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チベット自治区
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チベット自治区(チベットじちく、チベット語: プー・ランキョン・ジョン, チベット文字:བོད་རང་སྐྱོང་ལྗོངས།; ワイリー方式:bod rang skyong ljongs)、或いは西蔵自治区(せいぞうじちく)は、中華人民共和国(以下、「中国」)の西南部を占める区域自治区である。120万平方キロメートル余の面積に360万人が暮らしている。
中国国内ではチベットの全体を「藏区」と称し、自治区が設置されている「西藏」はその西部・南部から中央部にかけてを占める。この領域を「アムド藏区」(青海全域および甘粛の一部)や「カムパ藏区」(四川の西半および雲南西北)と並ぶ「三大藏区」の一つと位置付ける用例がみられる。
この領域は、チベットの伝統的な地域区分にいう「ウー・ツァン」(ガリー・ウー・ツァン・コンポ・タクポ・三十九族・チャンタン)およびカム地方の西部などに相当し、中国政府はこの領域上にラサ市、山南市、シガツェ市、ナクチュ市、ガリ地区、ニンティ市、チャムド市などの市、地区を設置している。
中国の公認された少数民族としてのチベット族(蔵族)の居住領域に設けられた民族自治区とされるが、チベット自治区の領域は歴史的・文化的なチベット地域のうちの、中国領に内包される部分の一部で、歴史的に西蔵と呼ばれてきた地方を占めるのみであり、中国語による名称は「西蔵自治区」という。
一方、日本語では戦前から英語の「Tibet」の訳語として「西蔵」と漢字表記し、「ちべっと/チベット」とルビをふる慣用が用いられており、「この地理的範囲は(中略)青海や喀木(カム)をも併せた広い意味での面積である。支那では青海省や西康省を除外した部分を西蔵と称している」と理解されていた。日本におけるチベット学研究者たちが1953年に組織した学会は、この慣用にもとづき「西蔵と漢字表記し、"チベット"とルビをふる呼称」を学会の名称に用いてきたが、2009年に「日本チベット学会」と表記を改めた。中国政府および中国に所属するマスコミ、仏教団体、民間団体等が日本語でチベットの自治区について発信する際には「チベット自治区」という表記を用いることから、日本政府の関係資料や日本のマスコミ、の用法でも「チベット自治区」の呼称を用いる事例が多く見られ、政治的単位としての「チベット」の呼称を、歴史的・文化的なチベットの全体ではなく、中国によって設定された行政区域であるチベット自治区(西蔵自治区)の領域の部分に対して用いる事例もしばしば見られる。中国政府のチベット政策に反対する亡命政府や彼らに資金・物資・人材の支援を行う機関は、「チベット」をチベット(西蔵)自治区の領域に限定する主張に対して異議を唱えている。
中国内地に成立した政権、中国内地を征服し中国内地に本拠を置いた歴代の政権で、チベットの内部にまで直接の軍事的・行政的支配の手を延ばした政権としては、フビライ政権以降のモンゴル帝国と、雍正帝以降の清朝が存在する。「西藏」と称する中国の行政単位の直接の起源は、1723年、雍正帝によるグシ・ハン一族の征服とそのチベット支配体制の解体に遡る(詳しくはチベットを参照)。
雍正帝は、グシ・ハン一族がチベット各地に保有していた、各地の諸侯や直轄地に対する支配権を接収、グシ・ハン一族と麾下の青海モンゴルの各部族を青海(アムド)地方において30の「旗」に編成して理藩院の管轄下に置き、その属領を二分してタンラ山脈(唐古拉山脈)、ディチュ河(金沙江)を結ぶ線の南側をダライラマ領に加え、この線の北側には青海地方を設けたほか、残る部分を隣接する甘粛省・四川省・雲南省などの諸省に分配し、これらの土地のチベット人諸侯に各級の土司職の称号を与え、兵部を通じて支配下に置いた。
グシ・ハンによって1642年に寄進されたヤルンツァンポ河流域と、この分割により新たにダライラマ領に加えられた地域を併せた領域が「西藏」地方である。
雍正帝によるチベットの行政区画は、基本的には20世紀初頭まで維持されたが、1903年から1904年、ヤングハズバンド率いる英領インド軍の侵攻に驚いた清朝は、ダライラマや諸侯による自治に委ねてきた旧制を廃し、チベットを、中国に施行していた制度によって直接掌握することを決意、1905年、趙爾豊ひきいる四川軍を西方に向かって進発させた。趙爾豊軍はチベット人たちの抵抗を粉砕し、チベットを東方から次第に軍事的に制圧しながら1909年ラサに到達、四川省の西部とダライラマ領の東部(すなわちカム地方)に「西康」、ダライラマ領に「西藏」という2つの「省」の設置に取り組もうとした。
しかし1910年に中国の共和化を目指す辛亥革命が勃発すると、趙爾豊は本務地の四川に帰還し、そこで共和派によって殺害された。チベットを占領していた清朝軍は動揺、インドに脱出していたダライ・ラマ13世は、1913年チベットに帰還し、チベットの独立を求めて清朝軍の残党に対する抵抗を指令、中国人の占領軍はディチュ河の線まで押し戻された。
チベット政府がチベット全域の領有を目指したのに対し、中国側では青海・甘粛で清代以来の旧状を保持したほか、中央チベットを「西藏」、趙爾豊が「西康省」を設けようとした地方を「川辺特別地区」と称し、チベット全体が中国領であると主張し続けた。南京国民政府は、1931年、実際にはチベット政府の統治下にあるカム地方西部を含め、カム地方全域を管轄地域とする「西康省」を発足させた。
中国共産党は、国民党との内戦に勝利し、チベットに対しても、1949年までにアムド(青海)地方、カム地方を制圧し、この年の10月に「中華人民共和国の建国」を宣言して「中国人民政府」を発足させた。そして1950年、「西藏和平解放」と称して人民解放軍を中央チベットに派兵、1951年にラサを占領し、チベット全土を制圧した。
中国人民政府は、旧国民政府が「西康省」に帰属させながら実際には実効支配を確立できなかったカム西部(昌都地区)については、中国政府に忠誠を誓うチベット人によって組織された「昌都解放委員会」の下、引き続き「西藏地方」に帰属させ、カム地方東部のみを範囲として「西康省藏族自治区」を発足させた。この時、チベット人の比率が低く、国民政府が「西康」地方に帰属させていた南昌地区は、雲南地方に移管された。この「自治区」は1955年に廃止され、カム地方東部は四川省に組み込まれ、中国によるチベットの行政区分は、雍正期以来の状況に回帰することとなった。
チベット政府が「西藏和平解放」によって締結を強要された「十七か条協定」は、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰」するものと規定するものであったが、ダライラマを初めとするチベット政府の各級職員が引き続き「西藏」部分の統治を担い「改革は強要されない」という規定もあった。しかしながらこの協定の適用範囲はあくまでも「西藏」地方に限定され、その他のチベット各地では中国内地で何年もかけて徐々に展開された「民主改革」「社会主義改造」が、1950年代半ばから強行されることとなった。
「改革」が諸侯・俗人貴族の政治的地位や特権の廃止に留まっている間は、反発も少なく歓迎する民衆も少なく無かったが、対象が寺院や僧侶に向うと、チベット人の反発は大きくなり、1956年からアムド・カムの各地で中国支配に反発する蜂起が始まった。1959年に頂点を迎える「チベット動乱」の勃発である。
蜂起の当初は、中国の統治機構をアムド・カムのほとんどから一時的に一掃する勢いであったが、鎮圧の為に中国軍が組織されると、各地の蜂起軍は西藏地方へ逃れ、難民も発生した。蜂起軍は西藏に於いて、統一抗中組織「チュシ・ガンドゥク」を結成、中国政府に対する組織的なゲリラ活動に踏み出した。
争乱は1959年にラサに波及、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命しチベット亡命政府を樹立した。中国政府は「チベット政府の廃止」を宣言、1966年に「西藏自治区籌備委員会」を廃止して西藏自治区が発足する。
以降、ダライ・ラマ14世のチベット亡命政府と中華人民共和国は、自治権・独立性・領域などについて、度々主張が衝突している。中国政府は、中国に批判的なチベット人を徹底して弾圧している。
自治区は北西部で新疆ウイグル自治区、北東部で青海省、東は四川省、東南部で雲南省と接し、南はミャンマー・インドアッサム州・ブータン・ネパール・カシミール地区と国境を接する。
面積は1,228,000 km である。日本のおよそ4倍の広さ。
チベット高原(「青藏高原」とも)は海抜 4,000 メートル(m) 以上の大高原であり、「世界の屋根」と称される。高原南部のヒマラヤ山脈は急峻な山々が峰を連ね、ネパール国境にあるチョモランマ峰は海抜 8,848 メートル(m) に達する世界最高峰である。また、三大聖湖であるナムツォ(納木錯)、ヤムドク湖(羊卓雍措)、マーナサローヴァル湖(瑪旁雍措)を含む湖が沢山あり、特にチベット高原北部は地球上で最も湖が多い地方の1つである。
チベットの気候は標高の高さから冬が長く夏が無い為、チベット高原北部では水源の乏しい地区には広大な無人の荒地が広がっている。また日照は十分にある。空気が希薄なため、外来者は高山病にかかりやすい。 高山病の対策は身体を徐々に慣らして行くことである(高度馴化)。
2002年の人口267万人のうち、チベット族が93%を占め、漢族が6%でこれに次ぐ。残りは回族0.3%、メンパ族0.3%などわずかに過ぎない。
首府ラサとシガツェ地区のシガツェ、ギャンツェは国務院により国家歴史文化名城に指定されている。ラサ市内のダライラマの冬宮であったポタラ宮は1994年にユネスコの世界遺産に登録され、チベットで最も神聖な寺院であるジョカン(大昭寺)も2000年には拡大登録、更にはダライラマの夏宮であったノルブリンガも2001年拡大登録された。
なお、外国人はチベット自治区に自由に立ち入りすることができず、査証とは別に「入域許可書」が必要である。乗車券や航空券を購入するにも、入域許可書が必要であり、当日改札口やチェックインカウンターで所持の有無を確認される。
チベット自治区は6地級市及び1地区からなる。
2002年の全区生産総額は161億人民元で、全国32省区市のうち32番目であった。ただ、一人当たり生産額は 6,046 元で、全国22番目である。チベット族の 80% は農牧に従事しており、貧困地域が多いが、開放政策によりラサやシガツェ、ギャンツェなどに観光客が入るようになり、観光業の伸びが著しい。また、自治区内の農民や遊牧民はあらゆる税が免除される。さらに2000年からチベット自治区でも国務院の西部大開発政策が実施され、青蔵鉄道や道路の建設などが加速している。2004年の全区輸出額は対前年比 6.9% の 13,008 万米ドル、輸入は対前年比 136% 増の 9,345 万米ドルであった。また個人が辺境で行う零細な貿易も対前年比 31% 増の2億人民元に達したと報告されている。
ただ、中国全省の政府工作報告は2005年1月に行われた「2005年政府工作報告」までインターネットで閲覧できるのに、チベット自治区の政府工作報告は2003年までしか公表されておらず、極めて異例な事態となっている。
天然資源が豊富であり、チベット高原の豊富な水量を利用してチベット中部の電力緩和のためにチベット初の大型水力発電所である蔵木水力発電所(英語版)が建設された際は下流のインドで議論を呼んだ。また、チベット高原のザブイェ塩湖では世界3位の埋蔵量とされるリチウムの採掘が行われている。
CNNのが2016年の9月にチベットで行った取材記事によれば、人口の10%に満たない漢民族が経済を支配し、高給な仕事を独占しており、これがチベット人の怒りを買っているとされている。中国政府は道路や鉄道といったインフラを中心に多額の投資を行ってきており、多くのチベット族はこうした改善を歓迎しているものの、チベット族は漢族ほど成長の恩恵に浴していないとの不満の声も上がっている。全く同じ仕事をしている場合でも、チベット族の給料は漢族の3分の2だという。また経済成長と共に現地の伝統文化が失われる事に対しても非難の声があがっている。 一方で、同じCNNの取材の中でチベット自治区のペンパ・タシ副主席は、チベットの誰もが幸せで満足していると話した。また取材を受けた男性も、漢族の同僚に比べると少ないものの、併合前と比べて併合後の方が収入は増えたと回答している。
自治区全域が西部戦区(趙宗岐司令員)の管轄下にあり、下級のチベット軍区には 第52山地旅団、第53山地旅団の存在が確認されている。また公安部(警察)に所属する武装警察部隊数十万が駐屯するとも言われる。
世界では国際人権規約にて少数民族が独自の言語を使う権利は「少数民族の文化や宗教、言語を「否定されない権利」」と明記して保障されているが、習近平政権は少数民族による分離・独立運動への警戒から統制と、標準語版教科書の使用による標準語教育を強めている。それにより中華民族としての意識を高め、中国共産党の一党支配をさらに強固にしようとしているとされる。
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"text": "天然資源が豊富であり、チベット高原の豊富な水量を利用してチベット中部の電力緩和のためにチベット初の大型水力発電所である蔵木水力発電所(英語版)が建設された際は下流のインドで議論を呼んだ。また、チベット高原のザブイェ塩湖では世界3位の埋蔵量とされるリチウムの採掘が行われている。",
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"text": "自治区全域が西部戦区(趙宗岐司令員)の管轄下にあり、下級のチベット軍区には 第52山地旅団、第53山地旅団の存在が確認されている。また公安部(警察)に所属する武装警察部隊数十万が駐屯するとも言われる。",
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"text": "世界では国際人権規約にて少数民族が独自の言語を使う権利は「少数民族の文化や宗教、言語を「否定されない権利」」と明記して保障されているが、習近平政権は少数民族による分離・独立運動への警戒から統制と、標準語版教科書の使用による標準語教育を強めている。それにより中華民族としての意識を高め、中国共産党の一党支配をさらに強固にしようとしているとされる。",
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チベット自治区、或いは西蔵自治区(せいぞうじちく)は、中華人民共和国(以下、「中国」)の西南部を占める区域自治区である。120万平方キロメートル余の面積に360万人が暮らしている。
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{{Otheruses||チベット人の歴史的居住地域|チベット}}
{{出典の明記|date=2019年4月27日 (土) 06:09 (UTC)}}
{{基礎情報 中華人民共和国の一級行政区画
| Header = チベット自治区<br />(西蔵自治区)<br /> བོད་རང་སྐྱོང་ལྗོངས།
| Name = チベット自治区
| Abbreviation = 蔵
| AbbrevPinyin = Zàng
| Map = Tibet in China (claimed hatched) (+all claims hatched).svg
| AdministrationType = 自治区
| Simplified = 西藏
| Traditional = 西藏
| Pinyin = Xīzàng
| Katakana = シーツァン
| Capital = [[ラサ市]]
| LargestCity = [[ラサ市]]
| Languages = [[中国語]]、[[チベット語]]
| Secretary = [[王君正]]
| Governor = [[厳金海]]
| Area = 1,228,400
| AreaRank = 2
| PopYear = 2020
| Pop = 3,648,100
| PopRank = 31
| PopDensity = 2.5
| PopDensityRank = 31
| GDPYear = 2020
| GDP = 1902.74 億<ref name="GDP2017">{{cite web|url=https://www.sohu.com/a/228306328_160909|title=Statistical Communiqué of Tibet Autonomous Region on the 2017 National Economic and Social Development |script-title=zh:西藏自治区2017年国民经济和社会发展统计公报|publisher=Statistical Bureau of Tibet Autonomous Region|language=zh|date=2018-04-15|accessdate=2018-06-22}}</ref>
| GDPRank = 31
| GDPperCapita = 52,157
| GDPperCapitaRank = 22
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| HDI = 0.589<ref name="GlobalDataLab">{{Cite web|url=https://hdi.globaldatalab.org/areadata/shdi/|title=Sub-national HDI - Area Database - Global Data Lab|website=hdi.globaldatalab.org|language=en|access-date=2018-09-13}}</ref>
| HDIRank = 31
| HDICat = {{Color|#ffcc00|中}}
| Nationalities = 92.8% [[チベット民族|チベット族]]<div style="padding-left:0.5em">6.1% [[漢民族|漢族]]<br />0.3% [[回族]]<br />0.3% [[メンパ族]]<br />0.2% その他</div>
| Prefectures = 7
| Counties = 74
| Townships = 692
| ISOAbbrev = XZ
| Website = http://www.xizang.gov.cn/
}}
[[画像:People of Tibet19.jpg|サムネイル|チベット族]]
'''チベット自治区'''(チベットじちく、[[チベット語]]: プー・ランキョン・ジョン{{efn2|「プー」はチベットを意味するもっとも一般的なことば、「ランキョン」は「自治」、「ジョン」は「省級の区」に相当する行政単位を意味する。}}, {{bo|t=བོད་རང་སྐྱོང་ལྗོངས།|w=bod rang skyong ljongs}})、或いは'''西蔵自治区'''(せいぞうじちく)は、[[中華人民共和国]](以下、「中国」)の西南部を占める区域[[中華人民共和国の行政区分|自治区]]である。120万平方キロメートル余の面積に360万人が暮らしている。
== 概要 ==
中国国内ではチベットの全体を「藏区」と称し、自治区が設置されている「西藏」はその西部・南部から中央部にかけてを占める。この領域を「アムド藏区」(青海全域および甘粛の一部)や「カムパ藏区」(四川の西半および雲南西北)と並ぶ「三大藏区」の一つと位置付ける用例がみられる<ref>この段落、王云峰,2008に依る。<br>
<blockquote>''无疑,西藏是中国藏区的中心、世界佛教中独树一帜的一大体系藏传佛教的圣地。但中国藏区并不仅仅是西藏,在位于青藏高原东部、东北部边缘的青海、甘肃、四川、云南等省份的草原上,还分布着广大的藏族聚居区。在藏民族的传统习惯中,这里被称为安多藏区和康巴藏区,它们与过去被称为卫藏的西藏一起,组成了中国的三大藏区。''</blockquote></ref>。
{{See also|チベット三州}}
この領域は、チベットの伝統的な地域区分にいう「ウー・ツァン」([[ガリー]]・[[ウー (チベット)|ウー]]・[[ツァン]]・[[コンポ (チベット)|コンポ]]・[[タクポ]]・[[三十九族]]・[[チャンタン]])および[[カム (チベット)|カム]]地方の西部などに相当し、中国政府はこの領域上に[[ラサ市]]、[[山南市]]、[[シガツェ市]]、[[ナクチュ市]]、[[ガリ地区]]、[[ニンティ市]]、[[チャムド市]]などの市、地区を設置している。
{{main2|自治区の歴代の長官|西蔵自治区人民政府主席}}
== チベットと「西蔵」の領域 ==
{{独自研究|section=1|date=2008年5月}}
{{See also|チベット|チベットの領域に関する認識と主張|中華人民共和国によるチベットの分割と再編}}中国の公認された[[中国の少数民族|少数民族]]としての[[チベット民族|チベット族]](蔵族)の居住領域に設けられた民族自治区とされるが、チベット自治区の領域は歴史的・文化的な[[チベット]]地域のうちの、中国領に内包される部分の一部で、歴史的に[[西蔵]]と呼ばれてきた地方を占めるのみ{{efn2|歴史的・文化的なチベット地域のうちの中国領の部分は、現在、民族区域自治単位であるチベット自治区(西蔵)及び民族区域自治単位ではない[[青海省]]のほか、[[四川省]]の2州1県、[[甘粛省]]の1州1県、[[雲南省]]の1州など、[[州]]級、[[県]]級、[[郷]]級の民族区域自治単位に分かたれている。なお、かつては西蔵の東方に、[[西康省]]の全域を領域とする[[西康省蔵族自治区]]が別に存在していたが、[[1955年]]にこの省が廃止され、[[自治州]]に格下げされて四川省に併合されたため、現在のところチベット自治区のみがチベット族のための唯一の省級の民族区域自治単位となっている。}}であり、中国語による名称は「西蔵自治区」という。
一方、[[日本語]]では[[戦前]]から英語の「Tibet」の訳語として「西蔵」と漢字表記し、「[[平仮名|ちべっと]]/[[カタカナ|チベット]]」と[[ルビ]]をふる慣用が用いられており<ref>[[多田等観]]「チベット事情」, p.233,249</ref>、「この地理的範囲は(中略)青海や喀木(カム)をも併せた広い意味での面積である。支那では青海省や西康省を除外した部分を西蔵と称している」と理解されていた<ref>[[多田等観]]「チベット事情」, p.233。</ref>。日本におけるチベット学研究者たちが1953年に組織した学会は、この慣用にもとづき「西蔵と漢字表記し、"チベット"とルビをふる呼称」を学会の名称に用いてきたが、2009年に「日本チベット学会」と表記を改めた。中国政府および中国に所属するマスコミ、仏教団体、民間団体等が日本語でチベットの自治区について発信する際には「チベット自治区」という表記を用いることから、日本政府の関係資料や日本のマスコミ、の用法でも「チベット自治区」の呼称を用いる事例が多く見られ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/cv/r_hujintao.html |publisher=外務省 |title=胡 錦濤 国家主席略歴 |accessdate=2019-04-27}}{{要追加記述範囲|など。|date=2019-04-27|title=「など」の部分が不明確。なお、「マスコミの用法」の出典は無い。}}</ref>、政治的単位としての「チベット」の呼称を、歴史的・文化的なチベットの全体ではなく、中国によって設定された行政区域であるチベット自治区(西蔵自治区)の領域の部分に対して用いる事例もしばしば見られる<ref>例えば、日本語の代表的な事典では、『[[マイペディア]]』、『[[ブリタニカ国際大百科事典]]』などがチベットとチベット自治区を区別せずに立項している。{{Full citation needed |date=2019-04-27 |title=各事典の書誌情報が不明。}}</ref>。中国政府のチベット政策に反対する亡命政府や彼らに資金・物資・人材の支援を行う機関は、「チベット」をチベット(西蔵)自治区の領域に限定する主張に対して異議を唱えている<ref>{{Cite web|和書|publisher=ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 |url=http://www.tibethouse.jp/about/outline.html |title=チベットの概要 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141219220325/http://www.tibethouse.jp/about/outline.html |archivedate=2014-12-19 |accessdate=2019-04-27}}</ref>{{efn2|但し、チベット亡命政府([[ガンデンポタン]])の中国語版公式サイトでは、チベット全域を「西藏」と呼称している<ref>{{Cite web |url=https://xizang-zhiye.org/ |title=藏人行政中央官方中文網 |publisher=藏人行政中央官方中文網 |accessdate=2019-04-27}}</ref>。}}。
== 歴史 ==
{{main|チベットの歴史}}<!-- ここではチベット自治区について簡潔にまとめ、それ以前の詳細は[[チベットの歴史]]などで行なって下さい。 -->
=== 「西藏」の成立 ===
[[中国内地]]に成立した政権、中国内地を征服し中国内地に本拠を置いた歴代の政権で、[[チベット]]の内部にまで直接の軍事的・行政的支配の手を延ばした政権としては、[[クビライ|フビライ]]政権以降の[[モンゴル帝国]]と、[[雍正帝]]以降の[[清|清朝]]が存在する。「西藏」と称する中国の行政単位の直接の起源は、[[1723年]]、雍正帝による[[グシ・ハン王朝|グシ・ハン]]一族の征服とそのチベット支配体制の解体に遡る(詳しくは[[チベット]]を参照)。
雍正帝は、グシ・ハン一族がチベット各地に保有していた、各地の諸侯や直轄地に対する支配権を接収、グシ・ハン一族と麾下の[[青海モンゴル]]の各部族を[[青海]]([[アムド]])地方において30の「[[旗]]」に編成して[[理藩院]]の管轄下に置き、その属領を二分して[[タンラ山脈]](唐古拉山脈)、[[ディチュ河]](金沙江)を結ぶ線の南側をダライラマ領に加え、この線の北側には青海地方を設けたほか、残る部分を隣接する[[甘粛省]]・[[四川省]]・[[雲南省]]などの諸省に分配し、これらの土地のチベット人諸侯に各級の[[土司]]職の称号を与え、[[三省六部|兵部]]を通じて支配下に置いた。
グシ・ハンによって[[1642年]]に寄進された[[ヤルンツァンポ河]]流域と、この分割により新たにダライラマ領に加えられた地域を併せた領域が「[[西藏]]」地方である。
=== 「西康地方」の成立から廃止まで ===
[[画像:13th Dalai Lama Thubten Gyatso.jpg|サムネイル|ダライ・ラマ13世]]
雍正帝によるチベットの行政区画は、基本的には20世紀初頭まで維持されたが、1903年から[[1904年の政治|1904年]]、[[フランシス・ヤングハズバンド|ヤングハズバンド]]率いる[[英領インド軍]]の侵攻に驚いた清朝は、ダライラマや諸侯による自治に委ねてきた旧制を廃し、チベットを、中国に施行していた制度によって直接掌握することを決意、1905年、[[趙爾豊]]ひきいる四川軍を西方に向かって進発させた。趙爾豊軍はチベット人たちの抵抗を粉砕し、チベットを東方から次第に軍事的に制圧しながら1909年[[ラサ]]に到達、四川省の西部とダライラマ領の東部(すなわち[[カム (チベット)|カム]]地方)に「[[西康]]」、ダライラマ領に「西藏」という2つの「[[省]]」の設置に取り組もうとした。
しかし1910年に中国の共和化を目指す[[辛亥革命]]が勃発すると、趙爾豊は本務地の四川に帰還し、そこで共和派によって殺害された。チベットを占領していた清朝軍は動揺、インドに脱出していた[[ダライ・ラマ13世]]は、1913年チベットに帰還し、チベットの独立を求めて清朝軍の残党に対する抵抗を指令、中国人の占領軍は[[ディチュ河]]の線まで押し戻された。
チベット政府がチベット全域の領有を目指したのに対し、中国側では青海・甘粛で清代以来の旧状を保持したほか、中央チベットを「西藏」、趙爾豊が「西康省」を設けようとした地方を「川辺特別地区」と称し、チベット全体が中国領であると主張し続けた。南京国民政府は、1931年、実際にはチベット政府の統治下にあるカム地方西部を含め、カム地方全域を管轄地域とする「西康省」を発足させた。
中国共産党は、国民党との内戦に勝利し、チベットに対しても、1949年までに[[アムド]]([[青海]])地方、[[カム (チベット)|カム]]地方を制圧し、この年の10月に「中華人民共和国の建国」を宣言して「[[中国人民政府]]」を発足させた。そして1950年、「[[西藏和平解放]]」と称して[[中国人民解放軍|人民解放軍]]を中央チベットに派兵、1951年にラサを占領し、チベット全土を制圧した。
中国人民政府は、旧国民政府が「西康省」に帰属させながら実際には実効支配を確立できなかったカム西部([[昌都地区]])については、中国政府に忠誠を誓うチベット人によって組織された「[[昌都解放委員会]]」の下、引き続き「西藏地方」に帰属させ、カム地方東部のみを範囲として「[[西康省藏族自治区]]」を発足させた。この時、チベット人の比率が低く、国民政府が「西康」地方に帰属させていた[[南昌]]地区は、雲南地方に移管された。この「自治区」は1955年に廃止され、カム地方東部は[[四川省]]に組み込まれ、中国によるチベットの行政区分は、雍正期以来の状況に回帰することとなった。
=== チベット動乱と西藏自治区の成立 ===
{{See also|チベット問題|1959年のチベット蜂起|2008年のチベット騒乱}}
[[画像:Ladakh (14664981814).jpg|サムネイル|ダライ・ラマ14世]]
チベット政府が「西藏和平解放」によって締結を強要された「[[十七か条協定]]」は、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰」するものと規定するものであったが、ダライラマを初めとするチベット政府の各級職員が引き続き「西藏」部分の統治を担い「改革は強要されない」という規定もあった。しかしながらこの協定の適用範囲はあくまでも「西藏」地方に限定され、その他のチベット各地では[[中国内地]]で何年もかけて徐々に展開された「民主改革」「社会主義改造」が、1950年代半ばから強行されることとなった。
「改革」が諸侯・俗人貴族の政治的地位や特権の廃止に留まっている間は、反発も少なく歓迎する民衆も少なく無かったが、対象が[[寺院]]や[[僧侶]]に向うと、チベット人の反発は大きくなり、1956年から[[アムド・カム]]の各地で中国支配に反発する蜂起が始まった。1959年に頂点を迎える「[[チベット動乱]]」の勃発である。
{{Main|チベット動乱}}
蜂起の当初は、中国の統治機構をアムド・カムのほとんどから一時的に一掃する勢いであったが、鎮圧の為に中国軍が組織されると、各地の蜂起軍は西藏地方へ逃れ、難民も発生した。蜂起軍は西藏に於いて、統一抗中組織「チュシ・ガンドゥク」を結成、中国政府に対する組織的なゲリラ活動に踏み出した。
争乱は1959年にラサに波及、[[ダライ・ラマ14世]]はインドへ亡命し[[チベット亡命政府]]を樹立した。中国政府は「チベット政府の廃止」を宣言、1966年に「[[西藏自治区籌備委員会]]」を廃止して'''西藏自治区'''が発足する。
以降、ダライ・ラマ14世のチベット亡命政府と中華人民共和国は、自治権・独立性・領域などについて、度々主張が衝突している。中国政府は、中国に批判的なチベット人を徹底して弾圧している{{要出典|date=2012年12月|}}。
== 地理 ==
[[画像:Everest North Face toward Base Camp Tibet Luca Galuzzi 2006 edit 1.jpg|サムネイル|250px|チョモランマ(エベレスト)]]
[[画像:Potala Palace, August 2009.jpg|サムネイル|250px|ポタラ宮]]
自治区は北西部で[[新疆ウイグル自治区]]、北東部で[[青海省]]、東は[[四川省]]、東南部で[[雲南省]]と接し、南は[[ミャンマー]]・[[インド]][[アッサム州]]・[[ブータン]]・[[ネパール]]・[[カシミール]]地区と国境を接する。
面積は1,228,000 km<sup>2</sup> である。日本のおよそ4倍の広さ。
[[チベット高原]](「青藏高原」とも)は海抜 4,000 メートル(m) 以上の大高原であり、「[[世界の屋根]]」と称される。高原南部の[[ヒマラヤ山脈]]は急峻な山々が峰を連ね、ネパール国境にある[[チョモランマ]]峰は海抜 8,848 メートル(m) に達する世界最高峰である。また、三大聖湖である[[ナムツォ]](納木錯)、[[ヤムドク湖]](羊卓雍措)、[[マーナサローヴァル湖]](瑪旁雍措)を含む[[湖]]が沢山あり、特にチベット高原北部は地球上で最も湖が多い地方の1つである。
チベットの気候は標高の高さから冬が長く夏が無い為、チベット高原北部では水源の乏しい地区には広大な無人の荒地が広がっている。{{独自研究範囲|また日照は十分にある。空気が希薄なため、外来者は[[高山病]]にかかりやすい|date=2021年6月4日 (金) 06:44 (UTC)}}。<!-- 表現が抽象的--> 高山病の対策は身体を徐々に慣らして行くことである([[高度が人に与える影響|高度馴化]])。
== 民族 ==
{{main|チベット民族}}
[[2002年]]の人口267万人のうち、[[チベット民族|チベット族]]が93%を占め、[[漢民族|漢族]]が6%でこれに次ぐ。残りは[[回族]]0.3%、[[メンパ族]]0.3%などわずかに過ぎない。
== 観光 ==
首府ラサとシガツェ地区のシガツェ、[[シガツェ市|ギャンツェ]]は[[中華人民共和国国務院|国務院]]により[[国家歴史文化名城]]に指定されている。ラサ市内の[[ダライラマ]]の冬宮であった[[ポタラ宮]]は[[1994年]]に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録され、チベットで最も神聖な寺院である[[ジョカン]](大昭寺)も[[2000年]]には拡大登録、更にはダライラマの夏宮であった[[ノルブリンガ]]も[[2001年]]拡大登録された。
なお、外国人はチベット自治区に自由に立ち入りすることができず、査証とは別に「入域許可書」が必要である。乗車券や航空券を購入するにも、入域許可書が必要であり、当日改札口やチェックインカウンターで所持の有無を確認される。
== 行政区画 ==
チベット自治区は6[[地級市]]及び1地区からなる。
{| class="wikitable sortable" style="margin:1em auto 1em auto; width:90%;text-align:center"
|-
!! scope="col" rowspan="1" | No.
!! scope="col" rowspan="1" | 名称
!! scope="col" rowspan="1" | 中国語表記
!! scope="col" rowspan="1" | [[拼音]]
!! scope="col" rowspan="1" | [[チベット語]]
!! scope="col" rowspan="1" | [[ワイリー方式]]<br />[[蔵文拼音]]
!! scope="col" rowspan="1" | 面積<br />(Km{{sup|2}})
!! scope="col" rowspan="1" | 人口<br />(2020年)
!! scope="col" rowspan="1" | 政府所在地
|- style="font-weight: bold"
! # !! チベット自治区
| 西藏自治区 || Xīzàng Zìzhìqū ||{{bo-textonly|བོད་རང་སྐྱོང་ལྗོངས།}}|| bod rang skyong ljongs<br />Poi Ranggyongjong || 1,228,400.00 || 3,648,100 || ラサ市
|-
! colspan="9" |'''チベット自治区の行政区画'''
|-
| colspan="9" |[[File:Xizang prfc map.png|480px]]
|-bgcolor=lightblue
| colspan="9" style="text-align:center;"|'''— [[地級市]] —'''
|-
! 2 !! [[ナクチュ市]]
| 那曲市 || Nàqū Shì ||{{bo-textonly|ནག་ཆུ་གྲོང་ཁྱེར།}}|| nag chu grong khyer<br />Nagqu Chongkyir || {{Display none|0,}}391,816.63 || {{Display none|0,}}504,838 || [[セニ区]]
|-
! 3 !! [[チャムド市]]
| 昌都市 || Chāngdū Shì ||{{bo-textonly|ཆབ་མདོ་གྲོང་ཁྱེར།}}|| chab mdo grong khyer<br />Qamdo Chongkyir || {{Display none|0,}}108,872.30 || {{Display none|0,}}760,966 || [[カルプ区]]
|-
! 4 !! [[シガツェ市]]
| 日喀则市 || Rìkāzé Shì ||{{bo-textonly|གཞིས་ཀ་རྩེ་གྲོང་ཁྱེར།}}|| gzhis ka rtse grong khyer<br />Xigazê Chongkyir || {{Display none|0,}}182,066.26 || {{Display none|0,}}798,153 || [[サムドゥプツェ区]]
|-
! 5 !! [[ラサ市]]
| 拉萨市 || Lāsà Shì ||{{bo-textonly|ལྷ་ས་གྲོང་ཁྱེར།}}|| lha sa grong khyer<br />Lhasa Chongkyir || {{Display none|0,0}}29,538.90 || {{Display none|0,}}867,891 || [[城関区 (ラサ市)|城関区]]
|-
! 6 !! [[山南市]]
| 山南市 || Shānnán Shì ||{{bo-textonly|ལྷོ་ཁ་གྲོང་ཁྱེར།}}|| lho kha grong khyer<br />Lhoka Chongkyir || {{Display none|0,0}}79,287.84 || {{Display none|0,}}354,035 || [[ネドン区]]
|-
! 7 !! [[ニンティ市]]
| 林芝市 || Línzhī Shì ||{{bo-textonly|ཉིང་ཁྲི་གྲོང་ཁྱེར།}}|| nying khri grong khyer<br />Nyingchi Chongkyir || {{Display none|0,}}113,964.79 || {{Display none|0,}}238,936 || [[巴宜区]]
|-bgcolor=lightblue
| colspan="9" style="text-align:center;"|'''— [[地区 (中華人民共和国)|地区]] —'''
|-
! 1 !! [[ガリ地区]]
| 阿里地区 || Ālǐ Dìqū ||{{bo-textonly|མངའ་རིས་ས་ཁུལ།}}|| mnga' ris sa khul<br />Ngari Sakü || {{Display none|0,}}296,822.62 || {{Display none|0,}}123,281 || [[ガル県]]
|}
== 経済 ==
[[画像:Qingzang railway Train 01.jpg|サムネイル|青蔵鉄道]]
2002年の全区生産総額は161億[[人民元]]で、全国32省区市のうち32番目であった。ただ、一人当たり生産額は 6,046 元で、全国22番目である。チベット族の 80% は農牧に従事しており、貧困地域が多いが、開放政策によりラサや[[シガツェ市|シガツェ]]、[[ギャンツェ県|ギャンツェ]]などに観光客が入るようになり、観光業の伸びが著しい。また、自治区内の農民や遊牧民はあらゆる税が免除される。さらに[[2000年]]からチベット自治区でも[[中華人民共和国国務院|国務院]]の[[西部大開発]]政策が実施され、[[青蔵鉄道]]や道路の建設などが加速している。[[2004年]]の全区輸出額は対前年比 6.9% の 13,008 万米ドル、輸入は対前年比 136% 増の 9,345 万米ドルであった。また個人が辺境で行う零細な貿易も対前年比 31% 増の2億人民元に達したと報告されている。
ただ、中国全省の政府工作報告は[[2005年]]1月に行われた「2005年政府工作報告」までインターネットで閲覧できるのに、チベット自治区の政府工作報告は[[2003年]]までしか公表されておらず、極めて異例な事態となっている。
天然資源が豊富であり、チベット高原の豊富な水量を利用してチベット中部の電力緩和のためにチベット初の大型水力発電所である{{仮リンク|蔵木ダム|en|Zangmu Dam|label=蔵木水力発電所}}が建設された際は下流のインドで議論を呼んだ<ref>{{cite news |title=チベット自治区最大の水力発電所が稼働開始、中国 |newspaper=[[AFPBB]] |date=2014-11-25|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3032619 |accessdate=2019-07-27}}</ref>。また、チベット高原のザブイェ塩湖では世界3位の埋蔵量とされる[[リチウム]]の採掘が行われている<ref>{{cite news |title=中国BYD、チベットのリチウム生産会社に出資 |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2010-09-07|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM17030_X10C10A9FF2000/ |accessdate=2019-07-27}}</ref>。
CNNのが2016年の9月にチベットで行った取材記事によれば、人口の10%に満たない[[漢民族]]が経済を支配し、高給な仕事を独占しており、これがチベット人の怒りを買っているとされている。中国政府は道路や鉄道といったインフラを中心に多額の投資を行ってきており、多くのチベット族はこうした改善を歓迎しているものの、チベット族は漢族ほど成長の恩恵に浴していないとの不満の声も上がっている。全く同じ仕事をしている場合でも、チベット族の給料は漢族の3分の2だという。また経済成長と共に現地の伝統文化が失われる事に対しても非難の声があがっている。
一方で、同じCNNの取材の中でチベット自治区のペンパ・タシ副主席は、チベットの誰もが幸せで満足していると話した。また取材を受けた男性も、漢族の同僚に比べると少ないものの、併合前と比べて併合後の方が収入は増えたと回答している<ref>{{cite news |title=緊張高まるチベット――10年ぶりの現地取材で見えたもの |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2017-1-29|url=http://www.cnn.co.jp/special/cnnasia/35094993.html |accessdate=2017-2-11}}</ref>。
== 軍事 ==
自治区全域が[[中国人民解放軍西部戦区|西部戦区]](趙宗岐司令員)の管轄下にあり、下級のチベット軍区には 第52山地旅団、第53山地旅団の存在が確認されている。また公安部(警察)に所属する武装警察部隊数十万が駐屯するとも言われる。
== 教育 ==
=== 大学 ===
[[画像:Tibet university 2007.JPG|サムネイル|チベット大学]]
* [[チベット大学]]
* [[チベット民族学院]]
=== 少数民族に対する言語強要政策 ===
{{china-stub}}
世界では[[国際人権規約]]にて[[少数民族]]が独自の[[言語]]を使う[[権利]]は「少数民族の[[文化]]や[[宗教]]、言語を「[[否定]]されない権利」」と明記して保障されているが、[[習近平]]政権は少数民族による[[分離]]・[[独立]]運動への警戒から[[統制]]と、標準語版教科書の使用による標準語教育を強めている。それにより[[中華民族]]としての意識を高め、[[中国共産党]]の[[一党支配]]をさらに強固にしようとしているとされる<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20200927-OYT1T50210/|title=社説 中国語教育強化 少数民族の抑圧は許されない|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=|date=2020-09-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210420025911/https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20200927-OYT1T50210/|archivedate=2021-04-20|deadlinkdate=}}</ref><ref>[https://www.yomiuri.co.jp/world/20210307-OYT1T50062/ 内モンゴル「中国語教育を」 習氏指示 少数民族同化の一環 : 国際 : ニュース : 読売新聞オンライン]</ref>。
== 交通 ==
[[画像:Lhasa Airport.jpg|サムネイル|ラサ・クンガ空港]]
=== 航空 ===
* [[ラサ・クンガ空港]]
* [[ニンティ空港]]
* [[チャムド・バンダ空港]]
* [[ガリ空港]]
* {{仮リンク|シガツェ平和空港|zh|日喀则和平机场}}
=== 鉄道 ===
* [[青蔵鉄道]] - [[2006年]][[7月1日]]開通
* [[ラサ・シガツェ鉄道]]
=== 道路 ===
* 高速道路
** [[ファイル:Tibet Expwy S1 sign no name.svg|20px]][[拉貢高速道路]]
* 国道 <ref>中英文対照『《西蔵游》旅游地図』(西安地図出版社、2009年){{要ページ番号|date=2019-04-27}} </ref>
** [[G109国道]] - [[北京市]]を始点にして、[[青海省]][[西寧市|西寧]]・[[ゴルムド]]経由で、チベット自治区へ北から入り、[[ナクチュ市]][[セニ区]]を経て、[[ラサ市|ラサ]]まで。青蔵鉄道はこの国道に沿って建設されている。
** [[G214国道]]
** [[G219国道]] - G318国道上の[[ラツェ県|ラツェ]](拉孜県)から西へ向かい、[[カイラス山]]を経て、[[ルトク県|ルトク]](日土県)などを通過した後、[[新疆ウイグル自治区]]に入り、[[G315国道]](青新航路)上の[[カルギリク県|カルギリク]](葉城県)に至る。
** [[G317国道]] - [[四川省]][[成都]]を始点にして、チベット自治区へ東から入り、G318国道の北側を西へ向かい、ナクチュまで。
** [[G318国道]] - [[上海市]]を始点にして、成都を経由して、チベット自治区へ東から入り、西へ向かい、[[ラサ市]]・[[シガツェ市]]・ラツェを経て南に向かい、[[ニャラム県|ニャラム]](聶拉木県)で[[ネパール]]の国境まで。その先は[[カトマンズ]]に向かう。
== 歴代指導者 2000年以降 ==
=== 歴代チベット自治区党委書記 ===
* [[陳奎元]](1992年11月—2000年9月)
* [[郭金龍]](2000年9月—2004年12月)
* [[楊伝堂]](2004年12月—2005年11月)
* [[張慶黎]](2005年11月—2006年5月、代理書記)
* [[張慶黎]](2006年5月—2011年8月)
* [[陳全国]](2011年8月—2016年8月)
* [[呉英傑]](2016年8月—)
=== 歴代チベット自治区主席 2000年以降 ===
* [[レーチョク]](1998年5月—2003年5月):チベット族
* [[チャンパ・プンツォー]](2003年5月—2010年1月):チベット族
* [[ペマ・ティンレー]](2010年1月—2013年1月):チベット族
* [[ロサン・ギェンツェン]](2013年1月—2017年1月):チベット族
* [[:zh:齐扎拉|シザラ]](2017年1月-):チベット族
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*王云峰 「[http://www.beita.org/html/chuanchengcang/jinxiandaidade/200812/05-1521_70.html 金席大师贡唐仓」(70)](『佛学宝蔵ー法脉相承』)2008-12-05
*多田等観「西蔵事情」(1945年以前)(多田明子・山口瑞鳳編『多田等観:チベット大蔵経にかけた生涯』春秋社、2005年8月。ISBN- 978-4393199015,pp.217-355所収)
== 関連項目 ==
* [[中国の少数民族]]
* [[大チベット]]
* [[チベット文字]]
* [[チベット仏教]]
* [[チベットの領域に関する認識と主張]]
* [[中華人民共和国によるチベットの分割と再編]]
*{{仮リンク|任維|zh|任维}} - 副主席
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|བོད་|Tibet Autonomous Region}}
{{Wikivoyage|zh:西藏|チベット自治区{{zh-cn icon}}}}
* [http://www.tibet.cn/ チベット情報センター](中国語、チベット語、英語、ドイツ語、フランス語)
* [https://tibet.net/ チベット亡命政府公式サイト](英語、チベット語、中国語)
* [http://www.tabitibet.com/ 旅・チベット 日本語]
* [http://www.ryychina.com/lycp_dy.asp?types=1 チベット個人旅行日程]{{リンク切れ|date=2019年4月27日 (土) 06:09 (UTC)}}
{{中国地理大区}}
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MMR マガジンミステリー調査班
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『MMR マガジンミステリー調査班』(エムエムアール マガジンミステリーちょうさはん)は、石垣ゆうきによる日本の漫画作品。『週刊少年マガジン』(講談社)に不定期連載(連載期間1990年-1999年)された。単行本も同社(少年マガジンKC)より発行。全13巻。
1999年には、それまで刊行された単行本(1巻〜11巻)を再編集した総集編「光の書」「暗黒の書」が、『週刊少年マガジン』増刊として発行された。また、全13巻の再編集版としてコンビニコミック「講談社プラチナコミックス」のレーベルで全6巻発行された。現在はコミックパークのオンデマンド出版で全13巻が刊行されている。
城不二也作の続編『MMR The Apocalypse 第一話 新たなる黙示録』、石垣ゆうき作の続編『新世紀緊急報告MMR』と『MMR復活編』、『新生MMR 迫りくる人類滅亡3大危機(トリプルクライシス)!!』についてもここで述べる。
『週刊少年マガジン』編集部員で編成されたMMRこと「マガジンミステリー調査班(MAGAZINE MYSTERY REPORTAGE/マガジン・ミステリー・ルポルタージュ)」が物語の主役。メンバーはキバヤシ(リーダー)・ナワヤ・タナカ・イケダ・トマルの5人。この5人は実在の編集者がモデルであり、いずれも今なお各所で活躍している。他に自称海外隊員としてチャーリーという人物も登場。
当初はMMRのメンバーが様々な超常現象を科学的に解明していくという主旨であったが、単行本の2巻以降はノストラダムスが残した予言詩を物語の軸に据えることで、謎の組織や政府の陰謀が登場し始め、後年のテレビドラマ『Xファイル』にも似たSFミステリーとなっていった。掲載されるのは合併号が多い。
1996年4月から同年10月にかけて『MMR未確認飛行物体』という題名でフジテレビ系の木曜の怪談枠内でテレビドラマ化された。ドラマは、ファッション雑誌から“スーパーマガジン”の企画「MMR」の担当へ異動した編集者、踝透(くるぶし とおる、演:中山秀征)が主人公の完全オリジナル版として制作された。
1999年に『MMR』は一旦終了したが、単行本13巻巻末の作品紹介ページとカバー内側には「1〜13以下続巻」と書かれていた。週刊少年マガジン2003年32号、33号に『MMR The Apocalypse 第一話 新たなる黙示録』が掲載され復活。作者は城不二也。リーダーがミウラに変わるなどメンバーは一新されている。
2008年に、同誌21・22合併号、23号にて『週刊少年マガジン』創刊50周年記念として『新世紀緊急報告MMR』との題名で前後編にて復活掲載。作画は従来の石垣ゆうき。メンバーはまたも一新されており、初の女性隊員スエザキが登場している。キバヤシ達を回想する場面が有るものの城不二也版の新MMRについては触れられていない。
2012年に、プロジェクト・アマテラス内にて『MMR復活編』が開始。嘗てのメンバーに加えハシモトという女性隊員が加わる。劇中でマヤ2012年滅亡説を「ちまたのウワサ」として扱い『新世紀緊急報告MMR』での次世代メンバーの調査を知ってか知らずか2ページで否定している。作画は石垣ゆうき。2014年4月17日には『新世紀緊急報告MMR』『MMR復活編』を収録した単行本『新世紀黙示録MMR Resurrection』が発売された。単行本カバー内側の石垣ゆうきの一言には「14年ぶりのMMRです」と書かれている。さらに、2016年3月17日にはそのまた続編『新生MMR 迫りくる人類滅亡3大危機!!』が発売された。
アニメ版『GTO』の27話目、28話目にMMRが登場し、日本各地の地方局CMに出ていた野村朋子を調べていた。
※大半がキバヤシの持論である。
1995年3・4合併号〜5号に掲載された『甦るノストラダムス 暗黒新予言』の回は単行本未収録となっている。要因としては、当時の地元警察とマスメディアが第一通報者を犯人扱いした「松本サリン事件」を下敷きにして「世界を裏から支配する『300人委員会』によるサリンを使ったテロが起きる」という予言を描いた所、掲載の2ヶ月後に実際に「地下鉄サリン事件」が発生し、一連のサリン事件が300人委員会ではなく「オウム真理教」の犯行と判明したためとされている。
講談社内には実際に「MMR」と呼ばれる組織が存在していた。メンバーは基本的に一介の編集者で構成されており、各人は専門家ではないが超常現象に関する知識は深いようである。
MMRメンバーは実在の編集者がモデルで、『金田一少年の事件簿』シリーズや『シュート!』シリーズの舞台裏4コマや対談等に、キバヤシ、イケダ、トマルとおぼしき編集者が登場している。イガラシ局長こと五十嵐隆夫は講談社コミックスの発行人として奥付に記載されている。
漫画の冒頭には「この物語は事実をもとにしたフィクションです」という但し書きが添えられている(2003年の『MMR』では単に「この物語はフィクションです」となった)。単行本の初めのページにも同文が添えられていたが、5巻以降は「この物語は事実をもとにしたフィクションです。内容に関する問い合わせは、電話では一切受け付けておりません。ご了承下さい」という但し書きに変更されている。
隊員のキバヤシの結論がことごとくノストラダムス関連に繋がってしまう。唯一の反論担当であるナワヤの意見もキバヤシの結論同様、根拠に乏しいとされている。また、当時講談社は『週刊現代』でもノストラダムスや終末予言特集を頻繁に特集していた。1999年が既に過去となり、通俗的なノストラダムス現象が下火になってからは、これらの議論も同様に下火になっている。
1990年代後半にラジオ番組のゲストで樹林伸が出演し、ナワヤをミステリーサークルのど真中に寝させた件などを話す。その際、受験を控えた不安定な年頃の子に人気があると発言。本人はあくまでフィクションとして作っていた様子がここから伺える。
隊員のイケダは地図に載っていない遺伝子工学の研究所近くで胴の異様に長い猫"通称・ダックスキャット"を目撃したと語っている。胴の異様に長い猫は、都市伝説研究家関暁夫の著作『ハローバイバイ・関暁夫の都市伝説―信じるか信じないかはあなた次第』に写真が収められている。
MMRは単行本12巻に描かれた様に実際に米国のアメリカ航空宇宙局(NASA)に赴き取材を申し込んでいるが門前払いされている。この体験をMMRはNASAが何か秘密(宇宙人を隠している等)を知られるのを嫌っているためだ、と結論付けている。
単行本9巻以降は副題に「MMR緊急報告」の文が付くようになった。
単行本6巻『1994神聖大予言 地球はすでに死滅している!?』にてタカイ・ジェームス・ケイイチ博士が人間のデオキシリボ核酸(DNA)の95%は未解明であると説明しており、単行本7巻『1999悪魔の全人類改造計画とは!?』にてキバヤシがソビエトはモスクワのアメリカ大使館にマイクロ波を使って攻撃していたと説明しているのに、単行本9巻『MMR緊急報告 人類は自滅する!!』ではどちらも改めて説明され、皆初めて知る話であるかの様に驚いている。
他の巻は「アンゴルモアの大王」と表記しているが単行本10巻だけ「アングルモアの大王」と表記している。
単行本12巻はResident of Sunが初登場する『MMR 緊急報告 1999第5の選択』(『週刊少年マガジン』1998年41号掲載)よりも、「たしか...前回「2000年問題」を調査したとき我々に接触して来た人物ですよ...」とResident of Sunを思い出すセリフのある『MMR 緊急報告 イースター島の謎を追え!!』(『週刊少年マガジン』1999年25号掲載)の方をカラーページを含む関係からか先のページに入れてしまったため、作品内での時系列と収録の順番が逆転してしまっている。単行本4巻と11巻と『新世紀黙示録MMR Resurrection』も雑誌掲載と単行本収録の順番が異なる。
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"text": "漫画の冒頭には「この物語は事実をもとにしたフィクションです」という但し書きが添えられている(2003年の『MMR』では単に「この物語はフィクションです」となった)。単行本の初めのページにも同文が添えられていたが、5巻以降は「この物語は事実をもとにしたフィクションです。内容に関する問い合わせは、電話では一切受け付けておりません。ご了承下さい」という但し書きに変更されている。",
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"text": "1990年代後半にラジオ番組のゲストで樹林伸が出演し、ナワヤをミステリーサークルのど真中に寝させた件などを話す。その際、受験を控えた不安定な年頃の子に人気があると発言。本人はあくまでフィクションとして作っていた様子がここから伺える。",
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] |
『MMR マガジンミステリー調査班』は、石垣ゆうきによる日本の漫画作品。『週刊少年マガジン』(講談社)に不定期連載(連載期間1990年-1999年)された。単行本も同社(少年マガジンKC)より発行。全13巻。 1999年には、それまで刊行された単行本(1巻〜11巻)を再編集した総集編「光の書」「暗黒の書」が、『週刊少年マガジン』増刊として発行された。また、全13巻の再編集版としてコンビニコミック「講談社プラチナコミックス」のレーベルで全6巻発行された。現在はコミックパークのオンデマンド出版で全13巻が刊行されている。 城不二也作の続編『MMR The Apocalypse 第一話 新たなる黙示録』、石垣ゆうき作の続編『新世紀緊急報告MMR』と『MMR復活編』、『新生MMR 迫りくる人類滅亡3大危機(トリプルクライシス)!!』についてもここで述べる。
|
{{Infobox animanga/Header
|タイトル=MMR
|ジャンル=[[ルポルタージュ|ルポ]]・[[フィクション]]、[[ミステリ]]<br>[[サスペンス]]、[[少年漫画]]
}}
{{Infobox animanga/Manga
|タイトル=MMR マガジンミステリー調査班
|作者=[[石垣ゆうき]]
|出版社=[[講談社]]
|掲載誌=[[週刊少年マガジン]]
|レーベル=[[講談社コミックス]]
|開始=1990年34号
|終了=1999年42号
|巻数=全13巻+1巻
|備考=未収録話あり
}}
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『'''MMR マガジンミステリー調査班'''』(エムエムアール マガジンミステリーちょうさはん)は、[[石垣ゆうき]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。『[[週刊少年マガジン]]』([[講談社]])に不定期連載(連載期間[[1990年]]-[[1999年]])された。単行本も同社(少年マガジンKC)より発行。全13巻。
1999年には、それまで刊行された単行本(1巻〜11巻)を再編集した総集編「光の書」「暗黒の書」が、『週刊少年マガジン』増刊として発行された。また、全13巻の再編集版として[[コンビニコミック]]「[[講談社プラチナコミックス]]」のレーベルで全6巻発行された。現在はコミックパークの[[オンデマンド印刷|オンデマンド出版]]で全13巻が刊行されている。
城不二也作の続編『MMR The Apocalypse 第一話 新たなる黙示録』、石垣ゆうき作の続編『新世紀緊急報告MMR』と『MMR復活編』、『新生MMR 迫りくる人類滅亡3大危機(トリプルクライシス)!!』についてもここで述べる。
== 概要 ==
『週刊少年マガジン』編集部員で編成されたMMRこと「マガジンミステリー調査班(MAGAZINE MYSTERY REPORTAGE/マガジン・ミステリー・ルポルタージュ)」が物語の主役。メンバーはキバヤシ(リーダー)・ナワヤ・タナカ・イケダ・トマルの5人。この5人は実在の編集者がモデルであり、いずれも今なお各所で活躍している。他に自称海外隊員としてチャーリーという人物も登場。
当初はMMRのメンバーが様々な[[超常現象]]を科学的に解明していくという主旨であったが、単行本の2巻以降は[[ノストラダムス]]が残した[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集|予言詩]]を物語の軸に据えることで、謎の組織や政府の陰謀が登場し始め、後年のテレビドラマ『[[Xファイル]]』にも似たSFミステリーとなっていった。掲載されるのは合併号が多い。
1996年4月から同年10月にかけて『[[MMR未確認飛行物体]]』という題名で[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系の[[木曜の怪談]]枠内で[[テレビドラマ]]化された。ドラマは、ファッション雑誌から“スーパーマガジン”の企画「MMR」の担当へ異動した編集者、踝透(くるぶし とおる、演:[[中山秀征]])が主人公の完全オリジナル版として制作された。
1999年に『MMR』は一旦終了したが、単行本13巻巻末の作品紹介ページとカバー内側には「1〜13以下続巻」と書かれていた。週刊少年マガジン2003年32号、33号に『MMR The Apocalypse 第一話 新たなる黙示録』が掲載され復活。作者は城不二也。リーダーがミウラに変わるなどメンバーは一新されている。
2008年に、同誌21・22合併号、23号にて『週刊少年マガジン』創刊50周年記念として『新世紀緊急報告MMR』との題名で前後編にて復活掲載。作画は従来の石垣ゆうき。メンバーはまたも一新されており、初の女性隊員スエザキが登場している。キバヤシ達を回想する場面が有るものの城不二也版の新MMRについては触れられていない。
2012年に、プロジェクト・アマテラス内にて『MMR復活編』が開始。嘗てのメンバーに加えハシモトという女性隊員が加わる。劇中でマヤ2012年滅亡説を「ちまたのウワサ」として扱い『新世紀緊急報告MMR』での次世代メンバーの調査を知ってか知らずか2ページで否定している。作画は石垣ゆうき。2014年4月17日には『新世紀緊急報告MMR』『MMR復活編』を収録した単行本『新世紀黙示録MMR Resurrection』が発売された。単行本カバー内側の石垣ゆうきの一言には「14年ぶりのMMRです」と書かれている。さらに、2016年3月17日にはそのまた続編『新生MMR 迫りくる人類滅亡3大危機!!』が発売された。
アニメ版『[[GTO (漫画)|GTO]]』の27話目、28話目にMMRが登場し、日本各地の地方局CMに出ていた野村朋子を調べていた。
== 主な登場人物 ==
=== 石垣ゆうき版 オリジナルMMR ===
==== MMRメンバーとその関係者 ====
; キバヤシ(隊長)
: [[1962年|196X年]][[7月22日]]生まれ。身長182cm、体重は77kg、血液型O型。視力右0.2、左0.1。[[知能指数|IQ]]は170の超天才で、[[日本語]]・[[英語]]・[[フランス語]]の3ヶ国語を扱える。[[超常現象]]・[[ノストラダムス]]解釈に精通している。
: 信条は、「即断は禁物」。自分が納得行くまで調査し、MMR内でも最も真面目に描かれる。一部のインチキを見て超能力に否定的であり、[[鍼]]治療も胡散臭いと考えていたが、後にナワヤに簡単な実験で「一部を見て否定するのはMMRの信義に反する」と説得され、再評価するようになった。どんな謎も調べて結論を下してしまうが、詳細が分からない場合も多い。使用携帯電話は[[ソフトバンクモバイル|J-PHONE(後のボーダフォン→現ソフトバンクモバイル)]]。『MMR復活編』では本編終了後講談社を辞めていたことが明かされ、約10年後海外から帰国しトマルと共にMMRを再結成する。癖は[[ペン回し]]。大学時代は音楽活動に勤しんでいたが作詞の才能はない。
: モデルは当時週刊少年マガジンの編集者であった[[樹林伸]](1巻「[[超能力]]は実在した!」にて本人とおぼしき人物の写真も掲載されている)。
: アニメ版『GTO』での声優は[[平田広明]]。
; ナワヤ
: キバヤシを補佐する副リーダー格。キバヤシが出張中に臨時的にリーダーに任命されている。キバヤシの発言に反論のできる数少ない人物。女好きでスケベな性格だが、危険な雰囲気を持つ(と判断した)女性は警戒するなど用心深い一面も持つ。
: MMR唯一のお笑い担当として様々なゲストやエキストラに弄ばれている反面、催眠術で[[暗殺]]されかけたり、[[赤痢]]の疑いで入院したりする被害に遭っている。また2003年の『MMR The Apocalypse 第一話 新たなる黙示録』では唯一旧メンバーとして登場した。大学では航空学を専攻。
: アニメ版『GTO』での声優は[[千葉一伸]]。
; タナカ
: MMR結成当初からいた隊員。自称「予言博士」。ノストラダムスの大予言以外にも「[[ヨハネの黙示録]]」にも詳しい。
: 筑波大学において[[考古学]]を専攻。[[トルコ]]の遺跡カマン・カレホユックの調査にも参加。予言詩や外国語文の翻訳を読み上げるのはほとんど彼が担当している。
: 父親の名前は千春、母親の名前は紀久子だと、喫茶店アンデルセンのマスターに言い当てられる。
; イケダ
: 3巻から加入した隊員。
: [[英語]]が堪能で海外在籍が長く、国際事情に詳しいことから海外調査では重宝されていた。当時まだ一般にはなじみの薄かったインターネットに精通していたり、当時日本では放送されておらず、名前も知られていなかった[[Xファイル|The X-Files]](X-ファイル)を海外から手に入れ参考としていたりとその方面でも大きな戦力となっていた(ビデオテープを見たナワヤはアメリカ製AVと思っていた)。
: 漫画家[[柴田亜美]]はブログで、今の講談社の担当編集者はイケダ隊員その人であると記載している[http://tyatubo.blog18.fc2.com/blog-entry-549.html]。また、柴田亜美の漫画の中にも「MMR イケダ隊員」[http://bombom.kodansha.co.jp/?module=Special]として登場した。
: 学生時代に『[[マイコンBASICマガジン]]』のライターをしていた[http://www.noise-games.com/essay/essay_09.html](当初は本名、のちに'''響あきら'''というペンネームで活動)。
; トマル
: 6巻から補助要員として登場。フルネームは[[都丸尚史]]。弱点は太もも。[[東京大学]]卒。2012年より講談社が開設したプロジェクト・アマテラス次長に着任。復活MMRを担当する。
: 初登場回は後述の理由で単行本に収録されていない。
; イガラシ(五十嵐)編集長
: 『週刊少年マガジン』編集長。MMRの名付け親。取材費等の金銭面からMMRを陰から支えた人物。
: MMRに関しては口出しはせず、自由放任の方針であったが、ナワヤが事故で重傷を受け脅迫電話がきた時は危険性を考慮してMMRの取材を断念させた。後に局長に昇進した。モデルは『週刊少年マガジン』6代目編集長の[[五十嵐隆夫]]。
==== その他 ====
; チャーリー(チャーリィ)・ライアン
: イケダの友人。アメリカ政府関連の挿話において時折登場。何度かMMRに協力し、MMR海外隊員を名乗るようになる。
; コイブチ
: 第1話のみに登場した週刊少年マガジンの編集者。ナワヤに似た性格。
: 超常現象否定派で、劇中神隠しに遭うも本人は気付かず、帰還後にキバヤシ達に担がれたと思い込み激昂したが、[[未確認飛行物体|UFO]]にさらわれ、右胸に怪しげな傷を刻まれてしまっていた。
; カジワラ
: キバヤシの先輩に当たる天文学者の助手。第1話で登場。最初は[[未確認飛行物体|UFO]]や[[地球外生命体]]に懐疑的だったが、キバヤシと共にコイブチの事件に遭遇し愕然となる。
; キタヤマ
: T大学考古学教授。「UFOミステリー・サークルの謎を追え!」の前後編に登場。遺跡や超常現象なども研究している。[[ミステリーサークル]]調査のためにキバヤシ達に同行。[[第5の力]]、レイポイント、[[キャトルミューティレーション]]などをキバヤシ達に教える。
; [[早瀬マサト]]
: アシスタント。超能力者の友人を持つ。
; R(アール)
: 謎の[[日系人]]の美女。左目の下に黒子がある。パソコンの赤・青・黄の三色の人工生命体に端を発する「超感覚兵士」を超えた『聖なる戦士(HolySoildier)製造計画』がアメリカで進行しつつあることをMMRメンバーに伝えた。
: イニシャルしか明らかになっておらず、その素性・本名も不明。第8巻に登場。
; Resident of Sun(レジデント・オブ・サン)
: 通称「'''[[太陽]]の住人'''」。ボイスチェンジャーの電話の声や手紙のみで接触する謎の人物。
: 「神の言葉」を巡る人格改造計画や[[始皇帝]]の隷属遺伝子の計画で大規模な国家の陰謀に加担していることが明らかになった。Y2K([[2000年問題]])で初登場し、[[イースター島]]の[[モアイ]]の物語でもメッセージを伝えた。正体は[[イルミナティ]]。
; セーラー服の少女
: [[ピラミッド#近現代とピラミッド|日本のピラミッド]]と呼ばれる[[東北]]の[[黒又山]]に現れた謎の少女。
: 「凶風(きょうふう)が吹いている」の言葉でキバヤシに「fの法則」のゆらぎと形態共鳴の恐怖を気付かせた。[[クジラ]]の大量死の現場にも出現。第11巻にて登場。
; マシュラ
: [[パソコン通信]]の[[ハンドルネーム]]のみの謎の人物で、『カタストロフィー・フォーラム』で人類の危機を警告した。その内容は、科学者の失踪事件から繋がるスリーパー・キラー計画とネット回線を利用した[[マイクロ波]]の悪用を示唆するものだった。第7巻にて登場。
; ジャック・ヨネムラ
: アメリカの研究所で[[ウイルス]]を研究するウイルスハンターの男。ウイルスの脅威を調査し、[[プリオン]]を調べるキバヤシ達MMRに接触する。愛用のペットは、[[カメレオン]]。
: [[ウイルス進化論]]やそれ以上の可能性を求め、ウイルスに熱狂的に取り憑かれた様子でウイルスは人類にさらなる進化をもたらすと語る。[[アメリカ合衆国]]で行われる人間を[[地球外生命体]]グレイに似せる「ウイルス人工進化計画」に関わっており、幼児を人工的に進化させた「[[ネオテニー]]」を手本とし、どんな[[病原体]]にも耐性を持つ『ネオ・ヒューマノイド』を生み出そうとする集団の一員。第8巻にて登場。
; ミシェル・ド・ノートルダム([[ノストラダムス]])
: 予言書「[[諸世紀]]」で有名なフランスの予言者。ここで描かれる人物像は[[五島勉]]による一連の著作の内容に近い。
: 過去の人物なので直接の登場はないが、劇中に大予言の話が何度も出てくることも含め、キバヤシによると人類に危機を警告する「時空を超えて立ちはだかる」偉大な存在として描かれている。扉絵の表紙に度々登場し、巻末のおまけ漫画にも登場。
==== 実在する登場人物 ====
* [[清田益章]] - 超能力者(超能力は実在した!)
* [[ニーナ・クラギーナ]] - 超能力者(超能力は実在した!)
** 初出当時はクラギーナの映像と存在や未発表で極秘扱いとされていた。
* [[宜保愛子]] - 霊能力者(人類は滅亡する!?)
* [[前田和慧]] - 霊能力者(心霊現象が警告する悪夢とは!?)
* [[高橋徹 (マヤ暦研究家)|高橋徹]] - [[マヤ文明]]研究家(1999戦慄の占星術第予言とは!?)
* [[松村潔]] - [[占星術]]研究家(1999戦慄の占星術第予言とは!?)
* [[高橋良典]] - 日本探検協会会長(地底王国からの破滅の囁きとは!?)
* [[鏡リュウジ]] - 占星学研究家(1994神聖大予言 地球は既に死滅している!?)
=== 城不二也版 新生MMR ===
* ミウラ(隊長)
* タキガワ
* パク - チャーリーの様な国外隊員(?)を除けば、MMR初の外国人(韓国人)の国内隊員。モデルは少年マガジン編集部副編集長の[[朴鐘顕]]。
=== 石垣ゆうき版 新生MMR ===
* ヨネムラ(隊長)
* スズキ
* タキガワ - 城版MMRのタキガワとの関係は不明。
* スエザキ - MMR初の女性隊員。
=== 石垣ゆうき版 MMR復活編 ===
* キバヤシ
* ナワヤ
* タナカ
* イケダ
* トマル
* ハシモト - ナワヤの後輩で新人編集者。2人目の女性隊員。
=== 石垣ゆうき版 新生MMR 迫りくる人類滅亡3大危機!! ===
* キバヤシ
* ナワヤ
* タナカ
* イケダ
* トマル
* ハシモト
* チャーリー・ライアン
* チャンドラ・サンジェイ - キバヤシがインド滞在中にいろいろ世話になった友人。キバヤシと再会する。
== 今までの予言 ==
※大半がキバヤシの持論である。
; 単行本1巻
:* 太古から宇宙人は人間を採取しているが、政府はそれを黙認している。[[バーコード]]には[[獣の数字|666の数字]]が埋め込まれている。
:* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]、日本は[[超能力]]者を軍事目的に養成している。
:
; 単行本2巻
:* [[1981年]][[1月21日]]、日本人の救世主が生まれている。
:* 宇宙人[[バシャール]]は人類への警告として[[ミステリーサークル]]を作っているが、宇宙人[[グレイ (宇宙人)|グレイ]]はそれを混乱させるための偽のミステリーサークルを作っている。
:* 1999年、聖書通り最終戦争を起こせば救世主が現れると考える組織と宇宙人グレイが日米摩擦を操り[[核戦争]]が勃発。宇宙人グレイは地球人の遺伝子を自分の体に取り込めるようにするため、地球人を全面核戦争による[[放射能汚染]]で[[突然変異]]させようと考えている。
:
; 単行本3巻
:* 人は日々[[サブリミナル効果|サブリミナルメッセージ]]で洗脳され、偽救世主が各国で台頭している。
:* 1999年、[[太陽黒点]]周期が低迷し[[大不況]]が起こる。
:* [[北緯48度線|緯度48°線]]上にあるアメリカ、[[ドイツ]]、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[ロシア]]、日本の7箇国から偽の救世主が誕生する。その救世主は[[ピラミッド]]に保存された偉人の[[デオキシリボ核酸|DNA]]を復活させて作られている。
:
; 単行本4巻
:* 2000年9月、小惑星[[トータティス (小惑星)|トータチス]]が地球に衝突するが、選ばれた人間は宇宙人の手によって[[火星]]に脱出するが、情報の混乱を避けるため、国民には隠されている。
:* [[富士山]]が一度噴火すると、日本中の休火山が連鎖噴火を起こし、日本は[[ムー大陸]]同様沈没する。
:
; 単行本5巻
:* 1999年、絶滅した宇宙人の幽子が地球人に憑依し、人間は人間の姿を維持できなくなる。UFOは乗り物ではなく宇宙人の幽子である。
:* 自民党が分裂し、世界規模で経済バランスが崩れる。
:* 1999年8月18日、[[グランドクロス]]で[[太陽系]]の[[惑星]]の[[引力]]が[[地球]]に集中し、[[ヴァン・アレン帯]]が壊れ[[宇宙線]]が地球に降り注ぐ。
:
; 単行本6巻
:* [[アドルフ・ヒトラー|ヒットラー]]の末裔(まつえい)達はチベットの[[風水]]術を使って気の集積所である日本の気の流れを変える事で地球に超異常気象を起こし、[[飢饉]]で世界を支配しようとしている。
:* 1999年、1994年7月17日に[[木星]]に[[シューメーカー・レヴィ第9彗星|シュメーカーレビー彗星]]が衝突したために、木星に存在した未知のウイルスが地球に飛来し、既知の細菌を猛毒化させるが、遺伝子選別で選ばれた人間だけは耐性があるので生き残る。
:
; 単行本7巻
:* [[マッドサイエンティスト]](汚れた科学者)達は[[人工衛星]]からの[[マイクロ波]]を使って人類を群発自殺させ増え過ぎた人口を減らそうとしているが、それは世界中のピラミッドが発信するアルファ波のバリアによって防がれる。
:* 1995年、[[五黄殺]]の年の五黄殺の月に満月と新月になる8月11日、8月26日、9月9日、地球上のどこかで地震が起こる。
:
; 単行本8巻
:* [[オゾンホール]]から漏れた[[紫外線]]、[[放射線]]によって[[プリオン]]が凶暴化し、生物は死に至る。
:* [[ウイルス進化論]]者は子供達をウイルスに感染させ人工的な進化を起こし、[[ネオテニー]]を作り出している。
:* [[軍産複合体]]は戦争を欲していて、[[人工生命]]体を用いたコンピュータードラッグで人間を殺人兵器に作り変えようとしている。
:
; 単行本9巻
:* [[グランドクロス]]の時、9つの惑星<ref group="注釈">初出当時は[[冥王星]]も惑星に含まれていた。</ref>の引力の影響でマグマ活動が活発になり、[[地磁気]]が乱れることで[[ポールシフト]]が起こり、地球の気候が瞬間的に逆転する。
:* 南米に存在する[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の残党は宇宙人の技術を用いて人間の冷凍保存に着手しており、ポールシフトの際に世界を支配しようとしている。
:* [[電磁波]]の乱発によって人間の[[DNA]]がちぎれ、その瞬間高熱が発生し[[人体自然発火現象|人体は発火してしまう]]。一部の人間はこれを[[予知夢]]で見ている。
:
; 単行本10巻
:* [[病原菌]]の進化速度が急激に速まり、既知の病原菌が[[薬剤耐性|耐抗生物質]]病原菌に生まれ変わる。
:* 国民は[[ナノマシン|ナノロボット]]を注射され、脳を一部権力者に操られる。
:* 国民は絶命遺伝子(寿命コントロール遺伝子)が組み込まれた食品を食べさせられ、一部権力者に寿命を握られる。
:
; 単行本11巻
:* 風の[[1/fゆらぎ|1/fの揺らぎ]]が[[高層ビル]]によって壊され、壊れた風を受けた人間は犯罪に走る。凶悪犯罪の数が[[しきい値|閾値]]を超えると形態共鳴が発生し、人間は意思では拒絶しつつも殺人を犯してしまう。
:* 火山の噴火によって酸素濃度が低下し、広範囲で窒息死が起こる。
:
; 単行本12巻
:* [[環境ホルモン]]によって[[概日リズム|体内時計]]が狂い、人間は火星の生活に適した体になる。
:* 1999年9月9日、2000年問題で誤作動を起こした[[人工衛星]]が搭載した実験用細菌を突然変異させ、太陽の極大期と共に地球に降り注ぐ。
:
; 単行本13巻
:* 1999年8月11日、グランドクロスで起きた引力暴走によってヴァン・アレン帯が壊れ降り注いだ宇宙線で人間のDNAの塩基が緩み遺伝子改造によって殺虫剤に耐性を持った蚊が性格遺伝子を注入すると人間の人格が権力者の都合の良い様に改造される。
:* [[秘密結社]]『神の言葉』は[[秦]]の[[始皇帝]]が保存した隷属遺伝子を[[インフルエンザウイルス]]に組み込み、世界中の人間に[[感染]]させようとしている。
:* '''人間の可能性は無限である。'''
:
; 新世紀黙示録MMR Resurrection
:* 1999年は滅びの始まりであり、ギリシャとイタリアの財政が疲弊した今、再稼働された原子力発電所の[[温排水]]が日本海に多い[[メタンハイドレート]]を分解すると温室効果が加速しオゾンクラッシュで紫外線が増えエターナルフィードバックで地球は灼熱の星に成るがイルミナティ(レジデントオブサン)達は火星に脱出する。
:* 2012年12月22日、[[フォトンベルト]]に突入した地球は磁場が弱まり降り注いだ大量の放射線が人体内の[[古細菌]][[アーキア]]を突然変異させ人間の体は喰い尽くされる。
=== 単行本未収録エピソード ===
1995年3・4合併号〜5号に掲載された『甦るノストラダムス 暗黒新予言<ref group="注釈">「暗黒新予言」は「あんこくネオよげん」とルビ。</ref>』の回は単行本未収録となっている。要因としては、当時の地元警察と[[マスメディア]]が第一通報者を犯人扱いした「[[松本サリン事件]]」を下敷きにして「世界を裏から支配する『[[三百人委員会|300人委員会]]』による[[サリン]]を使ったテロが起きる」という予言を描いた所、掲載の2ヶ月後に実際に「[[地下鉄サリン事件]]」が発生し<ref>因幡康介『実話ナックルズ』2023年2・3月合併号(大洋図書) 109頁「90年代発禁漫画の世界」</ref>、一連のサリン事件が300人委員会ではなく「[[オウム真理教]]」の犯行と判明したためとされている<ref>『トンデモノストラダムス本の世界』([[山本弘 (作家)|山本弘]])における本作の紹介で山本は、「この話の展開だと『300人委員会』の正体はオウムだったってことになる」とコメントしている。</ref>。
* 単行本5巻には、未収録分の穴埋めとして特別読切『怨声「もっと苦しめ…」』が収録されている。
* 単行本7巻の『1999 悪魔の全人類改造計画とは!?』には「それは以前調査した『300人委員会』みたいに世紀末の破滅を促す計画じゃ…」という台詞がある。
* このエピソードでは事故で入院したイケダの代理としてトマルがMMRに編入され、イケダ退院後もそのまま定着したが、この回が単行本未収録となったため、単行本では唐突にメンバー入りしている。
== 雑学 ==
[[講談社]]内には実際に「MMR」と呼ばれる組織が存在していた。メンバーは基本的に一介の編集者で構成されており、各人は専門家ではないが超常現象に関する知識は深いようである。
MMRメンバーは実在の編集者がモデルで、『[[金田一少年の事件簿]]』シリーズや『[[シュート!]]』シリーズの舞台裏4コマや対談等に、キバヤシ、イケダ、トマルとおぼしき編集者が登場している。イガラシ局長こと[[五十嵐隆夫]]は講談社コミックスの発行人として奥付に記載されている。
漫画の冒頭には「この物語は事実をもとにしたフィクションです」という但し書きが添えられている(2003年の『MMR』では単に「この物語はフィクションです」となった)。単行本の初めのページにも同文が添えられていたが、5巻以降は「この物語は事実をもとにしたフィクションです。内容に関する問い合わせは、電話では一切受け付けておりません。ご了承下さい」という但し書きに変更されている。
隊員のキバヤシの結論がことごとくノストラダムス関連に繋がってしまう。唯一の反論担当であるナワヤの意見もキバヤシの結論同様、根拠に乏しいとされている。また、当時講談社は『週刊現代』でもノストラダムスや終末予言特集を頻繁に特集していた。1999年が既に過去となり、通俗的な[[ノストラダムス現象]]が下火になってからは、これらの議論も同様に下火になっている。
1990年代後半にラジオ番組のゲストで樹林伸が出演し、ナワヤをミステリーサークルのど真中に寝させた件などを話す。その際、受験を控えた不安定な年頃の子に人気があると発言。本人はあくまでフィクションとして作っていた様子がここから伺える。
隊員のイケダは地図に載っていない遺伝子工学の研究所近くで胴の異様に長い猫"通称・'''ダックスキャット'''"を目撃したと語っている。胴の異様に長い猫は、都市伝説研究家[[関暁夫]]の著作『ハローバイバイ・関暁夫の都市伝説―信じるか信じないかはあなた次第』に写真が収められている。
MMRは単行本12巻に描かれた様に実際に米国の[[アメリカ航空宇宙局]](NASA)に赴き取材を申し込んでいるが門前払いされている。この体験をMMRはNASAが何か秘密(宇宙人を隠している等)を知られるのを嫌っているためだ、と結論付けている。
単行本9巻以降は副題に「MMR緊急報告」の文が付くようになった。
単行本6巻『1994神聖大予言 地球はすでに死滅している!?』にてタカイ・ジェームス・ケイイチ博士が人間の[[デオキシリボ核酸]](DNA)の95%は未解明であると説明しており、単行本7巻『1999悪魔の全人類改造計画とは!?』にてキバヤシがソビエトはモスクワのアメリカ大使館にマイクロ波を使って攻撃していたと説明しているのに、単行本9巻『MMR緊急報告 人類は自滅する!!』ではどちらも改めて説明され、皆初めて知る話であるかの様に驚いている。
他の巻は「アンゴルモアの大王」と表記しているが単行本10巻だけ「アングルモアの大王」と表記している。
単行本12巻はResident of Sunが初登場する『MMR 緊急報告 1999第5の選択』(『週刊少年マガジン』1998年41号掲載)よりも、「たしか…前回「2000年問題」を調査したとき我々に接触して来た人物ですよ…」とResident of Sunを思い出すセリフのある『MMR 緊急報告 イースター島の謎を追え!!』(『週刊少年マガジン』1999年25号掲載)の方をカラーページを含む関係からか先のページに入れてしまったため、作品内での時系列と収録の順番が逆転してしまっている。単行本4巻と11巻と『新世紀黙示録MMR Resurrection』も雑誌掲載と単行本収録の順番が異なる。
== その他 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2017年4月}}
* [[伊集院光]]は『MMR』を『週刊少年マガジン』史上最高の[[ギャグ漫画]]と評していた<ref>『[[伊集院光 深夜の馬鹿力]]』2000年10月29日放送分。「意地でも1999年に人類を滅亡させたいマンガ」とも評している。</ref>。伊集院はキバヤシについて「キバヤシさんていうのは、昔ね『金田一少年の事件簿』を立ち上げた時の編集部員で、何つったらいいのかな青瓢箪?って感じの人なんです俺がそん時会った時には。(中略)仇名を付けるとするならもやしっ子って感じの人だったんですけど(中略)あと絶対付けて欲しいのは、キバヤシさんの生写真。これを付けて貰う事で、子供達はほっとする事ができます。「あ、漫画は漫画だ」っていうそのほっと感が出ますんで」と実物と漫画の違いを評している。実物と漫画のキバヤシの違いは単行本6巻のおまけ漫画でもネタにされている。
* サイエンスエンターテイナー[[あすかあきお]]は、MMR開始前にキバヤシと会いMMRのシンクタンクとしての仕事を打診されていたが名前が出ない事を理由に断っている<ref>漫狂画人 飛鳥昭雄の漫画人生 飛鳥昭雄 工学社 319ページ</ref>。単行本1巻の監修は[[南山宏]]が担当している。
* 2000年から2002年にかけて[[小学館]]の雑誌『[[別冊コロコロコミック]]』にて、オカルトを題材とし小学館の社員が謎を調査するという[[高野聖ーナ]]による『CCC -コロコロ超常現象調査団-』が連載されていた。
* 2003年10月から講談社の『[[コミックボンボン]]』にて、読者の周りの不思議な体験を捜査するという[[きむら繁]]による『[[科学特捜BBR]]』が連載された。本作のイケダもコミックボンボン編集部員として登場する。同時期の同誌には石垣ゆうき作『マジシャン探偵A』も連載されていた。
* 2004年の週刊少年マガジンにて[[西本英雄]]による『西本英雄のマガジン調査隊(仮) [[もう、しませんから。]]』が連載される。
* 漫画家の[[美川べるの]]は『[[別冊フレンド]]』の「BMR(別フレミステリー調査班)」のリーダーとして『週刊少年マガジン』とも合同調査を行った事がある。
* [[ミリオン出版]]の『[[漫画実話ナックルズ]]』には、同じくオカルトを題材とした『KMR(ナックルズ・ミステリー・調査班)』という漫画がたまに掲載される事がある。初掲載作は『漫画実話ナックルズ』2009年7月号の『2012年 人類が滅亡する日』。
* 2008年3月26日、[[ゲームポット]]は『MFO([[モンスターファーム]]オンライン)』と『MMR マガジンミステリー調査班』との連携企画として『MMR』の登場人物が攻略法を指南する攻略ページや、漫画のコマに利用者が好きなセリフを当てはめられるサービスを提供した。
**[http://www.mf-online.jp/MFR/ モンスターファーム調査班(MFR)]
**[http://www.mf-online.jp/notice_newsview.aspx?seq=49 MFRジェネレーター]
**[http://www.mf-online.jp/com_blog_entry.aspx?seq=58 モンスターファームオンライン 公式ブログ | 明日 ヤツが帰ってくる?]
* 2008年9月、『[[週刊少年サンデー]]』・『週刊少年マガジン』創刊50周年記念として、『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』に連載された漫画がそれぞれ8作品ずつサカモトのコミックスメモの題材とされたが、本作も50年間の『週刊少年マガジン』作品を代表する8作品の内の1作に選ばれ、少年マガジンコミックスメモシリーズとして発売された。表紙は単行本7巻の表紙を引用している<ref>{{Cite web|和書|title=少年マガジンコミックスメモ (サカモトプレスリリースBLOG)|url=https://web.archive.org/web/20160319202201/http://www.sakamoto-co-ltd.jp/pressblog/2008/09/post_15.html|website=web.archive.org|date=2016-03-19|accessdate=2020-03-02}}</ref>。
* 2009年11月30日 [[コードマスターズ]]の『[[Operation Flashpoint: Dragon Rising]]』公式サイトにて、本編をコラージュした宣伝漫画が掲載された。
**[http://www.codemasters.jp/ofp/sp/ 『Operation Flashpoint: Dragon Rising』特設ページ]
* 2014年3月20日発売の[[PlayStation Vita]]専用ソフト『[[超次元ゲイム ネプテューヌmk2|超次次元ゲイム ネプテューヌRe;Birth2 SISTERS GENERATION]]』の特設サイトにおいてコラボ企画が掲載されておりMMRの面々が同作の世界観を読み解く宣伝画像やMMRと同作の登場人物たちのインタビューという形式のキャラトークが見られる<ref>{{Cite web|和書|title=MMR×ネプテューヌ|url=https://web.archive.org/web/20131129220233/http://www.compileheart.com/neptune/mmr/|website=web.archive.org|date=2013-11-29|accessdate=2020-03-02}}</ref>。
== 出版情報 ==
; 石垣ゆうき『MMR マガジンミステリー調査班』講談社〈少年マガジンKC〉、全13巻
:# (副題:UFOミステリーサークルの謎を追え!)1991年7月17日発行 ISBN 4-06-311693-X
:#* UFOからのメッセージ 週刊少年マガジン1990年第34号
:#* UFO[[ミステリー・サークル]]の謎を追え!(前・後編) 週刊少年マガジン1991年第6号、第7号
:#* [[超能力]]は実在した!(前・後編) 週刊少年マガジン1991年第20・21号、第22号
:# (副題:ノストラダムス大予言の謎を解け!!)1992年4月17日発行 ISBN 4-06-311778-2
:#* [[ノストラダムス]]大予言1999 人類は滅亡する!?(前・後編) 週刊少年マガジン1991年第35・36号、第37号
:#* ノストラダムス大予言1999 生き残る人類とは!?(前・後編) 週刊少年マガジン1992年第1・2号、第3・4号
:#* 読者から送られてきた恐怖の体験コーナー
:# (副題:ノストラダムスの大予言 1999最終戦争(ハルマゲドン)の恐怖)1992年12月14日発行 ISBN 4-06-311856-8
:#* ノストラダムス大予言1999 大破局へのシナリオとは!?(前・後編) 週刊少年マガジン1992年第20号、第21・22号
:#* ノストラダムス大予言1999 "最終戦争"([[ハルマゲドン]])はもう始まっている!?(前・後編) 週刊少年マガジン1992年第41号、第42号
:# (副題:1999人類破滅の真相)1993年10月16日発行 ISBN 4-06-311950-5
:#* ノストラダムス大予言1999 [[小惑星]]([[トータティス (小惑星)|トータチス]])が[[地球]]に激突する!?(前・後編) 週刊少年マガジン1993年第15号、第16号
:#* [[ムー大陸]]が警告する[[世紀末]]破局とは!?(前・後編) 週刊少年マガジン1993年第31号、第32号
:#* 特別編 [[前世]]は実在する!? 週刊少年マガジン1993年新年特別号マガジンフレッシュ
:# (副題:1999宇宙が告げる世紀末地獄とは!?)1994年5月17日発行 ISBN 4-06-312020-1
:#* [[心霊]]現象が警告する悪夢とは!?(前・後編) 週刊少年マガジン1993年第41号、第42号
:#* 1999戦慄の[[占星術]]大予言とは!?(前・後編) 週刊少年マガジン1994年第8号、第9号
:# (副題:神聖大予言 地球はすでに死滅している!?)1994年12月14日発行 ISBN 4-06-312085-6
:#* 地底王国からの破滅の囁きとは!?(前・後編) 週刊少年マガジン1994年第24号、第25号
:#* 1994神聖大予言 地球はすでに死滅している!?(前・後編) 週刊少年マガジン1994年第41号、第42号
:# (副題:日本潰滅〜世紀末最後の警鐘〜)1995年10月17日発行 ISBN 4-06-312189-5
:#* 1999悪魔の全人類改造計画とは!?(前・後編) 週刊少年マガジン1995年第21・第22号、第23号
:#* 謎の怪光物体を解明せよ!(前・後編) 週刊少年マガジン1995年第36号・37号、第38号
:# (副題:人類滅亡計画の真実とは!?)1996年8月12日発行 ISBN 4-06-312306-5
:#* 見えない悪魔 人類絶滅[[病原体]]あらわる!!!?(前・後編) 週刊少年マガジン1996年第3・4号、第5・6号
:#* 忍び寄る魔のテクノロジーとは!?(前・後編) 週刊少年マガジン1996年第21・22号、第23号
:# (副題:1999人類大審判の日)1997年5月16日発行 ISBN 4-06-312408-8
:#* 1999MMR緊急報告 悪魔の予言が導く最終破局([[カタストロフィー]])とは!?(前・後編) 週刊少年マガジン1996年第36・37号、第38号
:#* MMR緊急報告 人類は自滅する!!(前・後編) 週刊少年マガジン1997年第3・4号、第5・6号
:# (副題:人類判決の日来たる!!?)1998年3月17日発行 ISBN 4-06-312522-X
:#* 1999MMR緊急報告 恐怖[[細菌]]が逆襲する!!?(前・後編) 週刊少年マガジン1997年第22・23号、第24号
:#* 1999MMR緊急報告 人類[[判決]]の日、来たる!!?(前・後編) 週刊少年マガジン1997年第36・37号、第38号
:# (副題:海底遺跡の謎を追え!!)1998年9月17日発行 ISBN 4-06-312593-9
:#* MMR緊急報告 [[1999年]]への秒読み(前・後編) 週刊少年マガジン1998年第22・23号、第24号
:#* MMR緊急報告 [[海底遺跡]]の謎を追え!!(前・後編) 週刊少年マガジン1998年第7号、第8号
:# (副題:1999七の月)1999年7月16日発行 ISBN 4-06-312712-5
:#* MMR緊急報告 [[イースター島]]の謎を追え!! 週刊少年マガジン1999年第25号
:#* MMR緊急報告 1999第5の選択 週刊少年マガジン1998年第41号
:#* MMR緊急報告 第101の預言 週刊少年マガジン1999年第4・5号
:# (副題:The Last Research)1999年10月15日発行 ISBN 4-06-312748-6
:#* COUNT.10 発覚(コグニション) 週刊少年マガジン1999年第31号〜第42号
:#* COUNT.9 片鱗(グリンプス)
:#* COUNT.8 苦悩(ディストレス)
:#* COUNT.7 解明(イルシデーション)
:#* COUNT.6 方法(メソッド)
:#* COUNT.5 確信(コンビクション)
:#* COUNT.4 運命(フェイト)
:#* COUNT.3 疑惑(ダウト)
:#* COUNT.2 決断(デシジョン)
:#* COUNT.1 絶望(ディスペア)
:#* COUNT.0 無限(インフィニティ)
:
; 石垣ゆうき『新世紀黙示録MMR Resurrection』 2014年4月17日発売 ISBN 978-4-06-395059-5
:#* MMR復活編 1〜4話はプロジェクト・アマテラスにて2012〜2013年に配信。5話は電子書籍化の際の描き下ろし。
:#* MMR新世紀緊急報告 「人類最後の日」の真実を暴け!! 週刊少年マガジン2008年第21・22号、第23号
:
;[[講談社プラチナコミックス]]
:* 『MMR UFO・ミステリーサークルを追え! 編』2004年5月12日発行 ISBN 4-06-353234-8
:* 『MMR ノストラダムスの大予言の恐怖』2004年6月9日発行 ISBN 4-06-353260-7
:* 『MMR 神聖大予言 地球はすでに死滅している!?』2004年7月14日発行 ISBN 4-06-353291-7
:* 『MMR 人類判決の日来たる!?』2004年8月11日発行 ISBN 4-06-353321-2
:* 『MMR 海底遺跡の謎を追え!!』2004年9月8日発行 ISBN 4-06-353371-9
:* 『MMR ザ・ラストリサーチ』2004年10月13日発行 ISBN 4-06-353378-6
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 外部リンク ==
* [http://www.shonenmagazine.com/ マガメガ]
* [http://p-amateras.com/project/73 プロジェクト・アマテラス「なんだって――!! MMR復活プロジェクト」]
* [http://p-amateras.com/project/97 プロジェクト・アマテラス「漫画が読める! MMR復活編プロローグ」]
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多禰国
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多禰国(たねのくに)または多褹国は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。西海道に位置する。領域は現在の鹿児島県大隅諸島(種子島・屋久島・口永良部島)にあたる。
702年から824年まで122年間存続した。
多禰の場合、国のかわりに嶋(島)の字を用いて、多禰國を多禰嶋、その国司を島司と表すこともあった。国を嶋とも呼ぶのは、対馬・壱岐と共通する。日本書紀では多禰(多禰嶋)と7か所、続日本紀では多褹(多褹嶋)と21か所の記述あり。
多禰の初見は『日本書紀』の天武6年(677)2月条の「是の月、多禰嶋人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗へたまう」である。
また、『日本書紀』の天武10年8月20日の条に「多禰嶋に遣わした使節が、多禰国の地図を(天武天皇に)たてまつる」とあり、使者は一年以上多禰嶋に滞在して南島の調査等を行い報告の為の地図を作製した。これは信濃国の地図作成に先立つものであった。(この地図は日本における地図第一号と思われる(実在はしない文献上)多禰国年表
『続日本紀』大宝2年(702)8月1日条に「薩摩(隼人)と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」という記事があり、これが「薩摩国」と「多禰国」同時建置を示すと考えられている。
『続日本紀』和銅7年(714)4月25日条に元明天皇が「多褹嶋の公印一箇を与えた」との記述がある。
多褹国が存続した期間中、遣唐使が多褹国(多褹嶋)に帰着したことが二度ある。
一度目は天平6年(734)11月20日で、大使多治比広成の乗船が帰国した。
二度目は天平勝宝5年(753)12月12日(又は12月7日)で、この時には琉球を3隻で発って多禰嶋を目指した遣唐使船のうち
第2船・第3船が多褹国の益救嶋(屋久島)に帰国した。この第2船には鑑真が乗船しており、日本への来日を果たした。
よって、天平勝宝5年(753)12月12日、鑑真が屋久島に来日にする。
国の格付けは、南島(奄美・沖縄方面)との交流や遣唐使の派遣、隼人対策などの点から重要視されて中国とされていた。しかし実際には小国をはるかに下回る規模の税収しかなく、行政的な運営経費の不足分は大宰府が他の国から補填していた。しかし隼人の対策が一段落し、遣唐使の派遣経路が変わると多禰島の重要性は薄れてきた。
大宰府管内の飢饉に対処するために、多禰島の運営経費に当てていた税収が減少することになったため、財政の見直しの観点から天長元年(824)10月1日に多褹嶋司を司を廃止し、能満郡・熊毛郡・馭謨郡・益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して大隅国に編入した。なお、都良香が手掛けた太政官奏(太政官謹奏 停多褹島隸大隅國事)は名文とされ、『本朝文粋』にも収録されている。
国府の所在については、諸説あって未だ定まっていない。
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多禰国(たねのくに)または多褹国は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。西海道に位置する。領域は現在の鹿児島県大隅諸島(種子島・屋久島・口永良部島)にあたる。 702年から824年まで122年間存続した。
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[[ファイル:Japan prov map tane702.png|thumb|250px|right|多禰国の位置(702年)]]
'''多禰国'''(たねのくに)または多褹国は、かつて[[日本]]の地方行政区分であった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に位置する。領域は現在の[[鹿児島県]][[大隅諸島]]([[種子島]]・[[屋久島]]・口永良部島)にあたる。
[[702年]]から[[824年]]まで122年間存続した。
== 名称 ==
多禰の場合、国のかわりに嶋(島)の字を用いて、多禰國を多禰嶋、その国司を島司と表すこともあった。国を嶋とも呼ぶのは、[[対馬国|対馬]]・[[壱岐国|壱岐]]と共通する。日本書紀では多禰(多禰嶋)と7か所、続日本紀では多褹(多褹嶋)と21か所の記述あり。
== 沿革 ==
多禰の初見は『[[日本書紀]]』の'''[[天武天皇|天武]]6年([[677年|677)]]2月条'''の'''「是の月、多禰嶋人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗へたまう」'''である。
また、『日本書紀』の天武10年8月20日の条に「'''多禰嶋に遣わした使節が、多禰国の地図を(天武天皇に)たてまつる'''」とあり、使者は一年以上多禰嶋に滞在して南島の調査等を行い報告の為の地図を作製した。これは信濃国の地図作成に先立つものであった。(この地図は日本における地図第一号と思われる(実在はしない文献上)[https://kuchinoerabu-jima.org/img/tane.pdf 多禰国年表]
『続日本紀』[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年|702]])8月1日条に「薩摩(隼人)と{{JIS2004フォント|多褹}}が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」という記事があり<ref>[[:s:zh:續日本紀/卷第二|『続日本紀』巻二]] 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」。</ref>、これが「薩摩国」と「多禰国」同時建置を示すと考えられている。
『続日本紀』和銅7年(714)4月25日条に元明天皇が'''「多褹嶋の公印一箇を与えた」'''との記述がある<ref>[[:s:zh:續日本紀/卷第六|『続日本紀』巻六]] 和銅七年四月辛巳条。「給多褹嶋印一圖」。</ref>。
=== 遣唐使 ===
多褹国が存続した期間中、[[遣唐使]]が多褹国(多褹嶋)に帰着したことが二度ある。
一度目は'''[[天平]]6年(734)11月20日'''で、大使[[多治比広成]]の乗船が帰国した<ref>[[:s:zh:續日本紀/卷第十一|『続日本紀』巻十一]] 天平六年十一月丁丑条。「入唐大使從四位上多治比眞人廣成等來著多祢嶋」。</ref>{{Efn|この船には[[吉備真備]]・[[玄昉]]らが乗船し、帰国を果たした。}}。
二度目は'''[[天平勝宝]]5年(753)12月12日'''(又は12月7日)で、この時には琉球を3隻で発って多禰嶋を目指した遣唐使船のうち
第2船・第3船が多褹国の益救嶋(屋久島)に帰国した。この第2船には[[鑑真]]が乗船しており、日本への来日を果たした{{Efn|大使[[藤原清河]]や[[阿倍仲麻呂]]らを乗せた第1船は琉球出航後に遭難し安南に漂着。第3船には、2度目の入唐から帰国した副使[[吉備真備]]が乗船していた。}}。
=== 廃止 ===
国の格付けは、南島(奄美・沖縄方面)との交流や[[遣唐使]]の派遣、[[隼人]]対策などの点から重要視されて[[中国 (令制国)|中国]]とされていた。しかし実際には小国をはるかに下回る規模の税収しかなく、行政的な運営経費の不足分は[[大宰府]]が他の国から補填していた。しかし隼人の対策が一段落し、遣唐使の派遣経路が変わると多禰島の重要性は薄れてきた。
大宰府管内の飢饉に対処するために、多禰島の運営経費に当てていた税収が減少することになったため、財政の見直しの観点から'''[[天長]]元年(824)10月1日に多褹嶋司を司を廃止し<ref>[[:s:zh:日本後紀/卷第卅二|『日本後紀』巻三十二]] 天長元年十月丙子条。「停多褹嶋司、隷大隅国」。</ref>、'''[[能満郡]]・[[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]]・[[馭謨郡]]・[[益救郡]]の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して'''[[大隅国]]に編入した。'''なお、[[都良香]]が手掛けた[[太政官奏]]([[:s:zh:太政官謹奏,停多褹島隸大隅國事|太政官謹奏 停多褹島隸大隅國事]])は名文とされ、『[[本朝文粋]]』にも収録されている。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
国府の所在については、諸説あって未だ定まっていない。
=== 神社 ===
* [[益救神社]] - 屋久島に鎮座。
== 人物 ==
=== 国司 ===
# [[大伴上足]]:[[天平宝字]]四年五月九日([[760年]][[6月30日]])任
# [[佐伯毛人]]:[[天平神護]]元年正月六日([[765年]][[2月4日]])任
# [[中臣習宜阿曾麻呂]]:[[宝亀]]元年八月二十一日([[770年]][[9月18日]])任、同三年六月六日([[772年]][[7月14日]])任大隅守
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* 原口 泉・永山 修一・日隈 正守・松尾 千歳・皆村 武一 『鹿児島県の歴史』 [[山川出版社]] 1999年 ISBN 4-634-32460-1
*『唐大和上東征伝』淡海三船無舟
== 関連項目 ==
* [[令制国一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline}}
{{令制国一覧}}
{{DEFAULTSORT:たねのくに}}
[[Category:多禰国|*]]
[[Category:廃止された令制国]]
[[Category:鹿児島県の歴史]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%A6%B0%E5%9B%BD
|
17,218 |
主要地方道
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主要地方道(しゅようちほうどう)は、日本における道路の分類の一つで、道路法第56条の規定により建設大臣(現・国土交通大臣)が指定する、その地域で主要な役割を担う都道府県道、または指定市の市道である。
主要地方道に指定された都道府県道・指定市道は、高速自動車国道や一般国道と一体となって日本の広域交通を担う幹線道路として位置付けられており、整備や維持管理に要する費用の50 %までを国が補助することができる。
現在の指定路線は1993年(平成5年)5月11日に建設省(現・国土交通省。当時は中村喜四郎大臣)の告示で継続指定または新規指定が公布され、大半の都道府県はその翌年の1994年(平成6年)に主要地方道の継続認定または新規認定を施行している。
あくまで地方道であって国道ではなく、主要な都道府県道および指定市道が国土交通大臣により指定されている。
広域交通を担うという位置付けから、二つ以上の自治体を経由するもの、あるいは全区間が単一の自治体に含まれるものでも起点・終点の少なくとも一方が駅(停車場)・インターチェンジ・港湾・空港となっているものがほとんどである。
ただし指定後に沿線の自治体が合併したために上記のような性格を持たないものもある。
なお、都道府県道や指定市道は地方自治体が随時認定し、主要地方道は国土交通省(旧建設省)が数年おきに指定することになるため、都道府県道・指定市道として認定される区間と主要地方道として指定される区間は必ずしも一致せず、都道府県道や指定市道の路線名と主要地方道の路線名も一致しない場合もある。
主要地方道は、これまでに6度にわたり指定が行われている(日付は告示日)。
一般国道の新規路線(一般国道252号以降)の区域の多くは主要地方道が昇格したものである。そのため第1~2次の主要地方道指定は二級国道の路線指定の概ね1年後、第3次以降の主要地方道指定は、いずれも一般国道の路線指定のおおむね1年後に行われ、国道に昇格した路線の廃止(従前の告示の廃止による)、従来路線の継続指定、新規路線の指定などが行われる。この告示に基づき、各都道府県は施行日となる翌年4月1日までに路線の認定・変更・廃止を行っている。 例えば1993年5月の第6次主要地方道指定路線は多くの都道府県・指定市で翌1994年に路線の認定・変更・廃止が行われている。
路線番号案内標識などに表示される番号は、都道府県道の場合、一部の例外を除き1 - 100番の番号が採番される。
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主要地方道(しゅようちほうどう)は、日本における道路の分類の一つで、道路法第56条の規定により建設大臣(現・国土交通大臣)が指定する、その地域で主要な役割を担う都道府県道、または指定市の市道である。
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'''主要地方道'''(しゅようちほうどう)は、[[日本]]における[[道路]]の分類の一つで、[[道路法]]第56条の規定により[[建設大臣]](現・[[国土交通大臣]])が指定する、その地域で主要な役割を担う[[都道府県道]]、または[[指定市]]の[[市町村道|市道]]である{{Sfn|浅井建爾|2015|p=154}}。
== 概要 ==
[[File:Tochigi prefectural road Route 11 route sign2.jpg|150px|thumb|主要地方道の路線番号標識(栃木県道)]]
主要地方道に指定された都道府県道・指定市道は、[[高速自動車国道]]や[[一般国道]]と一体となって日本の広域交通を担う[[幹線道路]]として位置付けられており、整備や維持管理に要する費用の50 [[パーセント|%]]までを国が補助することができる{{Sfn|浅井建爾|2015|p=154}}。
現在の指定路線は[[1993年]]([[平成]]5年)[[5月11日]]に[[建設省]](現・[[国土交通省]]。当時は[[中村喜四郎]]大臣)の告示で継続指定または新規指定が公布され、大半の都道府県はその翌年の[[1994年]](平成6年)に主要地方道の継続認定または新規認定を施行している<ref group="注釈">主要地方道の告示については、国土交通省発足後の新規指定は行われておらず、[[s:道路法第五十六条の規定に基づく主要な都道府県道及び市道|平成五年五月十一日 建設省告示第千二百七十号]]が最新の告示である</ref>。
あくまで地方道であって国道ではなく、主要な都道府県道および指定市道が国土交通大臣により指定されている{{Sfn|浅井建爾|2015|p=154}}。
広域交通を担うという位置付けから、二つ以上の[[地方公共団体|自治体]]を経由するもの、あるいは全区間が単一の自治体に含まれるものでも起点・終点の少なくとも一方が[[鉄道駅|駅(停車場)]]・[[インターチェンジ]]・[[港湾]]・[[空港]]となっているものがほとんどである{{Sfn|浅井建爾|2015|p=154}}。
ただし指定後に沿線の自治体が[[日本の市町村の廃置分合|合併]]したために上記のような性格を持たないものもある。
なお、都道府県道や指定市道は地方自治体が随時認定し、主要地方道は国土交通省(旧建設省)が数年おきに指定することになるため、都道府県道・指定市道として認定される区間と主要地方道として指定される区間は必ずしも一致せず、都道府県道や指定市道の路線名と主要地方道の路線名も一致しない場合もある<ref group="注釈">たとえば[[秋田県道10号本荘西仙北角館線]]は、県道としての認定区間が「秋田県由利本荘市」から「秋田県仙北市角館町」で路線名が「本荘西仙北角館線」であるが、主要地方道は「仙北郡角館町」から「河辺郡雄和町」までで路線名が「角館西仙北雄和線」である。</ref>。
== 指定の沿革 ==
{{Wikisource|道路法第五十六条の規定に基づく主要な都道府県道及び市道}}<!-- 国土交通省のホームページでの検索方法は、[https://www.mlit.go.jp/notice/ 告示・通達検索システム(国土交通省)]にて、「件名および本文キーワード」に「道路法第五十六条の規定に基づく主要な都道府県道及び市道」と入力し、「検索実行」をクリックして、検索結果の「道路法第五十六条の規定に基づく主要な都道府県道及び市道」をクリックすると表示される。-->
主要地方道は、これまでに6度にわたり指定が行われている(日付は告示日)。
* 第1次: [[1954年]]([[昭和]]29年)[[1月20日]]
** 全て主要都道府県道として指定された。
* 第2次: [[1964年]](昭和39年)[[12月28日]]
** [[1956年]](昭和31年)[[9月1日]]に指定市となった5指定市<ref>[[横浜市]]・[[名古屋市]]・[[京都市]]・[[大阪市]]・[[神戸市]]</ref>、1964年(昭和39年)4月1日に指定市となった[[北九州市]]の市内完結路線の一部が主要指定市道となる。
* 第3次: [[1971年]](昭和46年)[[6月26日]]
** [[1972年]](昭和47年)[[5月23日]]([[沖縄県]]のみ。[[沖縄返還]]による)
* 第4次: [[1976年]](昭和51年)4月1日
** 1972年(昭和47年)4月1日に指定市となった[[札幌市]]・[[川崎市]]・[[福岡市]]の一部市内完結路線は主要指定市道となる。
* 第5次: [[1982年]](昭和57年)4月1日
* 第6次: [[1993年]]([[平成]]5年)[[5月11日]]
[[一般国道]]の新規路線([[国道252号|一般国道252号]]以降)の区域の多くは主要地方道が昇格したものである。そのため第1~2次の主要地方道指定は[[二級国道]]の路線指定の概ね1年後、第3次以降の主要地方道指定は、いずれも一般国道の路線指定のおおむね1年後に行われ、国道に昇格した路線の廃止(従前の告示の廃止による)、従来路線の継続指定、新規路線の指定などが行われる。この告示に基づき、各都道府県は施行日となる翌年[[4月1日]]までに路線の認定・変更・廃止を行っている。
例えば1993年5月の第6次主要地方道指定路線は多くの都道府県・指定市で翌[[1994年]]に路線の認定・変更・廃止が行われている。
== 番号の法則 ==
[[路線番号案内標識]]などに表示される番号は、都道府県道の場合、一部の例外を除き1 - 100番の番号が採番される<ref group="注釈">平成6年6月30日 建設省道政発第33号「都道府県の路線認定等について」(各都道府県知事宛、建設省道路局長通達)の「第七 路線番号のつけ方」によって国から各都道府県に通達されている。</ref>。
; 特殊な例
:* [[北海道の道道一覧|北海道道]]は路線数が多いため、100番台も主要地方道。なお、北海道では主要地方道を「主要道道」とも称する。
:* [[栃木県道]]ではかつて存在した[[栃木県の県道一覧|栃木県道]][[栃木県道100号石橋停車場線|100号]]は一般県道であった(2013年(平成25年)12月20日に廃止され、[[下野市]]に移管<ref name="haishi">{{PDFlink|[http://www.pref.tochigi.lg.jp/b05/pref/reiki/kouhou/documents/teiki2541.pdf 栃木県公報平成25年第2541号 栃木県告示第六百三十五号]}} 2013年12月23日閲覧。</ref><ref name="shimotsuke">[http://www.city.shimotsuke.lg.jp/hp/menu000011000/hpg000010945.htm 下野市 - 県道・市道の相互移管について] 2013年12月25日閲覧。</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.tochigi.lg.jp/h05/documents/haisigaiyou251220.pdf 県道路線の廃止及び県道路線名の変更について]}} 2013年12月25日閲覧。</ref>)。
:* [[東京都の都道一覧|東京都道]]では特例都道である主要地方道を300番台とする{{efn|例外として2022年に認定された[[東京都道・千葉県道501号王子金町市川線|東京都道'''501号'''王子金町市川線]]がある。}}。
:* [[滋賀県の県道一覧|滋賀県道]]は1990年(平成2年)9月16日まで主要地方道は300番台だった。
:* [[新潟県の県道一覧|新潟県道]]は1994年(平成6年)3月31日まで主要地方道は800番台だった。
:* [[山梨県の県道一覧|山梨県道]]は、2016年(平成28年)に路線認定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.yamanashi.jp/gyousei-kk/kouhou/documents/2572.pdf |page=14 |format=PDF |title=山梨県告示第17号 |work=山梨県公報 |date=2016-01-14 |accessdate=2021-04-30 }}</ref>[[山梨県道42号韮崎南アルプス富士川線]]([[国道52号]][[旧道]])<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.pref.yamanashi.jp/kenchikujutaku/documents/gimukarosen.pdf|title=耐震診断の義務付け対象道路について|publisher=山梨県県土整備部住宅建築課|accessdate=2017-03-10|page=2}}</ref>と2017年(平成29年)に路線認定した[[山梨県道43号六郷インター線]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.yamanashi.jp/gyousei-kk/kouhou/documents/2681.pdf |pages=154 - 155 |format=PDF |title=山梨県告示第56号・第57号・第62号 |work=山梨県公報 |date=2017-03-16 |accessdate=2021-04-30 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.yamanashi.jp/gyousei-kk/kouhou/documents/04.pdf |pages=28 - 30 |format=PDF |title=山梨県公安委員会告示第5号 |work=山梨県公報 |date=2019-05-20 |accessdate=2021-04-30 }}</ref>を山梨県が主要地方道として管理している。
:* [[静岡県の県道一覧|静岡県道]]は、静岡県道57号浜松停車場線を2005年(平成17年)1月28日に県道廃止し、浜松市道伝馬旭1号線となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/dourohozen/daicho/index.html|title=浜松市道路台帳図|publisher=浜松市|accessdate=2017-03-10}}</ref>。
:* 主要地方道に指定されている[[京都市]]道は、市の管理番号<ref>{{Cite web|和書|url=http://web.gis.survey.ne.jp/kyoto/ninteirosen/ |title=京都市認定路線網図提供システム |accessdate=2021-03-01}}</ref>とは別に180番台を現地案内用に付与している。
:* [[福岡県の県道一覧|福岡県道]]は路線数が多いため[[福岡県道151号浮羽草野久留米線|151号]]も主要地方道。
:* [[大分県の県道一覧|大分県道]]は、[[大分県道57号竹田犬飼線]]が一般県道。(国道57号からの指定換え)
:* [[沖縄県の県道一覧|沖縄県道]]は、[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ合衆国の施政]]時代の名残で、主要地方道と一般県道が混在して採番されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|authorlink=浅井建爾|edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[日本の道路一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mlit.go.jp/notice/noticedata/sgml/1993/23015010/23015010.html 道路法第五十六条の規定に基づく主要な都道府県道及び市道] - [[国土交通省]]
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[[Category:日本の道路]]
[[Category:都道府県道]]
[[Category:1954年設立]]
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2003-09-18T01:41:26Z
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2023-11-12T03:36:29Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%81%E5%9C%B0%E6%96%B9%E9%81%93
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優等列車
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優等列車(ゆうとうれっしゃ)とは、一部の鉄道会社で使用している普通列車に対して速達性や車内設備の優れた列車を総称する言葉である。社局により急行系列車や速達列車とする場合もある。
速達性を確保するため、普通列車よりも停車駅の少ない列車を設定している社局も少なくない。これらの列車を総称する言葉として速達列車や急行系列車、速達列車などを用いることがある。
日本国有鉄道(国鉄)・JRの旅客営業規則において、「運賃の他に特に料金を徴する列車」を急行列車と定義している。この場合、特別急行列車・準急行列車も含まれる 。現在、乗車に特別料金を要する列車のほとんどが「特急列車」に集約されつつある。
一方で長距離を速達運転する快速列車も増加している。快速列車の車内設備はかつての急行形車両よりも上質で、昭和初期から中期の特急用車両と比較しても遜色ない設備を持つ車両が投入されている。
私鉄では、近鉄特急、京成スカイライナー、小田急ロマンスカーのように特別料金を必要とする長距離速達列車もあり、単に速達列車のことを優等列車として扱うのが一般的であるが、料金不要列車を優等列車の範疇に含めるかどうかは事業者によって相違している。
国鉄・JRでは普通列車の一種として運行される快速列車も私鉄では事業者によっては優等列車として運行され、一部の私鉄では速達サービスに対する料金が必要な快速列車もある。
あいの風とやま鉄道・IRいしかわ鉄道が運行している「あいの風ライナー」や、過去の事例では、しなの鉄道が運行している2015年3月のダイヤ改正までの「しなのサンライズ号・しなのサンセット号」と鹿島臨海鉄道が運行していた快速列車「マリンライナーはまなす」は運賃のほかに乗車整理券を徴する。
かつて、東武鉄道と伊豆箱根鉄道では一部座席指定の快速列車を運行していた。
基本的に専用の車両である特急形車両や急行形車両が使用され、いわゆる一般形車両(つまり通勤形車両・近郊形車両)との格差をつけている。
昭和20年代までは客車での運行が基本であった。当時の客車は展望車など一部を除いて優等列車と普通列車で車両を分けていなかったが、原則として状態の良い車両を選定して運用された。
気動車や電車といった動力分散方式の車両が優等列車に進出するようになったのは動力近代化計画の取り組みが始まった昭和30年代に入ってからであり、進出初期の車両は80系電車やキハ10系気動車といった車両が準急列車で使用されていたが、座席の一部にロングシートがある・トイレや洗面所が一部の車両にしかないなど、元々は普通列車への使用を想定した車両であり、優等列車への本格的な使用を想定していなかった。
その後は優等列車で本格的な使用を想定した車両として特急形車両や急行形車両が登場した。なお、1980年代までは普通車に関しては特急形は回転クロスシート、急行形はボックスシートと車内設備に格差をつけていたが、急行形車両は1970年代に製造を打ち切られたため、1970年代後期以降は急行列車にも特急用車両が充当される事例が増加した。この他にも急行形車両の絶対数不足や通勤輸送列車への送り込み運用との兼ね合い、ローカル線向けに単行運転可能な急行形車両が製造されなかったことなどから一般形車両が急行列車に充当されたケースもある。こちらは"遜色急行"と呼ばれる。
私鉄では早いうちに動力分散方式を採用している。有料優等列車には基本的に専用の車両が使われることがほとんどであるが、中には京急2100形電車や富山地方鉄道の車両のように料金不要の種別と有料優等列車双方に使用される車両もある。他にも変わり種として小田急電鉄では週末には有料の準特急に使用し、平日には料金不要の一般列車に使用する車両として2320形電車が存在した。
料金不要列車には優等列車用の車両が定められないことも多いが、京阪特急や京急の快特など、専用車両を用いる列車も存在する。また、東急大井町線や東急東横線、阪神本線のように接客設備は他の列車と変わらないものの、車両性能や有効長などの都合で、優等列車と普通列車に異なる車両を用いる路線も存在する。また、京成のアクセス特急のように専用の編成を使用する列車もある。
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"text": "その後は優等列車で本格的な使用を想定した車両として特急形車両や急行形車両が登場した。なお、1980年代までは普通車に関しては特急形は回転クロスシート、急行形はボックスシートと車内設備に格差をつけていたが、急行形車両は1970年代に製造を打ち切られたため、1970年代後期以降は急行列車にも特急用車両が充当される事例が増加した。この他にも急行形車両の絶対数不足や通勤輸送列車への送り込み運用との兼ね合い、ローカル線向けに単行運転可能な急行形車両が製造されなかったことなどから一般形車両が急行列車に充当されたケースもある。こちらは\"遜色急行\"と呼ばれる。",
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"text": "私鉄では早いうちに動力分散方式を採用している。有料優等列車には基本的に専用の車両が使われることがほとんどであるが、中には京急2100形電車や富山地方鉄道の車両のように料金不要の種別と有料優等列車双方に使用される車両もある。他にも変わり種として小田急電鉄では週末には有料の準特急に使用し、平日には料金不要の一般列車に使用する車両として2320形電車が存在した。",
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"text": "料金不要列車には優等列車用の車両が定められないことも多いが、京阪特急や京急の快特など、専用車両を用いる列車も存在する。また、東急大井町線や東急東横線、阪神本線のように接客設備は他の列車と変わらないものの、車両性能や有効長などの都合で、優等列車と普通列車に異なる車両を用いる路線も存在する。また、京成のアクセス特急のように専用の編成を使用する列車もある。",
"title": "車両"
}
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優等列車(ゆうとうれっしゃ)とは、一部の鉄道会社で使用している普通列車に対して速達性や車内設備の優れた列車を総称する言葉である。社局により急行系列車や速達列車とする場合もある。
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{{出典の明記|date=2012年11月|ソートキー=鉄}}
{{特筆性|特筆性|date=2021年1月}}<!--定義不明瞭-->
'''優等列車'''(ゆうとうれっしゃ)とは、一部の鉄道会社で使用している[[普通列車]]に対して速達性や車内設備の優れた[[列車]]を総称する言葉である。社局により'''急行系列車'''や'''速達列車'''とする場合もある。
[[File:JR-Central-Tokyo-STA Shinkansen-concourse Digital-Signage.jpg|thumb|right|250px|各駅停車の「[[こだま (列車)|こだま]]」に対して速達列車の「[[ひかり (列車)|ひかり]]」の例。停車駅が少なく設定されている。]]
== 概要 ==
速達性を確保するため、普通列車よりも停車駅の少ない列車を設定している社局も少なくない。これらの列車を総称する言葉として'''速達列車'''や'''急行系列車'''、'''速達列車'''などを用いることがある。
== 日本 ==
=== 日本国有鉄道・JR ===
[[日本国有鉄道]](国鉄)・[[JR]]の旅客営業規則において、「運賃の他に特に料金を徴する列車」を[[急行列車]]と定義している。この場合、[[特別急行列車]]・[[準急列車|準急行列車]]も含まれる
<ref group="注">日本国有鉄道が[[急行券|料金]]を徴して運行した「準急行列車」は、[[1946年]](昭和21年)11月より、[[1968年]](昭和43年)9月まで。当初は急行列車の補助を目的として運行された列車である。詳細は[[準急列車#戦後の準急列車]]を参照されたい。なお、それ以前に鉄道省が[[1926年]](大正15年)9月より[[1937年]](昭和12年)12月15日まで比較的長距離を速達し、乗車に際して別に料金を徴する列車に「準急行」と号した列車が存在したが、運行される一部の地域では「快速列車」・「快速度列車」とも呼ばれていたとされ、厳格な列車種別としては確立されていなかったとされる。これについては、[[準急列車#戦前の準急列車]]・[[急行列車#国鉄・JRにおける急行列車]]も参照されたい。</ref>。現在、乗車に特別料金を要する列車のほとんどが「特急列車」に集約されつつある。
一方で長距離を速達運転する[[快速列車]]も増加している。快速列車の車内設備はかつての急行形車両よりも上質で、昭和初期から中期の特急用車両と比較しても遜色ない設備を持つ車両が投入されている。
=== 私鉄 ===
{{double image|right|Seibu_Railway_10000_Limited-express_Chichibu.jpg|200|Seibu-2000Nfirst.JPG|200|西武鉄道の優等列車<br/>左:有料特急レッドアロー「ちちぶ」<br/>右:料金不要の速達列車であっても優等列車として扱われる急行}}
[[私鉄]]では、[[近鉄特急]]、京成[[スカイライナー]]、[[小田急ロマンスカー]]のように特別料金を必要とする長距離速達列車もあり、単に'''速達列車'''のことを優等列車として扱うのが一般的であるが、料金不要列車を優等列車の範疇に含めるかどうかは事業者によって相違している。
==== 事業者による相違 ====
;料金不要の速達列車であっても優等列車として扱う事業者
*[[西武鉄道]]<ref name="Seibu">[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/05/21/20120521daiyakaisei.pdf 2012年6月30日(土)ダイヤ改正を実施します] - 西武鉄道 2012年5月21日</ref>
*[[北総鉄道]]<ref name="Hokuso">[http://www.hokuso-railway.co.jp/data/topics/195/20151022165855.pdf 12月5日(土)北総線ダイヤ改正] - [[北総鉄道]] 2015年10月22日</ref>
;料金不要の速達列車には優等列車という表現を用いない事業者
:国鉄・JRの普通列車と同様に料金不要列車には優等列車と呼ばない事業者も存在する。
*[[東武鉄道]] - 同社では料金不要列車には速達種別であっても優等列車という表現を用いず、'''一般列車'''と表現している<ref>{{PDFlink|[http://www.tobu.co.jp/file/pdf/2647e3941996778a3a8afbb919eccd2f/170228_4.pdf 4月21日(金) ダイヤ改正を実施!東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線など【特急列車以外の一般列車】]}} - 東武鉄道、2017年2月28日</ref>。
*[[小田急電鉄]] - 同社では料金不要列車には速達種別であっても優等列車という表現を用いず、'''一般列車'''と表現している<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8360_8351253_.pdf 2016年3月26日(土)小田急線ダイヤ改正を実施します]}} - 小田急電鉄 2015年12月18日</ref>。
*[[近畿日本鉄道]] - 同社では料金不要列車には速達種別であっても優等列車という表現を用いず、'''一般列車'''と表現している<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahenkou2.pdf 平成26年のダイヤ変更について]}} - 近畿日本鉄道</ref>。
*[[京王電鉄]] - 各駅停車以外の列車には優等列車という表現を用いず、'''急行系列車'''と表現する<ref>[[交通新聞社]]『京王電鉄の世界』p.77</ref>。
*[[東急電鉄]] - 各駅停車以外の列車には優等列車という表現を用いず、'''速達列車'''と表現している<ref>{{PDFlink|[http://www.tokyu.co.jp/file/160225-1.pdf 3月26日(土)、東急線全線でダイヤ改正を実施]}} - 東京急行電鉄 2016年2月25日</ref>。
==== 有料快速列車 ====
{{see also|快速列車}}
国鉄・JRでは普通列車の一種として運行される快速列車も私鉄では事業者によっては優等列車として運行され、一部の私鉄では速達サービスに対する料金が必要な快速列車もある。
[[あいの風とやま鉄道]]・[[IRいしかわ鉄道]]が運行している「[[あいの風ライナー]]」や、過去の事例では、[[しなの鉄道]]が運行している2015年3月のダイヤ改正までの「[[しなのサンライズ号・しなのサンセット号]]」と[[鹿島臨海鉄道]]が運行していた快速列車「マリンライナーはまなす」は運賃のほかに乗車整理券を徴する。
かつて、東武鉄道と[[伊豆箱根鉄道]]では一部座席指定の快速列車を運行していた。
== 車両 ==
{{main|特急形車両|急行形車両}}
=== 日本国有鉄道・JR ===
基本的に専用の車両である[[特急形車両]]や[[急行形車両]]が使用され、いわゆる[[一般形車両 (鉄道)|一般形車両]](つまり[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形車両]]・[[近郊形車両]])との格差をつけている<ref>PHP研究所 [[梅原淳]]『雑学3分間ビジュアル図解シリーズ 特急列車のすべて』p. 78</ref>。
昭和20年代までは[[客車]]での運行が基本であった。当時の客車は展望車など一部を除いて優等列車と普通列車で車両を分けていなかったが、原則として状態の良い車両を選定して運用された。
[[気動車]]や[[電車]]といった[[動力分散方式]]の車両が優等列車に進出するようになったのは[[動力近代化計画]]の取り組みが始まった昭和30年代に入ってからであり、進出初期の車両は80系電車やキハ10系気動車といった車両が準急列車で使用されていたが、座席の一部にロングシートがある・トイレや洗面所が一部の車両にしかないなど、元々は普通列車への使用を想定した車両であり、優等列車への本格的な使用を想定していなかった。
その後は優等列車で本格的な使用を想定した車両として特急形車両や急行形車両が登場した。なお、[[1980年代]]までは[[普通車_(鉄道車両)|普通車]]に関しては特急形は回転クロスシート、急行形はボックスシートと車内設備に格差をつけていたが、急行形車両は[[1970年代]]に製造を打ち切られたため、1970年代後期以降は急行列車にも特急用車両が充当される事例が増加した。この他にも急行形車両の絶対数不足や通勤輸送列車への送り込み運用との兼ね合い、ローカル線向けに単行運転可能な急行形車両が製造されなかったことなどから一般形車両が急行列車に充当されたケースもある。こちらは"[[遜色急行]]"と呼ばれる。
=== 私鉄 ===
私鉄では早いうちに動力分散方式を採用している。有料優等列車には基本的に専用の車両が使われることがほとんどであるが、中には[[京急2100形電車]]や[[富山地方鉄道]]の車両のように料金不要の種別と有料優等列車双方に使用される車両もある。他にも変わり種として小田急電鉄では週末には有料の準特急に使用し、平日には料金不要の一般列車に使用する車両として[[小田急2320形電車|2320形電車]]が存在した。
料金不要列車には優等列車用の車両が定められないことも多いが、[[京阪特急]]<ref group="注">ただし近年は、運用本数の増加等により専用車である[[京阪8000系電車|8000系]]の他に[[京阪3000系電車 (2代)|新3000系]]や[[京阪6000系|6000系]]などの一般車も併用されている。</ref>や[[快速特急#京浜急行電鉄|京急の快特]]など、専用車両を用いる列車も存在する。また、[[東急大井町線]]や[[東急東横線]]、[[阪神本線]]のように接客設備は他の列車と変わらないものの、車両性能や[[有効長]]などの都合で、優等列車と普通列車に異なる車両を用いる路線も存在する。また、京成のアクセス特急のように専用の編成<ref group="注">[[京成3000形電車 (2代)|京成3000形・3050形]]・[[京成3100形電車 (2代)|3100形]]・[[京急1000形電車_(2代)|京急新1000形]]・[[京急600形電車 (3代)|600形]]が該当するが、単純に乗り入れできる車両ではなく、[[鉄道車両のモニタ装置|車上情報管理装置]]に[[停車駅通過防止装置|誤通過防止機能(停車予告機能)]]の搭載を行った編成となる。</ref>を使用する列車もある。
== 日本国外 ==
{{double image|right|ETR 300 prima del 1959.jpg|200|汐止車站 (14370892182).jpg|200|日本国外の優等列車<br/>左:TEEに使用された[[イタリア]]の[[セッテベッロ]](ETR300型電車)<br/>右:[[台湾]]の[[自強号]](左)と[[普悠瑪号]](右)}}
;[[アメリカ合衆国]]
:[[20世紀]]初頭の[[インターアーバン]]電車に、[[食堂車]]や[[展望車|パーラーカー]]<!--「パーラーカー」は現行展望車へのリンクのため。-->を連結し特別料金を徴収する「LIMITED」という列車が運転されたが、これは優等列車の典型的な例である。また、[[1860年代]]から[[1960年代]]にかけて特別料金を徴収する[[プルマン (企業)|プルマン]]の[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]が[[アメリカ合衆国の鉄道運営組織一覧|各鉄道会社]]の[[旅客列車]]に連結され、高級なサービスで旅客需要の大半を担っていた([[アメリカ合衆国の鉄道史]]参照)。[[1970年代]]以降、鉄道の旅客輸送は[[アムトラック]]が一括運営しているが、[[メトロリンク (南カリフォルニア)|メトロリンク]]等一部の[[通勤列車]]を除いて旅客列車に優劣が存在しない状態となっている。
;[[ヨーロッパ]]
:ヨーロッパ諸国では[[19世紀]]から特別料金を徴収する優等列車が多数運行されており、[[戦間期]]には[[フライング・スコッツマン]]([[イギリス]])、[[フリーゲンダー・ハンブルガー]]([[ドイツ]])、[[青列車]]([[フランス]])、[[イタリア国鉄ETR200電車|ETR200電車]]による高速列車([[イタリア]])といった国内列車の他、[[オリエント急行]]や[[オーステンデ・ウィーン急行]]等の[[国際列車]]も存在した。[[第二次世界大戦]]後も各国が協力して[[TEE]]による優等列車のネットワークが構築され、イタリアのETR ([[イタリア語]]:Elettrotreno Rapido, ETR) を冠する電車([[セッテベッロ]]等)を始めとして優等列車用の[[鉄道車両]]が多数登場した。[[1980年代]]以降、各国では[[TGV]]・[[ICE]]等の[[高速列車]]網が構築されたが、一般路線でも従来のTEEに替わって[[ユーロシティ]]が引き続き運行されている。また、各国内では[[インターシティ]]([[中欧]]と近隣諸国)、[[アンテルシテ]]([[フランス]])、[[エストレーリャ]]([[スペイン]])等の優等列車が運行されている。
;[[中華民国|台湾]]
:[[台湾鉄路管理局]](台鉄)は、[[1988年]]から優等列車として[[自強号]](日本の特急に相当)、[[莒光号]](旧国鉄・JRの急行に相当)、[[復興号]]の3種類を運行している。台鉄には[[太魯閣号]]・[[普悠瑪号]]と呼ばれる列車もあるが、[[列車種別]]上は自強号の一部となっている。優等列車は原則として「[[対号列車]]」と呼ばれる列車で運行され、全席が[[座席指定席]]となっている。ただし、太魯閣号・普悠瑪号以外の自強号は満席であっても「自願無座」と呼ばれる立席利用が可能であり、定期券やICカードも利用できる。運賃は[[日本の鉄道]]で見られる[[乗車券|基本料金]]に[[座席指定券|特別料金]]を付加する方式では無く、列車種別毎に異なる料金体系を用いている。なお、対号列車である復興号は非対号列車(全席[[自由席]]の列車)である[[区間車|区間車・区間快車]](旧国鉄・JRの普通列車に相当)と同額の運賃となっている。
;[[大韓民国|韓国]]
:[[韓国鉄道庁]]は、[[1984年]]から[[首都圏電鉄]]以外の[[旅客列車]]を[[セマウル号]]、[[ムグンファ号]]、[[トンイル号]]、[[ピドゥルギ号]]の4種類に体系化し、ピドゥルギ号以外を優等列車とした。だが、列車運用の見直しによってピドゥルギ号・トンイル号が順次廃止されると、[[2004年]]4月から普通列車の[[通勤列車 (韓国)|通勤列車]]が走らない地方の区間ではムグンファ号が実質的に普通列車の役割を兼ねて地域輸送を担うようになった。[[韓国鉄道公社]](KORAIL)発足後、KORAILは新規の優等列車として[[ヌリロ]]、[[ITX-青春]]、[[ITX-セマウル]]を登場させる一方、[[各駅停車]]である通勤列車の運行を相次いで取り止めていった。そのため、[[2020年]]元日時点で[[広域電鉄]]と[[光州線]]を除いたKORAILの路線は優等列車のみの運行となっている。なお、鉄道庁・KORAILは列車種別毎に異なる料金体系を設定しているため、下級列車の廃止は事実上の運賃値上げとなった。
;[[インドネシア]]
:[[KRLジャボデタベック]]では特別料金を徴収する急行列車や準急列車([[2000年代]]に新設)が運行されていたが、[[2013年]]に廃止されている。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[列車種別]]・[[列車愛称]]・[[日本の列車愛称一覧]]
* [[急行券]]・[[特別急行券]]
* [[通過標識灯]]
* [[格下げ車両]]
{{日本における列車種別一覧}}
{{列車沿革}}
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[[Category:列車|種]]
[[Category:列車種別|†]]
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17,220 |
地方交通線
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地方交通線(ちほうこうつうせん)とは、日本国有鉄道(国鉄)・JRの鉄道路線の分類の一つ。
国鉄の末期、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(国鉄再建法)に基づいて国鉄の路線は幹線と地方交通線に分類され、異なる運賃を適用することになった。これらの分類のうち、地方交通線は、「幹線鉄道網を形成する営業線として政令で定める基準に該当するものを除いて、その運営の改善のための適切な措置を講じたとしてもなお収支の均衡を確保することが困難であるもの」と定義されている。具体的には、以下のいずれの条件にも当てはまらない路線を指す(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法施行令第1条・第2条)。
1981年4月、国鉄は175線(10,169.5km)を地方交通線として運輸省に申請し、承認された。さらに、地方交通線の中でも旅客輸送密度4,000人未満の路線は、原則として廃止対象の特定地方交通線に指定された(詳細は該当項目参照)。
従来全線で一律だった国鉄運賃は、幹線と地方交通線とで異なる運賃を適用されることになり、その分類はJRにも引き継がれている。制定以降に開業した路線については、利益予測を元にするなどして幹線・地方交通線の別を決定している。
一般的な月刊冊子型の時刻表に記載されている索引地図では、地方交通線は青の太線で表示されている。
神奈川県・滋賀県・大阪府・香川県のJR線には地方交通線が存在せず、全ての路線が幹線である。その一方で富山県内のJR在来線は2015年の北陸新幹線金沢駅延伸開業に伴う北陸本線のあいの風とやま鉄道線への転換により全て地方交通線となっており、続いて2024年春に予定されている北陸新幹線の敦賀駅延伸開業後は石川県のJR在来線全区間、並びに福井県の北陸本線滋賀県境 - 新疋田駅 - 敦賀駅の2駅間未満を除くJR在来線ほとんどの区間が地方交通線となる見通し。
幹線と地方交通線の分類は1981年の制定以来原則として改訂が行われていないので、秋田新幹線が毎日10数往復するようになった田沢湖線や、青函トンネルを越える高速貨物列車が多数運転される津軽線、閑散区間の廃止が行われた可部線・札沼線、後に当時の「幹線系線区」となる輸送密度の基準(8,000人/日以上)を上回った武豊線・八高線や東金線などが地方交通線のままになっている。また逆に貨物輸送の実績で幹線に指定されたものの、後にその貨物列車が廃止された美祢線・宇部線が幹線のままであるなど輸送実態の変化に合わなくなった事例も生じている。
2016年3月22日以降定期旅客列車の設定がなくなった海峡線は旅客営業規則上は引き続き地方交通線として残されているが、多くの部分で線路を共用する北海道新幹線の奥津軽いまべつ - 木古内には幹線運賃が適用される形となった。
北海道旅客鉄道(JR北海道)・東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・西日本旅客鉄道(JR西日本)の4社では国鉄時代の運賃計算方法を踏襲しているが、四国旅客鉄道(JR四国)・九州旅客鉄道(JR九州)の2社では1996年1月10日に実施された運賃改定により制度が改められているため、計算方法が異なる。
なお、日本貨物鉄道(JR貨物)では、地方交通線を経由する貨物列車に対して割増の運賃が適用されることはない。
幹線用の運賃表と別に地方交通線用の運賃表(概ね幹線の約1割増の額)が用意されている。
地方交通線のみを乗車する場合は地方交通線用の運賃表が適用される。通過連絡運輸により他社線を跨いだ場合でも、乗車するJR線区間が全線地方交通線であれば地方交通線用の運賃表が適用される。
幹線と地方交通線とを乗り継ぐ場合は、地方交通線については営業キロを約1割増した換算キロを用い、これと幹線の営業キロとを合算した運賃計算キロを元に、幹線の運賃表で運賃を求める。ただし、全乗車区間の営業キロが10km以下の場合は営業キロで地方交通線の運賃表を適用する。
JR東日本・JR東海・JR西日本の本州三社の地方交通線の運賃は同額だが、JR北海道は本州三社よりやや割高な運賃となる。JR東日本ではICカードを利用して乗車した際は別の運賃が適用される。
なおJR東日本が運営する気仙沼線・大船渡線BRTにおいては、BRT転換前の鉄道線に合わせ、地方交通線と同様の運賃体系を採用している。ただし、普通運賃については鉄道線と乗り継いだ場合の通算はできず(鉄道線との並行区間である前谷地駅 - 柳津駅間を除く)、それぞれ別建ての運賃となる。
運賃表は単一であり幹線・地方交通線で分かれていない。
地方交通線の運賃計算には営業キロを約1割増した擬制キロを用いる。ただし、乗車区間の擬制キロと営業キロの値によっては、特定運賃が適用される。
幹線と地方交通線とを乗り継ぐ場合は、地方交通線については擬制キロを用い、これと幹線の営業キロとを合算した運賃計算キロを元に、運賃表で運賃を求める。
JR四国とJR九州では運賃が異なる。
※特定地方交通線は除外(該当項目を参照)。また、存続路線の部分廃止区間は一覧の備考欄を参照。
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地方交通線(ちほうこうつうせん)とは、日本国有鉄道(国鉄)・JRの鉄道路線の分類の一つ。
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'''地方交通線'''(ちほうこうつうせん)とは、[[日本国有鉄道]](国鉄)・[[JR]]の[[鉄道路線]]の分類の一つ。一般的な月刊冊子型の[[時刻表]]に記載されている[[索引]]地図では、地方交通線は青の太線で表示されている。
1981年4月以降より、国鉄の路線は'''[[幹線]]'''と'''地方交通線'''に分類される。これ以降、従来全線で一律だった国鉄運賃は、[[幹線]]と地方交通線とで異なる運賃を適用されることになり、その分類はJRにも引き継がれている。
== 概要 ==
国鉄の末期、「[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法]]」(国鉄再建法)に基づいて国鉄の路線は[[幹線]]と地方交通線に分類され、異なる運賃を適用することになった。これらの分類のうち、地方交通線は、「幹線鉄道網を形成する営業線として政令で定める基準に該当するものを除いて、その運営の改善のための適切な措置を講じたとしてもなお収支の均衡を確保することが困難であるもの」と定義されている。
具体的には、以下のいずれの条件にも当てはまらない路線を指す(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法施行令第1条・第2条)。
# 1980年3月末現在で人口10万人以上の都市(=主要都市)を相互に連絡し、旅客営業キロが30kmを超え、すべての隣接駅間の旅客[[輸送密度]](=1977年 - 79年度3年間平均の1日1kmあたりの輸送人員)が4,000人以上である区間を有する線。
# 1.の条件にあてはまる営業線と主要都市とを相互に連絡し、旅客営業キロが30kmを超え、すべての隣接駅間の旅客輸送密度が4,000人以上である区間を有する線。
# 旅客輸送密度が8,000人以上である線。
# 貨物輸送密度(1977年 - 79年度3年間平均の1日1kmあたりの輸送貨物トン数)が4,000t以上である線。
[[1981年]]4月、国鉄は175線(10,169.5km)を地方交通線として運輸省に申請し、承認された。さらに、地方交通線の中でも旅客輸送密度4,000人未満の路線は、原則として廃止対象の[[特定地方交通線]]に指定された(詳細は該当項目参照)。
制定以降に開業した路線については、利益予測を元にするなどして幹線・地方交通線の別を決定<ref>例として、[[1988年]]開業の[[瀬戸大橋]]を渡る[[本四備讃線]]が幹線に分類された一方、[[青函トンネル]]を通る[[海峡線]]は地方交通線に分類された。また、[[1986年]]に[[内子線]]を挟む形で開通した[[向井原駅|向井原]] - [[内子駅|内子]]間および[[新谷駅|新谷]] - [[伊予大洲駅|伊予大洲]]間は[[予讃線]]として幹線に分類された。</ref>している。
[[神奈川県]]・[[滋賀県]]<ref>過去には[[信楽高原鐵道信楽線|信楽線]]が該当したものの、特定地方交通線として[[信楽高原鐵道]]に転換された。</ref>・[[大阪府]]・[[香川県]]のJR線には地方交通線が存在せず、全ての路線が幹線である。その一方で[[富山県]]内のJR在来線は2015年の北陸新幹線[[金沢駅]]延伸開業に伴う[[北陸本線]]の[[あいの風とやま鉄道線]]への転換により全て地方交通線となっており、続いて2024年春に予定されている北陸新幹線の[[敦賀駅]]延伸開業後は[[石川県]]のJR在来線全区間、並びに[[福井県]]の北陸本線[[滋賀県]]境 - [[新疋田駅]] - 敦賀駅の2駅間未満を除くJR在来線ほとんどの区間が地方交通線となる見通し。
=== 実態との乖離 ===
幹線と地方交通線の分類は1981年の制定以来原則として改訂が行われていないので、[[秋田新幹線]]が毎日10数往復するようになった[[田沢湖線]]や、[[青函トンネル]]を越える[[高速貨物列車]]が多数運転される[[津軽線]]<ref>江差線の五稜郭 - 木古内間も、2016年3月の経営分離までは同様であった。</ref>、閑散区間の廃止が行われた[[可部線]]・[[札沼線]]<ref name="jr-west">両者とも現存区間の輸送密度は地方交通線でありながら15,000人/日を超える([https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/ データでみるJR西日本]p58)([https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/201900904_KO_ExpenditureOfSection.pdf 線区別の収支とご利用状況について]p10)。</ref>、後に当時の「幹線系線区」となる輸送密度の基準(8,000人/日以上)を上回った[[武豊線]]・[[八高線]]や[[東金線]]などが地方交通線のままになっている。また逆に貨物輸送の実績で幹線に指定されたものの、後にその貨物列車が廃止された[[美祢線]]・[[宇部線]]が幹線のままであるなど輸送実態の変化に合わなくなった事例も生じている。
2016年3月22日以降定期旅客列車の設定がなくなった[[海峡線]]は旅客営業規則上は引き続き地方交通線として残されている<ref name="tokai"/>が、多くの部分で線路を共用する[[北海道新幹線]]の[[奥津軽いまべつ駅|奥津軽いまべつ]] - [[木古内駅|木古内]]には幹線運賃が適用される形となった。
== 運賃計算 ==
[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東海旅客鉄道]](JR東海)・[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の4社では国鉄時代の運賃計算方法を踏襲しているが、[[四国旅客鉄道]](JR四国)・[[九州旅客鉄道]](JR九州)の2社では1996年1月10日に実施された運賃改定により制度が改められているため、計算方法が異なる。
なお、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)では、地方交通線を経由する貨物列車に対して割増の運賃が適用されることはない<ref>『[[貨物時刻表|2016貨物時刻表]]』、公益社団法人鉄道貨物協会、2016年3月、208 - 210頁。貨物運賃計算で使うキロ程は旅客運賃の営業キロと同じであり、割増された換算キロ・擬制キロは使用していない。</ref>。
=== JR北海道・JR東日本・JR東海・JR西日本 ===
幹線用の運賃表と別に地方交通線用の運賃表(概ね幹線の約1割増の額)が用意されている。
地方交通線のみを乗車する場合は地方交通線用の運賃表が適用される。[[連絡運輸#通過連絡運輸|通過連絡運輸]]により他社線を跨いだ場合でも、乗車するJR線区間が全線地方交通線であれば地方交通線用の運賃表が適用される。
幹線と地方交通線とを乗り継ぐ場合は、地方交通線については[[営業キロ]]を約1割増した[[営業キロ#換算キロ・擬制キロ・運賃計算キロ|換算キロ]]を用い、これと幹線の営業キロとを合算した運賃計算キロを元に、幹線の運賃表で運賃を求める。ただし、全乗車区間の営業キロが10km以下の場合は営業キロで地方交通線の運賃表を適用する。
: 例:[[水郡線]](JR東日本・地方交通線)[[常陸津田駅]]と[[常磐線]](同・幹線)[[勝田駅]]の相互発着の場合([[水戸駅]]経由)、常陸津田駅 - 水戸駅間の営業キロは4.1km、と水戸駅 - 勝田駅間の営業キロは5.8kmで合計9.9kmとなるため、地方交通線10km以下の210円となる。水郡線の換算キロ(この場合4.5km)と常磐線の営業キロを足した運賃計算キロ(10.3km、240円)とはならない。
JR東日本・JR東海・JR西日本の本州三社の地方交通線の運賃は同額だが、JR北海道は本州三社よりやや割高な運賃となる。JR東日本ではICカードを利用して乗車した際は別の運賃が適用される。
なおJR東日本が運営する[[気仙沼線・大船渡線BRT]]においては、BRT転換前の鉄道線に合わせ、地方交通線と同様の運賃体系を採用している。ただし、普通運賃については鉄道線と乗り継いだ場合の通算はできず(鉄道線との並行区間である[[前谷地駅]] - [[柳津駅 (宮城県)|柳津駅]]間を除く)、それぞれ別建ての運賃となる<ref>定期運賃については営業キロを通算した運賃が適用される</ref>。
=== JR四国・JR九州 ===
運賃表は単一であり幹線・地方交通線で分かれていない。
地方交通線の運賃計算には営業キロを約1割増した[[営業キロ#換算キロ・擬制キロ・運賃計算キロ|擬制キロ]]を用いる。ただし、乗車区間の擬制キロと営業キロの値によっては、特定運賃が適用される。
幹線と地方交通線とを乗り継ぐ場合は、地方交通線については擬制キロを用い、これと幹線の営業キロとを合算した運賃計算キロを元に、運賃表で運賃を求める。
JR四国とJR九州では運賃が異なる。
== 営業中の地方交通線一覧 ==
=== JR北海道 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:6em;"|路線名
!区間
!営業キロ
!愛称名
!備考
|-
![[宗谷本線]]
|style="text-align:center;"|旭川 - 稚内
|style="text-align:right;"|259.4km
|
|日本最長の地方交通線。
|-
![[石北本線]]
|style="text-align:center;"|新旭川 {{Efn|営業列車のほとんどが[[旭川駅]]から発着する。}}- 網走
|style="text-align:right;"|234.0km
|
|
|-
![[釧網本線]]
|style="text-align:center;"|網走 - 東釧路{{Efn|営業列車のほとんどが[[釧路駅]]に乗り入れる。}}
|style="text-align:right;"|166.2km
|
|
|-
![[富良野線]]
|style="text-align:center;"|旭川 - 富良野
|style="text-align:right;"|54.8km
|
|
|-
![[留萌本線]]
|style="text-align:center;"|深川 - 石狩沼田
|style="text-align:right;"|14.4km
|
|style="text-align:left;"|[[留萌駅|留萌]] - [[増毛駅|増毛]]間16.7kmは2016年12月5日、石狩沼田 - 留萌間35.7kmは2023年4月1日廃止。残存区間についても2026年4月1日に廃止予定<ref>{{Cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/654008|title=留萌本線「石狩沼田ー留萌」廃線、苦渋の決断の裏 3月末で終了、また一つ消えるJR北海道の路線|newspaper=[[東洋経済新報社|東洋経済]]ONLINE|date=2023-2-24|accessdate=2023-04-01}}</ref>。
|-
![[札沼線]]
|style="text-align:center;"|桑園{{Efn|営業列車のほとんどが[[札幌駅]]から発着する。}} - 北海道医療大学
|style="text-align:right;"|28.9km
|style="text-align:center;"|学園都市線
|style="text-align:left;"|輸送密度は17,023人/日(2013年)と可部線に匹敵する<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140509-1.pdf|format=PDF|title=平成26年3月期決算について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-05-09|accessdate=2014-09-17|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。非電化区間の北海道医療大学 - 新十津川間は2020年5月7日廃止<ref>{{PDFlink|[https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181221_KO_Sassyoline.pdf 札沼線(北海道医療学園・新十津川間)の鉄道事業廃止届の提出について]}} - 北海道旅客鉄道(2018年12月21日)</ref>。
|-
![[日高本線]]
|style="text-align:center;"|苫小牧 - 鵡川
|style="text-align:right;"|30.5km
|
| |鵡川 - [[様似駅|様似]]間116.0kmは2021年4月1日廃止。
|-
![[海峡線]]
|style="text-align:center;"|中小国 - 木古内
|style="text-align:right;"|87.8km
|style="text-align:center;"|[[津軽海峡線]]
|style="text-align:left;"|国鉄分割民営化以後に開業。2016年3月26日の[[北海道新幹線]]開業後も、旅客営業規則上は地方交通線として存続している<ref name="tokai">{{PDFlink|[http://railway.jr-central.co.jp/ticket-rule/cjr-regulation/_pdf/000021421.pdf 別表第1号(第3条) 地方交通線の線名及び区間]}} - 旅客営業規則(東海旅客鉄道ウェブサイト)2016年4月2日閲覧</ref>。
|-
|}
=== JR東日本 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:6em;"|路線名
!区間
!営業キロ
!愛称名
!備考
|-
![[津軽線]]
|style="text-align:center;"|青森 - 三厩
|style="text-align:right;"|55.8km
|
|style="text-align:left;"|1988年3月の海峡線開通から2016年3月の北海道新幹線開業までは、青森-中小国間に「津軽海峡線」の愛称が設定された。
|-
![[大湊線]]
|style="text-align:center;"|野辺地 - 大湊
|style="text-align:right;"|58.4km
|style="text-align:center;"|はまなすベイライン大湊線
|
|-
![[五能線]]
|style="text-align:center;"|東能代 - 川部{{Efn|営業列車のほとんどが[[弘前駅]]に乗り入れる。}}
|style="text-align:right;"|147.2km
|
|
|-
![[男鹿線]]
|style="text-align:center;"|追分{{Efn|営業列車のほとんどが[[秋田駅]]から発着する。}} - 男鹿
|style="text-align:right;"|26.6km
|style="text-align:center;"|男鹿なまはげライン
|
|-
![[花輪線]]
|style="text-align:center;"|好摩{{Efn|営業列車のほとんどが[[盛岡駅]]から発着する。}} - 大館
|style="text-align:right;"|106.9km
|style="text-align:center;"|十和田八幡平四季彩ライン
|
|-
![[八戸線]]
|style="text-align:center;"|八戸 - 久慈
|style="text-align:right;"|64.9km
|style="text-align:center;"|うみねこレール八戸市内線(八戸 - 鮫間)
|
|-
![[山田線]]
|style="text-align:center;"|盛岡 - 宮古
|style="text-align:right;"|102.1km
|
|[[東日本大震災]]で被災した宮古 - 釜石間55.4kmは、JR東日本が復旧工事を支援した上で2019年3月に[[三陸鉄道]]に移管。
|-
![[田沢湖線]]
|style="text-align:center;"|盛岡 - 大曲
|style="text-align:right;"|75.6km
|
|[[秋田新幹線]]の一部区間としても使用。
|-
![[北上線]]
|style="text-align:center;"|北上 - 横手
|style="text-align:right;"|61.1km
|
|
|-
![[釜石線]]
|style="text-align:center;"|花巻 - 釜石
|style="text-align:right;"|90.2km
|style="text-align:center;"|銀河ドリームライン釜石線
|
|-
![[気仙沼線]]
|style="text-align:center;"|前谷地{{Efn|営業列車のほとんどが[[小牛田駅]]から発着する。}} - 柳津
|style="text-align:right;"|17.5km
|
|東日本大震災で被災した[[柳津駅 (宮城県)|柳津]] - [[気仙沼駅|気仙沼]]間55.3kmは、[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]で復旧し、2020年4月1日付で鉄道事業廃止<ref name="tn200131">{{Cite news|url=https://trafficnews.jp/post/93438|title=気仙沼線と大船渡線のBRT区間 鉄道事業の廃止日を4月1日に繰り上げ JR東日本|newspaper=乗りものニュース|date=2020-01-31|accessdate=2020-03-07}}</ref>。
|-
![[大船渡線]]
|style="text-align:center;"|一ノ関 - 気仙沼
|style="text-align:right;"|62.0km
|style="text-align:center;"|ドラゴンレール大船渡線
|東日本大震災で被災した気仙沼 - [[盛駅|盛]]間43.7kmは、BRTで復旧し、2020年4月1日付で鉄道事業廃止<ref name="tn200131"/>。
|-
![[石巻線]]
|style="text-align:center;"|小牛田 - 女川
|style="text-align:right;"|44.9km
|
|
|-
![[陸羽東線]]
|style="text-align:center;"|小牛田 - 新庄
|style="text-align:right;"|94.1km
|style="text-align:center;"|奥の細道湯けむりライン
|
|-
![[陸羽西線]]
|style="text-align:center;"|新庄 - 余目
|style="text-align:right;"|43.0km
|style="text-align:center;"|奥の細道最上川ライン
|
|-
![[米坂線]]
|style="text-align:center;"|米沢 - 坂町
|style="text-align:right;"|90.7km
|
|
|-
![[左沢線]]
|style="text-align:center;"|北山形{{Efn|営業列車のほとんどが[[山形駅]]から発着する}} - 左沢
|style="text-align:right;"|24.3km
|style="text-align:center;"|フルーツライン左沢線
|
|-
![[磐越東線]]
|style="text-align:center;"|いわき - 郡山
|style="text-align:right;"|85.6km
|style="text-align:center;"|ゆうゆうあぶくまライン
|
|-
!rowspan="2"|[[水郡線]]
|style="text-align:center;"|水戸 - 安積永盛{{Efn|営業列車のほとんどが[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]まで乗り入れている。}}
|style="text-align:right;"|137.5km
|style="text-align:center;"|奥久慈清流ライン
|
|-
|style="text-align:center;"|上菅谷 - 常陸大田
|style="text-align:right;"|9.5km
|
|
|-
![[烏山線]]
|style="text-align:center;"|宝積寺{{Efn|営業列車のほとんどが[[宇都宮駅]]から発着している。}} - 烏山
|style="text-align:right;"|20.4km
|
|
|-
![[日光線]]
|style="text-align:center;"|宇都宮 - 日光
|style="text-align:right;"|40.5km
|
|
|-
![[鹿島線]]
|style="text-align:center;"|香取 {{Efn|営業列車のほとんどが[[佐原駅]]から発着する。}}- 鹿島サッカースタジアム
|style="text-align:right;"|17.4km
|
|
|-
![[東金線]]
|style="text-align:center;"|大網 - 成東
|style="text-align:right;"|13.8km
|
|
|-
![[久留里線]]
|style="text-align:center;"|木更津 - 上総亀山
|style="text-align:right;"|32.2km
|
|
|-
![[八高線]]
|style="text-align:center;"|八王子 - 倉賀野{{Efn|営業列車のほとんどが[[高崎駅]]まで乗り入れる。}}
|style="text-align:right;"|92.0km
|
|style="text-align:left;"|電化区間の八王子 - 高麗川間に限れば輸送密度は20,978人/日である<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2014-2018.pdf | title = 路線別ご利用状況(2014~2018年度) | publisher = 東日本旅客鉄道株式会社 | format = PDF | accessdate = 2019-07-07 }}</ref>。また、当線は東京都および埼玉県で唯一の地方交通線である。
|-
![[吾妻線]]
|style="text-align:center;"|渋川 {{Efn|営業列車のほとんどが高崎駅または[[新前橋駅]]から発着する。}}- 大前
|style="text-align:right;"|55.6km
|
|
|-
![[只見線]]
|style="text-align:center;"|会津若松 - 小出
|style="text-align:right;"|135.2km
|
|
|-
![[越後線]]
|style="text-align:center;"|柏崎 - 新潟
|style="text-align:right;"|83.8km
|
|
|-
![[弥彦線]]
|style="text-align:center;"|弥彦 - 東三条
|style="text-align:right;"|17.4km
|
|
|-
![[飯山線]]
|style="text-align:center;"|豊野{{Efn|営業列車のほとんどが[[長野駅]]から発着する。}} - 越後川口
|style="text-align:right;"|96.7km
|
|
|-
![[小海線]]
|style="text-align:center;"|小淵沢 - 小諸
|style="text-align:right;"|78.9km
|style="text-align:center;"|八ヶ岳高原線
|
|-
![[大糸線]]
|style="text-align:center;"|松本 - 南小谷
|style="text-align:right;"|70.1km
|
|南小谷 - 糸魚川間は[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]管内。
|}
=== JR東海 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:6em;"|路線名
!区間
!営業キロ
!愛称名
!備考
|-
![[身延線]]
|style="text-align:center;"|富士 - 甲府
|style="text-align:right;"|88.4km
|
|
|-
![[飯田線]]
|style="text-align:center;"|豊橋 - 辰野
|style="text-align:right;"|195.8km
|
|
|-
![[武豊線]]
|style="text-align:center;"|武豊 - 大府
|style="text-align:right;"|19.3km
|
|[[2008年]](平成20年)度現在、地方交通線では輸送密度が2番目に高い<ref name="kochi">{{PDFlink|1=[http://www.kochi-tech.ac.jp/library/ron/2011/2011infr/a1110356.pdf#page=4 沿線人口が鉄道の輸送量に及ぼす影響と各路線の集客能力の指標]}} pp.3 - 4 - [[高知工科大学]]工学部社会システム工学科</ref>。
|-
![[太多線]]
|style="text-align:center;"|多治見 - 美濃太田
|style="text-align:right;"|17.8km
|
|
|-
![[高山本線]]
|style="text-align:center;"|岐阜 - 猪谷
|style="text-align:right;"|189.2km
|
|猪谷 - 富山間はJR西日本管内。
|-
![[名松線]]
|style="text-align:center;"|松阪 - 伊勢奥津
|style="text-align:right;"|43.5km
|
|
|-
![[参宮線]]
|style="text-align:center;"|多気 - 鳥羽
|style="text-align:right;"|29.1km
|
|
|-
|}
=== JR西日本 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:6em;"|路線名
!区間
!営業キロ
!愛称名
!備考
|-
!大糸線
|style="text-align:center;"|南小谷 - 糸魚川
|style="text-align:right;"|35.3km
|
|松本 - 南小谷間は[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]管内。
|-
!高山本線
|style="text-align:center;"|猪谷 - 富山
|style="text-align:right;"|36.6km
|
|岐阜 - 猪谷間は[[東海旅客鉄道|JR東海]]管内。
|-
![[氷見線]]
|style="text-align:center;"|高岡 - 氷見
|style="text-align:right;"|16.5km
|
|
|-
![[城端線]]
|style="text-align:center;"|高岡 - 城端
|style="text-align:right;"|29.9km
|
|
|-
![[七尾線]]
|style="text-align:center;"|津幡 {{Efn|営業列車のほとんどが[[金沢駅]]から発着する。}}- 和倉温泉
|style="text-align:right;"|59.5km
|
|style="text-align:left;"|和倉温泉 - [[穴水駅|穴水]]間28.0kmは1991年9月に[[のと鉄道]]に運営移管(JRは第三種鉄道事業者)。<br />穴水 - [[輪島駅|輪島]]間20.4kmは、1991年9月にのと鉄道に運営移管(JRは第三種鉄道事業者)後、2001年4月1日廃止。
|-
![[越美北線]]
|style="text-align:center;"|越前花堂{{Efn|営業列車のほとんどが[[福井駅 (福井県) |福井駅]]から発着する。}} - 九頭竜湖
|style="text-align:right;"|52.5km
|style="text-align:center;"|九頭竜線
|
|-
![[小浜線]]
|style="text-align:center;"|東舞鶴 - 敦賀
|style="text-align:right;"|84.3km
|
|
|-
![[舞鶴線]]
|style="text-align:center;"|綾部 - 東舞鶴
|style="text-align:right;"|26.4km
|
|
|-
![[桜井線]]
|style="text-align:center;"|高田 - 奈良
|style="text-align:right;"|29.4km
|style="text-align:center;"|万葉まほろば線
|
|-
![[和歌山線]]
|style="text-align:center;"|王寺 - 和歌山
|style="text-align:right;"|87.9km
|
|
|-
![[加古川線]]
|style="text-align:center;"|加古川 - 谷川
|style="text-align:right;"|48.5km
|
|
|-
![[播但線]]
|style="text-align:center;"|姫路 - 和田山
|style="text-align:right;"|65.7km
|
|
|-
![[因美線]]
|style="text-align:center;"|東津山 - 鳥取
|style="text-align:right;"|70.8km
|
|
|-
![[姫新線]]
|style="text-align:center;"|姫路 - 新見
|style="text-align:right;"|158.1km
|
|
|-
![[赤穂線]]
|style="text-align:center;"|相生 - 東岡山{{Efn|営業列車のほとんどが[[岡山駅]]まで乗り入れる。}}
|style="text-align:right;"|57.4km
|
|
|-
![[津山線]]
|style="text-align:center;"|津山 - 岡山
|style="text-align:right;"|58.7km
|
|
|-
![[吉備線]]
|style="text-align:center;"|岡山 - 総社
|style="text-align:right;"|20.4km
|style="text-align:center;"|桃太郎線
|
|-
![[福塩線]]
|style="text-align:center;"|福山 - 塩町
|style="text-align:right;"|78.0km
|
|
|-
![[芸備線]]
|style="text-align:center;"|備中神代{{Efn|営業列車のほとんどが[[新見駅]]から発着する。}} - 広島
|style="text-align:right;"|159.1km
|
|
|-
![[木次線]]
|style="text-align:center;"|宍道 - 備後落合
|style="text-align:right;"|81.9km
|
|
|-
![[境線]]
|style="text-align:center;"|米子 - 境港
|style="text-align:right;"|17.9km
|
|
|-
![[可部線]]
|style="text-align:center;"|横川{{Efn|営業列車のほとんどが[[広島駅]]から発着する。}} - あき亀山
|style="text-align:right;"|15.6km
|
|style="text-align:left;"|非電化区間である可部 - 三段峡間46.2kmは2003年に廃止。そのうち、可部 - あき亀山(旧[[河戸駅|河戸]]付近)間1.6kmは電化の上2017年3月4日に再開業した。<br />[[2008年]](平成20年)度現在、地方交通線では輸送密度が日本一<ref name="jr-west" /><ref name="kochi"/>。
|-
![[岩徳線]]
|style="text-align:center;"|岩国 - 櫛ヶ浜{{Efn|営業列車のほとんどが[[徳山駅]]に乗り入れる。}}
|style="text-align:right;"|43.7km
|
|
|-
![[山口線]]
|style="text-align:center;"|新山口 - 益田
|style="text-align:right;"|93.9km
|
|
|-
!rowspan="2"|[[小野田線]]
|style="text-align:center;"|居能{{Efn|営業列車のほとんどが[[宇部新川駅]]から発着する。}} - 小野田
|style="text-align:right;"|11.6km
|
|
|-
|style="text-align:center;"|雀田 - 長門本山
|style="text-align:right;"|2.3km
|
|
|-
|}
=== JR四国 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:6em;"|路線名
!区間
!営業キロ
!愛称名
!備考
|-
![[鳴門線]]
|style="text-align:center;"|池谷 {{Efn|営業列車のほとんどが徳島駅から発着する。}}- 鳴門
|style="text-align:right;"|8.5km
|
|
|-
![[牟岐線]]
|style="text-align:center;"|徳島 - 阿波海南
|style="text-align:right;"|77.8km
|style="text-align:center;"|阿波室戸シーサイドライン
| 全通当時は徳島 - 海部間であったが、2020年11月1日から阿波海南 - 海部間1.5kmは[[阿佐海岸鉄道]]に編入された(ただし、同年11月30日までの同区間の鉄道代行バス([[デュアル・モード・ビークル|DMV]]導入工事による)はJR四国が運行した)。
|-
![[徳島線]]
|style="text-align:center;"|佐古{{Efn|営業列車のほとんどが[[徳島駅]]から発着する。}} - 佃{{Efn|営業列車のほとんどが[[阿波池田駅]]まで乗り入れる。}}
|style="text-align:right;"|67.5km
|style="text-align:center;"|よしの川ブルーライン
|
|-
![[予土線]]
|style="text-align:center;"|若井 {{Efn|営業列車のほとんどが[[窪川駅]]から発着する。}}- 北宇和島{{Efn|営業列車のほとんどが[[宇和島駅]]まで乗り入れる。}}
|style="text-align:right;"|76.3km
|style="text-align:center;"|しまんとグリーンライン
|
|-
![[内子線]]
|style="text-align:center;"|内子 - 新谷
|style="text-align:right;"|5.3km
|
|
|-
|}
=== JR九州 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:6em;"|路線名
!区間
!営業キロ
!愛称名
!備考
|-
![[日田彦山線]]
|style="text-align:center;"|城野{{Efn|営業列車のほとんどが[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]から発着する。}} - 夜明
|style="text-align:right;"|68.7km
|
|添田 - 夜明間29.2km は[[平成29年7月九州北部豪雨]]により2017年7月5日より運行休止、2023年8月28日より[[日田彦山線BRT]]となる(鉄道復旧断念は決定しているが、鉄道事業の廃止申請はなされていない)。
|-
![[後藤寺線]]
|style="text-align:center;"|新飯塚 - 田川後藤寺
|style="text-align:right;"|13.3km
|
|
|-
![[筑豊本線]]
|style="text-align:center;"|若松 - 原田
|style="text-align:right;"|66.1km
|style="text-align:center;"|若松線(若松 - 折尾間)<br>[[福北ゆたか線]](折尾 - 桂川間)<br>原田線(桂川 - 原田間)
|
|-
![[香椎線]]
|style="text-align:center;"|西戸崎 - 宇美
|style="text-align:right;"|25.4km
|style="text-align:center;"|海の中道線(西戸崎 - 香椎間)
|
|-
![[唐津線]]
|style="text-align:center;"|久保田{{Efn|営業列車のほとんどが[[佐賀駅]]から発着する。}} - 西唐津
|style="text-align:right;"|42.5km
|
|
|-
![[大村線]]
|style="text-align:center;"|早岐 - 諫早
|style="text-align:right;"|47.6km
|
|
|-
![[久大本線]]
|style="text-align:center;"|久留米 - 大分
|style="text-align:right;"|141.5km
|style="text-align:center;"|ゆふ高原線
|
|-
![[豊肥本線]]
|style="text-align:center;"|熊本 - 大分
|style="text-align:right;"|148.0km
|style="text-align:center;"|阿蘇高原線
|style="text-align:left;"|電化区間の熊本 - 肥後大津間に限れば輸送密度は10,655人/日で、JR九州の地方交通線で唯一1万人を超える<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2016rosen.pdf|format=PDF|title=路線別ご利用状況|publisher=九州旅客鉄道|accessdate=2017-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
|-
![[三角線]]
|style="text-align:center;"|宇土{{Efn|営業列車のほとんどが[[熊本駅]]から発着する。}} - 三角
|style="text-align:right;"|25.6km
|style="text-align:center;"|あまくさみすみ線
|
|-
![[肥薩線]]
|style="text-align:center;"|八代 - 隼人
|style="text-align:right;"|124.2km
|style="text-align:center;"|[[えびの高原線]](八代 - 吉松間)
|
|-
![[吉都線]]
|style="text-align:center;"|都城 - 吉松
|style="text-align:right;"|61.6km
|style="text-align:center;"|えびの高原線
|
|-
![[日南線]]
|style="text-align:center;"|南宮崎 {{Efn|ほとんどの列車が[[宮崎駅]]から発着する。}}- 志布志
|style="text-align:right;"|88.9km
|
|
|-
![[指宿枕崎線]]
|style="text-align:center;"|鹿児島中央 - 枕崎
|style="text-align:right;"|87.9km
|
|
|-
|}
== 経営分離・廃止された路線 ==
※[[特定地方交通線]]は除外(該当項目を参照)。また、存続路線の部分廃止区間は一覧の備考欄を参照。
=== JR北海道 ===
*[[深名線]]:1995年9月4日廃止
*[[江差線]]
**[[木古内駅|木古内]] - [[江差駅|江差]]:2014年5月12日廃止
**[[五稜郭駅|五稜郭]] - 木古内:2016年3月26日[[道南いさりび鉄道]]に移管。1988年3月の海峡線開通から移管までは「津軽海峡線」の愛称を設定。
=== JR東日本 ===
*[[岩泉線]]:2014年4月1日廃止(2010年7月31日より災害により全線運休)
=== JR西日本 ===
*[[富山地方鉄道富山港線|富山港線]]:2006年3月1日廃止後、同年4月29日より[[富山ライトレール]]が運行(一部区間は経路変更。2020年2月21日より合併で[[富山地方鉄道]]の運営となる)
*[[三江線]]:2018年4月1日廃止
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist|2}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ローカル線]]
{{日本国有鉄道}}
{{DEFAULTSORT:ちほうこうつうせん}}
[[Category:日本の鉄道路線]]
|
2003-09-18T01:54:40Z
|
2023-12-16T03:51:27Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E4%BA%A4%E9%80%9A%E7%B7%9A
|
17,221 |
帝釈天
|
帝釈天(たいしゃくてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。天主帝釈・天帝・天皇ともいう。。バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教の武神(天帝)でヒッタイト条文にも見られるインドラ(梵: इन्द्र [indra])と同一の神。妻は阿修羅の娘であるシャチー(舎脂)。梵天と一対の像として表されることが多く、両者で「梵釈」ともいう。釋提桓因(しゃくだいかんいん)とも記載される。
インド最古の聖典『リグ・ヴェーダ』には、雷神として登場する。帝釈天の元の名前は、雷神インドラ神であり、インドラの名前のシャックロー・デーヴァーナーン・インドラハ(梵: Śakro devānām indraḥ, 巴: Sakko devānam indo)のうち、śakraを釈と音訳したものに、devaを天と意訳して後部に付け足し、indraを帝と意訳して冠したものになる。
本来のインドラ神は、阿修羅とも戦闘したという武勇の神であったが、仏教に取り入れられ、成道前から釈迦を助け、またその説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法善神となった(インドラの項を参照)。
四天王などを配下とし、須弥山の頂上・忉利天の善見城(喜見城)に住むとされる。インドにおける仏伝図様においては、釈迦に従う帝釈天の様子が描かれることがある。
『涅槃経』巻33や『大智度論』巻56には、帝釈天が人間だった頃の名前は憍尸迦(きょうしか、梵: Kauśika [カウシカ])であると説かれている。かつて昔にマガダ国の中で名を摩伽(まか)、姓を憍尸迦という、福徳と大智慧あるバラモンがいた。
彼には知人友人が32人いて共に福徳を修して命終して、須弥山の頂の第2の天上に生まれた。摩伽バラモンは天主となり、32人は輔相大臣となったため、彼を含めた33人を三十三天という。これゆえに釈迦仏は彼の本名である憍尸迦と呼ぶという。また、このために彼の妻・シャチーを憍尸迦夫人と呼ぶこともある。
日本では頭上に宝髻を結び、大衣や天衣を着た二臂像・立像、あるいは白象に乗った状態が多い。手には金剛杵や蓮茎などを持ち、着衣下に甲冑を着けることもある。密教においては、一面二臂で宝冠を戴き、身体には甲冑を着け、手には独鈷杵を持つ例が見られる。
帝釈天は、天部の最高位に属するが、独尊となることはほとんどない。そのため、映画『男はつらいよ』でも有名な「柴又の帝釈天(題経寺)」が本尊として祀られるのは、大変珍しいケースである。
日本最古の遺存例は、法隆寺の玉虫厨子(飛鳥時代)に描かれた「施身聞偈図」(せしんもんげず)に見られるものである。同寺の食堂(じきどう)には梵天・帝釈天の塑像(奈良時代)が安置されている(現在は大宝蔵院に安置)。東大寺法華堂(三月堂)には、乾漆造の梵天・帝釈天像(奈良時代)がある。
唐招提寺金堂には、梵天・帝釈天の木像(奈良時代)が見られる。京都・東寺講堂には、密教系の白象に乗った木像(平安時代前期)が安置される。
日本においては庚申の日を縁日とする。
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"title": "日本における帝釈天"
}
] |
帝釈天(たいしゃくてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。天主帝釈・天帝・天皇ともいう。。バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教の武神(天帝)でヒッタイト条文にも見られるインドラと同一の神。妻は阿修羅の娘であるシャチー(舎脂)。梵天と一対の像として表されることが多く、両者で「梵釈」ともいう。釋提桓因(しゃくだいかんいん)とも記載される。
|
{{otheruseslist|[[仏教]]の守護神である[[天部]]の一つ|[[ヒンドゥー教]]の神|インドラ}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2023年10月6日 (金) 19:07 (UTC)
| 独自研究 = 2023年10月6日 (金) 19:07 (UTC)
}}
{{Infobox Buddha
|画像=[[File:The deity Indra (Taishakuten), one of a pair.jpg|250px]]
|説明文=帝釈天立像<br />({{仮リンク|アジア美術館|en|Asian Art Museum (San Francisco)}})
|名=帝釈天
|梵名=「インドラ」<br />(इन्द्र Indra)
|蔵名=
|別名=
|真言・陀羅尼=
|経典=
|主要経典注釈書=
|信仰=
|関連項目=
}}
'''帝釈天'''(たいしゃくてん)は、[[仏教]]の守護神である[[天部]]の一つ。天主帝釈・[[天帝]]・[[天皇]]ともいう<ref>{{Cite Kotobank |word=帝釈天 |access-date=2023-10-07 |encyclopedia=[[世界大百科事典]] 第2版}}</ref>。<ref>楠戸義昭 『戦国名将・智将・梟将の至言』 学習研究社、2009。<br />楠戸義昭 『戦国武将名言録』 PHP研究所、2006。</ref>。[[バラモン教]]・[[ヒンドゥー教]]・[[ゾロアスター教]]の武神(天帝)で[[ヒッタイト]]条文にも見られる[[インドラ]]({{lang-sa-short|इन्द्र [indra]}})と同一の神。妻は[[阿修羅]]の娘である[[シャチー]](舎脂)。[[梵天]]と一対の像として表されることが多く、両者で「梵釈」ともいう。'''釋提桓因'''(しゃくだいかんいん)とも記載される。
== 概説 ==
[[画像:Brahma and Indra.jpg|140px|left|thumb|帝釈天(左)と[[梵天]](右)]]
インド最古の聖典『[[リグ・ヴェーダ]]』には、雷神として登場する。帝釈天の元の名前は、雷神インドラ神であり、インドラの名前のシャックロー・デーヴァーナーン・インドラハ({{lang-sa-short|Śakro devānām indraḥ}}, {{lang-pi-short|Sakko devānam indo}})のうち、{{lang|sa|śakra}}を'''釈'''と音訳したものに、{{lang|sa|deva}}を'''天'''と意訳して後部に付け足し、{{lang|sa|indra}}を'''帝'''と意訳して冠したものになる。
本来のインドラ神は、阿修羅とも戦闘したという武勇の神であったが、仏教に取り入れられ、[[成道]]前から[[釈迦]]を助け、またその説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大[[護法善神]]となった([[インドラ]]の項を参照)。
[[四天王]]などを配下とし、[[須弥山]]の頂上・[[忉利天]]の善見城(喜見城)に住むとされる。[[インド]]における仏伝図様においては、釈迦に従う帝釈天の様子が描かれることがある。
『[[涅槃経]]』巻33や『[[大智度論]]』巻56には、帝釈天が人間だった頃の名前は'''憍尸迦'''(きょうしか、{{lang-sa-short|Kauśika}} [{{fontsize|small|カウシカ}}])であると説かれている。かつて昔に[[マガダ国]]の中で名を摩伽(まか)、姓を憍尸迦という、福徳と大智慧ある[[バラモン]]がいた。
彼には知人友人が32人いて共に福徳を修して命終して、須弥山の頂の第2の天上に生まれた。摩伽バラモンは天主となり、32人は輔相大臣となったため、彼を含めた33人を[[三十三天]]という。これゆえに[[釈迦仏]]は彼の本名である{{lang|zh|憍}}尸迦と呼ぶという。また、このために彼の妻・シャチーを憍尸迦夫人と呼ぶこともある。
[[日本]]では頭上に宝髻を結び、大衣や天衣を着た二臂像・立像、あるいは[[白象 (動物)|白象]]に乗った状態が多い。手には[[金剛杵]]や蓮茎などを持ち、着衣下に甲冑を着けることもある。[[密教]]においては、一面二臂で宝冠を戴き、身体には甲冑を着け、手には[[独鈷杵]]を持つ例が見られる。
帝釈天は、天部の最高位に属するが、独尊となることはほとんどない。そのため、映画『[[男はつらいよ]]』でも有名な「柴又の帝釈天(題経寺)」が本尊として祀られるのは、大変珍しいケースである<ref>{{Cite book|和書|title=仏像図解新書|date=2010-04-06|publisher=[[小学館]]|page=132|author=石井亜矢子/岩﨑 隼}}</ref>。
== 真言 ==
* オン・インドラヤ・ソワカ{{refnest|『印と真言の本』、学研、2004年2月、p.132}}
* ナウマク・サンマンダ・ボダナン・インドラヤ・ソワカ{{refnest|坂内龍雄「真言陀羅尼」、平河出版社、2017年4月第30刷、p299。}}
== 日本における帝釈天 ==
[[ファイル:Taishakuten Śakra, Tō-ji.jpg|thumb|200px|[[東寺]]講堂の帝釈天半跏像。]]
日本最古の遺存例は、[[法隆寺]]の[[玉虫厨子]]([[飛鳥時代]])に描かれた「施身聞偈図」(せしんもんげず)に見られるものである。同寺の食堂(じきどう)には梵天・帝釈天の[[塑像]]([[奈良時代]])が安置されている(現在は大宝蔵院に安置)。[[東大寺]][[法華堂]](三月堂)には、[[乾漆造]]の梵天・帝釈天像(奈良時代)がある。
[[唐招提寺]]金堂には、梵天・帝釈天の木像(奈良時代)が見られる。[[京都]]・[[東寺]]講堂には、密教系の白象に乗った木像([[平安時代]]前期)が安置される。
日本においては[[庚申]]の日を[[縁日]]とする。
=== 帝釈天を安置する寺院 ===
* [[柴又帝釈天]] - [[東京都]][[葛飾区]]
*: 題経寺。[[18世紀]]後半に題経寺の本堂を修復している際に、紛失していた帝釈天の板[[本尊]]が発見され、その日が[[庚申]]だったことから、庚申の日を[[縁日]]とするという(詳しくは[[柴又帝釈天]]を参照)。
* 南禅寺 - [[静岡県]][[賀茂郡]][[河津町]]
*: 寺は[[行基]]による開山という。
* [[滝山寺]] - [[愛知県]][[岡崎市]]
* [[東大寺法華堂]] - [[奈良県]][[奈良市]]
* [[唐招提寺]]金堂 - 同上
* [[秋篠寺]] - 同上
* [[室生寺]]奈良県宇陀市
*: 金堂本尊背後の壁に描かれた彩色画の中尊を寺伝で帝釈天とする。
* [[紀三井寺]]大光明殿 - [[和歌山県]][[和歌山市]]
* [[東寺]]講堂須弥壇 - [[京都市]][[南区 (京都市)|南区]]
* [[三十三間堂]] - [[京都市]][[東山区]]
*: 妙法院の境外仏堂で「蓮華王院本堂」。木造二十八部衆立像。
* [[醍醐寺#上醍醐|醍醐寺上醍醐]]薬師堂 - [[京都市]][[伏見区]]
*: 現在は山から下ろされ、霊宝館に安置している。
* [[京都帝釈天]] - [[京都府]][[南丹市]]
*: [[福寿寺]]。[[船井神社]]には帝釈天への遥拝所がある。
* 観音寺 - [[大阪府]][[貝塚市]]
*: 現在は[[孝恩寺]]観音堂。
* [[静照寺 (寝屋川市)|静照寺]] - [[大阪府]][[寝屋川市]]
*: 安置された帝釈天像は柴又帝釈天からの分霊像。
* 丹生神社明要寺奥の院跡 - [[神戸市]][[北区 (神戸市)|北区]]
*: 丹生山にあった明要寺の東にあった山頂の奥の院に安置された梵帝釈天に因み、その山名を[[帝釈山_(兵庫県)|帝釈山]]とする。
* [[三澤寺 (伊那市)|三澤寺]] - [[伊那市|長野県伊那市]]
*: 安置されている帝釈天お曼荼羅は[[柴又帝釈天]]17世身延山法主望月日滋猊下からの下賜したもの。
* [[正法寺 (岡山市)|正法寺]] - [[岡山県]][[岡山市]]
* [[摩尼寺]] - [[鳥取県]][[鳥取市]]
:など多数
=== 帝釈天の名を冠する山 ===
* [[日光連山]] - [[栃木県]]
** [[帝釈山_(日光連山)]]女峰山の連峰で、標高2,455m。
* [[立山連峰]] - [[富山県]]・[[岐阜県]]境
** [[別山]] - 立山三山の1つで、標高2,880mの山頂に[[立山修験]]に基づく祠があり帝釈天を置いている<ref>[http://photo-natur.com/essay/essay050.html 立山連峰季節のたより]</ref>。
** [[剱岳]] - 明治時代に山中から見つかったという「銅造男神立像」が調査から「銅造帝釈天立像 」と判明したという。現在は[[富山県立山博物館]]に保存されている。
* [[帝釈山脈]] - [[福島県]]・[[栃木県]]境
** 帝釈山 - 標高2,060m
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[仏の一覧]]
* [[インドラ]]
* [[和田帝釈天]](帝釈天教会)杉並区にある日蓮宗の寺院。
* [[るし長者]]
* [[愛尽小経]]
* [[男はつらいよ]]
{{Buddhism2}}
{{デフォルトソート:たいしやくてん}}
[[カテゴリ:天部]]
[[カテゴリ:十二天]]
[[カテゴリ:護法神]]
[[カテゴリ:庚申信仰]]
[[カテゴリ:法華系仏教]]
{{Buddhism-stub}}
|
2003-09-18T02:37:12Z
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2023-10-06T19:07:54Z
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"Template:Refnest",
"Template:脚注ヘルプ"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%87%88%E5%A4%A9
|
17,224 |
悪魔
|
悪魔(あくま)とは、特定の宗教文化に根ざした善良な超自然的存在、または悪を象徴する超越的存在を指す言葉である。
悪魔は、仏教において仏教を妨害する邪神を意味することもある。キリスト教においては、神と和解しようとする人間の天使であるサタンを指す。サタン以外の西洋文化における悪霊(悪魔)も、現代日本語では悪魔と呼ばれることが一般的。イスラム教では、悪魔は シャイターン、イブリースと呼ばれている。
一枚岩の宗教においては神に敵対するものを指し、他宗教の神に対する蔑称でもある(後述)。
漢語の「悪魔」は本来、漢訳仏典に由来する仏教語であるが、現代日本語では西洋のサタン、デビル、デーモンの訳語としても用いられている。ハビアンの『破提宇子』には「ヂヤボ」(ポルトガル語の Diabo の音訳)、「悪魔」、「天狗」といった、キリシタンによるキリスト教の悪魔の翻訳例が示されている。
仏教語としての悪魔はサンスクリット語マーラの音訳「魔羅」「魔」と同義である。「魔」という漢字は、仏教伝来以前の説文解字に既に「鬼なり」として登場している字であるが、古くから仏教関係者の新しい作字であると言われていた。その説によれば、死者を指し超自然的なものを含意する意符「鬼」と、マーラの音を表す音符「麻」とを組み合わせたものであるといい、唐の僧侶湛然は古くは「磨」と書かれていたのを梁の武帝蕭衍以来「魔」と書くようになったという(『止観輔行伝弘決』: 「古訳経論 魔字従石 自梁武帝 謂魔能悩人 字宜従鬼」)。康煕字典でも、前述した説文解字のあとに正字通からの引用として「訳経論にいわく。魔は古(いにしえ)は石に作って磨となす。䃺を省く也。梁武帝、改めて鬼となす。[この字は『訳経論』によれば磨の異体字である。元々石のところを梁の武帝が鬼に改めたのだ])」として記されている。ただし、前述のように『説文解字』に出ている他、梁の武帝よりも前の時代に書写されたと推定される「魔」の字を含む考古学史料が存在する。日本の民俗信仰では、災いをなす原因と想定されるモノを漠然と擬人的に「悪魔」と呼ぶようになった(通り悪魔も参照)。
悪魔・魔王を指す西洋語の「デビル」 (英: Devil, 独: Teufel) はヘブライ語のサタンのギリシア語訳ディアボロス (古希: Διάβολος、羅: Diabolus) から派生した言葉であり、キリスト教の神に敵対する存在を指す。
悪魔とも悪霊とも和訳される西洋語の「デーモン」(フランス語読みで「デモン」とも)の語源は、ギリシア語のダイモーン(古希: δαίμων、ラテン翻字 daimon)である(デーモンを指す西洋諸語 英: demon, 独: Dämon はギリシア語のダイモーンから派生した)。ダイモーンのラテン語綴り daemon はキリスト教的文脈においてほぼ悪霊・悪魔の意味で用いられている。英語でも daemon は demon と同様に [diːmən] と発音され、ギリシア神話のダイモーンの意味で用いられる場合もあるが、悪霊としての demon の別綴りとして用いられることもある。
デビルとデーモンはいずれも、ラテン語で神を意味するデウス (deus) と同様に、サンスクリットで神を意味する語である「デーヴァ」(देव、女性形は「デーヴィー」 देवी)と同じ印欧祖語の語根 div (輝く)の派生であるという説もある。
英語での悪魔の俗称「オールド・ニック Old Nick」は北欧神話の「オーディン Woden」に他ならないという説がある。
教父たちは、かつては神に仕えた天使の罪について論じた。 中世のスコラ学では善良な天使と邪悪な天使との人間の交流についての思弁的な論究が交わされた。13世紀に入ると悪魔の存在が現実の危機として考えられるようになり、より具体的、現実的な考察が行われるようになった。特に悪魔と人間の肉体交渉について神学者は関心を寄せ、教義の一つへと発展していった。
なかでも、当時絶大な権威を持っていた神学者トマス・アクィナスは、悪魔(インキュバス、サキュバス)は人間の姿をとって人間と交わることが可能であり、神の許しのもとに人間にあらゆる害を与える力があると主張し議論を決定づけた。
キリスト教神学では、神に対して謀反を起こした堕天使(サタン)の手先である。神学では、人間を誘惑して堕落させ、カトリック教会を滅ぼそうとするものとされた。また、角、翼・蹄・尻尾などを持つ姿で表現されるほか、黒い影でも表現された。一方で、教化のため教会が利用した。
近代的な合理主義的思考が定着するにつれて、悪魔は言い知れぬ恐怖の存在から、より具体的、肉体的な実在性を帯びるようになる。1632年に発生したルーダンの悪魔憑き事件(英語版)のような悪魔の仕業とされる事件や、悪魔憑きの現象や対抗措置としての悪魔払いは、近現代に至るまで否定されることなく続いている。
ギリシア語の旧約および新約聖書では悪霊的存在がダイモーン(またはダイモニオン)と記されており、使徒パウロ、教父アウグスティヌスは、異教の神と悪魔を同一のものとして記述している。アウグスティヌスは『神の国』第10巻において、人を欺くダイモーンの危険性を指摘した新プラトン学派の哲学者ポルピュリオスの不徹底を批判し、ダイモーンはすべて悪霊であって、異教の神々は悪霊が偽装したものであるとした。
11世紀の東ローマ帝国の知識人で宮廷の有力者でもあったミカエル・プセルロスは悪魔学の著作を遺している (Greenfield, Traditions of Belief in Late Byzantine Demonology を参照)。新プラトン主義的な発想や民俗的デーモン観を取り入れたプセルロスの鬼神論は、東方正教会の中心地であったコンスタンティノポリスで重んじられたほか、ラテン語訳されてルネサンス期に西方教会の領域にも広まった。
悪魔は罠を用いるとされる。悪魔に立ち向かうようにと勧められてはいるが、全世界は悪しき者の配下にあるとされているため、悪魔の罠を見破るのは一般人には容易ではない。
イスラームの文化においては悪魔はアラビア語で「シャイターン」という。これはイスラム教以前からあったアラブ人の言葉であるアラビア語に由来するが、ムハンマドがユダヤ教やキリスト教の影響下でヘブライ語のサタンに関連付けた。その頭目は堕天使イブリース(キリスト教のルキフェルに相当)であるが、キリスト教とは違い、それ以外の悪魔は単なる人に悪さをするジン(精霊)にすぎない(イブリースを参照)。
グノーシス主義では、旧約聖書の創造神ヤハウェがこの世の悪しき支配者とみなされ、悪魔化された。それ以下の偽りの神や悪霊的存在とみなされたものはアルコーンと呼ばれた(デーミウルゴス、ヤルダバオート、アルコーンを参照)。
仏教の悪魔を表すサンスクリット語のマーラ (Māra) は阿含経『相応部』の「悪魔相応」(マーラ・サンユッタ)に書かれている。この語が魔羅、悪魔などと漢訳される。仏典にみられる悪魔の名称には天魔、魔羅(マーラ)などがある。この他、インド神話や仏教の万神殿にはナムチ、アスラ(阿修羅)、ヤクシャ(夜叉)、ラークシャサ(羅刹)といった悪神や悪鬼的存在がいる(詳細は各項目を参照)。他の宗教と異なり、仏教の悪魔は改心すれば善神となる場合が少なくない。例えば『首楞嚴經』にあるように、悪魔の王やヤクシャ(夜叉)やラークサシャ(羅刹天)も善心を持ち仏教を信じるものはブッダの座の下にいることが出来るとされている。
各地の神話や土俗信仰等においては、人を傷つけ、あるいは悪い感情を誘発するなど、人を不幸にするような神秘的力を持つものが語られる例は珍しくない。それが人格を持って語られる場合、それは悪魔的なものとなる。翻訳する際には悪魔とされることもあり得る。カレワラのヒーシなどはこれに当たる。
それらは悪意を持って人を傷つけるだけでなく、場合によってはいたずらが予想外な事態を引き起こし、巡り巡って新たなものの誕生などにつながる。そのようなものをトリックスターという。
一神教の文化に根ざした西洋の悪魔は、大文字の〈悪魔〉(英語の the Devil)と小文字の複数の悪魔(英語の devils)とに区別される。後者のような悪霊ないし悪鬼的存在(英語の demons)は多くの宗教伝統の中に見出されるが、前者のような単独の〈悪魔〉の観念をもつ宗教は限られている。悪魔の概念史の研究で知られるジェフリー・バートン・ラッセルは、〈悪〉の人格化としての単独の〈悪魔〉の概念はゾロアスター教、古代ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の4宗教に特有のものであると論じている。ただし、一神教の立場からマニ教的二元論を回避しようとするキリスト教では、〈悪魔〉もまた神の被造物であって、完全に神から独立した存在ではないとする捉え方が一般的である。厳格な一神教であるイスラム教では、悪魔は神の特別な許可に拠って活動するのであって、神の計画の一部であるとされる。
〈悪魔〉(ギリシア語:διάβολος()=中傷者、告発者)は、多くの宗教と文化において、悪の擬人化にして神および人間の敵であるところの、力ある超自然的存在であると信ぜられている。〈悪魔〉は一般に異端者や異教徒などの不信心者に関連づけられる。その他の多くの宗教にもキリスト教の〈悪魔〉に類似したトリックスターないし誘惑者がある。〈悪魔〉についての近代的な観念には、〈悪魔〉は人間の下等な本性や罪深さを象徴しているとする考え方もある。信仰の危機、個人主義、自由意志、智慧、啓蒙などを象徴する寓意とみなされることもある。
比較宗教学の宗教分類で並置されるユダヤ教、キリスト教、イスラム教(いわゆるアブラハムの宗教)は、さまざまな名で呼ばれる〈悪魔〉を、人間をそそのかして罪を犯させたり悪行をはたらいたりするひとりの反逆的な堕天使ないしデーモン(悪霊)とみなしてきた。
アブラハムの宗教における悪魔は元来、神とその使いを除く超越的な存在全てであった。唯一神教であるユダヤ教は、他宗教の神々を悪魔と称して否定した。その派生であるキリスト教とイスラム教も同様であった。西方キリスト教世界における悪魔は、地中海世界で信仰されていた古代文明の神々が否定され悪魔とされたものが多く、バアル神やモレク神などは代表的なものである(これらの神格はユダヤ教の時点で「魔神」シェディムであるとされていた)。ただし、唯一神以外の神々が全て悪魔とされたわけではなく、キリスト教に取り込まれた例もある。その代表例は、かっては新バビロニア地域の神々、あるいは神の諸側面を表象する存在であったミカエルやガブリエルである。ユダヤ民族のバビロン捕囚時代以降にペルシアの宗教(とくにゾロアスター教のアムシャ・スプンタ)に影響を受けて、ユダヤ教に天使として取り入れられた。ミカエルやガブリエルは旧約聖書にも登場し、キリスト教では大天使として継承された。ヨーロッパ土着の神々が矮小化され妖精伝承となったこともあるらしい。
人間に試練を与えるための神の道具であったサタン(試みる・誘惑する者)は旧約聖書において悪魔ではなく、人間の敵ではあっても神の僕であった。サタンは「大敵」と呼ばれ、異教の神とは区別された。
ディオン・フォーチュンは、古代世界の際立った宗教の慈悲深い神と悪神のうち、悪神は悪魔とは呼ばれなかったと述べており、その悪神の例としてヒンズー教のシヴァ、カーリー、エジプトの宗教のセト、ベス、テューポーン、ギリシア神話のプルートー、ヘカテーをあげている。また、神が悪魔を許容するのは、悪魔が宇宙の推圧遮断機であって、神々の清掃人だからであり、破壊的な力が魔神ではなく神として分類されている理由は、それが宇宙の法則による反作用であり、無秩序で乱れた力ではないからだ、と説明している。
悪魔の姿を見た、という伝承は古来から様々な形で残るものの、信頼に足る記録などは現在のところ存在しない。
悪魔の観念が固定しつつあった11世紀ごろの芝居に登場する悪魔は黒い服を着たグロテスクな異形であり、今日でもロマネスク様式やゴシック様式の建造物のレリーフにそういったデーモンを見ることができる。
よくある類型的な悪魔像は、ある程度「人間に似た形」をし、肌が紺色、あるいは黒や赤色で、目は赤く、とがった耳を持ち、とがった歯を有する裂けた口を持ち、頭部にはヤギのような角を生やし、とがった爪の付いたコウモリのような翼に、矢印のように鋭く尖った尻尾を持つ、といったもの。また、かかとがないことも重要な特徴とされる。絵に描かれた悪魔は、これらの特徴のほぼすべてを備えているものもあれば、一部のみを有するものもある(バフォメット(山羊頭の悪魔)の項目を参照)。
高等な悪魔は外見が男性的であったり、女性的であっても実際は両性具有であるという説もある。中世には、女性に近づく悪魔は上品な身なりの伊達男や兵士、騎士の姿をしていると言われていた。
ペルシア神話や初期ゾロアスター教の悪魔アンラ・マンユはトカゲ・ヘビ・人間の若者と姿形を変化させることができるとされたが、後期の文献では、実体を持った物質世界は神の創造した善の領域であり、悪魔は実体を持たず人間や動物の中に住むと説明している。
悪魔という言葉は、残忍・非道でずる賢い人間の喩えとしても用いられる。
議論の方法として、あえて個々人の賛否について反対の立場から議題を眺め、批判や矛盾点を明らかにするという方法がある。このときの役割を担う人を悪魔の代弁者と呼ぶ。
「小悪魔」という表現は、見せかけの可愛らしさと性的魅力とで男性を誘惑する女性を指すことがある。「悪魔のささやき」は常に甘美である。神に従うのは潔癖さや信仰への忠誠が求められるなど厳しい道であるが、悪魔に従うのは堕落であり、むしろこちらの方が魅力的な場合が多い。
楽器の速弾きによる超絶技巧は往々にして悪魔に結びつけられる。神業でもあるのだが、音楽においては神のそれはゆったりしたものとの定見がある。遅いテンポで美しい旋律が流れる音楽は「天国的」といわれる。
また、モーツァルトの音楽は悪魔が書かせたもの、との言葉がある。音楽美において、アポロン的美とディオニューソス的美を対立させる考えがあり、モーツァルトのそれは後者の代表とされるが、ギリシャ神話は多神教で悪魔の性質も神々が抱えており、中でも酒の神であるディオニューソスは集団的狂乱を呼び起こしたりと悪魔的な側面が強い。哲学者のニーチェはこのディオニーソス的な狂乱を美徳とし、ディオニーソス賛美の著書を記した。
デカルトが「我思う、故に我在り」を導くために悪魔を仮定したことで知られる。
ゲーテの『ファウスト』で描かれるところのメフィストフェレスは「理性は持っているが悟性は持たない」ことになっている。
科学の分野でも悪魔の存在を仮定する例がある。「ラプラスの悪魔」や「マクスウェルの悪魔」が有名で、いずれもパラドックスに関わっている。
近年でも、化学兵器や核兵器など大量破壊兵器に関わる学者は「悪魔の科学者」といわれることがある。創作の中でのマッドサイエンティストはその例である。
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"text": "よくある類型的な悪魔像は、ある程度「人間に似た形」をし、肌が紺色、あるいは黒や赤色で、目は赤く、とがった耳を持ち、とがった歯を有する裂けた口を持ち、頭部にはヤギのような角を生やし、とがった爪の付いたコウモリのような翼に、矢印のように鋭く尖った尻尾を持つ、といったもの。また、かかとがないことも重要な特徴とされる。絵に描かれた悪魔は、これらの特徴のほぼすべてを備えているものもあれば、一部のみを有するものもある(バフォメット(山羊頭の悪魔)の項目を参照)。",
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"text": "高等な悪魔は外見が男性的であったり、女性的であっても実際は両性具有であるという説もある。中世には、女性に近づく悪魔は上品な身なりの伊達男や兵士、騎士の姿をしていると言われていた。",
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"text": "「小悪魔」という表現は、見せかけの可愛らしさと性的魅力とで男性を誘惑する女性を指すことがある。「悪魔のささやき」は常に甘美である。神に従うのは潔癖さや信仰への忠誠が求められるなど厳しい道であるが、悪魔に従うのは堕落であり、むしろこちらの方が魅力的な場合が多い。",
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"text": "楽器の速弾きによる超絶技巧は往々にして悪魔に結びつけられる。神業でもあるのだが、音楽においては神のそれはゆったりしたものとの定見がある。遅いテンポで美しい旋律が流れる音楽は「天国的」といわれる。",
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悪魔(あくま)とは、特定の宗教文化に根ざした善良な超自然的存在、または悪を象徴する超越的存在を指す言葉である。 悪魔は、仏教において仏教を妨害する邪神を意味することもある。キリスト教においては、神と和解しようとする人間の天使であるサタンを指す。サタン以外の西洋文化における悪霊(悪魔)も、現代日本語では悪魔と呼ばれることが一般的。イスラム教では、悪魔は シャイターン、イブリースと呼ばれている。 一枚岩の宗教においては神に敵対するものを指し、他宗教の神に対する蔑称でもある(後述)。
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{{Otheruses|宗教上の悪魔}}
[[File:The Torment of Saint Anthony (Michelangelo).jpg|thumb|right|250px|[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]作「[[聖アントニウスの苦悩]]」。様々な誘惑をする悪魔達にもがき苦しむ[[大アントニオス]]を描いている。]]
[[File:Coat of Arms of Arkhangelsk.svg|thumb|200px|[[アルハンゲリスク]]州の都市の[[紋章]], [[ロシア]], 悪魔との[[大天使]]の戦い[[ミカエル]]を示している。]]
'''悪魔'''(あくま)とは、特定の[[宗教]]文化に根ざした善良な超自然的存在、または[[悪]]を象徴する超越的存在を指す言葉である<ref name=iwanami>[[中村元 (哲学者)|中村元]]、[[福永光司]]、[[田村芳朗]]、今野達、[[末木文美士]] 編 『岩波 仏教辞典 第二版』 [[岩波書店]]、2002年、p.6</ref>。
悪魔は、[[仏教]]において仏教を妨害する[[邪神]]を意味することもある。[[キリスト教]]においては、[[神]]と和解しようとする人間の天使である[[サタン]]を指す<ref>大貫隆・名取史郎・宮本久雄・百瀬文明編『[[岩波キリスト教辞典]]』岩波書店、2002年、16-17頁</ref>。サタン以外の西洋文化における悪霊(悪魔)も、現代日本語では悪魔と呼ばれることが一般的。[[イスラム教]]では、悪魔は [[シャイターン]]、[[イブリース]]と呼ばれている。
一枚岩の宗教においては神に敵対するものを指し、他宗教の神に対する蔑称でもある([[#悪魔と宗教史による現代の悪魔観|後述]])。
== 日本語の悪魔 ==
漢語の「悪魔」は本来、漢訳仏典に由来する[[仏教]]語であるが、現代日本語では西洋のサタン、[[デビル]]、デーモンの訳語としても用いられている<ref>[[南條竹則]] 『悪魔学入門』 [[講談社]]、2010年、pp.20-21</ref>。[[ハビアン]]の『破提宇子』には「ヂヤボ」([[ポルトガル語]]の Diabo の音訳)、「悪魔」、「天狗」といった、[[キリシタン]]によるキリスト教の悪魔の翻訳例が示されている<ref>[[s:破提宇子 (吉利支丹史料)|破提宇子 (吉利支丹史料)]]</ref>。
仏教語としての悪魔はサンスクリット語[[マーラ]]の音訳「魔羅」「魔」と同義である。「[[魔]]」という漢字は、仏教伝来以前の[[説文解字]]に既に「鬼なり」として登場している字であるが、古くから仏教関係者の新しい作字であると言われていた。その説によれば、死者を指し超自然的なものを含意する意符「[[鬼#中国の鬼|鬼]]」と、マーラの音を表す音符「麻」とを組み合わせたものであるといい、唐の僧侶[[湛然]]は古くは「磨」と書かれていたのを[[梁 (南朝)|梁]]の武帝[[蕭衍]]以来「魔」と書くようになったという(『止観輔行伝弘決』: 「古訳経論 魔字従石 自梁武帝 謂魔能悩人 字宜従鬼」)。[[康煕字典]]でも、前述した説文解字のあとに[[正字通]]からの引用として「訳経論にいわく。魔は古(いにしえ)は石に作って磨となす。䃺を省く也。梁武帝、改めて鬼となす。[この字は『訳経論』によれば磨の異体字である。元々石のところを梁の武帝が鬼に改めたのだ])」として記されている。<ref>『康熙字典』亥集上:武英殿本(内府本)6998頁、第16字の「魔」字項より。</ref>ただし、前述のように『説文解字』に出ている他、梁の武帝よりも前の時代に書写されたと推定される「魔」の字を含む考古学史料が存在する<ref>船山徹 『仏典はどう漢訳されたのか - スートラが経典になるとき』 岩波書店、2013年、185-187頁。</ref>。日本の[[民間信仰|民俗信仰]]では、災いをなす原因と想定されるモノを漠然と擬人的に「悪魔」と呼ぶようになった<ref>福田アジオ、新谷尚紀、湯川洋司、神田より子、中込睦子、渡邊欣雄 編 『精選 日本民俗辞典』 吉川弘文館、2006年、p.9 「悪魔」(池上良正 筆)</ref>([[通り悪魔]]も参照)。
== 西洋語の悪魔 ==
悪魔・魔王を指す西洋語の「'''[[デビル]]'''」 ({{lang-en-short|Devil}}, {{lang-de-short|Teufel}}) はヘブライ語のサタンのギリシア語訳[[ディアボロス]] ({{lang-grc-short|Διάβολος}}、{{lang-la-short|Diabolus}}) から派生した言葉であり、キリスト教の神に敵対する存在を指す。
悪魔とも悪霊とも和訳される西洋語の「デーモン」(フランス語読みで「デモン」とも)の語源は、ギリシア語の[[ダイモーン]]({{lang-grc-short|δαίμων}}、ラテン翻字 daimon)である(デーモンを指す西洋諸語 {{lang-en-short|demon}}, {{lang-de-short|Dämon}} はギリシア語のダイモーンから派生した)。ダイモーンのラテン語綴り daemon はキリスト教的文脈においてほぼ悪霊・悪魔の意味で用いられている。英語でも daemon は demon と同様に {{IPA|diːmən}} と発音され、ギリシア神話のダイモーンの意味で用いられる場合もあるが、悪霊としての demon の別綴りとして用いられることもある<ref>『リーダーズ英和辞典』、『ジーニアス英和大辞典』など。</ref>。
デビルとデーモンはいずれも、[[ラテン語]]で神を意味する[[デウス]] ({{lang|la|deus}}) と同様に、[[サンスクリット]]で[[神]]を意味する語である「[[デーヴァ]]」({{lang|sa|देव}}、[[女性形]]は「デーヴィー」 {{lang|sa|देवी}})と同じ[[印欧祖語]]の[[語根]] ''div'' (輝く)の派生であるという説もある<ref>フレッド・ゲティングズ 『悪魔の事典』 [[青土社]]</ref>。
英語での悪魔の俗称「オールド・ニック Old Nick」は北欧神話の「[[オーディン]] Woden」に他ならないという説がある<ref>{{Cite book|和書|author1=S・ベアリング=グールド|authorlink1=セイバイン・ベアリング=グールド|others=今泉忠義 訳|year=1955|title=民俗学の話|publisher=角川文庫|page=62}}</ref>。
== キリスト教の悪魔 ==
[[ファイル:Guido Reni 031.jpg|right|250px|thumb|悪魔を踏みつけるミカエル]]
=== 堕落の教理 ===
[[画像:City of God Manuscript.jpg|thumb| [[アウグスティヌス]] 『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』]]
[[教父]]たちは、かつては神に仕えた天使の罪について論じた<ref>[[稲垣良典]] 『天使論序説』 [[講談社学術文庫]]</ref>。
中世の[[スコラ学]]では善良な天使と邪悪な天使との人間の交流についての[[思弁]]的な論究が交わされた。[[13世紀]]に入ると悪魔の存在が現実の危機として考えられるようになり、より具体的、現実的な考察が行われるようになった。特に悪魔と人間の[[肉体交渉]]について[[神学者]]は関心を寄せ、教義の一つへと発展していった{{sfn|シュメルツァー|1993|pp=54-61}}。
なかでも、当時絶大な権威を持っていた神学者[[トマス・アクィナス]]は、悪魔([[インキュバス]]、[[サキュバス]])は人間の姿をとって人間と交わることが可能であり、神の許しのもとに人間にあらゆる害を与える力があると主張し議論を決定づけた{{sfn|シュメルツァー|1993|pp=54-61}}。
キリスト教神学では、神に対して謀反を起こした堕天使([[サタン]])の手先である。神学では、人間を誘惑して堕落させ、[[カトリック教会]]を滅ぼそうとするものとされた。また、角、翼・蹄・尻尾などを持つ姿で表現されるほか、黒い影でも表現された。一方で、[[教化]]のため教会が利用した<ref>[監修]岡田温司『「聖書」と「神話」の象徴図鑑』ナツメ社 p166</ref>。
近代的な[[合理主義哲学|合理主義]]的思考が定着するにつれて、悪魔は言い知れぬ恐怖の存在から、より具体的、肉体的な実在性を帯びるようになる<ref name="Taniguchi"> [[谷口茂]](編}『宗教における罪悪の諸問題』 山本書店 1991年 ISBN 4-8414-0163-6 pp.151-157.</ref>。[[1632年]]に発生した{{仮リンク|ルーダンの悪魔憑き事件|en|Loudun possessions}}のような悪魔の仕業とされる事件や、[[悪魔憑き]]の現象や対抗措置としての[[悪魔払い]]は、近現代に至るまで否定されることなく続いている<ref name="Taniguchi"/>。
=== キリスト教と異教 ===
ギリシア語の旧約および新約聖書では悪霊的存在がダイモーン(またはダイモニオン)と記されており、使徒[[パウロ]]、教父[[アウグスティヌス]]は、異教の神と悪魔を同一のものとして記述している。[[アウグスティヌス]]は『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』第10巻において、人を欺くダイモーンの危険性を指摘した[[ネオプラトニズム|新プラトン学派]]の哲学者[[テュロスのポルピュリオス|ポルピュリオス]]の不徹底を批判し、ダイモーンはすべて悪霊であって、異教の神々は悪霊が偽装したものであるとした<ref>田中雅志 『魔女の誕生と衰退』 三交社、2008年、pp.34-41</ref>。
11世紀の[[東ローマ帝国]]の知識人で宮廷の有力者でもあった[[ミカエル・プセルロス]]は[[悪魔学]]の著作を遺している (Greenfield, ''Traditions of Belief in Late Byzantine Demonology'' を参照)。新プラトン主義的な発想や民俗的デーモン観を取り入れたプセルロスの鬼神論は、[[東方正教会]]の中心地であった[[コンスタンティノポリス]]で重んじられたほか、ラテン語訳されてルネサンス期に西方教会の領域にも広まった<ref>[[ジェフリー・バートン・ラッセル|J・B・ラッセル]] 『ルシファー 中世の悪魔』 野村美紀子訳、教文館、1989年、p.32</ref>。
=== 悪魔の罠 ===
悪魔は[[罠]]を用いるとされる<ref>[[s:テモテヘの第一の手紙(口語訳)#3:7|テモテヘの第一の手紙(口語訳)#3:7]]</ref><ref>[[s:テモテヘの第二の手紙(口語訳)#2:26|テモテヘの第二の手紙(口語訳)#2:26]]</ref>。悪魔に立ち向かうようにと勧められてはいるが<ref>[[s:ヤコブの手紙(口語訳)#4:7|ヤコブの手紙(口語訳)#4:7]]</ref>、全世界は悪しき者の配下にあるとされているため<ref>[[s:ヨハネの第一の手紙(口語訳)#5:19|ヨハネの第一の手紙(口語訳)#5:19]]</ref>、悪魔の罠を見破るのは一般人には容易ではない。
== イスラムの悪魔 ==
[[イスラーム]]の文化においては悪魔はアラビア語で「[[シャイターン]]」という。これはイスラム教以前からあったアラブ人の言葉であるアラビア語に由来するが、[[ムハンマド]]がユダヤ教やキリスト教の影響下でヘブライ語のサタンに関連付けた<ref>J・B・ラッセル 『ルシファー 中世の悪魔』 野村美紀子訳、教文館、1989年、p.52</ref>。その頭目は堕天使イブリース(キリスト教のルキフェルに相当)であるが、キリスト教とは違い、それ以外の悪魔は単なる人に悪さをする[[ジン (アラブ)|ジン]]([[精霊]])にすぎない([[イブリース]]を参照)。
== グノーシス派の悪魔 ==
[[グノーシス主義]]では、[[旧約聖書]]の創造神[[ヤハウェ]]がこの世の悪しき支配者とみなされ、悪魔化された<ref>大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃 編 『岩波キリスト教辞典』 岩波書店、2002年、p.17 「悪魔」([[大貫隆]]筆)</ref>。それ以下の偽りの神や悪霊的存在とみなされたものは[[アルコーン (グノーシス主義)|アルコーン]]と呼ばれた([[デーミウルゴス]]、[[ヤルダバオート]]、[[アルコーン (グノーシス主義)|アルコーン]]を参照)。
== 仏教およびインドの悪魔 ==
仏教の悪魔を表す[[サンスクリット]]語の[[マーラ]] (Māra) は[[阿含経]]『[[相応部]]』の「悪魔相応」(マーラ・サンユッタ)に書かれている<ref>[[誠信書房]] 『新佛教辞典』</ref>。この語が魔羅、悪魔などと漢訳される。仏典にみられる悪魔の名称には[[天魔]]、魔羅([[マーラ]])などがある。この他、[[インド神話]]や仏教の万神殿には[[ナムチ]]、[[アスラ]]([[阿修羅]])、ヤクシャ([[夜叉]])、ラークシャサ([[羅刹天|羅刹]])といった悪神や悪鬼的存在がいる(詳細は各項目を参照)。他の宗教と異なり、仏教の悪魔は改心すれば善神となる場合が少なくない。例えば『首楞嚴經』にあるように、悪魔の王やヤクシャ(夜叉)やラークサシャ(羅刹天)も善心を持ち仏教を信じるものはブッダの座の下にいることが出来るとされている。<ref group="注釈">『首楞嚴經』には、仏教を信じれば十方の仏が現れて救われ浄土が顕現することを述べたあと、夜叉や羅刹でも仏像を拝んだり、仏戒を守ったり、陀羅尼を覚えたり、禅定を護持すればブッダに救われるだろうとしている。経文の原文では「即爲飛仙大力鬼王。飛行夜叉地行羅刹。遊於四天。所去無礙。其中若有善願善。心画像護持我法。或護禁戒隨持戒人。或護神呪隨持呪者。或護禪定保綏法忍。是等親住如來座下。」(即ち飛仙、大力鬼王、飛行の夜叉、地行の羅刹…と為すも、その中にもし善有り、善を願えば…是等は親しく如来の座下に住まん)。文は『大正新修大蔵経』の「大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經」によった。</ref>
== 神話や民間信仰における悪魔 ==
{{出典の明記|section=1|date=2012年1月}}
各地の[[神話]]や[[民間信仰|土俗信仰]]等においては、人を傷つけ、あるいは悪い感情を誘発するなど、人を不幸にするような神秘的力を持つものが語られる例は珍しくない。それが人格を持って語られる場合、それは悪魔的なものとなる。翻訳する際には悪魔とされることもあり得る。[[カレワラ]]のヒーシなどはこれに当たる。
それらは悪意を持って人を傷つけるだけでなく、場合によってはいたずらが予想外な事態を引き起こし、巡り巡って新たなものの誕生などにつながる。そのようなものを[[トリックスター]]という。
== 宗教史学による悪魔と近代の悪魔観 ==
[[一神教]]の文化に根ざした西洋の悪魔は、大文字の〈悪魔〉(英語の the Devil)と小文字の複数の悪魔(英語の devils)とに区別される<ref>[[ルーサー・リンク]] 『悪魔』 高山宏訳、研究社出版、1995年、p18</ref>。後者のような悪霊ないし悪鬼的存在(英語の demons)は多くの宗教伝統の中に見出されるが、前者のような単独の〈悪魔〉の観念をもつ宗教は限られている。悪魔の概念史の研究で知られる[[ジェフリー・バートン・ラッセル]]は、〈悪〉の人格化としての単独の〈悪魔〉の概念は[[ゾロアスター教]]、古代[[ユダヤ教]]、キリスト教、イスラム教の4宗教に特有のものであると論じている<ref>J・B・ラッセル 『悪魔の系譜』(新装版)、大瀧啓裕訳、青土社、2002年、p16</ref>。ただし、[[一神教]]の立場から[[マニ教]]的二元論を回避しようとするキリスト教では、〈悪魔〉もまた神の被造物であって、完全に神から独立した存在ではないとする捉え方が一般的である<ref>A・リチャードソン、J・ボーデン編 『キリスト教神学事典』 古屋安雄監修、佐柳文男訳、教文館、2005年、p25</ref>。厳格な一神教であるイスラム教では、悪魔は神の特別な許可に拠って活動するのであって、神の計画の一部であるとされる<ref>J・B・ラッセル 『ルシファー 中世の悪魔』 野村美紀子訳、教文館、1989年、pp.51-52</ref>。
〈悪魔〉([[ギリシア語]]:{{読み仮名|{{lang|grc|διάβολος}}|ディアボロス}}=中傷者、告発者<ref>[http://www.britannica.com/eb/article-9030155 "devil", ''Encyclopædia Britannica''. 2007. Encyclopædia Britannica Online. 29 June 2007.]</ref>)は、多くの宗教と文化において、悪の擬人化にして神および人間の敵であるところの、力ある超自然的存在であると信ぜられている。〈悪魔〉は一般に[[異端|異端者]]や異教徒などの不信心者に関連づけられる。その他の多くの宗教にもキリスト教の〈悪魔〉に類似したトリックスターないし誘惑者がある。〈悪魔〉についての近代的な観念には、〈悪魔〉は人間の下等な本性や罪深さを象徴しているとする考え方もある。信仰の危機、[[個人主義]]、[[自由意志]]、智慧、啓蒙などを象徴する[[寓意]]とみなされることもある。
=== アブラハムの宗教の悪魔 ===
{{出典の明記|section=1|date=2012年1月}}
[[比較宗教学]]の宗教分類で並置されるユダヤ教、キリスト教、イスラム教(いわゆる[[アブラハムの宗教]])は、さまざまな名で呼ばれる〈悪魔〉を、人間をそそのかして罪を犯させたり悪行をはたらいたりするひとりの反逆的な[[堕天使]]ないし[[デーモン]]([[悪霊]])とみなしてきた。
アブラハムの宗教における悪魔は元来、神とその使いを除く超越的な存在全てであった。[[唯一神教]]である[[ユダヤ教]]は、他宗教の神々を悪魔と称して否定した。その派生である[[キリスト教]]と[[イスラム教]]も同様であった。西方キリスト教世界における悪魔は、地中海世界で信仰されていた古代文明の神々が否定され悪魔とされたものが多く、[[バアル]]神や[[モレク]]神などは代表的なものである(これらの神格は[[ユダヤ教]]の時点で「魔神」シェディムであるとされていた)。ただし、唯一神以外の神々が全て悪魔とされたわけではなく、キリスト教に取り込まれた例もある。その代表例は、かっては[[新バビロニア]]地域の神々、あるいは神の諸側面を表象する存在であった[[ミカエル]]や[[ガブリエル]]である。ユダヤ民族のバビロン捕囚時代以降にペルシアの宗教(とくに[[ゾロアスター教]]のアムシャ・スプンタ)に影響を受けて、ユダヤ教に天使として取り入れられた。ミカエルやガブリエルは旧約聖書にも登場し、キリスト教では[[大天使]]として継承された。ヨーロッパ土着の神々が矮小化され[[妖精]]伝承となったこともあるらしい。
人間に試練を与えるための神の道具であった[[サタン]](試みる・誘惑する者)は[[旧約聖書]]において悪魔ではなく、人間の敵ではあっても神の僕であった。サタンは「大敵」と呼ばれ、異教の神とは区別された。
=== 近代オカルティズムの悪魔論 ===
[[ダイアン・フォーチュン|ディオン・フォーチュン]]は、古代世界の際立った宗教の慈悲深い神と悪神のうち、悪神は悪魔とは呼ばれなかったと述べており、その悪神の例として[[ヒンドゥー教|ヒンズー教]]の[[シヴァ]]、[[カーリー]]、エジプトの宗教の[[セト]]、[[ベス]]、[[アペプ|テューポーン]]、[[ギリシア神話]]の[[プルートー]]、[[ヘカテー]]をあげている。また、神が悪魔を許容するのは、悪魔が宇宙の推圧遮断機であって、神々の清掃人だからであり、破壊的な力が魔神ではなく神として分類されている理由は、それが宇宙の法則による反作用であり、無秩序で乱れた力ではないからだ、と説明している<ref>[[ダイアン・フォーチュン]] 『心霊的自己防衛』 [[国書刊行会]] pp.90-91</ref>。
== 悪魔の姿形 ==
{{See also|キリスト教悪魔学における性}}
悪魔の姿を見た、という[[伝承]]は古来から様々な形で残るものの、信頼に足る記録などは現在のところ存在しない。
悪魔の観念が固定しつつあった[[11世紀]]ごろの[[芝居]]に登場する悪魔は黒い服を着たグロテスクな異形であり{{sfn|シュメルツァー|1993|pp=54-61}}、今日でも[[ロマネスク様式]]や[[ゴシック様式]]の建造物の[[レリーフ]]にそういったデーモンを見ることができる。
よくある類型的な悪魔像は、ある程度「人間に似た形」をし、肌が紺色、あるいは黒や赤色で、目は赤く、とがった耳を持ち、とがった歯を有する裂けた口を持ち、頭部には[[ヤギ]]のような角を生やし、とがった爪の付いた[[コウモリ]]のような[[翼]]に、矢印のように鋭く尖った[[尻尾]]を持つ、といったもの。また、[[かかと]]がないことも重要な特徴とされる。絵に描かれた悪魔は、これらの特徴のほぼすべてを備えているものもあれば、一部のみを有するものもある([[バフォメット]](山羊頭の悪魔)の項目を参照)。
高等な悪魔は外見が男性的であったり、女性的であっても実際は両性具有であるという説もある。中世には、女性に近づく悪魔は上品な身なりの伊達男や兵士、騎士の姿をしていると言われていた{{sfn|シュメルツァー|1993|pp=54-61}}。
[[ペルシア神話]]や初期ゾロアスター教の悪魔[[アンラ・マンユ]]はトカゲ・ヘビ・人間の若者と姿形を変化させることができるとされたが、後期の文献では、実体を持った物質世界は神の創造した善の領域であり、悪魔は実体を持たず人間や動物の中に住むと説明している<ref>ジョン・R・ヒネルズ『ペルシア神話』井本英一、奥西峻介訳 青土社 1993年 ISBN 4791752724 pp.107-119.</ref>。
== 比喩・強調としての「悪魔」 ==
{{出典の明記|section=1|date=2012年1月}}
悪魔という言葉は、残忍・非道でずる賢い[[人間]]の喩えとしても用いられる。
議論の方法として、あえて個々人の賛否について反対の立場から議題を眺め、批判や矛盾点を明らかにするという方法がある。このときの役割を担う人を[[悪魔の代弁者]]と呼ぶ。
「'''小悪魔'''」という表現は、見せかけの可愛らしさと性的魅力とで男性を誘惑する女性を指すことがある。「悪魔のささやき」は常に甘美である。神に従うのは潔癖さや信仰への忠誠が求められるなど厳しい道であるが、悪魔に従うのは堕落であり、むしろこちらの方が魅力的な場合が多い。
=== 音楽 ===
[[楽器]]の速弾きによる[[超絶技巧]]は往々にして悪魔に結びつけられる。[[神業]]でもあるのだが、音楽においては神のそれはゆったりしたものとの定見がある。遅い[[テンポ]]で美しい旋律が流れる音楽は「天国的」といわれる。
また、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の音楽は悪魔が書かせたもの、との言葉がある。音楽美において、[[アポロン]]的美と[[ディオニューソス]]的美を対立させる考えがあり、モーツァルトのそれは後者の代表とされるが、[[ギリシャ神話]]は[[多神教]]で悪魔の性質も神々が抱えており、中でも酒の神であるディオニューソスは集団的狂乱を呼び起こしたりと悪魔的な側面が強い。哲学者の[[ニーチェ]]はこのディオニーソス的な狂乱を美徳とし、ディオニーソス賛美の著書を記した。
=== 科学の世界の悪魔 ===
[[ルネ・デカルト|デカルト]]が「[[我思う、ゆえに我あり|我思う、故に我在り]]」を導くために悪魔を仮定したことで知られる。
[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』で描かれるところの[[メフィストフェレス]]は「[[理性]]は持っているが[[悟性]]は持たない」ことになっている。
科学の分野でも悪魔の存在を仮定する例がある。「[[ラプラスの悪魔]]」や「[[マクスウェルの悪魔]]」が有名で、いずれも[[パラドックス]]に関わっている。
近年でも、[[化学兵器]]や[[核兵器]]など[[大量破壊兵器]]に関わる学者は「悪魔の科学者」といわれることがある。創作の中での[[マッドサイエンティスト]]はその例である。
== シンボル・マスコット・名称としての「悪魔」 ==
[[ファイル:Daemon-phk.png|thumb|100px|BSDデーモン]]
* [[BSDデーモン]] - [[FreeBSD]]に代表される[[Berkeley Software Distribution|BSDオペレーティングシステム]]のマスコット。
* [[デーモン (ソフトウェア)]] - [[Unix系]]の[[オペレーティングシステム]] (OS) で、主に[[バックグラウンド (ソフトウェア)|バックグラウンド]]で動作する[[プロセス]]。
==悪魔を自称している人物==
*[[デーモン閣下]]---人間の体を借りた悪魔と自称
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2010年4月}}
*『[[新カトリック大事典]]』 研究社
*山北篤・佐藤俊之 監修 『悪魔事典』 新紀元社。ISBN 4-88317-353-4。
*[[フレッド・ゲティングズ]] 『悪魔の事典』 大瀧啓裕 訳、青土社。ISBN 4-7917-5185-X。
* {{Cite book |和書 |author = ヒルデ・シュメルツァー |translator = 進藤美智 |title = 魔女現象 |date = 1993 |publisher = 白水社 |isbn = 4560028737 |ref = harv }}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|悪魔}}
{{wikiquote|悪魔}}
{{Commonscat|The Devil}}
*[[悪魔の一覧]]
*[[悪魔学]]
*[[悪魔の階級]]
*[[偶像崇拝]]
*[[女悪魔]]
*[[キリスト教悪魔学における性]]
*[[七つの大罪]]
*[[サタニズム]]
*[[サタン教会]]
*[[魔王]]
*[[ローマ帝国]]
*[[陰陽道]]
*[[反キリスト]]
*[[死神]]
*[[ニューエイジ]]
*[[魔女]]
*[[サタン]]
*[[ソロモン]]、[[タフムーラス]] - 悪魔を使役したとされる。
== 外部リンク ==
*[https://ci.nii.ac.jp/naid/110004029392/ CiNii - ゲーテにおける「デモーニッシュなもの」についての覚書]
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17,225 |
三河島駅
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三河島駅(みかわしまえき)は、東京都荒川区西日暮里一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。駅番号はJJ 03。
当駅に乗り入れている路線は常磐線のみだが、本線のほか、当駅からは田端駅(田端信号場駅)方面への支線(田端貨物線)と隅田川駅方面へ向かう支線(隅田川貨物線)が分岐する。支線は田端信号場駅方面は貨物列車と臨時列車が、隅田川駅方面は貨物列車のみが使用する。
旅客駅には常磐線快速電車および中距離電車のみが停車し、東京メトロ千代田線に直通する常磐線各駅停車は当駅を経由しない。したがって、複々線区間で常磐線各駅停車のみが停車する綾瀬駅・亀有駅・金町駅へ向かう利用客は、北千住駅で常磐線各駅停車に乗り換える必要がある。土浦・水戸方面に直通する中距離電車はかつて日中しか停車しなかったが、2004年3月13日のダイヤ改正以降は、通勤快速・特別快速を除くすべての中距離電車が停車するようになった。
当駅は、特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。
島式ホーム1面2線を有する高架駅である。
本線の両側にはホームのない支線の線路がある。下り線側は田端信号場駅方面から来て南千住駅寄りで合流する。合流地点は三河島事故が起きた現場である。上り線側は田端信号場駅と隅田川駅を結ぶ単線で、南千住駅寄りに上り線からの渡り線がある。
改札口は南千住駅寄りの1か所のみの設置されている。ホーム上屋は短かったが、2011年(平成23年)に増設工事が完了、ホーム長の過半をカバーすることになった。ホームの幅はやや狭い。中ほどに待合室がある。
自動券売機、多機能券売機、指定席券売機、自動改札機、乗車駅証明書発行機が設置されている。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝はインターホンによる案内となる。また、乗車駅証明書発行機は早朝のみの稼働である。
2010年12月よりエレベーター設置工事が行われ、翌年4月、完了した。
(出典:JR東日本:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は10,551人である。常磐線(常磐快速線)のJR東日本首都圏本部管内(上野駅 - 取手駅間)の駅の中では最も少なく、東京23区内では越中島駅・上中里駅・高輪ゲートウェイ駅・尾久駅に次いで5番目に少ない。
近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
駅の出口は尾竹橋通りに面している。当駅から日暮里駅までの線路は弧を描くような急カーブになっており、直線距離では日暮里駅・西日暮里駅・町屋駅も徒歩圏内にも入るほどの近さにある。
江戸時代、三河島には徳川家康が遷都の際、開墾のために三河から連れてきた伊藤氏(伊藤七家)などの農家が居住して稲作を行っていた。当時の三河島村はタンチョウの飛来地としても知られていた。(⇢ タンチョウ#江戸のタンチョウ)
明治時代には上野の戦いから逃れた彰義隊の残兵が伊藤家に匿われた経緯も史記に残っている。日暮里出身の吉村昭の『彰義隊』に詳しい。
明治から大正までは湿地帯や農家の屋敷も残る田園地帯であった。また、文京区の柳沢吉保邸であった六義園に展示されている江戸地図に三河島近辺は田畑の表記になっている。
明治以降、屠殺場および皮革工場、下水処理場(三河島水再生センター)などの施設が建設されるようになり、戦前戦後にかけて、それらの工場や施設に日本人労働者や朝鮮半島出身者(多くが済州島出身者)が移住して働くようになった。そのような経緯から現在では駅周辺は焼肉店などハングルの看板が並ぶコリア・タウンともなっており、東京朝鮮第一初中級学校も近辺に所在する。規模的には御徒町(東上野)、大久保(新大久保)、川崎市桜本、千葉市栄町など関東の他コミュニティよりも比較的規模も活気も小さい。高度経済成長とともに金物加工や印刷、製紙や箱工場も増え、工業地域となった。
1962年には「国鉄戦後五大事故」の一つとされる死者160人を出した三河島列車衝突事故が発生した。
三河島駅より徒歩で3分ほどの東日暮里三丁目37番6号の民家に「藤の大滝」と呼ばれる高さ12メートルほどの藤の木がある。毎年4月下旬に見ごろを迎える。1973年に植えられたもので、その後1986年に荒川区の保護樹木に制定された。「藤まつり」が催されることもある
三河島駅前バス停にて、都営バスの路線バスが発着する。
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三河島駅(みかわしまえき)は、東京都荒川区西日暮里一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。駅番号はJJ 03。
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{{駅情報
|社色 = green
|文字色 = white
|駅名 = 三河島駅
|画像 = Mikawashima Station across road.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅外観(2008年2月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|44|0.5|N|139|46|35.1|E}}}}
|よみがな = みかわしま
|ローマ字 = Mikawashima
|電報略号 = ミマ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]一丁目6-10
|座標 = {{coord|35|44|0.5|N|139|46|35.1|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1905年]]([[明治]]38年)[[4月1日]]<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|pages=424-425}}</ref>
|廃止年月日 =
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =25 }}</ref>
|乗車人員 = 10,551
|統計年度 = 2022年<!-- 内部リンクは不要 -->
|乗入路線数 = 3
|所属路線1 = {{color|#00b261|■}}{{color|#3333ff|■}}[[常磐快速線|常磐線(快速)]]<br />(線路名称上は[[常磐線]])
|駅番号1 = {{駅番号r|JJ|03|#00b261|1}}
|前の駅1 = JJ 02 [[日暮里駅|日暮里]]
|駅間A1 = 1.2
|駅間B1 = 2.2
|次の駅1 = [[南千住駅|南千住]] JJ 04
|キロ程1 = 1.2 km([[日暮里駅|日暮里]]起点)<br />[[上野駅|上野]]から3.4
|起点駅1 =
|所属路線2 = 常磐線(貨物支線・田端貨物線)
|前の駅2 =
|駅間A2 =
|駅間B2 = 1.6
|次の駅2 = [[田端駅|田端]]
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 三河島
|所属路線3 = 常磐線(貨物支線・隅田川貨物線)
|前の駅3 =
|駅間A3 =
|駅間B3 = 3.2
|次の駅3 = [[隅田川駅|隅田川]]
|駅番号3 =
|キロ程3 = 0.0
|起点駅3 = 三河島
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]
* [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅<ref name="StationCd=1456_230913" />
* [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}}
}}
'''三河島駅'''(みかわしまえき)は、[[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[常磐線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JJ 03'''。
== 乗り入れ路線 ==
当駅に乗り入れている路線は[[常磐線]]のみだが、本線のほか、当駅からは[[田端駅]]([[田端信号場駅]])方面への支線(田端貨物線)と[[隅田川駅]]方面へ向かう支線(隅田川貨物線)が分岐する。支線は田端信号場駅方面は[[貨物列車]]と臨時列車が、隅田川駅方面は貨物列車のみが使用する。
旅客駅には[[常磐快速線|常磐線快速電車]]および[[中距離電車]]のみが停車し、[[東京メトロ千代田線]]に直通する[[常磐緩行線|常磐線各駅停車]]は当駅を経由しない。したがって、[[複々線]]区間で常磐線各駅停車のみが停車する[[綾瀬駅]]・[[亀有駅]]・[[金町駅]]へ向かう利用客は、[[北千住駅]]で常磐線各駅停車に乗り換える必要がある。土浦・水戸方面に直通する中距離電車はかつて日中しか停車しなかったが、[[2004年]][[3月13日]]のダイヤ改正以降は、通勤快速・特別快速を除くすべての中距離電車が停車するようになった。
当駅は、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内|東京都区内]]」に属している。
== 歴史 ==
* [[1905年]]([[明治]]38年)[[4月1日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業{{R|停車場}}。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道の[[鉄道国有法|国有化]]により[[鉄道省|官設鉄道]]の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により常磐線の所属となる。
* [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足。
* [[1962年]](昭和37年)[[5月3日]]:駅付近(安全確認線)で[[貨物列車]]と上下電車2本による三重衝突事故(三河島事故)が発生。死者160人、負傷者296人の大惨事となった。詳細は[[三河島事故]]・[[国鉄戦後五大事故]]を参照。
* [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:[[チッキ|荷物]]の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。
* [[1970年]](昭和45年)[[7月1日]]:貨物の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。
* [[1971年]](昭和46年)[[4月20日]]:緩行線(各駅停車)が帝都高速度交通営団千代田線(営団地下鉄/現・東京地下鉄)と相互直通運転を開始したことに伴い、快速停車駅となる。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:普通列車が日中(9時-16時)停車となる。
* [[2001年]]([[平成]]13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[3月13日]]:特別快速<ref group="注釈">[[2005年]][[7月9日]]から運転。</ref>・通勤快速<ref group="注釈">[[2006年]][[3月18日]]廃止。</ref>を除く普通列車が全停車となる。
* [[2005年]](平成17年)11月:[[みどりの窓口]]を廃止し、[[指定席券売機]]を設置<ref>{{Cite news|title=みどりの窓口 リストラ JR東 昨年〜今年63駅で廃止 後釜は券売機、客イライラ|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2006-07-11|page=23 夕刊}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する{{R|zeneki05}}[[高架駅]]である。
本線の両側にはホームのない支線の線路がある。下り線側は田端信号場駅方面から来て南千住駅寄りで合流する。合流地点は[[三河島事故]]が起きた現場である。上り線側は田端信号場駅と隅田川駅を結ぶ単線で、南千住駅寄りに上り線からの渡り線がある。
[[改札|改札口]]は[[南千住駅]]寄りの1か所のみの設置されている。ホーム上屋は短かったが、[[2011年]]([[平成]]23年)に増設工事が完了、ホーム長の過半をカバーすることになった。ホームの幅はやや狭い。中ほどに待合室がある。
[[自動券売機]]、多機能券売機<ref name="StationCd=1456_230913" />、[[指定席券売機]]<ref name="StationCd=1456_230913" />、[[自動改札機]]、[[無人駅#乗車駅証明書発行機|乗車駅証明書発行機]]が設置されている。[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝はインターホンによる案内となる<ref name="StationCd=1456_230913">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1456|title=駅の情報(三河島駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230913144220/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1456|archivedate=2023-09-13}}</ref>。また、乗車駅証明書発行機は早朝のみの稼働である。
[[2010年]][[12月]]より[[エレベーター]]設置工事が行われ、翌年[[4月]]、完了した。
=== のりば ===
<!--方面表記および路線表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)<br>[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] [[上野東京ライン]]
|style="text-align:center;"|上り
|[[日暮里駅|日暮里]]・[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]・[[品川駅|品川]]方面
|-
!rowspan="2"|2
|[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|下り
|rowspan="2"|[[松戸駅|松戸]]・[[取手駅|取手]]・[[成田駅|成田]]方面
|-
|{{color|#00b261|■}} [[成田線]]
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1456.html JR東日本:駅構内図])
* 10両編成の列車は、ホームの下り我孫子・取手・成田・土浦側に寄せて停車する。そのため上野寄りには停車しない。
<gallery>
JR Joban-Line Mikawashima Station Gates.jpg|改札口(2021年5月)
JR Joban-Line Mikawashima Station Platform.jpg|ホーム(2021年5月)
</gallery>
== 利用状況 ==
2022年(令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''10,551人'''である。常磐線(常磐快速線)の[[東日本旅客鉄道首都圏本部|JR東日本首都圏本部]]管内([[上野駅]] - [[取手駅]]間)の駅の中では最も少なく、東京23区内では[[越中島駅]]・[[上中里駅]]・[[高輪ゲートウェイ駅]]・[[尾久駅]]に次いで5番目に少ない。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.arakawa.tokyo.jp/kusei/gaiyo/suji.html 数字で表す荒川区(区勢概要)] - 荒川区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|8,726
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|8,697
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|9,082
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|9,101
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|8,959
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|8,842
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|8,808
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|-
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|
|}
== 駅周辺 ==
[[File:100 views edo 102.jpg|thumb|[[歌川広重]]『蓑輪金杉三河しま』]]
[[File:Fuji no Otaki.jpg|thumb|藤の大滝]]
駅の出口は[[尾竹橋通り]]に面している。当駅から日暮里駅までの線路は弧を描くような急カーブになっており、直線距離では日暮里駅・[[西日暮里駅]]・[[町屋駅]]も徒歩圏内にも入るほどの近さにある。
* 荒川区役所
* 荒川区立生涯学習センター
* 赤門会日本語学校本校
* [[東京朝鮮第一初中級学校]]
* [[在日本大韓民国民団]](民団)東京荒川支部
===駅周辺の歴史===
[[江戸時代]]、三河島には[[徳川家康]]が遷都の際、開墾のために三河から連れてきた伊藤氏(伊藤七家)などの農家が居住して[[稲作]]を行っていた。当時の三河島村は[[タンチョウ]]の飛来地としても知られていた。(⇢ [[タンチョウ#江戸のタンチョウ]])
明治時代には上野の戦いから逃れた[[彰義隊]]の残兵が伊藤家に匿われた経緯も史記に残っている。[[日暮里]]出身の[[吉村昭]]の『彰義隊』に詳しい。
明治から大正までは[[湿地帯]]や農家の屋敷も残る田園地帯であった。また、[[文京区]]の[[柳沢吉保]]邸であった[[六義園]]に展示されている江戸地図に[[三河島]]近辺は田畑の表記になっている。
明治以降、[[屠殺場]]および[[皮革]]工場、下水処理場([[三河島水再生センター]])などの施設が建設されるようになり、戦前戦後にかけて、それらの工場や施設に日本人労働者や[[朝鮮半島]]出身者(多くが[[済州島]]出身者)が移住して働くようになった<ref>「荒川区史・下」(1989年3月刊)</ref><ref name=tokyo>2008年9月22日 東京新聞</ref>。そのような経緯から現在では駅周辺は焼肉店など[[ハングル]]の看板が並ぶ[[コリア・タウン]]ともなっており、[[東京朝鮮第一初中級学校]]も近辺に所在する。規模的には[[御徒町]](東上野)、[[大久保 (新宿区)|大久保]](新大久保)、川崎市桜本、千葉市栄町など関東の他コミュニティよりも比較的規模も活気も小さい。[[高度経済成長]]とともに金物加工や印刷、製紙や箱工場も増え、工業地域となった。
1962年には「国鉄戦後五大事故」の一つとされる死者160人を出した[[三河島事故|三河島列車衝突事故]]が発生した。
三河島駅より徒歩で3分ほどの東日暮里三丁目37番6号の民家に「藤の大滝」と呼ばれる高さ12メートルほどの藤の木がある。毎年4月下旬に見ごろを迎える。1973年に植えられたもので、その後1986年に荒川区の保護樹木に制定された<ref>{{Cite web|和書|title=藤の大滝 |url=https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/kankouspot/nippori003.html |website=荒川区公式サイト |access-date=2022-04-24 |language=ja |last=荒川区}}</ref>。「藤まつり」が催されることもある<ref>{{Cite web|和書|title=東日暮里の藤の木「藤の大滝」が見頃に-満開は20日ごろ |url=https://ueno.keizai.biz/headline/1306/ |website=上野経済新聞 |access-date=2022-04-24 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=藤の大滝 – 親交睦商店街 |url=http://www.shinkoumutsumi.com/%e5%9c%b0%e5%9f%9f%e6%83%85%e5%a0%b1/%e8%97%a4%e3%81%ae%e5%a4%a7%e6%bb%9d/ |access-date=2022-04-24 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gotokyo.org/book/wp-content/uploads/2019/10/2003_arakawa-event_JP.pdf |title=令和2年度 荒川区 産業経済部 観光振興課 荒川区観光情報トップページ 荒川区 イベントカレンダー 観光スポット |format=PDF |publisher=荒川区 |accessdate=2022-04-24}}</ref>。
== バス路線 ==
<!--バス路線の記述は、[[PJ:RAIL#駅の記事の記述]]より、必要最小限の情報に留めています。また、[[PJ:RAIL#バス路線の記述法]]より、経由地などの情報は各事業者の記事のリンクへと誘導させる形式としています。-->
'''三河島駅前'''バス停にて、[[都営バス]]の路線バスが発着する。
* [[都営バス南千住営業所#里22系統|里22]]:[[日暮里駅|日暮里駅前]]行 / [[亀戸駅|亀戸駅前]]行・[[都営バス南千住営業所|南千住車庫前]]行
* [[都営バス千住営業所#草41系統|草41]]:[[田原町駅 (東京都)|浅草寿町]]行 / 足立梅田町行
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)
:: {{Color|#ff0066|■}}特別快速
:::; 通過
:: {{Color|#3333ff|■}}{{Color|#33dd22|■}}快速
::: [[日暮里駅]] (JJ 02) - '''三河島駅 (JJ 03)''' - [[南千住駅]] (JJ 04)
: 常磐線貨物支線(田端貨物線)
::: '''三河島駅''' - [[田端駅]]([[田端信号場駅]])
: 常磐線貨物支線(隅田川貨物線)
::: '''三河島駅''' - [[隅田川駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
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=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
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; 東京都統計年鑑
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== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1456|name=三河島}}
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{{常磐線 (田端貨物線・隅田川貨物線)}}
{{DEFAULTSORT:みかわしま}}
[[Category:荒川区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 み|かわしま]]
[[Category:日本鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:常磐線]]
[[Category:日暮里]]
[[Category:1905年開業の鉄道駅]]
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2003-09-18T03:12:15Z
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今川義元
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今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の武将。駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。姓名は源義元。
寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。
永正16年(1519年)、今川氏親の三男として生まれる。母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)。ただし、義元は本来は側室の子で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組をしたとする説もある(後述)。生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄の氏輝、および彦五郎がいたために4歳で仏門に出され、駿河国富士郡瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられた。享禄2年(1529年)に承舜が没したために、彼の弟子であった九英承菊(後の太原雪斎)がその役割を継承した。その後、雪斎と共に建仁寺に入り常庵龍崇の元で得度し栴岳承芳(せんがくしょうほう)となった。さらに雪斎と共に妙心寺で大休宗休に学び学識を深めた。
その後、氏輝の命を受けて京都から駿河に戻るが、その直後の天文5年(1536年)に氏輝が急死する。この時点ではまだ兄の彦五郎がいたために継承権はなかったが、彦五郎までもが氏輝と同日に死亡したために継承権が巡ってきた。氏輝・彦五郎と同じ寿桂尼所生であることも後押しとなり、重臣たちから還俗を乞われた承芳は主君であり本流に当たる征夷大将軍・足利義晴から偏諱を賜り、義元と名乗った。だが当主継承は有力家臣の福島(くしま)氏の反対で混迷化し、最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探を当主として掲げて反旗を翻した(花倉の乱)。
恵探側は今川館に攻め寄せる等攻勢をみせたが太原雪斎・岡部親綱ら義元側の家臣団の奮戦の前に苦戦が続いた。加えて義元が伊豆国(静岡県伊豆半島)・相模国(神奈川県西南部)を領する後北条氏からの支援を得ることに成功すると一層敗色は濃厚となり、花倉城の陥落を以って恵探は自害した。内乱を鎮めて家督相続を果たした義元は今川氏当主となり、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えた。
天文6年(1537年)2月、氏輝期まで抗争状態にあった甲斐国の守護・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結ぶ(甲駿同盟)。周囲の守りを固めんとして行われた甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友(駿相同盟)として自らの当主継承にも助力した北条氏綱の怒りを買い、同年同月、北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻した(第一次河東一乱)。花倉の乱による内部対立を引き摺ったまま家臣団の統制がとれなかった今川軍は、北条軍に対して適切な反撃が行えず河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまう。義元は武田の援軍と連帯して領土奪還を試みたが、花倉の乱で恵探側に組した堀越氏・井伊氏といった遠江に基盤を置く反義元派の武将らが義元から離反したため、家臣の反乱と北条氏の侵攻との挟撃状態に陥り、河東は北条氏に占領されたまま長期化の様相を見せた。
さらに追い討ちをかけるが如く、尾張国(愛知県西部)の織田信秀が天文9年(1540年)に三河国(愛知県東部)に侵攻を開始した。義元は三河に援軍を送り三河の諸侯軍と連合して天文11年(1542年)に織田軍との一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れたとされている(第一次小豆坂の戦い。ただしこの戦いは後世の創作である可能性もあり)。天文10年(1541年)、苦杯を嘗めさせられた北条氏綱が死去、北条氏は氏康が家督を継いだ。『高白斎記』によれば、同年5月25日に甲斐国の武田信虎は嫡男の武田晴信(信玄)を伴い、信濃国の諏訪頼重や村上義清とともに信濃佐久郡侵攻を行う(海野平の戦い)。信虎は6月4日に甲斐へ帰国すると、6月14日に義元訪問のため駿州往還を経て駿河へ出立するが、晴信により路地を封鎖されるクーデターが発生する。義元は信虎の身柄を預かりつつ、家督を相続した晴信とも同盟関係を続け、高遠合戦では武田に援軍を派遣した。
苦しい状況が続く中、天文14年(1545年)、義元は氏康と敵対する山内上杉憲政と同盟を結び、北条氏を挟み撃ちにする策を立てた(第二次河東一乱)。同年8月22日、義元と憲政との同盟によって河東と関東方面に戦力が分断される形となった北条軍に対して、義元は武田の援軍を得て河東に侵攻し、同じく関東においては両上杉氏(上杉憲政・上杉朝定)が古河公方・足利晴氏らと連合し8万の大軍で河越城を包囲した。河東では今川軍が北条軍を打ち破り、関東では上杉連合軍が河越城を包囲し続け、北条軍は西の今川軍と東の上杉連合軍との挟撃状態に陥り、窮地に立たされた。進退窮まった氏康は武田晴信に仲介を頼み、義元との交渉で河東の地を今川家に返還するという条件で和睦、今川氏は北条氏との争いに実質的に勝利した。これにより一先ず西方に安堵を得た氏康は関東方面に戦力を集中させ、河越城の戦いにおいて苦境から一転、逆転勝利を収めた。河東の地の遺恨を巡って両者の緊張関係は続いたが、北条氏が関東方面への侵攻に集中していったことで徐々に両者の緊張関係は和らいでいった。
一方、三河においては西三河の松平広忠の帰順を受け、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わし、尾張の織田家の妨害を受けつつも、着実に三河勢の従属化に努めていった。この際、護送を請け負った三河田原城(愛知県田原市)の国人領主・戸田康光が裏切って竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こった。これは前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光の一族を滅ぼしたため、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに対して義元は戸田宗家を武力でもって徹底的に滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れた。ただし、これについては近年、松平広忠・戸田康光連合軍と松平家内部の反主流派であった松平信孝・酒井忠尚の要請を受けて介入した今川義元・織田信秀連合軍の戦いであり、その結果戸田氏は義元に滅ぼされ、松平氏は信秀に岡崎城を奪われて竹千代を人質に出すことで許されたとする新たな見方も浮上している。
天文17年(1548年)、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が侵攻してくるが、義元の軍師である雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝した。(第二次小豆坂の戦い)。またこの頃までに松平信孝を滅ぼした松平広忠も再び今川方に帰属している。
天文18年(1549年)に松平広忠が死去すると、義元は領主が死去して不在となった松平家に対して支配していた西三河地域を今川家の領土にしようとした。嫡子の竹千代は織田の人質となっていた事から、岡崎付近に向けて今川軍を派遣した。岡崎城(現在の愛知県岡崎市)に家臣を送り込み、事実上松平家の所領を領有した。松平家の支配下にあった三河国の国人領主を直接今川家の支配下に取り込んでいった。また、織田方の三河安祥城を攻略(現在の愛知県安城市)して、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した。これにより継承直後から続いた西の織田氏との争いは今川氏勝利の形で決着した。また、このおり信秀の庶長子にあたる城将・織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還、実質自らの配下とすることで尾張進出への足掛かりを着々と築いていく。天文20年(1551年)に織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。
更に天文22年(1553年)には亡父の定めた今川仮名目録に追加法(仮名目録追加21条)を加えたが、ここにおいて現在の今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであることを理由に、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。これは、今川氏は既に室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを明確に宣言したものでもあった。
天文23年(1554年)、嫡子・今川氏真に北条氏康の娘(早川殿)を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成した(この会談は善徳寺の会盟とも呼ばれている)。これにより後顧の憂いを断った。
また弘治元年(1555年)に行われた第二次川中島の戦いでは武田晴信と長尾景虎の仲介を行って両者の和睦を成立させた。駿河・遠江・三河で検地も実施している。その一方で、三河を巡る織田氏との対立が激化し、これに触発された吉良氏や奥平氏などが今川氏に叛旗を翻した。これを三河忩劇(みかわそうげき)と呼ぶ。
永禄元年(1558年)には、支配下においていた松平元康をして、三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻めさせて下した。
同年、義元は氏真に家督を譲り隠居する。これ以後、今川氏の本国である駿河・遠江に発給される文書の著名は氏真名となる。一方、義元は新領土である分国の三河の鎮圧および経営に集中し、それが成るとさらには尾張以西への侵攻に力をそそぐこととなる。
永禄3年(1560年)5月には那古野城を目指し駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始。織田方に身動きを封じられた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、桶狭間(おけはざま)山で休息中に織田信長の攻撃を受け、松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣・毛利良勝に愛刀・義元左文字と首級を奪われた。享年42。
その後、残存した今川兵によって駿府まで連れ帰ろうと試みられたが、首の無い義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国宝飯郡に埋葬された。
織田方に討ち取られた首級は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣・岡部元信と信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻った。義元の戦死により氏真が後を継いだが、この混乱に乗じて松平元康(後の徳川家康)が西三河で自立(独立)した。この動きに追従する様に東三河でも戸田氏・西郷氏などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。この様な三河の動揺が隣国・遠江に伝播すると、正誤の判別がつかない噂が飛び交い、遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまった(遠州錯乱)。この動揺期において氏真は若輩だったこともあり人心掌握の才に欠け、井伊直親や飯尾連龍などを粛清することで事態の収拾を試みたが、逆に人心の離反を加速させてしまい家臣(国人領主)の離脱が相次いだ。多くの国人領主の支持を失い自国領内すらまともに統治できない状態となった今川氏は、見る見るうちに衰退していき義元の死から9年後の永禄12年(1569年)、氏真は信玄と家康によって駿河・遠江を追われ、大名としての今川家は滅亡した。
駿河追放後、氏真は妻・早川殿の実家北条家に身を寄せたが武田・北条の同盟が復活すると徳川家康の家臣となる。江戸期に今川氏は高家旗本として幕臣に列した。
今川義元の実母に関しては寿桂尼であることには特段疑問が持たれなかった。しかし、天文20年以前に編纂されたと推定できる『蠧簡集残篇』所収「今川系図」に花蔵(玄広恵探)を二男と明記されていること、同系図並びに江戸時代初期の系譜に今川氏豊・象耳泉奘の名前はないことから、氏親の男子は4人で、長男が氏輝、次男が恵探と考えられるようになった。この説に基づいた場合の残された彦五郎と義元の兄弟関係については、彦五郎を永正14年(1517年)頃に生まれた三男(ただし、側室の子である恵探よりも日付は遅い)と考えて義元を四男とする黒田基樹の説と彦五郎を大永2年(1522年)頃に生まれた四男と考えて義元を三男とする大石泰史の説に分かれている。
更に黒田は龍泉院(瀬名貞綱室)を『言継卿記』弘治2年11月28日条の「瀬名殿女中(中略)太守の姉、中御門女中妹」とする記述から彼女を義元の姉と確定した上で、寿桂尼が玄広恵探が誕生した永正14年(1517年)以降の足かけ3年間に彦五郎・瑞渓院・龍泉院・義元と4名の子を産むことが可能なのか?と疑問を呈し、誕生後の扱いから寿桂尼の実子とみなせる彦五郎、『言継卿記』弘治2年10月2日条に「大方(寿桂尼)の孫」と記されている北条氏規(当時、今川氏の人質となっていた)の生母である瑞渓院も実子とみて間違いなく、同弘治3年2月2日条に「大方女」と書かれた「瀬名殿女中」も龍泉院のことを指すため、残された義元は実は庶出で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組を結んで実子扱いにされたのではないか、という説を唱えた(浅倉直美は義元だけではなく龍泉院も側室の子が寿桂尼の養子になったと解する余地があるとする)。大石も彦五郎の誕生時期については見解は異なるものの、彦五郎の名乗りは曽祖父にあたる今川範忠(兄・五郎範豊の早世で家督を継いだ)と同じであるため寿桂尼の子と考えてよいとした上で、彦五郎の兄である義元が寺に入れられたのは彼が恵探と同じく庶出であったからではないか、という説を唱えた。ただし、義元の母が側室の可能性を疑わせるものは『群書系図』所収の「今川系図」に氏輝・恵探・義元の順に並べられて、氏輝の欄に「母中御門大納言宣胤女(=寿桂尼)」、恵探の欄に「母福嶋安房守女」、義元の欄に「母同」と記されて恵探と義元が同母兄弟と解釈する余地を残している部分と『高白斎記』天文5年月24日(氏輝の死後、花倉の乱の最中)の記事に寿桂尼を「善徳寺(=義元)ノ老母」ではなく「氏照(=氏輝)ノ老母」と表記している部分に義元が寿桂尼が生んだ子ではない可能性を示す部分のみである。また、義元が寿桂尼の子ではないとした場合の生母の実像について、黒田は京都からの食客の娘、大石は福島氏の娘(ただし、恵探の母は福島氏の庶流出身で、義元の母は同氏の嫡流もしくはそれに近い家の出身として、同じ一族内でも嫡庶による身分差があったとする)、浅倉は朝比奈氏の娘(朝比奈泰煕の娘か)と想定しており、意見が一致している訳ではなく、現時点では可能性の域にとどまっている。
武将としては当時の駿河、遠江(今の静岡県)だけではなく、三河や尾張(愛知県)までも領土を拡大させ、武田信玄や北条氏康とも渡り合い、太原雪斎を仲介させて、三国同盟を締結させたが、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた敗将として、良くない意味で日本史において有名となり、後世における評価が低下した。
通説では圧倒的に有利な情勢から信長を軽んじ、明らかに地の利がない田楽狭間で安穏と休憩を取ったことが敗北を招いたことなどが挙げられる。また、輿に乗り移動していたという史実から、騎乗することができなかったと見られるようになり、さらにその理由は幼少時に落馬した恐怖のため、太っていたため、寸胴短足だったため、など、後世に様々な俗説が創作されたことも評価を低くした。平成19年(2007年)の大河ドラマ『風林火山』で今川義元を演じた谷原章介は、役を演じるにあたって、「一般には公家かぶれで軟弱というイメージが浸透していて、桶狭間で油断して討ち取られたという『結果』ばかりが強調されて語られる傾向がある」と語っている。
実際のところ、騎乗せず輿に乗っていたことは、義元は今川家は足利氏の庶流として室町二十一屋形と称された屋形号を有していることから特別に輿に乗ることを認められており、むしろ合戦の際も輿に乗ることはその誇示と言う面があった(大石泰史は尾張国内で輿に乗れる資格があるのは同じく足利氏庶流の守護の斯波氏のみで、義元が輿に乗って進軍することで織田氏との家柄・立場の違いを尾張の人々に視覚的に示そうとした政治的・軍事的なパフォーマンス・デモンストレーションであったとする。)。また『信長公記』には桶狭間山から退却する義元が馬に乗っていたと記されており、一般にこれら記述が登場するのは江戸時代中期のものであって、ほぼ後世の創作と考えられる。公家文化に精通していることに関しても、先述の通りそれは素養の高さを示すものであり、決して暗愚を示すものではない。
内政面においては辣腕を振るったことは史料で確認でき、天文22年(1552年)には「今川仮名目録」の追加法を制定した。さらに商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化を図るなど優れた行政改革を進めた。
朝倉宗滴は、『朝倉宗滴話記』のなかで「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべく人」として武田晴信・織田信長・三好長慶・長尾景虎・毛利元就らと同列に評価している(『続々群書類従』)。
近年は桶狭間の戦いについての研究が進んだこともあり、義元を暗愚ではなく、内政・外交・軍事に優れていたものの、悪天候などの不運により敗死した悲劇の名将として描く作品も見られる(宮下英樹『センゴク外伝 桶狭間戦記』、かわのいちろう『信長戦記』など)。
また、今川氏が居館を置いていた静岡市は命日に当たる2017年5月19日、義元生誕500周年の2019年に向けて顕彰などを進める「今川復活宣言」を発表した。
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"text": "今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の武将。駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。姓名は源義元。",
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"text": "寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。",
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"text": "永正16年(1519年)、今川氏親の三男として生まれる。母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)。ただし、義元は本来は側室の子で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組をしたとする説もある(後述)。生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄の氏輝、および彦五郎がいたために4歳で仏門に出され、駿河国富士郡瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられた。享禄2年(1529年)に承舜が没したために、彼の弟子であった九英承菊(後の太原雪斎)がその役割を継承した。その後、雪斎と共に建仁寺に入り常庵龍崇の元で得度し栴岳承芳(せんがくしょうほう)となった。さらに雪斎と共に妙心寺で大休宗休に学び学識を深めた。",
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"text": "その後、氏輝の命を受けて京都から駿河に戻るが、その直後の天文5年(1536年)に氏輝が急死する。この時点ではまだ兄の彦五郎がいたために継承権はなかったが、彦五郎までもが氏輝と同日に死亡したために継承権が巡ってきた。氏輝・彦五郎と同じ寿桂尼所生であることも後押しとなり、重臣たちから還俗を乞われた承芳は主君であり本流に当たる征夷大将軍・足利義晴から偏諱を賜り、義元と名乗った。だが当主継承は有力家臣の福島(くしま)氏の反対で混迷化し、最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探を当主として掲げて反旗を翻した(花倉の乱)。",
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"text": "恵探側は今川館に攻め寄せる等攻勢をみせたが太原雪斎・岡部親綱ら義元側の家臣団の奮戦の前に苦戦が続いた。加えて義元が伊豆国(静岡県伊豆半島)・相模国(神奈川県西南部)を領する後北条氏からの支援を得ることに成功すると一層敗色は濃厚となり、花倉城の陥落を以って恵探は自害した。内乱を鎮めて家督相続を果たした義元は今川氏当主となり、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えた。",
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"text": "天文6年(1537年)2月、氏輝期まで抗争状態にあった甲斐国の守護・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結ぶ(甲駿同盟)。周囲の守りを固めんとして行われた甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友(駿相同盟)として自らの当主継承にも助力した北条氏綱の怒りを買い、同年同月、北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻した(第一次河東一乱)。花倉の乱による内部対立を引き摺ったまま家臣団の統制がとれなかった今川軍は、北条軍に対して適切な反撃が行えず河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまう。義元は武田の援軍と連帯して領土奪還を試みたが、花倉の乱で恵探側に組した堀越氏・井伊氏といった遠江に基盤を置く反義元派の武将らが義元から離反したため、家臣の反乱と北条氏の侵攻との挟撃状態に陥り、河東は北条氏に占領されたまま長期化の様相を見せた。",
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"text": "さらに追い討ちをかけるが如く、尾張国(愛知県西部)の織田信秀が天文9年(1540年)に三河国(愛知県東部)に侵攻を開始した。義元は三河に援軍を送り三河の諸侯軍と連合して天文11年(1542年)に織田軍との一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れたとされている(第一次小豆坂の戦い。ただしこの戦いは後世の創作である可能性もあり)。天文10年(1541年)、苦杯を嘗めさせられた北条氏綱が死去、北条氏は氏康が家督を継いだ。『高白斎記』によれば、同年5月25日に甲斐国の武田信虎は嫡男の武田晴信(信玄)を伴い、信濃国の諏訪頼重や村上義清とともに信濃佐久郡侵攻を行う(海野平の戦い)。信虎は6月4日に甲斐へ帰国すると、6月14日に義元訪問のため駿州往還を経て駿河へ出立するが、晴信により路地を封鎖されるクーデターが発生する。義元は信虎の身柄を預かりつつ、家督を相続した晴信とも同盟関係を続け、高遠合戦では武田に援軍を派遣した。",
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"text": "苦しい状況が続く中、天文14年(1545年)、義元は氏康と敵対する山内上杉憲政と同盟を結び、北条氏を挟み撃ちにする策を立てた(第二次河東一乱)。同年8月22日、義元と憲政との同盟によって河東と関東方面に戦力が分断される形となった北条軍に対して、義元は武田の援軍を得て河東に侵攻し、同じく関東においては両上杉氏(上杉憲政・上杉朝定)が古河公方・足利晴氏らと連合し8万の大軍で河越城を包囲した。河東では今川軍が北条軍を打ち破り、関東では上杉連合軍が河越城を包囲し続け、北条軍は西の今川軍と東の上杉連合軍との挟撃状態に陥り、窮地に立たされた。進退窮まった氏康は武田晴信に仲介を頼み、義元との交渉で河東の地を今川家に返還するという条件で和睦、今川氏は北条氏との争いに実質的に勝利した。これにより一先ず西方に安堵を得た氏康は関東方面に戦力を集中させ、河越城の戦いにおいて苦境から一転、逆転勝利を収めた。河東の地の遺恨を巡って両者の緊張関係は続いたが、北条氏が関東方面への侵攻に集中していったことで徐々に両者の緊張関係は和らいでいった。",
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"text": "一方、三河においては西三河の松平広忠の帰順を受け、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わし、尾張の織田家の妨害を受けつつも、着実に三河勢の従属化に努めていった。この際、護送を請け負った三河田原城(愛知県田原市)の国人領主・戸田康光が裏切って竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こった。これは前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光の一族を滅ぼしたため、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに対して義元は戸田宗家を武力でもって徹底的に滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れた。ただし、これについては近年、松平広忠・戸田康光連合軍と松平家内部の反主流派であった松平信孝・酒井忠尚の要請を受けて介入した今川義元・織田信秀連合軍の戦いであり、その結果戸田氏は義元に滅ぼされ、松平氏は信秀に岡崎城を奪われて竹千代を人質に出すことで許されたとする新たな見方も浮上している。",
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"text": "天文17年(1548年)、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が侵攻してくるが、義元の軍師である雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝した。(第二次小豆坂の戦い)。またこの頃までに松平信孝を滅ぼした松平広忠も再び今川方に帰属している。",
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"text": "天文18年(1549年)に松平広忠が死去すると、義元は領主が死去して不在となった松平家に対して支配していた西三河地域を今川家の領土にしようとした。嫡子の竹千代は織田の人質となっていた事から、岡崎付近に向けて今川軍を派遣した。岡崎城(現在の愛知県岡崎市)に家臣を送り込み、事実上松平家の所領を領有した。松平家の支配下にあった三河国の国人領主を直接今川家の支配下に取り込んでいった。また、織田方の三河安祥城を攻略(現在の愛知県安城市)して、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した。これにより継承直後から続いた西の織田氏との争いは今川氏勝利の形で決着した。また、このおり信秀の庶長子にあたる城将・織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還、実質自らの配下とすることで尾張進出への足掛かりを着々と築いていく。天文20年(1551年)に織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。",
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"text": "更に天文22年(1553年)には亡父の定めた今川仮名目録に追加法(仮名目録追加21条)を加えたが、ここにおいて現在の今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであることを理由に、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。これは、今川氏は既に室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを明確に宣言したものでもあった。",
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"text": "天文23年(1554年)、嫡子・今川氏真に北条氏康の娘(早川殿)を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成した(この会談は善徳寺の会盟とも呼ばれている)。これにより後顧の憂いを断った。",
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"text": "また弘治元年(1555年)に行われた第二次川中島の戦いでは武田晴信と長尾景虎の仲介を行って両者の和睦を成立させた。駿河・遠江・三河で検地も実施している。その一方で、三河を巡る織田氏との対立が激化し、これに触発された吉良氏や奥平氏などが今川氏に叛旗を翻した。これを三河忩劇(みかわそうげき)と呼ぶ。",
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"text": "実際のところ、騎乗せず輿に乗っていたことは、義元は今川家は足利氏の庶流として室町二十一屋形と称された屋形号を有していることから特別に輿に乗ることを認められており、むしろ合戦の際も輿に乗ることはその誇示と言う面があった(大石泰史は尾張国内で輿に乗れる資格があるのは同じく足利氏庶流の守護の斯波氏のみで、義元が輿に乗って進軍することで織田氏との家柄・立場の違いを尾張の人々に視覚的に示そうとした政治的・軍事的なパフォーマンス・デモンストレーションであったとする。)。また『信長公記』には桶狭間山から退却する義元が馬に乗っていたと記されており、一般にこれら記述が登場するのは江戸時代中期のものであって、ほぼ後世の創作と考えられる。公家文化に精通していることに関しても、先述の通りそれは素養の高さを示すものであり、決して暗愚を示すものではない。",
"title": "評価"
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"text": "内政面においては辣腕を振るったことは史料で確認でき、天文22年(1552年)には「今川仮名目録」の追加法を制定した。さらに商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化を図るなど優れた行政改革を進めた。",
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"text": "朝倉宗滴は、『朝倉宗滴話記』のなかで「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべく人」として武田晴信・織田信長・三好長慶・長尾景虎・毛利元就らと同列に評価している(『続々群書類従』)。",
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"text": "近年は桶狭間の戦いについての研究が進んだこともあり、義元を暗愚ではなく、内政・外交・軍事に優れていたものの、悪天候などの不運により敗死した悲劇の名将として描く作品も見られる(宮下英樹『センゴク外伝 桶狭間戦記』、かわのいちろう『信長戦記』など)。",
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"text": "また、今川氏が居館を置いていた静岡市は命日に当たる2017年5月19日、義元生誕500周年の2019年に向けて顕彰などを進める「今川復活宣言」を発表した。",
"title": "評価"
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今川 義元は、戦国時代の武将。駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。姓名は源義元。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。
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{{参照方法|date=2016年3月}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 今川 義元
| 画像 = Imagawa-Yoshimoto-Ukiyo-e.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 今川義元、[[浮世絵]]([[歌川国芳]])
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 生誕 = [[永正]]16年([[1519年]])
| 死没 = [[永禄]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[1560年]][[6月12日]])
| 改名 = 今川芳菊丸(幼名)→ 栴岳承芳(法号)→ 今川義元
| 別名 = 渾名:[[海道一の弓取り]]
| 戒名 = 天沢寺殿四品前礼部侍郎秀峰哲公大居士<br />天澤寺秀峯哲公
| 墓所 = [[愛知県]][[豊川市]]の大聖寺(胴塚)<br/>
[[愛知県]][[豊明市]]の[[桶狭間#桶狭間古戦場伝説地|桶狭間古戦場伝説地]]<br/>愛知県豊明市の[[高徳院 (豊明市)|高徳院]]<br/>[[静岡県]][[静岡市]][[葵区]]大岩町の[[臨済寺 (静岡市)|臨済寺]]<br/>[[東京都]][[杉並区]]の[[観泉寺]] <br/>[[愛知県]][[西尾市]]の[[東向寺]]
|官位 = [[従四位下]][[治部大輔]]
| 幕府 = [[室町幕府]][[駿河国|駿河]][[守護]]、[[遠江国|遠江]][[守護]]
| 主君 = [[足利義晴]] → [[足利義輝|義輝]]
| 氏族 = [[清和源氏]][[源義国|義国]]流[[足利氏]]系[[吉良]]支流[[今川氏]]
| 父母 = 父:[[今川氏親]]、母:[[寿桂尼]]([[中御門宣胤]]の娘)(異説あり)
| 兄弟 = [[今川氏輝|氏輝]]、[[今川彦五郎|彦五郎]]、[[玄広恵探]]、[[泉奘|象耳泉奘]]、'''義元'''、[[今川氏豊|氏豊]]、女([[吉良義堯]]室)、[[瑞渓院]]([[北条氏康]]室)、女([[松平親善]]室のちに[[鵜殿長持]]室)、女([[中御門宣綱]]室)、女([[瀬名氏俊]]室)、[[関口夫人|女]]([[関口親永]]室{{Refnest|group="注釈"|一説には妹ではなく[[井伊直平]]の娘で、義元の側室となり後に関口親永に嫁いだという。また、別の説では親永の実兄である瀬名氏俊の室との誤認とする説もある。}})、女(大谷吉秀室<ref> [[二本松市史]]. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604〜616頁より引用 </ref>)
| 妻 = 正室:'''[[定恵院]]'''([[武田信虎]]の娘)<br/>側室:[[井伊直平]]の娘説あり。
| 子 = '''[[今川氏真|氏真]]'''、[[一月長得]]、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)、[[隆福院]]、女([[牟礼勝重]]室)
}}
'''今川 義元'''(いまがわ よしもと)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[駿河国]]および[[遠江国]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。[[今川氏]]第11代当主。姉妹との婚姻関係により、[[武田信玄]]や[[北条氏康]]とは義理の兄弟にあたる。「[[海道一の弓取り]]」の異名を持つ[[東海道]]の広大な地域の支配者<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210428-00234945|title=【戦国こぼれ話】桶狭間の戦いで無念の死を遂げた戦国大名今川義元は、公家化した軟弱大名だったのか(渡邊大門)|publisher=Yahoo!ニュース|date=2021-04-28|accessdate=2021-09-29}}</ref>。姓名は'''源義元'''。
[[寄親・寄子]]制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]から、[[三河国|三河]]や[[尾張国|尾張]]の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]軍に敗れて[[毛利良勝]](新助)に討ち取られた。
== 生涯 ==
[[File:Imagawa Yoshimoto.jpg|thumb|太平記英勇伝三:今川治部大輔義元([[落合芳幾]]作)]]
=== 内乱と家督相続 ===
[[永正]]16年([[1519年]])、[[今川氏親]]の三男として生まれる{{Efn|「護国禅師三十三回忌香語写」の記述より{{Sfn|大石|2019|pp=10-11|loc=「総論 今川義元の生涯」}}{{Sfn|黒田|2019|p=101|loc=大石泰史「花蔵の乱再考」}}。ただし、今川彦五郎を義元の兄とみるか弟とみるかで見解が異なり、黒田基樹は四男説を採る{{Sfn|黒田|2017|pp=58-61}}。}}。母は父の[[正室]]である[[中御門宣胤]]の娘([[寿桂尼]])。ただし、義元は本来は側室の子で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組をしたとする説もある(後述)。生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄の[[今川氏輝|氏輝]]、および[[今川彦五郎|彦五郎]]がいたために4歳で仏門に出され{{Refnest|group="注釈"|江戸時代の元禄頃に成立した説話集『武家雑記』によると、寺に預けられた理由について「義元は足が短く胴長の障害者であったため寺に入れられた」と記されている。しかし、武将の子が寺に入るのは、学問を身に付けるため、さらには兄弟間の家督争いを避けるためであり、珍しいことではなかった([[上杉謙信]]も、幼少期には仏門に出されている)ため、これは義元を貶めるため、少年時代までさかのぼり、事実を歪曲したものと思われる<ref>{{Citation|和書|title=桶狭間の戦い|series=新説 戦乱の日本史 第10号|publisher=[[小学館]]|year=2008}}</ref>。もっとも、近年出された義元庶出説に従えば、嫡子ではないために家督相続が最初から想定されていなかったから、という説明も可能である。}}、[[駿河国]][[富士郡]]瀬古[[善得寺]]の[[琴渓承舜]]に預けられた。享禄2年(1529年)に承舜が没したために、彼の弟子であった[[太原雪斎|九英承菊(後の太原雪斎)]]がその役割を継承した<ref>{{Cite journal|和書|author=今枝愛眞|title=戦国大名今川氏と禅宗諸派|journal=静岡県史研究|issue=14号|year=1997}}/所収:{{Citation|和書|editor=黒田基樹|series=シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻|title=今川氏親|publisher=戎光祥出版|year=2019|month=4|isbn=978-4-86403-318-3|pages=264-265}}</ref>。その後、雪斎と共に[[建仁寺]]に入り[[常庵龍崇]]{{Efn|建仁寺262世。東常縁の子。兄に駿河・最勝院の素純がおり、その縁で駿河を訪れて雪斎とも交流があった{{Sfn|大石|2019|p=12|loc=「総論 今川義元の生涯」}}。}}の元で得度し'''栴岳承芳'''(せんがくしょうほう)<ref group="注釈">梅岳承芳(ばいがくしょうほう)とも。</ref>となった。さらに雪斎と共に[[妙心寺]]で[[大休宗休]]に学び学識を深めた<ref>{{Cite journal|和書|author=小和田哲男|journal=週刊ビジュアル戦国王|issue=77|date=2017年12月19日|page=23}}</ref>。
その後、氏輝の命を受けて京都から駿河に戻るが、その直後の[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])に氏輝が急死する。この時点ではまだ兄の[[今川彦五郎|彦五郎]]がいたために継承権はなかったが、彦五郎までもが氏輝と同日に死亡したために継承権が巡ってきた。氏輝・彦五郎と同じ寿桂尼所生であることも後押しとなり、重臣たちから還俗を乞われた承芳は主君であり本流に当たる[[征夷大将軍]]・[[足利義晴]]から[[偏諱]]を賜り、'''義元'''と名乗った。{{efn|今川家側の史料に彦五郎の名を記したものはなく、『今川記』『今川氏系図』には彦五郎の記載はない。彦五郎に関する史料は、いずれも今川家以外の人物によって記されたものである。[[大永]]6年([[1526年]])に行われた今川氏親の葬儀には「'''今川氏親公葬記'''」という詳細な記録が残されているが、彦五郎が出席して記録に残されてしかるべき状況にも名はない{{Sfn|小和田|2004|p=68}}。こうした不可解な状況から、今川義元が家督継承後に記録を書き換え、彦五郎の存在を抹消したという推測さえある{{Sfn|小和田|2004|p=68}}。その後、玄広恵探の方が彦五郎よりも年長であることが確定したことをきっかけとして、氏親が死去したときに彦五郎は幼少で参列を許されなかったとする説{{Sfn|黒田|2019|p=101|loc=大石泰史「花蔵の乱再考」}}、一方で栴岳承芳(義元)は僧籍を有していたため幼少でありながら特別に参列を許されたとする説{{Sfn|黒田|2017|pp=58-61}}が出されている。また、今川氏真が彦五郎の菩提を弔ったことを示す文書も発見されている<ref>永禄11年3月10日付円良寺宛氏真判物:「円良寺文書」所収/『戦国遺文』今川氏編2186号</ref>。}}だが当主継承は有力家臣の[[福島氏#福島氏(美濃国)|福島(くしま)氏]]の反対で混迷化し、最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・[[玄広恵探]]を当主として掲げて反旗を翻した([[花倉の乱]])。
恵探側は今川館に攻め寄せる等攻勢をみせたが太原雪斎・[[岡部親綱]]ら義元側の家臣団の奮戦の前に苦戦が続いた。加えて義元が[[伊豆国]]([[静岡県]]伊豆半島)・[[相模国]]([[神奈川県]]西南部)を領する[[後北条氏]]からの支援を得ることに成功すると一層敗色は濃厚となり、花倉城の陥落を以って恵探は自害した。内乱を鎮めて家督相続を果たした義元は[[今川氏]]当主となり、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えた。
=== 統治初期の事績 ===
[[Image:戦国甲信越.png|thumb|300px|戦国時代の甲信越]]
天文6年([[1537年]])2月、氏輝期まで抗争状態にあった[[甲斐国]]の守護・[[武田信虎]]の娘([[定恵院]])を正室に迎え、[[武田氏]]と同盟を結ぶ('''甲駿同盟''')。周囲の守りを固めんとして行われた甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友('''駿相同盟''')として自らの当主継承にも助力した[[北条氏綱]]の怒りを買い、同年同月、北条軍は駿河国富士郡[[吉原市|吉原]]に侵攻した([[河東の乱|第一次河東一乱]])。花倉の乱による内部対立を引き摺ったまま家臣団の統制がとれなかった今川軍は、北条軍に対して適切な反撃が行えず河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまう。義元は武田の援軍と連帯して領土奪還を試みたが、花倉の乱で恵探側に組した[[堀越氏]]・[[井伊氏]]といった遠江に基盤を置く反義元派の武将らが義元から離反したため、家臣の反乱と北条氏の侵攻との挟撃状態に陥り、河東は北条氏に占領されたまま長期化の様相を見せた。
さらに追い討ちをかけるが如く、[[尾張国]]([[愛知県]]西部)の[[織田信秀]]が天文9年([[1540年]])に[[三河国]](愛知県東部)に侵攻を開始した。義元は三河に援軍を送り三河の諸侯軍と連合して天文11年([[1542年]])に織田軍との一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れたとされている([[小豆坂の戦い#第一次合戦|第一次小豆坂の戦い]]。ただしこの戦いは後世の創作である可能性もあり)。天文10年([[1541年]])、苦杯を嘗めさせられた北条氏綱が死去、北条氏は[[北条氏康|氏康]]が家督を継いだ。『高白斎記』によれば、同年5月25日に甲斐国の武田信虎は嫡男の[[武田信玄|武田晴信]](信玄)を伴い、信濃国の[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]や[[村上義清]]とともに信濃佐久郡侵攻を行う([[海野平の戦い]])。信虎は6月4日に甲斐へ帰国すると、6月14日に義元訪問のため[[駿州往還]]を経て駿河へ出立するが、晴信により路地を封鎖されるクーデターが発生する。義元は信虎の身柄を預かりつつ、家督を相続した晴信とも同盟関係を続け、[[高遠合戦]]では武田に援軍を派遣した。
苦しい状況が続く中、天文14年([[1545年]])、義元は氏康と敵対する[[山内上杉氏|山内]][[上杉憲政]]と同盟を結び、北条氏を挟み撃ちにする策を立てた([[河東の乱|第二次河東一乱]])。同年8月22日、義元と憲政との同盟によって河東と関東方面に戦力が分断される形となった北条軍に対して、義元は武田の援軍を得て河東に侵攻し、同じく関東においては両上杉氏(上杉憲政・[[上杉朝定 (扇谷上杉家)|上杉朝定]])が[[古河公方]]・[[足利晴氏]]らと連合し8万の大軍で[[河越城]]を包囲した。河東では今川軍が北条軍を打ち破り、関東では上杉連合軍が河越城を包囲し続け、北条軍は西の今川軍と東の上杉連合軍との挟撃状態に陥り、窮地に立たされた。進退窮まった氏康は武田晴信に仲介を頼み、義元との交渉で河東の地を今川家に返還するという条件で和睦、今川氏は北条氏との争いに実質的に勝利した。これにより一先ず西方に安堵を得た氏康は関東方面に戦力を集中させ、[[河越城の戦い]]において苦境から一転、逆転勝利を収めた。河東の地の遺恨を巡って両者の緊張関係は続いたが、北条氏が関東方面への侵攻に集中していったことで徐々に両者の緊張関係は和らいでいった。
一方、三河においては西三河の[[松平広忠]]の帰順を受け、嫡男・竹千代(後の[[徳川家康]])を人質に迎え入れる約束を交わし、尾張の織田家の妨害を受けつつも、着実に三河勢の従属化に努めていった。この際、護送を請け負った三河[[田原城 (三河国)|田原城]](愛知県[[田原市]])の国人領主・[[戸田康光]]が裏切って竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こった。これは前年に義元が[[戸田氏]]の一族である[[戸田宣成]]、[[戸田吉光]]の一族を滅ぼしたため、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに対して義元は戸田宗家を武力でもって徹底的に滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である[[朝比奈氏]]を入れた。ただし、これについては近年、松平広忠・戸田康光連合軍と松平家内部の反主流派であった[[松平信孝]]・[[酒井忠尚]]の要請を受けて介入した今川義元・織田信秀連合軍の戦いであり、その結果戸田氏は義元に滅ぼされ、松平氏は信秀に岡崎城を奪われて竹千代を人質に出すことで許されたとする新たな見方も浮上している{{Sfn|黒田|2019|loc=柴裕之「松平元康との関係」「桶狭間合戦の性格」}}。
天文17年([[1548年]])、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が侵攻してくるが、義元の[[軍師]]である雪斎と譜代重臣である[[朝比奈泰能]]らを大将とした今川軍は織田軍に大勝した。([[小豆坂の戦い#第二次合戦|第二次小豆坂の戦い]])。またこの頃までに松平信孝を滅ぼした松平広忠も再び今川方に帰属している。
=== 領国拡大 ===
天文18年([[1549年]])に松平広忠が死去すると、義元は領主が死去して不在となった松平家に対して支配していた西三河地域を今川家の領土にしようとした。嫡子の竹千代は織田の人質となっていた事から、岡崎付近に向けて今川軍を派遣した。[[岡崎城]](現在の愛知県岡崎市)に家臣を送り込み、事実上松平家の所領を領有した。松平家の支配下にあった三河国の国人領主を直接今川家の支配下に取り込んでいった。また、織田方の三河[[安城合戦#第三次安城合戦|安祥城を攻略]](現在の愛知県[[安城市]])して、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した。これにより継承直後から続いた西の織田氏との争いは今川氏勝利の形で決着した。また、このおり信秀の庶長子にあたる城将・[[織田信広]]を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還、実質自らの配下とすることで尾張進出への足掛かりを着々と築いていく{{Efn|ただし、親族の後見のない幼少の竹千代を岡崎城に置いて松平家を存続させるのは事実上不可能であり、義元が竹千代を人質としたのは事実上保護を加えて今川傘下の国衆として同家の存続を図ったとする見方もある{{Sfn|黒田|2019|loc=柴裕之「松平元康との関係」|p=278}}{{Sfn|黒田|2019|loc=柴裕之「桶狭間合戦の性格」|pp=298-300}}。}}。天文20年([[1551年]])に織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。
更に天文22年([[1553年]])には亡父の定めた[[今川仮名目録]]に追加法([[仮名目録追加21条]])を加えたが、ここにおいて現在の今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであることを理由に、室町幕府が定めた[[守護使不入地]]の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。これは、今川氏は既に室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを明確に宣言したものでもあった。
天文23年([[1554年]])、嫡子・[[今川氏真]]に北条氏康の娘([[早川殿]])を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで[[甲相駿三国同盟]]を結成した(この会談は善徳寺の会盟とも呼ばれている)。これにより後顧の憂いを断った。
また弘治元年([[1555年]])に行われた[[川中島の戦い|第二次川中島の戦い]]では武田晴信と[[上杉謙信|長尾景虎]]の仲介を行って両者の和睦を成立させた。駿河・遠江・三河で[[検地]]も実施している。その一方で、三河を巡る織田氏との対立が激化し、これに触発された[[吉良氏]]や[[奥平氏]]などが今川氏に叛旗を翻した。これを[[三河忩劇]](みかわそうげき)と呼ぶ。
[[永禄]]元年([[1558年]])には、支配下においていた[[徳川家康|松平元康]]をして、三河加茂郡寺部城の[[鈴木重教]]を攻めさせて下した。
同年、義元は氏真に家督を譲り[[隠居]]する。これ以後、今川氏の本国である駿河・遠江に発給される文書の著名は氏真名となる。一方、義元は新領土である分国の三河の鎮圧および経営に集中し、それが成るとさらには尾張以西への侵攻に力をそそぐこととなる。
=== 最期 ===
{{main|桶狭間の戦い}}
永禄3年([[1560年]])5月には[[那古野城]]を目指し駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始<ref group="注釈">桶狭間合戦当時の最盛期の義元の領国は、駿河・遠江・三河の3カ国69万石([[太閤検地]])である。なお、尾張国は領国化されておらず、尾張国内に、反織田方として山口氏・服部氏などが今川に呼応する動きを見せている。[[日本軍]][[参謀本部 (日本)|参謀本部]]作成の[[日本戦史]]における桶狭間役の分析では、石高の低い駿河・遠江・三河が水増しされ、さらに尾張が領国に組み入れられ、100万石と推定され、1万石につき250人の兵役で、総兵力2万5千とされているが、信長公記では4万5千となっており、正確な実数は不明である。</ref>。織田方に身動きを封じられた[[大高城]](現在の[[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]]大高)を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて[[沓掛城]]で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、桶狭間(おけはざま)山で休息中に[[織田信長]]の攻撃を受け、[[松井宗信 (左衛門佐)|松井宗信]]らと共に奮戦するも、織田家家臣・[[毛利良勝]]に愛刀・[[義元左文字]]と首級を奪われた。[[享年]]42。
その後、残存した今川兵によって[[駿府]]まで連れ帰ろうと試みられたが、首の無い義元の遺体は想像以上に[[腐敗]]の進行が早く、三河国[[宝飯郡]]に[[埋葬]]された。
=== 死後 ===
織田方に討ち取られた[[首級]]は、[[鳴海城]]に留まり奮戦する義元の重臣・[[岡部元信]]と信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻った。義元の戦死により氏真が後を継いだが、この混乱に乗じて松平元康(後の徳川家康)が西三河で自立(独立)した。この動きに追従する様に東三河でも戸田氏・[[西郷氏]]などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。この様な三河の動揺が隣国・遠江に伝播すると、正誤の判別がつかない噂が飛び交い、遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまった(遠州錯乱)。この動揺期において氏真は若輩だったこともあり人心掌握の才に欠け、[[井伊直親]]や[[飯尾連龍]]などを粛清することで事態の収拾を試みたが、逆に人心の離反を加速させてしまい家臣(国人領主)の離脱が相次いだ。多くの国人領主の支持を失い自国領内すらまともに統治できない状態となった今川氏は、見る見るうちに衰退していき義元の死から9年後の永禄12年(1569年)、氏真は信玄と家康によって駿河・遠江を追われ、大名としての今川家は滅亡した。
駿河追放後、氏真は妻・早川殿の実家北条家に身を寄せたが武田・北条の同盟が復活すると徳川家康の家臣となる。江戸期に今川氏は[[高家 (江戸時代)|高家旗本]]として[[幕臣]]に列した。
==墓所・祈念碑==
; 塚・墓など
:* 愛知県[[豊川市]]牛久保町の大聖寺(胴塚、[[一色時家]]の墓の隣)
:* 愛知県[[西尾市]]駒場町の[[東向寺]]([[首塚]])
:* 愛知県[[東海市]]の今川塚
:* 愛知県[[清須市]][[正覚寺]]の今川塚
:* 今川家[[菩提寺]]である静岡県[[静岡市]][[葵区]]大岩町の臨済寺に墓所、木像、今川神廟(生誕500年祭に向けて新造)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32735770X00C18A7CR0000/ 「今川義元もっと知って/来年生誕500年祭/静岡 地元で票世紀再評価・発信」]『日本経済新聞』夕刊2018年7月7日掲載の[[共同通信]]記事(2018年7月12日閲覧)</ref>
:* 静岡県静岡市葵区大岩本町の富春院(今川義元慰霊塔)<ref group="注釈">かつては富春院の北側に氏真が父の菩提を弔うために建立した陽光山天澤院(開山は臨済寺三世・東谷宗杲和尚)があったが、江戸時代末期に衰退したため、木像を臨済寺に移し、明治24年(1892)には廃寺となり、墓も臨済寺に移した。その跡地に慰霊塔が建立された。また、富春院には義元の位牌(高さ58cm)がある。</ref>
<gallery>
Image:The grave of Yoshimoto Imagawa in Okehazama.jpg|今川義元の墓([[明治]]9年([[1876年]])5月建立。愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地内)
Image:The grave of Yoshimoto Imagawa.jpg|今川義元胴塚(愛知県豊川市牛久保町)
Image:Yoshimotokubitsuka.jpg|今川義元首塚(愛知県西尾市[[東向寺]])
File:Rinzai-ji1.jpg|臨済寺(2016年8月14日撮影)
</gallery>
; 銅像
:* 愛知県名古屋市緑区の[[桶狭間#桶狭間古戦場跡|桶狭間古戦場公園]]([[平成]]22年([[2010年]])5月、桶狭間の戦い450年の記念として建立された。)
:* 静岡県静岡市葵区の[[静岡駅|JR静岡駅]]北口広場(「義元公生誕500年祭」の一環として設置され、[[令和]]2年([[2020年]])5月19日に除幕式が開かれた。)
== 人物・逸話 ==
{{出典の明記|section=1|date=2015年7月}}
* 武勇に関しては幼いころから仏門に入っていたため、武芸を学ぶ機会に恵まれず優れなかったと伝えられているが、桶狭間の戦いでは信長の家臣・[[服部一忠|服部春安]]が真っ先に斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退、さらに[[毛利良勝]]が斬りつけようとした時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした良勝の指を食い千切って絶命したと伝えられており、武芸の素養が無かった訳ではない。
* 公家文化に精通し、[[京都]]の[[公家]]や[[僧侶]]と交流して、京都の流行を取り入れて都を逃れた公家たちを保護した。山口の[[大内氏]]と[[一乗谷]]の[[朝倉氏]]と並ぶ戦国三大文化を築いた。<ref>『読売新聞』令和元年6月5日水曜日25面記事</ref>さらには自らも公家のように[[お歯黒]]をつけ、置眉、薄化粧をしていたことから、貴族趣味に溺れた人物とされることもある。しかし公家のような化粧をした話は後世の創作であるという説もある。また、たとえ事実であったとしてもそれは武家では守護大名以上にのみ許される家格の高さを示すことこそあれ、軟弱さの象徴とは言い難い。武士が戦場に向かう際に化粧をしていくことは、珍しくないばかりか嗜みの一つであったという説すらある<ref>{{Cite book|和書|author=笹間良彦|title=イラストで時代考証 日本合戦図図典|publisher=雄山閣|year=1997}}</ref>。
* 父・氏親が[[三条西実隆]]に和歌の添削指導を受けていたように、義元は駿府に流寓していた[[冷泉為和]]に直接指導を受けていた。歌会は、毎月13日、のち11日に行うのが定例になっており、このように月次会を定期的に行うのは全国的に見ても珍しい。ただ、義元は[[連歌]]は好まなかったようで、連歌会の記録はほとんど残っていない。今川家中の和歌のレベルは実際はあまり高くなかったらしく、同工異曲の似たような歌が頻出し、そもそも歌合の題目をよく理解していない作品が多い。義元自身も例外でなく、為和から厳しく指導された記録が残っている<ref>{{Cite book|和書|author=小川剛生|authorlink=小川剛生|title=武士はなぜ歌を詠むのか 鎌倉将軍から戦国大名まで|publisher=[[角川学芸出版]]|year=2008|month=7|pages=241-242}}</ref>。
* 『信長公記』では義元の桶狭間の戦いの際の出で立ちを「胸白の鎧に金にて八龍を打ちたる五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着し、今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計(馬高五尺五寸の青毛の馬)なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける……。」と伝えている。{{要出典|date=2021年8月}}
* 永禄3年(1560年)の尾張侵攻は、上洛目的説と織田信長討伐・尾張攻略説とがある。ただ、浅井氏や六角氏、北畠氏といった道中の大名に対して外交工作を行った形跡がなく、年内に軍勢もろとも上洛しようとしていたという説にはやや無理がある。
* 義元が討死し、岡部元信が主君の首と引き換えに織田方に[[鳴海城]]を明け渡した際に、義元の首とともに引き渡された兜が[[岡部氏 (藤原南家)|岡部家]]<ref group="注釈">岡部家は代々[[岸和田藩]]主。</ref>に伝わり、[[三の丸神社]]([[大阪府]][[岸和田市]])に奉納され、今に伝えられている。
* 桶狭間の戦いの直前、義元の夢の中に花倉の乱で家督を争った異母兄の玄広恵探が現われ「此度の出陣をやめよ」と言った。義元は「そなたは我が敵。そのようなことを聞くことなどできぬ」と言い返すと「敵味方の感情で言っているのではない。我は当家の滅亡を案じているのだ」と述べたため夢から覚めた。義元は駿府から出陣したが、藤沢で玄広恵探の姿を見つけて刀の柄に手をかけたという(『[[当代記]]』{{要ページ番号|date=2012年4月}})。
* 金山開発や交通網整備にも政治手腕を発揮したといわれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20200519-BZXNYSDJP5KODPHREBKJSP7FBE/2/|title=軟弱もの、公家かぶれ…負のイメージ根強い今川義元 復権へ地元が全力|publisher=産経ニュース|date=2020-05-19|accessdate=2022-08-27}}</ref>。
== 研究 ==
今川義元の実母に関しては寿桂尼であることには特段疑問が持たれなかった。しかし、天文20年以前に編纂されたと推定できる『蠧簡集残篇』所収「今川系図」に花蔵(玄広恵探)を二男と明記されていること、同系図並びに江戸時代初期の系譜に今川氏豊・象耳泉奘の名前はないことから、氏親の男子は4人で、長男が氏輝、次男が恵探と考えられるようになった。この説に基づいた場合の残された彦五郎と義元の兄弟関係については、彦五郎を永正14年([[1517年]])頃に生まれた三男(ただし、側室の子である恵探よりも日付は遅い)と考えて義元を四男とする黒田基樹の説{{Sfn|黒田|2017|pp=37-63}}と彦五郎を大永2年(1522年)頃に生まれた四男と考えて義元を三男とする大石泰史<ref name="花蔵の乱">{{Harvnb|黒田|2019|pp=86-108|loc=大石泰史「花蔵の乱再考」}}</ref>の説に分かれている。
更に黒田は龍泉院([[瀬名貞綱]]室)を『言継卿記』弘治2年11月28日条の「瀬名殿女中(中略)太守の姉、中御門女中{{Refnest|group="注釈"|今川氏親の次女で寿桂尼の甥である中御門宣綱の正室。夫と共に度々駿河に下向して寿桂尼を頼っていたため、彼女の実娘と考えられる。なお、氏親の長女である徳蔵院([[吉良義堯]]室)も寿桂尼の実娘と考えられる{{Sfn|黒田|2017|pp=37-63}}。}}妹」とする記述から彼女を義元の姉と確定した上で、寿桂尼が玄広恵探が誕生した永正14年(1517年)以降の足かけ3年間に彦五郎・瑞渓院・龍泉院・義元と4名の子を産むことが可能なのか?と疑問を呈し、誕生後の扱いから寿桂尼の実子とみなせる彦五郎、『[[言継卿記]]』弘治2年10月2日条に「大方(寿桂尼)の孫」と記されている[[北条氏規]](当時、今川氏の人質となっていた)の生母である瑞渓院も実子とみて間違いなく、同弘治3年2月2日条に「大方女」と書かれた「瀬名殿女中」も龍泉院のことを指すため、残された義元は実は庶出で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組を結んで実子扱いにされたのではないか、という説を唱えた{{Sfn|黒田|2017|pp=37-63}}(浅倉直美は義元だけではなく龍泉院も側室の子が寿桂尼の養子になったと解する余地があるとする<ref name="北条氏との婚姻と同盟">{{Harvnb|黒田|2019|pp=213-218・228-229|loc=浅倉直美「北条氏との婚姻と同盟」}}</ref>)。大石も彦五郎の誕生時期については見解は異なるものの、彦五郎の名乗りは曽祖父にあたる[[今川範忠]](兄・五郎範豊の早世で家督を継いだ)と同じであるため寿桂尼の子と考えてよいとした上で、彦五郎の兄である義元が寺に入れられたのは彼が恵探と同じく庶出であったからではないか、という説を唱えた<ref name=花蔵の乱/>。ただし、義元の母が側室の可能性を疑わせるものは『[[群書系図]]』所収の「今川系図」に氏輝・恵探・義元の順に並べられて、氏輝の欄に「母中御門大納言宣胤女(=寿桂尼)」、恵探の欄に「母福嶋安房守女」、義元の欄に「母同」と記されて恵探と義元が同母兄弟と解釈する余地を残している部分<ref name=花蔵の乱/>と『高白斎記』天文5年月24日(氏輝の死後、花倉の乱の最中)の記事に寿桂尼を「善徳寺(=義元)ノ老母」ではなく「氏照(=氏輝)ノ老母」と表記している部分に義元が寿桂尼が生んだ子ではない可能性を示す部分のみである<ref name=北条氏との婚姻と同盟/><ref>{{Cite journal|和書|author=浅倉直美|title=花蔵の乱をめぐって|journal=戦国史研究|issue=77号|year=2019|month=5}}</ref>。また、義元が寿桂尼の子ではないとした場合の生母の実像について、黒田は京都からの食客の娘{{Sfn|黒田|2017|pp=37-63}}、大石は福島氏の娘(ただし、恵探の母は福島氏の庶流出身で、義元の母は同氏の嫡流もしくはそれに近い家の出身として、同じ一族内でも嫡庶による身分差があったとする)<ref name=花蔵の乱/>、浅倉は朝比奈氏の娘([[朝比奈泰煕]]の娘か)<ref name=北条氏との婚姻と同盟/>と想定しており、意見が一致している訳ではなく、現時点では可能性の域にとどまっている。
== 評価 ==
{{独自研究|section=1|date=2016年3月}}
{{出典の明記|date=2016年3月|section=1}}
武将としては当時の駿河、遠江(今の静岡県)だけではなく、三河や尾張(愛知県)までも領土を拡大させ、武田信玄や北条氏康とも渡り合い、太原雪斎を仲介させて、三国同盟を締結させたが、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた敗将として、良くない意味で日本史において有名となり、後世における評価が低下した。
通説では圧倒的に有利な情勢から信長を軽んじ、明らかに地の利がない田楽狭間で安穏と休憩を取ったことが敗北を招いたことなどが挙げられる。また、輿に乗り移動していたという史実から、騎乗することができなかったと見られるようになり、さらにその理由は幼少時に落馬した恐怖のため、太っていたため、寸胴短足だったため、など、後世に様々な俗説が創作されたことも評価を低くした<ref group="注釈">軍師の[[太原雪斎]]が桶狭間前に亡くなったことも影響している。詳しくは本人の欄を参照。</ref>。平成19年([[2007年]])の大河ドラマ『[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]』で今川義元を演じた[[谷原章介]]は、役を演じるにあたって、「一般には公家かぶれで軟弱というイメージが浸透していて、桶狭間で油断して討ち取られたという『結果』ばかりが強調されて語られる傾向がある」と語っている<ref>{{Citation|和書|title=NHK大河ドラマストーリーガイド「風林火山」前編 |year=2006|month=12|publisher=NHK出版|isbn=4-14-923345-4|page=57}}</ref>。
実際のところ、騎乗せず輿に乗っていたことは、義元は今川家は足利氏の庶流として[[室町二十一屋形]]と称された屋形号を有していることから特別に輿に乗ることを認められており、むしろ合戦の際も輿に乗ることはその誇示と言う面があった(大石泰史は尾張国内で輿に乗れる資格があるのは同じく足利氏庶流の守護の斯波氏のみで、義元が輿に乗って進軍することで織田氏との家柄・立場の違いを尾張の人々に視覚的に示そうとした政治的・軍事的なパフォーマンス・デモンストレーションであったとする{{Sfn|大石|2019|pp=35-36|loc=「総論 今川義元の生涯」}}。)。また『信長公記』には桶狭間山から退却する義元が馬に乗っていたと記されており、一般にこれら記述が登場するのは江戸時代中期のものであって、ほぼ後世の創作と考えられる。公家文化に精通していることに関しても、先述の通りそれは素養の高さを示すものであり、決して暗愚を示すものではない。
内政面においては辣腕を振るったことは史料で確認でき、天文22年(1552年)には「今川仮名目録」の追加法を制定した。さらに商業保護や流通統制、[[寄親寄子制]]度による家臣団の結束強化を図るなど優れた行政改革を進めた。[[朝倉宗滴]]は、『朝倉宗滴話記』のなかで「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべく人」として武田晴信・織田信長・[[三好長慶]]・長尾景虎・[[毛利元就]]らと同列に評価している(『続々群書類従』<ref group="注釈">異本の金吾利口書および宗滴夜話には、今川殿となっており、義元も指すかは不明瞭である。</ref>)。
近年は桶狭間の戦いについての研究が進んだこともあり、義元を暗愚ではなく、内政・外交・軍事に優れていたものの、悪天候などの不運により敗死した悲劇の名将として描く作品も見られる([[宮下英樹]]『センゴク外伝 桶狭間戦記』、かわのいちろう『信長戦記』など)。
また、今川氏が居館を置いていた[[静岡市]]は[[命日]]に当たる2017年5月19日、義元生誕500周年の2019年に向けて顕彰などを進める「今川復活宣言」を発表した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20170520/k00/00e/040/214000c 今川義元「一度の敗北だけで…」静岡市長ら復権宣言] - 『[[毎日新聞]]』朝刊2017年5月20日</ref>。
== 家臣 ==
{{col-begin}}
{{col-4}}
* [[太原雪斎]]
* [[浅井政敏]]
* [[朝比奈信置]]
* [[朝比奈泰能]]
* [[朝比奈泰朝]]
* [[朝比奈元長]]
* [[朝比奈元智]]
{{col-4}}
* [[安部元真]]
* [[天野景貫]]
* [[井伊直盛]]
* [[一宮宗是]]
* [[飯尾乗連]]
* [[飯尾連龍]]
* [[庵原忠胤]]
* [[庵原忠政]]
* [[庵原忠春]]
* [[庵原忠縁]]
* [[庵原元政]](之政)
* [[鵜殿長持]]
{{col-4}}
* [[鵜殿長照]]
* [[鵜殿氏長]]
* [[岡部元信]]
* [[岡部正綱]]
* [[小原鎮実]]
* [[葛山信貞]]
* [[葛山氏元]]
* [[蒲原氏徳]]
* [[孕石元泰]]
{{col-4}}
* [[久野宗能]]
* [[近藤景春]]
* [[菅沼定盈]]
* [[関口氏純]](氏広・親永)
* [[瀬名氏俊]]
* [[瀬名信輝]]
* [[徳川家康|松平元康]](後の[[徳川家康]])
* [[松井宗信 (左衛門佐)|松井宗信]]
* [[三浦義就]]
* [[由比正信]]
* [[吉田氏好]]
{{col-end}}
== 関連作品 ==
; 伝記・小説
:*[[幸田露伴]]『今川義元』(1928年)([[露伴小説]]の一編)
:*[[浜野卓也]]『今川義元―桶狭間の戦い』(:*[[おんな城主 直虎]](演:[[春風亭昇太]]、[[2017年]]、NHK大河ドラマ) 火の鳥伝記文庫、1991年) ISBN 978-4061475793
:*[[杉村佳晃]]『今川義元』[[日本文学館]](ノベル倶楽部)
:*[[鈴木英治]]『義元謀殺(上・下)』([[ハルキ文庫]]―時代小説文庫)
:*[[木下昌輝]]『桶狭間の幽霊』(『戦国24時 さいごの刻』収録、[[光文社]]、2016年9月 ※『戦国十二刻 終わりのとき』と改題し文庫化、[[光文社文庫]]、2019年7月)
:*[[高橋直樹 (作家)|髙橋直樹]]『駿風の人』(潮文庫、2019年6月)
:*[[鈴木英治]]『義元、遼たり』([[静岡新聞社]]、2019年9月)ISBN 9784783811190
:*[[白蔵盈太]]『桶狭間で死ぬ義元』([[文芸社文庫]]、2023年4月)
:
; テレビドラマ
:*[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](演:[[三國一朗]]、[[1965年]]、[[NHK大河ドラマ]])
:*[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](演:[[根上淳]]、[[1969年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]](演:[[花柳喜章]]、[[1973年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[おんな太閤記]](演:[[新みのる]]、[[1981年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](演:[[成田三樹夫]]、[[1983年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](演:[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘九郎]]、[[1988年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[信長 KING OF ZIPANGU]](演:[[柴田侊彦]]、[[1992年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]](演:[[米倉斉加年]]、[[1996年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]](演:[[佐々木睦]]、[[2002年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]](演:[[江守徹]]、[[2006年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](演:[[谷原章介]]、[[2007年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[信長協奏曲]](演:[[生瀬勝久]]、[[2014年]]、[[フジテレビ]])
:*[[おんな城主 直虎]](演:[[春風亭昇太]]、[[2017年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[麒麟がくる]](演:[[片岡愛之助 (6代目)|片岡愛之助]]、[[2020年]]、NHK大河ドラマ)
:*[[どうする家康]] (演︰[[野村萬斎]]、[[2023年]]、NHK大河ドラマ)
; 漫画
:*[[センゴク外伝 桶狭間戦記]]([[宮下英樹]])
:*[[いくさの子]]([[原哲夫]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=小島|first=広次|title=今川義元|publisher=[[新人物往来社|人物往来社]]|year=1966}}
* {{Citation|和書|editor-last=小和田|editor-first=哲男|editor-link=小和田哲男|title=今川義元のすべて|publisher=新人物往来社|year=1994|isbn=978-4-404-02097-0}}
* {{Citation|和書|last=小和田|first=哲男|title=今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く|series=ミネルヴァ日本評伝選|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|year=2004|isbn=978-4-623-04114-5}}
* {{Citation|和書|last=小和田|first=哲男|title=戦史ドキュメント 桶狭間の戦い|series=[[学研M文庫]]|year=2000|isbn=978-4059010012}}
* {{Citation|和書|last=有光|first=友学|author-link=有光友学|title=今川義元|series=人物叢書|publisher=[[吉川弘文館]]|year=2008|isbn=978-4642052474}}
* {{Citation|和書|last=黒田|first=基樹|authorlink=黒田基樹|title=北条氏康の妻 瑞渓院|series=中世から近世へ|publisher=平凡社|year=2017|isbn=978-4-582-47736-8}}
* {{Citation|和書|editor-last=大石|editor-first=泰史|editor-link=大石泰史|series=シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻|title=今川義元|publisher=戒光祥出版|year=2019|isbn=978-4-86403-325-1}}
* {{Citation|和書|editor-last=黒田|editor-first=基樹|series=シリーズ・戦国大名の新研究 1|title=今川義元とその時代|publisher=戒光祥出版|date=2019-6|isbn=978-4-86403-322-0}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Imagawa_Yoshimoto}}
* [[泉岳寺]] - 義元の縁者とされる門庵宗関が[[慶長]]17年([[1612年]])に義元の菩提を弔うため開創した寺
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{今川氏歴代当主||第11代|1536年 - 1558年}}
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[[Category:今川義元|*]]
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バックパッカー
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バックパッカー(英語: backpacker)とは、低予算で個人旅行する旅行者のこと。バックパック(リュックサック)を背負って移動する者が多いことから、この名が付けられた。日本語では「パッカー」「バッパー」と略すこともある。こうした旅行(バックパッキング、英語: backpacking)はまた、自由旅行や低予算旅行(英語: budget travel)とも呼ばれる。
一般的な旅行者との違いとして、世間的な休暇よりも長い期間に亘ること、バックパックを使うこと、移動にバスや電車などの公共交通機関を利用すること、高級なホテルではなく、ユースホステルや安宿を利用すること、観光地を見るだけでなく、地元の住人と出会うことにも興味があることなどが挙げられる。
様々な文化や地域からの旅行者が加わり、これからも加わり続けるであろうため、バックパッカーの定義を厳密に定めるのは難しい。最近の調査によると、「バックパッカーたちは自身の旅行経験に結び付いた行動原理や意義の多様性を反映して、不均質なグループを形成した。バックパッカーたちは、制度化されていない旅行の形式への共通の傾倒を見せ、それがバックパッカーとしての中心的な自己定義となっている」。
1960年代から欧米で流行しはじめ、航空券の低価格化とともに、世界の若者の旅装の代表となった。2000年代にはライフスタイルとしての、またビジネスとしてのバックパッキングが大きな成長を見せた。格安航空会社はもとより、世界の各所にあるユースホステル・ゲストハウス・ドミトリーなどの安宿、インターネット上のブログ・電子掲示板・SNSなど、デジタルなコミュニケーション手段や情報資源により、バックパッカーが長期の旅行を計画し、実行し、継続することは以前よりも容易になっている。ただ節約するのではなく、ホテル泊まりで賓客として扱われるパックツアーでは見ることのできない市井の人々の生の暮らしに触れるのも、また大きな目的である。
バックパッカーの正確な起源は不明であるが、少なくとも部分的には、1960年代から1970年代にかけてのヒッピー・トレイル(ヒッピーの行跡)にそのルーツを辿ることができる。ヒッピー旅行者たちはかつてのシルクロードであった地域を順番に辿っていった。実際に、今日でもバックパッカーたちの一部はそうした旅を、より楽な方法によってではあるが再現しようと試みている。さらに歴史を遡れば、17世紀末に公共交通機関を用いて世界を一周したイタリアの冒険者ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリが世界最初のバックパッカーの1人として挙げられることがある。
かつてのヒッピー・トレイルを辿る旅は、1980年代以降のアフガニスタン・イラク・イランの政情不安のため困難なものになっているが、バックパッカーたちは世界のほとんどの地域に広がっていった。近年では、格安航空会社や航空便の増加がさらなる増大に貢献している。現在では、北アフリカのモロッコやチュニジアやその他の格安航空会社で到達できる地域が新しい「ヒッピー・トレイル」として形成されつつある。ワンワールドやスターアライアンスやスカイチームの世界一周航空券を利用するなどして、バックパッカー・スタイルにて世界一周をする者も多い。
科学技術の変化と進歩もバックパッキングを変化させている。伝統的なバックパッカーたちは、ノートパソコンやデジタルカメラや携帯情報端末といった高価な情報機器は盗難や破損の恐れがあり荷物も重くなるとして持ち歩かなかった。しかしながら、軽量な電子機器との接触を保っていたいという欲望は後述のフラッシュパッキングと呼ばれる傾向を生じさせ、その形態は進化を続けている。運ぶものの変化と同時に、バックパッカーは当初ほどには実際のバックパックに頼らないようになってきているが、それでも依然としてバックパックはバックパッカーの基礎的な荷物と考えられている。
大韓民国では、経済発展と渡航自由化を受け、2000年代よりバックパッカースタイルの旅がブームとなった。その背景には同時期の日本文化開放によりパク・チョンアを起用した『進め!電波少年』系のヒッチハイク企画「雷波少年ファイナル企画ラストソング」が放送されたことが影響した。なお韓国語ではバックパックを「ペナン(背嚢)」と呼ぶことから「ペナンヨヘン(背嚢旅行)」と称される(ko:배낭여행)。同様に中華圏でも個人自由渡航が可能な香港や台湾では「zh:背包客」の呼称でバックパッカースタイルが、富裕層による爆買い旅行の対極的位置づけの社会現象として捉えられている。
フラッシュパッキング(flashpacking)、フラッシュパッカー(flashpacker)は裕福なバックパッカーを指す新語である。伝統的にバックパッキングが低予算の旅行と物価の比較的安い目的地に結び付けられてきたのと対照的に、フラッシュパッキングは単純には旅行中により多くの予算を使えるものとして定義される。
フラッシュパッカーのflashは「光るもの」「見せびらかし」などの意味があるが、この語の起源自体が不明瞭で、定義もまちまちである。近年急速に増加した、宿泊や食事にはそれほどお金はかけないが、選んだ旅先での活動にはふんだんに(時として過剰に)お金を使う旅行者たちを指すと考える人々もいる。昼は低予算の旅行者たちと共に冒険的な旅を行い、夜は落ち着いた食事と快適な宿泊を楽しむような、「スラムを覗く」ことと贅沢との不調和な混淆と考える人々もいる。さらに、携帯電話、デジタルカメラ、iPod、ノートパソコン、タブレット端末などを持って旅することを好むテクノロジーに通じた冒険者としても定義される。しかしどれも必要条件というわけではない。他の旅行スタイルと同様に、フラッシュパッカーの語は主に自己定義として用いられている。
この語はまた、従来の組織的な旅行を見放して、かつてはより冒険的なバックパッカーだけのものであった目的地へ進出する旅行者や、高収入な仕事から離職したりキャリア上の休暇を取ったりして自力での旅行に時間を費すのだが、より快適に、自宅で慣れ親しんだ多くの装置と共に旅するような旅行者の増加も反映している。結果として宿泊施設も変化し、仕事を確保するために、依然として低予算な旅をしている旅行者にもより高級な設備を提供しようとするようになった。旅行者の需要の変化に応じて宿泊施設の側も変化する必要があると認識したのである。
フラッシュパッキングとは対照的に、相部屋や寝袋や長期滞在の場合はアパートの利用などで宿泊費を、屋台や自炊などで食費を、公共交通機関の利用やヒッチハイクや格安航空券の現地調達や陸路の多用で移動費などを限られた予算で遠く・長く旅するために大なり小なり節約しながら旅するのが、伝統的な低予算のバックパッキング(budget travel, budget backpacking)である。極端なフラッシュパッキングでなければバックパッカーには何らかの形で節約は付き物だが、中には安く上げること自体を楽しみとする者もある。
ギャップ・パッキング(gap-packing)は高校卒業から大学入学、もしくは大学卒業から就職のギャップ・イヤーの間に多くの国々を短期間に巡る、主に欧米人の若いバックパッカーの旅を指す。この制度や社会慣習がない日本の学生は逆に履歴書に空白(ギャップ)を作らぬよう休学制度を利用する場合がある。
メガローピング(en:megaloping)は鉄道、バス、地下鉄などの公共交通機関のみを利用するバックパッキングを指す。
逆に、交通機関の利用を最小限に抑え自転車を主な移動手段として移動する者もいる。バイクパッカー/バイクパッキング(Bikepacking)。自動車などを運転して旅行する者は「オーバーランダー」(オーバーランディング、en:overlanding)と呼ぶ。他にヒッチハイクや徒歩も有力な移動手段である。
物価が安く、社会的なストレスがほとんど無い旅先の環境に慣れ切ってしまい、移動や観光もほとんど行わず1つの街や宿に長期滞在するバックパッカーの状態を日本語で「沈没」と呼ぶ 。資金が尽きるまで、更にはインターネットを通じて利殖・金策してまで長期逗留する場合もある。最初から沈没を目的に国外へ行くことは「外こもり」とも呼ばれる。
バックパッキングで重視されるのは「本物」の感覚である。バックパッキングは休暇であるというだけでなく、自己教育の手段でもあると受け取られている。バックパッカーはツアー旅行がそうであると見做されるような「パッケージ化された」ものではなく「リアルな」現地を体験したいと望み、これがバックパッカーが反・観光客であると考えられる原因となっている。そして。「舞台裏を密かに歩く」感覚や、現地の人々とより深い関係を持って実際の生活を見ることの感覚もある。
バックパッカーは、他の旅行形態と同様に、論争の的であり続けている。こうした批判の一部はヒッピー・トレイルの頃の旅行者の行動に遡る。批判はバックパッカーを受け入れる国々やバックパッカーの行動に同意できない他の旅行者たちを含むさまざまな方面からなされてきたが、バックパッキングが旅の主流により近づくにつれバックパッカー観も改善してきている。
エリック・コーエンは、バックパッカーの主目的の1つが「本物」を探求することであるにもかかわらず、バックパッカーの大部分はその時間の多くを他のバックパッカーとの交流に費し現地の人々との交流は「二の次」になっていると批判している。バックパッカーが多く訪れるバナナ・パンケーキ・トレイルではバックパッカーの存在が現地のあり方そのものを変えてしまうという指摘もある。
長期間の旅では全てのビザを事前に取得することは難しく、また現地でしか取得できない場合や国境自体が閉鎖される場合などもあるため、国境情勢はバックパッカーのルート自体に影響を与える(かつてのシルクロードの陸路の旅は、今日では難しい)。旅行中はこうした治安、国境情勢、物価、イベント、店の評判など様々な情報を語学力も活かし現地で収集する必要がある。バックパッカーの集まる宿などでは旅行者同士の情報交換が行われ、そのための「情報ノート」や伝言板などが設置されていることもある。また今日では、各国の政府観光局や外務省の危険情報、旅行業者や旅行者自身のウェブサイトやブログなど、ある程度の情報は携帯情報機器やインターネットカフェなどを利用してネットでも収集できる。
バックパッカーが治安の悪い地域や紛争地域に軽率に足を踏み入れ、犯罪に巻き込まれる例がある。注意が必要。
移動先では常にまず一夜の宿を確保する必要があり、バックパッキングは移動と宿探しの繰り返しでもある。食事は外食や買い食いが多くなるが、食費を安く浮かすため自炊することもあり、さらに宿の滞在者同士でお金を出し合い共同で料理することもある(日本語では「シェア飯」と称する)。一度宿に落ち着いてしまえば基本的にすることがないので、長く滞在している者は宿や飲食店などで他の旅行者の置いていった本を読んだり、他の宿泊者と話やゲームをしたりして過ごしている。何のストレスもなく無為に過ごせることから「沈没」してしまう者もいる。否定的側面もあり、現地の人々と触れるには他の行動や語学力も必要だが、共同生活により旅の仲間や時には恋愛関係が生まれる側面もある。宿に関しては長期滞在者の間では民泊の利用も増えている。
バックパッカーの荷物には、通常の着替えや洗面道具などの他、現地情勢に合わせた薬や盗難防止の鍵や電圧変換器、現地では手に入りにくい可能性のあるトイレットペーパー・洗濯ばさみ・箸のような日用品、情報源となる旅行ガイドブック・地図・情報機器、意思疎通のための辞書類や筆談用の文房具、安全性に配慮したトラベラーズチェックやキャッシュカード、流通性に優れた通貨の現金などの金銭、ビザ取得や万一のトラブルなどに備えた各種証明書や証明写真、無聊を慰める玩具・楽器・文庫本など、バックパック1つで最低限かつ旅先の必要全てを満たすべく、旅行者各自の経験やスタイルや旅程や体力に応じて様々な物品が詰め込まれている。バックパックに何をどう詰めて持って行くか行かないかの技術や取捨選択は、「バックパッキング」の原点とも言える。
旅行者が多く集まる街にはゲストハウス、インターネットカフェ、レストラン、旅行用品店、旅行会社など旅行者向けの施設が集まる安宿街がしばしば形成され、バックパッカーの拠点となっている。旅行者側の個別の言語や出身地に対応・特化した宿、現地ガイド、料理店などの各種サービスが提供されていることもある。以下は各国の安宿街の簡潔なリストである。
オーストラリアではワーキングホリデー制度で入国し、短期であってもアルバイト収入を得る者に対し所得税を徴収する税制の導入を施行した。この処遇を現地では「バックパッカー税」と揶揄する。これはオーストラリアではワーキングホリデー滞在者でなくとも農繁期に農場でアルバイトをして旅費を捻出する旅行者(バックパッカー)が多く、農場側も人手不足を補う労働力として依存する事情に起因する
バックパッカーシンドローム(Backpacker Syndrome)。一度バックパッカースタイルの旅を経験して帰国すると、再び次の旅へ出たくなる心理状態とそのための準備行動(旅費を稼ぐための短期労働など)を指す。広義では旅に懲りた人がバックパッカーを卑下する批判的言動も含む。欧米系バックパッカーが医学用語である腕神経叢麻痺(en:Backpack palsy)を通俗的に使用したことから広まった。
物乞いを意味する英語の「beg」を冠した「ベッグパッカー」という現地人や旅行者から金銭をめぐんでもらって旅を続ける輩がいる。なお、かつては路上ライブや大道芸を披露して投げ銭を稼いだり(この行為は厳密には就労・興行ビザが必要で不法就労にあたる)、売血や国際的に汎用性と信用度が高い日本国パスポートを売りさばいて旅費を捻出するバックパッカーを「乞食」と呼んでいたこともある(パスポートを故意に譲渡することは旅券法違反であり、現在は偽造が困難になったことから転売は難しい)。
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"text": "バックパッカー(英語: backpacker)とは、低予算で個人旅行する旅行者のこと。バックパック(リュックサック)を背負って移動する者が多いことから、この名が付けられた。日本語では「パッカー」「バッパー」と略すこともある。こうした旅行(バックパッキング、英語: backpacking)はまた、自由旅行や低予算旅行(英語: budget travel)とも呼ばれる。",
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"text": "一般的な旅行者との違いとして、世間的な休暇よりも長い期間に亘ること、バックパックを使うこと、移動にバスや電車などの公共交通機関を利用すること、高級なホテルではなく、ユースホステルや安宿を利用すること、観光地を見るだけでなく、地元の住人と出会うことにも興味があることなどが挙げられる。",
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"text": "様々な文化や地域からの旅行者が加わり、これからも加わり続けるであろうため、バックパッカーの定義を厳密に定めるのは難しい。最近の調査によると、「バックパッカーたちは自身の旅行経験に結び付いた行動原理や意義の多様性を反映して、不均質なグループを形成した。バックパッカーたちは、制度化されていない旅行の形式への共通の傾倒を見せ、それがバックパッカーとしての中心的な自己定義となっている」。",
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"text": "1960年代から欧米で流行しはじめ、航空券の低価格化とともに、世界の若者の旅装の代表となった。2000年代にはライフスタイルとしての、またビジネスとしてのバックパッキングが大きな成長を見せた。格安航空会社はもとより、世界の各所にあるユースホステル・ゲストハウス・ドミトリーなどの安宿、インターネット上のブログ・電子掲示板・SNSなど、デジタルなコミュニケーション手段や情報資源により、バックパッカーが長期の旅行を計画し、実行し、継続することは以前よりも容易になっている。ただ節約するのではなく、ホテル泊まりで賓客として扱われるパックツアーでは見ることのできない市井の人々の生の暮らしに触れるのも、また大きな目的である。",
"title": "概要"
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"text": "バックパッカーの正確な起源は不明であるが、少なくとも部分的には、1960年代から1970年代にかけてのヒッピー・トレイル(ヒッピーの行跡)にそのルーツを辿ることができる。ヒッピー旅行者たちはかつてのシルクロードであった地域を順番に辿っていった。実際に、今日でもバックパッカーたちの一部はそうした旅を、より楽な方法によってではあるが再現しようと試みている。さらに歴史を遡れば、17世紀末に公共交通機関を用いて世界を一周したイタリアの冒険者ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリが世界最初のバックパッカーの1人として挙げられることがある。",
"title": "歴史"
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"text": "かつてのヒッピー・トレイルを辿る旅は、1980年代以降のアフガニスタン・イラク・イランの政情不安のため困難なものになっているが、バックパッカーたちは世界のほとんどの地域に広がっていった。近年では、格安航空会社や航空便の増加がさらなる増大に貢献している。現在では、北アフリカのモロッコやチュニジアやその他の格安航空会社で到達できる地域が新しい「ヒッピー・トレイル」として形成されつつある。ワンワールドやスターアライアンスやスカイチームの世界一周航空券を利用するなどして、バックパッカー・スタイルにて世界一周をする者も多い。",
"title": "歴史"
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"text": "科学技術の変化と進歩もバックパッキングを変化させている。伝統的なバックパッカーたちは、ノートパソコンやデジタルカメラや携帯情報端末といった高価な情報機器は盗難や破損の恐れがあり荷物も重くなるとして持ち歩かなかった。しかしながら、軽量な電子機器との接触を保っていたいという欲望は後述のフラッシュパッキングと呼ばれる傾向を生じさせ、その形態は進化を続けている。運ぶものの変化と同時に、バックパッカーは当初ほどには実際のバックパックに頼らないようになってきているが、それでも依然としてバックパックはバックパッカーの基礎的な荷物と考えられている。",
"title": "歴史"
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"text": "大韓民国では、経済発展と渡航自由化を受け、2000年代よりバックパッカースタイルの旅がブームとなった。その背景には同時期の日本文化開放によりパク・チョンアを起用した『進め!電波少年』系のヒッチハイク企画「雷波少年ファイナル企画ラストソング」が放送されたことが影響した。なお韓国語ではバックパックを「ペナン(背嚢)」と呼ぶことから「ペナンヨヘン(背嚢旅行)」と称される(ko:배낭여행)。同様に中華圏でも個人自由渡航が可能な香港や台湾では「zh:背包客」の呼称でバックパッカースタイルが、富裕層による爆買い旅行の対極的位置づけの社会現象として捉えられている。",
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"text": "フラッシュパッキング(flashpacking)、フラッシュパッカー(flashpacker)は裕福なバックパッカーを指す新語である。伝統的にバックパッキングが低予算の旅行と物価の比較的安い目的地に結び付けられてきたのと対照的に、フラッシュパッキングは単純には旅行中により多くの予算を使えるものとして定義される。",
"title": "バックパッキングの種類"
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"text": "フラッシュパッカーのflashは「光るもの」「見せびらかし」などの意味があるが、この語の起源自体が不明瞭で、定義もまちまちである。近年急速に増加した、宿泊や食事にはそれほどお金はかけないが、選んだ旅先での活動にはふんだんに(時として過剰に)お金を使う旅行者たちを指すと考える人々もいる。昼は低予算の旅行者たちと共に冒険的な旅を行い、夜は落ち着いた食事と快適な宿泊を楽しむような、「スラムを覗く」ことと贅沢との不調和な混淆と考える人々もいる。さらに、携帯電話、デジタルカメラ、iPod、ノートパソコン、タブレット端末などを持って旅することを好むテクノロジーに通じた冒険者としても定義される。しかしどれも必要条件というわけではない。他の旅行スタイルと同様に、フラッシュパッカーの語は主に自己定義として用いられている。",
"title": "バックパッキングの種類"
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"text": "この語はまた、従来の組織的な旅行を見放して、かつてはより冒険的なバックパッカーだけのものであった目的地へ進出する旅行者や、高収入な仕事から離職したりキャリア上の休暇を取ったりして自力での旅行に時間を費すのだが、より快適に、自宅で慣れ親しんだ多くの装置と共に旅するような旅行者の増加も反映している。結果として宿泊施設も変化し、仕事を確保するために、依然として低予算な旅をしている旅行者にもより高級な設備を提供しようとするようになった。旅行者の需要の変化に応じて宿泊施設の側も変化する必要があると認識したのである。",
"title": "バックパッキングの種類"
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"text": "フラッシュパッキングとは対照的に、相部屋や寝袋や長期滞在の場合はアパートの利用などで宿泊費を、屋台や自炊などで食費を、公共交通機関の利用やヒッチハイクや格安航空券の現地調達や陸路の多用で移動費などを限られた予算で遠く・長く旅するために大なり小なり節約しながら旅するのが、伝統的な低予算のバックパッキング(budget travel, budget backpacking)である。極端なフラッシュパッキングでなければバックパッカーには何らかの形で節約は付き物だが、中には安く上げること自体を楽しみとする者もある。",
"title": "バックパッキングの種類"
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"text": "ギャップ・パッキング(gap-packing)は高校卒業から大学入学、もしくは大学卒業から就職のギャップ・イヤーの間に多くの国々を短期間に巡る、主に欧米人の若いバックパッカーの旅を指す。この制度や社会慣習がない日本の学生は逆に履歴書に空白(ギャップ)を作らぬよう休学制度を利用する場合がある。",
"title": "バックパッキングの種類"
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"text": "メガローピング(en:megaloping)は鉄道、バス、地下鉄などの公共交通機関のみを利用するバックパッキングを指す。",
"title": "バックパッキングの種類"
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"text": "逆に、交通機関の利用を最小限に抑え自転車を主な移動手段として移動する者もいる。バイクパッカー/バイクパッキング(Bikepacking)。自動車などを運転して旅行する者は「オーバーランダー」(オーバーランディング、en:overlanding)と呼ぶ。他にヒッチハイクや徒歩も有力な移動手段である。",
"title": "バックパッキングの種類"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "物価が安く、社会的なストレスがほとんど無い旅先の環境に慣れ切ってしまい、移動や観光もほとんど行わず1つの街や宿に長期滞在するバックパッカーの状態を日本語で「沈没」と呼ぶ 。資金が尽きるまで、更にはインターネットを通じて利殖・金策してまで長期逗留する場合もある。最初から沈没を目的に国外へ行くことは「外こもり」とも呼ばれる。",
"title": "バックパッキングの種類"
},
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"text": "バックパッキングで重視されるのは「本物」の感覚である。バックパッキングは休暇であるというだけでなく、自己教育の手段でもあると受け取られている。バックパッカーはツアー旅行がそうであると見做されるような「パッケージ化された」ものではなく「リアルな」現地を体験したいと望み、これがバックパッカーが反・観光客であると考えられる原因となっている。そして。「舞台裏を密かに歩く」感覚や、現地の人々とより深い関係を持って実際の生活を見ることの感覚もある。",
"title": "文化"
},
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"text": "バックパッカーは、他の旅行形態と同様に、論争の的であり続けている。こうした批判の一部はヒッピー・トレイルの頃の旅行者の行動に遡る。批判はバックパッカーを受け入れる国々やバックパッカーの行動に同意できない他の旅行者たちを含むさまざまな方面からなされてきたが、バックパッキングが旅の主流により近づくにつれバックパッカー観も改善してきている。",
"title": "文化"
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"text": "エリック・コーエンは、バックパッカーの主目的の1つが「本物」を探求することであるにもかかわらず、バックパッカーの大部分はその時間の多くを他のバックパッカーとの交流に費し現地の人々との交流は「二の次」になっていると批判している。バックパッカーが多く訪れるバナナ・パンケーキ・トレイルではバックパッカーの存在が現地のあり方そのものを変えてしまうという指摘もある。",
"title": "文化"
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{
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"text": "長期間の旅では全てのビザを事前に取得することは難しく、また現地でしか取得できない場合や国境自体が閉鎖される場合などもあるため、国境情勢はバックパッカーのルート自体に影響を与える(かつてのシルクロードの陸路の旅は、今日では難しい)。旅行中はこうした治安、国境情勢、物価、イベント、店の評判など様々な情報を語学力も活かし現地で収集する必要がある。バックパッカーの集まる宿などでは旅行者同士の情報交換が行われ、そのための「情報ノート」や伝言板などが設置されていることもある。また今日では、各国の政府観光局や外務省の危険情報、旅行業者や旅行者自身のウェブサイトやブログなど、ある程度の情報は携帯情報機器やインターネットカフェなどを利用してネットでも収集できる。",
"title": "バックパッカーの実際"
},
{
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"text": "バックパッカーが治安の悪い地域や紛争地域に軽率に足を踏み入れ、犯罪に巻き込まれる例がある。注意が必要。",
"title": "バックパッカーの実際"
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{
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"text": "移動先では常にまず一夜の宿を確保する必要があり、バックパッキングは移動と宿探しの繰り返しでもある。食事は外食や買い食いが多くなるが、食費を安く浮かすため自炊することもあり、さらに宿の滞在者同士でお金を出し合い共同で料理することもある(日本語では「シェア飯」と称する)。一度宿に落ち着いてしまえば基本的にすることがないので、長く滞在している者は宿や飲食店などで他の旅行者の置いていった本を読んだり、他の宿泊者と話やゲームをしたりして過ごしている。何のストレスもなく無為に過ごせることから「沈没」してしまう者もいる。否定的側面もあり、現地の人々と触れるには他の行動や語学力も必要だが、共同生活により旅の仲間や時には恋愛関係が生まれる側面もある。宿に関しては長期滞在者の間では民泊の利用も増えている。",
"title": "バックパッカーの実際"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "バックパッカーの荷物には、通常の着替えや洗面道具などの他、現地情勢に合わせた薬や盗難防止の鍵や電圧変換器、現地では手に入りにくい可能性のあるトイレットペーパー・洗濯ばさみ・箸のような日用品、情報源となる旅行ガイドブック・地図・情報機器、意思疎通のための辞書類や筆談用の文房具、安全性に配慮したトラベラーズチェックやキャッシュカード、流通性に優れた通貨の現金などの金銭、ビザ取得や万一のトラブルなどに備えた各種証明書や証明写真、無聊を慰める玩具・楽器・文庫本など、バックパック1つで最低限かつ旅先の必要全てを満たすべく、旅行者各自の経験やスタイルや旅程や体力に応じて様々な物品が詰め込まれている。バックパックに何をどう詰めて持って行くか行かないかの技術や取捨選択は、「バックパッキング」の原点とも言える。",
"title": "バックパッカーの実際"
},
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"paragraph_id": 23,
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"text": "旅行者が多く集まる街にはゲストハウス、インターネットカフェ、レストラン、旅行用品店、旅行会社など旅行者向けの施設が集まる安宿街がしばしば形成され、バックパッカーの拠点となっている。旅行者側の個別の言語や出身地に対応・特化した宿、現地ガイド、料理店などの各種サービスが提供されていることもある。以下は各国の安宿街の簡潔なリストである。",
"title": "各国の安宿街"
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"text": "オーストラリアではワーキングホリデー制度で入国し、短期であってもアルバイト収入を得る者に対し所得税を徴収する税制の導入を施行した。この処遇を現地では「バックパッカー税」と揶揄する。これはオーストラリアではワーキングホリデー滞在者でなくとも農繁期に農場でアルバイトをして旅費を捻出する旅行者(バックパッカー)が多く、農場側も人手不足を補う労働力として依存する事情に起因する",
"title": "派生用語"
},
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "バックパッカーシンドローム(Backpacker Syndrome)。一度バックパッカースタイルの旅を経験して帰国すると、再び次の旅へ出たくなる心理状態とそのための準備行動(旅費を稼ぐための短期労働など)を指す。広義では旅に懲りた人がバックパッカーを卑下する批判的言動も含む。欧米系バックパッカーが医学用語である腕神経叢麻痺(en:Backpack palsy)を通俗的に使用したことから広まった。",
"title": "派生用語"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "物乞いを意味する英語の「beg」を冠した「ベッグパッカー」という現地人や旅行者から金銭をめぐんでもらって旅を続ける輩がいる。なお、かつては路上ライブや大道芸を披露して投げ銭を稼いだり(この行為は厳密には就労・興行ビザが必要で不法就労にあたる)、売血や国際的に汎用性と信用度が高い日本国パスポートを売りさばいて旅費を捻出するバックパッカーを「乞食」と呼んでいたこともある(パスポートを故意に譲渡することは旅券法違反であり、現在は偽造が困難になったことから転売は難しい)。",
"title": "派生用語"
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バックパッカーとは、低予算で個人旅行する旅行者のこと。バックパック(リュックサック)を背負って移動する者が多いことから、この名が付けられた。日本語では「パッカー」「バッパー」と略すこともある。こうした旅行はまた、自由旅行や低予算旅行とも呼ばれる。 一般的な旅行者との違いとして、世間的な休暇よりも長い期間に亘ること、バックパックを使うこと、移動にバスや電車などの公共交通機関を利用すること、高級なホテルではなく、ユースホステルや安宿を利用すること、観光地を見るだけでなく、地元の住人と出会うことにも興味があることなどが挙げられる。
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[[File:Urban_backpacking.jpg|thumb|right|200px|[[ウィーン国立歌劇場]]前に立つ2人の[[デンマーク]]人バックパッカー(2005年7月)]]
[[File:Berghaus Vulcan.jpg|thumb|right|200px|大きなインターナルフレーム[[リュックサック|バックパック]]]]
<!--この記事にあなたの旅行経験、あなたがどこへ行って何をして何を見たかを書かないでください。バックパッカーはあなたやあなたの仲間があなたの旅行でしたことから定義できるものではありません。オーストラリア人の経験はイギリス人やイスラエル人やその他本当に多くの国からやってくるバックパッカーたちの経験とは違うでしょうし、初心者とベテランでも全く違うでしょう。それらの全てがバックパッカーを定義するのです。どうか、客観的に記述してください!-->
<!-- 以上のお願いはこれから執筆してくださる方のためのもので、削除しないでください。-->
'''バックパッカー'''({{lang-en|backpacker}})とは、低予算で[[個人旅行]]する旅行者のこと。バックパック([[リュックサック]])を背負って移動する者が多いことから、この名が付けられた。日本語では「パッカー」「バッパー」と略すこともある。こうした[[旅行]]('''バックパッキング'''、{{lang-en|backpacking}})はまた、[[自由旅行]]や低予算旅行({{lang-en|budget travel}})とも呼ばれる。
一般的な旅行者との違いとして、世間的な[[休日|休暇]]よりも長い期間に亘ること、バックパックを使うこと、移動に[[バス (交通機関)|バス]]や[[電車]]などの[[公共交通機関]]を利用すること、高級な[[ホテル]]ではなく、[[ユースホステル]]や安宿を利用すること、観光地を見るだけでなく、地元の住人と出会うことにも興味があることなどが挙げられる。
== 概要 ==
様々な[[文化_(代表的なトピック)|文化]]や地域からの旅行者が加わり、これからも加わり続けるであろうため、バックパッカーの定義を厳密に定めるのは難しい。最近の調査によると、「バックパッカーたちは自身の旅行経験に結び付いた行動原理や意義の多様性を反映して、不均質なグループを形成した。バックパッカーたちは、制度化されていない旅行の形式への共通の傾倒を見せ、それがバックパッカーとしての中心的な自己定義となっている」<ref>{{cite journal|title=Backpackers as a Community of Strangers: The Interaction Order of an Online Backpacker Notice Board|journal=Qualitative Sociology Review|date=2007-08|first=Barbara |last=Adkins|coauthors=Eryn Grant|volume=3|issue=2|pages=188 - 201|id= |url=http://www.qualitativesociologyreview.org/ENG/Volume7/QSR_3_2_Adkins_Grant.pdf|format=PDF|language = 英語 |accessdate = 2010-01-18 }}</ref>。
[[File:7143_-_Z%C3%BCrich_-_City_Backpacker.JPG|thumb|right|200px|[[スイス]]・[[チューリッヒ]]の[[ドミトリー (宿泊施設)|ドミトリー]]]]
1960年代から欧米で流行しはじめ、航空券の低価格化とともに、世界の若者の旅装の代表となった。2000年代にはライフスタイルとしての、またビジネスとしてのバックパッキングが大きな成長を見せた<ref name="bgrow">{{Cite web|url=http://corporate.tourism.nsw.gov.au/Backpacker_Tourism_p726.aspx|title=Backpacker Tourism|accessdate = 2010-01-18 |publisher=Tourism New South Wales|work=Market Segments > Backpacker Tourism|language = 英語 }}</ref>。[[格安航空会社]]はもとより<ref name="neth">{{Cite web|url=http://www.tourism.australia.com/content/MRRs/2007/oct/netherlands_mmr_oct07.pdf|format=PDF|title=The Netherlands|accessdate = 2010-01-18 |publisher=Tourism Australia|year=2007-10|work=Monthly Market Report|language = 英語 }}</ref>、世界の各所にある[[ユースホステル]]・[[ゲストハウス]]・[[ドミトリー (宿泊施設)|ドミトリー]]などの安宿、[[インターネット]]上の[[ブログ]]・[[電子掲示板]]・[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]など、デジタルなコミュニケーション手段や[[情報]]資源により、バックパッカーが長期の旅行を計画し、実行し、継続することは以前よりも容易になっている。ただ[[節約]]するのではなく、[[ホテル]]泊まりで賓客として扱われるパックツアーでは見ることのできない市井の人々の生の暮らしに触れるのも、また大きな目的である。
== 歴史 ==
[[File:Giovanni Francesco Gemelli Careri.jpg|thumb|left|200px|[[ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリ]]]]
バックパッカーの正確な起源は不明であるが、少なくとも部分的には、[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけての[[ヒッピー・トレイル]]([[ヒッピー]]の行跡)にそのルーツを辿ることができる<ref name="Cohen 2003 95 - 110">{{cite journal|title=Backpacking: Diversity and Change|journal=Tourism and Cultural Change|year=2003|first=Erik|last=Cohen|coauthors=|volume=1|issue=2|pages=95 - 110|id=|url=http://www.multilingual-matters.net/jtc/001/0095/jtc0010095.pdf|format=PDF|accessdate=2007-10-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080228182509/http://www.multilingual-matters.net/jtc/001/0095/jtc0010095.pdf|archivedate=2008年2月28日}}()</ref>。ヒッピー旅行者たちはかつての[[シルクロード]]であった地域を順番に辿っていった。実際に、今日でもバックパッカーたちの一部はそうした旅を、より楽な方法によってではあるが再現しようと試みている<ref>{{cite news | first=Jennifer | last=Conlin | coauthors= | title= IN TRANSIT; Traveling to the Ends of the Earth, at Ground Level | date=2007-02-11 | publisher= | url =http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?sec=travel&res=9906E1DA133FF932A25751C0A9619C8B63 | work =The New York Times | pages = | accessdate = 2010-01-18 | language = 英語 }}</ref>。さらに歴史を遡れば、17世紀末に公共交通機関を用いて[[世界一周|世界を一周]]した[[イタリア]]の冒険者[[ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリ]]が世界最初のバックパッカーの1人として挙げられることがある<ref>{{cite news | first= | last= | coauthors= | title=The Inventor of Traveling - The First Backpacker in the World? | date=2007-07 | publisher=Info Hostels | url =http://www.infohostels.com/notizia.php?chiave=200 | work = | pages = | accessdate = 2010-01-18 | language = 英語 }}</ref>。
[[File:Transasia trade routes 1stC CE gr2.png|thumb|right|280px|[[ヒッピー]]たちは[[シルクロード]]を辿った]]
かつてのヒッピー・トレイルを辿る旅は、1980年代以降の[[アフガニスタン]]・[[イラク]]・[[イラン]]の政情不安のため困難なものになっているが、バックパッカーたちは世界のほとんどの地域に広がっていった。近年では、[[格安航空会社]]や航空便の増加がさらなる増大に貢献している<ref>{{cite news | first=Geneviève | last=Roberts | coauthors= Michale Harrison | title= Budget airlines spread their wings to Africa | date=2006-03-02 | publisher= | url = http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/budget-airlines-spread-their-wings-to-africa-468283.html | work =The Independent | pages = | accessdate = 2010-01-18 | language = 英語 }}</ref>。現在では、[[北アフリカ]]の[[モロッコ]]や[[チュニジア]]やその他の格安航空会社で到達できる地域が新しい「ヒッピー・トレイル」として形成されつつある<ref>{{cite news | first=Dale | last=Fuchs | coauthors= | title=A 'Hippie Trail' Stop Goes Mainstream in Morocco | date=2006-09-10 | publisher= | url =http://travel.nytimes.com/2006/10/01/travel/01journeys.html | work =The New York Times | pages = | accessdate = 2010-01-18 | language = 英語 }}</ref>。[[ワンワールド]]や[[スターアライアンス]]や[[スカイチーム]]の[[世界一周航空券]]を利用するなどして、バックパッカー・スタイルにて[[世界一周]]をする者も多い。
科学技術の変化と進歩もバックパッキングを変化させている。伝統的なバックパッカーたちは、[[ノートパソコン]]や[[デジタルカメラ]]や[[携帯情報端末]]といった高価な[[情報機器]]は盗難や破損の恐れがあり荷物も重くなるとして持ち歩かなかった。しかしながら、軽量な電子機器との接触を保っていたいという欲望は後述のフラッシュパッキングと呼ばれる傾向を生じさせ、その形態は進化を続けている<ref>{{cite news | first= | last= | coauthors= | title='Flashpacking?' Don't Forget you Still Need Room for Extra Socks | date=2006-06-20 | publisher= | url =http://www.usatoday.com/travel/destinations/2006-06-19-flashpacking_x.htm | work =USA Today | pages = | accessdate = 2010-01-18 | language = 英語 }}</ref>。運ぶものの変化と同時に、バックパッカーは当初ほどには実際のバックパックに頼らないようになってきているが<ref>{{cite news | first=Susan | last=Catto | coauthors= | title= PRACTICAL TRAVELER; The 'Pack' Of Backpacking | date=2002-04-14 | publisher= | url =http://www.nytimes.com/2002/04/14/travel/practical-traveler-the-pack-of-backpacking.html | work =The New York Times | pages = | accessdate = 2010-01-18 | language = 英語 }}</ref>、それでも依然としてバックパックはバックパッカーの基礎的な荷物と考えられている。
[[大韓民国]]では、経済発展と渡航自由化を受け、[[2000年代]]よりバックパッカースタイルの旅がブームとなった。その背景には同時期の[[韓国での日本大衆文化の流入制限|日本文化開放]]により[[パク・チョンア]]を起用した『[[進め!電波少年]]』系のヒッチハイク企画「[[雷波少年#ラストシリーズ|雷波少年ファイナル企画ラストソング]]」が放送されたことが影響した。なお[[朝鮮語|韓国語]]ではバックパックを「ペナン([[背嚢]])」と呼ぶことから「ペナンヨヘン(背嚢旅行)」と称される([[:ko:배낭여행]])。同様に[[中華圏]]でも個人自由渡航が可能な[[香港]]や[[台湾]]では「[[:zh:背包客]]」の呼称でバックパッカースタイルが、[[富裕層]]による[[爆買い]]旅行の対極的位置づけの社会現象として捉えられている。
== バックパッキングの種類 ==
<!-- 英語版からそのままカタカナにしましたが、日本語としては馴染みが薄いものばかりなので「裕福なバックパッカー」「ギャップ・イヤーを利用したバックパッカー」「交通手段で見たバックパッカー」などとしても良いかもしれません。 -->
=== フラッシュパッキング ===
[[File:PDA Mapping.jpg|thumb|200px|[[携帯情報端末|PDA]]。バックパッカーの装備も現代化している。|代替文=]]
フラッシュパッキング(flashpacking)、フラッシュパッカー(flashpacker)は裕福なバックパッカーを指す新語である。伝統的にバックパッキングが低予算の旅行と[[物価]]の比較的安い目的地に結び付けられてきたのと対照的に、フラッシュパッキングは単純には旅行中により多くの予算を使えるものとして定義される<ref>{{cite web| first=| last=| coauthors=| title=Flashpacking| date=| publisher=| url=http://www.imagineyourparadise.com/280_flashpacking| work=Imagine| pages=| accessdate=2007-11-09| language=英語| archiveurl=https://web.archive.org/web/20080123231410/http://www.imagineyourparadise.com/280_flashpacking| archivedate=2008年1月23日| deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
フラッシュパッカーの''flash''は「光るもの」「見せびらかし」などの意味があるが、この語の起源自体が不明瞭で、定義もまちまちである。<!-- A simple definition of the term Flashpacker can be thought of as backpacking with flash, or style. -- 意訳 -->近年急速に増加した、宿泊や食事にはそれほどお金はかけないが、選んだ旅先での活動にはふんだんに(時として過剰に)お金を使う旅行者たちを指すと考える人々もいる。昼は低予算の旅行者たちと共に冒険的な旅を行い、夜は落ち着いた食事と快適な宿泊を楽しむような、「[[スラム]]を覗く」ことと贅沢との不調和な混淆と考える人々もいる<ref>{{cite news | first=Paul | last=Miles | coauthors= | title=Best of Both Worlds | date=2004-06-12 | publisher= | url =http://www.guardian.co.uk/travel/2004/jun/12/fiji.guardiansaturdaytravelsection | work =Guardian Unlimited | pages = | accessdate = 2010-01-18 | language = 英語 }}</ref>。さらに、[[携帯電話]]、デジタルカメラ、[[iPod]]、ノートパソコン、[[タブレット端末]]などを持って旅することを好む[[テクノロジー]]に通じた冒険者としても定義される<ref>{{cite news | first= | last= | coauthors= | title=The Flashpacker: A New Breed of Traveler | date=2006-03-24 | publisher= | url =http://www.breakingtravelnews.com/news/article/btn20060324134038880/ | work =Hotel Travel News | pages = | accessdate = 2009-12-02 | language = 英語 }}</ref>。しかしどれも必要条件というわけではない。他の旅行スタイルと同様に、フラッシュパッカーの語は主に自己定義として用いられている。
この語はまた、従来の組織的な旅行を見放して、かつてはより冒険的なバックパッカーだけのものであった目的地へ進出する旅行者や、高収入な仕事から離職したりキャリア上の休暇を取ったりして自力での旅行に時間を費すのだが、より快適に、自宅で慣れ親しんだ多くの装置と共に旅するような旅行者の増加も反映している。結果として宿泊施設も変化し、仕事を確保するために、依然として低予算な旅をしている旅行者にもより高級な設備を提供しようとするようになった<ref>{{cite news|和書 |first= |last= |coauthors= |title=15 of the World’s Finest Flashpacking Hostels |date= |publisher= |url=https://hostelgeeks.com/luxury-hostels-worldwide/ |work=Hostelgeeks.com |pages= |accessdate=2023-08-15 |language=英語}}</ref>。旅行者の需要の変化に応じて宿泊施設の側も変化する必要があると認識したのである<ref>{{cite news | first=James | last=Shrimpton | coauthors= | title=Flashy way to Backpack | date=2006-7-31 | publisher= | url =http://www.news.com.au/flashy-way-to-backpack/story-0-1111112144472 | work =NEWS.com.au | pages = | accessdate = 2010-01-18 | language = 英語 }}</ref>。
<!-- 安宿が段々高級化していく現象の背景ということのようです。 -->
[[File:Street food vendor in Cambodia.jpg|thumb|right|200px|[[カンボジア]]の[[市場]]]]
=== 低予算バックパッキング ===
<!-- より一般的に通用している呼び名があればそちらにするのが望ましいです。 -->
フラッシュパッキングとは対照的に、相部屋や[[寝袋]]や<!-- [[文通|ペンパル]]宅での宿泊や-->長期滞在の場合は[[アパート]]の利用などで宿泊費を、[[屋台]]や[[自炊]]などで食費を、公共交通機関の利用や[[ヒッチハイク]]や格安航空券の現地調達や陸路の多用で移動費などを限られた予算で遠く・長く旅するために大なり小なり[[節約]]しながら旅するのが、伝統的な低予算のバックパッキング(budget travel, budget backpacking)である。極端なフラッシュパッキングでなければバックパッカーには何らかの形で節約は付き物だが、中には安く上げること自体を楽しみとする者もある。
=== ギャップ・パッキング ===
ギャップ・パッキング(gap-packing)<ref>{{cite web | first= | last= | coauthors= | title= 5 tips for gap-packing in Australia| date= | publisher= Eyeball Surfcheck | url =http://www.eyeball-surfcheck.co.uk/travel-article-5-tips-gap-packing-australia.html | work =| pages = | accessdate = 2010-01-18 | language = 英語 }}</ref>は高校卒業から大学入学、もしくは大学卒業から就職の[[ギャップ・イヤー]]の間に多くの国々を短期間に巡る、主に欧米人の若いバックパッカーの旅を指す。この制度や社会慣習がない日本の学生は逆に[[履歴書]]に空白(ギャップ)を作らぬよう[[休学]]制度を利用する場合がある。
[[File:Mountain biker 03.jpg|thumb|right|200px|バックパックを背負い自転車で[[ユタ州]]を旅する[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]人旅行者]]
=== 移動手段で見たバックパッキング ===
メガローピング([[:en:megaloping]])は[[鉄道]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[地下鉄]]などの公共交通機関のみを利用するバックパッキングを指す。
逆に、交通機関の利用を最小限に抑え[[自転車]]を主な移動手段として移動する者もいる。バイクパッカー/バイクパッキング([[w:Bikepacking|Bikepacking]])。自動車などを運転して旅行する者は「[[オーバーランダー]]」(オーバーランディング、[[:en:overlanding]])と呼ぶ。他に[[ヒッチハイク]]や[[徒歩旅行|徒歩]]も有力な移動手段である。
<!-- 前からあったので記載していますが、自動車やバイク持ち込むオーバーランダーは「バックパッカー」ですかね? -->
=== 沈没、外こもり ===
[[物価]]が安く、社会的な[[ストレス (生体)|ストレス]]がほとんど無い旅先の環境に慣れ切ってしまい、移動や[[観光]]もほとんど行わず1つの街や宿に長期滞在するバックパッカーの状態を日本語で「[[沈没#比喩的表現|沈没]]」と呼ぶ
<ref name="kuramae-1994">{{Cite book| 和書| author=[[蔵前仁一]] |year=1994 |title=旅ときどき沈没 | publisher=[[本の雑誌社]] | isbn=978-4-938463-38-0}}</ref>。資金が尽きるまで、更にはインターネットを通じて[[投機|利殖]]・金策してまで長期逗留する場合もある。最初から沈没を目的に国外へ行くことは「外こもり」とも呼ばれる<ref>{{cite journal|title=生き方 日本に帰れない 外こもりな人々--人間関係からも仕事からも逃げて|journal=[[AERA]] |year=2005|month=5|author=福井洋平|volume=18|issue=24|pages=60-62|id={{ISSN|0914-8833}} }}<!--現段階で確認できる初出--></ref><ref>{{Cite book| 和書| author=安田誠 |year=2008 |title=外こもりのススメ 海外のほほん生活 | publisher=[[幻冬舎]] | isbn=978-4-344-81378-6}}</ref>。
== 文化 ==
[[File:Author and backpacker Rudolph.A.furtado at Pushkar.jpg|thumb|right|220px|[[ラージャスターン州|ラジャスタン]]のバックパッカー]]
バックパッキングで重視されるのは「本物」の感覚である。バックパッキングは休暇であるというだけでなく、自己教育の手段でもあると受け取られている<ref>{{cite journal|title=A “University of Travel”: Backpacker Learning|journal=Tourism Management |year=2007|first=Philip|last=Pearce|coauthors=Faith Foster|volume=28|issue=5|pages=1285 - 1298|id= |url=|format=|accessdate = 2010-01-18 |doi=10.1016/j.tourman.2006.11.009 }}</ref>。バックパッカーはツアー旅行がそうであると見做されるような「パッケージ化された」ものではなく「リアルな」現地を体験したいと望み、これがバックパッカーが反・観光客であると考えられる原因となっている。そして<ref>{{cite book | last = Richards | first = Greg | authorlink = | coauthors = Julie Wilson | title = The Global Nomad: Backpacker Theory in Travel and Practice | publisher = Channel View Publications | year = 2004 | location = | pages = 80 - 91 | url = | doi = | id = | isbn = 978-1873-15076-4 }}</ref>。「舞台裏を密かに歩く」感覚や、現地の人々とより深い関係を持って実際の生活を見ることの感覚もある<ref>{{cite book | last = Langston-Able | first = Nick | authorlink = | title = Playing with Fire: Adventures in Indonesia | publisher = Freakash | year = 2007 | location = | pages = 30 | url =http://www.Adventures-in-Indonesia.co.uk | doi = | id = | isbn = 978-0955-34034-5 | accessdate = 2010-01-18 }}</ref>。
=== 批判 ===
<!-- 英語版も妙にぼやけた記述です。具体的に書けば「文化・環境の破壊」「貧困に付け込む」「ドラッグ・売買春・児童買春」「社会からのドロップアウト・怠惰・秩序破壊」などでしょうが、いずれにしても出典を踏まえながら慎重に記述する必要があります。 -->
バックパッカーは、他の旅行形態と同様に、論争の的であり続けている。こうした批判の一部は[[ヒッピー・トレイル]]の頃の旅行者の行動に遡る<ref>{{cite news | first=Rory | last=MacLean | coauthors= | title= Dark Side of the Hippie Trail | date=2006-07-31 | publisher= | url =http://www.newstatesman.com/200607310044 | work =The New Statesman | pages = | accessdate = 2010-01-18 | language = 英語 }}</ref>。批判はバックパッカーを受け入れる国々やバックパッカーの行動に同意できない他の旅行者たちを含むさまざまな方面からなされてきたが、バックパッキングが旅の主流により近づくにつれバックパッカー観も改善してきている<ref>{{cite journal|title=From Drifter to Gap Year Tourist Mainstreaming Backpacker Travel|journal=Annals of Tourism Research|year=2006|first=Camille|last=Caprioglio O'Reilly|coauthors=|volume=33|issue=4|pages=998 - 1017|doi= 10.1016/j.annals.2006.04.002|url=|format=|accessdate = }}</ref>。
エリック・コーエンは、バックパッカーの主目的の1つが「本物」を探求することであるにもかかわらず、バックパッカーの大部分はその時間の多くを他のバックパッカーとの交流に費し現地の人々との交流は「二の次」になっていると批判している<ref name="Cohen 2003 95 - 110"/>。バックパッカーが多く訪れる[[バナナ・パンケーキ・トレイル]]ではバックパッカーの存在が現地のあり方そのものを変えてしまうという指摘もある<ref>{{Cite web|url=http://www.chiangmainews.com/ecmn/viewfa.php?id=2228|title=Interview with Lonely Planet founder Tony Wheeler |date = 2008-07 |accessdate = 2010-01-18 |author = Harry Priestley|publisher=Citylife Chiang Mai|work=|language = 英語 }}</ref>。
== バックパッカーの実際 ==
{{出典の明記|section=1|date=2009年10月}}
<!-- 「実際」節なので客観性と出典が確保できるなら宿以外の話もあっていいかもしれません。移動、ビザ、言葉、トラブル、ドラッグ……全世界のバックパッカーについて言えることで。 -->
<!-- 冒頭の繰り返しになりますが、「あなたがそれをどう思うか」を書こうとしないでください。それは読者が自分の目で見て判断すればいいことです。バックパッカーとはそういうものではありませんか? -->
=== 情報収集 ===
長期間の旅では全ての[[査証|ビザ]]を事前に取得することは難しく、また現地でしか取得できない場合や[[国境]]自体が閉鎖される場合などもあるため、国境情勢はバックパッカーのルート自体に影響を与える(かつての[[シルクロード]]の陸路の旅は、今日では難しい)。旅行中はこうした[[治安]]、[[国境]]情勢、物価、イベント、店の評判など様々な[[情報]]を[[語学]]力も活かし現地で収集する必要がある。バックパッカーの集まる宿などでは旅行者同士の情報交換が行われ、そのための「情報ノート」や伝言板などが設置されていることもある。また今日では、各国の[[政府観光局]]や[[外務省]]の[[危険情報]]、旅行業者や旅行者自身の[[ウェブサイト]]や[[ブログ]]など、ある程度の情報は携帯情報機器や[[インターネットカフェ]]などを利用して[[インターネット|ネット]]でも収集できる。
=== バックパッカーが犯罪に巻き込まれる例 ===
バックパッカーが治安の悪い地域や紛争地域に軽率に足を踏み入れ、犯罪に巻き込まれる例がある。注意が必要。
*[[イラク日本人青年殺害事件]]など
=== 食事と宿 ===
[[ファイル:ライダーズハウス函館来夢来人b.JPG|thumb|バックパッカーがよく利用する安宿には、[[国民宿舎]]や[[ライダーズハウス]]などがある。こうした安宿はまた、宿泊者同士の情報交換の場ともなっている。]]
移動先では常にまず一夜の宿を確保する必要があり、バックパッキングは移動と宿探しの繰り返しでもある。食事は外食や買い食いが多くなるが、食費を安く浮かすため自炊することもあり、さらに宿の滞在者同士でお金を出し合い共同で料理することもある(日本語では「シェア飯」と称する)。一度宿に落ち着いてしまえば基本的にすることがないので、長く滞在している者は宿や飲食店などで他の旅行者の置いていった本を読んだり、他の宿泊者と話や[[ゲーム]]をしたり<!--泳いだり歌ったり-->して過ごしている。何のストレスもなく無為に過ごせることから「[[沈没#比喩的表現|沈没]]」してしまう者もいる<ref name="kuramae-1994" />。否定的側面もあり、現地の人々と触れるには他の行動や語学力も必要だが<ref name="Cohen 2003 95 - 110"/>、共同生活により旅の仲間や時には[[恋愛]]関係が生まれる側面もある。宿に関しては長期滞在者の間では[[民泊]]の利用も増えている。
[[File:Swiss Army Knife Wenger Opened 20050627.jpg|thumb|小道具がコンパクトに纏まった[[アーミーナイフ]]]]
=== バックパックの中身 ===
バックパッカーの荷物には、通常の[[衣類|着替え]]や洗面道具などの他、現地情勢に合わせた[[医薬品|薬]]や[[窃盗|盗難]]防止の[[鍵]]<ref group="注">共同部屋(ドミトリー)のロッカーを施錠する南京錠、移動中にバックパックを守るチェーンロックなど。</ref>や[[変圧器|電圧変換器]]<ref group="注">電源の電圧や周波数が自国と違う地域で自国の電化製品を使用するのに必要となる。</ref>、現地では手に入りにくい可能性<ref group="注">現地のやり方に慣れれば不要になるが、バックパッカーの増加や安宿街の充実に伴い現地調達も容易になりつつある。</ref>のある[[トイレットペーパー]]・[[洗濯ばさみ]]・[[箸]]のような[[日用品]]、[[情報源]]となる[[旅行ガイドブック]]<!--Wikipediaが特定のガイドブックを薦めるべきものかは疑問のためコメントアウト <ref group="注">世界的なものでは「[[ロンリープラネット]]」(日本語版もある)、日本のものでは「[[地球の歩き方]]」やよりバックパッカーに特化した「[[旅行人|旅行人ノート]]」など多種がある。</ref>-->・[[地図]]・[[情報機器]]、[[コミュニケーション|意思疎通]]のための[[辞典|辞書]]類や[[筆談]]用の[[文房具]]、安全性に配慮した[[トラベラーズチェック]]や[[キャッシュカード]]、流通性に優れた[[通貨]]の[[現金]]などの金銭、[[査証|ビザ]]取得や万一のトラブルなどに備えた各種証明書や[[証明写真]]、無聊を慰める[[玩具]]・[[楽器]]・[[文庫本]]<ref group="注">日本のものでは[[沢木耕太郎]]『[[深夜特急]]』や[[小田実]]『何でも見てやろう』などがバックパッカーの古典として知られている。</ref>など、バックパック1つで最低限かつ旅先の必要全てを満たすべく、旅行者各自の経験やスタイルや旅程や体力に応じて様々な物品が詰め込まれている。バックパックに何をどう詰めて持って行くか行かないかの技術や取捨選択は、「バックパッキング」の原点とも言える<ref>{{Cite book| 和書| author=芦沢一洋|year=1976 |title=バックパッキング入門 | publisher=[[山と渓谷社]] | isbn=978-4-635-24002-4}}</ref>。
<!-- 持ち物は人それぞれなので、網羅しようとするよりも、バックパッカーの実態が浮かぶよう記述を膨らませ、適切な出典を見付けると良い記事になると思います。 -->
== 各国の安宿街 ==
{{独自研究|date=2011年11月}}
{{未検証|date=2011年11月}}
<!--ペーパーがいくつか発見できたので、[[安宿街]]で単独記事化できそうです。リストが長大になるようなら検討してください。-->
旅行者が多く集まる街にはゲストハウス、[[インターネットカフェ]]、[[レストラン]]、旅行用品店、[[旅行会社]]など旅行者向けの施設が集まる'''安宿街'''がしばしば形成され、バックパッカーの拠点となっている<ref>{{cite journal | title=バックパッカー・プレイスの空間構成とその変容 : バンコク,カオサンエリアのケーススタディ | journal=日本建築学会計画系論文集 | date=2004-12-30 | author=森聖太 | coauthors=平山洋介 | volume=1 | issue=586 | pages=127-133 | naid=110004659956 | url=https://www.aij.or.jp/paper/detail.html?productId=175440 | accessdate = 2020-06-15 }}</ref>。旅行者側の個別の言語や出身地に対応・特化した宿、現地ガイド、料理店などの各種サービスが提供されていることもある。以下は各国の安宿街の簡潔なリストである。
[[ファイル:Bui Vien St.ブイヴィエン通り PB277880.jpg|thumb|220px|right|ベトナム・[[ブイビエン通り]]]]
[[File:Khaosan_road.jpg|thumb|right|220px|[[タイ王国|タイ]]・[[バンコク]]の[[カオサン通り]]]]
<!--[[File:Chungking-interior.jpg|thumb|[[香港]]・[[重慶大厦]]内部]]-->
<!--南アジア・中東-->
* [[パハールガンジ]]([[インド]] [[デリー]])
* [[サダルストリート]](インド [[コルカタ|カルカッタ]])
* [[タメル|タメル地区]]([[ネパール]] [[カトマンズ]])
* [[スルタンアフメット]]([[トルコ]] [[イスタンブール]])
<!--東南アジア-->
* [[カオサン通り]]([[タイ王国|タイ]] [[バンコク]])
** バンコクには古くから有名な中華街周辺や国立競技場周辺など数多くの安宿街がある。
* チュリアストリート([[マレーシア]] [[ペナン島]])
* [[プタリン通り]](マレーシア [[クアラルンプール]])
** [[ブキッ・ビンタン駅|ブキッ・ビンタン]]周辺やマレー人街の[[チョウ・キット駅|チョウキット地区]]にも世界からバックパッカーが集まる安宿街がある。
* [[ゲイラン|ゲイラン地区]]([[シンガポール]])
* [[ファングーラオ通り]]・[[ブイビエン通り]]・[[デタム通り]]([[ベトナム]] [[ホーチミン市|ホーチミン]])
** ホーチミン市の中心南西部にある地区は、この3本の通りを中心にハノイの旧市街と並ぶベトナム最大級の安宿街を形成している。
* [[ジャクサ通り]]([[インドネシア]] [[ジャカルタ]])
<!--東アジア-->
* [[中央洞駅|中央洞]](チュンアンドン) ([[大韓民国|韓国]] [[釜山広域市|釜山]])<!--本当は駅じゃなくて中央洞自体の記事があるといい-->
* [[重慶大厦]]([[香港]][[九龍]]尖沙咀)
** [[美麗都大厦]](九龍尖沙咀)や[[先施大厦]](九龍旺角)も安宿が集まるビルとして有名
* [[福隆新街]]([[マカオ]] [[マカオ半島部]])
* [[東城区 (北京市)|東城区]]東四周辺(中華人民共和国北京市)
* [[あいりん地区]](日本 [[大阪]])
* [[山谷 (東京都)|山谷地区]](日本 [[東京]])
<!-- XXX スルタンアフメット以外アジアしかないですね。南米やアフリカなども… -->
== 派生用語 ==
===バックパッカー税===
[[オーストラリア]]では[[ワーキングホリデー]]制度で入国し、短期であっても[[アルバイト]]収入を得る者に対し[[所得税]]を徴収する税制の導入を施行した。この処遇を現地では「バックパッカー税」と揶揄する。これはオーストラリアではワーキングホリデー滞在者でなくとも農繁期に農場でアルバイトをして旅費を捻出する旅行者(バックパッカー)が多く、農場側も人手不足を補う労働力として依存する事情に起因する<ref>[http://nichigopress.jp/ausnews/politics/119418/ 政府の「バックパッカー税」に危機感] [[日豪プレス]]2016年2月16日</ref>
===バックパッカー症候群===
バックパッカーシンドローム(Backpacker Syndrome)。一度バックパッカースタイルの旅を経験して帰国すると、再び次の旅へ出たくなる心理状態とそのための準備行動(旅費を稼ぐための短期労働など)を指す。広義では旅に懲りた人がバックパッカーを卑下する批判的言動も含む。欧米系バックパッカーが医学用語である[[腕神経叢#腕神経叢麻痺|腕神経叢麻痺]]([[:en:Backpack palsy]])を通俗的に使用したことから広まった。
===ベッグパッカー===
[[乞食|物乞い]]を意味する英語の「[[:en:Begging|beg]]」を冠した「ベッグパッカー」という現地人や旅行者から金銭をめぐんでもらって旅を続ける輩がいる<ref>[https://rocketnews24.com/2017/04/18/888590/ 【炎上】貧しいアジアの国で「お金を下さい」と物乞いするバックパッカー達にネットユーザーから非難殺到!!] [[ロケットニュース24]]2017年4月18日</ref>。なお、かつては[[路上ライブ]]や[[大道芸]]を披露して[[カンパ|投げ銭]]を稼いだり(この行為は厳密には[[就労]]・[[興行]][[査証|ビザ]]が必要で不法就労にあたる)、[[売血]]や国際的に汎用性と信用度が高い[[日本国]][[パスポート]]を売りさばいて旅費を捻出するバックパッカーを「乞食」と呼んでいたこともある(パスポートを故意に譲渡することは[[旅券法]]違反であり、現在は偽造が困難になったことから転売は難しい)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
<!-- 必要な事項は本文中へ記載し関連項目は簡素化することを検討してください。 -->
* [[ウィキボヤージュ]] - [[ウィキメディア財団]]が運営する、自由に編集・利用可能な旅行ガイド。
* [[徒歩旅行]]、[[トレッキング]]、[[ヒッチハイク]] - 隣接する旅行形態。
* [[ボヘミアニズム|ボヘミアン]]、[[ホーボー]]、[[ヒッピー]]<!--、[[トラヴェラー]] --> - バックパッカーと関連のあるライフスタイル。
* [[カニ族]] - 1960-70年代日本の、大型リュックを背負った国内旅行者。
* [[ワーキング・ホリデー]] - 就労しながら旅行できる査証制度。
* [[ロンリープラネット]]、[[地球の歩き方]]
* [[アジアのディープな歩き方]] - [[堀田あきお]] 原作のアジア太平洋地域などに限定したバックパッカー漫画。姉妹編に原作者である堀田夫婦のエッセー旅漫画がある。
* [[格安航空会社]]
* ウルトラライトバックパッキング ([[w:Ultralight backpacking|Ultralight backpacking]])
{{観光}}
{{バックパッカー}}
{{宿泊施設}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:はつくはつかあ}}
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現象学
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現象学(げんしょうがく、独: Phänomenologie〈フェノメノロギー〉)は、哲学的学問およびそれに付随する方法論を意味する。
「現象学」という用語は、哲学史上、18世紀のドイツの哲学者ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトの著書『新オルガノン』に遡ることができるとされる。「現象学」が指し示す概念は、哲学者によって大きく異なる。また、エトムント・フッサールのように、1人の哲学者においても、その活動時期によって、概念が変遷している例もある。下記に代表的な3つの「現象学」の概要を記す。
本項では、「解釈学」と共に現代ドイツ・フランス哲学の二大潮流を形成し、ハイデガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロ=ポンティ、エマニュエル・レヴィナス、ミシェル・アンリ、ジャック・デリダらに批判的に継承された「現象学」(上記2・3項)について述べる。ヘーゲルの精神現象学については精神現象学を参照。
フッサールの目標は、「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!) という研究格率に端的に表明されている。つまり、いかなる先入観、形而上学的独断にも囚われずに存在者に接近し、諸学を基礎づける根源的な厳密学としての哲学を樹立する方法をフッサールは求めた。その過程で、フッサールの「現象学」の概念も修正されていった。下記においては、フッサールの現象学における主要な概念を、その通時的な深化とともに叙述する。
19世紀末のヨーロッパにおいては、実証科学の興隆のもと、数学・論理学の領域で、心理学主義・生物学主義的な、心理的現象から論理を基礎づけようとする思想が席巻していた。心理学主義とは、あらゆる学問の基礎を心理的な過程に基づけようとする試みである。数学の研究から出発したフッサールの関心も、はじめは心理学から、当時の数学界において論争となっていた数学基礎論を心理学的に基礎づけようとするものであった。この考えのもと、フッサールはブレンターノの記述心理学の立場から数学の特に算術の解明を目指した『算術の哲学――心理学的、論理学的諸研究』を1891年に出版した。
しかし、この著作は数理哲学者G.フレーゲなどのきびしい批判を受けることとなった。その批判とは、もし数学や論理学などの客観的なものが主観的な心的表象に還元されてしまうならば、いかにして学問の客観性を保つことができるのか、というものであった。この批判を受けて、またフッサール自身このような心理学主義の原理的困難に逢着し、「論理学の本質についての、特に認識作用の主観性と認識内容の客観性との相互関係についての一般的な批判的反省」へと、すなわち現象学へと進んでゆくことになった。
フッサールは、大学で約2年間師事したフランツ・ブレンターノの「志向性」(独: Intentionalität) の概念を継承した。ブレンターノにおいて、「志向性」とは意識が必ず相関者(対象)を指し示すこと、言い換えると意識とは例外なく「何かについての」意識であることを意味する。ブレンターノ自身は、志向性の概念を心理作用の分類に用いただけであったが、フッサールは、「意識はつねになにものかについての意識である」という命題に端的にあらわされている、意識と相関者(対象)が常に相関関係にあるという志向性の特徴に着目し、この相関関係における対象の実在を留保することで、志向性の概念を認識論的に発展させていった。また、現象学的還元との関係において、意識体験のうちにふくまれるものを内在(独:Immanenz)、ふくまれないものを超越(独:Transzendenz)と呼び、この対概念によって純粋意識としての志向性の構造をあきらかにしようとした。さらに、後述するように、フッサールの志向性は意識と理性への超越論的な考察のもとに、より豊かで動態的な志向的能作の概念として捉えなおされてゆくことになる。
フッサールの現象学の原理的特徴として、本質主義と直観主義が指摘される。
フッサールにおける本質主義は、事実的な経験や体験に対して、本質や理念(イデア)、また形相(エイドス)などに優位を置く考えのことであるが、これは諸学の基礎づけという現象学の厳密学としての目的に起因している。数学や論理学などを、主観的かつ経験的なものへと還元しようとする心理学主義や生物学主義に対して、フッサールはむしろそのような学が、そしてまたあらゆる学が、その厳密性の条件としてイデア的な論理法則の存在を必要としていることを指摘し、これらの究極的な規則がもし存在しないのであれば、厳密学はおろかわれわれの認識の妥当性をたもつものはなにもなくなってしまい、相対主義や懐疑主義に陥ってしまうことへ注意をうながした。さらには、そのような相対主義的な考えが妥当性をたもつためには、みずからが主張している相対主義的な考え自体を否定しなければならない逆説をフッサールは指摘した。そして、意識をその具体的な相関者との関係ではなく、意識とその相関者との相関関係自体、すなわち志向性という本質的なありかたにおいて捉えようとするところにもまた、現象学の本質主義的な性質があらわれている。しかし、フッサールは論理法則や思考の規則のイデア的な本質の存在を認めるという点ではたしかにボルツァーノやフレーゲと同じく論理学的イデア主義の立場にあるが、それらのイデアの素朴な実体化を避けるという点では、プラトン的実念論ではない。さらに発生的現象学にいたって、本質の地平性とその受動的な構成が問われることとなり、ここにフッサール以降の現象学が展開していった事実性の現象学の萌芽がみられる。
もうひとつの特徴である直観主義は、直観(独:Anschauung)によって現象をあるがままに捉え、その本質を認識しようとする現象学の方法的態度のことである。この態度は、フッサールの研究格率である「事象そのものへ」に表明されている、一切の理論的先入見を捨て去り事象そのものへの還帰を目指すという現象学の本質的な特徴をあらわすものでもある。それゆえ現象学は、およそあらゆる理論からの演繹的展開を拒み、記述と分析という帰納的な態度をとることになる。フッサールの現象学がいくたびかの深刻な転回を経るのも、この帰納的かつ根源的な態度によって、みずからの仕事への現象学的反省を強いられたからである。その点で、直観はフッサールにおける現象学のもっとも枢要な概念ということができる。上記のように本質は学の成立のためには必要不可欠な存在であるが、その本質はいかにして認識しうるか、という認識作用の主観性と認識内容の客観性への問いが、この現象学的直観というもっとも根源的な認識方法への還帰を必要としたといえる。フッサールもいうように「すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉である」ので、直観とは、ただの感覚や感性的直観のことではなく、対象それ自体が現に意識に与えられ、充実された志向のことである。フッサールにおいては意味とは形相的あるいは理念的なものであるが、この意味にのみ関わり、対象への関係が実現されていない意識の働きのことを空虚な意味志向や空虚な意味作用などと呼ぶ。この空虚な志向を充実してくれるのが対象の直観であり、単なる思念としての対象への関係が対象の直観と同一化されることによって顕示化されることであるが、そのことがまた、意味志向が基づけられるという表現によってあらわされることもある。この対象自体がみずからを意識へと与えるありかたのことを自体能与(あるいは自体所与)といい、自体能与を志向性においてとらえて明証(独:Evidenz)ともいわれる。明証にはさまざまな程度があり、それに応じて必当然的や十全的などの分類がなされるが、本質的には「存在するものとその様態とについての経験」であり、程度はさまざまであれすべての経験が明証性を持っているということができる。
たとえば眼前に林檎をありありと想像するような志向と、現にいま眼前に林檎を知覚している充実された志向では、その林檎という対象へと向かう志向の充実の度合いにおいて、後者のほうが明証的である。しかしもちろんこれは林檎という対象への志向が、知覚という直観によって充実されたということであり、眼前にある林檎という超越的なものの現実的な存在をそのまま証明するものではない。つまりこの現にいま与えられた感覚与件が、志向性において意味把握的に統握され活性化され、そのかぎりでこの林檎という対象が与えられた。そして、この志向された対象が対象そのものとして現在的かつ直接に意識へあらわれることこそが、対象の明証的な自体能与である。だがこのような明証的な知覚も、その対象すべてがありありと十全的にあらわれているわけではなく、いまだ知覚されていない部分を持っている点や、想起や想像などの準現在的な直観と関係している点において、完全に明証的といえるわけではない。もし対象の現実的な存在の証拠である十全的かつ完全な明証が与えられるとすれば、それは内在的な直観によるものであり、外的知覚つまり超越的な直観によってそれが与えられることはなく、超越的な対象の現実的な存在の定立はその可能性が他の可能性に比して高い場合になされるという蓋然的なものにとどまる。
しかしまた、われわれの認識の妥当性は根源的には明証を与える直観によってしかたしかめることができず、それゆえに明証的直観こそが「一切の諸原理の原理」といわれ、その明証性の妥当性すらも、反省的な明証的直観によって誤りを正していくことでしか証明することができない。そして、現象学の深化とともに、この明証や直観という概念、つまり理性の視作用そのものが、フッサールにとって主題的に解明されるべきものとなっていく。この理性の究明こそが発生的現象学であり、そこでは直観の直接性よりも地平の媒介性が優位を占めるようになっていく。このようにフッサールは単なる直観主義から脱却していくが、それでもなおフッサールは直観と反省という現象学の立場を堅持し、そこには事象そのものをありのままに捉えようとする現象学の本質的な志向がみられる。また、明証は真理と相関的な概念であるが、イデアの素朴な実体化を避ける現象学は真理それ自体を一挙に手に入れることはできず、ただ直観によって近づいていくことしかできないとされる。しかし、十分に明証的な直観はどれほど反復されても不変であるからこそ、フッサールによって「真理の体験」とも呼ばれる。
また、フッサールとその現象学の本質主義(本質と事実の関係)については、フッサール以降の現象学の展開において、さまざまな議論や立場が生まれている。ハイデガーは存在を本質存在と事実存在のふたつに分かつことから西洋の存在論、そして形而上学が始まったとしており、このふたつが分かたれる以前の始原の存在へと近づくことが必要である、と説いている。メルロ=ポンティは、われわれの事実性を認識しまた克服するための相対化に本質性の領野が必要とされ、本質は目的ではなく手段である、と述べている。
上述のように、学を基礎づけるためには真理や本質の認識が必要であり、その認識は明証的な直観によってしかなされえないが、では学を基礎づけることが可能な絶対的な明証とはどんなものか、という問いが生まれる。この問いがいかなるものかを知るためには、まず明証を、そしてさらにその明証を生みだす志向性としての意識のありかたを突き止めなければならない。つまり、対象を対象として構成する志向的意識の体系的解明という超越論的な課題があらわれてくる。さらに『論理学研究』ののち、時間意識の研究とともに深まった志向的意識の自己構成についての絶対的主観性の究明という動機もあり、現象学的還元(独:phänomenologische Reduktion)によって自然的態度を離れ、意識の志向性そのもへと視線を向けることが求められてくる。ここにおいて現象学は、『論理学研究』の時代にはまだ払拭されきっていなかった記述心理学的な要素を捨象し、理性そのものの批判的考察へと、すなわち超越論的現象学へと深化されていく。
日常的に、自然的態度において私たちは、自分の存在、世界の存在を疑ったりはしない。私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを疑わない。フッサールはこの自然的態度の根本的特徴を、自明的な世界の一般定立として批判する。そして、意識の志向性を捉えるためにはあえてこの現象学的還元という反自然的な反省を行い、すでに定立され実在していると考えられている世界の意味の構成的起源である超越論的主観性を発見しなければならない。以下に挙げたものは、意識が対象へと素朴に向かっている遂行態としての自然的態度の特徴として、フッサールが示したものである。
このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。科学的な方法に依拠する自然主義的態度などもまた、すでに前提された対象を一定の方法的視点から規定しようとするものであり、あらためて対象とその構成を問うものではないという点において、自然的態度の圏域にとどまる。このような問題を扱うために、フッサールは世界関心を抑制し、対象に関するすべての自然的態度に依拠した判断や理論を中止する(このような現象学的態度をエポケーや判断停止といい、また譬喩的に「括弧に入れる」などともいわれる)ことで意識を機能しているがままの相において取り出す方法を提唱した。
しかし、このような態度の変更は原理的に可能であるのか、という問いがここで生じてくる。あるひとつの対象の定立を遮断したり、あるいは中止したりすることは可能であろうが、自然的態度における一般定立とは世界そのものの定立であり、われわれが日常において疑うことのないものであるから、そのようなものがはたして疑いえるのかという問いが提出される。このような問いに答えるため、フッサールはここでデカルトの普遍的な懐疑という方法を部分的に採用する。すなわち、不可疑的なものを発見するためにデカルトが行った普遍的懐疑から、可疑的な定立の否定という要素を捨象し、不可疑的な明証の発見という目的のためにこの方法的懐疑を使用するである。それゆえフッサールのエポケーは可疑的なものの定立を中止し、その定立を括弧に入れるが、しかしその定立を否定したり反定立に転化することはない。このように現象学的還元こそが、それ自体として絶対的に不可疑的なものである超越論的主観性の発見の方法である。この超越論的な現象学的還元によってとりだされた超越論的主観性とは、素朴に対象の実在を措定するという作用を遮断されており、それゆえ対象が意識によって構成されていることが自覚されている。であるからこそ、意識の本質的なありかたである志向性という意識と対象の相関関係を解明していくことができる。
しかし、『イデーン』第一巻において示されているこの現象学的還元の方法、いわゆる現象学的還元のデカルト的方途は、世界の存在の可疑性に対して意識の存在の不可疑性を対置し、その絶対的明証性によって純粋意識の領分へと一挙に飛躍してしまうものであった。それゆえ、意識やその志向性への考察が深化していくうちに、フッサールはこのデカルト的方途から離れていき、より現象そのものを捉えている現象学的還元の非デカルト的方途を探っていくこととなる。デカルト的方途では、世界の存在は可疑的なものとして斥けられていたが、現象学的な世界の考察の進展とともに、その世界の存在あるいは非存在こそが現象学的反省によって決定されるべきもので、超越論的主観性としての意識と世界の相関関係の解明をまたずして、世界意識の明証を論ずるべきではないとされていった。このように、現象学的還元の非デカルト的方途において、世界は志向的意識の相関者として現出しつつある世界であり、こういった動態的な志向性の把握が、発生的現象学へと発展していく。
現象学的還元によって超越論的主観性がとりだされたわけであるが、ここではまずデカルト的方途による還元とそれによってとりだされた超越論的主観性について概観を与え、この還元によって引き起こされると指摘される問題を叙述する。超越論的観念論について指摘された問題の克服については次項の志向性の項目において述べる。
フッサールの超越論的現象学に対する自己了解は、真の存在と認識の働きとの間の諸連関を明らかにし、そして一般に作用と意識と対象との間の相関関係を究明するというものだが、これは超越(意識に対して超越していること)と内在(意識に対して内在していること)の関係をあきらかにすることによって認識一般の究極的基礎づけを果たすという構想であった。ここでいう超越と内在の関係は、「与えられていること」と「存在していること」との関係への考察によって樹立される。客観的世界認識は主観的体験作用によって成立しているが、体験作用そのものにおいては所与されたものと存在するものが分かちがたく結びついており、体験作用こそ認識の確実性と明晰性の点で不可疑的に明証的なものとして与えられている。
先述のように、フッサールはデカルトにならって現象学的還元によりとりだされたこの絶対的なコギトに認識の究極的な源泉を認めた。『イデーン』第一巻ではこの現象学的還元への解釈として、現象学は超越的な物と内在的な体験とをそのありかたにおいて究明し、物や体験の存在について決定を下す超越論的観念論の立場をとるものとした。この考えでは超越的な物の与えられかたと内在的な体験の与えられかたとの区別から、それぞれの存在領分の区別がみちびかれ、物の与えられかたはつねに射映によって媒介されているとされる。それゆえに物の所与存在は物の存在そのものとは原理的に一致せず、それに対して体験の所与存在は体験の存在そのものとつねに合致していると説かれ、この区別から意識に対する超越と内在の区別もみちびかれるわけである。しかしこのような認識のもとでは超越的なものの存在は決して体験できず、物の領分と心の領分は交わらず互いに閉鎖的なものとなってしまい、それゆえにこういった超越的なものを存在者として認識の対象とみなすことそのものが無意味になってしまう。そこで意識というものは他の存在領域と併存する単なる存在領域のひとつではなく、むしろ射映的に与えられる超越的なものがいかに存在するのかを決定する絶対的な場所とみなさなければならない。
こういった経緯から、フッサールは意識が超越的なものの所与につねに先立つそれ自体として完結した絶対的存在であり、またそれに対して超越的なものの存在は意識に依存する相対的存在である、という結論をみちびきだした。このようにして、所与存在の区別と存在そのものの区別が結合され、志向的相関関係が存在領分の区別とかさなり、存在としての超越的なものが志向性の相関者として把握される対象存在へと転化され、これを構成する純粋意識こそが絶対的存在であるとみなす超越論的観念論の立場が樹立されることとなった。しかしこの超越論的観念論による認識論的意味における超越と形而上学的意味における超越との結合は、さまざまな問題を引き起こすこととなり、シェーラーなどによって形而上学的独断と批判されることとなった。たしかにこのような考えは、あきらかにフッサールが超越的なものの存在領分をはじめから相対的で非自立的なものとして扱おうとしていたことを示しており、そしてまたそれに対して意識が超越的なものの実在の措定あるいは反措定という絶対的な権能を与えられている。そこでは、対象が対象であることと対象が現実に実在していることの違いを明確に規定しないで、対象の存在という概念を曖昧な意味のまま使用していたことが読みとれる。このような両義性はフッサールのもちいる構成の概念などにも見受けられ、「フッサールの現象学の内に含まれる不整合性」として指摘される。
しかし、このような形而上学的独断は必ずしもフッサールの現象学とその還元に必然的な原理的誤謬であったわけではなく、むしろ超越論的現象学とは、内部と外部、内在と超越をどちらか一方に依存する関係として捉えることによって成立するというよりも、内部と外部との相関関係としての志向性の概念に定位し、この志向性の本質である世界の構成的能作としての働きを解明しようとするという点において、超越論的である。それゆえ、たしかに意識は超越的なものの存在や非存在を、志向的体験をとおして決定する場所であるとはいえるが、それがそのまま意識が超越的なものの存在領分の相対化を招くほどに絶対的存在であるということにはつながらない。現象学的還元による対象の定立の中止、また括弧入れとは、一度対象の存在についての判断を留保することであり、そういった超越的なものの存在の可否を先行的に決定するものではない。
超越論的現象学における対象の存在の問題は、理性そのものの批判的な考察を通じて、志向性の解明として展開されることとなる。この志向性としての理性の解明こそ、フッサールの現象学の中心的課題であり、存在問題の先行決定によってではなく、存在問題の留保によってこそ理性と存在がその深層において結びついていることがあきらかとなる。
理性とは、フッサールにおいては明証的な直観、つまり存在するものを自体能与の相においてありのままに視るということをあらわし、先述のように「すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉である」といわれるが、しかしその視作用だけが理性の働きであるとされているわけではない。このような視る働きのほかに、この視作用によって捉えられた対象が現実にそこに存在すると措定する働きもまた、理性の機能であるとされる。フッサールにおける理性概念は、対象を直接的に視るという契機と現実に存在することを措定するという契機とが分かちがたく結びついており、存在するものが在るということは、その対象が現実に、または真に在るということを意味し、単に思念されたものとしての対象と決して同義ではない。それは対象意味が存在や非存在という述語を持つことであり、相関的には作用が真理や虚偽という述語をともなうことである。
フッサールは『イデーン』第一巻のなかで「現実性および現実性をそれ自ら明示する理性意識」を扱い、真である存在に対応する理性意識にあらためて「明証」の名を与えているが、これは、明証において対象が存在するものとして構成されることをあらわし、存在するものそれ自体を示すところのものとして受けいれるということは、与えられたものをその存在において規定するということにほかならない。それゆえフッサールは『形式論理学と超越論的論理学』のなかで「明証とは、われわれにとって妥当するあらゆる意味の真理と真の存在を構成するものである」といい、また志向性との関係において「明証とは、(対象)それ自身を与える志向的能作のことである。もっと精確に言えば、明証とは《志向性》の、すなわち《何かについての意識》の普遍的な卓越した形態のことであり、この形態においては、志向性によって明証的に意識された対象は、それ自身が把握されたもの、それ自身が見られたもの、意識に即して意識それ自身の側にあるものという仕方で意識されているのである」と述べる。このように明証は自体能与の認識として、経験される対象の存在に関わる意識であり、したがって対象の真理に向かう一切の理性問題に対する決定権を持っている。また、自体能与的でない認識も、それ自体真理への志向を持ち、すべての志向性は明証的な対象への充実を目指すという目的論的構造を有している。志向性と明証性のこの目的論的動態性への思惟が深化していくとともに、フッサールの観念論的自己解釈はあまり目立たなくなる。
このように志向性は本来的に対象をそれ自体において捉えようとし、明証は志向性の一般的特徴をあらわすものであるが、しかしすべての意識が完全な明証を持つわけではない。先述のように対象の自体能与としての働きを直観と呼ぶが、この直観はさまざまな段階を持ち、自体能与のなかでももっとも本源的な直観を根源的明証とみなし、他のそれに比して明証性の低いものをこの本源的直観から転化した派生様態であるとされる。この自体能与の本源的直観のひとつとして、知覚が挙げられる。明証的な本源的所与性を持つものとしては、知覚対象だけではなく、判断事態や論理形式、また数なども挙げられるが、特に知覚は本源的直観の典型としてつねに明証の原型的なありかたとして引きあいにだされている。志向性の充実とは、単なる思念としての対象への関係が、対象の直観と同一化され、確証され、また顕示されることであるが、知覚は対象をその自体性において、つまり顕在的現在性において捉え、この意味での志向性の充実の典型である。そこで知覚を原型とする本源的意識の転化様態を探っていくと、この転化された非本源的意識の様態としては想起や想像といった意識が該当することが判明する。たとえば、昨日眺めた家を想起する場合、そこで意識されているのは昨日知覚した家であり、対象としては同じ家という同一性を保ったまま認識されているが、もはや眼前にありありとした姿の自体能与としては与えられていない。しかし、過去において知覚という本源的意識の様態において認識されたからこそ、それを想起することができ、想起は本源的意識である知覚の転化様態として知覚の根源的明証からみずからの明証を汲みとっている。このように想起や想像は知覚と比してその明証性や本源性の点で劣るが、しかしそれらの志向的意識もやはり直観的表象であり、単なる空虚な思念としての意味志向に比べればそれなりの充実を与える。それはたとえば、三角形という言葉の意味への単なる志向が、ある具体的な三角形の想像によって充実されるようなものである。
知覚に代表される根源的明証は、もはやそれ以上遡ることのできない「究極的に原様態的な臨在」であり、そこからすべての派生的様態にある意識の変様が発生する。そして本源的意識とは逆に、非本源的な転化様態にある意識もまた、おのれのうちに本源的意識を遡示している。この本源的意識の遡示は志向的対象意味のうちに含まれている。そこで、志向的対象意味を「手引き」とすることによって、本源的意識への反省的遡源が可能となってくる。この根源的明証への段階的な転化の思想は、まず第一に、同一の対象について成立するさまざまな意識を統一する紐帯が根源的明証であること、また根源的明証を持つ本源的意識と非根源的明証をしか持たない非本源的意識とは対立または分離するものではなく、ひとつの統一的な関係を形成し相属的体系をつくるものである、という点に成り立っている。また第二に、志向性は単に対象に関する意識であるばかりではなく、意味的に含蓄された意識の仕方についての意識であるということ、換言すれば意識はあるものについての意識であるばかりではなく、潜在的な意識の働き自体への意識でもあるをも示唆している。つまり志向性は、意識と対象との単層的関係をあらわす概念にとどまらず、志向的重層性の構造を持つものとしての意識をもあらわしている。第三に、いかなる意識様態といえども根源的明証への志向的還帰の可能性を持つことが示されている。これらのことに示されているように、現象学的反省はどれほど錯綜した意識のもつれをも解きほぐしていくことができるという可能性をあきらかにしている。志向性の持つこれらの特徴は、やがて意味の持つ潜在的な地平的志向性の反省と、それによる顕在的体験への遡源として発生的現象学において方法論化されていくこととなる。
また、このようにフッサールの志向性と明証への考察をたどることで、現象学的方法としての志向的分析がつぎのような示唆を持つことがあきらかとなる。それは、存在するものの明証的な自体能与を手引きとして、存在するものに関する根源的かつ厳密な知識の探求がはじまるとき、それは必然的に意識全体の解明として展開されなくてはならなかった、ということである。
志向性が現象学においてどのような役割を持つ概念であるのかをみたことによって、意識と対象の相関関係としての志向性の具体的な分析へと立ち入ることが可能となったわけであるが、この志向性の分析にもちいられるのが、ノエシスまたはノエマの概念である。
志向的分析は意識の本質構造である志向性の分析として展開していくが、この志向性の作用的側面をノエシス、対象的側面をノエマという。志向性の具体的形態が志向的体験であり、志向的体験の内在的な作用的側面がノエシスであり、超越的な対象的側面がノエマであるということもできる。どのような志向的体験もおのれのうちにノエマを持ち、そのノエマもまた意味を持ち、この意味によって対象と関係している。ノエシスは、まず意識に感覚与件などのヒュレー(素材)的契機が与えられ、それがノエシス的契機によって意味付与また統握されることによって活性化されることであり、これらの過程はすべて志向的体験に内在しておりその実的成素を構成している。これに対してノエマは志向的体験の実的ではない構成要素ということができ、ノエマ的意味という意味化された対象の規定の契機を持ち、このノエマ的意味という内実に、対象がいかにあるかという作用的な存在性格の様相すなわちノエマにおけるノエシス的契機をふくむことによって、充実したノエマあるいはまったきノエマとなる。つまり、たとえば林檎という対象の知覚の志向的体験をこのノエシスとノエマの分類に従って分析していくと、まずわれわれの感官にある感覚与件が与えられ、それを意味付与的なノエシス的作用が統握することによって林檎という対象が認識され、またそのさいに統握された林檎のノエマ的意味が、現実性やあるいは架空性といった様相において捉えることによって眼前にある林檎という対象へと構成される。
さらに、ノエマの存在性格の様相には原型的性格と派生的性格があり、これらの性格は意識変様のさまざまな可能性をあらわしている。この変様はノエマにおいて、ノエマ自体の段階的性格を示すものとして刻みこまれており、派生的段階にあるノエマは原型的なノエマへの内的な関係を持っている。そして、この内的な関係によってノエマ的反省が各ノエマの段階を遡及して原型へと到達することができる。このノエマ的反省の方法が確立されたことによって、意識のあらゆる潜在的志向性を顕在的な所与へともたらすことが可能となった。これは現象学におけるひとつの画期であり、のちの発生的現象学の発展を約束するものとなった。しかし、『イデーン』第一巻のなかであきらかにされたこの志向的分析の方法は、いまだ形式的かつ静態的なものにとどまっており、意識の諸変様が本来動態的なものでその意識への遡及的分析もまた動態的なものとならざるをえないことを十分に訴えてはいない。この「意識の歴史性」の展開こそが、発生的現象学へとつながる。
1900年にフッサールの『論理学研究』が出されると、ミュンヘン大学の心理学者テオドール・リップス門下のアレクサンダー・プフェンダーらの共感を呼んだ。1905年にはフッサールのゲッティンゲン大学とミュンヘン大学の間で学的交流が開始され、いわゆる「現象学運動」が開始された。1906年にはマックス・シェーラーがイェーナ大学からミュンヘン大学に移籍し、この運動に合流した。1913年からの『現象学年報』刊行はその一つの結実であった。この初期の、ミュンヘン大学を中心に展開した現象学運動を「ミュンヘン学派」あるいは「ミュンヘン現象学」と呼ぶ。次第にフッサールとミュンヘン学派は思想的相違から懸隔を生じさせ、1916年にフッサールがフライブルク大学へ移る頃には、その対立は決定的になっていた。
フライブルク時代のフッサールはあまり表面に出ることはなかったが、この時期に重要な作業研究に打ち込み、また多くの後継者を育成した。とくにこの「フライブルク現象学」時代に彼の後継者として現れ、現象学の存在論的発展を切り開いたのがハイデガーである。1927年『現象学年報』誌上に発表されたハイデガーの『存在と時間』は、現象および現象学に明確な規定を定め、さらにフッサールの、意識を純粋存在とみなす考えを批判し、実存的な人間存在である現存在の存在体制としての「世界・内・存在」構造の分析が進められた。ハイデガーはさらに『根拠の本質について』、『形而上学とは何か』で現象学的存在論を深めたが、1930年代には方法的限界を示唆するようになった。
第二次世界大戦後、現象学はフランスに場を移して発展した。 フランスでの現象学哲学者としては、サルトル、レヴィナス、メルロ=ポンティ、ミシェル・アンリ、チャン・デュク・タオ、ポール・リクール、アロン・ギュルヴィッチ、ジャン・フランソワ・リオタール、ジャック・デリダなどがいる。
現在、科学の様々な分野において現象学的な態度が取りざたされている。けれども、ここでいう現象学的態度はフッサールの現象学やフッサールに引き続く哲学者たちによるこの語の使用とは異なっていることがあり、それは思想としての現象学が単なる事実の記述にとどまらないことによる。現象学的記述の備わった最も科学的な取り組みは、意味内容の現象学のより根源的な意味による。そのため科学的な取り組みは例えば形相的還元のようなものを行わない。けれども、古典的な法の現象学のような現象学の分枝においても本来の現象学的方法がまだ保たれているということを直視しなければならない。
「現象学的」なる造語は一般科学でしばしば使われ、そのうえ事柄は単に「現象的」という意味であることがある。しかし現象的なものはさしあたって仮象であり、裏に隠された真実などではなく、あるいは単なる現象であって、認識に対して物理的、あるいは精神的存在に注意を払わせているのではない。こうした「現象」主義、実在論の反対である主観的観念論の一変種の初期の実証主義によって現象学は混乱させられる。志向性やエポケーに対する精確な考察及びその結果によって実証主義との違いが明らかになる。
法の現象学はエドムント・フッサールにまで遡り、まず第一に法哲学者のアドルフ・ライナッハによって分化させられた。ヴィルヘルム・シャップはフッサールの弟子でもあるが、初めのうちはライナッハによる批判の作業を引き継いでいたが、後にライナッハから離反して独自の歴史現象学を発展させた。その他の歴史現象学者のように彼らは現象学を基盤としてその上に答えを見つけようとしたが、それは正しかった。あるいは現象学的な言い回しをすれば、法の本性はなんであるか。法の現象学はドイツやオランダでもまばらに信奉者を得たが、イタリアやスペインで最も有力である。
研究計画の上で実験データを「初めに概観」すること、系統だった科学的活動の最初の局面(資料の収集)はしばしば現象学と呼ばれる。ここで「現象学的」というのは事象そのものを記述するための事実を特に意味している。だから実験の過程は可能な限り理論の助けを借りずに記述され(理論それ自体はただ実験の上部構造及び過程を定めるだけだから、それは条件付きで自然でありうるにすぎない)、概念における人の思考を解釈せず、単に起こったことが観察される。現象という概念は、ここでは基礎に対してあるが、自然主義的現象はなるほど深い物ではあるが、論理的・理性的に把握できるような真理が奥底に横たわっているということは絶対にありえない。
ゲシュタルト療法、会話療法、あるいはロゴセラピーといった人の治療の理論において、現象学はしばしば認識論の道具として表面に乗り出している。フッサールに加えて、マルティン・ブーバーのような哲学者もエマニュエル・レヴィナスのような現象学者も言及された。カール・ヤスパースは精神病理学的現象学の創立者である。拙速な解釈に対して慎重になることが全ての理論に共通で、理論が完全になることを望まず、むしろ他の経験の自立性が配慮されるとともに徐々に具体的になっていく日常の経験的領域が結合していくようである。 それに伴って彼らは確かに単に方法論的な接近方式としての現象学を考察する。フッサールが理論をとてもうまく運用して反射的な記述を実行することはこういった療法の実行においては表面化しない。反射的な精密さと超越論的問題性はこういって実行においては議題とはならない。こういう点で現象学の語法はフッサールの思想においては単に限定された意味で現象学的であって、現象学に対して理論的な基盤がある、たんに観念連合的なのである。
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"text": "現象学(げんしょうがく、独: Phänomenologie〈フェノメノロギー〉)は、哲学的学問およびそれに付随する方法論を意味する。",
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"text": "「現象学」という用語は、哲学史上、18世紀のドイツの哲学者ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトの著書『新オルガノン』に遡ることができるとされる。「現象学」が指し示す概念は、哲学者によって大きく異なる。また、エトムント・フッサールのように、1人の哲学者においても、その活動時期によって、概念が変遷している例もある。下記に代表的な3つの「現象学」の概要を記す。",
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"text": "本項では、「解釈学」と共に現代ドイツ・フランス哲学の二大潮流を形成し、ハイデガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロ=ポンティ、エマニュエル・レヴィナス、ミシェル・アンリ、ジャック・デリダらに批判的に継承された「現象学」(上記2・3項)について述べる。ヘーゲルの精神現象学については精神現象学を参照。",
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"text": "フッサールの目標は、「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!) という研究格率に端的に表明されている。つまり、いかなる先入観、形而上学的独断にも囚われずに存在者に接近し、諸学を基礎づける根源的な厳密学としての哲学を樹立する方法をフッサールは求めた。その過程で、フッサールの「現象学」の概念も修正されていった。下記においては、フッサールの現象学における主要な概念を、その通時的な深化とともに叙述する。",
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"text": "19世紀末のヨーロッパにおいては、実証科学の興隆のもと、数学・論理学の領域で、心理学主義・生物学主義的な、心理的現象から論理を基礎づけようとする思想が席巻していた。心理学主義とは、あらゆる学問の基礎を心理的な過程に基づけようとする試みである。数学の研究から出発したフッサールの関心も、はじめは心理学から、当時の数学界において論争となっていた数学基礎論を心理学的に基礎づけようとするものであった。この考えのもと、フッサールはブレンターノの記述心理学の立場から数学の特に算術の解明を目指した『算術の哲学――心理学的、論理学的諸研究』を1891年に出版した。",
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"text": "しかし、この著作は数理哲学者G.フレーゲなどのきびしい批判を受けることとなった。その批判とは、もし数学や論理学などの客観的なものが主観的な心的表象に還元されてしまうならば、いかにして学問の客観性を保つことができるのか、というものであった。この批判を受けて、またフッサール自身このような心理学主義の原理的困難に逢着し、「論理学の本質についての、特に認識作用の主観性と認識内容の客観性との相互関係についての一般的な批判的反省」へと、すなわち現象学へと進んでゆくことになった。",
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"text": "フッサールは、大学で約2年間師事したフランツ・ブレンターノの「志向性」(独: Intentionalität) の概念を継承した。ブレンターノにおいて、「志向性」とは意識が必ず相関者(対象)を指し示すこと、言い換えると意識とは例外なく「何かについての」意識であることを意味する。ブレンターノ自身は、志向性の概念を心理作用の分類に用いただけであったが、フッサールは、「意識はつねになにものかについての意識である」という命題に端的にあらわされている、意識と相関者(対象)が常に相関関係にあるという志向性の特徴に着目し、この相関関係における対象の実在を留保することで、志向性の概念を認識論的に発展させていった。また、現象学的還元との関係において、意識体験のうちにふくまれるものを内在(独:Immanenz)、ふくまれないものを超越(独:Transzendenz)と呼び、この対概念によって純粋意識としての志向性の構造をあきらかにしようとした。さらに、後述するように、フッサールの志向性は意識と理性への超越論的な考察のもとに、より豊かで動態的な志向的能作の概念として捉えなおされてゆくことになる。",
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"text": "フッサールの現象学の原理的特徴として、本質主義と直観主義が指摘される。",
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"text": "フッサールにおける本質主義は、事実的な経験や体験に対して、本質や理念(イデア)、また形相(エイドス)などに優位を置く考えのことであるが、これは諸学の基礎づけという現象学の厳密学としての目的に起因している。数学や論理学などを、主観的かつ経験的なものへと還元しようとする心理学主義や生物学主義に対して、フッサールはむしろそのような学が、そしてまたあらゆる学が、その厳密性の条件としてイデア的な論理法則の存在を必要としていることを指摘し、これらの究極的な規則がもし存在しないのであれば、厳密学はおろかわれわれの認識の妥当性をたもつものはなにもなくなってしまい、相対主義や懐疑主義に陥ってしまうことへ注意をうながした。さらには、そのような相対主義的な考えが妥当性をたもつためには、みずからが主張している相対主義的な考え自体を否定しなければならない逆説をフッサールは指摘した。そして、意識をその具体的な相関者との関係ではなく、意識とその相関者との相関関係自体、すなわち志向性という本質的なありかたにおいて捉えようとするところにもまた、現象学の本質主義的な性質があらわれている。しかし、フッサールは論理法則や思考の規則のイデア的な本質の存在を認めるという点ではたしかにボルツァーノやフレーゲと同じく論理学的イデア主義の立場にあるが、それらのイデアの素朴な実体化を避けるという点では、プラトン的実念論ではない。さらに発生的現象学にいたって、本質の地平性とその受動的な構成が問われることとなり、ここにフッサール以降の現象学が展開していった事実性の現象学の萌芽がみられる。",
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"text": "もうひとつの特徴である直観主義は、直観(独:Anschauung)によって現象をあるがままに捉え、その本質を認識しようとする現象学の方法的態度のことである。この態度は、フッサールの研究格率である「事象そのものへ」に表明されている、一切の理論的先入見を捨て去り事象そのものへの還帰を目指すという現象学の本質的な特徴をあらわすものでもある。それゆえ現象学は、およそあらゆる理論からの演繹的展開を拒み、記述と分析という帰納的な態度をとることになる。フッサールの現象学がいくたびかの深刻な転回を経るのも、この帰納的かつ根源的な態度によって、みずからの仕事への現象学的反省を強いられたからである。その点で、直観はフッサールにおける現象学のもっとも枢要な概念ということができる。上記のように本質は学の成立のためには必要不可欠な存在であるが、その本質はいかにして認識しうるか、という認識作用の主観性と認識内容の客観性への問いが、この現象学的直観というもっとも根源的な認識方法への還帰を必要としたといえる。フッサールもいうように「すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉である」ので、直観とは、ただの感覚や感性的直観のことではなく、対象それ自体が現に意識に与えられ、充実された志向のことである。フッサールにおいては意味とは形相的あるいは理念的なものであるが、この意味にのみ関わり、対象への関係が実現されていない意識の働きのことを空虚な意味志向や空虚な意味作用などと呼ぶ。この空虚な志向を充実してくれるのが対象の直観であり、単なる思念としての対象への関係が対象の直観と同一化されることによって顕示化されることであるが、そのことがまた、意味志向が基づけられるという表現によってあらわされることもある。この対象自体がみずからを意識へと与えるありかたのことを自体能与(あるいは自体所与)といい、自体能与を志向性においてとらえて明証(独:Evidenz)ともいわれる。明証にはさまざまな程度があり、それに応じて必当然的や十全的などの分類がなされるが、本質的には「存在するものとその様態とについての経験」であり、程度はさまざまであれすべての経験が明証性を持っているということができる。",
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"text": "たとえば眼前に林檎をありありと想像するような志向と、現にいま眼前に林檎を知覚している充実された志向では、その林檎という対象へと向かう志向の充実の度合いにおいて、後者のほうが明証的である。しかしもちろんこれは林檎という対象への志向が、知覚という直観によって充実されたということであり、眼前にある林檎という超越的なものの現実的な存在をそのまま証明するものではない。つまりこの現にいま与えられた感覚与件が、志向性において意味把握的に統握され活性化され、そのかぎりでこの林檎という対象が与えられた。そして、この志向された対象が対象そのものとして現在的かつ直接に意識へあらわれることこそが、対象の明証的な自体能与である。だがこのような明証的な知覚も、その対象すべてがありありと十全的にあらわれているわけではなく、いまだ知覚されていない部分を持っている点や、想起や想像などの準現在的な直観と関係している点において、完全に明証的といえるわけではない。もし対象の現実的な存在の証拠である十全的かつ完全な明証が与えられるとすれば、それは内在的な直観によるものであり、外的知覚つまり超越的な直観によってそれが与えられることはなく、超越的な対象の現実的な存在の定立はその可能性が他の可能性に比して高い場合になされるという蓋然的なものにとどまる。",
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"text": "しかしまた、われわれの認識の妥当性は根源的には明証を与える直観によってしかたしかめることができず、それゆえに明証的直観こそが「一切の諸原理の原理」といわれ、その明証性の妥当性すらも、反省的な明証的直観によって誤りを正していくことでしか証明することができない。そして、現象学の深化とともに、この明証や直観という概念、つまり理性の視作用そのものが、フッサールにとって主題的に解明されるべきものとなっていく。この理性の究明こそが発生的現象学であり、そこでは直観の直接性よりも地平の媒介性が優位を占めるようになっていく。このようにフッサールは単なる直観主義から脱却していくが、それでもなおフッサールは直観と反省という現象学の立場を堅持し、そこには事象そのものをありのままに捉えようとする現象学の本質的な志向がみられる。また、明証は真理と相関的な概念であるが、イデアの素朴な実体化を避ける現象学は真理それ自体を一挙に手に入れることはできず、ただ直観によって近づいていくことしかできないとされる。しかし、十分に明証的な直観はどれほど反復されても不変であるからこそ、フッサールによって「真理の体験」とも呼ばれる。",
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"text": "また、フッサールとその現象学の本質主義(本質と事実の関係)については、フッサール以降の現象学の展開において、さまざまな議論や立場が生まれている。ハイデガーは存在を本質存在と事実存在のふたつに分かつことから西洋の存在論、そして形而上学が始まったとしており、このふたつが分かたれる以前の始原の存在へと近づくことが必要である、と説いている。メルロ=ポンティは、われわれの事実性を認識しまた克服するための相対化に本質性の領野が必要とされ、本質は目的ではなく手段である、と述べている。",
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"text": "上述のように、学を基礎づけるためには真理や本質の認識が必要であり、その認識は明証的な直観によってしかなされえないが、では学を基礎づけることが可能な絶対的な明証とはどんなものか、という問いが生まれる。この問いがいかなるものかを知るためには、まず明証を、そしてさらにその明証を生みだす志向性としての意識のありかたを突き止めなければならない。つまり、対象を対象として構成する志向的意識の体系的解明という超越論的な課題があらわれてくる。さらに『論理学研究』ののち、時間意識の研究とともに深まった志向的意識の自己構成についての絶対的主観性の究明という動機もあり、現象学的還元(独:phänomenologische Reduktion)によって自然的態度を離れ、意識の志向性そのもへと視線を向けることが求められてくる。ここにおいて現象学は、『論理学研究』の時代にはまだ払拭されきっていなかった記述心理学的な要素を捨象し、理性そのものの批判的考察へと、すなわち超越論的現象学へと深化されていく。",
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"text": "日常的に、自然的態度において私たちは、自分の存在、世界の存在を疑ったりはしない。私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを疑わない。フッサールはこの自然的態度の根本的特徴を、自明的な世界の一般定立として批判する。そして、意識の志向性を捉えるためにはあえてこの現象学的還元という反自然的な反省を行い、すでに定立され実在していると考えられている世界の意味の構成的起源である超越論的主観性を発見しなければならない。以下に挙げたものは、意識が対象へと素朴に向かっている遂行態としての自然的態度の特徴として、フッサールが示したものである。",
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"text": "このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。科学的な方法に依拠する自然主義的態度などもまた、すでに前提された対象を一定の方法的視点から規定しようとするものであり、あらためて対象とその構成を問うものではないという点において、自然的態度の圏域にとどまる。このような問題を扱うために、フッサールは世界関心を抑制し、対象に関するすべての自然的態度に依拠した判断や理論を中止する(このような現象学的態度をエポケーや判断停止といい、また譬喩的に「括弧に入れる」などともいわれる)ことで意識を機能しているがままの相において取り出す方法を提唱した。",
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"text": "しかし、このような態度の変更は原理的に可能であるのか、という問いがここで生じてくる。あるひとつの対象の定立を遮断したり、あるいは中止したりすることは可能であろうが、自然的態度における一般定立とは世界そのものの定立であり、われわれが日常において疑うことのないものであるから、そのようなものがはたして疑いえるのかという問いが提出される。このような問いに答えるため、フッサールはここでデカルトの普遍的な懐疑という方法を部分的に採用する。すなわち、不可疑的なものを発見するためにデカルトが行った普遍的懐疑から、可疑的な定立の否定という要素を捨象し、不可疑的な明証の発見という目的のためにこの方法的懐疑を使用するである。それゆえフッサールのエポケーは可疑的なものの定立を中止し、その定立を括弧に入れるが、しかしその定立を否定したり反定立に転化することはない。このように現象学的還元こそが、それ自体として絶対的に不可疑的なものである超越論的主観性の発見の方法である。この超越論的な現象学的還元によってとりだされた超越論的主観性とは、素朴に対象の実在を措定するという作用を遮断されており、それゆえ対象が意識によって構成されていることが自覚されている。であるからこそ、意識の本質的なありかたである志向性という意識と対象の相関関係を解明していくことができる。",
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"text": "しかし、『イデーン』第一巻において示されているこの現象学的還元の方法、いわゆる現象学的還元のデカルト的方途は、世界の存在の可疑性に対して意識の存在の不可疑性を対置し、その絶対的明証性によって純粋意識の領分へと一挙に飛躍してしまうものであった。それゆえ、意識やその志向性への考察が深化していくうちに、フッサールはこのデカルト的方途から離れていき、より現象そのものを捉えている現象学的還元の非デカルト的方途を探っていくこととなる。デカルト的方途では、世界の存在は可疑的なものとして斥けられていたが、現象学的な世界の考察の進展とともに、その世界の存在あるいは非存在こそが現象学的反省によって決定されるべきもので、超越論的主観性としての意識と世界の相関関係の解明をまたずして、世界意識の明証を論ずるべきではないとされていった。このように、現象学的還元の非デカルト的方途において、世界は志向的意識の相関者として現出しつつある世界であり、こういった動態的な志向性の把握が、発生的現象学へと発展していく。",
"title": "フッサールの現象学"
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"text": "現象学的還元によって超越論的主観性がとりだされたわけであるが、ここではまずデカルト的方途による還元とそれによってとりだされた超越論的主観性について概観を与え、この還元によって引き起こされると指摘される問題を叙述する。超越論的観念論について指摘された問題の克服については次項の志向性の項目において述べる。",
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"text": "フッサールの超越論的現象学に対する自己了解は、真の存在と認識の働きとの間の諸連関を明らかにし、そして一般に作用と意識と対象との間の相関関係を究明するというものだが、これは超越(意識に対して超越していること)と内在(意識に対して内在していること)の関係をあきらかにすることによって認識一般の究極的基礎づけを果たすという構想であった。ここでいう超越と内在の関係は、「与えられていること」と「存在していること」との関係への考察によって樹立される。客観的世界認識は主観的体験作用によって成立しているが、体験作用そのものにおいては所与されたものと存在するものが分かちがたく結びついており、体験作用こそ認識の確実性と明晰性の点で不可疑的に明証的なものとして与えられている。",
"title": "フッサールの現象学"
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"text": "先述のように、フッサールはデカルトにならって現象学的還元によりとりだされたこの絶対的なコギトに認識の究極的な源泉を認めた。『イデーン』第一巻ではこの現象学的還元への解釈として、現象学は超越的な物と内在的な体験とをそのありかたにおいて究明し、物や体験の存在について決定を下す超越論的観念論の立場をとるものとした。この考えでは超越的な物の与えられかたと内在的な体験の与えられかたとの区別から、それぞれの存在領分の区別がみちびかれ、物の与えられかたはつねに射映によって媒介されているとされる。それゆえに物の所与存在は物の存在そのものとは原理的に一致せず、それに対して体験の所与存在は体験の存在そのものとつねに合致していると説かれ、この区別から意識に対する超越と内在の区別もみちびかれるわけである。しかしこのような認識のもとでは超越的なものの存在は決して体験できず、物の領分と心の領分は交わらず互いに閉鎖的なものとなってしまい、それゆえにこういった超越的なものを存在者として認識の対象とみなすことそのものが無意味になってしまう。そこで意識というものは他の存在領域と併存する単なる存在領域のひとつではなく、むしろ射映的に与えられる超越的なものがいかに存在するのかを決定する絶対的な場所とみなさなければならない。",
"title": "フッサールの現象学"
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"text": "こういった経緯から、フッサールは意識が超越的なものの所与につねに先立つそれ自体として完結した絶対的存在であり、またそれに対して超越的なものの存在は意識に依存する相対的存在である、という結論をみちびきだした。このようにして、所与存在の区別と存在そのものの区別が結合され、志向的相関関係が存在領分の区別とかさなり、存在としての超越的なものが志向性の相関者として把握される対象存在へと転化され、これを構成する純粋意識こそが絶対的存在であるとみなす超越論的観念論の立場が樹立されることとなった。しかしこの超越論的観念論による認識論的意味における超越と形而上学的意味における超越との結合は、さまざまな問題を引き起こすこととなり、シェーラーなどによって形而上学的独断と批判されることとなった。たしかにこのような考えは、あきらかにフッサールが超越的なものの存在領分をはじめから相対的で非自立的なものとして扱おうとしていたことを示しており、そしてまたそれに対して意識が超越的なものの実在の措定あるいは反措定という絶対的な権能を与えられている。そこでは、対象が対象であることと対象が現実に実在していることの違いを明確に規定しないで、対象の存在という概念を曖昧な意味のまま使用していたことが読みとれる。このような両義性はフッサールのもちいる構成の概念などにも見受けられ、「フッサールの現象学の内に含まれる不整合性」として指摘される。",
"title": "フッサールの現象学"
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"text": "しかし、このような形而上学的独断は必ずしもフッサールの現象学とその還元に必然的な原理的誤謬であったわけではなく、むしろ超越論的現象学とは、内部と外部、内在と超越をどちらか一方に依存する関係として捉えることによって成立するというよりも、内部と外部との相関関係としての志向性の概念に定位し、この志向性の本質である世界の構成的能作としての働きを解明しようとするという点において、超越論的である。それゆえ、たしかに意識は超越的なものの存在や非存在を、志向的体験をとおして決定する場所であるとはいえるが、それがそのまま意識が超越的なものの存在領分の相対化を招くほどに絶対的存在であるということにはつながらない。現象学的還元による対象の定立の中止、また括弧入れとは、一度対象の存在についての判断を留保することであり、そういった超越的なものの存在の可否を先行的に決定するものではない。",
"title": "フッサールの現象学"
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"text": "超越論的現象学における対象の存在の問題は、理性そのものの批判的な考察を通じて、志向性の解明として展開されることとなる。この志向性としての理性の解明こそ、フッサールの現象学の中心的課題であり、存在問題の先行決定によってではなく、存在問題の留保によってこそ理性と存在がその深層において結びついていることがあきらかとなる。",
"title": "フッサールの現象学"
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"text": "理性とは、フッサールにおいては明証的な直観、つまり存在するものを自体能与の相においてありのままに視るということをあらわし、先述のように「すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉である」といわれるが、しかしその視作用だけが理性の働きであるとされているわけではない。このような視る働きのほかに、この視作用によって捉えられた対象が現実にそこに存在すると措定する働きもまた、理性の機能であるとされる。フッサールにおける理性概念は、対象を直接的に視るという契機と現実に存在することを措定するという契機とが分かちがたく結びついており、存在するものが在るということは、その対象が現実に、または真に在るということを意味し、単に思念されたものとしての対象と決して同義ではない。それは対象意味が存在や非存在という述語を持つことであり、相関的には作用が真理や虚偽という述語をともなうことである。",
"title": "フッサールの現象学"
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"text": "フッサールは『イデーン』第一巻のなかで「現実性および現実性をそれ自ら明示する理性意識」を扱い、真である存在に対応する理性意識にあらためて「明証」の名を与えているが、これは、明証において対象が存在するものとして構成されることをあらわし、存在するものそれ自体を示すところのものとして受けいれるということは、与えられたものをその存在において規定するということにほかならない。それゆえフッサールは『形式論理学と超越論的論理学』のなかで「明証とは、われわれにとって妥当するあらゆる意味の真理と真の存在を構成するものである」といい、また志向性との関係において「明証とは、(対象)それ自身を与える志向的能作のことである。もっと精確に言えば、明証とは《志向性》の、すなわち《何かについての意識》の普遍的な卓越した形態のことであり、この形態においては、志向性によって明証的に意識された対象は、それ自身が把握されたもの、それ自身が見られたもの、意識に即して意識それ自身の側にあるものという仕方で意識されているのである」と述べる。このように明証は自体能与の認識として、経験される対象の存在に関わる意識であり、したがって対象の真理に向かう一切の理性問題に対する決定権を持っている。また、自体能与的でない認識も、それ自体真理への志向を持ち、すべての志向性は明証的な対象への充実を目指すという目的論的構造を有している。志向性と明証性のこの目的論的動態性への思惟が深化していくとともに、フッサールの観念論的自己解釈はあまり目立たなくなる。",
"title": "フッサールの現象学"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "このように志向性は本来的に対象をそれ自体において捉えようとし、明証は志向性の一般的特徴をあらわすものであるが、しかしすべての意識が完全な明証を持つわけではない。先述のように対象の自体能与としての働きを直観と呼ぶが、この直観はさまざまな段階を持ち、自体能与のなかでももっとも本源的な直観を根源的明証とみなし、他のそれに比して明証性の低いものをこの本源的直観から転化した派生様態であるとされる。この自体能与の本源的直観のひとつとして、知覚が挙げられる。明証的な本源的所与性を持つものとしては、知覚対象だけではなく、判断事態や論理形式、また数なども挙げられるが、特に知覚は本源的直観の典型としてつねに明証の原型的なありかたとして引きあいにだされている。志向性の充実とは、単なる思念としての対象への関係が、対象の直観と同一化され、確証され、また顕示されることであるが、知覚は対象をその自体性において、つまり顕在的現在性において捉え、この意味での志向性の充実の典型である。そこで知覚を原型とする本源的意識の転化様態を探っていくと、この転化された非本源的意識の様態としては想起や想像といった意識が該当することが判明する。たとえば、昨日眺めた家を想起する場合、そこで意識されているのは昨日知覚した家であり、対象としては同じ家という同一性を保ったまま認識されているが、もはや眼前にありありとした姿の自体能与としては与えられていない。しかし、過去において知覚という本源的意識の様態において認識されたからこそ、それを想起することができ、想起は本源的意識である知覚の転化様態として知覚の根源的明証からみずからの明証を汲みとっている。このように想起や想像は知覚と比してその明証性や本源性の点で劣るが、しかしそれらの志向的意識もやはり直観的表象であり、単なる空虚な思念としての意味志向に比べればそれなりの充実を与える。それはたとえば、三角形という言葉の意味への単なる志向が、ある具体的な三角形の想像によって充実されるようなものである。",
"title": "フッサールの現象学"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "知覚に代表される根源的明証は、もはやそれ以上遡ることのできない「究極的に原様態的な臨在」であり、そこからすべての派生的様態にある意識の変様が発生する。そして本源的意識とは逆に、非本源的な転化様態にある意識もまた、おのれのうちに本源的意識を遡示している。この本源的意識の遡示は志向的対象意味のうちに含まれている。そこで、志向的対象意味を「手引き」とすることによって、本源的意識への反省的遡源が可能となってくる。この根源的明証への段階的な転化の思想は、まず第一に、同一の対象について成立するさまざまな意識を統一する紐帯が根源的明証であること、また根源的明証を持つ本源的意識と非根源的明証をしか持たない非本源的意識とは対立または分離するものではなく、ひとつの統一的な関係を形成し相属的体系をつくるものである、という点に成り立っている。また第二に、志向性は単に対象に関する意識であるばかりではなく、意味的に含蓄された意識の仕方についての意識であるということ、換言すれば意識はあるものについての意識であるばかりではなく、潜在的な意識の働き自体への意識でもあるをも示唆している。つまり志向性は、意識と対象との単層的関係をあらわす概念にとどまらず、志向的重層性の構造を持つものとしての意識をもあらわしている。第三に、いかなる意識様態といえども根源的明証への志向的還帰の可能性を持つことが示されている。これらのことに示されているように、現象学的反省はどれほど錯綜した意識のもつれをも解きほぐしていくことができるという可能性をあきらかにしている。志向性の持つこれらの特徴は、やがて意味の持つ潜在的な地平的志向性の反省と、それによる顕在的体験への遡源として発生的現象学において方法論化されていくこととなる。",
"title": "フッサールの現象学"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また、このようにフッサールの志向性と明証への考察をたどることで、現象学的方法としての志向的分析がつぎのような示唆を持つことがあきらかとなる。それは、存在するものの明証的な自体能与を手引きとして、存在するものに関する根源的かつ厳密な知識の探求がはじまるとき、それは必然的に意識全体の解明として展開されなくてはならなかった、ということである。",
"title": "フッサールの現象学"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "志向性が現象学においてどのような役割を持つ概念であるのかをみたことによって、意識と対象の相関関係としての志向性の具体的な分析へと立ち入ることが可能となったわけであるが、この志向性の分析にもちいられるのが、ノエシスまたはノエマの概念である。",
"title": "フッサールの現象学"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "志向的分析は意識の本質構造である志向性の分析として展開していくが、この志向性の作用的側面をノエシス、対象的側面をノエマという。志向性の具体的形態が志向的体験であり、志向的体験の内在的な作用的側面がノエシスであり、超越的な対象的側面がノエマであるということもできる。どのような志向的体験もおのれのうちにノエマを持ち、そのノエマもまた意味を持ち、この意味によって対象と関係している。ノエシスは、まず意識に感覚与件などのヒュレー(素材)的契機が与えられ、それがノエシス的契機によって意味付与また統握されることによって活性化されることであり、これらの過程はすべて志向的体験に内在しておりその実的成素を構成している。これに対してノエマは志向的体験の実的ではない構成要素ということができ、ノエマ的意味という意味化された対象の規定の契機を持ち、このノエマ的意味という内実に、対象がいかにあるかという作用的な存在性格の様相すなわちノエマにおけるノエシス的契機をふくむことによって、充実したノエマあるいはまったきノエマとなる。つまり、たとえば林檎という対象の知覚の志向的体験をこのノエシスとノエマの分類に従って分析していくと、まずわれわれの感官にある感覚与件が与えられ、それを意味付与的なノエシス的作用が統握することによって林檎という対象が認識され、またそのさいに統握された林檎のノエマ的意味が、現実性やあるいは架空性といった様相において捉えることによって眼前にある林檎という対象へと構成される。",
"title": "フッサールの現象学"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "さらに、ノエマの存在性格の様相には原型的性格と派生的性格があり、これらの性格は意識変様のさまざまな可能性をあらわしている。この変様はノエマにおいて、ノエマ自体の段階的性格を示すものとして刻みこまれており、派生的段階にあるノエマは原型的なノエマへの内的な関係を持っている。そして、この内的な関係によってノエマ的反省が各ノエマの段階を遡及して原型へと到達することができる。このノエマ的反省の方法が確立されたことによって、意識のあらゆる潜在的志向性を顕在的な所与へともたらすことが可能となった。これは現象学におけるひとつの画期であり、のちの発生的現象学の発展を約束するものとなった。しかし、『イデーン』第一巻のなかであきらかにされたこの志向的分析の方法は、いまだ形式的かつ静態的なものにとどまっており、意識の諸変様が本来動態的なものでその意識への遡及的分析もまた動態的なものとならざるをえないことを十分に訴えてはいない。この「意識の歴史性」の展開こそが、発生的現象学へとつながる。",
"title": "フッサールの現象学"
},
{
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"text": "1900年にフッサールの『論理学研究』が出されると、ミュンヘン大学の心理学者テオドール・リップス門下のアレクサンダー・プフェンダーらの共感を呼んだ。1905年にはフッサールのゲッティンゲン大学とミュンヘン大学の間で学的交流が開始され、いわゆる「現象学運動」が開始された。1906年にはマックス・シェーラーがイェーナ大学からミュンヘン大学に移籍し、この運動に合流した。1913年からの『現象学年報』刊行はその一つの結実であった。この初期の、ミュンヘン大学を中心に展開した現象学運動を「ミュンヘン学派」あるいは「ミュンヘン現象学」と呼ぶ。次第にフッサールとミュンヘン学派は思想的相違から懸隔を生じさせ、1916年にフッサールがフライブルク大学へ移る頃には、その対立は決定的になっていた。",
"title": "現象学運動"
},
{
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"tag": "p",
"text": "フライブルク時代のフッサールはあまり表面に出ることはなかったが、この時期に重要な作業研究に打ち込み、また多くの後継者を育成した。とくにこの「フライブルク現象学」時代に彼の後継者として現れ、現象学の存在論的発展を切り開いたのがハイデガーである。1927年『現象学年報』誌上に発表されたハイデガーの『存在と時間』は、現象および現象学に明確な規定を定め、さらにフッサールの、意識を純粋存在とみなす考えを批判し、実存的な人間存在である現存在の存在体制としての「世界・内・存在」構造の分析が進められた。ハイデガーはさらに『根拠の本質について』、『形而上学とは何か』で現象学的存在論を深めたが、1930年代には方法的限界を示唆するようになった。",
"title": "現象学運動"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "第二次世界大戦後、現象学はフランスに場を移して発展した。 フランスでの現象学哲学者としては、サルトル、レヴィナス、メルロ=ポンティ、ミシェル・アンリ、チャン・デュク・タオ、ポール・リクール、アロン・ギュルヴィッチ、ジャン・フランソワ・リオタール、ジャック・デリダなどがいる。",
"title": "現象学運動"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "現在、科学の様々な分野において現象学的な態度が取りざたされている。けれども、ここでいう現象学的態度はフッサールの現象学やフッサールに引き続く哲学者たちによるこの語の使用とは異なっていることがあり、それは思想としての現象学が単なる事実の記述にとどまらないことによる。現象学的記述の備わった最も科学的な取り組みは、意味内容の現象学のより根源的な意味による。そのため科学的な取り組みは例えば形相的還元のようなものを行わない。けれども、古典的な法の現象学のような現象学の分枝においても本来の現象学的方法がまだ保たれているということを直視しなければならない。",
"title": "他の学問における現象学"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "「現象学的」なる造語は一般科学でしばしば使われ、そのうえ事柄は単に「現象的」という意味であることがある。しかし現象的なものはさしあたって仮象であり、裏に隠された真実などではなく、あるいは単なる現象であって、認識に対して物理的、あるいは精神的存在に注意を払わせているのではない。こうした「現象」主義、実在論の反対である主観的観念論の一変種の初期の実証主義によって現象学は混乱させられる。志向性やエポケーに対する精確な考察及びその結果によって実証主義との違いが明らかになる。",
"title": "他の学問における現象学"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "法の現象学はエドムント・フッサールにまで遡り、まず第一に法哲学者のアドルフ・ライナッハによって分化させられた。ヴィルヘルム・シャップはフッサールの弟子でもあるが、初めのうちはライナッハによる批判の作業を引き継いでいたが、後にライナッハから離反して独自の歴史現象学を発展させた。その他の歴史現象学者のように彼らは現象学を基盤としてその上に答えを見つけようとしたが、それは正しかった。あるいは現象学的な言い回しをすれば、法の本性はなんであるか。法の現象学はドイツやオランダでもまばらに信奉者を得たが、イタリアやスペインで最も有力である。",
"title": "他の学問における現象学"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "研究計画の上で実験データを「初めに概観」すること、系統だった科学的活動の最初の局面(資料の収集)はしばしば現象学と呼ばれる。ここで「現象学的」というのは事象そのものを記述するための事実を特に意味している。だから実験の過程は可能な限り理論の助けを借りずに記述され(理論それ自体はただ実験の上部構造及び過程を定めるだけだから、それは条件付きで自然でありうるにすぎない)、概念における人の思考を解釈せず、単に起こったことが観察される。現象という概念は、ここでは基礎に対してあるが、自然主義的現象はなるほど深い物ではあるが、論理的・理性的に把握できるような真理が奥底に横たわっているということは絶対にありえない。",
"title": "他の学問における現象学"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ゲシュタルト療法、会話療法、あるいはロゴセラピーといった人の治療の理論において、現象学はしばしば認識論の道具として表面に乗り出している。フッサールに加えて、マルティン・ブーバーのような哲学者もエマニュエル・レヴィナスのような現象学者も言及された。カール・ヤスパースは精神病理学的現象学の創立者である。拙速な解釈に対して慎重になることが全ての理論に共通で、理論が完全になることを望まず、むしろ他の経験の自立性が配慮されるとともに徐々に具体的になっていく日常の経験的領域が結合していくようである。 それに伴って彼らは確かに単に方法論的な接近方式としての現象学を考察する。フッサールが理論をとてもうまく運用して反射的な記述を実行することはこういった療法の実行においては表面化しない。反射的な精密さと超越論的問題性はこういって実行においては議題とはならない。こういう点で現象学の語法はフッサールの思想においては単に限定された意味で現象学的であって、現象学に対して理論的な基盤がある、たんに観念連合的なのである。",
"title": "他の学問における現象学"
}
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現象学は、哲学的学問およびそれに付随する方法論を意味する。
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'''現象学'''(げんしょうがく、{{Lang-de-short|Phänomenologie}}〈フェノメノロギー〉)は、[[哲学]]的[[学問]]およびそれに付随する[[方法論]]を意味する。
{{哲学のサイドバー}}
== 概要 ==
「現象学」という用語は、[[哲学史]]上、18世紀の[[ドイツ]]の哲学者[[ヨハン・ハインリッヒ・ランベルト]]の著書『新オルガノン』に遡ることができるとされる。「現象学」が指し示す[[概念]]は、[[哲学者]]によって大きく異なる。また、[[エトムント・フッサール]]のように、1人の哲学者においても、その活動時期によって、概念が変遷している例もある。下記に代表的な3つの「現象学」の概要を記す。
# [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]] (1770 - 1831) が1807年に出版した著作『[[精神現象学]]』(''{{Lang|de|Phänomenologie des Geistes}}'') の中で、「現象学」は主観的意識から現象の背後にある絶対精神を把握する哲学の手引きとして示される。'''弁証法的現象学'''と呼ばれることがある。
# [[19世紀]]末、[[心理主義|心理学主義]]・[[生物学主義]]が興隆する[[ヨーロッパ]]思想界を背景に、諸[[科学]]([[数学]]・[[物理学]])の基礎づけを行うことを目標にして、フッサール (1859 - 1938) が提唱した、学問およびそれに付随する方法論を'''超越論的現象学''' ({{Lang-de-short|transzendentale Phänomenologie}}) と呼ぶ。超越論的現象学では、[[認識論]]的批判に無関心な、[[存在]](=「超越」)を自明なものとして捉える「自然的態度」を保留にした状態で、存在と「[[意識]]」との関係及び、それぞれの[[意味]]が[[志向性]]から[[反省]]的に問われる。なお、後期フッサール(1920年代以後)においては更なる深化を遂げ、前-意識的な領域(現象が現象として成立する[[地平]])を問う'''発生的現象学'''({{Lang-de-short|genetische Phänomenologie}}) が唱えられる。
# [[マルティン・ハイデガー]] (1889 - 1976) において、超越論的現象学は批判的に摂取され、「存在者」の「存在」を存在の明るみに出す、[[解釈学]]的な方法として用いられる。ハイデガーの現象学は、'''解釈学的現象学'''と呼ばれることがある。
本項では、「[[解釈学]]」と共に現代ドイツ・フランス哲学の二大潮流を形成し、ハイデガー、[[ジャン=ポール・サルトル]]、[[モーリス・メルロ=ポンティ]]、[[エマニュエル・レヴィナス]]、[[ミシェル・アンリ]]、[[ジャック・デリダ]]らに批判的に継承された「現象学」(上記2・3項)について述べる。ヘーゲルの精神現象学については[[精神現象学]]を参照。
== フッサールの現象学 ==
フッサールの目標は、「'''事象そのものへ'''」({{Lang|de|Zu den Sachen selbst!}}) という研究格率に端的に表明されている。つまり、いかなる[[先入観]]、[[形而上学]]的独断にも囚われずに[[存在|存在者]]に接近し、諸学を基礎づける根源的な厳密学としての哲学を樹立する方法をフッサールは求めた。その過程で、フッサールの「現象学」の概念も修正されていった。下記においては、フッサールの現象学における主要な概念を、その通時的な深化とともに叙述する。
=== 時代背景とその成立 ===
19世紀末の[[ヨーロッパ]]においては、実証科学の興隆のもと、数学・[[論理学]]の領域で、[[心理主義|心理学主義]]・[[生物学主義]]的な、心理的現象から論理を基礎づけようとする思想が席巻していた。心理学主義とは、あらゆる学問の基礎を心理的な過程に基づけようとする試みである。数学の研究から出発したフッサールの関心も、はじめは心理学から、当時の数学界において論争となっていた数学基礎論を心理学的に基礎づけようとするものであった<ref>木田 1970:20</ref>。この考えのもと、フッサールはブレンターノの記述心理学の立場から数学の特に算術の解明を目指した『算術の哲学――心理学的、論理学的諸研究』を1891年に出版した。
しかし、この著作は数理哲学者[[ゴットロープ・フレーゲ|G.フレーゲ]]などのきびしい批判を受けることとなった。その批判とは、もし数学や論理学などの客観的なものが主観的な心的表象に還元されてしまうならば、いかにして学問の客観性を保つことができるのか、というものであった。この批判を受けて、またフッサール自身このような心理学主義の原理的困難に逢着し、「論理学の本質についての、特に認識作用の主観性と認識内容の客観性との相互関係についての一般的な批判的反省」<ref>フッサール、立松 1968:7</ref>へと、すなわち現象学へと進んでゆくことになった。
フッサールは、大学で約2年間師事した[[フランツ・ブレンターノ]]の「[[志向性]]」({{Lang-de-short|Intentionalität}}) の概念を継承した。ブレンターノにおいて、「志向性」とは意識が必ず相関者(対象)を指し示すこと、言い換えると意識とは例外なく「何かについての」意識であることを意味する。ブレンターノ自身は、志向性の概念を心理作用の分類に用いただけであったが、フッサールは、「意識はつねになにものかについての意識である」<ref>フッサール、浜渦 2001:68</ref>という命題に端的にあらわされている、意識と相関者(対象)が常に相関関係にあるという志向性の特徴に着目し、この相関関係における対象の実在を留保することで、志向性の概念を認識論的に発展させていった。また、現象学的還元との関係において、意識体験のうちにふくまれるものを[[内在]](独:Immanenz)、ふくまれないものを[[超越]](独:Transzendenz)と呼び、この対概念によって純粋意識としての志向性の構造をあきらかにしようとした。さらに、後述するように、フッサールの志向性は意識と理性への超越論的な考察のもとに、より豊かで動態的な志向的能作の概念として捉えなおされてゆくことになる<ref>立松 2009:234</ref>。
=== 本質主義/直観主義 ===
フッサールの現象学の原理的特徴として、本質主義と直観主義が指摘される<ref name="名前なし-1">立松 2009:153</ref>。
フッサールにおける本質主義は、事実的な経験や体験に対して、本質や理念([[イデア]])、また形相([[エイドス]])などに優位を置く考えのことであるが、これは諸学の基礎づけという現象学の厳密学としての目的に起因している。数学や論理学などを、主観的かつ経験的なものへと還元しようとする心理学主義や生物学主義に対して、フッサールはむしろそのような学が、そしてまたあらゆる学が、その厳密性の条件としてイデア的な論理法則の存在を必要としていることを指摘し、これらの究極的な規則がもし存在しないのであれば、厳密学はおろかわれわれの認識の妥当性をたもつものはなにもなくなってしまい、[[相対主義]]や[[懐疑主義]]に陥ってしまうことへ注意をうながした<ref>新田 2013:40</ref>。さらには、そのような相対主義的な考えが妥当性をたもつためには、みずからが主張している相対主義的な考え自体を否定しなければならない[[パラドックス|逆説]]をフッサールは指摘した<ref>新田 2013:41</ref><ref>フッサール、立松 1968:143</ref>。そして、意識をその具体的な相関者との関係ではなく、意識とその相関者との相関関係自体、すなわち志向性という本質的なありかたにおいて捉えようとするところにもまた、現象学の本質主義的な性質があらわれている。しかし、フッサールは論理法則や思考の規則のイデア的な本質の存在を認めるという点ではたしかに[[ベルナルト・ボルツァーノ|ボルツァーノ]]や[[ゴットロープ・フレーゲ|フレーゲ]]と同じく論理学的[[イデア論|イデア主義]]の立場にあるが、それらのイデアの素朴な実体化を避けるという点では、[[プラトン|プラトン的]][[実念論]]ではない<ref>フッサール、渡辺 1979:111</ref>。さらに発生的現象学にいたって、本質の地平性とその受動的な構成が問われることとなり、ここにフッサール以降の現象学が展開していった事実性の現象学の萌芽がみられる。
もうひとつの特徴である直観主義は、直観(独:Anschauung)によって現象をあるがままに捉え、その本質を認識しようとする現象学の方法的態度のことである。この態度は、フッサールの研究格率である「事象そのものへ」に表明されている、一切の理論的先入見を捨て去り事象そのものへの還帰を目指すという現象学の本質的な特徴をあらわすものでもある<ref name="名前なし-1"/>。それゆえ現象学は、およそあらゆる理論からの[[演繹]]的展開を拒み、記述と[[分析]]という[[帰納]]的な態度をとることになる。フッサールの現象学がいくたびかの深刻な転回を経るのも、この帰納的かつ根源的な態度によって、みずからの仕事への現象学的反省を強いられたからである。その点で、直観はフッサールにおける現象学のもっとも枢要な概念ということができる。上記のように本質は学の成立のためには必要不可欠な存在であるが、その本質はいかにして認識しうるか、という認識作用の主観性と認識内容の客観性への問いが、この現象学的直観というもっとも根源的な認識方法への還帰を必要としたといえる。フッサールもいうように「すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉である」<ref>フッサール、渡辺 1979:117</ref>ので、直観とは、ただの感覚や感性的直観のことではなく、対象それ自体が現に意識に与えられ、充実された志向のことである<ref name="名前なし-2">新田 2013:69</ref>。フッサールにおいては意味とは形相的あるいは理念的なものであるが、この意味にのみ関わり、対象への関係が実現されていない意識の働きのことを空虚な意味志向や空虚な意味作用などと呼ぶ。この空虚な志向を充実してくれるのが対象の直観であり、単なる思念としての対象への関係が対象の直観と同一化されることによって顕示化されることであるが、そのことがまた、意味志向が基づけられるという表現によってあらわされることもある<ref name="名前なし-3">滝浦 1994:74</ref>。この対象自体がみずからを意識へと与えるありかたのことを自体能与(あるいは自体所与)といい、自体能与を志向性においてとらえて明証(独:Evidenz)ともいわれる<ref>フッサール、立松 1968:212</ref>。明証にはさまざまな程度があり、それに応じて必当然的や十全的などの分類がなされるが、本質的には「存在するものとその様態とについての経験」であり、程度はさまざまであれすべての経験が明証性を持っているということができる<ref>フッサール、浜渦 2001:34</ref>。
たとえば眼前に林檎をありありと想像するような志向と、現にいま眼前に林檎を知覚している充実された志向では、その林檎という対象へと向かう志向の充実の度合いにおいて、後者のほうが明証的である。しかしもちろんこれは林檎という対象への志向が、知覚という直観によって充実されたということであり、眼前にある林檎という超越的なものの現実的な存在をそのまま証明するものではない。つまりこの現にいま与えられた[[感覚与件]]が、志向性において意味把握的に統握され活性化され、そのかぎりでこの林檎という対象が与えられた。そして、この志向された対象が対象そのものとして現在的かつ直接に意識へあらわれることこそが、対象の明証的な自体能与である。だがこのような明証的な知覚も、その対象すべてがありありと十全的にあらわれているわけではなく、いまだ知覚されていない部分を持っている点や、想起や想像などの準現在的な直観と関係している点において、完全に明証的といえるわけではない<ref>フッサール、渡辺 1984:282</ref>。もし対象の現実的な存在の証拠である十全的かつ完全な明証が与えられるとすれば、それは内在的な直観によるものであり、外的知覚つまり超越的な直観によってそれが与えられることはなく、超越的な対象の現実的な存在の定立はその可能性が他の可能性に比して高い場合になされるという蓋然的なものにとどまる<ref>フッサール、渡辺 1984:286</ref>。
しかしまた、われわれの認識の妥当性は根源的には明証を与える直観によってしかたしかめることができず、それゆえに明証的直観こそが「一切の諸原理の原理」といわれ、その明証性の妥当性すらも、反省的な明証的直観によって誤りを正していくことでしか証明することができない<ref>新田 1992:31</ref>。そして、現象学の深化とともに、この明証や直観という概念、つまり理性の視作用そのものが、フッサールにとって主題的に解明されるべきものとなっていく。この理性の究明こそが発生的現象学であり、そこでは直観の直接性よりも地平の媒介性が優位を占めるようになっていく<ref name="名前なし-4">新田 2006:96</ref>。このようにフッサールは単なる直観主義から脱却していくが、それでもなおフッサールは直観と反省という現象学の立場を堅持し、そこには事象そのものをありのままに捉えようとする現象学の本質的な志向がみられる<ref name="名前なし-4"/>。また、明証は真理と相関的な概念であるが、イデアの素朴な実体化を避ける現象学は真理それ自体を一挙に手に入れることはできず、ただ直観によって近づいていくことしかできないとされる。しかし、十分に明証的な直観はどれほど反復されても不変であるからこそ、フッサールによって「真理の体験」とも呼ばれる<ref>フッサール、立松 1976:144</ref><ref>木田他 2014:394</ref>。
また、フッサールとその現象学の本質主義(本質と事実の関係)については、フッサール以降の現象学の展開において、さまざまな議論や立場が生まれている。[[マルティン・ハイデッガー|ハイデガー]]は存在を本質存在と事実存在のふたつに分かつことから西洋の存在論、そして形而上学が始まったとしており、このふたつが分かたれる以前の始原の存在へと近づくことが必要である、と説いている<ref>木田 2004:236</ref>。[[モーリス・メルロー=ポンティ|メルロ=ポンティ]]は、われわれの事実性を認識しまた克服するための相対化に本質性の領野が必要とされ、本質は目的ではなく手段である、と述べている。
=== 現象学的還元 ===
上述のように、学を基礎づけるためには真理や本質の認識が必要であり、その認識は明証的な直観によってしかなされえないが、では学を基礎づけることが可能な絶対的な明証とはどんなものか、という問いが生まれる。この問いがいかなるものかを知るためには、まず明証を、そしてさらにその明証を生みだす志向性としての意識のありかたを突き止めなければならない。つまり、対象を対象として構成する志向的意識の体系的解明という超越論的な課題があらわれてくる。さらに『論理学研究』ののち、時間意識の研究とともに深まった志向的意識の自己構成についての絶対的主観性の究明という動機もあり<ref>新田 1992:43</ref>、現象学的還元(独:phänomenologische Reduktion)によって自然的態度を離れ、意識の志向性そのもへと視線を向けることが求められてくる。ここにおいて現象学は、『論理学研究』の時代にはまだ払拭されきっていなかった記述心理学的な要素を捨象し、理性そのものの批判的考察へと、すなわち超越論的現象学へと深化されていく<ref>新田 2013:62</ref>。
日常的に、自然的態度において私たちは、自分の存在、世界の存在を疑ったりはしない。私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを疑わない。フッサールはこの自然的態度の根本的特徴を、自明的な世界の一般定立として批判する。そして、意識の志向性を捉えるためにはあえてこの現象学的還元という反自然的な反省を行い、すでに定立され実在していると考えられている世界の意味の構成的起源である超越論的主観性を発見しなければならない。以下に挙げたものは、意識が対象へと素朴に向かっている遂行態としての自然的態度の特徴として、フッサールが示したものである<ref name="名前なし-5">新田 2006:26</ref>。
# 認識の対象の意味と存在を習慣的に自明とみなしていること
# 世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること
# 世界関心への没入による、意識の本来的機能である理性の自己忘却
このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。科学的な方法に依拠する自然主義的態度などもまた、すでに前提された対象を一定の方法的視点から規定しようとするものであり、あらためて対象とその構成を問うものではないという点において、自然的態度の圏域にとどまる<ref name="名前なし-5"/>。このような問題を扱うために、フッサールは世界関心を抑制し、対象に関するすべての自然的態度に依拠した判断や理論を中止する(このような現象学的態度を[[エポケー]]や判断停止といい、また譬喩的に「括弧に入れる」などともいわれる)ことで意識を機能しているがままの相において取り出す方法を提唱した<ref>新田 2013:80</ref>。
しかし、このような態度の変更は原理的に可能であるのか、という問いがここで生じてくる。あるひとつの対象の定立を遮断したり、あるいは中止したりすることは可能であろうが、自然的態度における一般定立とは世界そのものの定立であり、われわれが日常において疑うことのないものであるから、そのようなものがはたして疑いえるのかという問いが提出される<ref name="名前なし-6">新田 1992:48</ref>。このような問いに答えるため、フッサールはここで[[ルネ・デカルト|デカルト]]の[[方法的懐疑|普遍的な懐疑]]という方法を部分的に採用する。すなわち、不可疑的なものを発見するためにデカルトが行った普遍的懐疑から、可疑的な定立の否定という要素を捨象し、不可疑的な明証の発見という目的のためにこの方法的懐疑を使用するである。それゆえフッサールのエポケーは可疑的なものの定立を中止し、その定立を括弧に入れるが、しかしその定立を否定したり反定立に転化することはない<ref name="名前なし-6"/>。このように現象学的還元こそが、それ自体として絶対的に不可疑的なものである超越論的主観性の発見の方法である。この超越論的な現象学的還元によってとりだされた超越論的主観性とは、素朴に対象の実在を措定するという作用を遮断されており、それゆえ対象が意識によって構成されていることが自覚されている。であるからこそ、意識の本質的なありかたである志向性という意識と対象の相関関係を解明していくことができる。
しかし、『イデーン』第一巻において示されているこの現象学的還元の方法、いわゆる現象学的還元のデカルト的方途は、世界の存在の可疑性に対して意識の存在の不可疑性を対置し、その絶対的明証性によって純粋意識の領分へと一挙に飛躍してしまうものであった<ref>新田 1995:112</ref>。それゆえ、意識やその志向性への考察が深化していくうちに、フッサールはこのデカルト的方途から離れていき、より現象そのものを捉えている現象学的還元の非デカルト的方途を探っていくこととなる。デカルト的方途では、世界の存在は可疑的なものとして斥けられていたが、現象学的な世界の考察の進展とともに、その世界の存在あるいは非存在こそが現象学的反省によって決定されるべきもので、超越論的主観性としての意識と世界の相関関係の解明をまたずして、世界意識の明証を論ずるべきではないとされていった<ref>新田 1992:71</ref>。このように、現象学的還元の非デカルト的方途において、世界は志向的意識の相関者として現出しつつある世界であり、こういった動態的な志向性の把握が、発生的現象学へと発展していく。
=== 超越論的主観性 ===
現象学的還元によって超越論的主観性がとりだされたわけであるが、ここではまずデカルト的方途による還元とそれによってとりだされた超越論的主観性について概観を与え、この還元によって引き起こされると指摘される問題を叙述する。超越論的観念論について指摘された問題の克服については次項の志向性の項目において述べる。
フッサールの超越論的現象学に対する自己了解は、真の存在と認識の働きとの間の諸連関を明らかにし、そして一般に作用と意識と対象との間の相関関係を究明するというものだが、これは超越(意識に対して超越していること)と内在(意識に対して内在していること)の関係をあきらかにすることによって認識一般の究極的基礎づけを果たすという構想であった<ref>新田 2013:63</ref>。ここでいう超越と内在の関係は、「与えられていること」と「存在していること」との関係への考察によって樹立される。客観的世界認識は主観的体験作用によって成立しているが、体験作用そのものにおいては所与されたものと存在するものが分かちがたく結びついており、体験作用こそ認識の確実性と明晰性の点で不可疑的に明証的なものとして与えられている。
先述のように、フッサールはデカルトにならって現象学的還元によりとりだされたこの絶対的な[[我思う、ゆえに我あり|コギト]]に認識の究極的な源泉を認めた。『イデーン』第一巻ではこの現象学的還元への解釈として、現象学は超越的な物と内在的な体験とをそのありかたにおいて究明し、物や体験の存在について決定を下す超越論的観念論の立場をとるものとした。この考えでは超越的な物の与えられかたと内在的な体験の与えられかたとの区別から、それぞれの存在領分の区別がみちびかれ、物の与えられかたはつねに射映によって媒介されているとされる。それゆえに物の所与存在は物の存在そのものとは原理的に一致せず、それに対して体験の所与存在は体験の存在そのものとつねに合致していると説かれ、この区別から意識に対する超越と内在の区別もみちびかれるわけである。しかしこのような認識のもとでは超越的なものの存在は決して体験できず、物の領分と心の領分は交わらず互いに閉鎖的なものとなってしまい、それゆえにこういった超越的なものを存在者として認識の対象とみなすことそのものが無意味になってしまう。そこで意識というものは他の存在領域と併存する単なる存在領域のひとつではなく、むしろ射映的に与えられる超越的なものがいかに存在するのかを決定する絶対的な場所とみなさなければならない<ref>新田 2013:66</ref>。
こういった経緯から、フッサールは意識が超越的なものの所与につねに先立つそれ自体として完結した絶対的存在であり、またそれに対して超越的なものの存在は意識に依存する相対的存在である、という結論をみちびきだした。このようにして、所与存在の区別と存在そのものの区別が結合され、志向的相関関係が存在領分の区別とかさなり、存在としての超越的なものが志向性の相関者として把握される対象存在へと転化され、これを構成する純粋意識こそが絶対的存在であるとみなす超越論的観念論の立場が樹立されることとなった。しかしこの超越論的観念論による認識論的意味における超越と形而上学的意味における超越との結合は、さまざまな問題を引き起こすこととなり、[[マックス・シェーラー|シェーラー]]などによって[[形而上学]]的独断と批判されることとなった。たしかにこのような考えは、あきらかにフッサールが超越的なものの存在領分をはじめから相対的で非自立的なものとして扱おうとしていたことを示しており、そしてまたそれに対して意識が超越的なものの実在の措定あるいは反措定という絶対的な権能を与えられている。そこでは、対象が対象であることと対象が現実に実在していることの違いを明確に規定しないで、対象の存在という概念を曖昧な意味のまま使用していたことが読みとれる。このような両義性はフッサールのもちいる構成の概念などにも見受けられ、「フッサールの現象学の内に含まれる不整合性」として指摘される<ref>新田 2013:68</ref>。
しかし、このような[[形而上学]]的独断は必ずしもフッサールの現象学とその還元に必然的な原理的誤謬であったわけではなく、むしろ超越論的現象学とは、内部と外部、内在と超越をどちらか一方に依存する関係として捉えることによって成立するというよりも、内部と外部との相関関係としての志向性の概念に定位し、この志向性の本質である世界の構成的能作としての働きを解明しようとするという点において、超越論的である。それゆえ、たしかに意識は超越的なものの存在や非存在を、志向的体験をとおして決定する場所であるとはいえるが、それがそのまま意識が超越的なものの存在領分の相対化を招くほどに絶対的存在であるということにはつながらない。現象学的還元による対象の定立の中止、また括弧入れとは、一度対象の存在についての判断を留保することであり、そういった超越的なものの存在の可否を先行的に決定するものではない<ref name="名前なし-2"/>。
=== 志向性 ===
超越論的現象学における対象の存在の問題は、理性そのものの批判的な考察を通じて、志向性の解明として展開されることとなる。この志向性としての理性の解明こそ、フッサールの現象学の中心的課題であり、存在問題の先行決定によってではなく、存在問題の留保によってこそ理性と存在がその深層において結びついていることがあきらかとなる。
理性とは、フッサールにおいては明証的な直観、つまり存在するものを自体能与の相においてありのままに視るということをあらわし、先述のように「すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉である」といわれるが、しかしその視作用だけが理性の働きであるとされているわけではない。このような視る働きのほかに、この視作用によって捉えられた対象が現実にそこに存在すると措定する働きもまた、理性の機能であるとされる<ref name="名前なし-2"/>。フッサールにおける理性概念は、対象を直接的に視るという契機と現実に存在することを措定するという契機とが分かちがたく結びついており、存在するものが在るということは、その対象が現実に、または真に在るということを意味し、単に思念されたものとしての対象と決して同義ではない。それは対象意味が存在や非存在という述語を持つことであり、相関的には作用が真理や虚偽という述語をともなうことである<ref>新田 2013:70</ref>。
フッサールは『イデーン』第一巻のなかで「現実性および現実性をそれ自ら明示する理性意識」を扱い、真である存在に対応する理性意識にあらためて「明証」の名を与えているが、これは、明証において対象が存在するものとして構成されることをあらわし、存在するものそれ自体を示すところのものとして受けいれるということは、与えられたものをその存在において規定するということにほかならない。それゆえフッサールは『形式論理学と超越論的論理学』のなかで「明証とは、われわれにとって妥当するあらゆる意味の真理と真の存在を構成するものである」<ref>立松 2009:192</ref>といい、また志向性との関係において「明証とは、(対象)それ自身を与える志向的能作のことである。もっと精確に言えば、明証とは《志向性》の、すなわち《何かについての意識》の普遍的な卓越した形態のことであり、この形態においては、志向性によって明証的に意識された対象は、それ自身が把握されたもの、それ自身が見られたもの、意識に即して意識それ自身の側にあるものという仕方で意識されているのである」<ref>立松 2009:191</ref>と述べる。このように明証は自体能与の認識として、経験される対象の存在に関わる意識であり、したがって対象の真理に向かう一切の理性問題に対する決定権を持っている。また、自体能与的でない認識も、それ自体真理への志向を持ち、すべての志向性は明証的な対象への充実を目指すという目的論的構造を有している。志向性と明証性のこの目的論的動態性への思惟が深化していくとともに、フッサールの観念論的自己解釈はあまり目立たなくなる<ref>新田 2013:71</ref>。
このように志向性は本来的に対象をそれ自体において捉えようとし、明証は志向性の一般的特徴をあらわすものであるが、しかしすべての意識が完全な明証を持つわけではない。先述のように対象の自体能与としての働きを直観と呼ぶが、この直観はさまざまな段階を持ち、自体能与のなかでももっとも本源的な直観を根源的明証とみなし、他のそれに比して明証性の低いものをこの本源的直観から転化した派生様態であるとされる<ref>新田 1992:28</ref>。この自体能与の本源的直観のひとつとして、知覚が挙げられる。明証的な本源的所与性を持つものとしては、知覚対象だけではなく、判断事態や論理形式、また数なども挙げられるが、特に知覚は本源的直観の典型としてつねに明証の原型的なありかたとして引きあいにだされている。志向性の充実とは、単なる思念としての対象への関係が、対象の直観と同一化され、確証され、また顕示されることであるが、知覚は対象をその自体性において、つまり顕在的現在性において捉え、この意味での志向性の充実の典型である<ref name="名前なし-3"/>。そこで知覚を原型とする本源的意識の転化様態を探っていくと、この転化された非本源的意識の様態としては想起や想像といった意識が該当することが判明する。たとえば、昨日眺めた家を想起する場合、そこで意識されているのは昨日知覚した家であり、対象としては同じ家という同一性を保ったまま認識されているが、もはや眼前にありありとした姿の自体能与としては与えられていない。しかし、過去において知覚という本源的意識の様態において認識されたからこそ、それを想起することができ、想起は本源的意識である知覚の転化様態として知覚の根源的明証からみずからの明証を汲みとっている<ref>新田 1992:29</ref>。このように想起や想像は知覚と比してその明証性や本源性の点で劣るが、しかしそれらの志向的意識もやはり直観的表象であり、単なる空虚な思念としての意味志向に比べればそれなりの充実を与える。それはたとえば、三角形という言葉の意味への単なる志向が、ある具体的な三角形の想像によって充実されるようなものである<ref>滝浦 1994:75</ref>。
知覚に代表される根源的明証は、もはやそれ以上遡ることのできない「究極的に原様態的な臨在」であり、そこからすべての派生的様態にある意識の変様が発生する。そして本源的意識とは逆に、非本源的な転化様態にある意識もまた、おのれのうちに本源的意識を遡示している。この本源的意識の遡示は志向的対象意味のうちに含まれている。そこで、志向的対象意味を「手引き」とすることによって、本源的意識への反省的遡源が可能となってくる。この根源的明証への段階的な転化の思想は、まず第一に、同一の対象について成立するさまざまな意識を統一する紐帯が根源的明証であること、また根源的明証を持つ本源的意識と非根源的明証をしか持たない非本源的意識とは対立または分離するものではなく、ひとつの統一的な関係を形成し相属的体系をつくるものである、という点に成り立っている。また第二に、志向性は単に対象に関する意識であるばかりではなく、意味的に含蓄された意識の仕方についての意識であるということ、換言すれば意識はあるものについての意識であるばかりではなく、潜在的な意識の働き自体への意識でもあるをも示唆している。つまり志向性は、意識と対象との単層的関係をあらわす概念にとどまらず、志向的重層性の構造を持つものとしての意識をもあらわしている。第三に、いかなる意識様態といえども根源的明証への志向的還帰の可能性を持つことが示されている。これらのことに示されているように、現象学的反省はどれほど錯綜した意識のもつれをも解きほぐしていくことができるという可能性をあきらかにしている<ref>新田 1992:30</ref>。志向性の持つこれらの特徴は、やがて意味の持つ潜在的な地平的志向性の反省と、それによる顕在的体験への遡源として発生的現象学において方法論化されていくこととなる<ref name="名前なし-7">新田 1992:64</ref>。
また、このようにフッサールの志向性と明証への考察をたどることで、現象学的方法としての志向的分析がつぎのような示唆を持つことがあきらかとなる。それは、存在するものの明証的な自体能与を手引きとして、存在するものに関する根源的かつ厳密な知識の探求がはじまるとき、それは必然的に意識全体の解明として展開されなくてはならなかった、ということである。
=== ノエマ/ノエシス ===
志向性が現象学においてどのような役割を持つ概念であるのかをみたことによって、意識と対象の相関関係としての志向性の具体的な分析へと立ち入ることが可能となったわけであるが、この志向性の分析にもちいられるのが、[[ノエシス]]または[[ノエマ]]の概念である。
志向的分析は意識の本質構造である志向性の分析として展開していくが、この志向性の作用的側面をノエシス、対象的側面をノエマという。志向性の具体的形態が志向的体験であり、志向的体験の内在的な作用的側面がノエシスであり、超越的な対象的側面がノエマであるということもできる<ref>木田他 2014:383</ref>。どのような志向的体験もおのれのうちにノエマを持ち、そのノエマもまた意味を持ち、この意味によって対象と関係している<ref>立松 2009:268</ref>。ノエシスは、まず意識に感覚与件などのヒュレー(素材)的契機が与えられ、それがノエシス的契機によって意味付与また統握されることによって活性化されることであり、これらの過程はすべて志向的体験に内在しておりその実的成素を構成している。これに対してノエマは志向的体験の実的ではない構成要素ということができ、ノエマ的意味という意味化された対象の規定の契機を持ち、このノエマ的意味という内実に、対象がいかにあるかという作用的な存在性格の様相すなわちノエマにおけるノエシス的契機をふくむことによって、充実したノエマあるいはまったきノエマとなる<ref>新田 1992:62</ref>。つまり、たとえば林檎という対象の知覚の志向的体験をこのノエシスとノエマの分類に従って分析していくと、まずわれわれの感官にある感覚与件が与えられ、それを意味付与的なノエシス的作用が統握することによって林檎という対象が認識され、またそのさいに統握された林檎のノエマ的意味が、現実性やあるいは架空性といった様相において捉えることによって眼前にある林檎という対象へと構成される。
さらに、ノエマの存在性格の様相には原型的性格と派生的性格があり、これらの性格は意識変様のさまざまな可能性をあらわしている。この変様はノエマにおいて、ノエマ自体の段階的性格を示すものとして刻みこまれており、派生的段階にあるノエマは原型的なノエマへの内的な関係を持っている。そして、この内的な関係によってノエマ的反省が各ノエマの段階を遡及して原型へと到達することができる<ref>新田 1992:63</ref><ref>新田 2013:83</ref>。このノエマ的反省の方法が確立されたことによって、意識のあらゆる潜在的志向性を顕在的な所与へともたらすことが可能となった。これは現象学におけるひとつの画期であり、のちの発生的現象学の発展を約束するものとなった。しかし、『イデーン』第一巻のなかであきらかにされたこの志向的分析の方法は、いまだ形式的かつ静態的なものにとどまっており、意識の諸変様が本来動態的なものでその意識への遡及的分析もまた動態的なものとならざるをえないことを十分に訴えてはいない<ref name="名前なし-7"/>。この「意識の歴史性」の展開こそが、発生的現象学へとつながる。
=== 発生的現象学 ===
=== 生活世界 ===
=== 運動感覚(キネステーゼ) ===
== ハイデッガーの解釈学的現象学 ==
== 現象学運動 ==
[[1900年]]にフッサールの『論理学研究』が出されると、[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]の心理学者[[テオドール・リップス]]門下の[[アレクサンダー・プフェンダー]]らの共感を呼んだ。1905年にはフッサールの[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]とミュンヘン大学の間で学的交流が開始され、いわゆる「現象学運動」が開始された。1906年には[[マックス・シェーラー]]が[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]からミュンヘン大学に移籍し、この運動に合流した。1913年からの『現象学年報』刊行はその一つの結実であった。この初期の、ミュンヘン大学を中心に展開した現象学運動を「[[ミュンヘン学派]]」あるいは「ミュンヘン現象学」と呼ぶ。次第にフッサールとミュンヘン学派は思想的相違から懸隔を生じさせ、1916年にフッサールが[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]へ移る頃には、その対立は決定的になっていた。
フライブルク時代のフッサールはあまり表面に出ることはなかったが、この時期に重要な作業研究に打ち込み、また多くの後継者を育成した。とくにこの「フライブルク現象学」時代に彼の後継者として現れ、現象学の[[存在論]]的発展を切り開いたのがハイデガーである。[[1927年]]『現象学年報』誌上に発表されたハイデガーの『存在と時間』は、現象および現象学に明確な規定を定め、さらにフッサールの、意識を純粋存在とみなす考えを批判し、[[実存主義|実存]]的な人間存在である現存在の存在体制としての「世界・内・存在」構造の分析が進められた。ハイデガーはさらに『根拠の本質について』、『形而上学とは何か』で現象学的存在論を深めたが、1930年代には方法的限界を示唆するようになった。
[[第二次世界大戦]]後、現象学は[[フランス]]に場を移して発展した。
フランスでの現象学哲学者としては、サルトル、レヴィナス、メルロ=ポンティ、ミシェル・アンリ、[[チャン・デュク・タオ]]、[[ポール・リクール]]、[[アロン・ギュルヴィッチ]]、[[ジャン・フランソワ・リオタール]]、ジャック・デリダなどがいる。
== 他の学問における現象学 ==
{{Main|方法論としての現象学}}
現在、[[科学]]の様々な分野において現象学的な態度が取りざたされている。けれども、ここでいう現象学的態度はフッサールの現象学やフッサールに引き続く哲学者たちによるこの語の使用とは異なっていることがあり、それは思想としての現象学が単なる事実の記述にとどまらないことによる。現象学的記述の備わった最も科学的な取り組みは、意味内容の現象学のより根源的な意味による。そのため科学的な取り組みは例えば[[形相的還元]]のようなものを行わない。けれども、古典的な法の現象学のような現象学の分枝においても本来の現象学的方法がまだ保たれているということを直視しなければならない。
「現象学的」なる造語は一般科学でしばしば使われ、そのうえ事柄は単に「現象的」という意味であることがある。しかし現象的なものはさしあたって仮象であり、裏に隠された真実などではなく、あるいは単なる現象であって、認識に対して物理的、あるいは精神的存在に注意を払わせているのではない。こうした「現象」主義、[[実在論]]の反対である主観的[[観念論]]の一変種の初期の[[実証主義]]によって現象学は混乱させられる。[[志向性]]や[[エポケー]]に対する精確な考察及びその結果によって実証主義との違いが明らかになる。
=== 法の現象学 ===
法の現象学はエドムント・フッサールにまで遡り、まず第一に法哲学者の[[アドルフ・ライナッハ]]によって分化させられた。[[ヴィルヘルム・シャップ]]はフッサールの弟子でもあるが、初めのうちはライナッハによる批判の作業を引き継いでいたが、後にライナッハから離反して独自の歴史現象学を発展させた。その他の歴史現象学者のように彼らは現象学を基盤としてその上に答えを見つけようとしたが、それは正しかった。あるいは現象学的な言い回しをすれば、法の本性はなんであるか。法の現象学は[[ドイツ]]や[[オランダ]]でもまばらに信奉者を得たが、[[イタリア]]や[[スペイン]]で最も有力である。
=== 自然科学における現象学的取り組み ===
研究計画の上で実験データを「初めに概観」すること、系統だった科学的活動の最初の局面(資料の収集)はしばしば現象学と呼ばれる。ここで「現象学的」というのは事象そのものを記述するための事実を特に意味している。だから実験の過程は可能な限り理論の助けを借りずに記述され(理論それ自体はただ実験の上部構造及び過程を定めるだけだから、それは条件付きで自然でありうるにすぎない)、概念における人の思考を解釈せず、単に起こったことが観察される。現象という概念は、ここでは基礎に対してあるが、自然主義的現象はなるほど深い物ではあるが、論理的・理性的に把握できるような真理が奥底に横たわっているということは絶対にありえない。
=== 治療の理論における現象学的態度===
[[ゲシュタルト療法]]、[[会話療法]]、あるいは[[ロゴセラピー]]といった人の治療の理論において、現象学はしばしば認識論の道具として表面に乗り出している。フッサールに加えて、[[マルティン・ブーバー]]のような哲学者もエマニュエル・レヴィナスのような現象学者も言及された。[[カール・ヤスパース]]は[[精神病理学]]的現象学の創立者である。拙速な解釈に対して慎重になることが全ての理論に共通で、理論が完全になることを望まず、むしろ他の経験の自立性が配慮されるとともに徐々に具体的になっていく日常の経験的領域が結合していくようである。 それに伴って彼らは確かに単に方法論的な接近方式としての現象学を考察する。フッサールが理論をとてもうまく運用して反射的な記述を実行することはこういった療法の実行においては表面化しない。反射的な精密さと超越論的問題性はこういって実行においては議題とはならない。こういう点で現象学の語法はフッサールの思想においては単に限定された意味で現象学的であって、現象学に対して理論的な基盤がある、たんに観念連合的なのである。
== 現象学者及び現象学に影響を与えた理論家 ==
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* [[フランツ・ブレンターノ]]
* [[アレクシウス・マイノング]]
* [[エトムント・フッサール]]
* [[エルンスト・マッハ]]
* [[マルティン・ハイデッガー]]
* [[マックス・シェーラー]]
* [[ヘルムート・プレスナー]]
* [[ニコライ・ハルトマン]]
* [[オスカー・ベッカー]]
* [[ハンス・リップス]]
* [[ガブリエル・マルセル]]
* [[ローマン・インガルデン]]
* [[ルードヴィッヒ・ラントグレーベ]]
* [[オイゲン・フィンク]]
* [[ジャン=ポール・サルトル]]
* [[モーリス・メルロー=ポンティ]]
* [[エマニュエル・レヴィナス]]
* [[マックス・ミューラー]]
* [[ミシェル・アンリ]]
* [[ゲルト・ブラント]]
* [[ハインリヒ・ロムバッハ]]
* [[ヘルマン・シュミッツ]]
* [[アントニオ・アグィーレ]]
* [[ミヒャエル・トイニッセン]]
* [[ベルンハルト・ヴァルデンフェルス]]
* [[ミゲル・ガルシア=バロー]] ({{lang|es|Miguel García-Baró}})
* [[ウルリッヒ・クレスゲス]]
* [[オスカー・ヴルフ]]
* [[ヤン・パトチカ]]
* [[アルフレート・シュッツ]]
* [[ダン・ザハヴィ]]([[:en:Dan Zahavi|Dan Zahavi]])
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* 木田元『現象学』岩波書房〈岩波新書〉、1970年
*木田元『哲学と反哲学』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2004年 ISBN 4006001274
*新田義弘『現象学とは何か』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年 ISBN 4061590359
*新田義弘『現象学と近代哲学』岩波書店、1995年 ISBN 400000638X
*新田義弘『現象学と解釈学』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2006年 ISBN 4480090029
*新田義弘『現象学』講談社〈講談社学術文庫〉、2013年 ISBN 9784062921534
*滝浦静雄『想像の現象学』紀伊國屋書店、1994年 ISBN 4314006447
*立松弘孝編『フッサール・セレクション』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2009年 ISBN 9784582766592
*E・フッサール(立松弘孝訳)『論理学研究』Ⅰみすず書房、1968年
*E・フッサール(立松弘孝訳)『論理学研究』Ⅳみすず書房、1976年 {{ISBN2| 9784622019268}}
*E・フッサール(渡辺二郎訳)『イデーン』Ⅰ‐Ⅰみすず書房、1979年 ISBN 4622019167
*E・フッサール(渡辺二郎訳)『イデーン』Ⅰ‐Ⅱみすず書房、1984年 ISBN 4622019175
*E・フッサール(浜渦辰二訳)『デカルト的省察』岩波書店〈岩波文庫〉、2001年 ISBN 4003364333
*木田元、野家啓一、村田純一、鷲田清一編『縮刷版 現象学事典』弘文堂、2014年 ISBN 9784335150579
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date=2019年5月}}
* [[現象]]
* [[現象的意識]]
* [[現象学的社会学]]
* [[幻肢]]
===人物(日本)===
*[[大森荘蔵]]
*[[小川侃]]
*[[加藤尚武]]
*[[木田元]]
*[[九鬼周造]]
*[[合田正人]]
*[[西條剛央]]
*[[斎藤慶典]]
*[[高橋里美]]
*[[高橋哲哉]]
*[[滝浦静雄]]
*[[竹内芳郎]]
*[[田辺元]]
*[[谷徹]]
*[[竹田青嗣]]
*[[西田幾多郎]]
*[[新田義弘]]
*[[貫成人]]
*[[野家啓一]]
*[[廣松渉]]
*[[三島憲一]]
*[[務台理作]]
*[[村田純一]]
*山口一郎
*[[和辻哲郎]]
*[[渡邊二郎]]
*[[鷲田清一]]
*永井晋
*[[堀栄造]]
== 外部リンク ==
* [http://pa-j.jp/ 日本現象学会 ウェブサイト]
* {{SEP|phenomenology|Phenomenology}}
* {{IEP|phenom|Phenomenology}}
* ''[http://www.phenomenology.ro/newsletter/newsletter_all.htm Newsletter of Phenomenology.]'' (online-newsletter)
* ''[http://www.brill.nl/m_catalogue_sub6_id9390.htm Research in Phenomenology.]'' Duquesne Univ. Pr., Pittsburgh Pa 1.1971ff. {{ISSN|0085-5553}}
* ''[http://www.studia-phaenomenologica.com/ Studia Phaenomenologica.]'' {{ISSN|1582-5647}}
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邑楽郡
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邑楽郡(おうらぐん)は、群馬県(上野国)南東部に存在する郡。平成の大合併において群馬県内の郡では唯一全町が独立を保った。古くは「おはらぎのこおり」とも読まれた。
人口101,540人、面積132.37km2、人口密度767人/km2。(2023年11月1日、推計人口)
以下の5町を含む。
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記5町に館林市と太田市古戸町を加えた区域にあたる。
古くは邑楽(おはらぎ)と読まれた。
明治11年から館林町字谷越町、明治43年館林町字大名小路に移転。
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邑楽郡(おうらぐん)は、群馬県(上野国)南東部に存在する郡。平成の大合併において群馬県内の郡では唯一全町が独立を保った。古くは「おはらぎのこおり」とも読まれた。 人口101,540人、面積132.37km²、人口密度767人/km²。(2023年11月1日、推計人口) 以下の5町を含む。 板倉町(いたくらまち)
明和町(めいわまち)
千代田町(ちよだまち)
大泉町(おおいずみまち)
邑楽町(おうらまち)
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*{{Pathnav|令制国一覧|東山道|上野国}}
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[[ファイル:Gumma Ora-gun.png|frame|群馬県邑楽郡の範囲(1.板倉町 2.明和町 3.千代田町 4.大泉町 5.邑楽町)]]
'''邑楽郡'''(おうらぐん)は、[[群馬県]]([[上野国]])南東部に存在する[[郡]]。[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]において群馬県内の郡では唯一全町が独立を保った。古くは「おはらぎのこおり」とも読まれた。
{{郡データ換算|群馬県|板倉町|明和町|千代田町|大泉町|邑楽町}}
以下の5町を含む。
* [[板倉町]](いたくらまち)
* [[明和町 (群馬県)|明和町]](めいわまち)
* [[千代田町]](ちよだまち)
* [[大泉町]](おおいずみまち)
* [[邑楽町]](おうらまち)
== 概要 ==
* いずれの町も工業が発展しており、観光産業に乏しい。
* 県内で唯一[[男性]]が[[女性]]より多い[[郡]]である。
* 県都の[[前橋市]]から40~60kmとかなり離れているのに対し、[[東京都心]]からは約70kmであり特に館林市、明和町、板倉町は便も良いため、都心との関係が県内の他の地域と比べて、密接である{{Efn2|[[平成27年]]の[[国勢調査]]によると群馬県内の[[東京都区部]]への通勤率は板倉町、明和町、館林市、高崎市の順である。}}。市町村によっては[[埼玉県]]の県都[[さいたま市]]の方が前橋市よりも近い。そのため群馬県内で[[東京を中心とする地域の定義一覧#関東大都市圏|関東大都市圏]]<ref>総務省統計局 経済センサスと統計地図(大都市圏の売上高)【1.関東大都市圏】[https://www.stat.go.jp/data/e-census/topics/topi831.html#topi83b]</ref>に属しているのは板倉町、明和町と旧邑楽郡の[[館林市]]のみである{{Efn2|関東大都市圏には高崎市に編入される以前の多野郡新町も属していた。}}。
== 郡域 ==
[[1878年]](明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記5町に館林市と[[太田市]]古戸町を加えた区域にあたる。
== 歴史 ==
古くは邑楽(おはらぎ)と読まれた。
=== 近世以降の沿革 ===
* [[1661年]] - 後の徳川5代将軍[[徳川綱吉]]が[[館林城]]25万石の城主(館林宰相とよばれた)になるとの同時に、館林城に近い[[下野国]]2郡7村が本郡に編入し、綱吉の新領地に加わる。(1町91村)
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での支配は以下の通り。[[天領|幕府領]]は[[関東在方掛]]の岩鼻陣屋が管轄。●は村内に[[寺社領]]が存在。(1町91村)
{| class="wikitable"
|-
! style="width:25%" colspan=2 | [[知行]]
! style="width:5%" | 村数
! 村名
|-
| [[天領|幕府領]]
| 幕府領
| 38村
| 大久保村、島村<ref>記載は大久保村ノ内・島村。</ref>、高鳥村<ref>記載は大久保村ノ内・高島村。</ref>、海老瀬村、下五箇村、飯野村、斗合田村、江黒村、千津井村、板倉村、岩田村、浮戸村、内蔵新田村、離村、細谷村、大荷場村、除川村、秋妻村、瀬戸井村、古戸村、鍋谷村、●赤岩村、福島村、寄木戸村、●上小泉村、下小泉村、坂田村、古氷村、吉田村、石打村、下中森村、野辺村、木崎村、萱野村、上五箇村、須賀村、新福寺村、藤川村
|-
| rowspan=2 | [[藩|藩領]]
| [[上野国|上野]][[館林藩]]
| 1町<br />40村
| 館林町<ref>[[館林城]]下各町の総称。「旧高旧領取調帳」には記載なし。</ref>、川俣村、大佐貫村、矢島村、近藤村、入ヶ谷村、日向村、鶉村、鶉新田、赤堀村、狸塚村、光善寺村<ref>記載は中野村ノ内・光善寺。</ref>、中野村、●堀工村、松原村、●羽附村、江口村、田島村、南大島村、新里村、中谷村、梅原村、青柳村、当郷村、●大新田、成島村、足次村、岡野村、高根村、木戸村、傍示塚村、上早川田村、下早川田村、新当郷村、田谷村、四ツ谷村、籾谷村、谷越村、●新宿村、小桑原村、赤生田村
|-
| 上野[[前橋藩]]
| 1村
| 大輪沼新田、大輪沼新田ノ内・川俣村分(大輪沼新田のうち)
|-
| rowspan=3 | 幕府領・藩領
| 幕府領・前橋藩
| 8村
| 西岡新田、●北大島村、西岡村、●大曲村、仙石村、舞木村、上中森村、大輪村
|-
| 幕府領・館林藩
| 3村
| 篠塚村、上三林村、下三林村
|-
| 幕府領・[[三河国|三河]][[西端藩]]
| 1村
| 古海村
|}
* [[慶応]]4年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1868年]][[8月5日]]) - 新政府が岩鼻陣屋に'''[[岩鼻県]]'''を設置。幕府領・旗本領を管轄。
* 明治2年 - 前橋藩、館林藩の領地替えにより、古海村の西端藩領を除く全域が館林藩領となる。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[館林県]]'''、'''[[西端県]]'''の管轄となる。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''[[栃木県]]'''の管轄となる。
* 明治9年([[1876年]])(1町88村)
** [[8月21日]] - 第2次府県統合により、'''[[群馬県]]'''(第2次)の管轄となる。
** 大久保村・島村・高鳥村が合併して大高島村となる。
** 浮戸村が籾谷村に合併。
* 明治11年([[1878年]])[[12月7日]] - [[郡区町村編制法]]の群馬県での施行により、行政区画としての'''邑楽郡'''が発足。郡役所が館林町に設置。
=== 町村制以降の沿革 ===
[[ファイル:Gumma Ora-gun 1889.png|frame|1.館林町 2.郷谷村 3.大島村 4.西谷田村 5.海老瀬村 6.大箇野村 7.伊奈良村 8.赤羽村 9.千江田村 10.梅島村 11.佐貫村 12.六郷村 13.三野谷村 14.富永村 15.永楽村 16.大川村 17.小泉村 18.高島村 19.中野村 20.長柄村 21.多々良村 22.渡瀬村(紫:館林市 青:板倉町 赤:明和町 桃:邑楽町 橙:千代田町 黄:大泉町)]]
* 明治22年([[1889年]])[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、以下の町村が発足。(1町21村)
** '''[[館林町]]''' ← 館林町[大部分]、谷越村[大部分]、成島村[一部]、当郷村[一部](現・館林市)
** '''[[郷谷村]]''' ← 新当郷村、田谷村、四ツ谷村、当郷村[大部分]、館林町[一部](現・館林市)
** '''[[大島村 (群馬県)|大島村]]'''(単独村制。現・館林市)
** '''[[西谷田村]]''' ← 除川村、西岡村、西岡新田、細谷村、離村、大荷場村、大曲村(現・板倉町)
** '''[[海老瀬村]]'''(単独村制。現・板倉町)
** '''[[大箇野村]]''' ← 大高島村、下五箇村、飯野村(現・板倉町)
** '''[[伊奈良村]]''' ← 板倉村、岩田村、籾谷村、内蔵新田村(現・板倉町)
** '''[[赤羽村 (群馬県)|赤羽村]]''' ← 羽附村、赤生田村(現・館林市)
** '''[[千江田村]]''' ← 千津井村、江口村、江黒村、田島村、斗合田村(現・明和町)
** '''[[梅島村]]''' ← 新里村、梅原村、中谷村、南大島村(現・明和町)
** '''[[佐貫村 (群馬県)|佐貫村]]''' ← 須賀村、大輪村、大輪沼新田、川俣村、大佐貫村、矢島村[大部分]、入ヶ谷村[一部](現・明和町)
** '''[[六郷村 (群馬県邑楽郡)|六郷村]]''' ← 新宿村、松原村、小桑原村、青柳村、近藤村、堀工村(現・館林市)
** '''[[三野谷村]]''' ← 上三林村、下三林村、野辺村、入ヶ谷村[大部分]、矢島村[一部](現・館林市)
** '''[[富永村 (群馬県)|富永村]]''' ← 上五箇村、萱野村、木崎村、上中森村、下中森村、瀬戸井村[大部分]、赤岩村[一部](現・千代田町)
** '''[[永楽村]]''' ← 福島村、舞木村、鍋谷村、新福寺村、赤岩村[大部分]、瀬戸井村[一部](現・千代田町)
** '''[[大川村 (群馬県)|大川村]]''' ← 仙石村、吉田村、古海村、寄木戸村、古氷村、坂田村(現・大泉町)
** '''[[小泉町|小泉村]]''' ← 上小泉村、下小泉村(現・大泉町)
** '''[[高島村 (群馬県)|高島村]]''' ← 藤川村、秋妻村、石打村(現・邑楽町)
** '''[[中野村 (群馬県)|中野村]]''' ← 中野村、鶉村、鶉新田、光善寺村(現・邑楽町)
** '''[[長柄村 (群馬県)|長柄村]]''' ← 篠塚村、狸塚村、赤堀村(現・邑楽町)
** '''[[多々良村]]''' ← 高根村、木戸村、日向村、成島村[大部分]、谷越村[一部](現・館林市)
** '''[[渡瀬村 (群馬県)|渡瀬村]]''' ← 下早川田村、上早川田村、傍示塚村、足次村、大新田、岡野村(現・館林市)
** 古戸村が[[新田郡]][[沢野村]]の一部となる。
* 明治29年([[1896年]])[[7月15日]] - [[郡制]]を施行。
* 明治35年([[1902年]])[[7月25日]] - 小泉村が町制施行して'''[[小泉町]]'''となる。(2町20村)
* [[大正]]12年([[1923年]])4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
* 大正15年([[1926年]])[[7月1日]] - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
* [[昭和]]17年([[1942年]])7月1日 - 「邑楽[[支庁|地方事務所]]」が館林町に設置され、本郡を管轄。
* 昭和29年([[1954年]])4月1日 - 館林町・郷谷村・大島村・赤羽村・六郷村・三野谷村・多々良村・渡瀬村が合併して'''[[館林市]]'''が発足し、郡より離脱。(1町13村)
* 昭和30年([[1955年]])
** [[2月1日]] - 西谷田村・海老瀬村・大箇野村・伊奈良村が合併して'''[[板倉町]]'''が発足。(2町9村)
** [[3月1日]](2町6村)
*** 高島村・中野村が合併して'''[[邑楽町|中島村]]'''が発足。
*** 千江田村・梅島村・佐貫村が合併して'''[[明和町 (群馬県)|明和村]]'''が発足。
** [[3月31日]] - 富永村・永楽村・長柄村が合併して'''[[千代田町|千代田村]]'''が発足。(2町4村)
* 昭和31年([[1956年]])[[9月30日]] - 千代田村の一部(旧長柄村の大字篠塚・狸塚・赤堀)が中島村に編入。
* 昭和32年([[1957年]])
** [[1月1日]] - 中島村が'''[[邑楽町|邑楽村]]'''に改称。
** 3月31日 - 小泉町・大川村が合併して'''[[大泉町]]'''が発足。(2町3村)
* 昭和43年([[1968年]])4月1日 - 邑楽村が町制施行して'''[[邑楽町]]'''となる。(3町2村)
* 昭和57年([[1982年]])4月1日 - 千代田村が町制施行して'''[[千代田町]]'''となる。(4町1村)
* [[平成]]10年([[1998年]])[[10月1日]] - 明和村が町制施行して'''[[明和町 (群馬県)|明和町]]'''となる。(5町)
=== 変遷表 ===
{{hidden begin
|title = 自治体の変遷
|titlestyle = background:lightgrey;
}}
{| class="wikitable" style="font-size:x-small"
|-
!
! 明治22年4月1日
! 明治22年 - 大正15年
! 昭和元年 - 昭和29年
! 昭和30年
! colspan="2" | 昭和31年 - 昭和32年
! 昭和33年 - 昭和64年
! 平成元年 - 現在
! 現在
|-
|
| style="background-color:#6ff" | 館林町
| style="background-color:#6ff" | 館林町
| rowspan="8" | 昭和29年4月1日<br /> 館林市
| rowspan="8" | 館林市
| rowspan="8" colspan="2" | 館林市
| rowspan="8" | 館林市
| rowspan="8" | 館林市
| rowspan="8" | 館林市
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 郷谷村
| style="background-color:#9cf" | 郷谷村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 大島村
| style="background-color:#9cf" | 大島村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 赤羽村
| style="background-color:#9cf" | 赤羽村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 六郷村
| style="background-color:#9cf" | 六郷村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 三野谷村
| style="background-color:#9cf" | 三野谷村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 多々良村
| style="background-color:#9cf" | 多々良村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 渡瀬村
| style="background-color:#9cf" | 渡瀬村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 小泉村
| style="background-color:#6ff" | 明治35年7月25日<br />町制
| style="background-color:#6ff" | 小泉町
| style="background-color:#6ff" | 小泉町
| rowspan="2" colspan="2" style="background-color:#6ff" | 昭和32年3月31日<br />大泉町
| rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 大泉町
| rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 大泉町
| rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 大泉町
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 大川村
| style="background-color:#9cf" | 大川村
| style="background-color:#9cf" | 大川村
| style="background-color:#9cf" | 大川村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 西谷田村
| style="background-color:#9cf" | 西谷田村
| style="background-color:#9cf" | 西谷田村
| rowspan="4" style="background-color:#6ff" | 昭和30年2月1日<br />板倉町
| rowspan="4" colspan="2" style="background-color:#6ff" | 板倉町
| rowspan="4" style="background-color:#6ff" | 板倉町
| rowspan="4" style="background-color:#6ff" | 板倉町
| rowspan="4" style="background-color:#6ff" | 板倉町
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 海老瀬村
| style="background-color:#9cf" | 海老瀬村
| style="background-color:#9cf" | 海老瀬村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 大箇野村
| style="background-color:#9cf" | 大箇野村
| style="background-color:#9cf" | 大箇野村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 伊奈良村
| style="background-color:#9cf" | 伊奈良村
| style="background-color:#9cf" | 伊奈良村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 高島村
| style="background-color:#9cf" | 高島村
| style="background-color:#9cf" | 高島村
| rowspan="2" style="background-color:#9Cf" | 昭和30年3月1日<br />中島村
| rowspan="2" style="background-color:#9Cf" | 中島村
| rowspan="3" style="background-color:#9Cf" | 昭和32年1月1日<br />改称 邑楽村
| rowspan="3" style="background-color:#6ff" | 昭和43年4月1日<br />町制
| rowspan="3" style="background-color:#6ff" | 邑楽町
| rowspan="3" style="background-color:#6ff" | 邑楽町
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 中野村
| style="background-color:#9cf" | 中野村
| style="background-color:#9cf" | 中野村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 長柄村
| style="background-color:#9cf" | 長柄村
| style="background-color:#9cf" | 長柄村
| rowspan="3" style="background-color:#9Cf" | 昭和30年3月31日<br />千代田村
| style="background-color:#9Cf" | 昭和31年9月30日<br />中島村に編入
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 富永村
| style="background-color:#9cf" | 富永村
| style="background-color:#9cf" | 富永村
| rowspan="2" colspan="2" style="background-color:#9Cf" | 千代田村
| rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 昭和57年4月1日<br />町制
| rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 千代田町
| rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 千代田町
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 永楽村
| style="background-color:#9cf" | 永楽村
| style="background-color:#9cf" | 永楽村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 千江田村
| style="background-color:#9cf" | 千江田村
| style="background-color:#9cf" | 千江田村
| rowspan="3" style="background-color:#9cf" | 昭和30年3月1日<br />明和村
| colspan="2" rowspan="3" style="background-color:#9cf" | 明和村
| rowspan="3" style="background-color:#9cf" | 明和村
| rowspan="3" style="background-color:#6ff" | 平成10年10月1日<br />町制
| rowspan="3" style="background-color:#6ff" | 明和町
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 梅島村
| style="background-color:#9cf" | 梅島村
| style="background-color:#9cf" | 梅島村
|-
|
| style="background-color:#9cf" | 佐貫村
| style="background-color:#9cf" | 佐貫村
| style="background-color:#9cf" | 佐貫村
|}
{{hidden end}}
== 行政 ==
=== 歴代郡長{{Sfn|群馬県邑楽郡教育会|1917|p=358}} ===
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
|1||林恪齋||明治11年(1878年)12月7日||明治12年(1879年)9月14日||
|-
|2
|石川重玄
|明治12年(1879年)9月24日
|明治13年(1880年)10月29日
|
|-
|
|高島邦臣
|明治13年(1880年)11月9日
|明治13年(1880年)11月27日
|郡長心得
|-
|3
|村田保三
|明治13年(1880年)11月13日
|明治16年(1883年)6月19日
|
|-
|4
|村山具瞻
|明治16年(1883年)6月19日
|明治23年(1890年)12月6日
|
|-
|5
|八木始
|明治23年(1890年)12月6日
|明治27年(1894年)1月16日
|
|-
|6
|鹽谷良翰
|明治27年(1894年)1月16日
|明治29年(1896年)4月28日
|
|-
|7
|熊谷彦十郎
|明治29年(1896年)4月28日
|明治33年(1900年)3月12日
|
|-
|8
|小出雅雄
|明治33年(1900年)3月12日
|明治39年(1906年)1月29日
|
|-
|9
|鎗居亀太郎
|明治39年(1906年)1月29日
|明治42年(1909年)4月27日
|
|-
|10
|塙任
|明治42年(1909年)4月27日
|大正10年(1921年)3月5日<ref name=":0">{{Cite web |title=国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2954691/1/2 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-09-24}}</ref>
|
|-
|11
|堀太郎作
|大正10年(1921年)3月5日<ref name=":0" />
|大正12年(1923年)1月22日<ref>{{Cite web |title=国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2955262/1/7 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-09-24}}</ref>
|
|-
|12
|中井久三
|大正12年(1923年)1月22日<ref>{{Cite web |title=国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2955262/1/7 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-09-24}}</ref>
|大正12年(1923年)11月30日<ref>{{Cite web |title=国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2955531/1/4 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-09-24}}</ref>
|
|-
|13
|鳥海喜久多
|大正12年(1923年)12月24日<ref>{{Cite web |title=国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2955551/1/3 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-09-24}}</ref>
|大正15年(1926年)7月1日<ref>{{Cite web |title=国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2956322/1/2 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-09-24}}</ref>
|廃止
|}
=== 郡役所 ===
明治11年から館林町字谷越町、明治43年館林町字大名小路に移転{{Sfn|群馬県邑楽郡教育会|1917|pp=357-358}}。
== 注釈 ==
{{Notelist2}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1988|date=1988-06-01|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=[[角川書店]]|volume=10 群馬県|isbn=4040011007|ref={{SfnRef|角川日本地名大辞典|1988}}}}
* {{Cite book|和書 |title=群馬県邑楽郡誌 |year=1917 |publisher=群馬県邑楽郡教育会 |doi=10.11501/951646 |editor=群馬県邑楽郡教育会}}
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
{{上野国の郡}}
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連合国軍
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連合国軍(れんごうこくぐん)
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連合国軍(れんごうこくぐん) 連合国の軍隊。連合軍。
特に第二次世界大戦の連合国軍、およびその連合国軍最高司令官総司令部。
アメリカ南北戦争におけるアメリカ連合国の軍隊、いわゆる「南軍」。アメリカ連合国陸軍・同海軍。
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'''連合国軍'''(れんごうこくぐん)
* [[連合国]]の[[軍隊]]。[[連合軍]]。
* 特に[[連合国 (第二次世界大戦)|第二次世界大戦の連合国]]軍、およびその[[連合国軍最高司令官総司令部]]。
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17,241 |
安全側線
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安全側線(あんぜんそくせん)は、過走して他の列車の進路に支障を来すことによる衝突を防止する目的で本線とは異なる線路へ列車を進入させ、列車を意図的に脱線・停止させるために設ける停車場内の短い側線である。側線を設けないポイントだけの設備は、脱線転轍器(脱線ポイント)という。
単線区間の行き違い施設では、列車が停止位置を冒進して本線に出てしまうと、対向列車と正面衝突する危険がある。そこで、本線に合流する分岐器の手前で分岐させ、その先を砂利盛りなどの車止めにしておくものが安全側線である。安全側線導入によって単線区間でも同時進入が可能になり、交換待ちによるダイヤのロスを減らすことができる。
列車交換時には分岐器は安全側線側に開通しており、列車が冒進した場合はそのまま安全側線に進入させた上で砂利盛りなどの車止めで停止させ、対向列車との衝突を避ける仕組みになっている。
日本では1913年(大正2年)10月17日に発生した東岩瀬駅列車正面衝突事故を教訓に全国で整備された。この東岩瀬事故やそれまでのオーバーランの実例、種々の実験の結果を参考に、突込線の長さは約91メートル(300フィート)とされ、さらに車止を設け、その手前約10メートルの区間に砂利盛りをすることになった。1926年に突込線を「安全側線」と改称した。
本線への誤進入により他の列車・車両との衝突を起こすよりも、誤進入列車・車両を脱線させた方が被害がより少ないであろうという想定に基づいている(フェイルセーフではなく、自動車でいうパッシブセーフティにあたる)。安全側線は、誤進入した列車・車両を停止させるために十分な砂利堤等の長さが確保でき、進入速度が十分低ければ、有効な安全システムとして機能する。
しかし日本では用地の関係で、砂利盛りが省略されている箇所や、十分な長さがない箇所も少なくない。また、高速で進入すると当該列車が脱線転覆するのみならず、本線に支障を来して対向列車や後続列車との二次事故を生じる危険も高い(後述)。これらの事情を指し、運転士や労組のなかには、「不安全側線」と揶揄する声もある。
現在では、安全側線に高速で進入することのないように、手前でATSなどにより減速させるほか、万一安全側線に進入した場合には、ケーブルの切断・スイッチ動作などにより、周辺の信号機を停止信号にする安全側線緊急防護装置を設置して安全対策を行っている。また、複線化やより安全性の高い保安装置(ATS-PやATCなど)の導入により安全側線が省略されるケースもある。
安全側線はその性質上、通常時に車両が入線する事は想定されないため、安全側線に進入した場合には重大インシデント扱いになり、運輸安全委員会による鉄道事故調査の対象になる。
詳細は各事故の項目も参照。
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安全側線(あんぜんそくせん)は、過走して他の列車の進路に支障を来すことによる衝突を防止する目的で本線とは異なる線路へ列車を進入させ、列車を意図的に脱線・停止させるために設ける停車場内の短い側線である。側線を設けないポイントだけの設備は、脱線転轍器(脱線ポイント)という。
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{{出典の明記|date=2011年10月11日}}
[[ファイル:尺別駅安全側線.jpg|thumb|200px|単線区間の停車場の安全側線([[根室本線]][[尺別信号場|尺別駅(現:信号場)]])]]
[[ファイル:Minami-Kumamoto Station 2.JPG|thumb|200px|安全側線を含む駅構造([[豊肥本線]][[南熊本駅]])]]
[[ファイル:OER-Hon-atsugi-Sta-Catch-Points.jpg|thumb|200px|高架線に設置された安全側線の例([[小田急小田原線|小田原線]][[本厚木駅]]。)]]
[[ファイル:StokeGiffordYard-catchpoints.jpg|thumb|200px|[[イギリス]]で多く使われている脱線転轍器]]
[[ファイル:安全側線緊急防護装置.jpg|thumb|200px|安全側線緊急防護装置(根室本線[[直別信号場|直別駅(現:信号場)]])]]
'''安全側線'''(あんぜんそくせん)は、過走して他の列車の進路に支障を来すことによる衝突を防止する目的で本線とは異なる線路へ[[列車]]を進入させ、列車を意図的に[[列車脱線事故|脱線]]・停止させるために設ける[[停車場]]内の短い[[停車場#側線|側線]]である。側線を設けないポイントだけの設備は、脱線[[分岐器|転轍器]](脱線ポイント)という。
== 概要 ==
[[単線]]区間の[[列車交換|行き違い施設]]では、列車が停止位置を[[冒進]]して[[停車場#本線|本線]]に出てしまうと、対向列車と正面衝突する危険がある。そこで、本線に合流する[[分岐器]]の手前で分岐させ、その先を砂利盛りなどの[[車止め]]にしておくものが安全側線である。安全側線導入によって単線区間でも同時進入が可能になり、交換待ちによるダイヤのロスを減らすことができる<ref>[[鉄道運転規則]]第69条。過走による相互支障のおそれがある場合は、原則として停車場内に同時に進入または進出することは禁止されている。しかし、安全側線の設置や、警戒信号の現示などにより同時進入ができる。</ref>。
列車交換時には分岐器は安全側線側に開通しており、列車が冒進した場合はそのまま安全側線に進入させた上で砂利盛りなどの車止めで停止させ、対向列車との衝突を避ける仕組みになっている。
日本では[[1913年]]([[大正]]2年)[[10月17日]]に発生した[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故|東岩瀬駅列車正面衝突事故]]を教訓に全国で整備された。この東岩瀬事故やそれまでのオーバーランの実例、種々の実験の結果を参考に、'''突込線'''の長さは約91[[メートル]](300[[フィート]])とされ、さらに車止を設け、その手前約10メートルの区間に砂利盛りをすることになった。1926年に突込線を「安全側線」と改称した。
== 課題と対策 ==
本線への誤進入により他の列車・車両との衝突を起こすよりも、誤進入列車・車両を脱線させた方が被害がより少ないであろうという想定に基づいている([[フェイルセーフ]]ではなく、自動車でいう[[パッシブセーフティ]]にあたる)。安全側線は、誤進入した列車・車両を停止させるために十分な砂利堤等の長さが確保でき、進入速度が十分低ければ、有効な安全システムとして機能する。
しかし日本では用地の関係で、砂利盛りが省略されている箇所や、十分な長さがない箇所も少なくない。また、高速で進入すると当該列車が脱線転覆するのみならず、本線に支障を来して対向列車や後続列車との二次事故を生じる危険も高い(後述)。これらの事情を指し、運転士や労組のなかには、「不安全側線」と揶揄する声もある。
現在では、安全側線に高速で進入することのないように、手前で[[自動列車停止装置|ATS]]などにより減速させるほか、万一安全側線に進入した場合には、ケーブルの切断・スイッチ動作などにより、周辺の[[鉄道信号機|信号機]]を停止信号にする'''安全側線緊急防護装置'''を設置して安全対策を行っている。また、複線化やより安全性の高い保安装置([[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]や[[自動列車制御装置|ATC]]など)の導入により安全側線が省略されるケースもある<ref>鉄道に関する技術上の基準を定める省令 第54条から第56条の規定より、単線の線路にて、運転士等の関与無く一閉塞区間に相対する列車が同時に進入することができないことが保証できる[[自動列車制御装置|ATC]]や[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]装置での保安対策が講じられている場合、省略が認められる。例えば[[北越急行ほくほく線]]はこれにより安全側線の省略を実現した。なお過去には国鉄の内規で出発信号機を行き過ぎたときの余裕(過走余裕)が150メートル以上ある場合には安全側線の省略ができるとしていた。</ref>。
安全側線はその性質上、通常時に車両が入線する事は想定されないため、安全側線に進入した場合には重大[[インシデント]]扱いになり、[[運輸安全委員会]]による鉄道[[事故調査]]の対象になる。
== 安全側線における死亡事故例 ==
* [[1956年]][[10月15日]] [[六軒事故]]
* [[1962年]][[5月3日]] [[三河島事故]]
* [[1971年]][[10月25日]] [[近鉄大阪線列車衝突事故|総谷(青山)トンネル事故]]
: 以上は、冒進した列車が高速で安全側線に進入した際に安全に脱線させることができずに転覆・傾斜し、本線に支障を来したところに後続列車(三河島)・対向列車(六軒・総谷)が突っ込み、二次事故を引き起こして、多数の死者を出す大惨事となった例である。詳細はそれぞれの項を参照。
== 安全側線が機能した例 ==
詳細は各事故の項目も参照。
* [[1972年]](昭和47年)[[12月3日]] [[日豊本線]][[宮崎神宮駅]]脱線事故
: [[広島駅|広島]]発[[鹿児島中央駅|西鹿児島]]行きの急行「[[山陽本線優等列車沿革|青島]]」(11両編成)が駅構内へ進入した際に、運転士が駅構内の信号を見落としたため安全側線へ進入、脱線。40メートルほど道床へ乗り上げた。ケガ人は無し。ATS装置は機能していなかった。列車は先頭の4両を切り離して50分遅れで西鹿児島駅へ向かった<ref>「国鉄ぼんやり急行 信号見落とし脱線、暴走」『朝日新聞』昭和47年12月4日.23面</ref>。
* [[1995年]][[12月25日]] [[福知山線]][[藍本駅]]脱線事故<ref>{{Cite news |title=雪、風、被害が続出 福知山線快速脱線「帰宅の足」大混乱 |newspaper=産経新聞|date=1995-12-26 |publisher=産経新聞社}}</ref>
: [[篠山口駅|篠山口]]発[[大阪駅|大阪]]行きの快速電車(4両編成)が停車する際に、事故当日の雪によりブレーキシューに雪が挟まりブレーキが機能しなくなったため滑走し、停止位置を行き過ぎ安全側線へ進入し、車止めの石に乗り上げ前3両が脱線した。この脱線でダイヤの乱れ、運休はあったが、人的被害は免れた。なお、この事故がきっかけで福知山線内を走行する電車にも耐雪ブレーキを装備する事となった。
* [[2001年]][[12月12日]] [[石勝線]][[川端駅]]脱線事故<ref>[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1598 石勝線川端駅構内列車脱線事故 鉄道事故調査報告書] - 運輸安全委員会</ref>
: [[夕張駅|夕張]]発[[追分駅 (北海道)|追分]]行き上り普通列車(1両編成)の運転士が出発信号機の停止現示を見落として出発し、ATS警報音が鳴ったため非常ブレーキをかけたが、スノーシェルター内で安全側線に進入し、砂利盛りに乗り上げて前側[[鉄道車両の台車|台車]]2軸とも脱線した。通常ダイヤでは当該列車は当駅で行き違いを行わないが、事故当時は降雪でダイヤが大幅に乱れており、当駅で対向の特急列車の通過を待つことになっていた。そのことは当駅停車中に輸送指令から運転士に伝達する予定であったが、連絡前に運転士が列車を出発させて事故に至った。結果的に特急列車との衝突を免れ、人的被害もなかった。
* [[2003年]][[3月8日]] [[函館本線]][[五稜郭駅]]誤進入事故
: 寝台特急「[[トワイライトエクスプレス]]」を[[札幌駅]]まで牽引する予定だった[[ディーゼル機関車]]が安全側線へ誤進入し、砂利盛りに乗り上げて停止した。この影響で夜行列車に数時間の遅れや、普通列車に部分運休などの影響が出た。
* [[2004年]][[11月28日]] [[奥羽本線]][[鯉川駅]]脱線事故<ref>[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1665 奥羽線鯉川駅構内列車脱線事故 鉄道事故調査報告書] - 運輸安全委員会</ref>
: [[秋田駅|秋田]]発[[青森駅|青森]]行き普通列車(2両編成)が、線路に積もった杉の木の枯葉で[[ブレーキ|制動]]時に車輪が滑走し、十分に減速できないまま安全側線に入り、砂利盛りに乗り上げて先頭車両の前側台車1軸が脱線して停止した。この脱線でダイヤの乱れ、運休はあったが、人的被害は免れた。
* [[2005年]][[12月7日]] [[紀勢本線]][[那智駅]]脱線事故<ref>[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1695 紀勢線那智駅構内列車脱線事故 鉄道事故調査報告書] - 運輸安全委員会</ref>
: [[紀伊勝浦駅|紀伊勝浦]]発[[新宮駅|新宮]]行き上り普通列車(2両編成)が、線路に積もった竹の枝葉のため滑走し、[[プラットホーム|ホーム]]位置で停止できずに安全側線に進入し、砂利盛りに乗り上げて先頭車両の前側台車2軸とも脱線して停止した。この事故で運休やダイヤの乱れが生じたが、人的被害は免れた。
* [[2012年]][[2月16日]] [[日本の鉄道事故 (2000年以降)#石勝線貨物列車脱線事故(2012年)|石勝線貨物列車脱線事故]]<ref>[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1810 石勝線東追分駅構内列車脱線事故 鉄道事故調査報告書] - 運輸安全委員会</ref>
: 詳細は当該項目を参照。
* 2012年[[11月8日]] [[日本の鉄道事故 (2000年以降)#三岐鉄道三岐線三里駅構内列車脱線事故|三岐鉄道三岐線三里駅構内列車脱線事故]]<ref>[https://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1830 三岐鉄道三岐線三里駅構内列車脱線事故 鉄道事故調査報告書] - 運輸安全委員会</ref>
: 詳細は当該項目を参照。
* [[2015年]][[12月31日]] [[日本の鉄道事故 (2000年以降)#高徳線普通列車脱線事故|高徳線普通列車脱線事故]]<ref>[https://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1882 高徳線普通列車脱線事故 鉄道事故調査報告書] - 運輸安全委員会</ref>
: 詳細は当該項目を参照。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[フェイルセーフ]]
* [[信号保安]]
* [[鐘釣駅]]
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ウンマ (イスラム)
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ウンマ(アラビア語: أُمَّة、ʾumma(h))とは、アラビア語で民族・国民・共同体などを意味する。
「イスラームの」という形容詞で修飾したウンマ・イスラーミーヤ(الأمة الإسلامية al-ʾUmma(h) al-ʾIslāmīya(h))はイスラーム共同体と訳され、イスラーム国家とほぼ同義である。
أُمَّةٌ(文語発音:ʾummah, 現代文語アラビア語・日常会話発音:ʾumma, ウンマ)はアラビア語の名詞である。語義は辞典や時代によって多少異なるが、
などを意味する。
コーラン(クルアーン)の用法ではウンマは、神(アッラーフ)によって使徒(ラスール)を遣わされて啓典を与えられる人間集団の単位のことである。ムーサー(モーセ)のウンマといえばユダヤ教徒の共同体のことであり、イーサー(イエス)のウンマといえばキリスト教徒の共同体を意味する。彼らにはそれぞれ律法書(タウラート)、福音書(インジール)という啓典が与えられた。しかし、彼らはこれらの啓典を改ざんしたり、ゆがめて解釈したりしているとコーランは主張する。そして、神の言葉をそのままの形で伝える啓典がムハンマドのウンマ、すなわちイスラーム共同体に遣わされたコーランであるとする。
こうして信徒共同体の意味を与えられたウンマというアラビア語の単語は、次第に特にイスラーム共同体を指して言うようになり、イスラームを含めた個々の共同体には「ミッラ」という呼称が広まる。
これを踏まえて、現代のイスラームの歴史に関する研究、論述では単にウンマと言っても、イスラーム共同体のことを指す場合が多い。
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ウンマとは、アラビア語で民族・国民・共同体などを意味する。 「イスラームの」という形容詞で修飾したウンマ・イスラーミーヤはイスラーム共同体と訳され、イスラーム国家とほぼ同義である。
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{{Islam}}
'''ウンマ'''({{lang-ar|أُمَّة}}、ʾumma(h))とは、[[アラビア語]]で[[民族]]・[[国民]]・[[共同体]]などを意味する。
「イスラームの」という形容詞で修飾した'''ウンマ・イスラーミーヤ'''({{lang|ar|الأمة الإسلامية}} al-ʾUmma(h) al-ʾIslāmīya(h))は'''イスラーム共同体'''と訳され、[[イスラム国家|イスラーム国家]]とほぼ同義である。
== 語義 ==
<span lang="ar" dir="rtl">أُمَّةٌ</span>(文語発音:ʾummah, 現代文語アラビア語・日常会話発音:ʾumma, ウンマ)はアラビア語の名詞である。語義は辞典や時代によって多少異なるが、
* 同じルーツを持ち複数の遺伝的性質を共有する集団で、宗教なり時間・時期なり居住地なり何らかの事物によってまとめられている人々
* 歴史・宗教・経済などを共有し同じ目的の元に生きる人々の集団
* 現代では国民国家・民族国家を指すのにも用いられ、複数形 <span lang="ar" dir="rtl">أُمَم</span>(ʾumam, ウマム)は国連(United Nations)のNations部分の訳語としても用いられている
* 母親(=<span lang="ar" dir="rtl">أُمّ</span>, ʾumm, ウンム)
* イスラームという純正なる信仰と善行のために集まった人々、純正な信仰者ら、純正な共同体([[クルアーン]]第16章『[[蜜蜂 (クルアーン)|蜜蜂]]』第120節)
* 集団、人々、一団([[クルアーン]]第28章『[[物語 (クルアーン)|物語]]』第23節)
* 宗教([[クルアーン]]第43章『[[金の装飾 (クルアーン)|金の装飾]]』第22節)
* 世代
* 時、期間
* 身長 - 古典資料などにおいて複合形容詞 <span lang="ar" dir="rtl">طَوِيلُ الْأُمَّةِ</span>(ṭawīl al-ʾumma(h), タウィール・アル=ウンマ, 実際の発音:タウィール・ル=ウンマ)もしくは <span lang="ar" dir="rtl">طَوِيلُ الْأُمَمِ</span>(ṭawīl al-ʾumam, タウィール・アル=ウマム, 実際の発音:タウィール・ル=ウマム)で「背が高い」の意味で登場
などを意味<ref>{{Cite web |url=https://www.almaany.com/ar/dict/ar-ar/%D8%A3%D9%85%D8%A9/ |title=المعاني - أمة |access-date=2023-06-17}}</ref><ref>{{Cite web |title=معنى شرح تفسير كلمة (أمة) |url=https://www.almougem.com/search.php?mdatabase=lmougem&query=%D8%A3%D9%85%D8%A9 |website=www.almougem.com |access-date=2023-06-17}}</ref><ref>{{Cite web |title=مفهوم الأمة - منار الإسلام |url=https://islamanar.com/dans-le-concept-de-nation/ |date=2021-06-19 |access-date=2023-06-17 |language=ar}}</ref>する。
==概説==
コーラン([[クルアーン]])の用法ではウンマは、神([[アッラーフ]])によって[[使徒]](ラスール)を遣わされて'''啓典'''を与えられる人間集団の単位のことである。ムーサー([[モーセ]])のウンマといえば[[ユダヤ教徒]]の共同体のことであり、イーサー([[イエス・キリスト|イエス]])のウンマといえば[[キリスト教徒]]の共同体を意味する。彼らにはそれぞれ[[モーセ五書|律法書]]([[タウラート]])、[[福音書]]([[インジール]])という[[啓典]]が与えられた。しかし、彼らはこれらの啓典を改ざんしたり、ゆがめて解釈したりしているとコーランは主張する。そして、神の言葉をそのままの形で伝える啓典が[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]のウンマ、すなわちイスラーム共同体に遣わされたコーランであるとする。
こうして信徒共同体の意味を与えられたウンマというアラビア語の単語は、次第に特にイスラーム共同体を指して言うようになり、イスラームを含めた個々の共同体には「[[ミッラ]]」という呼称が広まる。
これを踏まえて、現代のイスラームの歴史に関する研究、論述では単にウンマと言っても、イスラーム共同体のことを指す場合が多い。
== 脚注 ==
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==関連項目==
*[[宗教的共同体]]
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今川氏真
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今川 氏真(いまがわ うじざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主。
父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は同盟者でもあり妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家から離反した徳川家康と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった。氏真以後の今川家の子孫は徳川家に高家待遇で迎えられ、江戸幕府で代々の将軍に仕えて存続した。
天文7年(1538年)、義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれる。武田信玄の甥にあたる。天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立した。
弘治2年(1556年)から翌年にかけて駿河国を訪問した山科言継の日記『言継卿記』には、青年期の氏真も登場している。言継は、弘治3年(1557年)正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。
氏真は永禄元年(1558年)より駿河や遠江国に文書を発給しており、この前後に義元から氏真に家督が譲られたとするのが、研究上の見解である(#研究)。
この時期の三河国への文書発給は義元の名で行われていることから、義元が新領土である三河の掌握と尾張国からさらに西方への軍事行動に専念するため、氏真に家督を譲り形式上隠居し本国である駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている。
永禄3年(1560年)5月19日、尾張に侵攻した義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたため、氏真は今川家の領国を継承することとなった。
桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死した。義元体制を支えてきた重臣層や有力国人の戦死は今川氏内部の体制の変化を迫るものとなった。三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。
三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。氏真は三河の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みている。
しかし、西三河地域は桶狭間の合戦後旧領岡崎城に入った松平元康(永禄6年(1563年)に家康に改名)の勢力下に入った。永禄4年(1561年)正月には足利義輝が氏真と元康との和解を促しており、北条氏康が仲介に入ったこともあるが、元康は今川家と断交し、信長と結ぶことを選ぶ。この事態は氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている。
東三河でも、国人領主らは氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年(1561年)、今川家から離反した菅沼定盈の野田城攻めに先立って、小原鎮実は人質十数名を龍拈寺で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。
元康は永禄5年(1562年)正月には信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)2月、氏真は自ら兵を率いて牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父・武田信虎の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう。永禄7年(1564年)6月には東三河の拠点である吉田城が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。
遠江においても家臣団・国人の混乱が広がり、井伊谷の井伊直親、曳馬城主・飯尾連龍、見付の堀越氏延、犬居の天野景泰らによる離反の動きが広がった(遠州忩劇、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には飯尾連龍が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣・三浦正俊らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った連龍を永禄8年(1565年)12月に謀殺した。飯尾氏家臣が籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、永禄9年(1566年)4月に開城することによって反乱は終息をみた。
話が前後することになるが、氏真は永禄7年(1564年)4月に「三州急用」すなわち松平家康(当時)討伐のために臨時徴税を実施している。これは棟別銭徴収免除の対象者にも適用される徹底した徴収であったが、7月には北条氏康の要請を受けて武蔵国の太田資正討伐に向かってしまい、家康討伐は事実上先送りにされた。永禄7年に相次いだ酒井忠尚・吉良義昭ら三河国内の反松平派国衆の反乱とそれに続いて発生した三河一向一揆は氏真の家康討伐の動きに期待して呼応した可能性が高いとされ、その一方で氏真が臨時徴税を行いながらその徴税目的としていた家康討伐を行わなかったために今川家中に不満を招いたことが飯尾連龍らの遠州忩劇の一因になったとする指摘がある。また、遠州忩劇の発生は反松平派国衆の反乱と三河一向一揆の勢いが最も強かった時期と重なっており、氏真が臨時徴税を行いながら目的とした松平家康討伐を実施しなかったことが遠州忩劇を引き起こし、更に氏真が遠州忩劇の鎮圧に追われた影響で反松平派国衆の反乱と三河一向一揆を見殺しにしたことによって結果的には家康を滅ぼす好機を逸して彼による三河統一を助けることになったとする氏真の政治的判断ミスを指摘する見解がある。
氏真は祖母・寿桂尼の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年(1560年)後半から永禄5年(1562年)にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人の繋ぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、永禄4年(1561年)3月には長尾景虎の関東侵攻に対して北条家に援兵を送り、川越城での籠城戦に加わらせている。また、永禄4年(1561年)に室町幕府の相伴衆の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる。内政面では、永禄9年(1566年)4月に富士大宮の六斎市を楽市とすることを富士信忠に命じ、徳政の実施を命じたり、役の免除などを行ったりした。楽市は織田信長より先んじた政策であった。しかし、これらの政策を以ても、衰退を止めることはできなかった。
『甲陽軍鑑』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の三浦義鎮(右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている。
里村紹巴が永禄10年(1567年)5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真を初め領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も三条西実澄や冷泉為益が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に風流踊が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真自ら太鼓を叩いて興じたという。同書は三浦右衛門佐が氏真に勧めて風流踊を流行させたとしている。
今川氏と同盟を結ぶ甲斐国の武田信玄は、永禄4年(1561年)の川中島の戦いを契機に北信地域における越後上杉氏との抗争を収束させると外交方針を転換した。桶狭間の後に氏真は駿河に隣接する甲斐河内領主の穴山信友を介して甲駿同盟の確認を行なっており、信玄も今川氏の重臣である岡部元信に侫人が氏真に対して自分に関する讒言をしていることを憂慮して執り成しを依頼する書状を送っているが、永禄8年(1565年)には氏真妹・嶺松院を室とする武田家嫡男の武田義信が廃嫡される事件が発生し、2年後の永禄10年(1567年)11月に嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においては婚姻が解消された。
同時期に武田家では世子・諏訪勝頼の正室に信長養女・龍勝院を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。これにより甲駿関係は緊迫し、氏真は越後国の上杉謙信と和睦し、相模国の北条氏康と共に甲斐への塩止めを行ったというが、武田信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。
永禄11年(1568年)末に甲駿同盟は手切に至り、12月6日に信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した(駿河侵攻)。12月12日、薩埵峠で武田軍を迎撃するため氏真も興津の清見寺に出陣したが、瀬名信輝や葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、駿府も占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。早川殿のための乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失するという逃亡であった。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝を初めとした家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となった。
早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年(1569年)5月17日、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真及びその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城を以て戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。
同年、今川家臣の堀江城主・大沢基胤が、徳川家康の攻撃に耐えきれず降伏しているが、その際に基胤は氏真に「奮戦してきたが、最早耐えきれない。城を枕に討死しても良いが、それは誠の主家への奉公にはならないでしょう」と、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っている。氏真は今川家の逼迫した情勢を考慮して基胤の意見を受け入れ、「随意にして構わない、これまでの忠誠には感謝している」と、家康の軍門へ下ることを許可しており、また基胤のこれまでの働きを労っている。基胤は家康に降伏し、堀江城主としての地位は容認され、徳川家臣となった。これにより家康との主従関係が逆転し、家康の徳川家による庇護下で江戸時代を生き残ることになる。
掛川城の開城後、氏真は妻・早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った(大平城との見解もある)。のち小田原に移り、早川に屋敷を与えられる。なお、氏真夫妻と共に行動していた人物の中に、伊勢宗瑞(北条早雲)の娘で今川氏重臣・三浦氏員の妻であった長松院がいたが、長松院の弟にあたる北条幻庵が氏康父子らに彼女の救助を掛け合っていたことが知られ、また早川に幻庵の所領があったことから、氏真夫妻の庇護にも幻庵が関与していたとする見方がある。
永禄12年(1569年)5月23日、氏真は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で嫡男の範以はまだ生まれていない)。しかし、実際には縁組から程なく、今川氏の家督を国王丸に譲らされ、氏真の身分は「隠居」ということにされている。また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は越相同盟)。駿河では岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、元亀2年(1571年)頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。
元亀2年(1571年)10月に氏康が没すると、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。従来の説ではこの年の12月に氏真は相模を離れ、家康の庇護下に入ったとされていた。しかし、近年になって元亀3年(1572年)5月に今川義元の13回忌が氏真夫妻によって小田原郊外の久翁寺で行われていたことが判明し、少なくとも家康の元に向かったのはそれ以降のことであったことが確定した。また、この法要の主催が氏真夫妻であることや既に嫡男の範以が生まれていること、北条氏側でも氏政の正室である黄梅院が死去したために北条氏を継ぐ嫡男の確定が急がれたことから、氏真と(北条)氏直との縁組はこの時点で既に解消されて氏真が当主に復帰していたとする指摘もある。いずれにしても、掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。
元亀3年(1572年)に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には伊勢大湊の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。
長谷川正一は、天正元年8月に武田信玄の死を知った奥平氏が徳川方に帰参した際に、家康が奥平氏が武田氏から得た今川氏の旧臣の所領の扱いについて氏真に相談していたことを指摘し、信玄の死を知った氏真が駿河奪還の好機とみて家康を頼り、氏政も表向きはともかくこれを阻止する対応は取らなかったのではないか、とする仮説を提示している。
天正3年(1575年)の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』(内閣文庫蔵)に書き残されている。氏真は1月に(恐らく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり三条西実澄ら旧知の公家を訪問したりしている。『信長公記』によると、3月16日に家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と京都の相国寺で会見した。信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家達と共に信長に蹴鞠を披露している。『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。4月、武田勝頼が三河長篠に侵入したことを聞くと(長篠の戦い)京都を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている。氏真に仕えていた朝比奈泰勝は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、内藤昌豊を討ち取り、家康の直臣になったという。
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している。7月中旬には諏訪原城(現在の静岡県島田市)攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。なお、同年7月19日に宗誾(そうぎん)と署名した文書を発給しており、この時までに剃髪していたことが分かる。
天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、松平家忠・松平康親に補佐させた。しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えている。この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。しかし、この書状について浜松に召還されたのは海老江の方とする解釈を取る研究者もおり、この考えでは氏真は牧野城主を解任されていない可能性もある。長谷川正一は、牧野城番に任じられた松平家忠が氏真が挨拶を受けたとする『家忠日記』天正7年10月8日条の記事があり、その後も少なくても天正9年(1581年)6月までは家忠と「氏真衆」と表記された氏真家臣との交流が見られることから、少なくても氏真はこの時期までは牧野城主の地位にあり、普段は浜松で家康に近侍して、必要に応じて牧野城に通っていた可能性を指摘している。長谷川はある時期(恐らく相遠同盟成立ごろ)まで、氏真が浜松で徳川氏の外交にも関与していたとしている。
牧野城主解任後の動向は不明であるが、天正11年(1583年)7月、近衛前久が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している(『景憲家伝』『明良洪範』)。この後しばらくの消息は再び不明となる。
天正19年(1591年)9月、山科言経の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経初め冷泉為満・冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。文禄4年(1595年)の『言経卿記』には言経が氏真と共に石川家成を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかの繋がりがあることが推測される。
京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている。
のちの慶長17年(1612年)に、家康から近江国野洲郡長島村(現在の滋賀県野洲市長島)の「旧地」500石を安堵されているが、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない。
慶長3年(1598年)、氏真の次男・品川高久が徳川秀忠に出仕している。慶長12年(1607年)には長男・範以が京都で没する。慶長16年(1611年)には、範以の遺児・範英(直房)が徳川秀忠に出仕した。
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年(1612年)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。4月に氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している。『寛政重修諸家譜』によれば、氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、慶長18年(1613年)に長年連れ添った早川殿と死別した。
慶長19年(1614年)12月28日、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟・一月長得が江戸市谷の萬昌院で行い、同寺に葬られた。寛文2年(1662年)、萬昌院が牛込に移転するのに際し、氏真の墓は早川殿の墓と共に、今川家知行地である武蔵国多摩郡井草村(現在の東京都杉並区今川二丁目)にある宝珠山観泉寺に移された。
氏真の家督継承時期について、米原正義は弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性を初めて指摘した。
有光友學は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする。
長谷川弘道は『言継卿記』弘治3年(1557年)正月の記載を「屋形五郎殿」と解釈し、この時点で家督継承がなされていたとする。 ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。
松平定信が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、和歌や蹴鞠といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。19世紀前半に編集された『徳川実紀』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されている。
江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』品第十一では、「我が国を亡し我が家を破る大将」の一種として「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」が挙げられており、氏真が今川家を滅ぼした顛末が述べられている。氏真は心は剛勇であったと描かれているが、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「佞人」を重用して失政を行ったという点に重点を置いて批判されている。
一方、武田氏滅亡後に氏真が大名として取り立てられる可能性が囁かれ、家康に仕えていた今川氏の旧臣の中には今川氏に復帰できるのではないか、と期待する動きがあったことが知られており、氏真が家臣達から本当に暗愚で家を保てない人物と見られているのであれば、そのような動きは起こらないのではないか、とする研究家の指摘もされている。
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。
結果として子孫にも教育で受け継がれ、今川家代々の公家文化の高い能力を活かし、氏真の子孫達が江戸幕府の朝廷や公家との交渉役として高家に抜擢されたので、安土桃山時代(戦国時代)の戦で武功を上げることはできなかったが、役人としては江戸時代になって平和になってから今川家の子孫が文化人の能力で登用されている。また幕末の鳥羽・伏見の戦いで旧江戸幕府軍が敗れ、新政府軍が江戸を目指して進軍すると、高家として朝廷と交流してきた今川範叙が若年寄を兼任した。
家康の徳川家に臣従して、子の今川範以らが江戸幕府(徳川幕府)に重用されているので、平和の時代に今川家の家訓で必要な能力を先取りしたという意味では、義元の代からの公家文化習得が功を奏している。
氏真は生涯に多くの和歌を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1,658首が収録されている。
氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言・冷泉為和や、詩歌に通じていた太原雪斎などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない。
『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である井上宗雄は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが優れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」。氏真は、後水尾天皇選と伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康・氏政も数えられている)。
織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話で知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという。同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に山科言継が鞠を贈ったという『言継卿記』の記載程度しかない。
駿河に下向していた飛鳥井流宗家の飛鳥井雅綱から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『醒睡笑』には、氏真が賀茂神社神官の松下述久に師事したことが記されている。
塚原卜伝に新当流の剣術を学んだ。
なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の今川越前守義真(義直、吉道とも)を始祖と称する「今川流」、仙台藩に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「今川兼流」がある。『武芸流派大事典』は義真を氏真と同一人物と推測しているが、根拠は示されていない。『撃剣叢談』によると、今川越前守義真は駿河今川氏庶流の人物といい、氏真とは別人である。
氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。
妻の早川殿と対になった肖像画(遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰(妙心寺107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる。(『静岡県史研究』9号、1993年)に口絵として大型の図版(モノクロ)が掲載されているほか、『図説静岡県史(静岡県史別編3)』(1998年)が夫妻の肖像をカラーで載せている。近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が氏真像のみを図版として載せている。
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"text": "今川 氏真(いまがわ うじざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主。",
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"text": "父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は同盟者でもあり妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家から離反した徳川家康と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった。氏真以後の今川家の子孫は徳川家に高家待遇で迎えられ、江戸幕府で代々の将軍に仕えて存続した。",
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"text": "天文7年(1538年)、義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれる。武田信玄の甥にあたる。天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立した。",
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"text": "弘治2年(1556年)から翌年にかけて駿河国を訪問した山科言継の日記『言継卿記』には、青年期の氏真も登場している。言継は、弘治3年(1557年)正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。",
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"text": "氏真は永禄元年(1558年)より駿河や遠江国に文書を発給しており、この前後に義元から氏真に家督が譲られたとするのが、研究上の見解である(#研究)。",
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"text": "この時期の三河国への文書発給は義元の名で行われていることから、義元が新領土である三河の掌握と尾張国からさらに西方への軍事行動に専念するため、氏真に家督を譲り形式上隠居し本国である駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている。",
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"text": "永禄3年(1560年)5月19日、尾張に侵攻した義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたため、氏真は今川家の領国を継承することとなった。",
"title": "生涯"
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"text": "桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死した。義元体制を支えてきた重臣層や有力国人の戦死は今川氏内部の体制の変化を迫るものとなった。三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。",
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"text": "三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。氏真は三河の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みている。",
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"text": "しかし、西三河地域は桶狭間の合戦後旧領岡崎城に入った松平元康(永禄6年(1563年)に家康に改名)の勢力下に入った。永禄4年(1561年)正月には足利義輝が氏真と元康との和解を促しており、北条氏康が仲介に入ったこともあるが、元康は今川家と断交し、信長と結ぶことを選ぶ。この事態は氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている。",
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"text": "東三河でも、国人領主らは氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年(1561年)、今川家から離反した菅沼定盈の野田城攻めに先立って、小原鎮実は人質十数名を龍拈寺で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。",
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"text": "元康は永禄5年(1562年)正月には信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)2月、氏真は自ら兵を率いて牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父・武田信虎の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう。永禄7年(1564年)6月には東三河の拠点である吉田城が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。",
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"text": "遠江においても家臣団・国人の混乱が広がり、井伊谷の井伊直親、曳馬城主・飯尾連龍、見付の堀越氏延、犬居の天野景泰らによる離反の動きが広がった(遠州忩劇、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には飯尾連龍が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣・三浦正俊らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った連龍を永禄8年(1565年)12月に謀殺した。飯尾氏家臣が籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、永禄9年(1566年)4月に開城することによって反乱は終息をみた。",
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"text": "話が前後することになるが、氏真は永禄7年(1564年)4月に「三州急用」すなわち松平家康(当時)討伐のために臨時徴税を実施している。これは棟別銭徴収免除の対象者にも適用される徹底した徴収であったが、7月には北条氏康の要請を受けて武蔵国の太田資正討伐に向かってしまい、家康討伐は事実上先送りにされた。永禄7年に相次いだ酒井忠尚・吉良義昭ら三河国内の反松平派国衆の反乱とそれに続いて発生した三河一向一揆は氏真の家康討伐の動きに期待して呼応した可能性が高いとされ、その一方で氏真が臨時徴税を行いながらその徴税目的としていた家康討伐を行わなかったために今川家中に不満を招いたことが飯尾連龍らの遠州忩劇の一因になったとする指摘がある。また、遠州忩劇の発生は反松平派国衆の反乱と三河一向一揆の勢いが最も強かった時期と重なっており、氏真が臨時徴税を行いながら目的とした松平家康討伐を実施しなかったことが遠州忩劇を引き起こし、更に氏真が遠州忩劇の鎮圧に追われた影響で反松平派国衆の反乱と三河一向一揆を見殺しにしたことによって結果的には家康を滅ぼす好機を逸して彼による三河統一を助けることになったとする氏真の政治的判断ミスを指摘する見解がある。",
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"text": "氏真は祖母・寿桂尼の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年(1560年)後半から永禄5年(1562年)にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人の繋ぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、永禄4年(1561年)3月には長尾景虎の関東侵攻に対して北条家に援兵を送り、川越城での籠城戦に加わらせている。また、永禄4年(1561年)に室町幕府の相伴衆の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる。内政面では、永禄9年(1566年)4月に富士大宮の六斎市を楽市とすることを富士信忠に命じ、徳政の実施を命じたり、役の免除などを行ったりした。楽市は織田信長より先んじた政策であった。しかし、これらの政策を以ても、衰退を止めることはできなかった。",
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"text": "『甲陽軍鑑』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の三浦義鎮(右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている。",
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"text": "里村紹巴が永禄10年(1567年)5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真を初め領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も三条西実澄や冷泉為益が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に風流踊が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真自ら太鼓を叩いて興じたという。同書は三浦右衛門佐が氏真に勧めて風流踊を流行させたとしている。",
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"text": "今川氏と同盟を結ぶ甲斐国の武田信玄は、永禄4年(1561年)の川中島の戦いを契機に北信地域における越後上杉氏との抗争を収束させると外交方針を転換した。桶狭間の後に氏真は駿河に隣接する甲斐河内領主の穴山信友を介して甲駿同盟の確認を行なっており、信玄も今川氏の重臣である岡部元信に侫人が氏真に対して自分に関する讒言をしていることを憂慮して執り成しを依頼する書状を送っているが、永禄8年(1565年)には氏真妹・嶺松院を室とする武田家嫡男の武田義信が廃嫡される事件が発生し、2年後の永禄10年(1567年)11月に嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においては婚姻が解消された。",
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"text": "同時期に武田家では世子・諏訪勝頼の正室に信長養女・龍勝院を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。これにより甲駿関係は緊迫し、氏真は越後国の上杉謙信と和睦し、相模国の北条氏康と共に甲斐への塩止めを行ったというが、武田信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。",
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"text": "永禄11年(1568年)末に甲駿同盟は手切に至り、12月6日に信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した(駿河侵攻)。12月12日、薩埵峠で武田軍を迎撃するため氏真も興津の清見寺に出陣したが、瀬名信輝や葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、駿府も占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。早川殿のための乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失するという逃亡であった。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝を初めとした家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となった。",
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"text": "早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年(1569年)5月17日、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。",
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"text": "しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真及びその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城を以て戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。",
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"text": "同年、今川家臣の堀江城主・大沢基胤が、徳川家康の攻撃に耐えきれず降伏しているが、その際に基胤は氏真に「奮戦してきたが、最早耐えきれない。城を枕に討死しても良いが、それは誠の主家への奉公にはならないでしょう」と、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っている。氏真は今川家の逼迫した情勢を考慮して基胤の意見を受け入れ、「随意にして構わない、これまでの忠誠には感謝している」と、家康の軍門へ下ることを許可しており、また基胤のこれまでの働きを労っている。基胤は家康に降伏し、堀江城主としての地位は容認され、徳川家臣となった。これにより家康との主従関係が逆転し、家康の徳川家による庇護下で江戸時代を生き残ることになる。",
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"text": "掛川城の開城後、氏真は妻・早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った(大平城との見解もある)。のち小田原に移り、早川に屋敷を与えられる。なお、氏真夫妻と共に行動していた人物の中に、伊勢宗瑞(北条早雲)の娘で今川氏重臣・三浦氏員の妻であった長松院がいたが、長松院の弟にあたる北条幻庵が氏康父子らに彼女の救助を掛け合っていたことが知られ、また早川に幻庵の所領があったことから、氏真夫妻の庇護にも幻庵が関与していたとする見方がある。",
"title": "生涯"
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"text": "永禄12年(1569年)5月23日、氏真は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で嫡男の範以はまだ生まれていない)。しかし、実際には縁組から程なく、今川氏の家督を国王丸に譲らされ、氏真の身分は「隠居」ということにされている。また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は越相同盟)。駿河では岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、元亀2年(1571年)頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。",
"title": "生涯"
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"text": "元亀2年(1571年)10月に氏康が没すると、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。従来の説ではこの年の12月に氏真は相模を離れ、家康の庇護下に入ったとされていた。しかし、近年になって元亀3年(1572年)5月に今川義元の13回忌が氏真夫妻によって小田原郊外の久翁寺で行われていたことが判明し、少なくとも家康の元に向かったのはそれ以降のことであったことが確定した。また、この法要の主催が氏真夫妻であることや既に嫡男の範以が生まれていること、北条氏側でも氏政の正室である黄梅院が死去したために北条氏を継ぐ嫡男の確定が急がれたことから、氏真と(北条)氏直との縁組はこの時点で既に解消されて氏真が当主に復帰していたとする指摘もある。いずれにしても、掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。",
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"text": "元亀3年(1572年)に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には伊勢大湊の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "長谷川正一は、天正元年8月に武田信玄の死を知った奥平氏が徳川方に帰参した際に、家康が奥平氏が武田氏から得た今川氏の旧臣の所領の扱いについて氏真に相談していたことを指摘し、信玄の死を知った氏真が駿河奪還の好機とみて家康を頼り、氏政も表向きはともかくこれを阻止する対応は取らなかったのではないか、とする仮説を提示している。",
"title": "生涯"
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"text": "天正3年(1575年)の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』(内閣文庫蔵)に書き残されている。氏真は1月に(恐らく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり三条西実澄ら旧知の公家を訪問したりしている。『信長公記』によると、3月16日に家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と京都の相国寺で会見した。信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家達と共に信長に蹴鞠を披露している。『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。4月、武田勝頼が三河長篠に侵入したことを聞くと(長篠の戦い)京都を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている。氏真に仕えていた朝比奈泰勝は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、内藤昌豊を討ち取り、家康の直臣になったという。",
"title": "生涯"
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"text": "長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している。7月中旬には諏訪原城(現在の静岡県島田市)攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。なお、同年7月19日に宗誾(そうぎん)と署名した文書を発給しており、この時までに剃髪していたことが分かる。",
"title": "生涯"
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"text": "天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、松平家忠・松平康親に補佐させた。しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えている。この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。しかし、この書状について浜松に召還されたのは海老江の方とする解釈を取る研究者もおり、この考えでは氏真は牧野城主を解任されていない可能性もある。長谷川正一は、牧野城番に任じられた松平家忠が氏真が挨拶を受けたとする『家忠日記』天正7年10月8日条の記事があり、その後も少なくても天正9年(1581年)6月までは家忠と「氏真衆」と表記された氏真家臣との交流が見られることから、少なくても氏真はこの時期までは牧野城主の地位にあり、普段は浜松で家康に近侍して、必要に応じて牧野城に通っていた可能性を指摘している。長谷川はある時期(恐らく相遠同盟成立ごろ)まで、氏真が浜松で徳川氏の外交にも関与していたとしている。",
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"text": "牧野城主解任後の動向は不明であるが、天正11年(1583年)7月、近衛前久が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している(『景憲家伝』『明良洪範』)。この後しばらくの消息は再び不明となる。",
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"paragraph_id": 32,
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"text": "天正19年(1591年)9月、山科言経の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経初め冷泉為満・冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。文禄4年(1595年)の『言経卿記』には言経が氏真と共に石川家成を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかの繋がりがあることが推測される。",
"title": "生涯"
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"text": "京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている。",
"title": "生涯"
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"text": "のちの慶長17年(1612年)に、家康から近江国野洲郡長島村(現在の滋賀県野洲市長島)の「旧地」500石を安堵されているが、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない。",
"title": "生涯"
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"text": "慶長3年(1598年)、氏真の次男・品川高久が徳川秀忠に出仕している。慶長12年(1607年)には長男・範以が京都で没する。慶長16年(1611年)には、範以の遺児・範英(直房)が徳川秀忠に出仕した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年(1612年)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。4月に氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している。『寛政重修諸家譜』によれば、氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、慶長18年(1613年)に長年連れ添った早川殿と死別した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "慶長19年(1614年)12月28日、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟・一月長得が江戸市谷の萬昌院で行い、同寺に葬られた。寛文2年(1662年)、萬昌院が牛込に移転するのに際し、氏真の墓は早川殿の墓と共に、今川家知行地である武蔵国多摩郡井草村(現在の東京都杉並区今川二丁目)にある宝珠山観泉寺に移された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "氏真の家督継承時期について、米原正義は弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性を初めて指摘した。",
"title": "研究"
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"text": "有光友學は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする。",
"title": "研究"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "長谷川弘道は『言継卿記』弘治3年(1557年)正月の記載を「屋形五郎殿」と解釈し、この時点で家督継承がなされていたとする。 ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。",
"title": "研究"
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"text": "松平定信が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、和歌や蹴鞠といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。19世紀前半に編集された『徳川実紀』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されている。",
"title": "人物"
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"text": "江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』品第十一では、「我が国を亡し我が家を破る大将」の一種として「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」が挙げられており、氏真が今川家を滅ぼした顛末が述べられている。氏真は心は剛勇であったと描かれているが、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「佞人」を重用して失政を行ったという点に重点を置いて批判されている。",
"title": "人物"
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"text": "一方、武田氏滅亡後に氏真が大名として取り立てられる可能性が囁かれ、家康に仕えていた今川氏の旧臣の中には今川氏に復帰できるのではないか、と期待する動きがあったことが知られており、氏真が家臣達から本当に暗愚で家を保てない人物と見られているのであれば、そのような動きは起こらないのではないか、とする研究家の指摘もされている。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。",
"title": "人物"
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"text": "結果として子孫にも教育で受け継がれ、今川家代々の公家文化の高い能力を活かし、氏真の子孫達が江戸幕府の朝廷や公家との交渉役として高家に抜擢されたので、安土桃山時代(戦国時代)の戦で武功を上げることはできなかったが、役人としては江戸時代になって平和になってから今川家の子孫が文化人の能力で登用されている。また幕末の鳥羽・伏見の戦いで旧江戸幕府軍が敗れ、新政府軍が江戸を目指して進軍すると、高家として朝廷と交流してきた今川範叙が若年寄を兼任した。",
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"text": "家康の徳川家に臣従して、子の今川範以らが江戸幕府(徳川幕府)に重用されているので、平和の時代に今川家の家訓で必要な能力を先取りしたという意味では、義元の代からの公家文化習得が功を奏している。",
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"text": "氏真は生涯に多くの和歌を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1,658首が収録されている。",
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"text": "氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言・冷泉為和や、詩歌に通じていた太原雪斎などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない。",
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"text": "『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である井上宗雄は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが優れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」。氏真は、後水尾天皇選と伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康・氏政も数えられている)。",
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"text": "織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話で知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという。同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に山科言継が鞠を贈ったという『言継卿記』の記載程度しかない。",
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"text": "駿河に下向していた飛鳥井流宗家の飛鳥井雅綱から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『醒睡笑』には、氏真が賀茂神社神官の松下述久に師事したことが記されている。",
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"text": "塚原卜伝に新当流の剣術を学んだ。",
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"text": "なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の今川越前守義真(義直、吉道とも)を始祖と称する「今川流」、仙台藩に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「今川兼流」がある。『武芸流派大事典』は義真を氏真と同一人物と推測しているが、根拠は示されていない。『撃剣叢談』によると、今川越前守義真は駿河今川氏庶流の人物といい、氏真とは別人である。",
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"text": "氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。",
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"text": "妻の早川殿と対になった肖像画(遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰(妙心寺107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる。(『静岡県史研究』9号、1993年)に口絵として大型の図版(モノクロ)が掲載されているほか、『図説静岡県史(静岡県史別編3)』(1998年)が夫妻の肖像をカラーで載せている。近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が氏真像のみを図版として載せている。",
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] |
今川 氏真は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主。 父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は同盟者でもあり妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家から離反した徳川家康と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった。氏真以後の今川家の子孫は徳川家に高家待遇で迎えられ、江戸幕府で代々の将軍に仕えて存続した。
|
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 今川 氏真
| 画像 = 今川氏真像(個人像).jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 =今川氏真像(個人蔵)
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]]){{Efn|『[[寛政重修諸家譜]]』に記された没年齢からの逆算。なお、[[桑田忠親]]は天文8年([[1539年]])生まれと述べている。}}
| 死没 = [[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])
| 改名 = 龍王丸(幼名)<ref name="幼名と仮名">{{Cite journal|和書|author=[[大石泰史]]|title=今川氏真の幼名と仮名|date=1992-02|journal=戦国史研究|issue=23号}}</ref>→氏真→宗誾(法名)
| 別名 = 彦五郎、五郎<ref name="幼名と仮名" />([[仮名 (通称)|通称]])、仙巖斎(斎号)
| 戒名 = 仙岩院殿豊山泰英大居士{{Sfn|今川氏と観泉寺|p=74|loc=「近世今川家歴代法号一覧表」}}{{Efn|以下のような記載もある。
* 「仙岩院豊山泰永居士」(『北条氏過去帳』高野山高室院本〔『[[大日本史料]]』第十二編之十七所収〕)
* 「仙岩院殿量山泰栄大居士」(『[[萬昌院功運寺|牛込御殿山久宝山万昌院]]鬼簿』〔『[[朝野旧聞裒藁]]』七百五十四所載〕)
* 「仙巌院殿機峯宗峻大居士」(『[[今川家略記]]』)
* 「仙巌院殿機峯俊貌大居士」(今川氏真肖像画の雲屋祖泰著賛)}}
| 墓所 = [[東京都]][[中野区]][[上高田]]の[[萬昌院功運寺]]<br />東京都[[杉並区]]今川の[[観泉寺]]
| 官位 = [[従四位|従四位下]]、[[上総国|上総]][[国司|介]]、[[刑部省|刑部大輔]]<ref>『寛政重修諸家譜』による。</ref>{{Efn|永禄4年(1561年)1月20日の足利義輝御内書では氏真が「上総介」とされる。}}、[[治部省|治部大輔]]{{Efn|『[[瑞光院記]]』には永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官したとされる。『[[歴名土代]]』には、永禄4年(1561年)5月8日に治部大輔に任官されたとある<ref>{{Cite book|和書|title=歴名土代|url=https://books.google.co.jp/books?id=RF2CLxUiErIC&lpg=PP1&dq=%E6%AD%B4%E5%90%8D%E5%9C%9F%E4%BB%A3&hl=ja&pg=PA211#v=onepage&q=%E4%BB%8A%E5%B7%9D&f=false|page=286}}</ref>。}}。
| 幕府 = [[室町幕府]]御[[相伴衆]]<br/>[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]][[守護]]?{{Efn|両国の守護は祖父・[[今川氏親]]以来今川氏が世襲しているが、氏真の守護職補任を確認できる史料は残されていない。}}
| 主君 = [[足利義輝]]→[[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]
| 氏族 = [[今川氏]]
| 父母 = 父:[[今川義元]]、母:[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)
| 兄弟 = '''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)、[[一月長得]]、<br/>[[隆福院]]、[[牟礼勝重]]室
| 妻 = 正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]娘)<br>側室:[[庵原忠康]]娘
| 子 = [[吉良義定]]室{{Efn|生年は明らかではないが、子の[[吉良義弥|義弥]](天正14年、1586年)の生年から、駿河時代の子と推測される。氏真が北条氏を頼って逃れた際の文書に「氏真・御二方」を引き取ったという文言があることから、氏真は早川殿と共に娘を伴っていたと考えられることも、推測を補強する<ref>{{Cite journal|和書|author=長谷川弘道|title=今川氏真没落期の家族について|date=1994-02|journal=戦国史研究|issue=27号}}</ref>。}}、'''[[今川範以|範以]]'''、[[品川高久]]、[[西尾安信]]{{Efn|伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。}}、[[澄存]]{{Efn|天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后・[[道澄]]の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。}}<br />猶子:''[[北条氏直]]''
}}
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]、[[戦国大名]]、[[文化人]]。[[今川氏]]12代当主{{Efn|初めて駿河守護となった[[今川範国|範国]]から数えた代数。家祖・[[今川国氏|国氏]]から数えると12代目ということになる。ただし、[[今川範氏]]の嫡男で、室町幕府によって家督継承の承認と駿河守護職への補任が行われた直後に死去した[[今川氏家|氏家]]を5代当主として数えるべきだという見解<ref>{{Cite book|和書|author=大石泰史|title=城の政治戦略|publisher=KADOKAWA|series=角川選書|year=2020|pages=34-35}}</ref>もあり、その考え方に従えば氏真は13代目となる。}}。
父・[[今川義元]]が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが[[武田信玄]]と[[徳川家康]]による[[駿河侵攻]]を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は同盟者でもあり妻の[[早川殿]]の実家である[[後北条氏]]を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家から離反した徳川家康と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった。氏真以後の今川家の子孫は徳川家に[[高家 (江戸時代)|高家]]待遇で迎えられ、[[江戸幕府]]で代々の将軍に仕えて存続した。
== 生涯 ==
=== 家督相続 ===
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、義元と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に[[嫡子]]として生まれる。[[武田信玄]]の甥にあたる。天文23年([[1554年]])、[[北条氏康]]の長女・[[早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]が成立した。
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて[[駿河国]]を訪問した[[山科言継]]の日記『[[言継卿記]]』には、青年期の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河や[[遠江国]]に文書を発給しており{{Efn|初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。}}、この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとするのが、研究上の見解である([[#研究]])。
この時期の[[三河国]]への文書発給は義元の名で行われていることから、義元が新領土である三河の掌握と[[尾張国]]からさらに西方への軍事行動に専念するため、氏真に家督を譲り形式上隠居し本国である駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>{{Cite book|和書|author=有光友學|title=今川義元|series=人物叢書|year=2008|publisher=吉川弘文館|pages=273-275}}</ref>。
永禄3年([[1560年]])5月19日、尾張に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で織田信長に討たれたため、氏真は今川家の領国を継承することとなった。
=== 相次ぐ離反 ===
{{main|三河忩劇|遠州忩劇}}
[[桶狭間の戦い]]では、今川家の重臣([[由比正信]]・[[一宮宗是]]など)や[[国人]]([[松井宗信 (左衛門佐)|松井宗信]]・[[井伊直盛]]など)が多く討死した。義元体制を支えてきた重臣層や有力国人の戦死は今川氏内部の体制の変化を迫るものとなった。三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。
三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。氏真は三河の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みている。
しかし、[[西三河]]地域は桶狭間の合戦後旧領[[岡崎城]]に入った松平元康(永禄6年(1563年)に家康に改名)の勢力下に入った{{Efn|[[丸島和洋]]は松平元康の動きを氏真が看過していたのは、元康の岡崎城への帰還は桶狭間の戦いの勝利に乗じた織田軍の西三河侵攻を警戒していた氏真の許可を得たものであったからだとする新説を出している。丸島説では、元康が氏真の命令で岡崎にて織田軍と対峙しているにも関わらず、三国同盟を重視した氏真が上杉謙信に攻められた小田原城への救援を優先したことで西三河で無援状態となった元康が織田氏と和睦して氏真からの独立を決意したとする<ref>{{Cite journal|和書|author=丸島和洋|authorlink=丸島和洋|title=松平元康の岡崎城帰還|date=2016|journal=戦国史研究|issue=76号}}</ref>。}}。永禄4年([[1561年]])正月には[[足利義輝]]が氏真と元康との和解を促しており<ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己|authorlink=宮本義己|title=松平元康<徳川家康>の早道馬献納―学説とその典拠の批判を通して―|date=2003|journal=大日光|issue=73号}}</ref>{{Efn|[[平野明夫]]は足利義輝の御内書は永禄4年(1561年)1月に出されたとする<ref>{{Cite book|和書|author=平野明夫|title=徳川権力の形成と発展|date=2006-12|publisher=岩田書院}}</ref>。一方、[[柴裕之]]は今川氏真自身が松平元康(徳川家康)の反逆を永禄4年4月の出来事と認識している別の文書<ref>『愛知県史』資料編11・566号「(永禄10年)今川氏真判物」</ref>の存在を指摘して、この日付よりも後にあたる永禄5年(1562年)1月に出された文書とする<ref>{{Cite book|和書|author=柴裕之|title=戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配|date=2014|publisher=岩田書院|series=戦国史研究叢書12 }}</ref>。}}、北条氏康が仲介に入ったこともあるが、元康は今川家と断交し、信長と結ぶことを選ぶ。この事態は氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている<ref>{{Cite journal|和書|author=柴裕之|title=永禄期における今川・松平両氏の戦争と室町幕府―将軍足利義輝の駿・三停戦令の考察を通じて―|journal=地方史研究|issue=315号|year=2005}}/改題所収:{{Cite book|和書|author=柴裕之|chapter=今川・松平両氏の戦争と室町幕府将軍|title=戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配|publisher=岩田書院|year=2014}}</ref>。
[[東三河]]でも、国人領主らは氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。
元康は永禄5年([[1562年]])正月には信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年([[1562年]])2月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父・武田信虎の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう<ref>『校訂松平記』による。</ref>{{Efn|この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。また、[[平山優 (歴史学者)|平山優]]によれば武田信虎は永禄年間には子や孫を氏真に託して自身は室町幕府に仕えて京都と駿河を往復する生活を送っており、氏真と敵対するような状況にはなかったとされる<ref>{{Cite book|和書|author=平山優|title=武田信虎 覆される「悪逆無道」説|publisher=戎光祥出版|series=中世武士選書 42|year=2019|isbn=978-4-86403-335-0|pages=377-379}}</ref>。}}。永禄7年([[1564年]])6月には東三河の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。
遠江においても家臣団・国人の混乱が広がり、[[井伊谷]]の[[井伊直親]]、[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連龍]]、見付の[[堀越氏延]]、犬居の[[天野景泰]]らによる離反の動きが広がった([[遠州忩劇]]、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた井伊直親を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には飯尾連龍が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣・[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った連龍を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣が籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、永禄9年(1566年)4月に開城することによって反乱は終息をみた<ref>{{Cite journal|和書|author=小和田哲男|authorlink=小和田哲男|title=今川家臣団崩壊過程の一齣―「遠州忩劇」をめぐって―|date=1989|journal=静岡大学教育学部研究報告|issue=39号}}</ref>。
話が前後することになるが、氏真は永禄7年(1564年)4月に「三州急用」すなわち松平家康(当時)討伐のために臨時徴税を実施している。これは棟別銭徴収免除の対象者にも適用される徹底した徴収であったが、7月には北条氏康の要請を受けて[[武蔵国]]の[[太田資正]]討伐に向かってしまい、家康討伐は事実上先送りにされた。永禄7年に相次いだ[[酒井忠尚]]・[[吉良義昭]]ら三河国内の反松平派国衆の反乱とそれに続いて発生した[[三河一向一揆]]は氏真の家康討伐の動きに期待して呼応した可能性が高いとされ、その一方で氏真が臨時徴税を行いながらその徴税目的としていた家康討伐を行わなかったために今川家中に不満を招いたことが飯尾連龍らの遠州忩劇の一因になったとする指摘がある。また、遠州忩劇の発生は反松平派国衆の反乱と三河一向一揆の勢いが最も強かった時期と重なっており、氏真が臨時徴税を行いながら目的とした松平家康討伐を実施しなかったことが遠州忩劇を引き起こし、更に氏真が遠州忩劇の鎮圧に追われた影響で反松平派国衆の反乱と三河一向一揆を見殺しにしたことによって結果的には家康を滅ぼす好機を逸して彼による三河統一を助けることになったとする氏真の政治的判断ミスを指摘する見解がある<ref>平山優『新説 家康と三方原合戦-生涯唯一の大敗を読み解く-』NHK出版、2022年 ISBN 978-4-14-088688-5 P14-21.</ref><ref>平山優 『徳川家康と武田信玄』KADOKAWA〈角川選書〉、2022年 ISBN 978-4-04-703712-0 P34-98・327-329.</ref>。
氏真は祖母・[[寿桂尼]]の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年(1560年)後半から永禄5年(1562年)にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人の繋ぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、永禄4年(1561年)3月には[[上杉謙信|長尾景虎]]の関東侵攻に対して北条家に援兵を送り、川越城での籠城戦に加わらせている。また、永禄4年(1561年)に[[室町幕府]]の[[相伴衆]]の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる<ref>{{Cite journal|和書|author=平野明夫|title=今川氏真と室町将軍|date=2000-08|journal=戦国史研究|issue=40号}}</ref>{{Efn|永禄6年(1563年)5月に御相伴衆になったとする<ref>『静岡県史』</ref>。}}。内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を[[楽市・楽座|楽市]]とすることを[[富士信忠]]に命じ<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施を命じたり<ref>{{Citation|和書|author=久保田昌希|authorlink=久保田昌希|chapter=戦国大名今川氏の徳政について|title=日本文化の社会的基盤|date=1976|editor=木代修一先生喜寿記念論文集編集委員会|publisher=雄山閣出版}}</ref>、役の免除などを行ったりした{{Efn|[[若林淳之]]は、氏真が国人的土豪層を基盤とする従来の[[守護大名]]的秩序の行き詰まりを受け、直接年貢負担者([[本百姓]])を基盤とする[[戦国大名]]的秩序への脱皮を図ったが、再編の混乱の中で侵攻を受け成果を見なかったと評価している<ref name="若林">{{Cite journal|和書|author=若林淳之|title=今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―|date=1955|journal=静岡大学教育学部研究報告|issue=6号}}</ref>。}}。楽市は織田信長より先んじた政策であった。しかし、これらの政策を以ても、衰退を止めることはできなかった。
『[[甲陽軍鑑]]』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref name="若林"/>。
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真を初め領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真自ら太鼓を叩いて興じたという。同書は三浦右衛門佐が氏真に勧めて風流踊を流行させたとしている。
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===
{{main|駿河侵攻}}
今川氏と同盟を結ぶ[[甲斐国]]の[[武田信玄]]は、永禄4年(1561年)の[[川中島の戦い#第四次合戦|川中島の戦い]]を契機に北信地域における越後上杉氏との抗争を収束させると外交方針を転換した。桶狭間の後に氏真は駿河に隣接する甲斐河内領主の[[穴山信友]]を介して甲駿同盟の確認を行なっており、信玄も今川氏の重臣である[[岡部元信]]に侫人が氏真に対して自分に関する讒言{{Efn|丸島和洋は桶狭間の戦いの際に武田氏が今川軍に援軍を送っていた可能性を指摘し、にもかかわらず義元も戦死する大敗に至ったために今川家中では武田軍の戦での働きぶりに不満や不信が上っていたと推測する<ref>{{Cite journal|和書|author=丸島和洋|title=武田氏から見た今川氏の外交|journal=静岡県地域史研究|issue=5号|year=2015}}/所収:{{Citation|和書|editor=大石泰史|series=シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻|title=今川義元|publisher=戎光祥出版|date=2019-6|isbn=978-4-86403-325-1|pages=392-395}}</ref>。}}をしていることを憂慮して執り成しを依頼する書状を送っているが、永禄8年([[1565年]])には氏真妹・[[嶺松院]]を室とする武田家嫡男の[[武田義信]]が廃嫡される事件が発生し{{Efn|義信事件。義信事件の経緯については[[武田義信]]を参照。}}、2年後の永禄10年([[1567年]])11月に嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においては婚姻が解消された。
同時期に武田家では世子・[[武田勝頼|諏訪勝頼]]の正室に信長養女・[[龍勝院]]を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。これにより甲駿関係は緊迫し、氏真は[[越後国]]の上杉謙信と和睦し、[[相模国]]の北条氏康と共に甲斐への[[荷留|塩止め]]を行ったという<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、武田信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。
永禄11年([[1568年]])末に甲駿同盟は手切に至り、12月6日に信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した([[駿河侵攻]])。12月12日、[[薩埵峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]・[[朝比奈政貞]]・[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]も占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・[[掛川城]]へ逃れた。早川殿のための乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失するという逃亡であった。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝を初めとした家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となった。
早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真及びその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城を以て戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。
同年、今川家臣の堀江城主・[[大沢基胤]]が、徳川家康の攻撃に耐えきれず降伏しているが、その際に基胤は氏真に「奮戦してきたが、最早耐えきれない。城を枕に討死しても良いが、それは誠の主家への奉公にはならないでしょう」{{Sfn|山田|2013|p=54}}と、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っている{{Efn|山田邦明はこれを「降伏許可状」と呼称している{{Sfn|山田|2013|p=55}}}}。氏真は今川家の逼迫した情勢を考慮して基胤の意見を受け入れ、「随意にして構わない、これまでの忠誠には感謝している」と、家康の軍門へ下ることを許可しており、また基胤のこれまでの働きを労っている{{Sfn|山田|2013|pp=54-55}}。基胤は家康に降伏し、堀江城主としての地位は容認され、徳川家臣となった。これにより家康との主従関係が逆転し、家康の徳川家による庇護下で江戸時代を生き残ることになる。
=== 流転 ===
掛川城の開城後、氏真は妻・早川殿の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[戸倉城_(伊豆国)|伊豆戸倉城]]に入った([[大平城]]との見解もある<ref>{{Cite journal|和書|author=[[黒田基樹]]|title=北条氏の駿河防衛と諸城|date=1996|journal=武田氏研究|issue=17号}}</ref>)。のち[[小田原市|小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref name="松平記">『校訂松平記』</ref>。なお、氏真夫妻と共に行動していた人物の中に、伊勢宗瑞(北条早雲)の娘で今川氏重臣・三浦氏員の妻であった長松院がいたが、長松院の弟にあたる[[北条幻庵]]が氏康父子らに彼女の救助を掛け合っていたことが知られ、また早川に幻庵の所領があったことから、氏真夫妻の庇護にも幻庵が関与していたとする見方がある<ref>{{Cite book|和書|author=黒田基樹|title=戦国北条家一族事典|publisher=戎光祥出版|year=2018|isbn=978-4-86403-289-6|pages=19-21・95-96}}</ref>。
永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で嫡男の[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。しかし、実際には縁組から程なく、今川氏の家督を国王丸に譲らされ、氏真の身分は「隠居」ということにされている<ref name=kuroda2020-12>{{Cite book|和書|author=黒田基樹|chapter=総論 北条氏直の研究|series=シリーズ・中世関東武士の研究 第二九巻|title=北条氏直|publisher=戒光祥出版、|year=2020|isbn=978-4-86403-349-7|page=12}}</ref>。また、[[武田氏]]への共闘を目的に上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある<ref>{{Cite journal|和書|author=久保田昌希|title=懸川開城後の今川氏真と後北条氏|date=1988-09|journal=駒沢史学|issue=39・40合併号}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=酒入陽子|title=懸川開城後の今川氏真について|date=2000-02|journal=戦国史研究|issue=39号}}</ref>。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。
元亀2年(1571年)10月に氏康が没すると、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。従来の説ではこの年の12月に氏真は相模を離れ、家康の庇護下に入ったとされていた{{Efn|『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている}}。しかし、近年になって元亀3年(1572年)5月に今川義元の13回忌が氏真夫妻によって小田原郊外の久翁寺で行われていたことが判明し、少なくとも家康の元に向かったのはそれ以降のことであったことが確定した{{Sfn|長谷川|2020|pp=261-262}}。また、この法要の主催が氏真夫妻であることや既に嫡男の範以が生まれていること、北条氏側でも氏政の正室である[[黄梅院 (北条氏政正室)|黄梅院]]が死去したために北条氏を継ぐ嫡男の確定が急がれたことから、氏真と(北条)氏直との縁組はこの時点で既に解消されて氏真が当主に復帰していたとする指摘もある<ref name=kuroda2020-12/>。いずれにしても、掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。
元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には[[大湊 (伊勢市)|伊勢大湊]]の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が[[浜松]]に滞在していたことがわかる。
長谷川正一は、天正元年8月に武田信玄の死を知った奥平氏が徳川方に帰参した際に、家康が奥平氏が武田氏から得た今川氏の旧臣の所領の扱いについて氏真に相談していたことを指摘し、信玄の死を知った氏真が駿河奪還の好機とみて家康を頼り、氏政も表向きはともかくこれを阻止する対応は取らなかったのではないか、とする仮説を提示している{{Sfn|長谷川|2020|pp=262-267}}。
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に(恐らく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。『[[信長公記]]』によると、3月16日に家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見した。信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家達と共に信長に蹴鞠を披露している{{Efn|氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。}}。『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。4月、武田勝頼が三河長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京都を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref name="eisou"/>{{Efn|恐らく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。}}。氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref name="松平記"/>。
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。7月中旬には[[諏訪原城]](現在の[[静岡県]][[島田市]])攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。なお、同年7月19日に'''宗誾'''(そうぎん)と署名した文書を発給しており、この時までに剃髪していたことが分かる{{Sfn|長谷川|2020|p=263}}。
天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・[[海老江弥三郎]]に暇を与えている<ref name="souran" />。この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。しかし、この書状について浜松に召還されたのは海老江の方とする解釈を取る研究者もおり、この考えでは氏真は牧野城主を解任されていない可能性もある。長谷川正一は、牧野城番に任じられた松平家忠が氏真が挨拶を受けたとする『家忠日記』天正7年10月8日条の記事があり、その後も少なくても天正9年(1581年)6月までは家忠と「氏真衆」と表記された氏真家臣との交流が見られることから、少なくても氏真はこの時期までは牧野城主の地位にあり、普段は浜松で家康に近侍して、必要に応じて牧野城に通っていた可能性を指摘している{{Sfn|長谷川|2020|pp=272-277}}。長谷川はある時期(恐らく[[相遠同盟]]成立ごろ)まで、氏真が浜松で徳川氏の外交にも関与していたとしている{{Sfn|長谷川|2020|pp=278-279}}。
=== 後半生 ===
牧野城主解任後の動向は不明であるが、天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している(『景憲家伝』『明良洪範』)。この後しばらくの消息は再び不明となる。
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経初め[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかの繋がりがあることが推測される{{Sfn|今川氏と観泉寺|p=671|loc=井上宗雄「今川氏とその学芸」}}。
京都在住時代の氏真は、[[豊臣秀吉]]あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている{{Efn|『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。}}。
のちの慶長17年([[1612年]])に、家康から[[近江国]][[野洲郡]]長島村(現在の[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない{{Efn|今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの{{Sfn|今川氏と観泉寺|p=125|loc=『神社明細帳』所収の長島神社由緒}}、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの{{Sfn|今川氏と観泉寺|p=11|loc=野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」}}など諸説ある。}}。
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真の次男・[[品川高久]]が[[徳川秀忠]]に出仕している。慶長12年([[1607年]])には長男・[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]](直房)が徳川秀忠に出仕した。
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。4月に氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref><ref>[https://president.jp/articles/-/69002?page=1 信長でも秀吉でも信玄でもない…「徳川家康にもっとも影響を与えた戦国大名」の数奇な生涯]</ref>。『寛政重修諸家譜』によれば、氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った早川殿と死別した。
慶長19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟・[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])、萬昌院が牛込に移転するのに際し、氏真の墓は早川殿の墓と共に、今川家知行地である[[武蔵国]][[多摩郡]]井草村(現在の[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)にある宝珠山[[観泉寺]]に移された。
== 研究 ==
氏真の家督継承時期について、[[米原正義]]は弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性を初めて指摘した<ref name="yonehara">{{Harvnb|米原|1976|loc=「今川氏の文芸」}}</ref>。
[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする<ref>{{Cite journal|和書|author=有光友學|title=今川義元-氏真の代替りについて|date=1982|journal=戦国史研究|issue=3号}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=有光友學|title=今川義元の生涯|date=1993|journal=静岡県史研究|issue=9号}}</ref>。
[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年(1557年)正月の記載を「屋形五郎殿」と解釈し、この時点で家督継承がなされていたとする<ref>{{Cite journal|和書|author=長谷川弘道|title=今川氏真の家督継承について|date=1992|journal=戦国史研究|issue=23号}}</ref>。
ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。
== 人物 ==
=== 後世の評価 ===
[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは[[足利義政|東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。19世紀前半に編集された『[[徳川実紀]]』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されている。
江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一では、「我が国を亡し我が家を破る大将」の一種として「鈍過たる大将(馬嫁<!--ママ-->なる大将)」が挙げられており、氏真が今川家を滅ぼした顛末が述べられている。氏真は心は剛勇であったと描かれているが{{Efn|永禄6年、三河出陣中の飯尾連龍の反乱について「さすがに氏真公心は剛にてまします故、少しも騒ぎ給はず」{{Sfn|佐藤訳|p=217}}。}}、譜代の賢臣を重んじず、[[三浦義鎮]]のような「佞人」を重用して失政を行ったという点に重点を置いて批判されている{{Efn|「子息氏真公代になり、猶もって作法悪しくして、家に伝はる家老朝比奈兵衛太夫その外よき者四、五人ありといへども、氏真公その四、五人の衆を崇敬ましまさず、三浦右衛門と申す者のまゝになり給ひ、三浦右衛門が身よりの者、あるいは三浦右衛門が気に合ふたる衆ばかり仕合わせよく、左道なる仕置故、三河国大形敵となる」{{Sfn|佐藤訳|p=217}}、「氏真公心は剛にてましませど、ちと我がまゝに御座候故、目利なさるゝ衆みな不賢とははじめより見えつれども、後に全く知るゝなり」{{Sfn|佐藤訳|p=218}}。}}。
一方、武田氏滅亡後に氏真が大名として取り立てられる可能性が囁かれ、家康に仕えていた今川氏の旧臣の中には今川氏に復帰できるのではないか、と期待する動きがあったことが知られており、氏真が家臣達から本当に暗愚で家を保てない人物と見られているのであれば、そのような動きは起こらないのではないか、とする研究家の指摘もされている<ref>{{Citation|和書|author=遠藤英弥|chapter=義元の死後、家康と今川家との関係はどうなったのか|editor=平野明夫|title=家康研究の最前線ーここまでわかった「東照神君」の実像|publisher=洋泉社|year=2017}}</ref>{{Sfn|長谷川|2020|pp=278-279}}。
=== 文化人としての氏真 ===
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。
結果として子孫にも教育で受け継がれ、今川家代々の公家文化の高い能力を活かし、氏真の子孫達が江戸幕府の朝廷や公家との交渉役として[[高家 (江戸時代)|高家]]に抜擢されたので、安土桃山時代(戦国時代)の戦で武功を上げることはできなかったが、役人としては江戸時代になって平和になってから今川家の子孫が文化人の能力で登用されている。また幕末の[[鳥羽・伏見の戦い]]で旧江戸幕府軍が敗れ、新政府軍が江戸を目指して進軍すると、[[高家 (江戸時代)|高家]]として朝廷と交流してきた[[今川範叙]]が[[若年寄]]を兼任した。
家康の徳川家に臣従して、子の今川範以らが江戸幕府(徳川幕府)に重用されているので、平和の時代に今川家の家訓で必要な能力を先取りしたという意味では、義元の代からの公家文化習得が功を奏している。
==== 和歌 ====
[[File:今川氏真(集外三十六歌仙).jpg|thumb|『集外三十六歌仙』の今川氏真]]
氏真は生涯に多くの[[和歌]]を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1,658首が収録されている。
氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言・[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない{{Sfn|今川氏と観泉寺|p=671|loc=井上宗雄「今川氏とその学芸」}}。
『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが優れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」{{Sfn|今川氏と観泉寺|p=671|loc=井上宗雄「今川氏とその学芸」}}。氏真は、[[後水尾天皇]]選と伝えられる[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康・氏政も数えられている)。
==== 蹴鞠 ====
織田信長の前で[[蹴鞠]]を披露した逸話で知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという<ref group="注釈">「今川殿鞠を遊ばさるゝの由聞食及ばれ、三月廿日、相国寺において御所望」。</ref>。同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に山科言継が鞠を贈ったという『言継卿記』の記載程度しかない<ref>[https://www.asagei.com/excerpt/244578 歴史発見!親の仇・織田信長をうならせた…今川義元の子・氏真「名人級の技」]</ref>。
駿河に下向していた[[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『[[醒睡笑]]』には、氏真が賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。
==== 剣術 ====
[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]の[[剣術]]を学んだ<ref name="bugeiryuuha">{{Citation|和書|editor1=[[綿谷雪]]|editor2=[[山田忠史]]|title=武芸流派大事典|publisher=新人物往来社|year=1969}}</ref>。
なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の[[今川義真|今川越前守義真]](義直、吉道とも)を始祖と称する「今川流」、[[仙台藩]]に伝わる剣・居合の流派に[[今川重家|今川越前守重家]](吉道とも)を始祖と称する「今川兼流」がある。『武芸流派大事典』は義真を氏真と同一人物と推測しているが<ref name="bugeiryuuha" />、根拠は示されていない。『[[撃剣叢談]]』によると、今川越前守義真は駿河今川氏庶流の人物といい、氏真とは別人である<ref>{{Cite book|和書|author=笹間良彦|authorlink=笹間良彦|title=図説日本武道辞典|edition=普及版|publisher=柏書房|year=2003}}</ref>。
=== 交友関係 ===
;[[山科言継]]
:言継の義母([[山科言綱]]の正室)・[[黒木の方]]が寿桂尼の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経|言経]]との交友も深かった。
;[[里村紹巴]]
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。
;[[乗阿|一華堂乗阿]]
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。
;[[松平家忠]]
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。
;[[沢庵宗彭]]
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。
=== 逸話 ===
氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。
*『[[続武家閑談]]』は、天正10年(1582年)に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れては長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。
=== 肖像画 ===
妻の早川殿と対になった[[肖像画]](遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰([[妙心寺]]107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる<ref>{{Cite journal|和書|author=小林明|title=紙本著色今川氏真・同夫人像について|date=1993|journal=静岡県史研究|issue=9号}}</ref>。(『静岡県史研究』9号、1993年)に口絵として大型の図版(モノクロ)が掲載されているほか、『図説静岡県史(静岡県史別編3)』(1998年)が夫妻の肖像をカラーで載せている。近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が氏真像のみを図版として載せている。早川殿の肖像画と共に[[静岡市歴史博物館]]の開館時より展示されている<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/637597 今川氏真公の幻の肖像画、米国の所蔵者から展示許可 静岡市歴博]</ref>。
=== 偏諱を受けた人物 ===
* 岡部真幸([[岡部元信]]の別名)
* [[岡部真堯]](元信の子)
* [[三浦真明]](軍記物では三浦義鎮として知られる)
== 登場する作品 ==
{{Dl2
| 小説 |
* [[赤木駿介]]『天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真』([[新潮社]]、1991年)、{{ISBN2|978-4-1038-1901-1}}、{{ISBN2|4103819014}}。
* [[戸部新十郎]]「睡猫」([[徳間文庫]]『秘剣龍牙』収録、1999年)、{{ISBN2|978-4-1989-1163-8}}。
* [[伊東潤]]『国を蹴った男』([[講談社]]、2012年10月)、{{ISBN2|978-4-0621-7991-1}}。
* [[蝸牛くも]]『天下一蹴 今川氏真無用剣』([[SBクリエイティブ]]、2019年1月)、{{ISBN2|978-4-7973-9813-7}}。
* [[秋山香乃]]『氏真、寂たり』([[静岡新聞社]]、2019年9月)、{{ISBN2|978-4-7838-1120-6}}。
* [[今村翔吾]]『蹴れ、彦五郎』([[祥伝社]]『蹴れ、彦五郎』収録の表題作、2022年7月)、{{ISBN2|978-4-3966-3627-2}}。
| テレビドラマ |
* 『[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]』([[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、1983年) 演:[[林与一]]
* 『[[徳川家康 (1988年のテレビドラマ)|徳川家康]]』 ([[TBS大型時代劇スペシャル]]、1988年) 演:[[沖田浩之]]
* 『[[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]』(NHK大河ドラマ、1988年) 演:[[神田雄次]]
* 『[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]』(NHK大河ドラマ、2007年) 演:[[風間由次郎]]
* 『[[おんな城主 直虎]]』(NHK大河ドラマ、2017年) 演:[[尾上松也 (2代目)|尾上松也]]
* 『[[どうする家康]]』 (NHK大河ドラマ、2023年) 演︰[[溝端淳平]]
| マンガ |
* [[湯野由之]](漫画)、[[蝸牛くも]](原作)、[[伊藤悠]](キャラクター原案)『天下一蹴 -今川氏真無用剣-』([[ヤングガンガン]]、[[ガンガンONLINE]]、[[マンガUP!]]、[[スクウェア・エニックス]]、[[2018年]]11月-、上記作品のコミカライズ)
}}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|editor=観泉寺史編纂刊行委員会|title=今川氏と観泉寺|date=1974|publisher=[[吉川弘文館]]|ref={{SfnRef|今川氏と観泉寺}}}}
* {{Citation|和書|last=米原|first=正義|author=米原正義|title=戦国武士と文芸の研究|date=1976|publisher=[[桜楓社]]}}
* {{Citation|和書|title=静岡県史 通史編2 中世|date=1997}}
* {{Cite book|和書|translator=[[佐藤正英]]|title=[[甲陽軍鑑]]|date=2006|series=ちくま学芸文庫|ref={{SfnRef|佐藤訳}}}}
* {{Citation|和書|last=山田|first=邦明|authorlink=山田邦明|title=日本史のなかの戦国時代|date=2013|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4-634-54695-0}}
* {{Citation|和書|last=長谷川|first=正一|chapter=天正元年以降における今川氏真の政治的地位|editor=戦国史研究会|title=論集 戦国大名今川氏|publisher=岩田書院|year=2020|pages=257-286|isbn=978-4-86602-098-3}}
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{{今川氏歴代当主||第12代|1558年 - 1611年}}
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[[Category:戦国大名]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:今川義元の子女|うしさね]]
[[Category:駿河今川氏|うしさね]]
[[Category:16世紀アジアの統治者]]
[[Category:室町・安土桃山時代の歌人]]
[[Category:江戸時代の歌人]]
[[Category:16世紀の歌人]]
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[[Category:1538年生]]
[[Category:1615年没]]
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|
17,247 |
月齢
|
月齢(げつれい)には、次のような意味がある。
暦法における月齢(げつれい)とは、直前の朔の瞬間からの経過時間を日を単位として表したものである。通常「ある日の月齢」といえばその地域の標準時正午の月齢である。 したがって、朔の瞬間の時刻によって月齢には後述するように小数で表される。
月齢はおおむね月の満ち欠け(月相)と連動するため、月相の目安として用いることができる。 ちなみに通常、月相は太陽と月の黄経差を28分割した整数で表すのに対し、月齢は小数点以下第1位まで求める。
ただし、月齢と月相の対応は一定ではなく、例えば、望の瞬間の月齢は13.8から15.8の間で変動する。すなわち、月齢14の日が満月とは限らない。これは月の軌道が楕円であるため、満ち欠けの速度が一定にはならないこと、さらに月の近地点が太陽の摂動により移動していることによる。
旧暦では朔日(天保暦では朔の瞬間を含む日)が第1日目である。したがって、月齢の端数を四捨五入して1を足せば旧暦の日付とおおよそ一致する。ただし、朔の瞬間が午後の場合は、月齢を負にはせず、その旧暦月1日の正午月齢は前月の最終日の翌日の数値(正の値)とする。
具体的な月齢の計算結果は以下のようになる。
グレゴリオ暦の日付 y 年 m 月 d 日から月齢 age 日を求める略算法として、堀源一郎が1968年に『天文月報』で発表した簡易月齢計算法がよく知られている。
上の内容を数式にしたのが、次式である。y 年 m 月 d 日の月齢 age 日を求める。ここで、% は剰余演算子とし、b(m) は上表による値とする。例: 62%30 = 2、b(5) = 2。
また,次の「満月方程式」によって、m 月の満月の日 D を求めることができる。これは非常に簡単だが、やはり数日の誤差がある。
ここで、p は、2020年は 12、2021年は 1、2022年は 20、...... と、年ごとに 11 ずつ引いていく。引けなくなったら 30 を足してから 11 を引く。
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}
] |
月齢(げつれい)には、次のような意味がある。 暦法における月齢。本項で解説。
年齢を月単位で表したもの。主に1歳未満の赤ちゃんや家畜に対して使用される。 暦法における月齢(げつれい)とは、直前の朔の瞬間からの経過時間を日を単位として表したものである。通常「ある日の月齢」といえばその地域の標準時正午の月齢である。
したがって、朔の瞬間の時刻によって月齢には後述するように小数で表される。
|
'''月齢'''(げつれい)には、次のような意味がある。
* 暦法における月齢。本項で解説。
* [[年齢]]を[[月 (暦)|月]]単位で表したもの。主に1歳未満の[[赤ちゃん]]や[[家畜]]に対して使用される。
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{{出典の明記|date=2017-05-17}}
{{参照方法|date=2017-05-17}}
暦法における'''月齢'''(げつれい)とは、直前の[[朔]]の瞬間からの経過時間を[[日]]を単位として表したものである<ref name="astron">『シリーズ現代の天文学第1巻 人類の住む宇宙』日本評論社, 2007, p.330.</ref>。通常「ある日の月齢」といえばその地域の[[標準時]][[正午]]の月齢である<ref name="qnaoj">{{Cite web|和書|url=https://www.nao.ac.jp/faq/a0204.html |title=「月齢」ってなに?なぜ小数がつくの? |publisher=国立天文台 |accessdate=2019-11-26}}</ref>。
したがって、朔の瞬間の時刻によって月齢には後述するように小数で表される。
== 月齢と月相 ==
月齢はおおむね[[月]]の満ち欠け([[月相]])と連動するため、月相の目安として用いることができる<ref name="qnaoj"></ref>。
ちなみに通常、月相は[[太陽]]と月の[[黄経]]差を28分割した整数で表すのに対し、月齢は[[小数点]]以下第1位まで求める。
* 朔(新月)、月齢 0
* 三日月、月齢3<ref name="astron"></ref>
* 上弦、月齢6.6から8.2<ref name="naojphase">{{Cite web|和書|date= |url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B7EEA4CECBFEA4C1B7E7A4B12FB7EECEF0A4C8CBFEA4C1B7E7A4B1.html |title=暦Wiki/月の満ち欠け/月齢と満ち欠け - 国立天文台暦計算室 |publisher=国立天文台 |accessdate=2019-11-26}}</ref>
* 望(満月)、月齢13.8から15.8<ref name="naojphase"></ref>
* 下弦、月齢21.4から22.8<ref name="naojphase"></ref>
ただし、月齢と月相の対応は一定ではなく、例えば、望の瞬間の月齢は13.8から15.8の間で変動する。すなわち、月齢14の日が満月とは限らない。これは月の[[軌道 (力学)|軌道]]が[[楕円]]であるため、満ち欠けの速度が一定にはならないこと、さらに月の近地点が太陽の摂動により移動していることによる<ref name="naojphase"></ref><ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B7EEA4CEB8F8C5BEB1BFC6B02FB6E1C3CFC5C0CAFDB8FE.html |title=暦Wiki/月の公転運動/近地点方向 - 国立天文台暦計算室 |publisher=国立天文台 |accessdate=2019-11-26}}</ref>。
== 旧暦との関係 ==
[[旧暦]]では[[朔日]]([[天保暦]]では朔の[[瞬間]]を含む[[日]])が第1日目である<ref>岡村定矩ほか編『人類の住む宇宙』シリーズ現代の天文学第1巻、日本評論社, 2007, p.321.</ref>。したがって、月齢の端数を[[端数処理#四捨五入|四捨五入]]して1を足せば旧暦の日付とおおよそ一致する。ただし、朔の瞬間が午後の場合は、月齢を[[正の数と負の数|負]]にはせず、その旧暦月1日の正午月齢は前月の最終日の翌日の数値(正の値)とする。
具体的な月齢の計算結果は以下のようになる。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!colspan="4" rowspan="2"|朔の瞬間の時刻t<br/>(旧暦1日)
!colspan="11"|旧暦の日付ごとの月齢
|-
!1日
!2日
!3日
!4日
!5日
!6日
!7日
!8日
!9日
!10日
!n日
|-
!rowspan="6"|午<br/>前
|style="text-align:right; border-right:none"|0:00
|style="border-width:1px 0"|≦ t ≦
|style="text-align:right; border-left:none"|1:12
|0.5
|1.5
|2.5
|3.5
|4.5
|5.5
|6.5
|7.5
|8.5
|9.5
|0.5+n-1=n-0.5
|-
|style="text-align:right; border-right:none"|1:12
|style="border-width:1px 0"|< t ≦
|style="text-align:right; border-left:none"|3:36
|0.4
|1.4
|2.4
|3.4
|4.4
|5.4
|6.4
|7.4
|8.4
|9.4
|0.4+n-1=n-0.6
|-
|style="text-align:right; border-right:none"|3:36
|style="border-width:1px 0"|< t ≦
|style="text-align:right; border-left:none"|6:00
|0.3
|1.3
|2.3
|3.3
|4.3
|5.3
|6.3
|7.3
|8.3
|9.3
|0.3+n-1=n-0.7
|-
|style="text-align:right; border-right:none"|6:00
|style="border-width:1px 0"|< t ≦
|style="text-align:right; border-left:none"|8:24
|0.2
|1.2
|2.2
|3.2
|4.2
|5.2
|6.2
|7.2
|8.2
|9.2
|0.2+n-1=n-0.8
|-
|style="text-align:right; border-right:none"|8:24
|style="border-width:1px 0"|< t ≦
|style="text-align:right; border-left:none"|10:48
|0.1
|1.1
|2.1
|3.1
|4.1
|5.1
|6.1
|7.1
|8.1
|9.1
|0.1+n-1=n-0.9
|-
|style="text-align:right; border-right:none"|10:48
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|style="text-align:right; border-left:none"|12:00
|0.0
|rowspan="2"|1.0
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|0.0+n-1=n-1.0
|-
!rowspan="6"|午<br/>後
|style="text-align:right; border-right:none"|12:00
|style="border-width:1px 0"|< t ≦
|style="text-align:right; border-left:none"|13:12
|rowspan="6"|前月<br/>末日<br/>の<br/>月齢<br/>+1
|1.0+n-2=n-1.0
|-
|style="text-align:right; border-right:none"|13:12
|style="border-width:1px 0"|< t ≦
|style="text-align:right; border-left:none"|15:36
|0.9
|1.9
|2.9
|3.9
|4.9
|5.9
|6.9
|7.9
|8.9
|0.9+n-2=n-1.1
|-
|style="text-align:right; border-right:none"|15:36
|style="border-width:1px 0"|< t ≦
|style="text-align:right; border-left:none"|18:00
|0.8
|1.8
|2.8
|3.8
|4.8
|5.8
|6.8
|7.8
|8.8
|0.8+n-2=n-1.2
|-
|style="text-align:right; border-right:none"|18:00
|style="border-width:1px 0"|< t ≦
|style="text-align:right; border-left:none"|20:24
|0.7
|1.7
|2.7
|3.7
|4.7
|5.7
|6.7
|7.7
|8.7
|0.7+n-2=n-1.3
|-
|style="text-align:right; border-right:none"|20:24
|style="border-width:1px 0"|< t ≦
|style="text-align:right; border-left:none"|22:48
|0.6
|1.6
|2.6
|3.6
|4.6
|5.6
|6.6
|7.6
|8.6
|0.6+n-2=n-1.4
|-
|style="text-align:right; border-right:none"|22:48
|style="border-width:1px 0"|< t <
|style="text-align:right; border-left:none"|24:00
|0.5
|1.5
|2.5
|3.5
|4.5
|5.5
|6.5
|7.5
|8.5
|0.5+n-2=n-1.5
|}
== グレゴリオ暦からの月齢計算 ==
[[グレゴリオ暦]]の日付 {{mvar|y}} 年 {{mvar|m}} 月 {{mvar|d}} 日から月齢 age 日を求める略算法として、[[堀源一郎]]が1968年に『天文月報』で発表した簡易月齢計算法がよく知られている<ref>堀源一郎「[https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1968/pdf/19680704.pdf おに・おに・にし-簡易月齢計算法]」『天文月報』第61巻第7号、[[日本天文学会]]、1968年7月。</ref>。
* 西暦年数 {{mvar|y}} から 11 を引き、その値を 19 で割った余りを求め、11 を掛ける。この値を {{mvar|a}} とする。
* 月数 {{mvar|m}} から、下表によって {{mvar|b}} <!-- c のほうがよいか。原論文では f を用いている。-->を求める。
:{| class="wikitable" style="text-align:center"
!月 ({{mvar|m}}) !!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!10!!11!!12
|-
! {{mvar|b}}
|0||2||0||2||2||4||5||6||7||8||9||10
|}
* {{mvar|b}} は、6月までは「おにおににし (020224)」と[[語呂合わせ]]で覚え、7月以降は {{mvar|m}}−2 として求める。{{mvar|a}}+{{mvar|b}} に日 {{mvar|d}} を加える。求めた値を 30 で割った余りが、その日のおおよその月齢である。ただし、最大 2 程度の誤差がある。
上の内容を数式にしたのが、次式である。{{mvar|y}} 年 {{mvar|m}} 月 {{mvar|d}} 日の月齢 age 日を求める。ここで、% は[[除法の原理#剰余演算|剰余演算子]]とし、{{mvar|b}}({{mvar|m}}) は上表による値とする。例: 62%30 = 2、{{mvar|b}}(5) = 2。
: age = ((({{mvar|y}}−11)%19)×11+{{mvar|b}}({{mvar|m}})+{{mvar|d}})%30
また,次の「満月方程式」によって、{{mvar|m}} 月の満月の日 {{mvar|D}} を求めることができる<ref>{{mvar|p}}−{{mvar|m}} が負になったら、30 を足す。</ref>。これは非常に簡単だが、やはり数日の誤差がある。
: {{mvar|D}} = ({{mvar|p}}−{{mvar|m}})%30
ここで、{{mvar|p}} は、<!--2009年は 14、2010年は 3、2011年は 22、-->2020年は 12、2021年は 1、2022年は 20、…… と、年ごとに 11 ずつ引いていく。引けなくなったら 30 を足してから 11 を引く。<!-- 閏年を考慮すべき。-->
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[エパクト]]
* [[朔望月]]
* [[月 (暦)]]
== 外部リンク ==
* [http://koyomi8.com/moonage.htm 月齢カレンダー - こよみのページ]
* https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/ 国立天文台
{{月名}}
{{DEFAULTSORT:けつれい}}
[[Category:月]]
[[Category:太陰暦]]
[[Category:太陰太陽暦]]
|
2003-09-18T10:58:02Z
|
2023-11-23T21:25:29Z
| false | false | false |
[
"Template:出典の明記",
"Template:参照方法",
"Template:Mvar",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:月名"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E9%BD%A2
|
17,248 |
1559年
|
1559年(1559 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
[
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"text": "1559年(1559 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。",
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] |
1559年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|1559}}
{{year-definition|1559}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]]:[[己未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[永禄]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2219年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]]:[[嘉靖]]38年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]]:[[明宗 (朝鮮王)|明宗]]14年
** [[檀君紀元|檀紀]]3892年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]]:[[光宝]]6年
** [[黎朝|後黎朝]]:[[正治 (黎朝)|正治]]2年
* [[仏滅紀元]]:2101年 - 2102年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:966年 - 967年
* [[ユダヤ暦]]:5319年 - 5320年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1559|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[1月15日]] - {{仮リンク|エリザベス1世の戴冠式|en|Coronation of Elizabeth I}}
* [[3月10日]] - (永禄2年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[織田信長]]が上洛して[[足利義輝]]に謁見する{{要出典|date=2021-03}}。
* [[3月]] - 織田信長が[[尾張国|尾張]][[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]を攻め、[[織田信賢]]を追放して尾張を統一する{{要出典|date=2021-03}}。
* [[4月3日]] - [[カトー・カンブレジ条約]]。
* Realdo ColomboまたはRenaldus Colombusが[[陰核]]を発見した(マテオ・レアルド・コロンボ)。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1559年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月21日]]([[嘉靖]]38年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[ヌルハチ]]{{要出典|date=2021-04}}、[[後金]]王朝(後の[[清]])創始者(+ [[1626年]])
* [[4月13日]]([[永禄]]2年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]) - [[松平信康]]、[[徳川家康]]の[[嫡男]](+ [[1579年]]<ref>{{Harvnb|谷口克広|2007|pp=203-211}}</ref>)
* [[大谷吉継]]、[[武将]]・[[大名]](+ [[1600年]])
* [[春桂院]]、[[前田利家]]の長女、[[前田長種]]室(+ [[1616年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1559年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[9月6日]] - [[ガロファロ]]、[[画家]](* [[1481年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1559}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}}
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[[Category:1559年|*]]
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|
17,249 |
モース硬度
|
モース硬度(モースこうど)、モース硬さ(モースかたさ、英語: Mohs hardness)またはモース硬さスケール(モースかたさスケール、英: Mohs' scale of hardness)は、主に鉱物に対する硬さの尺度の1つ。硬さの尺度として、1から10までの整数値を考え、それぞれに対応する標準鉱物を設定する。
ここで言う硬さの基準は「あるものでひっかいたときの傷のつきにくさ」であり、「たたいて壊れるかどうか」の堅牢さではない(そちらは靱性を参照)。モース硬度が最高のダイヤモンドであっても衝撃には弱く、ハンマーなどである一定の方向からたたくことによって容易に砕ける。また、これらの硬度は相対的なものであるため、モース硬度4.5と示されている2つの鉱物があったとしても、それらは同じ硬度とは限らない。これは、蛍石(硬度4)で引っかくと傷がつかず、燐灰石(硬度5)で引っかくと傷つくということを示すのみである。
数値間の硬度の変化は比例せず、硬度1と2の間の差が小さく、9と10の間の硬度の差が大きいことも特徴的である。一見すると不便な見分け方のようでもあるが、分析装置のない野外においては、鉱物を同定するために役立つ簡便で安価な方法である。
モース硬度の「モース(Mohs)」は、この尺度を考案したドイツの鉱物学者フリードリッヒ・モースに由来している。
「滑石方(かっせきほう)にして蛍燐(けいりん)長く、石黄鋼(いしおうこう)にして金色なり」という語呂合わせの覚え方がある。
標準鉱物と試料物質をこすり、ひっかき傷の有無で硬さを測定する。現実に存在する化学物質(人工物、天然物)の中で、モース硬度として最も硬いものはダイヤモンドである。
研磨剤などの硬さの指標として、工業分野でよく利用される物質を追加して15段階に修正された修正モース硬度が使われる場合がある。
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モース硬度(モースこうど)、モース硬さまたはモース硬さスケールは、主に鉱物に対する硬さの尺度の1つ。硬さの尺度として、1から10までの整数値を考え、それぞれに対応する標準鉱物を設定する。 ここで言う硬さの基準は「あるものでひっかいたときの傷のつきにくさ」であり、「たたいて壊れるかどうか」の堅牢さではない(そちらは靱性を参照)。モース硬度が最高のダイヤモンドであっても衝撃には弱く、ハンマーなどである一定の方向からたたくことによって容易に砕ける。また、これらの硬度は相対的なものであるため、モース硬度4.5と示されている2つの鉱物があったとしても、それらは同じ硬度とは限らない。これは、蛍石(硬度4)で引っかくと傷がつかず、燐灰石(硬度5)で引っかくと傷つくということを示すのみである。 数値間の硬度の変化は比例せず、硬度1と2の間の差が小さく、9と10の間の硬度の差が大きいことも特徴的である。一見すると不便な見分け方のようでもあるが、分析装置のない野外においては、鉱物を同定するために役立つ簡便で安価な方法である。 モース硬度の「モース(Mohs)」は、この尺度を考案したドイツの鉱物学者フリードリッヒ・モースに由来している。 「滑石方(かっせきほう)にして蛍燐(けいりん)長く、石黄鋼(いしおうこう)にして金色なり」という語呂合わせの覚え方がある。
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{{出典の明記|date=2012年2月}}
[[File:Mohssche-haerteskala hg.jpg|thumb|モース硬度計。硬度1から10までの標準鉱物が箱の中に入っている。]]
'''モース硬度'''(モースこうど)、'''モース硬さ'''(モースかたさ、{{Lang-en|Mohs hardness}}<ref>{{Cite book|和書|author=文部省|authorlink=文部省|coauthors =[[日本物理学会]]編|title =[[学術用語集]] 物理学編|year =1990|publisher =[[培風館]]|isbn =4-563-02195-4}}</ref>)または'''モース硬さスケール'''(モースかたさスケール、{{Lang-en-short|Mohs' scale of hardness}}<ref>{{Cite book|和書|author =文部省編|title =学術用語集 地学編|year =1984|publisher =[[日本学術振興会]]|isbn =4-8181-8401-2}}</ref>)は、主に[[鉱物]]に対する[[硬さ]]の[[尺度]]の1つ。硬さの尺度として、1から10までの[[整数]]値を考え、それぞれに対応する[[標準鉱物]]を設定する。
ここで言う硬さの基準は「あるものでひっかいたときの傷のつきにくさ」であり、「たたいて壊れるかどうか」の堅牢さではない(そちらは[[靱性]]を参照)。モース硬度が最高のダイヤモンドであっても衝撃には弱く、[[ハンマー (地質調査)|ハンマー]]などである一定の方向からたたくことによって容易に砕ける。また、<!--ここから出典あり-->これらの硬度は相対的なものであるため{{Sfn|黒澤|2011|p=101}}、モース硬度4.5と示されている2つの鉱物があったとしても、それらは同じ硬度とは限らない。これは、[[蛍石]](硬度4)で引っかくと傷がつかず、[[燐灰石]](硬度5)で引っかくと傷つくということを示すのみである。
数値間の硬度の変化は[[比例]]せず、硬度1と2の間の差が小さく、9と10の間の硬度の差が大きいことも特徴的である。一見すると不便な見分け方のようでもあるが、分析装置のない野外においては、鉱物を同定するために役立つ簡便で安価な方法である。
モース硬度の「モース(Mohs)」は、この尺度を考案した[[ドイツ]]の鉱物学者[[フリードリッヒ・モース]]に由来している。
「滑石方(かっせきほう)にして蛍燐(けいりん)長く、石黄鋼(いしおうこう)にして金色なり」という語呂合わせの覚え方がある。
== 標準鉱物 ==
{| class="wikitable sortable" style="text-align:center; font-size: 95%"
|+ 標準鉱物のモース硬度
!モース硬度!!標準鉱物!!化学式!!絶対硬度{{要説明|date=2021年11月}}!!画像!!解説
|-
|'''1'''||[[滑石]]||Mg<sub>3</sub>(Si<sub>4</sub>O<sub>10</sub>)(OH)<sub>2</sub>||1||[[ファイル:Talc block.jpg|100px]]||最も軟らかい鉱物で、つるつるした手触り。爪でたやすく傷をつけられる。
|-
|'''2'''||[[石膏]]||CaSO<sub>4</sub>·H<sub>2</sub>O||3||[[ファイル:Gypse Arignac.jpg|100px]]||指の[[爪]]で何とか傷をつけることができる。
|-
|'''3'''||[[方解石]]||CaCO<sub>3</sub>||9||[[ファイル:Calcite-sample2.jpg|100px]]||[[硬貨]]でこするとなんとか傷をつけることができる。
|-
|'''4'''||[[蛍石]]||CaF<sub>2</sub>||21||[[ファイル:Fluorite with Iron Pyrite.jpg|100px]]||[[ナイフ]]の刃で簡単に傷をつけることができる。
|-
|'''5'''||[[燐灰石]]||Ca<sub>5</sub>(PO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>(F,OH)||48||[[ファイル:Apatite Canada.jpg|100px]]||ナイフでなんとか傷をつけることができる。
|-
|'''6'''||[[正長石]]||KAlSi<sub>3</sub>O<sub>8</sub>||72||[[ファイル:OrthoclaseBresil.jpg|100px]]||ナイフで傷をつけることができず、刃が傷む。
|-
|'''7'''||[[石英]]||SiO<sub>2</sub>||100||[[ファイル:Quartz Brésil.jpg|100px]]||[[ガラス]]や[[鋼|鋼鉄]]などに傷をつけることができる。
|-
|'''8'''||[[トパーズ]]<br>(黄玉)||Al<sub>2</sub>SiO<sub>4</sub>(F,OH)||200||[[ファイル:Topaz cut.jpg|100px]]||石英に傷をつけることができる。
|-
|'''9'''||[[コランダム]]<br>(鋼玉)||Al<sub>2</sub>O<sub>3</sub>||400||[[ファイル:Cut Ruby.jpg|100px]]||石英にもトパーズにも傷をつけることができる。
|-
|'''10'''||[[ダイヤモンド]]<br>(金剛石)||C||1600||[[ファイル:Rough diamond.jpg|100px]]||地球上の鉱物の中で最も硬く、コランダムにも傷をつけることができる。
|-
|colspan="6" style="text-align:left" | 出典: 「モース硬度」・「標準鉱物」・「化学式」: {{Sfn|黒澤|2011|p=101}}
|}
標準鉱物と試料物質をこすり、ひっかき傷の有無で硬さを測定する{{Sfn|黒澤|2011|p=101}}。現実に存在する[[化学物質]](人工物、天然物)の中で、モース硬度として最も硬いものは[[ダイヤモンド]]である。
== 身近な物の硬度(目安) ==
<!-- 人間の爪の硬度は約2.5、銅製の硬貨の硬度は約3.5、[[木工]]用の[[釘]]の硬度は約4.5、ガラスの硬度は約5、
ナイフの刃の硬度は約5.5(ただし鋼材の種類に左右される)、[[やすり|鋼鉄のやすり]]の硬度は約7.5である。
必要に応じて書き足す。-->
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+ 身近な物の硬度(目安)
! モース硬度 !! 物質
|-
| 2.5 || 人間の爪{{Sfn|黒澤|2011|p=101}}、[[象牙]]、[[琥珀]]
|-
| 3.5 || 銅製硬貨
|-
| 4.5 || [[釘]]([[木工]]用)
|-
| 5 || ガラス
|-
| 5.5 || ナイフの刃
|-
| 6 || 永久歯の[[エナメル質]]
|-
| 7.5 || [[やすり|鋼鉄のやすり]]
|}
== 修正モース硬度 ==
[[研磨材|研磨剤]]などの硬さの指標として、工業分野でよく利用される物質を追加して15段階に修正された修正モース硬度が使われる場合がある。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
! 修正モース硬度 !! 旧モース硬度 !! 鉱物 !! [[ヌープ硬度]]
|-
| 1 || 1 || 滑石 ||
|-
| 2 || 2 || 石膏 ||
|-
| 3 || 3 || 方解石 ||
|-
| 4 || 4 || 蛍石 ||
|-
| 5 || 5 || 燐灰石 ||
|-
| 6 || 6 || 正長石 ||
|-
| 7 || || [[溶融石英]] ||
|-
| 8 || 7 || 水晶(石英) ||
|-
| 9 || 8 || 黄玉(トパーズ) ||
|-
| 10 || || [[柘榴石]] ||
|-
| 11 || || [[溶融ジルコニア]] ||
|-
| 12 || 9 || [[溶融アルミナ]] || 2100
|-
| 13 || || [[炭化ケイ素]] || 2500
|-
| 14 || || [[炭化ホウ素]] || 2750
|-
| 15 || 10 || ダイヤモンド || 9000
|}
<!--== モース硬度を主題とする作品 ==--><!--ノートの提案により削除-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=黒澤|first=正紀|year=2011|chapter=鉱物・岩石|pages=99-143|title=地球学調査・解析の基礎|series=地球学シリーズ|editor1=上野健一|editor2=久田健一郎|publisher=古今書院|isbn=978-4-7722-5254-6}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|鉱物・宝石|[[画像:HVBriljant.PNG|34px|Portal:鉱物・宝石]]}}
* [[硬さ]]
* [[計量単位一覧]]
* {{Commonscat-inline|Hardness|硬さ}}
{{モース硬度}}
{{DEFAULTSORT:もおすこうと}}
[[Category:硬さ]]
[[Category:エポニム]]
[[de:Härte#Härteprüfung nach Mohs]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%A1%AC%E5%BA%A6
|
17,250 |
硬さ
|
硬さ(かたさ、英: hardness、硬度)とは物質、材料の特に表面または表面近傍の機械的性質の一つであり、材料が異物によって変形や傷を与えられようとする時の、物体の変形しにくさ、物体の傷つきにくさである。工業的に比較的簡単に検査でき、これを硬さ試験法と呼ぶ。例えば鋼製品の熱処理結果の管理などに用いられている。
硬さの概念は、それを数値化して表現しようとする場合、定義の仕方により様々な値を取り得る。硬さ試験に多くの方法があるのは、利用しようとする実用材料、たとえば金属、セラミックス、ゴムなどの材料特性により、微小な変形を与える力に対する挙動がそれぞれ異なり、また硬さ試験によって代用的に評価しようとする材料の性能項目が異なるために、実用目的のためにいろいろな測定法が開発されたためだと思われる。
金属では押し込み硬さ試験法が多く用いられる。これは一定荷重を加えてできる圧痕(くぼみ)の面積または深さから変形のしにくさ(硬さ)を評価するものである。加える荷重、圧痕をつける圧子先端の形状、硬さ値の計算方法がそれぞれ定義されている。
ゴムでは一定荷重を加えた時の変形量を硬さ値にする硬さ測定法が多く用いられている。
硬さにはさまざまな測定手段(定義)とそれに対応する値(硬さの尺度)が存在する。代表的な硬さ測定法の間には対応関係が存在するが、限定された材料で相関をとったもので大雑把な目安である。
|
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] |
硬さとは物質、材料の特に表面または表面近傍の機械的性質の一つであり、材料が異物によって変形や傷を与えられようとする時の、物体の変形しにくさ、物体の傷つきにくさである。工業的に比較的簡単に検査でき、これを硬さ試験法と呼ぶ。例えば鋼製品の熱処理結果の管理などに用いられている。
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{{Redirect|硬度|水の硬度|硬度 (水)}}
{{Otheruses|材料工学の硬さ(硬度)|[[酸と塩基|酸・塩基]]の硬さ|HSAB則}}
{{出典の明記|date=2013年2月7日}}
'''硬さ'''(かたさ、{{lang-en-short|hardness}}、'''硬度''')とは物質、材料の特に[[表面]]または表面近傍の[[機械的性質]]の一つであり、材料が異物によって変形や傷を与えられようとする時の、物体の変形しにくさ、物体の傷つきにくさである。工業的に比較的簡単に検査でき、これを硬さ試験法と呼ぶ。例えば鋼製品の[[熱処理]]結果の管理などに用いられている。
==概説==
'''硬さ'''の概念は、それを数値化して表現しようとする場合、定義の仕方により様々な値を取り得る。硬さ試験に多くの方法があるのは、利用しようとする実用材料、たとえば[[金属]]、[[セラミックス]]、[[ゴム]]などの材料特性により、微小な変形を与える力に対する挙動がそれぞれ異なり、また[[硬さ試験]]によって代用的に評価しようとする材料の性能項目が異なるために、実用目的のためにいろいろな測定法が開発されたためだと思われる<!-- 思われる、という表現はまずいです。根拠がないように読み取れます-->。
金属では押し込み硬さ試験法が多く用いられる。これは一定荷重を加えてできる圧痕(くぼみ)の面積または深さから変形のしにくさ(硬さ)を評価するものである。加える[[荷重]]、[[圧痕]]をつける圧子先端の形状、[[硬さ値]]の計算方法がそれぞれ定義されている。
[[ゴム]]では一定荷重を加えた時の変形量を硬さ値にする硬さ測定法が多く用いられている。
硬さにはさまざまな測定手段(定義)とそれに対応する値(硬さの尺度)が存在する。代表的な硬さ測定法の間には対応関係が存在するが、限定された材料で相関をとったもので大雑把な目安である。
==硬さ一覧表==
{| class="wikitable"
!試験法名!!分類!!圧子形状!!硬さ算出法!!解説
|-
|[[ブリネル硬さ]] (HBS, HBW)||押込み硬さ||球(一般に10 mmを使用)||圧痕表面積で試験荷重を割って算出||
|-
|[[ビッカース硬さ]] (HV)||押込み硬さ||頂角136°四角錐||圧痕表面積で試験荷重を割って算出||最も広く普及している。
|-
|[[ヌープ硬さ|ヌープ硬さ (HK)]]||押込み硬さ||頂角172.5°四角錐(対角線長比 1:7.11)||圧痕表面積で試験荷重を割って算出||
|-
|[[ロックウェル硬さ]] (HRC, HRB)||押込み硬さ||頂角120°円錐(先端0.3 mm)または鋼球(φ1.5875 mm)||試験荷重を加えた後、基準荷重に戻したときのくぼみの深さの差''h''<br/>''H''<sub>R</sub>* = 100 - 500 ''h'' (''H''<sub>R</sub>A, ''H''<sub>R</sub>D, ''H''<sub>R</sub>C)||圧子・荷重によりいろいろなスケールがある(別表)。
|-
|[[スーパーフィシャル硬さ]]||押込み硬さ||頂角120°円錐(先端0.3 mm)または鋼球(φ1.5875 mm)||試験荷重を加えた後、基準荷重に戻したときのくぼみの深さの差''h''<br/>''H''<sub>R</sub>* = 100 - 1000 ''h''||ロックウェルより低試験荷重
|-
|{{仮リンク|マイヤ硬さ|en|Meyer hardness test}}||押込み硬さ|| ||測定荷重を圧子投影面積で割ったもの<br/>''H''<sub>M</sub> = ''W'' /''A''||Hvなどの算出が圧子接触面積で割るのに比して物理的意味が高いとされている。
|-
|[[ジュロメータ硬さ]]||押込み硬さ||頂角35°円錐||圧子の押し込み深さ。822 gで押し込み深さ0を100、押し込み深さ2.54 mmで0||樹脂用硬さ計
|-
|{{仮リンク|バーコール硬さ|en|Barcol hardness test}}||押込み硬さ||頂角26°円錐||圧子の押し込み深さ||樹脂用硬さ計
|-
|[[モノトロン硬さ]]||押込み硬さ||0.75 mm 球形圧子||圧子の押し込み深さ0.0457 mmになるときの荷重||樹脂用硬さ計
|-
|[[マルテンス硬さ]]||ヒッカキ硬さ||対面角90°ピラミッド||0.01 mm巾のヒッカキ巾の荷重||
|-
|[[ショア硬さ]] (HS)||反発硬さ||先端にダイヤモンド半球を取り付けたハンマー||ハンマーを落とした時の跳ね返り高さを元の高さで割って算出||計測は簡単、大抵の計測器は小型軽量で持ち運び可能
|-
|[[モース硬度]]|| ヒッカキ硬さ|| 10段階の硬さのさまざまな鉱物|| 基準となる鉱物で引っかいたときに傷がつくかどうか||絶対的な数値は測れない、主に野外で[[鉱物]]の同定に(鉱物や地質に係る予備知識と併用して)使用
|}
==そのほかの機械的性質==
* [[ヤング率]](縦弾性係数)
* [[剛性率]]
* [[強度|強さ]]
** [[引張強さ]] - [[引張応力]]
** {{仮リンク|圧縮強さ|en|Compressive strength}} - [[圧縮応力]]
** {{仮リンク|せん断強さ|en|Shear strength}} - [[せん断応力]]
** [[ひずみ]]
==関連項目==
* [[金属]]
* [[複合材]]
* [[超硬度材料]]
*[[鉛筆#硬度表記]]
==外部リンク==
* [http://gompedia.jp/wd/%E7%A1%AC%E5%BA%A6 硬度:ゴムペディア] - ゴムの硬度について
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かたさ}}
[[Category:硬さ|*]]
[[Category:物質の性質]]
[[Category:スケール]]
[[Category:材料工学]]
[[Category:鉱物学]]
| null |
2022-11-27T11:34:49Z
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[
"Template:Redirect",
"Template:Otheruses",
"Template:出典の明記",
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"Template:仮リンク",
"Template:Normdaten"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AC%E3%81%95
|
17,252 |
黄帝
|
黄帝(こうてい)は、古代中国の伝説上の君主。三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝とされる。また、三皇のうちに数えられることもある。本来は「皇帝」と表記されたが戦国時代末期に五行思想の影響で「黄帝」と表記されるようになった。
漢代の歴史書『史記』五帝本紀や『国語』晋語によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅(けんえん)氏、または帝鴻氏とも呼ばれ、『山海経』に登場する怪神帝鴻(中国語版)と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を次々に討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。少昊・昌意・姫揮らの父。
彼以降の4人の五帝と、夏・殷・周・秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろうと考えられている。さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる(炎黄子孫(中国語版))。また、清代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする黄帝紀元と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られている。
だが、辛亥革命後に至り革命支持者を中心に黄帝の存在を否定する主張が高まった。これに並行して日本でも同様の議論が起こり、白鳥庫吉・市村瓚次郎・飯島忠夫らが黄帝の実在性を否定する論文を著している。
本来は雷神であり、「軒轅」が龍蛇形の星座を指す場合があり、『山海経』に登場する(黄帝の子孫が住む)軒轅国の住民が人面蛇身であり、伝説において龍との関係が深いことから黄帝は龍蛇形の神だったと考えられている。
前述の『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』は黄帝の著作と信じられ、これは東洋医学の始まりとなった(書については黄帝内経参照)。中国鍼灸各家学説を執筆した魏稼は、黄帝の師は、岐伯(中国語版)である事から、中国最古の医学流派を岐伯黄帝派と名づけた。この学派の創始者は岐伯で、中心人物であり、黄皇が岐伯、伯高、小兪を訪ねて鍼道が誕生したと晋の皇甫謐『甲乙経』に記載がある。これらが、漢方およびはり灸らの中国原初とみなされた。なお、日本のユンケル黄帝液は、東洋医学発祥を記してこの黄帝から名付けられている。
漢代には、著者不明の思想書や医学書を、黄帝の著作として権威付けるのが流行した。前1世紀の『漢書』芸文志には、下記のように分類されている。大半は現存しない。
河南省鄭州市は黄帝の故郷とされており、市内には黄帝をたたえる公園「黄帝故里」が整備されている。黄帝故里では、中国のほぼ全ての姓氏を黄帝の直系の子孫と捉え、建築物で表現するなど大掛かりな施設となっている。毎年4月18日には参拝祭典が行われており、2018年の例では40以上の国や地域から約1万人の華人や華僑のほか、同姓の血縁組織、同郷会などの代表が出席して式典が行われた。
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黄帝(こうてい)は、古代中国の伝説上の君主。三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝とされる。また、三皇のうちに数えられることもある。本来は「皇帝」と表記されたが戦国時代末期に五行思想の影響で「黄帝」と表記されるようになった。
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[[File:Yellow Emperor.jpg|thumb|黄帝]]
[[File:Yellowemperor.jpg|thumb|黄帝([[武氏祠]]画像石)]]
{{道教}}
'''黄帝'''(こうてい)は、[[古代中国]]の伝説上の君主。[[三皇五帝|三皇]]の治世を継ぎ、中国を統治した[[三皇五帝|五帝]]の最初の帝とされる。また、三皇のうちに数えられることもある。本来は「皇帝」と表記されたが戦国時代末期に[[五行思想]]の影響で「黄帝」と表記されるようになった<ref>[[松村一男]]他編『神の文化史事典』[[白水社]]2013年、232頁。
</ref><ref>『道教事典』[[平河出版社]]1994年、152頁。
</ref>。
== 概要 ==
[[前漢|漢]]代の歴史書『[[史記]]』五帝本紀や『[[国語 (歴史書)|国語]]』晋語によると、[[少典]]の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は'''[[姫 (姓)|姫]]姓'''、氏は'''軒轅'''(けんえん<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%BB%84%E5%B8%9D-62786 |title=黄帝 |access-date=2022-10-16 |publisher=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>)氏、または帝鴻氏とも呼ばれ、『[[山海経]]』に登場する怪神{{仮リンク|帝鴻|zh|帝江}}と同一のものとする説もある。[[蚩尤]]を討って諸侯の人望を集め、[[神農|神農氏]]に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を次々に討ち、道を開いて、後世の[[春秋戦国時代]]に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。[[少昊]]・[[昌意]]・姫揮らの父。
彼以降の4人の五帝と、[[夏 (三代)|夏]]・[[殷]]・[[周]]・[[秦]]の始祖を初め数多くの[[諸侯]]が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、中国に[[都市国家]]群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろうと考えられている。さらに後世になると、中国の多くの[[姓氏]]が始祖を[[三代 (中国史)|三代]]の帝王や諸侯としたので、現在も多くの[[漢民族]]は黄帝を先祖に仰いでいる({{仮リンク|炎黄子孫|zh|炎黄子孙|label=}})。また、[[清]]代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする'''[[黄帝紀元]]'''と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られている。
だが、[[辛亥革命]]後に至り革命支持者を中心に黄帝の存在を否定する主張が高まった。これに並行して[[日本]]でも同様の議論が起こり、[[白鳥庫吉]]・[[市村瓚次郎]]・[[飯島忠夫]]らが黄帝の実在性を否定する論文を著している。
本来は雷神であり<ref>[[袁珂]]『中国神話・伝説大事典』[[大修館書店]]1999年、210頁。
</ref>、「軒轅」が龍蛇形の星座を指す場合があり、『[[山海経]]』に登場する(黄帝の子孫が住む<ref>『中国神話・伝説大事典』178頁。
</ref>)軒轅国の住民が人面蛇身であり、伝説において龍との関係が深いことから黄帝は龍蛇形の神だったと考えられている<ref>御手洗勝『古代中國の神々』[[創文社]]1984年、278-282頁。
</ref>。
==医者としての黄帝==
前述の『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』は黄帝の著作と信じられ、これは[[東洋医学]]の始まりとなった(書については'''[[黄帝内経]]'''参照)。中国鍼灸各家学説を執筆した[[魏稼]]は、黄帝の師は、{{仮リンク|岐伯|zh|岐伯}}である事から、中国最古の医学流派を岐伯黄帝派と名づけた<ref name="harika">中国鍼灸各家学説 p22</ref>。この学派の創始者は岐伯で、中心人物であり、黄皇が岐伯、伯高、小兪を訪ねて鍼道が誕生したと晋の[[皇甫謐]]『甲乙経』に記載がある<ref name="harika"></ref>。これらが、漢方およびはり灸らの中国原初とみなされた。なお、日本の[[ユンケル黄帝液]]は、東洋医学発祥を記してこの黄帝から名付けられている。
== 黄帝の書 ==
漢代には、著者不明の思想書や医学書を、黄帝の著作として権威付けるのが流行した。前1世紀の『[[漢書]]』[[芸文志]]には、下記のように分類されている。大半は現存しない。
* [[道家]]
** 『[[黄帝四経]]』四篇、『黄帝銘』六篇、『黄帝君臣』十篇、『雑黄帝』五十八篇
* [[兵家]]
** 『黄帝』十六篇
* [[神仙思想|神僊]]
** 『黄帝雑子歩引』十八巻、『黄帝岐伯按摩』十巻、『黄帝雑子芝菌』十八巻、『黄帝雑子十九家方』二十一巻
* 天文
** 『黄帝雑子気』三十三篇
* 五行
** 『黄帝陰陽』二十五巻、『黄帝諸子論陰陽』二十五巻
* 雑占
** 『黄帝長柳占夢』十一巻
* 医経
** 『[[黄帝内経]]』十八巻、『黄帝外経』三十七巻
* 経方
** 『神農黄帝食禁』七巻
* [[房中術|房中]]
** 『黄帝三王陽方』二十巻
== 民話 ==
;弓矢の発明
:ある時、黄帝は石のナイフを持って狩猟に出かけた。突然、虎が下草から飛び出してきて、黄帝は桑の木に駆け上がった。虎は気長な動物であるから、木の下に座り込み、次にどうするか様子を見た。黄帝は桑の木がしなやかな事に気が付き、石のナイフで桑の枝を切り弓を作った。葡萄の蔦が木の上まで伸びていたので、石のナイフで切り弦を作った。次にまっすぐに伸びた竹を見つけ、竹を切り矢を作った。弓矢を使って、虎の目を射ぬき、虎は逃げ去り黄帝は脱出した<ref>[http://www.atarn.org/letters/letter_summaries.htm#huangdi Drawing and translation by Stephen Selby (2003). How Huangdi Invented the Bow and Arrow. Chinese folk tale.]</ref>。
==黄帝故里==
[[河南省]][[鄭州市]]は黄帝の故郷とされており、市内には黄帝をたたえる公園「黄帝故里」が整備されている。黄帝故里では、中国のほぼ全ての[[姓氏]]を黄帝の直系の子孫と捉え、建築物で表現するなど大掛かりな施設となっている<ref>{{Cite web|和書|date=2020-10-25 |url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/10/23/2020102380151.html?ent_rank_news |title=朝鮮族など中国56民族は同じ祖先?東北アジア歴史財団が学術大会開催 |publisher=朝鮮日報 |accessdate=2020-10-24}}</ref>。毎年4月18日には参拝祭典が行われており、2018年の例では40以上の国や地域から約1万人の華人や華僑のほか、同姓の血縁組織、同郷会などの代表が出席して式典が行われた<ref>{{Cite web|和書|date=2018-04-26|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3172501 |title=中華文明と先端技術の組み合わせ 伝統の「黄帝」まつる式典に顔認証導入 |publisher= |accessdate=2020-10-24}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{commonscat|Yellow Emperor}}
* [[黄帝陵]]
* [[黄帝陰符経]]
* [[道教]]
* [[華胥]]
* [[太和殿]] - 元々玉座の上に'''軒轅鏡'''と呼ばれる鉄球があった。王位にふさわしくない者の上に落ちるとされた。
;神話
* [[魃|妭]] - 黄帝の娘で、日照りの女神。蚩尤が率いる雨の神である{{仮リンク|雨師|zh|雨师}}と、風の神である[[風神|風伯]]を退けた。
* [[応竜]] - 蚩尤に対抗する為、黄帝が召喚した竜
* 軍鼓 - 黄帝が[[夔]]の皮から作った太鼓
* {{仮リンク|軒轅剣|zh|軒轅劍}} - 黄帝所有の剣
* {{仮リンク|烏号|zh|烏号}} -中国の神話伝承における黄帝の弓。名前の意味は「むせび泣き」。神話では、黄帝がお供70余人(72人とも)と神竜にのって昇天するのを人々が嘆きおしみ、 竜のひげにとりすがった者もいたがバラバラ地上に落ちた。黄帝はその心根を哀れに思い愛用の弓を落としていった。 人々はいつまでも弓をかきいだいて悲しみの涙にむせんだので その弓を「烏号」と呼んだ。
{{先代次代|[[黄帝有熊氏]]|初代<br>BC2510年 - BC2448年|'''炎帝神農氏'''<br>[[神農氏|8代炎帝]][[楡罔]]|[[少昊]]}}
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[[Category:紀元前27世紀の統治者]]
[[Category:紀元前26世紀の統治者]]
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イスラム国家
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イスラム国家(イスラムこっか、アラビア語: الدولة الإسلامية 、英語: islamic state)とは、イスラームによって統治される国家。すなわち唯一全能の神(アッラーフ)が預言者ムハンマドに下した神勅たるクルアーン、預言者の言行録たるハディース、そしてそれらを基礎として成立したイスラーム法(シャリーア)に基づきムスリムの指導者が統治を行い、ムスリムの同胞としての緊密な結合とすべての政治や社会秩序は、イスラームに基づくという理念によりアッラーフの祝福が、永久に約束されるとする国家のこと。
従って、ムスリム(イスラム教徒)が多数を占める「イスラム教国」であっても、トルコ共和国・インドネシア・マレーシアの様に、世俗主義を標榜し、シャリーアを廃止している国家は、イスラム国家とは言われない。
古い時代については、イスラム国家という語は、預言者ムハンマド以後のカリフ制の国家(ウンマ、イスラム帝国)を指す。ウマイヤ朝以降、イスラム帝国は次第に分裂して実質上単一のイスラム国家ではなくなっていき、モンゴル族によるアッバース朝の滅亡により完全に消滅した。その後は、スンナ派では、やがて興隆したオスマン帝国が、マムルーク朝を滅ぼしてマッカ(メッカ)、マディーナ(メディナ)を征服すると、イスラム国家の中心と認められるようになった。オスマン帝国は衰退してくるとカリフ制を標榜してくるようになったので、一時期は再びカリフ制への待望が高まるようになったが、トルコ共和国が1924年にオスマン家のカリフを廃止して以来、下火となりつつある。
シーア派においては伝統的にイマームを指導者とするイスラム国家が理想とされてきた。1979年のイラン革命が成功するにあたって、イスラム法学者がイマームに代わってイスラム国家を指導することができるとする理論が確立され、イランはイスラム国家・イスラム共和国と称するようになった。なお、現在のイランの最高指導者は予言者ムハンマドの血を引く人物で、これはシーア派の国家およびイスラム教圏をムハンマドの地を引く人物が支配すべきという考えに基づくものであり、今でもイランの認識はエルサレムをイスラエルなどという異教徒国家に盗られたというものである。大統領がイランには存在するが、依然として権力が高いのは最高指導者である。
他のシーア派国家には大統領がシーア派を信仰するシリアがある。ただしシリアの大統領はムハンマドの血を引くわけではないので、そのことに対する怒りがシリア内戦の一因へと繋がったのではないかとも考えられる。
多くのスンナ派が多数を占める国家では、イスラム教を国教とし、シャリーアを法として施行している国家が少なくないが、国家運営面では一定程度穏健かつ世俗的な政権となっていることが多い。故に完全なイスラーム国家ではない。現代のイスラーム主義(いわゆるイスラム原理主義)の急進主義者たちは、イスラム国家建設を唱えて、このような政権に脅威を与えている。
イスラーム国家は支配者の定義する『イスラーム的価値観』への絶対的服従を要求するイデオロギー国家である。この国家においては『イスラームの良き価値観』が国家の理想を示すプロパガンダである。よってイスラーム国家に於いてはシャリーアが国法でありクルアーンが憲法である。
一方、ムスリムにとっては、『イスラームの良き価値観』とそれに基づく規律によって社会が統制されるため、少なくとも目指すべき体制としてはユートピアとなる。
しかし、仮にイスラーム国家が樹立されたとしても、他のユートピアを唱える政治思想同様、新生政府が現実の諸問題を解決できるとは限らず、ムスリムのイスラーム国家への期待(例えば貧富の格差の解消)はしばしば裏切られる。更には、支配者の定義する『イスラーム的価値観』に賛同できない場合、ムスリムでも容易に『背教者』、『カーフィル』として断罪されうる。背教であると認定された場合、当該人物はシャリーアの定めるところにより処刑される。同性愛者および婚外性交渉を行った人物に対しても、非ムスリム・ムスリムを問わずシャリーアの定めるところにより処刑が行われる。
また、『イスラーム的価値観』によって国家を運営することを建前としておきながら、実際には国家運営の都合によって『イスラーム的価値観』が体制側に都合の良いものに変貌していくことも起こりうる。
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"title": "カリフ制とイスラム国家"
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"text": "シーア派においては伝統的にイマームを指導者とするイスラム国家が理想とされてきた。1979年のイラン革命が成功するにあたって、イスラム法学者がイマームに代わってイスラム国家を指導することができるとする理論が確立され、イランはイスラム国家・イスラム共和国と称するようになった。なお、現在のイランの最高指導者は予言者ムハンマドの血を引く人物で、これはシーア派の国家およびイスラム教圏をムハンマドの地を引く人物が支配すべきという考えに基づくものであり、今でもイランの認識はエルサレムをイスラエルなどという異教徒国家に盗られたというものである。大統領がイランには存在するが、依然として権力が高いのは最高指導者である。",
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"title": "現代イスラーム主義とイスラム国家"
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"text": "イスラーム国家は支配者の定義する『イスラーム的価値観』への絶対的服従を要求するイデオロギー国家である。この国家においては『イスラームの良き価値観』が国家の理想を示すプロパガンダである。よってイスラーム国家に於いてはシャリーアが国法でありクルアーンが憲法である。",
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"text": "また、『イスラーム的価値観』によって国家を運営することを建前としておきながら、実際には国家運営の都合によって『イスラーム的価値観』が体制側に都合の良いものに変貌していくことも起こりうる。",
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] |
イスラム国家とは、イスラームによって統治される国家。すなわち唯一全能の神(アッラーフ)が預言者ムハンマドに下した神勅たるクルアーン、預言者の言行録たるハディース、そしてそれらを基礎として成立したイスラーム法(シャリーア)に基づきムスリムの指導者が統治を行い、ムスリムの同胞としての緊密な結合とすべての政治や社会秩序は、イスラームに基づくという理念によりアッラーフの祝福が、永久に約束されるとする国家のこと。 従って、ムスリム(イスラム教徒)が多数を占める「イスラム教国」であっても、トルコ共和国・インドネシア・マレーシアの様に、世俗主義を標榜し、シャリーアを廃止している国家は、イスラム国家とは言われない。
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{{混同|ISIL|x1=[[イスラム教]]によって[[カリフ]]統治される[[国家]]「イスラム国({{en|Islamic State}})」を標榜する過激派組織}}
{{出典の明記|date=2020年12月}}
{{Islam}}
'''イスラム国家'''(イスラムこっか、{{lang-ar|الدولة الإسلامية}} 、{{lang-en|islamic state}})とは、[[イスラーム]]によって統治される[[国家]]。すなわち唯一全能の神([[アッラーフ]])が預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]に下した神勅たる[[クルアーン]]、預言者の言行録たる[[ハディース]]、そしてそれらを基礎として成立したイスラーム法([[シャリーア]])に基づき[[ムスリム]]の指導者が統治を行い、ムスリムの同胞としての緊密な結合とすべての[[政治]]や[[社会秩序]]は、イスラームに基づくという理念によりアッラーフの祝福が、永久に約束されるとする国家のこと。
従って、ムスリム(イスラム教徒)が多数を占める「イスラム教国」であっても、[[トルコ|トルコ共和国]]・[[インドネシア]]・[[マレーシア]]の様に、[[世俗主義]]を標榜し、シャリーアを廃止している国家は、イスラム国家とは言われない。
==カリフ制とイスラム国家==
古い時代については、イスラム国家という語は、預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]以後の[[カリフ]]制の国家([[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]、[[イスラム帝国]])を指す。[[ウマイヤ朝]]以降、イスラム帝国は次第に分裂して実質上単一のイスラム国家ではなくなっていき、[[モンゴル族]]による[[アッバース朝]]の滅亡により完全に消滅した。その後は、[[スンナ派]]では、やがて興隆した[[オスマン帝国]]が、[[マムルーク朝]]を滅ぼして[[マッカ]](メッカ)、[[マディーナ]](メディナ)を征服すると、イスラム国家の中心と認められるようになった。オスマン帝国は衰退してくるとカリフ制を標榜してくるようになったので、一時期は再びカリフ制への待望が高まるようになったが、トルコ共和国が1924年にオスマン家のカリフを廃止して以来、下火となりつつある。
==シーア派とイスラム国家==
[[シーア派]]においては伝統的に[[イマーム]]を指導者とするイスラム国家が理想とされてきた。[[1979年]]の[[イラン革命]]が成功するにあたって、[[イスラム法学者]]がイマームに代わってイスラム国家を指導することができるとする理論が確立され、[[イラン]]はイスラム国家・[[イスラム共和制|イスラム共和国]]と称するようになった。なお、現在の[[イランの最高指導者]]は予言者ムハンマドの血を引く人物で、これはシーア派の国家およびイスラム教圏をムハンマドの地を引く人物が支配すべきという考えに基づくものであり、今でもイランの認識はエルサレムをイスラエルなどという異教徒国家に盗られたというものである。大統領がイランには存在するが、依然として権力が高いのは最高指導者である。
他のシーア派国家には大統領がシーア派を信仰するシリアがある。ただしシリアの大統領はムハンマドの血を引くわけではないので、そのことに対する怒りがシリア内戦の一因へと繋がったのではないかとも考えられる。
==現代イスラーム主義とイスラム国家==
多くのスンナ派が多数を占める国家では、イスラム教を[[国教]]とし、シャリーアを法として施行している国家が少なくないが、国家運営面では一定程度穏健かつ[[世俗]]的な[[政権]]となっていることが多い。故に完全なイスラーム国家ではない。現代の[[イスラーム主義]](いわゆる[[イスラム原理主義]])の[[急進主義]]者たちは、'''イスラム国家建設'''を唱えて、このような政権に脅威を与えている。
==イスラーム国家の概要==
イスラーム国家は支配者の定義する『イスラーム的価値観』への絶対的服従を要求する[[イデオロギー]]国家である。この国家においては『イスラームの良き価値観』が国家の理想を示す[[プロパガンダ]]である。よってイスラーム国家に於いてはシャリーアが国法でありクルアーンが[[憲法]]である。
一方、ムスリムにとっては、『イスラームの良き価値観』とそれに基づく規律によって[[社会]]が統制されるため、少なくとも目指すべき体制としては[[ユートピア]]となる。
しかし、仮にイスラーム国家が樹立されたとしても、他のユートピアを唱える[[政治哲学|政治思想]]同様、新生[[政府]]が現実の諸問題を解決できるとは限らず、ムスリムのイスラーム国家への期待(例えば[[貧富の格差]]の解消)はしばしば裏切られる。更には、支配者の定義する『イスラーム的価値観』に賛同できない場合、ムスリムでも容易に『[[背教]]者』、『[[カーフィル]]』として断罪されうる。背教であると認定された場合、当該人物はシャリーアの定めるところにより処刑される<ref group="注釈">[[アフガニスタン]]では[[女性]]の[[権利]]に関する議論を喚起しようとした学生が、「[[冒涜]]」の罪に問われ[[死刑]][[判決]]を受けた[http://www.independent.co.uk/news/world/asia/sentenced-to-death-afghan-who-dared-to-read-about-womens-rights-775972.html Sentenced to death: Afghan who dared to read about women's rights] </ref>。[[同性愛者]]および[[婚外性交渉]]を行った人物に対しても、非ムスリム・ムスリムを問わずシャリーアの定めるところにより処刑が行われる<ref group="注釈">ただし、性的な弱者に対してより過酷な方向に事実関係またはシャリーアが歪曲される場合もある。</ref>。
また、『イスラーム的価値観』によって国家を運営することを建前としておきながら、実際には国家運営の都合によって『イスラーム的価値観』が体制側に都合の良いものに変貌していくことも起こりうる<ref group="注釈">[[イラン]]では当初は[[イランの最高指導者|最高指導者]]は最高位の[[イスラム法学者]]でなければならないと[[イラン・イスラーム共和国憲法|憲法]]で定められていたが、[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー]]の後継者を選ぶ過程で中位程度の法学者でも最高指導者になれるように変更された。また、[[イラン・イラク戦争]]時には、イランの掲げるシーア派の利益が実際にはイランの[[国益]]ではなかったのかとの疑念も持たれた。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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<!--=== 出典 ===
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==関連項目==
{{ウィキプロジェクトリンク|イスラーム|[[File:Islam symbol plane2.svg|34px]]}}
*[[ズィンミー]]
*[[ズィンミテュード]]
*[[シャリーア]]
*[[イスラム共和制]]
*[[中田考]]
*[[政教一致]]
*[[国教]]
*[[ディストピア]]
*[[ユートピア]]
*[[神の王国|神の国]]
*[[神国]]
*[[選民]]
*[[イスラムファシズム]]
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MNG
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MNG
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MNG モンゴル国のISO 3166-1国名コード
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MNG航空
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電力機器の保護方式
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電力機器の保護方式 (でんりょくききのほごほうしき) は、外部環境から電力機器を保護する方式のことである。
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電力機器の保護方式 (でんりょくききのほごほうしき) は、外部環境から電力機器を保護する方式のことである。
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'''電力機器の保護方式''' (でんりょくききのほごほうしき) は、外部環境から[[電力機器]]を保護する方式のことである。
== 保護方式の例 ==
* [[全閉形]]
** [[全閉自冷形]]
** [[全閉外扇形]]
** [[全閉内冷形]]
** [[全閉防塵形]]
* [[水中形]]
* [[防爆|防爆形]]
** [[油入防爆形]]
** [[耐圧防爆形]]
** [[安全増防爆形]]
** [[内圧防爆形]]
** [[本質安全防爆形]]
== 関連項目 ==
*[[電気機器の冷却方式]]
*[[電力機器]]
*[[電力工学]]
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高雄
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高雄(たかお)は、日本あるいは海外における地名や人名などを指す。
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高雄(たかお)は、日本あるいは海外における地名や人名などを指す。
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'''高雄'''(たかお)は、[[日本国|日本]]あるいは海外における[[地名]]や[[人名]]などを指す。
== 地名 ==
=== 日本 ===
* [[高雄 (扶桑町)]] - [[愛知県]][[丹羽郡]][[扶桑町]]の大字。
** [[高雄村 (愛知県)]] - かつて存在した愛知県丹羽郡の村。現在は扶桑町の大字に名を残す。
* [[高雄 (京都市)]] - [[京都府]][[京都市]][[右京区]]梅ヶ畑付近を指す地名で神護寺がある。古くは高尾とも。紅葉で名高く、'''紅葉の名所三尾'''(高尾・槙尾・栂尾)のひとつに数えられている。
* [[高雄 (赤穂市)]] - [[兵庫県]][[赤穂市]]の大字。
* [[高雄 (田辺市)]] - [[和歌山県]][[田辺市]]の大字。
* [[高雄 (太宰府市)]] - [[福岡県]][[太宰府市]]の大字。
* [[高雄市 (大日本帝国)]] - [[大日本帝国]]の行政区分。
* [[高雄州]] - 大日本帝国の行政区分([[1920年]]([[大正]]9年) - [[1945年]]([[昭和]]20年))。
** {{仮リンク|高雄街|zh|高雄街}} - (1920-1924年)。
** {{仮リンク|高雄郡|zh|高雄郡}} - (1920-1924年)。
**{{仮リンク|高雄 (高雄街)|zh|高雄 (大字)}} - 高雄街における大字(1920-1925年)。
* [[那須温泉郷#高雄温泉|高雄温泉]] - [[栃木県]][[那須郡]][[那須町]]にある[[温泉]]。
* [[高雄山 (曖昧さ回避)]] - 曖昧さ回避ページ。
=== 海外 ===
* [[高雄市]] - [[台湾]]の都市。台湾の行政区分(直轄市)。台湾の地名は[[日本統治時代]]にこの字を当てはめたもの。
* [[高雄県]] - かつて存在した台湾の行政区分([[台湾省]])。
* [[高雄都市圏]] - 高雄市と屏東県の一部で構成される都市圏。
=== 駅名 ===
* [[高雄駅]] - 台湾高雄市三民区にある台湾鉄路管理局および高雄捷運の駅。
* [[高雄港駅]] - 同鼓山区にかつて存在した台湾鉄路管理局の廃駅の1941年までの旧称。
* 高雄駅 (愛知県) - 愛知県丹羽郡扶桑町大字高雄にある名古屋鉄道犬山線[[扶桑駅]]の旧称。
* [[高雄駅 (福岡県)]] - 福岡県嘉穂郡幸袋町にかつて存在した幸袋線の廃駅。
* {{仮リンク|高雄路駅|zh|高雄路站}} - 中華人民共和国山東省青島市市南区高雄路にある[[青島地下鉄2号線]]の駅。
== 固有名詞 ==
* [[高雄 (バラ)]] - [[バラ]]の品種の一種。モダンローズのひとつ。
* [[高雄 (テレビ)]] - [[三菱電機]]京都製作所が[[1967年]](昭和42年)に開発した[[カラーテレビ]]([http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?&key=900490091039&APage=993 カラーテレビ「高雄」 19CT-703])。またはそれを宣伝する為のマスコットキャラクターである紫色の猫の高雄くん。上記の、京都市の「高雄」にちなむ。
* [[高雄 (軍艦)]] - [[大日本帝国海軍]]の[[艦船]]。
== 人名 ==
=== 日本の苗字 ===
* 例:[[高雄孝昭]] - 元[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[アナウンサー]]。
=== 日本の名前 ===
* 日本人の[[男性]]に命名される名前。
=== 高雄(こうゆう) ===
* {{仮リンク|高雄 (俳優)|zh|高雄 (演員)}} - [[香港]]の俳優。
== 関連項目 ==
* [[高尾 (曖昧さ回避)]]
* [[Takao]]
* {{Prefix}}
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[[Category:日本の地名]]
[[Category:同名の地名]]
[[Category:日本語の姓]]
[[Category:日本語の男性名]]
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17,260 |
HALCALI
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HALCALI(ハルカリ)は、日本の女性2人組音楽ユニット。
二人は小学生時代から非常に仲が良いダンススクール仲間で、2002年に開催されたfemaleラッパー・オーディションで優勝し、2003年1月にシングル「タンデム」でCDデビューした。
「HALCALI」という名前の由来は2人の名前である「HALCA」と「YUCALI」を合わせたもの。RIP SLYMEのRYO-ZとDJ FUMIYAによるO.T.F(オシャレ・トラック・ファクトリー)が全面的にプロデュースしている(前述のオーディションも彼らによるもの)。しかし、2005年辺りからDJ FUMIYAの体調のこともあり、O.T.Fでのプロデュースは少ない。
TOKYO FM「BUZZ ROOM」の水曜MCを担当する他、YUCALIは『新堂本兄弟』にレギュラー出演(後にHALCAもレギュラーに加わる)、HALCAは2006年4〜6月の間「MTV Apt.」でMCを務めるなどそれぞれ個人でも活動している。また、ファッション誌ではしばしばモデルとして登場し、更に連載も手掛けている。
2008年、MIDEM(カンヌ)でライブをした。
CMに使われた曲に対し人気に火がつくことも多く、2009年には日産自動車のCMで使われた「今夜はブギー・バック」に問い合わせが殺到し、急遽配信が決まり、さらに配信も好調なことからCD化が決定した。2011年にはE hyphen world galleryのCMで使われた「今日の私はキゲンがいい」に問い合わせが殺到した。
2012年12月28日に開催された「COUNTDOWN JAPAN 12/13」の参加を最後に所属事務所、レコード会社と契約をすべて終了し、2013年以降はユニットとしての表立った芸能活動は行っておらず、個人活動が多い。
HALCAは、2012年より興味のあった写真家としての活動を開始、2013年個展を開催した。現在、音楽制作やライブをしながら、海外などで様々な風景を撮影している。
YUCALIは、ファッションモデルやタレント活動を主に行っていたが、2013年に栄養士の資格を取得、2015春に結婚。同年秋、ケータリングプランナーに転身する旨をメディアで発表した。2018年6月25日、女児出産。
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HALCALI(ハルカリ)は、日本の女性2人組音楽ユニット。
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{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = HALCALI
| Img = Halcali_20070706_Japan_Expo_6.jpg
| Img_capt = HALCA(左)、YUCALI(右)<br />([[Japan Expo]] 2007 in [[パリ|Paris]])
| Img_size = <!-- サイズが220ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
| Landscape = yes
| Background = group
| Origin = {{JPN}} [[東京都]][[目黒区]]
| Instrument =
| Genre = [[J-POP]]
| Years_active = [[2002年]] - [[2013年]](事務所との契約満了)
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| Notable_instruments =
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'''HALCALI'''(ハルカリ)は、[[日本]]の[[女性]]2人組[[音楽]]ユニット。
== メンバー ==
* '''HALCA'''(ハルカ、{{生年月日と年齢|1988|4|21}} - ) [[東京都]][[目黒区]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]B型。実家は精肉店。本名非公開。
* '''YUCALI'''(ユカリ、{{生年月日と年齢|1987|7|18}} - ) 東京都目黒区出身。血液型B型。実家は洋菓子店。本名非公開。
== 概要 ==
二人は[[小学生]]時代から非常に仲が良いダンススクール仲間で、[[2002年]]に開催されたfemaleラッパー・オーディションで[[優勝]]し、[[2003年]]1月にシングル「タンデム」で[[コンパクトディスク|CD]][[デビュー]]した。
「HALCALI」という[[名前]]の由来は2人の名前である「HALCA」と「YUCALI」を合わせたもの。[[RIP SLYME]]の[[RYO-Z]]と[[DJ FUMIYA]]によるO.T.F(オシャレ・トラック・ファクトリー)が全面的にプロデュースしている(前述のオーディションも彼らによるもの)。しかし、[[2005年]]辺りからDJ FUMIYAの体調のこともあり、O.T.Fでのプロデュースは少ない。
[[エフエム東京|TOKYO FM]]「[[BUZZ ROOM]]」の水曜MCを担当する他、YUCALIは『[[新堂本兄弟]]』にレギュラー出演(後にHALCAもレギュラーに加わる)、HALCAは[[2006年]]4〜6月の間「[[MTV Apt.]]」でMCを務めるなどそれぞれ個人でも活動している。また、ファッション誌ではしばしばモデルとして登場し、更に連載も手掛けている。
2008年、[[MIDEM]]([[カンヌ]])でライブをした。
CMに使われた曲に対し人気に火がつくことも多く、[[2009年]]には[[日産自動車]]のCMで使われた「[[今夜はブギー・バック]]」に問い合わせが殺到し、急遽配信が決まり、さらに配信も好調なことからCD化が決定した<ref name="nata">{{cite news|title =ソウルセット+ハルカリ「今夜はブギー・バック」がCD化|url =https://natalie.mu/music/news/19812|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|date = 2009年8月12日| accessdate = 2012年3月7日}}</ref>。[[2011年]]には[[クロスカンパニー|E hyphen world gallery]]のCMで使われた「今日の私はキゲンがいい」に問い合わせが殺到した<ref name="mf">{{cite news|title =HALCALI 人気CMソング「今日の私はキゲンがいい」問い合わせ殺到で遂に着うたフル(R)配信開始!|url =http://mfound.jp/news/2011/10/007819.html|publisher=エムファウンド|date = 2011年10月7日| accessdate = 2012年3月7日}}</ref>。
2012年12月28日に開催された「COUNTDOWN JAPAN 12/13」の参加を最後に所属事務所、レコード会社と契約をすべて終了し、2013年以降はユニットとしての表立った芸能活動は行っておらず、個人活動が多い。
HALCAは、2012年より興味のあった写真家としての活動を開始、2013年個展を開催した。現在、音楽制作やライブをしながら、海外などで様々な風景を撮影している。
YUCALIは、ファッションモデルやタレント活動を主に行っていたが、2013年に栄養士の資格を取得、2015春に結婚。同年秋、ケータリングプランナーに転身する旨をメディアで発表した<ref name="The Huffington Post20151002">{{cite news|title = 「音楽もケータリングもライブ感が好き」HALCALIのYUCALIがケータリングプランナーに転身|url = http://www.huffingtonpost.jp/qreators-/halcali-yucali_b_8225570.html|publisher = [[ハフィントン・ポスト]]|date = 2015年10月2日 | accessdate = 2016年4月5日}}</ref>。2018年6月25日、女児出産<ref>{{Cite web|url=https://www.instagram.com/p/Bkgtz5sgYPK/|title=yucali_halcali|accessdate=2018/10/14|publisher=[[Instagram]]}}</ref>。
== ディスコグラフィー ==
=== シングル ===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!収録曲
!備考
|-
|1st
|2003年1月8日
! '''[[タンデム (曲)|タンデム]]'''
|FLCF-7057
|
#タンデム【作詞:RYO-Z/作曲編曲:DJ FUMIYA】
#タンデム - ハルカだけヴァージョン
#タンデム - ユカリだけヴァージョン
#タンデム - 2人ともいないヴァージョン
#タンデム - HUTABLE CHROMOSOME REMIX
|アニメ「[[ガラクタ通りのステイン]]」エンディングテーマ(#1-#13)<br>オリコン最高19位、登場回数24回
|-
|2nd
|2003年4月9日
! '''[[エレクトリック先生]]'''
|FLCF-7060
|
#エレクトリック先生【作詞:RYO-Z/作曲編曲:DJ FUMIYA】
#エレクトリック先生 (ハルカだけヴァージョン)
#エレクトリック先生 (ユカリだけヴァージョン)
#エレクトリック先生 (2人ともいないヴァージョン)
#electric body sensei mix
|オリコン最高16位、登場回数12回
|-
|3rd
|2003年7月9日
! '''[[ギリギリ・サーフライダー]]'''
|FLCF-7066
|
#ギリギリ・サーフライダー【作詞:RYO-Z/作曲編曲:DJ FUMIYA】
#ア ONE TWO
#ギリギリ・サーフライダー [HALF RIDER remix]
#ギリギリ・サーフライダー [2人ともいないヴァージョン]
|アニメ「[[ガラクタ通りのステイン]]」エンディングテーマ(#14)<br>オリコン最高10位、登場回数8回
|-
|4th
|2003年11月26日
! '''[[ストロベリーチップス]]'''
|FLCF-7074:初回限定盤<br>FLCF-7076:通常盤
|
通常盤
#「ストロベリーチップス」【作詞:RYO-Z/作曲編曲:DJ FUMIYA】
#「二福星」【作詞:RYO-Z/作曲編曲:DJ FUMIYA】
#「ストロベリーチップス」 (2人ともいないヴァージョン)
初回限定盤
#「ストロベリーチップス」
#「二福星」
#この世界に、この両手に【作詞:BIKKE/作曲:高野寛,斉藤哲也/編曲:[[Nathalie Wise]]】
#スラローム‘03 “ゲレンデの女王”【作詞:KOHEI JAPAN/作曲編曲:[[HALFBY]]】
#「ストロベリーチップス」 (2人ともいないヴァージョン)
|オリコン最高22位、登場回数9回
|-
|5th
|2004年6月9日
! '''[[マーチングマーチ (HALCALIの曲)|マーチングマーチ]]'''
|FLCF-7085
|
#マーチングマーチ【作詞:RYO-Z/作曲編曲:DJ FUMIYA】
#Highway to the Beach【作詞:BIKKE,高野寛/作曲:高野寛,斉藤哲也/編曲:Nathalie Wise】
#マーチングマーチ (2人ともいないヴァージョン)
|オリコン最高34位、登場回数5回
|-
|6th
|2004年10月20日
! '''[[BABY BLUE!]]'''
|FLCF-7090
|
#BABY BLUE!【作詞:VERBAL,Tomoyuki Tanaka/作曲編曲:VERBAL,Tomoyuki Tanaka,Masayuki Kumahara】
#Find A Way【作詞:BIKKE/作曲:Hiroshi Takano,Tetsuya/編曲:Nathalie Wise】
#BABY BLUE! (2人ともいないヴァージョン)
|[[BOØWY]]の「[[B・BLUE]]」を[[サンプリング]]。<br>オリコン最高47位、登場回数3回
|-
|7th
|2005年12月7日
! '''[[Tip Taps Tip]]'''
|ESCL-2746
|
#Tip Taps Tip【作詞:U/作曲編曲:[[田中ユウスケ]]】
#halcali’n’bass【作詞:HALCALI/作曲編曲:ナカムラヒロシ】
#ピスドリ【作詞:HALCALI/作曲編曲:ナカムラヒロシ】
#Tip Taps Tip Instrumental
|アニメ「[[交響詩篇エウレカセブン]]」3rdエンディングテーマ<br>移籍第1弾作品。<br>オリコン最高27位、登場回数7回
|-
|8th
|2006年2月22日
! '''[[Twinkle Star]]'''
|ESCL-2801
|
#Twinkle Star【作詞:RYO-Z/作曲:DJ Fumiya,Elmer Bernstein/編曲:DJ Fumiya】
#check!! cheke!! it!!【作詞:ナカムラヒロシ,[[ナイス橋本]]/作曲:ナカムラヒロシ,TOMISIRO/編曲:ナカムラヒロシ】
|映画「[[荒野の七人]]」のテーマをサンプリング。<br>オリコン最高104位
|-
|9th
|2006年12月13日
! '''[[LOOK (曲)|LOOK]]'''
|ESCL-2911:初回生産限定盤<br>ESCL-2913:通常盤
|
#LOOK【作詞:HALCALI,クボケンジ/作曲:田中ユウスケ】
#Sister Ship【作詞作曲:ナカムラヒロシ】
初回生産限定盤DVD
#ガトチョウ
|オリコン最高82位
|-
|10th
|2007年3月14日
! '''[[桃源郷/Lights, Camera. Action!]]'''
|ESCL-2934
|
#桃源郷【作詞:HALCALI,會田茂一/作曲:會田茂一/編曲:HONESTY】
#Lights, Camera. Action!【作詞:KOHEI JAPAN/作曲:近藤薫/編曲:[[CUBISMO GRAFICO]]】
|オリコン最高87位、登場回数3回
|-
|11th
|2007年6月20日
! '''[[It's PARTY TIME!]]'''
|ESCL-2967
|
#It’s PARTY TIME!【作詞作曲:Tomoyuki Tanaka/編曲:Fantastic Plastic Machine】
#clutch【作詞作曲編曲:Hiroshi Nakamura】
|[[THE HIGH-LOWS]]の「[[日曜日よりの使者]]」をサンプリング。<br>オリコン最高139位
|-
|12th
|2008年11月12日
! '''[[Long Kiss Good Bye]]'''
|ESCL-3132
|
#Long Kiss Good Bye【作詞:HALCALI,Masataka Kitaura/作曲:Masataka Kitaura】
#FLASH【作詞:HALCALI,[[RAM RIDER]]/作曲:RAM RIDER】
#Long Kiss Good Bye 〔Instrumental〕
|[[テレビ東京]]系アニメ『NARUTO-ナルト-疾風伝』エンディングテーマ。<br>オリコン最高53位、登場回数4回
|-
|13th
|2009年2月11日
! '''[[Re:やさしい気持ち]]'''
|ESCL-3145
|
#Re:やさしい気持ち【作詞作曲:CHARA】
#Orange Sunset【作詞:クボケンジ,HALCALI/作曲:田中ユウスケ】
|[[CHARA]]の「[[やさしい気持ち]]」をサンプリング。<br>[[ニッポン放送]]「[[ラジオ・チャリティー・ミュージックソン]]」イメージソング。<br>オリコン最高63位
|-
|14th
|2009年9月23日
! '''[[今夜はブギー・バック]]'''
|NFCD-27169
|
#今夜はブギー・バック【作詞:K.OZAWA,S.Matsumoto,Y.Matsumoto/作曲:/編曲:K.OZAWA,S.Matsumoto】
#Rising Sun (Single Mix) 【作詞作曲:TOKYO No.1 SOUL SET】
#Innocent Love 2009【作詞作曲:TOKYO No.1 SOUL SET】
#今夜はブギー・バック (Karaoke)
|[[TOKYO No.1 SOUL SET]] + HALCALI名義。<br>小沢健二&スチャダラパー「今夜はブギー・バック」をカバー。<br>オリコン最高10位、登場回数10回
|-
|15th
|2010年1月27日
! '''[[ENDLESS NIGHT]]'''
|ESCL-3353
|
#ENDLESS NIGHT(feat.Bose from Schadaraparr)【作詞:HALCALI,RAM RIDER/作曲:RAM RIDER】
#YES【作詞:VERBAL/作曲:VERBAL,John Fontein/編曲:John Fontein,縄田寿志】
#ENDLESS NIGHT(Instrumental)
#YES(Instrumental)
|[[スチャダラパー]]のBose参加。<br>オリコン最高129位
|-
|16th
|2010年5月5日
! '''[[You May Dream (HALCALIの曲)|You May Dream]]'''
|NFCD-27267
|
#You May Dream【作詞:柴山俊之,クリス・モスデル/作曲:鮎川誠,細野晴臣】
#Sunday 2010【作詞作曲:Leo Bennink,Sieb Warner】
#You May Dream (Karaoke)
|TOKYO NO.1 SOUL SET + HALCALI名義。シーナ&ロケッツのカバー。<br>オリコン最高167位
|-
|17th
|2010年9月15日
! '''[[浪漫飛行]]'''
|ESCL-3549
|
#浪漫飛行【作詞作曲:米米CLUB/編曲:Tatsuki Hashimoto】
#浪漫飛行 Instrumental
|ラストシングル<br>[[米米CLUB]]のカバー。<br>[[Sony|ソニー]]“[[サイバーショット]]”CMソング。<br>オリコン最高103位
|-
|}
=== 配信限定 ===
# スラローム06(2006年12月1日)
# 2 Higher Clap 007(2007年1月9日)
# Girl! Girl! Girl!(2007年2月1日)
=== アルバム ===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!収録曲
!備考
|-
|1st
|2003年9月3日
! '''[[ハルカリベーコン]]'''
|FLCF-3974
|
|各[[シングル]]とは別に[[アルバム]]の[[ミュージック・ビデオ|MV]]が製作された。<br>これは業界で初の試みであった。<br>オリコン最高5位、登場回数21回
|-
|2nd
|2004年11月24日
! '''[[音樂ノススメ]]'''
|FLCF-4013
|
|2005年7月1日より総売上100,000枚突破を記念してニュー・ジャケット仕様で出荷されている。<br>" 芝生 feat. [[谷川俊太郎]] " では、谷川が、自身の[[詩]]の一節を朗読する。前作に引き続きアルバムの[[ミュージック・ビデオ|PV]]が制作された。<br>オリコン最高24位、登場回数8回
|-
|リミックス
|2005年3月16日
! '''[[ハルカリミックス]]'''
|FLCF-4052
|
#タンデム -MUTABLE CHROMOSOME REMIX-([[本田ゆか]] from [[チボ・マット]])
#エレクトリック先生 -electric body sensei mix-([[石野卓球|takkyu ishino]])
#ストロベリーチップス -fascinate mix-([[岡村靖幸]])
#ギリギリ・サーフライダー -HALF RIDER remix-([[HALFBY]])
#ニ福星 -FORCE OF NATURE Remix-
#マーチングマーチ -K・U・D・O Remix-
#愛 (from 真心COVERS) ([[KOHEI JAPAN]])
#Peek-A-Boo -DJ Mitsu the Beats remix- ([[GAGLE]])
#スタイリースタイリー -HIROSHI KAWANABE REMIX-([[川辺ヒロシ]] from [[TOKYO No.1 SOUL SET]])
#BABY BLUE! -BABY BLUE IS GOOD MIX- ([[YOUR SONG IS GOOD]])
#HALCALI BEAT EDITION [BONUS EDITION]
|トータル・プロデュース:O.T.F<br>オリコン最高95位
|-
|3rd
|2007年7月18日
! '''[[サイボーグ俺達]]'''
|ESCL-2984:初回生産限定盤<br>ESCL-2986:通常盤
|
#Doo The HAMMER!! 【作詞作曲編曲:Dr.kyOn】
#It's PARTY TIME!
#恋のブブブン 【作詞作曲:VERBAL/編曲:DJ Deckstream】
#Twinkle Star
#endless lover’s rain 【作詞:BIKKE,高野寛/作曲:斉藤哲也/編曲:Nathalie Wise】
#LOOK〜Special Edition〜
#サイボーグ俺達 【作詞作曲:[[ハヤシヒロユキ]]/編曲:[[POLYSICS]]】
#ドライバーズ・ライセンス feat.[[宇多丸]]([[RHYMESTER]]) 【作詞:HALCALI,宇多丸/作曲編曲:ALI-KICK】
#フェスでウィッス! 【作詞:サイトウ"JxJx"ジュン/作曲:MASATOMO YOSHIZAWA/編曲:YOUR SONG IS GOOD】
#桃源郷
#Tip Taps Tip
#春狩道〜19の夜〜 【作詞:HALCALI,RAM RIDER/作曲編曲:RAM RIDER】
初回生産限定盤DVD
#Tip Taps Tip
#Twinkle Star
#LOOK
#桃源郷
#It’s PARTY TIME!
#It’s PARTY TIME!(Making)
|2007年7月8日、[[フランス]][[JAPAN EXPO|JAPAN EXPO 2007]]にライブ最終日のトリとして出演し同アルバム収録曲を披露、<br>2008年1月24日にはフランスでのアルバムリリースに至った。<br>オリコン最高49位、登場回数3回
|-
|4th
|2010年5月26日
! '''[[TOKYO GROOVE]]'''
|ESCL-3453
|
DISC1 [ORIGINAL Songs]
#Long Kiss Good Bye
#カミナリ□GIRL 【作詞:HALCALI,會田茂一/作曲:會田茂一】
#まばたき 【作詞:/作曲:[[スネオヘアー|渡辺健二]]】
#YES
#tears of love 【作詞:BIKKE/作曲編曲:BIKKE,斉藤哲也】
#ZIG ZAG SATURDAY NIGHT 【作詞:HALCALI,[[西寺郷太]]/作曲:西寺郷太,奥田健介/編曲:[[NONA REEVES]],矢野博康】
#ENDLESS NIGHT (feat.Bose from Schadaraparr)
#HALCALI TOKYO GROOVE TWO TURNTABLE MIX 【作詞:RYO-Z/作曲:DJ Fumiya】
DISC2 [COVER Songs]
#[[My sweet darlin']] feat.[[矢井田瞳]] 【作詞作曲:矢井田瞳】
#今夜はブギー・バック
#Re:やさしい気持ち -Album ver.-
#[[愛のために]] 【作詞作曲:[[奥田民生]]】
#愛 【作詞作曲:倉持陽一】
#すきすきソング / HALCALI with NONA REEVES 【作詞:山元護久,井上ひさし/作曲:小林亜星/編曲:NONA REEVES,矢野博康】
#[[ラッキープール]] 【作詞:Tack,YUKKY/作曲:TAKUYA/編曲:K.J.】
#You May Dream -HALCALI ver.-
|オリコン最高20位、登場回数6回
|-
|1st mini
|2011年2月9日
! '''[[TOKYO CONNECTION]]'''
|ESCL-3567
|
#浪漫飛行
#Girl!Girl!Girl!(2011) 【作詞:[[野宮真貴]]/作曲:[[中塚武]]】
#ギリチョコ 【作詞:HALCALI,[[ヨースケ@HOME]]/作曲:ヨースケ@HOME/編曲:ヨースケ@HOME,mugen】
#SUPERSTITIONS 【作詞:HALCALI,[[いしわたり淳治]]/作曲:田中ユウスケ/編曲:田中ユウスケ,Takashi Kondo】
#Hey My Melody 【作詞:HALCALI,ナカムラヒロシ/作曲:ナカムラヒロシ】
#ストロベリーチップス(Sweet Blue Beat ver.) 【編曲:武嶋聡】
#マーチングマーチ([[80kidz|80KIDZ]] Remix) 【編曲:80kidz】
|オリコン最高67位
|-
|
|2012年5月30日
! '''[[ハルカリノオカワリ]]'''
|ESCL-3908
|
DISC1
#アティテュード
#Intro.ハルカリ弁当
#タンデム
#Quest Love
#ギリギリ・サーフライダー
#ストロベリーチップス
#煩悩ダンス 【作詞:RYO-Z/作曲:DJ Fumiya】
#コンティニュード
DISC2
#今日の私はキゲンがいい 【作詞:福里真一/作曲:櫻井映子,平野航/編曲:平野航】
#[[ゴンドラの唄]] 【作詞:[[吉井勇]]/作曲:[[中山晋平]]/編曲:樋口聖典】
#Turn It Around 【作詞:Kate/作曲:Shige】
#(500)日のマジック 【作詞:HALCALI/作曲:[[斉藤和義]]】
#燃えよハルカリ feat.[[Mummy-D]] 【作詞:HALCALI,Mummy-D/作曲:Dr.Drunk,[[竹内朋康]]】
#ひみつCryin’ 【作詞:HALCALI】
#SO JOY BOY 〜clap your hands mix〜 (Remixed by [[i-dep]]) 【作詞:HALCALI,ナイス橋本,ナカムラヒロシ/作曲:ナカムラヒロシ】
|オリコン最高42位、登場回数3回
|-
|}
=== DVD ===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!収録曲
!備考
|-
|1st
|2004年3月24日
! '''春狩デーヴィーデー(仮)'''
|FLBF-8063
|
#タンデム
#スキージャンプ・ペアHALCALI編
#エレクトリック先生
#ギリギリ・サーフライダー
#スキージャンプ・ペアHALCALI編2
#ハルカリベーコン
#ストロベリーチップス
#スキージャンプ・ペアHALCALI編3
#BONUS TRACK
|オリコン最高55位、登場回数6回
|-
|}
=== 参加作品 ===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!発売日
!タイトル
!規格品番
!収録曲
|-
|2004年9月1日
! '''[[真心COVERS]]'''
|KSCL-867
|3. 愛
|-
|2004年12月3日
! '''G.Lasts... tribute to [[GODZILLA]] 50th'''
|UICO-4006
|7. GODZILLA is coming to town! 〜ゴジラが街にやってくる〜 [[BANK$]] feat. HALCALI
|-
|2006年07月26日
! '''[[m-flo]]「[[M-flo inside -WORKS BEST II-]]」'''
|RZCD-45410
|DISC1-7.BABY BLUE!
|-
|2007年8月22日
! ''' [[□□□]] 「GOLDEN LOVE」'''
|RZCM-45625
|3. COSMIC DANCE featuring HALCALI
|-
|2007年10月24日
! '''[[奥田民生・カバーズ]]'''
|SECL-563
|DISC.2-6. 愛のために
|-
|2007年12月5日
! '''[[THE HELLO WORKS]]「[[PAYDAY]]」'''
|NFCD-27063B<br>NFCD-27064
|コーラスとして参加
|-
|2008年9月24日
! '''[[赤塚不二夫]]トリビュート〜四十一才の春だから〜'''
|DFCL-1490
|2. すきすきソング / HALCALI with [[NONA REEVES]]
|-
|2009年3月18日
! '''[[JUDY AND MARY 15th Anniversary Tribute Album]]'''
|ESCL-3177
|7. [[ラッキープール]]
|-
|2010年04月07日
! '''Re:MUSIC!! -JAPANESE SAMPLING CLASSICS-'''
|BVCL-82
|8.It's PARTY TIME!
|-
|2012年07月11日
! '''[[LIL]]「L2」'''
|TOCT-29030
|3.恋はPUSH! feat.HALCALI
|-
|}
== タイアップ一覧 ==
{| class=wikitable border="1"
|-align=center
!曲名
!タイアップ
!収録作品
|-align=left
| rowspan="2" |タンデム
|[[TBSテレビ|TBS]]系『[[COUNT DOWN TV]]』2003年1月度OP
| rowspan="2" |<small>1stシングル『ダンデム』</small>
|-
|[[キッズステーション]]『[[ガラクタ通りのステイン]]』主題歌
|-
|ストロベリーチップス
|着メロサイト「えらべるJ-POP」TVCMソング
|<small>4thシングル『ストロベリーチップス』</small>
|-
| rowspan="2" |マーチングマーチ
|[[テレビ東京]]『[[週刊ポケモン放送局]]』ED
| rowspan="2" |<small>5thシングル『マーチングマーチ』</small>
|-
|[[日産自動車]]『[[日産・マーチ|マーチ]]』CMソング
|-
|Tip Taps Tip
|TBS/[[MBSテレビ|MBS]]系『[[交響詩篇エウレカセブン]]』第3期ED
|<small>7thシングル『Tip Taps Tip』</small>
|-
|LOOK
|テレビ東京『[[出ましたっ!パワパフガールズZ]]』ED
|<small>8thシングル『LOOK』</small>
|-
|Lights, Camera. Action!
|[[フジテレビジョン|フジテレビ系]]『[[月面兎兵器ミーナ]]』OP
|<small>10thシングル『桃源郷/Lights, Camera. Action!』</small>
|-
| rowspan="2" |Long Kiss Good Bye
|テレビ東京『[[NARUTO -ナルト- 疾風伝]]』2008年10月〜12月度ED
| rowspan="3" |<small>12thシングル『[[Long Kiss Good Bye]]』</small>
|-
|[[熊本県民テレビ]]『[[テレビタミン]]』2008年12月度ED
|-
|FLASH
|[[追手門学院大学]]CMソング
|-
| rowspan="2" |Re:やさしい気持ち
|[[ニッポン放送]]『ラジオ・チャリティ・ミュージックソン』イメージソング
| rowspan="2" |<small>13thシングル『Re:やさしい気持ち』</small>
|-
|熊本県民テレビ『テレビタミン』2009年2月度ED
|-
|今夜はブギー・バック
|[[日産自動車]]『[[日産・キューブ|キューブ]]』(Z12型)CMソング
|<small>14thシングル『今夜はブギー・バック』<br/>(TOKYO NO.1 SOUL SET +HALCALI)</small>
|-
|ゴンドラの唄
|[[ライオン (企業)|ライオン]]「[[クリニカ]]」CMソング
|配信曲
|}
== ミュージックビデオ ==
{|class=wikitable border="1" cellpadding="3" style="font-size:smaller;"
|-
|'''監督'''
|'''曲名'''
|-
|[[柿本ケンサク]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=7liXDYIh-ps Re:やさしい気持ち]」
|-
|[[木村豊]]
|「Tip Taps Tip」「Twinkle Star」
|-
|[[黒川静香]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=PDFt69qjgio 浪漫飛行]」
|-
|[[島田ツヨシ]]
|「エレクトリック先生」
|-
|[[信藤三雄]]
|「ハルカリベーコン Mitsuo Shindo edition」
|-
|[[清水康彦]]
|「今日の私はキゲンがいい」
|-
|[[須藤カンジ]]
|「Long Kiss Good Bye」
|-
|[[スミス (映像作家)|スミス]]
|「It's PARTY TIME!」(ロケ地:[[イオンマルシェ|カルフール狭山]])
|-
|[[TAKEIGOODMAN]]
|「音樂ノススメ」
|-
|[[竹久正記]]
|「LOOK」
|-
|[[タナカノリユキ]]
|「ストロベリーチップス」
|-
|[[田中秀幸 (アートディレクター)|田中秀幸]]
|「ギリギリ・サーフライダー」「タンデム」「タンデム (歌詞入り)」「マーチングマーチ」「桃源郷」
|-
|[[長添雅嗣]]
|「ENDLESS NIGHT (feat. Bose from Schadaraparr)」
|-
|[[野田凪]]
|「BABY BLUE!」
|-
|[[増田龍治]]
|「タンデム (ステインバージョン)」
|-
|[[森義仁]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=ZFqdOscD9jU 今夜はブギー・バック]」
|-
|[[八若道洋]]
|「エレクトリック先生 electric body sensei mix remixed by takkyu ishino」
|-
|}
== 主な出演イベント ==
*2005年07月31日 - GIRL POP FACTORY 05
*2006年12月16日・17日 - [[Rhythm Nation]] 2006
*2007年12月31日 - [[COUNTDOWN JAPAN]] 07/08
*2008年04月05日 - [[SPRINGROOVE]] 2008
*2008年08月03日 - GIRL POP FACTORY 08
*2008年12月31日 - COUNTDOWN JAPAN 08/09
*2009年08月02日 - [[ROCK IN JAPAN FESTIVAL]] 2009
*2009年12月31日 - COUNTDOWN JAPAN 09/10
*2010年08月01日 - [[SETSTOCK]]'10
*2010年08月08日 - ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2010
*2010年08月13日 - [[MTV]] ZUSHI FES 10 supported by RIVIERA
*2010年10月24日 - [[TOKYO No.1 SOUL SET]] 20th.Anniversary 「野音 de ワンマン」
*2011年02月09日 - TOKYO No.1 SOUL SET + Ladies『全て光』ALBUM RELEASE PARTY
*2011年08月06日 - ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2011
*2011年12月31日 - COUNTDOWN JAPAN 11/12
*2012年03月17日 - MUSIC CUBE 12
*2012年05月03日 - [[JAPAN JAM]] 2012
*2012年05月05日 - GIRLS' FACTORY LIVE 0505
*2012年07月27日 - O-EAST presents 「Find Her Finer」
*2012年08月04日 - ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2012
*2012年08月19日 - SETSTOCK'12 -10th Anniversary in Bihoku-
*2012年09月23日 - HARAJUKU KAWAii!! FES 2012
*2012年12月28日 - COUNTDOWN JAPAN 12/13
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=[[QuickJapan]]|edition=54号|date=2004-05|publisher=[[太田出版]]|id=ISBN 4-87233-857-X}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commons|Halcali}}
* {{Instagram|halca_|HALCA}}
* {{Twitter|YUCALI_HALCALI|YUCALI}}
* {{Instagram|yucali_halcali|YUCALI}}
* {{YouTube|user=HALCALITV}}
;更新終了
* {{Wayback|url=http://gree.jp/halca/ |title=HALCA(HALCALI) 公式ブログ |date=20210617233424}}
* {{Wayback|url=http://gree.jp/yucali/ |title=YUCALI(HALCALI) 公式ブログ |date=20210623223411}}
{{HALCALI}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はるかり}}
[[Category:HALCALI|*]]
[[Category:日本のポップ・グループ]]
[[Category:日本の音楽ユニット]]
[[Category:フォーライフミュージックエンタテイメントのアーティスト]]
[[Category:エピックレコードジャパンのアーティスト]]
[[Category:2人組の音楽グループ]]
[[Category:ROCK IN JAPAN FESTIVAL出場者]]
[[Category:2002年に結成した音楽グループ]]
[[Category:2013年に解散した音楽グループ]]
|
2003-09-18T12:43:22Z
|
2023-11-01T05:23:24Z
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[
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/HALCALI
|
17,262 |
明智光秀
|
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。このため前歴不明。越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。
天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、信長親子による政権に幕を引いた。その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。
清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれたとされるが、一次史料がないため詳細は不明。父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱・明智光国・明智光隆などと記載されるが、一次史料からは土岐明智氏嫡系の人物に「光」の字を有している者がいないため、江戸時代の創作であると考えられる。小林正信は、光秀の父とされる人物を史料上から見出すことはできない、と述べている。そのため、低い身分の土岐支流ともいわれている。
光秀は自身の出自に関する証言をほとんど残していないが、『松雲公採集遺編類纂』所収の「戒和上昔今禄」という記録には、天正5年(1577年)に発生した興福寺と東大寺の相論の奉行を務めた光秀が「我、先祖致忠節故、過分ニ所知被下シ尊氏御判御直書等所持スレトモ」と発言したことが記されている。この記述に従えば、光秀の祖先が足利尊氏に仕えてその書状を光秀が持っていたということになる。つまり、光秀の家は、当初は室町幕府御家人に連なる方向にあったが、その後、守護土岐氏に仕える被官になっていった、土岐明智氏の傍流であったととらえた方がよい。明智氏初代の明智頼重は足利尊氏・足利義詮・足利義満の足利将軍家に仕えたとされる。
光秀は将軍・足利義昭上洛早々の永禄11年(1568年)11月15日、近衛稙家の子で聖護院門跡の道澄、公家の飛鳥井雅淳、連歌の宗匠・紹巴ら錚々たる人々が出座した格式高い連歌の席に、弘治年間(1555年-1558年)からしばしば連歌会に名を連ね、一流文化人と認められていた細川藤孝に伴われて同座している。このような格式高い連歌会に同座できたことから、光秀が無名時代に相当高いレベルの連歌の素養を身に付けていたこと、および将軍・足利義尚、将軍・足利義材、将軍・足利義澄直臣の奉公衆であり、寛正3年(1462年)に頼宣の名で細川勝元と連歌に同座して以来、細川管領家が毎年催した細川千句に参加するなど、連歌を通じて幕府・朝廷・連歌界に幅広い人脈を有し、武家でありながら、延徳元年(1489年)12月に宗祇から連歌宗匠の後任に推薦され、明応4年(1495年)1月6日の『新撰菟玖波祈念百韻』に出座し、『新撰菟玖波集』に9句入集を果たした、当時の連歌界の超有名人である明智玄宣(光高)の曾孫(光秀の父明智光兼、祖父明智光重)の可能性が指摘されている。
応仁の乱では、玄宣は幕府奉公衆として東軍に属したが、玄宣の叔父の明智頼弘は西軍に与せず美濃に帰って領地を守った。また、美濃守護の土岐成頼は西軍の主力として戦い、応仁の乱後は、西軍の担いだ足利義視・義材父子を文明9年(1477年)から延徳元年(1489年)までの12年間美濃に保護したので、玄宣と成頼や義材との関係は良好でなかったと推測される。玄宣の系統は土岐明智氏の嫡流であったが、内部抗争が起こり、明応4年(1495年)に将軍・足利義高(後に義澄)の裁定により、従兄弟の頼定と美濃の知行が折半となった。文亀2年(1502年)、頼定の子・頼尚が知行の大部分を支配してその正当性を主張し、嫡男の頼典を義絶して頼明に家督を譲った。玄宣の系統はその後没落した。『明智軍記』などによると、光秀は義絶された頼典の孫となっている。
当時の美濃国は守護・土岐政房の後継者争いが起こり、嫡男の頼武を守護代の斎藤利良が担ぎ、次男の頼芸を小守護代の長井長弘とその家臣の長井新左衛門尉(斎藤道三の父)が担いだ為、戦となった。永正14年(1517年)12月、頼武派が勝利して、頼芸は尾張に逃れた。永正15年(1518年)8月、永正9年(1512年)に守護の土岐政房と対立して尾張に逃れていた前守護代の斎藤彦四郎が加勢して、頼芸は美濃に攻め入って勝利し、頼武は越前に逃れた。永正16年(1519年)、頼武は朝倉氏の援護を得て美濃に侵入し、美濃北半分を支配して守護となり、永正17年(1520年)に大桑城を築いた。大永5年(1525年)8月、頼武と頼芸の間で大乱が起こり、頼武は死亡したか、越前へ逃れたと見られる。大永9年(1526年)9月、玄宣の子で奉公衆の明智政宣が京から東国に赴いた。
生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である。ただし、後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある。また、近年その存在が広く紹介されるようになった津山藩森家の記録である『武家伝聞録』 所収の「古今之武将他界之覚」(巻一)では享年七十と記されており、逆算すると永正10年(1513年)となる。また、江戸時代には大永6年(1526年)生まれとする説もあったという。一方、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している(この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる)。
『明智軍記』によると、生地は美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われる。少なくとも美濃国(岐阜県南部)周辺で生まれたのは事実とみられている。『続群書類従』本「明智系図」や「土岐文書」に見える明智氏の家系は、可児郡明智荘を伝領した形跡がない。光秀の父が土岐頼武に仕えたとしたら、光秀の生地は福光館(現・岐阜市福光東町)近傍か、玄宣の領地、おそらく頼尚所領譲状に半分知行と書かれた駄智村(現・土岐市駄知町)・細野村(現・土岐市鶴里町細野)ということになる。また、1525年に土岐頼武が敗れた際、光秀は越前国に逃れ、そこで幼少期を過ごした可能性が指摘されている。越前国における伝承によると、一乗谷周辺の栃泉町の小字「坊の城」は光秀が幼少期に母とともに居住した場所とされ、同町内の小字「西畦」では光秀が薪割りをしたとの伝承も残る。
このほかに、近江国出生説もある。江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』には、光秀の2、3代前の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれ育ったと記述する。同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀通称)と呼ばれてきた場所がある。光秀の初期活動は近江で確認され、多賀町説は簡単に除けられないと指摘されている。岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある。
青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、『明智軍記』によると、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。
一方で、年未詳8月22日付で前野丹後守に宛てた光秀書状に、「......仍次郎越州へ罷越候ニ付て、朝倉殿より被進候御状之通被仰下候、令畏存候、......然ニ越州御同心之筋目候之条、致満足候、......」とあり、次郎という人物が越前に行くことや朝倉氏がその人物に味方することについて書かれている。土岐家惣領は代々次郎を名乗っており、光秀は土岐頼純の側近として仕え、土岐頼芸・斎藤道三と対峙していたとされる。この光秀書状は天文13年(1544年)に年次比定されている。
天文4年(1535年)8月、頼純は朝倉氏と六角氏の支援を得て、頼芸を担ぐ道三と戦い敗れ、母の兄である朝倉孝景を頼って、越前へ逃れた。天文5年(1536年)9月にも、頼純は道三と戦った。天文6年(1537年)2月、頼芸・道三と頼純・朝倉氏・六角氏が和睦し、天文7年(1538年)8月、頼純は越前から美濃に帰国し、大桑城に入った。天文12年(1543年)末、頼純は道三と大桑で戦い敗れ、織田信秀を頼って尾張へ逃れた。天文13年(1544年)9月、朝倉氏・織田氏の支援を得て、朝倉軍とともに、美濃に攻め込んだが、道三に敗れ越前に逃れた。天文15年(1546年)、頼純は道三と和解し、美濃へ帰国し、道三の娘を娶った。天文16年(1547年)11月、頼純は24歳の若さで急死。道三による暗殺とみられている。光秀は頼純の死後も美濃に留まったとみられ、『美濃明細記』には、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで斎藤義龍軍に参陣した32人の土岐一族の武将の5番目に、明智十兵衛という名前がある。
その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り、10年間仕え、長崎称念寺門前に居住していたとも言われる。『武家事紀』には「元濃州明智人也、朝倉義景家臣黒坂備中守所ニツカヘ、後細川藤孝ニ仕ユ、藤孝カ處ヲ出テ、直ニ将軍家義昭ニ奉公ノ列タリ」とあり、黒坂備中守景久は舟寄城主で、舟寄城と称念寺は約500メートルの距離である。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状がある。
2016年時点で判明している限りでは、「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が光秀の史料上の初見である。これは2014年に熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能(米田求政)の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で、光秀自身が「高嶋田中籠城之時(高嶋田中城に籠城)」に語った内容を含んでいる沼田勘解由左衛門尉の所持本を、永禄9年10月20日(1566年12月1日)に近江坂本において米田貞能が作成した写本である。定説の元となった『明智軍記』には、永禄9年10月9日に光秀は越前から美濃の岐阜に来たと書かれているが、光秀は『針薬方』が書かれた永禄9年10月20日以前に、幕府方として、高嶋田中城に籠城したことになる。
その後の調査の結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されており、出産や刀傷の対処法など、当時としては高度な医学的知識に関する記述などが見られ、この古文書を一般公開した熊本県立美術館は、光秀が信長に仕える前は医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる貴重な資料だとしている。
確定はできないものの、光秀の「高嶋田中籠城之時」は、永禄8年5月9日(1565年6月7日)に室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺された(永禄の政変)直後であると考えられるが、前述の朝倉義景仕官時代と重なる恐れがある。田中城は現在の滋賀県高島市安曇川町にあった湖西から越前方面へ向かう交通の要衝で、かねてからここを拠点に活動していたと見れば、後の元亀2年(1571年)に滋賀郡に領地を与えられるのも理解しやすくなる。
義昭は各地に檄文を発していたので、身を持て余していた人々が馳せ参じたかもしれず、光秀もその一人だったと考えられる。そして、琵琶湖の西部に位置する高嶋の地に軍事的緊張が高まった永禄9年8月から10月20日の間に、足利義昭方として、対三好軍戦の防御網の一角である高嶋田中城詰に参加し、その後家臣団の整備の際に足軽衆として正式に編入されたのだろう。
一方で、永禄9年に入り、江北の浅井長政は高島郡の山徒・土豪を引き入れるかたちで積極的に高島郡への進出を図った。長政は饗庭氏を中心とする山徒「三坊」(西林坊・定林坊・宝光坊)に、味方に付いたなら、保坂関所・万木の正覚寺跡・河上庄六代官のうち朽木殿分・善積庄八坂名を与えることを約束し、山徒千手坊には「河上六代官之内田中殿分」を与えると約束し、幕府御家人朽木・田中氏らの所領押領を図った。その後の在地の状況が具体的にどのようであったかは不明であるが、5月19日付けで義昭の申次を務めた奉公衆・曽我助乗宛ての光秀書状「高嶋之儀、饗庭三坊之城下迄令放火、敵城三ヶ所落去候て今日帰陣候、然処、従林方只今如此註進候、可然様御披露肝要候、.........」があり、近江高嶋で饗庭三坊と呼ばれる西林坊・定林坊・宝光坊の城下に放火し、敵城三カ所を落としたこと、林方よりの注進を義昭に披露してほしいことが書かれている。この光秀書状は、元亀3年(1572年)に年次比定されているが、米田文書の再発見、「来迎寺文書」(4月18日付で長政が西林坊・定林坊・宝光坊の忠節を褒め、知行(朽木氏・田中氏の領地を含む)をあてがう旨の書状)などにより、文禄9年に年次比定されるべきであり、「高嶋田中籠城之時」の同年5月ごろまでに光秀は義昭に加勢していたと指摘されている。
永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆や松永久秀らによって、兄の将軍足利義輝、母の慶寿院、弟の鹿苑寺の院主周暠を殺害され(永禄の変)、院内に幽閉されていた南都興福寺一条院門跡であった覚慶(足利義昭)は同年7月28日、大和国から脱出し、翌日近江国甲賀郡和田(現・滋賀県甲賀市)に到着して、和田惟政の屋形に入った。この脱出には、朝倉義景の働きかけもあった。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、和田惟政や細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが、当時は美濃国平定前であった。義昭が幕府再興でもっとも期待をよせていたのは、織田信長と上杉謙信の二人であった。8月14日付で朝倉義景の重臣前波吉継が義昭を越前に迎える意思を表明した返書を和田惟政宛てに送っており、光秀が義景から派遣された可能性も考えられる。
同年11月、三好一門の内訌(三好三人衆対松永久秀)が起こり、戦火が畿内全域に広がると、同年12月21日、義昭は六角氏(六角義賢)の好意で同じ近江国内の野洲郡矢島(現・滋賀県守山市)の少林寺に移座し、翌年2月17日に還俗して義秋に改めた。
「米田文書」の『針薬方』には、「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」という奥書を持つ沼田勘解左衛門尉の所持本を、米田貞能が近江坂本において写したとあり、光秀はこれが書かれた永禄9年10月20日以前に、義昭に加勢し、高嶋田中城に籠城した。
永禄9年(1566年)4月、義昭側が織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたので、信長は同年8月29日(1566年9月12日)に美濃の国境へ出兵したが、斎藤龍興によって撃退され、上洛は頓挫した。
同年8月3日、矢島を襲撃しようとした三好三人衆の兵を坂本で迎撃して、難を逃れ、また同年夏頃、六角氏が松永久秀を圧倒した三好三人衆と手を結んだため、同年8月29日夜半、義昭は妹婿である若狭国守護・武田義統の下に逃れたが、この頃武田氏の家中で騒擾が起き、攪乱していたため、越前の朝倉氏を頼り、同年9月8日、敦賀に至った。しばらくここで過ごした。
永禄10年(1567年)11月21日、朝倉氏の本拠地である一乗谷(現・福井県福井市)の安養寺に移座し、永禄11年4月15日に元服して義昭に改めた。足利幕府の役人名簿である『永禄六年諸役人附』の後半部の足軽衆に「明智」と書かれているが、外様衆に「織田尾張守信長」と「三好左京太夫義継」が書かれていることから、『永禄六年諸役人附』の後半部の作成時期は永禄10年2月から永禄11年5月が妥当とされており、義昭が越前にいる間に作成されたことになる。光秀は安養寺から3キロほど離れた東大味に居住していたとみられる。東大味から峠を一つ越えれば、一乗谷である。東大味から一乗谷へと続く峠越えの道は「大手道」と呼ばれ、一乗谷城下町に向う正面(表)の道であり、一乗谷から東大味を経て、越前国府(武生市・現越前市)そして京都へとつながる道である。
義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし、義昭が上洛を期待しても義景は動かない。光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日。『細川家記』)、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。しかしながら、信長は永禄8年(1565年)に上洛の意志があることを表明しており、永禄9年以降、藤孝はしばしば義昭の上使として自ら尾張へ行っているため、この光秀のすすめによって藤孝が信長との交渉を始めたという『細川家記』の記述は疑わしい。2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料にまとまった形で初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される。斎藤利治も末子(弟)で同様との指摘もある。
永禄11年7月頃、美濃国を併呑し、北伊勢を攻略した信長が義昭に「上洛戦のお供をしたい」と言上してきたので、義昭は越前を去り、同年7月22日、美濃国岐阜に到着した。
小和田哲男は、将軍・義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」(『群書類従』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる。 なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従う侍のことであり、戦場で稀有の働きを期待された精鋭部隊の兵士という意味であり、将軍義輝の段階で創設され、出自は多士済々であるが、将軍直臣でない者たちで構成されていたとされる。これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三管領四職家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府奉公衆となり、土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり、「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている。また、光秀を奉公衆「土岐明智氏」と直接結びつけた現存の系譜の信憑性に疑いを持って「土岐明智氏」が事実だとしても傍流出身であったとする説もある。しかも、光秀が幕府に仕えた頃には、所領を失って領主としての性質は持っておらず、越前の朝倉義景に属していたわけだから、奉公衆ではなく、足軽衆とする幕府の判断も妥当だろう。また、細川家の宿老クラスだった薬師寺たちが、足軽衆に編制されていた以上、「立入左京入道隆佐記」で美濃守護土岐氏の重臣の一人だったとされ、薬師寺たちと同様の立場だった光秀が足軽衆に繰り入れられていたのも、当時の身分編制からすれば、おかしなことではない。ただし、現在残されている番帳(『永禄六年諸役人附』)は原本とは見なされず、足軽衆「明智」は後世の追記と見る説もある。
小林正信は、永禄の変で父子とも死亡記録のある室町幕府奉公衆の実力者の進士晴舎の息子・進士藤延が生き残り、改名して明智光秀になり、光秀の妹・御ツマキは義輝の側室小侍従局、光慶は小侍従局が産んだ義輝の子である、と主張している。
本能寺の変後に、ルイス・フロイスの『日本史』や英俊の『多聞院日記』には、光秀は元は細川藤孝に仕える足軽・中間(主人の身のまわりの雑務に従事する武士の最下層)であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があったということで、当時には何らかの上下関係があったと見てよい。そのほか、寛文4年(1664)に百歳で没した江村専齊という医者が語った話を聞き書きした『老人雑話』にも、「光秀は初め藤孝の家臣だった」と書かれている。また、元禄9年(1696)に肥前平戸藩主・松浦鎮信が編纂した『武功雑記』にも、「明智は細川藤孝の家臣だった」と書かれている。
信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う騎馬()の身分であり、通説となってきた。しかし、太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している。
永禄11年9月26日(1568年10月16日)、義昭の上洛に加わる。
同年11月15日、近衛前久の弟で聖護院門跡の道澄が主催し、信長の右筆である明院良政を主賓にすえた連歌会で、道澄、雅淳、紹巴、昌叱、藤孝らと同座し、6句詠んだ。
永禄12年1月5日(1569年1月21日)、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲した(本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる。その翌月から文書発給に携わり始め、2月29日に光秀・村井貞勝・日乗上人連署で文書を発給している。
同年4月頃から木下秀吉(後に羽柴へ改姓)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う。秀吉・光秀の連署した賀茂荘中宛文書、秀吉・丹羽長秀・中川重政・光秀の連署した公家の立入左京亮宛文書、宇津右近大夫宛文書が発行されており、幕府奉公衆として署名したとみられる。
『言継卿記』には、永禄12年6月と7月に、信長方の朝山日乗と幕府方の光秀が対になって朝廷方と対応していることが書かれている。6月20日、言継が日乗を訪問し、東寺に関する依頼事項について質問したところ、「光秀に度々申し入れているが返事がない」と日乗が答えている。7月12日、言継は、日乗と光秀に立入左京亮に関する件を書状で申し入れている。元亀元年(1570)に年次比定されている4月10日付の『東寺百合文書』に、光秀が幕府の命と称して八幡宮山城下久世荘を押領しているのを止めさせるように東寺が要求した幕府宛の文書があるが、1年前の永禄12年4月の可能性が指摘されている。義昭は永禄12年1月の本圀寺の変で手柄を立てた光秀を早々に奉公衆に取り立て、下久世荘を給付し、東寺は幕府だけでなく、朝廷にも働きかけた。
同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として岐阜に戻ってしまう。
永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告するが、宛先は光秀と朝山日乗で、義昭は承諾の黒印を袖に押し、朝廷へ提出された。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。
同年1月26日、公家の山科言継は幕府奉公衆へ年頭の礼に回り、その中に光秀も含まれており、光秀はすでに幕府直参の奉公衆となっており、上京に住んでいた。
同年3月1日(1570年4月6日)、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる。
元亀元年4月28日(1570年6月1日)、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000人を主力に、秀吉と共に殿を務めて防戦に成功する。
同年4月30日(1570年6月3日)、丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、武藤友益から人質を取り、城館を破壊して5月6日帰京する。またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(『東寺百合文書』)。
同年6月28日、光秀は姉川の戦いに参加したようだ。『松平記』には、「越前衆に向て、一番柴田明智、二番家康、三番稲葉一鉄」と記されている。
同年9月、志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300人から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した。
元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣した。
同年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書)武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる。柴辻俊六は光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書の連署状況や、滋賀郡の拝領が信長に没収された延暦寺領の処理の一環として佐久間信盛らと同時に与えられていることから、宇佐山城に入った時点の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる。9月30日付で寺社などに米の徴収を命じた光秀・島田秀満・塙直政・松田秀雄連署の通達が出されたことが『言継卿記』に書かれており、島田、塙は織田の武将であり、松田は幕府の奉公衆であり、この連署状は光秀が信長家臣として最初に署名したとみることができる。また、12月10日付で信長宛に朝廷から綸旨が出され、光秀が横領した諸門跡領を返還するよう命じたことが『言継卿記』に書かれており、信長宛に綸旨で命じたということは、光秀が信長の家臣であることを朝廷が認めていたことになる。
同年12月頃、義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる。なお、暇願い提出の原因として旧延暦寺領の支配を任された光秀が信長と敵対したことを理由に所領の押領を図り、義昭の怒りを買ったからとする説があり、結果的に信長と義昭の対立の一因を光秀が引き起こした可能性もある。元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍した折では、まだ義昭方とする史料がある。
元亀4年(1573年)2月、義昭が武田信玄を頼みとして挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。この戦いには、明智弥平次、明智十郎左衛門、明智次右衛門、妻木主計、三宅藤兵衛、藤田傳五、松田太郎左衛門、池田壱岐守、比田帯刀らが参加して、義昭方の勇士58騎と、兵300余を討ち取り戦功を挙げた。しかし信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻した。
同年7月、またも義昭が槇島城で挙兵し、光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えた者も—多い。同年、坂本城が完成し、居城とした。
天正元年(1573年)7月、村井貞勝が京都所司代になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している。朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、羽柴秀吉や滝川一益と共に越前の占領行政を担当し、9月末から溝尾茂朝(三沢秀次)、木下祐久、津田元嘉が代官として引き継いだ。
天正3年(1575年)7月、光秀は惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守となる。同じ日に塙直政は原田、丹羽長秀は惟住の名字を与えられており、光秀は彼らと同格、すなわち織田氏の重臣層に加えられたことを意味していた。
天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に、光秀は参加する。そして、丹波国攻略を任される。丹波国は山続きで、その間に国人が割拠して極めて治めにくい地域であった。丹波国人は親義昭派で、以前は信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた。
ただし、丹波国人全てが一致していた訳ではなく、桑田郡宇津荘の宇津頼重や船井郡の内藤如安は親義昭・反信長の姿勢を早くから示していたが、彼らと勢力争いをしていた船井郡の小畠永明は早くから信長に協力的で光秀とも面識があった。また、桑田郡今宮の川勝継氏も小畠の説得で織田方に転じていた。
7月に入ると、まず光秀は小畠・川勝の協力を得て宇津頼重攻めを始めるが、途中で信長より越前・丹後方面への援軍を命じられて離脱したところ、8月には宇津頼重に織田方の馬路城・余部城を攻められるなど苦戦する。また、丹後出兵の背景には信長の丹波攻略に対して曖昧な姿勢を示しながら、山名氏領である但馬の出石城・竹田城への攻略を進める氷上郡の赤井直正に対する牽制の意図があったという。
一旦坂本城に戻った光秀は、10月に改めて丹波攻略を開始すると、宇津頼重は戦わずに逃亡し、続いて竹田城攻略を断念して帰還した赤井直正の黒井城を包囲するが、天正4年(1576年)1月15日に八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走する。この結果、直後に信長から朱印状を与えられている小畠・川勝以外の国人の多くが離反したとみられている。
天正4年(1576年)4月、石山本願寺との天王寺の戦いに出動するが、同年5月5日に逆襲を受けて司令官の塙直政が戦死する。光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、危ういところを信長が来援し助かる。23日には過労で倒れたため、しばらく療養を続けた。
同年11月7日(1576年11月27日)、正室の煕子が坂本城で病死する。この頃、光秀は余部城を丹波の本拠にしていたが、安定した本拠地として亀山に城を築くことを決めて、翌天正5年(1577年)1月より準備を進めている。
天正5年(1577年)、紀州雑賀攻めに従軍する。同年10月、松永との信貴山城の戦いに参加して城を落とす。同月に丹波攻めを再開して翌月には籾井城を落とすが一時的なもので、以降は長期戦となる。そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。
天正6年(1578年)3月、氷上郡の赤井直正が病死すると、再度丹波に出陣して園部城の荒木氏綱を降伏させるが、4月29日(1578年6月4日)には、毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣され、同年6月に神吉城攻めに加わる。ところが9月に入ると丹波国人の大規模な反乱が発生して亀山城防衛の要地であった馬堀城までも一時占拠され、光秀は急遽亀山城に入ると奪われた城を奪回した。
同年10月下旬、信長に背いた摂津の荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。ところがこの段階では亀山城は完成しておらず、村重の乱を知った波多野軍は一時八上城を包囲する明智軍に攻勢をかけている。
光秀の三女・玉子(洗礼名・ガラシャ)と細川忠興が勝竜寺城で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある。
同年8月11日、信長が光秀に出した判物があり(『細川家記』)、光秀の軍功を激賛、細川幽斎の文武兼備を称え、細川忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた光秀の娘玉子と細川忠興との政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっていることである。このことから偽作の可能性が高い古文書とされている。
天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入っていたが、1月には波多野軍の反撃で丹波の国人では数少ない一貫した親織田派であった小畠永明が討死する。光秀は永明の遺児に明智の名字を与えて、小畠一族には一時的な名代を立てるのは許すが、将来は必ず永明の子を当主に立てることを命じている。しかし、同年2月には包囲を続けていた八上城が落城。同年8月9日(1579年8月30日)、黒井城を落とし、ついに丹波国を平定。さらに、すぐ細川藤孝と協力して丹後国も平定した。
天正8年(1580年)、信長は感状を出し褒め称え、この功績で、丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられる。亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名した。黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れた。同年の佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。
また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属される。これにより光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立する。また、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり、歴史家の高柳光寿は、この地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」と名付けている。
同年10月、信長は光秀らを大和検地奉行として奈良に派遣しており、これと関連する津田宗及の書状が残っていて、光秀と宗及の親しさが確認できる。
天正9年(1581年)には、安土左義長の爆竹と道具の準備担当をして、それに続く京都御馬揃えの運営責任者を任された。
同年6月2日(1581年7月2日)、織田家には無かった軍法を、光秀が家法として定めた『明智家法』後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。さらに翌年1月の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり(『宗及他会記』)、信長を崇敬している様子がある。
同年8月7・8日(1581年9月4・5日)に、光秀の実妹か義妹の「御ツマキ」が死去し、光秀は比類無く力を落とした(『多聞院日記』同年8月21日条)。公家等の日記に、ツマキ・妻木は散見する。これら『多聞院日記』ほかの妻木・ツマキの各自が同一人物なのか全く不明である。『多聞院日記』には御ツマキは信長の「一段ノキヨシ」とあり、歴史学者の勝俣鎮夫は「一段のキヨシ」を「一段の気好し」として、光秀の妹は信長お気に入りの側室で、その死去で光秀の孤立化が進み、本能寺の変の遠因となったとの説を立てている。だが「一段のキヨシ」を安土城の奥向きを束ねる地位にいた、とする見解もある。
同年12月4日(1581年12月29日)、『明智家中法度』5箇条を制定。大きくなった家臣団へ織田家の宿老・馬廻衆への儀礼や、他家との口論禁止及び喧嘩の厳禁と違反者即時成敗・自害を命じている。
天正10年3月5日(1582年3月28日)、武田氏との最終戦である甲州征伐では信長に従軍する。先行していた織田信忠軍が戦闘の主力で、今回は見届けるものであり、4月21日に帰還する。
天正10年(1582年)5月、徳川家康饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、同年6月2日(1582年6月21日)早朝に出陣する。その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという。
『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害したとされている。信長の死体は発見されなかった。
その後、二条新御所にいた信長の嫡男・信忠と従兄弟の斎藤利治が、二条新御所において見事な防戦(奮戦)をしているのを確認し、降伏勧告をしたとされるが、利治は忠死を選んだ(『南北山城軍記』)、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、村井清次や信長の馬廻りたちを共に討ち取った。また津田信澄(信長の弟・織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、加担の疑いをかけられ大坂で神戸信孝(信長の三男)(織田信孝)に討たれた。
光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本拠の安土城への入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転したため、仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り同年6月4日(1582年6月23日)までに近江をほぼ平定し、同年6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えるなどした。
同年6月7日には誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せている。京都市中が騒動し、混乱を憂いてのことと思われるが、この時に兼和は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と記し「謀反」としている。光秀はこの後、同年6月8日に安土を発って、同年6月9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、京都五山や大徳寺にも銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。
だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の上下関係は歴然としていることから、細川幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしない風があったとされている。
また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した。ただし、筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた。また、詳細は後述するが、高山右近ら摂津衆を先に秀吉に押さえられたことが大きいとフロイスが『日本史』で指摘している。
本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国路の備中高松城から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の同年6月13日(1582年7月2日)、天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。
決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千人(池田恒興4,000人、中川清秀2,500人、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000人。但し4万人の説もあり)に対し明智軍1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあり、さらに1万人余りとする説もある)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3千人程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており、高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。
当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある。だが、これは『太閤記』や『川角太閤記』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、現在では創作とされている。また他には、秀吉側3万5千人に対し、各城にも兵を残したため実数1万人程度で劣勢であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3千人が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった、との見解もある。
同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したともされる。『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されたとする。その際、最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けてくれと言い残したという。
光秀のものとされる首は、発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされた。その後同月17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)に首と胴をつないでさらされた後、同年6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれたとされる(『兼見卿記』)。安土城で留守を守っていた明智秀満は、同年14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが、多くが逃亡。やがて坂本城が包囲され、光秀が集めた財宝が失われるのを惜しみ、目録を添えて包囲軍に渡した(『川角太閤記』)。籠城戦も無理だと判断して、光秀の妻子と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害した。細川氏に嫁いだ三女の珠子を除いて、光秀と秀満、および明智勢に加わった武将の一族も山崎の戦い後において織田勢の追討により尽く誅され、明智氏はこれにおいて断絶した。
「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、但馬・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎(忠興)に全てを譲って隠居する」などと6月9日付で出された書状「覚」が『細川家記』収載「明智光秀公家譜覚書」にある。しかしながら、この「覚」について、立花京子は「花押の上部の中央線が他に例のないほど太く、しかもそれの延長であるべき下部になると段差的に細くなり、他の花押には決して見られない不自然な筆の運びとなっている。筆跡の鑑定などを必要とする要検討文書と考える」と結論づけている。
光秀は美濃の明智氏の出身とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の出自説が存在する。
光秀の名に関して、小林正信は織田信長によって与えられた名であり、元々の名は将軍・足利義輝の偏諱を受けた「藤」か「輝」を含む名であったと推測している。
伝承や系図では、明智氏は代々「頼」の字を名に使用しており、光秀の父の代から「光」の字を使用するようになったとされるが、この光秀の父とされる人物を史料上から見出すことはできない。「秀」の字に関しては、信長は父・織田信秀の「秀」の字を「秀いた者」という名実一致論の下で家臣に与えていたが、光秀にも同様に名を与え、光秀の「秀」の字もこの字であるという。そして、他の家臣と違い、「光」の字が「秀」の字の上にくるのは、「光」の字が義輝の諡号「光源院」の一字であるとされ、義輝の遺臣であることやかつての義輝との繋がりが考慮された結果だとされる。そして、「光秀」の名には「今は亡き光源院様より参りし秀いた者」という意味が込められていたという。
光秀の戒名は、本徳寺の肖像画の賛によると、輝雲道琇禅定門(きうんどうしゅうぜんじょうもん)であるが、小林正信はこの戒名を足利義輝に由来するものであると指摘する。義輝の辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」であるが、この戒名には「義輝の名を雲の上まであげる道(人生)を貫いた光秀(「琇」の字は一字で「光秀」を表す)」という意味が込められているとされる。
輝雲道琇禅定門の戒名が記された肖像画(本徳寺蔵)の光秀は、明らかに享年のころとは考えられない若かりし頃の光秀である。これは信長に従属する以前、つまり幕臣時代の光秀を描いたものとされる。そして、この光秀没後に描かれた画には、謀反人としての光秀を排除し、世間に定着した人物像に抵抗する意味合いがあったという。
愛宕百韻とは、天正10年(1582年)5月28日、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。
光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、以仁王の挙兵、承久の乱、元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。
しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただでは置かないはずである)。また、愛宕百韻後に石見国の国人・福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料 が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。
なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は古来、朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。
橋場日月は『明智光秀 残虐と謀略』の中で、第23句の「葛の葉の みだるる露や 玉ならん」の葛の葉が「裏見=恨み=不平・不満」を表す言葉であることなどに注目し、信長との方針の違いが歌に込められていると解釈した。
本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。
山崎の戦いの後、竹藪で竹槍に刺されて死んだのは影武者の荒木山城守行信であり、光秀は美濃国中洞まで落ち延びたという生存説がある。落武者となった明智光秀は姓名を荒深小五郎に改めて生きながらえたが、関ケ原の戦いで東軍に参戦する途中で洪水に遭い死去した、と尾張藩士・天野信景が随筆集『塩尻』に記述している。この説によると享年は75才。岐阜県山県市中洞には明智光秀の供養塔の桔梗塚があり、明智光秀の末裔も存在している。
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。
異説の根拠として、
明智氏は「明智系図」(『続群書類従』所収)によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族であるとされており、おおよそ伝記・系図類ではこの見解は一致している。ただしその詳細な系譜や近親者については史料によって相違が甚だしく、並列に扱うことが難しい。
発祥の地は、美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市の旧明智町)とされる。『土岐文書』 では、美濃国土岐郡妻木郷(現在の岐阜県土岐市妻木町・下石町・駄知町・曽木町・鶴里町、土岐郡笠原町(現・多治見市笠原町))になっている。
『続群書類従』所収の「土岐系図」による。『続群書類従』所収の「土岐系図」は美濃国守護の土岐家の系図で、そこには土岐支族の系図も書かれており、明智家の系図も含まれる。頼尚以前と土岐定政の系統は『上野沼田 土岐家譜』とも共通する。
正室は『明智軍記』などに記載のある糟糠の妻・妻木氏(煕子)。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。本室の前に、山岸光信(進士光信)の娘(千草)に未婚で庶子を産ませたとする説もある。後年には「側室を儲けなかった愛妻家」と一般に伝わる。
史料のしっかりした定説は存在せず、確たる証拠のある男系子孫は存在しない。一方で、「光秀の子孫」と称する家は複数系統ある。光秀の書状などにより確認できる男子は「十五郎」であり、当時の史料の上で十五郎の諱は明らかではない。
山崎の戦いで明智家は滅んだとされるため、確証のある光秀の子孫は他家へ嫁いだ光秀の娘たちの女系子孫たちである。細川忠興へ嫁いだ珠(細川ガラシャ)の子孫は細川家の他、令和の皇室にもつながる。
光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の間に忠隆、忠利、多羅(稲葉一通室)などが生まれる。
明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ)- 忠利 - 光尚 - 利重 - 宣紀 - 長岡興彭(細川刑部家の長岡興行の養子)
光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の子孫。光秀の9代後の子孫である仁孝天皇と10代後の子孫である正親町雅子の間に孝明天皇が誕生し、以降の歴代天皇に血縁関係が続いている。
光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の子孫。子孫に現在の旧宮家の祭祀継承者:竹田恒正(恒徳の子)、在ブルガリア共和国日本国特命全権大使:竹田恒治(恒徳の子)、日本オリンピック委員会(JOC)会長:竹田恆和(恒徳の子)、政治評論家:竹田恒泰(恆和の子)。竹田恒正、恒治、恆和兄弟は両親ともに正親町実光の子孫であり、明智光秀の子孫である。
光秀の娘と津田信澄の間に昌澄などが生まれる。昌澄は大坂の陣で豊臣方に加わるが助命され、のちに旗本となり家を残す。
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"text": "明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。",
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"text": "通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。このため前歴不明。越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。",
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"text": "天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、信長親子による政権に幕を引いた。その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。",
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"text": "清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれたとされるが、一次史料がないため詳細は不明。父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱・明智光国・明智光隆などと記載されるが、一次史料からは土岐明智氏嫡系の人物に「光」の字を有している者がいないため、江戸時代の創作であると考えられる。小林正信は、光秀の父とされる人物を史料上から見出すことはできない、と述べている。そのため、低い身分の土岐支流ともいわれている。",
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"text": "光秀は自身の出自に関する証言をほとんど残していないが、『松雲公採集遺編類纂』所収の「戒和上昔今禄」という記録には、天正5年(1577年)に発生した興福寺と東大寺の相論の奉行を務めた光秀が「我、先祖致忠節故、過分ニ所知被下シ尊氏御判御直書等所持スレトモ」と発言したことが記されている。この記述に従えば、光秀の祖先が足利尊氏に仕えてその書状を光秀が持っていたということになる。つまり、光秀の家は、当初は室町幕府御家人に連なる方向にあったが、その後、守護土岐氏に仕える被官になっていった、土岐明智氏の傍流であったととらえた方がよい。明智氏初代の明智頼重は足利尊氏・足利義詮・足利義満の足利将軍家に仕えたとされる。",
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"text": "光秀は将軍・足利義昭上洛早々の永禄11年(1568年)11月15日、近衛稙家の子で聖護院門跡の道澄、公家の飛鳥井雅淳、連歌の宗匠・紹巴ら錚々たる人々が出座した格式高い連歌の席に、弘治年間(1555年-1558年)からしばしば連歌会に名を連ね、一流文化人と認められていた細川藤孝に伴われて同座している。このような格式高い連歌会に同座できたことから、光秀が無名時代に相当高いレベルの連歌の素養を身に付けていたこと、および将軍・足利義尚、将軍・足利義材、将軍・足利義澄直臣の奉公衆であり、寛正3年(1462年)に頼宣の名で細川勝元と連歌に同座して以来、細川管領家が毎年催した細川千句に参加するなど、連歌を通じて幕府・朝廷・連歌界に幅広い人脈を有し、武家でありながら、延徳元年(1489年)12月に宗祇から連歌宗匠の後任に推薦され、明応4年(1495年)1月6日の『新撰菟玖波祈念百韻』に出座し、『新撰菟玖波集』に9句入集を果たした、当時の連歌界の超有名人である明智玄宣(光高)の曾孫(光秀の父明智光兼、祖父明智光重)の可能性が指摘されている。",
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"text": "応仁の乱では、玄宣は幕府奉公衆として東軍に属したが、玄宣の叔父の明智頼弘は西軍に与せず美濃に帰って領地を守った。また、美濃守護の土岐成頼は西軍の主力として戦い、応仁の乱後は、西軍の担いだ足利義視・義材父子を文明9年(1477年)から延徳元年(1489年)までの12年間美濃に保護したので、玄宣と成頼や義材との関係は良好でなかったと推測される。玄宣の系統は土岐明智氏の嫡流であったが、内部抗争が起こり、明応4年(1495年)に将軍・足利義高(後に義澄)の裁定により、従兄弟の頼定と美濃の知行が折半となった。文亀2年(1502年)、頼定の子・頼尚が知行の大部分を支配してその正当性を主張し、嫡男の頼典を義絶して頼明に家督を譲った。玄宣の系統はその後没落した。『明智軍記』などによると、光秀は義絶された頼典の孫となっている。",
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"text": "当時の美濃国は守護・土岐政房の後継者争いが起こり、嫡男の頼武を守護代の斎藤利良が担ぎ、次男の頼芸を小守護代の長井長弘とその家臣の長井新左衛門尉(斎藤道三の父)が担いだ為、戦となった。永正14年(1517年)12月、頼武派が勝利して、頼芸は尾張に逃れた。永正15年(1518年)8月、永正9年(1512年)に守護の土岐政房と対立して尾張に逃れていた前守護代の斎藤彦四郎が加勢して、頼芸は美濃に攻め入って勝利し、頼武は越前に逃れた。永正16年(1519年)、頼武は朝倉氏の援護を得て美濃に侵入し、美濃北半分を支配して守護となり、永正17年(1520年)に大桑城を築いた。大永5年(1525年)8月、頼武と頼芸の間で大乱が起こり、頼武は死亡したか、越前へ逃れたと見られる。大永9年(1526年)9月、玄宣の子で奉公衆の明智政宣が京から東国に赴いた。",
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"text": "生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である。ただし、後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある。また、近年その存在が広く紹介されるようになった津山藩森家の記録である『武家伝聞録』 所収の「古今之武将他界之覚」(巻一)では享年七十と記されており、逆算すると永正10年(1513年)となる。また、江戸時代には大永6年(1526年)生まれとする説もあったという。一方、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している(この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる)。",
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"text": "『明智軍記』によると、生地は美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われる。少なくとも美濃国(岐阜県南部)周辺で生まれたのは事実とみられている。『続群書類従』本「明智系図」や「土岐文書」に見える明智氏の家系は、可児郡明智荘を伝領した形跡がない。光秀の父が土岐頼武に仕えたとしたら、光秀の生地は福光館(現・岐阜市福光東町)近傍か、玄宣の領地、おそらく頼尚所領譲状に半分知行と書かれた駄智村(現・土岐市駄知町)・細野村(現・土岐市鶴里町細野)ということになる。また、1525年に土岐頼武が敗れた際、光秀は越前国に逃れ、そこで幼少期を過ごした可能性が指摘されている。越前国における伝承によると、一乗谷周辺の栃泉町の小字「坊の城」は光秀が幼少期に母とともに居住した場所とされ、同町内の小字「西畦」では光秀が薪割りをしたとの伝承も残る。",
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"text": "このほかに、近江国出生説もある。江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』には、光秀の2、3代前の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれ育ったと記述する。同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀通称)と呼ばれてきた場所がある。光秀の初期活動は近江で確認され、多賀町説は簡単に除けられないと指摘されている。岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある。",
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"text": "青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、『明智軍記』によると、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。",
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"text": "一方で、年未詳8月22日付で前野丹後守に宛てた光秀書状に、「......仍次郎越州へ罷越候ニ付て、朝倉殿より被進候御状之通被仰下候、令畏存候、......然ニ越州御同心之筋目候之条、致満足候、......」とあり、次郎という人物が越前に行くことや朝倉氏がその人物に味方することについて書かれている。土岐家惣領は代々次郎を名乗っており、光秀は土岐頼純の側近として仕え、土岐頼芸・斎藤道三と対峙していたとされる。この光秀書状は天文13年(1544年)に年次比定されている。",
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"text": "天文4年(1535年)8月、頼純は朝倉氏と六角氏の支援を得て、頼芸を担ぐ道三と戦い敗れ、母の兄である朝倉孝景を頼って、越前へ逃れた。天文5年(1536年)9月にも、頼純は道三と戦った。天文6年(1537年)2月、頼芸・道三と頼純・朝倉氏・六角氏が和睦し、天文7年(1538年)8月、頼純は越前から美濃に帰国し、大桑城に入った。天文12年(1543年)末、頼純は道三と大桑で戦い敗れ、織田信秀を頼って尾張へ逃れた。天文13年(1544年)9月、朝倉氏・織田氏の支援を得て、朝倉軍とともに、美濃に攻め込んだが、道三に敗れ越前に逃れた。天文15年(1546年)、頼純は道三と和解し、美濃へ帰国し、道三の娘を娶った。天文16年(1547年)11月、頼純は24歳の若さで急死。道三による暗殺とみられている。光秀は頼純の死後も美濃に留まったとみられ、『美濃明細記』には、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで斎藤義龍軍に参陣した32人の土岐一族の武将の5番目に、明智十兵衛という名前がある。",
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"text": "その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り、10年間仕え、長崎称念寺門前に居住していたとも言われる。『武家事紀』には「元濃州明智人也、朝倉義景家臣黒坂備中守所ニツカヘ、後細川藤孝ニ仕ユ、藤孝カ處ヲ出テ、直ニ将軍家義昭ニ奉公ノ列タリ」とあり、黒坂備中守景久は舟寄城主で、舟寄城と称念寺は約500メートルの距離である。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状がある。",
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"text": "2016年時点で判明している限りでは、「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が光秀の史料上の初見である。これは2014年に熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能(米田求政)の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で、光秀自身が「高嶋田中籠城之時(高嶋田中城に籠城)」に語った内容を含んでいる沼田勘解由左衛門尉の所持本を、永禄9年10月20日(1566年12月1日)に近江坂本において米田貞能が作成した写本である。定説の元となった『明智軍記』には、永禄9年10月9日に光秀は越前から美濃の岐阜に来たと書かれているが、光秀は『針薬方』が書かれた永禄9年10月20日以前に、幕府方として、高嶋田中城に籠城したことになる。",
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"text": "その後の調査の結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されており、出産や刀傷の対処法など、当時としては高度な医学的知識に関する記述などが見られ、この古文書を一般公開した熊本県立美術館は、光秀が信長に仕える前は医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる貴重な資料だとしている。",
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"text": "確定はできないものの、光秀の「高嶋田中籠城之時」は、永禄8年5月9日(1565年6月7日)に室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺された(永禄の政変)直後であると考えられるが、前述の朝倉義景仕官時代と重なる恐れがある。田中城は現在の滋賀県高島市安曇川町にあった湖西から越前方面へ向かう交通の要衝で、かねてからここを拠点に活動していたと見れば、後の元亀2年(1571年)に滋賀郡に領地を与えられるのも理解しやすくなる。",
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"text": "義昭は各地に檄文を発していたので、身を持て余していた人々が馳せ参じたかもしれず、光秀もその一人だったと考えられる。そして、琵琶湖の西部に位置する高嶋の地に軍事的緊張が高まった永禄9年8月から10月20日の間に、足利義昭方として、対三好軍戦の防御網の一角である高嶋田中城詰に参加し、その後家臣団の整備の際に足軽衆として正式に編入されたのだろう。",
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"text": "一方で、永禄9年に入り、江北の浅井長政は高島郡の山徒・土豪を引き入れるかたちで積極的に高島郡への進出を図った。長政は饗庭氏を中心とする山徒「三坊」(西林坊・定林坊・宝光坊)に、味方に付いたなら、保坂関所・万木の正覚寺跡・河上庄六代官のうち朽木殿分・善積庄八坂名を与えることを約束し、山徒千手坊には「河上六代官之内田中殿分」を与えると約束し、幕府御家人朽木・田中氏らの所領押領を図った。その後の在地の状況が具体的にどのようであったかは不明であるが、5月19日付けで義昭の申次を務めた奉公衆・曽我助乗宛ての光秀書状「高嶋之儀、饗庭三坊之城下迄令放火、敵城三ヶ所落去候て今日帰陣候、然処、従林方只今如此註進候、可然様御披露肝要候、.........」があり、近江高嶋で饗庭三坊と呼ばれる西林坊・定林坊・宝光坊の城下に放火し、敵城三カ所を落としたこと、林方よりの注進を義昭に披露してほしいことが書かれている。この光秀書状は、元亀3年(1572年)に年次比定されているが、米田文書の再発見、「来迎寺文書」(4月18日付で長政が西林坊・定林坊・宝光坊の忠節を褒め、知行(朽木氏・田中氏の領地を含む)をあてがう旨の書状)などにより、文禄9年に年次比定されるべきであり、「高嶋田中籠城之時」の同年5月ごろまでに光秀は義昭に加勢していたと指摘されている。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆や松永久秀らによって、兄の将軍足利義輝、母の慶寿院、弟の鹿苑寺の院主周暠を殺害され(永禄の変)、院内に幽閉されていた南都興福寺一条院門跡であった覚慶(足利義昭)は同年7月28日、大和国から脱出し、翌日近江国甲賀郡和田(現・滋賀県甲賀市)に到着して、和田惟政の屋形に入った。この脱出には、朝倉義景の働きかけもあった。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、和田惟政や細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが、当時は美濃国平定前であった。義昭が幕府再興でもっとも期待をよせていたのは、織田信長と上杉謙信の二人であった。8月14日付で朝倉義景の重臣前波吉継が義昭を越前に迎える意思を表明した返書を和田惟政宛てに送っており、光秀が義景から派遣された可能性も考えられる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "同年11月、三好一門の内訌(三好三人衆対松永久秀)が起こり、戦火が畿内全域に広がると、同年12月21日、義昭は六角氏(六角義賢)の好意で同じ近江国内の野洲郡矢島(現・滋賀県守山市)の少林寺に移座し、翌年2月17日に還俗して義秋に改めた。",
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"paragraph_id": 22,
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"text": "「米田文書」の『針薬方』には、「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」という奥書を持つ沼田勘解左衛門尉の所持本を、米田貞能が近江坂本において写したとあり、光秀はこれが書かれた永禄9年10月20日以前に、義昭に加勢し、高嶋田中城に籠城した。",
"title": "生涯"
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"text": "永禄9年(1566年)4月、義昭側が織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたので、信長は同年8月29日(1566年9月12日)に美濃の国境へ出兵したが、斎藤龍興によって撃退され、上洛は頓挫した。",
"title": "生涯"
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"text": "同年8月3日、矢島を襲撃しようとした三好三人衆の兵を坂本で迎撃して、難を逃れ、また同年夏頃、六角氏が松永久秀を圧倒した三好三人衆と手を結んだため、同年8月29日夜半、義昭は妹婿である若狭国守護・武田義統の下に逃れたが、この頃武田氏の家中で騒擾が起き、攪乱していたため、越前の朝倉氏を頼り、同年9月8日、敦賀に至った。しばらくここで過ごした。",
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"text": "永禄10年(1567年)11月21日、朝倉氏の本拠地である一乗谷(現・福井県福井市)の安養寺に移座し、永禄11年4月15日に元服して義昭に改めた。足利幕府の役人名簿である『永禄六年諸役人附』の後半部の足軽衆に「明智」と書かれているが、外様衆に「織田尾張守信長」と「三好左京太夫義継」が書かれていることから、『永禄六年諸役人附』の後半部の作成時期は永禄10年2月から永禄11年5月が妥当とされており、義昭が越前にいる間に作成されたことになる。光秀は安養寺から3キロほど離れた東大味に居住していたとみられる。東大味から峠を一つ越えれば、一乗谷である。東大味から一乗谷へと続く峠越えの道は「大手道」と呼ばれ、一乗谷城下町に向う正面(表)の道であり、一乗谷から東大味を経て、越前国府(武生市・現越前市)そして京都へとつながる道である。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし、義昭が上洛を期待しても義景は動かない。光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日。『細川家記』)、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。しかしながら、信長は永禄8年(1565年)に上洛の意志があることを表明しており、永禄9年以降、藤孝はしばしば義昭の上使として自ら尾張へ行っているため、この光秀のすすめによって藤孝が信長との交渉を始めたという『細川家記』の記述は疑わしい。2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料にまとまった形で初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される。斎藤利治も末子(弟)で同様との指摘もある。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "永禄11年7月頃、美濃国を併呑し、北伊勢を攻略した信長が義昭に「上洛戦のお供をしたい」と言上してきたので、義昭は越前を去り、同年7月22日、美濃国岐阜に到着した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "小和田哲男は、将軍・義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」(『群書類従』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる。 なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従う侍のことであり、戦場で稀有の働きを期待された精鋭部隊の兵士という意味であり、将軍義輝の段階で創設され、出自は多士済々であるが、将軍直臣でない者たちで構成されていたとされる。これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三管領四職家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府奉公衆となり、土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり、「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている。また、光秀を奉公衆「土岐明智氏」と直接結びつけた現存の系譜の信憑性に疑いを持って「土岐明智氏」が事実だとしても傍流出身であったとする説もある。しかも、光秀が幕府に仕えた頃には、所領を失って領主としての性質は持っておらず、越前の朝倉義景に属していたわけだから、奉公衆ではなく、足軽衆とする幕府の判断も妥当だろう。また、細川家の宿老クラスだった薬師寺たちが、足軽衆に編制されていた以上、「立入左京入道隆佐記」で美濃守護土岐氏の重臣の一人だったとされ、薬師寺たちと同様の立場だった光秀が足軽衆に繰り入れられていたのも、当時の身分編制からすれば、おかしなことではない。ただし、現在残されている番帳(『永禄六年諸役人附』)は原本とは見なされず、足軽衆「明智」は後世の追記と見る説もある。",
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"text": "小林正信は、永禄の変で父子とも死亡記録のある室町幕府奉公衆の実力者の進士晴舎の息子・進士藤延が生き残り、改名して明智光秀になり、光秀の妹・御ツマキは義輝の側室小侍従局、光慶は小侍従局が産んだ義輝の子である、と主張している。",
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"text": "本能寺の変後に、ルイス・フロイスの『日本史』や英俊の『多聞院日記』には、光秀は元は細川藤孝に仕える足軽・中間(主人の身のまわりの雑務に従事する武士の最下層)であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があったということで、当時には何らかの上下関係があったと見てよい。そのほか、寛文4年(1664)に百歳で没した江村専齊という医者が語った話を聞き書きした『老人雑話』にも、「光秀は初め藤孝の家臣だった」と書かれている。また、元禄9年(1696)に肥前平戸藩主・松浦鎮信が編纂した『武功雑記』にも、「明智は細川藤孝の家臣だった」と書かれている。",
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"text": "信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う騎馬()の身分であり、通説となってきた。しかし、太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している。",
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"text": "永禄11年9月26日(1568年10月16日)、義昭の上洛に加わる。",
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"text": "同年11月15日、近衛前久の弟で聖護院門跡の道澄が主催し、信長の右筆である明院良政を主賓にすえた連歌会で、道澄、雅淳、紹巴、昌叱、藤孝らと同座し、6句詠んだ。",
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"paragraph_id": 34,
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"text": "永禄12年1月5日(1569年1月21日)、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲した(本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる。その翌月から文書発給に携わり始め、2月29日に光秀・村井貞勝・日乗上人連署で文書を発給している。",
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"paragraph_id": 35,
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"text": "同年4月頃から木下秀吉(後に羽柴へ改姓)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う。秀吉・光秀の連署した賀茂荘中宛文書、秀吉・丹羽長秀・中川重政・光秀の連署した公家の立入左京亮宛文書、宇津右近大夫宛文書が発行されており、幕府奉公衆として署名したとみられる。",
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"paragraph_id": 36,
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"text": "『言継卿記』には、永禄12年6月と7月に、信長方の朝山日乗と幕府方の光秀が対になって朝廷方と対応していることが書かれている。6月20日、言継が日乗を訪問し、東寺に関する依頼事項について質問したところ、「光秀に度々申し入れているが返事がない」と日乗が答えている。7月12日、言継は、日乗と光秀に立入左京亮に関する件を書状で申し入れている。元亀元年(1570)に年次比定されている4月10日付の『東寺百合文書』に、光秀が幕府の命と称して八幡宮山城下久世荘を押領しているのを止めさせるように東寺が要求した幕府宛の文書があるが、1年前の永禄12年4月の可能性が指摘されている。義昭は永禄12年1月の本圀寺の変で手柄を立てた光秀を早々に奉公衆に取り立て、下久世荘を給付し、東寺は幕府だけでなく、朝廷にも働きかけた。",
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"paragraph_id": 37,
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"text": "同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として岐阜に戻ってしまう。",
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"paragraph_id": 38,
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"text": "永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告するが、宛先は光秀と朝山日乗で、義昭は承諾の黒印を袖に押し、朝廷へ提出された。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。",
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"paragraph_id": 39,
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"text": "同年1月26日、公家の山科言継は幕府奉公衆へ年頭の礼に回り、その中に光秀も含まれており、光秀はすでに幕府直参の奉公衆となっており、上京に住んでいた。",
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"paragraph_id": 40,
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"text": "同年3月1日(1570年4月6日)、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる。",
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"paragraph_id": 41,
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"text": "元亀元年4月28日(1570年6月1日)、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000人を主力に、秀吉と共に殿を務めて防戦に成功する。",
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"paragraph_id": 42,
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"text": "同年4月30日(1570年6月3日)、丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、武藤友益から人質を取り、城館を破壊して5月6日帰京する。またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(『東寺百合文書』)。",
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"text": "同年6月28日、光秀は姉川の戦いに参加したようだ。『松平記』には、「越前衆に向て、一番柴田明智、二番家康、三番稲葉一鉄」と記されている。",
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"paragraph_id": 44,
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"text": "同年9月、志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300人から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した。",
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"paragraph_id": 45,
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"text": "元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "同年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書)武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる。柴辻俊六は光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書の連署状況や、滋賀郡の拝領が信長に没収された延暦寺領の処理の一環として佐久間信盛らと同時に与えられていることから、宇佐山城に入った時点の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる。9月30日付で寺社などに米の徴収を命じた光秀・島田秀満・塙直政・松田秀雄連署の通達が出されたことが『言継卿記』に書かれており、島田、塙は織田の武将であり、松田は幕府の奉公衆であり、この連署状は光秀が信長家臣として最初に署名したとみることができる。また、12月10日付で信長宛に朝廷から綸旨が出され、光秀が横領した諸門跡領を返還するよう命じたことが『言継卿記』に書かれており、信長宛に綸旨で命じたということは、光秀が信長の家臣であることを朝廷が認めていたことになる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "同年12月頃、義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる。なお、暇願い提出の原因として旧延暦寺領の支配を任された光秀が信長と敵対したことを理由に所領の押領を図り、義昭の怒りを買ったからとする説があり、結果的に信長と義昭の対立の一因を光秀が引き起こした可能性もある。元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍した折では、まだ義昭方とする史料がある。",
"title": "生涯"
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"text": "元亀4年(1573年)2月、義昭が武田信玄を頼みとして挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。この戦いには、明智弥平次、明智十郎左衛門、明智次右衛門、妻木主計、三宅藤兵衛、藤田傳五、松田太郎左衛門、池田壱岐守、比田帯刀らが参加して、義昭方の勇士58騎と、兵300余を討ち取り戦功を挙げた。しかし信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻した。",
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"text": "同年7月、またも義昭が槇島城で挙兵し、光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えた者も—多い。同年、坂本城が完成し、居城とした。",
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"text": "天正元年(1573年)7月、村井貞勝が京都所司代になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している。朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、羽柴秀吉や滝川一益と共に越前の占領行政を担当し、9月末から溝尾茂朝(三沢秀次)、木下祐久、津田元嘉が代官として引き継いだ。",
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"text": "天正3年(1575年)7月、光秀は惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守となる。同じ日に塙直政は原田、丹羽長秀は惟住の名字を与えられており、光秀は彼らと同格、すなわち織田氏の重臣層に加えられたことを意味していた。",
"title": "生涯"
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"text": "天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に、光秀は参加する。そして、丹波国攻略を任される。丹波国は山続きで、その間に国人が割拠して極めて治めにくい地域であった。丹波国人は親義昭派で、以前は信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた。",
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"text": "ただし、丹波国人全てが一致していた訳ではなく、桑田郡宇津荘の宇津頼重や船井郡の内藤如安は親義昭・反信長の姿勢を早くから示していたが、彼らと勢力争いをしていた船井郡の小畠永明は早くから信長に協力的で光秀とも面識があった。また、桑田郡今宮の川勝継氏も小畠の説得で織田方に転じていた。",
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"text": "7月に入ると、まず光秀は小畠・川勝の協力を得て宇津頼重攻めを始めるが、途中で信長より越前・丹後方面への援軍を命じられて離脱したところ、8月には宇津頼重に織田方の馬路城・余部城を攻められるなど苦戦する。また、丹後出兵の背景には信長の丹波攻略に対して曖昧な姿勢を示しながら、山名氏領である但馬の出石城・竹田城への攻略を進める氷上郡の赤井直正に対する牽制の意図があったという。",
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"text": "一旦坂本城に戻った光秀は、10月に改めて丹波攻略を開始すると、宇津頼重は戦わずに逃亡し、続いて竹田城攻略を断念して帰還した赤井直正の黒井城を包囲するが、天正4年(1576年)1月15日に八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走する。この結果、直後に信長から朱印状を与えられている小畠・川勝以外の国人の多くが離反したとみられている。",
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"text": "天正4年(1576年)4月、石山本願寺との天王寺の戦いに出動するが、同年5月5日に逆襲を受けて司令官の塙直政が戦死する。光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、危ういところを信長が来援し助かる。23日には過労で倒れたため、しばらく療養を続けた。",
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"text": "同年11月7日(1576年11月27日)、正室の煕子が坂本城で病死する。この頃、光秀は余部城を丹波の本拠にしていたが、安定した本拠地として亀山に城を築くことを決めて、翌天正5年(1577年)1月より準備を進めている。",
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "天正5年(1577年)、紀州雑賀攻めに従軍する。同年10月、松永との信貴山城の戦いに参加して城を落とす。同月に丹波攻めを再開して翌月には籾井城を落とすが一時的なもので、以降は長期戦となる。そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "天正6年(1578年)3月、氷上郡の赤井直正が病死すると、再度丹波に出陣して園部城の荒木氏綱を降伏させるが、4月29日(1578年6月4日)には、毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣され、同年6月に神吉城攻めに加わる。ところが9月に入ると丹波国人の大規模な反乱が発生して亀山城防衛の要地であった馬堀城までも一時占拠され、光秀は急遽亀山城に入ると奪われた城を奪回した。",
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"text": "同年10月下旬、信長に背いた摂津の荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。ところがこの段階では亀山城は完成しておらず、村重の乱を知った波多野軍は一時八上城を包囲する明智軍に攻勢をかけている。",
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"text": "光秀の三女・玉子(洗礼名・ガラシャ)と細川忠興が勝竜寺城で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "同年8月11日、信長が光秀に出した判物があり(『細川家記』)、光秀の軍功を激賛、細川幽斎の文武兼備を称え、細川忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた光秀の娘玉子と細川忠興との政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっていることである。このことから偽作の可能性が高い古文書とされている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入っていたが、1月には波多野軍の反撃で丹波の国人では数少ない一貫した親織田派であった小畠永明が討死する。光秀は永明の遺児に明智の名字を与えて、小畠一族には一時的な名代を立てるのは許すが、将来は必ず永明の子を当主に立てることを命じている。しかし、同年2月には包囲を続けていた八上城が落城。同年8月9日(1579年8月30日)、黒井城を落とし、ついに丹波国を平定。さらに、すぐ細川藤孝と協力して丹後国も平定した。",
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "天正8年(1580年)、信長は感状を出し褒め称え、この功績で、丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられる。亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名した。黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れた。同年の佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 65,
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"text": "また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属される。これにより光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立する。また、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり、歴史家の高柳光寿は、この地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」と名付けている。",
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "同年10月、信長は光秀らを大和検地奉行として奈良に派遣しており、これと関連する津田宗及の書状が残っていて、光秀と宗及の親しさが確認できる。",
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"paragraph_id": 67,
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"text": "天正9年(1581年)には、安土左義長の爆竹と道具の準備担当をして、それに続く京都御馬揃えの運営責任者を任された。",
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"paragraph_id": 68,
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"text": "同年6月2日(1581年7月2日)、織田家には無かった軍法を、光秀が家法として定めた『明智家法』後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。さらに翌年1月の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり(『宗及他会記』)、信長を崇敬している様子がある。",
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "同年8月7・8日(1581年9月4・5日)に、光秀の実妹か義妹の「御ツマキ」が死去し、光秀は比類無く力を落とした(『多聞院日記』同年8月21日条)。公家等の日記に、ツマキ・妻木は散見する。これら『多聞院日記』ほかの妻木・ツマキの各自が同一人物なのか全く不明である。『多聞院日記』には御ツマキは信長の「一段ノキヨシ」とあり、歴史学者の勝俣鎮夫は「一段のキヨシ」を「一段の気好し」として、光秀の妹は信長お気に入りの側室で、その死去で光秀の孤立化が進み、本能寺の変の遠因となったとの説を立てている。だが「一段のキヨシ」を安土城の奥向きを束ねる地位にいた、とする見解もある。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "同年12月4日(1581年12月29日)、『明智家中法度』5箇条を制定。大きくなった家臣団へ織田家の宿老・馬廻衆への儀礼や、他家との口論禁止及び喧嘩の厳禁と違反者即時成敗・自害を命じている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "天正10年3月5日(1582年3月28日)、武田氏との最終戦である甲州征伐では信長に従軍する。先行していた織田信忠軍が戦闘の主力で、今回は見届けるものであり、4月21日に帰還する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "天正10年(1582年)5月、徳川家康饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、同年6月2日(1582年6月21日)早朝に出陣する。その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害したとされている。信長の死体は発見されなかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "その後、二条新御所にいた信長の嫡男・信忠と従兄弟の斎藤利治が、二条新御所において見事な防戦(奮戦)をしているのを確認し、降伏勧告をしたとされるが、利治は忠死を選んだ(『南北山城軍記』)、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、村井清次や信長の馬廻りたちを共に討ち取った。また津田信澄(信長の弟・織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、加担の疑いをかけられ大坂で神戸信孝(信長の三男)(織田信孝)に討たれた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本拠の安土城への入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転したため、仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り同年6月4日(1582年6月23日)までに近江をほぼ平定し、同年6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えるなどした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "同年6月7日には誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せている。京都市中が騒動し、混乱を憂いてのことと思われるが、この時に兼和は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と記し「謀反」としている。光秀はこの後、同年6月8日に安土を発って、同年6月9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、京都五山や大徳寺にも銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の上下関係は歴然としていることから、細川幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしない風があったとされている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 78,
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"text": "また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した。ただし、筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた。また、詳細は後述するが、高山右近ら摂津衆を先に秀吉に押さえられたことが大きいとフロイスが『日本史』で指摘している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 79,
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"text": "本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国路の備中高松城から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の同年6月13日(1582年7月2日)、天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 80,
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"text": "決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千人(池田恒興4,000人、中川清秀2,500人、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000人。但し4万人の説もあり)に対し明智軍1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあり、さらに1万人余りとする説もある)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3千人程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており、高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。",
"title": "生涯"
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"text": "当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある。だが、これは『太閤記』や『川角太閤記』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、現在では創作とされている。また他には、秀吉側3万5千人に対し、各城にも兵を残したため実数1万人程度で劣勢であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3千人が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった、との見解もある。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 82,
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"text": "同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したともされる。『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されたとする。その際、最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けてくれと言い残したという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 83,
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"text": "光秀のものとされる首は、発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされた。その後同月17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)に首と胴をつないでさらされた後、同年6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれたとされる(『兼見卿記』)。安土城で留守を守っていた明智秀満は、同年14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが、多くが逃亡。やがて坂本城が包囲され、光秀が集めた財宝が失われるのを惜しみ、目録を添えて包囲軍に渡した(『川角太閤記』)。籠城戦も無理だと判断して、光秀の妻子と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害した。細川氏に嫁いだ三女の珠子を除いて、光秀と秀満、および明智勢に加わった武将の一族も山崎の戦い後において織田勢の追討により尽く誅され、明智氏はこれにおいて断絶した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、但馬・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎(忠興)に全てを譲って隠居する」などと6月9日付で出された書状「覚」が『細川家記』収載「明智光秀公家譜覚書」にある。しかしながら、この「覚」について、立花京子は「花押の上部の中央線が他に例のないほど太く、しかもそれの延長であるべき下部になると段差的に細くなり、他の花押には決して見られない不自然な筆の運びとなっている。筆跡の鑑定などを必要とする要検討文書と考える」と結論づけている。",
"title": "人物・評価"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "光秀は美濃の明智氏の出身とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の出自説が存在する。",
"title": "光秀の謎"
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{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "光秀の名に関して、小林正信は織田信長によって与えられた名であり、元々の名は将軍・足利義輝の偏諱を受けた「藤」か「輝」を含む名であったと推測している。",
"title": "光秀の謎"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "伝承や系図では、明智氏は代々「頼」の字を名に使用しており、光秀の父の代から「光」の字を使用するようになったとされるが、この光秀の父とされる人物を史料上から見出すことはできない。「秀」の字に関しては、信長は父・織田信秀の「秀」の字を「秀いた者」という名実一致論の下で家臣に与えていたが、光秀にも同様に名を与え、光秀の「秀」の字もこの字であるという。そして、他の家臣と違い、「光」の字が「秀」の字の上にくるのは、「光」の字が義輝の諡号「光源院」の一字であるとされ、義輝の遺臣であることやかつての義輝との繋がりが考慮された結果だとされる。そして、「光秀」の名には「今は亡き光源院様より参りし秀いた者」という意味が込められていたという。",
"title": "光秀の謎"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "光秀の戒名は、本徳寺の肖像画の賛によると、輝雲道琇禅定門(きうんどうしゅうぜんじょうもん)であるが、小林正信はこの戒名を足利義輝に由来するものであると指摘する。義輝の辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」であるが、この戒名には「義輝の名を雲の上まであげる道(人生)を貫いた光秀(「琇」の字は一字で「光秀」を表す)」という意味が込められているとされる。",
"title": "光秀の謎"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "輝雲道琇禅定門の戒名が記された肖像画(本徳寺蔵)の光秀は、明らかに享年のころとは考えられない若かりし頃の光秀である。これは信長に従属する以前、つまり幕臣時代の光秀を描いたものとされる。そして、この光秀没後に描かれた画には、謀反人としての光秀を排除し、世間に定着した人物像に抵抗する意味合いがあったという。",
"title": "光秀の謎"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "愛宕百韻とは、天正10年(1582年)5月28日、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。",
"title": "光秀の謎"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、以仁王の挙兵、承久の乱、元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。",
"title": "光秀の謎"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただでは置かないはずである)。また、愛宕百韻後に石見国の国人・福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料 が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。",
"title": "光秀の謎"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は古来、朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。",
"title": "光秀の謎"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "橋場日月は『明智光秀 残虐と謀略』の中で、第23句の「葛の葉の みだるる露や 玉ならん」の葛の葉が「裏見=恨み=不平・不満」を表す言葉であることなどに注目し、信長との方針の違いが歌に込められていると解釈した。",
"title": "光秀の謎"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。",
"title": "光秀の謎"
},
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"paragraph_id": 96,
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"text": "山崎の戦いの後、竹藪で竹槍に刺されて死んだのは影武者の荒木山城守行信であり、光秀は美濃国中洞まで落ち延びたという生存説がある。落武者となった明智光秀は姓名を荒深小五郎に改めて生きながらえたが、関ケ原の戦いで東軍に参戦する途中で洪水に遭い死去した、と尾張藩士・天野信景が随筆集『塩尻』に記述している。この説によると享年は75才。岐阜県山県市中洞には明智光秀の供養塔の桔梗塚があり、明智光秀の末裔も存在している。",
"title": "光秀の謎"
},
{
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"text": "光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。",
"title": "光秀の謎"
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"text": "異説の根拠として、",
"title": "光秀の謎"
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"text": "明智氏は「明智系図」(『続群書類従』所収)によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族であるとされており、おおよそ伝記・系図類ではこの見解は一致している。ただしその詳細な系譜や近親者については史料によって相違が甚だしく、並列に扱うことが難しい。",
"title": "系譜"
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"text": "発祥の地は、美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市の旧明智町)とされる。『土岐文書』 では、美濃国土岐郡妻木郷(現在の岐阜県土岐市妻木町・下石町・駄知町・曽木町・鶴里町、土岐郡笠原町(現・多治見市笠原町))になっている。",
"title": "系譜"
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"text": "『続群書類従』所収の「土岐系図」による。『続群書類従』所収の「土岐系図」は美濃国守護の土岐家の系図で、そこには土岐支族の系図も書かれており、明智家の系図も含まれる。頼尚以前と土岐定政の系統は『上野沼田 土岐家譜』とも共通する。",
"title": "系譜"
},
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"paragraph_id": 102,
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"text": "正室は『明智軍記』などに記載のある糟糠の妻・妻木氏(煕子)。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。本室の前に、山岸光信(進士光信)の娘(千草)に未婚で庶子を産ませたとする説もある。後年には「側室を儲けなかった愛妻家」と一般に伝わる。",
"title": "系譜"
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"text": "史料のしっかりした定説は存在せず、確たる証拠のある男系子孫は存在しない。一方で、「光秀の子孫」と称する家は複数系統ある。光秀の書状などにより確認できる男子は「十五郎」であり、当時の史料の上で十五郎の諱は明らかではない。",
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"paragraph_id": 104,
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"text": "山崎の戦いで明智家は滅んだとされるため、確証のある光秀の子孫は他家へ嫁いだ光秀の娘たちの女系子孫たちである。細川忠興へ嫁いだ珠(細川ガラシャ)の子孫は細川家の他、令和の皇室にもつながる。",
"title": "系譜"
},
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"text": "光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の間に忠隆、忠利、多羅(稲葉一通室)などが生まれる。",
"title": "系譜"
},
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"paragraph_id": 106,
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"text": "明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ)- 忠利 - 光尚 - 利重 - 宣紀 - 長岡興彭(細川刑部家の長岡興行の養子)",
"title": "系譜"
},
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"paragraph_id": 107,
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"text": "光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の子孫。光秀の9代後の子孫である仁孝天皇と10代後の子孫である正親町雅子の間に孝明天皇が誕生し、以降の歴代天皇に血縁関係が続いている。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 108,
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"text": "光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の子孫。子孫に現在の旧宮家の祭祀継承者:竹田恒正(恒徳の子)、在ブルガリア共和国日本国特命全権大使:竹田恒治(恒徳の子)、日本オリンピック委員会(JOC)会長:竹田恆和(恒徳の子)、政治評論家:竹田恒泰(恆和の子)。竹田恒正、恒治、恆和兄弟は両親ともに正親町実光の子孫であり、明智光秀の子孫である。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "光秀の娘と津田信澄の間に昌澄などが生まれる。昌澄は大坂の陣で豊臣方に加わるが助命され、のちに旗本となり家を残す。",
"title": "系譜"
}
] |
明智 光秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。このため前歴不明。越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。 天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、信長親子による政権に幕を引いた。その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。
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{{脚注の不足|date=2018年11月11日 (日) 02:20 (UTC)}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 明智 光秀
| 画像 = Akechi Mitsuhide2.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 明智光秀像([[本徳寺 (岸和田市)|本徳寺]]蔵)
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = [[永正]]13年([[1516年]]){{Efn|[[寛永]]年間([[1624年|1624]] - [[1645年]])の成立と推測される『当代記』の享年67歳説が、成立時期や史料の性格から最も信が置けるとみられるが、断定はできない{{Sfn|柴(総論)|2019|p=8}}。}}
[[享禄]]元年([[1528年]]) {{Sfn|早島|2016|p=173}}{{Efn|name="birth"|『明智軍記』では没年が[[天正]]10年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]](1582年7月3日{{efn|name="Julius"|[[ユリウス暦]]による。}})の享年55。『武家聞伝記』<ref group="注釈">[[森成利|森乱丸]]の弟の家系である[[美作]][[森氏|森家]]([[津山藩]])家臣・[[木村昌明]]が記した史料。[[岡山大学]]附属図書館所蔵池田家文庫に収められている。</ref> では[[享年]]70。『明智系図』(『[[続群書類従]]』第5輯下)では生年月日が享禄元年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]](1528年3月30日{{efn|name="Julius"}})、『明智一族宮城家相伝系図書』では[[享禄]]元年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]](1528年8月31日{{efn|name="Julius"}}))。これ以外の説には『[[細川家記]]』の大永6年([[1526年]])、また『[[当代記]]』の付記に記された67歳から逆算した[[永正]]13年([[1516年]])などもある<ref>{{Cite book|和書|author=谷口克広|authorlink=谷口克広|title=信長と消えた家臣たち|publisher=中央公論新社|year=2007|isbn=978-4-12-101907-3}}</ref>。}}{{Efn|生年を1528年とするのは確かな根拠があるものではなく、光秀の年齢はわからないとする説もある{{sfn|高柳|1958}}。}}{{Efn|『明智物語』では[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])に光秀は[[元服]]前であったことが書かれている<ref>{{Citation|和書|editor=[[関西大学]]中世文学研究会|title=明智物語|publisher=和泉書院|year=1996|page=13}}</ref>。}}
| 死没 = [[天正]]10年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1582年]][[7月2日]]{{efn|name="Julius"}}){{sup|[異説あり]}} <ref>『横河堂舎並各坊世譜』延暦寺叡山文庫所蔵</ref><ref>『「異説」日本人物事典』[[三省堂]]、1983年。</ref><ref>明智滝朗『光秀行状記』中部経済新聞社、1966年。</ref><ref>[[神沢杜口|神沢貞幹]]『[[翁草]]』歴史図書社、1970年([[安永]]5年〈[[1776年]]〉序文)。</ref><ref>『美濃雑事紀』大衆書房、1969年(江戸後期)。</ref>{{Efn|[[徳永真一郎]]『明智光秀』(PHP研究所、1988年)363頁に言及あり。}}
| 改名 = 彦太郎([[幼名]])<ref>『[[続群書類従]]』 明智系図</ref>、光秀→惟任光秀
| 別名 = [[仮名 (通称)|通称]]:十兵衛<br />雅号:咲庵<br />あだ名:[[キンカン|キンカ]]頭<ref>
{{Citation |和書|last=|first=|editor=近藤瓶城 |year=1930|series=続史籍集覧| volume=第7|title =[[義残後覚]]|publisher=近藤出版部|url={{NDLDC|1259252/17}} 国立国会図書館デジタルコレクション|page=24}}</ref>{{Efn|漢字で書けば金柑頭(「ん」は通例読まない)で、金柑のように禿げた頭をさす一般的な表現で、特に光秀を指すわけではない。また、金華頭ともあてられることもあり、いわゆる藤原病でもある。}}
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門<ref>[[本徳寺 (岸和田市)|本徳寺]]の光秀位牌</ref><br />輝雲道琇禅定門<ref>[[本徳寺 (岸和田市)|本徳寺]]の光秀肖像画</ref>{{Sfn|小林|2019|p=137}}<br />秀岳院宗光禅定門<ref>[[西教寺]]</ref><br />前日洲条鉄光秀居士<ref>盛林寺([[京都府]][[宮津市]]喜多)</ref><br />長存寺殿明窓玄智大禅定門<ref>[[天龍寺 (可児市)|天竜寺]](日本一184mの[[位牌]])、[[首塚]]石碑</ref>
| 霊名 =
| 墓所 = [[谷性寺]]([[京都府]][[亀岡市]])<br />[[西教寺]]([[滋賀県]][[大津市]])<br />[[高野山]]奥の院([[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]])<br />[[山県市中洞]]([[岐阜県]][[山県市]])
| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[日向国|日向守]]
| 主君 =
*[[斎藤道三]]→[[朝倉義景]]→[[足利義輝]]→[[足利義昭]]→[[織田信長]]
*[[足利義輝]]→足利義昭→織田信長
*[[土岐頼純]]→[[黒坂景久]](朝倉義景家臣)→[[細川幽斎|細川藤孝]]→足利義昭→織田信長<br />他、諸説あり。
| 藩 =
| 氏族 = [[清和源氏]][[土岐氏|土岐氏流]][[明智氏]](惟任賜姓)
| 父母 = 父:不詳<ref name="木下">木下聡「明智光秀と美濃国」『現代思想第四十七巻第十六号 総特集 明智光秀』[[青土社]]、2019年、81頁。</ref>。[[明智光綱]]とも<ref>『[[日本大百科全書|日本大百科全書(ニッポニカ)]]』([[小学館]])および『[[ブリタニカ国際大百科事典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]』([[ブリタニカ・ジャパン]])および『美術人名辞典』([[思文閣出版]])、「明智光秀」の項、[https://kotobank.jp/word/明智光秀-14506 コトバンク版]。2021年2月28日閲覧。</ref>{{sup|[異説は[[#系譜|系譜を参照]]]}}<br />母:不詳。[[お牧の方]]とも([[武田信豊 (若狭武田氏)|武田信豊]]娘、一説に[[進士信連]]娘)<br />養父:[[明智光安]]または[[明智頼明]]
| 兄弟 = '''光秀'''、信教{{sup|[異説あり]}} 、進士貞連(作左衛門){{sup|[異説あり]}} 、康秀{{sup|[異説あり]}}、定明{{Efn|[[土岐定政]]の父。}}{{sup|[異説あり]}}、定衡{{sup|[異説は[[#系譜|系譜を参照]]]}}、[[御ツマキ]]{{Efn|実妹とは考えにくく、妻の妹であろう{{Sfn|渡邊|2020|p=20}}。}}
| 妻 = 正室:'''[[妻木煕子|煕子]]'''(妻木範煕女){{Efn|前室・側室があったとの説もあり。}}
| 子 = [[明智光慶|光慶]]、[[細川ガラシャ|玉]]([[細川忠興]]正室)、[[明智光泰|光泰]]ほか[[#.E5.AD.90.E5.A5.B3|系譜を参照]]
| 特記事項 =
}}
'''明智 光秀'''(あけち みつひで)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]、[[大名]]。
通説では[[美濃国]]の[[明智氏]]の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の[[明智城 (美濃国可児郡)|明智城]]の出身と言われているが、他の説もある<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20230402-00343945 明智光秀はいつ生まれたのかもわからない、謎の男だった]</ref>。このため前歴不明。[[越前国]]の[[一乗谷]]に本拠を持つ[[朝倉義景]]を頼り、[[称念寺 (坂井市)|長崎称念寺]]の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける<ref>一次資料があり、2014年に熊本県で新たに発見された『針薬方』(しんやくほう)という医学書に「明智十兵衛(光秀)」の名があり、そこで解説されているセイソ散が「越州朝倉家之薬」つまり朝倉家の傷薬であると書いてあり、医学書の奥書には「明智十兵衛(光秀)が近江国高嶋郡の田中城(滋賀県高島市)に籠城したときの医薬の秘伝をまとめたもの」と明記されている。[https://rekijin.com/?p=32934]</ref>。その後、[[足利義昭]]に仕え、さらに[[織田信長]]に仕えるようになった。元亀2年(1571年)の[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]へ貢献し、[[坂本城]]の城主となる。天正元年(1573年)の[[一乗谷城の戦い|一乗谷攻略]]や丹波攻略にも貢献した。
天正10年(1582年)、京都の[[本能寺]]で織田信長を討ち、その息子[[織田信忠|信忠]]も[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]で自刃に追いやり([[本能寺の変]])、信長親子による政権に幕を引いた。その後、自らも[[織田信孝]]・[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない([[山崎の戦い]])。
== 生涯 ==
=== 出自・生年・出身地 ===
清和源氏の[[土岐氏]]支流{{Efn|土岐氏は[[建武の新政]]から[[美濃国]]で200年余り[[守護]]を務め、数十家の支族を輩出した{{Sfn|谷口研|2014|pp=15, 30-33, 82-83}}。}}である[[明智氏]]に生まれたとされるが、一次史料がないため詳細は不明。父は[[江戸時代]]の諸系図などでは[[明智光綱]]<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、20頁。</ref>・[[明智光綱|明智光国]]・[[明智光綱|明智光隆]]などと記載されるが、一次史料からは土岐明智氏嫡系の人物に「光」の字を有している者がいないため、江戸時代の創作であると考えられる<ref name="木下" />。[[小林正信]]は、光秀の父とされる人物を史料上から見出すことはできない、と述べている{{Sfn|小林|2019|p=136}}。そのため、低い身分の土岐支流ともいわれている{{Sfn|桑田|1983}}。
光秀は自身の出自に関する証言をほとんど残していないが、『松雲公採集遺編類纂』所収の「戒和上昔今禄」という記録には、天正5年(1577年)に発生した興福寺と東大寺の相論の奉行を務めた光秀が「我、先祖致忠節故、過分ニ所知被下シ尊氏御判御直書等所持スレトモ」と発言したことが記されている。この記述に従えば、光秀の祖先が[[足利尊氏]]に仕えてその書状を光秀が持っていたということになる。つまり、光秀の家は、当初は[[室町幕府]][[御家人]]に連なる方向にあったが、その後、[[守護]]土岐氏に仕える被官になっていった、土岐明智氏の傍流であったととらえた方がよい{{Sfn|柴(総論)|2019|p=9}}。明智氏初代の[[明智頼重]]は足利尊氏・[[足利義詮]]・[[足利義満]]の足利将軍家に仕えたとされる。
光秀は将軍・[[足利義昭]]上洛早々の[[永禄]]11年(1568年)11月15日、[[近衛稙家]]の子で[[聖護院]][[門跡]]の[[道澄]]、[[公家]]の[[飛鳥井雅淳]]、[[連歌]]の[[宗匠]]・[[里村紹巴|紹巴]]ら錚々たる人々が出座した格式高い連歌の席に、[[弘治 (日本)|弘治]]年間(1555年-1558年)からしばしば連歌会に名を連ね、一流文化人と認められていた[[細川幽斎|細川藤孝]]に伴われて同座している。このような格式高い連歌会に同座できたことから、光秀が無名時代に相当高いレベルの連歌の素養を身に付けていたこと、および将軍・[[足利義尚]]、将軍・[[足利義材]]、将軍・[[足利義澄]]直臣の[[奉公衆]]であり、[[寛正]]3年(1462年)に頼宣の名で[[細川勝元]]と連歌に同座して以来、細川[[管領]]家が毎年催した[[細川千句]]に参加するなど、連歌を通じて[[室町幕府|幕府]]・[[朝廷 (日本)|朝廷]]・連歌界に幅広い人脈を有し、武家でありながら、[[延徳]]元年(1489年)12月に[[宗祇]]から連歌[[宗匠]]の後任に推薦され、[[明応]]4年(1495年)1月6日の『新撰菟玖波祈念百韻』に出座し、『新撰菟玖波集』に9句入集を果たした、当時の連歌界の超有名人である[[明智玄宣]](光高){{Efn|始め頼久と名乗り、頼宣、頼連と改名し、[[出家]]して玄宣を名乗る。明応9年(1500年)以降に[[還俗]]して光高を名乗ったと見られる。玄宣(光高)の子は光重と奉公衆の政宣、政宣に子はなく、光重の子は光兼。玄宣の父は頼高、祖父は頼秀。}}の[[曾孫]](光秀の父[[明智光兼]]、祖父[[明智光重]])の可能性が指摘されている<ref name="名前なし-1">明智憲三郎『光秀からの遺言』河出書房新社2018年</ref>。
[[応仁の乱]]では、玄宣は幕府奉公衆として東軍に属したが、玄宣の叔父の[[明智頼弘]]は西軍に与せず美濃に帰って領地を守った。また、美濃守護の[[土岐成頼]]は西軍の主力として戦い、応仁の乱後は、西軍の担いだ[[足利義視]]・[[足利義材|義材]]父子を[[文明]]9年(1477年)から[[延徳]]元年(1489年)までの12年間美濃に保護したので、玄宣と成頼や義材との関係は良好でなかったと推測される<ref name="名前なし-1"/>。玄宣の系統は[[明智氏|土岐明智氏]]の[[嫡流]]であったが、内部抗争が起こり、明応4年(1495年)に将軍・[[足利義高]](後に義澄)の裁定により、[[従兄弟]]の[[明智頼定|頼定]]と[[美濃国|美濃]]の知行が折半となった。[[文亀]]2年(1502年)、頼定の子・[[明智頼尚|頼尚]]が知行の大部分を支配してその正当性を主張し、[[嫡男]]の[[明智頼典|頼典]]を[[義絶]]して[[明智頼明|頼明]]に家督を譲った。玄宣の系統はその後没落した{{Sfn|三宅|2019|pp=64-82}}。『明智軍記』などによると、光秀は義絶された頼典の孫となっている。
当時の[[美濃国]]は[[守護]]・[[土岐政房]]の後継者争いが起こり、嫡男の[[土岐頼武|頼武]]を[[守護代]]の[[斎藤利良]]が担ぎ、次男の[[土岐頼芸|頼芸]]を[[小守護代]]の[[長井長弘]]とその家臣の[[長井新左衛門尉]]([[斎藤道三]]の父)が担いだ為、戦となった。[[永正]]14年(1517年)12月、頼武派が勝利して、頼芸は[[尾張]]に逃れた。永正15年(1518年)8月、永正9年(1512年)に守護の土岐政房と対立して尾張に逃れていた前守護代の[[斎藤彦四郎]]が加勢して、頼芸は美濃に攻め入って勝利し、頼武は[[越前]]に逃れた。永正16年(1519年)、頼武は[[朝倉氏]]の援護を得て美濃に侵入し、美濃北半分を支配して守護となり、永正17年(1520年)に[[大桑城]]を築いた。[[大永]]5年(1525年)8月、頼武と頼芸の間で大乱が起こり、頼武は死亡したか、越前へ逃れたと見られる。大永9年(1526年)9月、玄宣の子で[[奉公衆]]の[[明智政宣]]が京から東国に赴いた<ref name="名前なし-1"/>。
==== 生年 ====
生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である{{Sfn|早島|2016|p=173}}。ただし、後世の史料によるものとして、『[[明智軍記]]』などによる[[享禄]]元年([[1528年]])説、および『[[当代記]]』による[[永正]]13年([[1516年]])説の2説がある{{Sfn|早島|2016|p=173}}。また、近年その存在が広く紹介されるようになった[[津山藩]][[森氏|森家]]の記録である『[[武家伝聞録]]』<ref>編者は津山藩士の木村昌明とされる。後に『[[森家先代実録]]』の原史料にもなった。</ref> 所収の「古今之武将他界之覚」(巻一)では享年七十と記されており、逆算すると永正10年([[1513年]])となる。また、江戸時代には[[大永]]6年([[1526年]])生まれとする説もあったという{{sfn|柴(総論)|2019|p=8}}。一方、[[橋場日月]]は『[[兼見卿記]]』にある光秀の妹・[[御ツマキ|妻木]]についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い[[天文 (元号)|天文]]9年(1540年)以降と推定している<ref name="example">{{Cite book|和書|author=橋場日月|title=明智光秀 残虐と謀略|publisher=[[祥伝社]]|series=[[祥伝社新書]]|year=2018|isbn=978-4-396-11546-3}}</ref>(この場合、[[天文 (元号)|天文]]3年(1534年)生の織田信長より年下となる)。
==== 生誕地、幼少期の土地 ====
『[[明智軍記]]』によると、生地は[[美濃国]]の明智荘の[[明智城 (美濃国可児郡)|明智城]](現・岐阜県可児市)と言われる{{sfn|小和田|1998|pp=20-21}}{{Efn|他に、[[明知城]](現・岐阜県[[恵那市]][[明智町]])<ref name="akechicho">[http://nihon-taishomura.or.jp/mitsuhide 明智光秀公ゆかりの地] 公益財団法人[[日本大正村]](2019年1月20日閲覧)。</ref> や、[[山県市]][[美山町 (岐阜県)|美山]]出身などの伝承もある。前者は[[遠山氏]]の築城した城でもあり、後者は20世紀を下る記録は無い{{sfn|小和田|1998|pp=19-21}}。}}。少なくとも美濃国(岐阜県南部)周辺で生まれたのは事実とみられている{{Sfn|早島|2016|p=173}}。『続群書類従』本「明智系図」や「土岐文書」に見える明智氏の家系は、可児郡明智荘を伝領した形跡がない<ref>谷口研吾『明智光秀』洋泉社2014年、p.22</ref>。光秀の父が[[土岐頼武]]に仕えたとしたら、光秀の生地は[[福光館]](現・[[岐阜市]][[福光東町]])近傍か、玄宣の領地、おそらく[[明智頼尚|頼尚]]所領譲状に半分知行と書かれた駄智村(現・[[土岐市]][[駄知町]])・細野村(現・[[土岐市]][[鶴里町]]細野)ということになる。また、1525年に土岐頼武が敗れた際、光秀は越前国に逃れ、そこで幼少期を過ごした可能性が指摘されている<ref name="名前なし-1"/>。越前国における伝承によると、[[一乗谷]]周辺の[[栃泉町]]の小字「坊の城」は光秀が幼少期に母とともに居住した場所とされ、同町内の小字「西畦」では光秀が薪割りをしたとの伝承も残る<ref>新谷和之「越前国における明智光秀伝承の創出」『民俗文化』 (32) 2020年10月、pp.189-205</ref>。
このほかに、[[近江国]]出生説もある<ref>[https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/104104 明智光秀、出生地の通説に異論 鍵を握る一族の口伝とは 来年大河ドラマで注目] 2019年12月28日京都新聞(2018.12.28access)</ref>。江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』には、光秀の2、3代前の祖先が土岐氏に背いて[[六角氏]]を頼り、近江国[[犬上郡]]で生まれ育ったと記述する。同郡の[[多賀町]]佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀[[通称]])と呼ばれてきた場所がある。光秀の初期活動は[[近江国|近江]]で確認され、多賀町説は簡単に除けられないと指摘されている<ref>[[千田嘉博]]『城郭考古学の冒険』幻冬舎新書、2021年 pp.136-138</ref>。岐阜県[[瑞浪市]]説や、後述する同県[[大垣市]][[上石津町]]説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある<ref>多賀町説 井上優・滋賀県教育委員会文化財保護課主幹 [https://www.asahi.com/articles/DA3S13992138.html 【be report】明智光秀、出生地伝説が続々/産湯の井戸は4ヵ所も、深まる謎][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』be]](土曜日朝刊別刷り)2019年4月27日・4面、2019年6月17日閲覧。</ref>。
==== 青年期 ====
青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族{{Efn|name="遊行"|『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の天正8年(1580年)7-8月の旅行記、随行者が記述)天正8年正月24日(1580年2月9日{{efn|name="Julius"}})条に、阪本城の光秀へ南都修行のために[[筒井順慶]]への紹介状を[[称念寺 (坂井市)|称念寺]]僧を使者にして依頼し、知人として「<u>惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人であったが、[[越前国]]の[[朝倉義景]]を頼り、[[称念寺 (坂井市)|長崎称念寺]]門前に十年居住していた。そのため称念寺使者僧とは旧情が深くて坂本にしばらく留め置かれた</u>」と記述{{Sfn|谷口研|2014|pp=34-35}}。}}{{Efn|同時代の朝廷の武士との連絡役の役職者である[[立入宗継]]の『立入左京亮入道隆左記』にも、光秀を「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」と記述{{Sfn|谷口研|2014|p=14}}。}}で、『[[明智軍記]]』によると、土岐氏に代わって美濃の国主となった[[斎藤道三]]に仕えるも、[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])、道三・[[斎藤義龍|義龍]]の親子の争い([[長良川の戦い]])で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。
一方で、年未詳8月22日付で前野丹後守に宛てた光秀書状に、「……仍次郎越州へ罷越候ニ付て、朝倉殿より被進候御状之通被仰下候、令畏存候、……然ニ越州御同心之筋目候之条、致満足候、……」とあり{{Sfn|藤田|福島|2015|p=139}}、次郎という人物が越前に行くことや朝倉氏がその人物に味方することについて書かれている。土岐家惣領は代々次郎を名乗っており、光秀は[[土岐頼純]]の側近として仕え、[[土岐頼芸]]・斎藤道三と対峙していたとされる。この光秀書状は[[天文 (日本)|天文]]13年(1544年)に年次比定されている<ref name="遺言"></ref>。
[[天文 (日本)|天文]]4年(1535年)8月、頼純は朝倉氏と[[六角氏]]の支援を得て、頼芸を担ぐ道三と戦い敗れ、母の兄である[[朝倉孝景 (10代当主)|朝倉孝景]]を頼って、[[越前]]へ逃れた。天文5年(1536年)9月にも、頼純は道三と戦った。天文6年(1537年)2月、頼芸・道三と頼純・朝倉氏・六角氏が和睦し、天文7年(1538年)8月、頼純は越前から美濃に帰国し、[[大桑城]]に入った。天文12年(1543年)末、頼純は道三と大桑で戦い敗れ、[[織田信秀]]を頼って[[尾張]]へ逃れた。天文13年(1544年)9月、朝倉氏・織田氏の支援を得て、朝倉軍とともに、美濃に攻め込んだが、道三に敗れ越前に逃れた。天文15年(1546年)、頼純は道三と和解し、美濃へ帰国し、道三の娘を娶った。天文16年(1547年)11月、頼純は24歳の若さで急死。道三による暗殺とみられている<ref name="遺言">明智憲三郎『光秀からの遺言』河出書房新社、2018年</ref>。光秀は頼純の死後も美濃に留まったとみられ、『[[美濃明細記]]』{{Efn|もともと[[斎藤利良]]の書であったものを、一族の[[花村利房]]が[[永禄]]12年(1569年)、[[花村利昌]]が[[文禄]]3年(1594年)、不明の人物が[[元和 (日本)|元和]]3年(1617年)に様々な資料から書き加え、最終的に[[伊東實臣]]が[[元文]]3年(1738年)に作製したものである}}には、[[弘治 (日本)|弘治]]2年(1556年)の[[長良川の戦い]]で[[斎藤義龍]]軍に参陣した32人の土岐一族の武将の5番目に、明智十兵衛という名前がある<ref name="遺言" /><ref>伊東實臣・間宮宗好著、平塚正雄編纂『美濃明細記』一信社出版部、1932年、167頁。</ref>。
その後、光秀は[[越前国]]の[[朝倉義景]]を頼り、10年間仕え、[[称念寺 (坂井市)|長崎称念寺]]門前に居住していたとも言われる{{Efn|name="遊行"}}。『[[武家事紀]]』には「元濃州明智人也、[[朝倉義景]]家臣[[黒坂景久|黒坂備中守]]所ニツカヘ、後[[細川幽斎|細川藤孝]]ニ仕ユ、藤孝カ處ヲ出テ、直ニ将軍家[[足利義昭|義昭]]ニ奉公ノ列タリ」とあり<ref>[[山鹿素行]]『武家事紀』[[原書房]]、1982年、471-472頁。</ref>、黒坂備中守景久は[[舟寄城]]主で、舟寄城と称念寺は約500メートルの距離である。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状{{Efn|「朝倉氏滅亡時の混乱の中で光秀と縁の深い、越前にいた竹という者の面倒を見て命を救った様子の感謝と服部七兵衛を百石加増した」内容。}}がある{{Sfn|高柳|1958|pp=14-16}}。
==== 光秀の躍進 ====
2016年時点で判明している限りでは、「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が光秀の史料上の初見である{{Sfn|早島|2016|pp=173-174}}。これは2014年に熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能([[米田求政]])の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で<ref name="nhk">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200109/k10012240351000.html|title=NHK NEWS WEB - “明智光秀は医者だった?” 古文書公開 熊本県立美術館 2020年1月9日 18時59分|accessdate=2020-1-10}}</ref>、光秀自身が「高嶋田中籠城之時(高嶋田中城に籠城)」に語った内容を含んでいる[[沼田勘解由左衛門尉]]{{Efn|[[沼田清長]]、奉公衆を務めた沼田家の庶流の人物と考えられ、義昭の側近として仕えていた{{Sfn|早島|2019}}。}}の所持本を、[[永禄]]9年10月20日(1566年12月1日{{efn|name="Julius"}})に近江坂本において米田貞能が作成した写本である{{Sfn|早島|2016|pp=173-174}}{{Sfn|村井|2014|p=90}}。定説の元となった『[[明智軍記]]』には、永禄9年10月9日に光秀は越前から美濃の岐阜に来たと書かれているが、光秀は『針薬方』が書かれた永禄9年10月20日以前に、幕府方として、高嶋田中城に籠城したことになる<ref name="遺言" />。
その後の調査の結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されており、[[出産]]や[[刀傷]]の対処法など、当時としては高度な医学的知識に関する記述などが見られ、この古文書を一般公開した[[熊本県立美術館]]は、光秀が信長に仕える前は医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる貴重な資料だとしている<ref name="nhk"/>。
確定はできないものの、光秀の「高嶋田中籠城之時」は、永禄8年5月9日(1565年6月7日{{efn|name="Julius"}})に[[室町幕府]]第13代将軍・[[足利義輝]]が暗殺された([[永禄の政変]])直後であると考えられる{{Sfn|早島|2016|pp=173-174}}が、前述の朝倉義景仕官時代と重なる恐れがある。田中城は現在の滋賀県[[高島市]]安曇川町にあった湖西から越前方面へ向かう交通の要衝で、かねてからここを拠点に活動していたと見れば、後の[[元亀]]2年(1571年)に[[滋賀郡]]に領地を与えられるのも理解しやすくなる<ref>{{Citation|和書|editor=細川ガラシャ展実行委員会|title=細川ガラシャ展|publisher=[[熊本県立美術館]]|date=2018年8月4日|page=34}}</ref>。
義昭は各地に檄文を発していたので、身を持て余していた人々が馳せ参じたかもしれず、光秀もその一人だったと考えられる。そして、琵琶湖の西部に位置する高嶋の地に軍事的緊張が高まった永禄9年8月から10月20日の間に、足利義昭方として、対三好軍戦の防御網の一角である高嶋田中城詰に参加し、その後家臣団の整備の際に足軽衆として正式に編入されたのだろう{{Sfn|早島|2019}}。
一方で、永禄9年に入り、江北の[[浅井長政]]は高島郡の[[山徒]]・[[土豪]]を引き入れるかたちで積極的に高島郡への進出を図った。長政は[[饗庭氏]]を中心とする山徒「三坊」([[西林坊]]・[[定林坊]]・[[宝光坊]])に、味方に付いたなら、[[保坂関所]]・万木の[[正覚寺]]跡・河上庄六代官のうち朽木殿分・善積庄八坂名を与えることを約束し、山徒[[千手坊]]には「河上六代官之内田中殿分」を与えると約束し、幕府[[御家人]][[朽木氏|朽木]]・[[田中氏]]らの所領押領を図った。その後の在地の状況が具体的にどのようであったかは不明であるが<ref>西島太郎『戦国期室町幕府と在地領主』八木書店、2006年、179-180頁。</ref>、5月19日付けで[[足利義昭|義昭]]の[[申次]]を務めた[[奉公衆]]・[[曽我助乗]]宛ての光秀書状「高嶋之儀、饗庭三坊之城下迄令放火、敵城三ヶ所落去候て今日帰陣候、然処、従林方只今如此註進候、可然様御披露肝要候、………」があり{{Sfn|藤田|福島|2015|p=47}}、近江高嶋で饗庭三坊と呼ばれる西林坊・定林坊・宝光坊の城下に放火し、敵城三カ所を落としたこと、林方よりの注進を義昭に披露してほしいことが書かれている。この光秀書状は、[[元亀]]3年(1572年)に年次比定されているが、米田文書の再発見、「来迎寺文書」(4月18日付で長政が西林坊・定林坊・宝光坊の忠節を褒め、知行(朽木氏・田中氏の領地を含む)をあてがう旨の書状)などにより、文禄9年に年次比定されるべきであり、「高嶋田中籠城之時」の同年5月ごろまでに光秀は義昭に加勢していたと指摘されている<ref name="遺言" />。
==== 足利義昭との関係 ====
[[永禄]]8年([[1565年]])5月19日、[[三好三人衆]]や[[松永久秀]]らによって、兄の[[将軍]][[足利義輝]]、母の[[慶寿院]]、弟の[[鹿苑寺]]の院主[[周暠]]を殺害され([[永禄の変]])、院内に幽閉されていた南都[[興福寺]][[一条院]][[門跡]]であった覚慶([[足利義昭]])は同年7月28日、[[大和国]]から脱出し、翌日[[近江国]][[甲賀郡]][[和田]](現・[[滋賀県]][[甲賀市]])に到着して、[[和田惟政]]の屋形に入った{{Sfn|山田|2019|pp=150-160}}。この脱出には、[[朝倉義景]]の働きかけもあった<ref>久野雅司『足利義昭』戒光祥出版、2015年、10-12頁。</ref>。その直後から義昭は[[織田信長]]を含む各地の武将に[[上洛]]と自身の将軍擁立を促し、和田惟政や[[細川幽斎|細川藤孝]]が使者に立ち信長は了承したが、当時は美濃国平定前であった。義昭が幕府再興でもっとも期待をよせていたのは、織田信長と[[上杉謙信]]の二人であった。8月14日付で朝倉義景の重臣[[前波吉継]]が義昭を越前に迎える意思を表明した返書を和田惟政宛てに送っており、光秀が義景から派遣された可能性も考えられる。
同年11月、三好一門の内訌([[三好三人衆]]対[[松永久秀]])が起こり、戦火が畿内全域に広がると、同年12月21日、義昭は六角氏([[六角義賢]])の好意で同じ近江国内の[[野洲郡]][[矢島]](現・滋賀県[[守山市]])の少林寺に移座し、翌年2月17日に還俗して義秋に改めた{{Sfn|山田|2019|pp=150-160}}。
「米田文書」の『針薬方』には、「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」という奥書を持つ沼田勘解左衛門尉の所持本を、[[米田貞能]]が近江[[坂本 (大津市)|坂本]]において写したとあり{{Sfn|村井|2014|p=90}}、光秀はこれが書かれた永禄9年10月20日以前に、義昭に加勢し、高嶋田中城に籠城した<ref name="遺言" />。
永禄9年([[1566年]])4月、義昭側が織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたので、信長は同年8月29日(1566年9月12日{{efn|name="Julius"}})に美濃の国境へ出兵したが、斎藤龍興によって撃退され、上洛は頓挫した{{Sfn|村井|2014}}{{Sfn|久野|2017|pp=42-48}}。
同年8月3日、矢島を襲撃しようとした三好三人衆の兵を坂本で迎撃して、難を逃れ、また同年夏頃、六角氏が松永久秀を圧倒した三好三人衆と手を結んだため、同年8月29日夜半、義昭は妹婿である[[若狭国]]守護・[[武田義統]]の下に逃れたが、この頃武田氏の家中で騒擾が起き、攪乱していたため、越前の[[朝倉氏]]を頼り、同年9月8日、[[敦賀郡|敦賀]]に至った。しばらくここで過ごした{{Sfn|山田|2019|pp=150-165}}。
永禄10年(1567年)11月21日、朝倉氏の本拠地である[[一乗谷]](現・福井県福井市)の[[安養寺 (福井市足羽)|安養寺]]に移座し、永禄11年4月15日に元服して義昭に改めた{{Sfn|山田|2019|pp=150-165}}{{Sfn|久野|2017|pp=46-48}}。足利幕府の役人名簿である『永禄六年諸役人附』の後半部の[[足軽衆]]に「明智」と書かれているが、[[外様衆]]に「織田尾張守信長」と「三好左京太夫義継」が書かれていることから、『永禄六年諸役人附』の後半部の作成時期は永禄10年2月から永禄11年5月が妥当とされており、義昭が越前にいる間に作成されたことになる。光秀は安養寺から3キロほど離れた[[東大味]]に居住していたとみられる。東大味から峠を一つ越えれば、一乗谷である。東大味から一乗谷へと続く峠越えの道は「大手道」と呼ばれ、一乗谷城下町に向う正面(表)の道であり、一乗谷から東大味を経て、[[越前国府]]([[武生市]]・現[[越前市]])そして[[京都]]へとつながる道である。
義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし、義昭が上洛を期待しても義景は動かない。光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日{{efn|name="Julius"}}。『[[綿考輯録|細川家記]]』)、[[斎藤氏]]から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を[[征夷大将軍]]につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した{{sfn|小和田|1998|pp=49-50}}。しかしながら、信長は永禄8年(1565年)に上洛の意志があることを表明しており、永禄9年以降、藤孝はしばしば義昭の上使として自ら尾張へ行っている<ref>谷口研吾『明智光秀』洋泉社2014年、p.36</ref>ため、この光秀のすすめによって藤孝が信長との交渉を始めたという『細川家記』の記述は疑わしい。2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料にまとまった形で初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している{{Sfn|高柳|1958|pp=6-9, 20}}。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である[[濃姫]](道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている{{sfn|小和田|1998|pp=47-48}}。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される{{sfn|桑田|1983|p=47}}。[[斎藤利治]]も末子(弟)で同様との指摘もある<ref>{{Citation|和書|author=富加町史編集委員会|year= 1980|title=富加町史 下巻 通史編|publisher=富加町|page=227}}{{ASIN|B000J871OG}}</ref>。
永禄11年7月頃、美濃国を併呑し、北伊勢を攻略した信長が義昭に「上洛戦のお供をしたい」と言上してきたので、義昭は越前を去り、同年7月22日、美濃国岐阜に到着した{{Sfn|山田|2019|pp=164-165}}。
[[小和田哲男]]は、将軍・義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」(『[[群書類従]]』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする{{sfn|小和田|1998|p=46}}。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる{{Efn|前半に永禄6年(1563年)正月〜翌年2月頃の奉公衆、後半に永禄9年(1566年)8月〜翌年10月頃の奉公衆を列挙したもので、後半は足利義昭が編纂を命じたものという説がある<ref>{{Cite journal|和書|author=[[長節子]]|title=所謂『永禄六年諸役人附』について|journal=史学文学|volume=4巻|issue=1号}}</ref>。後半部分は永禄10年2月から永禄11年5月までの間に追加して作成されたことが明らかにされた。さらに義昭はたどり着いた一乗谷で永禄11年4月に元服しており、その前後に作成された可能性が挙げられている{{Sfn|早島|2019}}。}}{{Sfn|谷口研|2014|pp=15, 30-33, 82-83}}。
なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従う[[侍]]のことであり{{sfn|藤本|2010|p=48}}、戦場で稀有の働きを期待された精鋭部隊の兵士という意味であり<ref>土山光仁『光秀を追う』岐阜新聞社、2020年、57-58頁。</ref>、将軍義輝の段階で創設され、出自は多士済々であるが、将軍直臣でない者たちで構成されていたとされる{{Sfn|柴(総論)|2019|pp=10}}。これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三[[管領]][[四職]]家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府[[奉公衆]]となり、土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり、「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている{{Sfn|谷口研|2014|pp=15, 30-33, 82-83}}。また、光秀を奉公衆「土岐明智氏」と直接結びつけた現存の系譜の信憑性に疑いを持って「土岐明智氏」が事実だとしても傍流出身であったとする説もある{{Sfn|柴(総論)|2019|pp=8-9}}。しかも、光秀が幕府に仕えた頃には、所領を失って領主としての性質は持っておらず、越前の朝倉義景に属していたわけだから、奉公衆ではなく、足軽衆とする幕府の判断も妥当だろう{{Sfn|渡邊|2020|pp=28-30}}。また、細川家の宿老クラスだった[[薬師寺弼長|薬師寺]]たちが、足軽衆に編制されていた以上、「立入左京入道隆佐記」で美濃守護[[土岐氏]]の重臣の一人だったとされ、薬師寺たちと同様の立場だった光秀が足軽衆に繰り入れられていたのも、当時の身分編制からすれば、おかしなことではない{{Sfn|早島|2019}}。ただし、現在残されている番帳(『永禄六年諸役人附』)は原本とは見なされず、足軽衆「明智」は後世の追記と見る説もある{{Sfn|小林|2014|p=154}}。
[[小林正信]]は、[[永禄の変]]で父子とも死亡記録のある室町幕府奉公衆の実力者の[[進士晴舎]]の息子・[[進士藤延]]が生き残り、改名して明智光秀になり、光秀の妹・御ツマキは義輝の[[側室]][[小侍従局]]、[[明智光慶|光慶]]は小侍従局が産んだ義輝の子である、と主張している{{Sfn|小林|2014|p=134}}。
==== 細川藤孝と朝倉家との関係 ====
本能寺の変後に、[[ルイス・フロイス]]の『[[フロイス日本史|日本史]]』や[[英俊]]の『[[多聞院日記]]』には、光秀は元は細川藤孝に仕える[[足軽]]・[[中間]](主人の身のまわりの雑務に従事する武士の最下層)であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があったということで、当時には何らかの上下関係があったと見てよい{{Sfn|谷口研|2014|pp=15, 30-33, 82-83}}{{Sfn|早島|2016|p=173}}。そのほか、[[寛文]]4年(1664)に百歳で没した[[江村専齊]]という医者が語った話を聞き書きした『[[老人雑話]]』にも、「光秀は初め藤孝の家臣だった」と書かれている。また、[[元禄]]9年(1696)に[[肥前]][[平戸藩]]主・[[松浦鎮信]]が編纂した『[[武功雑記]]』にも、「明智は細川藤孝の家臣だった」と書かれている。
信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う{{読み仮名|騎馬|うまのり}}の身分であり{{Sfn|高柳|1958|pp=6-9, 20}}、通説となってきた。しかし、[[太田牛一]]の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している<ref name="金子">[[金子拓]]『『信長記』と信長・秀吉の時代』 P.214 収載『太田牛一旧記』P.310-312 勉誠出版 2012年</ref>{{Efn|「一僕の身」は中世から江戸時代にかけての慣用句で、小身の「一人奉公」の侍を貶めた言い方である<ref>{{Cite book|和書|author=藤木久志|authorlink=藤木久志|title=雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り|publisher=朝日新聞社|series=朝日選書|year=2005|pages=116-117}}</ref>。}}。
=== 足利義昭の家臣から織田信長の家臣へ ===
永禄11年9月26日(1568年10月16日{{efn|name="Julius"}})、義昭の上洛に加わる。
同年11月15日、[[近衛前久]]の弟で[[聖護院]][[門跡]]の[[道澄]]が主催し、信長の[[右筆]]である[[明院良政]]を主賓にすえた[[連歌]]会で、道澄、[[飛鳥井家|雅淳]]、[[里村紹巴|紹巴]]、[[里村昌叱|昌叱]]、[[細川幽斎|藤孝]]らと同座し、6句詠んだ{{Sfn|廣木|2010|p=267}}<ref>『連歌総目録』[[明治書院]]、1997年、453頁。</ref>{{Sfn|柴(年表)|2019|p=362}}。
永禄12年1月5日(1569年1月21日)、[[三好三人衆]]が義昭宿所の[[本圀寺]]を急襲した([[本圀寺の変]])。防戦する義昭側に光秀もおり、『[[信長公記]]』への初登場となる。その翌月から文書発給に携わり始め、2月29日に光秀・[[村井貞勝]]・[[朝山日乗|日乗上人]]連署で文書を発給している{{Sfn|早島|2016|p=174}}<ref>芝辻俊六『織田政権の形成と地域支配』戒光祥出版、2016年、176-180頁。</ref>。
同年4月頃から[[豊臣秀吉|木下秀吉]](後に羽柴へ改姓)、[[丹羽長秀]]、[[中川重政]]と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う{{sfn|谷口克|2005}}。秀吉・光秀の連署した[[賀茂荘中]]宛文書、秀吉・丹羽長秀・中川重政・光秀の連署した公家の[[立入宗継|立入左京亮]]宛文書、[[宇津頼重|宇津右近大夫]]宛文書が発行されており、幕府[[奉公衆]]として署名したとみられる。
『[[言継卿記]]』には、永禄12年6月と7月に、信長方の[[朝山日乗]]と幕府方の光秀が対になって朝廷方と対応していることが書かれている。6月20日、言継が日乗を訪問し、東寺に関する依頼事項について質問したところ、「光秀に度々申し入れているが返事がない」と日乗が答えている。7月12日、言継は、日乗と光秀に立入左京亮に関する件を書状で申し入れている。元亀元年(1570)に年次比定されている4月10日付の『[[東寺百合文書]]』に、光秀が幕府の命と称して[[八幡宮]]山城下久世荘を押領しているのを止めさせるように東寺が要求した幕府宛の文書があるが、1年前の永禄12年4月の可能性が指摘されている。義昭は永禄12年1月の本圀寺の変で手柄を立てた光秀を早々に奉公衆に取り立て、下久世荘を給付し、東寺は幕府だけでなく、朝廷にも働きかけた<ref>明智憲三郎『完全版 本能寺の変』河出書房新社2019年、pp.73-77</ref>。
同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として[[岐阜城|岐阜]]に戻ってしまう。
永禄13年([[1570年]])正月に信長は義昭の権限を規制する[[殿中御掟]]を通告するが、宛先は光秀と[[朝山日乗]]で、義昭は承諾の[[黒印]]を袖に押し、朝廷へ提出された。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。
同年1月26日、公家の[[山科言継]]は幕府[[奉公衆]]へ年頭の礼に回り、その中に光秀も含まれており、光秀はすでに幕府直参の奉公衆となっており、[[上京区|上京]]に住んでいた<ref>山科言継著、山田安栄ほか校『言継卿記』4、1915年、381頁。</ref>。
同年3月1日(1570年4月6日{{efn|name="Julius"}})、信長は将軍から離れた立場で正式に[[昇殿]]し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる{{sfn|谷口克|2002|pp=78-82}}。
[[元亀]]元年4月28日(1570年6月1日{{efn|name="Julius"}})、光秀は[[金ヶ崎の戦い]]で信長が[[浅井長政]]の裏切りで危機に陥り撤退する際に[[池田勝正]]隊3,000人を主力に、秀吉と共に[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めて防戦に成功する{{Efn|『[[武家雲箋]]』所収[[一色藤長]]書状による{{Sfn|藤本|2010|p=51}}。}}。
同年4月30日(1570年6月3日{{efn|name="Julius"}})、丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、[[武藤友益]]から人質を取り、城館を破壊して5月6日帰京する。またこの頃、義昭から所領として[[山城国]]久世荘(現・京都市南区[[久世 (京都市)|久世]])を与えられている(『[[東寺百合文書]]』)。
同年6月28日、光秀は[[姉川の戦い]]に参加したようだ。『松平記』には、「越前衆に向て、一番柴田明智、二番家康、三番[[稲葉良通|稲葉一鉄]]」と記されている<ref>諏訪勝則『明智光秀の生涯』吉川弘文館、2019年、p.40</ref>。
同年9月、[[志賀の陣]]にも参陣しているが、兵力は300人から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に[[宇佐山城]]を任され、近江国[[滋賀郡]]と周囲の土豪の懐柔策を担当した{{Sfn|谷口研|2014|pp=69-72}}。
元亀2年([[1571年]])には、[[三好三人衆]]の[[四国]]からの攻め上りと同時に[[石山本願寺]]が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して[[摂津国]]に出陣した。
同年9月12日の[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]で中心実行部隊として([[和田秀純]]宛「仰木攻めなで切り」命令書){{sfn|小和田|1998|pp=74-76}}武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく[[坂本城]]の築城にとりかかる。[[柴辻俊六]]は光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書の連署状況や、滋賀郡の拝領が信長に没収された延暦寺領の処理の一環として[[佐久間信盛]]らと同時に与えられていることから、宇佐山城に入った時点の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる<ref>{{Cite book|和書|author=柴辻俊六|chapter=明智光秀文書とその領域支配|title=織田政権の形成と地域支配|publisher=戎光祥出版|year=2016|isbn=978-4-86403-206-3|pages=181-187}}</ref>。9月30日付で寺社などに米の徴収を命じた光秀・[[島田秀満]]・[[塙直政]]・[[松田秀雄]]連署の通達が出されたことが『言継卿記』に書かれており<ref>藤田達生・福島克彦編『明智光秀』八木書店2015年、p.42</ref>、島田、塙は織田の武将であり、松田は幕府の奉公衆であり、この連署状は光秀が信長家臣として最初に署名したとみることができる。また、12月10日付で信長宛に朝廷から[[綸旨]]が出され、光秀が横領した諸門跡領を返還するよう命じたことが『言継卿記』に書かれており、信長宛に綸旨で命じたということは、光秀が信長の家臣であることを朝廷が認めていたことになる<ref>明智憲三郎『完全版 本能寺の変』河出書房新社2019年、p.80</ref>。
同年12月頃、義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが([[曾我助乗]]宛暇書状)、不許可となる{{Sfn|小和田|1998|pp=69-70}}。なお、暇願い提出の原因として旧延暦寺領の支配を任された光秀が信長と敵対したことを理由に所領の押領を図り、義昭の怒りを買ったからとする説があり、結果的に信長と義昭の対立の一因を光秀が引き起こした可能性もある{{Sfn|柴|2018|pp=32-34}}。元亀3年([[1572年]])4月、[[河内国]]への出兵に従軍した折では、まだ義昭方とする史料がある{{Efn|『年代記渉節』に公方衆として記載している{{Sfn|高柳|1958|p=69}}。}}。
元亀4年([[1573年]])2月、義昭が武田信玄を頼みとして挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。この戦いには、明智弥平次、明智十郎左衛門、明智次右衛門、妻木主計、三宅藤兵衛、藤田傳五、松田太郎左衛門、池田壱岐守、比田帯刀らが参加して、義昭方の勇士58騎と、兵300余を討ち取り戦功を挙げた。しかし信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、[[松永久秀]]の妨害で破綻した<ref>{{Cite book|和書|author=谷口克広|title=信長と将軍義昭|publisher=中央公論新社|year=2014|pages=136-149}}</ref>。
同年7月、またも義昭が[[槇島城]]で挙兵し、光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には[[伊勢貞興]]ら伊勢一族や[[諏訪盛直]]など、その後、光秀に仕えた者も—多い{{Sfn|歴史読本編集部|2014|loc=[[早島大祐]]「第1部「徹底追跡!明智光秀の生涯」"幕府官僚伊勢家を家臣団におさめる"」}}。同年、坂本城が完成し、居城とした。
[[天正]]元年(1573年)7月、[[村井貞勝]]が[[京都所司代]]になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している<ref>{{Cite book|和書|author=谷口克広|title=信長の天下所司代|publisher=中央公論新社|year=2009|pages=53-54}}</ref>{{sfn|谷口研|2014|pp=113-117}}。朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、羽柴秀吉や[[滝川一益]]と共に越前の占領行政を担当し{{sfn|谷口研|2014|p=100}}、9月末から[[溝尾茂朝]]([[三沢秀次]])、[[木下祐久]]、[[津田元嘉]]が代官として引き継いだ<ref>『福井県史』通史編3 近世1「織田信長と一向一揆 信長と越前支配」[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-01-01-01.htm 信長の本知安堵]、[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-01-01-02.htm 北庄三人衆]「福井県文書館」HP 2015年3月7日閲覧</ref>。
天正3年([[1575年]])7月、光秀は[[惟任氏|惟任]](これとう)の賜姓と、[[従五位|従五位下]]日向守に任官を受け、'''惟任日向守'''となる{{Sfn|早島|2016|p=178}}。同じ日に[[塙直政]]は原田、丹羽長秀は惟住の名字を与えられており、光秀は彼らと同格、すなわち織田氏の重臣層に加えられたことを意味していた{{sfn|柴(総論)|2019|pp=19-20}}。
=== 丹波攻略と畿内方面軍の成立 ===
天正3年(1575年)の[[高屋城の戦い]]、[[長篠の戦い]]、[[越前一向一揆#1575年|越前一向一揆]]殲滅戦に、光秀は参加する{{Sfn|早島|2016|p=178}}。そして、[[丹波国]]攻略を任される{{Sfn|早島|2016|p=178}}。丹波国は山続きで、その間に[[国人]]が割拠して極めて治めにくい地域であった。丹波国人は親義昭派で、以前は信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた<ref>{{Cite book|和書|author=藤本正行|title=本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意|publisher=洋泉社|year=2010|page=54}}</ref>。
ただし、丹波国人全てが一致していた訳ではなく、[[桑田郡]]宇津荘の[[宇津頼重]]や[[船井郡]]の[[内藤如安]]は親義昭・反信長の姿勢を早くから示していたが、彼らと勢力争いをしていた船井郡の[[小畠永明]]は早くから信長に協力的で光秀とも面識があった。また、桑田郡今宮の[[川勝継氏]]も小畠の説得で織田方に転じていた{{Sfn|柴(総論)|2019|pp=20-21}}{{Sfn|大槻(柴)|2019|p=155-156}}{{Sfn|仁木(柴)|2019|p=203-207}}。
7月に入ると、まず光秀は小畠・川勝の協力を得て宇津頼重攻めを始めるが、途中で信長より越前・丹後方面への援軍を命じられて離脱したところ、8月には宇津頼重に織田方の[[馬路城]]・[[余部城]]を攻められるなど苦戦する。また、丹後出兵の背景には信長の丹波攻略に対して曖昧な姿勢を示しながら、[[山名氏]]領である但馬の出石城・竹田城への攻略を進める氷上郡の[[荻野直正|赤井直正]]に対する牽制の意図があったという{{Sfn|仁木(柴)|2019|p=207}}。
一旦坂本城に戻った光秀は、10月に改めて丹波攻略を開始すると、宇津頼重は戦わずに逃亡し、続いて竹田城攻略を断念して帰還した赤井直正の[[黒井城の戦い|黒井城を包囲]]するが、天正4年(1576年)1月15日に[[八上城]]主・[[波多野秀治]]が裏切り、不意を突かれて敗走する{{Sfn|柴(総論)|2019|pp=22-23}}{{Sfn|大槻(柴)|2019|p=156}}{{Sfn|仁木(柴)|2019|p=208-209}}。この結果、直後に信長から朱印状を与えられている小畠・川勝以外の国人の多くが離反したとみられている{{Sfn|仁木(柴)|2019|p=209-210}}。
天正4年([[1576年]])4月、[[石山本願寺]]との[[天王寺の戦い (1576年)|天王寺の戦い]]に出動するが、同年5月5日に逆襲を受けて司令官の塙直政が戦死する。光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、危ういところを信長が来援し助かる。23日には過労で倒れたため、しばらく療養を続けた{{Sfn|早島|2016|p=181}}。
同年11月7日(1576年11月27日{{efn|name="Julius"}})、正室の[[妻木煕子|煕子]]が坂本城で病死する{{sfn|谷口研|2014|pp=128-129}}。この頃、光秀は余部城を丹波の本拠にしていたが、安定した本拠地として[[亀山城 (丹波国)|亀山]]に城を築くことを決めて、翌天正5年(1577年)1月より準備を進めている{{Sfn|仁木(柴)|2019|p=210-211}}。
天正5年([[1577年]])、紀州[[紀州征伐#信長の紀州攻め|雑賀攻め]]に従軍する。同年10月、[[信貴山城の戦い|松永との信貴山城の戦い]]に参加して城を落とす。同月に丹波攻めを再開して翌月には[[籾井城]]を落とすが一時的なもので、以降は長期戦となる。そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。
天正6年(1578年)3月、氷上郡の赤井直正が病死すると、再度丹波に出陣して園部城の[[荒木氏綱]]を降伏させる{{Sfn|仁木(柴)|2019|p=213-214}}が、4月29日(1578年6月4日{{efn|name="Julius"}})には、[[毛利攻め]]を行う秀吉への援軍として[[播磨国]]へ派遣され、同年6月に[[神吉城#秀吉の播磨攻め|神吉城攻め]]に加わる。ところが9月に入ると丹波国人の大規模な反乱が発生して亀山城防衛の要地であった[[馬堀城]]までも一時占拠され、光秀は急遽亀山城に入ると奪われた城を奪回した{{Sfn|仁木(柴)|2019|p=214}}。
同年10月下旬、信長に背いた[[荒木村重|摂津の荒木村重]]を攻めて[[有岡城の戦い]]に参加する。ところがこの段階では亀山城は完成しておらず、村重の乱を知った波多野軍は一時八上城を包囲する明智軍に攻勢をかけている{{Sfn|仁木(柴)|2019|p=217}}。
光秀の三女・[[細川ガラシャ|玉子]](洗礼名・ガラシャ)と[[細川忠興]]が[[勝竜寺城]]で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある{{sfn|田端|2004|p=88}}。
同年8月11日、信長が光秀に出した判物があり(『細川家記』)、光秀の軍功を激賛、細川幽斎の文武兼備を称え、細川忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた光秀の娘玉子と細川忠興との政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっていることである{{sfn|米原|2000|loc=[[宮本義己]]「細川幽斎・忠興と本能寺の変」|p=87}}。このことから偽作の可能性が高い古文書とされている{{sfn|米原|2000|loc=宮本義己「細川幽斎・忠興と本能寺の変」|p=88}}。
天正7年([[1579年]])、丹波攻めは最終段階に入っていたが、1月には波多野軍の反撃で丹波の国人では数少ない一貫した親織田派であった小畠永明が討死する。光秀は永明の遺児に明智の名字を与えて、小畠一族には一時的な名代を立てるのは許すが、将来は必ず永明の子を当主に立てることを命じている{{Sfn|柴(総論)|2019|p=23}}{{Sfn|大槻(柴)|2019|p=172}}{{Sfn|仁木(柴)|2019|p=218}}。しかし、同年2月には包囲を続けていた八上城が落城。同年8月9日(1579年8月30日)、黒井城を落とし、ついに丹波国を平定。さらに、すぐ細川藤孝と協力して[[丹後国]]も平定した{{sfn|谷口克|2002|pp=188-194}}。
天正8年([[1580年]])、信長は[[感状]]を出し褒め称え、この功績で、丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の[[山城国|南山城]]を与えられる{{sfn|谷口克|2005|pp=204-206}}。[[亀山城 (丹波国)|亀山城]]・[[周山城]]を築城し、横山城を修築して「[[福知山城|福智山城]]」に改名した。黒井城を増築して[[家老]]の[[斎藤利三]]を入れ、福智山城には[[明智秀満]]を入れた。同年の[[佐久間信盛]]折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。
また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、[[大和国]]の[[筒井順慶]]等の近畿地方の織田大名が光秀の[[与力|寄騎]]として配属される。これにより光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から[[山陰]]へ向けた[[畿内]]方面軍が成立する{{sfn|谷口克|2005|p=204}}。また、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり、歴史家の[[高柳光寿]]は、この地位を[[関東管領]]になぞらえて「近畿管領」と名付けている{{sfn|高柳|1958}}。
同年10月、信長は光秀らを大和検地奉行として奈良に派遣しており、これと関連する[[津田宗及]]の書状が残っていて<ref>[[永島福太郎]]「明智光秀と宗及―『天王寺屋会記紙背文書』―」(『淡交』39巻7号、1985年)</ref>、光秀と宗及の親しさが確認できる<ref>[[米原正義]]「文人としての明智光秀」([[二木謙一]]編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年)</ref>。
天正9年([[1581年]])には、[[安土城|安土]][[左義長]]の[[爆竹]]と道具の準備担当をして、それに続く[[京都御馬揃え]]の運営責任者を任された{{sfn|小和田|1998|pp=134-136}}。
同年6月2日(1581年7月2日)、織田家には無かった[[軍法]]を、光秀が家法として定めた『明智家法』{{Efn|『明智家法』については長く福知山の御霊神社にしか伝えられておらず偽文書説が有力であったが、平成8年(1996年)に同じものが尊経閣文庫から発見されたことから真書説が有力となり、確定したと断定する記述もある<ref>藤田達生「織豊期大名軍制と交戦権」『織豊期研究』10号(2008年)</ref>。しかし、その一方で『明智家法』に書かれた軍の編成が江戸時代のものに酷似していることから、[[山本博文]]や[[堀新 (歴史学者)|堀新]]のように依然として偽文書説を採る研究者もおり、その根拠として「戦国期の主要な兵器である弓に関する編成の規定がない」「当時の軍法の基本的な規定である『(戦闘時の)抜け駆け禁止』や家臣の従者の統制に関する規定がない」「制定日が本能寺の変のちょうど1年前という不自然さ」などを挙げている。堀は光秀の名誉回復の動きがあり『明智軍記』が編纂された17世紀後半の制作の可能性を指摘している<ref>山本博文『続日曜日の歴史学』東京堂出版、2013年。</ref><ref>堀新「明智光秀〈家中軍法〉をめぐって」(初出:山本博文 編『法令・人事から見た近世政策決定システムの研究』(2015年)/[[柴裕之]] 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第八巻 明智光秀』(戒光祥出版、2019年)ISBN 978-4-86403-321-3) 2019年、P300-319.</ref>。}}後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。さらに翌年1月の[[茶会]]でも「[[床の間]]に信長自筆の書を掛ける」とあり(『宗及他会記』){{Efn|茶室の床の間は貴人の座の象徴である<ref>『角川茶道大辞典』</ref>。}}、信長を崇敬している様子がある{{Sfn|歴史読本編集部|2014|loc=桐野作人「"文化人"としての光秀」}}。
同年8月7・8日(1581年9月4・5日{{efn|name="Julius"}})に、光秀の実妹か義妹の「[[御ツマキ]]」が死去し、光秀は比類無く力を落とした(『[[多聞院日記]]』同年8月21日条){{efn|「御ツマキ」が、実妹か義妹かは、論が分かれる。また苗字ならなぜ「御」が付くのか、「妹御」の誤りか{{Sfn|谷口研|2014|p=217}}、名前と間違えたのか、などの疑問も言われる <ref name="桐野200703コメント"><!--【URLを暫定的に除去。詳細は[[ノート:明智光秀#脚注89について]]参照】 [http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-104.html -->桐野作人ブログ「膏肓記」2007年3月15日コメント 2018年5月12日閲覧</ref>。}}。[[公家]]等の日記に、ツマキ・妻木は散見する{{efn|『兼見卿記』天正6年(1578年)6月14日、信長祇園会見物の日に「妻木所」へ「台の物、肴色々・2つの瓶を使者に持ち遣わした」。天正7年4月18日条に、「妻木惟向州(光秀)妹が参詣するときの生理事のことを、書状で尋ねてきたので回答した」。また、同年9月25日条には「惟任姉妻木が在京の時に双瓶と食物を籠に入れて持参したが他の用で不在で「女房館」へ渡し帰る」とある{{Sfn|谷口研|2014|pp=215-217}}。さらに『[[言経卿記]]』天正7年5月2日条で「父[[山科言継|言継]]の死去に伴う信長への挨拶の際に近所の女房衆のツマキ・小比丘尼・御ヤヽへ帯2本を進物する」。}}。これら『多聞院日記』ほかの妻木・ツマキの各自が同一人物なのか全く不明である。『多聞院日記』には御ツマキは信長の「一段ノキヨシ」とあり、歴史学者の[[勝俣鎮夫]]は「一段のキヨシ」を「一段の気好し」として、光秀の妹は信長お気に入りの側室で、その死去で光秀の孤立化が進み、本能寺の変の遠因となったとの説を立てている{{Sfn|勝俣|2003|pp=3-4}}。だが「一段のキヨシ」を[[安土城]]の奥向きを束ねる地位にいた、とする見解もある{{Sfn|谷口研|2014|pp=215-217}}{{efn|妹がもしも妻木なら、光秀の本姓も土岐明智でなく土岐妻木であった可能性がある{{Sfn|谷口研|2014|p=217}}。妻木家から明智家に養子入りした仮説もありうる<ref name="桐野200703コメント" />。}}。
同年12月4日(1581年12月29日{{efn|name="Julius"}})、『明智家中法度』5箇条を制定。大きくなった家臣団へ織田家の宿老・馬廻衆への儀礼や、他家との口論禁止及び喧嘩の厳禁と違反者即時成敗・自害を命じている{{Sfn|歴史読本編集部|2014|loc=早島大祐「第1部「徹底追跡!明智光秀の生涯」"本能寺の変への道"」}}。
天正10年3月5日(1582年3月28日{{efn|name="Julius"}})、[[武田氏]]との最終戦である[[甲州征伐]]では信長に従軍する。先行していた[[織田信忠]]軍が戦闘の主力で、今回は見届けるものであり、4月21日に帰還する。
=== 本能寺の変 ===
{{Main|本能寺の変}}
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|280px|本能寺焼討之図]]
天正10年(1582年)5月、[[徳川家康]]饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の[[毛利氏|毛利]]征伐の支援を命ぜられ、同年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]](1582年6月21日{{efn|name="Julius"}})早朝に出陣する。その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢には「[[森成利|森蘭丸]]から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという{{sfn|谷口克|2007|pp=42-48}}。
『[[本城惣右衛門覚書]]』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。光秀軍は信長が宿泊していた京都の[[本能寺]]を急襲して包囲した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASP136SHXNDZULZU00D.html 「光秀ハ鳥羽ニ」、最期の言葉も 本能寺の変に新情報], 朝日新聞デジタル(2021年1月4日閲覧)</ref><ref group="注釈">『惟任謀反(退治)記』という史料によると、斎藤利三ら重臣が本能寺の宿所を取り巻いた際、光秀は途中で控えたと記されていたり、文献『乙夜之書物』によると、「斎藤利三と、光秀重臣の明智秀満が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽に控えていた」と記されていたりと、攻撃に参加せず後方に控えていた説もあるが、実際に光秀が重臣らとともに本能寺の攻撃に加わっていたのか、あるいは後方に控えていたのかは、明確にまだわかっていない。</ref>。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害したとされている。信長の死体は発見されなかった。
その後、[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]にいた信長の嫡男・[[織田信忠|信忠]]と従兄弟の[[斎藤利治]]{{Efn|利治は病で[[加治田城]]において静養していると考えていたようである。}}が、二条新御所において見事な防戦(奮戦)をしているのを確認し、[[降伏勧告]]をしたとされるが、利治は忠死を選んだ(『南北山城軍記』)<ref group="注釈">「班久勇武記するに遑あらず且諸記に明らけし、終に忠志を全ふして天正十壬午六月二日未刻、京師二条城中において潔く討死して、君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」</ref>、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の[[村井貞成]]、[[村井清次]]や信長の馬廻りたちを共に討ち取った。また[[津田信澄]](信長の弟・[[織田信行]]の子)は光秀の娘と結婚していたため、加担の疑いをかけられ[[大坂]]で[[織田信孝|神戸信孝(信長の三男)(織田信孝)]]に討たれた。
=== 山崎の戦いと最期 ===
[[ファイル:Saikyoji03.jpg|200px|thumb|西教寺にある明智光秀とその一族の墓]]
{{Main|山崎の戦い}}
光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本拠の[[安土城]]への入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の[[山岡景隆]]{{Efn|実弟・[[山岡景猶]]が光秀の寄騎近江衆の一員であった。}}が[[瀬田の唐橋|瀬田橋]]と居城を焼いて近江国[[甲賀郡]]に退転したため、仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り同年6月4日(1582年6月23日{{efn|name="Julius"}})までに近江をほぼ平定し、同年6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えるなどした。
同年6月7日には[[誠仁親王]]は、[[吉田兼見|吉田兼和]]を[[勅使]]として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せている。京都市中が騒動し、混乱を憂いてのことと思われるが、この時に兼和は「今度の[[謀反]]の存分儀雑談なり」と記し「謀反」としている{{sfn|谷口克|2007|p=65}}。光秀はこの後、同年6月8日に安土を発って、同年6月9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、[[京都五山]]や[[大徳寺]]にも銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った{{sfn|小和田|1998|p=214}}{{sfn|高柳|1958|pp=223-229}}。
だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、[[松井康之]]を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の[[細川ガラシャ]])を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の上下関係は歴然としていることから、細川幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしない風があったとされている{{Sfn|米原|2000|p=95|loc=宮本義己「細川幽斎・忠興と本能寺の変」}}。
また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した。ただし、筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた{{sfn|高柳|1958|pp=244-245}}。また、詳細は後述するが、[[高山右近]]ら摂津衆を先に秀吉に押さえられたことが大きいとフロイスが『日本史』で指摘している。
本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して[[中国路]]の[[備中高松城]]から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の同年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]](1582年7月2日{{efn|name="Julius"}})、[[天王山]]の麓の山崎(現在の京都府[[大山崎町]]と大阪府[[島本町]]にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった<ref>[[谷口研語]]『「地形」で読み解く日本の合戦』PHP文庫、2014年、157-160頁。</ref>。
決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千人([[池田恒興]]4,000人、[[中川清秀]]2,500人、織田信孝、丹羽長秀、[[蜂屋頼隆]]ら8,000人。但し4万人の説もあり)に対し明智軍1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあり、さらに1万人余りとする説{{sfn|小和田|1998|pp=230-231}}もある)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と[[淀川]]の間の狭い地域には両軍とも3千人程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は[[備中高松城の戦い]]からの[[中国大返し]]で疲弊しており、高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。
当日、羽柴秀吉配下の[[黒田孝高]]が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある。だが、これは『[[太閤記]]』や『[[川角太閤記]]』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、現在では創作とされている{{sfn|高柳|1958|pp=249-250}}。また他には、秀吉側3万5千人に対し、各城にも兵を残したため実数1万人程度で劣勢であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3千人が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった、との見解もある{{sfn|小和田|1998|pp=230-231}}。
同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、[[小栗栖]](現・[[京都府]][[京都市]][[伏見区]]小栗栖){{Efn|場所については、小栗栖あるいは[[本経寺 (京都市)|本経寺]]付近の竹薮、または醍醐か[[山科区|山科]]と当時の各日記でも情報が分かれている。}}において[[落ち武者狩り]]で殺害された{{Efn|8日[[浅野長政]]宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている(『浅野家文書』){{Sfn|谷口研|2014|pp=202-207}}。}}とも、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に[[介錯]]させ、その首を近くの竹薮の溝に隠した{{sfn|高柳|1958|pp=250-251}}ともされる。『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた[[鑓]]で腰骨を突き刺されたとする。その際、最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す[[守護#室町時代|毛氈鞍覆]](もうせんくらおおい)に包んで[[知恩院]]に届けてくれと言い残したという<ref name="金子" />。
光秀のものとされる首は、発見した百姓により翌日、[[村井清三]]を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされた。その後同月17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の[[粟田口]](現・京都府京都市東山区・左京区)に首と胴をつないでさらされた後、同年6月24日に両名の[[首塚]]が粟田口の東の路地の北に築かれたとされる(『[[兼見卿記]]』){{Sfn|谷口研|2014|pp=202-207}}。安土城で留守を守っていた[[明智秀満]]は、同年14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが、多くが逃亡。やがて坂本城が包囲され、光秀が集めた財宝が失われるのを惜しみ、目録を添えて包囲軍に渡した(『川角太閤記』){{Sfn|藤本|2010|p=222}}。籠城戦も無理だと判断して、光秀の妻子と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害した{{Sfn|谷口研|2014|pp=204-205}}。[[細川忠興|細川氏]]に嫁いだ三女の[[細川ガラシャ|珠子]]を除いて、光秀と秀満、および明智勢に加わった武将の一族も山崎の戦い後において織田勢の追討により尽く誅され、明智氏はこれにおいて断絶した。
== 人物・評価 ==
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[[ファイル:Sakamotojo02.jpg|200px|thumb|明智光秀の像(坂本城址公園内)]]
[[ファイル:明智光秀.JPG|thumb|200px|明智光秀首塚、首はこの地に埋められたと伝えられる。のちに五重石塔が作られ首塚として知られる。『兼見卿記』に記録された箇所にも概ねあたる。京都市[[東山区]][[三条通]]白川橋下る東側]]
* 諸学に通じ、[[和歌]]・[[茶道|茶の湯]]を好んだ文化人であった。
* [[高柳光寿]]は、光秀は従来から言われるような保守主義者ではなく合理主義者であり、だからこそ信長に重用されて信任されたとしている{{sfn|高柳|1958|pp=272, 287-288}}。
* 内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。
** 現代に至る[[亀岡市]]{{Efn|亀岡市は亀山城の城下町。[[伊勢国|伊勢]]の[[亀山市|亀山]]との混同を避けるため、[[明治]]2年([[1869年]])に改称した。}}、[[福知山市]]の市街は、光秀が築城を行い、[[城下町]]を整理したことに始まる。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われている。福知山には、「'''福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ'''」と光秀を偲ぶ[[福知山城#福知山音頭|福知山音頭]]が伝わっている。
* 従来の説では光秀は『[[天台座主]]記』<ref>『続群書類従』所収</ref> に「光秀縷々諌を上りて云う」とあるように、信長の比叡山延暦寺焼き討ちに強く反対し、仏教勢力とかなり親密であったとされてきた。だが信長の命令とは言え延暦寺焼き討ち、[[石山戦争]]などの対宗教戦争に参戦しているほか、自領の山門の領地を容赦無く没収([[門跡]]領も含めて)しているため、宗教に対して必ずしも保守的ではなかったとする見方{{sfn|高柳|1958|p=272}}があった。これを補強して従来の諌止説を覆したのが、比叡山焼き打ち10日前の9月2日付けの[[雄琴温泉|雄琴]]の土豪・和田秀純宛の光秀書状で、比叡山に一番近い[[宇佐山城]]への入城を命じ「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と非協力な仰木(現・[[大津市]][[仰木町]])の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実かつ中心的な実行者であるという説が有力になっている{{sfn|小和田|1998|pp=75-76}}。
* 主君・織田信長を討った行為については、近代に入るまでは“逆賊”としての評価が主であった。特に[[儒教]]的支配を尊んだ[[徳川幕府]]の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に[[徳川家康]]が[[伊賀越え]]という危難を味わったことなどから、このことが強調された。
* 本能寺の変後、光秀と関係の深い[[長宗我部元親]]、[[斎藤利堯]]、[[姉小路頼綱]]、[[一色義定]]、[[武田元明]]、[[京極高次]]等が呼応する形で勢力を拡大している。[[織田政権]]が崩壊したことで各地に支配の空白が生じ、家康と[[後北条氏]]や[[上杉氏]]らが[[甲斐国]]・[[信濃国]]を争奪した[[天正壬午の乱]]、[[紀伊国|紀伊]]や[[伊賀国|伊賀]]の[[国人衆]]蜂起などが起きた。
* 志賀郡で[[一向一揆]]と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を[[西教寺]]に寄進した{{sfn|小和田|1998|p=86}}。西教寺には光秀の寄進状が残されており、そこに記された18人のうち一名は武士ではなく[[武家奉公人|中間]]であった。他にも、この戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が2通残されていて、家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんど見られないものであった{{sfn|小和田|1998|pp=84-86}}。
* 『フロイス日本史』中には、
** 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
** 「裏切りや密会を好む」
** 「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」
** 「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」
** 「刑を科するに残酷」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
: 等の光秀評がある。
* 宗教面に関しては「悪魔(≠[[神道]]・[[仏教]])とその偶像の大いなる友」で、[[イエズス会]]に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とフロイスは書いているが、特に[[キリシタン]]に害を加えたという記述はない。
* フロイスは本能寺の変の後、[[摂津国]]に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている{{Efn|「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼は[[高山ジュスタ|ジュスタ]](右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」<ref>『完訳フロイス日本史3』・第58章(第2部43章)</ref>}}。ただしこれは結果論であり、当時の光秀の立場を無視しているとも言われる{{sfn|高柳|1958|pp=251-252}}。光秀は、近江方面の平定から始めている。これは常識的な判断である。そして秀吉の「中国大返し」という思わぬ事態にそれ以上の展開を阻まれたのである<ref>{{Citation|和書|author1=鈴木眞哉|author2=藤本正行|title=信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変謀略説を嗤う|publisher=洋泉社|series=新書y|year=2006}}</ref>。しかし、4日から8日まで5日間も安土に留まり朝廷工作を優先していたと思われ、これは大きな失敗である{{sfn|小和田|1998|pp=210-211}}。
* 光秀は信長を討った後、縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対して書状を出していた。
「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、[[但馬国|但馬]]・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎(忠興)に全てを譲って[[隠居]]する」などと6月9日付で出された書状「覚」が『細川家記』収載「明智光秀公家譜覚書」にある{{sfn|高柳|1958|pp=243-244}}。しかしながら、この「覚」について、[[立花京子]]は「花押の上部の中央線が他に例のないほど太く、しかもそれの延長であるべき下部になると段差的に細くなり、他の花押には決して見られない不自然な筆の運びとなっている。筆跡の鑑定などを必要とする要検討文書と考える」と結論づけている<ref>{{Cite journal|和書|author=立花京子|authorlink=立花京子|title=明智光秀花押の経年変化と光秀文書の年次比定|publisher=『古文書研究』46号|year=1997}}</ref>。
** 光秀の[[連歌]]会参加の初見は永禄11年(1568年)だが、詠んだ句は6句と少なく依然未熟であった。しかし勉強したのか2年後の元亀元年(1570年)には8句を詠み、その後の天正2年(1574年)には連句会を初主催して発句と脇句を詠み、それを含め計9回も主催した。他の催した連歌会の参加は11回にも及ぶ。また当時の連歌の第一人者・[[里村紹巴]]とその門派たちと交流し、天正9年(1581年)には細川藤孝親子の招きで紹巴たちと9月8日に出発して天橋立に遊び、12日に連歌会を行っている{{sfn|谷口研|2014|pp=217-220}}。
** 信長は「許し茶湯」を家臣管理に使用し、茶道具を下付された家臣に茶会主催を許可し、『[[信長公記]]』では天正6年(1578年)正月に始められ許可者12名が総覧され、光秀は選ばれている<ref>{{harvnb|歴史読本編集部|2014|loc=桐野作人「"文化人"としての光秀」}}(研究引用元は竹本千鶴『織田政権における茶の湯』)</ref>。この時、八角釜を拝領し、[[津田宗及]]に師事し、12回も[[茶会]]を催している{{sfn|谷口研|2014|pp=320-324}}。初回は慣れないのか、主催の亭主の行い事を全て[[津田宗及]]が代役している{{sfn|桑田|1983|pp=230-231}}。
* [[稲葉良通|稲葉一鉄]]のもとから[[斎藤利三]]を高禄をもって引き抜いた。さらに[[那波直治]]も引き抜こうとして訴訟沙汰まで起こしていた。光秀の人材登用にかける思い入れの深さと姿勢が見られ、光秀の経営の真骨頂と評価される<ref>{{Cite book|和書|author=宮本義己|chapter=絶頂期への軌跡-天下の面目をほどこし候-||series=歴史群像シリーズ【戦国】セレクション|title=俊英 明智光秀|publisher=学習研究社|year=2002}}</ref>。
== 江戸期の編纂書・軍記や伝承不明の説話 ==
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|section=1
}}
* 光秀は[[享禄]]元年(1528年)に父は明智光隆、母は[[武田義統]]の妹の間に美濃多羅城で生まれたとの説がある(『明智系図』{{Efn|この系図は江戸時代の物で、しかも美濃多羅(現・岐阜県[[大垣市]])が、まったく明智に縁が無い土地で、しかもこの系図の人物は研究が進んでいるが「明智」の土地を伝領した形跡がなく、信用できないとの指摘がある{{Sfn|谷口研|2014|pp=18-19}}。}})。一方、大垣市は、『明智一族宮城家相伝系図書』([[東京大学史料編纂所]])などを基に、[[明智光綱]](光隆)の妹が美濃国[[石津郡]]の多羅(現在の大垣市[[上石津町]]多良)を領した進士信周に嫁いで産んだうちの次男を光隆の養子として、長じて光秀となったとしている<ref>[http://www.city.ogaki.lg.jp/0000042893.html 「明智光秀生誕の地 上石津」PR事業について] 岐阜県大垣市(2018年11月16日)2019年1月20日閲覧。</ref>。(「[[#系譜|系譜]]」・「[[#光秀の謎|光秀の謎]]」も参照)
* 20歳位の頃、芥川で光秀は[[大黒天]]の像を拾った。それを見た家臣が「大黒を拾えば1,000人の頭になれるそうです」と述べて喜んだが、光秀は「ならばこれは必要ない」と捨ててしまった。驚いた家臣が尋ねると、「わしは1,000人の頭になることくらいで終わるつもりはない。もっと大きくなる」と述べて大志があることを示したという([[山鹿素行]]『山鹿語類』)。
* 『[[明智軍記]]』によれば、[[弘治 (日本)|弘治]]2年(1556年)に美濃を出て[[大野市|越前大野]]に行き、いったん上洛し妻子を寺に預けてから永禄3年(1560年)から2年間で[[奥州]][[盛岡市|盛岡]]から[[薩摩]]まで日本全国を回り、各地の城構えや民政を見聞したとする。ただし、その内容は[[吉田郡山城]]にいた毛利氏が安芸[[広島城]]にいたり、永禄3年(1560年)5月に[[桶狭間の戦い]]で死んだ[[今川義元]]が年末に生存していたり、[[伊達政宗]]が当時無関係の[[大崎市|陸奥大崎]]にいたり、でたらめである{{Sfn|桑田|1983}}。
* 流浪時代に[[毛利元就]]に仕官を求めた際に、元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。(光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中にはもう一つ[[狼]]のような一面が眠っている。利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。)」と言い断ったという(『[[太閤記]]』上和編)。
* 永禄5年([[1562年]])に[[加賀]]で浪人していた光秀は[[一向一揆]]と戦う[[朝倉景行]]の[[軍師]]として参戦した。一揆の動きを見た光秀は景行に対して「夜討ちに備えるべき」と進言した。多くの者は飛び入りの光秀を快く思わず意見を聞き流したが、景行のみは半信半疑ながらも夜討ちに備えた。すると光秀の進言どおりに一揆が夜討ちをかけてきたが、備えを布いていた朝倉軍は一揆に大勝した。景行は光秀の慧眼と非凡な器を知り、光秀に義景への仕官を勧めたという([[小瀬甫庵]]『太閤記』)。
* 鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一[[尺]]四方の的を25[[間]](約45.5[[メートル]])の距離から命中させたという。当時の[[火縄銃]]や[[弾丸]]の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を撃ち落としたという逸話もある。
** 「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(『明智軍記』)。
* 光秀は大力の持ち主であった。馬上で太刀打ちとなった時、光秀は相手の馬の[[鞍]]橋を引いて切って捨てた。また、家臣が敵に組み敷かれているのを見た光秀は、敵の[[兜]]の下部をつかんで引き倒したという(『明智軍記』)<ref>{{Cite book|和書|series=歴史群像シリーズ【戦国】セレクション|title=俊英 明智光秀|publisher=学習研究社|year=2002|page=74}}</ref>。
* ある合戦で対陣中の光秀の下に、塩瀬三右衛門という者が陣中見舞いとして光秀の好物を持参した。光秀が喜んで食べていると敵軍の鬨の声が聞こえてきたため、光秀は慌てながら残りを急いで食べると指揮を執った。あまりの急ぎぶりに光秀の口周りは汚れたままで、これを見た家臣は「殿(光秀)ほどの御方でも心遅れされるとは無様なものよ」と呆れたが、心ある者は「名将となる者は軍のことのみを心がけており、寝食など忘れるもの。殿は食事などこだわらず、軍に心を委ねている証である」と述べたという(『太閤真顕記』)。
* 夫婦仲は非常に良かったとされ、「結婚直前に[[天然痘|疱瘡]]にかかり、左頬にその後が残ってしまった煕子を光秀は気にせずに迎えた」、「弘治2年(1556年)、[[斎藤義龍]]によって明智城が落とされると、光秀は身重の煕子を背負って[[越前国|越前]]へ逃亡した」などの逸話がある{{Sfn|柴|2018|p=116}}。
* 本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は[[殷]]の[[帝辛|紂王]]であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身を[[武王 (周)|武王]]に比している。笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していたという(『豊内記』)。
* 『信長公記』や秀吉の書簡、日記などの文書史料には無い、光秀を刺したという百姓の名前が江戸時代の随筆に2名(中村長兵衛<ref>[[天野信景]]随筆集『塩尻』</ref>、小栗栖の作右衛門<ref>山口幸充『嘉良喜随筆』、中山三柳『醍醐随筆』</ref>)登場するが、信憑性はない。
=== 辞世 ===
[[ファイル:Saikyoji05.jpg|250px|thumb|[[西教寺]]にある<br />明智光秀公辞世句の碑]]
* 「'''順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元'''」
*: (順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『[[明智軍記]]』{{Efn|江戸時代に起きた「[[越後騒動]]」で自害した[[小栗正矩|小栗美作]]の辞世の偈「五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤」を真似た偽作との説もある。}}
* 「'''心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ'''」<ref>『[[真書太閤記]]』六編巻之十五「明智光秀坂本へ帰る事」</ref>
=== 伝承史跡 ===
==== 本能寺の変~山崎の戦い関連 ====
* [[明智藪]]
* 胴塚:明智藪から街道筋を坂本城の方向へ2km北上した京都市[[山科区]]勧修寺御所内町にあり、光秀の胴体部分を埋葬したと伝わる。江戸時代に広まった『明智軍記』の載る、[[鑓]]で刺され深手を負った光秀がしばらく進んで絶命したという記述に基づき、明智藪から近距離に後世に里人が作った供養塔だと評されている<ref name="室井首塚">{{Harvnb|歴史読本編集部|2014|loc=室井康成「明智光秀の「首塚」- その伝承が語る人間像」}}</ref>。
* 首塚
** 京都府[[亀岡市]]宮前町の谷性寺に、[[溝尾茂朝]]が光秀の首を持ち帰って埋葬したと伝わる<ref name="室井首塚" /><ref>[http://www.rakujyu.on.arena.ne.jp/jynrei/25kokusyu.html 谷性寺]</ref>。
* 大阪府[[高石市]]の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「[[光秀寺]]」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る『和泉伝承志』によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・[[影武者]]と否定し、京都[[妙心寺]]に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府[[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]鳳南町三丁にある「丈六墓地」では、[[昭和]]18年(1943年)頃まで加護[[灯籠]]を掲げての光秀追善[[供養]]を、大阪府泉大津市豊中では[[徳政令]]を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行っていたが、現在では消滅している。
* 光秀が愛宕百韻の際に[[亀岡盆地]]から[[愛宕山 (京都市)|愛宕山]]へ上った道のりは「明智越え」と呼ばれ、現在では[[ハイキング]]・コースになっている。
* 本能寺の変の際、[[国道423号|摂丹街道]]まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した能勢方面へ向かう法貴峠の旧道(亀岡市曽我部町)には多くの大岩があり、これらの巨岩が行軍の障害となり引き返したと「明智戻り岩」と呼ばれた岩が残されている<ref>[https://www.kameoka.info/seeing/modoriiwa.php 亀岡市観光協会HP「明智戻り岩」2018年]2021年10月26日閲覧</ref>。
==== 出生関連 ====
* 岐阜県恵那市の旧[[明智町]]には、[[産湯]]を汲んだ[[井戸]]、幼少期の学問所などの伝承史跡がある<ref name="akechicho"/>。
== 光秀の謎 ==
=== 出自 ===
光秀は美濃の明智氏の出身とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の出自説が存在する。
* 山岸信周(進士信周)の次男(『明智一族宮城家相伝系図書』){{Sfn|桑田|1983}}
* 美濃の明智から信長への使者・御門重兵衛を気に入り、明智を名乗らせ仕えさせた(『塩尻』{{Efn|[[天野信景]]の随筆集。元禄元年(1688年)刊。}}){{Sfn|桑田|1983}}
* [[若狭国]][[小浜市|小浜]]の[[刀鍛冶]]・藤原冬広の次男(『若州観跡録』){{Sfn|桑田|1983}}
* [[土岐元頼]]の息子(『稿本美濃誌』{{Efn|[[土岐琴川]]著、宮部書房、大正4年(1915年)。}})
* [[進士晴舎]]の息子・[[進士藤延]]{{Sfn|小林|2014|p=134}}
===名前===
光秀の名に関して、[[小林正信]]は織田信長によって与えられた名であり、元々の名は将軍・足利義輝の偏諱を受けた「藤」か「輝」を含む名であったと推測している{{Sfn|小林|2019|pp=135-138}}。
伝承や系図では、明智氏は代々「頼」の字を名に使用しており、光秀の父の代から「光」の字を使用するようになったとされるが、この光秀の父とされる人物を史料上から見出すことはできない{{Sfn|小林|2019|p=136}}。「秀」の字に関しては、信長は父・[[織田信秀]]の「秀」の字を「秀いた者」という名実一致論の下で家臣に与えていたが、光秀にも同様に名を与え、光秀の「秀」の字もこの字であるという{{Sfn|小林|2019|p=136}}。そして、他の家臣と違い、「光」の字が「秀」の字の上にくるのは、「光」の字が義輝の諡号「光源院」の一字であるとされ、義輝の遺臣であることやかつての義輝との繋がりが考慮された結果だとされる{{Sfn|小林|2019|p=136}}。そして、「光秀」の名には「今は亡き光源院様より参りし秀いた者」という意味が込められていたという{{Sfn|小林|2019|p=138}}。
===戒名===
光秀の戒名は、[[本徳寺 (岸和田市)|本徳寺]]の肖像画の賛によると、輝雲道琇禅定門(きうんどうしゅうぜんじょうもん)であるが、小林正信はこの戒名を足利義輝に由来するものであると指摘する{{Sfn|小林|2019|pp=137-138}}。義輝の辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」であるが、この戒名には「義輝の名を雲の上まであげる道(人生)を貫いた光秀(「琇」の字は一字で「光秀」を表す)」という意味が込められているとされる{{Sfn|小林|2019|pp=137-138}}。
===肖像画===
輝雲道琇禅定門の戒名が記された肖像画(本徳寺蔵)の光秀は、明らかに享年のころとは考えられない若かりし頃の光秀である{{Sfn|小林|2019|p=138}}。これは信長に従属する以前、つまり幕臣時代の光秀を描いたものとされる{{Sfn|小林|2019|p=138}}。そして、この光秀没後に描かれた画には、謀反人としての光秀を排除し、世間に定着した人物像に抵抗する意味合いがあったという{{Sfn|小林|2019|p=138}}。
=== 愛宕百韻の真相 ===
{{出典の明記|date=2018年11月11日 (日) 02:20 (UTC)|section=1}}
[[愛宕百韻]]とは、[[天正]]10年([[1582年]])[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]、光秀が[[本能寺の変]]を起こす前に[[京都]]の[[愛宕山 (京都市)|愛宕山]]([[愛宕神社]])で開催した[[連歌]]会のことである。
光秀の発句「'''時は今 雨が下しる 五月哉'''」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「'''土岐'''」、「雨が下しる」を「'''天が下知る'''」の寓意であるとし、「[[土岐氏]]の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「[[王土王民思想|王土王民]]」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・[[津田勇]]の説では「'''五月'''」は、[[以仁王の挙兵]]、[[承久の乱]]、[[元弘の乱]]が起こった月であり、いずれも[[桓武平氏]]([[伊勢平氏|平家]]・[[北条氏]])を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。
しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただでは置かないはずである)。また、愛宕百韻後に[[石見国]]の国人・[[福屋隆兼]]に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料<ref>「福屋金吾旧期文書」『阿波国古文書 三』</ref><ref group="注釈">支援を求める内容ではなく、「光秀は信長の上洛の日程をあらかじめ把握していた」と読み解くことができる、すなわち突発的な襲撃ではない、と推測することもできる、そのような史料である。また、この数日後に同じ使者が美濃の西尾氏に送られている。この距離の移動は現実的ではないため、どちらかの書状が日付に誤り、もしくは偽文書である可能性がある。</ref> が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。
なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句'''水上まさる庭のまつ山'''についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が[[平氏]]であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は古来、朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。
橋場日月は『明智光秀 残虐と謀略』の中で、第23句の「葛の葉の みだるる露や 玉ならん」の葛の葉が「裏見=恨み=不平・不満」を表す言葉であることなどに注目し、信長との方針の違いが歌に込められていると解釈した。
=== 本能寺の変の原因 ===
{{出典の明記|section=1|date=2016年2月}}
{{main|本能寺の変#変の要因}}
[[ファイル:Nobunaga strikes Mitsuhide.jpg|250px|thumb|[[恵林寺]]を焼こうとするのを諫めた光秀を打ち据える信長]]
[[ファイル:Ehon taikouki yagamizyou.jpg|250px|thumb|八上の城兵、光秀の老母を斬罪にする図(『絵本太閤記』)]]
[[本能寺の変]]でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。
; 怨恨説
: 主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。以下はその代表例とされるもの。
:* 信長に七盃入りの大きい盃に入った酒を強要され、[[下戸]]の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「此の白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲んだとしている([[湯浅常山]]『[[常山紀談]]』){{Efn|『フロイス日本史』およびフロイスの書簡には「信長は酒は飲まない」と記されている事や、この逸話を記している『柏崎物語』では本能寺l変の1ヶ月前の出来事としており、[[柴田勝家]]が同席している描写があるのだが、当時、勝家は[[北陸]]前線で釘付けの状態であり、酒宴に参加できる状態ではなかった。こうした事などから、疑問視する声もある。([[二木謙一]]など)}}。
:* 同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭([[禿頭]]の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。
:* 天正7年(1579年)6月、丹波[[八上城]]に自身の母親を人質として出して、本目の城([[神尾山城]]か)に招いた八上城主の[[波多野秀治]]・[[波多野秀尚|秀尚]]兄弟や従者11人を生け捕りにして安土に移送したが、信長の刺客に襲われた秀治は殺害され、秀尚以下残った者は磔にされた。これに激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害してしまった。殺害された母親の死体は、首を切断され木に縛られていたと言われる<ref>{{Citation|和書|title=常山紀談|year=1911|last=|first=|url={{NDLDC|778092/119}} 国立国会図書館デジタルコレクション7|series=袖珍文庫 ; 第30編|volume=巻之1-8|page=205|publisher=三教書院|editor=[[湯浅常山]]}}</ref>。<br />しかしこれは他の史料とは一致せず創作である{{Efn|前の話は『[[絵本太功記]]』などによる創作とされる。}}。『[[信長公記]]』では光秀は八上城を前年より一年間包囲して責め立てて兵糧攻めで丹波兵を餓死させ、諦めて最後の出撃に出た敵を悉く討ち取ったとある。捕虜にした波多野兄弟3人は同年6月4日に安土の慈恩寺(現在の[[浄厳院]]の付近)の町外れで磔にされたが、既に観念して神妙な最後を遂げたとある<ref>『信長公記』 巻12 天正7年 6月4日</ref>。
:* 天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした[[徳川家康]]の功を労うため、安土城において家康を饗応した。この時の[[本膳料理]]の[[献立]]は「天正十年安土御献立」として『[[続群書類従]]』に収録されている。光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、実は信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、「魚(肴)が腐っている」というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りという説、信長自らがわざわざ[[鷹狩]]の途中に立寄って材料の魚鳥を吟味したが、肉が腐っていると草履で踏み散らし、光秀が新たに用意していたところ「[[備中]]へ出陣せよ」と下知されたが、忍びかねて叛いたとしている(『常山紀談』)。
:* [[中国地方|中国]]2国([[出雲国]]・[[石見国]])は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は[[滋賀郡]](近江坂本)・[[丹波国]]は召し上げにする、と伝えられたこと。(『[[明智軍記]]』)
:* [[甲州征伐]]の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、[[小姓]]の[[森成利]](森蘭丸)に[[鉄扇]]で叩かれ恥をかいた(『明智軍記』)。
:* フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記している(『フロイス日本史』)。これを元に[[桑田忠親]]は著書『明智光秀』で、面目を失ったためと「本能寺の変 怨恨説」を唱えた。
; 野望説
: 光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会であった」という意見がある。[[高柳光寿]]著『明智光秀』はこの説を採用している。
; 恐怖心説
: 長年信長に仕えていた[[佐久間信盛]]、[[林秀貞]]達が追放され{{Efn|光秀の讒言であったとの説がある<ref>『[[佐久間軍記]]』『[[寛政重修諸家譜]]』</ref>。}}、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。これは怨恨説など諸説の背景としても用いられる。
: もしくは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。
; 理想相違説
: 信長を伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法([[一向宗]]勢力、[[伊賀]]の虐殺等)で天下の統一事業を目指したと歴史解釈した上で、光秀は衰えた[[室町幕府]]を再興し<ref>{{Cite web|和書|url= https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c |title= 密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ |publisher=『[[毎日新聞]]』 |date=2017-09-12 |accessdate=2017-09-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170926071901/https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c |archivedate=2017-09-26 |deadlinkdate= }}</ref>、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説{{Efn|この説には信長の大艦隊による海外進出計画も根拠として用いられる。}}。
: この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張する。そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の[[江戸幕府]]による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きにわたって続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと主張する。
: なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多い。特に両翼として同調が期待されていた細川氏(管領家の分流)、筒井氏([[興福寺]]衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっている。
; 将軍指令説 / 室町幕府再興説
: 光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説<ref>{{Cite book|和書|author=藤田達生|title=本能寺の変の群像|publisher=雄山閣出版|year=2001}}</ref>。光秀が義昭を奉じるのは大義名分があるが、直接の指令があったのかどうかも含めて、義昭の積極的関与を示すような証拠は依然として存在しない。ただし、[[藤田達生]]は紀州の武将・[[土橋重治]]に充てた光秀直筆の書状<ref>『土橋重治宛光秀書状』美濃加茂市民ミュージアム所蔵</ref> から、光秀が本能寺の変の後に義昭を京に迎え入れ、室町幕府を再興するという明確な構想があったことを指摘している<ref>{{Cite web|和書|url= http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1709/12/news088.html |title=本能寺の変、目的は室町幕府の再興だった? 明智光秀直筆の書状から分析 |publisher=[[ねとらぼ]] |date=2017-09-12 |accessdate=2017-09-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170912080020/http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1709/12/news088.html |archivedate=2017-09-12 |deadlinkdate= }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/ASK9C45WPK9CONFB00F.html?iref=sp_cultop_feature5_list_n |title=本能寺の変後、光秀の直筆手紙 紀州の武将宛て |publisher=『[[朝日新聞]]』 |date=2017-09-12 |accessdate=2017-09-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170912151816/http://www.asahi.com/articles/ASK9C45WPK9CONFB00F.html?iref=sp_cultop_feature5_list_n |archivedate=2017-09-12 |deadlinkdate=}}(有料記事のため全文閲覧は出来ません)</ref>。上記の理想相違説に通じる部分がある。
; 朝廷説
: 「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は[[正親町天皇]]譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された[[安土城]]本丸御殿の遺構から、安土城本丸は[[内裏]][[清涼殿]]の構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。
: [[立花京子]]は『天正十年夏記』等をもとに、朝廷すなわち[[誠仁親王]]と[[近衛前久]]がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった『天正十年夏記』(『晴豊記』)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の[[勧修寺晴豊]]の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。[[三職推任問題]]等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。
: 朝廷または公家関与説は、[[足利義昭]]謀略説、「愛宕百韻」の連歌師・[[里村紹巴]]との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、『晴豊記』の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明、[[橋本政宣]]らの指摘がある)。
: 一時期は有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はほぼいない。
; 四国説
: 比較的新しい説とされ、野望説と怨恨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。信長は光秀に四国の[[長宗我部氏]]の懐柔を命じていた。光秀は[[斎藤利三]]の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年([[1580年]])に入ると織田信長は秀吉と結んだ[[三好康長]]との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。[[藤田達生]]から光秀・元親ラインと羽柴秀吉・三好康長ラインの対立の結果だと主張されている<ref>{{Citation|和書|author=藤田達生|chapter=織田信長の東瀬戸内支配|editor=小山靖憲|title=戦国期畿内の政治社会構造|publisher=和泉書院|year=2006}}</ref>。橋場日月は、四国ルートで九州に進む光秀の構想が、秀吉の中国ルート構想に敗れたことが変を呼んだとする四国説のバリエーションを唱える。
; イエズス会説
: 信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時の[[イエズス会]]を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた[[キリスト教会]]、南欧勢力([[スペイン]]と[[ポルトガル]])とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの[[植民地]]拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説<ref>{{Cite book|和書|author=立花京子|title=信長と十字架 ―「天下布武」の真実を追う―|publisher=集英社|year=2004}}</ref>。この説には[[大友義鎮|大友宗麟]]と[[豊臣秀吉]]の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に[[硝石]]、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。しかし、イエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。
: この説を唱える立花京子の史料の扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない。[[キリシタン大名]]との関係では、朝廷と同じように関係を継続していこうとする光秀の考えと、信長の武力による天下統一の考え方に大きなズレが生じたとする傾向の説が出ている。
=== 生存説 ===
山崎の戦いの後、竹藪で竹槍に刺されて死んだのは影武者の[[荒木行信|荒木山城守行信]]であり、光秀は美濃国中洞まで落ち延びたという[[生存説]]がある。落武者となった明智光秀は姓名を荒深小五郎に改めて生きながらえたが、関ケ原の戦いで東軍に参戦する途中で洪水に遭い死去した、と尾張藩士・天野信景が随筆集『塩尻』に記述している。この説によると享年は75才{{sfn|楠戸義昭|2017| p=94}}。岐阜県山県市中洞には明智光秀の供養塔の桔梗塚があり、明智光秀の末裔も存在している<ref>{{Cite web|和書|title=明智光秀の墓(桔梗塚)|url=https://www.kankou-gifu.jp/spot/5942/|website=ぎふの旅ガイド|accessdate=2021-05-11|language=ja|last=岐阜県観光連盟}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://serai.jp/hobby/1017798|title=山崎の戦いで死去したのは影武者!? 明智光秀生存伝説の謎を追う【麒麟がくる 満喫リポート】|accessdate=2021年5月11日|publisher=サライ公式サイト}}</ref>。
=== 南光坊天海説 ===
{{出典の明記|section=1|date=2015年5月}}
[[ファイル:NikkoArcherStatue5023.jpg|200px|thumb|日光東照宮 陽明門 随身像]]
光秀は小栗栖で死なずに[[天海|南光坊天海]]になったという異説がある{{sfn|大野富次|2019| p=93}}。天海は[[江戸時代]]初期に徳川家康の幕僚として活躍した[[僧]]で、その経歴には不明な点が多い。
異説の根拠として、
# [[日光東照宮]]陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である[[桔梗紋]]{{Efn|内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。ただし、桔梗紋の花弁と[[木瓜紋]]等に用いられる唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりは[[木瓜紋]]の唐花に近い。}}が象られている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数ある。
# [[日光市|日光]]に[[華厳滝|明智平]]と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある{{Efn|天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある<ref>{{Citation|和書|title=日光パーフェクトガイド |url=http://www.nikko-jp.org/perfect/ |date=1998-03-30 |editor=日光観光協会 |publisher=[[下野新聞社]] |isbn=4-88286-085-6 |chapter=明智平 |chapterurl=http://www.nikko-jp.org/perfect/chuzenji/akechidaira.html|accessdate=2012-04-19}}</ref>。}}。
# [[童謡]]『[[かごめかごめ]]』の歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説{{Efn|光秀の出身地である[[岐阜県]][[可児市]]から天海の廟所がある[[日光市|日光]]の方向を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀の[[肖像画]]を所蔵している[[本徳寺 (岸和田市)|本徳寺]](元は現在の大阪府[[貝塚市]]鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主[[岡部行隆]]の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。)がある大阪府[[岸和田市]]([[貝塚市]])になる<ref>{{Cite book|和書|author=西塚裕一|title=陰謀と暗号の歴史ミステリー|year=2008|publisher=笠倉出版社}}</ref>。}}。
{{See|[[天海=明智光秀説]]}}
== 系譜 ==
[[明智氏]]は「明智系図」(『[[続群書類従]]』所収)によれば、[[清和源氏]]の一流[[摂津源氏]]の流れを汲む[[土岐氏]]の支流氏族であるとされており、おおよそ伝記・系図類ではこの見解は一致している。ただしその詳細な系譜や近親者については史料によって相違が甚だしく、並列に扱うことが難しい。
発祥の地は、[[美濃国]]明智庄(現在の[[岐阜県]][[可児市]]または[[恵那市]]の旧[[明智町]])とされる。『土岐文書』<ref>岐阜県編『岐阜縣史 史料編 古代・中世四』岐阜県、1973年、878-890頁。</ref> では、美濃国土岐郡妻木郷(現在の岐阜県[[土岐市]][[妻木町]]・[[下石町]]・[[駄知町]]・[[曽木町]]・[[鶴里町]]、土岐郡笠原町(現・[[多治見市]][[笠原町]]))になっている{{Sfn|三宅|2019|pp=64-82}}。
=== 系図 ===
『[[群書類従|続群書類従]]』所収の「土岐系図」による。『[[群書類従|続群書類従]]』所収の「土岐系図」は美濃国守護の土岐家の系図で、そこには土岐支族の系図も書かれており、明智家の系図も含まれる。[[明智頼尚|頼尚]]以前と土岐定政の系統は『上野沼田 土岐家譜』とも共通する。
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* 『[[系図纂要]]』所収の「明智系図」では[[土岐頼清]]の系譜とされている。頼清の嫡男である[[土岐頼康|頼康]]の子・[[明智頼兼|頼兼]]を明智氏初代とする。その7代目の子孫が[[明智光継]]であり、その子を[[明智光綱|光綱]]、そしてその子が光秀とある。
* 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では頼清の子・頼兼を明智氏初代とし、頼重は頼兼の養嗣子であったとする。また[[明智頼弘|頼弘]]の子が頼典となっており、頼典は後に[[明智光継|光継]]と改名したという。欠落した[[明智頼定|頼定]]と頼尚は、それぞれ頼典の弟とその長男となっており、頼明は頼尚の弟とされる。
* 『[[群書類従|続群書類従]]』所収の「土岐系図」には、異本として、頼秀の子は頼高であり、その子は光高(始め頼久)、光高の子は光重、その弟は政宣、光重の子は光兼、光重は文明期の人という系譜が載っている<ref>『続群書類従 第五輯下 系図部』続群書類従完成会、1979年、172頁。</ref>。『連歌辞典』には政宣は玄宣の子で幕府奉公衆とある{{Sfn|廣木|2010|p=262}}。[[延徳]]2年(1490年)ごろ、[[兵庫頭]]入道玄宣と[[兵部少輔]]頼定の間に内部抗争が発生し、[[明応]]4年(1495年)、玄宣は総領としての地位を無視され、頼定と知行折中で和睦を結ぶ。この和睦を機に、玄宣の[[本宗家]]が没落し、頼定の[[庶流]]が台頭して、[[文亀]]2年(1502年)には頼尚が知行の大部分を支配し、その正当性を主張。そして嫡子頼典を義絶し、所領はすべて彦九郎頼明に譲る{{Sfn|三宅|2019|pp=64-82}}。
=== 父母・兄弟等 ===
* 父親の名は、[[明智光綱|光綱]]・光隆・光国と諸説ある。『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると光隆から光綱と改名したとされる。『明智物語』<ref>{{Citation|和書|editor=関西大学中世文学研究会|title=明智物語|publisher=和泉書院|year=1996|page=134}}</ref> では、光秀の養父は明智頼明とある。
* 母親は[[若狭武田氏]]の出身で、名は[[お牧の方]]と伝わる{{efn|「牧」という名の典拠は不明<ref>{{Cite web|和書|url=https://tanba.jp/2019/08/%E5%85%89%E7%A7%80%E3%81%AE%E6%AF%8D%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B%EF%BC%88%E4%B8%8B%EF%BC%89%E3%80%80%E3%80%8C%E3%81%AF%E3%82%8A%E3%81%A4%E3%81%91%E3%80%8D%E8%AC%80%E5%8F%8D%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9B%A0/|title=光秀の母に迫る(下) 「はりつけ」謀反の原因探し創作? 名の出典は不明|accessdate=2021-2-12|date=2019-8-4|website=丹波新聞||publisher=丹波新聞社}}</ref>。}}。『[[総見記]]』などの軍記物では、光秀が老母を敵方へ人質に差し出す話が伝わっているが、事実ではない{{sfnm|大槻(柴)|2019|1p=174|仁木(柴)|2019|2pp=219-220}}。
* 光秀に兄弟がいたとする、『鈴木叢書』収録の「明智系図」によると、次弟・[[明智信教|信教]]は後の[[筒井順慶]]、三弟・[[明智康秀|康秀]]は[[明智秀満|三宅左馬助と号し、後に左馬助を称した]]という。いずれも別人の存在が明らかであり、事実との相違が甚だしい。『明智物語』では、光秀には[[明智定明|定明]]、[[明智定衡|定衡]]の義兄がいたとある。
* 光秀の出自を明智氏としない俗説も多い。
** 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では母を光綱の妹とし、実父を山岸信周(進士信周)としている。[[熊本県]][[菊池市]]の安国寺蔵「土岐系図」でも、光秀を信周の四男としている。
** 『若州観跡録』では、若狭国の[[刀鍛冶]]・藤原冬広の次男としている。
** 『明智光秀の乱』(著者:小林正信)では、明智光秀の前半生がわからないのは名前を改姓した事によるものだとして、明智光秀になり得る者を室町幕府の奉公衆の中にいる人物と断定し、僧体から[[還俗]]した進士知法師に注目した。進士氏は鎌倉時代より続く名門であり、[[四条流庖丁道#さまざまな分流|包丁式進士流]]を伝える家柄で、御膳奉行を務めることでも知られている。永禄の変で死んだ足利義輝の側室・小侍従局の父が[[進士晴舎]]であった。そして、永禄の変で殉死した筈の進士晴舎の嫡子である[[進士藤延]]こそが明智光秀になった人物だと特定し、明智光秀の家臣で[[進士貞連]]は実弟で進士氏の[[家督]]を継いだとした。また、永禄の変で死んだ筈の妹の小侍従局は明智光秀の妹である御ツマキなり、小侍従局の身籠った子供は明智光慶になったとしている{{Sfn|小林|2014|p=134}}。ただし、同書の説はあくまで著者による憶測である。
=== 妻室 ===
[[正室]]は『[[明智軍記]]』などに記載のある糟糠の妻・妻木氏(煕子)。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という[[側室]]がいたともある。本室の前に、山岸光信(進士光信)の娘(千草)に未婚で[[庶子]]を産ませたとする説もある<ref>{{Citation|和書|title=美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記|year=1915|last=[[黒川真道]]|url={{NDLDC|948838/96}} 国立国会図書館デジタルコレクション|series=国史叢書|publisher=国史研究会}}</ref>。後年には「側室を儲けなかった愛妻家」と一般に伝わる。
=== 子女 ===
史料のしっかりした定説は存在せず、確たる証拠のある男系子孫は存在しない。一方で、「光秀の子孫」と称する家は複数系統ある。<!---本能寺の変後の混乱や光秀への悪評を考えれば、世間に隠して生活するうちに詳細が伝わらなくなるのも無理からぬことではある。--->光秀の書状などにより確認できる男子は「十五郎」であり、当時の史料の上で十五郎の諱は明らかではない。
* 『明智軍記』では3男4女がいたとする。
** 長女:[[明智秀満|明智光春]]の妻{{Efn|『明智軍記』では当初より光春の室としているが、『綿考輯録』では元は[[荒木村次|荒木村安]]の室で、荒木氏没落の際に離縁し、光春に再嫁したという。}}
** 次女:[[明智光忠]]の妻
** 三女:[[細川忠興]]の妻([[細川ガラシャ]])
** 四女:[[津田信澄]](織田信澄)の妻(花渓眞英大姉<ref>西教寺の『實成坊過去帳』による</ref>)
** 長男:[[明智光慶|光慶]](十兵衛){{Efn|「[[愛宕百韻]]」でも名前が見られ、実在の人物であると言われる。}}
** 次男:[[明智光泰|光泰]](十次郎)
** 三男:乙寿丸{{Efn|光秀滅亡の際に死亡したとされているが、岐阜県[[山県市]]に伝わる伝承では荒深氏を称し、'''荒深小五郎'''と名を変え生き延びた光秀とともにこの地に土着したという。}}
* 『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて6男7女があったとする。
** 長女:[[菅沼定盈]]の妻 - 養女(実父・[[明智光廉|三宅長閑]])
** 次女:[[松平家次|桜井家次]]の妻 - 養女(実父・三宅長閑)
** 三女:織田信澄(津田信澄)の妻
** 四女:[[細川忠興]]の妻(細川ガラシャ)
** 五女:[[筒井定次]]の妻{{Efn|一説に織田信長の三女・[[織田秀子|秀子]]と同一人物とされる。}}
** 六女:[[川勝氏|川勝丹波守]]の妻
** 長男:玄琳{{Efn|『明智軍記』における光慶と同人とする説もある。また安国寺蔵「土岐系図」では、[[進士晴舎]](同系図では光秀の実兄)の後身とする。}} - [[妙心寺]]に入る。
** 次男:安古丸 - 山崎の戦いで戦死。
** 三男:不立 - [[天龍寺]]に入る。
** 七女:[[井戸氏|井戸三十郎]]の妻
** 四男:十内{{Efn|経歴は『明智軍記』における十次郎と、明智光春のものを混同している。}} - 坂本城落城の際に死亡。
** 五男:自然{{Efn|『明智軍記』における十次郎の幼名。}} - 坂本城落城の際に死亡。
** 六男:内治麻呂 - 喜多村保之(喜多村弥平兵衛)。家伝に拠れば光秀の末子で、[[伊賀国]][[柘植氏]]分流の北村(喜多村)保光の娘の子と伝わる。のち江戸幕府の江戸町年寄。
** 不明:[[明智定頼|定頼]]
* [[大阪府]][[岸和田市]]にある[[本徳寺 (岸和田市)|本徳寺]]の開基とする[[南国梵桂]]は、一説に光秀の子とされるが定かではない。また光慶と同一人物とする説もある。
* [[宣教師]]の[[ルイス・フロイス]]は光秀の長子のことを「非常に美しく優雅で、[[ヨーロッパ]]の[[王族]]を思わせるようであった」と伝えている。
* 自然は[[津田宗久]]の茶会記で実在が確認される。
* 「光慶」の諱は『連歌総目録』『集連』などの愛宕百韻の写本などにその名が残るが、いずれも後世の書である。
=== 縁戚 ===
; 叔父叔母
* 『明智軍記』では[[明智光安|光安]]、[[明智光久|光久]]、[[明智光廉|光廉]]の3人の叔父と、その家族の名がある。
* 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて叔父・[[原光広|光広]]、叔母に[[岸信周]]の室、岸信周の後室、斎藤道三の室・[[小見の方]]{{Efn|[[濃姫]]、[[姉小路頼綱]]の室の生母。}}など5女があったという。
; 従兄弟
* 『明智軍記』では、光安の子に[[明智秀満|光春]](秀満)、光久の子に[[明智光忠|光忠]]、光廉の子に[[明智光近|光近]]があるとする。
* 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて光安の子に[[明智光景|光景]]、[[柴田勝定]]の室、ほか二女があったという。
=== 子孫 ===
[[山崎の戦い]]で[[明智家]]は滅んだとされるため、確証のある光秀の子孫は他家へ嫁いだ光秀の娘たちの女系子孫たちである。[[細川忠興]]へ嫁いだ[[細川ガラシャ|珠(細川ガラシャ)]]の子孫は[[細川家]]の他、[[令和]]の[[皇室]]にもつながる。
==== 細川家 ====
光秀の娘、[[細川ガラシャ|珠(細川ガラシャ)]]と細川忠興の間に[[細川忠隆|忠隆]]、[[細川忠利|忠利]]、多羅([[稲葉一通]]室)などが生まれる。
* [[細川氏#長岡(細川)内膳家|長岡(細川)内膳家]] - 忠興の[[嫡男]]である[[細川忠隆|忠隆]]の家系。忠隆は[[廃嫡]]され、子孫は細川家臣内膳家となるがガラシャの血を継ぐ。子孫に衆議院議員:[[細川隆元]]、政治記者:[[細川隆一郎]](隆元の甥)、政治記者:[[細川隆三]](隆一郎の子)、政治記者:[[細川珠生]](隆一郎の子)、先祖研究者:[[片平凌悟]](珠生の子)。片平凌悟は、2020年5月23日放送の『[[サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん]]』にて、明智光秀の子孫である「明智光秀博士ちゃん」としてリモート出演した<ref>番組公式サイトより</ref>。母:細川珠生もリモート出演した。この番組内で、第79代[[内閣総理大臣]]:[[細川護熙]]も光秀の子孫のように紹介されたが、護熙の家系は[[肥後国]][[熊本藩]]主家であり、後述のとおり光秀の子孫ではない。
* [[細川氏#肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)|肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)]] - 忠興の三男である[[細川忠利|忠利]]の家系。第8代[[細川治年|治年]]に嗣子なく、支藩の[[宇土藩]]主家(光秀、ガラシャの血をひいていない[[細川立孝|立孝]]〈忠興の四男〉の家系)より養子を迎えたために熊本藩主家における光秀の血は途切れている。
* [[細川刑部家|長岡(細川)刑部家]] - 光秀、ガラシャの血をひいていない[[細川興孝|興孝]]〈忠興の五男〉の家系であるが、第6代として養子に入った長岡興彭は細川忠利の玄孫であり、光秀、ガラシャの血をひいている。
明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ)- 忠利 - [[細川光尚|光尚]] - [[細川利重|利重]] - [[細川宣紀|宣紀]] - 長岡興彭(細川刑部家の長岡興行の養子)
==== 皇室 ====
光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の子孫。光秀の9代後の子孫である[[仁孝天皇]]と10代後の子孫である[[正親町雅子]]の間に[[孝明天皇]]が誕生し、以降の歴代天皇に血縁関係が続いている。
* 明智光秀 - [[細川ガラシャ|珠]](細川忠興室:細川ガラシャ) - 多羅([[稲葉一通]]室) - [[稲葉信通|信通]] - [[稲葉知通|知通]] - [[稲葉恒通|恒通]] - 女([[勧修寺顕道]]室) - [[勧修寺経逸|経逸]] - [[勧修寺婧子|婧子]]([[光格天皇]][[典侍]]) - [[仁孝天皇]] - [[孝明天皇]] - (以降歴代天皇)
* 明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ) - [[細川忠隆|忠隆(長岡休無)]] - 徳([[西園寺実晴]]室) - [[西園寺公満|公満]] - 女([[久我通名]]室) - [[広幡豊忠]] - 女([[正親町実連]]室) - [[正親町公明|公明]] - [[正親町実光|実光]] - [[正親町雅子|雅子]](仁孝天皇典侍)- [[孝明天皇]] - (以降歴代天皇)
==== 竹田家([[旧皇族]][[竹田宮]]家) ====
光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の子孫。孝明天皇の子孫は自動的に光秀の子孫となり、孝明天皇以降の皇室のほか皇室から皇女を迎えた家(旧皇族の[[朝香宮|朝香家]]、[[東久邇宮|東久邇家]]、竹田家など)も該当するが、特に竹田家は孝明天皇以外からの光秀の血筋も受け継いでいる。子孫に現在の旧宮家の祭祀継承者:[[竹田恒正]](恒徳の子)、在[[ブルガリア共和国]]日本国[[特命全権大使]]:[[竹田恒治]](恒徳の子)、[[日本オリンピック委員会]](JOC)会長:[[竹田恆和]](恒徳の子)、政治評論家:[[竹田恒泰]](恆和の子)。竹田恒正、恒治、恆和兄弟は両親ともに正親町実光の子孫であり、明智光秀の子孫である。
* 明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ) - (略) - 正親町実光 - 雅子(仁孝天皇典侍)- 孝明天皇 - [[明治天皇]] - [[恒久王妃昌子内親王|昌子内親王]]([[竹田宮恒久王]]妃) - [[竹田宮恒徳王|恒徳王(竹田恒徳)]] - [[竹田恒正|恒正王(恒正)]] - 恒貴
* 明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ) - (略) - 正親町実光 - [[正親町実徳|実徳]] - [[正親町実正|実正]] - [[正親町静子|静子]]([[三条公輝]]室) - [[恒徳王妃光子|光子]](竹田宮恒徳王(竹田恒徳)妃) - 恒正王(恒正) - 恒貴
==== [[織田氏#織田信勝系統|織田家信勝系昌澄流]] ====
光秀の娘と[[津田信澄]]の間に[[織田昌澄|昌澄]]などが生まれる。昌澄は[[大坂の陣]]で豊臣方に加わるが助命され、のちに[[旗本]]となり家を残す。
==== その他 ====
; [[伝承]]、落胤説、系統不明の子孫
* [[坂本龍馬]] - [[坂本城]]に由来するという坂本家の[[家紋]]は組み合わせ角に桔梗だが、総合的にみて明智氏との関係はない可能性が高いとみられ、明智後裔説は後世の作家の創作と考えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ryoma-kinenkan.jp/feat/faq/cat3/|title=坂本家について|publisher=高知県立坂本龍馬記念館|accessdate=2021-05-10}}</ref>。
* [[クリス・ペプラー]]/[[ALAN J]] - 兄弟どちらも[[タレント]]。母方の祖母が明智光秀の実子説がある[[土岐頼勝]]{{Efn|史料によれば[[土岐頼次]]の長男。頼次の玄孫である[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]]の[[土岐頼泰 (高家)|土岐頼泰]]が泥酔傷害事件を起こし改易配流処分し断絶。}}の子孫。一次史料での確認はできていないが、歴史番組での検証結果などを受け、歴史研究家や[[日本家系図学会]]も「末裔と言って構わない」という見解を示した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/11/19/kiji/K20161119013751260.html |title=クリス・ペプラーは明智光秀の末裔 TBS番組で判明 |publisher=スポニチアネックス |date=2016年11月19日 |accessdate=2021-05-06}}</ref>。
* [[明智ハナエリカ]] - [[歌手]]。母はイタリア系メキシコ人。
* [[三宅艮斎]] - 祖父玄碩、父英庵を初め、代々医者の家系であった[[蘭方医]]。お玉ケ池[[種痘所]](現・[[東京大学医学部]]の起源)の開設に携わる。
* [[三宅秀]] - 三宅艮斎の長男。東京大学医学部初代学部長。帝国大学医科大学長。日本初の医学博士の一人。
* [[三宅鑛一]] - 三宅秀の長男。東京大学医学部教授。
* [[三宅仁]] - 三宅鑛一の長男。東京大学医学部教授。
* [[明智潔]] - 明治時代になってから、残党狩りを逃れた光秀の子?の於隺丸(おづるまる)なる人物の子孫と自称し明田性から明智性に改姓。ただし於隺丸なる人物は現時点では史料上で一切確認できず、学術的には実在が否定されている架空の人物である。
* [[明智滝朗]]、[[明智憲三郎]] - 滝朗は明智潔の養子。憲三郎はその孫。主な著書に前者は『光秀行状記』、後者は『本能寺の変 431年目の真実』。
== 家臣 ==
{{出典の明記|date=2023年8月|section=1}}
{{col|
; 美濃衆
* [[明智秀満]]
* [[明智光忠]]
* [[明智光近]]
* [[妻木広忠]]([[妻木城]]主)
* [[妻木範熈]]
* [[妻木範賢]]
* [[妻木範武]]
* [[妻木範之]]
* [[斎藤利三]]
* [[斎藤利康]]
* [[斎藤利宗]]
* [[進士貞連]]
* [[溝尾茂朝]]
* [[肥田氏|肥田帯刀]]
* [[肥田氏|肥田家澄]]
* [[藤田行政]]
* [[安田国継]]
* [[可児吉長]]<ref group="注釈">複数の主君に仕えたが、山崎の合戦では明智方の将として福島正則の隊に捕縛された記録が残る。</ref>
* [[池田輝家]]
|
; 旧幕臣
* [[伊勢貞興]]
* [[諏訪盛直]]
* [[御牧兼顕]]
* [[津田重久]]
; 近畿衆
* [[阿閉貞征]]
* [[阿閉貞大]]
* [[猪飼昇貞]]
* [[木村吉清]]
* [[松田政近]]
* [[山崎長徳]]
* [[山崎賢家]]
* [[小川祐忠]]
* [[京極高次]]
* [[武田元明]]
* [[後藤高治]]
* [[一色義定]]
|
; 丹波衆
* [[長沢家綱]](笑路城城主)
* [[酒井氏武]](丹波大沢城城主、降伏後、明智氏に従う)
* [[志賀政綱]]
* [[並河易家]]
* [[四王天政孝]]
* [[四王天政実]]
* [[本城惣右衛門]]
* [[荒木氏綱]]
* [[小畠永明]]
* [[野々口西蔵坊]]
; 河内衆
* [[津田正時]]
; 他家からの転仕
* [[柴田勝定]]
* [[古川九兵衛]]
* [[箕浦大内蔵]]
* [[津田信春]]
}}
; 明智姓を賜った人物
{{columns-list|3|
*[[明智秀満|明智弥平次秀満]](三宅弥平次)
*[[明智光忠|明智次右衛門光忠]](高山次右衛門光忠)
*[[明智茂朝|明智少兵衛茂朝]](溝尾勝兵衛茂朝)
*[[明智孫十郎|明智孫十郎直経]](恩田孫十郎直経)
*[[明智利成|明智平三郎利成]](斎藤平三郎利成)
*[[明智秀貞|明智半左衛門秀貞]](猪飼野秀貞)
*[[明智秀慶|明智出羽守秀慶]](佐竹出羽守宗実)
*[[明智左近允]](佐竹弥吉、明智出羽守宗実の弟)
*[[明智永明]](小畠永明)
*[[明智伊勢千代丸]](小畠伊勢千代丸、小畠永明の子)
*[[並河易家|明智掃部]](並河掃部介易家)
*[[明智九太夫]](須知九太夫)
}}
== 祭礼・イベント ==
=== 知行地 ===
* 亀岡光秀まつり<ref>[https://www.kameoka.info/event/special/mitsuhide.php 亀岡光秀まつり]</ref>
* 光秀公正辰祭([[御霊神社 (福知山市)|御霊神社]])
* [[福知山ドッコイセ祭り]]
=== 出生伝承地 ===
* 光秀まつり(岐阜県恵那市の旧[[明智町]]、5月3日)<ref name="akechicho"/>
== 明智光秀を主題とした作品 ==
{{see also|本能寺の変を題材とした作品}}
; [[人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]
:* 『三日太平記』:1767年、[[近松半二]]・[[三好松洛]]・[[八民平七]]共作
:* 『仮名写安土問答』:1780年、近松半二・[[近松東南]]・近松能輔・[[若竹笛躬]]共作
:* 『[[絵本太功記]]』:1799年、[[近松柳]]・[[近松湖水軒]]・[[近松千葉軒]]共作
:* 『[[時今也桔梗旗揚]]』:1808年、[[鶴屋南北 (4代目)|四代目鶴屋南北]]作
; 戯曲
:* 『明智光秀』:1957年、[[福田恆存]]作([[文藝春秋]]、ISBN 978-4163641607){{Efn|[[シェイクスピア]]の『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』を翻案とし、本邦初の[[歌舞伎]]と[[新劇]]の合同公演にて上演。四幕七場。初演は1957年8月、[[東横ホール]]。出演は[[松本白鸚 (初代)|八世松本幸四郎]]一座と[[文学座]]。}}
; 小説
:* 『明智光秀』:1910年、[[奥村恒次郎]]著
:* 『咲庵』:1964年、[[中山義秀]]著 (講談社、のち中公文庫)
:* 『幽鬼』:1968年、[[井上靖]]著 (短編集『楼蘭』所収、[[新潮文庫]])
:* 『[[国盗り物語]]』:1971年、[[司馬遼太郎]]著(新潮文庫)
:* 『逆軍の旗』:1976年、[[藤沢周平]]著([[青樹社]]、[[文春文庫]])
:* 『桔梗の旗風』:1983年 [[南条範夫]]著(文藝春秋)
:* 『明智光秀』:1988年、[[徳永真一郎]]著([[PHP研究所]]、ISBN 4-569-56405-4)
:* 『鬼と人と 信長と光秀』:1989年、[[堺屋太一]]著(PHP研究所)
:* 『明智光秀』:1991年、[[早乙女貢]]著(文藝春秋、ISBN 4-16-723024-0)
:* 『明智光秀 本能寺の変』:1991年、[[浜野卓也]]著(講談社火の鳥伝記文庫、ISBN 4-06-147578-9)
:* 『反・太閤記 — 光秀覇王伝』:1991年、[[桐野作人]]著 (学習研究社)
:* 『光秀の十二日』:1993年、[[羽山信樹]]著([[新人物往来社]]、ISBN 9784404020420)
:* 『明智光秀の生涯―歴史随想』:1996年、二階堂省著(近代文芸社、ISBN 978-4773349146)
:* 『湖影』:1998年、[[中島道子]]著([[KTC中央出版]]、ISBN 978-4877580797)
:* 『本能寺』:2004年、[[池宮彰一郎]]著([[角川書店]]、ISBN 978-4043687015)
:* 『是非に及ばず』:2006年、[[山口敏太郎]] 著 ([[青林堂]]、ISBN 4-7926-0386-2)
:* 『明智光秀物語 浅き夢見し』:2006年、[[高橋和島]] 著 ([[廣済堂出版]]、ISBN 978-4331612293)
:* 『天眼 ─ 光秀風水綺譚』:2007年、[[戸矢学]]著([[河出書房新社]]、ISBN 978-4309018348)
:* 『覇王の番人』:2008年、[[真保裕一]]著 (講談社、ISBN 4-7926-0393-5)
:* 『明智軍戦記』:2010年、[[神宮寺元]]著 ([[学研プラス]])
:* 『大逆本能寺』:2010年、[[円堂晃]]著(角川書店、ISBN 978-4890632640)
:* 『明智光秀転生―逆賊から江戸幕府黒幕へ』:2011年、伊牟田比呂多著 ([[海鳥社]]、ISBN 978-4874158210)
:* 『光秀の定理』:2013年、[[垣根涼介]]著 (角川書店、ISBN 978-4041105221)
:* 『本能寺の変 つくられた謀反人 光秀』:2014年、[[岡野正昭]]著([[幻冬舎]]、 ISBN 978-4-344-97127-1)
:* 『明智大戦記』:2015年、[[竹中亮]]著([[徳間書店]]、ISBN 978-4198939816)
; 書籍(ノンフィクション)
:* 信原克哉 『明智光秀と旅』ブックハウスHD、2005年
; 映画
:* 『[[敵は本能寺にあり (映画)|敵は本能寺にあり]]』(1960年、[[松竹]]、演:[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎]]){{Efn| [[池波正太郎]]のオリジナル脚本による映画化で、『[[絵本太功記]]』や『[[明智軍記]]』の数々のエピソードを組み入れて構成した大作。}}
:* 『[[首 (北野武)#映画|首]]』(2023年、[[角川映画|KADOKAWA]]、演:[[西島秀俊]])
; テレビドラマ
:* [[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]([[1973年]]、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、演:[[近藤正臣]])
:* 国盗り物語([[2005年]]、[[テレビ東京]]、演:[[渡部篤郎]])
:* [[明智光秀〜神に愛されなかった男〜]]([[2007年]]、フジテレビ、演:[[唐沢寿明]])
:* [[麒麟がくる]]([[2020年]]、NHK大河ドラマ、演:[[長谷川博己]]){{efn|大河ドラマで初めて主人公として描かれた作品。制作決定までには関連自治体などによる誘致運動が行われていた<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL4M4WB4L4MUCVL01R.html|newspaper=朝日新聞|year=2018-04-19|title=20年大河、長谷川博己さんが明智光秀役「麒麟がくる」|accessdate=2019-05-13}}</ref><ref>{{Cite news|title=大河ドラマわが町に 誘致準備会発足 長岡京など7市|newspaper=『[[京都新聞]]』|date=2010-11-20|url=http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20101120000042|publisher=京都新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101122223325/http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20101120000042|archivedate=2010年11月22日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref>{{Cite news|title=光秀とガラシャの大河ドラマ実現へ 7市町が協議会|newspaper=『京都新聞』|date=2011-03-29|url=http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110329000054|publisher=京都新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110401150553/http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110329000054|archivedate=2011年4月1日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref>[http://www.taiga-dorama.com/ NHK大河ドラマ誘致推進協議会ホームページ 2015年1月24日確認]</ref>。番組の時代考証を担当した[[小和田哲男]]は「([[長谷川博己]]演じる光秀により)光秀像が一新された」と発言した<ref>{{Cite web|和書|title=長谷川博己「麒麟」光秀役、最後まで葛藤「これで正しかったのか」(デイリースポーツ)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/92fda8d72f9eaccd03824395627863a5d95e692a|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2021-02-07|language=ja}}</ref>。}}
:* [[光秀のスマホ]](2020年、NHK、演:[[山田孝之]])
;漫画
:* [[里中満智子]]『戦国[[美濃国|美濃]]の群像 : [[濃姫]]・[[森成利|蘭丸]]・光秀・・・その生涯』岐阜県企画 2001.3
:* [[もとむらえり]]『[[愛しの焔 〜ゆめまぼろしのごとく〜]]』(2007年 - 、[[FlexComixフレア]])
:* [[そにしけんじ]]『[[ねこねこ日本史]]』(2014年 - 、[[実業之日本社]])
:* [[重野なおき]]『[[明智光秀放浪記]]』(2019年、[[マンガPark]])
:* [[山田芳裕]]『[[へうげもの]]』(2005年 - 2017年、[[講談社]]) - 本能寺の変に至る策謀の中で、主人公の[[古田重然|古田織部]]、及び重要人物である[[千利休]]の哲学やテーマでもある「数寄」に重大な影響を与えた人物として描かれている。
:* [[藤堂裕]]『信長を殺した男』(2017年-2020年、[[秋田書店]])
:* [[石井あゆみ]]『[[信長協奏曲]]』(2009年-、[[小学館]])
:* [[甲斐谷忍]]『[[新・信長公記〜ノブナガくんと私〜]]』(2019年-、[[講談社]])
:*『[[ねこねこ日本史]]』(2016年 - 、[[Eテレ]]、声:[[浜添伸也]])
; 楽曲
:* [[三善英史]]「悪名〜明智光秀」(1973年、詞:[[佐伯孝夫]]、曲:[[冬木透]]。コンピレーション・アルバム『戦国の武将』(規格品番:SJX-155)収録)
:* 浜北弘二「明智光秀」(2002年、詞:成瀬幸雄、曲:[[渥美全弘]])
:* [[さくらゆき]]「本能寺〜水色桔梗〜」(2014年、詞・曲:[[遠野ゆき]])
; テレビ番組
:* [[古舘トーキングヒストリー]] 〜戦国最大のミステリー 本能寺の変、完全実況〜(2018年、[[テレビ朝日]]、演:[[大杉漣]])
:* [[偉人たちの謝罪会見]] (2023年6月3日、[[NHK放送センター|NHK]]、演 : [[梶原善]])
; 舞台
:* [[吉本新喜劇]]『オールスター太閤記』(1995年 - 演:[[池乃めだか]]){{Efn|タイトルに『太閤記』となっているが、主人公は光秀。光秀と秀吉([[間寛平]])が幼馴染で、出世を重ねる秀吉に信長([[オール阪神・巨人|オール巨人]])が自らの地位を脅かされると危惧し、秀吉を夜襲する計画を立てる。最後は、事前にその計画を察知した光秀が秀吉を守るために信長を討つという新たな設定・展開に基づく喜劇。}}
:* [[宝塚歌劇団]]『ささら笹舟―明智光秀の光と影―』(1983年、[[谷正純]]作。2000年-演:[[貴城けい]])
:* [[TEAM NACS]] ニッポン公演「[[WARRIOR〜唄い続ける侍ロマン]]」([[2012年]]、演:[[大泉洋]])
; ゲーム
:* [[SIMPLEシリーズ]]『SIMPLE2000シリーズ Vol.118 THE 落武者 ~怒獲武サムライ登場~』(2007年 、[[ディースリー・パブリッシャー]])
:* 『[[戦国無双]]』シリーズ(2004年- 、コーエー、演:[[緑川光]])
:* 『[[戦国BASARA]]』シリーズ(2005年- 、カプコン、演:[[速水奨]])
:* 『[[下天の華]]』(2013年 、コーエー、演:[[野島健児 (声優)|野島健児]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧 -->
* {{Citation|和書|editor=青木晃ほか|title=畿内戦国軍記集|publisher=和泉書院|series=和泉選書 39|year=1989|page=238}} - 年代記・軍記の4作品を影印・翻刻により紹介している書。明智光秀叛逆の原因からその遺骸のはりつけまでを述べた「山崎合戦記」(聖藩文庫本)を収録。
* {{Citation|和書|last=奥村|first=恒次郎|title=明智光秀|publisher=出版者不明|year=1910}}※[{{NDLDC|780933}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
* {{Citation|和書|last=小和田|first=哲男|author-link=小和田哲男|year=1998|title=明智光秀 つくられた「謀反人」|publisher=[[PHP研究所]]|series=PHP新書|isbn=978-4-56-960109-0}}
* {{Citation|和書|last=勝俣|first=鎮夫|author-link=勝俣鎮夫|year=2003|chapter=織田信長とその妻妾|title=愛知県史のしおり|publisher=[[愛知県]]|series=愛知県史 資料編11}}
* {{Citation|和書|last=久野|first=雅司|year=2017|title=足利義昭と織田信長|publisher=[[戎光祥出版]]|series=中世武士選書 第40巻|isbn=978-4-86403-259-9}}
* {{Citation|和書|last=桑田|first=忠親|author-link=桑田忠親|year=1983|title=明智光秀|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文庫]]|asin=B00ORO650Y}}
* {{Citation|和書|last=小泉|first=策太郎|author-link=小泉策太郎|title=明智光秀|publisher=裳華書房|year=1897}}※[{{NDLDC|780934}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
* {{Citation|和書|last=小林|first=正信|title=明智光秀の乱|publisher=里文出版|year=2014}}
* {{Citation|和書|last=小林|first=正信|title=明智光秀の乱 ―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊|publisher=里文出版|year=2019|edition=新装改訂増補|isbn=}}
* {{Citation|和書|last=柴|first=裕之|year=2018|title=図説 明智光秀|publisher=戎光祥出版|isbn=978-4864033053}}
* {{Citation|和書|author=柴裕之|year=2019|title=明智光秀|series=シリーズ・織豊大名の研究 第八巻|publisher=戎光祥出版|isbn=9784864033213}}
** {{Citation|和書|author=柴裕之|year=2019|chapter=惟任(明智)光秀論|title=明智光秀|series=シリーズ・織豊大名の研究 第八巻|publisher=戎光祥出版|isbn=9784864033213|ref={{SfnRef|柴(総論)|2019}}}}
** {{Citation|和書|last=三宅|first=唯美|editor=柴裕之|year=2019|chapter=室町幕府奉公衆土岐明智氏の基礎的研究|title=明智光秀|series=シリーズ・織豊大名の研究 第八巻|publisher=戎光祥出版|isbn=9784864033213|ref={{SfnRef|三宅|2019}}}}(初出:『愛知考古学談話会マージナル』9、1988年)
** {{Citation|和書|last=大槻|first=昌行|editor=柴裕之|year=2019|chapter=明智光秀の丹波平定|title=明智光秀|series=シリーズ・織豊大名の研究 第八巻|publisher=戎光祥出版|isbn=9784864033213|ref={{SfnRef|大槻(柴)|2019}}}}(初出:『福知山市史』第2巻近世編第一章第二節、1982年)
** {{Citation|和書|last=仁木|first=宏|author-link=仁木宏|editor=柴裕之|year=2019|chapter=明智光秀の丹波統一|title=明智光秀|series=シリーズ・織豊大名の研究 第八巻|publisher=戎光祥出版|isbn=9784864033213|ref={{SfnRef|仁木(柴)|2019}}}}(初出:『新編亀岡市史』本文編 2 第三章第一節、2004年)
** {{Citation|和書|editor-last=柴|editor-first=裕之|year=2019|chapter=明智光秀関連年表|title=明智光秀|series=シリーズ・織豊大名の研究 第八巻|publisher=戎光祥出版|isbn=9784864033213|ref={{SfnRef|柴(年表)|2019}}}}
* {{Citation|和書|last=高柳|first=光寿|author-link=高柳光寿|year=1958|title=明智光秀|publisher=[[吉川弘文館]]|series=[[人物叢書]]1|asin=B000JATNXQ}}
* {{Citation|和書|last=高柳|first=光寿|title=新装版 明智光秀|publisher=吉川弘文館|series=人物叢書|year=1986|page=299}}
* {{Citation|和書|last=谷口|first=克広|author-link=谷口克広|year=2002|title=織田信長合戦全録 - 桶狭間から本能寺まで|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=978-4121016256|ref={{SfnRef|谷口克|2002}}}}
* {{Citation|和書|last=谷口|first=克広|year=2005|title=信長軍の司令官―部将たちの出世競争|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=4-12-101782-X|ref={{SfnRef|谷口克|2005}}}}
* {{Citation|和書|last=谷口|first=克広|year=2007|title=検証 本能寺の変|publisher=吉川弘文館|series=[[歴史文化ライブラリー]]232|isbn=978-4642056328|ref={{SfnRef|谷口克|2007}}}}
* {{Citation|和書|last=谷口|first=研語|author-link=谷口研語|year=2014|title=明智光秀|publisher=[[洋泉社]]|series=歴史新書y|isbn=978-4800304216|ref={{SfnRef|谷口研|2014}}}}
* {{Citation|和書|last=田端|first=泰子|author-link=田端泰子|title=細川ガラシャ|year=2004|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4823105289}}
* {{Citation|和書|last=永井|first=寛|author-link=永井寛|title=明智光秀|publisher=[[三一書房]]|year=1999}}
* {{Citation|和書|last=早島|first=大祐|author-link=早島大祐|year=2016|chapter=明智光秀の居所と行動|editor=藤井譲治|editor-link=藤井譲治|title=織豊期主要人物居所集成 第2版|publisher=[[思文閣出版]]|isbn=978-4784218332}}
* {{Citation|和書|last=早島|first=大祐|year=2019|title=明智光秀|publisher=[[NHK出版]]|series=[[NHK出版新書]]}}
* {{Citation|和書|editor-last=廣木|editor-first=一人|editor-link=廣木一人|title=連歌辞典|publisher=[[東京堂出版]]|year=2010}}
* {{Citation|和書|last=藤田|first=達生|author-link=藤田達生|title=謎とき本能寺の変|publisher=講談社|series=[[講談社現代新書]]#1685|year=2003|page=200}}
* {{Citation|和書|editor1-last=藤田|editor1-first=達生|editor2-last=福島|editor2-first=克彦|editor2-link=福島克彦|title=明智光秀|publisher=八木書店|series=史料で読む戦国史3|year=2015|isbn=978-4-8406-2210-3}}
* {{Citation|和書|last=藤本|first=正行|author-link=藤本正行|year=2010|title=本能寺の変〜信長の油断・光秀の殺意〜|publisher=[[洋泉社]]|series=歴史新書y 9|isbn=978-4862486387}}
* {{Citation|和書|last=村井|first=祐樹|title=幻の信長上洛作戦|journal=古文書研究|issue=78|year=2014}}
* {{Citation|和書|last=山田|first=康弘|author-link=山田康弘|year=2019|title=足利義輝・義昭|publisher=ミネルヴァ書房|series=ミネルヴァ日本評伝選}}
* {{Citation|和書|editor-last=米原|editor-first=正義|editor-link=米原正義|title=細川幽斎・忠興のすべて|publisher=[[新人物往来社]]|year=2000}}
* {{Citation|和書|editor=歴史読本編集部|title=ここまでわかった!明智光秀の謎|series=新人物文庫|publisher=[[KADOKAWA]]|year=2014|isbn=9784046010315}}
* {{Citation|和書|editor-last=渡邊|editor-first=大門|editor-link=渡邊大門|title=考証 明智光秀|publisher=東京堂出版|year=2020}}
* {{Citation|和書|chapter=史伝 明智光秀|title=歴史群像 No.70|publisher=[[学研ホールディングス|学研]]|year=2006}}
*{{Cite book |和書|author=楠戸義昭|authorlink=楠戸義昭 |year=2017 |title=戦国武将「お墓」でわかる意外な真実 |page=95 |publisher=[[PHP研究所]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=mwGKDwAAQBAJ&pg=PT94#v=onepage&q&f=false |isbn=9784569767895 | ref = harv }}
*{{Cite book |和書|author1=大野富次 |year=2019 |title=明智光秀は天海上人だった! |page=93 |publisher=[[ディスカヴァー・トゥエンティワン]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=4RhSEAAAQBAJ&pg=PT93#v=onepage&q&f=false |isbn=9784886643285 | ref = harv }}
{{Commonscat}}
{{Wikiquote|明智光秀}}
== 外部リンク ==
* [http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/toki/akechi1.htm 明智光秀の出自と系譜]
* [https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/soshiki/7/1242.html 明智光秀文書書状]
* [http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/19/057/ 京都府神社庁 福知山御霊神社]
* [https://www.kameoka.info/ 亀岡市観光協会]
* [http://gifujyou.com/ 岐阜城盛り上げ隊] - 岐阜城ボランティア団体
* [https://www.asahi.com/articles/photo/AS20210103001558.html 「光秀ハ鳥羽ニ」、最期の言葉も 本能寺の変に新情報 (朝日新聞デジタル2021年1月3日記事)]
* [https://www.asahi.com/rensai/list.html?id=1164本能寺の変 「乙夜之書物」が解き明かす新戦国史 (全3回、朝日新聞デジタル記事)]
** [https://www.asahi.com/articles/ASP1545GHND0ULZU004.html 第1回 本能寺前夜に血判状 新史料が明かす明智光秀謀反の決意(2021年1月15日記事)]
** [https://www.asahi.com/articles/ASP1546J2ND0ULZU007.html 第2回 通説より大幅に少ない明智軍 信長の白帷子にかかった血(2021年1月16日記事)]
** [https://www.asahi.com/articles/ASP155HK7P11ULZU001.html 第3回 謀反後の山崎の戦い 光秀は土壇場で重臣に見限られた?(2021年1月17日記事)]
* [https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210208-OYT8T50045/ 『麒麟がくる』では地味だったが…最新研究が示す「本能寺」の真の首謀者 (読売新聞2021年2月10日記事)。]
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Scalable Vector Graphics
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Scalable Vector Graphics(スケーラブル・ベクター・グラフィックス、SVG、日: 変倍ベクタ図形)は、XMLベースの、2次元ベクターイメージ用の画像形式の1つである。アニメーションやユーザインタラクションもサポートしている。SVGの仕様はW3Cによって開発され、オープン標準として勧告されている。
1998年にアドビシステムズ・IBM・ネットスケープコミュニケーションズの3社によって提案されたPGML(英語版)(Precision Graphics Markup Language)と、Autodesk・ヒューレット・パッカード・Macromedia・マイクロソフト・Visio(英語版) の5社によって提案された VML (Vector Markup Language)をもとにして、W3C SVG ワーキンググループにより開発された。
ベクタ形式であるため、拡縮自在である。その他に、XMLベースの為、ウェブブラウザで(画像として、という意味ではなく、HTMLのソースビュー等と同様に、という意味で)閲覧でき、テキストエディタ等で編集できる。また、HTMLとの親和性により、ハイパーリンクを埋め込んだり、JavaScript 等と連携させることもできる。
SVG は、拡張の自由度が高い XML (Extensible Markup Language) で記述されており、XML ならではの各種機能を定義した要素を持つ。SVG ではそれ自身に回転・拡大・移動などの表現を定義しているため、単体で多様な表現をすることが可能である。
従来のウェブサイトでは、いわゆるインタラクティブな双方性のある画面変化を伴う表示を JavaScript や FLASH を用いてきた。HTML/XHTML に SVG を組み合わせることにより、JavaScript や FLASH を導入せずとも同様の効果が発揮されることが期待される。
XML なので、原理的には専用のアプリケーションを用いることなく通常のテキストファイルとして作製・編集できる。
SVG の特筆すべき点としてレイヤー機能がある。SVG では写真や挿絵などのビットマップデータ部分と座標値で指定された円・線分等を組み合わせた図形をベクターデータ部分として個々に指定でき、互いの苦手とする部分を補完しながら共存して画面表示できる。
SVG では文字をベクター情報の領域に有することで拡大縮小した際にはアウトラインフォントで表現する。この機能により、拡大するとジャギーと呼ばれる文字外延部のギザギザが生じて見にくくなる点が解決されている。具体的には Adobe Acrobat による PDF 形式の文字とほぼ同じ機能を有する。
これらのレイヤー機能により、背景に写真などの画像を置き、ベクターデータによる線画や文字を配置させることが可能である。具体的には等高線を表示した地図画像(ビットマップ)の上に鉄道路線や道路網(ベクターデータ)を重ね、電車や自動車等の移動体を配置して同時表示が可能になる。更に、ベクターデータのみで表現した塗りつぶしでは色の重ね合わせが可能であり、塗りつぶしの透過度の指定により集合論で用いるベン図のような形を必要最低限度の色数で表現できる。
基本的に SVG は MIME 形式指定では image/svg+xml で指定された画像フォーマットである。ファイルの拡張子は .svg と gzip 圧縮された .svgz がある。拡張子 .svg はテキストファイルであるため、大きなデータではネット間の通信トラフィックにおいてのデメリットが大きいが、圧縮した .svgz では数分の一のファイルサイズになる。展開機能はWebブラウザ側が受け持つ。
SVG は基本的に文章で構成されており、ブラウザの利用者が入力した情報を CGI や JavaScript を介して SVG データに組み入れることが可能である。これにより、ベクターデータを用いた統計グラフでは可変性のある表示が可能になる。
文書で制作できるため、独自タグを用いることで高品質な表現が可能である。文字情報は文字データのみを明示的にグループ化しているため、文字のグループのみを抽出することで多言語化が比較的容易にできる。
ビットマップデータの大きさは各形式によってある程度左右されるが、ほぼ面積比によってある程度のサイズに納まることが多い。それに対し、ベクターデータは画面表示サイズに関わらず全ての情報を常に保持し続けるため、表示情報が多い場合はビットマップデータよりもサイズが大きくなる傾向がある(ただし、これはベクターデータ形式全般に言えるものであり、SVG のみの欠点ではない)。
SVG は版を重ねるごとに高度な機能を盛り込んでいる。1.1 版以降から、格納しようとする描画情報に当該情報が使用している座標参照系をメタデータとして記述することが可能となった。これにより、SVG を地図として利活用できる道ができ、国土地理院ではその保有する電子国土基幹情報を SVG で配信し、PC のみならず様々な媒体で活用する方法を提案して広く社会実験に供する試みを実施している。
一方で、SVG の高度な機能を用いるものでは、それに対応した編集ツールや、データを忠実に再現してくれるビューアやブラウザのプラグイン等が必須となる。高度な機能を持ちつつも、それを活かせるインフラが追いついていないのが現状である。
これとは別に、比較的利用頻度の高い重要な機能に絞り込み、小型機器にも搭載可能な軽量な規格も登場している。
JIS X 4197:2012「可変ベクタグラフィクス SVG Tiny1.2」としてW3C発行のSVG Tiny 1.2規格を技術的内容を変更することなく邦訳した規格表が発行されている(2012年最終改訂)。
SVG は XML を用いているのでテキストエディタによるデータの作成も一応可能であるが、記述は非常に複雑なため実用的には GUI を前提にした編集ソフトが必須となる。
用途により、高度なグラフィクス作成に主眼を置いた描画ソフトから図、表、フローチャートなどの作成に主眼を置いたソフトまで幅がある。
この他、CAD ソフトウエアには読み書きともに対応しているものが多く存在する。
2010年代にはパソコン用の主要ウェブブラウザでネイティブサポートされるようになった。
2018年5月時点で、HTML標準の仕様ではSVG 2を参照している。さらに、SVGを実装するならそれ以前のバージョンではなくSVG 2を実装しなければならないと規定されている。
Internet Explorer 8以前のIEや、そのレンダリングエンジンを用いているブラウザなどにおいては、第三者製のプラグインを用いることで、SVG 画像を表示させる必要があった。
GNU/Linuxなどの Unix系オペレーティングシステム (OS) では、Freedesktop.org の標準に採用されるなど、様々な利用がされている。GNOME は librsvg を使いアイコンや壁紙に SVG を利用でき、また、KDE では KSVG を利用してアイコンを表示できるほか 3.4 からは SVG を使った壁紙に対応した。
Windows 系では2007年現在では特に動きはない。
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"text": "一方で、SVG の高度な機能を用いるものでは、それに対応した編集ツールや、データを忠実に再現してくれるビューアやブラウザのプラグイン等が必須となる。高度な機能を持ちつつも、それを活かせるインフラが追いついていないのが現状である。",
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"title": "ウェブブラウザによる SVG 画像の表示"
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"text": "GNU/Linuxなどの Unix系オペレーティングシステム (OS) では、Freedesktop.org の標準に採用されるなど、様々な利用がされている。GNOME は librsvg を使いアイコンや壁紙に SVG を利用でき、また、KDE では KSVG を利用してアイコンを表示できるほか 3.4 からは SVG を使った壁紙に対応した。",
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Scalable Vector Graphicsは、XMLベースの、2次元ベクターイメージ用の画像形式の1つである。アニメーションやユーザインタラクションもサポートしている。SVGの仕様はW3Cによって開発され、オープン標準として勧告されている。
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{{WikipediaPage|SVG画像の使用|Wikipedia:SVGへの乗り換え}}
{{Infobox file format
| name = Scalable Vector Graphics
| icon =
| logo = SVG logo.svg
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| caption =
| extension = <code>.svg</code>、<code>.svgz</code>
| mime = <code>image/svg+xml</code><ref>{{Cite web|title=Media Type Registration for image/svg+xml|url=https://www.w3.org/TR/SVG/mimereg.html|publisher=W3C|accessdate=2019-09-01}}</ref>
| type_code =
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'''Scalable Vector Graphics'''(スケーラブル・ベクター・グラフィックス、'''SVG'''、{{lang-ja-short|'''変倍ベクタ図形'''{{sfn|JIS TR X 0095|2003}}{{sfn|小町|2008}}}})は、[[Extensible Markup Language|XML]]ベースの、2次元[[ベクターイメージ]]用の[[画像フォーマット|画像形式]]の1つである。アニメーションやユーザインタラクションもサポートしている。SVGの仕様は[[World Wide Web Consortium|W3C]]によって開発され、[[オープン標準]]として勧告されている。
== 概要 ==
[[1998年]]に[[アドビ|アドビシステムズ]]・[[IBM]]・[[ネットスケープコミュニケーションズ]]の3社によって提案された{{仮リンク|PGML|en|Precision Graphics Markup Language}}(Precision Graphics Markup Language)<ref>“[https://www.w3.org/TR/1998/NOTE-PGML-19980410 Precision Graphics Markup Language (PGML)]”、World Wide Web Consortium、1998年4月10日</ref>と、[[オートデスク|Autodesk]]・[[ヒューレット・パッカード]]・[[マクロメディア|Macromedia]]・[[マイクロソフト]]・{{仮リンク|Visio Corporation|en|Visio Corporation|label=Visio}} の5社によって提案された [[Vector Markup Language|VML]] (Vector Markup Language)<ref>“[https://www.w3.org/TR/1998/NOTE-VML-19980513 VML - the Vector Markup Language]”、World Wide Web Consortium、1998年5月13日</ref>をもとにして、W3C SVG ワーキンググループにより開発された<ref>「[https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/1999/0212/svg.htm W3C、Web上でベクターグラフィックを表示する「SVG」のドラフトを公開]」『INTERNET Watch』、インプレス、1999年2月12日</ref>。
== 沿革 ==
* [[1999年]]2月11日 - SVGのドラフト版を公表<ref>“[https://www.w3.org/TR/1999/WD-SVG-19990211/ W3C Working Draft: Scalable Vector Graphics (SVG)]”、World Wide Web Consortium、1999年2月11日</ref>
* [[2001年]]9月4日 - SVG 1.0が[[World Wide Web Consortium|W3C]]勧告となる<ref>“[https://www.w3.org/TR/SVG10/ Scalable Vector Graphics (SVG) 1.0 Specification]”、World Wide Web Consortium、2001年9月4日</ref>
* [[2003年]]1月14日 - SVG 1.1<ref name="svg11">“[https://www.w3.org/TR/SVG11/ Scalable Vector Graphics (SVG) 1.1 (Second Edition)]”、World Wide Web Consortium、2011年8月16日</ref>と、SVG Tiny・SVG Basic(モバイルSVGプロファイル)<ref>“[https://www.w3.org/TR/SVGTiny/ Mobile SVG Profiles: SVG Tiny and SVG Basic]”、World Wide Web Consortium、2003年1月14日</ref>がW3C勧告となる
* [[2008年]]12月22日 - SVG Tiny 1.2がW3C勧告となる<ref>“[https://www.w3.org/TR/SVGTiny12/ Scalable Vector Graphics (SVG) Tiny 1.2 Specification]”、World Wide Web Consortium、2008年12月22日</ref>
* [[2011年]]8月16日 - 誤記を修正したSVG 1.1 (Second Edition)がW3C勧告となる<ref name="svg11" />
* [[2018年]]10月4日 - SVG 2がW3C勧告候補となる<ref>“[https://www.w3.org/TR/SVG2/ Scalable Vector Graphics (SVG) 2]”、World Wide Web Consortium、2018年10月4日</ref>
== 特徴 ==
[[ベクタ形式]]であるため、拡縮自在である。その他に、XMLベースの為、[[ウェブブラウザ]]で(画像として、という意味ではなく、HTMLのソースビュー等と同様に、という意味で)閲覧でき、[[テキストエディタ]]等で編集できる。また、HTMLとの親和性により、[[ハイパーリンク]]を埋め込んだり、[[JavaScript]] 等と連携させることもできる。
[[ファイル:SVG Circle.svg|代替文=SVG 円|サムネイル|130x130ピクセル|Circle タグを使用し円なども簡単に描画ができる]]
=== 編集 ===
SVG は、拡張の自由度が高い [[Extensible Markup Language|XML]] ({{en|Extensible Markup Language}}) で記述されており、XML ならではの各種機能を定義した要素を持つ。SVG ではそれ自身に回転・拡大・移動などの表現を定義しているため、単体で多様な表現をすることが可能である。
従来のウェブサイトでは、いわゆるインタラクティブな双方性のある画面変化を伴う表示を JavaScript や FLASH を用いてきた。HTML/XHTML に SVG を組み合わせることにより、JavaScript や FLASH を導入せずとも同様の効果が発揮されることが期待される。
XML なので、原理的には専用のアプリケーションを用いることなく通常の[[テキストファイル]]として作製・編集できる。
=== レイヤー ===
[[ファイル:Bitmap VS SVG.svg|thumb|200px|right|ビットマップデータとベクターデータを拡大した場合]]
SVG の特筆すべき点としてレイヤー機能がある。SVG では写真や挿絵などのビットマップデータ部分と座標値で指定された円・線分等を組み合わせた図形をベクターデータ部分として個々に指定でき、互いの苦手とする部分を補完しながら共存して画面表示できる。
* ビットマップデータ: 写真・挿絵・統計グラフ
* ベクターデータ: 円弧・線分・点・文字・統計グラフ
SVG では文字をベクター情報の領域に有することで拡大縮小した際にはアウトラインフォントで表現する。この機能により、拡大すると[[ジャギー]]と呼ばれる文字外延部のギザギザが生じて見にくくなる点が解決されている。具体的には Adobe Acrobat による PDF 形式の文字とほぼ同じ機能を有する。
これらのレイヤー機能により、背景に写真などの画像を置き、ベクターデータによる線画や文字を配置させることが可能である。具体的には等高線を表示した地図画像(ビットマップ)の上に鉄道路線や道路網(ベクターデータ)を重ね、電車や自動車等の移動体を配置して同時表示が可能になる。更に、ベクターデータのみで表現した塗りつぶしでは色の重ね合わせが可能であり、塗りつぶしの透過度の指定により集合論で用いるベン図のような形を必要最低限度の色数で表現できる。
=== ファイル形式 ===
基本的に SVG は [[メディアタイプ|MIME 形式]]指定では image/svg+xml で指定された画像フォーマットである。ファイルの拡張子は .svg と [[gzip]] 圧縮された .svgz がある。拡張子 .svg はテキストファイルであるため、大きなデータではネット間の通信トラフィックにおいてのデメリットが大きいが、圧縮した .svgz では数分の一のファイルサイズになる。展開機能はWebブラウザ側が受け持つ。
=== 親和性 ===
SVG は基本的に文章で構成されており、ブラウザの利用者が入力した情報を CGI や JavaScript を介して SVG データに組み入れることが可能である。これにより、ベクターデータを用いた統計グラフでは可変性のある表示が可能になる。
=== 長所 ===
文書で制作できるため、独自タグを用いることで高品質な表現が可能である。文字情報は文字データのみを明示的にグループ化しているため、文字のグループのみを抽出することで多言語化が比較的容易にできる。
=== 欠点 ===
ビットマップデータの大きさは各形式によってある程度左右されるが、ほぼ面積比によってある程度のサイズに納まることが多い。それに対し、ベクターデータは画面表示サイズに関わらず全ての情報を常に保持し続けるため、表示情報が多い場合はビットマップデータよりもサイズが大きくなる傾向がある(ただし、これはベクターデータ形式全般に言えるものであり、SVG のみの欠点ではない)。
== 規格の概要 ==
* SVG 1.1
* SVG Tiny
* SVG Basic
** [[携帯電話]]や[[携帯情報端末]]等の[[携帯情報機器]]を対象にした軽量規格。
* SVG 2
=== 現状 ===
SVG は版を重ねるごとに高度な機能を盛り込んでいる。1.1 版以降から、格納しようとする描画情報に当該情報が使用している[[座標]]参照系を[[メタデータ]]として記述することが可能となった。これにより、SVG を地図として利活用できる道ができ、[[国土地理院]]ではその保有する[[電子国土]]基幹情報を SVG で配信し、PC のみならず様々な媒体で活用する方法を提案して広く社会実験に供する試みを実施している。
一方で、SVG の高度な機能を用いるものでは、それに対応した編集ツールや、データを忠実に再現してくれるビューアやブラウザのプラグイン等が必須となる。高度な機能を持ちつつも、それを活かせるインフラが追いついていないのが現状である。
これとは別に、比較的利用頻度の高い重要な機能に絞り込み、小型機器にも搭載可能な軽量な規格も登場している。
=== 日本産業規格 ===
'''JIS X 4197:2012'''「可変ベクタグラフィクス SVG Tiny1.2」としてW3C発行のSVG Tiny 1.2規格を技術的内容を変更することなく邦訳した規格表が発行されている(2012年最終改訂)<ref>JIS X 4197</ref>。
== SVG 編集ソフト ==
SVG は [[Extensible Markup Language|XML]] を用いているのでテキストエディタによるデータの作成も一応可能であるが、記述は非常に複雑なため実用的には [[グラフィカルユーザインターフェース|GUI]] を前提にした編集ソフトが必須となる。
用途により、高度なグラフィクス作成に主眼を置いた[[グラフィックソフト|描画ソフト]]から図、表、フローチャートなどの作成に主眼を置いたソフトまで幅がある。
; SVG を標準データとして扱い、読み書きが可能なもの
:* SVG Cats
:* [[Inkscape]]
; SVG の読み書きが可能なもの
:* [[Adobe Illustrator]]
:* [[Microsoft Visio|Microsoft Office Visio]]
:* [[Microsoft Office]]のうち、Word、Excel、PowerPoint、Outlook<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.office.com/ja-jp/article/Microsoft-Office-%E3%81%A7-SVG-%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%82%92%E6%8C%BF%E5%85%A5%E3%81%99%E3%82%8B-69f29d39-194a-4072-8c35-dbe5e7ea528c|title=Microsoft Office で SVG 画像を挿入する|accessdate=2017-02-19|work=Office のサポート}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1027127.html|title=OfficeアプリがIllustratorなどのSVG画像の挿入/編集に対応 ~無償のSVGアイコンライブラリも提供|accessdate=2017-02-19|author=若杉紀彦|date=2016-10-27|work=PC Watch|publisher=[[Impress Watch]]}}</ref>。
:* [[CorelDRAW]]
:* [[Affinity Designer]]
:* [[Justsystems]] [[Xfy]]
:* [[Dia (ソフトウェア)|Dia]]
:* [[Mathematica]]
:* [[LibreOffice Draw]]
:* [[Googleドキュメント]]
; 一部制限があるもの
:* [[GIMP]] - 読み込みに対応。書き出しはパスの書き出しのみ。
; SVG の出力が可能なもの
:* [[花子 (グラフィックソフト)|花子]]2006は、SVG (Ver.1.0 に準拠) の書き出しに対応。
:* [[OpenOffice.org|OpenOffice]] Draw - 1.1 までは日本語出力が一部乱れるなど難あり。2.0 から書き出しに対応。[https://web.archive.org/web/20080701061453/http://www.ipd.uka.de/~hauma/svg-import/#download SVG Import Filter]<small>(アーカイブ)</small><ref>SVG Import Filterのアーカイブ版はVersion 1.2.2 (2007-09-02) 以降、アップデートされていない。(アーカイブ版に更新日時:~~~~~)</ref>を導入すれば読み込みも可能。
:* Omni Groupの[[OmniGraffle]] Professional 4 は、SVG 書き出しに対応。
:* [[R言語|R]] はデータ解析結果のグラフ出力形式として SVG に対応。
:* [[Gnuplot]] および GNU [[Plotutils]] は、プロットの出力形式として SVG に対応。
:* [[Geometry Expressions]] は、図形の出力形式として SVG に対応。
この他、[[CAD]] ソフトウエアには読み書きともに対応しているものが多く存在する。
== ウェブブラウザによる SVG 画像の表示 ==
2010年代にはパソコン用の主要[[ウェブブラウザ]]でネイティブサポートされるようになった。
2018年5月時点で<ref>{{Cite web |url=https://github.com/whatwg/html/pull/3692 |title=Update to reference SVG 2 by dstorey · Pull Request #3692 · whatwg/html |accessdate=2019-05-04 |date=2018-05-18 |website=GitHub}}</ref>、HTML標準の仕様ではSVG 2を参照している。さらに、SVGを実装するならそれ以前のバージョンではなくSVG 2を実装しなければならないと規定されている<ref>{{Cite web|url=https://html.spec.whatwg.org/multipage/infrastructure.html#dependencies|title=HTML Standard 2.1.9 Dependencies|accessdate=2019-05-04|date=2019-05-03|work=HTML Standard|quote=User agents that implement SVG must implement the SVG 2 specification, and not any earlier revisions.|language=英語}}</ref>。
=== ネイティブサポート ===
* [[Internet Explorer]] - [[Internet Explorer 9]]からSVG 1.1に標準対応<ref>[http://blogs.msdn.com/b/ie_jp/archive/2010/04/14/svg-in-ie9-roadmap.aspx SVG in IE9 Roadmap - Internet Explorer ブログ (日本語版)]</ref>。
* [[Mozilla Firefox]] - 1.5から対応。
* [[Google Chrome]] - 最初のバージョンから対応。
* [[Android標準ブラウザ]] - Android 3.0から対応。
* [[Safari]] - Safari 3.0からSVG 1.1に完全ではないが対応<ref>[http://webkit.org/projects/svg/status.xml The official WebKit SVG status page]</ref>。対応状況は環境毎に異なる。
** OS X - バージョン 3.1.2の時点で、[[カラープロファイル]]など一部機能を未実装。現状の対応状況は、[http://webkit.org/projects/svg/status.xml WebKit SVG Status]。
** iOS - [[iOS|iPhone OS]] 2.1の[[Mobile Safari]]でSVGに対応した。
** Windows - Safari 3.1.2現在、フィルタなど一部の機能を除いて、実装している。
* [[Opera]]および[[Opera Mobile]] - 2005年4月に発表された Opera v8.0でSVG Tinyに、2006年発表のv9.0でSVG Basicに対応した。
** [[Opera Mini]]は5から対応。
* [[NetFront Browser]] - 未対応。
* [[KDE]] [[Konqueror]] - [[KSVG]]を使って表示させることができる。
* W3C [[Amaya]] - 標準対応。
=== プラグインサポート ===
[[Internet Explorer 8]]以前のIEや、そのレンダリングエンジンを用いているブラウザなどにおいては、[[サードパーティー|第三者製]]の[[プラグイン]]を用いることで、SVG 画像を表示させる必要があった。
* Adobe - [http://www.adobe.com/jp/svg/viewer/install/ Adobe SVG Viewer]。[[Internet Explorer]] や [[Netscapeシリーズ|Netscape]] 向け。2009年1月1日にサポートを終了と発表した<ref>[http://www.adobe.com/svg/viewer/install/main.html]</ref>。
* Corel - [http://www.corel.com/servlet/Satellite?pagename=Corel2/Products/Content&pid=1047023276653&cid=1047023286996 Corel SVG Viewer]
* [[GNOME]] - [[Mozilla]] 向けにプラグインの [[librsvg]]
* Examotion(開発元が Emia Systems から移った) - [http://www.examotion.com/index.php?id=product_player Renesis Player]
== デスクトップ ==
[[GNU/Linux]]などの [[Unix系]][[オペレーティングシステム]] (OS) では、[[Freedesktop.org]] の標準に採用されるなど、様々な利用がされている。[[GNOME]] は [[librsvg]] を使いアイコンや壁紙に SVG を利用でき、また、[[KDE]] では [[KSVG]] を利用してアイコンを表示できるほか 3.4 からは SVG を使った壁紙に対応した。
[[Microsoft Windows|Windows]] 系では2007年現在では特に動きはない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite jis|var=TR|X|0095|2003|name=変倍ベクタ図形 (SVG) 1.0|link=no|{{sfnref|JISXTR0095|2003}}}} - SVG 1.0仕様の日本語訳 (TR)
* {{cite journal|和書
|author=小町 祐史
|date=2008-11-29
|title=マーク付け言語関連規定のこれまでの議論と今後の展望
|journal=情報知識学会誌|volume=18|issue=4|pages=323-333
|publisher=[[情報知識学会]]
|doi=10.2964/jsik.3
|url=https://doi.org/10.2964/jsik.3|accessdate=2019-08-26
|ref={{sfnref|小町|2008}}
}}
* {{cite report|和書
|author=高木 悟
|date=2008-10-10
|title=SVGによるオープンなWeb Mapプラットホームの動向
|url=http://www.gissoken.org/pdf/SSK090310_SVGMap.pdf|format=PDF|accessdate=2019-08-26
|publisher=[[KDDI]]
|ref={{sfnref|高木|2008}}
}}
== 関連項目 ==
<!-- 関連するウィキリンク -->
* [[Adobe Flash]] (Macromedia Flash)
* [[Apache Batik]]
* [[Canvas要素]]
* [[Commons:Commons:SVG変換|Commons:SVG変換]]
* {{仮リンク|Comparison of layout engines (SVG)|en|Comparison of layout engines (SVG)}}
* [[Computer Graphics Metafile]] (CGM)
* [[Direct2D]]
* [[Extensible Markup Language]] (XML)
* [[地理情報システム]]
* {{仮リンク|List of vector graphics editors|en|List of vector graphics editors}}
* {{仮リンク|List of vector graphics markup languages|en|List of vector graphics markup languages}}
* [[PostScript]] (PS)- ベクタ形式の画像フォーマット
** [[Encapsulated PostScript]] (EPS) - ベクタ形式の画像フォーマット
* {{仮リンク|Raster to vector|en|Raster to vector}}
* {{仮リンク|Resolution independence|en|Resolution independence}}
* {{仮リンク|SVG animation|en|SVG animation}}
* {{仮リンク|SVG Working Group|en|SVG Working Group}}
* {{仮リンク|sXBL|en|sXBL|label=SVG's XML Binding Language}}
* [[WYSIWYG]]
* [[Windows Metafile]] (WMF, EMF) - ベクタ形式の画像フォーマット
* [[ビットマップ画像]](ラスターグラフィック)
* [[ベクターイメージ]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Commons:SVG|SVG}}
{{wikibooks|SVG}}
* [https://www.w3.org/Graphics/SVG/ W3C の SVG 公式サイト] {{en icon}}
* [https://www.w3.org/TR/SVG2/ Scalable Vector Graphics (SVG) 2] {{en icon}} - SVG 2の規格書
* [https://developer.mozilla.org/ja/docs/Web/SVG SVG: Scalable Vector Graphics] {{ja icon}} - Mozillaによる、ウェブ開発者向けの説明
{{W3C標準}}
{{Graphics file formats}}
{{Web interfaces}}
{{Normdaten}}
[[Category:W3C勧告]]
[[Category:XMLベースの技術]]
[[Category:ベクターグラフィックス・マークアップ言語]]
[[Category:画像ファイルフォーマット]]
[[Category:オープンフォーマット]]
|
2003-09-18T13:27:41Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Scalable_Vector_Graphics
|
17,268 |
オンラインソフトウェア
|
オンラインソフトウェア、あるいはオンラインソフトとは、パソコン通信やインターネットなどを通じて配布されるソフトウェアのこと(有料のものはダウンロード販売という)。多くの場合は「自分(制作者)がほしいから作った」ものであり、それを一般公開したものである。いわゆるPDS、フリーウェア、シェアウェアのたぐいを総称したものである。オンラインシステム用のソフトウェアでないことに注意。
かつて(古くは大企業によるパソコン通信のサービス前)は、ネットニュースを用いて主にソースコードの状態での配布が広く行われていた。しかし、ネットニュースではソフトウェアの大規模化による伝送量の増大や、配送先にとって必ずしも必要でないソフトウェアまで配送されるという問題がった。
パソコン通信が主流の時代では、ソフトウェアの公開はニフティサーブのフォーラムや、PC-VANのSIG等を中心に公表が行なわれたことが多い。
インターネットの時代では、ウェブページやアプリケーションストアを中心に公開される。また、オンラインソフトを多数収録したいわゆるダウンロードサイトやFTPサーバなどが存在している。主なものは窓の杜、Vector、Ringサーバーなど。
コンピュータ関連雑誌の付録のCDやDVDなどに、その時点での最新版が収録される場合がある。ただし、あくまでもその収録版は「収録時点での」最新版であり、収録後の(時にはクリティカルな)パッチなどが当たっていない場合もある。
古い版を入手したいのにインターネット上でバージョンアップ版しか入手できなくなっていたり、ソフト自体の配布が中止されていたりすることがあるが、それらのソフトの合法的な入手手段として付録メディアが有効な場合がある。
多くの場合はドキュメント(おおよそ"readme.txt"などの名が付いたテキスト形式)、ヘルプ、ソースコードにサポート情報が記載されている。
一般的には、無料で利用できるものは、利用者責任の下で利用することになる。つまり、制作者は一切の責任を負わないとされる。
有料での利用の場合(シェアウェア)は、最低限のサポートは受けられる場合がある。その場合でも、相性に関するものは除かれることがある。
いずれの場合でも、制作者ウェブページの掲示板に書き込むなどすれば、他の利用者などからアドバイスをもらえることがある。また、利用者の提案を書き込めば制作者が取り入れてくれるかも、という楽しみがある。
ソフトウェアのソースコードを公開している場合、利用者自身が不具合の修正が可能である。また、その場合は開発者の一人として参加できる可能性もある。
|
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"title": "配布方法"
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"text": "コンピュータ関連雑誌の付録のCDやDVDなどに、その時点での最新版が収録される場合がある。ただし、あくまでもその収録版は「収録時点での」最新版であり、収録後の(時にはクリティカルな)パッチなどが当たっていない場合もある。",
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"text": "古い版を入手したいのにインターネット上でバージョンアップ版しか入手できなくなっていたり、ソフト自体の配布が中止されていたりすることがあるが、それらのソフトの合法的な入手手段として付録メディアが有効な場合がある。",
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"text": "いずれの場合でも、制作者ウェブページの掲示板に書き込むなどすれば、他の利用者などからアドバイスをもらえることがある。また、利用者の提案を書き込めば制作者が取り入れてくれるかも、という楽しみがある。",
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"text": "ソフトウェアのソースコードを公開している場合、利用者自身が不具合の修正が可能である。また、その場合は開発者の一人として参加できる可能性もある。",
"title": "サポート状況など"
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] |
オンラインソフトウェア、あるいはオンラインソフトとは、パソコン通信やインターネットなどを通じて配布されるソフトウェアのこと(有料のものはダウンロード販売という)。多くの場合は「自分(制作者)がほしいから作った」ものであり、それを一般公開したものである。いわゆるPDS、フリーウェア、シェアウェアのたぐいを総称したものである。オンラインシステム用のソフトウェアでないことに注意。
|
{{複数の問題
|出典の明記=2013年10月
|独自研究=2014年9月11日 (木) 10:48 (UTC)
|宣伝=2014年9月11日 (木) 10:48 (UTC)
}}
'''オンラインソフトウェア'''、あるいは'''オンラインソフト'''とは、[[パソコン通信]]や[[インターネット]]などを通じて配布される[[ソフトウェア]]のこと([[有料]]のものは[[ダウンロード販売]]という)。多くの場合は「自分(制作者)がほしいから作った」ものであり、それを一般公開したものである。いわゆる[[パブリックドメインソフトウェア|PDS]]、[[フリーウェア]]、[[シェアウェア]]のたぐいを総称したものである。[[オンラインシステム]]用のソフトウェアでないことに注意。
== 配布方法 ==
===ネットニュース===
かつて(古くは大企業によるパソコン通信のサービス前)は、[[ネットニュース]]を用いて主に[[ソースコード]]の状態での配布が広く行われていた。しかし、ネットニュースではソフトウェアの大規模化による伝送量の増大や、配送先にとって必ずしも必要でないソフトウェアまで配送されるという問題がった。<!--そのため、近年ではネットニュースではリリース情報とダウンロード先[[Uniform Resource Locator|URL]]のアナウンスに留め、ソフトウェア自体はダウンロード先からの入手というような媒体の使い分けが行われている。-->
===パソコン通信===
パソコン通信が主流の時代では、ソフトウェアの公開は[[ニフティサーブ]]のフォーラムや、PC-VANのSIG等を中心に公表が行なわれたことが多い。
===インターネット===
インターネットの時代では、[[ウェブページ]]や[[アプリケーションストア]]を中心に公開される。また、オンラインソフトを多数収録したいわゆる[[ウェブサイト|ダウンロードサイト]]や[[FTPサーバ]]などが存在している。主なものは[[窓の杜]]、[[ベクター (企業)|Vector]]、Ringサーバーなど。
== オフラインでの入手手段 ==
コンピュータ関連雑誌の付録の[[コンパクトディスク|CD]]や[[DVD]]などに、その時点での最新版が収録される場合がある。ただし、あくまでもその収録版は「収録時点での」最新版であり、収録後の(時にはクリティカルな)[[パッチ]]などが当たっていない場合もある。
古い版を入手したいのにインターネット上でバージョンアップ版しか入手できなくなっていたり、ソフト自体の配布が中止されていたりすることがあるが、それらのソフトの合法的な入手手段として付録メディアが有効な場合がある。
==サポート状況など==
多くの場合はドキュメント(おおよそ"[[リードミー|readme.txt]]"などの名が付いたテキスト形式)、[[オンラインヘルプ|ヘルプ]]、[[ソースコード]]にサポート情報が記載されている。
一般的には、無料で利用できるものは、利用者責任の下で利用することになる。つまり、制作者は一切の責任を負わないとされる。
有料での利用の場合(シェアウェア)は、最低限のサポートは受けられる場合がある。その場合でも、相性に関するものは除かれることがある。
いずれの場合でも、制作者ウェブページの掲示板に書き込むなどすれば、他の利用者などからアドバイスをもらえることがある。また、利用者の提案を書き込めば制作者が取り入れてくれるかも、という楽しみがある。
ソフトウェアの[[ソースコード]]を公開している場合、利用者自身が不具合の修正が可能である。また、その場合は開発者の一人として参加できる可能性もある。
== 関連項目 ==
* [[アプリケーションストア]]
* [[アプリケーションダウンロードサイト]]
==外部リンク==
* [http://ringonoki.net/ 林檎の木]
* [http://ring.aist.go.jp/ Ring Server Project]
{{デフォルトソート:おんらいんそふと}}
[[Category:ソフトウェア]]
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2023-02-10T21:28:10Z
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[
"Template:複数の問題"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2
|
17,269 |
ショタ
|
ショタ(英: Shota、中: 正太)は、主に2次元の男性の少年を示す単語である。
ショタに明確な定義はなく、個人によって定義は変わる。一般的な条件としては、可愛い(童顔)で可愛らしい見た目をした男性(男の子)=ローティーンであることを条件に使われている。ショタを好む人間のことをショタコンと呼ぶ。主に幼く可愛らしい容姿の少年で、半ズボンに白い靴下で描かれることが多い。
外見がイケメンなショタのこと。
茶色い肌をしたショタのこと。
女装をしているか女性的に見えるショタのことを「男の娘」と呼ぶ。
ショタが主体のアニメは「ショタアニメ」とされる。
ショタが主体のゲームはショタゲーとされる。
|
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"text": "ショタ(英: Shota、中: 正太)は、主に2次元の男性の少年を示す単語である。",
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"text": "ショタに明確な定義はなく、個人によって定義は変わる。一般的な条件としては、可愛い(童顔)で可愛らしい見た目をした男性(男の子)=ローティーンであることを条件に使われている。ショタを好む人間のことをショタコンと呼ぶ。主に幼く可愛らしい容姿の少年で、半ズボンに白い靴下で描かれることが多い。",
"title": "定義"
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"text": "外見がイケメンなショタのこと。",
"title": "ジャンル"
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{
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"text": "茶色い肌をしたショタのこと。",
"title": "ジャンル"
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{
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"text": "女装をしているか女性的に見えるショタのことを「男の娘」と呼ぶ。",
"title": "男の娘"
},
{
"paragraph_id": 5,
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"text": "ショタが主体のアニメは「ショタアニメ」とされる。",
"title": "ショタキャラクター"
},
{
"paragraph_id": 6,
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"text": "ショタが主体のゲームはショタゲーとされる。",
"title": "ショタキャラクター"
}
] |
ショタは、主に2次元の男性の少年を示す単語である。
|
{{Otheruses}}
{{複数の問題|出典の明記=2021-11|独自研究=2021-11|精度=2021-11}}
'''ショタ'''({{Lang-en-short|Shota}}、{{Lang-zh-short|正太}})は、主に2次元の[[男性]]の[[少年]]を示す単語である<ref>{{Cite web|和書|title=ショタ(しょた)|url=https://numan.tokyo/words/zZ48J/|website=numan|accessdate=2021-12-04|language=ja}}</ref>。
== 定義 ==
ショタに明確な定義はなく、個人によって定義は変わる。一般的な条件としては、可愛い([[童顔]])で可愛らしい見た目をした男性(男の子)=[[ローティーン]]であることを条件に使われている。ショタを好む人間のことを[[ショタコン]]と呼ぶ。主に幼く可愛らしい容姿の少年で、半ズボンに白い靴下で描かれることが多い<ref>{{Cite web|和書|url=https://numan.tokyo/words/zZ48J/ |title=ショタ(しょた) |accessdate=2022-06-19}}</ref>。
; おねショタ
:15歳から25歳くらいまでの女性と年下のショタの関係を[[おねショタ]]という<ref>{{Cite web|和書|url=https://numan.tokyo/words/fNSHG/ |title=ショタ(しょた) |accessdate=2022-06-19}}</ref>。
== ジャンル ==
; イケショタ
外見が[[イケメン]]なショタのこと<ref>{{Cite web|和書|url=https://numan.tokyo/words/gzdQx/ |title=イケショタ(いけしょた) |accessdate=2022-06-19}}</ref>。
; 褐色ショタ
茶色い肌をしたショタのこと<ref>{{Cite web|和書|url=https://numan.tokyo/words/nWsrZ/ |title=褐色(かっしょく) |accessdate=2022-06-19}}</ref>。
== 男の娘 ==
{{Main|男の娘}}
女装をしているか女性的に見えるショタのことを「男の娘」と呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|title=男の娘(おとこのこ) |url=https://numan.tokyo/words/NrlHS/ |website=numan |accessdate=2022-01-17 |language=ja}}</ref>。
== 歴史におけるショタ文化 ==
{{Main|少年愛}}
; パイデラスティア
:古代ギリシャにおいて、[[少年愛]]は男性市民に課された義務であった。
; 男色
:奈良・[[平安時代]]において、仏教での[[男色]]文化が広まった。
; 衆道
:[[江戸時代]]の日本において、[[小姓]]として武士に使えている美少年が年長者と関係を持つ「[[衆道]]」があった。
== ショタキャラクター ==
=== VOCALOID ===
*[[鏡音レン]]
*[[Oliver]]
=== 漫画 ===
==== [[ハッピーシュガーライフ]] ====
*神戸あさひ(CV: [[花守ゆみり]])
*三星太陽(CV: [[花江夏樹]])
=== アニメ ===
ショタが主体のアニメは「[[ショタアニメ]]」とされる。
====[[魔入りました!入間くん]]====
*鈴木入間(イルマ)(CV:[[村瀬歩]])
*シャックス・リード (CV:[[山谷祥生]])
==== [[地縛少年花子くん]] ====
*花子くん(CV: [[緒方恵美]])
*つかさ(CV: [[緒方恵美]])
==== [[少年メイド]] ====
*小宮千尋(CV: [[藤原夏海]])
*日野祐司(CV: [[斎賀みつき]])
=== ソフトウェア ===
==== [[ハッカドール]] ====
*ハッカドール3号(CV: [[山下七海]])
=== ゲーム ===
ショタが主体のゲームは[[ショタゲー]]とされる。
==== [[原神]] ====
{{colbegin|2}}
*空 (CV: [[堀江瞬]])
*ウェンティ (CV: [[村瀬歩]])
*行秋 (CV: [[皆川純子]])
*重雲 (CV: [[斉藤壮馬]])
*スカラマシュ (CV: [[柿原徹也]])
*楓原万葉 (CV: [[島﨑信長]])
*魈 (CV: [[松岡禎丞]])
*ゴロー (CV: [[畠中祐]])
*アルベド (CV: [[野島健児 (声優)|野島健児]])
*ベネット (CV: [[逢坂良太]])
*レザー (CV: [[内山昂輝]])
*セノ
*リネ
{{colend}}
==== [[プリンセスコネクト!Re:Dive]] ====
*カリザ(CV: [[岡咲美保]])
=== VTuber ===
==== [[にじさんじ]] ====
*[[鈴木勝 (バーチャルYouTuber)|鈴木勝]]
*[[卯月コウ]]
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[ショタコン]] - ショタ好きの事
*[[ロリータ・コンプレックス|ロリ]] - 対義語
*[[少年]]
*[[美少年]]
*[[ショタアニメ]]
*[[ショタゲー]]
{{Character-stub}}
{{DEFAULTSORT:しよたこん}}
[[Category:ショタコン|*]]
|
2003-09-18T13:49:49Z
|
2023-10-17T03:32:25Z
| false | false | false |
[
"Template:Lang-en-short",
"Template:Main",
"Template:Colbegin",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:複数の問題",
"Template:Lang-zh-short",
"Template:Colend",
"Template:Character-stub",
"Template:Otheruses"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%BF
|
17,272 |
ショタコン
|
ショタコン(英: Shotacon)とは、少年の男子(ショタ)への恋愛感情。また、その恋愛感情を持つ者である。
正太郎コンプレックス(しょうたろうコンプレックス、英: Shotaro complex)を語源とする(#起源を参照)。
「ショタ」をショタコンの略称であるかのように述べられることが、しばしばある。
1981年、アニメ雑誌『ふぁんろーど』(後の『ファンロード』)の編集長“イニシャルビスケットのK”こと浜松克樹が読者からの質問に答えるコーナーで、「少女を好きな男性はロリコンと呼ばれるが、では少年を好きな女性は何と呼ぶべきか?」という内容の問いに対し、半ズボンの似合う少年の代表として『鉄人28号』の主人公・金田正太郎の名を挙げ、そこから名を取って「ショタコン」と回答したのが始まりである。
浜松は『アニメック』編集長の小牧雅伸との会話中、小牧が少年の代表例として「金田正太郎」を挙げたことからこの用語を思いついたことを小牧が証言している。
発言当時『太陽の使者 鉄人28号』(日本テレビ系 1980-1981年放映)が放映されていたこともあって同番組の主人公・金田正太郎から取ったと2017年に浜松がTwitter上の質問に答えるかたちで明言している。それ以前は渡辺由美子による「イニシャルビスケットのKと小牧雅伸が「半ズボンの似合う少年」としてイメージしたのは、漫画原作やアニメ第1作、あるいは実写テレビドラマの金田正太郎であり、『太陽の使者 鉄人28号』の金田正太郎ではない。ただし、発言当時イニシャルビスケットのKがこの点を明確にしなかったことや、読者に正太郎(旧)を知る者が世代的に少なかったこと、正太郎(旧)がいわゆる美少年のイメージにそぐわなかった、などの理由で読者の多くが正太郎(新)という認識であった。」のような解釈もあった。
このコーナーは真面目に回答する場合もあれば適当に返すこともあった。本件については「正太郎を好きになったショタコンとかいうのはゴロが悪いではないか」と浜松は懐疑的なコメントを寄せていたが、他に適当な呼び方が無かったこともあり、いつのまにか「ショタコン」は少年愛者を指す言葉として広く定着していった。「ショタコン」という言葉を使う者の中には、鉄人28号の金田正太郎のことを直接は知らない可能性も大きいが、それについて浜松は「ロリコンという言葉を使う者の多くが、語源となったウラジーミル・ナボコフの小説の『ロリータ』を知らないのと同様であり、問題はない」と述べている。
いずれにせよ、そのような性嗜好を持つ女性の存在が顕著になったなどの理由ではなく、一種の言葉遊びから生まれた言葉である。
『現代用語の基礎知識』の1999年版(1998年発行)と2000年度版(1999年発行)で、「ショタコン=ショートアイズコンプレックス」説が掲載される。ショートアイズとは「目と目の間が狭い少年」という意味であったが、同時にミゲル・マイキー・ピニェイロ(es:Miguel Piñero)の1975年の戯曲の題名(『ショートアイズ(英語版)』)でもあり、児童暴行犯を指し示す隠語でもあった。
ただし現在は、前述の通り用語の起源が明らかとなっており、この説は否定されている。なお、『現代用語の基礎知識』では、「ショタコン」の語が初登場する『現代用語の基礎知識1991』より一貫して「ショタコン=正太郎コンプレックス」説が採用されていた(なお、本稿の担当執筆者は米沢嘉博であった)。
『現代用語の基礎知識』では、1990年発売の1991年度版で初めて登場し、この頃より一般に認知され始めたもよう。「やおい」の項目において「少年趣味」として解説されていた。
1996年発売の『現代用語の基礎知識1997』において「ショタコン」が独立項目化し、この時期にはムーブメントとして確立されていたもよう。当時はロリコンの正反対のものとして扱われていた。
ショタものの特徴として、多くの場合主人公の少年が相手(男性の場合も女性の場合もある)から誘惑されるというかたちで性描写が行われ、少年が性的に受動的であることが挙げられる。ただし、この傾向は近年の男性向けのポルノ漫画全般にみられるものであり、ライターの堀あきこはやおいが「女性性からの逃避」であると解釈されるのと同様に、これを「男性性からの逃避」として解釈できるのではないかとしている。
お姉さん×ショタのカップリングのこと。ここでのお姉さんは年上の女性という意味で使われる。
なお、お兄さん×ショタの場合「おにショタ」となる。
1999年5月に公布、11月に施行された児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律では、当初漫画も規制される方針であった。後にこの規定は削除されたが、1999年には『ROMEO』をはじめとする多くの成年向けショタ系アンソロジーコミックが休刊・廃刊した。
過去にはショタコン作品を扱った同人誌即売会「ショタケット」「ショタスクラッチ」が開催されている。
現在では「ショタフェス」 などが開催されている。
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"text": "ショタコン(英: Shotacon)とは、少年の男子(ショタ)への恋愛感情。また、その恋愛感情を持つ者である。",
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"text": "1981年、アニメ雑誌『ふぁんろーど』(後の『ファンロード』)の編集長“イニシャルビスケットのK”こと浜松克樹が読者からの質問に答えるコーナーで、「少女を好きな男性はロリコンと呼ばれるが、では少年を好きな女性は何と呼ぶべきか?」という内容の問いに対し、半ズボンの似合う少年の代表として『鉄人28号』の主人公・金田正太郎の名を挙げ、そこから名を取って「ショタコン」と回答したのが始まりである。",
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"text": "浜松は『アニメック』編集長の小牧雅伸との会話中、小牧が少年の代表例として「金田正太郎」を挙げたことからこの用語を思いついたことを小牧が証言している。",
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"text": "発言当時『太陽の使者 鉄人28号』(日本テレビ系 1980-1981年放映)が放映されていたこともあって同番組の主人公・金田正太郎から取ったと2017年に浜松がTwitter上の質問に答えるかたちで明言している。それ以前は渡辺由美子による「イニシャルビスケットのKと小牧雅伸が「半ズボンの似合う少年」としてイメージしたのは、漫画原作やアニメ第1作、あるいは実写テレビドラマの金田正太郎であり、『太陽の使者 鉄人28号』の金田正太郎ではない。ただし、発言当時イニシャルビスケットのKがこの点を明確にしなかったことや、読者に正太郎(旧)を知る者が世代的に少なかったこと、正太郎(旧)がいわゆる美少年のイメージにそぐわなかった、などの理由で読者の多くが正太郎(新)という認識であった。」のような解釈もあった。",
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"text": "このコーナーは真面目に回答する場合もあれば適当に返すこともあった。本件については「正太郎を好きになったショタコンとかいうのはゴロが悪いではないか」と浜松は懐疑的なコメントを寄せていたが、他に適当な呼び方が無かったこともあり、いつのまにか「ショタコン」は少年愛者を指す言葉として広く定着していった。「ショタコン」という言葉を使う者の中には、鉄人28号の金田正太郎のことを直接は知らない可能性も大きいが、それについて浜松は「ロリコンという言葉を使う者の多くが、語源となったウラジーミル・ナボコフの小説の『ロリータ』を知らないのと同様であり、問題はない」と述べている。",
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"text": "『現代用語の基礎知識』の1999年版(1998年発行)と2000年度版(1999年発行)で、「ショタコン=ショートアイズコンプレックス」説が掲載される。ショートアイズとは「目と目の間が狭い少年」という意味であったが、同時にミゲル・マイキー・ピニェイロ(es:Miguel Piñero)の1975年の戯曲の題名(『ショートアイズ(英語版)』)でもあり、児童暴行犯を指し示す隠語でもあった。",
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"text": "ただし現在は、前述の通り用語の起源が明らかとなっており、この説は否定されている。なお、『現代用語の基礎知識』では、「ショタコン」の語が初登場する『現代用語の基礎知識1991』より一貫して「ショタコン=正太郎コンプレックス」説が採用されていた(なお、本稿の担当執筆者は米沢嘉博であった)。",
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"text": "『現代用語の基礎知識』では、1990年発売の1991年度版で初めて登場し、この頃より一般に認知され始めたもよう。「やおい」の項目において「少年趣味」として解説されていた。",
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"text": "1996年発売の『現代用語の基礎知識1997』において「ショタコン」が独立項目化し、この時期にはムーブメントとして確立されていたもよう。当時はロリコンの正反対のものとして扱われていた。",
"title": "展開"
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"text": "ショタものの特徴として、多くの場合主人公の少年が相手(男性の場合も女性の場合もある)から誘惑されるというかたちで性描写が行われ、少年が性的に受動的であることが挙げられる。ただし、この傾向は近年の男性向けのポルノ漫画全般にみられるものであり、ライターの堀あきこはやおいが「女性性からの逃避」であると解釈されるのと同様に、これを「男性性からの逃避」として解釈できるのではないかとしている。",
"title": "ショタものの特徴"
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"text": "お姉さん×ショタのカップリングのこと。ここでのお姉さんは年上の女性という意味で使われる。",
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"text": "なお、お兄さん×ショタの場合「おにショタ」となる。",
"title": "おねショタ"
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"text": "1999年5月に公布、11月に施行された児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律では、当初漫画も規制される方針であった。後にこの規定は削除されたが、1999年には『ROMEO』をはじめとする多くの成年向けショタ系アンソロジーコミックが休刊・廃刊した。",
"title": "児童ポルノ法との関わり"
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"text": "過去にはショタコン作品を扱った同人誌即売会「ショタケット」「ショタスクラッチ」が開催されている。",
"title": "同人誌即売会"
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"text": "現在では「ショタフェス」 などが開催されている。",
"title": "同人誌即売会"
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ショタコンとは、少年の男子(ショタ)への恋愛感情。また、その恋愛感情を持つ者である。 正太郎コンプレックスを語源とする(#起源を参照)。 「ショタ」をショタコンの略称であるかのように述べられることが、しばしばある。
|
{{性的}}
{{出典の明記|date=2018年8月}}
[[ファイル:Hitaku and Mayumi.png|thumb|248x248px|'''ショタ'''系少年に惹かれる成人女性を描いたコンセプトアート。]]
'''ショタコン'''({{lang-en-short|''Shotacon''}})とは、[[少年]]の[[男性|男子]]([[ショタ]])への[[性的嗜好|恋愛感情]]。また、その恋愛感情を持つ者である。
'''正太郎コンプレックス'''(しょうたろうコンプレックス、{{lang-en-short|''Shotaro complex''}})を[[語源]]とする([[#起源]]を参照)。
「ショタ」をショタコンの[[略称]]であるかのように述べられることが、しばしばある<ref>{{Cite web |url=http://www.asahi-net.or.jp/~ej4y-mrmt/kei/main.html |title=出典 |publisher=Sun |date=1998-02-21 |accessdate=2021-06-12}}</ref>。
== 起源 ==
[[1981年]]、アニメ雑誌『ふぁんろーど』(後の『[[ファンロード]]』)の編集長“イニシャルビスケットのK”こと[[浜松克樹]]が読者からの質問に答えるコーナーで、「少女を好きな男性は[[ロリータ・コンプレックス|ロリコン]]と呼ばれるが、では少年を好きな女性は何と呼ぶべきか?」という内容の問いに対し、半ズボンの似合う少年の代表として『[[鉄人28号]]』の主人公・[[鉄人28号#主人公とその周辺|金田正太郎]]の名を挙げ、そこから名を取って「ショタコン」と回答したのが始まりである<ref name="fanroad198105">「ふぁんろーど・くりにっく」『ふぁんろーど』1981年5月号。</ref>。
浜松は『[[アニメック]]』編集長の[[小牧雅伸]]との会話中、小牧が少年の代表例として「金田正太郎」を挙げたことからこの用語を思いついたことを小牧が証言している<ref name="intotakuU"/>。
発言当時『[[太陽の使者 鉄人28号]]』(日本テレビ系 1980-1981年放映)が放映されていたこともあって同番組の主人公・金田正太郎から取ったと[[2017年]]に浜松がTwitter上の質問に答えるかたちで明言している<ref name="太陽の使者">{{Twitter status2|FANROADK|871712268937043968|4=...ファンロード・クリニックに読者の女の子が質問したのは、当時放送中だった、太陽の使者鉄人28号の正太郎君にドキドキするという症状をなんと呼べばいいかという話だったので、ロリコンならぬショタコンではと答えたのが始まりです。...|accessdate=2017-06-07}}</ref>。それ以前は渡辺由美子<ref name="intotakuU">「ショタの研究」 『国際おたく大学』岡田斗司夫編、光文社、1998年、pp.32-41ページ。{{ISBN2|4-334-97182-2}}。</ref>による「イニシャルビスケットのKと小牧雅伸が「半ズボンの似合う少年」としてイメージしたのは、漫画原作やアニメ第1作、あるいは実写テレビドラマの金田正太郎であり、『太陽の使者 鉄人28号』の金田正太郎ではない。ただし、発言当時イニシャルビスケットのKがこの点を明確にしなかったことや、読者に正太郎(旧)を知る者が世代的に少なかったこと、正太郎(旧)がいわゆる[[美少年]]のイメージにそぐわなかった、などの理由で読者の多くが正太郎(新)という認識であった。」のような解釈もあった。
このコーナーは真面目に回答する場合もあれば適当に返すこともあった。本件については「正太郎を好きになったショタコンとかいうのはゴロが悪いではないか」と浜松は懐疑的なコメントを寄せていたが<ref name="fanroad198105"/>、他に適当な呼び方が無かったこともあり、いつのまにか「ショタコン」は[[少年愛]]者を指す言葉として広く定着していった<ref name="fanroad198201">「少年キャラ♥特集 男の子 だあい好き!!♥ ショタコン特集」『ふぁんろーど』1982年1月号。</ref>。「ショタコン」という言葉を使う者の中には、鉄人28号の金田正太郎のことを直接は知らない可能性も大きいが、それについて浜松は「ロリコンという言葉を使う者の多くが、語源となった[[ウラジーミル・ナボコフ]]の小説の『[[ロリータ]]』を知らないのと同様であり、問題はない」と述べている<ref name="fanroad198401">「男の子♡だあい好き! ショタコン特集2」『ファンロード』1984年1月号。</ref>。
いずれにせよ、そのような性嗜好を持つ女性の存在が顕著になったなどの理由ではなく、一種の言葉遊びから生まれた言葉である。
=== 異説 ===
『[[現代用語の基礎知識]]』の1999年版(1998年発行)と2000年度版(1999年発行)で、「ショタコン=ショートアイズコンプレックス」説が掲載される。ショートアイズとは「目と目の間が狭い少年」という意味であったが、同時にミゲル・マイキー・ピニェイロ([[:es:Miguel Piñero]])の1975年の戯曲の題名(『{{仮リンク|ショートアイズ|en|Short Eyes (play)}}』)でもあり、児童暴行犯を指し示す隠語でもあった。
ただし現在は、前述の通り用語の起源が明らかとなっており、この説は否定されている。なお、『現代用語の基礎知識』では、「ショタコン」の語が初登場する『現代用語の基礎知識1991』より[[米沢嘉博]]執筆により一貫して「ショタコン=正太郎コンプレックス」説が採用されていた。
== 展開 ==
『現代用語の基礎知識』では、1990年発売の1991年度版で初めて登場し、この頃より一般に認知され始めたもよう。「やおい」の項目において「少年趣味」として解説されていた。
1996年発売の『現代用語の基礎知識1997』において「ショタコン」が独立項目化し、この時期にはムーブメントとして確立されていたもよう。当時はロリコンの正反対のものとして扱われていた。
== ショタものの特徴 ==
ショタものの特徴として、多くの場合主人公の少年が相手(男性の場合も女性の場合もある<ref group="注">英語圏では「ショタ」(shota) は主に少年同士を指し、少年と女性(年齢は問わない)の場合は「ストレート・ショタ」(straight shota) と表記し区別されている。</ref>)から誘惑されるというかたちで性描写が行われ、少年が性的に受動的であることが挙げられる。ただし、この傾向は近年の男性向けのポルノ漫画全般にみられるものであり、ライターの[[堀あきこ]]は[[やおい]]が「女性性からの逃避」であると解釈されるのと同様に、これを「男性性からの逃避」として解釈できるのではないかとしている<ref>[[堀あきこ]] 『[[欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差]]』 臨川書店、2009年、226-227頁。ISBN 978-4653040187</ref>。
== おねショタ ==
お姉さん×ショタのカップリングのこと。ここでのお姉さんは年上の女性という意味で使われる。
お兄さん×ショタの場合「おにショタ」となる。
== 児童ポルノ法との関わり ==
1999年5月に公布、11月に施行された[[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律|児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律]]では、当初漫画も規制される方針であった。後にこの規定は削除されたが、1999年には『[[ロミオ (雑誌)|ROMEO]]』をはじめとする多くの成年向けショタ系アンソロジーコミックが休刊・廃刊した<ref>堀あきこ『欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差』226頁。2009年6月。</ref>。
== 同人誌即売会 ==
過去にはショタコン作品を扱った[[同人誌即売会]]「ショタケット」「ショタスクラッチ」が開催されている。
現在では「ショタフェス」<ref>{{Cite web|和書|title=ショタフェス – ショタ同人誌即売会 |url=https://shotafes.com/ |website=shotafes.com |accessdate=2022-01-17}}</ref> などが開催されている。
== ショタ系漫画雑誌 ==
* 好色少年のススメ
* [[少年嗜好|少年嗜好シリーズ]]
* [[少年愛の美学]]
* えろ☆しょた
=== 過去の漫画雑誌 ===
* らぶショタ
* [[ロミオ (雑誌)|ROMEO]]
* 厨子王
* 半熟天使
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
=== 性愛 ===
* [[少年性愛]]
* [[ペドフィリア]](小児性愛、児童性愛)
* [[エフェボフィリア]]
* [[チャイルド・マレスター]]
* [[ロリータ・コンプレックス]](ロリコン)
* [[ロリショタ]]
=== 文化 ===
* [[ショタゲー]]
* [[ショタアニメ]]
{{DEFAULTSORT:しよたこん}}
[[Category:ショタコン|*]]
[[Category:萌え属性]]
[[Category:コンプレックス]]
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17,273 |
恒温動物
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恒温動物(こうおんどうぶつ、英: homeotherm, homoiotherm、仏: animal homéotherme、独: Homoiotherme, homöothermes Tier)とは、気温や水温など周囲の温度に左右されることなく、自らの体温を一定(homeostatic)に保つことができる動物。かつては、定温動物、温血動物とも言われた。対義語は変温動物。しかしその後、動物の体温制御が種によって多様であることが発見されたため、恒温動物と変温動物の2つに分けられるという誤った考えを招くこれらの語は学術的には使われなくなってきている。現在では、それぞれEctotherm(英語版)、Endotherm(英語版)と呼ばれている。
生物における恒温性とは体温の自律的な恒常性のことを指す。哺乳類・鳥類においては、かつては固有かつ普遍の特殊形質であると思われていたこともあるほど一般的に認められる生理的性質である。このため、「恒温動物」という用語は(深い検討を欠いたまま)哺乳類と鳥類のこととほぼ同義的に用いられていた。しかし、生物の体温に関する様々な事実の発見が積み重なるにつれて、それは事実誤認であることがわかってきた。そのため、近年用法が変化してきたり使用頻度が減ってきている用語である。
関連した生物学用語として、「内温性」「外温性」「異温性」がある。
内温性(endothermy)とは体温が主に代謝熱で維持されている状態。外温性(ectothermy)とは体温が主に外部環境によっている状態。つまり恒温動物とは内温動物のうち、自律的に体温を制御している動物である。
異温性(heterothermy)とは、恒温動物において部位、もしくは生理状態の違いにより体温が大幅に異なることをいう。
温血動物(warm blooded animals)という言葉が暗に示すように、恒温性はかつては哺乳類・鳥類に固有かつ普遍の特殊形質であると思われていた。しかし、哺乳類・鳥類以外にも様々な生物で様々なレベルの体熱産生を伴う能動的な体温調節の例が発見され、哺乳類・鳥類においても、ナマケモノやカッコウのように変温動物といっていい体温調節を行うものがあることが知られるようになった。「哺乳類は恒温動物」・「魚類は変温動物」のように単純に2分類することや、ある生物をさして厳密な定義なしに恒温生物か変温生物かを議論することは少なくとも科学的とは言えないものである。
ある生物の体温調節能力や機構を調査することはともかくとして、生物の体温調節能力を恒温と変温に分類することは特に意味があるわけではないので、学問的に厳密な定義を提唱することは近年行われていない。つまり、変温〜内温〜恒温は連続的であり、明瞭に線引きできるものではないし、されていない。
このような煩わしい議論や定義付けを避けるため、近年は“体温が主に代謝熱で維持されている”という意味での「内温性」「内温性動物」や、「高度な体温調節能力がある」といったような表記で留める例が増えている。哺乳類・鳥類以外の生物を記述するときに、あえて「恒温性」と表現し、高度な体温調節機能があることを強調することもある。
恒温が「恒に体温を一定に保つ」ことと考えるなら、そのような動物は発見されていない。「積極的な体熱産生と放散を伴って能動的にある範囲に体温を保つ」こととするならば、動物では様々な分類群に分布する(珍しくもない)生理特性である。例えばウミガメ、ネズミザメ類やマグロ類、昆虫類にはほぼ一定の体温を保ち、0°Cの気温や、10°Cの冷水の中でも活発に活動するものがある。この時の体温はヒトやセイヨウオオマルハナバチでは40°C付近であるが、アカウミガメで23°C付近、ホホジロザメで26°C付近と比較的低い。つまり、アカウミガメやホホジロザメは“冷血”の“恒温動物”である。また、カツオやアキアカネ、カモノハシ、カッコウ等の活動時体温は外水(気)温よりも5〜10°C以上高く、40°Cに達することもあるが、外温や運動の有無で体温が浮動し安定しない。つまり“温血”の“変温動物”である。このことからもわかるように、よく見る右図のような温度分布図は、その時の体温の高低を示しているに過ぎず、恒温動物と変温動物との差を象徴的に表すものではない。温血動物という言葉が用語として不適切なゆえんでもある。
植物においてもザゼンソウ、ヒトデカズラ(Philodendron selloum)、ハスなど、花器を開花期間中一定の温度に保つものが存在する。例えばザゼンソウでは4°Cから15°Cの外気温中で、肉穂花序の温度を24°C±1°C以内に保つが、これは多くの哺乳類や鳥類の体温日周変動幅より小さい。ただし、植物や昆虫における体温維持は花器や胸部など必要な部分および期間のみであることが多い。なお、鳥類や哺乳類も厳密な意味では全身の体温を保っているわけではない。耳介や足先などは大きく体温が変動する。ただし、日周変動の幅が1°C以内の体温(ヒト程度)を生涯保つような種の多くは、哺乳類か鳥類である。
ウミガメやマグロでは若齢個体は典型的な変温動物であり、成長するに従って体温調節能力が上がる。哺乳類や鳥類でも小型の若齢個体の体温調節機能は不完全で体温変動幅が大きいことが多く、親の庇護や温暖な環境で成長する。成体の体温も一定ではなく、休息時、活動時、生殖時、疾病時、部位などで体温が異なるのは一般的であり、場合によっては大きく異なる(異温性)。
例えばカモやツルなどの低温地域に住む鳥類では足の体温が外気温程度まで低下することは珍しくなく、冬眠時のヤマネや小型コウモリ等の体温は全身において外気温に近いところまで低下する。ハチドリや小型コウモリでは活動時の体温は40°C程度だが睡眠時は外気温程度まで低下するものがある。
この程度の体温制御を行う昆虫はヤンマやスズメガをはじめとして数多く存在する。すなわち、ハチドリやコウモリが異温性の恒温動物であるとするならば、ヤンマやスズメガも恒温動物といえる。ナマケモノやカッコウに至っては外気温や運動の有無により活動時の体温すら大きく変動する。ここまでくると恒温動物とは言えないであろう。ミツバチは産卵から死亡時まで体温を30°C以上に保つ。しかも、10°C以下では動けなくなり、それが一定期間以上続くと死亡する。セイヨウミツバチは1種で熱帯から極地まで分布し、アイスランドの厳冬下でも巣外活動こそ行わないが冬眠することはない。蓄えた食料で産卵・育児さえも行う。つまり、多くの哺乳類や鳥類よりも恒温動物的に活動するのである。しかし、ミツバチは巣内活動時では体温を主に体外の気温(=巣内温)によっているため、恒温動物どころか内温動物にも入れないことが多い。
内温性の利点とは外温から体温をよりその生物の最適温に近づけられることである。このため、動物では気候帯を越えるような広域分布種の多くは恒温もしくは内温性である。恒温性生物とは、内温性生物のなかでもある程度広い温度域の中で最適温度近辺の体温を保てるほど高度な体温制御機構を発達させた生物である。
恒温性、内温性の意義について、よくある誤解として「温度が高いほど化学反応が速く進むために体温を高く保つ」というものがある。これならば最低体温は(最低限の活動性を保証するために)安定するが、最高体温はある程度変動するはずである。また、高い温度により化学反応が速ければ速いほど有利なのであれば人間の発汗のような冷却機能は不要なはずである。事実は逆で、内温性生物でまず安定するのは最高体温であり、典型的な変温性とされる生物でも冷却機能は備えていることが多い(例:陸上維管束植物の気孔開閉や葉の定位運動)。生物体内の酵素は温度により活性が変化するために単純に高温で反応が早くなるわけではなく、酵素反応の最適温はその生物にとっての最適温でもない。例えば多くのアミラーゼ(デンプン分解酵素)は60°C近辺に反応最適温を持つが、それを産生する多くの生物(ヒトや麹菌など)は60°Cでは死亡してしまう。生物には活動最適温があり、必要以上の体温上昇は危険である(熱中症)。
また、より非活動的な生物、例えば植物ではごく少数例しか発見されていない。恒温性とされるのは2007年現在世界で上記のハス・ザゼンソウ・ヒトデカズラの3種でしかも恒温部分は開花中の花器ないし花序のみである。内温性はより広くの種や部位で認められ、例えば多くの大型樹木は早春の萌芽期初期には周囲の雪が融解するほど体温を上昇させ、幹で数度の温度を保つ。このことにより、零度以下の気温の中で糖類の転流を促進する。これも恒温性とは見なせないが、広くとらえれば内温性とは見なせる。
恒温といえるほどに体温を安定させるためには産熱と冷却を行わねばならない。後述するように体温を上昇させることは産熱を盛んにし体表面の断熱性を向上させればよいので比較的容易である。しかし、外気温以上に冷却することは困難である。そのためか、多くの恒温動物、特に放熱に不利な陸上生物では住環境温度よりもかなり高い体温(30-44°C)を持つのが普通である。多くの鳥類や哺乳類、ミツバチなど高度の体温恒常性を持つ生物では、低気温時のみならず休息や睡眠時にもさほど体温を下げられない(下げると死亡する。=低体温症を参照)。この体表から逃げる熱を補うための熱を体内で作り続ける=餌が大量に必要であり、食糧確保の面で変温動物よりもリスクが大きい。おおざっぱに言って、同程度の体重の変温動物の数十倍程度(双方最適体温の時。同体温で比べれば数倍程度)の代謝率(≒必要食料量および産熱量)であるとされている。例えば、コアラとナマケモノは樹上で木の葉を摂食し、ほとんどを眠って過ごすというよく似た生態と同程度の体重を持つ哺乳類であるが、典型的な恒温動物とされるコアラの日当たり摂食量は500g以上に達するのに対し、典型的な変温動物とされるナマケモノは10g程度である。
このため、体温の維持が難しい寒冷地に生息する小型種を中心に休息時や冬眠・睡眠時、低気温時などでは維持設定体温を下げる、もしくは体温を維持しないという適応するものが存在する。
ただし、一般論として、変温動物も恒温動物も体重が大きくなればなるほど体重あたり代謝率は下がる(Kleibarの法則;全代謝量は体重の3/4 乗に比例)ことに留意する必要がある。例えば体重5g程度の典型的な変温動物であるニホンカナヘビ(@20°C)の代謝率は体重が100万倍、5t程度の典型的な恒温動物のアフリカゾウの代謝率と同程度であり、シロナガスクジラ(100〜200t)よりは大幅に高い。つまり、他の要因も関係するが、変温動物の方が体重あたり要求餌量が少なくてすむとか絶食耐性があるということは一概には言えない(例えばマッコウクジラの回遊時の推定絶食期間は数か月にもおよび、ほとんどの変温動物よりも絶食耐性が高い)。
同じ体型であれば、体表面積は体長の2乗に体重は体長の3乗に比例し、体が大きいほど体重あたりの体表面積は小さくなる。つまり体格が大きい方が冷却には不利、保温には有利となる。このため、恒温動物では近縁あるいは同種の間では寒い地域では体が大きく、暑い地域では体が小さくなる傾向がある。これがベルクマンの法則である。
例えばトラではシベリアの亜種(アムールトラ)が最も体格が大きく、ジャワ島の亜種(ジャワトラ)で最も小さい。イエスズメでは、北米にヨーロッパから移入されてから150年程度でフロリダの集団とカナダの集団では亜種レベルの体格差が生じたことが知られている。同一個体中でも、ウミガメやマグロ類では熱帯や亜熱帯の浅海域で成長し、大型になるに従って高緯度地域や深海域に活動範囲を広げる。例えばオサガメの成体は亜寒帯域まで生息するが、産卵は主に熱帯域、幼体は亜熱帯域までしか認められていない。クジラ類では食料が少ないにもかかわらず温帯域や亜熱帯域まで移動して産仔を行う種が多い。亜寒帯以北で生活環を完了するネズミザメでは一腹産子数は4匹以下と少なく、体長80cm程度以上の大きな子供を産む。一方、比熱・熱伝導率が大きく放熱に有利な水中環境では大型化できる。クジラ類は海水に熱を逃がすことができるため例外的に巨大化しているが海水に浸かっていないと体温が上がりすぎて死に至るといわれる。また、大型のマグロ類を釣り上げたときは速やかに冷却しないと急速に体温が上昇するため肉が傷み(ヤケ)商品とならないことが知られている。
最小級の哺乳類と鳥類であるチビトガリネズミ、キティブタバナコウモリやマメハチドリ、前述のスズメガやヤンマ類の体重も1.5g程度以上であり、1個体のみで体温を安定的に維持するのはこの辺が限界であろうとされている。彼らは大量の餌を採るが、その多くは体温維持にのみ使われているわけである。ハチドリやコウモリはあまりの小型化したため恒常的な体温維持が難しくなったため、前記のような変温的な体温制御をおそらく再獲得したのであろう。だが、その制御は不完全なためか、よく似たニッチ(生態的地位)を占めるスズメガやヤンマに比べ分布域、種数ともに大幅に少ない。トガリネズミは相当するニッチを占める動物がいないためか全世界的に分布する。しかし、地上徘徊性食虫動物としては、同程度の大きさのオサムシやムカデ、カエルやトカゲより繁栄しているとは言い難い。このように小型動物のニッチの多くは変温的体温調節のできる昆虫を始めとした節足動物、爬虫類、両生類、魚類などで占められている。
大型の魚類や爬虫類で体温変動が少ない物を「慣性恒温性」として区別することが多い。しかし、鳥類や哺乳類でも大型の物の方が体温が安定しているのが普通である。慣性恒温性(Gigantothermy)とは体温調節能力がなくても(変温動物であっても)体格が大きければ、比較的安定した高い体温を保てる、という意味であり、巨大な体温が安定した生物は慣性恒温性動物(Gigantotherm)であるという意味ではない。
また、当初は単なるGigantothermであるとされたウミガメ類もそこから類推されるよりも体温が安定しており、低温の餌を食べても深海の低温部に潜っても体中心部の温度はほとんど変動しない。このことから、現在ではウミガメ類に体温調節能力がないとは考えられておらず、オサガメではその体温調節機構もかなり詳しく調査されている。ウミガメやネズミザメを慣性恒温性動物として区別するのならば、その10〜100倍以上の体重を持つゾウやクジラは慣性恒温性動物として区別されねばならない。また、ゾウガメ(大抵のウミガメより重い)、イリエワニ(大抵のマグロやネズミザメよりも重い)のように大型でも体温が安定しないものもある。大型サボテン類は100kg以上の生きた部分を持つものも多いが体温は安定しない。産熱部分である体格が大きいことは相対的な低温下で体温を保つ上で有利ではあるが、それだけで体温を保てるものではない(数百リットルあっても風呂の湯はすぐ冷めることを思い出して欲しい)。むしろ、体温維持能力を持たないのに大きな体格を持った場合、寒冷な季節にいったん体温が下がると回復がかえって困難である(熱容量が大きく日光浴程度では体温が上がらない→体産熱も増えない→活動を開始できない)。逆に温暖な季節ではそのような巨大な体格では放熱がうまくいかず熱死してしまう。
つまり、温度が比較的一定した条件、もしくは寒暖が短期間で交代し熱慣性が大きければ許容体温の範囲内で収まる条件でないと熱慣性に頼った恒温性は機能しない。現実にも、変温動物では北方ほど小型化することが多く(逆ベルクマンの法則)、ニシキヘビやワニのような活動的な大型の変温動物は熱帯や亜熱帯に分布しており、寒冷な地域には分布していない。つまり恒温性大型動物を慣性恒温性動物として区別する意義はほとんどないであろう。
現生動物で慣性恒温性を積極的に利用しているとされるものには、皮肉なことに哺乳類のラクダがある。ラクダでは飲食物が欠乏する場合、昼夜温の差が激しい砂漠において、夜は低体温を許容し、昼は高体温を許容する。このことにより、その大きな体格による熱慣性を利用して、比較的低コストで一日を通しての体温変動を少なくしているとされている(アフリカゾウも同様のことをしている可能性が指摘されている。もしそうであれば、ゾウはGigantothermと本当にいっていいかもしれない)。慣性恒温性とはいえないが積極的に大きな体格による熱慣性を利用している他の例としては、ガラパゴスのウミイグアナがある。ウミイグアナは日光浴をして体温を上げた後に冷たい海中で海藻を摂食する。ウミイグアナが同所的に生息するリクイグアナよりも体格が大きいのはこの時に熱慣性が大きいことが有利であるからであるとの説がある。
静止時、つまり運動による産熱がない状態で、体温を保てるかどうかで恒温性かどうか区別することもある。マグロ類やネズミザメは生きている限り運動を続けるので、わざわざ別途の産熱機能を持つ必要がない。そして10°C水中で長時間体温(そして生命も)を保てる哺乳類や鳥類は少数派であるが、ネズミザメやマグロは保てる。つまりこれも、深層意識として「鳥類や哺乳類は特別優秀」という意識が働いているためにする区別であろう。
体積に対する表面積の割合が大きくなる=外気温の影響を受けやすい、という観点から突出部である尾、耳、羽などが寒い地域では小さく暑い地域では大きくなる傾向も認められる。こちらはアレンの法則と呼ばれる。アレンの法則でもわかるように、体積に対する表面積の割合を小さくする必要性から、外部形状の自由度が低くなることも指摘されている。このため、恒温動物はニッチの近い近縁の変温動物と比較して丸い印象を与える体型、すなわち、より球に近い体型をしている。
例えば、土中や狭いところを主な活動場所にする場合、ヘビ、トカゲやミミズのように細長い体型やゴキブリのように平面的な体型が有利なことが多い。しかしモグラやネズミなどの恒温動物ではこのような体型をしている種は認められていない。ハナカマキリやナナフシ、カレイのような極端な隠蔽形状を持つ種も認められていない。通常は体温を積極的に維持しないニシキヘビ類において抱卵時は安定した高体温を保つものがあるが(アミメニシキヘビでは100日程度の抱卵時は華氏88〜91度≒29〜33°Cを保つ。他のニシキヘビも同程度)、このときは筋肉を震わせて産熱量を上げると共に、卵を中心としてトグロを巻くことにより露出表面積を下げる。
同じ程度の大きさのハチであっても、ハナバチ類(ミツバチ、クマバチ、マルハナバチなど)は内温動物的、カリバチ類(ジガバチ、アシナガバチ、スズメバチなど)は、ほぼ完全な変温動物であることが多い。カリバチ類は光沢がありスマートな形状をし、比較的羽も長いのに対し、ハナバチ類は丸く毛が生え羽も短く、もこもこした印象を与える。狩りバチ類が恒温性を持たないのは、おそらく他の動物を狩る必要があり、ハナバチ類のような形状では運動性が落ちてしまうからではないかと思われる。内温による活動時間の延長や安定した運動性能によるメリットよりも、毛が生えることによる空気抵抗の増加や、丸い体型による運動性の低下によるデメリットの方が大きいのであろう。
ミツバチ(セイヨウミツバチの働き蜂の体重:0.08〜0.15g、ニホンミツバチはやや小さい)も体格が小さく、しかも体温を下げると死につながる。しかし、断熱性に優れた閉鎖空間である巣内にて集団で休息することで温度が逃げないようにしている。このことで小型動物における恒温性によるエネルギーの浪費を上手く回避している。活動時、特に飛行時はエネルギー消費=体熱産生が大きいため、ミツバチのような小型動物でも体温が保てる。
このような適応はもちろんミツバチだけではなく、小型の恒温動物は閉鎖空間で丸まったり集団で休息するのが普通である。ミツバチは暖かい巣内(正確には蜂集団内)で休息し「エンジンを掛けてから」飛び立てるため、早春から晩秋(外気温10°C以上)まで広範囲の気温下で活動できる。また、死につながるため、高温期以外は巣外(正確には蜂集団外)では休息しない。このようにして巣外活動時を含めニホンミツバチでは40〜41°C、セイヨウミツバチでは30〜36°Cの体温(正確には胸部温)を維持している。巣温が下がりすぎたときは胸をふるわせると共に蜂集団の個体密度を上げ、冬期でも、蜂集団内温度をほぼ一定温度(ニホンミツバチは33〜36°C。セイヨウミツバチは冬季かつ非育児期は20〜22°C、それ以外は30〜35°C)に保つ。上がりすぎたときは水を撒いて旋風行動を取ることで冷却する。
より積極的に巣構造を用いて体温を保つ例としては、オオキノコシロアリ類があげられる。ミツバチとは異なり彼らの体そのものにはほとんど体温維持機能はないと思われるが、巣の構造と栽培菌類および自身の呼吸熱そして地下からくみあげた水の気化熱により巣内温度を高度に安定させる。homeotherm(自律的体温恒常性を持つ生物)という言葉には“巣を用いてはいけない”という規定はないため、字義通りに解釈すればオオキノコシロアリは恒温動物である。
大型の不均翅亜目、例えばオニヤンマでは40°C程度、ヤンマ類ではそれより数度高い程度に飛翔中の体温(正確には胸部温)を保っている。高気温下では飛翔速度を下げ、低気温下では飛翔速度を上げる(熱産生を大きくする)こと、低気温時の飛翔前には羽を震わせるウォームアップと呼ばれる行動で体温を上昇させること、過熱時には腹部を持ち上げたオベリスクと呼ばれる姿勢をとって太陽光を受ける面積をできるだけ少なくすることなどによってこの体温を維持していることが知られている。低体温時の飛行前ウォームアップは内温性昆虫では一般的で、種によっては数°Cの体温・気温時に30°C以上まで胸部温を上昇させることができる。なお、不均翅亜目いわゆるトンボ類や完全変態昆虫には恒温、とはいえないまでも外気温よりも10°C以上高い体温を保つことができる内温動物が多種類存在する。
マグロやネズミザメでは生涯泳ぎ続けることにより熱産生を行う。それと共に、体表面と体内部との間に奇網とよばれる、血管が絡み合った対流式熱交換器がある。これによって体中央部からの血液が暖かいまま冷たい体周辺部へ直接流れないように、また体周辺部からの血液が冷たいまま暖かい体中央部へ流れ込まないようになっている。アカマンボウでは、心臓とえらの間にも奇網があり、より体温の維持能力が高く深海でも活発な活動が可能とされる。
カモ類など寒冷地の水鳥でも足と胴体の間にこの奇網がある。また、マルハナバチやミツバチも発熱部である胸部と放熱部である腹部の間に対流式熱交換器を備え、そこの血流量を調節することで放熱量を制御すると共に胸部温を保つ。
発汗による体温低下はヒトで行われるため一般的であるように感じるが、水や塩分の浪費につながるため、哺乳類のうちでもヒトやウマなどごく一部の種しか行わない。逆に言えば、人間や馬は発汗による効果的な放熱により高温下でも激しい運動ができる。
このように体温維持の機構は様々である。
現生動物において比較するかぎり、体温の恒常性の有無と成長速度、あるいは急速な成長期の有無には関連性は特に認められない。例えば、典型的な恒温動物であるヒトは誕生してから15年で体長で4倍・体重で20倍程度に成長するに過ぎないが、典型的な変温動物であるカイコは30日で体長で30倍・体重で5000倍にも成長する。同じく変温動物であるニホンカナヘビでは1年で体重で20倍程度、人間と同程度の成体体重の陸上脊椎動物であるアミメニシキヘビ(15歳程度)の誕生時体重は100g程度(つまり5〜600倍)であり、ワニの成長速度はこれよりも速い。
また、完全変態昆虫の多くは幼虫期は非常に急速に成長し、成虫はほとんど成長しない。つまり成長期が存在する。しかも、スズメガを見ればわかるようにほとんど成長しない成虫は恒温性であっても急速な成長をする幼虫期は通常典型的な変温動物である。四肢動物でも同様で、典型的な変温動物であるアマガエルやアベコベガエルは幼体であるオタマジャクシは急速に成長するが、上陸後のカエルの体重増加は非常に緩やかである。ニホンカナヘビでも最初の一年は体重が急速に増加するがその後(5〜6年の寿命がある)の体重増加は緩やかである。
これらは決して特殊な例外ではない。逆の例(恒温・内温動物の方が成長が早い・成長期がある)を例示することも極めて容易である(上の例を、ヒト→ゾウガメ、カイコ→カンガルーやミツバチ、ニホンカナヘビ→ウサギ、アミメニシキヘビ→ウシ、ワニ→ライオンなどとし、倍率なども適宜動かせばよい)。つまり、化石生物などで個体の成長速度が速いことや、急速な成長期があることが類推できる形質が認められても、恒温動物であろう、もしくは逆に変温動物であろうという推定は成立しない。むしろ、恒温変温にかかわらずr戦略傾向を強く持つ種では成長速度が速く(ハツカネズミ、ネコやニホントカゲでは誕生4週で3倍程度)、K戦略傾向を強く持つ種の成長速度は遅い(ヒト、ウシやムカシトカゲでは誕生1年で3倍程度)。
また、骨や歯、角、鱗、耳石のような硬組織における年輪のような成長線の有無で恒温と変温の推定をすることもあるが、これはその個体の当該硬組織の成長速度に大きな変動があり、かつ、それが残ったことを示しているに過ぎない。つまり、成長線があったからと言って、変温動物である、もしくは無ければ恒温動物である、とはいえない(つまり化石などによる体温調節能の憶測は非常に困難)。
現生生物の例では、通常典型的な恒温動物である大型哺乳類にも成長線が形成されるものがたくさん存在する。クジラ類の歯や骨、ウシ類の角や象牙には明確に成長線があり、シカ類の骨格や歯にもしばしば認められる。また、通常、成長線のできないヒトの骨においても、季節的に飢餓状態に置かれたことによると思われる成長線(飢餓線:ハリス線、Harris' Line)が認められる例がある。野生のイノシシの牙には通常明瞭な成長線があるが、飼育下のブタでは観察されない。これも野生下では栄養状態に季節的変動があるが飼育下ではほとんどないことが原因であろうと推定されている。
季節変動のある地域で数年以上にわたって成長し、成長が季節変動する変温動物は数多くあるが、その硬組織に成長の変動が残るとも限らない。例えばセミやロブスターは何年にもわたって成長する変温動物であるが、硬組織を脱皮によって捨てるため成長線は残らない。当たり前であるが季節変動のない地域に生息している変温動物、例えば熱帯のワニ類やニシキヘビ類には基本的に成長線は認められない。
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"text": "恒温動物(こうおんどうぶつ、英: homeotherm, homoiotherm、仏: animal homéotherme、独: Homoiotherme, homöothermes Tier)とは、気温や水温など周囲の温度に左右されることなく、自らの体温を一定(homeostatic)に保つことができる動物。かつては、定温動物、温血動物とも言われた。対義語は変温動物。しかしその後、動物の体温制御が種によって多様であることが発見されたため、恒温動物と変温動物の2つに分けられるという誤った考えを招くこれらの語は学術的には使われなくなってきている。現在では、それぞれEctotherm(英語版)、Endotherm(英語版)と呼ばれている。",
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"text": "生物における恒温性とは体温の自律的な恒常性のことを指す。哺乳類・鳥類においては、かつては固有かつ普遍の特殊形質であると思われていたこともあるほど一般的に認められる生理的性質である。このため、「恒温動物」という用語は(深い検討を欠いたまま)哺乳類と鳥類のこととほぼ同義的に用いられていた。しかし、生物の体温に関する様々な事実の発見が積み重なるにつれて、それは事実誤認であることがわかってきた。そのため、近年用法が変化してきたり使用頻度が減ってきている用語である。",
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"text": "関連した生物学用語として、「内温性」「外温性」「異温性」がある。",
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"text": "内温性(endothermy)とは体温が主に代謝熱で維持されている状態。外温性(ectothermy)とは体温が主に外部環境によっている状態。つまり恒温動物とは内温動物のうち、自律的に体温を制御している動物である。",
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"text": "異温性(heterothermy)とは、恒温動物において部位、もしくは生理状態の違いにより体温が大幅に異なることをいう。",
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"text": "温血動物(warm blooded animals)という言葉が暗に示すように、恒温性はかつては哺乳類・鳥類に固有かつ普遍の特殊形質であると思われていた。しかし、哺乳類・鳥類以外にも様々な生物で様々なレベルの体熱産生を伴う能動的な体温調節の例が発見され、哺乳類・鳥類においても、ナマケモノやカッコウのように変温動物といっていい体温調節を行うものがあることが知られるようになった。「哺乳類は恒温動物」・「魚類は変温動物」のように単純に2分類することや、ある生物をさして厳密な定義なしに恒温生物か変温生物かを議論することは少なくとも科学的とは言えないものである。",
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"text": "ある生物の体温調節能力や機構を調査することはともかくとして、生物の体温調節能力を恒温と変温に分類することは特に意味があるわけではないので、学問的に厳密な定義を提唱することは近年行われていない。つまり、変温〜内温〜恒温は連続的であり、明瞭に線引きできるものではないし、されていない。",
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"text": "このような煩わしい議論や定義付けを避けるため、近年は“体温が主に代謝熱で維持されている”という意味での「内温性」「内温性動物」や、「高度な体温調節能力がある」といったような表記で留める例が増えている。哺乳類・鳥類以外の生物を記述するときに、あえて「恒温性」と表現し、高度な体温調節機能があることを強調することもある。",
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"text": "恒温が「恒に体温を一定に保つ」ことと考えるなら、そのような動物は発見されていない。「積極的な体熱産生と放散を伴って能動的にある範囲に体温を保つ」こととするならば、動物では様々な分類群に分布する(珍しくもない)生理特性である。例えばウミガメ、ネズミザメ類やマグロ類、昆虫類にはほぼ一定の体温を保ち、0°Cの気温や、10°Cの冷水の中でも活発に活動するものがある。この時の体温はヒトやセイヨウオオマルハナバチでは40°C付近であるが、アカウミガメで23°C付近、ホホジロザメで26°C付近と比較的低い。つまり、アカウミガメやホホジロザメは“冷血”の“恒温動物”である。また、カツオやアキアカネ、カモノハシ、カッコウ等の活動時体温は外水(気)温よりも5〜10°C以上高く、40°Cに達することもあるが、外温や運動の有無で体温が浮動し安定しない。つまり“温血”の“変温動物”である。このことからもわかるように、よく見る右図のような温度分布図は、その時の体温の高低を示しているに過ぎず、恒温動物と変温動物との差を象徴的に表すものではない。温血動物という言葉が用語として不適切なゆえんでもある。",
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"text": "植物においてもザゼンソウ、ヒトデカズラ(Philodendron selloum)、ハスなど、花器を開花期間中一定の温度に保つものが存在する。例えばザゼンソウでは4°Cから15°Cの外気温中で、肉穂花序の温度を24°C±1°C以内に保つが、これは多くの哺乳類や鳥類の体温日周変動幅より小さい。ただし、植物や昆虫における体温維持は花器や胸部など必要な部分および期間のみであることが多い。なお、鳥類や哺乳類も厳密な意味では全身の体温を保っているわけではない。耳介や足先などは大きく体温が変動する。ただし、日周変動の幅が1°C以内の体温(ヒト程度)を生涯保つような種の多くは、哺乳類か鳥類である。",
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"text": "ウミガメやマグロでは若齢個体は典型的な変温動物であり、成長するに従って体温調節能力が上がる。哺乳類や鳥類でも小型の若齢個体の体温調節機能は不完全で体温変動幅が大きいことが多く、親の庇護や温暖な環境で成長する。成体の体温も一定ではなく、休息時、活動時、生殖時、疾病時、部位などで体温が異なるのは一般的であり、場合によっては大きく異なる(異温性)。",
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"text": "例えばカモやツルなどの低温地域に住む鳥類では足の体温が外気温程度まで低下することは珍しくなく、冬眠時のヤマネや小型コウモリ等の体温は全身において外気温に近いところまで低下する。ハチドリや小型コウモリでは活動時の体温は40°C程度だが睡眠時は外気温程度まで低下するものがある。",
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"text": "この程度の体温制御を行う昆虫はヤンマやスズメガをはじめとして数多く存在する。すなわち、ハチドリやコウモリが異温性の恒温動物であるとするならば、ヤンマやスズメガも恒温動物といえる。ナマケモノやカッコウに至っては外気温や運動の有無により活動時の体温すら大きく変動する。ここまでくると恒温動物とは言えないであろう。ミツバチは産卵から死亡時まで体温を30°C以上に保つ。しかも、10°C以下では動けなくなり、それが一定期間以上続くと死亡する。セイヨウミツバチは1種で熱帯から極地まで分布し、アイスランドの厳冬下でも巣外活動こそ行わないが冬眠することはない。蓄えた食料で産卵・育児さえも行う。つまり、多くの哺乳類や鳥類よりも恒温動物的に活動するのである。しかし、ミツバチは巣内活動時では体温を主に体外の気温(=巣内温)によっているため、恒温動物どころか内温動物にも入れないことが多い。",
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"text": "内温性の利点とは外温から体温をよりその生物の最適温に近づけられることである。このため、動物では気候帯を越えるような広域分布種の多くは恒温もしくは内温性である。恒温性生物とは、内温性生物のなかでもある程度広い温度域の中で最適温度近辺の体温を保てるほど高度な体温制御機構を発達させた生物である。",
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"text": "恒温性、内温性の意義について、よくある誤解として「温度が高いほど化学反応が速く進むために体温を高く保つ」というものがある。これならば最低体温は(最低限の活動性を保証するために)安定するが、最高体温はある程度変動するはずである。また、高い温度により化学反応が速ければ速いほど有利なのであれば人間の発汗のような冷却機能は不要なはずである。事実は逆で、内温性生物でまず安定するのは最高体温であり、典型的な変温性とされる生物でも冷却機能は備えていることが多い(例:陸上維管束植物の気孔開閉や葉の定位運動)。生物体内の酵素は温度により活性が変化するために単純に高温で反応が早くなるわけではなく、酵素反応の最適温はその生物にとっての最適温でもない。例えば多くのアミラーゼ(デンプン分解酵素)は60°C近辺に反応最適温を持つが、それを産生する多くの生物(ヒトや麹菌など)は60°Cでは死亡してしまう。生物には活動最適温があり、必要以上の体温上昇は危険である(熱中症)。",
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"text": "また、より非活動的な生物、例えば植物ではごく少数例しか発見されていない。恒温性とされるのは2007年現在世界で上記のハス・ザゼンソウ・ヒトデカズラの3種でしかも恒温部分は開花中の花器ないし花序のみである。内温性はより広くの種や部位で認められ、例えば多くの大型樹木は早春の萌芽期初期には周囲の雪が融解するほど体温を上昇させ、幹で数度の温度を保つ。このことにより、零度以下の気温の中で糖類の転流を促進する。これも恒温性とは見なせないが、広くとらえれば内温性とは見なせる。",
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"text": "恒温といえるほどに体温を安定させるためには産熱と冷却を行わねばならない。後述するように体温を上昇させることは産熱を盛んにし体表面の断熱性を向上させればよいので比較的容易である。しかし、外気温以上に冷却することは困難である。そのためか、多くの恒温動物、特に放熱に不利な陸上生物では住環境温度よりもかなり高い体温(30-44°C)を持つのが普通である。多くの鳥類や哺乳類、ミツバチなど高度の体温恒常性を持つ生物では、低気温時のみならず休息や睡眠時にもさほど体温を下げられない(下げると死亡する。=低体温症を参照)。この体表から逃げる熱を補うための熱を体内で作り続ける=餌が大量に必要であり、食糧確保の面で変温動物よりもリスクが大きい。おおざっぱに言って、同程度の体重の変温動物の数十倍程度(双方最適体温の時。同体温で比べれば数倍程度)の代謝率(≒必要食料量および産熱量)であるとされている。例えば、コアラとナマケモノは樹上で木の葉を摂食し、ほとんどを眠って過ごすというよく似た生態と同程度の体重を持つ哺乳類であるが、典型的な恒温動物とされるコアラの日当たり摂食量は500g以上に達するのに対し、典型的な変温動物とされるナマケモノは10g程度である。",
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"paragraph_id": 19,
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"text": "同じ体型であれば、体表面積は体長の2乗に体重は体長の3乗に比例し、体が大きいほど体重あたりの体表面積は小さくなる。つまり体格が大きい方が冷却には不利、保温には有利となる。このため、恒温動物では近縁あるいは同種の間では寒い地域では体が大きく、暑い地域では体が小さくなる傾向がある。これがベルクマンの法則である。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "例えばトラではシベリアの亜種(アムールトラ)が最も体格が大きく、ジャワ島の亜種(ジャワトラ)で最も小さい。イエスズメでは、北米にヨーロッパから移入されてから150年程度でフロリダの集団とカナダの集団では亜種レベルの体格差が生じたことが知られている。同一個体中でも、ウミガメやマグロ類では熱帯や亜熱帯の浅海域で成長し、大型になるに従って高緯度地域や深海域に活動範囲を広げる。例えばオサガメの成体は亜寒帯域まで生息するが、産卵は主に熱帯域、幼体は亜熱帯域までしか認められていない。クジラ類では食料が少ないにもかかわらず温帯域や亜熱帯域まで移動して産仔を行う種が多い。亜寒帯以北で生活環を完了するネズミザメでは一腹産子数は4匹以下と少なく、体長80cm程度以上の大きな子供を産む。一方、比熱・熱伝導率が大きく放熱に有利な水中環境では大型化できる。クジラ類は海水に熱を逃がすことができるため例外的に巨大化しているが海水に浸かっていないと体温が上がりすぎて死に至るといわれる。また、大型のマグロ類を釣り上げたときは速やかに冷却しないと急速に体温が上昇するため肉が傷み(ヤケ)商品とならないことが知られている。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "最小級の哺乳類と鳥類であるチビトガリネズミ、キティブタバナコウモリやマメハチドリ、前述のスズメガやヤンマ類の体重も1.5g程度以上であり、1個体のみで体温を安定的に維持するのはこの辺が限界であろうとされている。彼らは大量の餌を採るが、その多くは体温維持にのみ使われているわけである。ハチドリやコウモリはあまりの小型化したため恒常的な体温維持が難しくなったため、前記のような変温的な体温制御をおそらく再獲得したのであろう。だが、その制御は不完全なためか、よく似たニッチ(生態的地位)を占めるスズメガやヤンマに比べ分布域、種数ともに大幅に少ない。トガリネズミは相当するニッチを占める動物がいないためか全世界的に分布する。しかし、地上徘徊性食虫動物としては、同程度の大きさのオサムシやムカデ、カエルやトカゲより繁栄しているとは言い難い。このように小型動物のニッチの多くは変温的体温調節のできる昆虫を始めとした節足動物、爬虫類、両生類、魚類などで占められている。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "大型の魚類や爬虫類で体温変動が少ない物を「慣性恒温性」として区別することが多い。しかし、鳥類や哺乳類でも大型の物の方が体温が安定しているのが普通である。慣性恒温性(Gigantothermy)とは体温調節能力がなくても(変温動物であっても)体格が大きければ、比較的安定した高い体温を保てる、という意味であり、巨大な体温が安定した生物は慣性恒温性動物(Gigantotherm)であるという意味ではない。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、当初は単なるGigantothermであるとされたウミガメ類もそこから類推されるよりも体温が安定しており、低温の餌を食べても深海の低温部に潜っても体中心部の温度はほとんど変動しない。このことから、現在ではウミガメ類に体温調節能力がないとは考えられておらず、オサガメではその体温調節機構もかなり詳しく調査されている。ウミガメやネズミザメを慣性恒温性動物として区別するのならば、その10〜100倍以上の体重を持つゾウやクジラは慣性恒温性動物として区別されねばならない。また、ゾウガメ(大抵のウミガメより重い)、イリエワニ(大抵のマグロやネズミザメよりも重い)のように大型でも体温が安定しないものもある。大型サボテン類は100kg以上の生きた部分を持つものも多いが体温は安定しない。産熱部分である体格が大きいことは相対的な低温下で体温を保つ上で有利ではあるが、それだけで体温を保てるものではない(数百リットルあっても風呂の湯はすぐ冷めることを思い出して欲しい)。むしろ、体温維持能力を持たないのに大きな体格を持った場合、寒冷な季節にいったん体温が下がると回復がかえって困難である(熱容量が大きく日光浴程度では体温が上がらない→体産熱も増えない→活動を開始できない)。逆に温暖な季節ではそのような巨大な体格では放熱がうまくいかず熱死してしまう。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "つまり、温度が比較的一定した条件、もしくは寒暖が短期間で交代し熱慣性が大きければ許容体温の範囲内で収まる条件でないと熱慣性に頼った恒温性は機能しない。現実にも、変温動物では北方ほど小型化することが多く(逆ベルクマンの法則)、ニシキヘビやワニのような活動的な大型の変温動物は熱帯や亜熱帯に分布しており、寒冷な地域には分布していない。つまり恒温性大型動物を慣性恒温性動物として区別する意義はほとんどないであろう。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "現生動物で慣性恒温性を積極的に利用しているとされるものには、皮肉なことに哺乳類のラクダがある。ラクダでは飲食物が欠乏する場合、昼夜温の差が激しい砂漠において、夜は低体温を許容し、昼は高体温を許容する。このことにより、その大きな体格による熱慣性を利用して、比較的低コストで一日を通しての体温変動を少なくしているとされている(アフリカゾウも同様のことをしている可能性が指摘されている。もしそうであれば、ゾウはGigantothermと本当にいっていいかもしれない)。慣性恒温性とはいえないが積極的に大きな体格による熱慣性を利用している他の例としては、ガラパゴスのウミイグアナがある。ウミイグアナは日光浴をして体温を上げた後に冷たい海中で海藻を摂食する。ウミイグアナが同所的に生息するリクイグアナよりも体格が大きいのはこの時に熱慣性が大きいことが有利であるからであるとの説がある。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "静止時、つまり運動による産熱がない状態で、体温を保てるかどうかで恒温性かどうか区別することもある。マグロ類やネズミザメは生きている限り運動を続けるので、わざわざ別途の産熱機能を持つ必要がない。そして10°C水中で長時間体温(そして生命も)を保てる哺乳類や鳥類は少数派であるが、ネズミザメやマグロは保てる。つまりこれも、深層意識として「鳥類や哺乳類は特別優秀」という意識が働いているためにする区別であろう。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "体積に対する表面積の割合が大きくなる=外気温の影響を受けやすい、という観点から突出部である尾、耳、羽などが寒い地域では小さく暑い地域では大きくなる傾向も認められる。こちらはアレンの法則と呼ばれる。アレンの法則でもわかるように、体積に対する表面積の割合を小さくする必要性から、外部形状の自由度が低くなることも指摘されている。このため、恒温動物はニッチの近い近縁の変温動物と比較して丸い印象を与える体型、すなわち、より球に近い体型をしている。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "例えば、土中や狭いところを主な活動場所にする場合、ヘビ、トカゲやミミズのように細長い体型やゴキブリのように平面的な体型が有利なことが多い。しかしモグラやネズミなどの恒温動物ではこのような体型をしている種は認められていない。ハナカマキリやナナフシ、カレイのような極端な隠蔽形状を持つ種も認められていない。通常は体温を積極的に維持しないニシキヘビ類において抱卵時は安定した高体温を保つものがあるが(アミメニシキヘビでは100日程度の抱卵時は華氏88〜91度≒29〜33°Cを保つ。他のニシキヘビも同程度)、このときは筋肉を震わせて産熱量を上げると共に、卵を中心としてトグロを巻くことにより露出表面積を下げる。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "同じ程度の大きさのハチであっても、ハナバチ類(ミツバチ、クマバチ、マルハナバチなど)は内温動物的、カリバチ類(ジガバチ、アシナガバチ、スズメバチなど)は、ほぼ完全な変温動物であることが多い。カリバチ類は光沢がありスマートな形状をし、比較的羽も長いのに対し、ハナバチ類は丸く毛が生え羽も短く、もこもこした印象を与える。狩りバチ類が恒温性を持たないのは、おそらく他の動物を狩る必要があり、ハナバチ類のような形状では運動性が落ちてしまうからではないかと思われる。内温による活動時間の延長や安定した運動性能によるメリットよりも、毛が生えることによる空気抵抗の増加や、丸い体型による運動性の低下によるデメリットの方が大きいのであろう。",
"title": "体温維持と体格および外部形状"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ミツバチ(セイヨウミツバチの働き蜂の体重:0.08〜0.15g、ニホンミツバチはやや小さい)も体格が小さく、しかも体温を下げると死につながる。しかし、断熱性に優れた閉鎖空間である巣内にて集団で休息することで温度が逃げないようにしている。このことで小型動物における恒温性によるエネルギーの浪費を上手く回避している。活動時、特に飛行時はエネルギー消費=体熱産生が大きいため、ミツバチのような小型動物でも体温が保てる。",
"title": "体温調節の方法"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "このような適応はもちろんミツバチだけではなく、小型の恒温動物は閉鎖空間で丸まったり集団で休息するのが普通である。ミツバチは暖かい巣内(正確には蜂集団内)で休息し「エンジンを掛けてから」飛び立てるため、早春から晩秋(外気温10°C以上)まで広範囲の気温下で活動できる。また、死につながるため、高温期以外は巣外(正確には蜂集団外)では休息しない。このようにして巣外活動時を含めニホンミツバチでは40〜41°C、セイヨウミツバチでは30〜36°Cの体温(正確には胸部温)を維持している。巣温が下がりすぎたときは胸をふるわせると共に蜂集団の個体密度を上げ、冬期でも、蜂集団内温度をほぼ一定温度(ニホンミツバチは33〜36°C。セイヨウミツバチは冬季かつ非育児期は20〜22°C、それ以外は30〜35°C)に保つ。上がりすぎたときは水を撒いて旋風行動を取ることで冷却する。",
"title": "体温調節の方法"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "より積極的に巣構造を用いて体温を保つ例としては、オオキノコシロアリ類があげられる。ミツバチとは異なり彼らの体そのものにはほとんど体温維持機能はないと思われるが、巣の構造と栽培菌類および自身の呼吸熱そして地下からくみあげた水の気化熱により巣内温度を高度に安定させる。homeotherm(自律的体温恒常性を持つ生物)という言葉には“巣を用いてはいけない”という規定はないため、字義通りに解釈すればオオキノコシロアリは恒温動物である。",
"title": "体温調節の方法"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "大型の不均翅亜目、例えばオニヤンマでは40°C程度、ヤンマ類ではそれより数度高い程度に飛翔中の体温(正確には胸部温)を保っている。高気温下では飛翔速度を下げ、低気温下では飛翔速度を上げる(熱産生を大きくする)こと、低気温時の飛翔前には羽を震わせるウォームアップと呼ばれる行動で体温を上昇させること、過熱時には腹部を持ち上げたオベリスクと呼ばれる姿勢をとって太陽光を受ける面積をできるだけ少なくすることなどによってこの体温を維持していることが知られている。低体温時の飛行前ウォームアップは内温性昆虫では一般的で、種によっては数°Cの体温・気温時に30°C以上まで胸部温を上昇させることができる。なお、不均翅亜目いわゆるトンボ類や完全変態昆虫には恒温、とはいえないまでも外気温よりも10°C以上高い体温を保つことができる内温動物が多種類存在する。",
"title": "体温調節の方法"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "マグロやネズミザメでは生涯泳ぎ続けることにより熱産生を行う。それと共に、体表面と体内部との間に奇網とよばれる、血管が絡み合った対流式熱交換器がある。これによって体中央部からの血液が暖かいまま冷たい体周辺部へ直接流れないように、また体周辺部からの血液が冷たいまま暖かい体中央部へ流れ込まないようになっている。アカマンボウでは、心臓とえらの間にも奇網があり、より体温の維持能力が高く深海でも活発な活動が可能とされる。",
"title": "体温調節の方法"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "カモ類など寒冷地の水鳥でも足と胴体の間にこの奇網がある。また、マルハナバチやミツバチも発熱部である胸部と放熱部である腹部の間に対流式熱交換器を備え、そこの血流量を調節することで放熱量を制御すると共に胸部温を保つ。",
"title": "体温調節の方法"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "発汗による体温低下はヒトで行われるため一般的であるように感じるが、水や塩分の浪費につながるため、哺乳類のうちでもヒトやウマなどごく一部の種しか行わない。逆に言えば、人間や馬は発汗による効果的な放熱により高温下でも激しい運動ができる。",
"title": "体温調節の方法"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "このように体温維持の機構は様々である。",
"title": "体温調節の方法"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "現生動物において比較するかぎり、体温の恒常性の有無と成長速度、あるいは急速な成長期の有無には関連性は特に認められない。例えば、典型的な恒温動物であるヒトは誕生してから15年で体長で4倍・体重で20倍程度に成長するに過ぎないが、典型的な変温動物であるカイコは30日で体長で30倍・体重で5000倍にも成長する。同じく変温動物であるニホンカナヘビでは1年で体重で20倍程度、人間と同程度の成体体重の陸上脊椎動物であるアミメニシキヘビ(15歳程度)の誕生時体重は100g程度(つまり5〜600倍)であり、ワニの成長速度はこれよりも速い。",
"title": "恒温性と成長速度"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また、完全変態昆虫の多くは幼虫期は非常に急速に成長し、成虫はほとんど成長しない。つまり成長期が存在する。しかも、スズメガを見ればわかるようにほとんど成長しない成虫は恒温性であっても急速な成長をする幼虫期は通常典型的な変温動物である。四肢動物でも同様で、典型的な変温動物であるアマガエルやアベコベガエルは幼体であるオタマジャクシは急速に成長するが、上陸後のカエルの体重増加は非常に緩やかである。ニホンカナヘビでも最初の一年は体重が急速に増加するがその後(5〜6年の寿命がある)の体重増加は緩やかである。",
"title": "恒温性と成長速度"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "これらは決して特殊な例外ではない。逆の例(恒温・内温動物の方が成長が早い・成長期がある)を例示することも極めて容易である(上の例を、ヒト→ゾウガメ、カイコ→カンガルーやミツバチ、ニホンカナヘビ→ウサギ、アミメニシキヘビ→ウシ、ワニ→ライオンなどとし、倍率なども適宜動かせばよい)。つまり、化石生物などで個体の成長速度が速いことや、急速な成長期があることが類推できる形質が認められても、恒温動物であろう、もしくは逆に変温動物であろうという推定は成立しない。むしろ、恒温変温にかかわらずr戦略傾向を強く持つ種では成長速度が速く(ハツカネズミ、ネコやニホントカゲでは誕生4週で3倍程度)、K戦略傾向を強く持つ種の成長速度は遅い(ヒト、ウシやムカシトカゲでは誕生1年で3倍程度)。",
"title": "恒温性と成長速度"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また、骨や歯、角、鱗、耳石のような硬組織における年輪のような成長線の有無で恒温と変温の推定をすることもあるが、これはその個体の当該硬組織の成長速度に大きな変動があり、かつ、それが残ったことを示しているに過ぎない。つまり、成長線があったからと言って、変温動物である、もしくは無ければ恒温動物である、とはいえない(つまり化石などによる体温調節能の憶測は非常に困難)。",
"title": "恒温性と成長速度"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "現生生物の例では、通常典型的な恒温動物である大型哺乳類にも成長線が形成されるものがたくさん存在する。クジラ類の歯や骨、ウシ類の角や象牙には明確に成長線があり、シカ類の骨格や歯にもしばしば認められる。また、通常、成長線のできないヒトの骨においても、季節的に飢餓状態に置かれたことによると思われる成長線(飢餓線:ハリス線、Harris' Line)が認められる例がある。野生のイノシシの牙には通常明瞭な成長線があるが、飼育下のブタでは観察されない。これも野生下では栄養状態に季節的変動があるが飼育下ではほとんどないことが原因であろうと推定されている。",
"title": "恒温性と成長速度"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "季節変動のある地域で数年以上にわたって成長し、成長が季節変動する変温動物は数多くあるが、その硬組織に成長の変動が残るとも限らない。例えばセミやロブスターは何年にもわたって成長する変温動物であるが、硬組織を脱皮によって捨てるため成長線は残らない。当たり前であるが季節変動のない地域に生息している変温動物、例えば熱帯のワニ類やニシキヘビ類には基本的に成長線は認められない。",
"title": "恒温性と成長速度"
}
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恒温動物とは、気温や水温など周囲の温度に左右されることなく、自らの体温を一定(homeostatic)に保つことができる動物。かつては、定温動物、温血動物とも言われた。対義語は変温動物。しかしその後、動物の体温制御が種によって多様であることが発見されたため、恒温動物と変温動物の2つに分けられるという誤った考えを招くこれらの語は学術的には使われなくなってきている。現在では、それぞれEctotherm、Endothermと呼ばれている。
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{{独自研究|date=2021年11月}}
{{出典の明記|date=2011年8月}}
'''恒温動物'''(こうおんどうぶつ、{{lang-en-short|homeotherm, homoiotherm}}、{{lang-fr-short|animal homéotherme}}、{{lang-de-short|Homoiotherme, homöothermes Tier}})とは、[[気温]]や[[水温]]など周囲の[[温度]]に左右されることなく、自らの[[体温]]を一定(homeostatic)に保つことができる[[動物]]。かつては、'''定温動物'''、'''温血動物'''とも言われた。対義語は[[変温動物]]。{{独自研究範囲|date=2021年11月|しかしその後、動物の体温制御が種によって多様であることが発見されたため、恒温動物と変温動物の2つに分けられるという誤った考えを招く}}{{要出典範囲|date=2021年11月|これらの語は学術的には使われなくなってきている}}。現在では、それぞれ{{ill|Ectotherm|en|Ectotherm}}、{{ill|Endotherm|en|Endotherm}}と呼ばれている。
== 概説 ==
{{独自研究範囲|date=2021年11月|生物における恒温性とは体温の自律的な恒常性のことを指す}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|[[哺乳類]]・[[鳥類]]においては、かつては固有かつ普遍の特殊形質であると思われていたこともあるほど一般的に認められる生理的性質である}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|このため、「恒温動物」という用語は(深い検討を欠いたまま)哺乳類と鳥類のこととほぼ同義的に用いられていた}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|しかし、生物の体温に関する様々な事実の発見が積み重なるにつれて、それは事実誤認であることがわかってきた。そのため、近年用法が変化してきたり使用頻度が減ってきている用語である}}。
関連した生物学用語として、「内温性」「外温性」「異温性」がある。
内温性(endothermy)とは体温が主に代謝熱で維持されている状態。外温性(ectothermy)とは体温が主に外部環境によっている状態。つまり恒温動物とは内温動物のうち、自律的に体温を制御している動物である。
異温性(heterothermy)とは、恒温動物において部位、もしくは生理状態の違いにより体温が大幅に異なることをいう<ref>生物学辞典第4版より要約</ref>。
== 恒温と変温 ==
{{独自研究範囲|date=2021年11月|温血動物([[:en:warm blooded|warm blooded animals]])という言葉が暗に示すように、恒温性はかつては[[哺乳類]]・[[鳥類]]に固有かつ普遍の特殊形質であると思われていた}}。しかし、{{独自研究範囲|date=2021年11月|[[哺乳類]]・[[鳥類]]以外にも様々な生物で様々なレベルの体熱産生を伴う能動的な体温調節の例が発見され、[[哺乳類]]・[[鳥類]]においても、[[ナマケモノ]]や[[カッコウ]]のように変温動物といっていい体温調節を行うものがあることが知られるようになった}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|「哺乳類は恒温動物」・「魚類は変温動物」のように単純に2分類することや、ある生物をさして厳密な定義なしに恒温生物か変温生物かを議論することは少なくとも科学的とは言えないものである}}<ref>ちなみに2008年現在、多くの一般的な百科事典では「(全ての)哺乳類・鳥類(のみ)が恒温動物」<!--特に「○○を引用」というわけではないようなので「哺乳類」を漢字にしました-->「それ以外の(全ての)動物は変温動物」としている。{{独自研究範囲|date=2021年11月|これは恒温動物(homeotherm:体温を自律的に一定範囲に保つもの)の言葉の定義からすると明白な誤り}}といえる。恒温動物もhomeothermも単語には動物の分類属性はなにも示されていない</ref>。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|ある生物の体温調節能力や機構を調査することはともかくとして、生物の体温調節能力を恒温と変温に分類することは特に意味があるわけではないので、学問的に厳密な定義を提唱することは近年行われていない。つまり、変温〜内温〜恒温は連続的であり、明瞭に線引きできるものではないし、されていない}}。
{{要出典範囲|date=2021年11月|このような煩わしい議論や定義付けを避けるため、近年は“体温が主に代謝熱で維持されている”という意味での「内温性」「内温性動物」や、「高度な体温調節能力がある」といったような表記で留める例が増えている}}。{{要出典範囲|date=2021年11月|[[哺乳類]]・[[鳥類]]以外の生物を記述するときに、あえて「恒温性」と表現し、高度な体温調節機能があることを強調することもある}}。
[[Image:wiki snake eats mouse.jpg|thumb|right|サーモグラフィー画像: ヘビがネズミを捕食]]{{独自研究範囲|date=2021年11月|恒温が「恒に体温を一定に保つ」ことと考えるなら、そのような動物は発見されていない。「積極的な体熱産生と放散を伴って能動的にある範囲に体温を保つ」こととするならば、'''動物では様々な分類群に分布する'''(珍しくもない)生理特性である}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|例えば[[ウミガメ]]、[[ネズミザメ科|ネズミザメ類]]や[[マグロ]]類、[[昆虫]]類にはほぼ一定の体温を保ち、0℃の気温や、10℃の冷水の中でも活発に活動するものがある}}。この時の体温は[[ヒト]]や[[セイヨウオオマルハナバチ]]では40℃付近であるが、[[アカウミガメ]]で23℃付近、[[ホホジロザメ]]で26℃付近<ref>Journal of Comparative Physiology BAugust 1997, Volume 167, Issue 6, pp 423-429. Regulation of body temperature in the white shark, Carcharodon carcharias. Kenneth J. Goldman</ref>と比較的低い。{{独自研究範囲|date=2021年11月|つまり、アカウミガメやホホジロザメは“冷血”の“恒温動物”である}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|また、[[カツオ]]や[[アキアカネ]]、[[カモノハシ]]、[[カッコウ]]等の活動時体温は外水(気)温よりも5〜10℃以上高く、40℃に達することもあるが、外温や運動の有無で体温が浮動し安定しない。つまり“温血”の“変温動物”である}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|このことからもわかるように、よく見る'''右図のような温度分布図は、その時の体温の高低を示しているに過ぎず、恒温動物と変温動物との差を象徴的に表すものではない。温血動物という言葉が用語として不適切'''なゆえんでもある}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|植物においても[[ザゼンソウ]]、[[ヒトデカズラ]](''Philodendron selloum'')、[[ハス]]など、花器を開花期間中一定の温度に保つものが存在する}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|例えば[[ザゼンソウ]]では4℃から15℃の外気温中で、肉穂花序の温度を24℃±1℃以内に保つが、これは多くの[[哺乳類]]や[[鳥類]]の体温日周変動幅より小さい}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|ただし、[[植物]]や[[昆虫]]における体温維持は[[花]]器や[[胸]]部など必要な部分および期間のみであることが多い}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|なお、[[鳥類]]や[[哺乳類]]も厳密な意味では全身の体温を保っているわけではない。[[耳介]]や[[足]]先などは大きく体温が変動する}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|ただし、日周変動の幅が1℃以内の体温(ヒト程度)を生涯保つような種の多くは、哺乳類か鳥類である}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|ウミガメやマグロでは若齢個体は典型的な変温動物であり、成長するに従って体温調節能力が上がる。哺乳類や鳥類でも小型の若齢個体の体温調節機能は不完全で体温変動幅が大きいことが多く、親の庇護や温暖な環境で成長する。成体の体温も一定ではなく、休息時、活動時、[[生殖]]時、疾病時、部位などで体温が異なるのは一般的であり、場合によっては大きく異なる('''異温性''')}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|例えば[[カモ]]や[[ツル]]などの低温地域に住む鳥類では足の体温が外気温程度まで低下することは珍しくなく、冬眠時の[[ヤマネ]]や小型[[コウモリ]]等の体温は全身において外気温に近いところまで低下する}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|[[ハチドリ]]や小型[[コウモリ]]では活動時の体温は40℃程度だが睡眠時は外気温程度まで低下するものがある<ref name="drop body temp">{{要出典範囲|date=2021年11月|[[哺乳類]]では他に[[ハムスター]]、[[ヤマネ]]、[[ハツカネズミ]]などで、[[鳥類]]では[[ハト]]、[[ペンギン]]、[[:en:Ani (bird)|オオハシカッコウ類]]などで非冬眠・低気(水)温下の体温低下や体温変動幅の増大が確認されている。また、[[単孔類]]や[[カツオ]]等も含む多くの[[マグロ]]類などでは外気(水)温によって安定する体温が異なる}}</ref>}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|この程度の体温制御を行う[[昆虫]]は[[ヤンマ]]や[[スズメガ]]をはじめとして数多く存在する}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|すなわち、[[ハチドリ]]や[[コウモリ]]が異温性の恒温動物であるとするならば、[[ヤンマ]]や[[スズメガ]]も恒温動物といえる}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|[[ナマケモノ]]や[[カッコウ]]に至っては外気温や運動の有無により活動時の体温すら大きく変動する。ここまでくると恒温動物とは言えないであろう}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|ミツバチは産卵から死亡時まで体温を30℃以上に保つ。しかも、10℃以下では動けなくなり、それが一定期間以上続くと死亡する}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|[[セイヨウミツバチ]]は1種で熱帯から極地まで分布し、[[アイスランド]]の厳冬下でも巣外活動こそ行わないが冬眠することはない。蓄えた[[食料]]で[[産卵]]・[[育児]]さえも行う。つまり、多くの哺乳類や鳥類よりも恒温動物的に活動するのである}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|しかし、ミツバチは巣内活動時では体温を主に体外の気温(=巣内温)によっているため、恒温動物どころか内温動物にも入れないことが多い}}。
== 恒温性の意義 ==
=== 利点 ===
{{独自研究範囲|date=2021年11月|内温性の利点とは外温から体温をよりその生物の最適温に近づけられることである}}<ref>{{独自研究範囲|date=2021年11月|例えば、[[フユシャク]]と[[マルハナバチ]]は共に0℃の外気温でも飛翔できる。しかし、変温動物であり、最適体温が低いフユシャクは晩秋~冬しか活動(飛翔)できないが、内温動物で活動最適体温そのものは高温であるマルハナバチは春〜冬でも飛翔できる}}</ref>。{{独自研究範囲|date=2021年11月|このため、動物では気候帯を越えるような広域分布種の多くは恒温もしくは内温性である。恒温性生物とは、内温性生物のなかでもある程度広い温度域の中で最適温度近辺の体温を保てるほど高度な体温制御機構を発達させた生物である}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|恒温性、内温性の意義について、よくある誤解として「温度が高いほど化学反応が速く進むために体温を高く保つ」というものがある。これならば最低体温は(最低限の活動性を保証するために)安定するが、最高体温はある程度変動するはずである}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|また、高い温度により化学反応が速ければ速いほど有利なのであれば人間の発汗のような冷却機能は不要なはずである}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|事実は逆で、内温性生物でまず安定するのは最高体温であり、典型的な変温性とされる生物でも冷却機能は備えていることが多い(例:陸上維管束植物の気孔開閉や葉の定位運動)}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|生物体内の酵素は温度により活性が変化するために単純に高温で反応が早くなるわけではなく、酵素反応の最適温はその生物にとっての最適温でもない}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|例えば多くの[[アミラーゼ]]([[デンプン]]分解酵素)は60℃近辺に反応最適温を持つが、それを産生する多くの生物(ヒトや麹菌など)は60℃では死亡してしまう。生物には活動最適温があり、必要以上の[[体温]]上昇は危険である([[熱中症]])}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|また、より非活動的な生物、例えば植物ではごく少数例しか発見されていない}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|恒温性とされるのは2007年現在世界で上記の[[ハス]]・[[ザゼンソウ]]・[[ヒトデカズラ]]の3種でしかも恒温部分は開花中の花器ないし花序のみである}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|内温性はより広くの種や部位で認められ、例えば多くの大型樹木は早春の萌芽期初期には周囲の雪が融解するほど体温を上昇させ、幹で数度の温度を保つ。このことにより、零度以下の気温の中で糖類の転流を促進する。これも恒温性とは見なせないが、広くとらえれば内温性とは見なせる}}。
=== 欠点 ===
{{独自研究範囲|date=2021年11月|恒温といえるほどに体温を安定させるためには産熱と冷却を行わねばならない。後述するように[[体温]]を上昇させることは産熱を盛んにし体表面の断熱性を向上させればよいので比較的容易である}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|しかし、外気温以上に冷却することは困難である。そのためか、多くの恒温動物、特に放熱に不利な陸上生物では住環境温度よりもかなり高い体温(30-44℃)を持つのが普通である}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|多くの鳥類や哺乳類、ミツバチなど高度の体温恒常性を持つ生物では、低気温時のみならず休息や睡眠時にもさほど体温を下げられない}}(下げると死亡する。=[[低体温症]]を参照)。{{独自研究範囲|date=2021年11月|この体表から逃げる熱を補うための熱を体内で作り続ける=餌が大量に必要であり、[[食糧]]確保の面で変温動物よりもリスクが大きい}}。{{独自研究範囲|date=2021年11月|おおざっぱに言って、同程度の体重の変温動物の数十倍程度(双方最適体温の時。同体温で比べれば数倍程度)の[[代謝]]率(≒必要食料量および産熱量)であるとされている}}。例えば、[[コアラ]]と[[ナマケモノ]]は樹上で木の葉を摂食し、ほとんどを眠って過ごすというよく似た生態と同程度の体重を持つ哺乳類であるが、典型的な恒温動物とされる[[コアラ]]の日当たり摂食量は500g以上に達するのに対し、典型的な変温動物とされる[[ナマケモノ]]は10g程度である。
このため、体温の維持が難しい寒冷地に生息する小型種を中心に休息時や[[冬眠]]・[[睡眠]]時、低気温時などでは維持設定体温を下げる、もしくは体温を維持しないという適応するものが存在する<ref name="drop body temp"/>。
ただし、一般論として、変温動物も恒温動物も体重が大きくなればなるほど体重あたり代謝率は下がる(Kleibarの法則;全[[代謝]]量は体重の3/4 乗に比例)ことに留意する必要がある<ref>{{Cite book|和書| author=John Whitfield |translator=野中 香方子 |title=生き物たちは3/4が好き <sub>多様な生物界を支配する単純な法則</sub> | publisher=[[化学同人]]|journal=| date=2009年1月29日|pages= |isbn=9784759811612 }}</ref>。例えば体重5g程度の典型的な変温動物である[[ニホンカナヘビ]](@20℃)の代謝率は体重が100万倍、5t程度の典型的な恒温動物のアフリカゾウの代謝率と同程度であり、[[シロナガスクジラ]](100〜200t)よりは大幅に高い。つまり、他の要因も関係するが、変温動物の方が体重あたり要求餌量が少なくてすむとか絶食耐性があるということは一概には言えない(例えばマッコウクジラの回遊時の推定絶食期間は数か月にもおよび、ほとんどの変温動物よりも絶食耐性が高い)。
== 体温維持と体格および外部形状 ==
=== ベルクマンの法則と体格 ===
同じ体型であれば、体表面積は体長の2乗に体重は体長の3乗に比例し、体が大きいほど体重あたりの体表面積は小さくなる。つまり体格が大きい方が冷却には不利、保温には有利となる。このため、恒温動物では近縁あるいは同種の間では寒い地域では体が大きく、暑い地域では体が小さくなる傾向がある。これが[[ベルクマンの法則]]である。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|例えば[[トラ]]では[[シベリア]]の[[亜種]]([[アムールトラ]])が最も体格が大きく、[[ジャワ島]]の亜種([[ジャワトラ]])で最も小さい。[[イエスズメ]]では、[[北米]]に[[ヨーロッパ]]から移入されてから150年程度で[[フロリダ]]の集団と[[カナダ]]の集団では亜種レベルの体格差が生じたことが知られている。同一個体中でも、ウミガメやマグロ類では[[熱帯]]や[[亜熱帯]]の浅海域で成長し、大型になるに従って[[高緯度]]地域や[[深海]]域に活動範囲を広げる。例えば[[オサガメ]]の成体は[[亜寒帯]]域まで生息するが、産卵は主に[[熱帯]]域、幼体は[[亜熱帯]]域までしか認められていない。[[クジラ]]類では食料が少ないにもかかわらず温帯域や亜熱帯域まで移動して産仔を行う[[種 (分類学)|種]]が多い。亜寒帯以北で生活環を完了するネズミザメでは一腹産子数は4匹以下と少なく、体長80cm程度以上の大きな子供を産む。一方、[[比熱]]・[[熱伝導率]]が大きく放熱に有利な水中環境では大型化できる。[[クジラ]]類は[[海]]水に熱を逃がすことができるため例外的に巨大化しているが海水に浸かっていないと体温が上がりすぎて死に至るといわれる。また、大型の[[マグロ]]類を釣り上げたときは速やかに冷却しないと急速に体温が上昇するため肉が傷み(ヤケ)商品とならないことが知られている}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|最小級の哺乳類と鳥類である[[トウキョウトガリネズミ|チビトガリネズミ]]、[[キティブタバナコウモリ]]や[[マメハチドリ]]、前述の[[スズメガ]]や[[ヤンマ]]類の体重も1.5g程度以上であり、1個体のみで体温を安定的に維持するのはこの辺が限界であろうとされている。彼らは大量の餌を採るが、その多くは体温維持にのみ使われているわけである。[[ハチドリ]]や[[コウモリ]]はあまりの小型化したため恒常的な体温維持が難しくなったため、前記のような変温的な体温制御をおそらく再獲得したのであろう。だが、その制御は不完全なため<ref>例えばマルハナバチは蜜量が多い花では低気温下でも安定した高体温で高速に採蜜するが、蜜量が少ない花では高気温時に低体温(変温)で採蜜する。また、スズメガやヤンマは激しい活動を行わない幼虫時は典型的な変温動物である。ハチドリではこのような細かい体温制御方法の変更は報告されていない</ref>か、よく似た[[ニッチ]](生態的地位)を占める[[スズメガ]]や[[ヤンマ]]に比べ分布域、種数ともに大幅に少ない。[[トガリネズミ]]は相当するニッチを占める動物がいないためか全世界的に分布する。しかし、地上徘徊性[[食虫動物]]としては、同程度の大きさの[[オサムシ]]や[[ムカデ]]、[[カエル]]や[[トカゲ]]より繁栄しているとは言い難い。このように小型動物の[[ニッチ]]の多くは変温的体温調節のできる[[昆虫]]を始めとした[[節足動物]]、[[爬虫類]]、[[両生類]]、[[魚類]]などで占められている}}。
=== 慣性恒温性と運動による恒温性 ===
{{独自研究範囲|date=2021年11月|大型の魚類や爬虫類で体温変動が少ない物を「慣性恒温性」として区別することが多い。しかし、鳥類や哺乳類でも大型の物の方が体温が安定しているのが普通である。慣性恒温性([[:en:Gigantothermy|Gigantothermy]])とは体温調節能力がなくても(変温動物であっても)体格が大きければ、比較的安定した高い体温を保てる、という意味であり、巨大な体温が安定した生物は慣性恒温性動物(Gigantotherm)であるという意味ではない}}。
また、当初は単なるGigantothermであるとされたウミガメ類もそこから類推されるよりも体温が安定しており、低温の餌を食べても深海の低温部に潜っても体中心部の温度はほとんど変動しない。このことから、現在ではウミガメ類に体温調節能力がないとは考えられておらず、[[オサガメ]]ではその体温調節機構もかなり詳しく調査されている。[[ウミガメ]]や[[ネズミザメ]]を慣性恒温性動物として区別するのならば、その10〜100倍以上の体重を持つ[[ゾウ]]や[[クジラ]]は慣性恒温性動物として区別されねばならない。また、[[ゾウガメ]](大抵の[[ウミガメ]]より重い)、[[イリエワニ]](大抵の[[マグロ]]や[[ネズミザメ]]よりも重い)のように大型でも体温が安定しないものもある。大型[[サボテン]]類は100kg以上の生きた部分を持つものも多いが体温は安定しない。産熱部分である体格が大きいことは相対的な低温下で体温を保つ上で有利ではあるが、それだけで体温を保てるものではない(数百リットルあっても風呂の湯はすぐ冷めることを思い出して欲しい)。むしろ、体温維持能力を持たないのに大きな体格を持った場合、寒冷な季節にいったん体温が下がると回復がかえって困難である(熱容量が大きく日光浴程度では体温が上がらない→体産熱も増えない→活動を開始できない)。逆に温暖な季節ではそのような巨大な体格では放熱がうまくいかず熱死してしまう。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|つまり、温度が比較的一定した条件、もしくは寒暖が短期間で交代し熱慣性が大きければ許容体温の範囲内で収まる条件でないと熱慣性に頼った恒温性は機能しない。現実にも、変温動物では北方ほど小型化することが多く([[ベルクマンの法則|逆ベルクマンの法則]])、[[ニシキヘビ]]や[[ワニ]]のような活動的な大型の変温動物は熱帯や亜熱帯に分布しており、寒冷な地域には分布していない。つまり恒温性大型動物を慣性恒温性動物として区別する意義はほとんどないであろう}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|現生動物で慣性恒温性を積極的に利用しているとされるものには、皮肉なことに哺乳類の[[ラクダ]]がある。ラクダでは飲食物が欠乏する場合、昼夜温の差が激しい砂漠において、夜は低体温を許容し、昼は高体温を許容する。このことにより、その大きな体格による熱慣性を利用して、比較的低コストで一日を通しての体温変動を少なくしているとされている([[アフリカゾウ]]も同様のことをしている可能性が指摘されている。もしそうであれば、ゾウはGigantothermと本当にいっていいかもしれない)。慣性恒温性とはいえないが積極的に大きな体格による熱慣性を利用している他の例としては、ガラパゴスの[[ウミイグアナ]]がある。[[ウミイグアナ]]は日光浴をして体温を上げた後に冷たい海中で海藻を摂食する。[[ウミイグアナ]]が同所的に生息する[[リクイグアナ]]よりも体格が大きいのはこの時に熱慣性が大きいことが有利であるからであるとの説がある}}。
静止時、つまり運動による産熱がない状態で、体温を保てるかどうかで恒温性かどうか区別することもある。マグロ類やネズミザメは生きている限り運動を続けるので、わざわざ別途の産熱機能を持つ必要がない。そして10℃水中で長時間体温(そして生命も)を保てる哺乳類や鳥類は少数派であるが、[[ネズミザメ]]や[[マグロ]]は保てる。つまりこれも、[[深層意識]]として「鳥類や哺乳類は特別優秀」という意識が働いているためにする区別であろう。
=== アレンの法則と表面形状 ===
体積に対する表面積の割合が大きくなる=外気温の影響を受けやすい、という観点から突出部である尾、耳、羽などが寒い地域では小さく暑い地域では大きくなる傾向も認められる。こちらは[[ベルクマンの法則|アレンの法則]]と呼ばれる。[[ベルクマンの法則|アレンの法則]]でもわかるように、体積に対する表面積の割合を小さくする必要性から、外部形状の自由度が低くなることも指摘されている。このため、恒温動物は[[ニッチ]]の近い近縁の変温動物と比較して丸い印象を与える体型、すなわち、より[[球体|球]]に近い体型をしている。
例えば、土中や狭いところを主な活動場所にする場合、[[ヘビ]]、[[トカゲ]]や[[ミミズ]]のように細長い体型や[[ゴキブリ]]のように平面的な体型が有利なことが多い。しかし[[モグラ]]や[[ネズミ]]などの恒温動物ではこのような体型をしている種は認められていない。[[ハナカマキリ]]や[[ナナフシ]]、[[カレイ]]のような極端な隠蔽形状を持つ種も認められていない。通常は体温を積極的に維持しない[[ニシキヘビ]]類において抱卵時は安定した高体温を保つものがあるが(アミメニシキヘビでは100日程度の抱卵時は華氏88〜91度≒29〜33℃を保つ。他のニシキヘビも同程度)、このときは筋肉を震わせて産熱量を上げると共に、卵を中心としてトグロを巻くことにより露出表面積を下げる<ref>逆は真ではない。つまり丸い形状や、休息時などに体を丸める動物が恒温動物であるということではない。[[リクガメ]]のような丸い体型、[[ヘビ]]や[[蛾]]の幼虫など休息時には体を丸める変温動物は多い。つまり丸まった姿勢で出土した化石生物([[メイ・ロン]]や[[トリナクソドン]]、[[三葉虫]]などが有名)が恒温動物であったであろうと推定することは論理の飛躍が大きい</ref>。
同じ程度の大きさのハチであっても、[[ハナバチ]]類([[ミツバチ]]、[[クマバチ]]、[[マルハナバチ]]など)は内温動物的、[[カリバチ]]類([[ジガバチ]]、[[アシナガバチ]]、[[スズメバチ]]など)は、ほぼ完全な変温動物であることが多い<ref>ハナバチにも変温動物的、カリバチにも内温動物的な種は存在する。単独生活の小型ハナバチはほとんどが変温動物的である。逆に北方系の中型スズメバチであるホオナガスズメバチの飛行時体温は高度に安定している。またオオスズメバチなどでも活動時は外気温より相当高い胸部温を保っており、越冬女王等が12月にサザンカなどに訪花することがある</ref>。カリバチ類は光沢がありスマートな形状をし、比較的羽も長いのに対し、ハナバチ類は丸く毛が生え羽も短く、もこもこした印象を与える。狩りバチ類が恒温性を持たないのは、おそらく他の動物を狩る必要があり、ハナバチ類のような形状では運動性が落ちてしまうからではないかと思われる。内温による活動時間の延長や安定した運動性能によるメリットよりも、毛が生えることによる空気抵抗の増加や、丸い体型による運動性の低下によるデメリットの方が大きいのであろう。
== 体温調節の方法 ==
{{独自研究範囲|date=2021年11月|[[ミツバチ]]([[セイヨウミツバチ]]の働き蜂の体重:0.08〜0.15g、[[ニホンミツバチ]]はやや小さい)も体格が小さく、しかも体温を下げると死につながる。しかし、[[断熱]]性に優れた閉鎖空間である巣内にて集団で休息することで温度が逃げないようにしている。このことで小型動物における恒温性による[[エネルギー]]の浪費を上手く回避している。活動時、特に飛行時はエネルギー消費=体熱産生が大きいため、ミツバチのような小型動物でも体温が保てる}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|このような適応はもちろんミツバチだけではなく、小型の恒温動物は閉鎖空間で丸まったり集団で休息するのが普通である。ミツバチは暖かい[[巣]]内(正確には蜂集団内)で休息し「エンジンを掛けてから」飛び立てるため、早春から晩秋(外気温10℃以上)まで広範囲の気温下で活動できる。また、死につながるため、高温期以外は巣外(正確には蜂集団外)では休息しない。このようにして巣外活動時を含め[[ニホンミツバチ]]では40〜41℃、[[セイヨウミツバチ]]では30〜36℃の体温(正確には胸部温)を維持している。巣温が下がりすぎたときは胸をふるわせると共に蜂集団の個体密度を上げ、冬期でも、蜂集団内温度をほぼ一定温度([[ニホンミツバチ]]は33〜36℃。[[セイヨウミツバチ]]は冬季かつ非育児期は20〜22℃、それ以外は30〜35℃)に保つ。上がりすぎたときは水を撒いて旋風行動を取ることで冷却する}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|より積極的に巣構造を用いて体温を保つ例としては、[[オオキノコシロアリ]]類があげられる。ミツバチとは異なり彼らの体そのものにはほとんど体温維持機能はないと思われるが、巣の構造と栽培菌類および自身の呼吸熱そして地下からくみあげた水の気化熱により巣内温度を高度に安定させる。homeotherm(自律的体温恒常性を持つ生物)という言葉には“巣を用いてはいけない”という規定はないため、字義通りに解釈すればオオキノコシロアリは恒温動物である}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|大型の不均翅亜目、例えば[[オニヤンマ]]では40℃程度、[[ヤンマ]]類ではそれより数度高い程度に飛翔中の体温(正確には胸部温)を保っている。高気温下では飛翔速度を下げ、低気温下では飛翔速度を上げる(熱産生を大きくする)こと、低気温時の飛翔前には羽を震わせるウォームアップと呼ばれる行動で体温を上昇させること、過熱時には腹部を持ち上げたオベリスクと呼ばれる姿勢をとって太陽光を受ける面積をできるだけ少なくすることなどによってこの体温を維持していることが知られている。低体温時の飛行前ウォームアップは内温性昆虫では一般的で、種によっては数℃の体温・気温時に30℃以上まで胸部温を上昇させることができる。なお、不均翅亜目いわゆるトンボ類や[[完全変態]][[昆虫]]には恒温、とはいえないまでも外気温よりも10℃以上高い体温を保つことができる内温動物が多種類存在する}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|[[マグロ]]や[[ネズミザメ]]では生涯泳ぎ続けることにより熱産生を行う。それと共に、体表面と体内部との間に[[奇網]]とよばれる、血管が絡み合った対流式[[熱交換器]]がある。これによって体中央部からの血液が暖かいまま冷たい体周辺部へ直接流れないように、また体周辺部からの血液が冷たいまま暖かい体中央部へ流れ込まないようになっている}}。[[アカマンボウ]]では、[[心臓]]と[[えら]]の間にも[[奇網]]があり、より体温の維持能力が高く[[深海]]でも活発な活動が可能とされる<ref>{{cite news |title=アカマンボウは「温血魚」 熱を保ったまま体内循環 |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2015-5-18 |url=http://www.cnn.co.jp/fringe/35064632.html |accessdate=2015-6-6 }}</ref><ref>{{cite news |title=科学史上初の「恒温魚」、深海の生存競争で優位に 米研究 |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2015-5-15 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3048643 |accessdate=2015-6-6 }}</ref>。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|[[カモ]]類など寒冷地の水鳥でも足と胴体の間にこの[[奇網]]がある。また、マルハナバチやミツバチも発熱部である胸部と放熱部である腹部の間に対流式[[熱交換器]]を備え、そこの血流量を調節することで放熱量を制御すると共に胸部温を保つ}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|発[[汗]]による体温低下は[[ヒト]]で行われるため一般的であるように感じるが、水や塩分の浪費につながるため、哺乳類のうちでも[[ヒト]]や[[ウマ]]などごく一部の種しか行わない。逆に言えば、人間や馬は発汗による効果的な放熱により高温下でも激しい運動ができる}}。
このように体温維持の機構は様々である。
== 恒温性と成長速度 ==
{{独自研究範囲|date=2021年11月|現生動物において比較するかぎり、体温の恒常性の有無と[[成長]]速度、あるいは急速な[[成長期]]の有無には関連性は特に認められない}}。例えば、典型的な恒温動物である[[ヒト]]は誕生してから15年で体長で4倍・体重で20倍程度に成長するに過ぎないが、典型的な変温動物である[[カイコ]]は30日で体長で30倍・体重で5000倍にも成長する。同じく変温動物である[[ニホンカナヘビ]]では1年で体重で20倍程度、人間と同程度の成体体重の陸上脊椎動物である[[アミメニシキヘビ]](15歳程度)の誕生時体重は100g程度(つまり5〜600倍)であり、[[ワニ]]の成長速度はこれよりも速い。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|また、[[完全変態]]昆虫の多くは[[幼虫]]期は非常に急速に成長し、成虫はほとんど成長しない。つまり成長期が存在する。しかも、スズメガを見ればわかるようにほとんど成長しない成虫は恒温性であっても急速な成長をする幼虫期は通常典型的な変温動物である。[[四肢動物]]でも同様で、典型的な変温動物である[[アマガエル]]や[[アベコベガエル]]は幼体である[[オタマジャクシ]]は急速に成長するが、上陸後の[[カエル]]の体重増加は非常に緩やかである。[[ニホンカナヘビ]]でも最初の一年は体重が急速に増加するがその後(5〜6年の[[寿命]]がある)の体重増加は緩やかである}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|これらは決して特殊な例外ではない。逆の例(恒温・内温動物の方が成長が早い・成長期がある)を例示することも極めて容易である(上の例を、[[ヒト]]→[[ゾウガメ]]、[[カイコ]]→[[カンガルー]]や[[ミツバチ]]、[[ニホンカナヘビ]]→[[ウサギ]]、[[アミメニシキヘビ]]→[[ウシ]]、[[ワニ]]→[[ライオン]]などとし、倍率なども適宜動かせばよい)。つまり、化石生物などで個体の成長速度が速いことや、急速な成長期があることが類推できる形質が認められても、恒温動物であろう、もしくは逆に変温動物であろうという推定は成立しない。むしろ、恒温変温にかかわらず[[r戦略]]傾向を強く持つ種では[[成長]]速度が速く([[ハツカネズミ]]、[[ネコ]]や[[ニホントカゲ]]では誕生4週で3倍程度)、[[r-K戦略説|K戦略]]傾向を強く持つ種の成長速度は遅い([[ヒト]]、[[ウシ]]や[[ムカシトカゲ]]では誕生1年で3倍程度)}}。
=== 恒温・変温と硬組織における成長線の有無 ===
{{独自研究範囲|date=2021年11月|また、[[骨]]や[[歯]]、[[角]]、[[鱗]]、[[耳石]]のような硬組織における[[年輪]]のような[[成長線]]の有無で恒温と変温の推定をすることもあるが、これはその個体の当該硬組織の成長速度に大きな変動があり、かつ、それが残ったことを示しているに過ぎない。つまり、成長線があったからと言って、変温動物である、もしくは無ければ恒温動物である、とはいえない(つまり化石などによる体温調節能の憶測は非常に困難)}}。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|現生生物の例では、通常典型的な恒温動物である大型哺乳類にも成長線が形成されるものがたくさん存在する。[[クジラ]]類の[[歯]]や[[骨]]、[[ウシ]]類の[[角]]や[[象牙]]には明確に成長線があり、[[シカ]]類の骨格や歯にもしばしば認められる。また、通常、成長線のできない[[ヒト]]の[[骨]]においても、季節的に飢餓状態に置かれたことによると思われる成長線(飢餓線:ハリス線、Harris' Line)が認められる例がある}}。野生の[[イノシシ]]の牙には通常明瞭な成長線があるが、飼育下の[[ブタ]]では観察されない<ref>熊本大学社会文化研究7(2009) 155ブタ・イノシシ歯牙セメント質年輪の形成要因と考古学的応用</ref>。これも野生下では栄養状態に季節的変動があるが飼育下ではほとんどないことが原因であろうと推定されている<ref>R.M.Laws Age determination of Pinpeds with special reference to growth layersm the teeth. Zoo geogegraphical rerationship saugetierk 1962.27:l29-l46</ref><ref>[[大泰司紀之]]「ニホンジカ第一切歯、第一臼歯セメント質を用いた年齢鑑定」「解剖学雑誌」48巻1973</ref><ref>Helen Grue and Birger Jensen 1973 Review of the formation of incremented lines in tooth cementum of terrestrial mammals. Danish review of game biology 11:pp3-48</ref>。
{{独自研究範囲|date=2021年11月|季節変動のある地域で数年以上にわたって成長し、成長が季節変動する変温動物は数多くあるが、その硬組織に成長の変動が残るとも限らない。例えば[[セミ]]や[[ロブスター]]は何年にもわたって成長する変温動物であるが、硬組織を脱皮によって捨てるため成長線は残らない。当たり前であるが季節変動のない地域に生息している変温動物、例えば熱帯の[[ワニ]]類や[[ニシキヘビ]]類には基本的に成長線は認められない}}。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[変温動物]]
== 外部リンク ==
* [http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/news6/2013_1/140204_1.htm 「体温恒常性維持のメカニズムの解明」に成功] 2014年2月4日 京都大学
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[[Category:動物学]]
[[Category:体温調節]]
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同人誌即売会
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同人誌即売会(どうじんしそくばいかい)とは、同人誌を配布・頒布・販売する集会である。単に「イベント」とも呼ばれる。
日本で行われる同人誌即売会は、漫画・アニメ・ゲーム関連の同人誌を頒布するものが圧倒的に多く、以下の記述もそのような即売会についてのものである。また、その中でも様々な分野における同人誌即売会が存在し、書籍に限らずソフトウェア、音楽CD、グッズのような立体物なども配布・販売される。規模は数百人~20万人まで様々。
同人誌即売会は、オールジャンル系イベントとオンリージャンル系イベントの2種類に大別できる。
サークルの活動内容やジャンルについて制限しないもの。コミックマーケットやコミックシティ、こみっくトレジャー、COMIC1、ガタケットなど。数千〜数万規模のサークルを集める大規模のものから数百スペース以下の小規模なイベントまで、多岐にわたる。
規定としての制限はないものの、イベントごとにサークルの集まりやすいジャンルというものが存在し、複数のマイナージャンルは“よろず”として一括りにされたり、実質的にジャンル制限されていることも多い。この意味で狭義のオールジャンル系イベントとは、コミックマーケットを始めとするごく一部しかないともいえる。
なおコミックマーケットや5月のゴールデンウィーク期間中に開催されるスーパーコミックシティ等、開催が複数日となるイベントや比較的規模の大きいイベントにおいては参加サークルの活動ジャンル、作品内容によってサークル参加可能な日程、配置されるホールが指定されている場合がある。
サークルの活動内容、活動ジャンルまたは頒布物を限定したもの。一般的に限定対象の後に「○○オンリー」をつけて呼ぶ(例:創作オンリー)。
限定するジャンルは、頒布物の内容(例:一次創作、百合)、二次創作の対象となる作品(例:ガンダム)、頒布物の形態(例:本、グッズ)など多岐に渡る。これらの分類をさらに細分化したオンリー(例:一次創作の本限定、初代ガンダム限定)も一般に行われる。
最大の創作系オンリーである『コミティア』や東方Projectオンリーである『博麗神社例大祭』などのように数千スペースの規模で行われるイベントもあるが、多くのイベントは、数十〜数百スペースの比較的規模の小さいイベントである。
イベントの規模としては小さいが、特定のジャンルや作品に対して思い入れの強いファンが集まること、オールジャンルイベントでは他のジャンルの作品に埋もれてしまうようなジャンルの同人誌やサークルをアピールする目的等で開催されている。
オンリーイベントを開くほどサークルの絶対数がないジャンルの場合、複数ジャンルが合同でオンリーイベントを行ったり、オールジャンル系イベント内における企画として結束し、イベント内のサブイベントとして擬似的なオンリーイベントを行う「プチオンリー」または「ヤドカリオンリー」と呼ばれる形態をとって行われる場合がある。特に近年では都市部でのイベント会場確保の難しさや単独でオンリーイベントを開く場合に比べ、事務手続きの手間や開催にかかる予算が軽減出来る事などからこの方式を取るオンリーイベントが主流となっている。
現在開催されている同人誌即売会で、比較的規模が大きく(数千〜数万規模のサークル参加者数がある)大型の展示会場を使用して行われるイベントや開催頻度が高いイベントを運営する団体などでは、効率的かつ安全、安定的な運営を目的とする事などから、主催団体の法人化(企業、非営利団体など)を行っているイベントが多くを占める。
一方、地方で開催されることの多い100スペース未満のオールジャンル系イベントや、オンリージャンル系イベントでも比較的規模の小さく(数十〜数百)、中小規模のイベント会場を使用して行われるイベントや、「プチオンリー」「ヤドカリオンリー」と呼ばれる形態でイベントを行う団体の主催者は、個人やサークル、任意団体など法人格を持たない団体が主催者もしくは運営責任者となっている場合が多い。
コミックマーケットはすべての同人誌即売会の中で頂点であることから筆頭とする。
主要都市の見本市会場で行われることが多い。ドーム球場(札幌ドーム、福岡PayPayドームなど)や大型多目的ホール(大宮ソニックシティなど)などで開催するイベントもある。一方で成年向け同人誌を扱うイベントに対して会場の貸し出しを拒否する事例も2007年に出てきている。
コミックマーケットでの参加者分類はコミックマーケット#参加者の区分を参照。
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"text": "オンリーイベントを開くほどサークルの絶対数がないジャンルの場合、複数ジャンルが合同でオンリーイベントを行ったり、オールジャンル系イベント内における企画として結束し、イベント内のサブイベントとして擬似的なオンリーイベントを行う「プチオンリー」または「ヤドカリオンリー」と呼ばれる形態をとって行われる場合がある。特に近年では都市部でのイベント会場確保の難しさや単独でオンリーイベントを開く場合に比べ、事務手続きの手間や開催にかかる予算が軽減出来る事などからこの方式を取るオンリーイベントが主流となっている。",
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同人誌即売会(どうじんしそくばいかい)とは、同人誌を配布・頒布・販売する集会である。単に「イベント」とも呼ばれる。 日本で行われる同人誌即売会は、漫画・アニメ・ゲーム関連の同人誌を頒布するものが圧倒的に多く、以下の記述もそのような即売会についてのものである。また、その中でも様々な分野における同人誌即売会が存在し、書籍に限らずソフトウェア、音楽CD、グッズのような立体物なども配布・販売される。規模は数百人~20万人まで様々。
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{{出典の明記|date=2009年5月}}
[[ファイル:Comicmarket62 00.JPG|thumb|270px|世界最大の同人誌即売会「[[コミックマーケット]]」(コミケ62、[[2002年]])]]
'''同人誌即売会'''(どうじんしそくばいかい)とは、[[同人誌]]を配布・頒布・販売する集会である。単に「[[イベント]]」とも呼ばれる。
[[日本]]で行われる同人誌即売会は、[[漫画]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[ゲーム]]関連の同人誌を頒布するものが圧倒的に多く、以下の記述もそのような即売会についてのものである。また、その中でも様々な分野における同人誌即売会が存在し、[[本|書籍]]に限らず[[ソフトウェア]]、[[CD-DA|音楽CD]]、グッズのような立体物なども配布・販売される。規模は数百人~20万人まで様々。
== 同人誌即売会の種類 ==
同人誌即売会は、オールジャンル系イベントとオンリージャンル系イベントの2種類に大別できる。
=== オールジャンル系イベント ===
[[同人サークル|サークル]]の活動内容やジャンルについて制限しないもの。[[コミックマーケット]]や[[コミックシティ]]、[[こみっくトレジャー]]、[[COMIC1]]、[[ガタケット]]など。数千〜数万規模のサークルを集める大規模のものから数百スペース以下の小規模なイベントまで、多岐にわたる。
規定としての制限はないものの、イベントごとにサークルの集まりやすいジャンルというものが存在し、複数のマイナージャンルは“よろず”として一括りにされたり、実質的にジャンル制限されていることも多い。この意味で狭義のオールジャンル系イベントとは、コミックマーケットを始めとするごく一部しかないともいえる。
なおコミックマーケットや5月のゴールデンウィーク期間中に開催されるスーパーコミックシティ等、開催が複数日となるイベントや比較的規模の大きいイベントにおいては参加サークルの活動ジャンル、作品内容によってサークル参加可能な日程、配置されるホールが指定されている場合がある。
=== オンリージャンル系イベント ===
サークルの活動内容、活動ジャンルまたは頒布物を限定したもの。一般的に限定対象の後に「○○オンリー」をつけて呼ぶ(例:創作オンリー)。
限定するジャンルは、頒布物の内容(例:一次創作、百合)、二次創作の対象となる作品(例:ガンダム)、頒布物の形態(例:本、グッズ)など多岐に渡る。これらの分類をさらに細分化したオンリー(例:一次創作の本限定、初代ガンダム限定)も一般に行われる。
最大の創作系オンリーである『[[コミティア]]』や[[東方Project]]オンリーである『[[博麗神社例大祭]]』などのように数千スペースの規模で行われるイベントもあるが、多くのイベントは、数十〜数百スペースの比較的規模の小さいイベントである。
イベントの規模としては小さいが、特定のジャンルや作品に対して思い入れの強いファンが集まること、オールジャンルイベントでは他のジャンルの作品に埋もれてしまうようなジャンルの同人誌やサークルをアピールする目的等で開催されている。
オンリーイベントを開くほどサークルの絶対数がないジャンルの場合、複数ジャンルが合同でオンリーイベントを行ったり、オールジャンル系イベント内における企画として結束し、イベント内のサブイベントとして擬似的なオンリーイベントを行う「プチオンリー」または「ヤドカリオンリー」と呼ばれる形態をとって行われる場合がある。特に近年では都市部でのイベント会場確保の難しさや単独でオンリーイベントを開く場合に比べ、事務手続きの手間や開催にかかる予算が軽減出来る事などからこの方式を取るオンリーイベントが主流となっている。
== 運営母体 ==
現在開催されている同人誌即売会で、比較的規模が大きく(数千〜数万規模のサークル参加者数がある)大型の展示会場を使用して行われるイベントや開催頻度が高いイベントを運営する団体などでは、効率的かつ安全、安定的な運営を目的とする事などから、主催団体の法人化(企業、非営利団体など)を行っているイベントが多くを占める。
一方、地方で開催されることの多い100スペース未満のオールジャンル系イベントや、オンリージャンル系イベントでも比較的規模の小さく(数十〜数百)、中小規模のイベント会場を使用して行われるイベントや、「プチオンリー」「ヤドカリオンリー」と呼ばれる形態でイベントを行う団体の主催者は、個人やサークル、任意団体など法人格を持たない団体が主催者もしくは運営責任者となっている場合が多い。
== 主なイベント ==
=== 日本 ===
==== 総合 ====
コミックマーケットはすべての同人誌即売会の中で頂点であることから筆頭とする。
; [[コミックマーケット]]
: コミックマーケット準備会(有限会社コミケット)が主催する世界最大の同人誌即売会。多くは8月と12月の年2回[[東京国際展示場]]で開催されている。あらゆる同人誌活動の「総本山」的な存在として年間スケジュールの節目となっており、同人誌即売会関連の[[デファクトスタンダード]]を作る存在であり影響力も強い{{Sfn|藤田|2004| p=205}}。知名度の高さからイベントの名称が一般名詞のように使われることも多く、他の同人誌即売会のことも一律に「コミケ」と呼ぶことがある。一方で同人誌という文化が一般社会に浸透することで、充実かつ多様化した時代においてはあくまで一イベントの域をでていないことも確かである{{Sfn|藤田|2004| p=205}}。
; [[ガタケット]]
: ガタケット事務局主催による、新潟市で開催される総合的規模の同人誌即売会。3大都市圏以外の都市での開催の中では古参で、おおむね隔月ごとの年6回開催されており、新潟コミティアの開催も行っている。
; コスホリック
: コスホリック実行委員会が主催する東京のデジタル系即売会<ref>{{Cite web|和書|url=http://cosholic.jp/ |title=オールジャンル同人誌即売会コスホリック公式ページ|work=cosholic.jp|accessdate=2018-05-21}}</ref>。第1回の2010年12月から5月、8月、12月の年3回開催している。略称はコスホリ、CH。
; [[COMIC1|COMIC1(コミックいち)]]
: COMIC1(コミックいち)準備会が2007年より主催する同人誌即売会。毎年4~5月と10月の年2回東京ビッグサイトで行われている。5月に開催される「SUPER COMIC CITY」と共に冬コミと夏コミの間を埋める役割を果たしているが、こちらは男性向け作品の占める割合が多く、2014年時点では男性向けオールジャンルイベントとしてはコミックマーケットに次ぐ参加サークル数となっている。
; ComiCon
: ComiConが主催する、大阪・京都で開催される同人誌即売会。
; [[クリエイション (同人即売会)|コミッククリエイション / サンシャインクリエイション]]
: クリエイション事務局(株式会社クリエイション)が主催する同人誌即売会。初期はコミッククリエイションのみを主催していたが、ブロッコリー主催による「コミックキャッスル」の終了を受け、会場・日程を引き継ぐ形でサンシャインクリエイションを始めた。[[2009年]]1月に個人情報流出の不祥事から、「サンシャインクリエイション43」「同44」が中止となったが、2009年9月に「サンシャインクリエイション45」が開催(再開)された。
; [[コミックシティ]]
: 赤ブーブー通信社(有限会社ケイ・コーポレーション)が主催。東京都・大阪市・福岡市にて年通算20回程度開催され、大阪・福岡では最大のイベントである。東京・大阪は後述する理由により、女性向けジャンルがほとんどを占める。東京ビッグサイトで3月に開催される「HARU COMIC CITY」と5月の「SUPER COMIC CITY」、インテックス大阪で開催される1月「COMIC CITY大阪」と8月「SUPER COMIC CITY関西」は規模が大きく、1日あたりの参加スペース数がコミックマーケットを超える場合(ただし、多くても2日間開催のため、3日間開催であるコミックマーケットとは総参加数で大きな隔たりがある)もある。
: インテックス大阪における1月と8月のイベントは、それぞれ[[コミックマーケット]]の直後に開催され、コミックマーケット参加サークルも多数参加するため、コミックマーケット開催時期([[お盆]]や[[年末]])に東京に行けない地元参加者への補完イベントのようにもなっている。1994年に千葉県の青少年保護条例を理由とした男性向け(成年向け)同人誌の扱いに絡んで、幕張メッセでの開催を直前になって中止するという不祥事を起こしており、結果的に現在に至るまでに女性向けジャンルがほとんどを占める状態となっている。
: 近年は、「全国大会」「擬人化王国」の名称で、企画系オンリーイベントも開催している。
; [[こみっくトレジャー]]
: 青ブーブー通信社(有限会社ケイ・コーポレーション)が年2回インテックス大阪にて開催する男性向けジャンル主体のイベント。1月「COMIC CITY大阪」と8月「SUPER COMIC CITY関西」の次の週に開催されることが多い。企業スペースが設置され、当時の「COMIC CITY大阪」では禁止されていた[[コスプレ]]が可能であった。また、[[メイド]]の[[コスプレ]]をしたスタッフからのドリンクサービスなど、独自の特色を出している。過去の不祥事からコミックシティへの男性参加者が見込めないため、別イベントとして立ち上げたという経緯がある。
; [[スタジオYOU|コミックライブ]]
: [[スタジオYOU]]([[ユウメディア|株式会社ユウメディア]])が主催する。[[東京]]だけではなく、[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]を主とした地方でも開催される(“おでかけライブ”、“○○(都市名)コミケ”という名称となる場合もある)。
: 女性向け大型オンリーイベントも盛んに行っている。最初は都内のみだったが最近では大阪市、福岡市、札幌市、[[名古屋市|名古屋]]、仙台市などでも開催されている。
; Nagoya Cosplay Exciting!
: ナゴコス実行委員会が主催する愛知のデジタル系即売会<ref>{{Cite web|和書|url=http://nago-cos.jp/ |title=名古屋同人コスプレ即売会「ナゴコス」公式サイト|work=nago-cos.jp|accessdate=2018-05-21}}</ref>。第1回の2016年4月から春(4月・5月)と秋(10月)の年2回開催している。略称はナゴコス。
;[[花鳥風月 (同人誌即売会)|花鳥風月]]
: 島根県松江市で開催される同人誌即売会。一年に6回のペースで開催されている。
; ぶちすげぇコミックバトル
: ぶちすげぇ実行委員会が主催する、岡山県岡山市で開催される同人誌即売会。1年に2回ほどのペースで開催されている。倉敷市や、香川県高松市で開催されることもある。「コスプレバトル」と称する、コスプレイヤーのダンス対決が毎回開催されるのが特徴。また、主催団体のメンバーが[[自由民主党 (日本)|自民党]]支持者のため、毎回自民党と[[公明党]]の国会議員や地方議員、党役員などによるあいさつが行われている。
==== 専門 ====
; [[おもしろ同人誌バザール]]
: おもしろ同人誌バザール実行委員会が主催する情報系同人誌即売会。2016年6月に始まった。サークル配置はジャンル問わずランダム。18禁本の頒布を禁止している。
; [[GirlsLoveFestival]]
: ラブフェス事務局が主催する百合系総合イベント「少女恋愛(百合/ガールズラブ)要素を含む作品/女の子同士カップリング作品限定の同人誌即売会」。2009年より関東地方で開催されている。
: 2015年3月時点で年間2-3回程度のペースで合計13回開催されている。
; [[コスチュームカフェ]]
: コスチュームカフェ実行委員会の主催による、[[制服]]系同人誌即売会。1999年01月 コスチュームカフェ 1号店より始まった。
:開催初期は[[ウェイトレス]]や学校制服などを扱うことが多かったが、その後こうしたジャンルにあてはまるゲームやアニメーションが増えたことから、現在では制服系ジャンル総合イベントとなっている。
:コスチュームカフェ37号店は2019年3月24日に開催された。
:派生イベントとして[[メイド]]系ジャンル限定の「帝國メイド倶楽部」がある。
; コミック・カーニバル
: [[1978年]]から[[名古屋]]で開催されていた一次創作オンリーの同人誌即売会。日本ではコミケに続き2番目の即売会。略称「コミカ」。
: 会場は[[名古屋市公会堂]]など。
: [[森博嗣]]と堀田清成([[ほったゆみ]]の夫)を中心とする「グループ・ドガ」が主宰しており、[[荻野真]]なども参加していた。
; [[COMITIA]](コミティア)
: コミティア実行委員会が主催する、オリジナル作品限定の同人誌即売会。「同人誌」という言葉が仲間内で閉じたニュアンスを持つため、'''自主制作漫画誌展示即売会'''と自らを形容している。<ref>[http://www.comitia.co.jp/start.html はじめに - COMITIA]{{リンク切れ|date=2018年4月}}{{Ja icon}}</ref>東京だけでなく、関西・名古屋・新潟・札幌・福島などの同人誌即売会主催者と協力して地方開催も行われている。商業出版社がプロ志望者を対象に作品持込を会場で受け付ける'''出張編集部'''が設けられることが多い。2019年現在東京開催は年4回、関西(大阪)開催は年3回など。
; [[THE VOC@LOiD M@STER]]
: ケットコムが主催する、[[VOCALOID]]作品限定の同人誌即売会。2016年11月までに36回開催されている。
; 静岡文学マルシェ
: [[2016年]]から開催される[[静岡県|静岡]]発祥の創作[[文芸]]同人誌展示即売会。目標として「静岡で作品発表の場を設けること」「地域で創作者の繋がりを作ること」「文学の楽しさを共有すること」をあげている。年に一回静岡で開催されている。
; [[そうさく畑]]
: 赤ブーブー通信社が'''そうさく畑実行委員会'''の主催名にて、主に神戸市を中心とした関西地方で開催するオリジナル作品限定の同人誌即売会。ここ数回は大阪市で開催されている。過去に東京などでも開催されたことがある。主催者の死去に伴い、2016年が最後の開催となった。
; [[東方Project#同人イベント|博麗神社例大祭]]
: 博麗神社社務所が主催する、[[東方Project]]関連作品のジャンル限定同人誌即売会。同人サークル・[[上海アリス幻樂団]]の作品群(東方Project、東方シリーズ)の[[二次創作]]、いわゆる「[[同人の同人]]」を中心としたイベントの1つである。
; [[ぷにケット]]
: ぷにケット準備会が主催する、[[ぷに (萌え属性)|ぷに萌え]]系キャラ(全体的にぷにぷにとした感じで描かれているキャラクター)及びその作品限定の同人誌即売会。尚、準備会側としては「[[おジャ魔女どれみ]]中心」としていることから同作品やその後番組([[明日のナージャ]]、[[プリキュアシリーズ]])、あるいは女児向けアニメ作品([[ふしぎ星の☆ふたご姫]]、[[おねがいマイメロディ]])や低年齢・[[ロリータ・コンプレックス|ロリ]]キャラが多い。
: また、アフターイベントが3時間以上かかることが慣例となっており、最後は儀式と呼ばれる特有の掛け声で締めくくることとなる。
: 別団体名主催でぷにケット準備会共催・協力の形で多数のイベントを開催しており、これらでもアフターイベントの最後は[[ぷにケット]]同様に儀式がある。
; [[文学フリマ]]
: [[2002年]]から開催されている[[文学]]作品展示即売会。[[純文学論争]]のなかで、文学を存続させるための場として提案され開催が始まった経緯を持つ。2021年現在7都市で計年8回開催している。
; 砲雷撃戦!よーい!
: SDFが主催していた、[[艦隊これくしょん -艦これ-]]作品限定の同人誌即売会。2013年6月2日に第1回が開催された。この内、9月開催分は高天原主催の「軍令部酒保」との共同開催となっている。東京ビッグサイトおよび鎮守府に関連する場所、果ては日本国外([[台湾]]、[[香港]])で開催されており、特に鎮守府に関連する場所での開催時は、前夜祭や屋台が開催されるなど大きな盛り上がりを見せていた。[[青森県]][[むつ市]][[大湊 (むつ市)|大湊]]で開催された第8回の時は、当時のむつ市長が来場したことから、ニュースでも取り上げられた<ref>[http://j-town.net/aomori/column/gotochicolumn/123317.html?p=all むつ・大湊「艦これ」イベントに市長も来場! 海上自衛隊も神対応で提督感激] Jタウンネット</ref>。[[舞鶴赤レンガ倉庫群]]での開催時は、非公式ファンイベントにもかかわらず[[舞鶴市]]が協賛し、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が臨時列車を運行するまでに至ったほどだった。2021年6月13日の砲雷撃戦67戦目が最後の開催で、最終的に舞鶴開催の規模が大きくなり過ぎ、権利者であるKADOKAWAは「砲雷撃戦が収益目的で非公式イベントを開催している」と判断、主催に対して今後の開催を中止するよう通告し、9月4日をもって開催終了が発表、サイトも閉鎖された<ref name="kyotonp230624">{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/1050734 |title=「艦これ」公式コラボイベント、京都・舞鶴で初開催へ 「非公式」問題視受け準備万全に |date=2023-6-24 |accessdate=2023-6-26 |website=[[京都新聞]] |publisher=京都新聞社}}</ref>。
: 東京開催についてはSDFが撤退し、高天原主催の「軍令部酒保」のみの開催へと変更された。
; [[本の杜]]
: [[2011年]]から開催されている[[文芸]]限定の同人誌即売会。川崎や東京など、関東地方で開催。
; [[まんが ギャラリー&マーケット]](MGM)
: コミックマーケットを創設した[[同人サークル]]「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」が主催する、オリジナル漫画作品限定の同人誌即売会。現行の同人誌即売会としては、コミックマーケットに次ぐ歴史を持つ。2007年開催以降、長らく休止状態であったが、2012年1月に復活し、2013年1月のMGM100をもって終了した。2013年9月より、別団体がMGM2として運営・開催。
; みみけっと
: ケットコムが主催する、[[猫耳]]など特殊な耳を付けたキャラクター関連ジャンル限定の同人誌即売会。主催のケットコムはイベントを開催する傍ら、同人誌即売会・コスプレイベント検索サイト'''ケットコム'''を運営している。
; メンズコミック(メンコミ)
: [[1992年]]より始まった、メンコミ準備会が主催する男性向ジャンルに特化された同人展示即売会。名古屋市内で定期的に開催されている。「男性向きオンリー」という看板を前面に掲げ、いわゆる「エロ本」を扱うサークルや男性一般参加者を主眼に置いて集めたという点で、開始当時は全国でも数少ない面妖同人誌即売会であった。当時は「コミケの新刊並ばず買える」をうたい文句にしていた。
: 現にその「うたい文句」の通り、サークル側もメンズコミック用にコミケットで新刊を売り切らずに持ち込むこともあった。[[1990年代]]後半には[[白鳥ホール]]に進出し最盛期を迎えるが、会場の使用が禁止されて以降低迷する。この時期、2000年3月に一度だけ神戸市に進出している。紆余曲折を経て、名古屋駅前の[[愛知県産業労働センター]](ウインク愛知)にて開催を継続。時折併設イベントを同時開催している。昭和のアンダーグラウンドな雰囲気を現代に伝えるイベントして、一部に好事家が存在する。2015年6月21日のラストメンズコミック(第56回目)を最終回としている。2018年、再開が発表された。
; けもケット(けもケ)
: [[獣人]]や[[ケモナー|ケモノ]]が登場する作品のみを頒布・購入できる同人誌即売会。2012年5月3日、日本橋(東京)の綿商会館で初開催。[[着ぐるみ]]と触れ合えるエリアもある。東京や関西でそれぞれ年に1度開催される。また、1月に関東地方で「新春けもケット」というイベントも開催される。 海外における同人誌即売会
==== 同人誌即売会で使われる会場 ====
{{See also|同人誌#同人誌と青少年を取り巻く問題}}
[[ファイル:Tokyo-BigSight-01.jpg|サムネイル|東京ビッグサイト]]
[[ファイル:TOKI MESSE.jpg|サムネイル|朱鷺メッセ]]
[[ファイル:Fukuoka dome02.jpg|サムネイル|福岡ドーム]]
主要都市の[[見本市]]会場で行われることが多い。[[ドーム球場]]([[札幌ドーム]]、[[福岡ドーム|福岡PayPayドーム]]など)や大型多目的ホール([[大宮ソニックシティ]]など)などで開催するイベントもある。一方で成年向け同人誌を扱うイベントに対して会場の貸し出しを拒否する事例も2007年に出てきている。
{{特殊文字|対象=節|説明=[[繁体字]]}}
===== 北海道・東北地方 =====
* [[さっぽろ芸術文化の館|ホテルさっぽろ芸文館]](旧[[北海道厚生年金会館]]:北海道札幌市中央区)
* [[さっぽろテレビ塔]](北海道札幌市中央区)
* [[みやぎ産業交流センター]](夢メッセみやぎ:宮城県仙台市宮城野区)
* [[福島青少年会館]](福島県福島市)
===== 関東地方 =====
* [[東京国際展示場]](東京ビッグサイト:東京都江東区有明)
* [[東京流通センター]](TRC:東京都大田区平和島)
* [[東京都立産業貿易センター]](浜松町館:東京都港区海岸・浜松町、台東館:東京都台東区花川戸・浅草)
* [[サンシャインシティ|サンシャインシティ・コンベンションセンターTOKYO]](東京都豊島区東池袋)
* [[大田区産業プラザ]](PiO:東京都大田区蒲田)
* [[サンライズビル東京]](東京都中央区日本橋)
* [[綿商会館]](東京都中央区日本橋)
* [[共和フォーラム]](東京文具共和会館)(東京都台東区柳橋・浅草橋)
* [[東京卸商センター]](東京都台東区柳橋・浅草橋)
* [[国際ファッションセンター・KFC Hall]](東京都墨田区横網・両国)
* [[ハイライフプラザいたばし]](東京都板橋区)
* [[全日警|プラザマーム]](PLAZA MAAM:東京都中央区)
* [[幕張メッセ]](千葉県千葉市・幕張)
* [[横浜国際平和会議場|パシフィコ横浜]](神奈川県横浜市・みなとみらい地区)
* [[横浜産貿ホール|横浜産貿ホール・マリネリア]](神奈川県横浜市・みなとみらい地区)
* [[大さん橋|横浜港大さん橋ホール]](神奈川県横浜市・みなとみらい地区)
* [[川崎市産業振興会館]](神奈川県川崎市)
* [[キュポ・ラ|川口駅前市民ホール・フレンディア]](埼玉県川口市)
* [[川口総合文化センター]](リリア:埼玉県川口市)
===== 中部地方 =====
* [[名古屋市国際展示場]](ポートメッセなごや:愛知県名古屋市・名古屋港金城埠頭)
* [[東別院青少年会館]](愛知県名古屋市中区)
* [[愛知県産業貿易館]](愛知県名古屋市中区)
* [[名古屋国際会議場]](愛知県名古屋市熱田区)
* [[愛知県産業労働センター]](愛知県名古屋市中区名駅)
* [[名古屋市中小企業振興会館]](吹上ホール:愛知県名古屋市千種区)
* [[山梨県立産業展示交流館アイメッセ山梨]](山梨県甲府市)
* [[新潟市産業振興センター]](新潟県新潟市中央区)
* [[朱鷺メッセ|新潟コンベンションセンター]](朱鷺メッセ:新潟県新潟市中央区)
* [[ITビジネスプラザ武蔵]](石川県金沢市)
===== 近畿地方 =====
* [[大阪国際見本市会場]](インテックス大阪:大阪府大阪市南港)
* [[大阪マーチャンダイズ・マートビル]](OMMビル:大阪府大阪市中央区大手前)
* [[大阪府立国際会議場|大阪国際会議場]](グランキューブ大阪:大阪府大阪市中之島)
* [[マイドーム大阪]](大阪府大阪市中央区本町橋)
* [[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]スカイホール(大阪府大阪市西区千代崎)
* [[京都市勧業館]](みやこめっせ:京都府京都市左京区岡崎)
* [[京都府総合見本市会館]](パルスプラザ:京都府京都市伏見区竹田)
* [[神戸国際展示場]](兵庫県神戸市・ポートアイランド)
* [[神戸サンボーホール]](兵庫県神戸市中央区)
===== 中国・四国地方 =====
* [[米子コンベンションセンター]](ビッグシップ:鳥取県米子市)
* [[島根県立産業交流会館]](くにびきメッセ:島根県松江市)
* [[岡山ドーム]](岡山県岡山市北区)
* [[岡山県総合展示場コンベックス岡山]](岡山県岡山市北区・都窪郡早島町)
* [[岡山コンベンションセンター]](ママカリフォーラム:岡山県岡山市北区)
* [[岡山県総合グラウンド体育館]](桃太郎アリーナ:岡山県岡山市北区)
* [[広島県立広島産業会館]](広島県広島市南区)
* [[広島市中小企業会館]](広島県広島市西区)
* [[香川県産業交流センター]](サンメッセ香川:香川県高松市)
===== 九州地方 =====
* [[福岡ドーム|福岡ドーム→福岡Yahoo!JAPANドーム→福岡ヤフオク!ドーム→福岡PayPayドーム]](福岡県福岡市)
* [[西日本総合展示場]](福岡県北九州市)
* [[都久志会館]](福岡県福岡市)
* [[那覇市民会館]](沖縄県那覇市)
* [[教育福祉会館]](沖縄県那覇市)
* [[沖縄コンベンションセンター]](沖縄県宜野湾市)
:
=== アジア ===
:* [[インド]]
:** [[Anime Convention, New Delhi]](アニメコンベンション)
:** [[Comic Con India]](コミックコンインド)
:*[[インドネシア]]
:**{{仮リンク|Comic Frontier|en|Comic Frontier}}(コミックフロンディア)[[ファイル:Comic Frontier 12 Crowd.jpg|サムネイル|コミックフロンディア12]]
:* [[大韓民国|韓国]]
:** [[Comic World]] 韓国
:**[[Daegu Comic Festival]](大邱コミックフェスティバル) [[File:ADSL 13th.jpg|thumb|広州で開催されたADSL 13th]]
:* [[中国]]
:** [[広州市|広州]] {{仮リンク|YACA|zh|YACA}}
:** 広州{{仮リンク|ADSL本土動漫創作作品展|zh|ADSL本土动漫创作作品展}}(広州ADSL同人誌即売会)
:**[[省|四川]]{{仮リンク|成都同人祭|zh|成都同人祭}}(ComiDay)
:* [[香港]]
:** [[Comic World]] 香港
:** [[蛍の祭]]
:* [[台湾]][[File:Fancy Frontier 8 at NTU Sports Center main court.jpg|thumb|[[国立台湾大学]]綜合体育館で開催されたFancy Frontier 8]]
:** {{仮リンク|Comic Horzion|zh|漫創地平線}}
:** [[台灣同人誌販售會]]([[Comic World]] Taiwan)
:** [[Fancy Frontier 開拓動漫祭]]
:** [[Tcomi]]
:** {{仮リンク|Grand Journey|zh|GJ同人誌販售會}}
:* [[タイ王国|タイ]]
:** [[Capsule event]]
:* [[マレーシア]]
:**{{仮リンク|Comic Fiesta|en|Comic Fiesta}}(コミックフィエスタ)
=== [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・アフリカ・[[ヨーロッパ]] ===
:* [[オタコン]](オタク・コンベンション、Otakon)
:* [[エジプト]]
:** [[The Grand Japanese POP Culture Festival]](2013年3月 第1回開催)
:* [[フランス]]
:** [[Japan Expo]]
== 参加者の分類 ==
[[File:Doujincircle.jpg|thumb|サークル参加者のスペース]]
コミックマーケットでの参加者分類は[[コミックマーケット#参加者の区分]]を参照。
; サークル参加者
: [[同人サークル]]として同人誌など制作し、スペースを確保して配布・頒布・販売を行う者。多くの即売会では、スペースを確保するため、主催者に事前申し込みする必要がある。参加申し込みが予定されたスペースを上回る場合、スペースの拡大や抽選が行われる。
; 委託参加者
: サークルとして同人誌を作成し、頒布を他のサークルに委ねる者。主に、サークルがスペース抽選に落選した場合や、会場が遠くまたは他の用事で直接参加できない場合に採られる。
: 大別して、即売会に委託参加枠を設け申し込みを受け付け主催者側が頒布を行う場合と、即売会のサークル参加者に販売を委ねる方法の2種類がある。
:前者の「主催者が頒布を行う」場合、上述のサークル参加者同様申し込みを要し参加費もかかるが、後者の「サークル参加者に頒布を委ねる」場合、委託参加者自身が申し込む必要はなく、それ自体には参加費はかからない。こちらは主に知り合い同士の厚意で成り立っており、サークル当事者同士で分割負担、物々交換、物品の授受、役務などにて解決する場合が多い。
; 企業参加者
: 企業の参加者。自社製品の販売や宣伝のために出展する。主催者に事前申し込みをする必要があるが、販売ブースの形態や参加費などが、サークル参加者とは異なっていることが多い。同人誌即売会の取材などを行う参加者も企業参加者となる。
; スタッフ参加者
: 主催者側の係員として会場の設営撤収、場内整理などを行う。非営利のイベントでボランティアとして参加している者に対する呼称で、警備員など主催者が業務を委託した者や、企業イベントにおける雇用されたスタッフは一般的に参加者とは呼ばれない。
; 一般参加者
: 上記以外の参加者で、一般的には同人誌などを購入するために参加する者。入場券も兼ねるよう、各参加サークルのスペース配置や注意事項を書いたパンフレット・カタログの購入が必要な場合が多い。
; [[コスプレ]]参加者
: コスプレを行う参加者。登録制の場合があり、一部では登録料が必要である。基本的に上記いずれかの参加者に属しているが、イベントによっては個別の参加者として扱うこともある。
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=藤田高弘|year=2004|month=1|title=ワークショップ・8 小さな巨大メディア:コミック同人誌の現在(2)|journal=マス・コミュニケーション研究|issue=64|pages=204-205|publisher=日本マス・コミュニケーション学会}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アニメコンベンション]]
* [[同人ショップ]]
* [[オフラインミーティング]]
* [[ロリータ・コンプレックス|ロリコン]] - [[腐女子]]
== 外部リンク ==
{{Wikibooks|同人誌即売会参加方法|同人誌即売会に参加する方法}}
; 関連団体・サイト
* [https://sokubaikairenrakukai.com/ 全国同人誌即売会連絡会]{{Ja icon}} - 即売会主催団体の連絡団体。
* [https://shimeken.com/events/schedule 同人イベントNAVI] - 即売会・イベント検索サイト
* [https://ketto.com/ ケットコム] - 即売会・イベント検索サイト
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ホモ
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ホモ(Homo)
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ホモ(Homo) ヨーロッパの諸言語において「同じ、よく似た」という意味を付加するギリシャ語起源の接頭辞 "homo-"。対義語は「異なる、異種の」を付加する接頭辞の"hetero-"(ヘテロ)。
ホモセクシュアル(Homosexual)の略語。本来同性愛者という意味だが、男性同性愛者を指して使われてきた。元は差別的意味合いを含んだ言葉ではないが、男性同性愛者に対して差別的文脈で使われることも多かったので「ゲイ」と言い換えることがある。「ホモ」という言葉自体が蔑称であるとする論者もいる一方で、言葉狩りだとの批判もある。対義語はヘテロセクシュアル(Heterosexual、ヘテロ、異性愛者)。
均質化(ホモゲナイズ、ホモジェナイズ)のこと。牛乳の脂肪分の分離を防ぐなどの目的で脂肪球を細かくする加工を指し、この処理を行った牛乳を「ホモ牛乳」と呼ぶ(「ホモソーセージ」などもある)。また、均質化を行っていないことを明示する意味でノンホモ(non-homogenized)も使われる。
遺伝学において、二倍体生物のある遺伝子座が「AA」「aa」のように同じ対立遺伝子からなる状態のこと。このような遺伝子型をホモ接合型といい、異なった対立遺伝子を持つ遺伝子型をヘテロ接合型という。人間のABO式血液型では、この表現型に関わる遺伝子にはA、B、Oの対立遺伝子がある。O対立遺伝子は劣性であるため、遺伝子型がOOのホモ接合型となった場合にO型の血液型になる。AB型はA対立遺伝子とB対立遺伝子を両方持つ時に現れる表現型なので、AB型の人はヘテロ接合型であると分かる。
数学、科学におけるホモ(homo-)は「同じ」「等価」の意を示す接頭語。数学用語では、ホモロジー・ホモトピー・homogeneous(斉次)・homomorphism(準同型)などがあるが、これらはどれも「ホモ」と略する使い方はない。
哺乳類霊長目ヒト科ヒト属の学名。ラテン語で「ヒト」を意味する。例えば原人の学名は「ホモ・エレクトス」であり「ホモ・サピエンス」といえば、現生人類、標準和名ではヒトのことである。
フランス語で、ホモの変化形、(homme,オム)というと、「人」のほかに「男」の意味をもつ。なお、「女」は(femme,ファム)。
化学において、HOMOは最高被占軌道 のこと。電子が存在している軌道のうち、最もエネルギーが高い軌道のことを指す。HOMOの対となる言葉として、LUMO 、最低空軌道がある。 トンボ鉛筆から発売されている鉛筆「HOMO」。均質化された粒子を芯に使用していることにちなむ。
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'''ホモ'''(Homo)
* [[ヨーロッパ]]の諸言語において「同じ、よく似た」という意味を付加する[[ギリシャ語]]起源の接頭辞 "''homo-''"。対義語は「異なる、異種の」を付加する接頭辞の"''hetero-''"([[ヘテロ]])。
**[[ホモセクシュアル]](Homosexual)の略語。本来[[同性愛者]]という意味だが、男性同性愛者を指して使われてきた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%9B%E3%83%A2-631344#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 『デジタル大辞泉』, 「ホモ(homo)」, 小学館](2017年12月1日閲覧)</ref>。元は差別的意味合いを含んだ言葉ではないが、男性同性愛者に対して差別的文脈で使われることも多かったので「ゲイ」と言い換えることがある<ref>[https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=B5Lam7zhVmAC&dq=isbn%3D4939015408&q=%E8%A8%80%E3%81%84%E6%8F%9B%E3%81%88%E3%82%8B#v=snippet&q=%E8%A8%80%E3%81%84%E6%8F%9B%E3%81%88%E3%82%8B&f=false 伏見憲明・及川健二・松沢呉一, 『「オカマ」は差別か 『週刊金曜日』の「差別表現」事件: 反差別論の再構築へ』, (ポット出版, 2002), p. 61] 伏見は「自分は90年代に差別意識への注意喚起の目的で『ゲイ』への言い換えを行っていたが、言葉自体が悪いわけではなく問題は文脈にある。東郷氏やゲイ雑誌の書き手がホモ、オカマという言葉を肯定的に用いて言葉のネガティブなイメージを払拭しようとしているのももう一つのやり方だ」と述べている。</ref><ref>[http://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/132489_1.pdf 自由民主党政務調査会・性的指向・性自認に関する特命委員会, 『性的指向・性同一性(性自認)に関するQ&A』, 2016年6月, p. 12] 配慮すべき言葉または蔑称として、男性同性愛者に対する「ホモ、おかま、オネエ」を挙げ「ゲイ」への言い換えを推奨している。</ref>。「ホモ」という言葉自体が蔑称であるとする論者もいる<ref>[https://style.nikkei.com/article/DGXKZO97256050T10C16A2NZ1P01 日本経済新聞夕刊, 『LGBT「いる」前提で 職場の言動、慎重・丁寧に』, 2016年2月15日付]</ref>一方で、言葉狩りだとの批判もある<ref>[https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20171004-OYTET50021/ 宋美玄, 『フジテレビ 同性愛蔑称謝罪は「言葉狩り」なのか』, ヨミドクター, 2017年10月5日]</ref>。対義語はヘテロセクシュアル(Heterosexual、ヘテロ、[[異性愛|異性愛者]])。
** 均質化(ホモゲナイズ、ホモジェナイズ)のこと。[[牛乳]]の[[脂肪]]分の分離を防ぐなどの目的で脂肪球を細かくする加工を指し、この処理を行った牛乳を「ホモ牛乳」と呼ぶ(「ホモソーセージ」などもある)。また、均質化を行っていないことを明示する意味でノンホモ(non-homogenized)も使われる。
** [[遺伝学]]において、[[二倍体]]生物のある[[遺伝子座]]が「AA」「aa」のように同じ[[対立遺伝子]]からなる状態のこと。このような[[遺伝子型]]を[[ホモ接合型]]といい、異なった対立遺伝子を持つ遺伝子型を[[ヘテロ接合型]]という。人間の[[ABO式血液型]]では、この[[表現型]]に関わる[[遺伝子]]にはA、B、Oの対立遺伝子がある。O対立遺伝子は[[劣性]]であるため、遺伝子型がOOのホモ接合型となった場合にO型の血液型になる。AB型はA対立遺伝子とB対立遺伝子を両方持つ時に現れる表現型なので、AB型の人はヘテロ接合型であると分かる。
** [[数学]]、[[科学]]におけるホモ(homo-)は「同じ」「[[等価]]」の意を示す接頭語。数学用語では、ホモロジー・ホモトピー・homogeneous(斉次)・homomorphism([[準同型]])などがあるが、これらはどれも「ホモ」と略する使い方はない。
* [[哺乳類]][[霊長類|霊長目]][[ヒト科]][[ヒト属]]の[[学名]]。[[ラテン語]]で「[[ヒト]]」を意味する。例えば[[原人]]の学名は「[[ホモ・エレクトス]]」であり「[[ホモ・サピエンス]]」といえば、現生人類、標準和名では[[ヒト]]のことである。
* [[フランス語]]で、ホモの変化形、(homme,オム)というと、「人」のほかに「[[男]]」の意味をもつ。なお、「女」は(femme,ファム)。
* [[化学]]において、HOMOは[[HOMO/LUMO|最高被占軌道]] ('''H'''ighest '''O'''ccupied '''M'''olecular '''O'''rbital) のこと。[[電子]]が存在している[[電子軌道|軌道]]のうち、最もエネルギーが高い軌道のことを指す。HOMOの対となる言葉として、LUMO (='''L'''owest '''U'''noccupied '''M'''olecular '''O'''rbital) 、最低空軌道がある。{{See|フロンティア軌道理論}}
* [[トンボ鉛筆]]から発売されている鉛筆「HOMO」。均質化された粒子を芯に使用していることにちなむ。
== 脚注 ==
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偏見
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偏見(へんけん、英語: prejudice、bias)とは、客観的な根拠なしに共通の特徴をもつモノに対する画一的な見方をすること、特定の集団や属するモノに対して画一的な感情を抱くことをいう。先入観、(アンコンシャス)バイアスやステレオタイプともいい、差別と密接な関係を持つ。一般的に悪い意味として使われる。全ての人が持つとされ、「偏見がない」と主張する人は無自覚な偏見(英語版)を持つ者として批判される。
偏見の言い換えとして、『バイアス』(意義的には感情バイアスあるいは認知バイアス。bias:本来『偏り』を意味する英語)という外来語が用いられる場合がある。ラテン語のpraejudiciumは経験に基づく判断を意味だったが、英語化されたprejudiceは未熟な・軽率な判断という意味の現在の偏見という言葉に当たる。 また『色眼鏡』で見る。『フィルタを通して見る』と言う言い回しも使われる。
2003年から始まった「大人のセサミストリート」と言われるパペット・ミュージカルアベニューQから「Everyone's a Little Bit Racist(皆多少は差別主義者)」という歌が出ている。この曲を、ガーディアンは本質的に誰もが、気づかないうちに、何らかの固有の偏見を持っているという事実を指摘する驚くほど洞察に満ちた曲と評価している。
精神障害者の障害者手帳、精神障害者保健福祉手帳の表紙には『障害者手帳』と書かれ、一見して、何の障害の種類が分からないようになっている。2006年(平成18年)10月1日申請分からは証明写真を貼付されることになったが、それ以前は貼付されることはなかった。当初は貼付する予定であったが、紛失や手帳提示をしたことにより、差別等の不利益を得る可能性が大きいと、一部の精神障害者団体が反対したためである。今でも都道府県や政令指定都市によっては、本人の希望した場合は貼付け無しにすることが認められることがある。
1950年代の後半に精神障害者家族会が、病院スタッフや市町村や保健所の職員の働きかけで結成している。滝沢武久によると家族会メンバーの多くは精神分裂病患者(現:統合失調症)の家族であり、さらに家族会の連合化も困難を極めた。1964年3月には駐日アメリカ合衆国大使のライシャワーが統合失調症の少年に刺される事件(ライシャワー事件)が起きた。アメリカと日本の間の重大な外交問題に発展しかねない大事件となったため、活動が停滞した。精神障害者家族会が家族側から自主的に設立されなかった背景について、滝沢は精神病患者に対する偏見が余りに強いため、家族は表面に出たがらなかったためとの意見がされている。
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"text": "偏見(へんけん、英語: prejudice、bias)とは、客観的な根拠なしに共通の特徴をもつモノに対する画一的な見方をすること、特定の集団や属するモノに対して画一的な感情を抱くことをいう。先入観、(アンコンシャス)バイアスやステレオタイプともいい、差別と密接な関係を持つ。一般的に悪い意味として使われる。全ての人が持つとされ、「偏見がない」と主張する人は無自覚な偏見(英語版)を持つ者として批判される。",
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"text": "精神障害者の障害者手帳、精神障害者保健福祉手帳の表紙には『障害者手帳』と書かれ、一見して、何の障害の種類が分からないようになっている。2006年(平成18年)10月1日申請分からは証明写真を貼付されることになったが、それ以前は貼付されることはなかった。当初は貼付する予定であったが、紛失や手帳提示をしたことにより、差別等の不利益を得る可能性が大きいと、一部の精神障害者団体が反対したためである。今でも都道府県や政令指定都市によっては、本人の希望した場合は貼付け無しにすることが認められることがある。",
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"text": "1950年代の後半に精神障害者家族会が、病院スタッフや市町村や保健所の職員の働きかけで結成している。滝沢武久によると家族会メンバーの多くは精神分裂病患者(現:統合失調症)の家族であり、さらに家族会の連合化も困難を極めた。1964年3月には駐日アメリカ合衆国大使のライシャワーが統合失調症の少年に刺される事件(ライシャワー事件)が起きた。アメリカと日本の間の重大な外交問題に発展しかねない大事件となったため、活動が停滞した。精神障害者家族会が家族側から自主的に設立されなかった背景について、滝沢は精神病患者に対する偏見が余りに強いため、家族は表面に出たがらなかったためとの意見がされている。",
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] |
偏見とは、客観的な根拠なしに共通の特徴をもつモノに対する画一的な見方をすること、特定の集団や属するモノに対して画一的な感情を抱くことをいう。先入観、(アンコンシャス)バイアスやステレオタイプともいい、差別と密接な関係を持つ。一般的に悪い意味として使われる。全ての人が持つとされ、「偏見がない」と主張する人は無自覚な偏見を持つ者として批判される。
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{{出典の明記|date=2019年4月}}
[[ファイル:AntiJapanesePropagandaTakeDayOff.png|サムネイル|第二次世界大戦中のアメリカで作成された[[広告]]。当時敵国であった[[大日本帝国|日本]]に対する偏見を広め、労働意欲の向上を狙った[[プロパガンダ]]である。]]
'''偏見'''(へんけん、{{Lang-en|prejudice}}、bias)とは、[[客観的]]な根拠なしに共通の特徴をもつモノに対する画一的な見方をすること、特定の集団や属するモノに対して画一的な感情を抱くことをいう<ref>{{Cite web|和書|title=偏見とは |url=https://kotobank.jp/word/%E5%81%8F%E8%A6%8B-131146 |website=コトバンク |access-date=2022-05-04 |language=ja |first=最新 心理学事典,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 第2版,普及版 |last=字通,世界大百科事典内言及}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=偏見(へんけん)の意味 - goo国語辞書 |url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%81%8F%E8%A6%8B/ |website=goo辞書 |access-date=2022-05-04 |language=ja}}</ref>。[[先入観]]、(アンコンシャス)[[認知バイアス|バイアス]]や[[ステレオタイプ]]ともいい<ref>{{Cite web|和書|title=先入観とは |url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%88%E5%85%A5%E8%A6%B3-88824 |website=コトバンク |access-date=2022-05-04 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,デジタル大辞泉}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=無自覚の偏見に立ち止まる |url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/794380/ |website=西日本新聞me |access-date=2022-05-04 |language=ja}}</ref>、[[差別]]と密接な関係を持つ。一般的に悪い意味として使われる。全ての人が持つとされ、「偏見がない」と主張する人は{{仮リンク|無自覚な偏見|en|Implicit stereotype}}を持つ者として批判される<ref>{{Cite web|和書|title=「私は○○に偏見がないから」にモヤる理由【アルテイシア】|ウートピ |url=http://wotopi.jp/archives/111371 |website=ウートピ |access-date=2022-05-04 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=偏見がない人はいない。川内有緒さん×木ノ戸昌幸さん『わたしの偏見とどう向き合っていく?』イベントレポート {{!}} こここ |url=https://co-coco.jp/series/study/ariokawauchi_masayukikinoto/ |website=co-coco.jp |access-date=2022-05-04 |language=ja}}</ref>。
== 概要 ==
偏見の言い換えとして、『[[バイアス]]』(意義的には[[感情バイアス]]あるいは[[認知バイアス]]。bias:本来『[[偏り]]』を意味する[[英語]])という[[外来語]]が用いられる場合がある。ラテン語のpraejudiciumは経験に基づく判断を意味だったが、英語化されたprejudiceは未熟な・軽率な判断という意味の現在の偏見という言葉に当たる。
また『[[色眼鏡]]』で見る。『[[フィルタ]]を通して見る』と言う言い回しも使われる。
2003年から始まった「大人の[[セサミストリート]]」と言われるパペット・ミュージカル[[アベニューQ]]から「Everyone's a Little Bit Racist(皆多少は差別主義者)」という歌が出ている。この曲を、[[ガーディアン]]は'''本質的に誰もが、気づかないうちに、何らかの固有の偏見を持っているという'''事実を指摘する驚くほど洞察に満ちた曲と評価している<ref>{{Cite web |title=“Avenue Q” musical kind of a Sesame Street for adults - Fort Myers Florida Weekly |url=https://fortmyers.floridaweekly.com/articles/avenue-q-musical-kind-of-a-sesame-street-for-adults/ |website=Fort Myers Florida Weekly - |date=2022-02-23 |access-date=2022-05-04 |first=Florida Weekly Staff {{!}} on |last=February 23}}</ref><ref>{{Cite web |title=Everyone’s a little bit racist, sometimes {{!}} Dean Burnett |url=http://www.theguardian.com/science/brain-flapping/2014/may/29/racist-racism-study-uk |website=the Guardian |date=2014-05-29 |access-date=2022-05-04 |language=en}}</ref>。
== 対策 ==
=== 精神障害者 ===
[[精神障害者]]の[[障害者手帳]]、[[精神障害者保健福祉手帳]]の表紙には『'''障害者手帳'''』と書かれ、一見して、何の障害の種類が分からないようになっている。[[2006年]]([[平成]]18年)[[10月1日]]申請分からは[[証明写真]]を貼付されることになったが、それ以前は貼付されることはなかった。当初は貼付する予定であったが、紛失や手帳提示をしたことにより、[[差別]]等の不利益を得る可能性が大きいと、一部の精神障害者団体が反対したためである。今でも[[都道府県]]や[[政令指定都市]]によっては、本人の希望した場合は貼付け無しにすることが認められることがある<ref>[[精神障害者保健福祉手帳]]の項参照</ref>。
1950年代の後半に[[精神障害者家族会]]が、病院スタッフや[[市町村]]や[[保健所]]の職員の働きかけで結成している。[[滝沢武久]]によると家族会メンバーの多くは[[精神分裂病|精神分裂病患者]](現:統合失調症)の家族であり、さらに家族会の連合化も困難を極めた。1964年3月には駐日アメリカ合衆国大使の[[エドウィン・O・ライシャワー|ライシャワー]]が統合失調症の少年に刺される事件(ライシャワー事件)が起きた。アメリカと日本の間の重大な外交問題に発展しかねない大事件となったため、活動が停滞した。精神障害者家族会が家族側から自主的に設立されなかった背景について、滝沢は[[精神病]]患者に対する偏見が余りに強いため、家族は表面に出たがらなかったためとの意見がされている<ref>[http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r058/r058_079.html 精神障害者家族会の組織と活動] 滝沢武久 2010年3月31日閲覧</ref><ref>こころの病と家族のこころ 滝沢武久 [[中央法規出版]] ISBN 9784805811665 199~203頁</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
*{{Cite |和書
|author=G.W.オルポート
|authorlink=ゴードン・オールポート
|translator=原谷達夫、野村昭
|title=偏見の心理
|publisher=培風館
|date=1961
|ncid=BN01071804
|doi=10.11501/3028918
|ID={{全国書誌番号|61009576}}
}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Prejudice}}
{{Wiktionary}}
* [[社会心理学]]
* [[ステレオタイプ]]
* [[タブロイド思考]]
* [[固定観念]]
* [[先入観]]
* [[思い込み]]
* [[予想]]
* [[差別]]
* [[社会的排除]]
* [[ヘイトクライム]]
* [[モラル・パニック]]
* [[偏向報道]]
* [[噂]]
* [[認知バイアス]]
* [[感情バイアス]]
* [[Wikipedia:中立的な観点]]
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[[Category:偏見|*]]
[[Category:認知バイアス]]
[[Category:社会心理学]]
[[Category:批判的思考の障壁]]
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17,282 |
不当
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不当(ふとう)は、正しくないこと、妥当ではないこと、道理に外れたことを指す。対義語は正当、妥当である。
「不当」という言葉は「違法」と同じような意味と解釈されることがあるが、法令用語としてはそれぞれの意味が異なってくる。
「不当」とは、実質的に妥当性を欠いていることをいう。対して「違法」とは、法秩序に違反していることをいう。「不当」なものが必ずしも「違法」であるとは限らず、法に違反してさえいなければ、それは「適法」という扱いになる。しかし、如何に適法であっても法の趣旨や目的から見て問題のある行為には変わりない。
なお、これは「不当」が「違法」でないことを保証するものではない。「不当」でかつ「違法」なものも当然あり得る。
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不当(ふとう)は、正しくないこと、妥当ではないこと、道理に外れたことを指す。対義語は正当、妥当である。
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'''不当'''(ふとう)は、正しくないこと、[[妥当性|妥当]]ではないこと、[[道理]]に外れたことを指す。[[対義語]]は正当、妥当である。
== 法令用語としての「不当」 ==
「不当」という言葉は「[[違法性|違法]]」と同じような意味と解釈されることがあるが、[[法令]]用語としてはそれぞれの意味が異なってくる。
「不当」とは、実質的に妥当性を欠いていることをいう。対して「違法」とは、法秩序に違反していることをいう。「不当」なものが必ずしも「違法」であるとは限らず、法に違反してさえいなければ、それは「適法」という扱いになる。しかし、如何に適法であっても法の趣旨や目的から見て問題のある行為には変わりない。
なお、これは「不当」が「違法」でないことを保証するものではない。「不当」でかつ「違法」なものも当然あり得る。
== 関連記事 ==
{{Wiktionary}}
*[[不当表示]]
*[[不当解雇]]
*[[不当利得]]
*[[不当労働行為]]
== 関連項目 ==
*[[法用語一覧]]
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[[Category:法]]
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17,285 |
日亜化学工業
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日亜化学工業株式会社(にちあかがくこうぎょう)は、徳島県阿南市に本社を持つ化学会社。略称は日亜(にちあ)日亜化学(にちあかがく)。発光ダイオードなどの電子デバイスや蛍光灯などに使われる蛍光体を扱う。以前は、ストレプトマイシンの製造にも携わっていた。2018年時点でのled世界シェアは第一位であったが、2021年時点では世界第二位である。
1956年、小川信雄が徳島県阿南市新野町に設立した。蛍光灯用の蛍光体、ブラウン管テレビ用の蛍光体のメーカーとして成長した。高輝度青色発光LEDを製品化以降は、製品で会社が世界的に知られるようになった。なお現在の主力製品は青色LEDと蛍光体を組み合わせて製品化した白色LEDであり、主に携帯電話のバックライト用として生産されている。
「日亜」(NICHIA)は、日本の「日」(NICHI)とアジア、アメリカ、オーストラリアの「亜」(A)を表している。社史によれば、この社名には、創業者の「日本を中心に四海仲良く肩を並べて発展していこうという思い」が込められている。
日亜化学工業は、20世紀中には困難と言われていた高輝度の青色発光ダイオードを1993年11月に製品化した。そのほか、青色LEDと蛍光体を組み合わせた白色LEDを開発し、携帯機器のバックライトや車載照明などへの利用が進んだ。また、第3世代光ディスクに不可欠の青紫色LDも開発するなど、同分野の技術開発は大きく進展した。開発を担当した中村修二は2014年のノーベル物理学賞受賞のインタビューで、感謝したい人物の筆頭として在職時の社長であった小川信雄の名を挙げ、「開発したいという私の提案を5秒で決断し、米国留学と中小企業(1988年当時、日亜化学の年間売上高は200億円に満たない程度であった)としては破格の研究開発費を用意して支援してくれた。彼は私が知る最高のベンチャー投資家だ」との主旨を述べた。ただし、中村と日亜は下記のように長らく対立が続いており、中村が2014年の文化勲章授与時にマスコミを通じて日亜に感謝を述べ和解を申し出たが、日亜側は「感謝の気持ちで十分」と面会を断っている。
日亜化学工業の元社員である中村修二が、在職時に小川信雄社長(当時)の支援を受けて、窒化ガリウム系化合物単結晶膜の製造に利用可能な「ツーフローMOCVD技術」(通称404特許)を発明した。2001年8月、この特許権帰属確認と後に譲渡対価請求を求めて日亜化学工業を提訴し、注目を集めた。なお、訴訟提起時には小川信雄は既に社長を退いており、娘婿の小川英治が社長に就いていた。2005年1月、裁判所が和解を促し中村も裁判のこれ以上の長期化を嫌ったため両者は和解した。中村は裁判後弁護士とは異なる記者会見を設け「日本の司法は腐っている」と述べた。この訴訟などを機に職務発明の扱いが社会問題になり、特許法の改正が行われた。本訴訟中に日亜化学工業は404特許を「量産には必要のない技術」であるとして無価値であることを幾度も述べ、その特許権を2006年2月に放棄した。日亜化学工業は「アニールp型化現象」が量産化の鍵であったと主張している。中村修二は後にノーベル物理学賞を受賞したが、そのときの共同受賞者である天野浩は中村の功績について、「中村さんは実験の神様みたいな人。あの人がやったから実用化が急速に進んだ。この材料が注目された最大の功績者は中村さんじゃないかと思う」と語っている。
YouTubeに、製造現場の衛生状態やパワーハラスメントの存在など同社の職場環境を貶める動画を投稿されたとして、同社がYouTubeのアメリカの運営会社に対し、動画を削除するよう依頼したが、運営会社が応じなかったため、同社は徳島地方裁判所に訴訟を提起。その後同地裁は同社の訴えを認め、運営会社に対し動画の削除と発信者情報の開示を命じる仮処分命令を出した。この仮処分命令を受け、動画は一旦削除されたものの、その後別アカウント名で再投稿された。2020年2月17日に同地裁は「動画は公益を図る目的でないことは明らか」などとして、YouTubeの運営会社に対し、動画削除と発信者情報の開示を命じる判決を言い渡した。
徳島県内(阿南市、徳島市、鳴門市)に本社のほか4工場を構えている。台湾、中国、マレーシア等に現地子会社の工場がある。
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"title": "社名"
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"title": "ダイオード開発"
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"text": "YouTubeに、製造現場の衛生状態やパワーハラスメントの存在など同社の職場環境を貶める動画を投稿されたとして、同社がYouTubeのアメリカの運営会社に対し、動画を削除するよう依頼したが、運営会社が応じなかったため、同社は徳島地方裁判所に訴訟を提起。その後同地裁は同社の訴えを認め、運営会社に対し動画の削除と発信者情報の開示を命じる仮処分命令を出した。この仮処分命令を受け、動画は一旦削除されたものの、その後別アカウント名で再投稿された。2020年2月17日に同地裁は「動画は公益を図る目的でないことは明らか」などとして、YouTubeの運営会社に対し、動画削除と発信者情報の開示を命じる判決を言い渡した。",
"title": "その他"
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"text": "徳島県内(阿南市、徳島市、鳴門市)に本社のほか4工場を構えている。台湾、中国、マレーシア等に現地子会社の工場がある。",
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日亜化学工業株式会社(にちあかがくこうぎょう)は、徳島県阿南市に本社を持つ化学会社。略称は日亜(にちあ)日亜化学(にちあかがく)。発光ダイオードなどの電子デバイスや蛍光灯などに使われる蛍光体を扱う。以前は、ストレプトマイシンの製造にも携わっていた。2018年時点でのled世界シェアは第一位であったが、2021年時点では世界第二位である。
|
{{基礎情報 会社
| 社名 = 日亜化学工業株式会社
| 英文社名 = Nichia Corporation
| ロゴ = [[ファイル:Nichia Logo.svg|250px]]
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません -->
| 略称 = 日亜・日亜化学
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 774-8601
| 本社所在地 = [[徳島県]][[阿南市]][[上中町 (阿南市)|上中町]]岡491番地
| 本社緯度度 = 33|本社緯度分 = 55|本社緯度秒 = 42.4|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 134|本社経度分 = 36|本社経度秒 = 58.7|本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1956年]]12月
| 業種 = 3200
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = LED、蛍光体、電池材料等の製造販売
| 代表者 = 代表取締役社長 小川裕義
| 資本金 =
* 520億2600万円
(2022年12月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=日亜化学工業株式会社 |authorlink= |date=2023-3-28 |title=第67期(令和4年1月1日 - 令和4年12月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 発行済株式総数 =
* 224万6209株
(2022年12月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 売上高 =
* 連結: 5021億1300万円
* 単独: 4880億7200万円
(2022年12月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 =
* 連結: 919億0000万円
* 単独: 832億0200万円
(2022年12月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 経常利益 =
* 連結: 1079億9500万円
* 単独: 1050億6500万円
(2022年12月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純利益 =
* 連結: 797億8000万円
* 単独: 786億8800万円
(2022年12月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純資産 =
* 連結: 9422億3000万円
* 単独: 8656億2700万円
(2022年12月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 総資産 =
* 連結: 1兆0351億0500万円
* 単独: 9572億1700万円
(2022年12月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 =
* 連結: 9,219人
* 単独: 8,187人
(2022年12月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 決算期 = 12月31日
| 会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]]<ref name="fy" /><!-- 更新する際は出典を修正してください -->
| 主要株主 =
* 日亜持株組合 13.4%
* 協同医薬研究所 5.9%
* [[徳島大正銀行]] 4.7%
* [[阿波銀行]] 4.7%
* [[四国銀行]] 4.7%
* [[シチズン時計]] 4.0%
* [[みずほ銀行]] 3.4%
* [[大塚ホールディングス]] 3.0%
* [[伊予銀行]] 3.0%
* [[三菱UFJ銀行]] 2.8%
* (2022年12月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 更新する際は出典を修正してください -->
| 主要子会社 = {{Plainlist|
* 日亜興業 100%
* 台湾日亜化学 100%
* 深圳日亜化学 100%
* 上海日亜電子化学 100%
* Nichia (Malaysia) 100%
* 韓国日亜 100% 他
}}
| 関係する人物 = [[小川信雄 (実業家)|小川信雄]]
| 外部リンク = {{Official URL}}
| 特記事項 =
}}
'''日亜化学工業株式会社'''(にちあかがくこうぎょう)は、[[徳島県]][[阿南市]]に本社を持つ化学会社。略称は'''日亜'''(にちあ)'''日亜化学'''(にちあかがく)。[[発光ダイオード]]などの[[電子デバイス]]や[[蛍光灯]]などに使われる[[蛍光体]]を扱う。以前は、[[ストレプトマイシン]]の製造にも携わっていた。[[2018年]]時点でのled世界シェアは第一位であったが<ref>{{cite web|url=https://www.ledinside.com/intelligence/2018/4/ledinside_announced_the_top_ten_led_package_suppliers_worldwide_mls_climbed_to_the_fourth|title=LEDinside Announced the Top Ten LED Package Suppliers Worldwide, MLS Climbed to the Fourth|publisher=LEDinside|date=2018-04-11|accessdate=2021-12-27}}</ref>、[[2021年]]時点では世界第二位である<ref>{{Cite web|和書|url=https://deallab.info/led/|title=LED業界の世界市場シェアの分析|publisher=Deallab|date=2021-11-17|accessdate=2021-12-27}}</ref>。
== 概要 ==
[[1956年]]、[[小川信雄 (実業家)|小川信雄]]が徳島県阿南市[[新野町 (阿南市)|新野町]]に設立した。蛍光灯用の蛍光体、ブラウン管テレビ用の蛍光体のメーカーとして成長した。高輝度[[発光ダイオード#青色発光ダイオード|青色発光LED]]を製品化以降は、製品で会社が世界的に知られるようになった。なお現在の主力製品は青色LEDと蛍光体を組み合わせて製品化した[[白色発光ダイオード|白色LED]]であり、主に[[携帯電話]]のバックライト用として生産されている。
<gallery>
画像:BlueLED.jpg|主力製品の一つである青色LED
File:Aratano-led-signal 2.jpg|創業地(右奥)に最も近いLED信号交差点<br />[[新野町 (阿南市)|新野町]]入田方面
File:Aratano-okayamajo-castle 7.jpg|[[岡山城 (阿波国)|岡山城址]]から望む新野市街<br />手前は創業地
File:Aratano-Traffic light.jpg|創業地から2番目に近いLED信号交差点<br />新野町花坂・是国
File:Aratano-led-signal.jpg|創業地に最も近いLED信号交差点<br />新野町東馬場
File:Kaminaka-town nichiakagakukogyo.jpg|現在の本社<br />[[上中町 (阿南市)|上中町]]岡
</gallery>
== 社名 ==
「日亜」(NICHIA)は、日本の「日」(NICHI)とアジア、アメリカ、オーストラリアの「亜」(A)を表している<ref name="gojunen">日亜化学工業株式会社総務部(編)『日亜50年のあゆみ』(日亜化学工業株式会社、2008年12月)</ref>。社史によれば、この社名には、創業者の「日本を中心に四海仲良く肩を並べて発展していこうという思い」が込められている<ref name="gojunen" />。
== ダイオード開発 ==
日亜化学工業は、20世紀中には困難と言われていた高輝度の[[発光ダイオード#青色発光ダイオード|青色発光ダイオード]]を1993年11月に製品化した。そのほか、青色LEDと蛍光体を組み合わせた[[白色発光ダイオード|白色LED]]を開発し、携帯機器のバックライトや車載照明などへの利用が進んだ。また、[[第3世代光ディスク]]に不可欠の青紫色[[レーザーダイオード|LD]]も開発するなど、同分野の技術開発は大きく進展した。開発を担当した[[中村修二]]は2014年のノーベル物理学賞受賞のインタビューで、感謝したい人物の筆頭として在職時の社長であった小川信雄の名を挙げ、「開発したいという私の提案を5秒で決断し、米国留学と中小企業(1988年当時、日亜化学の年間売上高は200億円に満たない程度であった)としては破格の研究開発費を用意して支援してくれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.takeda-foundation.jp/reports/pdf/ant0101.pdf|title= 青色発光ダイオード・半導体レーザの実用化|publisher=武田先端知|format=PDF|accessdate=2020-12-01}}</ref>。彼は私が知る最高のベンチャー投資家だ」との主旨を述べた<ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/feature/news/20141008k0000m040184000c.html|title=ノーベル賞:中村氏 研究の原動力は「怒り」|publisher=毎日新聞|accessdate=2014-10-08}}</ref>。ただし、中村と日亜は下記のように長らく対立が続いており、中村が2014年の文化勲章授与時にマスコミを通じて日亜に感謝を述べ和解を申し出たが、日亜側は「感謝の気持ちで十分」と面会を断っている。
=== ツーフローMOCVD技術特許訴訟 ===
日亜化学工業の元社員である中村修二が、在職時に小川信雄社長(当時)の支援を受けて、[[窒化ガリウム]]系[[化合物]][[単結晶]]膜の製造に利用可能な「ツーフローMOCVD技術」(通称[[404特許]])を発明した。2001年8月、この[[特許権]]帰属確認と後に譲渡対価請求を求めて日亜化学工業を提訴し、注目を集めた。なお、訴訟提起時には小川信雄は既に社長を退いており、娘婿の小川英治が社長に就いていた。2005年1月、裁判所が[[和解]]を促し中村も裁判のこれ以上の長期化を嫌ったため両者は和解した。中村は裁判後弁護士とは異なる記者会見を設け「日本の司法は腐っている」と述べた。この訴訟などを機に[[職務発明]]の扱いが社会問題になり、[[特許法]]の改正が行われた<ref>{{Cite web|和書| url = http://chizai.nikkeibp.co.jp/chizai/gov/tomatsu20040630.html| title = 2004年度の特許法改正と職務発明訴訟に関する留意点(下)|publisher=日経BP|accessdate=2014-10-08}}</ref>。本訴訟中に日亜化学工業は404特許を「量産には必要のない技術」であるとして無価値であることを幾度も述べ、その特許権を2006年2月に放棄した。日亜化学工業は「アニールp型化現象」が量産化の鍵であったと主張している<ref>{{Cite web|和書| url = http://techon.nikkeibp.co.jp/NEWS/nakamura/mono200404_2.html| title = 日亜化学工業社長の小川英治氏 訴訟騒動の真実を今こそ明らかにする|publisher=日経BP|accessdate=2014-10-08}}</ref>。中村修二は後にノーベル物理学賞を受賞したが、そのときの共同受賞者である[[天野浩]]は中村の功績について、「中村さんは実験の神様みたいな人。あの人がやったから実用化が急速に進んだ。この材料が注目された最大の功績者は中村さんじゃないかと思う」と語っている<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.yomiuri.co.jp/science/20141008-OYT1T50137.html | title = 天野浩教授「平均的な日本人の私でも取れた」|publisher=読売新聞|accessdate=2014-10-08}}</ref>。<!-- 毎日新聞の記事は一部省略されて内容が不正確なので、読売の記事に差し替えた。-->
== その他 ==
=== YouTube動画を巡る騒動 ===
[[YouTube]]に、製造現場の衛生状態や[[パワーハラスメント]]の存在など同社の職場環境を貶める動画を投稿されたとして、同社がYouTubeの[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の運営会社に対し、動画を削除するよう依頼したが、運営会社が応じなかったため、同社は[[徳島地方裁判所]]に訴訟を提起。その後同地裁は同社の訴えを認め、運営会社に対し動画の削除と発信者情報の開示を命じる[[仮処分]]命令を出した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190827/k00/00m/040/081000c?pid=14542 発光ダイオード・日亜を中傷する動画、削除命じる仮処分 徳島地裁] 毎日新聞 2019年8月27日</ref>。この仮処分命令を受け、動画は一旦削除されたものの、その後別アカウント名で再投稿された。[[2020年]][[2月17日]]に同地裁は「動画は公益を図る目的でないことは明らか」などとして、YouTubeの運営会社に対し、動画削除と発信者情報の開示を命じる判決を言い渡した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200217/k00/00m/040/286000c 日亜化学工業がユーチューブに勝訴 中傷動画の削除と発信者情報開示命令 徳島地裁] 毎日新聞 2020年2月17日</ref>。
== 拠点 ==
徳島県内(阿南市、徳島市、鳴門市)に本社のほか4工場を構えている。台湾、中国、マレーシア等に現地子会社の工場がある。
* 本社
: 徳島県阿南市。1964年12月、上中工業所として開設<ref name="gojunen" />。1972年から本社。
* 新野工場(A工場)
: 徳島県阿南市。会社設立の1956年12月から操業の旧本社<ref name="gojunen" />。電池材料を製造<ref name="gojunen" />。
* 辰巳工場(TN工場、TS工場)
: 徳島県阿南市。1995年2月から操業<ref name="gojunen" />。敷地面積41万1千平方メートル<ref name="gojunen" />。蛍光体、LED、電池材料、医薬品原材料、蒸着材料・薄膜材料を製造<ref name="gojunen" />。
* 徳島工場(V工場)
: 徳島県[[徳島市]]。1974年5月から操業<ref name="gojunen" />。遷移金属触媒、電子材料を製造<ref name="gojunen" />。
* 鳴門工場(N工場)
: 徳島県[[鳴門市]]。[[日本たばこ産業]]徳島工場跡地で2006年11月から操業<ref name="gojunen" />。LED応用製品を製造<ref name="gojunen" />。
* 鹿児島工場(K工場)
: [[鹿児島県]][[南九州市]]。[[EMS (製造業)|EMS]]メーカーの高槻電器工業の拠点を利用して2007年1月から操業<ref name="gojunen" />。LEDを製造<ref name="gojunen" />。現在は廃止。
* 東京営業所
: [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]。
* 大阪営業所
: [[大阪府]][[大阪市]][[淀川区]]。
* 名古屋営業所
: [[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]]。
* 諏訪技術センター
: [[長野県]][[諏訪郡]][[下諏訪町]]。
* 徳島研究所
: 徳島県阿南市上中町。(本社内)
* 横浜研究所
: [[神奈川県]][[横浜市]][[神奈川区]]。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[シグニファイ]] - led世界シェア第1位。
* [[オスラム]] - 世界シェア第2位。
== 外部リンク ==
* {{Official website|name=日亜化学工業株式会社}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:にちあかかくこうきよう}}
[[Category:日本の化学工業メーカー]]
[[Category:阿南市の企業]]
[[Category:日本の多国籍企業]]
[[Category:阿南市の歴史]]
[[Category:1956年設立の企業]]
[[Category:ファミリー企業]]
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大隅国
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大隅国(おおすみのくに、旧字体: 大隅國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の鹿児島県の東部に属する。
令制国が成立する以前は襲国(そのくに)とも呼ばれた熊襲(球磨囎唹と訓が当てられ、そのまま囎唹郡と繋がる)の本拠地であり、後にも薩摩と並んで隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地で、日向からの分立及び隼人の根拠地であった囎唹郡の分割は、隼人勢力の弱体化を意図して行われた。薩摩国衙のある高城郡に肥前から移民が行われたのと同様に、大隅国衙の置かれた桑原郡には豊前から移民が行われるなど対隼人政策が取られている。
当時はそのような隼人首長の大隅直(あたい)、曾君(そのきみ)、加士伎県主(かしきあがたぬし)、肝衝(きもつき)といった豪族が割拠した。
養老4年(720年)に隼人は大隅守陽侯史麻呂を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。大和朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。この反乱を受けて囎唹郡はさらに分割され隼人の管理は徹底された。その結果、奈良時代中期から後期には大隅の支配は安定し、延暦19年(800年)には他地域同様に班田制も導入され、律令制による支配が定着した。
しかし、隼人の同化が進んだ一方で平安中期には南島人が侵入してきたり、一方で寛弘4年(1007年)大隅守菅野重忠が太宰府府官大蔵満高に射殺され、長元2年(1029年)にはこれも太宰府大監で島津荘の開墾者であった平季基が大隅国衙を焼討し、国衙支配が壊滅的打撃を受けるなど管轄内の諸国に対する介入の度合いを強める太宰府との激しい対立があり、その背景には南島との交易利権の管掌が絡んでいた。
こうした情勢の中で、それまで国の中心となる神社であった鹿児島神宮に八幡神を勧請して、九州五所別宮となる正八幡宮が成立している。
平季基は賄賂を駆使し、また藤原頼通に島津荘を寄進することで身の安泰を図り特段処罰を受けることもなく現地に住み着いたので、さらなる領域拡張を続け国衙領を削り取る島津荘とそれに対抗して正八幡宮の権威を活用する大隅国衙との対立関係は続き、国土は実質的に島津荘と正八幡宮領に二分されていった。
明治維新直前の領域は、現在の鹿児島県の下記の区域に相当する。※の区域はいずれも1897年(明治30年)に薩摩国に移管されている。
下記の区域はのちに大隅国に編入されている。
『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える。
古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。
7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した。
大宝2年(702年)8月1日に起こった薩摩・多褹の叛乱を契機に、同年、日向国を割いて唱更国・多褹国が分立した。
その流れの中で和銅6年(713年)4月3日、日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡、現在の鹿児島県本土の東部が大隅国として分立したのが、大隅国の始まりとされる。
数年の内に、囎唹郡を割いて桑原郡(姶良郡湧水町周辺)が、天平勝宝7年(755年)にさらに囎唹郡を割いて菱苅郡(現在の伊佐市周辺)が設けられ、六郡となる。
天長元年(824年)10月1日に、現在の屋久島と種子島にあたる多禰国をあわせた。この際、四郡あった多禰国の郡は二郡に統合され、結果大隅国は八郡となる。
平安時代には荘園の進展で姶羅郡(現在の鹿屋市周辺。現在の姶良郡は別)がその実を失い、肝属郡に編入されたとみられる。
明治12年(1879年)、奄美群島(大島郡)を編入した。明治30年(1897年)には、現在の三島村、十島村地域が薩摩国川辺郡から大島郡に編入された。
国府は『色葉字類抄』によると、桑原郡。『拾芥抄』および易林本の『節用集』では、贈於郡とある。
現在の霧島市国分府中にあったと推測されているが、遺跡はまだ見つかっていない。
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"text": "古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。",
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"text": "大宝2年(702年)8月1日に起こった薩摩・多褹の叛乱を契機に、同年、日向国を割いて唱更国・多褹国が分立した。",
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"text": "その流れの中で和銅6年(713年)4月3日、日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡、現在の鹿児島県本土の東部が大隅国として分立したのが、大隅国の始まりとされる。",
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"text": "数年の内に、囎唹郡を割いて桑原郡(姶良郡湧水町周辺)が、天平勝宝7年(755年)にさらに囎唹郡を割いて菱苅郡(現在の伊佐市周辺)が設けられ、六郡となる。",
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"text": "天長元年(824年)10月1日に、現在の屋久島と種子島にあたる多禰国をあわせた。この際、四郡あった多禰国の郡は二郡に統合され、結果大隅国は八郡となる。",
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"text": "明治12年(1879年)、奄美群島(大島郡)を編入した。明治30年(1897年)には、現在の三島村、十島村地域が薩摩国川辺郡から大島郡に編入された。",
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"text": "国府は『色葉字類抄』によると、桑原郡。『拾芥抄』および易林本の『節用集』では、贈於郡とある。",
"title": "国内の施設"
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"text": "現在の霧島市国分府中にあったと推測されているが、遺跡はまだ見つかっていない。",
"title": "国内の施設"
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大隅国は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の鹿児島県の東部に属する。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 大隅国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|大隅国}}
|別称 = 隅州(ぐうしゅう)
|所属 = [[西海道]]
|領域 = [[鹿児島県]]東部・[[奄美群島]]
|国力 = [[中国 (令制国)|中国]]
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 8郡37郷
|国府 = 鹿児島県[[霧島市]]
|国分寺 = 鹿児島県霧島市([[大隅国分寺跡]])
|国分尼寺 = (未詳)
|一宮 = [[鹿児島神宮]](鹿児島県霧島市)
}}
'''大隅国'''(おおすみのくに、{{旧字体|大隅國}})は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に属し、現在の[[鹿児島県]]の東部に属する。
== 概要 ==
令制国が成立する以前は襲国(そのくに)とも呼ばれた[[熊襲]](球磨囎唹と訓が当てられ、そのまま囎唹郡と繋がる)の本拠地であり、後にも薩摩と並んで[[隼人]]の抵抗が最後まで根強く続いた地で、日向からの分立及び隼人の根拠地であった囎唹郡の分割は、隼人勢力の弱体化を意図して行われた<ref name="hikuma-osumi">日隈正守 「[http://jairo.nii.ac.jp/0016/00005036 大隅国における建久図田帳体制の成立過程]」</ref>。薩摩国衙のある高城郡に肥前から移民が行われたのと同様に、大隅国衙の置かれた桑原郡には豊前から移民が行われるなど対隼人政策が取られている。
当時はそのような隼人首長の大隅直(あたい)、曾君(そのきみ)、加士伎県主(かしきあがたぬし)、肝衝(きもつき)といった豪族が割拠した<ref>[https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?issuedFm=1943&keyword=%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E5%8F%B2&reshowFlg=1&detailSearchTypeNo=A&publisher=%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C&rows=20&viewRestrictedList=0%7C2%7C3 『鹿兒島縣史』 第一巻/第二編 國造時代/第四章 國造縣主の設置と諸豪族]</ref><ref>竹森友子, 「[https://hdl.handle.net/10935/863 南島と隼人 -文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景-]」 『人間文化研究科年報』 Vol.22 p.69-84 2007, 奈良女子大学大学院人間文化研究科, {{issn|0913-2201}}</ref>。
養老4年(720年)に隼人は大隅守[[陽侯史麻呂]]を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。大和朝廷は[[大伴旅人]]を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。この反乱を受けて囎唹郡はさらに分割され隼人の管理は徹底された。その結果、奈良時代中期から後期には大隅の支配は安定し、延暦19年(800年)には他地域同様に[[班田制]]も導入され、[[律令制]]による支配が定着した。
しかし、隼人の同化が進んだ一方で平安中期には南島人が侵入してきたり、一方で寛弘4年(1007年)大隅守[[菅野重忠]]が太宰府府官[[大蔵満高]]に射殺され、長元2年(1029年)にはこれも太宰府大監で島津荘の開墾者であった[[平季基]]が大隅国衙を焼討し、国衙支配が壊滅的打撃を受けるなど管轄内の諸国に対する介入の度合いを強める太宰府との激しい対立があり、その背景には南島との交易利権の管掌が絡んでいた<ref name="hikuma-simadsu">{{Cite journal|和書|author=日隈正守 |date=2015-03-11 |url=https://hdl.handle.net/10232/23160 |title=島津荘に関する一考察 : 成立期を中心に |journal=鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 |publisher=鹿児島大学 |volume=66 |pages=1-13 |ISSN=0389-6684 |naid=120005600960}}</ref>{{Refnest|group="注"|大蔵氏は加治木郷を開発して勢力を扶植しており、重忠の殺害も満高の父[[大蔵種材|種材]]の指示によるものであった。重忠殺害事件は[[藤原道長]]の裁定で犯人不明とされ、満高は大宰大弐[[藤原高遠]]の庇護により事件後特に処分されることもなかったが、二十四年後に皇族僭称と重忠殺害の科でようやく罰された。<ref>日隈正守 「[http://jairo.nii.ac.jp/0016/00014434 大隅守菅野重忠殺害事件の背景に関する一考察]」</ref>}}。
こうした情勢の中で、それまで国の中心となる神社であった[[鹿児島神宮]]に[[八幡神]]を勧請して、九州五所別宮となる[[正八幡宮]]が成立している<ref name="hikuma-osumi"/><ref>鹿児島県歴史資料センター 黎明館 『[http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/kouhoushi/kouhoushi-2.html 黎明だより]』 『黎明 vol.34 No.2』 2016年8月1日</ref>。
平季基は賄賂を駆使し、また[[藤原頼通]]に島津荘を寄進することで身の安泰を図り特段処罰を受けることもなく現地に住み着いたので、さらなる領域拡張を続け国衙領を削り取る島津荘とそれに対抗して正八幡宮の権威を活用する大隅国衙との対立関係は続き、国土は実質的に島津荘と正八幡宮領に二分されていった。
== 領域 ==
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[鹿児島県]]の下記の区域に相当する。※の区域はいずれも[[1897年]]([[明治]]30年)に[[薩摩国]]に移管されている。
* [[姶良市]]
* [[霧島市]]
* [[姶良郡]][[湧水町]]
* ※[[伊佐市]]の南部(菱刈市山・菱刈花北・菱刈下手・大口曽木・大口針持以南)
* [[曽於市]]の大部分(財部町下財部・大隅町月野・大隅町境木町・大隅町荒谷を除く)
* [[鹿屋市]]
* [[垂水市]]
* ※[[鹿児島市]]の一部([[桜島]])
* [[肝属郡]][[東串良町]]・[[肝付町]]・[[錦江町]]・[[南大隅町]]
* [[西之表市]]
* [[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[中種子町]]・[[南種子町]]・[[屋久島町]]
下記の区域はのちに大隅国に編入されている。
* 曽於市の一部(財部町下財部) - [[1871年]][[日向国]]より編入
* 曽於市の一部(大隅町月野・大隅町境木町・大隅町荒谷) - 1897年日向国より編入
* [[志布志市]] - 1897年日向国より編入
* [[曽於郡]][[大崎町]] - 1897年日向国より編入
* [[奄美群島]] - [[1879年]][[琉球国]]より編入
** [[奄美市]]
** [[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[喜界町]]・[[龍郷町]]・[[大和村]]・[[宇検村]]・[[瀬戸内町]]・[[徳之島町]]・[[天城町]]・[[伊仙町]]・[[和泊町]]・[[知名町]]・[[与論町]]
* [[上三島]]・[[トカラ列島]] - 1897年薩摩国より編入
** [[鹿児島郡]][[三島村]]・[[十島村]]
== 沿革 ==
『[[古事記]]』の[[国産み|国産み神話]]においては、[[筑紫島]](九州)の4面に[[筑紫国]]、[[豊国]]、[[火国|肥国]]、[[熊襲|熊曽国]]が見える<ref>『古事記』神代記。</ref>。
古代の南九州は『古事記』『[[日本書紀]]』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった<ref name="地名27">『[[日本歴史地名大系]] 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27。</ref>。この中で、[[アマテラス]]の孫の[[ニニギ]]が高千穂に降臨し([[天孫降臨]])、子の[[ホオリ]]が兄・[[ホデリ]]を懲らしめた旨とともに兄の子孫の[[隼人]]が今も天皇に仕える由来だと述べ([[山幸彦と海幸彦]])、ホオリの子・[[ウガヤフキアエズ]]は初代天皇・カムヤマトイワレビコ([[神武天皇]])の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる([[神武東征]])。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち[[7世紀]]後半から[[8世紀]]前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される<ref name="地名27"/>。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている<ref name="地名27"/>。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている<ref>『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 28。</ref>。
[[7世紀]]中期以降に[[律令制]]の成立に伴って、現在の[[鹿児島県]]の本土部分と[[宮崎県]]を含む広域に、[[日向国]]が成立した<ref>『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。</ref>。
[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])8月1日に起こった薩摩・[[多禰国|多褹]]の叛乱を契機に<ref>[[:s:zh:續日本紀/卷第二|『続日本紀』巻二]] 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」。</ref>、同年、日向国を割いて[[薩摩国|唱更国]]・[[多褹国]]が分立した。
その流れの中で[[和銅]]6年([[713年]])4月3日、[[日向国]]の[[肝属郡|肝杯郡]]、[[曽於郡|囎唹郡]]、[[大隅郡]]、[[姶羅郡]]の四郡、現在の鹿児島県本土の東部が大隅国として分立したのが、大隅国の始まりとされる。
数年の内に、囎唹郡を割いて桑原郡(姶良郡[[湧水町]]周辺)が、天平勝宝7年([[755年]])にさらに囎唹郡を割いて菱苅郡(現在の[[伊佐市]]周辺)が設けられ、六郡となる。
[[天長]]元年([[824年]])10月1日に、現在の[[屋久島]]と[[種子島]]にあたる[[多禰国]]をあわせた。この際、四郡あった多禰国の郡は二郡に統合され、結果大隅国は八郡となる。
平安時代には荘園の進展で姶羅郡(現在の[[鹿屋市]]周辺。現在の[[姶良郡]]は別)がその実を失い、肝属郡に編入されたとみられる。
[[明治]]12年([[1879年]])、[[奄美群島]]([[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]])を編入した<ref>明治12年4月8日太政大臣三条実美通達</ref>。明治30年([[1897年]])には、現在の[[三島村]]、[[十島村]]地域が[[薩摩国]][[川辺郡 (鹿児島県)|川辺郡]]から大島郡に編入された<ref>{{ws|[[:s:鹿兒島縣下國界竝郡界變更及郡廢置法律|鹿兒島縣下國界竝郡界變更及郡廢置法律]]}}</ref>。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では全域が[[薩摩国|薩摩]]'''[[鹿児島藩]]'''領であった。(248村・262,168石余)
** [[姶良郡]](38村・42,705石余)、[[肝属郡]](41村・64,385石余)、[[菱刈郡]](13村・16,937石余)、[[桑原郡]](25村・24,990石余)、[[大隅郡]](43村・29,397石余)、[[曽於郡|囎唹郡]](53村・72,544石余)、[[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]](15村・9,808石余)、[[馭謨郡]](20村・1,398石余)
* 明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[鹿児島県]]'''の管轄となる。
* 明治30年([[1897年]])[[4月1日]]
** [[東囎唹郡]]・[[日向国]][[南諸県郡]]の区域をもって囎唹郡が発足。旧・南諸県郡域が大隅国の所属となる。
** 菱刈郡・[[薩摩国]][[北伊佐郡]]の区域をもって薩摩国[[伊佐郡]]が発足。旧・菱刈郡域が薩摩国の所属となる。
** 薩摩国[[川辺郡 (鹿児島県)|川辺郡]]のうち川辺郡十島([[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]、[[黒島 (鹿児島県)|黒島]]、[[竹島 (鹿児島県)|竹島]]、[[口之島]]、[[臥蛇島]]、[[平島 (鹿児島県)|平島]]、[[中之島 (鹿児島県)|中之島]]、[[悪石島]]、[[諏訪之瀬島]]、[[宝島 (鹿児島県)|宝島]])の所属郡が[[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]]に変更。大隅国の所属となる。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
[[File:Osumi Kokufu-ato, sekihi.jpg|thumb|220px|right|{{center|大隅国府跡碑<br>([[鹿児島県]][[霧島市]]の推定地)}}]]
[[国府]]は『色葉字類抄』によると、桑原郡。『拾芥抄』および易林本の『節用集』では、贈於郡とある。
現在の[[霧島市]][[国分市|国分]]府中にあったと推測されているが、遺跡はまだ見つかっていない。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
[[File:Osumi Kokubunji-ato, sekihi.jpg|thumb|220px|right|{{center|[[大隅国分寺跡]]<br>(鹿児島県霧島市)}}]]
; [[大隅国分寺跡]]
: 鹿児島県霧島市国分中央。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社1座1社・小社4座4社の計5座5社が記載されている(「[[大隅国の式内社一覧]]」参照)。大社1社は[[名神大社]]ではない。
* [[桑原郡]] [[鹿児島神宮|鹿児嶋神社]](正八幡宮、[[霧島市]]隼人町内) - 薩摩・大隅・日向で唯一の'''大社'''。
* [[曽於郡]] [[大穴持神社 (霧島市)|大穴持神社]] ([[霧島市]]国分広瀬)
* 曽於郡 [[宮浦宮|宮浦神社]] (霧島市福山町)
* 曽於郡 [[韓國宇豆峯神社]] (霧島市国分上井)
* [[馭謨郡]] [[益救神社]] ([[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[屋久島町]]宮ノ浦)
; [[総社]]・[[一宮]]以下
* 総社 [[祓戸神社]] (霧島市国分府中) - 但し、明証がない。
* 一宮 '''[[鹿児島神宮]]'''
* 二宮 [[蛭児神社 (霧島市)|蛭児神社]] (霧島市)
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺 - 鹿児島県姶良市加治木町反土。
== 地域 ==
=== 郡 ===
*[[曽於郡|囎唹郡]]
*[[桑原郡]] - 囎唹郡より分置。
*[[菱刈郡|菱苅郡]] - 囎唹郡より分置。
*[[姶良郡|始良郡]] - 桑原郡より分置された帖佐郡が改称。
*[[肝属郡]]
*[[姶羅郡]] - 平安時代までに肝属郡に統合。
*[[大隅郡]]
*[[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]] - 種子島。多褹国から併合。
*[[馭謨郡]] - 屋久島。多褹国から併合。
=== 江戸時代の藩 ===
*[[薩摩藩]]、[[島津氏|島津家]](77万石)
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
*[[陽侯史麻呂]]、[[養老]]4年([[720年]])被殺害
*[[榎氏鉢麻呂]]、[[天平]]2年([[730年]])[[目]]として[[万葉集]]に名前が見える
*[[大伴国人]]、天平10年([[738年]])[[守]]として[[正倉院文書]]に名前が見える
*[[土師山麻呂]]、天平10年(738年)[[掾]]として正倉院文書に名前が見える
*[[日置三立]]、天平10年(738年)[[史生]]として正倉院文書に名前が見える
*[[中臣伊加麻呂]]、[[天平宝字]]7年([[763年]])守に任官
*[[中臣習宜阿曾麻呂]]、[[宝亀]]3年([[772年]])守に任官
*[[藤原藤主]]、[[仁寿]]2年([[852年]])任官
*[[布勢直継]]、[[貞観 (日本)|貞観]]12年([[870年]])任官
*[[佐伯春継]]、[[元慶]]2年([[878年]])任官
*[[春日宅成]]、元慶2年(878年)任官
*[[桜島忠信]]、[[安和]]元年([[968年]])任官
*[[菅野重忠]]、寛弘4年(1007年)被射殺
*[[船守重]]、長元2年(1029年)退任<ref name="hikuma-osumi"/>
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*1197年~1203年 - [[島津忠久]]
*1217年~1224年 - [[北条義時]]
*1225年~1245年 - [[北条朝時]]
*1250年~1272年 - [[北条時章]]
*1283年~1291年 - [[千葉宗胤]]
*1295年~1317年 - [[北条時直]]
*1323年~1333年 - [[北条師頼]]
==== 室町幕府 ====
*1333年~1363年 - [[島津貞久]]
*1363年~1376年 - [[島津氏久]]
*1376年~? - [[今川貞世]]
*1391年~1411年 - [[島津元久]]
*1411年~1425年 - [[島津久豊]]
*1425年~1470年 - [[島津忠国]]
*1470年~1474年 - [[島津立久]]
*1474年~1507年 - [[島津忠昌]]
*1507年~1515年 - [[島津忠治]]
*1515年~1519年 - [[島津忠隆]]
*1519年~1527年 - [[島津勝久]]
*1527年~1566年 - [[島津貴久]]
=== 戦国大名 ===
*[[島津氏]]
*[[肝付氏]]
*[[北原氏]]
=== 武家官位としての大隅守 ===
==== 江戸期以前 ====
*[[島津勝久 (伊作家)]]
*[[畠山家俊]]
*[[織田信広]]
*[[九鬼嘉隆]]
==== 江戸時代 ====
*[[薩摩藩]][[島津氏|島津家]]
**[[島津忠恒|島津家久]]:初代藩主
**[[島津光久]]:第2代藩主
**[[島津継豊]]:第5代藩主
**[[島津斉興]]:第10代藩主
**[[島津忠義]]:第12代藩主
**[[島津久光]]:島津忠義の父
*[[和泉国|和泉]][[陶器藩]][[小出氏|小出家]]
**[[小出三尹]]:初代藩主
**[[小出有棟]]:第2代藩主
**[[小出有重]]:第3代藩主
*[[三河国|三河]][[刈谷藩]][[土井氏|土井家]]
**[[土井利信]]:初代藩主
**[[土井利行]]:第6代藩主
**[[土井利善]]:第8代藩主
*その他
**[[伊丹勝政]]:[[甲斐国|甲斐]][[徳美藩]]第3代藩主
**[[亀井茲尚]]:[[石見国|石見]][[津和野藩]]第9代藩主
**[[津軽順承]]:[[陸奥国|陸奥]][[黒石藩]]第2代藩主、陸奥[[弘前藩]]第11代藩主
**[[徳川継友]]:[[尾張藩]]第6代藩主
**[[戸田忠囿]]:[[下野国|下野]][[足利藩]]第2代藩主
**[[本多政遂]]:下野[[榎本藩]]第2代藩主
**[[松平信通]]:[[大和国|大和]][[興留藩]]、[[備中国|備中]][[庭瀬藩]]、[[出羽国|出羽]][[上山藩]]初代藩主
**[[松平乗友]]:三河[[奥殿藩]]第4代藩主
**[[遠山景元]]:[[北町奉行]]・[[南町奉行]]。左衛門尉が有名だが、大隅守を称していた時期もある。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 46 鹿児島県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
* 『[http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/yoshida.html 吉田町郷土史]』「[https://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/documents/2012510162312.pdf 第3編 中世]」 1991年3月 pp147-206
* 日隈正守 「[https://hdl.handle.net/10232/8679 大隅国における建久図田帳体制の成立過程 -禰寝院の事例を中心に-]」『鹿児島大学稲盛アカデミー研究紀要』 1巻 p.51-64 2009年3月
* 日隈正守 「[https://hdl.handle.net/10232/23160 島津荘に関する一考察 : 成立期を中心に]」 『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』 66巻 p.1-13 2015年3月11日
* 日隈正守 「[https://hdl.handle.net/10232/5180 大隅国正八幡宮社家機構の形成過程]」『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 59巻』 59巻 p.75-87 2008年3月27日
* 日隈正守 「[https://hdl.handle.net/10232/00030257 大隅守菅野重忠殺害事件の背景に関する一考察]」 『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』 68巻 p.53-60 2017年3月11日
* 竹森友子, 「[https://hdl.handle.net/10935/863 南島と隼人 -文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景-]」 『人間文化研究科年報』 Vol.22 p.69-84 2007, 奈良女子大学大学院人間文化研究科, {{issn|0913-2201}}
* 松本直樹 「[https://hdl.handle.net/2065/43609 『古事記』における隼人・熊襲の国の位置付け -隼人・熊襲と大八嶋国・葦原中国-]『国文学研究』 121巻 p.1-11 1997年3月, {{issn|0389-8636}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Osumi Province}}
* [[大隅半島]]
* [[三国名勝図会]]
* [[おおすみ]]、大隅半島の[[内之浦町]](現[[肝付町]])から打ち上げられた、日本初の[[人工衛星]]
* [[おおすみ (輸送艦・2代)]]
==外部リンク==
* [http://komatsu0513.heteml.jp/osumi.html 国府物語 - 大隅国]
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差別
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差別(さべつ、英:discrimination)とは、特定の集団に所属する個人や、性別など特定の属性を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由に異なる扱いをする行為である。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である」としている。正当な理由(合理性)無き区別、不当な差別は違憲や違法である。
20世紀以来、差別に関する研究は社会学や心理学の分野で行われている。社会学で行われた差別の研究には、コックスのマルクス主義的社会構造論や、パークやJ.H.ヴァン・デン・ベルクが行った人種差別を優位集団と劣位集団の競争・葛藤関係として分析した研究がある。心理学では差別は偏見の表現行動とされ、偏見が発生する仕組みを解明することで差別を説明する。偏見説の例としてオールポートの研究がある。これらの古典的な差別に関する研究は、差別の一側面を他の分野の理論を応用する形で行われており、差別そのものを包括的に分析したものではなく、説明しきれない現象や予測と異なる現象も多い。
マートンの準拠集団モデルでは、差別は集団間の敵対関係ではなく、同一集団内の特殊なカテゴリー化に内在する問題であるという。また、ミュルダールの『アメリカのジレンマ』仮説と、仮説に対する追研究によって、差別は規範のずれとその対応の問題であること、被差別者は差別を行う人々との一定の関係性によってのみ同定可能であることが示唆されている。
特定の事柄について差別の存在を証明するのは簡単ではない。なぜなら、その事柄が正当か不当かについての判断は、それを告発する者の伝達能力・表現力と、告発を受け取る者の感性によるところが大きいからである。例えば、最終学歴が高卒程度の者に対して、大卒程度の者を優遇すること(学歴差別)は正当か不当かといった価値命題は、科学的に論定することができない。差別は普遍的な実体として存在するものの、その定義付けは困難であり、定義不能とする研究者も少なくない。さらに悪いことに、ビジネス心理学の質の高いメタ分析によれば、差別の定義付けが難しいにもかかわらず、微妙な差別は明白な差別よりもはるかに有害であることが実証されている。
年齢差別や男女差別、障害者差別において、合理性などの正当な理由無く不当である場合は、違憲や違法である。
差別は大きく「偏頗的・統計的差別」と「制度的差別」の2つに分類できる。 現代の文脈では、差別行為に関する主な問題は、偏頗的かつ統計的な差別を中心に展開している。 日常的な偏頗的差別の些細な事例であっても、重大な結果をもたらす可能性があるとされる。
個人の好みや偏見によって引き起こされる差別行為を指す。これには、人種、性別、年齢、宗教、外見などの要因に基づいて個人を異なるように扱うことが含まれる。一見軽微な偏頗的差別の事例であっても、個人の幸福や帰属意識に重大な影響を与える可能性がある。研究によると、偏頗的差別は、標的となった人々のストレスの増加、精神的健康問題、自尊心の低下につながる可能性がある。専門家らは、共生社会を育むためには、偏頗的差別に対処し、根絶することが重要だと主張している。
統計的差別は、特定のグループに関連付けられた一般化または固定観念に依存する別の形式の差別である。これは、個人が統計的傾向やグループの特性に基づいて意思決定をしたり、他の人に異なる扱いをしたりするときに発生する。この種の差別は、雇用、教育、住宅、刑事司法などのさまざまな状況で現れる可能性がある。批評家は、統計的差別が偏見を永続させ、疎外されたグループの機会を制限することで不平等を永続させると主張している。組織と政策立案者には、統計的差別を最小限に抑え、すべての個人に対する公平な扱いを促進する措置を講じる責任がある。
ほか、低所得層への差別や学歴差別・学力差別、老人差別、病人差別なども能力による差別と重なる面がある。
前近代社会においては身分制を敷いた社会がある。近代化の過程で社会契約論などによって身分制は再編成され、階級制へと移行した。法学者ヘンリー・サムナー・メインは「身分から契約へ」という言葉を残している。
「差別を受けている」とする人々や団体に対して雇用や教育に関する優遇政策(ポジティブ・アクションなど)が、逆差別であると批判がある。アメリカでは、特に入試における人種間の逆差別へのアジア系や白人系から不満の声が高まっている。ハーバード大学はアジア系の学生を差別してきた証拠も提出されている。白人系とアジア系からは、人種間の入試における逆差別への批判が強いため、訴訟も提起された。特に勉強に熱心で成績の良い人種なために不利益を受けているアジア系から批判の声が強まっている。
戦後の日本国憲法において、「正当な理由無き差別」は禁止されている。日本国の多くの法律に年齢条項があり、年齢理由の制限や差別的な取扱いがされている。これらは「年齢差別」との意見があるものの、後述のように正当な理由があるために合憲だとして年齢条項は存続している。他にも、男性は妊娠と出産ができないという正当な理由があるために女性労働者だけに産前・産後休暇が認められている。未成年者へ「年齢で差を設ける」ことを年齢差別と意見があるものの、昭和60年10月23日の判例で「(未成年者は)心身の未熟さや発育程度の不均衡から、精神的に未だ十分に安定していない」から許容されると結論づけられている。
日本近・現代史の研究で著名なアメリカの歴史学者のジョン・ダワーは、日本における差別の特徴として、日本社会の古くからある身内を清浄、よそ者を不浄に結びつける心理的態度を紹介している。 精神科医の土居健郎は、1971年著書「甘えの構造」の中で、日本人の人間関係の種類として、内と外、を挙げ、“身内にべたべた甘える者に限って、他人に対しては傍若無人・冷酷無比の態度に出ることが多い” 点や、日本人が身内と、身内以外の人に対して、“自分の行動の規範が異ることは、なんら内的葛藤の材料とはならない” 点を、日本人の特徴として挙げている。
ガヴァン・マコーマックによると国連人権委員会の特別報告者は調査のため2005年(平成17年)に来日し、日本は差別が「根深く深刻な」国であり、「精神も思考も閉鎖的」な社会だと報告している。
2017年に最高裁は、遺族補償年金の規定で男女差があることを「性差別(男女差別)」で憲法違反だと主張する男性の訴えに対して、「男女間の労働力人口の割合の違い、平均賃金の格差や雇用形態の違い」から、規定の男女差は合理性があるとして合憲と判断した。
現代においては、各国で憲法などにより人権の保障と法の下の平等が謳われ、また市民的及び政治的権利に関する国際規約が締約国に対し、「人間としての平等、生命に対する権利、信教の自由、表現の自由、集会の自由、参政権、適正手続及び公正な裁判を受ける権利など、個人の市民的・政治的権利を尊重し、確保する即時的義務」を定めている。
日本では、日本国憲法第14条第1項において、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定し、正当な理由無き差別(不当な差別的取扱い)を禁止している。日本国の方針や法律においても、「不当な差別的取扱い」は禁止されているが、「合理的配慮」や「客観的に見て正当な目的の下に行われたもの」、「その目的に照らしてやむを得ない場合」は認められている。障害者差別解消法において、「不当な差別」が規定されており、健常者と異なる扱いに正当な理由があるものは合法とされている。公職選挙法の被選挙権など各種法令における「年齢差別(年齢制限)」や遺族年金制度などにおける「男女差別(性差別)」など「合理性のある区別」として、合憲や合法とされている。
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"text": "日本近・現代史の研究で著名なアメリカの歴史学者のジョン・ダワーは、日本における差別の特徴として、日本社会の古くからある身内を清浄、よそ者を不浄に結びつける心理的態度を紹介している。 精神科医の土居健郎は、1971年著書「甘えの構造」の中で、日本人の人間関係の種類として、内と外、を挙げ、“身内にべたべた甘える者に限って、他人に対しては傍若無人・冷酷無比の態度に出ることが多い” 点や、日本人が身内と、身内以外の人に対して、“自分の行動の規範が異ることは、なんら内的葛藤の材料とはならない” 点を、日本人の特徴として挙げている。",
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"text": "ガヴァン・マコーマックによると国連人権委員会の特別報告者は調査のため2005年(平成17年)に来日し、日本は差別が「根深く深刻な」国であり、「精神も思考も閉鎖的」な社会だと報告している。",
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"text": "2017年に最高裁は、遺族補償年金の規定で男女差があることを「性差別(男女差別)」で憲法違反だと主張する男性の訴えに対して、「男女間の労働力人口の割合の違い、平均賃金の格差や雇用形態の違い」から、規定の男女差は合理性があるとして合憲と判断した。",
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"text": "現代においては、各国で憲法などにより人権の保障と法の下の平等が謳われ、また市民的及び政治的権利に関する国際規約が締約国に対し、「人間としての平等、生命に対する権利、信教の自由、表現の自由、集会の自由、参政権、適正手続及び公正な裁判を受ける権利など、個人の市民的・政治的権利を尊重し、確保する即時的義務」を定めている。",
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"text": "日本では、日本国憲法第14条第1項において、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定し、正当な理由無き差別(不当な差別的取扱い)を禁止している。日本国の方針や法律においても、「不当な差別的取扱い」は禁止されているが、「合理的配慮」や「客観的に見て正当な目的の下に行われたもの」、「その目的に照らしてやむを得ない場合」は認められている。障害者差別解消法において、「不当な差別」が規定されており、健常者と異なる扱いに正当な理由があるものは合法とされている。公職選挙法の被選挙権など各種法令における「年齢差別(年齢制限)」や遺族年金制度などにおける「男女差別(性差別)」など「合理性のある区別」として、合憲や合法とされている。",
"title": "法律の対応"
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] |
差別(さべつ、英:discrimination)とは、特定の集団に所属する個人や、性別など特定の属性を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由に異なる扱いをする行為である。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である」としている。正当な理由(合理性)無き区別、不当な差別は違憲や違法である。
|
{{See Wiktionary|}}
{{WikipediaPage|[[ウィキペディア]]では個人の人格、個性、各種特徴などに関わる差別[[行為]]が禁止されています。<br />{{main2|[[ウィキペディア日本語版]]の方針である[[Wikipedia:個人攻撃はしない]]および[[ウィキメディア財団]]の方針である[[:foundation:Non-discrimination policy]]を}}}}
{{複数の問題
|出典の明記= 2021年7月14日 (水) 00:02 (UTC)
|独自研究= 2021年7月14日 (水) 00:02 (UTC)
}}
'''差別'''(さべつ、[[英語|英]]:discrimination)とは、特定の[[集団]]に所属する個人や、性別など特定の[[属性]]を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由に異なる扱いをする行為である<ref>日本国語大辞典、広辞苑、大辞泉、大辞林</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=〔研究者コラム〕ー「法律と年齢(最終回)」年齢で差を設けることは差別になる?ー - 「法律と年齢」法学部・桧垣伸次准教授 |url=https://www.fukuoka-u.ac.jp/column_list/research11/15/08/21090001.html |website=福岡大学 |access-date=2023-05-12 }}</ref><ref name=":3" /><ref name=":4" />。[[国際連合]]は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である」としている<ref>{{Cite web|和書| title = United Nations CyberSchoolBus: What is discrimination? 差別とは何ですか?] | url = https://web.archive.org/web/20140601211521/http://cyberschoolbus.un.org/discrim/id_8_ud_print.asp | accessdate=2021-04-07 }}([[国際連合]])</ref>。
代表的な差別として[[性差別]]や[[人種差別]]などがある<ref>{{Cite web|和書| title = 日本国内にある差別とは?SDGsと紐づけて見てみよう | url = https://gooddo.jp/magazine/sdgs_2030/reduced_inqualities_sdgs/9053/ | accessdate=2023-12-25}}</ref>。正当な理由([[合理性]])無き区別、不当な差別は違憲や違法である<ref name=":0" /><ref name=":4" /><ref name=":5" /><ref name=":6" /><ref name=":7">{{Cite web|和書|title=不当な差別的取扱いの詳細と具体例|url=https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/tokyoheart/sabetsu/sabetsu_02.html |website=東京都福祉保健局 |access-date=2023-05-12}}</ref>。
== 研究 ==
[[20世紀]]以来、差別に関する研究は[[社会学]]や[[心理学]]の分野で行われている。社会学で行われた差別の研究には、[[:w:Oliver Cox|コックス]]の[[マルクス主義]]的社会構造論や、[[ロバート・E・パーク|パーク]]や[[:w:Jan Hendrik van den Berg|J.H.ヴァン・デン・ベルク]]が行った人種差別を優位集団と劣位集団の競争・葛藤関係として分析した研究がある。心理学では差別は[[偏見]]の表現行動とされ、偏見が発生する仕組みを解明することで差別を説明する<ref name="Sakamoto"/>。偏見説の例として[[ゴードン・オールポート|オールポート]]の研究がある。これらの古典的な差別に関する研究は、差別の一側面を他の分野の理論を応用する形で行われており、差別そのものを包括的に分析したものではなく、説明しきれない現象や予測と異なる現象も多い<ref name="Sakamoto"/>。
[[ロバート・キング・マートン|マートン]]の[[準拠集団]]モデルでは、差別は集団間の敵対関係ではなく、同一集団内の特殊な[[カテゴリー]]化に内在する問題であるという<ref name="Sakamoto"/>。また、[[カール・グンナー・ミュルダール|ミュルダール]]の『アメリカのジレンマ』仮説と、仮説に対する追研究によって、差別は[[規範]]のずれとその対応の問題であること、被差別者は差別を行う人々との一定の関係性によってのみ同定可能であることが示唆されている<ref name="Sakamoto"/>。
=== 「差別」の証明の難しさ ===
特定の事柄について差別の存在を証明するのは簡単ではない<ref name="Sakamoto">坂本佳鶴恵『アイデンティティの権力』 [[新曜社]] 2007年(平成19年) 第2刷、{{ISBN2|4788509377}} pp.2 - 19.</ref>。なぜなら、その事柄が正当か不当かについての判断は、それを告発する者の伝達能力・表現力と、告発を受け取る者の感性によるところが大きいからである。差別は普遍的な実体として存在するものの、その定義付けは困難であり、定義不能とする研究者も少なくない<ref name="Sakamoto" />。また、微妙な差別は明白な差別よりもはるかに有害であるとする研究もある<ref>{{Cite journal|last=Walker|first=Sarah S.|last2=Corrington|first2=Abby|last3=Hebl|first3=Mikki|last4=King|first4=Eden B.|date=2022-04|title=Subtle Discrimination Overtakes Cognitive Resources and Undermines Performance|url=https://link.springer.com/10.1007/s10869-021-09747-2|journal=Journal of Business and Psychology|volume=37|issue=2|pages=311–324|language=en|doi=10.1007/s10869-021-09747-2|issn=0889-3268}}</ref>。
[[性差別]]や[[年齢差別]]、[[障害者差別]]において、合理性などの正当な理由無く不当である場合は、違憲や違法である<ref name=":0" /><ref name=":3" /><ref name=":4" /><ref name=":5" /><ref name=":6" /><ref name=":7" />。
== 差別の種類 ==
<!-- 冒頭文における定義なのに出典もなく「差別の対象とされる事もある」というレベル。下セクションに移動 現代社会では、[[年齢差別|年齢]]、[[性差別|性別]]、[[性的指向]]、[[人種差別|人種]]、[[民族差別|民族]]、[[言語差別|言語]]、[[階級]]、[[宗教]]、[[障害者差別|障害]]、[[部落]]等が一般的な差別の対象となっている。 --><!-- 個々の事件名などを挙げていてはきりがないのであまり追加しすぎないように。 --><!-- 一覧記事化したほうがすっきりするのでは。 -->差別は大きく「偏頗的・統計的差別」と「制度的差別」の2つに分類できる。 現代の文脈では、差別行為に関する主な問題は、偏頗的かつ統計的な差別を中心に展開している。 日常的な偏頗的差別の些細な事例であっても、重大な結果をもたらす可能性があるとされる<ref name=":2">{{Cite journal|last=Small|first=Mario L.|last2=Pager|first2=Devah|date=2020-05-01|title=Sociological Perspectives on Racial Discrimination|url=https://pubs.aeaweb.org/doi/10.1257/jep.34.2.49|journal=Journal of Economic Perspectives|volume=34|issue=2|pages=49–67|language=en|doi=10.1257/jep.34.2.49|issn=0895-3309}}</ref>。
=== 偏頗的・統計的差別 ===
個人の好みや偏見によって引き起こされる差別行為を指す。これには、人種、性別、年齢、宗教、外見などの要因に基づいて個人を異なるように扱うことが含まれる。一見軽微な偏頗的差別の事例であっても、個人の幸福や帰属意識に重大な影響を与える可能性がある<ref name=":2" />。研究によると、偏頗的差別は、標的となった人々のストレスの増加、精神的健康問題、自尊心の低下につながる可能性がある。専門家らは、共生社会を育むためには、偏頗的差別に対処し、根絶することが重要だと主張している。
統計的差別は、特定のグループに関連付けられた一般化または固定観念に依存する別の形式の差別である。これは、個人が統計的傾向やグループの特性に基づいて意思決定をしたり、他の人に異なる扱いをしたりするときに発生する。この種の差別は、雇用、教育、住宅、刑事司法などのさまざまな状況で現れる可能性がある。批評家は、統計的差別が偏見を永続させ、疎外されたグループの機会を制限することで不平等を永続させると主張している。組織と政策立案者には、統計的差別を最小限に抑え、すべての個人に対する公平な扱いを促進する措置を講じる責任がある。
==== 人種・民族・宗教・文化に関する差別 ====
* [[人種差別|人種差別・民族差別]]
** 人種差別や民族差別は古くから存在する。[[古代ギリシア人]]の[[バルバロイ]]や[[中華思想]]などに見られるように、しばしば[[自民族中心主義]]の裏となって表れる。[[19世紀]]の[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国では[[植民地]]交易を正当化するために人種差別が科学と結びつけられ、[[社会進化論]]や[[優生学]]を援用した[[疑似科学]]に根拠を置く[[イデオロギー]]となった。このような[[人種主義]]や[[植民地主義]]に基づき[[先住民族]]の迫害や、[[アフリカ]]の[[黒人]]を対象とした[[奴隷貿易]]・[[奴隷制]]が実施された。[[近代]]以降は[[戦争]]や[[民族主義]]の台頭、[[独立#独立運動|独立運動]]への抑圧などによって様々な迫害や差別が表面化した。[[1930年代]]の[[ドイツ]]に登場した[[ナチス]]は[[ユダヤ人]]、ロマなどの差別・迫害を正当化する極端な人種差別政策を実施した([[ナチズム]]、[[ホロコースト]])。[[アメリカ合衆国]]や[[南アフリカ]]に見られた[[有色人種]]への差別政策は徐々に解消されていったが、近年は[[民族紛争]]、[[テロ]]、[[難民]]・[[移民]]の増加を背景とした特定の[[民族]]・[[宗教]]への排斥を正当化しようとする[[極右]][[思想]]や[[排外主義]]が見られる。
** [[先住民|先住民族]]
*** [[アボリジニ]]
*** [[インディアン]]
*** [[インディオ]]
*** [[エスキモー]]
*** [[ベルベル人]]
*** [[アイヌ民族]]
** [[少数民族]]
*** [[ユダヤ人]]
*** [[ロマ]]
*** [[クルド人]]
*** [[アッシリア人]]
*** [[ウイグル人]]
*** [[チベット人]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tibethouse.jp/about/information/human_rights/human14.html |title=チベットでの中国の存在と人権の侵害
TCHRD(チベット人権・民主センター)1997年発行 |publisher=ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 |accessdate=20021-04-08}}</ref>
*** [[ロヒンギャ]]民族
** [[宗教]]
*** [[反ユダヤ主義]]
*** [[反イスラム主義]]
* [[文化摩擦|文化差別]]
** [[哺乳類]]肉を食べる文化に対するもの
*** [[鯨肉]]を食べる文化に対するもの
*** [[犬食文化]]に対するもの
*** [[ウサギ]]肉を食べる文化に対するもの
*** [[カンガルー肉]]を食べる文化に対するもの
** [[昆虫食]]文化に対するもの
** [[爬虫類]]や[[両生類]]などを食べる文化に対するもの
** 地域的習俗、祭礼に対するもの
** 各種の[[趣味]]に没頭する人([[おたく差別]]など)
** [[黒人|黒人差別]]
** [[アジア人]]差別
==== 言語・地域に関する差別 ====
* [[言語差別]]
* [[差別用語|差別用語・差別表現]]([[ヘイトスピーチ]])
* [[地域]]的差別・[[地方]]差別
** [[大韓民国|韓国]]における[[全羅道]]差別、[[済州島]]差別([[済州島四・三事件]]、[[保導連盟事件]]参照)
** [[原子力事故|原子力災害]]・疫病発生地域出身者への差別{{Efn|[[福島第一原子力発電所事故]]による[[福島県]]民への差別、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]のパンデミックによる[[武漢市]]はじめ感染拡大地域出身者への差別など。}}
** [[同和地区]]出身者差別
* [[国籍差別]]
==== 性に関する差別 ====
* [[性差別]]
** [[女性差別]]、[[男尊女卑]]
** [[男性差別]]、[[男性差別|女尊男卑]]
* [[LGBT]]などの[[性的少数者]]への差別
** [[性的指向]]による差別[[File:20051129 northlake-il5.jpg|thumb|[[男性同性愛者差別]]男性]]
***男性同性愛者差別
*** 女性同性愛者差別
** [[性同一性]]への差別
==== 能力に関する差別 ====
* [[障害者差別]]
ほか、[[経済的不平等|低所得層]]への差別や[[学歴差別]]・学力差別、[[老人恐怖症|老人差別]]、病人差別なども能力による差別と重なる面がある。
==== 病人に関する差別 ====
* [[ハンセン病]]
* [[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]([[後天性免疫不全症候群|エイズ]])
* [[公害病]]
* [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|コロナウイルス]]
==== 階級と職業に関する差別 ====
* [[階級|階級差別]]
** [[プロレタリアート]]、[[フリーター]]、[[ニート]]、[[ホームレス|路上生活者]]、[[収入]]による差別、[[勝ち組|勝ち組・負け組]]
** [[制限選挙]]
* [[学歴信仰|学歴差別]]([[就職]]などの面で不利になる場合がある。)
* [[職業差別]]
** [[土工]]
** [[百姓]]
** [[徴税人]]
** [[と畜]]
** [[性風俗産業に対する差別]]
==== その他 ====
* [[村落]]差別([[村八分]])
* [[年齢差別]](雇用や選挙権など各種法律における差別(制限)。ただし、これらの規定は合憲と見なされている<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
* 他には[[俗流若者論]]など)
* [[思想]]差別([[特別高等警察]]、[[思想警察]]、[[赤狩り]]など
* [[血液型]]差別 [[血液型性格分類]]を参照
* [[容姿]]差別([[ルッキズム]])
* [[被爆者]]に対する差別([[被爆者差別]])
* [[種差別]]([[ヒト]]以外の[[生物]]に対する差別)
=== 制度的差別 ===
==== 身分に関する差別 ====
前近代[[社会]]においては身分制を敷いた社会がある。[[近代化]]の過程で[[社会契約論]]などによって身分制は再編成され、階級制へと移行した。法学者[[ヘンリー・メイン|ヘンリー・サムナー・メイン]]は「身分から契約へ」という[[自然言語|言葉]]を残している。
* [[身分|身分差別]]
** [[穢れ]]、[[賎民]]、[[白丁]]、[[カースト]]、[[穢多]]、[[非人]]
** [[部落問題|部落差別]]
** [[家柄]]差別
** [[黒五類 (文化大革命)]]、[[クラーク (農家)|クラーク(一括りに「富農」と蔑称された自作農およびその子孫)]]、[[出身成分|敵対階層]]
=== 逆差別 ===
{{Main|逆差別}}
「差別を受けている」とする[[個人|人々]]や[[団体]]に対して[[雇用]]や[[教育を受ける権利|教育]]に関する優遇政策([[ポジティブ・アクション]]など)が、[[逆差別]]であると批判がある。アメリカでは、特に入試における人種間の逆差別へのアジア系や白人系から不満の声が高まっている<ref name=":9">{{Cite web|和書|title=ハーバード大がアジア系学生を入試で不利に扱っていたことが明らかに |url=https://gigazine.net/news/20180619-harvard-rate-asian-applicant-lower/ |website=GIGAZINE |access-date=2023-05-12}}</ref><ref name=":10">{{Cite web|和書|title=米最高裁、入学選考の人種考慮を審理 アジア系差別焦点 - 日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN31D4B0R31C22A0000000/ |website=www.nikkei.com |access-date=2023-05-12}}</ref><ref name=":11">{{Cite web|和書|title=アジア系差別か格差是正か エリート校入試、米で論争 - 日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN092TN0Z00C22A2000000/ |website=www.nikkei.com |access-date=2023-05-12}}</ref>。ハーバード大学はアジア系の学生を差別してきた証拠も提出されている<ref name=":9" />。白人系とアジア系からは、人種間の入試における逆差別への批判が強いため、訴訟も提起された。特に勉強に熱心で成績の良い人種なために不利益を受けているアジア系から批判の声が強まっている<ref name=":10" /><ref name=":11" />。
== 日本 ==
戦後の日本国憲法において、「正当な理由無き差別」は禁止されている。日本国の多くの法律に[[年齢条項]]があり、年齢理由の制限や差別的な取扱いがされている。これらは「年齢差別」との意見があるものの、後述のように正当な理由があるために合憲だとして年齢条項は存続している。他にも、男性は妊娠と出産ができないという正当な理由があるために[[女性|女性労働者]]だけに[[産前産後休業|産前・産後休暇]]が認められている<ref name=":0" />。未成年者へ「年齢で差を設ける」ことを年齢差別と意見があるものの<ref name=":0" />、[[昭和60年]]10月23日の判例で「(未成年者は)心身の未熟さや発育程度の不均衡から、精神的に未だ十分に安定していない」から許容されると結論づけられている<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=〔研究者コラム〕ー「法律と年齢(第1回)」法律と年齢にはどんな関係があるのか?ー - 「法律と年齢」法学部・桧垣伸次准教授 |url=https://www.fukuoka-u.ac.jp/column_list/research11/15/07/22103233.html |website=福岡大学 |access-date=2023-05-12 }}</ref>。
日本近・現代史の研究で著名な[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[歴史学者]]の[[ジョン・ダワー]]は、日本における差別の特徴として、日本社会の古くからある身内を清浄、よそ者を不浄に結びつける心理的態度を紹介している<ref>ジョン・W・ダワー、「容赦なき戦争」、[[猿谷要]]監修、2001年(平成13年)、[[平凡社ライブラリー]]、394ページ</ref>。
[[精神科医]]の[[土居健郎]]は、1971年[[本|著書]]「[[甘えの構造]]」の中で、[[日本人]]の[[人間関係]]の[[種類]]として、内と外、を挙げ、“身内にべたべた甘える者に限って、他人に対しては[[傍若無人]]・冷酷無比の態度に出ることが多い”<ref>土居健郎、「甘え」の構造、1971年(昭和46年)、[[弘文堂]]、39ページ</ref> 点や、日本人が身内と、身内以外の人に対して、“自分の行動の規範が異ることは、なんら内的[[異常心理学#コンフリクト|葛藤]]の材料とはならない”<ref>土居健郎、「甘え」の構造、1971年(昭和46年)、弘文堂、40ページ</ref> 点を、日本人の特徴として挙げている。
[[ガヴァン・マコーマック]]によると[[国連人権委員会]]の特別報告者は調査のため2005年(平成17年)に来日し、日本は差別が「根深く深刻な」国であり、「精神も思考も閉鎖的」な[[社会]]だと報告している<ref>[[ガバン・マコーマック]]、[属国 米国の抱擁とアジアでの孤立]、2008年(平成20年)、[[凱風社]]、284ページ</ref>。
2017年に最高裁は、遺族補償年金の規定で男女差があることを「性差別(男女差別)」で憲法違反だと主張する男性の訴えに対して、「男女間の労働力人口の割合の違い、平均賃金の格差や雇用形態の違い」から、規定の男女差は[[合理性]]があるとして合憲と判断した<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=遺族補償年金の“男女差”は合憲 最高裁が初判断 |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000096923.html |website=テレ朝news |access-date=2023-05-12 }}</ref>。
== 法律の対応 ==
[[現代 (時代区分)|現代]]においては、各国で[[憲法]]などにより[[人権]]の保障と[[法の下の平等]]が謳われ、また[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]]が[[締結|締約国]]に対し、「人間としての平等、生命に対する権利、信教の自由、表現の自由、集会の自由、参政権、適正手続及び公正な裁判を受ける権利など、個人の市民的・政治的権利を尊重し、確保する即時的義務」を定めている。
[[日本]]では、[[日本国憲法第14条]]第1項において、「すべて国民は、法の下に平等であって、[[人種]]、[[信条]]、[[性別]]、[[社会]]的[[身分]]又は[[家柄|門地]]により、[[政治]]的、[[経済]]的又は[[社会]]的関係において、差別されない」と規定し、正当な理由無き差別(不当な差別的取扱い)を禁止している<ref name=":0" />。日本国の方針や法律においても、「不当な差別的取扱い」は禁止されているが、「合理的配慮」や「客観的に見て正当な目的の下に行われたもの」、「その目的に照らしてやむを得ない場合」は認められている。[[障害者差別解消法]]において、「不当な差別」が規定されており、健常者と異なる扱いに正当な理由があるものは合法とされている<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=全般 合理的配慮等具体例データ集(合理的配慮サーチ):障害者制度改革担当室 - 内閣府 |url=https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/jirei/index_general.html |website=内閣府ホームページ |access-date=2023-05-12 }}</ref><ref name=":4">{{Cite web|和書|title=第2 不当な差別的取扱い及び合理的配慮の基本的な考え方:文部科学省 |url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/attach/1364490.htm |website=www.mext.go.jp |access-date=2023-05-12}}</ref><ref name=":6">{{Cite web|和書|title=1-3.不当な差別的取扱いとは |url=https://www.jasso.go.jp/statistics/gakusei_shogai_kaiketsu/kiso/kiso1_3.html |website=www.jasso.go.jp |access-date=2023-05-12 }}</ref><ref name=":7" />。公職選挙法の被選挙権など各種法令における「年齢差別(年齢制限)」や遺族年金制度などにおける「男女差別(性差別)」など「合理性のある区別」として、合憲や合法とされている<ref name=":0" /><ref name=":3" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date= 2021年7月14日 (水) 00:02 (UTC)}}{{Sisterlinks
}}
* 差別論全般
** [[ヘイトクライム]]
** [[ヘイトスピーチ]]
** [[穢れ]]
** [[偏見]]
** [[迫害]]
* [[いじめ]]
* [[ステレオタイプ]]
* [[学歴フィルター]]
* [[社会的少数者|マイノリティグループ]]
** [[障害者]]
** [[部落問題]]
** [[性的少数者]]
** [[病気]]
*** [[ハンセン病]]患者
*** [[後天性免疫不全症候群|エイズ]]患者
* 法制と差別
** [[カースト]]制度
** [[アパルトヘイト]]
* 差別用語関連
** [[差別用語]]
** [[:Category:民族差別用語|民族差別用語]]
*** [[ニガー]] - [[土人]]
* その他
** [[魔女狩り]]
** [[優生学]]
** [[村八分]]
** [[スクールカースト]]
** [[メイツ星人|怪獣使いと少年]]
** [[ちびくろサンボ]]
** [[反差別闘争]]
{{差別}}
{{嫌がらせ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さへつ}}
[[Category:差別|*]]
[[Category:社会問題]]
[[Category:社会心理学]]
[[Category:いじめ]]
[[Category:批判的思考の障壁]]
[[Category:人間関係]]
|
2003-09-18T17:12:33Z
|
2023-12-24T22:00:28Z
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%88%A5
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17,288 |
非人道的
|
非人道的(ひじんどうてき)とは、人間が行うもしくは受ける行為とは思えない酷いありさまを指す形容動詞。語としては「人道的」の対義語であるが、「非人道的」と称されるもの全てに対立する「人道的」なものがあるとは限らない(例:「非人道的兵器」(inhumane weapons)はあるが、「人道的兵器」はない)。
この言葉は、戦争・テロリズム・貧困・拉致など様々な場で引き合いに出されている。
人道という概念の説明は人道の項に譲るとして、人道が社会的動物である所の生物種たる人(人間)として、普遍的な社会にとって必要なルールである以上、これに反することは即ち、人として恥ずべき・社会や人にとって脅威と成り得るモノであるとされる。
対人地雷や生物兵器・化学兵器は非人道的兵器として扱われるが、これは戦争状態が終結してなお、被害を拡散させ社会の復興を阻むためであると考えられる。過去には様々な強力兵器が開発されたが、戦闘終結後も長く渡って影響を及ぼし、特に対人地雷のように文民・一般市民への加害が続けられるなどし、後年の復興を阻む兵器の多くは非人道的であるとして、国際法(国際人道法を参照)などによって禁止されつつある。
特にこの概念は、広範囲に及ぶ破壊をもたらす戦争やテロリズム、人としての尊厳を崩壊させる貧困を看過すること、または人を人とも思わないような拉致問題に適用されるわけだが、当事者にとっては道徳的に必ずしも許されざることではない場合も見られる。なお、例えば国際法で「非人道的兵器」と規定されているものなど明文化されている場合は「主観的にこれを用いて形容した」ものではなく、よってこの記述が扱うテーマとは異なる。
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非人道的(ひじんどうてき)とは、人間が行うもしくは受ける行為とは思えない酷いありさまを指す形容動詞。語としては「人道的」の対義語であるが、「非人道的」と称されるもの全てに対立する「人道的」なものがあるとは限らない。
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'''非人道的'''(ひじんどうてき)とは、[[人間]]が行うもしくは受ける行為とは思えない酷いありさまを指す[[形容動詞]]。語としては「[[人道]]的」の[[対義語]]であるが、「非人道的」と称されるもの全てに対立する「人道的」なものがあるとは限らない(例:「非人道的兵器」(inhumane weapons)はあるが、「人道的兵器」はない)。
== 概要 ==
この言葉は、[[戦争]]・[[テロリズム]]・[[貧困]]・[[拉致]]など様々な場で引き合いに出されている。
人道という概念の説明は[[人道]]の項に譲るとして、人道が[[社会的動物]]である所の生物種たる人(人間)として、普遍的な[[社会]]にとって必要なルールである以上、これに反することは即ち、人として恥ずべき・社会や人にとって脅威と成り得るモノであるとされる。
[[地雷|対人地雷]]や[[生物兵器]]・[[化学兵器]]は非人道的兵器として扱われるが、これは戦争状態が終結してなお、被害を拡散させ社会の復興を阻むためであると考えられる。過去には様々な強力兵器が開発されたが、戦闘終結後も長く渡って影響を及ぼし、特に対人地雷のように文民・一般市民への加害が続けられるなどし、後年の復興を阻む[[兵器]]の多くは非人道的であるとして、国際法([[国際人道法]]を参照)などによって禁止されつつある。
===注意点===
特にこの概念は、広範囲に及ぶ破壊をもたらす戦争やテロリズム、人としての尊厳を崩壊させる貧困を看過すること、または人を人とも思わないような拉致問題に適用されるわけだが、当事者にとっては[[道徳]]的に必ずしも許されざることではない場合も見られる。なお、例えば国際法で「非人道的兵器」と規定されているものなど明文化されている場合は「主観的にこれを用いて形容した」ものではなく、よってこの記述が扱うテーマとは異なる。
== 関連項目 ==
* [[大量破壊兵器]]
* [[規制が議論されている兵器]]
* [[人道に対する罪]]
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2023-07-20T08:03:12Z
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性別
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性別(せいべつ、英:sex(セックス))、主に生物学的な性差。男性と女性の別。オスとメスの別。
(生物学的な)性別の様式は多様である。遺伝的に染色体で決定している種(ほ乳類一般)、発生時の周囲の温度など環境によって決定する種(カメ、ワニなどは虫類の多く)、個体の大きさによって決定する種(ウラシマソウ、テンナンショウなど)、齢によって決定する種(メロン、キュウリなど)、周りに存在する同種異個体との相互関係により決定する種(クマノミ、ホンソメワケベラ)などが知られている。詳しくは性決定を参照のこと。
人間の場合はそれぞれを「男性」「女性」あるいは「おとこ」「おんな」や「男子」「女子」などと呼ぶ。人間の場合は、生物としての性別を前提としながら、加えて精神的・文化的に、また社会的な立場としても異なった存在として成長する。この意味での性の区別を生物学的なそれとは区別してジェンダーと呼ぶこともある。
生物的な性と性自認が著しくずれたり反転しているケースが性別不快症候群や性同一性障害、生物学的な性の形成そのものが定型的でないケースが性分化疾患である。詳しくは個々の項目を参照。
人間の性別は、根本的には男性化を促す遺伝子の有無に由来し、受精の瞬間にほぼ決定される。人間の23対の染色体のうちの1対は性染色体と呼ばれ他の常染色体とは区別される。この性染色体の型(X染色体とY染色体の組み合わせ)によって、性別発達の機序は大きく左右される。これは、Y染色体の上に、精巣形成を誘導し男性化をもたらすSRY遺伝子が載っているためである。
性染色体の型としては、次の2つが典型的である。
非典型的な例として、次のようなものがある。これらの多くは、精子・卵子の生産時に減数分裂に失敗したことによる。
また、上ではSRY遺伝子を重視して述べたが、Y染色体上の他のいくつかの遺伝子も男性化の引き金として重要だという説もある。
X染色体は生命維持に必須であるため、Y染色体1つのみを持つYO型は出生されず、受精直後に致死となると考えられている。
妊娠第4週ほどに卵黄嚢に発生した原始生殖細胞は、第6週には下腹部の生殖隆起に移動して原始生殖腺を形作る。この時点では原始生殖腺は精巣にも卵巣にもなりうる。
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同遺伝子が存在しなかったり正常に機能できないために精巣への分化が起こらないままであると、第11週以降卵巣に分化していく。
この際、多数の因子とその受容体が作用しているので、何らかの障害により精巣決定性遺伝子の有無と性腺分化が食い違うこともある。上に挙げたような染色体変異により、精巣と卵巣の中間的な形に分化したり、2つの原始生殖腺のうち一方は精巣に他方は卵巣にと分化することもある。
精巣が形成されると、その中のライディヒ間細胞は活発にテストステロンを生産し、セルトリー細胞はミューラー管抑制因子を生産する。
卵巣は、エストラジオールなどを生産する。
原始生殖腺が精巣に分化した場合、原始生殖細胞は思春期まで休眠する。思春期になると、これらは活発に分裂を始めて精子を生産する。
卵巣に分化した場合、妊娠第3ヶ月から7ヶ月にかけて原始生殖細胞は減数分裂を始め、一次卵母細胞が作られていく。ここから9ヶ月までの間に原始卵胞が形成され、原始卵胞は思春期まで休眠する。
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この機構が卵巣や脳下垂体の間のフィードバックによって調整される種種の化学物質に支配されていることは知られているが、詳細な機構は不明な点が多い。
性腺形成と平行して、中腎管(ウォルフ管)に沿った形で中腎傍管(ミュラー管)が形成される。妊娠第7週以降、性腺の分泌する物質に依存してこれらの管が生殖管に分化していく。
典型例は次の2つである。
非典型例としては次のような場合もある。
外性器の分化はテストステロンの有無に従う。原始生殖腺が精巣に分化してテストステロンを生産している場合には男性型に、そうでない場合には女性型に分化する。
非典型的な例としては、次のようなものがある。
脳にも性差が存在する。脳の性分化を決定するのはアンドロゲンである。脳科学の研究成果によると、男児は生まれた直後の2日目ぐらいから生後6ヶ月ぐらいまでの間、成人の半分ぐらい量のアンドロゲンが分泌され、またテストステロン受容体の脳内での分布上の性差がエストロゲンと同じく、海馬・扁桃体内側核・腹内側核等に見られる。アンドロゲンには左脳の発達を抑える働きがあり、このため少年の脳は少女よりも発達が遅い。女性は男性の脳よりも脳梁という右脳と左脳を繋ぐ神経が多い。また、男性と女性の肉体の大きさに違いがあるように、脳も男性は女性の脳に比べて約12~3%大きい。
乳児期以降では視床下部のネガティブフィードバックにより性ホルモンの分泌が抑制されているが、第一次性徴が終わり、第二次性徴・思春期になるとこの抑制能が低下し始め、これにより男女それぞれに特徴的な身体の発達を生じるとともに、性的欲求や性的興奮の頻度が急激に高まる。
典型例としては次のものがある。
非典型例としては前述の仮性半陰陽などの他、思春期早発症(男子9歳未満・女子7歳未満で二次性徴・思春期が始まる)と思春期遅発(男子14歳・女子12歳になっても二次性徴・思春期が始まらない)がある。
性的指向(sexual orientation)は誰を好きになるかという「性愛・恋愛対象」である。ここで言う「好きになる」は「恋愛感情を抱く」「同棲したいと思う」「性交したいと思う」などの感情であるが、そのレベルは人によってさまざまである。単に「性交したい」という性交渉の欲求のみを持つ人も存在し、「性交したいのは女性だが、一緒に暮らしたいのは男性」といった人もいる。
一般的に多数派だとされる異性愛者(heterosexual)は、男性は女性を、女性は男性を恋愛対象とする。しかし同性を恋愛対象とする同性愛者(homosexual)と呼ばれる人々も古くから一般的に存在し、男性で男性を好きになる人をゲイ(gay)、女性で女性を好きになる人をレズビアン(lesbian)と呼ぶ。日本では男性が男性を好きになるケースを「ホモ」、女性が女性を好きになるケースを「レズ」と俗に呼んでいたが、この言葉はいずれも差別(侮辱)的であるとして避けられる傾向にある。特に最近女性の同性愛者達は自分たちの性指向をビアンと呼んでいる。同性愛の気がない人をノンケと言う(non+気、で日本語)。アメリカでは男女区別せずにゲイとも呼ばれる傾向がある。
世の中には、男性でも女性でも好きになる人も多く両性愛(bisexual)と呼ばれている。両性愛の人の中にも男女等しく愛するタイプもあれば、どちらかというと異性愛だが、同性でも魅力的な人がいれば好きになるというタイプもあり、その程度はさまざまである。また、自分では異性愛と思っている人も実際に機会がなかっただけで、両性愛の素質がある場合も多いのではないか、という説もある。
基本的には異性愛者である者も特定の環境下(異性が少ない戦場や刑務所、同性のみの学生寮など)で同性を恋愛とセックスの対象に選択する場合もあり、機会的同性愛と呼ばれる。この場合除隊、釈放、卒業などにより環境が変わることで、同性愛傾向は消滅する場合もある。つまり、機会的同性愛は根源的な性的指向自体によるものではなく、環境において一時的に形成される性的嗜好(sexual preference)と見なすことができる。
このほか、男性および女性のどちらも恒常的に性欲の対象としない、つまり性指向を持たないという場合は無性愛(asexuality)と呼ばれ、これを性指向の中に分類することもできる。
また、男性・女性やその2分法に基づいた性の分類に適合しない人々も含め、あらゆる人々に恋をしたり、性的願望を抱いたりする人々。さらに、性別に囚われず、特定の人間に恋することができる者などの要素を持つ人々を全性愛という。
性指向と次項の性自認は独立のものである。詳しくは次項参照。
詳細は「性同一性(性自認)」を参照。
性同一性(gender identity)は、性自認、ジェンダー・アイデンティティなどとも呼ばれ、自身のジェンダー(性別)をどのように認識しているかを指す。出生時に身体的特徴から割り当てられた性別が性同一性と一致するシスジェンダーの人と、一致しないトランスジェンダーの人がいる。UCLAのウィリアムズ研究所の研究では、アメリカ合衆国の成人の0.9%がトランスジェンダーであると自認している。
トランスジェンダーの人は戸籍や対外的な性別と自身の性同一性の不一致により生じる性別違和(Gender Dysphoria, GD)を解消するために、社会的な性別移行(使用する名前の変更、服装などの性表現の変更)や医学的な方法を用いた身体的な性別移行を行うことがある。以前は国際的に性同一性障害(Gender Identity Disorder, GID)との名称で精神疾患として扱われていたが、WHOのICD-11やアメリカ精神医学会のDSM-5において性別違和の脱病理化が行われ、疾患ではなく「性別違和」や「性別不合」という状態を指す呼称に変更された。
人の性自認(ジェンダーアイデンティティ)は連続体でありグラデーションである。そのため、Xジェンダーをはじめとしたさまざまなアイデンティティが存在する。
現代の日本では主に出生時に外性器の外観で医師によって性別を判定されて、出生届を介して戸籍に登録される。物心付く頃から出生時に割り当てられた性別に違和感を感じ、「自分の性が反対のものであったら良かったのに」と思ったり、「自分の本来の性は反対のものである」と確信していたりする人がいる。しかし出生時のに割り当てられた性別と違う性別で生活することには偏見や障害も多い。
性自認と性指向は独立したものとして明瞭に区別されて考えられるが、誤った認識により混同されているケースも依然として散見される。トランスジェンダー女性の場合、性指向としては男性を好きになるのであろうと他者から思われる場合もあるが、シスジェンダーの人と同様、女性を恋愛対象とする同性愛者もいる。もちろん、男性が恋愛対象であるトランスジェンダー男性もいる。
ことばの上でも「ゲイ」は本来同性愛とりわけ男性同性愛者を意味するのに、日本で「ゲイボーイ」というと酒場で女装して給仕をする人のことを指すのが普通であった。また「おかま」という言葉(この言葉は本来は女装男娼を意味し侮辱的である)も女装者の意味で使用したり男性の同性間性交の意味で使用したりして、やはり言葉の混乱が生じている。
そもそも出生的な性、性指向、性自認は「連動しやすい」ものではあるが「完全に連動する」ものではないのである。条件を「性指向は男女どちらか一方、または男女両方を持つ」「性嗜好を考慮に入れない」とすれば下記の12種類のパターンが存在すると考えられる。
これはほんの一部であり、すべてではない。それほどさまざまな性自認、性的指向が存在する。
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"text": "現代の日本では主に出生時に外性器の外観で医師によって性別を判定されて、出生届を介して戸籍に登録される。物心付く頃から出生時に割り当てられた性別に違和感を感じ、「自分の性が反対のものであったら良かったのに」と思ったり、「自分の本来の性は反対のものである」と確信していたりする人がいる。しかし出生時のに割り当てられた性別と違う性別で生活することには偏見や障害も多い。",
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"text": "性自認と性指向は独立したものとして明瞭に区別されて考えられるが、誤った認識により混同されているケースも依然として散見される。トランスジェンダー女性の場合、性指向としては男性を好きになるのであろうと他者から思われる場合もあるが、シスジェンダーの人と同様、女性を恋愛対象とする同性愛者もいる。もちろん、男性が恋愛対象であるトランスジェンダー男性もいる。",
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性別、主に生物学的な性差。男性と女性の別。オスとメスの別。 (生物学的な)性別の様式は多様である。遺伝的に染色体で決定している種(ほ乳類一般)、発生時の周囲の温度など環境によって決定する種(カメ、ワニなどは虫類の多く)、個体の大きさによって決定する種(ウラシマソウ、テンナンショウなど)、齢によって決定する種(メロン、キュウリなど)、周りに存在する同種異個体との相互関係により決定する種(クマノミ、ホンソメワケベラ)などが知られている。詳しくは性決定を参照のこと。
|
<!--要約欄追記用: このコメントアウトはのちの編集で取り除いてください。2021/11/23-->
{{Otheruses|生物学的な性別|その他|性 (曖昧さ回避)}}
{{複数の問題
|参照方法=2012年7月
|出典の明記=2020年10月
}}
{{重複|date=2021年11月|dupe=性 (生物学)}}
'''性別'''(せいべつ、[[英語|英]]:sex(セックス))、主に[[生物学]]的な[[性差]]<ref>{{Cite web|和書|title=第70回 性差:ジェンダーとセクスの違い - 内閣府 |url=https://www.cao.go.jp/pko/pko_j/organization/researcher/atpkonow/article070.html |website=内閣府ホームページ |access-date=2023-01-18 |language=ja}}</ref>。[[男性]]と[[女性]]の別<ref name="k_ver5">広辞苑 第五版 p.1479「性別」</ref>。[[雄|オス]]と[[雌|メス]]の別<ref name="k_ver5" />。
{{main2|社会的・心理的性別に関しては[[ジェンダー]]を}}
(生物学的な)性別の様式は多様である。遺伝的に染色体で決定している種([[ほ乳類]]一般)、発生時の周囲の温度など環境によって決定する種([[カメ]]、[[ワニ]]など[[は虫類]]の多く)、個体の大きさによって決定する種([[ウラシマソウ]]、[[テンナンショウ]]など)、[[齢]]によって決定する種([[メロン]]、[[キュウリ]]など)、周りに存在する同種異個体との相互関係により決定する種([[クマノミ]]、[[ホンソメワケベラ]])などが知られている。詳しくは[[性決定]]を参照のこと。
[[ファイル:Couple_.jpg|thumb|200px|[[人間]]の[[男]]と[[女]]イメージ画像]]
== ヒト・人間の性 ==
[[人間]]の場合はそれぞれを「[[男性]]」「[[女性]]」あるいは「おとこ」「おんな」や「男子」「女子」などと呼ぶ。人間の場合は、生物としての性別を前提としながら、加えて[[精神]]的・[[文化]]的に、また社会的な立場としても異なった存在として成長する。この意味での性の区別を生物学的なそれとは区別して[[ジェンダー]]と呼ぶこともある。
生物的な性と[[性自認]]が著しくずれたり反転しているケースが性別不快症候群や[[性同一性障害]]、生物学的な性の形成そのものが定型的でないケースが[[性分化疾患]]である。詳しくは個々の項目を参照。
===染色体===
人間の性別は、根本的には男性化を促す[[遺伝子]]の有無に由来し、[[受精]]の瞬間にほぼ決定される。<!--他の生物の場合、後天的に性別が変化するものも少なくない。{{要出典}}魚類とかには多い。?具体的に?-->人間の23対の[[染色体]]のうちの1対は'''[[性染色体]]'''と呼ばれ他の'''[[常染色体]]'''とは区別される。この性染色体の型('''X染色体'''と'''Y染色体'''の組み合わせ)によって、性別発達の機序は大きく左右される。これは、Y染色体の上に、精巣形成を誘導し男性化をもたらす[[SRY]]遺伝子が載っているためである。
====典型例 ====
性染色体の型としては、次の2つが典型的である。
; XY型
: X染色体とY染色体をそれぞれ1つずつ有する。通常、男性として発育する。
; XX型
: 性染色体としてX染色体を2つ有する。通常、女性として発育する。
==== 非典型例・異常例 ====
{{see also|染色体異常}}
非典型的な例として、次のようなものがある。これらの多くは、[[精子]]・[[卵子]]の生産時に[[減数分裂]]に失敗したことによる。
; XXY、XXXY、XXXXY型([[クラインフェルター症候群]]、クラインフェルター男性)
: 過剰なX染色体を持っている。発生率は1000人に1人。多くは発現形質は男性であり、外性器はほぼ正常な男性に見える。以前は精子が少なく、精子奇形も多いことから自然的受精は無理だったが、現在は人工授精での受精が可能。X染色体の数が多いほど障害は強い。[[骨粗鬆症]]になりやすく、女性の[[更年期障害]]に似た症状を呈することもある。
; [[XYY症候群|XYY]]、XYYY、XYYYY型(超雄;スーパー男性)
: Y染色体が過剰である。発生率は1000人に1人。外性器は完全に男性であり、生殖能力もある。XY型男性に比べて精子が少ないという説もある。凶悪犯罪が多いという意見や一方非常に知能的であるという意見もある。
; XXYY型
: クラインフェルターの一種とも、超雄の一種とも言われる。
; [[XX男性症候群|XX型男性]]
: 性染色体はXX型であるが、変異したY染色体のかけらが他の染色体に結合し、その上のSRY遺伝子が働いている。発生率は数十万 - 数百万人に1人と見積もられている。外性器はほぼ男性であるが、[[尿道下裂]]が見られることもある。生殖能力はない。思春期には女性としての二次性徴をすることもある。[[性ホルモン]]投与により男性化を促さなければ、次第に女性化していく。
; XO型([[ターナー症候群]]、ターナー女性)
: 性染色体としてはX染色体を1つだけ持つ。まれに破損したY染色体のかけらを持っていることもある。発生率は2000人 - 3000人に1人である。発現形質は女性であり、外性器に形成変異はない。子宮が欠落することもある。二次性徴が欠落するため、治療を必要とする。全体に低身長であり、[[月経不順]]などがあることもある。[[腫瘍]]・[[糖尿病]]の危険性が高い。知能障害は少ない。
; XXX型(超雌)
: X染色体を3つ持つ([[トリプルX症候群|トリプルX]])。発現形質は女性。[[知的障害]]を伴う場合がある。やや肥満型が多い。スーパー女性とも呼ばれる。
; [[カルマン症候群]]
: X染色体の一部が欠損している。嗅覚に異常が見られる。
; モザイク型
: 通常、個体の全ての[[細胞]]は全く同一の遺伝子セットを持っているが、まれに細胞ごとに異なっている場合がある。これが性染色体に関して発生すると、XO/XY混在型, XO/XX混在型などとなる。クラインフェルター男性のうちの特殊なものとしてXY/XXY混在型があるが、彼らは精子を生産することができ、生殖能力を有する。3種類以上の性染色体型が混在している場合もある。極めてまれであり、その状況も多様であるため、発生率は10億人 - 100億人に1人と推定されている。
また、上ではSRY遺伝子を重視して述べたが、Y染色体上の他のいくつかの遺伝子も男性化の引き金として重要だという説もある。
X染色体は生命維持に必須であるため、Y染色体1つのみを持つYO型は出生されず、受精直後に致死となると考えられている。
=== 性腺 ===
妊娠第4週ほどに卵黄嚢に発生した原始生殖細胞は、第6週には下腹部の生殖隆起に移動して原始生殖腺を形作る。この時点では原始生殖腺は[[精巣]]にも[[卵巣]]にもなりうる。
第7週になって、SRY遺伝子が存在して正常に機能する場合には[[性腺]]原器は精巣に分化する。
同遺伝子が存在しなかったり正常に機能できないために精巣への分化が起こらないままであると、第11週以降卵巣に分化していく。
この際、多数の因子とその受容体が作用しているので、何らかの障害により精巣決定性遺伝子の有無と性腺分化が食い違うこともある。上に挙げたような染色体変異により、精巣と卵巣の中間的な形に分化したり、2つの原始生殖腺のうち一方は精巣に他方は卵巣にと分化することもある。
=== 化学物質生産 ===
精巣が形成されると、その中のライディヒ間細胞は活発に[[テストステロン]]を生産し、セルトリー細胞はミューラー管抑制因子を生産する。
卵巣は、[[エストラジオール]]などを生産する。
=== 生殖細胞 ===
原始生殖腺が[[精巣]]に分化した場合、原始生殖細胞は[[思春期]]まで休眠する。思春期になると、これらは活発に分裂を始めて[[精子]]を生産する。
卵巣に分化した場合、[[妊娠]]第3ヶ月から7ヶ月にかけて原始生殖細胞は減数分裂を始め、一次卵母細胞が作られていく。ここから9ヶ月までの間に[[卵胞形成|原始卵胞]]が形成され、原始卵胞は思春期まで休眠する。
思春期までに99.9%の原始卵胞は卵胞閉鎖する。残ったもののうち、いくつかが月経周期ごとに何らかの機構によって選択され成長し、その内の1つがグラーフ卵胞へと成長して排卵を起こす。
この機構が卵巣や[[脳下垂体]]の間のフィードバックによって調整される種種の化学物質に支配されていることは知られているが、詳細な機構は不明な点が多い。
=== 生殖管 ===
性腺形成と平行して、[[中腎管]]([[ウォルフ管]])に沿った形で[[中腎傍管]]([[ミュラー管]])が形成される。妊娠第7週以降、性腺の分泌する物質に依存してこれらの管が生殖管に分化していく。
典型例は次の2つである。
; 性腺が完全に男性型(精巣)である場合
: テストステロンによってウォルフ管は維持を促され、[[精巣上体]]・[[輸精管]]・[[精嚢]]に分化する。また、ミュラー管抑制因子によってミュラー管は退化・消失する。ただし、一部は精巣輸出管となり、ウォルフ管に開口する。
; 性腺が男性型でない場合
: テストステロンが十分でないことによりウォルフ管は維持できずに、退化・消失する。また、ミュラー管抑制因子が存在しないので、ミュラー管は発達し[[子宮]]・[[輸卵管]]に分化する。このことから、女性の内性器分化に卵巣は直接的には必要でない。
非典型例としては次のような場合もある。
* 遺伝子変異により、上記のような両性の生殖管発達が混在したり、不完全になる場合もある。
* 精巣を有するがミュラー管抑制因子が十分でなかったり、あるいは抑制因子の受容体が不全である場合には、ウォルフ管・ミュラー管の両方が発達し、両性の内性器を併せ持つ場合もある。
* 外部からの化学物質の影響により、生殖管が性腺とは異なった形に分化する場合もある。流産防止のための母親へのホルモン投与などが影響するという説もある。
=== 外性器 ===
外性器の分化は[[テストステロン]]の有無に従う。原始生殖腺が精巣に分化してテストステロンを生産している場合には男性型に、そうでない場合には女性型に分化する。
; テストステロンのある場合
: テストステロンは[[酵素]]によって[[還元]]されジヒドロステロンとなる。それに曝露された外性器は第10週から第12週にかけて男性型に分化する。生殖結節は急速に発達して[[陰茎亀頭|亀頭]]・[[陰茎]]となり、生殖隆起は癒合して[[陰嚢]]に、尿道ヒダは尿道[[海綿体]]となる。陰嚢表面に見られる縫い目状の構造はこの癒合の痕跡である。
;ない場合
: ジヒドロステロン曝露が起こらないまま第20週になると、これらは自然に女性外性器へ変化する。生殖結節は僅かに発達して[[陰核]]に分化、生殖隆起は[[大陰唇]]、尿道ヒダは[[小陰唇]]をとなる。また、尿生殖洞の上皮がミュラー管由来の子宮管と結びついて増殖、内部に空洞を生じて[[膣]]が形成される。これより、女性外性器の形成に卵巣は必要でない。
非典型的な例としては、次のようなものがある。
; 染色体異常
: 染色体異常により、生殖結節が活発に増殖する一方で生殖隆起の癒合は十分に起こらない場合がある。外見上男女両方の外性器を有するように見える。
:* 性染色体はXX型であることが多いがXX/XYモザイク型の場合もある。
:* 膣の形成は十分でないことが多い。
; 真性半陰陽
: [[真性半陰陽]]では、その性器の状態は人それぞれであり、またその要因は未だ解明されていない。人体に2つある性腺のどちらか一方が睾丸、もう一方が卵巣である場合と、睾丸または卵巣が左右揃い、さらにそれらとは逆の第三の性腺を持つ場合とがあるとされる。
: 染色体構造は46,XXについで46,XYが多く、46,XX/46,XYモザイクも多い 男性型では尿道下裂、女性型では陰核肥大、陰唇癒合
: 性腺異形成症:外陰部は女性型となる。
: 混合性性腺異形成症:染色体分析で45,XO/46,XYなどのモザイクを示す外性器が男女中間型を示す
; 男性仮性半陰陽
: 性腺が精巣に分化した場合であっても、テストステロンを還元する酵素が欠けていたり、受容体が十分でない場合には外性器の男性化は発生しない([[アンドロゲン不応症|精巣性女性化症候群]])。そのまま第20週になると、外性器は女性型に分化する。その他、遺伝子変異により生じる場合もある。
:* 還元酵素の遺伝子はX染色体上にあるため劣性遺伝である。
:* 陰核の肥大が見られることもあるが、外見上はほぼ女性型である場合も多い。ただし膣は奥行きが十分でないこともある。また二次成長期になっても陰毛は生じない。
:* 通常はミュラー管の退化は起こっており、子宮・卵管は持たない。
:* 精巣は、子宮にあたる部位にある場合と、脚の付け根付近まで降りてきている場合がある。
:* 卵巣や子宮を持たないため、無月経。
; 男性仮性半陰陽(不完全型)
: 男性半陰陽のうち、思春期になると男性化を生ずるものがある。出生時には男性とみなされることもあるが、多くは女性として扱われる。思春期に精巣のテストステロン生産が活発化することによって陰核が急速に発達して陰茎のようになり、変声・髭の発毛が起こる。このため、見掛け上は女児が男性に変わったように見える。
: このケースの発生率は民族による差異が大きく、[[日本人]]では殆ど見られない。[[1954年]]に[[インドネシア]]で発見されたほか、[[1980年代]]に[[カリブ海]]の島で多数発見された。カリブの例では全員がある1人の人物の子孫であったことから、何らかの遺伝的な要因があるものと考えられている。
; 女性仮性半陰陽
: 性腺が卵巣に分化した場合であっても、[[先天性副腎皮質過形成]]などによってテストステロンが過剰に分泌され、結果として外性器が男性化する場合がある。
:* 陰核がやや肥大する程度のものから、外性器が完全に男性型になるものまで多様である。
:* 尿道下裂がみられる場合も多い。
=== 脳 ===
[[脳]]にも[[性差]]が存在する。{{要出典範囲|脳の性分化を決定するのはアンドロゲンである。脳科学の研究成果によると、男児は生まれた直後の2日目ぐらいから生後6ヶ月ぐらいまでの間、成人の半分ぐらい量のアンドロゲンが分泌され、またテストステロン受容体の脳内での分布上の性差がエストロゲンと同じく、海馬・扁桃体内側核・腹内側核等に見られる。アンドロゲンには左脳の発達を抑える働きがあり、このため少年の脳は少女よりも発達が遅い。女性は男性の脳よりも脳梁という右脳と左脳を繋ぐ神経が多い。また、男性と女性の肉体の大きさに違いがあるように、脳も男性は女性の脳に比べて約12~3%大きい|date=2023年2月}}。
=== 二次性徴 ===
乳児期以降では視床下部のネガティブフィードバックにより性ホルモンの分泌が抑制されているが、[[第一次性徴]]が終わり、[[第二次性徴]]・[[思春期]]になるとこの抑制能が低下し始め、これにより男女それぞれに特徴的な身体の発達を生じるとともに、[[性的欲求]]や[[性的興奮]]の頻度が急激に高まる。
典型例としては次のものがある。
; 精巣を有する場合
:* 精巣容量の増大
:* 陰茎の発達
:* 陰毛の発毛
:* 精通
:* 変声
; 卵巣を有する場合
:* 骨盤の発達。皮下脂肪の増大。
:* 乳房の発達
:* 陰毛の発毛
:* 月経の開始
非典型例としては前述の仮性半陰陽などの他、思春期早発症(男子9歳未満・女子7歳未満で二次性徴・思春期が始まる)と思春期遅発(男子14歳・女子12歳になっても二次性徴・思春期が始まらない)がある<ref>[https://lib.yamanashi.ac.jp/igaku/mokuji/YNJ/YNJ3-1/image/YNJ3-1-003to008.pdf 思春期の発現・大山建司]</ref>。
=== 性指向(性的指向) ===
[[性的指向]](sexual orientation)は誰を好きになるかという「性愛・恋愛対象」である。ここで言う「好きになる」は「恋愛感情を抱く」「同棲したいと思う」「[[性行為|性交]]したいと思う」などの感情であるが、そのレベルは人によってさまざまである。単に「性交したい」という性交渉の欲求のみを持つ人も存在し、「性交したいのは女性だが、一緒に暮らしたいのは男性」といった人もいる。
一般的に多数派だとされる[[異性愛|異性愛者]](heterosexual)は、男性は女性を、女性は男性を恋愛対象とする。しかし同性を恋愛対象とする[[同性愛|同性愛者]](homosexual)と呼ばれる人々も古くから一般的に存在し、男性で男性を好きになる人を[[ゲイ]](gay)、女性で女性を好きになる人を[[レズビアン]](lesbian)と呼ぶ。日本では男性が男性を好きになるケースを「ホモ」、女性が女性を好きになるケースを「レズ」と俗に呼んでいたが、この言葉はいずれも差別(侮辱)的であるとして避けられる傾向にある。特に最近女性の同性愛者達は自分たちの性指向をビアンと呼んでいる。同性愛の気がない人を[[ノンケ]]と言う(non+気、で日本語)。アメリカでは男女区別せずに[[ゲイ]]とも呼ばれる傾向がある。
世の中には、男性でも女性でも好きになる人も多く[[両性愛]](bisexual)と呼ばれている。両性愛の人の中にも男女等しく愛するタイプもあれば、どちらかというと異性愛だが、同性でも魅力的な人がいれば好きになるというタイプもあり、その程度はさまざまである。{{要出典範囲|また、自分では異性愛と思っている人も実際に機会がなかっただけで、両性愛の素質がある場合も多いのではないか、という説もある|date=2023年2月}}。
基本的には異性愛者である者も特定の[[環境]]下(異性が少ない[[戦場]]や[[刑務所]]、同性のみの[[学生寮]]など)で同性を恋愛とセックスの対象に選択する場合もあり、[[機会的同性愛]]と呼ばれる。この場合除隊、釈放、卒業などにより環境が変わることで、同性愛傾向は消滅する場合もある。つまり、機会的同性愛は根源的な性的指向自体によるものではなく、環境において一時的に形成される[[性的嗜好]](sexual preference)と見なすことができる{{要出典|date=2020年10月}}。
このほか、男性および女性のどちらも恒常的に性欲の対象としない、つまり性指向を持たないという場合は[[無性愛]](asexuality)と呼ばれ、これを性指向の中に分類することもできる。
また、男性・女性やその2分法に基づいた性の分類に適合しない人々も含め、あらゆる人々に恋をしたり、性的願望を抱いたりする人々。さらに、性別に囚われず、特定の人間に恋することができる者などの要素を持つ人々を[[全性愛]]という。
性指向と次項の性自認は独立のものである。詳しくは次項参照。
=== 性同一性(性自認) ===
詳細は「[[性同一性]](性自認)」を参照。
[[性同一性]](gender identity)は、性自認、ジェンダー・アイデンティティなどとも呼ばれ、自身の[[ジェンダー]](性別)をどのように認識しているかを指す。[[性別の割り当て|出生時に身体的特徴から割り当て]]られた性別が性同一性と一致する[[シスジェンダー]]の人と、一致しない[[トランスジェンダー]]の人がいる。[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校|UCLA]]のウィリアムズ研究所の研究では、アメリカ合衆国の成人の0.9%がトランスジェンダーであると自認している<ref name=":1">{{Cite web|url=https://williamsinstitute.law.ucla.edu/publications/trans-adults-united-states/|title=How Many Adults Identify as Transgender in the United States|last=Flores|first=Andrew|date=June 2016|website=Williams Institute UCLA School of Law|access-date=2020-10-19|publisher=}}</ref>。
トランスジェンダーの人は戸籍や対外的な性別と自身の性同一性の不一致により生じる性別違和(Gender Dysphoria, GD)を解消するために、社会的な性別移行(使用する名前の変更、服装などの性表現の変更)や医学的な方法を用いた身体的な性別移行を行うことがある<ref name="Maizes">Victoria Maizes, ''Integrative Women's Health'' (2015, {{ISBN2|0190214805}}), "Many transgender people experience gender dysphoria—distress that results from the discordance of biological sex and experienced gender (American Psychiatric Association, 2013). Treatment for gender dysphoria, considered to be highly effective, includes physical, medical, and/or surgical treatments [...] some [transgender people] may not choose to transition at all."</ref>{{Rp|745}}。以前は国際的に[[性同一性障害]](Gender Identity Disorder, GID)との名称で精神疾患として扱われていたが、[[世界保健機関|WHO]]の[[疾病及び関連保健問題の国際統計分類|ICD-11]]や[[アメリカ精神医学会]]の[[精神障害の診断と統計マニュアル#DSM-5 (2013年)|DSM-5]]において性別違和の脱病理化が行われ、疾患ではなく「性別違和」や「性別不合」という状態を指す呼称に変更された<ref>{{Cite news|title=性同一性障害 精神疾患対象外 WHO|url=https://mainichi.jp/articles/20180620/ddm/012/040/041000c|work=毎日新聞|date=2018-06-20|accessdate=2020-10-19|language=}}</ref>。
人の性自認(ジェンダーアイデンティティ)は連続体でありグラデーションである。そのため、[[Xジェンダー]]をはじめとしたさまざまなアイデンティティが存在する。
現代の日本では主に出生時に[[性器|外性器]]の外観で医師によって性別を判定されて、出生届を介して戸籍に登録される<ref>{{Cite journal|author=家永登|year=2017|title=性別未確定で出生した子の性別決定 : 「性別の段階性」および「性別の相対性」の視点から|journal=専修法学論集|volume=131|page=}}</ref>。物心付く頃から出生時に割り当てられた性別に違和感を感じ、「自分の性が反対のものであったら良かったのに」と思ったり、「自分の本来の性は反対のものである」と確信していたりする人がいる。しかし出生時のに割り当てられた性別と違う性別で生活することには偏見や障害も多い。
性自認と性指向は独立したものとして明瞭に区別されて考えられるが、誤った認識により混同されているケースも依然として散見される。トランスジェンダー女性の場合、性指向としては男性を好きになるのであろうと他者から思われる場合もあるが、シスジェンダーの人と同様、女性を恋愛対象とする同性愛者もいる。もちろん、男性が恋愛対象であるトランスジェンダー男性もいる。
ことばの上でも「'''ゲイ'''」は本来同性愛とりわけ男性同性愛者を意味するのに、日本で「'''ゲイボーイ'''」というと酒場で[[女装]]して給仕をする人のことを指すのが普通であった。また「[[おかま]]」という言葉(この言葉は本来は女装[[男娼]]を意味し侮辱的である)も女装者の意味で使用したり男性の同性間性交の意味で使用したりして、やはり言葉の混乱が生じている。
{{要出典|そもそも出生的な性、性指向、性自認は「'''連動しやすい'''」ものではあるが「'''完全に連動する'''」ものではないのである。条件を「'''性指向は男女どちらか一方、または男女両方を持つ'''」「'''性嗜好を考慮に入れない'''」とすれば下記の12種類のパターンが存在すると考えられる。|date=2021年10月}}
{| class="wikitable"
|+ '''性自認・性的指向の12パターン'''
|-
! 出生の性 !! 性自認 !! 性的指向 !! 概要
|-
| 男 || 男 || 男が好き || 男性同性愛者:[[シスジェンダー]]男性かつ[[ゲイ]]
|-
| 男 || 男 || 女が好き || 男性異性愛者:シスジェンダー男性かつ[[異性愛|男性ヘテロセクシュアル]]
|-
| 男 || 男 || 男女両方が好き || 男性両性愛者:シスジェンダー男性かつ男性[[両性愛|バイセクシュアル]]
|-
| 男 || 女 || 男が好き || 女性異性愛者:[[トランスジェンダー]](MtF)かつ女性ヘテロセクシュアル
|-
| 男 || 女 || 女が好き || 女性同性愛者:トランスジェンダー(MtF)かつ[[レズビアン]]
|-
| 男 || 女 || 男女両方が好き || 両性愛性転換者:トランスジェンダー(MtF)かつ女性バイセクシュアル
|-
| 女 || 男 || 男が好き || 男性同性愛者:トランスジェンダー(FtM)かつゲイ
|-
| 女 || 男 || 女が好き || 男性異性愛者:トランスジェンダー(FtM)かつ男性ヘテロセクシュアル
|-
| 女 || 男 || 男女両方が好き || 両性愛性転換者:トランスジェンダー(FtM)かつ男性バイセクシュアル
|-
| 女 || 女 || 男が好き || 女性異性愛者:シスジェンダー女性かつ女性ヘテロセクシュアル
|-
| 女 || 女 || 女が好き || 女性同性愛者:シスジェンダー女性かつ[[レズビアン]]
|-
| 女 || 女 || 男女両方が好き || 女性両性愛者:シスジェンダー女性かつ女性バイセクシュアル
|}
これはほんの一部であり、すべてではない。それほどさまざまな性自認、性的指向が存在する。
性指向は出生時に割り当てられた性別ではなく、性自認から判断する。
<!--
== 動植物([[ヒト]]を除く)の性 ==
* [[ホウレンソウ]]の性別は5種類(通常のオス、超雄、超雌、メス、両性)存在する。
-->
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2012年7月}}
* 『セクシュアルマイノリティ ― 同性愛、性同一性障害、インターセックスの当事者が語る人間の多様な性』教職員ネットワーク、ISBN 4-7503-1695-4
== 関連項目 ==
* [[性 (生物学)]]-[[雄]] / [[雌]] / [[間性]]
* [[人間の性]] -[[男性]] / [[女性]] / [[半陰陽|インターセックス]](間性)
* [[タナー段階]]
* [[SOGI]]-[[性的指向]]と[[性自認]]
* [[性的少数者]]-[[LGBT]] / [[クィア]]
* [[結婚]] - [[複婚]]/[[ポリアモリー]]
* [[ジョグジャカルタ原則]]
* [[ジェンダー]] - [[シスジェンダー]] / [[トランスジェンダー]]
* [[男らしさ]] -[[女らしさ]]
* [[性別役割分業]]
* [[性行為]]
* [[スポーツにおける性別確認]]
* [[性別披露パーティー]]-英語圏での習慣
{{DEFAULTSORT:せいへつ}}
[[Category:概念上の区別]]
[[Category:性 (生物学)]]
[[Category:ジェンダー|*せいへつ]]
[[Category:フェミニスト理論]]
[[Category:社会構築主義]]
|
2003-09-18T17:21:30Z
|
2023-12-27T10:19:47Z
| false | false | false |
[
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%88%A5
|
17,291 |
等価
|
等価(とうか)
|
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動的等価と形式等価
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'''等価'''(とうか)
* 与えられた2つ項がある[[同値関係]]を満たすこと。[[同値類]]および[[同値関係]]を参照。
* 与えられた2つの命題の真理値が互いに等しいこと。[[同値]]を参照。
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ゲイ (曖昧さ回避)
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ゲイ
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ゲイ
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'''ゲイ'''
== Gay ==
*'''[[ゲイ]]'''(Gay)は男性の[[同性愛]]者のこと。差別的な意味が内包されることもある。原義は[[英語]]で「陽気な」という意味。
*'''ゲイ'''(Gay, Gaye)は[[英語]]圏にみられる[[姓]]。
**[[エノラ・ゲイ]](Enola Gay)は[[第二次世界大戦]]で使用された[[アメリカ軍]]の爆撃機(人名に由来する名称)。
**[[コンスタンチン・ゲイ]]はソビエト連邦の政治家。
**[[タイソン・ゲイ]](Tyson Gay)は[[アメリカ合衆国]]の[[短距離走]]選手。
**[[マーヴィン・ゲイ]](Marvin Gaye)はアメリカ合衆国の[[歌手]]。
**[[マーシャ・ゲイ・ハーデン]](Marcia Gay Harden)はアメリカ合衆国の[[俳優|女優]]。
**[[ルディ・ゲイ]](Rudy Gay)はアメリカ合衆国の[[バスケットボール]]選手。
* 以下の[[台風の国際名]]
**[[昭和56年台風第24号]]
** [[昭和60年台風第3号]]
** [[昭和63年台風第16号]]
** [[平成元年台風第29号]]
**[[平成4年台風第30号]]
== その他 ==
*[[ゲイ (春秋)]]([[郳]])は中国[[春秋時代]]の諸侯国。
* '''[[羿]]'''(げい)は[[中国神話]]に登場する人物。弓の名手。羿は羽の下に廾。
==関連項目==
*[[ゲー]]
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レズビアン
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レズビアン(英: lesbian)とは、女性の同性愛。また、女性の同性愛者のこと。
この言葉の由来は#歴史節のとおりで、これに先立つ lesbianism の語は1870年から記録があるという。また、日本ではホモセクシュアルという言語は、男性の同性愛者のみを連想するが、英語圏ではレズビアンはホモセクシュアル・ウーマンとも定義づけられる。キリスト教社会の欧米では同性愛者は、ソドミー法で長く取り締まられる側におり、WHOは1990年に疾病分類から外すまで、同性愛を疾病(病気)扱いしていた。
ほかにややカジュアルな呼称としては dyke (ダイク)などがあり、当事者たちも使うことがあるが、一般に俗語のニュアンスは場面や文脈に依存するもので、この言葉も場合によって蔑意の表現にもなり得るため、注意が必要である。
関連概念として、英語: gay は日本語「ゲイ」とは異なり、性別を問わず、レズビアンをも指し得る言葉である。 同様の言葉には queer (クィア)などもある。詳細は各項目を参照のこと。
略称としては、日本では「ビアン」という言葉が当事者の周辺でよく使われる。 これは「レズ」という呼称を嫌った当事者たちが90年代に使い始めたもので、みずからのアイデンティティを積極的に表す言葉であるとされる。
一般には「レズ」という略称がよく聞かれるが、これはときには侮蔑的な場面で使われる場合もあり、テレビ・映画・週刊誌・スポーツ新聞などでは「ホモ」が軽蔑的な文脈で使われることもあるが、少ない例ながらレズも笑いをとる材料にされたり、ポルノ映画にも用いられてきた言葉であることから、不快に感じる当事者も多く、公共的なメディアでは使用を避けたほうが無難であるとされ、各メディアではこの略称の使用は自粛している。
女性同性愛の最も古い記録は、おおよそ紀元前625~570年頃、古代ギリシアのレスボス島に住んでいた女流詩人サッポーとされている。レスボス島がレズビアンの、サッポーの名が「サフィズム」という女性同性愛を示す言葉の語源ともなっている。現代の学説では、サッポーが育んだ教え子である少女との友愛関係は、古代ギリシアにおける同性愛と同様のものとの提唱がなされている。また、レズビアンの関係については古代スパルタ人であるラケダイモン人の間においても一般的であった。プルタルコスは「淑女を性の対象とする女性の間においても、愛は尊重された」と記している。
古代中国史においてもレズビアンに関する詩や物語の記録が残されている。人類学者ライザ・ダルビーの研究によれば、平安時代の日本においてもレズビアンが社会的に受け入れられていたとされている。中世のアラビアにおいてはハーレムを構成する女性達の間での同性愛関係が記録されているが、ときにこれは弾圧された。一例を挙げると、当時の指導者ムーサ・アル・ハディは情交していた2人の少女に対し斬首刑を求刑している。
12世紀、Etienne de Fougèresは、当時のヨーロッパにおいて「まっとうな性」を歩もうとするレズビアン達のいかなる声をも拒絶する社会的な風潮を反映して、社交儀礼に関する自身の著書(Livre des manières, 1170年頃)の中で「雄鶏のふりをする雌鳥」と、レズビアンを嘲笑している。
日本におけるレズビアンの歴史は、男性の男色文化などと比べると未解明な部分が多い。女性同士の性愛が文学の主題となり得なかった理由のひとつとして、近代的な女性作家が成立する近世以前には、創作活動が男性の占有物だったというジェンダーに由来する問題があったことや、女性が結婚以外の性を堂々と謳歌することが貞操という観念によって封じられたことが考えられる。
女性作家が活躍する余地のあった13世紀に、日本で最初の女性同士の性愛を明示的に描いた宮廷文学『我身にたどる姫君』が成立しているが、作品に登場する女性たちには「男に娶られたい」という願望と女性同士の性愛が矛盾無く並立しており、近代的な性指向のカテゴリーから言えばレズビアンと言うよりもクィアに近い。男性の衆道と同様に、前近代の女性の性愛は、自らのセクシュアリティを規定する事無くヘテロセクシュアルとホモセクシュアルの間を自由に行き来していたと考えられる。
江戸時代には女装した若衆を買う女性が少なからずおり、葛飾北斎、鳥橋斎栄里、鈴木春信、歌川国麿と言った浮世絵師が女性同士の性交の春画を描いた。古川柳にも女性同士の恋愛を詠んだものがたくさんあった。また女牢の中では日常的に同性愛が行われており、料理屋の裏で同性愛にふける女性たちもいた。大奥・遊女の間でもあったという。例えば大奥老女絵島が侍女の紅葉を寵愛したのが有名である。こうした江戸期のレズビアンは、近代のレズビアン文学に影響を与えたとされる。
明治になって西欧のキリスト教文化や精神医学が流入してきたことにより、レズビアンは否定されるが、女学校、工場、病院、妓樓、監獄など女性のみの集団の中では続いたとされる。 明治30年代の中村小時のように、女性でありながら男装して妾を持ち豪遊した人物もいる。
20世紀に入ると、日本の資本主義社会の発展による自由・退廃の文化と女性の権利向上により、文学上の表現などで復活し、田村俊子・吉屋信子・宮本百合子などがレズビアンを思わせる人物が登場する小説を著した。また現実世界でも、平塚らいてうと尾竹一枝、宮本百合子と湯浅芳子、吉屋信子と門馬千代といった著名人の女性同士の関係が登場していた。また1908年から1910年までの情死501件中、女性同士は18件(3.6%)あり、特に1911年に新潟県親不知海岸で起きた女学校卒業生同士の心中が報道された結果、それまで男色を中心とした男性中心の同性愛への注目から女性中心の同性愛へと認識が転換したとされる(詳しくはエス (文化)を参照のこと)。同時にこの頃から、同性愛を異常視する「変態性欲」の考え方が一般化し、レズビアニズムの変態カテゴリー化が進行した。これは1970年代まで続くことになる。
その後1971年に日本初のレズビアンサークル「若草の会」が登場した。アパートで月1回の集会があり、1回に2・30人が集まったという。会員は5年間で延べ500人になり会誌も発行された。「若草の会」は15年間続き、分派して他のグループを作ったものもいた。また1976年発行の「すばらしい女たち」を皮切りに、1978年には「ザ・ダイク」や「ひかりぐるま」、1982年には「レズビアン通信」とミニコミ誌が次々と作られる。1987年には日本初のレズビアン事務所「れ組スタジオ・東京」が開設された。また、公に出版された日本で初めてのレズビアンについてのレポートである『別冊宝島64 女を愛する女たちの物語: 日本で初めて! 234人の証言で綴るレズビアン・リポート』(宝島社)が出版された。1988年に24歳のライター、掛札悠子(かけふだ・ひろこ)が日本で初めてマスコミに女性同性愛者であることをカムアウト。
1992年には公に出版された日本で初めてのレズビアン・ゲイの情報ガイド『別冊宝島159号 ゲイの贈り物』(宝島社、1993年『別冊宝島EX ゲイのおもちゃ箱』、1994年『別冊宝島EX ゲイの学生天国』)が発売された。同年には東京国際レズビアン&ゲイ映画祭がスタートし、掛札悠子の『 レズビアン」である、ということ 』(河出書房新社)が刊行。1994年には東京レズビアン・ゲイ・パレードが行われた。
ヨーロッパではルネサンス期から存在し、アメリカでは19世紀後半に頂点に達した女性同士の「ロマンティックな友情」が存在した。未婚の女性同士の激しい友情をあらわしたが、19世紀中ごろから設立された女子大学により女性の経済的自立がなると女性同士の世帯が登場し、男性との結婚によって中断する必要がなくなったのである。保守的な富裕層や教育を受けられない貧困層とは対照的に、職に就くことが少なくなかった中産階級の女性は女性同士の愛が普通とされる社会で育った。東海岸では「ボストンマリッジ」と呼ばれ、ジェーン・アダムス、M・キャリー・トーマスと言った有名な女性運動家も女性同士で暮らした。もっとも性科学が登場したばかりの当時、自らをレズビアンと認識するものはいなかった。
徐々に広まりつつあった性科学は第一次世界大戦が終わってからアメリカでも常識化し、「ロマンティックな友情」で済まされていた関係をレズビアンとして一般女性から切り離し、フェミニストも含めて「性倒錯」「男の心をもっている」「古い母権制社会への退行者」などと非難し始めた。この新見解は女性たちの間に大混乱をもたらしたが、これを機に自らを神や自然によって運命付けられたレズビアンとして認識し、コミュニティーを作り同性愛に対する刑罰に挑戦する女性も現れた。
1920年代はフロイト理論の広まりによって自由な異性関係とバイセクシュアルの試みが許された時代だった。小説にもレズビアンが登場し、ブロードウェイの芝居でも異性装が大流行した。各地にレズビアンコミュニティが登場し、特にニューヨークのハーレム、グリニッジ・ヴィレッジが有名だったが、バイセクシュアルがはやっても混ざりけのないレズビアンは異常視された。性革命のもとより開放的になった異性愛が健康に不可欠だともてはやされる一方で、同性愛が貶められたのもこの時代である。
1930年代になると大恐慌の影響で性の自由は中断される一方で、医学界も前説を流布し続けていた。自立した女性に対する圧力も高まり、生活が立ち行かなくなってホームレスになるレズビアンのカップルもいた。やむなく男性と結婚しバイセクシュアルで妥協するレズビアンもいた。小説にもレズビアンを否定的に描くものが現れ、レズビアン描写に対する検閲も強まり、女子大学でもかつての「ロマンティックな友情」は見られなくなった。レズビアンにとっては孤独な時代だったが、それでもより多くの女性が自分をレズビアンだと認識し、サブカルチャーを発展させた。
第二次世界大戦中はレズビアンを黙認した軍の女性分隊を始め、工場などさまざまな場所で女性だけの組織が誕生し、レズビアニズムの発展に寄与した。「ロマンティックな友情」の時代とは違って、すべての階層に開かれていた。1950年代に入ると戦争が終わって除隊させられたレズビアンが港町にコミュニティを作り、女性たちの間に広まった寛容さからサブカルチャーが発展した。さらに大都市へのレズビアンの移住が増加し、レズビアン・バーを増大させた。これは後にレズビアンの組織化につながる。
しかし職場に戻り始めた男性を中心に保守的な意見もあり、医学界も同性愛に対する「治療」をビッグビジネスに仕立て上げた。マッカーシズムによる迫害も始まり、多くの同性愛者が公職を追われ、苦しい二重生活を強いられた。それでもサブカルチャーは激増し、初めてのレズビアン団体が現れたのもこのころであった。ただしレズビアンサブカルチャーは60年代を通して主流文化に屈しており、レズビアン団体の加入者も少なかった。キンゼイ・リポートでレズビアンとゲイの比率などが発表されたことは、レズビアンたちを勇気づけた。
しかし1960年代末期になると60年代のフェミニズムや公民権運動を経験した世代がゲイ革命を起こした。1969年のストーンウォールの反乱を契機に、マスコミや医学界、政界にも同性愛に同調する動きが生まれた。解放運動は驚くべき勢いで広まりゲイ男性と共同で反対する政治家と戦った。こうした一連の流れは1970年代においてレズビアン・フェミニストの登場を促した。レズビアンによる独立した平和で自由な社会を理想とする彼女たちは協同組合や職業訓練所の開設を目指し、独自の新聞や小説、音楽でレズビアンを賛美した。しかしあまりにも理想に走りすぎたため分裂対立を繰り返し、できたばかりのコミューンも長続きしなかった。
1980年代に至ると性的に消極的だったレズビアンの性に関して大論争が起こる。レズビアンの性的解放を目指しての動きだったが、むしろ時代はゲイ男性の間にエイズが蔓延したため性に関しては保守的になった。コミュニティも70年代よりは穏健的かつ統一的なり、各民族ごとの小グループが生まれ多様化した。高齢者、肥満者、障害者のレズビアンの活動も活発化した。この結果、同性愛者の人権法が各地で成立した。また母親になるレズビアンが増え、ベビーブームが到来したのもこの時代である。
19世紀後半、多くのレズビアンがその権利(フェミニズム)のために立ち上がった。「ボストンマリッジ(女性同士で築く家庭)」という語がその権利を主張する運動の上で、女性同士の家庭生活を示す言葉として多用された。1970年代~1980年代前半の第二次の運動では、北米や西欧でも新たに多くの賛同を得た。1970年代の終わりごろまでには、学術的な分野の一部ではあるがフェミニズム(ことに女性同性愛者の権利)として認められるようになった。昨今では不満の表現として、この1970年代の同性愛者の権利解放運動が挙げられている。
レズビアンのフェミニズムに関する指導書においては、男性優位社会や資本主義社会、植民地主義社会などが、性別の認識と実際の性別が入り混じることに与える影響が考察され、時としてこれらの社会制度がレズビアンの疎外や不満点のもっともたるものであると記述している。
また、エイドリアン・リッシュは自らのエッセイ「強制的異性愛とレズビアンのあり方」 (Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence) の中で、「“色欲的で金銭的で感情的な”女性との接し方」として異性愛を揶揄している。
他の主立った思想家、活動家としてはリタ・メイ・ブラウン(Rita Mae Brown)、Audre Lorde、Marilyn Frye、Mary Daly、Sheila Jeffreysが挙げられる。
女性間の同性愛における性行為は、異性間、男性間のそれと同様に多様である。女性同士の肉体関係にある者の中には、自身をレズビアン、倒錯愛などと認識していない者もいる。他のどのような対人関係、性的関係においても、その前後の流れ次第であることと同様である。
昨今の西側諸国における社会的、文化的価値観の変容や、新たな学術的見地からも、レズビアンとしての性が市民権を得るようになってきている。
2002年に行われた米国医療センターにおける保健調査報告が、2005年に「 性行動と特定保健指標:2002年15歳~44歳の米国人男女, Sexual Behavior and Selected Health Measures: Men and Women 15-44 Years of Age, United States, 2002」と題して発表された。その中で15歳~44歳の女性の4.4%が直近12か月以内に他の女性との性的関係を持った、と記されている。また、同じく15歳~44歳の女性への「これまでに他の女性と何らかの性的な関係を持ったことがあるか」との問いに対し、11%が「ある」と答えている。レズビアンの性について書かれたこの調査内容は、女性の性の上での自立、移り変わる女性間の性、女性の性の悦びの再認識、ネガティブな性の固定観念の露呈など、様々な物議をかもした。
1990年代に入るとレズビアンの権利と地位向上を訴えるため、何十ものレズビアン・アベンジャーが組織された。今日ではオランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル、ノルウェー、スウェーデン、アイスランド、カナダ、南アフリカ共和国、アメリカ合衆国等で同性結婚が法制化されているが、まだまだ多くの国に受け入れられていないのが現状である。2004年、マサチューセッツ州は米国で初めて同性結婚を法制化した。
アイスランドの女性政治家、ヨハンナ・シグルザルドッティルは、私生活ではレズビアンで、2009年2月1日首相に就任し、同性愛者を公言した世界初の国家首脳になった。さらに、2010年6月27日に女性脚本家と結婚し、同性結婚をした世界初の国家首脳となった。
対照的にイギリスでは、かつて一度もレズビアンが違法であったことはなく、逆に男性の同性愛が1967年になって初めて合法化された。これはヴィクトリア女王が女性間の性交が可能とは思わず、1885年発布の刑法から女性の同性愛が漏れたためと言われている。1921年、レズビアンを違法とするようフレデリック・マキステン(英語版) (Frederick Macquisten) 下院議員が提議したが、貴族院にて否決された。その決議の中で、当時の貴族院議長バーケンヘッド卿は、「女性が1000人いたとしても、そのうち999人はそのような悪習(同性愛)に手を染めるとは思えぬ」と断じた。1928年、レズビアンを題材とした小説、「寂しさの泉 (The Well of Loneliness)」が、公の場で卑猥な表現を行ったとして発売禁止となり、発売認可のための論議を呼んだ。一方で、節度あるレズビアン小説は自由に流通していた。
ユダヤ教の思想では、男性間の同性愛は厳しく非難されるが、女性間のそれには寛大な傾向があった。しかし今日のイスラエルでは例年テルアビブでWorld Pride(同性愛者のパレード)が行われている。
これら西側諸国のような同性愛は、イスラム教国では差別的な法を排除しているトルコを除いては滅多に認められない。サウジアラビア、イエメンでは、懲役、鞭打ち、果ては死刑などの厳しい処罰がなされる。イランでの同性愛を禁ずる法律は、幾分緩和、廃止されてきたと伝えられるが、依然として男性間の同性愛に関しては禁止されている。(→ イスラーム教徒による性的マイノリティー迫害も参照)
レズビアンのカップルの中には、子供を持つことを望んでいるカップルもいる。
オーストラリアでは、最高裁にてレズビアンや独身女性の体外受精を禁止する法案が否決された。この決定の直後、ジョン・ハワード首相はカトリック教会の姿勢を保持する形で最高裁の決定を事実上却下し、体外受精の利用を防ぐために法改正を行った。これはレズビアンや独身女性の権利を主張する諸団体の激しい反発を招いた。
精子提供や、精子バンクの利用、ボランティア精子提供活動(known sperm donors)を利用して子供を持つこともできる。
単為生殖は植物や、ミジンコやアリマキなどの無脊椎動物にしばしばみられるが、哺乳類においては通常はみられない。しかしながら今日の科学技術は2匹の雌ネズミから仔ネズミを作ることに成功している(Kaguyaを参照)。この研究が進めば、2人の人間の女性を、その間に生まれてくる子供の遺伝学上の両親とすることができる可能性もある。また、男性でも女性でも、どのような個人でも、クローン技術によって「生殖」することができる可能性が示されている。しかし、人工的に人間のクローンをつくりだすことは医学界では倫理的に大きな問題を抱えている。
人類の長い歴史の中では、当然なことながら多数のレズビアンが、芸術・文化の上で活躍してきた。
ヨーロッパでの性科学の影響が出始める20世紀より前にも男性間の同性愛は禁止されていた。また一方で、Karl Heinrich Ulrichs、リヒャルト・フォン・クラフト=エビング、ハヴロック・エリス、Edward Carpenter、マグヌス・ヒルシュフェルトら性科学者の概念によって、女性同性愛は広く知られるようになった。
ジークムント・フロイトは、著書「性道徳に関する3つの論文, Three Essays on the Theory of Sexuality (1905年)」の中で、性愛の対象を倒錯した(女性が女性として女性を愛する)同性愛者(現在の定義では同性愛は性的倒錯には含まれないが)と共に、男性の特徴を女性が持つことによる(女性が男性として女性を愛する)同性愛について触れている。この「第三の性」については、後にマグヌス・ヒルシュフェルトらによって広められることとなる。フロイトは自らこうした“特殊な”患者を多く診てきたわけではないことを自認していたため、医学的、生物学的見地よりも心理学的な考察に重点を置いた。これらのフロイトの論文が英語圏に知れ渡ったのは1920年代になってからである。当時フロイトの見解は精神医学者らによって否定されていたが、昨今の生物学的研究では、ヒルシュフェルドによる、「第三の性」が同性愛の魅力への解釈との説を裏付ける報告がなされている。
これら性科学と心理学の融合は、多くのレズビアンに関する文化や作品への基調となった。著名な例では、古典的な表現に習うことをやめ、同性愛者の言葉で性を綴った1928年のラドクリフ・ホールの小説「寂しさの泉, The Well of Loneliness」がある。
1980年代以降、レズビアンは音楽界(Melissa Etheridge、k.d.ラング、レディ・ガガ、ジャニス・イアン、Indigo Girlsなど)、女優(ジョディ・フォスター、ポーシャ・デ・ロッシなど)、スポーツ界(マルチナ・ナブラチロワ、ビリー・ジーン・キング)などでカミング・アウトする同性愛者が増えている。著名な女性小説家もレズビアンに関する文章を発表している。また、ビビアンの旅立ち、Go Fish、恋するアナベル、ウォーターメロン・ウーマン、Oranges Are Not The Only Fruit、Everything Relative、ホット・チョコレートなどのレズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーを扱った映画作品も増えている。Jane Rule、Vin Packer、Ann Aldrich、Ann Bannonらの小説も増刷されている。小説家カミール・パーリアらもレズビアンに共感している。
レズビアンは、フェミニズム、愛情、性生活、結婚、子育てなどに関連して、メディアの関心事となっている。
なお日本では2000年代に入ってからのいわゆる「百合」ブームによって、レズビアンをモチーフにしたマンガ・アニメ・小説が多数発表されている。
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"text": "明治になって西欧のキリスト教文化や精神医学が流入してきたことにより、レズビアンは否定されるが、女学校、工場、病院、妓樓、監獄など女性のみの集団の中では続いたとされる。 明治30年代の中村小時のように、女性でありながら男装して妾を持ち豪遊した人物もいる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入ると、日本の資本主義社会の発展による自由・退廃の文化と女性の権利向上により、文学上の表現などで復活し、田村俊子・吉屋信子・宮本百合子などがレズビアンを思わせる人物が登場する小説を著した。また現実世界でも、平塚らいてうと尾竹一枝、宮本百合子と湯浅芳子、吉屋信子と門馬千代といった著名人の女性同士の関係が登場していた。また1908年から1910年までの情死501件中、女性同士は18件(3.6%)あり、特に1911年に新潟県親不知海岸で起きた女学校卒業生同士の心中が報道された結果、それまで男色を中心とした男性中心の同性愛への注目から女性中心の同性愛へと認識が転換したとされる(詳しくはエス (文化)を参照のこと)。同時にこの頃から、同性愛を異常視する「変態性欲」の考え方が一般化し、レズビアニズムの変態カテゴリー化が進行した。これは1970年代まで続くことになる。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 14,
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"text": "その後1971年に日本初のレズビアンサークル「若草の会」が登場した。アパートで月1回の集会があり、1回に2・30人が集まったという。会員は5年間で延べ500人になり会誌も発行された。「若草の会」は15年間続き、分派して他のグループを作ったものもいた。また1976年発行の「すばらしい女たち」を皮切りに、1978年には「ザ・ダイク」や「ひかりぐるま」、1982年には「レズビアン通信」とミニコミ誌が次々と作られる。1987年には日本初のレズビアン事務所「れ組スタジオ・東京」が開設された。また、公に出版された日本で初めてのレズビアンについてのレポートである『別冊宝島64 女を愛する女たちの物語: 日本で初めて! 234人の証言で綴るレズビアン・リポート』(宝島社)が出版された。1988年に24歳のライター、掛札悠子(かけふだ・ひろこ)が日本で初めてマスコミに女性同性愛者であることをカムアウト。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "1992年には公に出版された日本で初めてのレズビアン・ゲイの情報ガイド『別冊宝島159号 ゲイの贈り物』(宝島社、1993年『別冊宝島EX ゲイのおもちゃ箱』、1994年『別冊宝島EX ゲイの学生天国』)が発売された。同年には東京国際レズビアン&ゲイ映画祭がスタートし、掛札悠子の『 レズビアン」である、ということ 』(河出書房新社)が刊行。1994年には東京レズビアン・ゲイ・パレードが行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "ヨーロッパではルネサンス期から存在し、アメリカでは19世紀後半に頂点に達した女性同士の「ロマンティックな友情」が存在した。未婚の女性同士の激しい友情をあらわしたが、19世紀中ごろから設立された女子大学により女性の経済的自立がなると女性同士の世帯が登場し、男性との結婚によって中断する必要がなくなったのである。保守的な富裕層や教育を受けられない貧困層とは対照的に、職に就くことが少なくなかった中産階級の女性は女性同士の愛が普通とされる社会で育った。東海岸では「ボストンマリッジ」と呼ばれ、ジェーン・アダムス、M・キャリー・トーマスと言った有名な女性運動家も女性同士で暮らした。もっとも性科学が登場したばかりの当時、自らをレズビアンと認識するものはいなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "徐々に広まりつつあった性科学は第一次世界大戦が終わってからアメリカでも常識化し、「ロマンティックな友情」で済まされていた関係をレズビアンとして一般女性から切り離し、フェミニストも含めて「性倒錯」「男の心をもっている」「古い母権制社会への退行者」などと非難し始めた。この新見解は女性たちの間に大混乱をもたらしたが、これを機に自らを神や自然によって運命付けられたレズビアンとして認識し、コミュニティーを作り同性愛に対する刑罰に挑戦する女性も現れた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "1920年代はフロイト理論の広まりによって自由な異性関係とバイセクシュアルの試みが許された時代だった。小説にもレズビアンが登場し、ブロードウェイの芝居でも異性装が大流行した。各地にレズビアンコミュニティが登場し、特にニューヨークのハーレム、グリニッジ・ヴィレッジが有名だったが、バイセクシュアルがはやっても混ざりけのないレズビアンは異常視された。性革命のもとより開放的になった異性愛が健康に不可欠だともてはやされる一方で、同性愛が貶められたのもこの時代である。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "1930年代になると大恐慌の影響で性の自由は中断される一方で、医学界も前説を流布し続けていた。自立した女性に対する圧力も高まり、生活が立ち行かなくなってホームレスになるレズビアンのカップルもいた。やむなく男性と結婚しバイセクシュアルで妥協するレズビアンもいた。小説にもレズビアンを否定的に描くものが現れ、レズビアン描写に対する検閲も強まり、女子大学でもかつての「ロマンティックな友情」は見られなくなった。レズビアンにとっては孤独な時代だったが、それでもより多くの女性が自分をレズビアンだと認識し、サブカルチャーを発展させた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "第二次世界大戦中はレズビアンを黙認した軍の女性分隊を始め、工場などさまざまな場所で女性だけの組織が誕生し、レズビアニズムの発展に寄与した。「ロマンティックな友情」の時代とは違って、すべての階層に開かれていた。1950年代に入ると戦争が終わって除隊させられたレズビアンが港町にコミュニティを作り、女性たちの間に広まった寛容さからサブカルチャーが発展した。さらに大都市へのレズビアンの移住が増加し、レズビアン・バーを増大させた。これは後にレズビアンの組織化につながる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "しかし職場に戻り始めた男性を中心に保守的な意見もあり、医学界も同性愛に対する「治療」をビッグビジネスに仕立て上げた。マッカーシズムによる迫害も始まり、多くの同性愛者が公職を追われ、苦しい二重生活を強いられた。それでもサブカルチャーは激増し、初めてのレズビアン団体が現れたのもこのころであった。ただしレズビアンサブカルチャーは60年代を通して主流文化に屈しており、レズビアン団体の加入者も少なかった。キンゼイ・リポートでレズビアンとゲイの比率などが発表されたことは、レズビアンたちを勇気づけた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "しかし1960年代末期になると60年代のフェミニズムや公民権運動を経験した世代がゲイ革命を起こした。1969年のストーンウォールの反乱を契機に、マスコミや医学界、政界にも同性愛に同調する動きが生まれた。解放運動は驚くべき勢いで広まりゲイ男性と共同で反対する政治家と戦った。こうした一連の流れは1970年代においてレズビアン・フェミニストの登場を促した。レズビアンによる独立した平和で自由な社会を理想とする彼女たちは協同組合や職業訓練所の開設を目指し、独自の新聞や小説、音楽でレズビアンを賛美した。しかしあまりにも理想に走りすぎたため分裂対立を繰り返し、できたばかりのコミューンも長続きしなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "1980年代に至ると性的に消極的だったレズビアンの性に関して大論争が起こる。レズビアンの性的解放を目指しての動きだったが、むしろ時代はゲイ男性の間にエイズが蔓延したため性に関しては保守的になった。コミュニティも70年代よりは穏健的かつ統一的なり、各民族ごとの小グループが生まれ多様化した。高齢者、肥満者、障害者のレズビアンの活動も活発化した。この結果、同性愛者の人権法が各地で成立した。また母親になるレズビアンが増え、ベビーブームが到来したのもこの時代である。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "19世紀後半、多くのレズビアンがその権利(フェミニズム)のために立ち上がった。「ボストンマリッジ(女性同士で築く家庭)」という語がその権利を主張する運動の上で、女性同士の家庭生活を示す言葉として多用された。1970年代~1980年代前半の第二次の運動では、北米や西欧でも新たに多くの賛同を得た。1970年代の終わりごろまでには、学術的な分野の一部ではあるがフェミニズム(ことに女性同性愛者の権利)として認められるようになった。昨今では不満の表現として、この1970年代の同性愛者の権利解放運動が挙げられている。",
"title": "レズビアンによるフェミニズム(女性の権利拡張運動)"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "レズビアンのフェミニズムに関する指導書においては、男性優位社会や資本主義社会、植民地主義社会などが、性別の認識と実際の性別が入り混じることに与える影響が考察され、時としてこれらの社会制度がレズビアンの疎外や不満点のもっともたるものであると記述している。",
"title": "レズビアンによるフェミニズム(女性の権利拡張運動)"
},
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"paragraph_id": 26,
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"text": "また、エイドリアン・リッシュは自らのエッセイ「強制的異性愛とレズビアンのあり方」 (Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence) の中で、「“色欲的で金銭的で感情的な”女性との接し方」として異性愛を揶揄している。",
"title": "レズビアンによるフェミニズム(女性の権利拡張運動)"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "他の主立った思想家、活動家としてはリタ・メイ・ブラウン(Rita Mae Brown)、Audre Lorde、Marilyn Frye、Mary Daly、Sheila Jeffreysが挙げられる。",
"title": "レズビアンによるフェミニズム(女性の権利拡張運動)"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "女性間の同性愛における性行為は、異性間、男性間のそれと同様に多様である。女性同士の肉体関係にある者の中には、自身をレズビアン、倒錯愛などと認識していない者もいる。他のどのような対人関係、性的関係においても、その前後の流れ次第であることと同様である。",
"title": "性の認識"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "昨今の西側諸国における社会的、文化的価値観の変容や、新たな学術的見地からも、レズビアンとしての性が市民権を得るようになってきている。",
"title": "性の認識"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "2002年に行われた米国医療センターにおける保健調査報告が、2005年に「 性行動と特定保健指標:2002年15歳~44歳の米国人男女, Sexual Behavior and Selected Health Measures: Men and Women 15-44 Years of Age, United States, 2002」と題して発表された。その中で15歳~44歳の女性の4.4%が直近12か月以内に他の女性との性的関係を持った、と記されている。また、同じく15歳~44歳の女性への「これまでに他の女性と何らかの性的な関係を持ったことがあるか」との問いに対し、11%が「ある」と答えている。レズビアンの性について書かれたこの調査内容は、女性の性の上での自立、移り変わる女性間の性、女性の性の悦びの再認識、ネガティブな性の固定観念の露呈など、様々な物議をかもした。",
"title": "性の認識"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1990年代に入るとレズビアンの権利と地位向上を訴えるため、何十ものレズビアン・アベンジャーが組織された。今日ではオランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル、ノルウェー、スウェーデン、アイスランド、カナダ、南アフリカ共和国、アメリカ合衆国等で同性結婚が法制化されているが、まだまだ多くの国に受け入れられていないのが現状である。2004年、マサチューセッツ州は米国で初めて同性結婚を法制化した。",
"title": "各国での法制化"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "アイスランドの女性政治家、ヨハンナ・シグルザルドッティルは、私生活ではレズビアンで、2009年2月1日首相に就任し、同性愛者を公言した世界初の国家首脳になった。さらに、2010年6月27日に女性脚本家と結婚し、同性結婚をした世界初の国家首脳となった。",
"title": "各国での法制化"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "対照的にイギリスでは、かつて一度もレズビアンが違法であったことはなく、逆に男性の同性愛が1967年になって初めて合法化された。これはヴィクトリア女王が女性間の性交が可能とは思わず、1885年発布の刑法から女性の同性愛が漏れたためと言われている。1921年、レズビアンを違法とするようフレデリック・マキステン(英語版) (Frederick Macquisten) 下院議員が提議したが、貴族院にて否決された。その決議の中で、当時の貴族院議長バーケンヘッド卿は、「女性が1000人いたとしても、そのうち999人はそのような悪習(同性愛)に手を染めるとは思えぬ」と断じた。1928年、レズビアンを題材とした小説、「寂しさの泉 (The Well of Loneliness)」が、公の場で卑猥な表現を行ったとして発売禁止となり、発売認可のための論議を呼んだ。一方で、節度あるレズビアン小説は自由に流通していた。",
"title": "各国での法制化"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ユダヤ教の思想では、男性間の同性愛は厳しく非難されるが、女性間のそれには寛大な傾向があった。しかし今日のイスラエルでは例年テルアビブでWorld Pride(同性愛者のパレード)が行われている。",
"title": "各国での法制化"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "これら西側諸国のような同性愛は、イスラム教国では差別的な法を排除しているトルコを除いては滅多に認められない。サウジアラビア、イエメンでは、懲役、鞭打ち、果ては死刑などの厳しい処罰がなされる。イランでの同性愛を禁ずる法律は、幾分緩和、廃止されてきたと伝えられるが、依然として男性間の同性愛に関しては禁止されている。(→ イスラーム教徒による性的マイノリティー迫害も参照)",
"title": "各国での法制化"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "レズビアンのカップルの中には、子供を持つことを望んでいるカップルもいる。",
"title": "家族と育児"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "オーストラリアでは、最高裁にてレズビアンや独身女性の体外受精を禁止する法案が否決された。この決定の直後、ジョン・ハワード首相はカトリック教会の姿勢を保持する形で最高裁の決定を事実上却下し、体外受精の利用を防ぐために法改正を行った。これはレズビアンや独身女性の権利を主張する諸団体の激しい反発を招いた。",
"title": "家族と育児"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "精子提供や、精子バンクの利用、ボランティア精子提供活動(known sperm donors)を利用して子供を持つこともできる。",
"title": "家族と育児"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "単為生殖は植物や、ミジンコやアリマキなどの無脊椎動物にしばしばみられるが、哺乳類においては通常はみられない。しかしながら今日の科学技術は2匹の雌ネズミから仔ネズミを作ることに成功している(Kaguyaを参照)。この研究が進めば、2人の人間の女性を、その間に生まれてくる子供の遺伝学上の両親とすることができる可能性もある。また、男性でも女性でも、どのような個人でも、クローン技術によって「生殖」することができる可能性が示されている。しかし、人工的に人間のクローンをつくりだすことは医学界では倫理的に大きな問題を抱えている。",
"title": "家族と育児"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "人類の長い歴史の中では、当然なことながら多数のレズビアンが、芸術・文化の上で活躍してきた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでの性科学の影響が出始める20世紀より前にも男性間の同性愛は禁止されていた。また一方で、Karl Heinrich Ulrichs、リヒャルト・フォン・クラフト=エビング、ハヴロック・エリス、Edward Carpenter、マグヌス・ヒルシュフェルトら性科学者の概念によって、女性同性愛は広く知られるようになった。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ジークムント・フロイトは、著書「性道徳に関する3つの論文, Three Essays on the Theory of Sexuality (1905年)」の中で、性愛の対象を倒錯した(女性が女性として女性を愛する)同性愛者(現在の定義では同性愛は性的倒錯には含まれないが)と共に、男性の特徴を女性が持つことによる(女性が男性として女性を愛する)同性愛について触れている。この「第三の性」については、後にマグヌス・ヒルシュフェルトらによって広められることとなる。フロイトは自らこうした“特殊な”患者を多く診てきたわけではないことを自認していたため、医学的、生物学的見地よりも心理学的な考察に重点を置いた。これらのフロイトの論文が英語圏に知れ渡ったのは1920年代になってからである。当時フロイトの見解は精神医学者らによって否定されていたが、昨今の生物学的研究では、ヒルシュフェルドによる、「第三の性」が同性愛の魅力への解釈との説を裏付ける報告がなされている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "これら性科学と心理学の融合は、多くのレズビアンに関する文化や作品への基調となった。著名な例では、古典的な表現に習うことをやめ、同性愛者の言葉で性を綴った1928年のラドクリフ・ホールの小説「寂しさの泉, The Well of Loneliness」がある。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1980年代以降、レズビアンは音楽界(Melissa Etheridge、k.d.ラング、レディ・ガガ、ジャニス・イアン、Indigo Girlsなど)、女優(ジョディ・フォスター、ポーシャ・デ・ロッシなど)、スポーツ界(マルチナ・ナブラチロワ、ビリー・ジーン・キング)などでカミング・アウトする同性愛者が増えている。著名な女性小説家もレズビアンに関する文章を発表している。また、ビビアンの旅立ち、Go Fish、恋するアナベル、ウォーターメロン・ウーマン、Oranges Are Not The Only Fruit、Everything Relative、ホット・チョコレートなどのレズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーを扱った映画作品も増えている。Jane Rule、Vin Packer、Ann Aldrich、Ann Bannonらの小説も増刷されている。小説家カミール・パーリアらもレズビアンに共感している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "レズビアンは、フェミニズム、愛情、性生活、結婚、子育てなどに関連して、メディアの関心事となっている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "なお日本では2000年代に入ってからのいわゆる「百合」ブームによって、レズビアンをモチーフにしたマンガ・アニメ・小説が多数発表されている。",
"title": "文化"
}
] |
レズビアンとは、女性の同性愛。また、女性の同性愛者のこと。
|
{{性的指向}}
{{LGBTサイドバー|expanded=all}}
[[ファイル:Double Venus symbol (bold, color).svg|thumb|right|古代より[[銅]]は[[ローマ]]の女神[[ヴィーナス]]に関連付けられていた。[[錬金術]]において銅を表す記号は[[金星]](ヴィーナス)と同様のシンボルマークとなった。このマークは形そのものが手鏡を示しており女性を象徴するものと扱われている。ここではレズビアンのシンボルとして、ライラック色の女性のシンボルを2つ絡めたものを示す。]]
[[ファイル:Istanbul - Museo archeol. - Saffo - Copia romana da orig ellenist. - da Smirne - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006 02.jpg|thumb|[[古代ギリシア]]の女性詩人[[サッポー]]像の[[模刻]]]]
'''レズビアン'''({{lang-en-short|lesbian}})とは、[[女性]]の[[同性愛]]。また、女性の[[同性愛|同性愛者]]のこと。
==概要・呼称==
{{see also|レズビアン用語}}
この言葉の由来は[[#歴史]]節のとおりで、これに先立つ {{lang|en|lesbianism}} の語は1870年から記録があるという<ref>[http://www.etymonline.com/index.php?search=lesbian Online Etymology Dictionary]。もともと Lesbian は地名の形容詞で、Japanese, Russian などと同様「~人」の意味もあり、初期の Lesbianism/lesbianism は「レスボス人のごとき風潮」といった意味の造語であった。この言葉が「レズビアニズム」として定着すると、Lesbian/lesbian もその関連で使われることが多くなり、現在に至っている。なお、[[ギリシャ]]ではこの言葉をめぐって[[訴訟]]も起きている。これについては[[レスボス島]]を参照。</ref>。また、日本ではホモセクシュアルという言語は、男性の同性愛者のみを連想するが、英語圏ではレズビアンはホモセクシュアル・ウーマンとも定義づけられる<ref>http://www.glaad.org/reference/lgbtq</ref>。キリスト教社会の欧米では同性愛者は、ソドミー法で長く取り締まられる側におり、WHOは1990年に疾病分類から外すまで、同性愛を疾病(病気)扱いしていた<ref>東京新聞2019年10月25日21面</ref>。
ほかにややカジュアルな呼称としては {{lang|en|[[:en:dyke (slang)|dyke]]}} (ダイク)などがあり、当事者たちも使うことがあるが、一般に俗語のニュアンスは場面や文脈に依存するもので、この言葉も場合によって蔑意の表現にもなり得るため、注意が必要である<ref group="注釈">もともとこの語は蔑称であったのを当事者たちが reappropriate (肯定的な意味の込めなおし)したものだという。[[:en:Dyke (slang)]] を参照。</ref>。
関連概念として、{{lang-en|[[:en:gay|gay]]}} は[[日本語]]「[[ゲイ]]」とは異なり、性別を問わず、レズビアンをも指し得る言葉である。
同様の言葉には {{lang|en|[[:en:queer|queer]]}} ([[クィア]])などもある。詳細は各項目を参照のこと。
===日本語の呼称「ビアン」と「レズ」===
略称としては、[[日本]]では「'''ビアン'''」という言葉が当事者の周辺でよく使われる<ref name="r6-153">参考文献 6. 153頁</ref><ref group="注釈">参考文献 3. (1998年)によれば、「あなたの性指向・性自認を自分自身の言葉で表すとしたら?」との質問に対して、「レズビアン」を筆頭に、「ビアン」「ダイク」「既成の言葉では表現できない」などの回答が見られる。</ref>。
これは「レズ」という呼称を嫌った当事者たちが90年代に使い始めた<ref>参考文献 3. 322頁</ref>もので、みずからのアイデンティティを積極的に表す言葉<ref name="r6-153" />であるとされる。
一般には「'''レズ'''」という略称がよく聞かれるが、これはときには侮蔑的な場面で使われる場合もあり<ref name="r6-153" /><ref name="r6-270">参考文献 6. 270頁</ref><ref>参考文献 7. 116頁</ref>、テレビ・映画・週刊誌・スポーツ新聞などでは「[[ホモ]]」が軽蔑的な文脈で使われることもあるが、少ない例ながらレズも笑いをとる材料にされたり<ref>参考文献 8. 29頁</ref>、[[ポルノ映画]]にも用いられてきた言葉であることから<ref>参考文献 9. 10頁</ref>、不快に感じる当事者も多く<ref>参考文献 6. 140頁</ref>、公共的なメディアでは使用を避けたほうが無難であるとされ<ref name="r6-153" /><ref name="r6-270" />、各メディアではこの略称の使用は自粛している。
==歴史==
[[File:Lesbian Pride Flag 2019.svg|thumb|upright=0.8|レズビアン・フラッグ]]
{{Main|{{ill|レズビアンの歴史|en|History of lesbianism}}}}
女性同性愛の最も古い記録は、おおよそ[[紀元前]]625~570年頃、[[古代ギリシア]]の[[レスボス島]]に住んでいた女流詩人[[サッポー]]とされている。レスボス島がレズビアンの、サッポーの名が「サフィズム」という女性同性愛を示す言葉の語源ともなっている。現代の学説では、サッポーが育んだ教え子である少女との友愛関係は、古代ギリシアにおける同性愛と同様のものとの提唱がなされている。また、レズビアンの関係については古代[[スパルタ]]人である[[ラケダイモン]]人の間においても一般的であった。[[プルタルコス]]は「淑女を性の対象とする女性の間においても、愛は尊重された」と記している。
古代[[中華人民共和国|中国]]史においてもレズビアンに関する詩や物語の記録が残されている。[[人類学]]者[[ライザ・ダルビー]]の研究によれば、[[平安時代]]の日本においてもレズビアンが社会的に受け入れられていたとされている。[[中世]]の[[アラブ世界|アラビア]]においては[[ハーレム]]を構成する女性達の間での同性愛関係が記録されているが、ときにこれは[[弾圧]]された。一例を挙げると、当時の指導者ムーサ・アル・ハディは情交していた2人の[[少女]]に対し[[斬首刑]]を[[求刑]]している。
[[12世紀]]、Etienne de Fougèresは、当時の[[ヨーロッパ]]において「まっとうな性」を歩もうとするレズビアン達のいかなる声をも拒絶する社会的な風潮を反映して、社交儀礼に関する自身の著書(''Livre des manières'', [[1170年]]頃)の中で「雄鶏のふりをする雌鳥」と、レズビアンを嘲笑している。
===日本における歴史===
日本におけるレズビアンの歴史は、男性の[[男色]]文化などと比べると未解明な部分が多い。女性同士の性愛が文学の主題となり得なかった理由のひとつとして、近代的な女性作家が成立する近世以前には、創作活動が男性の占有物だったというジェンダーに由来する問題があったことや、女性が結婚以外の性を堂々と謳歌することが[[貞操]]という観念によって封じられたことが考えられる<ref name="Kimura">[[木村朗子]]、三成美保(編)「クィアの日本文学史:女性同性愛の文学を考える」『同性愛をめぐる歴史と法:尊厳としてのセクシュアリティ』 明石書店 2015年、ISBN 9784750342399 pp.195-206.</ref>。
女性作家が活躍する余地のあった[[13世紀]]に、日本で最初の女性同士の性愛を明示的に描いた宮廷文学『我身にたどる姫君』が成立しているが、作品に登場する女性たちには「男に娶られたい」という願望と女性同士の性愛が矛盾無く並立しており、近代的な性指向のカテゴリーから言えばレズビアンと言うよりも[[クィア]]に近い<ref name="Kimura"/>。男性の[[衆道]]と同様に、前近代の女性の性愛は、自らのセクシュアリティを規定する事無く[[ヘテロセクシュアル]]と[[ホモセクシュアル]]の間を自由に行き来していたと考えられる<ref name="Kimura"/>。
[[江戸時代]]には[[女装]]した[[若衆]]を買う女性が少なからずおり、[[葛飾北斎]]、[[鳥橋斎栄里]]、[[鈴木春信]]、[[歌川国麿]]と言った浮世絵師が女性同士の性交の春画を描いた。古[[川柳]]にも女性同士の恋愛を詠んだものがたくさんあった<ref name="geino"/>。また[[女牢]]の中では日常的に同性愛が行われており、料理屋の裏で同性愛にふける女性たちもいた。[[大奥]]・[[遊女]]の間でもあったという。例えば大奥老女[[絵島]]が侍女の紅葉を寵愛したのが有名である<ref name="geino"/>。こうした江戸期のレズビアンは、近代のレズビアン文学に影響を与えたとされる<ref name="taisyou">大正女性文学論 新・フェミニズム批評の会 翰林書房 ISBN 978-4877373085 </ref>。
明治になって[[西欧]]の[[キリスト教]]文化や[[精神医学]]が流入してきたことにより、レズビアンは否定されるが、[[女学校]]、工場、病院、妓樓、監獄など女性のみの集団の中では続いたとされる<ref name="geino">ゲイの民俗学 礫川 全次 [[批評社]] (2006/01)ISBN 978-4826504355</ref>。
明治30年代の[[中村小時]]のように、女性でありながら男装して妾を持ち豪遊した人物もいる<ref>『ゲイの民俗学』磯川全次 批評社(2006/01)ISBN 978-4826504355 </ref>。
20世紀に入ると、日本の[[資本主義]][[社会]]の発展による自由・退廃の文化と女性の権利向上により、文学上の表現などで復活し、[[田村俊子]]・[[吉屋信子]]・[[宮本百合子]]などがレズビアンを思わせる人物が登場する小説を著した。また現実世界でも、[[平塚らいてう]]と尾竹一枝、宮本百合子と[[湯浅芳子]]、吉屋信子と門馬千代といった著名人の女性同士の関係が登場していた。また[[1908年]]から[[1910年]]までの[[情死]]501件中、女性同士は18件(3.6%)あり<ref name="geino"/>、特に[[1911年]]に[[新潟県]]親不知海岸で起きた女学校卒業生同士の心中が[[報道]]された結果、それまで男色を中心とした男性中心の同性愛への注目から女性中心の同性愛へと認識が転換したとされる(詳しくは[[エス (文化)]]を参照のこと)。同時にこの頃から、同性愛を異常視する「[[変態性欲]]」の考え方が一般化し、レズビアニズムの変態カテゴリー化が進行した。これは[[1970年代]]まで続くことになる<ref name="taisyou"/>。
その後[[1971年]]に日本初のレズビアンサークル「若草の会」が登場した。[[アパート]]で月1回の集会があり、1回に2・30人が集まったという。会員は5年間で延べ500人になり会誌も発行された。「若草の会」は15年間続き、分派して他のグループを作ったものもいた。また[[1976年]]発行の「すばらしい女たち」を皮切りに、[[1978年]]には「ザ・ダイク」や「ひかりぐるま」、[[1982年]]には「レズビアン通信」とミニコミ誌が次々と作られる。[[1987年]]には日本初のレズビアン事務所「れ組スタジオ・東京」が開設された。また、公に出版された日本で初めてのレズビアンについてのレポートである『別冊宝島64 女を愛する女たちの物語: 日本で初めて! 234人の証言で綴るレズビアン・リポート』([[宝島社]])が出版された。[[1988年]]に24歳のライター、掛札悠子(かけふだ・ひろこ)が日本で初めてマスコミに女性同性愛者であることをカムアウト。
[[1992年]]には公に出版された日本で初めてのレズビアン・ゲイの情報ガイド『別冊宝島159号 ゲイの贈り物』(宝島社、1993年『別冊宝島EX ゲイのおもちゃ箱』、1994年『別冊宝島EX ゲイの学生天国』)が発売された。同年には[[東京国際レズビアン&ゲイ映画祭]]がスタートし、掛札悠子の『 レズビアン」である、ということ 』([[河出書房新社]])が刊行。1994年には東京レズビアン・ゲイ・パレードが行われた<ref>『レズビアンの歴史』リリアン フェダマン著 富岡明美 原美奈子 訳 筑摩書房 1996年 ISBN 978-4480857330</ref>。
{{seealso|日本におけるLGBTの権利|日本における同性結婚|日本における同性愛|「結婚の自由をすべての人に」訴訟}}
===アメリカにおける歴史===
{{Main|{{ill|アメリカ合衆国におけるレズビアンの歴史|en|History of lesbianism in the United States}}}}
[[ヨーロッパ]]では[[ルネサンス]]期から存在し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[19世紀]]後半に頂点に達した女性同士の「ロマンティックな友情」が存在した。未婚の女性同士の激しい友情をあらわしたが、19世紀中ごろから設立された[[女子大学]]により女性の[[経済]]的自立がなると女性同士の世帯が登場し、男性との結婚によって中断する必要がなくなったのである。[[保守]]的な[[富裕層]]や教育を受けられない[[貧困]]層とは対照的に、職に就くことが少なくなかった[[中産階級]]の女性は女性同士の愛が普通とされる社会で育った。東海岸では「ボストンマリッジ」と呼ばれ、[[ジェーン・アダムス]]、M・キャリー・トーマスと言った有名な女性運動家も女性同士で暮らした。もっとも[[性科学]]が登場したばかりの当時、自らをレズビアンと認識するものはいなかった<ref name="rezu">『レズビアンの歴史』リリアン フェダマン著 富岡明美 原美奈子 訳 筑摩書房 1996年 ISBN 978-4480857330</ref>。
徐々に広まりつつあった性科学は[[第一次世界大戦]]が終わってからアメリカでも常識化し、「ロマンティックな友情」で済まされていた関係をレズビアンとして一般女性から切り離し、フェミニストも含めて「性倒錯」「男の心をもっている」「古い母権制社会への退行者」などと非難し始めた。この新見解は女性たちの間に大混乱をもたらしたが、これを機に自らを[[神]]や[[自然]]によって運命付けられたレズビアンとして認識し、コミュニティーを作り同性愛に対する[[刑罰]]に挑戦する女性も現れた<ref name="rezu"/>。
[[1920年代]]は[[ジークムント・フロイト|フロイト]]理論の広まりによって自由な異性関係と[[バイセクシュアル]]の試みが許された時代だった。小説にもレズビアンが登場し、[[ブロードウェイ]]の芝居でも異性装が大流行した。各地にレズビアンコミュニティが登場し、特に[[ニューヨーク]]の[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]、[[グリニッジ・ヴィレッジ]]が有名だったが、バイセクシュアルがはやっても混ざりけのないレズビアンは異常視された。性革命のもとより開放的になった異性愛が健康に不可欠だともてはやされる一方で、同性愛が貶められたのもこの時代である<ref name="rezu"/>。
[[1930年代]]になると[[大恐慌]]の影響で性の自由は中断される一方で、医学界も前説を流布し続けていた。自立した女性に対する圧力も高まり、[[生活]]が立ち行かなくなって[[ホームレス]]になるレズビアンのカップルもいた。やむなく男性と結婚しバイセクシュアルで妥協するレズビアンもいた。小説にもレズビアンを否定的に描くものが現れ、レズビアン描写に対する検閲も強まり、女子大学でもかつての「ロマンティックな友情」は見られなくなった。レズビアンにとっては孤独な時代だったが、それでもより多くの女性が自分をレズビアンだと認識し、[[サブカルチャー]]を発展させた<ref name="rezu"/>。
[[第二次世界大戦]]中はレズビアンを黙認した軍の女性分隊を始め、工場などさまざまな場所で女性だけの組織が誕生し、レズビアニズムの発展に寄与した。「ロマンティックな友情」の時代とは違って、すべての階層に開かれていた。1950年代に入ると[[戦争]]が終わって除隊させられたレズビアンが港町にコミュニティを作り、女性たちの間に広まった寛容さからサブカルチャーが発展した。さらに大都市へのレズビアンの移住が増加し、レズビアン・バーを増大させた。これは後にレズビアンの組織化につながる<ref name="rezu"/>。
しかし職場に戻り始めた男性を中心に保守的な意見もあり、医学界も同性愛に対する「治療」をビッグビジネスに仕立て上げた。[[マッカーシズム]]による[[迫害]]も始まり、多くの同性愛者が公職を追われ、苦しい二重生活を強いられた。それでもサブカルチャーは激増し、初めてのレズビアン団体が現れたのもこのころであった。ただしレズビアンサブカルチャーは60年代を通して主流文化に屈しており、レズビアン団体の加入者も少なかった<ref name="rezu"/>。キンゼイ・リポートでレズビアンとゲイの比率などが発表されたことは、レズビアンたちを勇気づけた<ref>Bullough, Vern L. (2004). "Sex Will Never be the Same: The Contributions of Alfred C. Kinsey". Archives of Sexual Behavior. 33 (3): 277–286. doi:10.1023/B:ASEB.0000026627.24993.03. {{PMID|15129046}}.</ref>。
しかし[[1960年代]]末期になると60年代の[[フェミニズム]]や[[公民権運動]]を経験した世代がゲイ革命を起こした。[[1969年]]の[[ストーンウォールの反乱]]を契機に、マスコミや医学界、政界にも同性愛に同調する動きが生まれた。解放運動は驚くべき勢いで広まりゲイ男性と共同で反対する政治家と戦った。こうした一連の流れは[[1970年代]]においてレズビアン・フェミニストの登場を促した。レズビアンによる独立した[[平和]]で[[自由]]な[[社会]]を理想とする彼女たちは協同組合や職業訓練所の開設を目指し、独自の新聞や小説、音楽でレズビアンを賛美した。しかしあまりにも理想に走りすぎたため分裂対立を繰り返し、できたばかりの[[コミューン]]も長続きしなかった<ref name="rezu"/>。
[[1980年代]]に至ると性的に消極的だったレズビアンの性に関して大論争が起こる。レズビアンの性的解放を目指しての動きだったが、むしろ時代はゲイ男性の間に[[エイズ]]が蔓延したため性に関しては保守的になった。コミュニティも70年代よりは穏健的かつ統一的なり、各民族ごとの小グループが生まれ多様化した。[[高齢者]]、[[肥満]]者、[[障害者]]のレズビアンの活動も活発化した。この結果、同性愛者の人権法が各地で成立した。また母親になるレズビアンが増え、[[ベビーブーム]]が到来したのもこの時代である<ref name="rezu"/>。
==レズビアンによるフェミニズム(女性の権利拡張運動)==
{{Main|{{ill|レズビアン・フェミニズム|en|Lesbian feminism}}}}
[[19世紀]]後半、多くのレズビアンがその権利(フェミニズム)のために立ち上がった。「ボストンマリッジ(女性同士で築く家庭)」という語がその権利を主張する運動の上で、女性同士の家庭生活を示す言葉として多用された。[[1970年代]]~[[1980年代]]前半の第二次の運動では、[[北アメリカ|北米]]や[[西ヨーロッパ|西欧]]でも新たに多くの賛同を得た。1970年代の終わりごろまでには、学術的な分野の一部ではあるがフェミニズム(ことに女性同性愛者の権利)として認められるようになった。昨今では不満の表現として、この1970年代の同性愛者の権利解放運動が挙げられている。
レズビアンのフェミニズムに関する指導書においては、[[家父長制|男性優位社会]]や[[資本主義]]社会、[[植民地主義]]社会などが、性別の認識と実際の性別が入り混じることに与える影響が考察され{{要出典|date=2019年7月}}、時としてこれらの社会制度がレズビアンの疎外や不満点のもっともたるものであると記述している。
また、[[w:Adrienne Rich|エイドリアン・リッシュ]]は自らの[[エッセイ]]「強制的異性愛とレズビアンのあり方」 (''Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence'') の中で、「“色欲的で金銭的で感情的な”女性との接し方」として[[異性愛]]を揶揄している。
他の主立った[[思想家]]、[[活動家]]としては[[リタ・メイ・ブラウン]](Rita Mae Brown)、Audre Lorde、Marilyn Frye、Mary Daly、Sheila Jeffreysが挙げられる。
==性の認識==
[[File:Lautrec in bed 1893.jpg|thumb|200px|ベッドにて <br />油絵 1893年 [[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック]]]]
女性間の同性愛における性行為は、異性間、男性間のそれと同様に多様である。女性同士の肉体関係にある者の中には、自身をレズビアン、倒錯愛などと認識していない者もいる。他のどのような対人関係、性的関係においても、その前後の流れ次第であることと同様である。
昨今{{いつ|date=2019年7月}}の[[西側諸国]]における社会的、文化的価値観の変容や、新たな学術的見地からも、レズビアンとしての性が[[市民権]]を得るようになってきている。
[[2002年]]に行われた[[米国医療センター]]における保健調査報告が、[[2005年]]に「 性行動と特定保健指標:2002年15歳~44歳の米国人男女, ''Sexual Behavior and Selected Health Measures: Men and Women 15-44 Years of Age, United States, 2002''」と題して発表された。その中で15歳~44歳の女性の4.4%が直近12か月以内に他の女性との性的関係を持った、と記されている。また、同じく15歳~44歳の女性への「これまでに他の女性と何らかの性的な関係を持ったことがあるか」との問いに対し、11%が「ある」と答えている。レズビアンの性について書かれたこの調査内容は、女性の性の上での自立、移り変わる女性間の性、女性の性の悦びの再認識、ネガティブな性の[[固定観念]]の露呈など、様々な物議をかもした。
==各国での法制化==
[[1990年代]]に入るとレズビアンの権利と地位向上を訴えるため、何十ものレズビアン・アベンジャーが組織された。今日では[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[ノルウェー]]、[[スウェーデン]]、[[アイスランド]]、[[カナダ]]、[[南アフリカ共和国]]、[[アメリカ合衆国]]等で[[同性結婚]]が法制化されているが、まだまだ多くの国に受け入れられていないのが現状である。[[2004年]]、[[マサチューセッツ州]]は米国で初めて同性結婚を法制化した。
アイスランドの女性[[政治家]]、[[ヨハンナ・シグルザルドッティル]]は、私生活ではレズビアンで、2009年2月1日[[アイスランドの首相|首相]]に就任し、同性愛者を公言した世界初の国家首脳になった。さらに、2010年6月27日に女性脚本家と結婚し、同性結婚をした世界初の国家首脳となった。
対照的に[[イギリス]]では、かつて一度もレズビアンが違法であったことはなく、逆に男性の同性愛が[[1967年]]になって初めて合法化された。これは[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]が女性間の[[性交]]が可能とは思わず、[[1885年]]発布の刑法から女性の同性愛が漏れたためと言われている{{誰2|date=2008年9月}}。[[1921年]]、レズビアンを違法とするよう{{仮リンク|フレデリック・マキステン|en|Frederick Alexander Macquisten}} (Frederick Macquisten) 下院議員が提議したが、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]にて否決された。その決議の中で、当時の貴族院議長バーケンヘッド卿は、「女性が1000人いたとしても、そのうち999人はそのような悪習(同性愛)に手を染めるとは思えぬ」と断じた。[[1928年]]、レズビアンを題材とした[[小説]]、「[[寂しさの泉]] (The Well of Loneliness)」が、公の場で卑猥な表現を行ったとして発売禁止となり、発売認可のための論議を呼んだ。一方で、節度あるレズビアン小説は[[自由]]に流通していた。
[[ユダヤ教]]の思想では、男性間の同性愛は厳しく非難されるが、女性間のそれには寛大な傾向があった。しかし今日の[[イスラエル]]では例年[[テルアビブ]]でWorld Pride([[プライド・パレード|同性愛者のパレード]])が行われている。
これら西側諸国のような同性愛は、[[イスラム教]]国では差別的な法を排除している[[トルコ]]を除いては滅多に認められない。[[サウジアラビア]]、[[イエメン]]では、[[懲役]]、[[鞭打ち]]、果ては[[死刑]]などの厳しい処罰がなされる。[[イラン]]での同性愛を禁ずる法律は、幾分緩和、廃止されてきたと伝えられるが、依然として男性間の同性愛に関しては禁止されている。(→ [[イスラーム教徒による性的マイノリティー迫害]]も参照)
==家族と育児==
{{Main|{{ill|LGBTと子育て|en|LGBT parenting}}}}
レズビアンのカップルの中には、子供を持つことを望んでいるカップルもいる。
[[オーストラリア]]では、[[最高裁判所|最高裁]]にてレズビアンや独身女性の[[体外受精]]を禁止する法案が否決された。この決定の直後、[[ジョン・ハワード]][[オーストラリアの首相|首相]]は[[カトリック教会]]の姿勢を保持する形で最高裁の決定を事実上却下し、体外受精の利用を防ぐために法改正を行った。これはレズビアンや独身女性の権利を主張する諸団体の激しい反発を招いた。
[[精子提供]]や、[[精子バンク]]の利用、ボランティア精子提供活動([[known sperm donors]])を利用して子供を持つこともできる。
[[単為生殖]]は[[植物]]や、[[ミジンコ]]や[[アリマキ]]などの[[無脊椎動物]]にしばしばみられるが、[[哺乳類]]においては通常はみられない<ref>{{Cite web|和書|title=なぜ卵子と精子が必要か?父母ゲノムの明確な意志 {{!}} 東京農業大学 |url=https://www.nodai.ac.jp/research/teacher-column/journal/ |website=www.nodai.ac.jp |access-date=2022-08-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=哺乳類は少数派 メスだけで命つなぐ単為生殖の不思議|ナショジオ|NIKKEI STYLE |url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO64461000R01C20A0000000?channel=ASH06006 |website=NIKKEI STYLE |access-date=2022-08-10 |language=ja |last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>。しかしながら今日の[[科学技術]]は2匹の雌[[ネズミ]]から仔ネズミを作ることに成功している([[Kaguya]]を参照)。この研究が進めば、2人の[[人間]]の女性を、その間に生まれてくる子供の遺伝学上の両親とすることができる可能性もある。また、男性でも女性でも、どのような個人でも、[[クローン技術]]によって「生殖」することができる可能性が示されている。しかし、人工的に人間のクローンをつくりだすことは医学界では倫理的に大きな問題を抱えている。
==文化==
[[File:Lesbian Couple 2006.jpg|サムネイル|270x270ピクセル|レズビアンのカップル]]
人類の長い[[歴史]]の中では、当然なことながら多数のレズビアンが、[[芸術]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の上で活躍してきた。
[[ヨーロッパ]]での[[性科学]]の影響が出始める[[20世紀]]より前にも男性間の同性愛は禁止されていた。また一方で、Karl Heinrich Ulrichs、[[リヒャルト・フォン・クラフト=エビング]]、[[ハヴロック・エリス]]、Edward Carpenter、[[マグヌス・ヒルシュフェルト]]ら[[性科学者]]の概念によって、女性同性愛は広く知られるようになった。
[[ジークムント・フロイト]]は、著書「性道徳に関する3つの論文, ''Three Essays on the Theory of Sexuality'' ([[1905年]])」の中で、性愛の対象を[[性的倒錯|倒錯]]した(女性が女性として女性を愛する)同性愛者(現在の定義では同性愛は性的倒錯には含まれないが)と共に、男性の特徴を女性が持つことによる(女性が男性として女性を愛する)同性愛について触れている。この「第三の性」については、後にマグヌス・ヒルシュフェルトらによって広められることとなる。フロイトは自らこうした“特殊な”患者を多く診てきたわけではないことを自認していたため、[[医学]]的、[[生物学]]的見地よりも[[心理学]]的な考察に重点を置いた。これらのフロイトの論文が[[英語圏]]に知れ渡ったのは[[1920年代]]になってからである。当時フロイトの見解は[[精神医学]]者らによって否定されていたが、昨今の生物学的研究では、ヒルシュフェルドによる、「第三の性」が同性愛の魅力への解釈との説を裏付ける報告がなされている。
これら性科学と心理学の融合は、多くのレズビアンに関する文化や作品への基調となった。著名な例では、古典的な表現に習うことをやめ、同性愛者の言葉で性を綴った[[1928年]]の[[ラドクリフ・ホール]]の小説「寂しさの泉, ''The Well of Loneliness''」がある。
[[1980年代]]以降、レズビアンは音楽界(Melissa Etheridge、[[k.d.ラング]]、レディ・ガガ、ジャニス・イアン、Indigo Girlsなど)、女優([[ジョディ・フォスター]]、[[ポーシャ・デ・ロッシ]]など)、スポーツ界([[マルチナ・ナブラチロワ]]、[[ビリー・ジーン・キング]])などでカミング・アウトする同性愛者が増えている。著名な女性小説家もレズビアンに関する文章を発表している。また、[[ビビアンの旅立ち]]、''[[GO fish|Go Fish]]''、[[恋するアナベル]]、[[ウォーターメロン・ウーマン]]、''Oranges Are Not The Only Fruit''、''Everything Relative''、[[ホット・チョコレート (映画)|ホット・チョコレート]]などのレズビアンや[[両性愛|バイセクシュアル]]、[[トランスジェンダー]]を扱った[[映画]]作品も増えている。Jane Rule、Vin Packer、Ann Aldrich、Ann Bannonらの小説も増刷されている。小説家カミール・パーリアらもレズビアンに共感している。
===メディアにおける描写===
レズビアンは、フェミニズム、愛情、性生活、結婚、子育てなどに関連して、メディアの関心事となっている。
なお日本では[[2000年代]]に入ってからのいわゆる「[[百合 (ジャンル)|百合]]」ブームによって、レズビアンをモチーフにしたマンガ・アニメ・小説が多数発表されている<ref name="yurifairu">『百合作品ファイル』一迅社 (2008/8/14) ISBN 978-4758070157 -</ref>。
==レズビアンを題材にした芸術作品==
<center><gallery widths="150" heights="150">
ファイル:Gustave Courbet - Le Sommeil (1866), Paris, Petit Palais.jpg|『[[眠り (クールベの絵画)|眠り]]』 [[ギュスターヴ・クールベ]]
ファイル:Sappho and Erinna in a Garden at Mytilene.jpg|『[[ミュティレネ|ミュティレーネー]]の花園の[[サッポー]]と[[エーリンナ]]』[[シメオン・ソロモン]]
ファイル:François Boucher - La Nymphe Callisto, séduite par Jupiter sous les traits de Diane (1759).jpg|『リベカとエゼキエル』[[フランソワ・ブーシェ]]
</gallery></center>
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
{{Refbegin|2}}
<!--脚注節から番号(上から何番目か)で参照しているので、削除・並べ替え時はご注意ください。-->
#{{Cite book|和書|author=飯野由里子|authorlink=飯野由里子|title=レズビアンである<わたしたち>のストーリー|publisher=生活書院|year=2008|isbn=9784903690216|oclc=228116878}}
#{{Cite book|和書|author=矢島正見編著|authorlink=矢島正見|title=女性同性愛者のライフヒストリー|publisher=[[学文社]]|year=1999|isbn=4762008737|oclc=45461679}}
#{{Cite book|和書|editor=性意識調査グループ|title=310人の性意識―異性愛者ではない女たちのアンケート調査|publisher=[[七つ森書館]]|year=1998|isbn= 4822898296|oclc=47599703 }}
#{{Cite book|和書|author=リリアン・フェダマン|authorlink=リリアン・フェダマン|coauthors=[[富岡明美]]|translator=[[原美奈子]]|title=レズビアンの歴史|publisher=[[筑摩書房]]|year=1996|isbn=4480857338|oclc=47335010}}
#{{Cite book|和書|series=[[別冊宝島]] 64|title=女を愛する女たちの物語|publisher=JICC出版局|year=1987|isbn=4796690646|oclc=122815171 }}
#{{Cite book|和書|editor=セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク|title=セクシュアルマイノリティ|edition=第2版|publisher= [[明石書店]]|year=2006|isbn=4750322822|oclc=68046867}}
#{{Cite book|和書|author=伊藤 悟|authorlink=伊藤 悟|coauthors=[[虎井まさ衛]]編著|title=多様な「性」がわかる本 ─性同一性障害・ゲイ・レズビアン|publisher=[[高文研]]|year=2002|isbn=4874982913|oclc=51457986}}
#{{Cite book|和書|author=伊藤 悟|coauthors=大江千束|others=小川葉子・石川大我・簗瀬竜太・大月純子・新井敏之|title=プロブレムQ&A 同性愛って何?|publisher=[[緑風出版]]|year=2003|isbn=4846102203|oclc=122994458}}
#{{Cite book|和書|others=[[動くゲイとレズビアンの会]](アカー)編著|title=医療、相談、福祉の現場の方へ 性的指向と健康問題 同性愛をとりまく問題(思春期・エイズ・偏見等)の理解|year=1998|publisher=性的指向と健康問題|series= |id= |isbn= |oclc= }}
{{Refend}}
<!--{{Cite book|和書|author=|coauthors= |translator= |editor= |others= |title= |edition= |year=|publisher=|series= |id= |isbn= |oclc= }}-->
==関連項目==
{{Portal_LGBT}}
{{div col|colwidth=20em}}
*[[LGBT]]
*[[バイセクシュアル]]
*[[レズビアン用語]]
*[[レズビアン雑誌]]
*[[レズビアン・ゲイ映画]]
*{{仮リンク|レズボフォビア|en|Lesbophobia}}
*[[動くゲイとレズビアンの会]]
*[[ブラック・トライアングル]]
*[[同性結婚]]
*[[百合 (ジャンル)]]
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{{性}}
{{LGBT}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:れすひあん}}
[[Category:レズビアン|*]]
[[Category:同性愛]]
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美少年
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美少年(びしょうねん)は、一般的に未成年で容姿が可憐またはかっこいい少年・男児を指す。成人の場合は美男が一般的に呼称される。
美少年は、漢語あるいは日本語の単語である。広義では美少女も「美少年」であり、広辞苑に美少年は載っているが美少女は載っていなかったが、第六版で美少女の単語が収録された。また、「美人」も男性を指す場合がある。(少女という単語自体は飛鳥時代から存在している。)
もともとは文学上の修辞語で、古くは中国唐代の詩人杜甫の詩「飲中八仙歌」の一節「宗之瀟灑美少年 宗之(そうし)は瀟灑(しょうしゃ)たる美少年」に現れている。 肌のつやつやした様子を強調して「紅顔の美少年」という形容が使われることもある。
現代においては日本以外でも特にアメリカでは「bishonen」という言葉は美形の男性を指す。また、必ずしも年少である必要はなく、美形の男性なら年配でも「bishonen」と呼ばれる。 多くのアメリカの歴史家や社会学者は、この概念は年齢や文脈に関係なく、すべての男性に適用され、これは日本の男性にとって従順な女性的理想の証拠であると考えている。しかし、日本の歴史家の多くはこれに反論し、アメリカの歴史家はこの概念を誤って解釈していると主張している。彼らはまた、人種差別主義者であるか、あるいは異国で誤解された異国の文化を利用して同性愛の支持を合理化しようとしていると非難している。
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"title": "日本の美少年(美青年)"
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美少年(びしょうねん)は、一般的に未成年で容姿が可憐またはかっこいい少年・男児を指す。成人の場合は美男が一般的に呼称される。
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{{Otheruseslist|普通名詞|熊本県の酒造会社およびそのブランド|美少年 (酒造)|上記のブランドを創始し、1950年から2009年まで美少年酒造株式会社だった、現在は廃業している酒造会社|火の国酒造|ジャニーズJr.のユニット|美 少年}}
{{出典の明記|date=2023年3月}}
'''美少年'''(びしょうねん)は、一般的に[[未成年]]で[[容姿]]が[[可憐]]または[[クール|かっこいい]][[少年]]・[[男児]]を指す。[[成人]]の場合は[[美男子|美男]]が一般的に呼称される。
== 語句定義 ==
美少年は、[[漢語]]あるいは[[日本語]]の単語である。広義では[[美少女]]も「美少年」であり、[[広辞苑]]に美少年は載っているが美少女は載っていなかったが<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 3 |publisher=講談社 }}</ref>、第六版で美少女の単語が収録された。また、「[[美人]]」も男性を指す場合がある。([[少女]]という単語自体は[[飛鳥時代]]から存在している。)
もともとは[[文学]]上の修辞語で、古くは[[中国]][[唐]]代の詩人[[杜甫]]の[[詩]]「[[飲中八仙歌]]」の一節「宗之瀟灑美少年 宗之(そうし)は瀟灑(しょうしゃ)たる美少年」に現れている。
肌のつやつやした様子を強調して「紅顔の美少年」という形容が使われることもある。
== 日本の美少年(美青年) ==
=== 中世 ===
* [[平維盛]]
* [[梅若丸]]([[隅田川物]]等)
* [[戦国三大美少年]];[[名古屋山三郎]]、[[不破万作 (小姓)|不破万作]]、[[浅香庄次郎]]
* [[戦国美少年四天王]];名古屋山三郎、不破万作、浅香庄次郎、[[井伊直政]]
* [[上杉景虎]] - 『野史』に「幼にして、姿儀 尤も美なり」と記されている<ref group="注">「三国一の美少年」、「三郎殿(上杉三郎景虎)と一夜契れば」、「坂東に隠なき美男」等と謳う俗謡(杵歌)がある。</ref>。
* [[森成利]](通称:森蘭丸)
* [[天草四郎]]
* [[島津豊久]]
<!-- === 近世 ===
==== 西洋 ====
==== 東洋 ====
内容の記述の無い項目をコメントアウトしました。コメントアウト解除の際は、各項目の内容記述後に行ってください。-->
=== 現代 ===
現代においては日本以外でも特にアメリカでは「bishonen」という言葉は美形の男性を指す。また、必ずしも年少である必要はなく、美形の男性なら年配でも「bishonen」と呼ばれる。 多くのアメリカの歴史家や社会学者は、この概念は年齢や文脈に関係なく、すべての男性に適用され、これは日本の男性にとって従順な女性的理想の証拠であると考えている。しかし、日本の歴史家の多くはこれに反論し、アメリカの歴史家はこの概念を誤って解釈していると主張している。彼らはまた、人種差別主義者であるか、あるいは異国で誤解された異国の文化を利用して同性愛の支持を合理化しようとしていると非難している。
== 美少年を扱った創造作品 ==
*彫刻 『[[ヘルマプロディートス|ヘルマフロディーテ]]』 - [[ルーブル美術館]]に所蔵。美少年(のち両性具有)の神像。
*彫刻 『ダビデ像({{lang-it-short|David di Michelangelo}})』 - [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]が[[1504年]]に公開した彫刻作品。[[フィレンツェ]]の[[アカデミア美術館 (フィレンツェ)|アカデミア美術館]]に収蔵。
*漫画・アニメ 『[[パタリロ!]]』(原作:[[魔夜峰央]]) - ギャグ漫画ではあるが、作中には[[マライヒ]]はじめ多くの美少年(ビョルン・ザカーリなど)・美青年(クリスチャンなど)が登場する。彼らは髪を女のように長く伸ばし(ビョルンは、[[口紅|ルージュ]]など化粧も施している)、[[ホットパンツ]](たまにミニスカート<ref group="注">任務や目的のため「完全な[[女装]]」の場合と、「女ものを着こなす」美少年ファッションの二通りがある。</ref>)や体にフィットした細身のパンツに合わせて、ヒールのあるピカピカの[[ブーツ|ロングブーツ]](女物の[[長靴]]<ref group="注">第10話「マリネラに降る雪」、第35話「雪がやんだら」など、雨や雪の場面で履いている。</ref>やハイヒール、[[ミュール]]も)を履いたりするので<ref group="注">舞台「パタリロ!」でも[[佐奈宏紀]]演じるマライヒが、ヒールのある白のロングブーツを履いていた。</ref>、女性のように見える事が多い。魔夜作品では、『[[ラシャーヌ!]]』や、日本が舞台の『[[翔んで埼玉]]』などにも美少年が多く描かれている。そのものズバリの表題『[[美少年的大狂言]]』という作品もある。
*漫画 『[[美少年倶楽部の秘密]]』(原作:[[かまぼこRED]])<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321901000695/| title=美少年倶楽部の秘密 1 | work=[[KADOKAWA]] | accessdate=2020-7-7}}</ref>
*小説 『[[真夜中の天使]]』(原作:[[栗本薫]]) - 美少年・今西良が、その美貌を武器に、芸能界でトップを目指していく物語<ref group="注">[[江戸川乱歩賞]]を受賞した作家による「[[ボーイズラブ]]小説」として名高い作品だが、実際の性的な描写はワンシーンしかない。</ref>。シリーズは『翼あるもの』、『朝日のあたる家』と続く。栗本には、『[[美少年学入門]]』のような美少年を論じた評論・エッセイ作品([[栗本薫|中島梓]]名義)もある。
*小説 『[[美少年シリーズ|美少年探偵団]]』(原作:[[西尾維新]]) - 『美少年探偵団 きみだけに光かがやく暗黒星』から始まる青春[[推理小説|ミステリー]]のシリーズ。メンバーそれぞれが「美脚」「美声」「美学」「美術」「美食」と、団則の一条「美しくあること」の要素が異なる<ref group="注">[[男装]]し「美少年探偵団」に押し掛けた主人公(語り部)は「美観」。</ref>。『[[ARIA (雑誌)|ARIA]]』2016年6月号より、「美少年探偵団」のタイトルで漫画版が連載されている。作画は[[小田すずか]]。
*映画・小説『[[ベニスに死す]]』(原作:[[トーマス・マン|トマス・マン]]/監督[[ルキノ・ヴィスコンティ]])1971年 - [[ビョルン・アンドレセン]]演じる美少年タジオの、[[セーラー服]]からノースリーブやワンピースの水着にいたるまで、中性的なファッションが印象に残る作品。
*映画『[[薔薇の葬列]]』(脚本・監督 [[松本俊夫]])1969年 - 松本の劇場用長編第1作であり、[[池畑慎之介|ピーター]](池畑慎之介)のデビュー作でもある。(DVD:ユーレカ、2006年)
*[[ピエール・エ・ジル]] 美少年等、[[耽美]]な写真作品を手掛けるフランス人カメラマンカップル。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ショタコン]]
* [[少年愛]]
* [[美形]]
* [[美男子]]
* [[イケメン]]
* [[男色]]
* [[衆道]]
* [[男の娘]]
* [[女装]]
* [[バイセクシャル]]
*[[美少女]]
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[[Category:容姿]]
[[Category:少年愛]]
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容貌
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容貌(ようぼう)は、人の顔立ちのことである。ルックス(looks)と呼ばれることもある。
類義語に容姿(ようし)があるが、こちらは顔立ちと体つきの双方を指して言う言葉である。相貌(そうぼう)は類義を持つほか人の顔立ちに限らず物事の様子を指す場合もある。
また、風貌(ふうぼう)とは顔立ち・体つき・服装・態度などを総合した見た目のことで、顔立ちではなく体つきや服装について主に指す言葉としては姿(すがた)や身なり(みなり)がある。
面容(めんよう)と面貌(めんぼう)は、顔立ちのみならず表情を含めた顔つきを指す。
容貌に差異を与えるもので、遺伝によるものには次のようなものがある。
また、ある程度選択可能なものには次のようなものがある。
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容貌(ようぼう)は、人の顔立ちのことである。ルックス(looks)と呼ばれることもある。
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{{出典の明記|date=2020年9月}}<!--出典皆無のため。-->
'''容貌'''(ようぼう)は、人の顔立ちのことである<ref name="nihonkokugo">{{Cite book|和書|author=北原保雄ほか|year=2016|title=日本国語大辞典|chapter=よう‐ぼう[‥バウ] 【容貌】|editor=久保田淳ほか|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。'''ルックス'''(looks)<ref>{{Cite Kotobank |word=ルックス |encyclopedia=デジタル大辞泉 |accessdate=2022-02-10}}</ref>と呼ばれることもある。
==概要==
[[File:Human_Body.jpg|thumb|[[人間]]の[[体]]([[人体]])]]
類義語に'''容姿'''(ようし)があるが、こちらは顔立ちと体つきの双方を指して言う言葉である。'''相貌'''(そうぼう)は類義を持つほか<ref>[[岩波書店]]『[[広辞苑]](第五版)』1998年。</ref>人の顔立ちに限らず物事の様子を指す場合もある<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E8%B2%8C-553180#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 相貌(ソウボウ)とは] - [[コトバンク]]</ref>。
また、'''風貌'''(ふうぼう)とは顔立ち・体つき・服装・態度などを総合した見た目のことで、顔立ちではなく体つきや服装について主に指す言葉としては'''姿'''(すがた)や'''身なり'''(みなり)がある。
'''[[wikt:面容|面容]]'''(めんよう)と'''[[wikt:面貌|面貌]]'''(めんぼう)は、顔立ちのみならず[[表情]]を含めた[[顔つき]]を指す。
*[[目]]細い
**目が細い、目が小さい
容貌に差異を与えるもので、遺伝によるものには次のようなものがある。
* [[ヒトの肌の色|肌の色]]・肌質
* [[ヒトの髪の色|髪の色]]・髪の太さ
* [[目]]の色・目の形
* [[鼻]]の形・高さ
また、ある程度選択可能なものには次のようなものがある。
* [[表情]]
* [[髪型]]
* [[髪の色]]
* [[鬘|かつら]]
* [[眉毛]]の[[形]]
* 眉毛の[[色]]
* [[化粧]]
* [[日焼け]]
* [[入れ墨|タトゥー]]
* [[眼鏡]]・[[コンタクトレンズ]]
* [[服装]]([[ファッション]])とのコーディネート
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
*[[顔]]
* [[固有顔]]
* [[人体比率]] - 容姿に関して
* [[美容整形]]、[[コンプレックス産業]]
* [[コンプレックス]]、[[劣等感]]
* [[身体醜形障害]]
== 外部リンク ==
*[https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B9%E8%B2%8C-653365#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 容貌(ヨウボウ)とは] - コトバンク
*[http://thesaurus.weblio.jp/content/%E5%AE%B9%E8%B2%8C 容貌の同義語] - 類語辞典(シソーラス)
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17,297 |
少年
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少年(しょうねん)は厚生労働省の提言『健康日本21』の資料では、年の若い、5歳から14歳までの世代を指す。特に女性の場合は少女とも呼ぶ が、「少年法」と称されるように司法では性別を問わない。近年は狭義において小学校高学年・中学生・高校生に相当する年齢の男性を指すこともある。広義においては20歳未満の者という意味で使われ、その場合は乳児や幼児をも含む。なお、漢文などの古典における「少年」は、現代日本語よりやや対象年齢が高い「青年」「若者」のニュアンスに近く、老人に対して30歳前後ぐらいまでの若年層を含む。
各種の法律における「少年」の定義は法律により異なる。
英語では少年はJuvenileとされるが、Wikipediaの言語間リンクでは日本語の狭義の意味であるBoyに設定されている。Juniorは相対的に年少者を示す言葉である。
法律においては、「少年」という用語について様々な用法があり、代表的なものとして児童福祉法第4条第3項の「小学校就学の始期から、満18歳に達するまでの者」や、少年法第2条第1項の「20歳に満たない者」という定義がある。
また、教育や文化の分野では、独立行政法人国立少年自然の家法第3条など、義務教育を受けている児童・生徒を指すこともある。
なお、「少年」という用語は、男子・女子に関係なく用いるが、女子の少年を少女と表すこともある。
条例においては18歳未満という意味で「青少年」という用語も用いられる。また、人口統計学においては15歳未満の者を指し、総務省の人口統計においても15歳未満の人口を「年少人口」と定義している。
さらに、少年法の関係法令においては、少年(20歳に満たない者)について、さらに次の種類を設けている。
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少年(しょうねん)は厚生労働省の提言『健康日本21』の資料では、年の若い、5歳から14歳までの世代を指す。特に女性の場合は少女とも呼ぶ が、「少年法」と称されるように司法では性別を問わない。近年は狭義において小学校高学年・中学生・高校生に相当する年齢の男性を指すこともある。広義においては20歳未満の者という意味で使われ、その場合は乳児や幼児をも含む。なお、漢文などの古典における「少年」は、現代日本語よりやや対象年齢が高い「青年」「若者」のニュアンスに近く、老人に対して30歳前後ぐらいまでの若年層を含む。 各種の法律における「少年」の定義は法律により異なる。 英語では少年はJuvenileとされるが、Wikipediaの言語間リンクでは日本語の狭義の意味であるBoyに設定されている。Juniorは相対的に年少者を示す言葉である。
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{{Otheruses}}
[[ファイル:A young resident of the Biko-en Children's Care House enjoys a hot dog during a community relations event sponsored by Naval Air Facility (NAF) Misawa, Japan, June 28, 2014 140628-N-ZI955-319.jpg|代替文=|サムネイル|少年]]
[[画像:Northern Pakistan (430256327).jpg|thumb|170px|[[パキスタン]]の少年]]
[[画像:0016_Madagascar_(5594778055).jpg|thumb|270px|[[マダガスカル]]の少年]]
'''少年'''(しょうねん)は[[厚生労働省]]の提言『健康日本21』の資料では、年の若い、5歳から14歳までの世代を指す<ref group="注">[[厚生労働省]]の提言『健康日本21』の資料では、[[生産年齢人口]]、[[幼児|幼年期]]0~4歳、少年期5~14歳、[[青年|青年期]]15~29歳、[[壮年|壮年期]]30~44歳、[[中年|中年期]]45~64歳、[[高齢者|高年期]]65歳以上という区分をしている{{Cite web|和書|title=健康日本21|厚生労働省|url=https://www.mhlw.go.jp/www1/topics/kenko21_11/top.html|website=www.mhlw.go.jp|accessdate=2019-06-13}}</ref>。特に[[女性]]の場合は'''[[少女]]'''とも呼ぶ<ref group="注">「男子少年」「女子少年」という呼称も存在する。</ref> が、「[[少年法]]」と称されるように司法では[[性別]]を問わない。近年は狭義において小学校[[高学年]]・[[中学生]]・[[高校生]]に相当する年齢の男性を指すこともある。広義においては20歳未満の者という意味で使われ、その場合は[[乳児]]や[[幼児]]をも含む。なお、[[漢文]]などの古典における「少年」は、現代日本語よりやや対象年齢が高い「[[青年]]」「若者」のニュアンスに近く、老人に対して30歳前後ぐらいまでの若年層を含む。
各種の[[法律]]における「少年」の定義は法律により異なる。
英語では少年はJuvenileとされるが、Wikipediaの言語間リンクでは日本語の狭義の意味であるBoyに設定されている。Juniorは相対的に年少者を示す言葉である。
==法令での定義==
===用法===
{{main|児童福祉法|少年法}}
法律においては、「少年」という[[用語]]について様々な用法があり、代表的なものとして[[児童福祉法]]第4条第3項の「小学校就学の始期から、満18歳に達するまでの者」や、[[少年法]]第2条第1項の「20歳に満たない者」という定義がある。
また、教育や文化の分野では、[[独立行政法人国立少年自然の家法]]第3条など、[[義務教育]]を受けている[[児童]]・[[在籍者 (学習者)|生徒]]を指すこともある。
なお、「少年」という用語は、[[男子]]・[[女子]]に関係なく用いるが、[[女子]]の少年を[[少女]]と表すこともある。
[[条例]]においては18歳未満という意味で「青少年」という用語も用いられる。また、[[人口統計学]]においては15歳未満の者を指し、[[総務省]]の人口統計においても15歳未満の人口を「年少人口」と定義している。
===種類===
{{main|少年法}}
さらに、少年法の関係[[法令]]においては、少年(20歳に満たない者)について、さらに次の種類を設けている。
====非行少年====
{{main|非行少年}}
:非行少年とは、刑罰法令に規定する罪を犯した少年または犯すおそれのある少年のことである。非行少年には、犯罪少年、触法少年、虞犯少年の種類がある。
:[[少年警察活動規則]]第2条第5号で定義されている。
*[[犯罪少年]]
:犯罪少年とは、罪を犯した14歳以上20歳未満の少年のことである。
:少年法第3条第1項第1号、少年警察活動規則第2条第2号で定義されている。
*[[触法少年]]
:触法少年とは、14歳に満たないで、[[刑罰法令]]に触れる行為をした少年のことである。
:[[少年法第3条第1項第2号]]、少年警察活動規則第2条第3号で定義されている。
*[[虞犯少年]]
:虞犯少年とは、18歳に満たないで保護者の正当な監督に服しない性癖がある者、正当の理由がなく家庭に寄りつかない者、犯罪性のある人または不道徳な人と交際する者、いかがわしい場所に出入りする者、自己または他人の徳性を害する行為をする性癖がある者であり、かつ、その性格または環境に照らして、将来、罪を犯し、または刑罰法令に触れる行為をするおそれのある少年のことである。
:少年法第3条第1項第3号、少年警察活動規則第2条第4号で定義されている。
====不良行為少年====
{{main|不良行為少年}}
:不良行為少年とは、非行少年には該当しないが、[[飲酒]]、[[喫煙]]、深夜徘徊その他自己または他人の徳性を害する行為([[不良行為]])をしている少年のことである。
:少年警察活動規則第2条第6号で定義されている。
====被害少年====
:被害少年とは、犯罪その他少年の健全な育成を阻害する行為により被害を受けた少年のことである。
:少年警察活動規則第2条第7号で定義されている。
====要保護少年====
:要保護少年とは、[[児童虐待]]を受けた[[児童]]、[[保護者]]のない少年その他の[[児童福祉法]]による福祉のための措置またはこれに類する保護のための措置が必要と認められ、かつ非行少年(犯罪少年、触法少年、ぐ犯少年)に該当しない少年のことである。
:少年警察活動規則第2条第8号で[[定義]]されている。
==教育==
*[[保育所]]
*[[幼稚園]]
*[[小学校]]
*[[中学校]]
*[[専修学校高等課程]]
*[[高等学校]]
*[[専門学校|専修学校専門課程]]
*[[高等専門学校]]
*[[特別支援学校]]
*[[短期大学]]
*[[大学]]
*[[初等教育]]
*[[中等教育]]
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
==関連項目==
{{Commons|Category:Boys}}
{{Commonscat|Boys_by_country|国別の少年}}
* [[少年犯罪]] - [[少年法]] - [[少年院]]
* [[成年]]<small>(※[[成年#各国・各地域の成人年齢の年齢別一覧|世界における成人年齢一覧]])</small>
* [[青少年保護育成条例]]<small>(対象は18歳未満の未婚者のみ)</small>
* [[胎児]] - [[乳児]] - [[幼児]]
* [[児童]] - [[生徒]] - [[学生]]
* [[青年]] - [[青少年]]
* [[思春期]]
* [[少年漫画]]
* [[美少年]]
* [[少年愛]]
* [[ショタコン]]
* [[少年兵]](少女の場合は少女兵と書き分けることがあるが、英語では一律 Child soldier である)
{{Authority control}}
{{デフォルトソート:しようねん}}
[[Category:少年|*]]
[[Category:男性を指す用語]]
[[ar:ولد]]
|
2003-09-18T17:38:09Z
|
2023-12-15T20:06:15Z
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"Template:Otheruses",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist2",
"Template:Cite web",
"Template:Commons",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4
|
17,298 |
男女
|
男女(だんじょ)・女男(めお、めおとこ)
|
[
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] |
男女(だんじょ)・女男(めお、めおとこ) 男性と女性 → 性別やカップルを参照。
太郎の2006年のデビューシングル → 男女 (曲)を参照。
男女群島 → 長崎県五島市・五島列島の南西に位置する島嶼群。
男女7人夏物語 → 1986年(昭和61年)にTBS系列で放送されたテレビドラマ。
男女7人秋物語 → 1987年(昭和62年)にTBS系列で放送されたテレビドラマ。上記の続編。
男女(おとこおんな)、女男(おんなおとこ) - (俗語)男っぽい女性や、女っぽい男性のこと。 関連項目:女装、おかま、男装、おなべ
|
'''男女'''(だんじょ)・'''女男'''(めお、めおとこ)
[[ファイル:Couple_.jpg|thumb|200px|[[男]]と[[女]]イメージ画像]]
* [[男性]]と[[女性]] → [[性別]]や[[カップル]]を参照。
* [[太郎 (歌手)|太郎]]の2006年の[[デビュー]][[シングル]] → [[男女 (曲)]]を[[参照 (書誌学)|参照]]。
* [[男女群島]] → [[長崎県]][[五島市]]・[[五島列島]]の南西に位置する[[島|島嶼群]]。
* [[男女7人夏物語]] → [[1986年]]([[昭和]]61年)に[[TBSテレビ|TBS]]系列で放送された[[テレビドラマ]]。
* [[男女7人秋物語]] → [[1987年]](昭和62年)にTBS系列で放送されたテレビドラマ。上記の続編。
*男女(おとこおんな)、女男(おんなおとこ) - ([[俗語]])男っぽい女性や、女っぽい男性のこと。<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%94%B7%E5%A5%B3_%28%E3%81%8A%E3%81%A8%E3%81%93%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%AA%29/ goo辞書「男女(おとこおんな)」]([[goo辞書]])</ref> <ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A5%B3%E7%94%B7-643433 コトバンク「女男」]([[コトバンク]])</ref>
** 関連項目:[[女装]]、[[おかま]]、[[男装]]、[[おなべ]]
== 関連項目 ==
* [[夫婦]]
* [[性別二元制]]
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* {{prefix|女男}}
== 脚注 ==
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未成年者
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未成年者(みせいねんしゃ、英: minor)とは、まだ成年に達しない者のこと。
成人年齢は各国により異なり、児童の権利条約のほか、親の保護監督義務の期間、若年層の雇用機会、選挙権年齢、徴兵年齢などを考慮して引き上げられたり引き下げられたりすることがある。成人年齢のデータがある187の国・地域のうち、141の国・地域で成人年齢は16歳・17歳・18歳のいずれかである。
※ 世界各国の成年になる年齢については「成年」を参照。
フランスにおいては、成年の年齢は1792年から21歳以上とされていたが、1974年7月5日に変更され18歳以上とされた。よって同年以降、18歳未満が「mineur 未成年」に分類されている。
フランス刑法(フランス語版)の122-8によって、判断能力のある未成年者は、犯罪行為を犯せば刑事責任を問われると定められており、未成年者を対象とした特定の法にもとづいて、保護・支援・監視・教育措置がとられる。したがって、規定上、フランスにおいては刑事責任の下限年齢は無い。未成年者の年齢は重要ではなく、何歳であれ、未成年者に判断能力があれば、刑事責任はある、と判断される。
10歳未満の未成年者のみ、児童を扱う裁判所で児童を扱う裁判官が、教育的措置をとる。10歳以上は教育的制裁を受け、この制裁は犯罪歴として記録される。13歳以上の未成年者は刑事訴追の対象となり、刑事罰を受け、拘留される可能性がある。未成年者に対する緩和措置がとられる場合は、刑事罰は半分(1/2)になる。16歳以上18歳未満という年齢では、犯罪を繰り返す者は、未成年者に対する緩和措置から自動的に除外される。裁判官は、未成年者が起こした事件の状況やその未成年者の性格から判断して、未成年者に対する緩和措置を用いないと決めることもできる。
スイスでは成年は、1912年以降 20歳とされていたが、1996年1月に Code civil suisse スイス民法典によって 18歳以上と定められた。よってその時から18歳未満が未成年と分類されている。
10歳以上が刑事責任の対象となる。制裁は「保護措置」と「罰」の2つに大別される。
イギリスでは13世紀に騎馬兵隊が一般的になり、防具の重装備を身に着けたまま乗馬した状態で戦うことができる年齢を考慮して21歳が成人年齢となったといわれている。
しかし、1960年代の成年年齢に関する審議会(The Latey Committee on the Age of Majority)で、若年層の成熟化が進んでおり成年年齢は歴史的起源とは関係がないとされ、コミュニティにも若年層が積極的に参加する方が利益につながるとして21歳から18歳への引き下げが勧告された。これによって成年年齢は21歳から18歳に引き下げられた。
イギリスでは、10歳から刑務所に入れられる可能性がある。ただし14歳までは、原則的に教育的手法がとられる。18歳からは成人として刑事責任が問われる。
アメリカ合衆国では州ごとに成人年齢が異なっている。
多くの州では1970年代に成人年齢が21歳から18歳に引き下げられた。その背景にはベトナム戦争の際に徴兵年齢が18歳であるのに対し、選挙権年齢が21歳であるのは不公正で徴兵年齢に達した者は軍隊の在り方を含めて政治的な意見を表明する機会が与えられるべきだ(old enough to fight, old enough to vote)との世論があったためである。そのため連邦政府は合衆国憲法を改正して選挙権年齢を引き下げ、多くの州では成人年齢も引き下げられた。
同時にいくつかの州では飲酒や酒類購入年齢も21歳から18歳に引き下げられた。しかし、その影響で若年者の飲酒による死亡件数が増加したため、1984年に各州に対して飲酒や酒類購入年齢を21歳以上とするよう求める連邦法(全米最低飲酒年齢法)が成立した。
オーストラリアでは州ごとに成人年齢が異なっている。
多くの州で1970年から1974年にかけて成人年齢が21歳から18歳に引き下げられた。その背景にはベトナム戦争の際に多くの若者が戦場で命を落としたため、若年層で政治に自分たちの声を反映させたいとの機運が高まり、連邦及び各州にLaw Reform Commissionが設置されて成人年齢について議論し報告書が提出されたことによる。選挙権年齢についても1973年に21歳から18歳に引き下げられた。
民法は、この節で条数のみ記載する。
日本では、満18歳以上で成年となるため、基本的に民法上の未成年者は満18歳未満(満17歳以下)の者となる(4条)。年齢の計算については年齢計算ニ関スル法律(明治35年12月2日法律第50号)による。よって、生年月日と、成年となる日付、および成年となる年齢の組み合わせは次表のとおりとなる。
未成年者は法定代理人(親権者あるいは未成年後見人)の親権に服する。また未成年者であることが欠格事由となることがある。例えば未成年者は遺言の証人又は立会人となることができない(975条)。各種の国家資格においても、未成年者であることが欠格事由として定められている(医師・歯科医師、薬剤師、司法書士、行政書士、社会保険労務士等)。
選挙権年齢は1945年(昭和20年)から20歳以上とされていたが、2015年(平成27年)6月に改正公職選挙法が成立し、2016年(平成28年)6月から18歳以上に引き下げられた(18歳選挙権)。また、18歳に憲法改正の国民投票権が付与される。日本国憲法施行以降、未だに実施された事はないが、法令上は2018年6月20日まで、経過措置として20歳以上の者に国民投票権があった。裁判員制度は、満18歳以上が対象。
なお、皇室典範第22条で天皇、皇太子及び皇太孫の成年は18歳と規定している。
2022年(令和4年)4月1日に年齢要件が満20歳以上から満18歳以上に引き下げられた主な事項は、民法関連(契約、親権、婚姻)のほか、次のとおりである。
2022年(令和4年)4月1日以降も、満20歳以上を要件とする主なものは次のとおりである。
なお、養育費支払義務は、成年までの支払を要件とした場合、義務の成立日によって実際の終期が異なると解される。また、所得税の扶養控除における控除対象扶養親族、特定扶養親族の定義、母子父子寡婦福祉資金貸付金制度の対象などについても令和4年改正民法による変更はない。
少年法の適用については、適用年齢範囲(20歳未満)に関しては、令和4年改正民法による変更はない。ただし、18歳および19歳の者は「特定少年」とされ、虞犯少年適用対象外となる。特定少年においても、保護処分(少年保護観察処分、児童自立支援施設等送致、少年院送致)は引き続き対象となる。ただし、18歳未満の少年とは処遇および基準が異なり、少年の要保護性ではなく、犯情の軽重を主眼として処分が決定される。特定少年である時に犯した、死刑又は無期若しくは短期一年以上の懲役若しくは禁錮に当たる罪の事件においては、原則として検察官逆送致となる。逆送致となった場合、原則として20歳以上の者と同様に扱われ、未決勾留などの緩和措置、少年法の不定期刑適用、労役場留置の禁止、仮釈放適用期間の短縮なども適用除外となる。検察官逆送され、公判廷で起訴された少年は実名報道の対象となる。特定少年のとき犯した罪により刑に処せられた者は、人の資格に関する法令の適用について、20歳以上の者と同様に、制限の対象となる。
各法令における年齢の計算については、民法の場合と同様に、年齢計算ニ関スル法律(明治35年12月2日法律第50号)による。具体的に要件を満たす事となる日または時刻は、原則として、年齢計算ニ関スル法律に基づく。
第58条(未成年者の労働契約)
第59条
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未成年者とは、まだ成年に達しない者のこと。
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{{Redirectlist|未成年|その他の用法|未成年 (曖昧さ回避)}}
'''未成年者'''(みせいねんしゃ、{{Lang-en-short|minor}})とは、まだ[[成年]]に達しない者のこと。
== 概説 ==
[[成人]]年齢は各国により異なり、[[児童の権利に関する条約|児童の権利条約]]のほか、親の保護監督義務の期間、若年層の[[雇用]]機会、[[選挙権]]年齢、[[徴兵]]年齢などを考慮して引き上げられたり引き下げられたりすることがある<ref name="moj000012471">{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/content/000012471.pdf |title=諸外国における成年年齢等の調査結果(PDFファイル:169KB) |publisher=[[法務省]] |accessdate=2020-10-24}}</ref>。成人年齢のデータがある187の国・地域のうち、141の国・地域で成人年齢は16歳・17歳・18歳のいずれかである<ref>[http://www.unhchr.ch/tbs/doc.nsf/ 国連人権高等弁務官事務所サイト] {{リンク切れ|date= 2020年10月}} - (同サイト掲載の成人年齢、国により調査年が異なる。)及び在日各国大使館への聞き取り調査等</ref>。
※ 世界各国の成年になる年齢については「[[成年]]」を参照。
== フランスにおける未成年者 ==
[[フランス]]においては、成年の年齢は[[1792年]]から21歳以上とされていたが、[[1974年]]7月5日に変更され18歳以上とされた。よって同年以降、18歳未満が「mineur 未成年」に分類されている。
{{仮リンク|フランス刑法|fr|Code pénal (France)}}の122-8によって、判断能力のある未成年者は、犯罪行為を犯せば[[刑事責任]]を問われると定められており、未成年者を対象とした特定の法にもとづいて、保護・支援・監視・教育措置がとられる。したがって、規定上、フランスにおいては刑事責任の下限年齢は無い。未成年者の年齢は重要ではなく、何歳であれ、未成年者に判断能力があれば、刑事責任はある、と判断される。
10歳未満の未成年者のみ、児童を扱う裁判所で児童を扱う裁判官が、教育的措置をとる。10歳以上は教育的制裁を受け、この制裁は犯罪歴として記録される。13歳以上の未成年者は[[刑事訴追]]の対象となり、[[刑事罰]]を受け、[[拘留]]される可能性がある。未成年者に対する緩和措置がとられる場合は、刑事罰は半分(1/2)になる。16歳以上18歳未満という年齢では、犯罪を繰り返す者は、未成年者に対する緩和措置から自動的に除外される。裁判官は、未成年者が起こした事件の状況やその未成年者の性格から判断して、未成年者に対する緩和措置を用いないと決めることもできる<ref>[http://www.legifrance.gouv.fr/affichTexteArticle.do?idArticle=LEGIARTI000006495329&cidTexte=LEGITEXT000006069158 article 20-2 de l'Ordonnance n° 45-174 du 2 février 1945 relative à l'enfance délinquante] {{fr icon}}</ref>。
== スイスにおける未成年者 ==
[[スイス]]では成年は、1912年以降 20歳とされていたが、1996年1月に Code civil suisse [[スイス民法典]]によって 18歳以上と定められた。よってその時から18歳未満が未成年と分類されている。
10歳以上が刑事責任の対象となる。制裁は「保護措置」と「罰」の2つに大別される。
* 保護措置
** 観察措置
** 個人的援助
** 外来治療
** 教育的あるいは治療的な施設(または個人)へあずけ入れる措置
* 罰
** 叱責
** 個別の労働。原則として最大10日間ではあるが、15歳以上の未成年者が犯罪や軽犯罪を犯した場合は最大3か月の労働。
** 15年歳以上の未成年者には最大2000[[スイスフラン]]の[[罰金]]。
** 自由の剥奪。15歳以上で犯罪や軽犯罪を犯した未成年者は最大1年。16歳以上で重大犯罪を犯した未成年者は最大4年の剥奪。
== イギリスにおける未成年者 ==
[[イギリス]]では[[13世紀]]に騎馬兵隊が一般的になり、防具の重装備を身に着けたまま乗馬した状態で戦うことができる年齢を考慮して21歳が成人年齢となったといわれている<ref name="moj000012471" />。
しかし、[[1960年代]]の成年年齢に関する審議会(The Latey Committee on the Age of Majority)で、若年層の成熟化が進んでおり成年年齢は歴史的起源とは関係がないとされ、コミュニティにも若年層が積極的に参加する方が利益につながるとして21歳から18歳への引き下げが勧告された<ref name="moj000012471" />。これによって成年年齢は21歳から18歳に引き下げられた<ref name="moj000012471" />。
イギリスでは、10歳から[[刑務所]]に入れられる可能性がある。ただし14歳までは、原則的に教育的手法がとられる。18歳からは成人として刑事責任が問われる。
== アメリカ合衆国における未成年者 ==
[[アメリカ合衆国]]では州ごとに成人年齢が異なっている<ref name="moj000012471" />。
多くの州では[[1970年代]]に成人年齢が21歳から18歳に引き下げられた<ref name="moj000012471" />。その背景には[[ベトナム戦争]]の際に徴兵年齢が18歳であるのに対し、選挙権年齢が21歳であるのは不公正で徴兵年齢に達した者は軍隊の在り方を含めて政治的な意見を表明する機会が与えられるべきだ(old enough to fight, old enough to vote)との世論があったためである<ref name="moj000012471" />。そのため連邦政府は合衆国憲法を改正して選挙権年齢を引き下げ、多くの州では成人年齢も引き下げられた<ref name="moj000012471" />。
同時にいくつかの州では飲酒や酒類購入年齢も21歳から18歳に引き下げられた<ref name="moj000012471" />。しかし、その影響で若年者の飲酒による死亡件数が増加したため、1984年に各州に対して飲酒や酒類購入年齢を21歳以上とするよう求める連邦法(全米最低飲酒年齢法)が成立した<ref name="moj000012471" />。
== オーストラリアにおける未成年者 ==
[[オーストラリア]]では州ごとに成人年齢が異なっている<ref name="moj000012471" />。
多くの州で1970年から1974年にかけて成人年齢が21歳から18歳に引き下げられた<ref name="moj000012471" />。その背景には[[ベトナム戦争]]の際に多くの若者が戦場で命を落としたため、若年層で政治に自分たちの声を反映させたいとの機運が高まり、連邦及び各州にLaw Reform Commissionが設置されて成人年齢について議論し報告書が提出されたことによる<ref name="moj000012471" />。選挙権年齢についても1973年に21歳から18歳に引き下げられた<ref name="moj000012471" />。
== 日本における未成年者 ==
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=== 概要 ===
[[民法 (日本)|民法]]は、この節で条数のみ記載する。
[[日本]]では、満18歳以上で[[成年]]となるため、基本的に民法上の未成年者は'''満18歳未満(満17歳以下)'''の者となる(4条)。年齢の計算については[[年齢計算ニ関スル法律]](明治35年12月2日法律第50号)による。よって、[[生年月日]]と、成年となる日付、および成年となる年齢の組み合わせは次表のとおりとなる<ref>{{Cite web|和書|title=18歳から“大人”に!成年年齢引下げで変わること、変わらないこと。 {{!}} 暮らしに役立つ情報 |url=https://www.gov-online.go.jp/useful/article/201808/2.html |website=政府広報オンライン |accessdate=2022-01-21 |language=ja}}</ref>。
{| class="wikitable"
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生年月日と、成年となる日付、および
成年となる年齢の組み合わせ<ref group="注" name=":0">年齢は全て[[満年齢]]とする。</ref>
!生年月日
!成年となる日付
!成年となる年齢
|-
|2002年(平成14年)4月1日とそれ以前
|20歳となる日
|20歳
|-
|2002年(平成14年)4月2日から
2003年(平成15年)4月1日まで
|2022年4月1日
|19歳
|-
|2003年(平成15年)4月2日から
2004年(平成16年)4月1日まで
|2022年4月1日
|18歳
|-
|2004年(平成16年)4月2日以降
|18歳となる日
|18歳
|}
'''未成年者'''は[[法定代理人]]([[親権者]]あるいは[[未成年後見人]])の[[親権]]に服する。また未成年者であることが[[欠格]]事由となることがある。例えば未成年者は[[遺言]]の証人又は立会人となることができない([[b:民法第975条|975条]])。各種の国家資格においても、未成年者であることが欠格事由として定められている([[医師]]・[[歯科医師]]、[[薬剤師]]、[[司法書士]]、[[行政書士]]、[[社会保険労務士]]等)。
[[選挙権]][[年齢]]は[[1945年]](昭和20年)から20歳以上とされていたが、2015年(平成27年)6月に改正[[公職選挙法]]が成立し、2016年(平成28年)6月から18歳以上に引き下げられた([[18歳選挙権]])<ref name="47news20150617">{{cite news
|title = 選挙権年齢「18歳以上」に 改正公選法が成立
|newspaper = 47NEWS
|date = 2015/06/17
|url = https://web.archive.org/web/20150617032536/http://www.47news.jp/CN/201506/CN2015061701001110.html
|accessdate = 2020-10-24
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20150617032536/http://www.47news.jp/CN/201506/CN2015061701001110.html
|archivedate = 2015年6月17日
|deadlinkdate = 2017年10月
}}</ref>。また、18歳に[[日本国憲法の改正手続に関する法律|憲法改正]]の[[国民投票]]権が付与される。[[日本国憲法]]施行以降、未だに実施された事はないが、法令上は2018年6月20日まで、経過措置として20歳以上の者に国民投票権があった。[[裁判員制度]]は、満18歳以上が対象<ref group="注">2023年1月1日より18歳以上となった。なお、2022年12月31日までは、20歳以上であった。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=裁判員の選任資格に関する法改正について {{!}} 裁判員制度 |url=https://www.saibanin.courts.go.jp/topics/detail/age_down.html |website=www.saibanin.courts.go.jp |accessdate=2022-01-21}}</ref>。
なお、[[皇室典範]]第22条で[[天皇]]、[[皇太子]]及び[[皇太孫]]の成年は18歳と規定している。
{{Main|年齢}}
[[2022年]](令和4年)[[4月1日]]に年齢要件が満[[年齢#20歳|20歳]]以上から[[満]]18歳以上に引き下げられた主な事項は、[[民法]][[関連]]([[契約]]、[[親権]]、[[婚姻]])のほか、次のとおりである<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=法務省:民法の一部を改正する法律(成年年齢関係)について |url=https://www.moj.go.jp/MINJI/minji07_00218.html |website=www.moj.go.jp |accessdate=2022-01-21}}</ref><ref>民法の一部を改正する法律(平成30年6月20日法律第59号)</ref>。
* [[戸籍]]の分籍、[[嫡出|非嫡出子]]の[[認知 (親子関係)|認知]]、[[民事訴訟法|民事]][[訴訟行為]]
* [[遺産]]分割協議書の締結、[[相続]]時精算課税制度、[[事業承継]]税制、[[贈与税]]特例税率、[[結婚]]・[[子育て]]資金一括贈与特例制度、[[相続税#相続税の計算|未成年者控除]]
* 単独での[[帰化]]([[日本国籍]]取得)
* 10年間有効な[[パスポート]]([[日本国旅券]])の取得
* [[水先人]]、[[社会福祉主事]]、[[海技士]]免許等の講習等の一部、[[公認会計士]]、[[司法書士]]、[[行政書士]]、[[税理士]]、[[土地家屋調査士]]、[[社会保険労務士]]ほか<!-- 詳細条件や注記は[[年齢]]の項目でよい -->
* [[性同一性障害]]者の性別変更の[[家庭裁判所]]審判
* [[出会い系サイト]]の運営
2022年(令和4年)4月1日以降も、満20歳以上を要件とする主なものは次のとおりである<ref group=" 注" name=":0">年齢は全て[[満年齢]]とする。</ref>。
* [[酒|飲酒]]、[[喫煙]]
* [[公営競技]]の馬券、車券、舟券の購入
* [[国民年金]]被保険者資格
* [[養子縁組]]
* [[中型自動車]]の[[日本の運転免許|運転免許]]取得<ref group="注">特例の要件により2022年3月31日時点においても満20歳未満の者が取得できると規定されている運転免許を除く。なお、'''政府サイトを含む'''一部サイトで[[大型自動車]]が20歳以上とされているが、原則21歳以上の誤記である。</ref>
* [[船舶]]の船長または機関長
* [[猟銃]][[所持]](特例を除く)
* [[カジノ]][[施設]]への入場
* [[カードローン|銀行カードローン]]や[[消費者金融]]の[[サラ金カード|キャッシングカード]]の契約、キャッシング・カードローン機能が付帯されたクレジットカードの発行 これらは若者の多重債務を防止する観点から、従前通り各社で20歳以上65歳未満で継続安定収入があるかたに据え置かれている
* [[宝くじ]]公式サイトや一部銀行の[[インターネットバンキング]]で実施している、各種宝くじのインターネット販売・購入、高額当選金の受け取り、一部の銀行で実施されている[[現金自動預け払い機|ATM]]での数字選択式宝くじの販売・購入
{{Main|年齢}}
なお、養育費支払義務は、成年までの支払を要件とした場合、義務の成立日によって実際の終期が異なると解される。また、[[所得税]]の[[扶養控除]]における控除対象扶養親族、特定扶養親族の定義、母子父子寡婦福祉資金貸付金制度の対象などについても令和4年改正民法による変更はない。
[[少年法]]の適用については、適用年齢範囲(20歳未満)に関しては、令和4年改正民法による変更はない。ただし、18歳および19歳の者は「[[特定少年]]」とされ、[[虞犯少年]]適用対象外となる。特定少年においても、[[少年保護手続|保護処分]](少年[[保護観察]]処分、[[児童自立支援施設]]等送致、[[少年院]]送致)は引き続き対象となる。ただし、18歳未満の少年とは処遇および基準が異なり、少年の要保護性ではなく、犯情の軽重を主眼として処分が決定される。特定少年である時に犯した、死刑又は無期若しくは短期一年以上の懲役若しくは禁錮に当たる罪の事件においては、原則として[[検察官]][[逆送致]]となる。逆送致となった場合、原則として20歳以上の者と同様に扱われ、未決[[勾留]]などの緩和措置、少年法の[[不定期刑]]適用、[[労役場留置]]の禁止、仮釈放適用期間の短縮なども適用除外となる。検察官逆送され、公判廷で起訴された少年は'''[[実名報道]]の対象となる'''。特定少年のとき犯した罪により刑に処せられた者は、人の資格に関する法令の適用について、20歳以上の者と同様に、制限の対象となる。
=== 各論 ===
==== 財産行為 ====
* 一般原則
: 未成年者は[[制限行為能力者]]である([[b:民法第20条|20条]]1項)。したがって、未成年者が[[法律行為]]を行うには[[法定代理人]]の同意が必要である([[b:民法第5条|5条]]1項本文)。法定代理人の同意を得ずに行った法律行為は[[取消]]すことができる([[b:民法第5条|5条2項]])。取消権者は未成年者本人やその代理人(未成年者の場合には親権者や未成年後見人等)など[[b:民法第120条|120条1項]]に定められる者である。制限行為能力者の取消においては制限行為能力者本人も取消権者とされているので(120条1項)、未成年者本人が単独で取消す場合にも取消は完全に効力を生じるのであって、取り消すことのできる取消となるわけではない<ref>[[我妻栄]]著『新訂 民法総則』394頁、[[岩波書店]]、1965年(昭和40年)</ref>。ただし、単に権利を得、または義務を免れる法律行為については法定代理人の同意は不要とされており、取消権者であっても制限行為能力者であることを理由として取消すことはできない([[b:民法第5条|5条]]1項ただし書)。単に権利を得、または義務を免れる法律行為とは、未成年者が債権者から[[債務]]の[[免除]]を受ける場合などである。なお、未成年者による貸金の領収は未成年者の債権が失われるので法定代理人の同意が必要となる<ref>我妻栄著『新訂 民法総則』69頁、岩波書店、1965年(昭和40年)</ref>。取消権者により取り消された行為は初めから無効であったものとみなされるが([[b:民法第121条|121条]]本文)、未成年者は制限行為能力者であるから、その行為によって現に利益を受けている限度において返還義務を負うことになる([[b:民法第121条|121条]]ただし書)。取消権の詳細については[[取消し#日本法における取消し]]参照。
: なお、未成年(成年[[擬制]]を除く)である時にした契約は、成年となった後、あるいは成年擬制を受けた後も引き続き取消権者の取消権が及ぶ。
* 随意財産の処分
: 民法第5条1項の規定にかかわらず、未成年者は、その法定代理人が目的を定めて処分を許した財産についてはその目的の範囲内において、目的を定めないで処分を許した財産については任意に処分できる([[b:民法第5条|5条]]3項)。取引の相手方は法定代理人と未成年者の間の約定を覚知できないが、法定代理人と未成年者により、当該許された財産の処分範囲が立証されれば、取引の相手方は事実上反駁不能であり保護されない。お小遣いが毎月500円の子が為した通信販売契約を遡及して[[無効]]とした事例がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://jca-home.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/10/jirei026.pdf|title=「相談事例(26)未成年者の契約取消しと配送料」(PDFファイル:194KB)|accessdate=2020-10-24|publisher=(社)日本消費者協会}}</ref>。
* 未成年者の営業の許可
: 未成年者の法定代理人は未成年者に対して[[児童労働|一種あるいは数種の営業]]を許可することができ、この場合、許可された未成年者はその営業に関しては成年者と同一の[[行為能力]]を有する([[b:民法第6条|6条]]第1項)。したがって、未成年者が許可された営業について行った法律行為は制限行為能力者であることを理由としては取り消すことができなくなる。
: 法定代理人は未成年者がその営業に堪えることができない事由があるときは営業の許可を取消・制限することができる(6条第2項)。この取消し・制限は将来に向かって許可の全部あるいは一部の効力を失わせる[[撤回]]であるから、その営業が許可されていた間に未成年者がなした営業行為を取り消すことはできない<ref>我妻栄著『新訂 民法総則』71頁、岩波書店、1965年(昭和40年)</ref>。
: 未成年者の営業の許可及びその取消し・制限につき、営業の内容が商業であるときは[[商法]]上・[[会社法]]上・[[商業登記法]]上の[[登記]]を要する([[b:商法第5条|商法第5条]]など)この登記は、[[児童相談所]]ではなく[[法務局]]が受け付ける。営業の内容が商業でない場合には、許可や取消し・制限の公示の方法がないので[[善意]]の[[第三者]]にも対抗しうるものと解されている<ref>我妻栄著『新訂 民法総則』70頁・71頁、岩波書店、1965年(昭和40年)</ref>。
==== 身分行為 ====
* 婚姻
: 婚姻適齢については18歳以上でなければならない。これに反する婚姻届は受理されず、誤って受理された場合でも各当事者、その親族又は[[検察官]]からその取消しを[[家庭裁判所]]に請求することができる([[b:民法第744条|744条]]1項本文)。ただし、検察官は、当事者の一方が[[死亡]]した後は、婚姻の取消しを請求することができない([[b:民法第744条|744条]]1項ただし書)。婚姻適齢に達していない者の婚姻は不適法な婚姻として民法744条によって取り消されるまでは一応有効なのであって、当然[[無効]]となるわけではないので不適齢者が婚姻適齢に達したときには取消しを請求することができなくなる([[b:民法第745条|745条]]1項)。ただ、婚姻した不適齢者は、適齢に達した後、なお3ヶ月間はその婚姻の取消しを請求できるが([[b:民法第745条|745条]]2項本文)、適齢に達した後に追認したときは、もはや不適齢を理由として取り消すことはできない([[b:民法第745条|745条]]2項ただし書)。
: なお、2022年(令和4年)3月31日以前は、男性は18歳以上、女性は16歳以上で婚姻適齢となり、未成年者でも[[結婚|婚姻]]は可能であったが、未成年者の婚姻には婚姻の一般的要件([[重婚]]の禁止など)のほかに、婚姻適齢に達していること([[b:民法第731条|731条]])及び父母の同意([[b:民法第737条|737条]])が必要だった。父母の一方が同意しないとき、父母の一方が知れないとき、父母の一方が意思を表示することができないときは他の一方の同意だけで足りる([[b:民法第737条|737条]]ただし書)。ただ、民法737条については実親と養親がいる場合はどうなるのか、[[離婚]]や親権喪失の宣告などによって父母の一方あるいは両方が親権を喪失している場合はどうなるのかといった問題点をめぐり学説が複雑に対立し、父母ではなく[[親権者]]あるいは[[未成年後見人|未成年の後見人]]の同意または家庭裁判所の[[許可]]とすべきといった議論もなされた<ref>我妻栄・有泉亨・遠藤浩・川井健著『民法3親族法・相続法第二版』65 - 66頁、[[勁草書房]]、2005年(平成17年)</ref>。民法737条に反する婚姻届は受理されないが、誤って受理された場合にはもはや取り消すことはできない(民法744条が不適法な婚姻の取消原因として民法737条(父母の同意)を加えていないことに注意)。
: なお、'''生年月日が2006年(平成18年)4月1日とそれ以前の女性は'''、民法の改正施行より前に婚姻適齢に達するため<ref group="注">[[年齢計算ニ関スル法律]]の規定により、生年月日が2006年(平成18年)4月1日である者は、2022年(令和4年)3月31日の[[正子|午後12時]]に16歳に達するため、改正民法施行の影響は及ばないと解される。</ref>、'''引き続き満16歳以上で婚姻ができる<ref name=":1" />'''<ref>https://www.moj.go.jp/content/001300586.pdf</ref>。また、2022年(令和4年)3月31日までに適法に婚姻し成年擬制された者は、4月1日以降も引き続き成年擬制の扱いを受けると解される(下記)。<!--2006年4月1日生まれの女性が18歳(成年)に達するのは2024年4月1日(正確には、2024年3月31日正子)である。よって、この制度は2024年3月31日正子までは有効である。-->
{| class="wikitable"
|+
生年月日と、婚姻可能年齢の組み合わせ
!婚姻の日付<ref group="注">[[婚姻届]]の受理日。</ref>
!生年月日・性別
!婚姻可能年齢
!父母の一方の同意
!成年擬制
|-
| rowspan="2" |2022年(令和4年)3月31日まで
|男性
|18歳以上
| rowspan="2" |要
| rowspan="2" |あり<ref group="注" name=":3">2022年(令和4年)4月1日以降は、男子については必然的に成年に達するため成年擬制ではなく成年となる。女子については同日以降、18歳になる日の前日まで成年擬制を受ける。</ref>
|-
|女性
|16歳以上
|-
| rowspan="3" |2022年(令和4年)4月1日以降
|男性
|18歳以上
|成年のため不要
| -
|-
|2006年(平成18年)4月1日までの女性
|16歳以上
|要
|あり<ref group="注" name=":3">2022年(令和4年)4月1日以降は、男子については必然的に成年に達するため成年擬制ではなく成年となる。女子については同日以降、18歳になる日の前日まで成年擬制を受ける。</ref>
|-
|2006年(平成18年)4月2日以降の女性
|18歳以上
|成年のため不要
| -
|}
: 前述の成年擬制の効果は民法などの私法領域のみに限られ、公法領域にその効果は及ばないと解される([[二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律]]や[[二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律]]などの法律、その他の国家資格要件などには適用されない)<ref>我妻栄・有泉亨・遠藤浩・川井健著『民法3親族法・相続法第二版』80頁、勁草書房、2005年(平成17年)</ref>。2022年(令和4年)4月1日に婚姻適齢と成年が同一年齢となったため、成年擬制は'''原則としてなくなった'''が、2022年(令和4年)3月31日までに適法に婚姻し成年擬制された者が遡及して未成年に復帰はしないと解される(改正民法)<ref group="注" name=":2">ただし生年月日が2006年(平成18年)4月1日とそれ以前の女性は、引き続き満16歳以上で婚姻ができるため、満16歳および満17歳の女性でこれに該当する者は、父母の同意および成年擬制については、なお改正前の民法の適用を受けると解される。</ref>。
: 成年擬制を受けた者が年齢20歳に達しないうちに婚姻を解消した場合には、当事者や法律行為の相手方などの社会的影響を考慮して未成年には復帰しないとするのが通説である<ref>我妻栄・[[有泉亨]]・[[遠藤浩]]・[[川井健]]著『民法3親族法・相続法第二版』79 - 80頁、勁草書房、2005年(平成17年)</ref>。
* 未成年者の認知
: 未成年者は[[嫡出]]でない子の[[認知 (親子関係)|認知]]をすることができる。法定代理人の同意は不要である([[b:民法第780条|780条]])。
* 未成年者の[[養子縁組]]
** 未成年者を養子とする場合
*** 未成年者を養子とするには、家庭裁判所の許可を得なければならない。ただし、自己又は[[配偶者]]の[[直系卑属]]を養子とする場合は、この限りでない([[b:民法第798条|798条]])。
*** 配偶者のある者が未成年者を養子とするには、配偶者とともにしなければならない([[b:民法第795条|795条]]本文)。ただし、配偶者の嫡出である子を養子とする場合または配偶者がその意思を表示することができない場合はこの限りでない([[b:民法第795条|795条]]ただし書)。
*** 養子となる者が15歳未満であるときは、その法定代理人がこれに代わって縁組の承諾をすることができる([[b:民法第797条|797条]]1項)。法定代理人がこの承諾をするには、養子となる者の父母でその監護をすべき者であるものが他にあるときは、その同意を得なければならない([[b:民法第797条|797条]]2項)。
** 未成年者が養親となる場合
:: 民法は「20歳に達した者は、養子をすることができる」と規定しており([[b:民法第792条|792条]])、この反対解釈から20歳未満の者は養親となることができない。[[b:民法第753条|753条]]により婚姻によって成年に達したものと[[擬制]]を受けた者については法律実務上養親となることができることとされているが、この点については議論がある<ref>我妻栄・有泉亨・遠藤浩・川井健著『民法3親族法・相続法第二版』151頁、勁草書房、2005年</ref>。
* 未成年者の遺言
: 15歳に達した者は、[[遺言]]することができる([[b:民法第961条|961条]])。法定代理人の同意は不要である([[b:民法第962条|962条]])。
==== 民法以外の法律 ====
各法令における年齢の計算については、民法の場合と同様に、[[年齢計算ニ関スル法律]](明治35年12月2日法律第50号)による。具体的に要件を満たす事となる日または時刻は、原則として、''[[年齢計算ニ関スル法律]]に基づく。''
; [[民事訴訟法]]
: 未成年者は法定代理人によらなければ[[訴訟行為]]をすることができないが、未成年者が独立して法律行為をすることができる場合には法定代理人によらずに訴訟行為をすることができる(民事訴訟法第31条)。なお、[[訴訟能力]]の項目も参照。
; [[刑法 (日本)|刑法]]
: [[刑事未成年者]]
: 14歳に満たない者の行為は罰しない(第41条)。詳しくは、[[責任能力]]の項目を参照。なお、[[少年法]]の項目も参照。なお、未成年者略取誘拐罪(224条)、未成年者買受罪(226条の2第2項)、準詐欺罪(248条)の「未成年者」の具体的年齢については、民法の成人年齢引き下げと連動していて18歳未満となる。<ref>[https://www.moj.go.jp/content/001329809.txt 法制審議会少年法・刑事法(少年年齢・犯罪者処遇関係)部会第27回会議議事録]</ref>
; [[労働基準法]]
: 第6章「年少者」において、未成年者(後述)、年少者(18歳未満の者)、児童(満15歳に達した日以後の最初の3月31日が終了するまでの者)に区分して、それぞれの年齢に対応した法規制を行っている。
: 本法上の「未成年者」については、令和4年改正施行民法に即した厚生労働省の通達等は確認されていないが、同省では民法4条の未成年者によるものとしている<ref>{{Cite web|和書|title=高校生や中学生などを雇用するときの注意点 |url=https://jsite.mhlw.go.jp/yamanashi-roudoukyoku/kantoku/roudoukijun/28.html |website=jsite.mhlw.go.jp |access-date=2023-01-17 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=高校生等を使用する事業主の皆さんへ|厚生労働省 |url=https://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/roudou/gyousei/kantoku/040330-8.html |website=www.mhlw.go.jp |access-date=2023-01-17}}</ref>。従って、民法の同改正'''施行前は20歳未満、施行後は18歳未満'''と考えられる。<!-- 厚労省官庁や関連団体が発出している文書でも古いもの(20歳成年に準拠したもの)が混在しており、注意が必要 -->
: 本法で具体的に「未成年者」について規制したものとしては、次の2ヶ条がある。
{{Quotation|
第58条(未成年者の労働契約)
# [[親権]]者又は[[後見人]]は、未成年者に代って[[労働契約]]を締結してはならない。
# 親権者若しくは後見人又は行政官庁は、労働契約が未成年者に不利であると認める場合においては、将来に向ってこれを[[解除]]することができる。
第59条
: 未成年者は、独立して[[賃金]]を請求することができる。親権者又は後見人は、未成年者の賃金を代って受け取つてはならない。
}}
: [[b:民法第824条|民法第824条]]・[[b:民法第859条|第859条]]では、未成年者の同意を得れば未成年者に代わって親権者や後見人が契約を締結できるとする旨の規定があるが、労働契約については特別法である労働基準法の定めが民法より優先する。未成年者は労働契約の締結に際しては法定代理人の同意が必要であるが([[b:民法第5条|民法第5条]])、自ら賃金を受け取るべき者と位置付けられているので、未成年者は労働契約に関しては法定代理人によらず自ら訴訟行為を行いうる(上述、民事訴訟法第31条)。
: 使用者は、児童が満15歳に達した日以後の最初の3月31日が終了するまで、これを使用してはならない(第56条1項、例外として第56条2項)。
: [[年次有給休暇#職業訓練に関する特例|職業訓練を受ける未成年者の年次有給休暇に関する特例]]が定められている(第72条)。
: 「満18才に満たない者」について、[[深夜業]]の制限(第61条)。[[危険有害業務]]及び[[坑内労働]]の禁止(第62条、第63条)。[[解雇#年少者の帰郷旅費|帰郷旅費]]の制度(第64条)。年齢証明書の備え置き(第57条)。<!-- これらの規定は、「未成年者」の定義によらない。 -->
; [[二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律]]・[[二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律]]
: 日本では、満20歳未満の者が飲用・喫煙をするための[[酒]]・[[煙草]]を購入できない。満20歳未満の者が飲用・喫煙することを知りながらこれらの者に対し販売等を行なうと販売者や親権者が処罰される。このため、満20歳未満の者でなくとも、酒・煙草の購入時に[[身分証明書]]の提示を求められることがある。
; [[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]](風営法)
: 18歳未満の者に客を接待させたり、18歳未満の者を客として入店させることはできない。
;その他
: [[商法]]第5条、[[商業登記法]]第35条、[[任意後見契約に関する法律]]第4条、会社法第584条、[[探偵業の業務の適正化に関する法律]]第3条、[[職業安定法]]第32条、[[母体保護法]]第3条、[[国税徴収法]]第144条、[[国税犯則取締法]]第6条、[[国税通則法]]第142条、[[相続税法]]第19条の3、[[地方税法]]第24条の5などに「未成年者」の規定がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|未成年}}
* [[成年]]<small>(※ [[成年#各国・各地域の成人年齢の年齢別一覧|世界における成人年齢一覧]])</small>
* [[少年法]]
* [[少年犯罪]]
* [[青少年保護育成条例]]<small>(対象は18歳未満の未婚者のみ)</small>
* [[刑法]]
* [[責任能力]]
* [[行為能力]]
* [[制限行為能力者]]
* [[後見]]
* [[後見人]]
* [[青少年]]
* [[児童]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:みせいねんしや}}
[[Category:日本法における行為能力]]
[[Category:子供]]
[[Category:身分]]
[[Category:日本の親権法]]
[[Category:年齢差別]]
|
2003-09-18T17:40:26Z
|
2023-12-30T07:36:11Z
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[
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|
17,300 |
少女
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少女(しょうじょ)は、7歳から18歳前後の「女の子」「女子」。「幼女」はおおむね満1歳から小学校3年生(満8歳~9歳くらい)までを、「女性」「婦人」はおおむね満20歳以上を指す。
普通、少年を若い男子とするとき、少女はその対義語である。この年齢に該当するのは、児童福祉法第四条の三では「小学校就学の始期から、満十八歳に達するまでの者」とあり、少年法第1章第2条では「20歳に満たない者」とある。 民法の成人年齢が18歳に引き下げられた後も少年法は20歳未満が維持されているため、18歳・19歳の女性は成人でもあり少女でもあるということになる。 古代の律令制下では17歳から20歳の女性を「少女」と称した。当時は別に「をとめ」語があり、現代における「少女」の意であった。近代では1920〜30年代の近代市場社会、都市型小家族の完成期に浮遊性・脱秩序性・非生産性等の様々な「印」を持つ少女文化が開花した。なお、少年法は、男女問わず20歳に満たない者を少年として定義している(「少年」は男女問わずそのくらいの年齢の者を指す。女性である場合を特に「少女」と言う。)。女子の少年院に当たる施設は「少女院」とは言わず「女子少年院」という。
「女の子」は女である子供・女児の意味だが、俗語では「若い女性」を意味する。ガール(girl)は「通例9-12歳まで、大きくても15歳以下」とされる(boyは「通例18歳ごろまで」)。文語・堅い書き言葉としての少女はメイデン(maiden)、ヴァージン(virgin)など。
男子と違って進学や就職に結びつかない高等女学校において、修身教科書や女学校文化によって「少女」は未来から切り離され、幼女と人妻の間の宙吊りな存在として規定された。同じく女学校による読書する女の出現が少女の発祥と言う意見もある。少女雑誌がそのイメージを支えた。これは娘を女学校に上げ少女雑誌を買い与えられる都市新中間層(大正期に増加した俸給生活者。官公吏・軍人・会社員など。親が子供の教育を行うという意思をはっきりと持っている。1960年代以降大衆化)の女子に限定された。この新中間層に良妻賢母という規範が生まれた結果、考のもとの服従と家事労働を母親に譲り渡したことで自分自身に思い悩むことができる時期が生まれ、少女が誕生したのである。近代家父長制、女子教育制度への抵抗であると同時に、補強でもある。
少女・少年雑誌の表紙のヴィジュアルイメージは以下のように変化して行った。
婉曲には売春婦を意味する。
中国で「女孩(nü̆hái)」は思春期や青年の域まで含む場合がある。
日本産業規格における少女の定義は「身長の成長が止まっていない乳幼児以外の女子」であり各種法律と違い年齢による上限は決まっていない。
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少女(しょうじょ)は、7歳から18歳前後の「女の子」「女子」。「幼女」はおおむね満1歳から小学校3年生(満8歳~9歳くらい)までを、「女性」「婦人」はおおむね満20歳以上を指す。
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[[ファイル:2016-08-05 Kagayaki (ship, 2009)Port of Toba 鳥羽市営定期船「かがやき」 DSCF5994.jpg|代替文=|サムネイル|少女]]
[[File:Indigenous magar girls of Nepal.JPG|thumb|260px|[[ネパール]]の少女達]]
[[File:Iraqi girl smiles.jpg|thumb|[[イラク]]の少女]]
[[File:Sudan - young girl in Khartoum.jpg|thumb|190px|[[スーダン]]の少女]]
[[File:Maria Clara.JPG|thumb|[[ブラジル]]の少女]]
[[File:Young Woman in Red Dress.jpg|thumb|189px|[[ベネズエラ]]の少女]]
'''少女'''(しょうじょ)は、7歳から18歳前後の「女の子」「女子」<ref name="dic">[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/108780/m0u/%E5%B0%91%E5%A5%B3/ 『大辞泉』しょう‐じょ〔セウヂヨ〕【少女】。]</ref>。「幼女」はおおむね[[満年齢|満]]1歳から[[小学校]][[中学年|3年生]](満8歳~9歳くらい)までを、「[[女性]]」「[[婦人]]」はおおむね満20歳以上を指す<ref>『使い方の分かる類語例解辞典』、[[小学館]]、2003年、【幼児/幼子】・【女/女性/女子/婦人/婦女/婦女
子/幼女】。</ref>。
== 概要 ==
普通、[[少年]]を若い男子とするとき、少女はその対義語である。この年齢に該当するのは、[[児童福祉法]]第四条の三では「小学校就学の始期から、満十八歳に達するまでの者」とあり<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322AC0000000164#16 |title=児童福祉法(昭和二十二年法律第百六十四号)第四条、三 |publisher=e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 |date=2018-6-27 |quote=2019年6月1日施行分|accessdate=2019-12-27}}</ref>、[[少年法]]第1章第2条では「20歳に満たない者」とある<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000168_20220617_504AC0000000068&keyword=%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%B3%95 少年法、第1章、第2条。] </ref>。
[[民法]]の[[成人]]年齢が18歳に引き下げられた後も[[少年法]]は20歳未満が維持されているため、18歳・19歳の[[女性]]は[[成人]]でもあり少女でもあるということになる。
[[古代]]の[[律令制]]下では17歳から20歳の女性を「少女」と称した<ref name="dic">[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/108780/m0u/%E5%B0%91%E5%A5%B3/ 『大辞泉』しょう‐じょ〔セウヂヨ〕【少女】。]</ref>。当時は別に「をとめ」語があり、現代における「少女」の意であった。[[近代]]では1920〜30年代の近代市場社会、都市型小家族の完成期に浮遊性・脱秩序性・非生産性等の様々な「印」を持つ[[少女文化]]が開花した。なお、[[少年法]]は、男女問わず20歳に満たない者を少年として定義している(「少年」は男女問わずそのくらいの年齢の者を指す。女性である場合を特に「少女」と言う。)。女子の[[少年院]]に当たる施設は「少女院」とは言わず「女子少年院」という。
「女の子」は女である子供・女児の意味だが、[[俗語]]では「若い女性」を意味する。ガール(girl)は「通例9-12歳まで、大きくても15歳以下」とされる(boyは「通例18歳ごろまで」)。文語・堅い書き言葉としての少女はメイデン(maiden)、ヴァージン(virgin)など<ref name="genius">『ジーニアス英和大辞典』、[[大修館書店]]、2008年。</ref>。
== 戦前の少年 ==
男子と違って進学や就職に結びつかない[[高等女学校]]において、修身教科書や女学校文化によって「少女」は未来から切り離され、幼女と人妻の間の宙吊りな存在として規定された。同じく女学校による読書する女の出現が少女の発祥と言う意見もある。少女雑誌がそのイメージを支えた。これは娘を女学校に上げ少女雑誌を買い与えられる都市新中間層(大正期に増加した俸給生活者。官公吏・軍人・会社員など。親が子供の教育を行うという意思をはっきりと持っている。1960年代以降大衆化)の女子に限定された。この新中間層に良妻賢母という規範が生まれた結果、考のもとの服従と家事労働を母親に譲り渡したことで自分自身に思い悩むことができる時期が生まれ、少女が誕生したのである。近代家父長制、女子教育制度への抵抗であると同時に、補強でもある<ref name="syoujonosyakaishi">今田絵里香 『「少女」の社会史』 [[勁草書房]]、2007年。ISBN 978-4326648788</ref>。
少女・少年雑誌の表紙のヴィジュアルイメージは以下のように変化して行った<ref name = "syoujonosyakaishi"/>。
* 1895年から1910年ごろ:母親に守護される少女・勉強とスポーツをする少年
* 1910年から1920年ごろ:幼女ではない少女・勉強とスポーツをする少年
* 1920年から1930年ごろ:スポーツをする少女・軍国少年
* 1930年から1945年:軍国少女・軍国少年
== 補足 ==
婉曲には[[売春婦]]を意味する<ref name="genius"/>。
中国で「女孩(nü̆hái)」は思春期や青年の域まで含む場合がある。
[[日本産業規格]]における少女の定義は「身長の成長が止まっていない乳幼児以外の女子<ref>[https://jis.eomec.com/jisl40031997#gsc.tab=0 JIS L 4003:1997 少女用衣料のサイズ]</ref>」であり各種[[法律]]と違い[[年齢]]による上限は決まっていない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Girls|Girls}}
{{Commonscat|Girls_by_country|国別の少女}}
*[[少女文化]]
*[[少女小説]]
*[[少女漫画]]
*[[少女趣味]]
*[[美少女]]
*[[美少女ゲーム]]
*[[少女愛]]
*[[ロリータ・コンプレックス]]
*[[ロリータ]]
*[[少年犯罪]]
*[[魔法少女]]
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[[Category:少年]]
[[Category:少女|*しようしよ]]
[[Category:女性]]
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17,301 |
対義語
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対義語(たいぎご、英: antonym)とは、意味が反対となる語や、意味が対照的になっている語。アントニム、反義語、反意語、反義詞、反対語、対語などともいう。「対義語」の対義語は「類義語」「同義語」などである
対義語・アントニムはあらゆる言語に普遍的にみられる意味構造であり、とくに意味構造においてペア(対)と認識されるものを指す。初等教育では初学者の語彙力を強化する目的で対義語や類義語の学習をしばしばおこなう。対義語対の分類については一般的・慣用的に用いられているものを蒐集したものが冊子(教本)化されている。
感性語の取り扱いにおいて対義語ペアを軸とした情報処理は画像検索システムなどに応用されている。
なお、言語としては対義語の関係を成すようであっても、実際にはその言語が指す事象同士が対の関係になっているわけではないという場合もある。例として「進化」と「退化」は語としては対義語のようになっているが、進化論的には退化は進化における一様態(側面)であり、進化と退化は対になる概念ではないとされる(詳しくは退化の項も参照)。
対義語や類義語のもつ意味構造はしばしばレトリックとして利用される(充填された語)。
対となる語彙は、一般的・慣用的に用いられている物を蒐集したものが教本化されたものであり、その中には一定の法則性が存在していることが指摘されている。
漢字二字からなる対義語は、以下の4種類に分かれる。
漢字に限らず、意味での分類は3種類ある。
但し、互いに対義語とされる2語が同じ品詞ということは必ずしもない。
この他にも、対義語の持つ構造上の曖昧性は多く指摘されており、例えば色調(黒-白)の対義語については
文脈によっては明確に対義語と認識できても本来の対義語とみなせるかどうか不明なもの
など、どのペアを対義語ととらえるかはその言語がもつ文化的背景や、その言語が使用される文脈に大きく影響される。
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対義語とは、意味が反対となる語や、意味が対照的になっている語。アントニム、反義語、反意語、反義詞、反対語、対語などともいう。「対義語」の対義語は「類義語」「同義語」などである
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'''対義語'''(たいぎご、{{lang-en-short|antonym}})とは、[[意味]]が反対となる[[言葉|語]]や、[[意味]]が対照的になっている語。'''アントニム'''、'''反義語'''、'''反意語'''、'''反義詞'''、'''反対語'''、'''対語'''などともいう。「対義語」の対義語は「[[類義語]]」「[[同義語]]」などである
==概要==
対義語・アントニムはあらゆる言語に普遍的にみられる意味構造であり、とくに意味構造においてペア(対)と認識されるものを指す。[[初等教育]]では初学者の語彙力を強化する目的で対義語や類義語の学習をしばしばおこなう。対義語対の分類については一般的・慣用的に用いられているものを蒐集したものが冊子(教本)化されている。
[[感性語]]の取り扱いにおいて対義語ペアを軸とした情報処理は画像検索システムなどに応用されている。
なお、言語としては対義語の関係を成すようであっても、実際にはその言語が指す事象同士が対の関係になっているわけではないという場合もある。例として「[[進化]]」と「[[退化]]」は語としては対義語のようになっているが、進化論的には[[退化]]は進化における一様態(側面)であり、進化と退化は対になる概念ではないとされる(詳しくは[[退化]]の項も参照)。
対義語や類義語のもつ意味構造はしばしばレトリックとして利用される([[詭弁|充填された語]])。
== 分類 ==
対となる語彙は、一般的・慣用的に用いられている物を蒐集したものが教本化されたものであり、その中には一定の法則性が存在していることが指摘されている。
漢字二字からなる対義語は、以下の4種類に分かれる。
#漢字一字の意味が反対になっているもの。例:「優等」と「劣等」、「通例」と「異例」、「幸運」と「凶運」
#漢字二字の意味が反対になっているもの。二字のどれかが対義関係となる。例:「優越」と「劣後」(優-劣、越-後)、「高大」と「卑小」(高-卑、大-小)、「貴重」と「軽賎<!--くだらない-->」(貴-賎、重-軽)
#[[熟語]]全体として意味が反対になっているもの。例:「[[普通]]」と「[[特別]]」、「超過」と「未満」
#打ち消しの漢字(不・[[無]]・未・非)を使って一方の意味を消しているもの。例:「平凡」と「非凡」、「完全」と「不全」
漢字に限らず、意味での分類は3種類ある<ref>goo辞書「対義語」[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/132800/m0u/%E5%AF%BE%E7%BE%A9%E8%AA%9E/]</ref>。
#一方を否定すれば必ず他方になる関係。例:[[男]]-[[女]]、[[生]]-[[死]]、同じ-異なる
#程度の差を表すもの。例:優-劣、大-小、貴-賎、遠い-近い、frequent-rare<!--英語:頻繁-希少-->、gut-schlecht<!--独語:良い-悪い-->
#一つの事柄を見方や立場を変えて表現するもの。例:売る-買う、教える-学ぶ、父-息子、anterior-posterior<!--英語:前方-後方、優先-劣後(後回し)-->、unvereinbar-unteilbar<!--独語:不可合-不可分。英語訳:incombinable-indivisible-->
但し、互いに対義語とされる2語が同じ[[品詞]]ということは必ずしもない<ref group="注釈">[[日本語]]の場合、[[ラ行]][[五段活用]][[動詞]]である「ある」の対義語とされている「ない」は[[形容詞]]であり、互いに異なる品詞である。また、[[英語]]の"in"は、[[前置詞]]とされているが、「~の中」の意としての対義語となる"out of"は複数語句の組み合わせとなる。</ref>。
この他にも、対義語の持つ構造上の曖昧性は多く指摘されており、例えば色調(黒-白)の対義語については
:「[[黒]]のアント(ニム)は[[白]]。けれども、白のアントは[[赤]]。赤のアントは黒。」([[人間失格]])
[[文脈]]によっては明確に対義語と認識できても本来の対義語とみなせるかどうか不明なもの
:「[[象]]はいつも実物より小さく描かれるが、[[ノミ|蚤]]はいつも実物より大きく描かれる」([[ジョナサン・スウィフト|スウィフト]])
など、どのペアを対義語ととらえるかはその言語がもつ文化的背景や、その言語が使用される文脈に大きく影響される。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
==文献情報==
*「反意考 A Note on Antonymy」氏家文昭(日本大学文理学部人文科学研究所第17号研究紀要1975年)[http://www.chs.nihon-u.ac.jp/institute/human/kiyou/17/H-017-026.pdf][http://www.chs.nihon-u.ac.jp/institute/human/kiyou/17.html]
*{{Cite journal|和書|author=椋木雅之 |author2=田中大典 |author3=池田克夫 |title=対義語対からなる特徴空間を用いた感性語による画像検索システム (<特集>ITSとモバイルコンピューティング) |date=2001-07-15 |publisher=一般社団法人情報処理学会 |journal=情報処理学会論文誌 |volume=42 |number=7 |naid=110002725915 |pages=1914-1921 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
*[[上位語]]
*[[下位語]]
*[[同音異義語]]
*[[多義語]]
*[[類義語]]
*[[同義語]]
*[[略語]]
*[[熟字訓]]
*[[当て字]]
*[[同音異字]]
*[[同訓異字]]
*[[一覧の一覧]]
*{{ill2|自己対義語|en|Auto-antonym}} ‐ 「やばい」(すごくよいもの/すごくわるいもの)、「dust」(塵を払う/塵を振りかける)、「fire」(火/防火)など一つの言葉で相反する意味を持つ語。
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:たいきこ}}
[[Category:語]]
[[Category:語彙意味論]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E7%BE%A9%E8%AA%9E
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17,303 |
類義語
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類義語(るいぎご)とは、同一言語において、語形は異なるが意味は互いによく似ており、場合によっては代替が可能となる二つ以上の語(例:日本語の「じゃがいも」と「馬鈴薯」、英語の「begin」と「start」)。類語ともいう。
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類義語(るいぎご)とは、同一言語において、語形は異なるが意味は互いによく似ており、場合によっては代替が可能となる二つ以上の語。類語ともいう。
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{{Wiktionary|類義語}}
'''類義語'''(るいぎご)とは、同一[[言語]]において、語形は異なるが[[意味]]は互いによく似ており、場合によっては[[代替]]が可能となる二つ以上の[[語]](例:[[日本語]]の「[[ジャガイモ|じゃがいも]]」と「馬鈴薯」、英語の「begin」と「start」)。類語ともいう<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/233507/m0u/%E9%A1%9E%E7%BE%A9%E8%AA%9E/ 大辞泉 るいぎ‐ご【類義語】]、[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/166356/m0u/%E4%BC%BC%E9%80%9A%E3%81%86/ に‐かよ・う〔‐かよふ〕【似通う】]</ref>。
== 出典 ==
<references/>
== 関連項目 ==
*[[wikt:同義語|同義語]]
*[[シノニム]]
*[[別名]]
*[[同綴異義語]]
*[[同音異義語]]
*[[空似言葉|フォザミ]]
*[[欺瞞的同根語]]
*[[対義語]]
*[[類語辞典]]
*[[言語純化運動]]
{{Normdaten}}
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[[Category:語]]
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17,304 |
イベント
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イベント(英: event、英語発音: [iˈvent] イヴェントゥ)とは、
現代日本において「イベント」といった場合には、運動会や文化祭などのような大規模な学校行事、花見や誕生日パーティーなど個人的な行事、阪神甲子園球場の高校野球大会、オリンピック、あるいはサッカーのワールドカップのようなスポーツの大会、地方公共団体や地域社会が行う祭り、万国博覧会などの国家的な行事、などを指すことが一般的である。また、販売促進のために行われる歌手・タレント・声優・作家・漫画家らの握手会やサイン会などの催し物を指すこともある。
開催頻度としては、博覧会のように一度限りのもののほかに、オリンピックなど世界的なスポーツイベントのように数年に一度から、甲子園の高校野球大会など年に2回程度までのものをいうことが多い。
イベント開催にあたり、臨時のFM放送(イベント放送局)やテレビジョン放送(エリア放送)の放送局が開設される場合がある。 また、ビッグサイトのような常設のエリア放送局を保有する施設もある。
数あるイベントの中には毎年行われ、すでに風物詩として定着したものがある。春の花見、秋の運動会(体育祭)などはその代表的なものである。その他もいろいろある。
イベントはプロモーション(販売促進)のための手段の一つとして行われることも多い。この場合は主催企業・団体によりCMが作られたりパンフレットが配られるなど、かなり社会的に大規模に行われる。博覧会や展示会、展示即売会などがその主なものである。これらイベントを専門的に企画・運営する会社をプロモーターやイベンターと呼ぶことがある。
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イベントとは、 行事や催し物。本記事で詳述する。
単なる事象。
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{{Otheruses|行事や催し物|その他}}
[[ファイル:130928 Takatsuki City Nampeidai elementary school Osaka pref Japan02n.jpg|thumb|[[日本の小学校]]の[[運動会]]]]
[[Image:Drones durante a abertura das Olimpíadas de Tóquio.jpg|thumb|[[2020東京オリンピック]]の開会式]]
[[FIle:Hanami Sewaritei.jpg|thumb|[[花見]]]]
'''イベント'''({{lang-en-short|event}}、{{IPA-en|iˈvent}} イ'''ヴェ'''ントゥ)とは、
#行事や催し物。本記事で詳述する。
#単なる[[事象]]。
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== 概説 ==
現代[[日本]]において「イベント」といった場合には、[[運動会]]や[[文化祭]]などのような大規模な[[学校行事]]、[[花見]]や[[誕生日]]パーティーなど個人的な行事、[[阪神甲子園球場]]の[[高校野球]]大会、[[近代オリンピック|オリンピック]]、あるいは[[サッカー]]の[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]のような[[スポーツ]]の大会、[[地方公共団体]]や[[地域社会]]が行う[[祭り]]、[[万国博覧会]]などの[[国家]]的な行事、などを指すことが一般的である。また、販売促進のために行われる[[歌手]]・[[タレント]]・[[声優]]・[[作家]]・[[漫画家]]らの握手会やサイン会などの催し物を指すこともある。
開催頻度としては、博覧会のように一度限りのもののほかに、オリンピックなど世界的なスポーツイベントのように数年に一度から、甲子園の高校野球大会など年に2回程度までのものをいうことが多い。
イベント開催にあたり、臨時の[[超短波放送|FM放送]]([[イベント放送局]])や[[テレビジョン放送]]([[エリア放送]])の[[放送局]]が開設される場合がある。
また、[[ビッグサイト]]のような常設のエリア放送局を保有する施設もある。
== 風物詩となったイベント ==
数あるイベントの中には毎年行われ、すでに[[風物詩]]として定着したものがある。[[春]]の[[花見]]、[[秋]]の運動会(体育祭)などはその代表的なものである。その他もいろいろある。
{{See also|年中行事}}
== イベント・プロモーション ==
イベントはプロモーション(販売促進)のための手段の一つとして行われることも多い。この場合は主催企業・団体により[[コマーシャルメッセージ|CM]]が作られたり[[パンフレット]]が配られるなど、かなり社会的に大規模に行われる。[[博覧会]]や展示会、展示即売会などがその主なものである。これらイベントを専門的に企画・運営する会社をプロモーターや[[イベンター]]と呼ぶことがある。
== よく知られているイベント ==
=== 展示会系 ===
[[画像:LinuxWorldBoston2006.agr.JPG|thumb|[[ボストン]]の見本市会場で開かれた[[2006年]][[リナックス]]ワールド]]
* [[見本市]]
* [[ファッションショー]]
* [[ミス・コンテスト]]
* [[モーターショー]]
* ガーデニングショー
=== 博覧会系 ===
* [[博覧会]]
* [[国際博覧会]]
=== スポーツ大会系 ===
* [[高校野球]]大会
* [[近代オリンピック|オリンピック]]
* [[ワールドカップ]]
* [[マラソン]]大会
* [[国民体育大会]]
* [[全国高等学校総合体育大会|インターハイ]]
* [[全日本学生選手権大会]]([[インターカレッジ]])
*[[ウォーキング|ウォーキング(歩け歩け)]]大会
=== 芸能・音楽系 ===
* [[演奏会|コンサート]]
* [[演奏会|コラボレート]]
* [[演奏会|クラシック・ジャズ・ポップスコンサート]]
* [[ロック・フェスティバル]]
* [[コスプレダンスパーティー]]
* [[インストアイベント]]
* [[公開放送]]
=== 市場系 ===
* [[同人誌即売会]]
* [[蚤の市|蚤の市(フリーマーケット、骨董市)]]
* [[植木市]]
* [[陶器市]]
* [[競売|競売会]]
=== コンベンション系 ===
* [[アニメコンベンション]]
* [[日本SF大会]]
* [[SFコンベンション]]
=== 祭り系 ===
* [[祭り]]
* [[フェスティバル]]
* [[謝肉祭|カーニバル]](謝肉祭)
* [[花火]]大会
* [[盆踊り]]
=== 脱出ゲーム ===
{{See also|脱出ゲーム}}
* 謎解き
* [[アスレチック]]
* [[心理]]
* [[迷路]]
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{Commonscat|Events}}
* [[カメラ小僧]]
*[[年中行事]]
*[[イベントスタッフ]]
*{{仮リンク|イベントマネジメント|en|Event management}}
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東京国際展示場
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東京国際展示場(とうきょうこくさいてんじじょう、Tokyo International Exhibition Center)は、東京都江東区有明三丁目に所在し、株式会社東京ビッグサイトが運営するコンベンション・センター。運営会社名と同じ「東京ビッグサイト」(とうきょうビッグサイト、Tokyo Big Sight)の愛称で親しまれている。またその所在地から「有明」と通称される事もある。
中央区晴海にあった東京国際見本市会場の後継となる施設として、1996年(平成8年)に開場した。
前身の晴海会場から引き続き、社団法人東京国際見本市協会と株式会社東京国際貿易センター(共に東京都が出資)が管理・運営を行っていたが、両法人は2003年(平成15年)に統合、株式会社東京ビッグサイトに社名変更して現在に至っている。
建築面積は約18.5万m、展示面積は約11.5万m(仮設展示場含む)で、日本最大のコンベンション・センターである。
1980年代末期、東京都による臨海副都心計画が進められ、有明南地区に晴海の国際見本市会場を拡大移転した国際展示場を整備する構想が浮上する。そして1996年(平成8年)に開業すると順調にイベント数が増加していき、2015年度(平成27年度)には過去最多となる1,605万人の来場者数を記録する 。一方で、2010年代には稼働率が限界近くに達したことや東京オリンピックが予定されていたことなどから、2016年(平成28年)に東新展示棟が、2019年(令和元年)には南展示棟が完成。これらにより展示面積は開業時の8万mから11.5万mへと拡張された。
なお、日本最大ではあるものの国外のコンベンション・センターの展示面積と比較すると、世界で36番目、アジアでも14番目(上位はすべて中国)であり、世界最大のコンベンション・センターであるドイツのハノーファー国際見本市会場(約46万m)の4分の1の大きさである(いずれも2022年時点)。
会議棟、東展示棟、東新展示棟、西展示棟、南展示棟からなり、会議棟は独特のデザインをしていることで有名である。また、敷地内の巨大彫刻『Saw, Sawing(切っている鋸)』(クレス・オルデンバーグ&クージェ・ファン・ブリュッヘン作)も有名である。優秀な建築作品を表彰するBCS賞を受賞。
下記に示すような多様な催しが開催され、国内のコンベンション・センターとしては、催事件数、来場者数共に群を抜いて多い。
東京2020オリンピック・パラリンピックでは当初、メインプレスセンター(MPC)および国際放送センター(IBC)、オリンピック(レスリング、テコンドー、フェンシング)とパラリンピック(ボッチャ、パワーリフティング、パラテコンドー)の一部競技の会場として当展示場を使用する予定であったため、これにあわせる形で招致計画の立候補ファイルでも、屋外展示場等がある西展示棟の南側に延べ床面積約44,000m、3層階の新施設を増築するとしていた。2014年(平成26年)6月17日の東京都議会にて、屋外展示場がある西展示棟の南側に、現行展示面積(2014年時点で約8万m)の25%(約2万m)程の広さの新棟を2017年度にも着工し、オリンピック前までに完成させるという計画が公開された。この新棟はオリンピックの開催時には報道陣向けのプレスセンターとして活用し、大会終了後は展示場に転用する計画とした。
しかしその後、国際オリンピック委員会(IOC)からの指摘があり、2015年6月のIOC理事会ではオリンピックのレスリング、テコンドー、フェンシングと、パラリンピックのボッチャ、パワーリフティング、パラテコンドーの競技会場を、幕張メッセ(千葉市)とすることが承認された。
一方で、大規模修繕や新展示棟建設工事、並びにオリンピック開催に伴い、展示棟がしばらく使用できなくなることから、この期間の国際会議や大型展示会の開催を外国の展示場に奪われたり、既存の展示会が開催できなくなったりするなどの影響が出ることが懸念された。この影響を最小限にするため、東展示場臨時駐車場の敷地に、延べ床面積約20,000m、展示面積約16,000m程度の仮設展示場を建設した。東京ビッグサイトが主体となって計画し、事業費は約100億円、デザインビルド方式で設計・施工業者を一括選定・発注し、2015年度に着工、2016年(平成28年)10月に完成し、東7・8ホールとして運用を開始した。10年間程度の運用を予定している。
また、オリンピック期間前後には展示場の使用ができなくなる事から、東京都は、りんかい線東京テレポート駅近くの臨時駐車場として使用している都有地に、展示面積約24,000mの仮設展示場(青海展示棟)を建設し、2019年4月に開業した。当初はオリ・パラ終了後の2020年11月まで運営する予定であったが、しかしCOVID-19パンデミックの影響でオリンピックが1年間延期したことに伴い青海展示場の運営も1年延長され、2021年11月26日に営業を終了。12月に東新展示棟が営業を再開することとなった。
2019年7月からオリンピック関連の一部占有が始まり、2021年7月から9月のオリンピック・パラリンピック開催中は全館が使用された。
株式会社東京ビッグサイトの子会社の株式会社ビッグサイトサービスによりプリペイドカード「ビッグサイトカード」が発行されており、催事主催者によるノベルティなどとして利用されている。館内の飲食店やコンビニエンスストア、自動販売機の他、有明パークビルと東京ベイ有明ワシントンホテルの一部店舗で利用可能。1000円券と3000円券の2種類あり、有効期間は6か月。
敷地内にはパブリックアートが複数設置されている。
2011年にフランスの首都パリで開かれたJAPAN EXPOにおいて、宣伝広報特命担当として東京ビッグサイトのイメージキャラクターが発表されている。2012年6月に名前の公募が行われ、同年9月に1,130案の中から決定した。
七瀬葵がデザインした姉の「さいと みらい」と、いずみべるがデザインした妹の「さいと ゆめ」の2人で、いずれのキャラクターも会議棟の建物を模した髪飾りを身につけている。ビッグサイト内の売店ではこのキャラクターのオリジナルグッズを販売している。
東京ビッグサイトはエリア放送地上一般放送局の免許を取得し 、フルセグおよびワンセグ放送を実施している。
構内に地上一般放送局3局が設置されている。
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"text": "東京ビッグサイトはエリア放送地上一般放送局の免許を取得し 、フルセグおよびワンセグ放送を実施している。",
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東京国際展示場は、東京都江東区有明三丁目に所在し、株式会社東京ビッグサイトが運営するコンベンション・センター。運営会社名と同じ「東京ビッグサイト」の愛称で親しまれている。またその所在地から「有明」と通称される事もある。 中央区晴海にあった東京国際見本市会場の後継となる施設として、1996年(平成8年)に開場した。 前身の晴海会場から引き続き、社団法人東京国際見本市協会と株式会社東京国際貿易センター(共に東京都が出資)が管理・運営を行っていたが、両法人は2003年(平成15年)に統合、株式会社東京ビッグサイトに社名変更して現在に至っている。 建築面積は約18.5万m2、展示面積は約11.5万m2(仮設展示場含む)で、日本最大のコンベンション・センターである。
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{{Redirect|ビッグサイト|この施設の管理および運営を行っている企業|東京ビッグサイト}}
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{{建築物
|名称 = 東京国際展示場
|旧名称 =
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{{maplink2|frame=yes|zoom=14|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
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}}左は青海展示棟
|用途 = 展示施設
|設計者 =
|構造設計者 =
|施工 =
|建築主 = [[東京都]](会議・東・西展示棟)<br/>[[東京ビッグサイト|株式会社東京ビッグサイト]](東新・南展示棟)
|事業主体 =
|管理運営 = 株式会社東京ビッグサイト
|構造形式 =
|敷地面積 = 265751.63
|建築面積 = 185348
|延床面積 = 316990
|階数 = 会議棟:地上8階、地下1階<br />西展示棟:地上5階<br />東展示棟:地上3階、地下1階<br />東新展示棟:地上1階<br />南展示棟:地上5階
|高さ =
|着工 =
|竣工 = [[1995年]]10月
|開館開所 = [[1996年]]4月
|改築 =
|所在地郵便番号 = 135-0063
|所在地 = 東京都江東区有明三丁目11番1号
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 37 | 緯度秒 = 48.57 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 47 | 経度秒 = 37.47 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
| 位置図種類 = Tokyo city
| 座標右上表示 = yes
}}
'''東京国際展示場'''(とうきょうこくさいてんじじょう、Tokyo International Exhibition Center)は、[[東京都]][[江東区]][[有明 (江東区)|有明]]三丁目に所在し、[[東京ビッグサイト|株式会社東京ビッグサイト]]が運営する[[コンベンション・センター]]。運営会社名と同じ「'''東京ビッグサイト'''」(とうきょうビッグサイト、Tokyo Big Sight)の[[愛称]]で親しまれている。またその所在地から「'''有明'''」と通称される事もある。
[[中央区 (東京都)|中央区]][[晴海 (東京都中央区)|晴海]]にあった[[東京国際見本市会場]]の後継となる施設として、[[1996年]]([[平成]]8年)に開場した。
前身の晴海会場から引き続き、社団法人東京国際見本市協会と株式会社[[東京国際貿易センター]](共に東京都が出資)が管理・運営を行っていたが、両法人は[[2003年]](平成15年)に統合、株式会社東京ビッグサイトに社名変更して現在に至っている<ref>[https://www.bigsight.jp/visitor/company/about/ 会社概要 沿革](東京ビッグサイト公式サイト)</ref>。
建築面積は約18.5万[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]、展示面積は約11.5万m<sup>2</sup>(仮設展示場含む)で、日本最大のコンベンション・センターである。
== 概要 ==
[[1980年代]]末期、東京都による[[東京臨海副都心|臨海副都心]]計画が進められ、有明南地区に晴海の国際見本市会場を拡大移転した国際展示場を整備する構想が浮上する<ref>{{PDF|[https://www.2020games.metro.tokyo.lg.jp/docs/7_%E7%9B%AE%E7%9A%84%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%86%85%E5%AE%B91.pdf 東京ビッグサイトの計画の目的及び内容]}}</ref>。そして1996年(平成8年)に開業すると順調にイベント数が増加していき、[[2015年]]度(平成27年度)には過去最多となる1,605万人の来場者数を記録する<ref>{{PDF|[https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/03zaien/29zaien/29zaien_184-207.pdf 株式会社東京ビッグサイト]}}</ref> <ref group="注">なお、同年の幕張メッセは591万人(国内2位)、パシフィコ横浜は425万人(国内3位)であった。</ref> 。一方で、[[2010年代]]には稼働率が限界近くに達したことや東京オリンピックが予定されていたことなどから、[[2016年]](平成28年)に東新展示棟が、[[2019年]]([[令和]]元年)には南展示棟が完成。これらにより展示面積は開業時の8万m<sup>2</sup>から11.5万m<sup>2</sup>へと拡張された。
なお、日本最大ではあるものの国外のコンベンション・センターの展示面積と比較すると、世界で36番目、[[アジア]]でも14番目(上位はすべて中国)であり<ref>{{PDF|[https://www.nittenkyo.ne.jp/shr/document/20_07_venue_ranking.pdf 展示会場面積 世界ランキング]}}(日本展示会協会 2020年のデータ)</ref>、世界最大のコンベンション・センターである[[ドイツ]]の[[ハノーファー国際見本市会場]](約46万m<sup>2</sup>)<ref>{{PDF|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/41854/00407051/ref2%20present.pdf 大阪における現状 補足資料]}}</ref>の4分の1の大きさである(いずれも2022年時点)。
== 施設 ==
{{multiple image
| align = right
| direction = vertical
| header = 東京国際展示場(俯瞰)
| header_align = center
| header_background = darkgray
| width =
| image1 = big sight west(sky view).jpg
| width1 = 280
| alt1 =
| caption1 = {{Center| 西展示棟(左)と会議棟(右)}}
| image2 = Big sight east(sky view).jpg
| width2 = 280
| alt2 =
| caption2 = {{Center| 東展示棟(奥)}}
}}{{座標一覧|section=各棟・施設}}
会議棟、東展示棟、東新展示棟、西展示棟、南展示棟からなり、会議棟は独特のデザインをしていることで有名である。また、敷地内の巨大彫刻『''{{lang|en|Saw, Sawing}}''(切っている鋸)』([[クレス・オルデンバーグ]]&クージェ・ファン・ブリュッヘン作)も有名である。優秀な建築作品を表彰する[[BCS賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkenren.com/kenchiku/pdf/585/0585.pdf |title=第38回受賞作品(1997年)東京国際展示会(東京ビッグサイト)|newspaper=|publisher=日本建設業連合会|date=|accessdate=2023-05-09}}</ref>。
* 住所:
** 会議棟:東京都江東区有明三丁目11番1号
** 西展示棟:同上
** 東展示棟:東京都江東区有明三丁目10番1号
** 東新展示棟:同上
** 南展示棟:東京都江東区有明三丁目13番1号
* 設計: 株式会社[[佐藤総合計画]]<ref name="読売20221008">【TOKYO たてもの探訪】(83)東京ビッグサイト:進化続ける「空中都市」『[[読売新聞]]』朝刊2022年10月8日(都内面)</ref>
* 施工: [[間組]]JV(会議棟・東展示棟・西展示棟)[[清水建設]](東新展示棟・南展示棟)
* 竣工: [[1995年]]10月
* 敷地面積: 26万5751.63 m<sup>2</sup>
* 延床面積: 31万6990 m<sup>2</sup>
* 総展示面積: 11万5420 m<sup>2</sup>(東西南合計、日本最大)
* 総工費: 1985億円(東新展示棟・南展示棟を含まず、竣工開業時、用地費除く)
=== 各棟・施設 ===
; 会議棟({{Coord|35|37|47.7|N|139|47|38.4|E|region:JP_type:landmark|name=東京国際展示場会議棟}})
: 東・西展示棟をつなぐ中心施設。高層部の逆三角形の形態でシンボル的存在となっている。2階の正面玄関・エントランス[[ホール]]から外に伸びる[[ペデストリアンデッキ]]は、[[東京ビッグサイト駅]]と有明[[フェリーターミナル|客船ターミナル]]、そして[[国際展示場駅]]方面への[[シンボルプロムナード公園|緑道]]に接続する。
: 1,000人を収容する国際会議場や、大小22の会議室と、商業施設があり、東展示棟へ通じる北[[コンコース]]にはレストラン街がある。[[東京湾]]に面することから[[塩害]]防止策として<ref name="読売20221008"/>、会議棟の特徴的な逆三角形の壁面には[[日本製鉄]]の[[TranTixxii]][[チタン]]が使用されており、竣工当初の美観を保っている。
{{Triple image stack|right|Tokyo Big Sight -07.jpg|Tokyo Big Sight West Exhibition Hall Atrium.jpg|ComicMarket 97 - Corporate Area(201912291246).jpg|230|東展示棟|西展示棟内 アトリウム|青海展示棟}}
; 東展示棟({{Coord|35|37|54.3|N|139|47|51.7|E|region:JP_type:landmark|name=東京国際展示場東展示棟}})
: 90m×90mのホールが3つずつ、計6つの展示ホールがガレリアを挟んで向かい合っている。各3つのホールは間仕切りを取り払い、連結することができる。ガレリアの2階にはレストランが並んでいる。エントランスホールからはやや距離があり、連絡通路には[[オートウォーク]]が設置されている。東1〜6の展示面積:51,380㎡
:; 東新展示棟(''暫定設置''・{{ウィキ座標|35|37|58.8|N|139|47|58|E|region:JP_type:landmark|地図|name=東京国際展示場東新展示棟}})
:: 2016年10月に稼働を開始した展示棟。案内上は東展示棟の一部だが独立して建設されており、東3・6ホールと道路を挟んで接続している。地上1階建てで11,680m<sup>2</sup>の東7ホールと3,080 m<sup>2</sup>の東8ホールという大小2つのホールがあり、間にあるリンクスペースを組み合わせることで1つのホールとして使用可能となる。東7・8の展示面積:14,760㎡
; 西展示棟({{Coord|35|37|44.1|N|139|47|41.7|E|region:JP_type:landmark|name=東京国際展示場西展示棟}})
: 1階と4階に2つずつ、計4つのホールがある。1階の各ホールは[[アトリウム]](展示面積:2,000㎡)を取り囲むようにL字型をしており、4階は2つのホールと屋上展示場(展示面積:6,000㎡)が並ぶ。4階ホールへは1階アトリウムからの[[エスカレーター]]と2階エントランスホールからのエスカレーターが、4階屋上展示場へは外階段がある。1階には屋外展示場が隣接していたが、2015年より南展示棟が建設されるため廃止された。イベントによっては、西1・2ホールとアトリウムを一体的に使用することもある。西1〜4の展示面積:29,280㎡(アトリウム・屋上展示場を除く)
; 南展示棟({{Coord|35|37|36.6|N|139|47|44.8|E|region:JP_type:landmark|name=東京国際展示場南展示棟}})
: 西展示棟の南側、屋外展示場の敷地に建設され、2019年7月に開業した展示棟で、西展示棟からは2階コンコースまたは屋上展示場と直結している。西展示棟同様に1階と4階に2つずつ、計4つのホールがあり、各階とも1つのホールとして連結使用可能となっている。北端側にインフォツリーがあり、ビジネスセンターや会議室・レストランなどがある。南端側には7階建ての立体駐車場(収容可能台数普通車349台車椅子用8台)が併設されている。南1〜4の展示面積:20,000㎡
; レストラン・ショップ
: [[レストラン]]は東展示棟ガレリア2階に5店舗、エントランスプラザから東展示棟に向かう北コンコースレストラン街の1階に5店舗、西展示棟の2階から1階へ向かうエスカレーター脇に1店舗、南展示棟4階に1店舗ある。会議棟内には8階に1店舗、西展示棟1階を出た会議棟真下に[[フードコート]]があるほか、エントランスプラザとイベントプラザにカフェが各1店舗ある。
: [[コンビニエンスストア]]はガレリアに[[ファミリーマート]]、エントランスプラザに[[ローソン]]、イベントプラザに[[セブン-イレブン]]、インフォツリーにローソンが出店している。1996年のビッグサイト開業時はファミリーマートがイベントプラザ店、[[am/pm]]がエントランス店とガレリア店の2店という体制だったが、2010年にファミリーマートがエーエム・ピーエム・ジャパンを吸収合併したのに伴い、am/pm2店舗がファミリーマートに転換したため、3店舗全てがファミリーマートに統一、2015年4月までこの状態が続いた。その後、2015年6月5日からエントランス店がローソンに、同年7月27日からイベントプラザ店がセブン-イレブンにそれぞれ転換している。なお、ファミリーマートガレリア店は営業を継続している<ref>{{Cite news |author=林健太 |title=東京ビッグサイトのファミマ閉店! ローソンとセブン-イレブン開店でコンビニ三国志へ |newspaper=ねとらぼ |date=2015-06-04 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1506/04/news087.html |agency=[[ITmedia]] |accessdate=2016-12-18}}</ref>。
: このほかエントランスホールには大型荷物の預かりや後述するビッグサイトカード(館内及び周辺施設のレストランやコンビニエンスストア・売店、自動販売機で使える専用プリペイドカード)の販売、来場記念土産の販売を行っているサービスコーナー、コピーやレンタル[[パーソナルコンピューター|PC]]スペース、データ出力や[[名刺]]作成などビジネスサポートを行うビジター&ビジネスセンターが配置されている。
; 青海展示棟({{Coord|35|37|40.7|N|139|46|51.5|E|region:JP_type:landmark|name=東京国際展示場青海展示棟}})
: 後述の通り[[2020年東京オリンピック・パラリンピック]]開催に伴い、東展示棟が2019年4月から2020年11月まで使用不可になるのを受けて、[[東京テレポート駅]]近くに建設され、2021年11月26日まで期間限定で運用された仮設の展示棟(オリンピック1年延期のため運営期間も1年延長された)。2つのホールで構成され、有明地区との往来は徒歩、[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]、[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]]のほか、無料[[シャトルバス]]の運行も行われた。青海A・Bの展示面積:23,240㎡
; 有明展示場(有明GYM-EX)
: [[2020年東京オリンピックの体操競技]]を行う際に建設された[[有明体操競技場]]を改修し、2023年5月に開業予定の展示施設。運営は東京ビッグサイトが行う。展示面積は約9,400㎡<ref>[https://www.bigsight.jp/visitor/news/2022/hetk7100000006qc.html 有明展示場(有明GYM-EX※)の開業について] 東京ビッグサイト(2022年8月9日)</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC095A40Z00C22A8000000/ 東京ビッグサイト、五輪使用の「有明展示場」23年春開業] [[日本経済新聞]](2022年8月9日)</ref>。
== 催事 ==
下記に示すような多様な催しが開催され、国内のコンベンション・センターとしては、催事件数、来場者数共に群を抜いて多い。
=== 主なイベント ===
*[[東京モーターショー]](国際[[モーターショー]]。設営と撤収を含め3週間近く全館貸切で、総来場者数は当展示場最大)
* [[コミックマーケット]](通称「コミケ」、世界最大の[[同人即売会]]。お盆頃と年末の年2回、全館貸切で開催され、1日あたりの来場者数は当展示場最大)
* [[日本国際工作機械見本市]](略称「JIMTOF」)
* 東京インターナショナル・ギフト・ショー(毎年2・9月の2回開催)
* JAPAN IT WEEK春(日本最大の[[情報技術|IT]]展示会。複数の専門展からなる総称)
* スマートエネルギーWEEK([[新エネルギー]]に関する日本最大の展示会)
* [[街づくり・流通ルネサンス|日経メッセ]](アジア最大級の流通業と店・街づくりに関する総合展示会)
* FOODEX JAPAN 国際食品・飲料展(アジア最大級の食品・飲料の総合展示会)
* [[AnimeJapan]](旧[[東京国際アニメフェア]])(世界最大級の[[アニメーション|アニメ]]イベント)
* ビューティーワールドジャパン東京(化粧品、ネイル、美容機器、ヘア、スパ等[[美容]]に関する総合展示会)
* インターペット([[ペット]]産業に関する日本最大のペットイベント・展示会)
* FOOMA JAPAN(世界最大級の食品製造に関する総合展示会)
* [[東京モーターサイクルショー]]、[[東京おもちゃショー]]、[[世界旅行博|ツーリズムEXPOジャパン]]、[[デザインフェスタ]]、日本ホビーショー、ハンドメイドインジャパンフェス、東京ネイルエキスポ、東京カフェショー、東京eスポーツフェスタ、[[ゲームマーケット]]、[[ドールズパーティー]]、[[トレジャーフェスタ]]、[[アマチュア無線フェスティバル]]、[[全日本模型ホビーショー]]、鉄道模型コンテスト、[[国際鉄道模型コンベンション]]、[[SEMICON Japan]]、[[エコプロダクツ展|エコプロダクツ]]、[[NEW環境展]]、JAPAN PACK 日本包装産業展、[[国際宝飾展]]、国際ロボット展、国際航空宇宙展、国際ホテル・レストラン・ショー、国際福祉機器展、[[自動車部品生産システム展]]、有明骨董ワールド、東京キャンピングカーショー、[[閃光ライオット]]、[[登録販売者|東京都医薬品登録販売者採用試験]]など他多数。
=== エピソード・その他のイベント ===
* 1996年の[[世界都市博覧会]]では、「テーマ館」として使用される予定だったが、中止になったため実現しなかった<ref>財団法人東京フロンティア協会『世界都市博覧会-東京フロンティア- -構想から中止まで-』(1996年)p.50</ref>。当初の予定では、博覧会閉会後の1996年11月に「[[日本国際工作機械見本市]]」でこけら落としとなる予定であったが、中止になったことにより同年4月に開業が前倒しになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www7a.biglobe.ne.jp/~tsudax99/bigsight_hiwa/170_maedaoshi.html|title=東京ビッグサイト誕生秘話 まさかまさかの前倒し開業 |accessdate=2022-12-01}}</ref>。
* [[任天堂]]主催のイベントとしては、2001年に[[ニンテンドーゲームキューブ]]の発表会「the Nintendo difference」<ref>[https://ascii.jp/elem/000/000/325/325548/ 任天堂、『ニンテンドー ゲームキューブ』発表会を開催] - アスキー、2001年8月23日</ref>、2004年に[[ニンテンドーDS]]などの体験会「ニンテンドーワールド Touch! DS」<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0411/13/news01.html 東京で「ニンテンドーワールド Touch! DS」開催中] - ITmedia、2004年11月13日</ref>、2011年に「[[ニンテンドー3DS]]カンファレンス」<ref>[https://www.famitsu.com/news/201109/13050139.html “ニンテンドー3DSカンファレンス 2011”衝撃発表・全詳報] - ファミ通.com、2011年9月13日</ref>、2017年に[[Nintendo Switch]]の発表会および体験会「Nintendo Switch プレゼンテーション」<ref>、[https://www.famitsu.com/news/201701/13124781.html 10分でわかるNintendo Switch! 発売日、仕様、タイトルラインアップなどプレゼンテーションの発表内容を総まとめ] - ファミ通.com、2017年1月13日</ref>、2022年にゲーム大会や体験会、音楽ライブなどの「Nintendo Live」<ref>、[https://www.famitsu.com/news/202210/08278740.html “Nintendo Live 2022”が開催。『スプラトゥーン3』、『スマブラSP』などの体験コーナーや大会などは大盛況] - ファミ通.com、2022年10月8日</ref>などが開催された。
* 2016年まで[[東京マラソン]]のゴール会場になっており、大会前日まで開催される[[東京マラソン#受付|東京マラソンEXPO]]の会場としても2008年より使用されている。表彰式はアトリウムで行われ、周囲に各企業や東京都のブースが設けられる。
* 世界5大[[モーターショー]]の一つである[[東京モーターショー]]が2011年12月上旬に開催された。当展示場の前身である[[東京国際見本市会場]](晴海)で約30年間開催され、1987年の最後の開催から[[千葉市]]の[[幕張メッセ]]に移転した後、24年ぶりに[[東京都区部]]へ戻った。
* 晴海会場に引き続き、首都圏で規模の大きい同人誌即売会のほとんどが開催されている。代表的なものとしては8月中旬と12月下旬に開催され、年間100万人以上を動員する[[コミックマーケット]]のほか、[[コミックシティ]]、[[COMIC1]]、[[COMITIA|コミティア]]、[[東方Project|博麗神社例大祭]]、[[艦隊これくしょん -艦これ-|砲雷撃戦よーい!]]などがある。
* 2007年度は、開業以来最多となる1288万人が来場し<ref>{{Cite web|和書|date=2008-04-30 |url=http://www.bigsight.jp/topics/press080430.pdf |title=東京ビッグサイトの利用実績 平成19年度 展示会等の開催状況 |publisher=東京ビッグサイト |format=PDF |accessdate=2016-12-18}}</ref>、同年[[7月20日]]には、通算来場者数が1億人を突破した<ref>{{Cite web|和書|date=2007-07-20 |url=http://www.bigsight.jp/topics/press070720.pdf |title=東京ビッグサイト、開業以来のご来場者が1億人を突破! |publisher=東京ビッグサイト |format=PDF |accessdate=2016-12-18}}</ref>。
* 2009年には[[日本武道館]]に代わり、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』のメイン会場として使用された。また、同年には同局系の年末大型音楽特番『[[日テレ系音楽の祭典 ベストアーティスト|ベストアーティスト]]』のメイン会場に使用されている。
* 2010年1月11日には同所初の格闘技興行として[[ボクシング|プロボクシング]]ダブル世界戦([[大橋ボクシングジム|大橋]]・[[ワタナベボクシングジム|ワタナベ]]両ジム主催)が開催され、[[内山高志]]が[[世界ボクシング協会|WBA]]世界[[スーパーフェザー級]]王座を獲得した。[[9月25日]]にもWBA世界[[フライ級]]タイトルマッチ[[亀田大毅]](亀田)VS[[坂田健史]]([[協栄ボクシングジム|協栄]])が行われた。
* 2011年の、平成23年度[[東京消防庁]]出初式「広げよう地域の連携 高めよう防災力」(2011年1月6日開催)は、東駐車場がメイン会場となった。
* 海外のコンベンション施設と同様、展示会や見本市の開催が主であるが、稀にコンサート会場として利用されることもあり、この場合は東展示場のホールを単独で利用するか、東1-3と東4-6ホールを繋げて大規模アリーナホールとして利用する。しかし、2000年代末期頃から高稼働率となった影響かコンサートは行われていない。
* [[2024年]]より開催予定の[[フォーミュラE]]世界選手権・[[東京 E-Prix]]では、駐車場がコースの一部やピットレーンとして利用される。
=== 東京2020大会の会場として ===
[[東京2020オリンピック・パラリンピック]]では当初、メインプレスセンター(MPC)および国際放送センター(IBC)、オリンピック([[アマチュアレスリング|レスリング]]、[[テコンドー]]、[[フェンシング]])とパラリンピック([[ボッチャ]]、[[パワーリフティング]]、パラテコンドー)の一部競技の会場として当展示場を使用する予定であったため、これにあわせる形で招致計画の立候補ファイルでも、屋外展示場等がある西展示棟の南側に延べ床面積約44,000m<sup>2</sup>、3層階の新施設を増築するとしていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://tokyo2020.jp/jp/games/plan/data/candidate-section-14-JP.pdf |title=テーマ14 メディア |publisher=東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 |format=PDF |accessdate=2016-12-18}}</ref>。2014年([[平成]]26年)6月17日の[[東京都議会]]にて、屋外展示場がある西展示棟の南側に、現行展示面積(2014年時点で約8万m<sup>2</sup>)の25%(約2万m<sup>2</sup>)程の広さの新棟を2017年度にも着工し、オリンピック前までに完成させるという計画が公開された<ref name="nikkei20140618">{{cite news|title = 東京ビッグサイト、展示面積25%増 五輪までに |url = http://www.nikkei.com/article/DGXNZO72886880X10C14A6L72000/ |publisher = [[日本経済新聞]]|date = 2014年6月18日| accessdate = 2015年2月23日}}</ref>。この新棟はオリンピックの開催時には報道陣向けのプレスセンターとして活用し、大会終了後は展示場に転用する計画とした<ref name="nikkei20140618" /><ref>{{Cite web|和書|date=2014-06-17 |url=http://www.gikai.metro.tokyo.jp/record/proceedings/2014-2/02.html |title=平成26年第2回定例会 本会議録 第8号〔速報版〕 |publisher=東京都議会|accessdate=2016-12-18}}</ref>。
しかしその後、[[国際オリンピック委員会]](IOC)からの指摘があり、2015年6月のIOC理事会ではオリンピックのレスリング、テコンドー、フェンシングと、パラリンピックのボッチャ、パワーリフティング、パラテコンドーの競技会場を、幕張メッセ(千葉市)とすることが承認された。
一方で、大規模修繕や新展示棟建設工事、並びにオリンピック開催に伴い、展示棟がしばらく使用できなくなることから、この期間の国際会議や大型展示会の開催を外国の展示場に奪われたり、既存の展示会が開催できなくなったりするなどの影響が出ることが懸念された<ref>[https://webronza.asahi.com/science/articles/2018060500003.html 「ビッグサイト問題」に学会・産業界が危機感] 朝日新聞社 [[論座|WEBRONZA]](2018年6月25日)</ref>。この影響を最小限にするため、東展示場臨時駐車場の敷地に、延べ床面積約20,000m<sup>2</sup>、展示面積約16,000m<sup>2</sup>程度の仮設展示場を建設した<ref>{{Cite news |title=東京ビッグサイト、五輪にらみ仮設展示場 2万平方メートル100億円 |newspaper=日本経済新聞 |date=2014-10-29 |url=http://www.nikkei.com/article/DGKKZO79003120Y4A021C1L83000/ |accessdate=2016-12-18}}</ref><ref>{{Cite news |title=佐藤総合と随契/東京都財務局の東京国際展示場基本設計 |newspaper=建設通信新聞 |date=2014-12-08 |url=http://www.kensetsunews.com/?p=40422 |archiveurl=https://archive.is/20141211091846/http://www.kensetsunews.com/?p=40422 |archivedate=2014年12月11日 |accessdate=2016-12-18 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。東京ビッグサイトが主体となって計画し、事業費は約100億円、デザインビルド方式で設計・施工業者を一括選定・発注し、2015年度に着工、2016年(平成28年)10月に完成し、東7・8ホールとして運用を開始した。10年間程度の運用を予定している。
また、オリンピック期間前後には展示場の使用ができなくなる事から、東京都は、りんかい線[[東京テレポート駅]]近くの臨時駐車場として使用している都有地に、展示面積約24,000m<sup>2</sup>の仮設展示場(青海展示棟)を建設し、2019年4月に開業した。当初はオリ・パラ終了後の2020年11月まで運営する予定であったが<ref>「[https://web.archive.org/web/20161028125827/http://www.asahi.com/articles/ASJ2R61VVJ2RUTIL042.html 東京ビッグサイト、コミケなど救済策 19年に仮設施設]」[[朝日新聞デジタル]](2016年2月24日)</ref><ref>「[https://www.sankei.com/article/20161111-RGLKH5YNC5MVZHIX5IR7VWXTYA/ ビッグサイトの代替仮設展示場 設置期間1年8カ月に延長]」[[産経デジタル|産経ニュース]](2016年11月11日)</ref><ref>[https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2016/11/10/16.html 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会に伴う東京ビッグサイトの利用制約への対応について] [[東京都産業労働局]](2016年11月10日)</ref>、しかし[[COVID-19]]パンデミックの影響でオリンピックが1年間延期したことに伴い青海展示場の運営も1年延長され、2021年11月26日に営業を終了。12月に東新展示棟が営業を再開することとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/T_Bigsight/status/1464172362979373056|title=青海展示棟最終日|publisher=株式会社東京ビッグサイト|date=2021-11-26|accessdate=2021-11-27}}</ref>。
2019年7月からオリンピック関連の一部占有が始まり、2021年7月から9月のオリンピック・パラリンピック開催中は全館が使用された。
== 交通機関 ==
* [http://www.bigsight.jp/access/transportation/ 交通アクセス]を参照。
== ビッグサイトカード ==
株式会社東京ビッグサイトの子会社の株式会社ビッグサイトサービスにより[[プリペイドカード]]「ビッグサイトカード」が発行されており、催事主催者による[[ノベルティ]]などとして利用されている。館内の飲食店やコンビニエンスストア、自動販売機の他、[[有明パークビル]]と[[東京ベイ有明ワシントンホテル]]の一部店舗で利用可能。1000円券と3000円券の2種類あり、有効期間は6か月。
== パブリックアート ==
敷地内には[[パブリックアート]]が複数設置されている。
{| class="wikitable"
|+ アート作品の一覧<ref>津田隆志(tsudax99)「東京ビッグサイト誕生秘話 [http://www7a.biglobe.ne.jp/~tsudax99/bigsight_hiwa/145_objet.html 金魚じゃないよ、ノコギリだよ]」、2018年8月16日</ref><ref>「館内サービス [https://www.bigsight.jp/visitor/services/artwork.html アートワーク情報]」『東京ビッグサイト(東京国際展示場)』、東京ビッグサイト</ref>
|-
! 作品名 !! 作者 !! 設置場所
|-
| Saw, Sawing || [[クレス・オルデンバーグ|Claes Oldenburg]], {{仮リンク| Coosje van Bruggen | en | Coosje van Bruggen }} || 会議棟 メインエントランス
|-
|七つの泉 || [[長澤英俊]] || レセプションホール前の庭園
|-
| 項(Relatum) || [[李禹煥]] || 会議棟1階 レストラン前
|-
| UNTITLED-Three types #3 || [[笠原恵実子]] || 会議棟1階 レストラン横の緑地
|-
| Floating World || {{仮リンク| Michael Craig-Martin | en | Michael Craig-Martin}} || レセプションホール・ホワイエ 壁画
|-
| マブキの時空 || [[斎藤義重]] || 会議棟7階 ロビー
|-
| 沙(すな)の輪舞曲 || rowspan="2" | [[田村能里子]] || rowspan="2" | 会議棟7階 ホワイエ
|-
| 長い午后
|}
== イメージキャラクター ==
2011年に[[フランス]]の首都[[パリ]]で開かれた[[JAPAN EXPO]]において、宣伝広報特命担当として東京ビッグサイトのイメージキャラクターが発表されている。2012年6月に名前の公募が行われ<ref>{{Cite news |title=東京ビッグサイトのイメージキャラクターの名付け親になれるぞー! |newspaper=ITmedia |date=2012-06-27 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1206/27/news029.html |accessdate=2016-12-18}}</ref>、同年9月に1,130案の中から決定した<ref>{{Cite web|和書|date=2012-09-12 |url=http://www.bigsight.jp/newsrelease/pdf/press120912.pdf |title=東京ビッグサイトイメージキャラクターの名前☆決定!!姉「さいと みらい」& 妹「さいと ゆめ」 |publisher=東京ビッグサイト |format=PDF |accessdate=2016-12-18}}</ref>。
[[七瀬葵]]がデザインした姉の「さいと みらい」と、[[いずみべる]]がデザインした妹の「さいと ゆめ」の2人で、いずれのキャラクターも会議棟の建物を模した髪飾りを身につけている。ビッグサイト内の売店ではこのキャラクターのオリジナルグッズを販売している。
* [http://www.bigsight.jp/services/character/ 東京ビッグサイトイメージキャラクター]を参照。
== エリア放送 ==
東京ビッグサイトは[[エリア放送]][[地上一般放送局]]の免許を取得し
<ref>[https://web.archive.org/web/20140202192403/http://www.area-broadcasting.jp/menkyo.html 免許取得状況] エリア放送開発委員会([[Internet Archive]]のアーカイブ:2014年2月2日収集)</ref>、フルセグおよび[[ワンセグ放送]]を実施している。
構内に地上一般放送局3局が設置されている<ref>[https://www.soumu.go.jp/soutsu/kanto/bc/eria/shousai.html#s11 エリア放送を行う地上一般放送局の免許状況(詳細)][[関東総合通信局]]</ref>。
{|class="wikitable"
|-
![[免許人]]!!局名!![[識別信号#呼出符号|呼出符号]]!![[物理チャンネル]]!![[電波の周波数による分類|周波数]]!![[空中線電力]]!![[実効放射電力|ERP]]!!業務区域
|-
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|<small>東京ビッグサイトガレリアエリア放送</small>||JOXZ3BH-AREA
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|-
|<small>東京ビッグサイトイーストプロムナードエリア放送</small>||JOXZ3BI-AREA
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== ギャラリー ==
<gallery widths="160px" heights="200px" perrow="5">
ファイル:Tokyo Big Sight at Night.jpg|会議棟(遠景、[[夜景]])
ファイル:Ariake Port Terminal and Tokyo Big Sight.jpg|会議棟と有明客船ターミナル(遠景)
<!--※ここまで外観、ここから建物内部。-->
ファイル:Tokyo Big Sight gennkann.jpg|会議棟内 2階 正面玄関
ファイル:Tokyo Big Sight Entrance Hall Inside.jpg|会議棟内 エントランスホール
ファイル:Tokyo Big Sight Passway.jpg|東西の連絡通路
ファイル:Tokyo Big Sight East Exhibition Hall Galleria.jpg|東展示棟 ガレリア
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{{Commonscat|Tokyo Big Sight}}
== 近隣施設 ==
* [[東京ファッションタウン]]
* [[有明フロンティアビル]]
* [[東京ベイ有明ワシントンホテル]]
* [[相鉄グランドフレッサ東京ベイ有明]]
* [[ダイワロイネットホテル|ダイワロイネットホテル東京有明]]
* [[東京ベイコート倶楽部ホテル&スパリゾート]]
** [[リゾートトラスト|ホテルトラスティ東京ベイサイド]]
* [[有明パークビル]]
* [[コナミクリエイティブフロント東京ベイ]](2025年竣工予定)
* [[東京ドリームパーク]](2026年春開業予定)
* [[テーオーシー|TOC有明]]
* [[シンボルプロムナード公園]]
* [[がん研究会有明病院]]
* [[武蔵野大学]]有明キャンパス
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[日本の見本市会場一覧]]
* [[世界都市博覧会]]
* [[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]] - 舞台となる「虹ヶ咲学園」は本施設をモデルにしており、周辺施設も登場する。
== 外部リンク ==
{{Mapbox|zoom=13|type=point}}
* [https://www.bigsight.jp/ 東京ビッグサイト(東京国際展示場)]
* {{Twitter|T_Bigsight|東京ビッグサイト}} {{ja icon}}{{en icon}}
* [https://www.bigsight-services.co.jp/ 株式会社ビッグサイトサービス]
{{Odaiba area sights}}
{{Commercial establishment of Mitsubishi Estate Group}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:とうきようこくさいてんししよう}}
[[Category:江東区の建築物]]
[[Category:日本のコンベンションセンター]]
[[Category:有明 (江東区)]]
[[Category:第38回BCS賞]]
[[Category:東京都のコンサート会場]]
[[Category:日本のボクシング会場]]
[[Category:24時間テレビ]]<!--2009年のメイン会場-->
[[Category:2020年東京オリンピックの会場]]
[[Category:東京都の放送送信所]]
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[[Category:逆ピラミッド]]
[[Category:1995年竣工の日本の建築物]]
[[Category:1996年開業の施設]]
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17,306 |
東京ビックサイト
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以下のコメントは、[[Template:Long comment]]をsubst展開(ソースに「subst:Long comment」を二重の中括弧で括った上で追加)することによって挿入された長いコメント(<!--と-->(実際には不等号は半角です)で囲まれた部分のことです)です。このコメントは、編集画面においてのみ表示され、閲覧画面においては表示されないような仕組みになっています。このコメントは、ソフトリダイレクトなどの、特別な事情があるために、どうしても非常に短い状態にならざるを得ない記事に挿入されています。[[特別:短いページ]]には、テスト投稿やサブスタブ記事のように、メンテナンスを必要とする極めて短い記事がページサイズの小さい順に並べられています。しかし、この特別ページにソフトリダイレクトなどの、必然的にページサイズが小さくなってしまうようなページへのリンクが大量に並んでしまうと、[[特別:短いページ]]本来の役割を損なってしまう恐れがあります。この長いコメントを挿入していることで、ソフトリダイレクトのようなページが[[特別:短いページ]]に載らないようにし、[[特別:短いページ]]が使いやすく保たれています。このコメントの必要性・有用性を理解しないままコメントや{{Short pages monitor}}を除去したり、短く改変したりすることは、どうか控えてくださるようご協力をお願い申し上げます。それを理解した上で、もし除去する必要がある場合は、必ずこのコメントと一緒に、{{Short pages monitor}}も除去するようにしてください。なお、{{Short pages monitor}}は、[[Template:Long comment]]をsubst展開して使用した記事を追跡するためのテンプレートです。
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国際展示場駅
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国際展示場駅(こくさいてんじじょうえき)は、東京都江東区有明二丁目にある、東京臨海高速鉄道(TWR)りんかい線の駅である。りんかい線公式ウェブサイトに掲載されている路線図では「(東京ビッグサイト)」と括弧書きが付されている。駅番号はR 03。
ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)有明駅との乗換駅である。
東京臨海副都心の東部、有明南地区に位置する。東京国際展示場(東京ビッグサイト)最寄駅の1つであり、同施設を会場として行われるコミックマーケットなどの開催期間中は、東京ビッグサイト駅や有明駅とともに混雑する。
島式ホーム1面2線を有する地下駅である。当駅部分はりんかい線工事に際し、国鉄時代に取得済みだった用地を転用し新規に掘削された部分である。
駅舎及び改札口は地上にある。駅舎の外観は幌馬車をかたどったもので、屋根は半透明のテフロン膜を使用している。東京国際展示場での催事開催に伴う乗客集中による混雑緩和のため、地上部コンコースが広く、天井が高い開放感ある構造となっている。
2021年度の1日平均乗車人員は19,973人である(りんかい線内8駅中第4位)。
開業後の1日平均乗車人員は下表の通りである。
当駅は、1961年に制定された「東京港改定港湾計画」に基づく東京港内の埋立地(人工島)の1つ「10号地」(有明)中央部に位置する。従って歴史は比較的浅く、東京港鉄鋼埠頭を始め大型倉庫や大型施設などが立地している。東京国際展示場(東京ビッグサイト)は催事により東京都内有数の集客施設となる。当駅周辺地域を指し示す際に当駅の駅名はあまり使われず、地名の「有明」が通じやすい。駅前交差点の名もゆりかもめの駅から採られた「有明駅前」となっている。
駅前にロータリーがあり、以下の路線が乗り入れ、東京都交通局、東京BRT・京成バス、東京空港交通・千葉内陸バス・ちばグリーンバス・関東鉄道、関東バス、遠州鉄道、ジェイアールバス関東・西日本ジェイアールバスにより運行されている。停留所名は都営バスが国際展示場駅前、東京BRTが国際展示場(ナンバリング:B05)、それ以外は国際展示場駅である。
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"text": "国際展示場駅(こくさいてんじじょうえき)は、東京都江東区有明二丁目にある、東京臨海高速鉄道(TWR)りんかい線の駅である。りんかい線公式ウェブサイトに掲載されている路線図では「(東京ビッグサイト)」と括弧書きが付されている。駅番号はR 03。",
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"text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅である。当駅部分はりんかい線工事に際し、国鉄時代に取得済みだった用地を転用し新規に掘削された部分である。",
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"text": "駅舎及び改札口は地上にある。駅舎の外観は幌馬車をかたどったもので、屋根は半透明のテフロン膜を使用している。東京国際展示場での催事開催に伴う乗客集中による混雑緩和のため、地上部コンコースが広く、天井が高い開放感ある構造となっている。",
"title": "駅構造"
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"text": "開業後の1日平均乗車人員は下表の通りである。",
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"text": "当駅は、1961年に制定された「東京港改定港湾計画」に基づく東京港内の埋立地(人工島)の1つ「10号地」(有明)中央部に位置する。従って歴史は比較的浅く、東京港鉄鋼埠頭を始め大型倉庫や大型施設などが立地している。東京国際展示場(東京ビッグサイト)は催事により東京都内有数の集客施設となる。当駅周辺地域を指し示す際に当駅の駅名はあまり使われず、地名の「有明」が通じやすい。駅前交差点の名もゆりかもめの駅から採られた「有明駅前」となっている。",
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"text": "駅前にロータリーがあり、以下の路線が乗り入れ、東京都交通局、東京BRT・京成バス、東京空港交通・千葉内陸バス・ちばグリーンバス・関東鉄道、関東バス、遠州鉄道、ジェイアールバス関東・西日本ジェイアールバスにより運行されている。停留所名は都営バスが国際展示場駅前、東京BRTが国際展示場(ナンバリング:B05)、それ以外は国際展示場駅である。",
"title": "駅周辺"
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] |
国際展示場駅(こくさいてんじじょうえき)は、東京都江東区有明二丁目にある、東京臨海高速鉄道(TWR)りんかい線の駅である。りんかい線公式ウェブサイトに掲載されている路線図では「(東京ビッグサイト)」と括弧書きが付されている。駅番号はR 03。 ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)有明駅との乗換駅である。
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{{Otheruses|東京臨海高速鉄道りんかい線の駅|近接するゆりかもめ東京臨海新交通臨海線の駅|有明駅 (東京都)|かつて「国際展示場正門駅」と称していたゆりかもめ東京臨海新交通臨海線の駅|東京ビッグサイト駅}}
{{駅情報
|社色 = #00418e
|文字色 =
|駅名 = 国際展示場駅
|画像 = Kokusai-Tenjijō Station, at Ariake, Koto, Tokyo (2019-01-01) 01.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 幌馬車をイメージした地上駅舎(2019年1月)
|地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail-metro|marker2=rail|coord={{coord|35|38|3.8|N|139|47|29.8|E}}|title=国際展示場駅|coord2={{coord|35|38|4.7|N|139|47|35.7|E}}|title2=有明駅|marker-color=00418e|marker-color2=27404E}}右は乗換駅の有明駅
|よみがな = こくさいてんじじょう
|ローマ字 = Kokusai-tenjijo
|副駅名 = 東京ビッグサイト前
|前の駅 = R 02 [[東雲駅 (東京都)|東雲]]
|駅間A = 1.3
|駅間B = 1.4
|次の駅 = [[東京テレポート駅|東京テレポート]] R 04
|電報略号 = コク
|駅番号 = {{駅番号r|R|03|#00418e|6|#ADD8E6}}
|所属事業者 = [[東京臨海高速鉄道]]
|所属路線 = {{color|#00418e|●}}[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]
|キロ程 = 3.5
|起点駅 = [[新木場駅|新木場]]
|所在地 = [[東京都]][[江東区]][[有明 (江東区)|有明]]二丁目5-25
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 38 | 緯度秒 = 3.8 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 47 | 経度秒 = 29.8 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
| 座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月30日]]<ref name="交通960402">{{cite news|title=臨海副都心線が開業 |newspaper=[[交通新聞]]|date=1996-04-02 |publisher=[[交通新聞社]]|page=3 }}</ref><ref name="RF422_83">{{Cite journal|和書|author=斎藤義雄(東京臨海高速鉄道運輸部運転課)|date=1996-06-01|title=東京臨海高速鉄道 臨海副都心線 開業|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=36|issue=第6号(通巻422号)|pages=83 - 87|publisher=[[交友社]]}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 19,973
|乗降人員 =
|統計年度 = [[2021年]]
|乗換 = {{駅番号r|U|12|#0073bc|6}} [[有明駅 (東京都)|有明駅]]([[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]])
|備考 =
}}
'''国際展示場駅'''(こくさいてんじじょうえき)は、[[東京都]][[江東区]][[有明 (江東区)|有明]]二丁目にある、[[東京臨海高速鉄道]](TWR)[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]の[[鉄道駅|駅]]である。りんかい線公式ウェブサイトに掲載されている路線図では「(東京ビッグサイト)」と括弧書きが付されている<ref>[http://www.twr.co.jp/route/tabid/102/Default.aspx 駅情報・時刻表・運賃|お台場電車 りんかい線] </ref>。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''R 03'''。
[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線]](ゆりかもめ)[[有明駅 (東京都)|有明駅]]との[[乗換駅]]である。
== 概要 ==
[[東京臨海副都心]]の東部、有明南地区に位置する。[[東京国際展示場]](東京ビッグサイト)最寄駅の1つであり、同施設を会場として行われる[[コミックマーケット]]などの開催期間中は、[[東京ビッグサイト駅]]や[[有明駅 (東京都)|有明駅]]とともに混雑する。
== 歴史 ==
[[File:Nijigasaki Gakuen Mae Station (Kokusai-Tenjijō Station), Rinkaisen, Dec 24 2022.jpg|thumb|虹ヶ咲学園前(国際展示場)駅]]
* [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月30日]]:[[新木場駅]] - [[東京テレポート駅]]間の開業と同時に臨海副都心線の駅として開業{{R|交通960402}}<ref name="RF422_83" />。
* [[1997年]](平成9年):「[[関東の駅百選]]」に認定される。選定理由は「屋根が半透明なテフロン膜で、[[幌馬車]]をイメージさせる駅」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=24 - 25・226頁|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[9月1日]]:案内上の路線名が「りんかい線」となる<ref name="aisyouset">{{Cite web|url=http://www.twr.co.jp/aisyouset.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000829033800/http://www.twr.co.jp/aisyouset.html|title=愛称名は「りんかい線」に決定!|archivedate=2000-08-29|accessdate=2022-03-27|publisher=東京臨海高速鉄道|language=日本語|deadlinkdate=2022年3月}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171105133949/http://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|format=PDF|language=日本語|title=Suicaがもっと便利に! 東京臨海高速鉄道(株)との相互利用開始!|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-10-08|accessdate=2020-02-04|archivedate=2017-11-05}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[8月9日]]:同日から9月30日までの期間限定で[[ゼンリン]]「いつもNAVI」のCMソングを[[発車メロディ]]として使用。また、これを利用して発車メロディの曲を当てるキャンペーンを実施していた<ref>[http://www.advertimes.com/20120809/article80466/ 「国際展示場」駅の発車メロディーに使われているCMソングを当てるキャンペーン] AdverTimes 2012年8月12日閲覧。</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[3月13日]] - [[6月22日]]:期間限定で「[[日清Spa王]]」のCMソングを発車メロディとして使用。
* [[2018年]](平成30年)[[9月30日]]:[[ホームドア]]の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2018/homedoor2018.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180921115047/http://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2018/homedoor2018.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ホームドア設備計画 国際展示場駅運用開始時期について|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2018-09-21|accessdate=2020-02-04|archivedate=2018-09-21}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月18日]]:漫画家[[手塚治虫]]の作品に登場する36キャラクターを描いた大型[[レリーフ]]をコンコースに設置<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2019/public%20art_Osamu%20Tezuka.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200204193731/https://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2019/public%20art_Osamu%20Tezuka.pdf|format=PDF|language=日本語|title=パブリックアート作品『Osamu Tezuka,Characters on Parade〜手塚治虫キャラクター大行進』が国際展示場駅に設置されました!|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2019-03-18|accessdate=2020-02-04|archivedate=2020-02-04}}</ref>。
* [[2021年]]([[令和]]3年)[[9月22日]]:同年[[9月26日]]に開館する[[有明ガーデン#有明四季劇場|有明四季劇場]]に先駆け、[[発車メロディ]]を同劇場で上演される[[ライオン・キング (ミュージカル)|ライオン・キング]]の「ハクナ・マタタ」(1番線)・「サークル・オブ・ライフ」(2番線)に変更<ref name="melody">{{Cite web|url=https://www.twr.co.jp/tabid/101/Default.aspx?itemid=699&dispmid=860|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210924001406/https://www.twr.co.jp/tabid/101/Default.aspx?itemid=699&dispmid=860|title=劇団四季 ディズニーミュージカル『ライオンキング』の発車メロディについて|date=2021-09-22|archivedate=2021-09-24|accessdate=2021-09-24|publisher=東京臨海高速鉄道|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[12月24日]]- :全線開通20周年と「[[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]」とのコラボ企画として下り1番線の駅名標1箇所を[[2023年]][[3月31日]]まで「虹ヶ咲学園前(国際展示場)」に変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lovelive-anime.jp/news/01_1376.html|title=りんかい線全線開業20周年を記念して、りんかい線と『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』のコラボ決定のお知らせ!|date=2022-12-01|accessdate=2022-12-02}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.twr.co.jp/tabid/101/Default.aspx?itemid=864|language=日本語|title=『ラブライブ!虹ケ咲学園スクールアイドル同好会』とのコラボ決定(1月14日更新)|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2023-01-14|accessdate=2023-03-27}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]である<ref name="RF422_83" />。当駅部分はりんかい線工事に際し、[[日本国有鉄道|国鉄]]時代に取得済みだった用地を転用し新規に掘削された部分である。
駅舎及び改札口は地上にある。駅舎の外観は[[幌馬車]]をかたどったもので、屋根は半透明の[[ポリテトラフルオロエチレン|テフロン]]膜を使用している<ref name="RF422_83" />。東京国際展示場での催事開催に伴う乗客集中による混雑緩和のため、地上部[[コンコース]]が広く、天井が高い開放感ある構造となっている。
=== のりば ===
<!--番線欄のカラーは発車標などでの上り下りの色分け-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!colspan="2"|行先<ref>{{Cite web |url=https://www.twr.co.jp/route/tabid/111/Default.aspx?TabModule1386=0 |title=国際展示場駅 時刻表 |publisher=東京臨海高速鉄道 |accessdate=2023-06-06}}</ref>
|-
! 1
| rowspan="2"|[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線
| style="text-align:center" | 下り
| style="background:#00b48d" |
| [[大崎駅|大崎]]・[[File:JR JA line_symbol.svg|15px|JA]] [[埼京線]]([[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]])方面
|-
! 2
| style="text-align:center" | 上り
| style="background:#0072ff" |
| [[新木場駅|新木場]]方面
|}
<gallery perrow="5" widths="200" style="font-size:90%;">
ファイル:Kokusai-tenjijo-STA Gate.jpg|改札口(2022年3月)
ファイル:Kokusai-tenjijo-STA_Home.jpg|ホーム(2022年3月)
</gallery>
== 利用状況 ==
2021年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''19,973人'''である<ref group="利用客数">[https://www.twr.co.jp/contact/tabid/224/Default.aspx よくあるご質問|お問い合わせ|お台場電車 りんかい線] (ページ上段)</ref>(りんかい線内8駅中第4位)<!--東京都統計年鑑-->。
開業後の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365(or366)で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.koto.lg.jp/kuse/tokeshiryo/databook/index.html 江東区データブック] - 江東区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|4,751
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|5,126
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|5,205
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|5,959
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|6,926
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|7,362
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|-
|2002年(平成14年)
|9,112
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|-
|2003年(平成15年)
|13,913
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|-
|2004年(平成16年)
|15,770
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
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|-
|2007年(平成19年)
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|2008年(平成20年)
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|2009年(平成21年)
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|23,860
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|29,100
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|32,103
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|33,308
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|35,679
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|34,238
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|34,494
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|33,593
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|29,379
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|16,629
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|19,973
|
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Ariake.jpg|thumb|right|230px|東京国際展示場に通じる道(2014年6月15日)]]
[[ファイル:有明駅前 - panoramio.jpg|サムネイル|当駅(左)とゆりかもめ有明駅(高架)]]
当駅は、[[1961年]]に制定された「東京港改定港湾計画」に基づく[[東京港]]内の埋立地([[人工島]])の1つ「10号地」(有明)中央部に位置する。従って歴史は比較的浅く、東京港鉄鋼埠頭を始め大型倉庫や大型施設などが立地している。東京国際展示場(東京ビッグサイト)は催事により東京都内有数の集客施設となる。当駅周辺地域を指し示す際に当駅の駅名はあまり使われず、地名の「有明」が通じやすい。駅前交差点の名もゆりかもめの駅から採られた「有明駅前」となっている。
* [[東京国際展示場]](東京ビッグサイト)
* [[有明駅 (東京都)|有明駅]]([[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]])
* [[東京ビッグサイト駅]](ゆりかもめ)
* [[有明ガーデン]]
** [[東京ガーデンシアター]]
** [[有明ガーデン#有明四季劇場|有明四季劇場]]
** [[有明ガーデン#ホテル ヴィラフォンテーヌ グランド東京有明|ホテル ヴィラフォンテーヌ グランド東京有明]]
* [[シンボルプロムナード公園]]
* [[有明テニスの森公園]]
** [[有明コロシアム]]
* 有明オリンピック・パラリンピックパーク<ref>{{Cite web|和書|title=「オリンピック・パラリンピックパーク」をレガシーに かけがえのない感動と記憶を、次世代へ|publisher=[[東京都生活文化スポーツ局]]|date=2022-07-21|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2022/07/21/10.html|accessdate=2023-10-06}}</ref>
** [[有明親水海浜公園]]
** [[有明アーバンスポーツパーク]]
** [[有明体操競技場|有明展示場(有明GYM-EX)]]
** [[有明アリーナ]]
* [[東京ファッションタウン#東京ファッションタウンビル(TFTビル)|東京ファッションタウン]](TFT)
* [[がん研究会有明病院]](がん研有明病院)
* [[パナソニックセンター東京]]
* [[有明パークビル]]
* [[有明フロンティアビル]]
* [[テーオーシー|TOC有明]]
* [[東京臨海広域防災公園]](そなエリア東京)
* [[東京ベイ有明ワシントンホテル]]
* [[相鉄グランドフレッサ東京ベイ有明]]
* [[ダイワロイネットホテルズ|ダイワロイネットホテル東京有明]]
* [[東京ベイコート倶楽部ホテル&スパリゾート]]
** [[リゾートトラスト|ホテルトラスティ東京ベイサイド]]
* [[武蔵野大学]]有明キャンパス
* [[東京有明医療大学]]
* [[有明教育芸術短期大学]]
* [[都営バス有明営業所]]
* [[東京都水道局]]有明給水所
* 東京都水道局[[東京都水の科学館]]
* [[東京港#有明(10号地埠頭)|有明フェリー埠頭]]
** [[東京港フェリー埠頭|東京港フェリーターミナル]] ([[オーシャントランス|オーシャン東九フェリー]]) - 後述のバス利用、または徒歩約25分。
* [[海の森水上競技場]] - 無料シャトルバスで連絡。
=== バス路線 ===
駅前に[[ロータリー交差点|ロータリー]]があり、以下の路線が乗り入れ、[[都営バス|東京都交通局]]、[[東京BRT]]・[[京成バス]]、[[東京空港交通]]・[[千葉内陸バス]]・[[ちばグリーンバス]]・[[関東鉄道]]、[[関東バス]]、[[遠鉄バス|遠州鉄道]]、[[ジェイアールバス関東]]・[[西日本ジェイアールバス]]により運行されている。停留所名は都営バスが'''国際展示場駅前'''、東京BRTが'''国際展示場'''(ナンバリング:'''B05''')、それ以外は'''国際展示場駅'''である。
* [[路線バス]]
** [[都営バス深川営業所#門19系統|門19系統]]:[[門前仲町駅|門前仲町]]行 / [[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]行(都営)
** [[都営バス江東営業所#錦18・急行05・直行03系統|錦18系統]]: [[錦糸町駅|錦糸町駅前]]行(都営)※平日日中のみ
** 東京BRT 幹線ルート(BRT 1):[[東京テレポート駅|東京テレポート]]行 / [[新橋駅|新橋]]行・[[虎ノ門ヒルズ駅|虎ノ門ヒルズ]]行(東京BRT・京成) ※東京テレポート行は土休日のみ。京成は連節車のみ担当
** [[東京港フェリー埠頭|東京港フェリーターミナル]]行 / [[東京駅のバス乗り場|東京駅日本橋口]]行(JR) ※高速バス仕様車両(ハイデッカー車)で運行
* [[高速バス]]
** 空港連絡バス([[リムジンバス]]):[[東京国際空港|羽田空港]]行(東京空港交通)
** マイタウン・ダイレクトバス:[[ユーカリが丘]]方面([[京成臼井駅]]南口経由[[ユーカリが丘]](宮の台))行([[千葉内陸バス]]・[[ちばグリーンバス]])
** 高速バス:[[つくばセンター]]経由 [[土浦駅|土浦駅東口]]行(関東鉄道)
** お台場急行バス:[[高井戸駅]]・[[吉祥寺駅]]経由 [[関東バス武蔵野営業所]]行(関東バス)
** [[横浜イーライナー]]:[[浜松駅バスターミナル|浜松駅]]行(遠州鉄道)
** [[ドリーム号|グランドリーム号]]:[[京都駅]]烏丸口・[[大阪駅]]バスターミナル・[[三宮バスターミナル]]行(JRバス関東・[[西日本JRバス]])
* その他
** [[海の森水上競技場]]への無料シャトルバスがジャガー・ランドローバー有明店の前から運行される<ref>[https://www.uminomori.tokyo/access/ 海の森水上競技場・アクセス]</ref>。
== 隣の駅 ==
; 東京臨海高速鉄道
: [[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車<!-- カラーはE233系のフルカラー方向幕の色に準拠 --->
::: [[東雲駅 (東京都)|東雲駅]] (R 02) - '''国際展示場駅 (R 03)''' - [[東京テレポート駅]] (R 04)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
=== 利用状況 ===
; 私鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; 私鉄の統計データ
{{Reflist|group="統計"}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kokusai-Tenjijō Station}}
* [https://www.twr.co.jp/route/tabid/110/Default.aspx 東京臨海高速鉄道 国際展示場駅]
{{りんかい線}}
{{関東の駅百選}}
{{Odaiba area sights}}
{{DEFAULTSORT:こくさいてんししよう}}
[[Category:江東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 こ|くさいてんししよう]]
[[Category:東京臨海高速鉄道|こくさいてんししようえき]]
[[Category:1996年開業の鉄道駅]]
[[Category:有明 (江東区)|こくさいてんししようえき]]
|
2003-09-18T18:13:13Z
|
2023-12-11T17:18:18Z
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17,309 |
南海多奈川線
|
多奈川線(たながわせん)は、大阪府泉南郡岬町のみさき公園駅から多奈川駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線である。
全列車がワンマン運転の2両編成で、みさき公園駅 - 多奈川駅間を往復する線内折り返し運転の普通車(普通列車)である。平日の朝夕・夜間はおおむね20分から30分間隔、平日昼間と土日祝日はおおむね1時間間隔で運転される。車両は2200系電車が主体で、ごくまれに7100系電車が使用されている。
1990年代まで深日港より大阪湾フェリー・深日海運の淡路航路があり、難波駅 - 多奈川駅間を直通する-急行-「淡路号」が1993年まで運転されていた(春木駅停車の白線急行として運転)。「淡路号」には、初代1000系・7000系・7100系・9000系・2代目1000系電車が6両編成で使用されていた。
潜水艦や海防艦を建造していた川崎重工業泉州工場への通勤の足として、1944年(昭和19年)に開業した。終点の多奈川駅の他に、多奈川線が深日の集落に近接して敷設されたことから深日町駅も設けられ、南海本線の南淡輪(現・みさき公園) - 孝子間にあった深日駅は旅客営業廃止(翌年貨物営業も廃止)となった。
1948年(昭和23年)には川崎重工業泉州工場の船溜を改修して深日港が完成し、合わせて深日港駅が開業。淡路航路(深日海運、後に大阪湾フェリーも)と四国航路(徳島フェリー)が開設され、難波から連絡急行の運転が開始されて、大阪 - 淡路島・徳島間を最短で結ぶメインルートとして賑わっていた。しかし、1970年代以降は大阪港や神戸港に発着するフェリーや高速船の充実もあって、深日港ルートを利用する旅客は次第に減少し、1993年(平成5年)に難波 - 和歌山市間の急行の増発(1時間2本→3本)に伴い連絡急行は廃止された。その後、1998年(平成10年)の明石海峡大橋の開通によって旅客や航送車などが激減したため、深日海運・徳島フェリーは廃止され、大阪湾フェリーは南海淡路ラインとなり泉佐野港発着に変更されたが、これも2007年(平成19年)1月末で休止となった。
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多奈川線(たながわせん)は、大阪府泉南郡岬町のみさき公園駅から多奈川駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線である。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Nankai group logo.svg|24px|link=南海電気鉄道]] 多奈川線
|路線色 = #0065AF
|ロゴ = Nankai mainline symbol.svg
|ロゴサイズ = 48px
|画像 = Tanagawa stn.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 多奈川駅に停車中の[[南海22000系電車#2200系|2200系]]
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]]
|起点 = [[みさき公園駅]]
|終点 = [[多奈川駅]]
|路線記号 = [[File:Number prefix Nankai Railway line.svg|25px|NK]] NK
|駅数 = 4駅
|開業 = [[1944年]][[5月31日]]
|廃止 =
|所有者 = <!-- [[南海電気鉄道|南海鉄道]]→[[近畿日本鉄道]]→ -->[[南海電気鉄道]]
|運営者 = 南海電気鉄道
|使用車両 = [[#運行形態|運行形態]]の節を参照
|路線距離 = 2.6 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]])
|線路数 = [[単線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 =
|最小曲線半径 =
|最大勾配 =
|最高速度 = 50km/h
|路線図 = Nankai_Electric_Railway_Linemap.svg
}}
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#0065af
|title-color=white
|map=
{{BS||||←{{rint|osaka|nm}} [[南海本線]]→|}}
{{BS2|BHFq|ABZq+r|0.0|NK41 [[みさき公園駅]]||}}
{{BS2||BHF|1.4|NK41-1 [[深日町駅]]||}}
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{{BS2||KBHFe|2.6|NK41-3 [[多奈川駅]]||}}
}}
[[ファイル:Fukeko stn.jpg|thumb|240px|かつて淡路航路と連絡していた深日港駅]]
'''多奈川線'''(たながわせん)は、[[大阪府]][[泉南郡]][[岬町]]の[[みさき公園駅]]から[[多奈川駅]]までを結ぶ[[南海電気鉄道]]の[[鉄道路線]]である。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):2.6km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:4駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線単線)
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
== 運行形態 ==
全列車が[[ワンマン運転]]の2両編成で、みさき公園駅 - 多奈川駅間を往復する線内折り返し運転の普通車(普通列車)である。平日の朝夕・夜間はおおむね20分から30分間隔、平日昼間と土日祝日はおおむね1時間間隔で運転される。車両は[[南海22000系電車|2200系]]電車が主体で、ごくまれに[[南海7000系電車|7100系]]電車が使用されている。
1990年代まで深日港より[[大阪湾フェリー]]・[[深日海運]]の淡路航路があり、難波駅 - 多奈川駅間を直通する-急行-「[[サザン (列車)|淡路号]]」が1993年まで<ref name="rekishidemeguru">{{Cite journal |和書|author = 曽根悟(監修)|year = 2010|publisher =朝日新聞出版 |journal =週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 大手私鉄 |volume = 第16号 南海電気鉄道|page = 15}}</ref>運転されていた([[春木駅]]停車の[[南海本線#春木駅停車の急行(-急行-・白線急行)|白線急行]]として運転)。「淡路号」には、[[南海11001系電車|初代1000系]]・7000系・7100系・[[南海9000系電車|9000系]]・[[南海1000系電車 (2代)|2代目1000系]]電車が6両編成で使用されていた。
== 歴史 ==
[[潜水艦]]や[[海防艦]]を建造していた[[川崎重工業]][[川崎造船所#戦時|泉州工場]]への通勤の足として、[[1944年]]([[昭和]]19年)に開業した。終点の多奈川駅の他に、多奈川線が[[深日]]の集落に近接して敷設されたことから[[深日町駅]]も設けられ、南海本線の南淡輪(現・みさき公園) - [[孝子駅|孝子]]間にあった[[深日駅]]は旅客営業廃止(翌年貨物営業も廃止)となった。
[[1948年]](昭和23年)には川崎重工業泉州工場の船溜を改修して[[深日港]]が完成し、合わせて[[深日港駅]]が開業。淡路航路(深日海運、後に大阪湾フェリーも)と四国航路(徳島フェリー)が開設され、難波から連絡急行の運転が開始されて、大阪 - [[淡路島]]・[[徳島県|徳島]]間を最短で結ぶメインルートとして賑わっていた。しかし、[[1970年代]]以降は[[大阪港]]や[[神戸港]]に発着するフェリーや高速船の充実もあって、深日港ルートを利用する旅客は次第に減少し、[[1993年]]([[平成]]5年)に難波 - 和歌山市間の急行の増発(1時間2本→3本)に伴い連絡急行は廃止された。その後、[[1998年]](平成10年)の[[明石海峡大橋]]の開通によって旅客や航送車などが激減したため、深日海運・徳島フェリーは廃止され、大阪湾フェリーは[[南海淡路ライン]]となり泉佐野港発着に変更されたが、これも[[2007年]](平成19年)1月末で休止となった。
* [[1944年]](昭和19年)
** 5月31日 南淡輪(現・みさき公園) - 多奈川間が開業。
** 6月1日 会社合併により[[近畿日本鉄道]]の路線となる。
* [[1947年]](昭和22年)6月1日 会社分離により南海電気鉄道多奈川線となる。
* [[1948年]](昭和23年)11月3日 深日港駅開業。
* [[1957年]](昭和32年)1月1日 南淡輪駅をみさき公園駅に改称。
* [[1993年]](平成5年)4月18日 急行「淡路号」廃止<ref name="rekishidemeguru" />。
* [[2001年]](平成13年)3月24日 ワンマン運転開始。
* [[2023年]](令和5年)10月21日 ダイヤ修正。運行本数を平日46往復から26往復、土休日37往復から23往復へ大幅に減便。始発列車の繰り下げ、終電の繰り上げを実施<ref name="nankai20230915">{{Cite press release|title=10月21日(土)に南海線のダイヤを修正します|publisher=南海電気鉄道|date=2023-09-15|url=https://www.nankai.co.jp/lib/company/news/pdf/230915.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-10-01}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[大阪府]][[泉南郡]][[岬町]]内に所在。
* 普通車のみ運転、全列車が線内すべての駅に停車する。線内での行き違い([[列車交換]])はない。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:5em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|駅番号
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #0065af;"|接続路線
|-
!NK41
|[[みさき公園駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[南海電気鉄道]]:[[ファイル:Nankai mainline symbol.svg|15px|■]] [[南海本線]]
|-
!NK41-1
|[[深日町駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|1.4
|
|-
!NK41-2
|[[深日港駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|2.1
|
|-
!NK41-3
|[[多奈川駅]]
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|2.6
|
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* 当線と同様に大手私鉄で全線が郡部を通り、まったく市や特別区を通らない路線
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ビルマの竪琴
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『ビルマの竪琴』(ビルマのたてごと)は、竹山道雄が唯一執筆した児童向けの小説。第二次世界大戦でのビルマを舞台とし、日本兵をモデルとしている。多くの版元で刊行され、映画化もされた。
1946年の夏から書き始められ、童話雑誌『赤とんぼ』(実業之日本社)に1947年3月から1948年2月まで掲載、1948年10月に中央公論社から同題の単行本として出版された。ビルマ(現在のミャンマー)を舞台としている。市川崑の監督によって、1956年と1985年に2回映画化された。各国語にも訳されている。
出家し僧になった主人公の水島上等兵が竪琴を奏でる場面があるが、現地の上座部仏教では、出家者(僧侶)は、戒律により音楽演奏は禁じられている。そのため、後年大阪人情喜劇の会が制作した舞台演劇『ミャンマーの唄声』(出演:岸田敏志、曾我廼家八十吉、紅萬子、稲田慎太郎、副島新五他)では、「水島はあんなに好きだった音楽を捨ててまで僧になった」という設定となった。
著者自身はビルマを訪れたことがなく、「この物語は空想の産物でありモデルもないが示唆になった話はある」と記していたが、20数年後に武者一雄が著作した本が出版され宣伝された後に水島上等兵のモデルは、ビルマで終戦を迎え、復員後僧侶になった群馬県利根郡昭和村の雲昌寺前住職 中村(武者)一雄と言われるようになった。
1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていた。物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術が無かった。
そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んでいた。隊員たちは歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の竪琴「サウン・ガウ」の演奏はお手の物。部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。
ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために『埴生の宿』を合唱しながら戦闘準備を整える。小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で『埴生の宿』を歌い始めた。両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされる。降伏した小隊はムドンの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送る。しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。彼らを助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。しかし、彼はそのまま消息を絶ってしまった。
収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていた。そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れる。彼は、肩に青いインコを留らせていた。隊員は思わずその僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去る。
大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受ける。そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥だった。隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚えこませる。数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきた。それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律だった。隊員たちは我を忘れ、涅槃仏の胎内につながる鉄扉を開けようとするが、固く閉ざされた扉はついに開かない。
やがて小隊は3日後に日本へ復員することが決まった。隊員たちは、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱した。歌う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。隊長は、日本語を覚えこませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼む。
出発前日、青年僧が皆の前に姿を現した。収容所の柵ごしに隊員たちは『埴生の宿』を合唱する。ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らす。彼はやはり水島上等兵だったのだ。隊員たちは一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ (ここで) 別れよう!)いざ、さらば。」と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員たちを後に、水島は森の中へ去って行った。
翌日、帰国の途につく小隊のもとに、水島から1羽のインコと封書が届く。そこには、彼が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていた。
水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するものの、結局その部隊は玉砕の道を選ぶ。戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられる。ところが、実は彼らは人食い人種だった。彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせる。最初は村人の親切さに喜んでいた水島だったが、事情を悟って愕然とする。
やがて祭りの日がやってきた。盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙りにされる。ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊・ナッの祀られた木が激しくざわめきだす。「ナッ」のたたりを恐れ、慄く村人たち。水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めた。やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心する。そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれた。
ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体だった。葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、蛆が涌く遺体の山。衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心する。そして、水島は出家し、本物の僧侶となったのだった。
水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。
手紙に感涙を注ぐ隊員たちの上で、インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫ぶのだった。
1956年 (EN)、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞受賞。1957年、アカデミー外国語映画賞にノミネート。キネマ旬報ベストテン第5位。担当した伊福部昭が毎日映画コンクール音楽賞とブルーリボン賞音楽賞を受賞。ブルーリボン賞ベストテン第3位。担当した和田夏十がNHK映画賞シナリオ賞を受賞。NHK映画賞ベストテン第1位。なお、現存するのは「第一部」「第二部」を編集した「総集編」である。「第一部」と「第二部」は同時上映で公開され、「総集編」は『俺は犯人じゃない』と同時上映された。
モノクローム、スタンダード・サイズ。
日活は当初、1956年の1月に劇場公開することを配給する映画館と約束し、そのスケジュールに則った製作が進められていた。そして公開の7カ月前の6月にビルマへロケーション撮影をするための渡航申請を出したが、当時の国際情勢もあって入国許可が下りず、そのまま雨期となったので、乾季になる11月に撮影を変更し、夏の間は、国内の軽井沢や箱根、伊豆などの代替地でドラマの一部を撮影した。ところが11月になっても入国許可は下りず、業を煮やした日活社長の堀久作が「すまんけど、全部日本で撮ってくれ」と直談判分する状況となったが、監督の市川崑は、パゴダの黄金仏塔やシッタン河の泥河、ムドンの街並の撮影は日本では無理と考え、ビルマでのロケに拘った。だが日活側は「築地の本願寺は、ビルマの寺院に似てないか」「河は、多摩川だっていいじゃないか」と国内ロケへの変更を再三提案し、挙句の果ては原作者の竹山道雄まで「僕はビルマに行ってはいませんよ。あれは私の頭の中で書いたものです。だからあなたも、ビルマに行かなくても、頭で描いてもいいんじゃないですか。」と言う始末だった。そんな市川に友人の新聞記者が、1時間ほどの<第一部>をまず作って劇場公開をして封切り問題を解決させ、後日、ビルマロケを終えて再編集したものを<総集編>として劇場で公開するという二部作劇場公開案を提案し、市川が日活にこの提案を持ち掛けたところ、あっさり快諾したため、主人公の水島が小隊と橋ですれ違う場面で物語が終わる、63分の<第一部>が先行して公開された。その後、1956年1月にビルマへの入国許可証が下りたが、同行できる俳優は水島役の安井昌二のみ、撮影期間は一週間という厳しい条件で、市川はその条件下でビルマでの撮影を行った。現在でもシュエダゴン・パゴダなどに、撮影当時の面影をみることができる。市川と日活の当初の約束では、2月に完全版の総集編(当然第一部とは中身が一部重複する)を封切る予定だったが、日活側は「すでに第一部のポジを何十本も焼いていてもったいない」「<第一部>と<第二部>をくっつけたプリントを<総集編>にできないか」と約束を反故にする提案を持ち掛けたため、市川はこれに激怒、このため封切りの時点で、市川の構想通りに再編集された「総集編」と、「第一部+第二部」をくっつけただけのフィルムが同時に上映される事態となり、「総集編」はメインの日活封切館がある新宿や丸の内などの都市部での限定公開、それ以外の地方は「第一部+第二部」の上映だった。このことが禍根となり、市川は日活を辞めることになった。なお、本作はカラー撮影の予定があったが、コニカが開発し、コニカラーと呼ばれた撮影方式を採用していた日活の撮影機材が巨大なものであり、ロケに適さないという経緯で止む無く、モノクロに変更された。
なお、井上隊がパゴダの仏塔に入る場面は、現地で大量に撮ったフィルムをスクリーン・プロセスで合成したものである。また、後半のクライマックスで涅槃像の中に水島が潜んで竪琴を鳴らし、井上隊が気付くシーンは、美術の松山崇が仏像(大臥像)を制作し、小田原の公園で撮影した。
映画を製作して間もなくの頃、和田夏十が書き上げた脚本を読んだプロデューサーの高木雅行が、内藤武敏が演じる語り手の男性が、最後に色々と言いだすラストシーンの変更を持ち掛けた。隊長が手紙を読み、皆が水島を想い、水島が荒野を歩いて終わる、という王道な終わり方にする変更提案だったが、市川は「ここはこの作品の狙いだぞ。どうしても切るんだったら僕はやめるぞ。」と突っぱね、そのまま押し切った。そして後年、後述するリメイク作をフジテレビで製作した際、フジテレビ側から、全く同じ展開で脚本の同様箇所を削除するよう求められ、驚いたという。市川は、作中の登場人物に語り手を担当させる演出アイディアを、ビリー・ワイルダー監督の『第十七捕虜収容所』から拝借したと、後年に証言している。
本作は上記のように海外でも高い評価を受けたが、ヴェネツィア国際映画祭でサン・ジョルジョ賞を受賞した際は、監督を含めた本作の関係者全員が映画祭への出品を知らず、出席もしていなかったため、偶々出席していた大映の重役だった松山英夫が代わりに授賞式に立ち会っている。
1985年7月20日公開。文部省特選。ヴェネツィア国際映画祭特別招待作品。第1回東京国際映画祭クロージング特別上映作品。
1956年にオリジナル版を監督した市川崑は、オリジナル版が、希望したカラー撮影が叶わず、製作会社の日活との軋轢で変則的な上映公開を経験する等、不本意な結果に終わったことから、自身でもう一度作り直したいと考えていた。また、オリジナル版の脚本を担当した和田夏十やプロデューサーの高木雅行が相次いで亡くなったこともあって、鎮魂歌の意味合いでもリメイク版の製作を強く望むようになった。その市川にフジテレビの重役だった日枝久や三ツ井康、映画部長の角谷優などが協力してリメイク版の製作が決定した。オリジナル版に使用された和田夏十の脚本を元に話の大筋は作られているが、冒頭の英国兵のシークエンスや、中盤の水島の行動の詳細などが加えられている。また、本作ではコミカルな演技や描写も演出として加えられている。本作の海外ロケ地はビルマでなくタイであるが、これは製作当時、ビルマが騒乱状態で治安が悪く、ロケが不可能だったためである。ただし、ビルマの寝仏は屋内安置であるため、見栄えとしては結果としてタイロケで正解だったと、市川は後に述懐している。市川としては「念願はかなったことだし、せめて製作費が戻ってくれたら迷惑をかけずに済む」くらいの気持ちだったが、結果として約30億円もの配給収入を稼ぐヒット作となった。
1945年7月、ビルマ戦線の日本軍は中立国のタイを目指して撤退を続けていた。音楽学校出の井上小隊長は兵士たちに歌を教えていた。水島上等兵はビルマの竪琴を操り、部隊の団結と暗号にも役立てていた。小隊は国境近くの村まで来たところで敵軍に囲まれた。敵を油断させるために小隊は竪琴の伴奏で合唱を続け、武器弾薬を載せた荷車を回収し、戦闘準備を整えた。すると、小隊の『埴生の宿』に合わせて、敵も英語で歌い始めたのだった。ここで小隊は敗戦を知り、武器を置いて投降した。南のムドンに護送されることになったが、付近の三角山で抵抗を続ける日本軍に降伏を勧めるため、水島が隊を離れることになる。水島は懸命に説得するが、日本軍は玉砕を選び、最後の戦闘が始まってしまう。辛うじて一命を取り留めた水島はムドンへ向かう道中、無数の日本兵の死体と出会い、愕然となる。帰国することに心を痛め、日本兵の霊を慰めるために僧となってこの地に留まろうと決意し、白骨を葬って巡礼の旅を続ける。
ムドンの橋で小隊はオウムを肩に乗せた水島そっくりの僧とすれ違う。呼び止めるが、僧は無言で去る。井上は物売りの話から事情を推察した。彼はオウムを譲り受け「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンニカエロウ」と日本語を覚えこませる。
数日後、大仏の胎内に隠れていた水島が森の中で合唱する小隊の声を聞きつけ、思わず竪琴を弾き始め、仲間は大仏の鉄扉を開けようとするが、水島は拒む。その夜、3日後に帰国することが決まり、一同は水島も引き連れようと合唱を繰り返す。井上はオウムを水島に渡してくれるよう、物売りの老婆に頼む。
出発の前日、水島が収容所の柵越しに姿を現わす。兵士たちは合唱し、一緒に帰ろうと呼びかけるが、水島は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を伴奏して森の中へ去って行く。帰国の船に乗る井上の許に手紙とオウムが届いた。手紙を読んでいる途中、オウムは「アア、ヤッパリ、ジブンハ、カエルワケニハ、イカナイ」と叫ぶのだった。
「ビルマの 土はあかい 岩も またあかい」
1984年秋、静岡県伊豆の山中でロケ、ビルマ・タイ方面の雨期が終わる同年10月下旬から東南アジアロケ。
フジテレビ『オレたちひょうきん族』の「タケちゃんマン7」1984年8月24日放送分にて、「イルマの竪琴の巻」としてパロディにして、ラストは残った兵隊が西武池袋線に乗って東京へ帰るというものだった。
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"text": "映画を製作して間もなくの頃、和田夏十が書き上げた脚本を読んだプロデューサーの高木雅行が、内藤武敏が演じる語り手の男性が、最後に色々と言いだすラストシーンの変更を持ち掛けた。隊長が手紙を読み、皆が水島を想い、水島が荒野を歩いて終わる、という王道な終わり方にする変更提案だったが、市川は「ここはこの作品の狙いだぞ。どうしても切るんだったら僕はやめるぞ。」と突っぱね、そのまま押し切った。そして後年、後述するリメイク作をフジテレビで製作した際、フジテレビ側から、全く同じ展開で脚本の同様箇所を削除するよう求められ、驚いたという。市川は、作中の登場人物に語り手を担当させる演出アイディアを、ビリー・ワイルダー監督の『第十七捕虜収容所』から拝借したと、後年に証言している。",
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『ビルマの竪琴』(ビルマのたてごと)は、竹山道雄が唯一執筆した児童向けの小説。第二次世界大戦でのビルマを舞台とし、日本兵をモデルとしている。多くの版元で刊行され、映画化もされた。
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{{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px]]}}
『'''ビルマの竪琴'''』(ビルマのたてごと)は、[[竹山道雄]]が唯一執筆した児童向けの小説。[[第二次世界大戦]]での[[ビルマ]]を舞台とし、[[日本兵]]をモデルとしている。多くの版元<ref>現行での文庫版は[[新潮文庫]](改版2017年。他に[[偕成社]]文庫で再刊。)</ref>で刊行され、映画化もされた。
== 概要 ==
[[1946年]]の夏から書き始められ、童話雑誌『赤とんぼ』([[実業之日本社]])に[[1947年]]3月から[[1948年]]2月まで掲載、1948年10月に[[中央公論社]]から同題の単行本として出版された<ref>[[中村光夫]]「解説」、竹山道雄『ビルマの竪琴』新潮文庫(第105刷)、新潮社、2014年、210頁。</ref>。ビルマ(現在の[[ミャンマー]])を舞台としている。[[市川崑]]の監督によって、[[1956年]]と[[1985年]]に2回[[映画]]化された。各国語<ref>特に[[ハワード・ヒベット]]の英訳版は多数重版した。</ref>にも訳されている。
[[出家]]し[[僧]]になった主人公の水島[[上等兵]]が[[ハープ|竪琴]]を奏でる場面があるが、現地の[[上座部仏教]]では、出家者(僧侶)は、[[戒律]]により[[音楽]]演奏は禁じられている。そのため、後年[[大阪人情喜劇の会]]が制作した舞台演劇『ミャンマーの唄声』(出演:[[岸田敏志]]、[[曾我廼家八十吉]]、[[紅萬子]]、[[稲田慎太郎]]、[[副島新五]]他)では、「水島はあんなに好きだった音楽を捨ててまで僧になった」という設定となった。
著者自身はビルマを訪れたことがなく<ref>『完本 市川崑の映画たち』、2015年11月発行、市川崑・森遊机、洋泉社、P120</ref>、「この物語は空想の産物でありモデルもないが示唆になった話はある」と記していたが、20数年後に[[武者一雄]]が著作した本が出版され宣伝された後に水島上等兵のモデルは、ビルマで終戦を迎え、[[復員]]後僧侶になった[[群馬県]][[利根郡]][[昭和村 (群馬県)|昭和村]]の雲昌寺前住職 中村(武者)一雄と言われるようになった<ref>[[福井県]][[永平寺]]で修行中に召集され、南方戦線を転戦しビルマで終戦を迎え、捕虜収容所では合唱団を結成していたという。復員後、[[群馬県]][[昭和村 (群馬県)|昭和村]]で僧侶になった。その後[[ミャンマー]]キンウー市に小学校を寄贈。2008年12月17日老衰のため死去、享年92。『日本経済新聞』2008年12月20日付朝刊11面(訃報欄)。</ref>。
== あらすじ ==
[[1945年]][[7月]]、ビルマ(現在の[[ミャンマー]])における[[日本軍]]の戦況は悪化の一途をたどっていた。物資や弾薬、食料は不足し、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合]]軍の猛攻になす術が無かった。
そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の[[隊長]]が隊員に[[合唱]]を教え込んでいた。隊員たちは歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の[[竪琴]]「[[サウン・ガウ]]」の[[演奏]]はお手の物。部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。さらに水島は[[ビルマ族|ビルマ人]]の扮装もうまく、その姿で[[斥候]]に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。
ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために『[[埴生の宿]]』を合唱しながら戦闘準備を整える。小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で『埴生の宿』を歌い始めた。両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされる。降伏した小隊は[[ムドン]]の捕虜[[強制収容所|収容所]]に送られ、労働の日々を送る。しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。彼らを助けたい隊長は[[イギリス軍]]と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。しかし、彼はそのまま消息を絶ってしまった。
収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていた。そんな彼らの前に、水島によく似た[[上座部仏教|上座仏教]]の僧が現れる。彼は、肩に青い[[インコ]]を留らせていた。隊員は思わずその僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去る。
大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受ける。そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥だった。隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と[[日本語]]を覚えこませる。数日後、隊が森の中で合唱していると、[[涅槃仏]]の胎内から竪琴の音が聞こえてきた。それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律だった。隊員たちは我を忘れ、涅槃仏の胎内につながる鉄扉を開けようとするが、固く閉ざされた扉はついに開かない。
やがて小隊は3日後に日本へ[[復員]]することが決まった。隊員たちは、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱した。歌う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。隊長は、日本語を覚えこませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼む。
出発前日、青年僧が皆の前に姿を現した。収容所の柵ごしに隊員たちは『埴生の宿』を合唱する。ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らす。彼はやはり水島上等兵だったのだ。隊員たちは一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。しかし彼は黙ってうなだれ、『[[仰げば尊し]]』を弾く。日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ (ここで) 別れよう!)いざ、さらば。」と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員たちを後に、水島は森の中へ去って行った。
翌日、帰国の途につく小隊のもとに、水島から1羽のインコと封書が届く。そこには、彼が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていた。
水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するものの、結局その部隊は玉砕の道を選ぶ。戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられる。ところが、実は彼らは[[人食い人種]]だった。彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせる。最初は村人の親切さに喜んでいた水島だったが、事情を悟って愕然とする。
やがて祭りの日がやってきた。盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙りにされる。ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する[[精霊]]・[[ナッ信仰|ナッ]]の祀られた木が激しくざわめきだす。「ナッ」のたたりを恐れ、慄く村人たち。水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めた。やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心する。そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれた。
ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体だった。葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、[[蛆]]が涌く遺体の山。衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心する。そして、水島は出家し、本物の僧侶となったのだった。
水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。
手紙に感涙を注ぐ隊員たちの上で、インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫ぶのだった。
== 映画版 ==
{{Portal 映画}}
=== 1956年版 ===
{{Infobox Film
| 作品名 = ビルマの竪琴
| 原作 = [[竹山道雄]]([[中央公論社]]版)
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[市川崑]]
| 製作総指揮 =
| 製作 = [[高木雅行 (映画プロデューサー)|高木雅行]]
| 脚本 = [[和田夏十]]
| 出演者 = [[三國連太郎]]<br />[[安井昌二]]
| 撮影 = 横山実
| 美術 = 松山崇
| 音楽 = [[伊福部昭]]
| 録音 = 神谷正和
| 照明 = 藤林甲
| = 吉田協佐
| 編集 = 辻井正則
| 助監督 = 升田利雄
| スチール = 斉藤耕一
| 製作主任 = 中井景
| 製作会社 = [[日活]]
| 配給 = 日活
| 公開 = {{flagicon|JPN}} [[1956年]][[1月21日]]、[[2月12日]]
| 上映時間 = 116分
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 製作費 =
| 興行収入 =
| 前作 =
| 次作 =
}}
#『'''ビルマの竪琴 第一部'''』(1956年[[1月21日]]公開、61分、同時上映『[[ただひとりの人・第二部]]』)
#『'''ビルマの竪琴 第二部・帰郷篇<ref>"第二部・帰郷篇"の表記は、公開時の『日活ウイークリー』(発行・編輯 新世界出版社)による。</ref>'''』(1956年[[2月12日]]公開、83分)
1956年 ([[:en:The Burmese Harp (1956 film)|EN]])、[[ヴェネツィア国際映画祭]][[サン・ジョルジョ賞]]受賞。[[1957年]]、[[アカデミー外国語映画賞]]にノミネート。[[キネマ旬報ベストテン]]第5位。担当した[[伊福部昭]]が[[毎日映画コンクール]]音楽賞と[[ブルーリボン賞]]音楽賞を受賞。ブルーリボン賞ベストテン第3位。担当した[[和田夏十]]が[[NHK映画賞]]シナリオ賞を受賞。NHK映画賞ベストテン第1位。なお、現存するのは「第一部」「第二部」を編集した「総集編」である。「第一部」と「第二部」は同時上映で公開され、「総集編」は『[[俺は犯人じゃない]]』と同時上映された。
[[モノクローム]]、[[スタンダード・サイズ]]。
==== 製作 ====
[[日活]]は当初、1956年の1月に劇場公開することを配給する映画館と約束し、そのスケジュールに則った製作が進められていた。そして公開の7カ月前の6月に[[ビルマ]]へロケーション撮影をするための渡航申請を出したが、当時の国際情勢もあって入国許可が下りず、そのまま雨期となったので、乾季になる11月に撮影を変更し、夏の間は、国内の軽井沢や箱根、伊豆などの代替地でドラマの一部を撮影した。ところが11月になっても入国許可は下りず、業を煮やした日活社長の[[堀久作]]が「すまんけど、全部日本で撮ってくれ」と直談判分する状況となったが、監督の[[市川崑]]は、[[パゴダ]]の黄金仏塔や[[シッタン河]]の泥河、[[ムドン]]の街並の撮影は日本では無理と考え、ビルマでのロケに拘った。だが日活側は「築地の本願寺は、ビルマの寺院に似てないか」「河は、[[多摩川]]だっていいじゃないか」と国内ロケへの変更を再三提案し、挙句の果ては原作者の[[竹山道雄]]まで「僕はビルマに行ってはいませんよ。あれは私の頭の中で書いたものです。だからあなたも、ビルマに行かなくても、頭で描いてもいいんじゃないですか。」と言う始末だった。そんな市川に友人の新聞記者が、1時間ほどの<第一部>をまず作って劇場公開をして封切り問題を解決させ、後日、ビルマロケを終えて再編集したものを<総集編>として劇場で公開するという二部作劇場公開案を提案し、市川が日活にこの提案を持ち掛けたところ、あっさり快諾したため、主人公の水島が小隊と橋ですれ違う場面で物語が終わる、63分の<第一部>が先行して公開された<ref>『日活写眞ニュース特報』(日活撮影所・宣伝課発行)の「ビルマの竪琴 内地ロケ特報」によると、三角山のシーンは、伊豆静浦(静岡県沼津市)で撮影されたとある。</ref>。その後、1956年1月にビルマへの入国許可証が下りたが、同行できる俳優は水島役の[[安井昌二]]のみ、撮影期間は一週間という厳しい条件で、市川はその条件下でビルマでの撮影を行った。現在でも[[シュエダゴン・パゴダ]]などに、撮影当時の面影をみることができる。市川と日活の当初の約束では、2月に完全版の総集編(当然第一部とは中身が一部重複する)を封切る予定だったが、日活側は「すでに第一部のポジを何十本も焼いていてもったいない」「<第一部>と<第二部>をくっつけたプリントを<総集編>にできないか」と約束を反故にする提案を持ち掛けたため、市川はこれに激怒、このため封切りの時点で、市川の構想通りに再編集された「総集編」と、「第一部+第二部」をくっつけただけのフィルムが同時に上映される事態となり、「総集編」はメインの日活封切館がある新宿や丸の内などの都市部での限定公開、それ以外の地方は「第一部+第二部」の上映だった。このことが禍根となり、市川は日活を辞めることになった<ref>『完本 市川崑の映画たち』、2015年11月発行、市川崑・森遊机、[[洋泉社]]、pp.117 - 124</ref>。なお、本作はカラー撮影の予定があったが、[[コニカ]]が開発し、コニカラーと呼ばれた撮影方式を採用していた日活の撮影機材が巨大なものであり、ロケに適さないという経緯で止む無く、モノクロに変更された<ref name="名前なし-rK9I-1">『完本 市川崑の映画たち』、2015年11月発行、市川崑・森遊机、洋泉社、P338</ref>。
なお、井上隊がパゴダの仏塔に入る場面は、現地で大量に撮ったフィルムをスクリーン・プロセスで合成したものである。また、後半のクライマックスで[[涅槃像]]の中に水島が潜んで竪琴を鳴らし、井上隊が気付くシーンは、美術の[[松山崇]]が仏像(大臥像)を制作し、小田原の公園で撮影した。
映画を製作して間もなくの頃、[[和田夏十]]が書き上げた脚本を読んだプロデューサーの[[高木雅行 (映画プロデューサー)|高木雅行]]が、[[内藤武敏]]が演じる語り手の男性が、最後に色々と言いだすラストシーンの変更を持ち掛けた。隊長が手紙を読み、皆が水島を想い、水島が荒野を歩いて終わる、という王道な終わり方にする変更提案だったが、市川は「ここはこの作品の狙いだぞ。どうしても切るんだったら僕はやめるぞ。」と突っぱね、そのまま押し切った。そして後年、後述するリメイク作をフジテレビで製作した際、フジテレビ側から、全く同じ展開で脚本の同様箇所を削除するよう求められ、驚いたという。市川は、作中の登場人物に語り手を担当させる演出アイディアを、[[ビリー・ワイルダー]]監督の『[[第十七捕虜収容所]]』から拝借したと、後年に証言している<ref>『完本 市川崑の映画たち』、2015年11月発行、市川崑・森遊机、洋泉社、pp.117 - 118</ref>。
本作は上記のように海外でも高い評価を受けたが、ヴェネツィア国際映画祭でサン・ジョルジョ賞を受賞した際は、監督を含めた本作の関係者全員が映画祭への出品を知らず、出席もしていなかったため、偶々出席していた[[大映]]の重役だった[[松山英夫]]が代わりに授賞式に立ち会っている<ref name="名前なし-rK9I-1"/>。
==== スタッフ ====
* 製作:[[高木雅行 (映画プロデューサー)|高木雅行]]
* 原作:[[竹山道雄]]([[中央公論社]]版)
* 脚本:[[和田夏十]]
* 監督:[[市川崑]]
* 撮影:[[横山実]]
* 美術:[[松山崇]]
* 音楽:[[伊福部昭]]
* 録音:[[神谷正和]]
* 照明:[[藤林甲]]
* 編集:[[辻井正則]]
* 竪琴:[[阿部よしゑ]]
* 振付:[[横山はるひ]]
* 特殊撮影:日活特殊技術部
* 助監督:[[舛田利雄]]
* 製作主任:中井景
==== 出演者 ====
* 井上隊長 - [[三國連太郎]]
* 水島上等兵 - [[安井昌二]]
* 伊東軍曹 - [[浜村純]]
* 小林一等兵 - [[内藤武敏]]
* 馬場一等兵 - [[西村晃]]
* 牧一等兵 - [[春日俊二]]
* 高木一等兵 - [[中原啓七]]
* 岡田上等兵 - [[土方弘]]
* 中村上等兵 - [[花村信輝]]
* 川上一等兵 - [[千代京二]]
* 大山一等兵 - [[青木富夫]]
* 橋本一等兵 - [[伊藤寿章]]
* 清水一等兵 - [[小柴隆]]
* 永井一等兵 - [[宮原徳平]]
* 松田一等兵 - [[加藤義朗]]
* 阿部上等兵 - [[峰三平]]
* 三角山守備隊隊長 - [[三橋達也]]
* 兵隊1 - [[成瀬昌彦]]
* 兵隊2 - [[天野創治郎]]
* 兵隊3 - [[小笠原章二郎]]
* 兵隊4 - [[森塚敏]]
* 脱走兵 - [[佐野浅夫]]
* ビルマの老僧侶 - [[中村栄二]]
* 物売りの老婆 - [[北林谷栄]]
* その亭主 - [[澤村國太郎 (4代目)|沢村国太郎]]
* 村落の村長 - [[伊藤雄之助]]
* 竪琴を弾く少年 - [[長浜陽二]]
* 役名不明 - [[伊丹慶治]]、[[市村博]]、[[三笠謙]]、[[登内朋子]]
=== 1985年版 ===
{{Infobox Film
| 作品名 = ビルマの竪琴
| 原題 =
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[市川崑]]
| 製作総指揮 =
| 製作 = [[鹿内春雄]]<br />奥本篤志<br />高橋松男
| 脚本 = [[和田夏十]]
| 出演者 = [[中井貴一]]<br />[[石坂浩二]]<br />[[渡辺篤史]]<br />[[北林谷栄]]<br />[[菅原文太]]
| 音楽 = [[山本直純]]
| 撮影 = 小林節雄
| 編集 = [[長田千鶴子]]
| 製作会社=[[フジテレビジョン]]<br />[[博報堂]]<br />[[キネマ東京]]
| 配給 = [[東宝]]
| 公開 = {{flagicon|JPN}} [[1985年]][[7月20日]]
| 上映時間 = 133分
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 製作費 =
| 興行収入 = 54億円<ref>{{cite news|url=http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_02/g2007021916.html|accessdate=2017-08-29|title=「フラガール」受賞にホッ…アカデミー賞の権威保った|newspaper=[[Zakzak]]|date=2007-02-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170829164427/http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_02/g2007021916.html|archivedate=2017-08-29|deadlinkdate=2018-03-16}}</ref>
| 配給収入 = 29億5000万円<ref>{{映連配給収入|1985}}</ref>
| 前作 =
| 次作 =
}}
[[1985年]][[7月20日]]公開。文部省特選。ヴェネツィア国際映画祭特別招待作品。第1回東京国際映画祭クロージング特別上映作品。
==== 製作 ====
1956年にオリジナル版を監督した市川崑は、オリジナル版が、希望したカラー撮影が叶わず、製作会社の[[日活]]との軋轢で変則的な上映公開を経験する等、不本意な結果に終わったことから、自身でもう一度作り直したいと考えていた。また、オリジナル版の脚本を担当した[[和田夏十]]やプロデューサーの[[高木雅行 (映画プロデューサー)|高木雅行]]が相次いで亡くなったこともあって、鎮魂歌の意味合いでもリメイク版の製作を強く望むようになった。その市川に[[フジテレビ]]の重役だった[[日枝久]]や[[三ツ井康]]、映画部長の[[角谷優]]などが協力してリメイク版の製作が決定した。オリジナル版に使用された和田夏十の脚本を元に話の大筋は作られているが、冒頭の英国兵のシークエンスや、中盤の水島の行動の詳細などが加えられている。また、本作ではコミカルな演技や描写も演出として加えられている。本作の海外ロケ地はビルマでなくタイであるが、これは製作当時、ビルマが騒乱状態で治安が悪く、ロケが不可能だったためである。ただし、ビルマの寝仏は屋内安置であるため、見栄えとしては結果としてタイロケで正解だったと、市川は後に述懐している<ref>『日本戦争映画総覧』[[Gakken|学研]]、2011年、P247。</ref>。市川としては「念願はかなったことだし、せめて製作費が戻ってくれたら迷惑をかけずに済む」くらいの気持ちだったが、結果として約30億円もの配給収入を稼ぐヒット作となった<ref>『完本 市川崑の映画たち』、2015年11月発行、市川崑・森遊机、洋泉社、pp.338 - 340</ref>。
==== ストーリー ====
1945年7月、ビルマ戦線の日本軍は中立国のタイを目指して撤退を続けていた。音楽学校出の井上小隊長は兵士たちに歌を教えていた。水島上等兵はビルマの竪琴を操り、部隊の団結と暗号にも役立てていた。小隊は国境近くの村まで来たところで敵軍に囲まれた。敵を油断させるために小隊は竪琴の伴奏で合唱を続け、武器弾薬を載せた荷車を回収し、戦闘準備を整えた。すると、小隊の『埴生の宿』に合わせて、敵も英語で歌い始めたのだった。ここで小隊は敗戦を知り、武器を置いて投降した。南のムドンに護送されることになったが、付近の三角山で抵抗を続ける日本軍に降伏を勧めるため、水島が隊を離れることになる。水島は懸命に説得するが、日本軍は玉砕を選び、最後の戦闘が始まってしまう。辛うじて一命を取り留めた水島はムドンへ向かう道中、無数の日本兵の死体と出会い、愕然となる。帰国することに心を痛め、日本兵の霊を慰めるために僧となってこの地に留まろうと決意し、白骨を葬って巡礼の旅を続ける。
ムドンの橋で小隊はオウムを肩に乗せた水島そっくりの僧とすれ違う。呼び止めるが、僧は無言で去る。井上は物売りの話から事情を推察した。彼はオウムを譲り受け「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンニカエロウ」と日本語を覚えこませる。
数日後、大仏の胎内に隠れていた水島が森の中で合唱する小隊の声を聞きつけ、思わず竪琴を弾き始め、仲間は大仏の鉄扉を開けようとするが、水島は拒む。その夜、3日後に帰国することが決まり、一同は水島も引き連れようと合唱を繰り返す。井上はオウムを水島に渡してくれるよう、物売りの老婆に頼む。
出発の前日、水島が収容所の柵越しに姿を現わす。兵士たちは合唱し、一緒に帰ろうと呼びかけるが、水島は黙ってうなだれ、『[[仰げば尊し]]』を伴奏して森の中へ去って行く。帰国の船に乗る井上の許に手紙とオウムが届いた。手紙を読んでいる途中、オウムは「アア、ヤッパリ、ジブンハ、カエルワケニハ、イカナイ」と叫ぶのだった。
「ビルマの 土はあかい 岩も またあかい」
==== スタッフ ====
*監督:[[市川崑]]
*原作:[[竹山道雄]]
*脚本:[[和田夏十]]
*音楽:[[山本直純]]
*音楽補佐:[[山本純ノ介]]
*竪琴:山畑松枝
*合唱:[[東京混声合唱団]]、[[明治大学グリークラブ]]、[[明治大学]]混声合唱団
*演奏:[[東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団]]
*撮影:[[小林節雄]]
*美術:[[阿久根巌]]
*録音:[[斉藤禎一]]
*照明:[[下村一夫]]
*編集:[[長田千鶴子]]
*監督補:吉田一夫
*監督助手:近藤明男、[[藤由紀夫]]、[[手塚昌明]]、山本英史
*製作担当者:古屋和彦
*音響効果:坂井三郎([[東洋音響効果グループ]])
*音楽ミキサー:大野映彦
*調音:[[大橋鉄矢]]
*レコーディスト:中野明
*合成:[[三瓶一信]]
*作画:[[石井義雄]]
*記録:[[外崎直子]]
*スチール:[[橋山直己]]
*合唱指導:[[ロイヤルナイツ_(ボーカルグループ)#メンバー|松川義昭]]
*ビルマ語指導:DAW KHIN YI、U HTIN AUNG、USAN MYINT
*海外コーディネーター:YEEBOONVONGKULSIRI
*協力:475 Air Base Wing、U.S. Air Force、Yokota Air Base、Japan
*音楽制作:斉藤明、オズ・ミュージック
*タイトル:[[デン・フィルム・エフェクト]]
*MA:[[アオイスタジオ]]
*現像:[[東洋現像所]]
*製作者:[[鹿内春雄]]、奥本篤志、高橋松男
*プロデューサー:[[藤井浩明]]、[[角谷優]]、荒木正也
*企画:[[日枝久]]、高橋松男
*製作:[[フジテレビ]]・[[博報堂]]・[[キネマ東京]]
==== キャスト ====
* 水島上等兵 - [[中井貴一]]
* 井上隊長 - [[石坂浩二]]
* 伊東軍曹 - [[川谷拓三]]
* 小林上等兵 - [[渡辺篤史]]
* 岡田上等兵 - [[小林稔侍]]
* 馬場一等兵 - [[井上博一]]
* 村落の村長 - [[浜村純]]
* 物売りの老人 - [[常田富士男]]
* 鈴木上等兵 - [[佐藤正文]]
* 阿部一等兵 - [[茂木繁]]
* 村上一等兵 - [[保木本竜也]]
* 渡辺一等兵 - [[川崎博司]]
* 高井一等兵 - [[山口眞司|山口真司]]
* 丸山一等兵 - [[永妻晃]]
* 中村一等兵 - [[清末裕之]]
* 山本一等兵 - [[井上浩 (俳優)|井上浩]]
* 物売りの老婆 - [[北林谷栄]]
* 三角山守備隊々長 - [[菅原文太]]
* 役柄不明 - [[依田英助]]、[[小林一師]]、[[田辺年秋]]、[[古葉竹英治]]、[[村山ひろし]]、[[安田功]]、[[沼崎悠]]、[[赤城太郎]]、[[中原由視]]、[[早田文次]]、[[助川汎]]、[[田口純平]]、[[中根徹]]、[[佐藤裕次]]、[[安永憲司]]、[[大塚和彦]]、[[曽根信次]]、[[吉越清治]]、[[小泉豊]]、[[楠瑞穂]]、[[藤田龍美]]、他
==== 撮影 ====
1984年秋、[[静岡県]][[伊豆]]の山中で[[ロケーション撮影|ロケ]]<ref name="kinejun841002">{{Cite journal|和書 |title = 日本映画ニュース・スコープ トピックス | journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1984年10月下旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |page = 111 }}</ref>、[[ビルマ]]・[[タイ王国|タイ]]方面の[[雨季|雨期]]が終わる同年10月下旬から[[東南アジア]]ロケ<ref name="kinejun841002"/>。
==== 受賞歴 ====
* 第3回[[ゴールデングロス賞]]最優秀金賞、マネーメイキング監督賞、マネーメイキング・スター賞([[中井貴一]])
* [[キネマ旬報]]ベストテン第8位
* [[毎日映画コンクール]]日本映画優秀賞、ベスト映画ファン賞
* [[ブルーリボン賞]]ベストテン入選
* [[日本映画テレビプロデューサー協会]]賞特別賞([[市川崑]])
* [[日本アカデミー賞]]特別賞(鹿内春雄)
* [[文化庁]]優秀映画選出
* [[映画の日]]特別功労賞(鹿内春雄)
==== パロディ ====
フジテレビ『[[オレたちひょうきん族]]』の「[[タケちゃんマン]]7」1984年8月24日放送分にて、「[[入間市駅|イルマ]]の竪琴の巻」としてパロディにして、ラストは残った兵隊が[[西武池袋線]]に乗って東京へ帰るというものだった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*[[滑川道夫]]他編著『作品による日本児童文学史 3 昭和後期』牧書店、[[1972年]]
== 関連項目 ==
*[[ビルマの戦い]](ビルマ戦役)
*[[ビルマでの降伏日本軍人の抑留]]
*[[戦場にかける橋]]
*[[竪琴]](ハープ)作中の使用楽器(ビルマの竪琴)は、サウン・ガウ (Saung-gauk)、16弦。
*[[残留日本兵#タイ・ビルマ]]
== 外部リンク ==
* {{Allcinema title|137068|ビルマの竪琴 1956年版(第1部)}}
* {{Allcinema title|137111|ビルマの竪琴 1956年版(第2部)}}
* {{Allcinema title|352489|ビルマの竪琴 1956年版}}
* {{Kinejun title|24650|ビルマの竪琴 1956年版}}
* {{Amg movie|74477|Burmese Harp (1956)}}
* {{IMDb title|0049012|Biruma no tategoto}}
* {{Allcinema title|149497|ビルマの竪琴 1985年版}}
* {{Kinejun title|17613|ビルマの竪琴 1985年版}}
* {{Amg movie|118294|Biruma No Tatekoto (1985)}}
* {{IMDb title|0088810|Biruma no tategoto}}
{{市川崑}}
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[[Category:日本の児童文学]]
[[Category:1947年の小説]]
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[[Category:伊福部昭の作曲映画]]
[[Category:山本直純の作曲映画]]
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[[Category:市川崑の監督映画]]
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ボーイズラブ
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ボーイズラブ(和製英語:boys' love)略してBL(ビーエル)は、男性同性愛(ゲイ)を題材とした小説や漫画などのジャンルを指す用語である。
1991年12月10日「イマージュ」(白夜書房)が創刊され、キャッチコピーに「BOY'S LOVE COMIC」と冠した。考案者は編集プロダクション「すたんだっぷ」代表・荒木立子(白城るた/霜月りつ)。漫画家の河内実加も、自身のブログで「ボーイズラブ」はあらきりつこ(荒木立子)が 命名したと言及している。
雑誌等で腐女子をテーマに記事を書くエッセイストの杉浦由美子は、「for girls love」という少女漫画のキャッチコピーを見たビブロスの編集者が「だったらうちはボーイズラブだ」と思い立ったのがボーイズラブという言葉の誕生であるとしている。
近年は「ボーイズラブ(BL)」がやおい・BLジャンルの総称として使われることが増えいる。
当初は現在の意味と異なり、「耽美」または「JUNE(ジュネ)」の置換語と認識されていたようである(耽美については→耽美とボーイズラブを参照)。
作家、編集者のほとんどは女性、読者の大多数も女性異性愛者である。「やおい」とは区別されることもあるが、混同されることもある。少年愛、JUNE、耽美が、やおいを経由して、BLに発展したとも言われる。
現在では、二次創作同人誌やウェブ上の作品もBLと呼ぶこともあるが、BLは基本的に商業出版寄りの言葉である。2000年代初頭の10年ほどの間で、やおい・BLジャンルの総称は、やおいからBLに移行している。漫画、小説、ドラマCD、アニメ、ゲームといった異なるメディアの作品があり、西村マリは、「マンガと小説が両立して存在する点でも、珍しい」と述べている。
元々少年同士・男性同士の同性愛を扱う作品は、「耽美」または、耽美で背徳的、シリアスな少年・青年の同性愛ものを扱う女性向け雑誌『JUNE』の名前からそのまま「JUNE(ジュネ)」「ジュネ系」と呼ばれていた。「JUNE」は、国内海外・現在過去を問わず、小説やマンガ、イラストだけでなく、映画、音楽など、あらゆる文化の「耽美」な部分をクローズアップして紹介し、様々な作品を掲載して「JUNE」文化を広げ、美しい男性同士の関係が描かれた創作物「耽美」と呼ばれるジャンルを確立した。女の子向けの男性同士の恋愛ものが増えた初期には、書店では「耽美」というコーナー名が付けられていた。
かつてはコアなジャンルと認識されていた。元々「やおい」ということばは「おタク」同様に、社会にとって「病理的」な現象の一つだった。「やおい」「女おタク」と「BL」「腐女子」という新しい言葉には大きなイメージギャップがあり、男性同性愛を題材にした作品やその愛好者を「新しい存在」にすることに一役買った。近年は『おっさんずラブ』(2018年)、『きのう何食べた?』(2019年)、『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』(2020年)等の作品のヒットにより一躍メジャーとなった。原田イチボは『週刊ポスト』に寄せた寄稿文で、『きのう何食べた?』と同じよしながふみ原作だったテレビドラマ『アンティーク 〜西洋骨董洋菓子店〜』(2001年)を例に挙げ、「(当時の)ドラマ版では登場人物のゲイという設定がほとんど消えていた」ことを指摘し、(当時から比較すると)「良い時代になった」としている。
BLには男性からの影響もある。西村マリは「BLCDには(出演する)男性声優たちの作品に対する解釈が反映され、結果的にBL界へのフィードバックとなっている。」と述べている。
BL関連の日本の市場規模は、オタク市場に限れば215億円(2012年)、その他の市場まで含めば350億円(2013年)ほどといわれる。レーベルは小説とコミックス合わせて100程度存在する。巨大な商業BLジャンルの背後には、それを上回る規模の同人・二次創作の世界が存在している。商業BLへの同人界からの影響はかなり大きい。市場が成長する一方で、2010年前後頃からはBLに対する規制の動きも出てきている(後述)。
日本を代表するポピュラー文化として国際的に知られ、海外各地でファン向けコンベンションの開催、日本の作品の翻訳、その影響を受けた海外作家の作品の出版が見られる。このようにグローバル化しながら各地でローカル化も進んでいる。アメリカやヨーロッパではBLも日本より男性読者が多いといわれることもあり、主にゲイだが、異性愛男性も少なくないようである。BLとゲイコミックが一緒に出版されることもある。 英語圏では日本語を導入して、「Boys Love」、「Shōnen-ai」、「Yaoi」という用語が使われる。少年愛を直訳するとBoys Loveになってしまうこともあり、Boys Love、Shōnen-ai、Yaoiもあまり区別されていない。英語では、ボーイズラブという言葉が小児性愛を連想させると敬遠され、YAOI(やおい)と呼ばれることが多い。欧米ではライトテイストの作品が「少年愛」、性描写のある作品は「やおい」と呼ばれる。BLコミックの翻訳も少なくなく、アメリカ「amazon」のコミックス売り上げランキングで半分近くを占めたこともあったという。これらBLとは別に元々英語圏にあった、男性同士の関係性に焦点を当てた(しばしば性関係も含む)ファン・フィクション(二次創作)は、「Slash fiction(スラッシュ・フィクション)」という。女性作家による男性同性愛の物語は古くからあるが、英語圏でのスラッシュは、『スタートレック』や、BBCで70年代末に放送されていたSF『ブレイクス7』(Blake's 7)の人気が引き金になり、1970年代のSFファンダムで広く認知されるようになった。海外は、日本と比べてボーイズラブはまだニッチなジャンルであり、市場も日本ほど大きくない(海外で一番大きい市場はフランス)。東アジアでは、日本などのライトノベルは「軽小説」(中国語版)と呼ばれ、村上春樹を超える売れ行きの作品も数多くある。BLも人気で、女性が好んで読む。表紙や挿絵に漫画家の表紙やイラストが用いられることが多く、書店に大きなコーナーが設けられるほどファンが多い。台湾では日本の作品の翻訳だけでなく、現地作家の作品もあり、高い人気がある。中国や香港、シンガポールでは、商業ベースの作品は少ないが(香港とシンガポールは市場が小さいため、BLに限らず商業作品自体が少ない)、同人誌があり、各地のBLファンの交流がある。
ぶどううり・くすこは、耽美は男性同士の関係描写の隠語で、JUNEという区分ができる前からあったと述べている。1978年10月に「JUNE」の前身「comicJUN」が創刊される前、同人作家の間で男性の同性愛描写を「お耽美」と称する動きがあったらしく、おそらく森茉莉の描いた美少年と美青年の恋愛ものや高畠華宵の美少年絵、石原豪人の美青年絵が想定されていたのだろうと述べている。その後「JUNE」誌上やその周辺の創作物が「耽美」と呼ばれた。「耽美小説」は、1991年頃から刊行され出したハードカバー新書サイズ単行本のキャッチフレーズとして使われた。JUNEは固有名詞であるため、使えなかったということもあるようである。JUNEは、当初は今の意味とは異なり、読者の美意識に適うものはなんでもJUNEとされたようで、だんだん耽美の色合いが強まり今の意味になったのではないかと述べている。
作家の三浦しをんによると、重厚なストーリー展開を持った「女の子向け男同士の恋愛」小説がハードカバーで発売され始めた頃、書店で「耽美」という名称が見られるようになった。その後、このジャンルの専門雑誌が多く創刊され、小説はノベルズサイズや文庫サイズになり、専門のコミックスのレーベルができ、その頃「ボーイズラブ」という名称を見かけるようになったという。三浦は、「ボーイズラブ」は、それまで書店で「耽美」と呼ばれていた女の子向けの男性同士の恋愛ものを、出版社がよりポップで手に取りやすいイメージにしたいと考えて作り出した名称のようで、「耽美」と「ボーイズラブ」は元々同じものを指しており、書店と出版社の立場(思惑)の違いで呼び名が違ってしまっただけだろうと述べている。三浦は、「耽美」と「ボーイズラブ」は乱暴にくくれば同じものを指す名称だが、絵柄や文体にも「耽美」っぽい、「ボーイズラブ」っぽいという違いはあり、内容については、登場人物がゲイである自分をなかなか受け入れられないなど、悩みや迷いが大きくなるほど「耽美」っぽくなり、男同士の恋愛に迷いもない明るい学園物などは「ボーイズラブ」っぽいと述べている。
よしながふみは、「耽美」に対する名称として「ボーイズラブ」があり、同じカテゴリーだけど「耽美」といえば「美青年」というイメージであると述べている。
ぶどううり・くすこは、耽美の定義ははっきり決まっていないが、個人的な印象として次の3つを挙げている。
1970年代に、竹宮惠子ら少女漫画家が美少年・美青年の同性愛を描いた少女漫画を発表して大きな衝撃を与える。これを背景に、1978年10月に「JUNE」の前身「COMIC JUN」が創刊、1981年に「JUNE」(後に「小説 JUNE」、サン出版)が創刊した。
ボーイズラブの系譜において、1976年から1984年まで連載された竹宮惠子の漫画『風と木の詩』が最初の著名な作品として挙げられることがある。この作品について竹宮は「表現の問題として、男女の愛を深く語ろうとするとベッドシーンでなくては語れない形もありますよね。ところが当時は、ベッドの上に男女の足を3本描いただけで警察に呼ばれ、作品は世に出せなかった。でも不思議なことに、男性同士なら問題にならなかったんです。」と述べており、また、自分の作品が「ボーイズラブ」への流れを生むきっかけになったのかもしれないが、意図はまったく違うと断言しており、「仮面のかぶり方を教えてしまいましたね。女性の描き手にとって、女性の性衝動を描くことは超えがたいハードルでしたが、男性の姿を借りれば描ける。そういう仮面。」とも述べている。
竹宮惠子、山岸凉子ら24年組に代表される少女漫画家による少年愛ものは、1980年代半ばにほとんど連載を終えた。よしながふみは、『風と木の詩』は少年同士の恋愛を描いた画期的な作品ではあるが、書店に多く見られるBL作品と直接つながらないと指摘し、源流として、女性を作品世界からきれいに排除し、情報機関(スパイ)や政治といった少女には未知の世界も取り入れた作品を描いた青池保子をあげている。
藤本由香里は、「やおい(BL)」の展開について、「女装の少年」の系譜でとらえた方がいいのではないかと述べている。シリアスな少年愛ものと並行して描かれてきた「美形ホモセクシュアルもの」の流れがあり、青池保子『イブの息子たち』、魔夜峰央『パタリロ』といったコメディ作品も含まれており、これらは明らかに「女装の少年」の系譜を引いているという。さらに藤本は、少女のジェンダー抑圧からの逃避だった少年愛ものと異なり、「女装の少年」の系譜は「少女たちが『性を遊ぶ』ことを可能にし、受動から能動へと視点を転換させる可能性を開いた」と指摘し、千田有紀は「男性の身体を眼差す主体として、女性を位置づけることを可能にした」と述べている。なお『パタリロ』は1982年にアニメ化され、地上波でゴールデンタイムに全49話放送されたが、メインキャラ(男性同士)の愛人関係が描写されるなど、原作の男性同性愛の要素も全く隠さず表現された。ぶどううり・くすこは、「強いて言えば『パタリロ!』関連のアニメ化をもって BL 及び耽美作品映像化の始まりと言う事も出来ようが、そう言う判断は2014年の時点でもほぼ為されていない模様」と述べている。
1980年代には、少女漫画家による少年愛ものの連載はほとんどが終了した。読者もまたこれらに不満を感じ離れていった。
1979年には、坂田靖子が主宰する漫画同人会ラヴリが機関誌『らっぽり』(波津彬子責任編集)の「やおい特集号」を発行(やおいという言葉の誕生)。その影響もあり、ストーリー性やメッセージ性のない、描きたいことだけを描いた同人誌も多く描かれるようになり、それは男同士の危ない関係を扱ったものが多かった。1980年代には、少年漫画・少年アニメを題材にしたパロディ同人誌が大量に作られるようになり、アニパロやおい、パロディやおいなどと呼ばれた。少女漫画から離れた少女の描き手は、魅力的な少年キャラクターがたくさん登場し、絵柄も少女たちに受け入れやすい少年漫画『キャプテン翼』(1982年に連載開始)に出会って熱狂し、それを題材に二次創作を作るようになる。霜月りつ(荒木立子)は、80年〜85年頃に学漫(大学の漫画同好会)主流の同人誌即売会でアニパロが大流行し、女性の描き手、読み手が急激に増えたと述べている。86年ごろからキャプテン翼ブームが起こり、聖闘士星矢、天空戦記シュラト、サムライトルーパーと美少年キャラが多数登場するアニメが放送され、女子の同人熱が一気に高まった。パロディやおいの題材としては、「少年たちが共通の目的を持って戦う」パターンの作品が好まれ、パートナーが高じて恋人同士になる、「私生活でも仕事(目標)でもお前が必要なんだ!」(中島梓)といった展開が描かれた。
料理研究家の福田里香・よしながふみは、同人誌で「JUNE」と異なる流れと作ったのは、それまでの耽美でシリアスな少年愛ものと異なる、軽くて明るく同性愛差別が全くない、ゲイばかり登場する学園物を描いたえみくりで、「同人誌で一番耽美が流行っている頃に、えみくりさんは同人誌で一億総ホモっていう世界を確立した」と述べている。福田は、多田かおる、岡崎京子、西村しのぶ、えみくりら62年生まれを「24年組のマンガをリアルタイムで読んで育った世代」「そんなにマンガ雑誌がなかった時代」なので「読もうと思えばほぼ全部制覇できた」と言い、「女子で多様な出自の作家が出始めた世代」と指摘している。そして「(一般に評価の高い)岡崎京子さんが大島弓子さんとかを読んで男女の性を赤裸々に描くというのは、わかりやすいというか...想定の範囲内(笑)」だが、えみくりは「同じものを見てきたはずの人が、想定の範囲外のことを出してきた」と評価している。福田によると、えみくりは自分たちの同人誌を「男と男の『りぼん』」(陸奥A子や田渕由美子の活躍した「乙女ちっく」時代の『りぼん』)であるとしており、福田は、手をつないだだけでドキドキするような物語を男と男でやるというところに、えみくりの「突然変異的な発想の飛躍」があるとしている。また、「男と男の『りぼん』」&「ギムナジウム(寮)」&「関西弁」という独特のシャッフルのセンス、編集能力の高さ、サブカルチャーからの影響などにも触れている。えみくりに始まる新しい流れの影響が後に商業誌に及び、商業誌で確立したのがこだか和麻であるという。
1991年12月10日『イマージュ』(白夜書房)が創刊し、キャッチコピーに「BOY'S LOVE COMIC」と冠した(「ボーイズラブ」の確認される初出)。1992年に角川スニーカー文庫(当時の角川書店は少年向け、少女向けの区別をしておらず、当初ボーイズラブ作品も刊行していた)から独立する形で角川ルビー文庫が創刊。この時点でボーイズラブという言葉は知られておらず、「耽美」「JUNE」「やおい」などと呼ばれていた。アニパロのアンソロジーを盛んに出していた青磁ビブロスが、1992年にボーイズラブ漫画の専門レーベル第1号といわれる「BE×BOY コミックス」を創刊、1993年に「マガジンBE×BOY(略称・マガビー)」を創刊した。1990年代初頭には、アニメのパロディ同人誌はあるものの、オリジナルで男同士の恋愛を取り扱った女性向け商業漫画誌は「マガジンBE×BOY」しかなく、初期から版元が倒産するまでBL業界を牽引した。よしながふみは、同誌の創刊時、女の子のためのポルノ雑誌ができたと思ったと述べている。 初期のボーイズラブは商業誌の描き手が少なく、同人作家、特にパロディやおいの作家を集めてスタートした。そのため、二次創作として書かれたものをオリジナルキャラでリライトして商業ベースで出版することもあった。現在でも商業BLで活躍すると同時に同人誌を出している作家は少なくない。
1984年から95年には、一般向け小説と共に今でいうBL小説を書いてこのジャンルを切り開いた栗本薫(中島梓)が「JUNE」で、読者の投稿小説を批評する「中島梓の小説道場」を連載し、投稿者たちの創作活動を支え、ここから江森備、石原侑子、鹿住槙、柏枝真郷、尾鮭あさみ、秋月こお、須和雪里、佐々木禎子、金丸マキといった多くの作家が育っていき、商業BL小説の発展に大きな役割を果たした。近年、栗本薫がBL執筆に向かったのは早大在学中に遭遇した川口大三郎事件で虐殺糾弾運動に参加できなかった屈折を執筆で解決しようとしたため、という説が照山もみじによって提起されているが、まだ定説にはなっていない。
1988年にカセットJUNEが創刊、第1弾は三田菱子原作「鼓ヶ淵」。やおい・BLジャンル初の音声メディアと言われる。
1990年代にはボーイズラブの小説レーベルが次々誕生した。雑誌も次々生まれては消えていった、1990年代後半には出版不況が起こり、ライトノベルやボーイズラブが有力コンテンツとして注目されるようになった。この時代は、ボーイズラブにとって高度成長期のようなものだったという。1994年には、マンガ情報誌「ぱふ」8月号で、特集 「創刊ラッシュで戦国時代突入―『 BOYS LOVE MAGAZINE 』完全攻略マニュアル」が組まれ(なお、この特集で青磁ビブロスの牧歳子編集長は、回答に「ボーイズラブ」という言葉は使わず「やおい」を使っている)、分野を指す言葉として「ボーイズラブ」が共有されたのはこれ以降といわれる。その後も「ぱふ」はボーイズラブ特集を繰り返し行い、これがボーイズラブという言葉の普及に一役買ったといわれている。コバルト文庫やホワイトハートといった少女小説レーベルもBL要素のある小説を増やしたが、乱立したBLレーベルとの競争が激しかったためか、あまりうまくいかず撤退している。
よしながふみは、自分より下の世代のBLに大きな影響力を持つ作品として、少女漫画誌「マーガレット」に掲載された尾崎南の漫画『絶愛-1989-』(1990年に第1巻刊行。同作のやおいを下敷きにしているといわれる。作者は商業誌での活躍と同時に『キャプテン翼』のやおい同人作家であり続けた)、こだか和麻の漫画『KIZUNA-絆ー』(元々は作者の商業少年漫画から派生したオリジナル同人誌(1991年)。1992年商業で第1巻刊行)、少女小説レーベルのコバルト文庫から出た桑原水菜の小説『炎の蜃気楼』(1990年第1巻刊行。当初はコバルト文庫ではBLに分類されていなかったようである)をあげている。BL的なものを読むが量は多くないという人でも、この3作はほとんど皆読んでいたという。
1992年に、吉原理恵子著・道原かつみイラストのBL小説が原作のOVA『間の楔』第1巻がマガジン・マガジンより発売される。やおい・BLジャンル初のアニメ化作品と言われる。同年、日本SF大会の自主企画として「やおいパネルディスカッション」が開かれる。
1996年からCLAMPが少女漫画雑誌「なかよし」で『カードキャプターさくら』の連載を開始。作中で主人公さくらの兄と友人(さくらの好きな人)の同性愛を匂わせる関係性が描写される(恋か友情か明言されないが、互いが一番大事でずっと側にいてほしい相手として描かれている)。ちぷたそは、本作にはBL・百合(女性同性愛もの)・ロリコン・男の娘という要素があり、幼少期にこの作品に触れた人でオタクになった人は多いのではないかと指摘している。
1999年ごろからネット上で「腐女子」という言葉が見られるようになっている。
2000年代には、BL作品が電子書籍で出版されるようになり、携帯電話で読めるようになったことで、店頭で購入するのが恥ずかしい人も気軽に買え、どこでも読めるようになったころで、一気に広がっていった。携帯電話の進化に伴い、BLゲームのアプリも作られるようになり、さらに間口が広がった。2007年ごろから、携帯ゲームなどではBLゲームが人気になり、2010年ごろまで一種のブームになる。攻略キャラクターからメールが届くなど、携帯電話の性能を生かした遊び方を備えたゲームも登場した。ブームに伴い「BL」の意味もさらに拡散し、男性同性愛作品全般を指す言葉として広く使われるようになった。
よしながふみは、ボーイズラブ市場が成長して頭打ちになり、限りあうパイを食い合うようになったことで、より最大公約数的な作品が求められるようになり、フォーマットができつつあると述べている(2006年時点)。悲劇でも許され好きに描くことのできた初期に比べ、制約が強くなり、保守化しているという。BLの元編集者は、2011年頃から「勝てない勝負はしない(=利益が見込めるものだけ刊行する)」傾向の版元が増えて市場が膠着しており、BLマンガは電子媒体があるためデビューのチャンスは多いが、小説は1冊分を書き下ろすのが主流であることもあり、長い目で作家を養成する余裕がなくなってきていると述べている。保守化によって面白い作品が減り、読者が離れることが懸念されるという。また、最近ではセックスシーンが絶対必要という雰囲気も薄くなり、セックスシーンのないBLも増えている。西村マリは2014年時点の状況として、最近は王道を逆転・逸脱した進化形BLが増え、主流になってきていると述べており、進化形BL漫画の流れを作った立役者のひとりとして、かつて同人活動で人気を集め、近年は女性誌や青年誌でも大ヒットを飛ばしている漫画家のヤマシタトモコを挙げている。
金田淳子は、BL的な要素のある他ジャンルの作品として、最近では『TIGER&BUNNY』や『相棒』、『黒子のバスケ』などの作品があるが、「あの程度のイチャイチャ」は1980年代には始まっており、1990年代には少年誌「ジャンプ」はすでに自覚的であったと述べている。永久保陽子は、出版社や制作サイドは、ボーイズラブ的なものが商売になると理解し、戦略的に使うようになっており、その認識が浸透して最近(2012年)には普通のことになったと述べている。
近年では、作家の三浦しをん、アナウンサーの有働由美子、女優の二階堂ふみなど、BL愛読者であることを公言する女性も増えた。また金田は、女性は様々なジャンルにBL的な要素があることをわかっており、作品自体が最近変わったわけではないが、女性が少年漫画などにBL的な要素を見出すことに否定的だった男性たちの中にも、そういったものを評価し受け入れる人がかなり増えてきたと述べている。また、雑誌でBLが取り上げられることも増え、それほどサブカルチャーに興味がなくても、ボーイズラブをいつの間にか知っていたという人も増えているという。
小説では、木原音瀬の『箱の外』が、BLレーベルで出版された後に2007年に講談社文庫からも出版され、BLレーベル出身の井村仁美、榎田尤利、菅野彰、椹野道流らが他ジャンルでも活躍している。2008年時点で、ノベルズをジャンル別に見ると、4割弱を「仕事を持つ大人の女性が、社会的地位のある魅力的な男性を好きになり、すれ違いを経て両想いになる」というストーリーが多いハーレクイン社の大人の女性向け翻訳ラブロマンス小説が占めており、次いでボーイズラブ小説が約2割となっている。
一般向け小説では、BL好きを公言する三浦しをんや有川浩などが男のロマン的なテイスト、BLテイストの入った作品を書いている。金田淳子は、ハイカルチャーとしての小説の有名な賞などを取るようなタイプの純文学は、ジェンダーやセクシュアリティ関連のものが圧倒的に多く、設定やストーリーだけを見るとBLと区別がつかない作品もあり、文藝賞を受賞した比留間久夫の『yes・yes・yes』はBLとしても読まれていたと述べている。永久保陽子は、漫画はそれ自体がサブカルチャーだが、小説は、一般小説がメインカルチャーでBL小説がサブカルチャーという関係がはっきりあり、純文学を頂点とするヒエラルキーがまだ根強いため、カテゴリーの境を超えることが漫画よりも難しいと述べている。
永久保は、BLマンガよりBL小説の方が作品に許される幅が狭いのではないかと指摘している。BL小説が年代を経て洗練された反面、<受け>と<攻め>の設定、ハッピーエンドなどパターン化が顕著になっており、その型からかなり外れた作品を描いている木原音瀬は別格である評価している。西村マリは、BL小説は「アラブもの」のように決まった型を絞り込む傾向にあり、一方BLマンガは設定や型の逆転逸脱が起きやすいと指摘している。三浦しをんは、BL小説の読者はBLマンガの読者より比較的年齢層が高いことと文章による表現であることから、BL小説でもマンガ同様にポップ化が進行中であるとはいえ、「耽美」な雰囲気の作品や大人が主役の作品、任侠ものもBLマンガより残っていると述べている。
山藍紫姫子もBLレーベルとそれ以外のレーベルで活躍し、独自の作品世界を確立しているが、BL作家というより耽美作家と呼ばれる。
2000年には、株式会社ソフパルの女性向けゲームブランド・プラチナれーべるよりBL初の商業PCゲーム(18禁)「好きなものは好きだからしょうがない!!― FIRST LIMIT―」が発売、男性向け美少女ゲームの老舗アリスソフトが女性向けBLゲームブランド「Alice Blue」を立ち上げ、「隠れ月」(全年齢向け) を発売(コンシューマー機やパソコンというプラットフォームを採用した初期のBLゲームは、販売面では苦戦した)。
WOWOWで「グラビテーション」(村上真紀原作)が連続アニメされる。地上波放送はないが、これがボーイズラブ初の連続TVアニメといわれる。
2001年には、アメリカのカリフォルニア州で総合イベント「Yaoi-Con」が開催され、日本のBL作家たちがゲストとして招かれる。
「マガジンBE×BOY」の2002年1月号に「夢見る BOYS LOVE マガジン★」というキャッチコピーが付けられ、以降表紙キャッチコピーに「BOYS LOVE」を盛り込むようになった。
2004年にライトノベルの 「まるマシリーズ」が『今日からマ王!』としてNHK教育テレビでアニメ化。「ぱふ」(雑草社)5月号の文中で、女性を対象にしたアニメグッズや同人誌などを扱う店舗が密集する池袋の通りに対して、初めて「乙女ロード」の名称が使われる。
2005年、PCゲーム「好きなものは好きだからしょうがない!!」が地上波でアニメ化される。おそらくボーイズラブ初の地上波アニメである。ミキマキによる4コマ漫画『少年よ耽美を描け -Boys be tambitious-』(腐女子の彼女に振られたモテ男の主人公が、彼女を見返すために友人たちとBL漫画を描こうと奮闘するギャグ)が連載開始。雑誌「Newtype」(角川書店)12月号で、乙女ロードが「通称・腐女子ストリート」として紹介される。この頃からSNSサイトも作られており、それまでひっそりBLを愛好していた人も、仲間を気軽に探して交流できるようになった。
2006年、BLの大手出版社ビブロスがグループ会社の自己破産のあおりを受け倒産、ビブロスのBL事業を引き継ぐために、アニメイトグループのアニメイト・ムービック・フロンティアワークスの3社共同出資によりリブレ出版が発足。小島アジコがチベット801名義で腐女子の彼女の生態を描く漫画ブログ『となりの801ちゃん』を開設。市川染五郎、片岡愛之助のコンビで、男同士の純愛を描いた歌舞伎『染模様恩愛御書』が復活上演された。
2007年には雑誌「ユリイカ」で、関連論客による見識を集大成し「総特集 腐女子マンガ大系」(6月)という特集が行われ、「いまBLというジャンルが熟していてアツいんじゃないか?」という認識のもと、さらに「BLスタディーズ」(12月)という特集が組まれた。韓国のBL漫画イ・ヨンヒ『絶頂』が日本で翻訳出版される。宙出版より『この BL (ボーイズラブ)がやばい! 2008年腐女子版』が刊行される。ごとうしのぶのBL小説「タクミくんシリーズ」『そして春風にささやいて』、紺野けい子のBL漫画『愛の言霊』、国枝彩香のBL漫画『いつか雨が降るように』が実写化。
2008年には、BL誌に連載された漫画としては初めて、中村春菊の「純情ロマンチカ」の地上波でアニメ化される。一方、堺市立図書館で、匿名市民とその意向を受けた議員たちがBL本を図書館から排除するよう要求し、図書館は意向を受け「BL」と判断した約5500冊の本を開架から除去する事件が起こる(後述)。
2009年、2006年にドイツで出版されたドイツ人漫画家ユニット・ピンクサイコ( Heath & Nheira )のBL漫画『In the End 〜最果ての二人〜』が日本で翻訳出版される。
2010年頃には、ヤマシタトモコや雲田はるこなどが一般誌とBL両方でヒットを飛ばし、どちらのジャンルにも偏らず活躍し続ける漫画家も増えた。
2012年には、短歌ブームの中、Twitter上で「#BL短歌」タグによるBL短歌が始まって流行し、同人誌も作られる。秋月こおのBL小説原作の『富士見二丁目交響楽団』が実写化。『コミック JUNE 』(ジュネット刊)2013年2月号(2012年12月刊行)で休刊し、定期的に刊行されるJUNE ブランド雑誌がなくなる。この頃になると、BLと一般誌両方で活躍する作家や、BLレーベルで出た後に一般向けのレーベル・文庫から再版される作品も増え、BL的な要素がアニメや舞台といった様々なジャンルで展開されるようになり、浸透と拡散が起こっている。
2013年、BL作家のぢゅん子が少女漫画誌『別冊フレンド』(講談社)で、腐女子が主人公で、コンセプトは「もっとも主人公になりたくない人物が主人公になってしまった乙女ゲーム」という恋愛コメディ漫画『私がモテてどうすんだ』の連載を始める。
2014年には、ヨネダコウのBLマンガが原作の実写映画『どうしても触れたくない』(2014年5月31日公開)が、BL実写映画で初めてオリコンのDVD映画週間ランキング(2014年9月15日 - 2014年9月21日)で1位になる。美術雑誌「美術手帖」で「ボーイズラブ"関係性"の表現をほどく」という特集が行われ、売り上げを伸ばした。
2015年には、ミュージカル・テニスの王子様の累計動員数が200万人を突破。平凡社より、19世紀末〜20世紀半ばの独仏英などの女性作家による男同士の物語を集めた笠間千浪編『古典BL小説集』 (平凡社ライブラリー)が出版される。アメリカのコメディアニメ「サウスパーク」で、BL(やおい)を扱った「トゥイーク×クレイグ(Tweek x Craig)」というエピソードが放送された。学校でアジアで流行っている文化としてBL(やおい)が紹介され、その例として生徒トゥイークとクレイグのBLイラストが出され、周囲は二人は本当に付き合っているゲイのカップルだと思い込み、東アジア系の腐女子の生徒たちは大喜びでイラストを量産、当人たちは大迷惑、町中でふたりの恋を応援するのが流行り・・・という話。作中には事前に募集された実際の腐女子によるファンアートが使用された。成人男性向けのイラストを扱うSNS「ニジエ」を運営する株式会社ニジエが、18禁BLイラストSNS「ホルネ」をリリースし、サービス開始から6日でユーザー数が3万人を超えた。桜日梯子原作のBLCD「抱かれたい男1位に脅されています。」(販売元:リブレ出版、レーベル:Cue Egg Label)がBLCD初のオリコン週間TOP10入りし1位になる。
2016年には、中村明日美子のBL漫画が原作の劇場アニメーション『同級生』が全国30館で上映をスタート、上映開始から43日で動員数13.5万人、興行収入2億円を突破した。井原西鶴の男同士の恋愛をテーマにした短編小説集『男色大鑑』(1687年出版)がアンソロジー形式で漫画化される。
2017年4月にカンテレ・フジテレビ系全国ネットで栗山千明主演のドラマ『でも、結婚したいっ!〜BL漫画家のこじらせ婚活記〜』が放送された。
2014年の「美術手帖」の特集では、「BLのどこに魅力を感じるかは十人十色だが、 特筆すべきは"関係性"の表現にあると言えるだろう。」「描き手/読み手の心を時に癒し、時に興奮させ、 ジェンダーやセクシュアリティーに対する固定観念を揺さぶり、 愛することや欲望の発露について思考をめぐらせるきっかけとなる。」と紹介されている。
千田有紀は、BL好きも一枚岩ではなく、戦う少年たちの熱い友情に憧れ萌える、アニパロの系譜のやおいを好むタイプもいれば、少年愛ものは好きだが戦う少年たちにもその熱い友情にも興味はないという人、「ヘタリア」などの国の擬人化にみられるように、ジェンダーを娯楽化して屈託なく楽しむ人など、BLをどのように読むのか、そのような側面を好むのかには、いくつかのグループ、少なくとも2つ以上のグループがあるようだと指摘している。よしながふみは、BLは「もてない女の慰め」と揶揄されることもあるが、実際そういった面もあり(無論それが全てではない)、「今の男女のあり方に無意識的でも居心地の悪さを感じている人が読むもの」だが、読者が受けてきた抑圧や居心地の悪さはそれぞれ違っているので、一括りにしにくいと述べている。フェミニズムと結びつけて論じられることも少なくないが、それを嫌がる人も多いという。また、「<受け>や<攻め>といった男女の役割のメタファーを維持しながら、男性二人がその役割を演じることにより、その役割を換骨奪胎できるのがBLの魅力である」としている。また、生涯未婚率が上がりつつある現在、女性に「子どもが産めなくても、どんな過去があっても、あなたはあなたでいいのだ」という承認、「居場所」がもたらされるジャンルは、BL以外にはないようであるそうだ。
詩文奈は、基本的にBLには異性であるキャラクターを360度見る自由があり、まるで監督になったように視点を切り替え、心の中でキャラクターを好きに扱うという、日常にはない権力や自由が手に入るため、女性にとっては精神レベルでの解放のツールになっていると指摘している。また、日本にはいまだに男女差別ともいえるような社会的な男女の違いと距離(詩は日本の男女の現状は様々な面で1960 - 70年代のイタリアに近いと述べている)があり、ヨーロッパに比べレディーファーストの文化がないことで日本の女性はより過酷な状況にあり、どんな<攻め>でも「愛がないとだめ」というBLの理によって、「紳士文化」への憧れの気持ち(これには日本の「父」の不在の影響もある)が満たされるという側面もあるという。
よしながふみは、BLはJUNEのような背徳的なものへの憧れではなく、男性同士の対等な葛藤を描こうというもので、同性愛者としての葛藤を描きたいというものではないと述べている。また、読者が挙げるBLの魅力として、様々な職業が取り上げられることの少ない最近の少女漫画に対して、BLは多種多様な仕事が取り上げられ未知の世界を知ることができるので、それが特有のおもしろさになっているとも述べている。
佐川俊彦は、<受け>と<攻め>という発想はJUNE以降に作り出されたもので、<受け>と<攻め>という大発明ができたことで耽美がBLになったのではないか、少年愛ものの少年漫画を描いていた24年組と呼ばれる少女漫画家たちは、意識的にキャラをそういう風に分けていなかったと述べている。
西村マリは、BLは女性の恋愛願望だけではなく、職業上の成功願望も満たすものであると述べている。恋愛成就だけでなく、社会的・経済的に<攻め>より不利な立場として描かれることの多い<受け>の職業上のレベルアップがお約束となっており、これが結婚エンディングのハーレクインとの違いであるとしている。そして「BLはその流行の時期から見て、女性の社会進出と密接な関係があるエンターテインメントである。バブル期に一気に進み、そして就職氷河期に凍りついた女性の社会進出。労働環境はその後もじりじりと厳しさを増し続けている。そんなもどかしい時期を、BLはカップルのあり方をシミュレーションしながら伴走してきたのだ。」と述べ、2人とも職業を持つ夫婦の関係は、会社人と専業主婦の組み合わせより、男同士のカップルに近いのではないかと指摘している。
羅川真里茂の『ニューヨーク・ニューヨーク』のように、少女漫画家による美しい絵で描かれた男性の同性愛をテーマにする作品でも、リアルなゲイの葛藤や苦悩、現実的な生活を描いたものの場合、その作品をボーイズラブややおいと呼ぶことには否定的な意見がある。
ゲイの人々もボーイズラブに対する意見は様々で、「好んで読む」人もいれば、「読んだけどおもしろくなかった」という人、「(そもそも)興味がない」人もいる。
1980年代初頭、ゲイ向け雑誌『薔薇族』で、「同性愛は、異性愛のように打算的ではない崇高な純愛だ」と考える女性が、「薔薇族のモデルはブ男ばかりで、気色が悪い」といった内容の投書を寄せ、ゲイの読者たちを激怒させるという事件があった。
やおい・BLの表現については、1990年代からゲイ側からの批判もある。1992年から4年間にわたって「生き方とセクシュアリティを考える女性のためのミニコミ誌」という触れ込みの「CHOISIR」(ショワジール)というミニコミ誌で、ゲイサイドとやおいサイドの論争が行われた。掘あきこは、ゲイ側の批判点は、やおいが「男性同性愛者を、異性愛社会に隷属させるためのステレオタイプに押し込めるゲイ差別表現」である、という主張に要約できると述べている。やおい側は「やおいは現実のゲイを描いたものではない=ファンタジーである」という反論がなされ、これに対して女性に向けられるジェンダーの問題からの逃げだ、ゲイの性愛を覗き見しているだけだと批判が行われるなど、ゲイ側・やおい側それぞれの主張が展開され、政治的で幅広い議論がされた。個々のゲイと腐女子の関係については、良好な関係の腐女子の友人・知人がいるゲイの人もいれば、初対面の腐女子にぶしつけな質問をされて不快な思いをしたという人もおり、人によってさまざまである。
ボーイズラブ漫画は、作風や絵柄が少年漫画風、青年漫画風、劇画調などに仕上げる作家もいるものの、恋愛模様を主眼においている点と絵柄の美麗な作品が多いことなどから少女漫画と混同されることもある。しかし、少女漫画におけるカップルの多くは異性同士であり、男性同性愛を扱うボーイズラブとはジャンルとしてはおおよそ別れている。
よしながふみ・三浦しをんは、今の少女漫画は主人公の女の子を魅力的でなおかつ読者が嫉妬しないようなキャラとして作らなければならず、そういった困難をクリアするためにボーイズラブが生み出された面もあると指摘している。少女漫画でストライクゾーンが狭い人も、BLなら広く受け入れられるという。また、<攻め>の年齢も職業も、少女漫画よりかなり多様であると述べている。
千田有紀は、最近の少女漫画が恋愛以外の活動で成長する主人公を描くことが多くなっているのに対して、BLは(男性が主人公であるため仕事との両立は言うまでもない前提であるのだが)、BLの恋愛至上主義は際立っていると述べている。また千田は、BLには、ずっと運命の人と愛し合う「究極の一対」のカップルの理想が脈々と生きており、これはすでに少女漫画では失われた愛の幻想で、なつかしいものであると述べている。(少女の頃24年組をはじめとする少女漫画の少年愛ものを読んでいた世代が、大人になってから既婚・未婚を問わずBLの世界に戻ってきているが、BLは彼女たちに昔の読書体験を思い出させたという。)また千田は、少女が母や妻になることで「居場所」を探したのが少女漫画であったなら、BLは母や妻にならなくても「居場所」を与えられるジャンルであり、男女の恋愛では描けない地平をどこかしら拓いたと述べている。
三浦しをん は、セックスの表現はボーイズラブにおいて重要視されているが、成人向け青年漫画とは(30冊ほど確認してみた限りでは)傾向が異なると述べている。BLでの魅力的なセックスシーンとは、ストーリーに組み込まれたもので、背景には恋物語が必要である。これは女性がムードに弱い夢見がちな生き物だからということではなく、「心の交流や葛藤と共にあるセックス」でなければ、幸せも満足も喜びも生まれるはずがないと経験則で知っているからだと指摘している。そのためBLでは、成人向け青年漫画のように、ストーリー性が限りなく薄められた作品が主流になることはないだろう、と述べている。(三浦は、これはストーリー性があるものが善で、そうでないものが悪いということではなく、女性と男性では作品から快感を感じ取るポイントが違うらしい、という話だと述べている。)読者を女性・男性で区切るのも無意味なことで、ボーイズラブの読者は「心の交流(それが愛情であれ憎しみであれ)に基づくHシーン」という方法論を支持する人間であるという見解を示している。
2008年に大阪府の堺市立図書館で、ボーイズラブ小説が収蔵・貸出されていることを非難する「市民の声」によって廃棄が要求され、ボーイズラブとされた5500冊の本が開架から除去される事件が起きた。この「市民の声」というのは、実際は「匿名市民ひとり(同一人物)から」と、その意向を受けた市議たちで、このことは図書館側も認めている。市議の水ノ上成彰は「世界日報」の記事で、図書館にボーイズラブがあることを激しく批判し「実質的にポルノ本」であり、図書館にあるのはおかしいと主張している。市民活動家の寺町みどりは、「堺市に届いたメールから分かったことは、特定図書を排除したい人たちは、『同性愛』自体を嫌悪している。同性愛への差別と偏見から『BLをこどもに見せるな』といい、『BL本を処分せよ』と迫った。」と指摘している。
このボーイズラブ本除去運動は、議員の介入、純潔教育やジェンダーフリーバッシング、漫画・アニメ・ゲームの性表現や暴力表現に法的規制をかけるためのロビー活動を行っている韓国発祥のカルト・統一教会の関連会社「世界日報社」のバックアップを受けていたことが指摘されている。(なお、統一教会は「同性愛は創造の原理に反する不自然な関係」であるとして否定しており、「同性愛は倫理道徳の問題であり、人権問題ではない」と主張している。)図書館が示す排除の理由は二転三転し、ボーイズラブとされる基準も不明瞭であったが、ボーイズラブ本として約5500冊がリストアップされ、堺市側は、これらの本は「全て閉架に保存」「今後は収集しない」「青少年には貸出しない」と決定した。この意思決定に至る議論や経過は記録に残っていない。図書館の定まらない対応に、市民は不信感を募らせた。
この事件以前に福井でも、バックラッシュの流れの中で、ジェンダーや男女共同参画に関連するとされた本「ジェンダー図書」が、「市民の声」によって図書館から排除される事件が起きており、原因究明のために東京大学名誉教授上野千鶴子・寺町みどりらによって「ジェンダー図書排除」究明原告団が結成されていた。寺町は福井の事件以降、同様の事件を防ごうとバックラッシュ派のインターネット掲示板「フェミナチを監視する掲示板」に注視しており、そこで匿名男性が図書館にBL本が大量にあるという苦情の電話をかけていることを知ったと述べている。同原告団は堺市の決定を同様の問題ととらえ、連絡を受けた早稲田大学の熱田敬子は除去リストを分析した。熱田敬子は、除去リストには宮乃崎桜子『斎姫異聞』(第5回ホワイトハート大賞を受賞した少女小説)なども含まれており、深く検証する前におかしいことがわかるようなものだったと述べている。堺市は排除理由を「過激な性描写」のあるものとしたと回答しているが、性描写のない本、ほとんどない本も含まれており、「挿絵」も理由として挙げられたが、挿絵に裸や性表現のない本やそもそも挿絵のない本も含まれていた。男性同性愛の要素のない少女小説やセクシュアル・マイノリティの日常を描いた作品が含まれていたり、同じ作家のBLとされる作品でも出版社によって指定されたりされなかったりであったり、同一シリーズの一部だけが指定されていたり、ライトノベルは指定されるが文学は指定されていない、少女向け・女性向けと思われる本は指定しているが、男性向けでセックスをするのが男女であれば性描写の程度に関わらず指定されていない、男性同性愛がテーマでも「ゲイ文学」と認知されているものは含まれていない、性描写の程度では振り分けされていない、ストーリー性や文学性があっても同性愛表現があるだけで指定されているなど、図書館員が共有する基準を持たず各々の判断で選んだかのように一貫性がなく、暗黙の差別があらわになる除去リストであったという。(具体的な内容は、熱田が整理したリストを参照のこと)
堺市の決定に対し、報道やネットで賛成反対様々な意見があがり、BLが図書館にあることを批判する声や、BLの読者を嫌悪するような意見もあった。「図書館の自由」や「表現の自由」を守るため、上野らや市民団体、全国の議員などが反対の声をあげ、堺市長と堺市教育長に対し、市民97人、議員46人、7団体による申し入れがされた。堺市に対して、上野を代表に市民などから監査請求も行われた。監査請求の後、堺市立図書館は「青少年への提供は行なわない」との方針・合意を撤回し、「請求があれば18歳未満にも貸し出す方針を決めた。同日から運用を始めた。」と新聞で報道された。堺市は「拙速で、判断を誤った」としている。「BL図書は収集・保存しない」という措置は、2008年時点では見直されていない。
堺市立図書館は、BL本排除を決定するよう外圧があったことを否定している。これに対し寺町は「インターネットにおける各種情報や新聞等の報道からも、また、事案の経過からも事実に反する。」と述べている。
寺町みどりは、同性愛への嫌悪に基づく要求に従った堺市立図書館にも、「『ボーイズラブは青少年に見せてはいけない』という予断と、セクシュアルマイノリティへの偏見があったのだろう。だからこそ、堺市立図書館で起きたことは、『ジェンダー図書排除』事件にほかならない。」「巷にあふれる『BL本』の悪いイメージをことさらに振りまいて、自己規制を迫るのは、差別する側の常套手段だ。(中略)わたしは、図書を選別し、区別し、隠すことこそが『焚書』であり、『差別』につながると言いたい。」「『どのような理由であろうと蔵書を排除しない』を基本原則としない限り、第二第三の『図書排除』事件は、起きるだろう」と述べている。
熱田敬子は、そもそも図書館から本を大量に除去することが大問題であるが、このような乱暴な指定で図書を除去することの原理的な問題として、大きく分けて「『BL』という恣意的な括りで、本が排除されるということ」(BLであるかどうかの明瞭な定義はないので、図書館は除去する本を恣意的に選べる)、「『BL』を一括りに排除することがそもそも恣意的である、ということ」(図書館はゾーニングをするべきか)の2点があると述べている。 他に論点として、次のものが挙げられている。
また論争における問題点として、次のことが指摘されている。
この事件は、表現の自由の侵害であると同時に明確な差別事件でもあったが、その点は理解されにくく、当時は報道でも識者の間でもあまり注目されなかった。背景には、女性が性的表現を享受することに対する女性自身の後ろめたさや世間の冷淡さ(保守的なフェミニストも含む)、男性オタクからの腐女子へのバッシングだけでなく、ホモ・フォビアやセクシャル・マイノリティ差別があることも指摘されている。
BLに対する表現規制の動きはその後も継続しており、たとえば2020年代現在、東京都青少年の健全な育成に関する条例によって指定される不健全図書の大半はBL作品となっている。指定された作品は都内で青少年向けに販売できなくなるほか、Amazon.co.jpにおける販売が停止される(不健全指定された書籍のタイトルなどは東京都のウェブサイト上の不健全指定図書類一覧で確認できる)。漫画家の森川ジョージによれば、東京都の不健全図書指定により100人以上のBL漫画作家が収入を断たれたとされる。参議院議員の山田太郎は、こうした青少年健全育成を理由としたBLの規制に危惧を表明している。
イスラム教を信仰している国や地域によっては、同性愛を厳しく否定していることもあり、ボーイズラブ関連書籍は公に取り扱うことができない。
2021年、中華人民共和国ではボーイズラブを「不良文化」と認定、断固排除する方針を打ち出した。
2022年12月、ロシア連邦では性的少数者を含む、「非伝統的な性的関係」の情報発信を全面禁止する法律を制定したことに絡み、インターネットや映画、一部の文学作品を違法対象とするため、ボーイズラブ作品も禁止している。
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"text": "雑誌等で腐女子をテーマに記事を書くエッセイストの杉浦由美子は、「for girls love」という少女漫画のキャッチコピーを見たビブロスの編集者が「だったらうちはボーイズラブだ」と思い立ったのがボーイズラブという言葉の誕生であるとしている。",
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"text": "作家、編集者のほとんどは女性、読者の大多数も女性異性愛者である。「やおい」とは区別されることもあるが、混同されることもある。少年愛、JUNE、耽美が、やおいを経由して、BLに発展したとも言われる。",
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"tag": "p",
"text": "現在では、二次創作同人誌やウェブ上の作品もBLと呼ぶこともあるが、BLは基本的に商業出版寄りの言葉である。2000年代初頭の10年ほどの間で、やおい・BLジャンルの総称は、やおいからBLに移行している。漫画、小説、ドラマCD、アニメ、ゲームといった異なるメディアの作品があり、西村マリは、「マンガと小説が両立して存在する点でも、珍しい」と述べている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "元々少年同士・男性同士の同性愛を扱う作品は、「耽美」または、耽美で背徳的、シリアスな少年・青年の同性愛ものを扱う女性向け雑誌『JUNE』の名前からそのまま「JUNE(ジュネ)」「ジュネ系」と呼ばれていた。「JUNE」は、国内海外・現在過去を問わず、小説やマンガ、イラストだけでなく、映画、音楽など、あらゆる文化の「耽美」な部分をクローズアップして紹介し、様々な作品を掲載して「JUNE」文化を広げ、美しい男性同士の関係が描かれた創作物「耽美」と呼ばれるジャンルを確立した。女の子向けの男性同士の恋愛ものが増えた初期には、書店では「耽美」というコーナー名が付けられていた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "かつてはコアなジャンルと認識されていた。元々「やおい」ということばは「おタク」同様に、社会にとって「病理的」な現象の一つだった。「やおい」「女おタク」と「BL」「腐女子」という新しい言葉には大きなイメージギャップがあり、男性同性愛を題材にした作品やその愛好者を「新しい存在」にすることに一役買った。近年は『おっさんずラブ』(2018年)、『きのう何食べた?』(2019年)、『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』(2020年)等の作品のヒットにより一躍メジャーとなった。原田イチボは『週刊ポスト』に寄せた寄稿文で、『きのう何食べた?』と同じよしながふみ原作だったテレビドラマ『アンティーク 〜西洋骨董洋菓子店〜』(2001年)を例に挙げ、「(当時の)ドラマ版では登場人物のゲイという設定がほとんど消えていた」ことを指摘し、(当時から比較すると)「良い時代になった」としている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "BLには男性からの影響もある。西村マリは「BLCDには(出演する)男性声優たちの作品に対する解釈が反映され、結果的にBL界へのフィードバックとなっている。」と述べている。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "BL関連の日本の市場規模は、オタク市場に限れば215億円(2012年)、その他の市場まで含めば350億円(2013年)ほどといわれる。レーベルは小説とコミックス合わせて100程度存在する。巨大な商業BLジャンルの背後には、それを上回る規模の同人・二次創作の世界が存在している。商業BLへの同人界からの影響はかなり大きい。市場が成長する一方で、2010年前後頃からはBLに対する規制の動きも出てきている(後述)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "日本を代表するポピュラー文化として国際的に知られ、海外各地でファン向けコンベンションの開催、日本の作品の翻訳、その影響を受けた海外作家の作品の出版が見られる。このようにグローバル化しながら各地でローカル化も進んでいる。アメリカやヨーロッパではBLも日本より男性読者が多いといわれることもあり、主にゲイだが、異性愛男性も少なくないようである。BLとゲイコミックが一緒に出版されることもある。 英語圏では日本語を導入して、「Boys Love」、「Shōnen-ai」、「Yaoi」という用語が使われる。少年愛を直訳するとBoys Loveになってしまうこともあり、Boys Love、Shōnen-ai、Yaoiもあまり区別されていない。英語では、ボーイズラブという言葉が小児性愛を連想させると敬遠され、YAOI(やおい)と呼ばれることが多い。欧米ではライトテイストの作品が「少年愛」、性描写のある作品は「やおい」と呼ばれる。BLコミックの翻訳も少なくなく、アメリカ「amazon」のコミックス売り上げランキングで半分近くを占めたこともあったという。これらBLとは別に元々英語圏にあった、男性同士の関係性に焦点を当てた(しばしば性関係も含む)ファン・フィクション(二次創作)は、「Slash fiction(スラッシュ・フィクション)」という。女性作家による男性同性愛の物語は古くからあるが、英語圏でのスラッシュは、『スタートレック』や、BBCで70年代末に放送されていたSF『ブレイクス7』(Blake's 7)の人気が引き金になり、1970年代のSFファンダムで広く認知されるようになった。海外は、日本と比べてボーイズラブはまだニッチなジャンルであり、市場も日本ほど大きくない(海外で一番大きい市場はフランス)。東アジアでは、日本などのライトノベルは「軽小説」(中国語版)と呼ばれ、村上春樹を超える売れ行きの作品も数多くある。BLも人気で、女性が好んで読む。表紙や挿絵に漫画家の表紙やイラストが用いられることが多く、書店に大きなコーナーが設けられるほどファンが多い。台湾では日本の作品の翻訳だけでなく、現地作家の作品もあり、高い人気がある。中国や香港、シンガポールでは、商業ベースの作品は少ないが(香港とシンガポールは市場が小さいため、BLに限らず商業作品自体が少ない)、同人誌があり、各地のBLファンの交流がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ぶどううり・くすこは、耽美は男性同士の関係描写の隠語で、JUNEという区分ができる前からあったと述べている。1978年10月に「JUNE」の前身「comicJUN」が創刊される前、同人作家の間で男性の同性愛描写を「お耽美」と称する動きがあったらしく、おそらく森茉莉の描いた美少年と美青年の恋愛ものや高畠華宵の美少年絵、石原豪人の美青年絵が想定されていたのだろうと述べている。その後「JUNE」誌上やその周辺の創作物が「耽美」と呼ばれた。「耽美小説」は、1991年頃から刊行され出したハードカバー新書サイズ単行本のキャッチフレーズとして使われた。JUNEは固有名詞であるため、使えなかったということもあるようである。JUNEは、当初は今の意味とは異なり、読者の美意識に適うものはなんでもJUNEとされたようで、だんだん耽美の色合いが強まり今の意味になったのではないかと述べている。",
"title": "耽美とボーイズラブ"
},
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"tag": "p",
"text": "作家の三浦しをんによると、重厚なストーリー展開を持った「女の子向け男同士の恋愛」小説がハードカバーで発売され始めた頃、書店で「耽美」という名称が見られるようになった。その後、このジャンルの専門雑誌が多く創刊され、小説はノベルズサイズや文庫サイズになり、専門のコミックスのレーベルができ、その頃「ボーイズラブ」という名称を見かけるようになったという。三浦は、「ボーイズラブ」は、それまで書店で「耽美」と呼ばれていた女の子向けの男性同士の恋愛ものを、出版社がよりポップで手に取りやすいイメージにしたいと考えて作り出した名称のようで、「耽美」と「ボーイズラブ」は元々同じものを指しており、書店と出版社の立場(思惑)の違いで呼び名が違ってしまっただけだろうと述べている。三浦は、「耽美」と「ボーイズラブ」は乱暴にくくれば同じものを指す名称だが、絵柄や文体にも「耽美」っぽい、「ボーイズラブ」っぽいという違いはあり、内容については、登場人物がゲイである自分をなかなか受け入れられないなど、悩みや迷いが大きくなるほど「耽美」っぽくなり、男同士の恋愛に迷いもない明るい学園物などは「ボーイズラブ」っぽいと述べている。",
"title": "耽美とボーイズラブ"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "よしながふみは、「耽美」に対する名称として「ボーイズラブ」があり、同じカテゴリーだけど「耽美」といえば「美青年」というイメージであると述べている。",
"title": "耽美とボーイズラブ"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ぶどううり・くすこは、耽美の定義ははっきり決まっていないが、個人的な印象として次の3つを挙げている。",
"title": "耽美とボーイズラブ"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1970年代に、竹宮惠子ら少女漫画家が美少年・美青年の同性愛を描いた少女漫画を発表して大きな衝撃を与える。これを背景に、1978年10月に「JUNE」の前身「COMIC JUN」が創刊、1981年に「JUNE」(後に「小説 JUNE」、サン出版)が創刊した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ボーイズラブの系譜において、1976年から1984年まで連載された竹宮惠子の漫画『風と木の詩』が最初の著名な作品として挙げられることがある。この作品について竹宮は「表現の問題として、男女の愛を深く語ろうとするとベッドシーンでなくては語れない形もありますよね。ところが当時は、ベッドの上に男女の足を3本描いただけで警察に呼ばれ、作品は世に出せなかった。でも不思議なことに、男性同士なら問題にならなかったんです。」と述べており、また、自分の作品が「ボーイズラブ」への流れを生むきっかけになったのかもしれないが、意図はまったく違うと断言しており、「仮面のかぶり方を教えてしまいましたね。女性の描き手にとって、女性の性衝動を描くことは超えがたいハードルでしたが、男性の姿を借りれば描ける。そういう仮面。」とも述べている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "竹宮惠子、山岸凉子ら24年組に代表される少女漫画家による少年愛ものは、1980年代半ばにほとんど連載を終えた。よしながふみは、『風と木の詩』は少年同士の恋愛を描いた画期的な作品ではあるが、書店に多く見られるBL作品と直接つながらないと指摘し、源流として、女性を作品世界からきれいに排除し、情報機関(スパイ)や政治といった少女には未知の世界も取り入れた作品を描いた青池保子をあげている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "藤本由香里は、「やおい(BL)」の展開について、「女装の少年」の系譜でとらえた方がいいのではないかと述べている。シリアスな少年愛ものと並行して描かれてきた「美形ホモセクシュアルもの」の流れがあり、青池保子『イブの息子たち』、魔夜峰央『パタリロ』といったコメディ作品も含まれており、これらは明らかに「女装の少年」の系譜を引いているという。さらに藤本は、少女のジェンダー抑圧からの逃避だった少年愛ものと異なり、「女装の少年」の系譜は「少女たちが『性を遊ぶ』ことを可能にし、受動から能動へと視点を転換させる可能性を開いた」と指摘し、千田有紀は「男性の身体を眼差す主体として、女性を位置づけることを可能にした」と述べている。なお『パタリロ』は1982年にアニメ化され、地上波でゴールデンタイムに全49話放送されたが、メインキャラ(男性同士)の愛人関係が描写されるなど、原作の男性同性愛の要素も全く隠さず表現された。ぶどううり・くすこは、「強いて言えば『パタリロ!』関連のアニメ化をもって BL 及び耽美作品映像化の始まりと言う事も出来ようが、そう言う判断は2014年の時点でもほぼ為されていない模様」と述べている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1980年代には、少女漫画家による少年愛ものの連載はほとんどが終了した。読者もまたこれらに不満を感じ離れていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1979年には、坂田靖子が主宰する漫画同人会ラヴリが機関誌『らっぽり』(波津彬子責任編集)の「やおい特集号」を発行(やおいという言葉の誕生)。その影響もあり、ストーリー性やメッセージ性のない、描きたいことだけを描いた同人誌も多く描かれるようになり、それは男同士の危ない関係を扱ったものが多かった。1980年代には、少年漫画・少年アニメを題材にしたパロディ同人誌が大量に作られるようになり、アニパロやおい、パロディやおいなどと呼ばれた。少女漫画から離れた少女の描き手は、魅力的な少年キャラクターがたくさん登場し、絵柄も少女たちに受け入れやすい少年漫画『キャプテン翼』(1982年に連載開始)に出会って熱狂し、それを題材に二次創作を作るようになる。霜月りつ(荒木立子)は、80年〜85年頃に学漫(大学の漫画同好会)主流の同人誌即売会でアニパロが大流行し、女性の描き手、読み手が急激に増えたと述べている。86年ごろからキャプテン翼ブームが起こり、聖闘士星矢、天空戦記シュラト、サムライトルーパーと美少年キャラが多数登場するアニメが放送され、女子の同人熱が一気に高まった。パロディやおいの題材としては、「少年たちが共通の目的を持って戦う」パターンの作品が好まれ、パートナーが高じて恋人同士になる、「私生活でも仕事(目標)でもお前が必要なんだ!」(中島梓)といった展開が描かれた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "料理研究家の福田里香・よしながふみは、同人誌で「JUNE」と異なる流れと作ったのは、それまでの耽美でシリアスな少年愛ものと異なる、軽くて明るく同性愛差別が全くない、ゲイばかり登場する学園物を描いたえみくりで、「同人誌で一番耽美が流行っている頃に、えみくりさんは同人誌で一億総ホモっていう世界を確立した」と述べている。福田は、多田かおる、岡崎京子、西村しのぶ、えみくりら62年生まれを「24年組のマンガをリアルタイムで読んで育った世代」「そんなにマンガ雑誌がなかった時代」なので「読もうと思えばほぼ全部制覇できた」と言い、「女子で多様な出自の作家が出始めた世代」と指摘している。そして「(一般に評価の高い)岡崎京子さんが大島弓子さんとかを読んで男女の性を赤裸々に描くというのは、わかりやすいというか...想定の範囲内(笑)」だが、えみくりは「同じものを見てきたはずの人が、想定の範囲外のことを出してきた」と評価している。福田によると、えみくりは自分たちの同人誌を「男と男の『りぼん』」(陸奥A子や田渕由美子の活躍した「乙女ちっく」時代の『りぼん』)であるとしており、福田は、手をつないだだけでドキドキするような物語を男と男でやるというところに、えみくりの「突然変異的な発想の飛躍」があるとしている。また、「男と男の『りぼん』」&「ギムナジウム(寮)」&「関西弁」という独特のシャッフルのセンス、編集能力の高さ、サブカルチャーからの影響などにも触れている。えみくりに始まる新しい流れの影響が後に商業誌に及び、商業誌で確立したのがこだか和麻であるという。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1991年12月10日『イマージュ』(白夜書房)が創刊し、キャッチコピーに「BOY'S LOVE COMIC」と冠した(「ボーイズラブ」の確認される初出)。1992年に角川スニーカー文庫(当時の角川書店は少年向け、少女向けの区別をしておらず、当初ボーイズラブ作品も刊行していた)から独立する形で角川ルビー文庫が創刊。この時点でボーイズラブという言葉は知られておらず、「耽美」「JUNE」「やおい」などと呼ばれていた。アニパロのアンソロジーを盛んに出していた青磁ビブロスが、1992年にボーイズラブ漫画の専門レーベル第1号といわれる「BE×BOY コミックス」を創刊、1993年に「マガジンBE×BOY(略称・マガビー)」を創刊した。1990年代初頭には、アニメのパロディ同人誌はあるものの、オリジナルで男同士の恋愛を取り扱った女性向け商業漫画誌は「マガジンBE×BOY」しかなく、初期から版元が倒産するまでBL業界を牽引した。よしながふみは、同誌の創刊時、女の子のためのポルノ雑誌ができたと思ったと述べている。 初期のボーイズラブは商業誌の描き手が少なく、同人作家、特にパロディやおいの作家を集めてスタートした。そのため、二次創作として書かれたものをオリジナルキャラでリライトして商業ベースで出版することもあった。現在でも商業BLで活躍すると同時に同人誌を出している作家は少なくない。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1984年から95年には、一般向け小説と共に今でいうBL小説を書いてこのジャンルを切り開いた栗本薫(中島梓)が「JUNE」で、読者の投稿小説を批評する「中島梓の小説道場」を連載し、投稿者たちの創作活動を支え、ここから江森備、石原侑子、鹿住槙、柏枝真郷、尾鮭あさみ、秋月こお、須和雪里、佐々木禎子、金丸マキといった多くの作家が育っていき、商業BL小説の発展に大きな役割を果たした。近年、栗本薫がBL執筆に向かったのは早大在学中に遭遇した川口大三郎事件で虐殺糾弾運動に参加できなかった屈折を執筆で解決しようとしたため、という説が照山もみじによって提起されているが、まだ定説にはなっていない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1988年にカセットJUNEが創刊、第1弾は三田菱子原作「鼓ヶ淵」。やおい・BLジャンル初の音声メディアと言われる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1990年代にはボーイズラブの小説レーベルが次々誕生した。雑誌も次々生まれては消えていった、1990年代後半には出版不況が起こり、ライトノベルやボーイズラブが有力コンテンツとして注目されるようになった。この時代は、ボーイズラブにとって高度成長期のようなものだったという。1994年には、マンガ情報誌「ぱふ」8月号で、特集 「創刊ラッシュで戦国時代突入―『 BOYS LOVE MAGAZINE 』完全攻略マニュアル」が組まれ(なお、この特集で青磁ビブロスの牧歳子編集長は、回答に「ボーイズラブ」という言葉は使わず「やおい」を使っている)、分野を指す言葉として「ボーイズラブ」が共有されたのはこれ以降といわれる。その後も「ぱふ」はボーイズラブ特集を繰り返し行い、これがボーイズラブという言葉の普及に一役買ったといわれている。コバルト文庫やホワイトハートといった少女小説レーベルもBL要素のある小説を増やしたが、乱立したBLレーベルとの競争が激しかったためか、あまりうまくいかず撤退している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "よしながふみは、自分より下の世代のBLに大きな影響力を持つ作品として、少女漫画誌「マーガレット」に掲載された尾崎南の漫画『絶愛-1989-』(1990年に第1巻刊行。同作のやおいを下敷きにしているといわれる。作者は商業誌での活躍と同時に『キャプテン翼』のやおい同人作家であり続けた)、こだか和麻の漫画『KIZUNA-絆ー』(元々は作者の商業少年漫画から派生したオリジナル同人誌(1991年)。1992年商業で第1巻刊行)、少女小説レーベルのコバルト文庫から出た桑原水菜の小説『炎の蜃気楼』(1990年第1巻刊行。当初はコバルト文庫ではBLに分類されていなかったようである)をあげている。BL的なものを読むが量は多くないという人でも、この3作はほとんど皆読んでいたという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1992年に、吉原理恵子著・道原かつみイラストのBL小説が原作のOVA『間の楔』第1巻がマガジン・マガジンより発売される。やおい・BLジャンル初のアニメ化作品と言われる。同年、日本SF大会の自主企画として「やおいパネルディスカッション」が開かれる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1996年からCLAMPが少女漫画雑誌「なかよし」で『カードキャプターさくら』の連載を開始。作中で主人公さくらの兄と友人(さくらの好きな人)の同性愛を匂わせる関係性が描写される(恋か友情か明言されないが、互いが一番大事でずっと側にいてほしい相手として描かれている)。ちぷたそは、本作にはBL・百合(女性同性愛もの)・ロリコン・男の娘という要素があり、幼少期にこの作品に触れた人でオタクになった人は多いのではないかと指摘している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1999年ごろからネット上で「腐女子」という言葉が見られるようになっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2000年代には、BL作品が電子書籍で出版されるようになり、携帯電話で読めるようになったことで、店頭で購入するのが恥ずかしい人も気軽に買え、どこでも読めるようになったころで、一気に広がっていった。携帯電話の進化に伴い、BLゲームのアプリも作られるようになり、さらに間口が広がった。2007年ごろから、携帯ゲームなどではBLゲームが人気になり、2010年ごろまで一種のブームになる。攻略キャラクターからメールが届くなど、携帯電話の性能を生かした遊び方を備えたゲームも登場した。ブームに伴い「BL」の意味もさらに拡散し、男性同性愛作品全般を指す言葉として広く使われるようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "よしながふみは、ボーイズラブ市場が成長して頭打ちになり、限りあうパイを食い合うようになったことで、より最大公約数的な作品が求められるようになり、フォーマットができつつあると述べている(2006年時点)。悲劇でも許され好きに描くことのできた初期に比べ、制約が強くなり、保守化しているという。BLの元編集者は、2011年頃から「勝てない勝負はしない(=利益が見込めるものだけ刊行する)」傾向の版元が増えて市場が膠着しており、BLマンガは電子媒体があるためデビューのチャンスは多いが、小説は1冊分を書き下ろすのが主流であることもあり、長い目で作家を養成する余裕がなくなってきていると述べている。保守化によって面白い作品が減り、読者が離れることが懸念されるという。また、最近ではセックスシーンが絶対必要という雰囲気も薄くなり、セックスシーンのないBLも増えている。西村マリは2014年時点の状況として、最近は王道を逆転・逸脱した進化形BLが増え、主流になってきていると述べており、進化形BL漫画の流れを作った立役者のひとりとして、かつて同人活動で人気を集め、近年は女性誌や青年誌でも大ヒットを飛ばしている漫画家のヤマシタトモコを挙げている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "金田淳子は、BL的な要素のある他ジャンルの作品として、最近では『TIGER&BUNNY』や『相棒』、『黒子のバスケ』などの作品があるが、「あの程度のイチャイチャ」は1980年代には始まっており、1990年代には少年誌「ジャンプ」はすでに自覚的であったと述べている。永久保陽子は、出版社や制作サイドは、ボーイズラブ的なものが商売になると理解し、戦略的に使うようになっており、その認識が浸透して最近(2012年)には普通のことになったと述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "近年では、作家の三浦しをん、アナウンサーの有働由美子、女優の二階堂ふみなど、BL愛読者であることを公言する女性も増えた。また金田は、女性は様々なジャンルにBL的な要素があることをわかっており、作品自体が最近変わったわけではないが、女性が少年漫画などにBL的な要素を見出すことに否定的だった男性たちの中にも、そういったものを評価し受け入れる人がかなり増えてきたと述べている。また、雑誌でBLが取り上げられることも増え、それほどサブカルチャーに興味がなくても、ボーイズラブをいつの間にか知っていたという人も増えているという。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "小説では、木原音瀬の『箱の外』が、BLレーベルで出版された後に2007年に講談社文庫からも出版され、BLレーベル出身の井村仁美、榎田尤利、菅野彰、椹野道流らが他ジャンルでも活躍している。2008年時点で、ノベルズをジャンル別に見ると、4割弱を「仕事を持つ大人の女性が、社会的地位のある魅力的な男性を好きになり、すれ違いを経て両想いになる」というストーリーが多いハーレクイン社の大人の女性向け翻訳ラブロマンス小説が占めており、次いでボーイズラブ小説が約2割となっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "一般向け小説では、BL好きを公言する三浦しをんや有川浩などが男のロマン的なテイスト、BLテイストの入った作品を書いている。金田淳子は、ハイカルチャーとしての小説の有名な賞などを取るようなタイプの純文学は、ジェンダーやセクシュアリティ関連のものが圧倒的に多く、設定やストーリーだけを見るとBLと区別がつかない作品もあり、文藝賞を受賞した比留間久夫の『yes・yes・yes』はBLとしても読まれていたと述べている。永久保陽子は、漫画はそれ自体がサブカルチャーだが、小説は、一般小説がメインカルチャーでBL小説がサブカルチャーという関係がはっきりあり、純文学を頂点とするヒエラルキーがまだ根強いため、カテゴリーの境を超えることが漫画よりも難しいと述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "永久保は、BLマンガよりBL小説の方が作品に許される幅が狭いのではないかと指摘している。BL小説が年代を経て洗練された反面、<受け>と<攻め>の設定、ハッピーエンドなどパターン化が顕著になっており、その型からかなり外れた作品を描いている木原音瀬は別格である評価している。西村マリは、BL小説は「アラブもの」のように決まった型を絞り込む傾向にあり、一方BLマンガは設定や型の逆転逸脱が起きやすいと指摘している。三浦しをんは、BL小説の読者はBLマンガの読者より比較的年齢層が高いことと文章による表現であることから、BL小説でもマンガ同様にポップ化が進行中であるとはいえ、「耽美」な雰囲気の作品や大人が主役の作品、任侠ものもBLマンガより残っていると述べている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "山藍紫姫子もBLレーベルとそれ以外のレーベルで活躍し、独自の作品世界を確立しているが、BL作家というより耽美作家と呼ばれる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2000年には、株式会社ソフパルの女性向けゲームブランド・プラチナれーべるよりBL初の商業PCゲーム(18禁)「好きなものは好きだからしょうがない!!― FIRST LIMIT―」が発売、男性向け美少女ゲームの老舗アリスソフトが女性向けBLゲームブランド「Alice Blue」を立ち上げ、「隠れ月」(全年齢向け) を発売(コンシューマー機やパソコンというプラットフォームを採用した初期のBLゲームは、販売面では苦戦した)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "WOWOWで「グラビテーション」(村上真紀原作)が連続アニメされる。地上波放送はないが、これがボーイズラブ初の連続TVアニメといわれる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2001年には、アメリカのカリフォルニア州で総合イベント「Yaoi-Con」が開催され、日本のBL作家たちがゲストとして招かれる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "「マガジンBE×BOY」の2002年1月号に「夢見る BOYS LOVE マガジン★」というキャッチコピーが付けられ、以降表紙キャッチコピーに「BOYS LOVE」を盛り込むようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2004年にライトノベルの 「まるマシリーズ」が『今日からマ王!』としてNHK教育テレビでアニメ化。「ぱふ」(雑草社)5月号の文中で、女性を対象にしたアニメグッズや同人誌などを扱う店舗が密集する池袋の通りに対して、初めて「乙女ロード」の名称が使われる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2005年、PCゲーム「好きなものは好きだからしょうがない!!」が地上波でアニメ化される。おそらくボーイズラブ初の地上波アニメである。ミキマキによる4コマ漫画『少年よ耽美を描け -Boys be tambitious-』(腐女子の彼女に振られたモテ男の主人公が、彼女を見返すために友人たちとBL漫画を描こうと奮闘するギャグ)が連載開始。雑誌「Newtype」(角川書店)12月号で、乙女ロードが「通称・腐女子ストリート」として紹介される。この頃からSNSサイトも作られており、それまでひっそりBLを愛好していた人も、仲間を気軽に探して交流できるようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2006年、BLの大手出版社ビブロスがグループ会社の自己破産のあおりを受け倒産、ビブロスのBL事業を引き継ぐために、アニメイトグループのアニメイト・ムービック・フロンティアワークスの3社共同出資によりリブレ出版が発足。小島アジコがチベット801名義で腐女子の彼女の生態を描く漫画ブログ『となりの801ちゃん』を開設。市川染五郎、片岡愛之助のコンビで、男同士の純愛を描いた歌舞伎『染模様恩愛御書』が復活上演された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2007年には雑誌「ユリイカ」で、関連論客による見識を集大成し「総特集 腐女子マンガ大系」(6月)という特集が行われ、「いまBLというジャンルが熟していてアツいんじゃないか?」という認識のもと、さらに「BLスタディーズ」(12月)という特集が組まれた。韓国のBL漫画イ・ヨンヒ『絶頂』が日本で翻訳出版される。宙出版より『この BL (ボーイズラブ)がやばい! 2008年腐女子版』が刊行される。ごとうしのぶのBL小説「タクミくんシリーズ」『そして春風にささやいて』、紺野けい子のBL漫画『愛の言霊』、国枝彩香のBL漫画『いつか雨が降るように』が実写化。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2008年には、BL誌に連載された漫画としては初めて、中村春菊の「純情ロマンチカ」の地上波でアニメ化される。一方、堺市立図書館で、匿名市民とその意向を受けた議員たちがBL本を図書館から排除するよう要求し、図書館は意向を受け「BL」と判断した約5500冊の本を開架から除去する事件が起こる(後述)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2009年、2006年にドイツで出版されたドイツ人漫画家ユニット・ピンクサイコ( Heath & Nheira )のBL漫画『In the End 〜最果ての二人〜』が日本で翻訳出版される。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2010年頃には、ヤマシタトモコや雲田はるこなどが一般誌とBL両方でヒットを飛ばし、どちらのジャンルにも偏らず活躍し続ける漫画家も増えた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2012年には、短歌ブームの中、Twitter上で「#BL短歌」タグによるBL短歌が始まって流行し、同人誌も作られる。秋月こおのBL小説原作の『富士見二丁目交響楽団』が実写化。『コミック JUNE 』(ジュネット刊)2013年2月号(2012年12月刊行)で休刊し、定期的に刊行されるJUNE ブランド雑誌がなくなる。この頃になると、BLと一般誌両方で活躍する作家や、BLレーベルで出た後に一般向けのレーベル・文庫から再版される作品も増え、BL的な要素がアニメや舞台といった様々なジャンルで展開されるようになり、浸透と拡散が起こっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2013年、BL作家のぢゅん子が少女漫画誌『別冊フレンド』(講談社)で、腐女子が主人公で、コンセプトは「もっとも主人公になりたくない人物が主人公になってしまった乙女ゲーム」という恋愛コメディ漫画『私がモテてどうすんだ』の連載を始める。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2014年には、ヨネダコウのBLマンガが原作の実写映画『どうしても触れたくない』(2014年5月31日公開)が、BL実写映画で初めてオリコンのDVD映画週間ランキング(2014年9月15日 - 2014年9月21日)で1位になる。美術雑誌「美術手帖」で「ボーイズラブ\"関係性\"の表現をほどく」という特集が行われ、売り上げを伸ばした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2015年には、ミュージカル・テニスの王子様の累計動員数が200万人を突破。平凡社より、19世紀末〜20世紀半ばの独仏英などの女性作家による男同士の物語を集めた笠間千浪編『古典BL小説集』 (平凡社ライブラリー)が出版される。アメリカのコメディアニメ「サウスパーク」で、BL(やおい)を扱った「トゥイーク×クレイグ(Tweek x Craig)」というエピソードが放送された。学校でアジアで流行っている文化としてBL(やおい)が紹介され、その例として生徒トゥイークとクレイグのBLイラストが出され、周囲は二人は本当に付き合っているゲイのカップルだと思い込み、東アジア系の腐女子の生徒たちは大喜びでイラストを量産、当人たちは大迷惑、町中でふたりの恋を応援するのが流行り・・・という話。作中には事前に募集された実際の腐女子によるファンアートが使用された。成人男性向けのイラストを扱うSNS「ニジエ」を運営する株式会社ニジエが、18禁BLイラストSNS「ホルネ」をリリースし、サービス開始から6日でユーザー数が3万人を超えた。桜日梯子原作のBLCD「抱かれたい男1位に脅されています。」(販売元:リブレ出版、レーベル:Cue Egg Label)がBLCD初のオリコン週間TOP10入りし1位になる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2016年には、中村明日美子のBL漫画が原作の劇場アニメーション『同級生』が全国30館で上映をスタート、上映開始から43日で動員数13.5万人、興行収入2億円を突破した。井原西鶴の男同士の恋愛をテーマにした短編小説集『男色大鑑』(1687年出版)がアンソロジー形式で漫画化される。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2017年4月にカンテレ・フジテレビ系全国ネットで栗山千明主演のドラマ『でも、結婚したいっ!〜BL漫画家のこじらせ婚活記〜』が放送された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2014年の「美術手帖」の特集では、「BLのどこに魅力を感じるかは十人十色だが、 特筆すべきは\"関係性\"の表現にあると言えるだろう。」「描き手/読み手の心を時に癒し、時に興奮させ、 ジェンダーやセクシュアリティーに対する固定観念を揺さぶり、 愛することや欲望の発露について思考をめぐらせるきっかけとなる。」と紹介されている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "千田有紀は、BL好きも一枚岩ではなく、戦う少年たちの熱い友情に憧れ萌える、アニパロの系譜のやおいを好むタイプもいれば、少年愛ものは好きだが戦う少年たちにもその熱い友情にも興味はないという人、「ヘタリア」などの国の擬人化にみられるように、ジェンダーを娯楽化して屈託なく楽しむ人など、BLをどのように読むのか、そのような側面を好むのかには、いくつかのグループ、少なくとも2つ以上のグループがあるようだと指摘している。よしながふみは、BLは「もてない女の慰め」と揶揄されることもあるが、実際そういった面もあり(無論それが全てではない)、「今の男女のあり方に無意識的でも居心地の悪さを感じている人が読むもの」だが、読者が受けてきた抑圧や居心地の悪さはそれぞれ違っているので、一括りにしにくいと述べている。フェミニズムと結びつけて論じられることも少なくないが、それを嫌がる人も多いという。また、「<受け>や<攻め>といった男女の役割のメタファーを維持しながら、男性二人がその役割を演じることにより、その役割を換骨奪胎できるのがBLの魅力である」としている。また、生涯未婚率が上がりつつある現在、女性に「子どもが産めなくても、どんな過去があっても、あなたはあなたでいいのだ」という承認、「居場所」がもたらされるジャンルは、BL以外にはないようであるそうだ。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "詩文奈は、基本的にBLには異性であるキャラクターを360度見る自由があり、まるで監督になったように視点を切り替え、心の中でキャラクターを好きに扱うという、日常にはない権力や自由が手に入るため、女性にとっては精神レベルでの解放のツールになっていると指摘している。また、日本にはいまだに男女差別ともいえるような社会的な男女の違いと距離(詩は日本の男女の現状は様々な面で1960 - 70年代のイタリアに近いと述べている)があり、ヨーロッパに比べレディーファーストの文化がないことで日本の女性はより過酷な状況にあり、どんな<攻め>でも「愛がないとだめ」というBLの理によって、「紳士文化」への憧れの気持ち(これには日本の「父」の不在の影響もある)が満たされるという側面もあるという。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "よしながふみは、BLはJUNEのような背徳的なものへの憧れではなく、男性同士の対等な葛藤を描こうというもので、同性愛者としての葛藤を描きたいというものではないと述べている。また、読者が挙げるBLの魅力として、様々な職業が取り上げられることの少ない最近の少女漫画に対して、BLは多種多様な仕事が取り上げられ未知の世界を知ることができるので、それが特有のおもしろさになっているとも述べている。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "佐川俊彦は、<受け>と<攻め>という発想はJUNE以降に作り出されたもので、<受け>と<攻め>という大発明ができたことで耽美がBLになったのではないか、少年愛ものの少年漫画を描いていた24年組と呼ばれる少女漫画家たちは、意識的にキャラをそういう風に分けていなかったと述べている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "西村マリは、BLは女性の恋愛願望だけではなく、職業上の成功願望も満たすものであると述べている。恋愛成就だけでなく、社会的・経済的に<攻め>より不利な立場として描かれることの多い<受け>の職業上のレベルアップがお約束となっており、これが結婚エンディングのハーレクインとの違いであるとしている。そして「BLはその流行の時期から見て、女性の社会進出と密接な関係があるエンターテインメントである。バブル期に一気に進み、そして就職氷河期に凍りついた女性の社会進出。労働環境はその後もじりじりと厳しさを増し続けている。そんなもどかしい時期を、BLはカップルのあり方をシミュレーションしながら伴走してきたのだ。」と述べ、2人とも職業を持つ夫婦の関係は、会社人と専業主婦の組み合わせより、男同士のカップルに近いのではないかと指摘している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "羅川真里茂の『ニューヨーク・ニューヨーク』のように、少女漫画家による美しい絵で描かれた男性の同性愛をテーマにする作品でも、リアルなゲイの葛藤や苦悩、現実的な生活を描いたものの場合、その作品をボーイズラブややおいと呼ぶことには否定的な意見がある。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ゲイの人々もボーイズラブに対する意見は様々で、「好んで読む」人もいれば、「読んだけどおもしろくなかった」という人、「(そもそも)興味がない」人もいる。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1980年代初頭、ゲイ向け雑誌『薔薇族』で、「同性愛は、異性愛のように打算的ではない崇高な純愛だ」と考える女性が、「薔薇族のモデルはブ男ばかりで、気色が悪い」といった内容の投書を寄せ、ゲイの読者たちを激怒させるという事件があった。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "やおい・BLの表現については、1990年代からゲイ側からの批判もある。1992年から4年間にわたって「生き方とセクシュアリティを考える女性のためのミニコミ誌」という触れ込みの「CHOISIR」(ショワジール)というミニコミ誌で、ゲイサイドとやおいサイドの論争が行われた。掘あきこは、ゲイ側の批判点は、やおいが「男性同性愛者を、異性愛社会に隷属させるためのステレオタイプに押し込めるゲイ差別表現」である、という主張に要約できると述べている。やおい側は「やおいは現実のゲイを描いたものではない=ファンタジーである」という反論がなされ、これに対して女性に向けられるジェンダーの問題からの逃げだ、ゲイの性愛を覗き見しているだけだと批判が行われるなど、ゲイ側・やおい側それぞれの主張が展開され、政治的で幅広い議論がされた。個々のゲイと腐女子の関係については、良好な関係の腐女子の友人・知人がいるゲイの人もいれば、初対面の腐女子にぶしつけな質問をされて不快な思いをしたという人もおり、人によってさまざまである。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ボーイズラブ漫画は、作風や絵柄が少年漫画風、青年漫画風、劇画調などに仕上げる作家もいるものの、恋愛模様を主眼においている点と絵柄の美麗な作品が多いことなどから少女漫画と混同されることもある。しかし、少女漫画におけるカップルの多くは異性同士であり、男性同性愛を扱うボーイズラブとはジャンルとしてはおおよそ別れている。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "よしながふみ・三浦しをんは、今の少女漫画は主人公の女の子を魅力的でなおかつ読者が嫉妬しないようなキャラとして作らなければならず、そういった困難をクリアするためにボーイズラブが生み出された面もあると指摘している。少女漫画でストライクゾーンが狭い人も、BLなら広く受け入れられるという。また、<攻め>の年齢も職業も、少女漫画よりかなり多様であると述べている。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "千田有紀は、最近の少女漫画が恋愛以外の活動で成長する主人公を描くことが多くなっているのに対して、BLは(男性が主人公であるため仕事との両立は言うまでもない前提であるのだが)、BLの恋愛至上主義は際立っていると述べている。また千田は、BLには、ずっと運命の人と愛し合う「究極の一対」のカップルの理想が脈々と生きており、これはすでに少女漫画では失われた愛の幻想で、なつかしいものであると述べている。(少女の頃24年組をはじめとする少女漫画の少年愛ものを読んでいた世代が、大人になってから既婚・未婚を問わずBLの世界に戻ってきているが、BLは彼女たちに昔の読書体験を思い出させたという。)また千田は、少女が母や妻になることで「居場所」を探したのが少女漫画であったなら、BLは母や妻にならなくても「居場所」を与えられるジャンルであり、男女の恋愛では描けない地平をどこかしら拓いたと述べている。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "三浦しをん は、セックスの表現はボーイズラブにおいて重要視されているが、成人向け青年漫画とは(30冊ほど確認してみた限りでは)傾向が異なると述べている。BLでの魅力的なセックスシーンとは、ストーリーに組み込まれたもので、背景には恋物語が必要である。これは女性がムードに弱い夢見がちな生き物だからということではなく、「心の交流や葛藤と共にあるセックス」でなければ、幸せも満足も喜びも生まれるはずがないと経験則で知っているからだと指摘している。そのためBLでは、成人向け青年漫画のように、ストーリー性が限りなく薄められた作品が主流になることはないだろう、と述べている。(三浦は、これはストーリー性があるものが善で、そうでないものが悪いということではなく、女性と男性では作品から快感を感じ取るポイントが違うらしい、という話だと述べている。)読者を女性・男性で区切るのも無意味なことで、ボーイズラブの読者は「心の交流(それが愛情であれ憎しみであれ)に基づくHシーン」という方法論を支持する人間であるという見解を示している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2008年に大阪府の堺市立図書館で、ボーイズラブ小説が収蔵・貸出されていることを非難する「市民の声」によって廃棄が要求され、ボーイズラブとされた5500冊の本が開架から除去される事件が起きた。この「市民の声」というのは、実際は「匿名市民ひとり(同一人物)から」と、その意向を受けた市議たちで、このことは図書館側も認めている。市議の水ノ上成彰は「世界日報」の記事で、図書館にボーイズラブがあることを激しく批判し「実質的にポルノ本」であり、図書館にあるのはおかしいと主張している。市民活動家の寺町みどりは、「堺市に届いたメールから分かったことは、特定図書を排除したい人たちは、『同性愛』自体を嫌悪している。同性愛への差別と偏見から『BLをこどもに見せるな』といい、『BL本を処分せよ』と迫った。」と指摘している。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "このボーイズラブ本除去運動は、議員の介入、純潔教育やジェンダーフリーバッシング、漫画・アニメ・ゲームの性表現や暴力表現に法的規制をかけるためのロビー活動を行っている韓国発祥のカルト・統一教会の関連会社「世界日報社」のバックアップを受けていたことが指摘されている。(なお、統一教会は「同性愛は創造の原理に反する不自然な関係」であるとして否定しており、「同性愛は倫理道徳の問題であり、人権問題ではない」と主張している。)図書館が示す排除の理由は二転三転し、ボーイズラブとされる基準も不明瞭であったが、ボーイズラブ本として約5500冊がリストアップされ、堺市側は、これらの本は「全て閉架に保存」「今後は収集しない」「青少年には貸出しない」と決定した。この意思決定に至る議論や経過は記録に残っていない。図書館の定まらない対応に、市民は不信感を募らせた。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "この事件以前に福井でも、バックラッシュの流れの中で、ジェンダーや男女共同参画に関連するとされた本「ジェンダー図書」が、「市民の声」によって図書館から排除される事件が起きており、原因究明のために東京大学名誉教授上野千鶴子・寺町みどりらによって「ジェンダー図書排除」究明原告団が結成されていた。寺町は福井の事件以降、同様の事件を防ごうとバックラッシュ派のインターネット掲示板「フェミナチを監視する掲示板」に注視しており、そこで匿名男性が図書館にBL本が大量にあるという苦情の電話をかけていることを知ったと述べている。同原告団は堺市の決定を同様の問題ととらえ、連絡を受けた早稲田大学の熱田敬子は除去リストを分析した。熱田敬子は、除去リストには宮乃崎桜子『斎姫異聞』(第5回ホワイトハート大賞を受賞した少女小説)なども含まれており、深く検証する前におかしいことがわかるようなものだったと述べている。堺市は排除理由を「過激な性描写」のあるものとしたと回答しているが、性描写のない本、ほとんどない本も含まれており、「挿絵」も理由として挙げられたが、挿絵に裸や性表現のない本やそもそも挿絵のない本も含まれていた。男性同性愛の要素のない少女小説やセクシュアル・マイノリティの日常を描いた作品が含まれていたり、同じ作家のBLとされる作品でも出版社によって指定されたりされなかったりであったり、同一シリーズの一部だけが指定されていたり、ライトノベルは指定されるが文学は指定されていない、少女向け・女性向けと思われる本は指定しているが、男性向けでセックスをするのが男女であれば性描写の程度に関わらず指定されていない、男性同性愛がテーマでも「ゲイ文学」と認知されているものは含まれていない、性描写の程度では振り分けされていない、ストーリー性や文学性があっても同性愛表現があるだけで指定されているなど、図書館員が共有する基準を持たず各々の判断で選んだかのように一貫性がなく、暗黙の差別があらわになる除去リストであったという。(具体的な内容は、熱田が整理したリストを参照のこと)",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "堺市の決定に対し、報道やネットで賛成反対様々な意見があがり、BLが図書館にあることを批判する声や、BLの読者を嫌悪するような意見もあった。「図書館の自由」や「表現の自由」を守るため、上野らや市民団体、全国の議員などが反対の声をあげ、堺市長と堺市教育長に対し、市民97人、議員46人、7団体による申し入れがされた。堺市に対して、上野を代表に市民などから監査請求も行われた。監査請求の後、堺市立図書館は「青少年への提供は行なわない」との方針・合意を撤回し、「請求があれば18歳未満にも貸し出す方針を決めた。同日から運用を始めた。」と新聞で報道された。堺市は「拙速で、判断を誤った」としている。「BL図書は収集・保存しない」という措置は、2008年時点では見直されていない。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "堺市立図書館は、BL本排除を決定するよう外圧があったことを否定している。これに対し寺町は「インターネットにおける各種情報や新聞等の報道からも、また、事案の経過からも事実に反する。」と述べている。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "寺町みどりは、同性愛への嫌悪に基づく要求に従った堺市立図書館にも、「『ボーイズラブは青少年に見せてはいけない』という予断と、セクシュアルマイノリティへの偏見があったのだろう。だからこそ、堺市立図書館で起きたことは、『ジェンダー図書排除』事件にほかならない。」「巷にあふれる『BL本』の悪いイメージをことさらに振りまいて、自己規制を迫るのは、差別する側の常套手段だ。(中略)わたしは、図書を選別し、区別し、隠すことこそが『焚書』であり、『差別』につながると言いたい。」「『どのような理由であろうと蔵書を排除しない』を基本原則としない限り、第二第三の『図書排除』事件は、起きるだろう」と述べている。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "熱田敬子は、そもそも図書館から本を大量に除去することが大問題であるが、このような乱暴な指定で図書を除去することの原理的な問題として、大きく分けて「『BL』という恣意的な括りで、本が排除されるということ」(BLであるかどうかの明瞭な定義はないので、図書館は除去する本を恣意的に選べる)、「『BL』を一括りに排除することがそもそも恣意的である、ということ」(図書館はゾーニングをするべきか)の2点があると述べている。 他に論点として、次のものが挙げられている。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "また論争における問題点として、次のことが指摘されている。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "この事件は、表現の自由の侵害であると同時に明確な差別事件でもあったが、その点は理解されにくく、当時は報道でも識者の間でもあまり注目されなかった。背景には、女性が性的表現を享受することに対する女性自身の後ろめたさや世間の冷淡さ(保守的なフェミニストも含む)、男性オタクからの腐女子へのバッシングだけでなく、ホモ・フォビアやセクシャル・マイノリティ差別があることも指摘されている。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "BLに対する表現規制の動きはその後も継続しており、たとえば2020年代現在、東京都青少年の健全な育成に関する条例によって指定される不健全図書の大半はBL作品となっている。指定された作品は都内で青少年向けに販売できなくなるほか、Amazon.co.jpにおける販売が停止される(不健全指定された書籍のタイトルなどは東京都のウェブサイト上の不健全指定図書類一覧で確認できる)。漫画家の森川ジョージによれば、東京都の不健全図書指定により100人以上のBL漫画作家が収入を断たれたとされる。参議院議員の山田太郎は、こうした青少年健全育成を理由としたBLの規制に危惧を表明している。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "イスラム教を信仰している国や地域によっては、同性愛を厳しく否定していることもあり、ボーイズラブ関連書籍は公に取り扱うことができない。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2021年、中華人民共和国ではボーイズラブを「不良文化」と認定、断固排除する方針を打ち出した。",
"title": "排斥"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "2022年12月、ロシア連邦では性的少数者を含む、「非伝統的な性的関係」の情報発信を全面禁止する法律を制定したことに絡み、インターネットや映画、一部の文学作品を違法対象とするため、ボーイズラブ作品も禁止している。",
"title": "排斥"
}
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ボーイズラブ略してBL(ビーエル)は、男性同性愛(ゲイ)を題材とした小説や漫画などのジャンルを指す用語である。
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{{Otheruses||2006年の映画|BOYS LOVE}}{{複数の問題
| 一次資料 = 2022年8月25日 (木) 03:44 (UTC)
| 精度 = 2022年8月25日 (木) 03:44 (UTC)
| 独自研究 = 2022年8月25日 (木) 03:44 (UTC)
| 宣伝 = 2022年8月25日 (木) 03:44 (UTC)
| 雑多な内容の箇条書き = 2022年8月25日 (木) 03:44 (UTC)
| 内容過剰 = 2022年8月25日 (木) 03:44 (UTC)
}}
[[File:Two boys BL draw.jpg|thumb|200px|right|BL風[[スケッチ]]]]
'''ボーイズラブ'''([[和製英語]]:boys' love)略して'''BL'''(ビーエル)は、男性[[同性愛]]([[ゲイ]])を題材とした[[小説]]や[[漫画]]などの[[ジャンル]]を指す用語である。
==語源==
<!--[[少年愛]]を[[英語]]に置き換え、''boys love''とした[[和製英語]]である。(出典なしのためコメントアウト。少年愛は英語でPederastyであり、「少年愛を英語に置き換えた」という表現は不適切。-->1991年12月10日「イマージュ」([[白夜書房]])が創刊され、キャッチコピーに「BOY'S LOVE COMIC」と冠した<ref name="年表" />。考案者は編集プロダクション「すたんだっぷ」代表・荒木立子(白城るた/霜月りつ){{Efn|荒木は元々同人サークルを主宰しており<ref name="荒木"/>、全くの一般人から会社を興して半年で今でいうBLアンソロジーを出版している。}}<ref name="年表" /><ref name="荒木">霜月りつ(白城るた、荒木立子)「[http://ayakasimemo.blog115.fc2.com/blog-entry-1323.html やおいの話をします。]」 よろめ記 2013.01.24</ref><ref>[http://www.mjakk.jp/gabacho/june_c/image.html イマージュ 980円 (株)白夜書房より 平成3年12月10日発行 (A5判)] ガバチョの部屋</ref>。漫画家の[[河内実加]]も、自身のブログで「ボーイズラブ」はあらきりつこ(荒木立子)が 命名したと言及している<ref name="年表" />。
雑誌等で[[腐女子]]をテーマに記事を書く[[エッセイスト]]の[[杉浦由美子]]は、「for girls love」という[[少女漫画]]の[[キャッチコピー]]を見た[[ビブロス (出版社)|ビブロス]]{{Efn|1988年に青磁ビブロスとして創業、1997年に[[ビブロス (出版社)|ビブロス]]となった。}}の編集者が「だったらうちはボーイズラブだ」と思い立ったのがボーイズラブという言葉の誕生であるとしている<ref>[[杉浦由美子]] 『オタク女子研究 腐女子思想大系』 [[原書房]]、2006年、136頁。ISBN 978-4562039920。</ref>。
近年は「ボーイズラブ(BL)」がやおい・BLジャンルの総称として使われることが増えいる<ref name="東" />。
当初は現在の意味と異なり、「耽美」または「[[JUNE (雑誌)|JUNE]](ジュネ)」の置換語と認識されていたようである<ref name="年表" />(耽美については→[[#耽美とボーイズラブ|耽美とボーイズラブ]]を参照)。
== 概要 ==
作家、編集者のほとんどは女性、読者の大多数も女性[[異性愛]]者である<ref>[http://www.chil-chil.net/topicDetail/topic_id/402/mode/1/ 元編集関係者が語るBL業界事情 第一回「作家と編集の関係」] ボーイズラブ専門レビューサイト ちるちる</ref>。「[[やおい]]」とは区別されることもあるが、混同されることもある。少年愛、JUNE、耽美が、やおいを経由して、BLに発展したとも言われる<ref name="千田" />。
現在では、[[二次創作]][[同人誌]]やウェブ上の作品もBLと呼ぶこともあるが、BLは基本的に商業出版寄りの言葉である<ref name="西村1"/>。2000年代初頭の10年ほどの間で、やおい・BLジャンルの総称は、やおいからBLに移行している<ref name="東">東園子「私のための物語 やおい再考」『詩と批評 ユリイカ 特集 BL オン・ザ・ラン!』 青土社、2012年</ref>。漫画、小説、ドラマCD、アニメ、ゲームといった異なるメディアの作品があり<ref name="西村4"/>、[[西村マリ]]は、「マンガと小説が両立して存在する点でも、珍しい」と述べている<ref name="西村1" />。
元々少年同士・男性同士の同性愛を扱う作品は、「耽美」または、耽美で背徳的、シリアスな少年・青年の同性愛ものを扱う女性向け[[雑誌]]『[[JUNE (雑誌)|JUNE]]』の[[名前]]からそのまま「JUNE(ジュネ)」{{Efn|「ジューン」と読まない。}}「ジュネ系」と呼ばれていた。「JUNE」は、国内海外・現在過去を問わず、小説やマンガ、イラストだけでなく、映画、音楽など、あらゆる文化の「耽美」な部分をクローズアップして紹介し、様々な作品を掲載して「JUNE」文化を広げ、美しい男性同士の関係が描かれた創作物「耽美」と呼ばれるジャンルを確立した<ref name="サイゾー">柿沼瑛子・佐川俊彦「[https://www.cyzowoman.com/2011/07/post_3835_1.html 「耽美」から「ボーイズラブ」へ!「JUNE」系とは何だったのか]」 サイゾーウーマン</ref>。女の子向けの男性同士の恋愛ものが増えた初期には、書店では「耽美」というコーナー名が付けられていた<ref name="三浦" />。
かつてはコアなジャンルと認識されていた<ref name="post">{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20201004_1600668.html |title=男性同士の恋愛描く「BL」作品がメジャー化した理由 |date=2020-10-04 |accessdate=2020-10-04 |publisher=NEWSポストセブン}}</ref>。元々「やおい」ということばは「[[おたく|おタク]]」同様に、社会にとって「病理的」な現象の一つだった。「やおい」「女おタク」と「BL」「[[腐女子]]」という新しい言葉には大きなイメージギャップがあり、男性同性愛を題材にした作品やその愛好者を「新しい存在」にすることに一役買った<ref name="千田" />。近年は『[[おっさんずラブ]]』([[2018年]])、『[[きのう何食べた? (テレビドラマ)|きのう何食べた?]]』([[2019年]])、『[[30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい#テレビドラマ|30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい]]』([[2020年]])等の作品のヒットにより一躍メジャーとなった<ref name="post" />。[[原田イチボ]]は『[[週刊ポスト]]』に寄せた寄稿文で、『きのう何食べた?』と同じ[[よしながふみ]]原作だったテレビドラマ『[[アンティーク 〜西洋骨董洋菓子店〜]]』([[2001年]])を例に挙げ、「(当時の)ドラマ版では登場人物のゲイという設定がほとんど消えていた」ことを指摘し、(当時から比較すると)「良い時代になった」としている<ref name="post" />。
BLには男性からの影響もある。西村マリは「BLCDには(出演する)男性声優たちの作品に対する解釈が反映され、結果的にBL界へのフィードバックとなっている。」と述べている。<ref name="西村5">西村マリ {{Wayback|ur=http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/bl_yaoi5.html|title=第5回 身代わりの花嫁――戦う少女と受け身な男|date=}} ボーイズラブは楽しい!――やおい/ヤオイ/YAOIのいま 青土社</ref>
=== 市場 ===
BL関連の日本の市場規模は、オタク市場に限れば215億円(2012年)、その他の市場まで含めば350億円(2013年)ほどといわれる<ref name="西村1" />。レーベルは小説とコミックス合わせて100程度存在する<ref name="西村1" />。巨大な商業BLジャンルの背後には、それを上回る規模の[[同人]]・二次創作の世界が存在している<ref name="西村1" />。商業BLへの同人界からの影響はかなり大きい<ref name="西村4" />。市場が成長する一方で、2010年前後頃からはBLに対する規制の動きも出てきている([[ボーイズラブ#排斥|後述]])。
=== 日本国外 ===
日本を代表するポピュラー文化として国際的に知られ、海外各地でファン向け[[コンベンション]]の開催、日本の作品の翻訳、その影響を受けた海外作家の作品の出版が見られる<ref name="長池" />。このようにグローバル化しながら各地でローカル化も進んでいる<ref name="長池">長池一美「グローバル化するBL研究 日本BL研究からトランスナショナルBL研究へ」大城房美 編著『女性マンガ研究 欧米・日本・アジアをつなぐMANGA』 2015年、青弓社</ref>。アメリカやヨーロッパではBLも日本より男性読者が多いといわれることもあり、主にゲイだが、異性愛男性も少なくないようである<ref name="詩">詩文奈「マイBL ヌーベルバーグ派」『詩と批評 ユリイカ 特集 BL オン・ザ・ラン!』 青土社、2012年</ref>。BLとゲイコミックが一緒に出版されることもある<ref name="詩" />。
英語圏では[[日本語]]を導入して、「[[:en:Boys Love (manga)|Boys Love]]」、「[[:en:Yaoi#Shōnen-ai|Shōnen-ai]]」、「[[:en:Yaoi|Yaoi]]」という用語が使われる。少年愛を直訳するとBoys Loveになってしまうこともあり、Boys Love、Shōnen-ai、Yaoiもあまり区別されていない。英語では、ボーイズラブという言葉が小児性愛を連想させると敬遠され、YAOI(やおい)と呼ばれることが多い<ref name="西村1" />。欧米ではライトテイストの作品が「[[少年愛 (少女漫画)|少年愛]]」、性描写のある作品は「やおい」と呼ばれる<ref name="長池" />。BLコミックの翻訳も少なくなく、アメリカ「amazon」のコミックス売り上げランキングで半分近くを占めたこともあったという<ref name="西村1" />。これらBLとは別に元々英語圏にあった、男性同士の関係性に焦点を当てた(しばしば性関係も含む)[[ファン・フィクション]]([[二次創作]])は、「Slash fiction([[スラッシュ (フィクション)|スラッシュ・フィクション]])」という。女性作家による男性同性愛の物語は古くからあるが、英語圏でのスラッシュは、『[[スタートレック]]』や、BBCで70年代末に放送されていたSF『[[ブレイクス7]]』([[:en:Blake's 7|Blake's 7]])の人気が引き金になり、1970年代の[[SFファンダム]]で広く認知されるようになった<ref> messy {{Wayback|url=http://news.biglobe.ne.jp/trend/0511/mes_160511_6168130277.html|title=「英語圏の腐女子文化〜知られざるスラッシュフィクションの世界」 BIGLOBEニュース 5月11日|date=20160804232021}}</ref>。海外は、日本と比べてボーイズラブはまだニッチなジャンルであり、市場も日本ほど大きくない(海外で一番大きい市場はフランス)<ref name="詩" />。東アジアでは、日本などの[[ライトノベル]]は「軽小説<!--2023年6月現在、[[ライトノベル]]へ転送-->」<small>([[:zh:輕小說|中国語版]])</small>と呼ばれ、村上春樹を超える売れ行きの作品も数多くある<ref name="千野">千野拓政 [https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2013/10/a24e818d78ac6fa79cf15e3a3956b65c.pdf 東アジアにおけるサブカルチャー、文学の変貌と若者の心 ─ アニメ・マンガ・ライトノベル、コスプレ、そして村上春樹 ─] WASEDA RILAS JOURNAL NO. 1 (2013. 10)</ref>。BLも人気で、女性が好んで読む<ref name="千野" />。表紙や挿絵に漫画家の表紙やイラストが用いられることが多く、書店に大きなコーナーが設けられるほどファンが多い<ref name="千野" />。台湾では日本の作品の翻訳だけでなく、現地作家の作品もあり、高い人気がある<ref name="千野" />。中国や香港、シンガポールでは、商業ベースの作品は少ないが(香港とシンガポールは市場が小さいため、BLに限らず商業作品自体が少ない)、同人誌があり、各地のBLファンの交流がある<ref name="千野" />。
==耽美とボーイズラブ==
{{see also|JUNE (雑誌)}}
ぶどううり・くすこは、耽美は男性同士の関係描写の隠語で、JUNEという区分ができる前からあったと述べている<ref name="QA2">[http://www.chil-chil.net/answerList/question_id/1579/ Q. BL、JUNE、耽美の定義 言葉の経緯 葡萄瓜] BLサイト ちるちる</ref>。1978年10月に「JUNE」の前身「comicJUN」が創刊される前、同人作家の間で男性の同性愛描写を「お耽美」と称する動きがあったらしく、おそらく[[森茉莉]]の描いた美少年と美青年の恋愛ものや[[高畠華宵]]の美少年絵、[[石原豪人]]の美青年絵が想定されていたのだろうと述べている<ref name="QA">[http://www.chil-chil.net/answerList/question_id/122/ Q. 耽美とは? 一応の流れ 葡萄瓜] BLサイト ちるちる</ref>。その後「JUNE」誌上やその周辺の創作物が「耽美」と呼ばれた。「耽美小説」は、1991年頃から刊行され出したハードカバー新書サイズ単行本のキャッチフレーズとして使われた<ref name="QA"/>。JUNEは固有名詞であるため、使えなかったということもあるようである<ref name="QA"/>。JUNEは、当初は今の意味とは異なり、読者の美意識に適うものはなんでもJUNEとされたようで、だんだん耽美の色合いが強まり今の意味になったのではないかと述べている<ref name="QA2"/>。
作家の[[三浦しをん]]によると、重厚なストーリー展開を持った「女の子向け男同士の恋愛」小説がハードカバーで発売され始めた頃、書店で「耽美」という名称が見られるようになった。その後、このジャンルの専門雑誌が多く創刊され、小説はノベルズサイズや文庫サイズになり、専門のコミックスのレーベルができ、その頃「ボーイズラブ」という名称を見かけるようになったという<ref name="三浦"/>。三浦は、「ボーイズラブ」は、それまで書店で「耽美」と呼ばれていた女の子向けの男性同士の恋愛ものを、出版社がよりポップで手に取りやすいイメージにしたいと考えて作り出した名称のようで、「耽美」と「ボーイズラブ」は元々同じものを指しており、書店と出版社の立場(思惑)の違いで呼び名が違ってしまっただけだろうと述べている<ref name="三浦">三浦しをん『シュミじゃないんだ』 新書館、2006年</ref>。三浦は、「耽美」と「ボーイズラブ」は乱暴にくくれば同じものを指す名称だが、絵柄や文体にも「耽美」っぽい、「ボーイズラブ」っぽいという違いはあり、内容については、登場人物がゲイである自分をなかなか受け入れられないなど、悩みや迷いが大きくなるほど「耽美」っぽくなり、男同士の恋愛に迷いもない明るい学園物などは「ボーイズラブ」っぽいと述べている<ref name="三浦"/>。
よしながふみは、「耽美」に対する名称として「ボーイズラブ」があり、同じカテゴリーだけど「耽美」といえば「美青年」というイメージであると述べている<ref name="三浦・よしなが">三浦しをん×よしながふみ「フェミニズムはやっぱり関係なくないのよ」『よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり』 太田出版、2007年</ref>。
ぶどううり・くすこは、耽美の定義ははっきり決まっていないが、個人的な印象として次の3つを挙げている<ref name="QA"/>。
#同性間の恋愛を恥ずべきもの、禁ずべきものと必要以上に苦悶する。
#登場人物は必ず眉目秀麗。また欠点がないと描写される。
#リバ(セックスの<受け>と<攻め>の役割の交換)はない。<受け><攻め>は固定で、年長者が<攻め>という暗黙の了解がある。
==歴史==
{{see also|やおい#発生から現在までの経緯}}
===前史===
1970年代に、[[竹宮惠子]]ら少女漫画家が美少年・美青年の同性愛を描いた少女漫画を発表して大きな衝撃を与える<ref name="千野"/>。これを背景に、1978年10月に「[[JUNE]]」の前身「COMIC JUN」が創刊、1981年に「JUNE」(後に「小説 JUNE」、サン出版)が創刊した<ref name="千野"/>。
ボーイズラブの系譜において、[[1976年]]から[[1984年]]まで連載された竹宮惠子の漫画『[[風と木の詩]]』が最初の著名な作品として挙げられることがある。この作品について竹宮は「表現の問題として、男女の愛を深く語ろうとするとベッドシーンでなくては語れない形もありますよね。ところが当時は、ベッドの上に男女の足を3本描いただけで警察に呼ばれ、作品は世に出せなかった。でも不思議なことに、男性同士なら問題にならなかったんです。」と述べており<ref name="竹宮"/>、また、自分の作品が「ボーイズラブ」への流れを生むきっかけになったのかもしれないが、意図はまったく違うと断言しており、「仮面のかぶり方を教えてしまいましたね。女性の描き手にとって、女性の性衝動を描くことは超えがたいハードルでしたが、男性の姿を借りれば描ける。そういう仮面。」とも述べている<ref name="竹宮">{{Wayback|url=http://astand.asahi.com/webshinsho/asahi/asahishimbun/product/2015012200001.html|title=風と木の詩をうたったとき 漫画家・教育者、竹宮恵子さんの語る「創作と教育」|date=20160125012924}} 朝日新聞</ref>。
竹宮惠子、[[山岸凉子]]ら[[24年組]]に代表される少女漫画家による少年愛ものは、1980年代半ばにほとんど連載を終えた<ref name="千田">千田有紀『貴腐人、もしくは汚超腐人の密かな愉しみ」『詩と批評 ユリイカ 特集 BL オン・ザ・ラン!』 青土社、2012年</ref>。[[よしながふみ]]は、『風と木の詩』は少年同士の恋愛を描いた画期的な作品ではあるが、書店に多く見られるBL作品と直接つながらないと指摘し<ref name="こだか・よしなが"/>、源流として、女性を作品世界からきれいに排除し、情報機関(スパイ)や政治といった少女には未知の世界も取り入れた作品を描いた[[青池保子]]をあげている<ref name="こだか・よしなが">こだか和麻×よしながふみ「ボーイズラブじゃないと描けないこと」『よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり』 太田出版、2007年</ref>。
[[藤本由香里]]は、「やおい(BL)」の展開について、「女装の少年」の系譜でとらえた方がいいのではないかと述べている<ref name="千田"/>。シリアスな少年愛ものと並行して描かれてきた「美形ホモセクシュアルもの」の流れがあり、青池保子『[[イブの息子たち]]』、[[魔夜峰央]]『[[パタリロ]]』といったコメディ作品も含まれており、これらは明らかに「女装の少年」の系譜を引いているという<ref name="千田"/>。さらに藤本は、少女の[[ジェンダー]]抑圧からの逃避だった少年愛ものと異なり、「女装の少年」の系譜は「少女たちが『性を遊ぶ』ことを可能にし、受動から能動へと視点を転換させる可能性を開いた」と指摘し、千田有紀は「男性の身体を眼差す主体として、女性を位置づけることを可能にした」と述べている<ref name="千田"/>。なお『パタリロ』は1982年にアニメ化され、地上波でゴールデンタイムに全49話放送されたが、メインキャラ(男性同士)の愛人関係が描写されるなど、原作の男性同性愛の要素も全く隠さず表現された。ぶどううり・くすこは、「強いて言えば『パタリロ!』関連のアニメ化をもって BL 及び耽美作品映像化の始まりと言う事も出来ようが、そう言う判断は2014年の時点でもほぼ為されていない模様」と述べている<ref name="年表"/>。
===始まりから拡大===
1980年代には、少女漫画家による少年愛ものの連載はほとんどが終了した<ref name="千田"/>。読者もまたこれらに不満を感じ離れていった<ref name="三浦・よしなが"/>。
1979年には、[[坂田靖子]]が主宰する漫画同人会ラヴリが機関誌『らっぽり』([[波津彬子]]責任編集)の「やおい特集号」を発行([[やおい#やおいという言葉の誕生|やおいという言葉の誕生]])。その影響もあり、ストーリー性やメッセージ性のない、描きたいことだけを描いた同人誌も多く描かれるようになり、それは男同士の危ない関係を扱ったものが多かった。1980年代には、少年漫画・少年アニメを題材にしたパロディ同人誌が大量に作られるようになり、アニパロやおい、パロディやおいなどと呼ばれた。少女漫画から離れた少女の描き手は、魅力的な少年キャラクターがたくさん登場し、絵柄も少女たちに受け入れやすい少年漫画『[[キャプテン翼]]』(1982年に連載開始)に出会って熱狂し、それを題材に二次創作を作るようになる<ref name="研究所">三崎尚人 [http://www.st.rim.or.jp/~nmisaki/works2/rakuen.html 少女たちは楽園をめざす] 同人誌生活文化総合研究所</ref>。霜月りつ(荒木立子)は、80年〜85年頃に学漫(大学の漫画同好会)主流の同人誌即売会でアニパロが大流行し、女性の描き手、読み手が急激に増えたと述べている<ref name="荒木"/>。86年ごろからキャプテン翼ブームが起こり、[[聖闘士星矢]]、[[天空戦記シュラト]]、[[サムライトルーパー]]と美少年キャラが多数登場するアニメが放送され、女子の同人熱が一気に高まった<ref name="荒木"/>。パロディやおいの題材としては、「少年たちが共通の目的を持って戦う」パターンの作品が好まれ、パートナーが高じて恋人同士になる、「私生活でも仕事(目標)でもお前が必要なんだ!」(中島梓)といった展開が描かれた<ref name="千田"/>。
料理研究家の[[福田里香]]・よしながふみは、同人誌で「JUNE」と異なる流れと作ったのは、それまでの耽美でシリアスな[[少年愛 (少女漫画)|少年愛]]ものと異なる、軽くて明るく同性愛差別が全くない、ゲイばかり登場する学園物を描いた[[えみくり]]で、「同人誌で一番耽美が流行っている頃に、えみくりさんは同人誌で一億総ホモっていう世界を確立した」と述べている<ref name="こだか・よしなが"/><ref name="三浦・よしなが"/>。福田は、[[多田かおる]]、[[岡崎京子]]、[[西村しのぶ]]、えみくりら62年生まれを「24年組のマンガをリアルタイムで読んで育った世代」「そんなにマンガ雑誌がなかった時代」なので「読もうと思えばほぼ全部制覇できた」と言い、「女子で多様な出自の作家が出始めた世代」と指摘している。そして「(一般に評価の高い)岡崎京子さんが[[大島弓子]]さんとかを読んで男女の性を赤裸々に描くというのは、わかりやすいというか…想定の範囲内(笑)」だが、えみくりは「同じものを見てきたはずの人が、想定の範囲外のことを出してきた」と評価している。福田によると、えみくりは自分たちの同人誌を「男と男の『[[りぼん]]』」([[陸奥A子]]や[[田渕由美子]]の活躍した「[[乙女チックラブコメ|乙女ちっく]]」時代の『りぼん』)であるとしており、福田は、手をつないだだけでドキドキするような物語を男と男でやるというところに、えみくりの「突然変異的な発想の飛躍」があるとしている。また、「男と男の『りぼん』」&「[[ギムナジウム]](寮)」&「関西弁」という独特のシャッフルのセンス、編集能力の高さ、サブカルチャーからの影響などにも触れている<ref>山本文子、BLサポーターズ 著 『やっぱりボーイズラブが好き―完全BLコミックガイド』 太田出版、2005年</ref><ref>川原和子 [http://mangalove.seesaa.net/article/19191412.html 『やっぱりボーイズラブが好き』] マンガラブー</ref>。えみくりに始まる新しい流れの影響が後に商業誌に及び、商業誌で確立したのが[[こだか和麻]]であるという<ref name="こだか・よしなが"/><ref name="三浦・よしなが"/>。
1991年12月10日『イマージュ』(白夜書房)が創刊し、キャッチコピーに「BOY'S LOVE COMIC」と冠した(「ボーイズラブ」の確認される初出)<ref name="年表"/>。1992年に[[角川スニーカー文庫]](当時の[[角川書店]]は少年向け、少女向けの区別をしておらず、当初ボーイズラブ作品も刊行していた<ref>髙木聡司 {{Wayback|url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2011/ts01.pdf|title=「ライトノベル」「少女小説」ジャンルの再検討―両性一元的文学史観点からの再整理―|date=20190309222006}} Core Ethics Vol. 7(2011)</ref>)から独立する形で[[角川ルビー文庫]]が創刊{{Efn|現在はBL文庫の老舗として有名だが、当初はBLに特化していたわけではないようである<ref name="年表"/>}}。この時点でボーイズラブという言葉は知られておらず、「耽美」「JUNE」「やおい」などと呼ばれていた<ref name="ラノベ">[http://www.raitonoveru.jp/howto1/bunn/nennpyou1990.html ライトノベル歴史年表1990~1999年] ライトノベル作法研究所</ref>。アニパロのアンソロジーを盛んに出していた[[青磁ビブロス]]が、1992年にボーイズラブ漫画の専門レーベル第1号といわれる「BE×BOY コミックス」を創刊<ref name="年表"/>、1993年に「[[MAGAZINE BE×BOY|マガジンBE×BOY]](略称・マガビー)」を創刊した<ref name="こだか・よしなが"/>。1990年代初頭には、アニメのパロディ同人誌はあるものの、オリジナルで男同士の恋愛を取り扱った女性向け商業漫画誌は「マガジンBE×BOY」しかなく<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/7372313/ BL界のパイオニア「BE×BOY」が20周年 巨匠・魔夜峰央がついにBLを語る] 2013年2月1日 ライブドアニュース</ref>、初期から版元が倒産するまでBL業界を牽引した<ref name="こだか・よしなが"/>。よしながふみは、同誌の創刊時、女の子のためのポルノ雑誌ができたと思ったと述べている<ref name="こだか・よしなが"/>。
初期のボーイズラブは商業誌の描き手が少なく、同人作家、特にパロディやおいの作家を集めてスタートした<ref name="西村4">西村マリ {{Wayback|url=http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/bl_yaoi4.html|title=第4回 アラブのプリンスはどこへ行く――BLは重層構造|date=20161128113712}} ボーイズラブは楽しい!――やおい/ヤオイ/YAOIのいま 青土社</ref>。そのため、二次創作として書かれたものをオリジナルキャラでリライトして商業ベースで出版することもあった<ref name="西村4"/>{{Efn|BLではないが、[[茅田砂胡]]の人気ファンタジー『[[デルフィニア戦記]]』も、発表された最初は『キャプテン翼』の二次創作としてであった<ref>[http://www.din.or.jp/~karyu/enryu/doujin/ デルフィニア戦記の同人誌] ロシェの街道</ref>}}。現在でも商業BLで活躍すると同時に同人誌を出している作家は少なくない<ref name="西村4"/>。
1984年から95年には、一般向け小説と共に今でいうBL小説を書いてこのジャンルを切り開いた[[栗本薫]](中島梓)が「JUNE」で、読者の投稿小説を批評する「中島梓の小説道場」を連載し、投稿者たちの創作活動を支え、ここから[[江森備]]、[[石原侑子]]、[[鹿住槙]]、[[柏枝真郷]]、[[尾鮭あさみ]]、[[秋月こお]]、[[須和雪里]]、[[佐々木禎子]]、[[金丸マキ]]といった多くの作家が育っていき、商業BL小説の発展に大きな役割を果たした<ref name="東"/>。近年、栗本薫がBL執筆に向かったのは早大在学中に遭遇した[[川口大三郎事件]]で虐殺糾弾運動に参加できなかった屈折を執筆で解決しようとしたため、という説が照山もみじによって提起されているが、まだ定説にはなっていない<ref>照山もみじ「疎外者(アウトサイダー)の自己幻想-中島梓の『少年』」(『G-W-G』5号2021年5月掲載)、[[瀬戸宏]][http://www.asahi-net.or.jp/~ir8h-st/kawaguchi_020.htm 「川口君事件の記憶(4)-照山もみじ「疎外者(アウトサイダー)の自己幻想-中島梓の『少年』」を読む」]</ref>。
1988年にカセットJUNEが創刊、第1弾は三田菱子原作「鼓ヶ淵」。やおい・BLジャンル初の音声メディアと言われる<ref name="年表"/>。
1990年代にはボーイズラブの小説レーベルが次々誕生した。雑誌も次々生まれては消えていった<ref name="年表"/>、1990年代後半には出版不況が起こり、ライトノベルやボーイズラブが有力コンテンツとして注目されるようになった<ref name="ラノベ"/>。この時代は、ボーイズラブにとって高度成長期のようなものだったという<ref name="荒木"/>。1994年には、マンガ情報誌「[[ぱふ]]」8月号で、特集 「創刊ラッシュで戦国時代突入―『 BOYS LOVE MAGAZINE 』完全攻略マニュアル」が組まれ(なお、この特集で青磁ビブロスの牧歳子編集長は、回答に「ボーイズラブ」という言葉は使わず「やおい」を使っている)<ref name="年表"/>、分野を指す言葉として「ボーイズラブ」が共有されたのはこれ以降といわれる<ref name="年表"/>。その後も「ぱふ」はボーイズラブ特集を繰り返し行い、これがボーイズラブという言葉の普及に一役買ったといわれている<ref name="荒木"/>。コバルト文庫や[[ホワイトハート]]といった少女小説レーベルもBL要素のある小説を増やしたが、乱立したBLレーベルとの競争が激しかったためか、あまりうまくいかず撤退している<ref name="金田・永久保">金田淳子・永久保陽子「BLの浸透と拡散をめぐって」『詩と批評 ユリイカ 特集 BL オン・ザ・ラン!』 青土社、2012年</ref>。
よしながふみは、自分より下の世代のBLに大きな影響力を持つ作品として、少女漫画誌「[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]」に掲載された[[尾崎南]]の漫画『[[絶愛-1989-]]』(1990年に第1巻刊行。同作のやおいを下敷きにしているといわれる<ref name="大人の思惑">ぶどううり・くすこ [http://d.hatena.ne.jp/XQO/20040805#1091682383 大人の思惑 腐女子言端の内と外]</ref><ref name="1976腐女子">[https://emifuwa.hatenadiary.org/entry/20040805/p2 怒られる腐女子、怒られない腐女子] 1976腐女子</ref>。作者は商業誌での活躍と同時に『[[キャプテン翼]]』のやおい同人作家であり続けた<ref name="年表">[https://bllogia.files.wordpress.com/2016/03/blchronicle_20160322.pdf ボーイズラブ回顧年表:ぶどううり・くすこ文責 【20160322版】] BLlogia準備室</ref>)、[[こだか和麻]]の漫画『[[KIZUNA]]-絆ー』(元々は作者の商業少年漫画から派生したオリジナル同人誌(1991年)。1992年商業で第1巻刊行<ref>{{Wayback|url=https://puul.jp/19645|title=『KIZUNA -絆-』こだか和麻が描く不朽の任侠BL漫画|date=20160811194512}} PUUL</ref>)、少女小説レーベルの[[コバルト文庫]]から出た[[桑原水菜]]の小説『[[炎の蜃気楼]]』(1990年第1巻刊行。当初はコバルト文庫ではBLに分類されていなかったようである<ref name="年表"/>)をあげている。BL的なものを読むが量は多くないという人でも、この3作はほとんど皆読んでいたという<ref name="こだか・よしなが"/>。
1992年に、[[吉原理恵子]]著・[[道原かつみ]]イラストのBL小説が原作のOVA『[[間の楔]]』第1巻が[[マガジン・マガジン]]より発売される。やおい・BLジャンル初のアニメ化作品と言われる<ref name="年表"/>。同年、[[日本SF大会]]の自主企画として「やおいパネルディスカッション」が開かれる<ref name="年表"/>。
1996年から[[CLAMP]]が少女漫画雑誌「[[なかよし]]」で『[[カードキャプターさくら]]』の連載を開始。作中で主人公さくらの兄と友人(さくらの好きな人)の同性愛を匂わせる関係性が描写される(恋か友情か明言されないが、互いが一番大事でずっと側にいてほしい相手として描かれている)。ちぷたそは、本作にはBL・[[百合 (ジャンル)|百合]](女性同性愛もの)・[[ロリータ・コンプレックス|ロリコン]]・[[男の娘]]という要素があり、幼少期にこの作品に触れた人でオタクになった人は多いのではないかと指摘している<ref>ちぷたそ [https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/1605/04/news006_3.html 「腐女子」と「女オタク」の違いは? 複雑すぎる“オタク女性”の生態を図説してみた 終わりに:アラサーオタク女性、「CCさくら」に落とされた説] ITmedia</ref>。
1999年ごろからネット上で「[[腐女子]]」という言葉が見られるようになっている<ref name="年表" />。
=== 2000年以降 ===
==== 概要 ====
2000年代には、BL作品が電子書籍で出版されるようになり、携帯電話で読めるようになったことで、店頭で購入するのが恥ずかしい人も気軽に買え、どこでも読めるようになったころで、一気に広がっていった<ref name="鳥村">鳥村悠里 {{Wayback|url=http://app-review.jp/news/172505|title=世界一【受け】たいBL史の授業|date=20160810002900}} APPREVIEW</ref>。携帯電話の進化に伴い、BLゲームのアプリも作られるようになり、さらに間口が広がった<ref name="鳥村"/>。2007年ごろから、携帯ゲームなどではBLゲームが人気になり、2010年ごろまで一種のブームになる。攻略キャラクターからメールが届くなど、携帯電話の性能を生かした遊び方を備えたゲームも登場した<ref name="鳥村"/>。ブームに伴い「BL」の意味もさらに拡散し、男性同性愛作品全般を指す言葉として広く使われるようになった<ref name="基礎知識">[http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok_boys_love.htm BL/ Boys Love ボーイズラブ] 同人用語の基礎知識</ref>。
よしながふみは、ボーイズラブ市場が成長して頭打ちになり、限りあうパイを食い合うようになったことで、より最大公約数的な作品が求められるようになり、フォーマットができつつあると述べている(2006年時点)。悲劇でも許され好きに描くことのできた初期に比べ、制約が強くなり、保守化しているという<ref name="三浦・よしなが"/>。BLの元編集者は、2011年頃から「勝てない勝負はしない(=利益が見込めるものだけ刊行する)」傾向の版元が増えて市場が膠着しており、BLマンガは電子媒体があるためデビューのチャンスは多いが、小説は1冊分を書き下ろすのが主流であることもあり、長い目で作家を養成する余裕がなくなってきていると述べている<ref name="なるには">[http://www.chil-chil.net/topicDetail/topic_id/406/mode/1/ 元編集関係者が語るBL業界事情 第四回「BL作家になるには」] ボーイズラブ専門レビューサイト ちるちる</ref>。保守化によって面白い作品が減り、読者が離れることが懸念されるという<ref name="なるには"/>。また、最近ではセックスシーンが絶対必要という雰囲気も薄くなり、セックスシーンのないBLも増えている<ref name="なるには"/>。西村マリは2014年時点の状況として、最近は王道を逆転・逸脱した進化形BLが増え、主流になってきていると述べており、進化形BL漫画の流れを作った立役者のひとりとして、かつて同人活動で人気を集め、近年は女性誌や青年誌でも大ヒットを飛ばしている漫画家の[[ヤマシタトモコ]]を挙げている<ref>西村マリ {{Wayback|url=http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/bl_yaoi3.html|title=第3回 執事とメイド、そしてメガネ――逆転と逸脱のBL|date=20161127120713}} ボーイズラブは楽しい!――やおい/ヤオイ/YAOIのいま 青土社</ref>。
[[金田淳子]]は、BL的な要素のある他ジャンルの作品として、最近では『[[TIGER&BUNNY]]』や『[[相棒]]』、『[[黒子のバスケ]]』などの作品があるが、「あの程度のイチャイチャ」は1980年代には始まっており、1990年代には少年誌「[[週刊少年ジャンプ|ジャンプ]]」はすでに自覚的であったと述べている<ref name="金田・永久保"/>。[[永久保陽子]]は、出版社や制作サイドは、ボーイズラブ的なものが商売になると理解し、戦略的に使うようになっており、その認識が浸透して最近(2012年)には普通のことになったと述べている<ref name="金田・永久保"/>。
近年では、作家の三浦しをん、アナウンサーの[[有働由美子]]<ref name="西村1">西村マリ {{Wayback|url=http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/bl_yaoi1.html|title=第1回 女性は男同士のラブストーリーが好き!|date=20160910181427}} ボーイズラブは楽しい!――やおい/ヤオイ/YAOIのいま 青土社</ref>、女優の[[二階堂ふみ]]<ref>[https://ddnavi.com/news/64468/a/ 映画『ヒミズ』が高評価の文化系女優・二階堂ふみは腐女子だった!] [[ダ・ヴィンチニュース]]</ref>など、BL愛読者であることを公言する女性も増えた。また金田は、女性は様々なジャンルにBL的な要素があることをわかっており、作品自体が最近変わったわけではないが、女性が少年漫画などにBL的な要素を見出すことに否定的だった男性たちの中にも、そういったものを評価し受け入れる人がかなり増えてきたと述べている<ref name="金田・永久保"/>。また、雑誌でBLが取り上げられることも増え、それほどサブカルチャーに興味がなくても、ボーイズラブをいつの間にか知っていたという人も増えているという<ref name="金田・永久保"/>。
小説では、[[木原音瀬]]の『箱の外』が、BLレーベルで出版された後に2007年に講談社文庫からも出版され、BLレーベル出身の[[井村仁美]]、[[榎田尤利]]、[[菅野彰]]、[[椹野道流]]らが他ジャンルでも活躍している<ref name="金田・永久保"/>。2008年時点で、ノベルズをジャンル別に見ると、4割弱を「仕事を持つ大人の女性が、社会的地位のある魅力的な男性を好きになり、すれ違いを経て両想いになる」というストーリーが多い[[ハーレクイン (出版社)|ハーレクイン]]社の大人の女性向け翻訳ラブロマンス小説が占めており、次いでボーイズラブ小説が約2割となっている<ref>{{Wayback|url=http://www.ajpea.or.jp/column/data/20090501.html|title=08年の新書刊行状況は|date=20210119024750}} 全国出版協会</ref>。
一般向け小説では、BL好きを公言する[[三浦しをん]]や[[有川浩]]などが男のロマン的なテイスト、BLテイストの入った作品を書いている。金田淳子は、ハイカルチャーとしての小説の有名な賞などを取るようなタイプの純文学は、ジェンダーやセクシュアリティ関連のものが圧倒的に多く、設定やストーリーだけを見るとBLと区別がつかない作品もあり、[[文藝賞]]を受賞した[[比留間久夫]]の『yes・yes・yes』はBLとしても読まれていたと述べている<ref name="金田・永久保"/>。永久保陽子は、漫画はそれ自体がサブカルチャーだが、小説は、一般小説がメインカルチャーでBL小説がサブカルチャーという関係がはっきりあり、[[純文学]]を頂点とするヒエラルキーがまだ根強いため、カテゴリーの境を超えることが漫画よりも難しいと述べている<ref name="金田・永久保"/>。
永久保は、BLマンガよりBL小説の方が作品に許される幅が狭いのではないかと指摘している。BL小説が年代を経て洗練された反面、<受け>と<攻め>の設定、ハッピーエンドなどパターン化が顕著になっており、その型からかなり外れた作品を描いている木原音瀬は別格である評価している。西村マリは、BL小説は「アラブもの」のように決まった型を絞り込む傾向にあり、一方BLマンガは設定や型の逆転逸脱が起きやすいと指摘している<ref name="西村4"/>。三浦しをんは、BL小説の読者はBLマンガの読者より比較的年齢層が高いことと文章による表現であることから、BL小説でもマンガ同様にポップ化が進行中であるとはいえ、「耽美」な雰囲気の作品や大人が主役の作品、任侠ものもBLマンガより残っていると述べている<ref name="三浦"/>。
[[山藍紫姫子]]もBLレーベルとそれ以外のレーベルで活躍し、独自の作品世界を確立しているが、BL作家というより耽美作家と呼ばれる<ref name="金田・永久保"/>。
====流れ====
2000年には、株式会社ソフパルの女性向けゲームブランド・プラチナれーべるよりBL初の商業PCゲーム(18禁)「[[好きなものは好きだからしょうがない!!]]― FIRST LIMIT―」が発売、男性向け美少女ゲームの老舗[[アリスソフト]]が女性向けBLゲームブランド「[[Alice Blue]]」を立ち上げ、「隠れ月」(全年齢向け) を発売(コンシューマー機やパソコンというプラットフォームを採用した初期のBLゲームは、販売面では苦戦した)<ref name="基礎知識"/>。
WOWOWで「[[グラビテーション (漫画)|グラビテーション]]」([[村上真紀]]原作)が連続アニメされる。地上波放送はないが、これがボーイズラブ初の連続TVアニメといわれる<ref name="年表" />。
2001年には、アメリカのカリフォルニア州で総合イベント「[[:en:Yaoi-Con|Yaoi-Con]]」が開催され、日本のBL作家たちがゲストとして招かれる<ref name="年表"/>。
「マガジンBE×BOY」の2002年1月号に「夢見る BOYS LOVE マガジン★」というキャッチコピーが付けられ、以降表紙キャッチコピーに「BOYS LOVE」を盛り込むようになった<ref name="年表"/>。
2004年にライトノベルの 「[[まるマシリーズ]]」が『今日から㋮王!』として[[NHK教育テレビ]]でアニメ化。「[[ぱふ]]」(雑草社)5月号の文中で、女性を対象にしたアニメグッズや同人誌などを扱う店舗が密集する池袋の通りに対して、初めて「[[乙女ロード]]」の名称が使われる<ref name="年表"/>。
2005年、PCゲーム「好きなものは好きだからしょうがない!!」が地上波でアニメ化される。おそらくボーイズラブ初の地上波アニメである。<ref name="年表"/>[[ミキマキ]]による4コマ漫画『[[少年よ耽美を描け]] -Boys be tambitious-』(腐女子の彼女に振られたモテ男の主人公が、彼女を見返すために友人たちとBL漫画を描こうと奮闘するギャグ)が連載開始。雑誌「[[Newtype]]」(角川書店)12月号で、乙女ロードが「通称・腐女子ストリート」として紹介される<ref name="年表"/>。この頃からSNSサイトも作られており、それまでひっそりBLを愛好していた人も、仲間を気軽に探して交流できるようになった<ref name="鳥村"/>。
2006年、BLの大手出版社ビブロスがグループ会社の自己破産のあおりを受け倒産、ビブロスのBL事業を引き継ぐために、アニメイトグループの[[アニメイト]]・[[ムービック]]・[[フロンティアワークス]]の3社共同出資により[[リブレ出版]]が発足。[[小島アジコ]]がチベット801名義で腐女子の彼女の生態を描く漫画ブログ『[[となりの801ちゃん]]』を開設<ref name="年表"/>。[[市川染五郎 (7代目)|市川染五郎]]、[[片岡愛之助 (6代目)|片岡愛之助]]のコンビで、男同士の純愛を描いた歌舞伎『染模様恩愛御書』が復活上演された<ref name="西村1"/>。
2007年には雑誌「[[ユリイカ]]」で、関連論客による見識を集大成し「総特集 腐女子マンガ大系」(6月)という特集が行われ<ref name="年表"/>、「いまBLというジャンルが熟していてアツいんじゃないか?」という認識のもと、さらに「BLスタディーズ」(12月)という特集が組まれた<ref name="金田・永久保"/>。韓国のBL漫画イ・ヨンヒ『絶頂』が日本で翻訳出版される<ref name="年表"/>。[[宙出版]]より『この BL (ボーイズラブ)がやばい! 2008年腐女子版』が刊行される。[[ごとうしのぶ]]のBL小説「[[タクミくんシリーズ]]」『そして春風にささやいて』、[[紺野けい子]]のBL漫画『愛の言霊』、[[国枝彩香]]のBL漫画『いつか雨が降るように』が実写化<ref name="実写">[http://www.bookoffonline.co.jp/files/bl/pickup/pickup-32anime.html メディア化BL(ボーイズラブ)年表] ブックオフオンライン</ref>。
2008年には、BL誌に連載された漫画としては初めて、[[中村春菊]]の「[[純情ロマンチカ]]」の地上波でアニメ化される<ref name="年表"/>。一方、[[堺市立図書館]]で、匿名市民とその意向を受けた議員たちがBL本を図書館から排除するよう要求し、図書館は意向を受け「BL」と判断した約5500冊の本を開架から除去する事件が起こる([[#堺市立図書館「BL」本排除事件|後述]])。
2009年、2006年にドイツで出版されたドイツ人漫画家ユニット・ピンクサイコ( Heath & Nheira )のBL漫画『In the End 〜最果ての二人〜』が日本で翻訳出版される<ref name="年表"/>。
2010年頃には、[[ヤマシタトモコ]]や[[雲田はるこ]]などが一般誌とBL両方でヒットを飛ばし、どちらのジャンルにも偏らず活躍し続ける漫画家も増えた<ref name="金田・永久保"/>。
2012年には、短歌ブームの中、Twitter上で「#BL短歌」タグによるBL短歌が始まって流行し、同人誌も作られる<ref name="年表"/><ref>[https://ddnavi.com/news/178040/a/ ネットで大ブームのBL短歌って何?] [[ダ・ヴィンチニュース]]</ref>。[[秋月こお]]のBL小説原作の『[[富士見二丁目交響楽団]]』が実写化<ref name="年表"/>。『コミック JUNE 』(ジュネット刊)2013年2月号(2012年12月刊行)で休刊し、定期的に刊行されるJUNE ブランド雑誌がなくなる<ref name="年表"/>。この頃になると、BLと一般誌両方で活躍する作家や、BLレーベルで出た後に一般向けのレーベル・文庫から再版される作品も増え、BL的な要素がアニメや舞台といった様々なジャンルで展開されるようになり、浸透と拡散が起こっている<ref name="金田・永久保" />。
2013年、BL作家の[[ぢゅん子]]が少女漫画誌『[[別冊フレンド]]』([[講談社]])で、腐女子が主人公で、コンセプトは「もっとも主人公になりたくない人物が主人公になってしまった[[乙女ゲーム]]」という恋愛コメディ漫画『[[私がモテてどうすんだ]]』の連載を始める<ref>[https://konomanga.jp/interview/44980-2 ぢゅん子『私がモテてどうすんだ』インタビュー オタク女子は、好きなキャラが死んだら仏壇に花を飾る!?]</ref>。
2014年には、[[ヨネダコウ]]のBLマンガが原作の実写映画『[[どうしても触れたくない]]』(2014年5月31日公開)が、BL実写映画で初めて[[オリコン]]のDVD映画週間ランキング(2014年9月15日 - 2014年9月21日)で1位になる<ref>[http://www.chil-chil.net/compNewsDetail/k/blnews/no/6209/ 快挙!「どうしても触れたくない」オリコン週間ランキングでも1位!ZIP紹介] BLサイト ちるちる</ref>。美術雑誌「[[美術手帖]]」で「ボーイズラブ"関係性"の表現をほどく」という特集が行われ<ref name="美術手帖">[http://www.bijutsu.press/books/2014/11/20141117.html 美術手帖 2014年12月号 ボーイズラブ | 株式会社美術出版社]</ref>、売り上げを伸ばした<ref>[http://www.chil-chil.net/compNewsDetail/k/blnews/no/8534/ 2015年はBL解説書がブーム!] BLサイト ちるちる</ref>。
2015年には、[[ミュージカル・テニスの王子様]]の累計動員数が200万人を突破<ref>[http://www.tennimu.com/news/d212 ミュージカル『テニスの王子様』累計動員数200万人突破!!] テニミュニュース</ref>。[[平凡社]]より、19世紀末〜20世紀半ばの独仏英などの女性作家による男同士の物語を集めた笠間千浪編『古典BL小説集』 ([[平凡社ライブラリー]])が出版される<ref>収録作家は[[:en:Rachilde|ラシルド]](フランス)、[[:en:Annemarie Schwarzenbach|アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ]](スイス)、[[:en:Mary Renault|メアリー・ルノー]](イギリス)、[[森茉莉]](日本)、ジャネット・シェイン、[[マリオン・ジマー・ブラッドリー]](アメリカ)+ジョン・ジェイ・ウェルズ</ref><ref>[http://www.heibonsha.co.jp/book/b194562.html 古典BL小説集] 平凡社</ref><ref>[http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1504/27/news166.html やおい文化以前に各国の女性が書いたBL小説たち 「古典BL小説集」を平凡社が発売] ねとらぼ</ref>。アメリカのコメディアニメ「[[サウスパーク]]」で、BL(やおい)を扱った「トゥイーク×クレイグ([[:en:Tweek x Craig|Tweek x Craig]])」というエピソードが放送された。学校でアジアで流行っている文化としてBL(やおい)が紹介され、その例として生徒トゥイークとクレイグのBLイラストが出され、周囲は二人は本当に付き合っているゲイのカップルだと思い込み、東アジア系の腐女子の生徒たちは大喜びでイラストを量産、当人たちは大迷惑、町中でふたりの恋を応援するのが流行り・・・という話。作中には事前に募集された実際の腐女子によるファンアートが使用された。<ref>{{Wayback|url=http://www.chil-chil.net/compNewsDetail/k/blnews/no/9468/|title=腐女子と二次創作問題 あのサウスパークにBLがついに登場!|date=20160701043639}} BLサイト ちるちる</ref><ref>{{Wayback|url=http://francepresent.com/south-park/|title=【腐女子】サウスパーク公式がBL【トゥイクレ】|date=20181106173131}} Present the France Trip</ref>成人男性向けのイラストを扱うSNS「ニジエ」を運営する株式会社ニジエが、18禁BLイラストSNS「ホルネ」をリリースし、サービス開始から6日でユーザー数が3万人を超えた<ref name="ホルネ">[http://kai-you.net/article/15252 掘って掘られてたぎりまくるッ! 腐向け18禁イラストSNS「ホルネ」誕生] KAI-YOU.net</ref>。[[桜日梯子]]原作のBLCD「抱かれたい男1位に脅されています。」(販売元:リブレ出版、レーベル:Cue Egg Label)がBLCD初のオリコン週間TOP10入りし1位になる<ref>{{Wayback|url=http://irorio.jp/stamina-tarou/20150508/227594/|title=BLドラマCDがオリコンデイリーランキング1位に「世も末か」|date=20160630063341}} IRORIO</ref>。
2016年には、[[中村明日美子]]のBL漫画が原作の劇場アニメーション『[[同級生 (中村明日美子の漫画)|同級生]]』が全国30館で上映をスタート、上映開始から43日で動員数13.5万人、興行収入2億円を突破した<ref>[https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1459784580 野島健児さん、神谷浩史さんら出演の劇場アニメ『同級生』の動員数が13万人&興行収入が2億円を突破! 上映劇場も拡大中!] アニメイトタイムズ</ref>。[[井原西鶴]]の男同士の恋愛をテーマにした短編小説集『[[男色大鑑]]』(1687年出版)がアンソロジー形式で漫画化される<ref>[https://ddnavi.com/news/301121/a/ 井原西鶴『男色大鑑』が現代の気鋭BL作家陣によってコミカライズ!] [[ダ・ヴィンチニュース]]</ref>。
2017年4月にカンテレ・フジテレビ系全国ネットで[[栗山千明]]主演のドラマ『でも、結婚したいっ!〜BL漫画家のこじらせ婚活記〜』が放送された<ref>{{Wayback|url=https://www.ktv.jp/demokon/|title=でも、結婚したいっ!~BL漫画家のこじらせ婚活記~|date=20170730223257}} 関西テレビ</ref>。
==評価==
=== 言説 ===
2014年の「[[美術手帖]]」の特集では、「BLのどこに魅力を感じるかは十人十色だが、 特筆すべきは"関係性"の表現にあると言えるだろう。」「描き手/読み手の心を時に癒し、時に興奮させ、 [[ジェンダー]]や[[セクシュアリティー]]に対する固定観念を揺さぶり、 愛することや欲望の発露について思考をめぐらせるきっかけとなる。」と紹介されている<ref name="美術手帖" />。
千田有紀は、BL好きも一枚岩ではなく、戦う少年たちの熱い友情に憧れ萌える、アニパロの系譜のやおいを好むタイプもいれば、少年愛ものは好きだが戦う少年たちにもその熱い友情にも興味はないという人、「[[ヘタリア]]」などの国の擬人化にみられるように、ジェンダーを娯楽化して屈託なく楽しむ人など、BLをどのように読むのか、そのような側面を好むのかには、いくつかのグループ、少なくとも2つ以上のグループがあるようだと指摘している<ref name="千田" />。よしながふみは、BLは「もてない女の慰め」と揶揄されることもあるが、実際そういった面もあり(無論それが全てではない)、「今の男女のあり方に無意識的でも居心地の悪さを感じている人が読むもの」だが、読者が受けてきた抑圧や居心地の悪さはそれぞれ違っているので、一括りにしにくいと述べている<ref name="三浦・よしなが" />。[[フェミニズム]]と結びつけて論じられることも少なくないが、それを嫌がる人も多いという<ref name="三浦・よしなが" />。また、「<受け>や<攻め>といった男女の役割のメタファーを維持しながら、男性二人がその役割を演じることにより、その役割を換骨奪胎できるのがBLの魅力である」としている。また、生涯未婚率が上がりつつある現在、女性に「子どもが産めなくても、どんな過去があっても、あなたはあなたでいいのだ」という承認、「居場所」がもたらされるジャンルは、BL以外にはないようであるそうだ<ref name="千田" />。
詩文奈は、基本的にBLには異性であるキャラクターを360度見る自由があり、まるで監督になったように視点を切り替え、心の中でキャラクターを好きに扱うという、日常にはない権力や自由が手に入るため、女性にとっては精神レベルでの解放のツールになっていると指摘している<ref name="詩" />。また、日本にはいまだに男女差別ともいえるような社会的な男女の違いと距離(詩は日本の男女の現状は様々な面で1960 - 70年代のイタリアに近いと述べている)があり、ヨーロッパに比べ[[レディーファースト]]の文化がないことで日本の女性はより過酷な状況にあり、どんな<攻め>でも「愛がないとだめ」というBLの理によって、「紳士文化」への憧れの気持ち(これには日本の「父」の不在の影響もある)が満たされるという側面もあるという<ref name="詩" />。
[[よしながふみ]]は、BLはJUNEのような背徳的なものへの憧れではなく、男性同士の対等な葛藤を描こうというもので、同性愛者としての葛藤を描きたいというものではないと述べている<ref name="こだか・よしなが" />。また、読者が挙げるBLの魅力として、様々な職業が取り上げられることの少ない最近の少女漫画に対して、BLは多種多様な仕事が取り上げられ未知の世界を知ることができるので、それが特有のおもしろさになっているとも述べている<ref name="こだか・よしなが" />。
佐川俊彦は、[[カップリング (同人)|<受け>と<攻め>]]という発想はJUNE以降に作り出されたもので、<受け>と<攻め>という大発明ができたことで耽美がBLになったのではないか、少年愛ものの少年漫画を描いていた[[24年組]]と呼ばれる少女漫画家たちは、意識的にキャラをそういう風に分けていなかったと述べている<ref name="サイゾー" />。
西村マリは、BLは女性の恋愛願望だけではなく、職業上の成功願望も満たすものであると述べている。恋愛成就だけでなく、社会的・経済的に<攻め>より不利な立場として描かれることの多い<受け>の職業上のレベルアップがお約束となっており、これが結婚エンディングのハーレクインとの違いであるとしている。そして「BLはその流行の時期から見て、女性の社会進出と密接な関係があるエンターテインメントである。バブル期に一気に進み、そして就職氷河期に凍りついた女性の社会進出。労働環境はその後もじりじりと厳しさを増し続けている。そんなもどかしい時期を、BLはカップルのあり方をシミュレーションしながら伴走してきたのだ。」と述べ、2人とも職業を持つ夫婦の関係は、会社人と専業主婦の組み合わせより、男同士のカップルに近いのではないかと指摘している<ref>西村マリ {{Wayback|url=http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/bl_yaoi2.html|title=第2回 BLには王道がある――シンデレラは職業人|date=20160910181430}} ボーイズラブは楽しい!――やおい/ヤオイ/YAOIのいま 青土社</ref>。
=== ゲイとボーイズラブ ===
{{see also|やおい#やおい・BLと男性同性愛}}
[[羅川真里茂]]の『[[ニューヨーク・ニューヨーク (漫画)|ニューヨーク・ニューヨーク]]』のように、少女漫画家による美しい絵で描かれた男性の同性愛をテーマにする作品でも、リアルな[[ゲイ]]の葛藤や苦悩、現実的な生活を描いたものの場合、その作品をボーイズラブややおいと呼ぶことには否定的な意見がある<ref>nodada [https://nodada.hatenadiary.org/entry/20081201/p1 「羅川真里茂の『ニューヨーク・ニューヨーク』は「やおいBL」か?」] 2008-12-01</ref>。
ゲイの人々もボーイズラブに対する意見は様々で、「好んで読む」人もいれば、「読んだけどおもしろくなかった」という人、「(そもそも)興味がない」人もいる<ref name="withnews">[https://withnews.jp/article/f0160503001qq000000000000000G00110101qq000013366A ゲイの人って、BL読むの? 腐女子は苦手? 当事者に聞いてみた] withnews(ウィズニュース)</ref>。
1980年代初頭、ゲイ向け雑誌『[[薔薇族]]』で、「同性愛は、異性愛のように打算的ではない崇高な純愛だ」と考える女性が、「薔薇族のモデルはブ男ばかりで、気色が悪い」といった内容の投書を寄せ、ゲイの読者たちを激怒させるという事件があった<ref name="withnews" />。
やおい・BLの表現については、1990年代からゲイ側からの批判もある。1992年から4年間にわたって「生き方とセクシュアリティを考える女性のためのミニコミ誌」という触れ込みの「CHOISIR」(ショワジール)というミニコミ誌で、ゲイサイドとやおいサイドの論争が行われた<ref>{{Wayback|url=http://blackarmor.exblog.jp/7508722/|title=「やおい論争」のフォローアップ|date=20180521153748}} Dearly Beloved (用途のない備忘録)</ref><ref>[http://d.hatena.ne.jp/Ry0TA/20080202/1201956488 佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」] にしへゆく 〜Orientation to Occident</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20070426205412/http://www.bl.mmtr.or.jp/~kitchen/mits/mamesp02a.shtml 小泉蜜 正しいボーイズラブ講座特別番外編 やおいよりも”やおい論”を書きたいあなたへ 蜜の厨房] インターネットアーカイブ 2007/4/26</ref>。掘あきこは、ゲイ側の批判点は、やおいが「男性同性愛者を、異性愛社会に隷属させるためのステレオタイプに押し込めるゲイ差別表現」である、という主張に要約できると述べている<ref name="掘">掘あきこ「リアルとファンタジー、そのはざまで見る夢」『詩と批評 ユリイカ 特集 BL オン・ザ・ラン!』 青土社、2012年</ref>。やおい側は「やおいは現実のゲイを描いたものではない=ファンタジーである」という反論がなされ、これに対して女性に向けられるジェンダーの問題からの逃げだ、ゲイの性愛を覗き見しているだけだと批判が行われるなど、ゲイ側・やおい側それぞれの主張が展開され、政治的で幅広い議論がされた<ref name="掘" />。個々のゲイと腐女子の関係については、良好な関係の腐女子の友人・知人がいるゲイの人もいれば、初対面の腐女子にぶしつけな質問をされて不快な思いをしたという人もおり、人によってさまざまである<ref name="withnews" />。
=== 少女漫画との相違 ===
ボーイズラブ漫画は、作風や絵柄が少年漫画風、青年漫画風、劇画調などに仕上げる作家もいるものの、恋愛模様を主眼においている点と絵柄の美麗な作品が多いことなどから少女漫画と混同されることもある。しかし、少女漫画におけるカップルの多くは異性同士であり、男性同性愛を扱うボーイズラブとはジャンルとしてはおおよそ別れている。
よしながふみ・三浦しをんは、今の少女漫画は主人公の女の子を魅力的でなおかつ読者が嫉妬しないようなキャラ{{Efn|『[[のだめカンタービレ]]』の主人公のだめの、ピアノの天才でゴミ女、という設定など。}}として作らなければならず、そういった困難をクリアするためにボーイズラブが生み出された面もあると指摘している<ref name="三浦・よしなが" />。少女漫画でストライクゾーンが狭い人も、BLなら広く受け入れられるという。また、<攻め>の年齢も職業も、少女漫画よりかなり多様であると述べている<ref name="三浦・よしなが" />。
千田有紀は、最近の少女漫画が恋愛以外の活動で成長する主人公を描くことが多くなっているのに対して{{Efn|[[よしながふみ]]は、[[少女漫画]]でも一見男性と対等の女性が描かれることが増えたが、その場合仕事ができるだけでなく容姿もよくおしゃれといった「[[女らしさ|女力]]」の高いキャラであると指摘している。少女漫画には「[[女の子]]はやっぱりおしゃれで恋をしなくてはいけません」という暗黙のメッセージがあふれており、それをシャワーのように浴び続けるのは大きな[[ストレス (生体)|ストレス]]であるし、受け入れられない女性もいると述べている。そしてBLの世界に大きな描き手の鉱脈があるのは、「おしゃれ」なものから解放され、もっと別のものが描きたい女性作家が少なくないためではないかと述べている。}}、BLは(男性が主人公であるため仕事との両立は言うまでもない前提であるのだが)、BLの恋愛至上主義は際立っていると述べている<ref name="千田" />。また千田は、BLには、ずっと運命の人と愛し合う「究極の一対」のカップルの理想が脈々と生きており{{Efn|よしながふみは冗談めかして「一穴一棒主義」と呼んでおり、こだか和麻は、これは<受>キャラはある程度読者の理想であるためと述べている。}}、これはすでに少女漫画では失われた愛の幻想で、なつかしいものであると述べている<ref name="千田" />。(少女の頃24年組をはじめとする少女漫画の少年愛ものを読んでいた世代が、大人になってから既婚・未婚を問わずBLの世界に戻ってきているが、BLは彼女たちに昔の読書体験を思い出させたという<ref name="千田" />。)また千田は、少女が母や妻になることで「居場所」を探したのが少女漫画であったなら、BLは母や妻にならなくても「居場所」を与えられるジャンルであり、男女の恋愛では描けない地平をどこかしら拓いたと述べている<ref name="千田" />。
=== 成人向け青年漫画との相違 ===
三浦しをん は、セックスの表現はボーイズラブにおいて重要視されているが、成人向け青年漫画とは(30冊ほど確認してみた限りでは)傾向が異なると述べている。BLでの魅力的なセックスシーンとは、ストーリーに組み込まれたもので、背景には恋物語が必要である。これは女性がムードに弱い夢見がちな生き物だからということではなく、「心の交流や葛藤と共にあるセックス」でなければ、幸せも満足も喜びも生まれるはずがないと経験則で知っているからだと指摘している。そのためBLでは、成人向け青年漫画のように、ストーリー性が限りなく薄められた作品が主流になることはないだろう、と述べている。(三浦は、これはストーリー性があるものが善で、そうでないものが悪いということではなく、女性と男性では作品から快感を感じ取るポイントが違うらしい、という話だと述べている。)読者を女性・男性で区切るのも無意味なことで、ボーイズラブの読者は「心の交流(それが愛情であれ憎しみであれ)に基づくHシーン」という方法論を支持する人間であるという見解を示している<ref name="三浦" />。
== 排斥 ==
=== 堺市立図書館「BL」本排除事件 ===
{{see also|腐女子#児童ポルノ取り締まり・規制との関連|図書館学|図書館の自由に関する宣言}}
2008年に大阪府の[[堺市立図書館]]で、ボーイズラブ小説が収蔵・貸出されていることを非難する「市民の声」によって廃棄が要求され、ボーイズラブとされた5500冊の本が開架から除去される事件が起きた。この「市民の声」というのは、実際は「匿名市民ひとり(同一人物)から」と、その意向を受けた市議たちで、このことは図書館側も認めている<ref name="熱田">熱田敬子「『BL』排除から見えた差別と性の享受の萎縮 堺市立図書館での「BL」本排除事件」『詩と批評 ユリイカ 特集 BL オン・ザ・ラン!』 青土社、2012年</ref>。市議の[[水ノ上成彰]]は「[[世界日報 (日本)|世界日報]]」の記事で、図書館にボーイズラブがあることを激しく批判し「実質的にポルノ本」であり、図書館にあるのはおかしいと主張している<ref>[https://megalodon.jp/2008-1101-2223-55/www.worldtimes.co.jp/special2/doseiai/081028.html 堺市図書館に大量の同性愛小説] 世界日報 2008年10月28日</ref>{{Efn|なお[[日本図書館協会]]は、[[図書館の自由に関する宣言]]で、「図書館は、正当な理由がないかぎり、ある種の資料を特別扱いしたり、資料の内容に手を加えたり、書架から撤去したり、廃棄したりはしない。」提供の自由は「わいせつ出版物であるとの'''判決が確定したもの'''」については制限されることがあるが、これらの制限は、「極力限定して適用し、時期を経て再検討されるべきものである。」としており<ref>[http://www.jla.or.jp/library/gudeline/tabid/232/Default.aspx 図書館の自由に関する宣言] 日本図書館協会</ref>、性表現を含む書籍でも、わいせつ出版物であるという判決が出ていない限り図書館が収集・貸出することに問題はない。また「個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。」としている。}}。市民活動家の寺町みどりは、「堺市に届いたメールから分かったことは、特定図書を排除したい人たちは、『同性愛』自体を嫌悪している。同性愛への差別と偏見から『BLをこどもに見せるな』といい、『BL本を処分せよ』と迫った。」と指摘している<ref name="むし">[http://gifu.kenmin.net/midori/news/68.html 『む・しの音通信』No.68(2008.12.5発行)]</ref>。
このボーイズラブ本除去運動は、議員の介入<ref name="むし"/>、[[純潔教育]]や[[ジェンダーフリー]]バッシング、漫画・アニメ・ゲームの性表現や暴力表現に法的規制をかけるためのロビー活動を行っている韓国発祥のカルト・[[統一教会]]の関連会社「[[世界日報社]]」のバックアップを受けていたことが指摘されている。<ref>{{Wayback|url=http://www.city.sakai.lg.jp/shisei/sonota/kansa/kansakajokyo/sochijokyo/201228kansa48.html|title=平成20年12月28日 堺市監査委員公表 第48号|date=20190309011945}} 堺市</ref><ref>[http://mxixtxbx.hatenablog.com/entry/20130817/p1 堺市立図書館BL小説撤去事件(2008年)]</ref>(なお、統一教会は「同性愛は創造の原理に反する不自然な関係」であるとして否定しており、「同性愛は倫理道徳の問題であり、人権問題ではない」と主張している。<ref>魚谷俊輔 [http://suotani.com/materials/kensyou/kensyou-5 第五章 統一教会の結婚観について] 「洗脳」「マインドコントロール」の虚構を暴く</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.ffwpu-pr.org/%E5%BA%83%E5%A0%B1%E5%B1%80%E5%93%A1%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0/2015%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%82%92%E5%B7%A6%E5%8F%B3%E3%81%99%E3%82%8B%E5%90%8C%E6%80%A7%E5%A9%9A%E5%95%8F%E9%A1%8C/|title=日本の未来を左右する同性婚問題|date=20160624030956}} 世界平和統一家庭連合(旧 統一教会)広報局サイト 雲外蒼天</ref><ref>[http://dailynk.jp/archives/39570 【キリスト教保守と韓国社会-2-】統一教会だけじゃない!! こんなにある「お騒がせ教団」] DailyNK Japan</ref>)図書館が示す排除の理由は二転三転し、ボーイズラブとされる基準も不明瞭であったが<ref name="熱田"/>、ボーイズラブ本として約5500冊がリストアップされ、堺市側は、これらの本は「全て閉架に保存」「今後は収集しない」「青少年には貸出しない」と決定した。<ref name="ハフィントンポスト">Chika Igaya [http://www.huffingtonpost.jp/2015/12/24/tsutaya-lib_n_8874158.html TSUTAYA図書館の選書問題が揺るがす「図書館の自由」 "不適切図書"は誰にとって不適切? ] 2015年12月25日 ハフィントンポスト</ref>この意思決定に至る議論や経過は記録に残っていない<ref name="むし"/>。図書館の定まらない対応に、市民は不信感を募らせた<ref name="共同通信">[https://megalodon.jp/2008-1224-0602-12/www.47news.jp/CN/200812/CN2008122301000392.html 図書館「ボーイズラブ」に揺れる 堺市、市民の不信感募る] 共同通信</ref>。
この事件以前に福井でも、[[バックラッシュ (社会学)|バックラッシュ]]の流れの中で、[[ジェンダー]]や[[男女共同参画]]に関連するとされた本「ジェンダー図書」が、「市民の声」によって図書館から排除される事件が起きており、原因究明のために東京大学名誉教授[[上野千鶴子]]・[[寺町みどり]]らによって「ジェンダー図書排除」究明原告団が結成されていた。寺町は福井の事件以降、同様の事件を防ごうとバックラッシュ派のインターネット掲示板「[[フェミナチ]]{{Efn|フェミナチとは、[[フェミニズム]]と[[ナチス]]を掛け合わせた、フェミニズムや[[ジェンダーフリー]]を敵視する人々が使う造語。フェミニズムとナチスに関係があるということではない。}}を監視する掲示板」に注視しており、そこで匿名男性が図書館にBL本が大量にあるという苦情の電話をかけていることを知ったと述べている<ref>[http://blog.goo.ne.jp/midorinet002/e/77f7ec5e6b2c5f9680e1ce3894269ce0 堺市立図書館の書架から5499冊の図書が消えた!?/知る権利、表現の自由を守ろう!] みどりの一期一会</ref>。同原告団は堺市の決定を同様の問題ととらえ、連絡を受けた早稲田大学の[[熱田敬子]]は除去リストを分析した。熱田敬子は、除去リストには[[宮乃崎桜子]]『[[斎姫異聞シリーズ|斎姫異聞]]』(第5回[[ホワイトハート]]大賞を受賞した少女小説)なども含まれており、深く検証する前におかしいことがわかるようなものだったと述べている。堺市は排除理由を「過激な性描写」のあるものとしたと回答しているが、性描写のない本、ほとんどない本も含まれており、「挿絵」も理由として挙げられたが、挿絵に裸や性表現のない本やそもそも挿絵のない本も含まれていた。男性同性愛の要素のない少女小説やセクシュアル・マイノリティの日常を描いた作品が含まれていたり、同じ作家のBLとされる作品でも出版社によって指定されたりされなかったりであったり、同一シリーズの一部だけが指定されていたり、ライトノベルは指定されるが文学は指定されていない、少女向け・女性向けと思われる本は指定しているが、男性向けでセックスをするのが男女であれば性描写の程度に関わらず指定されていない、男性同性愛がテーマでも「ゲイ文学」と認知されているものは含まれていない、性描写の程度では振り分けされていない、ストーリー性や文学性があっても同性愛表現があるだけで指定されているなど、図書館員が共有する基準を持たず各々の判断で選んだかのように一貫性がなく、暗黙の差別があらわになる除去リストであったという。<ref name="熱田"/>(具体的な内容は、熱田が整理したリスト<ref>[http://blog.goo.ne.jp/midorinet002/e/2513b9cddaa28c1f03e23e3338923b71 堺市立図書館の5706冊の「特定(BL)図書排除リスト」一挙公開!/著者別、出版社別でも分類・整理] みどりの一期一会</ref>を参照のこと)
堺市の決定に対し、報道やネットで賛成反対様々な意見があがり、BLが図書館にあることを批判する声や、BLの読者を嫌悪するような意見もあった。「図書館の自由」や「表現の自由」を守るため、上野らや市民団体、全国の議員などが反対の声をあげ、堺市長と堺市教育長に対し、市民97人、議員46人、7団体による申し入れがされた<ref name="ハフィントンポスト"/>。堺市に対して、上野を代表に市民などから監査請求も行われた<ref name="ハフィントンポスト"/>。監査請求の後、堺市立図書館は「青少年への提供は行なわない」との方針・合意を撤回し、「請求があれば18歳未満にも貸し出す方針を決めた。同日から運用を始めた。」と新聞で報道された<ref name="むし"/>。堺市は「拙速で、判断を誤った」としている<ref name="共同通信"/>。「BL図書は収集・保存しない」という措置は、2008年時点では見直されていない<ref name="むし"/>。
堺市立図書館は、BL本排除を決定するよう外圧があったことを否定している<ref name="むし"/>。これに対し寺町は「インターネットにおける各種情報や新聞等の報道からも、また、事案の経過からも事実に反する。」と述べている<ref name="むし"/>。
寺町みどりは、同性愛への嫌悪に基づく要求に従った堺市立図書館にも、「『ボーイズラブは青少年に見せてはいけない』という予断と、セクシュアルマイノリティへの偏見があったのだろう。だからこそ、堺市立図書館で起きたことは、『ジェンダー図書排除』事件にほかならない。<ref name="むし"/>」「巷にあふれる『BL本』の悪いイメージをことさらに振りまいて、自己規制を迫るのは、差別する側の常套手段だ。(中略)わたしは、図書を選別し、区別し、隠すことこそが『焚書』であり、『差別』につながると言いたい。<ref name="むし"/>」「『どのような理由であろうと蔵書を排除しない』を基本原則としない限り、第二第三の『図書排除』事件は、起きるだろう」と述べている<ref>[http://blog.goo.ne.jp/midorinet002/e/6052629e68a1503dd197cbda92449eda 堺市立図書館で「特定図書排除」事件はなぜ起きたのか?「ジェンダー図書排除」究明原告団 事務局・寺町みどり] みどりの一期一会</ref><ref name="ハフィントンポスト"/>。
熱田敬子は、そもそも図書館から本を大量に除去することが大問題であるが、このような乱暴な指定で図書を除去することの原理的な問題として、大きく分けて「『BL』という恣意的な括りで、本が排除されるということ」(BLであるかどうかの明瞭な定義はないので、図書館は除去する本を恣意的に選べる)、「『BL』を一括りに排除することがそもそも恣意的である、ということ」(図書館は[[ゾーニング]]をするべきか)の2点があると述べている<ref name="熱田"/>。
他に論点として、次のものが挙げられている<ref name="まとめ">natsu_san [https://natsu-san.hatenadiary.org/entry/20081230/1230650458#20081230f6 堺市図書館BL問題要点まとめ(まとまらなかった)] __ScrapBook of Plumber</ref>。
* BLとは何か。
* BLはわいせつか。18禁か。ポルノか。
* BLが有害であるとするなら、「誰にとって」「何故」有害なのか。
* わいせつ図書は図書館にあっていいのか。
* 図書館の自由という観点において、堺市図書館の対応はいかがなものか。
また論争における問題点として、次のことが指摘されている<ref name="まとめ"/>。
* 図書館の自由に基づきありとあらゆる知を提供するという図書館の立ち位置が知られていない。
* BLへの不快感/自重意識から、思考停止または論点のすり替えが行われた。
この事件は、表現の自由の侵害であると同時に明確な差別事件でもあったが、その点は理解されにくく、当時は報道でも識者の間でもあまり注目されなかった<ref name="熱田"/>。背景には、女性が性的表現を享受することに対する女性自身の後ろめたさや世間の冷淡さ(保守的な[[フェミニスト]]も含む)、男性オタクからの腐女子へのバッシングだけでなく、[[ホモ・フォビア]]や[[セクシャル・マイノリティ]]差別があることも指摘されている<ref name="熱田"/>。
BLに対する表現規制の動きはその後も継続しており、たとえば2020年代現在、'''[[東京都青少年の健全な育成に関する条例]]によって指定される[[有害図書|不健全図書]]の大半はBL作品となっている'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/tomin_anzen/jakunenshien/jyourei-unyou/eiga-tosyo-ichiran/index.html|title=不健全指定図書類、不健全指定がん具類・刃物一覧|accessdate=2023年3月13日 |author=東京都}}2018〜2020年度はBL作品が約8割、2021年度はBL作品が約9割、2022年度はBL作品が10割を占めている。</ref>。指定された作品は都内で青少年向けに販売できなくなるほか、[[Amazon.co.jp]]における販売が停止される(不健全指定された書籍のタイトルなどは東京都のウェブサイト上の[https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/tomin_anzen/jakunenshien/jyourei-unyou/eiga-tosyo-ichiran/index.html 不健全指定図書類一覧]で確認できる)。漫画家の[[森川ジョージ]]によれば、東京都の不健全図書指定により100人以上のBL漫画作家が収入を断たれたとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20230628/k00/00m/040/264000c |title=漫画のエロ・グロ表現で犯罪が起こる? 「はじめの一歩」作者の憂い|website=[[毎日新聞デジタル]] |publisher=[[毎日新聞社]] |date=2023-06-29 |accessdate=2023-06-29}}</ref>。[[参議院議員]]の[[山田太郎 (参議院議員)|山田太郎]]は、こうした青少年健全育成を理由としたBLの規制に危惧を表明している<ref>{{Cite web|和書|url=https://raku-job.jp/news/companyrep/20063/|title=スペシャルインタビュー企画・山田太郎参議院議員に聞く!(前編):BLも違法に?!「表現の自由」はいかに危機に瀕しているか。|accessdate=2020年12月11日 |author=RAKUJOB}}</ref>。
=== イスラム圏 ===
[[イスラム教]]を信仰している国や地域によっては、同性愛を厳しく否定していることもあり、ボーイズラブ関連書籍は公に取り扱うことができない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASMCZ52SZMCZUHBI01K.html |title=BL愛が迫害される島で ひそかにたくましい腐女子たち |publisher=朝日新聞DIGITAL |date=2019-12-25 |accessdate=2021-09-10}}</ref>。
=== 中華人民共和国 ===
2021年、中華人民共和国ではボーイズラブを「不良文化」と認定、断固排除する方針を打ち出した<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000228418.html |title=中国「ボーイズラブ」などを不良文化として排除要請 |publisher=テレビ朝日 |date=2021-09-09 |accessdate=2021-09-10}}</ref>。
===ロシア連邦===
2022年12月、ロシア連邦では性的少数者を含む、「非伝統的な性的関係」の情報発信を全面禁止する法律を制定したことに絡み、インターネットや映画、一部の文学作品を違法対象とするため、ボーイズラブ作品も禁止している。<ref>{{https://search.yahoo.co.jp/amp/s/sp.m.jiji.com/amp/article/show/2854651%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D}}</ref>
==脚注==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[ボーイズラブ小説家一覧]]
* [[衆道]]
* [[男色]]
* [[両性愛]]
* [[百合 (ジャンル)]]
== 外部リンク ==
*[https://bllogia.wordpress.com/ BLlogia準備室] - BL論文データベース化プロジェクトの準備室。BLの年表もあり随時更新されている。
*[https://www.iza.ne.jp/article/20201124-LC3SOV52Y5JGVKKYLDNYC63OO4/ BL誕生50年の源流 美少年マンガの先駆「雪と星と天使と」(2020年11月24日、記事執筆:中野晴行)]
*{{CRD|2000027252|BL(ボーイズラブ)調査研究資料の探し方|鳥取大学附属図書館}}
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[[Category:ボーイズラブ|*]]
[[Category:男性同性愛]]
[[Category:ロマンスのジャンル]]
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17,314 |
ソフト
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ソフト (soft) は、「柔らかい」という意味の英語である。
いずれも和製英語的な用法である。
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{{Wikt|soft}}
'''ソフト''' (soft) は、「柔らかい」という意味の[[英語]]である。
==一覧==
;[[略称]]
いずれも和製英語的な用法である。
* [[ソフトウェア]]の略称。
* [[ゲームソフト]]の略称。
* [[ソフトボール]]の略称。
* [[ソフトクリーム]]の略称。
* [[ビデオソフト]]の略称。
; [[SOFT (アルバム)]]
* [[ストレイテナー]]の[[アコースティック]][[アルバム]]。
== 関連項目 ==
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ANA (曖昧さ回避)
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ANA
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ANA 全日本空輸 の略称およびICAO航空会社コード。
ANAホールディングス - 上記の全日本空輸グループの持株会社。
オーストラリア国立航空の略称。
アンセット・オーストラリア航空(Ansett-ANA)の旧社名。
アナハイム・エンゼルス の略称。
抗核抗体 の略称。
アフガニスタン軍 の略称。
基部被子植物 - 当該の側系統群を構成している 「 アムボレラ目 (Amborellales) 」 ・「 スイレン目 (Nymphaeales) 」・「 アウストロバイレヤ目 (Austrobaileyales) 」 の3つの目の学名の頭文字に由来する。
Authorised Neutral Athletes - 国家に所属せず中立の立場で国際大会に出場する陸上選手、特に2017年世界陸上において、ドーピング問題により参加資格停止中のロシア陸連に関係なく、特例で参加を認められたロシア人選手。
ANA (歌手) - キューバ系アメリカ人の歌手。
ANA (政治同盟)
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'''ANA'''
* [[全日本空輸]] (''All Nippon Airways'') の略称および[[国際民間航空機関|ICAO]][[航空会社コード]]。
* [[ANAホールディングス]] - 上記の全日本空輸グループの[[持株会社]]。
* {{仮リンク|オーストラリア国立航空|en|Australian National Airways}}(Australian National Airways)の略称。
* [[アンセット・オーストラリア航空]](Ansett-ANA)の旧社名。
* [[ロサンゼルス・エンゼルス|アナハイム・エンゼルス]] (''Anaheim Angels'') の略称。
* 抗核抗体 (''antinuclear antibody'') の略称。
* [[アフガニスタンの軍事|アフガニスタン軍]] (''[[:en:Afghan National Army|Afghan National Army]]'') の略称。
* [[基部被子植物]] - 当該の[[側系統群]]を構成している 「 [[アムボレラ目]] ('''''A'''mborellales'') 」 ・「 [[スイレン目]] ('''''N'''ymphaeales'') 」・「 [[アウストロバイレヤ目]] ('''''A'''ustrobaileyales'') 」 の3つの[[目 (分類学)|目]]の[[学名]]の頭文字に由来する。
* ''[[:en:Authorised Neutral Athletes|Authorised Neutral Athletes]]'' - 国家に所属せず中立の立場で国際大会に出場する陸上選手、特に[[2017年世界陸上競技選手権大会|2017年世界陸上]]において、ドーピング問題により参加資格停止中のロシア陸連に関係なく、特例で参加を認められたロシア人選手。
* [[ANA (歌手)]] - キューバ系アメリカ人の歌手。
* [[ANA (政治同盟)]]
== 関連項目 ==
* [[アナ (曖昧さ回避)]]
* [[特別:Prefixindex/ANA|ANAで始まる記事の一覧]]
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JAS
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JAS
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日本エアシステム - かつて日本に存在した航空会社。
日本宇宙飛行協会
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日本測量協会
日本フリーダイビング協会
シンガポール日本人会
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'''JAS'''
* [[日本農林規格]] ('''J'''apanese '''A'''gricultural '''S'''tandard)
* [[日本エアシステム]] ('''J'''apan '''A'''ir '''S'''ystem) - かつて日本に存在した航空会社。
* [[日本宇宙飛行協会]] ('''J'''apan '''A'''stronautical '''S'''ociety)
* [[日本オーディオ協会]] ('''J'''apan '''A'''udio '''S'''ociety)
* [[日本測量協会]] ('''J'''apanese '''A'''ssociation of '''S'''urveyors)
* [[日本フリーダイビング協会]] ('''J'''apan '''A'''pnea '''S'''ociety)
* [[シンガポール日本人会]] (The '''J'''apanese '''A'''ssociation, '''S'''ingapore)
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BL
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'''BL, bl,B/L'''
== 一般 ==
*[[蓄電池機関車]]({{En|battery locomotive}}) - 蓄電池からの電力を使用する電気機関車。
*[[ベーコン]]・[[レタス]]({{En|bacon, lettuce}}) - [[サンドイッチ]]の定番の具の組み合わせの一つ
*[[潤滑|境界潤滑]]({{En|Boundary Lubrication}}) - 物体の表面に吸着した潤滑成分分子により表面が一応保護されている状態。
*[[ブラックリスト]]({{En|black list}}) - 警戒を要する人物・団体といった対象の一覧表のこと。
*[[舞台照明|ボーダーライト]]({{En|border light}}) - 電球を舞台の横幅と同じだけ並べたライト。
*[[船荷証券]]({{En|bill of lading: B/L}}) - 運送業者が発行し、貨物の引き受けを証明し、当該貨物受け取りの際の依拠とする。
*[[ボーイズラブ]]({{En|boy's love}}) - 男性(少年)同士の[[同性愛]]を題材とした小説や漫画などのジャンルのこと。
*[[競馬]]新聞紙等における[[ブリンカー]]を装着した[[競走馬]]
* [[いもち病]]抵抗性系統(Blast resistance Lines、ブラスト・レジスタンス・ラインズ)の略。
**[[コシヒカリBL]]({{En|Blast resistance Lines}})
* [[バーキットリンパ腫]]({{En|Burkitt lymphoma}})
== 地名 ==
*[[サン・バルテルミー島]]({{Fr|Saint Barthélemy}})の[[ISO国名コード]]
*[[ボリビア]]の[[FIPS]]10-4国名コード
*[[ベッルーノ県]]の[[ISO 3166-2:IT|イタリア県名コード]]
*[[バーゼル=ラント準州|バーゼル=ラント準州]]({{De|Basel-Landschaft}})の[[ISO 3166-2:CH|スイス州コード]]
== 組織 ==
*[[ブリティッシュ・レイランド]] - [[イギリス]]の自動車メーカー
*ブルーライオン({{En|Blue Lion}}) - [[プジョー・ジャポン]]の正規ディーラー網
*[[Bach Logic aka BL]] - 日本のヒップホップミュージシャン
*[[パシフィック航空]]の[[IATA航空会社コード]]
*[[BL出版]] - 日本の出版社
*[[びわ湖放送]](JOBL-DTV)
*[[大英図書館]]({{En|British Library}})
*[[福岡ドーム#増席計画|ビッグライフ]] - 福岡ドーム内のスポーツバー
== 自動車 ==
*[[スバル・レガシィ|レガシィB4セダン]] 4代目([[2003年]]5月 - )の型番
*[[ジーリー・BL]] - [[吉利汽車]]の[[クーペ]]
*[[マツダ・アクセラ]] 2代目 [[マツダ・アクセラ#2代目 BL系(2009年-2013年)|BL系]]([[2009年]]-[[2013年]])
== 作品 ==
=== テレビドラマ ===
*[[ビューティフルライフ]]({{En|Beautiful Life}}) - 2000年のテレビドラマ ラブストーリー。
*[[ボストン・リーガル]]({{En|Boston Legal}}) - 2004年~のテレビドラマ
=== 漫画 ===
*[[BLACK LAGOON]] - 2001年~の漫画
== 賞、認定 ==
*[[ベターリビング]] - 住宅用工業部品の認定規格
*BL賞 - [[鉄道友の会]]が選定する[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]と[[ローレル賞]]を一まとめにした略称。
==鉄道==
*[[鉄道]]の[[高架橋]]の略号([[鉄道橋#鉄道橋の分類]]も参照)
*[[横浜市営地下鉄]]の[[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン]]の略称。
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松山市
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松山市(まつやまし)は、愛媛県の中部に位置する市。愛媛県の県庁所在地及び四国地方で人口が最多の市であり、中核市に指定されている。四国地方では、唯一人口50万人を超える市である。中四国地方でも人口規模は広島市、岡山市に続く第3の都市となる。
約51万人の人口を有する四国最大の都市であるが、日本の一地方の最大の都市では唯一の政令指定都市ではない都市である。中四国においては、政令指定都市である広島市・岡山市に次ぐ3番目の人口規模を有する。都市圏人口は、総務省統計局の定義における「松山都市圏」が70万6883人(2015年)、都市雇用圏の「松山都市圏」が64万2841人(2010年)で、四国内では国の出先機関や大企業の四国支社が多く位置する香川県高松市の高松都市圏に次ぐ規模である。
松山城を中心に発展して来た旧城下町で、道後温泉で有名な古くからの温泉地であるとともに、俳人正岡子規や種田山頭火また文豪夏目漱石ゆかりの地で、俳句や小説『坊っちゃん』『坂の上の雲』などで知られる文学の街でもある。これら観光資源を背景として、「国際観光温泉文化都市」の指定を受けている。キャッチフレーズは「いで湯と城と文学のまち」。
コンパクトシティ構想により、様々な文化施設が集中して立地している。アーケード街の大街道や銀天街、四国唯一の地下街であるまつちかタウン、伊予鉄松山市駅ビルに併設された伊予鉄髙島屋やハンズなどの商業施設、道後温泉、松山城、松山総合公園、愛媛県美術館、坂の上の雲ミュージアム、子規記念博物館、伊予かすり会館、伊丹十三記念館など多様な文化的観光スポットがある。また、スポーツ施設も充実しており、特に松山中央公園には最新設備を導入した坊っちゃんスタジアム、アクアパレットまつやま、愛媛県武道館、多目的競技場などが密集している。なお、市の南部およびベッドタウンである伊予郡砥部町にかけては、とべ動物園やえひめこどもの城、愛媛FCの本拠地であるニンジニアスタジアムを含む愛媛県総合運動公園など広大な県営の施設群もある。
近年は都心部を中心に複合商業施設の建設、鉄道や高規格道路の整備が行われ、四国最大都市としての再開発が進んでいる。
松山市は西に瀬戸内海(伊予灘および斎灘)に面しており、北と東は高縄半島の山々、南は四国山地の一支脈である皿ヶ嶺連峰に接している。松山平野の大部分を占めるほか、三坂峠のすぐ下の山間地から旧・中島町の島嶼部に至るまで広い面積を有するようになった。
典型的な瀬戸内海式気候であり、年中温暖(年平均気温:16.8°C)で降水量が少ない。四国の他の3県と違い、春から夏にかけて降水量が多く、梅雨の時期にあたる6月が最多である。台風の影響もはるか南東に位置する四国山地が遮り、南予や四国の反対側の徳島市に比べるとかなり少ない。冬期は、九州の日本海側にある雪雲が関門海峡を抜け、松山上空まで雪を降らせることがある。
松山市では、過去いずれの合併も隣接地を編入してきたことや、市長の方針から編入合併を原則としてきた。合併以前の人口は約47万人であったが、政令指定都市の指定基準は(運用上は)おおむね100万人以上とされていたため、考え得る周辺市町村の全てを編入合併しても同指定基準を満たすことはできず、人口増加を理由とした規模の拡大については積極的な動機に乏しかった(仮に、(新)今治市と合併した場合は人口が同指定基準に達するが、この場合は市域が1,000km近くに拡大するほか、市街地も大きく2分してしまうという問題があった)。
市は、合併協議に入る前の条件として事務の類似性などの3条件を示した。結局、北に隣接する北条市と航路で結ばれた温泉郡中島町を編入合併することとなった。なお合併にあたっては、北条市に対しては北条スポーツセンターの扱いを、中島町に対しては汽船事業や病院事業の民営化などの条件を提示している。
市民サービスセンター(松山三越・フジグラン松山・伊予鉄髙島屋)においては、土休日でも各種証明書の交付や、簡単な市民相談などの業務を行っている(フジグラン松山にある「松山市パスポートセンター」は年末年始を除き年中無休)。また、年中無休のコールセンターでは市役所での手続きなどの問い合わせに対応している。このほか、ふるさと納税に対応した寄付を呼びかける部署もある。
みかんに代表される農業や、日本最古の道後温泉や松山城などを中心とした観光業、化学繊維を中心とした製造業などが基幹産業である。空港や港湾付近の沿岸部には工業地帯が広がり、帝人グループ最大の生産拠点を擁するなど、工業生産額は四国地方で上位となっている。
情報・通信については、四国を統括している主要な機関として総務省四国総合通信局、NTT西日本愛媛支店、日本郵政四国支社、NHK松山放送局(四国統括局)などがあり、その関連で情報通信の基盤整備も進んでいる。
四国最大の人口を持つ都市として、サービス業など第三次産業も発達しており、周辺の市町をも圏域とする利便性の高い商業集積が見られる。また、2010年までは、四国でも数少ない人口増加中の都市であったほか、瀬戸内海を挟んで広島都市圏との交流も盛んである。通年の全交通機関の生活圏間流動(2005年)で松山を出発地とする目的地別順位では1位が高知中央(91万9千人)、2位が香川東部(82万1千人)、3位が香川西部(55万9千人)で広島は次いで第4位(46万7千人)となっており、四国外との交流では広島が最も繋がりの深い都市であることが見て取れる。
データは2015年(平成27年国勢調査結果)
総務省の地方支分部局である四国総合通信局が市内に設置されていることもあり、日本郵便の四国支社やNTT西日本の四国事業本部(携帯電話事業のNTTドコモ、インターネットサービス事業のNTTコミュニケーションズは高松市に拠点を置いている)が設置されている。日本郵便やNTT西日本の拠点では四国4県の統括的な業務を行っている。NTTデータ四国やNTT西日本松山病院といったNTTの関連企業・施設・拠点も設置されている。
市では21世紀型産業である情報通信時代の到来を見越し、2002年から2004年にかけて、他市に先駆け松山市内に光ファイバー網を敷設した。この基盤を活かして情報通信関連企業の積極的な誘致に努め、5年間でコールセンター8件、データ入力センター1件、事務センター1件の誘致に成功し、3,000人を超える新規雇用を創出している。コールセンターではブリッジインターナショナルやベネフィット・ワン、もしもしホットラインなどが立地している。また2006年には富士火災海上保険(現在のAIG損害保険)中央営業事務センターが進出した他、ソフトウェア開発会社のサイボウズが開発・サポート拠点として松山オフィスを設けている。
2004年には総務省の「ITビジネスモデル地区」の指定を受けている。
松山中央郵便局
松山西郵便局
松山南郵便局
北条郵便局
重信郵便局(東温市)
松山港からは中国(特に広島へはスーパージェットなどが頻繁に運行されている)・九州地方北九州への航路が開かれ、松山空港からは東京・大阪・名古屋など日本国内のほか中華人民共和国・大韓民国・台湾への定期便が就航している。また高速道路やJR四国の予讃線などもあり県外・県内の移動の拠点となっている。このほか市内には、伊予鉄道の路面電車や郊外電車、伊予鉄バスの路線バスが多数運行されている。
貨物輸送ではJR貨物の貨物駅や運送会社の支社・営業所などが立地している。
伊予銀行や愛媛銀行などの地元金融機関の本店・支店のほか、都市銀行や近隣県に本店を置く地方銀行の支店・ATMが設けられている。また、四国の直営店の統括機能を有するゆうちょ銀行松山支店も立地している。
多くの保険会社の支店・営業所がある。また近年は大手保険会社の集中事務センターの誘致に成功している。
四国に本店を置く地方銀行・第二地方銀行すべてが市内に支店を持っている。また、都市銀行は1995年のあさひ銀行(現・りそな銀行)撤退して以降みずほ銀行(旧・第一勧業銀行)のみ設けられていたが2009年(平成21年)1月、三井住友銀行の支店が開設された。
3000年の歴史を有するといわれ、文献上、日本最古である道後温泉や日本で最後の完全な城郭建築とされる松山城(ミシュランの観光版(ギード・ベール)日本編ではそれぞれ二つ星に選定。)、四国八十八箇所の1つである石手寺(ミシュラン一つ星)など観光施設が豊富であり、多くの観光客を集めている。また、しまなみ海道開通時には、しまなみブームと呼ばれるほど観光客が増加した。
伊予鉄道は夏目漱石の小説・坊ちゃんにも登場した蒸気機関車を復元した「坊っちゃん列車」を運行している。また、JR四国も松山駅を発着する観光列車・「伊予灘ものがたり」を2014年より運行している。
観光に関する問い合わせに対応するため、財団法人松山観光コンベンション協会が年中無休の電話窓口を設けている。
県や市のスポーツ施設も多数あり、坊っちゃんスタジアムでプロ野球公式戦などが年に数回行われるほか、堀之内や愛媛県総合運動公園でa-nationなどの野外ライブが実施されたり、愛媛県武道館でディズニー・オン・アイスが公演したりする。
2010年の推定観光客数は588万4千人(対前年比12.0%増)、道後温泉地区宿泊客数は80万1千人(同4.2%増。ただし市全域では3.2%増)となっている。
松山市の人口が増加していることもありマンション需要が伸びているため、不動産会社が次々マンションを建設している。またオフィスビルの需要も、コールセンターなどの進出で伸びており、ビル建設も増加している。
近年、市内の高校が定員超過となっているほか、私立の中高一貫校では受験競争が激化する兆候があることなどから、日能研、東進衛星予備校、ITTO個別指導学院、明光義塾などの全国規模の塾や予備校が進出し、市内の小規模塾や大手塾(寺小屋グループなど)と競合している。
空港や港近郊の沿岸部には工業地帯が広がっている。2010年の工業統計調査(従業員4人以上の事業所が対象)では製造業等出荷額は4,237億5,149万円、製造業の従業員数14,691人、事業者数は420事業所となっている。
製造業等出荷額(2010年)の割合は化学が32.6%、生産用機械が22.0%、食料品12.3%、はん用機械が11.8%を占めている。化学では帝人や大阪ソーダ、東レ・ファインケミカル、コスモ松山石油などが事業所を置いており化学製品・化学繊維などの生産が行われている。機械ではトラクターなどの農業用機械製造の井関農機、ボイラー・水処理関連機器などの機械製造の三浦工業が本社・生産拠点を設置している。
ウンシュウミカンの生産が盛んで、イヨカンの代表的な産地の一つでもあり、「紅まどんな」など付加価値の高い柑橘類の生産にも取り組んでいる。また、伊台や五明など高原地域ではニューピオーネなどのブドウ栽培も行われている。特産品・伝統工芸として、姫だるま、竹細工(日本三大産地)、伊予絣(同)、油揚げ(松山揚げ)などが有名である。
松山は、夏目漱石の小説『坊っちゃん』の舞台になっている。この小説は、漱石自身が松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)に赴任した時の体験を下敷きとしている。松山赴任時、漱石は大学予備門で同窓だった正岡子規との交流も持った。
漱石は『坊っちゃん』で、松山を「不浄な地」(新潮文庫版131ページ)としているなどかなりひどく書いているが、実際は明治時代の地方に対する世論の考え方を反映したもので、単に松山を批判したものではない。漱石自身も松山中学では非常に優遇されており、小説の内容と自身の体験談とが必ずしも一致したものとはいえない。松山市および市民は観光の一つとしている他、今日でも松山には「坊っちゃん」や「マドンナ」の名が付いた施設や商品が多い。
近年は「坂の上の雲」(歴史小説)を軸としたまちづくりも進められ、司馬遼太郎記念財団認定商品も販売されている。
記紀の古より湧き続ける道後温泉に代表される道後温泉郷であり、源泉から離れた銭湯も引き湯で温泉を入れている所も数多くある。
松山は能楽が盛んであり、市内に能楽堂がいくつかある。
上記のほか、小児の夜間の急病に対応するため、松山市保健所の隣に松山市急患医療センターが設置されている。
市内にはかつて62の小学校があったが、近年児童数の減少により統廃合が目立っている。
松山市では、規定を満たし採用された大学・短大へ進学希望する者に貸与される奨学金制度「松山市奨学生」が設けられている。
四国最大の人口を有する都市として利便性の高い各種の運輸手段があり、特に空港利用者数は中四国最多の実績を有し、年々増加の傾向にある。また、人口50万強という人口規模としては利便性の高い公共交通機関が伊予鉄道の電車・伊予鉄バスのバスを中心に発達しており、市内の主だった拠点の多くに公共交通だけでたどり着くことができる。このほか、比較的コンパクトな中心市街地を自転車で移動する希望者に対応するため、有料の観光レンタサイクルポート(JR松山駅前・大街道商店街・松山城ロープウェイ東雲口駅舎・道後温泉駅前)も開設されている。他にも観光振興策の一環として、2007年(平成19年)7月から原動機付自転車を対象に「道後・松山市」の雲型ナンバープレートを発行している。
JTB時刻表で代表駅としているJR予讃線松山駅は中心市街のやや西寄りにあることもあり、市街の中心により近い伊予鉄道の松山市駅(通称:市駅)が中心駅の役割を担っている。同駅からは同鉄道の郊外線が3方向に発着しているほか市内電車(軌道)の拠点停留所にもなっている。さらに、都市間高速バスを含む路線バスの発着点でもあるなど、公共交通の一大拠点を成している。
このような立地や拠点性に差異が生じた経緯の一つとして、現在の市駅が1888年(明治21年)に開業したのに比べ、国鉄予讃本線(現・JR予讃線)が松山駅まで延伸したのは1927年(昭和2年)と遅かったことが挙げられる。なお、市駅はもともと松山駅を名乗っていたが、国鉄松山駅が開業することになった際に駅名を改称させられた経緯がある。
伊予鉄バスにより市内各地に路線バス網が張り巡らされている。
また、他社により宇和島・大洲・久万高原・今治・西条・新居浜などの県内各都市へ向かうバス路線も開設されている(南予方面は一部高速道路経由)。
松山自動車道やしまなみ海道の開通により、高速バスも市内に営業所を持つ乗合3社(伊予鉄バス、JR四国バス、宇和島自動車)とその共同運行会社により多数運行されている。松山の発着場所は伊予鉄バスとJR四国バスおよび共同運行便でない場合、松山市駅または松山駅のいずれかのみになることがある。
近年は、2008年(平成20年)秋の福岡線開設、2009年(平成21年)1月の名古屋線2往復化(既存のJRバス以外に伊予鉄バスが参入)および、同年7月には従来松山市内では客扱いをしていなかった宇和島自動車の横浜・池袋・大宮線が同社松山営業所に停車するようになるなど、路線網の充実が著しい。
道路交通は、国道11号、国道33号、国道56号、国道196号が松山市中心街に集中し、広域的な交通拠点ともなっている。松山自動車道のインターチェンジ(松山IC)は市の南部、国道33号線の伊予郡砥部町寄りにある。
瀬戸内海に面した都市であるため、本州や九州および離島とを結ぶ旅客航路が充実している。また四国最大の工業港(松山外港)を有し、多数の貨物航路も寄港している。松山港は定期旅客航路数・定期コンテナ貨物航路数共に四国一の規模を誇る。
愛媛県内を放送対象地域とするテレビ局はNHKほか民放が4局あり、テレビ東京系列以外のキー局系列の番組が視聴可能である。また、NHK松山放送局は四国4県の基幹局となっている。
NHK松山放送局と南海放送は市内中心部に、他のテレビ局は比較的郊外に立地している。
地上デジタル放送は行道山送信所において2006年(平成18年)10月1日に放送開始したが、その準備段階として、同年6月21日午前10時から「映像の再生に必要な制御信号を含めた試験電波」の発射を開始したのに続き、8月4日からは「地上アナログ放送と同一番組の試験放送」を開始していた。
ラジオはAM・FMともにNHKと民放の県域局が1局ずつ所在する。また、県域局よりもより狭い市町村単位をエリアとする地域密着型のFM局、コミュニティ放送局は四国地方の県庁所在地で唯一存在していない。
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"text": "3000年の歴史を有するといわれ、文献上、日本最古である道後温泉や日本で最後の完全な城郭建築とされる松山城(ミシュランの観光版(ギード・ベール)日本編ではそれぞれ二つ星に選定。)、四国八十八箇所の1つである石手寺(ミシュラン一つ星)など観光施設が豊富であり、多くの観光客を集めている。また、しまなみ海道開通時には、しまなみブームと呼ばれるほど観光客が増加した。",
"title": "経済"
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"text": "伊予鉄道は夏目漱石の小説・坊ちゃんにも登場した蒸気機関車を復元した「坊っちゃん列車」を運行している。また、JR四国も松山駅を発着する観光列車・「伊予灘ものがたり」を2014年より運行している。",
"title": "経済"
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"text": "観光に関する問い合わせに対応するため、財団法人松山観光コンベンション協会が年中無休の電話窓口を設けている。",
"title": "経済"
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"text": "県や市のスポーツ施設も多数あり、坊っちゃんスタジアムでプロ野球公式戦などが年に数回行われるほか、堀之内や愛媛県総合運動公園でa-nationなどの野外ライブが実施されたり、愛媛県武道館でディズニー・オン・アイスが公演したりする。",
"title": "経済"
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"text": "2010年の推定観光客数は588万4千人(対前年比12.0%増)、道後温泉地区宿泊客数は80万1千人(同4.2%増。ただし市全域では3.2%増)となっている。",
"title": "経済"
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"text": "松山市の人口が増加していることもありマンション需要が伸びているため、不動産会社が次々マンションを建設している。またオフィスビルの需要も、コールセンターなどの進出で伸びており、ビル建設も増加している。",
"title": "経済"
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"text": "近年、市内の高校が定員超過となっているほか、私立の中高一貫校では受験競争が激化する兆候があることなどから、日能研、東進衛星予備校、ITTO個別指導学院、明光義塾などの全国規模の塾や予備校が進出し、市内の小規模塾や大手塾(寺小屋グループなど)と競合している。",
"title": "経済"
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"text": "空港や港近郊の沿岸部には工業地帯が広がっている。2010年の工業統計調査(従業員4人以上の事業所が対象)では製造業等出荷額は4,237億5,149万円、製造業の従業員数14,691人、事業者数は420事業所となっている。",
"title": "経済"
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"text": "製造業等出荷額(2010年)の割合は化学が32.6%、生産用機械が22.0%、食料品12.3%、はん用機械が11.8%を占めている。化学では帝人や大阪ソーダ、東レ・ファインケミカル、コスモ松山石油などが事業所を置いており化学製品・化学繊維などの生産が行われている。機械ではトラクターなどの農業用機械製造の井関農機、ボイラー・水処理関連機器などの機械製造の三浦工業が本社・生産拠点を設置している。",
"title": "経済"
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"text": "ウンシュウミカンの生産が盛んで、イヨカンの代表的な産地の一つでもあり、「紅まどんな」など付加価値の高い柑橘類の生産にも取り組んでいる。また、伊台や五明など高原地域ではニューピオーネなどのブドウ栽培も行われている。特産品・伝統工芸として、姫だるま、竹細工(日本三大産地)、伊予絣(同)、油揚げ(松山揚げ)などが有名である。",
"title": "経済"
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"text": "松山は、夏目漱石の小説『坊っちゃん』の舞台になっている。この小説は、漱石自身が松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)に赴任した時の体験を下敷きとしている。松山赴任時、漱石は大学予備門で同窓だった正岡子規との交流も持った。",
"title": "文化"
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{
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"text": "漱石は『坊っちゃん』で、松山を「不浄な地」(新潮文庫版131ページ)としているなどかなりひどく書いているが、実際は明治時代の地方に対する世論の考え方を反映したもので、単に松山を批判したものではない。漱石自身も松山中学では非常に優遇されており、小説の内容と自身の体験談とが必ずしも一致したものとはいえない。松山市および市民は観光の一つとしている他、今日でも松山には「坊っちゃん」や「マドンナ」の名が付いた施設や商品が多い。",
"title": "文化"
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"text": "近年は「坂の上の雲」(歴史小説)を軸としたまちづくりも進められ、司馬遼太郎記念財団認定商品も販売されている。",
"title": "文化"
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"text": "記紀の古より湧き続ける道後温泉に代表される道後温泉郷であり、源泉から離れた銭湯も引き湯で温泉を入れている所も数多くある。",
"title": "文化"
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"text": "松山は能楽が盛んであり、市内に能楽堂がいくつかある。",
"title": "文化"
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"text": "上記のほか、小児の夜間の急病に対応するため、松山市保健所の隣に松山市急患医療センターが設置されている。",
"title": "医療"
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"text": "市内にはかつて62の小学校があったが、近年児童数の減少により統廃合が目立っている。",
"title": "教育"
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"text": "",
"title": "教育"
},
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"text": "松山市では、規定を満たし採用された大学・短大へ進学希望する者に貸与される奨学金制度「松山市奨学生」が設けられている。",
"title": "教育"
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{
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"text": "四国最大の人口を有する都市として利便性の高い各種の運輸手段があり、特に空港利用者数は中四国最多の実績を有し、年々増加の傾向にある。また、人口50万強という人口規模としては利便性の高い公共交通機関が伊予鉄道の電車・伊予鉄バスのバスを中心に発達しており、市内の主だった拠点の多くに公共交通だけでたどり着くことができる。このほか、比較的コンパクトな中心市街地を自転車で移動する希望者に対応するため、有料の観光レンタサイクルポート(JR松山駅前・大街道商店街・松山城ロープウェイ東雲口駅舎・道後温泉駅前)も開設されている。他にも観光振興策の一環として、2007年(平成19年)7月から原動機付自転車を対象に「道後・松山市」の雲型ナンバープレートを発行している。",
"title": "交通・運輸"
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{
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"text": "JTB時刻表で代表駅としているJR予讃線松山駅は中心市街のやや西寄りにあることもあり、市街の中心により近い伊予鉄道の松山市駅(通称:市駅)が中心駅の役割を担っている。同駅からは同鉄道の郊外線が3方向に発着しているほか市内電車(軌道)の拠点停留所にもなっている。さらに、都市間高速バスを含む路線バスの発着点でもあるなど、公共交通の一大拠点を成している。",
"title": "交通・運輸"
},
{
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"text": "このような立地や拠点性に差異が生じた経緯の一つとして、現在の市駅が1888年(明治21年)に開業したのに比べ、国鉄予讃本線(現・JR予讃線)が松山駅まで延伸したのは1927年(昭和2年)と遅かったことが挙げられる。なお、市駅はもともと松山駅を名乗っていたが、国鉄松山駅が開業することになった際に駅名を改称させられた経緯がある。",
"title": "交通・運輸"
},
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"text": "伊予鉄バスにより市内各地に路線バス網が張り巡らされている。",
"title": "交通・運輸"
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"text": "また、他社により宇和島・大洲・久万高原・今治・西条・新居浜などの県内各都市へ向かうバス路線も開設されている(南予方面は一部高速道路経由)。",
"title": "交通・運輸"
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"text": "松山自動車道やしまなみ海道の開通により、高速バスも市内に営業所を持つ乗合3社(伊予鉄バス、JR四国バス、宇和島自動車)とその共同運行会社により多数運行されている。松山の発着場所は伊予鉄バスとJR四国バスおよび共同運行便でない場合、松山市駅または松山駅のいずれかのみになることがある。",
"title": "交通・運輸"
},
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"text": "近年は、2008年(平成20年)秋の福岡線開設、2009年(平成21年)1月の名古屋線2往復化(既存のJRバス以外に伊予鉄バスが参入)および、同年7月には従来松山市内では客扱いをしていなかった宇和島自動車の横浜・池袋・大宮線が同社松山営業所に停車するようになるなど、路線網の充実が著しい。",
"title": "交通・運輸"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "道路交通は、国道11号、国道33号、国道56号、国道196号が松山市中心街に集中し、広域的な交通拠点ともなっている。松山自動車道のインターチェンジ(松山IC)は市の南部、国道33号線の伊予郡砥部町寄りにある。",
"title": "交通・運輸"
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"text": "瀬戸内海に面した都市であるため、本州や九州および離島とを結ぶ旅客航路が充実している。また四国最大の工業港(松山外港)を有し、多数の貨物航路も寄港している。松山港は定期旅客航路数・定期コンテナ貨物航路数共に四国一の規模を誇る。",
"title": "交通・運輸"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "愛媛県内を放送対象地域とするテレビ局はNHKほか民放が4局あり、テレビ東京系列以外のキー局系列の番組が視聴可能である。また、NHK松山放送局は四国4県の基幹局となっている。",
"title": "メディア"
},
{
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"text": "NHK松山放送局と南海放送は市内中心部に、他のテレビ局は比較的郊外に立地している。",
"title": "メディア"
},
{
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"text": "地上デジタル放送は行道山送信所において2006年(平成18年)10月1日に放送開始したが、その準備段階として、同年6月21日午前10時から「映像の再生に必要な制御信号を含めた試験電波」の発射を開始したのに続き、8月4日からは「地上アナログ放送と同一番組の試験放送」を開始していた。",
"title": "メディア"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ラジオはAM・FMともにNHKと民放の県域局が1局ずつ所在する。また、県域局よりもより狭い市町村単位をエリアとする地域密着型のFM局、コミュニティ放送局は四国地方の県庁所在地で唯一存在していない。",
"title": "メディア"
}
] |
松山市(まつやまし)は、愛媛県の中部に位置する市。愛媛県の県庁所在地及び四国地方で人口が最多の市であり、中核市に指定されている。四国地方では、唯一人口50万人を超える市である。中四国地方でも人口規模は広島市、岡山市に続く第3の都市となる。
|
{{Otheruses|愛媛県の市|[[伊予鉄道]]の駅・停留所|松山市駅}}
{{混同|東松山市|x1=[[埼玉県]]の市である}}
{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{{日本の市
| 自治体名 = 松山市
| 画像 = Matsuyama montage.jpg
| 画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto;border-collapse:collapse">
<tr><td>[[道後温泉]]<td>[[正岡子規]]歌碑</tr>
<tr><td>[[松山城 (伊予国)|松山城]]天守<td>[[坊っちゃん列車]]</tr>
<tr><td>[[石手寺]]<td rowspan="2" style="vertical-align:middle">[[松山銀天街]]</tr>
<tr><td>[[松山市駅]]</tr>
</table>
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Matsuyama, Ehime.svg|100px|border|松山市旗]]
| 市旗の説明 = 松山[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Matsuyama, Ehime.svg|60px|松山市章]]
| 市章の説明 = 松山[[市町村章|市章]]
| 都道府県 = 愛媛県
| コード = 38201-9
| 隣接自治体 = [[東温市]]、[[今治市]]、[[伊予郡]][[松前町 (愛媛県)|松前町]]、[[砥部町]]、[[上浮穴郡]][[久万高原町]]<br />(海上により隣接)[[大洲市]]<br />[[山口県]][[大島郡 (山口県)|大島郡]][[周防大島町]]<br />[[広島県]][[呉市]]
| 木 =
| 花 = [[ツバキ|ヤブツバキ]]
| シンボル名 = 市歌
| 鳥など = [[松山市の歌]]<ref group="*">市制施行90周年を記念し、[[1979年]](昭和54年)[[2月21日]]に制定された。作詞:大野志津根、作曲:[[芥川也寸志]]</ref>
| 郵便番号 = 790-8571
| 所在地 = 松山市二番町四丁目7番地2<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-38|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Matsuyama city office Ehime prefecture Japan.jpg|250px|松山市役所]]{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=200|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=33.864|frame-longitude=132.804|text=市庁舎位置}}
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|38|201|image=基礎自治体位置図 38201.svg|村の色分け=no}}
| 特記事項 = 市章は[[1911年]][[4月7日]]制定
}}
[[ファイル:Dogo Hot Spring7(Matsuyama City).JPG|thumb|right|3000年の歴史を有する[[道後温泉]]の[[道後温泉本館|本館]]]]
[[ファイル:Shiki Masaoka stone monument is recognized as one of the symbols of Matsuyama-City.JPG|thumb|right|松山を代表する偉人の一人である[[正岡子規]]の句碑(JR松山駅前)]]
'''松山市'''(まつやまし)は、[[愛媛県]]の中部に位置する[[市#日本における市|市]]。愛媛県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]及び四国地方で人口が最多の市であり、[[中核市]]に指定されている。[[四国|四国地方]]では、唯一人口50万人を超える市である。中四国地方でも人口規模は[[広島市]]、[[岡山市]]に続く第3の都市となる。
== 概要 ==
約51万人の人口を有する四国最大の[[都市]]であるが、日本の一地方の最大の都市では唯一の[[政令指定都市]]ではない都市である<ref group="*">もっとも、四国には政令指定都市が存在しない。</ref>。[[中国・四国地方|中四国]]においては、政令指定都市である広島市・岡山市に次ぐ3番目の人口規模を有する。[[都市圏 (総務省)|都市圏]]人口は、[[総務省]]統計局の定義における「[[松山圏|松山都市圏]]」が70万6883人(2015年)、[[都市雇用圏]]の「松山都市圏」が64万2841人(2010年)で、四国内では国の[[出先機関]]や大企業の四国[[支店|支社]]が多く位置する[[香川県]][[高松市]]の[[高松都市圏]]に次ぐ規模である。
[[松山城 (伊予国)|松山城]]を中心に発展して来た旧[[城下町]]で、[[道後温泉]]で有名な古くからの[[温泉]]地であるとともに、[[俳人]][[正岡子規]]や[[種田山頭火]]また[[文豪]][[夏目漱石]]ゆかりの地で、[[俳句]]<ref group="*">[[俳句甲子園]]や[[俳句王国]]なども開催されている。</ref>や[[小説]]『[[坊っちゃん]]』『[[坂の上の雲]]』などで知られる文学の街でもある。これら観光資源を背景として、「[[国際観光文化都市|国際観光温泉文化都市]]」の指定を受けている。[[キャッチフレーズ]]は「'''いで湯と城と文学のまち'''」。
[[コンパクトシティ]]構想により、様々な文化施設が集中して立地している。アーケード街の[[大街道]]や[[銀天街]]、四国唯一の[[地下街]]である[[まつちかタウン]]、[[伊予鉄道|伊予鉄]][[松山市駅]]ビルに併設された[[伊予鉄髙島屋]]や[[ハンズ (小売業)|ハンズ]]などの商業施設、道後温泉、松山城、[[松山総合公園]]、[[愛媛県美術館]]、[[坂の上の雲ミュージアム]]、[[子規記念博物館]]、[[伊予絣|伊予かすり会館]]、[[伊丹十三記念館]]など多様な文化的観光スポットがある。また、スポーツ施設も充実しており、特に[[松山中央公園]]には最新設備を導入した[[松山中央公園野球場|坊っちゃんスタジアム]]、[[アクアパレットまつやま]]、[[愛媛県武道館]]、多目的[[競技場]]などが密集している。なお、市の南部およびベッドタウンである[[伊予郡]][[砥部町]]にかけては、[[とべ動物園]]や[[えひめこどもの城]]、[[愛媛FC]]の本拠地であるニンジニアスタジアムを含む[[愛媛県総合運動公園]]など広大な県営の施設群もある。
近年は都心部を中心に複合商業施設の建設、鉄道や高規格道路の整備が行われ、四国最大都市としての再開発が進んでいる。
[[ファイル:Matsuyamacity–tai04.jpg|center|thumb|600px|本町より望む整備中の[[松山城山公園|堀之内公園]]。公園の奥には[[観覧車]]のある松山市駅が見える(左側に見える山の向こうが中心地の大街道、写真のさらに右側が松山駅方面となる)。]]
[[ファイル:MATSUYAMACITYCENTRAL.JPG|center|thumb|600px|道後方面より望む松山市中心部。中央に見える観覧車のある建物が松山市駅、それより右手に広がるビル街が中心地の大街道。手前に見えるのは松山東高等学校および愛媛大学教育学部附属小・中・養護学校。]]
== 地理 ==
[[ファイル:Matsuyama Castle Tower 3 (Iyo) JAPAN.JPG|thumb|right|松山城([[城山 (松山市)|城山]])から望む松山平野]]
[[ファイル:Matsuyama city center area Aerial photograph.2010.jpg|thumb|310px|松山市中心部周辺の空中写真。<br/>2010年5月2日撮影の87枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
松山市は西に瀬戸内海(伊予灘および斎灘)に面しており、北と東は高縄半島の山々、南は四国山地の一支脈である[[皿ヶ嶺]]連峰に接している。[[松山平野]]の大部分を占めるほか、[[三坂峠]]のすぐ下の山間地から旧・中島町の島嶼部に至るまで広い面積を有するようになった。
*山:[[高縄山]](標高986m)、明神ヶ森(標高1217m)= 松山市最高峰
*峠:[[三坂峠]](標高720m)=[[国道33号]]
*河川:[[石手川]]、[[重信川]]
*湖沼:白鷺湖([[石手川ダム]]の[[貯水池]])
*島:[[忽那諸島]]
=== 気候 ===
典型的な[[瀬戸内海式気候]]であり、年中温暖(年平均気温:16.8℃)で[[降水量]]が少ない。四国の他の3県と違い、春から夏にかけて降水量が多く、[[梅雨]]の時期にあたる6月が最多である。[[台風]]の影響もはるか南東に位置する[[四国山地]]が遮り、南予や四国の反対側の[[徳島市]]に比べるとかなり少ない。[[冬期]]は、[[九州]]の[[日本海側]]にある雪雲が[[関門海峡]]を抜け、松山上空まで雪を降らせることがある。
{{Weather box
|location = 松山地方気象台(松山市北持田町、標高32m)
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan record high C = 24.4
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|unit precipitation days = 0.5 mm
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|year sun = 2014.5
|source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1890年-現在)<ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=73&block_no=47887&year=&month=&day=&view=
| title = 平年値ダウンロード
| accessdate = 2023-10
| publisher = 気象庁}}
</ref><ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=73&block_no=47887&year=&month=&day=&view=
| title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)
| accessdate = 2023-10
| publisher = 気象庁}}
</ref>
}}
=== 広袤(こうぼう) ===
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
{{座標一覧|節=広袤(こうぼう)}}
[https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/center.htm 国土地理院地理情報]によると松山市の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは40.32km、南北の長さは42.86kmである。
{{Col-end}}
{|border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="0" style="font-size:small;text-align:center"
| ||北端<br />{{Coord|34|4|26|N|132|42|36|E|type:landmark_region:JP-38|name=松山市最北端}}<br />↑||
|-
|西端<br />{{Coord|33|58|14|N|132|29|27|E|type:landmark_region:JP-38|name=松山市最西端}}←||中心点<br />{{Coord|33|52|50.5|N|132|42|31.5|E|type:landmark_region:JP-38|name=松山市中心点}}||東端<br />→{{Coord|33|54|51|N|132|55|36|E|type:landmark_region:JP-38|name=松山市最東端}}
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| ||↓<br />南端<br />{{Coord|33|41|15|N|132|49|55|E|type:landmark_region:JP-38|name=松山市最南端}} ||
|}
== 人口 ==
{{人口統計|code=38201|name=松山市|image=Demography38201.svg}}
== 沿革 ==
=== 年表 ===
[[File:Gudabutsuan.jpg|thumb|[[愚陀仏庵]]]]
[[File:Matsuyama Castle 1906.jpg|thumb|[[松山城 (伊予国)|松山城]](1906年)]]
[[File:Matsuyama Electric Tramway.JPG|thumb|1912年ごろの東堀端付近]]
[[File:Okaido-street old photo 1.jpg|thumb|戦前の[[大街道商店街]]]]
[[File:松山商業野球部優勝パレード(1935年).jpg|thumb|[[第21回全国中等学校優勝野球大会|昭和10年夏の甲子園]]で優勝した松山商業野球部の凱旋パレード]]
* [[1892年]](明治25年)5月 - [[伊予鉄道]]三津~高浜間が開業し、[[伊予鉄道高浜線|高浜線]]が全通。
* [[1893年]](明治26年)5月 - 伊予鉄道外側(現:[[松山市駅]])~平井河原間が開業。
* [[1895年]](明治28年)8月 - [[道後鉄道]](現:伊予鉄道)が一番町~道後、道後~三津口を開業。
* [[1896年]](明治29年)
** 1月 - [[伊予鉄道森松線]]が開業・全通。
** 7月 - [[南予鉄道]](現:伊予鉄道)藤原(現:松山市駅)~[[郡中駅|郡中]]間が開業。
* [[1899年]](明治32年)10月 - 伊予鉄道平井河原~[[横河原駅|横河原]]間が開業し、[[横河原線]]が全通。
* [[1904年]](明治37年)3月 - [[捕虜#日清・日露戦争|ロシア軍俘虜収容所]]が開設される。大林寺、雲祥寺、勧善社、公会堂、衛戍病院、城北練兵場(バラック)、一番町、正宗寺、法龍寺、出淵町、雄群、妙圓寺、妙清寺、山越(8つの寺院)で収容。[[捕虜]]とならなかった傷病兵を松山病院で手当。約6000名、最多時で約4000人が収容。1905年4月には公会堂から4kmが自由散歩区域となる。収容所は1906年2月閉所.
* [[1909年]]2月(明治42年) - 長距離電話が開通。
* [[1911年]](明治44年)
** 9月 - [[松山電気軌道]](現:伊予鉄道)が住吉~本町、札ノ辻~[[道後温泉駅|道後]]、本町~札ノ辻間を開業。
* [[1912年]](明治45年)
** 1月 - 松山ガス(現:[[四国ガス]])がガス供給を開始。
** 2月 - 松山電気軌道が江ノ口~住吉間を開業。
* [[1913年]](大正2年)4月 - [[日本赤十字]]愛媛支部病院(現:[[松山赤十字病院]])が設置される。
* [[1914年]](大正3年)11月 - [[日独戦ドイツ兵捕虜#収容|ドイツ軍俘虜収容所]]が開設される。
* [[1918年]](大正7年)8月 - [[米騒動]]が発生し、市内の米穀商などが襲撃される。
* [[1919年]](大正8年)4月 - [[松山高等学校 (旧制)|松山高等学校]]([[愛媛大学]]の前身校の一つ)が創立される。
* [[1923年]](大正12年)4月 - [[松山高等商業学校]](現:[[松山大学]])が創立される。
* [[1927年]](昭和2年)
** 4月3日 - [[鉄道省]]讃予線(現:[[予讃線]])[[伊予北条駅]]~[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]間が開業。松山機関区(現:[[四国旅客鉄道|JR四国]][[松山運転所]])が開設される。
** 4月10日 - 松山市主催、国鉄開通記念全国産業博覧会が城北練兵場を会場として始まる<ref>松山で全国産業博覧会開く『大阪朝日新聞』昭和2年4月5日 香川愛媛版(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p24-25 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
**11月 - 伊予鉄道萱町~江ノ口間が廃止となる。
* [[1928年]](昭和3年) - [[都市計画法]](旧法)に基づく[[都市計画]]の策定が始まる<ref>松江市に都市計画法、三年一月から適用『大阪毎日新聞』昭和2年10月7日山陰版(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p231 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1929年]](昭和4年)5月 - [[日本航空輸送研究所]]が水上飛行機で大阪~高松~松山で定期航空輸送を開始。
* [[1930年]](昭和5年)2月 - 讃予線[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]~南郡中駅(現:[[伊予市駅]])間が開業。
* [[1932年]](昭和7年)11月 - [[日本銀行]]松山支店が開設される。
* [[1933年]](昭和8年)7月 - [[松山城放火事件]]により松山城の一部が焼失。
* [[1934年]](昭和9年)3月 - 省営自動車([[国鉄バス]]、現:[[JRバス]])が四国初の省営自動車線として松山~久万間を運行開始。
* [[1935年]](昭和10年)
** 5月 - [[愛媛県立図書館]]が開館。
** 11月 - 梅津寺遊園地(現:[[梅津寺公園]]、[[2009年]]3月閉園)が開園。
* [[1936年]](昭和11年)3月 - 松山郵便局 松山逓信診療所(現:[[NTT西日本松山病院]])が開設される。
* [[1941年]](昭和16年)
** 1月 - [[神戸税関]]松山派出所(現:神戸税関松山税関支署)が開所。
** 3月 - [[NHK松山放送局|日本放送協会松山放送局]]が開局、放送開始。
* [[1943年]](昭和18年)
** 5月15日 - [[北条鹿島]]沖合で[[関西汽船]]所属の定期旅客船「浦戸丸」(1326トン)が貨物船と衝突して沈没<ref>別府航路の客船、貨物船と衝突して沈没(昭和18年7月17日 毎日新聞(大阪 夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p42 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。死者・行方不明者200人以上<ref>{{Cite web|和書|url=https://ehime-np.co.jp/article/news202110030009 |title=旅客船「浦戸丸」沈没78年 続く供養 惨事思いはせ |publisher=愛媛新聞 |date=2021-10-03 |accessdate=2022-01-15}}</ref>。
** 10月 - 松山海軍航空基地(現:[[松山空港]])が使用開始。
** 11月 - [[大蔵省]][[松山財務局]](現:[[財務省]][[四国財務局]]、後に高松市へ移転)が設置される。
** 12月 - 松山逓信局が設置される。
* [[1944年]](昭和19年)
** 3月 - [[農林中央金庫]]松山出張所(現:農林中央金庫松山営業所)が開設される。
** 6月 - 丸善石油松山製油所(現:[[コスモ松山石油]])が操業開始。
** 11月 - 松山海運局(現:[[四国運輸局]][[愛媛運輸支局]])が開設される。
* [[1945年]](昭和20年)
** 7月 - [[松山大空襲]]で市街地の大半を焼失。
** 9月 - [[日本医療団]]愛媛病院(現:[[愛媛県立中央病院]])が設置される。
** [[10月22日]] - [[アメリカ軍|米軍]]第24師団の将兵1万人が梅津寺・三津浜・吉田浜海岸に上陸し、進駐。
** [[11月14日]] - 復興院が松山市を戦災都市に指定。
** [[12月1日]] - 国立病院松山病院(現:[[国立病院機構四国がんセンター]])が二之丸旧陸軍病院跡に開院。
* [[1946年]](昭和21年)
** 2月 - 進駐軍が第91軍政部(6月に高松市に移転)を設置。
** [[5月1日]] - [[日本国有鉄道]]が[[仁堀航路]]([[仁方港]]~堀江港、[[1982年]]航路廃止)を開設。
** [[7月1日]] - 進駐軍が愛媛軍政部を設置。
** [[10月6日]] - [[三越]]松山支店(現:[[松山三越]])が開店する。
** [[12月1日]] - [[運輸省]][[航空局]]高松航空保安事務所松山出張所(現:[[国土交通省]][[大阪航空局]]松山空港事務所)が設置される。
** [[12月21日]] - [[昭和南海地震]]が発生し、道後温泉の出湯が一時停止する。
* [[1947年]](昭和22年)
** [[3月20日]] - 道後温泉復興祭が開催される。
** [[3月25日]] - [[運輸省]]四国鉄道局愛媛自動車事務所(現:[[四国運輸局]][[愛媛運輸支局]])が設置される。
** [[4月1日]] - 松山語学専門学校(後の[[松山外国語短期大学]]、[[1960年]]廃止)が開学。
** [[4月5日]] - 初の市長公選が行われ、安井雅一が当選。
** 4月 - 四国商工局松山出張所(後に県に移管)が開設される。
** [[5月1日]] - 松山復興市が開催される。
** [[5月2日]] - 愛媛労働基準局が設置される。
** [[5月3日]] - [[松山地方検察庁]]が設置される。
** [[9月1日]] - 松山労働基準監督署が設置される。
** [[9月22日]] - [[商工組合中央金庫]]松山出張所(現:松山支店)が開設される。
* [[1948年]](昭和23年)
** [[3月7日]] - [[松山市警察|松山市警察署]]が設置される。
** 7月 - [[松山市営球場]]([[2003年]]5月閉鎖)が開場。
** 10月 - 松山市消防本部(現:[[松山市消防局]])が設置される。
* [[1949年]](昭和24年)
** 1月1日 - [[松山家庭裁判所]]が設置される。広島警察管区警備部通信課愛媛県出張所(現:[[四国管区警察局]]愛媛県情報通信部)が設置される。
** 1月22日 - 道後湯之町分離についての住民投票実施され、賛成派勝利する。
** 4月9日 - 第16回愛媛県議会臨時会が開催され、松山市からの道後湯之町分離案が否決となる。
** 5月31日 - 旧制の松山高等学校・愛媛師範学校・愛媛青年師範学校・新居浜高等工業学校を母体とし、[[愛媛大学]]が発足。
** 6月1日 - 大蔵省印刷庁松山出張所(現:[[国立印刷局]]松山分室)が設置される。松山逓信局が松山郵政局(現:[[日本郵政]]四国支社)・四国電波管理局(現:[[四国総合通信局]])などに分離される。
** 7月7日 - [[日本専売公社]]松山工場(後に[[日本たばこ産業]]松山工場となり、[[2004年]]に工場閉鎖)が操業開始。
* [[1950年]](昭和25年)
** [[1月21日]] - [[松山競輪場]]が開場。
** [[4月1日]] - 国民金融公庫松山支所(現:[[日本政策金融公庫]]松山支店)が設置される。
** [[6月1日]] - 松山海上保安部が設置される。
** [[12月6日]] - 国会で松山国際観光温泉文化都市建設法案が可決成立する。
** [[12月8日]] - [[警察予備隊]][[松山駐屯地]]([[陸上自衛隊]]松山駐屯地)が設置される。
* [[1951年]](昭和26年)
** [[1月19日]] - 松山港が港湾法による[[重要港湾]]となる。
** 4月 - 松山市社会福祉協議会が発足。
** 8月 - [[松山港まつり]]が初開催される。
** 9月 - 昭和工業松山工場(現:東レ・ファインケミカル松山事業所)が操業開始。
** 時期不明 - 国際観光温泉文化都市([[国際観光文化都市]])指定。
* [[1952年]](昭和27年)
** 4月 - 松山商科大学短期大学部(現:[[松山短期大学]])が開学。
** 8月 - 松山青年会議所が発足。工業用水工事が完成。
** 9月 - 大阪曹達(現:[[大阪ソーダ]])松山工場が操業開始。
* [[1953年]](昭和28年)
[[File:Matsuyama city 1953.jpg|thumb|1953年発行の市街図]]
** 4月 - [[水道局]]が発足。
** 9月 - [[愛媛県立道後動物園]]([[1987年]]廃止)が開園。
** 10月 - [[南海放送]]がラジオ放送を開始。
* [[1954年]](昭和29年)7月 - 松山市警察が廃止され、[[愛媛県警察]]が発足。
* [[1955年]](昭和30年)
** 8月 - [[松山城ロープウェイ]]が開業。
** 11月 - [[帝人]]松山工場(現:帝人松山事業所)が操業開始。
* [[1956年]](昭和31年)8月 - 自衛隊愛媛地方連絡部(現:[[自衛隊愛媛地方協力本部]])が設置される。
* [[1957年]](昭和32年)10月 - NHK松山放送局がテレビ放送開始。
* [[1958年]](昭和33年)
** 9月 - [[四国電力]][[松山発電所]]([[2001年]]廃止)が営業運転開始。
** 12月 - 南海放送がテレビ放送を開始。
* [[1960年]](昭和35年)2月 - [[レンゴー]]松山工場が稼動開始。
* [[1961年]](昭和36年)
** 4月 - 松山空港に初の民間定期便([[大阪国際空港]]線)が就航。
** 9月 - 市水道局を公営企業局に改称し、公営事業にガス事業([[1998年]]に四国ガスに譲渡)を追加。
* [[1964年]](昭和39年)
** 4月 - [[ダイエー]]大街道店が開店。[[松山東雲短期大学]]が開学。
** 9月 - 市内の13農協が合併し、四国最大の農協([[松山市農業協同組合]])として発足。
* [[1965年]](昭和40年)
** 2月 - 市・市住宅協会が松山市初の大規模団地(現:ひばりヶ丘団地)造成工事が竣工。
** 12月 - [[伊予鉄道森松線]]が廃止となる。
* [[1966年]](昭和41年)
** 4月 - 道後財産区を廃止。
** 8月 - 松山おどり(現:[[松山まつり]])が初開催される。
** 9月 - [[日本製粉]]松山工場([[1993年]]閉鎖)が操業開始。
** 10月 - 国立松山病院に四国地方がんセンター([[国立病院機構四国がんセンター|四国がんセンター]])が開所。
** 11月 - [[全日空松山沖墜落事故]]が発生。
* [[1967年]](昭和42年)
** 3月 - [[松山港|松山観光港]]の利用開始。松山木材工業団地が完成。
* [[1968年]](昭和43年)
** 3月 - [[イズミ|松山いづみ]]([[1977年]]1月閉店)が開店する。
** 5月 - 松山市戦災復興事業が完工。
** 11月 - 松山厚生福祉センター落成。
* [[1969年]](昭和44年)12月 - 愛媛放送(現:[[テレビ愛媛]])が開局。
* [[1970年]](昭和45年)
** 3月 - [[愛媛県美術館|愛媛県立美術館]]が開館。
** 7月 - 市内全地域の小字を廃止。
* [[1971年]](昭和46年)
** 1月 - 愛媛県下最長の久谷大橋、[[重信川]]に完成。
** 4月 - [[松山市駅前地下街]]が開業。
** 7月 - いよてつそごう(現:[[伊予鉄髙島屋]])が開店する。
* [[1972年]](昭和47年)
** 4月 - [[松山市青少年センター]]が完成。
** 6月 - 上一万の交差点に四国初の地下横断歩道が完成。
* [[1973年]](昭和48年)
** 3月 - [[石手川ダム]]が完成。
** 4月 - フジショッピングスクエア駅前店(現:[[フジグラン松山]])が開店する。
** 6月 - 市之井手浄水場が完成。
** 11月 - 南清掃工場が完成し、可燃ごみ全ての焼却処理が可能となる。
** 11月 - 銀天街ショッピングビル「ラブリプラザ」(後の松山サティ、[[1999年]]6月閉店)が開店する。
* [[1974年]](昭和49年)11月 - 松山市中央卸売市場が開場。
* [[1975年]](昭和50年)
** 4月 - 松山環状線33号線バイパスが開通。市新庁舎が落成。
** 11月 - 市消防局新庁舎が落成。
* [[1976年]](昭和51年)3月 - 斎場が設置される。
* [[1979年]](昭和54年)
** 2月 - 市制90周年を記念し「[[松山市の歌]]」を制定。
** 10月 - [[愛媛県総合運動公園]]が開園。
* [[1980年]](昭和55年)10月 - 市役所住民情報オンラインが始動。
* [[1981年]](昭和56年)
** 4月 - [[松山市立子規記念博物館]]が開館。
** 8月 - [[アメリカ]]の[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント市]]と姉妹都市提携調印。
** 9月 - 中央卸売水産市場が開場。三津の朝市、109年の歴史に幕を閉じる。
* [[1982年]](昭和57年)
** 2月 - [[エフエム愛媛]]が開局。
** 4月 - 松山西清掃工場が開設される。松山環境管理センターが開設される。
* [[1983年]](昭和56年)12月 - [[ラフォーレ原宿・松山]](2008年1月閉店)が松山いずみ跡に開店する。
* [[1984年]](昭和59年)
** 4月 - [[日本電気]]が四国日本電気ソフトウェア(現:[[NECソリューションイノベータ]])を設立し、進出。
** 10月 - [[松山市総合コミュニティセンター]]が落成。
* [[1985年]](昭和60年)9月 - [[富士通]]が富士通愛媛情報システムズ(現:富士通四国システムズ)を設立し、進出。
* [[1986年]](昭和61年)
** 3月 - 横谷廃棄物最終処分場が完工。国際観光モデル都市に指定される。
** 4月 - [[愛媛県県民文化会館]]が開館。
* [[1987年]](昭和62年)8月 - 東消防署が落成。
* [[1988年]](昭和63年)10月 - [[西ドイツ]]の[[フライブルク市]]と姉妹都市提携調印。
* [[1989年]](平成元年)
** 4月 - [[興居島]]の給水事業が完成し、全島に給水を開始。
** 10月 - [[松山市考古館]]が開館。
* [[1991年]](平成3年)
** 4月 - 総合福祉センターが開館。
** 10月 - [[愛媛CATV]]が開局。
** 12月 - 松山空港の滑走路2,500m延長完成で、[[ジャンボジェット機]]の就航が可能となる。
* [[1992年]](平成4年)
** 4月 - [[松山東雲女子大学]]が開学。
** 10月 - 伊予テレビ(現:[[あいテレビ]])が開局。
* [[1994年]](平成6年)
** 3月 - 南クリーンセンターが竣工。
** 7月 - 深刻な水不足により、上水道の夜間断水を実施([[平成6年渇水]])。
* [[1995年]](平成7年)
** 3月 - [[愛媛国際貿易センター]](アイテムえひめ)が完成。
** 4月 - 松山空港に初の国際線定期便([[仁川国際空港|ソウル]]線)が就航。[[愛媛朝日テレビ]]が開局。
** 11月 - ジャスコシティ松山(現:[[イオンスタイル松山]])が開店する。
* [[1996年]](平成8年)
** 4月 - 愛媛県警察[[松山南警察署]]が新設される。
** 7月 - [[愛媛県立松山商業高等学校]]、[[第78回全国高等学校野球選手権大会]]で優勝。
* [[1997年]](平成9年)
** 2月 - [[松山自動車道]][[川内インターチェンジ|川内IC]]~[[伊予インターチェンジ|伊予IC]]間が開通。
** 4月 - 市がごみの分別収集を開始。
* [[1998年]](平成10年)
** 4月 - 市保健所が業務開始。
** 8月 - [[俳句甲子園]]が初開催される。
* [[2000年]](平成12年)
** 4月 - [[中核市]]に移行。
** 5月 - [[松山中央公園野球場]](坊っちゃんスタジアム)が完成。
** 8月 - [[ショッピングセンタGET]]が松山サティ跡に開店する。
* [[2001年]](平成13年)
** 3月 - [[芸予地震]]が発生し、震度5強を観測。
** 10月 - 伊予鉄道がディーゼル機関による[[坊っちゃん列車]]の運行を開始。
* [[2003年]](平成15年)
** 6月 - 富士通コミュニケーションサービス松山サポートセンターが開設される。
** 12月 - もしもしホットライン(現:[[りらいあコミュニケーションズ]])松山センターが開設される。
* [[2004年]](平成16年)5月 - [[大韓民国]]の[[平沢市]]と姉妹都市提携調印。
* [[2006年]](平成18年)
** 5月 - [[ジョー・プラ]]がダイエー南松山店跡に開店する。
** 12月 - [[富士火災海上保険]]中央営業事務センター(現:[[AIG損害保険]]松山ビジネスセンター)が業務開始。
* [[2007年]](平成19年)
** 3月 - [[ベネフィット・ワン]]松山カスタマーセンターが業務開始。
** 4月 - [[坂の上の雲ミュージアム]]が開館。
** 7月 - [[ブリッジインターナショナル]]松山事業所が操業開始。
* [[2008年]](平成20年)3月 - [[サイボウズ]]が松山オフィスが業務開始。
* [[2009年]](平成21年)2月 - 「響け!!言霊“ことばのがっしょう”群読コンクール」開始(当時は「響け!!言霊“ことばのがっしょう”コンクール」)<ref>[http://www.kotobanochikara.net/kotoba_activity_kotodama_his.html ことばのちから四国松山]</ref><ref>[http://v-cube.net/mt/mt-search.cgi?IncludeBlogs=2&search=%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3 ヴィキューブ お仕事の日々]</ref>
* [[2011年]](平成23年)
** 5月 - パソナテック松山BPOセンターが操業開始。
** 6月 - [[四国電力]]の原子力本部が本店から松山市に移転する。
* [[2013年]](平成25年)
** 4月 - [[松山港|堀江港]]にまつやま・ほりえ海の駅「うみてらす」がオープン。
** 9月 - KDDIエボルバ松山センターが開設される。
** 12月 - 西クリーンセンターが竣工。
* [[2014年]](平成26年)7月 - JR四国が四国初の本格的観光列車・[[伊予灘ものがたり]]の運行を開始。
* [[2015年]](平成27年)8月 - [[AEL MATSUYAMA]]がラフォーレ原宿・松山跡に開店する。
* [[2016年]](平成28年)
** 4月 - 市教育研修センターが開所。
** 10月 - [[NTTマーケティングアクト]]松山総合アウトソーシングセンタが開所。
* [[2017年]](平成29年)4月 - [[人間環境大学]]松山キャンパスが設置される。
=== 市域の変遷 ===
{{Main2|市制施行以前の歴史については「[[温泉郡]]」「[[道後温泉]]」および「[[松山城 (伊予国)]]」を}}
* [[1889年]] - 市制施行。温泉郡東雲町、喜与町、北歩行町、中歩行町、南歩行町、鮒屋町、御宝町、玉川町、北京町、南京町、北八坂町、南八坂町、永木町、唐人町一 - 三丁目、北夷子町、南夷子町、河原町、立花町、堀内町、豊坂町一・二丁目、柳井町、榎町、小唐人町一 - 三丁目、湊町一 - 四丁目、千船町、一番町、二番町、三番町、弁天町、久保町、春日町の一部、南堀端町、新玉町、花園町一・二丁目、西町、末広町一・二丁目、本町一 - 五丁目、出淵町一・二丁目、江戸町、西堀端町、宮古町、紙屋町、萱町一 - 七丁目、松前町一 - 五丁目、魚町一 - 五丁目、鍛冶屋町、常盤町、三津口町、府中町一 - 四丁目、木屋町一 - 五丁目、清水町、道後町、傘屋町、新町一・二丁目、鉄砲町、水口町、杉谷町、弓町、矢矧町、琢町、三春町、通町、一万町の一部、中村の一部、味酒村の一部、立花村の一部、持田村の一部を統合し'''松山市'''とした。
* [[1908年]](明治41年) - 朝美村・雄群村・素鵞村・道後村の各一部を編入。
* [[1923年]](大正12年) - 道後村の一部を編入。
* [[1926年]](大正15年) - [[朝美村]]・[[雄群村]]・[[素鵞村]]・[[御幸村 (愛媛県)|御幸村]]を編入。
* [[1932年]](昭和7年) - 道後湯之町の一部を編入。
* [[1940年]](昭和15年) - [[三津浜町]]・[[和気村]]・[[久枝村]]・[[堀江村]]・[[潮見村 (愛媛県)|潮見村]]・[[味生村 (愛媛県)|味生村]]・[[桑原村 (愛媛県)|桑原村]]を編入。
* [[1944年]](昭和19年) - [[道後湯之町]]・[[生石村 (愛媛県)|生石村]]・[[垣生村 (愛媛県温泉郡)|垣生村]]を編入。
* [[1954年]](昭和29年) - [[興居島村]]、[[余土村]]を編入。
* [[1955年]](昭和30年) - [[久米村 (愛媛県温泉郡)|久米村]]・[[湯山村]]・[[伊台村]]・[[五明村 (愛媛県)|五明村]]を編入。
* [[1959年]](昭和34年) - [[浮穴村 (愛媛県温泉郡)|浮穴村]]を編入。
* [[1961年]](昭和36年) - [[小野村 (愛媛県)|小野村]]を編入。
* [[1962年]](昭和37年) - [[石井村 (愛媛県)|石井村]]を編入。
* [[1968年]](昭和38年) - [[久谷村]]を編入。
* [[2005年]](平成17年) - [[北条市]]、[[中島町 (愛媛県)|中島町]]を編入。
== 行政 ==
=== 市の行政 ===
==== 歴代の市長 ====
*出典<ref>[https://www.city.matsuyama.ehime.jp/shicho/rekidaisanyaku.html 歴代三役] - 松山市</ref>
{|class="wikitable"
!氏名!!就任年月日!!備考
|-
|[[木村利武]]||[[1890年]]([[明治]]23年)[[2月6日]]||
|-
|[[白川福儀]]||[[1896年]](明治29年)[[2月7日]]||
|-
|[[浅野長道]]||[[1902年]](明治35年)2月7日||
|-
|[[長井政光]]||[[1908年]](明治41年)[[2月25日]]||
|-
|[[加藤恒忠]]||[[1922年]]([[大正]]11年)[[5月12日]]||
|-
|[[岩崎一高]]||[[1923年]](大正12年)[[5月23日]]||
|-
|[[御手洗忠孝]]||[[1926年]](大正15年)[[8月16日]]||
|-
|[[香川熊太郎]]||[[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月6日]]||
|-
|[[白石大蔵]]||[[1933年]](昭和8年)[[5月11日]]||
|-
|[[井上久吉]]<br />(いのうえ きゅうきち)||1933年(昭和8年)[[11月17日]]||
|-
|[[清水勇三郎]]<br />(しみず ゆうさぶろう)||[[1938年]](昭和13年)[[9月15日]]||
|-
|[[越智孝平]]<br />(おち こうへい)||[[1942年]](昭和17年)[[10月26日]]||
|-
|[[黒田政一]]<br />(くろだ まさいち)||[[1946年]](昭和21年)[[3月29日]]||
|-
|[[安井雅一]]<br />(やすい まさかず)||[[1947年]](昭和22年)[[4月10日]]||
|-
|黒田政一<br />(くろだ まさいち)||[[1951年]](昭和26年)[[4月24日]]||
|-
|[[宇都宮孝平]]<br />(うつのみや こうへい) || [[1963年]](昭和38年)[[5月2日]]||
|-
|[[中村時雄]]<br />(なかむら ときお)||[[1975年]](昭和50年)5月2日||
|-
|[[田中誠一]]<br />(たなか せいいち)||[[1991年]](平成3年)5月2日||
|-
|[[中村時広]]<br />(なかむら ときひろ)||[[1999年]](平成11年)5月2日 ||[[2010年]](平成22年)[[11月9日]]退任
|-
|[[野志克仁]]<br />(のし かつひと)||2010年(平成22年)[[11月29日]]||3期目中(元アナウンサー)
|}
==== 平成の大合併における市の対応 ====
[[ファイル:Nakajimakisen.jpg|thumb|right|合併に伴い民営化された[[中島汽船]]]]
松山市では、過去いずれの合併も隣接地を編入してきたことや、市長の方針から[[編入合併]]を原則としてきた。合併以前の人口は約47万人であったが、[[政令指定都市]]の指定基準は(運用上は)おおむね100万人以上<ref group="*">のち、運用上は70万人程度となる。なお、制度上は50万人以上とされている。</ref>とされていたため、考え得る周辺市町村の全てを編入合併しても同指定基準を満たすことはできず、人口増加を理由とした規模の拡大については積極的な動機に乏しかった(仮に、(新)[[今治市]]と合併した場合は人口が同指定基準に達するが、この場合は市域が1,000[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]近くに拡大するほか、市街地も大きく2分してしまうという問題があった)。
市は、合併協議に入る前の条件として事務の類似性などの3条件を示した。結局、北に隣接する[[北条市]]と航路で結ばれた[[温泉郡]][[中島町 (愛媛県)|中島町]]を編入合併することとなった。なお合併にあたっては、北条市に対しては北条スポーツセンターの扱いを、中島町に対しては汽船事業や病院事業の民営化などの条件を提示している。
==== 主な行政機関・公共施設 ====
市民サービスセンター([[松山三越]]・[[フジグラン松山]]・[[伊予鉄髙島屋]])においては、土休日でも各種証明書の交付や、簡単な市民相談などの業務を行っている(フジグラン松山にある「松山市[[パスポート]]センター」は年末年始を除き年中無休)。また、年中無休のコールセンターでは市役所での手続きなどの問い合わせに対応している。このほか、[[ふるさと納税]]に対応した寄付を呼びかける部署もある。
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{{Col-break}}
* [[松山市役所]]
* 北条支所・中島支所
* [[松山市消防局]]・防災センター
* 松山市保健所・急患医療センター
* [[松山市立中央図書館]]
* 松山市立北条図書館
* 松山市立三津浜図書館
* 松山市立中島図書館
* 松山市公営企業局
* 松山市農業指導センター
{{Col-break}}
* まつやま国際交流センター
* 松山市まつやまRe・再来館(リサイクル館)
* 松山市都市環境学習センター
* 松山市総合福祉センター
* 松山市男女共同参画推進センター(コムズ)
* 松山市ハーモニープラザ(児童館など)
* [[松山市青少年センター]](教育支援センター)
* 松山市野外活動センター
* [[松山市民会館]]
* [[松山市斎場]]
* [[松山市考古館]]
* 松山市畑寺福祉センター
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[[ファイル:Matsuyama City Fire Station.JPG|thumb|right|松山市消防局]]
{{Col-end}}
==== 姉妹都市 ====
* {{Flagicon|USA}} [[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント市]]([[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]])
*:* [[1981年]](昭和56年)[[8月18日]]姉妹都市締結
*:* [[2004年]](平成17年)[[11月20日]]サクラメント市長ヘザー・ファーゴをはじめとする代表団が松山市を初訪問し、その時、ファーゴ市長に対し松山市は特別[[名誉市民]]の称号を贈った。
* {{Flagicon|GER}} [[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク市]]([[ドイツ|ドイツ連邦共和国]])- [[1989年]](平成元年)[[4月4日]]姉妹都市締結
==== 提携都市 ====
* {{Flagicon|KOR}} [[平沢市]]([[大韓民国|韓国]])
** 2004年(平成16年)[[10月25日]]友好都市締結。
** [[2006年]](平成18年)度から[[2016年]](平成28年)度までは、感染症が広がるなどした年を除きほぼ毎年、国際的な人材育成を目的に市内の中学生約10人を約7日間派遣していた。2017年度は、松山市の中学生が訪れる平沢市青年文化センターの前の市有地に[[慰安婦像]]が設置されたことや、韓国の国内情勢が不安定であること(同国第18代[[大統領 (大韓民国)|大統領]]・[[朴槿恵]]の罷免に伴う大規模デモ頻発など)などを考慮し、「派遣に市民の理解が得られないと判断した」として派遣中止を決めた<ref>{{Cite news|title=「慰安婦像設置」の韓国に中学生派遣中止…「市民の理解が得られないと判断」 松山市|newspaper=産経新聞|date=2017-04-20|url=http://www.sankei.com/west/news/170420/wst1704200045-n1.html?&pushcrew_powered|accessdate=2017-04-20}}</ref>。
* {{Flagicon|TWN}} [[台北市]]([[中華民国|台湾]])- [[2014年]](平成26年)[[10月13日]]友好交流協定締結
*上記の他、埼玉県[[東松山市]]との交流を進めている。
=== 国の機関 ===
==== 裁判所 ====
* 松山地方裁判所
* 松山家庭裁判所
* 松山簡易裁判所
==== 警察庁 ====
* 四国警察支局愛媛県情報通信部
==== 総務省 ====
* 四国行政評価支局愛媛行政監視行政相談センター
* 四国総合通信局
==== 法務省 ====
* 松山地方法務局
* 松山学園
* 松山少年鑑別所
* 松山保護観察所
===== 出入国在留管理庁 =====
* 高松出入国在留管理局松山出張所
===== 検察庁 =====
* 松山地方検察庁
* 松山区検察庁
==== 財務省 ====
* 四国財務局松山財務事務所
* 神戸税関松山税関支署
===== 国税庁 =====
* 高松国税局松山税務署
==== 農林水産省 ====
* 中国四国農政局愛媛県拠点
===== 林野庁 =====
* 四国森林管理局愛媛森林管理署
==== 厚生労働省 ====
* 四国厚生支局愛媛事務所
* 愛媛労働局
** 松山労働基準監督署
** 松山公共職業安定所
==== 国土交通省 ====
* 四国地方整備局松山河川国道事務所
* 四国地方整備局松山港湾・空港整備事務所
* 四国運輸局愛媛運輸支局
===== 気象庁 =====
* 松山地方気象台
===== 海上保安庁 =====
* 第6管区海上保安本部松山海上保安部
==== 環境省 ====
* 中国四国地方環境事務所松山自然保護官事務所
==== 防衛省 ====
* 自衛隊愛媛地方協力本部
=== 主な県の行政機関・公共施設 ===
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{{Col-break}}
* [[愛媛県庁]]
* [[中予地方局|愛媛県中予地方局]]
* 愛媛県立中央病院
* [[愛媛県美術館]]
* [[愛媛県立博物館]]
* [[愛媛県立図書館]]
* [[愛媛県民文化会館]]
* 愛媛県教育文化会館
* [[愛媛県武道館]]
* [[愛媛県総合運動公園]]
* 愛媛県生活文化センター
* 愛媛県国際交流センター
* 愛媛県消費生活センター
* 愛媛県中央児童相談所
* 愛媛県動物愛護センター
* 愛媛県身体障害者更生相談所
* 愛媛県知的障害者更生相談所
* 愛媛県婦人相談所
* 愛媛県女性センター
* テクノプラザ愛媛
* 愛媛県産業情報センター
* [[アイテムえひめ]]
{{Col-break}}
* 愛媛県産業技術研究所
* 松山高等技術専門校
* 愛媛県心と体の健康センター
* 愛媛県土地開発公社
* 愛媛県住宅供給公社
* 愛媛県研修所
* 愛媛県農業水産研究所
** 果樹研究センター
* 愛媛県家畜病性鑑定所
* 中予家畜保健衛生所
* 愛媛県衛生環境研究所
* 愛媛県生涯学習センター
* えひめ青少年ふれあいセンター
* [[愛媛県警察|愛媛県警察本部]]
: [[松山東警察署]]・[[松山西警察署]]・[[松山南警察署]]
{{Col-break}}
[[ファイル:Ehimekencho-20040417.JPG|thumb|right|[[木子七郎]]設計の[[愛媛県庁舎]]]]
[[ファイル:Ehime Convention Hall.jpg|thumb|right|[[丹下健三]]設計の[[愛媛県民館]](廃止→跡地:[[愛媛県美術館]])]]
{{Col-end}}
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|松山市議会}}
=== 愛媛県議会 ===
{{Main|愛媛県議会}}
*選挙区:松山市・[[上浮穴郡]]選挙区
*定数:16人
*任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日
{|class="wikitable"
!議員名!!会派名!!備考
|-
|木村誉||[[公明党]]||
|-
|笹岡博之||公明党||
|-
|戒能潤之介||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]||
|-
|帽子大輔||自由民主党||
|-
|菊池伸英||[[無所属]]||
|-
|田中克彦||[[日本共産党]]||
|-
|山崎洋靖||無所属||
|-
|川本健太||自由民主党||
|-
|西原進平||志士の会|| 党籍は自由民主党
|-
|浅湫和子||えひめリベラルの会|| 党籍は[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]
|-
|中野泰誠||無所属||
|-
|三宅浩正||自由民主党||
|-
|横田弘之||[[愛媛維新の会]]||
|-
|武井多佳子||[[代理人運動|ネットワーク市民の窓]]||
|-
|松尾和久||自由民主党||
|-
|石井智恵||愛媛維新の会||
|}
=== 衆議院 ===
;愛媛1区
* 選挙区:[[愛媛県第1区|愛媛1区]](松山市の一部)
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:385,321人
* 投票率:52.10%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[塩崎彰久]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 45 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 新 || style="background-color:#ffc0cb;" | 119,633票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○
|-
| || [[友近聡朗]] || style="text-align:center;" | 46 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center;" | 新 || align="right" | 77,091票 || style="text-align:center;" | ○
|}
;愛媛2区
* 選挙区:[[愛媛県第2区|愛媛2区]](松山市の一部、[[今治市]]、[[東温市]]、[[越智郡]]、[[伊予郡]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:249,121人
* 投票率:52.73%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[村上誠一郎]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 69 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 72,861票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○
|-
| || 石井智恵 || style="text-align:center;" | 53 || [[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]] || style="text-align:center;" | 新 || 42,520票 || style="text-align:center;" | ○
|-
| || 片岡朗 || style="text-align:center;" | 62 || [[日本共産党]] || style="text-align:center;" | 新 || 11,358票 ||
|}
== 経済 ==
[[ウンシュウミカン|みかん]]に代表される[[農業]]や、日本最古の[[道後温泉]]や[[松山城 (伊予国)|松山城]]などを中心とした[[観光業]]、化学繊維を中心とした[[製造業]]などが基幹産業である。空港や港湾付近の沿岸部には工業地帯が広がり、[[帝人]]グループ最大の生産拠点を擁するなど、工業生産額は四国地方で上位となっている。
情報・通信については、四国を統括している主要な機関として[[総務省]]四国総合通信局、[[西日本電信電話|NTT西日本]]愛媛支店、[[日本郵政]]四国支社、[[日本放送協会|NHK]]松山放送局(四国統括局)などがあり、その関連で情報通信の基盤整備も進んでいる。
四国最大の人口を持つ都市として、サービス業など第三次産業も発達しており、周辺の市町をも圏域とする利便性の高い商業集積が見られる。また、2010年までは、四国でも数少ない人口増加中の都市であったほか、[[瀬戸内海]]を挟んで[[広島都市圏]]との交流も盛んである。通年の全交通機関の生活圏間流動(2005年)で松山を出発地とする目的地別順位では1位が高知中央(91万9千人)、2位が香川東部(82万1千人)、3位が香川西部(55万9千人)で広島は次いで第4位(46万7千人)となっており、四国外との交流では広島が最も繋がりの深い都市であることが見て取れる<ref>[https://www.mlit.go.jp/seisakutokatsu/jyunryuudou/download.html 国土交通省・第4回全国幹線旅客純流動データ]</ref>。
=== 産業人口 ===
データは2015年(平成27年国勢調査結果)<ref>[https://www.city.matsuyama.ehime.jp/shisei/tokei/data/27kokuchou.html 平成27年国勢調査] 松山市ホームページ 2017年10月12日閲覧</ref>
* 生産年齢人口 303,024人<!-- 15歳以上65歳未満 -->
* 老齢人口 128,658人<!-- 65歳以上(年齢不詳を含む) -->
* 就業人口 234,503人
** 第一次産業 6,957人
** 第二次産業 40,668人
** 第三次産業 169,242人
** 分類不能の産業 17,636人
<!-- 産業別の世帯数データは、平成22年以降集計されていないようです -->
<!--
* 世帯数
** 総世帯数 215,591世帯
** 農林漁業就業者世帯 3,815世帯
** 農林漁業、非農林漁業就者混合世帯 2,452世帯
** 非農林漁業就業者世帯 136,232世帯
** 非就業者世帯 69,628世帯
** 分類不能の世帯 3,464世帯
-->
=== 卸小売業 ===
[[ファイル:Gintengai-Street_(MatuyamaCity).JPG|thumb|right|銀天街商店街の入口]]
[[ファイル:松山市駅ターミナル.jpg|thumb|right|いよてつ高島屋(市駅の駅ビルともなっている)]]
* 百貨店
** [[松山三越]]
** [[伊予鉄髙島屋|いよてつ高島屋]](旧いよてつ[[そごう]]、伊予鉄百貨店)
* 商店街・飲食店
** [[松山中央商店街]]([[大街道商店街|大街道]]、[[松山銀天街]]、[[まつちかタウン]])
** [[松山市駅前地下街]]
:松山城の南が商業地となっており、一番町の松山三越と市駅前の伊予鉄高島屋を繋ぐ形で、大街道、銀天街の商店街がL字型に連なっており、大掛かりなアーケード設備も有し、松山市や愛媛県を代表する商店街となっている。銀天街の西に隣接する伊予鉄松山市駅前には、四国で唯一の[[地下街]]がある。
: 大街道商店街を挟み、北は一番町から南は千舟町通にかけての一帯には非常に多くの飲食店が軒を連ねている。
: 柳井町の南端から千舟町4・5丁目の狭い範囲にかけて、アニメショップ、ゲームショップ、同人誌専門店およびメイド喫茶などの店舗が集積しており、いわゆる「[[おたく]]街」を形成している。
: 道後温泉周辺にも商店・飲食店や風俗店などが多数立地しており、繁華街を形成している。
* 大型書店・古書店・専門書店
** [[紀伊國屋書店]]いよてつ高島屋店
** [[ジュンク堂書店]]松山店
** [[明屋書店]]本店
** [[宮脇書店]]松山店(2019年5月6日閉店)
** 愛媛県官報販売所
** [[アニメイト]]松山店
** [[メロンブックス]]松山店
** [[らしんばん]]松山店
** [[ブックオフコーポレーション|ブックオフ]]
: 地元資本の明屋書店が市内各所に展開している。都心部には複数の書店が出店しており、中でも紀伊国屋書店は1976年出店とかなり古い部類に入る。また、都心部・郊外を問わず中小の古本屋が多数存在している。<!--同人誌専門書店としてメロンブックスが2007年3月に進出。-->
*パソコンショップ
** [[アプライド]]
** [[パソコン工房]]
** [[サードウェーブ|ドスパラ]]
: いずれも県内唯一の店舗である。
* 大型模型店・ホビーショップ
** 富士教材
** Plamo
* 大型家電量販店・カメラ量販店
** [[ヤマダデンキ]]
** [[エディオン]]
** [[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]]
** [[カメラのキタムラ]]
: 家電量販店のうちエディオン松山本店・ケーズデンキ松山藤原店(JT跡地)<!--・ベスト電器松山本店(平成23年2月末日をもって閉店-->は市内中心部に、ヤマダデンキテックランド松山本店・YAMADA web.com松山問屋町店(33号線沿いと北部環状線)は郊外に出店している。
* ファッション・衣料品店
** [[ザラ (ファッションブランド)|ZARA]](ザラ)
** [[ユニクロ]]
** [[ジーユー|GU]]
** [[しまむら]]
** [[西松屋]]チェーン
** 洋服の青山([[青山商事]])
** [[はるやま商事]]
** とかげや
[[ファイル:Ug090712 FujiGMatsuyama1.jpg|thumb|right|[[フジグラン松山]]店]]
* 大型スーパーチェーン・ホームセンター
** スーパー
*** [[フジ・リテイリング]]
**** [[フジグラン松山]]
*** イオン系列
**** [[イオンスタイル松山]]
**** [[マックスバリュ]]([[マックスバリュ西日本]])
**** [[マルナカ (チェーンストア)|マルナカ]]
*** [[ママイ]]
**** [[ジョー・プラ]] (元[[ダイエー]]店舗で、1階にママイが入居)
*** [[マルヨシセンター]]
*** [[大黒天物産|ラ・ムー]]
*** [[サニーマート]] - 同名の地元資本のスーパー(本社:[[愛南町]])があったが、「サニーTSUBAKI」に改名した。
** ホームセンター、日用雑貨
*** [[ダイキ]]
*** [[コーナン]]
*** [[ニトリ]]
*** [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]
** 商業施設
*** [[ANAクラウンプラザホテル松山|AVA]]
: 地元資本のスーパーであるフジが市内に多数の店舗を有し、それを補完するように県内外資本の中小スーパーが展開している。<!--
: また、{{要出典範囲|[[ゆめタウン]]が[[日本たばこ産業|JT]]松山工場跡に進出する計画もあったが、商店街から反発を受け中止となった。この土地は広島の業者に売却され、マンションと複合施設が建設される予定|date=2010年2月|title=計画の推移と現在計画について、検証可能性を満たすソースを提示ください。}}。(すでにフジやケーズデンキが出店しており、不必要な記述なため)-->
* コンビニエンスストア
** [[ローソン]] 1980年代後半までは市内に同チェーンしかない状態が続いていた。
** [[ファミリーマート]]
** [[セブン-イレブン]]([[2014年]][[3月1日]]に2店、市内に初出店、以降、集中的に開店している。)
** [[デイリーヤマザキ]]
*** [[ヤマザキショップ]]
** [[ポプラ (コンビニエンスストア)|ポプラ]]
: 松山市内では、コンビニ業界大手各社のうち、[[ミニストップ]](愛媛県内では東予地域にのみ出店をしている)については出店計画がない。
: [[コンビニATM]]は、ローソンに[[ローソンATM]]が、ファミリーマートおよびポプラに[[イーネット]]ATMが、また[[セブン銀行]]ATMはセブンイレブン各店[[松山空港]]および[[野村證券]]松山支店に設置されている。
==== その他 大衆娯楽 ====
; 営業中
* [[シネマサンシャイン]]衣山
* シネマルナテック
; 閉館
* 松山シネマサンシャイン(旧・国際ビル)
* 松山シネリエンテ
* シネマサンシャイン[[大街道商店街|大街道]]
=== 情報通信業 ===
[[ファイル:NTT-WEST-EHIME.JPG|thumb|right|NTT西日本 愛媛支店(松山3棟ビル)]]
[[総務省]]の[[地方支分部局]]である[[四国総合通信局]]が市内に設置されていることもあり、[[日本郵便]]の四国支社や[[NTT西日本]]の四国事業本部(携帯電話事業の[[NTTドコモ]]、インターネットサービス事業の[[NTTコミュニケーションズ]]は[[高松市]]に拠点を置いている)が設置されている。日本郵便やNTT西日本の拠点では四国4県の統括的な業務を行っている。[[NTTデータ|NTTデータ四国]]や[[NTT西日本松山病院]]といったNTTの関連企業・施設・拠点も設置されている。
市では21世紀型産業である情報通信時代の到来を見越し、[[2002年]]から[[2004年]]にかけて、他市に先駆け松山市内に光ファイバー網を敷設した<ref name="tuushin">経済産業省地域経済産業グループ(2008年)『企業立地に頑張る市町村事例集』103頁</ref>。この基盤を活かして情報通信関連企業の積極的な誘致に努め、5年間で[[コールセンター]]8件、データ入力センター1件、事務センター1件の誘致に成功し、3,000人を超える新規雇用を創出している<ref name="tuushin"></ref>。コールセンターでは[[ブリッジインターナショナル]]や[[ベネフィット・ワン]]、[[もしもしホットライン]]などが立地している。また[[2006年]]には[[富士火災海上保険]](現在のAIG損害保険)中央営業事務センターが進出した他、ソフトウェア開発会社の[[サイボウズ]]が開発・サポート拠点として松山オフィスを設けている。
2004年には総務省の「ITビジネスモデル地区」の指定を受けている。
==== 郵便局(集配局) ====
* [[松山中央郵便局]]
* [[松山西郵便局]]
* [[松山南郵便局]]
* [[北条郵便局 (愛媛県)|北条郵便局]]
* [[重信郵便局]]([[東温市]])
=== 運輸業 ===
[[ファイル:Matsuyama port (KANKO port) Ehime,JAPAN.jpg|thumb|right|松山観光港高速艇桟橋]]
[[ファイル:Iyo-Railway Co.,Ltd Headquarters (Matuyama City).JPG|thumb|right|伊予鉄道本社([[松山市駅]]前)]]
[[松山港]]からは中国(特に広島へは[[スーパージェット]]などが頻繁に運行されている)・九州地方[[北九州]]への航路が開かれ、[[松山空港]]からは[[東京]]・[[大阪]]・[[名古屋市|名古屋]]など日本国内のほか[[中華人民共和国]]・[[大韓民国]]・[[台湾]]への定期便が就航している。また[[高速道路]]や[[四国旅客鉄道|JR四国]]の[[予讃線]]などもあり県外・県内の移動の拠点となっている。このほか市内には、[[伊予鉄道]]の路面電車や郊外電車、伊予鉄バスの路線バスが多数運行されている。
貨物輸送では[[日本貨物鉄道|JR貨物]]の貨物駅や運送会社の支社・営業所などが立地している。
=== 金融機関 ===
[[伊予銀行]]や[[愛媛銀行]]などの地元金融機関の本店・支店のほか、都市銀行や近隣県に本店を置く地方銀行の支店・[[現金自動預け払い機|ATM]]が設けられている。また、四国の直営店の統括機能を有する[[ゆうちょ銀行]]松山支店も立地している。
多くの保険会社の支店・営業所がある。また近年は大手保険会社の集中事務センターの誘致に成功<ref>[http://www.city.matsuyama.ehime.jp/chiikike/1185005_1019.html 松山市ホームページ-富士火災海上保険(株)中央営業事務センターの立地協定書調印式について]</ref>している。
==== 銀行 ====
四国に本店を置く地方銀行・第二地方銀行すべてが市内に支店を持っている<ref group="*">松山市に限らず、四国の県庁所在地には必ずある。</ref>。また、都市銀行は1995年の[[あさひ銀行]](現・[[りそな銀行]])撤退して以降みずほ銀行(旧・[[第一勧業銀行]])のみ設けられていたが[[2009年]](平成21年)[[1月]]、三井住友銀行の支店が開設された。
* [[日本銀行]]松山支店(中央銀行)
* [[ゆうちょ銀行]]松山支店
* [[みずほ銀行]]松山支店(都市銀行)
* [[三井住友銀行]]松山支店(都市銀行)
* [[三菱UFJ銀行]]松山法人営業所(都市銀行)
* [[伊予銀行]](地方銀行)
* [[愛媛銀行]](第二地方銀行)
* [[百十四銀行]](地方銀行)
* [[香川銀行]](第二地方銀行)
* [[阿波銀行]](地方銀行)
* [[徳島大正銀行]](第二地方銀行)
* [[四国銀行]](地方銀行)
* [[高知銀行]](第二地方銀行)
* [[広島銀行]](地方銀行)
* [[山口銀行]](地方銀行)
* [[三井住友信託銀行]](信託銀行)
* [[日本政策投資銀行]]松山事務所
* [[日本政策金融公庫]]松山支店
* [[商工組合中央金庫]]松山支店
==== 信用金庫・信用組合など ====
* [[愛媛信用金庫]]
* [[朝銀西信用組合]]
* [[四国労働金庫]]
==== 証券会社 ====
; 本店・本社を置く証券会社
* [[愛媛証券]]
* [[二浪証券]]
* [[四国アライアンス証券]]
; 支店を置く証券会社
* [[野村證券]]
* [[大和証券]]
* [[SMBC日興証券]]
* [[みずほ証券]]
* [[東海東京証券]]
* [[三菱UFJモルガン・スタンレー証券]]
* [[岡三証券]]
==== 支店を置く保険会社 ====
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* [[日本生命保険]]
* [[第一生命保険]]
* [[住友生命保険]]
* [[太陽生命保険]]
* [[大同生命保険]]
* [[大樹生命保険]]
* [[明治安田生命保険]]
* [[富国生命保険]]
* [[朝日生命保険]]
* [[ソニー生命保険]]
* [[プルデンシャル生命保険]]
* [[マニュライフ生命保険]]
{{Col-break}}
* [[アクサ生命保険]]
* [[オリックス生命保険]]
* [[ジブラルタ生命保険]]
* [[東京海上日動フィナンシャル生命保険]]
* [[大和生命保険]]
* [[SOMPOひまわり生命保険]]
* [[かんぽ生命保険]]
* [[あいおいニッセイ同和損害保険]]
* [[朝日火災海上保険]]
* [[共栄火災海上保険]]
* [[セコム損害保険]]
* [[損害保険ジャパン]]
{{Col-break}}
* [[東京海上日動火災保険]]
* [[日新火災海上保険]]
* [[三井住友海上火災保険]]
* [[メットライフ生命保険]]
* [[AIG損害保険]]
{{Col-end}}
=== 生活協同組合 ===
* [[全国労働者共済生活協同組合連合会|全労済]]愛媛県本部
=== 観光業 ===
[[ファイル:Dogo Onsen Station in 2010-9-6 No,1.JPG|thumb|right|[[道後温泉駅]]]]
3000年の歴史を有するといわれ、文献上、日本最古である[[道後温泉]]や日本で最後の完全な城郭建築とされる[[松山城 (伊予国)|松山城]]([[ミシュランガイド|ミシュラン]]の観光版(ギード・ベール)日本編ではそれぞれ二つ星に選定。)、[[四国八十八箇所]]の1つである[[石手寺]](ミシュラン一つ星)など観光施設が豊富であり、多くの観光客を集めている。また、[[しまなみ海道]]開通時には、しまなみブームと呼ばれるほど観光客が増加した。
[[伊予鉄道]]は[[夏目漱石]]の小説・坊ちゃんにも登場した蒸気機関車を復元した「[[坊っちゃん列車]]」を運行している。また、[[四国旅客鉄道|JR四国]]も[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]を発着する観光列車・「[[伊予灘ものがたり]]」を2014年より運行している。
観光に関する問い合わせに対応するため、[[財団法人]]松山観光コンベンション協会が年中無休の電話窓口を設けている。
県や市のスポーツ施設も多数あり、[[松山中央公園野球場|坊っちゃんスタジアム]]で[[日本プロ野球|プロ野球]]公式戦などが年に数回行われるほか、堀之内や[[愛媛県総合運動公園]]で[[a-nation]]などの野外[[演奏会|ライブ]]が実施されたり、[[愛媛県武道館]]で[[ディズニー・オン・アイス]]が公演したりする。
2010年の推定観光客数は588万4千人(対前年比12.0%増)、道後温泉地区宿泊客数は80万1千人(同4.2%増。ただし市全域では3.2%増)<ref>『広報まつやま』2011年6月1日号</ref>となっている。
=== 不動産業 ===
松山市の人口が増加していることもありマンション需要が伸びているため、不動産会社が次々マンションを建設している。またオフィスビルの需要も、コールセンターなどの進出で伸びており、ビル建設も増加している。
=== サービス業 ===
==== 予備校・学習塾 ====
近年、{{要出典範囲|市内の高校が定員超過となっているほか、私立の中高一貫校では受験競争が激化する兆候がある|date=2010年2月|title=統計情報などの出典および、受験環境の激化と学習塾・予備校の増加の因果関係について論じた検証可能性を満たす出典を提示ください。}}ことなどから、[[日能研]]、[[東進ハイスクール#東進衛星予備校|東進衛星予備校]]、[[ITTO個別指導学院]]、[[明光義塾]]などの全国規模の塾や予備校が進出し、市内の小規模塾や大手塾(寺小屋グループなど)と競合している。
=== 製造業 ===
[[ファイル:Iyo-Kasuri 1 (Matsuyama City).JPG|thumb|right|伊予絣]]
[[ファイル:New Pione from Idai&Gomyo(Matsuyama City).JPG|thumb|right|赤秀等級のニューピオーネ]]
空港や港近郊の沿岸部には工業地帯が広がっている。[[2010年]]の工業統計調査(従業員4人以上の事業所が対象)では製造業等出荷額は4,237億5,149万円、[[製造業]]の従業員数14,691人、事業者数は420事業所となっている<ref name="seizou">経済産業省 (2010)『平成22年工業統計調査結果』</ref>。
製造業等出荷額(2010年)の割合は[[化学]]が32.6%、[[機械|生産用機械]]が22.0%、[[食料品]]12.3%、[[機械|はん用機械]]が11.8%を占めている<ref name="seizou"></ref>。化学では[[帝人]]や[[大阪ソーダ]]、[[東レ|東レ・ファインケミカル]]、[[コスモ松山石油]]などが事業所を置いており化学製品・[[化学繊維]]などの生産が行われている。機械では[[トラクター]]などの農業用機械製造の[[井関農機]]、ボイラー・水処理関連機器などの機械製造の[[三浦工業]]が本社・生産拠点を設置している。
=== 農業・伝統産業 ===
[[ウンシュウミカン]]の生産が盛んで、[[イヨカン]]の代表的な産地の一つでもあり、「紅まどんな」など付加価値の高い柑橘類の生産にも取り組んでいる。また、伊台や五明など[[高原]]地域ではニュー[[ピオーネ]]などの[[ブドウ]]栽培も行われている。特産品・伝統工芸として、姫だるま、[[竹細工]](日本三大産地)、[[伊予絣]](同)、[[油揚げ]](松山揚げ)などが有名である。
==== まつやま農林水産物ブランド ====
* 紅まどんな(柑橘類)
* せとか(柑橘類)
* ぼっちゃん島あわび
* [[カラマンダリン]](柑橘類)
* 瀬戸内の銀鱗煮干
* 松山長なす
* 松山一寸そらまめ
* 伊台・五明ニューピオーネ(高原ぶどう)
=== 本社を置く主要企業 ===
==== 上場企業 ====
* [[井関農機]]
* [[いよぎんホールディングス]]([[伊予銀行]]などを傘下に持つ[[金融持株会社]])
* [[愛媛銀行]]
* [[セキ (愛媛県)|セキ]]
* [[ダイキアクシス]]
* [[ダイコー通産]]
* [[フジ・リテイリング]]
* [[マルク (企業)|マルク]]
* [[三浦工業]]
==== 非上場企業 ====
{|
|-style="vertical-align:top"
|
;製造業
* [[アテックス]]
* [[E-SOLAR]]
* [[一六本舗]]
* [[うつぼ屋]]
* [[えひめ飲料]]
* [[亀井製菓]]
* [[コスモ松山石油]]
* [[タケチ]]
* [[伯方塩業]]
* [[ビージョイ]]
* [[山田屋]]
* [[六時屋]]
* [[ルナ物産]]
;建設業・不動産業
* [[愛亀]]
* [[オオノ開発]]
* [[協和道路]]
* [[フジケンエンジニアリング]]
* [[二神組]]
* [[伊予鉄不動産]]
;情報通信業
* [[NTTデータ|NTTデータ四国]]
;卸売業
* [[アスティス]]
* [[南商事]]
* [[よんやく]]
|
;小売業・飲食業
* [[アザース]]
* [[伊予鉄髙島屋]]
* [[愛媛トヨタ自動車]]
* [[愛媛トヨペット]]
* [[愛媛日産自動車]]
* [[愛媛日野自動車]]
* [[四国スバル]]
* [[セブンスター (スーパーマーケット)|セブンスター]]
* [[そば吉]]
* [[太陽石油販売]]
* [[つるや (靴屋)|つるや]]
* [[明屋書店]]
* [[トヨタカローラ愛媛]]
* [[西四国マツダ]]
* [[日産プリンス愛媛販売]]
* [[ネッツトヨタ愛媛]]
* [[ネッツトヨタ瀬戸内]]
* [[パワーアップ (企業)|パワーアップ]]
* [[ビッグウッド]]
* [[フォードフジ]]
* [[フジファミリーフーズ]]
* [[松山三越]]
* [[レデイ薬局]] <!--2015年10月 TOBにより上場廃止 -->
|
;金融業
* [[四国アライアンス証券]]
* [[愛媛信用金庫]]
* [[愛媛証券]]
* [[えるく]]
* [[二浪証券]]
;運輸業
* [[石崎汽船]]
* [[伊予商運]]
* [[伊予鉄道]]
* [[愛媛オーシャン・ライン]]
* [[JAえひめ物流]]
* [[四国名鉄運輸]]
* [[松山・小倉フェリー]]
;放送・新聞・出版業
* [[あいテレビ]]
* [[愛媛朝日テレビ]]
* [[愛媛新聞社]]
* [[エフエム愛媛]]
* [[テレビ愛媛]]
* [[南海放送]]
;サービス業
* [[愛媛FC]]
* [[東進ハイスクール#東進四国|東進四国]]
* [[寺小屋グループ]]
|}
=== 事業所を置く主要企業 ===
====本社機能====
* [[太陽石油]] 本社分室
==== 製造・開発拠点 ====
* [[NECプラットフォームズ]] 松山事業所
* [[エヌ・ピー・シー]] 松山工場
* [[大阪ソーダ]] 松山工場
* [[サイボウズ]] 松山オフィス
* [[四国ガス]] 松山工場
* [[明治 (企業)|四国明治]] 松山工場
* [[東芝EIコントロールシステム]] 松山事業所
* [[東レ|東レ・ファインケミカル]] 松山工場
* [[帝人]] 松山事業所
*ニッシン・グルメビーフ 松山第一工場・松山第二工場
* [[ファインデックス]] 四国支社 <!-- 2017年1月 東京都港区に本社移転 -->
* [[ベルグアース]] 松山農場
* [[レンゴー]] 松山工場
==== コールセンター・事務センター====
* [[NTTマーケティングアウト]]松山総合アウトソーシングセンタ
* [[KDDIエボルバ]]松山センター
* [[パソナテック]] 松山一番町BPOセンター
* 富士通コミュニケーションサービス 松山サポートセンター・松山一番町サポートセンター([[富士通]]グループ)
* プライムステージ
* [[ブリッジインターナショナル]] 松山事業所
* [[ベネフィット・ワン]] 松山オペレーションセンター
* [[もしもしホットライン]] 松山センター・いよ松山センター
== 文化 ==
=== 坊っちゃん ===
[[ファイル:坊っちゃんとマドンナ像.jpeg|thumb|right|[[松山城ロープウェイ]]東雲口駅前に設置された「坊っちゃんとマドンナ像」]]
[[ファイル:Iyotetsu-TypeD1.jpg|thumb|right|道後温泉駅に停車する「坊っちゃん列車」]]
[[ファイル:The Madonna Bus (Matsuyama City).JPG|thumb|right|マドンナバス]]
松山は、[[夏目漱石]]の小説『[[坊つちやん|坊っちゃん]]』の舞台になっている。この小説は、漱石自身が松山中学(現在の[[愛媛県立松山東高等学校]])に赴任した時の体験を下敷きとしている。松山赴任時、漱石は大学予備門で同窓だった[[正岡子規]]との交流も持った。
漱石は『坊っちゃん』で、松山を「不浄な地」(新潮文庫版131ページ)としているなどかなりひどく書いているが、実際は明治時代の地方に対する世論の考え方を反映したもので、単に松山を批判したものではない。漱石自身も松山中学では非常に優遇されており、小説の内容と自身の体験談とが必ずしも一致したものとはいえない。松山市および市民は観光の一つとしている他、今日でも松山には「坊っちゃん」や「マドンナ」の名が付いた施設や商品が多い。
* [[坊っちゃん列車]]
*マドンナバス(かつて走っていた市内の名所を循環する完全予約制のバス)
* [[松山中央公園野球場|坊っちゃんスタジアム]]
* [[坊っちゃん湯]]([[道後温泉本館]]のこと)
* [[坊っちゃん団子]]
* [[坊っちゃんエクスプレス]](松山・高松間の高速バス)
* [[マドンナエクスプレス]](松山・岡山間の高速バス)
* [[坊っちゃん文学賞]]
近年は「[[坂の上の雲]]」(歴史小説)を軸としたまちづくりも進められ、[[司馬遼太郎]]記念財団認定商品も販売されている。
=== 文学 ===
* [[正岡子規]]
* [[高浜虚子]]
* [[石田波郷]]
* [[河東碧梧桐]]
* [[種田山頭火]]([[1940年]]、松山市で没)
=== 温泉 ===
記紀の古より湧き続ける[[道後温泉]]に代表される[[道後温泉郷]]であり、[[源泉]]から離れた銭湯も[[引き湯]]で温泉を入れている所も数多くある。
=== 能楽 ===
松山は[[能楽]]が盛んであり、市内に能楽堂がいくつかある。
=== 祭り・芸能 ===
{{Main2|観光的側面の大きい祭事・イベントについては、「[[#観光|観光]]」節も}}
* [[野球拳]]
* 伊予[[萬歳]]
* 伊予の国松山水軍太鼓
* 松山三大夏祭り - [[井手神社]]天神祭(北立花町)、[[鐘馗寺|鐘馗さん]](しょきさん又はしょうきさん、木屋町)、[[お日切さん]](おひぎりさん、市駅前)。
*: いずれも旧市内における伝統的なもの。
* 松山秋祭り
*: 神輿同士の鉢合わせなど。
* 愛・野球博(2018年より開催)
=== 食文化 ===
[[ファイル:Matsuyamasushi.JPG|thumb|[[松山鮓]]の一例]]
* [[松山鮓]]
*: 地魚がちりばめられているばら寿司で、瀬戸の小魚の旨みを活かした甘めの鮓飯が特徴。
* [[たこめし]]
*: タコを用いたご飯料理で、タコとご飯を醤油出汁で炊き込むもの。
* [[鯛めし]]
*: 一尾丸ごと焼いた鯛を、醤油や塩で味付けした半炊き状態の炊き込みご飯の上に載せ、さらに加熱して炊き上げるもの。
* [[うどん]]
*: 隣県である香川県のシコシコとした食感の[[讃岐うどん]] とは違い、やや軟らかな麺を用いてツユも甘めな「ゆるゆるうどん」が多く、大盛りを注文した場合、大抵の店舗では麺が二玉分投入されてくる事が特長で <!--[[松山市駅]]前地下街[[まつちかタウン]]の「かめや」(現在は営業していない)-->、[[鍋焼きうどん]]の老鋪店「アサヒ」「ことり」(銀天街裏)などが有名である。なお、近年は[[讃岐うどん]]を名乗る店やいわゆる[[セルフうどん]]店も多数進出しているが、讃岐うどん店も[[丼鉢]]には厚手の[[砥部焼]]を用いる店が多い。<ref group="*">[[道後温泉]]街の一角には、「としだうどん」と呼ばれる有名店があったが、後継者がなく廃業し、跡地は現在は小公園になっている。</ref>
* [[タルト (郷土菓子)|タルト]]、[[坊っちゃん団子]]、[[労研饅頭]]、[[醤油餅]]、[[薄墨羊羹]]、[[日切焼]] など。
*: [[親藩]]松平家の[[城下町]]だったため、伝統を受け継ぐ[[和菓子]]、[[銘菓]]も多い。
{{See also|日本の郷土料理一覧#愛媛県}}
=== スポーツチーム ===
; 野球
* [[愛媛マンダリンパイレーツ]] - [[四国アイランドリーグplus]]
* [[松山フェニックス]] - [[社会人野球]]
* [[NTT四国硬式野球部]] - 社会人野球 ※1999年に解散
* [[丸善石油硬式野球部]] - 社会人野球 ※1981年に解散
* [[伊予銀行硬式野球部]] - 社会人野球 ※1978年に解散
; ソフトボール
* [[伊予銀行ヴェールズ]] - [[JDリーグ]]
; サッカー
* [[愛媛FC]] - [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]ディビジョン2
* [[愛媛FCレディース]] - [[日本女子サッカーリーグ|なでしこリーグ]]
* [[ベンターナAC]] - [[四国サッカーリーグ]]
; ビーチバレー
* [[DCMダイキ#スポーツ|ダイキヒメッツ]]
; バスケットボール
* [[愛媛オレンジバイキングス]] - [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]
=== スポーツ施設 ===
* 野球場
** [[松山中央公園野球場]](坊っちゃんスタジアム)
* サッカー場
** [[ニンジニアスタジアム]]
* アイススケート場
** [[イヨテツスポーツセンター]](夏季を除く)
* プール(一般開放)
** [[アクアパレットまつやま]]
** [[松山市総合コミュニティセンター]]
** イヨテツスポーツセンター(夏季のみ)
** 中島B&G海洋センター
* ゴルフ場
** [[エリエールゴルフクラブ松山]]
** 奥道後ゴルフクラブ
** サンセットヒルズカントリークラブ
** チサンカントリークラブ北条
** 道後ゴルフクラブ
** 北条カントリー倶楽部
** 松山小野カントリークラブ
** 森松ゴルフ倶楽部
=== その他の施設 ===
*シアターねこ - 小劇場<ref>[http://theaterneco.main.jp/ 愛媛県松山市の小劇場・シアターねこのホームページ]</ref>
== 文化財 ==
<!--この節では国の文化財を挙げる。-->
=== 国宝 ===
* [[石手寺]]二王門
* [[大宝寺 (松山市)|大宝寺]]本堂
* [[太山寺 (松山市)|太山寺]]本堂
{{Gallery
|Ishiteji 04.JPG|石手寺二王門(国宝)
|Koshozan Taihoji 04.JPG|大宝寺本堂(国宝)
|Ryuunzan Taisanji 04.JPG|太山寺本堂(国宝)
}}
=== 重要文化財(建造物) ===
* [[太山寺 (松山市)|太山寺]]二王門
* [[石手寺]]三重塔ほか
* [[松山城 (伊予国)|松山城]]大天守ほか
* [[浄土寺 (松山市)|浄土寺]]本堂
* [[伊佐爾波神社]]本殿ほか
* [[豊島家住宅]]
* 渡部家住宅
* [[道後温泉本館]]
* [[萬翠荘]]
=== 国史跡 ===
* [[松山城 (伊予国)|松山城]]
* [[湯築城]]
* [[葉佐池古墳]]
* [[久米官衙遺跡群]]・[[久米官衙遺跡]]・[[来住廃寺]]跡
=== 登録有形文化財 ===
* [[愛媛大学教育学部附属中学校]]講堂(旧旧制松山高等学校講堂)
* [[石崎汽船]]本社(設計:[[木子七郎]])
* [[伊予絣|鍵谷カナ頌功堂]](設計:木子七郎)
* 愛媛県教育会館
* 松山地方気象台
* 森家住宅主屋(三津)
=== 国天然記念物 ===
* [[エヒメアヤメ自生南限地帯]]<ref>[https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/kuni/ehimeayame.html 「エヒメアヤメ自生南限地帯(じせいなんげんちたい)」について]</ref>
=== 登録記念物 ===
* [[四十島]](ターナー島)
{{Gallery
|ファイル:Hall of Aidai-Fuzoku Junior high school (Matsuyama-City).JPG|旧旧制松山高等学校講堂
|ファイル:Headquarters of Ishizaki-kisen(Matsuyama City).JPG|石崎汽船本社
|ファイル:Kana Kagiya Monument2 (Matsuyama City).JPG|鍵谷カナ頌功堂
|ファイル:Ehime-kyoiku-kaikan (Matsuyama-City).JPG|愛媛県教育会館
}}
== 医療 ==
[[ファイル:Ug090117 NTThospital01.jpg|thumb|right|NTT西日本松山病院(現在の松山まどんな病院)]]
* 主な医療機関
** [[愛媛県立中央病院]]
** [[松山まどんな病院]]
** [[松山赤十字病院]]
** 済生会松山病院
** 松山記念病院
** 松山市民病院
** [[国立病院機構四国がんセンター]]
** 北条病院
** 医療法人友朋会 栗林病院グループ なかじま中央病院(旧・中島町立病院を医療法人に売却)
上記のほか、小児の夜間の急病に対応するため、松山市保健所の隣に松山市急患医療センターが設置されている。
== 教育 ==
=== 小学校 ===
市内にはかつて62の小学校があったが、近年児童数の減少により統廃合が目立っている。
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* [[愛媛大学教育学部附属小学校]](国立)
* [[松山市立番町小学校]]
* [[松山市立味酒小学校]]
* 松山市立八坂小学校
* 松山市立東雲小学校
* [[松山市立新玉小学校]]
* 松山市立清水小学校
* [[松山市立雄郡小学校]]
* [[松山市立素鵞小学校]]
* 松山市立堀江小学校
* 松山市立潮見小学校
* 松山市立久枝小学校
* 松山市立和気小学校
* [[松山市立三津浜小学校]]
* [[松山市立宮前小学校]]
* [[松山市立高浜小学校]]
* [[松山市立味生小学校]]
* [[松山市立桑原小学校]]
* [[松山市立生石小学校]]
* 松山市立垣生小学校
* 松山市立道後小学校
{{Col-break}}
* [[松山市立湯築小学校]]
* [[松山市立興居島小学校]]
** 釣島分校(休校中)
* [[松山市立余土小学校]]
* [[松山市立湯山小学校]]
* 松山市立日浦小学校
* 松山市立伊台小学校
* 松山市立五明小学校
* [[松山市立久米小学校]]
* 松山市立浮穴小学校
* [[松山市立小野小学校]]
* 松山市立石井小学校
* 松山市立荏原小学校
* 松山市立坂本小学校
* 松山市立たちばな小学校
* 松山市立椿小学校
* 松山市立石井東小学校
* [[松山市立北久米小学校]]
* [[松山市立味生第二小学校]]
* [[松山市立石井北小学校]]
{{Col-break}}
* [[松山市立さくら小学校]]
* 松山市立みどり小学校
* [[松山市立福音小学校]]
* 松山市立双葉小学校
* [[松山市立窪田小学校]]
* [[松山市立姫山小学校]]
* 松山市立浅海小学校
* 松山市立難波小学校
* 松山市立立岩小学校
* 松山市立正岡小学校
* [[松山市立北条小学校]]
* 松山市立河野小学校
* 松山市立粟井小学校
* 松山市立睦月小学校(休校中)
* 松山市立野忽那小学校(休校中)
* 松山市立中島小学校
* 松山市立怒和小学校(休校中)
* 松山市立津和地小学校(休校中)
* 松山市立二神小学校(休校中)
{{Col-end}}
=== 中等教育学校 ===
==== 公立中等教育学校 ====
* [[愛媛県立松山西中等教育学校]]
==== 私立中等教育学校 ====
* [[済美平成中等教育学校]]
* [[新田青雲中等教育学校]]
=== 中学校 ===
==== 国立中学校 ====
* [[愛媛大学教育学部附属中学校]]
==== 公立中学校 ====
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* [[松山市立拓南中学校]]
* [[松山市立雄新中学校]]
* [[松山市立勝山中学校]]
* [[松山市立東中学校]]
* [[松山市立道後中学校]]
* [[松山市立鴨川中学校]]
* 松山市立内宮中学校
* [[松山市立三津浜中学校]]
* 松山市立高浜中学校
* 松山市立津田中学校
* [[松山市立垣生中学校]]
{{Col-break}}
* [[松山市立興居島小中学校|松山市立興居島中学校]]
* [[松山市立余土中学校]]
* [[松山市立湯山中学校]]
* 松山市立日浦中学校
* [[松山市立旭中学校]]
* [[松山市立久米中学校]]
* 松山市立小野中学校
* 松山市立久谷中学校
* 松山市立南中学校
* 松山市立西中学校
* 松山市立南第二中学校
* [[松山市立桑原中学校]]
{{Col-break}}
* [[松山市立椿中学校]]
* [[松山市立城西中学校]]
* [[松山市立北中学校]]
* [[松山市立北条北中学校]]
* 松山市立北条南中学校
* 松山市立中島中学校
{{Col-end}}
==== 私立中学校 ====
* [[愛光中学校・高等学校|愛光中学校]](※中高併設)
* [[松山東雲中学校・高等学校|松山東雲中学校]](※中高併設)
=== 高等学校 ===
==== 国立高等学校 ====
* [[愛媛大学附属高等学校]]
* [[愛媛大学農学部附属農業高等学校]](2010年3月閉校)
==== 公立高等学校 ====
* [[愛媛県立松山東高等学校]]
* [[愛媛県立松山中央高等学校]]
* [[愛媛県立松山北高等学校]]
** [[愛媛県立松山北高等学校中島分校]]
* [[愛媛県立松山南高等学校]]
* [[愛媛県立松山商業高等学校]]
* [[愛媛県立松山工業高等学校]]
* [[愛媛県立北条高等学校]]
==== 私立高等学校 ====
* [[愛光中学校・高等学校|愛光高等学校]](※中高併設)
* [[今治精華高等学校]]松山学習センター
* [[ウィッツ青山学園高等学校]]愛媛LETSキャンパス
* [[済美高等学校 (愛媛県)|済美高等学校]]
* [[聖カタリナ学園高等学校]]
* [[第一学院高等学校]]松山キャンパス
* [[新田高等学校]]
* [[松山学院高等学校]]
* [[松山東雲中学校・高等学校|松山東雲高等学校]](※中高併設)
* [[松山聖陵高等学校]]
* [[未来高等学校]]
* [[屋久島おおぞら高等学校]]松山キャンパス
* [[ルネサンス高等学校]]松山学習センター
=== 大学・短期大学 ===
松山市では、規定を満たし採用された大学・短大へ進学希望する者に貸与される奨学金制度「松山市奨学生」が設けられている。
* [[愛媛大学]](国立)
* [[愛媛県立医療技術大学]](公立)
* [[松山大学|松山大学・松山短期大学]](私立)
* [[松山東雲女子大学|松山東雲女子大学・松山東雲短期大学]](私立)
* [[聖カタリナ大学|聖カタリナ大学・聖カタリナ大学短期大学部]](私立)
* [[放送大学]]愛媛学習センター
* [[人間環境大学]] 松山看護学部
=== 専修学校 ===
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[愛媛調理製菓専門学校]]
* [[愛媛コミュニケーションブライダル専門学校]]
* [[四国医療技術専門学校]]
* [[専門学校日産愛媛自動車大学校]]
* [[松山看護専門学校]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[松山歯科衛生士専門学校]]
* [[松山デザイナー専門学校]]
* [[河原電子ビジネス専門学校]]
* [[河原医療福祉専門学校]]
* [[大原簿記公務員専門学校愛媛校]]
* [[愛媛県美容専門学校]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[河原デザイン・アート専門学校]]
* [[河原アイペットワールド専門学校]]
* [[河原医療大学校]]
* [[河原ビューティモード専門学校]]
* [[河原外語観光・製菓専門学校]]
</div>{{clear}}
=== 特別支援学校 ===
* [[愛媛県立松山盲学校]]
* [[愛媛県立松山聾学校]]
=== 学校教育以外の施設 ===
* 愛媛県[[消防学校]]
* 愛媛県立松山高等技術専門校([[公共職業能力開発施設]]の[[職業能力開発校]])
* 松山共同高等職業訓練校([[社団法人]]松山共同職業訓練協会が行う[[認定職業訓練]]による[[職業訓練施設]])
* 愛媛県立農業大学校([[農業者研修教育施設]])
* 愛媛農協学園
== 交通・運輸 ==
四国最大の人口を有する都市として利便性の高い各種の運輸手段があり、特に空港利用者数は中四国最多の実績を有し、年々増加の傾向にある。また、人口50万強という人口規模としては利便性の高い公共交通機関が伊予鉄道の電車・伊予鉄バスのバスを中心に発達しており、市内の主だった拠点の多くに公共交通だけでたどり着くことができる。このほか、比較的コンパクトな中心市街地を自転車で移動する希望者に対応するため、有料の観光レンタサイクルポート(JR松山駅前・大街道商店街・松山城ロープウェイ東雲口駅舎・道後温泉駅前)も開設されている。他にも観光振興策の一環として、[[2007年]](平成19年)[[7月]]から[[原動機付自転車]]を対象に「道後・松山市」の雲型ナンバープレートを発行している。
[[ファイル:Matsuyama Airport(MYJ)3.JPG|thumb|right|松山空港旅客ターミナル]]
[[ファイル:Matsuyama Airport1(MYJ).JPG|thumb|right|空港公園から見た滑走路]]
=== 空港 ===
* [[松山空港]]
==== 国内線 ====
{{Airport-dest-list
|[[日本航空]](JAL)<ref group="*">[[ジェイエア]]、[[日本エアコミューター]]の機材・乗務員で運航する便あり。</ref>
|[[東京国際空港|東京/羽田]]、[[大阪国際空港|大阪/伊丹]]、[[福岡空港|福岡]]、[[鹿児島空港|鹿児島]]
|[[全日本空輸]](ANA)<ref group="*">[[ANAウイングス]]の機材・乗務員で運航する便あり。</ref>
|東京/羽田、[[中部国際空港|名古屋/中部]]、大阪/伊丹、[[那覇空港|沖縄/那覇]]
|[[ジェットスター・ジャパン]](JJP)<ref group="*">[[日本航空]](JAL)とのコードシェア(JAL国際線との乗継時のみ)。</ref>
|[[成田国際空港|東京/成田]]
}}
==== 国際線 ====
{{Airport-dest-list
|1={{Flagicon|CHN}} [[中国東方航空]] (MU)<ref group="*">日本航空(JL)との共同運航便。</ref>
|2=[[中華人民共和国|中国]]・[[上海浦東空港|上海/浦東]](月・金)<ref group="*">就航時、週2便(月・金)。 2012年4月18日から週3便(月・水・金)、2012年10月29日以降 4便(月・水・金・土)に増便されたが、2013年10月27日から週2便(月・金)に減便。エアバスA319型機。</ref>
|3={{flagicon|KOR}}[[チェジュ航空]](7C)
|4=[[大韓民国|韓国]]・[[仁川国際空港|ソウル/仁川]](火・木・日)<ref group="*">2017年11月2日から週3便(火・木・日)で就航。ボーイング737-800型機。 2018年7月・8月および冬ダイヤ期間中は週5便に(月・火・木・金・日)に増便された。2019年冬ダイヤは増便検討も日韓関係悪化に伴い中止。</ref>
|5={{flagicon|ROC}}[[エバー航空]](BR)<ref group="*">全日本航空(NH)・[[ニュージーランド航空]](NZ)との共同運航便。</ref>
|6=[[中華民国|中華民国(台湾)]]・[[桃園国際空港|台北/桃園]](水・木・土・日)<ref group="*">2019年7月18日より週2便(木・日)で就航。エアバスA321型機。 2020年4月10日より週4便(水・木・土・日)に増便。</ref>
}}
=== 鉄道 ===
JTB時刻表で代表駅としている[[予讃線|JR予讃線]][[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]は中心市街のやや西寄りにあることもあり、市街の中心により近い[[伊予鉄道]]の[[松山市駅]](通称:[[市駅]])が中心駅の役割を担っている。同駅からは同鉄道の郊外線が3方向に発着しているほか市内電車(軌道)の拠点停留所にもなっている。さらに、都市間高速バスを含む路線バスの発着点でもあるなど、公共交通の一大拠点を成している。
このような立地や拠点性に差異が生じた経緯の一つとして、現在の市駅が[[1888年]]([[明治]]21年)に開業したのに比べ、[[日本国有鉄道|国鉄]]予讃本線(現・JR予讃線)が松山駅まで延伸したのは[[1927年]]([[昭和]]2年)と遅かったことが挙げられる。なお、市駅はもともと松山駅を名乗っていたが、国鉄松山駅が開業することになった際に駅名を改称させられた経緯がある。
{{Main|松山市駅#歴史}}
* [[四国旅客鉄道]](JR四国)
** [[予讃線]]
**:[[浅海駅]] - [[大浦駅]] - [[伊予北条駅]] - [[柳原駅 (愛媛県)|柳原駅]] - [[粟井駅]] - [[光洋台駅]] - [[堀江駅]] - [[伊予和気駅]] - [[三津浜駅]] - [[松山駅 (愛媛県)|松山駅]] - [[市坪駅]]
* [[伊予鉄道]]
** [[伊予鉄道高浜線|高浜線]]
**:[[高浜駅 (愛媛県)|高浜駅]] - [[梅津寺駅]] - [[港山駅]] - [[三津駅]] - [[山西駅]] - [[西衣山駅]] - [[衣山駅]] - [[古町駅]] - [[大手町駅 (愛媛県)|大手町駅]] - [[松山市駅]]
** [[伊予鉄道横河原線|横河原線]]
**:[[松山市駅]] - [[石手川公園駅]] - [[いよ立花駅]] - [[福音寺駅]] - [[北久米駅]] - [[久米駅]] - [[鷹ノ子駅]] - [[平井駅 (愛媛県)|平井駅]] - [[梅本駅]] - ([[東温市]])
** [[伊予鉄道郡中線|郡中線]]
**:[[松山市駅]] - [[土橋駅 (愛媛県)|土橋駅]] - [[土居田駅]] - [[余戸駅]] - [[鎌田駅]] - ([[松前町 (愛媛県)|松前町]])
** [[伊予鉄道城南線|城南線]]
**:[[西堀端停留場|西堀端]] - [[南堀端停留場|南堀端]] - [[市役所前停留場 (愛媛県)|市役所前]] - [[県庁前停留場 (愛媛県)|県庁前]] - [[大街道停留場|大街道]] - [[勝山町停留場|勝山町]] - [[警察署前停留場|警察署前]] - [[上一万停留場|上一万]] - [[南町停留場|南町]] - [[道後公園停留場|道後公園]] - [[道後温泉駅|道後温泉]]
**:支線:[[上一万停留場|上一万]] - [[平和通一丁目停留場|平和通一丁目]]
** [[伊予鉄道城北線|城北線]]
**:[[古町駅|古町]] - [[萱町六丁目停留場|萱町六丁目]] - [[本町六丁目停留場|本町六丁目]] - [[木屋町停留場|木屋町]] - [[高砂町停留場|高砂町]] - [[清水町停留場|清水町]] - [[鉄砲町停留場|鉄砲町]] - [[赤十字病院前停留場|赤十字病院前]] - [[平和通一丁目停留場|平和通一丁目]]
** [[伊予鉄道本町線|本町線]]
**:[[西堀端停留場|西堀端]] - [[本町三丁目停留場|本町三丁目]] - [[本町四丁目停留場|本町四丁目]] - [[本町五丁目停留場|本町五丁目]] - [[本町六丁目停留場|本町六丁目]]
** [[伊予鉄道大手町線|大手町線]]
**:[[西堀端停留場|西堀端]] - [[大手町駅 (愛媛県) |大手町]] - [[松山駅 (愛媛県)|JR松山駅前]] - [[宮田町停留場|宮田町]] - [[古町駅|古町]]
** [[伊予鉄道花園線|花園線]]
**:[[南堀端停留場|南堀端]] - [[松山市駅|松山市駅前]]
{{Gallery
|JRmatsuyamast01.jpg|JR松山駅
|Iyo Railway JR Matsuyama Station.jpg|伊予鉄道 JR松山駅前駅
|Matsuyama City Station.JPG|松山の交通の拠点である伊予鉄道 松山市駅
|JR-Matsuyama Station2(Matsuyama City).JPG|JR予讃線
|Iyotetsu-Series3510 Takahama-Line.jpg|伊予鉄道の郊外電車(高浜線)
|Iyotetsu-Type2005.jpg|伊予鉄道の市内電車(城南線)
|Matsuyama castle Ropeway&Chairlift(Iyo).JPG|伊予鉄道が運行する[[松山城ロープウェイ]]とリフト
}}
=== 路線バス ===
==== 一般路線バス ====
伊予鉄バスにより市内各地に路線バス網が張り巡らされている。
また、他社により宇和島・大洲・久万高原・今治・西条・新居浜などの県内各都市へ向かうバス路線も開設されている(南予方面は一部高速道路経由)。
* [[伊予鉄バス]]
* [[JR四国バス]]
* [[宇和島自動車]]
* [[瀬戸内運輸]](市内に営業所は持たない)
* [[肱南観光バス]](市内に営業所は持たない)
* [[中島汽船]](旧中島町内のみの運行)
{{Gallery
|Iyotetsu-Bus HINO-5670.jpg|市内に一般路線を有する伊予鉄バス
|JRSHIKOKUBUS OOKAIDO MATSUYAMAKOCHI.JPG|JR四国バス
|Uwajimajidosya63.JPG|宇和島バス(宇和島自動車)
|Setouchi Bus 5283.jpg|せとうちバス(瀬戸内運輸)
}}
==== 都市間高速バス ====
[[ファイル:JR-Shikoku-Bus-5097.jpg|thumb|right|オリーブ松山号]]
[[松山自動車道]]や[[しまなみ海道]]の開通により、[[高速バス]]も市内に営業所を持つ乗合3社(伊予鉄バス、JR四国バス、宇和島自動車)とその共同運行会社により多数運行されている。松山の発着場所は伊予鉄バスとJR四国バスおよび共同運行便でない場合、[[松山市駅]]または[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]のいずれかのみになることがある。
近年は、[[2008年]](平成20年)秋の福岡線開設、[[2009年]](平成21年)1月の名古屋線2往復化(既存のJRバス以外に伊予鉄バスが参入)および、同年7月には従来松山市内では客扱いをしていなかった宇和島自動車の横浜・池袋・大宮線が同社松山営業所に停車するようになるなど、路線網の充実が著しい。
* [[東京]](新宿)- [[オレンジライナーえひめ]]
* 東京(八重洲)- [[ドリーム松山号]]
* [[横浜市|横浜]] - オレンジライナーえひめ
* [[名古屋市|名古屋]] - オレンジライナーえひめ・[[オリーブ松山号]]
* [[京都]] - [[京都エクスプレス (京都 - 松山線)|京都エクスプレス]]・[[松山エクスプレス号]]
* [[大阪]](梅田)- オレンジライナーえひめ
* 大阪(梅田・難波) - 松山エクスプレス号
* [[神戸市|神戸]] - [[ハーバーライナー (神戸 - 松山線)|ハーバーライナー]]、松山エクスプレス号
* [[岡山市|岡山]] - [[マドンナエクスプレス]]
* [[福山市|福山]]・[[尾道市|新尾道]] - [[キララエクスプレス]]
* [[福岡市|福岡]] - [[道後エクスプレスふくおか]]
* [[徳島市|徳島]] - [[吉野川エクスプレス]]
* [[高松市|高松]] - [[坊っちゃんエクスプレス]]
* [[高知市|高知]] - [[ホエールエクスプレス]]・[[松山高知急行線|なんごくエクスプレス]]
=== 道路 ===
道路交通は、[[国道11号]]、[[国道33号]]、[[国道56号]]、[[国道196号]]が松山市中心街に集中し、広域的な交通拠点ともなっている。[[松山自動車道]]のインターチェンジ([[松山インターチェンジ (愛媛県)|松山IC]])は市の南部、国道33号線の[[伊予郡]][[砥部町]]寄りにある。
==== 高速道路 ====
* [[松山自動車道]]
*:(東温市)- [[松山インターチェンジ (愛媛県)|13 松山IC]] - (伊予郡砥部町)
==== 自動車専用道路 ====
* [[松山外環状道路]] (井門IC - 余戸南IC間のみ開通<ref>[https://www.skr.mlit.go.jp/matsuyam/pres/pres2013/pres/140123idohurukawakaituu.pdf 松山外環状道路インター線(井門IC〜古川IC)が3月16日(日曜日)に開通します。〜松山市内の渋滞解消に向けた、第一歩が始まります〜] 国土交通省 四国地方整備局 松山河川国道事務所 2014年1月23日付</ref>・'''その他の区間は建設中''')
*:井門IC - [[松山インターチェンジ (愛媛県)|松山JCT]] - 古川IC - 市坪IC - 余戸南IC-(この先は建設中) - 東垣生IC - 南吉田IC - 松山空港IC
==== 一般国道 ====
* [[国道11号]]
* [[国道33号]]
* [[国道56号]]
* [[国道196号]]
* [[国道317号]]
* [[国道379号]]
* [[国道437号]]
*([[国道440号]])- 市内は全区間が国道11号・33号との重複区間となっている。
*([[国道494号]])- 市内は全区間が国道11号との重複区間となっている。
==== 県道 ====
* [[主要地方道]]
** [[愛媛県道16号松山伊予線]]
** [[愛媛県道17号北条玉川線]]
** [[愛媛県道18号松山空港線]]
** [[愛媛県道19号松山港線]]
** [[愛媛県道20号松山北条線]]
** [[愛媛県道22号伊予松山港線]]
** [[愛媛県道39号松山港内宮線]]
** [[愛媛県道40号松山東部環状線]]
** [[愛媛県道41号中島環状線]]
* [[都道府県道|一般県道]]
** [[愛媛県道178号湯山高縄北条線]]
** [[愛媛県道179号湯山北条線]]
** [[愛媛県道180号堀江港堀江停車場線]]
** [[愛媛県道183号辰巳伊予和気停車場線]]
** [[愛媛県道184号和気衣山線]]
** [[愛媛県道186号三津浜停車場線]]
** [[愛媛県道187号六軒家石手線]]
** [[愛媛県道188号道後公園線]]
** [[愛媛県道190号久米垣生線]]
** [[愛媛県道191号松山停車場線]]
** [[愛媛県道193号森松重信線]]
** [[愛媛県道194号久谷森松停車場線]]
** [[愛媛県道195号興居島循環線]]
** [[愛媛県道196号河中平井停車場線]]
** [[愛媛県道197号才之原菊間線]]
** [[愛媛県道198号浅海停車場線]]
** [[愛媛県道199号北条港線]]
** [[愛媛県道200号鹿島公園線]]
** [[愛媛県道201号伊予北条停車場線]]
** [[愛媛県道203号粟井停車場線]]
** [[愛媛県道204号長井方堀江線]]
** [[愛媛県道206号上怒和元怒和線]]
** [[愛媛県道207号三坂松山線]]
** [[愛媛県道209号美川松山線]]
** [[愛媛県道219号砥部伊予松山線]]
** [[愛媛県道326号松山松前伊予線]]
** [[愛媛県道334号松山川内線]]
** [[愛媛県道339号粟井浅海線]]
** [[愛媛県道347号平田北条線]]
==== 道の駅 ====
* [[道の駅風早の郷風和里|風早の郷風和里]]([[国道196号]])
=== 港湾 ===
瀬戸内海に面した都市であるため、本州や九州および離島とを結ぶ旅客航路が充実している。また四国最大の工業港(松山外港)を有し、多数の貨物航路も寄港している。松山港は定期旅客航路数・定期コンテナ貨物航路数共に四国一の規模を誇る。
* [[松山港]]
** 堀江港
** 松山観光港(小倉・広島・呉航路)
** 高浜港(中島・興居島航路)
** 三津浜港(柳井・伊保田航路)
** 松山外港(貨物港/コンテナ定期便神戸・釜山・マニラ・台北・上海・香港航路)
** 今出港(貨物港)
{{Gallery
|Matsuyama-KANKO-port terminal (Matsuyama-City).JPG|松山観光港ターミナル
|Mitsuhama-Port 1(Matsuyama city).JPG|[[柳井市]]へのフェリーが発着する三津浜港
|Mitsu-no-watashi(Matsuyama City).JPG|[[三津の渡し]](松山市道:高浜2号線)
}}
== メディア ==
=== 新聞 ===
* [[愛媛新聞]]本社
=== 放送 ===
;ケーブルテレビ
* [[愛媛CATV|愛媛シーエーティヴィ]]
;地上波テレビ放送
[[ファイル:NHK Matsuyama Area Broadcasting Station (Matsuyama-City).JPG|thumb|right|NHK松山放送局]]
* [[NHK松山放送局]]
* [[南海放送]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列、略称RNB)
* [[テレビ愛媛]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列、略称EBC)
* [[あいテレビ]]([[TBSテレビ|TBS]]系列、略称ITV)
* [[愛媛朝日テレビ]]([[テレビ朝日]]系列、略称eat)
愛媛県内を[[放送#放送対象地域|放送対象地域]]とする[[テレビジョン放送局|テレビ局]]は[[日本放送協会|NHK]]ほか民放が4局あり、[[テレビ東京]]系列以外の[[キー局]]系列の番組が視聴可能である。また、[[NHK松山放送局]]は四国4県の[[基幹局]]となっている。
NHK松山放送局と南海放送は市内中心部に、他のテレビ局は比較的郊外に立地<ref group="*">テレビ愛媛は真砂町、あいテレビは竹原町、愛媛朝日テレビは和泉北に立地。かつては、南海放送も本社が道後樋又地区にあったので、2006年7月までは、市街地にあるのはNHKのみだった。</ref>している。
[[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル放送]]は[[行道山送信所]]において[[2006年]](平成18年)[[10月1日]]に放送開始したが、その準備段階として、同年[[6月21日]]午前10時から「映像の再生に必要な制御信号を含めた試験電波」の発射を開始したのに続き、[[8月4日]]からは「地上アナログ放送と同一番組の試験放送」を開始していた。
ラジオはAM・FMともにNHKと民放の県域局が1局ずつ所在する。また、県域局よりもより狭い市町村単位をエリアとする地域密着型のFM局、[[コミュニティ放送|コミュニティ放送局]]は四国地方の県庁所在地で唯一存在していない。
*偏波面が「垂直」となっているものについては、アンテナを通常の「水平」の場合から横に90度回転させることにより、大地に対して素子を垂直に立てる。
{|class="wikitable" border="1" style="text-align:center"
!rowspan="2" colspan="2"|局名||colspan="2"|[[NHK松山放送局|NHK松山]]||rowspan="2"|[[南海放送|RNB]]||rowspan="2"|[[テレビ愛媛|EBC]]||rowspan="2"|[[あいテレビ|ITV]]||rowspan="2"|[[愛媛朝日テレビ|eat]]||rowspan="3"|[[空中線電力|出力]]||rowspan="3"|[[偏光|偏波面]]||rowspan="3"|送信<br />場所
|-
![[NHK総合テレビジョン|総合]]||[[NHK教育テレビジョン|教育]]
|-
!colspan="2"|[[リモコンキーID|デジタルリモコン番号]]||1ch||2ch||4ch||8ch||6ch||5ch
|-
!rowspan="3"|[[松山親局送信所|松山]]
|デジタル||16ch||13ch||20ch||27ch||21ch||17ch||1kW||rowspan="3"|水平||rowspan="2"|[[行道山]]
|-
|rowspan="2"|アナログ|| - || - || - ||37ch||29ch||25ch||10kW
|-
|6ch||2ch||10ch|| - || - || - ||5kW||[[城山 (松山市)|城山]]
|-
!rowspan="2"|松山御幸/<br />[[城北中継局|城北]]
|デジタル||49ch||51ch|| - || - || - || - ||0.05W||rowspan="2"|水平||rowspan="2"|御幸1丁目
|-
|アナログ||41ch||39ch|| - ||47ch||32ch||34ch||NHK3W/民放10W
|-
!松山高浜
|アナログ||55ch||57ch|| - || - || - || - ||10W||垂直||興居島
|-
!松山湯山
|アナログ||51ch||53ch|| - || - || - || - ||3W||水平||上高野町
|-
!松山窪野
|アナログ||52ch||50ch|| - || - || - || - ||1W||水平||久谷町
|-
! 松山福角
|アナログ||60ch||62ch|| - || - || - || - ||0.5W||水平||福角町
|-
! 松山北吉田
|アナログ||60ch||62ch|| - || - || - || - ||0.5W||水平||高岡町
|-
! 松山祝谷
|アナログ||54ch||61ch||58ch||56ch||48ch||46ch||0.1W||水平||山田町
|-
!rowspan="2"|北条
|デジタル||16ch||13ch||20ch||27ch||21ch||17ch||1W||rowspan="2"|垂直||rowspan="2"|[[北条鹿島]]
|-
|アナログ||39ch||41ch||43ch||56ch||61ch||46ch||10W
|-
! rowspan="2" | 北条立岩
|デジタル||60ch||62ch||55ch||58ch|| - || - ||1W||水平||rowspan="2"|滝本
|-
|アナログ||7ch||1ch||11ch||51ch|| - || - ||V1W/U3W||V垂直/U水平
|-
!rowspan="2"|北条浅海
|デジタル||16ch||13ch||45ch||36ch|| - || - ||0.1W||rowspan="2"|水平||rowspan="2"|浅海本谷
|-
|アナログ||39ch||41ch||47ch||49ch|| - || - ||1W
|}
{{Col|
; AMラジオ放送(県内波)
* [[NHK松山放送局|NHK松山]][[NHKラジオ第1放送|ラジオ第1]]:963kHz([[NHK針田ラジオ放送所|松山局]] 出力5kW)
* NHK松山[[NHKラジオ第2放送|ラジオ第2]]:1512kHz(松山局 出力5kW)
* 南海放送ラジオ:1116kHz([[RNB松山ラジオ送信所|松山局]] 出力5kW), 91.7MHz (Fnam エフナン, FM補完中継局 出力1kW)
|
; FMラジオ放送(県内波)
* NHK松山[[NHK-FM放送|FM放送]]:87.7MHz([[松山親局送信所|松山局]] 出力1kW)
* [[エフエム愛媛|FM愛媛]]:79.7MHz(松山局 出力1kW)
}}{{clear}}
{{Col|
; AMラジオ放送(県外波)
* [[NHK広島放送局|NHK広島]]ラジオ第1:1071kHz([[NHK祇園ラジオ放送所|広島局]] 出力20kW)
* NHK広島ラジオ第2:702kHz(広島局 出力10kW)
* [[中国放送]]ラジオ:1350kHz([[RCC沖美ラジオ送信所|広島局]] 出力20kW)
* [[NHK山口放送局|NHK山口]]ラジオ第1:585kHz(岩国局 出力300kW)
* [[山口放送]]ラジオ:918kHz(岩国局 出力1kW)
* [[NHK大分放送局|NHK大分]]ラジオ第1:639kHz([[NHK平原ラジオ放送所|大分局]] 出力5kW)
* NHK大分ラジオ第2:1467kHz(大分局 出力1kW)
* [[大分放送]]ラジオ:1098kHz([[OBS杵築ラジオ放送所|大分局]] 出力5kW)
* [[NHK高知放送局|NHK高知]]ラジオ第1:990kHz([[高知ラジオ送信所|高知局]] 出力10kW)
* NHK高知ラジオ第2:1152kHz(高知局 出力10kW)
* [[高知放送]]ラジオ:900kHz([[高知ラジオ送信所|高知局]] 出力5kW)
* [[NHK福岡放送局|NHK福岡]]ラジオ第1:612kHz([[NHK春日ラジオ放送所|福岡局]] 出力100kW)
* NHK福岡ラジオ第2:1017kHz(福岡局 出力50kW)
* [[RKBラジオ]]:1278kHz([[RKB・KBC和白ラジオ放送所|福岡局]] 出力50kW)
* [[KBCラジオ]]:1413kHz(福岡局 出力50kW)
|
; FMラジオ放送(県外波)
* NHK広島FM放送:88.3MHz([[広島親局送信所|広島局]] 出力1kW)
* [[広島エフエム放送|広島FM]]:78.2MHz(広島局 出力1kW)
* NHK山口FM放送:85.3MHz([[大平山 (防府市)|山口局]] 出力500W)
* [[エフエム山口|FM山口]]:79.2MHz(山口局 出力1kW)
* NHK大分FM放送:88.9MHz([[十文字原テレビ・FM放送所|大分局]] 出力1kW)
* [[エフエム大分|FM大分]]:88.0MHz(大分局 出力1kW)
}}{{clear}}
== 観光 ==
=== 温泉施設 ===
<!--道後温泉本館の写真変更の際は「道後温泉本館」のノートでの論議をお願いします。-->
[[ファイル:Dōgo Onsen.jpg|thumb|right|日本最古温泉・道後温泉]]
* [[道後温泉本館]]([[近代化産業遺産]])重要文化財
[[File:Dougoonsen asukanoyu20220823 1.jpg|thumb|道後温泉別館 飛鳥乃湯泉]]
* 道後温泉別館 飛鳥乃湯泉
* [[権現温泉]]
* [[奥道後温泉]]
* [[媛彦温泉]]
* 天然温泉キスケの湯、[[キスケBOX]]内
* [[東道後温泉]]([[東道後のそらともり]]・[[鷹子温泉|たかの子温泉]])
* [[星岡温泉]]
* ていれぎの湯
* たかのこの湯
* ゆらら
* 古川温泉湯楽
* 天山トロン温泉
* 久万の台温泉(民芸[[伊予絣|伊予かすり]]会館の奥)
{{Main2|中島地区(旧・中島町)の観光地など|忽那諸島}}
=== 社寺 ===
[[ファイル:Isaniwajinjaroumon.JPG|thumb|right|伊佐爾波神社(道後)]]
* [[伊佐爾波神社]](本殿などが重要文化財)
* [[伊予豆比古命神社]](椿神社)
* [[宝厳寺 (松山市)|宝厳寺]]([[一遍|一遍上人]]生誕地)
* [[大宝寺 (松山市)|大宝寺]](本堂は[[国宝]])
* 興聖寺 - [[赤穂浪士]]の[[木村貞行]]と[[大高忠雄]]の遺髪を埋葬した供養碑がある。
[[ファイル:Saihou-ji(Temple) Matsuyama City.JPG|thumb|right|薄墨桜で有名な西法寺]]
* 西法寺(薄墨桜)
* [[四国八十八箇所]]
** 46番札所 医王山[[浄瑠璃寺 (松山市)|浄瑠璃寺]]
** 47番札所 熊野山[[八坂寺 (松山市)|八坂寺]]
** 48番札所 清瀧山[[西林寺 (松山市)|西林寺]]
** 49番札所 西林山[[浄土寺 (松山市)|浄土寺]]
** 50番札所 東山[[繁多寺]]
** 51番札所 熊野山[[石手寺]]
** 52番札所 瀧雲山[[太山寺 (松山市)|太山寺]]
** 53番札所 須賀山[[円明寺]]
* [[四国別格二十霊場]]
** 9番札所 [[文殊院 (松山市)|文殊院徳盛寺]]
* [[新四国曼荼羅霊場]]
** 43番札所 青龍山[[蓮生寺 (松山市)|蓮生寺]]
** 44番札所 栴壇山[[長楽寺 (松山市)|長楽寺]]
* [[四国三十六不動霊場]]
** 19番札所 七宝山[[玉蔵院 (松山市)|玉蔵院]]
=== 城跡 ===
* [[松山城 (伊予国)|松山城]](国の史跡・重要文化財)
** [[松山城山公園|城山公園]]([[城山 (松山市)|城山]]・[[松山城二之丸史跡庭園|二之丸史跡庭園]]・堀之内)
* [[道後公園]]([[湯築城]]跡・国[[史跡]])
===公園===
* [[松山総合公園]] - 松山市市街地西部の大峰ヶ台(標高131m)にある公園。[[西洋]]の古城風の展望台があり、360度の眺望は[[夜景]]も含めすばらしいものがある(入場無料)。また付近には、松山市考古館・埋蔵文化財センターもある。
* [[松山中央公園]]([[松山中央公園野球場|坊っちゃんスタジアム]]・[[アクアパレットまつやま]]・[[愛媛県武道館]]・[[松山競輪場]]ほか)
* [[湧ヶ淵]]公園- [[石手川]]の流域にある渓谷。[[石手川ダム]]の約2km下流で、[[ホテル奥道後]]のすぐ上にある。
=== 博物館・美術館など ===
* [[愛媛県立図書館]]
* [[愛媛県美術館]]
** [[萬翠荘]](愛媛県美術館別館)- 設計:[[木子七郎]]
* [[坂の上の雲ミュージアム]]
* 道後ぎやまんガラス美術館
* セキ美術館
* [[松山市立子規記念博物館]]
** [[愚陀仏庵]] - 夏目漱石ゆかりの建物で、部屋の様子が子規記念博物館内に再現されている。
* [[伊丹十三記念館]]
* [[子規堂]]
* ロシア人墓地 - [[日露戦争]]で捕虜となり、松山で客死したロシア人捕虜を葬る。
* ミウラート・ヴィレッジ(三浦美術館)
* エリエール美術館
{{Gallery
|Matsuyama castle(Iyo)Ninomaru historical site.JPG|松山城二之丸史跡庭園の大井戸
|Matsuyama Central Park1(Matsuyama City).JPG|松山総合公園[[展望台]]
|Ug081220 Bansuisou01.jpg|萬翠荘(旧久松家別邸)
|ITAMI JUZO MUSEUM(Matsuyama-City).JPG|伊丹十三記念館
}}
=== その他 ===
* [[杖ノ淵公園]](ていれぎの里)- 南部の郊外にある湧水公園。子どもが遊ぶことができる親水設備あり。
* [[松山市総合コミュニティセンター]]([[プラネタリウム]]・こども館・[[温水プール]]・[[松山市立中央図書館]]ほか)
* [[伊予絣|伊予かすり会館]]
* 一草庵 - [[種田山頭火]](俳人)晩年の地。5月1日から3日と11月1日から3日の年2回のみ公開。
* {{仮リンク|庚申庵|en|Kōshin-an}} - [[小林一茶]]と交流のあった{{仮リンク|栗田樗堂|en|Kurita Chodō}}の史跡庭園
* [[豊島家住宅]](重要文化財)
* [[えひめこどもの城]](県営の児童館など)
* [[ターナー島]]([[四十島]]:国の[[登録記念物]])、高浜港の沖にある
* [[道の駅風早の郷風和里]] - 道をはさんで海水浴場やスーパー銭湯があり、北条鹿島も眺望できる。
* [[北条鹿島]] - 国立公園
{{Gallery
|Jonofuchi Park.JPG|杖ノ淵公園([[名水百選]])
|File:Kodomonosiro20220815 2.jpg|えひめこどもの城
|Shiju-shima (Turner island) Matsuyama-City.JPG|ターナー島(国の[[登録記念物]])
|File:Houzyokasima20220823.jpg|北条鹿島
}}
=== 銘菓 ===
* [[タルト (郷土菓子)|タルト]] - これを元にしたキャラクター「[[タルト (キャラクター)|タルト]]」も存在する。
* [[坊っちゃん団子]]
* [[母恵夢]](ポエム)
* [[薄墨羊羹]]
* [[労研饅頭]](ろうけんまんとう)
* [[醤油餅]]
* [[日切焼]](ひぎりやき)
{{Gallery
|Taruto,Matsuyama-city,Japan.JPG|タルト
|Botchan-Dango(a Japanese Cake of Matsuyama City).JPG|坊っちゃん団子
|Poeme(a Japanese Cake of Matsuyama City).JPG|母恵夢
|Shoyu-Mochi(a Japanese Cake of Matsuyama City).JPG|醤油餅
}}
=== 百選など ===
* [[国際観光文化都市|松山国際観光温泉文化都市建設法]](昭和26年)
* [[名水百選|日本名水百選]](昭和60年):[[杖ノ淵公園]]
* [[日本さくら名所100選]](平成元年):[[松山城山公園|城山公園]]
* [[日本の音風景100選]](平成8年):[[道後温泉本館]]振鷺閣の刻太鼓
* [[日本100名城]](平成18年):[[湯築城]](80番)・[[松山城 (伊予国)|松山城]](81番)
* [[日本の歴史公園100選]](平成18年):城山公園
* [[美しい日本の歴史的風土100選]](平成19年):松山城・[[道後温泉]]
*「松山のまちをみんなで美しくする条例」([[美観条例]])が施行されており、全市域で煙草の投げ捨てなどが禁止されているほか、違反すれば2万円以下の罰金が科せられる場合がある(即罰金ではなく「度重なる警告を受け」た場合に該当する)。なお、同条例では「国際観光温泉文化都市松山」といった記述がなされている。
*松山市には松山城が有り、景観保護のための建物高さ制限がある<ref>{{Cite news
|url = http://www.city.matsuyama.ehime.jp/shisei/machizukuri/toshikeikaku/keikan/keikaku/keikankeikaku_sassi.files/053kouiseigena.pdf
|title = 松山市景観計画冊子 第3章 行為の制限に関する事項
|work = 松山市ホームページ
|newspaper = 松山市ホームページ
|date =
|accessdate = 2013-11-24
}}</ref>。商業施設ではいよてつ高島屋のくるりんを含めた85(海抜106)メートル、マンションではシティータワー松山の59メートルが最も高い建物である{{要出典|date=2011年8月}}。出典 景観法(市役所前榎町通り景観計画)
=== 祭事 ===
* 初子祭(1月成人式連休日)
* [[伊豫豆比古命神社#椿まつり|椿祭り]]
* 松山春まつり(道後温泉まつり・[[お城まつり]]))<ref group="*">2011年は、東北地方太平洋沖地震の被害の大きさを考慮して中止となった。</ref>。
* [[鐘馗]]祭(7月11・12日)
* 天神祭(7月24・25日)
* [[松山港まつり]]花火大会
* [[松山まつり]]
* お日切りさん(8月23・24日)
* 松山秋まつり(10月5・6・7日)
== 出身の人物 ==
=== 歴史上の人物 ===
<!-- 50音順 -->
* [[大森彦七]] - 新[[歌舞伎]]の18番の1つ、鬼婆退治
* [[原田左之助]] - [[新撰組]]副長助勤十番隊隊長種田流槍術
=== 政治・行政 ===
<!-- 50音順 -->
* [[池内沙織]] - 元[[衆議院議員]]
* [[大西証史]] - [[内閣総務官]]、[[内閣人事局]]人事政策統括官
* [[勝田主計]] - 元[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[政治家]]
* [[田和宏]] - 第12代[[内閣府事務次官]]、元[[内閣府審議官]]、元[[内閣府政策統括官(経済社会システム担当)]]、元内閣府政策統括官(経済財政分析担当)、元[[内閣府大臣官房]][[総括審議官]]
* [[東条貞]] - 元[[立憲政友会]]所属代議士
* [[友近聡朗]] - 元[[参議院議員]]、元[[サッカー選手]]([[愛媛FC]])
=== 軍人 ===
<!-- 50音順 -->
* [[秋山真之]] - [[海軍中将]]
* [[秋山好古]] - [[陸軍大将]]
* [[佐々木到一]] - [[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]
* [[白川義則]] - 陸軍大将
=== 実業家 ===
<!-- 50音順 -->
* [[小笠原浩]] - [[安川電機]]社長、[[日本ロボット工業会]]会長
* [[小山久二郎]] - [[小山書店]]創業者
* [[亀井範雄]] - [[東邦テナックス]]社長
* [[高須賀宣]] - [[サイボウズ]]創業者
* [[新田長次郎]] - [[ニッタ]]創業者
* [[新田仲太郎]] - 内外汽船社長、新田汽船代表
* [[真鍋賢行]] - [[エコールソフトウェア]]創業者
=== 学者・教育者 ===
<!-- 50音順 -->
* [[安倍能成]] - [[哲学|哲学者]]
* [[江頭進]] - [[経済学者]]
* [[鹿島愛彦]] - [[地質学者]]
* [[淡中忠郎]] - [[数学者]]
* [[中野好夫]] - [[英文学者]]
* [[山岡均]] - [[日本の天文学者の一覧|天文学者]]
=== 医学 ===
<!-- 50音順 -->
* [[笠陽一郎]] - [[精神科医]]
=== 料理家 ===
<!-- 50音順 -->
* [[平野寿将]] - [[料理家]]
=== 棋士 ===
* [[黒田尭之]]:[[将棋棋士]]
* [[山根ことみ]]:[[将棋]][[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]
=== 能楽 ===
<!-- 50音順 -->
* [[宝生弥一]] - [[能楽師]]
=== 俳人 ===
<!-- 50音順 -->
* [[石田波郷]] - [[俳人]]
* [[河東碧梧桐]] - 俳人
* [[高浜虚子]] - 俳人
* [[正岡子規]] - 俳人
=== 歌人 ===
<!-- 50音順 -->
* [[坂井修一]] - [[歌人]]、[[情報]][[科学者]]
=== 画家 ===
<!-- 50音順 -->
* [[古茂田守介]] - [[洋画家]] ※旧・[[道後村]]出身
* [[重松鶴之助]] - [[画家]]
* [[柳瀬正夢]] - 洋画家
=== 作家 ===
<!-- 50音順 -->
* [[宇佐美まこと]] - [[小説家]]
* [[敷村良子]] - 作家、[[コピーライター]]
* [[洲之内徹]] - [[随筆家]]([[愛媛県立松山東高等学校]]校歌の作詞者)
* [[天童荒太]] - 作家
* [[伴野朗]] - 作家
* [[星田三平]] - 作家
* [[松浦理英子]] - 作家
* [[矢野徹]] - 小説家
* [[吉村萬壱]] - 作家、[[芥川龍之介賞|芥川賞]]受賞
=== 漫画家 ===
<!-- 50音順 -->
* [[青木琴美 (漫画家)|青木琴美]] - [[漫画家]]
* [[小林有吾]] - 漫画家
* [[杉作J太郎]] - 漫画家、[[編集者]]
* [[高須賀由枝]] - 漫画家
* [[能田達規]] - 漫画家
* [[八木ちあき]] - 元漫画家
* [[和田ラヂヲ]] - 漫画家
=== イラストレーター ===
<!-- 50音順 -->
* [[コンドウアキ]] - [[イラストレーター]]
=== デザイナー ===
<!-- 50音順 -->
* [[杉浦非水]] - [[グラフィックデザイナー]]
=== 映画監督 ===
<!-- 50音順 -->
* [[伊丹万作]] - [[映画監督]]
* [[黒田義之]] - 映画監督
* [[玉井正夫]] - 撮影監督
* [[森一生]] - 映画監督
* [[和田嘉訓]] - 映画監督
=== 放送作家 ===
<!-- 50音順 -->
* [[栗坂祐輝]] - [[放送作家]]、[[CMプランナー]]、[[脚本家]]、[[ディレクター]]
=== 俳優・声優 ===
<!-- 50音順 -->
* [[石田政博]] - [[俳優]]
* [[金子正次]] - 俳優
* [[河上君榮]] - [[俳優#性別での分類|女優]]
* [[桑田尚樹]] - 俳優、[[モデル (職業)|モデル]]
* [[笹岡征矢]] - [[ミュージカル]]俳優
* [[玉井晴章]] - ミュージカル俳優
* [[丹下博喜]] - ミュージカル俳優
* [[古川伴睦]] - 俳優、[[声優]]
* [[松澤一之]] - 俳優
* [[松山容子]] - 女優
* [[丸山定夫]] - 俳優
=== タレント ===
<!-- 50音順 -->
* [[青田典子]] - [[タレント]] 元・[[C.C.ガールズ]]
* [[愛の葉Girls]] - [[ローカルアイドル]]
* [[原田真緒]] - [[グラビアアイドル]]
* [[ひめキュンフルーツ缶]] - ローカルアイドル
=== お笑い芸人 ===
<!-- 50音順 -->
* [[せめる。]]([[もも (お笑いコンビ)|もも]])- [[お笑い芸人]]([[吉本興業]])
* [[武智正剛]]([[スーパーマラドーナ]]) - お笑い芸人(吉本興業)
* [[友近]] - お笑い芸人(吉本興業)
* 前田龍二(シモリュウ)- お笑い芸人(吉本興業)
=== モデル ===
<!-- 50音順 -->
* [[ラブリ]]/白濱イズミ - モデル、タレント、[[歌手]]
=== 歌手 ===
<!-- 50音順 -->
* [[宇都宮さだし]] - 元歌手
* [[大森靖子]] - 歌手
* [[加藤いづみ]] - 歌手
* [[白濱亜嵐]] - 歌手([[GENERATIONS from EXILE TRIBE]]/[[EXILE]])
* [[日野てる子]] - 元歌手
* [[山口由子]] - 歌手
* R!N (Gemie) - 歌手([[Aldious]]ボーカル)
=== ラジオパーソナリティ ===
<!-- 50音順 -->
* [[わたなべヨシコ]] - フリーランス[[ラジオパーソナリティ]]、[[セミナー]][[講師 (教育)|講師]]、[[イベント]][[司会|MC]]、[[コマーシャルメッセージ|CM]][[ナレーター]]、[[WEB]][[オペレーター]]、[[バンド (音楽)|バンド]][[ミュージシャン]]
=== アナウンサー ===
<!-- 50音順 -->
* [[安部みちこ]] - [[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]]
* [[井関裕貴]] -[[秋田放送]]アナウンサー
* [[岡内ひかり]]‐[[南海放送]]アナウンサー
* [[首藤奈知子]] - NHKアナウンサー
* [[田中千佳]] - [[富山エフエム放送]]アナウンサー
* [[鶴木陽子]] - 、元[[中京テレビ放送]]アナウンサー
* [[藤村真知子]] - [[フリーアナウンサー]]
* [[本田朋子]] - フリーアナウンサー、元[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー
* [[八塚彩美]] - [[朝日放送テレビ]]アナウンサー
* [[山岡三子]] - 女優、フリーアナウンサー
=== ジャーナリスト ===
<!-- 50音順 -->
* [[小川泰平]] : 元[[神奈川県警察|神奈川県警]]刑事、[[犯罪]][[ジャーナリスト]]
=== スポーツ ===
; 相撲
<!-- 50音順 -->
* [[射水川成吉]] - 大相撲力士
* [[武蔵海豊]] - 大相撲力士、[[藤島部屋]]所属、最高位幕下6枚目。
; 剣道
<!-- 50音順 -->
* [[大城戸功]] - [[剣道]]選手(世界選手権個人優勝)
; 柔道
<!-- 50音順 -->
* [[中矢力]] - [[柔道家]](73kg級世界チャンピオン)
* [[南條充寿]] - 柔道家(全日本女子ナショナルチーム監督)
* [[棟田康幸]] - 柔道家(元100kg超級および無差別世界チャンピオン)
; 野球
<!-- 50音順 -->
* [[沖原佳典]] - 元[[プロ野球選手]]([[内野手]]、[[阪神タイガース]]、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]])
* [[景浦將]] - 元プロ野球選手(内野手、阪神タイガース)
* [[佐野慈紀]] - 元プロ野球選手([[投手]]、[[大阪近鉄バファローズ]])
* [[筒井和也]] - 元プロ野球選手(投手、阪神タイガース)
* [[西本聖]] - 元プロ野球選手(投手、[[読売ジャイアンツ]])
* [[西山道隆]] - 元プロ野球選手(投手、[[福岡ソフトバンクホークス]])
* [[藤本定義]] - 元[[日本プロ野球|プロ野球]][[プロ野球監督|監督]](読売ジャイアンツ初代監督)
* [[藤原満]] - 元プロ野球選手(内野手、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]])
; サッカー
<!-- 50音順 -->
* [[前野貴徳]] - サッカー選手(愛媛FC)
* [[松下佳貴]] - サッカー選手([[ベガルタ仙台]])
; バレーボール
<!-- 50音順 -->
* [[佐伯美香]] - [[バレーボール]]、[[ビーチバレー]]
; バスケットボール
<!-- 50音順 -->
* [[門屋加壽子]] - [[バスケットボール]]、元・[[ユニチカ・フェニックス (バスケットボール)|ユニチカ]]、モントリオールオリンピック代表
* [[橋本尚明]] - バスケットボール選手
; ボクシング
<!-- 50音順 -->
* [[浜田吉治郎]] - [[アマチュアボクシング]]選手、東京オリンピック日本代表
; レスリング
<!-- 50音順 -->
* [[村田夏南子]] - [[レスリング]]選手(55kg級世界ジュニアチャンピオン)
; プロレス
<!-- 50音順 -->
* [[藤田あかね]] - [[女子プロレスラー]]([[プロミネンス]]所属)
; ゴルフ
<!-- 50音順 -->
* [[松山英樹]] - [[プロゴルファー]]
; スノーボード
<!-- 50音順 -->
* [[青野令]] - [[スノーボーダー]]
; フィギュアスケート
<!-- 50音順 -->
* [[島田高志郎]] - [[フィギュアスケート]]選手
; マラソン
<!-- 50音順 -->
* [[土佐礼子]] - [[マラソン]][[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]代表(旧・[[北条市]]出身)
; 競艇
<!-- 50音順 -->
* [[平高奈菜]] - [[競艇選手]]([[丸亀競艇場|香川支部]]所属)
; 騎手
<!-- 50音順 -->
* [[山本正司]] - [[中央競馬]][[騎手]]・[[調教師]]
; レーサー
<!-- 50音順 -->
* [[玉田誠]] - [[ロードレース世界選手権|オートバイ]]レーサー
=== その他 ===
* [[福田和子]] - [[ホステス]]
* [[三好浩子]] - [[1990年]][[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本代表]]
== ゆかりある人物 ==
* [[光定 (僧)|光定]] - 伊予国風早郡出身。日本天台宗の祖である[[最澄]]に師事。
* [[松本山雪]] - 松山藩主・[[松平定行]]に仕えた[[御用絵師]]。馬の絵で知られる。
* [[夏目漱石]] - 作家(松山中学校に赴任、小説「[[坊つちやん|坊っちゃん]]」を執筆)
* [[種田山頭火]] - 俳人(松山を終焉の地に選ぶ)
* [[木子七郎]] - 建築家([[新田長次郎]]の娘婿)
* [[松平定知]] - NHKアナウンサー
* [[森生まさみ]] - 漫画家(高校生までは内子町に在住)
* [[早坂暁]] - 作家(旧・[[北条市]]出身)
* [[大江健三郎]] - 作家(松山東高に在学中、松山市内に下宿していた)
* [[高須賀由枝]] - 漫画家
* [[山本薩夫]] - 映画監督
* [[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]] - 映画監督
* [[三橋美智也]] - 歌手(秋まつりに欠かせない「神輿音頭」を歌う)
* [[SKRYU]] - ラッパー 島根県出身 (ラップを始めたのは松山市。2018年から[[ULTIMATE MC BATTLE]]に3年連続愛媛県代表として出場している(2020年はベスト4)
* [[廣瀬悠]]・[[廣瀬順子]] - 松山市を拠点に活動する柔道家夫婦
* [[住谷悦治]]:[[松山高等商業学校]](現:[[松山大学]])教授
* [[服部嘉香]]:[[国語学者]]、[[詩人]]。[[日本詩人クラブ]]理事長。正岡子規の遠戚で、[[愛媛県立松山東高等学校|松山中学校]]出身
* [[乗松雅休]]:日本で最初の海外伝道者、明治時代の前代未聞のこと。
* [[二宮邦次郎]]:[[日本基督教団松山教会|松山教会]]牧師、松山女学校(現:[[学校法人松山東雲学園|松山東雲学園]])創設者
* [[コーネリア・ジャドソン|コーネリア・ジャジソン]]:女性宣教師、普通夜学会(現:[[松山学院高等学校]])創設者
* [[シドニー・ギューリック]]:[[アメリカン・ボード]]宣教師
== 名誉市民 ==
* [[柳原極堂]](正之)- 俳人。[[1957年]](昭和32年)[[7月1日]]選定、[[慶応]]3年に温泉郡北京町(現・松山市二番町)で生誕。
* 景浦稚桃(直孝)- 史家。[[1960年]](昭和35年)[[1月4日]]選定、[[1875年]](明治8年)に松山市北夷子町で生誕。
* [[西村清雄]]
* 黒田政一 - 松山市長を歴任
* [[久松定武]] - 県知事を歴任
* [[宇都宮孝平]] - 松山市長を歴任
* [[ヘルマン・ファン・ロンパウ]] - 特別名誉市民<ref>{{Cite news
|url = http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131118-08979401-ehime-l38&pos=1
|title = 俳句が縁 EU大統領が松山訪問
|work = Yahoo!ニュース
|newspaper = [[愛媛新聞]]
|date = 2013-11-19
|accessdate = 2013-11-19
}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=*}}
=== 出典 ===
{{Reflist|35em}}
== 関連項目 ==
{{Multimedia|松山市の画像}}
{{Sisterlinks
|commons=Matsuyama, Ehime
|commonscat=Matsuyama,_Ehime
|q=no
|v=no
|voy=ja:松山市
|d=Q200022
}}
{{See also|Category:松山市}}
* [[松山市の防災]]
* [[:Category: 松山市の画像|松山市の画像]]
* [[秘密戦隊ゴレンジャー 爆弾ハリケーン]]
* [[東松山市]]
* [[ソローキンの見た桜]]
== 外部リンク ==
{{osm box|r|4050217}}
;行政
* {{Official website}}
** [https://matsuyama-sightseeing.com/ 松山市観光公式サイト(松山市 産業経済部 観光・国際交流課)]
** {{ウィキトラベル インライン|松山市|松山市}}
{{日本の都道府県庁所在地}}
{{日本の中核市}}
{{日本50大都市}}
{{愛媛県の自治体}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:まつやまし}}
[[Category:愛媛県の市町村]]
[[Category:松山市|*]]
[[Category:城下町]]
[[Category:都道府県庁所在地]]
[[Category:中核市]]
[[Category:日本の港町]]
[[Category:索道事業者]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
|
2003-09-18T22:36:20Z
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2023-12-10T06:28:55Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%B8%82
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17,325 |
未成年 (曖昧さ回避)
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未成年(みせいねん)
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未成年(みせいねん) 未成年者 - 成年に至らない者のこと。
未成年者喫煙禁止法
未成年者飲酒禁止法
未成年後見人
未成年 (ドストエフスキー) - フョードル・ドストエフスキーの小説。
未成年 (マキューアン) - イアン・マキューアンの小説。原題 The Children Act。
未成年 (映画) - 日活1955年製作/公開。
未成年 (テレビドラマ) - TBS系列で1995年に放送されていたテレビドラマ。
未成年 (岩崎宏美の曲) - 岩崎宏美のシングル。
未成年 - the GazettEのシングル。
未成年 (柴田淳の曲) - 柴田淳のシングル。
未成年 (大江千里のアルバム) - 大江千里のアルバム。
未成年 - B'zの曲。アルバム『 The 7th Blues』に収録。
|
'''未成年'''(みせいねん)
*[[未成年者]] - [[成年]]に至らない者のこと。
**[[二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律|未成年者喫煙禁止法]]
**[[二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律|未成年者飲酒禁止法]]
**[[未成年後見人]]
*[[未成年 (ドストエフスキー)]] - [[フョードル・ドストエフスキー]]の[[小説]]。
*{{ill2|未成年 (マキューアン)|en|The Children Act (novel)}} - [[イアン・マキューアン]]の小説。原題 ''The Children Act''。
*[[未成年 (映画)]] - [[日活]]1955年製作/公開。
*[[未成年 (テレビドラマ)]] - [[TBSテレビ|TBS]]系列で[[1995年]]に放送されていた[[テレビドラマ]]。
*[[未成年 (岩崎宏美の曲)]] - [[岩崎宏美]]のシングル。
*[[未成年 (the GazettEの曲)]] - [[the GazettE]]のシングル。
*[[未成年 (柴田淳の曲)]] - [[柴田淳]]のシングル。
*[[未成年 (大江千里のアルバム)]] - [[大江千里 (アーティスト)|大江千里]]のアルバム。
*未成年 - [[B'z]]の曲。アルバム『[[ The 7th Blues]]』に収録 。
{{aimai}}
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[[Category:同名の作品]]
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17,326 |
JRE
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JRE
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JRE 東日本旅客鉄道の略称。
Java Runtime Environment - Java実行環境。
「Jr.English」の略。
ジャパン・リニューアブル・エナジー
|
'''JRE'''
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本、JR EAST)の略称。
* [[Java Runtime Environment]] - [[Java]]実行環境。
* 「Jr.English」の略。
* [[ジャパン・リニューアブル・エナジー]] (Japan Renewable Energy)
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[[Category:頭字語]]
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17,327 |
JR東日本E993系電車
|
E993系電車(E993けいでんしゃ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が次世代通勤車両を目指して技術開発を行っていた試験用電車である。2002年(平成14年)1月に5両編成1本が製造され、「ACトレイン」(エーシートレイン)の愛称が与えられていた。
AC は Advanced Commuter (進化した通勤列車)を意味する。車両のデザイン開発はGKインダストリアルデザインが担当した。
元々は山手線に投入する車両について技術導入するための研究であったが、2001年(平成13年)度 - 2004年(平成16年)度のE231系500番台車両導入に伴い中央線快速や埼京線に投入する車両を考慮した開発に変化していった。試験車両であるため、同一の編成内に内装・外装・車体構造(工法、材質)などに複数のバリエーションを有していた。
新製から廃車まで埼京・川越線の川越電車区(現・川越車両センター)に所属し、試験走行が埼京線や中央本線で行われた。
編成は クハE993形 + サハE993形 + モハE993形 + モハE992形 + クハE992形 の5両で構成されていた。
客用扉は、サハE993形以外は客室空間の拡大を狙った外吊り式である。台車にはJRの在来線用電車としては採用例の少ない連接構造を採用し、さらに東芝が開発・製造したDDM(Direct Drive Motor:直接駆動式モーター)を採用しており、メンテナンスの省力化と騒音の減少効果を狙っていた。中間車の一部には特急タイプの内装が施されており、パソコン用電源やモニタ画面が設置されていた。車体にはJR東日本のコーポレートカラーである緑色の帯が扉部分にも巻かれていた。
運転室はクハE992形が一般的な高さの運転台、クハE993形は高運転台構造になっており、クハE992形ではグラスコックピットを導入した。前面の行先表示器にはフルカラーLED式を採用した。そのほかATS-P車上装置では先頭部の制御装置が故障しても最後部の装置で運転が可能なようにバックアップ機能を導入した。
室内の座席はサハE993形を除いてロングシート。視覚障害者への配慮として一部の扉にはドア開閉灯を設置したり、ユニバーサルデザインとして一部のつり革の色を黒色とするほか、ドア付近に黄色いペイントを施して目立たせていた。
また、一部車両ではドア制御ができなくなった際に隣接する制御装置を使用するバックアップ機能を導入していた。
モハE993形は、当時の東急車輛製造、新日本製鐵とJR東日本の3社の共同研究により製造された、世界で初めて構体にレーザ溶接を採用したステンレス車両である。
2004年以降に製造された車両から当系列の試験結果を一部反映した車両が登場している。
同年度以降に国府津車両センターと小山車両センター向けに投入されたE231系近郊タイプにはグラスコックピット・ドア開閉灯・ドア制御のバックアップ機能が反映された。そして、2005年(平成17年)7月9日から常磐線で営業運転を開始したE531系には、つり革の形状変更やバリアフリー対策による車内ドア回りの視認性向上も反映された。さらに、2006年(平成18年)10月に落成し、同年12月26日から中央線快速で営業運転を開始したE233系においては、前述の2系列で反映された機能に加え、フルカラーLED表示器についても反映された。
また、連接構造やDDMといった当系列で試験された技術の実用化を検証するための営業用車両として、2006年3月にE331系量産先行車が落成し、翌2007年(平成19年)3月18日から京葉線で営業運転が開始された。
2006年7月12日 - 13日にかけて川越車両センターから郡山総合車両センターへ回送され、翌14日付で廃車された。その後同年7月22日の同センターの一般公開時に最後の展示が行われ、公開終了後の同年9月下旬に解体された。
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"text": "室内の座席はサハE993形を除いてロングシート。視覚障害者への配慮として一部の扉にはドア開閉灯を設置したり、ユニバーサルデザインとして一部のつり革の色を黒色とするほか、ドア付近に黄色いペイントを施して目立たせていた。",
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"title": "成果の反映"
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"text": "また、連接構造やDDMといった当系列で試験された技術の実用化を検証するための営業用車両として、2006年3月にE331系量産先行車が落成し、翌2007年(平成19年)3月18日から京葉線で営業運転が開始された。",
"title": "成果の反映"
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"text": "2006年7月12日 - 13日にかけて川越車両センターから郡山総合車両センターへ回送され、翌14日付で廃車された。その後同年7月22日の同センターの一般公開時に最後の展示が行われ、公開終了後の同年9月下旬に解体された。",
"title": "廃車"
}
] |
E993系電車(E993けいでんしゃ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が次世代通勤車両を目指して技術開発を行っていた試験用電車である。2002年(平成14年)1月に5両編成1本が製造され、「ACトレイン」(エーシートレイン)の愛称が与えられていた。 AC は Advanced Commuter (進化した通勤列車)を意味する。車両のデザイン開発はGKインダストリアルデザインが担当した。
|
{{鉄道車両
| 車両名 = JR東日本E993系電車
| 背景色 = #0C8C11
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = Jreast e993.jpg
| 画像幅 =
| 画像説明 = E993系電車<br/>(2004年6月 [[西国分寺駅]])
| 運用者 = [[東日本旅客鉄道]]
| 製造所 =
| 種車 = <!-- 改造・譲受車向け -->
| 製造年 = 2002年
| 製造数 = 1編成5両
| 改造所 = <!-- 改造・譲受車向け -->
| 改造年 = <!-- 改造車向け -->
| 改造数 = <!-- 改造車向け -->
| 導入年 = <!-- 改造・譲受車向け -->
| 総数 = <!-- 改造・譲受車向け -->
| 運用開始 =
| 運用終了 =
| 廃車 = 2006年7月14日
| 消滅 =
| 投入先 =
| 編成 =
| 軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]
| 電気方式 = [[直流電化|直流]] 1,500 [[ボルト (単位)|V]]
| 最高運転速度 =
| 設計最高速度 = 120 km/h
| 最高速度 =
| 起動加速度 =
| 常用減速度 =
| 非常減速度 =
| 減速度 =
| 編成定員 = 非営業車両
| 車両定員 =
| 荷重 = <!-- 郵便・荷物車向け -->
| 車両重量 =
| 自重 =
| 編成重量 =
| 編成長 =
| 長さ =
| 幅 =
| 高さ =
| 全長 =
| 全幅 =
| 全高 =
| 車体長 = 先頭車 16,050 mm<br>中間車 13,000 mm
| 車体幅 = 3,000 mm
| 車体高 = 3,640 mm
| 床面高さ = 1,150 mm
| 車体 =
| 台車 =
| 主電動機 = 東芝製DDM(直接駆動式同期電動機)
| 主電動機出力 =
| 駆動方式 =
| 歯車比 =
| 出力 =
| 編成出力 =
| 定格出力 =
| 定格速度 =
| 制御方式 =
| 制御装置 =
| 制動装置 =
| 保安装置 =
| 備考 =
| 備考全幅 =
}}
'''E993系電車'''(E993けいでんしゃ)は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が次世代[[通勤車両]]を目指して技術開発を行っていた[[試験車|試験用]][[電車]]である。[[2002年]]([[平成]]14年)1月に5両編成1本が製造され、「'''ACトレイン'''」(エーシートレイン)の[[愛称]]が与えられていた。
AC は ''Advanced Commuter'' (進化した通勤列車)を意味する。車両のデザイン開発は[[榮久庵憲司|GKインダストリアルデザイン]]が担当した。
== 概要 ==
[[ファイル:E993actrainSeat1.JPG|thumb|right|220px|特急タイプの車内]]
[[ファイル:E993actrainSeat2.JPG|thumb|right|220px|モニター画面]]
元々は[[山手線]]に投入する車両について技術導入するための研究であったが、[[2001年]](平成13年)度 - [[2004年]](平成16年)度の[[JR東日本E231系電車#500番台|E231系500番台車両]]導入に伴い[[中央線快速]]や[[埼京線]]に投入する車両を考慮した開発に変化していった。試験車両であるため、同一の編成内に内装・外装・車体構造(工法、材質)などに複数のバリエーションを有していた。
新製から[[廃車 (鉄道)|廃車]]まで埼京・[[川越線]]の川越電車区(現・[[川越車両センター]])に所属し、試験走行が埼京線や[[中央本線]]で行われた。
== 車両概説 ==
編成は クハE993形 + サハE993形 + モハE993形 + モハE992形 + クハE992形 の5両で構成されていた。
客用扉は、サハE993形以外は客室空間の拡大を狙った外吊り式である。台車にはJRの在来線用電車としては採用例の少ない[[連接台車|連接構造]]<!--連接台車は試験用だが591系・E991系で既に採用されている-->を採用し、さらに[[東芝]]が開発・製造したDDM(Direct Drive Motor:[[ダイレクトドライブ|直接駆動式]]モーター)を採用しており、メンテナンスの省力化と騒音の減少効果を狙っていた。中間車の一部には[[特急形車両|特急タイプ]]の内装が施されており、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]用電源やモニタ画面が設置されていた。車体にはJR東日本のコーポレートカラーである緑色の帯が扉部分にも巻かれていた。
運転室はクハE992形が一般的な高さの[[操縦席|運転台]]、クハE993形は高運転台構造になっており、クハE992形では[[グラスコックピット]]を導入した。前面の[[方向幕|行先表示器]]にはフルカラー[[発光ダイオード|LED]]式を採用した。そのほか[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]車上装置では先頭部の制御装置が故障しても最後部の装置で運転が可能なように[[バックアップ]]機能を導入した。
室内の[[鉄道車両の座席|座席]]はサハE993形を除いて[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]。[[視覚障害者]]への配慮として一部の扉にはドア開閉灯を設置したり、[[ユニバーサルデザイン]]として一部の[[つり革]]の色を黒色とするほか、ドア付近に黄色いペイントを施して目立たせていた。
また、一部車両ではドア制御ができなくなった際に隣接する制御装置を使用するバックアップ機能を導入していた。
モハE993形は、当時の[[東急車輛製造]]、[[新日本製鐵]]とJR東日本の3社の共同研究により製造された、世界で初めて構体にレーザ溶接を採用したステンレス車両である<ref>及川昌志,他:「レーザスポット溶接によるステンレス鋼ダブルスキンパネルの開発(第1報)」,精密工学会誌,vol.72,No.12,1515-1519,(2006),(社)精密工学会</ref>。
== 成果の反映 ==
2004年以降に製造された車両から当系列の試験結果を一部反映した車両が登場している。
同年度以降に[[国府津車両センター]]と[[小山車両センター]]向けに投入されたE231系近郊タイプにはグラスコックピット・ドア開閉灯・ドア制御のバックアップ機能が反映された。そして、[[2005年]](平成17年)[[7月9日]]から[[常磐線]]で営業運転を開始した[[JR東日本E531系電車|E531系]]には、つり革の形状変更や[[バリアフリー]]対策による車内ドア回りの視認性向上も反映された。さらに、[[2006年]](平成18年)10月に落成し、同年[[12月26日]]から中央線快速で営業運転を開始した[[JR東日本E233系電車|E233系]]においては、前述の2系列で反映された機能に加え、フルカラーLED表示器についても反映された。
また、連接構造やDDMといった当系列で試験された技術の実用化を検証するための営業用車両として、2006年3月に[[JR東日本E331系電車|E331系]]量産先行車が落成し、翌[[2007年]](平成19年)[[3月18日]]から[[京葉線]]で営業運転が開始された。
<gallery>
画像:L25_Tc993-1_1200.jpg|クハE993-1
画像:L25_T993-1_1200.jpg|サハE993-1
画像:L25_M993-1_1200.jpg|モハE993-1
画像:L25_M992-1_1200.jpg|モハE992-1
画像:L25_Tc992-1_1200.jpg|クハE992-1
画像:L25 993-VVVF 1200.jpg|モハE993-1のVVVF装置
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== 廃車 ==
[[ファイル:JRE_EF_81-95_and_E993_for_scrapping.jpg|thumb|300px|宇都宮 - 郡山はEF81 95牽引で廃車回送]]
2006年[[7月12日]] - [[7月13日|13日]]にかけて川越車両センターから[[郡山総合車両センター]]へ回送され、翌[[7月14日|14日]]付で廃車された。その後同年[[7月22日]]の同センターの一般公開時に最後の展示が行われ、公開終了後の同年9月下旬に解体された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 鉄道ジャーナル社『[[鉄道ジャーナル]]』2002年5月号 No.427
== 関連項目 ==
{{commonscat|JR East E993}}
* [[試験車]]
** [[JR東日本キヤE991形気動車|NEトレイン / NE Train スマート電池くん]]
** [[MUE-Train]]
* [[JR東日本E331系電車]]
{{JR東日本の車両リスト|電車限定=1}}
{{rail-stub}}
{{デフォルトソート:しえいああるひかしにほんE993}}
[[Category:東日本旅客鉄道の電車|993]]
[[Category:2002年製の鉄道車両]]
[[Category:試作車 (鉄道)]]
[[Category:連接式の鉄道車両]]
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2022-08-26T12:43:23Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%ACE993%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
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17,329 |
ドアチャイム
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ドアチャイムとは、鉄道車両・バスなど旅客車の乗降口に設置された、乗客用のドアが開閉する際に鳴る音またはそれを発生させる装置である。
チャイム方式以外にもブザー方式もあるが、本項ではそれらを一括して記述する。
旅客車両の乗降口に設置された車両のドアが開閉する際に鳴る音またはそれを発生させる装置である。ワンマン運転の路線バスや路面電車、ローカル線の列車では、運転席から離れた後部ドアの開閉時にブザーが鳴るが、その設置されているブザーの本体の脇に“扉開閉予告ブザー”と記された銘板を帖付してある乗り合い自動車の車両も見られた。日本での一般の鉄道車両に1990年代から設置されたものはバリアフリーのための装置で、ドアが開閉される際に鳴る音声は、視覚障害者などに対する配慮であり、様々な鉄道事業者の車両で採用されている。
2000年(平成12年)制定の高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法)の、「移動円滑化のために必要な旅客施設及び車両等の構造及び設備に関する基準(平成十二年十一月一日運輸省・建設省令第十号)」により設置が義務付けられたため、同法施行後に製造された車両、大規模な改修工事を行ったすべての車両には一部の例外を除いて設置されている。交通バリアフリー法は2006年(平成18年)に高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律(バリアフリー新法)となったが、扉の開閉を音声で知らせる装備の要求に変化はない。
しかし例外として、京都市交通局20系電車の近鉄線乗り入れ時や札幌市交通局9000形電車は、ドアチャイムが鳴らない。
車両によってチャイムのメロディが異なり、一両の中でも左右のドアで異なる場合や、開閉時で音を分けている車両もある。
なお日本の鉄道車両でドアチャイムを初めて設置したのは1981年の京都市交通局10系電車が最初である(京都市交通局資料より)。
ドアチャイムが鳴るタイミングは、
の3通りがある。
音源は、かつてはメロディICが使用されていたが生産終了となったため、JR東日本E235系電車など、近年の鉄道車両ではPWMを用いた音が多い。東武10000系電車のように車内放送スピーカーと共用する例も存在する。
バスも交通バリアフリー法およびその発展形であるバリアフリー新法の適用対象であるため、構造上著しい困難が伴うなどの事情がない限り、交通バリアフリー法施行後に製造された車両には音声などによりドアの開閉を知らせる装備が設けられている。
現在、泰平電機、ゴールドキング、オージから発売されている。
東武バス・西鉄バス(2008年式9830号車以降の納入車両)・松戸新京成バス・平和交通(スマイリングシャトルの一部とベイタウンバスのみ)・あすか交通(KK-RJ車とPB-HR車のみ)・都営バス・山交バス・横浜市営バス・川崎市営バス(2011年以降の新車)・京都市営バス(ノンステップ車両)・大阪シティバス(廃止された赤バスを除く。ただし、日野・ポンチョIIには装備されていた)・神姫バス(もと姫路市営バス車両と2013年度以降に導入されたジェイ・バスの車両)は、ドアチャイムを導入している。宗谷バスの2010年以降新車購入路線車も導入を始めた。神戸市バスの2012年度導入の車両では、ドアブザーが鳴り始めてすぐにドアチャイムが被さって鳴る。また、遠鉄バスでは1997年以降の新車が原則として超低床ノンステップバスのみになることに伴い、視覚障害者にも低床車だとわかる様に従来のブザーに代わり(コミュニティバス用の中小型車を除いた大型車・中型ロング車では)全車ドアチャイムが採用された。その後、2009年の大型ワンステップバス初導入の際にピンポン+アナウンスタイプが採用され、その後は超低床ノンステップバス・ワンステップバスともにこのタイプとなっている。
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"text": "東武バス・西鉄バス(2008年式9830号車以降の納入車両)・松戸新京成バス・平和交通(スマイリングシャトルの一部とベイタウンバスのみ)・あすか交通(KK-RJ車とPB-HR車のみ)・都営バス・山交バス・横浜市営バス・川崎市営バス(2011年以降の新車)・京都市営バス(ノンステップ車両)・大阪シティバス(廃止された赤バスを除く。ただし、日野・ポンチョIIには装備されていた)・神姫バス(もと姫路市営バス車両と2013年度以降に導入されたジェイ・バスの車両)は、ドアチャイムを導入している。宗谷バスの2010年以降新車購入路線車も導入を始めた。神戸市バスの2012年度導入の車両では、ドアブザーが鳴り始めてすぐにドアチャイムが被さって鳴る。また、遠鉄バスでは1997年以降の新車が原則として超低床ノンステップバスのみになることに伴い、視覚障害者にも低床車だとわかる様に従来のブザーに代わり(コミュニティバス用の中小型車を除いた大型車・中型ロング車では)全車ドアチャイムが採用された。その後、2009年の大型ワンステップバス初導入の際にピンポン+アナウンスタイプが採用され、その後は超低床ノンステップバス・ワンステップバスともにこのタイプとなっている。",
"title": "バスのドアチャイム"
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] |
ドアチャイムとは、鉄道車両・バスなど旅客車の乗降口に設置された、乗客用のドアが開閉する際に鳴る音またはそれを発生させる装置である。 チャイム方式以外にもブザー方式もあるが、本項ではそれらを一括して記述する。
|
{{Otheruses|旅客車両の扉付近に取り付けられ、扉の開閉を主に音で予告する'''ドアチャイム'''|建物の玄関や門などに設置され、訪問者が内部の人を呼び出すために使われる装置|呼び鈴}}
{{複数の問題
|独自研究=2008年6月|
|出典の明記=2015年3月12日 (木) 21:57 (UTC)|
}}
'''ドアチャイム'''とは、[[鉄道車両]]・[[バス (交通機関)|バス]]など[[旅客車]]の乗降口に設置された、乗客用の[[扉|ドア]]が開閉する際に鳴る音またはそれを発生させる装置である。
チャイム方式以外にもブザー方式もあるが、本項ではそれらを一括して記述する。
==概要==
旅客車両の乗降口に設置された車両のドアが開閉する際に鳴る音またはそれを発生させる装置である。[[ワンマン運転]]の[[路線バス]]や[[路面電車]]、ローカル線の列車では、[[操縦席|運転席]]から離れた後部ドアの開閉時にブザーが鳴るが、その設置されているブザーの本体の脇に“扉開閉予告ブザー”と記された銘板を帖付してある乗り合い自動車の車両も見られた。日本での一般の鉄道車両に[[1990年代]]から設置されたものは[[バリアフリー]]のための装置で、ドアが開閉される際に鳴る[[音声]]は、[[視覚障害者]]などに対する配慮であり、様々な[[鉄道事業者]]の車両で採用されている。
[[2000年]](平成12年)制定の[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法)]]の、「移動円滑化のために必要な旅客施設及び車両等の構造及び設備に関する基準(平成十二年十一月一日運輸省・建設省令第十号)」により設置が義務付けられたため、同法施行後に製造された車両、大規模な改修工事を行ったすべての車両には一部の例外を除いて設置されている。交通バリアフリー法は[[2006年]](平成18年)に[[高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律|高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律(バリアフリー新法)]]となったが、扉の開閉を音声で知らせる装備の要求に変化はない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/barrierfree/public-transport-bf/guideline/guidelinesyaryou.pdf|format=pdf|title=公共交通機関の車両等に関する移動等円滑化整備ガイドライン|date=2006-07|accessdate=2015-02-01|page=32}}</ref>。
しかし例外として、[[京都市交通局20系電車]]の近鉄線乗り入れ時や[[札幌市交通局9000形電車]]は、ドアチャイムが鳴らない。
車両によってチャイムのメロディが異なり、一両の中でも左右のドアで異なる場合や、開閉時で音を分けている車両もある。
なお日本の鉄道車両でドアチャイムを初めて設置したのは[[1981年]]の[[京都市交通局10系電車]]が最初である(京都市交通局資料より)。
ドアチャイムが鳴るタイミングは、
* ドアが開閉する直前に鳴る(バスや路面電車の後部ドアのブザーと同じ。鉄道車両では少ない。例;JR九州で使用の国鉄キハ47形式気動車を、ワンマン運転可能工場施工車に設置された。路線バス車両用のブザーで開閉の前に鳴動)
* ドアが開閉しながら鳴る(鉄道車両ではこのタイプが多い)
* ドアが開いている間中ずっと鳴る(各種機械などのドアやフードが開いている警告音としては多く用いられるが、鉄道車両の乗降口用としては一部)
の3通りがある。
音源は、かつては[[メロディIC]]が使用されていたが生産終了となったため、[[JR東日本E235系電車]]など、近年の鉄道車両では[[パルス幅変調|PWM]]を用いた音が多い。[[東武10000系電車]]のように車内放送スピーカーと共用する例も存在する。
== バスのドアチャイム ==
バスも交通バリアフリー法およびその発展形であるバリアフリー新法の適用対象であるため、構造上著しい困難が伴うなどの事情がない限り、交通バリアフリー法施行後に製造された車両には音声などによりドアの開閉を知らせる装備が設けられている。
現在、[[泰平電機]]、[[ゴールドキング]]、[[オージ]]から発売されている。
=== ドアチャイムを導入している会社 ===
[[東武バス]]・[[西鉄バス]](2008年式9830号車以降の納入車両)・[[松戸新京成バス]]・[[平和交通 (千葉県)|平和交通]](スマイリングシャトルの一部とベイタウンバスのみ)・[[あすか交通]](KK-RJ車とPB-HR車のみ)・[[都営バス]]・[[山交バス (山形県)|山交バス]]・[[横浜市営バス]]・[[川崎市営バス]](2011年以降の新車)・[[京都市営バス]]([[ノンステップバス|ノンステップ]]車両)・[[大阪シティバス]](廃止された[[赤バス]]を除く。ただし、[[日野・ポンチョ|日野・ポンチョII]]には装備されていた)・[[神姫バス]](もと[[姫路市企業局交通事業部|姫路市営バス]]車両と2013年度以降に導入されたジェイ・バスの車両)は、ドアチャイムを導入している。[[宗谷バス]]の2010年以降新車購入路線車も導入を始めた。[[神戸市バス]]の2012年度導入の車両では、ドアブザーが鳴り始めてすぐにドアチャイムが被さって鳴る。また、[[遠鉄バス]]では1997年以降の新車が原則として超低床ノンステップバスのみになることに伴い、視覚障害者にも低床車だとわかる様に従来のブザーに代わり(コミュニティバス用の中小型車を除いた大型車・中型ロング車では)全車ドアチャイムが採用された。その後、2009年の大型ワンステップバス初導入の際にピンポン+アナウンスタイプが採用され、その後は超低床ノンステップバス・ワンステップバスともにこのタイプとなっている。
== 関連項目 ==
* [[チャイム]]
* [[車内チャイム]]
==脚注==
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<references/>
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[[Category:鉄道車両の車内設備]]
[[Category:バス車両]]
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電池
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電池(でんち)は、光や熱、化学反応などのエネルギーを、電気に変換する装置である。化学反応によって電気を作る「化学電池」と、熱や光といった物理エネルギーから電気を作る「物理電池」の2種類に大別される。
「化学電池」は、物質自身が持つ化学的なエネルギーを化学反応によって直流の電力に変換する電池である。 以下に化学電池の分類を示す。
一次電池は、放電と呼ばれる化学エネルギーを電気エネルギーに一方向に変換することのみが一度だけ可能な電池である。一次電池の内、電解質を不織布(セパレーター)に染み込ませるなどの処理をして固体化したものは、一般に乾電池と呼ばれる。電池残量計測器ではかれる物もある。
二次電池は、放電過程では内部の化学エネルギーが電気エネルギーに変換されるが、放電時とは逆方向に電流を流すことで、電気エネルギーを化学エネルギーに変換して「充電」という蓄積が可能な電池であり、一般には「蓄電池」や「充電式電池」と呼ばれる。
燃料電池は、メタノールや天然ガス、水素などの燃料から触媒を用いて発電を行う発電装置である。反応に高温を必要とするものが多い。使用する電解質や燃料の種類により以下の5種類に分類される。
生物活動の結果得られる化学エネルギーを利用した電池。バイオ電池。
化学電池の中でも一次電池と二次電池では共通する基本構成を持っている。また、燃料電池についても概略においては化学電池と共通する部分が多い。生物電池はこれらとはまったく異なる。
上記の要素全般は、安価で軽量、加工性・生産性が良く、環境汚染を起こさないリサイクルに向いた材料が求められる。
化学電池は2つの電極の活物質の電位差によって起電力が生じる。各々の活物質はその物質の濃度や温度などで電極電位が変わるが、標準的な状態での電極電位はそれぞれ一定の値であることが知られている。標準的な状態での電極電位を下表で示す。標準的な状態とは25°Cでの活量1での値となる。活量が1とは、物質の濃度を示しており、固体と液体はそのまま全量、気体は1気圧であり、溶質はモル濃度が活量にあたる。濃度や温度による電極電位の変動量はネルンストの式によって算出できる。
電池に何も接続されていない状態での端子電圧が「起電力」であり、電池が外部の回路に接続されて電流が流れると起電力より端子電圧が低くなる。この現象が「分極」であり、低くなった分の電圧は「過電圧」と呼ばれる。過電圧は内部抵抗とも呼ばれ、流れる電流に応じて増大することで端子電圧は低下する。過電圧は以下の3つから構成される。
電池の端子電圧は使用温度や接続先の抵抗値とそれによる電流値が不明であるため、仮に製造誤差などに起因する製品ごとのバラツキが無くても、厳密には起電力や過電圧は定まらないが、電池の使用環境を想定した上で目安として「公称電圧」を定めている。端子電圧は使用温度や流れる電流の他に、電池の残量によっても変化する。
電池が供給可能な電力の総量をその電池の「容量」と呼ぶ。基本的に電池の容量は活物質の種類と量に従い、「1グラム当量の物質が析出するのに要する電気量は、物質の種類によらず一定(=ファラデー定数=約96,500 C/mol)である」というファラデーの電気分解の法則によって決まる。 グラム当量とは、1mol分の質量、つまり原子量の数に等しい数値を、1つの原子あたり反応に関与する電子の量、つまり原子価で割った値を指す。マンガンの例では、原子量が約54.9であり、電池で用いられる場合には原子価は一般に2価であるので、54.9/2=27.45程度になる。同様に亜鉛では32.7ほどになる。これらのことから、マンガン27.45gや亜鉛32.7gを完全に電気分解すると約96,500クーロンの電荷が生じると計算される。
1クーロンとは、1秒間に1Aの電流が流れた時の電荷を指すため、96,500クーロンは1時間が3600秒にあたることから、これで割ると 26.8Aになる。電池内での化学反応は電気分解の逆であるが、電荷量は正負が反転する他は同様の計算が用いられ、このように活物質の種類と量に応じて容量の限界値が定まる。また、化学反応は常に理想的な状態下で全ての反応が行われるとは限らず、実際は反応せずに残る物質もあるなど計算上の能力と差異が生じる。電池の容量は、1時間で放電し使い切ってしまう場合を想定した電流量で表示されることが一般的であり、「Ah」や「mAh」という単位が用いられる。720mAhと表記されている電池なら、720mAの電流を1時間、360mAを2時間程度持続することが期待できる。
主な活物質の重量当りと体積当りの容量を以下に示す。一般に電池は軽量で容量も小さい方が望ましく、重量当りや体積当りの容量は電池の性能の指標として重要である。
電池のエネルギー密度には「重量エネルギー密度」と「体積エネルギー密度」の2つがある。 ここでのエネルギーは〔Wh〕や〔J〕で表現されることが多く、電池のエネルギー密度は一般に〔Wh/kg〕や〔Wh/L〕で表される。実際の電池のエネルギー密度は活物質以外の構成要素も含まれることもあり、活物質だけの計算値の20-40%程度の値になる。
大電流放電特性
重量・容積
使用温度範囲、耐漏液性、保存性、サイクル寿命
「物理電池」とは、光や熱などの物理的なエネルギーを電気エネルギーに変換する電池である。 以下に物理電池の分類を示す。
「揚水発電」は、位置エネルギーを利用した蓄電方法であり、高低差の違う2箇所の大型貯水池を利用して、送水時に発生する運動エネルギーを電力に変える蓄電方法である。
「太陽電池」は、光エネルギーを直接、電気エネルギーに変換する電池であり「光電池」とも呼ばれる。
「熱電池」は、熱エネルギーを直接、電気エネルギーに変換する電池である。
「原子力電池」とは、放射性元素が原子核崩壊を起こす際に発生する原子力エネルギーを電気エネルギーに変換する電池である。
方言で懐中電灯の事を電池、棒電池と呼ぶ。
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"text": "主な活物質の重量当りと体積当りの容量を以下に示す。一般に電池は軽量で容量も小さい方が望ましく、重量当りや体積当りの容量は電池の性能の指標として重要である。",
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電池(でんち)は、光や熱、化学反応などのエネルギーを、電気に変換する装置である。化学反応によって電気を作る「化学電池」と、熱や光といった物理エネルギーから電気を作る「物理電池」の2種類に大別される。
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[[ファイル:Alkali battery 5.jpg|250px|thumb|アルカリマンガン乾電池]]
'''電池'''(でんち)は、[[光]]や[[熱]]、[[化学反応]]などの[[エネルギー]]を、[[電気]]に変換する装置である<ref>{{Cite web|和書|title=電池とは|url=https://kotobank.jp/word/%E9%9B%BB%E6%B1%A0-102568|website=コトバンク|accessdate=2021-01-11}}</ref>。[[化学反応]]によって電気を作る「化学電池」と、熱や光といった物理エネルギーから電気を作る「物理電池」の2種類に大別される。
== 化学電池 ==
「化学電池」は、物質自身が持つ化学的なエネルギーを化学反応によって直流の電力に変換する電池である。
以下に化学電池の分類を示す。
=== 一次電池 ===
{{Main|一次電池}}
一次電池は、[[放電]]と呼ばれる化学エネルギーを電気エネルギーに一方向に変換することのみが一度だけ可能な電池である。一次電池の内、[[電解質]]を[[不織布]](セパレーター)に染み込ませるなどの処理をして固体化したものは、一般に[[乾電池]]と呼ばれる。[[電池残量計測器]]ではかれる物もある。
* [[マンガン乾電池]]
* [[アルカリマンガン乾電池]]
* [[ニッケル系一次電池]]
* [[オキシライド乾電池]]→[[パナソニック]](旧松下電器産業)の商品名で、ニッケルマンガン電池に含まれる
* [[酸化銀電池]]
* [[水銀電池]]
* [[空気亜鉛電池]]
* [[リチウム電池]]
* [[海水電池]]
* [[レモン電池]]
=== 二次電池 ===
[[ファイル:UL20712.jpg|thumb|12V鉛蓄電池]]
[[ファイル:NP-FT1 Li-ion.jpg|thumb|デジタルカメラ用リチウムイオン二次電池]]
{{Main|二次電池}}
二次電池は、放電過程では内部の化学エネルギーが電気エネルギーに変換されるが、放電時とは逆方向に電流を流すことで、電気エネルギーを化学エネルギーに変換して「[[充電]]」という蓄積が可能な電池であり、一般には「[[蓄電池]]」や「充電式電池」と呼ばれる。
* [[鉛蓄電池]]
* [[リチウムイオン二次電池]]
* [[ニッケル・水素蓄電池]]
* [[ニッケル・カドミウム蓄電池]]
* [[ナトリウム・硫黄電池|ナトリウム・硫黄(NaS、ナス)電池]]
* [[ニッケル・亜鉛蓄電池]]
* [[酸化銀・亜鉛蓄電池]]
* [[レドックス・フロー電池]]
* [[全固体電池]]
=== 燃料電池 ===
{{Main|燃料電池}}
燃料電池は、[[メタノール]]や[[天然ガス]]、[[水素]]などの燃料から[[触媒]]を用いて発電を行う発電装置である。反応に高温を必要とするものが多い。使用する電解質や燃料の種類により以下の5種類に分類される。
* リン酸形燃料電池 (PAFC):電解質に[[リン酸]]を用いるもの。100℃-1,000℃の中温域で使用する
* [[固体高分子形燃料電池]] (PEFC):電解質に水を含む[[高分子]]を用いるもの。100℃付近の低温域で使用する
* 溶融炭酸塩形燃料電池 (MCFC):電解質に溶融した[[アルカリ金属]]の[[炭酸塩]]を用いるもの。100℃-1,000℃の中温域で使用する
* 固体酸化物形燃料電池 (SOFC) :電解質に酸素[[イオン伝導性]]の[[セラミックス]]を用いるもの。1,000℃付近の高温域で使用する
* 直接メタノール型燃料電池 (DMFC) :燃料にメタノールを使用する。
=== 生物電池 ===
生物活動の結果得られる化学エネルギーを利用した電池。バイオ電池。
== 化学電池の基本構成 ==
化学電池の中でも一次電池と二次電池では共通する基本構成を持っている。また、燃料電池についても概略においては化学電池と共通する部分が多い。生物電池はこれらとはまったく異なる。
;電極/活物質
:電池は直流電力を生み出し、その電流の取出口として「正極」「負極」の2つの電極がある。電位の高い方が正極であり、電位の低い方が負極である。電池では正極側で[[還元]]反応が起こり、負極側で[[酸化]]反応が起こる。還元反応が起こる正極を「カソード」と呼び、酸化反応が起こる負極を「アノード」と呼ぶ<ref group="注釈">電池では還元反応が起こる正極側を「カソード」と呼び、酸化反応が起こる負極側を「アノード」と呼ぶが、電気分解では逆に陽極を「アノード」、陰極を「カソード」と呼ぶので注意が必要である。</ref>。電極は「集電体」とも呼ばれる。また、「活物質」は電池反応の中心的役割を担い、電子を送り出し受け取る酸化/還元反応を行う物質である。実際には活物質だけでなく活物質の凝集を防ぎ分散させるための分散剤や電解液と良好に接触させる濡れ性を維持するためのレベリング剤に導電性を向上させる導電助剤やバインダーと呼ばれる結着材が混合されてスラリーとなったペースト状のものが用いられ、これは「合材」や「合剤」「ミクスチャー」とも呼ばれる。電極には[[電気伝導率]]が高く、活物質や電解液に対して化学的に安定であることが求められる。活物質には[[化学当量|グラム当量]]の小さなものが望まれる。出力される電圧は2つの電極電圧の差が主要な要素であるため、正極側の活物質は電極電位が高い方が良く、負極側の活物質は電極電位が低い方が良い。単純な構造の電池の中には電極が活物質を兼ねているものがある。
;電解質
:「電解質」はイオン導電性が高いものが求められ、電解質が電気分解されない電圧である「電位窓」も広い方が良い<ref group="注釈">電位窓が高いことを「電気窓が広い」と呼ばれる。</ref>。活物質などに対して化学的に安定であることも求められ、生物毒性や発火性も無いことが望まれる。電池の電解質は電解液と呼ばれる液体のものが多いが、固体の固体電解質もある。
;セパレータ
:「セパレータ」は「隔膜」とも呼ばれ、正極と負極を分離する機能を担っている。熱や応力に対する耐久力と同時に電池内の他の物質に対しても化学的にも安定でありながら、電解液中のイオンの移動を妨げないように多孔質で薄い膜が求められる。
;容器
:「容器」は電池の外形を成し、電極/活物質、電解液、セパレータといった内部の構成物質を収めて閉じ込める役割をする。力学的に丈夫で耐薬品性に優れた素材が求められる。
上記の要素全般は、安価で軽量、加工性・生産性が良く、環境汚染を起こさないリサイクルに向いた材料が求められる。
=== 標準電極電位 ===
化学電池は2つの電極の活物質の電位差によって[[起電力]]が生じる<ref group="注釈">起電力は電池に何も接続されず電流が流れていない状態での端子電圧を示す。</ref>。各々の活物質はその物質の濃度や温度などで電極電位が変わるが、標準的な状態での電極電位はそれぞれ一定の値であることが知られている。標準的な状態での電極電位を下表で示す。標準的な状態とは25℃での[[活量]]1での値となる。活量が1とは、物質の濃度を示しており、固体と液体はそのまま全量、気体は1気圧であり、溶質は[[モル濃度]]が活量にあたる。濃度や温度による電極電位の変動量は[[ネルンストの式]]によって算出できる<ref name="名前なし-1">梅尾良之著、『新しい電池の科学』、講談社、2006年9月20日第1刷発行、ISBN 4062575302</ref>。
{| class="wikitable"
|-
! 負極
! 電極電位([[ボルト (単位)|V]])
!
! 正極
! 電極電位(V)
|-
| [[リチウム|Li]]<sup>+</sup>/Li
| align="center" | -3.040
| align="center" |
| [[銅|Cu]]<sup>2+</sup>/Cu
| align="center" | 0.347
|-
| [[亜鉛|Zn]]<sup>2+</sup>/Zn
| align="center" | -0.763
| align="center" |
| [[鉄|Fe]]<sup>3+</sup>/Fe<sup>2+</sup>
| align="center" | 0.771
|-
| [[カドミウム|Cd]]<sup>2+</sup>/Cd
| align="center" | -0.403
| align="center" |
| [[臭素|Br]]<sup>3-</sup>/Br<sup>-</sup>
| align="center" | 1.087
|-
| [[鉛|Pb]]<sup>2+</sup>/Pb
| align="center" | -0.126
| align="center" |
| [[酸素|O]]<sub>2</sub>/H<sub>2</sub>O
| align="center" | 1.229
|-
| CdSO<sub>4</sub>/Pb
| align="center" | -0.355
| align="center" |
| [[セレン|Ce]]<sub>4</sub><sup>+</sup>/Se<sup>3+</sup>
| align="center" | 1.61
|-
| [[水素|H]]<sup>+</sup>/H<sub>2</sub>
| align="center" | -0.000
| align="center" |
| PbO<sub>2</sub>/PbSO<sub>4</sub>
| align="center" | 1.685
|-
| H<sub>2</sub>SO<sub>3</sub>/CH<sub>3</sub>OH
| align="center" | 0.044
| align="center" |
| MnO<sub>2</sub>/MnOOH
| align="center" | 0.15
|-
| ZnSO<sub>2</sub><sup>2-</sup>/Zn
| align="center" | -1.22
| align="center" |
| Ag<sub>2</sub>O/Ag
| align="center" | 0.342
|-
| H<sub>2</sub>/OH<sup>-</sup>
| align="center" | -0.828
| align="center" |
| O<sub>2</sub>/OH<sup>-</sup>
| align="center" | 0.342
|-
| Cd(OH)<sub>2</sub>/Cd
| align="center" | -0.825
| align="center" |
| NiOOH/Ni(OH)<sub>2</sub>
| align="center" | 0.49
|}
== 化学電池の性能 ==
=== 電圧 ===
電池に何も接続されていない状態での端子電圧が「起電力」であり、電池が外部の回路に接続されて電流が流れると起電力より端子電圧が低くなる。この現象が「分極」であり、低くなった分の電圧は「過電圧」と呼ばれる。過電圧は内部抵抗とも呼ばれ、流れる電流に応じて増大することで端子電圧は低下する。過電圧は以下の3つから構成される<ref group="注釈">端子電圧=起電力ー過電圧=起電力ー(抵抗過電圧+活性化過電圧+濃度過電圧)と表せる。</ref>。
* 過電圧
** 抵抗過電圧:イオンが電解質中を流れる時や電子が電極内を流れる時に生じる抵抗によるエネルギー
** 活性化過電圧:反応物質と電解液との間での電子移動のために消費されるエネルギー
** 濃度過電圧:反応物質が電極表面に移動するためや電極表面で生じた生成物質が電解液へ拡散するために消費されるエネルギー
電池の端子電圧は使用温度や接続先の抵抗値とそれによる電流値が不明であるため、仮に製造誤差などに起因する製品ごとのバラツキが無くても、厳密には起電力や過電圧は定まらないが、電池の使用環境を想定した上で目安として「[[公称電圧]]」を定めている。端子電圧は使用温度や流れる電流の他に、電池の残量によっても変化する。
;主な電池の公称電圧
:;一次電池
:* マンガン乾電池:1.5V
:* アルカリマンガン乾電池:1.5V
:* 酸化銀電池:1.55V
:* 空気亜鉛電池:1.4V
:* フッ化黒鉛リチウム一次電池:3V
:* 塩化チオニルリチウム一次電池:3.6V
:
:;二次電池
:* 鉛蓄電池:2.0V
:* ニッケルカドミウム蓄電池:1.2V
:* ニッケル水素蓄電池:1.2V
:* 全固体電池 : 2.3V
:* リチウムイオン蓄電池:3.7V
:*コバルトチタンリチウム二次電池 : 3.0V
:
:二次電池では一般に「充電電流」と「充電時間」が標準と急速のそれぞれに存在し、最大充電電圧も定められている。「最大充電電圧」を越えて充電しようとすると「過充電」となって電池が劣化したり最悪では破壊に至る危険性もある。
:一次電池と二次電池では放電終止電圧も定められている。一般に「放電終止電圧」はその電圧に至った時点でそれ以上放電してはいけない電圧であり、放電終止電圧を越えてさらに放電状態を続ければ「過放電」となって電池が劣化したりする<ref name="名前なし-1"/>。
=== 容量 ===
電池が供給可能な電力の総量をその電池の「容量」と呼ぶ。基本的に電池の容量は活物質の種類と量に従い、「1グラム当量の物質が析出するのに要する電気量は、物質の種類によらず一定(=[[ファラデー定数]]=約96,500 [[クーロン|C]]/mol)である」という[[ファラデーの電気分解の法則]]によって決まる。
[[化学当量#グラム当量|グラム当量]]とは、1[[モル|mol]]分の質量、つまり原子量の数に等しい数値を、1つの原子あたり反応に関与する電子の量、つまり原子価で割った値を指す。[[マンガン]]の例では、原子量が約54.9であり、電池で用いられる場合には原子価は一般に2価であるので、54.9/2=27.45程度になる。同様に[[亜鉛]]では32.7ほどになる。これらのことから、マンガン27.45gや亜鉛32.7gを完全に電気分解すると約96,500[[クーロン]]の電荷が生じると計算される。
1クーロンとは、1秒間に1[[アンペア|A]]の電流が流れた時の電荷を指すため、96,500クーロンは1時間が3600秒にあたることから、これで割ると 26.8Aになる。電池内での化学反応は電気分解の逆であるが、電荷量は正負が反転する他は同様の計算が用いられ、このように活物質の種類と量に応じて容量の限界値が定まる。また、化学反応は常に理想的な状態下で全ての反応が行われるとは限らず、実際は反応せずに残る物質もあるなど計算上の能力と差異が生じる。電池の容量は、1時間で放電し使い切ってしまう場合を想定した電流量で表示されることが一般的であり、「Ah」や「mAh」という単位が用いられる。720mAhと表記されている電池なら、720mAの電流を1時間、360mAを2時間程度持続することが期待できる。
主な活物質の重量当りと体積当りの容量を以下に示す。一般に電池は軽量で容量も小さい方が望ましく、重量当りや体積当りの容量は電池の性能の指標として重要である。
{| class="wikitable" style="float:left; margin-right:1em;"
|-
! rowspan="2" align="center" | 負極
! colspan="2" align="center" | 容量
|-
! 〔Ah/g〕
! 〔Ah/cm<sup>3</sup>〕
|-
| [[リチウム|Li]](固体)
| align="center" | 3.86
| align="center" | 2.06
|-
| [[アルミニウム|Al]](固体)
| align="center" | 2.98
| align="center" | 8.06
|-
| [[ナトリウム|Na]](固体)
| align="center" | 1.17
| align="center" | 1.08
|-
| [[鉄|Fe]](固体)
| align="center" | 0.96
| align="center" | 7.52
|-
| [[亜鉛|Zn]](固体)
| align="center" | 0.82
| align="center" | 5.85
|-
| [[カドミウム|Cd]](固体)
| align="center" | 0.48
| align="center" | 4.12
|-
| [[鉛|Pb]](固体)
| align="center" | 0.26
| align="center" | 2.93
|-
| CH<sub>3</sub>OH(液体)
| align="center" | 5.02
| align="center" | 3.97
|-
| [[水素|H<sub>2</sub>]](気体)
| align="center" | 26.3
| align="center" | 0.00216
|}
{| class="wikitable" style="float:left;"
|-
! rowspan="2" align="center" | 正極
! colspan="2" align="center" | 容量
|-
! 〔Ah/g〕
! 〔Ah/cm<sup>3</sup>〕
|-
| (CF)<sub>n</sub>(固体)
| align="center" | 0.86
| align="center" | 2.56
|-
| [[酸化銀(I)|Ag<sub>2</sub>O]](固体)
| align="center" | 0.43
| align="center" | 3.24
|-
| [[二酸化マンガン|MnO<sub>2</sub>]](固体)
| align="center" | 0.31
| align="center" | 1.55
|-
| [[酸化ニッケル(III)#オキシ水酸化ニッケル(III)|NiOOH]](固体)
| align="center" | 0.29
| align="center" | 2.03
|-
| Li<sub>(0-1)</sub>CoO<sub>2</sub>(固体)
| align="center" | 0.27
| align="center" | 2.89
|-
| [[二酸化鉛|PbO<sub>2</sub>]](固体)
| align="center" | 0.22
| align="center" | 2.10
|-
| Li<sub>(0-1)</sub>Mn<sub>2</sub>O<sub>2</sub>(固体)
| align="center" | 0.15
| align="center" | 0.74
|-
| [[塩化チオニル|SOCl<sub>2</sub>]](液体)
| align="center" | 0.60
| align="center" | 0.98
|-
| [[酸素|O<sub>2</sub>]](気体)
| align="center" | 3.36
| align="center" | 0.00439
|}
{{clear|left}}
<ref name="名前なし-1"/>
=== エネルギー密度 ===
電池のエネルギー密度には「重量エネルギー密度」と「体積エネルギー密度」の2つがある。
ここでのエネルギーは〔[[ワット|W]]h〕や〔[[ジュール|J]]〕で表現されることが多く、電池のエネルギー密度は一般に〔Wh/kg〕や〔Wh/[[リットル|L]]〕で表される。実際の電池のエネルギー密度は活物質以外の構成要素も含まれることもあり、活物質だけの計算値の20-40%程度の値になる。
{| class="wikitable"
|-
! 負極
! 電極電位([[ボルト (単位)|V]])
!
! 正極
! 電極電位(V)
|-
| [[リチウム|Li]]<sup>+</sup>/Li
| align="center" | -3.040
| align="center" |
| [[銅|Cu]]<sup>2+</sup>/Cu
| align="center" | 0.347
|-
| [[亜鉛|Zn]]<sup>2+</sup>/Zn
| align="center" | -0.763
| align="center" |
| [[鉄|Fe]]<sup>3+</sup>/Fe<sup>2+</sup>
| align="center" | 0.771
|}
<ref name="名前なし-1"/>
=== 放電特性 ===
大電流放電特性
=== 物理特性 ===
重量・容積
=== その他 ===
使用温度範囲、耐漏液性、保存性、サイクル寿命
== 物理電池 ==
「物理電池」とは、[[光]]や[[熱]]などの物理的なエネルギーを電気エネルギーに変換する電池である。
以下に物理電池の分類を示す。
=== 揚水発電 ===
{{Main|揚水発電}}
「揚水発電」は、[[位置エネルギー]]を利用した蓄電方法であり、高低差の違う2箇所の大型貯水池を利用して、送水時に発生する運動エネルギーを電力に変える蓄電方法である。
=== 太陽電池 ===
{{Main|太陽電池}}
「太陽電池」は、[[光エネルギー]]を直接、電気エネルギーに変換する電池であり「光電池」とも呼ばれる。
=== 熱電池 ===
{{Main|熱電素子}}
「熱電池」は、[[熱エネルギー]]を直接、電気エネルギーに変換する電池である。
=== 原子力電池 ===
{{Main|原子力電池}}
「原子力電池」とは、[[放射性元素]]が[[原子核崩壊]]を起こす際に発生する[[原子力]]エネルギーを電気エネルギーに変換する電池である。
== 歴史 ==
=== 世界 ===
* 紀元前250年頃のイラクで、 世界最古の電池である[[バグダッド電池]]が作られる(実際には電池ではないという説があり、実際に電池として使用された明確な証拠は未発見である)。
* 1791年 [[ルイージ・ガルヴァーニ]](イタリア)、[[ガルバニ電池]]を発見。
* 1800年 [[アレッサンドロ・ボルタ]](イタリア)、[[ボルタ電池]]を発明。
* 1802年 物理学者[[ヨハン・ウィルヘルム・リッター]](ドイツ)、小型一次電池を発明。
* 1812年 {{仮リンク|ジュゼッペ・ザンボーニ|it|Giuseppe Zamboni (fisico)|en|Giuseppe Zamboni}}(イタリア)、[[ザンボニー電池]]を発明。
* 1866年 [[ジョルジュ・ルクランシェ]](フランス)、ルクランシェ電池(マンガン乾電池の原型)を発明。今までの電池で使われていた電解液をゲル状にしたもので、これが現行使われる乾電池の原型となる。
* 1881年 [[ジュール・アルフォキ・ティエボー]] (Jules Alphokee Thiebaut) が亜鉛の容器に負極と多孔質の容器の両方の役割を持たせた最初の電池で特許を取る。
* 1887年 {{仮リンク|カール・ガスナー|de|Carl Gassner|en|Carl Gassner}}(ドイツ)、乾電池の特許を取得。
* 1899年 {{仮リンク|ヴァルデマル・ユングネル|sv|Waldemar Jungner|en|Waldemar Jungner}}(スウェーデン)、ニッケル・カドミウム蓄電池を発明。
* 1900年 [[トーマス・エジソン]](米国)、ニッケル・鉄蓄電池を発明。
* 1959年 [[エバレディ]] ([[:en:Eveready|Eveready]])(米国)、アルカリ乾電池を開発。
* 1985年 [[ジョン・グッドイナフ]](米国)、[[ラシド・ヤザミ]](フランス)、[[吉野彰]](日本)らは[[リチウムイオン二次電池|リチウムイオン電池]]を発明し、1991年に[[西美緒]]らが勤務するソニーにより世界で初めて商品化した。小型で軽量なモバイル電子機器(携帯電話やスマートフォンなど)の実現に大きく貢献し、[[電気自動車]]用にも普及している。
* 2019年各大学・企業の研究機関により性能向上を果たした小型[[全固体電池]]が実用化された<ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ、村田製、TDK...大注目の全固体電池!早くもシェア争奪戦 ニュースイッチ by 日刊工業新聞社 |url=https://newswitch.jp/p/24873 |website=ニュースイッチ by 日刊工業新聞社 |access-date=2023-07-15 |language=ja}}</ref>。また2023年からは大容量[[全固体電池]]も実用化された<ref>{{Cite web|和書|title=マクセル、京都に全固体電池量産体制 6月から出荷 - 化学工業日報 電子版 |url=https://chemicaldaily.com/archives/305860 |website=化学工業日報 電子版 - 化学工業をコアに周辺産業を網羅する「化学工業日報 電子版」のWebサイトです |date=2023-05-07 |access-date=2023-07-15}}</ref>。この[[全固体電池]]は[[リチウムイオン二次電池|リチウムイオン電池]]より高性能を示し、今後は[[電気自動車]]用にも搭載予定となっている。
=== 日本 ===
* 1849年([[嘉永]]2年) [[佐久間象山]]がオランダの[[ショメール百科全書]]を参考にして電信実験の為に[[ダニエル電池]]を作成[http://www7a.biglobe.ne.jp/~happy-sanpo/history/matsushiro/sakumasyouzan/sakuma.htm]。これが日本初の電池となった。
* 1854年([[安政]]元年) [[マシュー・ペリー]]が2度目の渡日の際、将軍への献上品としてボルタ電池4箱を持ち込んだ。
* 1887年([[明治]]20年) [[屋井先蔵]]が乾電池を作る{{Efn|ただし年次を証明する明確な資料は確認できず<ref>{{Cite journal|author=|year=|date=2013-03-10|title=屋井先蔵|url=http://www2.iee.or.jp/ver2/honbu/30-foundation/data02/ishi-06/ishi-2425.pdf|journal=でんきの礎|volume=6|page=|pages=24-25|publisher=[[電気学会]]}}</ref>、1885年とも伝わる<ref>{{Cite journal|author=吉田和正|year=|date=2007-03-30|title=一次電池技術発展の系統化調査|url=http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/036.pdf|journal=国立科学博物館 技術の系統化調査報告 第9集|volume=|page=173|publisher=[[国立科学博物館]]}}</ref>。}}。
== 名称 ==
{{main2|規格名|IEC 60086}}
;一次電池と二次電池
:一次電池 (primary cell) と二次電池 (secondary cell) の「一次」「二次」は電池の使用開始時における操作に由来する。すなわち、一次電池は[[電極]]構成材料を組み上げた時点で、両極間に[[起電力]]が発生するため、すぐに電池として利用することができる。しかしながら、二次電池は両極の構成材料の電位差が低く、外部から充電を行うことによって初めて使用可能な起電力を生じさせることが一般的である。電池が発明された当初は安定な直流電源を使用することが難しく、一次電池を用いて二次電池を充電していた。従って「すぐに使える電池=一次電池」に対して「充電してから使える電池=二次電池」となった。
;電池
:日本語の「電池」は「電気」の「池」であるが、必ずしも電気を蓄えていなくても「電池」という名称が使われている。
;[[組電池]]
:「パック電池」とも呼ばれ、単電池をニッケルのような金属板と熱収縮フィルムで固定したもの<ref>[http://www.baysun.net/dictionary.html 「組電池」] - BAYSUN</ref>。
== 方言 ==
[[方言]]で[[懐中電灯]]の事を電池、棒電池と呼ぶ。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Electric batteries}}
* [[電気化学]]
* [[乾電池]]
* [[一次電池]]
*[[二次電池]]
* [[ボルタ電池]]
* [[ボタン型電池]]
* [[エネルギー]]
* [[二酸化マンガン]]
* [[標準電極電位]]
* [[エネルギー貯蔵]]
* [[ラゴウニープロット]]
== 外部リンク ==
* [http://www.baj.or.jp/ 電池工業会]
** [http://www.baj.or.jp/knowledge/chronology.html 電池の知識:電池年表|社団法人電池工業会]
* [http://sp-file.qee.jp/cgi-bin/wiki/wiki.cgi?page=%A5%D0%A5%B0%A5%C0%A5%C3%A5%C9%A4%CE%B8%C5%C2%E5%C5%C5%C3%D3 バグダッドの古代電池]
* {{Kotobank}}
*「物理と化学の境界領域:第一原理計算を用いた電池研究」(スパコンことはじめ)高度情報科学技術研究機構 (RIST)
** [https://www.youtube.com/watch?v=TBviz_JdZnc 前編]
** [https://www.youtube.com/watch?v=arcmmOqxVHo 後編]
{{ガルバニ電池}}
{{電気電力}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんち}}
[[Category:電池|*]]
[[Category:電気機器]]
[[Category:電気化学]]
[[category:和製漢語]]
[[si:විදුලි කෝෂය (විද්යුතය)]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B1%A0
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17,332 |
ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線
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東京臨海新交通臨海線(とうきょうりんかいしんこうつうりんかいせん)は、東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ、株式会社ゆりかもめが運営する自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はU。
開通当初から愛称のゆりかもめもしくは新交通ゆりかもめで呼ばれることが多く、また同じ東京臨海副都心地区を通る東京臨海高速鉄道りんかい線との紛らわしさもあり、正式な路線名は一般にはほとんど用いられていない。路線名の「東京臨海新交通臨海線」(「臨海線」ではなく「東京臨海新交通」を含めて路線名である)は、運営会社「株式会社ゆりかもめ」が「東京臨海新交通株式会社」だった当時からの名称であるが、社名が変更されてからも従来のままとなっている。都市計画事業としての名称は、東京都市計画道路特殊街路新交通専用道第1号臨海線1 - 3及び東京都市計画都市高速鉄道東京臨海新交通臨海線である。
新橋と東京臨海副都心を結ぶ交通機関として、1995年(平成7年)11月1日に新橋駅 - 有明駅間 11.9 km が開業した。開業当初の新橋駅は現在の位置より 100 m 有明駅寄りの位置にあった仮駅で、現在この位置は汐留シオサイトの敷地である。2001年(平成13年)3月22日に東日本旅客鉄道(JR東日本)新橋駅前の現在の位置まで移転・延伸された。2006年(平成18年)3月27日には、有明駅 - 豊洲駅間 2.7 km が延伸開業した。
新橋駅ではJR東日本の山手線等や東京メトロ銀座線、都営浅草線と、汐留駅では都営大江戸線と、豊洲駅では東京メトロ有楽町線と乗り継げる。またりんかい線の東京テレポート駅と国際展示場駅は、ゆりかもめの最寄り駅から徒歩圏内である。
この路線は、1996年に開催される予定であった世界都市博覧会のアクセス線として注目を浴びたが、同博覧会は東京都知事青島幸男の公約実行で中止された。これにより、ゆりかもめは40億円の赤字を出すと言われていたが、実際に開業すると乗客は順調に増加し、1日10万人以上を数えるようになり、黒字経営の路線となった。
沿線にはオフィスビルや高層マンションのほか、多数の観光資源(お台場や有明地区、豊洲市場など)やコンベンションセンター(東京ビッグサイト)などの集客施設が存在し、これが利用増につながっている。また、私立大学(有明教育芸術短期大学、東京有明医療大学、武蔵野大学有明キャンパス)が新たに開校し、通学利用者も増加している。
さらに2020年東京オリンピック・パラリンピックに向け臨海エリアには同大会の競技会場が複数新設されたことから、アクセス路線としての機能も担うことになったが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行の影響で無観客での開催となったため、予定されていた臨時列車の運行は取り止められている。
また、車窓からは東京タワーやレインボーブリッジ、東京スカイツリー、東京ゲートブリッジなど東京のシンボルを望むことができる。芝浦ふ頭駅 - お台場海浜公園駅間で渡るレインボーブリッジの新橋側の接続部は、芝浦ふ頭駅と橋梁との高低差が大きく、軌道の勾配を緩やかにするためループ構造を採用している。
自動列車運転装置 (ATO) による無人自動運転を実施している。運行中は車内に運転士や車掌がいないため、車内での緊急時には備え付けのインターホンで対応することになる。なお、早朝・深夜時間帯やATOの機能障害などの非常時に備えて行われる手動運転訓練時などには自動運転ではなく運転士が乗務し、ワンマン運転を行っている。この場合、車両最前部の座席は運転席となり、旅客は使用できない。
全駅に東京メトロ南北線や金沢シーサイドラインなどと同じフルスクリーンタイプのホームドアを設置している。それぞれの駅には様々な日本の伝統文様が割り振られ、ホームドアなどにこのモチーフが反復して使われている。例えば、お台場海浜公園駅のモチーフは松葉色の地に白抜きの老松模様である。
新橋駅 - 豊洲駅間が1本の路線となっているが、路線の免特許上は以下のように軌道法に基づく軌道区間と鉄道事業法に基づく鉄道区間(第一種鉄道事業)とが混在している。これは、その下を走る道が道路法に基づく道路であるか、それ以外の道(主として港湾法に基づく港湾道路)であるかの違いによるものである。AGTには、他にも軌道区間と鉄道区間が混在している路線がある。
全線通しの運転を基本とするが、早朝から朝ラッシュ時と深夜に有明駅発着の列車も運転されている。車両の夜間滞泊は豊洲駅で行っている。日中は平日が5分間隔で休日が4分間隔での運転となり、日中は平日よりも土休日の方が本数が多い。
東京ビッグサイトにおけるコミックマーケット・ジャパンモビリティショー(旧:東京モーターショー)など、沿線で大規模イベントがある時や、ゴールデンウィークなどの大型連休期間は臨時増発や特別ダイヤが組まれることがある。また、過去の東京湾大華火祭開催時には、豊洲地区が一部の時間帯で立入禁止区域となるため、市場前駅と新豊洲駅は一時閉鎖され、運転停車(乗降不可)の措置が取られていた。
駅構内の発車案内標には列車種別が表示されているが、優等列車が運行されたことはなく、すべての列車が各駅に停車するため、全列車が「普通」(英字表示は「Loc.」)と表示される。しかし、中央司令所のシステムは急行運転に対応しており、車両の行先表示器や車内案内表示器でも急行の表示ができる(停車駅は新橋、お台場海浜公園〜有明の各駅、豊洲)。
車両は7300系・7500系が使用されている。7300系は開業時に導入された7000系を置き換えるために導入され、第1編成が2013年3月に搬入、2014年1月18日より営業運転が開始された。7000系は大半が日本車輌製造製だが、三菱重工業・新潟トランシス(新潟鐵工所)・東急車輛製造なども数編成を製造・納入している。7300系はすべて三菱重工業製で2013年から2016年までに108両が製造され、7000系をすべて置き換えた。2018年度より7200系の置き換えのため、7300系を改良した7500系が導入され、2018年11月11日に営業運転を開始し、2020年10月までに7200系をすべて置き換えた。
2000年の運輸政策審議会答申第18号では、豊洲駅 - 勝どき駅が「目標年次(2015年)までに整備着手することが適当である路線(A2)」とされ、豊洲駅の末端部には既に延伸のための準備が施されている。東京都港湾局による『まちづくり推進計画』では、利用状況を考慮した上で整備時期を検討するとしていた。
しかし中央区は、都心部と臨海部を結ぶ新たな交通機関としてLRTやBRT(後に東京BRTへ発展)、次いで2014年からは地下鉄(都心部・臨海地域地下鉄構想)の導入を検討。2015年3月に『都心部と臨海部を結ぶ地下鉄新線の整備に向けた検討調査』の報告書をまとめ、同年6月に区議会へ報告した。
東京都が2015年7月に公表した『広域交通ネットワーク計画について≪交通政策審議会答申に向けた検討のまとめ≫』では、地下鉄とゆりかもめ延伸を両方整備した場合、ゆりかもめ延伸の収支採算性の確保に課題が生じるとの調査結果から、都心部・臨海地域地下鉄構想は「整備について検討すべき路線」に選ばれたのに対して、ゆりかもめ延伸は対象外となった。
これを受けて2016年4月に出された交通政策審議会答申第198号でも、都心部・臨海地域地下鉄構想は「国際競争力の強化に資する鉄道ネットワークのプロジェクト」として取り上げられたのに対して、ゆりかもめ延伸は答申の対象外となっている。
日中は全駅に旅客案内を行うステーションスタッフが配置されているが、起終点であり定期券発売窓口を併設している新橋駅と豊洲駅、ならびに豊洲延伸開業以前に定期券発売窓口があった有明駅以外は駅員がいない。ただし多客時など不定期に他の駅も駅員が常駐していることがある。
このため、乗客が切符を誤購入した場合に備えて、各駅の自動券売機の切符取り出し口に誤購入した切符を挿入すると購入した金額が読み取られて購入運賃分の現金が現金受け取り口に返却されるという「誤購入払戻し機能」が搭載されている(ただし普通乗車券のみ対応)。
一部の駅は駅務業務を京王設備サービスに委託している
2006年3月27日の豊洲への延伸開業に併せて駅構内に音声案内装置を設置した。このうち構内案内図・精算所・トイレ案内図の3つに関しては、各駅ごとに1名ずつ、計16名の声優を起用した音声案内システムを導入している。各駅ごとに異なった声優を起用した音声案内システムの導入は日本の公共交通機関としては初めての試みとなる。声優の人選に当たってはアーツビジョンとその子会社であるアイムエンタープライズに当時所属する声優が選ばれた。また、沿線地域での大規模イベント開催時にはイベント用の音声を使用することになっており、2006年8月11日 - 13日(コミックマーケット70開催日)に初めて運用された。
なお、これらの声優による案内は2015年に終了している。
駅自動放送は、現在AI音声が使われている。
車内放送は、下記のイベント期間を除き森谷真弓が担当している。
2007年10月21日から2008年9月28日までフジテレビで放送された『アナ☆ログ』のコーナー「ひとりでアナ☆レポ」の企画で、同年10月18日から2008年3月31日まで本田朋子をメインに、フジテレビのアナウンサー16人が当路線の車内アナウンスを全編成で実施し、期間限定で務めていた。放送内容は通常使用しているものと基本的に変更はない(12月までは、レインボーブリッジ通過中の本田による代表者挨拶が追加で放送)。本田が声をかけた順に(豊洲方向へ)担当の駅を割り振っていた。
また、2008年8月1日から8月31日にも『お台場冒険王ファイナル〜君が来なくちゃ終われない!〜』開催に合わせた『アナ☆ログ』とのコラボレーション企画で、フジテレビのアナウンサーが当路線の車内アナウンスおよび駅構内アナウンスを期間限定で務めた。駅構内アナウンスは豊洲駅(高島彩)、お台場海浜公園駅(平井理央)、台場駅(大島由香里)、船の科学館駅(中村仁美)、青海駅、新橋駅(本田)で実施した。車内放送は全区間を島田彩夏が担当した。
日本テレビで放送されていた『なるほど!ハイスクール』の企画として、2011年4月30日と5月1日の2日間限定でAKB48の一部メンバーによる車内アナウンスが実施された。前述のフジテレビアナウンサーのアナウンスとは異なり、2編成のみの実施であった。
2020年度の混雑率は、汐留駅→竹芝駅(8:00-9:00)で65%である。
1日平均乗降客数
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"text": "東京臨海新交通臨海線(とうきょうりんかいしんこうつうりんかいせん)は、東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ、株式会社ゆりかもめが運営する自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はU。",
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"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "開通当初から愛称のゆりかもめもしくは新交通ゆりかもめで呼ばれることが多く、また同じ東京臨海副都心地区を通る東京臨海高速鉄道りんかい線との紛らわしさもあり、正式な路線名は一般にはほとんど用いられていない。路線名の「東京臨海新交通臨海線」(「臨海線」ではなく「東京臨海新交通」を含めて路線名である)は、運営会社「株式会社ゆりかもめ」が「東京臨海新交通株式会社」だった当時からの名称であるが、社名が変更されてからも従来のままとなっている。都市計画事業としての名称は、東京都市計画道路特殊街路新交通専用道第1号臨海線1 - 3及び東京都市計画都市高速鉄道東京臨海新交通臨海線である。",
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},
{
"paragraph_id": 2,
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"text": "新橋と東京臨海副都心を結ぶ交通機関として、1995年(平成7年)11月1日に新橋駅 - 有明駅間 11.9 km が開業した。開業当初の新橋駅は現在の位置より 100 m 有明駅寄りの位置にあった仮駅で、現在この位置は汐留シオサイトの敷地である。2001年(平成13年)3月22日に東日本旅客鉄道(JR東日本)新橋駅前の現在の位置まで移転・延伸された。2006年(平成18年)3月27日には、有明駅 - 豊洲駅間 2.7 km が延伸開業した。",
"title": "概要"
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"text": "新橋駅ではJR東日本の山手線等や東京メトロ銀座線、都営浅草線と、汐留駅では都営大江戸線と、豊洲駅では東京メトロ有楽町線と乗り継げる。またりんかい線の東京テレポート駅と国際展示場駅は、ゆりかもめの最寄り駅から徒歩圏内である。",
"title": "概要"
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"text": "この路線は、1996年に開催される予定であった世界都市博覧会のアクセス線として注目を浴びたが、同博覧会は東京都知事青島幸男の公約実行で中止された。これにより、ゆりかもめは40億円の赤字を出すと言われていたが、実際に開業すると乗客は順調に増加し、1日10万人以上を数えるようになり、黒字経営の路線となった。",
"title": "概要"
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{
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"text": "沿線にはオフィスビルや高層マンションのほか、多数の観光資源(お台場や有明地区、豊洲市場など)やコンベンションセンター(東京ビッグサイト)などの集客施設が存在し、これが利用増につながっている。また、私立大学(有明教育芸術短期大学、東京有明医療大学、武蔵野大学有明キャンパス)が新たに開校し、通学利用者も増加している。",
"title": "概要"
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{
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"text": "さらに2020年東京オリンピック・パラリンピックに向け臨海エリアには同大会の競技会場が複数新設されたことから、アクセス路線としての機能も担うことになったが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行の影響で無観客での開催となったため、予定されていた臨時列車の運行は取り止められている。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "また、車窓からは東京タワーやレインボーブリッジ、東京スカイツリー、東京ゲートブリッジなど東京のシンボルを望むことができる。芝浦ふ頭駅 - お台場海浜公園駅間で渡るレインボーブリッジの新橋側の接続部は、芝浦ふ頭駅と橋梁との高低差が大きく、軌道の勾配を緩やかにするためループ構造を採用している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
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"text": "自動列車運転装置 (ATO) による無人自動運転を実施している。運行中は車内に運転士や車掌がいないため、車内での緊急時には備え付けのインターホンで対応することになる。なお、早朝・深夜時間帯やATOの機能障害などの非常時に備えて行われる手動運転訓練時などには自動運転ではなく運転士が乗務し、ワンマン運転を行っている。この場合、車両最前部の座席は運転席となり、旅客は使用できない。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "全駅に東京メトロ南北線や金沢シーサイドラインなどと同じフルスクリーンタイプのホームドアを設置している。それぞれの駅には様々な日本の伝統文様が割り振られ、ホームドアなどにこのモチーフが反復して使われている。例えば、お台場海浜公園駅のモチーフは松葉色の地に白抜きの老松模様である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "新橋駅 - 豊洲駅間が1本の路線となっているが、路線の免特許上は以下のように軌道法に基づく軌道区間と鉄道事業法に基づく鉄道区間(第一種鉄道事業)とが混在している。これは、その下を走る道が道路法に基づく道路であるか、それ以外の道(主として港湾法に基づく港湾道路)であるかの違いによるものである。AGTには、他にも軌道区間と鉄道区間が混在している路線がある。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "全線通しの運転を基本とするが、早朝から朝ラッシュ時と深夜に有明駅発着の列車も運転されている。車両の夜間滞泊は豊洲駅で行っている。日中は平日が5分間隔で休日が4分間隔での運転となり、日中は平日よりも土休日の方が本数が多い。",
"title": "運行形態"
},
{
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"text": "東京ビッグサイトにおけるコミックマーケット・ジャパンモビリティショー(旧:東京モーターショー)など、沿線で大規模イベントがある時や、ゴールデンウィークなどの大型連休期間は臨時増発や特別ダイヤが組まれることがある。また、過去の東京湾大華火祭開催時には、豊洲地区が一部の時間帯で立入禁止区域となるため、市場前駅と新豊洲駅は一時閉鎖され、運転停車(乗降不可)の措置が取られていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "駅構内の発車案内標には列車種別が表示されているが、優等列車が運行されたことはなく、すべての列車が各駅に停車するため、全列車が「普通」(英字表示は「Loc.」)と表示される。しかし、中央司令所のシステムは急行運転に対応しており、車両の行先表示器や車内案内表示器でも急行の表示ができる(停車駅は新橋、お台場海浜公園〜有明の各駅、豊洲)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "車両は7300系・7500系が使用されている。7300系は開業時に導入された7000系を置き換えるために導入され、第1編成が2013年3月に搬入、2014年1月18日より営業運転が開始された。7000系は大半が日本車輌製造製だが、三菱重工業・新潟トランシス(新潟鐵工所)・東急車輛製造なども数編成を製造・納入している。7300系はすべて三菱重工業製で2013年から2016年までに108両が製造され、7000系をすべて置き換えた。2018年度より7200系の置き換えのため、7300系を改良した7500系が導入され、2018年11月11日に営業運転を開始し、2020年10月までに7200系をすべて置き換えた。",
"title": "使用車両"
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2000年の運輸政策審議会答申第18号では、豊洲駅 - 勝どき駅が「目標年次(2015年)までに整備着手することが適当である路線(A2)」とされ、豊洲駅の末端部には既に延伸のための準備が施されている。東京都港湾局による『まちづくり推進計画』では、利用状況を考慮した上で整備時期を検討するとしていた。",
"title": "延伸計画"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "しかし中央区は、都心部と臨海部を結ぶ新たな交通機関としてLRTやBRT(後に東京BRTへ発展)、次いで2014年からは地下鉄(都心部・臨海地域地下鉄構想)の導入を検討。2015年3月に『都心部と臨海部を結ぶ地下鉄新線の整備に向けた検討調査』の報告書をまとめ、同年6月に区議会へ報告した。",
"title": "延伸計画"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "東京都が2015年7月に公表した『広域交通ネットワーク計画について≪交通政策審議会答申に向けた検討のまとめ≫』では、地下鉄とゆりかもめ延伸を両方整備した場合、ゆりかもめ延伸の収支採算性の確保に課題が生じるとの調査結果から、都心部・臨海地域地下鉄構想は「整備について検討すべき路線」に選ばれたのに対して、ゆりかもめ延伸は対象外となった。",
"title": "延伸計画"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "これを受けて2016年4月に出された交通政策審議会答申第198号でも、都心部・臨海地域地下鉄構想は「国際競争力の強化に資する鉄道ネットワークのプロジェクト」として取り上げられたのに対して、ゆりかもめ延伸は答申の対象外となっている。",
"title": "延伸計画"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "日中は全駅に旅客案内を行うステーションスタッフが配置されているが、起終点であり定期券発売窓口を併設している新橋駅と豊洲駅、ならびに豊洲延伸開業以前に定期券発売窓口があった有明駅以外は駅員がいない。ただし多客時など不定期に他の駅も駅員が常駐していることがある。",
"title": "駅の営業体制と駅務機器"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "このため、乗客が切符を誤購入した場合に備えて、各駅の自動券売機の切符取り出し口に誤購入した切符を挿入すると購入した金額が読み取られて購入運賃分の現金が現金受け取り口に返却されるという「誤購入払戻し機能」が搭載されている(ただし普通乗車券のみ対応)。",
"title": "駅の営業体制と駅務機器"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "一部の駅は駅務業務を京王設備サービスに委託している",
"title": "駅の営業体制と駅務機器"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2006年3月27日の豊洲への延伸開業に併せて駅構内に音声案内装置を設置した。このうち構内案内図・精算所・トイレ案内図の3つに関しては、各駅ごとに1名ずつ、計16名の声優を起用した音声案内システムを導入している。各駅ごとに異なった声優を起用した音声案内システムの導入は日本の公共交通機関としては初めての試みとなる。声優の人選に当たってはアーツビジョンとその子会社であるアイムエンタープライズに当時所属する声優が選ばれた。また、沿線地域での大規模イベント開催時にはイベント用の音声を使用することになっており、2006年8月11日 - 13日(コミックマーケット70開催日)に初めて運用された。",
"title": "駅の音声案内"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "なお、これらの声優による案内は2015年に終了している。",
"title": "駅の音声案内"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "駅自動放送は、現在AI音声が使われている。",
"title": "駅・車内放送について"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "車内放送は、下記のイベント期間を除き森谷真弓が担当している。",
"title": "駅・車内放送について"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2007年10月21日から2008年9月28日までフジテレビで放送された『アナ☆ログ』のコーナー「ひとりでアナ☆レポ」の企画で、同年10月18日から2008年3月31日まで本田朋子をメインに、フジテレビのアナウンサー16人が当路線の車内アナウンスを全編成で実施し、期間限定で務めていた。放送内容は通常使用しているものと基本的に変更はない(12月までは、レインボーブリッジ通過中の本田による代表者挨拶が追加で放送)。本田が声をかけた順に(豊洲方向へ)担当の駅を割り振っていた。",
"title": "駅・車内放送について"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "また、2008年8月1日から8月31日にも『お台場冒険王ファイナル〜君が来なくちゃ終われない!〜』開催に合わせた『アナ☆ログ』とのコラボレーション企画で、フジテレビのアナウンサーが当路線の車内アナウンスおよび駅構内アナウンスを期間限定で務めた。駅構内アナウンスは豊洲駅(高島彩)、お台場海浜公園駅(平井理央)、台場駅(大島由香里)、船の科学館駅(中村仁美)、青海駅、新橋駅(本田)で実施した。車内放送は全区間を島田彩夏が担当した。",
"title": "駅・車内放送について"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "日本テレビで放送されていた『なるほど!ハイスクール』の企画として、2011年4月30日と5月1日の2日間限定でAKB48の一部メンバーによる車内アナウンスが実施された。前述のフジテレビアナウンサーのアナウンスとは異なり、2編成のみの実施であった。",
"title": "駅・車内放送について"
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"text": "2020年度の混雑率は、汐留駅→竹芝駅(8:00-9:00)で65%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1日平均乗降客数",
"title": "利用状況"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "1日平均乗降客数",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1日平均乗降客数",
"title": "利用状況"
}
] |
東京臨海新交通臨海線(とうきょうりんかいしんこうつうりんかいせん)は、東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ、株式会社ゆりかもめが運営する自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はU。 開通当初から愛称のゆりかもめもしくは新交通ゆりかもめで呼ばれることが多く、また同じ東京臨海副都心地区を通る東京臨海高速鉄道りんかい線との紛らわしさもあり、正式な路線名は一般にはほとんど用いられていない。路線名の「東京臨海新交通臨海線」(「臨海線」ではなく「東京臨海新交通」を含めて路線名である)は、運営会社「株式会社ゆりかもめ」が「東京臨海新交通株式会社」だった当時からの名称であるが、社名が変更されてからも従来のままとなっている。都市計画事業としての名称は、東京都市計画道路特殊街路新交通専用道第1号臨海線1 - 3及び東京都市計画都市高速鉄道東京臨海新交通臨海線である。
|
{{混同|東京臨海高速鉄道りんかい線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = 東京臨海新交通臨海線
|路線色 = #0067C0
|ロゴ = File:Yurikamome line symbol.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = Yurikamome7500wiki.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = [[ゆりかもめ7500系電車|7500系]]車両
|通称 = ゆりかもめ
|現況 =
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[東京都]]
|種類 = [[案内軌条式鉄道]]([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]])
|起点 = [[新橋駅]]
|終点 = [[豊洲駅]]
|駅数 = 16駅
|路線記号 = U
|開業 = 1995年11月1日<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=23 }}</ref>
|休止 =
|廃止 =
|所有者 = [[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]]
|運営者 = ゆりかもめ
|車両基地 = [[有明車両基地]]
|使用車両 = [[ゆりかもめ (企業)#車両]]を参照
|路線距離 = 14.7 [[キロメートル|km]]
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[三相交流]]600 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]
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|最小曲線半径 = 本線:45 m<ref name="JRCEA1996-9"/>
|閉塞方式 = 車内信号式
|保安装置 = [[自動列車制御装置|ATC]]・[[自動列車運転装置|ATO]]
|最高速度 = 60 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="yamanote">杉崎行恭『山手線 ウグイス色の電車今昔50年』JTBパブリッシング、2013年 p.168</ref>
|路線図 = <!--英語表記にミスが見受けられるためコメントアウト File:Yurikamome route map.gif -->
}}
{{BS-map
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|title = 停車場・施設・接続路線
|title-bg = #0067C0
|title-color = white
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{{BS4|CONTgq|BHFq|O2=HUBa|CONTfq||||{{rmri|left}} [[品川駅|品川]]方面 {{rint|ja|jreast}} {{rint|ja|eto}} {{rint|ja|ekt}} {{rint|ja|eyt}}|}}
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{{BS4||uBHF|||14.0|'''U-15''' [[新豊洲駅]]||}}
{{BS4||uKBHFe|||14.7|'''U-16''' [[豊洲駅]]|{{rint|tokyo|y}}|}}
|bottom = 青線は軌道法による軌道区間
}}
[[File:Yurikamome shiodome.JPG|thumb|220px|汐留駅へ進入中のゆりかもめの車両(2007年6月撮影)]]
'''東京臨海新交通臨海線'''(とうきょうりんかいしんこうつうりんかいせん)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[新橋駅]]から[[江東区]]の[[豊洲駅]]までを結ぶ、[[ゆりかもめ (企業)|株式会社ゆりかもめ]]が運営する[[自動案内軌条式旅客輸送システム]](AGT)路線である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''U'''<ref group="注釈">y'''U'''rikamome。「Y」が豊洲駅で接続する[[東京メトロ有楽町線]](Yurakucho)で使用されており、同路線との混同を避けるため2文字目の「U」とされた。</ref>。
開通当初から愛称の'''ゆりかもめ'''もしくは'''新交通ゆりかもめ'''で呼ばれることが多く、また同じ[[東京臨海副都心]]地区を通る[[東京臨海高速鉄道りんかい線]]との紛らわしさもあり、正式な路線名は一般にはほとんど用いられていない。路線名の「東京臨海新交通臨海線」(「臨海線」ではなく「東京臨海新交通」を含めて路線名である)は、運営会社「株式会社ゆりかもめ」が「東京臨海新交通株式会社」だった当時からの名称であるが、[[商号|社名]]が変更されてからも従来のままとなっている。[[都市計画]]事業としての名称は、東京[[都市計画道路]]特殊街路新交通専用道第1号臨海線1 - 3及び東京都市計画[[都市高速鉄道]]東京臨海新交通臨海線である。
== 概要 ==
[[新橋 (東京都港区)|新橋]]と東京臨海副都心を結ぶ交通機関として、[[1995年]]([[平成]]7年)[[11月1日]]に[[新橋駅]] - [[有明駅 (東京都)|有明駅]]間 11.9 [[キロメートル|km]] が開業した。開業当初の新橋駅は現在の位置より 100 [[メートル|m]] 有明駅寄りの位置にあった仮駅で、現在この位置は[[汐留シオサイト]]の敷地である。[[2001年]](平成13年)[[3月22日]]に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)新橋駅前の現在の位置まで移転・延伸された。[[2006年]](平成18年)[[3月27日]]には、有明駅 - [[豊洲駅]]間 2.7 km が延伸開業した。
新橋駅ではJR東日本の[[山手線]]等や[[東京メトロ銀座線]]、[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]と、汐留駅では[[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]と、豊洲駅では[[東京メトロ有楽町線]]と乗り継げる。また[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]の[[東京テレポート駅]]と[[国際展示場駅]]は、ゆりかもめの最寄り駅から徒歩圏内である。
この路線は、[[1996年]]に開催される予定であった[[世界都市博覧会]]のアクセス線として注目を浴びたが、同博覧会は[[東京都知事]][[青島幸男]]の[[公約]]実行で中止された。これにより、ゆりかもめは40億円の赤字を出すと言われていたが、実際に開業すると乗客は順調に増加し、1日10万人以上を数えるようになり、黒字経営の路線となった。
沿線にはオフィスビルや高層マンションのほか、多数の観光資源([[お台場]]や[[有明 (江東区)|有明]]地区、[[豊洲市場]]など)やコンベンションセンター([[東京国際展示場|東京ビッグサイト]])などの集客施設が存在し、これが利用増につながっている。また、私立大学([[有明教育芸術短期大学]]、[[東京有明医療大学]]、[[武蔵野大学]]有明キャンパス)が新たに開校し、通学利用者も増加している。
さらに[[2020年東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]に向け臨海エリアには同大会の競技会場が複数新設されたことから、アクセス路線としての機能も担うことになった<ref group="注釈">2016年夏季オリンピックの[[2016年東京オリンピック構想|東京招致]]の際も同様の予定であった。</ref>が、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行]]の影響で[[無観客試合|無観客]]での開催となったため、予定されていた臨時列車の運行は取り止められている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yurikamome.co.jp/company/news/20210709_2683.html |title=東京2020大会オリンピック期間中の臨時列車運行取りやめについて |accessdate=2022-03-29 |publisher=ゆりかもめ |date=2021-07-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yurikamome.co.jp/company/news/20210817_2701.html |title=東京2020大会パラリンピック期間中の臨時列車運行取りやめについて |accessdate=2022-03-29 |publisher=ゆりかもめ |date=2021-08-17}}</ref>。
また、車窓からは[[東京タワー]]や[[レインボーブリッジ]]、[[東京スカイツリー]]、[[東京ゲートブリッジ]]など東京のシンボルを望むことができる。[[芝浦ふ頭駅]] - [[お台場海浜公園駅]]間で渡るレインボーブリッジの新橋側の接続部は、芝浦ふ頭駅と橋梁との高低差が大きく、軌道の勾配を緩やかにするため[[ループ線|ループ]]構造を採用している<ref>[https://web.archive.org/web/20110918041808/http://www.yurikamome.co.jp/contents/hp0117/index.php?No=74&CNo=117 ゆりかもめよくある質問] - 2011年9月18日時点での[[アーカイブ]]</ref>。
[[自動列車運転装置]] (ATO) による無人自動運転を実施している。運行中は車内に[[運転士]]や[[車掌]]がいないため、車内での緊急時には備え付けの[[インターホン]]で対応することになる。なお、早朝・深夜時間帯やATOの機能障害などの非常時に備えて行われる手動運転訓練時などには自動運転ではなく運転士が乗務し、[[ワンマン運転]]を行っている。この場合、車両最前部の座席は運転席となり、旅客は使用できない。
全駅に[[東京メトロ南北線]]や[[横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン|金沢シーサイドライン]]などと同じ[[ホームドア#フルスクリーンタイプ|フルスクリーンタイプのホームドア]]を設置している。それぞれの駅には様々な日本の伝統文様が割り振られ、ホームドアなどにこのモチーフが反復して使われている。例えば、お台場海浜公園駅のモチーフは松葉色の地に白抜きの老松模様である。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):14.7 km
* 案内軌条:側方案内式
* 駅数:16駅(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電気方式:[[三相交流]] 600 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]
* 最高速度:60 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="yamanote" />
* 本線ではないが、[[有明車両基地]]への出入庫線は約700 mあり、また出入庫線(側線)には60‰の急勾配と30 mの急曲線がある<ref name="JRCEA1996-9"/>。
新橋駅 - 豊洲駅間が1本の路線となっているが、路線の免特許上は以下のように[[軌道法]]に基づく軌道区間と[[鉄道事業法]]に基づく鉄道区間([[鉄道事業者|第一種鉄道事業]])とが混在している。これは、その下を走る道が[[道路法]]に基づく[[道路]]であるか、それ以外の道(主として[[港湾法]]に基づく港湾道路)であるかの違いによるものである。AGTには、他にも軌道区間と鉄道区間が混在している路線がある。
* 新橋駅 - [[日の出駅]]間 (2.2 km) - 軌道
* 日の出駅 - お台場海浜公園駅間 (4.7 km) - 鉄道
* お台場海浜公園駅 - [[テレコムセンター駅]]間 (2.3 km) - 軌道
* テレコムセンター駅 - [[東京ビッグサイト駅]] (2.1 km) - 鉄道
* 東京ビッグサイト駅 - 豊洲駅間 (3.4 km) - 軌道
== 運行形態 ==
全線通しの運転を基本とするが、早朝から朝[[ラッシュ時]]と深夜に[[有明駅 (東京都)|有明駅]]発着の列車も運転されている。車両の[[夜間滞泊]]は豊洲駅で行っている。日中は平日が5分間隔で休日が4分間隔での運転となり、日中は平日よりも土休日の方が本数が多い。
東京ビッグサイトにおける[[コミックマーケット]]・[[JAPAN MOBILITY SHOW|ジャパンモビリティショー]](旧:[[東京モーターショー]])など、沿線で大規模イベントがある時や、[[ゴールデンウィーク]]などの大型連休期間は臨時増発や特別ダイヤが組まれることがある。また、過去の[[東京湾大華火祭]]開催時には、豊洲地区が一部の時間帯で立入禁止区域となるため、[[市場前駅]]と[[新豊洲駅]]は一時閉鎖され、[[運転停車]](乗降不可)の措置が取られていた。
駅構内の[[発車標|発車案内標]]には列車種別が表示されているが、優等列車が運行されたことはなく、すべての列車が各駅に停車するため、全列車が「[[普通列車|普通]]」(英字表示は「Loc.」)と表示される。しかし、中央司令所のシステムは急行運転に対応しており、車両の[[方向幕|行先表示器]]や[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]でも急行の表示ができる(停車駅は新橋、お台場海浜公園〜有明の各駅、豊洲)。
== 使用車両 ==
車両は[[ゆりかもめ7300系電車|7300系・7500系]]が使用されている。7300系は開業時に導入された[[東京臨海新交通7000系電車|7000系]]を置き換えるために導入され<ref>{{PDFlink|[http://www.yurikamome.co.jp/core_sys/images/news/00000691/base/003.pdf?1364431804 ゆりかもめ新型車両デビュー!]}} - ゆりかもめ</ref>、第1編成が2013年3月に搬入、2014年1月18日より営業運転が開始された。7000系は大半が[[日本車輌製造]]製だが、[[三菱重工業]]・[[新潟トランシス]]([[新潟鐵工所]])・[[東急車輛製造]]なども数編成を製造・納入している。7300系はすべて三菱重工業製で2013年から2016年までに108両が製造され<ref>[http://response.jp/article/2010/06/11/141480.html 「三菱重工、ゆりかもめの新型108両を受注」Response.jp 2010年6月11日]</ref><ref>[https://www.mhi.co.jp/news/story/1609235790.html 新交通ゆりかもめ向け全自動無人運転車両(AGT)48両発注 2020年に向けて導入] - 三菱重工</ref>、7000系をすべて置き換えた。[[2018年]]度より[[東京臨海新交通7000系電車|7200系]]の置き換えのため、7300系を改良した7500系が導入され<ref>{{Cite web|和書|title=ゆりかもめは新型車両を導入します|url=http://www.yurikamome.co.jp/wp-content/uploads/2018/03/05116436bfdf655657066276bd381025.pdf|format=PDF|date=2018-03-29|accessdate=2018-05-03}}</ref>、2018年11月11日に営業運転を開始し<ref>{{PDFlink|[http://www.yurikamome.co.jp/wp-content/uploads/2018/10/156498de4706f3dde49a5729fa956dc8.pdf 2018.11.11(日)ゆりかもめ新型車両7500系デビュー!]}} - ゆりかもめ(2018年10月4日)2019年1月13日閲覧。</ref>、2020年10月までに7200系をすべて置き換えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yurikamome.co.jp/company/news/20201015_2563.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201015134458/https://www.yurikamome.co.jp/company/news/20201015_2563.html|title=ゆりかもめ7200系車両の引退について|archivedate=2020-10-15|date=2020-10-15|accessdate=2020-10-15|publisher=ゆりかもめ|language=日本語}}</ref>。
== 歴史 ==
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[11月1日]] - 東京臨海新交通株式会社の東京臨海新交通臨海線(愛称・ゆりかもめ)として新橋駅(仮駅) - 有明駅間開業<ref name="sone30"/>。
* [[1998年]](平成10年)
** [[1月20日]] - お台場海浜公園駅付近で点検作業をしていた男性従業員が有明行き列車に轢かれ、死亡する事故が発生<ref name="RJ378">{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |date = 1998-04 |volume = 32 |issue = 4 |page = 114 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
** [[4月1日]] - 東京臨海新交通株式会社が株式会社ゆりかもめに社名変更<ref name="sone30"/><ref>{{Cite journal|和書 |date = 1998-7 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 32 |issue = 7 |pages = 98-99 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)[[2月]] - 7200系車両の営業運転開始。
* [[2001年]](平成13年)[[3月22日]] - 新橋駅 - 新橋駅(仮駅)間が開業<ref name="sone30"/>。新橋駅(仮駅)廃止。
* [[2002年]](平成14年)[[11月2日]] - [[汐留駅]]開業<ref name="sone30"/>。
* [[2006年]](平成18年)
** [[3月27日]] - 有明駅 - 豊洲駅間延伸開業<ref name="sone30"/>。同時に[[駅ナンバリング]]と音声案内装置を導入。
** [[4月14日]] - 車輪脱落事故が発生。17日まで全線運休となる。
* [[2011年]](平成23年)[[3月12日]] - 前日の[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の影響により、終日運休となる。
* [[2013年]](平成25年)[[10月8日]] - 新型車両である[[ゆりかもめ7300系電車|7300系]]の試運転開始。同年[[11月2日]]、新橋駅にて車内お披露目会を開催。
* [[2014年]](平成26年)[[1月18日]] - 7300系の営業運転開始。以後順次投入して、[[2016年]]度までに従来車両の置き換えを進める計画。
* [[2018年]](平成30年)[[11月11日]] - 7500系の営業運転開始。以後順次投入して、[[2020年]]度までに従来車両の置き換えを進める計画。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]] - 船の科学館駅を東京国際クルーズターミナル駅に、国際展示場正門駅を東京ビッグサイト駅に改称<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.yurikamome.co.jp/wp-content/uploads/2019/01/5705623968dcb5ee9a279c249a1c3160.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190303091936/http://www.yurikamome.co.jp/wp-content/uploads/2019/01/5705623968dcb5ee9a279c249a1c3160.pdf|format=PDF|language=日本語|title=船の科学館駅及び国際展示場正門駅の駅名改称日が決まりました!|publisher=ゆりかもめ|date=2019-01-15|accessdate=2020-09-17|archivedate=2019-03-03}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)[[10月14日]] - 7200系車両の全編成が運用を終了。
== 延伸計画 ==
[[ファイル:Yurikamome Toyosu Station.jpg|220px|thumb|[[豊洲駅]]のエンドレール。[[勝どき駅|勝どき]]方面への延伸整備を見据え、レール末端部が勝どき方面に曲がっている(2007年4月29日撮影)。]]
2000年の[[運輸政策審議会答申第18号]]では、[[豊洲駅]] - [[勝どき駅]]が「目標年次(2015年)までに整備着手することが適当である路線(A2)」とされ、豊洲駅の末端部には既に延伸のための準備が施されている。[[東京都港湾局]]による『まちづくり推進計画』では、利用状況を考慮した上で整備時期を検討するとしていた。
しかし[[中央区 (東京都)|中央区]]は、都心部と臨海部を結ぶ新たな交通機関として[[ライトレール|LRT]]や[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]](後に[[東京BRT]]へ発展)、次いで2014年からは地下鉄([[都心部・臨海地域地下鉄構想]])の導入を検討。2015年3月に『都心部と臨海部を結ぶ地下鉄新線の整備に向けた検討調査』の報告書<ref name="chuo">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.city.chuo.lg.jp/kankyo/keikaku/tikatetukentou.files/HP_houkokusho.pdf|title=都心部と臨海部を結ぶ地下鉄新線の整備に向けた検討調査 広告書 概要版|publisher=中央区|date=2015-03|accessdate=2016-04-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150701230308/http://www.city.chuo.lg.jp/kankyo/keikaku/tikatetukentou.files/HP_houkokusho.pdf|archivedate=2015年7月1日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>をまとめ、同年6月に区議会へ報告した<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXMZO88004550S5A610C1000000/|title=選手村予定地に地下鉄構想、五輪後の住宅整備見込む|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|date=2015-06-12|accessdate=2016-04-28}}</ref>。
東京都が2015年7月に公表した『広域交通ネットワーク計画について≪交通政策審議会答申に向けた検討のまとめ≫』<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.metro.tokyo.jp/INET/KONDAN/2015/07/DATA/40p7a100.pdf|title=広域交通ネットワーク計画について≪交通政策審議会答申に向けた検討のまとめ≫|publisher=東京都|date=2015-07-10|accessdate=2016-04-28}}</ref>では、地下鉄とゆりかもめ延伸を両方整備した場合、ゆりかもめ延伸の収支採算性の確保に課題が生じるとの調査結果から、都心部・臨海地域地下鉄構想は「整備について検討すべき路線」に選ばれたのに対して、ゆりかもめ延伸は対象外となった。
これを受けて2016年4月に出された[[交通政策審議会答申第198号]]<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.mlit.go.jp/common/001128563.pdf|title=東京圏における今後の都市鉄道のあり方について(答申)|work=東京圏における今後の都市鉄道のあり方に関する小委員会|publisher=国土交通省|date=2016-04-20|accessdate=2016-04-24}}{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>でも、都心部・臨海地域地下鉄構想は「国際競争力の強化に資する鉄道ネットワークのプロジェクト」として取り上げられたのに対して、ゆりかもめ延伸は答申の対象外となっている。
== 駅の営業体制と駅務機器 ==
[[ファイル:NewTransit Yurikamome Shinbashi St.jpg|220px|right|thumb|新橋駅入口 2005年10月撮影]]
日中は全駅に旅客案内を行うステーションスタッフが配置されているが、起終点であり[[定期乗車券|定期券]]発売窓口を併設している新橋駅と豊洲駅、ならびに豊洲延伸開業以前に定期券発売窓口があった有明駅以外は駅員がいない<ref>[http://www.yurikamome.co.jp/aboutus/recruit/introduction/ 仕事紹介] - ゆりかもめ、2018年11月9日閲覧。</ref>。ただし多客時など不定期に他の駅も駅員が常駐していることがある。
このため、乗客が[[乗車券|切符]]を誤購入した場合に備えて、各駅の[[自動券売機]]の切符取り出し口に誤購入した切符を挿入すると購入した金額が読み取られて購入運賃分の現金が現金受け取り口に返却されるという「誤購入払戻し機能」が搭載されている(ただし[[普通乗車券]]のみ対応)。
一部の駅は駅務業務を[[京王設備サービス]]に委託している<ref>[https://jp.stanby.com/jobs/449c0cdc6ecfc93dbf0ff14c9d736c60488268976e28d505a097097e14e04ea3?preview&tid=3fdd700f-0034-11ee-8b08-9bded0aa9b1f ゆりかもめの鉄道駅業務] - スタンバイ、2023年6月2日閲覧</ref>
== 駅の音声案内 ==
[[2006年]][[3月27日]]の豊洲への延伸開業に併せて駅構内に音声案内装置を設置した。このうち構内案内図・精算所・[[便所|トイレ]]案内図の3つに関しては、各駅ごとに1名ずつ、計16名の[[声優]]を起用した音声案内システムを導入している。各駅ごとに異なった声優を起用した音声案内システムの導入は日本の[[公共交通機関]]としては初めての試みとなる。声優の人選に当たっては[[アーツビジョン]]とその子会社である[[アイムエンタープライズ]]に当時所属する声優が選ばれた。また、沿線地域での大規模イベント開催時にはイベント用の音声を使用することになっており、2006年[[8月11日]] - [[8月13日|13日]]([[コミックマーケット]]70開催日)に初めて運用された。
なお、これらの声優による案内は2015年に終了している。
* {{Wayback|url=http://www.yurikamome.co.jp/contents/hp0015/index.php?No=5&CNo=15|title=ユニバーサルデザイン -株式会社ゆりかもめ|date=20080902002241}}
== 駅・車内放送について ==
[[駅自動放送]]は、現在AI音声が使われている<ref group="注釈">[[HOYA]]のReadSpeakerの声に酷似しているが、ゆりかもめにおいては同社からの発表がない。</ref>。
[[車内放送]]は、下記のイベント期間を除き[[森谷真弓]]が担当している<ref>[https://profile.ameba.jp/ameba/happymayulife Mayumiさんのプロフィールページ]</ref>。
=== フジテレビアナウンサーによるアナウンス ===
[[2007年]][[10月21日]]から[[2008年]][[9月28日]]まで[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で放送された『[[アナ☆ログ]]』のコーナー「ひとりでアナ☆レポ」の企画で、同年[[10月18日]]から[[2008年]][[3月31日]]まで[[本田朋子]]をメインに、フジテレビの[[日本のアナウンサー|アナウンサー]]16人が当路線の車内アナウンスを全編成で実施し、期間限定で務めていた。放送内容は通常使用しているものと基本的に変更はない(12月までは、[[レインボーブリッジ]]通過中の本田による代表者挨拶が追加で放送)。本田が声をかけた順に(豊洲方向へ)担当の駅を割り振っていた。
また、2008年[[8月1日]]から[[8月31日]]にも『[[お台場冒険王|お台場冒険王ファイナル〜君が来なくちゃ終われない!〜]]』開催に合わせた『アナ☆ログ』との[[コラボレーション]]企画で、フジテレビのアナウンサーが当路線の車内アナウンスおよび駅構内アナウンスを期間限定で務めた。駅構内アナウンスは[[豊洲駅]]([[高島彩]])、[[お台場海浜公園駅]]([[平井理央]])、[[台場駅]]([[大島由香里]])、[[東京国際クルーズターミナル駅|船の科学館駅]]([[中村仁美]])、[[青海駅 (東京都)|青海駅]]、新橋駅(本田)で実施した。車内放送は全区間を[[島田彩夏]]が担当した。
=== AKB48によるアナウンス ===
[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送されていた『[[なるほど!ハイスクール]]』の企画として、[[2011年]][[4月30日]]と[[5月1日]]の2日間限定で[[AKB48]]の一部メンバーによる車内アナウンスが実施された<ref name="akb48">[http://www.yurikamome.co.jp/news/hp0001/index.php?No=550&CNo=1 【4月30日(土)、5月1日(日)】日本テレビなるほど!ハイスクール「AKB48の声がゆりかもめの車内自動アナウンスに!」について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120922042613/http://www.yurikamome.co.jp/news/hp0001/index.php?No=550&CNo=1 |date=2012年9月22日 }} - 株式会社ゆりかもめ トピックス 2011年4月25日</ref>。前述のフジテレビアナウンサーのアナウンスとは異なり、2編成のみの実施であった<ref name="akb48"/>。
== 駅一覧 ==
* 全駅が[[東京都]]内に所在する。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:80%;"
|-
!style="border-bottom:solid 3px #0067C0; width:3.5em;"|駅番号
!style="border-bottom:solid 3px #0067C0; width:10em;"|駅名
!style="border-bottom:solid 3px #0067C0; width:2.5em;"|駅間<br />キロ
!style="border-bottom:solid 3px #0067C0; width:2.5em;"|営業<br />キロ
!style="border-bottom:solid 3px #0067C0; width:26em;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #0067C0; white-space:nowrap;"|所在地
!style="border-bottom:solid 3px #0067C0; width:6em;"|文様
!style="border-bottom:solid 3px #0067C0; width:6em;"|文様背景色
!style="border-bottom:solid 3px #0067C0; width:7em;"|音声案内<br />担当声優<br />(2006年3月<br /> - 2015年)
!style="border-bottom:solid 3px #0067C0; width:8em;"|車内放送担当<br />アナウンサー<br />(2007年10月<br /> - 2008年3月)
|-
!U-01
|[[新橋駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]([[上野東京ライン]]) (JT 02)・[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 29)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 24)・[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線]] (JO 18)<br />[[東京地下鉄]]:[[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-08)<br />[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|浅草線]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] (A-10)
|rowspan="8"|[[港区 (東京都)|港区]]
|柳縞
|<span style="display:none;speak:none">94e6f4</span>{{Color sample|#94e6f4}}[[新橋色]]
|[[浅野真澄]]
|[[本田朋子]]
|-
!U-02
|[[汐留駅]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|0.4
|都営地下鉄:[[File:Toei Oedo line symbol.svg|18px|大江戸線]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-19)
|[[ヨシ|葦]]
|<span style="display:none;speak:none">ffe378</span>{{Color sample|#ffe378}}[[鬱金色]]
|[[下野紘]]
|[[島田彩夏]]
|-
!U-03
|[[竹芝駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|1.6
|
|[[鱗]]
|<span style="display:none;speak:none">3b3a58</span>{{Color sample|#3b3a58}}[[鉄紺色]]
|[[たかはし智秋]]
|[[遠藤玲子]]
|-
!U-04
|[[日の出駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|2.2
|
|日足散らし
|<span style="display:none;speak:none">dd2177</span>{{Color sample|#dd2177}}[[紅色]]
|[[長谷優里奈]]
|[[松尾翠]]
|-
!U-05
|[[芝浦ふ頭駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|3.1
|
|露芝
|<span style="display:none;speak:none">e4f2eb</span>{{Color sample|#e4f2eb}}[[水浅葱色]]
|[[山本麻里安]]
|[[宮瀬茉祐子]]
|-
|colspan="5" style="text-align:center;"|この間で[[レインボーブリッジ]]を渡る
|colspan="4" style="text-align:center; width:11em;"|<!--車内では[[本田朋子]]による代表者挨拶-->
|-
!U-06
|[[お台場海浜公園駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|7.0
|
|老松
|<span style="display:none;speak:none">55714e</span>{{Color sample|#55714e}}[[松葉色]]
|[[鈴村健一]]
|[[武田祐子]]
|-
!U-07
|[[台場駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|7.8
|
|大波
|<span style="display:none;speak:none">ac4caa</span>{{Color sample|#ac4caa}}[[菫色]]
|[[森川智之]]
|[[春日由実]]
|-
!U-08
|[[東京国際クルーズターミナル駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|8.4
|
|rowspan="9"|[[江東区]]
|[[帆船|帆掛け舟]]
|<span style="display:none;speak:none">952727</span>{{Color sample|#952727}}[[葡萄色|海老茶色]]
|[[高城元気]]
|[[生野陽子]]
|-
!U-09
|[[テレコムセンター駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|9.2
|
|[[コウモリ|蝙蝠]]
|<span style="display:none;speak:none">9c9b9c</span>{{Color sample|#9c9b9c}}[[鳩羽鼠]]
|[[水橋かおり]]
|[[大島由香里]]
|-
!U-10
|[[青海駅 (東京都)|青海駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|10.2
|
|[[青海波]]
|<span style="display:none;speak:none">305185</span>{{Color sample|#305185}}[[瑠璃色]]
|[[鳥海浩輔]]
|[[中村仁美]]
|-
!U-11
|[[東京ビッグサイト駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|11.3
|
|[[サクラ|桜]]
|<span style="display:none;speak:none">fc4e9a</span>{{Color sample|#fc4e9a}}[[桜桃色]]
|[[高橋美佳子]]
|[[平井理央]]
|-
!U-12
|[[有明駅 (東京都)|有明駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|12.0
|[[東京臨海高速鉄道]]:[[File:Rinkai Line symbol.svg|18px|R]] [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]([[国際展示場駅]]:R 03)
|[[ライオン|獅子]]
|<span style="display:none;speak:none">ffa83f</span>{{Color sample|#ffa83f}}[[柑子色]]
|[[中原麻衣]]
|[[斉藤舞子]]
|-
!U-13
|[[有明テニスの森駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|12.7
|
|[[干潟]]に[[水鳥]]
|<span style="display:none;speak:none">899d49</span>{{Color sample|#899d49}}[[海松色]]
|[[鈴木千尋 (声優)|鈴木千尋]]
|[[山本麻祐子]]
|-
!U-14
|[[市場前駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|13.5
|
|変わり縞に[[カニ|蟹]]
|<span style="display:none;speak:none">ce4a72</span>{{Color sample|#ce4a72}}[[蘇芳色]]
|[[鈴木達央]]
|[[高橋真麻]]
|-
!U-15
|[[新豊洲駅]]
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|14.0
|
|[[そろばん|算盤]]縞
|<span style="display:none;speak:none">735686</span>{{Color sample|#735686}}[[江戸紫]]
|[[桑谷夏子]]
|[[中野美奈子]]
|-
!U-16
|[[豊洲駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|14.7
|東京地下鉄:[[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] (Y-22)
|水に雨龍
|<span style="display:none;speak:none">5b8ed0</span>{{Color sample|#5b8ed0}}[[紺碧]]
|[[保志総一朗]]
|[[高島彩]]
|}
* 台場駅と東京国際クルーズターミナル駅の間で[[品川区]]を通過するが、駅はない。
== 利用状況 ==
2020年度の[[混雑率]]は、汐留駅→竹芝駅(8:00-9:00)で65%である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=6|format=PDF}}</ref>。
=== 駅別乗降客数 ===
==== 2006年 ====
1日平均乗降客数
* 新橋駅 - 58,824人
* 汐留駅 - 7,805人
* 竹芝駅 - 4,701人
* 日の出駅 -2,271人
* 芝浦ふ頭駅 - 5,166人
* お台場海浜公園駅 - 14,497人
* 台場駅 - 21,682人
* 船の科学館駅 - 3,579人
* テレコムセンター駅 - 10,649人
* 青海駅 - 7,153人
* 国際展示場正門駅 - 16,312人
* 有明駅 - 3,743人
* 有明テニスの森駅 - 1,185人
* 市場前駅 - 76人
* 新豊洲駅- 893人
* 豊洲駅 - 9,494人
==== 2004年 ====
1日平均乗降客数
* 新橋駅 - 63,791人
* 汐留駅 - 7,500人
* 竹芝駅 - 9,301人
* 日の出駅 - 2,043人
* 芝浦ふ頭駅 - 5,875人
* お台場海浜公園駅 - 15,859人
* 台場駅 - 22,866人
* 船の科学館駅 - 3,506人
* テレコムセンター駅 - 11,233人
* 青海駅 - 7,152人
* 国際展示場正門駅 - 13,885人
* 有明駅 - 2,509人
==== 2000年 ====
1日平均乗降客数<ref>[http://www.nk-works.sakura.ne.jp/ayano/data/metro/yurikamome-h14.htm 財団法人運輸政策研究機構平成14年度都市交通年報](調査年度は2000年度)</ref>
* 新橋駅 94,217人
* 竹芝駅 4,681人
* 日の出駅 1,675人
* 芝浦ふ頭駅 6,970人
* お台場海浜公園駅 19,406人
* 台場駅 28,838人
* 船の科学館駅 2,734人
* テレコムセンター駅 13,561人
* 青海駅 11,529人
* 国際展示場正門駅 21,420人
* 有明駅 3,531人
<!--
=== 混雑率・集中率 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="6"|最混雑区間輸送実績<ref name="donorosen">{{Cite book|author=川島令三|title=東京圏通勤電車どの路線が速くて便利か|publisher=[[草思社]]|year=2006|ISBN=978-4794214843}}</ref>
!rowspan="2"|最混雑区間
!rowspan="2"|特記事項
|-
!時間帯!!運転本数!!輸送力(1両当り)!!輸送量!!混雑率!!集中率
|-
|1996年(平成8年)
|9時-||12本||3520人(59)||5973人||170%||20%
|新橋→竹芝
|
|-
|2002年(平成14年)
|8:20-||19本||6688人(59)||9215人||138%||19%
|汐留→竹芝
|
|-
|2005年(平成17年)
| || ||||||||
|
|
|}
[[川島令三]]の分析に依れば、集中率が低いのは日中帯や土休日の定期外利用が多く、お台場や東京ビックサイト、大江戸温泉物語などの集客施設への利用が多い事を示している<ref name="donorosen" />。特に日中帯の運転本数は土休日の方が多くなっている。無人運転のため、集客があれば適宜増発される。
-->
== その他 ==
<!-- マスコットキャラクターは[[ゆりかもめ (企業)]]に移動。 -->
* 切符は青地の背景に白で[[ユリカモメ]]をモチーフにした会社のシンボルマークが印刷されている。
* 新橋駅 - 有明駅間の開業日には、同日開局した[[東京メトロポリタンテレビジョン]](TOKYO MX<ref group="注釈">当時の愛称は「MXテレビ」</ref>)が、出発式の模様を開局から数えて2番目の番組『新交通ゆりかもめ開通の瞬間』として朝6時から放送した。ただし同局の正式な開局は18時であり、この番組は当日朝4時からの[[サービス放送]]『カウントダウンMXTV』内での放送である。なお、最初の番組は『天気情報』であった。
* 2006年8月14日朝に発生した[[東京電力]]江東線の[[電線路|送電線]]切断事故による[[2006年8月14日首都圏停電|首都圏大規模停電]]により列車が高架上で完全停止し、炎天下で乗客が1時間近く閉じこめられた事故が発生した。
* 2007年から2010年まで不定期で[[夜景]]列車を運行していた。コースは有明駅から日の出駅の渡り線で折り返し、豊洲駅まで運行。夜景が見やすいように車内の照明が落とされ、[[BGM]]が流れる等の工夫がされていた。
== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:Yurikamome 001.JPG|運転中の車内最前部
ファイル:Model 7000-First of Yurikamome.JPG|7000系1次車、第1編成(2006年3月)
ファイル:Yurikamome-Jan2020.webm|運転中(2020年1月)
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Yurikamome}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[新交通システム]]
* [[自動案内軌条式旅客輸送システム]] (AGT)
* [[自動列車運転装置]] (ATO)
* [[東京都交通局日暮里・舎人ライナー]]
* [[都心部・臨海地域地下鉄構想]]
== 外部リンク ==
{{Wikinews|ゆりかもめ、脱輪で運休}}
* [https://www.yurikamome.co.jp/ 新交通ゆりかもめ]
* {{Twitter|yurikamome_info|ゆりかもめ公式お知らせ}}
* [http://machi-log.jp/st/feature/wheelwindow/yurikamome/ 「街ログ/鉄道シリーズ」ゆりかもめ] - 全区間の前面展望動画
{{日本の新交通システム}}
{{DEFAULTSORT:ゆりかもめとうきようりんかいしんこうつうりんかいせん}}
[[Category:ゆりかもめ|路]]
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:日本の新交通システム]]
[[Category:案内軌条式鉄道路線]]
[[Category:東京都の交通]]
|
2003-09-19T00:22:45Z
|
2023-11-28T02:30:09Z
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|
17,333 |
東京ビッグサイト駅
|
東京ビッグサイト駅(とうきょうビッグサイトえき)は、東京都江東区有明三丁目にある、東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)の駅である。駅番号はU 11。
島式ホーム1面2線の高架駅である。
2018年度の1日平均乗車人員は10,134人である。開業以来の1日平均乗車人員推移は下記の通り。
駅名の通り東京ビッグサイトの最寄り駅で、改札口から2階エントランスプラザまで通路で直結しており、東京ビッグサイトでのイベント開催時はしばしば混雑する。駅北側はオフィスビルやホテルが立ち並び、りんかい線国際展示場駅も至近である(ただし、乗り換えは隣の有明駅の方が近い)。
最寄り停留所は、東京都道484号豊洲有明線の終点の東京ビッグサイト交差点付近にある東京ビッグサイト駅前である。以下の路線が乗り入れ、東京都交通局により運行されている。なお、近傍の東京国際展示場内にある東京ビッグサイト停留所も利用可能である。詳細は同施設公式サイトの「交通アクセス」ページを参照。
東京ビッグサイト乗船場(有明客船ターミナル)があり、東京都観光汽船、東京水辺ラインの水上バスが発着する。
東京港フェリーターミナルまで徒歩25分。
|
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東京ビッグサイト駅(とうきょうビッグサイトえき)は、東京都江東区有明三丁目にある、東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)の駅である。駅番号はU 11。
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{{Otheruses|[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]][[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]]の駅|近接する[[東京臨海高速鉄道]][[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]の駅|国際展示場駅}}
{{駅情報
|社色 = #27404E
|文字色 =
|駅名 = 東京ビッグサイト駅
|画像 = Tokyo Big Sight Station, at Ariake, Koto, Tokyo (2019-08-13) 01.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 東京ビッグサイト駅
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}}
|よみがな = とうきょうびっぐさいと
|ローマ字 = Tokyo Big Sight
|副駅名 =
|前の駅 = U 10 [[青海駅 (東京都)|青海]]
|駅間A = 1.1
|駅間B = 0.7
|次の駅 = [[有明駅 (東京都)|有明]] U 12
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|U|11|#0073bc|6}}
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|所属路線 ={{Color|#0073bc|■}}[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]]
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|所在地 = [[東京都]][[江東区]][[有明 (江東区)|有明]]三丁目6-15
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 37 | 緯度秒 = 48.8 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 139 |経度分 = 47 | 経度秒 = 28.9 | E(東経)及びW(西経) = E | 地図国コード = JP
| 座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1995年]]([[平成]]7年)[[11月1日]]<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=23 }}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 4,941
|統計年度 = 2020年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yurikamome.co.jp/company/76fc0c8a36d0e78b7f84f44d5a0e1d08.pdf|title=令和2年度 移動等円滑化取組報告書|accessdate=2021-08-19|format=PDF|publisher=ゆりかもめ}}</ref>
|乗換 =
|備考 =[[無人駅]]<br />* [[2019年]]に国際展示場正門駅から改称。
}}
'''東京ビッグサイト駅'''(とうきょうビッグサイトえき)は、[[東京都]][[江東区]][[有明 (江東区)|有明]]三丁目にある、[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]]([[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]])の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''U 11'''。
== 歴史 ==
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[11月1日]] - '''国際展示場正門駅'''(こくさいてんじじょうせいもんえき)として開業<ref name="sone30"/>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]] - 駅名を'''東京ビッグサイト駅'''に改称<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.yurikamome.co.jp/wp-content/uploads/2019/01/5705623968dcb5ee9a279c249a1c3160.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190303091936/http://www.yurikamome.co.jp/wp-content/uploads/2019/01/5705623968dcb5ee9a279c249a1c3160.pdf|format=PDF|language=日本語|title=船の科学館駅及び国際展示場正門駅の駅名改称日が決まりました!|publisher=ゆりかもめ|date=2019-01-15|accessdate=2020-09-17|archivedate=2019-03-03}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線の[[高架駅]]である。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-11.html |title=東京ビッグサイト 駅構内図 |publisher=ゆりかもめ |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
! 1
|rowspan=2|[[File:Yurikamome line symbol.svg|15px|U]] ゆりかもめ
|[[豊洲駅|豊洲]]方面
|-
! 2
|[[新橋駅|新橋]]方面
|}
<gallery>
Tokyo Big Sight Station, at Ariake, Koto, Tokyo (2019-08-13) 02.jpg|出入口
Kokusai-tenjijō-seimon Station, at Ariake, Koto, Tokyo (2019-01-01) 11.jpg|改札口
Tokyo Big Sight Station, at Ariake, Koto, Tokyo (2019-08-13) 15.jpg|ホーム
</gallery>
== 利用状況 ==
2018年度の1日平均乗車人員は10,134人である。開業以来の1日平均乗車人員推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365(or366)で計算してあります-->
{| class="wikitable"
|-
!rowspan|年度
!rowspan|ゆりかもめ
!rowspan|出典
|-
|[[1995年]]
|style="text-align:right;"|1,086
|<ref name="toukei1995" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|[[1996年]]
|style="text-align:right;"|8,318
|<ref name="toukei1996" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|[[1997年]]
|style="text-align:right;"|7,762
|<ref name="toukei1997" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|[[1998年]]
|style="text-align:right;"|4,586
|<ref name="toukei1998" group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|[[1999年]]
|style="text-align:right;"|9,637
|<ref name="toukei1999" group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|[[2000年]]
|style="text-align:right;"|10,074
|<ref name="toukei2000" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|[[2001年]]
|style="text-align:right;"|9,195
|<ref name="toukei2001" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|[[2002年]]
|style="text-align:right;"|8,510
|<ref name="toukei2002" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|[[2003年]]
|style="text-align:right;"|6,989
|<ref name="toukei2003" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|[[2004年]]
|style="text-align:right;"|7,149
|<ref name="toukei2004" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|[[2005年]]
|style="text-align:right;"|7,559
|<ref name="toukei2005" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|[[2006年]]
|style="text-align:right;"|8,487
|<ref name="toukei2006" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|[[2007年]]
|style="text-align:right;"|9,109
|<ref name="toukei2007" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|[[2008年]]
|style="text-align:right;"|8,786
|<ref name="toukei2008" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|[[2009年]]
|style="text-align:right;"|8,638
|<ref name="toukei2009" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|[[2010年]]
|style="text-align:right;"|
|
|-
|}
== 駅周辺 ==
駅名の通り東京ビッグサイトの最寄り駅で、改札口から2階エントランスプラザまで通路で直結しており、東京ビッグサイトでのイベント開催時はしばしば混雑する。駅北側はオフィスビルやホテルが立ち並び、[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]][[国際展示場駅]]も至近である(ただし、乗り換えは隣の[[有明駅 (東京都)|有明駅]]の方が近い)。
* [[東京国際展示場]](東京ビッグサイト)
* [[東京ファッションタウン]](TFT)
* [[有明フロンティアビル]]
** [[東京テレポートセンター]]
* 有明セントラルタワー
* [[東京ベイ有明ワシントンホテル]]
* [[ホテルサンルート有明|相鉄グランドフレッサ東京ベイ有明]]
* [[パナソニックセンター東京]]
* [[テーオーシー|TOC有明]]
* [[東京ベイコート倶楽部ホテル&スパリゾート]]
** ホテルトラスティ東京ベイサイド
* [[武蔵野大学]]有明キャンパス
* [[東京都水道局]]有明給水所、[[東京都水の科学館]]
* [[シンボルプロムナード公園]]
* [[水の広場公園]]
* [[有明西ふ頭公園]]
* [[ゆりかもめ (企業)|(株)ゆりかもめ本社]]
** ゆりかもめ車両基地
== バス・航路==
=== バス ===
最寄り停留所は、[[東京都道484号豊洲有明線]]の終点の東京ビッグサイト交差点付近にある'''東京ビッグサイト駅前'''である。以下の路線が乗り入れ、[[都営バス|東京都交通局]]により運行されている。なお、近傍の東京国際展示場内にある'''東京ビッグサイト'''停留所も利用可能である。詳細は[http://www.bigsight.jp/access/transportation/ 同施設公式サイトの「交通アクセス」ページ]を参照。
* [[都営バス深川営業所#都05系統(グリーンアローズ)|都05-2系統]]:[[有明テニスの森]]・[[新豊洲駅]]・[[勝どき駅]]・[[築地駅|築地]]・[[銀座駅|銀座四丁目]]・[[有楽町駅]]経由[[東京駅|東京駅丸ノ内南口]]行
* [[都営バス深川営業所#東16系統|東16系統]]:[[有明テニスの森]]・[[豊洲駅]]・[[月島駅]]経由東京駅八重洲口行
* [[都営バス江東営業所#錦18・急行05・直行03系統|急行05系統(江東区城東シャトル)・直行03]]:[[日本科学未来館]]行、[[新木場駅]]・[[西大島駅]]経由[[錦糸町駅]]行 ※土休日のみ運行
* [[都営バス臨海支所#急行06系統|急行06系統(江東区深川シャトル)]]:日本科学未来館行、[[豊洲駅]]・[[門前仲町駅|門前仲町]]経由[[森下駅 (東京都)|森下駅]]行 ※土休日のみ運行
=== 水上バス ===
'''東京ビッグサイト'''乗船場(有明客船ターミナル<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tptc.co.jp/terminal/guide/ariake|title=有明客船ターミナル|publisher=東京港埠頭|accessdate=2019-2-17}}</ref>)があり、[[東京都観光汽船]]、[[東京水辺ライン]]の[[水上バス]]が発着する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.suijobus.co.jp/cruise/bigsight/|title=乗り場案内 - 東京ビッグサイト|publisher=東京都観光汽船|accessdate=2019-2-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-park.or.jp/waterbus/course/port/bigsight.html|title=東京ビッグサイト発着場|publisher=東京都公園協会|accessdate=2019-2-17}}</ref>。
=== フェリー ===
[[東京港フェリー埠頭|東京港フェリーターミナル]]まで徒歩25分<ref name="ft1">{{Cite web|和書|url=http://www.tptc.co.jp/terminal/access#tokyofe-anc|title=アクセス - 東京港フェリーターミナル|publisher=東京港埠頭|accessdate=2019-2-17}}</ref>。
* [[オーシャントランス]](オーシャン東九フェリー) : 東京-徳島-[[北九州港|新門司]]
: [[東京駅]](八重洲南口)、[[国際展示場駅]]、[[東京ビッグサイト]](バスターミナル)から[[JRバス関東]]の路線バスが運行されている<ref name="ft1"/>。
== 隣の駅 ==
; ゆりかもめ
: [[File:Yurikamome line symbol.svg|15px|U]] 東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)
::[[青海駅 (東京都)|青海駅]] (U 10) - '''東京ビッグサイト駅 (U 11)''' - [[有明駅 (東京都)|有明駅]] (U 12)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="*"}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Kokusai-tenjijō-seimon Station}}
* [https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-11.html ゆりかもめ 東京ビッグサイト駅]
{{ゆりかもめ}}
{{Odaiba area sights}}
{{デフォルトソート:とうきようひつくさいと}}
[[Category:江東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 と|うきようひつくさいと]]
[[Category:ゆりかもめの鉄道駅]]
[[Category:1995年開業の鉄道駅]]
[[Category:有明 (江東区)|とうきようひつくさいとえき]]
|
2003-09-19T00:33:20Z
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2023-11-24T14:22:09Z
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[
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"Template:ゆりかもめ"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88%E9%A7%85
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有明駅 (東京都)
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有明駅(ありあけえき)は、東京都江東区有明三丁目にある、東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)の駅である。駅番号はU 12。
りんかい線国際展示場駅に近く、りんかい線との乗換駅に指定されている。
島式ホーム2面3線を有する高架駅。2番線と3番線で線路を共有する。夜間滞泊の設定もある。
2018年度の一日平均乗車人員は 3,052人である。開業以来の一日平均乗車人員推移は下記の通り。
最寄りバス停留所は、国際展示場駅交通広場内の国際展示場駅前・国際展示場・国際展示場駅と、当駅南東の都道にある国際展示場駅入口およびがん研有明病院前である。また、東京ベイ有明ワシントンホテルには羽田空港行、成田空港行のリムジンバスが発着する。
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"title": "バス路線"
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有明駅(ありあけえき)は、東京都江東区有明三丁目にある、東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)の駅である。駅番号はU 12。 りんかい線国際展示場駅に近く、りんかい線との乗換駅に指定されている。
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{{駅情報
|社色 = #27404E
|文字色 =
|駅名 = 有明駅
|画像 = Ariake Station, at Ariake, Koto, Tokyo (2019-08-13) 01.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 有明駅(2019年8月13日)
|地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail-metro|coord={{coord|35|38|4.7|N|139|47|35.7|E}}|title=有明駅|coord2={{coord|35|38|3.8|N|139|47|29.8|E}}|title2=国際展示場駅|marker-color=27404E|marker-color2=00418e}}左は乗換駅の国際展示場駅
|よみがな = ありあけ
|ローマ字 = Ariake
|副駅名 =
|前の駅 = U 11 [[東京ビッグサイト駅|東京ビッグサイト]]
|駅間A = 0.7
|駅間B = 0.7
|次の駅 = [[有明テニスの森駅|有明テニスの森]] U 13
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|U|12|#0073bc|6}}
|所属事業者 =[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]]
|所属路線 ={{Color|#0073bc|■}}[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]]
|キロ程 = 12.0
|起点駅 = [[新橋駅|新橋]]
|所在地 = [[東京都]][[江東区]][[有明 (江東区)|有明]]三丁目7-5
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 38 | 緯度秒 = 4.7 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 139 |経度分 = 47 | 経度秒 = 35.7 | E(東経)及びW(西経) = E |地図国コード = JP
|座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面3線
|開業年月日 = [[1995年]]([[平成]]7年)[[11月1日]]<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=23 }}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 3,786
|統計年度 = [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yurikamome.co.jp/company/76fc0c8a36d0e78b7f84f44d5a0e1d08.pdf|title=令和2年度 移動等円滑化取組報告書|accessdate=2021-08-19|format=PDF|publisher=ゆりかもめ}}</ref>
|乗換 = {{駅番号r|R|03|#00418e|6|#ADD8E6}} [[国際展示場駅]]([[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]])
|備考 = [[有明車両基地|車両基地]]あり(元[[終着駅]])
}}
'''有明駅'''(ありあけえき)は、[[東京都]][[江東区]][[有明 (江東区)|有明]]三丁目にある、[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]]([[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]])の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''U 12'''。
[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]][[国際展示場駅]]に近く、りんかい線との[[乗換駅]]に指定されている。
== 歴史 ==
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[11月1日]] - 終着駅として開業<ref name="sone30"/>。開業前の仮称は「'''国際展示場'''」だった<ref name="Shintoshi1992-2">新都市開発社『新都市開発』1992年2月号「東京臨海新交通の建設現況」」pp.87 - 94。</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[3月27日]] - [[豊洲駅]]まで延伸開業し、途中駅となる<ref name="sone30"/>。定期券売り場が豊洲駅に移転する。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面3線を有する[[高架駅]]。2番線と3番線で線路を共有する。[[夜間滞泊]]の設定もある。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
|-
!番線!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-12.html |title=有明 駅構内図 |publisher=ゆりかもめ |accessdate=2023-06-04}}</ref>!!備考
|-
! 1
|rowspan=4|[[File:Yurikamome line symbol.svg|15px|U]] ゆりかもめ
|[[豊洲駅|豊洲]]方面
|
|-
! 2
|colspan="2"|降車専用(当駅止まり)
|-
! 3
|rowspan="2"|[[新橋駅|新橋]]方面
|当駅始発
|-
! 4
|豊洲方面からの電車
|}
<gallery>
Ariake Station, in Tokyo (2018-05-05) 04.jpg|駅入口(2018年6月)
Ariake Station, in Tokyo (2018-05-05) 08.jpg|改札口(2018年5月)
Ariake Station, at Ariake, Koto, Tokyo (2019-08-13) 09.jpg|ホーム(2019年8月)
Ariake Station, at Ariake, Koto, Tokyo (2019-08-13) 08.jpg|2面3線の構内(2019年8月)
</gallery>
== 利用状況 ==
2018年度の一日平均[[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]は 3,052人である。開業以来の一日平均乗車人員推移は下記の通り。
<ref group="注">東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365(or366)で計算した。</ref>
{| class="wikitable"
|-
!rowspan|年度
!rowspan|ゆりかもめ
!rowspan|出典
|-
|[[1995年]](平成{{0}}7年)
|style="text-align:right;"|2,579
|<ref name="toukei1995" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|[[1996年]](平成{{0}}8年)
|style="text-align:right;"|2,751
|<ref name="toukei1996" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|[[1997年]](平成{{0}}9年)
|style="text-align:right;"|2,175
|<ref name="toukei1997" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|[[1998年]](平成10年)
|style="text-align:right;"|5,742
|<ref name="toukei1998" group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|[[1999年]](平成11年)
|style="text-align:right;"|2,016
|<ref name="toukei1999" group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|[[2000年]](平成12年)
|style="text-align:right;"|2,011
|<ref name="toukei2000" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|[[2001年]](平成13年)
|style="text-align:right;"|1,825
|<ref name="toukei2001" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|[[2002年]](平成14年)
|style="text-align:right;"|1,739
|<ref name="toukei2002" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|[[2003年]](平成15年)
|style="text-align:right;"|1,451
|<ref name="toukei2003" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|[[2004年]](平成16年)
|style="text-align:right;"|1,371
|<ref name="toukei2004" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|[[2005年]](平成17年)
|style="text-align:right;"|1,701
|<ref name="toukei2005" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|[[2006年]](平成18年)
|style="text-align:right;"|2,127
|<ref name="toukei2006" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|[[2007年]](平成19年)
|style="text-align:right;"|2,383
|<ref name="toukei2007" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|[[2008年]](平成20年)
|style="text-align:right;"|2,293
|<ref name="toukei2008" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|[[2009年]](平成21年)
|style="text-align:right;"|2,375
|<ref name="toukei2009" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|[[2010年]](平成22年)
|style="text-align:right;"|
|
|-
|[[2018年]](平成30年)
|style="text-align:right;"|3,052
|<ref name="toukei2018" group="*">{{XLSlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18qa041300.xls 東京都統計年鑑(平成30年) 4-13 私鉄の駅別乗降車人員]}}、東京都総務局統計部、2021年8月19日閲覧</ref>
|-
|[[2019年]](令和元年)
|style="text-align:right;"|2,975
|<ref name="toukei2019" group="*">{{XLSlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19qa041300.xls 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年) 4-13 私鉄の駅別乗降車人員]}}、東京都総務局統計部、2021年8月19日閲覧</ref>
|}
== 駅周辺 ==
[[File:Shopping City Ariake Garden Koto-ku Tokyo.jpg|200px|thumb|有明ガーデン]]
{{See also|有明 (江東区)}}
* [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]] [[国際展示場駅]]
* [[シンボルプロムナード公園]]
* [[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]
* [[有明ガーデン]]
** [[東京ガーデンシアター]]
** [[有明ガーデン#有明四季劇場|有明四季劇場]]
* [[パナソニックセンター東京]]
* [[有明テニスの森公園]]
** [[有明コロシアム]]
* [[がん研究会有明病院]]
* [[東京臨海広域防災公園]](そなエリア東京)
* [[東京ベイ有明ワシントンホテル]]
* [[相鉄グランドフレッサ東京ベイ有明]]
* [[ダイワロイネットホテル|ダイワロイネットホテル東京有明]]
* 有明セントラルタワー
== バス路線 ==
最寄り[[バス停留所]]は、国際展示場駅交通広場内の'''国際展示場駅前'''・'''国際展示場'''・'''国際展示場駅'''と、当駅南東の[[東京都道484号豊洲有明線|都道]]にある'''国際展示場駅入口'''および'''がん研有明病院前'''である。また、東京ベイ有明ワシントンホテルには羽田空港行、成田空港行の[[リムジンバス]]が発着する。
{{Main2|交通広場からの発着路線|国際展示場駅#バス路線}}
;国際展示場駅入口
* [[都営バス]]
** [[都営バス深川営業所#門19系統|門19系統]]:[[門前仲町駅|門前仲町]]行 / [[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]行
** [[都営バス江東営業所#錦18・急行05・直行03系統|錦18系統]]:国際展示場駅前行 ※平日日中のみ
;がん研有明病院前
* 都営バス
** 門19系統:門前仲町行
** 錦18系統:[[錦糸町駅|錦糸町駅前]]行 ※平日日中のみ
;東京ベイ有明ワシントンホテル
* [[東京国際空港|羽田空港]]行([[東京空港交通]])
* [[成田国際空港|成田空港]]行(東京空港交通)
== 隣の駅 ==
; ゆりかもめ
: [[File:Yurikamome line symbol.svg|15px|U]] 東京臨海新交通臨海線
:: [[東京ビッグサイト駅]] (U 11) - '''有明駅 (U 12)''' - [[有明テニスの森駅]] (U 13)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist| group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist| group="*"}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Ariake Station (Tokyo)}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[有明駅 (長野県)]]
== 外部リンク ==
* [https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-12.html ゆりかもめ 有明駅]
{{ゆりかもめ}}
{{Odaiba area sights}}
{{DEFAULTSORT:ありあけ}}
[[Category:江東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 あ|りあけ]]
[[Category:ゆりかもめの鉄道駅]]
[[Category:1995年開業の鉄道駅]]
[[Category:有明 (江東区)|ありあけえき]]
|
2003-09-19T00:44:49Z
|
2023-12-20T20:35:58Z
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[
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"Template:See also",
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"Template:駅情報",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:XLSlink",
"Template:ゆりかもめ"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%98%8E%E9%A7%85_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD)
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謀反
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謀反(むほん、むへん、ぼうへん)は、国家・君主・主君・時の為政者にそむくことである。謀叛とも表記するが、厳密には後述のように表記や読み方、また時代によって差異がある。ただし、「むはん」「ぼうはん」はよくある読み間違いである。特に武力・軍事力を動員して反乱を起こすことを指すことが多いが、少人数で君主・主君を暗殺する行為を謀反ということもある。ただし、近代の事件を指して謀反の語を使うことはまれであり、基本的に前近代の事件を指す言葉である。
唐律において謀反は十悪の第一、養老律でも八虐の第一である 。律において謀とは計画にとどまり実行に着手していない予備罪をいう。反については謀だけで極刑となり実行してもしなくても刑に違いがないので、条文では謀反の規定で兼ねる。反は皇帝・天皇の殺傷、叛は本朝(本国)を裏切って外国を利することで、謀反と謀叛は別の罪である。後に謀反・謀叛と同義になる大逆も、律では陵墓や宮闕の損壊という別の罪であった。
唐律の条文で謀反とは「社稷を危うくせんと謀ること」、養老律では「国家を危うくせんと謀ること」である。社稷・国家とは、尊号を直接書くことをはばかったものだと律の疏(注釈)にあるので、字義通りではなく皇帝・天皇のことである。はばからず直接的に書けば、反は皇帝・天皇に対する殺人と傷害、謀反はその計画である。しかし後述するように、実際の適用では、臣下の間での実力による政権奪取の試みや陰謀も謀反に含められたので、字義通りの解釈が誤りと言えない面がある。
唐律でも養老律でも、謀反に加わった者は、主犯・従犯を問わずみな斬とされた。謀反しようとしたが人々を動かす能力・威力が欠けていた者は、本人はやはり斬だが、縁座が狭く軽くなった。呪術で害そうとするのは、謀反ではなく妖書妖言を造り用いる罪で、流刑以下となる。
縁座(連座)に関する規定は、唐と日本で異なり、唐律のほうが範囲が広く厳しい。唐律では父と年16以上の子(息子)は絞となり、執行方法に違いがあるだけで斬と同じく死刑である。年15以下の子、母女(母と娘)、妻妾、子の妻妾、祖孫(祖父母と孫)、兄弟、部曲(隷属民)、資財、田宅が没官になった。没官は官への没収で、人について言えば官戸にすることである。伯叔父、兄弟の子は流三千里(三千里の流刑)になった。能力・威力を欠いていた者の父子、母女、妻妾は流三千里になった。
縁座の免除については、男で年80以上または篤疾、女で年60以上と廃疾の者は没官を免れた。他家に嫁にいった者、出養(他家に養子に出た者)、入道(道士、僧侶などの出家者)、婚約者は連座を免れた。嫁と養子は実家に出た謀反人からは連座しないが、入った先の家に謀反人が出ればそこで連座する。
日本では縁座の死刑はなく、父子(父と息子)、家人(唐律の部曲にあたる隷属民)、資財、田宅が没官となった。祖孫・兄弟は遠流である。年80以上と篤疾は没官を免れた。婦人、出養、入道には連座しなかった。能力がない謀反では、父子が遠流になるだけで、官戸にはされなかった。僧侶、婦人、官戸、陵戸、家人、公奴婢、私奴婢が犯人の場合、本人が刑されるだけで、縁座はなかった。
古代日本の大宝律令・養老律令の律の規程では、「謀反」はぼうへん・むへんと発音して、「謀叛」とは区別されていた。「謀反」とは国家(政権)の転覆や天皇の殺害を企てる罪のことであり、あらゆる罪の中でも最も重く斬刑などに処せられる八虐の筆頭であった。一方「謀叛」はいわゆる天皇に危害を加えるなどの大逆行為を含まない国家(政権)の転覆及び敵国への内通・亡命などが対象となり、こちらも八虐の第三とされていた。7~8世紀に政争の末、謀反・謀叛の罪によって殺害された貴族は少なくない。
日本では律の規定と実際の刑罰に乖離があり、律令制全盛期でも、廷臣の殺害による政権奪取や、蝦夷や隼人の反乱が反・謀反とされていた。当時から謀反・謀叛・大逆の語には混用があり、平安時代後期になると謀叛と謀反はともに「むほん」と読む同義語になった。
奈良時代と平安時代初めに、謀反を起こした(とされた)人はほとんど死刑になったが、その対象者と縁座の範囲・量刑は政治的判断で左右された。斬と絞の区別は無視され、主犯だけが死刑になり、縁座者への刑は律の規定より軽くなる傾向があった。
平安時代頃から、中央貴族に対する死刑は好まれなくなり、死刑に繋がる重い刑罰である謀反・謀叛はほとんど適用されなくなる。また、陸続きの隣国が存在せず、また天皇を君主とした国家体制が続いてきたこともあり、隣国との通謀や亡命の可能性が低く、天皇を抜きとした政権転覆も考えにくかったためにこの頃より謀叛という語を謀反と同じ意味で用いられるようになった。
武士が台頭してくると、地方で武士の間の抗争が巻き起こり、その中で力を持ちすぎた者が中央政府である朝廷に謀反人と見なされ、中央から派遣された軍隊(実際には、これも武士たちである)によって討たれる事件が起こるようになった。
鎌倉時代に入ると、武士の間の主従関係が重要になり、ある武士と主君の関係を結んでいる家臣の武士が、主君の武士に反抗することが起こり、これを謀反と呼ぶ。戦国時代には数多くの謀反が起こって家臣が主君を追って自ら大名になる事件、「下克上」が起こるようになった。戦国時代の動乱を最終的に収めた江戸幕府は、このような風潮を改め、家臣の主君への従順を教えるため朱子学の道徳を武士に学ばせる。
明治時代の西南戦争や幸徳事件(大逆事件)、1936年の二・二六事件も、当時の資料には謀反の言葉が見うけられる。しかし現在では、近代的な用語としてクーデターや反乱などの言葉が使われ、明治以降の武力反抗事件に謀反という言葉は用いられなくなっている。
鎌倉時代末期、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を計画した正中の変(1324年)・元弘の変(1332年)を幕府側は「天皇御謀叛」(あるいは「当今御謀叛」)と呼び、当時の武家もこれに倣った。
平安時代後期以後、朝廷は社会秩序を維持するための警察・軍事的な裏付け(「検断権」)を次第に失って、武士たちによってその維持が図られてきた。平氏政権は仁安2年5月10日に後白河院院宣及び六条天皇宣旨によって平重盛(清盛は既に出家)に諸国の軍事警察権が与えられ、治承5年(1181年)には畿内近国に惣官職が設置された。
やがて、源頼朝によって幕府が開かれて全国の武士団を統率するようになると、鎌倉幕府が朝廷より社会秩序を維持する検断権が委ねられるようになる(「文治勅許」・「建久新制」)。だが、平氏政権・鎌倉幕府初期の段階では検断権そのものは朝廷・院が有しており、平氏政権・鎌倉幕府はその下で権限を行使をする存在とされ、また朝廷・院が独自に警察力・軍事力を行使することもあった。承久の乱の際に鎌倉幕府が設置した諸国の守護・地頭に対して北条義時追捕の弁官下文(承久3年5月15日)が出されたのも、朝廷・院が検断権を有し幕府はそれを委ねられた存在であるという考えによる。
だが、承久の乱で鎌倉幕府が勝利すると、幕府が日本全国の警察力・軍事力を掌握して、朝廷が持っていた検断権は形骸化して、公家領や寺社領に対する訴訟の権限は有していたものの、警察・軍事に関しては幕府の行動に大義名分を与える役割に限定されるようになる。つまり、この時代には唯一の検断権の行使機関であった鎌倉幕府に対する反抗は即ち社会秩序全体を危うくする行為と見なされていた。つまり後醍醐天皇の行為は鎌倉幕府が社会秩序を維持する国家形態及び政権自体に対する転覆の企て、即ち「謀叛」であると見なされたのである。公家が残した『増鏡』では「謀叛」とは記されてはいないが「天皇が世を乱す」という認識がなされていた。
なお、歴代にも崇徳天皇、後鳥羽天皇など、譲位後に武力をもって時の政権を排除しようとした事はあるが、これらを「天皇御謀叛」と称する事は一般的ではない。
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"text": "唐律において謀反は十悪の第一、養老律でも八虐の第一である 。律において謀とは計画にとどまり実行に着手していない予備罪をいう。反については謀だけで極刑となり実行してもしなくても刑に違いがないので、条文では謀反の規定で兼ねる。反は皇帝・天皇の殺傷、叛は本朝(本国)を裏切って外国を利することで、謀反と謀叛は別の罪である。後に謀反・謀叛と同義になる大逆も、律では陵墓や宮闕の損壊という別の罪であった。",
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"text": "唐律の条文で謀反とは「社稷を危うくせんと謀ること」、養老律では「国家を危うくせんと謀ること」である。社稷・国家とは、尊号を直接書くことをはばかったものだと律の疏(注釈)にあるので、字義通りではなく皇帝・天皇のことである。はばからず直接的に書けば、反は皇帝・天皇に対する殺人と傷害、謀反はその計画である。しかし後述するように、実際の適用では、臣下の間での実力による政権奪取の試みや陰謀も謀反に含められたので、字義通りの解釈が誤りと言えない面がある。",
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"text": "唐律でも養老律でも、謀反に加わった者は、主犯・従犯を問わずみな斬とされた。謀反しようとしたが人々を動かす能力・威力が欠けていた者は、本人はやはり斬だが、縁座が狭く軽くなった。呪術で害そうとするのは、謀反ではなく妖書妖言を造り用いる罪で、流刑以下となる。",
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"text": "縁座(連座)に関する規定は、唐と日本で異なり、唐律のほうが範囲が広く厳しい。唐律では父と年16以上の子(息子)は絞となり、執行方法に違いがあるだけで斬と同じく死刑である。年15以下の子、母女(母と娘)、妻妾、子の妻妾、祖孫(祖父母と孫)、兄弟、部曲(隷属民)、資財、田宅が没官になった。没官は官への没収で、人について言えば官戸にすることである。伯叔父、兄弟の子は流三千里(三千里の流刑)になった。能力・威力を欠いていた者の父子、母女、妻妾は流三千里になった。",
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"text": "縁座の免除については、男で年80以上または篤疾、女で年60以上と廃疾の者は没官を免れた。他家に嫁にいった者、出養(他家に養子に出た者)、入道(道士、僧侶などの出家者)、婚約者は連座を免れた。嫁と養子は実家に出た謀反人からは連座しないが、入った先の家に謀反人が出ればそこで連座する。",
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"text": "日本では縁座の死刑はなく、父子(父と息子)、家人(唐律の部曲にあたる隷属民)、資財、田宅が没官となった。祖孫・兄弟は遠流である。年80以上と篤疾は没官を免れた。婦人、出養、入道には連座しなかった。能力がない謀反では、父子が遠流になるだけで、官戸にはされなかった。僧侶、婦人、官戸、陵戸、家人、公奴婢、私奴婢が犯人の場合、本人が刑されるだけで、縁座はなかった。",
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"text": "古代日本の大宝律令・養老律令の律の規程では、「謀反」はぼうへん・むへんと発音して、「謀叛」とは区別されていた。「謀反」とは国家(政権)の転覆や天皇の殺害を企てる罪のことであり、あらゆる罪の中でも最も重く斬刑などに処せられる八虐の筆頭であった。一方「謀叛」はいわゆる天皇に危害を加えるなどの大逆行為を含まない国家(政権)の転覆及び敵国への内通・亡命などが対象となり、こちらも八虐の第三とされていた。7~8世紀に政争の末、謀反・謀叛の罪によって殺害された貴族は少なくない。",
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"text": "日本では律の規定と実際の刑罰に乖離があり、律令制全盛期でも、廷臣の殺害による政権奪取や、蝦夷や隼人の反乱が反・謀反とされていた。当時から謀反・謀叛・大逆の語には混用があり、平安時代後期になると謀叛と謀反はともに「むほん」と読む同義語になった。",
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"text": "奈良時代と平安時代初めに、謀反を起こした(とされた)人はほとんど死刑になったが、その対象者と縁座の範囲・量刑は政治的判断で左右された。斬と絞の区別は無視され、主犯だけが死刑になり、縁座者への刑は律の規定より軽くなる傾向があった。",
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"text": "平安時代頃から、中央貴族に対する死刑は好まれなくなり、死刑に繋がる重い刑罰である謀反・謀叛はほとんど適用されなくなる。また、陸続きの隣国が存在せず、また天皇を君主とした国家体制が続いてきたこともあり、隣国との通謀や亡命の可能性が低く、天皇を抜きとした政権転覆も考えにくかったためにこの頃より謀叛という語を謀反と同じ意味で用いられるようになった。",
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"text": "武士が台頭してくると、地方で武士の間の抗争が巻き起こり、その中で力を持ちすぎた者が中央政府である朝廷に謀反人と見なされ、中央から派遣された軍隊(実際には、これも武士たちである)によって討たれる事件が起こるようになった。",
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"text": "鎌倉時代に入ると、武士の間の主従関係が重要になり、ある武士と主君の関係を結んでいる家臣の武士が、主君の武士に反抗することが起こり、これを謀反と呼ぶ。戦国時代には数多くの謀反が起こって家臣が主君を追って自ら大名になる事件、「下克上」が起こるようになった。戦国時代の動乱を最終的に収めた江戸幕府は、このような風潮を改め、家臣の主君への従順を教えるため朱子学の道徳を武士に学ばせる。",
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"text": "明治時代の西南戦争や幸徳事件(大逆事件)、1936年の二・二六事件も、当時の資料には謀反の言葉が見うけられる。しかし現在では、近代的な用語としてクーデターや反乱などの言葉が使われ、明治以降の武力反抗事件に謀反という言葉は用いられなくなっている。",
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"text": "鎌倉時代末期、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を計画した正中の変(1324年)・元弘の変(1332年)を幕府側は「天皇御謀叛」(あるいは「当今御謀叛」)と呼び、当時の武家もこれに倣った。",
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"text": "平安時代後期以後、朝廷は社会秩序を維持するための警察・軍事的な裏付け(「検断権」)を次第に失って、武士たちによってその維持が図られてきた。平氏政権は仁安2年5月10日に後白河院院宣及び六条天皇宣旨によって平重盛(清盛は既に出家)に諸国の軍事警察権が与えられ、治承5年(1181年)には畿内近国に惣官職が設置された。",
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"text": "やがて、源頼朝によって幕府が開かれて全国の武士団を統率するようになると、鎌倉幕府が朝廷より社会秩序を維持する検断権が委ねられるようになる(「文治勅許」・「建久新制」)。だが、平氏政権・鎌倉幕府初期の段階では検断権そのものは朝廷・院が有しており、平氏政権・鎌倉幕府はその下で権限を行使をする存在とされ、また朝廷・院が独自に警察力・軍事力を行使することもあった。承久の乱の際に鎌倉幕府が設置した諸国の守護・地頭に対して北条義時追捕の弁官下文(承久3年5月15日)が出されたのも、朝廷・院が検断権を有し幕府はそれを委ねられた存在であるという考えによる。",
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"text": "だが、承久の乱で鎌倉幕府が勝利すると、幕府が日本全国の警察力・軍事力を掌握して、朝廷が持っていた検断権は形骸化して、公家領や寺社領に対する訴訟の権限は有していたものの、警察・軍事に関しては幕府の行動に大義名分を与える役割に限定されるようになる。つまり、この時代には唯一の検断権の行使機関であった鎌倉幕府に対する反抗は即ち社会秩序全体を危うくする行為と見なされていた。つまり後醍醐天皇の行為は鎌倉幕府が社会秩序を維持する国家形態及び政権自体に対する転覆の企て、即ち「謀叛」であると見なされたのである。公家が残した『増鏡』では「謀叛」とは記されてはいないが「天皇が世を乱す」という認識がなされていた。",
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"text": "なお、歴代にも崇徳天皇、後鳥羽天皇など、譲位後に武力をもって時の政権を排除しようとした事はあるが、これらを「天皇御謀叛」と称する事は一般的ではない。",
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}
] |
謀反(むほん、むへん、ぼうへん)は、国家・君主・主君・時の為政者にそむくことである。謀叛とも表記するが、厳密には後述のように表記や読み方、また時代によって差異がある。ただし、「むはん」「ぼうはん」はよくある読み間違いである。特に武力・軍事力を動員して反乱を起こすことを指すことが多いが、少人数で君主・主君を暗殺する行為を謀反ということもある。ただし、近代の事件を指して謀反の語を使うことはまれであり、基本的に前近代の事件を指す言葉である。
|
{{分割提案|date=2023年11月}}
{{otheruses||[[律令制]]における謀叛|謀叛}}
{{参照方法|date=2013年6月}}
'''謀反'''(むほん、むへん、ぼうへん)は、[[国家]]・[[君主]]・主君・時の為政者にそむくことである<ref name="daijisenn">『[[大辞泉]]』[[小学館]]</ref>。'''[[謀叛]]'''とも表記するが、厳密には後述のように表記や読み方、また時代によって差異がある。ただし、「むはん」「ぼうはん」はよくある読み間違いである。特に武力・軍事力を動員して[[反乱]]を起こすことを指すことが多いが、少人数で君主・主君を[[暗殺]]する行為を謀反ということもある。ただし、[[近代]]の事件を指して謀反の語を使うことはまれであり、基本的に前近代の事件を指す言葉である。
==律における謀反==
===謀反の意味===
唐律において謀反は[[十悪]]の第一、養老律でも[[八虐]]の第一である<ref group="注釈">「量刑」については、『養老律』の「賊盗律」と『[[唐律疏義]]』の「賊盗律」による。</ref> 。律において謀とは計画にとどまり実行に着手していない[[予備罪]]をいう。反については謀だけで極刑となり実行してもしなくても刑に違いがないので、条文では謀反の規定で兼ねる。反は皇帝・天皇の殺傷、叛は本朝(本国)を裏切って外国を利することで、謀反と謀叛は別の罪である。後に謀反・謀叛と同義になる[[大逆]]も、律では陵墓や宮闕の損壊という別の罪であった。
唐律の条文で謀反とは「社稷を危うくせんと謀ること」、養老律では「国家を危うくせんと謀ること」である。社稷・国家とは、尊号を直接書くことをはばかったものだと律の疏(注釈)にあるので、字義通りではなく皇帝・天皇のことである。はばからず直接的に書けば、反は皇帝・天皇に対する殺人と傷害、謀反はその計画である。しかし後述するように、実際の適用では、臣下の間での実力による政権奪取の試みや陰謀も謀反に含められたので、字義通りの解釈が誤りと言えない面がある。
===刑===
唐律でも養老律でも、謀反に加わった者は、主犯・従犯を問わずみな斬とされた。謀反しようとしたが人々を動かす能力・威力が欠けていた者は、本人はやはり斬だが、縁座が狭く軽くなった。呪術で害そうとするのは、謀反ではなく妖書妖言を造り用いる罪で、流刑以下となる。
縁座([[連座]])に関する規定は、唐と日本で異なり、唐律のほうが範囲が広く厳しい。唐律では父と年16以上の子(息子)は絞となり、執行方法に違いがあるだけで斬と同じく死刑である。年15以下の子、母女(母と娘)、妻妾、子の妻妾、祖孫(祖父母と孫)、兄弟、[[部曲]](隷属民)、資財、田宅が[[没官]]になった。没官は官への没収で、人について言えば[[官戸]]にすることである。伯叔父、兄弟の子は[[流三千里]](三千里の流刑)になった。能力・威力を欠いていた者の父子、母女、妻妾は流三千里になった。
縁座の免除については、男で年80以上または[[篤疾]]、女で年60以上と[[廃疾]]の者は没官を免れた。他家に嫁にいった者、出養(他家に養子に出た者)、入道(道士、僧侶などの出家者)、婚約者は連座を免れた。嫁と養子は実家に出た謀反人からは連座しないが、入った先の家に謀反人が出ればそこで連座する。
日本では縁座の死刑はなく、父子(父と息子)、[[家人]](唐律の部曲にあたる隷属民)、資財、田宅が没官となった。祖孫・兄弟は[[遠流]]である。年80以上と篤疾は没官を免れた。婦人、出養、入道には連座しなかった。能力がない謀反では、父子が遠流になるだけで、官戸にはされなかった。僧侶、婦人、[[官戸]]、[[陵戸]]、家人、[[公奴婢]]、[[私奴婢]]が犯人の場合、本人が刑されるだけで、縁座はなかった。
== 日本における「謀反」と「謀叛」 ==
{{see also|謀叛}}
=== 古代の謀反・謀叛 ===
古代日本の[[大宝律令]]・[[養老律令]]の律の規程では、「'''謀反'''」は''ぼうへん・むへん''と発音して、「謀叛」とは区別されていた。「謀反」とは国家(政権)の転覆や天皇の殺害を企てる罪のことであり、あらゆる罪の中でも最も重く斬刑などに処せられる'''八虐'''の筆頭であった。一方「'''謀叛'''」はいわゆる天皇に危害を加えるなどの[[大逆罪|大逆行為]]を含まない国家(政権)の転覆及び敵国への内通・[[亡命]]などが対象となり、こちらも八虐の第三とされていた。[[7世紀|7]]~[[8世紀]]に政争の末、謀反・謀叛の罪によって殺害された[[貴族]]は少なくない。
日本では律の規定と実際の刑罰に乖離があり、律令制全盛期でも、廷臣の殺害による政権奪取や、蝦夷や隼人の反乱が反・謀反とされていた。当時から謀反・謀叛・大逆の語には混用があり、平安時代後期になると謀叛と謀反はともに「むほん」と読む同義語になった。<ref>『[[#rituryou|日本思想大系 律令]]』 489頁。</ref>
奈良時代と平安時代初めに、謀反を起こした(とされた)人はほとんど死刑になったが、その対象者と縁座の範囲・量刑は政治的判断で左右された。斬と絞の区別は無視され、主犯だけが死刑になり、縁座者への刑は律の規定より軽くなる傾向があった。
平安時代頃から、中央貴族に対する死刑は好まれなくなり、死刑に繋がる重い刑罰である謀反・謀叛はほとんど適用されなくなる。また、陸続きの隣国が存在せず、また天皇を君主とした国家体制が続いてきたこともあり、隣国との通謀や亡命の可能性が低く、天皇を抜きとした政権転覆も考えにくかったためにこの頃より謀叛という語を謀反と同じ意味で用いられるようになった。
=== 中世以降の謀反・謀叛 ===
[[武士]]が台頭してくると、地方で武士の間の抗争が巻き起こり、その中で力を持ちすぎた者が中央政府である[[朝廷 (日本)|朝廷]]に謀反人と見なされ、中央から派遣された軍隊(実際には、これも武士たちである)によって討たれる事件が起こるようになった。
[[鎌倉時代]]に入ると、武士の間の主従関係が重要になり、ある武士と主君の関係を結んでいる家臣の武士が、主君の武士に反抗することが起こり、これを謀反と呼ぶ。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には数多くの謀反が起こって家臣が主君を追って自ら大名になる事件、「[[下克上]]」が起こるようになった。戦国時代の動乱を最終的に収めた[[江戸幕府]]は、このような風潮を改め、家臣の主君への従順を教えるため[[朱子学]]の道徳を武士に学ばせる。
[[明治時代]]の[[西南戦争]]や[[幸徳事件]]([[大逆事件]])、[[1936年]]の[[二・二六事件]]も、当時の資料には謀反の言葉が見うけられる。しかし現在では、近代的な用語として[[クーデター]]や反乱などの言葉が使われ、明治以降の武力反抗事件に謀反という言葉は用いられなくなっている。
=== 天皇御謀叛 ===
鎌倉時代末期、[[後醍醐天皇]]が[[鎌倉幕府]]倒幕を計画した[[正中の変]]([[1324年]])・[[元弘の変]]([[1332年]])を幕府側は「'''天皇御謀叛'''」(あるいは「当今御謀叛」)と呼び、当時の武家もこれに倣った<ref name="cyuusei176">「[[#中世|中世日本の謀叛について]]」 176-177頁</ref>。
平安時代後期以後、朝廷は社会秩序を維持するための警察・軍事的な裏付け(「[[検断権]]」)を次第に失って、武士たちによってその維持が図られてきた。[[平氏政権]]は[[仁安 (日本)|仁安]]2年5月10日に[[後白河天皇|後白河院]][[院宣]]及び[[六条天皇]][[宣旨]]によって[[平重盛]]([[平清盛|清盛]]は既に出家)に諸国の軍事警察権が与えられ、[[治承]]5年([[1181年]])には畿内近国に[[惣官職]]が設置された。
やがて、[[源頼朝]]によって[[鎌倉幕府|幕府]]が開かれて全国の武士団を統率するようになると、鎌倉幕府が朝廷より社会秩序を維持する検断権が委ねられるようになる(「[[文治勅許]]」・「[[建久新制]]」)。だが、平氏政権・鎌倉幕府初期の段階では検断権そのものは朝廷・院が有しており、平氏政権・鎌倉幕府はその下で権限を行使をする存在とされ、また朝廷・院が独自に警察力・軍事力を行使することもあった。[[承久の乱]]の際に鎌倉幕府が設置した諸国の[[守護]]・[[地頭]]に対して[[北条義時]]追捕の[[弁官下文]](承久3年5月15日)が出されたのも、朝廷・院が検断権を有し幕府はそれを委ねられた存在であるという考えによる。
だが、承久の乱で鎌倉幕府が勝利すると、幕府が日本全国の警察力・軍事力を掌握して、朝廷が持っていた検断権は形骸化して、公家領や寺社領に対する訴訟の権限は有していたものの、警察・軍事に関しては幕府の行動に[[大義名分]]を与える役割に限定されるようになる。つまり、この時代には唯一の検断権の行使機関であった鎌倉幕府に対する反抗は即ち社会秩序全体を危うくする行為と見なされていた。つまり後醍醐天皇の行為は鎌倉幕府が社会秩序を維持する国家形態及び政権自体に対する転覆の企て、即ち「謀叛」であると見なされたのである<ref name="cyuusei176"/>。公家が残した『[[増鏡]]』では「謀叛」とは記されてはいないが「天皇が世を乱す」という認識がなされていた<ref name="cyuusei176"/>。
なお、歴代にも[[崇徳天皇]]、[[後鳥羽天皇]]など、譲位後に武力をもって時の政権を排除しようとした事はあるが、これらを「天皇御謀叛」と称する事は一般的ではない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==参考文献==
* {{Cite book|和書|editor=[[井上光貞]]・[[関晃]]・[[土田直鎮]]・[[青木和夫]]校注|author=|chapter= |title=律令|year=1994|month=|publisher=[[岩波書店]]|series=[[日本思想大系|日本思想大系 新装版]]|isbn= 978-4-000-03751-8|ref=rituryou}}
* {{Cite journal |author= [[新井勉 (法学者)|新井勉]]|title= 古代日本の謀反・謀叛について:大逆罪・内乱罪研究の前提として|journal= 日本法學|volume= 78|issue= 1|date= 2012-06-30|pages= |publisher=[[日本大学]]|naid= 110009426636|ref=古代}}
* {{Cite journal |author= 新井勉|title= 中世日本の謀叛について:大逆罪・内乱罪研究の前提として|journal= 日本法學|volume= 78|issue= 2|date= 2012-09-25 |pages= |publisher=日本大学|naid= 110009470095|ref=中世}}
* {{Cite journal |author= 新井勉|title= 近世日本の叛逆について:大逆罪・内乱罪研究の前提として|journal= 政経研究|volume= 49|issue=3 |date=2013-01-20 |pages= |publisher=日本大学|naid= 110009544961|ref=近世}}
* {{Cite journal |author= 新井勉|title= 明治前期の叛逆について:大逆罪・内乱罪研究の前提として
|journal=政経研究 |volume=49 |issue=4 |date= 2013-03-05|pages= |publisher=日本大学 |naid=110009559532 |ref=明治}}
==関連項目==
{{Wikt}}
*[[律令法]]
*[[下克上]]
*[[クーデター]]
*[[易姓革命]]
*[[革命]]
{{DEFAULTSORT:むほん}}
[[Category:クーデター]]
[[Category:政治史]]
[[Category:八虐]]
|
2003-09-19T00:45:38Z
|
2023-11-19T18:44:17Z
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[
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"Template:Otheruses",
"Template:参照方法",
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:Cite journal"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%80%E5%8F%8D
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17,336 |
パナソニックセンター東京
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パナソニックセンター東京(パナソニックセンターとうきょう)は東京都江東区有明にある、パナソニックグループのショウルーム。
2002年9月に「パナソニックセンター」としてオープン。2004年に「パナソニックセンター大阪」のオープンに合わせて、2004年10月5日に「パナソニックセンター東京」と改称した。また、同日に松下電工(のちのパナソニック電工。パナソニックに吸収)ショウルームを改装した「ナショナルセンター東京」が港区汐留に誕生した。なお、ナショナルセンター東京は、2008年10月1日に、「パナソニック リビングショウルーム東京」と改称。
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パナソニックセンター東京(パナソニックセンターとうきょう)は東京都江東区有明にある、パナソニックグループのショウルーム。
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[[File:Panasonic Center Tokyo (2018-05-05) 02.jpg|thumb|300px|right|パナソニックセンター東京]]
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'''パナソニックセンター東京'''(パナソニックセンターとうきょう)は[[東京都]][[江東区]][[有明 (江東区)|有明]]にある、[[パナソニックグループ]]のショウルーム。
== 概要 ==
2002年9月に「パナソニックセンター」としてオープン。2004年に「パナソニックセンター大阪」のオープンに合わせて、[[2004年]][[10月5日]]に「パナソニックセンター東京」と改称した。また、同日に松下電工(のちの[[パナソニック電工]]。パナソニックに吸収)ショウルームを改装した「ナショナルセンター東京」が[[港区 (東京都)|港区]][[汐留]]に誕生した。なお、ナショナルセンター東京は、2008年10月1日に、「パナソニック リビングショウルーム東京」と改称。
*[[任天堂]]の[[ゲームソフト]]が体験できるブース「[[ニンテンドーゲームフロント]]」がある。任天堂のゲーム大会等が行われることがある。
*2006年[[7月19日]]発売の世界最大103インチ[[プラズマテレビ]]が展示されている。
*「[[パナソニックセンター有明スタジオ]]」が併設されている。[[パナソニックグループ]]と[[吉本興業]]の共同運営による収録スタジオとして、[[M-1グランプリ]]決勝戦や松下電器産業株式会社 定期株主総会中継会場として使用された。吉本興業は同スタジオの運営から離れ、現在はイベントホールとしての使用が主である。
*2002年9月から2006年6月まで、[[林原自然科学博物館]]の[[ダイノソアファクトリー]]を開館<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jica.go.jp/volunteer/outline/story/24/index.html |title=ストーリー24 | JICA海外協力隊 |publisher=[[国際協力機構]] |accessdate=2021-05-31}}</ref>。その後は小中学生の理数系離れを食い止めようとの意図で企画された施設[[リスーピア]]が2006年8月にオープンした<ref>{{Cite web|和書|website=東洋経済オンライン |title=体感型理数ミュージアム・リスーピア、素人目線が生む面白さが子供も大人も驚かせる |date=2009-05-29 |accessdate=2021-06-01 |publisher=[[東洋経済新報社]] |url=https://toyokeizai.net/articles/-/10306}}</ref>。リスーピアは2020年12月27日に閉館し、新たにクリエイティブミュージアム[[AkeruE]]が2021年4月3日から開館した<ref>{{Cite web|和書|url=https://magazine.atnavi.net/articles/5196 |title=リスーピア後継施設「AkeruE(アケルエ)」4/3オープン |date=2020-12-28 |accessdate=2021-05-31 |publisher=あとなび |author=あとなび編集部}}</ref>。
[[テーオーシー|TOC Ariake]]方面へ行き来するための館内通り抜けが公認されており、りんかい線国際展示場駅初電から終電までパナソニックセンター東京の営業時間とは関係なく開放されている。
== 交通アクセス ==
*住所:[[東京都]][[江東区]][[有明 (江東区)|有明]]三丁目5番1号
*[[東京臨海高速鉄道りんかい線]] [[国際展示場駅]] 徒歩1分
*[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]] [[有明駅 (東京都)|有明駅]] 徒歩5分
*[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]] [[東京ビッグサイト駅]] 徒歩5分
== 他の近隣施設 ==
*[[シンボルプロムナード公園]]
*[[相鉄グランドフレッサ東京ベイ有明]]
*[[テーオーシー|TOC Ariake]]
*[[東京ファッションタウン]](TFTビル)
*[[有明フロンティアビル]]
*[[東京ベイ有明ワシントンホテル]]
*[[有明パークビル]]
*[[東京国際展示場]](東京ビッグサイト)
*[[東京ベイコート倶楽部ホテル&スパリゾート]]
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徳冨蘆花
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徳冨 蘆花(とくとみ ろか、1868年12月8日(明治元年10月25日) - 1927年〈昭和2年〉9月18日)は、日本の小説家。ベストセラーとなった小説『不如帰』(1899年)や、キリスト教の影響を受けた自然描写作品『自然と人生』(1900年)などで知られる。本名は徳富健次郎(とくとみ けんじろう)。思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰は兄。ウ冠でなくワ冠を用いる「徳冨」の表記にこだわり、各種の文学事典、文学館、記念公園などはワ冠の「冨」の字を採用している。
同志社中退。思想家の兄、徳富蘇峰創設の民友社に参加。長編小説『不如帰』で文名を得、随筆『自然と人生』で独自の自然文学を結実させた。ほかに『思出の記』(1901年)、『黒潮』(1902年)など。
横井小楠門下の俊英であった父徳富一敬と母久子の四女三男の末子として、肥後国葦北郡水俣村に生まれる。5歳年長の兄に猪一郎(蘇峰)がいた。3歳の時に父が熊本藩に出仕するため一家で熊本へ出て、7歳で本山小学校入学、9歳の時に熊本洋学校入学、しかし西南戦争のために郷里に疎開する。1878年10歳の時に、同志社英学校に入学していた猪一郎に伴われて同校入学。2年後兄の退学とともに退学し、父の設立した熊本共立学舎に入り、1882年には猪一郎の設立した大江義塾に入る。この頃『八犬伝』『以呂波文庫』『太平記』などや、『七一雑報』の翻訳小説などを愛読した。
1885年17歳の時にキリスト教受洗し、今治教会で、従兄弟の横井時雄の元で伝道と英語教師に従事、この頃から蘆花の号を用いる。号の由来は、自ら述べた「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり」からきている。1886年に同志社に再入学、1887年に東京で民友社社長となっていた兄のところで二葉亭四迷の小説「浮雲」を読み、小説家になる志を立て、1888年に『同志社文学』に横井小楠の墓を訪ねた短文「孤墳の夕」が掲載され、初めて文章が活字になった。同志社副校長山本覚馬の娘山本久栄(学長新島襄の姪にあたる)と恋愛関係になるが新島にも兄にも反対され傷心し、出奔して鹿児島などを流浪、その後熊本英学校の教師となる。
1889年に上京して民友社社員となり、校正、翻訳などの仕事をしながら、兄の主催する「文学会」にも参加し、坪内逍遥、依田学海、矢野龍渓、山田美妙などに引き合わされ、また翻訳の伝記『如温武雷土(ジョン・ブライト)』『理査土格武電(リチャード・コブデン)』を出版した。1890年には兄の発刊した『国民新聞』に移り、外国電報や小説の翻訳をした。1891年にキリスト教と決別し、この頃からゲーテやユーゴーなどヨーロッパ文学に親しみ、中でもトルストイ『戦争と平和』を英語で読んで傾倒するようになる。1894年に縁談により原田愛子と結婚。自然に親しみ、「写生帖」の各編を『国民新聞』に発表し始め、また民友社の『家庭雑誌』『国民之友』などに雑文を書いていた。1896年に兄蘇峰がヨーロッパを歴訪し、トルストイとも会談し、健次郎はその記録に感銘を受け、トルストイの伝記を執筆する。
1897年に逗子に転居。1898年に紀行文や自然描写文を集めた『青山白雲』を刊行、11月から翌年5月まで『国民新聞』に、逗子の自宅で来客の婦人の語った噂話のエピソードを元にした小説「不如帰」を連載する。1900年に「不如帰」を全面改稿して出版し、これが当時の家庭小説の流行も相まって大きな反響を得て、続いて「灰燼」「おもひ出の記」(『国民新聞』1900年3月23日-1901年3月21日。『思出の記』として1900年5月刊)を連載、「おもひ出の記」も名作として愛読され、多くの青年に影響を与えた。また写生文を集めた『自然と人生』を刊行し「キリスト教の感化を受けた清新な感情で自然を描写」(中村光夫)で高く評価され、この年に民友社を退社して文筆に専念、また原宿に転居する。1898年に『国民之友』に連載した、ビヨルンソン『ゾルバッケン』の翻訳「野の花」(未完)を、田山花袋は「一時私達の憧憬するところとなった」と評している。『不如帰』は1901年に高田実一座、1903年に劇団新派でも公演されて、旅芝居や映画にもなり、さらに人気を高め、1909年には100版を重ね、刊行後30年で185万部を売り上げるベストセラーとなった。
1900年に東京原宿に転居。1902年1月26日-6月29日には、鹿鳴館時代の政界の腐敗や上流社会の風俗を題材にした社会小説「黒潮」を『国民新聞』に連載。『黒潮』は蘇峰が材料を提供したもので、他の作家は知り得ない薩長政治の内幕に詳しかったが、未完のままとなった。やがて国家主義的傾向を強める兄とは次第に不仲となり、1903年に蘇峰への「告別の辞」を発表し、絶縁状態となり、民友社を離れて黒潮社設立。日露戦争開戦直前の1904年1月に『平民新聞』に非戦論を寄稿。1905年に木下尚江らがキリスト教社会主義の雑誌『新紀元』を発行する際にも援助した。
1905年に愛子と富士登山中に人事不省となり、生活の転換を目指して再び逗子に転居。1906年4月4日横浜を出帆、ヨーロッパ旅行し、パレスチナを経て、6月30日ロシアでトルストイを訪問、そのときの記録『順礼紀行』は、オスマン帝国治下のエルサレム訪問記も含めて、貴重な記録となっている。8月4日に帰国後青山高樹町に転居。また1906年には旧制・第一高等学校の弁論部大会にて最初の講演を行ない、『勝の哀(かちのかなしみ)』の演題で、ナポレオンや児玉将軍を例に引き、勝者の胸に去来する悲哀を説き、一時の栄を求めず永遠の生命を求める事こそ一日の猶予もできない厳粛な問題であると説いた。この演説に感動した一高生の何人かは荷物をまとめて一高を去ったという。
1907年(明治40年)、東京府北多摩郡千歳村大字粕谷(現・東京都世田谷区粕谷)に転居、トルストイの影響による半農生活を送り、文壇と離れて、死去するまでの20年間をこの地で過ごした。しばらく執筆が途絶えたが、病床にあった国木田独歩を慰藉するために田山花袋らによって編集された『廿八人集』に「国木田哲夫兄に与へて余が近況を報ずる書」を寄稿した。
1910年(明治43年)の大逆事件の際、幸徳秋水らの死刑を阻止するため、蘇峰を通じて首相の桂太郎へ嘆願、さらに明治天皇宛の嘆願書を『朝日新聞』に送ったが、甲斐なく幸徳らは処刑されてしまう。直後に再び一高の弁論部大会での講演を依頼されると1911年(明治44年)2月1日、『謀叛論』の題で論じ、学生に深い感銘を与えた。これは新入生歓迎行事の一環として行われた。この講演を依頼した学生が、戦後に社会党委員長となる河上丈太郎や文部大臣となる森戸辰男だった。しかしこれを不敬演説という非難が起こり、校長新渡戸稲造らが譴責処分とされることになった。演説『謀叛論』の内容を推測する草稿が3種類残されている。他校の東京高商から演説を聴きに来た浅原丈平の回想によると、蘆花は原稿を読み上げるのではなく、原稿から省略された箇所、原稿にない話もあった。一高の弁論部員河合栄治郎は、「私共は息つく間もない位にひきずりこまれて、唯感心してしまった」と書き記した。第二次大戦後、言論の自由が保障されてから田中耕太郎、森戸辰男が演説に言及した。一高英文科一年三組の松岡善譲(松岡譲)、菊池寛、久米正雄、成瀬正一、井川恭(恒藤恭)、工科一年一組の森田浩一などが演説について活字の文章にしたり、日記に書いたりした。井川恭の演説当日の日記は、演説内容が詳細に書き留められ、重要な資料となっている。井川の日記には、「幸徳君ハ死んではゐない。生きてゐるのである。武蔵野の片隅にひるねをむさぼる者をこゝに立たしめたではありませんか」、「圧制はだめである。自由をうばふのハ生命をうばふのである」等、蘆花が草稿よりも踏み込んだ内容を語ったと分かる箇所が記されている。英法・政治・経済・商科一年二組の矢内原忠雄は、「演説終りて数秒始めて迅雷の如き拍手第一大教場の薄暗を破りぬ。吾人未だ嘗て斯の如き雄弁を聞かず。(略)殊に真摯なる演説者の肉声は健実にして真摯なる一高健児の胸に最も正当に共鳴し得るなり。」と講演から19年経ってなお熱烈に記している。
1912年に粕谷での「田園生活のスケッチ」と述べる短文集『みゝずのたはこと』を書き、震災までの11年で108版10万余部を重ねるロングセラーとなり、またこの作品から本名の健次郎で発表する。1913年に国民新聞社襲撃を受けて、同社再建のために兄と交流を再開するが、翌年には父一敬の葬儀にも参列せず、親族との交流を断ち、1908年に養女に迎えていた蘇峰の末子鶴子も、蘇峰の元に返した。
1918年に粕谷の自宅を「恒春園」と命名。この年からエルサレム巡礼と世界一周の旅行に出かけ、エルサレム滞在時にパリ講和会議に宛てて「所望」と題する、軍備全廃と世界政府に向けた構想を送付した。『不如帰』の執筆のきっかけとなった伝聞は、その頃、原宿近所の穏田ネッコ坂の陸軍の大物、大山巌が後妻大山捨松と再婚した事、大山巌と前妻の息女が病弱であった事などで、これを事実に無関係に脚色をしたのが『不如帰』だった。蘆花はこの作品により捨松が事実無根の悪人に仕立て上げられた事で不幸な目に遭っているのを黙殺しつづけ、1919年に捨松が危篤になる間際にようやく謝罪をした。
1920年から21年にかけて愛子と世界一周旅行し、この経験をまとめた『日本から日本へ』を愛子と共著で出版。1923年には伯母(母の姉)である竹崎順子の実伝を執筆。1924年に虎ノ門事件を起こした難波大助助命の意見書を宮内庁に上申、さらにアメリカの排日移民法にも反対論を発表し、『太平洋を中にして』として出版。1925年、愛子と共著の自伝的長編『富士』を刊行開始。実名は使われていないが、民友社を中心とした明治文学史資料として「精刻無比」との評価もある。
1927年に心臓発作で倒れ、伊香保温泉で療養。電報で駆けつけた兄と再会したその夜に死去した。葬儀は東京青山会館でキリスト教式で行われ、粕谷の自宅に葬られた。未完となっていた『富士』第4巻は、死後愛子夫人によってまとめられて出版された。
愛子(原田藍)は1874年(明治7年)7月18日、熊本県菊池郡隈府町の原田家の末子として生まれ、東京女高師を卒業。在学中に兄と逗子に避暑に訪れた際に、徳富家が同じく滞在中で、蘇峰が兄と知己であったことから蘆花との縁談がまとまった。結婚後は赤坂氷川町で蘆花の両親と同居しながら、有馬小学校の教師を勤めていた。生徒時代に大山邸を見学した際に、『不如帰』のモデルとなった信子にもてなされたことがあったと回想している。夫妻に子供はなく、蘇峰の末娘鶴子を2歳の時に、籍は入れなかったが養子にもらいうけ、粕谷の自宅で可愛がって育て、国内各地、朝鮮、満州の旅行にも家庭教師を伴って同行した。しかし蘆花の父の危篤に際して実家へ返し、再会したのは蘆花の臨終の席だった。1947年2月20日没。
小説・エッセイ
伝記『トルストイ』(1897)の中では、「文豪、博大新警なる思想家、真理の使徒、人情の勧化者、此翁実に前人の足跡を踏まえぬ、大なる霊魂である」と評しており、1905年に伊香保に居した間は福音書とトルストイの著作を熱心に読み、この12月には自著の『トルストイ』と『不如帰』の英訳を送り、翌1906年1月に手紙を書き、3月に思い立ってパレスチナ巡礼とトルストイに会うための旅行に出る。当時のエルサレムの町並みの不潔さには「エルサレム城内の瞥見には、人をして一炬に焼かんと欲っせしむ」と嘆いたが、ガリラヤ地方には「詩的ガリラヤよ。爾の土地は肥へ、爾の山は穏に、爾の湖の水は清し。」と感動を記している。続いてコンスタンチノープル、バルカン半島を経て、ヤスナヤ・ポリヤーナにトルストイを訪ねて、家族ぐるみの歓待を受け、トルストイと一緒に泳いだヴァロンカ川の川岸の小屋の壁に、
という詩を書き残した。この旅程の紀行文『順礼紀行』は、日本人による最初のパレスチナ旅行記であり、ガリラヤの地において「自然児基督、詩人基督、田舎漢基督、平民基督」と呼びかけたのは、トルストイの汎神論的な思想や、横井時雄らのユニテリアンの影響も指摘されている。やがて1918年にはトルストイを棄て、また自身と愛子はアダムとイヴの生まれ変わりであると宣言した。さらに1919年には「日子と日女」と称するようになり、「土着の「神道的」汎神論」に回帰していく。
『黒潮』は1899年頃から腹案を練り始め、1902年に国民新聞に連載。連載開始前日には「黒潮の解」を掲載した。書き出し部分になる「明治廿年四月の初旬、東京麹町區内山下町の呦々館(いういうくわん)に貴婦人連の催にかゝる演藝會が開かれた。」という一文の通り、鹿鳴館の命名(『詩経』小雅)を元にした呦々館を舞台に、民友社時代の知識と兄蘇峰からの情報をもとに欧化主義社会を描いたが、6月で連載は中絶。その後12月に同紙で「霜枯日記」を連載した際に、その中の反政府的な文章が無断で削られて掲載されたことで、国民新聞には一切執筆しないことを通告した。翌1903年1月に黒潮社を設立し、『黒潮』全6巻を刊行する目論見を立て、父から譲り受けていた株式を売却してその資金に充てた。2月に第一篇を発行し、各所に販売を依頼し、東京毎日新聞の木下尚江は好意的な批評を掲載し「君が文藝の眞義に猛進セらるゝを祝す」と激励した。刊行後3ヶ月で8千部を売る好評となり、東京毎日新聞は続編の掲載を依頼したが、蘆花はこれを断った。またこの単行本の巻頭に掲げた「蘇峰家兄」も名文として多くの感銘を与え、蘆花はキリスト教的社会主義とトルストイズム信奉者と見なされるようになったが、蘆花自身はそれを好まず、縮刷版ではこの一文は削られた。 第二篇は1905年11月に『新紀元』に一部が掲載されたが、その後は執筆されず、未完のままとなった。
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"text": "1918年に粕谷の自宅を「恒春園」と命名。この年からエルサレム巡礼と世界一周の旅行に出かけ、エルサレム滞在時にパリ講和会議に宛てて「所望」と題する、軍備全廃と世界政府に向けた構想を送付した。『不如帰』の執筆のきっかけとなった伝聞は、その頃、原宿近所の穏田ネッコ坂の陸軍の大物、大山巌が後妻大山捨松と再婚した事、大山巌と前妻の息女が病弱であった事などで、これを事実に無関係に脚色をしたのが『不如帰』だった。蘆花はこの作品により捨松が事実無根の悪人に仕立て上げられた事で不幸な目に遭っているのを黙殺しつづけ、1919年に捨松が危篤になる間際にようやく謝罪をした。",
"title": "生涯"
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"text": "1920年から21年にかけて愛子と世界一周旅行し、この経験をまとめた『日本から日本へ』を愛子と共著で出版。1923年には伯母(母の姉)である竹崎順子の実伝を執筆。1924年に虎ノ門事件を起こした難波大助助命の意見書を宮内庁に上申、さらにアメリカの排日移民法にも反対論を発表し、『太平洋を中にして』として出版。1925年、愛子と共著の自伝的長編『富士』を刊行開始。実名は使われていないが、民友社を中心とした明治文学史資料として「精刻無比」との評価もある。",
"title": "生涯"
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"text": "1927年に心臓発作で倒れ、伊香保温泉で療養。電報で駆けつけた兄と再会したその夜に死去した。葬儀は東京青山会館でキリスト教式で行われ、粕谷の自宅に葬られた。未完となっていた『富士』第4巻は、死後愛子夫人によってまとめられて出版された。",
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"text": "愛子(原田藍)は1874年(明治7年)7月18日、熊本県菊池郡隈府町の原田家の末子として生まれ、東京女高師を卒業。在学中に兄と逗子に避暑に訪れた際に、徳富家が同じく滞在中で、蘇峰が兄と知己であったことから蘆花との縁談がまとまった。結婚後は赤坂氷川町で蘆花の両親と同居しながら、有馬小学校の教師を勤めていた。生徒時代に大山邸を見学した際に、『不如帰』のモデルとなった信子にもてなされたことがあったと回想している。夫妻に子供はなく、蘇峰の末娘鶴子を2歳の時に、籍は入れなかったが養子にもらいうけ、粕谷の自宅で可愛がって育て、国内各地、朝鮮、満州の旅行にも家庭教師を伴って同行した。しかし蘆花の父の危篤に際して実家へ返し、再会したのは蘆花の臨終の席だった。1947年2月20日没。",
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"text": "小説・エッセイ",
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"text": "伝記『トルストイ』(1897)の中では、「文豪、博大新警なる思想家、真理の使徒、人情の勧化者、此翁実に前人の足跡を踏まえぬ、大なる霊魂である」と評しており、1905年に伊香保に居した間は福音書とトルストイの著作を熱心に読み、この12月には自著の『トルストイ』と『不如帰』の英訳を送り、翌1906年1月に手紙を書き、3月に思い立ってパレスチナ巡礼とトルストイに会うための旅行に出る。当時のエルサレムの町並みの不潔さには「エルサレム城内の瞥見には、人をして一炬に焼かんと欲っせしむ」と嘆いたが、ガリラヤ地方には「詩的ガリラヤよ。爾の土地は肥へ、爾の山は穏に、爾の湖の水は清し。」と感動を記している。続いてコンスタンチノープル、バルカン半島を経て、ヤスナヤ・ポリヤーナにトルストイを訪ねて、家族ぐるみの歓待を受け、トルストイと一緒に泳いだヴァロンカ川の川岸の小屋の壁に、",
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"text": "という詩を書き残した。この旅程の紀行文『順礼紀行』は、日本人による最初のパレスチナ旅行記であり、ガリラヤの地において「自然児基督、詩人基督、田舎漢基督、平民基督」と呼びかけたのは、トルストイの汎神論的な思想や、横井時雄らのユニテリアンの影響も指摘されている。やがて1918年にはトルストイを棄て、また自身と愛子はアダムとイヴの生まれ変わりであると宣言した。さらに1919年には「日子と日女」と称するようになり、「土着の「神道的」汎神論」に回帰していく。",
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"text": "『黒潮』は1899年頃から腹案を練り始め、1902年に国民新聞に連載。連載開始前日には「黒潮の解」を掲載した。書き出し部分になる「明治廿年四月の初旬、東京麹町區内山下町の呦々館(いういうくわん)に貴婦人連の催にかゝる演藝會が開かれた。」という一文の通り、鹿鳴館の命名(『詩経』小雅)を元にした呦々館を舞台に、民友社時代の知識と兄蘇峰からの情報をもとに欧化主義社会を描いたが、6月で連載は中絶。その後12月に同紙で「霜枯日記」を連載した際に、その中の反政府的な文章が無断で削られて掲載されたことで、国民新聞には一切執筆しないことを通告した。翌1903年1月に黒潮社を設立し、『黒潮』全6巻を刊行する目論見を立て、父から譲り受けていた株式を売却してその資金に充てた。2月に第一篇を発行し、各所に販売を依頼し、東京毎日新聞の木下尚江は好意的な批評を掲載し「君が文藝の眞義に猛進セらるゝを祝す」と激励した。刊行後3ヶ月で8千部を売る好評となり、東京毎日新聞は続編の掲載を依頼したが、蘆花はこれを断った。またこの単行本の巻頭に掲げた「蘇峰家兄」も名文として多くの感銘を与え、蘆花はキリスト教的社会主義とトルストイズム信奉者と見なされるようになったが、蘆花自身はそれを好まず、縮刷版ではこの一文は削られた。 第二篇は1905年11月に『新紀元』に一部が掲載されたが、その後は執筆されず、未完のままとなった。",
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徳冨 蘆花は、日本の小説家。ベストセラーとなった小説『不如帰』(1899年)や、キリスト教の影響を受けた自然描写作品『自然と人生』(1900年)などで知られる。本名は徳富健次郎。思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰は兄。ウ冠でなくワ冠を用いる「徳冨」の表記にこだわり、各種の文学事典、文学館、記念公園などはワ冠の「冨」の字を採用している。 同志社中退。思想家の兄、徳富蘇峰創設の民友社に参加。長編小説『不如帰』で文名を得、随筆『自然と人生』で独自の自然文学を結実させた。ほかに『思出の記』(1901年)、『黒潮』(1902年)など。
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{{脚注の不足|date=2019年11月}}
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* 『[[不如帰 (小説)|不如帰]]』(1899年)
* 『自然と人生』(1900年、随筆)
* 『思出の記』(1901年)
* 『黒潮』(1902年)
* 『寄生木』(1909年)
* 『富士』(1925年)
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* [[徳富一敬]](父)
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{{ウィキポータルリンク|キリスト教|[[画像:Golden_Christian_Cross.svg|35px|Portal:キリスト教]]}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''徳冨 蘆花'''|とくとみ ろか|[[1868年]][[12月8日]]([[明治]]元年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]}} - [[1927年]]〈[[昭和]]2年〉[[9月18日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。ベストセラーとなった小説『[[不如帰 (小説)|不如帰]]』(1899年)や、[[キリスト教]]の影響を受けた自然描写作品『自然と人生』(1900年)などで知られる。本名は{{読み仮名_ruby不使用|'''徳富健次郎'''|とくとみ けんじろう}}。[[思想家]]・[[ジャーナリスト]]の[[徳富蘇峰]]は兄。[[宀部|ウ冠]]でなく[[冖部|ワ冠]]を用いる「徳'''冨'''」の表記にこだわり、各種の文学事典、文学館、記念公園などはワ冠の「冨」の字を採用している。
同志社中退。思想家の兄、徳富蘇峰創設の民友社に参加。長編小説『不如帰』で文名を得、随筆『自然と人生』で独自の自然文学を結実させた。ほかに『思出の記』(1901年)、『黒潮』(1902年)など。
== 生涯 ==
===生い立ち===
[[横井小楠]]門下の俊英であった父[[徳富一敬]]と母[[徳富久子|久子]]の四女三男の末子として、[[肥後国]][[葦北郡]]水俣村に生まれる。5歳年長の兄に猪一郎([[徳富蘇峰|蘇峰]])がいた。3歳の時に父が[[熊本藩]]に出仕するため一家で[[熊本県|熊本]]へ出て、7歳で本山小学校入学、9歳の時に[[熊本洋学校]]入学、しかし[[西南戦争]]のために郷里に疎開する。1878年10歳の時に、[[同志社英学校]]に入学していた猪一郎に伴われて同校入学。2年後兄の退学とともに退学し、父の設立した熊本共立学舎に入り、1882年には猪一郎の設立した[[大江義塾]]に入る。この頃『[[南総里見八犬伝|八犬伝]]』『以呂波文庫』『[[太平記]]』などや、『[[七一雑報]]』の翻訳小説などを愛読した。
1885年17歳の時に[[キリスト教]]受洗し、[[日本基督教団今治教会|今治教会]]で、従兄弟の[[横井時雄]]の元で伝道と英語教師に従事、この頃から'''蘆花'''の号を用いる。号の由来は、自ら述べた「『蘆の花は見所とてもなく』と[[清少納言]]は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり」からきている。1886年に同志社に再入学、1887年に東京で[[民友社]]社長となっていた兄のところで[[二葉亭四迷]]の小説「[[浮雲 (二葉亭四迷の小説)|浮雲]]」を読み、小説家になる志を立て、1888年に『同志社文学』に横井小楠の墓を訪ねた短文「孤墳の夕」が掲載され、初めて文章が活字になった。同志社副校長[[山本覚馬]]の娘[[山本久栄]](学長[[新島襄]]の姪にあたる)と恋愛関係になるが新島にも兄にも反対され傷心し、出奔して[[鹿児島県|鹿児島]]などを流浪、その後[[熊本英学校]]の教師となる。
===作家として出発===
[[ファイル:Hototogisu first edition cover cropped.jpg|thumb|right|120px|『不如帰』初版表紙]]
1889年に上京して[[民友社]]社員となり、校正、翻訳などの仕事をしながら、兄の主催する「文学会」にも参加し、[[坪内逍遥]]、[[依田学海]]、[[矢野龍渓]]、[[山田美妙]]などに引き合わされ、また翻訳の伝記『[[ジョン・ブライト|如温武雷土(ジョン・ブライト)]]』『[[リチャード・コブデン|理査土格武電(リチャード・コブデン)]]』を出版した。1890年には兄の発刊した『[[国民新聞]]』に移り、外国電報や小説の翻訳をした。1891年にキリスト教と決別し、この頃から[[ゲーテ]]や[[ユーゴー]]などヨーロッパ文学に親しみ、中でも[[レフ・トルストイ|トルストイ]]『[[戦争と平和]]』を英語で読んで傾倒するようになる。1894年に縁談により原田愛子と結婚。自然に親しみ、「写生帖」の各編を『国民新聞』に発表し始め、また民友社の『家庭雑誌』『[[国民之友]]』などに雑文を書いていた。1896年に兄蘇峰がヨーロッパを歴訪し、トルストイとも会談し、健次郎はその記録に感銘を受け、トルストイの伝記を執筆する。
1897年に[[逗子]]に転居。1898年に紀行文や自然描写文を集めた『青山白雲』を刊行、11月から翌年5月まで『国民新聞』に、逗子の自宅で来客の婦人の語った噂話のエピソードを元にした小説「[[不如帰 (小説)|不如帰]]」を連載する。1900年に「不如帰」を全面改稿して出版し、これが当時の[[家庭小説]]の流行も相まって大きな反響を得て、続いて「灰燼」「おもひ出の記」(『国民新聞』1900年3月23日-1901年3月21日。『思出の記』として1900年5月刊)を連載、「おもひ出の記」も名作として愛読され、多くの青年に影響を与えた。また写生文を集めた『自然と人生』を刊行し「キリスト教の感化を受けた清新な感情で自然を描写」([[中村光夫]]<ref name=nakamura>『日本の近代小説』岩波書店 1954年</ref>)で高く評価され、この年に民友社を退社して文筆に専念、また原宿に転居する。1898年に『国民之友』に連載した、ビヨルンソン『ゾルバッケン』の翻訳「野の花」(未完)を、[[田山花袋]]は「一時私達の憧憬するところとなった」と評している<ref>『近代文學回想集 日本近代文学大系60』角川書店 1973年(田山花袋「近代の小説」[[和田謹吾]]注))</ref>。『不如帰』は1901年に高田実一座、1903年に[[劇団新派]]でも公演されて、旅芝居や[[映画]]にもなり、さらに人気を高め、1909年には100版を重ね、刊行後30年で185万部を売り上げるベストセラーとなった。
===社会小説と晴耕雨読生活===
[[ファイル:Shizen to jinsei.jpg|thumb|right|120px|『自然と人生』初版表紙]]
1900年に東京[[原宿]]に転居。1902年1月26日-6月29日には、[[鹿鳴館時代]]の政界の腐敗や上流社会の風俗を題材にした[[社会小説]]「黒潮」を『国民新聞』に連載<ref name=nakamura/>。『黒潮』は蘇峰が材料を提供したもので、他の作家は知り得ない薩長政治の内幕に詳しかったが、未完のままとなった<ref name=ki>[[木村毅]]『明治文学を語る』恒文社 1982年</ref>。やがて[[国家主義]]的傾向を強める兄とは次第に不仲となり、[[1903年]]に蘇峰への「告別の辞」を発表し、絶縁状態となり、民友社を離れて黒潮社設立。[[日露戦争]]開戦直前の1904年1月に『平民新聞』に非戦論を寄稿。1905年に[[木下尚江]]らが[[キリスト教社会主義]]の雑誌『[[新紀元]]』を発行する際にも援助した。
1905年に愛子と富士登山中に人事不省となり、生活の転換を目指して再び逗子に転居。1906年4月4日横浜を出帆、ヨーロッパ旅行し、パレスチナを経て、6月30日ロシアでトルストイを訪問、そのときの記録『順礼紀行』は、[[オスマン帝国]]治下の[[エルサレム]]訪問記も含めて、貴重な記録となっている。8月4日に帰国後青山[[高樹町]]に転居。また1906年には[[第一高等学校 (旧制)|旧制・第一高等学校]]の弁論部大会にて最初の講演を行ない、『勝の哀(かちのかなしみ)』の演題で、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]や[[児玉源太郎|児玉将軍]]を例に引き、勝者の胸に去来する悲哀を説き、一時の栄を求めず永遠の生命を求める事こそ一日の猶予もできない厳粛な問題であると説いた。この演説に感動した一高生の何人かは荷物をまとめて一高を去ったという。
[[1907年]](明治40年)、[[東京府]][[北多摩郡]][[千歳村 (東京府)|千歳村]][[大字]][[粕谷]](現・[[東京都]][[世田谷区]][[粕谷]])に転居、トルストイの影響による半農生活を送り<ref>『順礼紀行』で蘆花がトルストイを訪れた時の会話に「行々は少なくも半農の生活をする心算に候」とある。(『近代文學回想集 日本近代文学大系60』角川書店 1973年(田山花袋「近代の小説」[[和田謹吾]]注))</ref>、文壇と離れて、死去するまでの20年間をこの地で過ごした。しばらく執筆が途絶えたが、病床にあった[[国木田独歩]]を慰藉するために[[田山花袋]]らによって編集された『廿八人集』に「国木田哲夫兄に与へて余が近況を報ずる書」を寄稿した<ref name=ki/>。
===謀叛論===
[[1910年]](明治43年)の[[大逆事件]]の際、[[幸徳秋水]]らの死刑を阻止するため、蘇峰を通じて首相の[[桂太郎]]へ嘆願、さらに[[明治天皇]]宛の嘆願書を『[[朝日新聞]]』に送ったが、甲斐なく幸徳らは処刑されてしまう。直後に再び一高の弁論部大会での講演を依頼されると[[1911年]](明治44年)2月1日、『謀叛論』の題で論じ、学生に深い感銘を与えた。これは新入生歓迎行事の一環として行われた<ref name=sekiguchi />。この講演を依頼した学生が、戦後に[[日本社会党|社会党]]委員長となる[[河上丈太郎]]や文部大臣となる[[森戸辰男]]だった。しかしこれを不敬演説という非難が起こり、校長[[新渡戸稲造]]らが譴責処分とされることになった。演説『謀叛論』の内容を推測する草稿が3種類残されている<ref>{{青空文庫|000280|1708|新字新仮名|謀叛論(草稿)}}</ref>。他校の[[東京商科大学 (旧制)|東京高商]]から演説を聴きに来た浅原丈平の回想によると、蘆花は原稿を読み上げるのではなく、原稿から省略された箇所、原稿にない話もあった<ref name=sato>{{Cite journal|和書|author=佐藤嗣男 |title=蘆花講演『謀叛論』考 |journal=明治大学人文科学研究所紀要 |ISSN=05433894 |publisher=明治大学人文科学研究所 |year=1997 |month=dec |issue=42 |pages=249-279 |naid=40003635152 |url=https://hdl.handle.net/10291/11920}}</ref>。一高の弁論部員[[河合栄治郎]]は、「私共は息つく間もない位にひきずりこまれて、唯感心してしまった」と書き記した<ref name=sekiguchi>{{Cite journal|和書|author=[[関口安義]] |title=恒藤恭と芥川龍之介 : 蘆花「謀叛論」を介在として |journal=大阪市立大学史紀要 |ISSN=1884-3522 |publisher=大阪市立大学大学史資料室 |date=2010-10 |issue=3 |pages=40-55 |naid=110007811383 |doi=10.24544/ocu.20171208-078 |url=https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_KJ00006657439}}</ref>。第二次大戦後、言論の自由が保障されてから[[田中耕太郎]]、森戸辰男が演説に言及した<ref name=sekiguchi />。一高英文科一年三組の[[松岡譲|松岡善譲]](松岡譲)、[[菊池寛]]、[[久米正雄]]、[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]、[[井川恭]](恒藤恭)、工科一年一組の森田浩一などが演説について活字の文章にしたり、日記に書いたりした<ref name=sekiguchi />。井川恭の演説当日の日記は、演説内容が詳細に書き留められ、重要な資料となっている<ref name=sekiguchi />。井川の日記には、「幸徳君ハ死んではゐない。生きてゐるのである。武蔵野の片隅にひるねをむさぼる者をこゝに立たしめたではありませんか」、「圧制はだめである。自由をうばふのハ生命をうばふのである」等、蘆花が草稿よりも踏み込んだ内容を語ったと分かる箇所が記されている<ref name=sekiguchi />。英法・政治・経済・商科一年二組の[[矢内原忠雄]]は、「演説終りて数秒始めて迅雷の如き拍手第一大教場の薄暗を破りぬ。吾人未だ嘗て斯の如き雄弁を聞かず。(略)殊に真摯なる演説者の肉声は健実にして真摯なる一高健児の胸に最も正当に共鳴し得るなり。」と講演から19年経ってなお熱烈に記している<ref name=sato />。
===晩年===
[[ファイル:Roka-koshunen-cemetery2.jpg|thumb|150px|[[蘆花恒春園]] 蘆花夫妻墓地(東京都世田谷区)]]
1912年に粕谷での「田園生活のスケッチ」と述べる<ref name=mimizui>『みみずのたはこと』岩波文庫 1977年([[中野好夫]]「解説」)</ref>短文集『みゝずのたはこと』を書き、震災までの11年で108版10万余部を重ねるロングセラーとなり、またこの作品から本名の健次郎で発表する。1913年に国民新聞社襲撃を受けて、同社再建のために兄と交流を再開するが、翌年には父一敬の葬儀にも参列せず、親族との交流を断ち、1908年に養女に迎えていた蘇峰の末子鶴子も、蘇峰の元に返した。
1918年に粕谷の自宅を「[[蘆花恒春園|恒春園]]」と命名。この年から[[エルサレム]]巡礼と世界一周の旅行に出かけ、エルサレム滞在時に[[パリ講和会議]]に宛てて「所望」と題する、軍備全廃と世界政府に向けた構想を送付した。『不如帰』の執筆のきっかけとなった伝聞は、その頃、[[原宿]]近所の[[穏田]][[ネッコ坂]]の陸軍の大物、[[大山巌]]が後妻[[大山捨松]]と再婚した事、大山巌と前妻の息女が病弱であった事などで、これを事実に無関係に脚色をしたのが『不如帰』だった。蘆花はこの作品により捨松が事実無根の悪人に仕立て上げられた事で不幸な目に遭っているのを黙殺しつづけ、1919年に捨松が危篤になる間際にようやく謝罪をした。
[[ファイル:Tokutomi Roka in New York on 10 February 1920.jpg|thumb|150px|1920年、ニューヨークにて]]
1920年から21年にかけて愛子と世界一周旅行し、この経験をまとめた『日本から日本へ』を愛子と共著で出版。1923年には伯母(母の姉)である[[竹崎順子]]の実伝を執筆。1924年に[[虎ノ門事件]]を起こした[[難波大助]]助命の意見書を宮内庁に上申、さらに[[アメリカ]]の[[排日移民法]]にも反対論を発表し、『太平洋を中にして』として出版。1925年、愛子と共著の自伝的長編『富士』を刊行開始。実名は使われていないが、民友社を中心とした明治文学史資料として「精刻無比」との評価もある<ref name=ki/>。
1927年に心臓発作で倒れ、[[伊香保温泉]]で療養。電報で駆けつけた兄と再会したその夜に死去した。葬儀は東京[[青山会館]]でキリスト教式で行われ、粕谷の自宅に葬られた。未完となっていた『富士』第4巻は、死後愛子夫人によってまとめられて出版された。
===愛子===
愛子(原田藍)は1874年(明治7年)7月18日、熊本県[[菊池郡]][[隈府町]]の原田家の末子として生まれ、[[東京女高師]]を卒業。在学中に兄と逗子に避暑に訪れた際に、徳富家が同じく滞在中で、蘇峰が兄と知己であったことから蘆花との縁談がまとまった。結婚後は赤坂氷川町で蘆花の両親と同居しながら、有馬小学校の教師を勤めていた。生徒時代に大山邸を見学した際に、『不如帰』のモデルとなった信子にもてなされたことがあったと回想している。夫妻に子供はなく、蘇峰の末娘鶴子を2歳の時に、籍は入れなかったが養子にもらいうけ、粕谷の自宅で可愛がって育て、国内各地、[[朝鮮]]、[[満州]]の旅行にも家庭教師を伴って同行した。しかし蘆花の父の危篤に際して実家へ返し、再会したのは蘆花の臨終の席だった<ref>原田愛子「蘆花と共に-私の歩んだ道」(『明治文學全集42 徳富蘆花集』)</ref><ref>矢野鶴子「叔父と私」(『明治文學全集42 徳富蘆花集』月報16)</ref>。1947年2月20日没。
== 作品 ==
小説・エッセイ
*『トルストイ 十二文豪叢書10』民友社 1897年
*『青山白雲』民友社 1898年
*『[[不如帰 (小説)|不如帰]]』民友社 1900年(『国民新聞』1898-1899年)
*『自然と人生』民友社 1900年
*『探偵異聞』民友社 1900年(匿名で出版)
*『ゴルドン将軍伝』警醒社 1901年
*『思出の記』民友社 1901年(『国民新聞』1900年3月23日-1901年3月21日)
*『青蘆集』民友社 1902年
*『黒潮 第一篇』自費出版 1903年
*『順礼紀行』警醒社 1906年
*『寄生木』警醒社 1909年
*『みゝずのたはこと』1913年
*『黒い目と茶色の目』新橋堂 1914年
*『死の蔭に』大江書房 1917年
*『新春』福永書店 1918年
*『日本から日本へ』(全2巻)金尾文淵堂 1921年(妻愛子と共著)
*『竹崎順子』福永書店 1923年(伯母の伝記)
*『太平洋を中にして』文化生活研究会 1924年([[内村鑑三]]らと共著)
*『富士』(全4巻)福永書店 1925-28年(妻愛子と共著)
*『蘆花日記』(全7巻)筑摩書房 1985-86年(大正初期の日記新版)
;翻訳
*『[[ジョン・ブライト|如温武雷土]]』民友社 1889年
*『[[リチャード・コブデン|理査土格武電]]』民友社 1889年
*『グラッドストーン伝』民友社 1892年
*『近世欧米 歴史之片影』民友社 1893年
*『世界古今 名婦鑑』民友社 1898年
*『外交奇譚』民友社 1898年
;作品集
*『蘆花全集』蘆花全集刊行会(全20巻)新潮社 1928-30年
*『現代日本文学全集5 徳富蘆花集』筑摩書房 1955年
*『[[明治文学全集|明治文學全集]]42 徳富蘆花集』[[神崎清]]解題、筑摩書房 1966年
===トルストイの影響===
伝記『トルストイ』(1897)の中では、「文豪、博大新警なる思想家、真理の使徒、人情の勧化者、此翁実に前人の足跡を踏まえぬ、大なる霊魂である」と評しており、1905年に伊香保に居した間は福音書とトルストイの著作を熱心に読み、この12月には自著の『トルストイ』と『不如帰』の英訳を送り、翌1906年1月に手紙を書き、3月に思い立ってパレスチナ巡礼とトルストイに会うための旅行に出る。当時のエルサレムの町並みの不潔さには「エルサレム城内の瞥見には、人をして一炬に焼かんと欲っせしむ」と嘆いたが、[[ガリラヤ]]地方には「詩的ガリラヤよ。爾の土地は肥へ、爾の山は穏に、爾の湖の水は清し。」と感動を記している。続いて[[コンスタンチノープル]]、[[バルカン半島]]を経て、[[ヤースナヤ・ポリャーナ|ヤスナヤ・ポリヤーナ]]にトルストイを訪ねて、家族ぐるみの歓待を受け、トルストイと一緒に泳いだヴァロンカ川の川岸の小屋の壁に、
{{Quotation|わがためのヨルダンなるや生れ出でて<br> うぶ湯に浴びしこのヴァロン川}}
という詩を書き残した。この旅程の紀行文『順礼紀行』は、日本人による最初のパレスチナ旅行記であり、ガリラヤの地において「自然児基督、詩人基督、田舎漢基督、平民基督」と呼びかけたのは、トルストイの[[汎神論]]的な思想や、横井時雄らの[[ユニテリアン]]の影響も指摘されている。やがて1918年にはトルストイを棄て、また自身と愛子は[[アダムとイヴ]]の生まれ変わりであると宣言した。さらに1919年には「日子と日女」と称するようになり、「土着の「神道的」汎神論」に回帰していく<ref>[[村松剛]]解説(『巡礼紀行』中公文庫 1989年)</ref>。
===『黒潮』===
『黒潮』は1899年頃から腹案を練り始め、1902年に国民新聞に連載。連載開始前日には「黒潮の解」を掲載した。書き出し部分になる「明治廿年四月の初旬、東京麹町區内山下町の呦々館(いういうくわん)に貴婦人連の催にかゝる演藝會が開かれた。」という一文の通り、鹿鳴館の命名(『[[詩経]]』小雅)を元にした呦々館を舞台に、民友社時代の知識と兄蘇峰からの情報をもとに[[欧化主義]]社会を描いたが、6月で連載は中絶。その後12月に同紙で「霜枯日記」を連載した際に、その中の反政府的な文章が無断で削られて掲載されたことで、国民新聞には一切執筆しないことを通告した。翌1903年1月に黒潮社を設立し、『黒潮』全6巻を刊行する目論見を立て、父から譲り受けていた株式を売却してその資金に充てた。2月に第一篇を発行し、各所に販売を依頼し、東京毎日新聞の[[木下尚江]]は好意的な批評を掲載し「君が文藝の眞義に猛進セらるゝを祝す」と激励した。刊行後3ヶ月で8千部を売る好評となり、東京毎日新聞は続編の掲載を依頼したが、蘆花はこれを断った。またこの単行本の巻頭に掲げた「蘇峰家兄」も名文として多くの感銘を与え、蘆花はキリスト教的社会主義とトルストイズム信奉者と見なされるようになったが、蘆花自身はそれを好まず、縮刷版ではこの一文は削られた。<ref>[[沖野岩三郎]]「解説」(『黒潮』岩波文庫 1952年)</ref> 第二篇は1905年11月に『新紀元』に一部が掲載されたが、その後は執筆されず、未完のままとなった。<ref>神崎清「解題」(『明治文學全集42 徳富蘆花集』)</ref>
==記念施設==
[[File:Tokutomiroka monument in zushi roka-memorial-park.jpg|thumb|150px|徳冨蘆花文学碑(神奈川県逗子市蘆花記念公園)]]
*水俣市 - 生地である[[熊本県]][[水俣市]]では、1983年に水俣市立蘇峰記念館が設立され、蘇峰・蘆花の遺品や資料が展示されている。また蘇峰・蘆花の生家<ref>{{Cite web|和書|url=http://kumanago.jp/event/?mode=detail&id=430000001172 |title=徳富蘇峰・蘆花生家 熊本県HP |accessdate=2013-11-26}}</ref>が1972年に水俣市の文化財に指定され、熊本県内最古の町家建築として、1994年から公開されている。また[[熊本市]]には「[[大江義塾|徳冨記念園]]」もある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=74 |title=徳富記念園・熊本市HP|accessdate=2013-11-25}}</ref>。
*逗子市 - 蘆花が4年間滞在して「不如帰」などの作品を書き上げた逗子市では、蘆花や[[国木田独歩]]の住んだ柳家跡地に「蘆花独歩ゆかりの地」碑が1961年に建てられた<ref>[https://www.library.city.zushi.kanagawa.jp/images/upload/kno01.pdf;jsessionid=D23B62A097F2BC22C40D83E76C629EC4 逗子市立図書館報「季刊マーメイド 柳屋旅館訪問記」2013年8月1日号]</ref>。これにほど近い桜山には、1984年に「蘆花記念公園」が設けられ、この中の「郷土資料館」には蘆花や蘇峰に関する資料も展示されている。公園の前庭には「徳富蘆花文学碑」が立ち、郷土資料館に入る道筋は「自然と人生」を抜粋した立札が並んでいる。[[逗子海岸]]西端の披露山ふもとにある高養寺は「不如帰」のヒロイン浪子にちなんで「浪子不動」とも呼ばれ<ref>[http://www.zushitabi.jp/news09.html 逗子市観光協会「逗子のお寺」]</ref>、高養寺眼前の海中には1933年に「不如帰の碑」が建てられている<ref>[http://www.zushitabi.jp/news12.html 逗子市観光協会「逗子の文学碑」]</ref>。
*原宿 - 1900年から1905年に居住した住居跡地に、2005年に[[渋谷区]]教育委員会により住居跡碑が建立された。
*粕谷 - 蘆花が晩年を過ごした粕谷(東京都世田谷区)には、1936年に夫人により旧邸宅等が[[東京市]]に寄贈され、1938年に「[[蘆花恒春園|都立蘆花恒春園]]」として整備され、開放されている。公園内には夫妻の墓や、遺品や『不如帰』単行本口絵として描かれた[[黒田清輝]]『浪子像』などを展示した蘆花記念館も公開されている。蘆花の名前は、[[京王電鉄]][[京王線]][[芦花公園駅]]や、[[世田谷区立芦花小学校]]・[[世田谷区立芦花中学校]]などにも残っている。
*伊香保温泉 - 蘆花がしばしば逗留し、終焉の地ともなった伊香保温泉([[渋川市]])には、「徳冨蘆花記念文学館」が設立され、関連資料が展示されている。
*旭川市 - 蘆花の小説「寄生木」の舞台となった[[旭川市]]では[[春光台公園]]に「蘆花寄生木ゆかりの地」の碑が建てられている。
==ギャラリー==
<gallery>
Tokutomi soho and roka birthplace1.JPG|徳富蘇峰・蘆花生家(水俣市)
Tokutomi family in 1891.jpg|1891年の徳富家(後列に蘇峰・蘆花兄弟)
Namiko-seiki kuroda.jpg|『不如帰』口絵原画 黒田清輝「浪子像」
Mimizuno tahakoto-koshunen-gate.jpg|『みゝずのたはこと』挿絵「門」
Mimizuno tahakoto-kuwatorite.jpg|『みゝずのたはこと』挿絵「鍬取りて」
Roka-doppo-yukarinochi in zushi.jpg|柳家跡「蘆花独歩ゆかりの地」碑(逗子市)
Zushi local data museum road board1.jpg|蘆花記念公園「自然と人生」立札(逗子市)
Zushi local data museum gate.jpg|蘆花記念公園郷土資料博物館(逗子市)
Namiko-fudo monument.jpg|浪子不動高養寺(逗子市)
Hototogisu monument in zushi beach at sunset.jpg|逗子海岸 不如帰の碑
Roka-house-harajuku.jpg|原宿の蘆花住居跡碑(東京都渋谷区)
Roka-kosyunen-Gate.jpg|蘆花恒春園正門(東京都世田谷区)
Roka-koshunen-house1.jpg|蘆花恒春園蘆花旧宅(東京都世田谷区)
Roka-Koshuuen.JPG|蘆花恒春園梅花書屋(東京都世田谷区)
Roka-koshunen-Aiko-room.jpg|蘆花恒春園愛子夫人居宅(東京都世田谷区)
Tokutomi Roka Literature Museum.JPG|徳富蘆花記念文学館(群馬県渋川市)
</gallery>
== 注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=中野好夫|authorlink=中野好夫|title=蘆花 徳富健次郎 |publisher=筑摩書房 全3巻 |year=1972-74年}}
*:新版『蘆花 徳富健次郎 中野好夫集 9・10・11巻』 [[筑摩書房]]、1984年。
* 菱木定男「感動した銚子の日の出―徳富蘆花の「自然と人生」
*:『銚子と文学-甦る言葉の海流-』より、岡見晨明編、東京文献センター、2001年6月、ISBN 978-4925187206。
* 熊本県立大学編『至宝の徳冨蘆花』熊本日日新聞(熊日新書)、2009年6月。
* 熊本県立大学編『蘇峰の時代』熊本日日新聞(熊日新書)、2013年11月。
*[[伊藤整]]『日本文壇史』講談社文芸文庫 1995年
*「徳富蘆花略年譜」(『不如帰』岩波文庫 改版2012年)より
=== 関連文献 ===
* [[徳富蘇峰]]『弟 徳冨蘆花』[[中央公論新社|中央公論社]]、1997年/中公文庫、2001年、ISBN 978-4122038288
* [[半藤英明]]『徳冨蘆花 天性に順ひ、眼光に依頼せよ』[[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選]]〉、2022年
== 関連項目 ==
* [[留岡幸助]]
* [[内村鑑三]]
* [[前田河広一郎]]
* [[大山捨松#『不如帰』と風評被害|大山捨松]]
* [[蘆花恒春園]]
== 関連作品 ==
* [[八重の桜]] - [[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、[[2013年]]、演:[[太賀]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Tokutomi Roka}}
* {{青空文庫著作者|280|徳冨 蘆花}}
* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/297/ 徳冨蘆花 | 近代日本人の肖像] - [[国立国会図書館]]
* [http://www.toshihiro.co.jp/tokutomi/roka 徳富蘆花について | 徳富蘇峰・蘆花生家]
* [https://web.archive.org/web/20201208025122/https://www.city.shibukawa.lg.jp/kankou/art/artmuseum/p000148.html 徳冨蘆花記念文学館] | [[渋川市|渋川市観光情報サイト]]
* [http://www.city.setagaya.lg.jp/shisetsu/1217/1271/d00004248.html 都立蘆花恒春園] | [[世田谷区]]
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[[Category:徳富蘆花|*]]
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お台場海浜公園駅
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お台場海浜公園駅(おだいばかいひんこうえんえき)は、東京都港区台場二丁目にある東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)の駅である。駅番号はU 06。港区内の駅では最も東にある。
新橋駅方面からレインボーブリッジを渡った最初の駅であり、お台場海浜公園の近くに位置する。
島式ホーム1面2線の高架駅である。
エスカレーターとエレベーターを併設しているが、後者は改札外コンコース両側の建物にも設置されており、そこからコンコースにつながっている。
豊洲駅寄りに待避線を兼ねた上下渡り線が設置されている。ただし試運転や非常時用のためのもので、普段は使用されない。
2022年度の1日平均乗車人員は5,634人である。開業以来の1日平均乗車人員推移は下記の通り。
駅北側は、駅名になっているお台場海浜公園やデックス東京ビーチなどの観光スポットやマンションなどがある。一方で南側は台場フロンティアビルやトレードピアお台場などの高層オフィスビルが立ち並び、利用者は地元住民・観光客・ビジネス利用と幅広い。
駅に隣接する、東京湾岸道路を跨ぐ歩行者専用橋「テレポートブリッジ」を経由することで、東京臨海高速鉄道りんかい線東京テレポート駅まで徒歩5分程度で移動できる。正式な乗り換え駅ではないが、駅周辺では東京テレポート駅への誘導表示が複数みられる。さらに南下すると、パレットタウン跡地を経てゆりかもめ青海駅方面へ至る。
最寄りの停留所は、東京都道482号台場青海線にあるお台場海浜公園駅前となる。以下の路線が乗り入れており、kmモビリティサービス、東京都交通局により運行されている。
お台場海浜公園内にお台場海浜公園乗船場があり、東京都観光汽船、東京水辺ラインの水上バスが発着する。
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お台場海浜公園駅(おだいばかいひんこうえんえき)は、東京都港区台場二丁目にある東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)の駅である。駅番号はU 06。港区内の駅では最も東にある。 新橋駅方面からレインボーブリッジを渡った最初の駅であり、お台場海浜公園の近くに位置する。
|
{{駅情報
|社色 = #27404E
|文字色 =
|駅名 = お台場海浜公園駅
|画像 = Odaibakaihinkoen-Sta.JPG
|pxl = 300px
|画像説明 = お台場海浜公園駅(2010年6月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = おだいばかいひんこうえん
|ローマ字 = Odaiba-kaihinkōen
|副駅名 =
|前の駅 = U 05 [[芝浦ふ頭駅|芝浦ふ頭]]
|駅間A = 3.9
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|次の駅 = [[台場駅|台場]] U 07
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|駅番号 = {{駅番号r|U|06|#0073bc|6}}
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|所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[台場 (東京都港区)|台場]]二丁目3先
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|駅構造 = [[高架駅]]
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|開業年月日 = [[1995年]]([[平成]]7年)[[11月1日]]<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=23 }}</ref>
|廃止年月日 =
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|乗降人員 = 11,171<ref group="かもめ" name="ka2022" />
|統計年度 = 2022年
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|備考 =[[無人駅]]
}}
'''お台場海浜公園駅'''(おだいばかいひんこうえんえき)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[台場 (東京都港区)|台場]]二丁目にある、[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]]([[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]])の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''U 06'''。港区内の駅では最も東にある。
[[新橋駅]]方面から[[レインボーブリッジ]]を渡った最初の駅であり、[[お台場海浜公園]]の近くに位置する。
== 歴史 ==
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[11月1日]] - 開業<ref name="sone30"/>。開業前の仮称は「'''海上公園'''」だった<ref name="Shintoshi1992-2">新都市開発社『新都市開発』1992年2月号「東京臨海新交通の建設現況」」pp.87 - 94。</ref>。
* [[1998年]](平成10年) - [[関東の駅百選]]第2回選定駅となる。選定理由は「都市景観との連続性を前提とした駅舎で歴史と新しいものが一体となった駅」。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線の[[高架駅]]である。
[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]を併設しているが、後者は改札外コンコース両側の建物にも設置されており、そこからコンコースにつながっている。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-06.html |title=お台場海浜公園 駅構内図 |publisher=ゆりかもめ |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
! 1
|rowspan=2|[[File:Yurikamome line symbol.svg|15px|U]] ゆりかもめ
|[[豊洲駅|豊洲]]方面
|-
! 2
|[[新橋駅|新橋]]方面
|}
豊洲駅寄りに待避線を兼ねた上下渡り線が設置されている。ただし試運転や非常時用のためのもので、普段は使用されない。
<gallery>
Odaibakaihinkouen_eki_1.jpg|走行中の車内から(2004年6月4日)
Odaibakaihinkoen-Sta-Gate.JPG|改札口(2010年6月)
Odaibakaihinkoen-Sta-Platform.JPG|ホーム(2010年6月)
</gallery>
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均乗車人員は5,634人<ref group="かもめ" name="ka2022" />である。開業以来の1日平均乗車人員推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365(or366)で計算してあります-->
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員
|-
!年度
!1日平均<br>乗降人員
!1日平均<br>乗車人員
!出典
|-
|<ref group="備考">1995年11月1日開業。開業日から1996年3月31日までの計152日間を集計したデータ。</ref>1995年(平成{{0}}7年)
|
|1,539
|<ref name="toukei1995" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|[[1996年]](平成{{0}}8年)
|
|8,907
|<ref name="toukei1996" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|[[1997年]](平成{{0}}9年)
|
|9,625
|<ref name="toukei1997" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|[[1998年]](平成10年)
|
|5,589
|<ref name="toukei1998" group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|[[1999年]](平成11年)
|
|9,817
|<ref name="toukei1999" group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|[[2000年]](平成12年)
|
|10,173
|<ref name="toukei2000" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|[[2001年]](平成13年)
|
|12,159
|<ref name="toukei2001" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|[[2002年]](平成14年)
|
|11,238
|<ref name="toukei2002" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|[[2003年]](平成15年)
|
|9,735
|<ref name="toukei2003" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|[[2004年]](平成16年)
|
|9,144
|<ref name="toukei2004" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|[[2005年]](平成17年)
|
|8,474
|<ref name="toukei2005" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|[[2006年]](平成18年)
|
|8,374
|<ref name="toukei2006" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|[[2007年]](平成19年)
|
|9,169
|<ref name="toukei2007" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|[[2008年]](平成20年)
|
|7,923
|<ref name="toukei2008" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|[[2009年]](平成21年)
|
|8,402
|<ref name="toukei2009" group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
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|[[2010年]](平成22年)
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|2019年(令和元年)
|<ref group="かもめ" name="ka2019">{{Cite web|和書|url= https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-06.html |title=お台場海浜公園|駅・時刻表|株式会社ゆりかもめ |archiveurl= https://web.archive.org/web/20220531235044/https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-06.html|archivedate=2022-05-31 |deadlink=2022-05-31 |page= |accessdate=2023-07-05 |publisher=ゆりかもめ |format= |language=日本語}}</ref>16,899
|<ref group="かもめ" name="ka2019" />8,668
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="かもめ" name="ka2020">{{Cite web|和書|url=https://www.yurikamome.co.jp/company/76fc0c8a36d0e78b7f84f44d5a0e1d08.pdf|title=令和2年度 移動等円滑化取組報告書|accessdate=2021-08-19|format=PDF|publisher=ゆりかもめ}}</ref>7,703
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|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="かもめ" name="ka2021">{{Cite web|和書|url= https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-06.html |title=お台場海浜公園|駅・時刻表|株式会社ゆりかもめ |archiveurl= https://web.archive.org/web/20230316031842/https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-06.html |archivedate=2023-03-16 |deadlink=2023-07-02 |page= |accessdate=2023-07-02 |publisher=ゆりかもめ |format= |language=日本語}}</ref>8,535
|<ref group="かもめ" name="ka2021" />4,309
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="かもめ" name="ka2022">{{Cite web|和書|url= https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-06.html |title=お台場海浜公園|駅・時刻表|株式会社ゆりかもめ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230705095303/https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-06.html |archivedate=2023-07-05 |page= |accessdate=2023-07-05 |publisher=ゆりかもめ |format= |language=日本語 }}</ref>11,171
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|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
駅北側は、駅名になっている[[お台場海浜公園]]や[[デックス東京ビーチ]]などの観光スポットやマンションなどがある。一方で南側は[[台場フロンティアビル]]や[[トレードピアお台場]]などの高層オフィスビルが立ち並び、利用者は地元住民・観光客・ビジネス利用と幅広い。
駅に隣接する、[[東京湾岸道路]]を跨ぐ歩行者専用橋「[[テレポートブリッジ]]」を経由することで、[[東京臨海高速鉄道]][[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]][[東京テレポート駅]]まで徒歩5分程度で移動できる。正式な乗り換え駅ではないが、駅周辺では東京テレポート駅への誘導表示が複数みられる。さらに南下すると、[[パレットタウン]]跡地を経てゆりかもめ[[青海駅 (東京都)|青海駅]]方面へ至る。
* [[デックス東京ビーチ]](後述する次駅案内で、下記5施設が読み上げられる)
** [[ジョイポリス|東京ジョイポリス]]
** [[台場一丁目商店街]]
** お台場たこ焼きミュージアム
** [[レゴランド|レゴランド・ディスカバリー・センター東京]]
** [[マダム・タッソー館|マダム・タッソー東京]]
* [[お台場海浜公園]]
* [[港区立港陽中学校|港区立港陽小学校・中学校]]・にじのはし[[幼稚園]]
* [[有明スポーツセンター]]
* [[乃村工藝社]][[乃村工藝社本社ビル|本社ビル]]
* 台場ガーデンシティビル
* [[サントリー]]ワールドヘッドクォーターズ
* [[台場フロンティアビル]]
**[[ユーシーカード]]本社
* [[トレードピアお台場]]
* [[東京臨海高速鉄道]]([[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]) [[東京テレポート駅]]
* [[シンボルプロムナード公園]]
== バス路線 ==
最寄りの停留所は、[[東京都道482号台場青海線]]にある'''お台場海浜公園駅前'''となる。以下の路線が乗り入れており、[[kmモビリティサービス]]、[[都営バス|東京都交通局]]により運行されている。
=== 路線バス ===
* [[kmモビリティサービス#お台場レインボーバス|お台場レインボーバス]]:田町駅東口・品川駅港南口行/お台場循環
* [[都営バス有明営業所#海01(KM01)系統|海01(KM01)系統]]:[[門前仲町]]行/[[東京テレポート駅]]行
* [[都営バス深川営業所#陽12系統|陽12-3系統]]:[[東陽町駅]]行/東京テレポート駅行 ※土曜・休日のみ運行
=== 水上バス ===
お台場海浜公園内に'''お台場海浜公園'''乗船場があり、[[東京都観光汽船]]、[[東京水辺ライン]]の[[水上バス]]が発着する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.suijobus.co.jp/cruise/odaiba/|title=乗り場案内-お台場海浜公園|publisher=東京都観光汽船|accessdate=2019-2-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-park.or.jp/waterbus/course/port/odaiba.html|title=お台場海浜公園発着場|publisher=東京都公園協会|accessdate=2019-2-17}}</ref>。
== その他 ==
* 有明・豊洲方面は、当駅の次駅案内放送は芝浦ふ頭駅出発後とレインボーブリッジ通過後の2回行われる。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]や[[アクアシティお台場]]に向かう場合は次の[[台場駅]]が至近のため、レインボーブリッジ通過後にその旨も案内される。
== 隣の駅 ==
;ゆりかもめ
: [[File:Yurikamome line symbol.svg|15px|U]] 東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)
:: [[芝浦ふ頭駅]] (U 05) - '''お台場海浜公園駅 (U 06)''' - [[台場駅]] (U 07)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==== 利用状況 ====
;ゆりかもめの1日平均利用客数
{{Reflist|group="かもめ"|22em}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|16em}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Odaiba-kaihinkōen Station}}
* [https://www.yurikamome.co.jp/station-timetable/u-06.html ゆりかもめ お台場海浜公園駅]
{{ゆりかもめ}}
{{関東の駅百選}}
{{Odaiba area sights}}
{{DEFAULTSORT:おたいはかいひんこうえん}}
[[Category:東京都港区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 お|たいはかいひんこうえん]]
[[Category:ゆりかもめの鉄道駅]]
[[Category:1995年開業の鉄道駅]]
[[Category:お台場|おたいはかいひんこうえんえき]]
|
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テスター
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テスター
英語一般で、
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テスター
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'''テスター'''
== tester ==
英語一般で、
* 新製品を試す人。
* 店頭に置いてある試供品のこと。特に[[化粧品]]が呼ばれる。
* 試験装置のこと。
** [[回路計]](マルチメーター)の事をテスターと呼ぶ場合がある。
* 小さな棒のこと。パンが焼けたかなどを突き刺して確認する。
* 試験を行う人のこと。
** [[ソフトウェアテスター]] - コンピュータソフトウェアなどの動作の検証をする人
* [[天蓋]]のこと。
== testor ==
* Testor社 - [[アメリカ合衆国]]の[[プラモデル]]およびプラモデル用塗料/工具のメーカー。
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17,340 |
原子力事故
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原子力事故(げんしりょくじこ、英: Nuclear and radiation accidents)とは、原子力関連施設での放射性物質や放射線に関係する事故のこと。放射性物質や強力な放射線が施設外へ漏れ出すと、人々の健康・生活や経済活動に大きな被害をもたらす。原子力関連施設内での事故であっても、放射性物質や放射線の漏出にまったく無関係な事故は原子力事故とは呼ばない。
原子力発電所などで事故が発生した場合には、国際原子力事象評価尺度(INES)による影響度の指標が「レベル0」から「レベル7」までの8段階の数値で公表される。本項目ではINESレベル4未満の事象も含めて記述する。1970年代以降、レベル4以上の事故は7年以内の間隔で起こっている。
日本の原子力関連施設では、放射性物質が環境中へ放出されて公衆の健康を害する恐れが生じた場合やそれ以上を「事故」と呼び、そのような状況に至らない施設内での不測の事態は「異常事象」と呼んで区別している。
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、東京電力福島第一原子力発電所で電源喪失。溶融が発生、水素爆発により原子炉建屋が大破した。初の原子力緊急事態宣言が発出され、周辺半径20kmの住民には避難指示が出された。
経済産業省原子力安全・保安院は12日、国際原子力事故評価尺度 (INES) の暫定値で、「局所的な影響を伴う事故」とするレベル4に当たることを明らかにした。東海村JCO核燃料加工施設臨界事故と同レベル。経済産業省原子力安全・保安院は1 - 3号機の事故の深刻さを示す国際評価尺度 (INES) を、8段階のうち3番目に深刻な「レベル5」にすると発表した。その後、同年4月12日、経済産業省原子力安全・保安院は国際評価尺度 (INES) の暫定評価を「レベル7」にすると発表した。
原子力潜水艦などの事故(原潜事故)について、概説する。
級の名前はNATOが命名。本当の名前は当時最高機密事項だったので、旧ソ連海軍であってもNATO名で記載する。深さは沈没した潜水艦のいる場所の深さである。
核実験や軍需工場の事故の影響で広範囲に放射能汚染が発生した事例を記述する。
※事故が物語上の1エピソードとして扱われる作品も含まれている。
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"text": "経済産業省原子力安全・保安院は12日、国際原子力事故評価尺度 (INES) の暫定値で、「局所的な影響を伴う事故」とするレベル4に当たることを明らかにした。東海村JCO核燃料加工施設臨界事故と同レベル。経済産業省原子力安全・保安院は1 - 3号機の事故の深刻さを示す国際評価尺度 (INES) を、8段階のうち3番目に深刻な「レベル5」にすると発表した。その後、同年4月12日、経済産業省原子力安全・保安院は国際評価尺度 (INES) の暫定評価を「レベル7」にすると発表した。",
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"text": "級の名前はNATOが命名。本当の名前は当時最高機密事項だったので、旧ソ連海軍であってもNATO名で記載する。深さは沈没した潜水艦のいる場所の深さである。",
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"text": "核実験や軍需工場の事故の影響で広範囲に放射能汚染が発生した事例を記述する。",
"title": "主な軍事原子力事故"
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"text": "※事故が物語上の1エピソードとして扱われる作品も含まれている。",
"title": "原子力事故を主題としたフィクション作品"
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] |
原子力事故とは、原子力関連施設での放射性物質や放射線に関係する事故のこと。放射性物質や強力な放射線が施設外へ漏れ出すと、人々の健康・生活や経済活動に大きな被害をもたらす。原子力関連施設内での事故であっても、放射性物質や放射線の漏出にまったく無関係な事故は原子力事故とは呼ばない。 原子力発電所などで事故が発生した場合には、国際原子力事象評価尺度(INES)による影響度の指標が「レベル0」から「レベル7」までの8段階の数値で公表される。本項目ではINESレベル4未満の事象も含めて記述する。1970年代以降、レベル4以上の事故は7年以内の間隔で起こっている。
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{{複数の問題
|出典の明記=2011年3月12日 (土) 13:06 (UTC)
|独自研究=2016年7月20日 (水) 12:47 (UTC)
|正確性=2016年7月20日 (水) 12:47 (UTC)
}}
[[ファイル:INES ja.svg|thumb|400px|right|[[国際原子力事象評価尺度]](INES)]]
'''原子力事故'''(げんしりょくじこ、{{lang-en-short|Nuclear and radiation accidents}})とは、[[原子力]]関連施設での[[放射性物質]]や[[放射線]]に関係する[[事故]]のこと。放射性物質や強力な放射線が施設外へ漏れ出すと、人々の健康・生活や経済活動に大きな被害をもたらす。原子力関連施設内での事故であっても、放射性物質や放射線の漏出にまったく無関係な事故は原子力事故とは呼ばない。
[[原子力発電所]]などで事故が発生した場合には、[[国際原子力事象評価尺度]](INES)による影響度の指標が「レベル0」から「レベル7」までの8段階の数値で公表される<ref>{{Cite web|和書|url=https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_11-01-04-01.html |title=原子力安全規制 原子炉の故障・トラブル等の評価尺度 |work=原子力百科事典 ATOMICA |publisher=一般財団法人[[高度情報科学技術研究機構]] |accessdate=2011-03-28 }}</ref>。本項目ではINESレベル4未満の事象も含めて記述する。1970年代以降、レベル4以上の事故は7年以内の間隔で起こっている。
== 事故と異常事象 ==
日本の原子力関連施設では、放射性物質が環境中へ放出されて公衆の健康を害する恐れが生じた場合やそれ以上を「事故」と呼び、そのような状況に至らない施設内での不測の事態は「異常事象」と呼んで区別している<ref>[[#村主進 1997|村主進 1997]] {{要ページ番号|date=2013年2月}}</ref>。
== 主な原子力事故 ==
{{main|原子力事故の一覧}}
=== 日本 ===
==== INESレベル7の事故 ====
===== 福島第一原子力発電所炉心溶融・水素爆発事故 =====
{{Main|福島第一原子力発電所事故}}
[[2011年]]3月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]により、[[東京電力ホールディングス|東京電力]][[福島第一原子力発電所]]で電源喪失。[[炉心溶融|溶融]]が発生、[[水素爆発]]により原子炉建屋が大破した。初の[[原子力緊急事態宣言]]が発出され、周辺半径20kmの住民には[[避難指示]]が出された<ref name="2011年福島原子力発電所事故">{{Cite news
|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011031200517
|title=福島第1原発の建屋が爆発=4人負傷、原子炉容器は無事-避難範囲、半径20キロに
|work=時事ドットコム
|newspaper=[[時事通信]]
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}}{{リンク切れ|date=2013年2月}}</ref>。
[[経済産業省]][[原子力安全・保安院]]は12日、国際原子力事故評価尺度 ([[INES]]) の暫定値で、「局所的な影響を伴う事故」とするレベル4に当たることを明らかにした。[[東海村JCO臨界事故|東海村JCO核燃料加工施設臨界事故]]と同レベル<ref>{{Cite news
|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011031300014
|title=福島原発事故、JCOレベル=国際評価の暫定値-保安院
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}}{{リンク切れ|date=2013年2月}}</ref>。経済産業省原子力安全・保安院は1 - 3号機の事故の深刻さを示す国際評価尺度 ([[国際原子力事象評価尺度|INES]]) を、8段階のうち3番目に深刻な「レベル5」にすると発表した<ref>{{Cite news
|url=http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819595E3EAE2E28A8DE3EAE2E1E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2
|title=福島原発事故、国際評価尺度(INES) - 保安院
|newspaper=[[日本経済新聞]]
|date=2011-03-18
|accessdate=2011-03-18
}}</ref>。その後、同年[[4月12日]]、経済産業省原子力安全・保安院は国際評価尺度 ([[国際原子力事象評価尺度|INES]]) の暫定評価を「レベル7」にすると発表した<ref>{{Cite news
|url=http://www.cnn.co.jp/world/30002422.html
|title=福島第一原子力発電所の事故「レベル7」に 原子力安全・保安院
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}}{{リンク切れ|date=2013年2月}}</ref>。
==== INESレベル4の事故 ====
; [[1999年]]9月30日 [[東海村JCO臨界事故|東海村JCO核燃料加工施設臨界事故]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nuketext.org/jco.html |title=よくわかる原子力 東海村JCO 臨界事故|publisher=原子力教育を考える会|date=2008-10-28|accessdate=2011-03-25}}</ref>
: 日本で3番目の[[臨界事故]]で、作業員2名が死亡。
==== INESレベル3以下の事故 ====
; [[1978年]]11月2日 東京電力福島第一原子力発電所3号機事故
: 日本で最初の臨界事故とされる。
: 戻り弁の操作ミスで制御棒5本が抜け、午前3時から、出勤してきた副長が気付きゆっくり修正し終わる10時半までの7時間半、臨界が続いたとされる。
: 沸騰水型の原子炉で、弁操作の誤りで炉内圧力が高まり、制御棒が抜けるという本質的な弱点の事故。この情報は発電所内でも共有されず、同発電所でもその後繰り返され、他の原発でも(合計少なくとも6件)繰り返される。1999年志賀原発事故も防げたかも知れず、本質的な弱点なので、世界中の原子炉で起こっている可能性がある。
: 特に重要なのが、1991年5月31日の中部電力浜岡3号機の制御棒が同様に3本抜けた事故である。中部電力は1992年にマニュアルを改訂した。「国への報告はしなかったが、他電力へ報告した。」と主張した。
: 事故発生から29年後の2007年3月22日に発覚、公表された。東京電力は「当時は報告義務がなかった」と主張している。
; [[1989年]][[1月1日]] 東京電力[[福島第二原子力発電所]]3号機事故
: 原子炉再循環ポンプ内部が壊れ、炉心に多量の金属粉が流出した事故。[[国際原子力事象評価尺度|レベル]]2。
; [[1990年]]9月9日 東京電力福島第一原子力発電所3号機事故
: 主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。レベル2。
; [[1991年]]2月9日 [[関西電力]][[美浜発電所]]2号機事故<ref>{{Cite web|和書|author=橘内良雄、小林英男 |url=http://www.sozogaku.com/fkd/hf/HB0061010.pdf |work=失敗知識データベース-失敗百選 |title=原子力発電所蒸気発生器伝熱細管破断 1991年2月9日、福井県 美浜町 |publisher=畑村創造工学研究所 |format=PDF |accessdate=2011-09-10 }}</ref>
: 蒸気発生器の伝熱細管の1本が破断し、55トンの一次冷却水が漏洩し、[[非常用炉心冷却装置]] (ECCS) が作動した。レベル2。放出量0.6キュリー。
; [[1991年]]4月4日 [[中部電力]][[浜岡原子力発電所]]3号機事故
: 誤信号により原子炉給水量が減少し、原子炉が自動停止した。レベル2。
; [[1997年]]3月11日 [[動力炉・核燃料開発事業団]]東海再処理施設アスファルト固化施設火災爆発事故
: 低レベル放射性物質をアスファルト固化する施設で火災発生、爆発。レベル3。
; [[1999年]]6月18日 [[北陸電力]][[志賀原子力発電所]]1号機事故
: 定期点検中に沸騰水型原子炉 (BWR) の弁操作の誤りで炉内の圧力が上昇し3本の制御棒が抜け、想定外で無制御臨界になり、スクラム信号が出たが、制御棒を挿入できず、手動で弁を操作するまで臨界が15分間続いた。点検前にスクラム用の窒素を全ての弁で抜いてあったというミスと、マニュアルで弁操作が開閉逆だったと言うのが、臨界になる主な原因であった。レベル1 - 3。
; [[2011年]]3月11日 東京電力福島第二原子力発電所事故
: [[東日本大震災]]による地震・津波で原子炉の冷却機能が一時不全状態に陥った事故。
: [[原子力安全・保安院]]は2011年3月18日に[[国際原子力事象評価尺度|INES]]レベル3であるとの暫定評価を下した。
; [[2013年]][[5月23日]] [[J-PARC放射性同位体漏洩事故]]
: [[J-PARC]]ハドロン実験施設にて、装置の誤作動により管理区域内に漏洩した[[放射性同位体]]が、排気ファンを回すという人為的な行動によって管理区域外に漏洩した事故。
: [[原子力規制委員会 (日本)|原子力規制委員会]]は、2013年5月27日に本件をINESレベル1に相当する事象と暫定的に評価した。
; [[2021年]][[5月29日]] [[日本製鉄瀬戸内製鉄所]]X線被曝事故
: [[日本製鉄]]の工場で鉄板に施したメッキの厚みを測定するために使用されていた[[X線]]照射装置の点検・校正作業中、異常値が出たため作業員が測定室に入り装置を確認したが、このとき装置の電源が入ったまま、かつ作業員がX線照射窓の覆いを閉めたつもりでいたものの閉まっておらず、被曝した事故。作業員2人が腕や顔に紅斑が現れるなどし一時入院した。レベル3<ref>{{Cite web |url=https://www-news.iaea.org/ErfView.aspx?mid=fb4ba5bc-9926-4b7b-af1f-91bd61a85d7f |title=Worker exposure to X-ray generator|access-date=2022.12.12 |publisher=IAEA}}</ref>。
==== その他の事故 ====
; [[1973年]]3月 [[関西電力]][[美浜発電所]]燃料棒破損
: 美浜一号炉において核燃料棒が折損する事故が発生したが、関西電力はこの事故を公表せず秘匿していた。この事故が明らかになったのは内部告発によるものである。
; [[1974年]]9月1日 [[原子力船]]「[[むつ (原子力船)|むつ]]」の[[放射線]]漏れ事故
: 試験航行中の原子力船「むつ」の原子炉上部遮蔽リングで、主として高速[[中性子]]が漏れ出る「放射線漏れ」が発生した。
; [[1995年]]12月8日 [[動力炉・核燃料開発事業団]]高速増殖炉[[もんじゅ]]ナトリウム漏洩事故
: 2次主冷却系の温度計の鞘が折れ、[[ナトリウム]]が漏洩し燃焼した。レベル1。この事故により、もんじゅは15年近く経った2010年4月まで停止を余儀なくされた。
; [[1998年]]2月22日 東京電力福島第一原子力発電所
: 第4号機の定期検査中、137本の制御棒のうちの34本が50分間、全体の25分の1(1ノッチ約15cm)抜けた。
; [[2004年]]8月9日 関西電力[[美浜発電所]]3号機2次系配管破損事故
: 2次冷却系の[[タービン発電機]]付近の配管破損により高温高圧の水蒸気が多量に噴出。逃げ遅れた作業員5名が熱傷で死亡。レベル0+。
; [[2007年]]7月16日 [[新潟県中越沖地震]]に伴う東京電力[[柏崎刈羽原子力発電所]]での一連の事故
: 同日発生した新潟県中越沖地震により、外部電源用の油冷式変圧器が火災を起こし、微量の放射性物質の漏洩が検出された。この地震により発生した火災は柏崎刈羽原子力発電所1箇所のみであるとされる。
: 震災後の[[高波]]によって敷地内が冠水、このため使用済み核燃料棒プールの冷却水が一部流失している。
: 全ての被害の詳細は2007年10月現在もなお調査中である。この事故により柏崎刈羽原子力発電所は全面停止を余儀なくされた。
: 2007年11月13日、経済産業省原子力安全・保安院はこの事故をレベル0-と評価した。
; [[2010年]]6月17日 東京電力福島第一原子力発電所2号機原子炉自動停止
: 制御盤内作業中に瞬間的に補助リレーが動作したことにより常用系電源が停止、冷却ファンが停止して原子炉が自動停止([[原子炉スクラム|トリップ]])した。その後、非常用[[ディーゼル]]発電機2台が自動起動した。電源停止により一時水位が低下したが、蒸気を駆動源とする原子炉隔離時冷却系{{Efn|[[非常用炉心冷却装置]]とは異なる。}}を手動で起動し、水位を戻した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tepco.co.jp/cc/press/10070602-j.html |date=2010-07-06 |publisher=東京電力 |title=福島第一原子力発電所2号機における原子炉自動停止に関する調査結果について |work=プレスリリース |accessdate=2011-05-03 }}</ref>。
=== カナダ ===
; [[1952年]]12月12日 NRX事故
: 1947年にオンタリオ州(オタワの北西150km)の[[チョーク・リバー研究所]]に建設された出力4.2万KWの実験用原子炉{{仮リンク|NRX (原子炉)|en|NRX|label=NRX}}の事故である。操作ミスで制御棒が引き抜かれ、1万キュリーまたは370テラベクレルの放射能を有する放射性物質が外部に漏れた{{R|Chalk River}}。その後1993年まで稼働していた<ref name="Chalk River">{{Cite web |author=Cleveland, Cutler J. |url=http://www.eoearth.org/view/article/51cbed357896bb431f6908ee/ <!--~~~~~の版でurlを修正-->|title=Chalk River, Canada |publisher=The Encyclopedia of Earth |date=2007-08-03 |accessdate=2010-01-01 }}</ref>。
; 1958年5月24日 NRU事故
: 1957年にチョーク・リバー研究所内に建設されたばかりの出力135万KWの研究用原子炉{{仮リンク|NRU (原子炉)|en|National Research Universal reactor|label=NRU}}の事故<ref>[https://news.google.com/newspapers?id=8lIvAAAAIBAJ&sjid=JasFAAAAIBAJ&pg=751%2C4882357 "Ottawa (AP) An atomic test reactor..." The Owosso Argus-Press newspaper. May 27, 1958.]</ref><ref>[http://www.nuclearfaq.ca/cnf_sectionD.htm#nru1958 The Canadian Nuclear FAQ - Section D: Safety and Liability<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>[http://www.cbc.ca/player/play/1734799373/ An accident at NRU - Candu: The Canadian Nuclear Reactor - Science and Technology - CBC Archives<!-- Bot generated title -->]</ref>。燃料棒を引き抜いた際に燃料棒が過熱して出火し、その後燃料棒は2つに引き裂かれるように破壊された。火災は消し止められたが原子炉建屋内と研究所内の広範囲が汚染され、修復と除染に3ヶ月を費やした後に再稼働した<ref>Myers, D.K., Morrison, D.P. and Werner, M.M., "Follow-up of AECL employees involved in the decontamination of NRU in 1958", AECL Report, AECL-7901, 1982 September 1.</ref>。除染作業に従事したカナダ軍人1名が、後に珍しい種類の皮膚癌を発症し、カナダ政府から障害者年金を受給された<ref>[https://news.google.com/newspapers?id=MSAyAAAAIBAJ&sjid=t6UFAAAAIBAJ&pg=1073%2C2139723 "Battle For Pension Ending" by Peggy Curran, the Montreal Gazette , April 16 , 1985]</ref><ref>[https://news.google.com/newspapers?id=KYY0AAAAIBAJ&sjid=Y6gFAAAAIBAJ&pg=4139%2C4638446 "Nuclear Mishap Seen First Hand" by Michael Farber, the Montreal Gazette , April 29 , 1986]</ref>。
=== 旧ソビエト連邦・ロシア ===
; [[1957年]]9月29日 [[ウラル核惨事]]
: 旧[[ソビエト連邦]][[ウラル地方]]に建設された「[[オジョルスク|チェリャビンスク65]]」という暗号名を持つ秘密都市の、「[[マヤーク核技術施設|マヤーク]]」(灯台の意味)という兵器([[原子爆弾]])用[[プルトニウム]]を生産するための[[原子炉]]5基および[[再処理工場|再処理施設]]を持つプラントで起こった事故。プルトニウムを含む200万[[キュリー]]の放射性物質が飛散した。放射性物質の大量貯蔵に伴う事故の危険性を知らせた事故である。当初この事故は極秘とされていたが、[[西側諸国|西側]]に[[亡命]]した[[科学者]]である[[ジョレス・メドヴェージェフ|ジョレス・A・メドベージェフ]]が1976年に英科学誌「ニュー・サイエンティスト」に論文を掲載したことで知られるようになった。[[国際原子力事象評価尺度]]でレベル6の大事故であり、現在も放射能汚染は続いている。
; 1958年4月16日 {{仮リンク|1958年マイリ・スウ鉱滓ダム崩落|en|1958 Mailuu-Suu tailings dam failure|label=マイリ・スウ鉱滓ダム崩壊事故}}
: ソビエト連邦下の[[キルギス・ソビエト社会主義共和国|キルギス共和国]]、[[ジャララバード州]]のウラン鉱山を有する[[閉鎖都市]]{{仮リンク|マイリ・スウ|en|Mailuu-Suu}}(西側名称:メールボックス200)にて、それまでも地滑りや地震が多発していた[[テクトニクス]]上不安定な丘の中腹に設置された、ウラン鉱滓を杜撰に野積みしていた[[鉱滓ダム]]が崩落、隣接する{{仮リンク|マイリ・スウ川|ru|Майлуу-Суу_(река)}}に大量の鉱滓が流入し、[[キルギス]]のみならず、下流の[[カラダリヤ川]]を通して隣接する[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国|ウズベク共和国]]([[ウズベキスタン]])の[[フェルガナ盆地]]一帯に放射能汚染が拡散した。ウラン鉱山は1968年に閉山したが、ソ連政府による鉱滓の封じ込めの措置は一切行われず、その後も大小の鉱滓崩壊事故が複数回発生して汚染が拡散し続けている。ソ連崩壊後に[[国際連合]]や[[世界銀行]]の出資による実態調査が進み、[[ブラックスミス研究所]]に因ればマイリ・スウ一帯は世界で最も放射性物質で汚染された10の区域の一つとされている。
; 1965年・1967年 [[原子力砕氷船]]「[[レーニン (原子力砕氷艦)|レーニン]]」冷却水漏れ事故
: 1959年に就役した世界初の原子力砕氷船「レーニン」が搭載していた[[OK-150]]原子炉は、一次冷却水が漏れた際の緊急冷却システムなどが無く、一次冷却水システムが故障した際はすぐにメルトダウンする恐れがあった<ref>赤井謙一『世界の砕氷船』交通ブックス218 [[成山堂書店]] 2010年 ISBN 978-4-425-77171-4 P.93-94</ref>。1965年2月、原子炉の[[燃料棒]]交換中に冷却水が失われる事故が発生し、燃料棒の約60%が溶融し原子炉内に固着した。この事故はメルトダウン寸前の深刻な事故で、乗組員が最大で30名死亡した<ref>{{仮リンク|ノーマン・ポルマー|en|Norman Polmar}}:編著、町屋俊夫:訳『ソ連海軍事典』 [[原書房]] 1988年 ISBN 4-562-01975-1 P.484</ref>。「レーニン」のOK-150原子炉は1967年にも冷却水漏れを起こしたため、6回目の航海を終えた1970年代初めに撤去され、[[ノヴァヤゼムリャ]]に投棄された。
; 1980年 {{仮リンク|クラマトルスク放射線事故|en|Kramatorsk radiological accident}}
: [[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ共和国]]の[[クラマトルスク]]に新築された[[フルシチョフカ]]様式のアパートメントに入居した人々のうち、2組の家族から次々に[[白血病]]による死者が出た。4名の死者のうち3名までが子供であったが、医師は当初白血病が発生した原因を特定できず、「遺伝的要因によるものではないか?」と推定したが、この説明に納得しない片方の家族の父親が、1989年に当局に対して「建物が何かおかしい」と訴え出た事から事態が発覚した。原因はアパートメントの壁のコンクリートの中に骨材として紛れ込んでいた[[セシウム137]]の放射線源であった。この放射線源は1970年代に[[ドネツィク州]]の採石場で工業用放射線源として使用されていたもので、70年代後半に採石場から紛失し、捜索を行っても行方知れずのままとして報告されていたものであった。この放射線源が意図せず埋め込まれた壁が2家族の子供部屋のベッドの真横に位置していた事が、10代の子供たち3名が犠牲となる悲劇を生んでしまった。[[ウクライナ]]当局は直ちに壁の一部を切り取り、カプセルは{{仮リンク|キエフ原子力研究所|en|Institute for Nuclear Research (NASU)}}で回収され廃却された。悲劇の舞台となったアパートメントは、カプセルの除去後は放射線量が自然界と同一となり、周囲は平穏を取り戻した。一連の事態での死者の数は資料によって幅があり、事件発覚直後の報告では子供3名、大人1名の4人であるが、この時点で重病となっていた子供1名、大人1名も後年死亡した為、合計人数を6名とする場合もある。
; 1982年2月 {{仮リンク|アンドレエフ湾原子力事故|en|Andreev Bay nuclear accident}}
: [[ムルマンスク]]の[[ソビエト連邦海軍]]の使用済核燃料貯蔵プールにて、厳冬期の貯留水の凍結融解に起因する第5プールの亀裂から汚染された貯留水の漏出が始まった。第5プール付近のガンマ線が急激に上昇した事から事態の発生がソ連海軍に把握されたが、ソ連海軍は当初はプールの破損はピンホール程度で、検出される線量から漏出も日量30リットル程度と判断し、[[小麦粉]]をプールに投入するなどの手段でしか対処が行われなかった。その後ガンマ線量が急激に増加していった事でソ連海軍は現場に[[リクビダートル]]を投入する事を決定。4月にはプールの建屋の地下部分600平方メートルをコンクリートで埋め固めたり、貯留水を凍結させる方法なども試されたが、ほとんど効果が無かった。9月には漏出は日量30トンまで増加し、使用済核燃料が空気中に露出する危機が迫ったが、リクビダートルたちはプールの金属ケースの周囲を鉄・鉛・コンクリートの混合物で覆い尽くす手法で1983年2月14日に漏出を完全に停止させた。アンドレエフ湾への汚染水の総漏出量は77万トンに達した。その後プール内の1500本の使用済核燃料容器は1989年12月13日までに全量がマヤークに搬出された。公式には一連の事態における死者や負傷者は記録されていないが、リクビダートル達の回想では使用済核燃料容器の搬出作業中に1名がプールに転落し、救出の為にもう1名がプールに飛び込んで大きな[[ベータ線]]被曝を受けた事や、容器の搬出作業中腐食や損傷などで容器内の高レベル放射性廃液がしばしば外部に漏出し、その度に[[チェレンコフ放射]]とみられる不気味な発光現象が複数のリクビダートル達に目撃されていたが、ソ連政府に対するソ連海軍の公式報告ではこれらの事象の一切が隠蔽され、箝口令が敷かれた事などが証言されている。この事故で投入されたリクビダートルはムルマンスク軍港の港湾労働者を中心とした約1000名であったが、いずれも「放射能が極めて恐ろしいものである」事を日頃からある程度以上理解していた者たちばかりであった為、人的な二次被害は最小限に食い止められた。
; [[1986年]][[4月26日]] [[チェルノブイリ原子力発電所事故]]
: ソビエト連邦下の[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ共和国]][[チェルノブイリ原子力発電所|チェルノブイリ原発]]4号機が爆発・炎上し、多量の放射性物質が大気中に放出されたレベル7の大事故。原因は諸説あるが、発電実験中、出力が急上昇して起こったとされている。放射性物質は気流に乗って世界規模で[[被曝]]をもたらした。直接の死亡者は作業員・救助隊員の数十名だけである。しかし、[[2005年]]に発表された[[世界保健機関]] (WHO) 等の複数組織による国際共同調査結果では、この事故による直接的な死者は最終的に9,000人と評価された。2000年4月26日に行われた14周年追悼式典では事故処理に従事した作業員85万人のうち、5万5,000人が死亡したと発表されている。この事故を契機に国際的な原子力情報交換の重要性が認識され、{{仮リンク|世界原子力発電事業者協会|en|World Association of Nuclear Operators}} (WANO) が結成された。
; [[1993年]]4月6日 {{仮リンク|シベリア化学プラント事故|ru|Авария на Сибирском химическом комбинате|label=トムスク-7での事故}}
: [[ロシア連邦]][[トムスク州]]の都市[[セヴェルスク]]に旧ソ連時代からある[[セヴェルスク#シベリア化学コンビナート|トムスク-7]][[再処理工場|再処理]][[コンビナート]]において、[[硝酸]]での清掃時にタンクが爆発する事故。爆発によって放射性ガスの雲が放出された。国際原子力事象評価尺度レベル4の事故<ref name = bbc2006>{{Cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/5165736.stm |title=Timeline: Nuclear plant accidents |newspaper=BBC News |date=2006-07-11 |accessdate=2010-07-25<!--[[:en:Nuclear and radiation accidents and incidents]] 03:33, 25 July 2010 (UTC)--> }}</ref>。
; 2017年9月、{{仮リンク|2017年秋の欧州空中放射線量増加|en|Airborne radioactivity increase in Europe in autumn 2017}}
: 2017年9月から11月に掛けて、スイスやフランスなど複数の欧州諸国の原子力機関が、微量ではあるが発生元不明の[[ルテニウムの同位体|ルテニウム106]]の空中放射線量の増加を検出した。ルテニウム106の有意な増加は原子力事故などの発生を示唆するもので、欧州諸国の各原子力機関はロシアのマヤーク核技術施設が発生源ではないかとしてロシア政府に照会を行ったが、ロシア政府自体はマヤークとの関連性を否定しており、公式には原因不明のままとなっている。
; 2019年8月8日、{{仮リンク|ネノクサ放射線事故|en|Nyonoksa radiation accident}}
: [[アルハンゲリスク州]][[セヴェロドヴィンスク]]近郊の{{仮リンク|ネノクサ|en|Nyonoksa}}村の実験施設にて、[[9M730]][[巡航ミサイル]]のものとみられる原子力推進エンジンのテスト中に爆発事故が発生し、8月12日までに事故に巻き込まれた[[ロスアトム]]の労働者5人が急性放射線障害で死亡した。翌13日にネノクサ村の村人約450人が一時避難させられたものの、翌日には避難命令は解除された。
=== イギリス ===
; [[1957年]]10月10日 [[ウィンズケール原子炉火災事故]]
: 世界初の原子炉重大事故。[[イギリス]]北西部の軍事用プルトニウムを生産する[[セラフィールド|ウィンズケール]]原子力工場(現[[セラフィールド]])の原子炉2基の炉心で[[グラファイト|黒鉛]]([[炭素]]製)[[減速材]]の過熱により火災が発生、16時間燃え続け、多量の放射性物質を外部に放出した。[[国際原子力事象評価尺度]]レベル5の事故<ref>{{cite news |url=http://www.bbc.co.uk/news/science-environment-12789749 |title=Fukushima - disaster or distraction?|author=Richard Black |date=18 March 2011 |work= |publisher=BBC |accessdate=7 April 2011}}</ref>。避難命令が出なかったため、地元住民は誰も避難しなかった。数十人がその後[[白血病]]で死亡した。現在の所白血病発生率は全国平均の3倍である。当時の[[ハロルド・マクミラン|マクミラン政権]]が極秘にしていたが、30年後に公開された。現在でも危険な状態にある。2万キュリーの[[ヨウ素]][[ヨウ素の同位体|131]]が工場周辺500平方キロメートルを汚染し、ヨードの危険性を知らせたことで有名である。水素爆発のおそれから注水に手間取った。これはスリーマイル島でも繰り返された。
=== アメリカ合衆国 ===
; 1958年12月30日 [[セシル・ケリー臨界事故]]
:[[ニューメキシコ州]][[ロスアラモス]]の[[ロスアラモス国立研究所]]の[[プルトニウム]]回収施設で発生。溶液処理槽で作業員が電動撹拌機を回したところ水が有機相を破って臨界状態に達してしまい、作業員3人が[[被曝]]した。1名が120[[シーベルト]]以上を被曝して死亡した。過酷な労働条件下での作業が原因とされる。
; 1959年7月13日 [[サンタスザーナ野外実験所]]燃料棒溶融事故
:[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス市]]郊外約50kmの[[シミバレー (カリフォルニア州)|シミバレー]]にあった{{仮リンク|ナトリウム原子炉実験施設|en|Sodium Reactor Experiment|label=ナトリウム冷却原子炉}}の燃料棒が溶融した。1500-6500[[キュリー]]の[[ヨウ素131]]と1300キュリーの[[セシウム137]]が環境中に放出されたとされる。1960年に閉鎖されその後解体された。1979年に学生が偶然資料を発見し公表するまで極秘であった。
:1996年に[[プルトニウム239]]と[[コバルト60]]、2011年に[[セシウム]]がそれぞれ規制値の数倍から数百倍検出された。
; 1961年1月3日 SL-1事故
: [[ファイル:US AEC SL-1.JPG|thumb|right|220px|事故後、撤去されるSL-1の原子炉容器]]
:[[SL-1]] (Stationary Low-Power Reactor Number One) は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アイダホフォールズ (アイダホ州)|アイダホフォールズ]]にあった[[アメリカ海軍|海軍]]の軍事用の試験炉である。運転出力は軍事基地のための暖房用の熱エネルギーとして400 [[ワット|kW]]、電気出力として200 kWの合計600 kWであり、設計出力は3 MWであった。この原子炉が暴走する事故を起こして技術者3人が死亡。当時は事故原因が不明とされていたが、[[1971年]]に[[アメリカ原子力委員会]]がまとめた報告書では、死亡したうちの1人が[[自殺]]を図る目的で制御棒を引き抜いたことにより発生した事故と結論づけている<ref>61年米軍の原発暴走事故 実は技術者の自殺 三角関係悩み制御棒を引き抜く『朝日新聞』1979年(昭和54年)3月8日 13版 22面</ref>。制御棒は10センチまでしか引き出してはいけないところを50センチも引き出されていた。この制御棒は引き出すときにハウジングに引っかかることが事件前の映像からもわかっており、運転員が力まかせに引っ張ったものと考えられている。その結果大量の水蒸気が瞬時に発生し炉内が高圧になって炉が破壊された。この暴走により、13トンの原子炉容器が3メートル近く飛び上がった。事故で放出されたエネルギーは約50 MJに相当し、炉内にあった約100万キュリーの核分裂生成物のうち約1パーセントが放出されたと考えられている。なお原子炉は暴走したものの、その後減速材である軽水が失われたため自然に停止したと考えられている。また、冷却材が失われても炉心が溶融しなかったのは、炉の出力が小さかったためとも考えられる。
; 1964年7月24日 [[ウッドリバー臨界事故]]
:アメリカ・[[ロードアイランド州]]の[[ウラン]]回収施設で起きた[[臨界事故]]。作業員1人が450[[シーベルト]]以上の被曝を受けて死亡した。事故処理に当たった工場長らが再臨界で被曝した。
; 1966年10月5日 [[エンリコ・フェルミ炉|エンリコ・フェルミ1号炉]]
: エンリコ・フェルミ炉 ([[:en:Enrico Fermi Nuclear Generating Station|Enrico Fermi Nuclear Generating Station]]) はアメリカの[[デトロイト]]郊外にあった[[高速増殖炉]]試験炉である。1966年10月5日に[[炉心溶融]]を起こし閉鎖された。原子炉の炉心溶融事故が実際に発生した最初の例とされている。後にこの事故について書かれたドキュメンタリーのタイトルには、『我々はデトロイトを失うところであった』と書かれた<ref>John Fuller "We Almost Lost Detroit" ISBN 978-0345252661</ref>。
; 1979年3月28日 [[スリーマイル島原子力発電所事故]]
: アメリカ・[[スリーマイル島原子力発電所]]の炉心溶融事故。レベル5の事故であり、不完全な設備保全、[[人間工学]]を重視していない制御盤配置、そして中央制御室運転員の誤判断等が重なって発生した。当初は外部へ放射性物質が大量に放出されたとの報道もあった。この事故の影響により、アメリカ政府は新規原発建設中止に追い込まれた。アメリカではこの事故を契機にトラブルや運転等の情報を共有する組織として{{仮リンク|アメリカ合衆国原子力発電運転協会|en|Institute of Nuclear Power Operations|label=米国原子力発電運転協会}} (INPO) が結成された<ref>{{Cite web |url=http://www.inpo.info/AboutUs.htm |title=About Us "Our History" |publisher=Institute of Nuclear Power Operations (INPO) |accessdate=2013-02-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_13-01-03-10.html |title=原子力発電運転協会 (INPO) (13-01-03-10) |work=ATOMICA |accessdate=2013-02-15}}</ref>。
; 1979年7月16日 [[チャーチ・ロック鉱滓ダム汚染水流出事故]]
: [[ニューメキシコ州]]{{仮リンク|チャーチ・ロック (ニューメキシコ州)|en|Church Rock, New Mexico|label=チャーチ・ロック}}にてユナイテッド・ニュークリア社(現在のガルフ・ユナイテッド・ニュークリア社)が管理していた{{仮リンク|ウラン鉱山|en|Uranium mining}}の鉱滓ダムが決壊。[[ニューメキシコ州]]の[[ナバホ族]][[インディアン居留地|居留地]]を汚染した。また、流出したウランの鉱滓は、[[コロラド川]]の支流に沿って下流の[[アリゾナ州]]、[[ネバダ州]]へ移動し流域一帯を汚染した。
=== フランス ===
; [[1969年]]10月17日、{{仮リンク|1969年サン=ローラン=デ=ゾー原子力発電所事故|fr|Accident_nucléaire_de_Saint-Laurent-des-Eaux_de_1969|label=サン=ローラン=デ=ゾー原子力発電所燃料溶融事故}}
: [[サン=ローラン=デ=ゾー原子力発電所]]にて、黒鉛減速ガス冷却炉1号機の燃料挿入中にウラン50kgが溶けだした。この事故は[[国際原子力事象評価尺度]]レベル4に分類された。これは2012年までのフランス原子力史上最も大きな事故であった<ref name="Le Point">[http://archives.lesechos.fr/archives/2011/LesEchos/20893-32-ECH.htm A Saint-Laurent, EDF a renoncé à construire une digue contre les inondations]</ref><ref>[http://www.lepoint.fr/societe/le-jour-ou-la-france-a-frole-le-pire-22-03-2011-1316269_23.php Le jour où la France a frôlé le pire]</ref>。
; 1980年3月13日、{{仮リンク|1980年サン=ローラン=デ=ゾー原子力発電所事故|fr|Accident_nucléaire_de_Saint-Laurent-des-Eaux_de_1980|label=サン=ローラン=デ=ゾー原子力発電所炉心溶融事故}}
: サン=ローラン=デ=ゾー原子力発電所にて、黒鉛減速ガス冷却炉2号機でウラン20kgが[[炉心溶融]]を起こす事故が発生した。激しい損傷を受けて原子炉は3年半の間運転できなかった{{R|Le Point}}。この事故は1969年の炉心溶融事故と同様、国際原子力事象評価尺度レベル4に分類された。
; [[1999年]]12月27日、{{仮リンク|1999年ブレイエ原子力発電所の洪水|en|1999 Blayais Nuclear Power Plant flood}}
: [[ジロンド川]]に面する[[ボルドー]]近くの[[ブレイエ原子力発電所]]で、大嵐({{仮リンク|マルタン嵐|fr|Tempête Martin}})のため洪水が発生し、外部電源系が全部停止し、1,2号機の全電源喪失が起こった。1,2号機は蒸気発生器により炉心冷却ができ、またESWSも復旧した。幸い4号機が30日未明に復旧しこの事態は収まった<ref>{{Cite journal |和書 |author=宮坂靖彦 |url=http://www.aesj.or.jp/atomos/tachiyomi/2012-01mokuji.pdf#search='%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%A8' |title=原子力発電所の全交流電源喪失規制はなぜ遅れたか |journal=ATOMOΣ 日本原子力学会誌 |date=2012-01 |volume=54 |issue=1 |page=33 |format=PDF |accessdate=2013-12-15 }}</ref>。国際原子力事象評価尺度レベル2。この教訓は日本国内でも知られていたが、[[JNES]]の2007年の指摘に対し国内原発での安全策は講じられなかった<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.n.t.u-tokyo.ac.jp/nishiwaki/nishiwaki-kennkyuseika/gensiryoku-eye%209-10.pdf|title=我が国のシビアアクシデント対策の変遷 原子力規制はどこで間違ったか |page=6 |format=PDF |accessdate=2015-12-08}}</ref>{{Efn|2001年02月03日にも南カリフォルニアのオノフレ原子力発電所でも電源系統の火災により電源喪失を経験している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CA0000426.html |title=サンオノフレ原子力発電所で火災が発生し、緊急停止 |work=失敗知識データベース |publisher=畑村創造工学研究所 |accessdate=2013-12-15 }}</ref>。}}。
; [[2008年]]7月7日、[[トリカスタン原子力発電所]]事故
: 7日の夜から8日にかけて、フランス・[[アヴィニョン]]北部ボレーヌ市に接する[[トリカスタン原子力発電所]]において、[[ウラン]]溶液貯蔵タンクのメンテナンス中、タンクからウラン溶液約3万[[リットル]]が溢れ出し、職員100人余が被曝し、付近の河川に74 [[キログラム|kg]]のウラニウムが流れ出した。原発は一時閉鎖され、水道水の使用や河川への立ち入りが禁止されるなどした<ref>{{cite news|url=http://www.lemonde.fr/cgi-bin/ACHATS/acheter.cgi?offre=ARCHIVES&type_item=ART_ARCH_30J&objet_id=1043894&clef=ARC-TRK-D_01 |author=[[ル・モンド|Le Monde]]|date=2008-09-07|title=Les autorites nucleaires se veulent rassurantes face au rejet d'uranium sur le site de Tricastin |language =仏語|accessdate=2011-03-25}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.ilyfunet.com/actualites/a-propos/639_apropo.html|author= OVNI |date=2008-09-15|title=放射性廃棄物の将来|accessdate=2011-03-25|deadlinkdate=2015-10-10}}</ref>。
=== スイス ===
;1969年1月21日、{{仮リンク|リュサン炉|en|Lucens reactor}}
:[[スイス]]のボー州リュサン(Lucens)の研究用ガス冷却地下原子炉での冷却材喪失事故で、炉心燃料が一部溶融、放射性物質が洞窟内に漏れた<ref>{{Cite web|和書|url=https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_14-05-09-02.html |title=スイスの原子力発電開発と開発体制 |work=ATOMICA |accessdate=2012-08-11 }}</ref>。
=== ブラジル ===
; [[1987年]]9月、[[ゴイアニア被曝事故]]
: [[ブラジル]]の[[ゴイアニア]]市で発生した放射能汚染事故。閉鎖された病院に放置されていた[[放射線療法]]用の医療機器から放射線源が盗難に遭い、地元のスクラップ業者によって解体された事で内部の[[セシウム137]]が露出。[[放射性物質]]の危険性を認識できず[[蛍光物質]]が暗闇で光るという特性に好奇心を持った人々が自宅に持ち帰るなどした事で、貧民街を中心に汚染が広がった。同年の12月までに250人が被曝し、4人が急性放射線障害で死亡した。翌年の3月までに汚染がひどかった家屋7軒が解体され、周辺の土壌交換などが行われた。
=== メキシコ ===
; 1962年3月、[[1962年メキシコシティ被曝事故]]
: [[メキシコ]]の[[メキシコシティ]]市で発生した放射能汚染事故。当時10歳の少年が放射線療法用の医療機器の[[コバルト60]]放射線源を何処かより入手し、自宅に持ち帰った事で少年を含む家族5人が重度の被曝を受け、同年10月までに少年を含む一家4人が急性放射線障害で死亡した。家族のうち、生存者は少年の父親のみであった。汚染の規模は異なるが、ゴイアニア被曝事故と内容がほとんど同じ原子力事故であり、放射線源の不適切な管理状況がもたらす悲劇の典型例でもある。
=== スペイン ===
; 1990年12月10日-20日、{{仮リンク|1990年サラゴサ放射線治療事故|en|1990 Clinic of Zaragoza radiotherapy accident}}
: [[スペイン]]の[[サラゴサ]]にて、不適切な手順によるメンテナンスを受けた[[放射線治療]]機材が既定値の5倍以上の出力の放射線を発射してしまい、治療を受けた27人の患者のうち、25人が死亡した事件。国際原子力機関の調査により、25人の死者のうち急性放射線障害と認定されたのは11人であった。メンテナンスを請け負っていたゼネラル・エレクトリックは、総額で4億[[ペセタ]](327億2400万[[円 (通貨)|円]])の賠償責任を負うこととなった。
=== コスタリカ ===
; 1996年8月-9月、{{仮リンク|1996年サンホセ放射線治療事故|en|1996 San Juan de Dios radiotherapy accident}}
: [[コスタリカ]]の[[サンホセ (コスタリカ)|サンホセ]]にある[[神のヨハネス|聖ヨハネ・ア・デオ]]病院にて、コバルト60を用いる放射線治療機材が調整のミスにより既定値を上回る放射線を発射してしまい、114人の患者が過度の被曝を受け、うち13人が急性放射線障害で死亡した。
=== パナマ ===
; 2000年8月-2001年3月、{{仮リンク|国立がん研究所 (パナマ)|en|Instituto Oncológico Nacional}}
: [[パナマ]]の[[パナマ市]]にある国立の癌治療施設にて、個々の患者に対する線量分布と照射量を計算する放射線治療計画システムのプログラムミスにより、複数のセクションの医師による入力内容が適切に累積線量表示に反映されない状態となってしまい、結果として通常では許容され得ない累積線量が患者に対して照射される事となった。一連の経過により20人の患者が過度の被曝を受け、うち8人が急性放射線障害で死亡した。
== 主な軍事原子力事故 ==
{{main|{{ill2|軍事原子力事故の一覧|en|List of military nuclear accidents}}}}
[[原子力潜水艦]]などの事故(原潜事故)について、概説する。
=== 原子力潜水艦 ===
==== 旧ソ連・ロシア ====
{{出典の明記 |section=1|date=2011年5月}}
級の名前は[[北大西洋条約機構|NATO]]が命名。本当の名前は当時最高機密事項だったので、旧[[ソビエト海軍|ソ連海軍]]であっても[[NATOコードネームの一覧 (潜水艦)|NATO名]]で記載する。深さは沈没した[[潜水艦]]のいる場所の深さである{{Efn|情報源により異なるので、注意されたい。}}。
* [[1961年]]7月4日 [[K-19 (原子力潜水艦)|K-19]](ソ連海軍初の原潜、[[ホテル級原子力潜水艦]]) [[冷却材|一次冷却系]]の圧力低下によって生じた事故である。8名が死亡した。原因は、修理中の溶接棒の破片が冷却回路内に入っていたため{{Efn|[[2002年]][[ハリソン・フォード]]主演・総指揮で『[[K-19 (映画)|K-19]]』として映画化された。}}。
* [[1985年]][[8月10日]] エコー2型K-431。[[ウラジオストク|ウラジオストック]]近郊[[チャジマ湾]]の船舶修理工場で[[燃料棒]]交換中に、原子炉の誤操作で制御棒が抜かれ、[[炉心]]の核反応が高まり原子炉が爆発した。10名が即死、290名が被曝した。この事故で放出された放射線は1時間あたり9万レントゲンであった<ref name="Быль">{{cite web
|author = Митюнин, Алексей
|authorlink =
|coauthors =
|date = 2005-04-22
|url = http://www.ng.ru/nvo/2005-04-22/9_avaria.html
|title = Черная быль об атомной подлодке К-431. Ошибки ядерной аварии год спустя повторил Чернобыль
|format =
|work =
|publisher = [[ノーヴァヤ・ガゼータ|Новая газета]]
|accessdate = 2010-07-29
|lang =
|description =
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20110425091757/http://www.ng.ru/nvo/2005-04-22/9_avaria.html
|archivedate = 2011-04-25
|deadlink = no
}}</ref>。
* [[1989年]]4月7日、2基の原子力魚雷を搭載した旧ソビエト海軍の原子力潜水艦[[コムソモレツ (原子力潜水艦)|コムソモレツ]](K-278)がノルウエー沖で火災を起こし沈没。ノルウェー当局による2019年7月の沈没状況調査では、艦体ダクトハイプの海水から800Bq/Lが検出されたが、その他ではこうした高濃度の漏洩は確認されていない<ref>{{citenews |url=https://www.bbc.com/japanese/48959841 |title=沈没したロシア原潜から80万倍の放射線 ノルウェー沖 |date=2019-07-12 |accessdate=2020-11-26 |work=BBC NEWS JAPAN}}</ref>。
==== アメリカ合衆国 ====
* [[1963年]]4月10日 米[[パーミット級原子力潜水艦|パーミット級原潜]]「[[スレッシャー (原子力潜水艦)|スレッシャー]]」。ドック入りによるオーバーホール終了後、大西洋ニューイングランド沖で潜航試験中、浸水が発生して原子炉が緊急停止。浮上を試みるも推進力を失った上、バラストタンクの弁が氷で塞がるなどして果たせず、最終的に圧壊沈没、129名が死亡した。原因としては海水配管システムの[[ろう付け]]箇所破損の他、1962年6月の衝突事故と海面下の内部波の関与が疑われる。後の潜水調査で、2,500m地点に沈む残骸から[[コバルト60]]が検出されている。
=== 航空機事故 ===
* [[1966年]]1月17日 米軍の[[B-52 (航空機)|B-52G]][[戦略爆撃機]]が[[スペイン]]南部の沿岸上空で[[空中給油機]]と衝突し、4個の[[水爆]]が地上と海中に落下した。そのうち2個の[[水爆]]の起爆装置が地上で爆発し、プルトニウムとウラニウムが飛散した。1,500トンの土が回収されたが、2008年の調査では、30ヘクタールの5万立方メートルに500gのプルトニウムが深さ5mまで残っている([[パロマレス米軍機墜落事故]]を参照)。
*[[チューレ空軍基地米軍機墜落事故]]
=== その他の事故 ===
[[核実験]]や軍需工場の事故の影響で広範囲に放射能汚染が発生した事例を記述する。
* {{仮リンク|カラチャイ湖の放射能汚染|en|Pollution of Lake Karachay}} - ソビエト連邦にて1945年から1948年に掛けて建設された[[マヤーク核技術施設]]は、中・低レベル放射性廃棄物を含む廃液を、施設内にある福島第一原子力発電所よりも面積が小さい[[カラチャイ湖]]へと放流し続けてきた。{{仮リンク|ワールドウォッチ研究所|en|Worldwatch Institute}}に因ると、カラチャイ湖は世界で最も放射能汚染が酷い場所であるという。
* {{仮リンク|テチャ川|en|Techa River}} - マヤーク核技術施設では高レベル放射性廃棄物を含む廃液はタンクに貯蔵されていたのだが、タンク本体の容量不足により廃液を貯蔵しきれなくなった場合や、化学物質による腐食などの要因でタンクその物に破損の危険性が迫った場合には、緊急措置として隣接するテチャ川へ廃液を放流していた。大規模な放流は1949年-1951年5月に掛けての6500万[[立方メートル]]、1951年6月-9月の6200万立方メートル、1951年10月の2120万立方メートルの3回が記録されている。
* {{仮リンク|ロッキー・フラッツの放射能汚染|en|Radioactive contamination from the Rocky Flats Plant}} - アメリカ合衆国の核施設である[[ロッキーフラッツ]]周辺では、1957年のプルトニウム切削屑の発火による施設火災、放射性廃棄物を含む廃液を[[ドラム缶]]に詰めて大量に野積みしていた「パッド903」におけるドラム缶の腐食破損による廃液の漏出、1969年に再び発生したプルトニウム切削屑に起因する施設火災の3度の事故により、高度の放射能汚染が報告されている。
* [[ハンフォード・サイト]] - アメリカ合衆国の核施設で、1944年から1971年に掛けて原子炉の冷却の為に[[コロンビア川]]から大量の水を取水し、炉心の冷却後に最大で6時間程度[[貯水池]]に保管した後に再び放流していた。また、プルトニウムの分離行程で空気中に微量の放射性物質が日常的に放出されており、特に1945年から1951年に掛けて最も多く放出された。それ以外にも孤発的な事故により度々大きな放射能漏れが起きていたが、最も悪名高いのは1949年12月2から3日に掛けて実行された{{仮リンク|グリーン・ラン|en|Green Run}}と呼ばれる実験によるもので、5500-12000キュリーのヨウ素131が大気中に放出された。
* [[ジョンストン島]] - 1962年に行われたアメリカ合衆国の核実験、{{仮リンク|フィッシュボウル作戦|en|Operation Fishbowl}}にて、合計4回の核ミサイルの発射失敗事故が発生し、墜落した核ミサイルによって島の広範囲が放射能汚染を受けた。
=== 人工衛星落下 ===
* [[コスモス954号]]
* [[コスモス1402号]]
== 原子力事故を主題としたフィクション作品 ==
<!--実際の事故を主題としその事故の記事がある作品は、そちらに記載願います。ここではフィクションあるいは単独記事のない事故を主題とした作品を掲載しています-->
※事故が物語上の1エピソードとして扱われる作品も含まれている。
* プロメテウス・クライシス ({{lang|en|The Prometheus Crisis}}) - {{仮リンク|トーマス・N.スコーシア|en|Thomas N. Scortia}}と{{仮リンク|フランク・M.ロビンソン|en|Frank M. Robinson}}による1975年のアメリカの小説。巨大原子力発電所が事故を起こしロサンゼルスを死の灰が襲う<ref>{{Cite journal |和書 |author=青木賢一 |title=原子力発電所は爆発するか - プロメテウス・クライシスを読んで |journal=同盟 |publisher=全日本労働総同盟 |date=1977-01-01 |issue=222 |pages=pp. 76-81 |ndljp=2271401 }}; {{Cite journal |和書 |author=松岡信夫 |title=深刻な「原子力西部劇」 - T. N. スコーシア, F. M. ロビンソン著 井坂清訳「プロメテウス・クライシス」 |journal=潮 |publisher=潮出版社 |date=1976-12-01 |issue=211 |pages=pp. 327-329 }}; {{Cite journal |和書 |title=プロメテウス・クライシス-1-原発事故で消えたカリフォルニアの町 (Thomas N. Scortia, Frank M. Robinson著 市 雄高訳)〕(原発に高まる疑義〈特集〉) |journal=[[朝日ジャーナル]] |date=1976-05-14 |volume=18 |issue=19 |pages=pp. 26-31 }}; {{Cite news |title=四季 |newspaper=日本農業新聞 |publisher=日本農業新聞社 |date=2015-07-09 |page=総合1面12版 |quote=''制御不能な科学技術を暗喩する〈プロメテウス・クライシス〉。'' }}</ref>。
* [[チャイナ・シンドローム (映画)|チャイナ・シンドローム]] - 1979年公開のアメリカ映画
* [[チェーン・リアクション (1980年の映画)|チェーン・リアクション]] - 1980年公開のオーストラリア映画
* [[ゴルゴ13]] [[ゴルゴ13作品リスト#第201話 - 第300話|第213話]]「2万5千年の荒野」 - 日本のシリーズ漫画の、1984年に発表された当エピソードでは、南カリフォルニアで操業を開始した原子力発電所にメルトダウンの危機が迫る。ゴルゴ13は貯まった水蒸気を逃がすために原子炉内のパイプを狙撃する<ref>{{Cite web|和書|author=藤本匡弘 |url=http://www.imcfujimoto.com/?month=201104 |title=2011年04月の記事 |publisher=いわき経営コンサルタント事務所 |accessdate=2016-07-20 }}</ref>。
* [[みえない雲]] - 1987年発表のドイツのヤングアダルト向け小説。2006年には映画化された
* 一九九九年地球壊滅 - 1988年発表の[[桐山靖雄]]による日本の小説。世界4ヵ国にある5ヵ所の原子力発電所が爆破され、世界中に死の灰が広がる<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/agonpublicinfo/entry-12157845575.html |title=一九九九年地球壊滅 |work=阿含宗公式ブログ |date=2016-05-07 |accessdate=2016-07-20 }}</ref>。
* [[第五惑星アスカ]] - 1989年発表の日本のライトノベル
* [[夢 (映画)|夢]] 『赤冨士』、『鬼哭』- 1990年公開の日本、アメリカ合作映画 [[黒澤明]]監督の夢を基にしたオムニバス映画。『赤富士』では原子力事故で富士山が噴火する様子を、続く『鬼哭』では放射能汚染で人が鬼になって生きる世界を描いている。
* 罵詈雑言(バリゾーゴン)- 1996年発表の[[渡辺文樹]]監督による[[自主映画]]。福島県のある原子力発電所で起こった重大トラブルにからんで自殺、殺人事件が起こる。事件を知った主人公が村人から話を聞いて回る間に、村への大規模な原子力発電所の誘致の動きが進む<ref>{{Movie Walker|mv27963|罵詈雑言}}、2015年1月21日閲覧。</ref>。
<!-- [[K-19 (映画)|K-19]] - [[1961年]]に起こったソ連の原子力潜水艦「K-19」での原子力事故をモデルにした、2002年のアメリカ映画-->
* [[ザ・ホワイトハウス]] [[ザ・ホワイトハウスのエピソード一覧#シーズン7|シーズン7]]第12話「[[:en:Duck and Cover (The West Wing)|Duck and Cover]]」 - アメリカのテレビドラマシリーズの、2006年1月に放送(日本では2009年に放送。和題は『メルトダウンの危機』)された当エピソードにおいて、カリフォルニアの原子力発電所で事故が発生する。
* [[COPPELION]] - 2008年から2016年まで連載されていた日本の漫画
* [[臨界幻想|臨界幻想2011]] - 1981年から82年にかけて『臨界幻想』の題で上演され、『臨界幻想2011』に改作後2012年から再演されている日本の舞台演劇
* [[希望の国]] - 2012年公開の日本映画
* [[朝日のあたる家 (映画)|朝日のあたる家]] - 2013年公開の日本映画
* [[Fukushima 50 (映画)|Fukushima 50]] - 2020年公開の日本映画 [[福島第一原子力発電所]]事故をもとに書かれている
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。
書籍の宣伝目的での記載はおやめ下さい。-->
* {{Cite book |和書 | title = 原発事故の科学 | author = 桜井淳 | authorlink = 桜井淳 | year = 1992 | publisher = [[日本評論社]] | isbn = 978-4-535-58047-3 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 | title = プルトニウムの恐怖 | author = 高木仁三郎 |authorlink = 高木仁三郎 | year = 1981 | publisher = [[岩波書店]] |series = [[岩波新書]] 黄版 173 | isbn = 978-4-00-420173-1 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 | title = 原子力発電のはなし | author= 村主進 | publisher = [[日刊工業新聞社]] | date = 1997-07-15 | edition = 初版第1刷 | isbn = 978-4-526-04043-6 | page = {{要ページ番号|date=2013年2月}} | ref = 村主進 1997 }}
{{参照方法|date=2015年10月10日 (土) 11:34 (UTC)}}
* {{Cite book |和書 | title = 核の栄光と挫折-巨大科学の支配者たち | last = プリングル | first = ピーター | last2 = スピーゲルマン |first2 = ジェームズ | others=浦田誠親監訳 | year = 1982 | publisher = [[時事通信社]] | isbn = 978-4-7887-8209-9 | page = 596 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 | title = 高木仁三郎著作集 4 プルートーンの火 | capter = プルトニウムの恐怖 | author = 高木仁三郎 | | year = 2001 | publisher = [[七つ森書館]] | isbn = 978-4-8228-3001-4 | pages = pp.121 -|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 | title = 原子力防災-原子力リスクすべてと正しく向き合うために | author = 松野元 | | year = 2007 | publisher = 創英社/[[三省堂書店]] | isbn = 978-4-88142-303-5 | page = 171 |ref=harv}}
== 関連資料 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍等を記載して下さい。
書籍の宣伝目的での記載はおやめ下さい-->
* 日本原子力学会クリーンアップ分科会 『{{PDFlink|[http://www.aesj.or.jp/information/fnpp201103/chousacom/cu/euranos_tn0901syokuryo20120106.pdf EURANOS 食糧生産システム管理 ハンドブック 対策技術データシート仮訳 V1.0]}}』 2011年12月 <!--資料名は2012年8月24日 (金) 10:43 (UTC) の版で、リンクは~~~~~の版で追加-->
* 日本原子力学会クリーンアップ分科会 『{{PDFlink|[http://www.aesj.or.jp/information/fnpp201103/chousacom/cu/euranos_tn0902inryosui20120106.pdf EURANOS 飲料水管理ハンドブック 対策技術データシート仮訳 V1.0]}}』 2011年12月 <!--資料名は2012年8月24日 (金) 10:43 (UTC) の版で、リンクは~~~~~の版で追加-->
* 日本原子力学会 『EURANOS 欧州における放射能事故で汚染された居住エリア管理のための包括的ハンドブック』 <!--資料名は2012年8月24日 (金) 10:43 (UTC) の版で追加-->
* 『EURANOS 欧州における放射能事故後、緊急時対策の解除を支援するための助言』英文 (Generic Guidance for Assisting in the Withdrawal of Emergency Countermeasures in Europe Following a Radiological Incident) <!--資料名は2012年8月24日 (金) 10:43 (UTC) の版で追加-->
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|原子力}}
{{Commonscat|Nuclear and radiation accidents}}
* [[原子力事故の一覧]]
* [[:en:Nuclear power accidents by country]] 各国の原子力発電所の事故(英版)
* [[国際原子力事象評価尺度]]
* [[原子力発電]] - [[原子力発電所]] - [[警戒区域]] - [[5重の壁]]
** [[制御棒引き抜け事象]]
** [[炉心溶融]]
** [[ジルコニウム火災]]
* [[原子力委員会]] - [[原子力安全委員会]] - [[原子力安全・保安院]]
** [[原子力基本法]]
** [[核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律]]
** [[放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律]]
* [[原子力撤廃]]、[[反核運動]]
* [[廃炉]]
* [[原発震災]]
* [[原子力明るい未来のエネルギー]]
* [[原子炉反応度事故の研究]]
* [[安全工学]]
== 外部リンク ==
* [https://atomica.jaea.go.jp/ 原子力百科事典 ATOMICA トップページ] - 一般財団法人 [[高度情報科学技術研究機構]]
** [https://atomica.jaea.go.jp/data/bun/bun_small_02-07.html 原子力発電所の事故・故障] - 原子力百科事典 ATOMICA
* [http://www.nucia.jp/ 原子力施設情報公開ライブラリー「ニューシア」]
* [https://web.archive.org/web/20110720043028/http://www.jnes.go.jp/ 原子力安全基盤機構] - 国内・国外トラブルが検索できる
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仙台市地下鉄東西線
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東西線(とうざいせん)は、宮城県仙台市太白区の八木山動物公園駅から同市若林区の荒井駅を結ぶ、仙台市交通局(仙台市地下鉄)の地下鉄路線である。ラインカラーは青。2015年(平成27年)12月6日開業。路線記号は○T。
事業名称は、仙塩広域都市計画 都市高速鉄道第4号 仙台市高速鉄道東西線。事業延長は、計画で14.38km(地下式13.83km、地表式0.55km)。市の南西から仙台市都心部を経由して市の南東へとほぼ東西に市を貫く経路を採っており、仙台駅で南北線や東日本旅客鉄道(JR東日本)各線と乗り換えできる。
トンネルの断面積が南北線と比べて2/3程度と小さく、曲線半径が105mの急曲線(一般地下鉄なら曲線半径160mまで)が5箇所あり、縦断勾配が57‰の急勾配区間(一般地下鉄なら35‰まで)を擁するミニ地下鉄の路線である。車両の駆動方式として鉄輪式リニアモーター方式を採用しており、車両の運転方式は、ATC(自動列車制御装置)の速度制限と地上側に設置されたトランスポンダ地上子からの地点情報を基に車両の自動運転を行う、ATO(自動列車運転装置)によるワンマン運転が行われる。
駅のホームはすべて島式ホームとしており、ホームには可動式ホーム柵(ホームドア)が設置されている。また、車両において回生ブレーキ時に発生した電力を変電所に設置されている駅設備に電力を供給するための装置を介して駅設備等に電力を供給することにより、電力の有効利用を図り省エネルギー化が図られている。
広瀬川を橋梁で通過しているが、これは、広瀬川を地下で通過した場合では青葉山駅が極端に深い駅となってしまうためである。
駅はすべて地下にあるが、駅間だけが地上に出るのは日本国内の地下鉄路線で当路線が唯一である。
現在の地下鉄東西線建設計画は、仙台市都心部とその南西および南東の各地域を東西につなぐものである。主に仙台中町段丘(広瀬川の河岸段丘)上の平地にある都心部に対し、南西部は広瀬川が形成した多数の河岸段丘および青葉山丘陵を侵食して形成したV字谷により、標高差の大きい複雑な地形が広がり、さらに仙台城や天然記念物「青葉山」を回避するよう道路が建設されたことからボトルネックが多数ある。一方の南東部は、大年寺山断層や長町 - 利府線(断層)が南北に通り、その東側には地下水位が浅い沖積平野が広がるという、地下が複雑な地形であり、その上には奈良時代からある陸奥国分寺周辺地域、江戸時代の若林城下町(後に仙台城下町と合一)とその郊外部、そして、昭和初期から開発が始まる広大な土地区画整理事業地域と、複雑な経緯で成立した市街地が広がり、特に旧若林城下町では城下町特有の狭小路線・屈曲路が多い。そのため、南西・南東の両地域と都心部との間はラッシュ時の渋滞が激しく、その改善は仙台市にとって長らく課題であった。
地下鉄東西線の構想は1970年代から検討されはじめた。しかし、当初は現在の計画とは異なっており、以下の3つの計画が並立していた。
すなわち、工業・流通団地が広がり、沿線の人口密度が低く、地下が複雑な南東部では地上の新交通システム、地上に路線を新設するには困難が多い都心部では国鉄(JR)および直通する地下鉄、標高差が大きい上に回避すべき保存地区が入り組む南西部には線形の自由度が高いモノレールや新交通システムなどの地上軌道を設置し、各々を接続する構想であった。上記の計画のうち、仙石線の地下化は連続立体交差事業として実施され、2000年(平成12年)に完成した(「仙台トンネル」、「あおば通駅#歴史」も参照)。
仙台駅 - 西公園間の地下鉄線整備については、地下化する仙石線をそのまま西公園まで延伸する案もあったが、当時の国鉄(後にJR東日本)の資金調達が困難だったことから、仙石線と直通する市営地下鉄新線を建設する案が模索された。また、1989年(平成元年)の政令指定都市移行の際に編入合併した旧宮城町や旧秋保町などの西部地域と、都心部との接続の高速化も迫られ、モノレール南西線計画においては、青葉山・八木山・茂庭台などを経由して旧宮城町に建設予定だった愛子副都心に至る路線構想も発表した。これは、仙台市地下鉄南北線の泉中央駅延伸が政令市移行の際に合併した北部の旧泉市へのバーターであったのと同様、西部の旧2町へのバーターの面が強い。
しかし、モノレール南西線と地下鉄線の乗り換えの不便が予想されること、短い地下鉄線やそれに続くモノレール南西線では採算が見込めないことを理由として市は計画を再検討し、1991年(平成3年)3月には、当時の石井亨仙台市長が旧計画の断念を発表。新たに、都心の南東方向に延びる六丁の目新交通システム構想と連動した八木山 - 六丁の目間の東西交通軸を検討することを発表した。その後、石井がゼネコン汚職事件で逮捕され、藤井黎新市長が東西線計画を継承した。藤井の下で東西線計画は検討が進められ、東西線は仙石線と分離した完全な独立路線となることになり、西部の旧2町への路線区間は削減され、旧仙台市部分のみに計画路線長は短くなった。バブル崩壊があったとは言え、政令市移行間もない時期に西部旧2町との約束は反故となった。
1998年(平成10年)8月、市は具体的な東西線のルート案を公表した。路線延長の短縮で従来の計画からすると不利益を被ることになる地域の不満解消のため、1999年(平成11年)7月に市は「アクセス30分構想」を策定し、在来線への複数の請願駅の設置やオムニバスタウン事業によるバス交通の利便性向上など、JR・地下鉄・バスを含めた公共交通機関の総合的な利活用政策を進めることになる。2000年(平成12年)3月には東西線のルートが正式決定し、同時に鉄輪式リニアモーターカーを採用することも決定。同方式は1990年(平成2年)開通の大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線で導入されたばかりの新方式(ミニ地下鉄)であったが各地で導入が相次いでおり、また、表定速度が速いため「アクセス30分構想」を促進し、トンネル径が小さくて済むため建設費削減ができ、線形の自由度が高いため複雑な地形要素を克服できるなど東西線への導入利点が多かった。ただし、車両の規格が異なるため、仙台市地下鉄南北線及びJR各線との直通運転は不可能となった。
2005年(平成17年)7月31日投開票の仙台市長選挙では、地下鉄東西線の建設問題が争点となったが、勇退する藤井市政の継承と地下鉄東西線の建設推進を公約とした梅原克彦が当選し、反対派や慎重派の候補は落選した。朝日新聞が実施した出口調査によると地下鉄東西線への賛否は、賛成が45%、反対が33%で、梅原が賛成派の62%を固めた一方、反対派の票は分散した。反対派と慎重派の候補の得票を合計すると推進派の梅原の得票を超えていたものの、反対派と慎重派の候補が乱立して市民の意見集約ができなかった選挙戦略の稚拙さのため、選挙後は反対派・慎重派だった市民の注目は急速に衰え、地下鉄東西線の建設は新市長の下で急速に推進された。
需要予測については「過大な見積もりではないか」という疑問がたびたび出され、裁判でも争点のひとつになった。仙台市は裁判で勝訴が確定すると、2012年(平成24年)8月22日に地下鉄東西線の事業費および需要予測を大幅に下方修正する発表を行った。
全列車が、八木山動物公園駅 - 荒井駅間を通して運行されている。運行間隔は、平日の日中と土・休日(早朝と深夜を除く)は8〜10分間隔、平日の朝ラッシュ時間帯は約5分間隔、夕方ラッシュ時間帯は約6分間隔となっている。
また、2023年7月1日のダイヤ改正以前まで、毎週金曜日(金曜が祝日となる場合は木曜日)は南北線と同様に通常の終電車の後に臨時列車(「仙台市地下鉄南北線#運行形態」を参照)を両方向1本ずつ運行していた。
全駅とも宮城県仙台市に所在。
|
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"text": "東西線(とうざいせん)は、宮城県仙台市太白区の八木山動物公園駅から同市若林区の荒井駅を結ぶ、仙台市交通局(仙台市地下鉄)の地下鉄路線である。ラインカラーは青。2015年(平成27年)12月6日開業。路線記号は○T。",
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"text": "事業名称は、仙塩広域都市計画 都市高速鉄道第4号 仙台市高速鉄道東西線。事業延長は、計画で14.38km(地下式13.83km、地表式0.55km)。市の南西から仙台市都心部を経由して市の南東へとほぼ東西に市を貫く経路を採っており、仙台駅で南北線や東日本旅客鉄道(JR東日本)各線と乗り換えできる。",
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"text": "トンネルの断面積が南北線と比べて2/3程度と小さく、曲線半径が105mの急曲線(一般地下鉄なら曲線半径160mまで)が5箇所あり、縦断勾配が57‰の急勾配区間(一般地下鉄なら35‰まで)を擁するミニ地下鉄の路線である。車両の駆動方式として鉄輪式リニアモーター方式を採用しており、車両の運転方式は、ATC(自動列車制御装置)の速度制限と地上側に設置されたトランスポンダ地上子からの地点情報を基に車両の自動運転を行う、ATO(自動列車運転装置)によるワンマン運転が行われる。",
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"text": "駅のホームはすべて島式ホームとしており、ホームには可動式ホーム柵(ホームドア)が設置されている。また、車両において回生ブレーキ時に発生した電力を変電所に設置されている駅設備に電力を供給するための装置を介して駅設備等に電力を供給することにより、電力の有効利用を図り省エネルギー化が図られている。",
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"text": "広瀬川を橋梁で通過しているが、これは、広瀬川を地下で通過した場合では青葉山駅が極端に深い駅となってしまうためである。",
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"text": "駅はすべて地下にあるが、駅間だけが地上に出るのは日本国内の地下鉄路線で当路線が唯一である。",
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"text": "現在の地下鉄東西線建設計画は、仙台市都心部とその南西および南東の各地域を東西につなぐものである。主に仙台中町段丘(広瀬川の河岸段丘)上の平地にある都心部に対し、南西部は広瀬川が形成した多数の河岸段丘および青葉山丘陵を侵食して形成したV字谷により、標高差の大きい複雑な地形が広がり、さらに仙台城や天然記念物「青葉山」を回避するよう道路が建設されたことからボトルネックが多数ある。一方の南東部は、大年寺山断層や長町 - 利府線(断層)が南北に通り、その東側には地下水位が浅い沖積平野が広がるという、地下が複雑な地形であり、その上には奈良時代からある陸奥国分寺周辺地域、江戸時代の若林城下町(後に仙台城下町と合一)とその郊外部、そして、昭和初期から開発が始まる広大な土地区画整理事業地域と、複雑な経緯で成立した市街地が広がり、特に旧若林城下町では城下町特有の狭小路線・屈曲路が多い。そのため、南西・南東の両地域と都心部との間はラッシュ時の渋滞が激しく、その改善は仙台市にとって長らく課題であった。",
"title": "沿革"
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"text": "地下鉄東西線の構想は1970年代から検討されはじめた。しかし、当初は現在の計画とは異なっており、以下の3つの計画が並立していた。",
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"text": "すなわち、工業・流通団地が広がり、沿線の人口密度が低く、地下が複雑な南東部では地上の新交通システム、地上に路線を新設するには困難が多い都心部では国鉄(JR)および直通する地下鉄、標高差が大きい上に回避すべき保存地区が入り組む南西部には線形の自由度が高いモノレールや新交通システムなどの地上軌道を設置し、各々を接続する構想であった。上記の計画のうち、仙石線の地下化は連続立体交差事業として実施され、2000年(平成12年)に完成した(「仙台トンネル」、「あおば通駅#歴史」も参照)。",
"title": "沿革"
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"text": "仙台駅 - 西公園間の地下鉄線整備については、地下化する仙石線をそのまま西公園まで延伸する案もあったが、当時の国鉄(後にJR東日本)の資金調達が困難だったことから、仙石線と直通する市営地下鉄新線を建設する案が模索された。また、1989年(平成元年)の政令指定都市移行の際に編入合併した旧宮城町や旧秋保町などの西部地域と、都心部との接続の高速化も迫られ、モノレール南西線計画においては、青葉山・八木山・茂庭台などを経由して旧宮城町に建設予定だった愛子副都心に至る路線構想も発表した。これは、仙台市地下鉄南北線の泉中央駅延伸が政令市移行の際に合併した北部の旧泉市へのバーターであったのと同様、西部の旧2町へのバーターの面が強い。",
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"text": "しかし、モノレール南西線と地下鉄線の乗り換えの不便が予想されること、短い地下鉄線やそれに続くモノレール南西線では採算が見込めないことを理由として市は計画を再検討し、1991年(平成3年)3月には、当時の石井亨仙台市長が旧計画の断念を発表。新たに、都心の南東方向に延びる六丁の目新交通システム構想と連動した八木山 - 六丁の目間の東西交通軸を検討することを発表した。その後、石井がゼネコン汚職事件で逮捕され、藤井黎新市長が東西線計画を継承した。藤井の下で東西線計画は検討が進められ、東西線は仙石線と分離した完全な独立路線となることになり、西部の旧2町への路線区間は削減され、旧仙台市部分のみに計画路線長は短くなった。バブル崩壊があったとは言え、政令市移行間もない時期に西部旧2町との約束は反故となった。",
"title": "沿革"
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"text": "1998年(平成10年)8月、市は具体的な東西線のルート案を公表した。路線延長の短縮で従来の計画からすると不利益を被ることになる地域の不満解消のため、1999年(平成11年)7月に市は「アクセス30分構想」を策定し、在来線への複数の請願駅の設置やオムニバスタウン事業によるバス交通の利便性向上など、JR・地下鉄・バスを含めた公共交通機関の総合的な利活用政策を進めることになる。2000年(平成12年)3月には東西線のルートが正式決定し、同時に鉄輪式リニアモーターカーを採用することも決定。同方式は1990年(平成2年)開通の大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線で導入されたばかりの新方式(ミニ地下鉄)であったが各地で導入が相次いでおり、また、表定速度が速いため「アクセス30分構想」を促進し、トンネル径が小さくて済むため建設費削減ができ、線形の自由度が高いため複雑な地形要素を克服できるなど東西線への導入利点が多かった。ただし、車両の規格が異なるため、仙台市地下鉄南北線及びJR各線との直通運転は不可能となった。",
"title": "沿革"
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"text": "2005年(平成17年)7月31日投開票の仙台市長選挙では、地下鉄東西線の建設問題が争点となったが、勇退する藤井市政の継承と地下鉄東西線の建設推進を公約とした梅原克彦が当選し、反対派や慎重派の候補は落選した。朝日新聞が実施した出口調査によると地下鉄東西線への賛否は、賛成が45%、反対が33%で、梅原が賛成派の62%を固めた一方、反対派の票は分散した。反対派と慎重派の候補の得票を合計すると推進派の梅原の得票を超えていたものの、反対派と慎重派の候補が乱立して市民の意見集約ができなかった選挙戦略の稚拙さのため、選挙後は反対派・慎重派だった市民の注目は急速に衰え、地下鉄東西線の建設は新市長の下で急速に推進された。",
"title": "沿革"
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"text": "需要予測については「過大な見積もりではないか」という疑問がたびたび出され、裁判でも争点のひとつになった。仙台市は裁判で勝訴が確定すると、2012年(平成24年)8月22日に地下鉄東西線の事業費および需要予測を大幅に下方修正する発表を行った。",
"title": "沿革"
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"text": "全列車が、八木山動物公園駅 - 荒井駅間を通して運行されている。運行間隔は、平日の日中と土・休日(早朝と深夜を除く)は8〜10分間隔、平日の朝ラッシュ時間帯は約5分間隔、夕方ラッシュ時間帯は約6分間隔となっている。",
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"text": "また、2023年7月1日のダイヤ改正以前まで、毎週金曜日(金曜が祝日となる場合は木曜日)は南北線と同様に通常の終電車の後に臨時列車(「仙台市地下鉄南北線#運行形態」を参照)を両方向1本ずつ運行していた。",
"title": "運行形態"
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"text": "全駅とも宮城県仙台市に所在。",
"title": "駅一覧"
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東西線(とうざいせん)は、宮城県仙台市太白区の八木山動物公園駅から同市若林区の荒井駅を結ぶ、仙台市交通局(仙台市地下鉄)の地下鉄路線である。ラインカラーは青。2015年(平成27年)12月6日開業。路線記号は○T。 事業名称は、仙塩広域都市計画 都市高速鉄道第4号 仙台市高速鉄道東西線。事業延長は、計画で14.38km(地下式13.83km、地表式0.55km)。市の南西から仙台市都心部を経由して市の南東へとほぼ東西に市を貫く経路を採っており、仙台駅で南北線や東日本旅客鉄道(JR東日本)各線と乗り換えできる。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Sendai City Subway Logo.svg|30px|仙台市地下鉄|link=仙台市地下鉄]] 東西線
|路線色=#00B1DD
|画像=Sendai-City-Subway_Tozai-Line-Series2504.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=広瀬川を渡る東西線の[[仙台市交通局2000系電車|2000系電車]]<br>(2021年9月 [[国際センター駅 (宮城県)|国際センター駅]] - [[大町西公園駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[宮城県]][[仙台市]]
|種類=[[地下鉄]]
|路線網=[[仙台市地下鉄]]
|起点=[[八木山動物公園駅]]
|終点=[[荒井駅 (宮城県)|荒井駅]]
|駅数=13駅
|輸送実績=
|1日利用者数=
|路線記号=T
|開業=[[2015年]][[12月6日]]
|所有者=[[仙台市交通局]]
|運営者=仙台市交通局
|車両基地=[[荒井車両基地]]
|使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照
|路線距離=13.9 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]<br />車上一次鉄輪式[[リニアモーター]]方式
|最大勾配=57 [[パーミル|‰]]
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|閉塞方式=車内信号閉塞式
|保安装置=[[自動列車制御装置|ATC]] [[自動列車制御装置|ATO]]
|最高速度=70 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="judan">『日本縦断! 地下鉄の謎』 - 小佐野カゲトシ</ref>
|駅間平均長=1.16 km
|路線図=
|路線図名=
|路線図表示=<!--collapsed-->
}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header|停車場・施設・接続路線|#00B1DD}}
{{BS-table}}
{{BS2|tKBHFa||0.0|T01 [[八木山動物公園駅]]|<!-- 経路図の横幅を狭く保つため、一行を全角10文字(キロ程除く)以下に押さえています。加筆の際にはご配慮下さい -->|}}
{{BS2|htSTRe|||||}}
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{{BS4||tSTR||O3=HUBrg|tKBHFa|O4=HUBeq|||[[あおば通駅]]|}}
{{BS4||O1=HUBrg-L|tSTR|O2=HUB-Rq|HUB|O3=HUB-Rq|tSTR|O4=HUBlg-R|||←[[仙台市地下鉄南北線|南北線]]→|}}
{{BS4|tSTRq|O1=HUB-L|tTBHFt|O2=HUBaq|tSTRq|O3=HUBrf|tKRZt|O4=HUB-R|6.5|T07/N10 [[仙台駅]]||}}
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{{BS4|STRq|tKRZ|O2=HUB-L|BHF-Lq|tKRZ|O4=HUB-R|||JR東:[[東北本線|東北]]・[[常磐線|常磐]]・[[仙山線|仙山]]|}}
{{BS6|||tSTR|O3=HUB-L||tSTR|O5=HUBlf-R|HUBlg-R|||・[[仙台空港アクセス線|空港]]・[[仙石東北ライン|仙石東北]]|}}
{{BS6|||tSTR|O3=HUB-L||tHST|HUB-R|||仙台駅|}}
{{BS6|||tSTR|O3=HUBlf-L|HUB-Lq|tSTR2|O5=HUB-Lq|HUBrf-R|||JR東:[[仙石線]]|}}
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{{BS2|tBHF||8.4|T09 [[連坊駅]]||}}
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{{BS2|tBHF||9.5|T10 [[薬師堂駅 (宮城県)|薬師堂駅]]||}}
{{BS2|tBHF||11.0|T11 [[卸町駅 (宮城県)|卸町駅]]||}}
{{BS2|tBHF||12.3|T12 [[六丁の目駅]]||}}
{{BS2|tBHF||13.9|T13 [[荒井駅 (宮城県)|荒井駅]]||}}
{{BS2|tSTRe|||||}}
{{BS2|KDSTe|||[[荒井車両基地]]||}}
|}
|}
{{座標一覧}}
'''東西線'''(とうざいせん)は、[[宮城県]][[仙台市]][[太白区]]の[[八木山動物公園駅]]から同市[[若林区]]の[[荒井駅 (宮城県)|荒井駅]]を結ぶ、[[仙台市交通局]]([[仙台市地下鉄]])の[[地下鉄]]路線である。ラインカラーは青<ref>[https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/news/numbering/touzaisen.html 地下鉄東西線の駅ナンバリングについて] - 仙台市交通局</ref>。[[2015年]](平成27年)12月6日開業<ref>{{Cite news |title=<地下鉄東西線>来年12月6日開業 |newspaper=河北新報 |date=2014-11-17 |url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201411/20141117_13054.html |publisher=河北新報社 |accessdate=2016-02-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141117124629/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201411/20141117_13054.html |archivedate=2014年11月17日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。[[路線記号]]は{{駅番号c|#00B1DD|T}}。
事業名称は、'''仙塩広域都市計画 都市高速鉄道第4号 仙台市高速鉄道東西線'''<ref>{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/toshi/touzaisenchousei/gaiyou/pdf/houkoku.pdf 第1回 - 仙台市]}} - 仙台市</ref><ref>[https://www.env.go.jp/press/press.php?serial=5835 仙台市高速鉄道東西線建設事業に係る環境影響評価書に対する環境大臣意見の提出について] - [[環境省]] 2005年3月28日</ref>。事業延長は、計画で14.38km(地下式13.83km、地表式0.55km)<ref>{{XLSlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000167970.xls (2)都市高速鉄道 都市別内訳表 平成22年3月31日現在]}} - [[国土交通省]]</ref>。市の南西から[[仙台市都心部]]を経由して市の南東へとほぼ東西に市を貫く経路を採っており、[[仙台駅]]で[[仙台市地下鉄南北線|南北線]]や[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)各線と乗り換えできる。
== 概要 ==
[[トンネル]]の断面積が南北線と比べて2/3程度と小さく、[[曲線半径]]が105mの急曲線(一般地下鉄なら曲線半径160mまで)が5箇所あり<ref name="JaMetro225">{{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/topics/xgrDwazNBYOv.pdf 地下鉄短信 第225号]}}(日本地下鉄協会 2016年1月21日発行)</ref>、[[縦断勾配]]が57[[パーミル|‰]]の急勾配区間<ref>{{PDFlink|[http://www.jrtt.go.jp/01Organization/publicity/pdf/prm/no32-06.pdf 東京支社仙台鉄道建設所]}}([[鉄道・運輸機構]]だより 2012 Winter p.14)</ref>(一般地下鉄なら35‰まで)を擁する[[日本の地下鉄#ミニ地下鉄|ミニ地下鉄]]の路線である。車両の駆動方式として[[リニアモーターカー#鉄輪式|鉄輪式リニアモーター]]方式を採用しており、車両の運転方式は、ATC([[自動列車制御装置]])の速度制限と地上側に設置されたトランスポンダ地上子からの地点情報を基に車両の自動運転を行う、ATO([[自動列車運転装置]])による[[ワンマン運転]]が行われる。
駅の[[プラットホーム|ホーム]]はすべて島式ホームとしており、ホームには[[ホームドア|可動式ホーム柵]](ホームドア)が設置されている。また、車両において[[回生ブレーキ]]時に発生した電力を変電所に設置されている駅設備に電力を供給するための装置を介して駅設備等に電力を供給することにより、電力の有効利用を図り[[省エネルギー]]化が図られている。
[[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]]を橋梁で通過しているが、これは、広瀬川を地下で通過した場合では[[青葉山駅]]が極端に深い駅となってしまうためである<ref>[http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/kouji/joukyou/hirosegawakyoryo/index.html 広瀬川橋りょう外工区] - 仙台市交通局、2013年12月17日閲覧</ref>。
駅はすべて地下にあるが、駅間だけが地上に出るのは日本国内の地下鉄路線で当路線が唯一である。
=== 路線データ ===
* 路線距離:13.9km
* 軌間:1435mm
* 駅数:13(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線(直流1500V・[[架空電車線方式]])
* 地上区間:[[大町西公園駅|大町西公園]]から[[国際センター駅 (宮城県)|国際センター]]間(広瀬川橋りょう)、及び[[青葉山駅|青葉山]]から[[八木山動物公園駅|八木山動物公園]]間(竜の口橋りょう)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:車内信号閉塞式 ([[自動列車制御装置|ATC]])
* 営業最高速度:70km/h<ref name="judan" />
* 1編成の両数:4両
* ホーム最大対応両数:5両
* 経路:{{googleマップ経路図2|1=%E5%85%AB%E6%9C%A8%E5%B1%B1%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%85%AC%E5%9C%92%E9%A7%85%EF%BC%88%E5%AE%AE%E5%9F%8E%EF%BC%89|2=38.244913,140.948453|[email protected],140.8108833,19517m|data=!3m1!1e3!4m12!4m11!1m5!1m1!1s0x5f8a288c65226205:0x77402010a19fe7e6!2m2!1d140.8437008!2d38.2430055!1m0!2m2!4e3!5e1!3e3}}
== 沿革 ==
現在の地下鉄東西線建設計画は、[[仙台市都心部]]とその南西および南東の各地域を東西につなぐものである。主に[[仙台中町段丘]]<ref name="HERP">[http://www.hp1039.jishin.go.jp/danso/Miyagi4/figures/f3-2-2.jpg 長町-利府線・大年寺断層に沿う地形面区分図]([[地震調査研究推進本部]])</ref>([[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]]の[[河岸段丘]])上の平地にある都心部に対し、南西部は広瀬川が形成した多数の河岸段丘および[[青葉山丘陵]]を侵食して形成した[[V字谷]]により、標高差の大きい複雑な地形が広がり、さらに[[仙台城]]や[[東北大学学術資源研究公開センター植物園#天然記念物「青葉山」|天然記念物「青葉山」]]を回避するよう道路が建設されたことから[[ボトルネック]]が多数ある。一方の南東部は、[[大年寺山断層]]<ref name="fault line">[http://www.hp1039.jishin.go.jp/danso/Miyagi3B/figures/f1-4-1-1.jpg 図1-4-1-1]([http://www.hp1039.jishin.go.jp/danso/Miyagi3Bfrm.htm H10 宮城県:長町-利府線断層帯(稠密浅層ボーリング調査・地層抜き取り調査)]「[http://www.hp1039.jishin.go.jp/danso/Miyagi3B/2.htm 2 既往調査成果の概要]」)</ref>や[[長町 - 利府線]]([[断層]])<ref name="fault line"/>が南北に通り、その東側には[[地下水]]位が浅い[[沖積平野]]が広がるという、地下が複雑な地形であり、その上には[[奈良時代]]からある[[陸奥国分寺]]周辺地域、[[江戸時代]]の[[若林城下町]](後に[[仙台城下町]]と合一)とその郊外部、そして、昭和初期から開発が始まる広大な[[土地区画整理事業]]地域<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.sendai.jp/toshi/kukakuseiri/kukakuseiri/index.html |title=仙台市の土地区画整理事業 |accessdate=2010年2月5日 |publisher=[[仙台市]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111208215848/http://www.city.sendai.jp/toshi/kukakuseiri/kukakuseiri/index.html |archivedate=2011-11-08 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.sendai.jp/toshi/kukakuseiri/kukakuseiri/map.pdf |title=土地区画整理事業地区位置図(平成22年3月現在) |accessdate=2010年2月5日 |format=PDF |publisher=[[仙台市]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110524045743/http://www.city.sendai.jp/toshi/kukakuseiri/kukakuseiri/map.pdf |archivedate=2011-05-24 }}</ref>と、複雑な経緯で成立した市街地が広がり、特に旧若林城下町では[[城下町]]特有の狭小路線・屈曲路が多い。そのため、南西・南東の両地域と都心部との間はラッシュ時の渋滞が激しく、その改善は仙台市にとって長らく課題であった。
地下鉄東西線の構想は1970年代から検討されはじめた。しかし、当初は現在の計画とは異なっており、以下の3つの計画が並立していた。
* 六丁の目新交通システム構想(都心部から南東方向)
* [[日本国有鉄道|国鉄]](当時)[[仙石線]]の地下化および仙台駅 - [[西公園 (仙台市)|西公園]]間の地下鉄線整備(都心部の地下を東西に貫く)
* [[仙台市営モノレール南西線]](西公園から南西 - 西方向)
すなわち、工業・流通団地が広がり、沿線の人口密度が低く、地下が複雑な南東部では地上の[[新交通システム]]、地上に路線を新設するには困難が多い都心部では国鉄(JR)および直通する地下鉄、標高差が大きい上に回避すべき保存地区が入り組む南西部には[[線形 (路線)|線形]]の自由度が高い[[モノレール]]や新交通システムなどの地上軌道を設置し、各々を接続する構想であった。上記の計画のうち、仙石線の地下化は[[連続立体交差事業]]として実施され、[[2000年]](平成12年)に完成した(「[[仙台トンネル]]」、「[[あおば通駅#歴史]]」も参照)。
仙台駅 - 西公園間の地下鉄線整備については、地下化する仙石線をそのまま西公園まで延伸する案もあったが、当時の国鉄(後に[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])の資金調達が困難だったことから、仙石線と直通する市営地下鉄新線を建設する案が模索された<ref>『[[全国鉄道事情大研究]]』([[川島令三]] 著、[[草思社]] 2017年)p.132</ref>。また、[[1989年]](平成元年)の[[政令指定都市]]移行の際に[[編入合併]]した旧[[宮城町]]や旧[[秋保町]]などの西部地域と、都心部との接続の高速化も迫られ、モノレール南西線計画においては、[[青葉山 (仙台市)|青葉山]]・[[八木山 (仙台市)|八木山]]・[[茂庭台団地|茂庭台]]などを経由して旧宮城町に建設予定だった[[青葉区 (仙台市)#愛子副都心構想|愛子副都心]]に至る路線構想も発表した。これは、[[仙台市地下鉄南北線]]の[[泉中央駅]]延伸が政令市移行の際に合併した北部の旧[[泉市]]への[[バーター]]であったのと同様、西部の旧2町へのバーターの面が強い。
しかし、モノレール南西線と地下鉄線の乗り換えの不便が予想されること、短い地下鉄線やそれに続くモノレール南西線では採算が見込めないことを理由として市は計画を再検討し、[[1991年]](平成3年)3月には、当時の[[石井亨]]仙台市長が旧計画の断念を発表。新たに、都心の南東方向に延びる六丁の目新交通システム構想と連動した八木山 - 六丁の目間の東西交通軸を検討することを発表した。その後、石井が[[ゼネコン汚職事件]]で逮捕され、[[藤井黎]]新市長が東西線計画を継承した。藤井の下で東西線計画は検討が進められ、東西線は仙石線と分離した完全な独立路線となることになり、西部の旧2町への路線区間は削減され、旧仙台市部分のみに計画路線長は短くなった。[[バブル崩壊]]があったとは言え、政令市移行間もない時期に西部旧2町との約束は反故となった。
[[1998年]](平成10年)8月、市は具体的な東西線のルート案を公表した。路線延長の短縮で従来の計画からすると不利益を被ることになる地域の不満解消のため、[[1999年]](平成11年)7月に市は「アクセス30分構想<ref>[http://www.city.sendai.jp/toshi/koutsukikaku/index.html アクセス30分構想] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111208204427/http://www.city.sendai.jp/toshi/koutsukikaku/index.html |date=2011年12月8日 }}([[仙台市役所]]公共交通推進課)</ref>」を策定し、在来線への複数の[[請願駅]]の設置や[[オムニバスタウン]]事業によるバス交通の利便性向上など、JR・地下鉄・バスを含めた[[公共交通機関]]の総合的な利活用政策を進めることになる。[[2000年]](平成12年)3月には東西線のルートが正式決定し、同時に[[リニアモーターカー#鉄輪式|鉄輪式リニアモーターカー]]を採用することも決定。同方式は[[1990年]](平成2年)開通の[[大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線]]で導入されたばかりの新方式([[ミニ地下鉄]])であったが各地で導入が相次いでおり、また、[[表定速度]]が速いため「アクセス30分構想」を促進し、トンネル径が小さくて済むため建設費削減ができ、線形の自由度が高いため複雑な地形要素を克服できるなど東西線への導入利点が多かった。ただし、車両の規格が異なるため、仙台市地下鉄南北線及びJR各線との[[直通運転]]は不可能となった。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:small; float:right;"
|+2005年 仙台市長選挙<br />(投票率:43.67%)<ref>[http://go2senkyo.com/election/6125 仙台市長選挙 結果](ザ選挙)</ref>
!候補者
!東西線
!獲得票数
|-
|[[梅原克彦]]
|推進
|style="text-align:right;"|141,005票
|-
|[[鎌田さゆり]]
|再検討
|style="text-align:right;"|81,889票
|-
|菅間進
|再検討
|style="text-align:right;"|55,145票
|-
|小野寺信一
|反対
|style="text-align:right;"|39,926票
|-
|伊藤貞夫
|再検討
|style="text-align:right;"|14,396票
|-
|佐藤和弘
|再検討
|style="text-align:right;"|10,498票
|}
[[2005年]](平成17年)[[7月31日]]投開票の仙台市長選挙では、地下鉄東西線の建設問題が争点となったが、勇退する藤井市政の継承と地下鉄東西線の建設推進を公約とした[[梅原克彦]]が当選し、反対派や慎重派の候補は落選した。朝日新聞が実施した出口調査によると地下鉄東西線への賛否は、賛成が45%、反対が33%で、梅原が賛成派の62%を固めた一方{{efn|賛成派の残りの内訳は、鎌田が20%、菅間が10%、佐藤が3%、小野寺が3%、伊藤が2%。}}<ref name=":0">朝日新聞 2005年8月1日 朝刊 23ページ 宮城全県・1地方</ref>、反対派の票は分散した{{efn|反対派の票の内訳は、鎌田が31%、小野寺が28%、菅間が18%、梅原が14%、伊藤が6%、佐藤が2%だった。}}<ref name=":0" />。反対派と慎重派の候補の得票を合計すると推進派の梅原の得票を超えていたものの、反対派と慎重派の候補が乱立して市民の意見集約ができなかった選挙戦略の稚拙さのため、選挙後は反対派・慎重派だった市民の注目は急速に衰え、地下鉄東西線の建設は新市長の下で急速に推進された。
需要予測については「過大な見積もりではないか」という疑問がたびたび出され、裁判でも争点のひとつになった。仙台市は裁判で勝訴が確定すると、[[2012年]](平成24年)[[8月22日]]に地下鉄東西線の事業費および需要予測を大幅に下方修正する発表を行った。
{| class="wikitable" rules="all"
|+仙台市による予測<ref name="Plans">[http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/saihyouka/ 事業再評価](仙台市交通局)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/gaiyou/zaisei/index.html |title=財政計画 |accessdate=2013年9月24日 |publisher=[[仙台市交通局]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150706113858/http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/gaiyou/zaisei/index.html |archivedate=2015-07-06 }}</ref>と、開業後の実測
!rowspan="2"|時点
!colspan="4"|事業費(実質総負担)の予測<br />(開業後の決算は不明)
!rowspan="2"|[[乗車人員]]<br />(開業後は実数)
!rowspan="2"|仙台市の<br />[[推計人口]]
|-
!総額
|style="font-size:85%;"|国
|style="font-size:85%;"|市
|style="font-size:85%;"|市交通局
|-
|[[2003年]] 事業許可時
|style="text-align:right;"|'''2,735.1億円'''
|style="text-align:right; font-size:85%;"|1,356億円
|style="text-align:right; font-size:85%;"|921億円
|style="text-align:right; font-size:85%;"|1,140億円
|style="text-align:right;"|'''118,702人/日'''
|107.6万人(予測)
|-
|[[2012年]] 再評価時
|style="text-align:right;"|'''2,297.5億円'''
|style="text-align:right; font-size:85%;"|1,192億円
|style="text-align:right; font-size:85%;"|822億円
|style="text-align:right; font-size:85%;"|957億円
|style="text-align:right;"|'''79,664人/日'''
|105.1万人(予測)
|-
|2015年度
|
|
|
|
|style="text-align:right;"|'''54,056人/日'''<ref name="SendaiCityTB2017">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/pdf/30joushajinin.pdf|title=仙台市地下鉄 駅別乗車人員の推移|accessdate=2021年7月15日}}</ref>
|108.3万人<!--1,083,128人--><ref name="SendaiPopulation">[http://www.city.sendai.jp/kikaku/seisaku/toukei/jinkou/graph1.html 推計人口](仙台市)</ref><br />(2015年12月1日)
|-
|2016年度
|
|
|
|
|style="text-align:right;"|'''62,263人/日'''<ref name="SendaiCityTB2017" />
|108.5万人<!--1,085,288人--><ref name="SendaiPopulation"/><br />(2016年12月1日)
|-
|2017年度
|
|
|
|
|style="text-align:right;"|'''71,030人/日'''<ref name="SendaiCityTB2017" />
|108.7万人<!--1,087,182人--><ref name="SendaiPopulation"/><br />(2017年12月1日)
|-
|2018年度
|
|
|
|
|'''77,258人/日'''<ref name="SendaiCityTB2017" />
|108,9万人<!--1,089,380人--><ref name="SendaiPopulation" /><br />(2018年12月1日)
|-
|2019年度
|
|
|
|
|'''79,546/日'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/pdf/r01joushajinin.pdf|title=仙台市地下鉄 駅別乗車人員の推移|accessdate=2021年7月15日}}</ref>
|109万人<!-- 1,090,698人 --><ref name="SendaiPopulation" />
(2019年12月1日)
|}
:※ {{自治体人口/宮城県|date}}現在の仙台市の推計人口は {{#expr:{{自治体人口/宮城県|仙台市}} / 10000 round 1}}万人。
=== 年表 ===
* [[2000年]](平成12年)[[3月23日]] - <!--東西交通軸促進調査特別委員会において-->[[藤井黎]]仙台市長が地下鉄東西線のルートと機種を正式表明<ref>{{PDFlink|[http://www.gikai.city.sendai.jp/dayori/dayori_pdf/108_1.pdf 仙台市議会だより 第108号]}}(仙台市議会 2000年4月)</ref>。
* [[2003年]]([[平成]]15年)
** [[4月1日]] - 東西線建設本部を設置<ref name="enkaku">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/kigyou/pdf/04nendoban/1.pdf|title=仙台市交通局 事業概要 沿革|format=PDF |publisher= 仙台市交通局|accessdate=2023-02-26}}</ref>。
** [[9月18日]] - 地下鉄東西線の第一種鉄道事業が許可<ref>{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2003年9月 |journal = RAIL FAN |date = 2003-12-01 |issue = 12 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |page = 22}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[8月10日]] - 地下鉄東西線の工事施行が認可される<ref name="enkaku"/>。
* [[2006年]](平成18年)[[11月1日]] - 地下鉄東西線本体土木工事が着工<ref name="enkaku"/>。
* [[2009年]](平成21年)[[10月26日]] - 青葉山トンネル到達式開催<ref name="enkaku"/>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]] - 同日発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])により一部工区の資材が破損するなどの被害があり<ref name="pdf20110602">{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/saikai/kishahappyou.pdf |title=地下鉄東西線建設工事を再開します |accessdate=2011年9月9日 |date=2011年6月2日 |format=PDF |publisher=交通局東西線建設本部建設課 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110630171240/http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/saikai/kishahappyou.pdf |archivedate=2011-06-30 }}</ref>、一時全工区の工事が中断した。その後の調査の結果、事業計画に影響が出るほどの被害はないと確認された。
** [[6月20日]]以降 - 随時工事を再開<ref name="pdf20110602" />
** [[9月1日]] - 全工区で工事が再開<ref>[http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/ 仙台市交通局 地下鉄東西線工事情報](2011年9月9日更新)</ref>。
* [[2012年]](平成24年)
** 2月 - 軌道の敷設工事着手<ref name="Plans"/>。
** 5月 - 車両製造着手<ref name="Plans"/>。
** [[6月26日]] - 駅舎デザイン公表<ref name="enkaku"/>。
** [[11月13日]] - 車両デザイン公表<ref name="enkaku"/>。
* [[2013年]](平成25年)
** [[7月17日]] - 「全線貫通式」を青葉通一番町駅(仮称・一番町駅)にて挙行<ref>[http://www.city.sendai.jp/sesakukoho/shise/gaiyo/shichoshitsu/kaiken/2013/07/tozaisen/index.html 地下鉄東西線トンネルが全線貫通します-「全線貫通式」を開催します-(発表内容)](仙台市 2013年7月2日)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20130719080115/http://sankei.jp.msn.com/region/news/130718/myg13071802370000-n1.htm 地下鉄東西線が貫通 仙台市で式典、早期開業目指す 宮城](2013年7月19日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])(産経新聞 2013年7月18日)</ref>。
** [[12月24日]] - 駅名を正式決定<ref name="city_sendai20131224">[http://www.city.sendai.jp/sesakukoho/shise/koho/kisha/h25/12/ekime.html 地下鉄東西線の正式な駅名が決まりました] - 仙台市、2013年12月24日</ref>。
* [[2014年]](平成26年)
** [[6月13日]] - 「広瀬川橋りょう」「西公園高架橋」<ref>{{PDFlink|[http://www.jcca.or.jp/kaishi/238/238_pro2.pdf 新しい構造デザインを求めて]}} - 「Consultant」238号 建設コンサルタンツ協会 </ref>が、平成25年度[[土木学会]]賞([[土木学会田中賞|田中賞]])を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.sendai.jp/sesakukoho/shise/koho/kisha/h26/05/dobokugakkai.html |title=地下鉄東西線の広瀬川橋りょうが平成25年度土木学会賞を受賞しました |accessdate=2017-09-26 |date=2014-05-20 |publisher=[[仙台市]] }}</ref>。
** [[9月29日]] - 車両の第1編成を荒井車両基地に搬入<ref name="enkaku"/>。
* [[2015年]](平成27年)
** [[2月2日]] - 全てのレールとリアクションプレートの設置が完了し、「レール締結式」を開催<ref name="enkaku"/>。
** [[3月3日]] - 東西線車両が本線入線試験において全線を初めて走行<ref name="enkaku"/>。
** [[8月10日]] - 全線での運転訓練を開始<ref name="enkaku"/>。
** [[11月10日]] - [[東北運輸局]]による完成検査に合格<ref name="enkaku"/>。
** [[12月5日]] - 試乗会の最中の14:57頃、総合指令所の運行指令に関するシステムトラブル発生。当時運行していた9列車が最寄駅に緊急停車。この日のうちに部品を交換し、トラブルは解決、予定通り6日に開業と発表<ref>[https://archive.is/20151205110637/http://www.asahi.com/articles/ASHD564FDHD5UNHB00K.html 仙台市地下鉄、開業前日に運行トラブル 開業は予定通り](2015年12月5日時点の[[archive.is|アーカイブ]]) - 朝日新聞デジタル、2015年12月5日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20151208121915/http://mainichi.jp/articles/20151206/k00/00m/040/091000c 仙台市地下鉄 サーバー基板に問題か 予定通り6日開業](2015年12月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 毎日新聞 2015年12月5日、12月6日閲覧</ref>。
** [[12月6日]] - 開業<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK06H04_W5A201C1000000/ 仙台市の地下鉄東西線が開業 沿線開発で震災復興 :日本経済新聞] 2015年12月6日閲覧</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[3月31日]] - 東西線建設本部を廃止。
* [[2017年]](平成29年)[[12月21日]] - 平成29年度バリアフリー・ユニバーサルデザイン推進功労者内閣総理大臣表彰受賞<ref name="enkaku"/>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]] - 各駅案内表示器に列車の発時刻を表示開始。
* [[2023年]](令和5年)[[7月1日]] - ダイヤ改正実施。平日日中と土・休日の運行間隔を従来の7〜8分から8〜10分へ変更。端末駅と青葉通一番町駅、仙台駅を除く9駅の停車時間延長<ref>[https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/2023timetable_revision.html 7月1日から地下鉄南北線・東西線のダイヤが変わります] - 仙台市交通局</ref>。
<gallery>
ファイル:KareeGoya2007.jpg|川内工区の建設に伴い撤去された[[東北大学]]川内北キャンパスの第2食堂(2007年10月)
ファイル:Sendaishi Chikatetsu Tozai-Sen Hirosegawa Kyoryo Kensetsu Koji 2009.jpg|広瀬川の架橋工事(2009年3月)
ファイル:Sendaishi Chikatestu Tozai-Sen Sendai Eki Ko-ku.JPG|[[仙台駅]]工区(2009年4月)
</gallery>
== 運行形態 ==
全列車が、八木山動物公園駅 - 荒井駅間を通して運行されている。運行間隔は、平日の日中と土・休日(早朝と深夜を除く)は8〜10分間隔、平日の朝ラッシュ時間帯は約5分間隔、夕方ラッシュ時間帯は約6分間隔となっている。
また、2023年7月1日のダイヤ改正以前まで、毎週金曜日(金曜が祝日となる場合は木曜日)は南北線と同様に通常の終電車の後に臨時列車(「[[仙台市地下鉄南北線#運行形態]]」を参照)を両方向1本ずつ運行していた{{efn|利用者数の減少を事由として、2020年5月1日以降、増発分の最終列車は当面の間運休となった。}}。
== 車両 ==
* [[仙台市交通局2000系電車|2000系]]
[[ファイル:Sendai-Tozai-Line Series2000-2513.jpg|none|thumb|2000系]]
== 駅一覧 ==
全駅とも[[宮城県]][[仙台市]]に所在。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #00B1DD;" rowspan="2"|駅番号
!style="width:10.5em; border-bottom:solid 3px #00B1DD;" rowspan="2"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00B1DD;" rowspan="2"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00B1DD;" rowspan="2"|営業<br />キロ
!style="border-bottom:solid 3px #00B1DD;" rowspan="2"|接続路線
!colspan="2"|所在地
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #00B1DD;" |位置
!style="border-bottom:solid 3px #00B1DD;" |[[行政区]]
|-
!T01
|style="background:#9f9;"|[[八木山動物公園駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(ベニーランド前)</span>
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"| 0.0
|
|{{ウィキ座標|38|14|34|N|140|50|36.5|E|region:JP|地図|name=八木山動物公園駅}}
|[[太白区]]
|-
!T02
|[[青葉山駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(東北大学青葉山キャンパス前)</span>
|style="text-align:right;"| 2.1<!--2065m-->
|style="text-align:right;"| 2.1
|
|{{ウィキ座標|38|15|17.9|N|140|50|6.8|E|region:JP|地図|name=青葉山駅}}
|rowspan="6"|[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]
|-
!T03
|[[川内駅 (宮城県)|川内駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(東北大学川内キャンパス前)</span>
|style="text-align:right;"| 1.6<!--1565m-->
|style="text-align:right;"| 3.7
|
|{{ウィキ座標|38|15|40.2|N|140|51|2.4|E|region:JP|地図|name=川内駅}}
|-
!T04
|[[国際センター駅 (宮城県)|国際センター駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(仙台城跡入口)</span>
|style="text-align:right;"| 0.6<!--635m-->
|style="text-align:right;"| 4.3
|
|{{ウィキ座標|38|15|36.8|N|140|51|23.7|E|region:JP|地図|name=国際センター駅}}
|-
!T05
|[[大町西公園駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(菓匠三全 本店前)</span>
|style="text-align:right;"| 0.7<!--700m-->
|style="text-align:right;"| 5.0
|
|{{ウィキ座標|38|15|32.3|N|140|51|50.5|E|region:JP|地図|name=大町西公園駅}}
|-
!T06
|[[青葉通一番町駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(藤崎前)</span>
|style="text-align:right;"| 0.7<!--670m-->
|style="text-align:right;"| 5.7
|
|{{ウィキ座標|38|15|34.6|N|140|52|19.5|E|region:JP|地図|name=青葉通一番町駅}}
|-
!T07
|[[仙台駅]]
|style="text-align:right;"| 0.8<!--775m-->
|style="text-align:right;"| 6.5
|仙台市地下鉄:{{Color|#317C66|■}}[[仙台市地下鉄南北線|南北線]] (N10)<br />東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen jre.svg|18px|■]] [[東北新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[北海道新幹線]]、{{Color|mediumseagreen|■}}[[東北本線]]・[[仙石東北ライン]]・{{Color|#2A5CAA|■}}[[仙台空港アクセス線]]・{{Color|#3333ff|■}}[[常磐線]]、{{Color|#72bc4a|■}}[[仙山線]]、{{Color|#00aaee|■}}[[仙石線]]
|{{ウィキ座標|38|15|34.8|N|140|52|47|E|region:JP|地図|name=仙台駅}}
|-
!T08
|[[宮城野通駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(ユアテック本社前)</span>
|style="text-align:right;"| 0.7<!--670m-->
|style="text-align:right;"| 7.2
|
|{{ウィキ座標|38|15|28.6|N|140|53|8.8|E|region:JP|地図|name=宮城野通駅}}
|style="white-space:nowrap;"|[[宮城野区]]
|-
!T09
|[[連坊駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(仙台一高前)</span>
|style="text-align:right;"| 1.2<!--1245m-->
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|
|{{ウィキ座標|38|15|4.1|N|140|53|35.1|E|region:JP|地図|name=連坊駅}}
|rowspan="5"|[[若林区]]
|-
!T10
|style="background:#9f9;"|[[薬師堂駅 (宮城県)|薬師堂駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(聖和学園前)</span>
|style="text-align:right;"| 1.1<!--1155m-->
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|
|{{ウィキ座標|38|14|58.6|N|140|54|21.6|E|region:JP|地図|name=薬師堂駅}}
|-
!T11
|[[卸町駅 (宮城県)|卸町駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(仙台卸商センター前)</span>
|style="text-align:right;"| 1.5<!--1470m-->
|style="text-align:right;"| 11.0
|
|{{ウィキ座標|38|15|5.4|N|140|55|14.6|E|region:JP|地図|name=卸町駅}}
|-
!T12
|[[六丁の目駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(サンピア仙台前)</span>
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|style="text-align:right;"| 12.3
|
|{{ウィキ座標|38|15|3.3|N|140|56|7.8|E|region:JP|地図|name=六丁の目駅}}
|-
!T13
|style="background:#9f9;"|[[荒井駅 (宮城県)|荒井駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(大成ハウジング本店前)</span>
|style="text-align:right;"| 1.6<!--1625m-->
|style="text-align:right;"| 13.9
|
|{{ウィキ座標|38|14|42|N|140|56|52.5|E|region:JP|地図|name=荒井駅}}
|}
* 市交通局は副駅名広告を販売している。これにより、2015年12月6日から2025年3月31日まで、以下の駅における駅名標や車内案内放送、および停車駅案内標で副駅名が併記される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201510/20151031_11031.html |title=<地下鉄>南北・東西の副駅名決まる |accessdate=2015年12月1日 |date=2015年10月31日 |publisher=[[河北新報]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304195429/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201510/20151031_11031.html |archivedate=2016-03-04 }}</ref>。
:{| class="wikitable"
|+
!駅名
!広告主
!表示名
|-
|八木山動物公園
|株式会社エイトリー
|ベニーランド前
|-
|大町西公園
|[[菓匠三全|株式会社菓匠三全]]
|菓匠三全 本店前
|-
|青葉通一番町
|[[藤崎 (百貨店)|株式会社藤崎]]
|藤崎前
|-
|宮城野通
|[[ユアテック|株式会社ユアテック]]
|ユアテック本社前
|-
|薬師堂
|[[聖和学園|学校法人聖和学園]]
|聖和学園前
|-
|卸町
|協同組合仙台卸商センター
|仙台卸商センター前
|-
|六丁の目
|株式会社齋喜ビル
|サンピア仙台前
|-
|荒井
|株式会社大成ハウジング
|大成ハウジング本店前
|}
* [[2013年]]8月には、駅名についての意見を募るアンケートが実施されており、この結果をもとに正式な名称を決定するとの方針が示された{{efn|仙台駅の名称は、既存の南北線仙台駅と乗り継ぎ可能であることなどを理由に、このアンケートの対象外とされたことから、東西線駅名としての「仙台駅」の名称については決定事項と事実上みなされている。}}。同年[[10月21日]]には、駅名検討委員会より、国際センター駅を除いた全駅の駅名原案が発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131022t13030.htm |title=仙台市地下鉄 東西線駅名、11駅の原案決まる |accessdate=2013-10-23 |date=2013-10-22 |publisher=[[河北新報]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131029192947/http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131022t13030.htm |archivedate=2013-10-29 }}</ref>、[[11月27日]]には最終案が発表され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2013/11/20131128t13026.htm |title=仙台市地下鉄東西線12駅名で最終案 西公園は大町西公園に |accessdate=2013-11-28 |date=2013-11-28 |publisher=[[河北新報]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140205193934/http://www.kahoku.co.jp/news/2013/11/20131128t13026.htm |archivedate=2014-02-05 }}</ref>、[[12月24日]]に駅名が正式発表された<ref name="city_sendai20131224" />。仮称から変更された駅は以下の通り(左が仮称)で、これ以外の駅は仮称がそのまま正式駅名に採用された。
** 動物公園駅 → 八木山動物公園駅
** 西公園駅 → 大町西公園駅
** 一番町駅 → 青葉通一番町駅
** 新寺駅 → 宮城野通駅
* 上表で背景が{{Color|green|'''緑色'''}}の駅(=八木山動物公園・薬師堂・荒井)の約1.5km圏内には、バス運賃が100円均一の区間が設定されている<ref name="sendai20140127">{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu.city.sendai.jp/fare/seido/index.html |title=地下鉄東西線開業に合わせて新たな運賃制度を導入します |accessdate=2014-01-29 |date=2014-01-27 |publisher=[[仙台市交通局]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151023142517/http://www.kotsu.city.sendai.jp/fare/seido/index.html |archivedate=2015-10-23 }}</ref>ほか、青葉通一番町駅周辺と仙台駅周辺には、バス運賃が120円均一の区間「[[120円パッ区]]」が設定されている。
* 車両基地は荒井駅の南東に設置される。
* 各駅ともホームは1番線(3番線)・荒井方面がオレンジ色、2番線(4番線)・八木山動物公園方面が黄緑色となっており、各案内表示やホームドアの色も統一されている。また、接近放送・発車放送も統一されているが、南北線と男女逆で、1番線(3番線)が男声、2番線(4番線)が女声となっている。
== その他 ==
* 携帯電話サービスについては、全駅及び駅間のトンネル内において、[[NTTドコモ]]・[[au (携帯電話)|au]]・[[ソフトバンク]]の通信・通話が利用可能<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/tohoku/page/2015/151202_01.html 仙台市地下鉄 東西線開業に合わせ、携帯電話サービスを提供開始] - NTTドコモ、2015年12月2日。</ref>。
* 将来の5両編成への対応を前提として車両番号の割り振りや各駅のホーム長の確保がされているが、現在は1両分を壁で遮り、4両編成の運行でホームを運用している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201608/20160816_13031.html |title=<仙台東西線>将来の追加ホーム見に行こう。 |accessdate=2016-11-13 |date=2016-08-16 |publisher=[[河北新報]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161025180410/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201608/20160816_13031.html |archivedate=2016-10-25 }}</ref>。
* [[青葉通一番町駅]] - [[荒井駅 (宮城県)|荒井駅]]間はJRとの代替輸送([[振替輸送]])対象路線に指定されており、当該区間が運転見合わせとなった場合は、[[仙石線]]([[あおば通駅]] − [[中野栄駅]])への振替乗車が認められる場合がある。
* 2019年に[[吉川晃司]]が乗車マナーを呼びかける車内放送が行われた。この車内放送の録音は、東西線の荒井車両基地であったラジオ番組『[[SOUND GENIC]]』([[エフエム仙台|Date fm]])の公開録音<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/otanoshimi/event/koukairokuon.html |title=荒井車両基地にて 吉川晃司さんの公開録音が行われます! |access-date=2022-10-21 |publisher=仙台市交通局}}</ref>の際に行われた<ref>{{Cite news|title=<吉川晃司さん>車内放送に登場 仙台市地下鉄・バス 仙台弁を交え乗車マナー呼び掛け|newspaper=河北新報|date=2019-04-27|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201904/20190427_13037.html|access-date=2022-10-21|archive-url=https://web.archive.org/web/20190525151501/https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201904/20190427_13037.html|archive-date=2019-05-25}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[日本の地下鉄]]
* [[仙台市地下鉄南北線]]
* [[仙台市営モノレール南西線]]
* [[オムニバスタウン#宮城県仙台市]]
* [[仙台市天文台]] - 東西線建設に伴い移転した。
* [[宮城県道23号仙台塩釜線]](産業道路) - 東側は産業道路沿いを進む。
== 外部リンク ==
* [http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/ 東西線事業](仙台市交通局)
* [https://web.archive.org/web/20190103071837/http://we-sendai.jp/ 仙台市地下鉄東西線 WEプロジェクト](仙台市交通局・インターネットアーカイブ・2019年時点の版)
* [https://www.pref.miyagi.jp/site/pt/ 仙台都市圏パーソントリップ調査](宮城県)
* [https://web.archive.org/web/20210522045121/https://www.jrtt.go.jp/construction/achievement/sendai-subway.html 仙台市高速鉄道東西線]([[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]・インターネットアーカイブ))
* {{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/LVmDYWAgtRNN.pdf 現場から1「仙台市地下鉄東西線土木工事の概要について」]}} 『SUBWAY』2009年7月号、[[日本地下鉄協会]]、pp.37-42掲載
* {{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/ePpUUEBDbpWS.pdf リニアメトロ歴史シリーズ第8回(最終回)「仙台市営地下鉄東西線の歴史を辿る」]}} 『SUBWAY』2020年2月号、日本地下鉄協会、pp.38-42掲載
* {{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20210716120608/https://www.jstage.jst.go.jp/article/coj/54/12/54_1184/_pdf/-char/ja 仙台市地下鉄東西線 広瀬川地区橋梁]}} 『コンクリート工学』2016年12月号、日本コンクリート工学会、pp.1184-1189(インターネットアーカイブ)
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[[Category:日本の地下鉄路線|とうさい]]
[[Category:東北地方の鉄道路線|とうさいせん]]
[[Category:仙台市地下鉄|路とうさいせん]]
[[Category:宮城県の交通|とうさいせん]]
[[Category:鉄輪式リニアモーター鉄道]]
|
2003-09-19T01:50:19Z
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17,342 |
王手
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王手(おうて)とは、チャトランガ系統のボードゲームにおける指し手(駒の動き)の一種である。ルール上、取られてはならないと定められている相手の最重要駒(玉将・キングなど)に対して、自分の駒を利かせる指し手のことをいう。チェスの場合はチェック (英語: check) と呼ばれている。
転じて、スポーツなどであと一点とれば自分もしくは自チームが勝利できる状態を表すのにも用いられている。本稿では、主に将棋とチェスにおける「王手」について解説する。
王手(チェック)は、相手の最重要駒に迫る手である。自分の駒を動かす事(将棋の場合は相手から取った持ち駒を打つ事も含める)により、敵玉(相手のキング)に自分の駒の働きを利かせる手を指す。「次の手で玉将(やキング)を取る」という脅迫の意味があり、その脅迫を受けた側は「王手された」「王手がかかった」状態となる。
王手(チェック)は強制手であり、された側は直後の手番でその状態から絶対に抜け出さなければならず、いかなる場合でも無視や放置は許されない。そして王手(チェック)をされた側がどのような指し手を用いても回避できない場合は詰み(チェスでは「チェックメイト」)となり、回避できなくなった対局者の負けとなる。よく勘違いされるが、王手をした・された瞬間に勝敗がつくわけではない。
なお、自玉(自分のキング)が相手の駒の利き、すなわち自ら王手(チェック)されるような手は指すことができない。したがって理論上、自玉で敵玉(相手のキング)を王手(チェック)することはできず、敵玉(相手のキング)の隣に自玉(自分のキング)は置けないということになる。
王手をかけられた側は、以下の3種類からいずれかの対処を行い、1手でその状態を解消しなければならない。
王手をされたうえで、上記のいずれの対処も不可能な場合は王手放置による反則ないし「詰み」による負けとなる。詰みに至る展開を回避できないと判断した相手が投了するか、遅くとも詰みが発生することで対局は終了となる。
一方の側が玉以外の駒の利きを敵玉の存在するマス目に合わせるような指し手、つまり玉に取りをかけることを“王手”といい、かけた側から見れば“王手をかける”という — 日本将棋連盟『将棋ガイドブック』より引用。句読点を含め全て原文のまま。
指導対局や縁台将棋、初心者同士の対局などでは、王手をかけた側が慣習的に口頭でも「王手」と言う場合がある。ただしあくまで慣習にすぎず、「王手」と発声しなければならないという規定はない。
王手に直接関わる反則としては、王手放置や自玉を相手駒の利きにさらす手、打ち歩詰め、連続王手の千日手がある(→ 詳細は将棋#反則行為を参照)。将棋においてこれらの非合法手を指した場合、いずれも即座に負けとなる。
走り駒(飛車、角行、香車、龍王、龍馬)の利きにある自分の駒を動かしてかける王手である。図2から▲2四桂とした図3では、香車によって王手がかかっている。
空き王手の一種。2枚の駒で同時にかける王手である。上記の図4から図5では角と香車の双方が王手をかけている。両王手をかけられると合駒はできず、王将を動かすしか手はない。王手している駒を取る対処法も王将自身で取る以外にできない(図では飛車で角や香車を取れず、後手としては王将を逃がす一手である)。したがって、両王手をかけられて王将を動かすことができなければ詰みとなる。その一例として図5-aは中飛車の序盤。後手はここで玉を△4二玉とするなどガードをせずに△8五歩や△3四歩などと指すと、▲3三角成で詰む。
王手を解消すると同時に、相手に王手をかけ返す手である。図6で後手の王将に王手がかかったが、図7では合駒の桂馬によって逆に先手の王将に王手がかかっている。図7の例のように合駒が王手になる場合以外にも、王手をかけている相手の駒を取ることで逆王手をかけたり、玉将を逃げる手が開き王手の逆王手になる場合もある。実戦で出現する他、双玉詰将棋における技法として用いられることも多い。詳しくは双玉詰将棋#逆王手も参照のこと。
両取り(2つ以上の駒を同時に狙う手)の一種で、王手をかけつつ別の敵駒の位置するマスに自駒(歩兵と香車以外)を利かせる手である。○の部分には、王将との両取りになっている駒の略称が入る。まず王手に対して応じなければならないので、他に狙われている駒はそのまま取られることが多い。「王手飛車取り」「王手角取り」のように、価値の高い駒を狙って使われることが多い。「王手飛車取り」は、特に「王手飛車」(おうてびしゃ)と略される。
チェスでは将棋の王手にあたる手をチェックと呼ぶ。自分の駒の利き筋を、相手のキングに利かせる手を指す。記譜上の表記は、「check」あるいは「+」(プラス)で表す。
チェックをされた側は、直後の手番で必ずチェックを解かせるように対処しなければならない。ただし、キャスリングで相手のチェックに対処することはできない。
チェックの対処法(チェックの解消方法)には、次の3種類がある。
チェックをされていて、なおかつ上記1、2、3いずれの対処も不可能な場合は チェックメイト(メイト)となる。チェックメイトとなれば対局は終了となり、メイトさせた方の勝ち・メイトされた方の負けとなる。(→ 詳細は詰み・チェックメイトを参照。)
味方の駒を動かし、その後ろの駒で相手のキングをチェックする手である。チェス図では、白が次にRe2+またはRd4+とすれば、f3にあるビショップでチェックがかかるため、黒がこのチェックを防いでいるうちに白は黒のクイーンを取ることができる。将棋の空き王手に相当する。
ディスカバードアタックも参照。
ディスカバード・チェックの一種である。背後の駒だけでなく、動かした駒自体でもチェックする手を指す。チェス図3は、白のルークとビショップによるダブル・チェックである。
ダブル・チェックの記号は「++」である。
ダブル・チェックの場合は攻撃が双方向のため、味方の駒で防御することができない。そのためチェックを受けた側は、キングが逃げる以外に対処方法はない。チェックしている駒を取る対処法も、キング自身で取る以外にできない。したがって、ダブル・チェックをされていてキングを動かすことができなければチェックメイトとなる。将棋の両王手に相当する。
将棋の「逆王手」に相当する手である。相手のチェックを防ぐと同時に、相手のキングへチェックをかける手を指す。終盤戦でクイーンを使いクロス・チェックをかけるケースが多い。
これらのゲームでも、王手の解消方法や、空き王手(ディスカバード・チェック)・両王手(ダブル・チェック)・逆王手(クロス・チェック)に相当する特殊な王手などについては将棋・チェスとほぼ同様である。
ただ、シャンチーやチャンギにおいては、王手に関して次のような特殊な性質を持つ駒がある。以下、「シャンチーの駒/チャンギの駒」の形式で駒を示すものとする。
これらの特殊な駒の性質のため、シャンチーやチャンギでは、次のような特有の王手やその解消方法がある。
シャンチーにおける王手は「将」(ジャン)、チャンギにおける王手は「チャングン」(将軍)と呼ばれる。
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"text": "チェックの対処法(チェックの解消方法)には、次の3種類がある。",
"title": "チェスの王手(チェック)"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "チェックをされていて、なおかつ上記1、2、3いずれの対処も不可能な場合は チェックメイト(メイト)となる。チェックメイトとなれば対局は終了となり、メイトさせた方の勝ち・メイトされた方の負けとなる。(→ 詳細は詰み・チェックメイトを参照。)",
"title": "チェスの王手(チェック)"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "味方の駒を動かし、その後ろの駒で相手のキングをチェックする手である。チェス図では、白が次にRe2+またはRd4+とすれば、f3にあるビショップでチェックがかかるため、黒がこのチェックを防いでいるうちに白は黒のクイーンを取ることができる。将棋の空き王手に相当する。",
"title": "チェスの王手(チェック)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ディスカバードアタックも参照。",
"title": "チェスの王手(チェック)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ディスカバード・チェックの一種である。背後の駒だけでなく、動かした駒自体でもチェックする手を指す。チェス図3は、白のルークとビショップによるダブル・チェックである。",
"title": "チェスの王手(チェック)"
},
{
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"text": "ダブル・チェックの記号は「++」である。",
"title": "チェスの王手(チェック)"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ダブル・チェックの場合は攻撃が双方向のため、味方の駒で防御することができない。そのためチェックを受けた側は、キングが逃げる以外に対処方法はない。チェックしている駒を取る対処法も、キング自身で取る以外にできない。したがって、ダブル・チェックをされていてキングを動かすことができなければチェックメイトとなる。将棋の両王手に相当する。",
"title": "チェスの王手(チェック)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "将棋の「逆王手」に相当する手である。相手のチェックを防ぐと同時に、相手のキングへチェックをかける手を指す。終盤戦でクイーンを使いクロス・チェックをかけるケースが多い。",
"title": "チェスの王手(チェック)"
},
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"text": "これらのゲームでも、王手の解消方法や、空き王手(ディスカバード・チェック)・両王手(ダブル・チェック)・逆王手(クロス・チェック)に相当する特殊な王手などについては将棋・チェスとほぼ同様である。",
"title": "その他の王手があるチャトランガ系ゲーム"
},
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"text": "ただ、シャンチーやチャンギにおいては、王手に関して次のような特殊な性質を持つ駒がある。以下、「シャンチーの駒/チャンギの駒」の形式で駒を示すものとする。",
"title": "その他の王手があるチャトランガ系ゲーム"
},
{
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"tag": "p",
"text": "これらの特殊な駒の性質のため、シャンチーやチャンギでは、次のような特有の王手やその解消方法がある。",
"title": "その他の王手があるチャトランガ系ゲーム"
},
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"tag": "p",
"text": "シャンチーにおける王手は「将」(ジャン)、チャンギにおける王手は「チャングン」(将軍)と呼ばれる。",
"title": "その他の王手があるチャトランガ系ゲーム"
}
] |
王手(おうて)とは、チャトランガ系統のボードゲームにおける指し手(駒の動き)の一種である。ルール上、取られてはならないと定められている相手の最重要駒(玉将・キングなど)に対して、自分の駒を利かせる指し手のことをいう。チェスの場合はチェック と呼ばれている。 転じて、スポーツなどであと一点とれば自分もしくは自チームが勝利できる状態を表すのにも用いられている。本稿では、主に将棋とチェスにおける「王手」について解説する。
|
{{Otheruses|ゲームの指し手|映画|王手 (映画)}}
'''王手'''(おうて)とは、[[チャトランガ]]系統の[[ボードゲーム]]における指し手(駒の動き)の一種である。ルール上、取られてはならないと定められている相手の最重要駒([[玉将]]・[[キング (チェス)|キング]]など)に対して、自分の駒を利かせる指し手のことをいう。[[チェス]]の場合は'''チェック''' ({{lang-en|check}}) と呼ばれている。
転じて、スポーツなどであと一点とれば自分もしくは自チームが勝利できる状態を表すのにも用いられている。本稿では、主に[[将棋]]とチェスにおける「王手」について解説する。
== 総則 ==
王手(チェック)は、相手の最重要駒に迫る手である。自分の駒を動かす事(将棋の場合は相手から取った持ち駒を打つ事も含める)により、敵玉(相手のキング)に自分の駒の働きを利かせる手を指す。「次の手で玉将<ref group="注">玉将(ぎょくしょう)は金、銀、桂、香などの駒と同様に、宝物の名称から来ている。王将(おうしょう)が使われるようになったのは後のことで、本来は[[王]]様の意味はない([[玉将#玉将と王将]])。なお[[玉手 (曖昧さ回避)|玉手]](たまて)は別の意味となる。</ref>(やキング)を取る」という脅迫の意味があり、その脅迫を受けた側は「王手された」「王手がかかった」状態となる。
王手(チェック)は強制手であり、された側は'''直後の手番でその状態から絶対に抜け出さなければならず'''、いかなる場合でも無視や放置は許されない。そして王手(チェック)をされた側がどのような指し手を用いても回避できない場合は[[詰み]](チェスでは「チェックメイト」)となり、回避できなくなった対局者の負けとなる。よく勘違いされるが、''王手をした・された瞬間に勝敗がつくわけではない''。
なお、自玉(自分のキング)が相手の駒の利き、すなわち自ら王手(チェック)されるような手は指すことができない。したがって理論上、自玉で敵玉(相手のキング)を王手(チェック)することはできず、敵玉(相手のキング)の隣に自玉(自分のキング)は置けないということになる<ref group="注">空き王手(ディスカバード・チェック)の場合、「王将(キング)を動かすことによって王手(チェック)がかかる」ということはあり得る。また、[[中将棋]]などの古将棋で、[[太子 (将棋)|太子]]([[醉象]]の成駒で王将と同じ働きを持つ駒)が存在するなど、王将の働きを持つ駒が複数存在する場合は、例外的に「王将で王手」も可能である。</ref>。
== 将棋の王手 ==
=== 王手の解消方法 ===
{{Shogi diagram|tright
|図1<br />王手の解消方法の例
| | | | | | | | |
| | | |rgl| | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | |bs| |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | |ks| | | | |
|▲持ち駒 歩<br />△6二飛まで }}
王手をかけられた側は、以下の3種類からいずれかの対処を行い、1手でその状態を解消しなければならない。
;王将を逃がす
:相手の駒の利きのないマスへ玉を移動させること。図1では、玉を7九、7八、5九、5八のいずれかに動かすことで逃れることができる。
;[[合駒]]をする
:相手の走り駒([[飛車]]、[[角行]]、[[香車]]、[[竜王 (将棋の駒)|龍王]]、[[竜馬|龍馬]])によって1マス以上離れた場所から王手された場合に、その駒の利きを遮る位置に自分の駒を配置すること。図1では▲6八歩([[持ち駒]]による合駒)や▲6八角(移動合い)などが該当する<ref group="注">図1での合駒には他に6三~6七の位置に歩を打つ手もあるが、すぐに飛車に取られてまた王手がかかるためあまり意味がない。</ref>。
;王手している駒を取る
:最も効果的な手であることが多く、よく使用される対処法。図1では▲6二同角成が該当する<ref group="注">理論上は▲6二同角不成もありうるが、飛車・角・歩の不成が意味をもつのは[[打ち歩詰め]]が関連する場合、及び500手経過時に王手がかけてしまうことにより即持将棋とならず、その後逆王手をかけられ敗北する場合のみである。</ref>。
王手をされたうえで、上記のいずれの対処も不可能な場合は王手放置による反則ないし「[[詰み]]」による負けとなる。<br>詰みに至る展開を回避できないと判断した相手が[[投了]]するか、遅くとも詰みが発生することで対局は終了となる。
{{clear}}
=== 厳密な定義 ===
{{Quotation|
一方の側が玉以外の駒の利きを敵玉の存在するマス目に合わせるような指し手、つまり玉に取りをかけることを“王手”といい、かけた側から見れば“王手をかける”という
|[[日本将棋連盟]]『将棋ガイドブック』より引用。句読点を含め全て原文のまま。
}}
=== 王手の発声 ===
指導対局や[[縁台将棋]]、初心者同士の対局などでは、王手をかけた側が慣習的に口頭でも「王手」と言う場合がある。ただしあくまで慣習にすぎず、「王手」と発声しなければならないという''規定はない''<ref>日本将棋連盟ウェブサイト[https://www.shogi.or.jp/faq/rules/ よくあるご質問]参照。</ref>。
=== 王手に関する反則 ===
王手に直接関わる反則としては、王手放置や自玉を相手駒の利きにさらす手、[[打ち歩詰め]]、連続王手の[[千日手]]がある(→ 詳細は[[将棋#反則行為]]を参照)。将棋においてこれらの非合法手を指した場合、いずれも即座に負けとなる。
=== 王手に関する戦略的な事項 ===
* 特に終盤で一手を争う展開となった場合には、攻めを継続させることが重要になる場合も多い。'''王手は強制手であり、絶対的先手となる'''ので、王手をかけ続ける限りは、(逆王手をされない限り)自らが攻め続けることができる。敵玉を即詰みに討ち取ることができる場合がある他、場合によっては、後述の「王手○取り」で駒得を奪ったり、王手をかけながら自玉の[[詰めろ]](場合によっては「部分的には必至に見える状態」)を解消したりできる。そのため、駒損をしても王手が重視される場合もある。
* その反面、終盤において、敵玉が即詰みではない場合、安易に王手すると敵玉を安全地帯に逃がすだけで逆効果となり、敗着となることすらある。「王手は追う手」「王手するより縛りと必至」「'''玉は包むように寄せよ'''」という[[将棋の格言|格言]]があるように、縛りをかけながら必至を狙う方が勝ちにつながることが多い。
{{see also|詰み|必至}}
=== 特殊な王手 ===
==== 空き王手・開き王手(あきおうて)====
{|
|-
|
{{Shogi diagram|tright
|図2<br />△持ち駒 なし
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |kg
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |ns
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |ls
|▲持ち駒 なし }}
|
{{Shogi diagram|tright
|図3<br />△持ち駒 なし
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | |nsl|kg
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |ls
|▲持ち駒 なし<br />▲2四桂まで}}
|}
走り駒(飛車、角行、香車、龍王、龍馬)の利きにある自分の駒を動かしてかける王手である。図2から▲2四桂とした図3では、香車によって王手がかかっている。
{{clear}}
==== 両王手(りょうおうて)====
{|
|-
|
{{Shogi diagram|tright
|図4<br />△持ち駒 なし
| | | | |kg| | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | |bs| | | |
| | | | | | | | |
| |rg| | |ls| | | |
|▲持ち駒なし<br /> }}
|
{{Shogi diagram|tright
|図5<br />△持ち駒 なし
| | | | |kg| | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| |bsl| | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| |rg| | |ls| | | |
|▲持ち駒なし<br />▲8四角まで}}
|
{{Shogi diagram|tright
|図5-a<br />△持ち駒 歩
|lg|ng| |gg|kg|gg|sg|ng|lg
| |rg| |sg| | | |bg|
|pg| |pg|pg| |pg|pg|pg|pg
| |pg| | | | | | |
| | | | |bsl| | | |
| | |ps| | | | | |
|ps|ps| |ps| |ps|ps|ps|ps
| | | | |rs| | | |
|ls|ns|ss|gs|ks|gs|ss|ns|ls
|▲持ち駒 歩<br /> ▲5五角まで}}
|}
空き王手の一種。2枚の駒で同時にかける王手である。上記の図4から図5では角と香車の双方が王手をかけている。両王手をかけられると[[合駒]]はできず、王将を動かすしか手はない。王手している駒を取る対処法も王将自身で取る以外にできない(図では飛車で角や香車を取れず、後手としては王将を逃がす一手である)。したがって、両王手をかけられて王将を動かすことができなければ詰みとなる。その一例として図5-aは中飛車の序盤。後手はここで玉を△4二玉とするなどガードをせずに△8五歩や△3四歩などと指すと、▲3三角成で詰む。
{{clear}}
====逆王手(ぎゃくおうて)====
{|
|-
|
{{Shogi diagram|tright
|図6<br />△持ち駒 桂
|kg| | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|lsl|ks| | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|▲持ち駒 なし<br />▲9四香まで}}
|
{{Shogi diagram|tright
|図7<br />△持ち駒 なし
|kg| | | | | | | |
|ngl| | | | | | | |
| | | | | | | | |
|ls|ks| | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|▲持ち駒 なし<br />△9二桂まで}}
|}
王手を解消すると同時に、相手に王手をかけ返す手である。図6で後手の王将に王手がかかったが、図7では合駒の桂馬によって逆に先手の王将に王手がかかっている。図7の例のように合駒が王手になる場合以外にも、王手をかけている相手の駒を取ることで逆王手をかけたり、玉将を逃げる手が開き王手の逆王手になる場合もある。実戦で出現する他、[[双玉詰将棋]]における技法として用いられることも多い。詳しくは[[双玉詰将棋#逆王手]]も参照のこと。
{{clear}}
==== 王手○取り(おうて○とり)====
[[両取り]](2つ以上の駒を同時に狙う手)の一種で、王手をかけつつ別の敵駒の位置するマスに自駒([[歩兵 (将棋)|歩兵]]と[[香車]]以外)を利かせる手である。○の部分には、王将との両取りになっている駒の略称が入る。まず王手に対して応じなければならないので、他に狙われている駒はそのまま取られることが多い。「王手飛車取り」「王手角取り」のように、価値の高い駒を狙って使われることが多い。「王手飛車取り」は、特に「王手飛車」(おうてびしゃ)と略される。
{{clear}}
== チェスの王手(チェック) ==
=== チェックの基本 ===
[[チェス]]では将棋の王手にあたる手を'''チェック'''と呼ぶ。自分の駒の利き筋を、相手の[[キング (チェス)|キング]]に利かせる手を指す。記譜上の表記は、「'''check'''」あるいは「'''+'''」(プラス)で表す。
チェックをされた側は、直後の手番で必ずチェックを解かせるように対処しなければならない。ただし、[[キャスリング]]で相手のチェックに対処することはできない。
=== チェックの解消方法 ===
チェックの対処法(チェックの解消方法)には、次の3種類がある。
{| style="float:right"
|-
|
{{Chess diagram
|tright
|'''チェス図1'''
| |rd| | | | | |
| | | | | | | |
| | | |bl| | | |
| | | | | | | |
| | | | | | | |
| | | | | | | |
|oo| |oo| | | | |
|oo|kl|oo|nl| | | |
|'''Rb8+''' 黒がルークでチェックしたところ。<br />白のキングには3通りの対処法がある。
}}
|}
# 自分のキングを安全なマスへ移動する
#: 右図で白のキングを、a1・a2・c1・c2のいずれかに避難させる。
# 防御する(味方の駒でキングを守る)
#: d1のナイトをb2に移動させて防御する。将棋の合駒(移動合い)に相当する手である。
# 現在チェックしている駒を取る
#: d6のビショップで、黒のルークを取る。
{{clear}}
チェックをされていて、なおかつ上記1、2、3いずれの対処も不可能な場合は''' [[詰み#チェスの「詰み」|チェックメイト(メイト)]]'''となる。チェックメイトとなれば対局は終了となり、メイトさせた方の勝ち・メイトされた方の負けとなる。(→ 詳細は[[詰み#チェスの「詰み」|詰み・チェックメイト]]を参照。)
{{clear}}
=== チェックのルールとマナー ===
*チェックをされているにも拘らずチェックを放置する手を指した場合、その手は無効となり指し直しとなる。(この場合、例外的にタッチアンドムーブ<ref group="注">「touch and move」の事。触れた駒は必ず動かさなければならないという、チェスの厳格なマナーのひとつ。</ref>の原則は適用されない。)たとえチェックをされた側のミスによるものであったとしても、チェックした側は相手のキングを取ることはできない。
*自分からチェックを受けるような手を指した場合も、その手は無効となり、あらためて別の手を指し直すことができる。
=== 特殊なチェック ===
==== ディスカバード・チェック ({{en|discovered check}}) ====
{| style="float:right"
|-
|
{{Chess diagram
|tright
|'''チェス図2'''
| | | | | | | |
| |kd|pd| | | | |
| |pd| | | | | |
| | | | | | | |
| | | |oo|rl| | |
| | | | | |bl| |
| | | |qd|oo| | |
| | | | | | | |
|ディスカバード・チェックの例}}
|}
味方の駒を動かし、その後ろの駒で相手のキングをチェックする手である。チェス図では、白が次にRe2+またはRd4+とすれば、f3にあるビショップでチェックがかかるため、黒がこのチェックを防いでいるうちに白は黒のクイーンを取ることができる。将棋の空き王手に相当する。
[[ディスカバードアタック]]も参照。
{{clear}}
==== ダブル・チェック ({{en|double check}}) ====
{| style="float:right"
|-
|
{{Chess diagram
|tright
|'''チェス図3'''
|rd|nd|bd|kd| |bd| |rd
|pd|pd| | | |pd|pd|pd
| | |pd| | | | |
| | | | |qd| |bl|
| | | | |nd| | |
| | | | | | | |
|pl|pl|pl| | |pl|pl|pl
| | |kl|rl| |bl|nl|rl
|'''Bg5++''' ダブル・チェックの例}}
|}
ディスカバード・チェックの一種である。背後の駒だけでなく、動かした駒自体でもチェックする手を指す。チェス図3は、白のルークとビショップによるダブル・チェックである。
ダブル・チェックの記号は「'''++'''」である。
ダブル・チェックの場合は攻撃が双方向のため、味方の駒で防御することができない。そのためチェックを受けた側は、キングが逃げる以外に対処方法はない。チェックしている駒を取る対処法も、キング自身で取る以外にできない。したがって、ダブル・チェックをされていてキングを動かすことができなければチェックメイトとなる。将棋の両王手に相当する。
{{clear}}
====クロス・チェック ({{en|cross-check}})====
{| style="float:right"
|-
|
{{Chess diagram
|tright
|'''チェス図4'''
| | | | | | | |
| | | | | | |pl|
| | | | | | | |
| | |kl| | | | |
|kd| | |ql| | | |
| | | | | | | |
| | | | | | | |
| | | | | | |qd|
|'''Qd4+''' クロス・チェックの例}}
|}
将棋の「逆王手」に相当する手である。相手のチェックを防ぐと同時に、相手のキングへチェックをかける手を指す。終盤戦でクイーンを使いクロス・チェックをかけるケースが多い。
{{clear}}
== その他の王手があるチャトランガ系ゲーム ==
*[[中将棋]]などの各種将棋類
*中国の将棋(象棋)「[[シャンチー]]」(王将・キングに相当する駒は「[[帥 (シャンチー)|帥・将]]」)
*韓国・北朝鮮の将棋「[[チャンギ]]」(王将・キングに相当する駒は「[[宮 (チャンギ)|楚・漢]]」)
*タイ(東南アジア)の将棋「[[マークルック]]」(王将・キングに相当する駒は「クン」)
これらのゲームでも、王手の解消方法や、空き王手(ディスカバード・チェック)・両王手(ダブル・チェック)・逆王手(クロス・チェック)に相当する特殊な王手などについては将棋・チェスとほぼ同様である。
ただ、シャンチーやチャンギにおいては、王手に関して次のような特殊な性質を持つ駒がある。以下、「シャンチーの駒/チャンギの駒」の形式で駒を示すものとする。
* [[炮 (シャンチー)|炮・砲]]/[[包 (チャンギ)|包]]は帥・将/楚・漢との間に駒を1枚だけ挟まないと王手にならない。
* [[馬 (シャンチー)|馬]]/[[象 (シャンチー)|象]]は進路の途中に駒があるとその方向には進めないので、進路の先に帥・将/楚・漢があってもその途中に駒があれば王手にならない。
* 駒の性質上、[[仕 (シャンチー)|仕・士]]・相・象/[[士 (チャンギ)|士]]で直接王手することは不可能である。これらの駒を帥・将/楚・漢との間に挟んで炮・砲/包で王手することは可能である。
これらの特殊な駒の性質のため、シャンチーやチャンギでは、次のような特有の王手やその解消方法がある。
* 炮・砲/包による「空き王手」は、帥・将/楚・漢との間に駒が2枚(そのうち少なくとも一方は王手する側の駒)あり、そのうち一方を動かすことによって成立する。
* 炮・砲/包と帥・将/楚・漢の間に駒が1つもない状態でその間に駒を挟めば、炮・砲/包による「挟み王手」が成立する。
* 炮・砲/包による王手は、帥・将/楚・漢を逃がす以外に、間の駒をどかすか、間にもう1枚駒を挟むこと(合駒(移動合い)相当)によっても解消することができる。
* 馬/傌・象の進路の先に帥・将/楚・漢がある場合、進路の途中に1枚だけある駒をどかすと「空き王手」になるし、馬/傌・象による王手は、帥・将/楚・漢を逃がす以外に、進路の途中に駒を挟むこと(合駒(移動合い)相当)によっても解消することができる。
* 以上の特殊な駒の性質から、シャンチーやチャンギでは炮・砲/包と[[車 (シャンチー)|俥・車]]/[[車 (チャンギ)|車]]による同一方向からの「両王手」や、チャンギでは馬と象による「空き両王手」がありうるし、「両王手」の応用形として「三重王手」や「四重王手」(チャンギでは更に「五重王手」「六重王手」)もありうる。「両王手」も含めてこのように複数の駒で同時に王手がかかっている場合は、基本的には帥・将/楚・漢を動かすしか手はないが、同一方向からの複数の駒による王手の場合は、他の方向からも同時に王手がかかっていない限り、味方の駒で防御できる。
シャンチーにおける王手は「将」(ジャン)、チャンギにおける王手は「チャングン」(将軍)と呼ばれる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
*[[日本将棋連盟]]開発課 『将棋ガイドブック』 日本将棋連盟、2003年11月 ISBN 978-4819700801
== 関連項目 ==
* [[詰み]](チェックメイト)
* [[キャスリング]]
* [[合駒]]
== 外部リンク ==
{{Wikibooks|将棋|将棋}}
{{commonscat|Shogi}}
*[https://www.shogi.or.jp/ 日本将棋連盟]
*[http://www.jca-chess.com/ JCA(日本チェス協会)]
{{将棋}}
{{チェス}}
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{{chess-stub}}
{{デフォルトソート:おうて}}
[[Category:将棋用語]]
[[Category:チェス]]
| null |
2023-07-04T01:31:27Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%89%8B
|
17,343 |
東京テレポート駅
|
東京テレポート駅(とうきょうテレポートえき)は、東京都江東区青海一丁目にある、東京臨海高速鉄道(TWR)りんかい線の駅である。駅番号はR 04。
りんかい線公式ウェブサイトに掲載されている路線図では「(お台場)」と括弧書きが付されている。
島式ホーム1面2線を有する地下駅である。地上に採光窓があり、地下のホームまで自然光が届く設計となっている。世界都市博覧会会場の最寄り駅として建設された経緯からホーム・コンコースともに広々とした構造になっており、乗降客が増えた現在でも収容力にはかなりの余裕がある。
イベント開催時などの繁忙期に備えて臨時の自動券売機と自動精算機が設置されている。混雑が予想される日にはあらかじめ帰りの乗車券を購入するように案内放送がされる。
電車到着時には「東京テレポート、東京テレポートです。フジテレビにおいでの方は当駅が下車駅です」の放送と到着電車の案内がされる。
発車メロディは、2008年(平成20年)7月19日からフジテレビとの協力により、同局が制作し当駅近隣の地域一帯が舞台となったドラマ『踊る大捜査線』のテーマ曲を編曲したものに変更された。りんかい線の駅でご当地メロディが導入されるのは当駅が初めてである。ただし、2012年12月 - 2013年1月のみ、東映系アニメ映画『ONE PIECE FILM Z』のテーマ曲を使用していた。
2021年度の1日平均乗車人員は18,198人であり、りんかい線内8駅中第5位。
開業以来の1日平均乗車人員推移は下表のとおり。
当駅周辺のお台場地区はアクアシティお台場、デックス東京ビーチ、ダイバーシティ東京プラザなど大型商業施設・レジャー施設が林立している。一方で、ダイバーシティ東京 オフィスタワー、トレードピアお台場、台場フロンティアビルなどといった高層オフィスビルも多く林立している。
駅東側のA出口に隣接して、屋根付きの歩行者専用橋であるテレポートブリッジが南北方向に架かり、ゆりかもめお台場海浜公園駅まで通路で結ばれている。当駅からは改札外エレベーターがテレポートブリッジに直結している。また、駅南側の広場とパレットタウン跡地を抜けた先にゆりかもめ青海駅があり、ほぼ直線的にアクセス可能である。
駅前にロータリーがあり、東京都交通局、東京BRT、京浜急行バスなどの路線バスが発着する。停留所名は都営バスが東京テレポート駅前、東京BRTが東京テレポート(ナンバリング:B06)、それ以外は東京テレポート駅である。日の丸自動車興業は1番のりば前にスカイダックの乗車受付も行う観光案内所『お台場SKYツーリストインフォメーション』を開設している。
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"text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅である。地上に採光窓があり、地下のホームまで自然光が届く設計となっている。世界都市博覧会会場の最寄り駅として建設された経緯からホーム・コンコースともに広々とした構造になっており、乗降客が増えた現在でも収容力にはかなりの余裕がある。",
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"text": "発車メロディは、2008年(平成20年)7月19日からフジテレビとの協力により、同局が制作し当駅近隣の地域一帯が舞台となったドラマ『踊る大捜査線』のテーマ曲を編曲したものに変更された。りんかい線の駅でご当地メロディが導入されるのは当駅が初めてである。ただし、2012年12月 - 2013年1月のみ、東映系アニメ映画『ONE PIECE FILM Z』のテーマ曲を使用していた。",
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"text": "開業以来の1日平均乗車人員推移は下表のとおり。",
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"text": "当駅周辺のお台場地区はアクアシティお台場、デックス東京ビーチ、ダイバーシティ東京プラザなど大型商業施設・レジャー施設が林立している。一方で、ダイバーシティ東京 オフィスタワー、トレードピアお台場、台場フロンティアビルなどといった高層オフィスビルも多く林立している。",
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"text": "駅東側のA出口に隣接して、屋根付きの歩行者専用橋であるテレポートブリッジが南北方向に架かり、ゆりかもめお台場海浜公園駅まで通路で結ばれている。当駅からは改札外エレベーターがテレポートブリッジに直結している。また、駅南側の広場とパレットタウン跡地を抜けた先にゆりかもめ青海駅があり、ほぼ直線的にアクセス可能である。",
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"text": "駅前にロータリーがあり、東京都交通局、東京BRT、京浜急行バスなどの路線バスが発着する。停留所名は都営バスが東京テレポート駅前、東京BRTが東京テレポート(ナンバリング:B06)、それ以外は東京テレポート駅である。日の丸自動車興業は1番のりば前にスカイダックの乗車受付も行う観光案内所『お台場SKYツーリストインフォメーション』を開設している。",
"title": "バス路線"
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] |
東京テレポート駅(とうきょうテレポートえき)は、東京都江東区青海一丁目にある、東京臨海高速鉄道(TWR)りんかい線の駅である。駅番号はR 04。 りんかい線公式ウェブサイトに掲載されている路線図では「(お台場)」と括弧書きが付されている。
|
{{駅情報
|社色 = #00418e
|文字色 =
|駅名 = 東京テレポート駅
|画像 = Rinkai-line-R04-Tokyo-teleport-station-entrance-A-20220101-143853.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = A出口(2022年1月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail-metro}}
|よみがな = とうきょうテレポート
|ローマ字 = Tokyo Teleport
|副駅名 = ダイバーシティ東京プラザ前
|前の駅 =R 03 [[国際展示場駅|国際展示場]]
|駅間A = 1.4
|駅間B = 2.9
|次の駅 = *[[天王洲アイル駅|天王洲アイル]] R 05
|電報略号 = テレ
|駅番号 = {{駅番号r|R|04|#00418e|6|#ADD8E6}}
|所属事業者 = [[東京臨海高速鉄道]]
|所属路線 = {{color|#00418e|●}}[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]
|キロ程 = 4.9
|起点駅 = [[新木場駅|新木場]]
|所在地 = [[東京都]][[江東区]][[青海 (江東区)|青海]]一丁目2-1
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 37 | 緯度秒 = 39 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 46 | 経度秒 = 44 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
| 座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月30日]]<ref name="交通960402">{{cite news |和書|title=臨海副都心線が開業 |newspaper=交通新聞 |date=1996-04-02 |publisher=交通新聞社 |page=3 }}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 18,198
|乗降人員 =
|統計年度 = 2021年
|乗換 =
|備考全幅 = *この間に[[品川埠頭分岐部信号場]]有り(当駅から1.9km先)。
}}
'''東京テレポート駅'''(とうきょうテレポートえき)は、[[東京都]][[江東区]][[青海 (江東区)|青海]]一丁目にある、[[東京臨海高速鉄道]](TWR)[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''R 04'''。
りんかい線公式ウェブサイトに掲載されている路線図では「(お台場)」と括弧書きが付されている<ref>[http://www.twr.co.jp/route/tabid/102/Default.aspx 駅情報・時刻表・運賃|お台場電車 りんかい線]</ref>。
== 歴史 ==
* [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月30日]]:[[新木場駅]] - 当駅間の開業と同時に、臨海副都心線の駅として開業{{R|交通960402}}。
* [[2000年]](平成12年)[[9月1日]]:路線名称変更により、りんかい線の駅となる<ref name="aisyouset">{{Cite web|url=http://www.twr.co.jp/aisyouset.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000829033800/http://www.twr.co.jp/aisyouset.html|title=愛称名は「りんかい線」に決定!|archivedate=2000-08-29|accessdate=2022-03-27|publisher=東京臨海高速鉄道|language=日本語|deadlinkdate=2022年3月}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[3月31日]]:当駅 - [[天王洲アイル駅]]間が開業<ref name="tenkset">{{Cite web|url=http://www.twr.co.jp/tenkset.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010409203911/http://www.twr.co.jp/tenkset.html|title=りんかい線「天王洲アイル駅」平成13年3月31日に開業!|archivedate=2001-04-09|accessdate=2022-03-27|publisher=東京臨海高速鉄道|language=日本語|deadlinkdate=2022年3月}}</ref><ref>{{Cite news|title=東京臨海高速鉄道 東京テレポート~天王洲アイル 3月31日先行開業|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=2000-12-19|page=1}}</ref>。中間駅となる。
* [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171105133949/http://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|format=PDF|language=日本語|title=Suicaがもっと便利に! 東京臨海高速鉄道(株)との相互利用開始!|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-10-08|accessdate=2020-02-04|archivedate=2017-11-05}}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[7月19日]]:発車メロディを『[[踊る大捜査線]]』のテーマ曲に変更<ref>「[https://web.archive.org/web/20130702004516/http://www.twr.co.jp/info/2008/bell_hassha.html りんかい線インフォメーション 東京テレポート駅“発車ベル音”の変更について](2013年7月2日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])」</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[7月22日]]:改札外に[[コンビニエンスストア]]「[[NewDays]]」りんかい東京テレポート店開業。
* [[2012年]](平成24年)[[12月7日]]:発車メロディを『[[ONE PIECE FILM Z]]』のテーマ曲に変更<ref>[https://web.archive.org/web/20121207081602/http://www.twr.co.jp/special/2012winter/index.html イルミネーションアイランドお台場2012 ONE PIECE FILM Z|りんかい線](2012年12月7日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[2月1日]]:発車メロディを『ONE PIECE FILM Z』のテーマ曲使用期間終了に伴い、『踊る大捜査線』のテーマ曲に戻される<ref>[http://www.twr.co.jp/tabid/101/Default.aspx?itemid=143&dispmid=860 東京テレポート駅 発車メロディー「ワンピース」が終了し「踊る大捜査線」のテーマ曲が復活します。]</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[1月1日]]:副駅名を「"[[アクアシティお台場]]・メディアージュ前"」から「"[[ダイバーシティ東京プラザ]]"」前に変更。
* [[2023年]]([[令和]]5年)[[3月4日]]:[[ホームドア]]の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2023/tokyoteleport_homedoor_20230227.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230307023248/https://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2023/tokyoteleport_homedoor_20230227.pdf|format=PDF|language=日本語|title=りんかい線 東京テレポート駅 ホームドア運用開始について|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2023-02-27|accessdate=2023-03-08|archivedate=2023-03-07}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]である。地上に[[天窓|採光窓]]があり、地下のホームまで自然光が届く設計となっている。[[世界都市博覧会]]会場の最寄り駅として建設された経緯からホーム・[[コンコース]]ともに広々とした構造になっており、乗降客が増えた現在でも収容力にはかなりの余裕がある。
イベント開催時などの繁忙期に備えて臨時の[[自動券売機]]と[[自動精算機]]が設置されている。混雑が予想される日にはあらかじめ帰りの乗車券を購入するように案内放送がされる。
電車到着時には「東京テレポート、東京テレポートです。フジテレビにおいでの方は当駅が下車駅です」の放送と到着電車の案内がされる<ref group="注">[[発車標]]設置以前にも開業1年後にあたる1997年からフジテレビ移転に伴い独自の到着放送が行われていた。なお、りんかい線での電車到着時における駅名の自動アナウンスは大崎延伸の数年後までは全駅で実施されていたが、2012年現在は新木場駅と当駅のみとなっている。</ref>。
=== のりば ===
<!--番線欄のカラーは発車標などでの上り下りの色分け-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!colspan="2"|行先<ref>{{Cite web |url=https://www.twr.co.jp/route/tabid/113/Default.aspx?TabModule1398=0 |title=東京テレポート駅 時刻表 |publisher=東京臨海高速鉄道 |accessdate=2023-06-06}}</ref>!!備考
|-
! 1
| rowspan="2"|[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線
| style="text-align:center" | 下り
| style="background:#00b48d" |
| [[大崎駅|大崎]]・[[File:JR JA line_symbol.svg|15px|JA]] [[埼京線]]([[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]])方面
|
|-
! 2
| style="text-align:center" | 上り
| style="background:#0072ff" |
| [[新木場駅|新木場]]方面
|平日早朝の当駅始発列車は1番線
|}
<gallery>
Tokyo-Teleport-PTA Gate.jpg|改札口(2023年2月)
Tokyo-Teleport-PTA_Platform1-2.jpg|ホーム(2023年2月)
Tokyo Teleport Station Concourse.jpg|コンコース(2005年10月)
</gallery>
=== 発車メロディ ===
[[発車メロディ]]は、[[2008年]](平成20年)[[7月19日]]からフジテレビとの協力により、同局が制作し当駅近隣の地域一帯が舞台となった[[テレビドラマ|ドラマ]]『[[踊る大捜査線]]』のテーマ曲を編曲したものに変更された。りんかい線の駅でご当地メロディが導入されるのは当駅が初めてである。ただし、2012年12月 - 2013年1月のみ、[[東映]]系アニメ映画『[[ONE PIECE FILM Z]]』のテーマ曲を使用していた。
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]]
|C.X.
|-
!2
|Rhythm And Police
|}
== 利用状況 ==
2021年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''18,198人'''であり、りんかい線内8駅中第5位<ref group="利用客数">[https://www.twr.co.jp/contact/tabid/224/Default.aspx よくあるご質問|お問い合わせ|お台場電車 りんかい線] (ページ上段)</ref>。
開業以来の1日平均'''乗車'''人員推移は下表のとおり。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365(or366)で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.koto.lg.jp/kuse/tokeshiryo/databook/index.html 江東区データブック] - 江東区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|2,299
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|3,616
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|3,888
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|5,407
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|6,214
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|6,756
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|9,573
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|18,787
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|19,499
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|20,496
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|20,581
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|22,202
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|23,573
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|24,578
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|23,541
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|22,686
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|28,991
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|29,751
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|31,067
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|32,101
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|32,449
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|32,284
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|33,853
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|34,652
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|17,076
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|18,198
|
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:TWR HQ 200909.jpg|thumb|230px|東京臨海高速鉄道本社]]
当駅周辺のお台場地区は[[アクアシティお台場]]、[[デックス東京ビーチ]]、[[ダイバーシティ東京|ダイバーシティ東京プラザ]]など大型商業施設・レジャー施設が林立している。一方で、[[ダイバーシティ東京|ダイバーシティ東京 オフィスタワー]]、[[トレードピアお台場]]、[[台場フロンティアビル]]などといった高層オフィスビルも多く林立している。
駅東側のA出口に隣接して、屋根付きの[[人道橋|歩行者専用橋]]である[[テレポートブリッジ]]が南北方向に架かり、[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]][[お台場海浜公園駅]]まで通路で結ばれている。当駅からは改札外[[エレベーター]]がテレポートブリッジに直結している。また、駅南側の広場と[[パレットタウン]]跡地を抜けた先にゆりかもめ[[青海駅 (東京都)|青海駅]]があり、ほぼ直線的にアクセス可能である。
* [[港区 (東京都)|港区]]役所芝浦港南支所台場分室
* [[東京湾岸警察署]]
* お台場海浜公園前[[郵便局]]
* 東京臨海高速鉄道本社
* [[東京国際クルーズターミナル]]
* [[東京国際交流館]]
* [[日本科学未来館]]
* [[船の科学館]]
* [[シンボルプロムナード公園]]
* [[お台場海浜公園]]
* [[ヒルトン東京お台場]]
* [[グランドニッコー東京 台場]]
* [[FCGビル]]
** [[フジ・メディア・ホールディングス]]
** [[フジテレビジョン]]
** [[BSフジ]]
* [[デックス東京ビーチ]]
** [[東京ジョイポリス]]
** [[台場一丁目商店街]]
** [[レゴランド|レゴランド・ディスカバリー・センター東京]]
** [[マダム・タッソー館|マダム・タッソー東京]]
* [[アクアシティお台場]]
* [[ダイバーシティ東京]]
** ダイバーシティ東京プラザ
** ダイバーシティ東京 オフィスタワー
* [[トレードピアお台場]]
* [[台場フロンティアビル]]
** [[ユーシーカード]]本社
* [[乃村工藝社]]本社ビル
* [[サントリー]]東京支社
* [[BMW GROUP Tokyo Bay]]
* CITY CIRCUIT TOKYO BAY
== バス路線 ==
駅前に[[ロータリー交差点|ロータリー]]があり、[[都営バス|東京都交通局]]、[[東京BRT]]、[[京浜急行バス]]などの路線バスが発着する。停留所名は都営バスが'''東京テレポート駅前'''、東京BRTが'''東京テレポート'''(ナンバリング:'''B06''')、それ以外は'''東京テレポート駅'''である。日の丸自動車興業は1番のりば前にスカイダックの乗車受付も行う観光案内所『お台場SKYツーリストインフォメーション』を開設している。
=== 路線バス ===
; 都営バス
: 2番のりば
:* [[都営バス深川営業所#陽12系統|陽12-3]]:[[東陽町駅|東陽町駅前]]行(土休日のみ)
: 3番のりば
:* [[都営バス有明営業所#波01(NM01)系統|波01(NM01)]]:[[中央防波堤埋立地|中央防波堤]]行
: 4番のりば
:* [[都営バス有明営業所#海01(KM01)系統|海01(KM01)]]:[[門前仲町駅|門前仲町]]行
; 東京BRT
: 東京BRTのりば
:* 幹線ルート(BRT 1):[[新橋駅|新橋]]行(土休日のみ・連節車は[[京成バス]]による運行)
; 京浜急行バス
: 5番のりば
:* [[京浜急行バス大森営業所#船の科学館線|井30・森30]]:[[大井町駅]]行・お台場循環
:* [[京浜急行バス大森営業所#船の科学館線|井30]]:[[大森駅 (東京都)|大森駅]]行 ※朝1本のみ
; [[日の丸自動車興業]]
: 1番のりば
:* スカイホップバス東京 ブルーコース
:* スカイダック台場 豊洲・東京Viewコース
:* スカイダック台場 お台場パノラマコース
=== 高速バス ===
[[File:東京テレポート駅 高速バス 3番乗り場.jpg|thumb|upright=0.5|東京テレポート駅 高速バス 6番乗り場]]
; 京成バス・関東鉄道・JR東海バス
: 6番のりば
:* [[鹿島神宮駅]]行([[関東鉄道]])
:* [[つくばセンター]]・[[土浦駅|土浦駅東口]]行(関東鉄道)※運休中
:* ファンタジアなごや号:[[名古屋ターミナルビル|名古屋駅桜通口]]行([[京成バス]]・[[ジェイアール東海バス|JR東海バス]])
; JAMJAMライナー([[ジャムジャムエクスプレス]])
: 1番のりば
:* [[弘前駅|弘前駅城東口]]・[[青森駅]]行
:* [[大阪梅田]]・[[和泉中央駅]]・[[和歌山駅]]行
:* [[富山駅|富山駅北口]]・[[金沢駅|金沢駅西口]]・[[小松駅|小松駅西口]]行
:* 名古屋南([[ささしまライブ駅|ささしまライブ]])・[[ナゴヤドーム]]行
:* [[長岡駅|長岡駅大手口]]・[[燕三条駅|燕三条駅三条口]]・[[新潟駅|新潟駅南口]]行
:* 八方・白馬行 ※季節運行
:* [[志賀高原]]行 ※季節運行
:* 斑尾・赤倉行 ※季節運行
* 上記の他、[[仙台駅|仙台駅前]]発[[スイート号|ホリデースター号]]([[東北急行バス]])、[[岡山駅|岡山駅西口]]発[[東京 - 岡山・倉敷線|ルブラン号]](東北急行バス・[[両備ホールディングス|両備バス]])のそれぞれ上り便(終着)が停車する。
== その他 ==
* 駅名は当初の東京都の臨海副都心開発事業計画の愛称である「東京テレポートタウン」に由来する。
* 英語の [[:en:wikt:teleport|teleport]] は「念力で動かす」「テレポーテーション(瞬間移動)する」という意味なので、「東京テレポート駅」という表記を見て戸惑う外国人もいる<ref>[https://www.gizmodo.jp/2020/01/carlos-gone.html カルロス・ゴーンの逃亡劇:海外で驚かれた7つのこと_7. 東京にはテレポート駅がある]</ref>。
* JR東日本では、[[羽田空港アクセス線]]の臨海部ルートとして、当駅と[[天王洲アイル駅|天王洲アイル]]間の分岐点([[品川埠頭分岐部信号場]])から単線で[[東臨運輸区]](八潮車両基地)に向かう回送線を複線化した上で、[[東京貨物ターミナル駅]] - [[東京国際空港|羽田空港]]と結ぶことを検討している<ref>{{Cite web|和書|url=http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/knp/news/20140820/674069/ |title=羽田アクセス総取りか、JR新線3ルートの全貌(1/3)|author=大野雅人|work=日経コンストラクション|publisher=日経BP|date=2014-08-20|accessdate=2016-04-09}}</ref>。この計画が実現すると、羽田空港 - 新木場間が天王洲アイルでの乗り換えなしで行くことが可能になる。なお、2016年の時点では、羽田空港とお台場の間には、京浜急行バスと[[東京空港交通]]によるリムジンバスが別個に運行されている。
* 『踊る大捜査線』や『[[元カレ]]』、『[[蘇える金狼#テレビドラマ|蘇える金狼]]』など多数の[[テレビドラマ]]や[[映画]]、[[コマーシャルメッセージ|CM]]の[[ロケーション撮影]]にも使われている。
== 隣の駅 ==
; 東京臨海高速鉄道
: [[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車<!-- カラーはE233系のフルカラー方向幕の色に準拠 --->
::: [[国際展示場駅]] (R 03) - '''東京テレポート駅 (R 04)''' -([[品川埠頭分岐部信号場]])- [[天王洲アイル駅]] (R 05)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
==== 出典 ====
{{Reflist}}
=== 利用状況 ===
; 私鉄の1日平均利用客数
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; 私鉄の統計データ
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; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[曙橋駅]] - かつてのフジテレビ最寄り駅。副称も「フジテレビ前」だった。
== 外部リンク ==
* [https://www.twr.co.jp/route/tabid/112/Default.aspx 東京臨海高速鉄道 東京テレポート駅]
{{りんかい線}}
{{Odaiba area sights}}
{{DEFAULTSORT:とうきようてれほと}}
[[Category:江東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 と|うきようてれほと]]
[[Category:東京臨海高速鉄道]]
[[Category:1996年開業の鉄道駅]]
[[Category:お台場]]
[[Category:フジテレビジョン]]
[[Category:青海 (江東区)]]
|
2003-09-19T01:54:58Z
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2023-12-11T17:33:19Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E9%A7%85
|
17,345 |
東雲駅 (東京都)
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東雲駅(しののめえき)は、東京都江東区東雲二丁目にある、東京臨海高速鉄道(TWR)りんかい線の駅である。駅番号はR 02。
当初は建設計画がなかったが、江東区の請願駅として開業している。
相対式ホーム2面2線を有する高架駅。りんかい線の多くが地下駅となっているが、当駅は大崎駅、新木場駅とともに数少ない地上部にある駅である。また、相対式ホームもりんかい線では当駅が唯一である。これはすでに旧・日本国有鉄道(国鉄)京葉貨物線として計画され、ほぼ完成していた複線用の高架橋を生かしたまま駅を後付けするかたちで建設したためである。
2021年度の1日平均乗車人員は6,165人である。りんかい線内8駅中最下位だが、1996年の開業より2019年まで利用客が毎年増加してきた。
開業以来の1日平均乗車人員推移は下表のとおり。
東雲は東京港埋立11号地に作られた新しい街である。かつて、周りは見渡す限りの工業団地・物流基地であった。その後国道357号北側の開発が進み、大型ショッピングセンターや商業施設が開業した。2005年以降は超高層マンションなども多数建設され、住民が急増している。
駅前から発着するのは都営バス(東京都交通局)のみであるが、近隣にある東北急行バス・京成バスの営業所(車庫)から高速バス路線が発着する。高速バス路線はいずれも東京駅発着便が車庫との回送区間を営業運行しているものである。
駅前ロータリーに東雲駅前停留所が設けられている。都営バスの以下の路線が乗り入れる。
東雲駅北側にある深川車庫前停留所にも近い。
東雲駅北西側にある。停留所名は東北急行東京営業所。ただし同地より発着する関越交通では東雲車庫と呼称している。
東雲駅から北に徒歩約10分の場所にある。停留所名は東雲車庫。
当駅はテレビコマーシャル撮影で多く使われている。
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東雲駅(しののめえき)は、東京都江東区東雲二丁目にある、東京臨海高速鉄道(TWR)りんかい線の駅である。駅番号はR 02。 当初は建設計画がなかったが、江東区の請願駅として開業している。
|
{{駅情報
|社色 = #00418e
|文字色 =
|駅名 = 東雲駅
|画像 = Shinonome Station, at Shinonome, Koto, Tokyo (2019-01-01).jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎外観(2019年1月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail-metro}}
|よみがな = しののめ
|ローマ字 = Shinonome
|副駅名 =
|前の駅 =R 01 [[新木場駅|新木場]]
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|次の駅 = [[国際展示場駅|国際展示場]] R 03
|電報略号 = シノ
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|所属事業者 = [[東京臨海高速鉄道]]
|所属路線 = {{Color|#00418e|●}}[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]
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|所在地 = [[東京都]][[江東区]][[東雲 (江東区)|東雲]]二丁目8-10
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 38 | 緯度秒 = 26.3 | N(北緯)及びS(南緯) = N
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|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月30日]]<ref name="交通960402">{{cite news|title=臨海副都心線が開業 |newspaper=[[交通新聞]]|date=1996-04-02 |publisher=[[交通新聞社]]|page=3 }}</ref><ref name="RF422_83">{{Cite journal|和書|author=斎藤義雄(東京臨海高速鉄道運輸部運転課)|date=1996-06-01|title=東京臨海高速鉄道 臨海副都心線 開業|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=36|issue=第6号(通巻422号)|pages=83 - 87|publisher=[[交友社]]}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 6,165
|乗降人員 =
|統計年度 = 2021年
|乗換 =
|備考 =
}}
'''東雲駅'''(しののめえき)は、[[東京都]][[江東区]][[東雲 (江東区)|東雲]]二丁目にある、[[東京臨海高速鉄道]](TWR)[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''R 02'''。
当初は建設計画がなかったが、江東区の[[請願駅]]として開業している<ref>{{Cite journal|和書 |author=高津俊司, 佐藤馨一 |title=開発者負担金による鉄道整備の事後評価に関する研究:東京臨海部開発のための「りんかい線」を事例として |date=2004-10 |publisher=日本都市計画学会 |journal=都市計画論文集 |volume=第39回学術研究論文発表会 |url=https://doi.org/10.11361/cpij1.39.0.93.0 |page=93 |naid=130006947616 |doi=10.11361/cpij1.39.0.93.0 |ISSN=1348-284X}}</ref><ref name="koujisi">{{Cite web|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/construction/asset/constUtwr-1_00.pdf|title=臨海副都心線工事誌 新木場~東京テレポート間|publisher=日本鉄道建設公団東京支社/東京臨海高速鉄道株式会社|date=1996-10|accessdate=2023-05-07|page=32}}</ref>。
== 歴史 ==
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[3月31日]]:[[運輸省]]が駅設置を認可<ref>{{Cite news|title=東京臨海副都心線に「東雲駅」の設置認可/運輸省|newspaper=[[読売新聞]]|date=1993-04-01|publisher=[[読売新聞社]]|page=27 東京朝刊}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)[[3月30日]]:[[新木場駅]] - [[東京テレポート駅]]間の開業と同時に、臨海副都心線の駅として開業{{R|交通960402}}<ref name="RF422_83" />。
* [[2000年]](平成12年)[[9月1日]]:路線名称変更により、りんかい線の駅となる<ref name="aisyouset">{{Cite web|url=http://www.twr.co.jp/aisyouset.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000829033800/http://www.twr.co.jp/aisyouset.html|title=愛称名は「りんかい線」に決定!|archivedate=2000-08-29|accessdate=2022-03-27|publisher=東京臨海高速鉄道|language=日本語|deadlinkdate=2022年3月}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171105133949/http://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|format=PDF|language=日本語|title=Suicaがもっと便利に! 東京臨海高速鉄道(株)との相互利用開始!|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-10-08|accessdate=2020-02-04|archivedate=2017-11-05}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]<ref name="RF422_83" />。りんかい線の多くが[[地下駅]]となっているが、当駅は[[大崎駅]]、[[新木場駅]]とともに数少ない地上部にある駅である。また、相対式ホームもりんかい線では当駅が唯一である。これはすでに旧・[[日本国有鉄道]](国鉄)[[京葉線|京葉貨物線]]として計画され、ほぼ完成していた[[複線]]用の[[高架橋]]を生かしたまま駅を後付けするかたちで建設したためである<ref name="koujisi" />。
=== のりば ===
<!--番線欄のカラーは発車標などでの上り下りの色分け-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!colspan="2"|行先<ref>{{Cite web |url=https://www.twr.co.jp/route/tabid/109/Default.aspx?TabModule1380=0 |title=東雲駅 時刻表 |publisher=東京臨海高速鉄道 |accessdate=2023-06-06}}</ref>
|-
! 1
| rowspan="2"|[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線
| style="text-align:center" | 下り
| style="background:#00b48d" |
| [[大崎駅|大崎]]・[[File:JR JA line_symbol.svg|15px|JA]] [[埼京線]]([[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]])方面
|-
! 2
| style="text-align:center" | 上り
| style="background:#0072ff" |
| [[新木場駅|新木場]]方面
|}
<gallery>
Rinkai-Shinonome-STA Gate.jpg|改札口(2021年7月)
Rinkai-Shinonome-STA Platform 20210711 162130.jpg|ホーム(2021年7月)
</gallery>
== 利用状況 ==
2021年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''6,165人'''である<ref group="利用客数">[https://www.twr.co.jp/contact/tabid/224/Default.aspx よくあるご質問|お問い合わせ|お台場電車 りんかい線] (ページ上段)</ref>。りんかい線内8駅中最下位だが、1996年の開業より2019年まで利用客が毎年増加してきた。
開業以来の1日平均'''乗車'''人員推移は下表のとおり。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365(or366)で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.koto.lg.jp/kuse/tokeshiryo/databook/index.html 江東区データブック] - 江東区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|808
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|1,082
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|1,118
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|1,175
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|1,192
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|1,496
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|1,901
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|2,749
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|2,970
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|3,468
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|4,203
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|4,374
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|4,822
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|5,178
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|5,268
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|5,352
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|5,793
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|6,335
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|6,449
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|6,541
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|6,590
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|6,856
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|7,209
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|7,313
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|5,487
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|6,165
|
|}
== 駅周辺 ==
東雲は[[東京港]][[埋立地|埋立]]11号地に作られた新しい街である。かつて、周りは見渡す限りの[[工業団地]]・[[物流]]基地であった。その後[[国道357号]]北側の開発が進み、大型ショッピングセンターや商業施設が開業した。2005年以降は[[超高層マンション]]なども多数建設され、住民が急増している。
*[[都営バス深川営業所]](深川車庫)
* [[東北急行バス]]東京営業所(東雲車庫)
*[[京成バス東雲車庫]] - 徒歩10分、千葉方面への高速バス発着地となっている。
* 東雲鉄鋼団地
* 江東東雲[[郵便局]]
* [[オートバックスセブン|スーパーオートバックス]]TOKYOベイ東雲店
* [[辰巳駅]]
* [[東雲キャナルコート]]
** [[東雲キャナルコートCODAN]]
** [[イオングループのショッピングセンター一覧|イオン東雲ショッピングセンター]]
*[[東武ストア]]
*[[かえつ有明中学校・高等学校]]
* [[有明教育芸術短期大学]]
*[[国道357号]]
* [[首都高速湾岸線]]
* [[東京有明医療大学]]
== バス路線 ==
駅前から発着するのは[[都営バス]]([[東京都交通局]])のみであるが、近隣にある[[東北急行バス]]・[[京成バス]]の営業所(車庫)から[[高速バス]]路線が発着する。高速バス路線はいずれも[[東京駅のバス乗り場|東京駅]]発着便が車庫との回送区間を営業運行しているものである。
=== 都営バス ===
駅前[[ロータリー交差点|ロータリー]]に'''東雲駅前'''停留所が設けられている。都営バスの以下の路線が乗り入れる。
* 1番乗り場
** [[都営バス深川営業所#門19系統|門19]]:[[門前仲町駅|門前仲町]]行
** [[都営バス深川営業所#東15系統|東15乙]]:[[東京駅のバス乗り場|東京駅八重洲口]]行 ※平日朝1本のみ
* 2番乗り場
** [[都営バス深川営業所#錦13系統|錦13乙]]:[[錦糸町駅|錦糸町駅前]]行
* 3番乗り場
** 門19甲・門19乙・錦13乙:[[都営バス深川営業所|深川車庫前]]行
** 門19甲:[[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]行
東雲駅北側にある'''深川車庫前'''停留所にも近い。
=== 東北急行バス ===
東雲駅北西側にある。停留所名は'''東北急行東京営業所'''。ただし同地より発着する[[関越交通]]では'''東雲車庫'''と呼称している。
* きまっし号:[[富山駅]]北口・金沢駅前・北観佐奇森車庫行き (東北急行バス・[[北日本観光自動車]])
* [[フライングライナー号]]:[[京都駅]]八条口・[[東梅田駅|大阪駅前(東梅田)]]・[[JR難波駅|近鉄なんば駅西口(OCATビル)]]・[[大阪阿部野橋駅|あべの橋]]・[[藤井寺駅]]行き (東北急行バス・[[近鉄バス]])
* フライングスニーカー号:京都駅八条口・大阪駅前(東梅田)・近鉄なんば駅西口(OCATビル)・あべの橋・[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]]行き (東北急行バス・近鉄バス)
* ままかりライナー:[[岡山駅]]西口・[[倉敷駅]]北口行き (東北急行バス・[[両備バス]])
* [[関越交通#四万温泉号|四万温泉号]]:[[四万温泉]]行き(関越交通)
* [[関越交通#上州湯けむりライナー 伊香保・四万温泉号|上州湯けむりライナー 伊香保・四万温泉号]](季節運行):[[伊香保温泉]]・四万温泉行き(関越交通)
=== 京成バス ===
東雲駅から北に徒歩約10分の場所にある。停留所名は'''東雲車庫'''。
* マイタウン・ダイレクトバス
** 千葉北ルート【ちばきたライナー】(京成バス)
** ユーカリが丘ルート([[千葉内陸バス]]・[[ちばグリーンバス]])
** 千城台ルート(京成バス)
* 東京 - 木更津線(京成バス・[[日東交通木更津運輸営業所|日東交通]])
** [[木更津金田バスターミナル]]・[[木更津駅|木更津駅西口]]・[[イオンモール木更津]]・[[君津製鐵所]]行き
* 東京 - 君津線(京成バス・日東交通)
** 木更津金田バスターミナル・[[君津バスターミナル]]・[[君津駅|君津駅南口]]・[[青堀駅]]・[[イオンモール富津]]行き
* 東京 - 白子線([[小湊鉄道]])
** [[大網駅]]・[[白子町|白子中里]]行き
* 東京 - 鴨川線【[[アクシー号]]】(京成バス・日東交通)
** [[安房鴨川駅]]・[[亀田総合病院|亀田病院]]行き(特急・1往復のみ発着)
== その他 ==
当駅は[[コマーシャルメッセージ|テレビコマーシャル]]撮影で多く使われている。
* [[サントリーフーズ]]・[[ボス (コーヒー)|ボス]](「ボス電」編)
* [[KDDI]]・[[au (携帯電話)|au]](最後のメール編)
* [[日本経済新聞]](別れた理由編)
* [[ビオフェルミン製薬]]・新ビオフェルミンS錠
* [[NTTドコモ]](携帯マナー・電車編)
* [[住友生命保険|住友生命]](「夢」篇)
* [[日本コカ・コーラ]]・[[ジョージア (缶コーヒー)|ジョージア]]エメラルドマウンテンブレンド(駅篇)
* [[CJプライムショッピング|プライム]](企業CM)
* [[ユニクロ]]・AIRism(ユーザー実感データ篇)
== 隣の駅 ==
; 東京臨海高速鉄道
: [[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車<!-- カラーはE233系のフルカラー方向幕の色に準拠 --->
::: [[新木場駅]] (R 01) - '''東雲駅 (R 02)''' - [[国際展示場駅]] (R 03)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
-->
==== 出典 ====
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=== 利用状況 ===
; 私鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; 私鉄の統計データ
{{Reflist|group="統計"}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Shinonome Station (Tokyo)}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.twr.co.jp/route/tabid/108/Default.aspx 東京臨海高速鉄道 東雲駅]
{{りんかい線}}
{{DEFAULTSORT:しののめ}}
[[Category:江東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 し|ののめ]]
[[Category:東京臨海高速鉄道]]
[[Category:1996年開業の鉄道駅]]
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17,347 |
天王洲アイル駅
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天王洲アイル駅(てんのうずアイルえき)は、東京都品川区東品川二丁目にある、東京モノレール・東京臨海高速鉄道(TWR)の駅である。
品川区最東端の駅であり、駅周辺の街区は天王洲アイルと通称される。
以下の2社2路線が乗り入れており、相互間の接続駅となっている。
両線の駅の乗り換えには一旦駅の敷地外に出る必要がある。
2通りの乗り換えルートが案内されている。一つは東京モノレール南口とりんかい線A出口の間を移動するルートであり、道路横断を伴うものの移動距離は短い。もう一つは東京モノレール中央口とりんかい線B出口の間で地下通路と屋根付きの歩道橋スカイウォークを経由するルートであり、やや遠回りとなるものの雨天時でも濡れることなく移動できる。
相対式ホーム2面2線を有する高架駅である。
開業当時は浜松町寄りのみに改札口を有していたが、東京臨海高速鉄道りんかい線の開業により乗り換え駅となったのに伴い、羽田空港方面ホームの大井競馬場前寄りに新たに南口改札口が設置された。南口が設置された当初は浜松町方面のホームから利用するには浜松町寄りにある中央口コンコースを迂回しなければならなかったが、その後2004年に羽田空港寄りに上下線ホームを階段およびエレベーターで結ぶ連絡通路が設置されている。
※ 案内上ののりば番号は設定されていない。
島式ホーム1面2線を有する地下駅で、ホームの東京テレポート寄りは大きくカーブしている。
当初、りんかい線は東京テレポート - 大崎間の一括開業を予定していたが、当駅から大崎までの工事が大幅に遅れたため、2001年3月31日に当駅まで先行開業した。そのため、2002年11月30日までは終着駅であり、1番線を閉鎖し、2番線のみを使用していた。
柱に掲出されている駅名標の下には、「寺田倉庫本社前」と表記されている。
各年度の1日平均乗降人員の推移は以下の通り。
各年度の1日平均乗車人員の推移は以下の通りである。
当駅が設置される前は雑多な倉庫が並ぶ地区だったが、三菱商事、第一ホテル(現:阪急ホテルマネジメント)、宇部興産(現:UBE)による再開発事業、シーフォートスクエアのオープンに伴い、駅を設置することになった。東京モノレールの駅自体がJTBビル(当時のUBEビル)内に設置されている。再開発完了後も周辺には倉庫などがあり、オフィスビルへの通勤客の他にも、周囲の倉庫や品川埠頭への倉庫・通関地区への通勤客も利用する。
当駅の英語表記は、東京モノレール・りんかい線ともに「Tennōzu Isle」・「Tennozu Isle」が混在して使用されているが、周辺の総合開発を行う天王洲総合開発協議会における「天王洲アイル」の公式英称は「Tennoz Isle」である。このため駅周辺の案内では、当駅を「Tennoz Isle Sta.」と表記したものが複数存在している。
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"text": "当駅が設置される前は雑多な倉庫が並ぶ地区だったが、三菱商事、第一ホテル(現:阪急ホテルマネジメント)、宇部興産(現:UBE)による再開発事業、シーフォートスクエアのオープンに伴い、駅を設置することになった。東京モノレールの駅自体がJTBビル(当時のUBEビル)内に設置されている。再開発完了後も周辺には倉庫などがあり、オフィスビルへの通勤客の他にも、周囲の倉庫や品川埠頭への倉庫・通関地区への通勤客も利用する。",
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"text": "当駅の英語表記は、東京モノレール・りんかい線ともに「Tennōzu Isle」・「Tennozu Isle」が混在して使用されているが、周辺の総合開発を行う天王洲総合開発協議会における「天王洲アイル」の公式英称は「Tennoz Isle」である。このため駅周辺の案内では、当駅を「Tennoz Isle Sta.」と表記したものが複数存在している。",
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天王洲アイル駅(てんのうずアイルえき)は、東京都品川区東品川二丁目にある、東京モノレール・東京臨海高速鉄道(TWR)の駅である。 品川区最東端の駅であり、駅周辺の街区は天王洲アイルと通称される。
|
{{駅情報
|駅名 = 天王洲アイル駅
|画像 = Tennozu isle sta south.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 東京モノレール南口(2005年1月)
|地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail-metro|coord={{coord|35|37|23.5|N|139|45|1.7|E}}|title=東京モノレール 天王洲アイル駅|coord2={{coord|35|37|14|N|139|45|3|E}}|title2=りんかい線 天王洲アイル駅|marker-color=1479cc|marker-color2=00418e|frame-latitude=35.621995|frame-longitude=139.750822}}
|所属事業者 = [[東京モノレール]]([[#東京モノレール|駅詳細]])<br />[[東京臨海高速鉄道]]([[#東京臨海高速鉄道|駅詳細]])
|所在地 = [[東京都]][[品川区]][[東品川]]二丁目
|よみがな = てんのうず アイル
|ローマ字 = Tennōzu Isle<br>Tennozu Isle
}}{{座標一覧}}
'''天王洲アイル駅'''(てんのうずアイルえき)は、[[東京都]][[品川区]][[東品川]]二丁目にある、[[東京モノレール]]・[[東京臨海高速鉄道]](TWR)の[[鉄道駅|駅]]である。
品川区最東端の駅であり、駅周辺の街区は[[天王洲アイル]]と通称される。
== 乗り入れ路線 ==
以下の2社2路線が乗り入れており、相互間の接続駅となっている。
* [[東京モノレール]]:[[File:Tokyo Monorail Line symbol.svg|15px|MO]] [[東京モノレール羽田空港線]] - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''MO 02'''」
* [[東京臨海高速鉄道]](TWR):[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]] - 駅番号「'''R 05'''」
== 歴史 ==
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[6月19日]]:東京モノレール羽田線(現・[[東京モノレール羽田空港線]])の駅が開業<ref name="mono50th-42">[[#50th|50年史]]、pp.42-43。</ref>。
* [[1999年]](平成11年)[[11月17日]]:[[関東の駅百選]]に選定される<ref name="mono50th-44">[[#50th|50年史]]、p.44。</ref>。選定理由は「天王洲に誕生した新しい街に一体的にとけ込み人にもやさしい駅」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=48 - 49・228頁|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[3月31日]]:りんかい線の[[東京テレポート駅]] - 当駅間が開業<ref name="tenkset">{{Cite web|url=http://www.twr.co.jp/tenkset.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010409203911/http://www.twr.co.jp/tenkset.html|title=りんかい線「天王洲アイル駅」平成13年3月31日に開業!|archivedate=2001-04-09|accessdate=2022-03-27|publisher=東京臨海高速鉄道|language=日本語|deadlinkdate=2022年3月}}</ref><ref name="交通20001219">{{Cite news|title=東京臨海高速鉄道 東京テレポート~天王洲アイル 3月31日先行開業|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=2000-12-19|page=1}}</ref>。併せて東京モノレールの羽田空港方面ホームに南口が開設され、乗り換え駅となる<ref name="mono50th-77">[[#50th|50年史]]、p.77。</ref>。
* [[2002年]](平成14年)
** [[4月21日]]:東京モノレールで[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-monorail.co.jp/topics/suica/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051023041446/http://www.tokyo-monorail.co.jp/topics/suica/index.html|title=モノレールSuicaご利用案内|archivedate=2005-10-23|accessdate=2020-06-08|publisher=東京モノレール|language=日本語}}</ref>。
** [[12月1日]]:りんかい線の当駅 - 大崎間が開業<ref name="twr20020712">{{Cite press release|和書|url=http://www.twr.co.jp/zensen2002_set.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021209101402/http://www.twr.co.jp/zensen2002_set.html|language=日本語|title=「りんかい線」今年12月1日に大崎駅まで全線開業!|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2002-07-12|accessdate=2022-03-27|archivedate=2002-12-09}}</ref><ref name="JRC605">{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳2002年12月 |date=2003-03-01 |journal=RAIL FAN |issue=2 |volume=50 |publisher=鉄道友の会 |page=25}}</ref>。りんかい線でICカード「Suica」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171105133949/http://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|format=PDF|language=日本語|title=Suicaがもっと便利に! 東京臨海高速鉄道(株)との相互利用開始!|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-10-08|accessdate=2020-02-04|archivedate=2017-11-05}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[12月1日]]:東京モノレールの南口寄りに浜松町方面ホームと羽田空港方面ホームとを結ぶ連絡通路が供用開始<ref name="mono50th-77"/><ref name="Tomono200412">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-monorail.co.jp/news/20041208.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060928061311/http://www.tokyo-monorail.co.jp/news/20041208.html|title=天王洲アイル駅南口連絡通路オープン|archivedate=2006-09-28|accessdate=2022-04-16|publisher=東京モノレール|language=日本語|deadlinkdate=2022年4月}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[6月23日]]:「キオスク」りんかい天王洲アイル店開業(改札外)<ref>{{Cite press release|和書|title=りんかい線に「KIOSK」「NEWDAYS」がオープン!!|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2009-06-19|url=http://www.twr.co.jp/info/2009/st_shop-op.html|accessdate=2015-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130702060421/http://www.twr.co.jp/info/2009/st_shop-op.html|archivedate=2013-07-02}}</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[10月21日]]:東京モノレール羽田線が東京モノレール羽田空港線に改称される。
* [[2021年]]([[令和]]3年)[[6月20日]]:東京臨海高速鉄道の駅で[[ホームドア]]の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.twr.co.jp/Portals/0/tennouzu_homedoor_20210617.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210617082807/https://www.twr.co.jp/Portals/0/tennouzu_homedoor_20210617.pdf|format=PDF|language=日本語|title=りんかい線天王洲アイル駅 ホームドア運用開始について|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2021-06-17|accessdate=2021-06-17|archivedate=2021-06-17}}</ref>。
== 駅構造 ==
両線の駅の乗り換えには一旦駅の敷地外に出る必要がある。
2通りの乗り換えルートが案内されている。一つは東京モノレール南口とりんかい線A出口の間を移動するルートであり、道路横断を伴うものの移動距離は短い。もう一つは東京モノレール中央口とりんかい線B出口の間で地下通路と屋根付きの歩道橋スカイウォークを経由するルートであり、やや遠回りとなるものの雨天時でも濡れることなく移動できる<ref>{{Cite web |url=https://www.twr.co.jp/route/tabid/114/Default.aspx |title=天王州アイル駅 |website=りんかい線 |publisher=東京臨海高速鉄道 |accessdate=2020-01-10}}</ref>。
=== 東京モノレール ===
{{駅情報
|社色 = #1479cc
|文字色 =
|駅名 = 東京モノレール 天王洲アイル駅
|画像 = <!-- 記事のバランスが崩れるので、画像は入れないこと -->
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = てんのうず アイル
|ローマ字 = Tennōzu Isle
|副駅名 =
|前の駅 = MO 01 [[浜松町駅|モノレール浜松町]]
|駅間A = 4.0
|駅間B = 3.1
|次の駅 = [[大井競馬場前駅|大井競馬場前]] MO 03
|電報略号 =
|駅番号 ={{駅番号r|MO|02|#003586|1}}
|所属事業者 = [[東京モノレール]]
|所属路線 = {{Color|#1479cc|■}}[[東京モノレール羽田空港線]]
|キロ程 = 4.0
|起点駅 = [[浜松町駅|モノレール浜松町]]
|所在地 = [[東京都]][[品川区]][[東品川]]二丁目3-8
|座標 = {{coord|35|37|23.5|N|139|45|1.7|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=東京モノレール 天王洲アイル駅}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1992年]]([[平成]]4年)[[6月19日]]<ref name="mono50th-42"/>
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 20,339
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = [[関東の駅百選]]に選定<ref name="mono50th-44"/>
}}
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]である。
開業当時は浜松町寄りのみに改札口を有していたが、東京臨海高速鉄道りんかい線の開業により乗り換え駅となったのに伴い、羽田空港方面ホームの大井競馬場前寄りに新たに南口改札口が設置された<ref name="mono50th-77"/>。南口が設置された当初は浜松町方面のホームから利用するには浜松町寄りにある中央口コンコースを迂回しなければならなかったが、その後2004年に羽田空港寄りに上下線ホームを階段およびエレベーターで結ぶ連絡通路が設置されている<ref name="mono50th-77"/><ref name="Tomono200412"/>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!ホーム!!路線!!方向!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-monorail.co.jp/guidance/tennouzuairu/ |title=天王洲アイル駅 構内情報 |publisher=東京モノレール |accessdate=2023-06-06}}</ref>
|-
!東側
|rowspan=2|[[File:Tokyo Monorail Line symbol.svg|15px|MO]] 東京モノレール羽田空港線
|style="text-align:center"|下り
|[[羽田空港第2ターミナル駅|羽田空港第2ターミナル]]方面
|-
!西側
|style="text-align:center"|上り
|[[浜松町駅|モノレール浜松町]]方面
|}
※ 案内上ののりば番号は設定されていない。
<gallery>
Tennozu isle sta central seafortsquare.jpg|中央口(2005年1月)
Tennozu isle sta central centersquare.jpg|中央口(2005年1月)
Tennozu Isle Station platform 20150222 153447.jpg|ホーム(2015年2月)
</gallery>
{{-}}
=== 東京臨海高速鉄道 ===
{{駅情報
|社色 = #00418e
|文字色 =
|駅名 = りんかい線 天王洲アイル駅
|画像 = <!-- 記事のバランスが崩れるので、画像は入れないで下さい -->
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = てんのうず アイル
|ローマ字 = Tennozu Isle
|副駅名 = 寺田倉庫本社前
|前の駅 = R 04 [[東京テレポート駅|東京テレポート]]*
|駅間A = 2.9
|駅間B = 1.1
|次の駅 = [[品川シーサイド駅|品川シーサイド]] R 06
|電報略号 = テア
|駅番号 = {{駅番号r|R|05|#00418e|6|#ADD8E6}}
|所属事業者 = [[東京臨海高速鉄道]]
|所属路線 = {{color|#00418e|●}}[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]
|キロ程 = 7.8
|起点駅 = [[新木場駅|新木場]]
|所在地 = [[東京都]][[品川区]][[東品川]]二丁目5-19
|座標 = {{coord|35|37|14|N|139|45|3|E|region:JP_type:railwaystation|name=東京臨海高速鉄道 天王洲アイル駅}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[2001年]]([[平成]]13年)[[3月31日]]<ref name="tenkset" /><ref name="交通20001219" />
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 11,283
|乗降人員 =
|統計年度 = 2021年
|乗換 =
|備考全幅 = *この間に[[品川埠頭分岐部信号場]]有り(当駅から1.0km先)。
}}
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]で、ホームの[[東京テレポート駅|東京テレポート]]寄りは大きくカーブしている。
当初、りんかい線は東京テレポート - [[大崎駅|大崎]]間の一括開業を予定していたが、当駅から大崎までの工事が大幅に遅れたため、[[2001年]][[3月31日]]に当駅まで先行開業した。そのため、[[2002年]][[11月30日]]までは終着駅であり、1番線を閉鎖し、2番線のみを使用していた。
柱に掲出されている[[駅名標]]の下には、「寺田倉庫本社前」と表記されている。
==== のりば ====
<!--番線欄のカラーは発車標などでの上り下りの色分け-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!colspan="2"|行先<ref>{{Cite web |url=https://www.twr.co.jp/route/tabid/115/Default.aspx?TabModule1399=0 |title=天王洲アイル駅 時刻表 |publisher=東京臨海高速鉄道 |accessdate=2023-06-06}}</ref>
|-
! 1
|rowspan="2"|[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線
|style="text-align:center"|下り
| style="background:#00b48d" |
|[[大崎駅|大崎]]・[[File:JR JA line_symbol.svg|15px|JA]] [[埼京線]]([[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]])方面
|-
! 2
|style="text-align:center"|上り
| style="background:#0072ff" |
|[[新木場駅|新木場]]方面
|}
<gallery>
Tennozu_isle_sta_a.jpg|A出口(2005年1月)
Rinkai-Line Tennozu-Isle-STA Gate.jpg|改札口(2022年3月)
Rinkai-Line_Tennozu-Isle-STA_Home.jpg|ホーム(2022年3月)
</gallery>
{{clear}}
== 利用状況 ==
* '''東京モノレール''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''20,339人'''である<ref group="利用客数">[https://www.tokyo-monorail.co.jp/company/profile.html 会社概要(ページ下段) 1日当り駅別乗降人員] - 東京モノレール</ref>。
* '''東京臨海高速鉄道''' - 2021年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''11,283人'''である<ref group="利用客数">[https://www.twr.co.jp/contact/tabid/224/Default.aspx よくあるご質問|お問い合わせ|お台場電車 りんかい線] (ページ上段)</ref>。
*: りんかい線内8駅中第7位である。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均'''乗降'''人員の推移は以下の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計" name="shinagawatoukei" />
!rowspan=2|年度
!style="text-align:center" colspan="2"|東京<br />モノレール
!style="text-align:center" colspan="2"|東京臨海<br />高速鉄道
|-
!1日平均<br />乗降人員<!--品川区の統計-->
!増加率
!1日平均<br />乗降人員<!--品川区の統計-->
!増加率
|-
|1998年(平成10年)
|32,246||
|style="text-align:center" colspan="2" rowspan="3"|未開業
|-
|1999年(平成11年)
|31,303||−2.9%
|-
|2000年(平成12年)
|31,743||1.4%
|-
|2001年(平成13年)
|33,115||4.3%
|6,782||
|-
|2002年(平成14年)
|32,161||−2.8%
|12,528||0.8%
|-
|2003年(平成15年)
|28,305||−11.9%
|24,327||94.2%
|-
|2004年(平成16年)
|28,655||1.2%
|25,889||6.4%
|-
|2005年(平成17年)
|27,741||−3.2%
|28,379||9.6%
|-
|2006年(平成18年)
|28,338||2.2%
|30,567||7.7%
|-
|2007年(平成19年)
|29,824||5.2%
|33,418||9.3%
|-
|2008年(平成20年)
|29,800||−0.1%
|34,584||3.5%
|-
|2009年(平成21年)
|29,469||−1.1%
|34,494||−0.3%
|-
|2010年(平成22年)
|28,124||−4.6%
|32,732||−5.1%
|-
|2011年(平成23年)
|26,642||−5.3%
|31,630||−3.4%
|-
|2012年(平成24年)
|28,386||6.5%
|33,878||7.1%
|-
|2013年(平成25年)
|27,988||−1.4%
|33,420||−1.4%
|-
|2014年(平成26年)
|27,259||−2.6%
|33,909||1.5%
|-
|2015年(平成27年)
|27,536||1.0%
|34,726||2.4%
|-
|2016年(平成28年)
|28,678||4.1%
|36,114||4.0%
|-
|2017年(平成29年)
|31,303||9.2%
|39,151||8.4%
|-
|2018年(平成30年)
|33,545||7.2%
|41,306||5.5%
|-
|2019年(令和元年)
|34,128||1.7%
| ||
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|18,276||−46.4%
| ||
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|17,276||−5.5%
| ||
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|20,339
|17.7%
|
|
|}
=== 年度別1日平均乗車人員 ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計" name="shinagawatoukei">[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kuseizyoho/kuseizyoho-siryo/kuseizyoho-siryo-toukei/hpg000030691.html 品川区の統計] - 品川区</ref>
!年度
!style="text-align:center" colspan="1"<!--バランスが崩れるので削除しないこと-->|東京<br>モノレール
!style="text-align:center" colspan="1"<!--バランスが崩れるので削除しないこと-->|東京臨海<br/>高速鉄道
!出典
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|<ref group="備考">1992年6月19日開業。開業日から翌年3月31日までの計285日間を集計したデータ。</ref>6,091
|style="text-align:center" rowspan="8"|未<br />開<br />業
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|8,203
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|9,958
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|11,654
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|15,329
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|15,686
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|16,222
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|15,720
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|15,963
|<ref group="備考">2001年3月31日開業。</ref>8,000
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|16,769
|3,301
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|16,304
|6,058
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|14,428
|11,628
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|14,587
|12,382
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|14,149
|13,571
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|14,451
|14,692
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|15,245
|16,217
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|15,204
|16,879
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|14,994
|16,896
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|14,337
|16,035
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|13,520
|15,513
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|14,466
|16,627
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|14,269
|16,444
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|13,901
|16,751
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|13,976
|17,213
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|14,510
|17,935
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|15,827
|19,480
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|16,967
|20,576
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|17,260
|20,975
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|
|11,987
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|11,283
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|天王洲アイル}}
当駅が設置される前は雑多な[[倉庫]]が並ぶ地区だったが、[[三菱商事]]、第一ホテル(現:阪急ホテルマネジメント)、宇部興産(現:[[UBE (企業)|UBE]])による[[都市再開発|再開発]]事業、[[シーフォートスクエア]]のオープンに伴い、駅を設置することになった。東京モノレールの駅自体がJTBビル(当時のUBEビル)内に設置されている。再開発完了後も周辺には倉庫などがあり、[[オフィスビル]]への通勤客の他にも、周囲の倉庫や[[東京港#品川埠頭|品川埠頭]]への倉庫・[[保税地域|通関地区]]への通勤客も利用する。
* シーフォートスクエア
**[[天王洲 銀河劇場]](旧:アートスフィア)
** [[阪急ホテルマネジメント#旧第一ホテルグループ|第一ホテル東京シーフォート]]
** [[JTB]]ビル
** 品川天王洲郵便局
** センタービルディング
** シーフォートタワー
** 東京フロントテラス(旧:シーフォートスクエアA棟)
** [[レディクリスタル|ザ・クルーズクラブ東京]](旧:クリスタルヨットクラブ)
* センタースクエア
** 天王洲オーシャンスクエア
** スフィアタワー天王洲
** 天王洲ファーストタワー(旧:東京MIビル)
** 天王洲セントラルタワー
* パークスクエア
** 天王洲ビュータワー
** 天王洲パークサイドビル
** 野村不動産天王洲ビル(旧:[[日本航空|JAL]]ビルディング、JAL本社は引き続きテナントとして入居。[[キヤノン]]グループの会社も同居している)
* [[寺田倉庫]]本社
* テラダウェアハウスボンドストリートT33
* ティー・ワイ・ハーバーブルワリー
* [[ナイキ]]エンプロイーストアー
* [[テレビ東京]] [[天王洲スタジオ]](新東海橋を西方向へ渡る)
** [[InterFM897]]
* [[東京海洋大学]]品川キャンパス(旧:東京水産大学)
* 天王洲公園野球場
* 品川南ふ頭公園
* [[JERA]] [[品川火力発電所]]
* [[ワールドシティタワーズ]]
* カナルサイドビル
** [[パナソニック コンシューマーマーケティング]]
* [[京浜運河]]
* [[天王洲運河]]
== バス路線 ==
; 天王洲アイル(シーフォートスクエア)
* [[都営バス]]
** 南方向
*** [[都営バス品川営業所#品96系統|品96]] - りんかい線天王洲アイル駅前行
; 天王洲アイル(パークスクエア)
* 都営バス
** [[都営バス港南支所#井96系統|井96]] - [[大井町駅]]東口行(青物横丁経由)
; 天王洲アイル(第一ホテル東京シーフォート)
* [[東京空港交通]]
** [[成田国際空港|成田空港]]行
; りんかい線天王洲アイル駅前
* 都営バス
** 品96 - 品川駅港南口行
; 天王洲公園前
* 都営バス
** 井96 - 大井町駅東口行(青物横丁経由)
; 新東海橋
* 都営バス
** 東方向
*** [[都営バス品川営業所#品98系統|品98甲]] - [[大田市場]]行 ※市場休業日は大田市場北門止まり
*** 品98乙 - [[東京港#大井埠頭|大井埠頭]]バンプール前行 ※平日朝のみ
** 西方向
*** 井96 - 大井町駅東口行(青物横丁経由)
*** 品98甲・乙 - 品川駅港南口行
** 2004年までは、都営バス[[都営バス有明営業所#海01(KM01)系統|海01系統]](元:「品川駅東口 - [[門前仲町駅|門前仲町]]」、現:「[[東京テレポート駅]] - 門前仲町」)も新東海橋を経由していた。
=== 駐車場 ===
* シーフォートスクエア地下駐車場(収容台数466台)
== その他 ==
当駅の英語表記は、東京モノレール・りんかい線ともに「Tennōzu Isle」・「Tennozu Isle」が混在して使用されているが、周辺の総合開発を行う天王洲総合開発協議会における「天王洲アイル」の公式英称は「Tennoz Isle」である。このため駅周辺の案内では、当駅を「Tennoz Isle Sta.」と表記したものが複数存在している。
== 隣の駅 ==
; 東京モノレール
: [[File:Tokyo Monorail Line symbol.svg|15px|MO]] 東京モノレール羽田空港線<!--最新鉄道要覧で線名変更反映済み-->
:: {{Color|red|■}}空港快速
:::; 通過
:: {{Color|orange|■}}区間快速・{{Color|limegreen|■}}普通
::: [[浜松町駅]] (MO 01) - '''天王洲アイル駅 (MO 02)''' - [[大井競馬場前駅]] (MO 03)
; 東京臨海高速鉄道
: [[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車<!-- カラーはE233系のフルカラー方向幕の色に準拠 -->
::: [[東京テレポート駅]] (R 04) -([[品川埠頭分岐部信号場]])- '''天王洲アイル駅 (R 05)''' - [[品川シーサイド駅]] (R 06)
== 当駅が登場した作品 ==
=== 映画 ===
* [[ゴジラvsデストロイア]] - [[ゴジラジュニア]]と[[デストロイア]]の戦いで破壊されている。
* [[南海奇皇]] - 第1期1話「天王洲防衛戦」において、[[自衛隊]]が当駅前の[[首都高速1号羽田線]]上にてネオランガへ一斉砲撃を行った。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
=== 利用状況 ===
; 私鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; 私鉄の統計データ
{{Reflist|group="統計"}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=東京モノレール株式会社社史編纂委員会 |title=東京モノレール50年史 |publisher=東京モノレール株式会社 |date=2014-09 |page=9 |ref=50th}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[天王洲アイル]]
== 外部リンク ==
* [https://www.tokyo-monorail.co.jp/guidance/tennouzuairu/ 東京モノレール 天王洲アイル駅]
* [https://www.twr.co.jp/route/tabid/114/Default.aspx 東京臨海高速鉄道 天王洲アイル駅]
{{東京モノレール}}
{{りんかい線}}
{{関東の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:てんのうすあいる}}
[[Category:品川区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 て|んのうすあいる]]
[[Category:東京モノレールの鉄道駅]]
[[Category:東京臨海高速鉄道|てんのうすあいるえき]]
[[Category:1992年開業の鉄道駅]]
[[Category:天王洲アイル|てんのうすあいるえき]]
|
2003-09-19T02:27:02Z
|
2023-11-18T05:59:32Z
| false | false | false |
[
"Template:PDFlink",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
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"Template:Cite journal",
"Template:りんかい線",
"Template:関東の駅百選",
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"Template:Commonscat",
"Template:東京モノレール",
"Template:See also",
"Template:Cite book",
"Template:-",
"Template:Color",
"Template:Cite news",
"Template:Cite press release",
"Template:駅情報",
"Template:座標一覧"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E6%B4%B2%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E9%A7%85
|
17,349 |
十二進法
|
十二進法(じゅうにしんほう)とは、12 を底(てい)とし、底およびその冪を基準にして数を表す方法である。時間の表記として世界中で一般的に使用されている。
暦が12か月周期であることは諸説あるが、数え方は十二進数である。(太陰暦を参照)
十二進記数法とは、十二を底とする位取り記数法である。十二進法での位取りでは、通常は 0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, A, B の計十二個の数字を用い、十を A , 十一を B , 十二を 10 , 十三を 11 と表記する。なお、8 と B が紛らわしいことを理由に、"Ten"と"Eleven"の頭文字を取って、十を T 、十一を E と表記する例もある。
本節では慣用に従い、通常のアラビア数字を十進記数法で表記し、十二進記数法の表記を括弧および下付の 12 で表す。また、必要に応じて、十進記数法の表記も括弧及び下付の 10 で表す。十二進記数法で表された数を十二進数と呼ぶ。十二進法の位取りでは、左に一桁動くと十二倍になり、右に一桁動くと十二分の一になる。言い換えると、整数第二位は「十二の位」、整数第三位は「百四十四の位」である。
(12)12 という表記において、左の「1」は十二を意味し、右の「2」は二を意味し、合わせて「十四」を意味する。
数列の進み方も、上記の表のように、十進数の 14 が十二進数では 12 となり、二桁の最後も BB となる。十二進法は「4×3=10」となるので、数列は4の倍数や3の倍数が進みやすいという傾向を持っている。従って、3で割り切れる六進法(2×3=10)や十八進法(2×9=10)や三十進法(2×15=10)、4で割り切れる二十進法(4×5=10)との親和性が強い傾向が見られる(→矩形数)。2と3で割り切れる点は六進法や十八進法と同じであるが、「4×奇素数」で桁上がりする構造は二十進法と同じである。
また、十八進法とは4と9の立場が逆転する。十八進法では一桁で9分割が可能となるが、4ずつは一の位が「4→8→C→G→2→6→A→E→0→4」の9個循環になる。十二進法では一桁で4分割が可能となるが、9ずつは一の位が「9→6→3→0→9」の4個循環になる。
5以降の素数は、一の位が 1, 5, 7, B のいずれか、すなわち 3 と 9 を除く奇数になる。例えば:
となる。
;倍数の法則
十二進表記の整数は、以下の数値になる。
以下の表に、十二進数で表記した十二の累乗数と、それを六進数(底が二の三倍)、十進数(底が二の五倍)、二十進数(底が四の五倍)に換算した数値を掲載する。万や億との対比を判り易くするため、桁は四つごとに区切る。
十二進数は「3の倍数」かつ「4の倍数」進数であるが、桁上がりの速さは、「3の倍数」の六進数よりは「4の倍数」の二十進数に近い。3乗への桁上がりでは、六進数とは8倍の差{1000(12) = 12000(6) = 1728(10)}だが、二十進数とは5倍の差{5000(12) = 11C0(20) = 8640(10)}になる。4乗への桁上がりでも、六進数とは24(6)倍=16(10)倍の差{10000(12) = 240000(6) = 20736(10)}、十進数とは2倍の差{10000(12) = 20736(10)}、二十進数とは8倍の差{80000(12) = 10EE8(20) = 165888(10)}、十八進数とも5倍の差{50900(12) = 10000(18) = 104976(10)}である。
また、十二の累乗数と二十の累乗数を対比すると、十二の六乗と二十の五乗が最も接近する{両者とも(300万)10前後。10A3A28(12) = 100000(20) = 3200000(10)}。十二の累乗数と十八の累乗数も同じく、十二の六乗と十八の五乗が最も接近する{両者とも(200万)10前後。771600(12) = 100000(18) = 1889568(10)}。
他のN進数を十二進数に変換するには、整数部分はそのまま十二進数に変換し、小数部分は十二の累乗数を他のN進数に変換した数値を掛ける。
(例)六進数 1.225245314(2の平方根)
よって、1.225245314(6) ≒ 1.4B7917(12) となる。
(例)十進数 42.195(フルマラソンのキロ数)
よって、42.195(10) ≒ 36.24(12) となる。
(例)十六進数 73.93(倍率、細分値)
よって、73.93(16) = 97.6A83(12) となる。
(例)二十進数 56.B38(倍率、細分値)
よって、56.B38(20) ≒ 8A.685(12) となる。
桁が一つ動く度に数が十二倍変わるため、小数第一位は「十二分の一の位」、小数第二位は「百四十四分の一の位」となる。従って、十二進法では:
を、それぞれ意味する。十二と五は互いに素なので、5/10 や 75/100は約分できず、既約分数になる。
十二進法は、10 の素因数分解が「10 = 2×3」になり、2の冪指数が2つになる。従って、冪指数が一対一の関係になる六進法(10 = 2×3)や十進法(10 = 2×5)とは様々な面で異なる。十二進法と似たような現象は、二十進法(10 = 2×5)や十八進法(10 = 2×3)でも発生する。
十二進法では十二倍ごとに桁を変えるので、小数では「y年m箇月」の計算が容易になる。
3×5/4、すなわち十進分数の 15/4、六進分数の 23/4 に当たる小数は、十進数では3.75(10)、六進数では3.43(6)に対して、十二進数では3.9(12)となり小数点以下が一桁になる。これは、十進数や六進数では2の冪指数が1つ(すなわち底が単偶数)なのに対して、十二進数では2の冪指数が2つ含まれているからである。 これらの小数を分解すると、十進数では 3 + 75/100 (= 3/4) と 3 + 9/12 (= 3/4) が 15/4 で同値となる。六進数でも、3 + 43/100 (= 3/4) と 3 + 13/20(= 3/4) が 23/4 で同値となる。
前述の 3.9(12)を一桁下げた 0.39(12)は、十進数では 0.3125(10)、六進数で 0.1513(6) になる。 これは、素因数分解の上既約分数にすると 5/2 の小数だが、十進数の場合 5×0.0625(分子が5)で0.3125、 六進数の場合 5×0.0213(分子が3)で0.1513になるのに対して、十二進数の場合 5×0.09(分子が3)で0.39になる。 このように、十進数の場合「2の4乗には5の4乗」、六進数の場合「2の4乗には3の4乗」であるのに対して、十二進数では「2の4乗には3の2乗」となり、2の冪指数が偶数の場合は分子となる3の冪指数は1/2になる。
この十二進数の数式は、十進数では 0.3125×6 = 1.875、六進数では0.1513×10 = 1.513となるが、小数部分を既約分数にすると 7/8 になる。7/8 すなわち 7/2の小数も、十進数では7×0.125 = 0.875で「7×5」、六進数では11×0.043 = 0.513で「7×3」の数が現れるのに対して、十二進数では7×0.16 = 0.A6 となる。つまり、2の冪指数が奇数の時、逆数の分子は6の倍数になる。 この十二進数0.A6(12)を分数化すると、十進数では 126/144 = 7/8、六進数でも 330/400 = 11/12 となり、数値が一致する。
前記の小数を一桁上げた数式で、十進数では 3.75×6 = 22.5、六進数では 3.43×10 = 34.3となるが、小数部分を既約分数にすると 1/2 になる。 これをy年m箇月の計算に当て嵌めることも可能で、十進数で換算すると「3年9箇月の6倍は22年6箇月」とも言える。
十二進法は奇数の因数に3が含まれているので、除数が3の冪数であれば割り切れる数になる。但し、十二進法は10の素因数分解が2×3なので、3の冪数による除算は、小数点を消した値が「2の偶数乗を掛けた値」になる。例えば、除数が3の場合、逆数の分子は2=2になる(→詳細はこちらも参照すること)。冪指数が小さい場合でも、六進法の場合 1/3は0.2、1/9 (1/136) は0.04(分子が2)に対して、十二進法では 1/3は0.4(分子が2)、1/9は0.14(分子が2)になる。
十進数の 57.6÷9、十二進数の57.6 ÷ 9 の商は、以下の通りとなる。
桁を一つ繰り上げて小数点を消すと、576(10) は 64×9 だが、576(12) は 810(10)、つまり十進数換算値が 90×9 である。576(12)を十進数で分解すると、5×12 + 7×12 + 6 = 720 + 84 + 6 = 810 となる。
更に、十進法の 576÷9 = 64 も、十二進法では 400÷9 = 54 となる。
576(10) を十進数で分解すると、十進法では 5×10 + 7×10 + 6 = 500 + 70 + 6 で 576 となるが、十二進法では 4×12 で 400(12)となる。50(12) は 60(10) なので、4 を加えた 54(12) も 64(10) に等しい。別の言い方をすると、「五百七十六個の九分割は六十四個」は「四グロスを九人で分けて、五ダース四個」になるのに対して、「五グロス七ダース六個の九分割は七ダース六個」は「八百十個の九分割は九十個」になるとも言える。このように、十二進法では、「400個」の物品を3人や9人でぴったり分けることができる。
十二進法の1.75(12) 列びに (175/100)12は、十進分数では 7/4 ではなく、233/144 すなわち黄金比の概数になる。
「十分の三」は、十進法が0.3(10)、六進法が0.1444...(6)に対して、十二進法では0.37249...(12)になる。「十分の三」の近似値である「二十七分の八」は、六進法が0.144(6)に対して、十二進法では0.368(12)で分子・分母が六進法の八倍になる。十二進分数 368/1000 の六進数換算値は 2212/12000 = 12×144/12×1000 になる。
六進数は「2の4乗には3の4乗」「3の4乗には2の4乗」という一対一の関係なので、3も0.0024(6)で分子が2 となり、2÷3 では分子に現れる数は 2 = 2、すなわち 144×0.0024 = 0.4424(6)となる。 しかし、十二進数では「2の4乗には3の2乗」とは逆に「3の4乗には2の8乗」の関係になり、2÷3 で分子に現れる数は 2 の 714(12)(すなわち 4424(6) = 1024(10))ではなく、2 = (2)12 で 9594(12)(すなわち 203504(6) = 16384(10))となる。3も0.0194(12)で分子が2となり、2÷3 も 54×0.0194 = 0.9594(12)となる。 0.9594(12)を六進数で分解すると、0.9594(12) = 203504/240000 = (16384/20736)10、0.4424(6)は 4424/10000 = (1024/1296)10となり、双方の差は203504 ÷ 4424 = 24倍 となる。
「1年に1回」を概数にすると 2/3 の分数になるが、六進法と十二進法の両方とも、3(七百二十九分割)は小数点以下六桁になる。分数に換算すると、六進法の場合 0.000332(6) = (332/1000000)6 = (128/46656)10になるが、十二進法の場合 0.0048A8(12) = (101532/144000000 = 144×332/144×1000000)6 = (8192/2985984)10になる。 六進法の3は分子が2=144(6)=64(10)、分母が23000(12)=1000000(6)=46656(10)に対して;十二進法で3をすると、分子は2=2454(12)=30544(6)=4096(10)、分母は1000000(12)=144000000(6)=2985984(10)で分子・分母が六進法の六十四倍になる。
十進法の 100(10) や 1000(10) など十の冪数、二十進法の 100(20)(=400(10))や 1000(20)(=8000(10))など二十の冪数、十六進法の 100(16)(=256(10))など二の冪数進法による冪数は、3や9で割り切れないが、十二進法では割り切れる(六進法も同様)。十進法の 100(10) は十二進法では 84(12)、十六進法の 100(16) は十二進法では 194(12) となる(→他の商は後述)。
5を除数とする演算を割り切る条件は、被除数の約数に5が含まれることが条件になる。
十二進法で循環節が長くなる例として、5(1/21)が20(10)桁、7(1/41)が42(10)桁が挙げられる。逆に、十進法では22(10)桁、二十進法では55(10)桁、六進法や十八進法でも110(10)桁になるB(1/A1)は、十二進法では僅B(12)桁=11(10)桁になる。
十二進法では 0.1(12) が「十二分の一」になるため、0.3(12) は 1/4 になり、0.4(12) は 1/3 になり、0.6(12) は 1/2 になり、0.A(12)(十進法で10/12)は 5/6 になる。その他、m/d として分数化できる一桁小数として、0.8(12)は 2/3 となり、0.9(12)は 3/4 となる。
従って、ある数値に 0.4(12) を掛けると 1/3 になり、0.9(12) を掛けると 3/4 になる。位取りに応用すると、Nの8倍は、Nの十二倍を 2/3 にした数値になる。このように、一桁小数で三分割と四分割が可能になる(ただし、五分割はできない)。他のN進法との連関では、1/3 である 0.4(12) は六進法の 0.2(6) や十八進法の 0.6(18)と同値になり、1/4 である 0.3(12) は二十進法の 0.5(20) と同値になる。
以下の表に、十二進法の小数と、それに相当する分数や商を掲載する。割り切れない小数の循環部分は下線で表す。十二は三と四では割り切れるが五では割り切れないため、五で割った際に循環小数になって割り切れない例が多数発生する。五が対応できなくても四と三が対応できることから、十二進法は「小から大へ」の分割法を採っているのが特徴である。
可分性が最も上がる例は、「5の倍数」が被除数になるパターンである。このパターンでは、7の倍数とB(十一)の倍数を除いてほぼ割り切れる。「3で割り切れるが、2と5と9では割り切れない数」が被除数になるパターンでは、16(12)=18(10)までの3の倍数のうち、割り切れない数は13(12)=15(10)だけとなる。
また、六進法は「10 - 1」が5になり、1/5の小数が0.1111...となって1111(6)=259(10)(=(37×7)(10))の倍数となって循環し、5 = (m/41)6 = (m/25)10の小数は 0.01235... となって1235(6)=311(10)の倍数五桁が循環する。これに対して、十二進法は「10 - 1」がB(十進法の11)で5の倍数ではないので、1/5の循環小数は 0.2497...で四桁になり、これに最も近い37(10)の倍数は 2494(12)(=31104(6)=4144(10)=(37×7×16)(10)となる。
そして、5 = (m/21)12の小数は、循環節が「05915 343A0 B62A6 8781B」の二十桁と長く、先頭五桁が05915となるが、これは十進法に直すと9953 (= 311×32 + 1)(10))となる。十二進法における5の循環節は 4×5 となり、5が四桁、5が二十桁、5が百桁になる。逆に、六進法では 5 = 0.01235...で五桁、十八進法でも5 = 0.0CH5...で四桁となる。
ここでは、(10)10を A 、(11)10を B と表記する。
十二進法は「3×4=10」となる「奇数の四倍」進法なので、六進法(3×2=10)や十進法(5×2=10)といった「冪指数が一対一」のN進法とは異なる要素を持っている。十二進法の乗算を覚える要領として、以下の点が挙げられる。次の「奇数の四倍」進法となる二十進法(5×4=10)や、底が「九の二倍」となる十八進法(9×2=10)は、この応用編となる。
十二進命数法とは、12 を底とする命数法である。
自然言語で十二進命数法の数詞を持つものは少ない。ナイジェリアのジャンジ語 (Janji)、ビリ・ニラグ語 (Gbiri-Niragu)、グワンダラ語ニンビア方言 (Nimbia)、ピティ語 (Piti) などが十二進命数法のグループを作り、またネパールのチェパン語 (Chepang) も十二進命数法を用いている。
以下にグワンダラ語ニンビア方言の数詞を示す。
ゲルマン語派の数詞は、十二以下と十三以降とで構成が異なる。以下に英語、ドイツ語、スウェーデン語の数詞を示す。
十一と十二の数詞の語源はそれぞれ 1 余り、2 余りを意味する *ainlif, *twalif であり、十三以降の数詞は十進法に基づく数詞だが、十二以下と十三以降で構成が異なるのを十二進法の影響とする説がある。
英語の hundred など、現在「百」「十二進数84」を意味する語は、中世までは「百二十」「十二進数A0」を意味することがあった(en:Long hundred を参照)。ロジバンは十, 十一, 十二に個別の数詞があり、十二進法に対応している(実際には十六進法にまで対応する)。
現在、十二進法はもっぱら単位系で使われている。数は十進記数法で 9, 10, 11 と表し、12 や 144 に至ると桁ではなく単位を繰り上げる。すなわち、記数法と単位が一致していない。
単位の十二進法は、言語の数詞とは無関係に発生したと考えられる。1 年がほぼ 12 か月であること(360 ÷ 30 = 12。満月と新月の回数がほぼ 12 回)に因むとされる。メソポタミア文明ではこれが 1 年を 12 か月とする暦法となり、12 は 30 と同様に主に時間を示す際の基数となった。1 日 24 時間の 24 は 12 の 2 倍であり、六十進法の 60 は 12 と 30 の最小公倍数である。黄道十二宮はこれに基づく。中国の十二支も黄道十二宮と同じように、循環する十二進法である。
また、 12 は 4×3 であり、1 とその数以外の約数が 2, 3, 4, 6 の 計 4 個と多く、4 までの全てで割り切れる点も、十二進法の単位が用いられる一因となった。十進法の 10 は、1 とその数以外の約数が、2 と 5 の 計 2 個しかない。六進法の 6 は、1 とその数以外の約数が 2 と 3 の計 2 個で便利であるが、4 分割ができず、4 分割は 2 倍 の 12 か、平方数の 36 まで待たねばならない。
例えば、通貨を3単位×4の十二進法にすると、1728 (= 12) の貨幣を 12 (= 12) と 36 (= 12×3、12÷4) と 144 (= 12) と 432 (= 12×3、12÷4) の四種類の貨幣に分けて、「432の貨幣が2枚」で二分割(1728÷2 = 864)したり、「432の貨幣が1枚 + 144の貨幣が1枚」で三分割(1728÷3 = 576)したり、「432の貨幣が1枚」で四分割(1728÷4 = 432)したり、「144の貨幣が1枚 + 36の貨幣が2枚」で八分割(1728÷8=216)したり、「144の貨幣が1枚 + 36の貨幣が1枚 + 12の貨幣が1枚」で九分割(1728÷9=192)したりすることが可能になる。後述のペンス通貨やアス通貨が、このような三分割と四分割を考慮した単位に該当する。
日本では、12 ヶ月を 1 年というのに対して、144 ヶ月 (= 12 年) を 1 回りという。
物の数を表すダース (12)、グロス (144 = 12)、グレートグロス (1728 = 12)、スモールグロス (120 = 12×10) という単位があり、西洋で用いられる。1971年2月15日まで、イギリスポンドは、1 ポンドは 240 ペンスであり、12 ペンスが 1 シリング、20 シリングが 1 ポンドであった。
この他にも、ヤード・ポンド法は十二進法が主流であり、長さの 1 フィート = 12 インチ = 144 ライン = 1728 ポイントである。同じく、1 トロイポンド = 12 トロイオンス = 144 スカラプル = 1728 シードである。プラモデルの縮尺に 1/144 (= 12) が多いのも、12 フィートすなわち 144 インチを逆数にしたサイズが由来である。
また、ローマ帝国の数詞や単位は十進法が通例であったが、アス (as) 通貨は異例で十二進法を想定した単位を設定した。アス通貨の下部単位として、1/2 アスのセミス (semis)、1/3 アスのトリエンス (triens)、2/3 アスのベス (bes)、1/4 アスのクォドランス (quadrans)、3/4 アスのドドランス (dodrans)、1/6 アスのセクスタンス (sextans)、1/12 アスのウンシア (uncia)、5/12 アスのクインクンクス (quincunx) が使用されており、中でも semis は「半」を意味する接頭辞 "semi-" の語源にもなっている。しかし、1/144 アス (= 1/12 ウンシア) や 12 アス (= 144 ウンシア) の単位は設定されず、1/24 アスのセミウンシア (semiuncia) と 2 アス (= 24 ウンシア)のドゥポンディウス (dupondius) のみであった。
十二進法で百分率や千分率と同じ冪数分率を作ると、「百四十四分率」「千七百二十八分率」「二万七百三十六分率」となる。ここで問題になる点は、3 つまり「三分割をp回」した際の小数の分子・分母の大きさである。1/9=3は六進法と十二進法の両方とも小数第二位となり、六進法は「三十六分率」、十二進法は「百四十四分率」でほぼ互角となる。百四十四分率は(1/16)10=2まで収容できるが、3以後が大きく変わり、十二進法では(1/27)10=3の小数が千七百二十八分率となり、(1/81)10=3の小数が二万七百三十六分率まで膨れる。
一方で、六進法は2と3の冪指数が同じなので、1728(10)=12000(6)=1000(12)の1/8である「二百十六分率」{216(10)=1000(6)=160(12)}で1/8と(1/27)10の両方が収容可能で、1000(12)の6/8である「千二百九十六分率」{1296(10)=10000(6)=900(12)}で(1/16)10と(1/81)10の両方(つまり2と3の両方で四回分割)まで収容可能となり、いずれも1000(12)に満たない。別の言い方をすると、六進法は「四分割は36(10)まで待たねばならない」が「八分割と二十七分割は216(10)まで待てばよい」のに対して、十二進法は「二十七分割は1728(10)まで待たねばならない」。
(m/27)10の小数は、六進法では 12(6)=8=2の倍数だが、十二進法では 54(12)=64(10)=2の倍数になる。そして、(m/81)10の小数は、六進法では 24(6)=16(10)の倍数だが、十二進法では 194(12)=256(10)の倍数まで膨れてしまう。
このため、除数が「指数が大きい3の冪数」となる割り算では、十二進法は開きが大きくなりやすい。例として、被除数を 2 = 194(12) = 1104(6) = 256(10) とする。
2454(12) = 30544(6) = 4096(10) であり、31B14(12) = 1223224(6) = 65536(10) であり、3 = 3969(12) = 50213(6) = 6561(10) である。 小数点を消すと、六進法の場合 30544 ÷ 13252 = 2(十進換算:4096 ÷ 2048 = 2)で2倍の開きであるが、十二進法の場合 31B14 ÷ 9594 = 4(十進換算:65536 ÷ 16384 = 4)で4倍の開きになる。同じく、3で割った商を、3で割った商で割ると、六進法の場合 30544 ÷ 2212 = 12 で8倍の開き(経過した3の冪指数も、商となる2の冪指数も3で同じ)だが、十二進法の場合 31B14 ÷ 714 = 54 で 64(10)倍の開き(経過した3の冪指数は3だが、商となる2の冪指数が6)になってしまう。
以下の表に示す通り、商の小数点を消した数値も、十二進法では3(27(10)=23(12))で割ると被除数の2倍=64(10)倍=54(12)倍になり、3(729(10)=509(12))で割ると被除数の(2)12倍=4096(10)倍=2454(12)倍まで膨れてしまう。これに対して、六進法では3(729(10)=3213(6))で割ると被除数の2倍=64(10)倍=144(6)倍の数値になる。
このように、十二進法の小数は、「一桁で四分割」「二桁で八分割と九分割」ができる長所を持つ一方で、「3の冪指数が大きい割り算の分子・分母」が膨大になってしまうという短所も持っている。
十二進法の指数えは、同じ3で割り切れる六進法とは様相が異なる。十二進法の指数えは、親指が指標となり、各指の3つの指骨(末節骨 ・中節骨・基節骨)を小指から数える。片手を十二(10(12))までの数、もう片手を十二の倍数として、片手で十二まで数えて、もう一方の手に繰り上げて百四十四(100(12))まで数える 。(実際は十三進法を用いて百六十八まで数えられるが、一般的ではない)
SF作品でも、人類と異なる文明が十二進法を使っているとする設定はよく見られるものである。
H・G・ウェルズは『冬眠二百年』(When the Sleeper Wakes, 1899年)や『モダンユートピア』(A Modern Utopia, 1905年)で十二進法を使用し、12 = dozen, 144 (=12) = gross, 1728 (=12) = dozand, 20736 (=12) = myriad としている。
J・R・R・トールキンによる人工言語、エルフ語 (Elvish) の数詞は十二進法である(→クウェンヤ)。
英米では、十二進法を採用するよう主張する人々がいる。人間の手指の数に由来する、原始的で、2と5でしか割り切れない十進法ではなく、3でも4でも割り切れる十二進法の方が理に適っているとされるためである。これらの人々は、十二進法を表す語として、英語で通常使われる duodecimal を「十のおまけ」という言い方だとして嫌い、dozenal を使う。なお、dozenal に相当するスペイン語は、doce(十二)を形容詞化した docenal である。十と十一を意味する数字には A と B を用いず、十 を T または X 、十一 を E で、或いはその変形で表したり、十 を * で、十一を # で表したりする。これらの十二進法推進団体は、百分率(パーセント:記号は「%」)に代わって百四十四分率(パーグロス:記号は"per gross"を縮めた「p/g」)の使用を主張したり、周角の360度(十二進法で260度)から144度(十二進法で100度)または720度(十二進法で500度)への変更も主張している。
なお、十進法以外を採用しようという主張は、近年ではコンピュータの二進法との相性から八進法や十六進法についても主張されている。しかし、八進法や十六進法は「2の冪数」進法なので、2でしか割り切れない。つまり、1/3や1/5といった奇数分割ができない。また、「3の倍数」進法を採用しようという立場から、十二進法以外では六進法や三十進法についても主張されており、それぞれの長短も議論されている。「5の倍数」に囚われない指数えの方法として、十二進法での指の「関節」で数える方法、六進法での「もう片手は六の位」とする方法 が提案されている。
Unicode 8.0 では、十二進法のための10 ( = U+218A, 180度回転した2)と 11( = U+218B, 180度回転した3)の2つの数字が符号位置を与えられた。この2つの数字はアイザック・ピットマンの考案による。
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"text": "十二進法(じゅうにしんほう)とは、12 を底(てい)とし、底およびその冪を基準にして数を表す方法である。時間の表記として世界中で一般的に使用されている。",
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},
{
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"text": "暦が12か月周期であることは諸説あるが、数え方は十二進数である。(太陰暦を参照)",
"title": "十二進法が使われている例"
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{
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"text": "十二進記数法とは、十二を底とする位取り記数法である。十二進法での位取りでは、通常は 0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, A, B の計十二個の数字を用い、十を A , 十一を B , 十二を 10 , 十三を 11 と表記する。なお、8 と B が紛らわしいことを理由に、\"Ten\"と\"Eleven\"の頭文字を取って、十を T 、十一を E と表記する例もある。",
"title": "記数法"
},
{
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"text": "本節では慣用に従い、通常のアラビア数字を十進記数法で表記し、十二進記数法の表記を括弧および下付の 12 で表す。また、必要に応じて、十進記数法の表記も括弧及び下付の 10 で表す。十二進記数法で表された数を十二進数と呼ぶ。十二進法の位取りでは、左に一桁動くと十二倍になり、右に一桁動くと十二分の一になる。言い換えると、整数第二位は「十二の位」、整数第三位は「百四十四の位」である。",
"title": "記数法"
},
{
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"text": "(12)12 という表記において、左の「1」は十二を意味し、右の「2」は二を意味し、合わせて「十四」を意味する。",
"title": "記数法"
},
{
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"text": "数列の進み方も、上記の表のように、十進数の 14 が十二進数では 12 となり、二桁の最後も BB となる。十二進法は「4×3=10」となるので、数列は4の倍数や3の倍数が進みやすいという傾向を持っている。従って、3で割り切れる六進法(2×3=10)や十八進法(2×9=10)や三十進法(2×15=10)、4で割り切れる二十進法(4×5=10)との親和性が強い傾向が見られる(→矩形数)。2と3で割り切れる点は六進法や十八進法と同じであるが、「4×奇素数」で桁上がりする構造は二十進法と同じである。",
"title": "記数法"
},
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"text": "また、十八進法とは4と9の立場が逆転する。十八進法では一桁で9分割が可能となるが、4ずつは一の位が「4→8→C→G→2→6→A→E→0→4」の9個循環になる。十二進法では一桁で4分割が可能となるが、9ずつは一の位が「9→6→3→0→9」の4個循環になる。",
"title": "記数法"
},
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"text": "5以降の素数は、一の位が 1, 5, 7, B のいずれか、すなわち 3 と 9 を除く奇数になる。例えば:",
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"text": "となる。",
"title": "記数法"
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"text": ";倍数の法則",
"title": "記数法"
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"text": "十二進表記の整数は、以下の数値になる。",
"title": "記数法"
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"text": "以下の表に、十二進数で表記した十二の累乗数と、それを六進数(底が二の三倍)、十進数(底が二の五倍)、二十進数(底が四の五倍)に換算した数値を掲載する。万や億との対比を判り易くするため、桁は四つごとに区切る。",
"title": "記数法"
},
{
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"text": "十二進数は「3の倍数」かつ「4の倍数」進数であるが、桁上がりの速さは、「3の倍数」の六進数よりは「4の倍数」の二十進数に近い。3乗への桁上がりでは、六進数とは8倍の差{1000(12) = 12000(6) = 1728(10)}だが、二十進数とは5倍の差{5000(12) = 11C0(20) = 8640(10)}になる。4乗への桁上がりでも、六進数とは24(6)倍=16(10)倍の差{10000(12) = 240000(6) = 20736(10)}、十進数とは2倍の差{10000(12) = 20736(10)}、二十進数とは8倍の差{80000(12) = 10EE8(20) = 165888(10)}、十八進数とも5倍の差{50900(12) = 10000(18) = 104976(10)}である。",
"title": "記数法"
},
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"tag": "p",
"text": "また、十二の累乗数と二十の累乗数を対比すると、十二の六乗と二十の五乗が最も接近する{両者とも(300万)10前後。10A3A28(12) = 100000(20) = 3200000(10)}。十二の累乗数と十八の累乗数も同じく、十二の六乗と十八の五乗が最も接近する{両者とも(200万)10前後。771600(12) = 100000(18) = 1889568(10)}。",
"title": "記数法"
},
{
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"text": "他のN進数を十二進数に変換するには、整数部分はそのまま十二進数に変換し、小数部分は十二の累乗数を他のN進数に変換した数値を掛ける。",
"title": "記数法"
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"text": "(例)六進数 1.225245314(2の平方根)",
"title": "記数法"
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"tag": "p",
"text": "よって、1.225245314(6) ≒ 1.4B7917(12) となる。",
"title": "記数法"
},
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"tag": "p",
"text": "(例)十進数 42.195(フルマラソンのキロ数)",
"title": "記数法"
},
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"tag": "p",
"text": "よって、42.195(10) ≒ 36.24(12) となる。",
"title": "記数法"
},
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"text": "(例)十六進数 73.93(倍率、細分値)",
"title": "記数法"
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"tag": "p",
"text": "よって、73.93(16) = 97.6A83(12) となる。",
"title": "記数法"
},
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"tag": "p",
"text": "(例)二十進数 56.B38(倍率、細分値)",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "よって、56.B38(20) ≒ 8A.685(12) となる。",
"title": "記数法"
},
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"tag": "p",
"text": "桁が一つ動く度に数が十二倍変わるため、小数第一位は「十二分の一の位」、小数第二位は「百四十四分の一の位」となる。従って、十二進法では:",
"title": "記数法"
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"tag": "p",
"text": "を、それぞれ意味する。十二と五は互いに素なので、5/10 や 75/100は約分できず、既約分数になる。",
"title": "記数法"
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"tag": "p",
"text": "十二進法は、10 の素因数分解が「10 = 2×3」になり、2の冪指数が2つになる。従って、冪指数が一対一の関係になる六進法(10 = 2×3)や十進法(10 = 2×5)とは様々な面で異なる。十二進法と似たような現象は、二十進法(10 = 2×5)や十八進法(10 = 2×3)でも発生する。",
"title": "記数法"
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"text": "十二進法では十二倍ごとに桁を変えるので、小数では「y年m箇月」の計算が容易になる。",
"title": "記数法"
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"tag": "p",
"text": "3×5/4、すなわち十進分数の 15/4、六進分数の 23/4 に当たる小数は、十進数では3.75(10)、六進数では3.43(6)に対して、十二進数では3.9(12)となり小数点以下が一桁になる。これは、十進数や六進数では2の冪指数が1つ(すなわち底が単偶数)なのに対して、十二進数では2の冪指数が2つ含まれているからである。 これらの小数を分解すると、十進数では 3 + 75/100 (= 3/4) と 3 + 9/12 (= 3/4) が 15/4 で同値となる。六進数でも、3 + 43/100 (= 3/4) と 3 + 13/20(= 3/4) が 23/4 で同値となる。",
"title": "記数法"
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"text": "前述の 3.9(12)を一桁下げた 0.39(12)は、十進数では 0.3125(10)、六進数で 0.1513(6) になる。 これは、素因数分解の上既約分数にすると 5/2 の小数だが、十進数の場合 5×0.0625(分子が5)で0.3125、 六進数の場合 5×0.0213(分子が3)で0.1513になるのに対して、十二進数の場合 5×0.09(分子が3)で0.39になる。 このように、十進数の場合「2の4乗には5の4乗」、六進数の場合「2の4乗には3の4乗」であるのに対して、十二進数では「2の4乗には3の2乗」となり、2の冪指数が偶数の場合は分子となる3の冪指数は1/2になる。",
"title": "記数法"
},
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"paragraph_id": 29,
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"text": "この十二進数の数式は、十進数では 0.3125×6 = 1.875、六進数では0.1513×10 = 1.513となるが、小数部分を既約分数にすると 7/8 になる。7/8 すなわち 7/2の小数も、十進数では7×0.125 = 0.875で「7×5」、六進数では11×0.043 = 0.513で「7×3」の数が現れるのに対して、十二進数では7×0.16 = 0.A6 となる。つまり、2の冪指数が奇数の時、逆数の分子は6の倍数になる。 この十二進数0.A6(12)を分数化すると、十進数では 126/144 = 7/8、六進数でも 330/400 = 11/12 となり、数値が一致する。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "前記の小数を一桁上げた数式で、十進数では 3.75×6 = 22.5、六進数では 3.43×10 = 34.3となるが、小数部分を既約分数にすると 1/2 になる。 これをy年m箇月の計算に当て嵌めることも可能で、十進数で換算すると「3年9箇月の6倍は22年6箇月」とも言える。",
"title": "記数法"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "十二進法は奇数の因数に3が含まれているので、除数が3の冪数であれば割り切れる数になる。但し、十二進法は10の素因数分解が2×3なので、3の冪数による除算は、小数点を消した値が「2の偶数乗を掛けた値」になる。例えば、除数が3の場合、逆数の分子は2=2になる(→詳細はこちらも参照すること)。冪指数が小さい場合でも、六進法の場合 1/3は0.2、1/9 (1/136) は0.04(分子が2)に対して、十二進法では 1/3は0.4(分子が2)、1/9は0.14(分子が2)になる。",
"title": "記数法"
},
{
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"text": "十進数の 57.6÷9、十二進数の57.6 ÷ 9 の商は、以下の通りとなる。",
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "桁を一つ繰り上げて小数点を消すと、576(10) は 64×9 だが、576(12) は 810(10)、つまり十進数換算値が 90×9 である。576(12)を十進数で分解すると、5×12 + 7×12 + 6 = 720 + 84 + 6 = 810 となる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "更に、十進法の 576÷9 = 64 も、十二進法では 400÷9 = 54 となる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "576(10) を十進数で分解すると、十進法では 5×10 + 7×10 + 6 = 500 + 70 + 6 で 576 となるが、十二進法では 4×12 で 400(12)となる。50(12) は 60(10) なので、4 を加えた 54(12) も 64(10) に等しい。別の言い方をすると、「五百七十六個の九分割は六十四個」は「四グロスを九人で分けて、五ダース四個」になるのに対して、「五グロス七ダース六個の九分割は七ダース六個」は「八百十個の九分割は九十個」になるとも言える。このように、十二進法では、「400個」の物品を3人や9人でぴったり分けることができる。",
"title": "記数法"
},
{
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"text": "十二進法の1.75(12) 列びに (175/100)12は、十進分数では 7/4 ではなく、233/144 すなわち黄金比の概数になる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "「十分の三」は、十進法が0.3(10)、六進法が0.1444...(6)に対して、十二進法では0.37249...(12)になる。「十分の三」の近似値である「二十七分の八」は、六進法が0.144(6)に対して、十二進法では0.368(12)で分子・分母が六進法の八倍になる。十二進分数 368/1000 の六進数換算値は 2212/12000 = 12×144/12×1000 になる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "六進数は「2の4乗には3の4乗」「3の4乗には2の4乗」という一対一の関係なので、3も0.0024(6)で分子が2 となり、2÷3 では分子に現れる数は 2 = 2、すなわち 144×0.0024 = 0.4424(6)となる。 しかし、十二進数では「2の4乗には3の2乗」とは逆に「3の4乗には2の8乗」の関係になり、2÷3 で分子に現れる数は 2 の 714(12)(すなわち 4424(6) = 1024(10))ではなく、2 = (2)12 で 9594(12)(すなわち 203504(6) = 16384(10))となる。3も0.0194(12)で分子が2となり、2÷3 も 54×0.0194 = 0.9594(12)となる。 0.9594(12)を六進数で分解すると、0.9594(12) = 203504/240000 = (16384/20736)10、0.4424(6)は 4424/10000 = (1024/1296)10となり、双方の差は203504 ÷ 4424 = 24倍 となる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "「1年に1回」を概数にすると 2/3 の分数になるが、六進法と十二進法の両方とも、3(七百二十九分割)は小数点以下六桁になる。分数に換算すると、六進法の場合 0.000332(6) = (332/1000000)6 = (128/46656)10になるが、十二進法の場合 0.0048A8(12) = (101532/144000000 = 144×332/144×1000000)6 = (8192/2985984)10になる。 六進法の3は分子が2=144(6)=64(10)、分母が23000(12)=1000000(6)=46656(10)に対して;十二進法で3をすると、分子は2=2454(12)=30544(6)=4096(10)、分母は1000000(12)=144000000(6)=2985984(10)で分子・分母が六進法の六十四倍になる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "十進法の 100(10) や 1000(10) など十の冪数、二十進法の 100(20)(=400(10))や 1000(20)(=8000(10))など二十の冪数、十六進法の 100(16)(=256(10))など二の冪数進法による冪数は、3や9で割り切れないが、十二進法では割り切れる(六進法も同様)。十進法の 100(10) は十二進法では 84(12)、十六進法の 100(16) は十二進法では 194(12) となる(→他の商は後述)。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "5を除数とする演算を割り切る条件は、被除数の約数に5が含まれることが条件になる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "十二進法で循環節が長くなる例として、5(1/21)が20(10)桁、7(1/41)が42(10)桁が挙げられる。逆に、十進法では22(10)桁、二十進法では55(10)桁、六進法や十八進法でも110(10)桁になるB(1/A1)は、十二進法では僅B(12)桁=11(10)桁になる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "十二進法では 0.1(12) が「十二分の一」になるため、0.3(12) は 1/4 になり、0.4(12) は 1/3 になり、0.6(12) は 1/2 になり、0.A(12)(十進法で10/12)は 5/6 になる。その他、m/d として分数化できる一桁小数として、0.8(12)は 2/3 となり、0.9(12)は 3/4 となる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "従って、ある数値に 0.4(12) を掛けると 1/3 になり、0.9(12) を掛けると 3/4 になる。位取りに応用すると、Nの8倍は、Nの十二倍を 2/3 にした数値になる。このように、一桁小数で三分割と四分割が可能になる(ただし、五分割はできない)。他のN進法との連関では、1/3 である 0.4(12) は六進法の 0.2(6) や十八進法の 0.6(18)と同値になり、1/4 である 0.3(12) は二十進法の 0.5(20) と同値になる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "以下の表に、十二進法の小数と、それに相当する分数や商を掲載する。割り切れない小数の循環部分は下線で表す。十二は三と四では割り切れるが五では割り切れないため、五で割った際に循環小数になって割り切れない例が多数発生する。五が対応できなくても四と三が対応できることから、十二進法は「小から大へ」の分割法を採っているのが特徴である。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "可分性が最も上がる例は、「5の倍数」が被除数になるパターンである。このパターンでは、7の倍数とB(十一)の倍数を除いてほぼ割り切れる。「3で割り切れるが、2と5と9では割り切れない数」が被除数になるパターンでは、16(12)=18(10)までの3の倍数のうち、割り切れない数は13(12)=15(10)だけとなる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また、六進法は「10 - 1」が5になり、1/5の小数が0.1111...となって1111(6)=259(10)(=(37×7)(10))の倍数となって循環し、5 = (m/41)6 = (m/25)10の小数は 0.01235... となって1235(6)=311(10)の倍数五桁が循環する。これに対して、十二進法は「10 - 1」がB(十進法の11)で5の倍数ではないので、1/5の循環小数は 0.2497...で四桁になり、これに最も近い37(10)の倍数は 2494(12)(=31104(6)=4144(10)=(37×7×16)(10)となる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "そして、5 = (m/21)12の小数は、循環節が「05915 343A0 B62A6 8781B」の二十桁と長く、先頭五桁が05915となるが、これは十進法に直すと9953 (= 311×32 + 1)(10))となる。十二進法における5の循環節は 4×5 となり、5が四桁、5が二十桁、5が百桁になる。逆に、六進法では 5 = 0.01235...で五桁、十八進法でも5 = 0.0CH5...で四桁となる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ここでは、(10)10を A 、(11)10を B と表記する。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "十二進法は「3×4=10」となる「奇数の四倍」進法なので、六進法(3×2=10)や十進法(5×2=10)といった「冪指数が一対一」のN進法とは異なる要素を持っている。十二進法の乗算を覚える要領として、以下の点が挙げられる。次の「奇数の四倍」進法となる二十進法(5×4=10)や、底が「九の二倍」となる十八進法(9×2=10)は、この応用編となる。",
"title": "記数法"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "十二進命数法とは、12 を底とする命数法である。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "自然言語で十二進命数法の数詞を持つものは少ない。ナイジェリアのジャンジ語 (Janji)、ビリ・ニラグ語 (Gbiri-Niragu)、グワンダラ語ニンビア方言 (Nimbia)、ピティ語 (Piti) などが十二進命数法のグループを作り、またネパールのチェパン語 (Chepang) も十二進命数法を用いている。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "以下にグワンダラ語ニンビア方言の数詞を示す。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ゲルマン語派の数詞は、十二以下と十三以降とで構成が異なる。以下に英語、ドイツ語、スウェーデン語の数詞を示す。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "十一と十二の数詞の語源はそれぞれ 1 余り、2 余りを意味する *ainlif, *twalif であり、十三以降の数詞は十進法に基づく数詞だが、十二以下と十三以降で構成が異なるのを十二進法の影響とする説がある。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "英語の hundred など、現在「百」「十二進数84」を意味する語は、中世までは「百二十」「十二進数A0」を意味することがあった(en:Long hundred を参照)。ロジバンは十, 十一, 十二に個別の数詞があり、十二進法に対応している(実際には十六進法にまで対応する)。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "現在、十二進法はもっぱら単位系で使われている。数は十進記数法で 9, 10, 11 と表し、12 や 144 に至ると桁ではなく単位を繰り上げる。すなわち、記数法と単位が一致していない。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "単位の十二進法は、言語の数詞とは無関係に発生したと考えられる。1 年がほぼ 12 か月であること(360 ÷ 30 = 12。満月と新月の回数がほぼ 12 回)に因むとされる。メソポタミア文明ではこれが 1 年を 12 か月とする暦法となり、12 は 30 と同様に主に時間を示す際の基数となった。1 日 24 時間の 24 は 12 の 2 倍であり、六十進法の 60 は 12 と 30 の最小公倍数である。黄道十二宮はこれに基づく。中国の十二支も黄道十二宮と同じように、循環する十二進法である。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "また、 12 は 4×3 であり、1 とその数以外の約数が 2, 3, 4, 6 の 計 4 個と多く、4 までの全てで割り切れる点も、十二進法の単位が用いられる一因となった。十進法の 10 は、1 とその数以外の約数が、2 と 5 の 計 2 個しかない。六進法の 6 は、1 とその数以外の約数が 2 と 3 の計 2 個で便利であるが、4 分割ができず、4 分割は 2 倍 の 12 か、平方数の 36 まで待たねばならない。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "例えば、通貨を3単位×4の十二進法にすると、1728 (= 12) の貨幣を 12 (= 12) と 36 (= 12×3、12÷4) と 144 (= 12) と 432 (= 12×3、12÷4) の四種類の貨幣に分けて、「432の貨幣が2枚」で二分割(1728÷2 = 864)したり、「432の貨幣が1枚 + 144の貨幣が1枚」で三分割(1728÷3 = 576)したり、「432の貨幣が1枚」で四分割(1728÷4 = 432)したり、「144の貨幣が1枚 + 36の貨幣が2枚」で八分割(1728÷8=216)したり、「144の貨幣が1枚 + 36の貨幣が1枚 + 12の貨幣が1枚」で九分割(1728÷9=192)したりすることが可能になる。後述のペンス通貨やアス通貨が、このような三分割と四分割を考慮した単位に該当する。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "日本では、12 ヶ月を 1 年というのに対して、144 ヶ月 (= 12 年) を 1 回りという。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "物の数を表すダース (12)、グロス (144 = 12)、グレートグロス (1728 = 12)、スモールグロス (120 = 12×10) という単位があり、西洋で用いられる。1971年2月15日まで、イギリスポンドは、1 ポンドは 240 ペンスであり、12 ペンスが 1 シリング、20 シリングが 1 ポンドであった。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "この他にも、ヤード・ポンド法は十二進法が主流であり、長さの 1 フィート = 12 インチ = 144 ライン = 1728 ポイントである。同じく、1 トロイポンド = 12 トロイオンス = 144 スカラプル = 1728 シードである。プラモデルの縮尺に 1/144 (= 12) が多いのも、12 フィートすなわち 144 インチを逆数にしたサイズが由来である。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "また、ローマ帝国の数詞や単位は十進法が通例であったが、アス (as) 通貨は異例で十二進法を想定した単位を設定した。アス通貨の下部単位として、1/2 アスのセミス (semis)、1/3 アスのトリエンス (triens)、2/3 アスのベス (bes)、1/4 アスのクォドランス (quadrans)、3/4 アスのドドランス (dodrans)、1/6 アスのセクスタンス (sextans)、1/12 アスのウンシア (uncia)、5/12 アスのクインクンクス (quincunx) が使用されており、中でも semis は「半」を意味する接頭辞 \"semi-\" の語源にもなっている。しかし、1/144 アス (= 1/12 ウンシア) や 12 アス (= 144 ウンシア) の単位は設定されず、1/24 アスのセミウンシア (semiuncia) と 2 アス (= 24 ウンシア)のドゥポンディウス (dupondius) のみであった。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "十二進法で百分率や千分率と同じ冪数分率を作ると、「百四十四分率」「千七百二十八分率」「二万七百三十六分率」となる。ここで問題になる点は、3 つまり「三分割をp回」した際の小数の分子・分母の大きさである。1/9=3は六進法と十二進法の両方とも小数第二位となり、六進法は「三十六分率」、十二進法は「百四十四分率」でほぼ互角となる。百四十四分率は(1/16)10=2まで収容できるが、3以後が大きく変わり、十二進法では(1/27)10=3の小数が千七百二十八分率となり、(1/81)10=3の小数が二万七百三十六分率まで膨れる。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "一方で、六進法は2と3の冪指数が同じなので、1728(10)=12000(6)=1000(12)の1/8である「二百十六分率」{216(10)=1000(6)=160(12)}で1/8と(1/27)10の両方が収容可能で、1000(12)の6/8である「千二百九十六分率」{1296(10)=10000(6)=900(12)}で(1/16)10と(1/81)10の両方(つまり2と3の両方で四回分割)まで収容可能となり、いずれも1000(12)に満たない。別の言い方をすると、六進法は「四分割は36(10)まで待たねばならない」が「八分割と二十七分割は216(10)まで待てばよい」のに対して、十二進法は「二十七分割は1728(10)まで待たねばならない」。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "(m/27)10の小数は、六進法では 12(6)=8=2の倍数だが、十二進法では 54(12)=64(10)=2の倍数になる。そして、(m/81)10の小数は、六進法では 24(6)=16(10)の倍数だが、十二進法では 194(12)=256(10)の倍数まで膨れてしまう。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "このため、除数が「指数が大きい3の冪数」となる割り算では、十二進法は開きが大きくなりやすい。例として、被除数を 2 = 194(12) = 1104(6) = 256(10) とする。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2454(12) = 30544(6) = 4096(10) であり、31B14(12) = 1223224(6) = 65536(10) であり、3 = 3969(12) = 50213(6) = 6561(10) である。 小数点を消すと、六進法の場合 30544 ÷ 13252 = 2(十進換算:4096 ÷ 2048 = 2)で2倍の開きであるが、十二進法の場合 31B14 ÷ 9594 = 4(十進換算:65536 ÷ 16384 = 4)で4倍の開きになる。同じく、3で割った商を、3で割った商で割ると、六進法の場合 30544 ÷ 2212 = 12 で8倍の開き(経過した3の冪指数も、商となる2の冪指数も3で同じ)だが、十二進法の場合 31B14 ÷ 714 = 54 で 64(10)倍の開き(経過した3の冪指数は3だが、商となる2の冪指数が6)になってしまう。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "以下の表に示す通り、商の小数点を消した数値も、十二進法では3(27(10)=23(12))で割ると被除数の2倍=64(10)倍=54(12)倍になり、3(729(10)=509(12))で割ると被除数の(2)12倍=4096(10)倍=2454(12)倍まで膨れてしまう。これに対して、六進法では3(729(10)=3213(6))で割ると被除数の2倍=64(10)倍=144(6)倍の数値になる。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "このように、十二進法の小数は、「一桁で四分割」「二桁で八分割と九分割」ができる長所を持つ一方で、「3の冪指数が大きい割り算の分子・分母」が膨大になってしまうという短所も持っている。",
"title": "命数法"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "十二進法の指数えは、同じ3で割り切れる六進法とは様相が異なる。十二進法の指数えは、親指が指標となり、各指の3つの指骨(末節骨 ・中節骨・基節骨)を小指から数える。片手を十二(10(12))までの数、もう片手を十二の倍数として、片手で十二まで数えて、もう一方の手に繰り上げて百四十四(100(12))まで数える 。(実際は十三進法を用いて百六十八まで数えられるが、一般的ではない)",
"title": "指数え"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "SF作品でも、人類と異なる文明が十二進法を使っているとする設定はよく見られるものである。",
"title": "架空の世界での使用"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "H・G・ウェルズは『冬眠二百年』(When the Sleeper Wakes, 1899年)や『モダンユートピア』(A Modern Utopia, 1905年)で十二進法を使用し、12 = dozen, 144 (=12) = gross, 1728 (=12) = dozand, 20736 (=12) = myriad としている。",
"title": "架空の世界での使用"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "J・R・R・トールキンによる人工言語、エルフ語 (Elvish) の数詞は十二進法である(→クウェンヤ)。",
"title": "架空の世界での使用"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "英米では、十二進法を採用するよう主張する人々がいる。人間の手指の数に由来する、原始的で、2と5でしか割り切れない十進法ではなく、3でも4でも割り切れる十二進法の方が理に適っているとされるためである。これらの人々は、十二進法を表す語として、英語で通常使われる duodecimal を「十のおまけ」という言い方だとして嫌い、dozenal を使う。なお、dozenal に相当するスペイン語は、doce(十二)を形容詞化した docenal である。十と十一を意味する数字には A と B を用いず、十 を T または X 、十一 を E で、或いはその変形で表したり、十 を * で、十一を # で表したりする。これらの十二進法推進団体は、百分率(パーセント:記号は「%」)に代わって百四十四分率(パーグロス:記号は\"per gross\"を縮めた「p/g」)の使用を主張したり、周角の360度(十二進法で260度)から144度(十二進法で100度)または720度(十二進法で500度)への変更も主張している。",
"title": "十二進法の推進"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "なお、十進法以外を採用しようという主張は、近年ではコンピュータの二進法との相性から八進法や十六進法についても主張されている。しかし、八進法や十六進法は「2の冪数」進法なので、2でしか割り切れない。つまり、1/3や1/5といった奇数分割ができない。また、「3の倍数」進法を採用しようという立場から、十二進法以外では六進法や三十進法についても主張されており、それぞれの長短も議論されている。「5の倍数」に囚われない指数えの方法として、十二進法での指の「関節」で数える方法、六進法での「もう片手は六の位」とする方法 が提案されている。",
"title": "十二進法の推進"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "Unicode 8.0 では、十二進法のための10 ( = U+218A, 180度回転した2)と 11( = U+218B, 180度回転した3)の2つの数字が符号位置を与えられた。この2つの数字はアイザック・ピットマンの考案による。",
"title": "十二進法の推進"
}
] |
十二進法(じゅうにしんほう)とは、12 を底(てい)とし、底およびその冪を基準にして数を表す方法である。時間の表記として世界中で一般的に使用されている。
|
{{複数の問題|独自研究=2020年2月|内容過剰=2020年2月}}
'''十二進法'''(じゅうにしんほう)とは、[[12]] を[[底]](てい)とし、底およびその[[冪]]を基準にして数を表す方法である。[[時間]]の表記として世界中で一般的に使用されている。
== 十二進法が使われている例 ==
; 計時
; 物流で主に使われる数量の[[ダース]]、[[グロス]]
暦が12か月周期であることは諸説あるが、数え方は十二進数である。([[太陰暦]]を参照)
== 記数法 ==
=== 整数 ===
[[File:Multiply 4 bags 3 marbles.svg|thumb|right|3つ組が4つ集まると「10」になる。小数も、0.3×4 = 1 となる。]]
;数字
'''十二進記数法'''とは、[[12|十二]]を底とする[[位取り記数法]]である。十二進法での位取りでは、通常は 0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, A, B の計十二個の数字を用い、[[10|十]]を [[A]] , [[11|十一]]を [[B]] , 十二を 10 , [[13|十三]]を 11 と表記する。なお、8 と B が紛らわしいことを理由に、"Ten"と"Eleven"の頭文字を取って、十を T 、十一を E と表記する例もある。
本節では慣用に従い、通常の[[アラビア数字]]を[[十進法|十進記数法]]で表記し、十二進記数法の表記を[[括弧]]および下付の 12 で表す。また、必要に応じて、十進記数法の表記も括弧及び下付の 10 で表す。十二進記数法で表された数を'''十二進数'''と呼ぶ。十二進法の位取りでは、左に一桁動くと十二倍になり、右に一桁動くと十二分の一になる。言い換えると、整数第二位は「十二の位」、整数第三位は「[[144|百四十四]]の位」である。
(12)<sub>12</sub> という表記において、左の「1」は十二を意味し、右の「2」は二を意味し、合わせて「[[14|十四]]」を意味する。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+ 数列の進み方
|-
! [[六進法]]
| 0 || 1 || 2 || <span style="color:red;">3</span> || 4 || 5 || <span style="color:red;">10</span> || 11 || 12 || <span style="color:orange;">13</span> || 14 || 15 || <span style="color:red;">20</span> || 21 || 22 || <span style="color:red;">23</span> || 24 || 25 || <span style="color:orange;">30</span> || 31 || 32
|-
! [[十進法]]
| 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19 || 20
|-
! 十二進法
| 0 || 1 || 2 || <span style="color:red;">3</span> || <span style="color:green;">4</span> || 5 || <span style="color:red;">6</span> || 7 || <span style="color:green;">8</span> || <span style="color:orange;">9</span> || A || B || <span style="color:blue;">'''10'''</span> || 11 || 12 || <span style="color:red;">13</span> || <span style="color:green;">14</span> || 15 || <span style="color:orange;">16</span> || 17 || <span style="color:green;">18</span>
|-
! [[十八進法]]
| 0 || 1 || 2 || <span style="color:red;">3</span> || 4 || 5 || <span style="color:red;">6</span> || 7 || 8 || <span style="color:orange;">9</span> || A || B || <span style="color:red;">C</span> || D || E || <span style="color:red;">F</span> || G || H || <span style="color:orange;">10</span> || 11 || 12
|-
! [[二十進法]]
| 0 || 1 || 2 || 3 || <span style="color:green;">4</span> || 5 || 6 || 7 || <span style="color:green;">8</span> || 9 || A || B || <span style="color:green;">C</span> || D || E || F || <span style="color:green;">G</span> || H || I || J || <span style="color:green;">10</span>
|}
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|-
! 六進法
| <span style="color:red;">340</span> || 341 || 342 || <span style="color:orange;">343</span> || 344 || 345 || <span style="color:red;">350</span> || 351 || 352 || <span style="color:red;">353</span> || 354 || 355 || <span style="color:orange;">400</span> || 401 || 402 || <span style="color:red;">403</span> || 404 || 405 || <span style="color:red;">410</span> || 411
|-
! 十進法
| 132 || 133 || 134 || 135 || 136 || 137 || 138 || 139 || 140 || 141 || 142 || 143 || 144 || 145 || 146 || 147 || 148 || 149 || 150 || 151
|-
! 十二進法
| <span style="color:blue;">'''B0'''</span> || B1 || B2 || <span style="color:orange;">B3</span> || <span style="color:green;">B4</span> || B5 || <span style="color:red;">B6</span> || B7 || <span style="color:green;">B8</span> || <span style="color:red;">B9</span> || BA || BB || <span style="color:blue;">'''100'''</span> || 101 || 102 || <span style="color:red;">103</span> || <span style="color:green;">104</span> || 105 || <span style="color:red;">106</span> || 107
|-
! 十八進法
| <span style="color:red;">76</span> || 77 || 78 || <span style="color:orange;">79</span> || 7A || 7B || <span style="color:red;">7C</span> || 7D || 7E || <span style="color:red;">7F</span> || 7G || 7H || <span style="color:orange;">80</span> || 81 || 82 || <span style="color:red;">83</span> || 84 || 85 || <span style="color:red;">86</span> || 87
|-
! 二十進法
| <span style="color:green;">6C</span> || 6D || 6E || 6F || <span style="color:green;">6G</span> || 6H || 6I || 6J || <span style="color:green;">70</span> || 71 || 72 || 73 || <span style="color:green;">74</span> || 75 || 76 || 77 || <span style="color:green;">78</span> || 79 || 7A || 7B
|}
数列の進み方も、上記の表のように、十進数の 14 が十二進数では 12 となり、二桁の最後も BB となる。十二進法は「[[4]]×[[3]]=10」となるので、数列は4の倍数や3の倍数が進みやすいという傾向を持っている。従って、3で割り切れる[[六進法]]([[2]]×3=10)や[[十八進法]](2×[[9]]=10)や[[三十進法]](2×[[15]]=10)、4で割り切れる[[二十進法]](4×[[5]]=10)との親和性が強い傾向が見られる(→[[矩形数]])。[[2]]と3で割り切れる点は六進法や十八進法と同じであるが、「4×奇素数」で桁上がりする構造は二十進法と同じである。
また、十八進法とは4と[[9]]の立場が逆転する。十八進法では一桁で9分割が可能となるが、4ずつは一の位が「4→8→C→G→2→6→A→E→0→4」の9個循環になる。十二進法では一桁で4分割が可能となるが、9ずつは一の位が「9→6→3→0→9」の4個循環になる。
[[5]]以降の[[素数]]は、一の位が [[1]], [[5]], [[7]], [[11|B]] のいずれか、すなわち [[3]] と [[9]] を除く[[奇数]]になる。例えば:
* 十進法の[[13]] → 十二進法では1'''1'''
* 十進法の[[17]] → 十二進法では1'''5'''
* 十進法の[[79]] → 十二進法では6'''7'''
* 十進法の[[107]] → 十二進法では8'''B'''
* 十進法の[[126]] → 十二進法ではA'''6'''
となる。
;[[倍数]]の法則
*3の倍数は末尾が0、3、6、9のいずれか。
*4の倍数は末尾が0、4、8のいずれか。
*6の倍数は末尾が0か6のいずれか。
*Bの倍数は数字和がBとなる数。
; [[整数]]の数値
十二進表記の整数は、以下の数値になる。
* ([[30]]){{sub|10}} = (26){{sub|12}} (2×12<sup>1</sup> + 6)
* ([[45]]){{sub|10}} = (39)<sub>12</sub> (3×12<sup>1</sup> + 9)
* ([[60]])<sub>10</sub> = (50){{sub|12}} (5×12<sup>1</sup>)
* ([[90]])<sub>10</sub> = (76) (7×12<sup>1</sup> + 6)
* ([[100]]){{sub|10}} = (84)<sub>12</sub> (8×12<sup>1</sup> + 4)
* ([[135]]){{sub|10}} = (B3)<sub>12</sub> (11×12<sup>1</sup> + 3)
* ([[144]]){{sub|10}} = (100)<sub>12</sub> (1×12<sup>2</sup>)
* ([[216]]){{sub|10}} = (160)<sub>12</sub> (1×12<sup>2</sup> + 6×12<sup>1</sup>) = (1000){{sub|6}}
* ([[256]]){{sub|10}} = (194)<sub>12</sub> (1×12<sup>2</sup> + 9×12<sup>1</sup> + 4) = (100){{sub|16}}
* ([[270]]){{sub|10}} = (1A6)<sub>12</sub> (1×12<sup>2</sup> + 10×12<sup>1</sup> + 6)
* ([[360]]){{sub|10}} = (260)<sub>12</sub> (2×12<sup>2</sup> +6×12<sup>1</sup>)
* ([[400]]){{sub|10}} = (294)<sub>12</sub> (2×12<sup>2</sup> + 9×12<sup>1</sup> + 4) = (100){{sub|20}}
* ([[720]])<sub>10</sub> = (500){{sub|12}} (5×12<sup>2</sup>)
* ([[810]]){{sub|10}} = (576)<sub>12</sub> (5×12<sup>2</sup> + 7×12<sup>1</sup> + 6)
* ([[1008]]){{sub|10}} = (700)
* ([[1600]]){{sub|10}} = (B14)<sub>12</sub> (11×12<sup>2</sup> + 1×12<sup>1</sup> + 4)
* ([[1728]]){{sub|10}} = (1000)<sub>12</sub> (1×12<sup>3</sup>)
* ([[2000]]){{sub|10}} = (11A8)<sub>12</sub> (1×12<sup>3</sup> + 1×12<sup>2</sup> + 10×12<sup>1</sup> + 8)
* (2112){{sub|10}} = (1280)<sub>12</sub> (1×12<sup>3</sup> + 2×12<sup>2</sup> + 8×12<sup>1</sup>)
* (3077)<sub>10</sub> = (1945){{sub|12}} (1×12<sup>3</sup> + 9×12<sup>2</sup> + 4×12<sup>1</sup> + 5)
* ([[4096]]){{sub|10}} = (2454)<sub>12</sub> (2×12<sup>3</sup> + 4×12<sup>2</sup> + 5×12<sup>1</sup> + 4) = (1000){{sub|16}}
* (5022){{sub|10}} = (2AA6){{sub|12}} (2×12<sup>3</sup> + 10×12<sup>2</sup> + 10×12<sup>1</sup> + 6)
* ([[5832]]){{sub|10}} = (3460)<sub>12</sub> (3×12<sup>3</sup> + 4×12<sup>2</sup> + 6×12<sup>1</sup>) = (1000){{sub|18}}
* ([[6561]]){{sub|10}} = (3969)<sub>12</sub> (3×12<sup>3</sup> + 9×12<sup>2</sup> + 6×12<sup>1</sup> + 9) = (10000){{sub|9}}
* (10368){{sub|10}} = (6000)<sub>12</sub> (6×12<sup>3</sup>)
* ([[20736]]){{sub|10}} = (10000)<sub>12</sub> (1×12<sup>4</sup>)
* ([[40000|46656]]){{sub|10}} = (23000)<sub>12</sub> (2×12<sup>4</sup> + 3×12<sup>3</sup>) = (1000000){{sub|6}}
; 整数の計算例
* 様々なN進法からの換算
** 十進法の 2000 - 60 = 1940 → 十二進法では 11A8 - 50 = 1158
** 十進法の 45 × 16 = 720 → 十二進法では 39 × 14 = 500
** 十進法の 2{{sup|12}} = 4096 → 十二進法では 2{{sup|10}} = 2454
** 六進法の 13000 + 132 = 13132 → 十二進法では 1160 + 48 = 11A8 (十進法では 1944 + 56 = 2000)
** 六進法の 400 ÷ 3 = 120 → 十二進法では 100 ÷ 3 = 40 (十進法では 144 ÷ 3 = 48)
** 十八進法の 249 + 49 = 290 → 十二進法では 509 + 69 = 576 (十進法では 729 + 81 = 810)
** 二十進法の 55C × 9 = 27A8 → 十二進法では 1280 × 9 = B000 (十進法では 2112 × 9 = 19008)
* 十二進法→十進法
** 十二進法の 50 ÷ 2 = 26 → 十進法では 60 ÷ 2 = 30
** 十二進法の 700 ÷ 7 = 100 → 十進法では 1008 ÷ 7 = 144
** 十二進法の 1000 ÷ 4 = 300 → 十進法では 1728 ÷ 4 = 432
* 十二進法→六進法
** 十二進法の 194 × 69 = 10000 → 六進法では 1104 × 213 = 240000
** 十二進法の 1000 ÷ 54 = 23 → 六進法では 12000 ÷ 144 = 43
====累乗数の換算表====
以下の表に、十二進数で表記した[[12|十二]]の[[冪乗|累乗]]数と、それを[[六進法|六進数]](底が二の三倍)、[[十進法|十進数]](底が二の五倍)、[[二十進法|二十進数]](底が四の五倍)に換算した数値を掲載する。万や億との対比を判り易くするため、桁は四つごとに区切る。
十二進数は「3の倍数」かつ「4の倍数」進数であるが、桁上がりの速さは、「3の倍数」の六進数よりは「4の倍数」の二十進数に近い。3乗への桁上がりでは、六進数とは8倍の差{1000{{sub|(12)}} = 12000{{sub|(6)}} = 1728{{sub|(10)}}}だが、二十進数とは5倍の差{5000{{sub|(12)}} = 11C0{{sub|(20)}} = 8640{{sub|(10)}}}になる。4乗への桁上がりでも、六進数とは24{{sub|(6)}}倍=16{{sub|(10)}}倍の差{10000{{sub|(12)}} = 240000{{sub|(6)}} = 20736{{sub|(10)}}}、十進数とは2倍の差{10000{{sub|(12)}} = 20736{{sub|(10)}}}、二十進数とは8倍の差{80000{{sub|(12)}} = 10EE8{{sub|(20)}} = 165888{{sub|(10)}}}、[[十八進法|十八進数]]とも5倍の差{50900{{sub|(12)}} = 10000{{sub|(18)}} = 104976{{sub|(10)}}}である。
また、十二の累乗数と[[20|二十]]の累乗数を対比すると、十二の六乗と二十の五乗が最も接近する{両者とも(300万){{sub|10}}前後。10A3A28{{sub|(12)}} = 100000{{sub|(20)}} = 3200000{{sub|(10)}}}。十二の累乗数と[[18|十八]]の累乗数も同じく、十二の六乗と十八の五乗が最も接近する{両者とも(200万){{sub|10}}前後。771600{{sub|(12)}} = 100000{{sub|(18)}} = 1889568{{sub|(10)}}}。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:right"
|+十二の累乗数の換算
|- style="background:#ccccff"
! 指数 !! 十二進数 !! 六進数に換算 !! 十進数に換算 !! 二十進数に換算
|-
|-
| 1 || 10 || 20 || 12 || C
|-
| 2 || 100 || 400 || 144 || 74
|-
| 3 || 1000 || 1 2000 || 1728 || 468
|-
| 4 || 1 0000 || 24 0000 || 2 0736 || 2BGG
|-
| 5 || 10 0000 || 520 0000 || 24 8832 || 1 B21C
|-
| 6 || 100 0000 || 1 4400 0000 || 298 5984 || I D4J4
|-
| 7 || 1000 0000 || 33 2000 0000 || 3583 1808 || B3 IJA8
|-
| 8 || 1 0000 0000 || 1104 0000 0000 || 4 2998 1696 || 6E7 7E4G
|-
| 9 || 10 0000 0000 || 2 2120 0000 0000 || 51 5978 0352 || 40C8 CAHC
|-
| A || 100 0000 0000 || 44 2400 0000 0000 || 619 1736 4224 || 2 8793 AAB4
|-
| B || 1000 0000 0000 || 1325 2000 0000 0000 || 7430 0837 0688 || 19 09A2 66E8
|-
| 10 || 1 0000 0000 0000 || 3 0544 0000 0000 0000 || 8 9161 0044 8256 || H8 5E17 G0CG
|}
====他のN進数との互換====
他のN進数を十二進数に変換するには、整数部分はそのまま十二進数に変換し、小数部分は十二の累乗数を他のN進数に変換した数値を掛ける。
;六進数→十二進数
(例)[[六進法|六進数]] 1.225245314([[2の平方根]])
* 小数の分母:1000000000{{sub|(6)}} → 144000000{{sub|(6)}}(十二進換算値:3460000{{sub|(12)}} → 1000000{{sub|(12)}}、十進換算値:10077696 → 2985984)
* 225245314 × 0.144000000 = 42302030.544 → 42302031{{sub|(6)}}
* 42302031{{sub|(6)}} = 4B7917{{sub|(12)}}(十進換算値は1236835)
よって、1.225245314{{sub|(6)}} ≒ 1.4B7917{{sub|(12)}} となる。
;十進数→十二進数
(例)[[十進法|十進数]] 42.195([[マラソン|フルマラソン]]のキロ数)
* 整数:42{{sub|(10)}} = 36{{sub|(12)}}
* 小数の分母:1000{{sub|(10)}} → 144{{sub|(10)}}(十二進換算値:6B4{{sub|(12)}} → 100{{sub|(12)}})
* 195 × 0.144 = 28.08 → 28{{sub|(10)}}
* 28{{sub|(10)}} = 24{{sub|(12)}}
よって、42.195{{sub|(10)}} ≒ 36.24{{sub|(12)}} となる。
;十六進数→十二進数
(例)[[十六進法|十六進数]] 73.93(倍率、細分値)
* 整数:73{{sub|(16)}} = 97{{sub|(12)}}(十進換算値は115)
* 小数の分母:100{{sub|(16)}} → 5100{{sub|(16)}}(十二進換算値:194{{sub|(12)}} → 10000{{sub|(12)}}、十進換算値:256 → 20736)
* 93 × 51 = 2E83 → 2E83{{sub|(16)}}
* 2E83{{sub|(16)}} = 6A83{{sub|(12)}}(十進換算値は11907)
よって、73.93{{sub|(16)}} = 97.6A83{{sub|(12)}} となる。
;二十進数→十二進数
(例)[[二十進法|二十進数]] 56.B38(倍率、細分値)
* 整数:56{{sub|(20)}} = 8A{{sub|(12)}}(十進換算値は106)
* 小数の分母:1000{{sub|(20)}} → 468{{sub|(20)}}(十二進換算値:4768{{sub|(12)}} → 1000{{sub|(12)}}、十進換算値:8000 → 1728)
* B38 × 0.468 = 285.1F4 → 285{{sub|(20)}}
* 285{{sub|(20)}} = 685{{sub|(12)}}(十進換算値は965)
よって、56.B38{{sub|(20)}} ≒ 8A.685{{sub|(12)}} となる。
=== 小数と除算 ===
桁が一つ動く度に数が十二倍変わるため、[[小数]]第一位は「十二分の一の位」、小数第二位は「[[144|百四十四]]分の一の位」となる。従って、十二進法では:
* (0.1)<sub>12</sub> = [[1/12]] (1×12<sup>-1</sup>)
* (0.5)<sub>12</sub> = 5/12 (5×12<sup>-1</sup>)
* (0.A)<sub>12</sub> = 10/12 (10×12<sup>-1</sup>)
* (0.01)<sub>12</sub> = 1/[[144]] (1×12<sup>-2</sup>)
* (0.03)<sub>12</sub> = 3/144 (3×12<sup>-2</sup>)
* (0.14)<sub>12</sub> = [[16]]/144 (1×12<sup>-1</sup> + 4×12<sup>-2</sup>)
* (0.75)<sub>12</sub> = [[89]]/144 (7×12<sup>-1</sup> + 5×12<sup>-2</sup>)
* (0.76)<sub>12</sub> = [[90]]/144 (7×12<sup>-1</sup> + 6×12<sup>-2</sup>)
* (0.001)<sub>12</sub> = 1/[[1728]] (1×12<sup>-3</sup>)
を、それぞれ意味する。十二と五は[[互いに素 (整数論)|互いに素]]なので、{{sfrac|5|10}} や {{sfrac|75|100}}は約分できず、既約分数になる。
====計算例====
十二進法は、10 の素因数分解が「10 = [[2]]{{sup|2}}×[[3]]」になり、2の冪指数が2つになる。従って、冪指数が一対一の関係になる[[六進法]](10 = 2×3)や[[十進法]](10 = 2×[[5]])とは様々な面で異なる。十二進法と似たような現象は、[[二十進法]](10 = 2{{sup|2}}×5)や[[十八進法]](10 = 2×3{{sup|2}})でも発生する。
=====加減算の例=====
十二進法では十二倍ごとに桁を変えるので、小数では「y年m箇月」の計算が容易になる。
; 7.6 + 1A.6 = 26
* この十二進数の数式を十進数で解釈すれば、「7年6箇月 + 22年6箇月 = 30年」と見ることができる。桁を一つ繰り上げると、76{{sub|(12)}}箇月=90{{sub|(10)}}箇月、1A6{{sub|(12)}}箇月=270{{sub|(10)}}箇月、260{{sub|(12)}}箇月=360{{sub|(10)}}箇月となり、数字と月数が一致する。
; 1200.B - 4.6 = 11B8.5
* この数式を十進数で換算すると、「2016と{{sfrac|11|12}} - 4と{{sfrac|6|12}} = 2012と{{sfrac|5|12}}」となる。これを別の言い方をすると、「2016年11月の4年6箇月前は、2012年5月」ということがすぐに判る。
* これを十進数でやると、帯分数にせざるを得ず、小数化すると循環小数になって正確な値を出しにくい。上記の十二進数の数式も、十進数では「2016.91<u>6</u>66… - 4.5 = 2012.41<u>6</u>66…」になってしまう。
=====2の演算の例=====
; {{sfrac|3×5|4}} = 3.9{{sub|(12)}}
{{sfrac|3×5|4}}、すなわち十進分数の {{sfrac|15|4}}、六進分数の {{sfrac|23|4}} に当たる小数は、十進数では3.75{{sub|(10)}}、六進数では3.43{{sub|(6)}}に対して、十二進数では3.9{{sub|(12)}}となり小数点以下が一桁になる。これは、十進数や六進数では2の冪指数が1つ(すなわち底が[[単偶数]])なのに対して、十二進数では2の冪指数が2つ含まれているからである。<br>
これらの小数を分解すると、十進数では 3 + {{sfrac|75|100}} (= {{sfrac|3|4}}) と 3 + {{sfrac|9|12}} (= {{sfrac|3|4}}) が {{sfrac|15|4}} で同値となる。六進数でも、3 + {{sfrac|43|100}} (= {{sfrac|3|4}}) と 3 + {{sfrac|13|20}}(= {{sfrac|3|4}}) が {{sfrac|23|4}} で同値となる。
; {{sfrac|5|2{{sup|4}}}} = 0.39{{sub|(12)}}
前述の 3.9{{sub|(12)}}を一桁下げた 0.39<sub>(12)</sub>は、十進数では 0.3125{{sub|(10)}}、六進数で 0.1513{{sub|(6)}} になる。
これは、素因数分解の上既約分数にすると {{sfrac|5|2{{sup|4}}}} の小数だが、十進数の場合 5×0.0[[625]](分子が5{{sup|4}})で0.3125、
六進数の場合 5×0.0[[81|213]](分子が3{{sup|4}})で0.1513になるのに対して、十二進数の場合 5×0.09(分子が3{{sup|2}})で0.39になる。<br>
このように、十進数の場合「2の4乗には5の4乗」、六進数の場合「2の4乗には3の4乗」であるのに対して、十二進数では「2の4乗には3の2乗」となり、2の冪指数が[[偶数]]の場合は分子となる3の冪指数は1/2になる。
; 0.39 × 6 = 1.A6
この十二進数の数式は、十進数では 0.3125×6 = 1.875、六進数では0.1513×10 = 1.513となるが、小数部分を既約分数にすると {{sfrac|7|8}} になる。{{sfrac|7|8}} すなわち {{sfrac|7|2{{sup|3}}}}の小数も、十進数では7×0.[[125]] = 0.875で「7×5{{sup|3}}」、六進数では11×0.0[[27|43]] = 0.513で「7×3{{sup|3}}」の数が現れるのに対して、十二進数では7×0.[[18|16]] = 0.A6 となる。つまり、2の冪指数が[[奇数]]の時、逆数の分子は6の倍数になる。<br>
この十二進数0.A6{{sub|(12)}}を分数化すると、十進数では {{sfrac|[[126]]|[[144]]}} = {{sfrac|7|8}}、六進数でも {{sfrac|330|400}} = {{sfrac|11|12}} となり、数値が一致する。
; 3.9 × 6 = 1A.6
前記の小数を一桁上げた数式で、十進数では 3.75×6 = 22.5、六進数では 3.43×10 = 34.3となるが、小数部分を既約分数にすると {{sfrac|1|2}} になる。<br>
これをy年m箇月の計算に当て嵌めることも可能で、十進数で換算すると「3年9箇月の6倍は22年6箇月」とも言える。
=====3の演算の例=====
十二進法は[[奇数]]の因数に[[3]]が含まれているので、除数が[[3の冪]]数であれば割り切れる数になる。但し、十二進法は10の素因数分解が2{{sup|2}}×3なので、3の冪数による除算は、小数点を消した値が「2の偶数乗を掛けた値」になる。例えば、除数が3{{sup|3}}の場合、[[逆数]]の分子は2{{sup|3×2}}=2{{sup|6}}になる(→詳細は[[#他の単位との関連|こちら]]も参照すること)。冪指数が小さい場合でも、六進法の場合 [[1/3]]は0.2、[[1/9]] (1/13{{sub|6}}) は0.04(分子が2{{sup|2}})に対して、十二進法では 1/3は0.4(分子が2{{sup|2}})、1/9は0.14(分子が2{{sup|4}})になる。
;57.6÷9
十進数の 57.6÷9、十二進数の57.6 ÷ 9 の商は、以下の通りとなる。
*十進法: 57.6 ÷ 9 = 6.4
*十二進法: 57.6 ÷ 9 = 7.6
桁を一つ繰り上げて小数点を消すと、576<sub>(10)</sub> は 64×9 だが、576<sub>(12)</sub> は 810{{sub|(10)}}、つまり十進数換算値が 90×9 である。576<sub>(12)</sub>を十進数で分解すると、5×12<sup>2</sup> + 7×12<sup>1</sup> + 6 = 720 + 84 + 6 = 810 となる。
更に、十進法の 576÷9 = 64 も、十二進法では 400÷9 = 54 となる。
*十進法:576 ÷ 9 = 64
*十二進法:400 ÷ 9 = 54
576<sub>(10)</sub> を十進数で分解すると、十進法では 5×10<sup>2</sup> + 7×10<sup>1</sup> + 6 = 500 + 70 + 6 で 576 となるが、十二進法では 4×12<sup>2</sup> で 400<sub>(12)</sub>となる。50<sub>(12)</sub> は 60{{sub|(10)}} なので、4 を加えた 54<sub>(12)</sub> も 64{{sub|(10)}} に等しい。別の言い方をすると、「五[[100|百]]七[[10|十]]六個の九分割は六十四個」は「四[[グロス]]を九人で分けて、五[[ダース]]四個」になるのに対して、「五グロス七ダース六個の九分割は七ダース六個」は「八百十個の九分割は九十個」になるとも言える。このように、十二進法では、「400個」の物品を3人や9人でぴったり分けることができる。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:right"
|+576÷9の商
|- style="background:#ccccff"
!十二進法 !! 十進法に換算
|-
|-
| 576÷9 = 76 || 810÷9 = 90
|-
| 400÷9 = 54 || 576÷9 = 64
|}
; 1.75{{sub|(12)}} は {{sfrac|7|4}} ではない
* 十二進法:175 ÷ 100 = 1.75
* 十進法:[[233]] ÷ [[144]] = 1.6180<u>5</u>55…
* 六進法:1025 ÷ 400 = 1.3413
十二進法の1.75{{sub|(12)}} 列びに ({{sfrac|175|100}}){{sub|12}}は、十進分数では {{sfrac|7|4}} ではなく、{{sfrac|233|144}} すなわち[[黄金比]]の概数になる。
; 2{{sup|3}} ÷ 3{{sup|3}}(十進分数 {{sfrac|[[8]]|[[27]]}})
* 六進法:12 ÷ 43 = 0.144
* 十二進法:8 ÷ 23 = 0.368
「[[3/10|十分の三]]」は、十進法が0.3{{sub|(10)}}、六進法が0.1<u>4</u>44…{{sub|(6)}}に対して、十二進法では0.3<u>7249</u>…{{sub|(12)}}になる。「十分の三」の[[近似値]]である「二十七分の八」は、六進法が0.[[64|144]]{{sub|(6)}}に対して、十二進法では0.[[512|368]]{{sub|(12)}}で分子・分母が六進法の八倍になる。十二進分数 {{sfrac|368|1000}} の六進数換算値は {{sfrac|2212|12000}} = {{sfrac|[[8|12]]×144|12×1000}} になる。
; 8{{sup|2}} ÷ 9{{sup|2}}(= 2{{sup|6}} ÷ 3{{sup|4}}、十進分数 {{sfrac|[[64]]|[[81]]}})
* 六進法:144 ÷ 213 = 0.4424
* 十二進法:54 ÷ 69 = 0.9594
六進数は「2の4乗には3の4乗」「3の4乗には2の4乗」という一対一の関係なので、3{{sup|-4}}も0.0024{{sub|(6)}}で分子が2{{sup|4}} となり、2{{sup|10}}÷3{{sup|4}} では分子に現れる数は 2{{sup|10+4}} = 2{{sup|14}}、すなわち 144×0.0024 = 0.4424{{sub|(6)}}となる。<br>
しかし、十二進数では「2の4乗には3の2乗」とは逆に「3の4乗には2の8乗」の関係になり、2{{sup|6}}÷3{{sup|4}} で分子に現れる数は 2{{sup|A}} の 714{{sub|(12)}}(すなわち 4424{{sub|(6)}} = [[1024]]{{sub|(10)}})ではなく、2{{sup|6+8}} = (2{{sup|12}}){{sub|12}} で 9594{{sub|(12)}}(すなわち 203504{{sub|(6)}} = [[16384]]{{sub|(10)}})となる。3{{sup|-4}}も0.0194{{sub|(12)}}で分子が2{{sup|8}}となり、2{{sup|6}}÷3{{sup|4}} も 54×0.0194 = 0.9594{{sub|(12)}}となる。<br>
0.9594{{sub|(12)}}を六進数で分解すると、0.9594{{sub|(12)}} = {{sfrac|203504|240000}} = ({{sfrac|16384|20736}}){{sub|10}}、0.4424{{sub|(6)}}は {{sfrac|4424|10000}} = ({{sfrac|1024|1296}}){{sub|10}}となり、双方の差は203504 ÷ 4424 = [[16|24]]倍 となる。
; 2 ÷ 3{{sup|6}}(十進分数 {{sfrac|2|[[729]]}})
* 六進法:2 ÷ 3213 = 0.000332
* 十二進法:2 ÷ 509 = 0.0048A8
「1年に1回」を概数にすると {{sfrac|2|3{{sup|6}}}} の分数になるが、六進法と十二進法の両方とも、3{{sup|-6}}(七百二十九分割)は小数点以下六桁になる。分数に換算すると、六進法の場合 0.000332{{sub|(6)}} = ({{sfrac|332|1000000}}){{sub|6}} = ({{sfrac|128|46656}}){{sub|10}}になるが、十二進法の場合 0.0048A8{{sub|(12)}} = ({{sfrac|101532|144000000}} = {{sfrac|144×332|144×1000000}}){{sub|6}} = ({{sfrac|8192|2985984}}){{sub|10}}になる。<br>
六進法の3{{sup|-6}}は分子が2{{sup|6}}=144{{sub|(6)}}=64{{sub|(10)}}、分母が23000{{sub|(12)}}=1000000{{sub|(6)}}=46656{{sub|(10)}}に対して;十二進法で3{{sup|-6}}をすると、分子は2{{sup|6×2}}=[[4096|2454]]{{sub|(12)}}=30544{{sub|(6)}}=4096{{sub|(10)}}、分母は1000000{{sub|(12)}}=[[64|144]]000000{{sub|(6)}}=2985984{{sub|(10)}}で分子・分母が六進法の六十四倍になる。
; [[素因数]]に3が含まれない冪数の除算
[[十進法]]の [[100]]{{sub|(10)}} や [[1000]]{{sub|(10)}} など[[10の冪|十の冪数]]、[[二十進法]]の 100{{sub|(20)}}(=[[400]]{{sub|(10)}})や 1000{{sub|(20)}}(=[[8000]]{{sub|(10)}})など[[20|二十]]の冪数、[[十六進法]]の 100{{sub|(16)}}(=[[256]]{{sub|(10)}})など[[2の冪|二の冪数]]進法による冪数は、[[3]]や[[9]]で割り切れないが、十二進法では割り切れる([[六進法]]も同様)。十進法の 100{{sub|(10)}} は十二進法では 84{{sub|(12)}}、十六進法の 100{{sub|(16)}} は十二進法では 194{{sub|(12)}} となる([[#小数との置換表|→他の商は後述]])。
* [[1/3]] [[メートル]]
** 十進法:100 ÷ 3 = 33.3333… [[センチメートル]]
** 十二進法:(84){{sub|12}} ÷ 3 = (29.4){{sub|12}} センチメートル
* 1/3 [[リットル]]
** 十進法:1000 ÷ 3 = 333.3333… [[ミリリットル]]
** 十二進法:(6B4){{sub|12}} ÷ 3 = (239.4){{sub|12}} ミリリットル
* 1/9 [[キロメートル]]
** 十進法:1000 ÷ 9 = 111.1111… メートル
** 十二進法:(6B4){{sub|12}} ÷ 9 = (93.14){{sub|12}} メートル
* 2{{sup|8}} ÷ 3 (十進換算:256 ÷ 3)
** 十六進法:(100){{sub|16}} ÷ 3 = 55.5555…
** 十二進法:(194){{sub|12}} ÷ 3 = 71.4
* 1/3バク(※「バク」はマヤ数詞で四百。十進換算:400 ÷ 3)
** 二十進法:(100){{sub|20}} ÷ 3 = 6D.6D6D…
** 十二進法:(294){{sub|12}} ÷ 3 = B1.4
=====2と3を除く演算の例=====
5を除数とする演算を割り切る条件は、被除数の約数に5が含まれることが条件になる。
* (3{{sup|2}}×7) ÷ 3{{sup|3}}(十進法の場合 63 ÷ 27)
** 十二進法:53 ÷ 23 = 2.4
** 十六進法:3F ÷ 1B = 1.<u>5</u>555…
** 二十進法:33 ÷ 17 = 2.<u>6D</u>6D…
* (3{{sup|2}}×7) ÷ (2×3×5)(十進法の場合 63 ÷ 30)
** 十二進法:53 ÷ 26 = 2.1<u>2497</u>2497…
** 十六進法:3F ÷ 1E = 2.1<u>9</u>99…
** 二十進法:33 ÷ 1A = 2.2
十二進法で[[循環小数|循環節]]が長くなる例として、[[5]]{{sup|-2}}({{sfrac|1|[[25|21]]}})が20{{sub|(10)}}桁、[[7]]{{sup|-2}}({{sfrac|1|[[49|41]]}})が42{{sub|(10)}}桁が挙げられる。逆に、十進法では22{{sub|(10)}}桁、二十進法では55{{sub|(10)}}桁、六進法や十八進法でも110{{sub|(10)}}桁になるB{{sup|-2}}({{sfrac|1|[[121|A1]]}})は、十二進法では僅B{{sub|(12)}}桁=11{{sub|(10)}}桁になる。
; (2{{sup|11}} ÷ A{{sup|2}}){{sub|12}} { (2{{sup|13}}÷10{{sup|2}}){{sub|10}}}
* 六進法:101532 ÷ 244 = 213.<u>53041</u>…
* 十進法:8192 ÷ 100 = 81.92
* 十二進法:48A8 ÷ 84 = 69.<u>B0591 5343A 0B62A 68781</u>…
* 十八進法:1752 ÷ 5A = 49.<u>GA17</u>…
* 二十進法:109C ÷ 50 = 41.I8
; (10{{sup|2}} ÷ B{{sup|2}}){{sub|12}}{ (12{{sup|2}}÷11{{sup|2}}){{sub|10}}}
* 十進法:144 ÷ 121 = 1.<u>19008 26446 28099 17355 37</u>…
* 十二進法:100 ÷ A1 = 1.<u>23456789B01</u>…
====一桁小数による分割====
十二進法では 0.1{{sub|(12)}} が「[[1/12|十二分の一]]」になるため、0.3{{sub|(12)}} は [[1/4]] になり、0.4{{sub|(12)}} は [[1/3]] になり、0.6{{sub|(12)}} は [[1/2]] になり、0.[[A]]{{sub|(12)}}(十進法で[[10]]/12)は [[5/6]] になる。その他、m/d として分数化できる一桁小数として、0.8{{sub|(12)}}は [[2/3]] となり、0.9{{sub|(12)}}は [[3/4]] となる。
従って、ある数値に 0.4{{sub|(12)}} を掛けると 1/3 になり、0.9{{sub|(12)}} を掛けると 3/4 になる。位取りに応用すると、Nの8倍は、Nの十二倍を 2/3 にした数値になる。このように、一桁小数で三分割と四分割が可能になる(ただし、五分割はできない)。他のN進法との連関では、1/3 である 0.4{{sub|(12)}} は[[六進法]]の 0.2{{sub|(6)}} や十八進法の 0.6{{sub|(18)}}と同値になり、1/4 である 0.3{{sub|(12)}} は[[二十進法]]の 0.5{{sub|(20)}} と同値になる。
;8倍と0.8
*十二を掛ける:(76){{sub|12}} × (10){{sub|12}} = (760){{sub|12}}(十進法:90の 12倍 は1080。六進法:230 × 20 = 5000)
*8を掛ける: (76){{sub|12}} × (8){{sub|12}} = (500){{sub|12}}(十進法:90の 8倍 は720。六進法:230 × 12 = 3200)
*0.8を掛ける:(760){{sub|12}} × (0.8){{sub|12}} = (500){{sub|12}}(十進法:1080の 2/3 は720。六進法:5000 × 0.4 = 3200)
;除算と一桁小数
*除算:(76){{sub|12}} ÷ (3){{sub|12}} = (26){{sub|12}}(十進法:90 ÷ 3 = 30。六進法:230 ÷ 3 = 50)
**一桁小数を掛ける:(76){{sub|12}} × (0.4){{sub|12}} = (26){{sub|12}}(十進法:90の 1/3 は30。六進法:230 ×0.2 = 50)
**一桁小数を掛ける:(76){{sub|12}} × (0.8){{sub|12}} = (50){{sub|12}}(十進法:90の 2/3 は60。六進法:230 ×0.4 = 140)
*除算:(760){{sub|12}} ÷ (4){{sub|12}} = (1A6){{sub|12}}(十進法:1080 ÷ 4 = 270。二十進法:2E0 ÷ 4 = DA)
**一桁小数を掛ける:(760){{sub|12}} × (0.3){{sub|12}} = (1A6){{sub|12}}(十進法:1080の 1/4 は270。二十進法:2E0 × 0.5 = DA)
**一桁小数を掛ける:(760){{sub|12}} × (0.9){{sub|12}} = (576){{sub|12}}(十進法:1080の 3/4 は810。二十進法:2E0 × 0.F = 20A)
====小数との置換表====
以下の表に、十二進法の小数と、それに相当する分数や商を掲載する。割り切れない小数の循環部分は<u>下線</u>で表す。十二は'''三'''と四では割り切れるが'''五'''では割り切れないため、五で割った際に[[循環小数]]になって割り切れない例が多数発生する。五が対応できなくても四と三が対応できることから、十二進法は「小から大へ」の分割法を採っているのが特徴である。
可分性が最も上がる例は、「5の倍数」が被除数になるパターンである。このパターンでは、7の倍数とB(十一)の倍数を除いてほぼ割り切れる。「3で割り切れるが、2と5と9では割り切れない数」が被除数になるパターンでは、16{{sub|(12)}}=[[18]]{{sub|(10)}}までの3の倍数のうち、割り切れない数は13{{sub|(12)}}=[[15]]{{sub|(10)}}だけとなる。
また、[[六進法]]は「10 - 1」が5になり、[[1/5]]の小数が0.<u>1</u>111…となって1111{{sub|(6)}}=[[259]]{{sub|(10)}}(=([[37]]×7){{sub|(10)}})の倍数となって循環し、5{{sup|-2}} = (m/41){{sub|6}} = (m/[[25]]){{sub|10}}の小数は 0.<u>01235</u>… となって1235{{sub|(6)}}=[[311]]{{sub|(10)}}の倍数五桁が循環する。これに対して、十二進法は「10 - 1」がB(十進法の11)で5の倍数ではないので、1/5の循環小数は 0.<u>2497</u>…で四桁になり、これに最も近い37{{sub|(10)}}の倍数は 2494{{sub|(12)}}(=31104{{sub|(6)}}=4144{{sub|(10)}}=(37×7×16){{sub|(10)}}となる。
そして、5{{sup|-2}} = (m/21){{sub|12}}の小数は、循環節が「05915 343A0 B62A6 8781B」の二十桁と長く、先頭五桁が05915となるが、これは十進法に直すと9953 (= [[311]]×32 + 1){{sub|(10)}})となる。十二進法における5{{sup|-n}}の循環節は 4×5{{sup|n-1}} となり、5{{sup|-1}}が四桁、5{{sup|-2}}が二十桁、5{{sup|-3}}が百桁になる。逆に、六進法では 5{{sup|-2}} = 0.<u>01235</u>…で五桁、[[十八進法]]でも5{{sup|-2}} = 0.<u>0CH5</u>…で四桁となる。
{|class="wikitable"
|+十二進法の小数と除算
!除数!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!A!!B!!10
|-
|被除数が'''1'''||0.6||0.4||0.3||0.<u>2497</u>…||0.2||0.<u>186A35</u>…||0.16||0.14||0.1<u>2497</u>…||0.<u>1</u>11…||0.1
|-
|被除数が'''5'''||2.6||1.8||1.3||1||0.A||0.<u>86A351</u>…||0.76||0.68||0.6||0.<u>5</u>55…||0.5
|-
|被除数が'''8'''||4||2.8||2||1.<u>7249</u>…||1.4||1.<u>186A35</u>…||1||0.A8||0.<u>9724</u>…||0.<u>8</u>88…||0.8
|-
|被除数が'''A'''<br>(十進法の[[10]]) ||5||3.4||2.6||2||1.8||1.<u>5186A3</u>…||1.3||1.14||1||0.<u>A</u>AA…||0.A
|-
|被除数が'''10'''<br>(十進法の12) ||6||4||3||2.<u>4972</u>…||2||1.<u>86A351</u>…||1.6||1.4||1.<u>2497</u>…||1.<u>1</u>11…||1
|-
|被除数が'''15'''<br>(十進法の17) ||8.6||5.8||4.3||3.<u>4972</u>…||2.A||2.<u>5186A3</u>…||2.16||1.A8||1.8<u>4972</u>…||1.<u>6</u>66…||1.5
|-
|被除数が'''26'''<br>(十進法の30) ||13||A||7.6||6||5||4.<u>35186A</u>…||3.9||3.4||3||2.<u>8</u>88…||2.6
|-
|被除数が'''50'''<br>(十進法の60) ||26||18||13||10||A||8.<u>6A3518</u>…||7.6||6.8||6||5.<u>5</u>55…||5
|-
|被除数が'''84'''<br>(十進法の[[100]]) ||42||29.4||21||18||14.8||12.<u>35186A</u>…||10.6||B.14||A||9.<u>1</u>11…||8.4
|-
|被除数が'''93'''<br>(十進法の[[111]]) ||47.6||31||23.9||1A.<u>2497</u>…||16.6||13.<u>A35186</u>…||11.A6||10.4||B.1<u>2497</u>…||A.<u>1</u>11…||9.3
|-
|被除数が'''100'''<br>(十進法の144) ||60||40||30||24.<u>9724</u>…||20||18.<u>6A3518</u>…||16||14||12.<u>4972</u>…||11.<u>1</u>11…||10
|-
|被除数が'''194'''<br>(十進法の[[256]]) ||A8||71.4||54||43.<u>2497</u>…||36.8||30.<u>6A3518</u>…||28||24.54||21.<u>7249</u>…||1B.<u>3</u>33…||19.4
|-
|被除数が'''294'''<br>(十進法の[[400]]) ||148||B1.4||84||68||56.8||49.<u>186A35</u>…||42||38.54||34||30.<u>4</u>44…||29.4
|-
|被除数が'''441'''<br>(十進法の[[625]]) ||220.6||154.4||110.3||A5||88.2||75.<u>35186A</u>…||66.16||59.54||52.6||48.<u>9</u>99…||44.1
|-
|被除数が'''6B4'''<br>(十進法の[[1000]]) ||358||239.4||18A||148||11A.8||BA.<u>A35186</u>…||A5||93.14||84||76.<u>A</u>AA…||6B.4
|}
{|class="wikitable"
|+十二進法の小数と分数(五分割まで)
!分数!![[1/2]] (= 2/4)!![[1/3]]!![[2/3]]!![[1/4]]!![[3/4]]!![[1/5]]!![[2/5]]!![[3/5]]!![[4/5]]
|-
|被除数が'''1'''||0.6||0.4||0.8||0.3||0.9||0.<u>2497</u>…||0.<u>4972</u>…||0.<u>7249</u>…||0.<u>9724</u>…
|-
|被除数が'''3'''||1.6||1||2||0.9||2.3||0.<u>7249</u>…||1.<u>2497</u>…||1.<u>9724</u>…||2.<u>4972</u>…
|-
|被除数が'''5'''||2.6||1.8||3.4||1.3||3.9||1||2||3||4
|-
|被除数が'''8'''||4||2.8||5.4||2||6||1.<u>7249</u>…||3.<u>2497</u>…||4.<u>9724</u>…||6.<u>4972</u>…
|-
|被除数が'''9'''||4.6||3||6||2.3||6.9||1.<u>9724</u>…||3.<u>7249</u>…||5.<u>4972</u>…||7.<u>2497</u>…
|-
|被除数が'''10'''<br>(十進法の12)||6||4||8||3||9||2.<u>4972</u>…||4.<u>9724</u>…||7.<u>2497</u>…||9.<u>7249</u>…
|-
|被除数が'''15'''<br>(十進法の17)||8.6||5.8||B.4||4.3||10.9||3.<u>4972</u>…||6.<u>9724</u>…||A.<u>2497</u>…
||11.<u>7249</u>…
|-
|被除数が'''26'''<br>(十進法の30)||13||A||18||7.6||1A.6||6||10||16||20
|-
|被除数が'''50'''<br>(十進法の60)||26||18||34||13||39||10||20||30||40
|-
|被除数が'''76'''<br>(十進法の90)||39||26||50||1A.6||57.6||16||30||46||60
|-
|被除数が'''260'''<br>(十進法の360)||130||A0||180||76||1A6||60||100||160||200
|}
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:left"
|+[[無理数]]の換算表
|- style="background:#ccccff"
! 主な無理数 !! 十二進法 !! 六進法 !! 十進法 !! 二十進法
|-
|-
| [[円周率]] || 3.184809 493B86… || 3.050330 051415 1235… || 3.141592 653589… || 3.2GCEG9 GBHB74…
|-
| [[2の平方根]] || 1.4B7917 0A07B7… || 1.225245 314205 5233… || 1.414213 562373… || 1.85DE37 JGEJA8…
|-
| [[3の平方根]] || 1.894B97 BB967B… || 1.422042 321254 5451… || 1.732050 807568… || 1.ECG82B DDEG68…
|-
| [[5の平方根]] || 2.29BB13 254051… || 2.122553 553151 3031… || 2.236067 977499… || 2.4E8AHA B3J9F4…
|-
| [[黄金比]] || 1.74BB67 728022… || 1.341254 554353 4312… || 1.618033 988749… || 1.C7458F 5BJ9F4…
|}
=== 計算表 ===
ここでは、(10){{sub|10}}を A 、(11){{sub|10}}を B と表記する。
十二進法は「3×4=10」となる「[[奇数]]の四倍」進法なので、[[六進法]](3×2=10)や[[十進法]](5×2=10)といった「冪指数が一対一」のN進法とは異なる要素を持っている。十二進法の乗算を覚える要領として、以下の点が挙げられる。次の「奇数の四倍」進法となる[[二十進法]](5×4=10)や、底が「九の二倍」となる[[十八進法]](9×2=10)は、この応用編となる。
;主要の段
* 半数は[[6]]の段。
* m/4 となる[[奇数]]([[3]]と[[9]])は、4の倍数を掛けると、一の位が0になる。[[1/4]]となる3の段は一の位が3→6→9→0→3で循環し、[[3/4]]となる9の段は一の位が9→6→3→0→9で循環する。
* 4の倍数([[4]]と[[8]])は、3の倍数を掛けると、一の位が0になる。[[1/3]]となる4の段は一の位が4→8→0→4で循環し、[[2/3]]となる8の段は一の位が8→4→0→8で循環する。
;その他の段
* 他の段は、3の倍数を掛けると、一の位が3, 6, 9, 0のどれかになる。
* 他の段は、4の倍数を掛けると、一の位が4, 8, 0のどれかになる。
* 末尾となる[[B]]([[11|十一]])の段は、一の位と十二の位の和がBになる。
* 10-2となる[[A]]([[10|十]])の段は、一の位は2ずつ減る。一の位はA→8→6→4→2→0の順に変化する。
* [[5]]の段は、[[偶数]]を掛けると、一の位の数は2ずつ減る。そして、4の倍数を掛けると、一の位は8→4→0の順に変化する。
* [[7]]の段は、偶数を掛けると、十二の位は一の位の数の半分になる(例:(12){{sub|12}}=(14){{sub|10}})。そして、4の倍数を掛けると、一の位は4→8→0の順に変化する。
{| class="wikitable" style="text-align:right; line-height:1.3em;"
|+ <span style="font-size: large;">加算表</span>
! + || 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B
|-
! style="width:1.3em" | 0
| style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 1 || style="width:1.3em" | 2 || style="width:1.3em" | 3 || style="width:1.3em" | 4 || style="width:1.3em" | 5 || style="width:1.3em" | 6 || style="width:1.3em" | 7 || style="width:1.3em" | 8 || style="width:1.3em" | 9 || style="width:1.3em" | A || style="width:1.3em" | B
|-
! 1
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || 10
|-
! 2
| 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || 10 || 11
|-
! 3
| 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || 10 || 11 || 12
|-
! 4
| 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || 10 || 11 || 12 || 13
|-
! 5
| 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || 10 || 11 || 12 || 13 || 14
|-
! 6
| 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15
|-
! 7
| 7 || 8 || 9 || A || B || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16
|-
! 8
| 8 || 9 || A || B || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17
|-
! 9
| 9 || A || B || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18
|-
! A
| A || B || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19
|-
! B
| B || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19 || 1A
|}
{| class="wikitable" style="text-align:right; line-height:1.3em;"
|+ <span style="font-size: large;">乗算表</span>
! × || 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B
|-
! style="width:1.3em" | 0
| style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0 || style="width:1.3em" | 0
|-
! 1
| 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B
|-
! 2
| 0 || 2 || 4 || 6 || 8 || A || 10 || 12 || 14 || 16 || 18 || 1A
|-
! 3
| 0 || 3 || 6 || 9 || 10 || 13 || 16 || 19 || 20 || 23 || 26 || 29
|-
! 4
| 0 || 4 || 8 || 10 || 14 || 18 || 20 || 24 || 28 || 30 || 34 || 38
|-
! 5
| 0 || 5 || A || 13 || 18 || 21 || 26 || 2B || 34 || 39 || 42 || 47
|-
! 6
| 0 || 6 || 10 || 16 || 20 || 26 || 30 || 36 || 40 || 46 || 50 || 56
|-
! 7
| 0 || 7 || 12 || 19 || 24 || 2B || 36 || 41 || 48 || 53 || 5A || 65
|-
! 8
| 0 || 8 || 14 || 20 || 28 || 34 || 40 || 48 || 54 || 60 || 68 || 74
|-
! 9
| 0 || 9 || 16 || 23 || 30 || 39 || 46 || 53 || 60 || 69 || 76 || 83
|-
! A
| 0 || A || 18 || 26 || 34 || 42 || 50 || 5A || 68 || 76 || 84 || 92
|-
! B
| 0 || B || 1A || 29 || 38 || 47 || 56 || 65 || 74 || 83 || 92 || A1
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; line-height:1.3em;"
|+ <span style="font-size: large;">倍数表</span>
! 乗数 || 10<sup>1</sup> || 10<sup>1</sup>の十進表記 || 10<sup>2</sup> || 10<sup>2</sup>の十進表記 || 10<sup>3</sup> || 10<sup>3</sup>の十進表記
|-
! style="width:2.0em" | 1
| style="width:2.0em" | 10 || style="width:7.0em" | 12 || style="width:2.0em" | 100 || style="width:7.0em" | 144 || style="width:2.5em" | 1000 || style="width:7.0em" | 1728
|-
! 2
| 20 || 24 || 200 || 288 || 2000 || 3456
|-
! 3
| 30 || 36 || 300 || 432 || 3000 || 5184
|-
! 4
| 40 || 48 || 400 || 576 || 4000 || 6912
|-
! 5
| 50 || 60 || 500 || 720 || 5000 || 8640
|-
! 6
| 60 || 72 || 600 || 864 || 6000 || 10368
|-
! 7
| 70 || 84 || 700 || 1008 || 7000 || 12096
|-
! 8
| 80 || 96 || 800 || 1152 || 8000 || 13824
|-
! 9
| 90 || 108 || 900 || 1296 || 9000 || 15552
|-
! A
| A0 || 120 || A00 || 1440 || A000 || 17280
|-
! B
| B0 || 132 || B00 || 1584 || B000 || 19008
|}
== 命数法 ==
'''十二進命数法'''とは、12 を底とする[[命数法]]である。
=== 数詞 ===
[[自然言語]]で十二進命数法の[[数詞]]を持つものは少ない。[[ナイジェリア]]のジャンジ語<ref>{{ citation
| contribution=Janji
| title=Ethnologue: Languages of the World
| edition=15
| url=http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=jni
| editor-last=Gordon
| editor-first=Raymond G., Jr.
| year=2005
| accessdate=2008-03-15
}}</ref> (Janji)、ビリ・ニラグ語<ref>{{ citation
| contribution=Gbiri-Niragu
| title=Ethnologue: Languages of the World
| edition=15
| url=http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=grh
| editor-last=Gordon
| editor-first=Raymond G., Jr.
| year=2005
| accessdate=2008-03-15
}}</ref> (Gbiri-Niragu)、グワンダラ語ニンビア方言<ref>{{ citation
| contribution=Gwandara
| title=Ethnologue: Languages of the World
| edition=15
| url=http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=gwn
| editor-last=Gordon
| editor-first=Raymond G., Jr.
| year=2005
| accessdate=2008-03-15
}}</ref> (Nimbia)、ピティ語<ref>{{ citation
| contribution=Piti
| title=Ethnologue: Languages of the World
| edition=15
| url=http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=pcn
| editor-last=Gordon
| editor-first=Raymond G., Jr.
| year=2005
| accessdate=2008-03-15
}}</ref> (Piti) などが十二進命数法のグループを作り<ref name="Matsushita">{{ citation
|title = Decimal vs. Duodecimal: An interaction between two systems of numeration
|last = Matsushita
|first = Shuji
|journal = 2nd Meeting of the AFLANG, October 1998, Tokyo
|year = 1998
|url = http://www3.aa.tufs.ac.jp/~P_aflang/TEXTS/oct98/decimal.html
|accessdate = 2007-12-16
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20081005230737/http://www3.aa.tufs.ac.jp/~P_aflang/TEXTS/oct98/decimal.html
|archivedate = 2008年10月5日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、また[[ネパール]]のチェパン語<ref>{{ citation
| contribution=Chepang
| title=Ethnologue: Languages of the World
| edition=15
| url=http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=cdm
| editor-last=Gordon
| editor-first=Raymond G., Jr.
| year=2005
| accessdate=2008-03-15
}}</ref> (Chepang) も十二進命数法を用いている<ref>{{ citation
| contribution=Les principes de construction du nombre dans les langues tibéto-birmanes
| first=Martine
| last=Mazaudon
| title=La Pluralité
| editor-first=Jacques
| editor-last=François
| year=2002
| pages=91-119
| publisher=Peeters
| place=Leuven
| isbn=9042912952
| url=http://halshs.archives-ouvertes.fr/docs/00/16/68/91/PDF/numerationTB_SLP.pdf
}}</ref>。
以下にグワンダラ語ニンビア方言の数詞を示す<ref name="Matsushita" />。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:center"
! 十二進表記 !! 十進表記 !! 数詞
|-
! 1
| 1 || da
|-
! 2
| 2 || bi
|-
! 3
| 3 || ugu
|-
! 4
| 4 || furu
|-
! 5
| 5 || biyar
|-
! 6
| 6 || shide
|-
! 7
| 7 || bo'o
|-
! 8
| 8 || tager
|-
! 9
| 9 || tanran
|-
! A
| 10 || gwom
|-
! B
| 11 || kwada
|-
! 10
| 12 || tuni
|-
! 11
| 13 || tuni mbe da
|-
! 20
| 24 || gume bi
|-
! 21
| 25 || gume bi ni da
|-
! BB
| 143 || gume kwada ni kwada
|-
! 100
| 144 || wo
|}
[[ゲルマン語派]]の数詞は、十二以下と十三以降とで構成が異なる。以下に[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[スウェーデン語]]の数詞を示す。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:center"
! 十二進表記 !! 十進表記 !! style="width:9em" | 英語 !! style="width:9em" | ドイツ語 !! style="width:9em" | スウェーデン語
|-
! A
| 10 || ten || zehn || tio
|-
! B
| 11 || eleven || elf || elva
|-
! 10
| 12 || twelve || zwölf || tolv
|-
! 11
| 13 || thirteen || dreizehn || tretton
|-
! 12
| 14 || fourteen || vierzehn || fjorton
|}
十一と十二の数詞の語源はそれぞれ 1 余り、2 余りを意味する *ainlif, *twalif であり、十三以降の数詞は[[十進法]]に基づく数詞だが、十二以下と十三以降で構成が異なるのを十二進法の影響とする説がある。
英語の hundred など、現在「百」「十二進数84」を意味する語は、中世までは「[[120|百二十]]」「十二進数A0」を意味することがあった([[:en:Long hundred]] を参照)。[[ロジバン]]は十, 十一, 十二に個別の数詞があり、十二進法に対応している(実際には十六進法にまで対応する)。
=== 単位系 ===
現在、十二進法はもっぱら[[単位系]]で使われている。数は十進記数法で 9, 10, 11 と表し、[[12]] や [[144]] に至ると桁ではなく単位を繰り上げる。すなわち、記数法と単位が一致していない。
単位の十二進法は、言語の数詞とは無関係に発生したと考えられる。1 年がほぼ 12 か[[月 (暦)|月]]であること([[360]] ÷ [[30]] = 12。[[満月]]と[[新月]]の回数がほぼ 12 回)に因むとされる。[[メソポタミア文明]]ではこれが 1 年を 12 か月とする[[暦法]]となり、12 は 30 と同様に主に[[時間]]を示す際の[[基数]]となった。1 日 [[24]] 時間の 24 は 12 の 2 倍であり、[[六十進法]]の [[60]] は 12 と 30 の最小公倍数である。[[黄道十二宮]]はこれに基づく。[[中国]]の[[十二支]]も黄道十二宮と同じように、循環する十二進法である。
また、 12 は 4×3 であり、1 とその数以外の[[約数]]が [[2]], [[3]], [[4]], [[6]] の 計 4 個と多く、4 までの全てで割り切れる点も、十二進法の単位が用いられる一因となった。[[十進法]]の [[10]] は、1 とその数以外の約数が、2 と [[5]] の 計 2 個しかない。[[六進法]]の 6 は、1 とその数以外の約数が 2 と 3 の計 2 個で便利であるが、4 分割ができず、4 分割は 2 倍 の 12 か、[[平方数]]の [[36]] まで待たねばならない。
例えば、通貨を3単位×4の十二進法にすると、1728 (= 12<sup>3</sup>) の貨幣を 12 (= 12<sup>1</sup>) と 36 (= 12<sup>1</sup>×3、12<sup>2</sup>÷4) と 144 (= 12<sup>2</sup>) と 432 (= 12<sup>2</sup>×3、12<sup>3</sup>÷4) の四種類の貨幣に分けて、「432の貨幣が2枚」で二分割(1728÷2 = 864)したり、「432の貨幣が1枚 + 144の貨幣が1枚」で三分割(1728÷3 = 576)したり、「432の貨幣が1枚」で四分割(1728÷4 = 432)したり、「144の貨幣が1枚 + 36の貨幣が2枚」で八分割(1728÷8=216)したり、「144の貨幣が1枚 + 36の貨幣が1枚 + 12の貨幣が1枚」で九分割(1728÷9=192)したりすることが可能になる。後述のペンス通貨やアス通貨が、このような三分割と四分割を考慮した単位に該当する。
日本では、12 ヶ月を 1 年というのに対して、144 ヶ月 (= 12 年) を 1 回りという。
物の数を表す[[ダース]] (12)、[[グロス]] (144 = 12<sup>2</sup>)、[[グレートグロス]] ([[1728]] = 12<sup>3</sup>)、[[スモールグロス]] ([[120]] = 12×10) という単位があり、[[西洋]]で用いられる。[[1971年]][[2月15日]]まで、[[スターリング・ポンド|イギリスポンド]]は、1 ポンドは [[240]] ペンスであり、12 [[ペニー|ペンス]]が 1 [[シリング]]、20 シリングが 1 ポンドであった。
この他にも、[[ヤード・ポンド法]]は十二進法が主流であり、長さの 1 [[フィート]] = 12 [[インチ]] = 144 [[ライン (単位)|ライン]] = 1728 ポイントである。同じく、1 [[トロイポンド]] = 12 [[トロイオンス]] = 144 [[スカラプル]] = 1728 [[シード]]である。[[プラモデル]]の縮尺に 1/144 (= 12<sup>-2</sup>) が多いのも、12 フィートすなわち 144 インチを[[逆数]]にしたサイズが由来である。
また、[[ローマ帝国]]の数詞や単位は[[十進法]]が通例であったが、[[アス (青銅貨)|アス]] (as) 通貨は異例で十二進法を想定した単位を設定した。アス通貨の下部単位として、1/2 アスのセミス (semis)、1/3 アスの[[トリエンス]] (triens)、2/3 アスの[[ベス]] (bes)、1/4 アスの[[クォドランス]] (quadrans)、3/4 アスの[[ドドランス]] (dodrans)、1/6 アスの[[セクスタンス]] (sextans)、1/12 アスの[[ウンシア]] (uncia)、5/12 アスの[[クインクンクス]] (quincunx) が使用されており、中でも semis は「半」を意味する接頭辞 "semi-" の語源にもなっている。しかし、1/144 アス (= 1/12 ウンシア) や 12 アス (= 144 ウンシア) の単位は設定されず、1/24 アスの[[セミウンシア]] (semiuncia) と 2 アス (= 24 ウンシア)の[[ドゥポンディウス]] (dupondius) のみであった。
====他の単位との関連====
; [[六進法]]との関連
十二進法で[[百分率]]や[[千分率]]と同じ[[冪乗|冪数]]分率を作ると、「[[144|百四十四]]分率」「[[1728|千七百二十八]]分率」「[[20736|二万七百三十六]]分率」となる。ここで問題になる点は、3{{sup|-p}} つまり「三分割をp回」した際の[[小数]]の分子・分母の大きさである。[[1/9]]=3{{sup|-2}}は[[六進法]]と十二進法の両方とも小数第二位となり、六進法は「[[36|三十六]]分率」、十二進法は「百四十四分率」でほぼ互角となる。百四十四分率は(1/[[16]]){{sub|10}}=2{{sup|-4}}まで収容できるが、3{{sup|-3}}以後が大きく変わり、十二進法では(1/[[27]]){{sub|10}}=3{{sup|-3}}の小数が千七百二十八分率となり、(1/[[81]]){{sub|10}}=3{{sup|-4}}の小数が二万七百三十六分率まで膨れる。
一方で、六進法は2{{sup|-p}}と3{{sup|-p}}の冪指数が同じなので、1728{{sub|(10)}}=12000{{sub|(6)}}=1000{{sub|(12)}}の[[1/8]]である「[[216|二百十六]]分率」{216{{sub|(10)}}=1000{{sub|(6)}}=160{{sub|(12)}}}で1/8と(1/27){{sub|10}}の両方が収容可能で、1000{{sub|(12)}}の[[3/4|6/8]]である「[[1296|千二百九十六]]分率」{1296{{sub|(10)}}=10000{{sub|(6)}}=900{{sub|(12)}}}で(1/16){{sub|10}}と(1/81){{sub|10}}の両方(つまり2と3の両方で四回分割)まで収容可能となり、いずれも1000{{sub|(12)}}に満たない。別の言い方をすると、六進法は「四分割は36{{sub|(10)}}まで待たねばならない」が「八分割と二十七分割は216{{sub|(10)}}まで待てばよい」のに対して、十二進法は「二十七分割は1728{{sub|(10)}}まで待たねばならない」。
(m/27){{sub|10}}の小数は、六進法では 12{{sub|(6)}}=[[8]]=2{{sup|3}}の倍数だが、十二進法では 54{{sub|(12)}}=[[64]]{{sub|(10)}}=2{{sup|6}}の倍数になる。そして、(m/81){{sub|10}}の小数は、六進法では 24{{sub|(6)}}=16{{sub|(10)}}の倍数だが、十二進法では 194{{sub|(12)}}=[[256]]{{sub|(10)}}の倍数まで膨れてしまう。
このため、除数が「指数が大きい3の冪数」となる割り算では、十二進法は開きが大きくなりやすい。例として、被除数を 2{{sup|8}} = 194{{sub|(12)}} = 1104{{sub|(6)}} = [[256]]{{sub|(10)}} とする。
* 2{{sup|8}} ÷ 3
** 十二進法:194 ÷ 3 = 71.4 → 十進帯分数で「85と4/12」=「85と1/3」
** 六進法:1104 ÷ 3 = 221.2 → 十進帯分数で「85と2/6」=「85と1/3」
* 2{{sup|8}} ÷ 3{{sup|2}}
** 十二進法:194 ÷ 9 = 24.54 → 十進帯分数で「28と64/144」=「28と4/9」
** 六進法:1104 ÷ 13 = 44.24 → 十進帯分数で「28と16/36」=「28と4/9」
* 2{{sup|8}} ÷ 3{{sup|3}}
** 十二進法:194 ÷ 23 = 9.594 → 十進帯分数で「9と832/1728」=「9と13/27」
** 六進法:1104 ÷ 43 = 13.252 → 十進帯分数で「9と104/216」=「9と13/27」
* 2{{sup|8}} ÷ 3{{sup|4}}
** 十二進法:194 ÷ 69 = 3.1B14 → 十進帯分数で「3と3328/20736」=「3と13/81」
** 六進法:1104 ÷ 213 = 3.0544 → 十進帯分数で「3と208/1296」=「3と13/81」
* 逆数が2{{sup|8}}
** 十二進法:194 ÷ 69 = 3.1B14 → 十進帯分数で「3と3328/20736」=「3と13/81」
** 六進法:1104 ÷ 50213 = 0.01223224 → 十進分数で「65536/1679616」「256/6561」「2{{sup|8}}/3{{sup|8}}」
2454{{sub|(12)}} = 30544{{sub|(6)}} = 4096{{sub|(10)}} であり、31B14{{sub|(12)}} = 1223224{{sub|(6)}} = 65536{{sub|(10)}} であり、3{{sup|8}} = 3969{{sub|(12)}} = 50213{{sub|(6)}} = 6561{{sub|(10)}} である。<br>
小数点を消すと、六進法の場合 30544 ÷ 13252 = 2(十進換算:4096 ÷ 2048 = 2)で2倍の開きであるが、十二進法の場合 31B14 ÷ 9594 = 4(十進換算:65536 ÷ 16384 = 4)で4倍の開きになる。同じく、3{{sup|4}}で割った商を、3で割った商で割ると、六進法の場合 30544 ÷ 2212 = 12 で8倍の開き(経過した3の冪指数も、商となる2の冪指数も3で同じ)だが、十二進法の場合 31B14 ÷ 714 = 54 で 64{{sub|(10)}}倍の開き(経過した3の冪指数は3だが、商となる2の冪指数が6)になってしまう。
以下の表に示す通り、商の小数点を消した数値も、十二進法では3{{sup|3}}(27{{sub|(10)}}=23{{sub|(12)}})で割ると被除数の2{{sup|6}}倍=64{{sub|(10)}}倍=54{{sub|(12)}}倍になり、3{{sup|6}}(729{{sub|(10)}}=509{{sub|(12)}})で割ると被除数の(2{{sup|10}}){{sub|12}}倍=4096{{sub|(10)}}倍=2454{{sub|(12)}}倍まで膨れてしまう。これに対して、六進法では3{{sup|6}}(729{{sub|(10)}}=3213{{sub|(6)}})で割ると被除数の2{{sup|6}}倍=64{{sub|(10)}}倍=144{{sub|(6)}}倍の数値になる。
{| class="wikitable" style="margin:1em;text-align:right"
|+ [[3の冪]]数の[[逆数]](分子・分母は十進換算値)
! 冪指数 !! style="min-width:1em;" | -1 ([[1/3]]) !! style="min-width:1em;" | -2 ([[1/9]]) !! -3 (1/[[27]]) !! -4 (1/[[81]]) !! -5<br>(1/[[243]]) !! -6<br>(1/[[729]]) !! -7<br>(1/[[2187]]) !! -8<br>(1/[[6561]])
|-
! 十二進小数
| 0.4 || 0.14 || 0.054 || 0.0194 || 0.00714 || 0.002454 || 0.0009594 || 0.00031B14
|-
! 六進小数
| 0.2 || 0.04 || 0.012 || 0.0024 || 0.00052 || 0.000144 || 0.0000332 || 0.00001104
|-
! 十二進小数の分子
| 4 || 16 || 64 || 256 || 1024 || 4096 || 16384 || 65536
|-
! 六進小数の分子
| 2 || 4 || 8 || 16 || 32 || 64 || 128 || 256
|-
! 十二進小数の分母
| 12 || 144 || 1728 || 20736 || 248832 || 2985984 || 35831808 || 429981696
|-
! 六進小数の分母
| 6 || 36 || 216 || 1296 || 7776 || 46656 || 279936 || 1679616
|}
{| class="wikitable" style="margin:1em;text-align:right"
|+ [[2の冪]]数の逆数(分子・分母は十進換算値)
! 冪指数 !! style="min-width:1em;" | -1 ([[1/2]]) !! style="min-width:1em;" | -2 ([[1/4]]) !! -3 ([[1/8]]) !! -4 (1/[[16]]) !! -5 (1/[[32]]) !! -6 (1/[[64]]) !! -7 (1/[[128]]) !! -8 (1/[[256]])
|-
! 十二進小数
| 0.6 || 0.3 || 0.16 || 0.09 || 0.046 || 0.023 || 0.0116 || 0.0069
|-
! 六進小数
| 0.3 || 0.13 || 0.043 || 0.0213 || 0.01043 || 0.003213 || 0.0014043 || 0.00050213
|-
! 十二進小数の分子
| 6 || 3 || 18 || 9 || 54 || 27 || 162 || 81
|-
! 六進小数の分子
| 3 || 9 || 27 || 81 || 243 || 729 || 2187 || 6561
|-
! 十二進小数の分母
| 12 || 12 || 144 || 144 || 1728 || 1728 || 20736 || 20736
|-
! 六進小数の分母
| 6 || 36 || 216 || 1296 || 7776 || 46656 || 279936 || 1679616
|}
{{clear}}
このように、十二進法の小数は、「一桁で四分割」「二桁で八分割と九分割」ができる長所を持つ一方で、「3の冪指数が大きい割り算の分子・分母」が膨大になってしまうという短所も持っている。
== 指数え ==
[[File:Finger counting Russia 12.png|thumb|150px|十二進法の指数え]]
十二進法の[[指数え]]は、同じ3で割り切れる[[六進法]]とは様相が異なる。十二進法の指数えは、親指が指標となり、各指の3つの[[指骨]](末節骨 ・中節骨・基節骨)を小指から数える。片手を[[12|十二]](10{{sub|(12)}})までの数、もう片手を十二の倍数として、片手で十二まで数えて、もう一方の手に繰り上げて[[144|百四十四]](100{{sub|(12)}})まで数える
<ref>{{Citation
| last = Ifrah
| first = Georges
| title = The Universal History of Numbers: From prehistory to the invention of the computer.
| publisher = John Wiley and Sons
| year= 2000
| page = 48
| isbn = 0-471-39340-1
}}</ref><ref name=Macey>{{cite book|last=Macey|first=Samuel L.|title=The Dynamics of Progress: Time, Method, and Measure|year=1989|publisher=University of Georgia Press|location=Atlanta, Georgia|isbn=978-0-8203-3796-8|pages=92|url=https://books.google.co.jp/books?id=xlzCWmXguwsC&pg=PA92&lpg=PA92&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>
。(実際は十三進法を用いて百六十八まで数えられるが、一般的ではない)
== 架空の世界での使用 ==
SF作品でも、人類と異なる文明が十二進法を使っているとする設定はよく見られるものである<ref>日本の小説では[[広瀬正]]の『[[マイナス・ゼロ]]』に登場するタイムマシンが十二進法を使っていて、登場人物が、進んだ文明の産物であろうかと推測している。</ref>。
[[H・G・ウェルズ]]は『冬眠二百年』(''When the Sleeper Wakes'', 1899年)や『モダンユートピア』(''A Modern Utopia'', 1905年)で十二進法を使用し、12 = dozen, 144 (=12<sup>2</sup>) = gross, 1728 (=12<sup>3</sup>) = dozand, 20736 (=12<sup>4</sup>) = myriad としている。
[[J・R・R・トールキン]]による[[人工言語]]、[[エルフ語]] (Elvish) の数詞は十二進法である(→[[クウェンヤ]])。
== 十二進法の推進 ==
英米では、十二進法を採用するよう主張する人々がいる<ref>{{ Citation
| title=Dozenal Society of America
| url=http://www.dozenal.org/
| accessdate=2007-12-16
}}</ref><ref>{{ Citation
| title=Dozenal Society of Great Britain
| url=http://www.dozenalsociety.org.uk/
| accessdate=2007-12-16
}}</ref>。人間の手指の数に由来する、原始的で、2と[[5]]でしか割り切れない[[十進法]]ではなく、[[3]]でも[[4]]でも割り切れる十二進法の方が理に適っているとされるためである。これらの人々は、十二進法を表す語として、英語で通常使われる duodecimal を「十のおまけ」という言い方だとして嫌い、dozenal を使う。なお、dozenal に相当するスペイン語は、doce(十二)を形容詞化した docenal である。[[10|十]]と[[11|十一]]を意味する数字には [[A]] と [[B]] を用いず、十 を [[T]] または [[X]] 、十一 を [[E]] で、或いはその変形で表したり、十 を * で、十一を # で表したりする。これらの十二進法推進団体は、[[百分率]](パーセント:記号は「%」)に代わって百四十四分率(パー[[グロス]]:記号は"per gross"を縮めた「p/g」)の使用を主張したり、周角の[[360]]度(十二進法で260度)から[[144]]度(十二進法で100度)または[[720]]度(十二進法で500度)への変更も主張している<ref>[http://www.dozenal.org/articles/DSA-DozenalFAQs.pdf 米国 Dozenal.org のFAQ] 13頁に周角の144度への変更が掲載されている。</ref>。
なお、十進法以外を採用しようという主張は、近年では[[コンピュータ]]の[[二進法]]との相性から[[八進法]]や[[十六進法]]についても主張されている。しかし、八進法や十六進法は「[[2の冪|2の冪数]]」進法なので、2でしか割り切れない。つまり、[[1/3]]や[[1/5]]といった[[奇数]]分割ができない<ref>[http://www.tapatalk.com/groups/dozensonline/senary-or-dozenal-t1409.html Dozensonline 六進法か十二進法か] このコラムでも、
八進法は素因数が2だけで、2の冪数以外は蔑視され、可分性が六進法(素因数が2と3)や十進法(素因数が2と5)より劣る点を問題視している。<!-- 原文:there's a general consensus that {8} is inferior to {10} because it has fewer regular numbers and its fractional expansions are downright uglier once we leave powers of two. --></ref>。また、「3の倍数」進法を採用しようという立場から、十二進法以外では[[六進法]]や[[三十進法]]についても主張されており、それぞれの長短も議論されている<ref>[https://www.tapatalk.com/groups/dozensonline/senary-and-2-3-bases-f30/ Dozensonline 六進法と「素因数が2と3」のN進法についての議論]</ref>。「5の倍数」に囚われない[[指数え]]の方法として、十二進法での指の「関節」で数える方法<ref>[https://news.nicovideo.jp/watch/nw3819549 数学的に美しいのは「十二進法」なのに、私たちが「十進法」を使っている理由]</ref>、六進法での「もう片手は六の位」とする方法<ref>[https://sites.google.com/site/senarysensation/why-use-senary 六進法旋風 0から55(十進法35)まで数える方法]</ref> が提案されている。
[[Unicode]] 8.0 では、十二進法のための10 ([[File:Dozenal gb 10.svg|10px]] = U+218A, 180度回転した2)と 11([[File:Dozenal gb 11.svg|10px]] = U+218B, 180度回転した3)の2つの数字が符号位置を与えられた<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/Unicode-8.0/U80-2150.pdf|title=Number Forms|publisher=The Unicode Consortium|date=2015-06-17|accessdate=2015-08-31}}</ref>。この2つの数字は[[アイザック・ピットマン]]の考案による。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
*[[二進法]]
*[[三進法]]
*[[四進法]]
*[[六進法]]
*[[八進法]]
*[[九進法]]
*[[十進法]]
*[[十六進法]]
*[[十八進法]]
*[[二十進法]]
*[[二十四進法]]
*[[三十進法]]
*[[三十六進法]]
*[[六十進法]]
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[[Category:数の表現]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:位取り記数法]]
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17,351 |
口
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口(くち)は、消化管の最前端である。食物を取り入れる部分であり、食物を分断し、把持し、取り込むための構造が備わっていると同時に、鼻腔と並んで呼吸器の末端ともなっており、発声器官の一部でもある。文脈により口腔(こうこう)とも言う。なお、日本の医学界においては口腔の慣用音である(こうくう)を用いている。
生物学に限らず、一般に穴等の開口部を指して口と呼ぶ。このため、「口」は様々な慣用句や比喩表現に使われる(後述の「通念」を参照)。
口はそれを所有する生物によって構成要素や構造が様々であり、その機能に見合った生活をしている。ヒト(人)という地上脊椎動物に限らず、消化器官系の初端となっており、専ら栄養素の摂取等に用いられる。多く動物の口には付属器官があり、それには舌や歯、外分泌器等を備え、歯による咀嚼の様な食餌の補助に限らず、外敵に対抗し、身を守る手段として利用している。
人を含め多くの脊椎動物の口には歯に相当するものが内部に付属しており、摂食に伴う咀嚼や消化液(唾液)との攪拌という機能以外に、発声の補助や味覚、呼吸等様々な行動を補助する器官となっている。また、外部唇と開閉部のみを指して口と呼ぶ事がある。
形態学的には、口とは顔面前面部に顎関節の補助によって開閉する開口部を指し、粘膜に覆われ様々な付属器官を持つ消化器官の開口端とされる。
口は、消化系の入り口であり、体表に開いた孔として認められる。その周辺には、餌を取り込むための筋肉が発達しているのが通例である。また、周辺に食物を取り込み、裁断するための構造が付属する場合が多い。それらの形は、取り込む食物の種類によっても大きく変化する。
口は人が生命活動をしてゆく為に食物を取り入れる最初の体内であり、またそれゆえ外界からの異物に侵食され易い場所ともいえる。
また、栄養を取り入れるだけでなく、それらを味わい楽しむ場所でもあり、人生を活気付けることが出来る。それゆえ口腔内の異変は、歯を失った老人が一般よりも痴呆が速く進むなど、生活に様々な影響を与えてしまうとされる。また、口臭の原因にもなる。そのため、口腔の付属機関として、歯は健康に取り分け大きく関わるといえる。
歯は生後半年ほどで生え始め、3歳頃には20本の乳歯が生え揃う。6歳頃に乳歯から永久歯に生え変わり始め、親知らずを含めて上顎に16本、下顎に16本の総計32本が生え揃う。歯の生え方や歯並びは噛み合わせに大きく関与し、その良し悪しが心理的ストレスに限らず肩こりや頭痛、顎関節炎等の原因になる。現代人の顎は戦後の食生活の変化により細化し、歯並びが悪くなる者が多くなり矯正を必要とする人が増えてきたとされ、歯並びの歪みは現代病の一つとして挙げられている。
永久歯は、加齢とともに後述する口の病気などで抜けたり、抜かれたりして失われる。義歯や入れ歯で補う人も多い。日本歯科医師会は、「80歳で自分の歯を20本以上残そう」という8020運動を1989年(平成元年)から推進している。
自前の歯を守るなど口腔内の衛生を維持し、口臭を抑えるため、多くの人が洗口(うがい)や歯磨きを行う。歯石・舌苔を除去する人もいる(詳細は「口具を参照)。
口腔内の病気として、 以下がある。後述の「医学」も参照。
口は様々な外部のモノを取り入れる体に開いた穴であり、様々な病気に侵されやすい。そのため、古来から口に用いる道具は装飾の目的より病気予防のモノが多かった。その中で歯磨きは最も一般的な行為の例であり、それに伴って歯ブラシは多くの変遷を経てきた。 現在ではまだ普及途上ではあるが、家庭用として1000ml程のタンクに水を注ぎ小型ポンプで加圧し、細いノズルから噴射して歯や歯ぐきの洗浄を行う器具も発売されてきている。 日本では口腔掃除や除菌、口腔悪臭改善のために歯ブラシ、爪楊枝、糸楊枝、口腔用洗浄液、含嗽薬、トローチ等を用いる。
日本では、古代は抜歯という風習があったことが出土した骨から推測されている。平安時代後期から江戸時代にかけて、歯を黒く染めるおはぐろ(鉄漿または御歯黒)という習慣があり、装飾と共に身分を表す手段として用いられていた。
現代では歯にプラスチックを用いたコーティングマニキュアにより見た目を美しくする技術がある。また、虫歯を防ぐ目的でフッ素に拠るコーティングを施す事がある。
人間の口(臨床的・解剖学的には口腔「こうくう」、Cavum oris)は、食物を摂取するための器官である。
構成する組織として、歯、口腔粘膜、舌、などがある。一般に口腔には常時一億以上の細菌が存在している。なお、歯垢の8割はそれらの細菌類の塊である。
口は、口腔の入口で口裂を上下より境する口唇、すなわち上唇と下唇よりなり、上下両端で合するところ、即ち唇交連の内側に口角をなしている。上唇の皮膚正中にある幅の広い縦の溝を人中(Philtrum)といい、また口角の外方から鼻翼の外側縁にいたる鼻唇溝と、下唇の下側に横に走っているオトガイ唇溝がある。 口腔は、これを口腔前庭と狭義の口腔に分けることができる。
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"title": "口具"
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"text": "現代では歯にプラスチックを用いたコーティングマニキュアにより見た目を美しくする技術がある。また、虫歯を防ぐ目的でフッ素に拠るコーティングを施す事がある。",
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"text": "口は、口腔の入口で口裂を上下より境する口唇、すなわち上唇と下唇よりなり、上下両端で合するところ、即ち唇交連の内側に口角をなしている。上唇の皮膚正中にある幅の広い縦の溝を人中(Philtrum)といい、また口角の外方から鼻翼の外側縁にいたる鼻唇溝と、下唇の下側に横に走っているオトガイ唇溝がある。 口腔は、これを口腔前庭と狭義の口腔に分けることができる。",
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] |
口(くち)は、消化管の最前端である。食物を取り入れる部分であり、食物を分断し、把持し、取り込むための構造が備わっていると同時に、鼻腔と並んで呼吸器の末端ともなっており、発声器官の一部でもある。文脈により口腔(こうこう)とも言う。なお、日本の医学界においては口腔の慣用音である(こうくう)を用いている。 生物学に限らず、一般に穴等の開口部を指して口と呼ぶ。このため、「口」は様々な慣用句や比喩表現に使われる(後述の「通念」を参照)。
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{{混同|x1=[[片仮名]]の|ロ|x2=記号の四角|[[四角 (記号)|□]]}}
{{Infobox 解剖学
| name=口
| 画像1=[[画像:sagittalmouth.png|150px]]
| 画像説明1=ヒトの口腔部の断面図
| 画像2=[[画像:Mouth.jpg]]
| 画像説明2=ヒトの口
| 英語=Mouth
| ラテン語=
| 器官=[[消化器]]
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| 静脈=
| 神経=
}}
'''口'''(くち)は、[[消化器|消化管]]の最前端である。[[食品|食物]]を取り入れる部分であり、食物を分断し、把持し、取り込むための構造が備わっていると同時に、[[鼻腔]]と並んで[[呼吸器]]の末端ともなっており、[[発声器官]]の一部でもある。文脈により'''口腔'''(こうこう)とも言う。なお、[[日本]]の医学界においては口腔の[[慣用音]]である('''こうくう''')を用いている。
[[生物学]]に限らず、一般に穴等の開口部を指して口と呼ぶ。このため、「口」は様々な[[慣用句]]や[[転義法|比喩表現]]に使われる(後述の「[[#通念|通念]]」を参照)。
== 生物学的性質 ==
{{独自研究|section=1|date=2009年11月}}
口はそれを所有する[[生物]]によって構成要素や構造が様々であり、その機能に見合った生活をしている。<!--進化の結果なのか、所有に合わせた進化なのか、此処での言及は省く(see→進化論)-->[[ヒト]](人)という地上[[脊椎動物]]に限らず、消化器官系の初端となっており、専ら栄養素の摂取等に用いられる。多く動物の口には付属器官があり、それには[[舌]]や[[歯]]、[[外分泌器]]等を備え、歯による[[咀嚼]]の様な食餌の補助に限らず、外敵に対抗し、身を守る手段として利用している。
人を含め多くの脊椎動物の口には[[歯]]に相当するものが内部に付属しており、摂食に伴う[[咀嚼]]や消化液([[唾液]])との攪拌という機能以外に、発声の補助や[[味覚]]、[[呼吸]]等様々な行動を補助する器官となっている。また、外部唇と開閉部のみを指して口と呼ぶ事がある。
形態学的には、口とは[[顔面]]前面部に顎関節の補助によって開閉する開口部を指し、[[粘膜]]に覆われ様々な付属器官を持つ消化器官の開口端とされる。
<!--削除対象::*[[顎]]は口の先端にあって開け閉めができ、それによって餌を把持、噛みちぎったりすり潰したりする。-->
<!--顎は顔の領域であって、口には含めなかった。ただ、[[口腔外科]]等では顎は口と大きなかかわりを持つために含むことが多い。-->
<!--機能形態的説明は図を備えていないため省いた。顎に並ぶ、という表現を足すなら舌、他付属機関にも同等の説明を求める。サメの歯が口内に並んでいる様子など。-->
*[[歯]]は食物の消化の一環として咀嚼の他、外部に対する攻撃、モノの把持を行う。
*[[舌]]は味覚を司るだけでなく、口腔内に入ってきた食物の攪拌を行う。
*[[唾液腺]]には顎下腺、耳下腺、舌下腺等多数の唾液腺があり、消化の補助として唾液を分泌する。
*口腔内[[粘膜]]は消化器粘膜の一部であり、味覚の補助機関でもある。粘膜は外皮に比べ[[分子量]]の小さな化学物質を吸収しやすいため、口腔内に食べ物が滞留しやすい事からも吸収器官の役割も担っていると言える。
口は、消化系の入り口であり、体表に開いた孔として認められる。その周辺には、餌を取り込むための筋肉が発達しているのが通例である。また、周辺に食物を取り込み、裁断するための構造が付属する場合が多い。それらの形は、取り込む食物の種類によっても大きく変化する。
== 口と健康 ==
口は人が生命活動をしてゆく為に[[食物]]を取り入れる最初の体内であり、またそれゆえ外界からの異物に侵食され易い場所ともいえる。
また、栄養を取り入れるだけでなく、それらを味わい楽しむ場所でもあり、人生を活気付けることが出来る。それゆえ口腔内の異変は、歯を失った老人が一般よりも痴呆が速く進むなど、生活に様々な影響を与えてしまうとされる。また、[[口臭]]の原因にもなる。そのため、口腔の付属機関として、[[歯]]は健康に取り分け大きく関わるといえる。
歯は生後半年ほどで生え始め、3歳頃には20本の乳歯が生え揃う。6歳頃に乳歯から永久歯に生え変わり始め、親知らずを含めて上顎に16本、下顎に16本の総計32本が生え揃う<ref>{{Cite web|和書|title=歯のはえかわり|publisher=ライオン歯科衛生研究所|url= https://www.lion-dent-health.or.jp/labo/article/knowledge/02.htm|accessdate=2020年3月18日}}</ref>。歯の生え方や歯並びは噛み合わせに大きく関与し、その良し悪しが心理的ストレスに限らず肩こりや頭痛、顎関節炎等の原因になる。現代人の顎は戦後の食生活の変化により細化し<ref name="顎"/>、歯並びが悪くなる者が多くなり矯正を必要とする人が増えてきたとされ<ref name="顎"/>、歯並びの歪みは現代病の一つとして挙げられている<ref name="顎">馬場悠男『日本の食の未来 第3回 「病気を生む顔」になる食べ物とは File5 食べ物と日本人の進化」』、日経ナショナルジオグラフィック社(2014年9月10日)2020年11月14日閲覧</ref>。
永久歯は、加齢とともに後述する口の病気などで抜けたり、抜かれたりして失われる。[[義歯]]や入れ歯で補う人も多い。[[日本歯科医師会]]は、「80歳で自分の歯を20本以上残そう」という[[8020]]運動を[[1989年]](平成元年)から推進している<ref>{{Cite web|和書|title=「8020運動とは?」|url=https://www.jda.or.jp/enlightenment/8020/ |publisher=日本歯科医師会|accessdate=2019年3月20日}}</ref>。
自前の歯を守るなど口腔内の衛生を維持し、[[口臭]]を抑えるため、多くの人が洗口([[うがい]])や[[歯磨き]]を行う。[[歯石]]・[[舌苔]]を除去する人もいる(詳細は「[[#口具|口具]]を参照)。
=== 口の病気 ===
口腔内の病気として、 以下がある。後述の「[[#医学|医学]]」も参照。
* [[う蝕|虫歯]]又は[[齲歯]]・[[う蝕|齲蝕]](うし)
:虫歯は古来家庭的環境に大きく左右されるという考えがあったが、近年家庭には特有の口内細菌叢が存在するということが発見され、遺伝よりもそれら[[細菌叢]]が大きく虫歯に関与しているという考えが一般的になってきており、それら細菌叢の交換が虫歯の予防に大きく役立つと言われている。{{see also|口腔微生物学}}
* [[歯周病]]は歯周辺組織の疾患の総称であり、歯肉炎・歯槽膿漏・歯周炎を含む。
* [[口内炎]]/[[アフタ性口内炎]]/[[カタル性口内炎]]
* [[ベーチェット病]]は原因不明の疾患であり、口腔内に限らず全身の皮膚に起こる病気であるが、多くの症例に口内炎が併せて報告されている病気である。
* 口腔に生じる[[癌]](口腔がん)として、舌癌、頬粘膜癌、歯肉癌、口腔底癌がある<ref>{{Cite web|和書|title=口腔がんのセルフチェックをしましょう|publisher=公益社団法人日本口腔外科学会|accessdate=2020年3月18|url= https://www.jsoms.or.jp/public/soudan/selfcheck/}}</ref>。口内炎や歯肉炎と誤認されることも多く、歯科医師にも見逃される場合もある。異常が起こり治りにくい場合には専門医による診察を受ける方がよい。[[口腔外科]]、または[[頭首部癌]]の一部として頭頸科で扱われる。日本では、口内の異常が口腔がんの可能性があるかどうかの判断を補佐する「オーラルナビシステム」が[[一般社団法人]]口腔がん撲滅委員会により提供されている<ref>[https://www.oralcancer.jp/4517_navi_system/ オーラルナビシステム](2019年3月20日閲覧)。</ref>。
== 口腔の異常 ==
=== 先天的異常 ===
*[[口唇口蓋裂]]
*[[巨大歯]]
*[[矮小歯]]
*[[先天歯]]
**[[染色体異常]]も参照のこと。
== 口具 ==
口は様々な外部のモノを取り入れる体に開いた穴であり、様々な病気に侵されやすい。そのため、古来から口に用いる道具は装飾の目的より病気予防のモノが多かった。その中で[[歯磨き]]は最も一般的な行為の例であり、それに伴って[[歯ブラシ]]は多くの変遷を経てきた。
現在ではまだ普及途上ではあるが、家庭用として1000ml程のタンクに水を注ぎ小型ポンプで加圧し、細いノズルから噴射して歯や歯ぐきの洗浄を行う器具も発売されてきている。
日本では口腔掃除や除菌、口腔悪臭改善のために[[歯ブラシ]]、[[爪楊枝]]、[[糸楊枝]]、[[口腔用洗浄液]]、[[含嗽薬]]、[[トローチ]]等を用いる。
日本では、古代は抜歯という風習があったことが出土した骨から推測されている。[[平安時代]]後期から[[江戸時代]]にかけて、歯を黒く染める[[お歯黒|おはぐろ]](鉄漿または御歯黒)という習慣があり、装飾と共に身分を表す手段として用いられていた。
現代では歯にプラスチックを用いたコーティング[[マニキュア]]により見た目を美しくする技術がある。また、虫歯を防ぐ目的で[[フッ素]]に拠るコーティングを施す事がある。
== 通念 ==
*口は物事の始めという意味やモノを飲み込む穴という意味を一般的に持つ。
*味覚を表す事がある。「甘口の酒」。
*嗜好を表す事がある。「何でも行ける口」と表して好き嫌いなく食べられることを意味する。
*食費の消費元を指す事がある。「口を減らす」と表して消費者を減らす事を意味する。
*喋ること、あるいは言葉を指す事がある。「口が減らない」と表してよく喋る状態を指す。「口が重い」と表して寡黙であり口数が少ない状態を指し、 また反対に「口が軽い」としてお喋りを指す。「口が上手い」と表して話す事が上手であることを指す。
*モノに開いている穴を指す事がある。例として「徳利の口」「間口」。
*物事の始めを指す事がある。例として「序の口」。また浄瑠璃で一段の最初部を口と言う。
*物事の割り当てを指す事がある。「一口千円の寄付」
*何かの処遇の行き先、受け入れ先を指す事がある。「就職口を探す」「嫁入りの口を探す」「口入れをする」。
*感触の良し悪しを表す事がある。「口当たりの良い人柄」。
*[[二枚貝]]が[[貝殻]]を開く事を「貝が口を開く」と表現することがある。
== 医学 ==
人間の口(臨床的・解剖学的には'''口腔'''「こうくう」、Cavum oris)は、[[食物]]を摂取するための器官である。
:註:'''腔'''の本来の読みは'''こう'''であるが、稀字でもあり、古くから'''こう'''、'''くう'''の発音が混在していた。[[1943年]](昭和18年)日本解剖学会の用語委員会が統一解剖学用語 (Nomina Anatomica) の翻訳を行った際に、'''くう'''と発音することを決定した(同音の別字(孔など)との区別のためと推測される)。以後、医学分野においては'''腔'''は'''くう'''と発音される [http://www1.linkclub.or.jp/~yosihide/kuu-1]。[[膣#関連項目]]も参照のこと。
構成する組織として、[[歯]]、口腔粘膜、[[舌]]、などがある。一般に口腔には常時一億以上の[[細菌]]が存在している。なお、[[歯垢]]の8割はそれらの細菌類の塊である。
口は、口腔の入口で口裂を上下より境する[[唇|口唇]]、すなわち上唇と下唇よりなり、上下両端で合するところ、即ち唇交連の内側に口角をなしている。上唇の皮膚正中にある幅の広い縦の溝を人中(Philtrum)といい、また口角の外方から鼻翼の外側縁にいたる鼻唇溝と、下唇の下側に横に走っているオトガイ唇溝がある。
口腔は、これを[[口腔前庭]]と狭義の口腔に分けることができる。
:口腔の細菌については「[[口腔細菌学]](口腔微生物学)」を参照。
== 脚注・出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|口}}
{{Commons|Category:Mouth}}
*[[口蓋]]/[[口腔前庭]]/[[頬]]/[[歯]]/[[歯周組織]]/[[舌]]/[[唇]]/[[唾液]]([[唾液腺]])/[[歯垢]]
*[[う蝕|虫歯]]/[[歯周病]]/[[口内炎]]
*[[歯学]]/[[歯科]]/[[解剖学]]([[口腔解剖学]])/[[生理学]]([[口腔生理学]])/[[病理学]]([[口腔病理学]])/[[細菌学]]([[口腔細菌学]])
*[[歯科医師]]/[[歯科衛生士]]/[[歯科技工士]]
* [[口部]] - [[漢字]]の[[部首]]
{{digestive_system}}
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[[Category:口|*]]
[[Category:動物解剖学]]
[[Category:マクロ解剖学]]
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デッキ
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デッキ(オランダ語: dek)またはデック(英語: deck)。原義は中期オランダ語で「覆い」「屋根」など。
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デッキまたはデック。原義は中期オランダ語で「覆い」「屋根」など。 乗り物の床
船の甲板。
en:Flight deck - 飛行甲板。
船の甲板からの連想で、居室外の、ある程度の広さを持った甲板のような平らな部分。
操縦席 - 航空機やスペースシャトルなどの宇宙船も「シップ」であり、これらの船舶用語が受け継がれている。これ以外の輸送機器にも当てはめられ、使われている。
馬車、鉄道車両、バスなどの客席(客室)の床。ダブルデッカー(2階建車両)や、ハイデッカー(高床)など。
自動車のボンネット(フロントエンジンフード)やトランク(稀にリアエンジンフード)上面を指す用語。スタイリング技法での「フラットデッキ・スタイル」、プロポーション表現での「ロングノーズ・ショートデッキ」など。
出入り台 - 蒸気機関車のばい煙と蒸気や、騒音の侵入防止、あるいは冷・暖房時の室内保温など、居住性を高める目的で客室と出入口が壁と扉で仕切られた旅客用鉄道車両(新幹線車両、特急形車両や急行形車両、寒冷地仕様の気動車などに多い)の出入り口付近の広場。出入台。
鉄道車両の一部の貨車にある、入換の際、誘導員が運転士に距離などの状況を連絡する際に乗る部分。
スケートボードの板の部分。
キックスケーターの足を載せる部分。
建築関連
建築物の外に設けられる、地面から高くされた床。特にウッドデッキなど。
en:Observation deck - 展望台。
ペデストリアンデッキ - 建物と接続して建設された、歩行者用の高架通路。
デッキチェア - ズック地(帆布)で作られた、寝そべりやすい椅子、あるいは簡易ベッド。
レコードプレイヤーの台座部分。
一般化して、乾電池や充電池などのDC電源を利用して屋外などに自由に持ち運ぶことが出来ない、いわゆるAC電源専用且つ据置型の録音機(レコーダー)、或いは再生専用機(プレーヤー)。具体的には据置型のテープデッキ、およびビデオデッキなどを指す。
デッキ (カード) - カードゲームのカード1セット。
コントラクトブリッジなどのトランプを使ったゲームで、組み合わせは決まっている。
トレーディングカードゲームでは各プレイヤーが集めたカードを所定の制約の範囲内で自由に組み合わせる。
カードゲームのプレイ中に場に積んである山札。
携帯電話専用のウェブコンテンツ記述言語であるWMLやHDML独自の概念で、一画面で表示される内容を一枚のカードに見立て、そのうえで文書ファイルは幾つかの画面カードをまとめたデッキとされる。
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{{wt|deck}}
'''デッキ'''({{lang-nl|dek}})または'''デック'''({{lang-en|deck}})。原義は中期オランダ語で「[[覆い]]」「[[屋根]]」など。
* [[乗り物]]の[[床]]
** [[甲板 (船)|船の甲板]]。
** [[:en:Flight deck]] - [[飛行甲板]]。
** 船の甲板からの連想で、居室外の、ある程度の広さを持った甲板のような平らな部分。<ref>{{Cite web |url=https://www.lexico.com/definition/deck |title=DECK - Definition of DECK by Oxford Dictionary on Lexico.com also meaning of DECK |author= |date= |access-date=2021-03-19 }}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/english/deck_1 |title=deck_1 noun - Definition, pictures, pronunciation and usage notes - Oxford Advanced Learner's Dictionary at OxfordLearnersDictionaries.com |author= |date= |access-date=2021-03-19 }}</ref>
*** [[操縦席]] - 航空機やスペースシャトルなどの宇宙船も「シップ」であり、これらの船舶用語が受け継がれている。これ以外の輸送機器にも当てはめられ、使われている。
*** [[馬車]]、[[鉄道車両]]、[[バス (交通機関)#床構造|バス]]などの[[鉄道車両の座席|客席(客室)]]の床。[[ダブルデッカー]](2階建車両)や、[[ハイデッカー]](高床)など。
*** [[自動車]]の[[ボンネット (自動車)|ボンネット]](フロントエンジンフード)や[[トランク (自動車)|トランク]](稀に[[リアエンジン]]フード)上面を指す用語。スタイリング技法での「フラットデッキ・スタイル」、プロポーション表現での「ロングノーズ・ショートデッキ」など。
*** [[出入り台]] - [[蒸気機関車]]のばい煙と蒸気や、騒音の侵入防止、あるいは冷・暖房時の室内保温など、居住性を高める目的で客室と出入口が壁と扉で仕切られた[[旅客車|旅客用鉄道車両]]([[新幹線車両]]、[[特急形車両]]や[[急行形車両]]、[[寒冷地仕様]]の[[気動車]]などに多い)の出入り口付近の広場。出入台。
*** 鉄道車両の一部の[[貨車]]にある、[[入換 (鉄道)|入換]]の際、誘導員が[[運転士]]に距離などの状況を連絡する際に乗る部分。
** [[スケートボード]]の板の部分。
** [[キックスケーター]]の足を載せる部分。
* 建築関連
** [[建築物]]の外に設けられる、地面から高くされた床。特に[[ウッドデッキ]]など。<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/デッキ-576101 |title=デッキとは - コトバンク |author= |date= |access-date=2021-03-19 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.homes.co.jp/words/t4/525003007/ |title=【ホームズ】デッキとは?デッキの意味を調べる|不動産用語集 |author= |date= |access-date=2021-03-19 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://suumo.jp/yougo/t/deck/ |title=デッキ とは | SUUMO住宅用語大辞典 |author= |date= |access-date=2021-03-19 }}</ref>
** [[:en:Observation deck]] - [[展望台]]。
*** [[ペデストリアンデッキ]] - 建物と接続して建設された、歩行者用の高架通路。
* [[デッキチェア]] - ズック地(帆布)で作られた、寝そべりやすい椅子、あるいは簡易ベッド。
* [[レコードプレイヤー]]の台座部分。
** 一般化して、[[乾電池]]や[[充電池]]などの[[DC電源]]を利用して屋外などに自由に持ち運ぶことが出来ない、いわゆる[[AC電源]]専用且つ据置型の録音機(レコーダー)、或いは再生専用機(プレーヤー)。具体的には据置型の[[テープレコーダー|テープデッキ]]、および[[ビデオレコーダー|ビデオデッキ]]などを指す。
* デッキ (カード) ([[:en:Deck (cards)]]) - カードゲームのカード1セット。
** コントラクトブリッジなどの[[トランプ]]を使ったゲームで、組み合わせは決まっている。
***トレーディングカードゲームでは各プレイヤーが集めたカードを所定の制約の範囲内で自由に組み合わせる。{{Main|トレーディングカードゲーム#デッキ}}
** カードゲームのプレイ中に場に積んである[[山札]]。
** [[携帯電話]]専用のウェブコンテンツ記述言語である[[WML]]や[[HDML]]独自の概念で、一画面で表示される内容を一枚のカードに見立て、そのうえで文書ファイルは幾つかの画面カードをまとめた'''デッキ'''とされる。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[甲板 (曖昧さ回避)]]
* [[デック]] - 曖昧さ回避。
* [[DEC]] - 曖昧さ回避。
* [[デッカー]] - 曖昧さ回避。
* [[床 (曖昧さ回避)]]
* [[セット]] - 曖昧さ回避。
{{Aimai}}
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[[Category:オランダ語由来の外来語]]
[[Category:オランダ語の語句]]
[[Category:英語の語句]]
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剛体
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剛体(ごうたい、英語: rigid body)とは、力の作用の下で変形しない物体のことである。 物体を質点の集まり(質点系)と考えたとき、質点の相対位置が変化しない系として表すことができる。 剛体は物体を理想化したモデルであり、現実の物体には完全な意味での剛体は存在せず、どんな物体でも力を加えられれば少なからず変形する。 しかし、大きな力を加えなければ、多くの固体や結晶体は変形を無視することができて剛体として扱うことができる。 剛体は、変形を考えないことから、その運動のみが扱われる。剛体の運動を扱う動力学は、剛体の力学(英語: rigid body dynamics)と呼ばれる。大きさを無視した質点の力学とは異なり、大きさをもつ剛体の力学は姿勢の変化(転向)が考えられる。 こまの回転運動などは剛体の力学で扱われるテーマの一つである。
なお、物体の変形を考える理論として、弾性体や塑性体の理論がある。 また、気体や液体は比較的自由に変形され、これを研究するのが流体力学である。 これらの変形を考える分野は連続体力学と呼ばれる。
剛体の動力学は、剛体の質量が重心に集中したものとしたときの並進運動に関するニュートンの運動方程式と、重心のまわりの回転に関するオイラーの運動方程式で記述できる。
物体に作用する力を表現するには、大きさ(magnitude)、方向(direction)、作用点(point of application)の3つの要素が必要となる。 物体が広がりを持たない質点の場合は、力の作用点は質点の位置に一致するため考える必要がない。 一方、広がりを持つ物体の場合は作用点がどこにあるかを考える必要がある。しかし、変形を考えない剛体の場合は、作用点を力の方向に平行な直線に沿って動かしても力が及ぼす効果は変わらない。作用点を通り、力の方向に平行な直線は力の作用線(line of action)と呼ばれる。
大きさと方向を持つ力は、ベクトル量として表される。剛体の場合はこれに加えて作用線の情報が必要となる。作用線の情報は、適当な点のまわりの力のモーメントとして表される。 剛体の釣り合いを考える際は、力の釣り合い(力のベクトル的な和がゼロ)の条件とともに、力のモーメントの釣り合い(力のモーメントのベクトル的な和がゼロ)の条件が必要となる。
剛体の運動は三次元空間では6自由度であり、重心等適切な代表点を決め、代表点の運動(移動)三次元とその代表点を中心とする回転運動(転向)三次元に分解して扱う事ができる。
剛体は連続系として積分形式を用いる事が多いが、ここでは、実際の物体が原子で構成されているのと同様に、多数の質点のような粒子から成る離散系として説明する。
剛体の運動は上の2つの運動方程式を満たす。自転しながら公転している場合等、並進運動が回転運動の場合もある。その場合は並進運動も回転運動専用の式の方が適している。
剛体に働く力の合力が0で力がつり合っているとき、並進と回転の2つの運動方程式の右辺が0になり、剛体は等速回転しながら等速直線運動をしている。(それぞれ静止を含む。)
下の表について説明する。左半分は、並進運動と回転運動で扱われる運動量について比較しているが、同じ段にある物理量は相当すると考えると解り易い。その例が表の右半分である。それぞれ、一方の関係式の記号に、対応する記号を代入するともう一方の関係式になることが判る。
剛体の運動エネルギーは、並進運動と回転運動の、それぞれの運動エネルギー(並進運動エネルギーと回転運動エネルギー)の和である。
並進運動エネルギーは、 1 2 M ( d s → d t ) 2 {\displaystyle {\frac {1}{2}}M\left({\frac {d{\vec {s}}}{dt}}\right)^{2}} となる。
回転運動エネルギーKは各粒子の運動エネルギーの和であるから、各粒子の質量をmi、代表点に対する速度をviとすると、
K = 1 2 ∑ m i v i 2 = 1 2 ∑ m i r i 2 ω 2 = 1 2 I ω 2 {\displaystyle K={\frac {1}{2}}\sum m_{i}v_{i}^{2}={\frac {1}{2}}\sum m_{i}r_{i}^{2}\omega ^{2}={\frac {1}{2}}I\omega ^{2}}
である。このとき、ωは角速度、Iは慣性モーメント(下記参照)である。
ここでは、剛体の並進運動を棚に上げ、重心を通る軸の周りの回転運動についてだけ記述する。軸とz軸を重ね、軸に沿っての運動はないものと考える。この場合に重要になる物理量が慣性モーメントI(一般的な慣性モーメントについて→慣性モーメント)である。慣性モーメントは、
I = ∑ k m k r k 2 {\displaystyle I=\sum _{k}m_{k}r_{k}^{2}}
が定義であり、剛体を構成する各粒子の、質量と軸からの距離の2乗の積であり、決して変形しない剛体にとって固有に定められた定数である。
一般に剛体では粒子が連続的に分布している(連続体)ので、慣性モーメントは次のような積分として計算される。
I ⟶ ∫ V r 2 d m = ∫ V r 2 ρ ( r ) d V {\displaystyle I\longrightarrow \int _{V}r^{2}\,dm=\int _{V}r^{2}\rho (r)\,dV} = ∫∫∫ V r 2 ρ ( r ) d x d y d z {\displaystyle {}=\iiint _{V}r^{2}\rho (r)\,dx\,dy\,dz}
ここで、積分領域のVは剛体の体積を表す。
慣性モーメントは慣性能率とも呼ばれ、次のような重要性がある。
剛体の、質量が m k {\displaystyle m_{k}} であるk番目の質点が軸から垂直方向に座標 r k {\displaystyle r_{k}} で外力によって質点が受ける運動量を p k {\displaystyle p_{k}} とし、角速度ωとすると、Lは
L = ∑ k r k p k = ∑ k r k m k v k = ∑ k m k r k 2 ω {\displaystyle L=\sum _{k}r_{k}p_{k}=\sum _{k}r_{k}m_{k}v_{k}=\sum _{k}m_{k}r_{k}^{2}\omega }
したがって、
L = I ω ⋯ ( 1 ) {\displaystyle L=I\omega \cdots (1)}
となる。
また、 d L d t = N {\displaystyle {\tfrac {dL}{dt}}=N} から、
N = I d ω d t {\displaystyle N=I{\frac {d\omega }{dt}}}
ところで、Iは、剛体の全質量をMとすると、
I = M k 2 {\displaystyle I=M\,k^{2}}
と表すこともできる。このとき、kは剛体の回転半径という。この式の意味は、剛体の慣性モーメントは、考えている軸にkだけ離れた位置に全質量Mが集中している回転体として求めた量とみなすことができることである。
ここで慣性モーメント自体の力学的意義について説明する。(1)から、トルクNを一定にしたとき、角加速度は慣性モーメントIに反比例することがわかる。慣性モーメントを大きくしたとき、すなわち剛体の質量か回転半径を大きくしたとき、角加速度は小さくなる。すなわち回転の速度を変えるのに時間が懸かることになり、これは例えば、その剛体が回転しにくいが、一度回り始めると止めにくいことを表す。慣性モーメントIとは、回転の慣性の大きさを表す量、すなわち回転の(あるいは回転の速度を変える)難易性の目安を表している。ある回転の安定性、永続性の尺度とも言える。この理を利用して、安定した回転を保つために、大きな弾み車が発電機や各種のエンジンに取り付けられている。
慣性モーメントは剛体の質量や形状に依存するが、ここでその計算方法を示す。
直交軸の定理とは、剛体が薄い平板の時、この平面での互いに直交する軸の周りの慣性モーメントの和は、2つの軸の交点で面に直交する軸の周りの慣性モーメントに等しくなるという定理である。
ここで、平面内の2つの軸をx軸、y軸とすると、これらの軸の周りの慣性モーメントは次のようになる。ここでρは面密度であり、積分領域は剛体上の全平面をとる。
I x = ∫ ρ y 2 d x d y , I y = ∫ ρ x 2 d x d y ( d m = ρ d x d y ) {\displaystyle I_{x}=\int \rho y^{2}\,dx\,dy,\quad I_{y}=\int \rho x^{2}\,dx\,dy\,\,\,\,\,(dm=\rho \,dx\,dy)}
この和は、
I x + I y = ∫ ρ ( x 2 + y 2 ) d x d y = ∫ ρ r 2 d x d y {\displaystyle I_{x}+I_{y}=\int \rho (x^{2}+y^{2})\,dx\,dy=\int \rho r^{2}\,dx\,dy}
となるが、rはz軸からの距離でありちょうどz軸の周りの慣性モーメントとなっている。
I x + I y = I z {\displaystyle I_{x}+I_{y}\,=\,I_{z}}
平行軸の定理あるいはスタイナーの定理とは、質量がMの剛体の重心を通る任意の軸の周りの慣性モーメント I G {\displaystyle I_{G}} が既知であるとき、この軸と平行な軸の周りの慣性モーメント I {\displaystyle I} は、2軸間の距離を h {\displaystyle h} とすると、次のように表される
I = I G + M h 2 {\displaystyle I=I_{G}+M\,h^{2}}
という定理である。
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"text": "となる。",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
{
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"text": "また、 d L d t = N {\\displaystyle {\\tfrac {dL}{dt}}=N} から、",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
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"text": "N = I d ω d t {\\displaystyle N=I{\\frac {d\\omega }{dt}}}",
"title": "剛体の慣性モーメント"
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"text": "ところで、Iは、剛体の全質量をMとすると、",
"title": "剛体の慣性モーメント"
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"text": "I = M k 2 {\\displaystyle I=M\\,k^{2}}",
"title": "剛体の慣性モーメント"
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"text": "と表すこともできる。このとき、kは剛体の回転半径という。この式の意味は、剛体の慣性モーメントは、考えている軸にkだけ離れた位置に全質量Mが集中している回転体として求めた量とみなすことができることである。",
"title": "剛体の慣性モーメント"
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"text": "ここで慣性モーメント自体の力学的意義について説明する。(1)から、トルクNを一定にしたとき、角加速度は慣性モーメントIに反比例することがわかる。慣性モーメントを大きくしたとき、すなわち剛体の質量か回転半径を大きくしたとき、角加速度は小さくなる。すなわち回転の速度を変えるのに時間が懸かることになり、これは例えば、その剛体が回転しにくいが、一度回り始めると止めにくいことを表す。慣性モーメントIとは、回転の慣性の大きさを表す量、すなわち回転の(あるいは回転の速度を変える)難易性の目安を表している。ある回転の安定性、永続性の尺度とも言える。この理を利用して、安定した回転を保つために、大きな弾み車が発電機や各種のエンジンに取り付けられている。",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
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"text": "慣性モーメントは剛体の質量や形状に依存するが、ここでその計算方法を示す。",
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"text": "直交軸の定理とは、剛体が薄い平板の時、この平面での互いに直交する軸の周りの慣性モーメントの和は、2つの軸の交点で面に直交する軸の周りの慣性モーメントに等しくなるという定理である。",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
{
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"text": "ここで、平面内の2つの軸をx軸、y軸とすると、これらの軸の周りの慣性モーメントは次のようになる。ここでρは面密度であり、積分領域は剛体上の全平面をとる。",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
{
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"text": "I x = ∫ ρ y 2 d x d y , I y = ∫ ρ x 2 d x d y ( d m = ρ d x d y ) {\\displaystyle I_{x}=\\int \\rho y^{2}\\,dx\\,dy,\\quad I_{y}=\\int \\rho x^{2}\\,dx\\,dy\\,\\,\\,\\,\\,(dm=\\rho \\,dx\\,dy)}",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
{
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"text": "この和は、",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "I x + I y = ∫ ρ ( x 2 + y 2 ) d x d y = ∫ ρ r 2 d x d y {\\displaystyle I_{x}+I_{y}=\\int \\rho (x^{2}+y^{2})\\,dx\\,dy=\\int \\rho r^{2}\\,dx\\,dy}",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
{
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"text": "となるが、rはz軸からの距離でありちょうどz軸の周りの慣性モーメントとなっている。",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
{
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"text": "I x + I y = I z {\\displaystyle I_{x}+I_{y}\\,=\\,I_{z}}",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
{
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"tag": "p",
"text": "平行軸の定理あるいはスタイナーの定理とは、質量がMの剛体の重心を通る任意の軸の周りの慣性モーメント I G {\\displaystyle I_{G}} が既知であるとき、この軸と平行な軸の周りの慣性モーメント I {\\displaystyle I} は、2軸間の距離を h {\\displaystyle h} とすると、次のように表される",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "I = I G + M h 2 {\\displaystyle I=I_{G}+M\\,h^{2}}",
"title": "剛体の慣性モーメント"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "という定理である。",
"title": "剛体の慣性モーメント"
}
] |
剛体とは、力の作用の下で変形しない物体のことである。
物体を質点の集まり(質点系)と考えたとき、質点の相対位置が変化しない系として表すことができる。
剛体は物体を理想化したモデルであり、現実の物体には完全な意味での剛体は存在せず、どんな物体でも力を加えられれば少なからず変形する。
しかし、大きな力を加えなければ、多くの固体や結晶体は変形を無視することができて剛体として扱うことができる。
剛体は、変形を考えないことから、その運動のみが扱われる。剛体の運動を扱う動力学は、剛体の力学と呼ばれる。大きさを無視した質点の力学とは異なり、大きさをもつ剛体の力学は姿勢の変化(転向)が考えられる。
こまの回転運動などは剛体の力学で扱われるテーマの一つである。 なお、物体の変形を考える理論として、弾性体や塑性体の理論がある。
また、気体や液体は比較的自由に変形され、これを研究するのが流体力学である。
これらの変形を考える分野は連続体力学と呼ばれる。 剛体の動力学は、剛体の質量が重心に集中したものとしたときの並進運動に関するニュートンの運動方程式と、重心のまわりの回転に関するオイラーの運動方程式で記述できる。
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{{出典の明記|date=2011年7月}}
{{古典力学}}
'''剛体'''(ごうたい、{{Lang-en|rigid body}})とは、[[力 (物理学)|力]]の作用の下で[[変形]]しない[[物体]]のことである。
物体を[[質点]]の集まり(質点系)と考えたとき、質点の[[相対位置]]が[[変化]]しない系として表すことができる。
剛体は物体を理想化した[[モデル (自然科学)|モデル]]であり、現実の物体には完全な意味での剛体は存在せず、どんな物体でも力を加えられれば少なからず変形する。
しかし、大きな力を加えなければ、多くの[[固体]]や[[結晶体]]は変形を無視することができて剛体として扱うことができる。
剛体は、変形を考えないことから、その運動のみが扱われる。剛体の運動を扱う[[動力学]]は、'''剛体の力学'''({{Lang-en|rigid body dynamics}})と呼ばれる。大きさを無視した質点の力学とは異なり、大きさをもつ剛体の力学は姿勢の変化(転向)が考えられる。
[[独楽|こま]]の回転運動などは剛体の力学で扱われるテーマの一つである。
なお、物体の[[変形]]を考える理論として、[[弾性体]]や[[塑性体]]の理論がある。
また、[[気体]]や[[液体]]は比較的自由に変形され、これを研究するのが[[流体力学]]である。
これらの変形を考える分野は[[連続体力学]]と呼ばれる。
剛体の[[動力学]]は、剛体の質量が[[重心]]に集中したものとしたときの並進運動に関する[[ニュートンの運動方程式]]と、重心のまわりの回転に関する[[オイラーの運動方程式]]で記述できる。
== 剛体の静力学 ==
物体に作用する[[力 (物理学)|力]]を表現するには、大きさ({{en|magnitude}})、方向({{en|direction}})、[[作用点]]({{en|point of application}})の3つの要素が必要となる<ref name="nakamura">[[#nakamura|中村 他『建築構造力学』]] pp.9-10</ref>。
物体が広がりを持たない質点の場合は、力の作用点は質点の位置に一致するため考える必要がない。
一方、広がりを持つ物体の場合は作用点がどこにあるかを考える必要がある。しかし、変形を考えない剛体の場合は、作用点を力の方向に[[平行]]な直線に沿って動かしても力が及ぼす効果は変わらない<ref name="nakamura"/>。作用点を通り、力の方向に平行な直線は力の'''[[作用線]]'''({{en|line of action}})と呼ばれる。
大きさと方向を持つ力は、[[空間ベクトル|ベクトル]]量として表される。剛体の場合はこれに加えて作用線の情報が必要となる。作用線の情報は、適当な点のまわりの[[力のモーメント]]として表される。
剛体の釣り合いを考える際は、力の釣り合い(力のベクトル的な和がゼロ)の条件とともに、力のモーメントの釣り合い(力のモーメントのベクトル的な和がゼロ)の条件が必要となる。
=== 静力学的自由度 ===
[[3次元]]空間において、剛体の静力学的な[[自由度]]は6である。
剛体の自由度が6であることは次のように示される<ref>藤原『物理学序論としての力学』</ref>。
# 剛体に固定された点の位置は3次元空間において3つの自由度で指定される。
# 剛体に固定された第2の点を考えれば、第1の点との距離が変化しないという剛体の条件から、2つの自由度で指定される。
# 直線上にない第3の点を考えれば、第1と第2の点との距離が変化しないという剛体の条件から、1つの自由度で指定される。
# 第4の点以降は、第1と第2、第3の点との距離が変化しないという剛体の条件から自由度が増えることなく決まってしまうので合計の自由度が6であることが示される。
これは第1と第2の点を結ぶ軸の方向が2つの自由度で指定され、この軸の周りの回転1つの自由度で指定されると言い換えることもできる。すなわち、3つの自由度で剛体の位置が指定され、残り3つの自由度で剛体の姿勢が指定される。自由度の選び方にはある程度の任意性があるが、通常は剛体の位置は[[重心]]座標で指定され、剛体の姿勢は重心周りの回転角で指定されることが多い。
== 剛体の運動学 ==
剛体の[[運動 (物理学)|運動]]は静力学的な6つの自由度の時間発展で表される。6つの自由度の時間微分とは重心の[[速度]]と、重心周りの[[角速度]]である。
剛体に固定された代表点 P に対する別の固定点 {{mvar|i}} の相対位置と相対速度は
:<math>\mathfrak{r}_{i,\text{P}} =\boldsymbol{r}_i -\boldsymbol{r}_\text{P}</math>
:<math>\mathfrak{u}_{i,\text{P}} =\frac{d\mathfrak{r}_{i,\text{P}}}{dt} =\boldsymbol{v}_i -\boldsymbol{v}_\text{P}</math>
で定義される。距離が変化しないという剛体の条件は角速度を用いて
:<math>\mathfrak{u}_{i,\text{P}} =\boldsymbol{\omega}\times \mathfrak{r}_{i,\text{P}}</math>
で表される。
=== 重心運動と重心周りの回転運動 ===
剛体は連続体として[[積分]]を用いて表される事も多いが、ここでは多数の質点から成る離散系として説明する。
運動量は加法的な物理量なので、剛体の全運動量は部分の運動量の和で表されるので
:<math>\boldsymbol{P} =\sum_i m_i \boldsymbol{v}_i =M\frac{d\boldsymbol{r}_\text{g}}{dt}</math>
となり、剛体の全質量 {{mvar|M}} が重心に集中した質点の運動量に等しい。
角運動量も加法的な物理量なので、剛体の全角運動量も部分の角運動量の和で表されて
:<math>\boldsymbol{J} =\sum_i m_i \boldsymbol{r}_i \times \boldsymbol{v}_i</math>
である。剛体の重心運動の軌道角運動量を全質量が重心に集中した質点の軌道角運動量に等しく定義すれば
:<math>\boldsymbol{L} =\boldsymbol{r}_\text{g}\times \boldsymbol{P} =\sum_i m_i \boldsymbol{r}_\text{g} \times \boldsymbol{v}_i</math>
である。全角運動量から重心運動の軌道角運動量を差引いた角運動量が剛体の重心周りの回転による角運動量であり
:<math>\boldsymbol{S} =\boldsymbol{J} -\boldsymbol{L} =\sum_i m_i \mathfrak{r}_{i,\text{g}} \times \boldsymbol{v}_i
=\sum_i m_i \mathfrak{r}_{i,\text{g}} \times \mathfrak{u}_{i,\text{g}}</math>
となる。
== 並進運動、回転運動 ==
{{節スタブ}}
;並進運動
:代表点の運動を剛体の'''並進運動(併進運動)'''という。剛体の[[質量]]を''M''、代表点の位置を<math>\vec{s}</math>、各部に働く[[運動の第3法則|外力]]を<math>\vec F_i</math>、剛体に働く全外力を<math>\vec{F}</math>とすると、代表点についての[[ニュートンの運動方程式]]('''並進の運動方程式''')は
:<math> M \frac{d^2\vec s}{dt^2} = \vec{F} \,\,\,\,\, ( \vec{F} = \sum \vec F_i ) </math>
:例を挙げると、投げられた棒の運動は、重心の[[軌跡 (数学)|軌跡]]が放物線を描く(→[[放物線#物理学的な導出]])。並進運動は重心といった代表点の運動なので記事[[質点#質点系の力学]]に詳しい。
;[[回転運動]]
:代表点を中心とした回転の[[角運動量]]を<math>\vec{L}</math>、外力による[[力のモーメント]]の総和を<math>\vec{N}</math>とすると、剛体の回転運動の[[オイラーの運動方程式]]('''回転の運動方程式''')は
:<math> \frac{d\vec L}{dt} = \vec{N} \,\,\,\,\, ( \vec{N} = \sum(\vec{r}_i\times\vec{F}_i) ) </math>
:例を挙げると、投げられた棒の運動は、重心の放物運動と、重心を中心にしての回転に分けられる。
剛体の運動は上の2つの運動方程式を満たす。[[自転]]しながら[[公転]]している場合等、並進運動が回転運動の場合もある。その場合は並進運動も回転運動専用の式の方が適している。
剛体に働く力の合力が0で[[力 (物理学)#力の釣り合い|力がつり合っている]]とき、並進と回転の2つの運動方程式の右辺が0になり、剛体は等速回転しながら等速直線運動をしている。(それぞれ静止を含む。)
下の表について説明する。左半分は、並進運動と回転運動で扱われる運動量について比較しているが、同じ段にある物理量は相当すると考えると解り易い。その例が表の右半分である。それぞれ、一方の関係式の記号に、対応する記号を代入するともう一方の関係式になることが判る。
{| class="wikitable"
!!!並進運動!![[SI単位]]!!回転運動!!SI単位!![[法則]]!!並進運動!!回転運動
|-
! rowspan="9" style="width:1em" |[[物理量]]
|[[位置]]||[[メートル|m]]
|[[角度]]||[[ラジアン|rad]]=m/m
! rowspan="2" |[[慣性の法則]]
| rowspan="2" |物体は力を加えられない限り、[[等速直線運動]]または静止を続ける
| rowspan="2" |物体がトルクを加えられない限り、[[円運動#等速円運動|等速円運動]]または静止を続ける
|-
|[[速度]]||m/s
|[[角速度]]||rad/s
|-
|[[加速度]]||m/s<sup>2</sup>
|[[角加速度]]||rad/s<sup>2</sup>
! rowspan="3" |[[運動の第2法則|運動の法則]]
| rowspan="2" |物体に力が加わると、質量(慣性質量)に比例した加速度を生じる。<br /><math> \vec{F} = m \vec{a} </math>
| rowspan="2" |物体にトルクが加わると、慣性モーメントに比例した角加速度を生じる。<br /><math> \vec{N} = I \dot{\omega} </math>
|-
|[[質量]](慣性質量)||[[キログラム|kg]]
|[[慣性モーメント]]||kg・m<sup>2</sup>
|-
|[[力 (物理学)|力]]
|[[ニュートン (単位)|N]]<br />=kg・m/s<sup>2</sup>
|[[トルク]]
|N・m<br />=kg・m<sup>2</sup>rad/s<sup>2</sup>
|運動量の時間的変化率が力に相当する<br /><math> \tfrac{d\vec p}{dt} = \vec{F} </math>
|角運動量の時間的変化率がトルクに相当する<br /><math> \tfrac{d\vec L}{dt} = \vec{N} </math>
|-
|[[運動量]]||kg・m/s
|[[角運動量]]
|kg・m<sup>2</sup>/s<br />=kg・m<sup>2</sup>rad/s
! rowspan="4" |[[ベクトル量]]に関する保存則
| rowspan="4" |[[運動量保存の法則]]<br /><math> \frac{d\vec P}{dt} = \sum \vec{F}_i </math>
| rowspan="4" |[[角運動量保存の法則]]<br /><math> \frac{d\vec L}{dt} = \sum \vec{N}_i </math>
|-
|並進[[運動エネルギー]]
|[[ジュール|J]]<br />=kg・m<sup>2</sup>/s<sup>2</sup>
|回転運動エネルギー
|J<br />=kg・m<sup>2</sup>rad<sup>2</sup>/s<sup>2</sup>
|-
|[[仕事_(物理学)|仕事]]||J=N・m
|仕事||J=N・m・rad
|-
|[[仕事率]]
|[[ワット|W]]=J/s<br />=N・m/s
|仕事率
|W=J/s<br />=N・m・rad/s
|}
=== 剛体の運動エネルギー ===
剛体の運動エネルギーは、並進運動と回転運動の、それぞれの運動エネルギー(並進運動エネルギーと回転運動エネルギー)の和である。
並進運動エネルギーは、<math> \frac{1}{2} M \left( \frac{d\vec s}{dt} \right) ^2 </math>となる。
回転運動エネルギー''K''は各粒子の運動エネルギーの和であるから、各粒子の質量を''m<sub>i</sub>''、代表点に対する速度を''v<sub>i</sub>''とすると、
{{Indent|<math> K = \frac{1}{2} \sum m_iv_i^2 = \frac{1}{2} \sum m_ir_i^2\omega^2 = \frac{1}{2} I \omega^2</math>}}
である。このとき、''ω''は[[角速度]]、''I''は慣性モーメント(下記参照)である。
== 剛体の慣性モーメント ==
ここでは、剛体の並進運動を棚に上げ、重心を通る軸の周りの回転運動についてだけ記述する。軸とz軸を重ね、軸に沿っての運動はないものと考える。この場合に重要になる物理量が'''慣性モーメント'''I(一般的な慣性モーメントについて→[[慣性モーメント]])である。慣性モーメントは、
{{Indent|<math>I=\sum_{k} m_kr_k^2</math>}}
が定義であり、剛体を構成する各粒子の、質量と軸からの距離の2乗の積であり、決して変形しない剛体にとって固有に定められた定数である。
一般に剛体では粒子が連続的に分布している(連続体)ので、慣性モーメントは次のような[[積分]]として計算される。
{{Indent|<math>I\longrightarrow \int_{V} r^2\, dm=\int_{V} r^2\rho (r)\, dV</math><br />
<math>{}=\iiint_{V} r^2\rho (r)\, dx\,dy\,dz</math>}}
ここで、積分領域のVは剛体の[[体積]]を表す。
慣性モーメントは'''慣性能率'''とも呼ばれ、次のような重要性がある。
*角運動量の大きさLと[[角速度]]ωは[[比例]]するが、Iはこのときの[[比例#定義|比例定数]]である。また、[[トルク]]の大きさNは[[角加速度]]<math>\dot{\omega}</math>と比例し、このときの比例定数もIである。
剛体の、質量が<math>m_k</math>であるk番目の質点が軸から垂直方向に座標<math>r_k</math>で外力によって質点が受ける運動量を<math>p_k</math>とし、角速度ωとすると、Lは
{{Indent|<math>L=\sum_{k} r_kp_k=\sum_{k} r_km_kv_k=\sum_{k} m_kr_k^2\omega</math>}}
したがって、
{{Indent|<math>L=I\omega\cdots (1)</math>}}
となる。
また、<math>\tfrac{dL}{dt}=N</math>から、
{{Indent|<math>N=I\frac{d\omega}{dt}</math>}}
ところで、Iは、剛体の全質量をMとすると、
{{Indent|<math>I=M\,k^2</math>}}
と表すこともできる。このとき、kは'''剛体の回転半径'''という。この式の意味は、剛体の慣性モーメントは、考えている軸にkだけ離れた位置に全質量Mが集中している回転体として求めた量とみなすことができることである。
ここで慣性モーメント自体の力学的意義について説明する。(1)から、トルクNを一定にしたとき、角加速度は慣性モーメントIに反比例することがわかる。慣性モーメントを大きくしたとき、すなわち剛体の質量か回転半径を大きくしたとき、角加速度は小さくなる。すなわち回転の速度を変えるのに時間が懸かることになり、これは例えば、その剛体が回転しにくいが、一度回り始めると止めにくいことを表す。慣性モーメントIとは、回転の慣性の大きさを表す量、すなわち回転の(あるいは回転の速度を変える)難易性の目安を表している。ある回転の安定性、永続性の尺度とも言える。この理を利用して、安定した回転を保つために、大きな[[弾み車]]が[[発電機]]や各種の[[エンジン]]に取り付けられている。
=== 慣性モーメントの計算法 ===
慣性モーメントは剛体の質量や形状に依存するが、ここでその計算方法を示す。
==== 直交軸の定理 ====
直交軸の定理とは、''剛体が薄い平板の時、この平面での互いに直交する軸の周りの慣性モーメントの和は、2つの軸の交点で面に直交する軸の周りの慣性モーメントに等しくなる''という定理である。
ここで、平面内の2つの軸をx軸、y軸とすると、これらの軸の周りの慣性モーメントは次のようになる。ここでρは面密度であり、積分領域は剛体上の全平面をとる。
{{Indent|<math>I_x=\int \rho y^2\, dx\,dy,\quad I_y=\int \rho x^2\, dx\,dy\,\,\,\,\,(dm=\rho \,dx\,dy)</math>}}
この和は、
{{Indent|<math>I_x+I_y=\int \rho (x^2+y^2)\, dx\,dy=\int \rho r^2\, dx\,dy</math>}}
となるが、rはz軸からの距離でありちょうどz軸の周りの慣性モーメントとなっている。
{{Indent|<math>I_x+I_y\,=\,I_z</math>}}
==== 平行軸の定理 ====
[[平行軸の定理]]あるいはスタイナーの定理とは、''質量がMの剛体の重心を通る任意の軸の周りの慣性モーメント''<math>I_G</math>''が既知であるとき、この軸と平行な軸の周りの慣性モーメント''<math>I</math>''は、2軸間の距離を''<math>h</math>''とすると、次のように表される''
{{Indent|<math>I=I_G+M\,h^2</math>}}
という定理である。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author= 藤原邦男
|title= 物理学序論としての力学
|year= 1984
|series= 基礎物理学
|publisher= 東京大学出版会
|isbn= 4-13-062071-1
|ref= fujiwara
}}
* {{Cite book|和書
|title=建築構造力学 図説・演習1
|author=中村 恒善 他
|publisher=丸善
|year=1994
|isbn=978-4-621-03965-6
|ref=nakamura
}}
== 関連項目 ==
* [[弾性]]
* [[RigidChips]]
* [[ヨーイング]]
* [[ローリング]]
* [[ピッチング]]
* [[剛床]] - 建築物の構造計算で用いられる、水平荷重に対して剛体とみなされる床。
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こうたいのりきかく}}
[[Category:力学]]
|
2003-09-19T03:45:27Z
|
2023-10-28T13:52:03Z
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[
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"Template:En",
"Template:Indent",
"Template:Cite book",
"Template:Normdaten",
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"Template:Lang-en",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%9B%E4%BD%93
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17,355 |
まわり将棋
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まわり将棋(まわりしょうぎ)は、将棋の駒を用いて遊ぶ双六に似た遊戯である。サイコロを振る代わりに4つの駒を振り、出た向きによって駒を進める。「丸将棋」などとも呼ばれる。
※次に記すのは基本的なルールである。厳密な規定が存在しないため、各地に多数のローカルルールが存在する。
この他、ぴったり角(カド)に止まらなくても一周すれば次の駒に交換できるとするルールや、外から内側に駒を動かして「5五」に到達すればあがりとするなど様々なローカルルールが存在する。 以下は比較的メジャーな物の一例である。
起点となるマス目に「1一」と「9九」も加えて、同時に4人まで対戦可能である。
この遊びの正確な起源は定かでないが、1830年(文政13年)序の「嬉遊笑覧」や、1907年(明治40年)に発行された書物「世界遊戯法大全」にも紹介されていることからそれよりも以前に遊ばれていることが推測できる。
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まわり将棋(まわりしょうぎ)は、将棋の駒を用いて遊ぶ双六に似た遊戯である。サイコロを振る代わりに4つの駒を振り、出た向きによって駒を進める。「丸将棋」などとも呼ばれる。
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'''まわり将棋'''(まわりしょうぎ)は、[[将棋]]の[[駒 (将棋)|駒]]を用いて遊ぶ[[双六]]に似た遊戯である。[[サイコロ]]を振る代わりに4つの駒を振り、出た向きによって駒を進める。「丸将棋」などとも呼ばれる。
== 基本ルール ==
※次に記すのは基本的なルールである。厳密な規定が存在しないため、各地に多数のローカルルールが存在する。
* 将棋盤と将棋の駒を用意して、まず[[歩兵 (将棋)|歩兵]]を対戦する人数分だけ揃え、[[金将]]を4枚揃える。
*まず、「1九」と「9一」のマス目に[[歩兵 (将棋)|歩兵]]を1枚ずつ置く(2人対戦の場合)。
*[[金将]]4枚を[[将棋盤]]の上に投げる。金将が向いている向きによって次のように読む。
**[[ファイル:まわり将棋0点.JPG|100px|0点]]裏向きの(何も文字が書いていない方が上を向いている)金将 → 0
**[[ファイル:まわり将棋1点.JPG|100px|1点]]表向きの(「金将」の文字が上を向いている)金将 → 1
**[[ファイル:まわり将棋5点.JPG|100px|5点]]横向きの(「金将」の文字が首を横向きにするとまっすぐ読める状態の)金将 → 5
**[[ファイル:まわり将棋10点.JPG|100px|10点]]上向きの(「金将」の文字が上から地面に向かってまっすぐ読める状態の)金将 → 10
**[[ファイル:まわり将棋20点.JPG|100px|20点]]下向きの(「金将」の文字が地面から上に向かってまっすぐ読める状態の)金将 → 20・100
**裏向きの(何も文字が書いていない方が上を向いている)金将が4枚揃う → 8・20(次の角にワープするルール、4だけどもう一度振れるというルールもある)
*上の結果の金将が示した数の合計数だけ「1九」→「1一」→「9一」→「9九」→「1九」→…に向かって駒を動かす。ただし、金将が2枚以上重なったり(山)、1枚でも将棋盤の外に飛び出したり(川)したら金将の向きに関わらず0とする。(出た目の数後退するルールもある)
*ぴったり角(カド、「1九」「1一」「9一」「9九」のいずれか)に止まったら[[香車]]に交換する。
*これを繰り返し、香車で角(カド)に止まったら[[桂馬]]に交換し、桂馬で角(カド)に止まったら[[銀将]]に交換する。以下同様にして角(カド)に止まる毎に[[成銀]](金将の代わり。成銀を使用せず直接角行に交換する場合も多い)、[[角行]]、[[飛車]]、[[玉将|王将]]と交換していき、王将で角(カド)に止まったらあがりである。
== 備考 ==
この他、ぴったり角(カド)に止まらなくても一周すれば次の駒に交換できるとするルールや、外から内側に駒を動かして「5五」に到達すればあがりとするなど様々なローカルルールが存在する。
以下は比較的メジャーな物の一例である。
*下向きの金将となるのはごく稀である為、30から100などの高得点とする。ただし、ぴったり角のルールがある場合ゲーム上32の倍数を引いた数と変わらない(例えば30なら2マス戻り、100なら4マス進む)。
*自陣以外の角にピッタリ止まると次の角に飛べる(ワープ)
*振り駒が重なった場合、数字の分だけ前に戻る(ベッタ、だんごなど)、または無効(クソ)
*振り駒が1つでも将棋盤から漏れた場合は無効(ションベン)
*自分の駒が他人の駒と重なった場合上に乗れる。下の駒のプレーヤーが駒を降ると一緒に進む事が出来る(おんぶ)
*途中で他の相手と向かい合った時に、その両者だけで「戦争」をする。先攻後攻を決めた後、互いの所までの直線を振り駒の数で往復し、先に戻った方が勝ち。勝てばランクが1つ上がり、負けると下がる(歩兵は「と金」になり、1ランク下の扱いにする)。
*他の駒に追い抜かれると休憩扱いになり、裏返しで1マス内側に置き、もう一度誰かに通ってもらうか、決まった数以上(例えば10)出なければそこから戻れない。
起点となるマス目に「1一」と「9九」も加えて、同時に4人まで対戦可能である。
== 歴史 ==
この遊びの正確な起源は定かでないが、[[1830年]](文政13年)序の「[[嬉遊笑覧]]」や、[[1907年]](明治40年)に発行された書物「[[世界遊戯法大全]]」にも紹介されていることからそれよりも以前に遊ばれていることが推測できる。
== 関連項目 ==
* [[将棋類の一覧]]
* [[はさみ将棋]]
* [[山くずし]]
* [[振り駒]]
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甲子
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甲子(きのえね、こうし、かっし)は、干支の一つ。
干支の組み合わせの1番目で、前は癸亥、次は乙丑である。陰陽五行では十干の甲は陽の木、十二支の子は陽の水で、相生(水生木)である。
西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の11月が甲子の月となる。ここでいう月は旧暦月や節月(大雪から小寒の前日まで)を適用する場合もある。
甲が木性、子が水性で相生(水生木)の関係にあり、干支の組合せの1番目であることから甲子日は吉日とされている。
子を鼠と結び付かせ、鼠を大黒天の使者とみなして大黒天祭(甲子祭)が行われる。甲子待(かっしまち)と言って、子の刻まで起きて大豆・黒豆・二股大根を供え、大黒天を祀る。
松浦静山の随筆集『甲子夜話』は1821年(文政6年)11月17日の甲子日に書き始めたことより命名された。
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甲子(きのえね、こうし、かっし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの1番目で、前は癸亥、次は乙丑である。陰陽五行では十干の甲は陽の木、十二支の子は陽の水で、相生(水生木)である。
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{{干支}}
'''甲子'''(きのえね、こうし、かっし<ref>{{Cite web|和書|title=甲子 |url=https://kotobank.jp/word/%E7%94%B2%E5%AD%90-464293 |access-date=2022-10-04 |publisher=精選版 日本国語大辞典}}</ref>)は、[[干支]]の一つ。
干支の組み合わせの1番目で、前は[[癸亥]]、次は[[乙丑]]である。[[陰陽五行思想|陰陽五行]]では[[十干]]の[[甲]]は陽の[[木]]、[[十二支]]の[[子 (十二支)|子]]は陽の[[水]]で、[[五行思想#相生(そうじょう)|相生]](水生木)である。
==甲子年==
* [[西暦]]年を60で割って4が余る年が甲子[[年]]となる。
* [[王朝]]交代の[[革命]]年である[[辛酉]]年の4年後で、[[天命]]が改まり、徳を備えた人に天命が下される革令年、変乱の多い年とされ、「'''甲子革令'''」という。日本の平安時代以降、それを防ぐ目的で甲子年には[[改元]]が行われた。[[1024年]]の甲子改元以降で、明治時代([[一世一元の詔]]により在位中の改元が廃止)より前に甲子改元が無かったのは[[永禄]]7年([[1564年]])のみである<ref>天野忠幸によれば、将軍足利義輝と三好長慶が改元の主導権を巡って争って軍事衝突に発展することを警戒した正親町天皇が甲子改元を見送ったとする(天野忠幸『三好一族と織田信長』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-185-1 P47-48)。</ref>。
* [[桓武天皇]]は同母兄弟の[[天智天皇|天智]]系の王子([[弘文天皇|大友皇子]])を殺害して即位した[[天武天皇|天武]]系王統の断絶後に即位した父であり、天智系の[[光仁天皇]]から皇位を継承したことから、王統交代を強く意識し、革令の年である[[784年]]に[[長岡京]]に遷都したともいわれている。
* [[184年]]に中国[[後漢]]の末期に起こり、漢の解体を決定付けた[[黄巾の乱]]は「{{Lang|zh-hant|蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉}}(『[[後漢書]]』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61 [[皇甫嵩]]伝<ref>{{Cite wikisource|title=後漢書/卷71|author=范曄|wslanguage=zh}}</ref>)」をスローガンに掲げた。
* [[南北朝時代 (日本)|南北朝期]]の[[1384年]]に[[陸奥国|陸奥]]国で発見された温泉は、甲子年にちなんで[[甲子温泉]]と名付けられた。
* [[元治]]元年([[1864年]])の甲子年にあやかり、伊東大蔵(大藏)は[[伊東甲子太郎]]に改名した。
* [[大正]]13年([[1924年]])に[[兵庫県]][[西宮市]]に作られた野球場は、この年の干支から「甲子園大運動場」(現 [[阪神甲子園球場]])と命名された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/kansai1308203483172_02/news/20110706-OYT8T00734.htm|title=旧・甲子園ホテル : とっておき旅|work=[[読売新聞]]|date=2011.7.6|accessdate=2013.12.31}}</ref>。
* [[甲子園 (地名)|西宮市内の地名]]にもなっており、[[東京甲子社]]の社名の由来もこの年である。
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*[[4年]]
*[[64年]]
*[[124年]]
*[[184年]]
*[[244年]]
*[[304年]]
*[[364年]]
*[[424年]]
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*[[1024年]]
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*[[2944年]]
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==甲子月==
西暦年の下1桁が3・8(十干が[[癸]]・[[戊]])の年の[[11月]]が甲子の[[月 (暦)|月]]となる。ここでいう月は[[旧暦]]月や[[節月]]([[大雪]]から[[小寒]]の前日まで)を適用する場合もある。
==甲子日==
甲が木性、子が水性で相生(水生木)の関係にあり、干支の組合せの1番目であることから甲子日は[[吉日]]とされている。
子を[[ネズミ|鼠]]と結び付かせ、鼠を[[大黒天]]の使者とみなして大黒天祭(甲子祭)が行われる。甲子待(かっしまち)と言って、子の刻まで起きて[[大豆]]・[[黒豆]]・[[二股大根]]を供え、大黒天を祀る。
[[松浦清|松浦静山]]の随筆集『[[甲子夜話]]』は[[1821年]](文政6年)11月17日の甲子日に書き始めたことより命名された。
===甲子日の暦注下段===
*[[凶会日]]([[旧暦]]3月の場合)
*[[神吉日]]
*[[大明日]]
== 甲子を含む人名 ==
* [[板見甲子夫]](かねお)- 1924年生、教育者。
* [[伊東甲子太郎]](かしたろう)
* [[桑原甲子雄]](きねお)
* [[瀧澤甲子彦]](かしお)- 1924年生、フィギュアスケート選手。
* [[長島甲子男]](きねお)- 1924年生、プロ野球選手。
* [[福田甲子雄]](きねお)
* [[増田甲子七]](かねしち)
* [[三浦甲子二]](きねじ)- 1924年生、ジャーナリスト。
== 関連項目 ==
*[[還暦]]
*[[甲子村]](かっしむら、[[岩手県]][[上閉伊郡]]にあった村)
*[[キノエネ醤油]]
*{{prefix}}
*{{intitle}}
== 脚注 ==
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<references />
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吉住渉
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吉住 渉(よしずみ わたる、1963年6月18日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。本名は 中井 真里子()。女性で2人姉妹の妹。血液型はA型。星座はふたご座。筑波大学附属中学校・高等学校卒、一橋大学経済学部卒。
一橋大学時代はテニス部に所属しており、1年後輩に楽天社長の三木谷浩史、2年後輩にインデックス(旧法人)の元代表取締役社長の小川善美がいる。
田渕由美子や太刀掛秀子が大学に通いながら漫画家をしていたことに憧れ、漫画を描き始める。1984年、「One Day...?」で第16回りぼん新人漫画賞佳作を受賞。同年、一橋大学在学中に『りぼんオリジナル』(集英社)初夏の号にて「ラディカル・ロマンス」でデビュー。当時は大学2年生であった。大学時代にデビュー作を含めて、合計2篇の作品を『りぼんオリジナル』に発表した。3作目に描いた「Another Day」が読者からの受けもよく、仕事の依頼が増えたという 。
1987年の春ごろに大学を卒業した後、大手電機メーカーNECに就職。しばらくは営業担当のOLをしながら漫画を執筆していたが、次第に仕事との両立が困難となり、1988年の秋ごろに退社した。その後、専業の漫画家となり、現在に至る。
デビュー後は長らく『りぼん』やその増刊号を主な活動の場にしていたが、2000年代の後半に入って『コーラス』や『マーガレット』などの集英社の女性向け漫画誌にも活動の場を広げている。また2009年には、宙出版のレディースコミック誌『マリエ』に描き下ろしイラストの発表を行っている。
作品名の『ハンサムな彼女』はOVA化、イメージアルバム化し、吉住本人もボーカルを数曲務めている。『ママレード・ボーイ』と『ウルトラマニアック』はテレビアニメ化されている。
社交的な漫画家として知られている。親しい仲にある漫画家は、一条ゆかり・小花美穂・安野モヨコ・武内直子・上田美和・ひうらさとる・槙ようこ・水沢めぐみ・矢沢あい・柊あおいなどを多数に上っている。
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吉住 渉は、日本の漫画家。東京都出身。本名は 中井 真里子。女性で2人姉妹の妹。血液型はA型。星座はふたご座。筑波大学附属中学校・高等学校卒、一橋大学経済学部卒。 一橋大学時代はテニス部に所属しており、1年後輩に楽天社長の三木谷浩史、2年後輩にインデックス(旧法人)の元代表取締役社長の小川善美がいる。
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{{Infobox 漫画家
| 名前 = 吉住 渉
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| 脚注 =
| 本名 = 中井 真里子<br />(なかい まりこ)
| 生年 = {{生年月日と年齢|1963|6|18}} <ref name="プロフィール" />
| 生地 = {{flagicon|Japan}} [[東京都]] <ref name="プロフィール" />
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| 公式サイト =
}}
'''吉住 渉'''(よしずみ わたる、[[1963年]][[6月18日]]<ref name="プロフィール">{{Cite web|和書|url=http://ribon.shueisha.co.jp/data/sensei/yoshizumi_sensei.html |title=りぼん公式サイト内のプロフィール |website=りぼん公式サイト |publisher=集英社|accessdate=2022-05-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160708083240/http://ribon.shueisha.co.jp/data/sensei/yoshizumi_sensei.html |archivedate=2016-07-08}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]]出身<ref name="プロフィール" />。本名は {{読み仮名|'''中井 真里子'''|なかい まりこ}}。[[女性]]で2人姉妹の妹<ref name="プロフィール2">{{Cite web|和書|url=http://www.s-woman.net/mangaar/bn/0810_4/index.html |title=少女まんがアーカイブ |website=s-woman.net |publisher=集英社|accessdate=2022-05-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120523063802/http://www.s-woman.net/mangaar/bn/0810_4/index.html |archivedate=2012-05-23}}</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]<ref name="プロフィール" />。[[星座]]は[[双児宮|ふたご座]]<ref name="プロフィール" />。[[筑波大学附属中学校・高等学校]]卒、[[一橋大学経済学部]]卒<ref name="プロフィール2" />。
一橋大学時代は[[テニス]]部に所属しており、1年後輩に[[楽天グループ|楽天]]社長の[[三木谷浩史]]、2年後輩に[[インデックス・ホールディングス|インデックス]](旧法人)の元代表取締役社長の[[小川善美]]がいる。
== 略歴 ==
[[田渕由美子]]や[[太刀掛秀子]]が大学に通いながら漫画家をしていたことに憧れ、漫画を描き始める<ref name="インタビュー"/>。[[1984年]]、「One Day…?」で第16回りぼん新人漫画賞佳作を受賞。同年、一橋大学在学中に『[[RIBONオリジナル|りぼんオリジナル]]』([[集英社]])初夏の号にて「ラディカル・ロマンス」でデビュー<ref name="プロフィール" /><ref name="プロフィール2" />。当時は大学2年生であった。大学時代にデビュー作を含めて、合計2篇の作品を『りぼんオリジナル』に発表した。3作目に描いた「Another Day」が読者からの受けもよく、仕事の依頼が増えたという<ref name="インタビュー">{{Cite web|和書|url=https://book.asahi.com/article/14331744 |title=「キャラメル シナモン ポップコーン」吉住渉さんインタビュー 大学生で漫画家デビュー「楽しければ何でもアリ」の37年 |website=好書好日 |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2021-07-16 |accessdate=2022-05-07}}</ref>
。
1987年の春ごろに大学を卒業した後、大手電機メーカー[[日本電気|NEC]]に就職。しばらくは営業担当の[[OL]]をしながら漫画を執筆していたが、次第に仕事との両立が困難となり、1988年の秋ごろに退社した。その後、専業の[[漫画家]]となり、現在に至る。
デビュー後は長らく『[[りぼん]]』やその増刊号を主な活動の場にしていたが、[[2000年代]]の後半に入って『[[Cocohana|コーラス]]』や『[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]』などの集英社の女性向け漫画誌にも活動の場を広げている。また[[2009年]]には、[[宙出版]]の[[レディースコミック]]誌『マリエ』に描き下ろしイラストの発表を行っている。
作品名の『[[ハンサムな彼女]]』は[[OVA]]化、イメージアルバム化し、吉住本人もボーカルを数曲務めている。『[[ママレード・ボーイ]]』と『[[ウルトラマニアック]]』は[[テレビアニメ]]化されている。
=== 私生活 ===
社交的な漫画家として知られている。親しい仲にある漫画家は、[[一条ゆかり]]・[[小花美穂]]・[[安野モヨコ]]・[[武内直子]]・[[上田美和]]・[[ひうらさとる]]・[[槙ようこ]]・[[水沢めぐみ]]・[[矢沢あい]]・[[柊あおい]]などを多数に上っている。
旅行が好きで、仕事で休みをもらうとよく日本国外などへ行く。
学生時代からテニス部に所属していたことから、大の[[テニス]]好きで、そのことが『ママレード・ボーイ』や『ウルトラマニアック』などの作品にも反映されている<ref name="インタビュー"/>。
== 作品リスト ==
=== りぼん系列作品 ===
==== 読切作品 ====
* ラディカル・ロマンス(『[[RIBONオリジナル|りぼんオリジナル]]』1984年初夏の号) - '''デビュー作'''。
* ハート・ビート(『りぼんオリジナル』1985年秋の号)
* Another Day(『りぼんオリジナル』1987年初夏の号)
* 天使と冒険(『りぼんオリジナル』1987年秋の号)
* [[ハンサムな彼女|Reo's Diary]](『りぼんオリジナル』1990年春の号) - 絵本風の作品。「ハンサムな彼女」の4ページの短編。
* グリーン・エイジ(『りぼんオリジナル』1991年夏の号)
* ビア・バリディ! -ケニア旅行記-(『りぼんオリジナル』2001年12月号) - 吉住渉自身の[[アフリカ]]・[[ケニア]]の旅行記。友人の[[ひうらさとる]]と[[上田美和]]が同行。
* BABY IT'S YOU(『りぼんオリジナル』2005年12月号)
==== 連載作品 ====
* [[四重奏ゲーム]](『[[りぼん]]』1988年4月号 - 6月号、全3回) - '''初連載'''作品。
* [[ハンサムな彼女]](『りぼん』1988年11月号 - 1992年1月号、全35回) - [[OVA]]化
* [[ママレード・ボーイ]](『りぼん』1992年5月号 - 1995年10月号、全39回) - テレビアニメ化され、大ヒットを記録した'''代表作'''である。
* [[君しかいらない]](『りぼん』1996年2月号 - 11月号、全10回) - 短期集中連載。
* [[ミントな僕ら]](『りぼん』1997年6月号 - 2000年2月号、全30回)
* [[ランダム・ウォーク (漫画)|ランダム・ウォーク]](『りぼん』2000年7月号 - 2001年9月号、2001年りぼん夏休みお楽しみ増刊号、全15回)
* [[ウルトラマニアック]](『りぼん』2002年2月号 - 2003年12月号、全24回) - テレビアニメ化。
* [[だって好きなんだもん]](『りぼん』2004年11月号 - 2005年8月号、全10回)
* [[P×P]](『りぼんオリジナル』2006年4月号、2007年りぼん超びっくりお正月大増刊号、2007年夏休み大増刊号りぼんスペシャル、全3回)
=== コーラス / Cocohana作品 ===
* ハピネス(『[[Cocohana|コーラス]]』2006年1月号 - 2月号) - 前後編。『コーラス』に掲載された最初の作品。
* [[チェリッシュ (漫画)|チェリッシュ]](『コーラス』2006年6月号 - 8月号、全3回)
* [[スパイシーピンク]](『コーラス』2007年2月号 - 2008年3月号、全12回)
* [[カプチーノ (漫画)|カプチーノ]](『コーラス』2008年11月号 - 2009年6月号、全7回)
* [[ママレード・ボーイ little]](『Cocohana』2013年5月号 - 2018年11月号)
* [[キャラメル シナモン ポップコーン]](『Cocohana』2019年12月号 - 連載中)
=== マーガレット作品 ===
* [[ちとせetc.]](エトセトラ)(『[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]』2009年19号 - 2012年15号)
=== その他 ===
* [[科捜研の女]](番組公式Twitter、2021年10月7日<ref name="natalie20211007">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/448358|title=吉住渉が「科捜研の女」をマンガ化!マリコと土門の関係に焦点を当てたストーリー|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-10-07|accessdate=2021-10-07}}</ref>) - テレビドラマのコミカライズ{{R|natalie20211007}}。
== 単行本 ==
=== りぼんマスコットコミックス ===
* りぼん新人まんが傑作集3『虹を渡る7人』 [[1985年]]3月発行 {{ISBN2|4-08-853327-5}}
** 「ラディカル・ロマンス」収録
::: [[一条ゆかり]]の講評つき。同じ本誌には、[[柊あおい]]、[[さくらももこ]]、[[矢沢あい]]らのデビュー作も収録されている。
* 四重奏ゲーム(全1巻) [[1988年]]10月発行 {{ISBN2|4-08-853462-X}}
** 「ハート・ビート」、「Another Day」併録
* [[ハンサムな彼女]](全9巻)
** 「天使と冒険」、「ラディカル・ロマン」、「グリーン・エイジ」併録
* [[ママレード・ボーイ]](全8巻)
* [[君しかいらない]](全2巻)
* [[ミントな僕ら]](全6巻)
* [[ランダム・ウォーク (漫画)|ランダム・ウォーク]](全3巻)
* [[ウルトラマニアック]](全5巻)
* [[だって好きなんだもん]](全2巻)
* [[P×P]](全1巻)
** 「BABY IT'S YOU」併録
=== 集英社文庫(コミック版) ===
* [[ハンサムな彼女]](全5巻)
* [[ママレード・ボーイ]](全5巻)
* [[ミントな僕ら]](全4巻)
* [[君しかいらない]](全1巻)
* [[ランダム・ウォーク (漫画)|ランダム・ウォーク]](全2巻)
* [[ウルトラマニアック]](全3巻)
=== 集英社ガールズコミックス ===
* [[ママレード・ボーイ]]完全版(全6巻)
=== クイーンズコミックス ===
* [[チェリッシュ (漫画)|チェリッシュ]](全1巻)
** 「ハピネス」併録
* [[スパイシーピンク]](全2巻)
* [[カプチーノ (漫画)|カプチーノ]](全1巻)
=== マーガレットコミックス ===
* [[ちとせetc.]](全7巻)
* [[ママレード・ボーイ little]](全7巻)
* [[キャラメル シナモン ポップコーン]](既刊2巻)
== 関連項目 ==
* [[筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧]]
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.hit-tennis.jp/ 一橋大学体育会庭球部]
* [http://ribon.shueisha.co.jp/index.html りぼんわくわくステーション]
* [http://www.hit-tennis.jp/ 一橋大学体育会庭球部]
* [http://chorus.shueisha.co.jp/index.html Chorus Lovers(コーラスWeb)]
* 少女まんがアーカイブ - 集英社の少女漫画作品についての解説や、インタビュー等が掲載されている。ここでは吉住渉についてのみ記載。
** [https://web.archive.org/web/*/http://www.s-woman.net/mangaar/bn/0810_1/index.html 第51回「ハンサムな彼女」]
** [https://web.archive.org/web/*/http://www.s-woman.net/mangaar/bn/0810_2/index.html 第52回「ママレード・ボーイ」 (1)]
** [https://web.archive.org/web/*/http://www.s-woman.net/mangaar/bn/0810_3/index.html 第53回「ママレード・ボーイ」 (2)]
** [https://web.archive.org/web/*/http://www.s-woman.net/mangaar/bn/0810_4/index.html 第54回「ミントな僕ら」]
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[[Category:日本の漫画家]]
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仙台市地下鉄
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仙台市地下鉄(せんだいしちかてつ)は、仙台市交通局高速電車部が運営する地下鉄である。泉中央駅と富沢駅を結ぶ南北線と、八木山動物公園駅と荒井駅を結ぶ東西線の2路線がある。ハウスカラーはローヤルブルーとしている。
いずれも4両編成で運行されているが、各駅のホームは南北線では2両、東西線では1両の追加ができる長さ(有効長)を持つ。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。ゾーン運賃・対キロ区間制併用。2019年(令和元年)10月1日現在。
運賃、所要時間については、公式サイトも参照。
通常の乗車券(切符)のほか、以下の乗車券がある。
仙台市において地下鉄が検討され始めたのは1960年代からである。日本各地の都市部では昭和30年代以降に人口の増大と市街地の拡大が進んだ。仙台も同様で、それに伴って交通渋滞が顕在化したのもこの頃だった。当時の仙台市には路面電車の仙台市電があったが、道路交通事情の悪化で自動車が市電の軌道内に侵入することが頻発するようになった。これは元々禁止されていたことだったが、1966年(昭和41年)に認められるようになり、これによって市電の定時運行はより困難なものとなった。路線バスも含めて、後の仙台市交通計画委員会の報告書は、こうした状況を都市機能の麻痺と表現している。仙台市において都市計画道路が計画されたのもこの頃である。
こうした事情を背景に、1963年(昭和38年)に設置された仙台市交通対策委員会は地下鉄を考えるようになり、1967年(昭和42年)に路面交通の代替として地下鉄を検討すべきであると報告した。また当時の仙台市長島野武は、1969年(昭和44年)に設置された仙台市交通計画委員会に対して、将来を見据えた交通体系として「大量高速輸送機関」の整備を諮問した。仙台市交通計画委員会では地下鉄案が有力視されたほか、地下鉄への市電や国鉄貨物列車の乗り入れ、宮城県北部の古川市(現在の大崎市)までの鉄道路線建設、さらにはモノレール案も出された。仙台市交通計画委員会は検討を重ね、1972年(昭和57年)に全7路線、総延長45.5キロメートルに及ぶ地下鉄網を1985年(昭和60年)を目標に整備すべきであるという報告を提出した。この地下鉄網計画では以下のような路線が想定された。
「北仙台線」および「長町線」は現在の仙台市地下鉄南北線の八乙女 - 長町南に相当するが、台原駅付近から当時の国道4号(現在の宮城県道22号仙台泉線)を北上する想定であった。また、北仙台線の七北田(八乙女)に「七北田線」が接続して北方向に、瓦山(台原)に「鶴ヶ谷線」が接続して東方向に、鍋田(長町南)に「名取線」および「茂庭線」が接続して富沢から南および西方向に分かれる計画である。さらに、仙台駅では仙石線を西に延長するように「川内線」が接続し、北部の郊外ニュータウン同士を横方向に繋ぐ計画だった。これらの中でも、北仙台線と長町線が早期に建設されるべき路線であるとされた。他方、既存の仙石線が大量高速輸送機関の一つとして位置づけられ、二重投資を避けるために仙台駅から東方向への地下鉄は計画されず、仙石線を高度利用化する方針が示された。
この報告は車両などにも言及している。15メートル級車両2両で1編成を構成し、地下区間においては第三軌条方式、地上区間においては架空電車線方式という二つの集電方式を切り替えて併用することが望ましいと考えられていた。また、国鉄線との直通運転も検討すべき課題であるとされ、そのために国鉄と同じ軌間1067ミリメートルの線路で地下鉄を建設すべきであるという方針が示された。国鉄線の中では具体的な直通先として仙石線が名指しされた。列車の運転方式としては自動列車運転装置が挙げられた。また、この報告ではバスに加えて市電も地下鉄に対する二次交通に位置づけられていた。しかし、仙台市は1973年(昭和48年)に地下鉄を今後の市内における主要交通と位置づける一方で、市電の廃止を決定し、1976年(昭和51年)3月末にこれを廃止する。
仙台市の地下鉄計画には宮城県もいくつか提言を行っていた。宮城県は1972年度(昭和47年度)に仙台都市圏を対象にした(第1回)総合都市交通体系調査を実施し、翌1973年度(昭和48年度)から1974年度(昭和49年度)にかけて都市圏レベルでの総合都市交通計画を策定した。この計画における公共交通機関計画では大量高速輸送機関(マス・ラピッド・トランジット、MRT)についても言及し、1980年(昭和55年)には「南北線」、1990年(昭和65年)には「南北線+東西線」、さらに将来的には「南北線+東西線+環状線」のマス・ラピッド・トランジット網を整備すべきと提案した。また、後の1982年度(昭和57年度)に宮城県は第2回の総合都市交通体系調査を実施し、翌1983年度(昭和58年度)から1984年度(昭和59年度)にかけて都市圏レベルでの新たな総合都市交通計画を策定した。この計画における公共交通機関計画では、1995年(昭和70年)には「南北線+東西線+南西線+北西線」、2005年(昭和80年)には「南北線+東西線+南西線+北西線+南小泉方向+環状方向」のマス・ラピッド・トランジット網を整備すべきとを提案した。
1972年(昭和47年)の仙台市交通計画委員会の報告を受けて、仙台市は「仙台市高速鉄道建設準備事務局」を立ち上げ、地下鉄の建設に本腰で取り組むことになった。しかし、地下鉄の建設には多額の費用が必要であり、また経路の選定や需要の算定といった課題もあり、宮城県や関係官庁との調整に多くの時間を必要とした。その中でも、一番の問題が仙台市の人口だった。当時、運輸省は地下鉄の建設の条件として、人口100万人以上の政令指定都市を基準に考えていた。当時の仙台市の人口はこれに遠く及ばなかった。それでも、仙台市は鉄道網が未整備であることや悪化した道路交通の根本的解決が難しいことを理由に、地下鉄の実現を国に働き掛けた。
1975年(昭和50年)、運輸省仙台陸運局の仙台地方陸上交通審議会において、泉市(現在の仙台市泉区)七北田周辺から仙台駅付近を経て長町周辺に至る「地下方式の高速鉄道」の整備を急ぐべきであるという答申が行われた。これは、事実上、国レベルの認知を意味した。この答申を受けて、仙台市は宮城県や泉市と調整を行い、富沢から七北田までの区間を先に開通させ、その後に北側へ路線を延ばすことを泉市に内約して了承を得た。1978年(昭和53年)に仙台市議会は地下鉄の建設を満場一致で可決し、この年に仙台市は地方鉄道事業の免許申請を行った。免許は1980年(昭和55年)5月30日に交付され、1981年(昭和56年)に狭軌で架空電車線方式の南北線の建設工事が始まった。地上区間や山岳トンネル区間の多い区間の工事は日本鉄道建設公団(現在の鉄道建設・運輸施設整備支援機構)に委託された。これは一時的な地下鉄建設のために仙台市が人員補充を避けるための方策であったが、公団も上越新幹線で発展させたNATM工法を応用するなど、経済的な路線建築が実現した。
地下鉄の建設に全く問題がないわけではなかった。建設地の文化財の事前発掘作業や、地質に由来する技術的な問題から工事が遅れた。また、工事業者の談合疑惑が持ち上がった。この問題は、談合に関わったと見られた一部の業者が入札から外されたことでうやむやに終わったが、工事に遅れを発生させた。当初の計画では、南北線は1985年(昭和60年)に開業予定だったが、この年には正式な駅名の決定と、一部の車両の落成および試運転が行われた。
そして、1987年(昭和62年)7月15日、南北線富沢駅 - 八乙女駅間の全線13.6キロメートルが開通した。開通時には、1000系電車19編成が用意され、平日160往復、その他の日に142往復の列車が運転された。総工費は約2300億円だった。八乙女駅ではバスとの乗り継ぎ施設が併設され、その他の駅でもバスとの乗り継ぎ運賃が設定された。開通時には黒松駅と八乙女駅が泉市内だったが、1988年(昭和63年)3月1日に泉市が仙台市に編入合併されたため全線が仙台市内となった。路線の北への延伸はこの年に認可された。翌年に工事が始まり、1992年(平成4年)7月15日には97億円をかけて八乙女駅から泉中央駅へ1駅延伸し、総延長が14.8キロメートルとなった。過去の計画における「七北田線」ではかつて七北田宿のあった市名坂を経由する想定であったが、南北線はその西側に新たに造成された泉中央副都心に向かってそのまま北に延伸した。同年度に、泉区泉ヶ丘まで延伸するかどうかの調査が行われたが、延伸しないことで決着した(詳細は「富谷市#鉄軌道構想」を参照)。
こうして開業した仙台市の地下鉄だったが、経営的には苦しい状況に置かれた。工費が当初の見込みより150億円超過していた。また、1日当たりの平均利用者数は23万人という予測が立てられていたが、実際の1日当たりの平均利用者数は約11万人だった。運賃が割高であり「日本で一番高い地下鉄」とも言われた。バスとの乗り継ぎ割引は経営の悪化を懸念した運輸省の指導で低く抑えられ、見込みどおりの利用には至らなかった。こうしたことから、仙台市は収支計画の見直しを余儀なくされた。一方、南北線沿線の道路の交通量の減少という効果も見られた。
全7路線、総延長45.5キロメートルという計画から出発した仙台市の地下鉄計画だったが、南北線開業以後は東西方向への交通機関の検討だけが続けられた。1987年(昭和62年)には西公園と茂庭台を結ぶモノレール南西線が内定し、公表された。これと共に、仙石線を西公園まで延ばして南西線と接続させる案が有力視された。また、南西線を愛子まで延伸させる構想も生まれたが、結局、これらの計画は1991年(平成3年)に断念された。その後、仙台市は地下鉄東西線を計画し、建設を決めた。2015年(平成27年)12月6日に、東西線が八木山動物公園駅 - 荒井駅間13.9キロメートルで開業した。東西線はリニアモーターを採用、トンネル径の小さい「ミニ地下鉄」方式で建設された。東西線の仙台駅より西側の区間は、過去の計画の「川内線」および「茂庭線」を踏襲したモノレール南西線や仙石線との直通案などの構想を経て、費用対効果が高い区間に短縮された。
開業から2007年度までの単年度純損益は赤字が続いていたが、2008年度から黒字に転換。2011年度は東日本大震災の影響によって特別損失を計上したが、24億7827万円の黒字を確保。2015年度は、18億4472万円の黒字。累積損益は877億2353万円の赤字まで圧縮した。
2015年12月に開業した東西線の影響が、通期ではじめて現れる2016年度は、同線の営業収益に比べて、減価償却費が膨張したことから、地下鉄全体で29億5232万円の赤字に転落。累積損益は、906億7586万円の赤字へと悪化。2017年度は、23億4091万円の赤字となり、累積損益は、924億3252万円の赤字へと悪化、2018年度も単年度の赤字幅は改善傾向だったが、累積欠損額は増加する傾向が続いた。
2019年度は、過年度損益の修正として、19億87百万円の特別損失を計上したことにより、単年度の収支としては前年の赤字幅の倍以上となる45億3685万円の赤字を記録した。一方、その他未処分利益剰余金変動額121億4千9百万円を計上したことで、累積欠損額は867億1795万円に抑えられた。
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"text": "全7路線、総延長45.5キロメートルという計画から出発した仙台市の地下鉄計画だったが、南北線開業以後は東西方向への交通機関の検討だけが続けられた。1987年(昭和62年)には西公園と茂庭台を結ぶモノレール南西線が内定し、公表された。これと共に、仙石線を西公園まで延ばして南西線と接続させる案が有力視された。また、南西線を愛子まで延伸させる構想も生まれたが、結局、これらの計画は1991年(平成3年)に断念された。その後、仙台市は地下鉄東西線を計画し、建設を決めた。2015年(平成27年)12月6日に、東西線が八木山動物公園駅 - 荒井駅間13.9キロメートルで開業した。東西線はリニアモーターを採用、トンネル径の小さい「ミニ地下鉄」方式で建設された。東西線の仙台駅より西側の区間は、過去の計画の「川内線」および「茂庭線」を踏襲したモノレール南西線や仙石線との直通案などの構想を経て、費用対効果が高い区間に短縮された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "開業から2007年度までの単年度純損益は赤字が続いていたが、2008年度から黒字に転換。2011年度は東日本大震災の影響によって特別損失を計上したが、24億7827万円の黒字を確保。2015年度は、18億4472万円の黒字。累積損益は877億2353万円の赤字まで圧縮した。",
"title": "経営状況"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2015年12月に開業した東西線の影響が、通期ではじめて現れる2016年度は、同線の営業収益に比べて、減価償却費が膨張したことから、地下鉄全体で29億5232万円の赤字に転落。累積損益は、906億7586万円の赤字へと悪化。2017年度は、23億4091万円の赤字となり、累積損益は、924億3252万円の赤字へと悪化、2018年度も単年度の赤字幅は改善傾向だったが、累積欠損額は増加する傾向が続いた。",
"title": "経営状況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2019年度は、過年度損益の修正として、19億87百万円の特別損失を計上したことにより、単年度の収支としては前年の赤字幅の倍以上となる45億3685万円の赤字を記録した。一方、その他未処分利益剰余金変動額121億4千9百万円を計上したことで、累積欠損額は867億1795万円に抑えられた。",
"title": "経営状況"
}
] |
仙台市地下鉄(せんだいしちかてつ)は、仙台市交通局高速電車部が運営する地下鉄である。泉中央駅と富沢駅を結ぶ南北線と、八木山動物公園駅と荒井駅を結ぶ東西線の2路線がある。ハウスカラーはローヤルブルーとしている。
|
{{Infobox 公共交通機関
|名称=仙台市地下鉄
|ロゴ=Sendai City Subway Logo.svg
|ロゴサイズ=
|画像=
|画像サイズ=
|画像説明=
|国={{JPN}}
|所在地=[[宮城県]][[仙台市]]
|運行範囲=
|種類=[[地下鉄]]
|開業={{Start date and age|1987|07|15}}(南北線)<br />{{Start date and age|2015|12|06}}(東西線)
|廃止=
|所有者=[[仙台市交通局]]
|運営者=仙台市交通局
|ウェブサイト=[https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/ 仙台市交通局地下鉄公式ウェブサイト]
|総延長距離=28.7 [[キロメートル|km]]
|路線数=2路線
|駅数=南北線:17[[鉄道駅|駅]]<br />東西線:13駅
|停留所数=
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|1日利用者数=
|保有車両数=
|軌間=南北線:1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]])<br />東西線:1,435 mm ([[標準軌]])
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最高速度=75 [[キロメートル毎時|km/h]](南北線)<br />70 km/h(東西線)
|通行方向=左側通行
|備考=
|路線図=SendaiSubwayRouteMap.svg
| 路線図説明 = 仙台市地下鉄の路線図。
}}
'''仙台市地下鉄'''(せんだいしちかてつ)は、[[仙台市交通局]]高速電車部が運営する[[地下鉄]]である。[[泉中央駅]]と[[富沢駅]]を結ぶ[[仙台市地下鉄南北線|南北線]]と、[[八木山動物公園駅]]と[[荒井駅 (宮城県)|荒井駅]]を結ぶ[[仙台市地下鉄東西線|東西線]]の2路線がある。ハウスカラーは[[紺色|ローヤルブルー]]としている<ref> {{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/logo.html |title=仙台市交通局 ロゴ紹介 |publisher=仙台市交通局 |accessdate=2021-6-11}}</ref>。
== 路線 ==
{| class="wikitable" style="font-size:85%"
!colspan="5"|営業
!colspan="2"|事業
|-
!色
!style="width:2em;"|記号
!style="width:4em;"|路線名
!区間
!style="width:4em;"|[[営業キロ]]
!事業名<ref name="mlit">{{XLSlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000167970.xls (2)都市高速鉄道 都市別内訳表 平成22年3月31日現在]}} - [[国土交通省]]</ref>
!事業延長<ref name="mlit"/><ref>{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/toshi/toshikeikaku/shingikai/pdf/gijiroku/dai189kai956gou.pdf 仙塩広域都市計画 都市高速鉄道の変更(仙台市高速鉄道東西線)【仙台市決定】]}}(仙台市)</ref>
|-
!style="background:#317C66"|
|style="text-align:center"|{{駅番号c|#317C66|N}}
|[[仙台市地下鉄南北線|南北線]]
|[[泉中央駅]] (N01) - [[富沢駅]] (N17)
|style="text-align:right;"|14.8km
|nowrap|[[仙石線#昭和後期から平成まで|仙塩広域都市計画<br />都市高速鉄道]]第1号<br />仙台市高速鉄道南北線
|nowrap|15.56km<br />(地表式 {{0}}3.91km)<br />(地下式 11.65km)
|-
!style="background:#00B1DD"|
|style="text-align:center"|{{駅番号c|#00B1DD|T}}
|[[仙台市地下鉄東西線|東西線]]
|[[八木山動物公園駅]] (T01) - [[荒井駅 (宮城県)|荒井駅]] (T13)
|style="text-align:right;"|13.9km
|仙塩広域都市計画<br />都市高速鉄道第4号<br />仙台市高速鉄道東西線
|14.38km<br />(地表式 {{0}}0.57km)<br />(地下式 13.81km)
|}
== 車両 ==
; 南北線
:* [[仙台市交通局1000系電車|1000N系]]:1000系の更新車。2013年までに全車両更新。
<gallery widths="200">
Sendai_subway_1014_20081021.jpg|1000系
</gallery>
; 東西線
:* [[仙台市交通局2000系電車|2000系]]
<gallery widths="200">
File:Sendai subway 2000 series.JPG|2000系
</gallery>
いずれも4両編成で運行されているが、各駅のホームは南北線では2両、東西線では1両<!--17m。仙台駅を除いて壁で遮られており利用客は入れない。-->の追加ができる長さ([[有効長]])を持つ<ref>{{Cite news|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201608/20160816_13031.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160826085318/https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201608/20160816_13031.html|title=<仙台東西線>将来の追加ホーム見に行こう|newspaper=河北新報|date=2016-08-16|accessdate=2021-03-09|archivedate=2016-08-26}}</ref>。
=== 導入予定車両 ===
* [[仙台市交通局3000系電車|3000系]]:開業から30年以上が経過し耐用年数を迎える南北線1000系の置き換え車両として[[2024年]](令和6年)秋から導入を開始し<ref>{{Cite web|和書|url=https://kahoku.news/articles/20230518khn000076.html |title= 地下鉄南北線、新型車両11月から走行試験、来秋営業運転へ 仙台市交通局 |access-date=2023-05-19 |publisher=河北新報オンライン |date=2023-05-19}}</ref>、[[2030年]]度までに現行より1編成増となる最大22編成の導入を予定<ref name="kahoku20200106">{{Cite news|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202001/20200106_13022.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200106065433/https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202001/20200106_13022.html|title=新車両は無塗装 仙台市地下鉄南北線に24年度登場|newspaper=河北新報|date=2020-01-06|accessdate=2021-03-09|archivedate=2020-01-06}}</ref><ref name="kahoku20210219">{{Cite news|url=https://kahoku.news/articles/20210219khn000029.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210309043201/https://kahoku.news/articles/20210219khn000029.html|title=南北線の新車両、どれがいいい? 市民投票で3案から決定へ 仙台市|newspaper=河北新報|date=2021-02-19|accessdate=2021-03-09|archivedate=2021-03-09}}</ref>。2020年3月には[[日立製作所]]と製造契約を締結<ref name="kahoku20210219" />、[[2021年]][[3月9日]]から同年[[3月29日]]まで市民や利用者を対象にした車両のデザイン投票が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/inquiry/namboku_newdesign/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210322085900/https://www.kotsu.city.sendai.jp/inquiry/namboku_newdesign/index.html|title=南北線新型車両のデザイン投票を行います!|archivedate=2021-03-22|accessdate=2021-03-22|publisher=仙台市交通局|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://kahoku.news/articles/20210309khn000025.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210309045229/https://kahoku.news/articles/20210309khn000025.html|title=仙台市地下鉄南北線の新デザイン きょう投票開始 5月に結果発表|newspaper=河北新報|date=2021-03-09|accessdate=2021-03-09|archivedate=2021-03-09}}</ref>。その結果同年[[5月18日]]に「南北線車両からの進化」をコンセプトとしたA案に決定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/namboku_newdesign_kekka.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210522113207/https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/namboku_newdesign_kekka.html|title=仙台市地下鉄南北線新型車両デザイン投票結果|archivedate=2021-05-22|accessdate=2021-05-22|publisher=仙台市交通局|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://kahoku.news/articles/20210518khn000015.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210522113700/https://kahoku.news/articles/20210518khn000015.html|title=選ばれたのはこれ 地下鉄南北線の新デザイン、仙台市が発表|newspaper=河北新報|date=2021-05-18|accessdate=2021-05-22|archivedate=2021-05-22}}</ref>。
== 案内放送 ==
; [[車内放送]]
:* [[森谷真弓]](日本語放送)<ref>{{Cite web|和書|url=https://profile.ameba.jp/ameba/happymayulife/|publisher= 森谷真弓 mayumimoriya|title =感動ヴォイスナレーター・セラピストのプロフィール]|access-date=2022-01-04}}</ref>
:* [[クリステル・チアリ]](英語放送)<ref>{{cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20190302/k00/00m/040/009000c|title =電車の英語アナウンス、実はあの人…NHK「英語であそぼ」出演|newspaper=毎日新聞|date=2019-03-03|access-date=2022-01-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aoni.co.jp/search/christelle-ciari.html|title =クリスタル・チアリ|publisher=青二プロダクション|access-date=2022-01-04}}</ref>
; その他
:* [[山寺宏一]] - 映画「[[シュガー・ラッシュ:オンライン]]」の公開にあたり、2018年12月21日から2019年1月8日までの期間限定で、車内のマナー啓発放送を担当した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.kotsu.city.sendai.jp/otanoshimi/event/sugarrush-ol.html |title = ~Disney映画『シュガー・ラッシュ:オンライン』公開記念~
『シュガー・ラッシュ:オンライン』スタンプラリーを開催します!! |publisher=仙台市交通局|access-date=2023-05-19}}</ref>。
:* [[吉川晃司]] - イメージアップ事業の一環として、2019年3月16日より期間限定で、車内および駅構内のマナー啓発放送を担当した<ref> {{ウェブアーカイブ
|title=<吉川晃司さん>車内放送に登場 仙台市地下鉄・バス 仙台弁を交え乗車マナー呼び掛け
|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201904/20190427_13037.html
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190427133836/https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201904/20190427_13037.html
|archiveservice=[[ウェイバックマシン]]
|archivedate=2019-04-27
|access-date=2022-01-04
}}</ref>。
:* [[佐藤健 (俳優)|佐藤健]]、[[神木隆之介]] - 仙台市内で開催されたイベント「仙台謎解きウォーク 街に願いを」の一環として、2023年2月15日から4月30日までの期間限定で、車内および駅構内のマナー啓発放送を担当した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/machininegaiwo.html|title =~市内中心部謎解きイベントとのタイアップ~ 地下鉄車内などで佐藤健さんと神木隆之介さんによるアナウンスを放送します!|publisher=仙台市交通局|access-date=2023-03-24}}</ref>。
== 運賃 ==
[[File:SendaiSubway200yenZone.svg|thumb|260 px|right|ゾーン運賃(210円均一運賃)エリアの範囲]]
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。ゾーン運賃・対キロ区間制併用。2019年(令和元年)10月1日現在<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/fare/kaitei/kaitei/r010906_unchinkaitei.html |title=令和元年10月1日から市バス・地下鉄の運賃を改定します |publisher=仙台市交通局 |accessdate=2021-07-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=令和元年10月1日運賃改定 比較表(単位:円)|url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/fare/kaitei/kaitei/pdf/%E5%88%A5%E7%B4%99%E3%80%80%E4%BB%A4%E5%92%8C%E5%85%83%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%9C%88%EF%BC%91%E6%97%A5%E9%81%8B%E8%B3%83%E6%94%B9%E5%AE%9A%20%E6%AF%94%E8%BC%83%E8%A1%A8.pdf|publisher=仙台市交通局|date=2019-10-02|accessdate=2019-10-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191002143732/https://www.kotsu.city.sendai.jp/fare/kaitei/kaitei/pdf/%E5%88%A5%E7%B4%99%E3%80%80%E4%BB%A4%E5%92%8C%E5%85%83%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%9C%88%EF%BC%91%E6%97%A5%E9%81%8B%E8%B3%83%E6%94%B9%E5%AE%9A%20%E6%AF%94%E8%BC%83%E8%A1%A8.pdf |archivedate=2019-10-02}}</ref>。
{| class="wikitable"
|-
!区間
!キロ程(km)!!運賃(円)
|-
|1区
| - 3.0(ゾーン区間含む)
| style="text-align:center;" |210
|-
|2区
|3.1 - 6.0
|style="text-align:center;"|250
|-
|3区
|6.1 - 9.0
| style="text-align:center;" |310
|-
|4区
|9.1 - 12.0
| style="text-align:center;" |340
|-
|5区
|12.1 -
| style="text-align:center;" |370
|}
* 仙台駅から3駅間(北四番丁 - 河原町、国際センター - 薬師堂)は[[運賃制度#ゾーン制|ゾーン運賃制]]が導入されており、ゾーン区間内のどの2駅間で乗り降りしても運賃は210円均一。
* かつては身体障害者・知的障害者・被爆者(手帳所持者)とその介護者、精神障害者は仙台市又は宮城県が発行した手帳のみ割引対象となっていたが2021年(令和3年)4月より日本国内の都道府県、政令指定都市が発行する障害者手帳を所持する者は半額(大人は小児運賃適用、小児は駅係員に申し出のうえで購入。)の対応となった。
運賃、所要時間については、[http://www.kotsu.city.sendai.jp/fare/index.html 公式サイト]も参照。
=== 乗車券 ===
通常の[[乗車券]](切符)のほか、以下の乗車券がある。
* [[icsca]](イクスカ)
** 2014年12月6日より地下鉄南北線に導入された[[乗車カード|IC乗車券]]。2015年12月6日からは地下鉄東西線・[[仙台市営バス]]・[[宮城交通]]でも利用できる。2016年3月26日より、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[Suica]]と相互利用可能カードとの相互利用開始<ref>{{PDFlink|[https://www.kotsu.city.sendai.jp/iccard/news/suica/pdf/140213_goui.pdf 「イクスカ」と「Suica」の仙台圏における相互利用サービスを実施することに合意しました]}}(仙台市交通局・宮城交通・東日本旅客鉄道 共同リリース)</ref><ref group="注">福祉割引用[[icsca]]と[[ジェイアールバス東北|JRバス東北]]は相互利用対象外。また、icscaは仙台Suicaエリアでのみ利用可能。</ref>。
* [[一日乗車券]]
** 地下鉄一日乗車券(大人840円、小児420円。)
** 地下鉄土・日・休日一日乗車券(大人620円、小児310円。土・日・休日のみ有効。)<ref group="注">[[2008年]]3月までは、「地下鉄日・休日一日乗車券」で、祝祭日等にあたらない土曜日の使用ができなかったが、2008年4月より、土曜日の使用も可能となった。旧来の「地下鉄日・休日一日乗車券」と書かれたカードの土曜日利用も可能。</ref>
** [[るーぷる仙台]]・地下鉄共通一日乗車券(大人920円、小児460円。るーぷる仙台にも乗車可能。)
* [[仙台まるごとパス]]
** 仙台周辺の鉄道・バスが自由に乗り降りできる(宮城交通は一部路線を除いて使用できない)。
* [[学都仙台フリーパス|学都仙台 市バス+地下鉄フリーパス]]
* [[定期乗車券]]
** 地下鉄線内のみのほか、JR東日本、[[仙台空港鉄道]]、仙台市営バス、宮城交通バスとの連絡定期券がある。
=== 備考 ===
* 現金で購入した乗車券に限り、[[自動券売機]]に挿入すると払戻しされる。
* チケットフリー式
** 切符を自動改札機に通すことによって、初めて乗車券の表面に駅名が印字される。そのため、いずれかの駅で乗車券を購入すれば、その乗車券の有効期間内に限り、どの駅の改札からでも入場できる。例えば、宮城野通駅で乗車券を購入し、その乗車券で地下鉄仙台駅で入場することなども可能である。
** どの駅の改札からでも入場できるため、2枚同時に購入すれば往復乗車券としての利用もできる。実際、[[仙台スタジアム]]で試合が行われる日や[[定禅寺通り]]でイベントが行われる日など、券売機の混雑が予想される日には、「きっぷは2枚お買い求め下さい」という案内がされることもある。
** 地下鉄の普通乗車券として導入しているのは、現時点では日本では仙台市地下鉄のみである<ref group="注">回数乗車券であれば、東京メトロ・都営地下鉄などの例がある。</ref>。
* バス・地下鉄で使用できる[[プリペイドカード|プリペイド式乗車カード]]として、[[スキップカード]]と[[ジョイカード]]が発行されていたが、icscaの導入にともない、2015年12月5日をもって販売を終了し、2016年10月31日をもって利用を終了した。詳細は各記事を参照のこと。
== 歴史 ==
仙台市において地下鉄が検討され始めたのは1960年代からである<ref name="仙台市史9-193">『仙台市史』通史編9(現代2)193頁。</ref>。日本各地の都市部では昭和30年代以降に人口の増大と市街地の拡大が進んだ。仙台も同様で、それに伴って交通渋滞が顕在化したのもこの頃だった<ref name="仙台市史9-144-145">『仙台市史』通史編9(現代2)144-145頁。</ref>。当時の仙台市には[[路面電車]]の[[仙台市電]]があったが、道路交通事情の悪化で自動車が市電の軌道内に侵入することが頻発するようになった。これは元々禁止されていたことだったが、[[1966年]](昭和41年)に認められるようになり、これによって市電の定時運行はより困難なものとなった<ref name="仙台市史9-186-187">『仙台市史』通史編9(現代2)186-187頁。</ref>。路線バス<ref group="注">1971年(昭和46年)7月時点で仙台駅前を発着するバスの本数は、[[仙台市営バス]]4,373本、[[宮城交通]]1,518本、[[国鉄バス]]40本、[[山形交通]]20本、[[東日本急行]]と[[東北急行]]が合計16本あった。</ref>も含めて、後の仙台市交通計画委員会の報告書は、こうした状況を都市機能の麻痺と表現している<ref name="仙台市交通計画委員会総合委員会報告">「仙台市交通計画委員会総合委員会報告(1972年2月1日)」『仙台市史』資料編5 近代現代1 交通建設252-257頁。</ref>。仙台市において[[都市計画道路]]<ref group="注">仙台市は1966年(昭和41年)に2本の環状道路と都心部と郊外を結ぶ放射状道路を配置した都市計画道路網を策定した。これは仙台市の道路行政の基本となり、後に[[3環状12放射状線]]と呼ばれる道路計画に繋がる。</ref>が計画されたのもこの頃である<ref name="仙台市史9-144-145"/>。
こうした事情を背景に、[[1963年]](昭和38年)に設置された仙台市交通対策委員会は地下鉄を考えるようになり、[[1967年]](昭和42年)に路面交通の代替として地下鉄を検討すべきであると報告した<ref name="仙台市史9-193"/>。また当時の仙台市長[[島野武]]は、[[1969年]](昭和44年)に設置された仙台市交通計画委員会に対して、将来を見据えた交通体系として「大量高速輸送機関」の整備を諮問した。仙台市交通計画委員会では地下鉄案が有力視されたほか、地下鉄への市電や国鉄貨物列車の乗り入れ、宮城県北部の[[古川市]](現在の[[大崎市]])までの鉄道路線建設、さらにはモノレール案も出された<ref>『仙台市史』通史編9(現代2)193-194頁。</ref>。仙台市交通計画委員会は検討を重ね、[[1972年]](昭和57年)に全7路線、総延長45.5キロメートルに及ぶ地下鉄網を[[1985年]](昭和60年)を目標に整備すべきであるという報告を提出した<ref name="仙台市史9-194">『仙台市史』通史編9(現代2)194頁。</ref>。この地下鉄網計画<ref>「これからの地方都市交通」(運輸省運輸経済研究センター。1974年)</ref>では以下のような路線が想定された<ref>「鉄道・軌道プロジェクトの事例研究 21 仙台市の高速鉄道整備の歴史」(佐藤信之著。鉄道ジャーナル第422号(2003年8月号)P.140-143)</ref>。
[[ファイル:仙台市地下鉄構想路線図.jpg|440x440px|仙台市地下鉄構想路線図|サムネイル]]
{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:90%;"
|+1972年(昭和47年)仙台市交通計画委員会による路線計画(7路線合計:45.52km)<ref name="SendaiArchives5-1">『仙台市史 資料編5 近代現代1 交通建設』(発行:仙台市、編集:仙台市史編さん委員会、発行日:1999年3月31日) p.246 - p.262</ref><ref name="SendaiHistory9-2">『仙台市史 通史編9 現代2』(発行:仙台市、編集:仙台市史編さん委員会、発行日:2013年3月31日) p.186 - p.198</ref>
!番号
!路線名
!区間
!主な経由地
!延長キロ
|-
|1
|style="text-align:left;"|'''[[北仙台]]線'''
|style="text-align:left;"|[[仙台駅|仙台駅前]] - [[八乙女駅|七北田]]
|[[勾当台公園駅|市役所前]] - [[北仙台駅|北仙台駅前]] - [[台原駅|瓦山]] - [[黒松駅 (宮城県)|黒松団地]]
|7.34km
|-
|2
|style="text-align:left;"|'''[[長町 (宮城県)|長町]]線'''
|style="text-align:left;"|仙台駅前 - [[長町南駅|鍋田]]
|[[五橋駅|五ツ橋]] - [[河原町駅 (宮城県)|河原町]] - [[長町一丁目駅|広瀬橋]]
|4.98km
|-
|3
|style="text-align:left;"|'''川内線'''
|style="text-align:left;"|仙台駅前 - 泉ヶ丘<ref group="注">現・仙台市青葉区滝道([[1977年]][[住居表示]]実施)に造成された「泉ヶ丘団地」付近を指す。</ref>
|[[大町西公園駅|西公園]] - [[川内駅 (宮城県)|川内亀岡]] - [[大崎八幡宮|八幡町]]
|8.09km
|-
|4
|style="text-align:left;"|'''[[七北田村|七北田]]線'''
|style="text-align:left;"|七北田 - 桂島
|市名坂 - 七北田 - 将監団地
|4.76km
|-
|5
|style="text-align:left;"|'''[[鶴ケ谷 (仙台市)|鶴ケ谷]]線'''
|style="text-align:left;"|瓦山 - 鶴ケ谷
|[[旭ヶ丘駅 (宮城県)|旭ヶ丘]] - 鶴ケ谷
|3.67km
|-
|6
|style="text-align:left;"|'''[[茂庭台団地|茂庭]]線'''
|style="text-align:left;"|鍋田 - 茂庭
|西多賀 - 鈎取 - 旗立
|8.82km
|-
|7
|style="text-align:left;"|'''[[名取市|名取]]線'''
|style="text-align:left;"|鍋田 - 小泉
|大野田 - 柳生 - 名取ニュータウン
|7.90km
|}
:※ 鶴ケ谷と茂庭は、仙台市による[[新住宅市街地開発事業]]施行地。
「北仙台線」および「長町線」は現在の[[仙台市地下鉄南北線]]の八乙女 - 長町南に相当するが、[[台原駅]]付近から当時の国道4号(現在の[[宮城県道22号仙台泉線]]<ref group="注">[[都市計画道路]]3.3.28元寺小路七北田線。</ref>)を北上する想定であった。また、北仙台線の七北田(八乙女)に「七北田線」が接続して北方向に、瓦山(台原)に「鶴ヶ谷線」が接続して東方向に、鍋田(長町南)に「名取線」および「茂庭線」が接続して富沢から南および西方向に分かれる計画である。さらに、仙台駅では[[仙石線]]を西に延長するように「川内線」が接続し、北部の郊外ニュータウン同士を横方向に繋ぐ計画だった。これらの中でも、北仙台線と長町線が早期に建設されるべき路線であるとされた。他方、既存の仙石線が大量高速輸送機関の一つとして位置づけられ、二重投資を避けるために仙台駅から東方向への地下鉄は計画されず、仙石線を高度利用化する方針が示された<ref name="仙台市交通計画委員会総合委員会報告"/>。
この報告は車両などにも言及している。15メートル級車両2両で1編成を構成し、地下区間においては[[第三軌条方式]]、地上区間においては[[架空電車線方式]]という二つの[[集電方式]]を切り替えて併用することが望ましいと考えられていた。また、国鉄線との[[直通運転]]も検討すべき課題であるとされ、そのために国鉄と同じ軌間1067ミリメートルの線路で地下鉄を建設すべきであるという方針が示された。国鉄線の中では具体的な直通先として仙石線が名指しされた。列車の運転方式としては[[自動列車運転装置]]が挙げられた。また、この報告ではバスに加えて市電も地下鉄に対する二次交通に位置づけられていた<ref name="仙台市交通計画委員会総合委員会報告"/>。しかし、仙台市は[[1973年]](昭和48年)に地下鉄を今後の市内における主要交通と位置づける一方で、市電の廃止を決定し、[[1976年]](昭和51年)3月末にこれを廃止する<ref name="仙台市史9-186-187"/>。
仙台市の地下鉄計画には宮城県もいくつか提言を行っていた。宮城県は[[1972年]]度(昭和47年度)に[[仙台都市圏]]を対象にした(第1回)総合都市交通体系調査を実施し、翌[[1973年]]度(昭和48年度)から[[1974年]]度(昭和49年度)にかけて都市圏レベルでの総合都市交通計画を策定した<ref name="SendaiMetroTraffic">{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/44671.pdf 1.新たな総合都市交通計画の検討の視点について]}}(宮城県)</ref>。この計画における[[公共交通機関]]計画では大量高速輸送機関([[マス・ラピッド・トランジット]]、MRT)についても言及し、[[1980年]](昭和55年)には「南北線」、[[1990年]](昭和65年<ref group="注" name="Showa">当時の書類上の表記。</ref>)には「南北線+東西線」、さらに将来的には「南北線+東西線+環状線」のマス・ラピッド・トランジット網を整備すべきと提案した<ref name="SendaiMetroTraffic"/>。また、後の[[1982年]]度(昭和57年度)に宮城県は第2回の総合都市交通体系調査を実施し、翌[[1983年]]度(昭和58年度)から[[1984年]]度(昭和59年度)にかけて都市圏レベルでの新たな総合都市交通計画を策定した<ref name="SendaiMetroTraffic"/>。この計画における公共交通機関計画では、[[1995年]](昭和70年<ref group="注" name="Showa"/>)には「南北線+東西線+南西線+北西線」、[[2005年]](昭和80年<ref group="注" name="Showa"/>)には「南北線+東西線+南西線+北西線+南小泉方向+環状方向」のマス・ラピッド・トランジット網を整備すべきとを提案した<ref name="SendaiMetroTraffic"/>。
1972年(昭和47年)の仙台市交通計画委員会の報告を受けて、仙台市は「仙台市高速鉄道建設準備事務局」を立ち上げ、地下鉄の建設に本腰で取り組むことになった。しかし、地下鉄の建設には多額の費用が必要であり、また経路の選定や需要の算定といった課題もあり、宮城県や関係官庁との調整に多くの時間を必要とした。その中でも、一番の問題が仙台市の人口だった。当時、[[運輸省]]は地下鉄の建設の条件として、人口100万人以上の[[政令指定都市]]を基準に考えていた。当時の仙台市の人口はこれに遠く及ばなかった。それでも、仙台市は鉄道網が未整備であることや悪化した道路交通の根本的解決が難しいことを理由に、地下鉄の実現を国に働き掛けた<ref name="仙台市史9-194"/>。
{| class="wikitable" style="float: right; font-size:90%;"
|+[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]人口(各年[[10月1日]]現在)<ref>[https://www.e-stat.go.jp/stat-search?page=1&toukei=00200521 e-Stat]([[総務省]][[統計局]])</ref><ref>[https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/toukei/suikei-top.html 統計データ/宮城県推計人口(月報)](宮城県)</ref><br />※泉区は仙台市の内数
|-
!年
![[仙台市]]
!現・[[泉区 (仙台市)|泉区]]域
|-
|[[1955年]]
|{{0}}37万5844人
|{{0}}1万3878人(泉村)
|-
|[[1960年]]
|{{0}}42万5272人
|{{0}}1万3652人(泉町)
|-
|[[1965年]]
|{{0}}48万0925人
|{{0}}1万9061人(泉町)
|-
|[[1970年]]
|{{0}}54万5065人
|{{0}}3万3190人(泉町)
|-
|[[1975年]]
|{{0}}61万5473人
|{{0}}7万0087人([[泉市]])
|-
|[[1980年]]
|{{0}}66万4868人
|{{0}}9万3016人(泉市)
|-
|[[1985年]]
|{{0}}70万0254人
|12万4216人(泉市)
|-
|[[1990年]]
|{{0}}91万8398人
|bgcolor="silver"|15万6356人(泉区)
|-
|[[1995年]]
|{{0}}97万1297人
|bgcolor="silver"|18万2601人(泉区)
|-
|[[2000年]]
|100万8130人
|bgcolor="silver"|20万0429人(泉区)
|-
|[[2005年]]
|102万5098人
|bgcolor="silver"|20万8813人(泉区)
|-
|[[2010年]]
|104万5986人
|bgcolor="silver"|21万1183人(泉区)
|-
|[[2015年]]
|108万2159人
|bgcolor="silver"|21万6798人(泉区)
|}
[[1975年]](昭和50年)、運輸省仙台陸運局の仙台地方陸上交通審議会において、泉市(現在の仙台市[[泉区 (仙台市)|泉区]])七北田周辺から仙台駅付近を経て[[長町 (宮城県)|長町]]周辺に至る「地下方式の高速鉄道」の整備を急ぐべきであるという答申が行われた。これは、事実上、国レベルの認知を意味した<ref>『仙台市史』通史編9(現代2)194-195頁。</ref>。この答申を受けて、仙台市は宮城県や泉市と調整を行い、富沢から七北田までの区間を先に開通させ、その後に北側へ路線を延ばすことを泉市に内約して了承を得た。[[1978年]](昭和53年)に仙台市議会は地下鉄の建設を満場一致で可決し、この年に仙台市は地方鉄道事業の免許申請を行った。免許は[[1980年]](昭和55年)[[5月30日]]に交付され、[[1981年]](昭和56年)に[[狭軌]]で架空電車線方式の[[仙台市地下鉄南北線|南北線]]の建設工事が始まった<ref name="仙台市史9-195">『仙台市史』通史編9(現代2)195頁。</ref>。地上区間や山岳トンネル区間の多い区間の工事は[[日本鉄道建設公団]](現在の[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])に委託された。これは一時的な地下鉄建設のために仙台市が人員補充を避けるための方策であったが、公団も[[上越新幹線]]で発展させた[[新オーストリアトンネル工法|NATM工法]]を応用するなど、経済的な路線建築が実現した。
地下鉄の建設に全く問題がないわけではなかった。建設地の文化財の事前発掘作業や、地質に由来する技術的な問題から工事が遅れた。また、工事業者の談合疑惑が持ち上がった。この問題は、談合に関わったと見られた一部の業者が入札から外されたことでうやむやに終わったが、工事に遅れを発生させた<ref name="仙台市史9-195"/>。当初の計画では、南北線は1985年(昭和60年)に開業予定だったが、この年には正式な駅名の決定と、一部の車両の落成および試運転が行われた<ref name="仙台市史9-196">『仙台市史』通史編9(現代2)196頁。</ref>。
そして、[[1987年]](昭和62年)[[7月15日]]、南北線[[富沢駅]] - [[八乙女駅]]間の全線13.6キロメートルが開通した。開通時には、[[仙台市交通局1000系電車|1000系電車]]19編成が用意され、平日160往復、その他の日に142往復の列車が運転された。総工費は約2300億円だった<ref name="仙台市史9-196"/>。八乙女駅ではバスとの乗り継ぎ施設が併設され、その他の駅でもバスとの乗り継ぎ運賃が設定された。開通時には[[黒松駅 (宮城県)|黒松駅]]と八乙女駅が[[泉市]]内だったが、[[1988年]](昭和63年)[[3月1日]]に泉市が仙台市に編入合併されたため全線が仙台市内となった。路線の北への延伸はこの年に認可された。翌年に工事が始まり<ref name="仙台市史9-196"/>、[[1992年]](平成4年)[[7月15日]]には97億円をかけて<ref name="kahoku20160729">[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160729_11025.html <仙台南北線>延伸ラブコール 市困惑](河北新報 2016年7月29日)</ref>八乙女駅から[[泉中央駅]]へ1駅延伸し、総延長が14.8キロメートルとなった<ref name="仙台市史9-196"/>。過去の計画における「七北田線」ではかつて[[七北田宿]]のあった市名坂を経由する想定であったが、南北線はその西側に新たに造成された[[泉中央副都心]]に向かってそのまま北に延伸した。同年度に、泉区泉ヶ丘まで延伸するかどうかの調査が行われたが、延伸しないことで決着した(詳細は「[[富谷市#鉄軌道構想]]」を参照)。
こうして開業した仙台市の地下鉄だったが、経営的には苦しい状況に置かれた。工費が当初の見込みより150億円超過していた。また、1日当たりの平均利用者数は23万人という予測が立てられていたが、実際の1日当たりの平均利用者数は約11万人だった。運賃が割高であり「日本で一番高い地下鉄」とも言われた<ref name="仙台市史9-197">『仙台市史』通史編9(現代2)197頁。</ref>。バスとの乗り継ぎ割引は経営の悪化を懸念した運輸省の指導で低く抑えられ、見込みどおりの利用には至らなかった。こうしたことから、仙台市は収支計画の見直しを余儀なくされた。一方、南北線沿線の道路の交通量の減少という効果も見られた<ref name="仙台市史9-197"/>。
全7路線、総延長45.5キロメートルという計画から出発した仙台市の地下鉄計画だったが、南北線開業以後は東西方向への交通機関の検討だけが続けられた。1987年(昭和62年)には[[西公園 (仙台市)|西公園]]と[[茂庭台団地|茂庭台]]を結ぶ[[仙台市営モノレール南西線|モノレール南西線]]が内定し、公表された。これと共に、仙石線を西公園まで延ばして南西線と接続させる案が有力視された。また、南西線を[[愛子駅|愛子]]まで延伸させる構想も生まれたが、結局、これらの計画は[[1991年]](平成3年)に断念された<ref>『仙台市史』通史編9(現代2)198頁。</ref>。その後、仙台市は地下鉄[[仙台市地下鉄東西線|東西線]]を計画し、建設を決めた。[[2015年]](平成27年)[[12月6日]]に、[[仙台市地下鉄東西線|東西線]]が[[八木山動物公園駅]] - [[荒井駅 (宮城県)|荒井駅]]間13.9キロメートルで開業した。東西線は[[リニアモーター]]を採用、トンネル径の小さい「[[日本の地下鉄#ミニ地下鉄|ミニ地下鉄]]」方式で建設された。東西線の仙台駅より西側の区間は、過去の計画の「川内線」および「茂庭線」を踏襲したモノレール南西線や仙石線との直通案などの構想を経て、[[費用対効果]]が高い区間に短縮された。
=== 年表 ===
* [[1962年]](昭和37年) - [[新産業都市建設促進法]]制定。
* [[1963年]](昭和38年)9月 - 仙台市交通対策委員会が設置された<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1964年]](昭和39年)[[3月3日]] - [[仙台市]]を含む[[仙台湾]]地区が[[新産業都市]]に指定<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1966年]](昭和41年)10月 - 自動車の[[渋滞]]対策として、[[仙台市電]]の軌道内への自動車の進入が解禁された<ref name="SendaiHistory9-2"/>。これにより、市電の定時運行が困難となった<ref name="SendaiHistory9-2"/>。
* [[1967年]](昭和42年)12月 - 仙台市交通対策委員会が、高速大量輸送機関の必要性を指摘する答申を出した<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1969年]](昭和44年)7月 - 仙台市交通計画委員会が設置<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1970年]](昭和45年)
** [[6月1日]] - [[交通事故]]死者数の多さから「[[交通戦争]]」と呼ばれた状況を改善するため、[[交通安全対策基本法]]が制定。
** 同年の交通事故死者数(事故発生後24時間以内死者数)が[[沖縄県]]を除く46都道府県<ref group="注">[[沖縄返還]]以前の指標のため。</ref>で合計1万6765人となり、史上最大値となる(2013年のそれは4373人)<ref>[https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikokoutsu 【図解・社会】交通事故死者数の推移](時事通信)</ref><ref>[https://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h23kou_haku/gaiyo/genkyo/h1b1s1.html 道路交通事故の長期的推移]([[内閣府]]「平成23年交通安全白書」)</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)
** [[2月1日]] - 仙台市交通計画委員会が、高速大量輸送機関として地下鉄が望ましいとし、北仙台線の全線(全長7.34kmのうち地下式4.325km、地上式3.015km)、長町線の全線(全長4.94kmの総てで地下式)、川内線の仙台駅付近(全長8.09kmのうち520m分)を優先整備区間とすべきと答申した<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
** [[4月15日]] - 仙台市が高速鉄道建設準備委員会を設置<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1973年]](昭和48年) - 宮城県でも毎月15日を[[マイカー]]1日休養日とする[[ノーカーデー]]運動が始まった。
* [[1975年]](昭和50年)[[8月19日]] - [[運輸省]]仙台陸運局の仙台地方陸上交通審議会が、大量高速輸送機関(ルート:七北田周辺 - 仙台駅付近 - 長町周辺)の整備を急ぐべきと答申し、事実上、国から地下鉄南北線建設の認可を得た<ref name="SendaiArchives5-1"/><ref name="SendaiHistory9-2"/>。
* [[1976年]](昭和51年)[[2月23日]] - 高速鉄道建設促進協議会が設置<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1977年]](昭和52年)
** [[9月29日]] - 仙台大都市周辺地域広域行政圏が設定された<ref name="SMAC">[http://www.sendaitoshiken.jp/kyogikai/gaiyo.html 協議会の概要](仙台都市圏広域行政推進協議会)</ref>。
** 10月 - [[仙台都市圏]]広域行政推進協議会が設立<ref name="SMAC"/>。
* [[1978年]](昭和53年)
** [[6月10日]] - [[運輸大臣]]に地方鉄道事業免許申請書を提出<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
** [[6月12日]] - [[宮城県沖地震 (1978年)|宮城県沖地震]]発生。
* [[1980年]](昭和55年)
** [[5月30日]] - 仙台市地下鉄事業免許認可<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
** [[11月22日]] - 仙台市・[[泉市]]・[[宮城県]]の3者により、地下鉄早期着工で調印式<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1981年]](昭和56年)
** 2月 - 運輸省が地下鉄建設計画の工事施工を認可<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
** [[5月7日]] - 地下鉄工事着工<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1982年]](昭和57年)[[3月1日]] - 地下鉄開業準備室を開設<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1985年]](昭和60年)
** [[3月2日]] - 地下鉄の正式駅名が決定<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1986年]](昭和61年)[[12月19日]] - 仙台高速鉄道サービス株式会社を設立<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1987年]](昭和62年)
** [[7月15日]] - [[仙台市地下鉄南北線]]・[[富沢駅]] - 八乙女駅間が開業<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
** [[11月29日]] - 泉市において仙台市との合併の是非を問う[[住民投票]]が実施され、賛成が多数となった。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[2月9日]] - 八乙女駅から[[泉中央駅]]までの延伸を運輸省が認可<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
** [[2月15日]] - 仙台市地下鉄東西線建設促進期成同盟会が結成<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
** [[3月1日]] - 泉市および[[秋保町]]が仙台市に編入合併された。
* [[1989年]](平成元年)[[4月1日]] - 仙台市が[[政令指定都市]]に移行。
* [[1992年]](平成4年)
** 3月 - [[東日本旅客鉄道|JR]][[仙石線]]と接続する仙台 - 西公園間の地下鉄東西線、および、[[仙台市営モノレール南西線]]の断念を発表。
** 7月15日 - 仙台市地下鉄南北線・八乙女駅 - 泉中央駅間が開通<ref name="SendaiArchives5-1"/>。
* [[1994年]](平成6年)[[2月18日]] - 黒松駅にエレベーターを設置し、南北線全駅でエレベーターの設置が完了する<ref>{{Cite news |title=仙台市営地下鉄 全駅にエレベーター設置 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-02-19 |page=2 }}</ref>。
* [[2000年]](平成12年)
** [[3月11日]] - JR仙石線が地下化開業(→[[仙台トンネル]])。[[あおば通駅]]と南北線仙台駅とが接続。
** 3月 - [[仙台市地下鉄東西線]]のルートが正式決定。
* [[2003年]](平成15年)9月 - 地下鉄東西線事業が許可された。
* [[2005年]](平成17年)
** [[4月25日]] - 地下鉄東西線の工事施行が許可された。
** [[7月31日]] - 地下鉄東西線の建設の是非が争点となった仙台市長選挙の投開票が行われ、建設推進派の[[梅原克彦]]が当選した。
* [[2007年]](平成19年)11月 - 地下鉄東西線本体工事が着工。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の発生に伴い、南北線は全線運休。東西線全工区の工事を中断。
** [[6月20日]] - 東西線工事を随時再開<ref>{{PDFlink|[http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/saikai/kishahappyou.pdf 地下鉄東西線建設工事を再開します]}}(交通局東西線建設本部建設課、2011年6月2日)</ref>
** [[9月1日]] - 全工区で工事が再開<ref>[http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/ 仙台市交通局 地下鉄東西線工事情報](2011年9月9日更新)</ref>。
* [[2012年]](平成24年)2月 - 軌道の敷設工事に着手<ref name="Plans">[http://www.kotsu.city.sendai.jp/touzaisen/saihyouka/ 事業再評価](仙台市交通局)</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** 11月8日 - 導入されるIC乗車券の名称が[[icsca]](イクスカ)に決定<ref>{{PDFlink|[http://www.kotsu.city.sendai.jp/iccard/meisyo/kettei/pdf/icmeisyou.pdf 〜仙台IC乗車券の名称決定〜その名は「イクスカ」]}}(仙台市交通局 2013年11月8日)</ref>。
** [[12月24日]] - 地下鉄東西線の正式駅名が決定<ref name="city_sendai20131224">[http://www.city.sendai.jp/report/2013/1211783_1415.html 地下鉄東西線の正式な駅名が決まりました](仙台市 2013年12月24日)</ref>。
* [[2014年]](平成26年)
** 2月26日 - IC乗車券icscaのデザインが決定<ref>{{PDFlink|[https://www.kotsu.city.sendai.jp/iccard/news/design/pdf/140226_design.pdf ICカード乗車券『イクスカ』のデザイン決定について]}} 仙台市交通局(2014年2月26日)</ref>。
** 12月1日 - icsca販売開始。クレジットカードを利用しての定期券購入が可能となった<ref>[http://www.kotsu.city.sendai.jp/fare/teikiken/credit.html 交通局発行の定期券がクレジットカードでご購入いただけます] 仙台市交通局(2014年11月17日)</ref>。
** 12月6日 - icsca利用開始<ref name="kahoku20141207">{{cite news
|title = icsca出発進行 仙台市地下鉄で利用始まる
|url =http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141207_15020.html
|publisher = [[河北新報]]
|date = 2014年12月7日
| accessdate = 2014年12月27日}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** 2月4日 - 南北線で「駅ナンバリング」表示のための改修工事開始<ref>[http://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/news/numbering/index.html 仙台市地下鉄に「駅ナンバリング」を表示します] 仙台市交通局(2015年2月2日)</ref>。
** 12月5日 - 東西線で総合指令所のトラブルにより試乗列車・試運転列車など9列車が最寄駅に緊急停車。この日のうちに部品交換をしトラブルは解決した。12月2日に入れ替えた基板が原因と発表される。南北線とバスで運用していた現金での乗継割引(乗継乗車券)を終了。
** 12月6日 - 東西線開業。副駅名広告利用開始。南北線の自動車内アナウンスも同時にリニューアル。
* [[2016年]](平成28年)
** 3月26日 - icscaがJR東日本の[[Suica]]と仙台圏での相互利用開始<ref name="kahoku20141207"/>。
* [[2020年]](令和2年)
** 6月1日 - 台風の接近が想定される際の計画運休を導入。
* [[2021年]](令和3年)
** 5月18日 - 南北線新型車両3000系のデザインが投票により決定。
== 駅別乗車人員 ==
* 一日平均乗車人員は仙台市地下鉄の駅のもの<ref>{{PDFlink|[https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/joushajinin/pdf/r4%20subway_passengers.pdf 仙台市地下鉄 駅別乗車人員の推移]}} - 仙台市交通局</ref>。{{↑}}{{↓}}{{→}}は前年度に比較した増({{↑}})減({{↓}})増減なし({{→}})を表す。
{| class="sortable wikitable"
|-
|+駅別一日平均乗車人員 上位15駅(2022年度)
!順位(前年度)!!駅名!!乗車人員(人)!!前年比(%)!!所在地!!備考
|-
!{{→}} {{0}}1 (1)
|{{駅番号c|#317C66|N10}} / {{駅番号c|#00B1DD|T07}} [[仙台駅]]||style="text-align:right;"|'''49,692'''||style="text-align:right;"|{{↑}} 13.2||[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]||乗換人員は含まない
|-
!{{→}} {{0}}2 (2)
|{{駅番号c|#317C66|N01}} [[泉中央駅]]||style="text-align:right;"|'''22,336'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}8.6||[[泉区 (仙台市)|泉区]]||
|-
!{{→}} {{0}}3 (3)
|{{駅番号c|#317C66|N08}} [[勾当台公園駅]]||style="text-align:right;"|'''15,077'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}8.7||[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]||
|-
!{{→}} {{0}}4 (4)
|{{駅番号c|#317C66|N16}} [[長町南駅]]||style="text-align:right;"|'''10,200'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}8.6||[[太白区]]||
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!{{→}} {{0}}5 (5)
|{{駅番号c|#317C66|N09}} [[広瀬通駅]]||style="text-align:right;"|'''9,135'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}9.1||[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]||
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!{{→}}{{0}} 6 (6)
|{{駅番号c|#317C66|N07}} [[北四番丁駅]]||style="text-align:right;"|'''8,278'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}6.6||[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]||
|-
!{{→}} {{0}}7 (7)
|{{駅番号c|#317C66|N15}} [[長町駅]]||style="text-align:right;"|'''8,267'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}9.6||[[太白区]]||
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!{{→}} {{0}}8 (8)
|{{駅番号c|#317C66|N06}} [[北仙台駅]]||style="text-align:right;"|'''7,687'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}7.4||[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]||
|-
!{{→}} {{0}}9 (9)
|{{駅番号c|#317C66|N17}} [[富沢駅]]||style="text-align:right;"|'''7,362'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}7.1||[[太白区]]||
|-
!{{→}} 10 (10)
|{{駅番号c|#317C66|N02}} [[八乙女駅]]||style="text-align:right;"|'''7,021'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}6.0||[[泉区 (仙台市)|泉区]]||
|-
!{{→}} 11 (11)
|{{駅番号c|#00B1DD|T06}} [[青葉通一番町駅]]||style="text-align:right;"|'''6,839'''||style="text-align:right;"|{{↑}} 13.6||[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]||
|-
!{{→}} 12 (12)
|{{駅番号c|#317C66|N04}} [[旭ヶ丘駅 (宮城県)|旭ヶ丘駅]]||style="text-align:right;"|'''6,258'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}9.4||[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]||
|-
!{{→}} 13 (13)
|{{駅番号c|#317C66|N05}} [[台原駅]]||style="text-align:right;"|'''5,606'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}6.6||[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]||
|-
!{{→}} 14 (14)
|{{駅番号c|#317C66|N11}} [[五橋駅]]||style="text-align:right;"|'''5,498'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}9.1||[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]||
|-
!{{→}} 15 (15)
|{{駅番号c|#00B1DD|T10}} [[薬師堂駅 (宮城県)|薬師堂駅]]||style="text-align:right;"|'''5,360'''||style="text-align:right;"|{{↑}} {{0}}6.6||[[若林区]]||
|}
== 経営状況 ==
{| class="wikitable" style="float:right; text-align:right; font-size: 80%;"
! 会計年度 !! 単年度純損益額 !! 累積欠損額
|-
!2007年
|▲3億8667万円
| 1099億5183万円
|-
!2008年
|13億6822万円
|1085億8361万円
|-
!2009年
|18億9852万円
|1066億8509万円
|-
!2010年
|24億7987万円
|1042億{{0}}523万円
|-
!2011年
|24億7827万円
|1017億2696万円
|-
!2012年
|40億6765万円
|976億5931万円
|-
!2013年
|43億6311万円
|932億9620万円
|-
!2014年
|33億0962万円
|895億6826万円
|-
!2015年
|18億4472万円
|877億2353万円
|-
!2016年
|▲29億5232万円
|906億7586万円
|-
!2017年
|▲23億4091万円
|924億3252万円
|-
!2018年
|▲18億9667万円
|943億2920万円
|-
!2019年
|▲45億3685万円
|867億1795万円
|-
!2020年
|▲62億4878万円
|929億2602万円
|-
!2021年
|▲28億3221万円
| 957億5823万円
|-
!2022年
|▲16億2895万円
| 973億8718万円
|}
開業から2007年度までの単年度純損益は赤字が続いていたが、2008年度から黒字に転換。2011年度は[[東日本大震災]]の影響によって特別損失を計上したが、24億7827万円の黒字を確保<ref>{{PDFlink|[http://www.kotsu.city.sendai.jp/kigyo/gaiyo/pdf/24nendoban/23.pdf 平成23年度収支概況]}} 仙台市交通局</ref>。2015年度は、18億4472万円の黒字。累積損益は877億2353万円の赤字まで圧縮した<ref>[http://www.kotsu.city.sendai.jp/kigyou/keiei/27subway_kessan.html 平成27年度高速鉄道事業会計決算] 仙台市交通局</ref>。
2015年12月に開業した東西線の影響が、通期ではじめて現れる2016年度は、同線の営業収益に比べて、減価償却費が膨張したことから、地下鉄全体で29億5232万円の赤字に転落。累積損益は、906億7586万円の赤字へと悪化<ref>[http://www.kotsu.city.sendai.jp/kigyou/keiei/27subway_kessan.html 平成28年度高速鉄道事業会計決算] 仙台市交通局</ref>。2017年度は、23億4091万円の赤字となり、累積損益は、924億3252万円の赤字へと悪化<ref>[https://www.kotsu.city.sendai.jp/kigyou/keiei/29subway_kessan.html 平成29年度高速鉄道事業会計決算] 仙台市交通局</ref>、2018年度も単年度の赤字幅は改善傾向だったが、累積欠損額は増加する傾向が続いた。
2019年度は、過年度損益の修正として、19億87百万円の特別損失を計上したことにより、単年度の収支としては前年の赤字幅の倍以上となる45億3685万円の赤字を記録した。一方、その他未処分利益剰余金変動額121億4千9百万円を計上したことで、累積欠損額は867億1795万円に抑えられた。
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編9(現代2) 仙台市、2013年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』資料編5 近代現代1 交通建設 仙台市、1999年。
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Sendai Subway}}
* [[日本の地下鉄]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/ 仙台市交通局 地下鉄]
{{仙台市交通局の鉄道車両}}
{{日本の地下鉄}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せんたいしちかてつ}}
[[Category:仙台市地下鉄|*]]
[[Category:日本の地下鉄|せんたい]]
|
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|
2023-11-18T05:27:58Z
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"Template:ウェブアーカイブ",
"Template:仙台市交通局の鉄道車両",
"Template:Infobox 公共交通機関",
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"Template:日本の地下鉄"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84
|
17,359 |
庚申
|
庚申(かのえさる、こうきんのさる、こうしん)は、干支の一つ。
干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。
西暦と皇紀では、60の倍数の年が庚申の年となる。
庚申は干・支ともに金性であることから、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。そのため、庚申・辛酉は政治的変革が起こるとされ、それを防ぐために2年続けて改元が行われることも多かった。例えば万延元年(1860年)と文久元年(1861年)などである。
西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月が庚申の月となる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月(立秋から白露の前日まで)を適用する場合もある。
庚申の日には庚申待(庚申講)が行われた。
庚申の日は帝釈天の縁日である。
庚申の日は八専の6日目(間日を除く)である。
|
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庚申(かのえさる、こうきんのさる、こうしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。
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{{otheruses|干支|日本人の信仰対象|庚申信仰}}
{{干支}}
'''庚申'''(かのえさる、こうきんのさる、こうしん)は、[[干支]]の一つ。
干支の組み合わせの57番目で、前は[[己未]]、次は[[辛酉]]である。[[陰陽五行思想|陰陽五行]]では、[[十干]]の[[庚]]は陽の[[金]]、[[十二支]]の[[申]]は陽の[[金]]で、[[五行思想#比和(ひわ)|比和]]である。
==庚申の年==
[[西暦]]と[[神武天皇即位紀元|皇紀]]では、60の倍数の年が庚申の[[年]]となる。
===性質・改元===
庚申は干・支ともに[[金属|金]]性であることから、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。そのため、庚申・辛酉は政治的変革が起こるとされ、それを防ぐために2年続けて改元が行われることも多かった。例えば[[万延]]元年([[1860年]])と[[文久]]元年([[1861年]])などである。
{| class="wikitable"
|+'''庚申の年'''
|-
![[1千年紀]]!![[2千年紀]]!![[3千年紀]]
|-
|
*[[60年]]
*[[120年]]
*[[180年]]
*[[240年]]
*[[300年]]
*[[360年]]
*[[420年]]
*[[480年]]
*[[540年]]
*[[600年]]
*[[660年]]
*[[720年]]
*[[780年]]
*[[840年]]
*[[900年]]
*[[960年]]
|
*[[1020年]]
*[[1080年]]
*[[1140年]]
*[[1200年]]
*[[1260年]]
*[[1320年]]
*[[1380年]]
*[[1440年]]
*[[1500年]]
*[[1560年]]
*[[1620年]]
*[[1680年]]
*[[1740年]]
*[[1800年]]
*[[1860年]]
*[[1920年]]
*[[1980年]]
|
*[[2040年]]
*[[2100年]]
*[[2160年]]
*[[2220年]]
*[[2280年]]
*[[2340年]]
*[[2400年]]
*[[2460年]]
*[[2520年]]
*[[2580年]]
*[[2640年]]
*[[2700年]]
*[[2760年]]
*[[2820年]]
*[[2880年]]
*[[2940年]]
*[[3000年]]
|}
==庚申の月==
西暦年の下1桁が3・8(十干が[[癸]]・[[戊]])の年の[[7月]]が庚申の[[月 (暦)|月]]となる。ただしここでいう月は、[[旧暦]]の月や[[節月]]([[立秋]]から[[白露]]の前日まで)を適用する場合もある。
==庚申の日==
庚申の日には[[庚申待]](庚申講)が行われた。{{main|[[庚申信仰]]}}
庚申の日は[[帝釈天]]の[[縁日]]である。
===選日===
庚申の日は[[八専]]の6日目(間日を除く)である。
==関連項目==
*{{prefix}}
*{{intitle}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
[[Category:干支|かのえさる]]
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|
17,360 |
急戦
|
急戦(きゅうせん)とは、将棋で、早いうちから相手を攻めること。逆に双方が守りをがっちり固めてから戦いを起こす持久戦もあるが、この両者には明確な基準はない。
相手が守りを固める前に攻められる利点がある分、自分の守りも固められないという欠点がある。そのため、短手数で終わる場合が多い。囲いも、短手数でできる、あまり固いとは言い難い囲いで戦う。
次に急戦の戦法の具体例を挙げる。
次に急戦で用いられる囲いの一例を挙げる。しかし、ほとんど「囲い」の域まで達さず攻めるので、囲いと言われるものは少ない。
|
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急戦(きゅうせん)とは、将棋で、早いうちから相手を攻めること。逆に双方が守りをがっちり固めてから戦いを起こす持久戦もあるが、この両者には明確な基準はない。 相手が守りを固める前に攻められる利点がある分、自分の守りも固められないという欠点がある。そのため、短手数で終わる場合が多い。囲いも、短手数でできる、あまり固いとは言い難い囲いで戦う。
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{{出典の明記|date=2018年3月}}
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'''急戦'''(きゅうせん)とは、[[将棋]]で、早いうちから相手を攻めること。逆に双方が守りをがっちり固めてから戦いを起こす[[持久戦]]もあるが、この両者には明確な基準はない。
相手が守りを固める前に攻められる利点がある分、自分の守りも固められないという欠点がある。そのため、短手数で終わる場合が多い。囲いも、短手数でできる、あまり固いとは言い難い囲いで戦う。
== 急戦の戦法 ==
次に急戦の戦法の具体例を挙げる。
*[[将棋の戦法#対抗型居飛車の戦法一覧|対抗型居飛車の戦法]]における急戦・[[居飛車舟囲い急戦]]([[山田定跡]]等)ほか
*[[藤井システム]]、左金を左側にあがる急戦[[向かい飛車]]、[[玉頭銀]]など、振り飛車からの急戦法
*[[棒銀]](原始棒銀ほか)、[[早繰り銀]]、[[角換わり]]▲4五桂など
*[[矢倉囲い#急戦矢倉|急戦矢倉]]([[右四間飛車]]・[[阿久津流急戦矢倉]]・[[カニカニ銀]]など)
*[[横歩取り]]([[横歩取り8五飛]]・[[横歩取り4五角]]・[[相横歩取り]]など)
*[[早石田]](新石田流)
*[[相掛かり]]戦([[塚田スペシャル]]、相[[腰掛け銀]]でのガッチャン銀ほか)
*[[英春流]]かまいたち戦法、19手定跡など
*[[ゴキゲン中飛車]]および対▲5八金右超急戦、[[超速3七銀]]など
== 急戦に用いられる囲い ==
次に急戦で用いられる囲いの一例を挙げる。しかし、ほとんど「囲い」の域まで達さず攻めるので、囲いと言われるものは少ない。
* [[elmo囲い]]
* [[イチゴ囲い]]
* [[矢倉囲い]]のうち兜矢倉、半兜、銀矢倉、へこみ矢倉、菊水矢倉など
* [[舟囲い]] →(発展)菱囲い、[[箱入り娘 (将棋)|箱入り娘]]
* [[カニ囲い]]
* [[中原囲い]]
* [[中住まい]]
* [[壁囲い]]
* [[金無双]]
== 関連項目 ==
*[[将棋の戦法一覧]]
*[[奇襲戦法]]
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[[Category:将棋用語]]
[[Category:将棋の戦法]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A5%E6%88%A6
|
17,361 |
持久戦
|
持久戦(じきゅうせん protracted warfare)とは敵の戦闘力の撃滅ではなく、自己保存を主な目的とした作戦・戦闘をいう。決戦の対義語。
持久戦は陸上作戦の主要な形態の一つである。持久戦の特徴は自己の戦闘力を維持するために決戦を回避・延期するという劣勢側の優勢側に対する作戦である。一般的に決戦に従属する作戦であるため、別正面の作戦を支援する作戦である場合や、時間的猶予を得るための作戦などがある。
一般的に、敵地に侵攻して戦闘しなければならない攻撃側に対し、防御側は城や要塞、陣地などの防御施設を利用することができるため、攻撃側よりも有利に戦うことが出来る。よく、攻撃側は防御側の3倍の兵力が必要であるとか、城攻めは下策などと言われるのはそのためである。そこで劣勢側は防御に回って時間を稼ぎ、援軍の到着や攻撃側の疲労・士気の低下などを待ったり、あるいは少数の部隊でより多くの敵部隊を足止めするなどの持久戦が行われることとなる。
また、持久戦となり戦闘が長期間に及ぶと、その間、水や食糧、武器弾薬の類を補給し続けなければならず、士気も低下しがちになる。そこで、たとえ戦力的に優勢であっても、自陣の補給能力が高く相手側の補給能力が低い場合には、戦力の消耗を避けるためにも持久戦に持ち込まれることがある。例えば城攻めに際して、籠城する相手に強引に攻め寄せるのではなく、周囲を包囲して相手の補給路を断ち、降伏を待つなど。
将棋では、自陣の守りをきっちり固めてから攻めに転じる戦法。守りは強固となるが、相手側にも守りを強固にさせてしまう可能性が高い。仕掛け(開戦)のタイミングは遅くなり、長手数の将棋になることが多い。それに対して急戦は、囲いは最小限に済ませて攻撃の方を優先させる戦い方である。
ゲリラ戦は時に何年も行われることから、持久戦と関連付けられて論ずることがある。毛沢東が著した、『遊撃戦論』では、根拠地を中心としたゲリラ戦は戦略的持久戦の過程であるとしている。
持久戦戦指導者、時にゲリラ戦指導者などが伝記や、その戦術を著した本を出版するときがある。特に毛沢東が著した『持久戦論』『遊撃戦論』、チェ・ゲバラが著した『ゲリラ戦争』が知られている。
主な指導者
|
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"text": "将棋では、自陣の守りをきっちり固めてから攻めに転じる戦法。守りは強固となるが、相手側にも守りを強固にさせてしまう可能性が高い。仕掛け(開戦)のタイミングは遅くなり、長手数の将棋になることが多い。それに対して急戦は、囲いは最小限に済ませて攻撃の方を優先させる戦い方である。",
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"text": "ゲリラ戦は時に何年も行われることから、持久戦と関連付けられて論ずることがある。毛沢東が著した、『遊撃戦論』では、根拠地を中心としたゲリラ戦は戦略的持久戦の過程であるとしている。",
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"text": "持久戦戦指導者、時にゲリラ戦指導者などが伝記や、その戦術を著した本を出版するときがある。特に毛沢東が著した『持久戦論』『遊撃戦論』、チェ・ゲバラが著した『ゲリラ戦争』が知られている。",
"title": "指導者、及び著書"
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"text": "主な指導者",
"title": "指導者、及び著書"
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] |
持久戦とは敵の戦闘力の撃滅ではなく、自己保存を主な目的とした作戦・戦闘をいう。決戦の対義語。
|
'''持久戦'''(じきゅうせん protracted warfare)とは敵の戦闘力の撃滅ではなく、自己保存を主な目的とした[[作戦]]・[[戦闘]]をいう。[[決戦]]の対義語。
== 概要 ==
持久戦は[[陸戦|陸上作戦]]の主要な形態の一つである。持久戦の特徴は自己の[[戦闘力]]を維持するために決戦を回避・延期するという劣勢側の優勢側に対する作戦である。一般的に決戦に従属する作戦であるため、別正面の作戦を支援する作戦である場合や、時間的猶予を得るための作戦などがある。
一般的に、敵地に侵攻して戦闘しなければならない攻撃側に対し、防御側は[[城]]や[[要塞]]、[[陣地]]などの防御施設を利用することができるため、攻撃側よりも有利に戦うことが出来る。よく、攻撃側は防御側の3倍の兵力が必要であるとか、城攻めは下策などと言われるのはそのためである。そこで劣勢側は防御に回って時間を稼ぎ、援軍の到着や攻撃側の疲労・士気の低下などを待ったり、あるいは少数の部隊でより多くの敵部隊を足止めするなどの持久戦が行われることとなる。
また、持久戦となり戦闘が長期間に及ぶと、その間、水や食糧、武器弾薬の類を補給し続けなければならず、士気も低下しがちになる。そこで、たとえ戦力的に優勢であっても、自陣の補給能力が高く相手側の補給能力が低い場合には、戦力の消耗を避けるためにも持久戦に持ち込まれることがある。例えば城攻めに際して、[[籠城]]する相手に強引に攻め寄せるのではなく、周囲を包囲して相手の補給路を断ち、降伏を待つなど。
==将棋での持久戦==
[[将棋]]では、自陣の守りをきっちり固めてから攻めに転じる戦法。守りは強固となるが、相手側にも守りを強固にさせてしまう可能性が高い。仕掛け(開戦)のタイミングは遅くなり、長手数の将棋になることが多い。それに対して[[急戦]]は、囲いは最小限に済ませて攻撃の方を優先させる戦い方である。
== ゲリラ戦との関係 ==
ゲリラ戦は時に何年も行われることから、持久戦と関連付けられて論ずることがある。[[毛沢東]]が著した、『遊撃戦論』では、根拠地を中心としたゲリラ戦は戦略的持久戦の過程であるとしている。
== 指導者、及び著書 ==
持久戦戦指導者、時にゲリラ戦指導者などが伝記や、その戦術を著した本を出版するときがある。特に毛沢東が著した『[[持久戦論]]』『[[遊撃戦論]]』、[[チェ・ゲバラ]]が著した『[[ゲリラ戦争]]』が知られている。
'''主な指導者'''
* 毛沢東(→抗日戦争)
* チェ・ゲバラ
* 八原博通(→[[沖縄戦]])
== 参考文献 ==
*防衛大学校・防衛学研究会編 『軍事学入門』 かや書房
== 関連項目 ==
*[[陸戦]]
*[[戦術]]
*[[作戦]]
*[[水際作戦]]
*[[縦深防御]]
*[[ゲリラ戦]]
*[[硫黄島の戦い]]
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風力発電
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風力発電(ふうりょくはつでん)とは、風の力でタービンを回して発電すること。風のエネルギーを電力(電気のエネルギー)に変換する。再生可能エネルギーの一つ。
イギリスでは1887年にグラスゴーのJ.ブライスが垂直風車により出力3kWの発電を開始したとされる。アメリカ合衆国では1888年にクリーブランドのC.F.ブラッシュが直径17m144枚のブレードからなる巨大な多翼風車で12kWの風力発電を1908年まで20年間使用されたとされる。1891年にはデンマークのアスコウ(Askov)でポール・ラ・クールによって風力発電研究所が設立され、風力発電で電気分解した水素と酸素で発電の実験が実施された。日本では1949年に山田基博が北海道札幌市に(株)山田風力電設工業所を設立して風車の本格的製造を開始した。オイルショックを機に風力発電などの代替エネルギーへの関心が高まり、1973年に足利工業大学、三重大学が風力発電の研究を開始。1975年に鶴岡高専、山形大学が風車の研究を始めた。その後、複数の教育機関や企業が参入したものの、1980年代には石油の安定供給、価格下落により研究開発は下火になり、1990年代に入ると地球温暖化への対策の一環として再び、風力発電への関心が高まった。1970年代とは異なり、複合材料やパワーエレクトロニクス、数値流体力学によるシミュレーション技術の発展により世界各地で普及が進んだ。
風力発電は従来の集中型電源と様々な点で異なる特性を持つ。
主に環境負荷の小ささ、化石燃料の使用量削減、エネルギー安全保障、産業振興・雇用創出などが挙げられる。
課題 → 解決策の例 という形式で記述する。
発電に使用される風車は風力タービン、風力発電機、風力発電装置などと呼ばれる。形式としては水平軸のプロペラ型が最も多く用いられている。(風車参照)その他、用途に応じて垂直軸のダリウス型、ジャイロミル型、サボニウス型またはその併用型を用いる場合もある。また直線翼垂直軸型、スクリューマグナス風車(「マグヌス効果」参照)もある。風車以外では、振動板に風を受け、圧電素子で電力を得る方法が研究されている(ブレードレス)。
一般的な水平軸プロペラ式では大きく3つの構成要素からなる。
風力原動機はローターの直径が大型化するに伴い効率が向上し、採算性も向上する。地上付近では地面や障害物等による摩擦があり、高所の方がより効率よく風を捉えられるのが大きな理由である。このため発電事業用の風力原動機は大型化する傾向にある。2005年は、世界的に2.5MWクラスが中心であった。2008年には5MWの機種も登場している。しかしながら、保守の観点から考えるならば、ロータ径が大型化するにつれて、タワーは高くなり、ブレードは長くなることから、点検や補修に困難が生じやすくなる。
発電量はローターの半径の2乗、風速の3乗に比例する。効率は最高59%である(ベッツの法則)。1919年、ドイツのアルバート・ベッツにより導き出された。
日本メーカーでは1MWクラスが主流であったが、近年、2MWから2.4MWクラスのものが商品化された。また、家庭への普及を狙って小規模の風力原動機を商品開拓する動きもある。
大型機における原動機部分の寿命は通常20年程度とされる(機種や条件によっては30年とする場合もある)。設計寿命は主に耐久性とコストのバランスで決定される。基礎部分の寿命は50年程度で設計し、2世代に亘って利用することが可能である。なお日本では風力発電設備の減価償却資産としての耐用年数が17年とされることからこれを寿命の代わりに用いて計算する場合があるが、その分発電コストを5%程度高く見積もることになる。
寿命を迎えた原動機については、集中型発電所に比べ、更新で一度に止める風車の数が少なく工期も短いため、発電所全体の稼働状況に与える影響は少ないとされる。
風力発電機メーカー市場のシェアは2018年時点でデンマークのベスタス社が22%で1位、中華人民共和国のGoldwindが15%で2位、米国のGE社が11%で3位となっている。
日本のメーカーでは、2000年代、三菱重工業、日本製鋼所、富士重工業などが生産していたが、国内の受注量が伸び悩み次々と撤退。富士重工の風力発電事業は、2012年に日立製作所が買収してテコ入れが行われたが、日立がドイツのエネルコンと提携していることもあり、独自生産を続ける必要性が低下。2019年には発電機生産を終了する方針が報道された。
2020年にはJE Windが陸上2MW風力発電機および洋上の5MW風力発電機の国際型式認証を取得し、MW級風力発電機のメーカーとしては唯一の日本企業となっている。
風力発電機の設置工事に必要な期間(工期)は、規模や環境にもよるが、概して他の発電方式よりも短い。1基では通常3か月から4か月とされる。20基程度では10か月から11か月、50基から100基程度の大規模な集合型風力発電所でも1年から2年ほどの例がある。 デンマークの沖合6-15kmに2MW基を80基、合計160MWを建設した実例では、現場での建設作業は約半年、製造から含めても約1年半で済んでいる。これは他の大規模集中型発電所(原発や地熱発電所など)に比べると格段に短い。これは需要構造の変化への対応や機器の更新を容易にする他、工事期間中の利子も低く抑える効果がある。例えば、下記のような利益が得られる。
ただし、工事に先立って風況調査などにある程度の準備期間が必要になる。また近年の需要急増により、納期が1年を超える例も見られる。
保守については、一般に風力発電機は大規模集中型発電所(原子力発電所や大型火力発電所など)に比して修理や点検が比較的容易であり、必要な時間も短くできるとされる。 ただし日本の場合は2008年時点で風力発電機の8割程度が輸入品であるため、修理部品などは海外から取り寄せる場合が多くなる。そのため部品が届くまで数か月かかることがある。
集合型風力発電所は、多数の風力タービンを1カ所に設置し発電する施設。ウィンドファーム(wind farm)とも呼ばれる。大規模なものでは数百平方マイルの広大な敷地に数百の風力タービンが並ぶが、タービンとタービンの間の土地は農耕など他の用途に利用できる。洋上に設置される場合もある。
可倒式風力発電設備は、支柱を倒すことができる風車を利用した発電施設。強風が予想された場合に倒すことで台風の被害を防ぐ事が出来る、メンテナンスを地上で行える、設置に大型の重機を必要としないと言った利点がある。 通常の風力発電施設は台風クラスの強風にも耐えうるための構造をしているが、その強風を避ける性質をもつ可倒式設備では、変形にコストが必要になるものの、強度構造のためのコストを削減できる。また、通常型の設備でも台風での被害は防ぎきれるものではなく、台風常襲地域にとっては可倒式にすることで損傷、破壊を防ぐコストメリットが生まれる。
海上に風力発電機を設置することを洋上風力発電(オフショア風力発電、海上風力発電、海洋風力発電)と呼ぶ。 地形や建物による影響が少なく、より安定した風力発電が可能となる。また立地確保、景観、騒音の課題も解決できる。2010年末時点で、欧州を中心に3GW以上が導入されている。
比較的浅い海底に基礎を設置しその上に風力タービンを設置する着床式と、水深が深い場所で浮体の上に風力タービンを設置する浮体式があり、浮体式の場合は位置の固定は係留によって行う。
水深が浅い海域において海底に基礎を建造し、大規模なウインドファームを建設する例が各国にある。元々はデンマークを中心に建設が進められてきたが、近年になって欧州全域に広がる勢いをみせており、特に英国における伸びが著しい。英国政府が掲げるその目標は、2020年までに洋上風力発電設置容量33GW(Round 1,2,3合計)導入目標という壮大なものである。ドイツにおいても、北海における国家プロジェクトAlpha Ventus 60MWを皮切りに、2009年以降の導入加速が見込まれる。日本においても港湾内などにおける建設例が見られ、2010年3月には茨城県にて初の港湾外への設置事例が稼働を開始している。
2009年にノルウェーにおいて、フルスケールとしては世界初の浮体式洋上風力発電施設Hywindが建設された。
日本では、2020年末の時点で日本の洋上風車28基のうち10基が北海道と東北に設置されている(だが、残りの18基は別の地域であり、そちらのほうが数は多い)。なお北海道や東北などの海岸部では安定した風力(平均風速6m/秒以上)が得られるので、その地域の割合が比較的多くなっている。
日本国内の実証実験による2022年時点でのイニシャルコストを比較すると次のようになる。
つまり浮体式はコスト高となっている(それに比べれば着床式はさほど高くない)。
九州大学の研究者を中心に、海上に巨大な風力発電所を造り、新しいエネルギーとして活用しようという構想の研究会が発足している。 構想によると、海上にはちのす状に浮かべた六角形のコンクリート構造物(一辺300メートル)の上に、従来の2倍以上の風力を得る直径100メートルの風力原動機を設置。送電線は使わず、得られた電力で海水を電気分解して水素を作り、その水素を船で陸に輸送して水素発電や燃料電池に使うというもの。高強度の新素材や効率的な風車、水素貯蔵などの最新技術を組み合わせ、原発1基分に相当する100万キロワット級の発電を低コストで目指している。新素材の耐用年数は100年以上とされ、発電コストは原発の半分以下に抑えられる。六角形の浮体の内部を養殖場にすることで、漁業補償の問題も解決できるとしている。資金の目途が付けば6年から7年で技術確立が可能としている。
米国、ヨーロッパでは次世代の風力発電として、強くて安定した風が得られる上空に風船などで風力原動機を持ち上げて設置する空中風力発電機(AWT,英語: Airborne wind turbine)などのアイデアが検討されている 。
2021年の全世界の風力発電累計導入量は1,870TWh。
日本では、2004年ごろから風力発電が本格的に導入が開始され、以後、徐々に普及してきており、2014年時点で全国に約2000基、発電能力の合計は約250万キロワットとなっている。普及に伴い、風車部分が丸ごと落ちるなど、惨事に繋がりかねない事故も起こったため国土交通省と経済産業省が審査をしている。日本の風力発電所で有名なのは、北海道では苫前町と稚内市など、本州では秋田県の洋上が挙げられる。
日本では今までは欧米諸国に比して普及が進んでこなかったが、反原発派からは、日本政府や与党が(既存の電力会社にばかり忖度して)洋上風力発電への取り組みが足りなかったことや、台風に耐えうる風車は欧米に比べてコストが上がることや、日本では再生可能エネルギーとしては太陽光発電ばかりに気をとられていた、日本の電力会社は(原子力発電の擁護・推進をするばかりで)風力発電事業に関しては消極的であったので、代わりに自治体による自治体風車や、市民グループによる市民風車等のプロジェクトの取り組みが進んだという原発要因説がある。
2019年時点の風力発電設備容量は205GW。総発電力需要の15%程であった。
スペインでは2010年に風力発電で電力需要の16.6%を供給し、また電力由来の二酸化炭素排出量の26%を削減した。非化石エネルギーのシェア増加により電力コストが抑えられて隣国フランスよりも安価となり、2010年には8.3TWhを輸出した。また2011年3月には風力発電による月間の発電量が21%を占め、原子力やガス複合火力を抜いて最大の電力供給源となった。
米国は、以前からカリフォルニア州やテキサス州で大規模な風力発電ファームを建設していたが、2008年5月にエネルギー省(DOE)が2030年までに電力需要の20%に相当する約290GWを風力発電で賄うという目標を立ててからさらに設備量が増えた。しかし2010年には金融危機等の影響で市場が前年より縮小し、中国に累計導入量で抜かれた。
カリフォルニア州には2014年1月現在で世界で最大の風力発電所であるアルタウインドエナジーセンターが存在する。大手の風力発電機製造企業としてGEエナジーが存在する。
風力発電は、水力発電に次いで再生可能エネルギーの中では採算性が高く、大規模なものについては天然ガス等の火力や原子力と競争可能なコストまで下がっている。
また、実質的にドイツで始まった「固定価格買取制度」は風力をはじめとした再生エネルギー支援の一般的手法となっている。
大規模に導入しているデンマークにおいては、風力発電の経費は過去20年間で80%以上削減され、通常電力と競争可能な水準まで低下した。温暖化対策費まで考慮すると、欧州における風力は石炭火力より発電経費が一桁少ないとする試算もある。なお、近年の資材の高騰により、装置価格の増加も報告されている。
風力発電は一度設置してしまえば、その後は、化石燃料の価格変動による影響がほぼ保守費用などに限られるため、その分事業が安定化する利点がある。
火力発電を減らして風力発電で代替するにあたっては、出力変動などの対策、および、送電網の拡張や予備発電設備容量の確保等が必要となる。一般的には、一定程度の導入割合までは、その追加費用が実用的な範囲で済むとされる(例:)。欧州では域内での風力発電などの増加に対応した系統の拡張が検討されている。
風力発電は小規模分散電源であり、導入規模や範囲が増すほど全体的な信頼性と安定性が高まり、発電コストも低減する。
「生産から設置・運用から廃棄に至るまでのライフサイクル中に投入するエネルギー」を「風力により生み出すエネルギーによって節約できる」までの時間をエネルギーペイバックタイム(EPT)、また寿命との比をエネルギー収支比(EPR)という。原動機の性能および設置場所の風況に大きく左右されるが、通常EPTは数か月程度とされる。またエネルギー収支比は38から54とも見積もられている。大型化などの技術改良のほか、リサイクルや基礎部の再利用等によって今後も改善が見込まれている。
風力発電の発電量当たりの温室効果ガス(GEG)排出量は小さく、日本では25g-CO2/kWhから34g-CO2/kWhなどの計算例がある(g-CO2/kWhはライフサイクル中に排出される温室効果ガス(GEG)を二酸化炭素(CO2)に換算し、発電量あたりに直した値)。この値は設置地点毎の風況や風車の性能に左右される。近年の大型で高性能な風車ならば、10g-CO2/kWhを切る場合もあるとされる。設置効果は750kW機1基が500エーカー(約2平方km)の森林に相当するとも言われる。
日本の電力の平均GEG排出量は 約346g-CO2/kWh(発受電端、2001年)と計算されている。例えば寿命20年でGEG排出量が25g-CO2/kWhの場合、CO2ペイバックタイム(CO2的に「元が取れる」までの利用期間、CO2PT)は 20×(25/346)=1.45年 となる。10g-CO2/kWhならば約7か月である。
諸課題の中でも(出力変動、強風対策などの)技術的課題については、性能や安全性の向上を狙った開発競争の焦点となっている。従来問題点とされてきた点の多くは技術的に対処が可能とされる。
風力発電の課題のひとつに騒音対策・低周波対策がある。
人家に近接して設置された場合に、近隣住民がめまい・動悸・耳鳴りなどの違和感を訴える例が出てきた。ブレードやタービン部が出す風切り音などの騒音や低周波振動が原因だろうと指摘されるようになった。日本各地で建設反対運動が起き、ドイツでは建設済みの発電所の撤去を命じる判決も出た。
騒音・低周波などが報道などで知られるようになり、設置計画に対して予定地の住民の反対運動がおきる例も出たため、騒音や低周波の対策が研究され、対策が検討されたり、それが具体的に打たれるようになった。
技術的な改善策の1つが、ブレードの翼断面の改良である。昔の風車では航空機用の翼断面を用いていたため、翼端周速が100m/sから120m/sに達し、騒音を大きくする要因となっていた。この翼端周速は風車専用の翼断面(厚翼)を用いることで大幅に低下し、現在は大型機でも60m/s程度となっている。さらに、多極式発電機の採用によるギアレス化(ギアノイズを排除)、ダウンウインド型からアップウインド型への移行(タワー下流の乱れた気流を横切る音を排除)などの対策により、騒音は200m-300m程度離れれば周囲の風音と区別がつかない水準(または「冷蔵庫程度の騒音」)にまで減少する。
また、風力発電機が立てられ始めた頃から、電波障害への懸念が相当数存在していたが実際にはそれほどの苦情は発生していない。電波障害となる要因には遮蔽障害と反射障害が考えられ、それぞれが回転翼部分と静止しているタワーとその先端のナセル部分が影響する可能性がある。21世紀現在の回転翼は全て繊維強化樹脂製であり電波に対して有意な影響を与えないと考えられるため、TV送信塔と住宅との間に設置しない事やナセル筐体の反射を低減する等のナセルとタワーの影響を事前に確認することで解決できる。また、ナセル内の発電機や付随する電力機器類からの電波ノイズの防止と遮蔽も考慮されなければならない。 騒音以外にはシャドーフリッカーもしくはストロボ効果といわれる回転する羽によって断続的に横切る影が問題視され、これは生態系にも影響を与えると考えられている。対策としては今のところ太陽が低位置にある場合は風車を停止する以外にはない。風力発電装置は民家からできるだけはなれたところに設置することが望ましいとされており、計画段階からそれに注意すべきであるとされる。イギリスでは民家から5kmの距離を取る様に定められている。
鳥類レッドリストに該当するイヌワシ、クマタカ、オオタカ、フクロウ、ノスリなどの希少猛禽類の幼鳥が、風力発電のブレード(回転羽根)に衝突(バードストライク)して死亡するケースがある。衝突死の多くは鳥が風車の回転範囲を通り抜けようとして、回転翼を避けずに体が切断されることにより生じる。一説にはモーションスミア現象によって高速の羽根が見えず、反対側の景色が透けて見えるため鳥が気づかないためといわれている。鳥類の目は人間に比べモーションスミアが起こりやすいという実験結果が出ている。鳥類は生息地の喪失、繁殖の妨害、採餌地の喪失、などの影響も受けているが、バードストライクは鳥の大群が通るルートの地域で多数発生していることがわかっている。設置する場所や形態の選定さえ適切ならば、通常の送電線以下の危険性しか及ぼさないとの報告もある(クローネ (Krone) 他)。米国での年間平均バードストライク数は大型風車1基につき2.19羽(2001年)ドイツでは同0.5羽である(すべて狐などによる死骸持ち去り数を調整済み)。米国でのバードストライク総数は年間約10億羽であるが、風車によるものは0.01%であり、窓ガラスなどに比べてきわめて低い数字である。英国王立鳥類保護協会も「適切に設置された風力発電所は、鳥類に大きな脅威を及ぼさないと考える」と表明している。スペインの影響調査では風車設置場所を飛行する鳥類の死亡率は0.1%から0.2%と報告されている。一方、2007年から三重県で行われた調査では、繁殖期のテリトリー密度と種数密度で/4に減少したとする報告がある。
技術的には、下記のような対策が考慮される。
他に渡り鳥の飛行ルートへの悪影響についても懸念されており、渡りの重要なルートへの設置は避ける必要がある。
陸上風車の建設工事で生じる土地改変(森林伐採など)により流出する土砂が下流域を汚染する場合がある。特にサンショウウオなど希少動物は生息する源流の汚濁に敏感なため、悪影響が心配されている。洋上風車の場合も工事中に伴う海水の濁りなど、周辺環境への影響を完全に除くことは難しい。
風力発電機の設置に当たっては、自然景観への影響が問題になる場合もある。例えば風光明媚な観光地などでは、風力発電機の設置によって景観が変わるために反対された。一方、大型風車が林立する雄大な光景を新たな観光資源とする動きもある。
米国と英国でのウインドファーム建設直後と1年後の周辺住民への意識調査ではいずれも、2回目が景観と騒音での反対が少なくなっている。
風力発電の出力は昼夜問わず不随意に変動するため、需要への追従は基本的に他の調整力に富んだ電源(火力発電、貯水式水力発電など)に頼ることになる。また風力発電所の側でも、ある程度の出力の平滑化や負荷追従を行う場合があるほか、近年は発電量の予測技術も用いられている。一般的には、発電量の10%程度までは大きな問題にならないが、20%を超えると追加コストが目立って増えると言われている。スペインと周辺国間では電力取引所での取引を用いた輸出入によって変動の一部を調整する例が見られる。
風力発電は風速の変動に従って出力が需要と無関係に変動し、電圧や力率の変動をもたらす。この変動は一般に太陽光発電に比べても大きい。特に導入量が小規模の場合は高い周波数成分を含む変動が多くなる。しかし大規模に導入した場合、変動は大幅に緩和され、系統側の負担が小さくなる(#導入規模の効果参照)。実際、デンマーク、ドイツ北部、スペインなどにおいて、信頼性を犠牲にせずに電力供給量の20-40%を風力で賄えることが実証されている。また既存の系統に風力発電を追加する場合、新たなバックアップ電源を付加する必要は無いとされる。ただし系統容量に占める風力発電の割合が大きい場合は、ある程度の蓄電設備を加えることで系統全体で見た発電コストを低減できる場合もあるとされ、検討や実験が進められている。こうした対策にはコストもかかるが、ある程度の導入割合までは実用的な範囲とされる(#費用対効果参照)。
個々の風車やWF単位で出力を平滑化するには、下記の対策が有効とされる。
この他、風力発電で得られた電力から水素を製造する手法も研究されている。
風力発電の導入価値は、風の強い時間帯(季節)と電力需要の多い時間帯(季節)が重なる場合に相対的に大きくなる。一般には、夜間や冬期の暖房需要の多い場合には他の電源に比較して特に導入価値が高くなる。マッチしない場合(他電源による夜間電力が既に余っている場合など)にはその分価値が低くなる。また需要に対して発電量が不足する場合は、他の電源に頼ることになる。
風力発電機の最大の敵は強すぎる風である。風力発電機には定格風速があり、定格を大幅に超える速度で運転すると原動機の焼損やブレードの破損などを招く場合がある。そのため風速が過大な場合は、保護のために速度を抑制するか、場合によっては一時的に発電を停止する。支柱ごと倒して強風をやり過ごすものもあるが少数である。
強風や変動に対しては、下記のような対策が用いられる。
陸上設置の場合は、風力発電機は1MWp(1000kwp)あたり50エーカー(約20ヘクタール)ほどの面積を必要とする。ただし風車そのものが占有する面積は主に支柱であるため5%以下であり、畑や牧草地など、高さを必要としない利用が行われる場所に設置すれば土地の確保の問題は小さくなる。風力発電が一般的になり、風車公害の可能性もテレビ番組などで紹介され認知されるようになったので、近隣に人家がある場合は設置への反対運動が起きることがある。周辺地域と比較して高所に設置する場合には、立地点の整備や資材運搬、運用時のメンテナンスのために林道を造成する必要があり、それに伴う樹木の伐採が問題視される場合がある。
もっとも、近年は陸上に設置しない洋上風力発電も検討されつつあり、その場合は陸上設置にともなう諸問題は解消する。しかし、洋上風力は一般にコストが高い。
風力発電の事業化にあたっては、事前の風況の調査が重要である。風は不随意に変動するが、その変動量や変動速度、平均強度などは確率的に取り扱うことが可能である。風力発電の発電量もまた、確率・統計的に取り扱うことができる。このため事前にある程度の量のデータを集めておくことにより、相応の確度で風況や発電量の予測を行うことができる。
近年では計算機を用いた局地気象解析技術により、短時間の変動についてもある程度の発電量の予測が可能になっている。既に商用サービスも開始されている。近年は一定規模以上の発電事業者に対し、発電量の予測を義務づける国もある(固定価格買い取り制度#併用される制度参照)。
逆に風況調査に不備のある場合、当初見込みよりも発電量が少なく、赤字となる場合がある。発電量が予測を下回ったなどの事情で稼働継続に値しない状況になった場合やより高性能な機種に置き換える場合などは、地中に打ち込んだ基礎部分の移動は難しいが、上部の風力原動機は基本的に移設や転売が可能である。近年は欧州などで風力発電機の中古市場も拡大している。
風力発電機も他の発電方式同様、事故と無縁ではない。構造物の破損や運用・保守作業中のミスなどにより、下記のような事故の例が見られる。
こうした事故の背景として、機械的強度を十分にテストしないままに発電塔を巨大化したのが原因ではないかという指摘もなされている。
風力発電機のリサイクル技術は数が多くないこともあり開発途上である。鉄などの金属類はリサイクルされるが、ブレードで一般的に用いられる繊維強化プラスチックについてはリサイクル技術が普及しておらず、焼却などで処分される。使用済みのブレードからガラス繊維をリサイクルする技術は開発されている。
現在、日本では再エネ海域利用法の導入が進んでいる。再エネ海域利用法とは、海外でコストの低下が進み、再生可能エネルギーの最大限の導入と国民負担抑制を両立する観点から重要な洋上風力発電を導入しようとした。しかし海域の占有に関する統一のルールがなく、先行利用者との調整ができていなかった。これらの課題を解決するため、平成30年11月30日に成立、同年の12月7日に公布された。具体的な内容としては自然状況が適切であり、漁業、海運業等の先行利用に支障がなく、発電した電力を供給することができるなどの条件を満たす海域を促進区域と定める。そして、公募によって長期的・安定的・効率的な観点から最も優れている事業者が最大30年その区域の占有許可を得ることができるというものである。現在経済産業省資源エネルギー庁及び国土交通省港湾局は、「秋田県能代市、三種及び男鹿市沖」「秋田県由利本荘市沖(北側と南側)」「千葉県銚子市沖」の3か所(4区域)を促進区域に指定している。
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"text": "発電に使用される風車は風力タービン、風力発電機、風力発電装置などと呼ばれる。形式としては水平軸のプロペラ型が最も多く用いられている。(風車参照)その他、用途に応じて垂直軸のダリウス型、ジャイロミル型、サボニウス型またはその併用型を用いる場合もある。また直線翼垂直軸型、スクリューマグナス風車(「マグヌス効果」参照)もある。風車以外では、振動板に風を受け、圧電素子で電力を得る方法が研究されている(ブレードレス)。",
"title": "風力タービン"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "一般的な水平軸プロペラ式では大きく3つの構成要素からなる。",
"title": "風力タービン"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "風力原動機はローターの直径が大型化するに伴い効率が向上し、採算性も向上する。地上付近では地面や障害物等による摩擦があり、高所の方がより効率よく風を捉えられるのが大きな理由である。このため発電事業用の風力原動機は大型化する傾向にある。2005年は、世界的に2.5MWクラスが中心であった。2008年には5MWの機種も登場している。しかしながら、保守の観点から考えるならば、ロータ径が大型化するにつれて、タワーは高くなり、ブレードは長くなることから、点検や補修に困難が生じやすくなる。",
"title": "風力タービン"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "発電量はローターの半径の2乗、風速の3乗に比例する。効率は最高59%である(ベッツの法則)。1919年、ドイツのアルバート・ベッツにより導き出された。",
"title": "風力タービン"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "日本メーカーでは1MWクラスが主流であったが、近年、2MWから2.4MWクラスのものが商品化された。また、家庭への普及を狙って小規模の風力原動機を商品開拓する動きもある。",
"title": "風力タービン"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "大型機における原動機部分の寿命は通常20年程度とされる(機種や条件によっては30年とする場合もある)。設計寿命は主に耐久性とコストのバランスで決定される。基礎部分の寿命は50年程度で設計し、2世代に亘って利用することが可能である。なお日本では風力発電設備の減価償却資産としての耐用年数が17年とされることからこれを寿命の代わりに用いて計算する場合があるが、その分発電コストを5%程度高く見積もることになる。",
"title": "風力タービン"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "寿命を迎えた原動機については、集中型発電所に比べ、更新で一度に止める風車の数が少なく工期も短いため、発電所全体の稼働状況に与える影響は少ないとされる。",
"title": "風力タービン"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "風力発電機メーカー市場のシェアは2018年時点でデンマークのベスタス社が22%で1位、中華人民共和国のGoldwindが15%で2位、米国のGE社が11%で3位となっている。",
"title": "風力タービン"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "日本のメーカーでは、2000年代、三菱重工業、日本製鋼所、富士重工業などが生産していたが、国内の受注量が伸び悩み次々と撤退。富士重工の風力発電事業は、2012年に日立製作所が買収してテコ入れが行われたが、日立がドイツのエネルコンと提携していることもあり、独自生産を続ける必要性が低下。2019年には発電機生産を終了する方針が報道された。",
"title": "風力タービン"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2020年にはJE Windが陸上2MW風力発電機および洋上の5MW風力発電機の国際型式認証を取得し、MW級風力発電機のメーカーとしては唯一の日本企業となっている。",
"title": "風力タービン"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "風力発電機の設置工事に必要な期間(工期)は、規模や環境にもよるが、概して他の発電方式よりも短い。1基では通常3か月から4か月とされる。20基程度では10か月から11か月、50基から100基程度の大規模な集合型風力発電所でも1年から2年ほどの例がある。 デンマークの沖合6-15kmに2MW基を80基、合計160MWを建設した実例では、現場での建設作業は約半年、製造から含めても約1年半で済んでいる。これは他の大規模集中型発電所(原発や地熱発電所など)に比べると格段に短い。これは需要構造の変化への対応や機器の更新を容易にする他、工事期間中の利子も低く抑える効果がある。例えば、下記のような利益が得られる。",
"title": "建設と保守"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ただし、工事に先立って風況調査などにある程度の準備期間が必要になる。また近年の需要急増により、納期が1年を超える例も見られる。",
"title": "建設と保守"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "保守については、一般に風力発電機は大規模集中型発電所(原子力発電所や大型火力発電所など)に比して修理や点検が比較的容易であり、必要な時間も短くできるとされる。 ただし日本の場合は2008年時点で風力発電機の8割程度が輸入品であるため、修理部品などは海外から取り寄せる場合が多くなる。そのため部品が届くまで数か月かかることがある。",
"title": "建設と保守"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "集合型風力発電所は、多数の風力タービンを1カ所に設置し発電する施設。ウィンドファーム(wind farm)とも呼ばれる。大規模なものでは数百平方マイルの広大な敷地に数百の風力タービンが並ぶが、タービンとタービンの間の土地は農耕など他の用途に利用できる。洋上に設置される場合もある。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "可倒式風力発電設備は、支柱を倒すことができる風車を利用した発電施設。強風が予想された場合に倒すことで台風の被害を防ぐ事が出来る、メンテナンスを地上で行える、設置に大型の重機を必要としないと言った利点がある。 通常の風力発電施設は台風クラスの強風にも耐えうるための構造をしているが、その強風を避ける性質をもつ可倒式設備では、変形にコストが必要になるものの、強度構造のためのコストを削減できる。また、通常型の設備でも台風での被害は防ぎきれるものではなく、台風常襲地域にとっては可倒式にすることで損傷、破壊を防ぐコストメリットが生まれる。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "海上に風力発電機を設置することを洋上風力発電(オフショア風力発電、海上風力発電、海洋風力発電)と呼ぶ。 地形や建物による影響が少なく、より安定した風力発電が可能となる。また立地確保、景観、騒音の課題も解決できる。2010年末時点で、欧州を中心に3GW以上が導入されている。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "比較的浅い海底に基礎を設置しその上に風力タービンを設置する着床式と、水深が深い場所で浮体の上に風力タービンを設置する浮体式があり、浮体式の場合は位置の固定は係留によって行う。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "水深が浅い海域において海底に基礎を建造し、大規模なウインドファームを建設する例が各国にある。元々はデンマークを中心に建設が進められてきたが、近年になって欧州全域に広がる勢いをみせており、特に英国における伸びが著しい。英国政府が掲げるその目標は、2020年までに洋上風力発電設置容量33GW(Round 1,2,3合計)導入目標という壮大なものである。ドイツにおいても、北海における国家プロジェクトAlpha Ventus 60MWを皮切りに、2009年以降の導入加速が見込まれる。日本においても港湾内などにおける建設例が見られ、2010年3月には茨城県にて初の港湾外への設置事例が稼働を開始している。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2009年にノルウェーにおいて、フルスケールとしては世界初の浮体式洋上風力発電施設Hywindが建設された。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "日本では、2020年末の時点で日本の洋上風車28基のうち10基が北海道と東北に設置されている(だが、残りの18基は別の地域であり、そちらのほうが数は多い)。なお北海道や東北などの海岸部では安定した風力(平均風速6m/秒以上)が得られるので、その地域の割合が比較的多くなっている。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "日本国内の実証実験による2022年時点でのイニシャルコストを比較すると次のようになる。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "つまり浮体式はコスト高となっている(それに比べれば着床式はさほど高くない)。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "九州大学の研究者を中心に、海上に巨大な風力発電所を造り、新しいエネルギーとして活用しようという構想の研究会が発足している。 構想によると、海上にはちのす状に浮かべた六角形のコンクリート構造物(一辺300メートル)の上に、従来の2倍以上の風力を得る直径100メートルの風力原動機を設置。送電線は使わず、得られた電力で海水を電気分解して水素を作り、その水素を船で陸に輸送して水素発電や燃料電池に使うというもの。高強度の新素材や効率的な風車、水素貯蔵などの最新技術を組み合わせ、原発1基分に相当する100万キロワット級の発電を低コストで目指している。新素材の耐用年数は100年以上とされ、発電コストは原発の半分以下に抑えられる。六角形の浮体の内部を養殖場にすることで、漁業補償の問題も解決できるとしている。資金の目途が付けば6年から7年で技術確立が可能としている。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "米国、ヨーロッパでは次世代の風力発電として、強くて安定した風が得られる上空に風船などで風力原動機を持ち上げて設置する空中風力発電機(AWT,英語: Airborne wind turbine)などのアイデアが検討されている 。",
"title": "風力発電所の形式"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2021年の全世界の風力発電累計導入量は1,870TWh。",
"title": "風力発電の状況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "日本では、2004年ごろから風力発電が本格的に導入が開始され、以後、徐々に普及してきており、2014年時点で全国に約2000基、発電能力の合計は約250万キロワットとなっている。普及に伴い、風車部分が丸ごと落ちるなど、惨事に繋がりかねない事故も起こったため国土交通省と経済産業省が審査をしている。日本の風力発電所で有名なのは、北海道では苫前町と稚内市など、本州では秋田県の洋上が挙げられる。",
"title": "風力発電の状況"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "日本では今までは欧米諸国に比して普及が進んでこなかったが、反原発派からは、日本政府や与党が(既存の電力会社にばかり忖度して)洋上風力発電への取り組みが足りなかったことや、台風に耐えうる風車は欧米に比べてコストが上がることや、日本では再生可能エネルギーとしては太陽光発電ばかりに気をとられていた、日本の電力会社は(原子力発電の擁護・推進をするばかりで)風力発電事業に関しては消極的であったので、代わりに自治体による自治体風車や、市民グループによる市民風車等のプロジェクトの取り組みが進んだという原発要因説がある。",
"title": "風力発電の状況"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2019年時点の風力発電設備容量は205GW。総発電力需要の15%程であった。",
"title": "風力発電の状況"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "スペインでは2010年に風力発電で電力需要の16.6%を供給し、また電力由来の二酸化炭素排出量の26%を削減した。非化石エネルギーのシェア増加により電力コストが抑えられて隣国フランスよりも安価となり、2010年には8.3TWhを輸出した。また2011年3月には風力発電による月間の発電量が21%を占め、原子力やガス複合火力を抜いて最大の電力供給源となった。",
"title": "風力発電の状況"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "米国は、以前からカリフォルニア州やテキサス州で大規模な風力発電ファームを建設していたが、2008年5月にエネルギー省(DOE)が2030年までに電力需要の20%に相当する約290GWを風力発電で賄うという目標を立ててからさらに設備量が増えた。しかし2010年には金融危機等の影響で市場が前年より縮小し、中国に累計導入量で抜かれた。",
"title": "風力発電の状況"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州には2014年1月現在で世界で最大の風力発電所であるアルタウインドエナジーセンターが存在する。大手の風力発電機製造企業としてGEエナジーが存在する。",
"title": "風力発電の状況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "風力発電は、水力発電に次いで再生可能エネルギーの中では採算性が高く、大規模なものについては天然ガス等の火力や原子力と競争可能なコストまで下がっている。",
"title": "費用と効率性"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また、実質的にドイツで始まった「固定価格買取制度」は風力をはじめとした再生エネルギー支援の一般的手法となっている。",
"title": "費用と効率性"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "大規模に導入しているデンマークにおいては、風力発電の経費は過去20年間で80%以上削減され、通常電力と競争可能な水準まで低下した。温暖化対策費まで考慮すると、欧州における風力は石炭火力より発電経費が一桁少ないとする試算もある。なお、近年の資材の高騰により、装置価格の増加も報告されている。",
"title": "費用と効率性"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "風力発電は一度設置してしまえば、その後は、化石燃料の価格変動による影響がほぼ保守費用などに限られるため、その分事業が安定化する利点がある。",
"title": "費用と効率性"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "火力発電を減らして風力発電で代替するにあたっては、出力変動などの対策、および、送電網の拡張や予備発電設備容量の確保等が必要となる。一般的には、一定程度の導入割合までは、その追加費用が実用的な範囲で済むとされる(例:)。欧州では域内での風力発電などの増加に対応した系統の拡張が検討されている。",
"title": "費用と効率性"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "風力発電は小規模分散電源であり、導入規模や範囲が増すほど全体的な信頼性と安定性が高まり、発電コストも低減する。",
"title": "費用と効率性"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "「生産から設置・運用から廃棄に至るまでのライフサイクル中に投入するエネルギー」を「風力により生み出すエネルギーによって節約できる」までの時間をエネルギーペイバックタイム(EPT)、また寿命との比をエネルギー収支比(EPR)という。原動機の性能および設置場所の風況に大きく左右されるが、通常EPTは数か月程度とされる。またエネルギー収支比は38から54とも見積もられている。大型化などの技術改良のほか、リサイクルや基礎部の再利用等によって今後も改善が見込まれている。",
"title": "費用と効率性"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "風力発電の発電量当たりの温室効果ガス(GEG)排出量は小さく、日本では25g-CO2/kWhから34g-CO2/kWhなどの計算例がある(g-CO2/kWhはライフサイクル中に排出される温室効果ガス(GEG)を二酸化炭素(CO2)に換算し、発電量あたりに直した値)。この値は設置地点毎の風況や風車の性能に左右される。近年の大型で高性能な風車ならば、10g-CO2/kWhを切る場合もあるとされる。設置効果は750kW機1基が500エーカー(約2平方km)の森林に相当するとも言われる。",
"title": "費用と効率性"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本の電力の平均GEG排出量は 約346g-CO2/kWh(発受電端、2001年)と計算されている。例えば寿命20年でGEG排出量が25g-CO2/kWhの場合、CO2ペイバックタイム(CO2的に「元が取れる」までの利用期間、CO2PT)は 20×(25/346)=1.45年 となる。10g-CO2/kWhならば約7か月である。",
"title": "費用と効率性"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "諸課題の中でも(出力変動、強風対策などの)技術的課題については、性能や安全性の向上を狙った開発競争の焦点となっている。従来問題点とされてきた点の多くは技術的に対処が可能とされる。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "風力発電の課題のひとつに騒音対策・低周波対策がある。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "人家に近接して設置された場合に、近隣住民がめまい・動悸・耳鳴りなどの違和感を訴える例が出てきた。ブレードやタービン部が出す風切り音などの騒音や低周波振動が原因だろうと指摘されるようになった。日本各地で建設反対運動が起き、ドイツでは建設済みの発電所の撤去を命じる判決も出た。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "騒音・低周波などが報道などで知られるようになり、設置計画に対して予定地の住民の反対運動がおきる例も出たため、騒音や低周波の対策が研究され、対策が検討されたり、それが具体的に打たれるようになった。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "技術的な改善策の1つが、ブレードの翼断面の改良である。昔の風車では航空機用の翼断面を用いていたため、翼端周速が100m/sから120m/sに達し、騒音を大きくする要因となっていた。この翼端周速は風車専用の翼断面(厚翼)を用いることで大幅に低下し、現在は大型機でも60m/s程度となっている。さらに、多極式発電機の採用によるギアレス化(ギアノイズを排除)、ダウンウインド型からアップウインド型への移行(タワー下流の乱れた気流を横切る音を排除)などの対策により、騒音は200m-300m程度離れれば周囲の風音と区別がつかない水準(または「冷蔵庫程度の騒音」)にまで減少する。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、風力発電機が立てられ始めた頃から、電波障害への懸念が相当数存在していたが実際にはそれほどの苦情は発生していない。電波障害となる要因には遮蔽障害と反射障害が考えられ、それぞれが回転翼部分と静止しているタワーとその先端のナセル部分が影響する可能性がある。21世紀現在の回転翼は全て繊維強化樹脂製であり電波に対して有意な影響を与えないと考えられるため、TV送信塔と住宅との間に設置しない事やナセル筐体の反射を低減する等のナセルとタワーの影響を事前に確認することで解決できる。また、ナセル内の発電機や付随する電力機器類からの電波ノイズの防止と遮蔽も考慮されなければならない。 騒音以外にはシャドーフリッカーもしくはストロボ効果といわれる回転する羽によって断続的に横切る影が問題視され、これは生態系にも影響を与えると考えられている。対策としては今のところ太陽が低位置にある場合は風車を停止する以外にはない。風力発電装置は民家からできるだけはなれたところに設置することが望ましいとされており、計画段階からそれに注意すべきであるとされる。イギリスでは民家から5kmの距離を取る様に定められている。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "鳥類レッドリストに該当するイヌワシ、クマタカ、オオタカ、フクロウ、ノスリなどの希少猛禽類の幼鳥が、風力発電のブレード(回転羽根)に衝突(バードストライク)して死亡するケースがある。衝突死の多くは鳥が風車の回転範囲を通り抜けようとして、回転翼を避けずに体が切断されることにより生じる。一説にはモーションスミア現象によって高速の羽根が見えず、反対側の景色が透けて見えるため鳥が気づかないためといわれている。鳥類の目は人間に比べモーションスミアが起こりやすいという実験結果が出ている。鳥類は生息地の喪失、繁殖の妨害、採餌地の喪失、などの影響も受けているが、バードストライクは鳥の大群が通るルートの地域で多数発生していることがわかっている。設置する場所や形態の選定さえ適切ならば、通常の送電線以下の危険性しか及ぼさないとの報告もある(クローネ (Krone) 他)。米国での年間平均バードストライク数は大型風車1基につき2.19羽(2001年)ドイツでは同0.5羽である(すべて狐などによる死骸持ち去り数を調整済み)。米国でのバードストライク総数は年間約10億羽であるが、風車によるものは0.01%であり、窓ガラスなどに比べてきわめて低い数字である。英国王立鳥類保護協会も「適切に設置された風力発電所は、鳥類に大きな脅威を及ぼさないと考える」と表明している。スペインの影響調査では風車設置場所を飛行する鳥類の死亡率は0.1%から0.2%と報告されている。一方、2007年から三重県で行われた調査では、繁殖期のテリトリー密度と種数密度で/4に減少したとする報告がある。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "技術的には、下記のような対策が考慮される。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "他に渡り鳥の飛行ルートへの悪影響についても懸念されており、渡りの重要なルートへの設置は避ける必要がある。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "陸上風車の建設工事で生じる土地改変(森林伐採など)により流出する土砂が下流域を汚染する場合がある。特にサンショウウオなど希少動物は生息する源流の汚濁に敏感なため、悪影響が心配されている。洋上風車の場合も工事中に伴う海水の濁りなど、周辺環境への影響を完全に除くことは難しい。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "風力発電機の設置に当たっては、自然景観への影響が問題になる場合もある。例えば風光明媚な観光地などでは、風力発電機の設置によって景観が変わるために反対された。一方、大型風車が林立する雄大な光景を新たな観光資源とする動きもある。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "米国と英国でのウインドファーム建設直後と1年後の周辺住民への意識調査ではいずれも、2回目が景観と騒音での反対が少なくなっている。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "風力発電の出力は昼夜問わず不随意に変動するため、需要への追従は基本的に他の調整力に富んだ電源(火力発電、貯水式水力発電など)に頼ることになる。また風力発電所の側でも、ある程度の出力の平滑化や負荷追従を行う場合があるほか、近年は発電量の予測技術も用いられている。一般的には、発電量の10%程度までは大きな問題にならないが、20%を超えると追加コストが目立って増えると言われている。スペインと周辺国間では電力取引所での取引を用いた輸出入によって変動の一部を調整する例が見られる。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "風力発電は風速の変動に従って出力が需要と無関係に変動し、電圧や力率の変動をもたらす。この変動は一般に太陽光発電に比べても大きい。特に導入量が小規模の場合は高い周波数成分を含む変動が多くなる。しかし大規模に導入した場合、変動は大幅に緩和され、系統側の負担が小さくなる(#導入規模の効果参照)。実際、デンマーク、ドイツ北部、スペインなどにおいて、信頼性を犠牲にせずに電力供給量の20-40%を風力で賄えることが実証されている。また既存の系統に風力発電を追加する場合、新たなバックアップ電源を付加する必要は無いとされる。ただし系統容量に占める風力発電の割合が大きい場合は、ある程度の蓄電設備を加えることで系統全体で見た発電コストを低減できる場合もあるとされ、検討や実験が進められている。こうした対策にはコストもかかるが、ある程度の導入割合までは実用的な範囲とされる(#費用対効果参照)。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "個々の風車やWF単位で出力を平滑化するには、下記の対策が有効とされる。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "この他、風力発電で得られた電力から水素を製造する手法も研究されている。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "風力発電の導入価値は、風の強い時間帯(季節)と電力需要の多い時間帯(季節)が重なる場合に相対的に大きくなる。一般には、夜間や冬期の暖房需要の多い場合には他の電源に比較して特に導入価値が高くなる。マッチしない場合(他電源による夜間電力が既に余っている場合など)にはその分価値が低くなる。また需要に対して発電量が不足する場合は、他の電源に頼ることになる。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "風力発電機の最大の敵は強すぎる風である。風力発電機には定格風速があり、定格を大幅に超える速度で運転すると原動機の焼損やブレードの破損などを招く場合がある。そのため風速が過大な場合は、保護のために速度を抑制するか、場合によっては一時的に発電を停止する。支柱ごと倒して強風をやり過ごすものもあるが少数である。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "強風や変動に対しては、下記のような対策が用いられる。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "陸上設置の場合は、風力発電機は1MWp(1000kwp)あたり50エーカー(約20ヘクタール)ほどの面積を必要とする。ただし風車そのものが占有する面積は主に支柱であるため5%以下であり、畑や牧草地など、高さを必要としない利用が行われる場所に設置すれば土地の確保の問題は小さくなる。風力発電が一般的になり、風車公害の可能性もテレビ番組などで紹介され認知されるようになったので、近隣に人家がある場合は設置への反対運動が起きることがある。周辺地域と比較して高所に設置する場合には、立地点の整備や資材運搬、運用時のメンテナンスのために林道を造成する必要があり、それに伴う樹木の伐採が問題視される場合がある。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "もっとも、近年は陸上に設置しない洋上風力発電も検討されつつあり、その場合は陸上設置にともなう諸問題は解消する。しかし、洋上風力は一般にコストが高い。",
"title": "課題"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "風力発電の事業化にあたっては、事前の風況の調査が重要である。風は不随意に変動するが、その変動量や変動速度、平均強度などは確率的に取り扱うことが可能である。風力発電の発電量もまた、確率・統計的に取り扱うことができる。このため事前にある程度の量のデータを集めておくことにより、相応の確度で風況や発電量の予測を行うことができる。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "近年では計算機を用いた局地気象解析技術により、短時間の変動についてもある程度の発電量の予測が可能になっている。既に商用サービスも開始されている。近年は一定規模以上の発電事業者に対し、発電量の予測を義務づける国もある(固定価格買い取り制度#併用される制度参照)。",
"title": "課題"
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"paragraph_id": 68,
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"text": "逆に風況調査に不備のある場合、当初見込みよりも発電量が少なく、赤字となる場合がある。発電量が予測を下回ったなどの事情で稼働継続に値しない状況になった場合やより高性能な機種に置き換える場合などは、地中に打ち込んだ基礎部分の移動は難しいが、上部の風力原動機は基本的に移設や転売が可能である。近年は欧州などで風力発電機の中古市場も拡大している。",
"title": "課題"
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"text": "風力発電機も他の発電方式同様、事故と無縁ではない。構造物の破損や運用・保守作業中のミスなどにより、下記のような事故の例が見られる。",
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"text": "こうした事故の背景として、機械的強度を十分にテストしないままに発電塔を巨大化したのが原因ではないかという指摘もなされている。",
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"text": "風力発電機のリサイクル技術は数が多くないこともあり開発途上である。鉄などの金属類はリサイクルされるが、ブレードで一般的に用いられる繊維強化プラスチックについてはリサイクル技術が普及しておらず、焼却などで処分される。使用済みのブレードからガラス繊維をリサイクルする技術は開発されている。",
"title": "課題"
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"text": "現在、日本では再エネ海域利用法の導入が進んでいる。再エネ海域利用法とは、海外でコストの低下が進み、再生可能エネルギーの最大限の導入と国民負担抑制を両立する観点から重要な洋上風力発電を導入しようとした。しかし海域の占有に関する統一のルールがなく、先行利用者との調整ができていなかった。これらの課題を解決するため、平成30年11月30日に成立、同年の12月7日に公布された。具体的な内容としては自然状況が適切であり、漁業、海運業等の先行利用に支障がなく、発電した電力を供給することができるなどの条件を満たす海域を促進区域と定める。そして、公募によって長期的・安定的・効率的な観点から最も優れている事業者が最大30年その区域の占有許可を得ることができるというものである。現在経済産業省資源エネルギー庁及び国土交通省港湾局は、「秋田県能代市、三種及び男鹿市沖」「秋田県由利本荘市沖(北側と南側)」「千葉県銚子市沖」の3か所(4区域)を促進区域に指定している。",
"title": "再エネ海域利用法"
}
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風力発電(ふうりょくはつでん)とは、風の力でタービンを回して発電すること。風のエネルギーを電力(電気のエネルギー)に変換する。再生可能エネルギーの一つ。
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[[File:Wind turbines, Thanet Wind Farm - geograph.org.uk - 5092483.jpg|thumb|right|280px|イギリス東部[[ケント (イングランド)|ケント州]]サニット沖11kmにあるサニット風力発電所]]
[[File:Otonrui Wind Farm, Horonobe - Sep 7, 2014.jpg|thumb|280px|北海道[[幌延町]]のオトンルイ風力発電所。]]
<!--[[File:稲取風力発電所 - panoramio.jpg|thumb|風力発電用の風車群]]-->
{{再生可能エネルギー}}
'''風力発電'''(ふうりょくはつでん)とは、[[風]]の力で[[タービン]]を回して[[発電]]すること。風の[[エネルギー]]を[[電力]](電気のエネルギー)に変換する。[[再生可能エネルギー]]の一つ。
== 歴史 ==
[[イギリス]]では1887年に[[グラスゴー]]の[[ジェイムズ・ブライス_(技術者)|J.ブライス]]が垂直[[風車]]により出力3[[キロワット|kW]]の発電を開始したとされる。[[アメリカ合衆国]]では1888年に[[クリーブランド]]の[[チャールズ・F・ブラッシュ|C.F.ブラッシュ]]が直径17m144枚のブレードからなる巨大な多翼風車で12kWの風力発電を1908年まで20年間使用されたとされる。1891年には[[デンマーク]]のアスコウ(Askov)で[[ポール・ラ・クール]]によって風力発電研究所が設立され、風力発電で[[電気分解]]した[[水素]]と[[酸素]]で発電の実験が実施された<ref>[https://web.archive.org/web/20120615120933/http://cert.shinshu-u.ac.jp/gp/el/e06a2/class08/class08-2.html 風車の使用法〔過去〜現在〕]</ref>。[[日本]]では1949年に[[山田基博]]が[[北海道]][[札幌市]]に(株)山田風力電設工業所を設立して風車の本格的製造を開始した。[[オイルショック]]を機に風力発電などの[[代替エネルギー]]への関心が高まり、1973年に[[足利大学|足利工業大学]]、[[三重大学]]が風力発電の研究を開始。1975年に[[鶴岡高専]]、[[山形大学]]が風車の研究を始めた。その後、複数の教育機関や企業が参入したものの、1980年代には石油の安定供給、価格下落により研究開発は下火になり、1990年代に入ると[[地球温暖化]]への対策の一環として再び、風力発電への関心が高まった。1970年代とは異なり、[[複合材料]]や[[パワーエレクトロニクス]]、[[数値流体力学]]による[[シミュレーション]]技術の発展により世界各地で普及が進んだ<ref>[http://jwea.or.jp/document/rekishi.pdf 我が国における風力発電の歴史(1869 年〜2008 年)]</ref><ref>松岡憲司([[龍谷大学]]経済学部)『[http://www.econ.ryukoku.ac.jp/~kenji/fushimi/pdf/s_matsuoka.pdf 地域資産としての新エネルギー]』2023年1月12日閲覧</ref>。
== 特性 ==
風力発電は従来の集中型電源と様々な点で異なる特性を持つ。
=== メリット ===
{{出典の明記|date=2023年9月26日 (火) 16:26 (UTC)|section=1}}
{{独自研究|date=2023年9月26日 (火) 16:26 (UTC)|section=1}}
主に環境負荷の小ささ、[[化石燃料]]の使用量削減、[[エネルギー安全保障]]、産業振興・雇用創出などが挙げられる。
* [[温室効果ガス]]である[[二酸化炭素]]などの排出量の低減効果がある。
* 比較的発電コストが低く、事業化が比較的容易である。
* エネルギー自給率の向上が見込める。
** [[経済安全保障]]上の大きなメリット。石油や天然ガスなど地下資源に恵まれていない国(含 日本)でも、風にさえ恵まれていれば発電できる。戦争を始める産油国・ガス産出国があってその国(ロシアなど)からの天然ガスや石油の輸入を制限せざるを得なくなっても、発電を継続することができる。
* 小規模分散型の電源であるため、事故や災害など有事の際の影響を最小限に抑え、全体の稼働率を高くできる。
* 工期が短く、需要総量の変動に対応しやすい。また投資してから運転開始までの利子も少なく済む。
* 運転用燃料を必要としないため、物価変動由来(インフレなど)の事業リスクを減らせる。
* 大規模集中型の発電所に比較して、修理やメンテナンスに要する期間を短くできる。
* 離島など、燃料の確保や送電コストの高い地域の独立電源として活用できる。
* 冷却水を必要としない。
* 小型のものは需要地に隣接して設置可能であり、送電コストの低減に役立つ場合がある。
* 個々の設備が比較的小規模で個人でも運用可能である。
* 風が吹けば夜間を含めいつでも発電が可能である。
=== 課題と解決策 ===
{{出典の明記|date=2023年9月26日 (火) 16:26 (UTC)|section=1}}
{{独自研究|date=2023年9月26日 (火) 16:26 (UTC)|section=1}}
課題 → 解決策の例 という形式で記述する。
* 出力電力の不安定性、不確実性。[[風速]]の変動に伴って、出力の電圧や[[力率]]が需要と関係なく変動する。 → [[蓄エネルギー]]システムと併用する。
* [[風力原動機]]を設置する場所の風況が発電の採算性に大きく影響する。 → 事前の調査、試算を正確に行う。ひとつの業者の提示する数字を盲信せず、複数の業者や研究者に試算させ、数字と数字を比較して、各試算の信憑性を検討する。試算で採算が取れないと判明した場所では無理に建造することは止める。
*陸上に設置する場合で周囲に住宅がある場合は、騒音被害を与える場合がある。→ 人家が無い海岸や洋上に設置することで、住宅から距離を離す。
*陸上に設置する場合は、周辺の環境への悪影響が生じる場合がある。(地元が[[景観]]や[[森林破壊|森林の破壊]]を理由に反対することもあり、日本では[[御釜 (蔵王連峰)|蔵王連峰の景勝地「御釜」]]周辺での計画が[[宮城県知事]]などによる反対で中止された例がある<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20230110-OYT1T50107/ 陸上風力 地元「待った」東北の首長ら 環境・景観への影響懸念 事業縮小・撤退も]『[[読売新聞]]』夕刊2023年1月10日8面(2023年1月12日閲覧)</ref>。) → 洋上ならば比較的、環境問題が生じにくい。(秋田県の洋上風力プロジェクトは成功している。)
* [[台風]]、[[サイクロン]]などによる強風で、定格を大幅に超える速度で運転すると、風力発電機の破損を招く場合がある。→ 台風発生時にはブレードの回転をしっかりと止める。
* [[落雷]]で故障することがある。
* 大きい風力発電の場合、ブレードに[[鳥]]が巻き込まれて死傷する場合がある。→ 事前に調査を行い、渡り鳥が大量に通る通り道と分かっている場合は、建造を止めることを検討する。
*風車は年々タワーは高く、ブレードは長くなる傾向にあり、それに伴い点検や補修に係るコストも増大してきた。→ 風力タービンをできるだけ国内で生産することでそのお金が国内産業にもたらされるようにする。塔の部分は全て国産が望ましく、それに加えてナセル部分もできる限り国産化を目指す。(秋田県の風力発電プロジェクトではできるだけ国産化する方向、地元の人々を雇用する方向で動いている。)お金が地元に落ちるようになり地元の人々が雇用されるようになると、そのお金は単なるコストではなく、ほぼ《経済効果》になり地元が広範囲に潤う。
* 現時点ではコスト面で法的助成措置を必要とする場合が多い。
*<!--系統の拡張はどの発電方式でも同様。 {{要検証|date=2023年9月}}系統の拡張などにある程度の追加費用を要するとされる。-->
<!--余剰電力があるということは他の地域に売電できるということであり、つまりメリットである。秋田では周辺の県に電力を輸出する輸出県になる予定。余剰電力があることはメリット。* {{要検証|date=2023年9月}}風量によっては余剰電力が大きくなる。-->
<!-- * {{要検証|date=2023年9月}}原子力発電も火力発電も地震で発電停止することがあるが、本当に「風力発電の短所」と言っている学者がいるのか? {{要出典範囲|[[地震]]によって発電停止することがある。|date=2023年9月}}-->
<!--* {{要出典範囲|風力により発電した電力を送配電会社の送電線へ送電開始する際に「[[瞬断|瞬時電圧低下]]」を生じさせる。|date=2023年9月}}-->
== 風力タービン ==
{{see also|風力原動機}}
発電に使用される風車は風力タービン、風力発電機、風力発電装置などと呼ばれる。形式としては水平軸の[[プロペラ]]型が最も多く用いられている。([[風車]]参照)その他、用途に応じて垂直軸のダリウス型、ジャイロミル型、サボニウス型またはその併用型を用いる場合もある。また直線翼垂直軸型<ref>http://www.hiatec.co.jp/new_ene/winpro/map.html{{リンク切れ|date=2023年1月}}</ref>、スクリューマグナス風車(「[[マグヌス効果]]」参照)もある。風車以外では、[[振動]]板に風を受け、[[圧電素子]]で電力を得る方法が研究されている</small><ref>http://www.nagaoka-ct.ac.jp/me/events/presen/H16-35.pdf{{リンク切れ|date=2023年1月}}</ref>(ブレードレス)。
[[ファイル:EERE illust large turbine.gif|thumb|水平軸プロペラ式]]
一般的な水平軸プロペラ式では大きく3つの構成要素からなる。
* ローター部
*: ブレード(翼)、ローター軸、ハブなどで構成。風力タービンコストの約20%を占める。風の運動エネルギーを低速の回転エネルギーに変換する。
* 発電機部
*: 風力タービンコストの約34%を占める。発電機軸、発電機<ref>{{cite journal | journal = International Journal of Dynamics and Control | title = A Review on the Development of the Wind Turbine Generators across the World | author = Navid Goudarzi | publisher = Springer | date = June 2013 | volume = 1 | issue = 2 | pages = 192–202 | url = http://link.springer.com/article/10.1007/s40435-013-0016-y}}</ref><ref>{{cite journal| journal = ASME 2012 International Mechanical Engineering Congress and Exposition | title = A Review of the Development of Wind Turbine Generators Across the World | author = Navid Goudarzi, Weidong Zhu | publisher = ASME | date = November 2012 | volume = 4 - Paper No: IMECE2012-88615 | pages = pp. 1257–1265 | url = http://proceedings.asmedigitalcollection.asme.org/proceeding.aspx?articleid=1750788}}</ref>、制御機器、増速機([[遊星歯車機構|遊星歯車]]など)、<ref>{{cite web|author= |url=http://www.hansentransmissions.com/en/hansen_w4.html |title=ZF Friedrichshafen AG |publisher=Hansentransmissions.com |date= |accessdate=2013-11-06}}</ref>などで構成され、ナセルと呼ばれる[[筐体]]に収納される。増速機は発電に適した回転速度に調節する役割がある。
* 支持・構造部
*: 風力タービンコストの約15%を占める。基礎、タワー、[[ヨーイング|ヨー]]制御システムなど<ref>{{cite web|url=http://www.nrel.gov/docs/fy07osti/40566.pdf |title="Wind Turbine Design Cost and Scaling Model", Technical Report NREL/TP-500-40566, December, 2006, page 35, 36 |format=PDF |date= |accessdate=2013-11-06}}</ref>で構成される。
=== ローター径と効率 ===
風力原動機はローターの直径が大型化するに伴い効率が向上し、採算性も向上する。地上付近では地面や障害物等による摩擦があり、高所の方がより効率よく風を捉えられるのが大きな理由である。このため発電事業用の風力原動機は大型化する傾向にある。2005年は、世界的に2.5[[メガワット|MW]]クラスが中心であった。2008年には5MWの機種も登場している<ref name="Germany5MW">[http://www.renewableenergyworld.com/rea/news/story?id=54098 5-MW BARD Near-shore Wind Turbine Erected in Germany, Renewable Energy World Online, 2008/11/18]</ref>。しかしながら、保守の観点から考えるならば、ロータ径が大型化するにつれて、タワーは高くなり、ブレードは長くなることから、点検や補修に困難が生じやすくなる。
発電量はローターの半径の2乗、風速の3乗に比例する。効率は最高59%である([[ベッツの法則]])<ref>{{PDFlink|[http://www.izumicorp.co.jp/enepdf/betz.pdf ベッツの法則]}}</ref>。1919年、[[ドイツ]]の[[アルバート・ベッツ]]により導き出された。
日本メーカーでは1MWクラスが主流であったが、近年、2MWから2.4MWクラスのものが商品化された<ref name="Nikkei_MHI">「[http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070728/131051/ 三菱重工の風力発電事業、瀬戸際から一気に形勢逆転へ]」NBOnline(2007年7月31日)</ref>。また、家庭への普及を狙って小規模の風力原動機を商品開拓する動きもある<ref>[http://venturewatch.jp/nedo/20060306.html 日本メーカーの小型風力原動機]</ref>。
=== 寿命 ===
大型機における原動機部分の寿命は通常20年程度<ref>[http://www.risoe.dk/rispubl/VEA/dannemand.htm#COST デンマーク風力省の資料]</ref><ref>[http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/foreigninfo/html9904-06/caddet-ee-795.html NEDO資料]</ref>とされる(機種や条件によっては30年とする場合もある)。設計寿命は主に耐久性とコストのバランスで決定される。基礎部分の寿命は50年程度で設計し、2世代に亘って利用することが可能である。なお日本では風力発電設備の[[減価償却]]資産としての耐用年数が17年<ref>[http://www.nta.go.jp/category/tutatu/shitsugi/houjin/05/12.htm 国税庁による解説]</ref>とされることからこれを寿命の代わりに用いて計算する場合があるが、その分発電コストを5%程度高く見積もることになる。
寿命を迎えた原動機については、集中型発電所に比べ、更新で一度に止める風車の数が少なく工期も短いため、発電所全体の稼働状況に与える影響は少ないとされる。
===発電機メーカー===
{{see also|風力原動機メーカー一覧}}
風力発電機メーカー市場の[[市場占有率|シェア]]は2018年時点でデンマークの[[ベスタス]]社が22%で1位、[[中華人民共和国]]の[[:en:Goldwind|Goldwind]]が15%で2位、[[米国]]の[[GEエナジー|GE]]社が11%で3位となっている<ref>[http://log.jwpa.jp/content/0000289663.html 2018年の世界の風車メーカのシェアの速報] 日本風力発電協会(2019年2月26日)</ref>。
日本のメーカーでは、2000年代、[[三菱重工業]]、[[日本製鋼所]]、[[富士重工業]]などが生産していたが、国内の受注量が伸び悩み次々と撤退。富士重工の風力発電事業は、2012年に[[日立製作所]]が買収してテコ入れが行われたが、日立がドイツの[[エネルコン]]と提携していることもあり、独自生産を続ける必要性が低下。2019年には発電機生産を終了する方針が報道された<ref>{{Cite web|和書|date=2019-01-25 |url= https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00006/012400011/|title=日立、風力発電機生産から撤退へ |publisher=nikkei BP |accessdate=2019-01-25}}</ref>。
2020年には[[JE Wind]]が陸上2MW風力発電機および洋上の5MW風力発電機の国際型式認証を取得し、MW級風力発電機のメーカーとしては唯一の日本企業となっている。
== 建設と保守 ==
<!--[[ファイル:Wind turbine-3 hg.jpg|thumb|150px|right|[[風力発電機]]のタワー部分の工事]]
[[ファイル:Scout moor gearbox, rotor shaft and brake assembly.jpg|thumb|right|150px|典型的な風力タービンを組み立てているところ(イギリス)。[[変速機|ギヤ]]ボック ス (増速機)、シャフト、[[ブレーキ]]ユニットなどが見える。]]-->
[[ファイル:Turbine Blade Convoy Passing through Edenfield.jpg|thumb|right|150px|風力発電機のブレードを設置場所まで運んでいる様子(イギリス)]]
風力発電機の設置工事に必要な期間(工期)は、規模や環境にもよるが、概して他の発電方式よりも短い。1基では通常3か月から4か月とされる<ref>{{PDFlink|[http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/pamphlets/dounyuu/fuuryoku.pdf NEDOによるまとめ]}}</ref>。20基程度では10か月から11か月、50基から100基程度の大規模な[[集合型風力発電所]]でも1年から2年ほどの例がある。
デンマークの沖合6-15kmに2MW基を80基、合計160MWを建設した実例では、現場での建設作業は約半年、製造から含めても約1年半で済んでいる<ref>[http://www.hornsrev.dk/Engelsk/Projektet/uk-Projektet.htm Horns Revウインドファーム] Horns Rev Wind Farm デンマーク</ref>。これは他の大規模集中型発電所([[原子力発電所|原発]]や[[地熱発電所]]など)に比べると格段に短い。これは需要構造の変化への対応や機器の更新を容易にする他、工事期間中の[[利子]]も低く抑える効果がある。例えば、下記のような利益が得られる。
*集中型発電所では工期が長い分、将来の需要増加の可能性を見越して常に多めに設備を建設しておく必要があり、また一基当たりの容量が大きい分、見込み違いによる無駄も多くなりやすい。しかし風力のような小規模分散型電源を用いる場合は、比較的短期かつ小さい単位での増設や移設が可能である<ref name="SmallIsProfitable">エイモリー・B・ロビンス、スモール・イズ・プロフィタブル、省エネルギーセンター2005年ISBN 4-87973-294-X</ref>。
*定期保守や修理に要する期間が短い(さらに多くの場合、個々の設備ごとに時期をずらして行うことが可能である)ため、系全体の稼働可能率をその分高くできる<ref name="SmallIsProfitable"/>。
*大規模な集合型風力発電所では、複数の工区に分けて順番に建設・稼働開始させ、意図的に将来の機器の更新時期をずらす場合がある。これによって機器の更新時期でも集合型風力発電所の大部分は稼働を続けることができ、需要の変化などによる財務リスクも抑制できる。また風力発電機は現在でも活発に技術開発が行わ れており、毎年のように性能が向上した機種が登場している。このため風力発電機を段階的に建設することで、後で着工・稼働開始する工区になるほど、より高性能の機種を導入できる利点がある<ref>[http://www.londonarray.com/about/ 最大271基を4回(4年間)に分けて建設する1GWのWFの例]</ref>。
ただし、工事に先立って風況調査などにある程度の準備期間が必要になる。また近年の需要急増により、納期が1年を超える例も見られる<ref name="CNET_leadtime">[http://news.cnet.com/8301-11128_3-9910667-54.html Wind turbines in short supply, CNET News, April 4, 2008 9:38 AM PDT]</ref>。
保守については、一般に風力発電機は大規模集中型発電所([[原子力発電所]]や大型[[火力発電所]]など)に比して修理や点検が比較的容易であり、必要な時間も短くできるとされる<ref name="SmallIsProfitable"/>。
ただし日本の場合は2008年時点で風力発電機の8割程度が輸入品であるため、修理部品などは海外から取り寄せる場合が多くなる。そのため部品が届くまで数か月かかることがある<ref name="Sankei090829">「[http://sankei.jp.msn.com/life/environment/090829/env0908292016002-n1.htm 風力発電の原点 苫前からの報告 故障、バードアタックなど課題山積]」[[産経デジタル|産経ニュース]](2009年8月29日)</ref>。
==風力発電所の形式==
{{double image|right|Darrieus-windmill.jpg|100|Sabonius type aerogenerator.JPG|100|左:ダリウス型風力発電機<br />右:ジャイロミル型発電機([[北海道]][[稚内市]])}}
=== 集合型風力発電所 ===
{{see also|集合型風力発電所}}
集合型風力発電所は、多数の[[風力原動機|風力タービン]]を1カ所に設置し[[発電]]する施設。ウィンドファーム(wind farm)とも呼ばれる。大規模なものでは数百平方マイルの広大な敷地に数百の風力タービンが並ぶが、タービンとタービンの間の土地は農耕など他の用途に利用できる。洋上に設置される場合もある。
=== 可倒式風力発電設備 ===
可倒式風力発電設備は、支柱を倒すことができる風車を利用した発電施設。強風が予想された場合に倒すことで台風の被害を防ぐ事が出来る、メンテナンスを地上で行える、設置に大型の重機を必要としないと言った利点がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.okiden.co.jp/company/recruit/adoption_detail/project-wind.html|title=可倒式風力を設置せよ 可倒式風力を設置せよ - 沖縄電力|accessdate=2018年4月10日|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00468489|title=沖縄電、トンガに可倒式風車を納入 西澤とODA参画|accessdate=2018年4月10日|publisher=}}</ref>。
通常の風力発電施設は台風クラスの強風にも耐えうるための構造をしているが、その強風を避ける性質をもつ可倒式設備では、変形にコストが必要になるものの、強度構造のためのコストを削減できる。また、通常型の設備でも台風での被害は防ぎきれるものではなく、台風常襲地域にとっては可倒式にすることで損傷、破壊を防ぐコストメリットが生まれる。
=== 洋上風力発電所 ===
{{see also|洋上風力発電|浮体式洋上風力発電}}
[[ファイル:DanishWindTurbines.jpg|thumb|250px|right|洋上風力発電所([[コペンハーゲン]]沖の[[:en:Middelgrunden|Middelgrunden]]洋上風力発電所]]
[[File:Offshore wind turbines at the Port of Noshiro 20230826.jpg|thumb|250px|[[秋田県]][[能代港]]沖の洋上風力発電所]]
[[ファイル:OffshoreWindPower-CumulativeCapacity.PNG|thumb|280px|right|洋上風力発電の累積設備容量推移<ref name="EWEA2011">[http://www.ewea.org/fileadmin/ewea_documents/documents/publications/reports/23420_Offshore_report_web.pdf Wind in Our Sails, EWEA, 2011, Figure 1.1]</ref>]]
海上に風力発電機を設置することを洋上風力発電(オフショア風力発電、海上風力発電、海洋風力発電)と呼ぶ。
地形や建物による影響が少なく、より安定した風力発電が可能となる。また立地確保、景観、騒音の課題も解決できる。2010年末時点で、欧州を中心に3GW以上が導入されている<ref name="EWEA2011"/>。
比較的浅い海底に[[基礎]]を設置しその上に風力タービンを設置する'''着床式'''と、水深が深い場所で浮体の上に風力タービンを設置する'''浮体式'''があり、浮体式の場合は位置の固定は[[係留]]によって行う<ref>[https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kou-ku/30300035.html 北九州市公式サイト「よくわかる洋上風力発電関係Q&A」]</ref>。
;着床式
水深が浅い海域において海底に基礎を建造し、大規模なウインドファームを建設する例が各国にある<ref>[http://www.hornsrev.dk/Engelsk/Projektet/uk-Projektet.htm 例1]</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.londonarray.com/wp-content/Non-techncal-summary.pdf 例2]}}</ref>。元々はデンマークを中心に建設が進められてきたが、近年になって欧州全域に広がる勢いをみせており、特に英国における伸びが著しい。英国政府が掲げるその目標は、2020年までに洋上風力発電設置容量33GW(Round 1,2,3合計)導入目標という壮大なものである。ドイツにおいても、北海における国家プロジェクトAlpha Ventus 60MWを皮切りに、2009年以降の導入加速が見込まれる。日本においても港湾内などにおける建設例が見られ<ref name="mlit_offshore">[https://www.mlit.go.jp/kowan/kaihatuka/wind_hp/index.html 港湾空間における風力発電、国土交通省港湾局]</ref>、2010年3月には茨城県にて初の港湾外への設置事例が稼働を開始している<ref name="Yomiuri20100325">[http://www.yomiuri.co.jp/eco/news/20100325-OYT1T01089.htm 海の上でも風力発電、環境破壊や騒音少なく、読売新聞2010年3月26日]</ref>。
;浮体式
2009年にノルウェーにおいて、フルスケールとしては世界初の浮体式洋上風力発電施設Hywindが建設された<ref>[http://www.statoil.com/en/TechnologyInnovation/NewEnergy/RenewablePowerProduction/Offshore/Hywind/Pages/HywindPuttingWindPowerToTheTest.aspx Hywind – the world’s first full-scale floating wind turbine]</ref>。
;洋上風力の日本国内俯瞰
日本では、2020年末の時点で日本の洋上風車28基のうち10基が北海道と東北に設置されている(だが、残りの18基は別の地域であり、そちらのほうが数は多い)。なお[[北海道]]や[[東北]]などの海岸部では安定した風力(平均風速6m/秒以上)が得られるので、その地域の割合が比較的多くなっている<ref name="Yuuki-1106-1354"/><ref name="Yuuki-1106" >{{Cite journal|和書|author=明田定満 |year=2021 |title=我が国における洋上風力発電と環境影響評価の現状 |url=https://doi.org/10.18903/fisheng.57.3_107 |journal=日本水産工学会誌 |ISSN=09167617 |publisher=日本水産工学会 |volume=57 |issue=3 |pages=107-115 |doi=10.18903/fisheng.57.3_107 |naid=130007989690}}</ref>。<!--大消費地から離れた場所に位置しているため、[[送電線]]が多く必要で費用の負担が大きい。--><!--海域占有や漁業関係者との合意形成、事業リスクや資金調達等の課題がある。だから普及があまり進んでいない{{要出典|date=2023年9月}}。--> <!--{{要出典範囲|また、洋上風力発電を設置する際に、海洋生物に及ぼす影響は陸上生物に及ぼす影響と異なり、未だ未解明な部分が多いのでさらなる研究が必要となっている。}}-->
;コスト比較
日本国内の実証実験による2022年時点での[[イニシャルコスト]]を比較すると次のようになる。
*浮体式洋上風力 約100万円/kW
*着床式洋上風力 約40万円/kW
*(参考データ)陸上風力 15から30万円/kW (陸上式はこの数字だけ見ると安く見えるが、実際には周辺住宅への配慮の課題がある。)
つまり浮体式はコスト高となっている(それに比べれば着床式はさほど高くない)<ref name="Yuuki-1106-1354">{{Cite journal|和書|author=井上尚之 |year=2022 |title=日本における浮体式洋上風力発電に関する一考察 |url=http://id.nii.ac.jp/1084/00000984/ |journal=研究紀要 |ISSN=1345-5311 |publisher=関西国際大学 |volume=23 |pages=23-36 |CRID=1050010776401604608}}</ref>。
=== 洋上水素製造構想 ===
[[九州大学]]の研究者を中心に、[[海面|海上]]に巨大な風力発電所を造り、新しい[[エネルギー]]として活用しようという構想の研究会が発足している<ref>[http://www.mech.kyushu-u.ac.jp/21coe/introduction/53.html 九州大学 21世紀COEプログラム]</ref>。
構想によると、海上に[[はちのす]]状に浮かべた六角形の[[コンクリート]]構造物(一辺300メートル)の上に、従来の2倍以上の風力を得る直径100メートルの[[風力原動機]]を設置。送電線は使わず、得られた電力で海水を[[電気分解]]して[[水素]]を作り、その水素を船で陸に輸送して水素発電や[[燃料電池]]に使うというもの。高強度の新素材や効率的な風車、水素貯蔵などの最新技術を組み合わせ、[[原子力発電所|原発]]1基分に相当する100万キロワット級の発電を低コストで目指している。新素材の耐用年数は100年以上とされ、発電コストは原発の半分以下に抑えられる。六角形の浮体の内部を養殖場にすることで、漁業補償の問題も解決できるとしている。資金の目途が付けば6年から7年で技術確立が可能としている。
=== 空中風力発電構想 ===
<!--[[ファイル:Airborne wind generator-en.svg|thumb|right|270px|空中風力発電の例]]-->
米国、ヨーロッパでは次世代の風力発電として、強くて安定した風が得られる上空に風船などで風力原動機を持ち上げて設置する[[空中風力発電機]](AWT,{{lang-en|Airborne wind turbine}})などのアイデアが検討されている<ref>{{cite web | title = Wind Energy Harvesting From Airborne Platforms | publisher = NASA | url = http://awtdata.webs.com | accessdate = 2012-09-25}}</ref>
<ref>{{cite web | title = Airborne Wind Turbines | publisher = Joby Energy, Inc | url = http://jobyenergy.com/tech | accessdate = 2012-09-25}}</ref><ref>{{cite web | title = Airborne Wind Energy | publisher = Makani Power, Inc. | url = http://www.makanipower.com/home/ | accessdate = 2012-09-25}}</ref><ref>{{cite web | title = www.airborne-wind-turbine.com | publisher = | url = http://www.airborne-wind-turbine.com/airborne_wind_turbine_englisch/airborne-wind-turbine-start.htm | accessdate = 2012-09-25}}</ref><ref>{{cite web | title = Magenn | publisher = Magenn Power Inc. | url = http://www.magenn.com/ | accessdate = 2012-09-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書| title = ふわふわ浮きながら、しっかり発電。空飛ぶ風力発電機 | publisher = | url = http://greenz.jp/2012/05/14/airborne_wind_turbine/ | accessdate = 2012-09-25}}</ref>。
==風力発電の状況==
{{main|各国の風力発電}}
[[ファイル:Global Wind Power Cumulative Capacity.svg|thumb|right|320px|世界の風力発電の累計導入量(1996-2013年)<ref>データ:[http://www.gwec.net/index.php?id=180 GWEC]</ref>]]
2021年の全世界の風力発電累計導入量は1,870TWh<ref>{{Cite web |url=https://www.iea.org/reports/wind-electricity |title=Wind Electricity |access-date=2023年5月21日 |publisher=IEA}}</ref>。
=== 日本 ===
[[ファイル:Electricity generating windmills in Hokkaido.jpg|thumbnail|150px|[[北海道]]に多い風力発電用[[風車]]]]
{{main|日本の風力発電}}
日本では、2004年ごろから風力発電が本格的に導入が開始され、以後、徐々に普及してきており、2014年時点で全国に約2000基、発電能力の合計は約250万キロワットとなっている。普及に伴い、風車部分が丸ごと落ちるなど、惨事に繋がりかねない事故も起こったため国土交通省と経済産業省が審査をしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jwea/40/4/40_519/_pdf |title=風力発電設備の安全対策について |access-date=2023年5月21日}}</ref>。日本の風力発電所で有名なのは、北海道では[[苫前町]]と[[稚内市]]など、[[本州]]では[[秋田県]]の洋上が挙げられる。
日本では今までは欧米諸国に比して普及が進んでこなかったが、反原発派からは、日本政府や与党が(既存の電力会社にばかり忖度して)洋上風力発電への取り組みが足りなかったことや、[[台風]]に耐えうる風車は欧米に比べてコストが上がることや、日本では再生可能エネルギーとしては[[太陽光発電]]ばかりに気をとられていた、日本の電力会社は(原子力発電の擁護・推進をするばかりで)風力発電事業に関しては消極的であったので、代わりに自治体による自治体風車や、市民グループによる市民風車等のプロジェクトの取り組みが進んだという原発要因説がある<ref>長谷川公一『脱原子力社会へ-電力をグリーン化する-』岩波書店, 岩波新書<新赤版>1328、 2011年 ISBN 978-4-00-431328-1 p157</ref>。
=== アジア ===
{{main|アジアの風力発電}}
{{節スタブ|date=2023-10}}
=== 欧州 ===
[[ファイル:11 turbines E-126 7,5MW wind farm Estinnes Belgium.jpg|thumb|150px|[[:en:Estinnes Wind Farm|Estinnes Wind Farm]] ベルギー]]
2019年時点の風力発電設備容量は205GW。総発電力需要の15%程であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/02/4f57c712f9587f42.html |title=2019年の欧州の総電力需要に占める風力比率は15%に拡大 |access-date=2023年5月21日 |publisher=JETRO}}</ref>。
[[スペイン]]では2010年に風力発電で電力需要の16.6%を供給し、また電力由来の[[二酸化炭素]]排出量の26%を削減した<ref name="SWEA_2010_share">[http://www.aeeolica.es/userfiles/file/notas-de-prensa/110120-NP-Wind-power-installed-capacity-in-Spain-increased-by-1516-MW-in-2010.pdf Wind power installed capacity in Spain increased by1,516 MW in 2010, the lowest rhythm in seven years、スペイン風力発電協会]</ref>。非化石エネルギーのシェア増加により電力コストが抑えられて隣国フランスよりも安価となり、2010年には8.3TWhを輸出した<ref name="SWEA_201103">[http://www.aeeolica.es/userfiles/file/notas-de-prensa/110331-NP-Wind-energy-was-the-technology-that-generated-more-electricity-in-Spain-in-March.pdf Wind energy was the technology that generated more electricity in Spain in March and covered 21% of demand、スペイン風力発電協会]</ref>。また2011年3月には風力発電による月間の発電量が21%を占め、原子力やガス複合火力を抜いて最大の電力供給源となった<ref name="SWEA_201103" />。
=== 北米 ===
{{main|アメリカ合衆国の風力発電}}
[[ファイル:GreenMountainWindFarm Fluvanna 2004.jpg|thumb|right|150px|米国、[[テキサス州|テキサス]]の[[:en:Brazos Wind Farm|Brazos Wind Farm]]]]
米国は、以前から[[カリフォルニア州]]や[[テキサス州]]で大規模な風力発電ファームを建設していたが、2008年5月に[[アメリカ合衆国エネルギー省|エネルギー省]](DOE)が2030年までに電力需要の20%に相当する約290GWを風力発電で賄うという目標を立ててからさらに設備量が増えた。しかし2010年には金融危機等の影響で市場が前年より縮小し、中国に累計導入量で抜かれた<ref name="GWEC_2010">[http://www.gwec.net/index.php?id=168 Global Wind Energy Outlook 2010, GWEC]</ref>。
カリフォルニア州には2014年1月現在で世界で最大の風力発電所である[[アルタウインドエナジーセンター]]が存在する。大手の風力発電機製造企業として[[GEエナジー]]が存在する。
== 費用と効率性 ==
=== 費用対効果 ===
風力発電は、水力発電に次いで[[再生可能エネルギー]]の中では採算性が高く、大規模なものについては天然ガス等の火力や原子力と競争可能なコストまで下がっている。
また、実質的にドイツで始まった「[[固定価格買取制度]]」は風力をはじめとした再生エネルギー支援の一般的手法となっている<ref name="NREL_2009">[http://www.nrel.gov/docs/fy10osti/44849.pdf A Policymaker’s Guide to Feed-in Tariff Policy Design, 米国国立再生可能エネルギー研究所(NREL)、2010年7月]</ref>。
大規模に導入している[[デンマーク]]においては、風力発電の経費は過去20年間で80%以上削減され、通常電力と競争可能な水準まで低下した<ref>[http://www.windpower.org/en/market.htm Danish Wind Industry Association]</ref>。温暖化対策費まで考慮すると、欧州における風力は石炭火力より発電経費が一桁少ないとする試算もある<ref>[http://www.risoe.dk/rispubl/VEA/dannemand.htm#COST デンマーク Wind Energy Departmentの資料]</ref>。なお、近年の資材の高騰により、装置価格の増加も報告されている<ref name="USA_WindCost"/>。
風力発電は一度設置してしまえば、その後は、化石燃料の価格変動による影響がほぼ保守費用などに限られるため、その分事業が安定化する利点がある<ref name="SmallIsProfitable"/>。
火力発電を減らして風力発電で代替するにあたっては、出力変動などの対策、および、送電網の拡張や予備発電設備容量の確保等が必要となる<ref name="USA_WindCost"/><ref name="AWEA_FAQ">[http://www.awea.org/pubs/factsheets/050629_Myths_vs_Facts_Fact_Sheet.pdf Wind Power Myths vs Facts, AWEA]</ref>。一般的には、一定程度の導入割合までは、その追加費用が実用的な範囲で済むとされる(例:<ref name="USA_WindCost">[http://www1.eere.energy.gov/windandhydro/pdfs/43025.pdf Annual Report on U.S. Wind Power Installation, Cost and Performance Trends: 2007, 米国エネルギー省(DOE)]</ref><ref name="Minnesota_GridCost">[http://www.uwig.org/XcelMNDOCStudyReport.pdf]</ref><ref name="UK_GridCost">[http://www.planetark.org/avantgo/dailynewsstory.cfm?newsid=20446]</ref>)。欧州では域内での風力発電などの増加に対応した系統の拡張が検討されている<ref name="EU_GridExpansion">[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7727028.stm EU seeks to expand energy grids, BBC News, 13 November 2008]</ref>。
===導入規模の効果===
[[ファイル:Street light.JPG|thumb|right|100px|小型風力発電機の例<br />[[街路灯]]の頂上に設置し[[太陽光発電]]と併用]]
風力発電は小規模分散電源であり、導入規模や範囲が増すほど全体的な信頼性と安定性が高まり、発電コストも低減する。
*風力発電設備は普及クラスのものであれば、稼働可能率<ref name="Note_KadouKanou" group="注釈">風が吹けば発電可能な状態の比率。稼働率とは異なる</ref>自体は非常に高くすることが可能であり、稼働可能率95%以上の例も多数報告されている。これは一般にメンテナンス等に要する時間が短いことによる。たとえ個々の風車の稼働可能率が低くても、導入数の増加や他の分散型電源との併用により、全体でみた稼働可能率は100%に近づく。これに対して一般的な大規模集中型発電所では、1990年頃の米国の例では原子力73%、化石燃料火力発電所の平均で85%、水力でも91%程度と報告されている(<ref name="SmallIsProfitable"/> P242)。
*風力発電設備が稼働不可になる要因としては、風速不足を除くと[[落雷]]、故障、定期保守、系統の故障、などがある。英国における一例では、それぞれ原因の48%、37%、13%、2%を占めたと報告されている(<ref name="SmallIsProfitable"/> P241)。風力は変動するため、個々の風車の稼働率は通常40%以下となる。
*異なる場所に分散して設置された風車同士は、距離が離れるに従って、出力変動の相関性が低くなる。特に速い(高い[[周波数]]の)変動においてこの傾向は顕著となり、合計の出力がある程度平滑される<ref name="Wan_Correlation">[http://scitation.aip.org/getabs/servlet/GetabsServlet?prog=normal&id=JSEEDO000125000004000551000001 Y.Wan,M.Milligan, B.Parsons, Output Power Correlation Between Adjacent Wind Power Plants, J. Sol. Energy Eng. 125 (2003) 551]</ref>。このため出力の平準化には、分散配置が有効とされる。ただし、完全に変動が無くなるわけではない。
*大規模化と分散配置により、大きな変動は残るものの、全体でみた変化の速度が遅くなり、電力網によるサポートがより容易となる。オランダ内の海岸沿いの6地域でを対象とした調査では、数時間程度の間隔で出力に大きな変動が見られるが、100万kW規模の変動が起こる確率は、その規模の[[火力発電]]設備が強制停止される頻度と同程度であると報告されている<ref name="SmallIsProfitable"/>。
*小規模な導入量では、出力変動への対策コストは必要以上に高く算出される<ref>[http://www.nrel.gov/analysis/tech_wind_analysis.html NRELの資料]</ref>。
*系統連系する際に許容できる導入量の見積もりは、シミュレーションの前提条件の小さな違いで大きく異なる結果となる。このため変動の許容量を必要以上に小さく見積もっている例も散見される<ref>[http://www.nrel.gov/docs/legosti/old/4953.pdf NREL Report TP-463-4953],P48</ref>。
=== エネルギー収支 ===
「生産から設置・運用から廃棄に至るまでのライフサイクル中に投入するエネルギー」を「風力により生み出すエネルギーによって節約できる」までの時間を[[エネルギーペイバックタイム]](EPT)、また寿命との比を[[エネルギー収支比]](EPR)という。原動機の性能および設置場所の風況に大きく左右されるが、通常EPTは数か月程度<ref>[http://www.nedo.go.jp/nedata/17fy/03/0003hlst.html NEDOによるまとめ]</ref><ref>[http://www.risoe.dk/rispubl/VEA/dannemand.htm 文献例]</ref><ref name="Sansoken_RE"/>とされる。またエネルギー収支比は38から54とも見積もられている<ref name="Sansoken_RE"/>。大型化などの技術改良のほか、リサイクルや基礎部の再利用等によって今後も改善が見込まれている。
=== 温室効果ガス排出量 ===
風力発電の発電量当たりの温室効果ガス(GEG)排出量は小さく、日本では25g-CO2/kWhから34g-CO2/kWhなどの計算例がある<ref name="Sansoken_RE">[http://unit.aist.go.jp/rcpvt/ci/about_pv/e_source/RE-energypayback.html 再生可能エネルギー源の性能]([[産業技術総合研究所]])</ref>(g-CO2/kWhはライフサイクル中に排出される温室効果ガス(GEG)を二酸化炭素(CO2)に換算し、発電量あたりに直した値)。この値は設置地点毎の風況や風車の性能に左右される。近年の大型で高性能な風車ならば、10g-CO2/kWhを切る場合もあるとされる<ref>{{PDFlink|[http://www.vestas.com/NR/rdonlyres/CB1E6A32-EB4E-4845-9451-4B5255BBB111/0/LCA_V9030_20MW_onshore_og_offshore_samt_energibalance_202005.pdf 3MW機のLCA計算結果例]}}、30頁</ref>。設置効果は750kW機1基が500エーカー(約2平方km)の森林に相当するとも言われる<ref>{{PDFlink|[http://www.nrel.gov/docs/fy03osti/33516.pdf]}}</ref>。
日本の電力の平均GEG排出量は 約346g-CO2/kWh(発受電端、2001年)と計算されている。例えば寿命20年でGEG排出量が25g-CO2/kWhの場合、CO2ペイバックタイム(CO2的に「元が取れる」までの利用期間、CO2PT)は 20×(25/346)=1.45年 となる。10g-CO2/kWhならば約7か月である。
==課題==
{{要出典範囲|諸課題の中でも(出力変動、強風対策などの)技術的課題については、性能や安全性の向上を狙った開発競争の焦点となっている。従来問題点とされてきた点の多くは技術的に対処が可能とされる。|date=2023年9月26日 (火) 16:26 (UTC)}}
=== 人の健康及び生活環境への影響 ===
風力発電の課題のひとつに騒音対策・低周波対策がある<ref name="IAE_Tenbou">[http://www.iae.or.jp/publish/pdf/2003-2.pdf (財)エネルギー総合工学研究所、風力発電、2004年3月] P17</ref>。
人家に近接して設置された場合に、近隣住民がめまい・動悸・耳鳴りなどの違和感を訴える例が出てきた。ブレードやタービン部が出す風切り音などの[[騒音]]や[[低周波]]振動<ref group="注釈">[[騒音]]には周波数が数十Hz以下の[[低周波]]騒音も含まれる。これはふつう人の耳には聞こえないが、障子や窓を振動させることで、感覚的に二次的に認識される。俗に「風車病」とも呼ばれる頭痛やめまいなどの自律神経失調症に似た不定愁訴や、不眠などを引き起こす被害が報告されており、各地で被害が問題になっている。これら低周波騒音にも計画段階から充分に注意する必要があるとされる。低周波騒音は、[[工場]]や[[ボイラー]]、道路を走行する[[大型自動車]]などからも発生する。低周波に関しては安全基準値は策定されていない。</ref>が原因だろうと指摘されるようになった。日本各地で建設反対運動が起き、ドイツでは建設済みの発電所の撤去を命じる判決も出た。
騒音・低周波などが報道などで知られるようになり、設置計画に対して予定地の住民の反対運動がおきる例も出たため、騒音や低周波の対策が研究され、対策が検討されたり、それが具体的に打たれるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/air/noise/wpg/01_161125_huusyasouon_report.pdf|title=風力発電施設から発生する騒音等への対応について|accessdate=2019/5/1|publisher=環境省}}</ref>。
技術的な改善策の1つが、ブレードの[[翼]]断面の改良である。昔の風車では[[航空機]]用の翼断面を用いていたため、翼端周速が100m/sから120m/sに達し、騒音を大きくする要因となっていた。この翼端周速は風車専用の翼断面(厚翼)を用いることで大幅に低下し、現在は大型機でも60m/s程度となっている。さらに、多極式発電機の採用によるギアレス化(ギアノイズを排除)、ダウンウインド型からアップウインド型への移行(タワー下流の乱れた気流を横切る音を排除)などの対策により、騒音は200m-300m程度離れれば周囲の風音と区別がつかない水準(または「冷蔵庫程度の騒音」)にまで減少する<ref name="NRELによるまとめ">{{PDFlink|[http://www.nrel.gov/docs/fy05osti/37657.pdf NRELによるまとめ]}}</ref>。
また、風力発電機が立てられ始めた頃から、電波障害への懸念が相当数存在していたが実際にはそれほどの苦情は発生していない。電波障害となる要因には遮蔽障害と反射障害が考えられ、それぞれが回転翼部分と静止しているタワーとその先端のナセル部分が影響する可能性がある。21世紀現在の回転翼は全て繊維強化樹脂製であり電波に対して有意な影響を与えないと考えられるため、TV送信塔と住宅との間に設置しない事やナセル筐体の反射を低減する等のナセルとタワーの影響を事前に確認することで解決できる。また、ナセル内の発電機や付随する電力機器類からの電波ノイズの防止と遮蔽も考慮されなければならない<ref name="更なる風を">関和市・牛山泉共著『更なる風を求めて垂直軸風車基礎から設計応用まで』パワー社2008年1月25日発行ISBN 978-4-8277-2401-1</ref>。
騒音以外にはシャドーフリッカーもしくはストロボ効果といわれる回転する羽によって断続的に横切る影が問題視され、これは生態系にも影響を与えると考えられている。対策としては今のところ太陽が低位置にある場合は風車を停止する以外にはない。風力発電装置は民家からできるだけはなれたところに設置することが望ましいとされており、計画段階からそれに注意すべきであるとされる<ref name="IAE_Tenbou" />。イギリスでは民家から5kmの距離を取る様に定められている。
=== 生態系への影響 ===
[[ファイル:Tehachapi wind farm 3.jpg|thumb|150px|right|Lattis構造のタワーが林立する古いウインドファーム(カリフォルニア、[[テハチャピ山地]])。横桁に留まろうとして鳥類が誘引され被害に遭う。]]
[[ファイル:オトンルイ風力発電所 1.jpg|thumb|150px|right|一般的な円柱状タワーを用いた風力発電所([[オトンルイ風力発電所]]、[[幌延町]])]]
[[鳥類レッドリスト (環境省)|鳥類レッドリスト]]に該当する[[イヌワシ]]、[[クマタカ]]、[[オオタカ]]、[[フクロウ]]、[[ノスリ]]などの希少[[猛禽類]]の幼鳥が、風力発電のブレード(回転羽根)に衝突([[バードストライク]])して死亡するケースがある。衝突死の多くは鳥が風車の回転範囲を通り抜けようとして、回転翼を避けずに体が切断されることにより生じる。一説には[[モーションスミア]]現象によって高速の羽根が見えず、反対側の景色が透けて見えるため鳥が気づかないためといわれている。鳥類の目は人間に比べモーションスミアが起こりやすいという実験結果が出ている。鳥類は生息地の喪失、繁殖の妨害、採餌地の喪失、などの影響も受けているが、バードストライクは鳥の大群が通るルートの地域で多数発生していることがわかっている。設置する場所や形態の選定さえ適切ならば、通常の送電線以下の危険性しか及ぼさないとの報告もある(クローネ (Krone) 他)<ref name="NRELによるまとめ"/>。米国での年間平均バードストライク数は大型風車1基につき2.19羽(2001年)ドイツでは同0.5羽である(すべて狐などによる死骸持ち去り数を調整済み)。米国でのバードストライク総数は年間約10億羽であるが、風車によるものは0.01%であり、窓ガラスなどに比べてきわめて低い数字である。英国王立鳥類保護協会も「適切に設置された風力発電所は、鳥類に大きな脅威を及ぼさないと考える」と表明している<ref>[http://www.rspb.org.uk/policy/windfarms/index.asp]</ref>。スペインの影響調査では風車設置場所を飛行する鳥類の死亡率は0.1%から0.2%と報告されている。一方、2007年から三重県で行われた調査では、繁殖期のテリトリー密度と種数密度で<sup>1</sup>/<sub>4</sub>に減少したとする報告がある<ref>[https://doi.org/10.3838/jjo.62.135 武田恵世:風力発電機の鳥類の繁殖期の生息密度への影響] 日本鳥学会誌 Vol.62 (2013) No.2 p.135-142</ref>。
技術的には、下記のような対策が考慮される。
*予め設置地域の鳥類の生息状況を調べ、影響の少ない設置場所や形式を選定する。
*渡り鳥の接近をレーダーによって探知し、事前に回転翼を止めておく。
*風車付近での猛禽類の採餌行為を無くすため、周囲にテープや案山子を配置する<ref name = "更なる風を"/>。
*同じ発電量でも、ブレードの回転速度が遅くなるように設計する(翼断面や発電機によって決まる。[[#騒音]]参照)
*タワー(支柱)に鳥が留まらないよう、横桁や出っ張りをなくした円柱状の設計とする。
*視認しやすい白色で塗装する。但し、目立たない色に塗装するという景観への配慮と矛盾する可能性がある。
*風車の羽の一枚を黒く塗ると鳥の衝突が減少(実験では70%以上)する可能性がある<ref>[https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/ece3.6592 Paint it black: Efficacy of increased wind turbine rotor blade visibility to reduce avian fatalities Torgeir Nygard Ulla Falkdalen Jens Astrom Oyvind Hamre Bard G. Stokke 26 July 2020]</ref>。
*フラッシュ光により警戒を促す。但し、景観問題への配慮が必要となる。
*つば付きディフューザ風車や[[風レンズ]]風車のように、視認しやすい物を付ける。
*風車部分をネットで覆う。
他に[[渡り鳥]]の飛行ルートへの悪影響についても懸念されており<ref>[https://www.env.go.jp/nature/wind_power/wind_power02.html 国立・国定公園内における風力発電施設設置のあり方に関する検討会(第2回)議事要旨]</ref><ref>[http://www.geocities.jp/sirochidori_mie/tobawindmill1.htm 鳥羽市行者山に建設予定の大型風車(風力発電)について]</ref>、渡りの重要なルートへの設置は避ける必要がある。
陸上風車の建設工事で生じる土地改変(森林伐採など)により流出する土砂が下流域を汚染する場合がある。特にサンショウウオなど希少動物は生息する源流の汚濁に敏感なため、悪影響が心配されている。洋上風車の場合も工事中に伴う海水の濁りなど、周辺環境への影響を完全に除くことは難しい。
===景観===
風力発電機の設置に当たっては、自然[[景観]]への影響が問題になる場合もある。例えば風光明媚な[[観光地]]などでは、風力発電機の設置によって景観が変わるために反対された。一方、大型風車が林立する雄大な光景を新たな観光資源とする動きもある。
米国と英国でのウインドファーム建設直後と1年後の周辺住民への意識調査ではいずれも、2回目が景観と騒音での反対が少なくなっている<ref name = "更なる風を"/>。
===出力変動===
風力発電の出力は昼夜問わず不随意に変動するため、需要への追従は基本的に他の調整力に富んだ電源([[火力発電]]、貯水式[[水力発電]]など)に頼ることになる。また風力発電所の側でも、ある程度の出力の平滑化や負荷追従を行う場合があるほか、近年は発電量の予測技術も用いられている。一般的には、発電量の10%程度までは大きな問題にならないが、20%を超えると追加コストが目立って増えると言われている<ref name="AWEA_FAQ2">[http://www.awea.org/pubs/documents/faq2002%20-%20web.pdf The Most Frequently Asked Questions About Wind Energy, AWEA]</ref>。スペインと周辺国間では[[電力取引所]]での取引を用いた輸出入によって変動の一部を調整する例<ref>[http://jwpa.jp/pdf/50-05spain090130.pdf# スペインにおける風力発電と電力系統制御 日本風力発電協会]</ref><ref>[http://www.omel.com/inicio OMEL(スペイン)]</ref>が見られる。
====短時間の変動====
風力発電は風速の変動に従って出力が需要と無関係に変動し、電圧や力率の変動をもたらす。この変動は一般に[[太陽光発電]]に比べても大きい。特に導入量が小規模の場合は高い周波数成分を含む変動が多くなる。しかし大規模に導入した場合、変動は大幅に緩和され、系統側の負担が小さくなる([[#導入規模の効果]]参照)。実際、デンマーク、ドイツ北部、スペインなどにおいて、信頼性を犠牲にせずに電力供給量の20-40%を風力で賄えることが実証されている<ref name="AFP_SpainWind">[https://www.afpbb.com/articles/-/2369724?pid=2775558 AFP BB News, 2008年03月26日]</ref><ref name="REWCOnline">[http://www.renewableenergyworld.com/rea/news/story?id=51767 RenewableEnergyWorld.com Online, 2008年3月25日]</ref><ref name="AWEA">[http://www.awea.org/pubs/factsheets/050629_Myths_vs_Facts_Fact_Sheet.pdf Wind Power Myths vs. Facts],AWEA.</ref>。また既存の系統に風力発電を追加する場合、新たなバックアップ電源を付加する必要は無いとされる<ref name="NRELによるまとめ"/>。ただし系統容量に占める風力発電の割合が大きい場合は、ある程度の蓄電設備を加えることで系統全体で見た発電コストを低減できる場合もあるとされ、検討や実験が進められている<ref>{{PDFlink|[http://www.meti.go.jp/committee/materials/downloadfiles/g50606a42j.pdf 例]}}</ref>。こうした対策にはコストもかかるが、ある程度の導入割合までは実用的な範囲とされる([[#費用対効果]]参照)。
個々の風車やWF単位で出力を平滑化するには、下記の対策が有効とされる。
*大型のブレード自体の慣性力を利用する。風の強い時に回転数を動的に上げて運動エネルギーを蓄え、風が弱くなった時に利用することで、発電機の出力を平滑化する。
*一部の風車を調整力としてリザーブし、適宜解列などを行うことでWF全体の出力を平滑化する。
*電力を一時的に蓄電池に貯蔵する。
*系統連系部(インバータなど)に力率の調整能力を付与する。
*フライホイールによる慣性回転や油圧・ガス圧・空気圧(圧縮空気)による蓄圧によってエネルギーを貯蔵する。例えば圧縮空気を用いた研究例では、15%のコストの追加で稼働率を34%から93%に引き上げられるという報告がある<ref>ロビンス、スモール・イズ・プロフィタブル、P.238-239など</ref>。
*局地的な気象解析を行い、リアルタイムで発電量を予測する([[#事前調査と発電量予測]]参照)。
この他、風力発電で得られた電力から水素を製造する手法も研究されている<ref>{{PDFlink|[http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/report/994/994-15.pdf]}}</ref>。
====長時間の出力変動====
風力発電の導入価値は、風の強い時間帯(季節)と電力需要の多い時間帯(季節)が重なる場合に相対的に大きくなる。一般には、夜間や冬期の暖房需要の多い場合には他の電源に比較して特に導入価値が高くなる。マッチしない場合(他電源による夜間電力が既に余っている場合など)にはその分価値が低くなる。また需要に対して発電量が不足する場合は、他の電源に頼ることになる。
===強風===
[[ファイル:Nishi-hen-na02.jpg|thumb|right|130px|宮古島[[西平安名岬]]の風車は2007年に復旧]]
風力発電機の最大の敵は強すぎる風である。風力発電機には定格風速があり、定格を大幅に超える速度で運転すると原動機の焼損やブレードの破損などを招く場合がある。そのため風速が過大な場合は、保護のために速度を抑制するか、場合によっては一時的に発電を停止する。支柱ごと倒して強風をやり過ごすものもあるが少数である。
*ヨーロッパなど高緯度で使用されている風力発電は、その地域的な特徴(高緯度、内陸)から、[[台風]]、[[サイクロン]]などの[[熱帯低気圧]]による暴風雨の影響を受けない場合が多い。
*インドなど中緯度以下の地域では、暴風雨にさらされることがある。たとえば、2003年9月11日の[[平成15年台風第14号|台風]]では、[[宮古島]]にあった7基の風力発電機を壊滅させた。これは最大瞬間風速が近辺の観測値で74.1m/sに達し、国際規格(IEC61400-1)の最高クラスの規定値(70 m/s)をも超えたためである<ref name="Ushiyama_Kiso">牛山泉、風力エネルギーの基礎、オーム社、平成17年ISBN 4-274-20098-1</ref>。
*欧州など風力発電機の普及が比較的進んでいる地域に比較すると、日本では台風は風の乱れ、落雷などの自然条件において、IECなどの国際規格を上回る耐性が求められる場合がある<ref name="Ushiyama_Kiso"/>。これに対応したガイドラインの策定がNEDOによって進められている<ref name="NEDO_Guideline">{{Cite web|和書|url=http://www.nedo.go.jp/library/furyokuhoukoku_index.html |title=日本型風力発電ガイドライン策定事業の最終報告書 |publisher=独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)|accessdate=2012-03-24}}</ref>。
強風や変動に対しては、下記のような対策が用いられる。
*ブレードの角度(ピッチ)を変えて速度を抑制(フェザーリング)
*ブレードまたは風力原動機全体を風に対して傾ける
*風車と発電機を一時的に切り離す
*設備全体(ポールなど)を物理的に強化
*騒音対策を施した上で、ダウンウインド型を採用する<ref>[http://nikkeibp.jp/wcs/leaf/CID/onair/jp/eco/419057 例]</ref>。もしくは、強風時のみ風下にブレードを向ける<ref>[http://www.mhi.co.jp/power/wind/tec/005.html 例]</ref>。
*強風に耐えうる型式の[[風力原動機]]を採用
*設置地域の風況の事前調査の強化
===用地確保===
陸上設置の場合は、風力発電機は1MWp(1000kwp)あたり50[[エーカー]](約20[[ヘクタール]])ほどの面積を必要とする。ただし風車そのものが占有する面積は主に支柱であるため5%以下であり、畑や牧草地など、高さを必要としない利用が行われる場所に設置すれば土地の確保の問題は小さくなる<ref name="AWEA_FAQ2"/>。風力発電が一般的になり、風車公害の可能性もテレビ番組などで紹介され認知されるようになったので、近隣に人家がある場合は設置への反対運動が起きることがある。周辺地域と比較して高所に設置する場合には、立地点の整備や資材運搬、運用時のメンテナンスのために[[林道]]を造成する必要があり、それに伴う樹木の伐採が問題視される場合がある。
もっとも、近年は陸上に設置しない[[洋上風力発電]]も検討されつつあり、その場合は陸上設置にともなう諸問題は解消する。しかし、洋上風力は一般にコストが高い。
=== 事前調査と発電量予測 ===
風力発電の事業化にあたっては、事前の風況の調査が重要である。風は不随意に変動するが、その変動量や変動速度、平均強度などは確率的に取り扱うことが可能である。風力発電の発電量もまた、確率・統計的に取り扱うことができる。このため事前にある程度の量のデータを集めておくことにより、相応の確度で風況や発電量の予測を行うことができる。
近年では計算機を用いた局地気象解析技術により、短時間の変動についてもある程度の発電量の予測が可能になっている<ref name="WeatherEye">[http://www.weather-eye.com/wind/service/src/denki200008.pdf 榎本他、局地気象解析を用いた風力発電量の予測]</ref><ref name="NikkeiBP_Yosoku">[http://www.nikkeibp.co.jp/archives/085/85651.html 日経BP、1999年10月27日の記事](CRC総研が風力発電の発電量予測技術を開発、商用化へ)</ref>。既に商用サービスも開始されている<ref name="Shimizu_Kazehandan">[http://www.shimz.co.jp/tw/tech_sheet/rn0240/rn0240.html 清水建設「風判断」]</ref><ref name="Laweps">[http://www.jwa.or.jp/content/view/full/1250 日本気象協会と関西電力の共同開発による風力発電調査支援ツール(LAWEPS)]</ref><ref name="Kashima_Wind">[http://www.kajima.co.jp/tech/g_warming/wind_power/index.html 鹿島建設の技術・サービス紹介ページ]</ref>。近年は一定規模以上の発電事業者に対し、発電量の予測を義務づける国もある([[固定価格買い取り制度#併用される制度]]参照)。
逆に風況調査に不備のある場合、当初見込みよりも発電量が少なく、赤字となる場合がある。発電量が予測を下回ったなどの事情で稼働継続に値しない状況になった場合やより高性能な機種に置き換える場合などは、地中に打ち込んだ基礎部分の移動は難しいが、上部の風力原動機は基本的に移設や転売が可能である。近年は欧州などで風力発電機の中古市場も拡大している<ref name="Nikkei_Chuuko">[http://www.nikkeibp.co.jp/news/biz08q3/577213/ NBonline、2008年7月4日 9時5分の記事](欧州で中古市場が急拡大)</ref>。
===事故===
風力発電機も他の発電方式同様、事故と無縁ではない。構造物の破損や運用・保守作業中のミスなどにより、下記のような事故の例が見られる。
*ブレードが折損し、回転の勢いで飛散する<ref name="accident_Spiegel_1">2007年7月、[[デア・シュピーゲル|シュピーゲル]]紙(2006年11月、オルデンブルクで運転中の発電塔の羽根が突然壊れ、一部分(長さ約10m)が200m先まで飛んでいった等)</ref>。周囲の建造物等に被害を与えることもある<ref>{{cite news
| url=https://www.j-cast.com/2009/12/26056447.html
| title=騒音に各地で苦情相次ぐ 風力発電に想定外「逆風」
| newspaper=J-CASTニュース
| date=2009-12-26
| accessdate=2009-12-26
}}</ref>。
*風力原動機の火災<ref name="accident_Spiegel_2">2007年7月、[[デア・シュピーゲル|シュピーゲル]]紙(2007年1月[[オスナブリュック]]及びハーフェラントの風力発電塔で火災発生)</ref>。
*タワーの破損・倒壊<ref name="accident_Spiegel_3">2007年7月、[[デア・シュピーゲル|シュピーゲル]]紙(2007年1月[[シュレースヴィッヒ・ホルシュタイン州]]で、[[アウトバーン]]のすぐ脇の発電塔が高さ100mの部分で折損・倒壊)</ref>。
こうした事故の背景として、機械的強度を十分にテストしないままに発電塔を巨大化したのが原因ではないかという指摘もなされている<ref name="accident_Spiegel_1"/>。
*米国での調査によると1972年から2008年10月までの人の死傷を伴う風力発電機の事故発生数は75件であった<ref name="accident_Chicago">[http://archives.chicagotribune.com/2008/oct/24/sports/chi-ap-il-windturbineaccide Wind turbine blade crashes down in corn field, Chigaco Tribune, October24, 2008]</ref>。
*日本ではメンテナンス中の作業ミスにより風車が過回転状態になり、倒壊した事例などが報告されている<ref name="accident_Iwaya">[http://www.nisa.meti.go.jp/safety-tohoku/denki/Yuras-HP03160101Set.pdf 株式会社ユーラスエナジー岩屋岩屋ウィンドファーム 発電所11A号機倒壊に係る事故報告の受理について(経済産業省)]</ref>。
===リサイクル===
風力発電機のリサイクル技術は数が多くないこともあり開発途上である<ref name="ScienceDaily_Recycle">[http://www.sciencedaily.com/releases/2007/09/070921071653.htm Recycling Wind Turbines, ScienceDaily, 23 Sep 2007]</ref>。鉄などの金属類はリサイクルされる<ref name="LCA">[http://www.infra.kth.se/fms/utbildning/lca/projects%202006/Group%2007%20(Wind%20turbine).pdf Life Cycle Assessment of a Wind Turbine]</ref>が、ブレードで一般的に用いられる[[繊維強化プラスチック]]についてはリサイクル技術が普及しておらず、焼却などで処分される。使用済みのブレードからガラス繊維をリサイクルする技術は開発されている<ref name="GlassFiber_Recycle">[http://www.refiber.com/history.html ReFiber ApS]</ref>。
== 再エネ海域利用法 ==
現在、日本では[[再エネ海域利用法]]の導入が進んでいる。再エネ海域利用法とは、海外でコストの低下が進み、再生可能エネルギーの最大限の導入と国民負担抑制を両立する観点から重要な洋上風力発電を導入しようとした。しかし海域の占有に関する統一のルールがなく、先行利用者との調整ができていなかった。これらの課題を解決するため、平成30年11月30日に成立、同年の12月7日に公布された。具体的な内容としては自然状況が適切であり、漁業、海運業等の先行利用に支障がなく、発電した電力を供給することができるなどの条件を満たす海域を促進区域と定める。そして、公募によって長期的・安定的・効率的な観点から最も優れている事業者が最大30年その区域の占有許可を得ることができるというものである。現在経済産業省資源エネルギー庁及び国土交通省港湾局は、「秋田県能代市、三種及び男鹿市沖」「秋田県由利本荘市沖(北側と南側)」「千葉県銚子市沖」の3か所(4区域)を促進区域に指定している<ref>[https://solarjournal.jp/windpower/28608/ 「再エネ海域利用法」とは? 新法の狙いと仕組みを解説〜SOLAR JOURNAL]</ref><ref>[https://www.meti.go.jp/press/2020/07/20200721005/20200721005.html 再エネ海域利用法に基づく促進区域の指定を行いました〜経済産業省]</ref>。
[[ファイル:風力発電.jpg|左|サムネイル]]
{{-}}
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
* {{cite book|和書|author=本岡玉樹|title=風車と風力発電 |publisher=[[オーム社]]|journal=|date=1951年|pages=|url=|isbn=}}
* {{cite book|和書|author=牛山泉|title=トコトンやさしい風力発電の本 |publisher=[[日刊工業新聞社]]|journal=|date=2010年2月|pages=|url=|isbn=978-4-526-06380-0}}
*保田陽『日本の知らない風力発電の実力』オーム社2010年
*岩本晃一『洋上風力発電次世代のエネルギーの切り札』日刊工業新聞社2012年
*新田目倖造『太陽光・風力発電の安定供給』電子書院2019年
*[http://www.nedo.go.jp/library/fuuryoku/index.html 日本における風力発電設備・導入実績 (NEDO)]
* {{cite book|和書|author=清水 幸丸|title=風力発電技術 先端技術で飛躍する風力発電 |publisher=[[パワー社]]|journal=|date=1999-02-01|pages=|url=|isbn=9784827722659}}
* {{cite book|和書|author=清水 幸丸|title=風力発電入門: 風の力で町おこし・村おこし地域エネルギー新時代 |publisher=[[パワー社]]|journal=|year=2005|date=|pages=|url=|isbn=4827722749}}
* {{cite book|和書|author=松本 文雄|title=小型風車活用ガイド: 天与のエネルギーを受け取る |publisher=[[パワー社]]|journal=|year=2004|date=|pages=|url=|isbn=4827722757}}
* {{cite book|和書|author=松本 文雄|title=風・風車のQ&A120: 何ゆえロマン風・風車自然を知り活かす知恵 |publisher=[[パワー社]]|journal=|year=2002|date=|pages=|url=|isbn=4827722706}}
* {{cite book|和書|author=金綱 均 |author2=松本 文雄 |title=風力発電機製作ガイドブック |publisher=[[パワー社]]|journal=|year=2008 |date=|pages=|url=|isbn=4827721009}}
* {{cite book|和書|author=牛山 泉|author2=三野 正洋 |title=小型風車ハンドブック |publisher=[[パワー社]]|journal=|year=2004|date=|pages=|url=|isbn=4827722218}}
*エイモリー・B・ロビンス、スモール・イズ・プロフィタブル、省エネルギーセンター、2005年、ISBN 4-87973-294-X [http://www.smallisprofitable.org/ (smallisprofitable.org)]
* {{cite book|和書|author=牛山泉|title=さわやかエネルギー風車入門 |publisher=[[三省堂]]|journal=|date=2004年|pages=|url=|isbn=4-385-35812-5}}
* {{cite book|和書|author=牛山泉|title=風車工学入門: 基礎理論から風力発電技術まで |publisher=[[森北出版]]|journal=|date=2002年|pages=|url=|isbn=4627946511}}
* {{cite book|和書|author=鶴田由紀|title=ストップ! 風力発電: 巨大風車が環境を破壊する |publisher=[[アットワークス]]|journal=|date=2009年|pages=|url=|isbn=9784939042560}}
* {{cite book|和書|author=飯田哲也|title=自然エネルギー市場: 新しいエネルギー社会のすがた|publisher=[[築地書館]]|journal=|date=2005年|pages=|url=|isbn=4-8067-1303-1}}
* 野呂康宏『洋上風力発電の現状とその普及の鍵となる電力技術調査委員会』調査研究委員会レポート、2021年
* 明田定満『我が国における洋上風力発電と環境影響評価の現状』、日本水産工学会誌、2021年
* 井上尚之『日本における浮体式洋上風力発電に関する一考察』、2022年3月10日
*[[:en:Wind power|Wind power]]
*IEA Statistics "Renewables Information 2005" ISBN 92-64-10907-2
*[http://www.ednjapan.com/content/issue/2005/04/cover/cover.html 実用化が進む風力発電]
*[http://eco.nikkei.co.jp/special/article.aspx?id=20071208q4000q4 風力ダム]
*[http://www.eureka.tu.chiba-u.ac.jp/forelectures/windmill/index.html 風車の講義]
*[http://www.nistep.go.jp/achiev/results01.html 深海洋上風力発電を利用するメタノール製造に関する提案(日本のエネルギー自給、CO2排出ゼロの可能性を有する)平成14年3月文部科学省科学技術政策研究所科学技術動向研究センター]
*[http://www.gwec.net/fileadmin/documents/Publications/gwec-2006_final_01.pdf Global Wind Energy Concil]
*[https://www.nedo.go.jp/content/100877329.pdf 垂直軸型マグナス式風力発電機(NEDO)]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Wind farms|風力発電所}}
{{Commonscat|Wind turbines in Japan|日本の風車}}
* [[電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法]] - '''RPS制度'''について
* [[:en:Electricity market]]
* [[新エネルギー]]
* [[再生可能エネルギー]]
* [[風力原動機]]
* [[集合型風力発電所]]
* [[局地風]]
* [[季節風]]
* [[海陸風]]
* [[山谷風]]
* [[川風]]
* [[湖風]]
* [[風レンズ]]
* [[スマートグリッド]]
==外部リンク==
;業界団体
:世界
:Global Wind Energy Council(GWEC) [http://www.gwec.net/ 公式]
:[http://www.wwindea.org/ World Wind Energy Association WWEA]
:欧州
:European Wind Energy Association](EWEA) [http://www.ewea.org/ 公式]
:米国
:American Wind Energy Association](AWEA) [http://www.awea.org/ 公式]
:日本
:[http://jwpa.jp/ 日本風力発電協会]
;団体
*[http://www.nrel.gov 米国エネルギー省 再生可能エネルギー研究所 (NREL)]
;製造企業
*大型風車
** [http://www.vestas.com/ VESTAS(デンマーク)]
** [http://www.ge-energy.com/products_and_services/products/wind_turbines/index.jsp GE ENERGY(米国)]
** [http://www.sinovel.com/en/index.aspx SINOVEL(中国)]
** [http://www.enercon.de/en-en/ ENERCON(ドイツ)]
** [http://www.goldwindglobal.com/web/index.do GOLDWIND(中国)]
** [http://www.gamesacorp.com/en/ GAMESA(スペイン)]
** [http://www.suzlon.com/ SUZLON(インド)]
** [http://www.energy.siemens.com/hq/en/power-generation/renewables/wind-power/ SIEMENS(ドイツ)]
* 小型風車
**[https://pi.co サウスウエストウインドパワー(米国)]
**[http://www.zephyreco.co.jp/ ゼファー(日本)]
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17,363 |
風力原動機
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風力原動機(ふうりょくげんどうき)あるいは風力タービン(ふうりょくタービン、英: wind turbine)とは、風の運動エネルギーを、他の形態の機械エネルギーへ変換する機械や装置(原動機、タービン)のことである。風の運動エネルギーを回転運動の機械エネルギーに変換するものが圧倒的に多いが、振動などを利用するものも研究されてはいる。
歴史的に見ると、風車での粉ひき(あるいはかんがいなど)のように、機械エネルギーの形のままの利用が多かった。現代では、装置内に発電機を備え運動エネルギーを電力の形に変換する風力発電を行う装置の割合が増えている。これは一般的には風力発電機(ふうりょくはつでんき)や風力発電装置(ふうりょくはつでんそうち)と呼ばれている。
風車(ふうしゃ、かざぐるま、Windmill)は、伝統的な風力原動機を言うことが多い。ヨーロッパ、特にオランダとスペインのラ・マンチャでは中世のころから使用されている。電動機や内燃機関の発達でほとんど廃れてしまったが、製粉・揚水などに使用されていた。また、風車の回転数を元に風速を測る、風速計としても使われている。オランダ式風車は、本来の使命を終えた後も各地で観光用として使われている。日本でも各地で観光用のものが存在する(ハウステンボスなど)。一方、開発途上地域への展開も行なわれている。開発途上地域に、揚水やかんがいなどの目的で、古典的な風車を現代風にアレンジしたものが技術協力として行なわれている。開発途上地域では、最新鋭の機器を持って行っても保守が出来ず、使われなくなってしまうことがある。そこで、そのような地域でも保守が可能なように、適正な技術を利用しての揚水ポンプの動力源として、風車が使われる。このような風車の中には、自動車の中古部品などを利用したものもあり、現地でのメンテナンス性を考慮している。近年では効率を高めるために界磁に超伝導磁石を使う機種も開発段階にある。
風力発電機は、風力発電を高効率に行うことを目指して製作されたもので風力タービン(ふうりょくタービン、wind turbine)とも呼ばれている。オイルショックの後、特に開発競争が加速した。特徴として以下のものがある。
風車、風力タービンの種類には、以下のようなものがある。
機械稼働中に騒音が発生したり、バードストライクが起きる難点を抱えており、対策が続けられている。
詳しくは風力発電#課題を参照。
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風力原動機(ふうりょくげんどうき)あるいは風力タービンとは、風の運動エネルギーを、他の形態の機械エネルギーへ変換する機械や装置(原動機、タービン)のことである。風の運動エネルギーを回転運動の機械エネルギーに変換するものが圧倒的に多いが、振動などを利用するものも研究されてはいる。 歴史的に見ると、風車での粉ひき(あるいはかんがいなど)のように、機械エネルギーの形のままの利用が多かった。現代では、装置内に発電機を備え運動エネルギーを電力の形に変換する風力発電を行う装置の割合が増えている。これは一般的には風力発電機(ふうりょくはつでんき)や風力発電装置(ふうりょくはつでんそうち)と呼ばれている。
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{{脚注の不足|date=2021年6月}}
[[ファイル:Wind turbine.png|thumb|right|250px|風力タービン、風力発電機]]
'''風力原動機'''(ふうりょくげんどうき)あるいは'''風力タービン'''(ふうりょくタービン、{{Lang-en-short|wind turbine}})とは、[[風]]の[[運動エネルギー]]を、他の形態の[[力学的エネルギー|機械エネルギー]]へ変換する[[機械]]や[[装置]]([[原動機]]、[[タービン]])のことである。風の運動エネルギーを[[回転運動]]の機械エネルギーに変換するものが圧倒的に多いが、[[振動]]などを利用するものも研究されてはいる。
歴史的に見ると、[[風車]]での[[製粉|粉ひき]](あるいは[[かんがい]]など)のように、機械エネルギーの形のままの利用が多かった。現代では、装置内に[[発電機]]を備え運動エネルギーを[[電力]]の形に変換する[[風力発電]]を行う装置の割合が増えている。これは一般的には'''風力発電機'''(ふうりょくはつでんき)や'''風力発電装置'''(ふうりょくはつでんそうち)と呼ばれている。
== 風車 ==
[[Image:Pitstone-windmill.600px.jpg|150px|right|thumb|風車]]
{{see also|風車}}
'''風車'''(ふうしゃ、かざぐるま、[[:en:Windmill|Windmill]])は、伝統的な風力原動機を言うことが多い。[[ヨーロッパ]]、特に[[オランダ]]と[[スペイン]]の[[ラ・マンチャ]]では[[中世]]のころから使用されている。[[電動機]]や[[内燃機関]]の発達でほとんど廃れてしまったが、[[製粉]]・[[揚水]]などに使用されていた。また、風車の回転数を元に風速を測る、[[風速計]]としても使われている。オランダ式風車は、本来の使命を終えた後も各地で観光用として使われている。[[日本]]でも各地で観光用のものが存在する([[ハウステンボス]]など)。一方、[[発展途上国|開発途上]]地域への展開も行なわれている。開発途上地域に、揚水や[[灌漑|かんがい]]などの目的で、古典的な風車を現代風にアレンジしたものが技術協力として行なわれている。開発途上地域では、最新鋭の機器を持って行っても保守が出来ず、使われなくなってしまうことがある。そこで、そのような地域でも保守が可能なように、適正な技術を利用しての揚水[[ポンプ]]の動力源として、風車が使われる。このような風車の中には、[[自動車]]の中古部品などを利用したものもあり、現地でのメンテナンス性を考慮している。近年では効率を高めるために[[界磁]]に[[超伝導磁石]]を使う機種も開発段階にある<ref>[http://www.fastcompany.com/1777209/next-gen-wind-turbines-use-mri-tech-generate-more-energy Next-Gen Wind Turbines Use MRI Tech To Generate More Energy]</ref>。
== 風力発電機 ==
[[Image:Windturbine propeller.jpg|150px|right|thumb|風力発電機<br />([[神奈川県]][[三浦市]])]]
風力発電機は、[[風力発電]]を高効率に行うことを目指して製作されたもので'''風力タービン'''(ふうりょくタービン、[[:en:Wind turbine|wind turbine]])とも呼ばれている。[[オイルショック]]の後、特に開発競争が加速した。特徴として以下のものがある。
; 高効率
: [[流体力学]]・[[材料工学]]などの進歩を利用して高効率化している。
; 大型
: 出力あたりの費用を低くするため大型化している。
; 集合化
: 集合設置([[ウインドファーム]])により地点あたりの出力を大きくしている。
== 風力原動機の種類 ==
風車、風力タービンの種類には、以下のようなものがある。
=== 水平軸風車 ===
* プロペラ風車
* セイルウイング風車
* 多翼型風車
* オランダ風車
*ループウイング型風車
*[[風レンズ]]([[洋上風力発電]])風車
=== 垂直軸風車 ===
[[Image:Darrieus-windmill.jpg|150px|thumb|right|ダリウス型]]
* [[:en:Darrieus wind turbine|ダリウス風車]]{{en icon}}
* {{仮リンク|サボニウス風車|en|Savonius wind turbine}}
* ジャイロミル風車
* パドル風車
* クロスフロー風車
* S型ローター風車
=== その他 ===
*葉巻型(ブレードレス)風車
*マグナス風車<ref>{{Cite journal|和書 | author = 佐藤 司 | date = 2008-07 | title = マグナス効果を利用した小型風力発電機の開発 | journal = 日本機械学会誌 | issue = 111 | volume = 1076 | pages = 609 | publisher = 日本機械学会 | naid = 110006825751 | doi = 10.1299/jsmemag.111.1076_609 | ref = harv }}</ref>
== 課題 ==
機械稼働中に騒音が発生したり、[[バードストライク#建造物|バードストライク]]が起きる難点を抱えており、対策が続けられている。
詳しくは[[風力発電#課題]]を参照。
== 関連項目 ==
{{Commons|Wind turbine|風力原動機(風力タービン)}}
* [[風力原動機メーカー一覧]]
* [[風力発電]]
* [[集合型風力発電所]]
* [[風車]]
* [[ラムエア・タービン]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 文献 ==
* {{cite book|和書|author=清水幸丸|title=風力発電技術 先端技術で飛躍する風力発電 |publisher=[[パワー社]]|journal=|date=1999-02-01|pages=|url=|isbn=9784827722659}}
* {{cite book|和書|author=清水幸丸|title=風力発電入門: 風の力で町おこし・村おこし地域エネルギー新時代 |publisher=パワー社|journal=|year=2005|date=|pages=|url=|isbn=4827722749}}
* {{cite book|和書|author=松本文雄|title=小型風車活用ガイド: 天与のエネルギーを受け取る |publisher=パワー社|journal=|year=2004|date=|pages=|url=|isbn=4827722757}}
* {{cite book|和書|author=松本文雄|title=風・風車のQ&A120: 何ゆえロマン風・風車自然を知り活かす知恵 |publisher=パワー社|journal=|year=2002|date=|pages=|url=|isbn=4827722706}}
* {{cite book|和書|author=金綱均 |author2=松本文雄 |title=風力発電機製作ガイドブック |publisher=パワー社|journal=|year=2008 |date=|pages=|url=|isbn=4827721009}}
* {{cite book|和書|author=牛山泉|author2=三野正洋 |title=小型風車ハンドブック |publisher=パワー社|journal=|year=2004|date=|pages=|url=|isbn=4827722218}}
{{発電の種類}}
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[[Category:流体機械]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%8A%9B%E5%8E%9F%E5%8B%95%E6%A9%9F
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大永
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大永(、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1528年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。
※は小の月を示す。
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大永(だいえい、は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1528年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。
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{{読み仮名|'''大永'''|だいえい|たいえい}}は、[[日本]]の[[元号]]の一つ。[[永正]]の後、[[享禄]]の前。[[1521年]]から[[1528年]]までの期間を指す。この時代の[[天皇]]は[[後柏原天皇]]、[[後奈良天皇]]。[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]]は[[足利義稙]]、[[足利義晴]]。
== 改元 ==
*永正18年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]([[ユリウス暦]]1521年[[9月23日]]) 戦乱、天変などの災異のため改元
*大永8年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]](ユリウス暦[[1528年]][[9月3日]]) 享禄に改元
== 出典 ==
『[[通典|杜氏通典]]』の「庶務至微至密、其大則以永業」から。
== 大永期におきた出来事 ==
; 元年([[1521年]])
* [[11月25日 (旧暦)|11月25日]]([[12月23日]]) - [[管領]][[細川高国]]に推戴された[[足利義晴|足利亀王丸(義晴)]]、[[馬寮|右馬頭]]に叙任される。
*:すなわち、[[征夷大将軍|将軍]]就任予定者として正式に認められ、事実、翌月[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1522年]][[1月22日]])をもって将軍に補される。
; 3年([[1523年]])
* 5月 - [[寧波の乱]]
* [[大永の内訌_(下野宇都宮氏)|大永の内訌]]
; 4年([[1524年]])
* [[大永の五月崩れ]]
; 6年([[1526年]])
* [[4月14日 (旧暦)|4月14日]]([[6月4日]]) - [[駿河国|駿河]][[守護大名|守護]] [[今川氏親]]が家法三十三箇条([[今川仮名目録]])を制定。
* [[7月13日 (旧暦)|7月13日]]([[8月20日]]) - 味方の讒言を信じた細川高国、有力配下の[[香西元盛]]を上意討ち。
*:これを機に、高国派の内紛が表面化。元盛の兄弟たち([[波多野元清]]・[[柳本賢治]])に離反される。
* 10月 - [[細川澄元]]の遺児 [[細川晴元|六郎]]、亡父の仇である高国を打倒すべく阿波にて挙兵。
*:細川氏の管領争いが再燃。年内には畿内まで進出した澄元軍、高国から離反した波多野軍と合流。
; 7年([[1527年]])
* [[2月12日 (旧暦)|2月12日]]([[3月24日]]) - '''[[桂川原の戦い]]'''。管領細川高国が細川六郎の連合軍に大敗し、将軍足利義晴を奉じて京から落ち延びる。[[評定衆]]や[[奉行人]]まで逃げ出したため、幕府の政治機能が麻痺する事態に陥る。
=== 出生 ===
* 元年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]([[1521年]][[12月1日]]) - [[武田信玄]]、甲斐の[[戦国大名]]([[元亀]]4年死去)
* 元年(1521年) - [[蘆名盛氏]]、陸奥の武将(天正8年死去)
* 元年(1521年) - [[横岳資誠]]、肥前の武将(元亀元年死去)
* 2年([[1522年]]) - [[千利休]]、[[茶道|茶人]](天正19年死去)
* 2年(1522年) - [[柴田勝家]]、尾張の武将(天正11年死去)
* 3年([[1523年]]) - [[上杉憲政]]、上野の武将(天正7年死去)
* 5年([[1525年]]) - [[山田重直]]、伯耆の武将(天正20年死去)
* 5年([[1525年]]) - [[福島正信]]、尾張の武将(慶長2年死去)
* 6年([[1526年]]) - [[松平広忠]]、三河の武将([[天文 (元号)|天文]]18年死去)
* 6年([[1526年]]) - [[加藤清忠]]、尾張の武将([[永禄]]7年死去)
* 6年(1526年) - [[生駒親正]]、[[大名]]([[慶長]]8年死去)
* 6年(1526年) - [[長尾政景]]、越後の武将([[永禄]]7年死去)
* 7年([[1527年]]) - [[酒井忠次]]、三河の武将(慶長元年死去)
* 7年(1527年) - [[金上盛備]]、[[蘆名氏]]の家臣(天正17年死去)
=== 死去 ===
* 元年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]([[1521年]][[10月17日]]) - [[赤松義村]]、[[播磨国|播磨]]・[[備前国|備前]]・[[美作国|美作]]の[[守護大名]](生年不詳)
* 元年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]](1521年[[12月31日]]) - [[武田元信]]、[[若狭国|若狭]]の守護大名([[康正]]元年出生)
* 2年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]([[1522年]][[9月7日]]) - [[畠山尚順]]、[[河内国|河内]]の武将で[[畠山政長]]の子([[文明_(日本)|文明]]7年出生)
* 3年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[1523年]][[5月23日]]) - [[足利義稙]]、[[室町幕府]]10代[[征夷大将軍|将軍]]([[文正]]元年出生 享年58)
* 3年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]](1523年[[12月1日]]) - [[右田弘詮]]、[[長門国|長門]]の武将([[大内氏]]の重臣)で[[陶晴賢]]の外祖父(生年不詳)
* 6年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]([[1526年]][[5月18日]]) - [[後柏原天皇]]、第104代[[天皇]]([[寛正]]5年出生 享年63)
* 6年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]](1526年[[8月11日]]) - [[今川氏親]]、駿河の戦国大名で[[今川義元]]の父(文明5年出生)
* 7年([[1527年]]) - [[山名豊治]]、[[因幡国|因幡]]の守護大名(生年不詳)
== 西暦との対照表 ==
※は小の月を示す。
{|class=wikitable style="font-size:small"
|-
!nowrap|大永元年([[辛巳]])!!nowrap|一月※!!nowrap|二月※!!nowrap|三月!!nowrap|四月※!!nowrap|五月※!!nowrap|六月!!nowrap|七月※!!nowrap|八月!!nowrap|九月!!nowrap|十月※!!nowrap|十一月!!nowrap|十二月!!
|-
|ユリウス暦||[[1521年|1521]]/2/8||3/9||4/7||5/7||6/5||7/4||8/3||9/1||10/1||10/31||11/29||12/29||
|-
!nowrap|大永二年([[壬午]])!!nowrap|一月※!!nowrap|二月!!nowrap|三月※!!nowrap|四月!!nowrap|五月※!!nowrap|六月※!!nowrap|七月!!nowrap|八月※!!nowrap|九月!!nowrap|十月※!!nowrap|十一月!!nowrap|十二月!!
|-
|ユリウス暦||[[1522年|1522]]/1/28||2/26||3/28||4/26||5/26||6/24||7/23||8/22||9/20||10/20||11/18||12/18||
|-
!nowrap|大永三年([[癸未]])!!nowrap|一月!!nowrap|二月※!!nowrap|三月!!nowrap|閏三月※!!nowrap|四月!!nowrap|五月※!!nowrap|六月※!!nowrap|七月!!nowrap|八月※!!nowrap|九月!!nowrap|十月※!!nowrap|十一月!!nowrap|十二月
|-
|ユリウス暦||[[1523年|1523]]/1/17||2/16||3/17||4/16||5/15||6/14||7/13||8/11||9/10||10/9||11/8||12/7||[[1524年|1524]]/1/6
|-
!nowrap|大永四年([[甲申]])!!nowrap|一月※!!nowrap|二月!!nowrap|三月!!nowrap|四月※!!nowrap|五月!!nowrap|六月※!!nowrap|七月※!!nowrap|八月!!nowrap|九月※!!nowrap|十月!!nowrap|十一月※!!nowrap|十二月!!
|-
|ユリウス暦||[[1524年|1524]]/2/5||3/5||4/4||5/4||6/2||7/2||7/31||8/29||9/28||10/27||11/26||12/25||
|-
!nowrap|大永五年([[乙酉]])!!nowrap|一月※!!nowrap|二月!!nowrap|三月!!nowrap|四月※!!nowrap|五月!!nowrap|六月※!!nowrap|七月!!nowrap|八月※!!nowrap|九月!!nowrap|十月※!!nowrap|十一月!!nowrap|閏十一月※!!nowrap|十二月
|-
|ユリウス暦||[[1525年|1525]]/1/24||2/22||3/24||4/23||5/22||6/21||7/20||8/19||9/17||10/17||11/15||12/15||[[1526年|1526]]/1/13
|-
!nowrap|大永六年([[丙戌]])!!nowrap|一月※!!nowrap|二月!!nowrap|三月!!nowrap|四月※!!nowrap|五月!!nowrap|六月※!!nowrap|七月!!nowrap|八月※!!nowrap|九月!!nowrap|十月※!!nowrap|十一月!!nowrap|十二月※!!
|-
|ユリウス暦||[[1526年|1526]]/2/12||3/13||4/12||5/12||6/10||7/10||8/8||9/7||10/6||11/5||12/4||[[1527年|1527]]/1/3||
|-
!nowrap|大永七年([[丁亥]])!!nowrap|一月!!nowrap|二月※!!nowrap|三月!!nowrap|四月※!!nowrap|五月!!nowrap|六月※!!nowrap|七月!!nowrap|八月!!nowrap|九月※!!nowrap|十月!!nowrap|十一月※!!nowrap|十二月!!
|-
|ユリウス暦||[[1527年|1527]]/2/1||3/3||4/1||5/1||5/30||6/29||7/28||8/27||9/26||10/25||11/24||12/23||
|-
!nowrap|大永八年([[戊子]])!!nowrap|一月※!!nowrap|二月!!nowrap|三月※!!nowrap|四月※!!nowrap|五月!!nowrap|六月!!nowrap|七月※!!nowrap|八月!!nowrap|九月!!nowrap|閏九月※!!nowrap|十月!!nowrap|十一月※!!nowrap|十二月
|-
|ユリウス暦||[[1528年|1528]]/1/22||2/20||3/21||4/19||5/18||6/17||7/17||8/15||9/14||10/14||11/12||12/12||[[1529年|1529]]/1/10
|}
== 関連項目 ==
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[[Category:日本の元号]]
[[Category:戦国時代 (日本)|元たいえい]]
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|
17,367 |
偈
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偈(げ、サンスクリット語: gāthā)とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」という。対して散文部分を「長行」という。
仏典に最も多く出てくる16音節(8音節1句を2句)2行の32音節よりなる首盧迦(しゅるか)(śloka) をいう。漢訳はこの一偈を4字または5字の4句に訳すことが多い。狭義の偈の意味では、前に散文がなく、韻文のみの教説である孤起偈 (gāthā) と、散文の教説につづいて重ねて韻文で散文の内容を説く重頌偈 (geya) がある。
漢訳の偈は、外見は漢詩と同じだが、韻をふむことは少なく中国の詩の体をなしていない。
禅僧などが悟境を韻文の体裁で述べたものを「偈」と呼ぶ。中国の偈は押韻しているのが普通であるが、日本人の詩偈と呼ぶ儀式に使用される法語には破格のものも多い。
僧の作る偈と、普通の詩の体をなす韻文とを差別する漢詩研究者も一部では存在する。
なお、インドのガータ(重頌および狐起頌)と漢詩の成立では、前者のほうが古いとされている。
時宗の開祖となった一遍が「智真」と名乗っていた1274年(文永11年)ころ、高野山を巡礼したのち熊野で100日間の参籠をおこない、その満願の日に熊野権現の神託を受けたといわれる。それは「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華」の四句から成る偈のかたちとなっており、各句のかしら文字が「六十万人」となることから「六十万人の偈」と呼称される。のちに彼が「一遍上人」と称されるようになったのは、この偈に由っている。
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偈とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」という。対して散文部分を「長行」という。
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'''偈'''('''げ'''、{{lang-sa|gāthā}})とは、[[仏典]]のなかで、[[仏]]の教えや仏・[[菩薩]]の徳をたたえるのに[[韻文]]の形式で述べたもの。「偈陀(げだ)」「[[伽陀]](かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」という。対して[[散文]]部分を「[[長行]]」という。
== インドの伽陀の漢訳 ==
仏典に最も多く出てくる16音節(8音節1句を2句)2行の32音節よりなる[[シュローカ|首盧迦]](しゅるか)({{unicode|śloka}}) をいう。漢訳はこの一偈を4字または5字の4句に訳すことが多い。狭義の偈の意味では、前に散文がなく、韻文のみの教説である孤起偈 ({{unicode|gāthā}}) と、散文の教説につづいて重ねて韻文で散文の内容を説く重頌偈 (geya) がある。
[[File:JIGAGE of HOKEKYOU or Lotus Sutra in Japan 如来寿量品第十六 自我偈 鳩摩羅什訳 法華経 妙法蓮華經.jpg|390px|thumb|漢訳仏典の偈([[鳩摩羅什]]訳『[[法華経]]』如来寿量品第十六の自我偈)]]
[[File:方便品第二 Big Accordion Book of Hokekyou or Lotus Sutra printed in Edo Era 28cm 法華経 折り本 江戸期 刊本 03.jpg|thumb|画像の3行目までは「長行」で、4行目からは1句5字の「偈」になる。『[[法華経]]』方便品第二の一部]]
漢訳の偈は、外見は漢詩と同じだが、韻をふむことは少なく中国の詩の体をなしていない。
== 中国日本の偈 ==
禅僧などが悟境を韻文の体裁で述べたものを「偈」と呼ぶ。中国の偈は押韻しているのが普通であるが、日本人の[[詩偈]]と呼ぶ儀式に使用される法語には破格のものも多い。
僧の作る偈と、普通の[[詩]]の体をなす韻文とを差別する漢詩研究者も一部では存在する。
なお、インドのガータ(重頌および狐起頌)と漢詩の成立では、前者のほうが古いとされている。
== 「六十万人の偈」 ==
[[時宗]]の開祖となった[[一遍]]が「智真」と名乗っていた[[1274年]]([[文永]]11年)ころ、[[高野山]]を巡礼したのち[[熊野三山|熊野]]で100日間の参籠をおこない、その満願の日に[[熊野権現]]の[[神託]]を受けたといわれる<ref name=murakami>[[#村上|村上(1981)p.89]]</ref>。それは「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華」の四句から成る偈のかたちとなっており、各句のかしら文字が「六十万人」となることから「六十万人の偈」と呼称される<ref name=murakami/>。のちに彼が「一遍上人」と称されるようになったのは、この偈に由っている<ref>[[#村上|村上(1981)p.90]]</ref>。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=村上重良|authorlink=村上重良|year=1981|month=3|title=日本の宗教|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波ジュニア新書]]|isbn=4005000274|ref=村上}}
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