている。美術界での交流も幅広く、前述の二人のほか[[華道家]]の[[勅使河原蒼風]]と、[[グラフィックデザイナー]]の[[亀倉雄策]]とは、お互いに風貌が似ているところから、周囲から3兄弟と呼ばれるほどに篤い親交を結んでいた。互いの制作活動に参加することも多く、三人の共同制作による作品にはポスター『仏陀』(1961年)や、随筆集『三人三様』(1977年)などがある。
== その他 ==
第二次世界大戦中は、名取洋之助を批判しつつも、それとは別の視点から国策に協力し、海外向け写真誌に掲載する写真の撮影を請け負っているが、[[海軍飛行予科練習生]]の撮影時には構図にこだわるあまり訓練を何度もやり直させたため予科練生らには不評だったという<ref>「土門拳の予科練写真 発見」[[河北新報]]2015年8月16日</ref>。戦後は、この戦時中の活動や自己の考え方については触れることがなかった。これに対しては「ここで沈黙を続けたことで、その後弁明する機会を逸してしまったと理解される」という評価もなされている<ref>柴岡信一郎『報道写真と対外宣伝~15年戦争期の写真界』日本経済評論社、2007年、110頁。</ref>。
仕事場は築地明石町にあり、本人によると「印画紙の水洗の水の量がすごいので水道代は町内のフロ屋の次だった」という<ref name="kikanclacame1-010" />。
『古寺巡礼』の撮影を始めた時には半身不随となり、2度目の脳出血では[[車椅子]]生活を送りながらも、弟子に指示しながら精力的に撮影した。
== 代表的な作品集(オリジナル) ==
*『風貌』アルス社、1953年
*『室生寺』美術出版社、1954年。紀行文:[[北川桃雄]]
*『ヒロシマ』研光社、1958年
*『[[筑豊のこどもたち]]』パトリア書店、1960年/築地書館、1977年
*『るみえちゃんはお父さんが死んだ』研光社、1960年
*『[[古寺巡礼 (土門拳の写真集)|古寺巡礼]]』全五集、[[美術出版社]]、1963年~75年。国際版も出版
*『信楽大壺』東京中日新聞社、1965年
*『大師のみてら 東寺』美術出版社、1965年(非売品)
*『日本人の原像』平凡社、1966年
*『私の花』(共著)講談社、1966年
*『薬師寺』毎日新聞社、1971年
*『[[荻原守衛]]』筑摩書房、1971年
*『文楽』駸々堂出版、1972年
*『東大寺』平凡社、1973年
*『日本名匠伝』駸々堂出版、1974年
*『古窯遍歴』矢来書院、1974年
*『私の美学』駸々堂出版、1975年
*『[[骨董夜話]]』(共著)平凡社、1975年
*『風景』矢来書院、1976年
*『こどもたち』ニッコールクラブ、1976年(非売品)
*『三人三様』(共著)講談社、1977年
*『土門拳自選作品集』全三巻、世界文化社、1977~78年
*『日本の美』伊藤ハム、1978年(非売品)
*『現代彫刻』産経新聞社、1979年
=== 編著での主な作品集 ===
*『土門拳 艶 日本の美 現代日本写真全集7』集英社、1980年
*『土門拳 昭和写真・全仕事』朝日新聞社、1982年
*『土門拳 古寺巡礼』美術出版社、1996年。大著
*『土門拳 日本の写真家16』岩波書店、1998年。小著
*『土門拳全集』全13巻、小学館、1983~85年
*『土門拳の古寺巡礼』全7巻、小学館、1989~90年。普及版
*『土門拳の昭和』全5巻、小学館、1995年。普及版
*『古寺巡礼 愛蔵版』小学館、1998年。各・土門たみ監修
*『風貌 愛蔵版』小学館、1999年
*『昭和のこども 愛蔵版』小学館、2000年
== 近年に刊行した作品集 ==
=== 写真集(大型本) ===
*『土門拳の伝えたかった日本』[[毎日新聞社]]、2000年、新版2011年 ISBN 9784620606569
*『土門拳自選作品集 新装版』[[世界文化社]]、2009年 ISBN 9784418099047
*『鬼の眼 土門拳の仕事』光村推古書院、2016年 ISBN 9784838105540
=== 写文集(小型単行本)===
*『拳眼』世界文化社、2001年 ISBN 9784418015214
*『拳心』世界文化社、2001年 ISBN 9784418015221
*『拳魂』世界文化社、2002年 ISBN 9784418025091
*『土門拳の早稲田1937』[[講談社]]、2009年 ISBN 9784062155007
*『土門拳の昭和』クレヴィス、2010年、新版2022年、ISBN 9784909532749
*『土門拳の古寺巡礼』クレヴィス、2011年、ISBN 9784904845134
*『寺と仏像手帳』藤森武・堀内伸二監修、[[東京書籍]]、2018年、ISBN 9784487811939
*『土門拳の室生寺』クレヴィス、2019年、ISBN 9784909532312
*『土門拳の風貌』クレヴィス、2022年、ISBN 9784909532725
*『土門拳のこどもたち』クレヴィス、2022年、ISBN 9784909532893
=== 写文集(文庫・ムック) ===
*『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』[[小学館]]文庫、2001年 ISBN 9784094114218
*『古寺を訪ねて 奈良西ノ京から室生へ』[[小学館文庫]]、2001年 ISBN 9784094114225
*『古寺を訪ねて 京・洛北から宇治へ』小学館文庫、2001年 ISBN 9784094114232
*『古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫、2002年 ISBN 9784094114249
*『腕白小僧がいた』小学館文庫、2002年 ISBN 9784094114256
*『強く美しいもの 日本美探訪』小学館文庫、2003年 ISBN 9784094114263
*『逆白波のひと・土門拳の生涯』 [[佐高信]]解説、小学館アートセレクション、2003年 ISBN 9784096070154
*『土門拳1 古寺巡礼』 小学館アーカイヴスベスト・ライブラリー06、2006年 ISBN 9784091054067
*『土門拳2 こどもたち』 小学館アーカイヴスベスト・ライブラリー13、2006年 ISBN 9784091054135
*『土門拳3 風貌』 小学館アーカイヴスベスト・ライブラリー29、2006年 ISBN 9784091054296
=== 随筆集 ===
*『死ぬことと生きること』築地書館、1974年、普及版1982年
*『続・死ぬことと生きること』築地書館、1974年
*『写真作法』ダヴィッド社、1976年。ISBN 978-4804800783
*『写真批評』ダヴィッド社、1978年。ISBN 978-4804800790
*『写真随筆』ダヴィッド社、1979年。ISBN 978-4804800806
*『写真と人生 土門拳エッセイ集』[[阿部博行]]編、[[岩波書店]]同時代ライブラリー、1997年
*『風貌 私の美学 土門拳エッセイ集』[[酒井忠康]]編、[[講談社文芸文庫]]、2008年。ISBN 9784062900119
*『土門拳 写真論集』[[田沼武能]]編、[[ちくま学芸文庫]]、2016年。ISBN 9784480097118
*『死ぬことと生きること』[[みすず書房]]、2012年、新装版2019年。ISBN 9784622088400
== 評伝 ==
*[[阿部博行]]『土門拳 生涯とその時代』[[法政大学出版局]]、1997年、新装版2007年
*都築政昭『火柱の人 土門拳』近代文芸社、1998年
*都築政昭『土門拳と室生寺』[[KKベストセラーズ]]新書、2001年
*[[都築政昭]]『土門拳の写真撮影入門』近代文芸社、2004年
**新版『土門拳の写真撮影入門』[[ポプラ社]]・[[ポプラ新書]]、2017年
*三島靖『[[木村伊兵衛]]と土門拳 写真とその生涯』[[平凡社ライブラリー]]、2004年
*岡井耀毅『土門拳の格闘 リアリズム写真から古寺巡礼への道』成甲書房、2005年
*倉田耕一『土門拳が封印した写真 鬼才と予科練生の知られざる交流』[[新人物往来社]]、2010年
*[[八木下弘]]『土門拳を撮る』[[築地書館]]、1982年 - 以下は弟子の回想
*藤森武・写真『土門拳 骨董の美学』[[平凡社]]コロナ・ブックス、1999年
*藤森武監修『土門拳 鬼が撮った日本』平凡社 別冊太陽スペシャル、2009年
*牛尾喜道・藤森武『我が師、おやじ・土門拳』[[朝日新聞出版]]、2016年
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*『クラシックカメラ専科No.17、フォクトレンダーのすべて』[[朝日ソノラマ]]
*『季刊クラシックカメラNo.1ライカ』双葉社 ISBN 4575471046
* 日本光学工業『ニコンの世界第6版』 1978年12月20日発行
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ken Domon}}
* [[土門拳記念館]] - 故郷の[[山形県]][[酒田市]]の飯森山公園にある。全作品を収蔵する。[[建築家]][[谷口吉生]]が設計。
* [[土門拳賞]] - 1981年に[[毎日新聞社]]が設立。社会・人物・自然などを中心にした作品が対象。
* 酒田市土門拳文化賞 - 1994年に酒田市が設立。アマチュア写真家の作品が対象。
* 弟子達 - [[芹沢長介]]、[[八木下弘]]、[[三木淳]]、[[北沢勉]]、[[牧直視]]、[[牛尾喜道]]、[[藤森武]]、[[西川孟]]、[[毛利秀之]]ほか
* [[チグエソ 地球の空の下で]] - 土門の作品を使用した[[みんなのうた]]の楽曲
* [[現代写真研究所]]
* [[日本の写真家一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20160329205149/http://www.mokkedano.net/course/domon_ken/profile/ 土門拳ってどんな人]
*[https://omotenouchi.jp/yahashira/ 八柱霊園に眠る著名人]
{{-}}
{{毎日芸術賞}}
{{NHK紅白歌合戦審査員}}
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[[Category:土門拳|*]]
[[Category:20世紀日本の写真家]]
[[Category:日本のフォトジャーナリスト]]
[[Category:NHK紅白歌合戦審査員]]
[[Category:ストリート・フォトグラファー]]
[[Category:勲四等旭日小綬章受章者]]
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[[Category:みんなのうたの映像制作者]]
[[Category:私の履歴書の登場人物]]
[[Category:神奈川県立横浜翠嵐高等学校出身の人物]]
[[Category:山形県出身の人物]]
[[Category:1909年生]]
[[Category:1990年没]]
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フライス (工具)
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フライス(英語: Milling cutter)は、円板もしくは円筒体の外周面あるいは端面に多数の切れ刃を設け、これを回転させながら工作物を切削する(回転切削(ミーリング)(英語版))工具の総称である。
おもにフライス盤やマシニングセンタで使われる。主に高速度鋼(ハイス)や超硬合金で作られ、また、切刃部分にcBNや焼結ダイヤモンドを使用したものもある。
日本語の「フライス」は、ドイツ語の「Fräse」や、フランス語やオランダ語の「Fraise」(襞襟の意味)に由来する。
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'''フライス'''([[英語]]: Milling cutter)は、円板もしくは円筒体の外周面あるいは端面に多数の切れ刃を設け、これを回転させながら工作物を切削する({{仮リンク|回転切削(ミーリング)|en|Milling (machining)}})工具の総称である。<ref>『フライス盤作業の実技』,石塚和夫, 理工学社, 1997年</ref>
おもに[[フライス盤]]や[[マシニングセンタ]]で使われる。主に[[高速度鋼]](ハイス)や[[超硬合金]]で作られ、また、切刃部分に[[立方晶窒化ホウ素|cBN]]や[[焼結ダイヤモンド]]を使用したものもある。
日本語の「フライス」は、ドイツ語の「Fräse」や、フランス語やオランダ語の「Fraise」([[襞襟]]の意味)に由来する。
==おもなフライス==
*[[エンドミル]](Endmill, End milling cutter)
*:外周および端面に切刃を持ったフライスで、非直線など複雑に描かれた溝や、盆や皿の内側の様な形状の加工も可能である。
*正面フライス(Facemill, Face milling cutter)
*:「フェイスミル」とも呼ばれ、工具の回転中心軸に垂直な面の切削に用いられる。
*平フライス
*:外周に切刃を持ったフライスであり、平面を切削するために使われる。
*側フライス(Side milling cutter)
*:円盤の様な形のフライスで、外周と両側面に切刃を持つ。溝やスリ割の加工に用いられる。
*溝フライス(Slotting cutter)
*:溝の加工に用いられるフライスで、外周にのみ切刃を持つ。
*角フライス
*:側フライスと同じように横側から切削するが、90度以下の角ができるような切削跡になる。
*ダブテールカッター(dovetail cutter)
*:刃先から刃元まで角度がついているフライスで、主にアリ溝切削する為に使われる。
*歯切用フライス
*:歯車の歯を作成するためのフライス。
*総形フライス
*:特殊な形状の切刃を予め成形したフライスであり、通常のフライスでは困難な形状の加工などに用いられる。
*外丸フライス
*:円柱形ではなく、円柱の角の部分が丸くなったフライス。
*スレッドミル(Threadmill)
*:マシニング・センターでのネジ切りに用いられるフライスで、総形フライスの一種と考えることができる。側面にネジの溝が成形されており、回転する工具を螺旋状に動かすことでネジを切る。マシニングセンタには、3軸同時ヘリカル補間機能付いたNCが搭載されている必要がある。NCプログラムの作り方しだいで、おねじ・めねじの両方が加工できる[http://www.youtube.com/watch?v=N_F9KKo8hB0 管用めねじ加工の動画]。
==脚注==
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橋爪大三郎
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橋爪 大三郎(はしづめ だいさぶろう、1948年10月21日 - )は、日本の社会学者(社会学修士)。理論社会学、宗教社会学、現代社会論が専門。大学院大学至善館教授。東京工業大学名誉教授。元東京工業大学世界文明センター副センター長。
神奈川県出身。開成中学校・高等学校を経て、東京大学文学部社会学科卒業。東京大学大学院社会学研究科博士課程を単位取得退学してのち、執筆活動を続けるかたわら、言語研究会、小室直樹ゼミナール等に参加。言語を社会現象の根幹に位置づける言語派社会学の構想を展開する。比較宗教学、現代社会論、現代アジア研究、日本プレ近代思想研究なども手がける。著書に『はじめての構造主義』(1988年)、『世界がわかる宗教社会学入門』(2001年)、『戦争の社会学』(2016年)など。
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橋爪 大三郎は、日本の社会学者(社会学修士)。理論社会学、宗教社会学、現代社会論が専門。大学院大学至善館教授。東京工業大学名誉教授。元東京工業大学世界文明センター副センター長。 神奈川県出身。開成中学校・高等学校を経て、東京大学文学部社会学科卒業。東京大学大学院社会学研究科博士課程を単位取得退学してのち、執筆活動を続けるかたわら、言語研究会、小室直樹ゼミナール等に参加。言語を社会現象の根幹に位置づける言語派社会学の構想を展開する。比較宗教学、現代社会論、現代アジア研究、日本プレ近代思想研究なども手がける。著書に『はじめての構造主義』(1988年)、『世界がわかる宗教社会学入門』(2001年)、『戦争の社会学』(2016年)など。
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'''橋爪 大三郎'''(はしづめ だいさぶろう、[[1948年]][[10月21日]] - )は、[[日本]]の[[社会学]]者(社会学修士)<ref name="jglobal">{{JGLOBAL ID|200901057636405205 |橋爪 大三郎}}</ref><ref name=kaken>{{Kaken|10218399||橋爪 大三郎}}</ref>。理論社会学、宗教社会学、現代社会論が専門。[[大学院大学至善館]]教授<ref name="toyokeizai" />。[[東京工業大学]][[名誉教授]]<ref name="toyokeizai"/>。元東京工業大学世界文明センター副センター長。
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== 人物 ==
* 参加していた[[全学共闘会議|全共闘]]で、[[ベトナム反戦運動]]の一環として[[新宿駅]]の[[ターミナル]]を通過する[[貨物列車]]を足止めする騒動を起こしたのち、逮捕されそうになるが、逃げおおせた<ref>[http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/04-11/041127hatachi-hashizume.pdf]「演劇から全共闘へ」</ref>。
* [[日本福音ルーテル教会]]の教会員(信者・[[クリスチャン]])であり、福音ルーテル教会のイベント・講演会でしばしば講師を務めている<ref>[http://www.jelc-higashi.org/event2/2009.html 日本福音ルーテル教会東教区 - イベントデータベース 2009年]</ref><ref>[http://lutheran-church.blogspot.jp/2012_05_01_archive.html 著者と語る「ふしぎなキリスト教」in 池袋教会](日本福音ルーテル教会東教区の宣教ビジョンセンターの主催)</ref><ref>[http://tsudanuma.blog2.fc2.com/blog-entry-580.html 津田沼教会 牧師のメッセージ「新しく創り変えられる」(使徒言行録2:1-21)]</ref>。
* [[大澤真幸]]との共著『ふしぎなキリスト教』は新書大賞2012を受賞したが、キリスト教研究者からは事実面の誤りを指摘されている{{要出典|date=2022-10}}。
== 経歴 ==
* 1972年 [[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]]社会学科卒業<ref name="jglobal" />
* 1974年 東京大学大学院社会学研究科[[大学院#修士課程・博士前期課程|修士課程]]修了<ref name="jglobal" />
* 1977年
** 東京大学大学院社会学研究科博士課程[[単位取得退学]]
** [[日本学術振興会]]特別奨励研究員<ref name="jglobal" />
* 1989年 [[東京工業大学]][[助教授]]<ref name="jglobal" />
* 1995年 東京工業大学教授<ref name="jglobal" />
* 2013年 東京工業大学[[名誉教授]]
== 学会活動等 ==
{{出典の明記|section=1|date=2022-10}}
*1997年 [[日本社会学会]]理事
*1990年 [[数理社会学会]]理事( - 1994年)
*1998年 [[日本ポピュラー音楽学会]]会長
== 著作 ==
=== 単著 ===
{{columns-list|2|
* 『言語ゲームと社会理論―[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ヴィトゲンシュタイン]]・[[ハーバート・ハート|ハート]]・[[ニクラス・ルーマン|ルーマン]]』([[勁草書房]] 1985年)
* 『仏教の言説戦略』(勁草書房 1986年/サンガ文庫 2013年)
* 『はじめての構造主義』([[講談社現代新書]] 1988年)
* 『冒険としての社会科学』([[毎日新聞社]] 1989年)
* 『現代思想はいま何を考えればよいのか』(勁草書房 1991年)
* 『民主主義は最高の政治制度である』([[現代書館]] 1992年)
* 『橋爪大三郎コレクションI身体論』(勁草書房 1993年)
* 『橋爪大三郎コレクションII性空間論』(勁草書房 1993年)
* 『橋爪大三郎コレクションIII制度論』(勁草書房 1993年)
* 『崔健――激動中国のスーパースター』([[岩波書店]] 1994年)
* 『橋爪大三郎の社会学講義』(夏目書房 1995年)
* 『性愛論』(岩波書店 1995年/[[河出文庫]] 2017年)
* 『大問題!』(幻冬舎 1995年)
* 『橋爪大三郎の社会学講義2』(夏目書房 1997年)
* 『幸福のつくりかた』(ポット出版 2000年)
* 『三島由紀夫VS東大全共闘1969-2000』([[藤原書店]] 2000年)
* 『言語派社会学の原理』([[洋泉社]] 2000年)
* 『こんなに困った北朝鮮』(メタローグ 2000年)
* 『政治の教室』(PHP新書 2001年/[[講談社学術文庫]] 2012年)
* 『世界がわかる宗教社会学入門』([[筑摩書房]] 2001年/[[ちくま文庫]] 2007年)
* 『人間にとって法とは何か』([[PHP新書]] 2003年)
* 『「心」はあるのか([[ちくま新書]] 2003年)
* 『永遠の吉本隆明』(洋泉社新書 2003年、増補版2012年)
* 『言語/性/権力――橋爪大三郎社会学論集』([[春秋社]] 2004年)
* 『アメリカの行動原理』(PHP新書 2005年)
* 『書評のおしごと――Book reviews 1983-2003』([[海鳥社]] 2005年)
* 『隣りのチャイナ 橋爪大三郎の中国論』(夏目書房 2005年)
* 『社会の不思議』(朝日出版社 2007年)
* 『家庭でできる法事法要』([[径書房]] 2008年)
* 『「炭素会計」入門』(洋泉社新書y 2008年)
* 『橋爪大三郎の社会学講義』([[ちくま学芸文庫]] 2008年)
* 『橋爪大三郎の政治経済学講義』(ちくま学芸文庫 2008年)
* 『裁判員の教科書』([[ミネルヴァ書房]] 2009年)
* 『はじめての言語ゲーム』([[講談社現代新書]] 2009年)
* 『労働者の味方マルクス―歴史に最も影響を与えた男マルクス』(現代書館 2010年)
* 『民主主義はやっぱり最高の政治制度である』(現代書館 2012年)
* 『なぜ戒名を自分でつけてもいいのか』(サンガ新書 2012年)
* 『世界は宗教で動いてる』([[光文社新書]] 2013年)
* 『橋爪大三郎のマルクス講義(飢餓陣営叢書)』(言視舎 2014年)
* 『国家緊急権』([[NHKブックス]] 2014年)
* 『面白くて眠れなくなる社会学』(PHPエディターズ・グループ 2014年)
* 『はじめての聖書 14歳の世渡り術』([[河出書房新社]] 2014年/[[河出文庫]] 2017年)
* 『これから読む聖書創世記』(春秋社 2014年)
* 『教養としての聖書』([[光文社]]新書 2015年)
* 『日本逆植民地計画』([[小学館]] 2016年)
* 『戦争の社会学 はじめての軍事・戦争入門』([[光文社新書]] 2016年)
* 『[[フリーメイソン]] 秘密結社の社会学』([[小学館新書]] 2017年)
* 『[[丸山眞男]]の憂鬱』([[講談社選書メチエ]] 2017年)
* 『正しい本の読み方』([[講談社現代新書]] 2017年)
* 『世界は[[四大文明]]でできている』([[NHK出版新書]] 2017年)
* 『政治の哲学 自由と幸福のための11講』([[ちくま新書]] 2018年)
* 『[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]の悲哀』(講談社選書メチエ 2019年)
* 『4行でわかる世界の文明』([[角川新書]] 2019年)
* 『これから読む聖書[[出エジプト記]]』(春秋社 2019年)
* 『皇国日本とアメリカ大権 日本人の精神を何が縛っているのか?』([[筑摩選書]] 2020年)
* 『パワースピーチ入門』([[角川新書]] 2020年)
}}
=== 共著 ===
{{columns-list|2|
* ([[小浜逸郎]]・[[竹田青嗣]]・[[村瀬学]]・[[瀬尾育生]])『試されることば』([[JICC出版局]] 1991年)
* ([[副島隆彦]])『現代の預言者・[[小室直樹]]の学問と思想――ソ連崩壊はかく導かれた』([[弓立社]] 1992年)
* ([[竹田青嗣]])『自分を活かす思想・社会を生きる思想―思考のルールと作法』(径書房 1994年)
* ([[川崎賢一]]・[[徃住彰文]]・[[川浦康至]]・[[高木晴夫]]・[[遠藤薫]]・[[安川一]])『メディアコミュニケーション-情報交流の社会学』([[富士通経営研修所]] 1994年)
* (長谷川慶太郎)『新生日本』(学習研究社,1995年)
* ([[呉智英]]・[[大月隆寛]])『オウムと近代国家――市民はオウムを許容するか?』(南風社 1996年)
* (小林よしのり・竹田青嗣)『正義・戦争・国家論」(径書房 1997年)
* ([[堤清二]])『選択・責任・連帯の教育改革』(岩波書店 1999年)
* (堤清二)『選択・責任・連帯の教育改革(完全版)学校の機能回復をめざして』(勁草書房 1999年)
* ([[加藤典洋]]・竹田青嗣)『天皇の戦争責任』(径書房 2000年)
* ([[三島由紀夫]]・[[芥正彦]]・[[浅利誠]]・[[木村修]]・[[小阪修平]]・[[小松美彦]])『三島由紀夫vs東大全共闘-1969-2000』([[藤原書店]] 2000年)
* ([[エズラ・ヴォーゲル]])『ヴォーゲル、日本とアジアを語る』(平凡社新書 2001年)
* ([[金井壽宏]])『強いサラリーマン、へたばる企業』([[廣済堂出版]] 2002年)
* ([[島田裕巳]])『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』([[朝日新聞社]] 2002年)
* ([[池田清彦]]・[[小浜逸郎]]・[[八木秀次 (法学者)|八木秀次]]・[[吉田司]]・[[井崎正敏]]・[[小谷野敦]])『天皇の戦争責任・再考』([[洋泉社]]新書y 2003年)
* 『オウムという悪夢』- 密教集団と陰謀([[別冊宝島]])([[宝島社]] 1995年)
* ([[大澤真幸]])『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書 2011年)
* (大澤真幸・[[宮台真司]])『おどろきの中国』(講談社現代新書 2013年)
* (大澤真幸)『ゆかいな仏教』(サンガ新書 2013年)
* ([[盛山和夫]]・[[宮台真司]]・[[志田基与師]]・[[今田高俊]]・[[山田昌弘]]・[[大澤真幸]]・[[伊藤真]]{{要曖昧さ回避|date=2017年10月}}・[[副島隆彦]]・[[渡部恒三]]・[[関口慶太]]・[[村上篤直]])『小室直樹の世界-社会科学の復興をめざして』([[ミネルヴァ書房]] 2013年)
* [[佐藤幹夫 (評論家)|佐藤幹夫]]聞き手『橋爪大三郎の[[カール・マルクス|マルクス]]講義 現代を読み解く『資本論』』(言視舎 飢餓陣営叢書 2014年)
* ([[小林慶一郎]])『ジャパン・クライシス ハイパーインフレがこの国を滅ぼす』(筑摩書房 2014年)
* ([[植木雅俊]])『ほんとうの[[法華経]]』(ちくま新書 2015年)
* ([[佐藤優 (作家)|佐藤優]])『あぶない一神教』(小学館新書 2015年)
* ([[エズラ・F・ヴォーゲル]])『[[鄧小平]]』(講談社現代新書 2015年)。聞き手
* ([[中田考]])『[[クルアーン]]を読む カリフとキリスト』(太田出版・プラス叢書 2015年)
* ([[島薗進]])『人類の衝突 思想、宗教、精神文化からみる人類社会の展望』(サイゾー 2016年)
* (大澤真幸)『げんきな日本論』([[講談社現代新書]] 2016年)
* ([[大澤真幸]])『ゆかいな仏教 続』(サンガ新書 2017年)
* ([[橋本治]])『だめだし日本語論』(太田出版・プラス叢書 2017年)
}}
=== 共編著 ===
* (神谷勇治)『研究開国』(富士通ブックス 1997年)
* (新田義孝)『科学技術は地球を救えるか』(富士通ブックス 1995年)
* ([[今田高俊]])『社会理工学入門-技術と社会の共生のために』([[日科技連出版社]] 2000年)
== 訳書 ==
* ([[王輝]])『中国官僚天国』([[岩波書店]] 1994年)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.officehashizume.net/ オフィス橋爪 橋爪大三郎研究室]
* [http://www.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/ 橋爪大三郎研究室ホームページ]
* [http://www.tkfd.or.jp/division/public/nation/ibunka.shtml 「『知らないでは済まない宗教』の講座」(東京財団ホームページ)]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はしつめ たいさふろう}}
[[Category:日本の社会学者]]
[[Category:日本の共和主義]]
[[Category:東京工業大学の教員]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:開成中学校・高等学校出身の人物]]
[[Category:神奈川県出身の人物]]
[[Category:1948年生]]
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17,554 |
マルカム3世 (スコットランド王)
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マルカム3世(ゲール語:Máel Coluim III mac Donnchada, 英語:Malcolm III, 1031年 - 1093年11月13日)は、スコットランド王(在位:1058年3月17日 - 1093年11月13日)。マルカム・カンモー(Molcolm Canmore:canmoreとは大きな頭の意)の渾名で知られ、大首領王と呼ばれる。ダンカン1世とノーサンブリア伯シューアドの妹シビルの長男だが、フォーティヴィオットの水車番の娘との間の庶子ともいわれる。ドナルド3世の兄。
1040年に父が従叔父のマクベスに暗殺されると、母方の伯父のシューアドに連れられてイングランドに逃れ、青年期までサクソン風に育てられた。
1054年にシューアドと共にスコットランドに戻り、スクーンでマクベスを敗走させ、1057年にはシューアドの後を継いだノーサンブリア伯トスティ・ゴドウィンソンとイングランド王エドワード懺悔王の支持を確保して、ランファナンの戦いでマクベスを討ち取った。王位がケネス3世の曾孫ルーラッハ(マクベスの継子)に移ると、4ヶ月後の1058年3月にストラスボギーでルーラッハも討ち取り、マルカム3世として即位した。翌1059年にはスコットランド北端のオークニー諸島の領主でオークニー伯シグルズの長男トールフィンの未亡人で、ノルウェー王の血を引くイーンガボーグを王妃としたが、彼女は1065年にマルカム3世に先立って死去した。
1066年にノルマンディー公ギヨーム2世がサクソン王ハロルド2世を討ち取ってイングランドを制圧し、イングランド王ウィリアム1世となった(ノルマン・コンクエスト)。2年後の1068年、ハロルド2世の継承者(エドマンド2世の孫)エドガー・アシリングとその姉マーガレットが逃亡の途中で船が遭難し、スコットランド東岸に打ち上げられた。イーンガボーグをすでに失っていたマルカム3世は姉弟を匿い、翌1069年にマーガレットと再婚した。
サクソン好みのマルカム3世は、サクソン王の血を引くマーガレットと共にフューダリズムを推し進めた。また、宮廷の習慣をサクソン方式に改め、教会の行事や典礼を伝統的なケルト式からローマ式に改革した(マーガレットはその功績から後に聖マーガレットと呼ばれることになった)。一方、イングランドへはエドガーの王位請求権を口実にたびたび侵攻したが、1071年にはウィリアム1世に攻め込まれて、翌1072年にアバネシーの和約でイングランドへの臣従を誓い、長男ダンカン(後のダンカン2世)を人質に取られた。
マルカム3世はその後もイングランドへの侵攻を繰り返したが、1093年11月13日、5度目のイングランド侵攻において四男エドワードと共に戦死した。弟のドナルド3世がサクソン方式に反発した貴族に擁立されてスコットランド王に即位したが、イングランドに残されていたダンカンがウィリアム2世の援助でドナルド3世を廃位させて即位した。しかし、間もなく反対派に暗殺され、ドナルド3世が復位して王位継承は混乱していった。この争いに決着がつくのは、六男エドガーがドナルド3世を廃位してスコットランド王に即位した1097年である。
1059年、フィン・アルネッソンとベルグリョート(シュル家)との娘イーンガボーグと結婚し、3人の子を儲けた。
1069年または1070年にダンファームリン・アビーでエドワード・アシリングの娘マーガレットと結婚し、8人の子を儲けた。
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マルカム3世は、スコットランド王。マルカム・カンモーの渾名で知られ、大首領王と呼ばれる。ダンカン1世とノーサンブリア伯シューアドの妹シビルの長男だが、フォーティヴィオットの水車番の娘との間の庶子ともいわれる。ドナルド3世の兄。
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{{基礎情報 君主
| 人名 = マルカム3世
| 各国語表記 = Malcolm III / Máel Coluim III mac Donnchada
| 君主号 = [[スコットランド君主一覧|スコットランド国王]]
| 継承者 =
| 継承形式 =
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| 画像説明 = マルカム3世
| 在位 = [[1058年]][[3月17日]] - [[1093年]][[11月13日]]
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| 死亡日 = [[1093年]][[11月13日]]
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| 埋葬地 = {{SCO843}}、[[アイオナ島|アイオナ]]
| 配偶者1 = イーンガボーグ
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| 子女 = [[#子女|後述]]
| 王家 = [[アサル朝|アサル家]]
| 王朝 = [[アサル朝]]
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| 父親 = [[ダンカン1世 (スコットランド王)|ダンカン1世]]
| 母親 = シビル・オブ・ノーサンブリア
}}
'''マルカム3世'''([[ゲール語]]:Máel Coluim III mac Donnchada, [[英語]]:Malcolm III, [[1031年]] - [[1093年]][[11月13日]])は、[[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|王]](在位:[[1058年]][[3月17日]] - 1093年11月13日)。'''マルカム・カンモー'''(Molcolm Canmore:canmoreとは大きな頭の意)の渾名で知られ、'''大首領王'''と呼ばれる<ref name="松村446">松村、P446。</ref><ref>森、P39。</ref>。[[ダンカン1世 (スコットランド王)|ダンカン1世]]と[[ノーサンブリア伯]]シューアドの妹シビルの長男だが、フォーティヴィオットの水車番の娘との間の庶子ともいわれる<ref>トランター、P43。</ref>。[[ドナルド3世 (スコットランド王)|ドナルド3世]]の兄。
== 生涯 ==
[[1040年]]に父が従叔父の[[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]に[[暗殺]]されると、母方の伯父のシューアドに連れられて[[イングランド王国|イングランド]]に逃れ、青年期まで[[サクソン人|サクソン]]風に育てられた<ref name="松村446"></ref><ref>森、P38。</ref>。
[[1054年]]にシューアドと共にスコットランドに戻り、[[スクーン]]でマクベスを敗走させ、[[1057年]]にはシューアドの後を継いだノーサンブリア伯[[トスティ・ゴドウィンソン]]と[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[エドワード懺悔王]]の支持を確保して、[[ランファナンの戦い]]でマクベスを討ち取った。王位が[[ケネス3世 (スコットランド王)|ケネス3世]]の曾孫[[ルーラッハ (スコットランド王)|ルーラッハ]](マクベスの継子)に移ると、4ヶ月後の[[1058年]]3月にストラスボギーでルーラッハも討ち取り、マルカム3世として即位した。翌[[1059年]]にはスコットランド北端の[[オークニー諸島]]の領主でオークニー伯シグルズの長男トールフィンの未亡人で、[[ノルウェー]][[ノルウェー君主一覧|王]]の血を引くイーンガボーグを王妃としたが、彼女は[[1065年]]にマルカム3世に先立って死去した<ref name="松村446"></ref><ref>森、P38 - P40、トランター、P45 - P46、P48。</ref>。
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サクソン好みのマルカム3世は、サクソン王の血を引くマーガレットと共に[[封建制|フューダリズム]]を推し進めた。また、宮廷の習慣をサクソン方式に改め、教会の行事や典礼を伝統的なケルト式からローマ式に改革した(マーガレットはその功績から後に聖マーガレットと呼ばれることになった)。一方、イングランドへはエドガーの王位請求権を口実にたびたび侵攻したが、[[1071年]]にはウィリアム1世に攻め込まれて、翌[[1072年]]に[[アバネシーの和約]]でイングランドへの臣従を誓い、長男ダンカン(後の[[ダンカン2世 (スコットランド王)|ダンカン2世]])を人質に取られた<ref name="松村446"></ref><ref>森、P43 - P46、トランター、P50 - P56。</ref>。
マルカム3世はその後もイングランドへの侵攻を繰り返したが、1093年11月13日、5度目のイングランド侵攻において四男エドワードと共に戦死した。弟のドナルド3世がサクソン方式に反発した貴族に擁立されてスコットランド王に即位したが、イングランドに残されていたダンカンが[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]の援助でドナルド3世を廃位させて即位した。しかし、間もなく反対派に暗殺され、ドナルド3世が復位して王位継承は混乱していった。この争いに決着がつくのは、六男[[エドガー (スコットランド王)|エドガー]]がドナルド3世を廃位してスコットランド王に即位した[[1097年]]である<ref name="松村446"></ref><ref>森、P46 - P52、トランター、P56 - P60。</ref>。
== 子女 ==
1059年、フィン・アルネッソンとベルグリョート([[ホールファグレ朝|シュル家]])との娘イーンガボーグと結婚し、3人の子を儲けた。
#[[ダンカン2世 (スコットランド王)|ダンカン2世]](1060年 - 1094年)
#ドナルド(? - 1085年)
#マルカム(? - 1094年)
1069年または1070年にダンファームリン・アビーで[[エドワード・アシリング]]の娘[[マーガレット・オブ・スコットランド|マーガレット]]と結婚し、8人の子を儲けた。
#エドワード(? - 1093年) - イングランド遠征の帰途にジェドバラで死去<ref>トランター、P57。</ref>
#[[エドマンド・オブ・スコットランド|エドマンド]](1070年? - 1097年?)
#[[エドガー (スコットランド王)|エドガー]](1072年 - 1107年)
#{{仮リンク|エゼルレッド・オブ・スコットランド|en|Ethelred of Scotland|label=エゼルレッド}}(生没年不詳) - ダンケルドの修道院長
#[[アレグザンダー1世 (スコットランド王)|アレグザンダー1世]](1078年 - 1124年)
#[[マティルダ・オブ・スコットランド|イーディス(マティルダ)]](1080年頃 - 1118年) - イングランド王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]妃
#{{仮リンク|メアリー (ブローニュ伯爵夫人)|en|Mary of Scotland, Countess of Boulogne|label=メアリー}}(1082年 - 1116年) - 1102年に[[ブローニュ伯]][[ウスタシュ3世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ3世]]と結婚。イングランド王[[スティーブン (イングランド王)|スティーブン]]妃[[マティルド・ド・ブローニュ|マティルド]]の母
#[[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]](1084年頃 - 1153年)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[森護]]『スコットランド王室史話』[[大修館書店]]、1988年。
* [[ナイジェル・トランター]]著、[[杉本優]]訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。
* Jiří Louda, Michael Maclagan, ''Lines of Succession'', Little,Brown & Company, 1981.
== 関連項目 ==
* [[インヴァネス]]
* [[ダンファームリン]]
* [[ハイランドゲームズ]]
* [[マーチ伯爵]]
* [[北部の蹂躙]]
* [[マクベス (シェイクスピア)]] - [[ウィリアム・シェイクスピア]]の戯曲。マクベスとの王位争奪戦が描かれている。
{{スコットランド王|1058年 - 1093年}}
{{イングランド王、スコットランド王及び連合王国国王}}
{{Normdaten}}
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[[Category:マルカム3世|*]]
[[Category:スコットランドの君主]]
[[Category:11世紀ヨーロッパの君主]]
[[Category:アサル家]]
[[Category:マクベス]]
[[Category:戦死した君主]]
[[Category:1031年生]]
[[Category:1093年没]]
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17,555 |
壱岐国
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壱岐国(いきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
史料上の初見は、中国の史書である三国志 (歴史書)のいわゆる魏志倭人伝に「一大國」としてある。『魏略』の逸文、『梁書』、『隋書』では一支國と記述される。『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、継体朝に天津水凝の後裔である上毛布直が伊吉嶋造に任じられとされ、その子孫の壱岐氏が代々嶋造(国造に相当)を継承した。
古くは壱岐のほか、伊伎、伊吉、伊岐、由紀、由吉など様々に表記され、「いき」または「ゆき」と読んだ。令制国としての壱岐国が7世紀に設けられると、しだいに壱岐と書いて「いき」と読むことが定着した。壱岐国は、「島」という行政単位として壱岐島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。
国府は石田郡にあった。壱岐市芦辺町湯岳興触の興神社付近ではないかと推測されるが、他にも場所は諸説あり遺跡もまだ見つかっていない。
一宮は天手長男神社である。しかし、郷ノ浦町にある現在「天手長男神社」とされている神社が本当に壱岐国一宮・式内社の天手長男神社であるかどうかの明証はない。式内社・天手長男神社を現在地に比定したのは国学者の橘三喜である。三喜は「たながお」という社名から郷ノ浦町田中触に天手長男神社があったと考え、実際に田中触に荒れはてた祭祀場の跡を発見したのでこれが式内社・天手長男神社であるとしたものである。三喜の報告に基づき、平戸藩主の命によって社殿等が整備された。近年の研究では、壱岐市芦辺町の興神社(こうじんじゃ)が本来の式内社・一宮の天手長男神社であったとする説が有力となっている。
※『長崎県史』より
【この期間は守護職不在の可能性あり】
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壱岐国(いきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 壱岐国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|壱岐国}}
|別称 = 壱州(いっしゅう)
|所属 = [[西海道]]
|領域 = [[長崎県]][[壱岐市]]([[壱岐島]])
|国力 = [[下国]]
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 2郡11郷
|国府 = (推定)長崎県壱岐市
|国分寺 = 長崎県壱岐市(壱岐国分寺跡)
|国分尼寺 = (未詳)
|一宮 = [[天手長男神社]](長崎県壱岐市)<br/>[[興神社]](長崎県壱岐市)
}}
'''壱岐国'''(いきのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に属する。
== 沿革 ==
史料上の初見は、[[中国]]の[[史書]]である[[三国志 (歴史書)]]のいわゆる[[魏志倭人伝]]に「'''一大國'''」としてある。『[[魏略]]』の[[逸文]]、『[[梁書]]』、『[[隋書]]』では[[一支国|'''一支國''']]と記述される。『[[先代旧事本紀]]』「国造本紀」によると、[[継体天皇|継体朝]]に天津水凝の後裔である上毛布直が[[伊吉嶋造]]に任じられとされ、その子孫の[[壱岐氏]]が代々嶋造([[国造]]に相当)を継承した。
古くは壱岐のほか、'''伊伎'''、'''伊吉'''、'''伊岐'''、'''由紀'''、'''由吉'''など様々に表記され、「いき」または「'''ゆき'''」と読んだ。令制国としての壱岐国が[[7世紀]]に設けられると、しだいに壱岐と書いて「いき」と読むことが定着した。壱岐国は、「島」という行政単位として'''壱岐島'''とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では全域が[[肥前国|肥前]]'''[[平戸藩]]'''領であった。(22村・35,042石余)
** [[壱岐郡]](11村・18,981石余)、[[石田郡]](11村・16,061石余)
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[平戸県]]'''の管轄となる。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により'''[[長崎県]]'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
[[国府]]は石田郡にあった。壱岐市芦辺町湯岳興触の[[興神社]]付近ではないかと推測されるが、他にも場所は諸説あり遺跡もまだ見つかっていない。
=== 島分寺・島分尼寺 ===
; 壱岐国分寺跡
: 長崎県壱岐市芦辺町中野郷西触。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社7座7社・小社17座17社の計24座24社が記載されている(「[[壱岐国の式内社一覧]]」参照)。大社7社は以下に示すもので、海神社を除いて[[名神大社]]となっている。
* [[壱伎郡]] [[住吉神社 (壱岐市)|住吉神社]] ([[壱岐市]]芦辺町)
* 壱伎郡 兵主神社 - [[八幡神社 (壱岐市勝本町)|八幡神社]](壱岐市勝本町)ほか論社1社。
* 壱伎郡 月読神社 - [[八幡神社 (壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)|八幡神社]](壱岐市芦辺町)ほか論社1社。
* 壱伎郡 中津神社 - [[聖母宮]](壱岐市勝本町)ほか論社1社。
* [[石田郡]] 天手長男神社 - [[興神社]](壱岐市芦辺町) ほか論社1社。
* 石田郡 天手長比売神社 - 現在は[[天手長男神社]]に合祀。
* 石田郡 海神社 - 名神大社ではない。
; [[総社]]・[[一宮]]以下
* 総社 総社神社 - 興神社摂社。
* 一宮 '''[[天手長男神社]]'''または'''[[興神社]]'''
* 二宮 [[聖母宮]]
[[一宮]]は天手長男神社である。しかし、郷ノ浦町にある現在「天手長男神社」とされている神社が本当に壱岐国一宮・式内社の天手長男神社であるかどうかの明証はない。式内社・天手長男神社を現在地に比定したのは国学者の[[橘三喜]]である。三喜は「たながお」という社名から郷ノ浦町田中触に天手長男神社があったと考え、実際に田中触に荒れはてた祭祀場の跡を発見したのでこれが式内社・天手長男神社であるとしたものである。三喜の報告に基づき、[[平戸藩]]主の命によって社殿等が整備された。近年の研究では、壱岐市芦辺町の[[興神社]](こうじんじゃ)が本来の式内社・一宮の天手長男神社であったとする説が有力となっている。
=== 安国寺利生塔 ===
* [[安国寺 (壱岐市)|安国寺]] - 長崎県壱岐市芦辺町深江栄触。
== 地域 ==
=== 郡 ===
*[[壱岐郡]] - 可須郷、風早郷、潮安郷、那賀郷、鯨伏郷、伊宅郷、田河郷
*[[石田郡]] - 石田郷、沼津郷、物部郷、篦原郷
=== 江戸時代の藩 ===
*[[平戸藩]]、[[松浦氏#平戸松浦氏|松浦家]]
== 人物 ==
=== 国司 ===
*1.[[板持安麿]] :[[天平]]二年正月([[730年]]1月)見
*2.[[田部息麿]] :[[神護景雲]]三年六月([[769年]]7月)任
*3.[[眞菅王]] :権守、[[弘仁]]六年九月([[815年]]10月)任
*4.[[広根王]] :権守、[[承和 (日本)|承和]]九年七月([[842年]]8月)任
*5.[[賀茂直岑]] :[[元慶]]三年十一月([[879年]]12月)見
*6.[[菅原清鑒]] :[[天慶]]二年十一月([[939年]]12月)任
*7.(姓欠)如松 :[[天暦]]四年閏五月([[950年]]6月)見
*8.[[藤原理忠]] :[[寛仁]]三年四月([[1019年]]5月)見
*9.[[藤原義定]] :[[応徳]]二年([[1085年]])任
*10.(姓欠)定清 :[[嘉保]]二年([[1095年]])任
*11.[[大江佐忠]] :[[天永]]中見
*12.[[音部明兼]] :[[大治 (日本)|大治]]元年二月([[1126年]]2月)任
*13.[[藤原頼業]] :[[康治]]二年正月([[1143年]]1月)任
*14.[[藤原公俊]] :[[久安]]五年三月([[1149年]]4月)任
*15.[[藤原邦綱]] :[[久寿]]中任
*16.(姓欠)貞知 :[[平治]]元年一二月([[1160年]]1月)見
*17.[[難波頼経|藤原頼経]] :[[永万]]二年二月([[1166年]]2月)任
*18.(姓欠)盛業 :[[治承]]二年十一月([[1178年]]12月)見
*19.[[源俊光]] :治承四年正月([[1180年]]1月)任、同年二月(1180年2月)罷
*20.[[平知親]] :[[寿永]]二年十一月([[1183年]]12月)見
*21.[[平親明]] :[[正治]]元年九月([[1199年]]9月)任
*22.(姓欠)信久 :[[建暦]]二年正月([[1212年]]1月)見
*23.[[源康実]] :[[建保]]元年正月([[1213年]]1月)任
*24.[[葛西清重]] :[[承久]]元年正月([[1219年]]1月)見
*25.[[三善為重]] :承久二年四月([[1220年]]5月)任
*26.(姓欠)公尚 :承久四年四月([[1222年]]5月)見
*27.[[藤原祐康]] :[[安貞]]元年一二月([[1228年]]1月)任
*28.[[高階時宗]] :安貞二年正月(1228年2月)任
*29.[[清原宣業]] :[[寛喜]]元年一二月([[1229年]]12月)任
*30.[[藤原業教]] :寛喜二年正月([[1230年]]1月)任、同三年二月([[1231年]]3月)罷
*31.[[中原行兼]] :寛喜三年二月(1231年3月)任
*32.[[中原師胤]] :[[天福 (日本)|天福]]元年正月([[1233年]]2月)任
*33.[[惟宗朝直]] :[[嘉禎]]元年十一月([[1235年]]12月)見
*34.[[三浦光村]] :嘉禎三年正月([[1237年]]1月)任、
*35.[[佐々木泰綱]] :嘉禎三年一二月(1237年12月)任、[[暦仁]]元年八月([[1238年]]9月)罷
*36.[[中原師世]] :[[仁治]]元年正月([[1240年]]1月)任
*37.[[源兼頼]] :[[寛元]]三年正月([[1245年]]1月)任
*38.[[藤原兼倫]] :[[宝治]]二年正月([[1248年]]1月)任、[[建長]]二年正月([[1250年]]2月)罷
*39.[[藤原基政]] :建長三年正月([[1251年]]1月)任
*40.[[三善倫経]] :[[弘安]]六年一二月([[1283年]]12月)任
*41.[[橘邦範]] :弘安七年十一月([[1284年]]12月)任
*42.[[藤原祐兼]] :[[正応]]元年三月([[1288年]]4月)任
*43.[[藤原遠業]] :正応元年四月(1288年5月)任
*44.[[源忠宗 (鎌倉時代)|源忠宗]] :正応元年九月(1288年9月)任
*45.[[平清秀]] :[[貞和]]四年一二月([[1348年]]12月)任
*46.[[大内名欠]] :[[延文]]三年一二月([[1358年]]12月)見
*47.[[藤原清徳]] :[[正平 (日本)|正平]]一四年七月([[1359年]]7月)見
*48.(姓欠)信明 :[[明徳]]元年八月([[1390年]]9月)見
※『長崎県史』より
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*1244年~? - [[千葉胤継]]?(姓が千葉氏かは不確定)
*1273年~? - [[少弐資能|武藤資能]]
==== 室町幕府 ====
*1365年~136?年 - [[宗像氏俊]]
*136?年~1369年 - [[宗像氏頼]]
【この期間は守護職不在の可能性あり】
*1378年~1395年 - [[今川貞世]]
=== 武家官位としての壱岐守 ===
{{節スタブ}}
==== 江戸時代 ====
*[[平戸藩]]主[[松浦氏]]
**[[松浦隆信 (平戸藩主)|松浦隆信]]
**[[松浦棟]]
**[[松浦有信]]
**[[松浦清]]
**[[松浦曜]]
*忠知系[[小笠原家]]
**[[小笠原忠知]]:[[豊後国|豊後]][[杵築藩]]主、[[三河吉田藩]]藩主
**[[小笠原長祐]]:三河吉田藩主
**[[小笠原長煕]]:[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]主、[[遠江国|遠州]][[掛川藩]]主
**[[小笠原長泰]]:[[肥前国|肥前]][[唐津藩]]
**[[小笠原長行]]:肥前唐津藩嗣子。江戸幕府[[老中]]。
*その他
**[[毛利治親]]:[[長門国|長門]][[萩藩]]主
== 律令制の駅 ==
*優通駅(ゆうずえき):石田郷に所在した。
*何周駅(かすえき):可須郷に所在した。
== 参考文献 ==
{{No footnotes|date=2020年2月|section=1}}
* 国別守護・戦国大名辞典
* [[角川日本地名大辞典]] 42 長崎県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Iki Province}}
{{Wiktionary|壱岐国}}
* [[壱岐島]]
* [[令制国一覧]]
* [[壱岐市]]
* [[一支国]] - [[魏志倭人伝]]に登場する[[邪馬台国]]までの経路上の一国。壱岐島に比定する説が有力視される。
* [[壱岐 (戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]、[[海防艦]]。元は[[ロシア海軍|ロシア帝国海軍]]の戦艦[[インペラートル・ニコライ1世 (戦艦・初代)|インペラートル・ニコライ1世]]。艦名は壱岐国に因む。
== 外部リンク ==
* [http://iki-guide.com/ 壱岐タイムズ(壱岐新聞)メディア/ニュース/出版]
* [http://www.nagasaki-maibun.jp/ 長崎県埋蔵文化財センター]
* [http://www.iki-haku.jp/ 壱岐市立一支国博物館]
*[https://ikibiki.com/ 壱岐びいき]
{{令制国一覧}}
{{壱岐国の郡}}
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[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:西海道|国いき]]
[[Category:長崎県の歴史]]
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東京工業大学
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東京工業大学(とうきょうこうぎょうだいがく、英語: Tokyo Institute of Technology)は、 日本の関東地方にある国立大学である。東京医科歯科大学と合併することになった。
東京都目黒区に本部を置き、国立大学法人東京工業大学によって運営されている。略称は東工大(とうこうだい)、Tokyo Tech。
文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。
教育面では、基礎科学を重視するとともに、文化・芸術も学習できる。
2006年4月、日本国内最速となるスーパーコンピュータ「TSUBAME」を稼働させ、教育や研究に無料ないし低い利用料で提供するとともに、日本の大学としては初めて学部学生でも研究やレポートの作成用として自由に利用できるようにした。また、このスパコンを利用した教育活用として Supercomputing Programming Contest が開催されている。
大学評価の世界的指標の一つである、クアクアレリ・シモンズによる「QS世界大学ランキング 2022」における総合評点の世界順位は、56位であった(国内大学中は第3位)。
英『タイムズ』紙系の教育専門誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』によるTHE世界大学ランキングでは、毎年上位にランクされている。「2023(2022-2023年シーズン)」(2022年度)は世界ランク第301-350位、アジア同点47位、国内同点5位(名古屋大学と同順位)だった。また、タイムズ・ハイヤー・エデュケーションがベネッセと連携して日本の大学の評価を発表している『THE世界大学ランキング日本版2022』では、同点の大阪大学と競り合いながらも総合順位を同点第3位に確保した。
(沿革節の主要な出典は公式サイト)
創立年は、東京職工学校が設立された1881年(明治14年)とされている。さらに源流を遡れば、1874年(明治7年)にゴットフリード・ワグネルの進言によって東京開成学校の中に設置された「製作学教場」に行き着く。
東京職工学校は1881年(明治14年)5月26日に創設され、1882年(明治15年)6月10日文部省より東京市浅草区蔵前東片町に浅草文庫の建屋を交付され、校舎新築の工事を起こした。明治初期の工業教育機関は、工部大学校(東京大学工学部の前身)と東京職工学校の2校だけであった。前者がイギリス人をスタッフに迎え、鉱山・土木・電信など国土経営に関する指導者養成を目指したのに対し、後者は英独仏の大陸欧州諸国の技術教育に関する調査に基づき、手島精一ら日本人によって構想され、製造現場および工業教育の指導者養成を目的として、化学工芸科および機械工芸科の2科で発足した。
その後、学科課程の分化拡充を経て、東京高等工業学校となり、その所在地から長く「蔵前」と称された。1923年、関東大震災により壊滅的被害を受けたのを機に市外の東京府荏原郡碑衾村大岡山に移転。1929年の旧官立大学昇格時には、工学系8学科に加え理学系4教室を設置した。旅順工科大学、大阪工業大学と共に「旧三工大」の一つとされた。太平洋戦争後の1949年、新制大学へ移行。戦後も拡充を続け、2004年に国立大学法人となった。2018年に指定国立大学法人となる。
1929年の設立から1946年までは「Tokyo University of Engineering」を使用していた。第二次世界大戦後の1946年、GHQに提出した書類の中で、従来使用していた「Tokyo University of Engineering」に線が引かれ、マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology, MIT)に類似した「Tokyo Institute of Technology」に訂正されているのが現在の英語名称の端緒であると推測される。
かつては英語略称をTokyo Institute of Technologyの頭文字を取ってTITとしていたが、現在はTokyo Techとしている。
『ツバメと窓』。「工」の文字を窓に見立て「大」をツバメの形にデザインした。当時東京美術学校教授だった堀進二が1948年に図案化した。
スクールカラーは『ロイヤルブルー■』、DICカラーガイドの641番で指定される色(系統色名:こい紫みの青)。2004年に正式に定められた。参考値であるが、RGB値で指定する場合は (R, G, B) = (0, 83, 150) である。
現在の大学歌は1957年に制定された、三好達治作詞、諸井三郎作曲の『東京工業大学歌』で、4番からなる。祝典(入学式、卒業式)などで使用される。管弦楽団の伴奏で、混声合唱団コールクライネスにより演奏される。なお、歌詞で3番の「(友垣が)七つの窓辺」と4番の「七彩の」は学類(第1類~第7類)募集していたときの名残と思われる。2016年から学院(理学院,工学院,物質理工学院,情報理工学院,生命理工学院,環境・社会理工学院の6区分)での募集となったため、現在は「七」ではない。
東京工業大学学生歌『桜花散り敷く丘』があるが、現在ではほとんど歌われない。
3学部、6大学院研究科を、2016年4月に6学院に再編。
学士課程の1年生は、大学入試出願時に選択した学院に所属する。2年目に系を選択、修士課程以降はさらにコースを選択し、専門性を深めることになる。
2019年以前の入学生は類を選択するシステムであった。
学部1年生は、大学入試出願時に選択した類に所属する。2年次から、1年次の成績順に希望する学科に振り分けられる。研究室配属は4年生からである。
21世紀COEプログラムの採択数は12件だった。
グローバルCOEプログラムでは平成19年度から21年度まで併せて9件が採択されている。
敷地面積は244,643 m。大岡山キャンパスは、中心の大岡山地区、公道の下を通るトンネルの南側にある石川台地区(大田区)、東急線の線路を挟んで北側にある緑が丘地区の3つに大きく分けられる。正門を入ると桜並木が連なる。その正面にある本館は関東大震災の教訓から、非常に剛健な造りとなっている。体育館の裏手に位置するグラウンドは区と区の境界に当たり、バッターボックスの右が大田区、左が目黒区である。
また、学内の東急線上に架かる陸橋は東京富士見坂に指定されており、空気の澄んだ冬には富士山を見ることができる。
敷地面積は225,244 m。キャンパスの中心に位置する学内通称「加藤山」周辺は、学生たちの憩いの場ともなっている。
2001年5月25日に「長津田キャンパス」から現名称へ改称した。「すずかけ」の名は当大学名誉教授であった谷口修が学問と関係の深い植物ということで、プラトンが開設したアカデメイアに多く植えられていたというスズカケノキ(プラタナス)を駅名とすることを学内で提案。賛成が得られたため、大学として東京急行電鉄へ要望を実施したという経緯がある。
敷地面積は23,223.15m。2016年に定められた30カ年計画により再開発計画の検討が進められている。この再開発では、地上32階建て、地上24階建て、地上9階建ての3棟総延べ18万mの高層ビルを建設し、研究スペースの拡充と産学官連携、国際化拠点を整備することが目的とされた。附属高校は2026年4月に大岡山キャンパス(緑が丘地区)へ移転することが計画されている。
一橋大学、東京医科歯科大学、東京外国語大学との4大学で『四大学連合憲章』を2001年(平成13年)3月15日に締結。相互教育研究プログラムを展開している。
2018年9月時点
2018年9月時点、世界35の国・地域に146機関との部局間協定に加え、1つのコンソーシアムを形成、4つの大学院協定を締結している。
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"text": "敷地面積は23,223.15m。2016年に定められた30カ年計画により再開発計画の検討が進められている。この再開発では、地上32階建て、地上24階建て、地上9階建ての3棟総延べ18万mの高層ビルを建設し、研究スペースの拡充と産学官連携、国際化拠点を整備することが目的とされた。附属高校は2026年4月に大岡山キャンパス(緑が丘地区)へ移転することが計画されている。",
"title": "施設"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一橋大学、東京医科歯科大学、東京外国語大学との4大学で『四大学連合憲章』を2001年(平成13年)3月15日に締結。相互教育研究プログラムを展開している。",
"title": "対外関係"
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"text": "2018年9月時点",
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"text": "2018年9月時点、世界35の国・地域に146機関との部局間協定に加え、1つのコンソーシアムを形成、4つの大学院協定を締結している。",
"title": "対外関係"
}
] |
東京工業大学は、 日本の関東地方にある国立大学である。東京医科歯科大学と合併することになった。 東京都目黒区に本部を置き、国立大学法人東京工業大学によって運営されている。略称は東工大(とうこうだい)、Tokyo Tech。 文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。
|
{{混同|東大工|redirect=東工大}}
{{混同|東京工科大学|東京工芸大学}}
{{日本の大学
|国 = 日本
|大学名 = 東京工業大学
|ふりがな = とうきょう こうぎょうだいがく
|英称 = Tokyo Institute of Technology
|ロゴ = Tokyo Institute of Technology logo, 4.svg
|画像 = Main Building - Tokyo Institute of Technology.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 大岡山キャンパス本館(2018年11月)
|大学設置年 = [[1929年]]
|創立年 = [[1881年]]
|学校種別 = 国立
|設置者 = [[国立大学法人]]東京工業大学
|本部所在地 = [[東京都]][[目黒区]][[大岡山]]二丁目12-1
|キャンパス = 大岡山(東京都目黒区)<br />すずかけ台([[神奈川県]][[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]])<br />田町(東京都[[港区 (東京都)|港区]])
|緯度度 = 35 |緯度分 = 36 |緯度秒 = 18.00 |N(北緯)及びS(南緯) = N
|経度度 = 139 |経度分 = 41 |経度秒 = 2.00 |E(東経)及びW(西経) = E
|地図国コード = JP
|学部 = [[東京工業大学理学院|理学院]]<br />[[東京工業大学工学院|工学院]]<br />[[東京工業大学物質理工学院|物質理工学院]]<br />[[東京工業大学情報理工学院|情報理工学院]]<br />[[東京工業大学生命理工学院|生命理工学院]]<br />[[東京工業大学環境・社会理工学院|環境・社会理工学院]]
|研究科 = [[東京工業大学理学院|理学院]]<br />[[東京工業大学工学院|工学院]]<br />[[東京工業大学物質理工学院|物質理工学院]]<br />[[東京工業大学情報理工学院|情報理工学院]]<br />[[東京工業大学生命理工学院|生命理工学院]]<br />[[東京工業大学環境・社会理工学院|環境・社会理工学院]]
|ウェブサイト = [https://www.titech.ac.jp 東京工業大学]
}}
'''東京工業大学'''(とうきょうこうぎょうだいがく、{{Lang-en|Tokyo Institute of Technology}})は、 [[日本]]の[[関東地方]]にある[[国立大学]]である。[[東京医科歯科大学]]と合併することになった。
[[東京都]][[目黒区]]に本部を置き、'''国立大学法人東京工業大学'''によって運営されている。[[大学の略称|略称]]は'''東工大'''(とうこうだい)、'''Tokyo Tech'''<ref name=":1">[https://www.titech.ac.jp/about/overview/logo/colloquial_name.html 本学の名称 | 大学歌・マーク・カラー | 大学概要 | 東工大について | 東京工業大学]</ref>。
[[文部科学省]]が実施している[[スーパーグローバル大学]]事業のトップ型指定校ならびに[[国立大学法人#指定国立大学法人|指定国立大学法人]]に指定されている。
== 概観 ==
[[画像:Tokyo Institute of Technology Centennial Hall 2009.jpg|200px|thumb|東京工業大学百年記念館]]
=== 大学全体 ===
* 工業立国を模索する[[明治維新#明治政府|明治政府]]が、専門技術の素養を備えた優れた職工長・工業教員の養成を目的に設立した、[[学制]]下での最初の工業教育機関である[[東京職工学校]]を母体とする。
* 現在は、伝統的な理学系、工学系に加え、情報系、バイオ系、社会・経営系をカバーする、理工系総合大学となっている。
* [[2012年]]に[[文部科学省]]の[[世界トップレベル国際研究拠点形成促進プログラム]]によりELSI([[東京工業大学地球生命研究所]])が発足するなど、各学問領域において研究が進められている。
* 2000年に[[ノーベル化学賞]]を受賞した[[白川英樹]]工学博士は卒業生、2016年に[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞した[[大隅良典]]も本大学の教授である。
* 理工系が主体だが、人文・社会系においてもリベラルアーツ研究教育院を中心に研究・教育が行われる。長らく教鞭をとった著名な学者に文芸評論家の[[江藤淳]](名誉教授)や社会学者の[[橋爪大三郎|橋爪大三郎(名誉教授)]]がいる。哲学者の[[鶴見俊輔]]も助教授として数年間在籍していた。[[池上彰]]や[[パトリック・ハーラン]]などのタレント講師も教鞭をとっている。
* 2022年8月に、[[東京医科歯科大学]]と統合する方針を公表し<ref>{{Cite web|和書|title=東工大と医科歯科大、統合協議開始を正式発表…24年春にも実現の見通し |url=https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20220809-OYT1T50171/ |website=読売新聞 |date=2022-08-09 |access-date=2022-08-09}}</ref>、同月9日に同大学と統合に関する協議を開始した<ref>{{Cite web|和書|title=国立大学法人東京工業大学と国立大学法人東京医科歯科大学の統合に向けた協議を開始 |url=https://www.titech.ac.jp/news/2022/064662.html |website=東京工業大学 |access-date=2022-10-15 |date=2022-08-09 |author=大学改革担当}}</ref>。なお、東京医科歯科大学と合併する事によりh5-indexが169となり国内第2位となる。
* 2022年10月14日、東京医科歯科大学との間で統合に向けた基本合意書を締結したことを発表した<ref>{{Cite web|和書|title=国立大学法人東京工業大学と国立大学法人東京医科歯科大学の統合に向けた基本合意書を締結 |url=https://www.titech.ac.jp/news/2022/065089.html |website=東京工業大学・東京医科歯科大学 |access-date=2022-10-15 |date=2022-10-14}}</ref>。実現すれば指定国立大学同士での統合は初めてとなる。国立大学であることから法律の改正が必要のため、2024年度の統合実施を予定している<ref>{{Cite web|和書|title=東工大と東京医科歯科大 2年後めどに統合で基本合意 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221014/k10013858781000.html |website=NHKニュース |access-date=2022-10-15 |author=日本放送協会 |date=2022-10-14}}</ref>。2023年1月19日には統合後の新大学名称を[[東京科学大学]](とうきょうかがくだいがく、{{Lang-en|Institute of Science Tokyo}})とする予定であること、ならびにこれを同月中に[[大学設置・学校法人審議会]]に提出することを発表した<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.titech.ac.jp/news/pdf/tokyotechpr20230119-integration.pdf |title=新大学名称を「東京科学大学(仮称)」として大学設置・学校法人審議会への提出を決定 |publisher=国立大学法人東京医科歯科大学、国立大学法人東京工業大学 |format=pdf |date=2023-01-19 |accessdate=2023-01-19}}</ref>。
=== 教育および研究 ===
[[画像:TSUBAME2.0.jpg|250px|thumb|[[スーパーコンピュータ]]「[[TSUBAME]] 2.0」]]
* 現代社会の基盤となる技術が継続的に生み出されている。
** [[テレビ]]の発明
*** [[高柳健次郎]](2009年[[IEEEマイルストーン]])
** 磁気記憶材料[[フェライト (磁性材料)|フェライト]]の発明
*** [[加藤与五郎]]/[[武井武]](2009年IEEEマイルストーン)
** [[リボフラビン|ビタミンB2]]の合成技術の開発
** [[導電性高分子|電気を通すプラスチック]]の発見
*** 2000年[[ノーベル化学賞]]
** [[光ファイバー]]通信技術の開発
教育面では、基礎科学を重視するとともに、文化・芸術も学習できる。<!--学内に「'''世界文明センター'''」を設置していたが、2016年3月に閉鎖<ref>[https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1159197467477421&id=542796565784184 東京工業大学世界文明センター - 東工大世界文明センターは2016年3月31日をもって閉鎖されました。... | Facebook]</ref>)-->
2006年4月、日本国内最速となる[[スーパーコンピュータ]]「[[TSUBAME]]」を稼働させ、教育や研究に無料ないし低い利用料で提供するとともに、日本の大学としては初めて学部学生でも研究やレポートの作成用として自由に利用できるようにした。また、このスパコンを利用した教育活用として [[Supercomputing Programming Contest]] が開催されている。
大学評価の世界的指標の一つである、クアクアレリ・シモンズによる「[[QS世界大学ランキング]] 2022」における総合評点の世界順位は、56位であった(国内大学中は第3位)<ref>[https://www.topuniversities.com/university-rankings/world-university-rankings/2022 QS World University Rankings 2022]</ref>。
英『[[タイムズ]]』紙系の教育専門誌『[[タイムズ・ハイアー・エデュケーション]]』による[[THE世界大学ランキング]]では、毎年<!--特に工学分野で-->上位にランクされている。「2023(2022-2023年シーズン)」(2022年度)は世界ランク第301-350位、アジア同点47位、国内同点5位([[名古屋大学]]と同順位)だった<ref>[https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/2023/world-ranking#!/page/0/length/-1/sort_by/rank/sort_order/asc/cols/stats World University Rankings 2023 | Times Higher Education (THE)]</ref>。また、タイムズ・ハイヤー・エデュケーションが[[ベネッセコーポレーション|ベネッセ]]と連携して日本の大学の評価を発表している『THE世界大学ランキング日本版2022』では、同点の[[大阪大学]]と競り合いながらも総合順位を同点第3位に確保した<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanuniversityrankings.jp/rankings/total-ranking/|title=大学ランキング|work=THE 世界大学ランキング 日本版|publisher=ベネッセコーポレーション|accessdate=2022-04-16}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.timeshighereducation.com/rankings/japan-university/2022#!/page/0/length/25/sort_by/rank/sort_order/asc/cols/stats|title=Japan University Rankings 2022|work=Times Higher Education 2022|publisher=タイムズ・ハイヤー・エデュケーション|language=en|accessdate=2022-04-16}}</ref>。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+タイムズ・ハイアー・エデュケーション<br>世界大学ランキング 2014-2022
! !!style="white-space:nowrap" |2014年!!2015年!!2016年!!2017年!!2018年!!2019年!!2020年!!style="white-space:nowrap" |2021年度!!style="white-space:nowrap" |2022年度
|-
!style="white-space:nowrap" |世界ランク
|141||201-250||251-300||251-300||251-300||251-300||301-350||301-350||301-350
|-
!アジア順位
|13||16||28||28||28||28||33||=39||=47
|-
!国内順位
|3||3||4||5||3||3||4||=4||=5
|}
{{中央|right|(注記)順位の数字の前に'''イコール記号'''が付く場合は、<br />原典の表記の通り、'''同点順位'''であることを表す。<br />(2021年度分から明記)}}
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+タイムズ・ハイアー・エデュケーション<br>世界大学ランキング 2004-2013
! !!2004年!!2005年!!2006年!!2007年!!2008年!!2009年!!2010年!!2011年!!2012年!!2013年
|-
!世界ランク
|51||99||118||90||61||55||112||108||128||125
|-
!アジア順位
|9||16||16||13||11||11||14||10||13||13
|-
!国内順位
|3||3||4||4||4||4||3||3||3||3
|}<!--
2004年からの順位は次の通りである(括弧内は国内順位)。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+2004年-2010年の分野別ランキング
! !!2004年!!2005年!!2006年!!2007年!!2008年!!2009年!!2010年
|-
|総合||51(3)||99(3)||118(4)||90(4)||61(4)||55(4)||60(4)
|-
|工学・情報技術分野
|11(2)||11(2)||18(2)||22(2)||21(2)||19(3)||23(3)
|-
|自然科学分野||55(4)||50(3)||67(5)||79(4)||57(4)||48(4)||64(4)
|}--><!--
2004年からの順位は次の通りである(括弧内は国内順位)。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+2004年-2010年の分野別ランキング
! !!2004年!!2005年!!2006年!!2007年!!2008年!!2009年!!2010年
|-
|総合||51(3)||99(3)||118(4)||90(4)||61(4)||55(4)||60(4)
|-
|工学・情報技術分野
|11(2)||11(2)||18(2)||22(2)||21(2)||19(3)||23(3)
|-
|自然科学分野||55(4)||50(3)||67(5)||79(4)||57(4)||48(4)||64(4)
|}--><!--
=== 学風および特色 ===
○○大学は学生自治が重視されており…
サークル活動が盛んなのは以下のような理由から…
伝統的に新入生は××を行う習慣があるが
略称は「△△」…
※ここで大学全体の学風や特色を端的にまとめる。具体的な数字データや学生生活の詳細は別項でまとめる。-->
== 沿革 ==
(沿革節の主要な出典は公式サイト<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.titech.ac.jp/about/overview/history.html |title=歴史と沿革 |publisher=東京工業大学 |accessdate=2019-03-24}}</ref><!-- 別の出典で記事を追加するには出典をその追加記事の後に脚注を導入して付け加えて下さい。 -->)
{{See also|東京職工学校}}
[[画像:東京高等工業学校本館.jpg|240px|thumb|東京高等工業学校本館(1922年)]]
[[画像:Tokyo Institute of Technology,1940.jpg|240px|thumb|1940年(昭和15年)の本館。奥は[[八九式艦上攻撃機]]、手前は[[九二式戦闘機]]。]]
=== 略歴 ===
創立年は、東京職工学校が設立された[[1881年]]([[明治]]14年)とされている。さらに源流を遡れば、[[1874年]](明治7年)に[[ゴットフリード・ワグネル]]の進言によって東京[[開成学校]]の中に設置された「製作学教場」に行き着く<ref>「学制百年史」第一編第一章第四節一</ref><ref>「学制百年史」第一編第二章第六節一</ref>。
東京職工学校は1881年(明治14年)5月26日に創設され、[[1882年]](明治15年)6月10日文部省より[[東京市]][[浅草区]][[蔵前]]東片町に[[浅草文庫]]の建屋を交付され、校舎新築の工事を起こした。[[日本の理工科学校|明治初期の工業教育機関]]は、[[工部大学校]]([[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京大学工学部]]の前身)と東京職工学校の2校だけであった。前者が[[イギリス人]]をスタッフに迎え、鉱山・土木・電信など国土経営に関する指導者養成を目指したのに対し、後者は英独仏の大陸欧州諸国の技術教育に関する調査に基づき、[[手島精一]]ら日本人によって構想され、製造現場および工業教育の指導者養成を目的として、化学工芸科および機械工芸科の2科で発足した<ref>"日本近代技術教育と学校モデルの移転", 『職業と技術の教育学』第17号(2006年), 7 - 14項</ref>。
その後、学科課程の分化拡充を経て、東京高等工業学校となり、その所在地から長く「蔵前」と称された。1923年、[[関東大震災]]により壊滅的被害を受けたのを機に市外の[[東京府]][[荏原郡]][[碑衾町|碑衾村]][[大岡山]]に移転。1929年の[[旧官立大学]]昇格時には、工学系8学科に加え理学系4教室を設置した。[[旅順工科大学 (旧制)|旅順工科大学]]、[[大阪工業大学 (旧制)|大阪工業大学]]と共に「[[旧三工大]]」の一つとされた。[[太平洋戦争]]後の1949年、[[新制大学]]へ移行。戦後も拡充を続け、2004年に[[国立大学法人]]となった。2018年に指定国立大学法人となる。
=== 年表 ===
[[画像:West Building 1 - Tokyo Institute of Technology.jpg|240px|thumb|分析化学教室(1931年)、現・西1号館:登録有形文化財]]
* [[1881年]]([[明治]]14年)5月:東京職工学校設立<ref>初期の沿革については「東京工業大学要覧 創立百年記念特集号」(昭和56年)を参照した。</ref>
** 予科および本科を設置、本科に化学工芸科と機械工芸科を設置
* [[1890年]]3月:東京工業学校と改称
** 化学工芸部(染織工科、陶器玻璃工科、応用化学科)、機械工芸部(機械科、電気工業科)に改組
* [[1894年]]6月:工業教員養成所(1902年[[師範学校#実業学校教員養成所|附設工業教員養成所]]へ移行)を設置
* [[1896年]]5月:規制改正を実施
** 染織工科(色染分科、機織分科)、窯業科、応用化学科、機械科、電気科(電気機械分科、電気化学分科)に改組
** 入学資格を[[旧制中学校|中学校]]卒業程度とし、実質的な[[旧制高等教育機関|高等教育機関]]であることを明確にする
* [[1901年]]5月:東京高等工業学校<ref group="注">類似名称の[[東京高等工芸学校]](現・[[千葉大学]]工学部)は工業図案科の流れを汲み1921年創立。1927年創立の東京高等工学校(現・[[芝浦工業大学]])とは直接の関係はない。</ref>と改称
** 前後して、工業図案科 (1900-1914<ref group="注">工業図案科は1914年9月[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]図案科に吸収合併された。卒業生は1917年まで送り出している。</ref>)、[[前田松韻]]を招聘して建築科 (1902.12<ref group="注">建築科の授業開始は設備の関係で1907年からであった。</ref>-) を新設
* [[1919年]]([[大正]]8年)1月:[[蔵前工業会]]臨時総会で[[旧制大学|大学]]昇格を決議、2月に[[日本工業倶楽部]]も建議書を政府に提出
* [[1923年]]3月:大学昇格が正式決定するも、9月に関東大震災に罹災、実現延期を余儀なくされる
* [[1924年]]4月:校舎を大岡山へ移転(現在の大岡山キャンパス)
* [[1929年]]([[昭和]]4年)4月:東京工業大学(旧制)へ昇格
** 染料化学、紡織学、窯業学、応用化学、電気化学、機械工学、電気工学、建築学の8学科を設置
** 数学、物理学、物理化学、分析化学の4教室を設置
** [[高等工業学校|高等工業]]レベルの特設予科を設置(1932年附属予備部と改称)、高等工業在学生は、附属工学専門部および附属工業教員養成所に移行(いずれも1931年廃止)
* [[1931年]](昭和6年)9月:西1号館竣工
* [[1934年]](昭和9年)8月:大学本館竣工
* [[1942年]]5月:附属高等工業教員養成所を設置
** この間、化学工学 (1940-)、金属工学 (1941-) の2学科を新設
** また、無機化学 (1930-)、有機化学 (1930-)、工業経済 (1935-) 等の教室を新設
* [[1943年]]10月:[[研究生#旧制大学院における特別研究生|特別研究生制度]]実施
* [[1945年]]8月:太平洋戦争終結
** 戦時下には、航空機工学科 (1939 - 1945)、燃料工学科 (1941-1945) を設置
** また、附属工業専門部を設置(1944 -, 1948廃止)<!--
[[高等工業学校|工業専門部]](1944 - 1948;機械科・電気科・電気通信科・航空機科・金属工学科・化学工学科、窯業科)を設置-->
* [[1946年]]2月:[[和田小六]]学長の下『東京工業大学刷新要綱』を策定し先駆的な大学改革を実施<ref>「戦後教育改革期における東京工業大学のアドミニストレーション」、名古屋高等教育研究第3号、2003</ref>
** 細分化した教員組織を、理学系・応用化学系・応用物理系・建築系・経営系に再編し、[[セクショナリズム]]を是正
** 学科制からコース別学習課程に改め、修学の自由度を向上
** 教養科目の充実と「[[くさび|クサビ]]型」カリキュラム<ref group="注">在学期間の全体にわたり教養科目を配し、徐々に専門科目を増やしていくカリキュラム。</ref>の形成
* [[1949年]]5月:[[新制大学]]へ移行
** 工学部を設置
** 附属予備部および附属高等工業教員養成所を吸収
* [[1953年]]4月:大学院工学研究科を設置
* [[1955年]]7月:工学部を理工学部に改称
** 数学、物理学、化学、化学工学、機械工学、電気工学、金属工学、繊維工学、建築学、経営工学の10学科を設置
* [[1956年]]4月:大学院工学研究科を理工学研究科と改称、原子核工学専攻新設
* [[1967年]]6月:理工学部を理学部と工学部に分割
** この間、理学系で応用物理学科 (1961 -, 1998年改組解消)、材料・化学工学系で4学科、機械系3学科、電気電子系2学科、および土木工学科 (1964 - )、社会工学科 (1966 - ) を新設
** この後、理学部に情報科学科 (1970 - )、地球惑星科学科 (1992 - )、工学部に情報工学科 (1974 - ) 等を設置
** また一時、[[国立工業教員養成所|工業教員養成所]] (1961 - 69) を設置
* [[1975年]]4月:大学院総合理工学研究科を設置、9月長津田キャンパス(現在のすずかけ台キャンパス)開設
* [[1990年]]([[平成]]2年)6月:生命理工学部を設置
** 理学部生命理学科 (1986 - )、生体機構学科 (1988 - )、工学部生物工学科 (1986 - )、生体分子工学科 (1988 - ) を振替
* [[1992年]]4月:大学院生命理工学研究科を設置
* [[1994年]]4月:大学院情報理工学研究科を設置
* [[1996年]]4月:大学院社会理工学研究科を設置
* [[2004年]]4月:[[国立大学法人法]]の規定により[[国立大学法人]]となる
* [[2005年]]4月:大学院イノベーションマネジメント研究科を設置<!--
* [[2008年]]3月27日:[[慶應義塾大学]]との副専攻制度、単位互換、学生交流を協定<ref>[https://www.titech.ac.jp/guide/graduate21/html/10-09.html/10-09.html 東京工業大学と慶應義塾大学との間における学生交流に関する協定書]</ref><ref>[http://econ.keio.ac.jp/ann/gakuji/tokodai/ 東京工業大学との単位互換協定]</ref><ref>[http://www.soc.titech.ac.jp/keio/keio_04.html 慶應義塾大学経済学部との単位互換]</ref>。 --- この記述は他大学との協定の項でまとめる※あまりにも学科・専攻などの数が多い場合は、学部・研究科レベルで留めるという記載方法も考えられる。今後、他校との差別化を図るためか、学科やコースが新設される可能性あり-->
* [[2009年]]5月 :大学マネジメントセンター設置
* [[2016年]]4月:日本の大学で初めて学部と大学院を統一し、「学院」を創設
* [[2018年]]3月:[[国立大学法人#指定国立大学法人|指定国立大学法人]]に指定<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/30/03/1401484.htm |title=第3期中期目標期間における指定国立大学法人の追加指定について:文部科学省 |date=2018-03-20 |accessdate=2018-05-25 |website=www.mext.go.jp}}</ref><ref>{{Cite news |title=<nowiki>東工大が指定国立大学法人に | 東工大ニュース | 東京工業大学</nowiki> |url=https://www.titech.ac.jp/news/2018/040542.html |date=2018-03-20 |accessdate=2018-05-25}}</ref>
* [[2024年]]10月:国立大学法人[[東京科学大学]]に改称し、解散する国立大学法人東京医科歯科大学から権利及び義務並びに業務を承継する予定<ref>[https://www.mext.go.jp/content/20231031-mxt_hourei-000032513_3.pdf 国立大学法人法の一部を改正する法律]文部科学省</ref><ref>[https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20231031-OYT1T50146/ 「東京科学大」、来年10月に開学…東工大と医科歯科大は統合]読売新聞2023/10/31 15:00</ref>
=== 英語名称の変遷 ===
[[1929年]]の設立から[[1946年]]までは「'''Tokyo University of Engineering'''」を使用していた<ref name=":1" />。[[第二次世界大戦]]後の1946年、[[GHQ]]に提出した書類の中で、従来使用していた「Tokyo University of Engineering」に線が引かれ、[[マサチューセッツ工科大学]]('''Massachusetts Institute of Technology''', MIT)に類似した「'''Tokyo Institute of Technology'''」に訂正されているのが現在の英語名称の端緒であると推測される<ref>{{Cite web |title=東工大の英語名称の変遷 |url=https://www.titech.ac.jp/public-relations/about/stories/english-name |website=東京工業大学 |access-date=2022-06-25 |language=ja}}</ref>。
かつては英語略称をTokyo Institute of Technologyの頭文字を取って'''TIT'''としていたが、現在は'''Tokyo Tech'''としている<ref>{{Cite web|和書|title=本学の名称 |url=https://www.titech.ac.jp/public-relations/about/overview/logo/colloquial-name |website=東京工業大学 |access-date=2022-06-25 |language=ja}}</ref>。
== 基礎データ ==
=== 所在地 ===<!--
ここではキャンパスの名称と所在地のみ記す-->
* 大岡山キャンパス([[東京都]][[目黒区]][[大岡山]]2丁目)
: ただし、キャンパスのうちで本館を含む南半分は[[大田区]][[石川町 (大田区)|石川町]]1丁目地内に位置する。
* すずかけ台キャンパス([[神奈川県]][[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]]長津田町)
* 田町キャンパス(東京都[[港区 (東京都)|港区]]芝浦3丁目)
=== 象徴 ===<!--
校歌・校章・校旗・シンボルマーク・スクールカラーなどの大学を示す象徴はこの項目にまとめる-->
; シンボルマーク
『ツバメと窓』。「工」の文字を[[窓]]に見立て「大」を[[ツバメ]]の形にデザインした。当時[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]教授だった[[堀進二]]が[[1948年]]に図案化した。
; スクールカラー
[[スクールカラー]]は『[[ロイヤルブルー]]{{color|#005396|■}}』、[[DICカラーガイド]]の641番で指定される色([[色名#系統色名|系統色名]]:こい紫みの青)。[[2004年]]に正式に定められた。参考値であるが、RGB値で指定する場合は (R, G, B) = (0, 83, 150) である。
; 大学歌
現在の[[校歌|大学歌]]は[[1957年]]に制定された、[[三好達治]]作詞、[[諸井三郎]]作曲の『東京工業大学歌』で、4番からなる。祝典([[入学式]]、[[卒業式]])などで使用される。管弦楽団の伴奏で、[[東京工業大学混声合唱団コールクライネス|混声合唱団コールクライネス]]により演奏される。なお、歌詞で3番の「(友垣が)七つの窓辺」と4番の「七彩の」は学類(第1類~第7類)募集していたときの名残と思われる。2016年から学院(理学院,工学院,物質理工学院,情報理工学院,生命理工学院,環境・社会理工学院の6区分)での募集となったため、現在は「七」ではない。
東京工業大学[[学生歌]]『桜花散り敷く丘』があるが、現在ではほとんど歌われない。
== 教育および研究 ==
=== 組織 ===
3学部、6大学院研究科を、2016年4月に6学院に再編。
==== 学院と類(2016年入学生以降) ====
学士課程の1年生は、大学入試出願時に選択した学院に所属する<ref>{{Cite web|和書|url=https://admissions.titech.ac.jp/admission/college/pdf/h31_guidelines_senbatsu67940523.pdf |title=平成31年度入学者選抜要項 |format=PDF |publisher=東京工業大学 |accessdate=2018-08-27}}</ref>。2年目に系を選択、修士課程以降はさらにコースを選択し、専門性を深めることになる。
2019年以前の入学生は類を選択するシステムであった。
{|class="wikitable"
!学院!!類!!系・専門職学位課程!!コース・専門職学位課程
|-
|rowspan="5" valign="top"|[[東京工業大学理学院|理学院]]||rowspan="5" valign="top"|第1類||数学系||数学コース
|-
|物理学系||物理学コース
|-
|rowspan="2" valign="top"|化学系||化学コース
|-
|エネルギーコース
|-
|地球惑星科学系||地球惑星科学コース
|-
|rowspan="15" valign="top"|[[東京工業大学工学院|工学院]]||rowspan="5" valign="top"|第4類||rowspan="5" valign="top"|機械系||機械コース
|-
|エネルギーコース
|-
|エンジニアリングデザインコース
|-
|ライフエンジニアリングコース
|-
|原子核工学コース
|-
|rowspan="2" valign="top"|第4類・第5類||rowspan="2" valign="top"|システム制御系||システム制御コース
|-
|エンジニアリングデザインコース
|-
|rowspan="6" valign="top"|第5類||rowspan="4" valign="top"|電気電子系||電気電子コース
|-
|エネルギーコース
|-
|ライフエンジニアリングコース
|-
|原子核工学コース
|-
|rowspan="2" valign="top"|情報通信系||情報通信コース
|-
|ライフエンジニアリングコース
|-
|rowspan="2" valign="top"|第3類・第4類||rowspan="2" valign="top"|経営工学系||経営工学コース
|-
|エンジニアリングデザインコース
|-
|rowspan="8" valign="top"|[[東京工業大学物質理工学院|物質理工学院]]||rowspan="4" valign="top"|第2類||rowspan="4" valign="top"|材料系||材料コース
|-
|エネルギーコース
|-
|ライフエンジニアリングコース
|-
|原子核工学コース
|-
|rowspan="4" valign="top"|第3類||rowspan="4" valign="top"|応用化学系||応用化学コース
|-
|エネルギーコース
|-
|ライフエンジニアリングコース
|-
|原子核工学コース
|-
|rowspan="4" valign="top"|[[東京工業大学情報理工学院|情報理工学院]]||rowspan="2" valign="top"|第1類||rowspan="2" valign="top"|数理・計算科学系||数理・計算科学コース
|-
|知能情報コース
|-
|rowspan="2" valign="top"|第5類||rowspan="2" valign="top"|情報工学系||情報工学コース
|-
|知能情報コース
|-
|rowspan="2" valign="top"|[[東京工業大学生命理工学院|生命理工学院]]||rowspan="2" valign="top"|第7類||rowspan="2" valign="top"|生命理工学系||生命理工学コース
|-
|ライフエンジニアリングコース
|-
|rowspan="13" valign="top"|[[東京工業大学環境・社会理工学院|環境・社会理工学院]]||rowspan="6" valign="top"|第6類||rowspan="3" valign="top"|建築学系||建築学コース
|-
|エンジニアリングデザインコース
|-
|都市・環境学コース
|-
|rowspan="3" valign="top"|土木・環境工学系||土木工学コース
|-
|エンジニアリングデザインコース
|-
|都市・環境学コース
|-
|rowspan="4" valign="top"|第4類・第6類||rowspan="4" valign="top"|融合理工学系||地球環境共創コース
|-
|エネルギーコース
|-
|エンジニアリングデザインコース
|-
|原子核工学コース
|-
| ||社会・人間科学系||社会・人間科学コース(修士課程・博士後期課程のみ)
|-
| ||イノベーション科学系||イノベーション科学コース(博士後期課程のみ)
|-
| ||技術経営専門職学位課程||技術経営専門職学位課程
|}
==== 学部と類(2015年入学生まで) ====
学部1年生は、大学入試出願時に選択した類に所属する。2年次から、1年次の成績順に希望する学科に振り分けられる。研究室配属は4年生からである。
{|class="wikitable"
!学部!!類!!学科!!コース
|-
|rowspan="5" valign="top"|[[理学部]]||rowspan="5" valign="top"|第1類(理学系)||[[数学科]]<ref group="注">{{PDFlink|[https://www.titech.ac.jp/about/disclosure/pdf/databook2015_16.pdf 「データブック 2015-2016」]}}によると、学科目として、「数学」があった。</ref>||
|-
|[[物理学科]]<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「物理学」があった。</ref>||
|-
|[[化学科]]<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「化学」があった。</ref>||
|-
|[[情報科学科]]<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「情報科学」があった。</ref>||
|-
|地球惑星科学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「地球惑星科学」があった。</ref>||
|-
|rowspan="17" valign="top"|[[工学部]]||rowspan="3" valign="top"|第2類(材料系)||[[金属工学科]]<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「金属工学」があった。</ref>||
|-
|有機材料工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「有機材料工学」があった。</ref>||
|-
|無機材料工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「無機材料工学」があった。</ref>||
|-
|rowspan="4" valign="top"|第3類(応用化学系)||rowspan="2" valign="top"|[[化学工学科]]<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「化学工学」、「応用化学」があった。</ref>||化学工学コース
|-
|応用化学コース
|-
|高分子工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「高分子工学」があった。</ref>||
|-
|経営システム工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「管理技術」、「数理システム基礎」があった。</ref>||
|-
|rowspan="5" valign="top"|第4類(機械系)||機械科学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「機械科学」があった。</ref>||
|-
|機械知能システム学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「機械知能システム学」があった。</ref>||
|-
|機械宇宙学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「機械宇宙学」があった。</ref>||
|-
|国際開発工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「国際開発工学」があった。</ref>||
|-
|制御システム工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「制御システム工学」があった。</ref>||
|-
|rowspan="2" valign="top"|第5類(電気電子系)||電気電子工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「電気電子工学」、「電子物理工学」がある。</ref>||
|-
|情報工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「情報工学」があった。</ref>||
|-
|rowspan="3" valign="top"|第6類(建設系)||土木・環境工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「土木・環境工学」がある。</ref>||
|-
|建築学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「建築学」があった。</ref>||
|-
|社会工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「都市計画・地域計画」、「景観デザイン」、「公共政策」、「環境・経済システム」があった。</ref>{{sup|(注1)}}||
|-
|rowspan="6" valign="top"|[[生命理工学部]]||rowspan="6" valign="top"|第7類(バイオ系)||rowspan="3" valign="top"|生命科学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「生化学」、「細胞生物学」、「生体反応学」、「発生生物学」、「情報生体科学」、「生体物理化学」、「生物科学」があった。</ref>{{sup|(注2)}}||分子生命コース
|-
|生体機構コース
|-
|生命情報コース
|-
|rowspan="3" valign="top"|生命工学科<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、学科目として「生物機能工学」、「生物化学工学」、「遺伝子工学」、「細胞工学」、「生体材料学」、「生体システム学」があった。</ref>{{sup|(注2)}}||生命情報コース
|-
|生物工学コース
|-
|生体分子コース
|}
: (注1)第1類を除く各類からも若干名ずつ進級できる。
: (注2)コースに分かれるのは3年次から。
==== 研究科(2015年入学生まで) ====
* [[理工学研究科]]<ref group="注">「データブック 2015-2016」[http://www.titech.ac.jp/about/overview/pdf/databook2015_16.pdf]によると、共通講座として、広域理学、工学基礎科学があった。</ref>(修士課程・博士後期課程)
** 数学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、代数構造論、代数空間論、幾何学、位相数学、解析学、大域数学があった。</ref>
** 基礎物理学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、基礎物理学理論、基礎物理学実験、境界領域基礎物理学、先端領域基礎物理学(連携講座)、原子核・素粒子実験(連携講座)、少数系物理理論(連携講座)があった。</ref>
** 物性物理学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、量子物性物理学、統計固体物理学、応用物理学、分子物理学、量子基礎実験、新領域物性物理学、極低温物性物理学、最先端物性物理学(連携講座)があった。</ref>
** 化学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、分子凝縮系化学、分子化学、有機化学、地球環境化学、火山化学(協力講座)があった。</ref>
** 地球惑星科学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、地球惑星物理学、地球惑星進化学、太陽系創世学、宇宙探査学があった。</ref>
** 物質科学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、物質構造、物質変換、物質設計、物質機能があった。</ref>
** 材料工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、金属物理学、金属化学、材料設計工学、無機機能材料、無機環境材料、複合材料があった。</ref>
** 有機・高分子物質専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、高分子科学、ソフトマテリアル、有機材料工学のほか、NEDO特別講座も記載されている。</ref>
** 応用化学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、分子機能設計、化学反応設計があった。</ref>
** 化学工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、プロセス解析、プロセス設計、プロセス操作、化学工学共通、E-JUSTがあった。</ref>
** 機械物理工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、熱流体科学、ダイナミクス調和工学、機械システム学、創成工学、構造システム科学があった。</ref>
** 機械制御システム専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、知能工房学、材料機能システム学、エネルギー工学、動的システム学、計測制御学、システム制御、地球環境工学があった。</ref>
** 機械宇宙システム専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、極限熱流体力学、構造設計学、機械創造学があった。</ref>
** 電気電子工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、自律システム工学、電力エネルギー、通信伝送工学、光デバイス工学(協力講座)があった。</ref>
** 電子物理工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、先端電子工学、電気電子物性、集積デバイス、量子デバイス物理(協力講座)があった。</ref>
** 通信情報工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、先端情報システム、高機能集積システム、情報通信システム、知的ネットワーク(協力講座)があった。</ref>
** 土木工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、社会基盤工学、広域環境工学、国土計画工学があった。</ref>
** 建築学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、建築基礎学、建築計画学、建築設計学、環境建築学、地域施設計画学(協力講座)があった。</ref>
** 国際開発工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、国際環境、開発基盤工学、開発産業システム、国際共存(協力講座)があった。</ref>
** 原子核工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、では、講座として原子核エネルギー、原子燃料システム、システム・安全があった。</ref>
* [[生命理工学部|生命理工学研究科]](修士課程・博士後期課程)
** 分子生命科学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、バイオダイナミクス、バイオ構造化学、バイオ情報制御学があった。</ref>
** 生体システム専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、情報・形態形成学、進化・統御学、細胞・発生生物学があった。</ref>
** 生命情報専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、生命情報医科学、高次生命情報、生命情報工学があった。</ref>
** 生物プロセス専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、細胞・分子工学、生体分子プロセス、生物機能工学があった。</ref>
** 生体分子機能工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、生体分子物性、生体材料設計、生体機能制御工学があった。</ref>
* [[総合理工学研究科]]<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、共通講座として、総合理工学共通があった。</ref>(修士課程・博士後期課程)
** 物質科学創造専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、環境適応型物質、超機能物質(協力講座)、物質ダイナミクス(協力講座)、元素機能設計(協力講座)があった。</ref>
** 物質電子化学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、分子変換、物質エネルギー変換、錯体電子化学(協力講座)、触媒電子化学(協力講座)、有機電子化学(協力講座)、生物電子化学(協力講座)、電子分光化学(協力講座)、固体物性化学(協力講座)があった。</ref>
** 材料物理科学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、材料構造機能、量子表面、超環境物質合成(協力講座)、低負荷物質合成(協力講座)、精密構造解析(協力講座)、電子活性物質(協力講座)、相乗機能物質(協力講座)、材料機能評価(協力講座)、材料構造設計(協力講座)、物質フロンティア(協力講座)、元素機能解析(協力講座)があった。</ref>
** 環境理工学創造専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、自然環境、社会環境、環境エネルギー工学(協力講座)、環境材料工学(協力講座)、環境構造工学(協力講座)、環境安全工学(協力講座)、環境化学システム(協力講座)、環境国際協力(協力講座)があった。</ref>
** 人間環境システム専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、人間環境評価、人間都市計画、ニューフロンティア基礎、景観工学(協力講座)があった。</ref>
** 創造エネルギー専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、エネルギー環境、エネルギー変換システム、エネルギー創造、エネルギー環境システム(協力講座)、直接変換システム(協力講座)、超高輝度光工学(協力講座)があった。</ref>
** 化学環境学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、環境解析構築、環境プロセス化学、環境分子変換(協力講座)、化学プロセス計画(協力講座)、高分子プロセス(協力講座)、化学環境プロセス設計(協力講座)、環境調和分子設計(協力講座)、環境微生物工学(協力講座)、環境材料化学(協力講座)があった。</ref>
** 物理電子システム創造専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、先端デバイス、新機能デバイス、イメージング材料(協力講座)、フロンティア物性デバイス(協力講座)、フォトニックシステムデバイス(協力講座)、知的電子システム(協力講座)、集積フォトニクス(協力講座)があった</ref>
** メカノマイクロ工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、機能創造、極限デバイス(協力講座)、先端メカトロニクス(協力講座)、先端メカノ材料(協力講座)、セキュアマイクロデバイス(協力講座)も記載されているがあった。</ref>
** 知能システム科学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、知能システム基礎、複雑システム解析、創発システム、知覚認識機構(協力講座)、脳情報伝達(協力講座)、神経情報演算(協力講座)があった。</ref>
** 物理情報システム専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、未来型情報システム、新機能情報システム、知覚像処理(協力講座)、応用像情報(協力講座)、感覚情報システム(協力講座)、波動応用システム(協力講座)、生体情報システム(協力講座)があった。</ref>
* [[情報理工学研究科]](修士課程・博士後期課程)
** 数理・計算科学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、計算機支援情報科学、数理科学、計算科学があった。</ref>
** 計算工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、情報統合システム学、計算組織学、ソフトウェア機講学、認知機構学があった。</ref>
** 情報環境学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、統合情報環境学、人間環境情報学、情報駆動システム、情報環境設計学があった。</ref>
* [[社会理工学研究科]]<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、共通講座として、社会理工学共通があった。</ref>(修士課程・博士後期課程)
** 人間行動システム専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、人間開発科学、行動システム、教育工学、科学技術教育推進があった。</ref>
** 価値システム専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、価値論理、社会数理、決定過程論、リベラルアーツ(協力講座)があった。</ref>
** 経営工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、開発・生産流通工学、財務経営工学、経営数理・情報、技術構造分析があった。</ref>
** 社会工学専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、国土・都市計画、公共システムデザイン、社会工学基礎があった。</ref>
* [[技術経営|イノベーションマネジメント研究科]]
** 技術経営専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、技術経営戦略、知的財産マネジメント、サービスイノベーション、ファイナンス、最先端技術があった。</ref>(専門職学位課程:修士)
** イノベーション専攻<ref group="注">「データブック 2015-2016」によると、講座として、技術経営戦略、知的財産マネジメント、サービスイノベーション、ファイナンスがあった。</ref>(博士後期課程)
==== 附属機関(教育研究施設) ====
* 学院研究センター
** 理学院
*** 火山流体研究センター
*** 理財科学研究センター
** 環境・社会理工学院
*** 教育施設環境研究センター(RCFEF)
* リベラルアーツ研究教育院
* 科学技術創成研究院
** 未来産業技術研究所(FIRST)
** [[東京工業大学フロンティア材料研究所|フロンティア材料研究所]](MSL)
** [[東京工業大学化学生命科学研究所|化学生命科学研究所]](CLS)
** ゼロカーボンエネルギー研究所(ZC)←先導原子力研究所(LANE)からの改組<ref>[https://www.titech.ac.jp/news/2021/049205 二酸化炭素排出実質ゼロに向けて「ゼロカーボンエネルギー研究所」を設置] 東京工業大学(2021年3月18日)2021年6月15日閲覧</ref>
** 先進エネルギー国際研究センター(AES)
** 社会情報流通基盤研究センター(ASIST)
* 研究拠点組織
** [[東京工業大学地球生命研究所|地球生命研究所]](ELSI)
** 元素戦略研究センター(MCES)
** 『以心電心』ハピネス共創研究推進機構(HAPIC)
* [[東京工業大学附属科学技術高等学校|附属科学技術高等学校]]
*: 国立大学附属唯一の科学技術高等学校として、先進的な教育を実践している。現在は、田町キャンパスに立地するが、キャンパス再編に伴い、2026年4月に大岡山キャンパス(緑が丘地区)へ新校舎を建設し移転予定<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.titech.ac.jp/news/2022/064528 |title=附属科学技術高等学校を大岡山キャンパスへ移転 |access-date=2022年7月30日 |publisher=東京工業大学}}</ref>。
* 附属図書館
*: [[文部科学省]]から理工学系[[外国雑誌センター館]]の指定を受けている。2008年5月時点、1万9000種を超える雑誌、77万冊を超える図書を収集しているほか、[[1998年]]度からは電子図書館サービスを開始、約7600種の電子ジャーナルを契約している。図書館機能の高度化と耐震補強の目的から、2009年6月に新図書館の建設が始まり、[[2011年]]2月に竣工した。2011年5月から、新図書館への図書の移転作業のため旧図書館が閉館したことに伴い、2・3階の学習棟(通称:チーズケーキ)が先行オープンした。また、同年7月に新図書館への完全移行が完了し、新図書館が開館した。すずかけ台分館がある。[[画像:Library - Tokyo Institute of Technology 02.jpg|260px|thumb|新しい附属図書館(通称:チーズケーキ)]]
* 共通教育組織
** イノベーション人材養成機構(IIDP)
** リーダーシップ教育院(ToTAL)
** 物質・情報卓越教育院(TAC-MI)
** 超スマート社会卓越教育院(WISE-SSS)
** 国際教育推進機構
** 社会人アカデミー
* 共通支援組織
** 保健管理センター
** 学生支援センター
** ものつくり教育研究支援センター
** 教育革新センター
** 学術国際情報センター
** バイオ研究基盤支援総合センター
** 放射線総合センター
** [[低温物理学|極低温]]研究支援センター
**[[東京工業大学博物館|博物館]]
** Hisao & Hiroko Taki Plaza
=== 研究 ===
==== 21世紀COEプログラム ====
[[21世紀COEプログラム]]の採択数は12件だった。
{|class="wikitable"
!採択年度!!分野!!プログラム名
|-
|rowspan="4"|平成14年度<br>(2002年度)
|生命科学
|生命工学フロンティアシステム
|-
|rowspan="2"|化学・材料科学
|分子多様性の創出と機能開拓
|-
|産業化を目指したナノ材料開拓と人材育成
|-
|情報・電気・電子
|フォトニクスナノデバイス集積工学
|-
|rowspan="5"|平成15年度<br>(2003年度)
|数学・物理学・地球科学
|量子ナノ物理学
|-
|rowspan="3"|機械・土木・建築・その他工学
|先端ロボット開発を核とした創造技術の革新
|-
|都市地震工学の展開と体系化
|-
|世界の持続的発展を支える革新的原子力
|-
|学際・複合・新領域
|大規模知識資源の体系化と活用基盤構築
|-
|rowspan="3"|平成16年度<br>(2004年度)
|rowspan="3"|革新的な学術分野
|インスティテューショナル技術経営学
|-
|エージェントベース社会システム科学の創出
|-
|地球:人の住む惑星ができるまで
|}
==== グローバルCOEプログラム ====
[[グローバルCOEプログラム]]では平成19年度から21年度まで併せて9件が採択されている。
{|class="wikitable"
!採択年度!!分野!!プログラム名
|-
|rowspan="5"|平成19年度<br>(2007年度)
|生命科学
|生命時空間ネットワーク進化型教育研究拠点
|-
|rowspan="2"|化学・材料科学
|材料イノベーションのための教育研究拠点
|-
|新たな分子化学創発を目指す教育研究拠点
|-
|rowspan="2"|情報・電気・電子
|計算世界観の深化と展開
|-
|フォトニクス集積コアエレクトロニクス
|-
|rowspan="3"|平成20年度<br>(2008年度)
|数学・物理学・地球科学
|ナノサイエンスを拓く量子物理学拠点
|-
|機械・土木・建築・その他工学
|震災メガリスク軽減の都市地震工学国際拠点
|-
|学際・複合・新領域
|エネルギー学理の多元的学術融合
|-
|平成21年度<br>(2009年度)
|学際・複合・新領域
|地球から地球たちへ
|}
==== 関わった研究の例 ====
* [[テープレコーダー]]等磁性記録電子機器の基礎となった[[フェライト (磁性材料)|フェライト]]の発明([[加藤与五郎]]、[[武井武]])
* フェライトを使った[[磁気記録]]体の開発および日本初の磁気テープ作製([[星野愷]])
* 人造[[偏光板]](偏光フィルター)の開発(星野愷)
* [[クォーツ時計]]等の基礎となった[[水晶振動子]]の発見([[古賀逸策]])
* 歯車工学および自動制御分野での先駆的研究([[中田孝]])
* 光通信技術の先駆的研究([[末松安晴]])
* [[イソプレン|人工天然ゴム]]の合成([[山崎升]])
* 電気を流すことのできるプラスチック([[ポリアセチレン]])の発見([[白川英樹]])
* 面発光レーザーの発明と実現([[伊賀健一]])
* [[セメント]]を、[[グラファイト|黒鉛]]の2倍以上という高い電気伝導を示す金属状態に変える([[細野秀雄]])
* 鉄系高温超電導体の発見(細野秀雄)
* [[プルームテクトニクス]]理論の提唱([[丸山茂徳]])
* [[耐震]]工学・[[免震]]構造([[和田章]])
* [[量子コンピュータ]]の基礎となる[[量子アニーリング]]の提唱([[西森秀稔]])<!--
=== 教育 ===
※以下のプログラムに指定されたプロジェクトがあれば、以下のように項目を作り記述する。採択がない場合、書いていないのか未採択なのかの区別をつけるために{{Nowiki|*○○プログラムの採択はない。}}」と記述する。歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述できる場合は、プログラムに関する列記以外に教育内容の特色を別途記すこともできる。
* 現代的教育ニーズ取組支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 特色ある大学教育支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 大学教育の国際化推進プログラム
** ○○プロジェクト
* 法科大学院等専門職大学院形成支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 地域医療等社会的ニーズに対応した医療人教育支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 大学・大学院における教員養成推進プログラム
** ○○プロジェクト-->
== 学生生活 ==
=== 主な部活動・クラブ活動・サークル活動 ===
; サークル連合会
: 公認サークルおよび同好会によってサークル連合会が組織されている。
; 工大祭実行委員会
: 略称は JIZI(ジツイ)。毎年10月に大岡山キャンパスで開催される工大祭の企画・立案および運営を行う学生組織である。
; E-staff(イースタッフ)
: 年2回の他大学生とのパーティー (Hello Party, Christmas Party) や学内でのソフトボール大会などのイベントの企画・運営を行う。当大の生協の学生委員会。
; [[LANDFALL]]編集委員会
: 研究室紹介冊子 LANDFALL の編集・発行を行う。当大の生協の学生委員会。
; Meister(マイスター)
: [[ものづくり]]サークル。毎年[[琵琶湖]]で行われる『[[鳥人間コンテスト選手権大会]]』の人力プロペラ機部門に出場する部門と、省エネルギーレース『[[ワールド・エコノ・ムーブ]]』に出場する部門がある。鳥人間コンテストでは、2015年現在、優勝5回、準優勝2回の記録を持つ。
; CREATE(クリエイト)
: [[ロケット]]サークル。[[能代市|能代]]宇宙イベントや[[伊豆大島]]共同打上実験で活躍。2014年8月に公認化。
; [[東京工業大学混声合唱団コールクライネス|コールクライネス]] (Chor Kleines)
: 当大および周辺大学の学生による混声合唱団。[[全日本合唱コンクール]]においては1998年度から2014年度まで17年連続して金賞を受賞している。
; 陸上競技部
: [[関東学生陸上競技連盟]]に所属。2015年・2016年には[[東京箱根間往復大学駅伝競走]](箱根駅伝)に[[関東学生連合チーム]]のメンバーとして出場している。
; 端艇部
: 1985年に全日本準優勝([[エイト]])した。
; サイクリング部
: サイクリング部のうち[[サイクルサッカー]]班は、2007年に全日本大会で優勝、2008年に世界大会日本代表に選ばれている。
; 剣道部
: 2005年に100周年を迎えた、伝統のある部活である。
; アメリカンフットボール部 BUFFALOES
: [[関東学生アメリカンフットボール連盟]]一部リーグに所属する強豪である。
; [[東京工業大学ラグビー部|ラグビー部]]
: 2012年に75周年を迎え、[[関東大学ラグビーリーグ戦グループ]]3部に所属する。
; ゴルフ部
: 2019年理工系リーグ総合3位になった。
; 鉄道研究部
: 鉄道趣味の各種活動。私鉄電車ガイドブックの編著。
=== 学園祭 ===
; 工大祭
: 大岡山キャンパスで行われる[[大学祭|学園祭]]。工大祭実行委員会 (JIZI) が主導し、各サークルの催し物や模擬店が並ぶ。毎年10月に行われ、同時に[[オープンキャンパス]]も開かれる。
; すずかけ祭
: すずかけ台キャンパスで行われる。大学院・研究室への案内という色が強い。2003年より毎年5月に行われている。
== 大学関係者と組織 ==<!--
※大学関係者と大学関係者で組織される諸組織はここで解説する。「大学関係者で組織される諸組織」の定義と範囲についてはプロジェクト:大学/大学同窓組織・保護者組織・学生組織の記事独立基準参照。ただし、学生自治会は「学生生活」節で、出版関係組織など大学本部が自ら掌握している組織は「附属機関」節で、それぞれ解説する。なお、この基準で範囲外となっている組織については次節「社会との関わり」において解説するが、その際は「社会との関わり」節の掲載基準に適合していることを条件とする。また、範囲外の組織であり、かつ別記事において解説されている組織に関しては「関連項目」節でリンクを行う。
* ○○大学には生活協同組合があるが、この生活協同組合は△△という点で特殊であり…
* ○○大学には保護者組織があり…-->
=== 同窓会組織 ===
* [[蔵前工業会|社団法人蔵前工業会]]
: 全学科・全専攻にわたる同窓会団体。科学技術とそれらの教育の振興事業も行っており、[[経済産業省]]管掌の社団法人となっている。名称は旧所在地から採られたものである。
=== 大学関係者一覧 ===
{{See|東京工業大学の人物一覧}}
== 施設 ==
=== キャンパス ===
; 大岡山キャンパス
[[画像:Eaet 1 building - Tokyo Institute of Technology.jpg|230px|thumb|事務局1号館 [[清家清]]設計 (1967)]]
* 理学院、工学院、物質理工学院、情報理工学院、生命理工学院、環境・社会理工学院、[[リベラル・アーツ|リベラルアーツ]]研究教育院、地球生命研究所、『以心伝心』ハピネス共創研究推進機構、附属図書館、事務局、他<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.sisetu.titech.ac.jp/sisetu/03kikaku_keikaku/03campus_plan/cmp2016.html |title=キャンパスマスタープラン2016 |accessdate=2018-05-25 |website=www.sisetu.titech.ac.jp}}</ref>
* [[大岡山駅]]より徒歩1分。なお石川台地区は[[石川台駅]]、大岡山北地区の大部分および緑が丘地区は[[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]]が最寄となる。
* 本館・西1号館・70周年記念講堂は国の登録有形文化財に登録されている<ref>[https://www.titech.ac.jp/public-relations/about/campus-maps/campus-highlights/cultural-properties 東京工業大学ホームページ(登録有形文化財)]</ref>。
敷地面積は244,643 [[平方メートル|m{{sup|2}}]]。大岡山キャンパスは、中心の大岡山地区、公道の下を通るトンネルの南側にある石川台地区([[大田区]])、東急線の線路を挟んで北側にある緑が丘地区の3つに大きく分けられる。正門を入ると桜並木が連なる。その正面にある本館は[[関東大震災]]の教訓から、非常に剛健な造りとなっている。体育館の裏手に位置する[[グラウンド]]は区と区の境界に当たり、バッターボックスの右が[[大田区]]、左が[[目黒区]]である。
また、学内の東急線上に架かる陸橋は[[東京富士見坂]]に指定されており、空気の澄んだ冬には[[富士山]]を見ることができる。
; すずかけ台キャンパス
[[File:Tokyo Institute of Technology Suzukakedai Campus.JPG|thumb|すずかけ台キャンパス入口]]
[[画像:TITechAtNight1.jpg|thumb|夜のすずかけ台キャンパス]]
* 生命理工学院、科学技術創成研究院、元素戦略研究センター、他<ref name=":0" />
* 未来産業技術研究所、化学生命科学研究所、フロンティア材料研究所
* [[すずかけ台駅]]より徒歩5分
敷地面積は225,244 m{{sup|2}}。キャンパスの中心に位置する学内通称「加藤山」周辺は、学生たちの憩いの場ともなっている。
2001年5月25日に「[[長津田]]キャンパス」から現名称へ改称した。「すずかけ」の名は当大学名誉教授であった谷口修が学問と関係の深い植物ということで、[[プラトン]]が開設した[[アカデメイア]]に多く植えられていたというスズカケノキ([[プラタナス]])を駅名とすることを学内で提案。賛成が得られたため、大学として[[東京急行電鉄]]へ要望を実施したという経緯がある<ref>{{PDFlink|[http://www.bio.titech.ac.jp/access/access_pdf/suzukake.pdf すずかけ台駅名由来記]}} 谷口修(本学名誉教授)、1972年。</ref>。
; 田町キャンパス
* [[東京工業大学附属科学技術高等学校|附属科学技術高等学校]]、環境・社会理工学院、社会人アカデミー、[[キャンパス・イノベーションセンター]]、他<ref name=":0" />
* [[田町駅]]より徒歩1分。[[三田駅 (東京都)|三田駅]]徒歩5分
敷地面積は23,223.15m{{sup|2}}。2016年に定められた30カ年計画により再開発計画の検討が進められている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sisetu.titech.ac.jp/sisetu/03kikaku_keikaku/03campus_plan/temp/cmp2016.pdf |title=キャンパス・マスタープラン2016(本編) |format=PDF |accessdate=2018-05-25
|publisher=東京工業大学施設運営部}}</ref>。この再開発では、地上32階建て、地上24階建て、地上9階建ての3棟総延べ18万m{{sup|2}}の高層ビルを建設し、研究スペースの拡充と産学官連携、国際化拠点を整備することが目的とされた。附属高校は2026年4月に大岡山キャンパス(緑が丘地区)へ移転することが計画されている<ref name=":2" /><ref>{{Cite news |title=19年3月にも実施方針/アドバイザー公募へ手続き/東工大の田町キャンパスPPP <nowiki>|</nowiki> 建設通信新聞Digital |date=2018-03-12 |url=https://web.archive.org/web/20180526041356/https://www.kensetsunews.com/archives/166812 |accessdate=2018-08-22 |publication-date=2018-03-12 |work=建設通信新聞Digital}}</ref>。<!--
=== 学生食堂 ===
学食に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。
=== 講堂 ===
講堂やホールに関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。
=== 学生会館 ===
学生会館に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。
=== 寮 ===
学生寮などが設置されている場合には、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。
そのほか、大学の施設に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。大学施設を独立した記事とする場合には別途設定されている基準に従う。-->
== キャンパス間ネットワーク ==
* 大岡山キャンパスとすずかけ台キャンパスの間に、日本では最初に[[光ファイバー]]による専用線を敷設して学内ネットワークを整備。この[[インフラストラクチャー|インフラ]]の上に[[グリッド・コンピューティング|Grid型]]の[[スーパーコンピュータ|スパコン]]「[[TSUBAME]]」を構築している。
* [[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス]]との間にも専用線ネットワークを敷設して、[[インターネット]]黎明期の実験運用なども行ってきた ([[JUNET]])。なお、同時期のネットワークとしては[[東京理科大学]]が接続していた [[BITNET]] があり、こちらは[[IBM]]の専用線ネットワーク。
* インターネットの黎明期にあって、[[東京大学情報基盤センター]]や[[国立情報学研究所]]の[[NACSIS-CAT]]ネットワークとも専用線接続が行われており、現在の[[SINET]]などを構築する上での貴重な経験を蓄積している。
== 対外関係 ==
=== 国内教育機関 ===
==== 四大学連合 ====
[[一橋大学]]、[[東京医科歯科大学]]、[[東京外国語大学]]との4大学で『四大学連合憲章』を[[2001年]](平成13年)[[3月15日]]に締結。相互教育研究プログラムを展開している。
{{main|四大学連合}}
==== 単位互換制度 ====
* [[慶應義塾大学]](副専攻制度、単位互換、学生交流)<ref>[https://www.titech.ac.jp/guide/guide_26/gakubu1/pdf/32.pdf 東京工業大学と慶應義塾大学との間における学生交流に関する協定書]、2023年4月26日閲覧</ref><ref>[http://econ.keio.ac.jp/ann/gakuji/tokodai/ 東京工業大学との単位互換協定]</ref>
==== その他 ====
* 8大学工学系研究科長懇談会
* [[神奈川県内大学間学術交流協定]](大学院)
=== 国内自治体・機関、企業 ===
* 東工大発[[ベンチャー企業]]を育成するため、[[ベンチャーキャピタル]](VC)みらい創造機構と協定<ref>[https://www.titech.ac.jp/news/2016/035166.html <nowiki>東京工業大学とみらい創造機構 社会連携活動の推進に向けた組織的連携協定を締結 | 東工大ニュース | 東京工業大学</nowiki>](2016年5月16日)2019年9月24日閲覧。</ref>。
* 神奈川県[[川崎市]]とイノベーションでの連携協定を2018年5月21日に締結。川崎市が[[東京国際空港]](羽田空港)の[[多摩川]]対岸地区に設けた国際戦略拠点「[[キングスカイフロント]]」において、東工大が2018年3月に開いた「中分子IT[[創薬]]研究拠点」(MIDL) で協力する<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO30776450R20C18A5L82000/ 「川崎市・東工大、イノベーションで連携 創薬分野など」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年5月22日(首都圏経済面)2018年6月6日閲覧。</ref>。
* [[日本貿易振興機構]] (JETRO) との包括的連携推進協定<ref>[https://www.titech.ac.jp/news/2018/041624.html <nowiki>日本貿易振興機構(JETRO)と包括的連携推進協定を締結 | 東工大ニュース | 東京工業大学</nowiki>](2018年5月31日)2018年8月24日閲覧。</ref>。
* [[西武信用金庫]]との包括的連携・協力協定<ref>[https://www.titech.ac.jp/news/2018/042061.html <nowiki>西武信用金庫と包括的連携・協力協定を締結 | 東工大ニュース | 東京工業大学</nowiki>](2018年8月3日)2018年12月1日閲覧。</ref>。
* [https://www.sss.e.titech.ac.jp/member.html 超スマート社会推進コンソーシアム]([[理化学研究所]]、東京都[[大田区]]、[[ソフトバンク]]、[[日本精工]]など2018年10月の発足時点で外部22法人と東工大教員53人が参加)<ref>[https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00472093 「技術融合・人材育成に力 ソサエティー5.0実現へ 東工大が連携組織」]『[[日刊工業新聞]]』2018年10月25日(大学・産学連携面)2018年11月25日閲覧。</ref>
* 科学技術創成研究院として、[[福島県]][[浪江町]]と協働する協定を締結([[東日本大震災]]およびそれに伴う[[福島第一原子力発電所事故]]からの復興)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO36929330V21C18A0L01000/ 「浪江町と東工大が協働」]『日本経済新聞』朝刊2019年4月17日(大学面)2019年6月21日閲覧。</ref>。
* 「[[デンソー]]モビリティ協働研究拠点」を共同設置<ref>[https://www.denso.com/jp/ja/news/news-releases/2020/20200401-01/ デンソーと東京工業大学、「デンソーモビリティ協働研究拠点」を設置] デンソー(2020年4月1日)2020年5月2日閲覧。</ref>。
=== 海外学術交流協定校 ===
2018年9月時点
* [[中華人民共和国]]、[[フランス]] - 各13校
* [[タイ王国]] - 10校
* [[大韓民国]] - 8校
* [[アメリカ合衆国]] - 7校
* [[台湾]]、[[アメリカ合衆国]] - 各6校
* [[ドイツ]]、[[イギリス]] - 各5校
* [[イタリア]]、[[スウェーデン]]、[[スイス]] - 各4校
* [[インドネシア]]、[[フィリピン]]、[[シンガポール]]、[[ベトナム]]、[[トルコ]] - 各3校
* [[モンゴル]]、[[カナダ]]、[[フィンランド]]、[[ベルギー]] - 各2校
* [[インド]]、[[ブラジル]]、[[デンマーク]]、[[オランダ]]、[[ノルウェー]]、[[ロシア]]、[[オーストリア]]、[[オーストラリア]]、[[エジプト]] - 各1校
=== 部局間協定 ===
2018年9月時点、世界35の国・地域に146機関との部局間協定に加え、1つの[[コンソーシアム]]を形成、4つの大学院協定を締結している。<!--
== 社会との関わり ==
これまでの節で言及されず、かつ特記する事象がある場合、この節を設ける。
この節で取り扱う内容は、歴史的にどのような価値を持つのかがその大学をほとんど知らない人にも理解でき、かつ、学外で取り上げられた事象とする。具体的には
* 政治・経済・国際関係・戦争
* 哲学・科学・教育・学芸文化
* 文学・音楽・芸術・スポーツ
* 社会通念・制度・宗教・地域社会
等とその大学がどのように関わったかという事例が考えられる。
当該大学にとって不名誉な内容であってもそれが社会的に大きな意味を持つ場合には、その事象が大学とどのように関わり、社会的・歴史的にどのような意義を持ち、さらにWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述できるのであれば掲載可能である。逆に大学にとって広報したい名誉な内容についてもその事象が大学とどのように関わり、Wikipediaで掲載しておく必要性を社会的・歴史的な意義をきちんと明示しながらWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述できるのであれば掲載可能である。
xxxx年に発生した○○事件は…-->
== 企業からの評価 ==
=== 人事担当者からの評価 ===
*2021年[[日本経済新聞社]]と[[日経HR]]が実施した、「企業の人事担当者からみたイメージ調査」<ref name="日経HR">{{Cite web|和書|title=《日経HR》企業の人事担当者から見た大学イメージ調査 『就職力ランキング』|url=https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html|accessdate=2021-07-18 |archivedate=2021-06-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210602073856/https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html|url-status=live}}</ref>(全[[上場企業]]と一部有力未上場企業4,850社の人事担当者を対象に、2019年4月から2021年3月までの間に採用した学生から見た大学のイメージなどを聞いた調査)において、東京工業大学は、「全国総合」で788大学<ref>{{Cite journal|和書|url= http://eic.obunsha.co.jp/resource/viewpoint-pdf/202104.pdf|title=日本の大学数 2021年度は788大学|journal=今月の視点|issue=172|date=2021-04-01|publisher=旺文社 教育情報センター|accessdate=2021-07-18|format=PDF}}</ref>中、第7位<ref name="日経HR" />にランキングされた。
*2022年[[日本経済新聞社]]と[[日経HR]]が実施した、「人事が見る大学イメージ調査」<ref name="日経HR2">{{Cite web|和書|title=《日経HR》『人事が見る大学イメージ調査』|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO61304090R30C22A5L72000/|accessdate=2022-06-03 |url-status=live}}</ref>(2022年2月時点の[[上場企業|全ての上場企業]]と一部有力未上場企業の人事担当者を対象に、採用した学生から見た大学のイメージなどを聞いた調査)において、東京工業大学は、「関東・甲信越」で第9位<ref name="日経HR" />にランキングされた<ref>[[日本経済新聞]]令和4年6月1日朝刊.35面.東京・首都圏経済</ref>。
=== 出世力 ===
*[[ダイヤモンド社]]の2006年9月23日発行のビジネス誌『[[週刊ダイヤモンド]]』94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査<ref>[https://www.otaru-journal.com/2006/11/5_25/ 小樽ジャーナル]</ref><ref>[http://univrank2.blog.shinobi.jp/ランキング/出世できる大学ランキング 週間ダイヤモンド「大学出世ランキング」]</ref><ref>[https://mazba.com/10369/ 週刊ダイヤモンド「出世できる大学」 神戸商科大学は5位、大阪市立大学は27位 大阪府立大学は14位]</ref>)で、東京工業大学は、2006年時点で存在する744大学<ref>[https://www.janu.jp/univ/gaiyou/20180130-pkisoshiryo-japanese_2.pdf 大学数・学生数|国立大学協会]</ref>中、第7位<ref>[http://www.businesshacks.com/2006/09/post_65bb.html 週刊ダイヤモンド 出世できる大学ランキング]</ref>にランキングされた。
*『[[週刊エコノミスト]]』(2010年8月31日号)に掲載された、「卒業生数の割に役員・管理職の人数が多い度合い」で、東京工業大学は、2010年時点で存在する全国の778大学<ref name="reform">[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/jinsei100nen/dai5/siryou1.pdf 日本の人口推移と大学数の推移|大学改革 参考資料 平成30年2月 内閣官房人生100年時代構想推進室 14/17頁]</ref>中、第39位にランキングされた<ref>[https://www.r-agent.com/guide/news/20120105_1_2.html 「有名大学卒ほど出世しやすい」はもはや昔の話?小樽商科、滋賀、大阪市立――地方の意外な実力校|週刊エコノミスト(2010年8月31日号)より]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== Wiki関係他プロジェクトリンク ==
<!-- ※Wikipedia以外の姉妹プロジェクトへのリンクはここでまとめる。具体的な姉妹プロジェクトはメインページ参照。 -->
{{Commonscat|Tokyo Institute of Technology}}
* [[c:メインページ|ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)]]
** [[c:Category:Tokyo Institute of Technology|東京工業大学]]
* [[n:メインページ|ウィキニュース (Wikinews)]]
** [[n:三陸沖で新タイプの火山発見、プレートの亀裂からマグマしみ出す|三陸沖で新タイプの火山発見、プレートの亀裂からマグマしみ出す]]
** [[n:乾電池を動力源としたプロペラ機、飛行に成功|乾電池を動力源としたプロペラ機、飛行に成功]]
* [[b:メインページ|ウィキブックス (Wikibooks)]]
** [[b:東工大対策|東工大対策]]
== 関連項目 ==
<!-- ※大学に関する関連項目は原則として本文中にリンクする。関連項目は原則として使用しない。たとえば何かの説明をするために創立者の出身地を紹介する必要がある場合には必要とする項目へ記載する。本文では説明できないが関連項目として他の記事にリンクをする必要がある場合には事前にノートで理由とともに提案を行い、同意が得られた場合にのみ掲載できる。 -->
* [[ASPIREリーグ]]
== 関連文献 ==
* 東京高等工業学校 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941059 学制頒布五十年記念 東京高等工業学校四十年史]』[[1922年]]
* 東京工業大学 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1711727 東京工業大学六十年史]』[[1940年]]
== 外部リンク ==
<!-- ※ここには大学の公式サイトのみ入れる。校友会・保護者会・教職員組合・学生自治会などのサイトは入れない。通常、大学公式サイトは1ドメインになっているはずだが、何らかの理由で大学公式サイトが複数のドメインに分かれている場合は、その理由や背景が関係者以外にも判るように明記した上で追加することが可能である -->
* {{Official website|name=東京工業大学}}
{{東京工業大学}}
{{東京工業大学学長}}
{{Navboxes|title=加盟コンソーシアムなど|list=
<!--全学連携-->
{{指定国立大学法人}}
{{スーパーグローバル大学}}
{{研究大学強化促進事業選定機関}}
{{学術研究懇談会}}
<!--国内地域連携-->
{{横浜市内大学間学術・教育交流協議会}}
{{神奈川県内大学間学術交流協定}}
{{大学・都市パートナーシップ協議会}}
<!--海外地域連携-->
{{東アジア研究型大学協会}}
{{日仏共同博士課程日本コンソーシアム}}
<!--分野別-->
{{八大学工学系連合会}}
{{大学宇宙工学コンソーシアム}}
{{原子力人材育成ネットワーク}}
<!--運営形態など-->
{{日本の国立大学}}
{{共同利用・共同研究拠点}}
{{旧官立大学}}
{{旧制大学}}
{{四大学連合}}
}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とうきようこうきようたいかく}}
[[Category:東京工業大学|*]]
[[Category:日本の国立大学]]
[[Category:国立大学法人]]
[[Category:東京都の大学]]
[[Category:昭和時代戦前の建築]]
[[Category:学校記事]]
[[Category:1880年代日本の設立]]
[[Category:東京都の登録有形文化財]]
|
2003-09-20T13:08:54Z
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2023-12-10T17:56:08Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E5%A4%A7%E5%AD%A6
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17,558 |
ツァイト・フォト・サロン
|
ツアイト・フォト・サロン (Zeit-Foto Salon) は、1978年に石原悦郎(1941年生まれ。立教大学法学部法学科卒業)により開設された、カメラ会社やフィルム会社が運営しない、独立系の写真専門ギャラリーの草分けで、この手のものとしては日本初のもの。運営は、株式会社ツァイト・フォト(ZEIT-FOTO CO., LTD.) が行っている。
ドイツの著名な新聞「デア・ツァイト」とは無関係。
内外の写真家を問わず、写真作品を展示、販売している。取り扱い作家は、例えば、戦前では、マン・レイ、ブラッサイ、アンドレ・ケルテスなどである。また、国内では、杉浦邦恵、石内都、鷹野隆大、柴田敏雄、楢橋朝子、森山大道などである。
また、つくば写真美術館'85を開設および運営、「写真のエコール・ド・パリ展」(Paris Capitale de la photographie 1910-1945)(1991年、目黒区美術館など日本全国を巡回)の企画に協力するなど、自ギャラリーのスペースを超えて広く活動している。
当初は、東京日本橋三越前にあったが京橋に移転し、2016年12月22日をもってギャラリーは閉廊。
2017年、国立市に事務所を移転。
なお、かつて東京杉並区高円寺に存在した写真中心のギャラリー「イルテンポ(il tempo)」(2004年に閉廊)は、石原夫人がオーナーであった。
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ツアイト・フォト・サロン は、1978年に石原悦郎(1941年生まれ。立教大学法学部法学科卒業)により開設された、カメラ会社やフィルム会社が運営しない、独立系の写真専門ギャラリーの草分けで、この手のものとしては日本初のもの。運営は、株式会社ツァイト・フォト(ZEIT-FOTO CO., LTD.) が行っている。 ドイツの著名な新聞「デア・ツァイト」とは無関係。
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'''ツアイト・フォト・サロン''' ('''Zeit-Foto Salon''') は、[[1978年]]に石原悦郎(1941年生まれ。立教大学法学部法学科卒業)により開設された、[[カメラ]]会社や[[写真フィルム|フィルム]]会社が運営しない、独立系の[[写真]]専門[[ギャラリー (美術)|ギャラリー]]の草分けで、この手のものとしては日本初のもの。運営は、株式会社ツァイト・フォト(ZEIT-FOTO CO., LTD.) が行っている。
ドイツの著名な新聞「デア・ツァイト」とは無関係。
== 所在地 ==
*[[東京都]][[中央区 (東京都)|国立市]][[京橋 (東京都中央区)|中2-22-33]]
== 概要 ==
内外の[[写真家]]を問わず、写真作品を展示、販売している。取り扱い作家は、例えば、戦前では、[[マン・レイ]]、[[ブラッサイ]]、[[アンドレ・ケルテス]]などである。また、国内では、杉浦邦恵、[[石内都]]、[[鷹野隆大]]、[[柴田敏雄]]、[[楢橋朝子]]、[[森山大道]]などである。
また、[[つくば写真美術館'85]]を開設および運営、「写真のエコール・ド・パリ展」(Paris Capitale de la photographie 1910-1945)([[1991年]]、目黒区美術館など日本全国を巡回)の企画に協力するなど、自ギャラリーのスペースを超えて広く活動している。
当初は、[[東京]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]][[三越|三越前]]にあったが[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]に移転し、2016年12月22日をもってギャラリーは閉廊。
2017年、国立市に事務所を移転。
なお、かつて東京杉並区高円寺に存在した写真中心のギャラリー「イルテンポ(il tempo)」(2004年に閉廊)は、石原夫人がオーナーであった。
==参考文献==
*写真のプロフェッショナル(山内宏泰、パイ インターナショナル、2011年)石原悦郎が1ページにわたって開廊の経緯、その後の歴史などを書いている。
*写真をアートにした男: 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン(粟生田弓、 小学館、 2016年)
== 外部リンク ==
* [https://www.zeit-foto.com/ ツァイト・フォト・サロン ]
*[https://prj.smt.jp/~jhp/vol1/ せんだいメディアテークにおけるスタジオ・レクチャーのレポート](石原悦郎のプロフィールも掲載されている)
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フォト・ギャラリー・インターナショナル
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フォト・ギャラリー・インターナショナル(Photo Gallery International; 略称PGI)は、ツァイト・フォト・サロンと並んで、カメラ会社やフィルム会社が運営しない、独立系の写真専門ギャラリーの草分け。1979年に開設された。
現代の、主として海外の写真家の写真作品を展示、販売している。取り扱い作家は、多岐にわたる。
企画ごとに制作されている「P.G.I. Letter」は、簡単なパンフレットではあるが、写真家ごとの貴重な資料となっている。それ以外の点も含めて、日本における写真の普及に果たした役割は大きい。なお、PGIレターは100号以上発行されているが、その一覧表のようなものは公表されておらず、その全貌を把握することは難しい。
ツァイト・フォト・サロンが石原悦郎というオーナー名を前面に出しているのに対して、このフォト・ギャラリー・インターナショナルについては、オーナーの佐多保彦を含めて、個人名をあまり表に出さないという特徴がある。なお、オーナーの佐多保彦は、医療機器の輸入販売を行っている東機貿という会社の社長である(東機貿の創業者・沿革)。佐多は父親の跡を継いで同社社長となり、フランスコート・ドールのゴルフ場付きシャトーホテル経営、佐多財団代表など多岐に活動しており、当ギャラリーは東機貿の心の事業部と称している。
当初東京虎ノ門だけの営業であったが、1996年には田町駅近くの芝浦に別館として「P.G.I.芝浦」を開設した。しばらく2画廊体制であったが、2000年3月には虎ノ門を閉廊し、芝浦に統合された。
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'''フォト・ギャラリー・インターナショナル'''(Photo Gallery International; 略称PGI)は、[[ツァイト・フォト・サロン]]と並んで、[[カメラ]]会社や[[写真フィルム|フィルム]]会社が運営しない、独立系の[[写真]]専門[[ギャラリー (美術)|ギャラリー]]の草分け。[[1979年]]に開設された。
現代の、主として海外の[[写真家]]の写真作品を展示、販売している。取り扱い作家は、多岐にわたる。
企画ごとに制作されている「P.G.I. Letter」は、簡単なパンフレットではあるが、写真家ごとの貴重な資料となっている。それ以外の点も含めて、日本における写真の普及に果たした役割は大きい。なお、PGIレターは100号以上発行されているが、その一覧表のようなものは公表されておらず、その全貌を把握することは難しい。
ツァイト・フォト・サロンが石原悦郎というオーナー名を前面に出しているのに対して、このフォト・ギャラリー・インターナショナルについては、オーナーの佐多保彦を含めて、個人名をあまり表に出さないという特徴がある。なお、オーナーの佐多保彦は、医療機器の輸入販売を行っている東機貿という会社の社長である([http://www.tokibo.co.jp/company/history/ 東機貿の創業者・沿革])。佐多は父親の跡を継いで同社社長となり、フランス[[コート・ドール]]のゴルフ場付きシャトーホテル経営、佐多財団代表など多岐に活動しており<ref>[http://www.chailly.com/ CHATEAU DE CHAILLY]</ref><ref>[http://www.bienpublic.com/sport-local/2011/08/01/la-mission-de-monsieur-sata La mission de monsieur Sata]LE BIEN PUBLIC 01/08/2011</ref>、当ギャラリーは東機貿の心の事業部と称している<ref>[http://www.rentaitohoku.org/about/index.html 一般財団法人 連帯 東北・西南]</ref>。
当初[[東京]][[虎ノ門]]だけの営業であったが、1996年には[[田町駅]]近くの[[芝浦]]に別館として「P.G.I.芝浦」を開設した。しばらく2画廊体制であったが、2000年3月には虎ノ門を閉廊し、芝浦に統合された。
== 主要な取り扱い作家 ==
=== 海外 ===
* [[アンセル・アダムス]]
* ウィン・バロック
* [[ハリー・キャラハン (写真家)|ハリー・キャラハン]]
* [[イモージン・カニンガム]]
* エメット・ゴーウィン
* [[アーロン・シスキンド]]
* [[エドワード・ウェストン]]
=== 国内 ===
* [[石元泰博]]
* 伊藤義彦
* [[川田喜久治]]
* [[久保田博二]]
* [[今道子]]
* [[沢渡朔]]
* [[奈良原一高]]
* [[細江英公]]
* [[三好耕三]]
== 関連項目 ==
* [[写真]]
== 外部リンク ==
* [http://www.pgi.ac/ フォト・ギャラリー・インターナショナル]
** [http://www.pgi.ac/blog/ ブログ]
** [http://twitter.com/PGI_jp ツイッター]
== 脚注 ==
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