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16,857 |
現川駅
|
現川駅(うつつがわえき)は、長崎県長崎市現川町にある、九州旅客鉄道(JR九州)長崎本線の駅である。
相対式ホーム2面2線と、中央に通過線1線を持つ地上駅。2つのホームを結ぶ跨線橋がある。多くの列車が行き違いと通過待ちを同時に行うため、3分ほど停車または運転停車をする。
無人駅で、各ホームにそれぞれ待合所がある。1番のりばの待合所には自動券売機がある。かつてはホームから少し離れた場所に切符売り場だけの小さな駅舎が有ったが、近年その役割を1番のりばの待合所に譲った。やや離れたところにトイレがある。
ICカード「SUGOCA」の利用が可能であり、簡易改札機が設置されている。なお、SUGOCAの発売・チャージはできない。
(出典:JR九州 駅情報一覧)
山間部にある小さな無人駅ではあるが、長崎市東長崎地区への玄関口としてバスが多数発着しており、利用客は増加傾向にある。
周りはのどかな農村地帯。
|
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"text": "山間部にある小さな無人駅ではあるが、長崎市東長崎地区への玄関口としてバスが多数発着しており、利用客は増加傾向にある。",
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現川駅(うつつがわえき)は、長崎県長崎市現川町にある、九州旅客鉄道(JR九州)長崎本線の駅である。
|
{{駅情報
|社色 = #ff0000
|文字色 =
|駅名 = 現川駅
|画像 = Utsutsugawa20190307.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅入口(2019年3月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = うつつがわ
|ローマ字 = Utsutsugawa
|前の駅 = [[肥前古賀駅|肥前古賀]]
|駅間A = 2.5
|駅間B = 8.9
|次の駅 = [[浦上駅|浦上]]*
|所属事業者 = [[九州旅客鉄道]](JR九州)
|所属路線 = {{Color|#faaf18|■}}[[長崎本線]]
|電報略号 = ウツ
|駅番号 =
|キロ程 = 114.8
|起点駅 = [[鳥栖駅|鳥栖]]
|所在地 = [[長崎県]][[長崎市]][[現川町]]1947
|座標 = {{coord|32|47|28.46|N|129|55|34.75|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 2面2線<ref name="zeneki27">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =27号 長崎駅・佐世保駅・大村駅ほか75駅 |date =2013-02-17 |page =24 }}</ref>
|開業年月日 = [[1972年]]([[昭和]]47年)[[10月2日]]<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=716}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 654
|乗降人員 =
|統計年度 = 2021年
|備考 = [[無人駅]]{{R|zeneki27}}(自動券売機 有)
|備考全幅 = * この間に[[肥前三川信号場]]有り(当駅から3.7km先)。
}}
'''現川駅'''(うつつがわえき)は、[[長崎県]][[長崎市]][[現川町]]にある、[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[長崎本線]]の[[鉄道駅|駅]]である{{R|zeneki27}}。
== 歴史 ==
* [[1972年]]([[昭和]]47年)[[10月2日]]:長崎本線新線の開通に伴い[[日本国有鉄道]]が開設{{R|停車場}}。[[無人駅|駅員無配置駅]]<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●長崎本線喜々津・浦上間の開業について(旅客局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1972-09-22 |page=3 }}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により[[九州旅客鉄道]]が継承{{R|停車場}}。
* [[2012年]]([[平成]]24年)[[12月1日]]:同駅を含む長崎地区19駅に[[SUGOCA]]を導入<ref>{{Cite news |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=[[交通新聞社]] |page=1 |date=2012.12.4 }}</ref>。
== 駅構造 ==
[[ファイル:Express Akatsuki Utsutsugawa Station.JPG|thumb|通過する下り「[[あかつき (列車)|あかつき]]」<br />(2008年3月15日改正で廃止)]]
[[相対式ホーム]]2面2線と、中央に通過線1線を持つ[[地上駅]]{{R|zeneki27}}。2つのホームを結ぶ[[跨線橋]]がある。多くの列車が行き違いと通過待ちを同時に行うため、3分ほど停車または運転停車をする。
[[無人駅]]で、各ホームにそれぞれ[[待合所]]がある。1番のりばの待合所には[[自動券売機]]がある。かつてはホームから少し離れた場所に切符売り場だけの小さな駅舎が有ったが、近年その役割を1番のりばの待合所に譲った{{R|zeneki27}}。やや離れたところにトイレがある。
ICカード「SUGOCA」の利用が可能であり、簡易改札機が設置されている。なお、[[SUGOCA]]の発売・チャージはできない。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!のりば<!--事業者側による呼称--->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|{{Color|#faaf18|■}}長崎本線
|style="text-align:center" | 上り
|[[諫早駅|諫早]]・[[江北駅 (佐賀県)|江北]]・[[佐賀駅|佐賀]]・[[鳥栖駅|鳥栖]]方面
|-
!2
|style="text-align:center" | 下り
|[[長崎駅|長崎]]方面
|}
(出典:[https://www.jrkyushu.co.jp/railway/station/1191436_1601.html JR九州 駅情報一覧])<!--※方面案内は出典内にある「駅別時刻表」を基にしております。-->
== 利用状況 ==
* 2020年度の1日平均乗車人員は'''659人'''である<ref>{{Cite web|和書|title=駅別乗車人員上位300駅(2020年度)|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2020ekibetsu.pdf|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|accessdate=2021-09-07}}</ref>。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 80%;"
|- style="background: #ddd;"
!colspan="3"|乗車人員推移<ref>[https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/kenseijoho/toukeijoho/kankoubutsu/nenkan/ 長崎県統計年鑑 ] 、2020年9月5日閲覧</ref>
|-
!年度
!1日平均人数
!1日乗降人数
|-
|2000
|289
|
|-
|2001
|343
|
|-
|2002
|391
|
|-
|2003
|414
|
|-
|2004
|417
|
|-
|2005
|456
|
|-
|2006
|493
|
|-
|2007
|510
|1,021
|-
|2008
|564
|1,125
|-
|2009
|589
|1,175<ref name="名前なし-1">[https://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/750000/754000/p026874.html 平成26年版長崎市統計年鑑 ] 、2020年9月5日閲覧</ref>
|-
|2010
|638
|1,276<ref name="名前なし-1"/>
|-
|2011
|669
|1,336<ref name="名前なし-1"/>
|-
|2012
|677
|1,351<ref name="名前なし-1"/>
|-
|2013
|677
|1,348<ref name="名前なし-1"/>
|-
|2014
|614<ref name="名前なし-2">[https://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/750000/754000/p034368.html 令和元年版長崎市統計年鑑 ] 、2020年9月5日閲覧</ref>
|1,233
|-
|2015
|619<ref name="名前なし-2"/>
|1,238
|-
|2016
|617
|1,230
|-
|2017
|635
|
|-
|2018
|669
|1,333<ref>[https://nlftp.mlit.go.jp/ksj/gml/datalist/KsjTmplt-S12-v2_6.html 国土数値情報(駅別乗降客数データ) ] - 国土交通省、2020年9月5日閲覧</ref>
|-
|2019
|719
|
|-
|2020
|659
|
|}
山間部にある小さな無人駅ではあるが、長崎市東長崎地区への玄関口としてバスが多数発着しており、利用客は増加傾向にある。
== 駅周辺 ==
周りはのどかな農村地帯。
* うつつ川森の分校(閉校した[[長崎市立高城台小学校]]現川分校を利用した地域施設)
* [[長崎バイパス]]
* 帆揚岳
== バス路線 ==
* [[長崎県交通局|長崎県営バス]]、[[長崎市コミュニティバス]]東部線 '''現川駅前'''バス停が最寄りとなる。
** '''現川駅前''' - 矢上・長崎市街方面
== 隣の駅 ==
; 九州旅客鉄道(JR九州)
: {{Color|#faaf18|■}}長崎本線
:: {{Color|#e78137|■}}区間快速「[[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]」
::: '''通過'''
:: {{Color|#216daf|■}}快速「シーサイドライナー」・{{Color|#666568|■}}普通
::: [[肥前古賀駅]] - '''現川駅''' - ([[肥前三川信号場]]) - [[浦上駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===-->
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR九州駅|filename=91120380|name=現川}}
{{長崎本線}}
{{DEFAULTSORT:うつつかわ}}
[[Category:日本の鉄道駅 う|つつかわ]]
[[Category:長崎市の鉄道駅]]
[[Category:九州旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:長崎本線]]
[[Category:1972年開業の鉄道駅]]
|
2003-09-15T03:27:28Z
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E5%B7%9D%E9%A7%85
|
16,862 |
ノースブリッジ
|
ノースブリッジ
|
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ノースブリッジ かつてチップセットが2チップ構成だった時代に、CPUやメモリバスに近い側にあったチップセットの事。詳細は「チップセット#構成」を参照。
ノースブリッジ (競走馬) - 日本の競走馬。
株式会社ノースブリッジ - 宮城県仙台市若林区にある不動産売買・賃貸を行っている株式会社。
|
'''ノースブリッジ'''
* かつて[[チップセット]]が2チップ構成だった時代に、CPUやメモリバスに近い側にあったチップセットの事。詳細は「[[チップセット#構成]]」を参照。
* [[ノースブリッジ (競走馬)]] - 日本の競走馬。
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|
16,865 |
ヨーロッパ大陸
|
ヨーロッパ大陸(ヨーロッパたいりく、英語:European continent)は、地球の北半球に位置するユーラシア大陸の一部、ロシアのウラル山脈より西側、ジョージアなどのカフカース山脈より北側の地域を指す。ヨーロッパ亜大陸、ヨーロッパ半島と同義であり、ヨーロッパ大陸は孤立した大陸ではない。ヨーロッパの名はギリシア神話のエウローペー(エウロペ)に由来し、古代ギリシアでアジアやアフリカに対して使われた地方名エウロパが亜大陸全体を指すのに使われるようになったという説がある。
南を地中海、黒海、西を大西洋、北を北極海に接する。東はウラル山脈によってアジア大陸と隔てられる。大きな半島にはイベリア半島、イタリア半島、バルカン半島、スカンディナヴィア半島がある。
ほとんどの部分が安定陸塊からなるが、アルプス山脈などの造山帯が南部には見られる。大半が北緯40度より北に位置するが、大陸西岸は暖流である北大西洋海流のため気候は比較的温暖である。大陸の東側は内陸部で、大陸性気候を示し、気候は寒冷である。また地中海沿岸部は地中海性気候を示す。大陸西岸地域の中緯度と高緯度に位置するため、大陸には砂漠を持たない。
ヨーロッパ州のうち、アイスランド島、グレートブリテン島、アイルランド島やクレタ島などの島嶼部を除いた、大陸に属する地方をさすときに用いる言葉に、大陸ヨーロッパ(Continental Europe)があるが、これと同義で用いられることが多い。一方、ヨーロッパ州全体のことを慣用的にヨーロッパ大陸と呼ぶ場合もあり、この場合、島嶼部も含む。
|
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ヨーロッパ大陸は、地球の北半球に位置するユーラシア大陸の一部、ロシアのウラル山脈より西側、ジョージアなどのカフカース山脈より北側の地域を指す。ヨーロッパ亜大陸、ヨーロッパ半島と同義であり、ヨーロッパ大陸は孤立した大陸ではない。ヨーロッパの名はギリシア神話のエウローペー(エウロペ)に由来し、古代ギリシアでアジアやアフリカに対して使われた地方名エウロパが亜大陸全体を指すのに使われるようになったという説がある。 南を地中海、黒海、西を大西洋、北を北極海に接する。東はウラル山脈によってアジア大陸と隔てられる。大きな半島にはイベリア半島、イタリア半島、バルカン半島、スカンディナヴィア半島がある。 ほとんどの部分が安定陸塊からなるが、アルプス山脈などの造山帯が南部には見られる。大半が北緯40度より北に位置するが、大陸西岸は暖流である北大西洋海流のため気候は比較的温暖である。大陸の東側は内陸部で、大陸性気候を示し、気候は寒冷である。また地中海沿岸部は地中海性気候を示す。大陸西岸地域の中緯度と高緯度に位置するため、大陸には砂漠を持たない。 ヨーロッパ州のうち、アイスランド島、グレートブリテン島、アイルランド島やクレタ島などの島嶼部を除いた、大陸に属する地方をさすときに用いる言葉に、大陸ヨーロッパがあるが、これと同義で用いられることが多い。一方、ヨーロッパ州全体のことを慣用的にヨーロッパ大陸と呼ぶ場合もあり、この場合、島嶼部も含む。
|
{{for|[[大陸]]としてに限定されない一般的なヨーロッパ|ヨーロッパ}}
{{出典の明記|date=2015年4月19日 (日) 10:40 (UTC)}}
[[ファイル:Europe satellite orthographic.jpg|thumb|300px|right|ヨーロッパ大陸]]
'''ヨーロッパ大陸'''(ヨーロッパたいりく、英語:European continent)は、[[地球]]の[[北半球]]に位置する[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]の一部、[[ロシア]]の[[ウラル山脈]]より西側、[[ジョージア (国)|ジョージア]]などの[[カフカース山脈]]より北側の[[地域]]を指す。ヨーロッパ[[亜大陸]]、ヨーロッパ[[半島]]と同義であり、ヨーロッパ大陸は孤立した[[大陸]]ではない。[[ヨーロッパ]]の名は[[ギリシア神話]]の[[エウローペー]](エウロペ)に由来し、[[古代ギリシア]]で[[アジア]]や[[アフリカ]]に対して使われた地方名エウロパが亜大陸全体を指すのに使われるようになったという説がある<ref>[http://ksirius.kj.yamagata-u.ac.jp/~shibata/yamashin/22-body.html 「星空案内」“おうし座”] 2008年12月3日、[[山形新聞]]夕刊、2015年11月8日閲覧。</ref>。
南を[[地中海]]、[[黒海]]、西を[[大西洋]]、北を[[北極海]]に接する。東はウラル山脈によって[[アジア大陸]]と隔てられる。大きな半島には[[イベリア半島]]、[[イタリア半島]]、[[バルカン半島]]、[[スカンディナヴィア半島]]がある。
{| width=152 cellpadding=0 cellspacing=1 align=right
|-
| [[ファイル:Topographic30deg_N60W0.png|50px|N60-90, W0-30]]
| [[ファイル:Topographic30deg_N60E0.png|50px|N60-90, E0-30]]
| [[ファイル:Topographic30deg_N60E30.png|50px|N60-90, E30-60]]
|-
| [[ファイル:Topographic30deg_N30W0.png|50px|N30-60, W0-30]]
| [[ファイル:Topographic30deg_N30E0.png|50px|N30-60, E0-30]]
| [[ファイル:Topographic30deg_N30E30.png|50px|N30-60, E30-60]]
|-
| colspan=3| 経度・緯度30度刻みの地形図によるヨーロッパ大陸の位置
|}
ほとんどの部分が安定陸塊からなるが、[[アルプス山脈]]などの造山帯が南部には見られる。大半が[[北緯40度線|北緯40度]]より北に位置するが、大陸西岸は暖流である[[北大西洋海流]]のため気候は比較的温暖である。大陸の東側は内陸部で、[[大陸性気候]]を示し、気候は寒冷である。また地中海沿岸部は[[地中海性気候]]を示す。大陸西岸地域の中緯度と高緯度に位置するため、大陸には[[砂漠]]を持たない。
[[ヨーロッパ]]州のうち、[[アイスランド|アイスランド島]]、[[グレートブリテン島]]、[[アイルランド島]]や[[クレタ島]]などの島嶼部を除いた、大陸に属する地方をさすときに用いる言葉に、'''[[大陸ヨーロッパ]]'''('''Continental Europe''')があるが、これと同義で用いられることが多い。一方、ヨーロッパ州全体のことを慣用的にヨーロッパ大陸と呼ぶ場合もあり、この場合、島嶼部も含む<ref group="注釈">例えば、[[日本オリンピック委員会]]の「世界の国内(地域)オリンピック委員会」というページでは、イギリスやアイスランド等のオリンピック委員会も「ヨーロッパ大陸の国内(地域)オリンピック委員会」という扱いとなっている[http://www.joc.or.jp/games/olympic/code/euro.html]。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[大陸]]
{{世界の地理 |continents}}
{{デフォルトソート:よろつはたいりく}}
[[Category:大陸]]
[[Category:ヨーロッパの地形|*よおろつはたいりく]]
[[Category:ヨーロッパの地域]]
|
2003-09-15T04:23:55Z
|
2023-10-08T22:36:27Z
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"Template:世界の地理",
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E5%A4%A7%E9%99%B8
|
16,866 |
音階
|
音階(おんかい、英語: scale:スケール)は、音を音高により昇順あるいは降順にならべたものである。
「音階」は西洋音楽の音楽理論用語Tonleiter, Skala(ドイツ語)scala(イタリア語)gamme(フランス語)scale(英語)などの訳語として明治期に日本語に登場した。それまでの日本で使われていた音階に似た用語を探すと、雅楽や声明の世界において使われていた「五声・五音」「七声・七音」「調(西洋音楽で定義される『調』とは意味が違う)」などが挙げられる(更にこれらは中国音楽の音楽理論用語からきている)。したがって基本的には「音階」とは西洋音楽理論において定義されるそれ(音を高低の順番に並べたもの)である。
1オクターブに含まれる音の数によって五音音階、七音音階などと分ける事もある。
教会旋法からスケールを抽出し、20世紀になって新たにスケールとして使用されるようになったもの。 ジャズ、ポピュラー音楽など現代の音楽では欠かせないものとなっている
ナチュラル・マイナー・スケールはメジャー・スケールの3度と6度と7度を半音下げたスケール。メジャースケールの6度から始めた音階でもあるのでそこから派生するスケールも並べ替えただけとなる。
基本のハーモニック・マイナー・スケールはナチュラル・マイナー・スケールの7を半音上げたスケール。 ハーモニック・マイナー系は響きが独特であるため、ポピュラー音楽においては使用される事が少なく、さらにハーモニック・マイナー・スケールとハーモニック・マイナー・パーフェクト5th・ビロウ・スケール以外はほぼ使われない。
基本のメロディク・マイナー・スケールはナチュラル・マイナー・スケールの♭6と♭7を半音上げたスケール。ジャズやフュージョンなどで多く使われる。クラシックでは下降時はナチュラル・マイナー・スケールとなるが、これはリーディングトーンを含んでいるので解決感を得るためのものであり、ポピュラー音楽においてはスケールではなく和声の扱う部類になるので、その概念自体ほとんど使われない。
※ メロディック・マイナーやハーモニック・マイナーから派生するスケールの名称は上記以外にも様々な言い方や表記が存在する。
(英)Symmetrical Scale
規則的な法則によって人工的に創作された音階。ジャズ、フュージョンで使われる場合が多い。
(英)Penta Tonic Scale
ポピュラー音楽においてはロックやジャズなど様々なジャンルで広く使われている。アヴォイドノートが存在しないため、古代から民謡、童謡、ブルースなどのほとんどがこのスケールによってメロディーが作られている。
ブルースやロックなどでよく使われるスケール。後述のブルーノートスケールのピックアップ音階であり、ジャズの世界に於ける、モードイディオムの元祖といわれている。
ハンガリーなどの民謡で使われるスケール。
ジプシー音楽などで多用される。
スペイン音階はフラメンコなどの音楽で多用される。
北インド(ヒンドゥースターニー音楽)の10のタート(バートカンデによる)
明治時代になり西洋音楽の音階に当てはめられて創作された音階。
ヨナ抜き音階
(参照 ララス、パトゥ(パトゥッ、パテット)、サイ・ピトゥ、ガムラン)
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"text": "「音階」は西洋音楽の音楽理論用語Tonleiter, Skala(ドイツ語)scala(イタリア語)gamme(フランス語)scale(英語)などの訳語として明治期に日本語に登場した。それまでの日本で使われていた音階に似た用語を探すと、雅楽や声明の世界において使われていた「五声・五音」「七声・七音」「調(西洋音楽で定義される『調』とは意味が違う)」などが挙げられる(更にこれらは中国音楽の音楽理論用語からきている)。したがって基本的には「音階」とは西洋音楽理論において定義されるそれ(音を高低の順番に並べたもの)である。",
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"text": "ナチュラル・マイナー・スケールはメジャー・スケールの3度と6度と7度を半音下げたスケール。メジャースケールの6度から始めた音階でもあるのでそこから派生するスケールも並べ替えただけとなる。",
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"text": "基本のメロディク・マイナー・スケールはナチュラル・マイナー・スケールの♭6と♭7を半音上げたスケール。ジャズやフュージョンなどで多く使われる。クラシックでは下降時はナチュラル・マイナー・スケールとなるが、これはリーディングトーンを含んでいるので解決感を得るためのものであり、ポピュラー音楽においてはスケールではなく和声の扱う部類になるので、その概念自体ほとんど使われない。",
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"text": "規則的な法則によって人工的に創作された音階。ジャズ、フュージョンで使われる場合が多い。",
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"text": "ポピュラー音楽においてはロックやジャズなど様々なジャンルで広く使われている。アヴォイドノートが存在しないため、古代から民謡、童謡、ブルースなどのほとんどがこのスケールによってメロディーが作られている。",
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"text": "ブルースやロックなどでよく使われるスケール。後述のブルーノートスケールのピックアップ音階であり、ジャズの世界に於ける、モードイディオムの元祖といわれている。",
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"text": "ハンガリーなどの民謡で使われるスケール。",
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"text": "ジプシー音楽などで多用される。",
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"text": "スペイン音階はフラメンコなどの音楽で多用される。",
"title": "その他の民族音階"
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"text": "北インド(ヒンドゥースターニー音楽)の10のタート(バートカンデによる)",
"title": "その他の民族音階"
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"text": "明治時代になり西洋音楽の音階に当てはめられて創作された音階。",
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"title": "その他の民族音階"
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"text": "(参照 ララス、パトゥ(パトゥッ、パテット)、サイ・ピトゥ、ガムラン)",
"title": "その他の民族音階"
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] |
音階は、音を音高により昇順あるいは降順にならべたものである。 「音階」は西洋音楽の音楽理論用語Tonleiter, Skala(ドイツ語)scala(イタリア語)gamme(フランス語)scale(英語)などの訳語として明治期に日本語に登場した。それまでの日本で使われていた音階に似た用語を探すと、雅楽や声明の世界において使われていた「五声・五音」「七声・七音」「調(西洋音楽で定義される『調』とは意味が違う)」などが挙げられる(更にこれらは中国音楽の音楽理論用語からきている)。したがって基本的には「音階」とは西洋音楽理論において定義されるそれ(音を高低の順番に並べたもの)である。 1オクターブに含まれる音の数によって五音音階、七音音階などと分ける事もある。
|
{{出典の明記|date=2011年12月}}
'''音階'''(おんかい、{{lang-en|scale}}:スケール)は、[[音]]を[[音高]]により昇順あるいは降順にならべたものである。
「音階」は[[西洋音楽]]の音楽理論用語Tonleiter, Skala(ドイツ語)scala(イタリア語)gamme(フランス語)scale(英語)などの訳語として明治期に日本語に登場した。それまでの[[日本]]で使われていた音階に似た用語を探すと、[[雅楽]]や[[声明]]の世界において使われていた「[[五声]]・五音」「[[七声]]・七音」「調(西洋音楽で定義される『調』とは意味が違う)」などが挙げられる(更にこれらは中国音楽の音楽理論用語からきている)。したがって基本的には「音階」とは西洋音楽理論において定義されるそれ(音を高低の順番に並べたもの)である。
<!-- これらは音階ではなく旋法に関係した説明
しかしながらアジア圏音階文化が西洋圏音階文化に出会い、逆に[[西洋]]音楽文化は非西洋の音楽文化と出会っている。例えばSkala や gamma と言う語に出会った事により「音階」の意味も広がっていった。アラブ古典音楽における音楽理論用語مقام([[マカーム]]、[[アラビア語]])、インド古典音楽における音楽理論用語रागा([[ラーガ]]、[[サンスクリット]])などを西洋音楽文化は「我々の音楽における『音階』のようなものだ」と考えた(ただし、研究者が主張するように詳しくマカームやラーガを見ていくと音階とそれらは[[教会]]と[[モスク]]と[[寺院]]くらい大きく違うらしいとう伝聞がある。
現在(西暦2008年)の日本では西洋音楽の[[教育]]が行われている。「五声」「七声」「五音」「七音」「調」などが現場でどのように説明されているかは明らかではない。{{要出典|date=2011年8月}}
また、非西洋音楽との出会いにより「音階」の意味合いが広がっていった事からもわかるように、西洋音楽における音階の定義が曖昧である(例えばある一時期それは古典派の時代~ロマン派の時代前後を描写するもの等)。「音階」の背景には[[教会旋法]](12旋法、8旋法)があり、さらにそれは[[グレゴリオ聖歌]]、古代ローマ帝国のキリスト教聖歌(ビザンティン帝国の聖歌、「オクトエーコス」)、古代の西アジアの[[キリスト教音楽]]([[シリア]]のキリスト教聖歌など)、[[古代ギリシア]]の[[ピュタゴラス|ピタゴラス]]や[[アリストクセノス]]などの音律論([[音楽]]に関する著作・論文)などへとつながっていく。(したがって「音階」は[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]で研究された音律論を翻訳し、研究したアラブ人達の音楽の理論用語(マカーム)などとも関連がある;なおマカームと「音階」の関連に関しては[[イスラーム]]に対する偏見により故意に無視されてきたとの指摘がある)-->
1[[オクターブ]]に含まれる音の数によって[[五音音階]]、[[七音音階]]などと分ける事もある。
== クラシック音楽における名称と分類 ==
* 伝統的な音階
** [[全音階]]
*** [[長音階]]
*** [[短音階]]
*** [[教会旋法]]
** [[半音階]]
* 近、現代以降に体系化された音階
** [[全音音階]]
** [[移調の限られた旋法]]
** [[アレクサンドル・チェレプニン|チェレプニン]]音階
** [[倍音列音階]]
== ジャズなどのポピュラー音楽における名称と分類 ==
=== 調性に基づく音階とそこから派生した音階 ===
==== メジャー・スケール(チャーチ・モード) ====
[[教会旋法]]からスケールを抽出し、20世紀になって新たにスケールとして使用されるようになったもの。
ジャズ、ポピュラー音楽など現代の音楽では欠かせないものとなっている
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!スペル、備考など
|-
|アイオニアン・スケール (Ionian)<br>([[長音階|メジャースケール]]、[[長音階]])
|C D E F G A B
|1 2 3 4 5 6 7
|メジャー・キーの第1音から派生したスケール<br>Maj7上などで使用可能
|-
|ドリアン・スケール (Dorian)
|C D Eb F G A Bb
|1 2 b3 4 5 6 b7
|メジャー・キーの第2音から派生したスケール<br>mi7上などで使用可能
|-
|フリジアン・スケール (Phrigian)
|C Db Eb F G Ab Bb
|1 b2 b3 4 5 b6 b7
|メジャー・キーの第3音から派生したスケール<br>mi7上などで使用可能
|-
|リディアン・スケール (Lydian)
|C D E F# G A B
|1 2 3 #4 5 6 7
|メジャー・キーの第4音から派生したスケール<br>Maj7上などで使用可能
|-
|ミクソリディアン・スケール (Mixolydian)
|C D E F G A Bb
|1 2 3 4 5 6 b7
|メジャー・キーの第5音から派生したスケール<br>ドミナント7th上などで使用可能
|-
|エオリアン・スケール (Aeolian)<br>([[短音階|ナチュラル・マイナー・スケール]]、[[短音階|自然短音階]])
|C D Eb F G Ab Bb
|1 2 b3 4 5 b6 b7
|メジャー・キーの第6音から派生スケール<br>mi7上などで使用可能
|-
|ロクリアン・スケール (Locrian)
|C Db Eb F Gb Ab Bb
|1 b2 b3 4 b5 b6 b7
|メジャー・キーの第7音から派生したスケール<br>mi7♭5上などで使用可能
|}
==== ナチュラル・マイナー・スケール(自然短音階)====
ナチュラル・マイナー・スケールはメジャー・スケールの3度と6度と7度を半音下げたスケール。メジャースケールの6度から始めた音階でもあるのでそこから派生するスケールも並べ替えただけとなる。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!スペル、備考など
|-
|エオリアン・スケール<br>(ナチュラル・マイナー・スケール、[[短音階|自然短音階]])
|C D Eb F G Ab Bb
|1 2 b3 4 5 b6 b7
|マイナー・キーの第1音から派生したスケール
|-
|ロクリアン・スケール
|C Db Eb F Gb Ab Bb
|1 b2 b3 4 b5 b6 b7
|マイナー・キーの第2音から派生したスケール
|-
|アイオニアン・スケール<br>(メジャー・スケール、[[長音階]])
|C D E F G A B
|1 2 3 4 5 6 7
|マイナー・キーの第3音から派生したスケール
|-
|ドリアン・スケール
|C D Eb F G A Bb
|1 2 b3 4 5 6 b7
|マイナー・キーの第4音から派生したスケール
|-
|フリジアン・スケール
|C Db Eb F G Ab Bb
|1 b2 b3 4 5 b6 b7
|マイナー・キーの第5音から派生したスケール
|-
|リディアン・スケール
|C D E F# G A B
|1 2 3 #4 5 6 7
|マイナー・キーの第6音から派生したスケール
|-
|ミクソリディアン・スケール
|C D E F G A Bb
|1 2 3 4 5 6 b7
|マイナー・キーの第7音から派生したスケール
|}
==== ハーモニック・マイナー・スケール(和声短音階) ====
基本のハーモニック・マイナー・スケールはナチュラル・マイナー・スケールの<sup>♭</sup>7を半音上げたスケール。
ハーモニック・マイナー系は響きが独特であるため、ポピュラー音楽においては使用される事が少なく、さらにハーモニック・マイナー・スケールとハーモニック・マイナー・パーフェクト5th・ビロウ・スケール以外はほぼ使われない。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名<br>(スケール名)
!音階の例
!音度記号<br>(スケール・ディグリー)
!備考など
|-
|[[短音階|ハーモニック・マイナー・スケール]]<br>([[短音階|和声短音階]])
|C D E<sup>b</sup> F G A<sup>b</sup> B
|1 2 <sup>b</sup>3 4 5 <sup>b</sup>6 7
|ハーモニック・マイナー・キーの第1音から派生したスケール<br>miやmi△7上などで使用可能
|-
|ロクリアン♮6・スケール
|C D<sup>b</sup> E<sup>b</sup> F G<sup>b</sup> A B<sup>b</sup>
|1 <sup>b</sup>2 <sup>b</sup>3 4 <sup>b</sup>5 6 <sup>b</sup>7
|ハーモニック・マイナー・キーの第2音から派生したスケール
|-
|アイオニアン♯5・スケール
|C D E F G<sup>#</sup> A B
|1 2 3 4 <sup>#</sup>5 6 7
|ハーモニック・マイナー・キーの第3音から派生したスケール
|-
|ドリアン♯4・スケール
|C D E<sup>b</sup> F<sup>#</sup> G A B<sup>b</sup>
|1 2 <sup>b</sup>3 <sup>#</sup>4 5 6 <sup>b</sup>7
|ハーモニック・マイナー・キーの第4音から派生したスケール
|-
|ハーモニック・マイナー・パーフェクト5th・ビロウ・スケール<br>(フリジアン・メジャー・スケール)
|C D<sup>b</sup> E F G A<sup>b</sup> B<sup>b</sup>
|1 <sup>b</sup>2 3 4 5 <sup>b</sup>6 <sup>b</sup>7
|ハーモニック・マイナー・キーの第5音から派生したスケール<br>Hmp5↓と省略することもある。<br>ドミナント7th上などで使用可能
|-
|リディアン♯2・スケール
|C D<sup>#</sup> E F<sup>#</sup> G A B
|1 <sup>#</sup>2 3 <sup>#</sup>4 5 6 7
|ハーモニック・マイナー・キーの第6音から派生したスケール
|-
|スーパー・ロクリアン♭7・スケール(オルタード♭♭7・スケール)
|C D<sup>b</sup> E<sup>b</sup> F<sup>b</sup> G<sup>b</sup> A<sup>b</sup> B<sup>bb</sup>
|1 <sup>b</sup>2 <sup>b</sup>3 <sup>b</sup>4 <sup>b</sup>5 <sup>b</sup>6 <sup>bb</sup>7
|ハーモニック・マイナー・キーの第7音から派生したスケール
|}
==== メロディック・マイナー・スケール(旋律短音階) ====
基本のメロディク・マイナー・スケールはナチュラル・マイナー・スケールの♭6と♭7を半音上げたスケール。ジャズやフュージョンなどで多く使われる。クラシックでは下降時はナチュラル・マイナー・スケールとなるが、これはリーディングトーンを含んでいるので解決感を得るためのものであり、ポピュラー音楽においてはスケールではなく和声の扱う部類になるので、その概念自体ほとんど使われない。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|[[短音階|メロディック・マイナー・スケール]]<br>([[短音階|旋律短音階]])<br>スーパー・イオニアン・スケール
|C D Eb F G A B
|1 2 b3 4 5 6 7
|メロディック・マイナー・キーの第1音から派生したスケール<br>miやmi△7上などで使用可能
|-
|ドリアン♭2・スケール<br>スーパー・ドリアン・スケール
|C Db Eb F G A Bb
|1 b2 b3 4 5 6 b7
|メロディック・マイナー・キーの第2音から派生したスケール
|-
|リディアン♯5・スケール<br>リディアンオーギュメントスケール<br>スーパー・フリジアン・スケール
|C D E F# G# A B
|1 2 3 #4 #5 6 7
|メロディック・マイナー・キーの第3音から派生したスケール
|-
|リディアン♭7・スケール<br>(リディアン・ドミナント・スケール)<br>スーパー・リディアン・スケール
|C D E F# G A Bb
|1 2 3 #4 5 6 b7
|メロディック・マイナー・キーの第4音から派生したスケール<br>ドミナント7thなどで使用可能
|-
|[[長音階|ミクソリディアン♭6・スケール]]<br>([[長音階|旋律的長音階]])<br>ドゥア・モル・スケール<br>スーパー・ミクソリディアン・スケール
|C D E F G Ab Bb
|1 2 3 4 5 b6 b7
|メロディック・マイナー・キーの第5音から派生したスケール<br>ドミナント7th上などで使用可能
|-
|エオリアン♭5・スケール<br>オルタード・ドリアン・スケール<br>スーパー・エオリアン・スケール
|C D Eb F Gb Ab Bb
|1 2 b3 4 b5 b6 b7
|メロディック・マイナー・キーの第6音から派生したスケール
|-
|ロクリアン♭4・スケール<br>スーパー・ロクリアン・スケール<br>※ [[オルタード・スケール]]
|C Db Eb Fb Gb Ab Bb<br>※ C Db D# E F# G# Bb
|1 b2 b3 b4 b5 b6 b7<br>※ 1 b2 #2 3 #4 #5 b7
|メロディック・マイナー・キーの第7音から派生したスケール<br>完全五度で解決するドミナント7th上などで使用可能<br>※ オルタード・スケールとスーパー・ロクリアン・スケールは実音は同じであるが表記が異なる。
|}
※ メロディック・マイナーやハーモニック・マイナーから派生するスケールの名称は上記以外にも様々な言い方や表記が存在する。
=== シンメトリカル・スケール ===
(英)Symmetrical Scale
規則的な法則によって人工的に創作された音階。[[ジャズ]]、[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]で使われる場合が多い。
==== ホールトーン・スケール ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|ホールトーン・スケール<br>([[全音音階]]、[[移調の限られた旋法]]第1旋法)
|C D E F# Ab Bb
|1 2 3 #4 b6 b7
|全て音程が全音のスケール<br>ドミナント7th上などで使用可能
|-
|}
==== ディミニッシュト・スケール ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|ディミニッシュト・スケール
|C D Eb F Gb G# A B
|1 2 b3 4 b5 #5 6 7
|音程が全音・半音という規則的なスケール<br>Dim7上などで使用可能
|-
|コンビネーション・オブ・ディミニッシュト・スケール<br>([[移調の限られた旋法]]第2旋法)<br>ドミナント・ディミニッシュト・スケール
|C Db Eb bF bG G A Bb
|1 b2 b3 b4 b5 5 6 b7
|音程が半音・全音という規則的なスケール<br>ドミナント7th上などで使用可能
|-
|}
==== クロマティック・スケール ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|[[半音階|クロマティック・スケール]]
|C C# D D# E F F# G G# A A# B
|1 #1 2 #2 3 4 #4 5 #5 6 #6 7
|全て音程が半音のスケール。
|-
|}
==== シンメトリック・オーギュメント・スケール ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|シンメトリック・オーギュメント・スケール
|C Eb E G G# B
|1 b3 3 5 #5 7
|音程が短3度・半音という規則的なスケール
|}
=== ペンタトニック・スケール(五音音階) ===
(英)Penta Tonic Scale
ポピュラー音楽においてはロックやジャズなど様々なジャンルで広く使われている。アヴォイドノートが存在しないため、古代から民謡、童謡、ブルースなどのほとんどがこのスケールによってメロディーが作られている。
==== ペンタトニック・スケール ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|マイナー・ペンタトニック・スケール
|C Eb F G Bb
|1 b3 4 5 b7
|ナチュラル・マイナ・スケールの第2音と第6音を抜いたスケール
ロック・コード・スケールと同一のスケール
|-
|メジャー・ペンタトニック・スケール
|C D E G A
|1 2 3 5 6
|メジャー・スケールの第4音と第7音を抜いたスケール
ヨナ抜き長音階と同一のスケール
|}
====ブルース・スケール====
ブルースやロックなどでよく使われるスケール。後述のブルーノートスケールのピックアップ音階であり、ジャズの世界に於ける、モードイディオムの元祖といわれている。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|メジャー・ブルース・スケール
|C D Eb E G A
|1 2 b3 3 5 6
|メジャー・ペンタトニック・スケールにb3の音を加えたスケール
|-
|マイナー・ブルース・スケール
|C Eb F Gb G Bb
|1 b3 4 b5 5 b7
|マイナー・ペンタトニック・スケールにb5の音を加えたスケール
|}
===ブルー・ノート・スケール===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|[[ブルー・ノート・スケール]]
|C D Eb E F Gb G A Bb B
|1 2 b3 3 4 b5 5 6 b7 7
|メジャー・スケールにb3、b5、b7(ブルーノート)を加えたスケール
|}
== その他の民族音階 ==
=== ヨーロッパの音階===
==== ハンガリーの音階 ====
[[ハンガリー]]などの民謡で使われるスケール。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|[[ハンガリー音階|ハンガリー・スケール]]
|C D Eb F# G Ab B
|1 2 b3 #4 5 6b 7
|ハーモニック・マイナーを♯4にしたスケール
|}
==== ジプシーの音階 ====
[[ジプシー]]音楽などで多用される。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|ジプシー・スケール
|C Db E F G Ab B
|1 b2 3 4 5 b6 7
|ハーモニック・マイナー・パーフェクト5th・ビロウ・スケールを♮7にしたスケール
|}
==== スペインの音階 ====
[[スペイン]]音階はフラメンコなどの音楽で多用される。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|スパニッシュ・スケール
|C Db E F G Ab Bb
|1 b2 3 4 5 b6 b7
|
|-
|スパニッシュ・8ノート・スケール
|C Db Eb E F G Ab Bb
|1 b2 b3 3 4 5 b6 b7
|フリジアン・スケールにMajor 3rdを加えたスケール
|}
=== アラブの音階 ===
{{main|マカーム}}
:半音の半分、1/4音下げる記号をここではqと表記する事にする
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|マカーム・ラースト
|C D Eq F G A Bq
|1 2 q3 4 5 6 7
|
|-
|マカーム・ナハーワンド
|C D Eb F G Ab B
|1 2 b3 4 5 b6 7
|ハーモニック・マイナー・スケールと同一のスケール
|-
|マカーム・ナワサル
|C D Eb F# G Ab B
|1 2 b3 #4 5 b6 7
|
|-
|マカーム・ナグリーズ
|C D Eb F# G A Bb
|1 2 b3 #4 5 6 b7
|ドリアン♯4・スケールと同一のスケール
|-
|マカーム・ヒジャーズカル
|C Db E F G Ab B
|1 b2 3 4 5 b6 7
|ジプシー・スケールと同一のスケール
|-
|マカーム・バヤーティー
|C Dq Eb F G Ab Bb
|1 q2 b3 4 5 b6 b7
|
|-
|マカーム・サバー
|C Dq Eb Fb G Ab Bb
|1 q2 b3 b4 5 b6 b7
|
|-
|マカーム・ヒジャーズィー
|C Db E F G Ab Bb
|1 b2 3 4 5 b6 b7
|ハーモニック・マイナー・パーフェクト5th・ビロウ・スケールと同一のスケール
|-
|マカーム・クルディー
|C Db Eb F G Ab Bb
|1 b2 b3 4 5 b6 b7
|フリジアン・スケールと同一のスケール。
|-
|マカーム・スィカ
|Eq, F, G, A, Bq, C, D, Eq
|
|
|-
|マカーム・フザム
|Eq, F, G, Ab, B, C, D, Eq
|
|
|}
=== インドの音階 ===
{{main|ラーガ}}
[[北インド]]([[ヒンドゥースターニー音楽]])の10のタート(バートカンデによる)
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|ビラーヴァル・タート
|C D E F G A B
|1 2 3 4 5 6 7
|メジャー・スケールと同一のスケール
|-
|カマージ・タート
|C D E F G A Bb
|1 2 3 4 5 6 b7
|ミクソリディアン・スケールと同一のスケール
|-
|カーフィー・タート
|C D Eb F G A Bb
|1 2 b3 4 5 6 b7
|ドリアン・スケールと同一のスケール
|-
|アサーワリー・タート
|C D Eb F G Ab Bb
|1 2 b3 4 5 b6 b7
|ナチュラル・マイナー・スケールと同一のスケール
|-
|バイラヴ・タート
|C Db E F G Ab B
|1 b2 3 4 5 b6 7
|ジプシー・スケールと同一のスケール
|-
|バイラヴィ・タート
|C Db Eb F G Ab Bb
|1 b2 b3 4 5 b6 b7
|フリジアン・スケールと同一のスケール
|-
|カリヤーン・タート
|C D E F# G A B
|1 2 3 #4 5 6 7
|リディアン・スケールと同一のスケール
|-
|マールワー・タート
|C Db E F# G A B
|1 b2 3 #4 5 6 7
|
|-
|プールヴィー・タート
|C Db E F# G Ab B
|1 b2 3 #4 5 b6 7
|
|-
|トーディー・タート
|C Db Eb F# G Ab B
|1 b2 b3 #4 5 b6 7
|
|-
|}
=== 東南アジア、東アジアの音階 ===
==== 中国の音階 ====
{{main|調式}}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名
!音階の例
!音度記号(スケール・ディグリー)
!備考など
|-
|宮調式
|C D E G A
|1 2 3 5 6
|メジャー・ペンタトニック・スケールと同一のスケール
|-
|商調式
|C D F G Bb
|1 2 4 5 b7
|メジャー・ペンタトニック・スケールの第2音から始めたスケール
|-
|角調式
|C Eb F Ab Bb
|1 b3 4 b6 b7
|メジャー・ペンタトニック・スケールの第3音から始めたスケール
|-
|徴調式
|C D F G A
|1 2 4 5 6
|メジャー・ペンタトニック・スケールの第4音から始めたスケール
|-
|羽調式
|C Eb F G Bb
|1 b3 4 5 b7
|メジャー・ペンタトニック・スケールの第5音から始めたスケール<br>マイナー・ペンタトニック・スケールと同一のスケール
|-
|}
==== 日本の音階 ====
===== 雅楽、俗楽などの古典邦楽の音階 =====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|[[呂旋法]]([[雅楽]])
|C D E G A<ref name="akutagawa">[[芥川也寸志]]『音楽の基礎』岩波書店<岩波新書>、1971年、72頁。</ref>
|1 2 3 5 6
|メジャー・ペンタトニック・スケールと同一のスケール
|-
|[[律旋法]](雅楽)
|C D F G A<ref name="akutagawa"/>
|1 2 4 5 6
|
|-
|陽旋法・田舎節([[俗楽]])
|C D F G Bb<br> (下降形 A G F D C)<ref name="z">[[俗楽旋律考]]</ref>
|1 2 4 5 b7<br>(下降形 6 5 4 2 1)
|
|-
|陰旋法・都節(俗楽)
|C Db F G Bb<br>(下降形 Ab G F Db C)<ref name="z"/>
|1 b2 4 5 b7 <br>(下降形 b6 5 4 b2 1)
|
|-
|民謡音階
|C Eb F G Bb
|1 b3 4 5 b7
|ニロ抜き短音階と同一のスケール
|-
|琉球音階
|C E F G B
|1 3 4 5 7
|ニロ抜き長音階と同一のスケール
|-
|}
===== 明治以降の音階 =====
[[明治時代]]になり西洋音楽の音階に当てはめられて創作された音階。
'''[[ヨナ抜き音階]]'''
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考
|-
|ヨナ抜き長音階
|C D E G A
|1 2 3 5 6
|呂旋法と同一のスケール
メジャー・ペンタトニック・スケールと同一のスケール
|-
|ヨナ抜き短音階
|C D Eb G Ab
|1 2 b3 5 b6
|第4音から始めると陰旋法
平調子と同一のスケール
|-
|ニロ抜き短音階
|C Eb F G Bb
|1 b3 4 5 b7
|マイナー・ペンタトニック・スケールと同一のスケール
|-
|ニロ抜き長音階
|C E F G B
|1 3 4 5 7
|琉球音階と同一のスケール
|-
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|雲井音階
|C D Eb G A
|1 2 b3 5 6
|
|-
|岩戸音階
|C Db F Gb Bb
|1 b2 4 b5 b7
|
|}
==== インドネシアの音階 ====
(参照 ララス、パトゥ(パトゥッ、パテット)、サイ・ピトゥ、[[ガムラン]])
* [[スレンドロ]]
::本来はおおざっぱに1オクターブを5等分したもの、C, D, E, G, A, C もしくは C, D, F, G, A, Cもしくは C, D, F, G, Bb, C もしくは C, Eb, F, G, Bb, C 程度の感じ。
* [[ペロッグ]]
::{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!音階名(スケール名)
!音階の例
!音度記号(スケールディグリー)
!備考など
|-
|ペロッグ・スケール
|C Db Eb G Ab
|1 b2 b3 5 b6
|第6音から始めると琉球音階となる
|}
::本来はおおざっぱに1オクターブを5つに不等分したもの。「広い音程」と「狭い音程」の2種の音程がある。狭い音程+狭い音程+広い音程+狭い音程+広い音程。C#, D, E, G#, A, C#もしくはC#, D, E, G, A, C#程度の感じ。
== 脚註 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
== 関連項目 ==
{{wikibooks|音階}}
* [[音楽理論]]
* [[音名・階名表記]]
* [[旋法]]
** [[教会旋法]]
* [[調]]
* [[調性]]
* [[和声]]
* [[平均律]]
* [[和音]]
{{音楽}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おんかい}}
[[Category:音楽理論]]
[[Category:音階|*]]
[[Category:音楽用語]]
|
2003-09-15T04:29:06Z
|
2023-08-28T17:21:45Z
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[
"Template:Normdaten",
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Wikibooks",
"Template:音楽"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E9%9A%8E
|
16,867 |
旋法
|
旋法(せんぽう、英語:musical mode、モード)とは、旋律の背後に働く音の力学である。 一般に旋法は音階を用いて記述されるので、音階と混同されがちであるが、音階が単に音を音高により昇順あるいは降順にならべたものであるのに対し、旋法は主音あるいは中心音、終止音、音域などの規定を含む。 旋法は特殊化した音階、あるいは一般化した旋律として定義できる。
西洋音楽
中東
アジア
近、現代に体系化された旋法
1950年代終わりから1960年代に入る当初、マイルス・デイヴィスなどによって、研究やトライアルの末、積極的にジャズにも取り入れられ、特に即興演奏(アドリブ)に効果を発揮した。ビバップやハード・バップからモード・ジャズ (modal jazz) 中心へと移ることにより、それまでの「劇的ではあっても、和音進行(コード進行)から導き出されるスケールの限界」、または、「和音の構成音に縛り付けられパターン化されたフレーズ作りやアドリブ」から解放され、モード奏法の確立によって、「地味に陥る危険性をはらみながらも、自由な発想でアドリブ演奏ができる」ようになったといえる。
現在、コンポージット・モードを除けば、モードと呼ばれるものは7種類(アイオニアン、ドリアン、フリジアン、リディアン、ミクソリディアン、エオリアン、ロクリアン)あり、大きく分けると「長旋法」と「短旋法」とに分けることができる。しかし、実際にはそのバリエーションも多い。また、使用頻度の少ないもの、モードジャズ以外のポピュラー音楽で(スケールとして)用いた場合に、対応性のあまりないものや、違和感のあるものも含まれる。 和音構成音において、基音(ルート)に対して、長短3度のどちらの音がその和音に含まれているかによって、その和音の長短が判別されるのと同様、モードにおいても、それぞれの音列の1度の音に対して、長短3度の音のうち、どちらの音が含まれているかによってこれらの多くは分類される。
ジャズでは、モードを調として使用する場合に、音の配列がMajor Scale(長音階)と同じ「アイオニアン」を除いた6つを「モード」と定義することが多い。モードの使用は、従来の狭義の調性(長調と短調)から脱却しようとする試みなので、あまりにも従来の調性である長調を感じさせるアイオニアンは使用されない。エオリアンは自然短音階と同一であるが、従来の調性音楽においては和声的短音階あるいは旋律的短音階を使用することが圧倒的に多いため、モードとして使用される。一方、モードを調として使用しない場合、つまりあるコードのアベイラブル・ノート・スケールを説明する場合には、アイオニアンも用いられる。
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"text": "現在、コンポージット・モードを除けば、モードと呼ばれるものは7種類(アイオニアン、ドリアン、フリジアン、リディアン、ミクソリディアン、エオリアン、ロクリアン)あり、大きく分けると「長旋法」と「短旋法」とに分けることができる。しかし、実際にはそのバリエーションも多い。また、使用頻度の少ないもの、モードジャズ以外のポピュラー音楽で(スケールとして)用いた場合に、対応性のあまりないものや、違和感のあるものも含まれる。 和音構成音において、基音(ルート)に対して、長短3度のどちらの音がその和音に含まれているかによって、その和音の長短が判別されるのと同様、モードにおいても、それぞれの音列の1度の音に対して、長短3度の音のうち、どちらの音が含まれているかによってこれらの多くは分類される。",
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"title": "ポピュラー音楽における用法"
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旋法とは、旋律の背後に働く音の力学である。
一般に旋法は音階を用いて記述されるので、音階と混同されがちであるが、音階が単に音を音高により昇順あるいは降順にならべたものであるのに対し、旋法は主音あるいは中心音、終止音、音域などの規定を含む。
旋法は特殊化した音階、あるいは一般化した旋律として定義できる。
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{{出典の明記|date=2011年12月}}
'''旋法'''(せんぽう、[[英語]]:musical mode、'''モード''')とは、[[メロディ|旋律]]の背後に働く音の力学である。
一般に旋法は[[音階]]を用いて記述されるので、音階と混同されがちであるが、音階が単に音を[[音高]]により昇順あるいは降順にならべたものであるのに対し、旋法は[[主音]]あるいは中心音、終止音、[[音域]]などの規定を含む。
旋法は特殊化した音階、あるいは一般化した旋律として定義できる<ref>H. S. Powers, F. Wiering, "Mode", ''The New Grove Dictionary of Music and Musicians'', 2nd ed. (London: Macmillan, 2001).</ref>。
== 様々な旋法 ==
'''西洋音楽'''
* [[古代ギリシアの旋法]]
* [[教会旋法]]
'''中東'''
* [[アラブ音楽]]の[[マカーム]]
* ペルシア音楽の[[ダストガー]]
'''アジア'''
* インド音楽の[[ラーガ]]
* [[雅楽]]の調
* [[呂旋法]]、[[律旋法]]
* [[陽旋法]](田舎節)、[[陰旋法]](都節)
* [[中国]]の[[調式]]
* [[インドネシアの音楽|ジャワ音楽]]のララス、パトゥッ(パテット)
'''近、現代に体系化された旋法'''
* [[移調の限られた旋法]]
== ポピュラー音楽における用法 ==
[[1950年代]]終わりから[[1960年代]]に入る当初、[[マイルス・デイヴィス]]などによって、研究やトライアルの末、積極的に[[ジャズ]]にも取り入れられ、特に[[即興演奏]](アドリブ)に効果を発揮した。[[ビバップ]]や[[ハード・バップ]]から[[モード・ジャズ]] (modal jazz) 中心へと移ることにより、それまでの「劇的ではあっても、[[和音]]進行(コード進行)から導き出されるスケールの限界」、または、「和音の構成音に縛り付けられパターン化されたフレーズ作りやアドリブ」から解放され、モード奏法の確立によって、「地味に陥る危険性をはらみながらも、自由な発想でアドリブ演奏ができる」ようになったといえる。
=== 分類 ===
現在、コンポージット・モードを除けば、モードと呼ばれるものは7種類(アイオニアン、ドリアン、フリジアン、リディアン、ミクソリディアン、エオリアン、ロクリアン)あり、大きく分けると「長旋法」と「短旋法」とに分けることができる。しかし、実際にはそのバリエーションも多い。また、使用頻度の少ないもの、モードジャズ以外の[[ポピュラー音楽]]で(スケールとして)用いた場合に、対応性のあまりないものや、違和感のあるものも含まれる。
和音構成音において、基音(ルート)に対して、長短3度のどちらの音がその和音に含まれているかによって、その和音の長短が判別されるのと同様、モードにおいても、それぞれの音列の1度の音に対して、長短3度の音のうち、どちらの音が含まれているかによってこれらの多くは分類される。
ジャズでは、モードを調として使用する場合に、音の配列がMajor Scale(長音階)と同じ「アイオニアン」を除いた6つを「モード」と定義することが多い。モードの使用は、従来の狭義の調性(長調と短調)から脱却しようとする試みなので、あまりにも従来の調性である長調を感じさせるアイオニアンは使用されない。エオリアンは自然短音階と同一であるが、従来の調性音楽においては和声的短音階あるいは旋律的短音階を使用することが圧倒的に多いため、モードとして使用される。一方、モードを調として使用しない場合、つまりあるコードのアベイラブル・ノート・スケールを説明する場合には、アイオニアンも用いられる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[音階]]
{{音楽}}
{{旋法}}
{{DEFAULTSORT:もと}}
[[Category:旋法|*もと]]
|
2003-09-15T04:32:01Z
|
2023-10-24T18:51:24Z
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[
"Template:旋法",
"Template:出典の明記",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:音楽"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%8B%E6%B3%95
|
16,868 |
五音音階
|
五音音階(ごおんおんかい)は、1オクターブに5つの音が含まれる音階のこと。ペンタトニックスケールとも呼ばれる。スコットランド民謡(スコットランド音楽)などにあらわれる。日本の民謡や演歌にみられるヨナ抜き音階、および琉球音階も五音音階の一つである。
東アジア(日本、朝鮮半島、中国(漢民族)、モンゴル、チベット、ブータンなど)、東南アジア(ベトナム、タイ、ミャンマー、カンボジア、インドネシア(ジャワ島、バリ島))、アフリカ(スーダン、エチオピア、ウガンダなど)、南アメリカ(アンデス)の音楽では、1オクターブの音域内で5つの音を持つ音階に基づくものがある。
便宜的には、次の3種類に分けられる。
|
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"text": "便宜的には、次の3種類に分けられる。",
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五音音階(ごおんおんかい)は、1オクターブに5つの音が含まれる音階のこと。ペンタトニックスケールとも呼ばれる。スコットランド民謡(スコットランド音楽)などにあらわれる。日本の民謡や演歌にみられるヨナ抜き音階、および琉球音階も五音音階の一つである。
|
{{出典の明記|date=2012年4月|ソートキー=楽}}
'''五音音階'''(ごおんおんかい)は、1[[オクターブ]]に5つの音が含まれる[[音階]]のこと。'''ペンタトニックスケール'''とも呼ばれる。[[スコットランド民謡]]([[スコットランド音楽]])などにあらわれる。[[日本]]の[[民謡]]や[[演歌]]にみられる[[ヨナ抜き音階]]、および[[琉球音階]]も五音音階の一つである。
== 概要 ==
[[東アジア]]([[日本]]、[[朝鮮半島]]、[[中国]]([[漢民族]])、[[モンゴル]]、[[チベット]]、[[ブータン]]など)、[[東南アジア]]([[ベトナム]]、[[タイ王国|タイ]]、[[ミャンマー]]、[[カンボジア]]、[[インドネシア]]([[ジャワ島]]、[[バリ島]]))、[[アフリカ]]([[スーダン]]、[[エチオピア]]、[[ウガンダ]]など)、[[南アメリカ]]([[アンデス山脈|アンデス]])の音楽では、1オクターブの音域内で5つの音を持つ音階に基づくものがある<ref name=kotobank63511>[https://kotobank.jp/word/5%E9%9F%B3%E9%9F%B3%E9%9A%8E-63511 コトバンク -5音音階-]</ref>。
便宜的には、次の3種類に分けられる<ref name=kotobank498551>[https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E9%9F%B3%E9%9F%B3%E9%9A%8E-498551 コトバンク -五音音階-]</ref>。
*全音階的五音音階(無半音的五音音階):最も一般的な5音音階であり、3つの全音程と2つの短3度によってできる。世界の五音音階の大部分がこれに含まれる。
*半音的五音音階:5音音階の中で半音を含むもので、半音程の位置は様々であるが、長3度音程と隣り合う位置に置かれることが多い。主に、日本、朝鮮、インド、インドネシア等にある。
*この他に、[[インドネシア]](ジャワ島・バリ島)や[[ウガンダ]](ブガンダ王国の伝統音楽)などには1オクターブを5等分した五音音階、タイには1オクターブを7等分してその内の5音を用いる五音音階などがある。
== 五音音階の分類 ==
{| class="wikitable"
|-
!音階
!使用範囲(日本)
!使用範囲(日本以外)
|-
|C, D, E, G, A
|[[呂旋法]]
|スコットランド民謡、ボヘミア民謡、<br>東アジア民謡(中国、[[スレンドロ]])、インド(ラーグブープ旋法)、南米[[フォルクローレ]]等
|-
|C, D, F, G, A
|律旋法
| ---
|-
|C, D, F, G, Bb
|陽旋法(上行形)
| ---
|-
|C, D, F, G, A
|陽旋法(下行形)
| ---
|-
|C, D, Eb, G, A
|陰旋法(上行形)
| ---
|-
|C, D, Eb, G, Ab
|陰旋法(下行形)
| ---
|-
|C, Eb, F, G, Bb
|民謡音階
| ---
|-
|C, E, F, G, B
|琉球音階
| ---
|-
|C, Db, Eb, G, Ab
|
|ガムラン音階([[ペロッグ]])
|-
|C, Db, Eb, Gb, Ab
| ---
|ガムラン音階(ペロッグ)
|-
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
== 関連項目 ==
*[[五声]]
*[[ペンタトニックス]] - バンド名が五音音階に由来
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こおんおんかい}}
[[Category:音階]]
|
2003-09-15T04:34:34Z
|
2023-08-28T23:17:06Z
| false | false | false |
[
"Template:出典の明記",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Normdaten"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%9F%B3%E9%9F%B3%E9%9A%8E
|
16,869 |
七音音階
|
七音音階(しちおんおんかい)は、1オクターブに7つの音が含まれる音階。西洋音楽の音階など。
アラブ音楽の旋律は基本的には1オクターブに7つの音が含まれる七音音階と言える(西アラブ古典音楽には五音音階風の旋律も現れる)。インド音楽も基本的に七音音階(五音音階風の旋律も多数ある)。西アフリカ・マリのマンディンゴ族の音楽も七音音階(周辺のセネガル、ガンビアも)。
中国古楽、日本雅楽の呂旋においては、宮、商、角、変徴、徴、羽、変宮の7音である。この7音に宮の上8度の音を加え、宮との振動数比、隣接する音どうしの振動数比を示せば、宮(1)、9/8、商(9/8)、9/8、角(81/64)、9/8、変徴(729/512)、256/243、徴(3/2)、9/8、羽(27/16)、9/8、変宮(243/128)、256/243、宮(2)となる。9/8は1音すなわち2律であり、256/243は半音すなわち1律である。これを12律に当てはめれば、宮、○、商、○、角、○、変徴、徴、○、羽、○、変宮、宮となる。
ほかに日本の雅楽には律旋の七声というものがあり、これは、宮、商、嬰商、角、徴、羽、嬰羽の7音である。これは上に示した呂旋の七声の羽のところに宮が入るものであり、中国の羽調に相当する。すなわち、宮、○、商、嬰商、○、角、○、徴、○、羽、嬰羽、○、宮である。これも同じように宮との振動数比、隣接する音どうしの振動数比を示せば、宮(1)、9/8、商(9/8)、256/243、嬰商(32/27)、9/8、角(4/3)、9/8、徴(3/2)、9/8、羽(27/16)、256/243、嬰羽(16/9)、9/8、宮(2)となる。
|
[
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"text": "七音音階(しちおんおんかい)は、1オクターブに7つの音が含まれる音階。西洋音楽の音階など。",
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"text": "アラブ音楽の旋律は基本的には1オクターブに7つの音が含まれる七音音階と言える(西アラブ古典音楽には五音音階風の旋律も現れる)。インド音楽も基本的に七音音階(五音音階風の旋律も多数ある)。西アフリカ・マリのマンディンゴ族の音楽も七音音階(周辺のセネガル、ガンビアも)。",
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"title": "中国古楽および日本雅楽における七声"
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七音音階(しちおんおんかい)は、1オクターブに7つの音が含まれる音階。西洋音楽の音階など。 アラブ音楽の旋律は基本的には1オクターブに7つの音が含まれる七音音階と言える(西アラブ古典音楽には五音音階風の旋律も現れる)。インド音楽も基本的に七音音階(五音音階風の旋律も多数ある)。西アフリカ・マリのマンディンゴ族の音楽も七音音階(周辺のセネガル、ガンビアも)。
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'''七音音階'''(しちおんおんかい)は、1[[オクターブ]]に7つの[[音]]が含まれる[[音階]]。[[西洋音楽]]の音階など。
[[アラブ音楽]]の旋律は基本的には1オクターブに7つの音が含まれる七音音階と言える(西アラブ古典音楽には五音音階風の旋律も現れる)。インド音楽も基本的に七音音階(五音音階風の旋律も多数ある)。[[西アフリカ]]・マリのマンディンゴ族の音楽も七音音階(周辺の[[セネガル]]、[[ガンビア]]も)。
== 中国古楽および日本雅楽における七声 ==
[[中国古楽]]、[[雅楽|日本雅楽]]の[[呂旋法|呂旋]]においては、宮、商、角、変徴、徴、羽、変宮の7音である。この7音に宮の上8度の音を加え、宮との振動数比、隣接する音どうしの振動数比を示せば、宮(1)、9/8、商(9/8)、9/8、角(81/64)、9/8、変徴(729/512)、256/243、徴(3/2)、9/8、羽(27/16)、9/8、変宮(243/128)、256/243、宮(2)となる。9/8は1音すなわち2律であり、256/243は半音すなわち1律である。これを[[十二律|12律]]に当てはめれば、宮、○、商、○、角、○、変徴、徴、○、羽、○、変宮、宮となる。
ほかに日本の雅楽には[[律旋法|律旋の七声]]というものがあり、これは、宮、商、嬰商、角、徴、羽、嬰羽の7音である。これは上に示した呂旋の七声の羽のところに宮が入るものであり、中国の羽調に相当する。すなわち、宮、○、商、嬰商、○、角、○、徴、○、羽、嬰羽、○、宮である。これも同じように宮との振動数比、隣接する音どうしの振動数比を示せば、宮(1)、9/8、商(9/8)、256/243、嬰商(32/27)、9/8、角(4/3)、9/8、徴(3/2)、9/8、羽(27/16)、256/243、嬰羽(16/9)、9/8、宮(2)となる。
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16,870 |
調式
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調式(テャオシー)とは、中国で用いられる旋法のことである。宮・商・角・徴・羽などの音名は五声という。
漢族の民謡(民歌)において、各調式のもちいられる多さには偏りがあり、徴調式と考えられる歌などは非常によくみかける。逆に角調式と考えられる歌は少ない。
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調式(テャオシー)とは、中国で用いられる旋法のことである。宮・商・角・徴・羽などの音名は五声という。 宮調式
C,D,E,G,A,C
もっとも安定した音(落音、結音などと呼ばれる)はC音。
商調式
D,E,G,A,C,D
落音あるいは結音はD音。
角調式
E,G,A,C,D,E
落音あるいは結音はE音。
徴調式
G,A,C,D,E,G
落音あるいは結音はG音。
この調式と考えられる歌 - 江蘇省の民謡「孟姜女」(孟姜女哭長城とも)など
羽調式
A,C,D,E,G,A
落音あるいは結音はA音。 漢族の民謡(民歌)において、各調式のもちいられる多さには偏りがあり、徴調式と考えられる歌などは非常によくみかける。逆に角調式と考えられる歌は少ない。
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{{otheruses|[[中国]]で用いられる[[旋法]]|宮・商・角・徴・羽などの音名|五声}}
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| 特筆性 = 2020年6月
| 出典の明記 = 2020年6月
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| Wikify = 2020年6月
| 雑多な内容の箇条書き = 2020年6月
| 百科事典的でない = 2020年6月
| 専門的 = 2020年6月
}}
'''調式'''(テャオシー)とは、[[中国]]で用いられる[[旋法]]のことである。宮・商・角・徴・羽などの音名は'''[[五声]]'''という。
*宮調式
*:C,D,E,G,A,C
*:もっとも安定した音(落音(ルオインluoyin)、結音(チエインjieyin)などと呼ばれる)はC音。
*商調式
*:D,E,G,A,C,D
*:落音あるいは結音はD音。
*角調式
*:E,G,A,C,D,E
*:落音あるいは結音はE音。
*徴調式
*:G,A,C,D,E,G
*:落音あるいは結音はG音。
*:この調式と考えられる歌 - 江蘇省の民謡「[[孟姜女]]」(孟姜女哭長城とも)など
*羽調式
*:A,C,D,E,G,A
*:落音あるいは結音はA音。
漢族の民謡(民歌)において、各調式のもちいられる多さには偏りがあり、徴調式と考えられる歌などは非常によくみかける。逆に角調式と考えられる歌は少ない。
[[Category:旋法|ちようしき]]
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16,871 |
旋律型
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旋律型(せんりつけい)は、旋律の型、旋律のパターン。近世邦楽(長唄、義太夫節など)の曲は基本的に全て幾つかの限られた旋律パターンの組み合わせで出来ている(雅楽も)。イラン古典音楽はグーシェという小旋律型の集合体である。
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旋律型(せんりつけい)は、旋律の型、旋律のパターン。近世邦楽(長唄、義太夫節など)の曲は基本的に全て幾つかの限られた旋律パターンの組み合わせで出来ている(雅楽も)。イラン古典音楽はグーシェという小旋律型の集合体である。
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| 出典の明記 = 2019年9月
| 独自研究 = 2019年9月
| 特筆性 = 2019年9月
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'''旋律型'''(せんりつけい)は、[[旋律]]の型、旋律のパターン。[[近世邦楽]]([[長唄]]、[[義太夫節]]など)の曲は基本的に全て幾つかの限られた旋律パターンの組み合わせで出来ている([[雅楽]]も)。[[イラン]]古典音楽はグーシェという小旋律型の集合体である。
== 外部リンク ==
* {{Cite journal|journal=芸術工学会誌|author=竹下 秋雄|year=2020|title=雅楽の旋律型についての研究 『明治撰定譜』篳篥譜に基づく六調子に特徴的な施律型の抽出|volume=80|pages=25-31|publisher=一般社団法人 芸術工学会|language=ja|DOI=10.24520/designresearch.80.0_25}}
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16,873 |
浅倉大介
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浅倉 大介(あさくら だいすけ、1967年11月4日 - )は、日本の音楽プロデューサー、作曲家、編曲家。貴水博之とのユニットaccessのキーボーディスト。東京都台東区出身。東京都立蔵前工業高等学校卒業。ダーウィン所属。通称はDA、大ちゃん。
1985年よりヤマハのシンセサイザー・ミュージックコンピュータの部門でシステム開発等に従事する傍ら、ゲームミュージックを制作。
小室哲哉から「ほぼ打ち込みのサウンドをライブで再現したい」というオファーが来た際にヤマハの意向で当時のMIDI・サンプラー・デジタルシンセサイザーの事情を熟知して、音楽理論にも精通していた浅倉が出向したことから、小室との付き合いが始まる。
TM NETWORKのサポートメンバーとして1987年の「Kiss Japan TM NETWORK Tour '87〜'88」からマニピュレーターとして2人で音色の打ち込み・ライブアレンジを施し、小室の描いたセッティング表を基にライブ用の機材の同期システムの構築を担当して、ヤマハ・EOSシリーズの開発にも小室と共に関わった。
1990年から「TM NETWORK RHYTHM RED TMN TOUR」にてサポートキーボーディストを務め、ステージに立ちながら、ライブでの照明とバックバンドの配置・パフォーマンス等の演出等のエンターテイメントの仕組みを実地で学んでいった。2人で共同で作業する際は理数系・コンピューターの問題・最終的な形の仕上げは浅倉に任せ、小室は話や言葉を思い描き、世界観・歌詞を作っていく役割を分担し、その関係性は出会った時から変わっていない。
1991年11月、アルバム『LANDING TIMEMACHINE』でソロデビュー。1992年7月、貴水博之とのユニットaccessを結成。同年11月にシングル『Virgin Emotion』でデビューし、1995年1月の活動休止までに15枚のシングル、3枚のアルバムをリリース。『DRASTIC MERMAID』『MOONSHINE DANCE』『MISTY HEARTBREAK』など数々のヒット曲を手掛けた。オリコン年間ランキング作曲家別セールスでは1993年にトップ60、1994年にトップ20入りを記録している。
1995年3月、92年以来3年ぶりにソロ活動を再開。同年7月、3rdアルバム『ELECTROMANCER』をリリース。また、1996年には黒田倫弘、伊藤賢一とのユニットIcemanを結成。同年7月にシングル『DARK HALF〜TOUCH YOUR DARKNESS』でデビューし、2000年3月の活動休止までに6枚のシングル、5枚のアルバムをリリースした。1998年から2004年にかけては、伊藤賢一とのユニットMad Soldiersとしても活動。コタニキンヤを共同プロデュースした。
1995年から2004年にかけては、T.M.Revolution、藤井隆、Fayray、木村由姫、pool bit boys、LAZY KNACK、雛形あきこなど多くのアーティストをプロデュース。『WHITE BREATH』『HIGH PRESSURE』『HOT LIMIT』(いずれもT.M.Revolution)など数々のヒット曲を手掛けた。オリコン年間ランキング作曲家別セールスでは1995年にトップ50、1996年にトップ60、1997年、1998年にトップ10、1999年にトップ20、2000年、2002年にトップ30、2004年にトップ40入りを記録している。
2001年1月、96年以来5年ぶりにソロ活動を再開。2002年9月、コンプリートBOX『21st Fortune』をリリース。2004年3月から2005年3月にかけては、アルバム「Quantum Mechanics Rainbow」シリーズを7枚連続リリース。2008年6月から2020年10月までに、配信限定シングル「DA METAVERSE」シリーズを38曲リリース。また、DJとして2003年から2020年にかけてクラブミックスアルバム「Sequence Virus」シリーズを9枚リリースしている。
2002年1月、95年以来7年ぶりにaccessとしての活動を再開。以降、2017年12月現在までに17枚のシングル、5枚のアルバムをリリースしている。2003年から2007年にかけては宇都宮隆、木根尚登、葛城哲哉、阿部薫によるTM NETWORKトリビュートライブに小室哲哉の代役として参加している。
また、2010年2月には土屋公平、吉田建、屋敷豪太とのバンドSugar & The Honey Tonesとしてアルバム『SO SWEET!』をリリース。2018年1月には小室哲哉とのユニットPANDORAとしてシングル『Be The One』を、同年2月にはミニアルバム『Blueprint』をリリースしている。
近年はaccessおよびソロでの活動を中心に、コタニキンヤ.のスーパーバイズ、外部への楽曲提供など精力的な活動を続けている。オリコン年間ランキング作曲家別セールスでは2005年にトップ60入りを記録。2018年9月現在までに作曲を手掛けたシングルは155作。うちオリコン週間ランキングにて1位を獲得したのは4作、5位以内にランクインしたのは38作、10位以内にランクインしたのは52作。シングルの総売上枚数は約1280万枚である。
大のディズニー好きとして知られる。18歳のころからディズニーが好きで、20歳のころには週4日東京ディズニーランドに通っていたほどである。近年はディズニー好きとして『ヒルナンデス!』、『マツコの知らない世界』などのテレビ番組に出演し、ミュージシャンならではの観点からディズニーのパークや作品の魅力を紹介している。
日本レコード大賞 ベストアルバム賞
日本ゴールドディスク大賞 ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤー
個人名義。access、Icemanの作品は該当記事を、プロデュース・楽曲提供した作品は浅倉大介の作品一覧を参照。
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浅倉 大介は、日本の音楽プロデューサー、作曲家、編曲家。貴水博之とのユニットaccessのキーボーディスト。東京都台東区出身。東京都立蔵前工業高等学校卒業。ダーウィン所属。通称はDA、大ちゃん。
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{{Infobox Musician<!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
|名前 = 浅倉 大介
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|出生名 = 浅倉大介<!-- 出生時の名前が公表されている場合のみ記入 -->
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* [[Access (音楽ユニット)|access]]
* [[井上秋緒]]
* [[麻倉真琴]]
* [[T.M.Revolution]]
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|公式サイト = http://www.DAnet.ne.jp/
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'''浅倉 大介'''(あさくら だいすけ、[[1967年]][[11月4日]] - )は、[[日本]]の[[音楽プロデューサー]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]。[[貴水博之]]とのユニット[[Access (音楽ユニット)|access]]の[[キーボーディスト]]。[[東京都]][[台東区]]出身。[[東京都立蔵前工業高等学校]]卒業。[[ダーウィン (芸能事務所)|ダーウィン]]所属。通称は'''DA'''、大ちゃん'''。
== 略歴 ==
[[1985年]]より[[ヤマハ]]のシンセサイザー・ミュージックコンピュータの部門でシステム開発等に従事する傍ら、[[ゲームミュージック]]を制作。
[[小室哲哉]]から「ほぼ打ち込みのサウンドをライブで再現したい」というオファーが来た際にヤマハの意向で当時の[[MIDI]]・[[サンプラー]]・[[デジタルシンセサイザー]]の事情を熟知して、音楽理論にも精通していた浅倉が出向したことから、小室との付き合いが始まる。
[[TM NETWORK]]のサポートメンバーとして[[1987年]]の「[[Kiss Japan TM NETWORK Tour '87〜'88]]」からマニピュレーターとして2人で音色の打ち込み・ライブアレンジを施し、小室の描いたセッティング表を基にライブ用の機材の同期システムの構築を担当して、ヤマハ・EOSシリーズの開発にも小室と共に関わった。
[[1990年]]から「[[TM NETWORK RHYTHM RED TMN TOUR]]」にてサポートキーボーディストを務め、ステージに立ちながら、ライブでの照明とバックバンドの配置・パフォーマンス等の演出等のエンターテイメントの仕組みを実地で学んでいった<ref>[[リットーミュージック]]刊『[[サウンド&レコーディング・マガジン]]』2017年6月号より。</ref><ref>[[シンコーミュージック・エンタテイメント]]刊『[[B-PASS]] ALL AREA』Vol.6「浅倉大介 PANDORA Be The One」pp.58-73より。</ref>。2人で共同で作業する際は理数系・コンピューターの問題・最終的な形の仕上げは浅倉に任せ、小室は話や言葉を思い描き、世界観・歌詞を作っていく役割を分担し、その関係性は出会った時から変わっていない<ref>リットーミュージック刊「キーボード・マガジン」2017年10月号pp.6-10より。</ref>。
[[1991年]]11月、アルバム『[[LANDING TIMEMACHINE]]』でソロデビュー。1992年7月、[[貴水博之]]とのユニット[[Access (音楽ユニット)|access]]を結成。同年11月にシングル『[[Virgin Emotion]]』でデビューし、[[1995年]]1月の活動休止までに15枚のシングル、3枚のアルバムをリリース。『[[DRASTIC MERMAID]]』『[[MOONSHINE DANCE]]』『[[MISTY HEARTBREAK]]』など数々のヒット曲を手掛けた。[[オリコン年間ランキング]]作曲家別セールスでは[[1993年]]にトップ60<ref group="注">1993年はAXS名義で51位、シングルの総売上枚数は48.4万枚(『オリコン年鑑 1994年版』)</ref>、[[1994年]]にトップ20入り<ref group="注">1994年はAXS名義で16位、シングルの総売上枚数は140.7万枚(『オリコン年鑑 1995年版』)</ref><ref group="注">1994年はAXS・朝霧遥名義で87位、シングルの総売上枚数は27.4万枚(『オリコン年鑑 1995年版』)</ref>を記録している。
1995年3月、92年以来3年ぶりにソロ活動を再開。同年7月、3rdアルバム『[[ELECTROMANCER]]』をリリース。また、[[1996年]]には[[黒田倫弘]]、[[伊藤賢一]]とのユニット[[Iceman]]を結成。同年7月にシングル『[[DARK HALF〜TOUCH YOUR DARKNESS]]』でデビューし、[[2000年]]3月の活動休止までに6枚のシングル、5枚のアルバムをリリースした。[[1998年]]から[[2004年]]にかけては、伊藤賢一とのユニット[[Mad Soldiers]]としても活動。[[コタニキンヤ]]を共同プロデュースした。
1995年から2004年にかけては、[[T.M.Revolution]]、[[藤井隆]]、[[Fayray]]、[[木村由姫]]、[[pool bit boys]]、[[LAZY KNACK]]、[[雛形あきこ]]など多くのアーティストをプロデュース。『[[WHITE BREATH]]』『[[HIGH PRESSURE (曲)|HIGH PRESSURE]]』『[[HOT LIMIT]]』(いずれもT.M.Revolution)など数々のヒット曲を手掛けた。オリコン年間ランキング作曲家別セールスでは1995年にトップ50<ref group="注">1995年は42位、シングルの総売上枚数は55.3万枚(『オリコン年鑑 1996年版』)</ref><ref group="注">1995年はAXS・朝霧遥名義で75位、シングルの総売上枚数は30.0万枚(『オリコン年鑑 1996年版』)</ref>、1996年にトップ60<ref group="注">1996年は53位、シングルの総売上枚数は38.1万枚(『オリコン年鑑 1997年版』)</ref>、[[1997年]]、[[1998年]]にトップ10<ref group="注">1997年は7位、シングルの総売上枚数は229.8万枚(『オリコン年鑑 1998年版』)</ref><ref group="注">1998年は7位、シングルの総売上枚数は273.1万枚(『オリコン年鑑 1999年版』)</ref>、[[1999年]]にトップ20<ref group="注">1999年は15位、シングルの総売上枚数は110.0万枚(『オリコン年鑑 2000年版』)</ref>、2000年、[[2002年]]にトップ30<ref group="注">2000年は25位、シングルの総売上枚数は93.2万枚(『オリコン年鑑 2001年版』)</ref><ref group="注">2002年は25位、シングルの総売上枚数は38.0万枚(『オリコン年鑑 2003年版』)</ref>、2004年にトップ40入り<ref group="注">2004年は34位、シングルの総売上枚数は27.3万枚(『オリコン年鑑 2005年版』)</ref>を記録している。
[[2001年]]1月、96年以来5年ぶりにソロ活動を再開。2002年9月、コンプリートBOX『[[21st Fortune]]』をリリース。2004年3月から[[2005年]]3月にかけては、アルバム「[[Quantum Mechanics Rainbow]]」シリーズを7枚連続リリース。[[2008年]]6月から[[2020年]]10月までに、配信限定シングル「DA METAVERSE」シリーズを38曲リリース。また、[[DJ]]として2003年から2020年にかけてクラブミックスアルバム「Sequence Virus」シリーズを9枚リリースしている。
2002年1月、95年以来7年ぶりにaccessとしての活動を再開。以降、2017年12月現在までに17枚のシングル、5枚のアルバムをリリースしている。[[2003年]]から[[2007年]]にかけては[[宇都宮隆]]、[[木根尚登]]、[[葛城哲哉]]、[[阿部薫 (ドラマー)|阿部薫]]によるTM NETWORKトリビュートライブに[[小室哲哉]]の代役として参加している。
また、[[2010年]]2月には[[土屋公平]]、[[吉田建]]、[[屋敷豪太]]とのバンド[[Sugar & The Honey Tones]]としてアルバム『[[SO SWEET!]]』をリリース。2018年1月には小室哲哉とのユニット[[PANDORA (音楽ユニット)|PANDORA]]としてシングル『[[Be The One (PANDORAの曲)|Be The One]]』を、同年2月にはミニアルバム『[[Blueprint (PANDORAのアルバム)|Blueprint]]』をリリースしている。
近年はaccessおよびソロでの活動を中心に、コタニキンヤ.のスーパーバイズ、外部への楽曲提供など精力的な活動を続けている。オリコン年間ランキング作曲家別セールスでは2005年にトップ60入り<ref group="注">2005年は52位、シングルの総売上枚数は21.2万枚(『オリコン年鑑 2006年版』)</ref>を記録。2018年9月現在までに作曲を手掛けたシングルは155作。うちオリコン週間ランキングにて1位を獲得したのは4作、5位以内にランクインしたのは38作、10位以内にランクインしたのは52作。シングルの総売上枚数は約1280万枚である。
== 人物 ==
大の[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]好きとして知られる。18歳のころからディズニーが好きで、20歳のころには週4日[[東京ディズニーランド]]に通っていたほどである<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=浅倉大介のディープなディズニー&鉄道知識にマツコも感心!ネットでは「親近感マックス!」の声 |url=https://plus.tver.jp/news/90898/detail/ |website=plus.tver.jp |access-date=2022-11-09 |language=ja}}</ref>。近年はディズニー好きとして『[[ヒルナンデス!]]』<ref>{{Cite web|和書|title=中間淳太、風間俊介、浅倉大介ら、『ヒルナンデス!』でディズニーロケ |url=https://news.mynavi.jp/article/20221026-2493874/ |website=マイナビニュース |date=2022-10-26 |access-date=2022-11-09 |language=ja}}</ref>、『[[マツコの知らない世界]]』<ref name=":0" />などのテレビ番組に出演し、ミュージシャンならではの観点からディズニーのパークや作品の魅力を紹介している。
== バイオグラフィ ==
=== 1990年代 ===
{|class="wikitable" style="border-collapse:collapse;font-size:small;text-align:left;padding:5;background-color:white"
|-style="font-weight:bold;background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[1991年]]'''
|-
|11月1日||ソロ・アルバム『[[LANDING TIMEMACHINE]]』リリース||オリコン27位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[1992年]]'''
|-
|9月2日||ソロ・アルバム『[[D-Trick]]』リリース||オリコン6位
|-
|11月26日||access シングル『[[Virgin Emotion]]』リリース||オリコン40位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[1993年]]'''
|-
|1月25日||access シングル『[[JEWELRY ANGEL]]』リリース||オリコン14位
|-
|2月25日||access アルバム『[[FAST ACCESS]]』リリース||オリコン2位
|-
|5月26日||access シングル『[[NAKED DESIRE]]』リリース||オリコン3位
|-
|8月25日||access シングル『[[MOONSHINE DANCE]]』リリース||オリコン4位
|-
|9月22日||access アルバム『[[ACCESS II]]』リリース||オリコン2位
|-
|12月8日||access シングル『[[TRY AGAIN (accessの曲)|TRY AGAIN]]』リリース||オリコン5位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[1994年]]'''
|-
|1月26日||access シングル『[[夢を見たいから]]』リリース||オリコン3位
|-
|4月27日||access シングル『[[MISTY HEARTBREAK]]』リリース||オリコン2位
|-
|5月8日||access シングル『[[MISTY HEARTBREAK|MISTY HEARTBREAK Re-SYNC STYLE]]』リリース||オリコン12位
|-
|rowspan="2"|5月25日||access シングル『[[SWEET SILENCE]]』リリース||オリコン5位
|-
|access アルバム『[[DELICATE PLANET]]』リリース||オリコン1位
|-
|8月19日||access シングル『[[DRASTIC MERMAID]]』リリース||オリコン3位
|-
|8月25日||access シングル『[[DRASTIC MERMAID|DRASTIC MERMAID Re-SYNC STYLE]]』リリース||オリコン12位
|-
|10月19日||access シングル『[[SCANDALOUS BLUE]]』リリース||オリコン3位
|-
|11月2日||access シングル『[[SCANDALOUS BLUE|SCANDALOUS BLUE Re-SYNC STYLE]]』リリース||オリコン10位
|-
|12月7日||access シングル『[[TEAR'S LIBERATION]]』リリース||オリコン3位
|-
|12月14日||access シングル『[[TEAR'S LIBERATION|TEAR'S LIBERATION Re-SYNC STYLE]]』リリース||オリコン19位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[1995年]]'''
|-
|2月1日||浅倉大介 Pred. AXS シングル『[[COSMIC RUNAWAY]]』リリース||オリコン5位
|-
|rowspan="2"|3月15日||access アルバム『[[LIVE ZEROS ONES SYNC-ACROSS JAPAN TOUR '93-'94|LIVE ZEROS SYNC-ACROSS JAPAN TOUR '93-'94]]』リリース||オリコン4位
|-
|access アルバム『[[LIVE ZEROS ONES SYNC-ACROSS JAPAN TOUR '93-'94|LIVE ONES SYNC-ACROSS JAPAN TOUR '93-'94]]』リリース||オリコン5位
|-
|4月26日||プロデュース・シングル『[[WILD SIDE]]』(MODE) リリース||オリコン30位
|-
|5月10日||ソロ・シングル『[[SIREN'S MELODY]]』リリース||オリコン8位
|-
|5月25日||浅倉大介 expd. 西川貴教 シングル『[[BLACK OR WHITE?]]』リリース||オリコン17位
|-
|6月10日||浅倉大介 expd. 葛山信吾 シングル『[[RAINY HEART〜どしゃ降りの想い出の中]]』リリース||オリコン14位
|-
|7月12日||ソロ・アルバム『[[ELECTROMANCER]]』リリース||オリコン4位
|-
|8月2日||プロデュース・シングル『[[笑顔の予感]]』(雛形あきこ)リリース||オリコン28位
|-
|10月1日||access アルバム『[[AXS SINGLE TRACKS]]』リリース||オリコン6位
|-
|11月1日||プロデュース・シングル『[[CRYSTAL GAME]]』(LAZY KNACK) リリース||オリコン45位
|- style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[1996年]]'''
|-
|1月10日||プロデュース・アルバム『[[FLASH (LAZY KNACKのアルバム)|FLASH]]』(LAZY KNACK) リリース||オリコン16位
|-
|2月2日||プロデュース・シングル『[[揺れる恋 乙女色]]』(雛形あきこ)リリース||オリコン42位
|-
|2月25日||プロデュース・シングル『[[SPARK (LAZY KNACKの曲)|SPARK]]』(LAZY KNACK) リリース||オリコン38位
|-
|3月3日||プロデュース・アルバム『[[ヒナ・コレ Hina Collection]]』(雛形あきこ)リリース||オリコン42位
|-
|3月25日||access アルバム『[[AXS REMIX BEST TRACKS]]』リリース||オリコン16位
|-
|4月24日||プロデュース・シングル『[[SIX COLORS BOY]]』(雛形あきこ)リリース||オリコン48位
|-
|4月25日||プロデュース・シングル『[[とまどわず ふり向かず]]』(LAZY KNACK) リリース||オリコン29位
|-
|5月13日||プロデュース・シングル『[[独裁 -monopolize-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン28位
|-
|7月15日||プロデュース・シングル『[[臍淑女 -ヴィーナス-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン35位
|-
|7月29日||Iceman シングル『[[DARK HALF〜TOUCH YOUR DARKNESS]]』リリース||オリコン5位
|-
|8月12日||プロデュース・アルバム『[[MAKES REVOLUTION]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン20位
|-
|11月11日||プロデュース・シングル『[[HEART OF SWORD 〜夜明け前〜]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン16位
|-
|11月18日||Iceman シングル『[[BREATHLESS NIGHT SLIDER]]』リリース||オリコン23位
|- style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[1997年]]'''
|-
|2月21日||プロデュース・アルバム『[[restoration LEVEL→3]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン5位
|-
|3月1日||Iceman シングル『[[Edge of the season]]』リリース||オリコン34位
|-
|3月26日||Iceman アルバム『[[POWER SCALE]]』リリース||オリコン16位
|-
|4月21日||プロデュース・シングル『[[LEVEL 4 (曲)|LEVEL 4]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン18位
|-
|7月1日||プロデュース・シングル『[[HIGH PRESSURE (曲)|HIGH PRESSURE]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン4位
|-
|8月21日||Iceman シングル『[[FINAL PRAYER]]』リリース||オリコン22位
|-
|10月22日||プロデュース・シングル『[[WHITE BREATH]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン1位
|-
|11月21日||Iceman シングル『[[8番目の罪]]』リリース||オリコン26位
|-
|12月3日||プロデュース・シングル『[[SPIRAL (pool bit boysの曲)|SPIRAL]]』(pool bit boys) リリース||オリコン20位
|- style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[1998年]]'''
|-
|1月21日||プロデュース・アルバム『[[triple joker]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン1位
|-
|1月28日||プロデュース・シングル『[[SUNSHINE (pool bit boysの曲)|SUNSHINE]]』(pool bit boys) リリース||オリコン20位
|-
|2月25日||プロデュース・シングル『[[蒼い霹靂〜JOG edit〜]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン3位
|-
|3月21日||Iceman シングル『[[LOST COMPLEX]]』リリース||オリコン25位
|-
|5月13日||プロデュース・シングル『[[lunatic treasure]]』(pool bit boys) リリース||オリコン28位
|-
|5月21日||Iceman アルバム『[[Digiryzm Mutation]]』リリース||オリコン11位
|-
|-
|6月24日||プロデュース・シングル『[[HOT LIMIT]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン1位
|-
|7月8日||プロデュース・シングル『[[Summer Rain]]』(木村由姫)リリース||オリコン35位
|-
|7月29日||プロデュース・シングル『[[太陽のグラヴィティー]]』(Fayray) リリース||オリコン12位
|-
|10月7日||プロデュース・シングル『[[THUNDERBIRD (T.M.Revolutionの曲)|THUNDERBIRD]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン3位
|-
|10月14日||プロデュース・シングル『[[Happy Make 〜weekend mission〜]]』(木村由姫)リリース||オリコン30位
|-
|rowspan="2"|10月21日||プロデュース・シングル『[[Venus Accident]]』(pool bit boys) リリース||オリコン22位
|-
|プロデュース・シングル『[[YURA・YURA〜Vibration]]』(Fayray) リリース||オリコン28位
|-
|10月28日||プロデュース・シングル『[[Burnin' X'mas]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン2位
|-
|12月16日||プロデュース・アルバム『[[POOL BIT BOYS]]』(pool bit boys) リリース||オリコン10位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[1999年]]'''
|-
|2月3日||プロデュース・シングル『[[WILD RUSH]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン2位
|-
|2月10日||プロデュース・シングル『[[Powder Veil]]』(Fayray)リリース||オリコン30位
|-
|2月17日||プロデュース・シングル『[[Fall in YOU]]』(木村由姫)リリース||オリコン29位
|-
|3月10日||プロデュース・アルバム『[[THE FORCE]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン2位
|-
|3月25日||プロデュース・シングル『[[EARTH STRIKER]]』(pool bit boys) リリース||オリコン32位
|-
|5月12日||プロデュース・シングル『[[Daydream Café]]』(Fayray) リリース||オリコン41位
|-
|5月19日||プロデュース・シングル『[[PINK Graduation]]』(木村由姫)リリース||オリコン49位
|-
|5月26日||プロデュース・アルバム『[[CRAVING]]』(Fayray) リリース||オリコン10位
|-
|6月6日||Iceman アルバム『[[GATE II]]』リリース||オリコン18位
|-
|6月23日||プロデュース・シングル『[[陽炎-KAGEROH-]]』(the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D) リリース||オリコン3位
|-
|7月7日||Iceman アルバム『[[GATE I]]』リリース||オリコン27位
|-
|7月28日||プロデュース・シングル『[[Deep Sky Heart]]』(木村由姫)リリース||オリコン50位
|-
|8月25日||プロデュース・アルバム『[[First Season]]』(木村由姫)リリース||オリコン11位
|-
|rowspan="2"|9月22日||プロデュース・シングル『[[月虹-GEKKOH-]]』(the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D) リリース||オリコン2位
|-
|コンポーズ・シングル『[[AQUA (SHAZNAの曲)|AQUA]]』(SHAZNA) リリース||オリコン45位
|-
|10月14日||プロデュース・シングル『[[Same night, Same face]]』(Fayray) リリース||オリコン48位
|-
|10月21日||プロデュース・アルバム『[[Mad soldiers'LABORATORY]]』(MC-K2) リリース||オリコン34位
|-
|11月11日||Iceman アルバム『[[gate out]]』リリース||オリコン23位
|-
|rowspan="2"|11月17日||プロデュース・シングル『[[雪幻-winter dust-]]』(the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D) リリース||オリコン3位
|-
|プロデュース・シングル『[[蒼の軌跡]]』(pool bit boys) リリース||オリコン23位
|-
|12月15日||プロデュース・シングル『[[CROSS In The Night]]』(pool bit boys) リリース||オリコン36位
|-
|12月31日||Iceman アルバム『[[GATE//white]]』リリース||オリコン34位
|}
=== 2000年代 ===
{|class="wikitable" style="border-collapse:collapse;font-size:small;text-align:left;padding:5;background-color:white"
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2000年]]'''
|-
|1月26日||プロデュース・シングル『[[高熱BLOOD]]』(コタニキンヤ)リリース||オリコン30位
|-
|2月2日||プロデュース・アルバム『[[Suite Season]]』(the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D) リリース||オリコン2位
|-
|rowspan="2"|3月8日||プロデュース・シングル『[[ナンダカンダ]]』(藤井隆)リリース||オリコン9位
|-
|プロデュース・アルバム『[[WINGBEAT]]』(pool bit boys) リリース||オリコン36位
|-
|4月19日||プロデュース・シングル『[[BLACK OR WHITE? version 3]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン5位
|-
|5月3日||プロデュース・シングル『[[情熱BALLAD]]』(コタニキンヤ)リリース||オリコン15位
|-
|5月24日||プロデュース・シングル『[[HEAT CAPACITY]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン5位
|-
|6月7日||プロデュース・アルバム『[[HISTORY P-20]]』(コタニキンヤ)リリース||オリコン11位
|-
|6月28日||プロデュース・アルバム『[[DISCORdanza Try My Remix 〜Single Collections]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン4位
|-
|rowspan="2"|7月19日||プロデュース・シングル『[[LOVE & JOY]]』(木村由姫)リリース||オリコン24位
|-
|プロデュース・シングル『[[Sweet Sweet Samba]]』(コタニキンヤ)リリース||オリコン26位
|-
|rowspan="2"|9月6日||プロデュース・シングル『[[魔弾 〜Der Freischütz〜/LOVE SAVER|魔弾 〜Der Freischütz〜]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン8位
|-
|プロデュース・アルバム『[[sole sorfege]]』(木村由姫)リリース||オリコン13位
|-
|10月12日||プロデュース・アルバム『[[progress (T.M.Revolutionのアルバム)|progress]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン3位
|-
|11月1日||プロデュース・シングル『[[アイモカワラズ]]』(藤井隆)リリース||オリコン21位
|-
|rowspan="2"|12月6日||プロデュース・シングル『[[Easy Action (コタニキンヤの曲)|Easy Action]]』(コタニキンヤ)リリース||オリコン26位
|-
|プロデュース・シングル『[[Twinkle Heart]]』(木村由姫)リリース||オリコン50位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2001年]]'''
|-
|2月7日||プロデュース・シングル『[[BOARDING]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン5位
|-
|2月15日||プロデュース・シングル『[[unbalance (木村由姫の曲)|unbalance]]』(木村由姫)リリース||オリコン49位
|-
|2月28日||プロデュース・シングル『[[No! Virtual]]』(コタニキンヤ)リリース||オリコン44位
|-
|3月22日||プロデュース・アルバム『[[Very Singles]]』(木村由姫)リリース||オリコン37位
|-
|5月23日||プロデュース・シングル『[[Love Stuff]]』(コタニキンヤ)リリース||オリコン39位
|-
|6月27日||プロデュース・シングル『[[i 〜crossin' the star〜]]』(木村由姫)リリース||オリコン50位
|-
|7月4日||プロデュース・アルバム『[[WHAT? **PHYSICAL**]]』(コタニキンヤ)リリース||オリコン25位
|-
|7月18日||プロデュース・シングル『[[ジョバンニ (サカノウエヨースケの曲)|ジョバンニ]]』(サカノウエヨースケ)リリース||オリコン49位
|-
|7月25日||プロデュース・アルバム『[[process“Y”]]』(木村由姫)リリース||オリコン48位
|-
|11月21日||ソロ・アルバム『[[DecAde 〜The BEST of Daisuke Asakura〜]]』リリース||オリコン33位
|- style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2002年]]'''
|-
|1月23日||access シングル『[[Only the love survive]]』リリース||オリコン3位
|-
|2月20日||コンポーズ・シングル『[[Out Of Orbit -Triple ZERO-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン6位
|-
|2月27日||access シングル『[[EDGE (accessの曲)|EDGE]]』リリース||オリコン7位
|-
|rowspan="2"|3月6日||プロデュース・シングル『[[Peace Out イザ、サラバ。]]』(RUN&GUN) リリース||オリコン40位
|-
|コンポーズ・アルバム『[[B★E★S★T]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン4位
|-
|3月20日||access アルバム『[[CROSSBRIDGE]]』リリース||オリコン6位
|-
|10月30日||コンポーズ・シングル『[[INVOKE]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン2位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2003年]]'''
|-
|2月5日||access アルバム『[[Rippin' GHOST]]』リリース||オリコン11位
|-
|2月19日||access シングル『[[REAL AT NIGHT 〜眠れぬ夜の向こうに〜]]』リリース||オリコン42位
|-
|3月26日||コンポーズ・アルバム『[[coordinate]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン9位
|-
|4月9日||access アルバム『[[Re-sync GHOST]]』リリース||オリコン34位
|- style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2004年]]'''
|-
|2月25日||コンポーズ・シングル『[[Albireo -アルビレオ-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン3位
|-
|3月10日||アレンジ・シングル『[[レヴェランス]]』(椎名へきる)リリース||オリコン20位
|-
|3月17日||コンポーズ・アルバム『[[SEVENTH HEAVEN (T.M.Revolutionのアルバム)|SEVENTH HEAVEN]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン6位
|-
|7月28日||コンポーズ・シングル『[[Web of Night]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン5位
|-
|11月3日||コンポーズ・シングル『[[ignited -イグナイテッド-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン1位
|- style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2005年]]'''
|-
|1月26日||コンポーズ・アルバム『[[vertical infinity]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン3位
|-
|8月17日||コンポーズ・シングル『[[vestige -ヴェスティージ-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン1位
|- style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2006年]]'''
|-
|1月1日||コンポーズ・アルバム『[[UNDER:COVER]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン8位
|-
|6月7日||コンポーズ・アルバム『[[1000000000000 (アルバム)|1000000000000]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン1位
|-
|11月15日||コンポーズ・シングル『[[Starry Heavens (Kimeruの曲)|Starry Heavens]]』(Kimeru) リリース||オリコン28位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2007年]]'''
|-
|1月31日||access アルバム『[[diamond cycle]]』リリース||オリコン13位
|-
|3月14日||コンポーズ・シングル『[[CROSS SEASON]]』(玉置成実)リリース||オリコン23位
|-
|7月4日||access アルバム『[[binary engine]]』リリース||オリコン15位
|-
|7月18日||access シングル『[[瞳ノ翼]]』リリース||オリコン28位
|-
|rowspan="2"|10月31日||access シングル『[[Doubt & Trust 〜ダウト&トラスト〜]]』リリース||オリコン11位
|-
|コンポーズ・シングル『[[Junk beat]]』(Kimeru) リリース||オリコン49位
|-
|11月21日||access アルバム『[[access Best Selection]]』リリース||オリコン14位
|- style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2008年]]'''
|-
|6月11日||コンポーズ・シングル『[[resonance]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン4位
|-
|8月27日||access シングル『[[Dream Runner]]』リリース||オリコン24位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2009年]]'''
|-
|2月4日||コンポーズ・シングル『[[Brave your truth]]』(Daisy×Daisy) リリース||オリコン42位
|-
|3月25日||コンポーズ・アルバム『[[T.M.REVOLUTION SINGLE COLLECTION 96-99 -GENESIS-|T.M.R. SINGLE COLLECTION 96-99 -GENESIS-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン35位
|}
=== 2010年代 ===
{|class="wikitable" style="border-collapse:collapse;font-size:small;text-align:left;padding:5;background-color:white"
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2010年]]'''
|-
|3月24日||コンポーズ・アルバム『[[X42S-REVOLUTION]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン4位
|-
|7月28日||access シングル『[[Higher Than Dark Sky]]』リリース||オリコン10位
|-
|8月11日||コンポーズ・シングル『[[Naked arms/SWORD SUMMIT|Naked arms]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン3位
|-
|12月1日||コンポーズ・シングル『[[Save The One, Save The All]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン4位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2011年]]'''
|-
|4月20日||コンポーズ・アルバム『[[CLOUD NINE]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン2位
|-
|4月27日||コンポーズ・シングル『[[始まるのは、サヨナラ]]』(ON/OFF) リリース||オリコン34位
|-
|5月11日||コンポーズ・シングル『[[Scarlet Ballet]]』(May'n) リリース||オリコン11位
|-
|6月22日||コンポーズ・シングル『[[FLAGS]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン4位
|-
|8月3日||access シングル『[[Share The Love]]』リリース||オリコン14位
|-
|11月16日||コンポーズ・アルバム『[[宴 -UTAGE-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン2位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2012年]]'''
|-
|4月4日||access シングル『[[Wild Butterfly]]』リリース||オリコン13位
|-
|5月9日||コンポーズ・シングル『[[Chase the world]]』(May'n) リリース||オリコン7位
|-
|7月11日||access シングル『[[Bet〜追憶のRoulette〜]]』リリース||オリコン21位
|-
|8月22日||access アルバム『[[Secret Cluster]]』リリース||オリコン12位
|-
|9月12日||コンポーズ・アルバム『[[T.M.R. LIVE REVOLUTION 11-12 -CLOUD NINE-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン7位
|-
|12月5日||access アルバム『[[Re-Sync Cluster]]』リリース||オリコン44位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2013年]]'''
|-
|1月1日||アレンジ・シングル『[[Dance My Generation]]』(ゴールデンボンバー)リリース||オリコン1位
|-
|2月27日||コンポーズ・アルバム『[[UNDER:COVER 2]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン4位
|-
|5月8日||access シングル『[[永遠dive]]』リリース||オリコン12位
|-
|5月15日||コンポーズ・シングル『[[Preserved Roses]]』(T.M.Revolution×水樹奈々)リリース||オリコン2位
|-
|7月17日||access シングル『[[JOY TRAIN]]』リリース||オリコン17位
|-
|10月9日||コンポーズ・アルバム『[[GEISHA BOY -ANIME SONG EXPERIENCE-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン6位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2014年]]'''
|-
|2月12日||コンポーズ・シングル『[[Count ZERO/Runners high|Count ZERO]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン5位
|-
|7月9日||access シングル『[[Vertical Innocence]]』リリース||オリコン10位
|-
|8月6日||コンポーズ・シングル『[[突キ破レル -Time to SMASH!]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン8位
|-
|9月3日||コンポーズ・シングル『[[Phantom Pain]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン12位
|- style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2015年]]'''
|-
|1月21日||コンポーズ・シングル『[[Rojo -Tierra-]]』(中森明菜)リリース||オリコン8位
|-
|4月8日||access シングル『[[IZASUSUME!]]』リリース||オリコン19位
|-
|5月13日||コンポーズ・アルバム『[[天 (T.M.Revolutionのアルバム)|天]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン2位
|-
|7月22日||コンポーズ・シングル『[[air summer/至上の愛|air summer]]』(GALETTe*) リリース||オリコン17位
|-
|8月5日||コンポーズ・シングル『[[DOUBLE-DEAL]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン9位
|-
|10月21日||access シングル『[[Winter Ring Affair]]』リリース||オリコン13位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2016年]]'''
|-
|3月23日||コンポーズ・シングル『[[逆光×礼賛]]』(東京パフォーマンスドール)リリース||オリコン2位
|-
|4月6日||コンポーズ・シングル『[[Committed RED/Inherit the Force -インヘリット・ザ・フォース-|Committed RED]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン10位
|-
|5月11日||コンポーズ・アルバム『[[2020 -T.M.Revolution ALL TIME BEST-]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン1位
|-
|8月31日||コンポーズ・シングル『[[RAIMEI]]』(T.M.Revolution) リリース||オリコン15位
|-
|9月28日||ソロ・アルバム『[[THE BEST WORKS OF DAISUKE ASAKURA quarter point]]』リリース||オリコン48位
|-
|11月23日||access シングル『[[24sync]]』リリース||オリコン26位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2017年]]'''
|-
|5月24日||access シングル『[[Knock beautiful smile]]』リリース||オリコン10位
|-
|9月13日||access アルバム『[[access BEST 〜double decades + half〜]]』リリース||オリコン12位
|-
|10月18日||コンポーズ・シングル『[[赤だけが足りない]]』(Iris) リリース||オリコン27位
|-
|12月20日||access アルバム『[[Heart Mining]]』リリース||オリコン22位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[2018年]]'''
|-
|1月24日||PANDORA シングル『[[Be The One (PANDORAの曲)|Be The One]]』リリース||オリコン2位
|-
|2月7日||PANDORA アルバム『[[Blueprint (PANDORAのアルバム)|Blueprint]]』リリース||オリコン9位
|}
== 記録・受賞歴 ==
[[日本レコード大賞]] ベストアルバム賞
* 第35回(1993年)access アルバム『[[ACCESS II]]』
[[日本ゴールドディスク大賞]] ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤー
* 第13回(1999年)プロデュース・アルバム『[[triple joker]]』(T.M.Revolution)
{|class="wikitable" style="border-collapse:collapse;font-size:small;text-align:left;padding:5;background-color:white"
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[オリコン年間ランキング]] シングル・セールス TOP100'''
|-
|1994年||access シングル『[[DRASTIC MERMAID]]』||95位
|-
|rowspan="4"|1997年||プロデュース・シングル『[[HEART OF SWORD 〜夜明け前〜]]』(T.M.Revolution)||95位
|-
|プロデュース・シングル『[[LEVEL 4 (曲)|LEVEL 4]]』(T.M.Revolution)||79位
|-
|プロデュース・シングル『[[HIGH PRESSURE (曲)|HIGH PRESSURE]]』(T.M.Revolution)||22位
|-
|プロデュース・シングル『[[WHITE BREATH]]』(T.M.Revolution)||39位
|-
|rowspan="5"|1998年||プロデュース・シングル『[[WHITE BREATH]]』(T.M.Revolution)||66位
|-
|プロデュース・シングル『[[蒼い霹靂〜JOG edit〜]]』(T.M.Revolution)||83位
|-
|プロデュース・シングル『[[HOT LIMIT]]』(T.M.Revolution)||30位
|-
|プロデュース・シングル『[[THUNDERBIRD (T.M.Revolutionの曲)|THUNDERBIRD]]』(T.M.Revolution)||56位
|-
|プロデュース・シングル『[[Burnin' X'mas]]』(T.M.Revolution)||69位
|-
|1999年||プロデュース・シングル『[[WILD RUSH]]』(T.M.Revolution)||65位
|-
|2000年||プロデュース・シングル『[[ナンダカンダ]]』(藤井隆)||94位
|-
|2002年||コンポーズ・シングル『[[INVOKE]]』(T.M.Revolution)||71位
|-
|2004年||コンポーズ・シングル『[[ignited -イグナイテッド-]]』(T.M.Revolution)||53位
|-
|2005年||コンポーズ・シングル『[[vestige -ヴェスティージ-]]』(T.M.Revolution)||54位
|-
|2008年||コンポーズ・シングル『[[resonance]]』(T.M.Revolution)||87位
|-
|2010年||コンポーズ・シングル『[[Naked arms/SWORD SUMMIT]]』(T.M.Revolution)||65位
|-
|rowspan="2"|2013年||アレンジ・シングル『[[Dance My Generation]]』(ゴールデンボンバー)||34位
|-
|コンポーズ・シングル『[[Preserved Roses]]』(T.M.Revolution×水樹奈々)||35位
|-style="font-weight:bold; background-color:#EEE"
|colspan="3"|'''[[オリコン年間ランキング]] アルバム・セールス TOP100'''
|-
|rowspan="2"|1993年||access アルバム『[[FAST ACCESS]]』||85位
|-
|access アルバム『[[ACCESS II]]』||66位
|-
|1994年||access アルバム『[[DELICATE PLANET]]』||61位
|-
|1997年||プロデュース・アルバム『[[restoration LEVEL→3]]』(T.M.Revolution)||66位
|-
|1998年||プロデュース・アルバム『[[triple joker]]』(T.M.Revolution)||13位
|-
|1999年||プロデュース・アルバム『[[THE FORCE]]』(T.M.Revolution)||40位
|-
|2000年||プロデュース・アルバム『[[DISCORdanza Try My Remix 〜Single Collections]]』(T.M.Revolution)||87位
|-
|2002年||コンポーズ・アルバム『[[B★E★S★T]]』(T.M.Revolution)||78位
|-
|2006年||コンポーズ・アルバム『[[1000000000000 (アルバム)|1000000000000]]』(T.M.Revolution)||86位
|-
|2011年||コンポーズ・アルバム『[[CLOUD NINE]]』(T.M.Revolution)||88位
|-
|2016年||コンポーズ・アルバム『[[2020 -T.M.Revolution ALL TIME BEST-]]』(T.M.Revolution)||63位
|}
== ディスコグラフィ ==
'''個人名義。[[access (音楽ユニット)|access]]、[[Iceman]]の作品は該当記事を、プロデュース・楽曲提供した作品は[[浅倉大介の作品一覧]]を参照。'''
レコード会社は以下の表記とする。
*(F) …[[BMG JAPAN|ファンハウス]]
*(A) …[[エピックレコードジャパン|アンティノスレコード]]
*(D) …[[ダーウィン (芸能事務所)|ダーウィンレコード]]
*(S) …[[ソニー・ミュージックダイレクト]]
=== シングル ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!発売日!!タイトル!!最高位!!備考
|-
|1995年2月1日
|[[COSMIC RUNAWAY]]
|5位
|(F) 浅倉大介 Pred. AXS
|-
|1995年5月10日
|[[SIREN'S MELODY]]
|8位
|(F)
|-
|1995年5月25日
|[[BLACK OR WHITE?]]
|17位
|(F) 浅倉大介 expd. 西川貴教
|-
|1995年6月10日
|[[RAINY HEART〜どしゃ降りの想い出の中]]
|14位
|(F) 浅倉大介 expd. 葛山信吾
|}
=== 配信限定シングル ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!発売日!!タイトル!!備考
|-
|rowspan="3"|2008年6月25日
|Dream Ape Metaverse
|(D)
|-
|Nothung syndrome
|(D)
|-
|Repli Eye-Program"d"
|(D)
|-
|2008年7月30日
|YA・TI・MA
|(D)
|-
|2008年9月24日
|SONIC CRUISE
|(D)
|-
|rowspan="3"|2008年11月12日
|SO・U・SHU・TSU - mould
|(D)
|-
|Fall fear
|(D)
|-
|leaf fall
|(D)
|-
|rowspan="3"|2008年11月19日
|The Transmuters
|(D)
|-
|創出
|(D)
|-
|KISS FOR SALOME
|(D)
|-
|rowspan="3"|2008年11月26日
|CHIMERA DRAFT
|(D)
|-
|star cascade
|(D)
|-
|GATE I
|(D)
|-
|2008年12月17日
|X-NIGHT
|(D)
|-
|2009年1月7日
|Der Rattenfänger Von Hameln
|(D)
|-
|2009年2月25日
|fractal VIBE
|(D)
|-
|2009年3月4日
|St.Electric
|(D)
|-
|2009年4月29日
|‘Blanca’
|(D)
|-
|2009年6月10日
|rip
|(D)
|-
|2009年6月17日
|prime diffusion
|(D)
|-
|2009年6月24日
|sphere valley
|(D)
|-
|2009年7月1日
|A Midsummer Night's Dream
|(D)
|-
|2009年12月2日
|YaTa-raven chronicle
|(D)
|-
|2009年12月16日
|Space CLOSER
|(D)
|-
|2014年11月5日
|3x10^8 LUCKS
|(D)
|-
|2014年11月12日
|topology
|(D)
|-
|2014年11月19日
|0 game
|(D)
|-
|rowspan="2"|2015年1月21日
|Ambition Rising
|(D)
|-
|GRID JUSTICE
|(D)
|-
|2015年2月25日
|REMOTE SPACE
|(D)
|-
|2015年3月25日
|march hare
|(D)
|-
|2015年12月11日
|Danteroid
|(D)
|-
|2020年1月29日
|Coda growth
|(D)
|-
|2020年2月29日
|Meme crack - growth20
|(D)
|-
|2020年3月29日
|WAVELET PETAL
|(D)
|-
|2020年5月11日
|Entanglement capriccio
|(D)
|-
|2020年10月2日
|Olympus
|(D)
|}
=== オリジナル・アルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!発売日!!タイトル!!最高位!!備考
|-
|1991年11月1日
|[[LANDING TIMEMACHINE]]
|27位
|(F)
|-
|1992年9月2日
|[[D-Trick]]
|6位
|(F)
|-
|1995年7月12日
|[[ELECTROMANCER]]
|4位
|(F)
|-
|2002年11月20日
|[[21st Fortune|21st Fortune CD]]
|173位
|(A)
|-
|2004年3月30日
|[[Violet Meme-紫の情報伝達値-]]
|152位
|(D)
|-
|2004年5月31日
|[[Indigo Algorithm-藍の電思基数法-]]
|110位
|(D)
|-
|2004年7月30日
|[[Blue Resolution-青の思覚解析度-]]
|171位
|(D)
|-
|2004年9月15日
|[[Green Method-緑の中庸秩序系-]]
|93位
|(D)
|-
|2004年11月30日
|[[Yellow Vector-黄の多次限指向性-]]
|94位
|(D)
|-
|2004年12月31日
|[[Orange Compile-橙の能動編積式-]]
|203位
|(D)
|-
|2005年3月3日
|[[Red Trigger-赤の誘発思動期-]]
|115位
|(D)
|-
|2006年7月19日
|[[d・file -for tv programs-]]
|113位
|(S)
|-
|2013年3月8日
|[[DA METAVERSE I+II]]
| -
|(D)
|}
=== ベスト・アルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!発売日!!タイトル!!最高位!!備考
|-
|1998年6月24日
|[[DA's BEST WORKS '91〜'95]]
|55位
|(F)
|-
|2001年11月21日
|[[DecAde 〜The BEST of Daisuke Asakura〜]]
|33位
|(A)
|-
|2006年9月20日
|[[d・collection -the best works of daisuke asakura-]]
|-
|(S)
|-
|2016年9月28日
|[[THE BEST WORKS OF DAISUKE ASAKURA quarter point]]
|48位
|(S)
|}
=== クラブミックスアルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!発売日!!タイトル!!最高位!!備考
|-
|2003年12月15日
|Sequence Virus 2003
|-
|(D)
|-
|2004年8月14日
|Sequence Virus 2004
|-
|(D)
|-
|2005年10月14日
|Sequence Virus 2005
|-
|(D)
|-
|2006年12月23日
|Sequence Virus 2006
|-
|(D)
|-
|2009年7月25日
|Sequence Virus 2007-2008
|-
|(D)
|-
|2010年3月31日
|Sequence Virus 2009
|-
|(D)
|-
|2016年6月29日
|Sequence Virus 2015
|141位
|(D)
|-
|2018年8月29日
|Sequence Virus 2017
|-
|(D)
|-
|2020年5月13日
|Sequence Virus 2019
|79位
|(D)
|}
=== コンプリートBOX ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!発売日!!タイトル!!備考
|-
|2002年9月19日
|[[21st Fortune]]
|(A)
|}
=== サウンドトラック ===
* アレンジ・サウンドトラック [[DAIVA]](1987年3月4日)
* [[グラビテーション (漫画)|グラビテーション]] オリジナル・サウンドトラック(1999年9月22日)
* グラビテーション TV-tracks(2000年12月20日)
* [[旅の贈りもの 0:00発]] オリジナル・サウンドトラック(2006年10月4日)
* [[スターフィッシュホテル]] -image soundtrack-(2006年12月20日)
* [[鋼殻のレギオス]] SOUND∞RESTORATION(2009年3月4日)
* 鋼殻のレギオス SOUND∞RESTORATION 02(2009年6月5日)
* [[グッバイ、チャーリー]] オリジナル・サウンドトラック(2009年11月18日)
== ユニット ==
* [[Access (音楽ユニット)|access]]
* [[Iceman]]
* [[Mad Soldiers]]
* [[Drei Projekt]]
* [[Sugar & The Honey Tones]]
* [[PANDORA (音楽ユニット)|PANDORA]]
== プロデュース・楽曲提供 ==
=== プロデュース ===
* [[オナペッツ]]
* MODE
* [[雛形あきこ]]
* [[LAZY KNACK]]
* [[T.M.Revolution]]
* [[pool bit boys]]
* [[木村由姫]]
* [[Fayray]]
* [[コタニキンヤ]]
* [[藤井隆]]
*[[D.A.N.K]]
* [[サカノウエヨースケ]]
* [[RUN&GUN]]
* [[The Seeker]]
=== 楽曲提供 ===
* [[南青山少女歌劇団]]
* [[宇都宮隆]]
* [[阿部薫 (ドラマー)|阿部薫]]
* [[SHAZNA]]
* [[おはガール|OHA-ガール グレープ]]
* [[椎名へきる]]
* 柴田智子
* [[真島茂樹|マジー]]と[[レギュラー (お笑いコンビ)|レギュラー]]
* [[Kimeru]]
* [[玉置成実]]
* ワタシメスラッグ
* [[Daisy×Daisy]]
* [[ON/OFF]]
* [[May'n]]
* [[ゴールデンボンバー (バンド)|ゴールデンボンバー]]
*T.M.Revolution×[[水樹奈々]]
* [[ZOLA]]
* [[REVALCY]]
* [[中森明菜]]
* あさまっく
* [[GALETTe*]]
* EDGE of LIFE
* [[東京パフォーマンスドール]]
* BugTheMic
* [[篠原ともえ]]
* [[佐咲紗花]]
* [[Iris (歌手)|Iris]]
* [[ガチンコ3]]
* [[つるの剛士]]
* [[TRF]]
* [[あんさんぶるスターズ!]]
* [[でんぱ組.inc]]
* [[アイドリッシュセブン|TRIGGER]]
* Sarah L-ee
== 出演番組 ==
=== テレビ ===
* [[新堂本兄弟]](2006年4月 - 2014年9月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* [[ヒルナンデス!]] (不定期出演(金曜)、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
=== ラジオ ===
* [[UPTOWN SQUARE]](1992年4月 - 1998年3月、[[エフエムナックファイブ|NACK5]])
* [[Digiryzm Sensation]](1998年4月 - 1999年3月、[[ベイエフエム|bayfm]])
* [[NEO AGE CIRCUIT]](2000年4月 - 2021年3月、NACK5)
* [[東京プラネタリー☆カフェ]](2019年1月 - 3月、[[エフエム東京|TOKYO FM]])
== ライブ・イベント ==
=== ライブ ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!日程!!タイトル
!style="width:30%"|会場
|-
|1992年9月29日
!Day‐Trick
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
9月29日 日本教育会館
</div></div>
|-
|1995年12月14日~1996年1月9日
!DA LIVE 95〜96 ELECTRIC ROMANCE
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">10都市12公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月14日 川口総合文化センター<br />12月17日 福岡サンパレス<br />12月18日 広島県立文化芸術ホール<br />12月20日 アクトシティ浜松<br />12月21日 名古屋国際会議場<br />12月26日 宮城県民会館<br />12月28日 神戸国際会館<br />12月29日 神戸国際会館<br />12月31日 東京ベイNKホール<br />1月1日 東京ベイNKホール<br />1月6日 新潟県民会館<br />1月9日 北海道厚生年金会館
</div></div>
|-
|2001年1月2日~3日
!21st Fortune 〜winter mute〜
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市2公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
1月2日 東京国際フォーラム<br />1月3日 東京国際フォーラム
</div></div>
|-
|2001年3月25日~27日
!21st Fortune 〜spring phase〜
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市3公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
3月25日 東京国際フォーラム<br />3月26日 東京国際フォーラム<br />3月27日 東京国際フォーラム
</div></div>
|-
|2001年8月4日~5日
!21st Fortune 〜summer fade〜
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市2公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
8月4日 東京国際フォーラム<br />8月5日 東京国際フォーラム
</div></div>
|-
|2001年8月12日~9月1日
!21st Fortune 〜in the warp HOUSE〜
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">3都市3公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
8月12日 Zepp Osaka<br />8月26日 Zepp Sapporo<br />9月1日 Zepp Fukuoka
</div></div>
|-
|2001年11月3日~4日
!21st Fortune 〜autumn choir〜
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市2公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
11月3日 東京国際フォーラム<br />11月4日 東京国際フォーラム
</div></div>
|-
|2001年12月20日
!Glorious Night of Piano Forte 〜DecAde of Ballads〜
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月20日 品川教会
</div></div>
|-
|2002年11月22日~23日
!21st Fortune 〜beautiful symphony〜
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市3公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
11月22日 東京国際フォーラム<br />11月23日 東京国際フォーラム<br />11月23日 東京国際フォーラム
</div></div>
|-
|2004年9月4日~10月11日
!Live Tour '04 Cultivate Meme<br />〜about Quantum Mechanics Rainbow〜
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">7都市8公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
9月4日 Zepp Sapporo<br />9月11日 Zepp Fukuoka<br />9月12日 広島CLUB QUATTRO<br />9月18日 Zepp Sendai<br />9月24日 CLUB DIAMOND HALL<br />9月25日 Zepp Osaka<br />10月10日 Zepp Tokyo<br />10月11日 Zepp Tokyo
</div></div>
|-
|2005年3月25日~26日
!Quantum Mechanics Rainbow
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市3公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
3月25日 東京国際フォーラム<br />3月26日 東京国際フォーラム<br />3月26日 東京国際フォーラム
</div></div>
|-
|2005年9月17日~10月10日
!Live Tour '05 Drive Meme<br />〜over Quantum Mechanics Rainbow〜
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">3都市4公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
9月17日 CLUB DIAMOND HALL<br />9月23日 なんばHatch<br />10月9日 Zepp Tokyo<br />10月10日 Zepp Tokyo
</div></div>
|-
|2006年8月5日~6日
!Cool Summer Rainbow
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市2公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
8月5日 東京国際フォーラム<br />8月6日 東京国際フォーラム
</div></div>
|-
|2006年9月23日~10月9日
!Re‐collection
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">3都市4公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
9月23日 なんばHatch<br />9月24日 CLUB DIAMOND HALL<br />10月8日 Zepp Tokyo<br />10月9日 Zepp Tokyo
</div></div>
|-
|2007年10月20日~11月4日
!Tour 2007 Live Metaverse
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">3都市4公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
10月20日 なんばHatch<br />10月21日 CLUB DIAMOND HALL<br />11月3日 Zepp Tokyo<br />11月4日 Zepp Tokyo
</div></div>
|-
|2008年9月5日~6日
!Live Metaverse ‐birth‐
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市2公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
9月5日 東京国際フォーラム<br />9月6日 東京国際フォーラム
</div></div>
|-
|2008年10月11日~11月9日
!Live Metaverse -drive-
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">3都市4公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
10月11日 なんばHatch<br />10月12日 CLUB DIAMOND HALL<br />11月8日 Zepp Tokyo<br />11月9日 Zepp Tokyo
</div></div>
|-
|2009年10月31日~11月8日
!Tour 2009 Live Metaverse
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">3都市4公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
10月31日 なんばHatch<br />11月1日 CLUB DIAMOND HALL<br />11月7日 Zepp Tokyo<br />11月8日 Zepp Tokyo
</div></div>
|-
|2015年9月5日
!Live Metaverse 2015 Re‐Birth
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
9月5日 豊洲PIT
</div></div>
|-
|2016年10月7日~8日
!DA METAVERSE 2016 quarter point
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市2公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
10月7日 東京国際フォーラム<br />10月8日 東京国際フォーラム
</div></div>
|-
|2018年8月31日
!DA metaverse beginning θ⁺
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
8月31日 新宿ReNY
</div></div>
|-
|2019年1月19日~20日
!LIVE METAVERSE Cθda growth
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市2公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
1月19日 ヒューリックホール東京<br />1月20日 ヒューリックホール東京
</div></div>
|}
=== ライブイベント ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!日程!!タイトル
!style="width:30%"|会場
|-
|1995年7月18日~9月5日
!What Jam?
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">13都市16公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
7月18日 広島県立文化芸術ホール<br />7月20日 福岡サンパレス<br />7月22日 静岡市民文化会館<br />7月27日 仙台サンプラザ<br />8月4日 大宮ソニックシティ<br />8月10日 名古屋国際会議場<br />8月12日 市川市文化会館<br />8月16日 日本武道館<br />8月19日 新潟県民会館<br />8月20 石川厚生年金会館<br />8月26日 北海道厚生年金会館<br />8月28日 神奈川県民ホール<br />8月31日 名古屋国際会議場<br />9月1日 大阪フェスティバルホール<br />9月2日 大阪フェスティバルホール<br />9月5日 大阪フェスティバルホール
</div></div>
|-
|1999年2月14日
!DA's Special Valentine Party!
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
2月14日 横浜アリーナ
</div></div>
|-
|1999年8月29日
!DA's Party Special Summer Festival!
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
8月29日 東京ベイNKホール
</div></div>
|-
|1999年12月31日
!DA's Party Grand Finale 1999
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月31日 国立代々木競技場 第一体育館
</div></div>
|-
|1999年12月31日
!DA's Party Let's Count Down 99〜00
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月31日 国立代々木競技場 第一体育館
</div></div>
|-
|2000年1月1日
!DA's Party Happy New Year Welcome 2000
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
1月1日 国立代々木競技場 第一体育館
</div></div>
|-
|2000年8月13日~9月2日
!DA's Party βversion '00 Summer
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">6都市8公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
8月13日 Zepp Sendai<br />8月18日 中野サンプラザ<br />8月19日 中野サンプラザ<br />8月19日 中野サンプラザ<br />8月20日 愛知厚生年金会館<br />8月26日 大阪厚生年金会館<br />8月27日 Zepp Fukuoka<br />9月2日 Zepp Sapporo
</div></div>
|-
|2012年12月30日
!シンセヤロウナイト
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月30日 赤坂BLITZ
</div></div>
|-
|2013年6月22日
!シンセヤロウナイト2
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
6月22日 赤坂BLITZ
</div></div>
|}
=== クラブイベント ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!日程!!タイトル
!style="width:33%"|会場
|-
|2003年9月17日~10月15日
!Seq Virus
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">3都市3公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
9月17日 大阪TRIANGLE<br />9月26日 CLUB LUNERS<br />10月15日 名古屋OZON
</div></div>
|-
|2004年1月1日
!Seq Virus ‐New Year Party‐
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
1月1日 CLUB VANILLA
</div></div>
|-
|2004年3月19日~5月4日
!Seq Virus 2004
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市2公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
3月19日 六本木SPIRAL<br />5月4日 六本木SPIRAL
</div></div>
|-
|2004年8月20日~9月25日
!Seq Virus 2004 ‐Summer Party‐
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">7都市7公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
8月20日 六本木SPIRAL<br />9月4日 札幌HALL F-45<br />9月11日 福岡O/D<br />9月12日 広島4月14日<br />9月17日 仙台CLUB ADD<br />9月24日 名古屋RADIX<br />9月25日 大阪TRIANGLE
</div></div>
|-
|2005年4月25日~6月5日
!Seq Virus 2005 ‐Q.M.Rainbow‐
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">5都市5公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
4月25日 名古屋RADIX<br />5月1日 仙台LOUNGE SQUALL<br />5月5日 札幌HALL F-45<br />5月6日 大阪TRIANGLE<br />6月5日 渋谷HARLEM
</div></div>
|-
|2005年9月23日~10月9日
!Seq Virus 2005
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">2都市2公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
9月23日 なんばHatch<br />10月9日 Zepp Tokyo
</div></div>
|-
|2006年3月19日~11月23日
!Seq Virus 2006
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">7都市8公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
3月19日 CLUB ASIA<br />5月20日 大阪TRIANGLE<br />5月21日 名古屋RADIX<br />7月16日 CLUB ASIA<br />9月23日 なんばHatch<br />9月24日 CLUB DIAMOND HALL<br />10月8日 Zepp Tokyo<br />11月23日 札幌KING XMHU
</div></div>
|-
|2007年1月1日
!Seq Virus 2007 ‐New Year Joy!‐
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
1月1日 CLUB ASIA
</div></div>
|-
|2007年3月23日~11月3日
!Seq Virus 2007
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">9都市9公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
3月23日 仙台CLUB SHAFT<br />3月31日 横浜ベイホール<br />4月7日 MAGENTA AKASAKA CUISINE<br />5月12日 名古屋RADIX<br />5月13日 大阪TRIANGLE<br />6月9日 芝浦ARK<br />8月11日 CLUB ASIA<br />10月20日 なんばHatch<br />11月3日 Zepp Tokyo
</div></div>
|-
|2008年6月1日~11月8日
!Seq Virus 2008
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">5都市5公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
6月1日 CLUB ASIA<br />7月26日 大阪TRIANGLE<br />10月11日 なんばHatch<br />10月12日 CLUB DIAMOND HALL<br />11月8日 Zepp Tokyo
</div></div>
|-
|2009年2月14日~11月7日
!Seq Virus 2009
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">7都市7公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
2月14日 WAREHOUSE702<br />4月18日 大阪SUNHALL<br />8月8日 大阪TRIANGLE<br />8月14日 名古屋RADIX<br />10月31日 なんばHatch<br />11月1日 CLUB DIAMOND HALL<br />11月7日 Zepp Tokyo
</div></div>
|-
|2009年8月22日
!Seq Virus 2009 G‐Remix Night<br />‐DA METAVERSE 'n' GUNDAM‐
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
8月22日 潮風公園 太陽の広場
</div></div>
|-
|2009年12月31日
!Seq Virus Count Down 20X
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月31日 芝浦MAG
</div></div>
|-
|2010年12月23日
!Seq Virus Happy X'mas 2010
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月23日 大阪TRIANGLE
</div></div>
|-
|2010年12月31日
!Seq Virus Count Down 2011
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月31日 原宿アストロホール
</div></div>
|-
|2011年12月22日
!Seq Virus 20th Anniversary X'mas 2011
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月22日 横浜BLITZ
</div></div>
|-
|2012年12月31日
!Seq Virus Count Down 2013
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月31日 赤坂BLITZ
</div></div>
|-
|2013年3月8日~5月25日
!Seq Virus 2013
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">18都市20公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
3月8日 千葉STARNITE<br />3月9日 横浜ベイホール<br />3月15日 金沢MANIER<br />3月16日 新潟The PLANET<br />3月22日 名古屋RADIX<br />3月23日 静岡SOUND SHOWER ark<br />4月5日 福岡complex@MILLS<br />4月6日 広島Back Beat<br />4月7日 高松MONSTER<br />4月12日 仙台yankee court<br />4月13日 札幌CLUB DUCE<br />4月19日 神戸VARIT.<br />4月20日 心斎橋CLUB DROP<br />4月26日 渋谷WOMB<br />4月28日 代官山AIR<br />5月3日 CLUB ASIA<br />5月16日 大阪SUNHALL<br />5月17日 高松MONSTER<br />5月19日 広島Back Beat<br />5月25日 札幌PROVO
</div></div>
|-
|2013年8月31日~12月15日
!Seq Virus 2013 AUTUMN
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">20都市21公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
8月31日 代官山LOOP<br />9月21日 代官山AIR<br />9月22日 初台The DOORS<br />9月28日 秋葉原CLUB GOODMAN<br />10月18日 富山MINORITY<br />10月19日 仙台darwin<br />10月20日 青森QUARTER<br />10月25日 新潟Progressive Energy<br />11月2日 柳ヶ瀬ants<br />11月3日 名古屋Hype<br />11月4日 大阪SUNHALL<br />11月10日 静岡Etti<br />11月16日 千葉STARNITE<br />11月17日 前橋DYVER<br />11月23日 長崎bar RABANO<br />11月24日 福岡MUSK<br />11月30日 広島Back Beat<br />12月1日 高松SOUND BAR RAD<br />12月7日 横浜BAYSIS<br />12月8日 北浦和Ayers<br />12月15日 代官山AIR
</div></div>
|-
|2014年1月25日~2月23日
!Seq Virus 2014 WINTER
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">7都市7公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
1月25日 渋谷THE GAME<br />1月26日 六本木morph-tokyo<br />2月7日 函館CLUB COCOA<br />2月8日 札幌CLUB DUCE<br />2月9日 旭川CASINO DRIVE<br />2月22日 代官山UNIT<br />2月23日 渋谷CHELSEA HOTEL
</div></div>
|-
|2014年3月15日
!Seq Virus 2014 GUNDAM‐Remix Liberation
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
3月15日 香港CLUB LEVEL2
</div></div>
|-
|2014年12月23日
!Seq Virus 2014 Christmas Special Metaverse
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月23日 江坂MUSE
</div></div>
|-
|2014年12月31日
!Seq Virus 2014〜2015 Special Countdown
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
12月31日 横浜ベイホール
</div></div>
|-
|2015年6月6日~12月6日
!Seq Virus 2015
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">30都市32公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
6月6日 初台The DOORS<br />6月7日 横浜ベイホール<br />6月12日 長野the Venue<br />6月13日 富山MINORITY<br />6月14日 新潟Progressive Energy<br />6月20日 TIAT SKY HALL<br />6月21日 代官山AIR<br />6月27日 前橋DYVER<br />6月28日 HEAVEN'S ROCK さいたま新都心<br />7月4日 松山Bar Caezar<br />7月5日 高松SOUND BAR RAD<br />7月10日 表参道GROUND<br />7月11日 LIVE rise 周南<br />7月12日 岡山CRAZY MAMA 2nd Room<br />7月18日 米子AZTiC laughs<br />7月19日 神戸VARIT.<br />7月20日 京都MOJO<br />7月24日 新宿ReNY<br />7月25日 名古屋Electric Lady Land<br />7月26日 金沢Million City<br />7月31日 新代田FEVER<br />8月1日 仙台Neo BrotherZ<br />8月2日 福島CLUB NEO<br />8月8日 名古屋CLUB SARU<br />8月9日 名古屋CLUB SARU<br />8月15日 大阪MUSE<br />8月16日 大阪MUSE<br />11月3日 函館CLUB COCOA<br />11月4日 札幌SPIRITUAL LOUNGE<br />12月4日 北九州あるあるCity B1Fスタジオ<br />12月5日 長崎bar RABANO<br />12月6日 福岡MUSK
</div></div>
|-
|2017年1月13日~3月26日
!Seq Virus 2017 First cours
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">24都市26公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
1月13日 恵比寿CreAto<br />1月14日 西川口Hearts<br />1月15日 渋谷LOUNGE NEO<br />1月27日 柳ヶ瀬ants<br />1月28日 和歌山CLUB GATE<br />1月29日 滋賀B-FLAT<br />2月2日 米子AZTiC laughs<br />2月3日 広島Back Beat<br />2月4日 出雲APOLLO<br />2月5日 LIVE rise 周南<br />2月10日 名古屋CLUB SARU<br />2月11日 名古屋CLUB SARU<br />2月12日 浜松FORCE<br />2月18日 那覇Output<br />2月19日 那覇Output<br />2月24日 両国SUNRIZE<br />2月25日 千葉LOOM<br />2月26日 新宿club SCIENCE<br />3月3日 四日市CLUB CHAOS<br />3月4日 京都MOJO<br />3月5日 神戸 太陽と虎<br />3月10日 大塚Deepa<br />3月11日 甲府KAZOO HALL<br />3月12日 前橋Accuracy<br />3月25日 奈良NEVER LAND<br />3月26日 大阪LIVE SQUARE 2nd LINE
</div></div>
|-
|2017年6月1日~8月27日
!Seq Virus 2017 Second cours
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">26都市26公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
6月1日 秋田CLUB GEL<br />6月2日 山形CLUB RUSH<br />6月3日 盛岡CLUB CHANGE<br />6月4日 仙台 CLUB SHAFT<br />6月9日 新宿[[Zirco Tokyo]]<br />6月10日 横浜BAYSIS<br />6月11日 渋谷Glad<br />6月30日 札幌COLONY<br />7月1日 函館CLUB COCOA<br />7月2日 青森SUNSHINE<br />7月6日 新潟Progressive Energy<br />7月7日 福島CLUB NEO<br />7月8日 宇都宮NEST<br />7月9日 古河Spider<br />7月14日 長野the Venue<br />7月15日 富山MINORITY<br />7月16日 金沢gate Black<br />7月17日 福井CHOP<br />7月28日 青山RizM<br />8月11日 下北沢GARDEN<br />8月12日 柏Thumb Up<br />8月13日 八王子RIPS<br />8月24日 岡山CRAZY MAMA 2nd Room<br />8月25日 高知CARAVAN SARY<br />8月26日 徳島Crowbar<br />8月27日 高松SOUND BAR RAD
</div></div>
|-
|2017年9月24日~10月28日
!Seq Virus 2017 Third cours
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">14都市14公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
9月24日 阿倍野ROCKTOWN<br />9月29日 名古屋HeartLand<br />9月30日 江古田Live in Buddy<br />10月9日 F.A.D YOKOHAMA<br />10月12日 福岡The Voodoo Lounge<br />10月13日 熊本Labo te:D<br />10月14日 LIVE HOUSE SAGA RAG・G<br />10月15日 長崎Club BETA<br />10月19日 松山Bar Caezar<br />10月20日 鹿児島Duckbill<br />10月21日 宮崎Sound Bar Phoenix<br />10月22日 大分Club FREEDOM<br />10月27日 越谷EASYGOINGS<br />10月28日 六本木 CLUB SIX TOKYO
</div></div>
|-
|2018年10月8日~11月4日
!Seq Virus 2018
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">4都市4公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
10月8日 表参道GROUND<br />10月20日 江坂MUSE<br />11月1日 松山Bar Caezar<br />11月4日 名古屋 CLUB SALU
</div></div>
|-
|2019年5月31日~9月8日
!Seq Virus 2019
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">20都市20公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
5月31日 本八幡Route Fourteen<br />6月1日 静岡Sunash<br />6月2日 心斎橋FANJ<br />6月8日 新潟Progressive Energy<br />6月9日 長野the Venue<br />6月29日 熊本Labo te:D<br />6月30日 鹿児島Speed King<br />7月12日 赤羽ReNY<br />7月13日 前橋DYVER<br />7月14日 水戸LIGHT HOUSE<br />7月26日 横浜BAYSIS<br />7月27日 渋谷CLUB CAMELOT<br />8月16日 岡山CRAZYMAMA 2nd Room<br />8月17日 松江AZTiC canova<br />8月18日 広島CAVE-BE<br />8月31日 福島club NEO<br />9月1日 仙台CLUB SHAFT<br />9月6日 柏ThumbUp<br />9月7日 浦和ナルシス<br />9月8日 代官山UNIT
</div></div>
|-
|2019年11月29日~12月13日
!Seq Virus 2019 令和元年Final
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">3都市3公演</div>
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11月29日 四日市CLUB CHAOS<br />11月30日 HeartLand STUDIO<br />12月13日 江坂MUSE
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|-
|2020年1月4日
!Seq Virus 2020 Happy Reiwa 2
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
1月4日 渋谷THE GAME
</div></div>
|-
|2020年2月14日
!Seq Virus 2020~R2~
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:center">1都市1公演</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center">
2月14日 代官山UNIT
</div></div>
|}
== 映像作品 ==
=== VHS ===
* Dimension-Trick(1992年10月1日)
* INTERFACE OF ELECTROMANCER(1995年6月25日)
* DA's Special Valentine Party!!! in 横浜アリーナ 1999.2.14(1999年8月21日)
* DA's Party Special Summer Festival!!! In Tokyo Bay NK Hall 1999.8.29(2000年2月14日)
=== DVD ===
* 21st Fortune DVD(2002年11月20日)
* D-Clips 1992-1995(2005年6月29日)
* DAISUKE ASAKURA Live Tour '04 Cultivate Meme〜about Quantum Mechanics Rainbow〜(2005年3月4日)
* DAISUKE ASAKURA Quantum Mechanics Rainbow(2005年10月17日)
* DAISUKE ASAKURA Drive Meme-over Quantum Mechanics Rainbow-(2006年3月20日)
* DA LIVE METAVERSE 2015 Re-Birth(2017年2月14日)
* DA METAVERSE 2016 quarter point(2017年7月5日)
* DAISUKE ASAKURA CLUB+LIVE DA metaverse beginning θ⁺(2019年7月3日)
* DAISUKE ASAKURA DA LIVE METAVERSE 2019 Cθda growth(2019年10月2日)
== 出版物 ==
=== 書籍 ===
* EOS LESSON DIARY(1991年7月)
* デジタル・ミュージックへの招待(1991年12月)
* D Scope(1995年12月)
* 浅倉大介大全集 THE WORKS PACKAGE DA(1996年7月)
* DAISUKE的にOK!?(1999年12月)
* DA'S COMPLETE RECORD〜decade of daisuke asakura〜(2001年3月)
* 21st Fortune 写真集(2001年12月)
* DATi BON(2004年12月)
* Quantum Mechanics Rainbow Book〜DA 04-05〜(2005年3月)
* HAPPY D.A.Y S〜浅倉大介+アニー&アルの日記〜(2005年12月)
* 浅倉大介 デビュー20周年記念BOOK(2011年9月)
* 浅倉大介の作曲・アレンジ教室(2011年10月)
* DAte Adventure Daisuke Asakura(2013年12月)
==== スコア ====
* D-Trick(1992年10月)
* ELECTROMANCER ピアノソロアルバム(1995年8月)
* バンド・スコア ELECTROMANCER(1995年11月)
=== 電子書籍 ===
* Daisuke Asakura Interviews Vol.1(2014年7月)
* Daisuke Asakura Interviews Vol.2(2014年7月)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
* [http://www.danet.ne.jp/ Daisuke Asakura Official Website]
* {{Twitter|daisukeasakura}}
* {{Instagram|daisuke_asakura|浅倉大介}}
* {{ツイキャス|daisukeasakura|浅倉大介}}
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16,874 |
近世邦楽
|
近世邦楽(きんせいほうがく)は日本の近世期(織豊期~江戸期)にかけて発生、もしくは飛躍的に発達した音楽の総称。
以下に掲げるのは、現存、廃絶の別を問わず近世期に生れた邦楽分野、およびこの期間に世人にひろく流行した邦楽分野である。(一部重複)
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'''近世邦楽'''(きんせいほうがく)は[[日本]]の[[近世]]期(織豊期~江戸期)にかけて発生、もしくは飛躍的に発達した[[音楽]]の総称。
以下に掲げるのは、現存、廃絶の別を問わず近世期に生れた[[邦楽]]分野、およびこの期間に世人にひろく[[流行]]した邦楽分野である。(一部重複)
==能楽==
*[[謡曲]]
:シテ方
::[[観世流]]
::[[宝生流]]
::[[金剛流]]
::[[金春流]]
::[[喜多流]]
:ワキ方
::[[進藤流]]
::[[春藤流]]
::[[福王流]]
::[[高安流]]
::[[宝生流]]
==三味線音楽==
*唄もの
::[[地歌]](地唄)([[上方地唄]])
::[[長唄]]
::[[荻江節]]
*語りもの(浄瑠璃)
::古浄瑠璃
::[[義太夫節]]
::大薩摩節
::繁太夫節
::半太夫節
::[[河東節]]
::[[一中節]]
::[[豊後節]]
::[[宮薗節]]※別名、薗八節とも
::[[常磐津節]]
::[[富本節]]
::[[新内節]]
::[[清元節]]
::[[竹本]](チョボ・)([[義太夫節]]の一分流)
*俗謡
::[[端唄]]
::[[小唄]]
::[[うた沢]]※流儀によって「哥沢」「歌沢」と用いる字が違う
::[[俗曲]]
::[[上方歌]]
==三曲==
*[[地歌]]
::柳川流
::野川流
*[[箏曲]]
::筑紫箏([[筑紫流]])
::[[八橋流]]
::[[生田流]]
::[[山田流]]
*[[胡弓]]楽
::藤植流
::政島流
::松翁流
::京都派
::吉沢(名古屋)派
*一節切
*[[尺八]]楽
::明暗流
::[[琴古流]]
==琵琶楽==
::[[薩摩琵琶]]
::[[筑前琵琶]](明治以降)
==一弦琴==
==二弦琴==
::八雲琴
==その他==
::隆達小歌
::[[明清楽]]
::琴學(七絃琴)
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16,875 |
地歌
|
地歌(ぢうた、地唄)は、江戸時代には上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽であり、江戸唄に対する地(地元=上方)の歌。当道という視覚障害者の自治組織に属した盲人音楽家が作曲、演奏、教授したことから法師唄ともいう。長唄と共に「歌いもの」を代表する日本の伝統音楽の一つ。また三曲の一つ。
三味線を用いた音楽としては、初期に上方(京阪地方)で成立していた地歌は、元禄頃までは江戸でも演奏されていた。その後、江戸では歌舞伎舞踊の伴奏音楽としての長唄へと変化、また河東節などの浄瑠璃音楽の普及によって、本来の地歌そのものはしだいに演奏されなくなっていった。
幕末までには、京阪を中心に東は名古屋、西は中国、九州に至る範囲で行われた。明治以降には生田流系箏曲とともに東京にも再進出、急速に広まった。現在は沖縄を除く全国で愛好されている。ただし東京では「地唄舞」の伴奏音楽としてのイメージがあり、地唄舞が持つ「はんなり」とした雰囲気を持つ曲という印象を持たれがちであるが、地唄舞は地歌に舞を付けたものであって、最初から舞のために作曲されたものはない。また地唄舞として演奏される曲目は地歌として伝承されている曲の一部(端歌ものが中心)であり、地歌の楽曲全体をみれば、音楽的には三味線音楽の中でも技巧的であり、器楽的な特徴を持つ曲が非常に多い。
一方、三曲界内部においては、明治維新以来の西洋音楽の導入に伴って、その器楽的部分に影響を受け、江戸時代を通じて器楽的に発達していた「手事物」に注目されることも多い。しかしながら「歌いもの」の一つとして発達した地歌は伝統的な声楽としての側面も持っている。
一般的に地歌、三曲の世界では三味線を三弦と称する場合が多い(三絃とも書く)。
現在では箏曲と一体化しまた尺八楽、胡弓楽とのつながりも深く、全国的に普及している。また多くの三味線音楽が人形浄瑠璃や歌舞伎といった舞台芸能と結びついて発展してきた近世邦楽の中にあって純音楽的性格が強く、舞台芸能とは比較的独立している。
地歌は、三味線の伝来とほぼ同時に始まったと考えられるので、三味線音楽の中で最も長い歴史を持つ。すなわち、戦国時代末期に琉球を経由して大阪の堺に入ってきた中国の弦楽器三弦を、平曲(平家琵琶=平家物語の語り物音楽)を伝承していた当道座の盲人音楽家(琵琶法師)たちが改良して三味線を完成させ、琵琶を弾く撥によって弾き始めるという形で、三弦音楽としての地歌は始まったと考えられる。中でも石村検校は三味線音楽興隆の祖と言われる。その後も地歌は、主に当道座の盲人音楽家たちによって作曲、演奏、伝承されてきた。現存で最も古い楽曲としては、江戸時代初期に完成されたと考えられる「三味線組歌」がある (「琉球組」「飛騨(ひんだ)組」など)。
これらは小歌曲をいくつか連ねた形式だが、やがて飽きられ、元禄の頃には一貫した内容を持つ「長歌」が作曲されるようになる。これは江戸の検校たちによって始められたらしく、作曲家として浅利検校、佐山検校などが有名である。やがて上方でもこれに倣った曲が作られるようになる。また長歌は江戸で歌舞伎舞踊の伴奏としても使われるようになり、長唄へと発展して行く。「桜尽し」「こんかい」「古道成寺」「花の宴」などが知られている。
いっぽうこの頃から、歌ばかりでなく、「さらし」「三段獅子」「六段恋慕」など、歌の間にまとまった器楽部分を持つ曲が作られるようになる。この部分を「手事」といい、こういった形式の曲を「手事物」という。手事ものは初めの頃はまだ曲も少なく、音楽的にも比較的単純なものが多かったが江戸時代後期に大発展し、地歌を代表する楽曲形式となる。
さらに、これらに含まれない雑多な曲も多数作られた。これを「端歌(はうた)」と呼ぶが、江戸の端唄とは別のものである(一部地歌の端歌から取り入れられている物もある)。端歌は一部流行歌など大衆的な音楽も含み、軽音楽的な要素もあって、地歌と大衆的歌謡との接点でもあった。プロである盲人音楽家だけではなく、素人の愛好家たちによって作られた曲もあり、全般的に叙情的な小品が多い。18世紀半ばになると端歌は大坂を中心に大量に作曲されるようになり、鶴山勾当、藤永検校、政島検校らによって洗練され、大いに流行した。同世紀末に作られた峰崎勾当の「雪」は、端歌もの地歌の傑作として有名である。このほか「黒髪」「鶴の声」「小簾の戸」「芦刈」「所縁の月」「袖の露」「菊の露」「落し文」「名護屋帯」「露の蝶」「袖香炉」などがよく知られている。
もともと地歌三味線、箏、胡弓は江戸時代の初めから当道座の盲人音楽家たちが専門とする楽器であり、総称して三曲という。これらの楽器によるそれぞれの音楽である地歌、箏曲、胡弓楽が成立、発展して来たが、演奏者は同じでも種目としては別々の音楽として扱われており、初期の段階では異種の楽器同士を合奏させることはなかった。しかし元禄の頃、京都の生田検校によって三弦と箏の合奏が行われるようになり、地歌と箏曲は同時に発展していくことになる。
現在伝承されている曲の多くは三弦で作曲され、その後に箏の手が付けられているものが多く、三弦音楽として地歌は成立し、ほぼ同時かその後に箏曲が発展してきたと考えられる。ただし箏曲の「段もの」は後から三絃の手が付けられたものであり、ほかにもしばしば胡弓曲を三弦に取り入れたものもある。胡弓との合奏も盛んに行われ、三弦、箏、胡弓の3つの楽器、つまり三曲で合奏する三曲合奏が行われるようになった。このような環境の中で地歌は、三弦音楽として発展した。
18世紀末には、尾張の藤尾勾当が、能の詞章を取り入れた曲をいくつも作曲した。これを「謡(うたい)もの」と呼び、「屋島」「虫の音」「富士太鼓」などが有名であり、この後も能に取材した曲がいくつも作られている。また元禄の頃から浄瑠璃の半太夫節や永閑節などが地歌に取り入れられた。さらに18世紀後半には繁太夫節が地歌に取り込まれ、検校たち自身が浄瑠璃を作曲することにもなった。「紙治」「橋づくし」などが知られた曲である。このように地歌は劇場音楽との関わりも持っている。
同じ頃、滑稽な内容を持つ「作(さく)もの」と呼ばれるジャンルも生まれた。これは「おどけ物者」ともよばれ、「曲ねずみ」「たにし」「狸」などの動物が主人公で智恵を絞って難を逃れる内容のものがある他、「寛活一休」「浪花十二月」等もある。物語性が非常に強く、擬音を用いるなど地歌では特殊なジャンルと言える。関西系地歌箏曲家が伝承している他、宮城派等の他派も演奏会で演目に挙げることがある。非常に多彩な技能を要し、どの曲も難曲といって過言ではない。
このように江戸時代中期から後期にかけて、音楽性の高い楽曲が数多く作られるようになった。特に器楽部分が発達して、手事と呼ばれる、歌の間にはさまれる長い器楽部分を持つ曲(手事物と呼ばれる)が多く伝承されている。手事ものを大成したのは、18世紀末に大阪で活躍した峰崎勾当であり、彼は前述のように「雪」をはじめ端歌ものもいくつか残しているが、その一方で「残月」「越後獅子」「吾妻獅子」「梅の月」など、手事を技巧的で長いものとし、三味線が器楽的に大いに活躍する曲をも多数作曲した。彼の後輩である三つ橋勾当も「松竹梅」「根曳の松」の作曲で知られている。三つ橋勾当は曲中の手事の数を増やし、より長大で変化に富んだものとした。こうして地歌は器楽的な側面を強くしていった。
また文化の頃に大阪の市浦検校が、これまでほとんどユニゾンに近かった箏の合奏を改め、もとの三味線に対して異なった旋律を持つ箏パートを作るようになった。これを「替手式箏曲」と呼び、更に八重崎検校らによって洗練されて行く。三味線同士の合奏も盛んで、やはり原曲と異なった複雑な合奏効果をもつパートである「替手」がいろいろ作られ、また元の曲と合奏できるように作られた別の曲を合わせる「打ち合わせ」など、三曲合奏とともに様々な合奏が発達した。
この後、手事もの作曲の主流は京都に移る。まず松浦検校が京都風な洗練を加えた手事ものの曲を多く作り、以後京都で作曲された手事もの地歌を「京もの」「京流手事もの」と呼ぶようになる。さらに菊岡検校(1792年 - 1847年)が京都で手事物を多数作曲した。それらのほとんどの曲には、同時代に活躍した八重崎検校(1776年 - 1848年)が箏のパートを作曲しており、地歌・箏曲の合奏曲として発展し、地歌としても最盛期を迎えたといえる。と同時に、地歌と箏曲はほとんど一体化した。他にも、京都の石川勾当が「八重衣」「新青柳」「融」など、非常に長大で複雑な技巧を尽くした曲を残している。また光崎検校も『七小町』、『夜々の星』等を作った。ここに来て、地歌はもはやこれ以上進む余地がないほど三味線の技巧の極致に達した。
大阪の津山検校によって、こんにち地歌で広く使われている形の撥「津山撥」が考案されたのも文政から天保初年にかけてのことである。
菊岡検校の後輩である光崎検校はその頃に活躍した。彼は箏の名手八重崎の弟子でもあり、楽曲としての高度に発達を遂げて飛躍的な発展の余地が少ないと思われた地歌から、まだ発展の余地のある箏に眼を向け、箏のみの音楽をいくつか作る。こうして箏曲が再び独自に発展を始めることになり、以後吉沢検校らに受け継がれて、次第にこの傾向が発展して行く。
光崎検校は従来の手事もの地歌でも「桜川」「夜々の星」「七小町」などを残しているが、多くの自作品において、はじめて三味線、箏両パートを一人で作曲した。これによってパートが固定され緊密化され、合奏音楽としての完成度が高くなっている。この傾向は後輩にも受け継がれ、幾山検校や吉沢検校なども同様に作品を残した。吉沢は更に進んで「玉くしげ」などにおいて三味線、箏、胡弓の三パートをすべて一人で作曲した。また幕末には京阪や名古屋のみではなく中国、九州などでも地歌が盛んになり、独自の曲が作られた。
明治時代になると、箏曲が独自に発展してゆき、地歌の作曲は少なくなっていった。もちろんまったく作られなくなったわけではなく、京都の古川瀧斎、松坂春栄、名古屋の小松景和、岡山の西山徳茂都などが作品を残してはいるが、箏のみの作品が圧倒的に増えていく。それは、すでに地歌音楽が完成され尽くしてしまっていたこと、西洋音楽や明清楽の音階の要素を箏の方が容易に取り入れることができること、恋愛や遊里色もある三味線に比べ、明朗、清新な時代精神に箏の音色が合致していると思われたことが、理由として挙げられる。また新政府により当道座が解散させられ、特権的な制度に守られた音楽活動はなくなったことは、この時代の大きな変化であった。
こうして権威を失った検校たちは困窮し、寄席にまで出演して稼がねばならない有り様であった。反面こうして地歌は一般にも広まり、特に、江戸時代中期以降は地歌が盛んでなかった東京をはじめとする東日本に、生田流系箏曲とともに地歌が再び広まる機会ともなった。長谷幸輝、富崎春昇、米川親敏、川瀬里子、福田栄香、金子花敏、中塩幸裕など九州、大阪をはじめ西日本各地から東京に進出する演奏家も多かった。やがて西洋一辺倒の時期が過ぎると、地歌は箏曲、尺八とともに全国に普及した家庭音楽となり、広く愛好されるようになった。ただし箏が主体となって、地歌単独での作曲は少なくなったが、地歌的な作品、地歌三味線を使った曲は宮城道雄をはじめ、こんにちに至るまで少なからず作られている。
また、三味線音楽のジャンルを超えた合奏曲(杵屋正邦の「三弦四重奏曲」、藤井凡大の「二種の三弦のためのソナタ」など)も作られている。三曲合奏は、胡弓の代わりに尺八を用いて、三弦、箏、尺八での合奏が多くなってゆき、現在ではこのような形式で演奏されることが多い。ただし胡弓入りの三曲合奏が廃れてしまったわけではなく、現在でも各地で行われている。
盲人作曲家によって作られた曲が多く、視覚的な内容よりも心情的な内容を表現した音楽が多いとされる。また劇場とは関係なく純音楽として発展して来たため、全体に内省的でデリートな表現が多く、劇的な表現は少ない。
器楽合奏的側面が近世邦楽の中でもっとも強く、多くは合奏で演じられる。「手事もの」の発展に伴い、多音的で複雑な合奏が発達し、地合わせ、段合わせ、打ち合わせ、本手替手合奏、三曲合奏など、多様な合奏法がある。たいていの曲は合奏できる箏、胡弓、尺八のパートが付けられていて、また三味線の替手を持つ曲も少なくない。
長い器楽部を持つ「手事もの」が、もっともよく演奏され、曲も非常に多い。これは歌よりも器楽部分である「手事」に重心が置かれ、また曲によっては3オクターヴ以上の音域を駆使するなど、色々な三味線の技巧が発達している。
数は少ないながら器楽曲を持つ。「晴嵐」「十二段すががき」「四段砧」がそれであり、また箏曲の器楽曲種目である「段もの」も三味線用に編曲されている。
単なる自然描写や心情の吐露の域を脱し、純音楽として高踏的な芸術性を発揮している曲も決して少なくない。
特に「手事もの」では3オクターヴまで使う曲が少なくなく、もっとも使用音域の広い曲では3オクターヴと3度に達する。
左手による、余韻を活かしたポルタメント奏法である「すり」、「打ち指」、「落し撥」などの装飾音的技法を多用し、手事では降ろし撥とすくいを細かく連続的に交互に続ける音型が多用される。また、「逆はじき」「摺り手」「撥消し」などの特殊な技法もしばしば使われ、これらは風の音、虫の声などの擬音技法として使われることが多い。逆に長唄や義太夫節のような劇場用三味線音楽のように、撥を叩きつけたりする劇的な表現はほとんどみられない。 全体に技巧的で、繊細な技法が発達している。
どんな小曲でも、たいていは曲中に部分的な転調があり、中規模以上の曲では頻繁に転調がある。属調、下属調への転調が普通だが、松浦検校らの作品には特殊な転調が見られるものがある。
使用される調弦法は低二上り、低本調子、一下り(三上り)、本調子、二上り、三下り、六下り、高三下りなどで、中規模の曲の多くが、途中一度は調弦を変える。大曲の場合はほとんど二回の調弦変えを行ない、三回変える曲も少なくない。ただし『八重衣』のように大曲でも一度も調弦を変えず、すべて左手のポジションにより頻繁な転調に対応する曲もある。いっぽう『浮舟』など端歌ものの小曲でも調弦を変えるものがある。調弦変えの目的は転調のためと、響きによる雰囲気の変化を求めるためである。
歌の節を聴かせる曲が多い。歌はたいていひとつひとつの音節を長く伸ばし、母音に様々な節をつけるよう作られている。特に端歌ものには、節回しの面白さを聴かせる曲が多い。また手事ものでも、歌の節に力点が置かれている曲もある。歌の旋律はもともと地歌の本拠地であった関西方言のイントネーションを基盤にしている。歌の音域が広く、ふつう2オクターヴ程度。曲によって高音域が多いものと低音域が多いものがある。これは女性的な内容の曲とか、追善のための曲など、内容による。
語りはほとんどない。『融』に少し語りの部分があるが、これは平曲の「素声」(しらごえ)を取り入れたもの。このほか語りが入る曲は非常に少ない。本来が劇場とは関係なく発展してきたので、劇的な表現は少ない。
三弦を用いる近世邦楽の中では、演奏者が楽器を弾きながら歌を歌うことも特徴的である。京阪地方を中心に盛んだったために上方唄と呼ばれたり、また、当道座の盲人たちによって伝承されてきたために法師唄とも呼ばれることもあった (検校など当道座の盲人は髪を剃りユニフォームが「検校服」と呼ばれる僧衣に近いもので、僧形であったため。ただし平曲以外の演奏は民間の礼服である紋付羽織袴が多かった)。
江戸時代中期以降、三曲と総称される地歌、箏曲、胡弓楽は合奏のために共通の曲を持つようになり、次第に一体化し、後期には不可分の関係となった。また江戸末期以降、それまで地歌に便乗する形で発展して来た箏曲が、今度は先に立って発展したので、箏曲の一環にあげられることもあるが、三弦音楽として作られた曲が本来的な地歌である。したがって、「六段の調」、「八段の調」、「乱れ」などは初期の箏本曲(本来、箏のために作られた曲、これらも三弦、胡弓と合奏が可能)であり、「千鳥の曲」、「秋の曲」などは江戸後期の箏本曲(「千鳥の曲」は胡弓本曲でもある)であるので、本来的には地歌とは呼ばれない。また胡弓本曲の伴奏として地歌三味線が用いられることもある。
地歌は非常に曲数が多く、歴史も長いため実に様々な傾向の曲が存在する。そこで、楽曲形式だけではなく、様々な切り口で曲種の仕分けが行なわれる。したがって一つの曲でも様々に分類づけることができる。例えば「新青柳」は手事もので京もの、謡ものであり、石川の三つものの一つである。また「松竹梅」は手事もの、大阪もの、祝儀もので十二曲の一つである。すべての流派で使われるわけではないものもある。
「八千代獅子」、「難波獅子」、「尾上の松」、「黒髪」、「狐会(こんかい)」、「古道成寺」、「玉川」、「ゆき」、「小簾の戸」、「袖の露」、「袖香炉」、「残月」、「越後獅子」、「吾妻獅子」、「西行桜」、「末の契り」、「若菜」、「新浮船」、「宇治巡り」、「四季の眺め」、「深夜の月」、「四つの民」、「松竹梅」、「根曳の松」、「夕顔」、「茶音頭」、「ながらの春」、「楫枕」、「磯千鳥」、「園の秋」、「今小町」、「御山獅子」、「船の夢」、「笹の露」、「竹生島」、「梅の宿」、「ままの川」、「新娘道成寺」、「八重衣」、「新青柳」、「融」 、「桜川」、「七小町」、「千代の鶯」、「夜々の星」、「萩の露」
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"text": "地歌(ぢうた、地唄)は、江戸時代には上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽であり、江戸唄に対する地(地元=上方)の歌。当道という視覚障害者の自治組織に属した盲人音楽家が作曲、演奏、教授したことから法師唄ともいう。長唄と共に「歌いもの」を代表する日本の伝統音楽の一つ。また三曲の一つ。",
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"text": "三味線を用いた音楽としては、初期に上方(京阪地方)で成立していた地歌は、元禄頃までは江戸でも演奏されていた。その後、江戸では歌舞伎舞踊の伴奏音楽としての長唄へと変化、また河東節などの浄瑠璃音楽の普及によって、本来の地歌そのものはしだいに演奏されなくなっていった。",
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"text": "幕末までには、京阪を中心に東は名古屋、西は中国、九州に至る範囲で行われた。明治以降には生田流系箏曲とともに東京にも再進出、急速に広まった。現在は沖縄を除く全国で愛好されている。ただし東京では「地唄舞」の伴奏音楽としてのイメージがあり、地唄舞が持つ「はんなり」とした雰囲気を持つ曲という印象を持たれがちであるが、地唄舞は地歌に舞を付けたものであって、最初から舞のために作曲されたものはない。また地唄舞として演奏される曲目は地歌として伝承されている曲の一部(端歌ものが中心)であり、地歌の楽曲全体をみれば、音楽的には三味線音楽の中でも技巧的であり、器楽的な特徴を持つ曲が非常に多い。",
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"text": "一方、三曲界内部においては、明治維新以来の西洋音楽の導入に伴って、その器楽的部分に影響を受け、江戸時代を通じて器楽的に発達していた「手事物」に注目されることも多い。しかしながら「歌いもの」の一つとして発達した地歌は伝統的な声楽としての側面も持っている。",
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"text": "一般的に地歌、三曲の世界では三味線を三弦と称する場合が多い(三絃とも書く)。",
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"text": "現在では箏曲と一体化しまた尺八楽、胡弓楽とのつながりも深く、全国的に普及している。また多くの三味線音楽が人形浄瑠璃や歌舞伎といった舞台芸能と結びついて発展してきた近世邦楽の中にあって純音楽的性格が強く、舞台芸能とは比較的独立している。",
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"text": "地歌は、三味線の伝来とほぼ同時に始まったと考えられるので、三味線音楽の中で最も長い歴史を持つ。すなわち、戦国時代末期に琉球を経由して大阪の堺に入ってきた中国の弦楽器三弦を、平曲(平家琵琶=平家物語の語り物音楽)を伝承していた当道座の盲人音楽家(琵琶法師)たちが改良して三味線を完成させ、琵琶を弾く撥によって弾き始めるという形で、三弦音楽としての地歌は始まったと考えられる。中でも石村検校は三味線音楽興隆の祖と言われる。その後も地歌は、主に当道座の盲人音楽家たちによって作曲、演奏、伝承されてきた。現存で最も古い楽曲としては、江戸時代初期に完成されたと考えられる「三味線組歌」がある (「琉球組」「飛騨(ひんだ)組」など)。",
"title": "歴史"
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"text": "これらは小歌曲をいくつか連ねた形式だが、やがて飽きられ、元禄の頃には一貫した内容を持つ「長歌」が作曲されるようになる。これは江戸の検校たちによって始められたらしく、作曲家として浅利検校、佐山検校などが有名である。やがて上方でもこれに倣った曲が作られるようになる。また長歌は江戸で歌舞伎舞踊の伴奏としても使われるようになり、長唄へと発展して行く。「桜尽し」「こんかい」「古道成寺」「花の宴」などが知られている。",
"title": "歴史"
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"text": "いっぽうこの頃から、歌ばかりでなく、「さらし」「三段獅子」「六段恋慕」など、歌の間にまとまった器楽部分を持つ曲が作られるようになる。この部分を「手事」といい、こういった形式の曲を「手事物」という。手事ものは初めの頃はまだ曲も少なく、音楽的にも比較的単純なものが多かったが江戸時代後期に大発展し、地歌を代表する楽曲形式となる。",
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"text": "さらに、これらに含まれない雑多な曲も多数作られた。これを「端歌(はうた)」と呼ぶが、江戸の端唄とは別のものである(一部地歌の端歌から取り入れられている物もある)。端歌は一部流行歌など大衆的な音楽も含み、軽音楽的な要素もあって、地歌と大衆的歌謡との接点でもあった。プロである盲人音楽家だけではなく、素人の愛好家たちによって作られた曲もあり、全般的に叙情的な小品が多い。18世紀半ばになると端歌は大坂を中心に大量に作曲されるようになり、鶴山勾当、藤永検校、政島検校らによって洗練され、大いに流行した。同世紀末に作られた峰崎勾当の「雪」は、端歌もの地歌の傑作として有名である。このほか「黒髪」「鶴の声」「小簾の戸」「芦刈」「所縁の月」「袖の露」「菊の露」「落し文」「名護屋帯」「露の蝶」「袖香炉」などがよく知られている。",
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"text": "もともと地歌三味線、箏、胡弓は江戸時代の初めから当道座の盲人音楽家たちが専門とする楽器であり、総称して三曲という。これらの楽器によるそれぞれの音楽である地歌、箏曲、胡弓楽が成立、発展して来たが、演奏者は同じでも種目としては別々の音楽として扱われており、初期の段階では異種の楽器同士を合奏させることはなかった。しかし元禄の頃、京都の生田検校によって三弦と箏の合奏が行われるようになり、地歌と箏曲は同時に発展していくことになる。",
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"text": "現在伝承されている曲の多くは三弦で作曲され、その後に箏の手が付けられているものが多く、三弦音楽として地歌は成立し、ほぼ同時かその後に箏曲が発展してきたと考えられる。ただし箏曲の「段もの」は後から三絃の手が付けられたものであり、ほかにもしばしば胡弓曲を三弦に取り入れたものもある。胡弓との合奏も盛んに行われ、三弦、箏、胡弓の3つの楽器、つまり三曲で合奏する三曲合奏が行われるようになった。このような環境の中で地歌は、三弦音楽として発展した。",
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"text": "18世紀末には、尾張の藤尾勾当が、能の詞章を取り入れた曲をいくつも作曲した。これを「謡(うたい)もの」と呼び、「屋島」「虫の音」「富士太鼓」などが有名であり、この後も能に取材した曲がいくつも作られている。また元禄の頃から浄瑠璃の半太夫節や永閑節などが地歌に取り入れられた。さらに18世紀後半には繁太夫節が地歌に取り込まれ、検校たち自身が浄瑠璃を作曲することにもなった。「紙治」「橋づくし」などが知られた曲である。このように地歌は劇場音楽との関わりも持っている。",
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"text": "同じ頃、滑稽な内容を持つ「作(さく)もの」と呼ばれるジャンルも生まれた。これは「おどけ物者」ともよばれ、「曲ねずみ」「たにし」「狸」などの動物が主人公で智恵を絞って難を逃れる内容のものがある他、「寛活一休」「浪花十二月」等もある。物語性が非常に強く、擬音を用いるなど地歌では特殊なジャンルと言える。関西系地歌箏曲家が伝承している他、宮城派等の他派も演奏会で演目に挙げることがある。非常に多彩な技能を要し、どの曲も難曲といって過言ではない。",
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"text": "このように江戸時代中期から後期にかけて、音楽性の高い楽曲が数多く作られるようになった。特に器楽部分が発達して、手事と呼ばれる、歌の間にはさまれる長い器楽部分を持つ曲(手事物と呼ばれる)が多く伝承されている。手事ものを大成したのは、18世紀末に大阪で活躍した峰崎勾当であり、彼は前述のように「雪」をはじめ端歌ものもいくつか残しているが、その一方で「残月」「越後獅子」「吾妻獅子」「梅の月」など、手事を技巧的で長いものとし、三味線が器楽的に大いに活躍する曲をも多数作曲した。彼の後輩である三つ橋勾当も「松竹梅」「根曳の松」の作曲で知られている。三つ橋勾当は曲中の手事の数を増やし、より長大で変化に富んだものとした。こうして地歌は器楽的な側面を強くしていった。",
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"text": "また文化の頃に大阪の市浦検校が、これまでほとんどユニゾンに近かった箏の合奏を改め、もとの三味線に対して異なった旋律を持つ箏パートを作るようになった。これを「替手式箏曲」と呼び、更に八重崎検校らによって洗練されて行く。三味線同士の合奏も盛んで、やはり原曲と異なった複雑な合奏効果をもつパートである「替手」がいろいろ作られ、また元の曲と合奏できるように作られた別の曲を合わせる「打ち合わせ」など、三曲合奏とともに様々な合奏が発達した。",
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"text": "この後、手事もの作曲の主流は京都に移る。まず松浦検校が京都風な洗練を加えた手事ものの曲を多く作り、以後京都で作曲された手事もの地歌を「京もの」「京流手事もの」と呼ぶようになる。さらに菊岡検校(1792年 - 1847年)が京都で手事物を多数作曲した。それらのほとんどの曲には、同時代に活躍した八重崎検校(1776年 - 1848年)が箏のパートを作曲しており、地歌・箏曲の合奏曲として発展し、地歌としても最盛期を迎えたといえる。と同時に、地歌と箏曲はほとんど一体化した。他にも、京都の石川勾当が「八重衣」「新青柳」「融」など、非常に長大で複雑な技巧を尽くした曲を残している。また光崎検校も『七小町』、『夜々の星』等を作った。ここに来て、地歌はもはやこれ以上進む余地がないほど三味線の技巧の極致に達した。",
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"text": "大阪の津山検校によって、こんにち地歌で広く使われている形の撥「津山撥」が考案されたのも文政から天保初年にかけてのことである。",
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"text": "菊岡検校の後輩である光崎検校はその頃に活躍した。彼は箏の名手八重崎の弟子でもあり、楽曲としての高度に発達を遂げて飛躍的な発展の余地が少ないと思われた地歌から、まだ発展の余地のある箏に眼を向け、箏のみの音楽をいくつか作る。こうして箏曲が再び独自に発展を始めることになり、以後吉沢検校らに受け継がれて、次第にこの傾向が発展して行く。",
"title": "歴史"
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"text": "光崎検校は従来の手事もの地歌でも「桜川」「夜々の星」「七小町」などを残しているが、多くの自作品において、はじめて三味線、箏両パートを一人で作曲した。これによってパートが固定され緊密化され、合奏音楽としての完成度が高くなっている。この傾向は後輩にも受け継がれ、幾山検校や吉沢検校なども同様に作品を残した。吉沢は更に進んで「玉くしげ」などにおいて三味線、箏、胡弓の三パートをすべて一人で作曲した。また幕末には京阪や名古屋のみではなく中国、九州などでも地歌が盛んになり、独自の曲が作られた。",
"title": "歴史"
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"text": "明治時代になると、箏曲が独自に発展してゆき、地歌の作曲は少なくなっていった。もちろんまったく作られなくなったわけではなく、京都の古川瀧斎、松坂春栄、名古屋の小松景和、岡山の西山徳茂都などが作品を残してはいるが、箏のみの作品が圧倒的に増えていく。それは、すでに地歌音楽が完成され尽くしてしまっていたこと、西洋音楽や明清楽の音階の要素を箏の方が容易に取り入れることができること、恋愛や遊里色もある三味線に比べ、明朗、清新な時代精神に箏の音色が合致していると思われたことが、理由として挙げられる。また新政府により当道座が解散させられ、特権的な制度に守られた音楽活動はなくなったことは、この時代の大きな変化であった。",
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"text": "こうして権威を失った検校たちは困窮し、寄席にまで出演して稼がねばならない有り様であった。反面こうして地歌は一般にも広まり、特に、江戸時代中期以降は地歌が盛んでなかった東京をはじめとする東日本に、生田流系箏曲とともに地歌が再び広まる機会ともなった。長谷幸輝、富崎春昇、米川親敏、川瀬里子、福田栄香、金子花敏、中塩幸裕など九州、大阪をはじめ西日本各地から東京に進出する演奏家も多かった。やがて西洋一辺倒の時期が過ぎると、地歌は箏曲、尺八とともに全国に普及した家庭音楽となり、広く愛好されるようになった。ただし箏が主体となって、地歌単独での作曲は少なくなったが、地歌的な作品、地歌三味線を使った曲は宮城道雄をはじめ、こんにちに至るまで少なからず作られている。",
"title": "歴史"
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"text": "また、三味線音楽のジャンルを超えた合奏曲(杵屋正邦の「三弦四重奏曲」、藤井凡大の「二種の三弦のためのソナタ」など)も作られている。三曲合奏は、胡弓の代わりに尺八を用いて、三弦、箏、尺八での合奏が多くなってゆき、現在ではこのような形式で演奏されることが多い。ただし胡弓入りの三曲合奏が廃れてしまったわけではなく、現在でも各地で行われている。",
"title": "歴史"
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"text": "盲人作曲家によって作られた曲が多く、視覚的な内容よりも心情的な内容を表現した音楽が多いとされる。また劇場とは関係なく純音楽として発展して来たため、全体に内省的でデリートな表現が多く、劇的な表現は少ない。",
"title": "音楽的特徴"
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"text": "器楽合奏的側面が近世邦楽の中でもっとも強く、多くは合奏で演じられる。「手事もの」の発展に伴い、多音的で複雑な合奏が発達し、地合わせ、段合わせ、打ち合わせ、本手替手合奏、三曲合奏など、多様な合奏法がある。たいていの曲は合奏できる箏、胡弓、尺八のパートが付けられていて、また三味線の替手を持つ曲も少なくない。",
"title": "音楽的特徴"
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"text": "長い器楽部を持つ「手事もの」が、もっともよく演奏され、曲も非常に多い。これは歌よりも器楽部分である「手事」に重心が置かれ、また曲によっては3オクターヴ以上の音域を駆使するなど、色々な三味線の技巧が発達している。",
"title": "音楽的特徴"
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"text": "数は少ないながら器楽曲を持つ。「晴嵐」「十二段すががき」「四段砧」がそれであり、また箏曲の器楽曲種目である「段もの」も三味線用に編曲されている。",
"title": "音楽的特徴"
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"text": "単なる自然描写や心情の吐露の域を脱し、純音楽として高踏的な芸術性を発揮している曲も決して少なくない。",
"title": "音楽的特徴"
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"text": "特に「手事もの」では3オクターヴまで使う曲が少なくなく、もっとも使用音域の広い曲では3オクターヴと3度に達する。",
"title": "音楽的特徴"
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"text": "左手による、余韻を活かしたポルタメント奏法である「すり」、「打ち指」、「落し撥」などの装飾音的技法を多用し、手事では降ろし撥とすくいを細かく連続的に交互に続ける音型が多用される。また、「逆はじき」「摺り手」「撥消し」などの特殊な技法もしばしば使われ、これらは風の音、虫の声などの擬音技法として使われることが多い。逆に長唄や義太夫節のような劇場用三味線音楽のように、撥を叩きつけたりする劇的な表現はほとんどみられない。 全体に技巧的で、繊細な技法が発達している。",
"title": "音楽的特徴"
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"text": "どんな小曲でも、たいていは曲中に部分的な転調があり、中規模以上の曲では頻繁に転調がある。属調、下属調への転調が普通だが、松浦検校らの作品には特殊な転調が見られるものがある。",
"title": "音楽的特徴"
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"text": "使用される調弦法は低二上り、低本調子、一下り(三上り)、本調子、二上り、三下り、六下り、高三下りなどで、中規模の曲の多くが、途中一度は調弦を変える。大曲の場合はほとんど二回の調弦変えを行ない、三回変える曲も少なくない。ただし『八重衣』のように大曲でも一度も調弦を変えず、すべて左手のポジションにより頻繁な転調に対応する曲もある。いっぽう『浮舟』など端歌ものの小曲でも調弦を変えるものがある。調弦変えの目的は転調のためと、響きによる雰囲気の変化を求めるためである。",
"title": "音楽的特徴"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "歌の節を聴かせる曲が多い。歌はたいていひとつひとつの音節を長く伸ばし、母音に様々な節をつけるよう作られている。特に端歌ものには、節回しの面白さを聴かせる曲が多い。また手事ものでも、歌の節に力点が置かれている曲もある。歌の旋律はもともと地歌の本拠地であった関西方言のイントネーションを基盤にしている。歌の音域が広く、ふつう2オクターヴ程度。曲によって高音域が多いものと低音域が多いものがある。これは女性的な内容の曲とか、追善のための曲など、内容による。",
"title": "音楽的特徴"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "語りはほとんどない。『融』に少し語りの部分があるが、これは平曲の「素声」(しらごえ)を取り入れたもの。このほか語りが入る曲は非常に少ない。本来が劇場とは関係なく発展してきたので、劇的な表現は少ない。",
"title": "音楽的特徴"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "三弦を用いる近世邦楽の中では、演奏者が楽器を弾きながら歌を歌うことも特徴的である。京阪地方を中心に盛んだったために上方唄と呼ばれたり、また、当道座の盲人たちによって伝承されてきたために法師唄とも呼ばれることもあった (検校など当道座の盲人は髪を剃りユニフォームが「検校服」と呼ばれる僧衣に近いもので、僧形であったため。ただし平曲以外の演奏は民間の礼服である紋付羽織袴が多かった)。",
"title": "音楽的特徴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "江戸時代中期以降、三曲と総称される地歌、箏曲、胡弓楽は合奏のために共通の曲を持つようになり、次第に一体化し、後期には不可分の関係となった。また江戸末期以降、それまで地歌に便乗する形で発展して来た箏曲が、今度は先に立って発展したので、箏曲の一環にあげられることもあるが、三弦音楽として作られた曲が本来的な地歌である。したがって、「六段の調」、「八段の調」、「乱れ」などは初期の箏本曲(本来、箏のために作られた曲、これらも三弦、胡弓と合奏が可能)であり、「千鳥の曲」、「秋の曲」などは江戸後期の箏本曲(「千鳥の曲」は胡弓本曲でもある)であるので、本来的には地歌とは呼ばれない。また胡弓本曲の伴奏として地歌三味線が用いられることもある。",
"title": "三曲のひとつとして"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "地歌は非常に曲数が多く、歴史も長いため実に様々な傾向の曲が存在する。そこで、楽曲形式だけではなく、様々な切り口で曲種の仕分けが行なわれる。したがって一つの曲でも様々に分類づけることができる。例えば「新青柳」は手事もので京もの、謡ものであり、石川の三つものの一つである。また「松竹梅」は手事もの、大阪もの、祝儀もので十二曲の一つである。すべての流派で使われるわけではないものもある。",
"title": "曲種の分類"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "「八千代獅子」、「難波獅子」、「尾上の松」、「黒髪」、「狐会(こんかい)」、「古道成寺」、「玉川」、「ゆき」、「小簾の戸」、「袖の露」、「袖香炉」、「残月」、「越後獅子」、「吾妻獅子」、「西行桜」、「末の契り」、「若菜」、「新浮船」、「宇治巡り」、「四季の眺め」、「深夜の月」、「四つの民」、「松竹梅」、「根曳の松」、「夕顔」、「茶音頭」、「ながらの春」、「楫枕」、「磯千鳥」、「園の秋」、「今小町」、「御山獅子」、「船の夢」、「笹の露」、「竹生島」、「梅の宿」、「ままの川」、「新娘道成寺」、「八重衣」、「新青柳」、「融」 、「桜川」、「七小町」、「千代の鶯」、「夜々の星」、「萩の露」",
"title": "代表的な曲"
}
] |
地歌(ぢうた、地唄)は、江戸時代には上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽であり、江戸唄に対する地(地元=上方)の歌。当道という視覚障害者の自治組織に属した盲人音楽家が作曲、演奏、教授したことから法師唄ともいう。長唄と共に「歌いもの」を代表する日本の伝統音楽の一つ。また三曲の一つ。
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{{複数の問題|出典の明記=2021年7月|独自研究=2022-11}}'''地歌'''(ぢうた、'''地唄''')は、江戸時代には[[上方]]を中心とした[[西日本]]で行われた[[三味線]]音楽であり、[[江戸唄]]に対する地(地元=上方)の[[歌]]。[[当道]]という視覚障害者の自治組織に属した盲人音楽家が作曲、演奏、教授したことから'''法師唄'''ともいう。[[長唄]]と共に「[[歌いもの]]」を代表する日本の伝統音楽の一つ。また[[三曲]]の一つ。
== 概要 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}}
三味線を用いた音楽としては、初期に[[上方]](京阪地方)で成立していた地歌は、元禄頃までは[[江戸]]でも演奏されていた。その後、江戸では[[歌舞伎]]舞踊の伴奏音楽としての[[長唄]]へと変化、また[[河東節]]などの浄瑠璃音楽の普及によって、本来の地歌そのものはしだいに演奏されなくなっていった。
幕末までには、京阪を中心に東は名古屋、西は中国、九州に至る範囲で行われた。明治以降には生田流系箏曲とともに東京にも再進出、急速に広まった。現在は沖縄を除く全国で愛好されている。ただし東京では「[[上方舞|地唄舞]]」の伴奏音楽としてのイメージがあり、地唄舞が持つ「はんなり」とした雰囲気を持つ曲という印象を持たれがちであるが、地唄舞は地歌に舞を付けたものであって、最初から舞のために作曲されたものはない。また地唄舞として演奏される曲目は地歌として伝承されている曲の一部([[端歌もの]]が中心)であり、地歌の楽曲全体をみれば、音楽的には三味線音楽の中でも技巧的であり、[[器楽]]的な特徴を持つ曲が非常に多い。
一方、三曲界内部においては、[[明治維新]]以来の西洋音楽の導入に伴って、その器楽的部分に影響を受け、江戸時代を通じて器楽的に発達していた「[[手事物]]」に注目されることも多い。しかしながら「[[歌いもの]]」の一つとして発達した地歌は伝統的な[[声楽]]としての側面も持っている。
一般的に地歌、[[三曲]]の世界では[[三味線]]を[[三弦]]と称する場合が多い('''三絃'''とも書く)。
現在では箏曲と一体化しまた[[尺八]]楽、[[胡弓]]楽とのつながりも深く、全国的に普及している。また多くの三味線音楽が[[人形浄瑠璃]]や[[歌舞伎]]といった舞台芸能と結びついて発展してきた[[近世邦楽]]の中にあって純音楽的性格が強く、舞台芸能とは比較的独立している。
== 歴史 ==
=== 江戸時代初期 ===
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}}
==== 三味線の伝来と地歌の発祥 ====
地歌は、三味線の伝来とほぼ同時に始まったと考えられるので、三味線音楽の中で最も長い歴史を持つ。すなわち、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期に[[琉球]]を経由して大阪の堺に入ってきた中国の弦楽器[[三弦]]を、'''平曲'''(平家琵琶=[[平家物語]]の[[語り物]]音楽)を伝承していた[[当道座]]の盲人音楽家([[琵琶法師]])たちが改良して三味線を完成させ、[[琵琶]]を弾く撥によって弾き始めるという形で、[[三弦]]音楽としての地歌は始まったと考えられる。中でも石村検校は三味線音楽興隆の祖と言われる。その後も地歌は、主に[[当道座]]の盲人音楽家たちによって作曲、演奏、伝承されてきた。現存で最も古い楽曲としては、[[江戸時代]]初期に完成されたと考えられる「[[三味線組歌]]」がある (「[[琉球組]]」「[[飛騨(ひんだ)組]]」など)。
=== 江戸時代中期 ===
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}}
==== 組歌の停滞と長歌の発生 ====
これらは小歌曲をいくつか連ねた形式だが、やがて飽きられ、[[元禄]]の頃には一貫した内容を持つ「[[長唄#上方長歌|長歌]]」が作曲されるようになる。これは江戸の[[検校]]たちによって始められたらしく、作曲家として浅利検校、佐山検校などが有名である。やがて上方でもこれに倣った曲が作られるようになる。また長歌は江戸で歌舞伎舞踊の伴奏としても使われるようになり、長唄へと発展して行く。「[[桜尽し]]」「[[こんかい]]」「[[古道成寺]]」「[[花の宴]]」などが知られている。
==== [[手事物]]の始まり ====
いっぽうこの頃から、歌ばかりでなく、「さらし」「[[三段獅子]]」「[[六段恋慕]]」など、歌の間にまとまった器楽部分を持つ曲が作られるようになる。この部分を「[[手事]]」といい、こういった形式の曲を「[[手事物]]」という。手事ものは初めの頃はまだ曲も少なく、音楽的にも比較的単純なものが多かったが江戸時代後期に大発展し、地歌を代表する楽曲形式となる。
==== 端歌の発生と流行 ====
さらに、これらに含まれない雑多な曲も多数作られた。これを「[[端歌]](はうた)」と呼ぶが、江戸の[[端唄]]とは別のものである(一部地歌の端歌から取り入れられている物もある)。端歌は一部[[流行歌]]など大衆的な音楽も含み、軽音楽的な要素もあって、地歌と大衆的歌謡との接点でもあった。プロである盲人音楽家だけではなく、素人の愛好家たちによって作られた曲もあり、全般的に叙情的な小品が多い。18世紀半ばになると端歌は[[大坂]]を中心に大量に作曲されるようになり、鶴山勾当、藤永検校、政島検校らによって洗練され、大いに流行した。同世紀末に作られた[[峰崎勾当]]の「[[雪 (地唄)|雪]]」は、端歌もの地歌の傑作として有名である。このほか「黒髪」「[[鶴の声]]」「[[小簾の戸]]」「[[芦刈]]」「[[ゆかりの月|所縁の月]]」「[[袖の露]]」「[[菊の露]]」「[[落し文]]」「[[名護屋帯]]」「[[露の蝶]]」「[[袖香炉]]」などがよく知られている。
==== 三曲と三曲合奏 ====
もともと地歌三味線、箏、胡弓は江戸時代の初めから当道座の盲人音楽家たちが専門とする楽器であり、総称して[[三曲]]という。これらの楽器によるそれぞれの音楽である地歌、箏曲、胡弓楽が成立、発展して来たが、演奏者は同じでも種目としては別々の音楽として扱われており、初期の段階では異種の楽器同士を合奏させることはなかった。しかし元禄の頃、[[京都]]の生田検校によって[[三弦]]と[[箏]]の合奏が行われるようになり、地歌と[[箏曲]]は同時に発展していくことになる。
現在伝承されている曲の多くは三弦で作曲され、その後に箏の手が付けられているものが多く、三弦音楽として地歌は成立し、ほぼ同時かその後に箏曲が発展してきたと考えられる。ただし箏曲の「[[段もの]]」は後から三絃の手が付けられたものであり、ほかにもしばしば胡弓曲を三弦に取り入れたものもある。[[胡弓]]との合奏も盛んに行われ、三弦、箏、胡弓の3つの楽器、つまり[[三曲]]で合奏する[[三曲合奏]]が行われるようになった。このような環境の中で地歌は、三弦音楽として発展した。
==== 謡ものの始まりと諸浄瑠璃の吸収 ====
18世紀末には、[[尾張]]の藤尾勾当が、[[能]]の詞章を取り入れた曲をいくつも作曲した。これを「[[謡(うたい)もの]]」と呼び、「[[屋島]]」「[[虫の音]]」「[[富士太鼓]]」などが有名であり、この後も能に取材した曲がいくつも作られている。また元禄の頃から浄瑠璃の半太夫節や永閑節などが地歌に取り入れられた。さらに18世紀後半には繁太夫節が地歌に取り込まれ、検校たち自身が浄瑠璃を作曲することにもなった。「[[紙治]]」「[[橋づくし]]」などが知られた曲である。このように地歌は[[劇場]]音楽との関わりも持っている。
==== 作ものの発生 ====
同じ頃、滑稽な内容を持つ「[[作(さく)もの]]」と呼ばれるジャンルも生まれた。これは「おどけ物者」ともよばれ、「[[曲ねずみ]]」「[[タニシ|たにし]]」「[[タヌキ|狸]]」などの[[動物]]が主人公で智恵を絞って難を逃れる内容のものがある他、「[[寛活一休]]」「[[浪花十二月]]」等もある。物語性が非常に強く、擬音を用いるなど地歌では特殊なジャンルと言える。関西系地歌箏曲家が伝承している他、宮城派等の他派も演奏会で演目に挙げることがある。非常に多彩な技能を要し、どの曲も難曲といって過言ではない。
=== 江戸時代後期 ===
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}}
==== 手事ものの完成 ====
このように江戸時代中期から後期にかけて、音楽性の高い楽曲が数多く作られるようになった。特に器楽部分が発達して、'''手事'''と呼ばれる、歌の間にはさまれる長い器楽部分を持つ曲(手事物と呼ばれる)が多く伝承されている。手事ものを大成したのは、18世紀末に大阪で活躍した[[峰崎勾当]]であり、彼は前述のように「[[雪]]」をはじめ端歌ものもいくつか残しているが、その一方で「[[残月]]」「[[越後獅子]]」「[[吾妻獅子]]」「[[梅の月]]」など、手事を技巧的で長いものとし、三味線が器楽的に大いに活躍する曲をも多数作曲した。彼の後輩である[[三つ橋勾当]]も「[[松竹梅]]」「[[根曳の松]]」の作曲で知られている。三つ橋勾当は曲中の手事の数を増やし、より長大で変化に富んだものとした。こうして地歌は器楽的な側面を強くしていった。
==== 替手式箏曲の始まりと合奏の発達 ====
また[[文化 (元号)|文化]]の頃に大阪の市浦検校が、これまでほとんどユニゾンに近かった箏の合奏を改め、もとの三味線に対して異なった旋律を持つ箏パートを作るようになった。これを「[[替手式箏曲]]」と呼び、更に八重崎検校らによって洗練されて行く。三味線同士の合奏も盛んで、やはり原曲と異なった複雑な合奏効果をもつパートである「[[替手]]」がいろいろ作られ、また元の曲と合奏できるように作られた別の曲を合わせる「[[打ち合わせ]]」など、三曲合奏とともに様々な合奏が発達した。
==== 京ものの大発展 ====
この後、手事もの作曲の主流は京都に移る。まず[[松浦検校]]が京都風な洗練を加えた手事ものの曲を多く作り、以後京都で作曲された手事もの地歌を「[[京もの]]」「[[京流手事もの]]」と呼ぶようになる。さらに[[菊岡検校]]([[1792年]] - [[1847年]])が京都で手事物を多数作曲した。それらのほとんどの曲には、同時代に活躍した[[八重崎検校]]([[1776年]] - [[1848年]])が[[箏]]のパートを作曲しており、地歌・[[箏曲]]の合奏曲として発展し、地歌としても最盛期を迎えたといえる。と同時に、地歌と箏曲はほとんど一体化した。他にも、京都の[[石川勾当]]が「[[八重衣]]」「[[新青柳]]」「融」など、非常に長大で複雑な技巧を尽くした曲を残している。また[[光崎検校]]も『[[七小町]]』、『[[夜々の星]]』等を作った。ここに来て、地歌はもはやこれ以上進む余地がないほど三味線の技巧の極致に達した。
==== 撥の改良 ====
大阪の津山検校によって、こんにち地歌で広く使われている形の撥「[[津山撥]]」が考案されたのも[[文政]]から[[天保]]初年にかけてのことである。
==== 箏曲独立への胎動 ====
菊岡検校の後輩である光崎検校はその頃に活躍した。彼は箏の名手八重崎の弟子でもあり、楽曲としての高度に発達を遂げて飛躍的な発展の余地が少ないと思われた地歌から、まだ発展の余地のある箏に眼を向け、箏のみの音楽をいくつか作る。こうして[[箏曲]]が再び独自に発展を始めることになり、以後[[吉沢検校]]らに受け継がれて、次第にこの傾向が発展して行く。
==== パート間の緊密化 ====
光崎検校は従来の手事もの地歌でも「[[桜川 (地歌)|桜川]]」「[[夜々の星]]」「[[七小町]]」などを残しているが、多くの自作品において、はじめて三味線、箏両パートを一人で作曲した。これによってパートが固定され緊密化され、合奏音楽としての完成度が高くなっている。この傾向は後輩にも受け継がれ、幾山検校や吉沢検校なども同様に作品を残した。吉沢は更に進んで「[[玉くしげ]]」などにおいて三味線、箏、胡弓の三パートをすべて一人で作曲した。また幕末には京阪や名古屋のみではなく中国、九州などでも地歌が盛んになり、独自の曲が作られた。
=== 明治以降 ===
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}}
==== 維新後の混乱と地歌の普及 ====
[[明治]]時代になると、[[箏曲]]が独自に発展してゆき、地歌の作曲は少なくなっていった。もちろんまったく作られなくなったわけではなく、京都の古川瀧斎、松坂春栄、名古屋の小松景和、岡山の西山徳茂都などが作品を残してはいるが、箏のみの作品が圧倒的に増えていく。それは、すでに地歌音楽が完成され尽くしてしまっていたこと、西洋音楽や明清楽の音階の要素を箏の方が容易に取り入れることができること、恋愛や遊里色もある三味線に比べ、明朗、清新な時代精神に箏の音色が合致していると思われたことが、理由として挙げられる。また新政府により当道座が解散させられ、特権的な制度に守られた音楽活動はなくなったことは、この時代の大きな変化であった。
こうして権威を失った検校たちは困窮し、寄席にまで出演して稼がねばならない有り様であった。反面こうして地歌は一般にも広まり、特に、江戸時代中期以降は地歌が盛んでなかった東京をはじめとする東日本に、生田流系箏曲とともに地歌が再び広まる機会ともなった。長谷幸輝、[[富崎春昇]]、米川親敏、川瀬里子、福田栄香、金子花敏、中塩幸裕など九州、大阪をはじめ西日本各地から東京に進出する演奏家も多かった。やがて西洋一辺倒の時期が過ぎると、地歌は箏曲、尺八とともに全国に普及した家庭音楽となり、広く愛好されるようになった。ただし箏が主体となって、地歌単独での作曲は少なくなったが、地歌的な作品、地歌三味線を使った曲は[[宮城道雄]]をはじめ、こんにちに至るまで少なからず作られている。
また、三味線音楽のジャンルを超えた合奏曲(杵屋正邦の「[[三弦四重奏曲]]」、藤井凡大の「[[二種の三弦のためのソナタ]]」など)も作られている。[[三曲合奏]]は、[[胡弓]]の代わりに[[尺八]]を用いて、[[三弦]]、[[箏]]、[[尺八]]での合奏が多くなってゆき、現在ではこのような形式で演奏されることが多い。ただし胡弓入りの三曲合奏が廃れてしまったわけではなく、現在でも各地で行われている。
== 音楽的特徴 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}}
{{独自研究|section=1|date=2022-11}}盲人作曲家によって作られた曲が多く、視覚的な内容よりも心情的な内容を表現した音楽が多いとされる。また劇場とは関係なく純音楽として発展して来たため、全体に内省的でデリートな表現が多く、劇的な表現は少ない。
=== 多音的な合奏法 ===
器楽合奏的側面が近世邦楽の中でもっとも強く、多くは合奏で演じられる。「[[手事もの]]」の発展に伴い、多音的で複雑な合奏が発達し、地合わせ、段合わせ、打ち合わせ、本手替手合奏、三曲合奏など、多様な合奏法がある。たいていの曲は合奏できる箏、胡弓、尺八のパートが付けられていて、また三味線の替手を持つ曲も少なくない。
=== 器楽的要素 ===
長い器楽部を持つ「[[手事もの]]」が、もっともよく演奏され、曲も非常に多い。これは歌よりも器楽部分である「[[手事]]」に重心が置かれ、また曲によっては3オクターヴ以上の音域を駆使するなど、色々な三味線の技巧が発達している。
数は少ないながら器楽曲を持つ。「[[晴嵐]]」「[[十二段すががき]]」「[[四段砧]]」がそれであり、また箏曲の器楽曲種目である「[[段もの]]」も三味線用に編曲されている。
単なる自然描写や心情の吐露の域を脱し、純音楽として高踏的な芸術性を発揮している曲も決して少なくない。
=== 音域 ===
特に「[[手事もの]]」では3オクターヴまで使う曲が少なくなく、もっとも使用音域の広い曲では3オクターヴと3度に達する。
=== 三味線の技法 ===
左手による、余韻を活かした[[ポルタメント]]奏法である「すり」、「[[打ち指]]」、「[[落し撥]]」などの装飾音的技法を多用し、手事では降ろし撥とすくいを細かく連続的に交互に続ける音型が多用される。また、「[[逆はじき]]」「[[摺り手]]」「[[撥消し]]」などの特殊な技法もしばしば使われ、これらは風の音、虫の声などの擬音技法として使われることが多い。逆に長唄や義太夫節のような劇場用三味線音楽のように、撥を叩きつけたりする劇的な表現はほとんどみられない。 全体に技巧的で、繊細な技法が発達している。
==== 転調、調弦法 ====
どんな小曲でも、たいていは曲中に部分的な[[転調]]があり、中規模以上の曲では頻繁に転調がある。属調、下属調への転調が普通だが、松浦検校らの作品には特殊な転調が見られるものがある。
使用される調弦法は低二上り、低本調子、一下り(三上り)、本調子、二上り、三下り、六下り、高三下りなどで、中規模の曲の多くが、途中一度は調弦を変える。大曲の場合はほとんど二回の調弦変えを行ない、三回変える曲も少なくない。ただし『[[八重衣]]』のように大曲でも一度も調弦を変えず、すべて左手の[[ポジション]]により頻繁な転調に対応する曲もある。いっぽう『[[浮舟]]』など端歌ものの小曲でも調弦を変えるものがある。調弦変えの目的は転調のためと、響きによる雰囲気の変化を求めるためである。
* 調弦変えの例
** 低本調子 - 低二上り - 三下り - 本調子 『[[融]]』など
** 低二上り - 三下り 『[[磯千鳥]]』『[[四季の眺]]』 など
** 低二上り - 本調子 『[[梅の月]]』など
** 低二上り - 一下り(三上り) - 本調子 『[[桜川 (地歌)|桜川]]』など
** 低二上り - 一下り(三上り) - 本調子 - 二上り『[[松竹梅]]』『[[根曳の松]]』 など
** 本調子 - 二上り 『[[吾妻獅子]]』『[[楫枕]]』など
** 本調子 - 三下り - 本調子 - 二上り 『[[玉川]]』『[[尾上の松]]』『[[玉くしげ]]』など
** 本調子 - 二上り - 高三下り 『[[新青柳]]』『[[笹の露]]』『[[宇治巡り]]』『[[七小町]]』など
** 三下り - 本調子 『[[萩の露]]』など
** 三下り - 本調子 - 二上り 『[[ながらの春]]』
** 三下り - 二上り 『[[面影]]{{要曖昧さ回避|date=2023年1月}}』など
** 六下り - 三下り 『[[茶音頭]]』
=== 歌唱 ===
歌の節を聴かせる曲が多い。歌はたいていひとつひとつの音節を長く伸ばし、母音に様々な節をつけるよう作られている。特に端歌ものには、節回しの面白さを聴かせる曲が多い。また手事ものでも、歌の節に力点が置かれている曲もある。歌の旋律はもともと地歌の本拠地であった関西方言のイントネーションを基盤にしている。歌の音域が広く、ふつう2オクターヴ程度。曲によって高音域が多いものと低音域が多いものがある。これは女性的な内容の曲とか、追善のための曲など、内容による。
語りはほとんどない。『[[融]]』に少し語りの部分があるが、これは平曲の「[[素声]]」(しらごえ)を取り入れたもの。このほか語りが入る曲は非常に少ない。本来が劇場とは関係なく発展してきたので、劇的な表現は少ない。
=== その他 ===
[[三弦]]を用いる[[近世邦楽]]の中では、演奏者が楽器を弾きながら歌を歌うことも特徴的である。京阪地方を中心に盛んだったために[[上方歌|上方唄]]と呼ばれたり、また、当道座の盲人たちによって伝承されてきたために[[法師唄]]とも呼ばれることもあった (検校など当道座の盲人は髪を剃りユニフォームが「[[検校服]]」と呼ばれる僧衣に近いもので、僧形であったため。ただし平曲以外の演奏は民間の礼服である[[紋付羽織袴]]が多かった)。
== 三曲のひとつとして ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}}
{{独自研究|section=1|date=2022-11}}江戸時代中期以降、[[三曲]]と総称される地歌、箏曲、胡弓楽は合奏のために共通の曲を持つようになり、次第に一体化し、後期には不可分の関係となった。また江戸末期以降、それまで地歌に便乗する形で発展して来た箏曲が、今度は先に立って発展したので、[[箏曲]]の一環にあげられることもあるが、[[三弦]]音楽として作られた曲が本来的な地歌である。したがって、「[[六段の調]]」、「[[八段の調]]」、「[[乱れ]]」などは初期の箏本曲(本来、箏のために作られた曲、これらも[[三弦]]、[[胡弓]]と合奏が可能)であり、「[[千鳥の曲]]」、「[[秋の曲]]」などは江戸後期の箏本曲(「[[千鳥の曲]]」は胡弓本曲でもある)であるので、本来的には地歌とは呼ばれない。また胡弓本曲の伴奏として地歌三味線が用いられることもある。
== 曲種の分類 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}}
地歌は非常に曲数が多く、歴史も長いため実に様々な傾向の曲が存在する。そこで、楽曲形式だけではなく、様々な切り口で曲種の仕分けが行なわれる。したがって一つの曲でも様々に分類づけることができる。例えば「[[新青柳]]」は手事もので京もの、謡ものであり、石川の三つものの一つである。また「[[松竹梅]]」は手事もの、大阪もの、祝儀もので十二曲の一つである。すべての流派で使われるわけではないものもある。
* 楽曲形式に由来するもの
** 三味線組歌(小歌曲をいくつもつなぎ合わせて作った曲群、またそれに倣って作られた曲群。現在ではごく一部の系統にのみ伝承されている地歌最古の曲群)
** 長歌(一貫した内容を持つ曲群。長い曲が多い)
** 端歌(雑多な曲群。短めの叙情曲が多い)
** 歌もの(手事ものに対し、歌のみ、もしくは手事はあってもごく短くあくまでも歌に重点が置かれた曲群)
** [[手事物|手事もの]](本格的な手事を備えた曲群)
** 段もの(本来箏曲の曲目)
** 砧もの(箏曲「[[砧]]」より移入しそれから発展した曲群)
** 器楽曲(歌が付随せず楽器だけで奏される曲。段もの、砧ものも含まれる)
* 取材先、移入元に由来するもの
** 謡もの(能の詞章を一部抽出し、ほとんどそのまま歌詞とした曲群)
** 半太夫もの(浄瑠璃の半太夫節から移入された曲)
** 繁太夫もの(浄瑠璃の繁太夫節から移入され、またそのスタイルで作曲された曲群)
* 内容、曲調に由来するもの
** 作もの(滑稽な内容を持つ曲群。手事のある曲が多い)
** 獅子もの(曲名に「獅子」の語が付き、荘重かつ華麗な曲調を持つ曲群。すべて手事ものに属する)
** 道成寺もの(道成寺に関連した曲群)
** 恋慕もの(曲名に「[[恋慕]]」という語がつく曲群。恋を明るく扱った曲)
** 祝儀もの(祝儀用に作られたおめでたい曲群)
** 追善もの(故人の追善用に作られた曲群)
** 節もの(歌に比重が置かれた曲群)
** 怨霊もの(怨霊をテーマとする曲群)
** 尽しもの(主題となる特定の器物や歌枕、地名などの名を連ねて一連の歌詞とした曲群。「[[何何尽し]]」という曲名が多い)
* 作曲された場所に由来するもの。様式的な特徴も含む。
** 大阪もの(大阪で作曲された手事もの)
** 京もの(京都で作曲された手事もの)
** 名古屋もの([[吉沢検校]]とその系統により作曲された曲群)
** 九州もの(九州系で作られた曲)
* 教授システムに由来するもの
** 手ほどきもの
** 許しもの
** 三つもの
** 十二曲(大阪で特に大切にされた12曲の総称)
* 作曲者に由来するもの
** 松浦の四つもの(松浦検校作品中の四大名曲)
** 石川の三つもの(石川勾当作品中の三大名曲)
** 宮城曲([[宮城道雄]]の作品群)
* 用途に由来するもの
** 芝居歌(芝居の伴奏として使われる曲群)
* 調弦に由来するもの
** 本調子もの
** 二上りもの
** 三下りもの
* 合奏に由来するもの
** 段合わせもの(手事が複数段に分かれている曲のうち、段どうし互いに合奏もできるように作曲されている曲群)
** 打ち合わせもの(元の曲に対し、合奏できるように作られた別の曲があり、実際に異曲合奏 {打ち合わせ} で演じられるのが普通に行なわれる曲群)
== 代表的な曲 ==
「[[八千代獅子]]」、「[[難波獅子]]」、「[[尾上の松]]」、「黒髪」、「[[葛の葉|狐会(こんかい)]]」、「[[古道成寺]]」、「[[玉川]]」、「[[雪 (地唄)|ゆき]]」、「[[小簾の戸]]」、「[[袖の露]]」、「[[袖香炉]]」、「[[残月]]」、「[[越後獅子]]」、「[[吾妻獅子]]」、「[[西行桜]]」、「[[末の契り]]」、「[[若菜]]」、「[[新浮船]]」、「[[茶道#茶道に関係する音楽作品|宇治巡り]]」、「[[四季の眺め]]」、「[[深夜の月]]」、「[[四つの民]]」、「[[松竹梅]]」、「[[根曳の松]]」、「[[夕顔 (地歌)|夕顔]]」、「[[茶音頭]]」、「[[ながらの春]]」、「[[楫枕]]」、「[[磯千鳥]]」、「[[園の秋]]」、「[[今小町]]」、「[[御山獅子]]」、「[[船の夢]]」、「[[笹の露]]」、「[[竹生島]]」、「[[梅の宿]]」、「[[ままの川]]」、「[[新娘道成寺]]」、「[[八重衣]]」、「[[新青柳]]」、「[[融]]」 、「[[桜川 (地歌)|桜川]]」、「[[七小町]]」、「[[千代の鶯]]」、「[[夜々の星]]」、「[[萩の露]]」
== 地歌三味線(三弦・三絃)の特徴 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}}
{{独自研究|section=1|date=2022-11}}
# 中棹に含められているが、地歌の三味線は棹や胴が[[浄瑠璃]]系の中棹三味線よりもやや大きい。ただし細棹三味線よりも更に細い[[柳川三味線]](京三味線)を使う流派も少ないながらある。また[[糸]](弦)も長唄よりもやや太いものを使うことが多い。
# 棹が[[胴]]に接するあたりは、普通の三味線では棹の上面が徐々にカーブを描いて下がっていく(この形を「[[鳩胸]]」と呼ぶ)が、地歌の三味線では上面が胴に接するぎりぎりまで高さを保つように作られている。これにより、[[開放弦]]から2オクターヴと2度程度までの高い音を出すことができるようになっている(他の三味線は1オクターヴと5 - 6度)。これを考案したのは、明治に熊本、東京で活躍した九州系地歌演奏家の長谷幸輝(ながたにゆきてる・[[1843年]] - [[1920年]])といわれる。手事もの地歌曲では高いポジションをよく使用するが、これにより明確な高音が出せるようになった。後にこのつくりは[[津軽三味線]]等[[民謡]]用の三味線にも取り入れられている。
# [[駒]]は[[水牛]]の[[角]]製のものが多く、まれに[[象牙]]や[[鼈甲|べっ甲]]製のものもある。裏面(皮に接する面)に[[金属]]のおもり([[金]]、[[銀]]、あるいは[[鉛]])を二カ所に埋め込んだものが多く使われる。おもりの重さによって音色も変わって来るので、地歌の演奏家は普通、楽器の癖、[[皮]]の張り具合、[[天候]]、曲調などに合わせいくつもの駒を使い分ける。なおこの駒を改良したのも長谷幸輝といわれ、本来九州系で使われていたものが次第に広まったもので、関西では水牛角製でもおもりがなく底辺の大きい「[[台広]]」といわれる駒を使うことが多かった。いずれにしても地歌の駒は音色を決める上で非常に重要なものであり、その点において世界の[[弦楽器]]の駒の中でももっとも発達したものと言ってもよい。
# 撥は、多くの系統で「[[津山撥]]」と称する大型のものを使用する。これは[[文政]]から[[天保]]初年の頃に大阪の津山検校が改良したもので、撥が先に向かって急に開くあたりから厚みを急に減らし、それから先が急に薄くなっているもの。撥の開きも大きいこともあり、撥先が鋭く、弾力性も増して細かな技巧に適している。また弾く時には、撥を胴の枠木の部分に当て、撥音を立て過ぎないようにする。これも繊細な音作りのためである。これらは地歌が[[劇場]]のような広い場所での演奏でなく、また芝居や[[舞踊]]の[[伴奏]]ではない純粋な音楽として、音に注意を集中し、室内でじっくりと音色を味わう音楽上の性格から来ている。材質はすべて象牙でできたものを第一とし、それを「[[丸撥]]」(まるばち)と呼ぶ。他に握りの部分が象牙で、撥先をべっ甲にしたものもよく使われる。昔は握りが水牛の角製のものが多かった。もちろん現在では象牙、べっ甲共に稀少品なので、[[合成樹脂]]でできているものを稽古に使うことも多い。
== 関連項目 ==
* [[手事物]]
* [[端歌]]
* [[三曲]]
* [[箏曲]]
* [[三曲合奏]]
* [[近世邦楽]]
* [[上方歌]]
* [[尺八]]
* [[胡弓]]
* [[荻江節]]
* [[松浦検校]]
* [[菊岡検校]]
* [[八重崎検校]]
* [[石川勾当]]
* [[光崎検校]]
* [[吉沢検校]]
* [[田口尚幸]] - 『箏曲地歌五十選 歌詞解説と訳』を刊行
* [[歌]]
== 外部リンク ==
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* [http://japan.japo-net.or.jp/mame/miyazonobushi/ 邦楽豆知識一覧<日本伝統音楽振興財団>]
* [http://www.kokugo.aichi-edu.ac.jp/taguchi/taguchi.html 愛知教育大学田口研究室] - 研究者サイト
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箏曲
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箏曲(そうきょく)は、箏(そう)つまり「こと」の音楽の総称。また、特に現代では近世に発達した俗箏による音楽を指す場合が多く、大きく生田流箏曲と山田流箏曲に分かれる。三曲のひとつ。箏曲の古典的な音楽においては箏と三絃(「さんげん」。箏と合奏する三味線(しゃみせん)の事)の合奏曲(大半が弾き歌い)がほとんどである。そのため箏曲家とは、多くの場合、三絃・箏・地歌(地唄)の三つを扱うことの出来る演奏者である。また、箏だけを扱う演奏者は一般的に「箏奏者」「箏演奏家」と名乗ることが多い。
近世箏曲は、戦国末期から江戸時代はじめにかけて活躍した賢順が完成した「筑紫箏」(つくしごと)を始祖とする。彼は浄土僧でもあり、寺院に伝承される雅楽や歌謡を修め、また当時来日していた明人の鄭家定に琴(きん)を学び、 これらから箏曲を作り出した。これが筑紫箏である。ただし筑紫箏の音楽は、高尚で雅びであるが娯楽性は少なく、礼や精神性を重んじ、また調弦も雅楽に近い「律音階」に由っていた。
賢順の弟子の法水に師事したのが当道座に属した盲目の音楽家、八橋検校であった。彼は三味線や胡弓の名手でもあったが、三味線の音楽などではすでに民間の新しい音階である「都節音階」が使われ、普及していた。八橋はこれを箏に応用し、これまでの律音階による調弦から、都節音階による新たな調弦法である平調子(ひらぢょうし)、雲井調子(くもいぢょうし)に改めた。以後現在に至るまで、この平調子は箏のもっとも基本の調弦法とされている。こうしてこの新たな調弦法にのっとり、多数の新しい曲を作曲した。これらは筑紫箏よりもより世俗的、当世風でかつ芸術性も高く、当時の世に広く受け入れられることになった。八橋検校の箏作品には「箏組歌」(箏伴奏付き歌曲)と「段物」(器楽曲)の二種があり、いずれも整然とした楽式構造を持つのが特徴である。組歌としては「菜蕗」(ふき)、「雲井の曲」など、段物としては「六段の調」などが知られている(「六段の調」の作曲者について異説もある)。八橋以後もこれらの形式による作曲が行なわれた。なお 八橋検校の時代には、箏曲、三味線音楽はそれぞれ別の音楽として成立しており、基本的に合奏されることはなかった。八橋検校の弟子たちによって八橋流は継承、発展していった。八橋検校の直接の伝承はその後も長く受け継がれ、現在でも細々と伝えられている。
八橋検校ののち、北島検校を経て、元禄の頃に京都の生田検校によって箏曲は改変、整理されたとされる。これは実際には師の北島がすでに密かに行なっていたのを生田が受け継ぎ、公にしたとも言われる。また生田検校は地歌曲に箏を合奏させることを始めたとされている。そして三味線の技巧に対応させるため、箏の爪の形状が大きく変えられることとなる。ただしこの時代、生田のみならず、大阪の継山検校の継山流などでも同様の流れがあり、実際には必ずしも生田検校一人が行なったことではないと言われる。この他にも上方では新八橋流、藤池流なども生まれたが、それら各流間の差異は大同小異であり、次第に「生田流系」とでも呼ぶべき一つの流れに収束して行った。この生田流系はまた多くの派に分かれつつ、幕末までに京、大阪を中心にして、名古屋から中国、九州まで広く行なわれるようになった。
上方で箏曲が早くから隆盛していたのに比べ、中期まで江戸ではあまり人気がなかったのか、演奏する人が少なかった。そこで総検校の安村検校(1732年検校登官)は、江戸への勢力拡大を図り、弟子の長谷富検校を江戸へ下らせ、生田流系箏曲を広めさせたと言われる。その弟子山田松黒に教えを受けたのが山田検校斗養一であった。彼は江戸っ子好みの浄瑠璃を取り入れた新作を作り、山田流箏曲を創始した。山田は大変な美声の持ち主で、銭湯で歌ってはその技と曲を知らしめたと言う。かれはまた箏の改良も試み、より音量の大きな箏を完成させた。これを山田箏と呼び、現在では生田流諸派においても広く山田箏が愛用されている。こうして山田流箏曲は江戸人の嗜好に合い、以後江戸を中心に東日本に普及して、生田流と肩を並べる大流派となった。山田流箏曲は一中節などの浄瑠璃風の歌が中心である。
その後、生田流系の箏曲は箏曲独自の作曲が次第に下火になり、幕末に至るまで、厖大な数の地歌曲にパートとして合奏、参加することで発展していく。地歌の肩を借り、地歌の後を追う形で進んで行ったのである。つまり多くの地歌曲は、箏のパートが作られ合奏されるようになって、箏曲のジャンルともなったことになる。こうして地歌と箏曲の一体化が進んでいった。また、さらに胡弓が合奏に加わるようになり、これら三種の楽器による合奏がよく行なわれるようになった。これを三曲合奏と呼ぶ。後に尺八が加わり、現代では三弦、箏、尺八による三曲合奏が圧倒的に多くなった。 江戸時代中期以降、大阪の峰崎勾当、三つ橋勾当らにより器楽部分である手事を重要視した地歌の楽曲形式「手事物」が完成される。それに引き続き京都の松浦検校、石川勾当、菊岡検校らが京都地歌の曲を多数作曲し、それらの曲に八重崎検校らが箏のパートを作曲し、地歌の隆盛とともに複雑な合奏を楽しめる箏曲として発展した。これら京都で作られた曲群を「京もの」「京流手事もの」と呼び、更に光崎検校、吉沢検校、幾山検校らに引き継がれて行く。
さらに江戸時代後期には、光崎検校、吉沢検校らによって箏曲は一段と発展する。これまでリードを続けてきた地歌は、すでにこれ以上進みようがないほど音楽的に頂点に達し、音楽家たちは新たな展開を箏や胡弓に求めることとなった。こうして、実に久しぶりに、地歌から離れた箏曲が再び作られ始める。光崎検校は古い箏曲を見直し、組歌と段物を組み合わせた「秋風の曲」や、複雑精緻な高低二重奏曲である「五段砧」を作曲した。また吉沢検校は、雅楽の盤渉調からヒントを得て古今調子と呼ばれる調弦法を考案し、この調弦法による「千鳥の曲」、「春の曲」、「夏の曲」、「秋の曲」、「冬の曲」を作曲した。このころから、箏曲は三弦音楽から独立して新たに独自の発展を遂げていくことになる。なお、吉沢検校による革新的な古今調子の考案や、それに基づく作曲は、箏本来の曲を目指したこと、曲の歌詞などに古今集の和歌を多用したことなどから、復古主義と呼ばれることもある。
明治時代に入り、箏曲の地歌からの独立は進み、寺島花野の「新高砂」や菊武祥庭の「稚児桜」など、「明治新曲」と呼ばれる、箏のみの曲が多く作られていく。ただし楽曲形式的にはほとんど地歌の手事物の踏襲であり、またこの時代でも、三味線と箏のための曲も引き続き作られてはいる。さらに、大正・昭和の時代になって宮城道雄が伝統に根ざし、西洋音楽などの影響も受けた新たな曲を多数発表した。主なものとして尺八との合奏曲である「春の海」がある。また宮城は、チェロ並みの低音域を持つ十七絃(通常の箏は13弦)や八十絃を開発した。このうち十七絃は、邦楽合奏における低音楽器として現在でも広く使われ、独奏曲も生まれている。 ことに大正末から昭和10年代にかけ、新しい作曲運動が大きな盛り上がりを見せ、宮城の他にも久本玄智、中村双葉、町田嘉声、中能島欣一、高森高山らにより、新しい形式、編成、作曲法による新曲がおびただしく作られた。これらを「新日本音楽」と呼ぶ。
戦後になると、邦楽系の作曲家に加え、これまで邦楽には疎かったクラシック系の作曲家も創作に参入するようになってきた。現代音楽の観点からは次第にクラシック音楽との違いが希薄になり、箏曲に限らずこうして創作される邦楽系の曲群を「現代邦楽」と呼んでいる。現代でも西洋音楽やポピュラー音楽など、幅広い分野の影響を受けて、新しい曲が作曲されており、それらは三曲、箏曲の世界において「現代曲」と呼ばれている。最近の傾向としては比較的ポピュラーに近いもの、またアジア的要素の強い曲が増えている。
近世邦楽としての箏曲は本来「組歌」という歌のみの楽曲形式による曲を最も正式なジャンルとし、またその後も地歌とともに発展したため、歌のついている曲が多い。純粋な器楽曲は江戸時代を通じ、「段もの」と「砧もの」の数曲のみである。しかし江戸時代後期には器楽部分を重要視する地歌の形式である「手事もの」が非常に発展したので、それに合わせて器楽的展開が見られた。一方、山田流箏曲は一中節など浄瑠璃の音楽要素を取り入れて作曲されているため、「段もの」及び「四段砧」を除きほとんど全ての曲が歌付きである。歌のついている曲の場合、演奏家は歌を歌いながら演奏する。箏の奏法は、筑紫箏を通じ雅楽の箏の奏法が取り入れられている。三本の右手指に爪をはめて奏する点も変わっていない。ただ三味線と合奏することになってから、三味線の奏法に対応するため、爪の形に大幅な変革が行われた。中でも三味線には特に「スクイ」という技法が多いので、生田流、山田流の箏の爪ではそれができるようになっている。地歌合流期の初期段階では、地歌の三弦の旋律とほぼ同様の旋律を演奏する曲が多かった。また、器楽部分では掛け合いと呼ばれる類似の旋律を三弦と交互に演奏するような作曲もみられる。その後、一般的に替手(かえで)と呼ばれる、地歌の三弦の旋律を引き立て、装飾するような複雑な旋律の作曲が多くなってゆく。さらに、地歌から独立した作曲が多くなってゆくと、箏独特の奏法を駆使した旋律による曲が作曲されるようになっていった。
「六段の調(六段)」、「八段の調(八段)」、「乱れ」、「秋風の曲」、「五段砧」、「千鳥の曲」、「春の曲」、「夏の曲」、「秋の曲」、「冬の曲」、「新高砂」、「水の変態」、「春の海」、「今様」、「稚児桜」
ただし、これらは箏曲として作曲された曲に限る。この他にも、箏は地歌の曲のほとんどすべてと合奏可能である。詳しくは地歌の項目を参照のこと。また胡弓本曲の伴奏として、胡弓と合奏されることもある。
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"text": "箏曲(そうきょく)は、箏(そう)つまり「こと」の音楽の総称。また、特に現代では近世に発達した俗箏による音楽を指す場合が多く、大きく生田流箏曲と山田流箏曲に分かれる。三曲のひとつ。箏曲の古典的な音楽においては箏と三絃(「さんげん」。箏と合奏する三味線(しゃみせん)の事)の合奏曲(大半が弾き歌い)がほとんどである。そのため箏曲家とは、多くの場合、三絃・箏・地歌(地唄)の三つを扱うことの出来る演奏者である。また、箏だけを扱う演奏者は一般的に「箏奏者」「箏演奏家」と名乗ることが多い。",
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"text": "近世箏曲は、戦国末期から江戸時代はじめにかけて活躍した賢順が完成した「筑紫箏」(つくしごと)を始祖とする。彼は浄土僧でもあり、寺院に伝承される雅楽や歌謡を修め、また当時来日していた明人の鄭家定に琴(きん)を学び、 これらから箏曲を作り出した。これが筑紫箏である。ただし筑紫箏の音楽は、高尚で雅びであるが娯楽性は少なく、礼や精神性を重んじ、また調弦も雅楽に近い「律音階」に由っていた。",
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"text": "上方で箏曲が早くから隆盛していたのに比べ、中期まで江戸ではあまり人気がなかったのか、演奏する人が少なかった。そこで総検校の安村検校(1732年検校登官)は、江戸への勢力拡大を図り、弟子の長谷富検校を江戸へ下らせ、生田流系箏曲を広めさせたと言われる。その弟子山田松黒に教えを受けたのが山田検校斗養一であった。彼は江戸っ子好みの浄瑠璃を取り入れた新作を作り、山田流箏曲を創始した。山田は大変な美声の持ち主で、銭湯で歌ってはその技と曲を知らしめたと言う。かれはまた箏の改良も試み、より音量の大きな箏を完成させた。これを山田箏と呼び、現在では生田流諸派においても広く山田箏が愛用されている。こうして山田流箏曲は江戸人の嗜好に合い、以後江戸を中心に東日本に普及して、生田流と肩を並べる大流派となった。山田流箏曲は一中節などの浄瑠璃風の歌が中心である。",
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"text": "その後、生田流系の箏曲は箏曲独自の作曲が次第に下火になり、幕末に至るまで、厖大な数の地歌曲にパートとして合奏、参加することで発展していく。地歌の肩を借り、地歌の後を追う形で進んで行ったのである。つまり多くの地歌曲は、箏のパートが作られ合奏されるようになって、箏曲のジャンルともなったことになる。こうして地歌と箏曲の一体化が進んでいった。また、さらに胡弓が合奏に加わるようになり、これら三種の楽器による合奏がよく行なわれるようになった。これを三曲合奏と呼ぶ。後に尺八が加わり、現代では三弦、箏、尺八による三曲合奏が圧倒的に多くなった。 江戸時代中期以降、大阪の峰崎勾当、三つ橋勾当らにより器楽部分である手事を重要視した地歌の楽曲形式「手事物」が完成される。それに引き続き京都の松浦検校、石川勾当、菊岡検校らが京都地歌の曲を多数作曲し、それらの曲に八重崎検校らが箏のパートを作曲し、地歌の隆盛とともに複雑な合奏を楽しめる箏曲として発展した。これら京都で作られた曲群を「京もの」「京流手事もの」と呼び、更に光崎検校、吉沢検校、幾山検校らに引き継がれて行く。",
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"text": "明治時代に入り、箏曲の地歌からの独立は進み、寺島花野の「新高砂」や菊武祥庭の「稚児桜」など、「明治新曲」と呼ばれる、箏のみの曲が多く作られていく。ただし楽曲形式的にはほとんど地歌の手事物の踏襲であり、またこの時代でも、三味線と箏のための曲も引き続き作られてはいる。さらに、大正・昭和の時代になって宮城道雄が伝統に根ざし、西洋音楽などの影響も受けた新たな曲を多数発表した。主なものとして尺八との合奏曲である「春の海」がある。また宮城は、チェロ並みの低音域を持つ十七絃(通常の箏は13弦)や八十絃を開発した。このうち十七絃は、邦楽合奏における低音楽器として現在でも広く使われ、独奏曲も生まれている。 ことに大正末から昭和10年代にかけ、新しい作曲運動が大きな盛り上がりを見せ、宮城の他にも久本玄智、中村双葉、町田嘉声、中能島欣一、高森高山らにより、新しい形式、編成、作曲法による新曲がおびただしく作られた。これらを「新日本音楽」と呼ぶ。",
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"text": "戦後になると、邦楽系の作曲家に加え、これまで邦楽には疎かったクラシック系の作曲家も創作に参入するようになってきた。現代音楽の観点からは次第にクラシック音楽との違いが希薄になり、箏曲に限らずこうして創作される邦楽系の曲群を「現代邦楽」と呼んでいる。現代でも西洋音楽やポピュラー音楽など、幅広い分野の影響を受けて、新しい曲が作曲されており、それらは三曲、箏曲の世界において「現代曲」と呼ばれている。最近の傾向としては比較的ポピュラーに近いもの、またアジア的要素の強い曲が増えている。",
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"text": "近世邦楽としての箏曲は本来「組歌」という歌のみの楽曲形式による曲を最も正式なジャンルとし、またその後も地歌とともに発展したため、歌のついている曲が多い。純粋な器楽曲は江戸時代を通じ、「段もの」と「砧もの」の数曲のみである。しかし江戸時代後期には器楽部分を重要視する地歌の形式である「手事もの」が非常に発展したので、それに合わせて器楽的展開が見られた。一方、山田流箏曲は一中節など浄瑠璃の音楽要素を取り入れて作曲されているため、「段もの」及び「四段砧」を除きほとんど全ての曲が歌付きである。歌のついている曲の場合、演奏家は歌を歌いながら演奏する。箏の奏法は、筑紫箏を通じ雅楽の箏の奏法が取り入れられている。三本の右手指に爪をはめて奏する点も変わっていない。ただ三味線と合奏することになってから、三味線の奏法に対応するため、爪の形に大幅な変革が行われた。中でも三味線には特に「スクイ」という技法が多いので、生田流、山田流の箏の爪ではそれができるようになっている。地歌合流期の初期段階では、地歌の三弦の旋律とほぼ同様の旋律を演奏する曲が多かった。また、器楽部分では掛け合いと呼ばれる類似の旋律を三弦と交互に演奏するような作曲もみられる。その後、一般的に替手(かえで)と呼ばれる、地歌の三弦の旋律を引き立て、装飾するような複雑な旋律の作曲が多くなってゆく。さらに、地歌から独立した作曲が多くなってゆくと、箏独特の奏法を駆使した旋律による曲が作曲されるようになっていった。",
"title": "音楽的特徴"
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"title": "代表的な曲"
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"text": "ただし、これらは箏曲として作曲された曲に限る。この他にも、箏は地歌の曲のほとんどすべてと合奏可能である。詳しくは地歌の項目を参照のこと。また胡弓本曲の伴奏として、胡弓と合奏されることもある。",
"title": "代表的な曲"
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箏曲(そうきょく)は、箏(そう)つまり「こと」の音楽の総称。また、特に現代では近世に発達した俗箏による音楽を指す場合が多く、大きく生田流箏曲と山田流箏曲に分かれる。三曲のひとつ。箏曲の古典的な音楽においては箏と三絃(「さんげん」。箏と合奏する三味線の事)の合奏曲(大半が弾き歌い)がほとんどである。そのため箏曲家とは、多くの場合、三絃・箏・地歌(地唄)の三つを扱うことの出来る演奏者である。また、箏だけを扱う演奏者は一般的に「箏奏者」「箏演奏家」と名乗ることが多い。
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[[画像:Japanese Koto.jpg|right|thumb|250px|箏]]
'''箏曲'''(そうきょく)は、[[箏]](そう)つまり「こと」の音楽の総称。また、特に現代では[[近世]]に発達した[[俗箏]]による音楽を指す場合が多く、大きく[[生田流]]箏曲と[[山田流]]箏曲に分かれる。[[三曲]]のひとつ。箏曲の古典的な音楽においては箏と三絃(「さんげん」。箏と合奏する[[三味線]](しゃみせん)の事)の合奏曲(大半が弾き歌い)がほとんどである。そのため箏曲家とは、多くの場合、三絃・箏・[[地歌]](地唄)の三つを扱うことの出来る演奏者である。また、箏だけを扱う演奏者は一般的に「箏奏者」「箏演奏家」と名乗ることが多い。
== 歴史 ==
===筑紫箏===
近世箏曲は、戦国末期から江戸時代はじめにかけて活躍した[[賢順]]が完成した「[[筑紫箏]]」(つくしごと)を始祖とする。彼は浄土僧でもあり、寺院に伝承される[[雅楽]]や歌謡を修め、また当時来日していた明人の鄭家定に[[古琴|琴]](きん)を学び、 これらから箏曲を作り出した。これが筑紫箏である。ただし筑紫箏の音楽は、高尚で雅びであるが娯楽性は少なく、礼や精神性を重んじ、また調弦も雅楽に近い「[[律音階]]」に由っていた。
===八橋流===
賢順の弟子の[[法水]]に師事したのが[[当道座]]に属した盲目の音楽家、[[八橋検校]]であった。彼は[[三味線]]や[[胡弓]]の名手でもあったが、三味線の音楽などではすでに民間の新しい音階である「[[都節音階]]」が使われ、普及していた。八橋はこれを箏に応用し、これまでの律音階による調弦から、都節音階による新たな調弦法である'''平調子'''(ひらぢょうし)、'''雲井調子'''(くもいぢょうし)に改めた。以後現在に至るまで、この平調子は箏のもっとも基本の調弦法とされている。こうしてこの新たな調弦法にのっとり、多数の新しい曲を作曲した。これらは筑紫箏よりもより世俗的、当世風でかつ芸術性も高く、当時の世に広く受け入れられることになった。八橋検校の箏作品には「[[八橋検校#箏組歌|箏組歌]]」(箏伴奏付き歌曲)と「[[段物]]」(器楽曲)の二種があり、いずれも整然とした楽式構造を持つのが特徴である。組歌としては「[[菜蕗]]」(ふき)、「[[雲井の曲]]」など、段物としては「[[六段の調]]」などが知られている(「六段の調」の作曲者について異説もある)。八橋以後もこれらの形式による作曲が行なわれた。なお 八橋検校の時代には、箏曲、三味線音楽はそれぞれ別の音楽として成立しており、基本的に合奏されることはなかった。八橋検校の弟子たちによって[[八橋流]]は継承、発展していった。八橋検校の直接の伝承はその後も長く受け継がれ、現在でも細々と伝えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nagano.nagano.jp/site/kouhounagano/115617.html|title=文化財めぐり 八橋流筝曲(やつはしりゅうそうきょく) 広報ながの2015年9月号掲載記事|publisher=[[長野市]]|accessdate=2021-05-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1111.html|title=指定文化財詳細 八橋流筝曲|publisher=長野市文化財データベース|accessdate=2021-05-09}}</ref>。
===生田流系===
[[八橋検校]]ののち、北島検校を経て、[[元禄]]の頃に京都の[[生田検校]]によって箏曲は改変、整理されたとされる。これは実際には師の北島がすでに密かに行なっていたのを生田が受け継ぎ、公にしたとも言われる。また生田検校は地歌曲に箏を合奏させることを始めたとされている。そして三味線の技巧に対応させるため、箏の爪の形状が大きく変えられることとなる。ただしこの時代、生田のみならず、大阪の継山検校の継山流などでも同様の流れがあり、実際には必ずしも生田検校一人が行なったことではないと言われる。この他にも上方では新八橋流、藤池流なども生まれたが、それら各流間の差異は大同小異であり、次第に「[[生田流系]]」とでも呼ぶべき一つの流れに収束して行った。この生田流系はまた多くの派に分かれつつ、幕末までに京、大阪を中心にして、名古屋から中国、九州まで広く行なわれるようになった。
===山田流===
上方で箏曲が早くから隆盛していたのに比べ、中期まで江戸ではあまり人気がなかったのか、演奏する人が少なかった。そこで総検校の安村検校([[1732年]]検校登官)は、江戸への勢力拡大を図り、弟子の長谷富検校を江戸へ下らせ、生田流系箏曲を広めさせたと言われる。その弟子山田松黒に教えを受けたのが[[山田検校]]斗養一であった。彼は[[江戸っ子]]好みの[[浄瑠璃]]を取り入れた新作を作り、[[山田流]]箏曲を創始した。山田は大変な美声の持ち主で、[[銭湯]]で歌ってはその技と曲を知らしめたと言う。かれはまた箏の改良も試み、より音量の大きな箏を完成させた。これを山田箏と呼び、現在では生田流諸派においても広く山田箏が愛用されている。こうして山田流箏曲は江戸人の嗜好に合い、以後江戸を中心に東日本に普及して、生田流と肩を並べる大流派となった。山田流箏曲は[[一中節]]などの浄瑠璃風の歌が中心である。
===地歌との一体化、三曲合奏===
その後、生田流系の箏曲は箏曲独自の作曲が次第に下火になり、幕末に至るまで、厖大な数の[[地歌]]曲にパートとして合奏、参加することで発展していく。地歌の肩を借り、地歌の後を追う形で進んで行ったのである。つまり多くの地歌曲は、箏のパートが作られ合奏されるようになって、箏曲のジャンルともなったことになる。こうして地歌と箏曲の一体化が進んでいった。また、さらに[[胡弓]]が合奏に加わるようになり、これら三種の楽器による合奏がよく行なわれるようになった。これを[[三曲合奏]]と呼ぶ。後に[[尺八]]が加わり、現代では[[三弦]]、[[箏]]、[[尺八]]による三曲合奏が圧倒的に多くなった。
江戸時代中期以降、大阪の[[峰崎勾当]]、[[三つ橋勾当]]らにより器楽部分である[[手事]]を重要視した地歌の楽曲形式「[[手事物]]」が完成される。それに引き続き京都の[[松浦検校]]、[[石川勾当]]、[[菊岡検校]]らが京都[[地歌]]の曲を多数作曲し、それらの曲に[[八重崎検校]]らが[[箏]]のパートを作曲し、[[地歌]]の隆盛とともに複雑な合奏を楽しめる箏曲として発展した。これら京都で作られた曲群を「[[京もの]]」「[[京流手事もの]]」と呼び、更に[[光崎検校]]、[[吉沢検校]]、幾山検校らに引き継がれて行く。
===幕末===
さらに江戸時代後期には、[[光崎検校]]、[[吉沢検校]]らによって箏曲は一段と発展する。これまでリードを続けてきた地歌は、すでにこれ以上進みようがないほど音楽的に頂点に達し、音楽家たちは新たな展開を箏や胡弓に求めることとなった。こうして、実に久しぶりに、地歌から離れた箏曲が再び作られ始める。光崎検校は古い箏曲を見直し、組歌と段物を組み合わせた「[[秋風の曲]]」や、複雑精緻な高低二重奏曲である「[[五段砧]]」を作曲した。また吉沢検校は、雅楽の盤渉調からヒントを得て'''古今調子'''と呼ばれる調弦法を考案し、この調弦法による「[[千鳥の曲]]」、「[[春の曲]]」、「[[夏の曲]]」、「[[秋の曲]]」、「[[冬の曲]]」を作曲した。このころから、箏曲は[[三弦]]音楽から独立して新たに独自の発展を遂げていくことになる。なお、吉沢検校による革新的な古今調子の考案や、それに基づく作曲は、[[箏]]本来の曲を目指したこと、曲の歌詞などに[[古今和歌集|古今集]]の[[和歌]]を多用したことなどから、'''復古主義'''と呼ばれることもある。
===明治以降===
明治時代に入り、箏曲の地歌からの独立は進み、寺島花野の「[[新高砂]]」や菊武祥庭の「[[稚児桜]]」など、「[[明治新曲]]」と呼ばれる、箏のみの曲が多く作られていく。ただし楽曲形式的にはほとんど地歌の[[手事物]]の踏襲であり、またこの時代でも、三味線と箏のための曲も引き続き作られてはいる。さらに、大正・昭和の時代になって[[宮城道雄]]が伝統に根ざし、[[西洋音楽]]などの影響も受けた新たな曲を多数発表した。主なものとして[[尺八]]との合奏曲である「[[春の海]]」がある。また宮城は、[[チェロ]]並みの低音域を持つ[[十七絃]](通常の[[箏]]は13弦)や[[八十絃]]を開発した。このうち十七絃は、邦楽合奏における低音楽器として現在でも広く使われ、独奏曲も生まれている。
ことに大正末から昭和10年代にかけ、新しい作曲運動が大きな盛り上がりを見せ、宮城の他にも久本玄智、中村双葉、町田嘉声、[[中能島欣一]]、高森高山らにより、新しい形式、編成、作曲法による新曲がおびただしく作られた。これらを「[[新日本音楽]]」と呼ぶ。
戦後になると、邦楽系の[[作曲家]]に加え、これまで邦楽には疎かったクラシック系の作曲家も創作に参入するようになってきた。現代音楽の観点からは次第にクラシック音楽との違いが希薄になり、箏曲に限らずこうして創作される邦楽系の曲群を「[[現代邦楽]]」と呼んでいる。現代でも[[西洋音楽]]や[[ポピュラー音楽]]など、幅広い分野の影響を受けて、新しい曲が作曲されており、それらは三曲、箏曲の世界において「[[現代曲]]」と呼ばれている。最近の傾向としては比較的ポピュラーに近いもの、またアジア的要素の強い曲が増えている。
== 音楽的特徴 ==
[[近世邦楽]]としての箏曲は本来「[[組歌]]」という歌のみの楽曲形式による曲を最も正式なジャンルとし、またその後も[[地歌]]とともに発展したため、歌のついている曲が多い。純粋な器楽曲は江戸時代を通じ、「[[段もの]]」と「[[砧もの]]」の数曲のみである。しかし江戸時代後期には器楽部分を重要視する地歌の形式である「[[手事もの]]」が非常に発展したので、それに合わせて器楽的展開が見られた。一方、山田流箏曲は一中節など浄瑠璃の音楽要素を取り入れて作曲されているため、「[[段もの]]」及び「[[四段砧]]」を除きほとんど全ての曲が歌付きである。歌のついている曲の場合、演奏家は歌を歌いながら演奏する。箏の奏法は、筑紫箏を通じ雅楽の箏の奏法が取り入れられている。三本の右手指に爪をはめて奏する点も変わっていない。ただ三味線と合奏することになってから、三味線の奏法に対応するため、爪の形に大幅な変革が行われた。中でも三味線には特に「[[スクイ]]」という技法が多いので、生田流、山田流の箏の爪ではそれができるようになっている。地歌合流期の初期段階では、[[地歌]]の[[三弦]]の旋律とほぼ同様の旋律を演奏する曲が多かった。また、器楽部分では'''掛け合い'''と呼ばれる類似の旋律を[[三弦]]と交互に演奏するような作曲もみられる。その後、一般的に'''替手'''(かえで)と呼ばれる、[[地歌]]の[[三弦]]の旋律を引き立て、装飾するような複雑な旋律の作曲が多くなってゆく。さらに、[[地歌]]から独立した作曲が多くなってゆくと、[[箏]]独特の奏法を駆使した旋律による曲が作曲されるようになっていった。
== 代表的な曲 ==
「[[六段の調]](六段)」、「[[八段の調]](八段)」、「[[乱れ]]」、「[[秋風の曲]]」、「[[五段砧]]」、「[[千鳥の曲]]」、「[[春の曲]]」、「[[夏の曲]]」、「[[秋の曲]]」、「[[冬の曲]]」、「[[新高砂]]」、「[[水の変態]]」、「[[春の海]]」、「[[今様]]」、「[[稚児桜]]」
ただし、これらは箏曲として作曲された曲に限る。この他にも、[[箏]]は[[地歌]]の曲のほとんどすべてと合奏可能である。詳しくは[[地歌]]の項目を参照のこと。また[[胡弓]]本曲の伴奏として、胡弓と合奏されることもある。
== 関連項目 ==
* [[三曲]]
* [[地歌]]
* [[胡弓]]
* [[三曲合奏]]
* [[近世邦楽]]
* [[八橋検校]]
* [[吉沢検校]]
* [[宮城道雄]]
* [[中能島欣一]]
* [[唯是震一]]
* [[さくらさくら]]
* [[田口尚幸]] - 『箏曲地歌五十選 歌詞解説と訳』を刊行
* [[この音とまれ!]] - 高校の箏曲部を舞台とした漫画。作者の[[アミュー]]も箏教室を主宰する家庭で育ち、実姉はプロとして活動している。また、作中に登場するオリジナル箏曲は作者の身内が主に作曲した。それらの楽曲を収録したアルバムは、平成29年度(第72回)[[文化庁]][[芸術祭 (文化庁)|芸術祭賞]]・レコード部門最優秀賞、第32回[[日本ゴールドディスク大賞]]・純邦楽・アルバム・オブ・ザ・イヤー優秀賞を獲得している<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20180203214506/https://natalie.mu/comic/news/263238|title=「この音とまれ!」CDが第72回文化庁芸術祭賞のレコード部門優秀賞に|publisher=コミックナタリー|date=2017-12-27|accessdate=2018-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20180227142354/https://natalie.mu/comic/news/271312|title=FGOサントラと「この音とまれ!」アルバムが日本ゴールドディスク大賞受賞|publisher=コミックナタリー|date=2018-02-27|accessdate=2018-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.golddisc.jp/award/32/Prize_2.html#gd32_18|title=第32回日本ゴールドディスク大賞「純邦楽・アルバム・オブ・ザ・イヤー」|publisher=THE GOLD DISC|accessdate=2018-04-11}}</ref>。
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.bunka.go.jp/bunkazai/shoukai/mukei/sokyoku.html 箏曲 - 文化庁]
* [http://www.sankyoku.jp/about/soukyoku.html 箏曲とは - 社団法人日本三曲協会]
* [http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc6/ 日本の伝統音楽:楽器編 - 文化デジタルライブラリー (独立行政法人日本芸術文化振興会)]
* [http://www.senzoku-online.jp/traditional/01_koto.html 箏 - 伝統音楽デジタルライブラリー (洗足学園音楽大学)]
* [http://www.seiha.jp/ 財団法人正派邦楽会]
* [http://www.miyagikai.gr.jp/ 宮城道雄の世界(宮城会)]
* [http://web.mac.com/nakanoshima_kai/ 山田流箏曲 中能島会]
* [http://www.geidai.ac.jp/labs/koto-ikuta/ 東京芸術大学音楽学部邦楽科 生田流箏曲]
* [http://www.kokugo.aichi-edu.ac.jp/taguchi/taguchi.html 愛知教育大学田口研究室] - 研究者サイト
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長唄
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長唄(ながうた)は、近世邦楽の一ジャンル、三味線音楽の一ジャンル、江戸の音曲の一つであり、正式名称は江戸長唄(えど ながうた)という。
またこれとは別に、地歌の一分類として上方長歌(かみがた ながうた)がある。
江戸長唄は義太夫節など語りを中心とした「語り物」とは異なり、唄を中心とした「歌い物」、「うたもの」である。演奏は基本的に複数人の唄と三味線で成り立っているが、曲目によっては小鼓、大鼓、太鼓、笛などで構成される「お囃子」が付くこともある。また、通常の三味線パートのほかに「上調子」と呼ばれる三味線パートを持つ曲も存在する。
また、元禄期に上方歌舞伎の劇中で演出として歌われた芝居歌が源流となり、享保以降に短めの長唄として江戸歌舞伎に伝わりメリヤスと呼ばれた。しんみりとした寂しい内容と節調であり、下座の中で一人、または二人で歌われた。宝暦期以降の歌舞伎の舞台演出で流行となり、新曲がいくつも作曲された。
代表的な作詞者・作曲者には、金井三笑、初代冨士田吉次、二代目冨士田吉次、初代櫻田治助、初代杵屋正次郎、三代目杵屋正次郎、九代目杵屋六左衛門、十代目杵屋六左衛門、三代目杵屋勘五郎、初代杵屋六翁、二代目杵屋勝三郎、二代目稀音家浄観、杵屋佐吉、吉住慈恭などが挙げられる。
上方長歌(上方長唄とも)は、地歌の楽式、曲種の一つ。江戸時代中期以降に上方を中心に行われている長編の三味線を伴奏とする三味線歌曲。地歌と箏曲や胡弓との不可分な結びつきにより、三曲合奏編成により演じられることも多い。地歌のみならず三味線音楽のもっとも古い形式である三味線組歌に次ぐものとして、長い歴史を有している。
もともと元禄の頃に江戸の浅利検校、佐山検校らによって作られ始めた。 組歌は、基本的に互いに脈絡のないいくつかの短い歌の組み合わせによって成り立っている。それに対し、長歌は終始一貫して筋を通した内容であり、それを最大の特徴とする。また、曲の途中で三味線の調弦を変えること、かなりまとまった間の手を持つことなどが特徴であるが、長歌の範疇に含められる曲は各流派、地域により多少違いがある。
その内容はさまざまだが、名所や器物、植物などの名を連ねた「尽し」や、劇的な内容を持つものもあり、詞章は雅文調ではあるが、部分的にくだけた文句が挿入されている曲も多い。
本来、地歌は盲人音楽家による純音楽で、劇場や舞踊とは比較的関係の薄いものであるが、虎沢検校が浄瑠璃を始めたこともあるように、決して関係がないわけではなく、地歌の長歌曲でも、元禄年間に活躍した京都の岸野次朗三は晴眼者で京阪の歌舞伎の三味線方として活躍した人物であり、彼の作品の多くは歌舞伎舞踊の伴奏用に作られたものである。
このような長歌から、舞台音楽の「江戸長唄」が分かれたと考えられている。
こののち、野川流の祖である大阪の野川検校の作品がおおいにもてはやされ、藤永検校や小野村検校らも長歌物の作曲を行い、さらに京流手事物の作曲で有名な、京都の松浦検校、菊岡検校らによっても長歌曲が作られている。
また長歌からは、歌よりも手事に重きを置く楽曲形式である「手事物」が生まれ、現在の地歌の主要な演目となっている。また手事物はのちに長唄にも影響を与え、「越後獅子」「秋色種」「吾妻八景」などの曲が生まれている。
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長唄(ながうた)は、近世邦楽の一ジャンル、三味線音楽の一ジャンル、江戸の音曲の一つであり、正式名称は江戸長唄という。 またこれとは別に、地歌の一分類として上方長歌がある。
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{{出典の明記|date=2021-11}}
{{otheruses|一般に'''長唄'''・'''長歌'''(ながうた)と通称される江戸時代の音曲|五七五七五七と繰り返し最後を七で締めくくる和歌の形式の一つ'''長歌'''(ちょうか)|長歌}}
[[File:Sake Cup by Santō Kyōden.png|thumb|さかづき]]
'''長唄'''(ながうた)は、[[近世邦楽]]の一ジャンル、[[三味線音楽]]の一ジャンル、[[江戸]]の音曲の一つであり、正式名称は'''江戸長唄'''(えど ながうた)という。
またこれとは別に、[[地歌]]の一分類として'''上方長歌'''(かみがた ながうた)がある。
==江戸長唄==
'''江戸長唄'''は[[義太夫節]]など語りを中心とした「[[語り物]]」とは異なり、唄を中心とした「[[歌いもの|歌い物]]」、「うたもの」である。演奏は基本的に複数人の唄と[[三味線]]で成り立っているが、曲目によっては[[小鼓]]、[[大鼓]]、[[太鼓]]、[[笛]]などで構成される「[[長唄囃子|お囃子]]」が付くこともある。また、通常の三味線パートのほかに「上調子」と呼ばれる三味線パートを持つ曲も存在する。
また、[[元禄]]期に上方[[歌舞伎]]の劇中で演出として歌われた芝居歌が源流となり、[[享保]]以降に短めの長唄として江戸歌舞伎に伝わり'''メリヤス'''と呼ばれた<ref>[[服部幸雄]]『歌舞伎ことば帖』岩波書店〈岩波新書〉1999年、ISBN 4004306116 pp.89-93.</ref>。しんみりとした寂しい内容と節調であり、[[下座]]の中で一人、または二人で歌われた。[[宝暦]]期以降の歌舞伎の舞台演出で流行となり、新曲がいくつも作曲された。
代表的な作詞者・作曲者には、[[金井三笑]]、[[冨士田吉次#初代|初代冨士田吉次]]、[[冨士田吉次#2代目|二代目冨士田吉次]]、[[櫻田治助#初代|初代櫻田治助]]、[[杵屋正次郎#初代|初代杵屋正次郎]]、[[杵屋正次郎#3代目|三代目杵屋正次郎]]、[[杵屋六左衛門#9代目|九代目杵屋六左衛門]]、[[杵屋六左衛門#10代目|十代目杵屋六左衛門]]、[[杵屋勘五郎#3代目|三代目杵屋勘五郎]]、[[杵屋六三郎#4代目|初代杵屋六翁]]、[[杵屋勝三郎#2代目|二代目杵屋勝三郎]]、[[稀音家浄観#二代目|二代目稀音家浄観]]、[[杵屋佐吉]]、[[吉住慈恭]]などが挙げられる。<!--ただし、作詞と作曲の分担は不鮮明で、なお調査を要する。-->
===代表的な曲===
{{表3列|
*[[秋色種]]{{small|(十代目杵屋六左衛門)}}
*[[安宅勧進帳]]{{small|(三代目杵屋勘五郎)}}
*[[安宅の松]]{{small|(初代富士田吉次)}}
*[[安達ヶ原]]
*[[あたま山 (長唄)|あたま山]]
*[[吾妻八景]]{{small|(初代杵屋六翁)}}
*[[浦島]]{{small|(十代目杵屋六左衛門)}}
*[[梅の栄]]{{small|(三代目杵屋正次郎)}}
*[[越後獅子]]{{small|(九代目杵屋六左衛門)}}
*[[老松]]{{small|(初代杵屋六翁)}}
*[[お七吉三]]
*[[傀儡師 (歌舞伎舞踊)|傀儡師]]{{small|(十代目杵屋六左衛門)}}
*[[連獅子|勝三郎連獅子]]{{small|(二代目杵屋勝三郎)}}
*[[寒山拾得 (歌舞伎舞踊)|寒山拾得]]{{small|(坪内逍遥・吉住慈恭・二代目稀音家浄観)}}
*[[官女 (長唄)|官女]]
*[[勧進帳 (長唄)|勧進帳]]{{small|(初代杵屋六翁)}}
*[[神田祭 (長唄)|神田祭]]{{small|(吉住慈恭・二代目稀音家浄観)}}
*[[喜三の庭]]
*[[菊づくし]]
*[[岸の柳]]{{small|(三代目杵屋正次郎)}}
*[[紀州道成寺]]{{small|(三代目杵屋勘五郎)}}
*[[紀文大尽]]{{small|(吉住慈恭・稀音家浄観)}}
*[[蜘蛛拍子舞]]{{small|(初代杵屋佐吉)}}
*[[鞍馬山 (長唄)|鞍馬山]]
*[[黒塚]]{{small|(四代目杵屋佐吉)}}
*[[傾城 (長唄)|傾城]]
|
*[[外記猿]]{{small|(十代目杵屋六左衛門)}}
*[[源氏十二段]]
*[[元禄花見踊り|元禄花見踊]]{{small|(三代目杵屋正次郎)}}
*[[小鍛冶]]
*[[胡蝶 (長唄)|胡蝶]]
*[[五郎時致]]{{small|(十代目杵屋六左衛門)}}
*[[鷺娘]]
*[[五月雨]]{{small|(四代目杵屋佐吉)}}
*[[汐汲]]
*[[四季の山姥]]{{small|(十一代目杵屋六左衛門)}}
*[[時雨西行]]
*[[賤機帯]]
*[[七福神 (長唄)|七福神]]
*[[石橋]]{{small|(十代目杵屋六左衛門)}}
*[[連獅子|正次郎連獅子]]{{small|(三代目杵屋正次郎)}}
*[[新曲浦島]]{{small|(坪内逍遥・五代目杵屋勘五郎・十三代目杵屋六左衛門)}}
*[[末広がり (長唄)|末広がり]]
*[[助六 (長唄)|助六]]
*[[高尾懺悔]]{{small|(杵屋新右衛門)}}
*[[巽八景]]{{small|(十代目杵屋六左衛門)}}
*[[多摩川 (長唄)|多摩川]]
*[[竹生島 (長唄)|竹生島]]{{small|(十一代目杵屋六左衛門)}}
*[[鶴亀]]{{small|(十代目杵屋六左衛門)}}
*[[綱館]]{{small|(三代目杵屋勘五郎)}}
*[[手習子]]{{small|(初代杵屋正次郎)}}
*[[常磐の庭]]
|
*[[鳥羽絵]]{{small|(十代目杵屋六左衛門)}}
*[[鳥羽の恋塚]]{{small|(半井桃水・吉住慈恭)}}
*[[供奴]]{{small|(十代目杵屋六左衛門)}}
*[[楠公 (長唄)|楠公]]
*[[二人椀久]]
*[[橋弁慶]]{{small|(三代目杵屋勘五郎)}}
*[[花の友]]
*[[羽根の禿]]
*[[雛鶴三番叟]]
*[[船弁慶 (長唄)|船弁慶]]
*[[藤娘 (長唄)|藤娘]]
*[[まかしょ]]{{small|(二代目杵屋佐吉)}}
*[[松の緑]]{{small|(初代杵屋六翁)}}
*[[都鳥 (長唄)|都鳥]]
*[[都風流]]{{small|(久保田万太郎・吉住慈恭・稀音家浄観)}}
*[[娘道成寺 (長唄)|娘道成寺]]{{small|(初代杵屋彌三郎)}}
*[[娘七種]]
*[[桃太郎 (長唄)|桃太郎]]
*[[座頭 (長唄)|座頭]]
*[[島の千歳]]{{small|(五代目杵屋勘五郎)}}
*[[春興鏡獅子]]{{small|(三代目杵屋正次郎)}}
*[[吉原雀]]
*[[若菜摘]]
*[[わらべ鶯]]
}}
===楽譜の種類===
*文化譜(赤譜とも)
*研精会譜
**又は小十郎譜とも。大正年間に四代目吉住小三郎の弟子、吉住小十郎によって開発された記譜法により編纂される。縦書き。1 - 7の数字を西洋音階のド - シに当てはめ、基本的に四分の二拍子で表記される。オクターブは数字の右(1オクターブ上)と左(1オクターブ下)に付く「・」で表す(最低音は・7)。
*青柳譜
*佐吉譜
*杵勝譜
===近代の名人===
{{表2列|
* [[松永和風]]
* [[稀音家浄観#二代目|二代目稀音家浄観]]
* [[吉住慈恭]]
* [[杵屋佐吉]]
* [[杵屋六左衛門#14代目|十四代目杵屋六左衛門]]
* [[芳村伊十郎#6代目|六代目芳村伊十郎]]
* [[芳村伊十郎#7代目|七代目芳村伊十郎]]
* [[芳村五郎治]]
* [[杵屋栄蔵]]
* [[杵屋栄二]]
* [[杵屋栄次郎]]
|
* [[今藤長十郎#3代目|三代目今藤長十郎]]
* [[山田抄太郎]]
* [[杵屋勝東治]]
* [[杵屋勝太郎]]
* [[松島庄三郎]]
* [[松島寿三郎]]
* [[柏 伊三郎]]
* [[日吉小三八]]
* [[杵屋佐登代]]
* [[今藤綾子]]
*
}}
== 上方長歌 ==
'''上方長歌'''(上方長唄{{small|とも}})は、[[地歌]]の[[楽式]]、曲種の一つ。[[江戸時代]]中期以降に[[上方]]を中心に行われている長編の[[三味線]]を伴奏とする三味線歌曲。地歌と[[箏曲]]や[[胡弓]]との不可分な結びつきにより、[[三曲合奏]]編成により演じられることも多い。地歌のみならず三味線音楽のもっとも古い形式である[[三味線組歌]]に次ぐものとして、長い歴史を有している。
もともと[[元禄]]の頃に江戸の[[検校|浅利検校]]、[[検校|佐山検校]]らによって作られ始めた。
組歌は、基本的に互いに脈絡のないいくつかの短い歌の組み合わせによって成り立っている。それに対し、長歌は終始一貫して筋を通した内容であり、それを最大の特徴とする。また、曲の途中で三味線の調弦を変えること、かなりまとまった[[間の手]]を持つことなどが特徴であるが、長歌の範疇に含められる曲は各流派、地域により多少違いがある。
その内容はさまざまだが、名所や器物、植物などの名を連ねた「尽し」や、劇的な内容を持つものもあり、詞章は雅文調ではあるが、部分的にくだけた文句が挿入されている曲も多い。
本来、地歌は盲人音楽家による純音楽で、劇場や舞踊とは比較的関係の薄いものであるが、[[虎沢検校]]が[[浄瑠璃]]を始めたこともあるように、決して関係がないわけではなく、地歌の長歌曲でも、元禄年間に活躍した京都の[[岸野次朗三]]は晴眼者で京阪の歌舞伎の三味線方として活躍した人物であり、彼の作品の多くは歌舞伎舞踊の伴奏用に作られたものである。
このような長歌から、舞台音楽の「江戸長唄」が分かれたと考えられている<!--が、相互影響については、精査を要する-->。
こののち、[[野川流]]の祖である大阪の[[野川検校]]の作品がおおいにもてはやされ、[[藤永検校]]や[[小野村検校]]らも長歌物の作曲を行い、さらに京流[[手事物]]の作曲で有名な、京都の[[松浦検校]]、[[菊岡検校]]らによっても長歌曲が作られている。
また長歌からは、歌よりも[[手事]]に重きを置く楽曲形式である「手事物」が生まれ、現在の地歌の主要な演目となっている。また手事物はのちに長唄にも影響を与え、「越後獅子」「秋色種」「吾妻八景」などの曲が生まれている。
===代表的な曲===
*[[つつじ]]{{small|(佐山検校)}}
*[[桜尽し]]{{small|(佐山検校)}}
*[[古松風]]{{small|(岸野次朗三)}}
*[[こんかい]]{{small|(岸野次朗三)}}
*[[古道成寺]]{{small|(岸野次朗三)}}
*[[松尽し]]{{small|(藤永検校)}}
*[[江戸土産]]{{small|(津山検校)}}
*[[竹生島]](地歌){{small|(菊岡検校)}}
*[[老松 (長唄)|老松]](地歌){{small|(菊岡検校)}}
== 関連項目 ==
*[[近世邦楽]]
*[[長唄研精会]]
*[[日本舞踊]]
*[[河東節]]
*[[常磐津節]]
*[[清元節]]
*[[新内節]]
*[[唱歌 (演奏法)]](しょうが)
*[[稀音家義丸]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k13111670 1900年録音の長唄『越後獅子』の一節](1分5秒から1分50秒まで) - [[フランス国立図書館]]
{{日本の音楽}}
{{日本の伝統芸能}}
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:なかうた}}
[[Category:歌舞伎用語]]
[[Category:日本の伝統音楽]]
[[Category:三味線]]
[[Category:長唄|*]]
[[Category:音楽のジャンル]]
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2003-09-15T05:32:18Z
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2023-09-25T12:48:31Z
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[
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"Template:Small",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:日本の音楽"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%94%84
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義太夫節
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義太夫節(ぎだゆうぶし)とは、江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。略して義太夫(ぎだゆう)ともいう。国の重要無形文化財。
17世紀末に成立し、播磨節、嘉太夫節、小唄などを融合した豪快で華麗な曲節が特徴。近代では豊竹山城少掾が芸格を広めた(山城風)。人形浄瑠璃の伴奏に、またそれを元にした歌舞伎の義太夫狂言(丸本歌舞伎)の伴奏に用いられる。なお、浄瑠璃は義太夫節のことであるという説明が往々にして見られるが、これは誤りである。義太夫節はあくまでも浄瑠璃の一流派であって、同一のものではない。
近松門左衛門の作品。
他の作者の作品。
この分野での研究は、まだ緒に就いたばかりである。現在、文楽(人形浄瑠璃)と歌舞伎の義太夫節は、人的に別の流れである。
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義太夫節(ぎだゆうぶし)とは、江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。略して義太夫(ぎだゆう)ともいう。国の重要無形文化財。
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'''義太夫節'''(ぎだゆうぶし)とは、江戸時代前期、[[大坂]]の[[竹本義太夫]]がはじめた[[浄瑠璃]]の一種。略して'''義太夫'''(ぎだゆう)ともいう。国の[[重要無形文化財]]。
== 概説 ==
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17世紀末に成立し、[[播磨節]]、[[嘉太夫節]]、[[小唄]]などを融合した豪快で華麗な曲節が特徴。近代では[[豊竹山城少掾]]が芸格を広めた([[山城風]])。[[人形浄瑠璃]]の伴奏に、またそれを元にした[[歌舞伎]]の[[丸本歌舞伎|義太夫狂言]](丸本歌舞伎)の伴奏に用いられる。なお、浄瑠璃は義太夫節のことであるという説明が往々にして見られるが、これは誤りである。義太夫節はあくまでも浄瑠璃の一流派であって、同一のものではない。
*成立については、項目[[浄瑠璃]]を参照。
*人形浄瑠璃および文楽における位置づけについては、項目[[文楽]]を参照。
== 主要現行演目 ==
=== 時代物 ===
*[[芦屋道満大内鑑]](葛の葉)
*[[鍵屋の辻の決闘|伊賀越道中双六]](伊賀越)
*[[一谷嫩軍記]](一の谷)
*[[妹背山婦女庭訓]](妹背山)
*[[いろは仮名四十七訓]](弥作の鎌腹)
*[[いろは物語]](貧女の一燈)
*[[絵本太功記]](太功記)
<!--*[[役行者大峰桜]]([[役行者]])-->
*[[奥州安達原]](安達原)
*[[近江源氏戦陣館]](近江源氏)
*[[大江山酒呑童子]](酒呑童子)
*[[大塔宮曦鎧]](身替り音頭)
*<!--[[小野道風青柳硯]]([[小野道風]])-->
*[[加賀見山旧錦絵]](鏡山)
*[[加々見山廓写本]](鳥井又助)<ref group="注釈">この『加々見山廓写本』は、現行では『加賀見山旧錦絵』の外題で上演されている。</ref>
=== 世話物 ===
[[近松門左衛門]]の作品<ref> 『近松門左衛門集2』校注・訳 鳥越文蔵、小学館(日本古典文学全集)1992年、ただしこの文献には、本文列挙作品のうち「曽根崎心中」が含まれていない。</ref>。
*[[冥途の飛脚]](梅川忠兵衛)
*[[大経師昔暦]](おさん茂兵衛)
*[[鑓の権三重帷子]](鑓の権三)
*[[博多小女郎浪枕]](毛剃)
*[[心中天網島]](天網島)
*[[女殺油地獄]]
*[[曽根崎心中]](お初徳兵衛)
他の作者の作品。
*[[伊勢音頭恋寝刃]](伊勢音頭)
*[[五十年忌歌念仏]](お夏清十郎)
*[[新版歌祭文]](お染久松)
<!--*[[隅田川続俤]]([[法界坊]])-->
*[[伊達娘恋緋鹿子]](八百屋お七)
*[[東海道四谷怪談]](四谷怪談)
*[[夏祭浪花鑑]](夏祭)
=== 景事物(舞踊曲) ===
*二人三番叟
*蝶の道行
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== 演出面から見た人形浄瑠璃と丸本歌舞伎 ==
この分野での研究は、まだ緒に就いたばかりである<ref>井之浦茉里、「[https://hdl.handle.net/10083/49290 同一演目における浄瑠璃の表現]」『大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」活動報告書』 2010年 平成21年度 海外教育派遣事業編号 p.250-254, お茶の水女子大学大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」事務局</ref>。現在、[[文楽]](人形浄瑠璃)と[[歌舞伎]]の義太夫節<ref>[http://www.kabuki-music.com/takemoto/takemoto-main.htm (歌舞伎)竹本と呼ばれる]</ref>は、人的に別の流れである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[近世邦楽]]
* [[歌舞伎]]
* [[女義太夫]]
* [[太棹]]
* [[安原仙三]]
* [[浄瑠璃]]
* [[文楽]]
* [[寝床]] - 義太夫を題材にした落語
== 外部リンク ==
* [http://www.gidayu.or.jp/ 義太夫協会] - 義太夫節の向上普及・発展を目的とする団体(団体公式サイト)
* [https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k13111670 1900年録音の義太夫節] - [[フランス国立図書館]]蔵、日本の歌の世界初の音源として録音されたもののひとつで、「[[本朝廿四孝]] 十種香の段」の八重垣姫の一節が歌われる(1分50秒より)
* 神津武男、「[https://hdl.handle.net/2065/00056927 江戸板六行本「大字遊下本」の効用 -義太夫節・人形浄瑠璃文楽の現行本文の成立時期を辿る手掛かりとして-]」『早稲田大学高等研究所紀要』 2018年 10巻 p.230-171
*{{kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)|義太夫節}}
*{{kotobank|2=朝日新聞掲載「キーワード」|義太夫}}
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16,880 |
一中節
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一中節(いっちゅうぶし)は浄瑠璃の一種。また古曲の一。国の重要無形文化財。
初代都太夫一中(1650年~1724年)が元禄から宝永ごろにかけて京都において創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指したところに特色がある。三味線は中棹を用い、全体的に上品かつ温雅、重厚を以てその特徴とする。
当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人にひろく愛好されたが、後に江戸に下って歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、ふたたび主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている。一中節自体ははやい時期に細い流れとなってしまったが、ここから出た豊後節および豊後節三流が邦楽に与えた影響ははかりしれない。
家元は歴代都一中を名乗っている。当代で十二代目である。
近年の名手としては、浄瑠璃に二代目都一広、都一いき、宇治紫文、三味線に十一代都一中などがあげられる。
また、都一中を家元とする『都派』の他に、箏曲の山田流と関係が深い『宇治派』、その他に『菅野派』があり、それぞれに活動している。
一中節は1993年に重要無形文化財に指定され、一中節保存会会員が重要無形文化財の保持者として総合認定された。重要無形文化財保持者として各個認定された者(いわゆる人間国宝)は、浄瑠璃が都一広(二代目)、都一いき、宇治紫文(七代目)、三味線が都一中(十一代目)、宇治文蝶である。以上のうち2010年時点で現役であるのは宇治紫文(七代目)と宇治文蝶で、いずれも宇治派の演者である。
演目は以下のとおりである(主に通称による)。
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一中節(いっちゅうぶし)は浄瑠璃の一種。また古曲の一。国の重要無形文化財。 初代都太夫一中(1650年~1724年)が元禄から宝永ごろにかけて京都において創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指したところに特色がある。三味線は中棹を用い、全体的に上品かつ温雅、重厚を以てその特徴とする。 当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人にひろく愛好されたが、後に江戸に下って歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、ふたたび主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている。一中節自体ははやい時期に細い流れとなってしまったが、ここから出た豊後節および豊後節三流が邦楽に与えた影響ははかりしれない。
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{{出典の明記|date=2016年8月3日 (水) 04:49 (UTC)}}
'''一中節'''(いっちゅうぶし)は[[浄瑠璃]]の一種。また[[古曲]]の一。国の[[重要無形文化財]]。
初代[[都太夫一中]](1650年~1724年)が[[元禄]]から[[宝永]]ごろにかけて京都において創始した。先行する[[浄瑠璃]]の長所を取入れ、当時勃興してきた[[義太夫節]]とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指したところに特色がある。[[三味線]]は[[中棹]]を用い、全体的に上品かつ温雅、重厚を以てその特徴とする。
当初は[[上方]]の御座敷浄瑠璃として出発し、世人にひろく愛好されたが、後に[[江戸]]に下って[[歌舞伎]]の伴奏音楽としても用いられた。その後、ふたたび主として[[素浄瑠璃]]専門となって現代に至っている。[[上方]]では早く衰退し、現在では[[東京]]を中心に伝承されている。一中節自体ははやい時期に細い流れとなってしまったが、ここから出た[[豊後節]]および[[豊後節三流]]が邦楽に与えた影響ははかりしれない。
== 家元・名人 ==
家元は歴代[[都一中]]を名乗っている。当代で十二代目である。
近年の名手としては、浄瑠璃に二代目[[都一広]]、[[都一いき]]、[[宇治紫文]]、三味線に十一代[[都一中]]などがあげられる。
また、都一中を家元とする『都派』の他に、[[箏曲]]の[[山田流]]と関係が深い『宇治派』、その他に『菅野派』があり、それぞれに活動している。
一中節は1993年に重要無形文化財に指定され、一中節保存会会員が重要無形文化財の保持者として総合認定された。重要無形文化財保持者として各個認定された者(いわゆる[[人間国宝]])は、浄瑠璃が都一広(二代目)、都一いき、宇治紫文(七代目)、三味線が都一中(十一代目)、宇治文蝶である。以上のうち2010年時点で現役であるのは宇治紫文(七代目)と宇治文蝶で、いずれも宇治派の演者である。
== 演目 ==
演目は以下のとおりである(主に通称による)。
* '''ア行''' [[葵の上]]、[[朝日山]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}、[[芦刈 (一中節)|芦刈]]、[[安宅勧進帳]]、[[安宅道行]]、[[雨緋桜]]
* '''カ行''' [[粟の段]]、[[家桜傾城姿]]、[[石の枕]]、[[岩根の松]]、[[鵜飼石和川]]、[[空穂猿]]、[[浦島]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}、[[絵島生島]]、[[江戸紫]]、[[老松]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}、[[大江山具足揃]]、[[沖中川恋俤]]、[[お夏笠物狂]]、[[尾上の雲賤機帯]]、[[尾波瀬の井]]、[[神楽高砂]]、[[かくし新屋敷の段]]、[[かくし墓所の段]]、[[桂川連理柵]]、[[唐崎心中]]、[[唐和錦織]]、[[唐船]]、[[かわず]]、[[邯鄲 下巻]]、[[甲子]]、[[木更津音頭]]、[[きぬた衣]]、[[銀鱗]]、[[競牡丹]]、[[廓の寿]]、[[呉羽]]、[[廓帯引]]、[[廓文]]、[[蜘蛛の糸]]、[[傾城浅間嶽]]、[[稽首国道行]]、[[源氏十二段浄瑠璃供養]]、[[源平妹背の鶏合]]、[[香尽五町曙]]、[[小鍛冶]]、[[五重塔]]、[[寿三番叟]]、[[寿獅子]]、[[此頃草]]、[[小春髪結の段]]、[[小町少将道行]]
* '''サ行''' [[嵯峨詣]]、[[咲きつぐ花]]、[[皐月前道行]]、[[三番叟]]、[[塩竈]]、[[式三番岩戸神楽]]、[[四季の夢]]、[[七騎落]]、[[品川八景]]、[[信田妻]]、[[忍草]]、[[自然居士過去物語]]、[[釈迦八相記]]、[[石橋]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}、[[祝言七つ文字]]、[[宗論 (狂言)|宗論]]、[[俊寛鬼界の残菊]]、[[猩々]]、[[少将道行]]、[[末広 (狂言)|末広]]、[[墨絵の島台]]、[[隅田川舟の内]]、[[住吉物狂]]、[[関寺小町]]、[[殺生石]]、[[蝉丸道行]]、[[蝉丸山入]]、[[千手重衡]]、[[草子洗]]、[[曾我記念贈]]、[[曾我駒の涙]]、[[園生の松]]
* '''タ行''' [[泰平車尽]]、[[泰平船尽]]、[[高砂松の段]]、[[竜の口]]、[[辰巳の四季]]、[[卵酒|玉子酒]]、[[田村丸]]、[[丹波与作夢路駒]]、[[誓網島]]、[[竹生島]]、[[千歳の春]]、[[千鳥 (狂言)|千鳥]]、[[月影]]、[[月見酒]]、[[常世開運]]、[[常世発馬]]、[[釣狐千種栄]]、[[天の網島]]、[[湯治土産]]、[[道成寺]]、[[常盤御前妹が宿]]、[[常盤御前道行]]、[[鳥追舟]]
* '''ナ行''' [[那須野]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}、[[業平河内通]]、[[根曳の門松]]、[[法の舟]]
* '''ハ行''' [[橋弁慶]]、[[鉢たたき]]、[[鉢の木]]、[[初音]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}、[[初幟]]、[[花子]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}}、[[花照姫道行]]、[[花の段]]、[[花紅葉錦廓]]、[[春の眺]]、[[班女]]、[[日向景清]]、[[東山掛物揃]]、[[藤戸物語]]、[[二重帯名護屋結]]、[[双子隅田川]]、[[武勇万歳]]
* '''マ行''' [[松襲]]、[[松風]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}、[[松島八景]]、[[松尽]]、[[松の祝]]、[[松の寿]]、[[松羽衣]]、[[松の春]]、[[豆蒔]]、[[水の上]]、[[道行三度笠]]、[[都見物左衛門]]、[[都鳥]]、[[都若衆万歳]]、[[葎の夢]]、[[恵の春]]、[[望月]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}、[[紅葉狩]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}、[[桃の寿]]、[[盛久道行]]
* '''ヤ行''' [[柳の前道行]]、[[山伏摂待]]、[[夕霞浅間嶽]]、[[雪まろげ]]、[[熊野]]、[[楊貴妃]]、[[用明天皇道行]]、[[養老]]、[[万屋助六道行]]
* '''ラ行''' [[頼光山入の段]]、[[頼光衣洗の段]]、[[頼光童子対面の段]]、[[蓮生道行]]
* '''ワ行''' [[椀久道行]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[浄瑠璃]]
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ウル (北欧神話)
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ウル(ウッル、ウッルル。古ノルド語:Ullr、「光輝」の意)は、北欧神話の神。狩猟、弓術、スキー、決闘の神。
シヴの息子で、トールの義理の子にあたり、ユーダリル(Ýdalir:「イチイの谷」の意)というところに住む。なお、イチイは弓やスキーの材料であり、ルーン文字・エイワズ[]であらわされる。
『デンマーク人の事績』にはオレルス (Ollerus) という名前で登場する。彼は呪文を刻んだ骨を船とし、海を渡る魔術師とされている。オーティヌス(オーディン)がロシアの王女リンド を騙して孕ませたことを恥と考えた神々はオーティヌスを追放し、その名と地位をオレルスに引き継がせ、汚名をすすごうとした。彼は10年その地位にあったが、オーティヌスが賄賂で再び地位を買い戻したために王位を追われた。その後、スウェーデンに退いたが、デンマーク人に殺された。
『デンマーク人の事績』でウルが追われて行ったスウェーデンのウップランドを中心とする地方およびノルウェー南東部にウルに由来する地名が多く残されており、かなりの崇拝された神だったようである。地名には「耕地」や「牧草地」を意味する語との複合語が見られ、これは豊穣に関連するものと考えられており、元来は狩猟や決闘に留まらず、より高い地位にある天空神だったと推定されている。
彼の地位の高さを裏付けるものとして「ウルとあらゆる神々の恩寵を受ける」という表現がある。
また「南の太陽や勝利の神(オーディン)の岩と寝室と、ウルの腕輪にかけてしばしば誓った通りに」という表現もある。
自分と同じように弓とスキーを得意とする女巨人のスカジと出会い、彼女の父が遺した館トリムヘイムで一緒に暮らしたという伝承も残されている。
スカルド詩ではウルについてのケニングとして、「スキーのアース」「弓のアース」「狩のアース」「楯のアース」などが用いられている。
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ウルは、北欧神話の神。狩猟、弓術、スキー、決闘の神。 シヴの息子で、トールの義理の子にあたり、ユーダリルというところに住む。なお、イチイは弓やスキーの材料であり、ルーン文字・エイワズ[]であらわされる。 『デンマーク人の事績』にはオレルス (Ollerus) という名前で登場する。彼は呪文を刻んだ骨を船とし、海を渡る魔術師とされている。オーティヌス(オーディン)がロシアの王女リンド を騙して孕ませたことを恥と考えた神々はオーティヌスを追放し、その名と地位をオレルスに引き継がせ、汚名をすすごうとした。彼は10年その地位にあったが、オーティヌスが賄賂で再び地位を買い戻したために王位を追われた。その後、スウェーデンに退いたが、デンマーク人に殺された。 『デンマーク人の事績』でウルが追われて行ったスウェーデンのウップランドを中心とする地方およびノルウェー南東部にウルに由来する地名が多く残されており、かなりの崇拝された神だったようである。地名には「耕地」や「牧草地」を意味する語との複合語が見られ、これは豊穣に関連するものと考えられており、元来は狩猟や決闘に留まらず、より高い地位にある天空神だったと推定されている。 彼の地位の高さを裏付けるものとして「ウルとあらゆる神々の恩寵を受ける」という表現がある。 また「南の太陽や勝利の神(オーディン)の岩と寝室と、ウルの腕輪にかけてしばしば誓った通りに」という表現もある。 自分と同じように弓とスキーを得意とする女巨人のスカジと出会い、彼女の父が遺した館トリムヘイムで一緒に暮らしたという伝承も残されている。 スカルド詩ではウルについてのケニングとして、「スキーのアース」「弓のアース」「狩のアース」「楯のアース」などが用いられている。
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[[ファイル:Olaus Magnus - On Invocators of the Sea.jpg|thumb|right|200px|[[オラウス・マグヌス]]の著作に描かれた、魔法使いのHoller(ウルに相当する)が動物の骨に乗り、海を渡って旅する様子。]]
'''ウル'''('''ウッル'''、'''ウッルル'''。[[古ノルド語]]:'''Ullr'''、「光輝」の意)は、[[北欧神話]]の[[アース神族|神]]。狩猟、[[弓術]]、[[スキー]]、[[決闘]]の神。
[[シヴ]]の息子で、[[トール]]の義理の子にあたり<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』248頁(「ギュルヴィたぶらかし」31章)</ref>、[[ユーダリル]](''Ýdalir'':「イチイの谷」の意)というところに住む<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』52頁(「グリームニルの言葉」第5節</ref>。なお、[[イチイ]]は弓やスキーの材料であり<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』58頁、訳注10。</ref>、[[ルーン文字]]・エイワズ[[[image:Runic_letter_iwaz.png|10px|]]]<!--←もう少し上に上がってくれればいいんですが-->であらわされる。
『[[デンマーク人の事績]]』には'''オレルス''' (''Ollerus'') という名前で登場する。彼は呪文を刻んだ骨を船とし、海を渡る魔術師とされている。オーティヌス([[オーディン]])がロシアの王女[[リンド (北欧神話)|リンド]] を騙して孕ませたことを恥と考えた神々はオーティヌスを追放し、その名と地位をオレルスに引き継がせ、汚名をすすごうとした。彼は10年その地位にあったが、オーティヌスが賄賂で再び地位を買い戻したために王位を追われた。その後、[[スウェーデン]]に退いたが<!--君主となったものの-->、[[デンマーク]]人に殺された<ref>『[[デンマーク人の事績]]』109-110頁。</ref>。
『デンマーク人の事績』でウルが追われて行ったスウェーデンの[[ウップランド]]を中心とする地方および[[ノルウェー]]南東部にウルに由来する地名が多く残されており、かなりの崇拝された神だったようである。地名には「耕地」や「牧草地」を意味する語との複合語が見られ、これは豊穣に関連するものと考えられており、元来は狩猟や決闘に留まらず、より高い地位にある天空神だったと推定されている<ref>菅原、p.238。</ref>。
彼の地位の高さを裏付けるものとして「'''ウルとあらゆる神々の恩寵を受ける'''」という表現がある<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』56頁(「グリームニルの歌」第42節)</ref>。
また「南の太陽や勝利の神(オーディン)の岩と寝室と、'''ウルの腕輪にかけてしばしば誓った通りに'''」という表現もある<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』178頁(「グリーンランドのアトリの歌」第30節)</ref>。
自分と同じように弓とスキーを得意とする[[山の巨人|女巨人]]の[[スカジ (北欧神話)|スカジ]]と出会い、彼女の父が遺した館[[スリュムヘイム|トリムヘイム]]で一緒に暮らしたという伝承も残されている<ref>『北欧の神話伝説(II)』8-12頁。(ただし原典の説明は無い)</ref>。
[[スカルド詩]]ではウルについての[[ケニング]]として、「スキーのアース」「弓のアース」「狩のアース」「楯のアース」などが用いられている<ref>『「詩語法」訳注』23頁。</ref>。
[[ファイル:AM 738 4to, 39v, BW Ullr.jpeg|thumb|left|130px|17世紀のアイスランド語の写本『[[AM 738 4to]]』より、ウル。]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<div class="references-small">{{reflist|2}}</div>
== 参考文献 ==
* [[サクソ・グラマティクス]]著『[[デンマーク人の事績]]』[[谷口幸男]]訳、[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、1993年。
* [[菅原邦城]]『北欧神話』、[[東京書籍]]、1984年。
* 「[[スノッリ・ストゥルルソン|スノリ]]『エッダ』「[[詩語法]]」訳注」『[[広島大学]]文学部紀要』第43巻No.特輯号3、谷口幸男訳、1983年。
* V.G.ネッケル他編『エッダ 古代北欧歌謡集』[[谷口幸男]]訳、[[新潮社]]、1973年、ISBN 978-4-10-313701-6。
* [[松村武雄]]編『北欧の神話伝説(II)』[[名著普及会]]〈世界神話伝説大系30〉、1980年改訂版、ISBN 978-4-89551-280-0。
== 関連項目 ==
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*[[ユーダリル]]
*[[マタギ]]
*[[山の神]]
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[[Category:北欧神話の神]]
[[Category:狩猟神]]
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16,888 |
八橋検校
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八橋検校(やつはし けんぎょう、慶長19年(1614年) - 貞享2年6月12日(1685年7月13日))は、近世中期の日本で生きた人物である。江戸時代前期の音楽家であり、検校を務めた。出身は諸説あるが、山田松黒が安永8年(1779年)に記した『箏曲大意抄(そうきょくすすたいいしょう)』より陸奥国磐城(明治期の磐城国、現・福島県いわき市)が定説とされている。他に摂津国(現・大阪府北中部、ほか)とする説もある。名は磐城説で城談(じょうだん)、摂津説で城秀(じょうしゅう)。
八橋検校は、寛永年間(1624-1645年)の初め頃、摂津で城秀と称して三味線の分野で活躍した。その後、江戸にくだり、筑紫善導寺の僧・法水に師事して筑紫流箏曲を学んだ。この箏曲を基に現在の日本の箏の基礎を作り上げた。独奏楽器としての楽器や奏法の改良、段物などの楽式の定型化など、箏曲の発展に努めた。代表作に組歌の『梅が枝(うめがえ)』、『菜蕗(ふき)』、『心尽し』、『雲井の曲(くもいのきょく)』などがあり、また、段ものの『六段の調』、『乱(みだれ)』(乱輪舌[みだれ りんぜつ])、『八段の調』も八橋の作と伝えられている。寛永13年(1636年)に上洛し、母親が俳人・藤本箕山(ふじもと きざん、畠山箕山)配下の山住(やまずみ)某(なにがし)に扶持されていたことにちなんで山住勾当(やまずみ こうとう)を名乗った。1639年〈寛永16年)にも再び上洛して上永検校と称し、さらにのち、八橋検校と改めた。
その芸術は高く評価され、磐城平藩専属の音楽家として五人扶持で召し抱えられたこともある。胡弓、三味線の名手でもあり、胡弓の弓の改良も行っている。
京都の銘菓として知られる「八ツ橋」は八橋検校に由来するとされる説がある。八橋検校の死後にその業績を偲んで、箏の形を模した作られた堅焼き煎餅を「八ツ橋」と名付けたと伝えられている。ただし発祥には異説も存在し、いずれの説も正確性が保証されていない。
八橋検校がそれまでの様々な中世の箏歌を基礎にして生み出した音楽のジャンルで、江戸時代に盛んに行なわれていた。箏組歌は全部で三十数曲あり、「若葉」「橋姫」など、その半数ほどが『源氏物語』を典拠としたもの。箏組歌「若葉」は「若紫」の巻に登場する和歌6首をもとに、「橋姫」は宇治十帖の「橋姫 (源氏物語)」巻から「浮舟 (源氏物語)」巻までの和歌をもとに作られている。
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八橋検校は、近世中期の日本で生きた人物である。江戸時代前期の音楽家であり、検校を務めた。出身は諸説あるが、山田松黒が安永8年(1779年)に記した『箏曲大意抄(そうきょくすすたいいしょう)』より陸奥国磐城(明治期の磐城国、現・福島県いわき市)が定説とされている。他に摂津国(現・大阪府北中部、ほか)とする説もある。名は磐城説で城談(じょうだん)、摂津説で城秀(じょうしゅう)。
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[[File:Tomb of Yatsuhasi-kengyo in Konkai-komyo-ji, Kyoto.JPG|thumb|250px|[[金戒光明寺]]にある八橋検校の墓]]
'''八橋検校'''(やつはし けんぎょう、[[慶長]]19年([[1614年]]) - [[貞享]]2年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]([[1685年]][[7月13日]]))は、[[近世]]中期の[[日本]]で生きた人物である<!--WP:POV-->。[[江戸時代]]前期の[[音楽家]]であり、[[検校]]を務めた。出身は諸説あるが、山田松黒が[[安永]]8年([[1779年]])に記した『箏曲大意抄(そうきょくすすたいいしょう)』より[[陸奥国]]磐城([[明治]]期の[[磐城国]]、現・[[福島県]][[いわき市]])が定説とされている。他に[[摂津国]](現・[[大阪府]]北中部、ほか)とする説もある。名は磐城説で'''城談'''(じょうだん)、摂津説で'''城秀'''(じょうしゅう)。
== 人物・来歴 ==
八橋検校は、[[寛永]]年間([[1624年|1624]]-[[1645年]])の初め頃、[[摂津国|摂津]]で城秀と称して[[三味線]]の分野で活躍した。その後、[[江戸]]にくだり、[[筑紫国|筑紫]][[善導寺 (久留米市)|善導寺]]の[[僧]]・[[法水]]に師事して筑紫流[[箏曲]]を学んだ。この箏曲を基に現在の日本の[[箏]]の基礎を作り上げた。[[独奏楽器]]としての[[楽器]]や[[奏法]]の改良、[[段物]]などの[[楽式]]の定型化など、箏曲の発展に努めた。代表作に組歌の『[[梅が枝]](うめがえ)』、『[[菜蕗 (箏曲)|菜蕗]](ふき)』、『[[心尽し]]』、『[[雲井の曲]](くもいのきょく)』などがあり、また、段ものの『[[六段の調]]』、『[[乱 (箏曲)|乱]](みだれ)』(乱[[輪舌]][みだれ りんぜつ])、『[[八段の調]]』も八橋の作と伝えられている。寛永13年([[1636年]])に[[上洛]]し、母親が[[俳人]]・[[藤本箕山]](ふじもと きざん、畠山箕山)配下の山住(やまずみ)某(なにがし)<!--WP:POV|※日本人以外の日本語理解者には難易度高い表現(改変無きよう)-->に[[扶持]]されていたことにちなんで'''山住勾当'''<ref>[[勾当]](こうとう) :[[当道座]]に属した[[盲官]](盲人の役職)の官位には、検校・[[別当]]・勾当・[[座頭]]があり、勾当は第3の位階。</ref>(やまずみ こうとう)を名乗った。[[1639年]]〈寛永16年)にも再び上洛して'''上永検校'''<!--(読み必要 けんぎょう)-->と称し、さらにのち、'''八橋検校'''と改めた。
その芸術は高く評価され、[[磐城平藩]]専属の音楽家として五人扶持で召し抱えられたこともある。[[胡弓]]、三味線の名手でもあり、胡弓の[[弓 (楽器)|弓]]の改良も行っている。
== 銘菓・八ツ橋 ==
[[京都]]の[[土産菓子#銘菓・名菓|銘菓]]として知られる「[[八ツ橋]]」は八橋検校に由来するとされる説がある<ref name="kotolog">{{Cite web|和書|url=https://wagashi.kotolog.jp/story/yatsuhashi/ |title=華麗なる八ッ橋 |publisher=コトログ京都 和菓子 |accessdate=2020-10-23}}</ref>。八橋検校の死後にその業績を偲んで、箏の形を模した作られた堅焼き[[煎餅]]を「八ツ橋」と名付けたと伝えられている<ref name="kotolog" />。ただし発祥には異説も存在し、いずれの説も正確性が保証されていない。
{{main|八ツ橋}}
== 箏組歌 ==
八橋検校がそれまでの様々な中世の箏歌を基礎にして生み出した音楽のジャンルで、江戸時代に盛んに行なわれていた<ref name=hosei>{{Cite journal|和書|author=タイラー・ロイヤル|author2=天野紀代子|author3=ネルソン・スティーヴン G.|author4=阿部真弓 |url=https://hdl.handle.net/10114/9403 |title=シンポジウム 『源氏物語』の魅力 |journal=日本文学誌要 |ISSN=02877872 |publisher=法政大学国文学会 |date=2008-03 |volume=77 |pages=2-33 |naid=120005479123}}</ref>。箏組歌は全部で三十数曲あり、「若葉」「橋姫」など、その半数ほどが『源氏物語』を典拠としたもの<ref name=hosei/>。箏組歌「若葉」は「[[若紫]]」の巻に登場する[[和歌]]6首をもとに、「橋姫」は[[宇治十帖]]の「[[橋姫 (源氏物語)]]」巻から「[[浮舟 (源氏物語)]]」巻までの和歌をもとに作られている。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[邦楽]]
* [[江戸時代の人物一覧]]
* [[日本のクラシック音楽の作曲家一覧]]
* [[吉沢検校]]
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書|date=
|url=http://www.shogoin.co.jp/yatsuhashi/history/index.html |title=八ッ橋の歴史:八ッ橋の誕生
|work=(公式ウェブサイト)|publisher=聖護院八ツ橋総本店 |accessdate=2015年2月16日}}
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16,892 |
シヴ
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シヴ(古ノルド語: Sif, シフとも)とは、北欧神話に登場する女神である。アース神族に属している。
『古エッダ』の「ロキの口論」の序文によるとトールの妻で、『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第31章によるとウルの実の母である。
『スノッリのエッダ』第二部『詩語法』によると、美しい金髪を自慢にしていたが、ロキに悪戯で刈り取られてしまう。その後、ドヴェルグ族の「イーヴァルディの子ら」に、それを被ると頭にくっついて本物の髪の毛になってしまうという黄金製のかつらを作ってもらった。この出来事によって、スカルド詩などで黄金に対して用いるケニング「シヴの髪」が生まれたという。
また『詩語法』では、「トールの妻」「ウルの母」「美髪の女神」などの他、「ヤールンサクサのライバル」というケニングも紹介している。
古い記述が少ないため何の女神かはよくわかっていない。金髪を刈り取られる説話は、穀物を収穫した後の冬の畑の情景を表現しているとも考えられている。
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シヴとは、北欧神話に登場する女神である。アース神族に属している。
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'''シヴ'''<ref>『[[#ネッケル他編, 谷口訳 (1973)|エッダ - 古代北欧歌謡集]]』などにみられる表記。</ref>({{lang-non|Sif}}, '''シフ'''<ref>『北欧の神話 - 神々と巨人のたたかい』([[山室静]]著、[[筑摩書房]]〈世界の神話 8〉、1982年、ISBN 978-4-480-32908-0)などにみられる表記。</ref>とも<!--その名前は「姻戚関係」の意味?-->)とは、[[北欧神話]]に登場する[[女神]]である。[[アース神族]]に属している。
== 解説 ==
『[[古エッダ]]』の「ロキの口論」の序文によると[[トール]]の妻<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳 (1973)|ネッケル他編, 谷口訳 (1973)]]、80頁。</ref>で、『[[スノッリのエッダ]]』第一部『[[ギュルヴィたぶらかし]]』第31章によると[[ウル (北欧神話)|ウル]]の実の母<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳 (1973)|ネッケル他編, 谷口訳 (1973)]]、248頁。</ref>である。
[[ファイル:Sif by Dollman.jpg|thumb|right|180px|[[:en:John Charles Dollman|John Charles Dollman]]が描いたシヴ。遠景に、彼女の金髪を狙うロキが描かれている。]]
『スノッリのエッダ』第二部『[[詩語法]]』によると、美しい[[金髪]]を自慢にしていたが、[[ロキ]]に悪戯で刈り取られてしまう。その後、[[ドワーフ|ドヴェルグ]]族の「[[イーヴァルディ]]の子ら」に、それを被ると頭にくっついて本物の髪の毛になってしまうという[[金|黄金]]製の[[かつら (装身具)|かつら]]を作ってもらった。この出来事によって、[[スカルド詩]]などで[[金|黄金]]に対して用いる[[ケニング]]「シヴの髪」が生まれたという<ref>[[#スノッリ, 谷口訳注 (1983)|スノッリ, 谷口訳注 (1983)]]、41-43頁。</ref>。
また『詩語法』では、「トールの妻」「ウルの母」「美髪の女神」などの他、「[[ヤールンサクサ]]のライバル」というケニングも紹介している<ref>[[#スノッリ, 谷口訳注 (1983)|スノッリ, 谷口訳注 (1983)]]、30頁。</ref>。
古い記述が少ないため何の女神かはよくわかっていない。金髪を刈り取られる説話は、穀物を収穫した後の冬の畑の情景を表現しているとも考えられている<ref>[[#コットレル (1999)|コットレル (1999)]]、407頁。</ref>。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
=== 原典資料 ===
* 『古エッダ』、『ギュルヴィたぶらかし』
** {{Cite book |和書 |editor=V.G.ネッケル他編 |others=[[谷口幸男]]訳 |title=エッダ - 古代北欧歌謡集 |publisher=[[新潮社]] |date=1973-08 |isbn=978-4-10-313701-6 |ref=ネッケル他編, 谷口訳 (1973) }}
* 『詩語法』
** {{Cite journal |和書 |author=[[スノッリ・ストゥルルソン]] |author2=谷口幸男訳注 |title=スノリ『エッダ』「詩語法」訳注 |journal=[[広島大学]]文学部紀要 |volume=第43巻No.特輯号3 |date=1983-12 |naid=40003290104 |ref=スノッリ, 谷口訳注 (1983) }}
=== 二次資料 ===
* {{Cite book |和書 |last=コットレル |first=アーサー |authorlink=アーサー・コットレル |others=[[松村一男]]、[[蔵持不三也]]、米原まり子訳 | title=ビジュアル版世界の神話百科 - ギリシア・ローマ/ケルト/北欧 |publisher=[[原書房]] |date=1999-10 |isbn=978-4-562-03249-5 |ref=コットレル (1999) }}
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B4
|
16,893 |
ウル
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ウル(Ur)は古代メソポタミア南部にあった古代都市。ウバイド期(紀元前6500年~紀元前3800年頃)には人が居住し、紀元前三千年紀にはウル第1王朝が始まった。紀元前一千年紀に入ると新アッシリア帝国及び新バビロニア帝国の支配を受けたが、紀元前5世紀のアケメネス朝の時代に入ると衰退。長らく忘却されていたが、紀元19世紀に入って発掘・再発見された。
現在のイラク南部、ジーカール県のテル・エル=ムッケイヤル(Tell el-Muqayyar、アラビア語: تل المقير)が古代のウルである。ウルはシュメールの重要な都市国家であった。ウルはかつてユーフラテス川がペルシア湾に注ぐ河口そばに位置する都市であったが、現在では海岸線が移動し内陸となっている。ウルはユーフラテス川南岸にあり、現代のイラクの都市ナーシリーヤから16キロメートルの位置にある。
ウルは前3800年頃のウバイド期に創建され、前2600年頃に都市国家として文字史料に記録されている。初めて文字史料に登場する王はメスアンネパダである。
ウルの守護神はシュメールとアッカド(アッシリア・バビロニア)の月神ナンナ(アッカド語:シン)であり、都市の名前はこの神に由来している。UNUGという名前は文字通りには「ナンナの住まう所(UNUG)」を意味する。
この遺跡には部分的に修復されたウルのジッグラトの遺構が残されている。これはナンナ神殿であると考えられており、1930年代に発掘調査が行われた。このジッグラトは前21世紀(低年代説(英語版))のウル・ナンム王の治世中に建設され、前6世紀にバビロンの王ナボニドゥスによって再建された。ジッグラトの遺構は南北1,200メートル、東西800メートルに及び、北東から南西に向けて現在の平野の面から約20メートルの高さになっている。
英語ではUr[ʊər]、シュメール語ではUrim、シュメール語楔形文字(英語版)では𒋀𒀕𒆠URIM2または𒋀𒀊𒆠 URIM5、アッカド語ではUru、 アラビア語: أور、 ヘブライ語: אורなどとなっている。
ウル市はウル・ナンムによって都市計画が行われたと言われている。明確に分割された地区にわかれており、商人はその地区の1つに、職人もまた別の地区に居住していた。大通りと狭い路地があり、人々が集まるための広場もあった。数多くの水利(英語版)・治水設備によってこれらの地区が存在したことが示されている。
家々は泥レンガ(英語版)と泥の漆喰で建てられた。重要な建物は瀝青と葦で補強されたレンガが用いられた。ほとんど全ての基礎部分は現存している。人々はその死後、自宅の床下の間や立坑に埋葬された(一人ずつ別々に埋葬され、時には宝石や土器、武器などが副葬された)。
ウルは高さ8メートル、幅約25メートルの市壁に囲まれ、粘土壁で囲われたいくつかの地区があった。建物が城壁に組み込まれた場所もあった。ユーフラテス川が都市の西側の防御を補完していた。
ウルがメソポタミア平野におけるシュメールおよびアッカドの主たる中心都市であったことは考古学的な発見によって明白となっている。特に、王墓群の発見はその栄華を証明している。この王墓群は初期王朝時代第3a期(おおよそ前25世紀から前24世紀)に年代づけられ、貴金属や半貴石で作られた装身具など、膨大な量の奢侈品が埋納されていた。こうした貴金属類や半貴石は全て遠隔地(イラン(英語版)、アフガニスタン、インド、小アジア、レヴァント、ペルシア湾)から輸入しなければならないものであった。当時において比類の無いこの富は、初期青銅器時代におけるウルの経済的重要性を証明するものである。
この地域における考古学的研究は、古代の景観と長距離間の交流に対する理解にも大きく貢献している。ウルは、当時において現在よりも内陸まで入り込んでいたペルシア湾にあった主要な港の1つであり、メソポタミアにもたらされる交易の多くを支配していた。ウルにもたらされる輸入品(英語版)は世界各地からやってきた。こうした輸入品には金や銀のような貴金属、ラピスラズリやカーネリアン(紅玉髄)のような宝石もあった。
ウルには奴隷(外国人捕虜)、農民、職人、医師、書記、神官などからなる階層化された社会機構が存在したと考えられる。上級の神官は明らかに巨大な富を享受し、邸宅に居住していた。
契約・商業記録・宮廷文書など、数万にものぼる楔形文字文書がこの都市の複雑な経済および法制度を記録している。これらの文章は神殿群、宮殿、そして個々人の住宅から発見された。
1929年のウルク旧市街の発掘で現代のハープに似たリュラー(竪琴)が発見された。弦の数は11本で頂部が雄牛の形状をしている。
ウルが創建された頃、ペルシア湾の水位は現在よりも2.5メートル高かった。ウルは周囲を沼沢地に囲まれていたと考えられる。灌漑は必要とされず、ウルにあった運河網は輸送に使用されていたであろう。しばしば都市化に必要な前提条件としてよく仮定される農業革命を要することなく、魚、鳥、塊茎、そして葦がウルを経済的に支えていたのかもしれない。
考古学者たちによってウバイド期(前6500年頃-前3800年頃)のウルにおける初期の居住の痕跡が発見されている。この初期の層は土壌堆積物(sterile deposit of soil)に覆われていた。1920年代にはこの堆積物は発掘者たちによって『旧約聖書』「創世記」および『ギルガメシュ叙事詩』に描かれた大洪水の証拠であると解釈されていた。現在では南メソポタミア平野がユーフラテス川とティグリス川の恒常的な洪水に晒されて水と風による激しい浸食を受け、このことによってメソポタミア神話の洪水神話が形成され、聖書の大洪水の物語が派生したと理解されている。
ウルにおける更なる居住が明らかになるのは前3千年紀である(ただし、前4千年紀の間には既に都市として発達していたことは間違いない)。前3千年紀の南メソポタミアはシュメール語を第一言語として用いる地域であったが、基本的にシュメール語とアッカド語のバイリンガル地帯であった。シュメール語とアッカド語の相互の影響は広範な語彙の借用、統語論、形態論、音韻的収束等、あらゆる領域において明らかである。このため、学者たちは前3千年紀のシュメール語とアッカド語を「言語連合」として取り扱っている。
青銅器時代のウルの重要性を把握することができる様々な重要な史料が存在する。ウルの王墓(英語版)の豪華な遺構が示しているように、ウル第1王朝(英語版)は大きな富と力を持っていたと思われる。『シュメール王朝表』の中には不正確ながらも古代シュメールの政治史、また特にウルの複数の支配者について記載されている。メスアンネパダは『シュメール王朝表』で言及されている最初のウル王であり、マリで発見されたビーズや、テル・ウバイド出土の碑文にも登場することから、恐らく前26世紀頃に実在した可能性が高いと考えられている。ウルはthe City Sealsと呼ばれる種類の『円筒印章』からわかるように、既に重要な中心的都市であったと思われる。この種の印章は古代メソポタミアの都市国家の名前を書いたもの、あるいはそのシンボルと見られる楔形文字の原型で書かれた一連の記号がある。これらの印章の多くはウルで発見されており、ウルの名前が目立つように書かれている 。
ウルは前24世紀から前22世紀にかけてアッカドの王サルゴンによって建設されたアッカド帝国の支配下に置かれた。サルゴンの死後、リムシュがアッカド王に即位すると、ウル王を称するカクはアダブ、ウンマ、ラガシュなどと共に反乱を起こしたが失敗し、ウルの城壁は破壊された。この反乱の鎮圧について語るリムシュの碑文は、反乱者たちをシュメール(šu-me-ri-mu)と表現しており、これは楔形文字文書において「シュメール」という表現を用いる最古のものである。
アッカド帝国はナラム・シン王の時代に最大の版図を形成したが、その子シャル・カリ・シャッリの死後には『シュメール王朝表』に「誰が王で誰が王ではなかったか」と記録される混乱期に入った。シャル・カリ・シャッリの治世の頃からグティ人、アムル人(マルトゥ)、エラム人の侵入が目立ち始め、特にグティ人とエラム人が重大な脅威となった。この混乱期を経てシュメールの有力都市も次第に自立していき、ウルはウルクの王ウトゥ・ヘガルの勢力下に入った。ウトゥ・ヘガルの配下の将軍としてウルに派遣されたのがウル・ナンムである。ウルを支配するウル・ナンムはやがて自立して「ウルの王」となった。
ウル・ナンムが創設した王朝はウル第3王朝と呼ばれる。ウル・ナンムの治世は前22世紀の末から前21世紀の初頭頃であり、ブリンクマンによる編年では在位期間は前2112年-前2095年である。彼の支配下において、ウルのジッグラトを含む諸神殿が建設され、灌漑を通じて農業生産が向上した。彼の法典、『ウル・ナンム法典』(断片が1952年にイスタンブルで特定された)は知られている限りこの種の文書の中で最も古いものの1つであり、『ハンムラビ法典』に300年先行する。ウル・ナンムとその後継者シュルギは共に在位中に神格化され、死後も英雄的人物とされ続けた。現存するシュメール文学の1つでは、ウル・ナンムの死と冥界への旅が描かれている。
ウル第3王朝はおよそ100年続き、5人の王が統治した。最も強力であったのは第2代のシュルギであった。彼の治世において、この王朝は高度に中央集権化された官僚制国家へと改革され、統治体制が確立された。一般的にウル第3王朝の特徴と考えられている要素の大半は、シュルギの時代に構築されたと考えられている。統一された度量衡が制定され、貢租制も整備されてメソポタミアとその周辺の広い範囲の諸国は家畜等をウルに納める義務を負った。シュルギは長期間(ブリンクマンの編年では在位:2094年-前2047年)統治し、かつてのアッカド帝国の王と同じように在位中に自身を神格化した。王の神格化は、その後の王たちにも受け継がれている。
ウル第3王朝の続く3代の王は、アマル・シン、シュ・シン、イッビ・シンの3名である。メソポタミアにおけるアッカド語の普及とバイリンガル化を反映し、アマル・シンの名前はシュメール語とアッカド語の組み合わせであり、残り2名の名前はアッカド語のみによるものとなっている。ウルは前2004年頃、イッビ・シンの在位第24年にエラム人の手に落ちた。この事件は『ウル滅亡哀歌』によって記憶されている。
ある推定では、ウルは前2030年頃には世界最大の都市であり、人口はおよそ65,000人(全世界人口の0.1パーセント)であった。
ウル第3王朝の終焉の後、イシン市で独立勢力(イシン第1王朝)を築いていたイシュビ・エッラがウル市からエラム人を追い払いその支配権を握った。イシン第1王朝、そしてこれと覇を争ったラルサはいずれもウル第3王朝の後継者であることを自任しており、政治的中心としての地位を失った後もウルは重要な都市であり続けた。ウル市の繁栄、帝国の威勢、シュルギ王の偉大さ、そして極めて効果的な国家のプロパガンダはメソポタミアの歴史を通じて影響を残した。アッシリアとバビロニアのメソポタミア社会の歴史的物語に名前、出来事、神話が記憶が留められている間、少なくともその後の2000年間、シュルギは非常に有名な歴史上の人物であった。
メソポタミアではアムル人(アモリ人)とよばれる西セム語を話す人々が建てた王朝が争うようになり、やがてその中から前18世紀に隆盛を迎えたバビロン第1王朝がハンムラビ王(在位:前1792年-前1750年)の下でメソポタミアの大部分を統一した。ウルもまたその支配下に入った。そして前1595年のバビロン第1王朝の滅亡の後には、新たにバビロニアの支配者となったカッシート人によって再征服された。カッシート人による支配の前、ウルは衰退していたが、カッシートの王クリガルズ1世(英語版)がウルを再建し、その後の王たちも様々な修復工事をウルで行った。
前10世紀から前7世紀まで、他の南部メソポタミア地域と中東の大部分、小アジア、北アフリカ、南部コーカサスと同様に、北部メソポタミアから拡大した新アッシリア帝国の支配下に入った。前7世紀の終わりからウルは新バビロニア(カルデア)と呼ばれるバビロンの王朝の支配下に入った。前6世紀には、ネブカドネザル2世の下、ウルで新たな建設活動が行われた。最後のバビロニア王、ナボニドゥス(彼はカルデア人ではなくアッシリア出身である)はジッグラトを改修した。しかしながら、ウル市は前530年頃、バビロニアがペルシア人(ハカーマニシュ朝)の支配下に入った後には衰退を始め、前5世紀初頭にはもはや人が住んでいなかった。ウルが終焉を迎えたのは恐らく干ばつ、河川路の変化、そしてペルシア湾への河口に泥が沈殿していったためであった。
ウルは恐らく『旧約聖書』「創世記」でアブラハム(アラビア語ではイブラヒム(英語版))の生誕地として言及されているウル・カスディム(英語版)市である。アブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラーム教において父祖とされている人物であり、伝統的に前2千年紀に生きていたと考えられている。しかし、ウル・カスディムをシャンルウルファ、ウルケシュ、ウラルトゥ、クタ(英語版)に比定する伝統と学者の意見があり、対立している。
聖書のウルはトーラーおよび『旧約聖書』において「カスディム(Kasdim/Kasdin)の」と付されて4回言及されており、英語では伝統的に「カルデアのウル(Ur of the Chaldees)」と訳されている。カルデア人は前850年頃までにウルの郊外に定着していた。しかし、伝統的にアブラハムが生きていたとされる前2千年紀の間にはメソポタミアのどこにもいなかった。新バビロニア(カルデア)は前7世紀後半までバビロニアを(従ってウルも)支配していなかったうえ、その権力を維持していたのは前6世紀半ばまでであった。ウルの名は創世記 11:28、創世記 11:31、創世記 15:7に現れている。ネヘミヤ記 9:7のウルに言及する一節は「創世記」を言い換えたものである。
1625年、ピエトロ・デッラ・ヴァッレ(英語版)がウルの遺跡を訪れ、奇妙なシンボルがスタンプされ、瀝青で固められた古代のレンガの存在、および彫刻の施された印章と思われる黒大理石の断片の存在を報告している。
ヨーロッパ人考古学者たちはテル・エル=ムッケイヤルがウルの遺跡だと特定していなかった。この遺跡をウルの遺跡だと特定したのはヘンリー・ローリンソンで、彼はウィリアム・ロフトゥスが1849年に持ち帰ったレンガから、ウルの地名を解読することに成功した。
ウルの遺跡は大英博物館のために、また外務・英連邦省の指示よってイギリスのバスラ副領事ジョン・ジョージ・テイラー(英語版)によって1853年と1854年に初めて発掘された。テイラーはウルのジッグラトと、後に「審判の門(Gate of Judgment)」の一部であることが特定されることになるアーチ構造を発掘した。
ジッグラト最上段の四隅でテイラーは最後のバビロン王ナボニドゥス(ナブー・ナーイド、前539年)の碑文がある粘土製シリンダーを発見した。これは彼の息子ベル・シャル・ウツルへの祈りで締めくくられており、ベル・シャル・ウツルは「ダニエル書」に登場するベルシャザルにあたる。それ以前にも、イシン王イシュメ・ダガンとウル王シュ・シン、そして前14世紀のカッシートのバビロン王クリガルズがこのジッグラトを再建した痕跡が残っているほか、ネブカドネザルもこの神殿の再建を行ったと主張している。
テイラーはさらに興味深いバビロニアの建築物をこの神殿から遠くない場所で発掘した。古代のバビロニアのネクロポリスの一部である。ウルの全域で彼は後期の時代の豊富な埋葬遺構を発見した。後の時代、その神聖さ故にウルは墓地として人気のある場所となり、人がすまなくなった後でさえネクロポリスとして使用され続けていたように思われる。
この時代の典型として、テイラーによる発掘は情報を破壊し、遺丘を曝け出すものであった。ウルの遺跡は未発掘のまま、現地人たちによって自由に使えるようになった4,000年前のレンガやタイルが、その後75年あまりにわたって建材として使用された。大英博物館はアッシリア地方における考古学的調査を優先することを決定していた。
テイラーの時代の後、ウルの遺跡には多数の旅行者が訪れ、そのほとんどが古代バビロニアの遺構、彫刻された石などが地表に横たわっているのを目撃した。この遺跡は遺構が豊富であり、比較的探索しやすいと考えられていた。1918年にレジナルド・キャンベル・トンプソン(英語版)が数度の調査を行った後、H・R・ホール(英語版)が1919年に大英博物館の事業としてウルで1シーズンの調査を行い、その後のより広範な研究の基礎を築いた。
大英博物館とペンシルベニア大学の資金によって、1922年から1934年まで、考古学者チャールズ・レオナルド・ウーリー卿の指揮で発掘が行われた。総計約1850の墓地が発見された。その内の16基は「王墓(英語版)と呼ばれ、ウルのスタンダードなど多くの貴重な副葬品が収められていた。この王墓の多くは前2600年頃に年代付けられる。発見された王墓の中には王妃プアビ(英語版)のものと考えられる未盗掘の墓もあった。彼女の名前はこの墓から見つかった円筒印章から知られているが、他に2点の無記名の印章も同じ墓から見つかっている。彼女以外にも多くの人々が人身御供として一緒に埋葬された。ウルのジッグラトのそばでは、エ・ヌンマハ(E-nun-mah)神殿とE-dub-lal-mah(王のための建物)、エ・ギパル(E-gi-par、高位の聖職者の住処)、エ・フルサグ(E-hur-sag、神殿の建物の1つ)が発掘された。この神殿の境内の外側には、日常生活が送られていた家屋が多数見つかった。王墓群の下の層の発掘も行われ、3.5メートルもの厚さを持つ堆積土の層(layer of alluvial clay)が最初期の居住地の層を覆っているのが確認された。最初期の層からはウバイド期の土器が見つかっており、これはメソポタミア南部における定住の最初の段階のものである。ウーリーはこれらの発見について後に多くの論文と本を書いている。ウーリーのウルにおける発掘調査の助手の1人がマックス・マローワンである。ウル遺跡での発見はその王墓群の発見と共に世界中の主要メディアのヘッドラインを飾った。この結果、ウルの遺構は多くの訪問者を惹きつけた。こうした訪問者の中には有名なアガサ・クリスティーがおり、彼女はこの時に知り合ったマックス・マローワンと結婚した。
この頃、ウルにはバグダードとバスラを結ぶ路線の「ウル・ジャンクション(Ur Junction)」と呼ばれる停車場からアクセスすることができた。
ウル王墓が初めて発見された時、発見者たちはそれがどれほど大きいものであるか知らなかった。彼らは砂漠の真ん中で2つの発掘坑を掘ることから始め、発掘を継続することで何かを発見できるかどうか見定めた。発掘隊は当初、チームA、チームBという2つのチームにわかれていた。両チームは最初の数か月で発掘坑を掘り、金製の飾りや土器の小さな破片などを収集し、埋葬地の痕跡を発見した。これは当時「ゴールド・トレンチ(gold trench)」と呼ばれていた。最初の発掘シーズンが終わるとウーリーはイギリスに戻り、秋に第2発掘シーズンを始め発掘を継続した。このシーズンの終わりまでに、彼は多くの部屋に取り巻かれた中庭を発見した。第3発掘シーズンにおいて彼らはそれまでで最大の発見をした。発見したのは王の命令で建てられたと考えられた建物と、高位の神官の住居であったと考えられた建物であった。第4シーズンと第5シーズンの終わりが近づく頃には、数多くの出土品が見つかっており、発掘隊は実際の発掘による物品の発見よりも、発見したものの記録の方にほとんどの時間を費やすようになっていた。金製の飾りから土器や石まで数多くの遺物が発見された。墓の中からはいくつかリュラ(英語版)もあった。最も重要な発掘品の1つはウルのスタンダードである。6シーズン目の終わりには、1850の墓が発見され、そのうちの17が「王家の墓」と考えられた。ウーリーは1934年に王家の墓の発掘を終えた。彼は一連の埋葬跡を発見した。彼はこれらの埋葬跡を「王家の墓(Royal tombs)」および、「死の穴(Death Pit)」と呼んだ。多くの従者(servants)が殺害され王族と共に埋葬されたが、ウーリーはこれらの従者が喜んで死んで行ったと考えていた。ウーリーとその妻で協力者のキャサリン(Katherine)はこれらの従者たちは毒入りの飲み物を与えられており、その死は支配者たちへの貢物としての集団自殺であるという説を立てた。しかし、現存する頭骨のいくつかの断面スキャン(tomography scans)を行いコンピュータ処理をすると、その中に銅斧の先端のスパイクで頭を殴られて殺害された形跡があることがわかった。これによって、毒による集団自殺というウーリー夫妻の説は正しくないことが証明されている。王女プアビ(英語版)の墓の内部、部屋の中央に箱(chest)があった。その箱の下にはいわゆる「王の墓(King's grave)」PG-789へ通じる穴があった。これは王妃の墓に隣接していたので王の墓であると考えられた。この「王の墓」では銅の兜と剣を装備した63人の従者(attendants)がいた。これは王と共に埋葬された軍隊であると考えられている。「Great death pit」と呼ばれる別の大きな部屋(PG-1237)も発見された。この部屋には74体の遺体があり、うち68体が女性であった。この墓内には2つの副葬品しかなく、その両方がリュラ(英語版)であった。
ウルで発見された宝物のほとんどは大英博物館とペンシルベニア大学考古学人類学博物館にある。この博物館では2011年の春の終わりに「Iraq's Ancient Past(イラクの古代)」という企画展が開かれ、「王家の墓(Royal tombs)」の発掘品の中でも最も有名な作品なども展示された。それ以前にもペンシルベニア大学考古学人類学博物館は「Treasures From the Royal Tombs of Ur.」と題する企画展において、ウルから発見された最高の作品を数多く巡回に出した。この企画展はクリーブランド、ワシントン、ダラスなど、8つのアメリカの博物館を巡り、2011年5月にデトロイト美術館で巡回を終えた。
2009年、ペンシルベニア大学とイラクの合同チームがウル遺跡での考古学調査を再開することで合意に達した。
現代において発掘されたいくつかの地区はその後再び砂で覆われたが、ウルのジッグラトは完全に発掘され、最も保存状態が良く目立つ遺構として遺跡に建っている。「シュメールの霊廟(Sumerian Mausolea)」とも呼ばれる有名な王家の墓はウルのジッグラトから南東に250メートル、ウル市を囲う市壁の角にあり、ほぼ完全に発掘されている。これらの墓地の一部は構造の強化や安定化が必要な状態にあると見られる。多くの壁に楔形文字(シュメール文字)があり、刻まれた文字で埋め尽くされた日干し煉瓦もある。判読困難なものがあるが、ほぼ全ての表面がこれらの文章で覆われている。現代の落書きも墓に書かれており、これらは通常カラーペンで名前を書いたものである(時には彫りこまれたものもある)。ウルのジッグラトには遥かに多くの落書きがあり、ほとんどがレンガに簡単に彫られたものである。多くの墓は完全に空である。入ることができる墓もわずかにあるが、それらのほとんどは封鎖されている。遺跡全体が土器片で覆われており、それらを踏むことなく遺跡に入るのが実質的には不可能なほどである。破損した土器の「山」の一部は発掘で取り除かれた破片である。王家の墓の地区の壁の多くは土器片と遺体で形成されている。
2009年5月、アメリカ陸軍はウル遺跡をイラク当局に返還した。イラク当局は観光地としての開発を期待している。
2009年からNPO団体グローバル・ヘリテージ・ファンド(英語版)(GHF)は浸食、放置、不適切な修復、戦争および紛争の問題からウルを保護し保存するための活動を行っている。GHFはこのプロジェクトの目標は、ウル遺跡の長期的な保存と管理の道しるべとなり、他の遺跡の管理のためのモデルの役割を果たす、情報に基づく科学的なマスタープランを作成することであると述べている。
2013年以降、イタリア外務省の開発協力機関(the institution for Development Cooperation)DGCSとイラク観光考古省(Iraqi Ministry of Tourism and Antiquities)のSBAH(the State Board of Antiquities and Heritage of the Iraqi Ministry of Tourism and Antiquities)は「ウル考古遺跡の保全と維持(The Conservation and Maintenance of Archaeological site of UR)」のための共同プロジェクトを開始した。この共同合意の枠組みにおいて、ダブラマフ神殿(Dublamah Temple、計画完了、作業開始)、王家の墓(ウル第3王朝の霊廟、進行中)、およびジッグラト(進行中)のメンテナンスのために詳細な図面を含む実行計画が進行中である。2013年からの最初の調査では、2014年3月にUAV(無人航空機)で得られた新しい航空地図が作成された。これは100以上の航空写真から作成された初の高解像度地図であり、精度は20センチメートル以下である。ウル考古遺跡のORTHO-PHOTOMAPのプレビューがオンラインで入手できる。
2012年以降、イタリアとイラクの考古学者による合同チームがフランコ・ダゴスティーノ(Franco D'Agostino)の指揮でウルの15キロメートル東、ナーシリーヤの7キロメートル南にあるタル・アブー・ティビーラ(Tal Abu Tbeirah)を発掘している。
この遺跡は約45ヘクタールの広さがある。前3千年紀後半にはウルと関連する港であり交易の中心であったと見られる。
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"text": "ウルが創建された頃、ペルシア湾の水位は現在よりも2.5メートル高かった。ウルは周囲を沼沢地に囲まれていたと考えられる。灌漑は必要とされず、ウルにあった運河網は輸送に使用されていたであろう。しばしば都市化に必要な前提条件としてよく仮定される農業革命を要することなく、魚、鳥、塊茎、そして葦がウルを経済的に支えていたのかもしれない。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "考古学者たちによってウバイド期(前6500年頃-前3800年頃)のウルにおける初期の居住の痕跡が発見されている。この初期の層は土壌堆積物(sterile deposit of soil)に覆われていた。1920年代にはこの堆積物は発掘者たちによって『旧約聖書』「創世記」および『ギルガメシュ叙事詩』に描かれた大洪水の証拠であると解釈されていた。現在では南メソポタミア平野がユーフラテス川とティグリス川の恒常的な洪水に晒されて水と風による激しい浸食を受け、このことによってメソポタミア神話の洪水神話が形成され、聖書の大洪水の物語が派生したと理解されている。",
"title": "歴史"
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"text": "ウルにおける更なる居住が明らかになるのは前3千年紀である(ただし、前4千年紀の間には既に都市として発達していたことは間違いない)。前3千年紀の南メソポタミアはシュメール語を第一言語として用いる地域であったが、基本的にシュメール語とアッカド語のバイリンガル地帯であった。シュメール語とアッカド語の相互の影響は広範な語彙の借用、統語論、形態論、音韻的収束等、あらゆる領域において明らかである。このため、学者たちは前3千年紀のシュメール語とアッカド語を「言語連合」として取り扱っている。",
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"text": "青銅器時代のウルの重要性を把握することができる様々な重要な史料が存在する。ウルの王墓(英語版)の豪華な遺構が示しているように、ウル第1王朝(英語版)は大きな富と力を持っていたと思われる。『シュメール王朝表』の中には不正確ながらも古代シュメールの政治史、また特にウルの複数の支配者について記載されている。メスアンネパダは『シュメール王朝表』で言及されている最初のウル王であり、マリで発見されたビーズや、テル・ウバイド出土の碑文にも登場することから、恐らく前26世紀頃に実在した可能性が高いと考えられている。ウルはthe City Sealsと呼ばれる種類の『円筒印章』からわかるように、既に重要な中心的都市であったと思われる。この種の印章は古代メソポタミアの都市国家の名前を書いたもの、あるいはそのシンボルと見られる楔形文字の原型で書かれた一連の記号がある。これらの印章の多くはウルで発見されており、ウルの名前が目立つように書かれている 。",
"title": "歴史"
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"text": "ウルは前24世紀から前22世紀にかけてアッカドの王サルゴンによって建設されたアッカド帝国の支配下に置かれた。サルゴンの死後、リムシュがアッカド王に即位すると、ウル王を称するカクはアダブ、ウンマ、ラガシュなどと共に反乱を起こしたが失敗し、ウルの城壁は破壊された。この反乱の鎮圧について語るリムシュの碑文は、反乱者たちをシュメール(šu-me-ri-mu)と表現しており、これは楔形文字文書において「シュメール」という表現を用いる最古のものである。",
"title": "歴史"
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"text": "アッカド帝国はナラム・シン王の時代に最大の版図を形成したが、その子シャル・カリ・シャッリの死後には『シュメール王朝表』に「誰が王で誰が王ではなかったか」と記録される混乱期に入った。シャル・カリ・シャッリの治世の頃からグティ人、アムル人(マルトゥ)、エラム人の侵入が目立ち始め、特にグティ人とエラム人が重大な脅威となった。この混乱期を経てシュメールの有力都市も次第に自立していき、ウルはウルクの王ウトゥ・ヘガルの勢力下に入った。ウトゥ・ヘガルの配下の将軍としてウルに派遣されたのがウル・ナンムである。ウルを支配するウル・ナンムはやがて自立して「ウルの王」となった。",
"title": "歴史"
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"text": "ウル・ナンムが創設した王朝はウル第3王朝と呼ばれる。ウル・ナンムの治世は前22世紀の末から前21世紀の初頭頃であり、ブリンクマンによる編年では在位期間は前2112年-前2095年である。彼の支配下において、ウルのジッグラトを含む諸神殿が建設され、灌漑を通じて農業生産が向上した。彼の法典、『ウル・ナンム法典』(断片が1952年にイスタンブルで特定された)は知られている限りこの種の文書の中で最も古いものの1つであり、『ハンムラビ法典』に300年先行する。ウル・ナンムとその後継者シュルギは共に在位中に神格化され、死後も英雄的人物とされ続けた。現存するシュメール文学の1つでは、ウル・ナンムの死と冥界への旅が描かれている。",
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"text": "ウル第3王朝はおよそ100年続き、5人の王が統治した。最も強力であったのは第2代のシュルギであった。彼の治世において、この王朝は高度に中央集権化された官僚制国家へと改革され、統治体制が確立された。一般的にウル第3王朝の特徴と考えられている要素の大半は、シュルギの時代に構築されたと考えられている。統一された度量衡が制定され、貢租制も整備されてメソポタミアとその周辺の広い範囲の諸国は家畜等をウルに納める義務を負った。シュルギは長期間(ブリンクマンの編年では在位:2094年-前2047年)統治し、かつてのアッカド帝国の王と同じように在位中に自身を神格化した。王の神格化は、その後の王たちにも受け継がれている。",
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"text": "ウル第3王朝の続く3代の王は、アマル・シン、シュ・シン、イッビ・シンの3名である。メソポタミアにおけるアッカド語の普及とバイリンガル化を反映し、アマル・シンの名前はシュメール語とアッカド語の組み合わせであり、残り2名の名前はアッカド語のみによるものとなっている。ウルは前2004年頃、イッビ・シンの在位第24年にエラム人の手に落ちた。この事件は『ウル滅亡哀歌』によって記憶されている。",
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"text": "ある推定では、ウルは前2030年頃には世界最大の都市であり、人口はおよそ65,000人(全世界人口の0.1パーセント)であった。",
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"text": "ウル第3王朝の終焉の後、イシン市で独立勢力(イシン第1王朝)を築いていたイシュビ・エッラがウル市からエラム人を追い払いその支配権を握った。イシン第1王朝、そしてこれと覇を争ったラルサはいずれもウル第3王朝の後継者であることを自任しており、政治的中心としての地位を失った後もウルは重要な都市であり続けた。ウル市の繁栄、帝国の威勢、シュルギ王の偉大さ、そして極めて効果的な国家のプロパガンダはメソポタミアの歴史を通じて影響を残した。アッシリアとバビロニアのメソポタミア社会の歴史的物語に名前、出来事、神話が記憶が留められている間、少なくともその後の2000年間、シュルギは非常に有名な歴史上の人物であった。",
"title": "歴史"
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"text": "メソポタミアではアムル人(アモリ人)とよばれる西セム語を話す人々が建てた王朝が争うようになり、やがてその中から前18世紀に隆盛を迎えたバビロン第1王朝がハンムラビ王(在位:前1792年-前1750年)の下でメソポタミアの大部分を統一した。ウルもまたその支配下に入った。そして前1595年のバビロン第1王朝の滅亡の後には、新たにバビロニアの支配者となったカッシート人によって再征服された。カッシート人による支配の前、ウルは衰退していたが、カッシートの王クリガルズ1世(英語版)がウルを再建し、その後の王たちも様々な修復工事をウルで行った。",
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"text": "前10世紀から前7世紀まで、他の南部メソポタミア地域と中東の大部分、小アジア、北アフリカ、南部コーカサスと同様に、北部メソポタミアから拡大した新アッシリア帝国の支配下に入った。前7世紀の終わりからウルは新バビロニア(カルデア)と呼ばれるバビロンの王朝の支配下に入った。前6世紀には、ネブカドネザル2世の下、ウルで新たな建設活動が行われた。最後のバビロニア王、ナボニドゥス(彼はカルデア人ではなくアッシリア出身である)はジッグラトを改修した。しかしながら、ウル市は前530年頃、バビロニアがペルシア人(ハカーマニシュ朝)の支配下に入った後には衰退を始め、前5世紀初頭にはもはや人が住んでいなかった。ウルが終焉を迎えたのは恐らく干ばつ、河川路の変化、そしてペルシア湾への河口に泥が沈殿していったためであった。",
"title": "歴史"
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"text": "ウルは恐らく『旧約聖書』「創世記」でアブラハム(アラビア語ではイブラヒム(英語版))の生誕地として言及されているウル・カスディム(英語版)市である。アブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラーム教において父祖とされている人物であり、伝統的に前2千年紀に生きていたと考えられている。しかし、ウル・カスディムをシャンルウルファ、ウルケシュ、ウラルトゥ、クタ(英語版)に比定する伝統と学者の意見があり、対立している。",
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"text": "聖書のウルはトーラーおよび『旧約聖書』において「カスディム(Kasdim/Kasdin)の」と付されて4回言及されており、英語では伝統的に「カルデアのウル(Ur of the Chaldees)」と訳されている。カルデア人は前850年頃までにウルの郊外に定着していた。しかし、伝統的にアブラハムが生きていたとされる前2千年紀の間にはメソポタミアのどこにもいなかった。新バビロニア(カルデア)は前7世紀後半までバビロニアを(従ってウルも)支配していなかったうえ、その権力を維持していたのは前6世紀半ばまでであった。ウルの名は創世記 11:28、創世記 11:31、創世記 15:7に現れている。ネヘミヤ記 9:7のウルに言及する一節は「創世記」を言い換えたものである。",
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"text": "1625年、ピエトロ・デッラ・ヴァッレ(英語版)がウルの遺跡を訪れ、奇妙なシンボルがスタンプされ、瀝青で固められた古代のレンガの存在、および彫刻の施された印章と思われる黒大理石の断片の存在を報告している。",
"title": "考古学"
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"text": "ヨーロッパ人考古学者たちはテル・エル=ムッケイヤルがウルの遺跡だと特定していなかった。この遺跡をウルの遺跡だと特定したのはヘンリー・ローリンソンで、彼はウィリアム・ロフトゥスが1849年に持ち帰ったレンガから、ウルの地名を解読することに成功した。",
"title": "考古学"
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"text": "ウルの遺跡は大英博物館のために、また外務・英連邦省の指示よってイギリスのバスラ副領事ジョン・ジョージ・テイラー(英語版)によって1853年と1854年に初めて発掘された。テイラーはウルのジッグラトと、後に「審判の門(Gate of Judgment)」の一部であることが特定されることになるアーチ構造を発掘した。",
"title": "考古学"
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"text": "ジッグラト最上段の四隅でテイラーは最後のバビロン王ナボニドゥス(ナブー・ナーイド、前539年)の碑文がある粘土製シリンダーを発見した。これは彼の息子ベル・シャル・ウツルへの祈りで締めくくられており、ベル・シャル・ウツルは「ダニエル書」に登場するベルシャザルにあたる。それ以前にも、イシン王イシュメ・ダガンとウル王シュ・シン、そして前14世紀のカッシートのバビロン王クリガルズがこのジッグラトを再建した痕跡が残っているほか、ネブカドネザルもこの神殿の再建を行ったと主張している。",
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"text": "テイラーはさらに興味深いバビロニアの建築物をこの神殿から遠くない場所で発掘した。古代のバビロニアのネクロポリスの一部である。ウルの全域で彼は後期の時代の豊富な埋葬遺構を発見した。後の時代、その神聖さ故にウルは墓地として人気のある場所となり、人がすまなくなった後でさえネクロポリスとして使用され続けていたように思われる。",
"title": "考古学"
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"text": "この時代の典型として、テイラーによる発掘は情報を破壊し、遺丘を曝け出すものであった。ウルの遺跡は未発掘のまま、現地人たちによって自由に使えるようになった4,000年前のレンガやタイルが、その後75年あまりにわたって建材として使用された。大英博物館はアッシリア地方における考古学的調査を優先することを決定していた。",
"title": "考古学"
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"text": "テイラーの時代の後、ウルの遺跡には多数の旅行者が訪れ、そのほとんどが古代バビロニアの遺構、彫刻された石などが地表に横たわっているのを目撃した。この遺跡は遺構が豊富であり、比較的探索しやすいと考えられていた。1918年にレジナルド・キャンベル・トンプソン(英語版)が数度の調査を行った後、H・R・ホール(英語版)が1919年に大英博物館の事業としてウルで1シーズンの調査を行い、その後のより広範な研究の基礎を築いた。",
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"title": "考古学"
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"text": "大英博物館とペンシルベニア大学の資金によって、1922年から1934年まで、考古学者チャールズ・レオナルド・ウーリー卿の指揮で発掘が行われた。総計約1850の墓地が発見された。その内の16基は「王墓(英語版)と呼ばれ、ウルのスタンダードなど多くの貴重な副葬品が収められていた。この王墓の多くは前2600年頃に年代付けられる。発見された王墓の中には王妃プアビ(英語版)のものと考えられる未盗掘の墓もあった。彼女の名前はこの墓から見つかった円筒印章から知られているが、他に2点の無記名の印章も同じ墓から見つかっている。彼女以外にも多くの人々が人身御供として一緒に埋葬された。ウルのジッグラトのそばでは、エ・ヌンマハ(E-nun-mah)神殿とE-dub-lal-mah(王のための建物)、エ・ギパル(E-gi-par、高位の聖職者の住処)、エ・フルサグ(E-hur-sag、神殿の建物の1つ)が発掘された。この神殿の境内の外側には、日常生活が送られていた家屋が多数見つかった。王墓群の下の層の発掘も行われ、3.5メートルもの厚さを持つ堆積土の層(layer of alluvial clay)が最初期の居住地の層を覆っているのが確認された。最初期の層からはウバイド期の土器が見つかっており、これはメソポタミア南部における定住の最初の段階のものである。ウーリーはこれらの発見について後に多くの論文と本を書いている。ウーリーのウルにおける発掘調査の助手の1人がマックス・マローワンである。ウル遺跡での発見はその王墓群の発見と共に世界中の主要メディアのヘッドラインを飾った。この結果、ウルの遺構は多くの訪問者を惹きつけた。こうした訪問者の中には有名なアガサ・クリスティーがおり、彼女はこの時に知り合ったマックス・マローワンと結婚した。",
"title": "考古学"
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"text": "この頃、ウルにはバグダードとバスラを結ぶ路線の「ウル・ジャンクション(Ur Junction)」と呼ばれる停車場からアクセスすることができた。",
"title": "考古学"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "ウル王墓が初めて発見された時、発見者たちはそれがどれほど大きいものであるか知らなかった。彼らは砂漠の真ん中で2つの発掘坑を掘ることから始め、発掘を継続することで何かを発見できるかどうか見定めた。発掘隊は当初、チームA、チームBという2つのチームにわかれていた。両チームは最初の数か月で発掘坑を掘り、金製の飾りや土器の小さな破片などを収集し、埋葬地の痕跡を発見した。これは当時「ゴールド・トレンチ(gold trench)」と呼ばれていた。最初の発掘シーズンが終わるとウーリーはイギリスに戻り、秋に第2発掘シーズンを始め発掘を継続した。このシーズンの終わりまでに、彼は多くの部屋に取り巻かれた中庭を発見した。第3発掘シーズンにおいて彼らはそれまでで最大の発見をした。発見したのは王の命令で建てられたと考えられた建物と、高位の神官の住居であったと考えられた建物であった。第4シーズンと第5シーズンの終わりが近づく頃には、数多くの出土品が見つかっており、発掘隊は実際の発掘による物品の発見よりも、発見したものの記録の方にほとんどの時間を費やすようになっていた。金製の飾りから土器や石まで数多くの遺物が発見された。墓の中からはいくつかリュラ(英語版)もあった。最も重要な発掘品の1つはウルのスタンダードである。6シーズン目の終わりには、1850の墓が発見され、そのうちの17が「王家の墓」と考えられた。ウーリーは1934年に王家の墓の発掘を終えた。彼は一連の埋葬跡を発見した。彼はこれらの埋葬跡を「王家の墓(Royal tombs)」および、「死の穴(Death Pit)」と呼んだ。多くの従者(servants)が殺害され王族と共に埋葬されたが、ウーリーはこれらの従者が喜んで死んで行ったと考えていた。ウーリーとその妻で協力者のキャサリン(Katherine)はこれらの従者たちは毒入りの飲み物を与えられており、その死は支配者たちへの貢物としての集団自殺であるという説を立てた。しかし、現存する頭骨のいくつかの断面スキャン(tomography scans)を行いコンピュータ処理をすると、その中に銅斧の先端のスパイクで頭を殴られて殺害された形跡があることがわかった。これによって、毒による集団自殺というウーリー夫妻の説は正しくないことが証明されている。王女プアビ(英語版)の墓の内部、部屋の中央に箱(chest)があった。その箱の下にはいわゆる「王の墓(King's grave)」PG-789へ通じる穴があった。これは王妃の墓に隣接していたので王の墓であると考えられた。この「王の墓」では銅の兜と剣を装備した63人の従者(attendants)がいた。これは王と共に埋葬された軍隊であると考えられている。「Great death pit」と呼ばれる別の大きな部屋(PG-1237)も発見された。この部屋には74体の遺体があり、うち68体が女性であった。この墓内には2つの副葬品しかなく、その両方がリュラ(英語版)であった。",
"title": "考古学"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ウルで発見された宝物のほとんどは大英博物館とペンシルベニア大学考古学人類学博物館にある。この博物館では2011年の春の終わりに「Iraq's Ancient Past(イラクの古代)」という企画展が開かれ、「王家の墓(Royal tombs)」の発掘品の中でも最も有名な作品なども展示された。それ以前にもペンシルベニア大学考古学人類学博物館は「Treasures From the Royal Tombs of Ur.」と題する企画展において、ウルから発見された最高の作品を数多く巡回に出した。この企画展はクリーブランド、ワシントン、ダラスなど、8つのアメリカの博物館を巡り、2011年5月にデトロイト美術館で巡回を終えた。",
"title": "考古学"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2009年、ペンシルベニア大学とイラクの合同チームがウル遺跡での考古学調査を再開することで合意に達した。",
"title": "考古学"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "現代において発掘されたいくつかの地区はその後再び砂で覆われたが、ウルのジッグラトは完全に発掘され、最も保存状態が良く目立つ遺構として遺跡に建っている。「シュメールの霊廟(Sumerian Mausolea)」とも呼ばれる有名な王家の墓はウルのジッグラトから南東に250メートル、ウル市を囲う市壁の角にあり、ほぼ完全に発掘されている。これらの墓地の一部は構造の強化や安定化が必要な状態にあると見られる。多くの壁に楔形文字(シュメール文字)があり、刻まれた文字で埋め尽くされた日干し煉瓦もある。判読困難なものがあるが、ほぼ全ての表面がこれらの文章で覆われている。現代の落書きも墓に書かれており、これらは通常カラーペンで名前を書いたものである(時には彫りこまれたものもある)。ウルのジッグラトには遥かに多くの落書きがあり、ほとんどがレンガに簡単に彫られたものである。多くの墓は完全に空である。入ることができる墓もわずかにあるが、それらのほとんどは封鎖されている。遺跡全体が土器片で覆われており、それらを踏むことなく遺跡に入るのが実質的には不可能なほどである。破損した土器の「山」の一部は発掘で取り除かれた破片である。王家の墓の地区の壁の多くは土器片と遺体で形成されている。",
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"text": "2009年5月、アメリカ陸軍はウル遺跡をイラク当局に返還した。イラク当局は観光地としての開発を期待している。",
"title": "考古学"
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"text": "2009年からNPO団体グローバル・ヘリテージ・ファンド(英語版)(GHF)は浸食、放置、不適切な修復、戦争および紛争の問題からウルを保護し保存するための活動を行っている。GHFはこのプロジェクトの目標は、ウル遺跡の長期的な保存と管理の道しるべとなり、他の遺跡の管理のためのモデルの役割を果たす、情報に基づく科学的なマスタープランを作成することであると述べている。",
"title": "考古学"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "2013年以降、イタリア外務省の開発協力機関(the institution for Development Cooperation)DGCSとイラク観光考古省(Iraqi Ministry of Tourism and Antiquities)のSBAH(the State Board of Antiquities and Heritage of the Iraqi Ministry of Tourism and Antiquities)は「ウル考古遺跡の保全と維持(The Conservation and Maintenance of Archaeological site of UR)」のための共同プロジェクトを開始した。この共同合意の枠組みにおいて、ダブラマフ神殿(Dublamah Temple、計画完了、作業開始)、王家の墓(ウル第3王朝の霊廟、進行中)、およびジッグラト(進行中)のメンテナンスのために詳細な図面を含む実行計画が進行中である。2013年からの最初の調査では、2014年3月にUAV(無人航空機)で得られた新しい航空地図が作成された。これは100以上の航空写真から作成された初の高解像度地図であり、精度は20センチメートル以下である。ウル考古遺跡のORTHO-PHOTOMAPのプレビューがオンラインで入手できる。",
"title": "考古学"
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"text": "2012年以降、イタリアとイラクの考古学者による合同チームがフランコ・ダゴスティーノ(Franco D'Agostino)の指揮でウルの15キロメートル東、ナーシリーヤの7キロメートル南にあるタル・アブー・ティビーラ(Tal Abu Tbeirah)を発掘している。",
"title": "考古学"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "この遺跡は約45ヘクタールの広さがある。前3千年紀後半にはウルと関連する港であり交易の中心であったと見られる。",
"title": "考古学"
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{
"paragraph_id": 48,
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"text": "",
"title": "参考ウェブサイト"
}
] |
ウル(Ur)は古代メソポタミア南部にあった古代都市。ウバイド期(紀元前6500年~紀元前3800年頃)には人が居住し、紀元前三千年紀にはウル第1王朝が始まった。紀元前一千年紀に入ると新アッシリア帝国及び新バビロニア帝国の支配を受けたが、紀元前5世紀のアケメネス朝の時代に入ると衰退。長らく忘却されていたが、紀元19世紀に入って発掘・再発見された。 現在のイラク南部、ジーカール県のテル・エル=ムッケイヤルが古代のウルである。ウルはシュメールの重要な都市国家であった。ウルはかつてユーフラテス川がペルシア湾に注ぐ河口そばに位置する都市であったが、現在では海岸線が移動し内陸となっている。ウルはユーフラテス川南岸にあり、現代のイラクの都市ナーシリーヤから16キロメートルの位置にある。 ウルは前3800年頃のウバイド期に創建され、前2600年頃に都市国家として文字史料に記録されている。初めて文字史料に登場する王はメスアンネパダである。 ウルの守護神はシュメールとアッカド(アッシリア・バビロニア)の月神ナンナであり、都市の名前はこの神に由来している。UNUGKIという名前は文字通りには「ナンナの住まう所(UNUG)」を意味する。 この遺跡には部分的に修復されたウルのジッグラトの遺構が残されている。これはナンナ神殿であると考えられており、1930年代に発掘調査が行われた。このジッグラトは前21世紀(低年代説)のウル・ナンム王の治世中に建設され、前6世紀にバビロンの王ナボニドゥスによって再建された。ジッグラトの遺構は南北1,200メートル、東西800メートルに及び、北東から南西に向けて現在の平野の面から約20メートルの高さになっている。
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{{Otheruses|古代[[メソポタミア]]の[[都市国家]]}}
{{Infobox ancient site
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{{Infobox UNESCO World Heritage Site
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}}
'''ウル'''(''Ur'')は古代[[メソポタミア]]南部にあった古代都市。[[ウバイド期]](紀元前6500年~紀元前3800年頃)には人が居住し、紀元前三千年紀にはウル第1王朝が始まった。紀元前一千年紀に入ると新アッシリア帝国及び新バビロニア帝国の支配を受けたが、紀元前5世紀のアケメネス朝の時代に入ると衰退。長らく忘却されていたが、紀元19世紀に入って発掘・再発見された。
現在の[[イラク]]南部、[[ジーカール県]]の'''テル・エル=ムッケイヤル'''(''Tell el-Muqayyar''、{{lang-ar|تل المقير}})が古代のウルである<ref>テル・エル=ムッケイヤルの構成要素である[[遺丘|テル]](''Tell'')は[[アラビア語]]で「塚」「丘」を意味する。また、ムッケイヤルは「[[瀝青]]で作られた」を意味する。ムッケイヤル(''Muqayyar'')のラテン文字転写は一定せず、''Mugheir''、''Mughair''、''Moghair''など様々に表記される)</ref>。ウルは[[シュメール]]の重要な[[都市国家]]であった。ウルはかつて[[ユーフラテス川]]が[[ペルシア湾]]に注ぐ河口そばに位置する都市であったが、現在では海岸線が移動し内陸となっている。ウルはユーフラテス川南岸にあり、現代の[[イラク]]の都市[[ナーシリーヤ]]から16キロメートルの位置にある{{sfn|Ebeling|Meissner|Edzard|1997|p=360}}。
ウルは前3800年頃の[[ウバイド期]]に創建され、前2600年頃に都市国家として[[歴史時代|文字史料]]に記録されている。初めて文字史料に登場する王は[[メスアンネパダ]]である。
ウルの守護神は[[シュメール]]と[[アッカド]]([[アッシリア]]・[[バビロニア]])の月神[[シン (メソポタミア神話)|ナンナ]]([[アッカド語]]:[[シン (メソポタミア神話)|シン]])であり、都市の名前はこの神に由来している。UNUG<sup>KI</sup>という名前は文字通りには「ナンナの住まう所(UNUG)」を意味する{{sfn|Ebeling|Meissner|Edzard|1997|p=360}}。
この遺跡には部分的に修復された[[ウルのジッグラト]]の遺構が残されている。これはナンナ神殿であると考えられており、1930年代に発掘調査が行われた。このジッグラトは前21世紀({{仮リンク|低年代説|en|short chronology}})の[[ウル・ナンム]]王の治世中に建設され、前6世紀に[[新バビロニア|バビロン]]の王[[ナボニドゥス]]によって再建された。ジッグラトの遺構は南北1,200メートル、東西800メートルに及び、北東から南西に向けて現在の平野の面から約20メートルの高さになっている{{sfn|Zettler|Horne|1998}}。
== 表記 ==
<span class="noexcerpt">英語では''Ur''{{IPAc-en|ʊər}}、[[シュメール語]]では''Urim''{{sfn|Kramer|1963|pp=28,298}}、{{仮リンク|シュメール語楔形文字|en|Sumerogram}}では{{cuneiform|𒋀𒀕𒆠}}{{lang|sux-Latn|URIM<sub>2</sub><sup>[[キ (メソポタミア神話)|KI]]</sup>}}または{{cuneiform|𒋀𒀊𒆠}} {{lang|sux-Latn|URIM<sub>5</sub><sup>KI</sup>}}<ref name=Lit/>、[[アッカド語]]では''Uru''{{sfn|Edwards|Gadd|1971|p=149}}、 {{lang-ar|أور}}、 {{lang-he|אור}}などとなっている。</span>
== 配置 ==
[[File:Umma2350.svg|thumb|upright=1.4|left|前2350年頃のシュメールとエラム。ウルはユーフラテス河口、海岸に程近い位置にある。]]
ウル市は[[ウル・ナンム]]によって[[都市計画]]が行われたと言われている。明確に分割された地区にわかれており、商人はその地区の1つに、職人もまた別の地区に居住していた。大通りと狭い路地があり、人々が集まるための広場もあった。数多くの{{仮リンク|水利|en|water resource management|preserve=1}}・[[洪水調節|治水設備]]によってこれらの地区が存在したことが示されている{{sfn|Westenholz|1996}}。
家々は{{仮リンク|泥レンガ|en|mudbrick}}と泥の漆喰で建てられた。重要な建物は瀝青と葦で補強されたレンガが用いられた。ほとんど全ての基礎部分は現存している。人々はその死後、自宅の床下の間や立坑に埋葬された(一人ずつ別々に埋葬され、時には宝石や土器、武器などが副葬された){{sfn|Westenholz|1996}}。
[[File:Urimki inscription.jpg|thumb|upright|[[ウル・ナンム]]王の印章に残された「ウル国」の名前({{cuneiform|𒋀𒀊𒆠}} {{lang|sux-Latn|URIM<sub>5</sub><sup>KI</sup>}})]]
ウルは高さ8メートル、幅約25メートルの市壁に囲まれ、粘土壁で囲われたいくつかの地区があった。建物が城壁に組み込まれた場所もあった。ユーフラテス川が都市の西側の防御を補完していた{{sfn|Westenholz|1996}}。
== 社会と文化 ==
ウルがメソポタミア平野における[[バビロニア|シュメールおよびアッカド]]の主たる中心都市であったことは考古学的な発見によって明白となっている。特に、王墓群の発見はその栄華を証明している。この王墓群は[[シュメール初期王朝時代|初期王朝時代]]第3a期(おおよそ前25世紀から前24世紀)に年代づけられ、貴金属や半貴石で作られた装身具など、膨大な量の奢侈品が埋納されていた。こうした貴金属類や半貴石は全て遠隔地({{仮リンク|古代イラン|label=イラン|en|Ancient Iran|redirect=1}}、[[アフガニスタン]]、[[インド]]、[[小アジア]]、[[レヴァント]]、[[ペルシア湾]])から輸入しなければならないものであった{{sfn|Zettler|Horne|1998}}。当時において比類の無いこの富は、初期青銅器時代におけるウルの経済的重要性を証明するものである{{sfn|Aruz|Wallenfels|2003}}。
この地域における考古学的研究は、古代の景観と長距離間の交流に対する理解にも大きく貢献している。ウルは、当時において現在よりも内陸まで入り込んでいたペルシア湾にあった主要な港の1つであり、メソポタミアにもたらされる交易の多くを支配していた。{{仮リンク|ウルにおける輸入|label=ウルにもたらされる輸入品|en|Imports to Ur}}は世界各地からやってきた。こうした輸入品には[[金]]や[[銀]]のような[[貴金属]]、[[ラピスラズリ]]や[[カーネリアン]](紅玉髄)のような[[宝石]]もあった{{sfn|Westenholz|1996}}。
ウルには奴隷(外国人捕虜)、農民、職人、医師、書記、神官などからなる階層化された社会機構が存在したと考えられる。上級の神官は明らかに巨大な富を享受し、邸宅に居住していた{{sfn|Westenholz|1996}}。
契約・商業記録・宮廷文書など、数万にものぼる[[楔形文字]]文書がこの都市の複雑な経済および法制度を記録している。これらの文章は神殿群、宮殿、そして個々人の住宅から発見された{{sfn|Westenholz|1996}}。
=== 音楽 ===
1929年のウルク旧市街の発掘で現代の[[ハープ]]に似た[[リュラー]](竪琴)が発見された。弦の数は11本で頂部が雄牛の形状をしている{{sfn|Klimczak|2016}}。
[[File:Lizard-headed nude woman nursing a child, from Ur, Iraq, c. 4000 BCE. Iraq Museum (retouched).jpg|thumb|left|子供をあやすトカゲ頭の裸婦。ウルで発見。[[ウバイド期]]、前4500-前4000年、[[イラク国立博物館]]収蔵。]]
[[File:King Ur-Nammu.jpg|thumb|left|[[ウル・ナンム]]王の即位(前2047年頃-前2030年頃)]]
{{multiple image
| align = left
| direction =vertical
| header=[[ウルのスタンダード]]のモザイク。前2600年頃
| total_width=235
| image1 = Standard of Ur - peace side.jpg
| image2 = Standard of Ur - War.jpg
| footer=ウルの王墓で発見された[[ウルのスタンダード]]のモザイク。赤石灰岩、瀝青、[[ラピスラズリ]]、貝殻で作られている。「平和」の面は安らぎ、音楽、繁栄が描かれている。「戦争」の面は王、軍隊、戦車が敵を蹂躙する様を描いている。
}}
== 歴史 ==
=== 先史時代 ===
ウルが創建された頃、ペルシア湾の水位は現在よりも2.5メートル高かった。ウルは周囲を沼沢地に囲まれていたと考えられる。灌漑は必要とされず、ウルにあった運河網は輸送に使用されていたであろう。しばしば都市化に必要な前提条件としてよく仮定される[[新石器革命|農業革命]]を要することなく、魚、鳥、[[塊茎]]、そして[[葦]]がウルを経済的に支えていたのかもしれない{{sfn|Pournelle|2007}}{{sfn|Crawford|2015|p=5}}。
考古学者たちによってウバイド期(前6500年頃-前3800年頃)のウルにおける初期の居住の痕跡が発見されている。この初期の層は土壌堆積物(sterile deposit of soil)に覆われていた。1920年代にはこの堆積物は発掘者たちによって『[[旧約聖書]]』「[[創世記]]」および『[[ギルガメシュ叙事詩]]』に描かれた[[洪水神話|大洪水]]の証拠であると解釈されていた。現在では南メソポタミア平野が[[ユーフラテス川]]と[[ティグリス川]]の恒常的な洪水に晒されて水と風による激しい[[浸食]]を受け、このことによってメソポタミア神話の洪水神話が形成され、聖書の大洪水の物語が派生したと理解されている{{sfn|Roux|1992}}。
==== 前4千年紀のシュメール人の居住 ====
ウルにおける更なる居住が明らかになるのは前3千年紀である(ただし、前4千年紀の間には既に都市として発達していたことは間違いない)。前3千年紀の南メソポタミアは[[シュメール語]]を第一言語として用いる地域であったが、基本的にシュメール語と[[アッカド語]]のバイリンガル地帯であった<ref name="柴田2014p31">[[#柴田 2014|柴田 2014]], p. 31</ref>{{sfn|Hasselbach|2005|p=2}}{{sfn|Deutscher|2007|pp=20–21}}。シュメール語とアッカド語の相互の影響は広範な[[借用語|語彙の借用]]、[[統語論]]、[[形態論]]、[[音韻論|音韻]]的収束等、あらゆる領域において明らかである。このため、学者たちは前3千年紀のシュメール語とアッカド語を「[[言語連合]]」として取り扱っている{{sfn|Deutscher|2007|pp=20–21}}。
=== 前3千年紀(初期青銅器時代) ===
{{main|{{仮リンク|ウル第1王朝|en|First Dynasty of Ur}}}}
青銅器時代のウルの重要性を把握することができる様々な重要な史料が存在する。{{仮リンク|ウルの王墓|en|Royal Cemetery at Ur}}の豪華な遺構が示しているように、{{仮リンク|ウル第1王朝|en|First Dynasty of Ur}}は大きな富と力を持っていたと思われる。『[[シュメール王朝表]]』の中には不正確ながらも古代シュメールの政治史、また特にウルの複数の支配者について記載されている。[[メスアンネパダ]]は『シュメール王朝表』で言及されている最初のウル王であり、[[マリ (シリア)|マリ]]で発見された[[ビーズ]]や、[[テル・ウバイド]]出土の碑文にも登場することから、恐らく前26世紀頃に実在した可能性が高いと考えられている<ref name="ローフ1994p84">[[#ローフ 1994|ローフ 1994]], p. 84</ref>。ウルはthe City Sealsと呼ばれる種類の『[[円筒印章]]』からわかるように、既に重要な中心的都市であったと思われる。この種の印章は古代メソポタミアの都市国家の名前を書いたもの、あるいはそのシンボルと見られる[[楔形文字|楔形文字の原型]]で書かれた一連の記号がある。これらの印章の多くはウルで発見されており、ウルの名前が目立つように書かれている
{{sfn|Matthews|1993}}。
ウルは前24世紀から前22世紀にかけて[[アッカド]]の王[[サルゴン (アッカド王)|サルゴン]]によって建設された[[アッカド帝国]]の支配下に置かれた<ref name="前川1998p185">[[#前川 1998|前川 1998]], p. 185</ref>。サルゴンの死後、[[リムシュ]]がアッカド王に即位すると、ウル王を称する[[カク (ウル王)|カク]]は[[アダブ]]、[[ウンマ (シュメールの都市国家)|ウンマ]]、[[ラガシュ]]などと共に反乱を起こしたが失敗し、ウルの城壁は破壊された<ref name="前田2017p93">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 93</ref>。この反乱の鎮圧について語るリムシュの碑文は、反乱者たちをシュメール(šu-me-ri-mu)と表現しており、これは楔形文字文書において「シュメール」という表現を用いる最古のものである<ref name="前田2017p93"/>。
アッカド帝国は[[ナラム・シン]]王の時代に最大の版図を形成したが、その子[[シャル・カリ・シャッリ]]の死後には『シュメール王朝表』に「誰が王で誰が王ではなかったか」と記録される混乱期に入った<ref name="前田2017p112">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 112</ref>。シャル・カリ・シャッリの治世の頃から[[グティ人]]、[[アムル人]](マルトゥ)、[[エラム|エラム人]]の侵入が目立ち始め、特にグティ人とエラム人が重大な脅威となった<ref name="前田2017p112"/>。この混乱期を経てシュメールの有力都市も次第に自立していき、ウルはウルクの王[[ウトゥ・ヘガル]]の勢力下に入った<ref name="前田2017p120">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 120</ref>。ウトゥ・ヘガルの配下の将軍としてウルに派遣されたのが[[ウル・ナンム]]である<ref name="前川1998p189">[[#前川 1998|前川 1998]], p. 189</ref><ref name="前田2017p120"/>。ウルを支配するウル・ナンムはやがて自立して「ウルの王」となった<ref name="前川1998p189"/><ref name="前田2017p120"/>。
[[File:Map of Ur III.svg|thumb|upright=1.3|ウル第3王朝。上が西、右が北である。]]
[[File:Meskalamdug helmet British Museum electrotype copy original is in the Iraq Museum, Bagdad.jpg|thumb|ウル第1王朝の王{{仮リンク|メスカラムドゥグ|en|Meskalamdug}}の黄金の兜。前2600年頃-前2500年頃。]]
[[File:Mesopotamian female deity seating on a chair, Old-Babylonian fired clay plaque from Ur, Iraq.jpg|thumb|玉座に座るメソポタミアの女神。古バビロニア時代の焼成粘土製飾り板。]]
=== ウル第3王朝 ===
{{Main|ウル第3王朝}}
[[ウル・ナンム]]が創設した王朝は[[ウル第3王朝]]と呼ばれる。ウル・ナンムの治世は前22世紀の末から前21世紀の初頭頃であり、ブリンクマンによる編年では在位期間は前2112年-前2095年である<ref name="前田2017p116">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 116</ref>。彼の支配下において、[[ウルのジッグラト]]を含む諸神殿が建設され、[[灌漑]]を通じて農業生産が向上した。彼の法典、『[[ウル・ナンム法典]]』(断片が1952年に[[イスタンブル]]で特定された)は知られている限りこの種の文書の中で最も古いものの1つであり、『[[ハンムラビ法典]]』に300年先行する。ウル・ナンムとその後継者[[シュルギ]]は共に在位中に神格化され、死後も英雄的人物とされ続けた。現存するシュメール文学の1つでは、ウル・ナンムの死と冥界への旅が描かれている{{sfn|Kuhrt|1995}}。
ウル第3王朝はおよそ100年続き、5人の王が統治した。最も強力であったのは第2代の[[シュルギ]]であった。彼の治世において、この王朝は高度に中央集権化された官僚制国家へと改革され、統治体制が確立された<ref name="前田2017p138">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 138</ref><ref name="前川1998p192">[[#前川 1998|前川 1998]], p. 192</ref>。一般的にウル第3王朝の特徴と考えられている要素の大半は、シュルギの時代に構築されたと考えられている<ref name="前川1998p192"/>。統一された[[度量衡]]が制定され、貢租制も整備されてメソポタミアとその周辺の広い範囲の諸国は[[家畜]]等をウルに納める義務を負った<ref name="前川1998p193">[[#前川 1998|前川 1998]], p. 193</ref><ref name="前田2017pp138_141">[[#前田 2017|前田 2017]], pp. 138-141</ref>。シュルギは長期間(ブリンクマンの編年では在位:2094年-前2047年)統治し、かつてのアッカド帝国の王と同じように在位中に自身を神格化した<ref name="前川1998p192"/>。王の神格化は、その後の王たちにも受け継がれている<ref name="前田2017p152">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 152</ref>。
ウル第3王朝の続く3代の王は、[[アマル・シン]]、[[シュ・シン]]、[[イッビ・シン]]の3名である。メソポタミアにおけるアッカド語の普及とバイリンガル化を反映し、アマル・シンの名前はシュメール語とアッカド語の組み合わせであり、残り2名の名前は[[アッカド語]]のみによるものとなっている{{sfn|Roux|1992}}<ref name="小林2005p184">[[#小林 2005|小林 2005]], p. 184</ref>。ウルは前2004年頃<ref name="前田2017p116"/>、イッビ・シンの[[即位紀元|在位]]第24年に[[エラム]]人の手に落ちた。この事件は『[[ウル滅亡哀歌]]』によって記憶されている{{sfn|Frayne|1997}}{{sfn|Dahl|2003}}。
ある推定では、ウルは前2030年頃には世界最大の都市であり、人口はおよそ65,000人(全世界人口の0.1パーセント)であった{{sfn|Rosenberg|2019}}。
=== 前2千年紀 ===
ウル第3王朝の終焉の後、[[イシン]]市で独立勢力(イシン第1王朝)を築いていた[[イシュビ・エッラ]]がウル市からエラム人を追い払いその支配権を握った。イシン第1王朝、そしてこれと覇を争った[[ラルサ]]はいずれもウル第3王朝の後継者であることを自任しており<ref name="前田2017p197">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 197</ref>、政治的中心としての地位を失った後もウルは重要な都市であり続けた<ref name="オリエント事典ウル">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.79-82. 「ウル」の項目より。</ref>。ウル市の繁栄、帝国の威勢、シュルギ王の偉大さ、そして極めて効果的な国家のプロパガンダはメソポタミアの歴史を通じて影響を残した。[[アッシリア]]と[[バビロニア]]のメソポタミア社会の歴史的物語に名前、出来事、神話が記憶が留められている間、少なくともその後の2000年間、シュルギは非常に有名な歴史上の人物であった。
メソポタミアでは[[アムル人]](アモリ人)とよばれる西セム語を話す人々が建てた王朝が争うようになり、やがてその中から前18世紀に隆盛を迎えた[[バビロニア|バビロン第1王朝]]が[[ハンムラビ]]王(在位:前1792年-前1750年)の下でメソポタミアの大部分を統一した<ref name="クレンゲル1980p34">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 34</ref>。ウルもまたその支配下に入った。そして前1595年のバビロン第1王朝の滅亡の後には<ref name="クレンゲル1980p54">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 54</ref>、新たにバビロニアの支配者となった[[カッシート人]]によって再征服された。カッシート人による支配の前、ウルは衰退していたが、カッシートの王{{仮リンク|クリガルズ1世|en|Kurigalzu I}}がウルを再建し、その後の王たちも様々な修復工事をウルで行った<ref name="オリエント事典ウル"/>。
=== 鉄器時代 ===
前10世紀から前7世紀まで、他の南部メソポタミア地域と[[中東]]の大部分、[[小アジア]]、[[北アフリカ]]、南部[[コーカサス]]と同様に、北部メソポタミアから拡大した[[新アッシリア]]帝国の支配下に入った。前7世紀の終わりからウルは[[新バビロニア]](カルデア)と呼ばれる[[バビロン]]の王朝の支配下に入った。前6世紀には、[[ネブカドネザル2世]]の下、ウルで新たな建設活動が行われた。最後のバビロニア王、[[ナボニドゥス]](彼はカルデア人ではなくアッシリア出身である)はジッグラトを改修した。しかしながら、ウル市は前530年頃、バビロニアが[[ペルシア人]]([[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]])の支配下に入った後には衰退を始め、前5世紀初頭にはもはや人が住んでいなかった{{sfn|Roux|1992}}。ウルが終焉を迎えたのは恐らく干ばつ、河川路の変化、そして[[ペルシア湾]]への河口に泥が沈殿していったためであった。
[[File:20160105-Abraham house in Ur Iraq.jpg|thumb|ウルの「アブラハムの家("Abraham's House")」。2016年撮影。]]
{{further|{{仮リンク|カルデアのウル|en|Ur of the Chaldees}}}}
ウルは恐らく『旧約聖書』「[[創世記]]」で[[アブラハム]](アラビア語では{{仮リンク|イスラームにおけるアブラハム|label=イブラヒム|en|Abraham in Islam}})の生誕地として言及されている{{仮リンク|カルデアのウル|label=ウル・カスディム|en|Ur of the Chaldees}}市である。アブラハムは[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラーム教]]において父祖とされている人物であり、伝統的に前2千年紀に生きていたと考えられている{{sfn|Salaheddin|2013}}{{sfn|McLerran|2011}}。しかし、ウル・カスディムを[[シャンルウルファ]]、[[ウルケシュ]]、[[ウラルトゥ]]、{{仮リンク|クタ|en|Kutha|preserve=1}}に比定する伝統と学者の意見があり、対立している。
聖書のウルは[[トーラー]]および『[[旧約聖書]]』において「カスディム(Kasdim/Kasdin)の」と付されて4回言及されており、英語では伝統的に「カルデアのウル(Ur of the Chaldees)」と訳されている。[[カルデア]]人は前850年頃までにウルの郊外に定着していた。しかし、伝統的にアブラハムが生きていたとされる前2千年紀の間にはメソポタミアのどこにもいなかった。新バビロニア(カルデア)は前7世紀後半までバビロニアを(従ってウルも)支配していなかったうえ、その権力を維持していたのは前6世紀半ばまでであった。ウルの名は{{Bibleverse||創世記|11:28|KJV}}、{{Bibleverse||創世記|11:31|KJV}}、{{Bibleverse||創世記|15:7|KJV}}に現れている。{{Bibleverse||ネヘミヤ記|9:7|KJV}}のウルに言及する一節は「創世記」を言い換えたものである。
== 考古学 ==
[[File:OLD tar (like our cement or mortar) but 2500 - 6000 y.o..JPG|thumb|ウルのレンガの中の瀝青「モルタル」。]]
[[File:Ur excavations (1900) (14767185992).jpg|thumb|1900年に発掘されたレンガ製の円形構造物。]]
1625年、{{仮リンク|ピエトロ・デッラ・ヴァッレ|en|Pietro Della Valle}}がウルの遺跡を訪れ、奇妙なシンボルがスタンプされ、[[瀝青]]で固められた古代のレンガの存在、および彫刻の施された[[印章]]と思われる黒大理石の断片の存在を報告している。
ヨーロッパ人考古学者たちはテル・エル=ムッケイヤルがウルの遺跡だと特定していなかった。この遺跡をウルの遺跡だと特定したのは[[ヘンリー・ローリンソン]]で、彼は[[ウィリアム・ロフトゥス]]が1849年に持ち帰ったレンガから、ウルの地名を解読することに成功した{{sfn|Crawford|2015|p=3}}。
ウルの遺跡は[[大英博物館]]のために、また[[外務・英連邦省]]の指示よって[[イギリス]]の[[バスラ]][[領事|副領事]]{{仮リンク|ジョン・ジョージ・テイラー|en|John George Taylor}}によって1853年と1854年に初めて発掘された{{sfn|Taylor|1855|pp=260-276}}{{sfn|Taylor|1855b|pp=404-415}}{{sfn|Sollberger|1972|pp=129-139}}。テイラーは[[ウルのジッグラト]]と、後に「審判の門(Gate of Judgment)」の一部であることが特定されることになるアーチ構造を発掘した{{sfn|Crawford|2015|p=4}}。
ジッグラト最上段の四隅でテイラーは最後のバビロン王[[ナボニドゥス]](ナブー・ナーイド、前539年)の碑文がある粘土製シリンダーを発見した。これは彼の息子[[ベルシャザル|ベル・シャル・ウツル]]への祈りで締めくくられており、ベル・シャル・ウツルは「[[ダニエル書]]」に登場するベルシャザルにあたる。それ以前にも、イシン王[[イシュメ・ダガン]]とウル王[[シュ・シン]]、そして前14世紀の[[カッシート]]のバビロン王[[クリガルズ]]がこのジッグラトを再建した痕跡が残っているほか、[[ネブカドネザル]]もこの神殿の再建を行ったと主張している{{sfn|Peters|1911|pp=783-784}}。
テイラーはさらに興味深いバビロニアの建築物をこの神殿から遠くない場所で発掘した。古代のバビロニアの[[ネクロポリス]]の一部である。ウルの全域で彼は後期の時代の豊富な埋葬遺構を発見した。後の時代、その神聖さ故にウルは[[墓地]]として人気のある場所となり、人がすまなくなった後でさえネクロポリスとして使用され続けていたように思われる{{sfn|Peters|1911|pp=783-784}}。
この時代の典型として、テイラーによる発掘は情報を破壊し、遺丘を曝け出すものであった。ウルの遺跡は未発掘のまま、現地人たちによって自由に使えるようになった4,000年前のレンガやタイルが、その後75年あまりにわたって建材として使用された{{sfn|Woolley|1965}}。大英博物館は[[アッシリア]]地方における考古学的調査を優先することを決定していた{{sfn|Crawford|2015|p=4}}。
テイラーの時代の後、ウルの遺跡には多数の旅行者が訪れ、そのほとんどが古代バビロニアの遺構、彫刻された石などが地表に横たわっているのを目撃した{{sfn|Peters|1911|pp=783-784}}。この遺跡は遺構が豊富であり、比較的探索しやすいと考えられていた。1918年に{{仮リンク|レジナルド・キャンベル・トンプソン|en|Reginald Campbell Thompson}}が数度の調査を行った後、{{仮リンク|ヘンリー・ホール (エジプト学者)|label=H・R・ホール|en|Henry Hall (Egyptologist)}}が1919年に大英博物館の事業としてウルで1シーズンの調査を行い、その後のより広範な研究の基礎を築いた{{sfn|Hall|1925|pp=1-7}}{{sfn|Hall|1923|pp=177-195}}。
[[File:Ur from the Air.jpg|thumb|275px|left|ウルの航空写真(1927年)]]
[[大英博物館]]と[[ペンシルベニア大学]]の資金によって、1922年から1934年まで、[[考古学者]][[レオナード・ウーリー|チャールズ・レオナルド・ウーリー]]卿の指揮で発掘が行われた{{sfn|Woolley|1946}}{{sfn|Woolley|1965}}{{sfn|Woolley|Moorey|1982}}。総計約1850の墓地が発見された。その内の16基は「{{仮リンク|ウルの王墓|label=王墓|en|Royal Cemetery at Ur}}と呼ばれ、[[ウルのスタンダード]]など多くの貴重な副葬品が収められていた。この王墓の多くは前2600年頃に年代付けられる。発見された王墓の中には王妃{{仮リンク|プアビ|en|Puabi}}<ref name="puabi">王妃プアビ(Puabi)は(Pu-Abi)とも書かれ、かつてはシュブ・アブ(Shub-ab)と翻字されていた。</ref>のものと考えられる未盗掘の墓もあった。彼女の名前はこの墓から見つかった[[円筒印章]]から知られているが、他に2点の無記名の印章も同じ墓から見つかっている。彼女以外にも多くの人々が人身御供として一緒に埋葬された。ウルのジッグラトのそばでは、エ・ヌンマハ(E-nun-mah)神殿とE-dub-lal-mah(王のための建物)、エ・ギパル(E-gi-par、高位の聖職者の住処)、エ・フルサグ(E-hur-sag、神殿の建物の1つ)が発掘された。この神殿の境内の外側には、日常生活が送られていた家屋が多数見つかった。王墓群の下の層の発掘も行われ、3.5メートルもの厚さを持つ堆積土の層(layer of alluvial clay)が最初期の居住地の層を覆っているのが確認された。最初期の層からは[[ウバイド期]]の[[土器]]が見つかっており、これはメソポタミア南部における定住の最初の段階のものである。ウーリーはこれらの発見について後に多くの論文と本を書いている{{sfn|Beck|Black|Krieger|Naylor|1999}}。ウーリーのウルにおける発掘調査の助手の1人が[[マックス・マローワン]]である。ウル遺跡での発見はその王墓群の発見と共に世界中の主要メディアのヘッドラインを飾った。この結果、ウルの遺構は多くの訪問者を惹きつけた。こうした訪問者の中には有名な[[アガサ・クリスティー]]がおり、彼女はこの時に知り合ったマックス・マローワンと結婚した。
この頃、ウルには[[バグダード鉄道|バグダードとバスラを結ぶ路線]]の「ウル・ジャンクション(Ur Junction)」と呼ばれる停車場からアクセスすることができた<ref>Crawford 2015. p. 5. 「かつては、ウルはバスラからバグダードに至る路線のそばにあり、これは計画中の(永遠に完成することのなかった)ベルリンとバスラを結ぶ路線の一部であった。バグダードからはナーシリーヤへの支線が分岐するウル・ジャンクションという壮大な名前の場所で列車を降り、砂漠をほんの2マイルばかり横切ってウル遺跡に到着することができた。しかし、この駅は第二次世界大戦のいくらか後に閉鎖され、唯一の選択肢として長く残されたのは、四輪自動車による暑い旅であった。」</ref>。
ウル王墓が初めて発見された時、発見者たちはそれがどれほど大きいものであるか知らなかった。彼らは砂漠の真ん中で2つの発掘坑を掘ることから始め、発掘を継続することで何かを発見できるかどうか見定めた。発掘隊は当初、チームA、チームBという2つのチームにわかれていた。両チームは最初の数か月で発掘坑を掘り、金製の飾りや土器の小さな破片などを収集し、埋葬地の痕跡を発見した。これは当時「ゴールド・トレンチ(gold trench)」と呼ばれていた<ref>[http://www.mesopotamia.co.uk/tombs/story/sto_set.html "gold trench".]<br>(大英博物館が掲載している、レオナード・ウーリーによるウル発掘の記録)</ref>。最初の発掘シーズンが終わるとウーリーはイギリスに戻り、秋に第2発掘シーズンを始め発掘を継続した。このシーズンの終わりまでに、彼は多くの部屋に取り巻かれた中庭を発見した<ref>{{Cite web|url=http://www.mesopotamia.co.uk/tombs/story/sto_set.html|title=The Royal Tombs of Ur – Story|website=Mesopotamia.co.uk|access-date=2016-12-04}}<br>(大英博物館が掲載している、レオナード・ウーリーによるウル発掘の記録)</ref>。第3発掘シーズンにおいて彼らはそれまでで最大の発見をした。発見したのは王の命令で建てられたと考えられた建物と、高位の神官の住居であったと考えられた建物であった。第4シーズンと第5シーズンの終わりが近づく頃には、数多くの出土品が見つかっており、発掘隊は実際の発掘による物品の発見よりも、発見したものの記録の方にほとんどの時間を費やすようになっていた。金製の飾りから土器や石まで数多くの遺物が発見された。墓の中からはいくつか{{仮リンク|ウルのリュラ|label=リュラ|en|Lyres of Ur}}もあった。最も重要な発掘品の1つは[[ウルのスタンダード]]である。6シーズン目の終わりには、1850の墓が発見され、そのうちの17が「王家の墓」と考えられた<ref>[http://www.mesopotamia.co.uk/tombs/explore/exp_set.html Royal Tombs]<br>(大英博物館が掲載している、レオナード・ウーリーによるウル発掘の記録から、王墓について)</ref>。ウーリーは1934年に王家の墓の発掘を終えた。彼は一連の埋葬跡を発見した。彼はこれらの埋葬跡を「王家の墓(Royal tombs)」および、「死の穴(Death Pit)」と呼んだ。多くの従者(servants)が殺害され王族と共に埋葬されたが、ウーリーはこれらの従者が喜んで死んで行ったと考えていた。ウーリーとその妻で協力者のキャサリン(Katherine)はこれらの従者たちは毒入りの飲み物を与えられており、その死は支配者たちへの貢物としての集団自殺であるという説を立てた。しかし、現存する頭骨のいくつかの断面スキャン(tomography scans)を行いコンピュータ処理をすると、その中に銅斧の先端のスパイクで頭を殴られて殺害された形跡があることがわかった。これによって、毒による集団自殺というウーリー夫妻の説は正しくないことが証明されている{{sfn|McCorriston|Field|2019|pp=286-287}}。王女{{仮リンク|プアビ|en|Puabi}}の墓の内部、部屋の中央に箱(chest)があった。その箱の下にはいわゆる「王の墓(King's grave)」PG-789へ通じる穴があった。これは王妃の墓に隣接していたので王の墓であると考えられた。この「王の墓」では銅の兜と剣を装備した63人の従者(attendants)がいた。これは王と共に埋葬された軍隊であると考えられている。「Great death pit」と呼ばれる別の大きな部屋(PG-1237)も発見された<ref>[http://www.mesopotamia.co.uk/tombs/explore/exp_set.html Great death pit]<br>(大英博物館が掲載している、レオナード・ウーリーによるウル発掘の記録から、王墓について。地図のなかからPG1237の部屋へのリンクをクリック。)</ref>。この部屋には74体の遺体があり、うち68体が女性であった。この墓内には2つの副葬品しかなく、その両方が{{仮リンク|ウルのリュラ|label=リュラ|en|Lyres of Ur}}であった。
[[File:Reconstructed sumerian headgear necklaces british museum.JPG|left|thumb|シュメールの帽子とネックレス。大英博物館収蔵。これらはウルの「王家の墓(Royal tombs)」の中のプアビの墓で発見された。]]
ウルで発見された宝物のほとんどは大英博物館と[[ペンシルベニア大学考古学人類学博物館]]にある。この博物館では2011年の春の終わりに「Iraq's Ancient Past(イラクの古代)」という企画展が開かれ<ref>{{cite web|url=http://www.penn.museum/sites/iraq/|title=Iraq's Ancient Past: Rediscovering Ur's Royal Cemetery|website=Penn.museum|access-date=11 August 2017|deadlinkdate=2022-06-05}}</ref>、「王家の墓(Royal tombs)」の発掘品の中でも最も有名な作品なども展示された。それ以前にもペンシルベニア大学考古学人類学博物館は「Treasures From the Royal Tombs of Ur.」と題する企画展において、ウルから発見された最高の作品を数多く巡回に出した。この企画展はクリーブランド、ワシントン、ダラスなど、8つのアメリカの博物館を巡り、2011年5月に[[デトロイト美術館]]で巡回を終えた。
2009年、ペンシルベニア大学とイラクの合同チームがウル遺跡での考古学調査を再開することで合意に達した<ref>[[#US_excavate_in_Iraq|Radio Free Europe / Radio Liberty]]</ref>。
=== 考古学遺跡 ===
[[File:Operation Iraqi Freedom DVIDS284466.jpg|thumb|275px|再建された[[ウルのジッグラト]]を登るアメリカ兵。2010年5月。]]
現代において発掘されたいくつかの地区はその後再び砂で覆われたが、[[ウルのジッグラト]]は完全に発掘され、最も保存状態が良く目立つ遺構として遺跡に建っている<ref>[[#US_Army|U.S.Army]]</ref>。「シュメールの霊廟(Sumerian Mausolea)」とも呼ばれる有名な王家の墓はウルのジッグラトから南東に250メートル、ウル市を囲う市壁の角にあり、ほぼ完全に発掘されている。これらの墓地の一部は構造の強化や安定化が必要な状態にあると見られる。多くの壁に[[楔形文字]](シュメール文字)があり、刻まれた文字で埋め尽くされた日干し煉瓦もある。判読困難なものがあるが、ほぼ全ての表面がこれらの文章で覆われている。現代の[[落書き]]も墓に書かれており、これらは通常カラーペンで名前を書いたものである(時には彫りこまれたものもある)。ウルのジッグラトには遥かに多くの落書きがあり、ほとんどがレンガに簡単に彫られたものである。多くの墓は完全に空である。入ることができる墓もわずかにあるが、それらのほとんどは封鎖されている。遺跡全体が土器片で覆われており、それらを踏むことなく遺跡に入るのが実質的には不可能なほどである。破損した土器の「山」の一部は発掘で取り除かれた破片である。王家の墓の地区の壁の多くは土器片と遺体で形成されている。
2009年5月、[[アメリカ陸軍]]はウル遺跡をイラク当局に返還した。イラク当局は観光地としての開発を期待している<ref>[[#US_returns_Ur|ABC News]]</ref>。
=== 保存 ===
[[File:Wall_plaque_showing_libation_scene_from_Ur,_Iraq,_2500_BCE._British_Museum.jpg|thumb|ウルの壁面装飾。前2500年頃。[[大英博物館]]収蔵。]]
2009年から[[NPO]]団体{{仮リンク|グローバル・ヘリテージ・ファンド|en|Global Heritage Fund}}(GHF)は浸食、放置、不適切な修復、戦争および紛争の問題からウルを保護し保存するための活動を行っている。GHFはこのプロジェクトの目標は、ウル遺跡の長期的な保存と管理の道しるべとなり、他の遺跡の管理のためのモデルの役割を果たす、情報に基づく科学的なマスタープランを作成することであると述べている<ref>[[#GHF|Grobal Heritage Fund]]</ref>。
2013年以降、イタリア外務省の開発協力機関(the institution for Development Cooperation)DGCSとイラク観光考古省(Iraqi Ministry of Tourism and Antiquities)のSBAH(the State Board of Antiquities and Heritage of the Iraqi Ministry of Tourism and Antiquities)は「ウル考古遺跡の保全と維持(The Conservation and Maintenance of Archaeological site of UR)」のための共同プロジェクトを開始した。この共同合意の枠組みにおいて、ダブラマフ神殿(Dublamah Temple、計画完了、作業開始)、王家の墓(ウル第3王朝の霊廟、進行中)、およびジッグラト(進行中)のメンテナンスのために詳細な図面を含む実行計画が進行中である。2013年からの最初の調査では、2014年3月にUAV([[無人航空機]])で得られた新しい航空地図が作成された。これは100以上の航空写真から作成された初の高解像度地図であり、精度は20センチメートル以下である。ウル考古遺跡のORTHO-PHOTOMAPのプレビューがオンラインで入手できる<ref>[[#Archeoguide|Archeoguide]]</ref>。
=== タル・アブー・ティビーラ(Tal Abu Tbeirah)===
2012年以降、イタリアとイラクの考古学者による合同チームがフランコ・ダゴスティーノ(Franco D'Agostino)の指揮でウルの15キロメートル東、ナーシリーヤの7キロメートル南にあるタル・アブー・ティビーラ(Tal Abu Tbeirah)を発掘している{{sfn|D'Agostino|2011|pp=17-34}}{{sfn|D'Agostino|2013|pp=69-91}}{{sfn|D'Agostino|2011b|pp=69-91}}{{sfn|Romano|D'Agostino|2019}}。
この遺跡は約45ヘクタールの広さがある。前3千年紀後半にはウルと関連する港であり交易の中心であったと見られる{{sfn|David|2018}}。
== 関連項目 ==
* [[:en:Correspondence of the Kings of Ur|Correspondence of the Kings of Ur]]
* [[イラクの歴史]]
* {{仮リンク|シュメールの歴史|en|History of Sumer}}
* {{仮リンク|古代オリエントの都市一覧|en|List of cities of the ancient Near East}}
* {{仮リンク|ウルのリュラ|en|Lyres of Ur}}
* [[牡山羊の像]]
* [[ウル王朝のゲーム]]
* [[低年代説]]
== 脚注 ==
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="Lit">
[http://etcsl.orinst.ox.ac.uk/edition2/signlist.php Literal transliteration]:
Urim<sub>2</sub> = [[シン (メソポタミア神話)|ŠEŠ]]. ABgunu = ŠEŠ.UNUG
({{cuneiform|𒋀𒀕}}) and Urim<sub>5</sub> = ŠEŠ.AB
({{cuneiform|𒋀𒀊}}), where ŠEŠ=URI<sub>3</sub>
([http://etcsl.orinst.ox.ac.uk/cgi-bin/etcsl.cgi?searchword=l=urim2%20t=SN&charenc=gcirc ''The Electronic Text Corpus of Sumerian Literature(シュメール語電子コーパス)''].)
</ref>
<!--
<ref name="Meek">
Erich Ebeling, Bruno Meissner, Dietz Otto Edzard (1997).
''Meek – Mythologie. Reallexikon der Assyriologie''. {{in lang|de}}
[https://books.google.com/books?id=O1yFrzi-MgYC&pg=RA2-PA360 p. 360]
(of 589 pages). {{ISBN|978-3-11-014809-1}}.
</ref>
-->
}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|last1=Aruz|first1=Joan|last2=Wallenfels|first2=Ronald|year=2003|title=Art of the First Cities: The Third Millennium B.C. from the Mediterranean to the Indus|publisher=Metropolitan Museum of Art|language=英語|ref=harv}}<br>(『最初の都市の芸術:紀元前三千年紀の地中海からインダスまで』(編:ジョアン・アルツ、ロナルド・ウォレンフェルス、2003年、メトロポリタン美術館(米国)))
* {{Cite book|last1=Beck|first1=Roger B|last2=Black|first2=Linda|last3=Krieger|first3=Larry S.|last4=Naylor|first4=Phillip C.|year=1999|title=World History: Patterns of Interaction|publisher=McDougal Littell|language=英語|url=https://archive.org/details/mcdougallittellw00beck|ref=harv}}<br>(『世界の歴史:相互作用の類型』(著:ロジャー・B・ベック、リンダ・ブラック、ラリー・S・クリーガー、フィリップ・C・ネイラー、1999年、マクドガル・リテル社(米国)))
* {{Cite book|last=Crawford|first=Harriet|year=2015|title=Ur: The City of the Moon God|publisher=Bloomsbury|language=英語|ref=harv}}<br>(『ウル:月の神の都市』(著:ハリアット・クロウフォード、2015年、ブルームズベリー(米国)))
* {{cite journal|last=D'Agostino|first=Franco|year=2011|title=Abu Tbeirah. Preliminary report of the first campaign (January-March 2012)|journal=Rivista degli studi orientali Nuova Serie|volume=84|publisher=Sapienza Universita di Roma|issue=1|pages = 17-34|ref=harv}}<br>(『東洋研究新シリーズレビュー』(ローマ・ラ・サピエンツァ大学)第84号(2011年)第1分冊p.17~34に収録されている『アブー・ティビーラ 第1期発掘作業(2012年1月~3月)の予備報告』(著:フランコ・ダゴスティーノ))
* {{cite journal|last=D'Agostino|first=Franco|year=2011b|title=Abu Theirah, Nasiriyah (Southern Iraq): Preliminary report on the 2013 excavation campaign|journal=ISIMU|volume=13|publisher=Universidad Autónoma de Madrid|pages = 209-221|ref=harv}}<br>(『ISIMU』(マドリード自治大学の古代中東・エジプト専門誌)第13号p.209~221に収録されている『ナーシリーヤのアブー・ティビーラ(イラク南部)、2013年発掘作業の予備報告』(著:フランコ・ダゴスティーノ))
* {{cite journal|last=D'Agostino|first=Franco|year=2013|title=Preliminary report of the second campaign (October-December 2012)|journal=Rivista degli studi orientali Nuova Serie|volume=86|publisher=Sapienza Universita di Roma|issue=1|pages = 69-91|ref=harv}}<br>(『東洋研究新シリーズレビュー』(ローマ・ラ・サピエンツァ大学)第86号(2013年)第1分冊p.69~91に収録されている『アブー・ティビーラ 第2期発掘作業(2012年10月~12月)の予備報告』(著:フランコ・ダゴスティーノ))
* {{cite book|last=Dahl|first=Jacob Lebovitch|url=http://cdli.ucla.edu/staff/dahl/dissertation.pdf |title=The ruling family of Ur III Umma. A Prosopographical Analysis of an Elite Family in Southern Iraq 4000 Years ago|archive-url=https://web.archive.org/web/20060512183750/http://cdli.ucla.edu/staff/dahl/dissertation.pdf |archive-date=2006-05-12 |publisher=UCLA dissertation |year=2003|ref=harv}}<br>(『ウル第3期のウンマの王家 4000年前のイラク南部におけるエリート家族の人物研究分析』(著:ジェイコブ・レボビッチ・ダール、2003年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校博士論文))
* {{cite book|last=Deutscher|first=Guy|title=Syntactic Change in Akkadian: The Evolution of Sentential Complementation|publisher=[[Oxford University Press|Oxford University Press US]]|year=2007|url=https://books.google.com/books?id=XFwUxmCdG94C|ref=harv}}<br>(『統語論上のアッカド語の変化:文の相補分布の発展』(著:ガイ・ドイッチャー、2007年、オックスフォード大学出版))
* {{Cite book|last1=Ebeling|first1=Erich|last2=Meissner|first2=Bruno|last3=Edzard|first3=Dietz Otto|year=1997|title=Meek ― Mythologie. Reallexikon der Assyriologie|publisher=Walter de Gruyter|language=ドイツ語|page=360|ref=harv}}<br>(『神話学:アッシリア学百科事典』(著:エーリヒ・エーベリング、ブルーノ・マイスナー、ディーツ・オットー・エドザード、1997年、ウォルター・ド・グルーター出版(ドイツ))
* {{Cite book|last1=Edwards|first1=I. E. S.|last2=Gadd|first2=C. J.|year=1971|title=The Cambridge Ancient History Volume 1, Part 1: Prolegomena and Prehistory|publisher=Cambridge University Press|language=英語|page=149|url=https://books.google.com/books?id=HRwo6dBekUQC&pg=PA149 ''The Cambridge Ancient History: Prolegomena & Prehistory''|ref=harv}}<br>(『ケンブリッジ古代史 第1巻第1部 序文・先史時代』(編:I・E・S・エドワーズ、C・J・ガッドほか、1971年、ケンブリッジ大学出版)p.149)
* {{Cite book|last=Frayne|first=Douglas|year=1997|title=Ur III Period (2112-2004 BC)|language=英語|publisher=University of Toronto Press|ref=harv}}<br>(『ウル第3期(紀元前2112年~紀元前2004年)』(著:ダグラス・フレイン、1997年、トロント大学出版))
* {{Cite book|last=Gadd|first=C. J. |year=1929|title=History and monuments of Ur|publisher=Chatto & Windus|language=英語}}<br>(『ウルの歴史と記念碑』(著:C・J・ガッド、1929年、チャット&ウィンダス社(イギリス)))
* {{cite journal|last=Hall|first=H. R.|year=1923|title=Ur and Eridu: The British Museum Excavations of 1919|journal=Journal of Egyptian Archaeology|volume=9|issue=3|pages = 177-195|ref=harv}}<br>(『エジプト考古学』第9号第3分冊(1923年)p.177-195に収録されている『ウルとエリドゥ:大英博物館による1919年の発掘』(著:H・R・ホール))
* {{cite journal|last=Hall|first=H. R.|year=1925|title=The Excavations of 1919 at Ur, el-'Obeid, and Eridu, and the History of Early Babylonia|journal=Royal Anthropological Institute of Great Britain and Ireland|volume=25|pages = 1-7|ref=harv}}<br>(『王立文化人類学協会誌』第25号(1925年)p.1-7に収録されている『ウル、エル・オベイド、エリドゥにおける1919年の発掘と初期バビロニアの歴史』(著:H・R・ホール))
* {{Cite book|last=Hasselbach|first=Rebecca|year=2005|title=Sargonic Akkadian: A Historical and Comparative Study of the Syllabic Texts|publisher=Otto Harrassowitz Verlag.|language=英語|ref=harv}}<br>(『サルゴンのアッカド語:音節文書の歴史比較研究』(著:レベッカ・ハッセルバッハ、2005年、オット・ハラソヴィッツ出版(ドイツ)))
* {{Cite book|last=Kramer|first=S. N.|year=1963|title=The Sumerians, Their History, Culture, and Character|publisher=University of Chicago Press|language=英語|ref=harv}}<br>(『シュメール人:その歴史、文化、性格』(S・N・クレイマー、1963年、シカゴ大学出版))
* {{Cite book|last=Kuhrt|first=Amelie|year=1995|title=The Ancient Near East: C.3000-330 B.C.|language=英語|publisher=Routledge.|ref=harv }}<br>(『古代近東:紀元前3000年頃~紀元前330年』(著:アミリー・クアート、1995年、ラウトリッジ出版(英国)))
* {{Cite book|last=Matthews|first=Roger J.|year=1993|title=Cities, Seals and Writing: Archaic Seal Impressions from Jemdet Nasr and Ur (Materialien Zu Den Fruhen Schriftzeugnissen Des Vorderen Orients)|publisher=Gebr Mann Verlag Gmbh & Co Kg|ref=harv}}<br>(『都市、印章、文書:古代ジェムデト・ナスルとウルの印章印影(古代近東における文書証明史料)』(著:ロジャー・J・マシューズ、1993年、Gebr Mann Verlag社(ドイツ)))
* {{Cite book|last1=McCorriston|first1=Joy|last2=Field|first2=Julie|year=2019|title=World Prehistory and the Anthropocene An Introduction to Human History|publisher=Thames & Hudson|language=英語|ref=harv}}<br>(『世界の先史時代と人新世:人類史入門』(著:ジョイ・マコリストン、ジュリー・フィールド、2019年、テムズ・アンド・ハドソン出版(米国)))
* {{cite journal|last=McLerran|first=Dan|url=http://popular-archaeology.com/issue/june-2011/article/birthplace-of-abraham-gets-a-new-lease-on-life |title=Birthplace of Abraham Gets a New Lease on Life |volume=3|journal=Popular Archaeology|year=2011|access-date=July 15, 2017|ref=harv}}<br>(雑誌『Popular Archaeology』(大衆考古学)第3号(2011年)に収録されている『活気を取り戻したアブラハムの生地』(著:ダン・マクレラン))
* {{cite journal|last=Morrey.|first=P. R. S.|year=1977|title=What Do We Know About the People Buried in the Royal Cemetery?|journal=Expedition Magazine|volume=20|issue=1|publisher=Penn Museum|pages = 24-40}}<br>(『雑誌 探検』(ペンシルベニア大学考古学人類学博物館)第20号(1977年)第1分冊p.24-40に収録されている『王家の共同墓地に埋葬されている人々について、何がわかっているだろうか?』(著:P・R・S・モーレイ)
* {{cite journal|last=Morrey.|first=P. R. S.|year=1984|title=Where Did They Bury the Kings of the IIIrd Dynasty of Ur?|journal=Iraq|volume=46|issue=1|publisher=Cambridge University Press|pages = 1-18}}<br>(ケンブリッジ大学年報『イラク』第46号(1984年)第1分冊p.1~18に収録されている『ウル第3王朝の王たちはどこに埋葬されたか?』(著:P・R・S・モーレイ)
* {{cite journal|last=Oates|first=Joan|year=1960|title=Ur and Eridu: The Prehistory|journal=Iraq|volume=22|publisher=Cambridge University Press|pages = 32-50}}<br>(ケンブリッジ大学年報『イラク』第22号(1960年)p.32~50に収録されている『ウルとエリドゥ:先史時代』(著:ジョアン・オーツ)
* {{Cite book|last=Pardo Mata|first=Pilar|year=2006|title=Ur, ciudad de los sumerios|publisher=Alderaban|language=スペイン語}}<br>(『シュメール人の都市ウル』(著:ピラー・パード・マタ、2006年、アルデラバン社(スペイン)))
* {{Cite book|last=Peters|first=John Punnett|editor-last=Chisholm|editor-first=Hugh|year=1911|title=Encyclopadia Britannica 27(11th ed.)|chapter=Ur|publisher=Cambridge University Press|language=英語|pages=783-784|ref=harv}}<br>(『ブリタニカ百科事典』(第11版)第27巻p.783-784に収録されている『ウル』(著:ジョン・パネット・ピーターズ))
* {{cite journal|last=Pollock|first=Susan|year=1985|title=Chronology of the Royal Cemetery of Ur|journal=Iraq|volume=47|publisher=Cambridge University Press|pages = 129-158}}<br>(ケンブリッジ大学年報『イラク』第47号(1985年)p.129~158に収録されている『ウルの王墓の年代学』(著:スーザン・ポロック))
* {{cite journal|last=Pollock|first=Susan|year=1991|title=Of Priestesses, Princes and Poor Relations: The Dead in the Royal Cemetery of Ur|journal=Cambridge Archaeological Journal|volume=1|issue=2|publisher=Cambridge University Press}}}<br>(『ケンブリッジ考古学誌』第1号第2分冊(1991年)に収録されている『女性司祭、王子、乏しい関連:ウルの王墓の遺体』(著:スーザン・ポロック))
* {{Cite book|last=Pournelle|first=Jennifer R.|editor-last=Stone|editor-first=Elizabeth C.|year=2007|title=Settlement and Society: Essays Dedicated to Robert McCormick Adams|chapter=from KLM to CORONA: A Bird's Eye View of Cultural Ecology and Early Mesopotamian Urbanization|publisher=Cotsen Institute of Archaeology, UCLA, and Oriental Institute of the University of Chicago|language=英語|ref=harv}}<br>(『定住と社会:ロバート・マッコーミック・アダムスに捧ぐ』(編:エリザベス・C・ストーン、2007年、コッセン考古学協会及びシカゴ大学東洋研究所)に収録されている『KLM航空写真からCORONA衛星写真へ:文化生態と初期におけるメソポタミア都市化の俯瞰』(著:ジェニファー・R・パーネル))
* {{Cite book|last1=Romano|first1=Licia|last2=D'Agostino|first2=Franco|year=2019|title=Abu Tbeirah Excavations I. Area 1: Last Phase and Building A - Phase 1|publisher=Sapienza Universita Editrice|language=英語|url=https://www.editricesapienza.it/node/7845|ref=harv}}<br>(『アブー・ティビーラの発掘1:第1地区:最終段階と建物A第1段階』(著:リチア・ロマーノ、フランコ・ダゴスティーノ、2019年、サピエンツァ大学出版))
* {{cite book|last=Roux|first=George|year=1992|title=Ancient Iraq|publisher=Penguin Books|ref=harv}}<br>(『古代イラク』(ジョルジュ・ルー、ペンギンブックス(英国)、1992年))
* {{cite journal|last=Sollberger|first=E.|year=1972|title=Mr. Taylor in Chaldaea|journal=Anatolian Studies|volume=22|pages = 129-139|ref=harv}}<br>(ケンブリッジ大学学術誌『アナトリア研究』第22号(1972年)p.129~139に収録されている『カルデアにおけるテイラー氏』(著:E・ソルバーガー))
* {{cite journal|last=Taylor|first=J.E.|year=1855|title=Notes on the Ruins of Muqeyer|journal=Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland|volume=15|pages = 260-276|ref=harv}}<br>(『王立アジア協会誌』第15号(1855年)p.260~276に収録されている『マクエヤー遺跡についての覚え書き』(著:J・E・テイラー))
* {{cite journal|last=Taylor|first=J.E.|year=1855b|title=Notes on Abu Shahrein and Tel-el-Lahm|journal=Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland|volume=15|pages = 404-415|ref=harv}}<br>(『王立アジア協会誌』第15号(1855年)p.404~415に収録されている『アブ・シャーレンとテル・エル・ラームについての覚え書き』(著:J・E・テイラー))
* {{Cite book|last=Westenholz|first=Joan Goodnick|editor-last=Westenholz|editor-first=Joan Goodnick|year=1996|title=Royal Cities of the Biblical World|chapter=Ur - Capital of Sumer|publisher=Bible Lands Museum, Jerusalem|language=英語|ref=harv}}<br>(『聖書の世界の首都』(編:ジョアン・グッドニック・ヴェステンホルツ、1996年、聖書の土地博物館(イスラエル))に収録されている『ウル ― シュメールの首都』(著:ジョアン・グッドニック・ヴェステンホルツ))
* {{Cite book|last=Woolley|first=Leonard|year=1920|title=Ur of the Chaldees: A record of seven years of excavation|publisher=Ernest Benn Limited|language=英語}}<br>(『カルデアのウル:7年間の発掘の記録』(著:レオナード・ウーリー、1920年、アーネスト・ベン社))
* {{Cite book|last=Woolley|first=Leonard|year=1927|title=Ur excavations IV: The Early Periods|publisher=Oxford University Press|language=英語}}<br>(『ウル発掘作業 第4巻 初期時代』(著:レオナード・ウーリー、1927年、オックスフォード大学出版))
* {{Cite book|last=Woolley|first=Leonard|year=1927|title=Ur excavations V: The Ziggurat and Its Surroundings|publisher=Oxford University Press|language=英語}}<br>(『ウル発掘作業 第5巻 ジッグラトとその周辺』(著:レオナード・ウーリー、1927年、オックスフォード大学出版))
* {{Cite book|last1=Woolley|first1=Leonard|last2=Mallowan|first2=M.E.L.|editor=T. C. Mitchell|year=1927|title=Ur Excavations VII: The Old Babylonian Period|publisher=Oxford University Press|language=英語}}<br>(『ウル発掘作業 第7巻 古バビロニア時代』(著:レオナード・ウーリー、M・E・L・マロワン、編:T・C・ミッチェル、1927年、オックスフォード大学出版))
* {{Cite book|last=Woolley|first=Leonard|editor=T. C. Mitchell|year=1927|title=Ur Excavations VIII: The Kassite Period|publisher=Oxford University Press|language=英語}}<br>(『ウル発掘作業 第8巻 カッシート時代』(著:レオナード・ウーリー、編:T・C・ミッチェル、1927年、オックスフォード大学出版))
* {{Cite book|last1=Woolley|first1=Leonard|last2=Mallowan|first2=M.E.L.|editor=T. C. Mitchell|year=1927|title=Ur Excavations IX: The Neo-Babylonian and Persian Periods|publisher=Oxford University Press|language=英語}}<br>(『ウル発掘作業 第9巻 古バビロニア時代』(著:レオナード・ウーリー、M・E・L・マロワン、編:T・C・ミッチェル、1927年、オックスフォード大学出版))
* {{Cite book|last=Woolley|first=Leonard|year=1946|title=Ur: The First Phases|publisher=Penguin|language=英語|ref=harv}}<br>(『ウル:最初の段階』(著:レオナード・ウーリー、1946年、ペンギンブックス))
* {{Cite book|last=Woolley|first=Leonard|year=1965|title=Excavations at Ur: A Record of Twelve Years' Work|publisher=Apollo|language=英語|ref=harv}}<br>(『ウルにおける発掘:12年間の記録』(著:レオナード・ウーリー、1965年、アポロ出版))
* {{Cite book|last1=Woolley|first1=Leonard|last2=Moorey|first2=P. R. S.|year=1982|title=Ur of the Chaldees: A Revised and Updated Edition of Sir Leonard Woolley's Excavations at Ur|publisher=Cornell University Press|language=英語|ref=harv}}<br>(『カルデアのウル:レオナード・ウーリー卿のウル発掘の改訂最新版』(著:レオナード・ウーリー、P・R・S・モーレイ、1982年、コーネル大学出版))
* {{Cite book|last1=Zettler|first1=Richard L.|last2=Horne|first2=Lee|year=1998|title=Treasures from the Royal Tombs of Ur|publisher=University of Pennsylvania Museum of Archaeology and Anthropology|language=英語|ref=harv}}<br>(『ウルの王墓出土の宝物』(編:リチャード・L・ゼットラー、リー・ホーン、1998年、ペンシルベニア大学考古学・文化人類学博物館))
* {{Cite book |和書 |author=小林登志子|authorlink=小林登志子 |title=シュメル -人類最古の文明|publisher=[[中央公論社]] |series=[[中公新書]] |date=2005-10 |isbn=978-4-12-101818-2 |ref=小林 2005}}
* {{Cite book |和書 |author=柴田大輔|chapter=第二部第一章 古代メソポタミア史は諸民族興亡の歴史か |title=楔形文字文化の世界 |series=月本昭男先生退職記念献呈論文集第3巻 |publisher=聖公会出版 |date=2014-3 |pages=23-40|isbn=978-4-88274-261-6 |ref=柴田 2014 }}
* {{Cite book |和書 |author1=ピョートル・ビエンコフスキ|editor=アラン・ミラード|translator=[[池田裕]]、山田重郎監訳、[[池田潤]]、山田恵子、山田雅道 |title=大英博物館版 図説 古代オリエント事典 |publisher=[[東洋書林]] |date=2004-7 |isbn=978-4-88721-639-6 |ref=オリエント事典 2004 }}
* {{Cite book |和書 |author=ホルスト・クレンゲル|translator=[[江上波夫]]|translator2=[[五味亨]] |title=古代バビロニアの歴史 ハンムラビ王とその社会 |date=1980-3 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-65170-8 |ref=クレンゲル 1980}}
* {{Cite book |和書 |author=マイケル・ローフ|translator=松谷敏夫監訳、西秋良宏、[[五味亨]]、松島英子、川瀬豊子、前田昭代、小口和美、[[渡辺和子]] |title=古代のメソポタミア |series=図説 世界文化地理大百科|publisher=[[朝倉書店]] |date=1994-6 |isbn=978-4-254-16651-4 |ref=ローフ 1994}}
* {{Cite book |和書 |author=前川和也|authorlink=前川和也 |chapter=6 都市の境界をこえて|title=人類の起源と古代オリエント|series=世界の歴史1 |date=1998-11 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4-12-403401-1 ||pages=182-224|ref=前川 1998}}
* {{Cite book |和書 |author1=前田徹|author2=川崎康司|author3=山田雅道|author4=小野哲|authorlink4=小野哲|author5=山田重郎|author6=鵜木元尋|year=2000-7|title=歴史の現在 古代オリエント |publisher=山川出版社 |isbn=978-4-634-64600-1 |ref=前田ら 2000}}
* {{Cite book |和書 |author=前田徹|title=初期メソポタミア史の研究 |date=2017-5 |publisher=[[早稲田大学|早稲田大学出版部]] |isbn=978-4-657-17701-8 |ref=前田 2017}}
== 参考ウェブサイト ==
{{commons category|Ur}}
{{Wikiquote}}
* {{Cite web|last=David|first=Ariel|url=https://www.haaretz.com/archaeology/MAGAZINE-archaeologists-peek-into-fox-burrow-find-4-000-year-old-sumerian-port-1.5936818|title=Archaeologists Glance Into Fox Burrow in Iraq, Find 4,000-year-old Sumerian Port|accessdate= 2020-05-05|year=2018|website=haaretz|publisher=haaretz.com|language=英語|ref=harv}}<br>(『考古学者がイラクにあるキツネの穴を垣間見る 4000年前のシュメールの港を発見』(著:アリエル・デーヴィッド、2018年、ハアレツ新聞(イスラエル)))
* {{Cite web|url=https://www.ancient-origins.net/artifacts-other-artifacts/bask-beauty-and-melody-ancient-mesopotamian-lyres-ur-007214|title=Bask in the Beauty and Melody of the Ancient Mesopotamian Lyres of Ur|accessdate= 2022-05-13|year=2016|last=Klimczak|first=Natalia|website=Ancient Origins|publisher=Stella Novus Limited(アイルランド)|language=英語|ref=harv}}<br>(ウェブサイト「古代の起源」(ステラ・ノーバス社、アイルランド)に掲載されている『古代メソポタミア、ウルのリラの美と韻律に浴す』(著:ナタリア・クリムジャック、2016年))
* {{Cite web|url=https://www.thoughtco.com/largest-cities-throughout-history-4068071|title=What Were the Largest Cities Throughout History?
|accessdate=2017-8-11|year=2019|last=Rosenberg|first=Matt|website=ThoughtCo.|language=英語|ref=harv}}<br>(情報サイト『ToughtCo』に掲載されている『史上最大の都市はどこか?』(著:マット・ローゼンバーグ、2019年))
* {{Cite web|url=http://www.csmonitor.com/Science/2013/0404/Home-of-Abraham-Ur-unearthed-by-archaeologists-in-Iraq|title=Home of Abraham, Ur, unearthed by archaeologists in Iraq|accessdate=2017年7月15日|year=2013|last=Salaheddin|first=Sinan|website=The Christian Science Monitor|publisher=The Christian Science Monitor|language=英語|ref=harv}}<br>(ウェブサイト『キリスト教徒科学モニター』に収録されている『イラクにあるアブラハムの故郷、未発掘のウル』(著:シナン・サルヘドン、2013年))
* {{Cite web|url=http://sumerianshakespeare.com/117701/index.html|title=An exploration of the Royal Tombs of Ur, with a comprehensive selection of high-resolution photographs detailing the treasures found in the tombs|accessdate=2022-06-13|website=Sumerian Shakespeare|language=英語}}<br>(ウェブサイト『シュメールのシェイクスピア』に掲載されている『ウルの王墓の発掘 王墓から発掘された各種宝物の高画質画像付き』)
* {{Cite web|url=http://archeoguide.it/ur/2014/05/16/prima-orto-foto-mappa-di-ur-da-fotogrammi-ripresi-con-lausilio-di-sistemi-uav/|title=First orthophoto of archaeological site of UR realized using UAV|accessdate=2020-6-5|year=2014|website=Archeoguide|publisher=Archeoguide|language=イタリア語|ref=Archeoguide}}<br>(『無人航空機による、ウルの考古学遺跡の初めての航空写真』(考古ガイド、2014年))
* {{Cite web|url=https://www.army.mil/article/30595/soldiers-visit-historical-ruins-of-ur/|title=Soldiers visit historical ruins of Ur|accessdate=2022-05-01|year=2009|website=U.S.Army|publisher=U.S.Army|language=英語|ref=US_Army}}<br>(『兵士たちが、ウルの遺跡を訪問』(アメリカ陸軍、2009年))
* {{Cite web|url=https://www.penn.museum/collections/videos/video/155|title=Treasures from the Royal Tombs of Ur|accessdate=2022-06-13|website=PENNMUSEUM|language=英語}}<br>(ペンシルベニア大学考古学・文化人類学博物館のウェブサイトに掲載されている『ウルの王墓の発掘 王墓から発掘された各種宝物の高画質画像付き』)
* {{Cite web|url=http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=40&letter=U|title=Ur|accessdate=2022-06-13|publisher=Jewish Encyclopedia|language=英語}}<br>(『ウル』(ユダヤ百科事典))
* {{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20101109052317/http://globalheritagefund.org/index.php/what_we_do/overview/current_projects/ur_iraq/|title=Ur, Iraq - Home to the Largest Ziggurat in the World|accessdate=2010-11-09|year=2010|website=Grobal Heritage Fund|publisher=Grobal Heritage Fund|language=英語|ref=GHF}}<br>(『イラクのウル - 世界最大のジッグラトがある場所』(世界遺産基金、2010年))
* {{Cite web|url=http://www.rferl.org/content/American_Archeologists_To_Excavate_In_Iraq/1604648.html|title=U.S. Archaeologists To Excavate In Iraq|accessdate=2022-05-01|year=2009|website=Radio Free Europe / Radio Liberty|publisher=Radio Free Europe / Radio Liberty|language=英語|ref=US_excavate_in_Iraq}}<br>(『アメリカの考古学者、イラクの発掘へ』(ラジオ・フリー・ヨーロッパ ラジオ・リバティ、2009年))
* {{Cite web|url=https://www.abc.net.au/news/2009-05-14/us-returns-ur-birthplace-of-abraham-to-iraq/1682312|title=US returns Ur, birthplace of Abraham, to Iraq|accessdate=2022-05-01|year=2009|website=ABC News(Australian Broadcasting Corporation)|publisher=ABC News(Australian Broadcasting Corporation)|language=英語|ref=US_returns_Ur}}<br>(『合衆国がアブラハムの生地であるウルをイラクに返還』(オーストラリア放送協会、2009年))
* {{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20090326004326/http://cojs.org/cojswiki/Woolley%E2%80%99s_Ur_Revisited%2C_Richard_L._Zettler%2C_BAR_10:05%2C_Sep/Oct_1984.|title=Woolley’s Ur Revisited, Richard L. Zettler, BAR 10:05, Sep/Oct 1984.|accessdate=2022-06-13|language=英語}}<br>(『ウーリーのウル再訪』(リチャード・L・ゼトラー))
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* [[物理学者の一覧]]
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;他の自然科学系分野の一覧
* [[化学に関する記事の一覧]]
* [[生物学に関する記事の一覧]]
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* [[プロジェクト:数学/数学に関する記事]]
__NOTOC__
{{KTOC}}[[#欧文|欧文]]
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===あ===
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*[[アーンショーの定理]]
*[[アイソスピン]]
*[[アインシュタイン・シフト]]
*[[アインシュタインの縮約記法]]
*[[アインシュタインの式]]
*[[アインシュタイン方程式]]
*[[アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス]]
*[[アキシオン]]
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*[[アハロノフ=ボーム効果]]
*[[アボガドロ定数]]
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*[[アモルファスシリコン]]
*[[アルキメデスの原理]]
*[[アルファ粒子]] ([[アルファ線]])
*[[安息角]]
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*[[アンペア]]
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*[[イジング模型]]
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*[[ウィーンの変位則]]
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*[[宇宙空間物理学]]
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*[[宇宙の大規模構造]]
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*[[宇宙背景放射]]
*[[宇宙ひも]]
*[[宇宙物理学]]
*[[宇宙方程式]]
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*[[ウラン]]
*[[ウルフ賞物理学部門]]
*[[運動 (物理学)]]
*[[運動エネルギー]]
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*[[運動の第1法則]]
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*[[運動量保存の法則]]
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*[[永久機関]]
*[[エヴェレットの多世界解釈]]
*[[液体]]
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*[[江崎ダイオード]]
*[[エーテル (物理)|エーテル]]
*[[エートヴェシュの実験]]
*[[エネルギー]]
*[[エネルギー・運動量テンソル]]
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*[[エネルギー等配分の法則]]
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===お===
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*[[オイラーの運動方程式]]
*[[オイラーの式]]
*[[オイラー=ラグランジュの方程式]]
*[[応用数学]]
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*[[オーダー (物理学)]]
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*[[オットーサイクル]]
*[[音]]
*[[オーム|オーム (単位)]]
*[[オームの法則]]
*[[重い電子系]]
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*音子・音量子 ([[フォノン]])
*[[温度]]
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*[[オングストローム]]
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==か行==
===か===
{{Flatlist|class=hlist-hyphen}}
*[[カー効果]]
*[[ガイガー=ミュラー計数管]]
*[[解析力学]]
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*[[回転]]
*[[回転 (数学)]] (ローテーション)
*[[回転運動]]
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*[[カビボ理論]]
*[[カラビ=ヤウ空間]]
*[[ガリレイ変換]] ([[ガリレイの相対性原理]])
*[[カルツァ=クライン理論]]
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*[[干渉 (物理学)|干渉]]
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*[[慣性座標系]] ([[慣性系]])
*[[慣性質量]]
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*[[観測]]
*観測者効果([[観察者効果]])
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*[[ガンマ線]]
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*[[気圧]]
*[[機械力学]]
*[[規格化]]
*[[幾何光学]]
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*[[擬スカラー]]
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*[[気体分子運動論]]
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*[[逆カルノーサイクル]]
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*[[キャヴェンディッシュの実験]]
*[[吸着冷凍サイクル]]
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*[[キュリー (単位)]]
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*[[強磁性]]
*凝縮系物理学 ([[物性物理学]])
*[[共振]]
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*[[京都大学基礎物理学研究所]]
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*[[キルヒホッフの法則]]
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*[[空間]]
*[[空気冷凍サイクル]]
*[[偶力]]
*[[クォーク]]
*[[クォークグルーオンプラズマ]]
*[[クォーク・ハドロン相転移]]
*[[屈折]]
*[[クラウジウス-クラペイロンの式]]
*[[クラウジウスの原理]]
*[[グラスホフ数]]
*[[重力子|グラビトン]]
*[[繰り込み]]
*[[グルーオン]]
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*[[グレアムの法則]]
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*[[クーロン相互作用]]
*[[クーロンの法則]] ([[クーロン力]])
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===け===
{{Flatlist|class=hlist-hyphen}}
*計算物理 ([[計算物理学]])
*[[ゲイ=リュサックの法則]]
*[[計量]]
*[[計量因子]]
*[[計量空間]]
*[[計量テンソル]]
*[[経路積分]]
*[[ゲージ不変性]]
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*[[ケーターの振り子]]
*[[結晶]]
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*[[ケプラーの法則]]
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*[[減衰振動]]
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*[[現代物理学]]
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*[[弦理論]]
{{Endflatlist}}
===こ===
{{Flatlist|class=hlist-hyphen}}
*[[高エネルギー加速器研究機構]]
*[[高エネルギー物理学]]
*[[高エネルギーレーザー科学]]
*[[工学]]
*[[光学]]
*[[光学スペクトル]]
*[[交換関係 (量子力学)]]
*[[交換相関エネルギー]]
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*[[格子 (数学)]]
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*[[光速]](光速度)
*[[光速度不変の原理]]
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*[[勾配 (ベクトル解析)]]
*[[交番磁界]]
*[[高分子]]
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*[[国際原子時]]
*[[国際単位系]]
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*[[古典物理学]]
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*[[古典力学の方程式一覧]]
*[[古典力学の年表]]
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*コヒーレンス状態 ([[コヒーレント状態]])
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*[[サイクロトロン]]
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*[[水素原子]]
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*[[チェレンコフ放射]] ([[チェレンコフ光]],[[チェレンコフ効果]])
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*[[場]]
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関白
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関白(かんぱく)は、前近代の日本の朝廷において、成人の天皇を補佐する官職。令外官であり、摂政とともに臣下が付きうる最高の職位であった。敬称は殿下。
関白は太政官からの意見を天皇に奏上する権限を持った役職であり、平安時代の朝廷において藤原基経が天皇から執政に任命されたことを始まりとする。当初は臨時の職であったがやがて常置されるようになり、天皇の外戚となった藤原氏が天皇の幼少期には摂政、成長後には関白の地位を占め、実質的な朝廷の権限を握った。この摂関が中心となった政治体制は摂関政治といい、その最盛期は摂関時代と呼ばれる。院政の開始以降はその権限は制限され、外戚となることも稀となり、摂家と呼ばれる数家が交代で世襲していくこととなる。武家政権の成立によってその影響力は低下しつつあったものの、朝廷の最高官としての権威と政治力を保持していた。安土桃山時代には豊臣政権の豊臣秀吉らが関白職に付いたが、秀吉の没後にはふたたび摂家の就任するものとなった。江戸時代は江戸幕府の統制下に置かれつつも、幕末まで朝廷政治の中枢としての役割を担った。
関白の語は、中国前漢の宣帝が、上奏はすべて実力者霍光が「関(あずか)り白(もう)す」ようにした故事に由来する。これは、霍光の権勢を恐れた宣帝が、政務不行届を口実に霍光により廃位されることを避けるためであったと言われる(関白の別名の一つ「博陸」は、霍光が博陸侯であった事に由来している)。なお、関白職を子弟に譲った前関白は太閤と呼ばれ、太閤は出家すると禅閤と呼ばれる(禅定太閤の略)。後には勅許により太閤を号することも行われるようになった。
摂政との違いは、摂政は、天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行するのに対して、関白は、成人の天皇を補佐する立場であり、最終的な決裁者はあくまでも天皇である。従って、天皇と関白のどちらが主導権を取るとしても、天皇と関白が協議などを通じて合意を図りながら政務を進めることが基本となる。
このような地位に照らし、摂政関白は、天皇臨席などの例外を除いては、太政官の会議には参加しない(あるいは決定には参与しない)慣例があり、太政大臣・左大臣が摂政・関白を兼任している場合にはその次席の大臣が太政官の首席の大臣(一上)として政務を執った。
関白は天皇と太政官の間の政治的なやりとりを行う際には事前にその内容を把握・関与することで国政に関する情報を常に把握し、天皇の勅命や勅答の権限を直接侵害することなく天皇・太政官双方を統制する権限を有した。この権限は「内覧」とも呼ばれ、摂関と分離することもあった。
幼少の天皇が元服して政務を執るようになり、摂政を務めていた人物が辞する、または関白に転任することを「復辟」という。この際に准摂政宣下を受け、摂政とほぼ変わらない権限を認められた関白も存在する。
関白職の初任者は藤原基経であるが、実際には、基経およびその養父である先代・藤原良房の二代の間で、「関白」の役割の先例が形作られていった。
まず、良房は、幼くして即位した清和天皇を太政大臣として支え、「政治の総攬者」としての役割を果たした。これは役割としては摂政にあたるが、正式に任命されたものではなかった。清和天皇は貞観6年(864年)に元服したが、。しかし貞観8年(866年)の応天門の変で太政官が機能不全に陥った8月19日、良房は摂政に任命された。これは良房の時点では、成人後に関白となるという原則は成立していなかったことを示している。
次に基経は、陽成天皇が即位すると同時に摂政に任命された。基経が関白に就任した時期としては、複数の学説がある。
まず、『公卿補任』では、陽成天皇の元慶4年11月8日(880年12月13日)に摂政から転じて関白になったとする。『公卿補任』が公卿の経歴に関する基本資料であるためにこの記述をそのまま採用する書籍は多い。ただし、当時は国家による正史(『日本三代実録』)が編纂されていたにもかかわらず、当該期日に関白就任に関する記事が全く見られないのは不自然であること、この日に関白に転任する理由(天皇の成人等)がないことから、この日に関白に転任した可能性は低い。後に、藤原忠平が朱雀天皇の成人とともに摂政から関白に転じた(明確に転任した初例)日付が「天慶4年11月8日」(941年11月29日)であったことから、編纂時に日付の取り違えが起こったものと思われる。
ちなみに、陽成天皇が元服したのは元慶6年正月2日(882年1月24日)であるが、この直後に基経は摂政辞任を申し出るも、却下されている。後世では、天皇成人とともに摂政から関白に転任するところであるが、この時点ではそのような区別はなされておらず、成人後の天皇の補佐も引き続き「摂政」が行っていたことがわかる。上記の『公卿補任』の記載は、日付の取り違えに加えて、後世の人が当時の慣習を知らずに書き加えたもので、事実ではないとする説が有力である。
陽成退位後に55歳で即位した光孝天皇はに太政大臣の職務について検討させたが、文章博士菅原道真らは太政大臣には定まった職掌がないと回答した。これをうけて元慶8年6月5日(884年7月1日)、天皇は基経に対して国政に対する権限を与える詔が出された。この時の詔書は『日本三代実録』に記載されているが、『公卿補任』ではこの詔書については触れられていない。この詔には「関白」の語自体は用いられていないが、後の関白の職掌である天皇に太政官の決定を奏上することが書かれている。これが後の関白任命の際の詔書の原点になっており、竹内理三以来平安時代史の研究家の間では、実質的な関白の始まりとして支持が多い説である。一方で、任摂政の詔とは異なり、天皇を摂行するという語句はなく、光孝は基経の権限は摂政とは異なると認識していたものと見られる。
宇多天皇の即位後の仁和3年11月21日(887年12月9日)、天皇から改めて出された国政委任の詔書は、「関白」の語源である「関り白す」の言が入った初例である。ただし、この詔書の表題は「賜摂政太政大臣関白機万機詔」であり、文中でも清和・陽成・光孝の三代に渡って「摂政」であったとしている。また基経が辞退した後に出された詔書でも「辞摂政」「辞関白」の混用が見られる。瀧浪貞子は宇多および詔書の起草者である橘広相が、摂政と成人天皇の補佐を行う関白の違いを認識しておらず、これが阿衡事件に繋がったとしている。
基経の没後、宇多天皇は関白を置かなかった。しかし寛平8年(897年)、宇多は子の醍醐天皇に譲位するととともに、基経の子藤原時平と菅原道真に対し、奏上する政務事項を先に閲覧する内覧の宣旨を下した。醍醐天皇の治世には関白は置かれなったが、時平の弟藤原忠平は朱雀天皇の即位にともない摂政に任じられ、承平7年(937年)に天皇が元服したのを機に辞表を提出した。だが、折りしも承平天慶の乱が発生したために天皇はこれを慰留して乱の鎮圧に努めさせ、乱が鎮圧した天慶4年(941年)になって漸く忠平の摂政辞表は受理されたものの、直ちに基経の先例に従って関白に任じられた。天皇の成人を機に摂政が関白に転じた確実な事例はこれが最初である。
竹内理三や橋本義彦は関白の任務がはっきりと別れたのは忠平の時代としているが、坂上康俊は宇多天皇の時代としており、瀧浪貞子は忠平が関白に就任する際、『日本紀略』では「仁和の故事」にならったとしていることから、光孝天皇の時代には成人天皇を補佐する関白と摂政の役割は区別されていたとしている。また、佐々木宗雄は太政大臣(元慶4年任命)基経に対して国政委任の職掌を与えた詔であったとし、河内祥輔は摂政任命の詔であるが基経より年長であったために文体を変えたもので、宇多天皇が阿衡の文面を撤回した仁和4年6月2日の詔も実質は摂政任命の詔(関白は摂政の兼職となる)であり、関白と摂政が別の職として分離するのは藤原忠平以後であるとしている。また河内は「関白」という言葉が存在しない時期にまで初例を遡って求める態度を問題視している。“最初の関白任命そのものは「関白」という職名が成立したときである”という考え方については支持する研究者もいる。
朱雀天皇の次の村上天皇期には関白が設置されなかったものの、冷泉天皇が即位するにあたって、太政大臣実頼が関白となった。摂政を経ずに関白となったのは実頼が最初である。冷泉天皇は病気が重く、実頼は准摂政宣下を受け、関白でありながら摂政に準ずる形で政務をとった。しかし実頼は外戚でなかったため実権は乏しく、「揚名(名ばかり)の関白」と嘆くほどであった。
実頼以降は筆頭大臣が摂関となることが続いたが、986年(寛和2年)に右大臣藤原兼家が外孫一条天皇の摂政に任じられた。この時兼家の上座には太政大臣と左大臣の二人がおり、摂政の位置づけが不明確になった。一ヶ月後に兼家は右大臣を辞職し、摂政が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より上席を占めるという一座宣旨を受けた。この「寛和の例」以降、摂関と大臣は分離され、藤原氏の氏長者の地位と一体化していった。しかしこれ以降摂関と太政大臣が陣定の指導を行う一上とならない慣例が生まれ、摂関が太政官を直接指導することは出来なくなった。関白の主要な職務は太政官から上奏される文書を天皇に先んじて閲覧する内覧の権限と、それに対する拒否権を持つことであった。しかしこの対象は太政官に限られ、蔵人からの上奏は対象とならなかった。
兼家の死後は権力争いに勝利した道長が朝廷の主導権を握った。道長自身は関白に就くことなく、内覧および一上として政務を主導したが、事実上の関白として「御堂関白」とも呼ばれた。道長の嫡流を御堂流というのはこれに由来する。1016年(長和5年)に後一条天皇が即位すると道長は摂政となったが、間もなくその子の頼通にその座を譲った。その後も道長の外孫が天皇となることが続き、頼通は50年以上にわたって関白の座を占め続け、摂関政治の最盛期を築いた。しかし頼通は子宝に恵まれず、入内した子女も皇子を産むことはなかった。また頼通も優柔不断な性格で決断を嫌ったこともあり、責任を押しつけ合う頼通と天皇との間で政務は停滞した。こうした状況を藤原資房は、天下の災いは関白が無責任であることが原因であると記している。
頼通と外戚関係にない後三条天皇が即位すると、後三条の主導による政治改革が始まったことで関白の存在感は減少していった。その子の白河天皇が堀河天皇に譲位して院政を開始したことや、師実・師通の父子が相次いで死去し御堂流が主導権を握れなかったこともあり、摂関政治の時代は終焉を迎えた。堀河の没後に白河が鳥羽天皇を擁立すると、鳥羽の外舅にあたる藤原公実が摂政の地位を望んだ。しかし白河は御堂流直系の忠実を摂政に任じた。これ以降、外戚の有無に拘わらず、御堂流の嫡流「摂家」が摂関となる慣例が成立した。
1121年(保安2年)に関白藤原忠実は白河法皇の勘気を被り、10年にわたる謹慎生活を強いられることとなった。関白は息子の忠通が継ぎ、院御所議定に加わることもあるなど、一定の影響力と権威を持った。しかし1132年(天承2年)に忠実が内覧に任じられて政界復帰を果たすと、関白忠通と内覧忠実が並立する異常事態となった。忠実は忠通の弟頼長を寵愛し、近衛天皇の元服が行われた1150年(久安5年)、忠通に対して摂政の地位を譲るよう要求した。しかし忠通は拒否し、激怒した忠実は藤原氏長者の証である朱器台盤などの宝器を忠通邸から強奪して頼長を氏長者とした。しかし鳥羽法皇は忠通を関白、頼長を内覧とし、氏長者と関白が分離する事態が発生した。忠通と忠実・頼長の対立は保元の乱の一因ともなり、頼長はこの乱で敗死した。乱後には信西の主導によって忠通に氏長者補任の宣旨が下り、藤原家内の身分であった氏長者が朝廷に握られることとなった。その後の後白河院政と平氏政権で摂関家は主体性を発揮することが出来ず、さらに忠通の子の代から近衛家・松殿家・九条家の三系統に分裂することとなった。
鎌倉時代以降は政治の実権が朝廷から武家に移り、朝廷内での権力も治天の君が中心となる体制が築かれたため、関白職の政治への影響力はますます薄れていった。承久の乱後には関白九条道家が権勢を振るったが、関白の地位を息子達に譲って後も勢力を保つなど、関白の地位と権勢の分離が明らかとなった。その後九条家から二条家と一条家が、近衛家から鷹司家が分立して五摂家による摂関職の継承体制が固まった。摂家は他の堂上家を家礼として擬似的な主君となり、朝廷内で隔絶した地位を持つに至った。このため摂家では他の堂上家を「凡下(一般庶民の称)」と呼んでいたという。
戦国時代になると、摂関家は朝廷儀式に関わることがほとんど無くなり、女房など女官を出すことも無くなった。このため室町・戦国期を通じて摂関家が外戚となった例は一例も無い。摂関家が比較的経済状態がよかったことや、皇室や廷臣と所領や権利をめぐる競合関係があったことが理由ではないかと考えられている。
安土桃山時代に羽柴秀吉が「関白相論」問題を機に近衛前久の猶子となって関白に就任し、日本で初の武家関白となる。さらに秀吉が豊臣姓を賜ったことで、藤原氏でも五摂家でもない関白職が誕生することとなった。その後、秀吉は羽柴家世襲の武家関白による政権(武家関白制)の実現のために、甥にして養子であった秀次が関白職及び家督を継承した。しかし、秀次は関白職にありながら、実権は太閤たる秀吉の掌中にあり、後に秀吉と対立して失脚することとなった。その後も豊臣政権は続いたが、秀吉は幼い息子秀頼の成人まで関白を置かない方針であった。だが、秀吉の死後関ヶ原の戦い以降は次第に天下の実権は徳川家に移り、関白職は再び五摂家の任ぜられる職となった。その後豊臣家は大坂の陣で滅亡したため、関白職に復帰することはなかった。
江戸時代の摂政・関白は豊臣家滅亡後に制定された禁中並公家諸法度第三条は摂関および三公には、政務に通じている必要がると規定され、関白の進退はすべて幕府との協議と承認を必要とするようになった。関白には幕府から役料として500石、さらに藤氏長者の役料500石が支給された。
江戸期では天皇の政務を補佐し、決定を執行する職制が構成され、この執行部によって朝廷の運営が行われていくこととなる。執行部の構成は関白と武家伝奏、そして貞享3年(1668年)に設置された議奏であった。中でも関白は職制における地位と、伝統的な家格、そして幕府の後ろ盾により飛び抜けた権威と権力を持つようになった。会議は関白の主宰で行われるようになり、改元や任官などの重要事項も関白が自己が主宰した会議の決定を武家伝奏などを通じて幕府に諮るという手続が確立されたために、朝廷内において大きな権力を有するようになった。また、公家の中で関白にのみ御所への日参が義務付けられ、天皇の側近くで影響力を保つこととなった。
寛永14年12月(1638年1月)、後水尾上皇は、娘の明正天皇が成人するにあたって、摂政二条康道を関白にし、明正天皇に神事や節会を行わせようとした。ところが京都所司代板倉重宗は事前に相談がなかったと激怒し、将軍徳川家光の体調不良を理由にこれを門前払いした。この反応に後水尾上皇は「復辟」の計画を断念し、明正天皇は政務や神事に携わることなく、関白が置かれることもなかった。
家光以降、江戸幕府将軍の正室(御台所)と、御三家等の正室は皇族および摂家から嫁ぐ慣例となっていた。近衛基煕の娘近衛熈子は徳川家宣の正室となり、徳川家継・徳川吉宗時代にも強い影響を及ぼした。基煕は霊元上皇との関係が悪く、東山天皇期になってようやく関白となったが、以降は公家における江戸期初の太政大臣に任官した。これ以降の太政大臣は、原則として天皇および儲君(天皇の後継者候補)の元服の際に任官されることが通例となったが、すべて現職の関白および関白経験者が任官している。
基本的に摂家および関白は幕府のもとで摂家が主導する朝廷秩序の維持を目的としており、その秩序を乱す動きを警戒していた。霊元上皇は朝儀の再興を図ることに熱心であったが、幕府の十分な協力を得られない状態で大嘗会の再興を行ったため、資金不足で儀式は簡略され地下官人にも手当が行き渡らず極めて不評であった。東山天皇と関白近衛基熙は霊元の影響力排除に動き、幕府の協力を得て霊元上皇派の人物を要職から追放した。桃園天皇の時代に竹内式部(竹内敬持)が天皇および近習公家に垂加神道をもととした名分論的思想を広め、近習公家の間で武術の練習が流行するとこれを禁止した。さらに竹内式部が天皇に進講を行うことの禁止や、近習の罷免を行った。天皇は猛抗議し、関白一条忠香の参内を停止した。しかし忠香は強引に参内し、天皇を屈服させて処分案を貫徹させた。これは幕府が感知していない出来事であり、京都所司代は事前に相談がなかったことに抗議している(宝暦事件)。また宝暦12年(1762年)の桃園天皇の崩御の際は、儲君として英仁親王(後の後桃園天皇)が定まっていたのにもかかわらず、関白近衛内前らは幕府と相談して桃園天皇の姉智子内親王を践祚させ(後桜町天皇)、英仁親王即位までの中継ぎとして擁立した。これは一般の公家にも先例を無視した暴挙であると反発を受けた。後桜町天皇は成人で即位したものの、関白ではなく摂政が置かれた。これは明正天皇の事例が先例となったものと見られる。関白が制度化して以降の女性天皇は明正天皇と後桜町天皇の2例のみであり、女性天皇の時代に関白が設置されることはなかった。
桜町天皇以降は摂政が置かれる時期がほとんどであり、関白が置かれた時期でも天皇が病弱であったため、この時期の関白はほとんど摂政と変わらない有様であった。安永8年(1779年)に後桃園天皇が子を儲けず没したため、閑院宮から光格天皇が跡を継いだ。光格天皇は元服後に摂政から関白に転任した九条尚実が病気となったため、政務を執ることに慣れていた。九条尚実の次の関白である鷹司輔平は「近代これ無き恐悦の折りがら」と喜びを示している。光格天皇は寛政12年(1800年)に「執柄(関白)・幕府の文武両道の補佐」を得ていると述べており、関白と幕府によって天皇が支えられる姿が理想であると示している。しかし光格天皇が実父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとした尊号一件では、関白鷹司輔平と幕府はともに反対に回っている。天皇は鷹司輔平を事実上更迭し、幕府に批判的な一条輝良をこれに代えた。しかし幕府はあくまで尊号宣下に反対したため、天皇もついに断念した。しかし徳川家斉は実父徳川治済と自らの官位上昇を求め、調停に対して融和的となった。
仁孝天皇期から孝明天皇期まで32年間関白を務めた鷹司政通は「気魄雄渾、容貌魁偉」と評される豪胆さを持った政治家であり、特に大きな権勢を誇った。安政3年(1856年)に鷹司政通は関白を退き、後任には九条尚忠が就いたものの、内覧を引き続き務め、また子が関白になっていないにも関わらず太閤の称号を勅許された。しかし日米修好通商条約の締結が問題になると、攘夷を望む孝明天皇は、親幕府派である九条尚忠の罷免を考えるようになった。孝明天皇は関白を通さない戊午の密勅により水戸藩や諸大名の協力を求める動きに出たが、幕府によって九条尚忠の留任が決定された。九条尚忠は攘夷は公家の活発な活動は幕府の力がなければ押さえきれないと判断し、大老井伊直弼に対して厳しい処分を行うよう求めている。安政の大獄により鷹司政通や近衛忠煕らが処分され、九条尚忠は幕府と朝廷の間に立って和宮親子内親王の将軍徳川家茂への降嫁を実現させるなど公武の融和に務めた。しかし孝明天皇の信任を失い、廷臣八十八卿列参事件に代表される非摂家公家の活発な活動によって朝廷内における幕府と関白の影響力は低下していった。文久元年(1861年)4月、九条尚忠は薩摩藩島津久光の上洛により辞職に追い込まれ、関白の任免権は再び朝廷に取り戻された。しかしその後関白となった近衛忠煕は政治的意欲に欠けた上に、台頭する攘夷過激派の公家を押さえきれずに辞職し、その後任でかつては攘夷派の支持を受けていた鷹司輔煕も辞意を伝えるようになっていた。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令で、摂政、関白、征夷大将軍の職が廃止され、関白の歴史も終焉を迎える。最後の関白となった二条斉敬は孝明天皇の崩御に伴い摂政に転任していたが、参朝を停止させられるなど、新政府において重要な役割を果たすことはなかった。
その後、摂政は天皇の公務を代行する役目として皇族のみが任ぜられる職として皇室典範に定められ、今日も存続している。
関白の辞令は、詔書と勅書によって発行されるが、さらに、宣旨で発行される場合もある。
豊臣秀吉(藤原秀吉)の関白宣旨(奉者:大外記)※「足守木下家文書」所載
權大納言藤原朝臣淳光宣、奉 勅、萬機巨細、宜令内大臣關白者、
天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉 奉
(訓読文) 権大納言(柳原)藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、萬機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣(藤原秀吉)をして関白にせしむべし者(てへり)。天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉 奉(うけたまは)る。
※天正十三年七月十一日段階では、未だ豊臣の氏は賜わっておらず、近衛家に猶子となったため、氏は藤原となる。
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"text": "摂政との違いは、摂政は、天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行するのに対して、関白は、成人の天皇を補佐する立場であり、最終的な決裁者はあくまでも天皇である。従って、天皇と関白のどちらが主導権を取るとしても、天皇と関白が協議などを通じて合意を図りながら政務を進めることが基本となる。",
"title": "関白の権限"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "このような地位に照らし、摂政関白は、天皇臨席などの例外を除いては、太政官の会議には参加しない(あるいは決定には参与しない)慣例があり、太政大臣・左大臣が摂政・関白を兼任している場合にはその次席の大臣が太政官の首席の大臣(一上)として政務を執った。",
"title": "関白の権限"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "関白は天皇と太政官の間の政治的なやりとりを行う際には事前にその内容を把握・関与することで国政に関する情報を常に把握し、天皇の勅命や勅答の権限を直接侵害することなく天皇・太政官双方を統制する権限を有した。この権限は「内覧」とも呼ばれ、摂関と分離することもあった。",
"title": "関白の権限"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "幼少の天皇が元服して政務を執るようになり、摂政を務めていた人物が辞する、または関白に転任することを「復辟」という。この際に准摂政宣下を受け、摂政とほぼ変わらない権限を認められた関白も存在する。",
"title": "関白の権限"
},
{
"paragraph_id": 7,
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"text": "関白職の初任者は藤原基経であるが、実際には、基経およびその養父である先代・藤原良房の二代の間で、「関白」の役割の先例が形作られていった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "まず、良房は、幼くして即位した清和天皇を太政大臣として支え、「政治の総攬者」としての役割を果たした。これは役割としては摂政にあたるが、正式に任命されたものではなかった。清和天皇は貞観6年(864年)に元服したが、。しかし貞観8年(866年)の応天門の変で太政官が機能不全に陥った8月19日、良房は摂政に任命された。これは良房の時点では、成人後に関白となるという原則は成立していなかったことを示している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "次に基経は、陽成天皇が即位すると同時に摂政に任命された。基経が関白に就任した時期としては、複数の学説がある。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "まず、『公卿補任』では、陽成天皇の元慶4年11月8日(880年12月13日)に摂政から転じて関白になったとする。『公卿補任』が公卿の経歴に関する基本資料であるためにこの記述をそのまま採用する書籍は多い。ただし、当時は国家による正史(『日本三代実録』)が編纂されていたにもかかわらず、当該期日に関白就任に関する記事が全く見られないのは不自然であること、この日に関白に転任する理由(天皇の成人等)がないことから、この日に関白に転任した可能性は低い。後に、藤原忠平が朱雀天皇の成人とともに摂政から関白に転じた(明確に転任した初例)日付が「天慶4年11月8日」(941年11月29日)であったことから、編纂時に日付の取り違えが起こったものと思われる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ちなみに、陽成天皇が元服したのは元慶6年正月2日(882年1月24日)であるが、この直後に基経は摂政辞任を申し出るも、却下されている。後世では、天皇成人とともに摂政から関白に転任するところであるが、この時点ではそのような区別はなされておらず、成人後の天皇の補佐も引き続き「摂政」が行っていたことがわかる。上記の『公卿補任』の記載は、日付の取り違えに加えて、後世の人が当時の慣習を知らずに書き加えたもので、事実ではないとする説が有力である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "陽成退位後に55歳で即位した光孝天皇はに太政大臣の職務について検討させたが、文章博士菅原道真らは太政大臣には定まった職掌がないと回答した。これをうけて元慶8年6月5日(884年7月1日)、天皇は基経に対して国政に対する権限を与える詔が出された。この時の詔書は『日本三代実録』に記載されているが、『公卿補任』ではこの詔書については触れられていない。この詔には「関白」の語自体は用いられていないが、後の関白の職掌である天皇に太政官の決定を奏上することが書かれている。これが後の関白任命の際の詔書の原点になっており、竹内理三以来平安時代史の研究家の間では、実質的な関白の始まりとして支持が多い説である。一方で、任摂政の詔とは異なり、天皇を摂行するという語句はなく、光孝は基経の権限は摂政とは異なると認識していたものと見られる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "宇多天皇の即位後の仁和3年11月21日(887年12月9日)、天皇から改めて出された国政委任の詔書は、「関白」の語源である「関り白す」の言が入った初例である。ただし、この詔書の表題は「賜摂政太政大臣関白機万機詔」であり、文中でも清和・陽成・光孝の三代に渡って「摂政」であったとしている。また基経が辞退した後に出された詔書でも「辞摂政」「辞関白」の混用が見られる。瀧浪貞子は宇多および詔書の起草者である橘広相が、摂政と成人天皇の補佐を行う関白の違いを認識しておらず、これが阿衡事件に繋がったとしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "基経の没後、宇多天皇は関白を置かなかった。しかし寛平8年(897年)、宇多は子の醍醐天皇に譲位するととともに、基経の子藤原時平と菅原道真に対し、奏上する政務事項を先に閲覧する内覧の宣旨を下した。醍醐天皇の治世には関白は置かれなったが、時平の弟藤原忠平は朱雀天皇の即位にともない摂政に任じられ、承平7年(937年)に天皇が元服したのを機に辞表を提出した。だが、折りしも承平天慶の乱が発生したために天皇はこれを慰留して乱の鎮圧に努めさせ、乱が鎮圧した天慶4年(941年)になって漸く忠平の摂政辞表は受理されたものの、直ちに基経の先例に従って関白に任じられた。天皇の成人を機に摂政が関白に転じた確実な事例はこれが最初である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "竹内理三や橋本義彦は関白の任務がはっきりと別れたのは忠平の時代としているが、坂上康俊は宇多天皇の時代としており、瀧浪貞子は忠平が関白に就任する際、『日本紀略』では「仁和の故事」にならったとしていることから、光孝天皇の時代には成人天皇を補佐する関白と摂政の役割は区別されていたとしている。また、佐々木宗雄は太政大臣(元慶4年任命)基経に対して国政委任の職掌を与えた詔であったとし、河内祥輔は摂政任命の詔であるが基経より年長であったために文体を変えたもので、宇多天皇が阿衡の文面を撤回した仁和4年6月2日の詔も実質は摂政任命の詔(関白は摂政の兼職となる)であり、関白と摂政が別の職として分離するのは藤原忠平以後であるとしている。また河内は「関白」という言葉が存在しない時期にまで初例を遡って求める態度を問題視している。“最初の関白任命そのものは「関白」という職名が成立したときである”という考え方については支持する研究者もいる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 16,
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"text": "朱雀天皇の次の村上天皇期には関白が設置されなかったものの、冷泉天皇が即位するにあたって、太政大臣実頼が関白となった。摂政を経ずに関白となったのは実頼が最初である。冷泉天皇は病気が重く、実頼は准摂政宣下を受け、関白でありながら摂政に準ずる形で政務をとった。しかし実頼は外戚でなかったため実権は乏しく、「揚名(名ばかり)の関白」と嘆くほどであった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 17,
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"text": "実頼以降は筆頭大臣が摂関となることが続いたが、986年(寛和2年)に右大臣藤原兼家が外孫一条天皇の摂政に任じられた。この時兼家の上座には太政大臣と左大臣の二人がおり、摂政の位置づけが不明確になった。一ヶ月後に兼家は右大臣を辞職し、摂政が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より上席を占めるという一座宣旨を受けた。この「寛和の例」以降、摂関と大臣は分離され、藤原氏の氏長者の地位と一体化していった。しかしこれ以降摂関と太政大臣が陣定の指導を行う一上とならない慣例が生まれ、摂関が太政官を直接指導することは出来なくなった。関白の主要な職務は太政官から上奏される文書を天皇に先んじて閲覧する内覧の権限と、それに対する拒否権を持つことであった。しかしこの対象は太政官に限られ、蔵人からの上奏は対象とならなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "兼家の死後は権力争いに勝利した道長が朝廷の主導権を握った。道長自身は関白に就くことなく、内覧および一上として政務を主導したが、事実上の関白として「御堂関白」とも呼ばれた。道長の嫡流を御堂流というのはこれに由来する。1016年(長和5年)に後一条天皇が即位すると道長は摂政となったが、間もなくその子の頼通にその座を譲った。その後も道長の外孫が天皇となることが続き、頼通は50年以上にわたって関白の座を占め続け、摂関政治の最盛期を築いた。しかし頼通は子宝に恵まれず、入内した子女も皇子を産むことはなかった。また頼通も優柔不断な性格で決断を嫌ったこともあり、責任を押しつけ合う頼通と天皇との間で政務は停滞した。こうした状況を藤原資房は、天下の災いは関白が無責任であることが原因であると記している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "頼通と外戚関係にない後三条天皇が即位すると、後三条の主導による政治改革が始まったことで関白の存在感は減少していった。その子の白河天皇が堀河天皇に譲位して院政を開始したことや、師実・師通の父子が相次いで死去し御堂流が主導権を握れなかったこともあり、摂関政治の時代は終焉を迎えた。堀河の没後に白河が鳥羽天皇を擁立すると、鳥羽の外舅にあたる藤原公実が摂政の地位を望んだ。しかし白河は御堂流直系の忠実を摂政に任じた。これ以降、外戚の有無に拘わらず、御堂流の嫡流「摂家」が摂関となる慣例が成立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1121年(保安2年)に関白藤原忠実は白河法皇の勘気を被り、10年にわたる謹慎生活を強いられることとなった。関白は息子の忠通が継ぎ、院御所議定に加わることもあるなど、一定の影響力と権威を持った。しかし1132年(天承2年)に忠実が内覧に任じられて政界復帰を果たすと、関白忠通と内覧忠実が並立する異常事態となった。忠実は忠通の弟頼長を寵愛し、近衛天皇の元服が行われた1150年(久安5年)、忠通に対して摂政の地位を譲るよう要求した。しかし忠通は拒否し、激怒した忠実は藤原氏長者の証である朱器台盤などの宝器を忠通邸から強奪して頼長を氏長者とした。しかし鳥羽法皇は忠通を関白、頼長を内覧とし、氏長者と関白が分離する事態が発生した。忠通と忠実・頼長の対立は保元の乱の一因ともなり、頼長はこの乱で敗死した。乱後には信西の主導によって忠通に氏長者補任の宣旨が下り、藤原家内の身分であった氏長者が朝廷に握られることとなった。その後の後白河院政と平氏政権で摂関家は主体性を発揮することが出来ず、さらに忠通の子の代から近衛家・松殿家・九条家の三系統に分裂することとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "鎌倉時代以降は政治の実権が朝廷から武家に移り、朝廷内での権力も治天の君が中心となる体制が築かれたため、関白職の政治への影響力はますます薄れていった。承久の乱後には関白九条道家が権勢を振るったが、関白の地位を息子達に譲って後も勢力を保つなど、関白の地位と権勢の分離が明らかとなった。その後九条家から二条家と一条家が、近衛家から鷹司家が分立して五摂家による摂関職の継承体制が固まった。摂家は他の堂上家を家礼として擬似的な主君となり、朝廷内で隔絶した地位を持つに至った。このため摂家では他の堂上家を「凡下(一般庶民の称)」と呼んでいたという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "戦国時代になると、摂関家は朝廷儀式に関わることがほとんど無くなり、女房など女官を出すことも無くなった。このため室町・戦国期を通じて摂関家が外戚となった例は一例も無い。摂関家が比較的経済状態がよかったことや、皇室や廷臣と所領や権利をめぐる競合関係があったことが理由ではないかと考えられている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "安土桃山時代に羽柴秀吉が「関白相論」問題を機に近衛前久の猶子となって関白に就任し、日本で初の武家関白となる。さらに秀吉が豊臣姓を賜ったことで、藤原氏でも五摂家でもない関白職が誕生することとなった。その後、秀吉は羽柴家世襲の武家関白による政権(武家関白制)の実現のために、甥にして養子であった秀次が関白職及び家督を継承した。しかし、秀次は関白職にありながら、実権は太閤たる秀吉の掌中にあり、後に秀吉と対立して失脚することとなった。その後も豊臣政権は続いたが、秀吉は幼い息子秀頼の成人まで関白を置かない方針であった。だが、秀吉の死後関ヶ原の戦い以降は次第に天下の実権は徳川家に移り、関白職は再び五摂家の任ぜられる職となった。その後豊臣家は大坂の陣で滅亡したため、関白職に復帰することはなかった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "江戸時代の摂政・関白は豊臣家滅亡後に制定された禁中並公家諸法度第三条は摂関および三公には、政務に通じている必要がると規定され、関白の進退はすべて幕府との協議と承認を必要とするようになった。関白には幕府から役料として500石、さらに藤氏長者の役料500石が支給された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "江戸期では天皇の政務を補佐し、決定を執行する職制が構成され、この執行部によって朝廷の運営が行われていくこととなる。執行部の構成は関白と武家伝奏、そして貞享3年(1668年)に設置された議奏であった。中でも関白は職制における地位と、伝統的な家格、そして幕府の後ろ盾により飛び抜けた権威と権力を持つようになった。会議は関白の主宰で行われるようになり、改元や任官などの重要事項も関白が自己が主宰した会議の決定を武家伝奏などを通じて幕府に諮るという手続が確立されたために、朝廷内において大きな権力を有するようになった。また、公家の中で関白にのみ御所への日参が義務付けられ、天皇の側近くで影響力を保つこととなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "寛永14年12月(1638年1月)、後水尾上皇は、娘の明正天皇が成人するにあたって、摂政二条康道を関白にし、明正天皇に神事や節会を行わせようとした。ところが京都所司代板倉重宗は事前に相談がなかったと激怒し、将軍徳川家光の体調不良を理由にこれを門前払いした。この反応に後水尾上皇は「復辟」の計画を断念し、明正天皇は政務や神事に携わることなく、関白が置かれることもなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "家光以降、江戸幕府将軍の正室(御台所)と、御三家等の正室は皇族および摂家から嫁ぐ慣例となっていた。近衛基煕の娘近衛熈子は徳川家宣の正室となり、徳川家継・徳川吉宗時代にも強い影響を及ぼした。基煕は霊元上皇との関係が悪く、東山天皇期になってようやく関白となったが、以降は公家における江戸期初の太政大臣に任官した。これ以降の太政大臣は、原則として天皇および儲君(天皇の後継者候補)の元服の際に任官されることが通例となったが、すべて現職の関白および関白経験者が任官している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "基本的に摂家および関白は幕府のもとで摂家が主導する朝廷秩序の維持を目的としており、その秩序を乱す動きを警戒していた。霊元上皇は朝儀の再興を図ることに熱心であったが、幕府の十分な協力を得られない状態で大嘗会の再興を行ったため、資金不足で儀式は簡略され地下官人にも手当が行き渡らず極めて不評であった。東山天皇と関白近衛基熙は霊元の影響力排除に動き、幕府の協力を得て霊元上皇派の人物を要職から追放した。桃園天皇の時代に竹内式部(竹内敬持)が天皇および近習公家に垂加神道をもととした名分論的思想を広め、近習公家の間で武術の練習が流行するとこれを禁止した。さらに竹内式部が天皇に進講を行うことの禁止や、近習の罷免を行った。天皇は猛抗議し、関白一条忠香の参内を停止した。しかし忠香は強引に参内し、天皇を屈服させて処分案を貫徹させた。これは幕府が感知していない出来事であり、京都所司代は事前に相談がなかったことに抗議している(宝暦事件)。また宝暦12年(1762年)の桃園天皇の崩御の際は、儲君として英仁親王(後の後桃園天皇)が定まっていたのにもかかわらず、関白近衛内前らは幕府と相談して桃園天皇の姉智子内親王を践祚させ(後桜町天皇)、英仁親王即位までの中継ぎとして擁立した。これは一般の公家にも先例を無視した暴挙であると反発を受けた。後桜町天皇は成人で即位したものの、関白ではなく摂政が置かれた。これは明正天皇の事例が先例となったものと見られる。関白が制度化して以降の女性天皇は明正天皇と後桜町天皇の2例のみであり、女性天皇の時代に関白が設置されることはなかった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "桜町天皇以降は摂政が置かれる時期がほとんどであり、関白が置かれた時期でも天皇が病弱であったため、この時期の関白はほとんど摂政と変わらない有様であった。安永8年(1779年)に後桃園天皇が子を儲けず没したため、閑院宮から光格天皇が跡を継いだ。光格天皇は元服後に摂政から関白に転任した九条尚実が病気となったため、政務を執ることに慣れていた。九条尚実の次の関白である鷹司輔平は「近代これ無き恐悦の折りがら」と喜びを示している。光格天皇は寛政12年(1800年)に「執柄(関白)・幕府の文武両道の補佐」を得ていると述べており、関白と幕府によって天皇が支えられる姿が理想であると示している。しかし光格天皇が実父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとした尊号一件では、関白鷹司輔平と幕府はともに反対に回っている。天皇は鷹司輔平を事実上更迭し、幕府に批判的な一条輝良をこれに代えた。しかし幕府はあくまで尊号宣下に反対したため、天皇もついに断念した。しかし徳川家斉は実父徳川治済と自らの官位上昇を求め、調停に対して融和的となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "仁孝天皇期から孝明天皇期まで32年間関白を務めた鷹司政通は「気魄雄渾、容貌魁偉」と評される豪胆さを持った政治家であり、特に大きな権勢を誇った。安政3年(1856年)に鷹司政通は関白を退き、後任には九条尚忠が就いたものの、内覧を引き続き務め、また子が関白になっていないにも関わらず太閤の称号を勅許された。しかし日米修好通商条約の締結が問題になると、攘夷を望む孝明天皇は、親幕府派である九条尚忠の罷免を考えるようになった。孝明天皇は関白を通さない戊午の密勅により水戸藩や諸大名の協力を求める動きに出たが、幕府によって九条尚忠の留任が決定された。九条尚忠は攘夷は公家の活発な活動は幕府の力がなければ押さえきれないと判断し、大老井伊直弼に対して厳しい処分を行うよう求めている。安政の大獄により鷹司政通や近衛忠煕らが処分され、九条尚忠は幕府と朝廷の間に立って和宮親子内親王の将軍徳川家茂への降嫁を実現させるなど公武の融和に務めた。しかし孝明天皇の信任を失い、廷臣八十八卿列参事件に代表される非摂家公家の活発な活動によって朝廷内における幕府と関白の影響力は低下していった。文久元年(1861年)4月、九条尚忠は薩摩藩島津久光の上洛により辞職に追い込まれ、関白の任免権は再び朝廷に取り戻された。しかしその後関白となった近衛忠煕は政治的意欲に欠けた上に、台頭する攘夷過激派の公家を押さえきれずに辞職し、その後任でかつては攘夷派の支持を受けていた鷹司輔煕も辞意を伝えるようになっていた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令で、摂政、関白、征夷大将軍の職が廃止され、関白の歴史も終焉を迎える。最後の関白となった二条斉敬は孝明天皇の崩御に伴い摂政に転任していたが、参朝を停止させられるなど、新政府において重要な役割を果たすことはなかった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "その後、摂政は天皇の公務を代行する役目として皇族のみが任ぜられる職として皇室典範に定められ、今日も存続している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "関白の辞令は、詔書と勅書によって発行されるが、さらに、宣旨で発行される場合もある。",
"title": "関白の辞令"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "豊臣秀吉(藤原秀吉)の関白宣旨(奉者:大外記)※「足守木下家文書」所載",
"title": "関白の辞令"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "權大納言藤原朝臣淳光宣、奉 勅、萬機巨細、宜令内大臣關白者、",
"title": "関白の辞令"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉 奉",
"title": "関白の辞令"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "(訓読文) 権大納言(柳原)藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、萬機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣(藤原秀吉)をして関白にせしむべし者(てへり)。天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉 奉(うけたまは)る。",
"title": "関白の辞令"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "※天正十三年七月十一日段階では、未だ豊臣の氏は賜わっておらず、近衛家に猶子となったため、氏は藤原となる。",
"title": "関白の辞令"
}
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関白(かんぱく)は、前近代の日本の朝廷において、成人の天皇を補佐する官職。令外官であり、摂政とともに臣下が付きうる最高の職位であった。敬称は殿下。
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{{otheruses||SEAMOの楽曲|関白 (曲)}}
'''関白'''(かんぱく)は、前近代の[[日本]]の[[朝廷 (日本)|朝廷]]において、成人の[[天皇]]を補佐する[[官職]]。[[令外官]]であり、[[摂政]]とともに臣下が付きうる最高の職位であった。[[敬称]]は[[殿下]]。
== 概要 ==
関白は[[太政官]]からの意見を天皇に[[上奏|奏上]]する権限を持った役職であり、[[平安時代]]の[[朝廷]]において[[藤原基経]]が天皇から執政に任命されたことを始まりとする。当初は臨時の職であったがやがて常置されるようになり、天皇の[[外戚]]となった[[藤原氏]]が天皇の幼少期には摂政、成長後には関白の地位を占め、実質的な朝廷の権限を握った。この摂関が中心となった政治体制は[[摂関政治]]といい、その最盛期は[[摂関時代]]と呼ばれる。[[院政]]の開始以降はその権限は制限され、外戚となることも稀となり、[[摂家]]と呼ばれる数家が交代で世襲していくこととなる。武家政権の成立によってその影響力は低下しつつあったものの、朝廷の最高官としての権威と政治力を保持していた。[[安土桃山時代]]には[[豊臣政権]]の[[豊臣秀吉]]らが関白職に付いたが、秀吉の没後にはふたたび摂家の就任するものとなった。[[江戸時代]]は[[江戸幕府]]の統制下に置かれつつも、幕末まで朝廷政治の中枢としての役割を担った。
==語源==
関白の語は、中国[[前漢]]の[[宣帝 (漢)|宣帝]]が、上奏はすべて実力者[[霍光]]が「関(あずか)り白(もう)す」ようにした故事に由来する<ref group="注釈">「関白」のように動詞が名詞に変わった事例には「[[総督]]」「[[提督]]」「[[都督]]」「[[巡撫]]」「[[警察]]」などがある。</ref>。これは、霍光の権勢を恐れた宣帝が、政務不行届を口実に霍光により廃位されることを避けるためであったと言われる(関白の別名の一つ「'''博陸'''」は、霍光が博陸侯であった事に由来している)。なお、関白職を子弟に譲った前関白は[[太閤]]と呼ばれ、太閤は出家すると禅閤と呼ばれる(禅定太閤の略)。後には勅許により太閤を号することも行われるようになった。
== 関白の権限 ==
摂政との違いは、摂政は、[[天皇]]が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行するのに対して、関白は、成人の天皇を補佐する立場であり、最終的な決裁者はあくまでも天皇である。従って、天皇と関白のどちらが主導権を取るとしても、天皇と関白が協議などを通じて合意を図りながら政務を進めることが基本となる。
このような地位に照らし、摂政関白は、天皇臨席などの例外を除いては、[[太政官]]の会議には参加しない(あるいは決定には参与しない)慣例があり{{efn|[[南北朝時代_(日本)|南北朝時代]]の[[近衛道嗣]]([[北朝_(日本)|北朝]]関白)が、[[後光厳天皇]]より[[貞治]][[改元]]の[[奉行]]を命じられたときに、「為摂関之人不得行公事、譲一上於次大臣已為流例、以之思之公事奉行不可庶幾者也(摂関は公事を執行せず、次席の大臣に[[一上]]の地位を譲る慣例となっている。従って摂関が公事を奉行することはあってはならない)」と主張して辞退している<ref>『[[愚管記]]』貞治元年7月7日条</ref>。}}、[[太政大臣]]・[[左大臣]]が摂政・関白を兼任している場合にはその次席の大臣が太政官の首席の大臣([[一上]])として政務を執った<ref group="注釈">ただし、関白の政治的立場の位置づけが十分確立されていなかった[[平安時代]]中期には、[[藤原基経]]や[[藤原頼通]]のように関白在任のまま[[一上]]を兼ねたり[[太政官]]の政務を執った例もある。また、[[江戸時代]]に入ると関白が会議を主宰するようになる。</ref>。
関白は天皇と太政官の間の政治的なやりとりを行う際には事前にその内容を把握・関与する<ref group="注釈">『[[政事要略]]』には初代関白である[[藤原基経]]([[太政大臣]])の職権について、「其万機巨細、百官惣己、皆関白於太政大臣、然後奏下」と記し、政務全般において[[公卿]]以下百官がその職務を守り、太政大臣(基経)に関白(関り白す=報告・了承)を得た上で奏上・命令させたとしている。</ref>ことで国政に関する情報を常に把握し、天皇の[[勅|勅命]]や勅答の権限を直接侵害することなく天皇・太政官双方を統制する権限を有した。この権限は「[[内覧]]」とも呼ばれ、摂関と分離することもあった。
幼少の天皇が元服して政務を執るようになり、摂政を務めていた人物が辞する、または関白に転任することを「[[復辟]]」という。この際に[[准摂政]]宣下を受け、摂政とほぼ変わらない権限を認められた関白も存在する{{sfn|山中裕|1991|p=22}}。
== 歴史 ==
=== 関白の起源 ===
関白職の初任者は[[藤原基経]]であるが、実際には、基経およびその養父である先代・[[藤原良房]]の二代の間で、「関白」の役割の先例が形作られていった。
まず、良房は、幼くして即位した[[清和天皇]]を[[太政大臣]]として支え、「政治の総攬者」としての役割を果たした。これは役割としては摂政にあたるが、正式に任命されたものではなかった。清和天皇は[[貞観]]6年([[864年]])に元服したが、。しかし[[貞観]]8年([[866年]])の[[応天門の変]]で太政官が機能不全に陥った8月19日、良房は摂政に任命された{{sfn|瀧浪貞子|2001|p=47}}。これは良房の時点では、成人後に関白となるという原則は成立していなかったことを示している{{sfn|瀧浪貞子|2001|p=47}}。
次に基経は、陽成天皇が即位すると同時に摂政に任命された。基経が関白に就任した時期としては、複数の学説がある。
まず、『[[公卿補任]]』では、[[陽成天皇]]の[[元慶]]4年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]([[880年]][[12月13日]])に摂政から転じて関白になったとする。『公卿補任』が公卿の経歴に関する基本資料であるためにこの記述をそのまま採用する書籍は多い。ただし、当時は国家による正史(『[[日本三代実録]]』)が編纂されていたにもかかわらず、当該期日に関白就任に関する記事が全く見られないのは不自然であること、この日に関白に転任する理由(天皇の成人等)がないことから、この日に関白に転任した可能性は低い。後に、[[藤原忠平]]が[[朱雀天皇]]の成人とともに摂政から関白に転じた(明確に転任した初例)日付が「'''天'''慶4年11月8日」(941年11月29日)であったことから、編纂時に日付の取り違えが起こったものと思われる{{Sfn|米田|p=88}}。
ちなみに、陽成天皇が元服したのは元慶6年正月2日(882年1月24日)であるが、この直後に基経は摂政辞任を申し出るも、却下されている。後世では、天皇成人とともに摂政から関白に転任するところであるが、この時点ではそのような区別はなされておらず、成人後の天皇の補佐も引き続き「摂政」が行っていたことがわかる。上記の『公卿補任』の記載は、日付の取り違えに加えて、後世の人が当時の慣習を知らずに書き加えたもので、事実ではないとする説が有力である。
陽成退位後に55歳で即位した[[光孝天皇]]はに太政大臣の職務について検討させたが、[[文章博士]][[菅原道真]]らは太政大臣には定まった職掌がないと回答した{{sfn|瀧浪貞子|2001|p=45}}。これをうけて元慶8年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[884年]][[7月1日]])、天皇は基経に対して国政に対する権限を与える詔が出された。この時の詔書は『日本三代実録』に記載されているが、『公卿補任』ではこの詔書については触れられていない。この詔には「関白」の語自体は用いられていないが、後の関白の職掌である天皇に太政官の決定を奏上することが書かれている{{sfn|瀧浪貞子|2001|p=45-46}}。これが後の関白任命の際の詔書の原点になっており、[[竹内理三]]以来平安時代史の研究家の間では、実質的な関白の始まりとして支持が多い説である{{sfn|瀧浪貞子|2001|p=45-46}}。一方で、任摂政の詔とは異なり、天皇を摂行するという語句はなく、光孝は基経の権限は摂政とは異なると認識していたものと見られる{{sfn|瀧浪貞子|2001|p=45-46}}。
[[宇多天皇]]の即位後の[[仁和]]3年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]([[887年]][[12月9日]])、天皇から改めて出された国政委任の[[詔書]]は、「関白」の語源である「関り白す」の言が入った初例である。ただし、この詔書の表題は「賜摂政太政大臣関白機万機詔」であり、文中でも清和・陽成・光孝の三代に渡って「摂政」であったとしている{{sfn|瀧浪貞子|2001|p=47}}。また基経が辞退した後に出された詔書でも「辞摂政」「辞関白」の混用が見られる{{sfn|瀧浪貞子|2001|p=47}}。[[瀧浪貞子]]は宇多および詔書の起草者である[[橘広相]]が、摂政と成人天皇の補佐を行う関白の違いを認識しておらず、これが[[阿衡事件]]に繋がったとしている{{sfn|瀧浪貞子|2001|p=47-49}}。
基経の没後、宇多天皇は関白を置かなかった。しかし[[寛平]]8年(897年)、宇多は子の[[醍醐天皇]]に譲位するととともに、基経の子[[藤原時平]]と[[菅原道真]]に対し、奏上する政務事項を先に閲覧する[[内覧]]の[[宣旨]]を下した{{sfn|山中裕|1991|p=21}}。醍醐天皇の治世には関白は置かれなったが、時平の弟[[藤原忠平]]は[[朱雀天皇]]の即位にともない摂政に任じられ、[[承平 (日本)|承平]]7年([[937年]])に天皇が元服したのを機に辞表を提出した。だが、折りしも[[承平天慶の乱]]が発生したために天皇はこれを慰留して乱の鎮圧に努めさせ、乱が鎮圧した[[天慶]]4年([[941年]])になって漸く忠平の摂政辞表は受理されたものの、直ちに基経の先例に従って関白に任じられた。天皇の成人を機に摂政が関白に転じた確実な事例はこれが最初である。
[[竹内理三]]や[[橋本義彦]]は関白の任務がはっきりと別れたのは忠平の時代としているが{{sfn|山中裕|1991|p=20}}、[[坂上康俊]]は宇多天皇の時代としており{{sfn|山中裕|1991|p=21}}、瀧浪貞子は忠平が関白に就任する際、『[[日本紀略]]』では「仁和の故事」にならったとしていることから、光孝天皇の時代には成人天皇を補佐する関白と摂政の役割は区別されていたとしている{{sfn|瀧浪貞子|2001|p=46-47}}。また、[[佐々木宗雄 (歴史学者)|佐々木宗雄]]は太政大臣(元慶4年任命)基経に対して国政委任の職掌を与えた[[詔]]であったとし、[[河内祥輔]]は摂政任命の詔であるが基経より年長であったために文体を変えたもので、[[宇多天皇]]が阿衡の文面を撤回した仁和4年6月2日の詔も実質は摂政任命の[[詔]](関白は摂政の兼職となる)であり、関白と摂政が別の職として分離するのは藤原忠平以後であるとしている。また河内は「関白」という言葉が存在しない時期にまで初例を遡って求める態度を問題視している。{{要出典範囲|“最初の関白任命そのものは「関白」という職名が成立したときである”という考え方については支持する研究者もいる|date=2023年12月}}。
===摂関政治の隆盛===
朱雀天皇の次の[[村上天皇]]期には関白が設置されなかったものの、[[冷泉天皇]]が即位するにあたって、太政大臣[[藤原実頼|実頼]]が関白となった{{sfn|山中裕|1991|p=21}}。摂政を経ずに関白となったのは実頼が最初である{{sfn|山中裕|1991|p=21}}。冷泉天皇は病気が重く、実頼は准摂政宣下を受け、関白でありながら摂政に準ずる形で政務をとった{{sfn|山中裕|1991|p=22}}。しかし実頼は外戚でなかったため実権は乏しく、「揚名(名ばかり)の関白」と嘆くほどであった<ref>大津、26-27p</ref>。
実頼以降は筆頭大臣が摂関となることが続いたが、[[986年]](寛和2年)に右大臣[[藤原兼家]]が外孫[[一条天皇]]の摂政に任じられた。この時兼家の上座には太政大臣と左大臣の二人がおり、摂政の位置づけが不明確になった。一ヶ月後に兼家は右大臣を辞職し、摂政が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より上席を占めるという[[一座|一座宣旨]]を受けた。この「寛和の例」以降、摂関と大臣は分離され、藤原氏の[[藤氏長者|氏長者]]の地位と一体化していった<ref>大津、33-34p</ref>。しかしこれ以降摂関と太政大臣が[[陣定]]の指導を行う[[一上]]とならない慣例が生まれ、摂関が[[太政官]]を直接指導することは出来なくなった<ref>大津、87p</ref>。関白の主要な職務は[[太政官]]から上奏される文書を天皇に先んじて閲覧する[[内覧]]の権限と、それに対する拒否権を持つことであった。しかしこの対象は太政官に限られ、[[蔵人]]からの上奏は対象とならなかった<ref>大津、86-87p</ref>。
兼家の死後は権力争いに勝利した[[藤原道長|道長]]が朝廷の主導権を握った。道長自身は関白に就くことなく、内覧および一上として政務を主導したが、事実上の関白として「御堂関白」とも呼ばれた。道長の嫡流を[[御堂流]]というのはこれに由来する。1016年(長和5年)に[[後一条天皇]]が即位すると道長は摂政となったが、間もなくその子の[[藤原頼通|頼通]]にその座を譲った。その後も道長の外孫が天皇となることが続き、頼通は50年以上にわたって関白の座を占め続け、[[摂関政治]]の最盛期を築いた。しかし頼通は子宝に恵まれず、入内した子女も皇子を産むことはなかった。また頼通も優柔不断な性格で決断を嫌ったこともあり、責任を押しつけ合う頼通と天皇との間で政務は停滞した。こうした状況を[[藤原資房]]は、天下の災いは関白が無責任であることが原因であると記している<ref>下向井、210-213p</ref>。
頼通と外戚関係にない[[後三条天皇]]が即位すると、後三条の主導による政治改革が始まったことで関白の存在感は減少していった。その子の[[白河天皇]]が[[堀河天皇]]に譲位して[[院政]]を開始したことや、[[藤原師実|師実]]・[[藤原師通|師通]]の父子が相次いで死去し御堂流が主導権を握れなかったこともあり、摂関政治の時代は終焉を迎えた。堀河の没後に白河が[[鳥羽天皇]]を擁立すると、鳥羽の外舅にあたる[[藤原公実]]が摂政の地位を望んだ。しかし白河は御堂流直系の[[藤原忠実|忠実]]を摂政に任じた。これ以降、外戚の有無に拘わらず、御堂流の嫡流「[[摂家]]」が摂関となる慣例が成立した<ref>下向井、222p</ref>。
=== 摂関家の分裂 ===
1121年([[保安 (元号)|保安]]2年)に関白[[藤原忠実]]は白河法皇の勘気を被り、10年にわたる謹慎生活を強いられることとなった。関白は息子の[[藤原忠通|忠通]]が継ぎ、[[院御所議定]]に加わることもあるなど、一定の影響力と権威を持った<ref>下向井、226p</ref>。しかし1132年([[天承]]2年)に忠実が内覧に任じられて政界復帰を果たすと、関白忠通と内覧忠実が並立する異常事態となった。忠実は忠通の弟[[藤原頼長|頼長]]を寵愛し、[[近衛天皇]]の元服が行われた1150年(久安5年)、忠通に対して摂政の地位を譲るよう要求した。しかし忠通は拒否し、激怒した忠実は藤原氏長者の証である[[朱器台盤]]などの宝器を忠通邸から強奪して頼長を氏長者とした。しかし鳥羽法皇は忠通を関白、頼長を内覧とし、氏長者と関白が分離する事態が発生した。忠通と忠実・頼長の対立は[[保元の乱]]の一因ともなり、頼長はこの乱で敗死した。乱後には[[信西]]の主導によって忠通に氏長者補任の宣旨が下り、藤原家内の身分であった氏長者が朝廷に握られることとなった。その後の[[後白河天皇|後白河]]院政と[[平氏政権]]で摂関家は主体性を発揮することが出来ず、さらに忠通の子の代から[[近衛家]]・[[松殿家]]・[[九条家]]の三系統に分裂することとなった。
===中世の関白===
[[鎌倉時代]]以降は政治の実権が朝廷から[[武家]]に移り、朝廷内での権力も[[治天の君]]が中心となる体制が築かれたため、関白職の政治への影響力はますます薄れていった。[[承久の乱]]後には関白[[九条道家]]が権勢を振るったが、関白の地位を息子達に譲って後も勢力を保つなど、関白の地位と権勢の分離が明らかとなった。その後九条家から[[二条家]]と[[一条家]]が、近衛家から[[鷹司家]]が分立して[[摂家|五摂家]]による摂関職の継承体制が固まった。摂家は他の[[堂上家]]を[[家礼]]として擬似的な主君となり、朝廷内で隔絶した地位を持つに至った。このため摂家では他の堂上家を「凡下(一般庶民の称)」と呼んでいたという{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 43 / 11%}}。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると、摂関家は朝廷儀式に関わることがほとんど無くなり、[[女房]]など女官を出すことも無くなった。このため室町・戦国期を通じて摂関家が外戚となった例は一例も無い<ref>池、222-228p</ref>。摂関家が比較的経済状態がよかったことや、皇室や廷臣と所領や権利をめぐる競合関係があったことが理由ではないかと考えられている<ref>池、229p</ref>。
===近世の関白===
[[安土桃山時代]]に[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が「[[関白相論]]」問題を機に[[近衛前久]]の[[猶子]]となって関白に就任し、[[日本]]で初の武家関白となる。さらに秀吉が[[豊臣氏|豊臣姓]]を賜ったことで、[[藤原氏]]でも[[摂家|五摂家]]でもない関白職が誕生することとなった。その後、秀吉は[[羽柴氏|羽柴家]]世襲の武家関白による政権(武家関白制)の実現のために、[[甥]]にして養子であった[[豊臣秀次|秀次]]が関白職及び家督を継承した。しかし、秀次は関白職にありながら、実権は[[太閤]]たる秀吉の掌中にあり、後に秀吉と対立して失脚することとなった。その後も[[豊臣政権]]は続いたが、秀吉は幼い息子[[豊臣秀頼|秀頼]]の成人まで関白を置かない方針であった。だが、秀吉の死後[[関ヶ原の戦い]]以降は次第に天下の実権は[[徳川家]]に移り、関白職は再び[[摂家|五摂家]]の任ぜられる職となった。その後豊臣家は[[大坂の陣]]で滅亡したため、関白職に復帰することはなかった。
[[江戸時代]]の摂政・関白は豊臣家滅亡後に制定された[[禁中並公家諸法度]]第三条は摂関および三公には、政務に通じている必要がると規定され、関白の進退はすべて幕府との協議と承認を必要とするようになった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 38 / 10%}}。関白には幕府から役料として500石、さらに藤氏長者の役料500石が支給された{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 38 / 10%}}。
江戸期では天皇の政務を補佐し、決定を執行する職制が構成され、この執行部によって朝廷の運営が行われていくこととなる。執行部の構成は関白と[[武家伝奏]]、そして貞享3年([[1668年]])に設置された[[議奏]]であった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 36 / 9%}}。中でも関白は職制における地位と、伝統的な家格、そして幕府の後ろ盾により飛び抜けた権威と権力を持つようになった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 37 / 9%}}。会議は関白の主宰で行われるようになり、[[改元]]や任官などの重要事項も関白が自己が主宰した会議の決定を[[武家伝奏]]などを通じて幕府に諮るという手続が確立されたために、朝廷内において大きな権力を有するようになった。また、[[公家]]の中で関白にのみ[[御所]]への日参が義務付けられ、天皇の側近くで影響力を保つこととなった。
寛永14年12月([[1638年]]1月)、[[後水尾天皇|後水尾上皇]]は、娘の[[明正天皇]]が成人するにあたって、摂政[[二条康道]]を関白にし、明正天皇に神事や節会を行わせようとした。ところが[[京都所司代]][[板倉重宗]]は事前に相談がなかったと激怒し、将軍[[徳川家光]]の体調不良を理由にこれを門前払いした。この反応に後水尾上皇は「復辟」の計画を断念し、明正天皇は政務や神事に携わることなく、関白が置かれることもなかった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 38 / 10%}}。
家光以降、[[江戸幕府将軍]]の[[正室]]([[御台所]])と[[御三家]]等の正室は、皇族および摂家から嫁ぐ慣例となっていた。[[近衛基煕]]の娘[[近衛熈子]]は[[徳川家宣]]の正室となり、[[徳川家継]]・[[徳川吉宗]]時代にも強い影響を及ぼした。基煕は[[霊元天皇|霊元上皇]]との関係が悪く、[[東山天皇]]期になってようやく関白となったが、以降は公家における江戸期初の太政大臣に任官した。これ以降の太政大臣は、原則として天皇および[[儲君]](天皇の後継者候補)の[[元服]]の際に任官されることが通例となったが、すべて現職の関白および関白経験者が任官している。
基本的に摂家および関白は幕府のもとで摂家が主導する朝廷秩序の維持を目的としており、その秩序を乱す動きを警戒していた。[[霊元天皇|霊元上皇]]は朝儀の再興を図ることに熱心であったが、幕府の十分な協力を得られない状態で[[大嘗会]]の再興を行ったため、資金不足で儀式は簡略され[[地下官人]]にも手当が行き渡らず極めて不評であった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 127 / 34%}}。[[東山天皇]]と関白近衛基熙は霊元の影響力排除に動き、幕府の協力を得て霊元上皇派の人物を要職から追放した{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 133 / 35%}}。[[桃園天皇]]の時代に[[竹内敬持|竹内式部(竹内敬持)]]が天皇および[[近習]]公家に[[垂加神道]]をもととした[[名分論]]的思想を広め、近習公家の間で武術の練習が流行するとこれを禁止した{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 170-172 / 45%}}。さらに竹内式部が天皇に進講を行うことの禁止や、近習の罷免を行った。天皇は猛抗議し、関白[[一条忠香]]の参内を停止した。しかし忠香は強引に参内し、天皇を屈服させて処分案を貫徹させた{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 176 / 47%}}。これは幕府が感知していない出来事であり、京都所司代は事前に相談がなかったことに抗議している{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 176 / 47%}}([[宝暦事件]])。また[[宝暦]]12年([[1762年]])の桃園天皇の崩御の際は、儲君として[[後桃園天皇|英仁親王(後の後桃園天皇)]]が定まっていたのにもかかわらず、関白[[近衛内前]]らは幕府と相談して桃園天皇の姉智子内親王を践祚させ([[後桜町天皇]])、英仁親王即位までの中継ぎとして擁立した。これは一般の公家にも先例を無視した暴挙であると反発を受けた{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 183-184 / 49%}}。後桜町天皇は成人で即位したものの、関白ではなく摂政が置かれた。これは明正天皇の事例が先例となったものと見られる{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 205 / 53%}}。関白が制度化して以降の女性天皇は明正天皇と後桜町天皇の2例のみであり{{efn|古代においては女性天皇の治世に摂政が置かれていた事例は[[聖徳太子]]が摂政となったとされる推古天皇、[[天智天皇|中大兄皇子(天智天皇)]]が執政となった[[斉明天皇]]の事例のみ}}、女性天皇の時代に関白が設置されることはなかった。
桜町天皇以降は摂政が置かれる時期がほとんどであり、関白が置かれた時期でも天皇が病弱であったため、この時期の関白はほとんど摂政と変わらない有様であった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 247 / 66%}}。[[安永]]8年([[1779年]])に後桃園天皇が子を儲けず没したため、[[閑院宮]]から[[光格天皇]]が跡を継いだ。光格天皇は元服後に摂政から関白に転任した[[九条尚実]]が病気となったため、政務を執ることに慣れていた。九条尚実の次の関白である[[鷹司輔平]]は「近代これ無き恐悦の折りがら」と喜びを示している{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 247 / 66%}}。光格天皇は[[寛政]]12年([[1800年]])に「執柄(関白)・幕府の文武両道の補佐」を得ていると述べており、関白と幕府によって天皇が支えられる姿が理想であると示している{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 251 / 67%}}。しかし光格天皇が実父[[閑院宮典仁親王]]に[[太上天皇]]の尊号を贈ろうとした[[尊号一件]]では、関白鷹司輔平と幕府はともに反対に回っている{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 268 / 72%}}。天皇は鷹司輔平を事実上更迭し、幕府に批判的な[[一条輝良]]をこれに代えた。しかし幕府はあくまで尊号宣下に反対したため、天皇もついに断念した{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 269 / 73%}}。しかし[[徳川家斉]]は実父[[徳川治済]]と自らの官位上昇を求め、朝廷に対して融和的となった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 281 / 76%}}。
=== 幕末の関白 ===
[[仁孝天皇]]期から[[孝明天皇]]期まで32年間関白を務めた[[鷹司政通]]は「気魄雄渾、容貌魁偉」と評される豪胆さを持った政治家であり、特に大きな権勢を誇った{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 304 / 81%}}。[[安政]]3年([[1856年]])に鷹司政通は関白を退き、後任には[[九条尚忠]]が就いたものの、内覧を引き続き務め、また子が関白になっていないにも関わらず太閤の称号を勅許された{{sfn|刑部芳則|2018|p=23-25}}。しかし[[日米修好通商条約]]の締結が問題になると、[[攘夷]]を望む孝明天皇は、親幕府派である九条尚忠の罷免を考えるようになった。孝明天皇は関白を通さない[[戊午の密勅]]により[[水戸藩]]や諸大名の協力を求める動きに出たが、幕府によって九条尚忠の留任が決定された{{sfn|刑部芳則|2018|p=47-51}}。九条尚忠は攘夷は公家の活発な活動は幕府の力がなければ押さえきれないと判断し、[[大老]][[井伊直弼]]に対して厳しい処分を行うよう求めている{{sfn|刑部芳則|2018|p=54}}。[[安政の大獄]]により鷹司政通や[[近衛忠煕]]らが処分され、九条尚忠は幕府と朝廷の間に立って[[和宮親子内親王]]の将軍[[徳川家茂]]への降嫁を実現させるなど公武の融和に務めた。しかし孝明天皇の信任を失い、[[廷臣八十八卿列参事件]]に代表される非摂家公家の活発な活動によって朝廷内における幕府と関白の影響力は低下していった。[[文久]]元年([[1861年]])4月、九条尚忠は[[薩摩藩]][[島津久光]]の上洛により辞職に追い込まれ{{sfn|刑部芳則|2018|p=85}}、関白の任免権は再び朝廷に取り戻された。しかしその後関白となった近衛忠煕は政治的意欲に欠けた上に{{sfn|刑部芳則|2018|p=102-103}}、台頭する攘夷過激派の公家を押さえきれずに辞職し、その後任でかつては攘夷派の支持を受けていた[[鷹司輔煕]]も辞意を伝えるようになっていた{{sfn|刑部芳則|2018|p=239}}。文久3年([[1863年]])、[[八月十八日の政変]]で朝廷内の攘夷過激派は追放された。孝明天皇と薩摩藩の主導で行われたこの政変では攘夷派に近いとされていた関白鷹司輔煕は全く関与できず、辞職に追い込まれた。[[元治]]元年([[1864年]])7月の[[禁門の変]]後には天皇に反対するものや[[長州藩]]寄りとされた公家に対して更に処罰が行われた。こうして朝廷においては孝明天皇・関白[[二条斉敬]]・[[久邇宮朝彦親王|中川宮]]による寡頭支配体制が成立したが、攘夷派を追放したことで朝廷はかえって求心力を失い、幕府側の[[一会桑政権]]([[徳川慶喜]]・[[会津藩]]主[[松平容保]]・[[桑名藩]][[松平定敬]])に依存するようになっていた{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全394中 346 / 93%}}。
[[慶応]]3年12月9日([[1868年]]1月3日)の[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]で、摂政、関白、[[征夷大将軍]]の職が廃止され、関白の歴史も終焉を迎える。最後の関白だった二条斉敬は孝明天皇の崩御に伴い摂政に転任していたが、参朝を停止させられるなど、新政府において重要な役割を果たすことはなかった{{sfn|刑部芳則|2018|p=239}}。
その後、摂政は天皇の公務を代行する役目として[[皇族]]のみが任ぜられる職として[[皇室典範]]に定められ、今日も存続している。
==関白の辞令==
関白の辞令は、[[詔書]]と[[勅書]]によって発行されるが、さらに、[[宣旨]]で発行される場合もある。
豊臣秀吉(藤原秀吉)の関白宣旨(奉者:大外記)※「足守木下家文書」所載
權大納言藤原朝臣淳光宣、奉 勅、萬機巨細、宜令内大臣關白者、
天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉 奉
(訓読文) 権大納言(柳原)藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、萬機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣(藤原秀吉)をして関白にせしむべし者(てへり)。天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉 奉(うけたまは)る。
※天正十三年七月十一日段階では、未だ豊臣の氏は賜わっておらず、近衛家に[[猶子]]となったため、氏は藤原となる。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[池享]] [https://hdl.handle.net/10086/9279 「戦国・織豊期の朝廷政治」]
* [[大津透]]『道長と宮廷社会 日本の歴史06』([[講談社学術文庫]]、2009年) ISBN 978-4062919067
* [[下向井龍彦]]『武士の成長と院政 日本の歴史07』(講談社学術文庫、2009年) ISBN 978-4062919074
* {{Cite book|和書|author = 米田雄介|authorlink = 米田雄介|title = 藤原摂関家の誕生 平安時代史の扉|date = 2002-06-01|publisher = [[吉川弘文館]]|location = [[東京都]][[文京区]]|series = 歴史文化ライブラリー|volume =141|language = 日本語|isbn = 4-642-05541-X|ref={{SfnRef|米田}} }}
*{{Cite journal|和書|title = 阿衡の紛議 : 上皇と摂政・関白|publisher = 京都女子大学史学研究室|url = http://hdl.handle.net/11173/702|author = 瀧浪貞子|authorlink = 瀧浪貞子|journal=史窓|volume=58|date=2001|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|title = 摂関政治史 : 村上天皇より一条天皇まで|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1571417126875605248|publisher = 田園調布学園大学|journal = 調布日本文化|volume = 0|naid = 110001062774|issn = 09171169|author = 山中裕|authorlink = 山中裕|year = 1991|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title = 天皇の歴史6 江戸時代の天皇|series = 講談社学術文庫|isbn=978-4-065-11640-1|asin = B07CZCXLZB|publisher = 講談社|date = 2018|author = 藤田覚|authorlink = 藤田覚|ref={{SfnRef|藤田覚|2018}}}}
*{{Cite book|和書|title = 公家たちの幕末維新-ペリー来航から華族誕生へ|series = 中公新書|publisher = 中央公論新社|date =2018|isbn =978-4121024978|author = 刑部芳則|authorlink = 刑部芳則|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|関白}}
* [[摂政]]
* [[准摂政]]
* [[内覧]]
* [[太閤]]
* [[摂政・関白の一覧]]
* [[摂家]]
* [[摂関政治]]
* [[亭主関白]]
== 外部リンク ==
* {{CRD|1000210958|右大臣・左大臣と関白はどちらが偉いのか知りたい。}}
* {{Kotobank}}
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[[category:日本の律令制]]
[[Category:令外官]]
[[Category:日本の行政官職 (廃止)]]
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QCD
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ジャン・シベリウス
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ジャン・シベリウス(スウェーデン語: Jean Sibelius スウェーデン語発音: [ˈjɑːn siˈbeːliʉs, ˈʃɑːn -] ( 音声ファイル), 1865年12月8日 - 1957年9月20日)は、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト。
フィンランドの最も偉大な作曲家であると広く認められており、同国が帝政ロシアからの独立を勝ち得ようともがく最中、音楽を通じて国民意識の形成に寄与したと看做されることも多い。
スウェーデン系であり、出生時の洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスチャン (Johan Julius Christian)だった。1990年代になってシベリウスの本当の(受洗時の)名前の順がヨハン・クリスティアン・ユリウスであることが判明した。彼自身がヨハン・ユリウス・クリスティアンという順を用いており、大半の文献もこれに倣っている。
名前は「ヤン」と表記されることもあるが、フランス語固有の綴りの名前であるため本項では「ジャン」とする。親しい者からはヤンネ (Janne) と呼ばれていたが、貿易商であった叔父がフランス語風にジャンと自称したのに倣い、彼も学生時代以降はずっとジャンと名乗った。
作品の主軸をなすのは7曲の交響曲であり、それらは他の主要作品と同様に国内外で普段から演奏や録音の機会に恵まれている。その他によく知られた作品には、『フィンランディア』、『カレリア組曲』、『悲しきワルツ』、ヴァイオリン協奏曲、『クレルヴォ交響曲』、『トゥオネラの白鳥』(『レンミンカイネン組曲』より)などがある。これ以外の作品には自然、スカンジナビアの神話、フィンランドの民族叙事詩に触発された100曲以上に及ぶピアノ伴奏歌曲、多数の戯曲への付随音楽、オペラ『塔の乙女』、室内楽曲、ピアノ曲、フリーメイソンの儀式のための音楽、21曲の合唱曲がある。
1920年代の半ばまでは多作な作曲家であったが交響曲第7番(1924年)、付随音楽『テンペスト』(1926年)そして交響詩『タピオラ』(1926年)の完成を境に残りの30年間は大規模作品の創作から遠のいてしまう。この驚くべき、謎めいた隠居生活は作曲者の住居の所在地をとって「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ばれる。彼が作曲を止めてしまったと言われることもあるが、完成に至らなかった交響曲第8番をはじめとして作曲の試みは継続していた。フリーメイソンのための音楽を書いたりそれまでの作品を手直しするなどしたシベリウスは、新しい音楽の発展に興味を持ち続けていたものの、それが常に前向きなものであるとは限らなかった。
フィンランドでは、2002年にユーロが導入されるまで100マルッカ紙幣にシベリウスの肖像が描かれていた。同国では2011年以降、旗の日でありシベリウスの誕生日でもある12月8日を「フィンランド音楽の日」として祝っている。シベリウス生誕150周年となった2015年には、ヘルシンキ市内を中心に数多くの特別演奏会やイベントが開催された。
1865年12月8日、ロシア帝国の自治領であったフィンランド大公国のハメーンリンナに生を受けた。スウェーデン語話者の医師クリスティアン・グスタフ・シベリウスとマリア・カルロッタ・シベリウス(旧姓ボーリ Borg)の間に生まれた子であった。姓は父方の曽祖父が所有していた東ウーシマー県の地所シッベ(Sibbe)に由来している。父は1868年7月に腸チフスによりこの世を去り、あとには多額の借金が遺された。そのため、当時妊娠していた母は所有していた不動産を売却し、同じくハメーンリンナで夫に先立たれて暮らしていた彼女の母親、カタリーナ・ボーリの家に一家で身を寄せねばならなかった。こうしてシベリウスは完全な女性中心の環境に育つことになる。唯一、男性的な影響を与えたのはおじのペール・フェルディナンド・シベリウス(Pehr Ferdinand -)であり、彼は音楽、とりわけヴァイオリンに関心を持っていた。彼こそが10歳になった少年にヴァイオリンを与え、後に作曲への興味を持ち続けるよう激励した人物だった。シベリウスにとって、おじのペールは父親代わりだったのみならず音楽上の助言者でもあったのである。
幼少期からシベリウスは自然に強い関心を示し、家族で夏季をロヴィーサの海岸沿いで過ごしにやってくると頻繁に田舎を歩き回りに出かけていた。彼自身の言葉が残っている。「私にとってロヴィーサは太陽と幸福の象徴だった。ハメーンリンナは学校へ行く場所、ロヴィーサは自由な場所だった。」ハメーンリンナでは彼が7歳になるとおばのユリア(Julia)が家にあったアップライトピアノで彼にピアノを教えることになるが、間違った音符を弾くといつも拳をコツンと叩いた。シベリウスは即興演奏によって上達を見せたが、音楽を解釈する勉強も続けた。後に転向することになるヴァイオリンの方が彼の好みにはあっていた。姉のリンダがピアノ、弟のクリスチャンがチェロを弾いて三重奏を行うこともあった。さらに近所の家々を交えて四重奏を行うこともあり、これによって室内楽の経験を培った。この時期の彼の作品として三重奏が1曲、ピアノ四重奏が1曲、ヴァイオリンとピアノのための『組曲 ニ短調』の断片が現存している。1881年頃、彼はヴァイオリンとチェロのための短いピッツィカートの楽曲『水滴』(Vattendroppar)を紙に書き残している。ただし、これは単に音楽の訓練であった可能性もある。初めて自分が作曲していると言及しているのは1883年8月の手紙の中であり、そこでは三重奏を書き上げて他の曲に取り組んでいると述べている。「両方とも少々お粗末な出来ですが、雨の日々にもやることがあるのはよいことです。」1881年に地元の楽長であったグスタフ・レヴァンダー(Gustaf Levander)からヴァイオリンの指導を受けるようになり、すぐさまこの楽器に強い関心を抱くようになる。偉大なヴァイオリンのヴィルトゥオーソになると心に決め、たちまち腕利きの奏者として頭角を現した。1886年にフェルディナンド・ダヴィッドのホ短調の協奏曲を演奏、翌年にはヘルシンキでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲から後半2楽章を演奏している。こうした器楽奏者としての成功にもかかわらず、彼は最終的に作曲家としての道を選ぶのである。
母語はスウェーデン語であったが、シベリウスは1874年にルチナ・ハグマン(Lucina Hagman)のフィンランド語で学ぶ予科校に入学した。1876年にはフィンランド語によるハメーンリンナの学校への進学を許可された。数学と植物学の成績は非常に良かったものの、彼は幾分ぼんやりした学生だった。留年しながらも1885年に学校の最終試験に合格し、これによって大学への入学資格を得た。少年時代の彼はヨハンの口語体にあたるヤンネという名前で知られていた。しかし学生時代に船乗りのおじの名刺に触発されてフランス語風のジャンを名乗るようになる。以降、彼はジャン・シベリウスとして知られるようになる。
1885年の高校卒業後、ヘルシンキ大学に進学したシベリウスは法学を学び始めるが、音楽への興味の方が圧倒的に大きかったためすぐさまヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)に転入して1885年から1889年まで同校で学ぶ。彼の指導陣の中には音楽院の創設者のひとりで、フィンランドの教育の発展に大きく貢献したマルティン・ヴェゲリウスがいた。独学だったシベリウスにはじめて正式に作曲を教えたのは彼であった。他に重要な影響を与えた人物はシベリウスを教えたピアニスト兼作曲家のフェルッチョ・ブゾーニであり、2人は生涯にわたる友情を育んだ。彼の近しい友人の集まりにはピアニストで文筆家のアドルフ・パウル、指揮者となるアルマス・ヤルネフェルトもいた。この時期の主要作品にはグリーグを想わせるところのあるヴァイオリンソナタ ヘ長調がある。
シベリウスは続いてベルリンへ赴きアルベルト・ベッカーに(1889年-1890年)、さらにウィーンへ移ってロベルト・フックス、そしてカール・ゴルトマルクに師事して(1890年-1891年)研鑽を積んだ。ベルリンではリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』の初演をはじめとした多様な演奏会やオペラに足を運び音楽の見識を広める機会に恵まれた。またフィンランドの作曲家であるロベルト・カヤヌスが自作の交響詩『アイノ』を含むプログラムでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した演奏会を聴いているが、この愛国的な作品がきっかけとなり後年シベリウスが叙事詩『カレワラ』を題材として作曲することへ関心を持つに至ったという可能性もある。ウィーン時代にはブルックナーの音楽にとりわけ強い関心を示し、一時は彼のことを「もっとも偉大な存命の作曲家」であるとみなしていた。一方で、ベートーヴェンやワーグナーの評価の固まった作品への興味も持ち続けていた。ウィーンにいた時期にはたびたび新しい友人たちとパーティーや賭け事に興じて過ごした。管弦楽曲の作曲に目を向けるようになったのもウィーンの頃であり、序曲 ホ長調や『バレエの情景』に取り組んだ。『カレワラ』に霊感を得た管弦楽作品『クレルヴォ交響曲』にも取り掛かる一方で体調を崩し、胆石の除去手術を受けて健康を回復している。ヘルシンキへ戻ると間もなく、ポピュラーコンサートの場で自作の序曲と『バレエの情景』を自ら指揮できる機会に恵まれこれを満喫した。『クレルヴォ交響曲』の仕事を続けることもできるようになり、次第に興味を発展させた彼はすべてをフィンランド語で書き上げたのであった。1892年4月28日にヘルシンキで迎えた初演は大成功で幕を閉じた。
シベリウスが心に抱いてきたヴァイオリニストとなる希望をついに諦めたのはこの頃であった。
悲劇だったのは私が何を犠牲にしてでも名高いヴァイオリニストになりたいと思っていたことだった。15歳になって以来、朝から晩まで自分のヴァイオリンを弾いていたも同然だったのだ。ペンとインクなど大嫌いで - 不幸にも上品なヴァイオリンの弓をより好んだ。私のヴァイオリンへの愛情は非常に長く続き、ヴィルトゥオーゾという過酷なキャリアへの訓練としては始めるのが遅すぎたと認めざるを得ないと自覚するのは大変に辛いことだった。
ウィーンとベルリンで勉学に費やした長い期間に加え(1889年-1891年)、1900年にはイタリアへ入って1年を家族とともに過ごした。スカンジナビアの国々、イギリス、フランス、ドイツで活発に作曲し、指揮をし、社交生活を送り、後にはアメリカ合衆国へも足を運んでいる。
シベリウスがヘルシンキで音楽を学んでいた1888年秋、音楽院の友人だったアルマス・ヤルネフェルトから自宅への招待を受けた。そこで彼は当時17歳のアイノと恋に落ちた。父はヴァーサの長官であったアレクサンデル・ヤルネフェルト大将、母はバルト諸国の貴族を出自とするエリザベト・クロット=フォン=ユルゲンスブルクである。結婚式は1892年6月10日にマクスモ(英語版)で執り行われた。新婚旅行は『カレワラ』発祥の地であるカレリアで過ごした。この体験が交響詩『エン・サガ』、『レンミンカイネン組曲』、『カレリア』の着想を与えることになる。1903年にはヤルヴェンパーのトゥースラ湖畔に2人の住まいであるアイノラが完成した。結婚生活の中で、2人は6人の娘を授かった。エーヴァ、ルート、キルスティ、カタリーナ、マルガレータ、ヘイディである。エーヴァは工場の跡取りで後にパロヘイモ社の最高経営責任者となるアルヴィ・パロヘイモ(Arvi Paloheimo)と結婚した。ルート・スネルマンは著名な女優となり、カタリーナ・イヴェスは銀行家と結婚、ヘイディ・ブロムシュテットは建築家のアウリス・ブロムシュテット(英語版)の妻となった。マルガレータの夫となったユッシ・ヤラスはアウリス・ブロムシュテットの兄弟である 。
1892年、『クレルヴォ交響曲』ときっかけとしてシベリウスは管弦楽に意識を向けるようになる。この作品は作曲家のアクセル・トルヌッド(フィンランド語版)が「火山の噴火」と評し、合唱パートを歌ったユホ・ランタは「『フィンランド』の音楽だった」と述べている。同年の暮れに祖母のカタリーナ・ボーリが他界、その葬儀に参列したシベリウスはハメーンリンナの家を訪れ、その後は家が古くなるまで立ち寄ることはなかった。1893年2月16日に『エン・サガ』の初版をヘルシンキで発表するも評判はさほど芳しくなく、評論家からは余計な部分を削除して切り詰めるべきだとの意見が出た。3月に行われた3回にわたる『クレルヴォ交響曲』の再演はそれよりもずっと不評で、ある評論家は理解不能でありかつ生気が欠けていると看做した。長女のエーヴァが誕生した後の4月には合唱曲『ワイナミョイネンの船乗り』の初演が行われて大成功を収め、記者からの支持を得ることができた。
1893年11月13日、ヴィープリのセウラフオネ(Seurahuone)で行われた学生団体主催のガラ・コンサートにおいて『カレリア』の全曲版が初演された。この公演には画家のアクセリ・ガッレン=カッレラと彫刻家のエミール・ヴィークストレーム(英語版)も舞台装置の設計のために招かれて協力していた。最初の演奏は聴衆の話声のために聴きづらいものとなってしまったが、11月18日の2度目の演奏はそれよりも上手くいった。さらに19日と23日にはヘルシンキに於いて、この作品から採られた長大な組曲が作曲者自身が指揮するフィルハーモニック協会管弦楽団の演奏で披露されている。シベリウスの音楽がヘルシンキのコンサートホールで演奏される頻度は高くなっていた。1894年-1895年のシーズンには『エン・サガ』、『カレリア』、『春の歌』(1894年作曲)が、トゥルクは言うまでもなく、首都でも少なくとも16回の演奏会で取り上げられている。1895年4月17日に改訂版の『春の歌』を聴いた作曲家のオスカル・メリカントは「シベリウスの管弦楽作品の中でも最も清らかな花である」と評してこれを歓迎した。
長期にわたりシベリウスはオペラ『船の建造』に取り組んでいた。この作品も『カレワラ』を題材としている。彼は一定程度ワーグナーの影響を受けていたが、その後リストによる交響詩を作曲への創意の源とするようになった。未完に終わったオペラの素材を活用する形で生まれた『レンミンカイネン組曲』は、交響詩の形式で描かれた4つの伝説から構成されている。組曲は1896年4月13日にヘルシンキにおいて満員の会場で初演された。メリカントが作品のフィンランドらしさに熱狂したのとは対照的に、批評家のカール・フロディンは「トゥオネラの白鳥」におけるコーラングレが「驚くべき長さと退屈さ」だとしている。その一方でフロディンは第1の伝説「レンミンカイネンと島の乙女たち」についてシベリウスのそれまでの創作の中の頂点を成すものであると考えていた。
生活のため、シベリウスは1892年から音楽院やカヤヌスの指揮学校で教鞭を執るが、これによって作曲のために割ける時間が足りなくなってしまう。状況が大きく好転したのは1898年に多額の年次助成金が交付されるようになってからで、当初は10年間の有期であった助成期間は後に生涯の交付へと延長された。こうしてアドルフ・パウルの戯曲『クリスティアン2世』への付随音楽を完成させることができ、1898年2月24日に初演された作品は馴染みやすい音楽で大衆の心を掴んだ。戯曲中でも人気の高い4つの場面に付された楽曲はドイツで出版され、フィンランドで好調な売れ行きを見せた。1898年11月に管弦楽組曲の演奏がヘルシンキで成功を収めた際、シベリウスは次のようにコメントを残している。「音楽はよく鳴っており、速度は適切なようです。自分が何かを完成させることができたのはこれが初めてではないかと思います。」曲はストックホルムとライプツィヒでも演奏された。
1899年、シベリウスは交響曲第1番の作曲に取り掛かる。この頃、ロシア皇帝ニコライ2世がフィンランド大公国に対してロシア化の試みを行っており、これによって彼の胸の内には愛国心が高まりつつあった。曲が1899年4月26日にヘルシンキで初演されると各方面から好評を博した。しかし、この時の公演プログラムでそれよりも遥かに注目度が高かったのは、あけすけに愛国心を露わにした、少年、男声合唱のための『アテネ人の歌』であった。この合唱曲によりシベリウスは一躍国民的英雄の地位を手にすることになる。11月4日に発表された次なる愛国的作品は『新聞の日を祝う音楽』として知られ、フィンランドの歴史を8つの挿話を描写する形で描いた作品であった。作曲を援助した新聞『Päivälehti』紙は、社説でロシアの規則を批判して一定期間の発刊停止処分中だった。最後の楽曲「フィンランドは目覚める」はとりわけ高い人気を獲得した。これが幾度か細かい修正を施されたのち、広く知られる『フィンランディア』となる。
1900年2月、シベリウス夫妻は娘のキルスティ(この時点では末娘)を失った悲しみに沈んでいた。しかしシベリウスは春になるとカヤヌス、並びに彼の管弦楽団とともに演奏旅行に繰り出し、13の都市を巡って交響曲第1番の改訂版などの最新作を披露して回った。訪れた都市はストックホルム、コペンハーゲン、ハンブルク、ベルリン、パリなどである。各都市は非常に好意的で、『Berliner Börsen-Courier』、『Berliner Fremdenblatt』、『Berliner Lokal Anzeiger』が熱狂的な論評を掲載したことにより彼は国際的に知られるようになる。
1901年にイタリアのラパッロを一家で訪れたシベリウスは交響曲第2番の作曲に取り掛かる。その際モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に登場するドン・ジョヴァンニの運命からも霊感を得ていた。曲は1902年の初頭に完成されて3月8日にヘルシンキ初演を迎える。この作品はフィンランドの人々の間に熱狂の渦を巻き起こした。メリカントは「曲はいかなる想定をも超えて大胆不敵であった」という感想を抱き、エーヴェルト・カティラ(フィンランド語版)は「紛うことなき傑作」と評価した。フロディンもまた、「我々がこれまでに決して聴く機会を持つことのなかった類の」交響作品について書き残している。
夏の間をハンコに程近いトヴァルミンネ(フィンランド語版)で過ごしたシベリウスは、同地で歌曲『それは夢か』作品37-4を作曲すると同時に『エン・サガ』の書き直しを行った。これが1902年11月にベルリンにおいてベルリン・フィルにより演奏されるとドイツでの作曲者の名声は揺るがぬものとなり、そのすぐ後の交響曲第1番の出版につながることとなる。
1903年の大半をヘルシンキで過ごしたシベリウスは過度に飲み食いに耽り、飲食店で大金を支払っていた。しかしその一方で作曲も継続して行い、義理の弟にあたるアルヴィド・ヤルネフェルト(英語版)の著した戯曲『クオレマ』に付した6曲から成る付随音楽のうちのひとつ、『悲しきワルツ』が有数の成功作となった。資金難から彼は作品を廉価で売り渡してしまったが、たちまちフィンランド国内外で高い人気を博すようになった。シベリウスのヘルシンキ滞在中、妻のアイノは頻繁に手紙を書いては帰宅を懇願したが彼は応じなかった。4女のカタリーナが生まれ時すら彼は外に出たままだったのである。1904年のはじめにヴァイオリン協奏曲が完成して2月8日に初演を迎えたが、評判は芳しくなかった。このため改訂を経て凝縮度を高めた版が作製されて翌年にベルリンで披露されることになった。
1903年11月、シベリウスはヘルシンキからおよそ45キロメートル北へ離れたトゥースラ湖のほとりにアイノラ(アイノの居場所)と名付けた邸宅を建築し始める。建築費用を工面するため、彼は1904年の前半からヘルシンキ、トゥルク、ヴァーサ、その他タリンやエストニアで演奏会を開き、夏にはラトビアにも赴いた。一家は1904年9月24日にようやく新居に移ることができ、画家のエーロ・ヤルネフェルト、ペッカ・ハロネン、小説家のユハニ・アホら近所の芸術家のコミュニティーの中で交流を深めていった。
1905年1月、シベリウスは再びベルリンを訪れて交響曲第2番を自ら指揮した。演奏会自体は成功裏に終了したが論評は賛美一色というわけではなく、非常に好意的な評もあった一方で『アルゲマイネ・ツァイトゥング(ドイツ語版)』や『ベルリナー・ターゲブラット(ドイツ語版)』などの評価はそれほど熱のこもったものではなかった。フィンランドに帰国したシベリウスは徐々に人気が出てきつつあった『ペレアスとメリザンド』を管弦楽組曲として仕立て直した。11月には初めてイギリスへと渡り、リヴァプールでヘンリー・ウッドと会っている。12月2日に交響曲第1番と『フィンランディア』を指揮した彼は、アイノに宛てて演奏会は大成功を収め大いに喝采を浴びたと手紙で伝えた。
1906年、年の初めの短い期間をパリで特に何事もなく過ごしてから、続く数か月をアイノラで作曲に費やした。この時期の主要な作品はやはり『カレワラ』を題材に採った交響詩『ポホヨラの娘』である。その後、同年のうちに付随音楽『ベルシャザールの饗宴』も完成させ、管弦楽組曲版の制作も行っている。年の締めくくりは自ら指揮した演奏会シリーズで、中でも最大の成功を収めたのはサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行った『ポホヨラの娘』の初となる公開演奏であった。
シベリウスは1907年の年初から再びヘルシンキにて暴飲暴食に耽るようになり、途方もない金額をシャンパンとロブスターに費やした。彼のこの生活習慣がアイノの健康状態に深刻な影響を与え、彼女を極端な疲労による療養施設入居に至らしめた。妻が不在の間にシベリウスは禁酒を決意し、かわりに交響曲第3番の作曲へと意識を集中させた。作品を完成させた彼は9月25日にヘルシンキでの初演に臨んだ。古典的性格が増した作風は聴衆へ驚きを与えたが、フロディンは作品が「内面的に新しく、また革命的」であったと述べている。
そのすぐ後、シベリウスはヘルシンキを訪れたグスタフ・マーラーと出会っている。2人は新しい交響曲を出すたびに過去の作品のファンであった人々を失ってしまう、という点で意見の一致を見た。1907年11月にサンクトペテルブルクで第3交響曲が演奏されると、まさにこれが現実となって否定的な論評を浴びることとなる。モスクワでの評判はまだ前向きなものであった。
1907年、シベリウスは喉の癌の疑いにより大きな手術を受けおり、1908年のはじめは病院で過ごさねばならなくなった。喫煙、飲酒はいまや生命を脅かすものとなったのである。ローマ、ワルシャワそしてベルリンでのコンサートは中止しながらもロンドンの契約は守ったが、ここでも第3交響曲は評論家の関心を獲得するには至らなかった。5月にはシベリウスの体調はますます悪化し、彼は妻とともにベルリン入りして喉の腫瘍の除去手術を受けた。術後、彼は今後一切の煙草と酒を断つと誓いを立てたのであった。こうして死を間近に体験した衝撃が交響詩『ルオンノタル』や交響曲第4番など、以降数年のうちに作曲された作品に着想を与えたといわれている。
1909年、喉の手術が成功したことによりシベリウスとアイノは自宅での幸福を新たなものにしていた。イギリスにおいても自らタクトを握って『エン・サガ』、『フィンランディア』、『悲しきワルツ』、『春の歌』を熱狂する聴衆に届けており、彼の体調は歓迎された。クロード・ドビュッシーとの出会いも大きな支えとなった。パリで静かに過ごした後でベルリンに向かった彼は、そこで喉の手術が完全に成功したという旨を聞かされて安堵する。
交響曲第4番には1910年のはじめに着手していたものの、資金が乏しくなっていっていたため数多くの小規模な楽曲や歌曲も書かねばならなかった。10月にクリスチャニア(現オスロ)で開かれた演奏会では『森の精』と『追憶のために』を自分の手で初演する。『悲しきワルツ』や第2交響曲はとりわけ好評だった。それからベルリンに赴いて第4交響曲の仕事を続け、ヤルヴェンパーに戻ってから終楽章に取り組んだ。
スウェーデンでの初めてのコンサートで1911年の初頭に指揮台に上り、交響曲第3番までもが評論家から好評を得た。4月には交響曲第4番が完成するが、彼自身も予想していたとおりヘルシンキでの初演においてはその内省的な作風があまり前向きに評価されず、賛否両論を巻き起こした。リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』を楽しんだパリへの旅行を除き、同年の残りはほとんど何もなく終わった。1912年に入り『英雄的情景』第2番が完成する。この作品は3月に初演を迎えており、同じ演奏会では第4交響曲も演奏された。この演奏会はロベルト・カヤヌスをはじめとする熱狂的な評論家、そして聴衆へ向けて2回再演されることになった。第4交響曲は9月のバーミンガムでも好意的な評価を獲得した。同交響曲は1913年3月にニューヨークでも演奏されたものの大部分の聴衆が楽章間に演奏会場から出て行ってしまい、10月にカール・ムックが指揮した際には『ボストン・アメリカン』紙が「哀れな失敗作」の烙印を押した。
1913年の最初の重要作品は交響詩『吟遊詩人』であり、シベリウスは3月にヘルシンキでこの作品を礼儀正しい聴衆に向けて指揮した。続く作品は『カレワラ』から詞を採ったソプラノと管弦楽のための『ルオンノタル』である。初演は1913年にイングランドのグロスターで開催されたスリー・クアイアズ・フェスティバルにおいてアイノ・アクテのフィンランド語による独唱で行われた。1914年のはじめにひと月をベルリンで過ごしたシベリウスはとりわけシェーンベルクに惹きつけられた。フィンランド帰国後、アメリカの億万長者カール・ステッケルからノーフォーク室内楽音楽祭のためにと委嘱された『大洋の女神』の作曲を開始する。変ニ長調で書き始めたものの大規模な改訂を行った結果、ノーフォークへはニ長調の版が持ち込まれることになった。この作品は『フィンランディア』や『悲しきワルツ』同様の喝采を浴びることとなった。音楽批評家のヘンリー・エドワード・クレービールは『大洋の女神』がかつて海を題材に作曲された音楽の中で最も美しい作品であると看做し、『ニューヨーク・タイムズ』紙はシベリウスの音楽が音楽祭にとって最大の貢献となったと評した。シベリウスがアメリカでイェール大学から名誉博士号を授与されていたのとほぼ同じ頃、ヘルシンキ大学ではアイノが彼の代理として同じく名誉博士号の授与式に臨んでいた。
米国からの帰途、シベリウスは第一次世界大戦勃発の引き金となるサラエボ事件について耳にした。彼自身は戦地から遠くにあったものの、国外からの印税収入が滞るようになった。生計を立てるため、彼はフィンランド国内での出版向けに多量の小規模作品を作曲することを余儀なくされた。1915年3月に尋ねたスウェーデンのヨーテボリでは『大洋の女神』が非常に高い評価を受けた。彼は4月に交響曲第5番に取り組むさなか16羽の白鳥が飛んでいくのを目にし、これに触発されて終楽章を書いた。彼は「人生の中でも素晴らしい体験の一つだった!」との言葉を残している。交響曲に関する夏の間の進捗はわずかだったものの、50歳の誕生日を迎える12月8日までには曲を完成させることができた。
誕生日の晩、シベリウスはヘルシンキ証券取引所(現:ナスダック・ヘルシンキ)のホールにて自らの指揮で交響曲第5番を初演した。カヤヌスの絶賛にもかかわらず作曲者自身は作品に満足しておらず、間もなくして改訂に取り掛かった。この頃、シベリウスはこれまでを遥かに上回る負債を抱えつつあった。歌手のイダ・エクマンが基金の立ち上げ事業に成功して借金の大部分を返済したが、その際に彼に贈られたグランドピアノは差し押さえられる寸前であった。
1年後の1916年12月8日、シベリウスはトゥルクにて改訂版の第5交響曲を披露した。これは最初の2つの楽章を結合させ、終楽章を簡素化したものであった。1週間後のヘルシンキでの演奏ではカティラが非常に好意的だったのに対してワゼニウス(Wasenius)は変更に否定的であり、これによって彼は再度の改訂を行うことになった。
1917年のはじめからシベリウスは飲酒を再開し、アイノとの間で口論となった。ロシア革命が勃発するとその興奮により2人の仲は改善する。同年の暮れまでにシベリウスは『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』を作曲、1917年12月にフィンランド議会が上院のロシアからの独立宣言を承認すると曲はとりわけ人気を博した。『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』の初演は1918年1月19日のことで、1月27日のフィンランド内戦の幕開けまでのわずかな間、ヘルシンキのエリート層を喜ばせた。シベリウスは自然と白衛軍(英語版)の支援に回ったが、トルストイ運動家であったアイノは赤衛軍(英語版)にも幾ばくか共鳴するところがあった。
2月、アイノラは2回にわたって武器を探す赤衛軍の地元部隊による捜索を受けた。開戦からの数週間の間にシベリウスの知人の中には暴力行為を受けて落命した者もおり、彼の弟で精神科医のクリスティアン・シベリウスは前線で戦争神経症を負った赤衛軍の兵士のために病床を確保しておくことを拒否したために逮捕された。ヘルシンキにいたシベリウスの友人たちは彼の身の安全を案じていた。ロベルト・カヤヌスが赤衛軍の総司令官エーロ・ハーパライネン(英語版)と交渉を行い、シベリウスがアイノラから首都まで安全に移動できる保証を取り付けた。2月20日、赤衛軍の兵士の一団が一家をヘルシンキまで護衛した。最終的には4月12日、13日にヘルシンキの戦い(英語版)でドイツ軍がヘルシンキを占領、赤衛軍の支配は終わりを告げた。1週間後、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団がドイツの指揮官リューディガー・フォン・デア・ゴルツ(英語版)を称えるコンサートを開催、これはシベリウスの指揮による『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』にて幕を閉じた。
1919年のはじめ、シベリウスは薄くなった頭を丸めて印象を変えようと躍起になっていた。6月には1915年以来はじめてフィンランドを離れてアイノとともにコペンハーゲンを訪れると、交響曲第2番を演奏して成功を収めた。11月に交響曲第5番の最終稿を指揮し、聴衆から幾度にもわたる喝采を浴びた。同年の暮れには彼は既に交響曲第6番の仕事を進めていた。
1920年、手の震えが大きくなる中、ワインの力を借りつつスオメン・ラウル合唱団のために詩人のエイノ・レイノの詞を基にカンタータ『大地への賛歌』を作曲、また『抒情的なワルツ』を管弦楽編曲した。シベリウスは1920年12月の誕生日に63,000マルクの寄付を受け取った。この大金はテノールのワイネ・ソラ(フィンランド語版)がフィンランドでの事業により築き上げたものだった。資金の一部は借金の返済に使われたが、ヘルシンキで行われた過度な祝賀会は一週間に及んだ。
1921年のはじめにはイングランドへの演奏旅行が大きな成功を収めた。シベリウスはイングランド国内の複数の都市で第4交響曲、第5交響曲、『大洋の女神』そしていつでも人気が高かった『フィンランディア』、『悲しきワルツ』を指揮して回った。そのすぐ後、今度はノルウェーで第2交響曲と『悲しきワルツ』を指揮している。彼は過労にあえぎ始めていたが評論家の意見は前向きなままだった。4月にフィンランドへ帰国すると、Nordic Music Daysにて『レンミンカイネンの帰郷』と第5交響曲を披露する。
1922年の初頭に頭痛に苦しんだシベリウスは眼鏡をかけることを決意する。しかし彼はその後も写真撮影の際にはいつも眼鏡を外していた。7月に弟のクリスティアンが永眠し、シベリウスは悲しみに暮れた。8月にフィンランドのフリーメイソンに加入してその儀式のための音楽を作曲、1923年2月には交響曲第6番が初演される。エーヴェルト・カティラは「純粋な田園詩」だとしてこれを称賛した。年の暮れにはストックホルムとローマで演奏会の指揮台に上ったが、前者が大絶賛を浴びた一方で後者には様々な評価がついた。続いてヨーテボリに向かった彼が演奏会場に到着した時には暴飲暴食し放題で苦しい状態だったにもかかわらず、迎えた聴衆は恍惚となった。飲酒を続けてアイノを狼狽させながらも、シベリウスは1924年のはじめにはどうにか交響曲第7番の完成にこぎつけた。3月に『交響的幻想曲』という標題の下、ストックホルムで行われた第7交響曲の最初の公開演奏は好評を博した。同交響曲は9月の終わりにコペンハーゲンで開催されたコンサート・シリーズにおいてそれを遥かに上回る喝采を浴びた。シベリウスはダンネブロ勲章のナイトに叙される栄誉に与った。
この頃の多忙な活動は彼の心臓と神経を痛めていたため、同年の残り大半を休暇に充てることにした。小規模な作品をいくつか作曲しつつ、彼は次第にアルコールに頼るようになっていく。1925年5月、デンマークの出版者のヴィルヘルム・ハンゼンとコペンハーゲンの王立劇場がシェイクスピアの『テンペスト』上演のための付随音楽を作曲しないかと声をかけた。シベリウスは1926年3月の初演に十分余裕をもって作品を書き上げた。コペンハーゲンでの評判は上々だったが作曲者自身はその場に居合わせなかった。
1926年にはシベリウスの創作活動は急激に落ち込み上昇の気配を見せなかった。第7交響曲完成後、彼は残りの生涯のうちに規模の大きな楽曲はわずかな数しか生み出さなかったのである。そうした中の2つの最重要作品は間違いなく『テンペスト』と交響詩『タピオラ』である。残りの人生30年間の大部分をシベリウスは自らの音楽について公に語ることすら避けながら過ごした。
シベリウスが交響曲第8番に取り組んでいたことを示す数多くの証拠が残されている。彼は1931年及び1932年にセルゲイ・クーセヴィツキーに対してこの交響曲の初演を約束しており、ベイジル・キャメロン指揮による1933年のロンドンでの演奏は一般告知されすらした。この交響曲が存在したことを紙の状態で伝える具体的な証拠は、1933年に発行された第1楽章の浄書にかかった費用の請求書、並びに2011年に初めて出版、演奏された下書き段階の短い断片のみである。シベリウスは常に厳しい自己批判をしていた。彼は近しい友人に「もし7番よりもよい交響曲を書くことができなかったら、7番を最後とせねばならない」と述べていた。草稿が現存しないことから、各種文献ではシベリウスが楽譜の痕跡のほとんどを破棄してしまったのだろうと考察されている。時期はおそらく、シベリウスが多量の書類を焼却したことが確実である1945年と考えられる。妻のアイノは次のように回想している。
1940年代にアイノラで大規模なアウト・デ・フェが行われました。夫は洗濯かごの中に大量の原稿を集め、それらをダイニングの暖炉にくべて燃やしたのです。『カレリア組曲』の一部や - 後日、引きちぎられたページの破片も目にしています - その他多くのものが失われました。私にはそこに留まるだけの強さがなく、部屋を後にしました。ですので、彼が何を火の中へ投げ込んでいたのかはわかりません。ですが、夫はこのことがあって以来穏やかになり、次第に雰囲気も明るくなっていったのです。
1939年1月1日、シベリウスは国内外向けのラジオ放送に出演し、その中で『アンダンテ・フェスティーヴォ』を自ら指揮した。放送音源として残されたこの演奏は後年CD化されている(ONDINE: ODE 992-2)。これがおそらく唯一の現存するシベリウスの自作自演だろうと思われる。
1903年以降長年にわたってシベリウスは田舎に居を構えてきた。1939年から彼とアイノは再びヘルシンキに住まいを持っていたが、1941年からはアイノラへと戻って時おり街を訪れるだけとなった。戦後、彼がヘルシンキに姿を見せたのはわずか数回のみである。数え切れないほどの公式の客人や同僚に加え、彼の孫やひ孫が休暇をアイノラで過ごす中、いわゆる「ヤルヴェンパーの沈黙」は神話のようなものとなっていったのである。
シベリウス本人は公に他の作曲家に関して発言をすることを避けていたが、エーリク・タヴァッシェルナやシベリウスの秘書だったサンテリ・レヴァスの記録によると彼は私的な会話の中でリヒャルト・シュトラウスを賛美していた他、バルトーク・ベーラやドミートリイ・ショスタコーヴィチを若い世代の最も才能ある作曲家と考えていたという。1950年代にはフィンランドの新鋭作曲家であったエイノユハニ・ラウタヴァーラの名前を広めようとしている。
90歳の誕生日を迎えた1955年は盛大に祝われ、ユージン・オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団、トーマス・ビーチャムの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の両楽団が彼の音楽による特別演奏を行った。
タヴァッシェルナはシベリウスの死に関係する逸話を紹介している。
[彼が]習慣にしている朝の散歩から帰ってきた。浮き立った様子の彼は妻のアイノにツルの群れが近づいてくるのを見たのだと話した。「来たんだよ、私の若いころの鳥たちが。」彼は声をあげた。突然、鳥たちの中から1羽が陣形を離れてアイノラ上空でいちど円を描いた。するとその鳥はまた群れに戻って旅を続けていったのである。
その2日後の1957年9月20日の夜、シベリウスはアイノラにて91年の生涯を閉じた。死因は脳内出血だった。彼が息を引き取ったその時、マルコム・サージェントの指揮による彼の交響曲第5番がヘルシンキからラジオ放送された。また時を同じくして開催されていた国連総会では、議長でニュージーランド代表のレスリー・マンロー(英語版)が黙祷を呼びかけ、こう語りかけた。「シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです。」同じ日にはやはり著名なフィンランドの作曲家だったヘイノ・カスキが永眠しているが、彼の死はシベリウスの訃報の陰に隠れてしまった。シベリウスは国葬によって葬られ、アイノラの庭へと埋葬された。アイノ・シベリウスはその後12年間を同じ家で暮らし、1969年6月8日に97歳で夫の後を追った。彼女も夫の側に眠っている。
シベリウスは交響曲と交響詩、中でも『フィンランディア』や『カレリア組曲』によって広く知られている。フィンランドにおけるその名声は1890年代に合唱交響曲『クレルヴォ交響曲』によって高まった。この作品はその後の多くの作品と同様に叙事詩『カレワラ』を描いたものである。交響曲第1番は1899年、フィンランドにナショナリズムが興っていた時期に初演され、聴衆の熱狂に迎えられた。これ以外の6曲の交響曲に加えて彼は付随音楽やその他の交響詩、とりわけ『エン・サガ』、『トゥオネラの白鳥』、『悲しきワルツ』によって国内外で人気を獲得していく。また、ヴァイオリン協奏曲を含むヴァイオリンと管弦楽のための作品群、オペラ『塔の乙女』、小規模な管弦楽作品、室内楽曲、ヴァイオリンとピアノのための作品、合唱作品と数多くの歌曲を作曲した。
1920年代半ば、交響曲第6番と第7番の完成後に、交響詩『タピオラ』と付随音楽『テンペスト』を書き上げた。これ以降、彼は1957年まで生きたものの特筆すべき作品は何ひとつ世に出さなかった。数年間取り組んでいた交響曲第8番は彼が自ら焼却してしまっている。
音楽様式については、交響曲第1番やヴァイオリン協奏曲のような初期作品においてチャイコフスキーの影響が特に顕著である。一方でとりわけオペラに取り組んでいた一時期についてはワーグナーの虜になっていた。これら以上に長期的な影響を与えたのはフェルッチョ・ブゾーニとアントン・ブルックナーであった。しかし交響詩に関してはなによりリストに触発されていた。ブルックナーとの類似性は管弦楽曲で金管楽器の活躍が目立つことや、彼の音楽が概して遅いテンポを取ることに見出される。
シベリウスは自作からソナタ形式の型として決まったものを取り除いていく形で進化を遂げ、複数の主題を対比するのではなく、小さな塊や断片的な主題が持続的に発展していき頂点において大きく提示されるという発想に目を向けた。彼の後期作品は主題を置換しつつ派生させていくという方法により進む、その途切れることのない展開の感覚という点で注目される。この合成過程が完璧であり有機的に感じられることから、シベリウスが最終的な主題提示から遡る形で作品を書いたのではないかと主張する者もいた。しかし、その逆に現実には3音もしくは4音から成る塊や旋律の断片が発展、拡大して大きな「主題」へと至ったのだということが分析により証明されている。
この自己完結型の構造は交響曲の分野でシベリウスの第一の好敵手であったマーラーの交響曲の様式と著しい対照を成す。両作曲家の作品では主題の変奏が主要な役割を果たすが、マーラーの方法論では不連続で急激に変化して対比を生み出す主題が用いられたのに対し、シベリウスは主題要素を時間をかけて変化させるよう努めた。1907年11月にマーラーがフィンランドへの演奏旅行を引き受け、この2人の作曲家は連れ立って長い散歩に出ることができた。シベリウスは次のようにコメントを残している。
私は[その交響曲の]様式の厳格さと論理の深遠さが全てのモチーフの間に内的な結びつきを生み出していることを称賛した(中略)マーラーの意見はちょうど正反対であった。「いえ、交響曲というものは世界でなくてはならないのです。ありとあらゆるものを内包していなくてはなりません。」
『クレルヴォ交響曲』を除いて、7曲の交響曲が1900年から1924年の間に作られている。初期(第1番、第2番)は当時の流行に沿ってチャイコフスキーやワーグナーの影響の下、大規模で後期ロマン派的な傾向を持つ作品が多いが、中・後期(第3番以降)には古典派や印象派の様式を取り入れ、より内省的で簡潔なスタイルへと移行した。1891年に作曲された『序曲 ホ長調』(JS 145)と『バレエの情景』(JS 163)は、当初は最初の交響曲(後の第1番とは別)の楽章として構想されたものであった。
シベリウスは1898年に交響曲第1番 ホ短調 作品39の作曲に取り掛かり、1899年の初頭、33歳でこれを完成させている。初演は1899年4月26日に作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で行われて好評を博した。この時に演奏されたオリジナル版は現存してない。初演後にシベリウスはいくつかの改訂を加えており、これが今日演奏される版となっている。改訂は1900年の春から夏にかけて完了し、1900年7月18日、ベルリンでロベルト・カヤヌス指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によって初演された。この交響曲は控えめなティンパニを伴ったクラリネットの非常に独創的でやや侘しげな独奏で開始する。
シベリウスの交響曲の中で最も人気が高く録音機会の多い交響曲第2番は、1902年3月8日に作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で初演された。開始部の上昇形の和音が作品全体のモチーフとなっている。フィナーレにおける3音からなる英雄的な主題は、最初に登場した際は木管楽器で奏されていたものがここではトランペットにより奏でられる。ロシア帝国による抑圧下にあって曲はシベリウスの名声を国民的英雄にまで高めた。彼は初演後にいくつかの改訂を施しており、改訂版は1903年11月10日にストックホルムにおいてアルマス・ヤルネフェルトの指揮により初演された。
交響曲第3番は耳当たりがよく、大団円で終結するが、そうとは見せず簡素な響きを持った作品である。初演は1907年9月25日、作曲者自身の指揮の下、ヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で行われた。作品のはじめに出てくる和音にはフィンランドの民謡から採られた主題がある。アイノラへ移り住んだすぐ後に書かれたこの作品では、フィナーレの行進曲的な曲調へと発展していく表現方法が明瞭に示されており、先の2曲の交響曲とは際立った対比を成している。交響曲第4番は1911年4月3日、ヘルシンキにて作曲者の指揮、フィルハーモニア協会の演奏で初演された。曲が書かれた時期にシベリウスは喉からの腫瘍を除去するための数回の手術を経験していた。この曲の持つ凄味は禁酒の決意からくる反応と説明することも可能といえる。チェロ、コントラバス、ファゴットで開始するはじめの数小節では拍子に対して新たなアプローチが試みられている。その後はポー(Poe)の『The Raven』に付した憂鬱なスケッチに基づいて展開する。弱まっていくフィナーレは20年後にシベリウスが経験することになる沈黙の予感であるとも言いえる。同時代に一般的だった威勢の良いフィナーレとは対照的に、この作品は簡単に「重苦しく落ちる音」(leaden thud)により終結する。
交響曲第5番は1915年12月8日、シベリウスの50回目の誕生日にヘルシンキで作曲者自身により初演されて大絶賛を浴びた。今日最も一般的に演奏されるのは1919年に発表された、全3楽章からなる最終稿である。第5番はシベリウスの交響曲の中で唯一全曲を通して長調をとる。ホルンによる柔らかい冒頭部に開始した曲は、様々な主題を大きく変化を加えつつ交代で繰り返しつつ展開し、終楽章でトランペットが奏する賛歌へと発展していく。第5交響曲の時点で既にソナタ形式から離れる方向へと舵を切りはじめていたが、1923年に作曲者自身が初演した交響曲第6番ではさらに一層伝統的な規則を排することになった。エーリク・タヴァッシェルナは「[終楽章の]構造はよく知られた形式には従っていない」と述べている。ドリア旋法で書かれたこの曲には、第5交響曲の作曲中に着想を得た主題群や抒情的なヴァイオリン協奏曲に用いられる予定だった素材などが転用されている。純化された方法論を取るにあたって、シベリウスは第5交響曲の重厚な金管楽器に変えてフルートと弦楽器を使用し、カクテルではなく「春の水」を提供しようとしたのである。
交響曲第7番は交響曲の中では最後に出版された作品となった。1924年に完成されたこの作品は単一楽章形式であることが特筆される。「形式はまったく独創的でテンポの操作は緻密、調性の扱いは独特であり完全に有機的に発展する」と形容される。またこの作品は「シベリウスが作曲した最も優れた偉業」とも言われる。当初は『交響的幻想曲』と名付けられ、1924年3月にストックホルムでシベリウス自身の手で初演された。楽曲は彼が10年近く前にスケッチしていたアダージョの楽章に基づいている。弦楽器が主体となるが、トロンボーンによる特徴のある主題も聞かれる。
7曲の交響曲とヴァイオリン協奏曲に次いでシベリウスの13曲の交響詩は彼の最も重要な管弦楽作品であり、リヒャルト・シュトラウスの交響詩に並んでリストが創始したジャンルを代表する最重要の作品群を形成している。全体としてみると交響詩の創作はシベリウスの芸術家としてのキャリア全般に及んでおり、彼がいかに自然とフィンランド神話、特に『カレワラ』に魅了されていたのかが窺い知れる。また、これらによって彼の作風が時とともに成熟していく様を余すことなくつぶさに知ることができる。なお、このジャンルにおけるシベリウスの作品は多くが「音詩」(Tondichtung)と題されており、明確に「交響詩」(Sinfonische Dichtung)と銘打ってあるものは最後の作品となった『タピオラ』のみである。
『エン・サガ』(「おとぎ話」の意)はシベリウス自身の指揮で1893年に初演された。この単一楽章の交響詩はアイスランドの神話的作品である『エッダ』から影響を受けている可能性も考えられるが、作曲者本人は単に「[自分の]心の状態の表出」であると語っている。弦楽器による夢見るような主題に始まると木管楽器、次いで金管楽器とヴィオラと発展していき、シベリウスのオーケストラ操作能力が示される。この作品は彼にとって初めての重要な管弦楽作品であり、ブゾーニの招きによりベルリンで自作を演奏することになった1902年に改訂されている。この時の成功に勇気づけられた彼はアイノに次のように書き送った。「私は熟達した『芸術家』として認められたよ。」
『森の精』は管弦楽のための単一楽章の交響詩で、スウェーデンの詩人ヴィクトル・リュードベリ(英語版)の同名の作品に霊感を受けて1894年に作曲された。初演は1895年4月にヘルシンキにてシベリウス自身の指揮で行われた。構成的には4つの部分に分けることが可能であり、それぞれが詩の4つの節に対応してそこに描かれた物語の雰囲気を想起させる。一つ目が英雄の活力、二つ目が熱狂的な行動、三つ目は官能的な愛、四つ目が癒すことのできない悲しみである。音楽自体は美しい仕上がりであるが、多くの批評家はシベリウスが題材とした物語の構造に「過度に依存」していると非難している。
『レンミンカイネン組曲』は1890年代初頭に書き上げられた。元々は神話に題材を採ったオペラ『船の建造』として、ワーグナーの楽劇に匹敵する規模の作品として構想された。しかしシベリウスは後に考えを改め、作品は4つの楽章から成る管弦楽作品となった。この組曲はフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』の登場人物レンミンカイネンに基づいている。この作品は連作交響詩であると捉えることもできる。第2曲(発表時は第3曲)の『トゥオネラの白鳥』は単独でもしばしば演奏される。
『フィンランディア』は非常に愛国的な作品であり、シベリウスの全作品の中でもおそらく最も人口に膾炙した楽曲である。初演が行われたのは1899年11月で、当初は新聞の日を祝うための一連の作品のうちのひとつだった。改訂版は1900年7月に初演されている。現在の表題が出てきたのはさらに後のことで、最初はピアノ編曲版がそう呼ばれ、その後1901年にカヤヌスが管弦楽版を演奏した際に『フィンランディア』という名称を用いた。シベリウス自身は本来管弦楽曲であると強調していたが、特に賛歌としてのエピソードによりこの作品は合唱曲としても世界的な人気を獲得した。ついには作曲者自身も同意し1937年にフリーメイソンのために、1940年により一般的に使用できるよう賛歌として歌詞を加えることを認めた。愛国的な感情を呼び覚ますとされ、当時支配を受けていたロシア当局の弾圧を受けた結果、別名で演奏されたこともある。
『大洋の女神』は1913年から1914年にかけて作曲された単一楽章の交響詩である。表題はギリシア神話において地中海に住むとされるオーケアニスのことを指している。初演は1914年6月4日にアメリカ合衆国、コネチカット州のノーフォーク(英語版)で催されたノーフォーク室内楽音楽祭においてシベリウス自身の指揮によって行われた。初演の際に「これまで音楽で行われた中で海を想起させる最良のもの」と称賛されたこの作品は、厳格でない3つの部分で2つの主題が次第に展開されることによって進行する。第1の部分が穏やかな海、第2の部分が激しさを増す嵐、第3の部分が雷鳴のごとく打ち付ける波によるクライマックスである。嵐が静まり、最後の和音が海の巨大な力と限りない広がりを象徴するように響く。
『タピオラ』は最後の主要な管弦楽作品となった楽曲である。ウォルター・ダムロッシュによりニューヨーク・フィルハーモニック協会のためにとして委嘱され、同管弦楽団により1926年12月26日に初演された。曲は『カレワラ』に登場する精霊であるタピオに着想を得ている。アメリカの音楽評論家アレックス・ロスの言葉を引用すると、この作品は「シベリウスの最も厳しく、濃縮された音楽表現となった。」作曲家で伝記作家のセシル・グレイは一層強い調子で次のように断言している。「たとえシベリウスが他に何も作曲していなかったとしても、この作品ひとつのみで彼は史上最も偉大な巨匠のひとりに位置付けられただろう。」
『カレリア』はシベリウスの初期作品のひとつであり、ヴィープリの学生団体のために書かれ1893年11月13日に騒がしい聴衆へ向けて初演された。組曲版は11月23日の演奏会に序曲と3曲からなる形で登場し、作品11の『カレリア組曲』として出版された。この作品はシベリウスの楽曲でも指折りの人気作品であり続けている。
『悲しきワルツ』は元来、シベリウスの義理の兄にあたるアルヴィド・ヤルネフェルト(英語版)による1903年の戯曲『クオレマ』のために書かれた付随音楽だった。現在では独立した演奏会用作品としてより広く知られている。シベリウスは1903年12月2日の『クオレマ』上演のために6つの楽曲を作曲した。ワルツが使われるのは女性が死の床から起き上がり幽霊と踊る場面である。1904年、シベリウスは4月25日のヘルシンキでの演奏のために手直しを行っており、その際に曲は『悲しきワルツ』と銘打たれた。瞬く間に成功を収めた本作は単独でも取り上げられるようになり、今もなおシベリウスの代表作としての地位を保っている。
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調はヴィクトル・ノヴァチェクの独奏で1904年2月8日に初演された。シベリウスが曲を完成させたのが初演間際であったためノヴァチェクは十分な練習時間を取ることができず、その結果初演は悲惨なものとなってしまった。大幅な改訂を経て、新たな版が1905年10月19日にリヒャルト・シュトラウスの指揮するベルリン王立宮廷楽団により初演されている。カレル・ハリーシュが管弦楽のコンサートマスターと独奏を兼務し、曲は大成功を収めた。以降徐々に人気を獲得したこの作品は、現在では20世紀に作曲されたヴァイオリン協奏曲の中でも有数の録音頻度を誇るまでになっている。
『クレルヴォ交響曲』もシベリウス初期作品のひとつで、合唱交響曲であるとされることも多いが交響詩風の5つの管弦楽曲から成る組曲とした方がより正確である。『カレワラ』の登場人物であるクッレルヴォを題材としている。初演は1892年4月28日、エミー・アクテとアブラハム・オヤンペラ(フィンランド語版)を独唱者に据え、シベリウス自身が設立間もないヘルシンキ管弦楽協会のオーケストラと合唱を指揮して行われた。この作品はシベリウスの生前には5回しか演奏されることがなかったが、1990年代以降は演奏会と録音の両面で人気の高まりを見せている。
ロシア統治下では禁止されていたフリーメイソンが復活を遂げると、シベリウスは1922年にスモイ・ロッジ1番の創立メンバーとなり、後にフィンランドのグランド・ロッジのグランド・オルガニストとなっている。1927年にはフィンランドで用いられる儀式用音楽(作品113)を作曲しており、1946年にも2曲を加えている。1948年の儀式用音楽の改訂新版は彼の最後の作品のひとつである。
シベリウスは自然を愛し、フィンランドの風景はしばしば彼の音楽の題材となった。彼は自らの交響曲第6番について「[曲は]いつも私に初雪のにおいを思い出させる」と語っていた。アイノラを囲む森が彼に『タピオラ』の霊感を与えたと言われることも多い。彼の伝記作家であるタヴァッシェルナは、シベリウスの自然との結びつきについて次のように記している。
北欧の基準で考えたとしても、シベリウスは自然がもたらす空気と四季の変化に対して例外的な熱意でもって応じていた。彼は双眼鏡を手に湖の氷の上を渡るガンを眺め、ツルの金切り声に耳を傾け、アイノラのすぐ下の湿地からこだましてくるシギの鳴き声を聞いていた。春の花を余すところなく味わうのは秋のにおいと色使いに対しても同じだった。
シベリウスは英語圏並びに北欧の国々において交響曲作曲家と音楽界に多大な影響を与えた。フィンランドの交響曲作曲家であったレーヴィ・マデトヤはシベリウスの弟子だった。イギリスではレイフ・ヴォーン・ウィリアムズが交響曲第5番、アーノルド・バックスも交響曲第5番と両名がともに交響曲第5番をシベリウスに献呈している。さらに、『タピオラ』の影響はバックスの交響曲第6番とアーネスト・ジョン・モーランの交響曲に色濃く表れている。またウィリアム・ウォルトンの交響曲第1番からもシベリウスの作曲法の影響が強く感じられる。これらやその他のイギリスの交響的作品が作曲されていた1930年代にはシベリウスの音楽は大流行しており、その裏にはトーマス・ビーチャムやジョン・バルビローリらのような指揮者による演奏会と録音の両面からの下支えがあった。ウォルトンの友人の作曲家コンスタント・ランバートはシベリウスが「頭の中で交響曲形式という意味で自然に思考できるベートーヴェン以来はじめての偉大な作曲家」であると言い切っていた。それ以前にもグランヴィル・バントックがシベリウスを擁護している。さらに最近では、ロバート・シンプソンが擁護した作曲家の中にシベリウスも入っていた。マルコム・アーノルドはシベリウスからの影響を認めており、アーサー・バターワースはシベリウスの音楽が自作の着想の源であると看做していた。セシル・グレイはシベリウスを「ベートーヴェン以後最大のシンフォニスト」であると呼び、交響曲第4番について「無駄な音符が一つもない」と最大の賛辞を寄せた。
ユージン・オーマンディと、貢献度は下がるがフィラデルフィア管弦楽団で彼の前任者だったレオポルド・ストコフスキーは、シベリウスの作品を頻繁にプログラムに取り入れることによってその音楽がアメリカの聴衆へ届けられることを助けた。オーマンディはシベリウスと生涯を通じた親交を築いている。後半生においてシベリウスはアメリカの評論家オーリン・ダウンズからも擁護されており、ダウンズはシベリウスの伝記も著している。
テオドール・アドルノは1938年に発表した批判的論評において、次のような非難を行ったことで悪名高い。「もしシベリウスがよいというのであれば、バッハからシェーンベルクまで連綿と受け継がれた音楽の特質は無効化されてしまうだろう。それは内的な繋がりの豊かさ、アーティキュレーション、多様性の中にある統一性、『単一性』の中にある『多面性』である。」アドルノは当時『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)』紙の音楽評論家を務めていたヴァージル・トムソンに自らの論評を送付している。トムソン自身もシベリウスに批判的であったにもかかわらず、彼は論評の情緒面に同意しつつもアドルノに対して「その論調がシベリウスに対してではない[アドルノへの]敵対心の方をより多く生み出し[た]」と明言している。その後、この両者と指揮者のルネ・レイボヴィッツは1955年の小冊子の表題でシベリウスを「世界最低の作曲家」と書きすらした。
シベリウスが評論家から称賛と怒りの両方を集めた理由のひとつには、彼が7曲の交響曲の各々において独特の個性的な方法によって形式、調性そして構造に関する基礎的な問題に挑んだということがあるのだろう。彼の交響曲(及び調性)の創造は新奇なものであったが故に、音楽は異なる道を辿っていくべきだと考える者もいたのである。批判に対する彼の反応はそっけないものだった。「評論家の言うことに耳を貸してはならない。これまで評論家の彫像が建てられたことなどないのだから。」
20世紀の終わり数十年までくると、シベリウスは一層好意的に取られられるようになってきた。作家のミラン・クンデラによるとシベリウスの取り組み方は状況の絶え間ない進展の外部に立脚した「アンチモダンなモダニズム」のそれであるという。1990年には作曲家のシア・マスグレイヴはヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団からシベリウスの生誕125周年を記念した作品の委嘱を受け、書き上げられた『Song of the Enchanter』が1991年2月14日に初演された。1984年、アメリカの前衛作曲家モートン・フェルドマンはドイツのダルムシュタットで行った講義の中で「皆さんが急進的だと考える人物は実のところ保守的だということもあるかもしれませんし - 皆さんが保守的だと考える人物が実のところ急進的だということもあるかもしれません」と語ったところでシベリウスの第5交響曲を鼻歌で歌い始めた。
ピューリッツァー賞を受賞した音楽評論家のティム・ペイジは1996年、次のように書いている。「シベリウスについてすぐさま言わねばならないことが2つある。ひとつは彼がひどく不均衡だということ(彼の室内楽曲、多数の歌曲、そして大量のピアノ音楽の多くが19世紀の二流のサロン作曲家に混ざる形で、午後の時間に時折演奏される程度だったのではなかろうか)。もうひとつは、最良の状態にあっても彼はしばしば奇妙であるということだ。」シベリウスのピアノ音楽に対するペイジの査定を埋め合わせするのはピアニストのレイフ・オヴェ・アンスネスである。彼はこの作品群の出来がまちまちであることを認めつつも、批評の対象とされないことが常態化している現状は不当であると考えている。一部のピアノ作品を選んで演奏した際に彼が気付くのは、聴衆が「有名作曲家にこれほどまでに美しく、理解しやすいにもかかわらず知られていない音楽があろうとは、と驚く」ことである。
2015年12月8日のシベリウス生誕150周年に合わせ、ヘルシンキ・ミュージック・センターは図解と語りによる『シベリウス・フィンランド・エクスペリエンス・ショー』を2015年の夏季に毎日開催することを計画した。企画は2016年、2017年にも延長開催となった。12月8日当日にはヨン・ストルゴールズ指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏で『エン・サガ』、『ルオンノタル』と交響曲第7番を取り上げた記念演奏会が開催された。
日本においては菅野浩和が1967年に『シベリウス -生涯と作品-』(音楽之友社)を上梓している。1986年には、H.I.ランピラ(フィンランド語版)の『シベリウスの生涯』(稲垣美晴訳、筑摩書房)が訳出されている。1984年には日本シベリウス協会が発足し、渡邉暁雄が初代会長を務めた。2015年には、神部智が『シベリウスの交響詩とその時代 神話と音楽をめぐる作曲家の冒険』(音楽之友社)を出版。また2017年、神部智の執筆による『作曲家・人と作品 シベリウス』(音楽之友社)が第30回ミュージック・ペンクラブ音楽賞(研究・評論部門賞)を受賞している。
1972年、存命のシベリウスの娘たちがアイノラをフィンランド政府へと売却した。教育省とフィンランド・シベリウス協会が1974年から施設を博物館として公開している。フィンランド100マルッカ紙幣には、2002年のユーロ導入までシベリウスの肖像が描かれていた。2011年からはフィンランドでは彼の誕生日である12月8日を旗の日として祝っており、この日は「フィンランド音楽の日」としても知られている。生誕150周年にあたる2015年にはヘルシンキ市内を中心に数多くの特別演奏会や行事が行われた。
1965年の第1回から年ごとに開催されているシベリウス国際ヴァイオリン・コンクール、1967年に除幕されたヘルシンキのシベリウス公園のシベリウス・モニュメント、1968年に開館を迎えたトゥルクのシベリウス博物館、2000年のこけら落としとなったラハティのシベリウス・ホールは全てシベリウスを記念して名付けられたものである。小惑星シベリウスも同様である。
シベリウスは1909年から1944年にかけて日記を付けており、2005年に遺族から未省略での出版の許可が出された。そこでファビアン・ダールストレム(フィンランド語版)が編集を行い、同年にスウェーデン語版が出版されている。またシベリウス生誕150周年の記念として、2015年にはフィンランド語でも日記の全編が出版されている。シベリウスの書簡集についても、数巻分が編集されてスウェーデン語、フィンランド語、英語にて出版されている。
フィンランド語でエーリク・タヴァッシェルナが著した3巻からなる評伝があり、ロバート・レイトンにより英訳もされている。
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"text": "ジャン・シベリウス(スウェーデン語: Jean Sibelius スウェーデン語発音: [ˈjɑːn siˈbeːliʉs, ˈʃɑːn -] ( 音声ファイル), 1865年12月8日 - 1957年9月20日)は、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト。",
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"text": "スウェーデン系であり、出生時の洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスチャン (Johan Julius Christian)だった。1990年代になってシベリウスの本当の(受洗時の)名前の順がヨハン・クリスティアン・ユリウスであることが判明した。彼自身がヨハン・ユリウス・クリスティアンという順を用いており、大半の文献もこれに倣っている。",
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"text": "名前は「ヤン」と表記されることもあるが、フランス語固有の綴りの名前であるため本項では「ジャン」とする。親しい者からはヤンネ (Janne) と呼ばれていたが、貿易商であった叔父がフランス語風にジャンと自称したのに倣い、彼も学生時代以降はずっとジャンと名乗った。",
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"text": "作品の主軸をなすのは7曲の交響曲であり、それらは他の主要作品と同様に国内外で普段から演奏や録音の機会に恵まれている。その他によく知られた作品には、『フィンランディア』、『カレリア組曲』、『悲しきワルツ』、ヴァイオリン協奏曲、『クレルヴォ交響曲』、『トゥオネラの白鳥』(『レンミンカイネン組曲』より)などがある。これ以外の作品には自然、スカンジナビアの神話、フィンランドの民族叙事詩に触発された100曲以上に及ぶピアノ伴奏歌曲、多数の戯曲への付随音楽、オペラ『塔の乙女』、室内楽曲、ピアノ曲、フリーメイソンの儀式のための音楽、21曲の合唱曲がある。",
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"text": "1920年代の半ばまでは多作な作曲家であったが交響曲第7番(1924年)、付随音楽『テンペスト』(1926年)そして交響詩『タピオラ』(1926年)の完成を境に残りの30年間は大規模作品の創作から遠のいてしまう。この驚くべき、謎めいた隠居生活は作曲者の住居の所在地をとって「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ばれる。彼が作曲を止めてしまったと言われることもあるが、完成に至らなかった交響曲第8番をはじめとして作曲の試みは継続していた。フリーメイソンのための音楽を書いたりそれまでの作品を手直しするなどしたシベリウスは、新しい音楽の発展に興味を持ち続けていたものの、それが常に前向きなものであるとは限らなかった。",
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"text": "フィンランドでは、2002年にユーロが導入されるまで100マルッカ紙幣にシベリウスの肖像が描かれていた。同国では2011年以降、旗の日でありシベリウスの誕生日でもある12月8日を「フィンランド音楽の日」として祝っている。シベリウス生誕150周年となった2015年には、ヘルシンキ市内を中心に数多くの特別演奏会やイベントが開催された。",
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"text": "1865年12月8日、ロシア帝国の自治領であったフィンランド大公国のハメーンリンナに生を受けた。スウェーデン語話者の医師クリスティアン・グスタフ・シベリウスとマリア・カルロッタ・シベリウス(旧姓ボーリ Borg)の間に生まれた子であった。姓は父方の曽祖父が所有していた東ウーシマー県の地所シッベ(Sibbe)に由来している。父は1868年7月に腸チフスによりこの世を去り、あとには多額の借金が遺された。そのため、当時妊娠していた母は所有していた不動産を売却し、同じくハメーンリンナで夫に先立たれて暮らしていた彼女の母親、カタリーナ・ボーリの家に一家で身を寄せねばならなかった。こうしてシベリウスは完全な女性中心の環境に育つことになる。唯一、男性的な影響を与えたのはおじのペール・フェルディナンド・シベリウス(Pehr Ferdinand -)であり、彼は音楽、とりわけヴァイオリンに関心を持っていた。彼こそが10歳になった少年にヴァイオリンを与え、後に作曲への興味を持ち続けるよう激励した人物だった。シベリウスにとって、おじのペールは父親代わりだったのみならず音楽上の助言者でもあったのである。",
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"text": "幼少期からシベリウスは自然に強い関心を示し、家族で夏季をロヴィーサの海岸沿いで過ごしにやってくると頻繁に田舎を歩き回りに出かけていた。彼自身の言葉が残っている。「私にとってロヴィーサは太陽と幸福の象徴だった。ハメーンリンナは学校へ行く場所、ロヴィーサは自由な場所だった。」ハメーンリンナでは彼が7歳になるとおばのユリア(Julia)が家にあったアップライトピアノで彼にピアノを教えることになるが、間違った音符を弾くといつも拳をコツンと叩いた。シベリウスは即興演奏によって上達を見せたが、音楽を解釈する勉強も続けた。後に転向することになるヴァイオリンの方が彼の好みにはあっていた。姉のリンダがピアノ、弟のクリスチャンがチェロを弾いて三重奏を行うこともあった。さらに近所の家々を交えて四重奏を行うこともあり、これによって室内楽の経験を培った。この時期の彼の作品として三重奏が1曲、ピアノ四重奏が1曲、ヴァイオリンとピアノのための『組曲 ニ短調』の断片が現存している。1881年頃、彼はヴァイオリンとチェロのための短いピッツィカートの楽曲『水滴』(Vattendroppar)を紙に書き残している。ただし、これは単に音楽の訓練であった可能性もある。初めて自分が作曲していると言及しているのは1883年8月の手紙の中であり、そこでは三重奏を書き上げて他の曲に取り組んでいると述べている。「両方とも少々お粗末な出来ですが、雨の日々にもやることがあるのはよいことです。」1881年に地元の楽長であったグスタフ・レヴァンダー(Gustaf Levander)からヴァイオリンの指導を受けるようになり、すぐさまこの楽器に強い関心を抱くようになる。偉大なヴァイオリンのヴィルトゥオーソになると心に決め、たちまち腕利きの奏者として頭角を現した。1886年にフェルディナンド・ダヴィッドのホ短調の協奏曲を演奏、翌年にはヘルシンキでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲から後半2楽章を演奏している。こうした器楽奏者としての成功にもかかわらず、彼は最終的に作曲家としての道を選ぶのである。",
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"text": "母語はスウェーデン語であったが、シベリウスは1874年にルチナ・ハグマン(Lucina Hagman)のフィンランド語で学ぶ予科校に入学した。1876年にはフィンランド語によるハメーンリンナの学校への進学を許可された。数学と植物学の成績は非常に良かったものの、彼は幾分ぼんやりした学生だった。留年しながらも1885年に学校の最終試験に合格し、これによって大学への入学資格を得た。少年時代の彼はヨハンの口語体にあたるヤンネという名前で知られていた。しかし学生時代に船乗りのおじの名刺に触発されてフランス語風のジャンを名乗るようになる。以降、彼はジャン・シベリウスとして知られるようになる。",
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"text": "1885年の高校卒業後、ヘルシンキ大学に進学したシベリウスは法学を学び始めるが、音楽への興味の方が圧倒的に大きかったためすぐさまヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)に転入して1885年から1889年まで同校で学ぶ。彼の指導陣の中には音楽院の創設者のひとりで、フィンランドの教育の発展に大きく貢献したマルティン・ヴェゲリウスがいた。独学だったシベリウスにはじめて正式に作曲を教えたのは彼であった。他に重要な影響を与えた人物はシベリウスを教えたピアニスト兼作曲家のフェルッチョ・ブゾーニであり、2人は生涯にわたる友情を育んだ。彼の近しい友人の集まりにはピアニストで文筆家のアドルフ・パウル、指揮者となるアルマス・ヤルネフェルトもいた。この時期の主要作品にはグリーグを想わせるところのあるヴァイオリンソナタ ヘ長調がある。",
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"text": "シベリウスは続いてベルリンへ赴きアルベルト・ベッカーに(1889年-1890年)、さらにウィーンへ移ってロベルト・フックス、そしてカール・ゴルトマルクに師事して(1890年-1891年)研鑽を積んだ。ベルリンではリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』の初演をはじめとした多様な演奏会やオペラに足を運び音楽の見識を広める機会に恵まれた。またフィンランドの作曲家であるロベルト・カヤヌスが自作の交響詩『アイノ』を含むプログラムでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した演奏会を聴いているが、この愛国的な作品がきっかけとなり後年シベリウスが叙事詩『カレワラ』を題材として作曲することへ関心を持つに至ったという可能性もある。ウィーン時代にはブルックナーの音楽にとりわけ強い関心を示し、一時は彼のことを「もっとも偉大な存命の作曲家」であるとみなしていた。一方で、ベートーヴェンやワーグナーの評価の固まった作品への興味も持ち続けていた。ウィーンにいた時期にはたびたび新しい友人たちとパーティーや賭け事に興じて過ごした。管弦楽曲の作曲に目を向けるようになったのもウィーンの頃であり、序曲 ホ長調や『バレエの情景』に取り組んだ。『カレワラ』に霊感を得た管弦楽作品『クレルヴォ交響曲』にも取り掛かる一方で体調を崩し、胆石の除去手術を受けて健康を回復している。ヘルシンキへ戻ると間もなく、ポピュラーコンサートの場で自作の序曲と『バレエの情景』を自ら指揮できる機会に恵まれこれを満喫した。『クレルヴォ交響曲』の仕事を続けることもできるようになり、次第に興味を発展させた彼はすべてをフィンランド語で書き上げたのであった。1892年4月28日にヘルシンキで迎えた初演は大成功で幕を閉じた。",
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"text": "シベリウスが心に抱いてきたヴァイオリニストとなる希望をついに諦めたのはこの頃であった。",
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"text": "悲劇だったのは私が何を犠牲にしてでも名高いヴァイオリニストになりたいと思っていたことだった。15歳になって以来、朝から晩まで自分のヴァイオリンを弾いていたも同然だったのだ。ペンとインクなど大嫌いで - 不幸にも上品なヴァイオリンの弓をより好んだ。私のヴァイオリンへの愛情は非常に長く続き、ヴィルトゥオーゾという過酷なキャリアへの訓練としては始めるのが遅すぎたと認めざるを得ないと自覚するのは大変に辛いことだった。",
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"text": "ウィーンとベルリンで勉学に費やした長い期間に加え(1889年-1891年)、1900年にはイタリアへ入って1年を家族とともに過ごした。スカンジナビアの国々、イギリス、フランス、ドイツで活発に作曲し、指揮をし、社交生活を送り、後にはアメリカ合衆国へも足を運んでいる。",
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"text": "シベリウスがヘルシンキで音楽を学んでいた1888年秋、音楽院の友人だったアルマス・ヤルネフェルトから自宅への招待を受けた。そこで彼は当時17歳のアイノと恋に落ちた。父はヴァーサの長官であったアレクサンデル・ヤルネフェルト大将、母はバルト諸国の貴族を出自とするエリザベト・クロット=フォン=ユルゲンスブルクである。結婚式は1892年6月10日にマクスモ(英語版)で執り行われた。新婚旅行は『カレワラ』発祥の地であるカレリアで過ごした。この体験が交響詩『エン・サガ』、『レンミンカイネン組曲』、『カレリア』の着想を与えることになる。1903年にはヤルヴェンパーのトゥースラ湖畔に2人の住まいであるアイノラが完成した。結婚生活の中で、2人は6人の娘を授かった。エーヴァ、ルート、キルスティ、カタリーナ、マルガレータ、ヘイディである。エーヴァは工場の跡取りで後にパロヘイモ社の最高経営責任者となるアルヴィ・パロヘイモ(Arvi Paloheimo)と結婚した。ルート・スネルマンは著名な女優となり、カタリーナ・イヴェスは銀行家と結婚、ヘイディ・ブロムシュテットは建築家のアウリス・ブロムシュテット(英語版)の妻となった。マルガレータの夫となったユッシ・ヤラスはアウリス・ブロムシュテットの兄弟である 。",
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"text": "1892年、『クレルヴォ交響曲』ときっかけとしてシベリウスは管弦楽に意識を向けるようになる。この作品は作曲家のアクセル・トルヌッド(フィンランド語版)が「火山の噴火」と評し、合唱パートを歌ったユホ・ランタは「『フィンランド』の音楽だった」と述べている。同年の暮れに祖母のカタリーナ・ボーリが他界、その葬儀に参列したシベリウスはハメーンリンナの家を訪れ、その後は家が古くなるまで立ち寄ることはなかった。1893年2月16日に『エン・サガ』の初版をヘルシンキで発表するも評判はさほど芳しくなく、評論家からは余計な部分を削除して切り詰めるべきだとの意見が出た。3月に行われた3回にわたる『クレルヴォ交響曲』の再演はそれよりもずっと不評で、ある評論家は理解不能でありかつ生気が欠けていると看做した。長女のエーヴァが誕生した後の4月には合唱曲『ワイナミョイネンの船乗り』の初演が行われて大成功を収め、記者からの支持を得ることができた。",
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"text": "1893年11月13日、ヴィープリのセウラフオネ(Seurahuone)で行われた学生団体主催のガラ・コンサートにおいて『カレリア』の全曲版が初演された。この公演には画家のアクセリ・ガッレン=カッレラと彫刻家のエミール・ヴィークストレーム(英語版)も舞台装置の設計のために招かれて協力していた。最初の演奏は聴衆の話声のために聴きづらいものとなってしまったが、11月18日の2度目の演奏はそれよりも上手くいった。さらに19日と23日にはヘルシンキに於いて、この作品から採られた長大な組曲が作曲者自身が指揮するフィルハーモニック協会管弦楽団の演奏で披露されている。シベリウスの音楽がヘルシンキのコンサートホールで演奏される頻度は高くなっていた。1894年-1895年のシーズンには『エン・サガ』、『カレリア』、『春の歌』(1894年作曲)が、トゥルクは言うまでもなく、首都でも少なくとも16回の演奏会で取り上げられている。1895年4月17日に改訂版の『春の歌』を聴いた作曲家のオスカル・メリカントは「シベリウスの管弦楽作品の中でも最も清らかな花である」と評してこれを歓迎した。",
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"text": "長期にわたりシベリウスはオペラ『船の建造』に取り組んでいた。この作品も『カレワラ』を題材としている。彼は一定程度ワーグナーの影響を受けていたが、その後リストによる交響詩を作曲への創意の源とするようになった。未完に終わったオペラの素材を活用する形で生まれた『レンミンカイネン組曲』は、交響詩の形式で描かれた4つの伝説から構成されている。組曲は1896年4月13日にヘルシンキにおいて満員の会場で初演された。メリカントが作品のフィンランドらしさに熱狂したのとは対照的に、批評家のカール・フロディンは「トゥオネラの白鳥」におけるコーラングレが「驚くべき長さと退屈さ」だとしている。その一方でフロディンは第1の伝説「レンミンカイネンと島の乙女たち」についてシベリウスのそれまでの創作の中の頂点を成すものであると考えていた。",
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"text": "生活のため、シベリウスは1892年から音楽院やカヤヌスの指揮学校で教鞭を執るが、これによって作曲のために割ける時間が足りなくなってしまう。状況が大きく好転したのは1898年に多額の年次助成金が交付されるようになってからで、当初は10年間の有期であった助成期間は後に生涯の交付へと延長された。こうしてアドルフ・パウルの戯曲『クリスティアン2世』への付随音楽を完成させることができ、1898年2月24日に初演された作品は馴染みやすい音楽で大衆の心を掴んだ。戯曲中でも人気の高い4つの場面に付された楽曲はドイツで出版され、フィンランドで好調な売れ行きを見せた。1898年11月に管弦楽組曲の演奏がヘルシンキで成功を収めた際、シベリウスは次のようにコメントを残している。「音楽はよく鳴っており、速度は適切なようです。自分が何かを完成させることができたのはこれが初めてではないかと思います。」曲はストックホルムとライプツィヒでも演奏された。",
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"text": "1899年、シベリウスは交響曲第1番の作曲に取り掛かる。この頃、ロシア皇帝ニコライ2世がフィンランド大公国に対してロシア化の試みを行っており、これによって彼の胸の内には愛国心が高まりつつあった。曲が1899年4月26日にヘルシンキで初演されると各方面から好評を博した。しかし、この時の公演プログラムでそれよりも遥かに注目度が高かったのは、あけすけに愛国心を露わにした、少年、男声合唱のための『アテネ人の歌』であった。この合唱曲によりシベリウスは一躍国民的英雄の地位を手にすることになる。11月4日に発表された次なる愛国的作品は『新聞の日を祝う音楽』として知られ、フィンランドの歴史を8つの挿話を描写する形で描いた作品であった。作曲を援助した新聞『Päivälehti』紙は、社説でロシアの規則を批判して一定期間の発刊停止処分中だった。最後の楽曲「フィンランドは目覚める」はとりわけ高い人気を獲得した。これが幾度か細かい修正を施されたのち、広く知られる『フィンランディア』となる。",
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"text": "1900年2月、シベリウス夫妻は娘のキルスティ(この時点では末娘)を失った悲しみに沈んでいた。しかしシベリウスは春になるとカヤヌス、並びに彼の管弦楽団とともに演奏旅行に繰り出し、13の都市を巡って交響曲第1番の改訂版などの最新作を披露して回った。訪れた都市はストックホルム、コペンハーゲン、ハンブルク、ベルリン、パリなどである。各都市は非常に好意的で、『Berliner Börsen-Courier』、『Berliner Fremdenblatt』、『Berliner Lokal Anzeiger』が熱狂的な論評を掲載したことにより彼は国際的に知られるようになる。",
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"paragraph_id": 22,
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"text": "1901年にイタリアのラパッロを一家で訪れたシベリウスは交響曲第2番の作曲に取り掛かる。その際モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に登場するドン・ジョヴァンニの運命からも霊感を得ていた。曲は1902年の初頭に完成されて3月8日にヘルシンキ初演を迎える。この作品はフィンランドの人々の間に熱狂の渦を巻き起こした。メリカントは「曲はいかなる想定をも超えて大胆不敵であった」という感想を抱き、エーヴェルト・カティラ(フィンランド語版)は「紛うことなき傑作」と評価した。フロディンもまた、「我々がこれまでに決して聴く機会を持つことのなかった類の」交響作品について書き残している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "夏の間をハンコに程近いトヴァルミンネ(フィンランド語版)で過ごしたシベリウスは、同地で歌曲『それは夢か』作品37-4を作曲すると同時に『エン・サガ』の書き直しを行った。これが1902年11月にベルリンにおいてベルリン・フィルにより演奏されるとドイツでの作曲者の名声は揺るがぬものとなり、そのすぐ後の交響曲第1番の出版につながることとなる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1903年の大半をヘルシンキで過ごしたシベリウスは過度に飲み食いに耽り、飲食店で大金を支払っていた。しかしその一方で作曲も継続して行い、義理の弟にあたるアルヴィド・ヤルネフェルト(英語版)の著した戯曲『クオレマ』に付した6曲から成る付随音楽のうちのひとつ、『悲しきワルツ』が有数の成功作となった。資金難から彼は作品を廉価で売り渡してしまったが、たちまちフィンランド国内外で高い人気を博すようになった。シベリウスのヘルシンキ滞在中、妻のアイノは頻繁に手紙を書いては帰宅を懇願したが彼は応じなかった。4女のカタリーナが生まれ時すら彼は外に出たままだったのである。1904年のはじめにヴァイオリン協奏曲が完成して2月8日に初演を迎えたが、評判は芳しくなかった。このため改訂を経て凝縮度を高めた版が作製されて翌年にベルリンで披露されることになった。",
"title": "生涯"
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"text": "1903年11月、シベリウスはヘルシンキからおよそ45キロメートル北へ離れたトゥースラ湖のほとりにアイノラ(アイノの居場所)と名付けた邸宅を建築し始める。建築費用を工面するため、彼は1904年の前半からヘルシンキ、トゥルク、ヴァーサ、その他タリンやエストニアで演奏会を開き、夏にはラトビアにも赴いた。一家は1904年9月24日にようやく新居に移ることができ、画家のエーロ・ヤルネフェルト、ペッカ・ハロネン、小説家のユハニ・アホら近所の芸術家のコミュニティーの中で交流を深めていった。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "1905年1月、シベリウスは再びベルリンを訪れて交響曲第2番を自ら指揮した。演奏会自体は成功裏に終了したが論評は賛美一色というわけではなく、非常に好意的な評もあった一方で『アルゲマイネ・ツァイトゥング(ドイツ語版)』や『ベルリナー・ターゲブラット(ドイツ語版)』などの評価はそれほど熱のこもったものではなかった。フィンランドに帰国したシベリウスは徐々に人気が出てきつつあった『ペレアスとメリザンド』を管弦楽組曲として仕立て直した。11月には初めてイギリスへと渡り、リヴァプールでヘンリー・ウッドと会っている。12月2日に交響曲第1番と『フィンランディア』を指揮した彼は、アイノに宛てて演奏会は大成功を収め大いに喝采を浴びたと手紙で伝えた。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "1906年、年の初めの短い期間をパリで特に何事もなく過ごしてから、続く数か月をアイノラで作曲に費やした。この時期の主要な作品はやはり『カレワラ』を題材に採った交響詩『ポホヨラの娘』である。その後、同年のうちに付随音楽『ベルシャザールの饗宴』も完成させ、管弦楽組曲版の制作も行っている。年の締めくくりは自ら指揮した演奏会シリーズで、中でも最大の成功を収めたのはサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行った『ポホヨラの娘』の初となる公開演奏であった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "シベリウスは1907年の年初から再びヘルシンキにて暴飲暴食に耽るようになり、途方もない金額をシャンパンとロブスターに費やした。彼のこの生活習慣がアイノの健康状態に深刻な影響を与え、彼女を極端な疲労による療養施設入居に至らしめた。妻が不在の間にシベリウスは禁酒を決意し、かわりに交響曲第3番の作曲へと意識を集中させた。作品を完成させた彼は9月25日にヘルシンキでの初演に臨んだ。古典的性格が増した作風は聴衆へ驚きを与えたが、フロディンは作品が「内面的に新しく、また革命的」であったと述べている。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "そのすぐ後、シベリウスはヘルシンキを訪れたグスタフ・マーラーと出会っている。2人は新しい交響曲を出すたびに過去の作品のファンであった人々を失ってしまう、という点で意見の一致を見た。1907年11月にサンクトペテルブルクで第3交響曲が演奏されると、まさにこれが現実となって否定的な論評を浴びることとなる。モスクワでの評判はまだ前向きなものであった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1907年、シベリウスは喉の癌の疑いにより大きな手術を受けおり、1908年のはじめは病院で過ごさねばならなくなった。喫煙、飲酒はいまや生命を脅かすものとなったのである。ローマ、ワルシャワそしてベルリンでのコンサートは中止しながらもロンドンの契約は守ったが、ここでも第3交響曲は評論家の関心を獲得するには至らなかった。5月にはシベリウスの体調はますます悪化し、彼は妻とともにベルリン入りして喉の腫瘍の除去手術を受けた。術後、彼は今後一切の煙草と酒を断つと誓いを立てたのであった。こうして死を間近に体験した衝撃が交響詩『ルオンノタル』や交響曲第4番など、以降数年のうちに作曲された作品に着想を与えたといわれている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1909年、喉の手術が成功したことによりシベリウスとアイノは自宅での幸福を新たなものにしていた。イギリスにおいても自らタクトを握って『エン・サガ』、『フィンランディア』、『悲しきワルツ』、『春の歌』を熱狂する聴衆に届けており、彼の体調は歓迎された。クロード・ドビュッシーとの出会いも大きな支えとなった。パリで静かに過ごした後でベルリンに向かった彼は、そこで喉の手術が完全に成功したという旨を聞かされて安堵する。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "交響曲第4番には1910年のはじめに着手していたものの、資金が乏しくなっていっていたため数多くの小規模な楽曲や歌曲も書かねばならなかった。10月にクリスチャニア(現オスロ)で開かれた演奏会では『森の精』と『追憶のために』を自分の手で初演する。『悲しきワルツ』や第2交響曲はとりわけ好評だった。それからベルリンに赴いて第4交響曲の仕事を続け、ヤルヴェンパーに戻ってから終楽章に取り組んだ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "スウェーデンでの初めてのコンサートで1911年の初頭に指揮台に上り、交響曲第3番までもが評論家から好評を得た。4月には交響曲第4番が完成するが、彼自身も予想していたとおりヘルシンキでの初演においてはその内省的な作風があまり前向きに評価されず、賛否両論を巻き起こした。リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』を楽しんだパリへの旅行を除き、同年の残りはほとんど何もなく終わった。1912年に入り『英雄的情景』第2番が完成する。この作品は3月に初演を迎えており、同じ演奏会では第4交響曲も演奏された。この演奏会はロベルト・カヤヌスをはじめとする熱狂的な評論家、そして聴衆へ向けて2回再演されることになった。第4交響曲は9月のバーミンガムでも好意的な評価を獲得した。同交響曲は1913年3月にニューヨークでも演奏されたものの大部分の聴衆が楽章間に演奏会場から出て行ってしまい、10月にカール・ムックが指揮した際には『ボストン・アメリカン』紙が「哀れな失敗作」の烙印を押した。",
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"paragraph_id": 34,
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"text": "1913年の最初の重要作品は交響詩『吟遊詩人』であり、シベリウスは3月にヘルシンキでこの作品を礼儀正しい聴衆に向けて指揮した。続く作品は『カレワラ』から詞を採ったソプラノと管弦楽のための『ルオンノタル』である。初演は1913年にイングランドのグロスターで開催されたスリー・クアイアズ・フェスティバルにおいてアイノ・アクテのフィンランド語による独唱で行われた。1914年のはじめにひと月をベルリンで過ごしたシベリウスはとりわけシェーンベルクに惹きつけられた。フィンランド帰国後、アメリカの億万長者カール・ステッケルからノーフォーク室内楽音楽祭のためにと委嘱された『大洋の女神』の作曲を開始する。変ニ長調で書き始めたものの大規模な改訂を行った結果、ノーフォークへはニ長調の版が持ち込まれることになった。この作品は『フィンランディア』や『悲しきワルツ』同様の喝采を浴びることとなった。音楽批評家のヘンリー・エドワード・クレービールは『大洋の女神』がかつて海を題材に作曲された音楽の中で最も美しい作品であると看做し、『ニューヨーク・タイムズ』紙はシベリウスの音楽が音楽祭にとって最大の貢献となったと評した。シベリウスがアメリカでイェール大学から名誉博士号を授与されていたのとほぼ同じ頃、ヘルシンキ大学ではアイノが彼の代理として同じく名誉博士号の授与式に臨んでいた。",
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "米国からの帰途、シベリウスは第一次世界大戦勃発の引き金となるサラエボ事件について耳にした。彼自身は戦地から遠くにあったものの、国外からの印税収入が滞るようになった。生計を立てるため、彼はフィンランド国内での出版向けに多量の小規模作品を作曲することを余儀なくされた。1915年3月に尋ねたスウェーデンのヨーテボリでは『大洋の女神』が非常に高い評価を受けた。彼は4月に交響曲第5番に取り組むさなか16羽の白鳥が飛んでいくのを目にし、これに触発されて終楽章を書いた。彼は「人生の中でも素晴らしい体験の一つだった!」との言葉を残している。交響曲に関する夏の間の進捗はわずかだったものの、50歳の誕生日を迎える12月8日までには曲を完成させることができた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "誕生日の晩、シベリウスはヘルシンキ証券取引所(現:ナスダック・ヘルシンキ)のホールにて自らの指揮で交響曲第5番を初演した。カヤヌスの絶賛にもかかわらず作曲者自身は作品に満足しておらず、間もなくして改訂に取り掛かった。この頃、シベリウスはこれまでを遥かに上回る負債を抱えつつあった。歌手のイダ・エクマンが基金の立ち上げ事業に成功して借金の大部分を返済したが、その際に彼に贈られたグランドピアノは差し押さえられる寸前であった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1年後の1916年12月8日、シベリウスはトゥルクにて改訂版の第5交響曲を披露した。これは最初の2つの楽章を結合させ、終楽章を簡素化したものであった。1週間後のヘルシンキでの演奏ではカティラが非常に好意的だったのに対してワゼニウス(Wasenius)は変更に否定的であり、これによって彼は再度の改訂を行うことになった。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 38,
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"text": "1917年のはじめからシベリウスは飲酒を再開し、アイノとの間で口論となった。ロシア革命が勃発するとその興奮により2人の仲は改善する。同年の暮れまでにシベリウスは『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』を作曲、1917年12月にフィンランド議会が上院のロシアからの独立宣言を承認すると曲はとりわけ人気を博した。『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』の初演は1918年1月19日のことで、1月27日のフィンランド内戦の幕開けまでのわずかな間、ヘルシンキのエリート層を喜ばせた。シベリウスは自然と白衛軍(英語版)の支援に回ったが、トルストイ運動家であったアイノは赤衛軍(英語版)にも幾ばくか共鳴するところがあった。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2月、アイノラは2回にわたって武器を探す赤衛軍の地元部隊による捜索を受けた。開戦からの数週間の間にシベリウスの知人の中には暴力行為を受けて落命した者もおり、彼の弟で精神科医のクリスティアン・シベリウスは前線で戦争神経症を負った赤衛軍の兵士のために病床を確保しておくことを拒否したために逮捕された。ヘルシンキにいたシベリウスの友人たちは彼の身の安全を案じていた。ロベルト・カヤヌスが赤衛軍の総司令官エーロ・ハーパライネン(英語版)と交渉を行い、シベリウスがアイノラから首都まで安全に移動できる保証を取り付けた。2月20日、赤衛軍の兵士の一団が一家をヘルシンキまで護衛した。最終的には4月12日、13日にヘルシンキの戦い(英語版)でドイツ軍がヘルシンキを占領、赤衛軍の支配は終わりを告げた。1週間後、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団がドイツの指揮官リューディガー・フォン・デア・ゴルツ(英語版)を称えるコンサートを開催、これはシベリウスの指揮による『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』にて幕を閉じた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 40,
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"text": "1919年のはじめ、シベリウスは薄くなった頭を丸めて印象を変えようと躍起になっていた。6月には1915年以来はじめてフィンランドを離れてアイノとともにコペンハーゲンを訪れると、交響曲第2番を演奏して成功を収めた。11月に交響曲第5番の最終稿を指揮し、聴衆から幾度にもわたる喝采を浴びた。同年の暮れには彼は既に交響曲第6番の仕事を進めていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1920年、手の震えが大きくなる中、ワインの力を借りつつスオメン・ラウル合唱団のために詩人のエイノ・レイノの詞を基にカンタータ『大地への賛歌』を作曲、また『抒情的なワルツ』を管弦楽編曲した。シベリウスは1920年12月の誕生日に63,000マルクの寄付を受け取った。この大金はテノールのワイネ・ソラ(フィンランド語版)がフィンランドでの事業により築き上げたものだった。資金の一部は借金の返済に使われたが、ヘルシンキで行われた過度な祝賀会は一週間に及んだ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1921年のはじめにはイングランドへの演奏旅行が大きな成功を収めた。シベリウスはイングランド国内の複数の都市で第4交響曲、第5交響曲、『大洋の女神』そしていつでも人気が高かった『フィンランディア』、『悲しきワルツ』を指揮して回った。そのすぐ後、今度はノルウェーで第2交響曲と『悲しきワルツ』を指揮している。彼は過労にあえぎ始めていたが評論家の意見は前向きなままだった。4月にフィンランドへ帰国すると、Nordic Music Daysにて『レンミンカイネンの帰郷』と第5交響曲を披露する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1922年の初頭に頭痛に苦しんだシベリウスは眼鏡をかけることを決意する。しかし彼はその後も写真撮影の際にはいつも眼鏡を外していた。7月に弟のクリスティアンが永眠し、シベリウスは悲しみに暮れた。8月にフィンランドのフリーメイソンに加入してその儀式のための音楽を作曲、1923年2月には交響曲第6番が初演される。エーヴェルト・カティラは「純粋な田園詩」だとしてこれを称賛した。年の暮れにはストックホルムとローマで演奏会の指揮台に上ったが、前者が大絶賛を浴びた一方で後者には様々な評価がついた。続いてヨーテボリに向かった彼が演奏会場に到着した時には暴飲暴食し放題で苦しい状態だったにもかかわらず、迎えた聴衆は恍惚となった。飲酒を続けてアイノを狼狽させながらも、シベリウスは1924年のはじめにはどうにか交響曲第7番の完成にこぎつけた。3月に『交響的幻想曲』という標題の下、ストックホルムで行われた第7交響曲の最初の公開演奏は好評を博した。同交響曲は9月の終わりにコペンハーゲンで開催されたコンサート・シリーズにおいてそれを遥かに上回る喝采を浴びた。シベリウスはダンネブロ勲章のナイトに叙される栄誉に与った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この頃の多忙な活動は彼の心臓と神経を痛めていたため、同年の残り大半を休暇に充てることにした。小規模な作品をいくつか作曲しつつ、彼は次第にアルコールに頼るようになっていく。1925年5月、デンマークの出版者のヴィルヘルム・ハンゼンとコペンハーゲンの王立劇場がシェイクスピアの『テンペスト』上演のための付随音楽を作曲しないかと声をかけた。シベリウスは1926年3月の初演に十分余裕をもって作品を書き上げた。コペンハーゲンでの評判は上々だったが作曲者自身はその場に居合わせなかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1926年にはシベリウスの創作活動は急激に落ち込み上昇の気配を見せなかった。第7交響曲完成後、彼は残りの生涯のうちに規模の大きな楽曲はわずかな数しか生み出さなかったのである。そうした中の2つの最重要作品は間違いなく『テンペスト』と交響詩『タピオラ』である。残りの人生30年間の大部分をシベリウスは自らの音楽について公に語ることすら避けながら過ごした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "シベリウスが交響曲第8番に取り組んでいたことを示す数多くの証拠が残されている。彼は1931年及び1932年にセルゲイ・クーセヴィツキーに対してこの交響曲の初演を約束しており、ベイジル・キャメロン指揮による1933年のロンドンでの演奏は一般告知されすらした。この交響曲が存在したことを紙の状態で伝える具体的な証拠は、1933年に発行された第1楽章の浄書にかかった費用の請求書、並びに2011年に初めて出版、演奏された下書き段階の短い断片のみである。シベリウスは常に厳しい自己批判をしていた。彼は近しい友人に「もし7番よりもよい交響曲を書くことができなかったら、7番を最後とせねばならない」と述べていた。草稿が現存しないことから、各種文献ではシベリウスが楽譜の痕跡のほとんどを破棄してしまったのだろうと考察されている。時期はおそらく、シベリウスが多量の書類を焼却したことが確実である1945年と考えられる。妻のアイノは次のように回想している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1940年代にアイノラで大規模なアウト・デ・フェが行われました。夫は洗濯かごの中に大量の原稿を集め、それらをダイニングの暖炉にくべて燃やしたのです。『カレリア組曲』の一部や - 後日、引きちぎられたページの破片も目にしています - その他多くのものが失われました。私にはそこに留まるだけの強さがなく、部屋を後にしました。ですので、彼が何を火の中へ投げ込んでいたのかはわかりません。ですが、夫はこのことがあって以来穏やかになり、次第に雰囲気も明るくなっていったのです。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1939年1月1日、シベリウスは国内外向けのラジオ放送に出演し、その中で『アンダンテ・フェスティーヴォ』を自ら指揮した。放送音源として残されたこの演奏は後年CD化されている(ONDINE: ODE 992-2)。これがおそらく唯一の現存するシベリウスの自作自演だろうと思われる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1903年以降長年にわたってシベリウスは田舎に居を構えてきた。1939年から彼とアイノは再びヘルシンキに住まいを持っていたが、1941年からはアイノラへと戻って時おり街を訪れるだけとなった。戦後、彼がヘルシンキに姿を見せたのはわずか数回のみである。数え切れないほどの公式の客人や同僚に加え、彼の孫やひ孫が休暇をアイノラで過ごす中、いわゆる「ヤルヴェンパーの沈黙」は神話のようなものとなっていったのである。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "シベリウス本人は公に他の作曲家に関して発言をすることを避けていたが、エーリク・タヴァッシェルナやシベリウスの秘書だったサンテリ・レヴァスの記録によると彼は私的な会話の中でリヒャルト・シュトラウスを賛美していた他、バルトーク・ベーラやドミートリイ・ショスタコーヴィチを若い世代の最も才能ある作曲家と考えていたという。1950年代にはフィンランドの新鋭作曲家であったエイノユハニ・ラウタヴァーラの名前を広めようとしている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "90歳の誕生日を迎えた1955年は盛大に祝われ、ユージン・オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団、トーマス・ビーチャムの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の両楽団が彼の音楽による特別演奏を行った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "タヴァッシェルナはシベリウスの死に関係する逸話を紹介している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "[彼が]習慣にしている朝の散歩から帰ってきた。浮き立った様子の彼は妻のアイノにツルの群れが近づいてくるのを見たのだと話した。「来たんだよ、私の若いころの鳥たちが。」彼は声をあげた。突然、鳥たちの中から1羽が陣形を離れてアイノラ上空でいちど円を描いた。するとその鳥はまた群れに戻って旅を続けていったのである。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "その2日後の1957年9月20日の夜、シベリウスはアイノラにて91年の生涯を閉じた。死因は脳内出血だった。彼が息を引き取ったその時、マルコム・サージェントの指揮による彼の交響曲第5番がヘルシンキからラジオ放送された。また時を同じくして開催されていた国連総会では、議長でニュージーランド代表のレスリー・マンロー(英語版)が黙祷を呼びかけ、こう語りかけた。「シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです。」同じ日にはやはり著名なフィンランドの作曲家だったヘイノ・カスキが永眠しているが、彼の死はシベリウスの訃報の陰に隠れてしまった。シベリウスは国葬によって葬られ、アイノラの庭へと埋葬された。アイノ・シベリウスはその後12年間を同じ家で暮らし、1969年6月8日に97歳で夫の後を追った。彼女も夫の側に眠っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "シベリウスは交響曲と交響詩、中でも『フィンランディア』や『カレリア組曲』によって広く知られている。フィンランドにおけるその名声は1890年代に合唱交響曲『クレルヴォ交響曲』によって高まった。この作品はその後の多くの作品と同様に叙事詩『カレワラ』を描いたものである。交響曲第1番は1899年、フィンランドにナショナリズムが興っていた時期に初演され、聴衆の熱狂に迎えられた。これ以外の6曲の交響曲に加えて彼は付随音楽やその他の交響詩、とりわけ『エン・サガ』、『トゥオネラの白鳥』、『悲しきワルツ』によって国内外で人気を獲得していく。また、ヴァイオリン協奏曲を含むヴァイオリンと管弦楽のための作品群、オペラ『塔の乙女』、小規模な管弦楽作品、室内楽曲、ヴァイオリンとピアノのための作品、合唱作品と数多くの歌曲を作曲した。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1920年代半ば、交響曲第6番と第7番の完成後に、交響詩『タピオラ』と付随音楽『テンペスト』を書き上げた。これ以降、彼は1957年まで生きたものの特筆すべき作品は何ひとつ世に出さなかった。数年間取り組んでいた交響曲第8番は彼が自ら焼却してしまっている。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "音楽様式については、交響曲第1番やヴァイオリン協奏曲のような初期作品においてチャイコフスキーの影響が特に顕著である。一方でとりわけオペラに取り組んでいた一時期についてはワーグナーの虜になっていた。これら以上に長期的な影響を与えたのはフェルッチョ・ブゾーニとアントン・ブルックナーであった。しかし交響詩に関してはなによりリストに触発されていた。ブルックナーとの類似性は管弦楽曲で金管楽器の活躍が目立つことや、彼の音楽が概して遅いテンポを取ることに見出される。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "シベリウスは自作からソナタ形式の型として決まったものを取り除いていく形で進化を遂げ、複数の主題を対比するのではなく、小さな塊や断片的な主題が持続的に発展していき頂点において大きく提示されるという発想に目を向けた。彼の後期作品は主題を置換しつつ派生させていくという方法により進む、その途切れることのない展開の感覚という点で注目される。この合成過程が完璧であり有機的に感じられることから、シベリウスが最終的な主題提示から遡る形で作品を書いたのではないかと主張する者もいた。しかし、その逆に現実には3音もしくは4音から成る塊や旋律の断片が発展、拡大して大きな「主題」へと至ったのだということが分析により証明されている。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "この自己完結型の構造は交響曲の分野でシベリウスの第一の好敵手であったマーラーの交響曲の様式と著しい対照を成す。両作曲家の作品では主題の変奏が主要な役割を果たすが、マーラーの方法論では不連続で急激に変化して対比を生み出す主題が用いられたのに対し、シベリウスは主題要素を時間をかけて変化させるよう努めた。1907年11月にマーラーがフィンランドへの演奏旅行を引き受け、この2人の作曲家は連れ立って長い散歩に出ることができた。シベリウスは次のようにコメントを残している。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "私は[その交響曲の]様式の厳格さと論理の深遠さが全てのモチーフの間に内的な結びつきを生み出していることを称賛した(中略)マーラーの意見はちょうど正反対であった。「いえ、交響曲というものは世界でなくてはならないのです。ありとあらゆるものを内包していなくてはなりません。」",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "『クレルヴォ交響曲』を除いて、7曲の交響曲が1900年から1924年の間に作られている。初期(第1番、第2番)は当時の流行に沿ってチャイコフスキーやワーグナーの影響の下、大規模で後期ロマン派的な傾向を持つ作品が多いが、中・後期(第3番以降)には古典派や印象派の様式を取り入れ、より内省的で簡潔なスタイルへと移行した。1891年に作曲された『序曲 ホ長調』(JS 145)と『バレエの情景』(JS 163)は、当初は最初の交響曲(後の第1番とは別)の楽章として構想されたものであった。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 62,
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"text": "シベリウスは1898年に交響曲第1番 ホ短調 作品39の作曲に取り掛かり、1899年の初頭、33歳でこれを完成させている。初演は1899年4月26日に作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で行われて好評を博した。この時に演奏されたオリジナル版は現存してない。初演後にシベリウスはいくつかの改訂を加えており、これが今日演奏される版となっている。改訂は1900年の春から夏にかけて完了し、1900年7月18日、ベルリンでロベルト・カヤヌス指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によって初演された。この交響曲は控えめなティンパニを伴ったクラリネットの非常に独創的でやや侘しげな独奏で開始する。",
"title": "音楽"
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"text": "シベリウスの交響曲の中で最も人気が高く録音機会の多い交響曲第2番は、1902年3月8日に作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で初演された。開始部の上昇形の和音が作品全体のモチーフとなっている。フィナーレにおける3音からなる英雄的な主題は、最初に登場した際は木管楽器で奏されていたものがここではトランペットにより奏でられる。ロシア帝国による抑圧下にあって曲はシベリウスの名声を国民的英雄にまで高めた。彼は初演後にいくつかの改訂を施しており、改訂版は1903年11月10日にストックホルムにおいてアルマス・ヤルネフェルトの指揮により初演された。",
"title": "音楽"
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"text": "交響曲第3番は耳当たりがよく、大団円で終結するが、そうとは見せず簡素な響きを持った作品である。初演は1907年9月25日、作曲者自身の指揮の下、ヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で行われた。作品のはじめに出てくる和音にはフィンランドの民謡から採られた主題がある。アイノラへ移り住んだすぐ後に書かれたこの作品では、フィナーレの行進曲的な曲調へと発展していく表現方法が明瞭に示されており、先の2曲の交響曲とは際立った対比を成している。交響曲第4番は1911年4月3日、ヘルシンキにて作曲者の指揮、フィルハーモニア協会の演奏で初演された。曲が書かれた時期にシベリウスは喉からの腫瘍を除去するための数回の手術を経験していた。この曲の持つ凄味は禁酒の決意からくる反応と説明することも可能といえる。チェロ、コントラバス、ファゴットで開始するはじめの数小節では拍子に対して新たなアプローチが試みられている。その後はポー(Poe)の『The Raven』に付した憂鬱なスケッチに基づいて展開する。弱まっていくフィナーレは20年後にシベリウスが経験することになる沈黙の予感であるとも言いえる。同時代に一般的だった威勢の良いフィナーレとは対照的に、この作品は簡単に「重苦しく落ちる音」(leaden thud)により終結する。",
"title": "音楽"
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"text": "交響曲第5番は1915年12月8日、シベリウスの50回目の誕生日にヘルシンキで作曲者自身により初演されて大絶賛を浴びた。今日最も一般的に演奏されるのは1919年に発表された、全3楽章からなる最終稿である。第5番はシベリウスの交響曲の中で唯一全曲を通して長調をとる。ホルンによる柔らかい冒頭部に開始した曲は、様々な主題を大きく変化を加えつつ交代で繰り返しつつ展開し、終楽章でトランペットが奏する賛歌へと発展していく。第5交響曲の時点で既にソナタ形式から離れる方向へと舵を切りはじめていたが、1923年に作曲者自身が初演した交響曲第6番ではさらに一層伝統的な規則を排することになった。エーリク・タヴァッシェルナは「[終楽章の]構造はよく知られた形式には従っていない」と述べている。ドリア旋法で書かれたこの曲には、第5交響曲の作曲中に着想を得た主題群や抒情的なヴァイオリン協奏曲に用いられる予定だった素材などが転用されている。純化された方法論を取るにあたって、シベリウスは第5交響曲の重厚な金管楽器に変えてフルートと弦楽器を使用し、カクテルではなく「春の水」を提供しようとしたのである。",
"title": "音楽"
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"paragraph_id": 66,
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"text": "交響曲第7番は交響曲の中では最後に出版された作品となった。1924年に完成されたこの作品は単一楽章形式であることが特筆される。「形式はまったく独創的でテンポの操作は緻密、調性の扱いは独特であり完全に有機的に発展する」と形容される。またこの作品は「シベリウスが作曲した最も優れた偉業」とも言われる。当初は『交響的幻想曲』と名付けられ、1924年3月にストックホルムでシベリウス自身の手で初演された。楽曲は彼が10年近く前にスケッチしていたアダージョの楽章に基づいている。弦楽器が主体となるが、トロンボーンによる特徴のある主題も聞かれる。",
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"paragraph_id": 67,
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"text": "7曲の交響曲とヴァイオリン協奏曲に次いでシベリウスの13曲の交響詩は彼の最も重要な管弦楽作品であり、リヒャルト・シュトラウスの交響詩に並んでリストが創始したジャンルを代表する最重要の作品群を形成している。全体としてみると交響詩の創作はシベリウスの芸術家としてのキャリア全般に及んでおり、彼がいかに自然とフィンランド神話、特に『カレワラ』に魅了されていたのかが窺い知れる。また、これらによって彼の作風が時とともに成熟していく様を余すことなくつぶさに知ることができる。なお、このジャンルにおけるシベリウスの作品は多くが「音詩」(Tondichtung)と題されており、明確に「交響詩」(Sinfonische Dichtung)と銘打ってあるものは最後の作品となった『タピオラ』のみである。",
"title": "音楽"
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"paragraph_id": 68,
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"text": "『エン・サガ』(「おとぎ話」の意)はシベリウス自身の指揮で1893年に初演された。この単一楽章の交響詩はアイスランドの神話的作品である『エッダ』から影響を受けている可能性も考えられるが、作曲者本人は単に「[自分の]心の状態の表出」であると語っている。弦楽器による夢見るような主題に始まると木管楽器、次いで金管楽器とヴィオラと発展していき、シベリウスのオーケストラ操作能力が示される。この作品は彼にとって初めての重要な管弦楽作品であり、ブゾーニの招きによりベルリンで自作を演奏することになった1902年に改訂されている。この時の成功に勇気づけられた彼はアイノに次のように書き送った。「私は熟達した『芸術家』として認められたよ。」",
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"text": "『森の精』は管弦楽のための単一楽章の交響詩で、スウェーデンの詩人ヴィクトル・リュードベリ(英語版)の同名の作品に霊感を受けて1894年に作曲された。初演は1895年4月にヘルシンキにてシベリウス自身の指揮で行われた。構成的には4つの部分に分けることが可能であり、それぞれが詩の4つの節に対応してそこに描かれた物語の雰囲気を想起させる。一つ目が英雄の活力、二つ目が熱狂的な行動、三つ目は官能的な愛、四つ目が癒すことのできない悲しみである。音楽自体は美しい仕上がりであるが、多くの批評家はシベリウスが題材とした物語の構造に「過度に依存」していると非難している。",
"title": "音楽"
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"text": "『レンミンカイネン組曲』は1890年代初頭に書き上げられた。元々は神話に題材を採ったオペラ『船の建造』として、ワーグナーの楽劇に匹敵する規模の作品として構想された。しかしシベリウスは後に考えを改め、作品は4つの楽章から成る管弦楽作品となった。この組曲はフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』の登場人物レンミンカイネンに基づいている。この作品は連作交響詩であると捉えることもできる。第2曲(発表時は第3曲)の『トゥオネラの白鳥』は単独でもしばしば演奏される。",
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"text": "『フィンランディア』は非常に愛国的な作品であり、シベリウスの全作品の中でもおそらく最も人口に膾炙した楽曲である。初演が行われたのは1899年11月で、当初は新聞の日を祝うための一連の作品のうちのひとつだった。改訂版は1900年7月に初演されている。現在の表題が出てきたのはさらに後のことで、最初はピアノ編曲版がそう呼ばれ、その後1901年にカヤヌスが管弦楽版を演奏した際に『フィンランディア』という名称を用いた。シベリウス自身は本来管弦楽曲であると強調していたが、特に賛歌としてのエピソードによりこの作品は合唱曲としても世界的な人気を獲得した。ついには作曲者自身も同意し1937年にフリーメイソンのために、1940年により一般的に使用できるよう賛歌として歌詞を加えることを認めた。愛国的な感情を呼び覚ますとされ、当時支配を受けていたロシア当局の弾圧を受けた結果、別名で演奏されたこともある。",
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"text": "『大洋の女神』は1913年から1914年にかけて作曲された単一楽章の交響詩である。表題はギリシア神話において地中海に住むとされるオーケアニスのことを指している。初演は1914年6月4日にアメリカ合衆国、コネチカット州のノーフォーク(英語版)で催されたノーフォーク室内楽音楽祭においてシベリウス自身の指揮によって行われた。初演の際に「これまで音楽で行われた中で海を想起させる最良のもの」と称賛されたこの作品は、厳格でない3つの部分で2つの主題が次第に展開されることによって進行する。第1の部分が穏やかな海、第2の部分が激しさを増す嵐、第3の部分が雷鳴のごとく打ち付ける波によるクライマックスである。嵐が静まり、最後の和音が海の巨大な力と限りない広がりを象徴するように響く。",
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"text": "『タピオラ』は最後の主要な管弦楽作品となった楽曲である。ウォルター・ダムロッシュによりニューヨーク・フィルハーモニック協会のためにとして委嘱され、同管弦楽団により1926年12月26日に初演された。曲は『カレワラ』に登場する精霊であるタピオに着想を得ている。アメリカの音楽評論家アレックス・ロスの言葉を引用すると、この作品は「シベリウスの最も厳しく、濃縮された音楽表現となった。」作曲家で伝記作家のセシル・グレイは一層強い調子で次のように断言している。「たとえシベリウスが他に何も作曲していなかったとしても、この作品ひとつのみで彼は史上最も偉大な巨匠のひとりに位置付けられただろう。」",
"title": "音楽"
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"text": "『カレリア』はシベリウスの初期作品のひとつであり、ヴィープリの学生団体のために書かれ1893年11月13日に騒がしい聴衆へ向けて初演された。組曲版は11月23日の演奏会に序曲と3曲からなる形で登場し、作品11の『カレリア組曲』として出版された。この作品はシベリウスの楽曲でも指折りの人気作品であり続けている。",
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"text": "『悲しきワルツ』は元来、シベリウスの義理の兄にあたるアルヴィド・ヤルネフェルト(英語版)による1903年の戯曲『クオレマ』のために書かれた付随音楽だった。現在では独立した演奏会用作品としてより広く知られている。シベリウスは1903年12月2日の『クオレマ』上演のために6つの楽曲を作曲した。ワルツが使われるのは女性が死の床から起き上がり幽霊と踊る場面である。1904年、シベリウスは4月25日のヘルシンキでの演奏のために手直しを行っており、その際に曲は『悲しきワルツ』と銘打たれた。瞬く間に成功を収めた本作は単独でも取り上げられるようになり、今もなおシベリウスの代表作としての地位を保っている。",
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"text": "ヴァイオリン協奏曲 ニ短調はヴィクトル・ノヴァチェクの独奏で1904年2月8日に初演された。シベリウスが曲を完成させたのが初演間際であったためノヴァチェクは十分な練習時間を取ることができず、その結果初演は悲惨なものとなってしまった。大幅な改訂を経て、新たな版が1905年10月19日にリヒャルト・シュトラウスの指揮するベルリン王立宮廷楽団により初演されている。カレル・ハリーシュが管弦楽のコンサートマスターと独奏を兼務し、曲は大成功を収めた。以降徐々に人気を獲得したこの作品は、現在では20世紀に作曲されたヴァイオリン協奏曲の中でも有数の録音頻度を誇るまでになっている。",
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"text": "『クレルヴォ交響曲』もシベリウス初期作品のひとつで、合唱交響曲であるとされることも多いが交響詩風の5つの管弦楽曲から成る組曲とした方がより正確である。『カレワラ』の登場人物であるクッレルヴォを題材としている。初演は1892年4月28日、エミー・アクテとアブラハム・オヤンペラ(フィンランド語版)を独唱者に据え、シベリウス自身が設立間もないヘルシンキ管弦楽協会のオーケストラと合唱を指揮して行われた。この作品はシベリウスの生前には5回しか演奏されることがなかったが、1990年代以降は演奏会と録音の両面で人気の高まりを見せている。",
"title": "音楽"
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"text": "ロシア統治下では禁止されていたフリーメイソンが復活を遂げると、シベリウスは1922年にスモイ・ロッジ1番の創立メンバーとなり、後にフィンランドのグランド・ロッジのグランド・オルガニストとなっている。1927年にはフィンランドで用いられる儀式用音楽(作品113)を作曲しており、1946年にも2曲を加えている。1948年の儀式用音楽の改訂新版は彼の最後の作品のひとつである。",
"title": "フリーメイソン"
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"paragraph_id": 79,
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"text": "シベリウスは自然を愛し、フィンランドの風景はしばしば彼の音楽の題材となった。彼は自らの交響曲第6番について「[曲は]いつも私に初雪のにおいを思い出させる」と語っていた。アイノラを囲む森が彼に『タピオラ』の霊感を与えたと言われることも多い。彼の伝記作家であるタヴァッシェルナは、シベリウスの自然との結びつきについて次のように記している。",
"title": "自然"
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"paragraph_id": 80,
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"text": "北欧の基準で考えたとしても、シベリウスは自然がもたらす空気と四季の変化に対して例外的な熱意でもって応じていた。彼は双眼鏡を手に湖の氷の上を渡るガンを眺め、ツルの金切り声に耳を傾け、アイノラのすぐ下の湿地からこだましてくるシギの鳴き声を聞いていた。春の花を余すところなく味わうのは秋のにおいと色使いに対しても同じだった。",
"title": "自然"
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"text": "シベリウスは英語圏並びに北欧の国々において交響曲作曲家と音楽界に多大な影響を与えた。フィンランドの交響曲作曲家であったレーヴィ・マデトヤはシベリウスの弟子だった。イギリスではレイフ・ヴォーン・ウィリアムズが交響曲第5番、アーノルド・バックスも交響曲第5番と両名がともに交響曲第5番をシベリウスに献呈している。さらに、『タピオラ』の影響はバックスの交響曲第6番とアーネスト・ジョン・モーランの交響曲に色濃く表れている。またウィリアム・ウォルトンの交響曲第1番からもシベリウスの作曲法の影響が強く感じられる。これらやその他のイギリスの交響的作品が作曲されていた1930年代にはシベリウスの音楽は大流行しており、その裏にはトーマス・ビーチャムやジョン・バルビローリらのような指揮者による演奏会と録音の両面からの下支えがあった。ウォルトンの友人の作曲家コンスタント・ランバートはシベリウスが「頭の中で交響曲形式という意味で自然に思考できるベートーヴェン以来はじめての偉大な作曲家」であると言い切っていた。それ以前にもグランヴィル・バントックがシベリウスを擁護している。さらに最近では、ロバート・シンプソンが擁護した作曲家の中にシベリウスも入っていた。マルコム・アーノルドはシベリウスからの影響を認めており、アーサー・バターワースはシベリウスの音楽が自作の着想の源であると看做していた。セシル・グレイはシベリウスを「ベートーヴェン以後最大のシンフォニスト」であると呼び、交響曲第4番について「無駄な音符が一つもない」と最大の賛辞を寄せた。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ユージン・オーマンディと、貢献度は下がるがフィラデルフィア管弦楽団で彼の前任者だったレオポルド・ストコフスキーは、シベリウスの作品を頻繁にプログラムに取り入れることによってその音楽がアメリカの聴衆へ届けられることを助けた。オーマンディはシベリウスと生涯を通じた親交を築いている。後半生においてシベリウスはアメリカの評論家オーリン・ダウンズからも擁護されており、ダウンズはシベリウスの伝記も著している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "テオドール・アドルノは1938年に発表した批判的論評において、次のような非難を行ったことで悪名高い。「もしシベリウスがよいというのであれば、バッハからシェーンベルクまで連綿と受け継がれた音楽の特質は無効化されてしまうだろう。それは内的な繋がりの豊かさ、アーティキュレーション、多様性の中にある統一性、『単一性』の中にある『多面性』である。」アドルノは当時『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)』紙の音楽評論家を務めていたヴァージル・トムソンに自らの論評を送付している。トムソン自身もシベリウスに批判的であったにもかかわらず、彼は論評の情緒面に同意しつつもアドルノに対して「その論調がシベリウスに対してではない[アドルノへの]敵対心の方をより多く生み出し[た]」と明言している。その後、この両者と指揮者のルネ・レイボヴィッツは1955年の小冊子の表題でシベリウスを「世界最低の作曲家」と書きすらした。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "シベリウスが評論家から称賛と怒りの両方を集めた理由のひとつには、彼が7曲の交響曲の各々において独特の個性的な方法によって形式、調性そして構造に関する基礎的な問題に挑んだということがあるのだろう。彼の交響曲(及び調性)の創造は新奇なものであったが故に、音楽は異なる道を辿っていくべきだと考える者もいたのである。批判に対する彼の反応はそっけないものだった。「評論家の言うことに耳を貸してはならない。これまで評論家の彫像が建てられたことなどないのだから。」",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "20世紀の終わり数十年までくると、シベリウスは一層好意的に取られられるようになってきた。作家のミラン・クンデラによるとシベリウスの取り組み方は状況の絶え間ない進展の外部に立脚した「アンチモダンなモダニズム」のそれであるという。1990年には作曲家のシア・マスグレイヴはヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団からシベリウスの生誕125周年を記念した作品の委嘱を受け、書き上げられた『Song of the Enchanter』が1991年2月14日に初演された。1984年、アメリカの前衛作曲家モートン・フェルドマンはドイツのダルムシュタットで行った講義の中で「皆さんが急進的だと考える人物は実のところ保守的だということもあるかもしれませんし - 皆さんが保守的だと考える人物が実のところ急進的だということもあるかもしれません」と語ったところでシベリウスの第5交響曲を鼻歌で歌い始めた。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 86,
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"text": "ピューリッツァー賞を受賞した音楽評論家のティム・ペイジは1996年、次のように書いている。「シベリウスについてすぐさま言わねばならないことが2つある。ひとつは彼がひどく不均衡だということ(彼の室内楽曲、多数の歌曲、そして大量のピアノ音楽の多くが19世紀の二流のサロン作曲家に混ざる形で、午後の時間に時折演奏される程度だったのではなかろうか)。もうひとつは、最良の状態にあっても彼はしばしば奇妙であるということだ。」シベリウスのピアノ音楽に対するペイジの査定を埋め合わせするのはピアニストのレイフ・オヴェ・アンスネスである。彼はこの作品群の出来がまちまちであることを認めつつも、批評の対象とされないことが常態化している現状は不当であると考えている。一部のピアノ作品を選んで演奏した際に彼が気付くのは、聴衆が「有名作曲家にこれほどまでに美しく、理解しやすいにもかかわらず知られていない音楽があろうとは、と驚く」ことである。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 87,
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"text": "2015年12月8日のシベリウス生誕150周年に合わせ、ヘルシンキ・ミュージック・センターは図解と語りによる『シベリウス・フィンランド・エクスペリエンス・ショー』を2015年の夏季に毎日開催することを計画した。企画は2016年、2017年にも延長開催となった。12月8日当日にはヨン・ストルゴールズ指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏で『エン・サガ』、『ルオンノタル』と交響曲第7番を取り上げた記念演奏会が開催された。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 88,
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"text": "日本においては菅野浩和が1967年に『シベリウス -生涯と作品-』(音楽之友社)を上梓している。1986年には、H.I.ランピラ(フィンランド語版)の『シベリウスの生涯』(稲垣美晴訳、筑摩書房)が訳出されている。1984年には日本シベリウス協会が発足し、渡邉暁雄が初代会長を務めた。2015年には、神部智が『シベリウスの交響詩とその時代 神話と音楽をめぐる作曲家の冒険』(音楽之友社)を出版。また2017年、神部智の執筆による『作曲家・人と作品 シベリウス』(音楽之友社)が第30回ミュージック・ペンクラブ音楽賞(研究・評論部門賞)を受賞している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 89,
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"text": "1972年、存命のシベリウスの娘たちがアイノラをフィンランド政府へと売却した。教育省とフィンランド・シベリウス協会が1974年から施設を博物館として公開している。フィンランド100マルッカ紙幣には、2002年のユーロ導入までシベリウスの肖像が描かれていた。2011年からはフィンランドでは彼の誕生日である12月8日を旗の日として祝っており、この日は「フィンランド音楽の日」としても知られている。生誕150周年にあたる2015年にはヘルシンキ市内を中心に数多くの特別演奏会や行事が行われた。",
"title": "遺されたもの"
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"paragraph_id": 90,
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"text": "1965年の第1回から年ごとに開催されているシベリウス国際ヴァイオリン・コンクール、1967年に除幕されたヘルシンキのシベリウス公園のシベリウス・モニュメント、1968年に開館を迎えたトゥルクのシベリウス博物館、2000年のこけら落としとなったラハティのシベリウス・ホールは全てシベリウスを記念して名付けられたものである。小惑星シベリウスも同様である。",
"title": "遺されたもの"
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{
"paragraph_id": 91,
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"text": "シベリウスは1909年から1944年にかけて日記を付けており、2005年に遺族から未省略での出版の許可が出された。そこでファビアン・ダールストレム(フィンランド語版)が編集を行い、同年にスウェーデン語版が出版されている。またシベリウス生誕150周年の記念として、2015年にはフィンランド語でも日記の全編が出版されている。シベリウスの書簡集についても、数巻分が編集されてスウェーデン語、フィンランド語、英語にて出版されている。",
"title": "遺されたもの"
},
{
"paragraph_id": 92,
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"text": "フィンランド語でエーリク・タヴァッシェルナが著した3巻からなる評伝があり、ロバート・レイトンにより英訳もされている。",
"title": "遺されたもの"
}
] |
ジャン・シベリウスは、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト。 フィンランドの最も偉大な作曲家であると広く認められており、同国が帝政ロシアからの独立を勝ち得ようともがく最中、音楽を通じて国民意識の形成に寄与したと看做されることも多い。
|
{{Redirect|シベリウス}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = ジャン・シベリウス<br />Jean Sibelius
| Img = Jean sibelius.jpg
| Img_capt = 1913年撮影
| Img_size =
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Background = classic
| Birth_name = ヨハン・ユリウス・クリスチャン・シベリウス<br />Johan Julius Christian Sibelius
| Alias =
| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = [[シベリウス音楽院|ヘルシンキ音楽院]]<br />[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]
| Born = {{生年月日と年齢|1865|12|8|no}}<br />{{FIN1809}}<br />[[ハメ州]] [[ハメーンリンナ]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1865|12|8|1957|9|20}}<br />{{FIN}}<br />[[ウーシマー州]] [[ヤルヴェンパー]]
| Origin =
| Instrument =
| Genre = [[クラシック音楽]]<br />[[ロマン派音楽]]<br />[[近代音楽]]<br />[[国民楽派]]
| Occupation = [[作曲家]]
| Years_active =
| Label =
| Production =
| Associated_acts =
| Influences = [[ピョートル・チャイコフスキー]]<br />[[リヒャルト・ワーグナー]]
| URL =
| Notable_instruments =
}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''ジャン・シベリウス'''({{Lang-sv|Jean Sibelius}} {{IPA-sv|ˈjɑːn siˈbeːliʉs, ˈʃɑːn -|langfi|Sv-Jean_Sibelius.ogg}}, [[1865年]][[12月8日]]<ref name=Blue>{{Cite book|和書 |author = ブルーガイド編集部 |year = 2015 |title = ブルーガイドわがまま歩き40 フィンランド |publisher = [[実業之日本社]] |page = 35 |isbn = 978-4-408-06013-2}}</ref> - [[1957年]][[9月20日]])は、後期[[ロマン派音楽|ロマン派]]から[[近代音楽|近代]]にかけて活躍した[[フィンランド]]の[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]]。
フィンランドの最も偉大な作曲家であると広く認められており、同国が[[ロシア帝国|帝政ロシア]]からの独立を勝ち得ようともがく最中、音楽を通じて[[ナショナル・アイデンティティ|国民意識]]の形成に寄与したと看做されることも多い。
== 名前 ==
[[スウェーデン系フィンランド人|スウェーデン系]]であり、出生時の[[洗礼名]]はヨハン・ユリウス・クリスチャン (Johan Julius Christian)だった<ref>{{harvtxt|Tawaststjerna|1997|p=15}}: </ref>。1990年代になってシベリウスの本当の(受洗時の)名前の順がヨハン・クリスティアン・ユリウスであることが判明した。彼自身がヨハン・ユリウス・クリスティアンという順を用いており、大半の文献もこれに倣っている。
名前は「ヤン」と表記されることもあるが、[[フランス語]]固有の綴りの名前であるため本項では「[[ジャン]]」とする。親しい者からはヤンネ (Janne) と呼ばれていたが、貿易商であった叔父がフランス語風にジャンと自称したのに倣い、彼も学生時代以降はずっとジャンと名乗った。
== 人物 ==
作品の主軸をなすのは7曲の交響曲であり、それらは他の主要作品と同様に国内外で普段から演奏や録音の機会に恵まれている。その他によく知られた作品には、『[[フィンランディア]]』、『[[カレリア (シベリウス)|カレリア組曲]]』、『[[悲しきワルツ]]』、[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]]、『[[クレルヴォ交響曲]]』、『[[トゥオネラの白鳥]]』(『[[レンミンカイネン組曲]]』より)などがある。これ以外の作品には自然、[[スカンジナビア半島|スカンジナビア]]の神話、フィンランドの[[民族叙事詩]]に触発された100曲以上に及ぶピアノ伴奏歌曲、多数の戯曲への[[付随音楽]]、[[オペラ]]『[[塔の乙女]]』、[[室内楽曲]]、[[ピアノ曲]]、[[フリーメイソン]]の儀式のための音楽<ref>{{cite web |title=Brother Sibelius |work=The Music of Freemasonry |url=http://www.masonmusic.org/sibelius.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20030620012910/http://www.masonmusic.org/sibelius.html |dead-url=yes |archive-date=20 June 2003 |accessdate=16 October 2011 }}</ref>、21曲の合唱曲がある。
[[1920年代]]の半ばまでは多作な作曲家であったが[[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]](1924年)、付随音楽『[[テンペスト (シベリウス)|テンペスト]]』(1926年)そして交響詩『[[タピオラ]]』(1926年)の完成を境に残りの30年間は大規模作品の創作から遠のいてしまう。この驚くべき、謎めいた隠居生活は作曲者の住居の所在地をとって「[[ヤルヴェンパー]]の沈黙」と呼ばれる。彼が作曲を止めてしまったと言われることもあるが、完成に至らなかった[[交響曲第8番 (シベリウス)|交響曲第8番]]をはじめとして作曲の試みは継続していた。フリーメイソンのための音楽を書いたりそれまでの作品を手直しするなどしたシベリウスは、新しい音楽の発展に興味を持ち続けていたものの、それが常に前向きなものであるとは限らなかった。
フィンランドでは、2002年に[[ユーロ]]が導入されるまで100[[フィンランド・マルッカ|マルッカ]]紙幣にシベリウスの肖像が描かれていた<ref name="Setelit.com">{{cite web |title=100 markkaa 1986 |publisher=Setelit.com |url=http://www.setelit.com/raha/201 |accessdate=29 November 2015}}</ref>。同国では2011年以降、旗の日でありシベリウスの誕生日でもある12月8日を「フィンランド音楽の日」として祝っている<ref name="intermin.fi">{{cite web |title=The days the Finnish flag is flown |publisher=Ministry of the Interior |url=http://www.intermin.fi/en/ministry/the_flag_and_arms_of_finland/flying_the_flag |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151111200553/http://www.intermin.fi/en/ministry/the_flag_and_arms_of_finland/flying_the_flag |archivedate=11 November 2015 |deadurl=yes |df=dmy-all |accessdate=2019-02-14}}</ref>。シベリウス生誕150周年となった2015年には、[[ヘルシンキ]]市内を中心に数多くの特別演奏会やイベントが開催された<ref name="Visit-Helsinki">{{cite web |title=Join the Sibelius 150 Celebration in 2015 |website=Visit Helsinki |url=http://www.visithelsinki.fi/en/whats-on/events-in-helsinki/celebrating-sibelius-in-2015 |accessdate=3 June 2015 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150531123915/http://www.visithelsinki.fi/en/whats-on/events-in-helsinki/celebrating-sibelius-in-2015 |archivedate=31 May 2015 |df=dmy-all }}</ref>。
== 年譜 ==
* [[1865年]][[12月8日]]に[[ヘルシンキ]]の北方約100kmの[[ハメーンリンナ]]に生まれる。父クリスチャンは[[医師]]であったが、シベリウス2歳の時に他界。姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれ[[ピアノ]]、[[チェロ]]の演奏をした。
* [[1875年]]、最初の作曲。ヴァイオリンとチェロのための『水滴』<ref name=Blue/>。
* [[1885年]]、[[ヘルシンキ音楽院]]で作曲などを学び始める。
* [[1889年]]、[[ベルリン]]に留学。留学中に[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]』の初演、[[ハンス・フォン・ビューロー]]の演奏などに直接触れる。さらに、[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]において[[カール・ゴルトマルク]]に師事した<ref name=Blue/>。
* [[1891年]]に『[[クレルヴォ交響曲]]』[[作品番号|作品]]7を手がける。翌年春に初演。これは管弦楽に独唱・男声合唱の加わる大規模な曲である。初演は好評をもって受け入れられたが、その後は抜粋で3度演奏されるにとどまり、作曲者の生前に全曲が演奏されることはなかった。
* [[1892年]]に[[アイノ・シベリウス|アイノ・ヤルネフェルト]]と結婚。6女を儲けるも、1人は2歳で他界<ref name=Blue/>。
* [[1899年]]に『愛国記念劇』の音楽を発表。この曲の7曲目が改作されて交響詩『[[フィンランディア]]』作品26として独立、人気を博した<ref name=Blue/>。<!-- 第x曲と書くと、前奏曲を数えるのか数えないのかわからないので -->
* [[1904年]]にヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに自邸[[アイノラ]]を建てる<ref name=Blue/>。
* [[1908年]]に喉の腫瘍を摘出する手術を受ける。
* [[1915年]]、シベリウス50歳の誕生日。この記念行事のために[[交響曲第5番 (シベリウス)|交響曲第5番]]が作曲された<ref name=Blue/>。
* [[1915年]]頃には既にフリーメイソンのメンバーだった。
* [[1923年]]の[[交響曲第6番 (シベリウス)|交響曲第6番]]作品104、[[1924年]]の[[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]]作品105、[[1925年]]の交響詩『[[タピオラ]]』作品112を頂点にして、以後重要な作品はほとんど発表されなくなった。
* [[1957年]]にヤルヴェンパーで[[脳出血]]により逝去。{{没年齢|1865|12|8|1957|9|20}}。[[ヘルシンキ大聖堂]]で[[国葬]]が営まれ、棺はアイノラの庭に葬られた<ref name=Blue/>。
* その後彼の肖像は、[[ユーロ]]導入までのフィンランド100[[フィンランド・マルッカ|マルッカ]]紙幣に使用された。
== 生涯 ==
[[File:Sibélius as a schoolboy.jpg|thumb|upright|11歳のシベリウス 1876年]]
=== 幼少期 ===
1865年12月8日、[[ロシア帝国]]の自治領であった[[フィンランド大公国]]の[[ハメーンリンナ]]に生を受けた。[[スウェーデン系フィンランド人|スウェーデン語話者]]の医師クリスティアン・グスタフ・シベリウスとマリア・カルロッタ・シベリウス(旧姓ボーリ Borg)の間に生まれた子であった。姓は父方の曽祖父が所有していた[[東ウーシマー県]]の地所シッベ(Sibbe)に由来している{{sfn|Ringbom|1950|p=8}}。父は1868年7月に[[腸チフス]]によりこの世を去り、あとには多額の借金が遺された。そのため、当時妊娠していた母は所有していた不動産を売却し、同じくハメーンリンナで夫に先立たれて暮らしていた彼女の母親、カタリーナ・ボーリの家に一家で身を寄せねばならなかった{{sfn|Goss|2009|p=19}}。こうしてシベリウスは完全な女性中心の環境に育つことになる。唯一、男性的な影響を与えたのはおじのペール・フェルディナンド・シベリウス(Pehr Ferdinand -)であり、彼は音楽、とりわけヴァイオリンに関心を持っていた。彼こそが10歳になった少年にヴァイオリンを与え、後に作曲への興味を持ち続けるよう激励した人物だった{{sfn|Goss|2009|p=53}}{{sfn|Lagrange|1994|p=905}}。シベリウスにとって、おじのペールは父親代わりだったのみならず音楽上の助言者でもあったのである{{sfn|Murtomäki|2000}}。
幼少期からシベリウスは自然に強い関心を示し、家族で夏季を[[ロヴィーサ (フィンランド)|ロヴィーサ]]の海岸沿いで過ごしにやってくると頻繁に田舎を歩き回りに出かけていた。彼自身の言葉が残っている。「私にとってロヴィーサは太陽と幸福の象徴だった。ハメーンリンナは学校へ行く場所、ロヴィーサは自由な場所だった。」ハメーンリンナでは彼が7歳になるとおばのユリア(Julia)が家にあった[[アップライトピアノ]]で彼にピアノを教えることになるが、間違った音符を弾くといつも拳をコツンと叩いた。シベリウスは即興演奏によって上達を見せたが、音楽を解釈する勉強も続けた{{sfn|Barnett|2007|p=4}}。後に転向することになるヴァイオリンの方が彼の好みにはあっていた。姉のリンダがピアノ、弟のクリスチャンがチェロを弾いて三重奏を行うこともあった<ref group="注">[[クリスチャン・シベリウス]]は著名な[[精神科医]]となり、フィンランドでは彼の功績は現在も記憶されている。</ref><ref>{{cite web |title=Sibelius |language=Swedish |year=1926 |publisher=Nordisk Familjebok |url=http://runeberg.org/nfcr/0165.html |accessdate=11 June 2015 |p=281}}</ref>。さらに近所の家々を交えて四重奏を行うこともあり、これによって室内楽の経験を培った。この時期の彼の作品として三重奏が1曲、ピアノ四重奏が1曲、ヴァイオリンとピアノのための『組曲 ニ短調』の断片が現存している{{sfn|Ringbom|1950|pp=10–13}}。1881年頃、彼はヴァイオリンとチェロのための短い[[ピッツィカート]]の楽曲『水滴』(Vattendroppar)を紙に書き残している。ただし、これは単に音楽の訓練であった可能性もある{{sfn|Murtomäki|2000}}<ref>{{cite web |title=Music becomes a serious pursuit 1881–1885 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_musiikkiharrastus.htm |accessdate=21 June 2015}}</ref>。初めて自分が作曲していると言及しているのは1883年8月の手紙の中であり、そこでは三重奏を書き上げて他の曲に取り組んでいると述べている。「両方とも少々お粗末な出来ですが、雨の日々にもやることがあるのはよいことです<ref name="childhood"/>。」1881年に地元の楽長であったグスタフ・レヴァンダー(Gustaf Levander)からヴァイオリンの指導を受けるようになり、すぐさまこの楽器に強い関心を抱くようになる{{sfn|Barnett|2007|p=6}}。偉大なヴァイオリンの[[ヴィルトゥオーソ]]になると心に決め、たちまち腕利きの奏者として頭角を現した。1886年に[[フェルディナンド・ダヴィッド]]のホ短調の協奏曲を演奏、翌年にはヘルシンキで[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)|ヴァイオリン協奏曲]]から後半2楽章を演奏している。こうした器楽奏者としての成功にもかかわらず、彼は最終的に作曲家としての道を選ぶのである{{sfn|Grimley|2004|p=67}}<ref name="sih"/>。
母語はスウェーデン語であったが、シベリウスは1874年にルチナ・ハグマン(Lucina Hagman)のフィンランド語で学ぶ予科校に入学した。1876年にはフィンランド語によるハメーンリンナの学校への進学を許可された。数学と植物学の成績は非常に良かったものの、彼は幾分ぼんやりした学生だった<ref name="childhood">{{cite web |title=Childhood 1865–1881 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/ |accessdate=19 June 2015}}</ref>。留年しながらも1885年に学校の最終試験に合格し、これによって大学への入学資格を得た{{sfn|Ringbom|1950|p=14}}。少年時代の彼はヨハンの口語体にあたるヤンネという名前で知られていた。しかし学生時代に船乗りのおじの名刺に触発されてフランス語風のジャンを名乗るようになる。以降、彼はジャン・シベリウスとして知られるようになる{{sfn|Ekman|1972|p=11}}。
=== 初期 ===
[[File:Martin Wegelius.gif|thumb|left|フィンランドでシベリウスを教えた[[マルティン・ヴェゲリウス]]]]
1885年の高校卒業後、[[ヘルシンキ大学]]に進学したシベリウスは[[法学]]を学び始めるが、音楽への興味の方が圧倒的に大きかったためすぐさまヘルシンキ音楽院(現[[シベリウス音楽院]])に転入して1885年から1889年まで同校で学ぶ。彼の指導陣の中には音楽院の創設者のひとりで、フィンランドの教育の発展に大きく貢献した[[マルティン・ヴェゲリウス]]がいた。独学だったシベリウスにはじめて正式に作曲を教えたのは彼であった{{sfn|Goss|2009|p=75}}。他に重要な影響を与えた人物はシベリウスを教えたピアニスト兼作曲家の[[フェルッチョ・ブゾーニ]]であり、2人は生涯にわたる友情を育んだ{{sfn|Lagrange|1994|p=985}}。彼の近しい友人の集まりにはピアニストで文筆家の[[アドルフ・パウル]]、指揮者となる[[アルマス・ヤルネフェルト]]もいた<ref group= "注"> ヤルネフェルトは有力な自らの家族をシベリウスに紹介しており、その中には将来シベリウスの伴侶となる妹の[[アイノ・シベリウス|アイノ]]もいた。</ref>{{sfn|Murtomäki|2000}}。この時期の主要作品には[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]を想わせるところのあるヴァイオリンソナタ ヘ長調がある{{sfn|Tawaststjerna|1976|p=62}}。
シベリウスは続いて[[ベルリン]]へ赴き[[アルベルト・ベッカー (作曲家)|アルベルト・ベッカー]]に(1889年-1890年)、さらに[[ウィーン]]へ移って[[ロベルト・フックス]]、そして[[カール・ゴルトマルク]]に師事して(1890年-1891年)研鑽を積んだ。ベルリンでは[[リヒャルト・シュトラウス]]の[[交響詩]]『[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]』の初演をはじめとした多様な演奏会やオペラに足を運び音楽の見識を広める機会に恵まれた。またフィンランドの作曲家である[[ロベルト・カヤヌス]]が自作の交響詩『アイノ』を含むプログラムで[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]を指揮した演奏会を聴いているが、この愛国的な作品がきっかけとなり後年シベリウスが叙事詩『[[カレワラ]]』を題材として作曲することへ関心を持つに至ったという可能性もある{{sfn|Lagrange|1994|p=985}}<ref>{{cite web |title=Kalevala taiteessa – Musiikissa: Ensimmäiset Kalevala-aiheiset sävellykset |language=Finnish |publisher=Kalevalan Kultuuruhistoria |url=http://www.kalevalaseura.fi/kaku/sivu.php?n=p1a1&s=p1a1s1&h=hp1a1&f=fp1s |accessdate=21 June 2015}}</ref>。ウィーン時代には[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の音楽にとりわけ強い関心を示し、一時は彼のことを「もっとも偉大な存命の作曲家」であるとみなしていた。一方で、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の評価の固まった作品への興味も持ち続けていた。ウィーンにいた時期にはたびたび新しい友人たちとパーティーや賭け事に興じて過ごした。管弦楽曲の作曲に目を向けるようになったのもウィーンの頃であり、序曲 ホ長調や『バレエの情景』に取り組んだ。『カレワラ』に霊感を得た管弦楽作品『[[クレルヴォ交響曲]]』にも取り掛かる一方で体調を崩し、胆石の除去手術を受けて健康を回復している<ref>{{cite web |title=Studies in Vienna 1890–91 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_opinnot_wien.htm |accessdate=7 June 2015}}</ref>。ヘルシンキへ戻ると間もなく、ポピュラーコンサートの場で自作の序曲と『バレエの情景』を自ら指揮できる機会に恵まれこれを満喫した<ref>{{cite web |title=Kullervo and the wedding 1891–1892 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kullervo.htm |accessdate=7 June 2015}}</ref>。『クレルヴォ交響曲』の仕事を続けることもできるようになり、次第に興味を発展させた彼はすべてをフィンランド語で書き上げたのであった。1892年4月28日にヘルシンキで迎えた初演は大成功で幕を閉じた{{sfn|Murtomäki|2000}}。
[[File:Sibelius 1891.jpg|thumb|upright|シベリウス 1891年]]
シベリウスが心に抱いてきたヴァイオリニストとなる希望をついに諦めたのはこの頃であった。
<blockquote>悲劇だったのは私が何を犠牲にしてでも名高いヴァイオリニストになりたいと思っていたことだった。15歳になって以来、朝から晩まで自分のヴァイオリンを弾いていたも同然だったのだ。ペンとインクなど大嫌いで - 不幸にも上品なヴァイオリンの弓をより好んだ。私のヴァイオリンへの愛情は非常に長く続き、ヴィルトゥオーゾという過酷なキャリアへの訓練としては始めるのが遅すぎたと認めざるを得ないと自覚するのは大変に辛いことだった{{sfn|Kaufman|1938|p=218}}。</blockquote>
ウィーンとベルリンで勉学に費やした長い期間に加え(1889年-1891年)、1900年には[[イタリア]]へ入って1年を家族とともに過ごした。[[スカンディナヴィア半島|スカンジナビア]]の国々、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]で活発に作曲し、指揮をし、社交生活を送り、後には[[アメリカ合衆国]]へも足を運んでいる{{sfn|Goss|2011|p=162}}。
=== 結婚と名声の高まり ===
シベリウスがヘルシンキで音楽を学んでいた1888年秋、音楽院の友人だったアルマス・ヤルネフェルトから自宅への招待を受けた。そこで彼は当時17歳の[[アイノ・シベリウス|アイノ]]と恋に落ちた。父は[[ヴァーサ]]の長官であった[[アレクサンデル・ヤルネフェルト]]大将、母はバルト諸国の貴族を出自とする[[エリザベト・ヤルネフェルト|エリザベト・クロット=フォン=ユルゲンスブルク]]である<ref name="sih">{{cite web |title=Studies in Helsinki 1885–1888 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_opinnot_helsinki.htm |accessdate=7 June 2015}}</ref>。結婚式は1892年6月10日に{{仮リンク|マクスモ|en|Maxmo}}で執り行われた。新婚旅行は『カレワラ』発祥の地である[[カレリア]]で過ごした。この体験が交響詩『[[エン・サガ]]』、『[[レンミンカイネン組曲]]』、『[[カレリア (シベリウス)|カレリア]]』の着想を与えることになる{{sfn|Murtomäki|2000}}。1903年にはヤルヴェンパーの[[トゥースラ湖]]畔に2人の住まいである[[アイノラ]]が完成した。結婚生活の中で、2人は6人の娘を授かった。エーヴァ、ルート、キルスティ{{refnest|group= "注"|腸チフスにより幼いうちにこの世を去っている<ref>{{cite book |title=Classical Destinations: An Armchair Guide to Classical Music |year=2006 |page=87 |publisher=Amadeus Press |isbn=978-1-57467-158-2 |url=https://books.google.com/books?id=gtwWttugsyAC&pg=PA87}}</ref>。}}、カタリーナ、マルガレータ、ヘイディである{{sfn|Lew|2010|p=134}}。エーヴァは工場の跡取りで後にパロヘイモ社の[[最高経営責任者]]となるアルヴィ・パロヘイモ(Arvi Paloheimo)と結婚した。ルート・スネルマンは著名な女優となり、カタリーナ・イヴェスは銀行家と結婚、[[ヘイディ・ブロムシュテット]]は建築家の{{仮リンク|アウリス・ブロムシュテット|en|Aulis Blomstedt}}の妻となった。マルガレータの夫となった[[ユッシ・ヤラス]]はアウリス・ブロムシュテットの兄弟である<ref>{{cite web |title=The occupants of Ainola |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/ainola/ainolan_asukkaat_eva_paloheimo.html |accessdate=19 June 2015}}</ref>
。
1892年、『クレルヴォ交響曲』ときっかけとしてシベリウスは管弦楽に意識を向けるようになる。この作品は作曲家の{{仮リンク|アクセル・トルヌッド|fi|Aksel Törnudd}}が「火山の噴火」と評し、合唱パートを歌ったユホ・ランタは「『フィンランド』の音楽だった」と述べている{{sfn|Barnett|2007|p=74}}。同年の暮れに祖母のカタリーナ・ボーリが他界、その葬儀に参列したシベリウスはハメーンリンナの家を訪れ、その後は家が古くなるまで立ち寄ることはなかった。1893年2月16日に『エン・サガ』の初版をヘルシンキで発表するも評判はさほど芳しくなく、評論家からは余計な部分を削除して切り詰めるべきだとの意見が出た<ref group= "注">1902年の改訂ではそのように短縮が行われた。</ref>。3月に行われた3回にわたる『クレルヴォ交響曲』の再演はそれよりもずっと不評で、ある評論家は理解不能でありかつ生気が欠けていると看做した。長女のエーヴァが誕生した後の4月には合唱曲『ワイナミョイネンの船乗り』の初演が行われて大成功を収め、記者からの支持を得ることができた<ref name="symposion">{{cite web |title=The Symposion years 1892–1897 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_symbosion.htm |accessdate=21 June 2015}}</ref>。
1893年11月13日、[[ヴィボルグ|ヴィープリ]]のセウラフオネ(Seurahuone)で行われた学生団体主催のガラ・コンサートにおいて『カレリア』の全曲版が初演された。この公演には画家の[[アクセリ・ガッレン=カッレラ]]と彫刻家の{{仮リンク|エミール・ヴィークストレーム|en|Emil Wikström}}も舞台装置の設計のために招かれて協力していた。最初の演奏は聴衆の話声のために聴きづらいものとなってしまったが、11月18日の2度目の演奏はそれよりも上手くいった。さらに19日と23日にはヘルシンキに於いて、この作品から採られた長大な組曲が作曲者自身が指揮するフィルハーモニック協会管弦楽団の演奏で披露されている{{sfn|Barnett|2007|p=85}}。シベリウスの音楽がヘルシンキのコンサートホールで演奏される頻度は高くなっていた。1894年-1895年のシーズンには『エン・サガ』、『カレリア』、『[[春の歌 (シベリウス)|春の歌]]』(1894年作曲)が、[[トゥルク]]は言うまでもなく、首都でも少なくとも16回の演奏会で取り上げられている{{sfn|Tawaststjerna|1976|p=162}}。1895年4月17日に改訂版の『春の歌』を聴いた作曲家の[[オスカル・メリカント]]は「シベリウスの管弦楽作品の中でも最も清らかな花である」と評してこれを歓迎した<ref>{{cite web |title=Sibelius: Spring Song (original 1894) |publisher=ClassicLive |url=http://www.classiclive.com/sibelius-spring-song-original-1984 |accessdate=22 June 2015}}</ref>。
[[File:Gallen-Kallela Symposium.jpg|thumb|[[アクセリ・ガッレン=カッレラ]](左)、[[オスカル・メリカント]]、[[ロベルト・カヤヌス]]と交流するシベリウス(右)]]
長期にわたりシベリウスはオペラ『[[船の建造 (オペラ)|船の建造]]』に取り組んでいた。この作品も『カレワラ』を題材としている。彼は一定程度[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響を受けていたが、その後[[フランツ・リスト|リスト]]による交響詩を作曲への創意の源とするようになった。未完に終わったオペラの素材を活用する形で生まれた『レンミンカイネン組曲』は、交響詩の形式で描かれた4つの伝説から構成されている{{sfn|Murtomäki|2000}}。組曲は1896年4月13日にヘルシンキにおいて満員の会場で初演された。メリカントが作品のフィンランドらしさに熱狂したのとは対照的に、批評家のカール・フロディンは「トゥオネラの白鳥」における[[コーラングレ]]が「驚くべき長さと退屈さ」だとしている{{sfn|Grimley|2004|p=101}}<ref name="symposion"/>。その一方でフロディンは第1の伝説「レンミンカイネンと島の乙女たち」についてシベリウスのそれまでの創作の中の頂点を成すものであると考えていた{{sfn|Tawaststjerna|1976|p=166}}。
生活のため、シベリウスは1892年から音楽院やカヤヌスの指揮学校で教鞭を執るが、これによって作曲のために割ける時間が足りなくなってしまう{{sfn|Lagrange|1994|p=988}}。状況が大きく好転したのは1898年に多額の年次助成金が交付されるようになってからで、当初は10年間の有期であった助成期間は後に生涯の交付へと延長された。こうしてアドルフ・パウルの戯曲[[クリスティアン2世 (シベリウス)|『クリスティアン2世』への付随音楽]]を完成させることができ、1898年2月24日に初演された作品は馴染みやすい音楽で大衆の心を掴んだ。戯曲中でも人気の高い4つの場面に付された楽曲はドイツで出版され、フィンランドで好調な売れ行きを見せた。1898年11月に管弦楽組曲の演奏がヘルシンキで成功を収めた際、シベリウスは次のようにコメントを残している。「音楽はよく鳴っており、速度は適切なようです。自分が何かを完成させることができたのはこれが初めてではないかと思います。」曲は[[ストックホルム]]と[[ライプツィヒ]]でも演奏された<ref name="tib">{{cite web |title=Towards an international breakthrough 1897–1899 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kohti_lapimurtoa.htm |accessdate=22 June 2015}}</ref>。
1899年、シベリウスは[[交響曲第1番 (シベリウス)|交響曲第1番]]の作曲に取り掛かる。この頃、[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]がフィンランド大公国に対して[[ロシア化]]の試みを行っており、これによって彼の胸の内には愛国心が高まりつつあった<ref name=club/>。曲が1899年4月26日にヘルシンキで初演されると各方面から好評を博した。しかし、この時の公演プログラムでそれよりも遥かに注目度が高かったのは、あけすけに愛国心を露わにした、少年、男声合唱のための『アテネ人の歌』であった。この合唱曲によりシベリウスは一躍国民的英雄の地位を手にすることになる<ref name="tib"/><ref name=club>{{cite web |title=Works for choir and orchestra |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_kuoro_orkesteri.htm |accessdate=22 June 2015}}</ref>。11月4日に発表された次なる愛国的作品は『新聞の日を祝う音楽』として知られ、フィンランドの歴史を8つの挿話を描写する形で描いた作品であった。作曲を援助した新聞『Päivälehti』紙は、社説でロシアの規則を批判して一定期間の発刊停止処分中だった<ref>{{cite web |title=Jean Sibelius Press celebration music (Sanomalehdistön päivien musikki), incidental music for orchestra |publisher=AllMusic |url=http://www.allmusic.com/composition/press-celebration-music-sanomalehdist%C3%B6n-p%C3%A4ivien-musikki-incidental-music-for-orchestra-mc0002453450 |accessdate=22 June 2015}}</ref>。最後の楽曲「フィンランドは目覚める」はとりわけ高い人気を獲得した。これが幾度か細かい修正を施されたのち、広く知られる『[[フィンランディア]]』となる<ref name=incidental>{{cite web |title=Incidental music |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/nayttamo_sanoma.htm |accessdate=22 June 2015}}</ref>。
[[File:Jean Sibelius (AE, 1904).png|thumb|left|シベリウス {{仮リンク|アルベルト・エングストレーム|en|Albert Engström}}画 1904年]]
1900年2月、シベリウス夫妻は娘のキルスティ(この時点では末娘)を失った悲しみに沈んでいた。しかしシベリウスは春になるとカヤヌス、並びに彼の管弦楽団とともに演奏旅行に繰り出し、13の都市を巡って交響曲第1番の改訂版などの最新作を披露して回った。訪れた都市は[[ストックホルム]]、[[コペンハーゲン]]、[[ハンブルク]]、ベルリン、[[パリ]]などである。各都市は非常に好意的で、『Berliner Börsen-Courier』、『Berliner Fremdenblatt』、『Berliner Lokal Anzeiger』が熱狂的な論評を掲載したことにより彼は国際的に知られるようになる<ref name="cdib">{{cite web |title=A child's death, and international breakthrough, 1900–1902 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_lapimurto.htm |accessdate=24 June 2015}}</ref>。
1901年に[[イタリア]]の[[ラパッロ]]を一家で訪れたシベリウスは[[交響曲第2番 (シベリウス)|交響曲第2番]]の作曲に取り掛かる。その際[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の『[[ドン・ジョヴァンニ]]』に登場するドン・ジョヴァンニの運命からも霊感を得ていた。曲は1902年の初頭に完成されて3月8日にヘルシンキ初演を迎える。この作品はフィンランドの人々の間に熱狂の渦を巻き起こした。メリカントは「曲はいかなる想定をも超えて大胆不敵であった」という感想を抱き、{{仮リンク|エーヴェルト・カティラ|fi|Evert Katila}}は「紛うことなき傑作」と評価した<ref name="cdib"/>。フロディンもまた、「我々がこれまでに決して聴く機会を持つことのなかった類の」交響作品について書き残している{{sfn|Ringbom|1950|p=71}}。
夏の間を[[ハンコ]]に程近い{{仮リンク|トヴァルミンネ|fi|Tvärminne}}で過ごしたシベリウスは、同地で歌曲『それは夢か』[[作品番号|作品]]37-4を作曲すると同時に『エン・サガ』の書き直しを行った。これが1902年11月にベルリンにおいてベルリン・フィルにより演奏されるとドイツでの作曲者の名声は揺るがぬものとなり、そのすぐ後の交響曲第1番の出版につながることとなる<ref name="cdib"/>。
1903年の大半をヘルシンキで過ごしたシベリウスは過度に飲み食いに耽り、飲食店で大金を支払っていた。しかしその一方で作曲も継続して行い、義理の弟にあたる{{仮リンク|アルヴィド・ヤルネフェルト|en|Arvid Järnefelt}}の著した戯曲『[[クオレマ]]』に付した6曲から成る付随音楽のうちのひとつ、『悲しきワルツ』が有数の成功作となった。資金難から彼は作品を廉価で売り渡してしまったが、たちまちフィンランド国内外で高い人気を博すようになった。シベリウスのヘルシンキ滞在中、妻のアイノは頻繁に手紙を書いては帰宅を懇願したが彼は応じなかった。4女のカタリーナが生まれ時すら彼は外に出たままだったのである。1904年のはじめに[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]]が完成して2月8日に初演を迎えたが、評判は芳しくなかった。このため改訂を経て凝縮度を高めた版が作製されて翌年にベルリンで披露されることになった<ref name=wod>{{cite web |title=The Waltz of Death and the move to Ainola 1903–1904 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kuolemanvalssi.htm |accessdate=2 August 2015}}</ref>。
=== アイノラへの移住 ===
[[File:Ainola 1915.jpg|thumb|1915年に撮影された[[アイノラ]]の様子]]
1903年11月、シベリウスはヘルシンキからおよそ45キロメートル北へ離れた[[トゥースラ湖]]のほとりに[[アイノラ]](アイノの居場所)と名付けた邸宅を建築し始める。建築費用を工面するため、彼は1904年の前半からヘルシンキ、[[トゥルク]]、[[ヴァーサ]]、その他[[タリン]]や[[エストニア]]で演奏会を開き、夏には[[ラトビア]]にも赴いた。一家は1904年9月24日にようやく新居に移ることができ、画家の[[エーロ・ヤルネフェルト]]、[[ペッカ・ハロネン]]、小説家の[[ユハニ・アホ]]ら近所の芸術家のコミュニティーの中で交流を深めていった<ref name=wod/>。
1905年1月、シベリウスは再びベルリンを訪れて交響曲第2番を自ら指揮した。演奏会自体は成功裏に終了したが論評は賛美一色というわけではなく、非常に好意的な評もあった一方で『{{ill|アルゲマイネ・ツァイトゥング|de|Allgemeine Zeitung}}』や『{{ill|ベルリナー・ターゲブラット|de|Berliner Tageblatt}}』などの評価はそれほど熱のこもったものではなかった。フィンランドに帰国したシベリウスは徐々に人気が出てきつつあった『[[ペレアスとメリザンド (シベリウス)|ペレアスとメリザンド]]』を管弦楽組曲として仕立て直した。11月には初めて[[イギリス]]へと渡り、[[リヴァプール]]で[[ヘンリー・ウッド]]と会っている。12月2日に交響曲第1番と『フィンランディア』を指揮した彼は、アイノに宛てて演奏会は大成功を収め大いに喝采を浴びたと手紙で伝えた<ref name=fya>{{cite web |title=The first years in Ainola 1904–1908 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_ainola.htm |accessdate=28 October 2015}}</ref>。
1906年、年の初めの短い期間をパリで特に何事もなく過ごしてから、続く数か月をアイノラで作曲に費やした。この時期の主要な作品はやはり『カレワラ』を題材に採った交響詩『[[ポホヨラの娘]]』である。その後、同年のうちに付随音楽『[[ベルシャザールの饗宴 (シベリウス)|ベルシャザールの饗宴]]』も完成させ、管弦楽組曲版の制作も行っている。年の締めくくりは自ら指揮した演奏会シリーズで、中でも最大の成功を収めたのは[[サンクトペテルブルク]]の[[マリインスキー劇場]]で行った『ポホヨラの娘』の初となる公開演奏であった<ref name=fya/>。
=== 浮き沈み ===
シベリウスは1907年の年初から再びヘルシンキにて暴飲暴食に耽るようになり、途方もない金額をシャンパンとロブスターに費やした。彼のこの生活習慣がアイノの健康状態に深刻な影響を与え、彼女を極端な疲労による療養施設入居に至らしめた。妻が不在の間にシベリウスは禁酒を決意し、かわりに[[交響曲第3番 (シベリウス)|交響曲第3番]]の作曲へと意識を集中させた。作品を完成させた彼は9月25日にヘルシンキでの初演に臨んだ<ref>http://www.classiclive.com/Sibelius-Symphony-No3</ref>。古典的性格が増した作風は聴衆へ驚きを与えたが、フロディンは作品が「内面的に新しく、また革命的」であったと述べている<ref name=fya/>。
そのすぐ後、シベリウスはヘルシンキを訪れた[[グスタフ・マーラー]]と出会っている。2人は新しい交響曲を出すたびに過去の作品のファンであった人々を失ってしまう、という点で意見の一致を見た。1907年11月にサンクトペテルブルクで第3交響曲が演奏されると、まさにこれが現実となって否定的な論評を浴びることとなる。[[モスクワ]]での評判はまだ前向きなものであった<ref name=fya/>。
[[File:Jean Sibelius 15 Gloucester Walk blue plaque.jpg|thumb|[[ロンドン]]、[[ケンジントン]]、グロスター・ウォーク15に掲げられた[[ブルー・プラーク]]。1909年、シベリウスがこの場所に暮らした。]]
1907年、シベリウスは[[頭頸部癌|喉の癌]]の疑いにより大きな手術を受けおり、1908年のはじめは病院で過ごさねばならなくなった。喫煙、飲酒はいまや生命を脅かすものとなったのである。[[ローマ]]、[[ワルシャワ]]そしてベルリンでのコンサートは中止しながらもロンドンの契約は守ったが、ここでも第3交響曲は評論家の関心を獲得するには至らなかった。5月にはシベリウスの体調はますます悪化し、彼は妻とともにベルリン入りして喉の腫瘍の除去手術を受けた。術後、彼は今後一切の煙草と酒を断つと誓いを立てたのであった<ref name=fya/>。こうして死を間近に体験した衝撃が交響詩『ルオンノタル』や交響曲第4番など、以降数年のうちに作曲された作品に着想を与えたといわれている{{sfn|Woodstra|2005|pp=1279–1282}}。
=== 喜ばしい時間 ===
[[File:Finlandia première édition.gif|thumb|『[[フィンランディア]]』初版]]
1909年、喉の手術が成功したことによりシベリウスとアイノは自宅での幸福を新たなものにしていた。イギリスにおいても自らタクトを握って『エン・サガ』、『フィンランディア』、『悲しきワルツ』、『春の歌』を熱狂する聴衆に届けており、彼の体調は歓迎された。[[クロード・ドビュッシー]]との出会いも大きな支えとなった。パリで静かに過ごした後でベルリンに向かった彼は、そこで喉の手術が完全に成功したという旨を聞かされて安堵する<ref name=iv>{{cite web |title=Inner voices 1908–1914 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_sisaisia_aania.htm |accessdate=6 November 2015}}</ref>。
[[交響曲第4番 (シベリウス)|交響曲第4番]]には1910年のはじめに着手していたものの、資金が乏しくなっていっていたため数多くの小規模な楽曲や歌曲も書かねばならなかった。10月に[[オスロ|クリスチャニア]](現オスロ)で開かれた演奏会では『[[森の精 (交響詩)|森の精]]』と『[[追憶のために]]』を自分の手で初演する。『悲しきワルツ』や第2交響曲はとりわけ好評だった。それからベルリンに赴いて第4交響曲の仕事を続け、ヤルヴェンパーに戻ってから終楽章に取り組んだ<ref name=iv/>。
スウェーデンでの初めてのコンサートで1911年の初頭に指揮台に上り、交響曲第3番までもが評論家から好評を得た。4月には交響曲第4番が完成するが、彼自身も予想していたとおりヘルシンキでの初演においてはその内省的な作風があまり前向きに評価されず、賛否両論を巻き起こした。[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[サロメ (オペラ)|サロメ]]』を楽しんだパリへの旅行を除き、同年の残りはほとんど何もなく終わった。1912年に入り『英雄的情景』第2番が完成する。この作品は3月に初演を迎えており、同じ演奏会では第4交響曲も演奏された。この演奏会はロベルト・カヤヌスをはじめとする熱狂的な評論家、そして聴衆へ向けて2回再演されることになった。第4交響曲は9月の[[バーミンガム]]でも好意的な評価を獲得した。同交響曲は1913年3月にニューヨークでも演奏されたものの大部分の聴衆が楽章間に演奏会場から出て行ってしまい、10月に[[カール・ムック]]が指揮した際には『ボストン・アメリカン』紙が「哀れな失敗作」の烙印を押した<ref name=iv/>。
1913年の最初の重要作品は交響詩『[[吟遊詩人 (シベリウス)|吟遊詩人]]』であり、シベリウスは3月にヘルシンキでこの作品を礼儀正しい聴衆に向けて指揮した。続く作品は『カレワラ』から詞を採ったソプラノと管弦楽のための『[[ルオンノタル (シベリウス)|ルオンノタル]]』である。初演は1913年に[[イングランド]]の[[グロスター]]で開催された[[スリー・クアイアズ・フェスティバル]]において[[アイノ・アクテ]]のフィンランド語による独唱で行われた<ref name=iv/><ref>{{cite web |author=Ozorio, Anne |title=Appreciating Sibelius's Luonnotar Op. 70 by Anne Ozorio |publisher=MusicWeb |url=http://www.musicweb-international.com/classrev/2007/mar07/Luonnotar.htm |accessdate=13 November 2015}}</ref><ref group= "注">作品は彼女に献呈された。</ref>。1914年のはじめにひと月をベルリンで過ごしたシベリウスはとりわけ[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]に惹きつけられた。フィンランド帰国後、アメリカの億万長者カール・ステッケルから[[ノーフォーク室内楽音楽祭]]のためにと委嘱された『[[大洋の女神]]』の作曲を開始する。変ニ長調で書き始めたものの大規模な改訂を行った結果、ノーフォークへはニ長調の版が持ち込まれることになった。この作品は『フィンランディア』や『悲しきワルツ』同様の喝采を浴びることとなった。音楽批評家の[[ヘンリー・エドワード・クレービール]]は『大洋の女神』がかつて海を題材に作曲された音楽の中で最も美しい作品であると看做し、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙はシベリウスの音楽が音楽祭にとって最大の貢献となったと評した。シベリウスがアメリカで[[イェール大学]]から名誉博士号を授与されていたのとほぼ同じ頃、[[ヘルシンキ大学]]ではアイノが彼の代理として同じく名誉博士号の授与式に臨んでいた<ref name=iv/>。
=== 第一次世界大戦 ===
米国からの帰途、シベリウスは[[第一次世界大戦]]勃発の引き金となる[[サラエボ事件]]について耳にした。彼自身は戦地から遠くにあったものの、国外からの印税収入が滞るようになった。生計を立てるため、彼はフィンランド国内での出版向けに多量の小規模作品を作曲することを余儀なくされた。1915年3月に尋ねたスウェーデンの[[ヨーテボリ]]では『大洋の女神』が非常に高い評価を受けた。彼は4月に[[交響曲第5番 (シベリウス)|交響曲第5番]]に取り組むさなか16羽の白鳥が飛んでいくのを目にし、これに触発されて終楽章を書いた。彼は「人生の中でも素晴らしい体験の一つだった!」との言葉を残している。交響曲に関する夏の間の進捗はわずかだったものの、50歳の誕生日を迎える12月8日までには曲を完成させることができた<ref name=wfs>{{cite web |title=The war and the fifth symphony 1915–1919 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_viides_sinfonia.htm |accessdate=13 November 2015}}</ref>。
誕生日の晩、シベリウスはヘルシンキ証券取引所(現:[[ナスダック・ヘルシンキ]])のホールにて自らの指揮で交響曲第5番を初演した。カヤヌスの絶賛にもかかわらず作曲者自身は作品に満足しておらず、間もなくして改訂に取り掛かった。この頃、シベリウスはこれまでを遥かに上回る負債を抱えつつあった。歌手の[[イダ・エクマン]]が基金の立ち上げ事業に成功して借金の大部分を返済したが、その際に彼に贈られたグランドピアノは差し押さえられる寸前であった<ref name=wfs/>。
1年後の1916年12月8日、シベリウスはトゥルクにて改訂版の第5交響曲を披露した。これは最初の2つの楽章を結合させ、終楽章を簡素化したものであった。1週間後のヘルシンキでの演奏ではカティラが非常に好意的だったのに対してワゼニウス(Wasenius)は変更に否定的であり、これによって彼は再度の改訂を行うことになった<ref name=wfs/>。
1917年のはじめからシベリウスは飲酒を再開し、アイノとの間で口論となった。[[ロシア革命]]が勃発するとその興奮により2人の仲は改善する。同年の暮れまでにシベリウスは『[[フィンランド軽歩兵隊の行進曲]]』を作曲、1917年12月にフィンランド議会が上院のロシアからの独立宣言を承認すると曲はとりわけ人気を博した。『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』の初演は1918年1月19日のことで、1月27日の[[フィンランド内戦]]の幕開けまでのわずかな間、ヘルシンキのエリート層を喜ばせた<ref name=wfs/>。シベリウスは自然と{{仮リンク|白衛軍 (フィンランド)|label=白衛軍|en|White Guard (Finland)}}の支援に回ったが、[[トルストイ運動|トルストイ運動家]]であったアイノは{{仮リンク|赤衛軍 (フィンランド)|label=赤衛軍|en|Red Guards (Finland)}}にも幾ばくか共鳴するところがあった{{sfn|Tawaststjerna|2008|p=}}。
2月、アイノラは2回にわたって武器を探す赤衛軍の地元部隊による捜索を受けた。開戦からの数週間の間にシベリウスの知人の中には暴力行為を受けて落命した者もおり、彼の弟で精神科医の[[クリスティアン・シベリウス]]は前線で[[戦闘ストレス反応|戦争神経症]]を負った赤衛軍の兵士のために病床を確保しておくことを拒否したために逮捕された。ヘルシンキにいたシベリウスの友人たちは彼の身の安全を案じていた。ロベルト・カヤヌスが赤衛軍の総司令官{{仮リンク|エーロ・ハーパライネン|en|Eero Haapalainen}}と交渉を行い、シベリウスがアイノラから首都まで安全に移動できる保証を取り付けた。2月20日、赤衛軍の兵士の一団が一家をヘルシンキまで護衛した。最終的には4月12日、13日に{{仮リンク|ヘルシンキの戦い|en|Battle of Helsinki}}でドイツ軍がヘルシンキを占領、赤衛軍の支配は終わりを告げた。1週間後、[[ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団]]がドイツの指揮官{{仮リンク|リューディガー・フォン・デア・ゴルツ|en|Rüdiger von der Goltz}}を称えるコンサートを開催、これはシベリウスの指揮による『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』にて幕を閉じた{{sfn|Tawaststjerna|2008|p=}}。
=== 回復した運勢 ===
[[File:Jean Sibelius 1923.gif|thumb|upright|シベリウス 1923年]]
1919年のはじめ、シベリウスは薄くなった頭を丸めて印象を変えようと躍起になっていた。6月には1915年以来はじめてフィンランドを離れてアイノとともにコペンハーゲンを訪れると、交響曲第2番を演奏して成功を収めた。11月に交響曲第5番の最終稿を指揮し、聴衆から幾度にもわたる喝采を浴びた。同年の暮れには彼は既に[[交響曲第6番 (シベリウス)|交響曲第6番]]の仕事を進めていた<ref name=wfs/>。
1920年、手の震えが大きくなる中、ワインの力を借りつつスオメン・ラウル合唱団のために詩人の[[エイノ・レイノ]]の詞を基に[[カンタータ]]『大地への賛歌』を作曲、また『抒情的なワルツ』を[[管弦楽法|管弦楽編曲]]した。シベリウスは1920年12月の誕生日に63,000マルクの寄付を受け取った。この大金は[[テノール]]の{{仮リンク|ワイネ・ソラ|fi|Wäinö Sola}}がフィンランドでの事業により築き上げたものだった。資金の一部は借金の返済に使われたが、ヘルシンキで行われた過度な祝賀会は一週間に及んだ<ref name=lmp>{{cite web |title=The last masterpieces 1920–1927 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_viimeiset.htm |accessdate=15 November 2015}}</ref>。
1921年のはじめにはイングランドへの演奏旅行が大きな成功を収めた。シベリウスはイングランド国内の複数の都市で第4交響曲、第5交響曲、『大洋の女神』そしていつでも人気が高かった『フィンランディア』、『悲しきワルツ』を指揮して回った。そのすぐ後、今度は[[ノルウェー]]で第2交響曲と『悲しきワルツ』を指揮している。彼は過労にあえぎ始めていたが評論家の意見は前向きなままだった。4月にフィンランドへ帰国すると、Nordic Music Daysにて『[[レンミンカイネン組曲|レンミンカイネンの帰郷]]』と第5交響曲を披露する<ref name=lmp/>。
1922年の初頭に頭痛に苦しんだシベリウスは眼鏡をかけることを決意する。しかし彼はその後も写真撮影の際にはいつも眼鏡を外していた。7月に弟のクリスティアンが永眠し、シベリウスは悲しみに暮れた。8月にフィンランドの[[フリーメイソン]]に加入してその儀式のための音楽を作曲、1923年2月には交響曲第6番が初演される。エーヴェルト・カティラは「純粋な田園詩」だとしてこれを称賛した。年の暮れにはストックホルムとローマで演奏会の指揮台に上ったが、前者が大絶賛を浴びた一方で後者には様々な評価がついた。続いてヨーテボリに向かった彼が演奏会場に到着した時には暴飲暴食し放題で苦しい状態だったにもかかわらず、迎えた聴衆は恍惚となった。飲酒を続けてアイノを狼狽させながらも、シベリウスは1924年のはじめにはどうにか[[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]]の完成にこぎつけた。3月に『交響的幻想曲』という標題の下、ストックホルムで行われた第7交響曲の最初の公開演奏は好評を博した。同交響曲は9月の終わりにコペンハーゲンで開催されたコンサート・シリーズにおいてそれを遥かに上回る喝采を浴びた。シベリウスは[[ダンネブロ勲章]]のナイトに叙される栄誉に与った<ref name=lmp/>。
この頃の多忙な活動は彼の心臓と神経を痛めていたため、同年の残り大半を休暇に充てることにした。小規模な作品をいくつか作曲しつつ、彼は次第にアルコールに頼るようになっていく。1925年5月、[[デンマーク]]の出版者のヴィルヘルム・ハンゼンとコペンハーゲンの[[王立劇場 (コペンハーゲン)|王立劇場]]が[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』上演のための付随音楽を作曲しないかと声をかけた。シベリウスは1926年3月の初演に十分余裕をもって作品を書き上げた<ref name=lmp/>。コペンハーゲンでの評判は上々だったが作曲者自身はその場に居合わせなかった<ref>{{cite web |title=Incidental music: Sibelius: Music for "The Tempest" by William Shakespeare, op. 109 (1925–26) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/nayttamo_myrsky.htm |accessdate=18 November 2015}}</ref>。
=== 最後の大規模作品 ===
[[File:Sibelius-puolisot kesäiltana kasvitarhan penkillä, 1940-1945, (d2005 167 6 101) Suomen valokuvataiteen museo.jpg|thumb|[[ヤルヴェンパー]]でのシベリウスと[[アイノ・シベリウス|アイノ]] 1940年代のはじめ]]
1926年にはシベリウスの創作活動は急激に落ち込み上昇の気配を見せなかった。第7交響曲完成後、彼は残りの生涯のうちに規模の大きな楽曲はわずかな数しか生み出さなかったのである。そうした中の2つの最重要作品は間違いなく『[[テンペスト (シベリウス)|テンペスト]]』と交響詩『[[タピオラ]]』である{{sfn|Botstein|2011}}。残りの人生30年間の大部分をシベリウスは自らの音楽について公に語ることすら避けながら過ごした{{sfn|Mäkelä|2011|pp=[https://books.google.com/books?id=KZbZJHaL_9AC&pg=PA67 67–68]}}。
シベリウスが[[交響曲第8番 (シベリウス)|交響曲第8番]]に取り組んでいたことを示す数多くの証拠が残されている。彼は1931年及び1932年に[[セルゲイ・クーセヴィツキー]]に対してこの交響曲の初演を約束しており、[[ベイジル・キャメロン]]指揮による1933年のロンドンでの演奏は一般告知されすらした。この交響曲が存在したことを紙の状態で伝える具体的な証拠は、1933年に発行された第1楽章の浄書にかかった費用の請求書、並びに2011年に初めて出版、演奏された下書き段階の短い断片のみである{{sfn|Kilpeläinen|1995}}{{sfn|Sirén|2011a}}{{sfn|Sirén|2011b}}{{sfn|Stearns|2012}}。シベリウスは常に厳しい自己批判をしていた。彼は近しい友人に「もし7番よりもよい交響曲を書くことができなかったら、7番を最後とせねばならない」と述べていた。草稿が現存しないことから、各種文献ではシベリウスが楽譜の痕跡のほとんどを破棄してしまったのだろうと考察されている。時期はおそらく、シベリウスが多量の書類を焼却したことが確実である1945年と考えられる<ref>{{cite web |title=The war and the destruction of the eighth symphony 1939–1945 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kahdeksannen_tuhoaminen.htm |accessdate=2019-03-24}}</ref>。妻のアイノは次のように回想している。
<blockquote>1940年代にアイノラで大規模な[[アウト・デ・フェ]]が行われました。夫は洗濯かごの中に大量の原稿を集め、それらをダイニングの暖炉にくべて燃やしたのです。『カレリア組曲』の一部や - 後日、引きちぎられたページの破片も目にしています - その他多くのものが失われました。私にはそこに留まるだけの強さがなく、部屋を後にしました。ですので、彼が何を火の中へ投げ込んでいたのかはわかりません。ですが、夫はこのことがあって以来穏やかになり、次第に雰囲気も明るくなっていったのです{{sfn|Ross|2009}}。</blockquote>
1939年1月1日、シベリウスは国内外向けのラジオ放送に出演し、その中で『[[アンダンテ・フェスティーヴォ]]』を自ら指揮した。放送音源として残されたこの演奏は後年CD化されている(ONDINE: ODE 992-2)。これがおそらく唯一の現存するシベリウスの自作自演だろうと思われる<ref>{{cite web |title=Inkpot Classical Music Reviews: Sibelius Karelia Suite. Luonnotar. Andante Festivo. The Oceanides. King Christian II Suite. Finlandia. Gothenburg SO/Järvi (DG) |publisher=Inkpot.com |url=http://inkpot.com/classical/sibjarvi.html |accessdate=30 January 2012 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120309132529/http://inkpot.com/classical/sibjarvi.html |archivedate=9 March 2012 |df=dmy-all }}</ref>。
=== 晩年と最期 ===
[[File:Jean Sibelius 1939.jpg|thumb|left|シベリウス 1939年]]
1903年以降長年にわたってシベリウスは田舎に居を構えてきた。1939年から彼とアイノは再びヘルシンキに住まいを持っていたが、1941年からはアイノラへと戻って時おり街を訪れるだけとなった。戦後、彼がヘルシンキに姿を見せたのはわずか数回のみである。数え切れないほどの公式の客人や同僚に加え、彼の孫やひ孫が休暇をアイノラで過ごす中、いわゆる「ヤルヴェンパーの沈黙」は神話のようなものとなっていったのである<ref name=war>{{cite web |title=The war and the destruction of the eighth symphony 1939–1945 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kahdeksannen_tuhoaminen.htm |accessdate=19 November 2015}}</ref>。
シベリウス本人は公に他の作曲家に関して発言をすることを避けていたが、[[エーリク・タヴァッシェルナ]]やシベリウスの秘書だった[[サンテリ・レヴァス]]{{sfn|Bullock|2011|pp=[https://books.google.com/books?id=S2dV9h7dR8QC&pg=PA234 233–234 note 3]}}の記録によると彼は私的な会話の中でリヒャルト・シュトラウスを賛美していた他、[[バルトーク・ベーラ]]や[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]を若い世代の最も才能ある作曲家と考えていたという{{sfn|Mäkelä|2011|pp=[https://books.google.com/books?id=KZbZJHaL_9AC&pg=PA13 13–14]}}。1950年代にはフィンランドの新鋭作曲家であった[[エイノユハニ・ラウタヴァーラ]]の名前を広めようとしている<ref>{{cite book | author=Rautavaara, Einojuhani | title=Omakuva | location=Helsinki | publisher=WSOY | year=1989 | isbn=951-0-16015-6 | pages=116–118 | language=Finnish | trans-title=Self-portrait }}</ref>。
90歳の誕生日を迎えた1955年は盛大に祝われ、[[ユージン・オーマンディ]]の指揮する[[フィラデルフィア管弦楽団]]、[[トーマス・ビーチャム]]の指揮する[[ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団]]の両楽団が彼の音楽による特別演奏を行った<ref>{{cite web|url=http://www.discogs.com/Sibelius-Eugene-Ormandy-Conducting-Philadelphia-Orchestra-Symphony-No-4-In-A-Minor-Op-63-Syphony-No-/release/3375951|title= Sibelius* / Eugene Ormandy Conducting The Philadelphia Orchestra – Symphony No. 4 In A Minor, Op. 63 / Syphony No. 5 In E-Flat Major, Op. 82 |publisher=Discogs|accessdate=9 December 2015 |language=}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.classicstoday.com/review/review-4118/|title=Beecham Sibelius Birthday C|author=Hurwitz, David|publisher=Classics Today|accessdate=9 December 2015 |language=}}</ref>。
タヴァッシェルナはシベリウスの死に関係する逸話を紹介している<ref>{{cite web |title=Proms feature #3: Sibelius and the swans |publisher=Natural Light |url=http://www.naturemusicpoetry.com/proms-2014/proms-feature-3-sibelius-and-the-swans |accessdate=19 November 2015}}</ref>。
<blockquote>[彼が]習慣にしている朝の散歩から帰ってきた。浮き立った様子の彼は妻のアイノにツルの群れが近づいてくるのを見たのだと話した。「来たんだよ、私の若いころの鳥たちが。」彼は声をあげた。突然、鳥たちの中から1羽が陣形を離れてアイノラ上空でいちど円を描いた。するとその鳥はまた群れに戻って旅を続けていったのである。</blockquote>
[[File:Jean Sibelius funeral 1957.jpg|thumb|[[ヘルシンキ]]でのシベリウスの葬儀 1957年]]
その2日後の1957年9月20日の夜、シベリウスはアイノラにて91年の生涯を閉じた。死因は[[脳内出血]]だった。彼が息を引き取ったその時、[[マルコム・サージェント]]の指揮による彼の交響曲第5番がヘルシンキからラジオ放送された。また時を同じくして開催されていた[[国際連合総会|国連総会]]では、議長で[[ニュージーランド]]代表の{{仮リンク|レスリー・マンロー|en|Leslie Munro}}が[[黙祷]]を呼びかけ、こう語りかけた。「シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです<ref>{{cite web |title=SibEUlius – Jean Sibelius 150 Years |url=http://www.finncult.be/sibeulius150-jean-sibelius/?lang=en |website=Finnish Cultural Institute for the Benelux |accessdate=23 August 2018}}</ref>。」同じ日にはやはり著名なフィンランドの作曲家だった[[ヘイノ・カスキ]]が永眠しているが、彼の死はシベリウスの訃報の陰に隠れてしまった。シベリウスは[[国葬]]によって葬られ、アイノラの庭へと埋葬された<ref>{{cite web|url=http://www.ainola.fi/eng_jean_sibelius_elamanvaiheet.php|title=Ainola - Jean Sibelius - Chronological Overview: Jean Sibelius 1865–1957|website=www.ainola.fi |accessdate=2019-03-24}}</ref>。アイノ・シベリウスはその後12年間を同じ家で暮らし、1969年6月8日に97歳で夫の後を追った。彼女も夫の側に眠っている<ref>{{cite web |title=Death and funeral 1957 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kuolema.htm |accessdate=19 November 2015}}</ref>。
== 音楽 ==
{{See also|シベリウスの楽曲一覧}}
シベリウスは交響曲と交響詩、中でも『[[フィンランディア]]』や『[[カレリア (シベリウス)|カレリア組曲]]』によって広く知られている。フィンランドにおけるその名声は1890年代に合唱交響曲『クレルヴォ交響曲』によって高まった。この作品はその後の多くの作品と同様に叙事詩『[[カレワラ]]』を描いたものである。[[交響曲第1番 (シベリウス)|交響曲第1番]]は1899年、フィンランドにナショナリズムが興っていた時期に初演され、聴衆の熱狂に迎えられた。これ以外の6曲の交響曲に加えて彼は付随音楽やその他の交響詩、とりわけ『[[エン・サガ]]』、『[[トゥオネラの白鳥]]』、『[[悲しきワルツ]]』によって国内外で人気を獲得していく<ref name=alexross>{{cite web |last=Ross |first=Alex |date=9 July 2007 |title=Sibelius: Apparition from the Woods |work=The New Yorker |url=http://www.therestisnoise.com/2007/07/sibelius-chapte.html |accessdate=24 November 2015}}</ref>。また、[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]]を含むヴァイオリンと管弦楽のための作品群、[[オペラ]]『[[塔の乙女]]』、小規模な管弦楽作品、室内楽曲、ヴァイオリンとピアノのための作品、合唱作品と数多くの歌曲を作曲した{{sfn|Poroila|2012}}。
1920年代半ば、[[交響曲第6番 (シベリウス)|交響曲第6番]]と[[交響曲第7番 (シベリウス)|第7番]]の完成後に、交響詩『[[タピオラ]]』と付随音楽『[[テンペスト (シベリウス)|テンペスト]]』を書き上げた。これ以降、彼は1957年まで生きたものの特筆すべき作品は何ひとつ世に出さなかった。数年間取り組んでいた[[交響曲第8番 (シベリウス)|交響曲第8番]]は彼が自ら焼却してしまっている<ref>{{cite web |title=Jean Sibelius |publisher=Gramophone |url=http://www.gramophone.co.uk/composers/jean-sibelius-39924 |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
音楽様式については、交響曲第1番やヴァイオリン協奏曲のような初期作品において[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の影響が特に顕著である{{sfn|Tawaststjerna|1976|p=209}}。一方でとりわけオペラに取り組んでいた一時期については[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の虜になっていた。これら以上に長期的な影響を与えたのは[[フェルッチョ・ブゾーニ]]と[[アントン・ブルックナー]]であった。しかし交響詩に関してはなにより[[フランツ・リスト|リスト]]に触発されていた<ref name="symposion"/>{{sfn|Jackson|2001|p=102}}。ブルックナーとの類似性は管弦楽曲で金管楽器の活躍が目立つことや、彼の音楽が概して遅いテンポを取ることに見出される{{sfn|Barnett|2007|p=[https://books.google.com/books?id=vkIWs6nvRs8C&pg=PA63 63]}}<ref>{{cite web |author=Kalamidas, Thanos |date=12 August 2009 |title=Jean Sibelius |work=Ovi Magazine |url=http://www.ovimagazine.com/art/5165 |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
シベリウスは自作から[[ソナタ形式]]の型として決まったものを取り除いていく形で進化を遂げ、複数の主題を対比するのではなく、小さな塊や断片的な主題が持続的に発展していき頂点において大きく提示されるという発想に目を向けた。彼の後期作品は主題を置換しつつ派生させていくという方法により進む、その途切れることのない展開の感覚という点で注目される。この合成過程が完璧であり有機的に感じられることから、シベリウスが最終的な主題提示から遡る形で作品を書いたのではないかと主張する者もいた。しかし、その逆に現実には3音もしくは4音から成る塊や旋律の断片が発展、拡大して大きな「主題」へと至ったのだということが分析により証明されている{{sfn|Pike|1978|page=93}}。
[[File:Jean Sibelius by Eero Järnefelt 1892.jpg|thumb|upright|義兄[[エーロ・ヤルネフェルト]]によるシベリウスの肖像 1892年]]
この自己完結型の構造は交響曲の分野でシベリウスの第一の好敵手であった[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の交響曲の様式と著しい対照を成す{{sfn|Botstein|2011}}。両作曲家の作品では主題の変奏が主要な役割を果たすが、マーラーの方法論では不連続で急激に変化して対比を生み出す主題が用いられたのに対し、シベリウスは主題要素を時間をかけて変化させるよう努めた。1907年11月にマーラーがフィンランドへの演奏旅行を引き受け、この2人の作曲家は連れ立って長い散歩に出ることができた。シベリウスは次のようにコメントを残している。
<blockquote>私は[その交響曲の]様式の厳格さと論理の深遠さが全てのモチーフの間に内的な結びつきを生み出していることを称賛した(中略)マーラーの意見はちょうど正反対であった。「いえ、交響曲というものは世界でなくてはならないのです。ありとあらゆるものを内包していなくてはなりません{{sfn|James|1989|p=41}}。」</blockquote>
=== 交響曲 ===
[[File:Robert Kajanus (14854805748).jpg|left|thumb|[[ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団]]の創設者であり首席指揮者であった[[ロベルト・カヤヌス]]。シベリウスの交響曲の解釈で知られていた。]]
『[[クレルヴォ交響曲]]』を除いて、7曲の交響曲が[[1900年]]から[[1924年]]の間に作られている。初期(第1番、第2番)は当時の流行に沿って[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響の下、大規模で[[後期ロマン派]]的な傾向を持つ作品が多いが、中・後期(第3番以降)には[[古典派音楽|古典派]]や[[印象派]]の様式を取り入れ、より内省的で簡潔なスタイルへと移行した。1891年に作曲された『序曲 ホ長調』(JS 145)と『バレエの情景』(JS 163)は、当初は最初の交響曲(後の第1番とは別)の楽章として構想されたものであった。
シベリウスは1898年に[[交響曲第1番 (シベリウス)|交響曲第1番]] [[ホ短調]] [[作品番号|作品]]39の作曲に取り掛かり、1899年の初頭、33歳でこれを完成させている。初演は1899年4月26日に作曲者自身の指揮により[[ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団]]の演奏で行われて好評を博した。この時に演奏されたオリジナル版は現存してない。初演後にシベリウスはいくつかの改訂を加えており、これが今日演奏される版となっている。改訂は1900年の春から夏にかけて完了し、1900年7月18日、[[ベルリン]]で[[ロベルト・カヤヌス]]指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によって初演された<ref>David Ewen, ''Music for the Millions – The Encyclopedia of Musical Masterpieces'' (READ Books, 2007) p533</ref>。この交響曲は控えめな[[ティンパニ]]を伴った[[クラリネット]]の非常に独創的でやや侘しげな[[ソロ (音楽)|独奏]]で開始する<ref>{{cite web |title=First symphony op. 39 (1899–1900) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_01.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
シベリウスの交響曲の中で最も人気が高く録音機会の多い[[交響曲第2番 (シベリウス)|交響曲第2番]]は、1902年3月8日に作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で初演された。開始部の上昇形の和音が作品全体のモチーフとなっている。フィナーレにおける3音からなる英雄的な主題は、最初に登場した際は木管楽器で奏されていたものがここでは[[トランペット]]により奏でられる。[[ロシア帝国]]による抑圧下にあって曲はシベリウスの名声を国民的英雄にまで高めた。彼は初演後にいくつかの改訂を施しており、改訂版は1903年11月10日に[[ストックホルム]]において[[アルマス・ヤルネフェルト]]の指揮により初演された<ref>{{cite web |title=Second symphony op. 43 (1902)
|work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_02.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
[[交響曲第3番 (シベリウス)|交響曲第3番]]は耳当たりがよく、大団円で終結するが、そうとは見せず簡素な響きを持った作品である。初演は1907年9月25日、作曲者自身の指揮の下、ヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で行われた。作品のはじめに出てくる和音にはフィンランドの民謡から採られた主題がある。[[アイノラ]]へ移り住んだすぐ後に書かれたこの作品では、フィナーレの行進曲的な曲調へと発展していく表現方法が明瞭に示されており、先の2曲の交響曲とは際立った対比を成している<ref name=alexross/><ref>{{cite web |title=Third symphony op. 52 (1907) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_03.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。[[交響曲第4番 (シベリウス)|交響曲第4番]]は1911年4月3日、ヘルシンキにて作曲者の指揮、フィルハーモニア協会の演奏で初演された。曲が書かれた時期にシベリウスは喉からの腫瘍を除去するための数回の手術を経験していた。この曲の持つ凄味は禁酒の決意からくる反応と説明することも可能といえる。[[チェロ]]、[[コントラバス]]、[[ファゴット]]で開始するはじめの数小節では[[拍子]]に対して新たなアプローチが試みられている。その後はポー(Poe)の『The Raven』に付した憂鬱なスケッチに基づいて展開する。弱まっていくフィナーレは20年後にシベリウスが経験することになる沈黙の予感であるとも言いえる。同時代に一般的だった威勢の良いフィナーレとは対照的に、この作品は簡単に「重苦しく落ちる音」(leaden thud)により終結する<ref name=alexross/>。
[[交響曲第5番 (シベリウス)|交響曲第5番]]は1915年12月8日、シベリウスの50回目の誕生日にヘルシンキで作曲者自身により初演されて大絶賛を浴びた。今日最も一般的に演奏されるのは1919年に発表された、全3楽章からなる最終稿である。第5番はシベリウスの交響曲の中で唯一全曲を通して長調をとる。[[ホルン]]による柔らかい冒頭部に開始した曲は、様々な主題を大きく変化を加えつつ交代で繰り返しつつ展開し、終楽章でトランペットが奏する賛歌へと発展していく<ref name=alexross/><ref>{{cite web |title=Fifth symphony op. 82 (1915–1919) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_05.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。第5交響曲の時点で既にソナタ形式から離れる方向へと舵を切りはじめていたが、1923年に作曲者自身が初演した[[交響曲第6番 (シベリウス)|交響曲第6番]]ではさらに一層伝統的な規則を排することになった。[[エーリク・タヴァッシェルナ]]は「[終楽章の]構造はよく知られた形式には従っていない」と述べている{{sfn|Jackson|2001|p=322}}。[[ドリア旋法]]で書かれたこの曲には、第5交響曲の作曲中に着想を得た主題群や抒情的なヴァイオリン協奏曲に用いられる予定だった素材などが転用されている。純化された方法論を取るにあたって、シベリウスは第5交響曲の重厚な金管楽器に変えて[[フルート]]と弦楽器を使用し、カクテルではなく「春の水」を提供しようとしたのである<ref>{{cite web |title=Sixth symphony op. 104 (1923) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_06.htm |accessdate=26 November 2015}}</ref>。
[[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]]は交響曲の中では最後に出版された作品となった。1924年に完成されたこの作品は単一楽章形式であることが特筆される。「形式はまったく独創的でテンポの操作は緻密、調性の扱いは独特であり完全に有機的に発展する」と形容される{{sfn|Layton|2002|p=479}}。またこの作品は「シベリウスが作曲した最も優れた偉業」とも言われる<ref>{{harvnb|Hepokoski|2001}}. Quoted by {{harvnb|Whittall|2004|p=61}}.</ref>。当初は『交響的幻想曲』と名付けられ、1924年3月にストックホルムでシベリウス自身の手で初演された。楽曲は彼が10年近く前にスケッチしていた[[wikt:adagio|アダージョ]]の楽章に基づいている。弦楽器が主体となるが、[[トロンボーン]]による特徴のある主題も聞かれる<ref>{{cite web |title=Seventh symphony op. 105 (1924) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_07.htm |accessdate=26 November 2015}}</ref>。
=== 音詩・交響詩 ===
7曲の交響曲とヴァイオリン協奏曲に次いでシベリウスの13曲の交響詩は彼の最も重要な管弦楽作品であり、[[リヒャルト・シュトラウス]]の交響詩に並んでリストが創始したジャンルを代表する最重要の作品群を形成している。全体としてみると交響詩の創作はシベリウスの芸術家としてのキャリア全般に及んでおり<ref group= "注">最初の1892年、最後が1925年に世に出される。</ref>、彼がいかに自然とフィンランド神話、特に『カレワラ』に魅了されていたのかが窺い知れる。また、これらによって彼の作風が時とともに成熟していく様を余すことなくつぶさに知ることができる{{sfn|Layton|1965|p=95}}。なお、このジャンルにおけるシベリウスの作品は多くが「音詩」(Tondichtung)と題されており、明確に「交響詩」(Sinfonische Dichtung)と銘打ってあるものは最後の作品となった『タピオラ』のみである。
『[[エン・サガ]]』(「おとぎ話」の意)はシベリウス自身の指揮で1893年に初演された。この単一楽章の交響詩は[[アイスランド]]の神話的作品である『[[スノッリのエッダ|エッダ]]』から影響を受けている可能性も考えられるが、作曲者本人は単に「[自分の]心の状態の表出」であると語っている。弦楽器による夢見るような主題に始まると木管楽器、次いで金管楽器と[[ヴィオラ]]と発展していき、シベリウスのオーケストラ操作能力が示される<ref>{{cite web |title=En Saga |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_satu.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。この作品は彼にとって初めての重要な管弦楽作品であり、ブゾーニの招きによりベルリンで自作を演奏することになった1902年に改訂されている。この時の成功に勇気づけられた彼は[[アイノ・シベリウス|アイノ]]に次のように書き送った。「私は熟達した『芸術家』として認められたよ{{sfn|Wicklund|2014|p=30}}。」
『[[森の精 (管弦楽のためのバラード)|森の精]]』は管弦楽のための単一楽章の交響詩で、[[スウェーデン]]の詩人{{仮リンク|ヴィクトル・リュードベリ|en|Viktor Rydberg}}の同名の作品に霊感を受けて1894年に作曲された。初演は1895年4月にヘルシンキにてシベリウス自身の指揮で行われた。構成的には4つの部分に分けることが可能であり、それぞれが詩の4つの節に対応してそこに描かれた物語の雰囲気を想起させる。一つ目が英雄の活力、二つ目が熱狂的な行動、三つ目は官能的な愛、四つ目が癒すことのできない悲しみである。音楽自体は美しい仕上がりであるが、多くの批評家はシベリウスが題材とした物語の構造に「過度に依存」していると非難している{{sfn|Kurki|1999}}<ref>{{cite web |title=Other orchestral works |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_muita_metsanhaltijatar.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
『[[レンミンカイネン組曲]]』は1890年代初頭に書き上げられた。元々は神話に題材を採ったオペラ『[[船の建造 (オペラ)|船の建造]]』として、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の[[オペラ#ヴァーグナー|楽劇]]に匹敵する規模の作品として構想された。しかしシベリウスは後に考えを改め、作品は4つの楽章から成る管弦楽作品となった。この組曲はフィンランドの民族[[叙事詩]]『カレワラ』の登場人物レンミンカイネンに基づいている。この作品は連作交響詩であると捉えることもできる。第2曲(発表時は第3曲)の『[[トゥオネラの白鳥]]』は単独でもしばしば演奏される<ref>{{cite web |title=Lemminkäinen |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_lemminkainen.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
『[[フィンランディア]]』は非常に愛国的な作品であり、シベリウスの全作品の中でもおそらく最も人口に膾炙した楽曲である。初演が行われたのは1899年11月で、当初は新聞の日を祝うための一連の作品のうちのひとつだった。改訂版は1900年7月に初演されている<ref name=incidental/>。現在の表題が出てきたのはさらに後のことで、最初はピアノ編曲版がそう呼ばれ、その後1901年にカヤヌスが管弦楽版を演奏した際に『フィンランディア』という名称を用いた。シベリウス自身は本来管弦楽曲であると強調していたが、特に賛歌としてのエピソードによりこの作品は合唱曲としても世界的な人気を獲得した。ついには作曲者自身も同意し1937年に[[フリーメイソン]]のために、1940年により一般的に使用できるよう賛歌として歌詞を加えることを認めた<ref>{{cite web |title=Finlandia |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_finlandia.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。愛国的な感情を呼び覚ますとされ、当時支配を受けていた[[ロシア帝国|ロシア]]当局の[[弾圧]]を受けた結果、別名で演奏されたこともある。
『[[大洋の女神]]』は1913年から1914年にかけて作曲された単一楽章の交響詩である。表題は[[ギリシア神話]]において[[地中海]]に住むとされる[[オーケアニス]]のことを指している。初演は1914年6月4日に[[アメリカ合衆国]]、[[コネチカット州]]の{{仮リンク|ノーフォーク (コネチカット州)|label=ノーフォーク|en|Norfolk, Connecticut}}で催された[[ノーフォーク室内楽音楽祭]]においてシベリウス自身の指揮によって行われた。初演の際に「これまで音楽で行われた中で海を想起させる最良のもの」と称賛されたこの作品は{{sfn|Barnett|2007|p=242}}、厳格でない3つの部分で2つの主題が次第に展開されることによって進行する。第1の部分が穏やかな海、第2の部分が激しさを増す嵐、第3の部分が雷鳴のごとく打ち付ける波によるクライマックスである。嵐が静まり、最後の和音が海の巨大な力と限りない広がりを象徴するように響く{{sfn| Kilpeläinen|2012|p=viii}}。
『[[タピオラ]]』は最後の主要な管弦楽作品となった楽曲である。[[ウォルター・ダムロッシュ]]により[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィルハーモニック協会]]のためにとして委嘱され、同管弦楽団により1926年12月26日に初演された。曲は『カレワラ』に登場する精霊である[[タピオ]]に着想を得ている。アメリカの音楽評論家[[アレックス・ロス (音楽評論家)|アレックス・ロス]]の言葉を引用すると、この作品は「シベリウスの最も厳しく、濃縮された音楽表現となった<ref name=alexross/>。」作曲家で伝記作家の[[セシル・グレイ (作曲家)|セシル・グレイ]]は一層強い調子で次のように断言している。「たとえシベリウスが他に何も作曲していなかったとしても、この作品ひとつのみで彼は史上最も偉大な巨匠のひとりに位置付けられただろう<ref>{{cite web |title=Tapiola |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_tapiola.htm |accessdate=28 November 2015}}</ref>。」
=== その他主要作品 ===
『[[カレリア (シベリウス)|カレリア]]』はシベリウスの初期作品のひとつであり、[[ヴィープリ]]の学生団体のために書かれ1893年11月13日に騒がしい聴衆へ向けて初演された。組曲版は11月23日の演奏会に序曲と3曲からなる形で登場し、作品11の『カレリア組曲』として出版された。この作品はシベリウスの楽曲でも指折りの人気作品であり続けている<ref>{{cite web |title=Other orchestral works: Karelia Music, Overture and Suite |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_muita_karelia.htm |accessdate=28 November 2015}}</ref>。
『[[クオレマ|悲しきワルツ]]』は元来、シベリウスの義理の兄にあたる{{仮リンク|アルヴィド・ヤルネフェルト|en|Arvid Järnefelt}}による1903年の戯曲『[[クオレマ]]』のために書かれた[[付随音楽]]だった。現在では独立した演奏会用作品としてより広く知られている。シベリウスは1903年12月2日の『クオレマ』上演のために6つの楽曲を作曲した。ワルツが使われるのは女性が死の床から起き上がり幽霊と踊る場面である。1904年、シベリウスは4月25日のヘルシンキでの演奏のために手直しを行っており、その際に曲は『悲しきワルツ』と銘打たれた。瞬く間に成功を収めた本作は単独でも取り上げられるようになり、今もなおシベリウスの代表作としての地位を保っている<ref name=wod/><ref>{{cite web |author=Steinberg, Michael |title=Sibelius: Valse Triste, Opus 44 |publisher=San Francisco Symphony |url=https://www.sfsymphony.org/Watch-Listen-Learn/Read-Program-Notes/Program-Notes/Sibelius-Valse-triste.aspx |accessdate=28 November 2015 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151208060752/https://www.sfsymphony.org/Watch-Listen-Learn/Read-Program-Notes/Program-Notes/Sibelius-Valse-triste.aspx |archivedate=8 December 2015 |df=dmy-all }}</ref>。
[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]] ニ短調は[[ヴィクトル・ノヴァチェク]]の[[ソロ (音楽)|独奏]]で1904年2月8日に初演された。シベリウスが曲を完成させたのが初演間際であったためノヴァチェクは十分な練習時間を取ることができず、その結果初演は悲惨なものとなってしまった。大幅な改訂を経て、新たな版が1905年10月19日に[[リヒャルト・シュトラウス]]の指揮する[[シュターツカペレ・ベルリン|ベルリン王立宮廷楽団]]により初演されている。[[カレル・ハリーシュ]]が管弦楽のコンサートマスターと独奏を兼務し、曲は大成功を収めた<ref name="Madison Symphony">{{cite web |author=Allsen, J. Michael |title=Madison Symphony Orchestra Program Notes |publisher=University of Wisconsin-Whitewater |url=http://facstaff.uww.edu/allsenj/MSO/NOTES/0809/5.Jan09.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090504020346/http://facstaff.uww.edu/allsenj/MSO/NOTES/0809/5.Jan09.html |archivedate=4 May 2009 |accessdate=2019-04-04}}</ref>。以降徐々に人気を獲得したこの作品は、現在では20世紀に作曲されたヴァイオリン協奏曲の中でも有数の録音頻度を誇るまでになっている<ref>{{cite web |title=Violin concerto |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_viulukonsertto.htm |accessdate=28 November 2015}}</ref>。
『[[クレルヴォ交響曲]]』もシベリウス初期作品のひとつで、[[合唱交響曲]]であるとされることも多いが交響詩風の5つの管弦楽曲から成る組曲とした方がより正確である{{sfn|Eden|2010|p=[https://books.google.com/books?id=AOS74uZTasYC&pg=PA149 149]}}。『カレワラ』の登場人物である[[クッレルヴォ]]を題材としている。初演は1892年4月28日、[[エミー・アクテ]]と{{仮リンク|アブラハム・オヤンペラ|fi|Abraham Ojanperä}}を独唱者に据え、シベリウス自身が設立間もないヘルシンキ管弦楽協会のオーケストラと合唱を指揮して行われた。この作品はシベリウスの生前には5回しか演奏されることがなかったが、1990年代以降は演奏会と録音の両面で人気の高まりを見せている<ref>{{cite web |title=Kullervo |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_kullervo.htm |accessdate=29 November 2015}}</ref>。
== フリーメイソン ==
ロシア統治下では禁止されていたフリーメイソンが復活を遂げると、シベリウスは1922年にスモイ・ロッジ1番の創立メンバーとなり、後にフィンランドのグランド・ロッジのグランド・オルガニストとなっている。1927年にはフィンランドで用いられる儀式用音楽(作品113)を作曲しており、1946年にも2曲を加えている。1948年の儀式用音楽の改訂新版は彼の最後の作品のひとつである<ref>{{cite web |title=Music for Freemasonry |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/vapaamuurari.ht |accessdate=11 November 2015 }}{{dead link|date=December 2017 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。
== 自然 ==
シベリウスは自然を愛し、フィンランドの風景はしばしば彼の音楽の題材となった。彼は自らの交響曲第6番について「[曲は]いつも私に初雪のにおいを思い出させる」と語っていた。アイノラを囲む森が彼に『タピオラ』の霊感を与えたと言われることも多い。彼の伝記作家であるタヴァッシェルナは、シベリウスの自然との結びつきについて次のように記している。
<blockquote>北欧の基準で考えたとしても、シベリウスは自然がもたらす空気と四季の変化に対して例外的な熱意でもって応じていた。彼は双眼鏡を手に湖の氷の上を渡る[[雁|ガン]]を眺め、[[ツル]]の金切り声に耳を傾け、アイノラのすぐ下の湿地からこだましてくる[[シギ科|シギ]]の鳴き声を聞いていた。春の花を余すところなく味わうのは秋のにおいと色使いに対しても同じだった{{sfn|Tawaststjerna|1976|p=21}}。</blockquote>
== 評価 ==
[[File:Leevi Madetoja (circa 1930s).jpg|thumb|left|シベリウスの高弟、批評家で師の作品を擁護した[[レーヴィ・マデトヤ]]]]
[[File:Musik Meile Wien, Jean Sibelius (22).jpg|thumb|ウィーン、ムジーク・マイレのシベリウスの星板。]]
[[ファイル:SibeliusAndOrmandy1951.jpg|サムネイル|シベリウス(左後ろ向き)と歓談するユージン・オーマンディ(右)(1951年)]]
シベリウスは英語圏並びに北欧の国々において交響曲作曲家と音楽界に多大な影響を与えた。フィンランドの交響曲作曲家であった[[レーヴィ・マデトヤ]]はシベリウスの弟子だった。イギリスでは[[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ]]が[[交響曲第5番 (ヴォーン・ウィリアムズ)|交響曲第5番]]、[[アーノルド・バックス]]も[[交響曲第5番 (バックス)|交響曲第5番]]と両名がともに交響曲第5番をシベリウスに献呈している。さらに、『タピオラ』の影響はバックスの[[交響曲第6番 (バックス)|交響曲第6番]]と[[アーネスト・ジョン・モーラン]]の[[交響曲 (モーラン)|交響曲]]に色濃く表れている<ref>{{cite web |title=Sir Arnold Bax |publisher=Chandos |url=http://www.chandos.net/pdf/CHAN%2010122.pdf |accessdate=5 December 2015 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923202420/http://www.chandos.net/pdf/CHAN%2010122.pdf |archivedate=23 September 2015 |df=dmy-all }}</ref>{{sfn|Schaarwächter|2015|p=[https://books.google.com/books?id=EIvoCQAAQBAJ&pg=PA494 494]}}。また[[ウィリアム・ウォルトン]]の[[交響曲第1番 (ウォルトン)|交響曲第1番]]からもシベリウスの作曲法の影響が強く感じられる{{sfn|Freed|1995}}。これらやその他のイギリスの交響的作品が作曲されていた1930年代にはシベリウスの音楽は大流行しており、その裏には[[トーマス・ビーチャム]]や[[ジョン・バルビローリ]]らのような指揮者による演奏会と録音の両面からの下支えがあった。ウォルトンの友人の作曲家[[コンスタント・ランバート]]はシベリウスが「頭の中で交響曲形式という意味で自然に思考できる[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]以来はじめての偉大な作曲家」であると言い切っていた{{sfn|Lambert|1934|p=318}}。それ以前にも[[グランヴィル・バントック]]がシベリウスを擁護している<ref group= "注">彼らは互いに尊重し合っており、シベリウスは交響曲第3番をバントックに献呈した他、1946年にはバントック協会の初代会長に就任している。</ref>。さらに最近では、[[ロバート・シンプソン]]が擁護した作曲家の中にシベリウスも入っていた。[[マルコム・アーノルド]]はシベリウスからの影響を認めており、[[アーサー・バターワース]]はシベリウスの音楽が自作の着想の源であると看做していた{{sfn|Walker|2008}}。[[セシル・グレイ (作曲家)|セシル・グレイ]]はシベリウスを「ベートーヴェン以後最大のシンフォニスト」であると呼び、交響曲第4番について「無駄な音符が一つもない」と最大の賛辞を寄せた。
[[ユージン・オーマンディ]]と、貢献度は下がるが[[フィラデルフィア管弦楽団]]で彼の前任者だった[[レオポルド・ストコフスキー]]は、シベリウスの作品を頻繁にプログラムに取り入れることによってその音楽がアメリカの聴衆へ届けられることを助けた。オーマンディはシベリウスと生涯を通じた親交を築いている。後半生においてシベリウスはアメリカの評論家[[オーリン・ダウンズ]]からも擁護されており、ダウンズはシベリウスの伝記も著している{{sfn|Goss|1995}}。
[[テオドール・アドルノ]]は1938年に発表した批判的論評において、次のような非難を行ったことで悪名高い。「もしシベリウスがよいというのであれば、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]から[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]まで連綿と受け継がれた音楽の特質は無効化されてしまうだろう。それは内的な繋がりの豊かさ、[[アーティキュレーション (音楽)|アーティキュレーション]]、多様性の中にある統一性、『単一性』の中にある『多面性』である{{sfn|Adorno|1938}}。」アドルノは当時『{{仮リンク|ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン|en|New York Herald Tribune}}』紙の音楽評論家を務めていた[[ヴァージル・トムソン]]に自らの論評を送付している。トムソン自身もシベリウスに批判的であったにもかかわらず、彼は論評の情緒面に同意しつつもアドルノに対して「その論調がシベリウスに対してではない[アドルノへの]敵対心の方をより多く生み出し[た]」と明言している{{sfn|Ross|2009}}。その後、この両者と指揮者の[[ルネ・レイボヴィッツ]]は1955年の小冊子の表題でシベリウスを「世界最低の作曲家」と書きすらした{{sfn|Leibowitz|1955}}。
シベリウスが評論家から称賛と怒りの両方を集めた理由のひとつには、彼が7曲の交響曲の各々において独特の個性的な方法によって形式、調性そして構造に関する基礎的な問題に挑んだということがあるのだろう。彼の交響曲(及び調性)の創造は新奇なものであったが故に、音楽は異なる道を辿っていくべきだと考える者もいたのである{{sfn|Mäkelä|2011|p=[https://books.google.com/books?id=KZbZJHaL_9AC&pg=PA269 269]}}。批判に対する彼の反応はそっけないものだった。「評論家の言うことに耳を貸してはならない。これまで評論家の彫像が建てられたことなどないのだから<ref name=alexross/>。」
[[File:Hameenlinna Sibelius House 1.jpg|thumb|[[ハメーンリンナ]]にあるシベリウスの生家。]]
20世紀の終わり数十年までくると、シベリウスは一層好意的に取られられるようになってきた。[[作家]]の[[ミラン・クンデラ]]によるとシベリウスの取り組み方は状況の絶え間ない進展の外部に立脚した「アンチモダンなモダニズム」のそれであるという{{sfn|Ross|2009}}。1990年には作曲家の[[シア・マスグレイヴ]]はヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団からシベリウスの生誕125周年を記念した作品の委嘱を受け、書き上げられた『Song of the Enchanter』が1991年2月14日に初演された<ref>{{cite web |title=Song of the Enchanter |publisher=Thea Musgrave |url=http://www.theamusgrave.com/html/song_of_the_enchanter.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150610024749/http://www.theamusgrave.com/html/song_of_the_enchanter.html |archivedate=10 June 2015 |accessdate=2019-04-04}}</ref>。1984年、アメリカの[[アヴァンギャルド|前衛]]作曲家[[モートン・フェルドマン]]はドイツの[[ダルムシュタット]]で行った講義の中で「皆さんが急進的だと考える人物は実のところ保守的だということもあるかもしれませんし - 皆さんが保守的だと考える人物が実のところ急進的だということもあるかもしれません」と語ったところでシベリウスの第5交響曲を鼻歌で歌い始めた{{sfn|Ross|2009}}。
[[ピューリッツァー賞]]を受賞した音楽評論家の[[ティム・ペイジ (音楽評論家)|ティム・ペイジ]]は1996年、次のように書いている。「シベリウスについてすぐさま言わねばならないことが2つある。ひとつは彼がひどく不均衡だということ(彼の室内楽曲、多数の歌曲、そして大量のピアノ音楽の多くが19世紀の二流のサロン作曲家に混ざる形で、午後の時間に時折演奏される程度だったのではなかろうか)。もうひとつは、最良の状態にあっても彼はしばしば奇妙であるということだ<ref>{{cite web |last=Page |first=Tim |date=29 September 1996 |title=FINN DE SIECLE |work=The Washington Post |url=https://www.washingtonpost.com/archive/lifestyle/style/1996/09/29/finn-de-siecle/3c8f1482-a6f8-4605-b0d1-f9e2f06bac8d/ |accessdate=11 January 2016}}</ref>。」シベリウスのピアノ音楽に対するペイジの査定を埋め合わせするのはピアニストの[[レイフ・オヴェ・アンスネス]]である。彼はこの作品群の出来がまちまちであることを認めつつも、批評の対象とされないことが常態化している現状は不当であると考えている。一部のピアノ作品を選んで演奏した際に彼が気付くのは、聴衆が「有名作曲家にこれほどまでに美しく、理解しやすいにもかかわらず知られていない音楽があろうとは、と驚く」ことである<ref>Andsnes, Leif, liner notes for "Leif Ove Andsnes, Sibelius" Sony Classical CD 88985408502 © 2017</ref>。
2015年12月8日のシベリウス生誕150周年に合わせ、ヘルシンキ・ミュージック・センターは図解と語りによる『シベリウス・フィンランド・エクスペリエンス・ショー』を2015年の夏季に毎日開催することを計画した。企画は2016年、2017年にも延長開催となった<ref>{{cite web |title=Sibelius Finland Experience |publisher=Musiikkitalo |url=https://www.musiikkitalo.fi/en/event/sibelius-finland-experience |accessdate=5 December 2015}}</ref>。12月8日当日には[[ヨン・ストルゴールズ]]指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏で『エン・サガ』、『ルオンノタル』と交響曲第7番を取り上げた記念演奏会が開催された<ref>{{cite web |title=Sibelius 150 |publisher=Helsinki Philharmonic Orchestra |url=http://helsinginkaupunginorkesteri.fi/en/node/159 |accessdate=6 December 2015}}</ref>。
[[日本]]においては[[菅野浩和]]が1967年に『シベリウス -生涯と作品-』([[音楽之友社]])を上梓している。[[1986年]]には、{{仮リンク|H.I.ランピラ|fi|Hannu-Ilari Lampila}}の『シベリウスの生涯』([[稲垣美晴]]訳、[[筑摩書房]])が訳出されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480870889/ |title=シベリウスの生涯 |publisher=[[筑摩書房]] |accessdate=2019-04-08}}</ref>。[[1984年]]には日本シベリウス協会が発足し、[[渡邉暁雄]]が初代会長を務めた。2015年には、神部智が『シベリウスの交響詩とその時代 神話と音楽をめぐる作曲家の冒険』(音楽之友社)を出版。また2017年、神部智の執筆による『作曲家・人と作品 シベリウス』(音楽之友社)が第30回ミュージック・ペンクラブ音楽賞(研究・評論部門賞)を受賞している。
== 遺されたもの ==
1972年、存命のシベリウスの娘たちが[[アイノラ]]をフィンランド政府へと売却した。教育省と[[フィンランド・シベリウス協会]]が1974年から施設を博物館として公開している。フィンランド100[[フィンランド・マルッカ|マルッカ]]紙幣には、2002年の[[ユーロ]]導入までシベリウスの肖像が描かれていた<ref name="Setelit.com"/>。2011年からはフィンランドでは彼の誕生日である12月8日を旗の日として祝っており、この日は「フィンランド音楽の日」としても知られている<ref name="intermin.fi"/>。生誕150周年にあたる2015年にはヘルシンキ市内を中心に数多くの特別演奏会や行事が行われた<ref name="Visit-Helsinki"/>。
1965年の第1回から年ごとに開催されている[[シベリウス国際ヴァイオリン・コンクール]]、1967年に除幕されたヘルシンキの[[シベリウス公園]]の[[シベリウス・モニュメント]]、1968年に開館を迎えた[[トゥルク]]の[[シベリウス博物館]]、2000年のこけら落としとなった[[ラハティ]]の[[シベリウス・ホール]]は全てシベリウスを記念して名付けられたものである。小惑星[[シベリウス (小惑星)|シベリウス]]も同様である<ref name="MPC-Sibelius">{{cite web |title=1405 Sibelius (1936 RE) |work=Minor Planet Center |url=https://www.minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=1405 |accessdate=22 November 2015}}</ref>。
シベリウスは1909年から1944年にかけて日記を付けており、2005年に遺族から未省略での出版の許可が出された。そこで{{仮リンク|ファビアン・ダールストレム|fi|Fabian Dahlström}}が編集を行い、同年にスウェーデン語版が出版されている<ref>{{cite book | author=Sibelius, Jean | editor=Fabian Dahlström | title=Dagbok 1909–1944 | publisher=Svenska litteratursällskapet i Finland | location=Helsingfors | year=2005 | isbn=951-583-125-3 | language=Swedish }}</ref>。またシベリウス生誕150周年の記念として、2015年にはフィンランド語でも日記の全編が出版されている<ref>{{cite book | author=Sibelius, Jean | editor=Fabian Dahlström | title=Päiväkirja 1909–1944 | publisher=Svenska litteratursällskapet i Finland | location=Helsinki | year=2015 | isbn=978-951-583-288-7 | language=Finnish }}</ref>。シベリウスの書簡集についても、数巻分が編集されてスウェーデン語、フィンランド語、英語にて出版されている。
フィンランド語で[[エーリク・タヴァッシェルナ]]が著した3巻からなる評伝があり、ロバート・レイトンにより英訳もされている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group= "注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 文献 ==
=== 参考文献 ===
{{refbegin |colwidth=30em}}
* {{Cite book |和書 |year=1994 |title=作曲家別名曲解説ライブラリー18 北欧の巨匠 |publisher=[[音楽之友社]]}}
* {{Cite book |和書 |author=マッティ・フットゥネン |others=[[菅野浩和]]訳、[[舘野泉]]監修 |year=2000 |title=シベリウス - 写真でたどる生涯 |publisher=音楽之友社}}
* {{Cite book |和書 |author=松原千振 |year=2013 |title=ジャン・シベリウス 交響曲でたどる生涯 |publisher=アルテス・パブリッシング}}
* {{cite journal |last=Adorno |first=Theodor |year=1938 |pages=460–463 |title=Törne, B. de, Sibelius; A Close Up |journal=Zeitschrift für Sozialforschung |volume=7 |ref=harv}} Later reprinted as "Glosse über Sibelius". Cited and translated in {{cite book |last=Jackson |first=Timothy L. |year=2001 |page=xviii |title=Sibelius Studies |contribution=Preface |editor1-last=Jackson |editor1-first=Timothy L. |editor2-last=Murtomäki |editor2-first=Veijo |publisher=[[Cambridge University Press]] |isbn=978-0-521-62416-9 |url=https://books.google.com/books?id=6p9lAkbz7fAC&pg=PR18&vq=%22if+sibelius+is+good%22&dq=%22sibelius+studies%22}}
* {{cite book |last=Barnett |first=Andrew |year=2007 |title=Sibelius |publisher=Yale University Press |isbn=978-0-300-11159-0 |ref=harv}}
* {{cite news |last=Botstein |first=Leon |date=14 August 2011 |title=The Transformative Paradoxes of Jean Sibelius |work=The Chronicle of Higher Education |url=http://chronicle.com/article/The-Transformative-Paradoxes/128563/ |accessdate=21 January 2014 |ref=harv |author-link=レオン・ボットスタイン}}
* {{cite book |last=Bullock |first=Philip Ross |year=2011 |title=The Correspondence of Jean Sibelius and Rosa Newmarch, 1906–1939 |location=Woodbridge |publisher=Boydell & Brewer |isbn=978-1-84383-683-4 |url=https://books.google.com/books?id=S2dV9h7dR8QC&pg=PA234 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Eden |first=Bradford Lee |year=2010 |title=Middle-earth Minstrel: Essays on Music in Tolkien |publisher=McFarland |isbn=978-0-7864-5660-4 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Ekman |first=Karl |year=1972 |title=Jean Sibelius, his Life and Personality |publisher=Greenwood Press |isbn=978-0-8371-6027-6 |ref=harv}}
* {{cite web |last=Freed |first=William |year=1995 |title=William Walton, Symphony No. 1 in B-flat minor, 1968 version] |publisher=The Kennedy Center for Performing Arts |url=http://www.kennedy-center.org/calendar/?fuseaction=composition&composition_id=3158 |accessdate=29 June 2011 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Goss |first=Glenda Dawn |year=1995 |title=Jean Sibelius and Olin Downes: music, friendship, criticism |publisher=Northeastern University Press |isbn=978-1-55553-200-0 |url=https://books.google.com/books?id=gPsXAQAAIAAJ |ref=harv}}
* {{cite book |last=Goss |first=Glenda Dawn |year=2009 |title=Sibelius: A Composer's Life and the Awakening of Finland |publisher=University of Chicago Press |isbn=978-0-226-30479-3 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Goss |first=Glenda Dawn |year=2011 |title=Jean Sibelius and His American Connections |editor-last=Grimley |editor-first=Daniel M. |work=Jean Sibelius and His World |publisher=[[プリンストン大学出版局|Princeton University Press]] |isbn=978-0-691-15280-6 |url=https://books.google.com/books?id=zmBZuyWlv4cC&pg=PA162 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Grimley |first=Daniel M. |year=2004 |title=The Cambridge Companion to Sibelius |series=Cambridge Companions to Music |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-89460-9 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Hepokoski |first=James |year=2001 |pages=319–47 |title=[[ニューグローヴ世界音楽大事典|The New Grove Dictionary of Music and Musicians]] |contribution=Sibelius |editor-last=Sadie |editor-first=Stanley |editor2-last=Tyrrell |editor2-first=John |volume=xxiii |publisher=Macmillan |edition=Second |isbn=978-0-333-23111-1 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Jackson |first=Timothy L. |date=2001 |title=Sibelius Studies |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-62416-9 |url=https://books.google.com/books?id=6p9lAkbz7fAC&pg=PA102 |ref=harv}}
* {{cite book |last=James |first=David Burnett |year=1989 |title=Sibelius |publisher=Omnibus Press |isbn=978-0-7119-1683-8 |ref=harv}}
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=== 関連文献 ===
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== 外部リンク ==
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* [http://www.sib-jp.org/index.html 日本シベリウス協会]
* [https://web.archive.org/web/20060715005106/http://www.abo.fi/fak/hf/musik/index_eng.php シベリウス博物館] {{en icon}}
* [http://finland.fi/public/default.aspx?contentid=160075&contentlan=2&culture=en-US thisisFINLAND] 『フィンランディア』の歌詞など {{en icon}}
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在日本朝鮮人総聯合会
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在日本朝鮮人総聯合会(ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する在日朝鮮人のうち、「主体(チュチェ)思想」を指導的指針としてすべての活動、運動を展開しているとする人々で構成される団体。
1945年(昭和20年)結成の在日朝鮮人連盟がGHQによって「暴力主義的団体」として解散させられた後、新たに設立された在日朝鮮統一民主戦線を経て1955年に設立。略称は朝鮮総聯(ちょうせんそうれん、チョソンチョンニョン、조선총련)で一般にこの名称で呼ばれることが多い。報道などでは朝鮮総連とも表記される。最高責任者は、2012年より許宗萬中央常任委員会議長が務める。
法人格がない「権利能力なき社団」。朝鮮総連中央議長を始めとする数名の幹部は北朝鮮の代議員(国会議員)を兼任している。過去に複数の元構成員が土台人となって北朝鮮問題に関与し、祖国防衛隊事件や文世光事件を引き起こした歴史的経緯から、公安調査庁から破壊活動防止法に基づく調査対象団体に指定されている。
北朝鮮の「在日本公民団体」と自称、2013年以降は、同国を支配する朝鮮労働党に所属する諜報機関の統一戦線部の傘下の第225部(旧対外連絡部)の指導を受ける。1955年2月の日朝国交正常化を求める「南日声明」と、従来の指導機関である日本共産党の路線転換に伴い、在日朝鮮人運動が再編を迫られる中、同年5月25日から26日に浅草公会堂において結成大会が開催された。結成当初は、日本に滞留している「朝鮮籍」朝鮮人を対象とした民族学校の運営や、「朝鮮籍」朝鮮人経営者に対する融資をおこなうなど、一種の互助組織として機能していたが、発足当初から社会主義を支持し、その後冷戦期社会主義陣営を支持する団体としての性格を明確にした。過去の反日暴力事件の経緯や、こういったことから日本政府や警察などの治安機関との緊張関係を生み出す要因となった。
東京都に中央本部を置き、全ての都道府県に本部が設けられ、各地に支部組織がある。中央本部の所在地は東京都千代田区富士見二丁目。周辺には靖国神社の遊就館、法政大学市ヶ谷キャンパス、衆議院九段議員宿舎がある。警視庁は中央本部の警備を厳重に行っている。
全体大会は、朝鮮総聯の最高決議機関であり、3年に1回、定期的に中央委員会が召集する。
ただし中央委員会または地方執行委員会の3分の1以上の要求がある場合、臨時大会を召集することができる。
大会は代議員、中央委員、中央監査委員によって構成される。
全体大会の任務は、中央委員会、中央監査委員会の事業報告にたいする審議・決定、基本方針の樹立、重要事業の議決、会計報告および予算案の審議・決定、綱領および規約の審議・採択、役員の選出である。
中央委員会は、つぎの全体大会までの最高決議機関であり、議長、責任副議長、副議長、事務総局長、中央委員、中央監査委員によって構成され、1年に1回、中央常任委員会が召集する。
ただし中央常任委員会が必要とする場合、または中央委員の3分の1以上の要求があった場合に臨時で召集することができる。
重要かつ緊急な問題ある場合には、中央委員会拡大会議を招集して全体大会に準ずる任務を遂行することができる。
中央監査委員会は委員長、副委員長、委員によって構成され、朝鮮総聯の綱領、規約の順守状況、財政監査をはじめとする任務を遂行し、それを全体大会、必要によっては中央委員会と中央常任委員会に報告する。
中央常任委員会は議長、責任副議長、副議長、事務総局長および各専門部署委員長、局長、副委員長、所長によって構成され、全体大会と中央委員会の決定によって本会の諸般の事業を組織、指導する。
ただし中央監査委員長もここに参加することができる。
中央常任委員会は随時、議長が招集する。
朝鮮総聯の構成員のうち、北朝鮮公民の国籍を有する者の実数は判っていない(なお、日本では国家承認されていない北朝鮮の国籍は認められていないため、「日本社会には北朝鮮の海外公民はいない」という扱いを受ける)。
朝鮮総聯の構成員は日本の法律上「朝鮮籍」にあたる人が多く、また韓国籍や日本籍である人もいる。北朝鮮政府は事実上、在日の自国民に対しては二重国籍を認めているものと考えられる。2015年現在、許宗萬議長をはじめとする総連関係者5人が最高人民会議代議員(国会議員)となっている。
朝鮮総連出身者には在日本大韓民国民団の団長になった例もあり、在日韓国・朝鮮人社会で大きな影響力を持っている。
韓国籍は朝鮮籍と比べるとビザ無しで行ける国が多い(2019年時点で、韓国旅券の189カ国に対して、北朝鮮旅券は42カ国)こと等を理由に切り替える人間が多い。しかし韓国籍に切り替えた場合、朝鮮総連のメンバーは韓国政府から国家保安法により旅券の取り上げや韓国空港で拘束される場合もあり得る。
2013年以降は朝鮮労働党統一戦線部の傘下の第225部(旧対外連絡部)の指導を受けて活動している。同国に対する朝銀信用組合の不正送金には朝鮮総聯関係者の関与が疑われ、北朝鮮による日本人拉致問題の追及も進む中、拉致事件をはじめとする日本国内における同国の非合法活動(スパイ、不正送金、麻薬・拳銃売買等)にも、数多くの朝鮮総聯関係者が深く関与していたといわれている。これらの犯罪行為に対する責任追及について朝鮮総聯は「悪質なデマ」と主張し、朝鮮総聯関係の施設に強制捜査が行われるごとに「在日朝鮮人の権利を侵害する」として激しい抗議行動を繰り返してきた。また、批判記事を書いた報道機関に職員が多数抗議に押しかけたり、北朝鮮に批判的な団体の集会を職員らが暴力的に妨害したりした例(リード「『救え!北朝鮮の民衆』緊急行動ネットワーク」ウェブサイトより)などがある。
1972年(昭和47年)に当時の美濃部亮吉東京都知事が「外交機関に準ずる機関」として認定して以来、多くの自治体が朝鮮総聯の施設を事実上の外交機関や公共施設に準ずるものとみなして、固定資産税や不動産取得税の減免措置を行ってきた。これは日朝両国が国交を正常化した時に「朝鮮大使館」として使われるであろうとの指摘があったためとされていた。
また防衛庁(現:防衛省)からのミサイルデータの流出に関与した疑いがあると報じられた。朝鮮総聯側はこれを受けて、事実を歪めた報道としている。2017年8月、北朝鮮による大陸間弾道ミサイル「火星14」の打ち上げ成功を祝福し、「われわれの胸には今、われわれの運命であり未来である金正恩委員長への熱い感謝の情が限りなく込み上げている」「総連と在日同胞はわが国の尊厳と生存権を抹殺しようと襲いかかる米国とその追随勢力が白旗を掲げて降伏書を捧げる時まで息づく間もない強打を加えながら必ず最後の勝利を収めるために疾走する無敵の白頭山強国の海外公民としてのこの上ない光栄を抱いて祖国と息づかいも歩幅も共にする」と主張した。
複数の北朝鮮の国営メディアは2021年5月25日、朝鮮総連結成66周年に際して、「誇らしい海外同胞組織」と称賛する記事を出した。2021年5月までに、北朝鮮から朝鮮総連に対して、「教育援助費および奨学金」が計167回にわたって送られ、総額488億7939万390円になることが明らかになった。
2022年2月6日・7日、最高人民会議第14期第6回会議で「海外同胞権益擁護法」が採択された。朝鮮新報社は、同法について、「海外同胞権益擁護法が採択されたことで、朝鮮の該当機関では海外同胞援護事業をより幅広く、積極的に展開することができる」と指摘している。また、「朝鮮総連には、外国人登録法上の『朝鮮籍』保有者だけでなく、様々な理由から韓国籍や日本国籍に変更した人もいるので、国籍で区別はしないとみられる」という指摘もある。
朝鮮総聯は、北朝鮮の韓国への対南工作に協力しているとされている。1974年(昭和49年)8月15日、日本からの解放記念日である光復節の祝賀行事をソウルの国立劇場で開催中、当時の大韓民国大統領・朴正煕の妻・陸英修が在日韓国人の文世光(ムン・セグァン、문세광)に射殺された(文世光事件)。文の目的は朴大統領の暗殺だったが、韓国の警察による捜査によれば朝鮮総連の関与が明白であるとされた。これは赤化統一を目指した文が朝鮮総連の支援を受けながら、大阪府大阪市中央区の高津派出所から拳銃を窃盗したり、韓国への偽造ビザや偽造パスポートを作成したりしたとされたためである。
この韓国側の主張に対して、日本政府が朝鮮総聯の関与を否定したため、韓国内では反日感情が高まり日韓関係は国交正常化後、最悪の状態に陥った。日本がこのような態度に出たのは中華人民共和国との国交正常化から日が浅かったため朝鮮総連を刺激したくなかったのではないかとされているが、実際にはこの時期の中朝関係は文化大革命の影響で冷却化しており、真偽は不明である。
なお、朴の娘である朴槿恵が北朝鮮を訪問した際、金正日総書記が北朝鮮の関与を認めて謝罪したため、朝鮮総聯が朴正煕大統領暗殺の工作に関与していた証左とされている。
北朝鮮本国では度々記念切手に登場している。1965年(昭和40年)4月27日には「総聯結成10周年」の記念切手が発行され、背景に総聯ビルを配し日韓基本条約締結反対運動をする群衆が描かれるなどしている。また北朝鮮郵政当局は1970年、1975年、1985年、2005年にも総聯ビルを描いた切手を発行している。
1950年代から1980年代にかけ、朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」などと宣伝し、在日朝鮮人とその家族の多くを永住帰国・移住させた。また日本政府も、赤十字社組織を通じて帰国希望者を韓国や北朝鮮に帰国させる事業を行っていた。しかしながら、朝鮮動乱で国内の共産主義者約10万人を裁判なしで殺していた韓国政府側は在日自国民の受け入れを拒否し、 1959年(昭和34年)には韓国の工作員によって妨害爆破テロや朝鮮総連幹部へのテロ未遂事件が起きた(日赤爆破未遂事件)。これが原因となり、2000年代に入り脱北者を中心に相次いで朝鮮総連に対し訴訟が行われている。
2008年(平成20年)6月には、日本在住の脱北女性が朝鮮総連を相手に大阪地裁に訴訟を起こし、原告女性によると、朝鮮総連の「北朝鮮は地上の楽園」などという嘘の宣伝により北朝鮮へ帰還したが、実際は過酷な労働を強いられ、拷問され、差別され、囚人や奴隷と変わらない生活を強いられ、「(朝鮮総連は)人をだまし、組織的に誘拐した。人権と自由を無差別に奪った悪魔みたいな団体だ」「私1人の問題ではない。今も強制収容所の中で必死に生き延びようとしている人がいる」と訴えた。この訴えに対し、朝鮮総連は「同胞社会と日朝関係に害を与える以外のなにものでもない」と主張した。
帰還事業50周年を記念して北朝鮮と総連が共同で製作した映画「東海の歌」(2部構成)が2009年(平成21年)12月から北朝鮮で公開された。映画は主人公のモデルとなった韓徳銖前議長をはじめとする総連の第1世代の活動家ら在日朝鮮人が異国の地で「愛国」を胸に人生を歩む契機となった金日成の路線転換方針(1952年)と総連の結成、教育援助費と奨学金による民族教育の発展と帰国実現までの、1940 - 50年代の在日朝鮮人運動の主な出来事を描いた。韓徳銖前議長が金日成に寵愛されるに至った北朝鮮ではあまり知られていない具体的な業績や生涯、在日朝鮮人の活動について広報するものともなっている。
2008年(平成20年)8月、韓国で、脱北者に偽装した女性スパイが逮捕される事件が発生した。韓国検察の起訴状によれば、このスパイは韓国軍の将兵に対して性的な関係を結んで機密情報を得る「ハニートラップ」を行っていた。
また、日本でも情報収集活動を行っていた事が判明しており、2007年(平成19年)6月から2008年(平成20年)5月まで3回にわたって来日し、長い時には2か月以上滞在している。起訴状には日本における協力者として、朝鮮総連の傘下団体の幹部と同名の人物と、「社長」という肩書を持つ大阪在住の人物の2人が起訴状に実名で記されている。
起訴状に読み上げられた傘下団体の幹部は、「朝鮮総連の関係団体の幹部で、同じ名前は自分しかいない」とした上で、「元被告と会ったこともないし、聞いたこともない。保衛部にも知り合いはおらず、全く関係がない。勝手に名前を使われたのだろう」と関与を否定している。
吹田事件を惹起した団体であり、破壊活動防止法上の「過去に暴力主義的破壊活動を行い、将来もその恐れのある団体」に指定されていることから、現在も日本共産党や過激各派、行動右翼、オウム真理教と並んで公安調査庁の調査対象団体となっている。2016年に会員の人数は約7万人である事を明らかにした、これまで人数を具体的に明らかにされたことはなかった。
朝鮮総聯とその関連施設は、ビザやパスポート発行代理業務を行うなど北朝鮮の行政窓口機能があるとの名目で「事実上の大使館(英語版)」または「公民館的施設」として扱われ、各地方自治体により固定資産税や都市計画税の課税減免措置がとられていた。
しかし、2002年(平成14年)9月の小泉純一郎首相(当時)訪朝で北朝鮮が拉致問題への関与を認めたことを境に、国内の朝鮮総連関連施設への優遇措置が見直されるようになった。
また2007年(平成19年)11月に最高裁判所で「朝鮮総連の活動に公益性はなく税の減免措置は違法である」とする判決が確定したため、各自治体で減免措置の撤廃が急速に進んだ。
そして漸く2015年(平成27年)度に朝鮮総連関連施設に対する固定資産税の減免措置を行う自治体が初めて一つもなくなった。
朝鮮総聯創立以前に在日朝鮮人が日本共産党で活動していたこともあって、彼らが朝鮮総連へ移ってからも日本共産党との関係が深かった。その後1970年代中盤からは日本社会党に接近し、両者は友好関係を築いた。日本社会党左派を継承した社会民主党とは引き続き友好関係にある。社会党出身の民主党議員へ政治献金を行っていたことも判明している。
2010年(平成22年)6月12日、朝鮮総連が朝鮮学校の生徒の父母らに対し、文部科学省に朝鮮学校への高校授業料無償化の適用を要請する電話攻勢をかけるようノルマを課していたこと、また同時に、複数の日本人になりすまして電話回数を稼ぐよう指示していたことが内部文書から判明した。産経新聞は「総連の無償化運動がモラルを著しく逸脱し、北朝鮮同様に統制された組織動員のもとで展開していた実態が明らかになった」と評している。この問題に付随して、土台人による「朝鮮学校問題に係る在日スパイ被疑事件」が発覚し、警察による捜査が行われた。
東亜日報の報道によれば、2020年に発表された、スポーツブランドのナイキの広告の制作に、ナイキ側からの申し出により協力した。
中央本部(東京都千代田区富士見)の土地と建物が、元不動産会社社長の満井忠男の仲介により、2007年(平成19年)5月31日に元公安調査庁長官緒方重威が代表取締役を務めるハーベスト投資顧問株式会社に売却されていたことが判明した。また仲介者とされる満井には朝鮮総連側から、手数料などの名目で4億9千万円が渡っていた。
中央本部の建物(地上10階、地下2階の鉄骨鉄筋コンクリート造り。延べ床面積約1万1700平方メートル)と土地(約2390平方メートル)は40億円を超えるとみられている(売却代金は35億円とされていた)。東京地検特捜部は当初、朝鮮総聯が整理回収機構から提起されていた訴訟に敗訴した場合に予想される差押から逃れるために脱法・違法行為をおこなう意図があったとして電磁的公正証書原本不実記録等の容疑で捜査していた。
捜査の結果、朝鮮総聯が所有権の売却譲渡後も引き続き賃貸物権として使用を認めてもらえる売却先を探していたことが判明したため、実際には朝鮮総聯側は被害者であったとして、緒方と満井が「資金調達の目処が立っていないにもかかわらず土地と建物と手数料を騙し取ろうとしていた」として、2007年(平成19年)6月28日に詐欺容疑で逮捕された。なお手数料として詐取した金銭のうち半分しか返却されていないと報道された。
2013年、競売にかけられ、宗教法人最福寺が落札したものの、後に辞退をして、続いてモンゴルの企業が落札したが、裁判所から認められずに平行線をたどった。
2014年、マルナカホールディングスが落札したが、2015年1月22日になり、山形県に本社があるグリーンフォーリストに転売する方向であることが分かり、立ち退きが避けられる見通しとなった。
現在、朝鮮総聯の本部機能は、朝鮮出版会館(コリアブックセンター)や、同胞法律・生活センターへと移転しつつある。
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"text": "在日本朝鮮人総聯合会(ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する在日朝鮮人のうち、「主体(チュチェ)思想」を指導的指針としてすべての活動、運動を展開しているとする人々で構成される団体。",
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"text": "1945年(昭和20年)結成の在日朝鮮人連盟がGHQによって「暴力主義的団体」として解散させられた後、新たに設立された在日朝鮮統一民主戦線を経て1955年に設立。略称は朝鮮総聯(ちょうせんそうれん、チョソンチョンニョン、조선총련)で一般にこの名称で呼ばれることが多い。報道などでは朝鮮総連とも表記される。最高責任者は、2012年より許宗萬中央常任委員会議長が務める。",
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"text": "法人格がない「権利能力なき社団」。朝鮮総連中央議長を始めとする数名の幹部は北朝鮮の代議員(国会議員)を兼任している。過去に複数の元構成員が土台人となって北朝鮮問題に関与し、祖国防衛隊事件や文世光事件を引き起こした歴史的経緯から、公安調査庁から破壊活動防止法に基づく調査対象団体に指定されている。",
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"text": "北朝鮮の「在日本公民団体」と自称、2013年以降は、同国を支配する朝鮮労働党に所属する諜報機関の統一戦線部の傘下の第225部(旧対外連絡部)の指導を受ける。1955年2月の日朝国交正常化を求める「南日声明」と、従来の指導機関である日本共産党の路線転換に伴い、在日朝鮮人運動が再編を迫られる中、同年5月25日から26日に浅草公会堂において結成大会が開催された。結成当初は、日本に滞留している「朝鮮籍」朝鮮人を対象とした民族学校の運営や、「朝鮮籍」朝鮮人経営者に対する融資をおこなうなど、一種の互助組織として機能していたが、発足当初から社会主義を支持し、その後冷戦期社会主義陣営を支持する団体としての性格を明確にした。過去の反日暴力事件の経緯や、こういったことから日本政府や警察などの治安機関との緊張関係を生み出す要因となった。",
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"text": "東京都に中央本部を置き、全ての都道府県に本部が設けられ、各地に支部組織がある。中央本部の所在地は東京都千代田区富士見二丁目。周辺には靖国神社の遊就館、法政大学市ヶ谷キャンパス、衆議院九段議員宿舎がある。警視庁は中央本部の警備を厳重に行っている。",
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"text": "全体大会は、朝鮮総聯の最高決議機関であり、3年に1回、定期的に中央委員会が召集する。",
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"text": "ただし中央委員会または地方執行委員会の3分の1以上の要求がある場合、臨時大会を召集することができる。",
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"text": "大会は代議員、中央委員、中央監査委員によって構成される。",
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"text": "全体大会の任務は、中央委員会、中央監査委員会の事業報告にたいする審議・決定、基本方針の樹立、重要事業の議決、会計報告および予算案の審議・決定、綱領および規約の審議・採択、役員の選出である。",
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"text": "中央委員会は、つぎの全体大会までの最高決議機関であり、議長、責任副議長、副議長、事務総局長、中央委員、中央監査委員によって構成され、1年に1回、中央常任委員会が召集する。",
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"text": "ただし中央常任委員会が必要とする場合、または中央委員の3分の1以上の要求があった場合に臨時で召集することができる。",
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"text": "重要かつ緊急な問題ある場合には、中央委員会拡大会議を招集して全体大会に準ずる任務を遂行することができる。",
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"text": "中央監査委員会は委員長、副委員長、委員によって構成され、朝鮮総聯の綱領、規約の順守状況、財政監査をはじめとする任務を遂行し、それを全体大会、必要によっては中央委員会と中央常任委員会に報告する。",
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"text": "中央常任委員会は議長、責任副議長、副議長、事務総局長および各専門部署委員長、局長、副委員長、所長によって構成され、全体大会と中央委員会の決定によって本会の諸般の事業を組織、指導する。",
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"text": "ただし中央監査委員長もここに参加することができる。",
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"text": "中央常任委員会は随時、議長が招集する。",
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"text": "朝鮮総聯の構成員のうち、北朝鮮公民の国籍を有する者の実数は判っていない(なお、日本では国家承認されていない北朝鮮の国籍は認められていないため、「日本社会には北朝鮮の海外公民はいない」という扱いを受ける)。",
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"text": "朝鮮総聯の構成員は日本の法律上「朝鮮籍」にあたる人が多く、また韓国籍や日本籍である人もいる。北朝鮮政府は事実上、在日の自国民に対しては二重国籍を認めているものと考えられる。2015年現在、許宗萬議長をはじめとする総連関係者5人が最高人民会議代議員(国会議員)となっている。",
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"text": "朝鮮総連出身者には在日本大韓民国民団の団長になった例もあり、在日韓国・朝鮮人社会で大きな影響力を持っている。",
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"text": "韓国籍は朝鮮籍と比べるとビザ無しで行ける国が多い(2019年時点で、韓国旅券の189カ国に対して、北朝鮮旅券は42カ国)こと等を理由に切り替える人間が多い。しかし韓国籍に切り替えた場合、朝鮮総連のメンバーは韓国政府から国家保安法により旅券の取り上げや韓国空港で拘束される場合もあり得る。",
"title": "構成員"
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"text": "2013年以降は朝鮮労働党統一戦線部の傘下の第225部(旧対外連絡部)の指導を受けて活動している。同国に対する朝銀信用組合の不正送金には朝鮮総聯関係者の関与が疑われ、北朝鮮による日本人拉致問題の追及も進む中、拉致事件をはじめとする日本国内における同国の非合法活動(スパイ、不正送金、麻薬・拳銃売買等)にも、数多くの朝鮮総聯関係者が深く関与していたといわれている。これらの犯罪行為に対する責任追及について朝鮮総聯は「悪質なデマ」と主張し、朝鮮総聯関係の施設に強制捜査が行われるごとに「在日朝鮮人の権利を侵害する」として激しい抗議行動を繰り返してきた。また、批判記事を書いた報道機関に職員が多数抗議に押しかけたり、北朝鮮に批判的な団体の集会を職員らが暴力的に妨害したりした例(リード「『救え!北朝鮮の民衆』緊急行動ネットワーク」ウェブサイトより)などがある。",
"title": "北朝鮮での法的地位"
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"text": "1972年(昭和47年)に当時の美濃部亮吉東京都知事が「外交機関に準ずる機関」として認定して以来、多くの自治体が朝鮮総聯の施設を事実上の外交機関や公共施設に準ずるものとみなして、固定資産税や不動産取得税の減免措置を行ってきた。これは日朝両国が国交を正常化した時に「朝鮮大使館」として使われるであろうとの指摘があったためとされていた。",
"title": "北朝鮮での法的地位"
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"text": "また防衛庁(現:防衛省)からのミサイルデータの流出に関与した疑いがあると報じられた。朝鮮総聯側はこれを受けて、事実を歪めた報道としている。2017年8月、北朝鮮による大陸間弾道ミサイル「火星14」の打ち上げ成功を祝福し、「われわれの胸には今、われわれの運命であり未来である金正恩委員長への熱い感謝の情が限りなく込み上げている」「総連と在日同胞はわが国の尊厳と生存権を抹殺しようと襲いかかる米国とその追随勢力が白旗を掲げて降伏書を捧げる時まで息づく間もない強打を加えながら必ず最後の勝利を収めるために疾走する無敵の白頭山強国の海外公民としてのこの上ない光栄を抱いて祖国と息づかいも歩幅も共にする」と主張した。",
"title": "北朝鮮での法的地位"
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"text": "複数の北朝鮮の国営メディアは2021年5月25日、朝鮮総連結成66周年に際して、「誇らしい海外同胞組織」と称賛する記事を出した。2021年5月までに、北朝鮮から朝鮮総連に対して、「教育援助費および奨学金」が計167回にわたって送られ、総額488億7939万390円になることが明らかになった。",
"title": "北朝鮮での法的地位"
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"text": "2022年2月6日・7日、最高人民会議第14期第6回会議で「海外同胞権益擁護法」が採択された。朝鮮新報社は、同法について、「海外同胞権益擁護法が採択されたことで、朝鮮の該当機関では海外同胞援護事業をより幅広く、積極的に展開することができる」と指摘している。また、「朝鮮総連には、外国人登録法上の『朝鮮籍』保有者だけでなく、様々な理由から韓国籍や日本国籍に変更した人もいるので、国籍で区別はしないとみられる」という指摘もある。",
"title": "北朝鮮での法的地位"
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"text": "朝鮮総聯は、北朝鮮の韓国への対南工作に協力しているとされている。1974年(昭和49年)8月15日、日本からの解放記念日である光復節の祝賀行事をソウルの国立劇場で開催中、当時の大韓民国大統領・朴正煕の妻・陸英修が在日韓国人の文世光(ムン・セグァン、문세광)に射殺された(文世光事件)。文の目的は朴大統領の暗殺だったが、韓国の警察による捜査によれば朝鮮総連の関与が明白であるとされた。これは赤化統一を目指した文が朝鮮総連の支援を受けながら、大阪府大阪市中央区の高津派出所から拳銃を窃盗したり、韓国への偽造ビザや偽造パスポートを作成したりしたとされたためである。",
"title": "北朝鮮との関係性"
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"text": "この韓国側の主張に対して、日本政府が朝鮮総聯の関与を否定したため、韓国内では反日感情が高まり日韓関係は国交正常化後、最悪の状態に陥った。日本がこのような態度に出たのは中華人民共和国との国交正常化から日が浅かったため朝鮮総連を刺激したくなかったのではないかとされているが、実際にはこの時期の中朝関係は文化大革命の影響で冷却化しており、真偽は不明である。",
"title": "北朝鮮との関係性"
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"text": "なお、朴の娘である朴槿恵が北朝鮮を訪問した際、金正日総書記が北朝鮮の関与を認めて謝罪したため、朝鮮総聯が朴正煕大統領暗殺の工作に関与していた証左とされている。",
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"text": "北朝鮮本国では度々記念切手に登場している。1965年(昭和40年)4月27日には「総聯結成10周年」の記念切手が発行され、背景に総聯ビルを配し日韓基本条約締結反対運動をする群衆が描かれるなどしている。また北朝鮮郵政当局は1970年、1975年、1985年、2005年にも総聯ビルを描いた切手を発行している。",
"title": "北朝鮮との関係性"
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"text": "1950年代から1980年代にかけ、朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」などと宣伝し、在日朝鮮人とその家族の多くを永住帰国・移住させた。また日本政府も、赤十字社組織を通じて帰国希望者を韓国や北朝鮮に帰国させる事業を行っていた。しかしながら、朝鮮動乱で国内の共産主義者約10万人を裁判なしで殺していた韓国政府側は在日自国民の受け入れを拒否し、 1959年(昭和34年)には韓国の工作員によって妨害爆破テロや朝鮮総連幹部へのテロ未遂事件が起きた(日赤爆破未遂事件)。これが原因となり、2000年代に入り脱北者を中心に相次いで朝鮮総連に対し訴訟が行われている。",
"title": "北朝鮮との関係性"
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"text": "2008年(平成20年)6月には、日本在住の脱北女性が朝鮮総連を相手に大阪地裁に訴訟を起こし、原告女性によると、朝鮮総連の「北朝鮮は地上の楽園」などという嘘の宣伝により北朝鮮へ帰還したが、実際は過酷な労働を強いられ、拷問され、差別され、囚人や奴隷と変わらない生活を強いられ、「(朝鮮総連は)人をだまし、組織的に誘拐した。人権と自由を無差別に奪った悪魔みたいな団体だ」「私1人の問題ではない。今も強制収容所の中で必死に生き延びようとしている人がいる」と訴えた。この訴えに対し、朝鮮総連は「同胞社会と日朝関係に害を与える以外のなにものでもない」と主張した。",
"title": "北朝鮮との関係性"
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"text": "帰還事業50周年を記念して北朝鮮と総連が共同で製作した映画「東海の歌」(2部構成)が2009年(平成21年)12月から北朝鮮で公開された。映画は主人公のモデルとなった韓徳銖前議長をはじめとする総連の第1世代の活動家ら在日朝鮮人が異国の地で「愛国」を胸に人生を歩む契機となった金日成の路線転換方針(1952年)と総連の結成、教育援助費と奨学金による民族教育の発展と帰国実現までの、1940 - 50年代の在日朝鮮人運動の主な出来事を描いた。韓徳銖前議長が金日成に寵愛されるに至った北朝鮮ではあまり知られていない具体的な業績や生涯、在日朝鮮人の活動について広報するものともなっている。",
"title": "北朝鮮との関係性"
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"text": "2008年(平成20年)8月、韓国で、脱北者に偽装した女性スパイが逮捕される事件が発生した。韓国検察の起訴状によれば、このスパイは韓国軍の将兵に対して性的な関係を結んで機密情報を得る「ハニートラップ」を行っていた。",
"title": "北朝鮮との関係性"
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"text": "また、日本でも情報収集活動を行っていた事が判明しており、2007年(平成19年)6月から2008年(平成20年)5月まで3回にわたって来日し、長い時には2か月以上滞在している。起訴状には日本における協力者として、朝鮮総連の傘下団体の幹部と同名の人物と、「社長」という肩書を持つ大阪在住の人物の2人が起訴状に実名で記されている。",
"title": "北朝鮮との関係性"
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"text": "起訴状に読み上げられた傘下団体の幹部は、「朝鮮総連の関係団体の幹部で、同じ名前は自分しかいない」とした上で、「元被告と会ったこともないし、聞いたこともない。保衛部にも知り合いはおらず、全く関係がない。勝手に名前を使われたのだろう」と関与を否定している。",
"title": "北朝鮮との関係性"
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{
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"text": "吹田事件を惹起した団体であり、破壊活動防止法上の「過去に暴力主義的破壊活動を行い、将来もその恐れのある団体」に指定されていることから、現在も日本共産党や過激各派、行動右翼、オウム真理教と並んで公安調査庁の調査対象団体となっている。2016年に会員の人数は約7万人である事を明らかにした、これまで人数を具体的に明らかにされたことはなかった。",
"title": "日本社会との関係性"
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"tag": "p",
"text": "朝鮮総聯とその関連施設は、ビザやパスポート発行代理業務を行うなど北朝鮮の行政窓口機能があるとの名目で「事実上の大使館(英語版)」または「公民館的施設」として扱われ、各地方自治体により固定資産税や都市計画税の課税減免措置がとられていた。",
"title": "日本社会との関係性"
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{
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"tag": "p",
"text": "しかし、2002年(平成14年)9月の小泉純一郎首相(当時)訪朝で北朝鮮が拉致問題への関与を認めたことを境に、国内の朝鮮総連関連施設への優遇措置が見直されるようになった。",
"title": "日本社会との関係性"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また2007年(平成19年)11月に最高裁判所で「朝鮮総連の活動に公益性はなく税の減免措置は違法である」とする判決が確定したため、各自治体で減免措置の撤廃が急速に進んだ。",
"title": "日本社会との関係性"
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{
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"text": "そして漸く2015年(平成27年)度に朝鮮総連関連施設に対する固定資産税の減免措置を行う自治体が初めて一つもなくなった。",
"title": "日本社会との関係性"
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"text": "朝鮮総聯創立以前に在日朝鮮人が日本共産党で活動していたこともあって、彼らが朝鮮総連へ移ってからも日本共産党との関係が深かった。その後1970年代中盤からは日本社会党に接近し、両者は友好関係を築いた。日本社会党左派を継承した社会民主党とは引き続き友好関係にある。社会党出身の民主党議員へ政治献金を行っていたことも判明している。",
"title": "日本社会との関係性"
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"text": "2010年(平成22年)6月12日、朝鮮総連が朝鮮学校の生徒の父母らに対し、文部科学省に朝鮮学校への高校授業料無償化の適用を要請する電話攻勢をかけるようノルマを課していたこと、また同時に、複数の日本人になりすまして電話回数を稼ぐよう指示していたことが内部文書から判明した。産経新聞は「総連の無償化運動がモラルを著しく逸脱し、北朝鮮同様に統制された組織動員のもとで展開していた実態が明らかになった」と評している。この問題に付随して、土台人による「朝鮮学校問題に係る在日スパイ被疑事件」が発覚し、警察による捜査が行われた。",
"title": "日本社会との関係性"
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"text": "東亜日報の報道によれば、2020年に発表された、スポーツブランドのナイキの広告の制作に、ナイキ側からの申し出により協力した。",
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"text": "中央本部(東京都千代田区富士見)の土地と建物が、元不動産会社社長の満井忠男の仲介により、2007年(平成19年)5月31日に元公安調査庁長官緒方重威が代表取締役を務めるハーベスト投資顧問株式会社に売却されていたことが判明した。また仲介者とされる満井には朝鮮総連側から、手数料などの名目で4億9千万円が渡っていた。",
"title": "中央本部ビル売却問題"
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"text": "中央本部の建物(地上10階、地下2階の鉄骨鉄筋コンクリート造り。延べ床面積約1万1700平方メートル)と土地(約2390平方メートル)は40億円を超えるとみられている(売却代金は35億円とされていた)。東京地検特捜部は当初、朝鮮総聯が整理回収機構から提起されていた訴訟に敗訴した場合に予想される差押から逃れるために脱法・違法行為をおこなう意図があったとして電磁的公正証書原本不実記録等の容疑で捜査していた。",
"title": "中央本部ビル売却問題"
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"text": "捜査の結果、朝鮮総聯が所有権の売却譲渡後も引き続き賃貸物権として使用を認めてもらえる売却先を探していたことが判明したため、実際には朝鮮総聯側は被害者であったとして、緒方と満井が「資金調達の目処が立っていないにもかかわらず土地と建物と手数料を騙し取ろうとしていた」として、2007年(平成19年)6月28日に詐欺容疑で逮捕された。なお手数料として詐取した金銭のうち半分しか返却されていないと報道された。",
"title": "中央本部ビル売却問題"
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"text": "2013年、競売にかけられ、宗教法人最福寺が落札したものの、後に辞退をして、続いてモンゴルの企業が落札したが、裁判所から認められずに平行線をたどった。",
"title": "中央本部ビル売却問題"
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"text": "2014年、マルナカホールディングスが落札したが、2015年1月22日になり、山形県に本社があるグリーンフォーリストに転売する方向であることが分かり、立ち退きが避けられる見通しとなった。",
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{
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"text": "現在、朝鮮総聯の本部機能は、朝鮮出版会館(コリアブックセンター)や、同胞法律・生活センターへと移転しつつある。",
"title": "中央本部ビル売却問題"
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在日本朝鮮人総聯合会(ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する在日朝鮮人のうち、「主体(チュチェ)思想」を指導的指針としてすべての活動、運動を展開しているとする人々で構成される団体。 1945年(昭和20年)結成の在日朝鮮人連盟がGHQによって「暴力主義的団体」として解散させられた後、新たに設立された在日朝鮮統一民主戦線を経て1955年に設立。略称は朝鮮総聯(ちょうせんそうれん、チョソンチョンニョン、조선총련)で一般にこの名称で呼ばれることが多い。報道などでは朝鮮総連とも表記される。最高責任者は、2012年より許宗萬中央常任委員会議長が務める。 法人格がない「権利能力なき社団」。朝鮮総連中央議長を始めとする数名の幹部は北朝鮮の代議員(国会議員)を兼任している。過去に複数の元構成員が土台人となって北朝鮮問題に関与し、祖国防衛隊事件や文世光事件を引き起こした歴史的経緯から、公安調査庁から破壊活動防止法に基づく調査対象団体に指定されている。
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{{半保護}}
{{基礎情報 非営利団体
| 名称 = {{Flagicon|PRK}} 在日本朝鮮人総聯合会
| ロゴ =
| 画像 = Chongryon HQ Tokyo.jpg
| 画像サイズ = 300px
| 画像説明 = 在日本朝鮮人総聯合会中央本部{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=300|coord={{coord|35.696972|139.7435}}}}
| 創立者 =
| 団体種類 = [[権利能力なき社団]]
| 設立 = [[1955年]]([[昭和]]30年)5月
| 所在地 = {{JPN}}<br />{{color|red|〒}}102-8138<br>[[東京都]][[千代田区]][[富士見 (千代田区)|富士見]]2-14-15<br /><small>{{coord|35|41|49.1|N|139|44|36.6|E|region:JP|display=inline}}</small>
| 起源 = [[在日朝鮮統一民主戦線]]<ref name="nipponica">[https://kotobank.jp/word/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E7%B7%8F%E9%80%A3%E5%90%88%E4%BC%9A-158096#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] [[コトバンク]]. 2018年9月22日閲覧。</ref>
| 主要人物 = [[許宗萬]]議長、朴久好第1副議長、[[南昇祐]]副議長
| 活動地域 = 日本全域
| 製品 =
| 主眼 = 在日朝鮮人による民族的権益の保護<ref name="nipponica"/>
| 活動内容 =
| 活動手段 =
| 収入 =
| 基本財産 =
| ボランティア人数 =
| 従業員数 =
| 会員数 = 200,000人(N/A)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E7%B7%8F%E9%80%A3%E5%90%88%E4%BC%9A-158096#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典] [[コトバンク]]. 2018年9月22日閲覧。</ref>
| 子団体 = [[#傘下団体]]の節を参照
| 標語 =
| ウェブサイト = http://www.chongryon.com/
| 解散 =
| 特記事項 =
}}
{{北朝鮮の事物|
title=在日本朝鮮人総聯合会<br />朝鮮総聯|
chosŏn'gŭl=재일본조선인총련합회<br />조선총련<br />조총련|
hanja=在日本朝鮮人總聯合會<br />朝鮮總聯<br />朝總聯|
hiragana=ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい<br />ちょうせんそうれん<br />ちょうそうれん|
katakana=チェイルボンチョソンニンチョンニョンハップェ<br />チョソンチョンニョン<br />チョチョンニョン|
alphabet-type=[[英語]]|
alphabet=General Association of Korean Residents|
}}
'''在日本朝鮮人総聯合会'''(ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい)は、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)を支持する[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]<ref>[https://kotobank.jp/word/在日本朝鮮人総連合会-158096 コトバンク(在日本朝鮮人総連合会)]</ref>のうち、「[[主体思想|主体(チュチェ)思想]]」を指導的指針としてすべての活動、運動を展開しているとする人々で構成される団体<ref>[http://www.chongryon.com/j/cr/index3.html 朝鮮総聯について~朝鮮総聯の性格と活動原則(主体性の原則)]</ref>。
[[1945年]]([[昭和]]20年)結成の[[在日本朝鮮人連盟|在日朝鮮人連盟]]が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]によって「暴力主義的団体」として解散させられた後、新たに設立された[[在日朝鮮統一民主戦線]]を経て[[1955年]]に設立<ref name="bando-z2">「第二章 移民国家日本の歴史」({{Harvnb|坂東|2016|pp=33-134}})</ref>。略称は'''朝鮮総聯'''(ちょうせんそうれん、チョソンチョンニョン、{{lang|ko|조선총련}})で一般にこの名称で呼ばれることが多い。報道などでは'''朝鮮総連'''とも表記される<ref>固有名詞は[[同音の漢字による書きかえ]]の例外だが、「聯」自体が使用されることは少ない。なお、[[大韓民国]]では北朝鮮のことを「朝鮮」と呼ばないので、メディアなどは「朝総聯」({{lang|ko|조총련}})という略称を用いる。</ref>。最高責任者は、2012年より[[許宗萬]]中央常任委員会議長が務める<ref>https://web.archive.org/web/20150123160831/http://www.47news.jp/CN/201205/CN2012051901001830.html</ref>。
[[権利能力|法人格]]がない「[[権利能力なき社団]]」。朝鮮総連中央議長を始めとする数名の幹部は北朝鮮の[[最高人民会議|代議員]](国会議員)を兼任している<ref>[https://megalodon.jp/2009-0315-2016-50/www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/04/0904j0311-00002.htm 在日同胞6人も選出] 朝鮮新報 2009.3.11</ref><ref name=onekoreanews20140319 />。過去に複数の元構成員が[[土台人]]となって[[対日有害活動|北朝鮮問題]]に関与し、[[祖国防衛隊 (在日朝鮮人団体)|祖国防衛隊事件]]や[[文世光事件]]を引き起こした歴史的経緯から、[[公安調査庁]]から[[破壊活動防止法]]に基づく調査対象団体に指定されている<ref name="bando-z2"/><ref name="shitsumonb166475">[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b166475.htm 内閣衆質一六六第四七五号平成十九年七月十日] 平成十九年七月三日衆議院議員河村たかし提出の「公安調査庁に関する質問主意書」に対する日本国政府の答弁書 [[衆議院]]</ref>。
== 概要 ==
[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の「在日本公民団体」と自称、[[2013年]]以降は、同国を支配する[[朝鮮労働党]]に所属する[[情報機関|諜報機関]]の[[朝鮮労働党統一戦線部|統一戦線部]]の傘下の第225部(旧[[朝鮮労働党対外連絡部|対外連絡部]])の指導を受ける<ref name = "asahi131017">[http://www.asahi.com/special/news/articles/TKY201310170027.html 総連、北朝鮮での発言力低下? 指導機関が別組織傘下に] 朝日新聞 2013年10月17日</ref>。1955年2月の日朝国交正常化を求める「[[南日]]声明」と、従来の指導機関である[[日本共産党]]の路線転換に伴い、在日朝鮮人運動が再編を迫られる中、同年5月25日から26日に[[浅草公会堂]]において結成大会が開催された<ref>朴正鎮『日朝冷戦構造の誕生1945-1965』平凡社、2012年、151-159ページ</ref>。結成当初は、[[日本]]に滞留している「朝鮮籍」[[朝鮮民族|朝鮮人]]を対象とした[[インターナショナル・スクール|民族学校]]の運営や、「朝鮮籍」朝鮮人経営者に対する[[融資]]をおこなうなど、一種の互助組織として機能していたが、発足当初から[[社会主義]]を支持し、その後[[冷戦]]期社会主義陣営を支持する団体としての性格を明確にした。過去の反日暴力事件の経緯や、こういったことから[[日本国政府|日本政府]]や[[日本の警察|警察]]などの[[治安機関]]との緊張関係を生み出す要因となった<ref name="bando-z2"/>。
[[東京都]]に中央本部を置き、全ての[[都道府県]]に本部が設けられ、各地に支部組織がある。中央本部の所在地は東京都[[千代田区]][[富士見 (千代田区)|富士見]]二丁目。周辺には[[靖国神社]]の[[遊就館]]、[[法政大学]]市ヶ谷キャンパス、[[議員宿舎|衆議院九段議員宿舎]]がある。[[警視庁]]は中央本部の[[警備]]を厳重に行っている。
== 組織体系 ==
=== 全体大会<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=在日本朝鮮人総聯合会 : 朝鮮総聯について |url=http://www.chongryon.com/j/cr/index4.html |website=www.chongryon.com |access-date=2022-06-05}}</ref> ===
全体大会は、朝鮮総聯の最高決議機関であり、3年に1回、定期的に中央委員会が召集する。
ただし中央委員会または地方執行委員会の3分の1以上の要求がある場合、臨時大会を召集することができる。
大会は代議員、中央委員、中央監査委員によって構成される。
全体大会の任務は、中央委員会、中央監査委員会の事業報告にたいする審議・決定、基本方針の樹立、重要事業の議決、会計報告および予算案の審議・決定、綱領および規約の審議・採択、役員の選出である。
=== 中央委員会<ref name=":2" /> ===
中央委員会は、つぎの全体大会までの最高決議機関であり、議長、責任副議長、副議長、事務総局長、中央委員、中央監査委員によって構成され、1年に1回、中央常任委員会が召集する。
ただし中央常任委員会が必要とする場合、または中央委員の3分の1以上の要求があった場合に臨時で召集することができる。
重要かつ緊急な問題ある場合には、中央委員会拡大会議を招集して全体大会に準ずる任務を遂行することができる。
=== 中央監査委員会<ref name=":2" /> ===
中央監査委員会は委員長、副委員長、委員によって構成され、朝鮮総聯の綱領、規約の順守状況、財政監査をはじめとする任務を遂行し、それを全体大会、必要によっては中央委員会と中央常任委員会に報告する。
=== 中央常任委員会<ref name=":2" /> ===
中央常任委員会は議長、責任副議長、副議長、事務総局長および各専門部署委員長、局長、副委員長、所長によって構成され、全体大会と中央委員会の決定によって本会の諸般の事業を組織、指導する。
ただし中央監査委員長もここに参加することができる。
中央常任委員会は随時、議長が招集する。
== 構成員 ==
朝鮮総聯の構成員のうち、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]公民の[[国籍]]を有する者の実数は判っていない(なお、[[日本]]では[[国家の承認|国家承認]]されていない北朝鮮の国籍は認められていないため、「日本社会には北朝鮮の海外公民はいない」という扱いを受ける)<ref>{{Cite web|和書|title=朝鮮籍と韓国籍の違い 日本では北朝鮮の国籍は存在しない? |url=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/7078/ |website=北朝鮮ニュース {{!}} KWT |date=2020-04-07 |access-date=2022-06-02 |language=ja}}</ref>。
朝鮮総聯の構成員は日本の法律上「[[朝鮮籍]]」にあたる人が多く、また[[大韓民国|韓国]]籍や日本籍である人もいる。北朝鮮政府は事実上、在日の自国民に対しては[[多重国籍|二重国籍]]を認めているものと考えられる。[[2015年]]現在、[[許宗萬]]議長をはじめとする総連関係者5人が[[最高人民会議]]代議員(国会議員)となっている<ref name="onekoreanews20140319">「[http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=74904&thread=04 総連系5人、北の代議員に 金正恩ら半数以上が改選]」 『統一新報』 2014年3月19日</ref>。
朝鮮総連出身者には[[在日本大韓民国民団]]の団長になった例もあり、在日韓国・朝鮮人社会で大きな影響力を持っている。
韓国籍は朝鮮籍と比べるとビザ無しで行ける国が多い(2019年時点で、韓国旅券の189カ国に対して、北朝鮮旅券は42カ国<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanese.joins.com/article/944/248944.html|title=パスポートでノービザ訪問が可能な国…韓国189カ国、北朝鮮42カ国|accessdate=2019年3月17日|publisher=}}</ref>)こと等を理由に切り替える人間が多い。しかし韓国籍に切り替えた場合、朝鮮総連のメンバーは韓国政府から[[国家保安法]]により旅券の取り上げや韓国空港で拘束される場合もあり得る<ref>「SAPIO(サピオ)」 2016/09月号(2016/8/4 発売)</ref>。
== 北朝鮮での法的地位 ==
{{main2|同国の呼称の問題は[[朝鮮民主主義人民共和国#国名]]を}}
[[ファイル:Soren with National flag of North Korea September 2022.jpg|サムネイル|2022年9月9日、建国記念日に合わせて総聯中央本部に掲揚された[[朝鮮民主主義人民共和国の国旗|北朝鮮国旗]]]]
[[2013年]]以降は[[朝鮮労働党統一戦線部]]の傘下の第225部(旧[[朝鮮労働党対外連絡部|対外連絡部]])の指導を受けて活動している<ref name="asahi131017" />。同国に対する[[朝銀信用組合]]の不正送金には朝鮮総聯関係者の関与が疑われ、[[北朝鮮による日本人拉致問題]]の追及も進む中、拉致事件をはじめとする日本国内における同国の非合法活動([[スパイ]]、不正送金、[[麻薬]]・[[拳銃]]売買等)にも、数多くの朝鮮総聯関係者が深く関与していたといわれている。これらの犯罪行為に対する責任追及について朝鮮総聯は「悪質な[[噂|デマ]]」と主張し、朝鮮総聯関係の施設に[[捜査|強制捜査]]が行われるごとに「在日朝鮮人の権利を侵害する」として激しい抗議行動を繰り返してきた。また、批判記事を書いた[[報道機関]]に職員が多数抗議に押しかけたり、北朝鮮に批判的な団体の集会を職員らが暴力的に妨害したりした例([http://www.bekkoame.ne.jp/ro/renk/415read.htm リード]「『救え!北朝鮮の民衆』緊急行動ネットワーク」ウェブサイトより)などがある。
[[1972年]](昭和47年)に当時の[[美濃部亮吉]][[東京都知事]]が「外交機関に準ずる機関」として認定して以来、多くの[[地方公共団体|自治体]]が朝鮮総聯の施設を事実上の外交機関や公共施設に準ずるものとみなして、[[固定資産税]]や[[不動産取得税]]の減免措置を行ってきた。これは日朝両国が国交を正常化した時に「朝鮮大使館」として使われるであろうとの指摘があったためとされていた<ref>毎日新聞2007年6月14日朝刊</ref>。
また[[防衛省|防衛庁]](現:防衛省)からのミサイルデータの流出に関与した疑いがあると報じられた。朝鮮総聯側はこれを受けて、事実を歪めた報道としている。2017年8月、北朝鮮による[[大陸間弾道ミサイル]]「[[火星14]]」の打ち上げ成功を祝福し、「われわれの胸には今、われわれの運命であり未来である[[金正恩]]委員長への熱い感謝の情が限りなく込み上げている」「総連と在日同胞はわが国の尊厳と生存権を抹殺しようと襲いかかる米国とその追随勢力が白旗を掲げて降伏書を捧げる時まで息づく間もない強打を加えながら必ず最後の勝利を収めるために疾走する無敵の白頭山強国の海外公民としてのこの上ない光栄を抱いて祖国と息づかいも歩幅も共にする」と主張した。<ref>[http://dailynk.jp/archives/93276 デイリーNKジャパン 2017年8月2日]</ref>
複数の北朝鮮の国営メディアは2021年5月25日、朝鮮総連結成66周年に際して、「誇らしい海外同胞組織」と称賛する記事を出した<ref>{{Cite web|和書|title=総聯の発展における業績/総聯結成66周年に際し朝鮮中央通信が言及 |url=https://www.chosonsinbo.com/jp/2021/06/02sk/ |website=朝鮮新報 |accessdate=2021-06-24}}</ref>。2021年5月までに、北朝鮮から朝鮮総連に対して、「教育援助費および奨学金」が計167回にわたって送られ、総額488億7939万390円になることが明らかになった<ref>{{Cite web|和書|title=朝鮮総連結成66周年で北メディア称賛 朝鮮学校の民族教育を評価 |url=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/9330/ |website=北朝鮮ニュース {{!}} KWT |date=2021-05-30 |access-date=2021-12-29 |language=ja}}</ref>。
2022年2月6日・7日、最高人民会議第14期第6回会議で「海外同胞権益擁護法」が採択された<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=海外同胞権益擁護法が採択された意義 |url=https://chosonsinbo.com/jp/2022/02/12-69/ |website=朝鮮新報 |access-date=2022-05-29}}</ref>。朝鮮新報社は、同法について、「海外同胞権益擁護法が採択されたことで、朝鮮の該当機関では海外同胞援護事業をより幅広く、積極的に展開することができる」と指摘している<ref name=":0" />。また、「朝鮮総連には、外国人登録法上の『朝鮮籍』保有者だけでなく、様々な理由から韓国籍や日本国籍に変更した人もいるので、国籍で区別はしないとみられる」という指摘もある<ref>{{Cite web|和書|title=北朝鮮の新法「海外同胞法」でわかっていること 条文は未公表 |url=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/10916/ |website=北朝鮮ニュース {{!}} KWT |date=2022-02-11 |access-date=2022-04-01 |language=ja}}</ref>。
== 北朝鮮本国からの指導 ==
* 2022年5月28日・29日、金正恩総書記が、朝鮮総聯第25回全体大会に、[[金正恩]]総書記が1万字<ref name=":1" /><ref name=":3">{{Cite web|和書|title=朝鮮総連も驚く? 金正恩氏が異例の1万字の書簡で課題提示その内容 |url=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/11532/ |website=北朝鮮ニュース {{!}} KWT |date=2022-06-04 |access-date=2022-06-05 |language=ja}}</ref>の書簡を送付した<ref>{{Cite web|和書|title=金正恩総書記、総聯第25回全体大会の参加者に書簡 |url=https://chosonsinbo.com/jp/2022/05/28sk-10/ |website=朝鮮新報 |access-date=2022-06-05}}</ref>。
** 書簡の送付理由について、「今後、朝鮮総連が北朝鮮との関係を清算し、在日朝鮮人たちの利益を保護し、人権や生存権、発展権を保障する、民主主義的な民族団体に変貌するような、そんな新しい時代が来ることを憂慮したから」という観測もある<ref>{{Cite web|和書|title=北朝鮮の金づるも今は昔、苦境に陥る朝鮮総連に金正恩氏が感じている不安 朝鮮総連の第25回全体大会に送った長文書簡のその中身 {{!}} JBpress (ジェイビープレス) |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70413 |website=JBpress(日本ビジネスプレス) |access-date=2022-06-05 |language=ja}}</ref>。
** 「書簡はあまりにも具体的でもはや行動綱領とも言える内容であった。北朝鮮の歴代最高指導者の公開書簡でこれほど具体的に言及したものは見当たらない」という指摘もある<ref name=":3" />。
** 金正恩総書記は、書簡で、民団との連携可能性について言及。これについて、総連関係者の見解として、「北南対話が停滞する中において、朝鮮総連と民団が手を取り合うことに言及したのは驚きである。ただ、韓国では、保守政権である[[尹錫悦]]政権が誕生したこともあり、民団が総連とすぐに協調するとは考えにくい」という指摘もある<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/11514/ |title=朝鮮総連が4年ぶりの大会 金正恩氏が1万字で権利問題を提起 |access-date=2022-06-02 |website=コリアワールドタイムズ}}</ref>。
== 北朝鮮との関係性 ==
=== 拉致事件への関与 ===
{{Main|北朝鮮による日本人拉致問題}}
* [[1973年]](昭和48年)に行方不明になった、[[埼玉県]][[上福岡市]](現・[[ふじみ野市]])の女性の2人の児童が[[拉致]]された([[2児拉致事件|在日朝鮮人子弟失踪事件]])が、その女性の夫が[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[スパイ|工作員]]であり、さらに夫が勤務していた東京の貿易会社・ユニバーストレーディングの元女性社員が、警察当局の事情聴取に対し、「北朝鮮本国による判断を仰いだ」などと供述していたことが判った<ref>[http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070410AT1G0902X09042007.html 拉致、北朝鮮が指示か] Nikkei Net [[2007年]][[4月10日]]</ref>。日本政府は朝鮮総連傘下団体等の構成員の関与があったことを明らかにしている<ref name="shitsumonb166475" />。
* [[1978年]](昭和53年)[[6月]]に発生した田中実さん拉致事件に傘下団体等の構成員の関与があったことを日本政府が明らかにしている<ref name="shitsumonb166475" />。
* [[1980年]](昭和55年)6月に発生した[[辛光洙]]事件([[原敕晁]]さん拉致事件)に傘下団体等の構成員の関与があったことを日本政府が明らかにしている<ref name="shitsumonb166475" />。
* [[2007年]](平成19年)[[4月25日]]、[[警視庁公安部]]は、上福岡市の事件に関して、国外移送目的拐取容疑で、事件に関与した疑いの強い工作員らが一時期、活動に参加していた「在日本朝鮮留学生同盟中央本部」(留学同)など、朝鮮総聯傘下の団体や関連先など4か所を家宅捜索した<ref>[http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070425AT1G2500925042007.html 拉致事件で警視庁が初捜索・朝鮮総連系団体] Nikkei Net [[2007年]][[4月25日]]</ref>。捜索の際に在日朝鮮人の男性が“[[公務の執行を妨害する罪|公務執行妨害]]”で逮捕され[[富坂警察署]]に連行された(この際容疑事実の告知はされなかった)ものの、[[5月]]末に不起訴処分・釈放となっている<ref>
[http://www.kinyobi.co.jp/KTools/antena_pt?v=vol657 「金曜アンテナ」] 週刊金曜日2007年6月8日号 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070927045846/http://www.kinyobi.co.jp/KTools/antena_pt?v=vol657|date=2007年9月27日}}</ref>。これに関し、家宅捜索の際に、捜査員が中に入るのを妨害した人間が複数いたのが、TVでも報道されていた。
** また、公安部は東京都内の貿易会社に、多数の工作員が入社した経緯などを知る立場にあった可能性があるとして、朝鮮総聯の[[徐萬述]]議長、[[許宗萬]]責任副議長、[[南昇祐]]副議長を参考人として事情を聞く方針で、同日に書面で出頭を求めたが聴取要請を拒否する旨を、高徳羽副議長は同年[[4月26日]]にマスメディア向け記者会見で述べた<ref>[http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070426AT1G2601126042007.html 朝鮮総連、2児拉致での聴取要請を拒否] Nikkei Net [[2007年]][[4月26日]] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070428102424/http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070426AT1G2601126042007.html|date=2007年4月28日}}</ref>。
==== 在日本朝鮮人総聯合会の主張 ====
* 1973年(昭和48年)[[2児拉致事件|在日朝鮮人子弟失踪事件]]について、「日本政府の[[第1次安倍内閣|安倍政権]]が一連の[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致事件]]に結びつけた政治的な民族弾圧である」と主張している<ref>[https://web.archive.org/web/20070429151717/http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/02/0702j0425-00001.htm 朝鮮総聯中央本部広報室の強制捜索に関するコメント] 朝鮮新報 2007年4月26日</ref>。
=== 対韓国工作への協力 ===
朝鮮総聯は、北朝鮮の韓国への[[対南工作]]に協力しているとされている。[[1974年]](昭和49年)[[8月15日]]、日本からの解放記念日である[[光復節 (韓国)|光復節]]の祝賀行事を[[ソウル特別市|ソウル]]の国立劇場で開催中、当時の[[大統領 (大韓民国)|大韓民国大統領]]・[[朴正煕]]の妻・[[陸英修]]が在日韓国人の[[文世光]](ムン・セグァン、{{lang|ko|문세광}})に射殺された([[文世光事件]])。文の目的は朴大統領の[[暗殺]]だったが、[[大韓民国の警察|韓国の警察]]による捜査によれば朝鮮総連の関与が明白であるとされた。これは[[赤化統一]]を目指した文が朝鮮総連の支援を受けながら、[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]の高津派出所から拳銃を窃盗したり、韓国への偽造ビザや[[偽造パスポート]]を作成したりしたとされたためである。
この韓国側の主張に対して、日本政府が朝鮮総聯の関与を否定したため、韓国内では[[反日感情]]が高まり日韓関係は国交正常化後、最悪の状態に陥った。日本がこのような態度に出たのは[[中華人民共和国]]との国交正常化から日が浅かったため朝鮮総連を刺激したくなかったのではないかとされているが、実際にはこの時期の中朝関係は[[文化大革命]]の影響で冷却化しており、真偽は不明である。
なお、朴の娘である[[朴槿恵]]が北朝鮮を訪問した際、金正日総書記が北朝鮮の関与を認めて謝罪したため、朝鮮総聯が朴正煕大統領暗殺の工作に関与していた証左とされている。
=== 北朝鮮切手への登場 ===
北朝鮮本国では度々[[記念切手]]に登場している。[[1965年]](昭和40年)[[4月27日]]には「総聯結成10周年」の記念切手が発行され、背景に総聯ビルを配し日韓基本条約締結反対運動をする群衆が描かれるなどしている。また北朝鮮郵政当局は[[1970年]]、[[1975年]]、[[1985年]]、[[2005年]]にも総聯ビルを描いた切手を発行している。
=== 北朝鮮への帰還運動 ===
{{main|在日朝鮮人の帰還事業}}
[[1950年代]]から[[1980年代]]にかけ、朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」などと宣伝し、在日朝鮮人とその家族の多くを永住帰国・移住させた。また日本政府も、赤十字社組織を通じて帰国希望者を韓国や北朝鮮に帰国させる事業を行っていた。しかしながら、[[朝鮮戦争|朝鮮動乱]]で国内の共産主義者約10万人を裁判なしで殺していた韓国政府側は在日自国民の受け入れを拒否し、 [[1959年]](昭和34年)には[[大韓民国|韓国]]の[[スパイ|工作員]]によって妨害爆破テロや朝鮮総連幹部へのテロ未遂事件が起きた([[日赤爆破未遂事件]])<ref name="bando-z2" />。これが原因となり、[[2000年代]]に入り[[脱北者]]を中心に相次いで朝鮮総連に対し訴訟が行われている。
[[2008年]](平成20年)6月には、日本在住の脱北女性が朝鮮総連を相手に[[大阪地方裁判所|大阪地裁]]に訴訟を起こし、原告女性によると、朝鮮総連の「北朝鮮は地上の楽園」などという嘘の宣伝により北朝鮮へ帰還したが、実際は過酷な労働を強いられ、拷問され、差別され、囚人や奴隷と変わらない生活を強いられ、「(朝鮮総連は)人をだまし、組織的に誘拐した。人権と自由を無差別に奪った悪魔みたいな団体だ」「私1人の問題ではない。今も[[朝鮮民主主義人民共和国の強制収容所|強制収容所]]の中で必死に生き延びようとしている人がいる」と訴えた。この訴えに対し、朝鮮総連は「同胞社会と日朝関係に害を与える以外のなにものでもない」と主張した<ref>2008年6月13日 朝日新聞、産経新聞</ref>。
=== 映画「東海の歌」 ===
帰還事業50周年を記念して北朝鮮と総連が共同で製作した映画「東海の歌」(2部構成)が[[2009年]](平成21年)[[12月]]から北朝鮮で公開された<ref>[https://web.archive.org/web/20140226234257/http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2010/06/1006j0205-00001.htm 映画「東海の歌」 朝鮮国内で大反響], [[朝鮮新報]], 2010.2.5.</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20140226234259/http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2010/06/1006j0212-00003.htm 同胞愛の結晶、好評上映中の映画「東海の歌」 監督、出演者、独占インタビュー], 朝鮮新報, 2010.2.12.</ref>。映画は主人公のモデルとなった[[韓徳銖]]前議長をはじめとする総連の第1世代の活動家ら在日朝鮮人が異国の地で「愛国」を胸に人生を歩む契機となった金日成の路線転換方針([[1952年]])と総連の結成、教育援助費と奨学金による民族教育の発展と帰国実現までの、[[1940年代|1940]] - [[1950年代|50年代]]の在日朝鮮人運動の主な出来事を描いた。韓徳銖前議長が金日成に寵愛されるに至った北朝鮮ではあまり知られていない具体的な業績や生涯、在日朝鮮人の活動について広報するものともなっている。
=== 北朝鮮のスパイとの関係 ===
[[2008年]](平成20年)[[8月]]、[[大韓民国|韓国]]で、[[脱北者]]に偽装した女性[[北朝鮮工作員|スパイ]]が逮捕される事件が発生した。韓国検察の起訴状によれば、このスパイは[[韓国軍]]の将兵に対して性的な関係を結んで機密情報を得る「[[ハニートラップ]]」を行っていた。
また、日本でも[[諜報活動|情報収集活動]]を行っていた事が判明しており、[[2007年]](平成19年)[[6月]]から[[2008年]](平成20年)[[5月]]まで3回にわたって来日し、長い時には2か月以上滞在している。起訴状には日本における協力者として、朝鮮総連の傘下団体の幹部と同名の人物と、「社長」という肩書を持つ大阪在住の人物の2人が起訴状に実名で記されている。
起訴状に読み上げられた傘下団体の幹部は、「朝鮮総連の関係団体の幹部で、同じ名前は自分しかいない」とした上で、「元被告と会ったこともないし、聞いたこともない。保衛部にも知り合いはおらず、全く関係がない。勝手に名前を使われたのだろう」と関与を否定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20080903104907/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080830-OYT1T00395.htm |work=読売新聞 |title=北の女スパイ日本で暗躍、指令「総連傘下団体幹部に会え」 |accessdate=2008-09-03}}</ref>。
== 日本社会との関係性 ==
=== 公安調査庁による調査 ===
[[吹田事件]]を惹起した団体であり、[[破壊活動防止法]]上の「過去に暴力主義的破壊活動を行い、将来もその恐れのある団体」に指定されていることから、現在も[[日本共産党]]や[[過激派|過激各派]]、[[右翼団体|行動右翼]]、[[オウム真理教]]と並んで[[公安調査庁]]の調査対象団体となっている<ref name="bando-z2"/>。2016年に会員の人数は約7万人である事を明らかにした、これまで人数を具体的に明らかにされたことはなかった。<ref>[http://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000068557.html]</ref>
=== 課税減免措置特権撤廃の流れ ===
朝鮮総聯とその関連施設は、[[査証|ビザ]]や[[パスポート]]発行代理業務を行うなど北朝鮮の行政窓口機能があるとの名目で「{{仮リンク|事実上の大使館|en|De facto embassy}}」または「公民館的施設」として扱われ、各地方自治体により[[固定資産税]]や[[都市計画税]]の課税減免措置がとられていた<ref name="bando-z2"/>。
しかし、[[2002年]](平成14年)[[9月]]の[[小泉純一郎]][[内閣総理大臣|首相]](当時)訪朝で北朝鮮が[[北朝鮮による日本人拉致問題|拉致問題]]への関与を認めたことを境に、国内の朝鮮総連関連施設への優遇措置が見直されるようになった。
また2007年(平成19年)11月に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]で「朝鮮総連の活動に公益性はなく税の減免措置は違法である」とする判決が確定したため、各自治体で減免措置の撤廃が急速に進んだ。
そして漸く[[2015年]](平成27年)度に朝鮮総連関連施設に対する固定資産税の減免措置を行う自治体が初めて一つもなくなった<ref name="bando-z2"/>。
{{main|朝鮮総連関連施設地方税減免措置問題}}
=== 日本の政党との関係 ===
朝鮮総聯創立以前に在日朝鮮人が[[日本共産党]]で活動していたこともあって、彼らが朝鮮総連へ移ってからも日本共産党との関係が深かった<ref name="bando-z2"/>。その後[[1970年代]]中盤からは[[日本社会党]]に接近し、両者は友好関係を築いた。[[社会党左派|日本社会党左派]]を継承した[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]とは引き続き友好関係にある。社会党出身の[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]議員へ政治献金を行っていたことも判明している<ref>{{cite news
|url = http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20070116k0000e010066000c.html
|author = 杉本修作
|title = 角田参院副議長:陣営が寄付2517万円を「裏金処理」
|publisher = [[毎日新聞]]
|date = 2007年1月16日
|accessdate = 2007年1月27日
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070127204245/http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20070116k0000e010066000c.html
|archivedate = 2007年1月27日
}}</ref>。
=== 朝鮮学校の授業料無償化に関する工作活動 ===
2010年(平成22年)[[6月12日]]、朝鮮総連が朝鮮学校の生徒の父母らに対し、[[文部科学省]]に朝鮮学校への高校授業料無償化の適用を要請する電話攻勢をかけるようノルマを課していたこと、また同時に、複数の日本人になりすまして電話回数を稼ぐよう指示していたことが内部文書から判明した。[[産経新聞]]は「総連の無償化運動がモラルを著しく逸脱し、北朝鮮同様に統制された組織動員のもとで展開していた実態が明らかになった」と評している<ref>[https://web.archive.org/web/20100614074331/https://sankei.jp.msn.com/world/korea/100613/kor1006130120000-n1.htm 総連、朝鮮学校無償化へ攻勢 「日本人になりすませ」 文科省への電話指示、ノルマも]「産経ニュース」2010年6月13日</ref>。この問題に付随して、[[土台人]]による「[[朝鮮学校問題に係る在日スパイ被疑事件]]」が発覚し、警察による捜査が行われた。
=== 民間企業との関係 ===
[[東亜日報]]の報道によれば、[[2020年]]に発表された、スポーツブランドの[[ナイキ]]の[[広告]]の制作に、ナイキ側からの申し出により協力した<ref>{{cite news|title= 在日問題を扱ったナイキのCM動画が話題|url= https://www.donga.com/jp/article/all/20201202/2258760/1|date=2020-12-02|accessdate=2022-01-10|publisher=東亜日報|language=日本語}}</ref><ref>{{cite news|title= '재일 한국인' 차별 담은 나이키 광고 화제..日 누리꾼 반응은?|url= https://news.v.daum.net/v/20201201161255142|language=ko|date=2020-12-01|publisher=東亜日報|accessdate=2022-01-10}}</ref>。
== 中央本部ビル売却問題 ==
{{Main|朝鮮総連本部ビル売却問題}}
中央本部(東京都千代田区富士見)の土地と建物が、元不動産会社社長の[[満井忠男]]の仲介により、[[2007年]](平成19年)[[5月31日]]に元[[公安調査庁長官]][[緒方重威]]が代表取締役を務めるハーベスト投資顧問株式会社に売却されていたことが判明した。また仲介者とされる満井には朝鮮総連側から、手数料などの名目で4億9千万円が渡っていた。
中央本部の建物(地上10階、地下2階の鉄骨鉄筋コンクリート造り。延べ床面積約1万1700平方メートル)と土地(約2390平方メートル)は40億円を超えるとみられている(売却代金は35億円とされていた)。東京地検特捜部は当初、朝鮮総聯が整理回収機構から提起されていた訴訟に敗訴した場合に予想される差押から逃れるために脱法・違法行為をおこなう意図があったとして電磁的公正証書原本不実記録等の容疑で捜査していた。
捜査の結果、朝鮮総聯が所有権の売却譲渡後も引き続き賃貸物権として使用を認めてもらえる売却先を探していたことが判明したため、実際には朝鮮総聯側は被害者であったとして、緒方と満井が「資金調達の目処が立っていないにもかかわらず土地と建物と手数料を騙し取ろうとしていた」として、2007年(平成19年)6月28日に詐欺容疑で逮捕された。なお手数料として詐取した金銭のうち半分しか返却されていないと報道された。
2013年、競売にかけられ、宗教法人[[最福寺 (鹿児島市)|最福寺]]が落札したものの、後に辞退をして、続いて[[モンゴル]]の企業が落札したが、裁判所から認められずに平行線をたどった。
2014年、[[マルナカ (チェーンストア)|マルナカホールディングス]]が落札したが、2015年1月22日になり、[[山形県]]に本社があるグリーンフォーリストに転売する方向であることが分かり、立ち退きが避けられる見通しとなった<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015012302000120.html 朝鮮総連立ち退き回避か] 東京新聞(2015年1月23日)</ref>。
現在、朝鮮総聯の本部機能は、朝鮮出版会館([[コリアブックセンター]])や、[[同胞法律・生活センター]]へと移転しつつある。
== 傘下団体 ==
{{Div col|colwidth=5em|style=font-size:small;column-count:4}}
*[[在日本朝鮮人商工連合会]](商工連)<ref name="総聯の各級機関">[http://www1.korea-np.co.jp/chongryon/org-ad.htm 総聯の各級機関] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080927011847/http://www1.korea-np.co.jp/chongryon/org-ad.htm |date=2008年9月27日 }} 朝鮮新報</ref>
*[[在日本朝鮮青年同盟]](朝青)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮民主女性同盟]](女性同盟)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮青年商工会]](青商会)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮人教職員同盟]](教職同)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮人中央教育会]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮信用組合協会]](朝信協)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮言論出版人協会]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮社会科学者協会]](社協)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮人科学技術協会]](科協)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮人医学協会]](医協)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮人人権協会]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮文学芸術家同盟]](文芸同)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮人体育連合会]](体連)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮留学生同盟]](留学同)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮人宗教人連合会]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮仏教徒協会]](仏協)<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮歴史考古学協会]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮人統一同志会]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮平和擁護委員会]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[在日本朝鮮学生委員会]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝鮮新報社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝鮮通信社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[学友書房]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝鮮青年社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[総聯映画製作所]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝鮮問題研究所]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[金剛山歌劇団]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[東京朝鮮歌舞団]]<ref name="総聯地方歌舞団">[http://www.chongryon.com/j/cr/about/7-11.html 総聯地方歌舞団] 在日本朝鮮人総聯合会</ref>
*[[北関東朝鮮歌舞団]]<ref name="総聯地方歌舞団"/>
*[[東海朝鮮歌舞団]]<ref name="総聯地方歌舞団"/>
*[[京都朝鮮歌舞団]]<ref name="総聯地方歌舞団"/>
*[[大阪朝鮮歌舞団]]<ref name="総聯地方歌舞団"/>
*[[兵庫朝鮮歌舞団]]<ref name="総聯地方歌舞団"/>
*[[広島朝鮮歌舞団]]<ref name="総聯地方歌舞団"/>
*[[九州朝鮮歌舞団]]<ref name="総聯地方歌舞団"/>
*[[在日朝鮮蹴球団]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝鮮美術研究所]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝鮮文芸社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝鮮音楽社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[金剛保険株式会社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[総聯合営事業推進委員会]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝・日輸出入商社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[東海商事株式会社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝鮮特産物販売株式会社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝鮮産業株式会社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[チヨダ国際貿易]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[株式会社近洋海運]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[海陽薬業株式会社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[株式会社中外旅行社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[共同興業株式会社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[慶和商事株式会社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[隆興貿易株式会社]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[朝鮮総聯中央学院]]<ref name="総聯の各級機関"/>
*[[同胞結婚相談中央センター]]<ref name="総聯の各級機関"/>
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== 脚注・参考文献 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=坂東忠信|authorlink=坂東忠信|date=2016-10-08 |title=在日特権と犯罪{{fontsize|small|未公開警察統計データからその実態を読み解く!}} |publisher=[[青林堂]] |isbn=978-4792605674 |ref={{Harvid|坂東|2016}}}}
== 関連項目 ==
{{columns-list|30em|
* [[在日本大韓民国民団]]
* [[在日本韓国人連合会]]
* [[在日朝鮮人の帰還事業]]
* [[在日特権]]
* [[朝鮮学校]]
* [[朝銀信用組合]]
* [[万景峰号]]
* [[朝鮮新報]]
<!--WP:CONTEXT * [[アクセス禁止]]-->
* [[緒方重威]]
* [[満井忠男]]
* [[竹田靑滋]]
* [[元正花]]
* [[凍土の共和国]]
* [[拉致]]
* [[パチンコ]]
* [[朝鮮の声放送]]
* [[朝鮮民主主義人民共和国旅券]]
* [[在中朝鮮人総連合会]] - 在中朝鮮人による組織。
}}
== 外部リンク ==
* [http://www.chongryon.com/ 在日本朝鮮人総聯合会]
* [https://www.moj.go.jp/psia/kouan_naigai_naigai17_naigai17-00.html 平成17年(2005年)「内外情勢の回顧と展望」] ([[公安調査庁]])
* [http://www.nishinippon.co.jp/news/wordbox/report2004/0205_4.html 新聞・ワードボックス]([[西日本新聞]])
{{朝鮮総連}}
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焼夷弾
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焼夷弾(しょういだん、英語: incendiary bomb、incendiary ammunition)は、焼夷剤(発火性の薬剤)を装填した爆弾・砲弾・銃弾である。
通常の銃砲弾・爆弾とは異なり、目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。そのため、発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊する爆弾と違い、焼夷弾は中に入っている燃料が燃焼することで、対象物を火災に追い込む。
このような、燃焼を利用する銃砲弾が全て焼夷弾ということではなく、同様の機構を持ちながらも目的の異なる、照明弾・曳光弾・発煙弾・ガス弾などもある。
焼夷剤の種類で分類される。
主剤ではないが、エレクトロン焼夷弾や油脂焼夷弾の点火剤に、マグネシウムが使われることもある。
焼夷弾は建造物などの目標を焼き払うための兵器であるが、子弾式(複数の焼夷弾を束ねてより大型の弾殻に収容し、投下後に分散して散布する方式(いわゆる「クラスター爆弾」)のものは小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、人体への直撃による即死の事例が多くの被災者の証言により伝えられている。
例えば戦争を題材にしたアニメ・映画では、落下した焼夷弾が家屋や地面に激突し大爆発を起こし燃え上がる描写が多く見られる。実際には家屋や地面だけではなく、避難民の頭上に大量に降り注ぎ、子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死、そのまま燃え上がるという凄惨な状況が多数発生していた。
黄燐焼夷弾の不発弾が地中に埋まり、それを含んだ土や岩が掘り起こされたりなどして空気に触れ発火する、という事故が沖縄やフィリピンで起こり、新種の鉱物か、と騒がれたことがある。
日本でも、2008年9月24日に青森県青森市栄町二丁目の住宅新築工事現場で、ショベルカーで掘削作業をしていたところ、中から掘り当てられたM47六角焼夷弾の破片に残っていた黄燐が酸化し一時炎や煙が上がった。陸上自衛隊第9師団が出動して同日15時ごろ不発弾を回収した。
特定通常兵器使用禁止制限条約の附属議定書3において、民間人や人口密集地付近の目標に対して使用することは禁止された。ただし、イスラエル、韓国、トルコなどは未締約である。
6ポンド(約 2.7kg)のナパーム弾。外形は六角柱。
木造の日本家屋を効率よく焼き払うため、第二次世界大戦時に米軍が開発した焼夷弾。M69焼夷弾1発あたりの大きさは、直径8cm・全長50cm・重量2.4kg程度。
M69は単独では用いられず、1基当たり38発のM69を子弾として内蔵するクラスター爆弾(E28・E36・E46・E48集束焼夷弾、いずれも公称重量500ポンド)として投下された。投下後上空700m程度でこれらが分離し、一斉に地上へ降り注ぐ。
従来型に黄燐を入れ威力を高めた新型焼夷弾。
M74六角焼夷弾38本を束ねた「E48集束焼夷弾」として投下された。青森大空襲(1945年7月28日)が、その実験場となり83,000本ものM74六角焼夷弾が降り注ぎ東北地方最大の被害を青森市に与えた。米国戦略爆撃調査団は「M74は青森のような可燃性の都市に使用された場合有効な兵器である」と結論している。
焼夷弾の発火は、対象への激突後である。しかし『火垂るの墓』をはじめとする戦時中を題材にした映画などでは、焼夷弾が「火の雨」となって落下する描写がある(多くの空襲被災者の証言にも見られる)。そのため、空中で発火して焼夷剤に引火させると誤解されていることがある。しかしこのときの火は、焼夷剤によるものではない。
焼夷弾には、目標(木造家屋の瓦屋根など)への貫通力を高めるため、姿勢を垂直に保つ目的のストリーマーと呼ばれるリボン(青く細長い布)が取り付けられている。上空での分離時に使用されている火薬によって、このリボンに着火し、それがあたかも火の帯のようになり一斉に降り注ぎ、火の雨が降るように見えたと言われている。なお、親爆弾の開裂には爆薬を用いず、従ってストリーマーにも火がつくことはなく、風圧ではためくストリーマーに、地上の火災が反映して、「火の雨」に見えたのではないかと示唆する説もある。
E46収束焼夷弾には「モロトフのパン籠」という異名がついた。この異名はもともとは冬戦争(第一次ソ芬戦争)時のソ連の外務大臣、ヴャチェスラフ・モロトフの発言に基づき、構造がパン籠を連想させる収束焼夷弾コンテナに対してフィンランド国民が名付けたものである。
フィンランドの都市への空爆を非難されたモロトフ外相は「爆撃ではなく、(フィンランドの)人民にパンなどを投下している」と言い張ったとされ、その発言に対し、フィンランド国民はソ連の小型焼夷弾60発を収納するコンテナを"モロトフのパン籠"と呼ぶ事で応じた。また、フィンランド兵は"お返し"として対戦車用の火炎瓶を「モロトフに捧げるカクテル」と呼んだ。
なお、この逸話から火炎瓶の代名詞として"モロトフ・カクテル"という呼称が用いられるようになった。
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"text": "焼夷弾は建造物などの目標を焼き払うための兵器であるが、子弾式(複数の焼夷弾を束ねてより大型の弾殻に収容し、投下後に分散して散布する方式(いわゆる「クラスター爆弾」)のものは小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、人体への直撃による即死の事例が多くの被災者の証言により伝えられている。",
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"text": "例えば戦争を題材にしたアニメ・映画では、落下した焼夷弾が家屋や地面に激突し大爆発を起こし燃え上がる描写が多く見られる。実際には家屋や地面だけではなく、避難民の頭上に大量に降り注ぎ、子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死、そのまま燃え上がるという凄惨な状況が多数発生していた。",
"title": "被害"
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"text": "黄燐焼夷弾の不発弾が地中に埋まり、それを含んだ土や岩が掘り起こされたりなどして空気に触れ発火する、という事故が沖縄やフィリピンで起こり、新種の鉱物か、と騒がれたことがある。",
"title": "不発弾事故"
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"text": "日本でも、2008年9月24日に青森県青森市栄町二丁目の住宅新築工事現場で、ショベルカーで掘削作業をしていたところ、中から掘り当てられたM47六角焼夷弾の破片に残っていた黄燐が酸化し一時炎や煙が上がった。陸上自衛隊第9師団が出動して同日15時ごろ不発弾を回収した。",
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"text": "フィンランドの都市への空爆を非難されたモロトフ外相は「爆撃ではなく、(フィンランドの)人民にパンなどを投下している」と言い張ったとされ、その発言に対し、フィンランド国民はソ連の小型焼夷弾60発を収納するコンテナを\"モロトフのパン籠\"と呼ぶ事で応じた。また、フィンランド兵は\"お返し\"として対戦車用の火炎瓶を「モロトフに捧げるカクテル」と呼んだ。",
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"text": "なお、この逸話から火炎瓶の代名詞として\"モロトフ・カクテル\"という呼称が用いられるようになった。",
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}
] |
焼夷弾は、焼夷剤(発火性の薬剤)を装填した爆弾・砲弾・銃弾である。 通常の銃砲弾・爆弾とは異なり、目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。そのため、発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊する爆弾と違い、焼夷弾は中に入っている燃料が燃焼することで、対象物を火災に追い込む。 このような、燃焼を利用する銃砲弾が全て焼夷弾ということではなく、同様の機構を持ちながらも目的の異なる、照明弾・曳光弾・発煙弾・ガス弾などもある。
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{{出典の明記|date=2016-10-24}}
[[File:Napalm.jpg|thumb|240px|[[ベトナム戦争]]においてアメリカ軍が使用したナパーム弾の爆発([[1965年]])]]
'''焼夷弾'''(しょういだん、{{lang-en|incendiary bomb、incendiary ammunition}})は、[[焼夷剤]](発火性の薬剤)を装填した[[爆弾]]・[[砲弾]]・[[弾丸|銃弾]]である。
通常の銃砲弾・爆弾とは異なり、目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。そのため、発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊する爆弾と違い、焼夷弾は中に入っている[[燃料]]が燃焼することで、対象物を[[火災]]に追い込む。
このような、燃焼を利用する銃砲弾が全て焼夷弾ということではなく、同様の機構を持ちながらも目的の異なる、[[照明弾]]・[[曳光弾]]・[[発煙弾]]・[[催涙剤|ガス弾]]などもある。
== 種類 ==
=== 焼夷剤の種類 ===
焼夷剤の種類で分類される。
; [[テルミット焼夷弾]]
: [[テルミット法|テルミット反応]]を使う。
: [[エレクトロン焼夷弾]]は、テルミットの燃焼によりさらに[[マグネシウム合金|エレクトロン]]([[マグネシウム]]合金)に点火する。[[第二次世界大戦]]の[[ドイツ本土空襲|対独爆撃]]に多用された([[日本]]へも若干用いられた)。
; 油脂焼夷弾
: [[油脂]]を使う。化学的な意味での「油脂」だけでなく、[[ナフサ]]・[[重油]]などの[[石油製品]](主成分は[[炭化水素]])もこれに含まれる。
: [[ナパーム弾]]は、[[ナフサ]]に各種薬剤を混ぜた「ナパーム剤」を使う。[[太平洋戦争]]の[[日本本土空襲|対日爆撃]]で[[M69焼夷弾]]が、[[ベトナム戦争]]の[[ベトナム戦争#北爆|北爆]]でナパームBが多用された。
; 黄燐焼夷弾
: [[黄燐]](白燐)の[[自然発火]]を使う。
主剤ではないが、エレクトロン焼夷弾や油脂焼夷弾の点火剤に、[[マグネシウム]]が使われることもある。
=== その他の種類 ===
; [[火炎瓶]]
: [[ガラス瓶]]に油脂を詰め、簡単な着火機構を装着して製造される簡易な焼夷弾。軍用としては主に[[第二次世界大戦]]期に[[対戦車兵器]]として使用された。
: 製造が容易なことから、[[暴動]]の際にも対人・対車両用武器としてしばしば使用される。ただし、単純にガラス瓶に油脂や燃料を入れて栓として詰めた布に着火して投擲する単純なものは、投擲後の着火の確実性が低く、使用者とその周囲にとっての危険性が高い割には有用性は低い。
; [[焼玉式焼夷弾]]
: 近世・近代に使われた[[砲弾]]で、焼夷剤を使うのではなく、砲弾を赤熱させることで焼夷効果を起こす。
; [[徹甲焼夷弾]] {{weight|normal|({{en|armor piercing incendiary}}; API)}}
: [[徹甲弾]]({{en|armor piercing}}; AP)と焼夷弾の機能を併せ持つ砲弾・[[弾丸|銃弾]]。敵の[[装甲]]を貫いて、内部で燃焼し焼夷効果をもたらす。さらに[[榴弾]]の機能を加えた[[HEIAP|徹甲炸裂焼夷弾]]({{en|high explosive incendiary/armor piercing ammunition}}; HEIAP)もある。
== 被害 ==
; 火災
: 焼夷効果により[[火災]]が発生する。焼夷弾の大量使用により大火災が発生すると、[[酸欠]]や[[一酸化炭素中毒]]による[[窒息死]]も多発する。
; 焼夷剤による化学的な被害
: 焼夷剤の燃焼ガスや、燃え残った焼夷剤そのものが、化学的な被害をもたらす。特に黄燐焼夷弾は、気化したリンや、燃焼ガスの[[五酸化二リン]]が、広範囲に広がり[[皮膚]]や[[呼吸器]]を侵食する。
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Nihonbashi-1.jpg|[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の欄干の焼夷弾跡(2010年12月10日撮影)
Nihonbashi-2.jpg|同左(2010年12月10日撮影)
</gallery>
=== 人体への直撃による被害 ===
焼夷弾は建造物などの目標を焼き払うための[[兵器]]であるが、子弾式(複数の焼夷弾を束ねてより大型の弾殻に収容し、投下後に分散して散布する方式(いわゆる「[[クラスター爆弾]]」)のものは小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、人体への直撃による即死の事例が多くの被災者の証言により伝えられている。
例えば戦争を題材にしたアニメ・映画では、落下した焼夷弾が家屋や地面に激突し大爆発を起こし燃え上がる描写が多く見られる。実際には家屋や地面だけではなく、避難民の頭上に大量に降り注ぎ、子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死、そのまま燃え上がるという凄惨な状況が多数発生していた。
== 不発弾事故 ==
黄燐焼夷弾の[[不発弾]]が地中に埋まり、それを含んだ土や岩が掘り起こされたりなどして空気に触れ発火する、という事故が[[沖縄県|沖縄]]や[[フィリピン]]で起こり、新種の鉱物か、と騒がれたことがある。
日本でも、[[2008年]][[9月24日]]に[[青森県]][[青森市]]栄町二丁目の住宅新築工事現場で、[[ショベルカー]]で掘削作業をしていたところ、中から掘り当てられたM47六角焼夷弾の破片に残っていた[[黄燐]]が酸化し一時炎や煙が上がった。[[陸上自衛隊]][[第9師団 (陸上自衛隊)|第9師団]]が出動して同日15時ごろ不発弾を回収した。
== 規制 ==
[[特定通常兵器使用禁止制限条約]]の附属議定書3において、民間人や人口密集地付近の目標に対して使用することは禁止された。ただし、[[イスラエル]]、[[大韓民国|韓国]]、[[トルコ]]などは未締約である<ref>[http://www.unog.ch/__80256ee600585943.nsf/(httpPages)/3ce7cfc0aa4a7548c12571c00039cb0c?OpenDocument&ExpandSection=1#_Section1 Where global solutions are shaped for you | Disarmament | States parties and signatories]</ref>。
== 第二次世界大戦に投入されたアメリカ軍の焼夷弾 ==
; M47A2
: 4ポンド(約 1.8kg)の[[ナパーム弾]]。外形は六角柱。6発ずつ束ねてT19集束機に搭載された。
; M50
: 4ポンド(約 1.8kg)の[[テルミット法|テルミット]]・[[マグネシウム]]弾。外形は六角柱。110発を束ね、M17[[クラスター爆弾|集束]]焼夷弾(公称重量500ポンド)として投下された。
; M76
: 公称重量500ポンド、実重量約480ポンド(約 218kg)の、大型のナパーム・マグネシウム弾。
=== M69 ===
{{main|M69焼夷弾}}
[[File:M69 6-pound Napalm Incendiary Bomb, Niigata Prefectural Museum of History.jpg|thumb|長岡空襲で使用されたM69子弾。[[新潟県立歴史博物館]]の展示。]]
6ポンド(約 2.7kg)のナパーム弾。外形は六角柱。
木造の日本家屋を効率よく焼き払うため、[[第二次世界大戦]]時に[[アメリカ軍|米軍]]が開発した焼夷弾。M69焼夷弾1発あたりの大きさは、直径8cm・全長50cm・重量2.4kg程度。
M69は単独では用いられず、1基当たり38発のM69を子弾として内蔵する[[クラスター爆弾]](E28・E36・E46・E48集束焼夷弾、いずれも公称重量500ポンド)として投下された。投下後上空700m程度でこれらが分離し、一斉に地上へ降り注ぐ。
=== M74 ===
従来型に[[黄燐]]を入れ威力を高めた新型焼夷弾。
M74六角焼夷弾38本を束ねた「E48集束焼夷弾」として投下された。[[青森大空襲]]([[1945年]][[7月28日]])が、その実験場となり83,000本ものM74六角焼夷弾が降り注ぎ東北地方最大の被害を青森市に与えた。[[米国戦略爆撃調査団]]は「M74は青森のような可燃性の都市に使用された場合有効な兵器である」と結論している。
=== 「火の雨」に見える理由===
焼夷弾の発火は、対象への激突後である。しかし『[[火垂るの墓]]』をはじめとする戦時中を題材にした映画などでは、焼夷弾が「火の雨」となって落下する描写がある(多くの空襲被災者の証言にも見られる)。そのため、空中で発火して焼夷剤に引火させると誤解されていることがある。しかしこのときの火は、焼夷剤によるものではない。
焼夷弾には、目標(木造家屋の瓦屋根など)への貫通力を高めるため、姿勢を垂直に保つ目的のストリーマーと呼ばれるリボン(青く細長い布)が取り付けられている。上空での分離時に使用されている火薬によって、このリボンに着火し、それがあたかも火の帯のようになり一斉に降り注ぎ、火の雨が降るように見えたと言われている<ref name="hiratsuka">{{Cite book|和書|author=平塚柾緒|year=2015|title=日本空襲の全貌|page=32|publisher=洋泉社|isbn=978-4800305954}}</ref>。なお、親爆弾の開裂には爆薬を用いず、従ってストリーマーにも火がつくことはなく、風圧ではためくストリーマーに、地上の火災が反映して、「火の雨」に見えたのではないかと示唆する説もある<ref name="asahi190815">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/video/articles/ASM7D6FTLM7DUEHF00B.html|title=【動画】終戦の日まで続いた空襲…街を焼き尽くした焼夷弾とは。CGや資料映像で解説|publisher=朝日新聞|date=2019-08-15|accessdate=2019-09-22}}</ref>。
=== “モロトフのパン籠” ===
[[Image:Molotov bread basket.jpg|thumb|240px|元祖“{{仮リンク|モロトフのパン籠|en|Molotov bread basket}}”ことソ連製RRAB-3集束爆弾]]
E46収束焼夷弾には「モロトフのパン籠」という異名がついた。この異名はもともとは[[冬戦争]](第一次ソ芬戦争)時の[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[外務大臣]]、[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]の発言に基づき、構造がパン籠を連想させる収束焼夷弾コンテナに対して[[フィンランド]]国民が名付けたものである。
フィンランドの都市への[[空襲|空爆]]を非難されたモロトフ外相は「''爆撃ではなく、(フィンランドの)人民にパンなどを投下している''」と言い張ったとされ、その発言に対し、フィンランド国民はソ連の小型焼夷弾60発を収納するコンテナを"モロトフのパン籠"と呼ぶ事で応じた。また、フィンランド兵は"お返し"として対戦車用の[[火炎瓶]]を「モロトフに捧げるカクテル」と呼んだ。
なお、この逸話から火炎瓶の代名詞として"モロトフ・カクテル"という呼称が用いられるようになった<ref>{{Cite web |author= |date= |url= https://www.nytimes.com/1986/11/20/opinion/l-how-the-molotov-cocktail-got-its-name-085186.html|title=How the Molotov Cocktail Got Its Name |website=NYTimes.com |publisher= |accessdate=2018-10-22}}</ref>。
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Incendiary_weapons}}
{{Commons|Category:American_WW2_incendiary_bombs|第二次世界大戦に投入されたアメリカ軍の焼夷弾}}
* [[日本本土空襲]]
* [[東京大空襲]]
* [[アントニン・レーモンド]]
* [[コウモリ爆弾]]
* [[ドラゴンブレス弾]]
* [[ダイパック]]
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[[Category:焼夷兵器]]
[[category:砲弾]]
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サウスブリッジ
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サウスブリッジ
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サウスブリッジ かつてチップセットが2チップ構成だった時代に、CPUやメモリバスから遠い側にあったチップセットの事。詳しくはこちらを参照。
アメリカ合衆国の都市。詳しくはサウスブリッジ (マサチューセッツ州)を参照。
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'''サウスブリッジ'''
* かつて[[チップセット]]が2チップ構成だった時代に、CPUやメモリバスから遠い側にあったチップセットの事。詳しくは[[チップセット#構成|こちら]]を参照。
* アメリカ合衆国の都市。詳しくは[[サウスブリッジ (マサチューセッツ州)]]を参照。
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夏商周年表プロジェクト
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夏商周年表プロジェクト(中国語: 夏商周断代工程)は、1996年から2000年の中華人民共和国において行われた、国家規模の研究プロジェクト。第九次五カ年計画の一環。古代中国史の夏王朝・商王朝(殷)・周王朝の三代について、年代測定の手法によって具体的な年代を確定させた。プロジェクトの成果は「夏商周年表」としてまとめられた。
プロジェクトの全貌は、参加者の一人でもある作家(サイエンスライター)の岳南(中国語版)が書籍の形でまとめており、日本語訳も刊行されている。
このプロジェクトが始まる以前に、中国古代の年代は、文献資料でわかっている限りでは、周の共和元年(紀元前841年に相当)までしかたどれなかった。
プロジェクトは、1995年の秋から準備がはじめられ、1996年5月16日に正式に開始した。このプロジェクトには、約200名の若手主体の学者が参加した。1999年9月に開かれた夏商周断代工程階段成果学術報告会(中国史学会、中国考古学会、中国科学技術史学会、「夏商周断代工程」項目弁公室主催)では、プロジェクトに参加していない学者も含めて、160人強が討論をした。これが、このプロジェクトに大きな作用をもたらしたという。
2000年9月15日の夏商周断代工程項目験收会でその内容が政府によりチェックされ、2000年11月10日に、プロジェクトの首席科学者である李学勤・李伯謙・仇士華・席沢宗4人を中心として、公表された。
2001年11月、夏王朝よりさらにさかのぼって中国文明の淵源を突き止めるべく中華文明探源プロジェクトも始まった。三皇五帝のうち、堯、舜、禹の時期が対象となる。2004年より、本格的に開始され、紀元前25世紀までを目処に研究が行われた。
夏商周年表の作成には、様々な手法が用いられた。
プロジェクトの結果に対して反論や批判が提示されている例がある。例えば、周が殷を滅ぼした年についてプロジェクトでは『竹書紀年』(古本)にある紀元前1027年を否定して、『国語』(周語)にある「歳在鶉火」(この年に歳星(木星)が「鶉火」の位置にあった)の記述を元にして紀元前1046年という数字が出された。これに関して、中国で歳星などの五星(すなわち惑星)の存在が認識されたのは戦国時代以後のことであり、殷末周初にかかる記録が存在しない(『国語』の記事は後代の創作である)として、紀元前1027年説を否定する根拠にはならないとする反論がある。また年表の数値に対しては『史記』等の記年記事に依拠し過ぎており、中国史の碩学・宮崎市定が中国上古の紀年がかなり間延びしていることを指摘しており、落合淳思も殷王朝の系譜分析を通じて『史記』に依拠した殷の紀年が長すぎると指摘する。
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夏商周年表プロジェクトは、1996年から2000年の中華人民共和国において行われた、国家規模の研究プロジェクト。第九次五カ年計画の一環。古代中国史の夏王朝・商王朝(殷)・周王朝の三代について、年代測定の手法によって具体的な年代を確定させた。プロジェクトの成果は「夏商周年表」としてまとめられた。 プロジェクトの全貌は、参加者の一人でもある作家(サイエンスライター)の岳南が書籍の形でまとめており、日本語訳も刊行されている。
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{{表記揺れ案内|表記1=夏商周断代工程|表記2=夏商周年表プロジェクト|議論ページ=[[ノート:中国文明ルーツプロジェクト#改名提案|過去の議論]]|表記3=夏商周年代確定プロジェクト}}
{{中国の歴史}}
'''夏商周年表プロジェクト'''({{Lang-zh|'''夏商周断代工程'''}})は、[[1996年]]から[[2000年]]の[[中華人民共和国]]において行われた、国家規模の[[研究]][[プロジェクト]]。[[中国の五カ年計画|第九次五カ年計画]]の一環。[[古代]][[中国史]]の[[夏 (三代)|夏王朝]]・商王朝([[殷]])・[[周|周王朝]]の[[三代 (中国史)|三代]]について、[[年代測定]]の手法によって具体的な年代を確定させた<ref>{{Cite web|title=「歴史的、考古学的価値はきわめて高い」――李学勤教授の見解|url=http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/teji/200309/teji-3.htm|website=www.peoplechina.com.cn|accessdate=2020-09-05|publisher=[[人民中国]]|language=日本語|date=2003}}</ref>。プロジェクトの成果は「[[夏商周年表]]」としてまとめられた。
プロジェクトの全貌は、参加者の一人でもある[[作家]]([[サイエンスライター]])の{{仮リンク|岳南|zh|岳南|label=}}が書籍の形でまとめており、日本語訳も刊行されている{{sfn|岳南著、朱建栄・加藤優子訳|2005}}。
== プロジェクト以前 ==
{{See also|疑古}}
このプロジェクトが始まる以前に、中国古代の年代は、文献資料でわかっている限りでは、[[周]]の共和元年([[紀元前841年]]に相当)までしかたどれなかった。
== プロジェクトの経過 ==
プロジェクトは、[[1995年]]の秋から準備がはじめられ、[[1996年]][[5月16日]]に正式に開始した。このプロジェクトには、約200名の若手主体の学者が参加した。[[1999年]][[9月]]に開かれた'''夏商周断代工程階段成果学術報告会'''(中国史学会、中国考古学会、中国科学技術史学会、「夏商周断代工程」項目弁公室主催)では、プロジェクトに参加していない学者も含めて、160人強が討論をした。これが、このプロジェクトに大きな作用をもたらしたという。
[[2000年]][[9月15日]]の'''夏商周断代工程項目験收会'''でその内容が政府によりチェックされ、[[2000年]][[11月10日]]に、プロジェクトの首席科学者である[[李学勤]]・李伯謙・仇士華・席沢宗4人を中心として、公表された。
[[2001年]]11月、夏王朝よりさらにさかのぼって[[中国文明]]の淵源を突き止めるべく[[中華文明探源プロジェクト]]も始まった。[[三皇五帝]]のうち、[[堯]]、[[舜]]、[[禹]]の時期が対象となる。[[2004年]]より、本格的に開始され、紀元前25世紀までを目処に研究が行われた。
== プロジェクトの手法 ==
夏商周年表の作成には、様々な手法が用いられた。
=== 天文学的な手法 ===
: 発掘された[[甲骨文]]や文献資料において、[[日食]]や[[月食]]が起きた記事を調べ、天文学的な計算によって、その[[日食]]や[[月食]]の年月日を算定する。[[天文考古学]]。
=== 考古学的手法 ===
: 発掘された[[遺跡]]、特に王侯の[[墓地]]を調べる。[[放射年代測定|C14年代測定法]]を利用して、埋葬されている者のおおよその死没年を算出する。
=== 文献学的手法 ===
: 文献資料の[[暦法]]の違いを精査し、相互の矛盾を発見し、どれが正確なのかを判定する。
== プロジェクトの結果 ==
* [[紀元前2070年]]頃、[[夏 (三代)|夏王朝]]が開かれる。
* [[紀元前1600年]]頃、[[殷|商(殷)]]が夏に代わる。
* [[紀元前1300年]]頃、[[盤庚]]が殷墟(河南省[[安陽市]])に遷都。
* [[紀元前1046年]]、[[周]]が商に代わる。
* 商の帝の盤庚から[[帝辛]]までのおおよその年代を確定。
* 周の王の在位年を具体的に確定。
== 批判 ==
プロジェクトの結果に対して反論や批判が提示されている例がある。例えば、周が殷を滅ぼした年についてプロジェクトでは『[[竹書紀年]]』(古本)にある[[紀元前1027年]]を否定して、『[[国語 (歴史書)|国語]]』(周語)にある「歳在鶉火」(この年に歳星(木星)が「鶉火」の位置にあった)の記述を元にして紀元前1046年という数字が出された。これに関して、中国で歳星などの[[五星]](すなわち[[惑星]])の存在が認識されたのは[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]以後のことであり、殷末周初にかかる記録が存在しない(『国語』の記事は後代の創作である)として、紀元前1027年説を否定する根拠にはならないとする反論がある<ref>[[小沢賢二]]「『武王伐紂年』歳在鶉火説を批判する」(『中国天文学史研究』(汲古書院、2010年) ISBN 978-4-7629-2872-7 第7章)</ref>。また年表の数値に対しては『史記』等の記年記事に依拠し過ぎており、中国史の碩学・[[宮崎市定]]が中国上古の紀年がかなり間延びしていることを指摘しており、[[落合淳思]]も殷王朝の系譜分析を通じて『史記』に依拠した殷の紀年が長すぎると指摘する<ref>[[宝賀寿男]]「[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/fusou-g/fusosiso1.htm 「扶桑」概念の伝播-扶桑と箕子朝鮮を結ぶもの-]」『古樹紀之房間』、2008年。</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==関連文献==
*{{Citation|和書|title=夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源|year=2005|publisher=[[柏書房]]|isbn=4-7601-2729-1|author=岳南著、朱建栄・加藤優子訳}}
**原題:『千古学案 夏商周断代工程紀実』 浙江人民出版社、2001年<!-- 8月1日 -->、ISBN 9787213021688{{cn icon}}
* {{Citation|和書|title=中国古代史研究の最前線|year=2018|last=佐藤|first=信弥|publisher=星海社〈星海社新書〉|isbn=978-4065114384}}
== 関連項目 ==
* [[夏商周年表]] (プロジェクトの成果)
* [[年表]]
== 外部リンク ==
* [http://xiangyata.net/data/articles/e02/232.html 夏商周断代工程的主要成就]
* [http://www.guoxue.com/gxnews/xsz/qn.htm 《夏商周年表》廓清千古之謎]
* [http://www.confucius2000.com/scholar/xshzhnbiao.htm 《皇極経世》与《夏商周年表》(詳細年表)]
* [http://xiangyata.net/data/articles/e02/232.html 夏商周断代工程的主要成就] 李学勤在[[中国国家図書館]]的講座
* [http://chu.jznu.net/xszlb.htm 夏商周年表]
* [http://zgrdxw.peopledaily.com.cn/gb/paper18/5/class001800006/hwz36459.htm 夏商周年代学的考古学基礎] 李伯謙
* [http://www.edubridge.com/erxiantang/library/duandaigongcheng.htm “夏商周断代工程”争議難平] 陳寧
* [http://www.informath.org/pubs/EAH02a.pdf Astro-Histriographic Chronologies of Early China are Unfounded] by Douglas J. Keenan
{{Chronology}}
{{DEFAULTSORT:かしようしゆうねんひようふろしえくと}}
[[Category:中国の史学史]]
[[Category:中国の考古学]]
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納豆菌
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納豆菌(なっとうきん、学名: Bacillus subtilis var. natto)は、枯草菌の一種である。稲の藁に多く生息し、日本産の稲の藁1本に、ほぼ1000万個の納豆菌が芽胞の状態で付着している。
最初に日本化学会誌に納豆菌に関する論文を発表したのは、1894年(明治27年)から3年間にわたり農科大学の大学院生だった矢部規矩治である。矢部は、納豆発酵中の化学変化について研究を続け、桿菌1種と球菌3種を発見したが、納豆の粘着物質である糸の生成原因に関しては研究未完に終わり、納豆菌の発見までには至っていなかった。その後、1902年(明治35年)に須田勝三郎らが Bacillus subtilis属菌であるところまで解明したが、発見には至らなかった。
発見されたのは1905年(明治38年)、農学博士の沢村真(澤村眞)によるものであり、納豆菌としてBacillus natto Sawamura (バチルス・ナットー・サワムラ)を分離した。衛生上の観点から、納豆の稲藁容器に疑問を持った沢村は、藁容器と納豆菌を分離する研究を行い、東京で売られていた納豆から、納豆特有の2種類の菌を突き止めた。第一号菌は風味の良い納豆をつくるが、第二号菌は粘りの点は優れても風味では第一号菌に劣るとされた。その後の沢村の研究によって、1912年(明治45年)になって納豆をつくるのは第一号菌だけで良いとし、その菌を「バチルス・ナットー・サワムラ」と名付け、1919年(大正8年)12月10日発行の雑誌『納豆』第一号に発表した。
さらに、納豆が藁に包まれていることを不潔だとして、納豆容器の改良に関心を寄せていた北海道帝国大学農学博士の半澤洵が研究を重ね、1916年(大正5年)に納豆菌の純粋培養に成功した。半澤は、1919年(大正8年)に「納豆容器審査改良会」を設立し、純粋培養法と衛生的で安定した納豆の製造方法「半澤式納豆製造法」を確立した。
それを「大学納豆」と称して売り出し近代納豆の始まりとなる。「大学納豆」をいち早く取り入れてベンチャー企業を起こし、1920年(大正10年)に半澤式納豆製造の産業化を行ったのが宮城野納豆製造所(仙台市)の創設者で後の初代全国納豆協同組合連合会会長の三浦二郎である。以降、納豆菌「宮城野株」は市販の納豆の始祖株となる三大株(宮城野株、高橋株、成瀬株)の内の一つ。
代表的な産生物質は、ナットウキナーゼ、ビタミンK2、アミノ酸類(ポリγ-グルタミン酸)。
大豆煮汁廃液やおからを原料に生分解性プラスチックであるポリγ-グルタミン酸を製造する研究が進められているが、商業レベルでの実用化には至っていない。
納豆菌は、ビタミンK2を生成する。可食部100g中に含まれるビタミンKは、茹で大豆が7μgなのに対し、納豆は600μgである。
納豆菌と同じBacillus属に属する B. subtilis や B. thuringiensisは生物農薬としての研究が進んでいることから、食用に利用されている納豆菌が生物農薬として利用可能かどうかの研究が行われて、「イチゴの灰色かび病」、「キュウリ褐斑病」、「ジャガイモそうか病」などで有効であるとする報告が行われている。
整腸作用があることでも知られる。抗生物質が見出される以前は、赤痢、腸チフス、病原性大腸菌などの増殖を抑制する作用があることから、腹痛や下痢の治療に用いられていた事がある。この抗菌作用はジピコリン酸による物であることが報告されている。
また、納豆菌には虫歯の原因となるストレプトコッカス・ミュータンスや、歯周病の原因となる菌の働きを抑制する効果があるとの報告がある。
日本酒の酒造りでの世界では、納豆が忌避されてきた。酒造りの要とされるのが麹造りであるが、納豆菌と麹菌は生育に適した環境が似通っている上に、納豆菌の繁殖力は麹菌よりも強い。納豆菌が麹米に繁殖すると「スベリ麹」と呼ばれる、ヌルヌルした納豆のような麹になってしまう。杜氏や蔵人は日本酒仕込みの時期に納豆は口にすべきではない食べ物であった。また、納豆菌(枯草菌)は食品としての納豆以外からも、乾燥不十分な稲わらのムシロ(かつては酒造工程でさまざまに用いた)を汚染源とする可能性があった。
日本酒は、麹菌をはじめ、酵母菌や乳酸菌といったさまざまな微生物の働きによってつくられるものであり、酒蔵は「非常にデリケートな場所」である。このため納豆菌に限らず、必要な微生物の働きを邪魔する「よけいな微生物」(雑菌)の働きを排除する必要がある(火落ちを生じさせる「火落ち菌」は乳酸菌の一種であるため、蔵人は納豆とともに乳酸発酵食品も避けるという)。さまざまな「よけいな微生物」の中でも、手を洗った程度では落ちず、芽胞という構造があることによって熱湯や石鹸にも耐える納豆菌は脅威であった。
もっとも近年では、酒蔵は納豆菌をはじめとする「よけいな微生物」が繁殖しにくい環境にはなっているとされる。酒蔵の側の要因としては、製造技術の変化(たとえば現代ではより小さく精米するため、雑菌にとっては栄養分が乏しく繁殖しにくなっている)、衛生に関する知識・技術・施設の向上などが挙げられる。また納豆菌の側の要因として、管理された製造工程を持つ現代的な納豆生産に用いられる納豆菌は過去に比べて繁殖力が弱くなっているという。「現代では酒造り中に納豆を食べたとしても、十分に意を払えばまず問題は起こらない」とされているが、禁忌を守ることによって伝統に敬意を払う、願掛け、リスクはゼロではないなどの観点から、複数の酒蔵で「酒造りの期間中には納豆を絶つ」ことを記しており(酒造りの終わった後も、瓶詰め作業のある際には納豆を避ける)、酒蔵見学者に対しても、見学に際して納豆を避けることが要請されている。
なお、納豆菌の研究を初めて行った矢部規矩治は、納豆に次いで日本酒醸造の研究を行い、清酒酵母を発見するなど、日本の酒造業に大きな影響を残した人物である。
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納豆菌は、枯草菌の一種である。稲の藁に多く生息し、日本産の稲の藁1本に、ほぼ1000万個の納豆菌が芽胞の状態で付着している。
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| 下位分類名 = [[種 (分類学)|株]]
| 下位分類 = 納豆菌
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'''納豆菌'''(なっとうきん、学名: ''Bacillus subtilis'' var. ''natto''<!--バチルス菌とも-->)は、[[枯草菌]]の一種<!--で、芽胞を形成する菌-->である。[[イネ|稲]]の[[藁]]に多く生息し、日本産の稲の藁1本に、ほぼ1000万個の納豆菌が[[芽胞]]の状態で付着している<ref name=natto>[http://natto.or.jp/hyakka/index.html 納豆百科事典](全国納豆協同組合連合会)</ref>。
== 研究 ==
=== 納豆菌の発見 ===
最初に日本化学会誌に納豆菌に関する論文を発表したのは、1894年(明治27年)から3年間にわたり[[東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部|農科大学]]の大学院生だった[[矢部規矩治]]である<ref>{{Citation|和書 |author=[[矢部規矩治]] |title=納豆ノ研究 |url=https://doi.org/10.1246/nikkashi1880.15.196 |journal=東京化學會誌 |volume=15 |pages=196-205 |year=1894 |accessdate =2023-09-14 |doi=10.1246/nikkashi1880.15.196 |CRID=1390001205260217600 |publisher=日本化学会 |ref=harv}}</ref>。矢部は、[[納豆]]発酵中の化学変化について研究を続け、桿菌1種と球菌3種を発見したが、納豆の粘着物質である糸の生成原因に関しては研究未完に終わり、納豆菌の発見までには至っていなかった<ref>{{Cite journal|和書|author=井上憲政 |date=1944 |url=https://doi.org/10.5264/eiyogakuzashi.4.224 |title=納豆並納豆菌に關する研究文献集 |journal=栄養学雑誌 |ISSN=0021-5147 |publisher=日本栄養改善学会 |volume=4 |issue=3 |pages=224-233 |doi=10.5264/eiyogakuzashi.4.224 |CRID=1390282681524053760 |ref=harv}}</ref>。その後、1902年(明治35年)に須田勝三郎ら<ref>{{Cite journal|和書|author=須田勝三郎, 米城善右衛門 |url=https://doi.org/10.1248/yakushi1881.1902.242_321 |title=納豆ノ微生物ニ付テ(臨時大會演説) |journal=薬学雑誌. 乙号 |ISSN=0031-6903 |publisher=日本薬学会 |year=1902 |volume=1902 |issue=242 |pages=321-326 |doi=10.1248/yakushi1881.1902.242_321 |CRID=1390282680418054144}}</ref>が ''Bacillus subtilis''属菌であるところまで解明したが、発見には至らなかった。
発見されたのは1905年(明治38年)、農学博士の[[沢村真]](澤村眞)によるものであり、納豆菌として''Bacillus natto'' Sawamura (バチルス・ナットー・サワムラ)を分離した<ref name=j-nattokinase />。衛生上の観点から、納豆の稲藁容器に疑問を持った沢村は、藁容器と納豆菌を分離する研究を行い、東京で売られていた納豆から、納豆特有の2種類の菌を突き止めた{{sfn|町田忍|1997|p=11}}。第一号菌は風味の良い納豆をつくるが、第二号菌は粘りの点は優れても風味では第一号菌に劣るとされた。その後の沢村の研究によって、1912年(明治45年)になって納豆をつくるのは第一号菌だけで良いとし、その菌を「バチルス・ナットー・サワムラ」と名付け、1919年(大正8年)12月10日発行の雑誌『納豆』第一号に発表した{{sfn|町田忍|1997|pp=72–73}}。
さらに、[[納豆]]が藁に包まれていることを不潔だとして、納豆容器の改良に関心を寄せていた北海道帝国大学農学博士の[[半澤洵]]が研究を重ね、1916年(大正5年)に納豆菌の純粋培養に成功した{{sfn|町田忍|1997|p=74}}。半澤は、1919年(大正8年)に「納豆容器審査改良会」を設立し、純粋培養法と衛生的で安定した納豆の製造方法「半澤式納豆製造法」を確立した{{sfn|町田忍|1997|p=74}}<ref>{{Cite journal|和書|author=堀田国元, 佐々木博 |url=https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu.49.57 |title=近代納豆の幕開けと応用菌学 |journal=化学と生物 |ISSN=0453073X |publisher=日本農芸化学会 |year=2011 |volume=49 |issue=1 |pages=57-62 |doi=10.1271/kagakutoseibutsu.49.57 |CRID=1390282679176081664}}</ref>。
それを「大学納豆」と称して売り出し近代納豆の始まりとなる。「大学納豆」をいち早く取り入れてベンチャー企業を起こし、1920年(大正10年)に半澤式納豆製造の産業化を行ったのが宮城野納豆製造所(仙台市)の創設者で後の初代全国納豆協同組合連合会会長の三浦二郎である<ref>{{Cite journal|和書|author=木村啓太郎 |date=2007-03 |url=https://www.naro.affrc.go.jp/org/nfri/publications/pdf/sousetsu/kanko_sou45/p061.pdf |format=PDF |title=納豆菌の粘質物生産機構 |journal=食糧= Food science, technology : その科学と技術 |ISSN=05831164 |publisher=農業・食品産業技術総合研究機構食品研究部門 |issue=45 |page=67 |CRID=1520572358041113472}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=半澤洵, 田村芳祐 |date=1934 |url=https://doi.org/10.1271/nogeikagaku1924.10.520 |title=納豆生成菌に關する研究(第六報) |journal=日本農芸化学会誌 |ISSN=0002-1407 |publisher=日本農芸化学会 |volume=10 |issue=5 |pages=520-521 |doi=10.1271/nogeikagaku1924.10.520 |CRID=1390001204535653120}}</ref>。以降、納豆菌「宮城野株」は市販の納豆の始祖株となる三大株(宮城野株、高橋株、成瀬株)の内の一つ<ref>[https://dbsearch.biosciencedbc.jp/Patent/page/ipdl2_JPP_an_2003010640.html 特許広報(B2)_納豆菌及び納豆の製造方法]</ref>。
=== 菌産生物 ===
代表的な産生物質は、[[ナットウキナーゼ]]<ref>{{Cite journal|和書|author=須見洋行 |url=https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu1962.29.119 |title=納豆キナーゼと線溶系 |journal=化学と生物 |ISSN=0453073X |publisher=日本農芸化学会 |year=1991 |volume=29 |issue=2 |pages=119-123 |doi=10.1271/kagakutoseibutsu1962.29.119 |CRID=1390282679174461184}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=須見洋行, 大杉忠則, 内藤佐和, 矢田貝智恵子 |url=https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan.106.28 |title=納豆菌が持つ特殊酵素「ナットウキナーゼ」: その力価と特長 |journal=日本醸造協会誌 |ISSN=0914-7314 |publisher=日本醸造協会 |year=2011 |volume=106 |issue=1 |pages=28-32 |doi=10.6013/jbrewsocjapan.106.28 |CRID=1390282681103966720}}</ref>、[[ビタミンK|ビタミンK<sub>2</sub>]]<ref name=jhej1987.52.937>{{Cite journal|和書|author=須見洋行, 浅野倫和 |title=納豆菌の大麦発酵によるナットウキナーゼ,ビタミンK<sub>2</sub>,およびアミノ酸類の生産 |journal=日本家政学会誌 |ISSN=0913-5227 |publisher=日本家政学会 |year=2001 |volume=52 |issue=10 |pages=937-942 |doi=10.11428/jhej1987.52.937 |id={{NDLJP|10582672}} |CRID=1390001206334777600}}</ref>、アミノ酸類([[ポリγ-グルタミン酸]])<ref name=jhej1987.52.937 />。
大豆煮汁廃液や[[おから]]を原料に[[生分解性プラスチック]]であるポリγ-グルタミン酸を製造する研究が進められている<ref>{{Cite journal|和書|author=村上恭子, 白石淳 |title=大豆煮汁廃液を用いたポリ-γ-グルタミン酸の生産 |journal=福岡女子大学人間環境学部紀要 |ISSN=13414909 |publisher=福岡女子大学人間環境学部 |date=1998-02 |volume=29 |pages=63-66 |CRID=1520853833222162560 |naid=110000485989}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=鈴木秀之, 渡邉美子 |date=2010-12 |url=https://www.fujifoundation.or.jp/report/pdf/031/31_09.pdf |format=PDF |title=おからを原料とした納豆菌による生分解性プラスチック素材:ポリγ-グルタミン酸の製造法の開発 |journal=大豆たん白質研究 |ISSN=13444050 |publisher=不二たん白質研究振興財団 |volume=13 |issue=31 |pages=62-65 |CRID=1523669555856059136 |naid=40018765252}}</ref>が、商業レベルでの実用化には至っていない。
=== 栄養素の合成 ===
納豆菌は、[[ビタミンK]]<sub>2</sub>を生成する<ref name=jhej1987.52.937 /><ref>{{Cite journal |和書| |date=2003-12 |title=納豆菌による微量生理活性物質の生産 |journal=愛知県産業技術研究所研究報告 |url=http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010683828 |issue=2 |pages=132-133 |naid=80016376264}}</ref>。可食部100g中に含まれるビタミンKは、茹で大豆が7μgなのに対し、納豆は600μgである<ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365295.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)について] 文部科学省</ref>。
=== 農業分野への応用 ===
納豆菌と同じ''Bacillus''属に属する ''B. subtilis''<ref>{{Cite journal|和書|author=姫野道夫 |url=https://doi.org/10.1264/jsme2.14.245 |title=微生物殺虫剤(BT剤)の改良と作用メカニズム |journal=Microbes and Environments |ISSN=13426311 |publisher=日本微生物生態学会 / 日本土壌微生物学会 / Taiwan Society of Microbial Ecology / 植物微生物研究会 / 極限環境微生物学会 |year=1999 |volume=14 |issue=4 |pages=245-252 |doi=10.1264/jsme2.14.245 |CRID=1390282679323848832}}</ref> や ''B. thuringiensis''は[[生物農薬]]としての研究が進んでいることから、食用に利用されている納豆菌が生物農薬として利用可能かどうかの研究が行われて<ref name=jjphytopath.78.104>{{Cite journal|和書|author=橋本俊祐, 河村郁恵, 中島雅己, 阿久津克己 |url=https://doi.org/10.3186/jjphytopath.78.104 |title=納豆菌(''Bacillus subtilis'' var.''natto'')によるイチゴの灰色かび病に対する抑制効果 |journal=日本植物病理学会報 |ISSN=0031-9473 |publisher=日本植物病理学会 |year=2012 |volume=78 |issue=2 |pages=104-107 |doi=10.3186/jjphytopath.78.104 |CRID=1390001206406171136}}</ref>、「イチゴの灰色かび病」<ref name=jjphytopath.78.104 />、「キュウリ褐斑病」<ref>橋本俊祐・中島雅己・阿久津克己(2010a). 納豆菌(''Bacillus subtilis'')によるイチゴ炭疽病とキュウリ褐斑病に対する抑制効果.日植病報 76: 218.(講要)</ref>、「ジャガイモそうか病」<ref>{{Cite journal|和書|author=仲川晃生, 井上康宏, 越智直, 田谷有紀, 植松芳彦 |url=https://doi.org/10.11337/ktpps.2014.31 |title=納豆調製液によるジャガイモそうか病の種いも伝染防止効果 |journal=関東東山病害虫研究会報 |ISSN=13471899 |publisher=関東東山病害虫研究会 |year=2014 |volume=2014 |issue=61 |pages=31-34 |doi=10.11337/ktpps.2014.31 |CRID=1390282680171213184}}</ref>などで有効であるとする報告が行われている。
== 三大株 ==
{| class="wikitable"
|+
!種
!
!現在の菌種販売会社
!所在地
!創業
!発祥地
|-
|宮城野株
|
|有限会社 宮城野納豆製造所
|宮城県仙台市
|1920年
|宮城県
|-
|高橋株
|
|有限会社 高橋祐蔵研究所
|山形県上山市
|1935年
|山形県
|-
|成瀬株
|
|株式会社 成瀬醗酵化学研究所
|東京都練馬区
|1946年
|岩手県盛岡市
|}
== 抗菌作用 ==
整腸作用があることでも知られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://financial-field.com/living/2020/07/10/entry-82060|title=7月10日は「納豆の日」約9割の医師が健康のために納豆を食べている?|publisher=ファイナンシャルフィールド|date=2020-07-10|accessdate=2020-11-23}}</ref>。抗生物質が見出される以前は、[[赤痢]]<ref>河村一、[https://doi.org/10.11552/kansenshogakuzasshi1926.10.948 納豆菌ノ赤痢菌ニ對スル拮抗作用ニ就テ] 日本傳染病學會雜誌 Vol.10 (1935-1936) No.9 P.948-955, {{doi|10.11552/kansenshogakuzasshi1926.10.948}}</ref>、[[腸チフス]]<ref name=kansenshogakuzasshi1926.11.755>櫻田穆、[https://doi.org/10.11552/kansenshogakuzasshi1926.11.755 「チフス」の納豆菌療法の意義] 日本傳染病學會雜誌 Vol.11 (1936-1937) No.7 P.755-761,{{doi|10.11552/kansenshogakuzasshi1926.11.755}}</ref>、[[病原性大腸菌]]などの増殖を抑制する<ref name=j-nattokinase>[http://j-nattokinase.org/nattokinase/natto.html 納豆菌] 日本ナットキナーゼ協会</ref>作用があることから、腹痛や下痢の治療に用いられていた事がある<ref name=kansenshogakuzasshi1926.11.755 />。この抗菌作用は[[ジピコリン酸]]による物であることが報告されている<ref>須見洋行、大杉忠則、[https://doi.org/10.1271/nogeikagaku1924.73.1289 納豆および納豆菌中の抗菌成分ジピコリン酸] 日本農芸化学会誌 Vol.73 (1999) No.12 P.1289-1291, {{doi|10.1271/nogeikagaku1924.73.1289}}</ref>。
また、納豆菌には虫歯の原因となる[[ストレプトコッカス・ミュータンス]]や、[[歯周病]]の原因となる菌の働きを抑制する効果があるとの報告がある<ref>{{citation |author=螺良修一|title=歯周病にも効果あり (2011年 減農薬大特集 納豆菌で減農薬)--(人間の体にもいい)|journal=現代農業 |volume=90 |issue=6 |date=2011 |page=118-120 |url= }}</ref><ref>{{citation|title=納豆粘質によるミュータンス菌抑制効果 |url=https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/PU/JP-2005-336309/15F9486866DB718ED08AF26024A1819C70FC27F52C15F17897812CD12BB0451A/10/ja}}</ref>。
== 備考 ==
=== 酒造業と納豆 ===
日本酒の酒造りでの世界では、納豆が忌避されてきた<ref name="hagino_201411011550">{{Cite web|和書|url=http://www.hagino-shuzou.co.jp/blog/201411011550.php |title=酒蔵と納豆|publisher=萩野酒造|date=2014-11-1|accessdate=2022-12-13}}</ref><ref name="saketimes_natto-kurabito">{{Cite web|和書|url=https://jp.sake-times.com/think/study/sake_g_natto-kurabito |title=酒造り期間に納豆を食べられないのはどうして?─ 秋になると「納豆締めの儀」を行う現役蔵人のお話|work=SAKETIMES|date=2020-11-17|accessdate=2022-12-13}}</ref><ref name="asahi-shuzo_401">{{Cite web|和書|url=https://magazine.asahi-shuzo.co.jp/know/401 |title=酒蔵で納豆がNGなのはどうして? その理由に迫る!|work=KUBOTAYA|publisher=朝日酒造|date=2022-02-08|accessdate=2022-12-13}}</ref>。酒造りの要とされるのが[[麹]]造りであるが、納豆菌と麹菌は生育に適した環境が似通っている上に<ref name="asahi-shuzo_401"/>、納豆菌の繁殖力は麹菌よりも強い<ref name="hagino_201411011550"/><ref name="asahi-shuzo_401"/>。納豆菌が麹米に繁殖すると「スベリ麹」<ref name="hagino_201411011550"/>と呼ばれる、ヌルヌルした納豆のような麹になってしまう<ref name="hagino_201411011550"/><ref name="saketimes_natto-kurabito"/><ref name="asahi-shuzo_401"/>。杜氏や蔵人は[[日本酒]]仕込みの時期に納豆は口にすべきではない食べ物であった<ref name="asahi-shuzo_401"/>。また、納豆菌(枯草菌)は食品としての納豆以外からも、乾燥不十分な稲わらのムシロ(かつては酒造工程でさまざまに用いた)を汚染源とする可能性があった<ref name="asahi-shuzo_401"/><ref name="hagino_201411011550"/>。
日本酒は、麹菌をはじめ、酵母菌や乳酸菌といったさまざまな微生物の働きによってつくられるものであり<ref name="saketimes_natto-kurabito"/><ref name="asahi-shuzo_401"/>、酒蔵は「非常にデリケートな場所」である<ref name="asahi-shuzo_401"/>。このため納豆菌に限らず、必要な微生物の働きを邪魔する「よけいな微生物」(雑菌)の働きを排除する必要がある<ref name="saketimes_natto-kurabito"/><ref name="asahi-shuzo_401"/>([[火落ち]]を生じさせる「火落ち菌」は乳酸菌の一種であるため、蔵人は納豆とともに乳酸発酵食品も避けるという<ref name="saketimes_natto-kurabito"/>)。さまざまな「よけいな微生物」の中でも、手を洗った程度では落ちず<ref name="hagino_201411011550"/>、[[芽胞]]という構造があることによって<ref name="saketimes_natto-kurabito"/>熱湯や石鹸にも耐える納豆菌は脅威であった<ref name="asahi-shuzo_401"/>。
もっとも近年では、酒蔵は納豆菌をはじめとする「よけいな微生物」が繁殖しにくい環境にはなっているとされる<ref name="hagino_201411011550"/>。酒蔵の側の要因としては、製造技術の変化(たとえば現代ではより小さく精米するため、雑菌にとっては栄養分が乏しく繁殖しにくなっている<ref name="hagino_201411011550"/>)、衛生に関する知識・技術・施設の向上などが挙げられる。また納豆菌の側の要因として、管理された製造工程を持つ現代的な納豆生産に用いられる納豆菌は過去に比べて繁殖力が弱くなっているという<ref name="hagino_201411011550"/><ref name="asahi-shuzo_401"/>。「現代では酒造り中に納豆を食べたとしても、十分に意を払えばまず問題は起こらない」とされているが<ref name="hagino_201411011550"/><ref name="saketimes_natto-kurabito"/><ref name="asahi-shuzo_401"/>、禁忌を守ることによって伝統に敬意を払う<ref name="hagino_201411011550"/>、願掛け<ref name="hagino_201411011550"/><ref name="asahi-shuzo_401"/>、リスクはゼロではない<ref name="hagino_201411011550"/>などの観点から、複数の酒蔵で「酒造りの期間中には納豆を絶つ」ことを記しており<ref name="hagino_201411011550"/><ref name="saketimes_natto-kurabito"/>(酒造りの終わった後も、瓶詰め作業のある際には納豆を避ける<ref name="saketimes_natto-kurabito"/>)、酒蔵見学者に対しても、見学に際して納豆を避けることが要請されている<ref name="hagino_201411011550"/><ref name="saketimes_natto-kurabito"/>。
なお、納豆菌の研究を初めて行った[[矢部規矩治]]は、納豆に次いで日本酒醸造の研究を行い、[[清酒酵母]]を発見するなど、日本の酒造業に大きな影響を残した人物である。
== 脚注 ==
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; 出典
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=町田忍 |title=納豆大全! |publisher=[[小学館]] |date=1997-09-10 |ISBN=4-09-387227-9 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[納豆]]
* [[ナットウキナーゼ]]
* [[ダイズ]]
* [[生分解性プラスチック]]
* [[プロバイオティクス]]
== 外部リンク ==
* [https://nature-and-science.jp/natto/ 宇宙空間でも平気?納豆菌の強さとは シリーズ・企業探訪⑨タカノフーズ- NATURE & SCIENCE]
* 木内幹、村松芳多子、[https://doi.org/10.2740/jisdh.10.12 納豆菌の開発] 日本食生活学会誌 Vol.10 (1999-2000) No.1 P.12-15, {{doi|10.2740/jisdh.10.12}}
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[[Category:フィルミクテス門]]
[[Category:発酵]]
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ランス・アームストロング
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ランス・エドワード・アームストロング(Lance Edward Armstrong、1971年9月18日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州プレイノ出身の自転車ロードレース選手。
癌を克服してツール・ド・フランスを7連覇したが、ドーピングの発覚によって7連覇はすべて取り消され、さらに自転車競技からの永久追放処分を受け、獲得タイトルの大半を剥奪された。
アマチュア全米チャンピオンやオリンピック代表を経てプロ選手となった。世界選手権のロードレース部門で1993年に優勝するなどの実績を残したが、精巣がんに罹患し、治療のためキャリアを中断することとなる。その後復帰し、1999年から2005年まで7年連続でツール・ド・フランスの総合優勝を達成した。
2002年にはスポーツ・イラストレイテッド誌の年間最優秀スポーツマン (Sportsman of the Year) に輝き、2002年・2003年のAP通信年間最優秀男性アスリート、2003年・2004年のESPNのESPY賞最優秀男性アスリート、2003年のBBC年間最優秀スポーツ選手賞海外選手部門の各賞を受賞しているがこれもドーピングで獲得したタイトル(4回のツールドフランスの優勝を評価されたこと)による結果の受賞である。
2005年のツール・ド・フランス終了後に一度競技活動を引退し、LIVESTRONG財団の財団長としてガン撲滅研究を進める一方、TREKの株主として、新型モデルの開発などに関わっていたが、2009年のツアーダウンアンダーから現役に復帰。また、U-23の若手育成を目的としたチーム「TREK-Livestrong U-23」を創設、自らオーナーを務めた。
2011年2月16日、2度目の現役引退表明が彼自身により発表された。しかしながら、これはロードレースへの参加を控えるという趣旨であり、後述するように、その後はトライアスロンやマウンテンバイクを利用したレースに活動の場を移した。
ドーピングを行っているのではないかという疑惑を現役時代から持たれていたが、引退後の2012年6月12日、全米反ドーピング機関 (USADA)(英語版)からドーピング容疑で告発された。
2012年8月24日、USADAにより、ツール・ド・フランスの7連覇を含む1998年8月1日以降の全タイトルの剥奪とトライアスロンをも含む自転車競技からの永久追放の処分を科された。10月10日にはUSADAがドーピングの調査報告書を公表した。これを受け、国際自転車競技連合 (UCI) は10月22日、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) には上訴せず、USADAの裁定を受け入れる事を発表、ツール・ド・フランスでの7年連続総合優勝(1999年から2005年)を含む1998年8月1日以降の全てのタイトルの剥奪が確定した。2013年1月14日、テレビ番組の収録において自らドーピングを認めた。
ランスの誕生時、父親はおらず、彼は母によって育てられた(母の自立の精神は、自分にも強い影響を与えたと彼自身しばしば言及している)。3歳の時、母の再婚により現在の姓であるアームストロングを名乗ることになった。しかし継父との関係は良好とはいかなかった。子どものころはアメリカンフットボールが人気だったが、自分にはその才能がないと悟ったランスは水泳、そして母が多忙なため送り迎えが出来ず、ジムとの行き帰りに使用していた自転車、それらを複合させたトライアスロンを最終的に始めることとなる。
その身体能力は非常に高く、12歳のときから一般カテゴリーに参戦していたほどであり、16歳でプロに転向。1987 - 88年は19歳以下のトライアスリートのランキング1位に輝き、1989 - 90年にはアメリカ選手権のスプリント部門で2連覇を果たした。
この後ほどなくして自転車競技に専念することを決め、アマチュアサイクリストとして1991年のアメリカ合衆国チャンピオンとなったほか、バルセロナオリンピックのロードレースでも14位に食い込んだ。ちなみにこの時金メダルを獲得したのがファビオ・カサルテッリである。
これらの実績をひっさげて1992年にプロに転向。
翌1993年、アメリカチャンピオンになりツールドフランスを迎えた。第8ステージで、ラウル・アルカラらと数人での逃げを決め、ゴールスプリントで区間優勝。数日後に監督の指令によりリタイアしたものの、プロ転向2年目にして早くもグランツールでの勝利を収め、大器の片鱗をのぞかせた。
そして、同年オスロで行われた世界選手権自転車競技大会のロードレース種目では単独の逃げを決め、ミゲル・インドゥライン、オラフ・ルードヴィッヒ、ヨハン・ムセウといった並み居る強豪を抑えて優勝。21歳 で世界選手権という大舞台を制した快挙により、一躍世間から注目を浴びるようになる。ちなみにこの年のアマチュア部門のロードレースの優勝が後に好敵手となるヤン・ウルリッヒである。
1995年は前年2位に入っていたツアー・デュポンで優勝したほか、クラシカ・サンセバスティアンでも優勝。クラシックスペシャリストとしての地位を高めた後、ツール・ド・フランスへ出場。途中チームメイトのファビオ・カサルテッリをレース中の落車事故で失うという悲劇に見舞われながらも、その3日後にファビオが一番取りたいと語っていたリモージュステージにて優勝を遂げた。
そして翌1996年もツアー・デュポン連覇をはじめ、パリ〜ニース総合2位、フレッシュ・ワロンヌ優勝などの好成績をおさめ、一時は世界ランク1位を記録するなど成功は続いた。しかしシーズン中盤以降はツール・ド・フランスを途中棄権したほか、アトランタオリンピックでも12位と期待はずれの結果に終わるなど目立った活躍ができなかった。
身体の不調を感じ、診断を受けたランスは1996年10月2日、医師から自分が精巣腫瘍に侵され、既に肺と脳にも転移しており、生存確率は50%であることを告げられる(ナイキによって2005年から発売されている彼のブランド「10//2」やトレック社「1/2 Series」はこれが由来)。
精巣腫瘍には化学療法を施すのが一般的だが、治療薬のブレオマイシンには肺毒性があり、間質性肺炎を引き起こすなど、心肺機能を低減してしまう副作用があるため、プロの自転車選手として復帰することは不可能になると判断したランスはこれを拒否。結局インディアナ大学医学部で心肺機能へのダメージは少ないが、より過酷な化学療法を施し、さらに脳の浸潤部を切除することとなった。
その後、幸運にも治療は成功し、小康状態となったという診断を受けてトレーニングを再開。しかし所属していたコフィディスからは、再起不能とみなされて事務的に解雇された。
その後もリハビリとトレーニングを続け、デビュー時に所属していたモトローラが1997年に解散したのに伴い、新たに結成されたUSポスタル・サービスと契約し、翌年にプロとして復帰。初戦となったパリ〜ニースで以前のように動かない自分の体に苛立ち途中リタイア、一時はそのまま自転車人生もリタイアしかかる。妻やヨハン・ブリュイネールらの説得により全米選手権をラストランとすることにしたが、そこで好成績をあげた事で本人のやる気も復活し、同年のブエルタ・ア・エスパーニャで総合4位、世界選手権タイムトライアル、同ロードレースでもそれぞれ4位に入り、復活をアピールした。山岳ステージの厳しさではツール・ド・フランスを上回るとされる同レースで上位入賞を果たしたことにより、彼はステージレースを戦い抜く自信を持ったといわれている。ただし、1998年8月以降の成績はその後ドーピングによるものとして剥奪されているため、この年のブエルタ以降の成績は現在では無効である。
1999年、ドーフィネ・リベレを総合8位(ステージ1勝)で終え、好調のままツール・ド・フランスに出場したランスはプロローグステージの個人タイムトライアルで優勝。そのままステージ4勝をあげて総合2位のアレックス・ツェーレに7分以上の差をつけて圧勝。ツール・ド・フランス7連覇へ第一歩を記した。
2000年も最大のライバルとみなされていたヤン・ウルリッヒに6分以上の差をつけてツール・ド・フランス2連覇。さらに2000年シドニーオリンピックでは個人タイムトライアルで銅メダルを獲得した。また、同年5月には癌との闘いと復活を綴った『It's Not About the Bike(日本語題:ただマイヨ・ジョーヌのためでなく)』を出版。アメリカをはじめ各国でベストセラーとなった。
2001年はツール・ド・スイスで総合優勝。ツール・ド・フランスでは第8ステージで大逃げが決まり、一時は総合で35分差をつけられたが、逆転して3連覇を達成。続く2002年もドーフィネ・リベレで総合優勝を達成し、ツール・ド・フランス4連覇も果たした。
2003年もドーフィネ・リベレを連覇し、ミゲル・インドゥラインに並ぶ5連覇の期待がかかるなかでツール・ド・フランスに出場。しかしこの年はヤン・ウルリッヒが絶好調で、第12ステージの個人タイムトライアルでは補給ミスからの脱水症状に襲われ1分以上もタイムを詰められてしまう。さらに次の第13ステージではウルリッヒのアタックにランスが付いていけずに遅れるという事態が発生。マイヨ・ジョーヌこそ守ったものの、第14ステージ終了時点で両者の差は15秒、さらに3位のアレクサンドル・ヴィノクロフとも18秒差というかつてない危機をランスは迎えることになった。
そして次の第15ステージでウルリッヒたちとアタック合戦を繰り広げていたゴール手前9.5km地点で、ランスのハンドルに沿道の観客の持っていた袋が絡み付いて落車してしまう。ウルリッヒをはじめとする集団は紳士協定にのっとり落車したランスを待った。レースに復帰したランスは待っていた集団に追い付いたあと、そのままアタックを決め、そのままウルリッヒらを置き去りにする。先頭を走っていたシルヴァン・シャヴァネルをも追い越しステージ優勝を飾り、ウルリッヒに40秒差をつけることに成功。個人タイムトライアルの第19ステージでは雨の中必死に走るウルリッヒがロータリーで落車しタイム差を離し勝負が決まった。第20ステージはこの差を守りきって5連覇を達成した。
また、この年にナイキと契約し、LIVESTRONGプロジェクトとして、黄色のリストバンドを発売し、その売上げを癌患者の支援にあてる運動を始めた。
2004年は、天候不順や落車でライバルたちが次々脱落していくなか手堅くタイムを刻んでいき、後半の山岳ステージで勝利を量産。チームタイムトライアルでの1勝を含む5勝をあげて総合優勝を果たし、インデュラインを超える6連覇を達成した。
そして2005年4月、同年のツール・ド・フランスを最後に現役を引退することを発表。危なげないレース運びで7度目の総合優勝を獲得し、これを花道にいったん現役を退いた。
その後、トレック社のアドバイザーを務めたり、チャリティー活動の一環でニューヨークシティマラソンに参加するなどしていたが、2008年9月に現役復帰することを表明。「家族や親しい友人と話した結果、がんの苦しみに対する世界の人々の意識を高めるため、プロとしての自転車競技への復帰を決めたことを、喜んで発表する」というコメントを発表し、9月25日にアスタナ・チームへの加入が正式に発表された。
2009年1月、ツアー・ダウンアンダーに出場して現役復帰を果たした。同年5月にはジロ・デ・イタリアに初出場。しかし、3月に出場したスペインのレース、ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンで落車し鎖骨を骨折した影響か序盤は調子が上がらず、第5ステージで大きく遅れてマリア・ローザ争いから脱落。その後はチームのエースであるリーヴァイ・ライプハイマーのアシストに徹する形となり、自身は総合12位となった。なお、落車した時の集団復帰には、エースのライプハイマーがパンクした時の倍近い人数のアシストたちが集団から下りてきてサポートしていた。
2009年7月にはツール・ド・フランスに4年ぶりに出場。第4ステージのチームタイムトライアルでは通算25勝目となるステージ優勝を飾り、アンドレ・ルデュックと並ぶ歴代3位タイとなった。その後は総合優勝したチームメイトのアルベルト・コンタドールのアシストを務め、アンディ・シュレクやブラッドリー・ウィギンスらライバル達を徹底マーク。全盛期のような勢いは無かったものの、安定した走りを見せ、4年のブランクがあったことを考えると驚異的な走りで総合3位に入った。なお、通算8度目の表彰台(1位7回-3位1回)はレイモン・プリドール(1位0回-2位3回-3位5回)と並んで史上最多となった。また、ツール・ド・フランスの期間中にはラジオシャックをメインスポンサーとする新チームの設立を発表し、2010年のツール・ド・フランスにこのチームから出場することを表明した。
2009年の10月には、バドワイザーを製造するアンハイザー・ブッシュ・インベブ社と3年間の個人契約を結んだと報じられた。同社の低カロリー飲料「ミケロブ・ウルトラ」の広告に出演する予定だという。
2010年、自ら立ち上げたチーム・レディオシャックから出場したツール・ド・スイスで総合2位に入るが、ツール・ド・フランスでは全盛期と違って序盤から何度か落車に巻き込まれ、その際に受けたダメージもあってか山岳ステージの第8ステージで大きく後退。最終的には優勝したコンタドールから39分20秒遅れの23位となり、衰えを隠せなかった。2011年1月のツアー・ダウンアンダーを最後に再び第一線から引退した。
その後、ランスはエクステラ(マウンテンバイクを利用したオフロード版トライアスロン)への参戦を表明し、引き続きTREK社のバイクを用いて、アメリカチャンピオンシップで5位となった。
2011年10月23日、ハワイ・マウイ島のカパルア地区で開催されたエクステラ世界選手権大会に参戦。スイムを5位で通過。上位入賞が期待されたものの、バイクコースの終盤で落車し、頭部を強打してしまう。一時はリタイアの危機に瀕するものの、無事に完走し、675人中の23位でゴールした。
ゴール後のインタビューでは「もう少しスイムの練習をして来年戻って来る」と、今後のエクステラ競技の続行を明言した。
「アームストロングがトライアスロン大会に参戦する」という情報は、ロードレースに復帰した2009年からネット上で散見されていた が、実際の出場には至らなかった。
しかし、2012年2月、アームストロングはツイッターにて、アイアンマン・トライアスロン(英語版)への参加を宣言。世界中で2,800万人を数える癌患者へ応援メッセージを送り、世界中の人々に癌への関心を高めてもらうことを今回の参戦の目的だと表明した。同時に、トライアスロン大会においても、トレック社のタイムトライアルバイクを使用することが明らかにされた。
アームストロングは、復帰第一戦として同月12日にパナマで行われたアイアンマン・パナマ70.3に出場。これはスイム1.8 km・バイク90km・ラン21kmの合計70.3マイルで争われる大会であった。
スイムは1位から34秒遅れの10位でクリア、バイクでは5秒遅れの2時間46分17秒、2位でクリア。バイクラップ自体は1位のクリス・リエト(英語版)がアームストロングを約15秒上回る結果となった。
ランの途中で遂に1位となり、クリスを1分以上引き離して首位に出たが、バイク4位から追い上げたビーバン・ドハーティ(英語版)(アテネ五輪・銀メダリスト、北京五輪・銅メダリスト)に終盤で抜かれ、優勝は逃した。しかし、2位でゴールできたことや、ローラン・ジャラベールとの再会、そしてパナマ市民の声援に感謝を示した。
また、今後は、10月にハワイ島のコナ地域で開催される世界選手権を目指すことも明らかになっている。
なお、アイアンマン大会のプロカテゴリーで世界選手権に出場するには、世界各地での大会を転戦して複数のポイントを獲得し、ランキング50位以内になる必要がある。このため、アームストロングは、2012年だけで、4月1日のアイアンマン70.3アメリカ選手権・テキサス、5月20日のアイアンマン70.3フロリダ、6月2日のアイアンマン70.3ハワイ、6月24日のアイアンマン・フランス(ニース)に出場する予定である。
4月1日に行われたアイアンマン70.3アメリカ選手権では、地元であるテキサスでの開催ということもあり、優勝への期待が高かったが、呆然としながら7位でゴールするという結果に終わった。ゴール時には、自身の愛娘がゲート付近で祝福しようと待ち受けていたが、アームストロングはそれに気づかず、通り過ぎるという一幕もあった。
しかしながら5月20日に行われたアイアンマン70.3フロリダでは、スイムラップこそ3着であったものの、バイクで他の選手に10分以上の差をつける強さを見せ、優勝した。さらには、ハワイ島で6月2日に開催された「アイアンマン70.3ハワイ」では、3時間50分55秒で、フロリダに続き優勝した。特にバイクで圧倒的な強さを見せ、総合タイムでも2位の選手を3分近く引き離す独走を見せた。
ドーピング問題でアームストロングは渦中の人となり、アイアンマン・フランス出場を目前に控えていながら、撤退を余儀なくされてしまう。このため、その後は地方の小規模な大会に戦いの場を移した。
USADAによる裁定の翌日にあたる2012年8月25日、コロラド州アスペン-スノーマスで行われたマウンテンバイクの大会に出場した。
また、同年9月30日には、サンディエゴのコロナドで開催されたスーパーフロッグ・トライアスロン大会に参戦。スイム1.93 km・バイク90km・ラン21.09kmを3時間49分45秒のコース新記録で優勝した。
2013年1月に自ら過去のドーピングを認めた後、アームストロングは、マスターズ競泳大会(4月5 - 7日・テキサス州オースティン)に出場する動きを見せたが、最終的に出場を取りやめた。アームストロングは40 - 44歳の部の自由形3種目にエントリーしたが、国際水泳連盟が素早く反応し、4日に米国のマスターズ競泳大会を統括する団体に対し「この大会は世界反ドーピング機関 (WADA) 傘下である」との文書を送付し、出場を認めないよう求めた。
また、アームストロングはテキサス州オースティンに1.7エーカー(約6,900m)の広大な自宅を所有していたが、同年四月に会社経営者に売却したと伝えられた。しかしながらアームストロングは、自宅を売り払った後も引き続きオースティンに住む意向を示しているという。
2013年12月に、トライアスロン選手のクリス・マコーマックから1対1でのトライアスロンレースを申し込まれ、「本気なら電話をくれ」とtwitter上で公開返信した。
2015年、現役時代の同僚であるジョージ・ヒンカピー/ヨハン・ブリュイネールらと共同で、アウトドアスポーツ向けのファッションブランド「WEDŪ」を設立。2023年6月、FOXのリアリティ番組『Stars on Mars(英語版)』に挑戦者の一人として出演したが、エピソード9で脱落した。
自らの著書でも語っているが、少年期から20代前半までの時期には、周囲との衝突を繰り返したり、レースにおける無謀なアタックをたびたび仕掛けたりと攻撃的で負けず嫌いな性格だった。
例としては、プロデビュー直後に出場した地中海一周レースにおいて、アームストロングの名前を別のアメリカ人選手(アンディ・ビショップ)と混同して声をかけたモレノ・アルゼンティンに対してわざと別の名前(マウリツィオ・フォンドリエスト)で呼び返し、「くそったれ、俺の名前はアームストロングだ。このレースが終わるころには、俺の名前を知ることになるさ」と暴言を吐いた事件があげられる。アルゼンティンは世界選手権を制した経験を持っており、アームストロングの発言は通常では考えられないものであった。後日、アルゼンティンとは和解している。
しかし、癌の闘いとその克服、レースへの復帰、そしてツール・ド・フランス連覇を経験していく中で、彼は精神的にも大きく成長し、選手生活の晩年は、無茶なアタックをすることもなく、計算し尽くされた老練な戦略の下、集団内でライバルの様子をうかがいながら走るクレバーなタイプの選手となっていた。
プロとしての紳士的な一面も持っている。2001年ツールの第13ステージでは、カーブを曲がりきれず草むらの中へ突っ込んだウルリッヒを、ランスはスピードを緩めて合流するまで待った。2003年の第15ステージでランスが落車した際に、今度は逆にウルリッヒがランスの合流を待っている。これは2001年のことがあったからだとされている。
ともすれば「つまらない走り」と評されることも多かったが、2002年は2日続けての頂上ゴール制覇や2003年の第15ステージのアタック、2004年には山岳だけで4勝を含む6勝(TT、チームTT含む)をはじめとして山岳ステージではたびたび激しいアタックを見せた。
また、2000年のツール・ド・フランスでマルコ・パンターニに僅差で敗れた際に「(ドーピング騒動からの復帰に)敬意を表して最後は手を抜いたんだ」と発言してパンターニを激怒させたり(著書では「先に行けよ」と慣れないイタリア語で声をかけたが、「のろま!」と聞かれてしまった。とも書かれている)、2004年のツール・ド・フランスの第12ステージで、死の今際にいる母のためにツール・ド・フランスでの初勝利を渇望していたイヴァン・バッソと一騎討ちになったとき勝利を譲って、王者の貫禄を見せたかと思いきや、次の第13ステージで再び一騎討ちになった時は容赦なくスプリントしてステージ優勝したり、ドーピングを自白しランスの薬物使用を示唆したフィリッポ・シメオーニのアタックを大差の付いた状態にもかかわらず即座に潰しに掛かるなど、かつての攻撃的な性格の一端を垣間見ることが出来るエピソードは多い。
一番大切な人は母だと語っており、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」の中でも「母は自分のために献身的になんでもしてくれた」と感謝を表す文が何度も登場する。また、最大のライバルとして何度も優勝争いを演じたウルリッヒについても、引退後に「選手として本当に大好きだった」と愛の告白に近い賞賛さえ贈っている。
精巣腫瘍にかかったため、癌からの復帰後に凍結保存精子を用いた人工授精によって、妻との間に男の子を、2年後には双子の女児を授かった。しかし、夫妻は5年間の結婚生活の後、2003年に離婚。
2005年9月には歌手シェリル・クロウと婚約したが、2006年2月に婚約を解消したことを発表した。2008年には女優ケイト・ハドソンと結婚間近と思われたが、破局。
その後2008年12月、交際中の一般女性が自然妊娠したことを発表。翌2009年6月に男の子を授かり、合わせて4人の子の父親となった。
現役時代、機材に対しては、多くのプロ選手と同じく保守的な面を見せていた。
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1998年
2011年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2009年
2010年
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"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ランス・エドワード・アームストロング(Lance Edward Armstrong、1971年9月18日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州プレイノ出身の自転車ロードレース選手。",
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"tag": "p",
"text": "癌を克服してツール・ド・フランスを7連覇したが、ドーピングの発覚によって7連覇はすべて取り消され、さらに自転車競技からの永久追放処分を受け、獲得タイトルの大半を剥奪された。",
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"text": "アマチュア全米チャンピオンやオリンピック代表を経てプロ選手となった。世界選手権のロードレース部門で1993年に優勝するなどの実績を残したが、精巣がんに罹患し、治療のためキャリアを中断することとなる。その後復帰し、1999年から2005年まで7年連続でツール・ド・フランスの総合優勝を達成した。",
"title": "概略"
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"text": "2002年にはスポーツ・イラストレイテッド誌の年間最優秀スポーツマン (Sportsman of the Year) に輝き、2002年・2003年のAP通信年間最優秀男性アスリート、2003年・2004年のESPNのESPY賞最優秀男性アスリート、2003年のBBC年間最優秀スポーツ選手賞海外選手部門の各賞を受賞しているがこれもドーピングで獲得したタイトル(4回のツールドフランスの優勝を評価されたこと)による結果の受賞である。",
"title": "概略"
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"text": "2005年のツール・ド・フランス終了後に一度競技活動を引退し、LIVESTRONG財団の財団長としてガン撲滅研究を進める一方、TREKの株主として、新型モデルの開発などに関わっていたが、2009年のツアーダウンアンダーから現役に復帰。また、U-23の若手育成を目的としたチーム「TREK-Livestrong U-23」を創設、自らオーナーを務めた。",
"title": "概略"
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"text": "2011年2月16日、2度目の現役引退表明が彼自身により発表された。しかしながら、これはロードレースへの参加を控えるという趣旨であり、後述するように、その後はトライアスロンやマウンテンバイクを利用したレースに活動の場を移した。",
"title": "概略"
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"text": "ドーピングを行っているのではないかという疑惑を現役時代から持たれていたが、引退後の2012年6月12日、全米反ドーピング機関 (USADA)(英語版)からドーピング容疑で告発された。",
"title": "概略"
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"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "2012年8月24日、USADAにより、ツール・ド・フランスの7連覇を含む1998年8月1日以降の全タイトルの剥奪とトライアスロンをも含む自転車競技からの永久追放の処分を科された。10月10日にはUSADAがドーピングの調査報告書を公表した。これを受け、国際自転車競技連合 (UCI) は10月22日、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) には上訴せず、USADAの裁定を受け入れる事を発表、ツール・ド・フランスでの7年連続総合優勝(1999年から2005年)を含む1998年8月1日以降の全てのタイトルの剥奪が確定した。2013年1月14日、テレビ番組の収録において自らドーピングを認めた。",
"title": "概略"
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"text": "ランスの誕生時、父親はおらず、彼は母によって育てられた(母の自立の精神は、自分にも強い影響を与えたと彼自身しばしば言及している)。3歳の時、母の再婚により現在の姓であるアームストロングを名乗ることになった。しかし継父との関係は良好とはいかなかった。子どものころはアメリカンフットボールが人気だったが、自分にはその才能がないと悟ったランスは水泳、そして母が多忙なため送り迎えが出来ず、ジムとの行き帰りに使用していた自転車、それらを複合させたトライアスロンを最終的に始めることとなる。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "その身体能力は非常に高く、12歳のときから一般カテゴリーに参戦していたほどであり、16歳でプロに転向。1987 - 88年は19歳以下のトライアスリートのランキング1位に輝き、1989 - 90年にはアメリカ選手権のスプリント部門で2連覇を果たした。",
"title": "経歴"
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"text": "この後ほどなくして自転車競技に専念することを決め、アマチュアサイクリストとして1991年のアメリカ合衆国チャンピオンとなったほか、バルセロナオリンピックのロードレースでも14位に食い込んだ。ちなみにこの時金メダルを獲得したのがファビオ・カサルテッリである。",
"title": "経歴"
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"text": "これらの実績をひっさげて1992年にプロに転向。",
"title": "経歴"
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"text": "翌1993年、アメリカチャンピオンになりツールドフランスを迎えた。第8ステージで、ラウル・アルカラらと数人での逃げを決め、ゴールスプリントで区間優勝。数日後に監督の指令によりリタイアしたものの、プロ転向2年目にして早くもグランツールでの勝利を収め、大器の片鱗をのぞかせた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "そして、同年オスロで行われた世界選手権自転車競技大会のロードレース種目では単独の逃げを決め、ミゲル・インドゥライン、オラフ・ルードヴィッヒ、ヨハン・ムセウといった並み居る強豪を抑えて優勝。21歳 で世界選手権という大舞台を制した快挙により、一躍世間から注目を浴びるようになる。ちなみにこの年のアマチュア部門のロードレースの優勝が後に好敵手となるヤン・ウルリッヒである。",
"title": "経歴"
},
{
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"text": "1995年は前年2位に入っていたツアー・デュポンで優勝したほか、クラシカ・サンセバスティアンでも優勝。クラシックスペシャリストとしての地位を高めた後、ツール・ド・フランスへ出場。途中チームメイトのファビオ・カサルテッリをレース中の落車事故で失うという悲劇に見舞われながらも、その3日後にファビオが一番取りたいと語っていたリモージュステージにて優勝を遂げた。",
"title": "経歴"
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"text": "そして翌1996年もツアー・デュポン連覇をはじめ、パリ〜ニース総合2位、フレッシュ・ワロンヌ優勝などの好成績をおさめ、一時は世界ランク1位を記録するなど成功は続いた。しかしシーズン中盤以降はツール・ド・フランスを途中棄権したほか、アトランタオリンピックでも12位と期待はずれの結果に終わるなど目立った活躍ができなかった。",
"title": "経歴"
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"text": "身体の不調を感じ、診断を受けたランスは1996年10月2日、医師から自分が精巣腫瘍に侵され、既に肺と脳にも転移しており、生存確率は50%であることを告げられる(ナイキによって2005年から発売されている彼のブランド「10//2」やトレック社「1/2 Series」はこれが由来)。",
"title": "経歴"
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"text": "精巣腫瘍には化学療法を施すのが一般的だが、治療薬のブレオマイシンには肺毒性があり、間質性肺炎を引き起こすなど、心肺機能を低減してしまう副作用があるため、プロの自転車選手として復帰することは不可能になると判断したランスはこれを拒否。結局インディアナ大学医学部で心肺機能へのダメージは少ないが、より過酷な化学療法を施し、さらに脳の浸潤部を切除することとなった。",
"title": "経歴"
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"text": "その後、幸運にも治療は成功し、小康状態となったという診断を受けてトレーニングを再開。しかし所属していたコフィディスからは、再起不能とみなされて事務的に解雇された。",
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"text": "その後もリハビリとトレーニングを続け、デビュー時に所属していたモトローラが1997年に解散したのに伴い、新たに結成されたUSポスタル・サービスと契約し、翌年にプロとして復帰。初戦となったパリ〜ニースで以前のように動かない自分の体に苛立ち途中リタイア、一時はそのまま自転車人生もリタイアしかかる。妻やヨハン・ブリュイネールらの説得により全米選手権をラストランとすることにしたが、そこで好成績をあげた事で本人のやる気も復活し、同年のブエルタ・ア・エスパーニャで総合4位、世界選手権タイムトライアル、同ロードレースでもそれぞれ4位に入り、復活をアピールした。山岳ステージの厳しさではツール・ド・フランスを上回るとされる同レースで上位入賞を果たしたことにより、彼はステージレースを戦い抜く自信を持ったといわれている。ただし、1998年8月以降の成績はその後ドーピングによるものとして剥奪されているため、この年のブエルタ以降の成績は現在では無効である。",
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"text": "1999年、ドーフィネ・リベレを総合8位(ステージ1勝)で終え、好調のままツール・ド・フランスに出場したランスはプロローグステージの個人タイムトライアルで優勝。そのままステージ4勝をあげて総合2位のアレックス・ツェーレに7分以上の差をつけて圧勝。ツール・ド・フランス7連覇へ第一歩を記した。",
"title": "経歴"
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"text": "2000年も最大のライバルとみなされていたヤン・ウルリッヒに6分以上の差をつけてツール・ド・フランス2連覇。さらに2000年シドニーオリンピックでは個人タイムトライアルで銅メダルを獲得した。また、同年5月には癌との闘いと復活を綴った『It's Not About the Bike(日本語題:ただマイヨ・ジョーヌのためでなく)』を出版。アメリカをはじめ各国でベストセラーとなった。",
"title": "経歴"
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"text": "2001年はツール・ド・スイスで総合優勝。ツール・ド・フランスでは第8ステージで大逃げが決まり、一時は総合で35分差をつけられたが、逆転して3連覇を達成。続く2002年もドーフィネ・リベレで総合優勝を達成し、ツール・ド・フランス4連覇も果たした。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "2003年もドーフィネ・リベレを連覇し、ミゲル・インドゥラインに並ぶ5連覇の期待がかかるなかでツール・ド・フランスに出場。しかしこの年はヤン・ウルリッヒが絶好調で、第12ステージの個人タイムトライアルでは補給ミスからの脱水症状に襲われ1分以上もタイムを詰められてしまう。さらに次の第13ステージではウルリッヒのアタックにランスが付いていけずに遅れるという事態が発生。マイヨ・ジョーヌこそ守ったものの、第14ステージ終了時点で両者の差は15秒、さらに3位のアレクサンドル・ヴィノクロフとも18秒差というかつてない危機をランスは迎えることになった。",
"title": "経歴"
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"text": "そして次の第15ステージでウルリッヒたちとアタック合戦を繰り広げていたゴール手前9.5km地点で、ランスのハンドルに沿道の観客の持っていた袋が絡み付いて落車してしまう。ウルリッヒをはじめとする集団は紳士協定にのっとり落車したランスを待った。レースに復帰したランスは待っていた集団に追い付いたあと、そのままアタックを決め、そのままウルリッヒらを置き去りにする。先頭を走っていたシルヴァン・シャヴァネルをも追い越しステージ優勝を飾り、ウルリッヒに40秒差をつけることに成功。個人タイムトライアルの第19ステージでは雨の中必死に走るウルリッヒがロータリーで落車しタイム差を離し勝負が決まった。第20ステージはこの差を守りきって5連覇を達成した。",
"title": "経歴"
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"tag": "p",
"text": "また、この年にナイキと契約し、LIVESTRONGプロジェクトとして、黄色のリストバンドを発売し、その売上げを癌患者の支援にあてる運動を始めた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2004年は、天候不順や落車でライバルたちが次々脱落していくなか手堅くタイムを刻んでいき、後半の山岳ステージで勝利を量産。チームタイムトライアルでの1勝を含む5勝をあげて総合優勝を果たし、インデュラインを超える6連覇を達成した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "そして2005年4月、同年のツール・ド・フランスを最後に現役を引退することを発表。危なげないレース運びで7度目の総合優勝を獲得し、これを花道にいったん現役を退いた。",
"title": "経歴"
},
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"text": "その後、トレック社のアドバイザーを務めたり、チャリティー活動の一環でニューヨークシティマラソンに参加するなどしていたが、2008年9月に現役復帰することを表明。「家族や親しい友人と話した結果、がんの苦しみに対する世界の人々の意識を高めるため、プロとしての自転車競技への復帰を決めたことを、喜んで発表する」というコメントを発表し、9月25日にアスタナ・チームへの加入が正式に発表された。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2009年1月、ツアー・ダウンアンダーに出場して現役復帰を果たした。同年5月にはジロ・デ・イタリアに初出場。しかし、3月に出場したスペインのレース、ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンで落車し鎖骨を骨折した影響か序盤は調子が上がらず、第5ステージで大きく遅れてマリア・ローザ争いから脱落。その後はチームのエースであるリーヴァイ・ライプハイマーのアシストに徹する形となり、自身は総合12位となった。なお、落車した時の集団復帰には、エースのライプハイマーがパンクした時の倍近い人数のアシストたちが集団から下りてきてサポートしていた。",
"title": "経歴"
},
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2009年7月にはツール・ド・フランスに4年ぶりに出場。第4ステージのチームタイムトライアルでは通算25勝目となるステージ優勝を飾り、アンドレ・ルデュックと並ぶ歴代3位タイとなった。その後は総合優勝したチームメイトのアルベルト・コンタドールのアシストを務め、アンディ・シュレクやブラッドリー・ウィギンスらライバル達を徹底マーク。全盛期のような勢いは無かったものの、安定した走りを見せ、4年のブランクがあったことを考えると驚異的な走りで総合3位に入った。なお、通算8度目の表彰台(1位7回-3位1回)はレイモン・プリドール(1位0回-2位3回-3位5回)と並んで史上最多となった。また、ツール・ド・フランスの期間中にはラジオシャックをメインスポンサーとする新チームの設立を発表し、2010年のツール・ド・フランスにこのチームから出場することを表明した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2009年の10月には、バドワイザーを製造するアンハイザー・ブッシュ・インベブ社と3年間の個人契約を結んだと報じられた。同社の低カロリー飲料「ミケロブ・ウルトラ」の広告に出演する予定だという。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2010年、自ら立ち上げたチーム・レディオシャックから出場したツール・ド・スイスで総合2位に入るが、ツール・ド・フランスでは全盛期と違って序盤から何度か落車に巻き込まれ、その際に受けたダメージもあってか山岳ステージの第8ステージで大きく後退。最終的には優勝したコンタドールから39分20秒遅れの23位となり、衰えを隠せなかった。2011年1月のツアー・ダウンアンダーを最後に再び第一線から引退した。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "その後、ランスはエクステラ(マウンテンバイクを利用したオフロード版トライアスロン)への参戦を表明し、引き続きTREK社のバイクを用いて、アメリカチャンピオンシップで5位となった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2011年10月23日、ハワイ・マウイ島のカパルア地区で開催されたエクステラ世界選手権大会に参戦。スイムを5位で通過。上位入賞が期待されたものの、バイクコースの終盤で落車し、頭部を強打してしまう。一時はリタイアの危機に瀕するものの、無事に完走し、675人中の23位でゴールした。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ゴール後のインタビューでは「もう少しスイムの練習をして来年戻って来る」と、今後のエクステラ競技の続行を明言した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "「アームストロングがトライアスロン大会に参戦する」という情報は、ロードレースに復帰した2009年からネット上で散見されていた が、実際の出場には至らなかった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "しかし、2012年2月、アームストロングはツイッターにて、アイアンマン・トライアスロン(英語版)への参加を宣言。世界中で2,800万人を数える癌患者へ応援メッセージを送り、世界中の人々に癌への関心を高めてもらうことを今回の参戦の目的だと表明した。同時に、トライアスロン大会においても、トレック社のタイムトライアルバイクを使用することが明らかにされた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "アームストロングは、復帰第一戦として同月12日にパナマで行われたアイアンマン・パナマ70.3に出場。これはスイム1.8 km・バイク90km・ラン21kmの合計70.3マイルで争われる大会であった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "スイムは1位から34秒遅れの10位でクリア、バイクでは5秒遅れの2時間46分17秒、2位でクリア。バイクラップ自体は1位のクリス・リエト(英語版)がアームストロングを約15秒上回る結果となった。",
"title": "経歴"
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"text": "ランの途中で遂に1位となり、クリスを1分以上引き離して首位に出たが、バイク4位から追い上げたビーバン・ドハーティ(英語版)(アテネ五輪・銀メダリスト、北京五輪・銅メダリスト)に終盤で抜かれ、優勝は逃した。しかし、2位でゴールできたことや、ローラン・ジャラベールとの再会、そしてパナマ市民の声援に感謝を示した。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "また、今後は、10月にハワイ島のコナ地域で開催される世界選手権を目指すことも明らかになっている。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "なお、アイアンマン大会のプロカテゴリーで世界選手権に出場するには、世界各地での大会を転戦して複数のポイントを獲得し、ランキング50位以内になる必要がある。このため、アームストロングは、2012年だけで、4月1日のアイアンマン70.3アメリカ選手権・テキサス、5月20日のアイアンマン70.3フロリダ、6月2日のアイアンマン70.3ハワイ、6月24日のアイアンマン・フランス(ニース)に出場する予定である。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "4月1日に行われたアイアンマン70.3アメリカ選手権では、地元であるテキサスでの開催ということもあり、優勝への期待が高かったが、呆然としながら7位でゴールするという結果に終わった。ゴール時には、自身の愛娘がゲート付近で祝福しようと待ち受けていたが、アームストロングはそれに気づかず、通り過ぎるという一幕もあった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "しかしながら5月20日に行われたアイアンマン70.3フロリダでは、スイムラップこそ3着であったものの、バイクで他の選手に10分以上の差をつける強さを見せ、優勝した。さらには、ハワイ島で6月2日に開催された「アイアンマン70.3ハワイ」では、3時間50分55秒で、フロリダに続き優勝した。特にバイクで圧倒的な強さを見せ、総合タイムでも2位の選手を3分近く引き離す独走を見せた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "ドーピング問題でアームストロングは渦中の人となり、アイアンマン・フランス出場を目前に控えていながら、撤退を余儀なくされてしまう。このため、その後は地方の小規模な大会に戦いの場を移した。",
"title": "経歴"
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"text": "USADAによる裁定の翌日にあたる2012年8月25日、コロラド州アスペン-スノーマスで行われたマウンテンバイクの大会に出場した。",
"title": "経歴"
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"text": "また、同年9月30日には、サンディエゴのコロナドで開催されたスーパーフロッグ・トライアスロン大会に参戦。スイム1.93 km・バイク90km・ラン21.09kmを3時間49分45秒のコース新記録で優勝した。",
"title": "経歴"
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"text": "2013年1月に自ら過去のドーピングを認めた後、アームストロングは、マスターズ競泳大会(4月5 - 7日・テキサス州オースティン)に出場する動きを見せたが、最終的に出場を取りやめた。アームストロングは40 - 44歳の部の自由形3種目にエントリーしたが、国際水泳連盟が素早く反応し、4日に米国のマスターズ競泳大会を統括する団体に対し「この大会は世界反ドーピング機関 (WADA) 傘下である」との文書を送付し、出場を認めないよう求めた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "また、アームストロングはテキサス州オースティンに1.7エーカー(約6,900m)の広大な自宅を所有していたが、同年四月に会社経営者に売却したと伝えられた。しかしながらアームストロングは、自宅を売り払った後も引き続きオースティンに住む意向を示しているという。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 50,
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"text": "2013年12月に、トライアスロン選手のクリス・マコーマックから1対1でのトライアスロンレースを申し込まれ、「本気なら電話をくれ」とtwitter上で公開返信した。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2015年、現役時代の同僚であるジョージ・ヒンカピー/ヨハン・ブリュイネールらと共同で、アウトドアスポーツ向けのファッションブランド「WEDŪ」を設立。2023年6月、FOXのリアリティ番組『Stars on Mars(英語版)』に挑戦者の一人として出演したが、エピソード9で脱落した。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "自らの著書でも語っているが、少年期から20代前半までの時期には、周囲との衝突を繰り返したり、レースにおける無謀なアタックをたびたび仕掛けたりと攻撃的で負けず嫌いな性格だった。",
"title": "人物"
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"text": "例としては、プロデビュー直後に出場した地中海一周レースにおいて、アームストロングの名前を別のアメリカ人選手(アンディ・ビショップ)と混同して声をかけたモレノ・アルゼンティンに対してわざと別の名前(マウリツィオ・フォンドリエスト)で呼び返し、「くそったれ、俺の名前はアームストロングだ。このレースが終わるころには、俺の名前を知ることになるさ」と暴言を吐いた事件があげられる。アルゼンティンは世界選手権を制した経験を持っており、アームストロングの発言は通常では考えられないものであった。後日、アルゼンティンとは和解している。",
"title": "人物"
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"text": "しかし、癌の闘いとその克服、レースへの復帰、そしてツール・ド・フランス連覇を経験していく中で、彼は精神的にも大きく成長し、選手生活の晩年は、無茶なアタックをすることもなく、計算し尽くされた老練な戦略の下、集団内でライバルの様子をうかがいながら走るクレバーなタイプの選手となっていた。",
"title": "人物"
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"text": "プロとしての紳士的な一面も持っている。2001年ツールの第13ステージでは、カーブを曲がりきれず草むらの中へ突っ込んだウルリッヒを、ランスはスピードを緩めて合流するまで待った。2003年の第15ステージでランスが落車した際に、今度は逆にウルリッヒがランスの合流を待っている。これは2001年のことがあったからだとされている。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 56,
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"text": "ともすれば「つまらない走り」と評されることも多かったが、2002年は2日続けての頂上ゴール制覇や2003年の第15ステージのアタック、2004年には山岳だけで4勝を含む6勝(TT、チームTT含む)をはじめとして山岳ステージではたびたび激しいアタックを見せた。",
"title": "人物"
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"text": "また、2000年のツール・ド・フランスでマルコ・パンターニに僅差で敗れた際に「(ドーピング騒動からの復帰に)敬意を表して最後は手を抜いたんだ」と発言してパンターニを激怒させたり(著書では「先に行けよ」と慣れないイタリア語で声をかけたが、「のろま!」と聞かれてしまった。とも書かれている)、2004年のツール・ド・フランスの第12ステージで、死の今際にいる母のためにツール・ド・フランスでの初勝利を渇望していたイヴァン・バッソと一騎討ちになったとき勝利を譲って、王者の貫禄を見せたかと思いきや、次の第13ステージで再び一騎討ちになった時は容赦なくスプリントしてステージ優勝したり、ドーピングを自白しランスの薬物使用を示唆したフィリッポ・シメオーニのアタックを大差の付いた状態にもかかわらず即座に潰しに掛かるなど、かつての攻撃的な性格の一端を垣間見ることが出来るエピソードは多い。",
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"text": "一番大切な人は母だと語っており、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」の中でも「母は自分のために献身的になんでもしてくれた」と感謝を表す文が何度も登場する。また、最大のライバルとして何度も優勝争いを演じたウルリッヒについても、引退後に「選手として本当に大好きだった」と愛の告白に近い賞賛さえ贈っている。",
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"text": "精巣腫瘍にかかったため、癌からの復帰後に凍結保存精子を用いた人工授精によって、妻との間に男の子を、2年後には双子の女児を授かった。しかし、夫妻は5年間の結婚生活の後、2003年に離婚。",
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"text": "2005年9月には歌手シェリル・クロウと婚約したが、2006年2月に婚約を解消したことを発表した。2008年には女優ケイト・ハドソンと結婚間近と思われたが、破局。",
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"text": "その後2008年12月、交際中の一般女性が自然妊娠したことを発表。翌2009年6月に男の子を授かり、合わせて4人の子の父親となった。",
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"text": "現役時代、機材に対しては、多くのプロ選手と同じく保守的な面を見せていた。",
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] |
ランス・エドワード・アームストロングは、アメリカ合衆国テキサス州プレイノ出身の自転車ロードレース選手。 癌を克服してツール・ド・フランスを7連覇したが、ドーピングの発覚によって7連覇はすべて取り消され、さらに自転車競技からの永久追放処分を受け、獲得タイトルの大半を剥奪された。
|
{{Infobox 自転車競技選手
| 選手名 = ランス・アームストロング<br/>Lance Armstrong
| 画像 = Lance Armstrong Tour 2010 team presentation.jpg
| 本名 = ランス・エドワード・アームストロング<br/>Lance Edward Armstrong
| 愛称 = The Boss
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1971|9|18}}
| 国籍 = {{USA}}
| 身長 = 177cm
| 体重 = 71kg
| 所属 =
| 分野 = ロードレース
| 役割 = 選手
| 特徴 = オールラウンダー
| プロ年代 = 1992-1996<br/>1997<br/>1998-2004<br/>2005<br/>2009<br/>2010
| プロ所属チーム = モトローラ<br/>コフィデス<br/>USポスタル<br/>ディスカバリーチャンネル<br/>アスタナ<br/>レディオシャック
| 主要レース勝利 = [[ファイル:Arc en ciel.svg|25px]] 世界選手権・ロードレース (1993)<br/>{{USA}}選手権・ロードレース(1993)<br/>[[クラシカ・サンセバスティアン]] (1995)<br/>[[フレッシュ・ワロンヌ]] (1996)| show-medals = yes
| medaltemplates =
{{MedalCompetition|[[ファイル:Arc en ciel.svg|30px]][[世界選手権自転車競技大会]]}}
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会ロードレース1993|1993 オスロ]]|個人ロードレース}}
| 更新日 = 2012年10月22日
}}
'''ランス・エドワード・アームストロング'''(Lance Edward Armstrong、[[1971年]][[9月18日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[テキサス州]][[プレイノ]]出身の自転車[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手。
癌を克服して[[ツール・ド・フランス]]を7連覇したが、[[ランス・アームストロングのドーピング問題|ドーピングの発覚]]によって7連覇はすべて取り消され、さらに自転車競技からの永久追放処分を受け、獲得タイトルの大半を剥奪された。
== 概略 ==
アマチュア全米チャンピオンやオリンピック代表を経てプロ選手となった。[[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]]の[[世界選手権自転車競技大会ロードレース|ロードレース部門]]で[[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者|1993年に優勝]]するなどの実績を残したが、[[精巣腫瘍|精巣がん]]に罹患し、治療のためキャリアを中断することとなる。その後復帰し、1999年から2005年まで7年連続で[[ツール・ド・フランス]]の総合優勝を達成した。
2002年には[[スポーツ・イラストレイテッド]]誌の年間最優秀スポーツマン (Sportsman of the Year) に輝き、2002年・2003年の[[AP通信]]年間最優秀男性アスリート、2003年・2004年の[[ESPN]]の[[ESPY賞]]最優秀男性アスリート、2003年の[[英国放送協会|BBC]]年間最優秀スポーツ選手賞海外選手部門の各賞を受賞しているがこれもドーピングで獲得したタイトル(4回のツールドフランスの優勝を評価されたこと)による結果の受賞である<ref>[http://sportsillustrated.cnn.com/features/2002/sportsman/ 2002sportsman of the year] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120121213510/http://sportsillustrated.cnn.com/features/2002/sportsman/ |date=2012年1月21日 }}</ref>。
2005年の[[ツール・ド・フランス2005|ツール・ド・フランス]]終了後に一度競技活動を引退し、[[LIVESTRONG]]財団の財団長としてガン撲滅研究を進める一方、[[トレック・バイシクル|TREK]]の株主として、新型モデルの開発などに関わっていたが、2009年のツアーダウンアンダーから現役に復帰。また、U-23の若手育成を目的としたチーム「TREK-Livestrong U-23」を創設、自らオーナーを務めた。
[[2011年]][[2月16日]]、2度目の現役引退表明が彼自身により発表された。しかしながら、これは[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]への参加を控えるという趣旨であり、後述するように、その後は[[トライアスロン]]や[[マウンテンバイク]]を利用したレースに活動の場を移した。
[[ドーピング]]を行っているのではないかという疑惑を現役時代から持たれていたが、引退後の2012年6月12日、{{仮リンク|全米反ドーピング機関|label=全米反ドーピング機関 (USADA)|en|United States Anti-Doping Agency}}からドーピング容疑で告発された<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/tk0827962-spo-armstrong-doping-idJPTYE85D01020120614 |title=自転車=アームストロング、ドーピング疑惑で新たな告発 |date=2012-6-14 |publisher=ロイター |accessdate=2021-4-11}}</ref>。
{{Main|ランス・アームストロングのドーピング問題}}
[[2012年]]8月24日、USADAにより、[[ツール・ド・フランス]]の7連覇を含む1998年8月1日以降の全タイトルの剥奪とトライアスロンをも含む自転車競技からの[[永久追放]]の処分を科された。10月10日にはUSADAがドーピングの調査報告書を公表した。これを受け、[[国際自転車競技連合]] (UCI) は10月22日、[[スポーツ仲裁裁判所]] (CAS) には上訴せず、USADAの裁定を受け入れる事を発表<ref name="uci">[http://www.cyclingnews.com/news/uci-confirms-lance-armstrongs-life-ban UCI confirms Lance Armstrong's life ban] - Cyclingnews.com 10月22日付{{en icon}}</ref>、[[ツール・ド・フランス]]での7年連続総合優勝(1999年から2005年)を含む1998年8月1日以降の全てのタイトルの剥奪が確定した。[[2013年]]1月14日、テレビ番組の収録において自らドーピングを認めた<ref name="j">[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2013011800445 テレビで薬物使用認める=アームストロング氏が告白]{{リンク切れ|date=2015年1月}} - [[時事ドットコム]]2013年1月18日配信</ref><ref name="nikkei">[http://www.nikkei.com/article/DGXZZO50857770S3A120C1000000/ 「もうパパを擁護しなくていい」 元自転車王者の告白] - [[日本経済新聞]]2013年1月25日付</ref>。
== 経歴 ==
=== 生い立ち、プロデビューまで ===
ランスの誕生時、父親はおらず、彼は母によって育てられた(母の自立の精神は、自分にも強い影響を与えたと彼自身しばしば言及している)。3歳の時、母の[[再婚]]により現在の姓であるアームストロングを名乗ることになった。しかし継父との関係は良好とはいかなかった。子どものころは[[アメリカンフットボール]]が人気だったが、自分にはその才能がないと悟ったランスは水泳、そして母が多忙なため送り迎えが出来ず、ジムとの行き帰りに使用していた自転車、それらを複合させたトライアスロンを最終的に始めることとなる。
その身体能力は非常に高く、12歳のときから一般カテゴリーに参戦していたほどであり、16歳でプロに転向。1987 - 88年は19歳以下のトライアスリートのランキング1位に輝き、1989 - 90年にはアメリカ選手権の[[トライアスロン#種類|スプリント]]部門で2連覇を果たした。
この後ほどなくして自転車競技に専念することを決め、アマチュアサイクリストとして[[1991年]]のアメリカ合衆国チャンピオンとなったほか、[[1992年バルセロナオリンピックの自転車競技|バルセロナオリンピック]]の[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]でも14位に食い込んだ。ちなみにこの時金メダルを獲得したのが[[ファビオ・カサルテッリ]]である。
=== 競技生活前半 ===
これらの実績をひっさげて[[1992年]]にプロに転向。
翌[[1993年]]、アメリカチャンピオンになりツールドフランスを迎えた。第8ステージで、ラウル・アルカラらと数人での逃げを決め、ゴールスプリントで区間優勝。数日後に監督の指令によりリタイアしたものの、プロ転向2年目にして早くも[[グランツール]]での勝利を収め、大器の片鱗をのぞかせた。
そして、同年[[オスロ]]で行われた[[世界選手権自転車競技大会]]のロードレース種目では単独の逃げを決め、[[ミゲル・インドゥライン]]、[[オラフ・ルードヴィッヒ]]、[[ヨハン・ムセウ]]といった並み居る強豪を抑えて優勝。21歳<ref>史上最年少での優勝とされることがあるが、史上最年少での優勝は[[1934年]]の[[カレル・カールス]]の20歳46日で、ランスは史上3番目の年少記録での優勝である。</ref> で世界選手権という大舞台を制した快挙により、一躍世間から注目を浴びるようになる。ちなみにこの年のアマチュア部門のロードレースの優勝が後に好敵手となる[[ヤン・ウルリッヒ]]である。
[[1995年]]は前年2位に入っていた[[ツアー・デュポン]]で優勝したほか、[[クラシカ・サンセバスティアン]]でも優勝。クラシックスペシャリストとしての地位を高めた後、[[ツール・ド・フランス1995|ツール・ド・フランス]]へ出場。途中チームメイトの[[ファビオ・カサルテッリ]]をレース中の[[落車]]事故で失うという悲劇に見舞われながらも、その3日後にファビオが一番取りたいと語っていたリモージュステージにて優勝を遂げた。
そして翌[[1996年]]もツアー・デュポン連覇をはじめ、[[パリ〜ニース]]総合2位、[[フレッシュ・ワロンヌ]]優勝などの好成績をおさめ、一時は世界ランク1位を記録するなど成功は続いた。しかしシーズン中盤以降は[[ツール・ド・フランス1996|ツール・ド・フランス]]を途中棄権したほか、[[1996年アトランタオリンピックの自転車競技|アトランタオリンピック]]でも12位と期待はずれの結果に終わるなど目立った活躍ができなかった。
=== 癌 ===
[[ファイル:Lance-Armstrong-TdF2004.jpg|thumb|250px|right|ランス・アームストロング(2004年のツール・ド・フランス、タイムトライアルステージにて)]]
[[ファイル:Lance Armstrong Tour de France Pforzheim 2005-07-09.jpg|thumb|200px|right|ランス・アームストロング<br/>(Tour de France 2005)]]
[[ファイル:Livestrong wristband.jpg|thumb|LIVESTRONGプロジェクトのリストバンド]]
身体の不調を感じ、診断を受けたランスは[[1996年]][[10月2日]]、医師から自分が[[精巣腫瘍]]に侵され、既に肺と脳にも転移しており、生存確率は50%であることを告げられる(ナイキによって[[2005年]]から発売されている彼のブランド「10//2」や[[トレック・バイシクル|トレック]]社「1/2 Series」はこれが由来)。
精巣腫瘍には化学療法を施すのが一般的だが、治療薬の[[抗生物質|ブレオマイシン]]には肺毒性があり、[[間質性肺炎]]を引き起こすなど、心肺機能を低減してしまう副作用があるため、プロの自転車選手として復帰することは不可能になると判断したランスはこれを拒否。結局[[インディアナ大学]]医学部で心肺機能へのダメージは少ないが、より過酷な化学療法を施し、さらに脳の浸潤部を切除することとなった。
その後、幸運にも治療は成功し、小康状態となったという診断を受けてトレーニングを再開。しかし所属していた[[コフィディス]]からは、再起不能とみなされて事務的に解雇された。
=== 競技生活後半 ===
その後もリハビリとトレーニングを続け、デビュー時に所属していた[[モトローラ]]が[[1997年]]に解散したのに伴い、新たに結成された[[アメリカ合衆国郵便公社|USポスタル・サービス]]と契約し、翌年にプロとして復帰。初戦となった[[パリ〜ニース]]で以前のように動かない自分の体に苛立ち途中リタイア、一時はそのまま自転車人生もリタイアしかかる。妻や[[ヨハン・ブリュイネール]]らの説得により全米選手権をラストランとすることにしたが、そこで好成績をあげた事で本人のやる気も復活し、同年の[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]で総合4位、世界選手権タイムトライアル、同ロードレースでもそれぞれ4位に入り、復活をアピールした。山岳ステージの厳しさでは[[ツール・ド・フランス]]を上回るとされる同レースで上位入賞を果たしたことにより、彼はステージレースを戦い抜く自信を持ったといわれている。ただし、1998年8月以降の成績はその後ドーピングによるものとして剥奪されているため、この年のブエルタ以降の成績は現在では無効である。
[[1999年]]、[[ドーフィネ・リベレ]]を総合8位(ステージ1勝)で終え、好調のままツール・ド・フランスに出場したランスはプロローグステージの個人[[タイムトライアル]]で優勝。そのままステージ4勝をあげて総合2位の[[アレックス・ツェーレ]]に7分以上の差をつけて圧勝。ツール・ド・フランス7連覇へ第一歩を記した。
[[2000年]]も最大のライバルとみなされていた[[ヤン・ウルリッヒ]]に6分以上の差をつけてツール・ド・フランス2連覇。さらに[[2000年シドニーオリンピック]]では個人タイムトライアルで銅メダルを獲得した。また、同年5月には癌との闘いと復活を綴った『It's Not About the Bike(日本語題:ただマイヨ・ジョーヌのためでなく)』を出版。アメリカをはじめ各国でベストセラーとなった。
[[2001年]]は[[ツール・ド・スイス]]で総合優勝。ツール・ド・フランスでは第8ステージで大逃げが決まり、一時は総合で35分差をつけられたが、逆転して3連覇を達成。続く[[2002年]]も[[ドーフィネ・リベレ]]で総合優勝を達成し、ツール・ド・フランス4連覇も果たした。
[[2003年]]も[[ドーフィネ・リベレ]]を連覇し、[[ミゲル・インドゥライン]]に並ぶ5連覇の期待がかかるなかでツール・ド・フランスに出場。しかしこの年はヤン・ウルリッヒが絶好調で、第12ステージの個人タイムトライアルでは補給ミスからの[[脱水症状]]に襲われ1分以上もタイムを詰められてしまう。さらに次の第13ステージではウルリッヒのアタックにランスが付いていけずに遅れるという事態が発生。[[マイヨ・ジョーヌ]]こそ守ったものの、第14ステージ終了時点で両者の差は15秒、さらに3位の[[アレクサンドル・ヴィノクロフ]]とも18秒差というかつてない危機をランスは迎えることになった。
そして次の第15ステージでウルリッヒたちとアタック合戦を繰り広げていたゴール手前9.5km地点で、ランスのハンドルに沿道の観客の持っていた袋が絡み付いて落車してしまう。ウルリッヒをはじめとする集団は[[紳士協定]]にのっとり落車したランスを待った。レースに復帰したランスは待っていた集団に追い付いたあと、そのままアタックを決め、そのままウルリッヒらを置き去りにする。先頭を走っていた[[シルヴァン・シャヴァネル]]をも追い越しステージ優勝を飾り、ウルリッヒに40秒差をつけることに成功。個人タイムトライアルの第19ステージでは雨の中必死に走るウルリッヒがロータリーで落車しタイム差を離し勝負が決まった。第20ステージはこの差を守りきって5連覇を達成した。
また、この年に[[ナイキ]]と契約し、LIVESTRONGプロジェクトとして、黄色の[[リストバンド]]を発売し、その売上げを癌患者の支援にあてる運動を始めた。
[[2004年]]は、天候不順や落車でライバルたちが次々脱落していくなか手堅くタイムを刻んでいき、後半の山岳ステージで勝利を量産。チームタイムトライアルでの1勝を含む5勝をあげて総合優勝を果たし、インデュラインを超える6連覇を達成した。
そして[[2005年]]4月、同年のツール・ド・フランスを最後に現役を引退することを発表。危なげないレース運びで7度目の総合優勝を獲得し、これを花道にいったん現役を退いた。
=== 現役復帰 ===
その後、[[トレック・バイシクル|トレック]]社のアドバイザーを務めたり、[[チャリティー|チャリティー活動]]の一環で[[ニューヨークシティマラソン]]に参加するなどしていたが、[[2008年]]9月に現役復帰することを表明。「家族や親しい友人と話した結果、[[がん]]の苦しみに対する世界の人々の意識を高めるため、プロとしての自転車競技への復帰を決めたことを、喜んで発表する」というコメントを発表し、[[9月25日]]に[[アスタナ・チーム]]への加入が正式に発表された。
[[2009年]]1月、[[ツアー・ダウンアンダー]]に出場して現役復帰を果たした。同年5月には[[ジロ・デ・イタリア 2009|ジロ・デ・イタリア]]に初出場。しかし、3月に出場したスペインのレース、[[ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオン]]で落車し[[鎖骨]]を[[骨折]]した影響か序盤は調子が上がらず、第5ステージで大きく遅れて[[マリア・ローザ]]争いから脱落。その後はチームのエースである[[リーヴァイ・ライプハイマー]]のアシストに徹する形となり、自身は総合12位となった。なお、落車した時の集団復帰には、エースのライプハイマーがパンクした時の倍近い人数のアシストたちが集団から下りてきてサポートしていた。
2009年7月には[[ツール・ド・フランス2009|ツール・ド・フランス]]に4年ぶりに出場。第4ステージのチームタイムトライアルでは通算25勝目となるステージ優勝を飾り、[[アンドレ・ルデュック]]と並ぶ歴代3位タイとなった。その後は総合優勝したチームメイトの[[アルベルト・コンタドール]]のアシストを務め、[[アンディ・シュレク]]や[[ブラッドリー・ウィギンス]]らライバル達を徹底マーク。全盛期のような勢いは無かったものの、安定した走りを見せ、4年のブランクがあったことを考えると驚異的な走りで総合3位に入った。なお、通算8度目の表彰台(1位7回-3位1回)は[[レイモン・プリドール]](1位0回-2位3回-3位5回)と並んで史上最多となった。また、ツール・ド・フランスの期間中には[[ラジオシャック]]をメインスポンサーとする新チームの設立を発表し、2010年のツール・ド・フランスにこのチームから出場することを表明した。
2009年の10月には、[[バドワイザー]]を製造する[[アンハイザー・ブッシュ・インベブ]]社と3年間の個人契約を結んだと報じられた。同社の低カロリー飲料「ミケロブ・ウルトラ」の広告に出演する予定だという。
[[2010年]]、自ら立ち上げた[[チーム・レディオシャック]]から出場した[[ツール・ド・スイス2010|ツール・ド・スイス]]で総合2位に入るが、[[ツール・ド・フランス2010|ツール・ド・フランス]]では全盛期と違って序盤から何度か落車に巻き込まれ、その際に受けたダメージもあってか山岳ステージの第8ステージで大きく後退。最終的には優勝したコンタドールから39分20秒遅れの23位となり、衰えを隠せなかった。[[2011年]]1月の[[ツアー・ダウンアンダー2011|ツアー・ダウンアンダー]]を最後に再び第一線から引退した。
=== エクステラ参戦 ===
その後、ランスは[[エクステラ]]([[マウンテンバイク]]を利用した[[オフロード]]版[[トライアスロン]])への参戦を表明し、引き続きTREK社のバイクを用いて<ref name="tweetmeme.com">http://tweetmeme.com/story/7373746191/lance-armstrong-triathelete-xterra-off-road-championships-2011-flickr-photo-sharing {{リンク切れ|date=2015年1月}}</ref>、アメリカチャンピオンシップで5位となった。
2011年10月23日、[[ハワイ]]・[[マウイ島]]のカパルア地区で開催されたエクステラ世界選手権大会に参戦。[[オープンウォータースイミング|スイム]]を5位で通過。上位入賞が期待されたものの、バイクコースの終盤で落車し、頭部を強打してしまう。一時は[[棄権|リタイア]]の危機に瀕するものの、無事に完走し、675人中の23位でゴールした。
ゴール後のインタビューでは「もう少しスイムの練習をして来年戻って来る」と、今後のエクステラ競技の続行を明言した<ref>http://bikejournal.jp/main/?p=1933</ref>。
=== トライアスロン復帰 ===
「アームストロングが[[トライアスロン]]大会に参戦する」という情報は、ロードレースに復帰した[[2009年]]からネット上で散見されていた<ref>http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=12234</ref><ref>http://www.aloha-street.com/news/2010/10/post-1988.html</ref> が、実際の出場には至らなかった<ref>http://tdffan.exblog.jp/15822916/</ref>。
しかし、[[2012年]][[2月]]、アームストロングは[[ツイッター]]にて、{{仮リンク|アイアンマン・トライアスロン|en|Ironman Triathlon}}への参加を宣言<ref>http://bikejournal.jp/main/?p=3171</ref>。世界中で2,800万人を数える癌患者へ応援メッセージを送り、世界中の人々に癌への関心を高めてもらうことを今回の参戦の目的だと表明した<ref>http://www.cyclesports.jp/depot/detail.php?id=3619</ref>。同時に、トライアスロン大会においても、[[トレック・バイシクル|トレック]]社の[[タイムトライアルバイク]]を使用することが明らかにされた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.trekbikes.co.jp/news/detail.php?eid=00220 |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2012年2月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120515053047/http://trekbikes.co.jp/news/detail.php?eid=00220 |archivedate=2012年5月15日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
アームストロングは、復帰第一戦として同月12日に[[パナマ]]で行われたアイアンマン・パナマ70.3に出場。これは[[オープンウォータースイミング|スイム]]1.8 km・バイク90km・ラン21kmの合計70.3マイルで争われる大会であった。
スイムは1位から34秒遅れの10位でクリア、バイクでは5秒遅れの2時間46分17秒、2位でクリア。バイクラップ自体は1位の{{仮リンク|クリス・リエト|en|Chris Lieto}}がアームストロングを約15秒上回る結果となった。
ランの途中で遂に1位となり、クリスを1分以上引き離して首位に出たが、バイク4位から追い上げた{{仮リンク|ビーバン・ドハーティ|en|Bevan Docherty}}([[2004年アテネオリンピック|アテネ五輪]]・銀メダリスト、[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]・銅メダリスト)に終盤で抜かれ、優勝は逃した。しかし、2位でゴールできたことや、[[ローラン・ジャラベール]]との再会、そしてパナマ市民の声援に感謝を示した<ref>http://bikejournal.jp/main/?p=3237</ref>。
また、今後は、[[10月]]に[[ハワイ島]]の[[カイルア・コナ|コナ地域]]で開催される世界選手権を目指すことも明らかになっている<ref>http://www.goocycle.jp/news/detail/5955.html</ref>。
なお、アイアンマン大会のプロカテゴリーで世界選手権に出場するには、世界各地での大会を転戦して複数のポイントを獲得し、ランキング50位以内になる必要がある<ref>http://triworldjapan.com/2012/02/10/lance-armstrong%E6%AD%A3%E5%BC%8F%E3%81%AB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%B8/</ref>。このため、アームストロングは、2012年だけで、[[4月1日]]のアイアンマン70.3アメリカ選手権・[[テキサス州|テキサス]]、[[5月20日]]のアイアンマン70.3[[フロリダ]]、[[6月2日]]のアイアンマン70.3ハワイ、[[6月24日]]のアイアンマン・フランス([[ニース]])に出場する予定である<ref>http://www.cyclowired.jp/?q=node/76913</ref>。
[[4月1日]]に行われたアイアンマン70.3アメリカ選手権では、地元であるテキサスでの開催ということもあり、優勝への期待が高かったが、呆然としながら7位でゴールするという結果に終わった。ゴール時には、自身の愛娘がゲート付近で祝福しようと待ち受けていたが、アームストロングはそれに気づかず、通り過ぎるという一幕もあった<ref>http://www.youtube.com/watch?v=WIObAsCBjxU</ref>。
しかしながら[[5月20日]]に行われたアイアンマン70.3フロリダでは、スイムラップこそ3着であったものの、バイクで他の選手に10分以上の差をつける強さを見せ、優勝した<ref>http://triathlete-europe.competitor.com/2012/05/20/lance-armstrong-wins-ironman-70-3-florida/</ref>。さらには、[[ハワイ島]]で6月2日に開催された「アイアンマン70.3ハワイ」では、3時間50分55秒で、フロリダに続き優勝した<ref>http://sukecycle.wordpress.com/2012/06/05/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%80%80%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B370-3%E3%83%8F%E3%83%AF/</ref>。特にバイクで圧倒的な強さを見せ、総合タイムでも2位の選手を3分近く引き離す独走を見せた<ref>http://www.aloha-street.com/news/2012/06/703.html</ref>。
=== ドーピング疑惑と処分 ===
* 2012年8月24日、全米アンチドーピング機関(USADA)は[[1998年]][[8月1日]]以降の記録を全て抹消し、アームストロングに対し、「永久追放」宣告を行う。<ref name="1st stage's start">[http://www.cyclingnews.com/news/usada-bans-armstrong-for-life-disqualifies-all-results-since-1998 USADA bans Armstrong for life, disqualifies all results since 1998] - cyclingnews.com 8月24日付{{en icon}}</ref><ref>[http://mainichi.jp/sports/news/20120825k0000e050209000c2.html ドーピング:米自転車のアームストロングが永久追放へ] - 毎日新聞 2012年08月25日付</ref>。
* 10月22日、[[国際自転車競技連合]](UCI)は[[スポーツ仲裁裁判所]](CAS)には上訴せず、USADAの裁定を受け入れる事を発表<ref name="uci"/>、1998年8月1日以降の全タイトルの剥奪が確定<ref>[http://www.cyclingnews.com/news/usada-say-the-uci-made-the-right-decision-in-armstrong-case USADA say the UCI made the right decision in Armstrong case] - cyclingnews.com 2012年10月22日付{{en icon}}</ref>。
* 2013年1月17日、14日に収録されたインタビューが放送され、アームストロング本人がドーピングを認めた<ref name="nikkei"/><ref>[http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=19653 アームストロング・インタビュー前半:物足りない告白、サイクリング界のダヴィンチコード?しかし言葉の裏に見え隠れする真実が!「ドーピングに引っかからないことが“健康管理”だった」当時のUCIの責任も重く] - CYCLINGTIME.com 2013年1月18日付</ref>。
{{Main|ランス・アームストロングのドーピング問題}}
=== ドーピング裁定の後 ===
ドーピング問題でアームストロングは渦中の人となり、アイアンマン・フランス出場を目前に控えていながら、撤退を余儀なくされてしまう。このため、その後は地方の小規模な大会に戦いの場を移した。
USADAによる裁定の翌日にあたる2012年[[8月25日]]、[[コロラド州]]アスペン-スノーマスで行われたマウンテンバイクの大会に出場した<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2897219?pid=9412060</ref>。
また、同年[[9月30日]]には、[[サンディエゴ]]のコロナドで開催されたスーパーフロッグ・トライアスロン大会に参戦。スイム1.93 km・バイク90km・ラン21.09kmを3時間49分45秒のコース新記録で優勝した<ref>http://hassii.com/koto/3167</ref>。
2013年1月に自ら過去のドーピングを認めた後、アームストロングは、[[マスターズ水泳|マスターズ]]競泳大会(4月5 - 7日・テキサス州オースティン)に出場する動きを見せたが、最終的に出場を取りやめた。アームストロングは40 - 44歳の部の自由形3種目にエントリーしたが、[[国際水泳連盟]]が素早く反応し、4日に米国のマスターズ競泳大会を統括する団体に対し「この大会は[[世界反ドーピング機関]] (WADA) 傘下である」との文書を送付し、出場を認めないよう求めた<ref>{{Cite web|和書|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/etc/news/20130405-OHT1T00092.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2013年4月11日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130410180251/http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/etc/news/20130405-OHT1T00092.htm |archivedate=2013年4月10日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
また、アームストロングは[[テキサス州]][[オースティン (テキサス州)|オースティン]]に1.7[[エーカー]](約6,900m<sup>2</sup>)の広大な自宅を所有していたが、同年四月に会社経営者に売却したと伝えられた<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2938356?pid=10571559</ref>。しかしながらアームストロングは、自宅を売り払った後も引き続きオースティンに住む意向を示しているという。
2013年12月に、トライアスロン選手のクリス・マコーマックから1対1でのトライアスロンレースを申し込まれ、「本気なら電話をくれ」とtwitter上で公開返信した。
2015年、現役時代の同僚である[[ジョージ・ヒンカピー]]/[[ヨハン・ブリュイネール]]らと共同で、アウトドアスポーツ向けのファッションブランド「WEDŪ」を設立<ref name=bic230523>[https://www.bicycling.com/news/a43964904/is-lance-armstrong-trying-to-make-us-forget/ Is Lance Armstrong Trying To Make Us Forget?] - Bicycling・2023年5月23日</ref>。2023年6月、[[フォックス放送|FOX]]の[[リアリティ番組]]『{{仮リンク|Stars on Mars|en|Stars on Mars}}』に挑戦者の一人として出演したが<ref name=bic230523 />、エピソード9で脱落した。
== 人物 ==
自らの著書でも語っているが、少年期から20代前半までの時期には、周囲との衝突を繰り返したり、レースにおける無謀なアタックをたびたび仕掛けたりと攻撃的で負けず嫌いな性格だった。
例としては、プロデビュー直後に出場した[[地中海一周レース]]において、アームストロングの名前を別のアメリカ人選手(アンディ・ビショップ)と混同して声をかけた[[モレノ・アルゼンティン]]に対してわざと別の名前([[マウリツィオ・フォンドリエスト]])で呼び返し、「くそったれ、俺の名前はアームストロングだ。このレースが終わるころには、俺の名前を知ることになるさ」と暴言を吐いた事件があげられる。アルゼンティンは世界選手権を制した経験を持っており、アームストロングの発言は通常では考えられないものであった。後日、アルゼンティンとは和解している。
しかし、癌の闘いとその克服、レースへの復帰、そしてツール・ド・フランス連覇を経験していく中で、彼は精神的にも大きく成長し、選手生活の晩年は、無茶なアタックをすることもなく、計算し尽くされた老練な戦略の下、集団内でライバルの様子をうかがいながら走るクレバーなタイプの選手となっていた。
プロとしての紳士的な一面も持っている。[[ツール・ド・フランス2001|2001年ツール]]の第13ステージでは、カーブを曲がりきれず草むらの中へ突っ込んだウルリッヒを、ランスはスピードを緩めて合流するまで待った。[[ツール・ド・フランス2003|2003年]]の第15ステージでランスが落車した際に、今度は逆にウルリッヒがランスの合流を待っている。これは2001年のことがあったからだとされている<ref>土肥志穂『ツール・ド・フランス完全ガイド』([[ダイヤモンド社]]、2007年)p.91</ref>。
ともすれば「つまらない走り」と評されることも多かったが、2002年は2日続けての頂上ゴール制覇や2003年の第15ステージのアタック、2004年には山岳だけで4勝を含む6勝(TT、チームTT含む)をはじめとして山岳ステージではたびたび激しいアタックを見せた。
また、[[ツール・ド・フランス2000|2000年のツール・ド・フランス]]で[[マルコ・パンターニ]]に僅差で敗れた際に「(ドーピング騒動からの復帰に)敬意を表して最後は手を抜いたんだ」と発言してパンターニを激怒させたり<ref name="jsports.co.jp">http://www.jsports.co.jp/cycle/lance_history.html</ref>(著書では「先に行けよ」と慣れないイタリア語で声をかけたが、「のろま!」と聞かれてしまった。とも書かれている)、2004年のツール・ド・フランスの第12ステージで、死の今際にいる母のためにツール・ド・フランスでの初勝利を渇望していた[[イヴァン・バッソ]]と[[一騎討ち]]になったとき勝利を譲って、王者の貫禄を見せたかと思いきや、次の第13ステージで再び一騎討ちになった時は容赦なくスプリントしてステージ優勝したり、ドーピングを自白しランスの薬物使用を示唆したフィリッポ・シメオーニのアタックを大差の付いた状態にもかかわらず即座に潰しに掛かるなど、かつての攻撃的な性格の一端を垣間見ることが出来るエピソードは多い。
一番大切な人は母だと語っており、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」の中でも「母は自分のために献身的になんでもしてくれた」と感謝を表す文が何度も登場する。また、最大のライバルとして何度も優勝争いを演じたウルリッヒについても、引退後に「選手として本当に大好きだった」と愛の告白に近い賞賛さえ贈っている<ref name="jsports.co.jp"/>。
== エピソード ==
=== ツール・ド・フランスに関するもの ===
* 2003年の第15ステージで転倒した時、実はフレームが破損しており、レース復帰直後にペダルを踏み外してもう一度転倒しそうになったのもそれが原因だった(ペダルを踏み外した瞬間にフレームが通常ではありえない曲がり方をしているのが映像で確認できる)。
* 2004年の第17ステージではアシストを務めた[[フロイド・ランディス]]とともにライバルの[[ヤン・ウルリッヒ]]を封じ込め、決死のアタックをかけた[[アンドレアス・クレーデン]]をスプリントで差して5勝目を挙げたが、その後の「(4勝もしているのだから)勝利を譲ってもよかったのでは?」という質問に「考えてもいない("No gifts, no gifts this year.")」と言い切った。これは、前述したパンターニとの一件をふまえてのものと考えられる。
* 2005年については、その前に引退する気持ちもあったが、メインスポンサーがUSポスタルから大手CS放送チャンネルの[[ディスカバリーチャンネル]]に変わり、スポンサーの意向もあって出場することを決めたと語っている。
* 復帰した2009年のツール・ド・フランス終了後「確実に([[アルベルト・コンタドール]]と)緊張関係があった」と発言、コンタドールも同時期に同じ発言をしていた。
=== その他 ===
* トライアスロン選手時代は自転車だけでなく水泳に関しても非凡な才能を発揮し、1500m自由形ではナショナルチームに入る一歩手前だった。
* 元々[[トライアスロン]]出身のため、プロデビュー当時は自転車競技に疎かったらしく、所属していたモトローラ・チームに供給されていた自転車のロゴを指して「エディ・マークス([[エディ・メルクス]]の英語読み)って誰だい?」と発言し、「“カンピオニッシモ”メルクスを知らないとは」と周囲を驚かせたことがある。
* プロに転向して初めてのレースは1992年のクラシカ・サンセバスティアンだったが、他の選手より大幅な遅れをとり、大会関係車両にクラクションであおられて棄権するよう指示を受けながら、最下位でゴールするという惨めなデビューだった。しかし、翌年の同時期のチューリヒ選手権では2位に入っている(優勝はその後チームメイトとなるVエキモフ)。
* 一見[[ロードレース (自転車競技)#競技者の特徴|クライマー]]のような細身の体型をしているが、プロデビュー時はまるで正反対の、がっしりした筋肉質な[[ロードレース (自転車競技)#競技者の特徴|スプリンター]]体型だった。これはトライアスロン選手の名残で、泳ぐのには必要だが自転車では余り必要の無い筋肉が残っていたためである。またなぜそこまで体型が変化したのかについての理由は、闘病生活中の化学療法の副作用で筋肉が全て落ちてしまったためと著書で説明されている。
* 現役時代の安静時心拍数は31 - 33といわれる。
* 癌からの復帰後、主治医の1人から、50%と言っていた生存確率は実はもっと低くて(一説には20%以下とも2%ともいわれ、著書では3%と記述されている。)、生存への希望を保ってもらう目的でウソを言ったと告白された。
* ツール連覇を続けていた2004年には、映画『[[ドッジボール (映画)|ドッジボール]]』で、[[本人役]]での[[カメオ出演]]を果たしている。
* 癌撲滅チャリティーのために出場した2006年の[[ニューヨークシティマラソン]]ではほぼイーブンペースを保って、856位でゴール。2時間59分35秒の好タイムで、3時間を切るという目標を果たしたが、レース後に足の痛みを訴え検査したところ、それまでのトレーニングのせいで右脛骨が疲労骨折しており、そのまま参加、完走していたことが発覚した。
* 2009年シーズンに自転車競技に復帰すると発表があった際、記者団の「3年間何をしていたんですか?」という質問に対し「ソファーで横になってビールを飲んでいた」と笑顔で冗談を返した。実際にはTREKでの仕事や、マラソン他チャリティーへの参加はしていたので、ずっとそういう生活ではなかったはずではあるが、今まで無かった茶目っ気を見せた瞬間でもあった。この発言の頃から決まっていたのかは不明だが、後にビール会社に個人スポンサーとしてついてもらうこととなった。
* 2009年シーズン序盤、ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンの落車により復帰後初の[[鎖骨骨折]]を喫したが、その痛みのためにモチベーションが全く上がらず、ツールを前にして復帰をあきらめようとしかかった。しかし、監督であるブリュイネールに説得され、残りのレースへの出場を決意した。
* 2009年シーズン、表向きはLivestrong ProjectのPRのためボランティアで走るということで、アスタナからは給料を受け取らずに走っていたが、出場した各レースプロデューサーから、レースのPR報酬として1億円近い金額を受け取っていたことを明らかにしている(実際に、ランス初登場となったジロ・デ・イタリアは、観客増員や視聴率が跳ね上がった)。
* 社会活動家としての顔も持ち、ランス・アームストロング基金や[[NPO]]のLIVESTRONGを設立し、癌患者と生存者の支援や教育活動を実施している。2007年に「30億ドル(2468億円)を癌の研究や予防プログラムに充てて、テキサス州を癌研究のリーダーにする」という条例案Proposition15がテキサス州議会で可決されたが、これはアームストロングの功績が大きかった。医療格差の大きい米国の[[健康保険]]制度改革の提唱者としても知られており、一時期は政治家に転身するのではと噂されたこともある<ref>http://punta.jp/archives/3612</ref>。
* LIVESTRONGは、2012年2月、[[タバコ]]を値上げしてその収益を癌研究に充当するというカリフォルニア州条例案Proposition29(住民投票事項29)の運動に、1500万ドル(12億3400万円)を寄付した。これに関し「現在の[[タバコ税]]に1ドルをプラスすることにより、多くの人の命が救われ、喫煙者を減少できる」とアームストロングはコメントしている<ref>同上</ref>。
== 家族 ==
精巣腫瘍にかかったため、癌からの復帰後に凍結保存精子を用いた[[人工授精]]によって、妻との間に男の子を、2年後には双子の女児を授かった。しかし、夫妻は5年間の結婚生活の後、2003年に離婚。
2005年9月には歌手[[シェリル・クロウ]]と婚約したが、2006年2月に婚約を解消したことを発表した。2008年には女優[[ケイト・ハドソン]]と結婚間近と思われたが、破局。
その後2008年12月、交際中の一般女性が自然妊娠したことを発表。翌2009年6月に男の子を授かり、合わせて4人の子の父親となった。
== 機材 ==
現役時代、機材に対しては、多くのプロ選手と同じく保守的な面を見せていた。
* ペダルについては、[[LOOKサイクルインターナショナル|LOOK]]ペダルを[[シマノ]]が[[特許|パテント]]購入して開発したPD-7401<ref>パテント品であるためか、デュラエース系の7000番台がついていながら、同シリーズではない。</ref> を2001年まで愛用していたが、既に廃版となっていたため、チームのメカニックは在庫が残っていないか、アメリカ中の小売店に電話をかけて探したという。さらには、シマノから派遣されていたメカニックが個人的に持っていたペダルを譲り受けてまで、同モデルを使い続けたというエピソードが残っている。その後シマノが「アームストロングほどの選手が廃版モデルを使い続けるのは、マーケティング上問題がある」という理由で、“新生7401”SPD-SLシステム「PD-7750」を開発。2002年からはそれを愛用するようになった。ちなみに、このペダルの開発コードネームは「PDランス」。名前から分かるとおり、本来はランス専用モデルだった(SPD-SLはルック・タイプを元にしており、従来型のSPD-Rとは全く異なる[[ビンディング]]の構造を持っていることからもそれが分かる)。
* ただ復帰時には、メインコンポネートがSRAMに切り替わってしまった事もあり、PD-7750の後継機であるPD-7810をチョイス出来ないランスは、本家LOOK製のkeo blade carbonに変更した。
* サドルはサンマルコ社の定番モデルであるコンコール・ライトを愛用している。アームストロングが使用するのは特に、サドル上面に刺繍のないモデルであり、年々登場する新モデルを使用することはなかった。
* ハンドル・バーのクランプ径は近年登場した31.8mmのオーバーサイズではなく、旧来の26.0mmのものを、タイヤはユッチンソンの廃盤モデルであるOROを使い続けていた。
* ディスカバリーチャンネル所属時にチームが使用していたコンポーネントは、シマノの[[シマノ・デュラエース|デュラエース]]。シマノはランスが[[トライアスロン]]選手時代から機材を供給しており、シマノ製品で[[ツール・ド・フランス]]を制したのは、ランスが初めてだった(ランスが引退した後、残った選手の多数とブリュイネール監督が合流した[[アスタナ・チーム|アスタナ]]は、引き続き[[トレック・バイシクル|トレック]]社のバイクを使用しているが、コンポーネントは[[SRAM (自転車メーカー)|SRAM]]に切り替えた)。ただアスタナから離れレディオシャックとなった後もシマノには戻さずSRAMのままである。
* 山岳ステージでは、[[変速機 (自転車)#デュアルコントロールレバー|STIレバー]]の左側をブレーキレバーに交換し、フロントディレイラーの変速には、ダウンチューブに装着した伝統的なシフター([[変速機 (自転車)#ダブルレバー|Wレバー]])を使って変速していた。こうしたセッティングは主に軽量化が目的とされ、ランス以外の選手でも行うケースがあったが、機材の最低重量がUCI規定で決まっており(6.8 kg)、当時は既にSTIレバーを両方装着しても、最低重量に近い自転車を準備出来た。このような状況では、理論上は何のメリットも無い([[今中大介]]はこれについて、“重量上のメリットよりも一種の験担ぎではないか”と著書で述べている)。
* 上記に関連するが、[[トレック・バイシクル|トレック]]が、ランスの現役時には、Wレバーに対応した最上級モデルのバイクを出荷していたが、2007年からは対応しなくなっており、影響の大きさをうかがい知る事が出来る。
* また、エクステラ参戦時にはトレック・[[ゲイリー・フィッシャー|ゲイリーフィッシャー]]コレクション29erMTB「スーパーフライ」を使用した<ref name="tweetmeme.com"/>。
== 主な成績 ==
[[1991年]]
* [[セッティマーナ・チクリスティカ・ロンバルディア]] 総合優勝
* {{USA}}[[国内選手権大会 (自転車競技)|選手権]]・アマ個人ロードレース 優勝
[[1992年]]
* ブエルタ・ア・リベラ 総合優勝
* フィッツバーグ・ロンショ・クラシック 総合優勝
* GPマロスティカ 優勝
* [[チューリッヒ選手権]] 2位
[[1993年]]
* [[ファイル:Jersey rainbow.svg|20px]] [[世界選手権自転車競技大会ロードレース1993|世界選手権・個人ロードレース]] 優勝
* {{USA}}選手権・個人ロードレース 優勝
* [[フィラデルフィア・インターナショナル・チャンピオンシップ]] 優勝
* [[トロフェオ・ライグエーリア]] 優勝
* [[ツール・ド・フランス1993|ツール・ド・フランス]] 区間1勝(第8)
* ウェスト・ヴァージニア・クラシック 総合優勝
* スリフト・ドラッグ・クラシック 優勝
[[1994年]]
* スリフト・ドラッグ・クラシック 優勝
[[1995年]]
* [[クラシカ・サンセバスティアン]] 優勝
* [[ツール・ド・フランス1995|ツール・ド・フランス]] 区間1勝(第18)
* [[パリ〜ニース]] 区間1勝(第5)
* ウェスト・ヴァージニア・クラシック 総合優勝
* [[ツアー・デュポン]] 総合優勝
[[1996年]]
* [[フレッシュ・ワロンヌ]] 優勝
* ツアー・デュポン 総合優勝
* パリ〜ニース 総合2位
* [[リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ]] 2位
[[1998年]]
* [[ツール・ド・ルクセンブルク]] 総合優勝
* カスケード・クラシック 総合優勝
* ラインラント=ファルツ・ルントファールト 総合優勝
[[2011年]]
* エクステラ世界選手権 23位
{{hidden begin
|toggle = right
|title = 成績抹消となった1998年8月1日以降の主な記録
|titlestyle = background:lightgrey;
}}
[[1998年]]
* [[ブエルタ・ア・エスパーニャ1998|ブエルタ・ア・エスパーニャ]] 総合4位
[[1999年]]
* [[ツール・ド・フランス1999|ツール・ド・フランス]] 総合優勝、区間4勝(プロローグ、第1、8、9、19)
* [[ドーフィネ・リベレ]] 区間1勝(プロローグ)
* [[アムステルゴールドレース]] 2位
[[2000年]]
* [[ツール・ド・フランス2000|ツール・ド・フランス]] 総合優勝、区間1勝(第19)
* [[グランプリ・デ・ナシオン]] 優勝
* [[グランプリ・エディ・メルクス]] 優勝
* ドーフィネ・リベレ 区間1勝(第3)
* [[2000年シドニーオリンピックの自転車競技#ロードレース|シドニーオリンピック・個人タイムトライアル]] 3位
[[2001年]]
* [[ツール・ド・フランス2001|ツール・ド・フランス]] 総合優勝、区間4勝(第10、11、13、18)
* [[ツール・ド・スイス]] 総合優勝、区間2勝(第1、8)
* アムステルゴールドレース 2位
[[2002年]]
* [[ツール・ド・フランス2002|ツール・ド・フランス]] 総合優勝、区間4勝(プロローグ、第11、12、19)
* [[ドーフィネ・リベレ]] 総合優勝、区間1勝(第6)
* [[グランプリ・デュ・ミディ・リブル]] 総合優勝
* [[チューリッヒ選手権]] 3位
[[2003年]]
* [[ツール・ド・フランス2003|ツール・ド・フランス]] 総合優勝、区間1勝(第15)+TTT1勝(第4)
* ドーフィネ・リベレ 総合優勝、区間1勝(第3)
[[2004年]]
* [[ツール・ド・フランス2004|ツール・ド・フランス]] 総合優勝、区間5勝(第13、15、16、17、19)+TTT1勝(第4)
* [[ツール・ド・ジョージア]] 総合優勝
[[2005年]]
* [[ツール・ド・フランス2005|ツール・ド・フランス]] 総合優勝、区間1勝(第20)+TTT1勝(第4)
* ドーフィネ・リベレ ポイント賞
[[2009年]]
* [[ツール・ド・フランス2009|ツール・ド・フランス]] 総合3位、TTT1勝(第4)
* [[ジロ・デ・イタリア 2009|ジロ・デ・イタリア]] 総合12位
[[2010年]]
* [[ツール・ド・スイス2010|ツール・ド・スイス]] 総合2位
* [[ツール・ド・ルクセンブルク]] 総合3位
{{hidden end}}
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* ランス・アームストロング(安次嶺佳子 訳)『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』 ISBN 4-06-210245-5、講談社、2000年8月25日初版
** 原題 ''It’s not about the Bike''(自転車の話じゃないんだ) ISBN 0-425-17961-3
* ランス・アームストロング、サリー・ジェンキンス(曽田和子 訳(『毎秒が生きるチャンス!』 ISBN 4-05-402496-3、学習研究社、2004年9月29日
** 原題 ''Every Second Counts'' (一瞬一瞬が大事) ISBN 0-385-50871-9, Broadway Books 2003.
* 山口和幸『シマノ 世界を制した自転車パーツ』光文社、2003年
== 関連項目 ==
*{{仮リンク|ランス・アームストロング ツール・ド・フランス7冠の真実|en|The Armstrong Lie}} - アームストロングのドーピング問題を扱ったドキュメンタリー映画。
*[[疑惑のチャンピオン]] - アームストロングの栄光と転落の人生を映画化した作品。[[ベン・フォスター (俳優)|ベン・フォスター]]がアームストロングを演じた。
== 外部リンク ==
* [http://www.lancearmstrong.com ランス・アームストロング オフィシャルサイト]
* [http://espn.go.com/espn/topics/_/page/lance-armstrong ESPN ランス・アームストロング特集]
* {{cycling archives|300}}
{{世界自転車選手権男子エリート個人ロードレース優勝者}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ああむすとろんく らんす}}
[[Category:ランス・アームストロング|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の男子自転車選手]]
[[Category:世界選手権自転車競技大会ロードレース優勝者]]
[[Category:オリンピック自転車競技アメリカ合衆国代表選手]]
[[Category:アメリカ合衆国のドーピング違反選手]]
[[Category:ドーピング違反の自転車選手]]
[[Category:オリンピックメダルを剥奪された選手]]
[[Category:永久追放されたスポーツ選手]]
[[Category:アメリカ合衆国のトライアスロン選手]]
[[Category:男子トライアスロン選手]]
[[Category:アストゥリアス皇太子賞受賞者]]
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[[Category:プレイノ出身の人物]]
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16,924 |
三代 (中国史)
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三代(さんだい)とは、一般に中国史において、繁栄した3つの王朝のことを指す。
一般には、中国史で最も古い3つの王朝のことを指す。
|
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三代(さんだい)とは、一般に中国史において、繁栄した3つの王朝のことを指す。
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'''三代'''(さんだい)とは、一般に[[中国史]]において、繁栄した3つの[[王朝]]のことを指す。
==三代==
一般には、[[中国史]]で最も古い3つの[[王朝]]のことを指す。
# [[夏 (三代)|夏]]
# [[殷]]
# [[周]]
==後三代==
# [[前漢|漢]] {{main2|[[後漢]]も}}
# [[唐]]
# [[北宋|宋]] {{main2|[[南宋]]も}}
==近世三代==
# [[元 (王朝)|元]]
# [[明]]
# [[清]]
== 関連項目 ==
* [[夏商周年表プロジェクト]]
* [[夏商周年表]]
* [[中国の歴代王朝一覧]]
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[[Category:中国の歴史]]
[[Category:中国の名数3|たい]]
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2021-06-28T00:46:34Z
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|
16,926 |
下高井戸駅
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下高井戸駅(しもたかいどえき)は、東京都世田谷区松原三丁目にある、京王電鉄の駅および東急電鉄の停留場である。
京王電鉄の京王線と、東急電鉄の世田谷線の2路線が乗り入れ、各路線ごとに駅番号が付与されている。
当駅に近接する杉並区下高井戸は甲州街道の宿場(高井戸宿)であり、高井戸の名は宗源寺の不動尊高井堂が変化したものである。また、旧駅名の「日大前駅」は、近くに日本大学予科・高等師範科(現在の日本大学文理学部)があることに由来していた。
京王東管区所属。相対式ホーム2面2線の地上駅。急カーブ上にあるため、上り線に60km/h、下り線に65km/hの速度制限があり、通過列車は低速で通過する。
橋上駅舎を有しており、ホームと改札口、改札口と地上との間をそれぞれ連絡するエレベーターが設置されている。トイレは上りホームにあり、「だれでもトイレ」(多機能トイレ)も設置されている。
1993年に現行の駅舎が竣工する前は上下線別の駅舎であった。また、隣接する踏切(下高井戸1号踏切)は同年に自動化されるまで係員が手動で遮断機を操作する第1種乙踏切であった。当駅にあった手動式踏切設備は京王資料館(通常は非公開)に保存されている。
2010年末頃、改札口前にLCD式、ホームにLED式の発車標が新設された。
2015年4月1日より「日本大学文理学部最寄駅」の副駅名標が設置された。2020年4月現在撤去されている。
高架化後も、現在と同様に相対式ホーム2面2線となる予定である。
頭端式ホーム2面1線を有する地上駅。ホームは京王線の下り方面ホーム沿いに立地する。世田谷線の運賃収受は基本的に車内実施であるが、当停留場には有人の改札口がある。ただし、乗車専用ホームの松原寄り改札口は夕方と平日朝ラッシュ時のみの営業である。また、降車専用ホームは当駅の東西を結ぶ自由通路の役割もある。
トイレは降車専用ホームの三軒茶屋寄りにあり(管理は世田谷区)、多機能トイレもあるが、当初オストメイトに対応していなかった。2013年に対応化されたが多くの駅でみられるものと違い手順の煩雑なものである。
京王線と世田谷線のホームは隣接しており、軌間は同じ1,372 mmであることから、第二次世界大戦中は玉川線の大橋工場と京王線の桜上水工場間を結ぶ部品配給列車を運行させるために線路も接続されていた。ただし、旅客列車の直通運転などが行われたことはない。
京王電鉄の近年の1日平均乗降人員及び乗車人員の推移は下表の通りである。
当駅は世田谷区にあるが、杉並区との区境が至近にある。
下高井戸駅入口(甲州街道沿い)
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下高井戸駅(しもたかいどえき)は、東京都世田谷区松原三丁目にある、京王電鉄の駅および東急電鉄の停留場である。
|
{{出典の明記|date=2021年3月}}
{{駅情報
|社色 =
|文字色 =
|駅名 = 下高井戸駅
|画像 = KTR Shimotakaido station South.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 西口(2007年10月)
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|よみがな = しもたかいど
|ローマ字 = Shimo-takaido
|所属事業者 = [[京王電鉄]]([[#京王電鉄|駅詳細]])<br />[[東急電鉄]]([[#東急電鉄|駅詳細]])
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|座標 = {{coord|35|39|58|N|139|38|29|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}}
}}
'''下高井戸駅'''(しもたかいどえき)は、[[東京都]][[世田谷区]][[松原 (世田谷区)|松原]]三丁目にある、[[京王電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]および[[東急電鉄]]の[[路面電車停留場|停留場]]である。
== 乗り入れ路線 ==
京王電鉄の[[京王線]]と、東急電鉄の[[東急世田谷線|世田谷線]]の2路線が乗り入れ、各路線ごとに[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。
* 京王電鉄:[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 - 駅番号「'''KO07'''」
* 東急電鉄:[[File:Tokyu SG line symbol.svg|15px|SG]] 世田谷線 - 駅番号「'''SG10'''」
== 歴史 ==
=== 京王電鉄 ===
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月15日]] - 京王電気軌道の駅として開業。
* [[1938年]]([[昭和]]13年)[[3月25日]] - '''日大前駅'''に改称。
* [[1944年]](昭和19年)
** [[5月31日]] - 陸上交通事業調整法に基づき、東京急行電鉄([[大東急]])により吸収合併、同社京王線の駅となる。同時に'''下高井戸駅''' に再改称。
* [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]] - 大東急解体に伴う再編により、京王帝都電鉄として分離独立。
* [[1993年]]([[平成]]5年) - 橋上駅舎の使用を開始。
* [[2014年]](平成26年)[[2月28日]] - 連続立体交差事業に着手<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2014/02/20o2s100.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200411110836/https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2014/02/20o2s100.html|language=日本語|title=京王線の連続立体交差事業に着手します ―笹塚駅から仙川駅間の「開かずの踏切※」25箇所を除却します―|publisher=東京都建設局|date=2014-02-28|accessdate=2020-04-11|archivedate=2020-04-11}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[4月1日]] - 副駅名称として「'''日本大学 文理学部 最寄駅'''」を設置<ref name="nu-chs">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr150319_fukuekimei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191214182148/https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr150319_fukuekimei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=4月1日(水)から副駅名標板を新たに6駅で設置します! 〜新生活に向けた京王線の利便性向上と、地元にゆかりある施設と京王線に親しみを〜|publisher=京王電鉄|date=2015-03-19|accessdate=2020-04-12|archivedate=2019-12-14}}</ref>。
*{{要出典範囲|date=2020年4月29日 (水) 08:12 (UTC)|[[2020年]]([[令和]]2年)[[4月12日]] - 副駅名標が撤去される}}。
=== 東急電鉄 ===
* [[1925年]]([[大正]]14年)[[5月1日]] - 開業。
=== 駅名の由来 ===
当駅に近接する杉並区[[高井戸|下高井戸]]は甲州街道の[[宿場]]([[高井戸宿]])であり、高井戸の名は[[宗源寺 (杉並区)|宗源寺]]の不動尊高井堂が変化したものである。また、旧駅名の「日大前駅」は、近くに[[日本大学]][[大学予科|予科]]・[[高等師範学校#高等師範部・高等師範科|高等師範科]](現在の[[日本大学文理学部・大学院文学研究科及び総合基礎科学研究科|日本大学文理学部]])があることに由来していた。
== 駅構造 ==
=== 京王電鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #dd0077
|文字色 =
|駅名 = 京王 下高井戸駅
|画像 = KTR Shimotakaido station North.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 北口(2007年10月)
|よみがな = しもたかいど
|ローマ字 = Shimo-takaido
|副駅名 = 日本大学 文理学部 最寄駅
|前の駅 = KO06 [[明大前駅|明大前]]
|駅間A = 0.9
|駅間B = 0.9
|次の駅 = [[桜上水駅|桜上水]] KO08
|所属事業者 = [[京王電鉄]]
|所属路線 = {{color|#dd0077|■}}[[京王線]]
|駅番号 = {{駅番号r|KO|07|#dd0077|5}}
|キロ程 = 6.1
|起点駅 = [[新宿駅|新宿]]
|所在地 =
|座標 =
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月15日]]
|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />38,221
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考全幅 = 1938年から1944年までの駅名は「日大前駅」
}}
京王東管区所属。[[相対式ホーム]]2面2線の[[地上駅]]。急カーブ上にあるため、上り線に60km/h、下り線に65km/hの速度制限があり、通過列車は低速で通過する。
[[橋上駅|橋上駅舎]]を有しており、ホームと[[改札|改札口]]、改札口と地上との間をそれぞれ連絡する[[エレベーター]]が設置されている。[[便所|トイレ]]は上りホームにあり、「だれでもトイレ」([[ユニバーサルデザイン|多機能]]トイレ)も設置されている。
1993年に現行の駅舎が竣工する前は上下線別の駅舎であった。また、隣接する[[踏切]](下高井戸1号踏切)は同年に自動化されるまで係員が手動で[[遮断機]]を操作する[[踏切#種類|第1種乙踏切]]であった。当駅にあった手動式踏切設備は[[京王資料館]](通常は非公開)に保存されている。
2010年末頃、改札口前に[[液晶ディスプレイ|LCD]]式、ホームに[[発光ダイオード|LED]]式の[[発車標]]が新設された。
2015年4月1日より「日本大学文理学部最寄駅」の副駅名標が設置された<ref name="nu-chs"/>。{{要出典範囲|date=2020年4月29日 (水) 08:12 (UTC)|2020年4月現在撤去されている}}。
高架化後も、現在と同様に相対式ホーム2面2線となる予定である<ref>{{Cite web|format=PDF|url=https://www.keio.co.jp/train/sasazuka-sengawa/outline/pdf/section_3.pdf|title=第3工区|author=京王電鉄|accessdate=2021-05-21}}</ref>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線
|style="text-align:center"|下り
|[[調布駅|調布]]・[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]・[[京王八王子駅|京王八王子]]・[[高尾山口駅|高尾山口]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"| 上り
|[[明大前駅|明大前]]・[[笹塚駅|笹塚]]・[[新宿駅|新宿]]・[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|{{small|都営}}新宿線]]方面
|}
* ホームが湾曲している。
<gallery>
KTR Shimotakaido station Precincts.jpg|京王線 駅構内<br />ホームが大きく曲がっている<br />(2007年10月)
</gallery>
{{-}}
=== 東急電鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #ee0011
|文字色 =
|駅名 = 東急 下高井戸駅
|画像 = Tokyu-Shimotakaido-Sta-1.JPG
|pxl = 300
|画像説明 = 改札口と降車ホーム(2011年2月)
|よみがな = しもたかいど
|ローマ字 = Shimo-takaido
|副駅名 =
|隣の駅 =
|前の駅 = SG09 [[松原駅 (東京都)|松原]]
|駅番号 = {{駅番号r|SG|10|#fcc70d|3||#505050}}
|駅間A = 0.8
|駅間B =
|次の駅 =
|所属事業者 = [[東急電鉄]]
|所属路線 = {{color|#fcc70d|■}}[[東急世田谷線|世田谷線]]
|キロ程 = 5.0
|起点駅 = [[三軒茶屋駅|三軒茶屋]]
|所在地 =
|座標 =
|駅構造 = [[地上駅]](停留場)
|ホーム = 2面1線
|開業年月日 = [[1925年]]([[大正]]14年)[[5月1日]]
|乗車人員 =
|乗降人員 =
|統計年度 =
|乗換 =
|備考 =
}}
[[頭端式ホーム]]2面1線を有する地上駅。ホームは京王線の下り方面ホーム沿いに立地する。世田谷線の[[運賃]]収受は基本的に車内実施であるが、当停留場には有人の改札口がある。ただし、乗車専用ホームの松原寄り改札口は夕方と平日朝ラッシュ時のみの営業である。また、降車専用ホームは当駅の東西を結ぶ自由通路の役割もある。
トイレは降車専用ホームの三軒茶屋寄りにあり(管理は世田谷区)、多機能トイレもあるが、当初[[オストメイト]]に対応していなかった。2013年に対応化されたが多くの駅でみられるものと違い手順の煩雑なものである。
京王線と世田谷線のホームは隣接しており、[[軌間]]は同じ1,372 mmであることから、[[第二次世界大戦]]中は[[東急玉川線|玉川線]]の[[東急玉川線#車庫|大橋工場]]と京王線の[[若葉台検車区|桜上水工場]]間を結ぶ[[特殊列車#配給列車|部品配給列車]]を運行させるために線路も接続されていた。ただし、旅客列車の[[直通運転]]などが行われたことはない。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!nowrap|ホーム!!路線!!方向!!行先
|-
!北側
|rowspan="2"|[[File:Tokyu SG line symbol.svg|15px|SG]] 世田谷線
|style="text-align:center"|上り
|[[上町駅|上町]]・[[三軒茶屋駅|三軒茶屋]]方面<ref>{{Cite web|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/sg10_line2_shimotakaido.pdf|title=世田谷線標準時刻表 下高井戸駅 三軒茶屋方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2021/03/13}}</ref>
|-
!南側
|style="text-align:center"|下り
|(降車専用)
|}
<gallery>
Tokyu-Shimotakaido-Sta-2.JPG|松原方から見たホーム(2011年2月)
</gallery>
== 利用状況 ==
* '''京王電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''38,221人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。
*: 同じ京王線系統の駅で[[京王線#急行|急行]]・[[京王線#区間急行|区間急行]]停車駅の[[桜上水駅]]より利用者が多く、[[京王線#快速|快速]]・[[京王線#各駅停車|各停]]のみの停車駅では最も多い。
* '''東急世田谷線''' - 当駅だけの乗車人員は公表されていない。世田谷線全線での乗車人員は[[東急世田谷線#利用状況]]を参照のこと。
京王電鉄の近年の1日平均'''乗降'''人員及び[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref group="*">[https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/kusei/001/003/005/d00050936.html 世田谷区統計書] - 世田谷区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1955年(昭和30年)
|32,401
|
|
|-
|1956年(昭和31年)
|
|16,339
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|
|17,251
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|
|15,495
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|
|19,782
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|39,269
|19,978
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|42,450
|21,655
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|44,898
|22,707
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|48,557
|24,450
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|50,451
|25,221
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|51,540
|25,734
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|51,454
|
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|
|26,063
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|
|24,610
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和45年)
|
|24,959
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|50,003
|24,792
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1972年(昭和48年)
|53,436
|26,055
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|<ref group="注">当駅の乗降人員最高値年度</ref>54,011
|26,211
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|1998年(平成10年)
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|-
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|46,000
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|-
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|2004年(平成16年)
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|-
|2019年(令和元年)
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|-
|2020年(令和{{0}}2年)
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|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web |author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-08-02 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink=2023-08-02 |}}</ref>32,729
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web |author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-08-02 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>38,221
|
|
|}
== 駅周辺 ==
当駅は世田谷区にあるが、[[杉並区]]との区境が至近にある。
=== 教育機関 ===
* [[日本大学文理学部・大学院文学研究科及び総合基礎科学研究科]]・[[日本大学櫻丘高等学校]]
*[[東京都立松原高等学校]]
*世田谷区立松沢小学校
* [[世田谷区立松沢中学校]]
=== 郵便局・金融機関 ===
* 世田谷赤堤[[郵便局]]
=== 店舗 ===
* [[京王書籍販売|啓文堂書店]](駅構内)
* 下高井戸商店街
* 下高井戸シネマ
* [[下高井戸駅前市場]]
=== 交通 ===
* [[国道20号]]([[甲州街道]])
* [[首都高速4号新宿線]]
* [[東京都道427号瀬田貫井線]]
* [[京王井の頭線]][[永福町駅]]
=== バス路線 ===
'''下高井戸駅入口'''(甲州街道沿い)
* 杉並区南北バス交通「[[すぎ丸]]」
** <[[すぎ丸#さくら路線|さくら路線]]> [[浜田山駅]]南行([[桜上水駅]]入口・[[上北沢駅]]入口・[[柏の宮公園]]入口経由)
== 隣の駅 ==
; 京王電鉄
: [[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線
:: {{Color|#ff1493|■}}特急・{{Color|#20b2aa|■}}急行・{{Color|olive|■}}区間急行
:::; 通過
:: {{Color|blue|■}}快速・{{Color|gray|■}}各駅停車
::: [[明大前駅]] (KO06) - '''下高井戸駅 (KO07)''' - [[桜上水駅]] (KO08)
; 東急電鉄
: [[File:Tokyu SG line symbol.svg|15px|SG]] 世田谷線
::: [[松原駅 (東京都)|松原駅]] (SG09) - '''下高井戸駅 (SG10)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
;京王電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京王"}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|16em}}
;京王電鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[高井戸駅]] - [[京王井の頭線]]
* [[家政婦は見た!]] - 主人公・石崎秋子が住む「大沢家政婦紹介所」のロケ地になっている日本家屋(外観のみ)が間近にある。
== 外部リンク ==
* [https://www.keio.co.jp/train/station/ko07_shimo-takaido/ 京王電鉄 下高井戸駅]
* {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=95|name=下高井戸}}
* [http://www.shimotaka.or.jp/ 下高井戸商店街] - 下高井戸商店街振興組合公式サイト
{{京王線}}
{{東急世田谷線}}
{{DEFAULTSORT:しもたかいとえき}}
[[Category:世田谷区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 し|もたかいと]]
[[Category:京王電鉄の鉄道駅]]
[[Category:東急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1913年開業の鉄道駅]]
|
2003-09-15T08:59:20Z
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16,930 |
三代
|
三代(さんだい、みしろ、みよ)
|
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三代(さんだい、みしろ、みよ)
|
'''三代'''(さんだい、みしろ、みよ)
== 一覧 ==
* [[父]]・[[子供|子]]・[[孫]]の三つの[[世代]]、またはその三代目のこと
* [[三代 (中国史)]] - [[中国の歴史]]で、[[夏 (三代)|夏]]・[[殷]]・[[周]]の三[[王朝]]を指す。
* 日本の地名
** [[福島県]][[郡山市]][[湖南町]]三代(みよ)
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==関連項目==
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16,935 |
天球
|
天球(てんきゅう、celestial sphere)とは、惑星や恒星がその上に張り付き運動すると考えられた地球を中心として取り巻く球体のこと。また、位置天文学において地球から見える天体の方向を表すために無限遠の距離に仮想した球面も天球と呼ぶ。
前4世紀のアリストテレスの天動説を受け継いで、2世紀のプトレマイオスは著書『アルマゲスト』において惑星や恒星がその上に存在するとする天球を導入した。当初、惑星の動きを説明するための純粋に数学的なモデルであったこの天球の概念は、後にプトレマイオス自身によってこの宇宙の成り立ちを表す実体的概念として扱われるようになった。この宇宙像では地球はこうした幾重もの水晶のような天球に取り囲まれているとされる。プトレマイオスの体系は惑星の複雑な実際の運動を説明するために周転円やエカント点のような工夫が必要とされ、この素朴な見方には危うさがつきまとってはいた。しかし基本的にはこうした実体としての天球をもつ宇宙像はその後のアラビアやヨーロッパへほぼそのまま受け継がれ17世紀まで俎上に載せられることはなかった。
16世紀のコペルニクスの地動説においても宇宙は惑星が運動する入れ子になった球体と恒星の天球(恒星天)とに取り囲まれていた。むしろコペルニクスの体系はプトレマイオスの体系の内の天球からの逸脱を少しでも減らし、太陽系に調和を取り戻そうとした試みであったと捉えられる。一方で、地球が公転するとしたにもかかわらず恒星の年周視差は観測にかからなかったため、コペルニクスの体系では恒星天が惑星の天球よりもはるかに大きなものと考える必要が生じた。コペルニクスの地動説の普及に努めたトマス・ディッグズは恒星天を取り除き恒星がちらばる無限の宇宙を導入し、ガリレオは恒星天があまりに巨大だとして自らの天球図に描き込まなかった。
惑星の天球の概念を捨てねばならなくなったのは、1609年の『新天文学』においてヨハネス・ケプラーが火星、そして他の惑星の軌道が楕円であることを示したときである。ケプラーは一方では恒星天の存在は維持し宇宙は有限であると考えていたが、とりわけティコ・ブラーエの行った彗星の観測によって惑星の天球の考えは捨てねばならないことに気づいていた。このとき惑星の動きが完全な図形としての球を基準とすることはありえなくなり、天球を実体として保持し続けることはできなくなった。
天球のないケプラーの太陽系像では、惑星は何の支えもない空間を彼の発見した精密な法則に従って動かねばならないという、当時の考えでは驚くべき事態をもたらした。機械論的な近接作用のみで運動が説明されねばならないと考えたデカルトは、後のエーテルの概念につながる渦まく流体を想定した。空間を越え、単純な数学に従って作用する重力を定式化したのは、神学的な信念からこのデカルトの機械論に反発したアイザック・ニュートンによってであった。
暦の計算をする場合は、しばしば地球を中心として天体が動くという天動説的な説明をした方が都合が良い。よって、地球から無限大の距離にある球への射影をおこない、天体はその上を動くものとした。この仮想的な球も天球とよばれる。黄道・天の赤道・白道などは天球上の大円である。天球上の位置は赤道座標系(赤緯・赤経)または黄道座標系(黄緯・黄経)によって示される。
|
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"title": "位置天文学における天球"
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天球とは、惑星や恒星がその上に張り付き運動すると考えられた地球を中心として取り巻く球体のこと。また、位置天文学において地球から見える天体の方向を表すために無限遠の距離に仮想した球面も天球と呼ぶ。
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'''天球'''(てんきゅう、celestial sphere)とは、[[惑星]]や[[恒星]]がその上に張り付き運動すると考えられた[[地球]]を中心として取り巻く球体のこと。また、[[位置天文学]]において地球から見える天体の方向を表すために無限遠の距離に仮想した[[球面]]も天球と呼ぶ。
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== 歴史的概念としての天球 ==
[[ファイル:Ptolemaicsystem-small.png|thumb|180px|right|[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の体系に基づく天球。地球の回りに透明な物質でできた惑星と太陽の天球があり、恒星天の外側は神と神の選民の住まい<!--Coelum Empireum Habitaculum Dei et Omnium Electorum, The dwelling place of God and all the elect-->とされた。天球は長い間実体をもつものとして扱われた。([[ペトルス・アピアヌス]]、''Cosmographia,'' 1539年)]]
[[ファイル:ThomasDiggesmap.JPG|thumb|180px|right|[[トーマス・ディッグス|トマス・ディッグズ]]が16世紀にコペルニクスの新しい体系を説明するために用いた宇宙の図。ディッグズは恒星天を取り除いて無限の宇宙を想定したが、惑星は太陽を巡る入れ子状の天球に配置されている。]]
前4世紀の[[アリストテレス]]の[[天動説]]を受け継いで、2世紀の[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]は著書『[[アルマゲスト]]』において惑星や恒星がその上に存在するとする天球を導入した。当初、惑星の動きを説明するための純粋に数学的なモデルであったこの天球の概念は、後にプトレマイオス自身によってこの宇宙の成り立ちを表す実体的概念として扱われるようになった。この宇宙像では地球はこうした幾重もの水晶のような天球に取り囲まれているとされる。プトレマイオスの体系は惑星の複雑な実際の運動を説明するために[[従円と周転円]]や[[エカント]]点のような工夫が必要とされ、この素朴な見方には危うさがつきまとってはいた。しかし基本的にはこうした実体としての天球をもつ宇宙像はその後のアラビアやヨーロッパへほぼそのまま受け継がれ17世紀まで俎上に載せられることはなかった。
16世紀の[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]の[[地動説]]においても宇宙は惑星が運動する入れ子になった球体と恒星の天球(恒星天)とに取り囲まれていた。むしろコペルニクスの体系はプトレマイオスの体系の内の天球からの逸脱を少しでも減らし、太陽系に調和を取り戻そうとした試みであったと捉えられる。一方で、地球が公転するとしたにもかかわらず恒星の[[年周視差]]は観測にかからなかったため、コペルニクスの体系では恒星天が惑星の天球よりもはるかに大きなものと考える必要が生じた。コペルニクスの地動説の普及に努めた[[トーマス・ディッグス|トマス・ディッグズ]]は恒星天を取り除き恒星がちらばる無限の宇宙を導入し、[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]は恒星天があまりに巨大だとして自らの天球図に描き込まなかった。
惑星の天球の概念を捨てねばならなくなったのは、1609年の『新天文学』において[[ヨハネス・ケプラー]]が[[火星]]、そして他の惑星の軌道が[[楕円]]であることを示したときである。ケプラーは一方では恒星天の存在は維持し宇宙は有限であると考えていたが、とりわけ[[ティコ・ブラーエ]]の行った[[彗星]]の観測によって惑星の天球の考えは捨てねばならないことに気づいていた。このとき惑星の動きが完全な図形としての球を基準とすることはありえなくなり、天球を実体として保持し続けることはできなくなった。
天球のないケプラーの太陽系像では、惑星は何の支えもない空間を彼の発見した精密な法則に従って動かねばならないという、当時の考えでは驚くべき事態をもたらした。機械論的な近接作用のみで運動が説明されねばならないと考えた[[ルネ・デカルト|デカルト]]は、後の[[エーテル (物理)|エーテル]]の概念につながる渦まく流体を想定した。空間を越え、単純な数学に従って作用する[[重力]]を定式化したのは、神学的な信念からこのデカルトの機械論に反発した[[アイザック・ニュートン]]によってであった。
== 位置天文学における天球 ==
[[暦]]の計算をする場合は、しばしば地球を中心として天体が動くという[[天動説]]的な説明をした方が都合が良い。よって、地球から無限大の距離にある[[球面|球]]への射影をおこない、天体はその上を動くものとした。この仮想的な球も天球とよばれる。[[黄道]]・[[天の赤道]]・白道などは天球上の[[大円]]である。天球上の位置は[[赤道座標]]([[赤緯]]・[[赤経]])または[[黄道座標]](黄緯・黄経)によって示される。
== 関連項目 ==
* [[宇宙空間]]
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[[Category:天文学]]
[[Category:天球座標系]]
[[Category:天文学に関する記事]]
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エレベーター
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エレベーター(アメリカ英語: Elevator / イギリス英語: Lift)は、人や荷物を載せて垂直または斜め・水平に移動させる装置。日本語では昇降機(しょうこうき)ともいう。 人が乗れない小荷物専用のものは建築基準法では小荷物専用昇降機と記されている。近年まではダムウェーター(Dumbwaiter)と記載されていたが、dumb waiter(直訳:物の言えない給仕人)が差別用語とされたため読み替えられることが増えた。なお小荷物専用昇降機最大手のクマリフトは2023年4月時点でもダムウェーターと呼んでいる。
一般的に多数のフロアを有するオフィスビルやホテル・デパートに設置されるほか、福祉施設など階段での移動が困難な人の利用が想定される施設にも設置されることがある。歩行が不自由な人がいる一戸建て住宅にも小型のホームエレベーターを取り付けることがある。
この機器の日本語での名称 (カタカナ表記)は、「エレベーター」と表記されたり「エレベータ」と表記されたり、表記が一貫していない。しかし、JISでは用語や記述記号についての定めに基づき、「エレベータ」と表記する。
一般には、外来語で英語の語尾が「-er」「-or」「-ar」の場合、長音符号で表記するので、「エレベーター」となる。しかし、JISでは、学術用語や別の規格がある場合以外は、その言葉が3音節以上であれば、長音符号を省くのが原則となっている。したがってJISでは「エレベータ」と表記する。これらは、どちらが正しくてどちらが誤りというわけではない。製造メーカーは、JISに従い「エレベータ」と表記することが多い。放送や新聞などの報道では「エレベーター」と表記される。
なお、業界団体名は「社団法人日本エレベータ協会」から、2012年に一般社団法人に移行したのを機に「一般社団法人 日本エレベーター協会」と改称、公式サイト内では社名などの固有名詞を除き「エレベーター」と表記している。東芝エレベータおよび日本オーチス・エレベータは社名を改称していないが、サイト内では「エレベーター」と表記している。
エレベーターは既に紀元前から存在し、古代ギリシアのアルキメデスがロープと滑車で操作するものを開発していた。ローマ時代に入ると、ローマ皇帝ネロは、宮殿内に設置した人力エレベーターを使用していたほか、コロッセオには剣闘士と戦う猛獣を闘技場のあるフロアまで運ぶ人力エレベーターが用意されていた。
中世ヨーロッパでも、滑車を用いた巻上機があり、一部で利用されていた。17世紀に入ると、釣り合いおもり(カウンターウェイト)を用いたものが発明された。
今日でもこれ等に連なる舞台用の人力迫は現役で使われているが、電動が主流になっている。
19世紀初頭には、水圧を利用したエレベーターがヨーロッパに登場し、工場などで実際に使用された。また1835年に蒸気機関を動力として利用したものが現れた。動力式エレベータは最初にイングランドで導入され、1840年代にはアメリカの工場やホテルでも導入が広がった。ただし、水力や蒸気機関を用いたエレベーターは、非常に速度が低く、安全性にも問題があった。
これに解決の糸口を与えたのは、アメリカのエリシャ・オーチス (Elisha Graves Otis、1811-1861) である。彼は、1853年のニューヨーク万国博覧会にて、逆転止め歯形による落下防止装置(調速機、ガバナーマシン)を取り付けた蒸気エレベーターを発表した。エレベーターという名称もこのときオーチスによって命名された。オーチスは、来場客の面前で、吊り上げたエレベーターの綱を切ってみせ、その安全性をアピールした。このエレベータはニューヨーク水晶宮に設置されていた。
水力式や蒸気機関式は、冬季に水が凍結すると運行に支障が出た。1882年、最初の電動式エレベーターがニューイングランドの綿工場に設置されると、その後1889年ごろより高速運転可能な装置が考案され、電気の供給安定とともにエレベーターの動力源として電動式が主流となった。
電動式エレベーターは制御機構の高度化と建物内の高速な垂直方向の流通アクセス性の向上により、超高層建築物の建設に追い風をもたらした。
1880年代以降はアメリカ合衆国のシカゴとニューヨークで高層ビルの建築競争が始まる。特に1920年代にはニューヨーク市マンハッタン地区ではクライスラー・ビルディングが高層ビルとして初めてエッフェル塔の高さを上回るほどとなり、世界一のビルの高さを競う新築超高層ビルの建設ラッシュが起き、この動きはのちに世界的に広がった。
なお、1890年11月10日に東京・浅草の展望台「凌雲閣」に日本初の電動式エレベータが設置されたことにちなみ、日本エレベータ協会は、11月10日を「エレベータの日」としている。ただし、この国産エレベータは安全性に問題があるという理由で約半年後に当時の警視庁から運転が差し止められた。
日本で現存最古のエレベーターは東華菜館(京都市)に1926年設置された米オーチス社製。これの見学を兼ねて来店する客もいる。蛇腹扉の開閉や昇降運転は手動式で、店員が行う。
人でなく物を運ぶ昇降機で保存されている最古のものは、偕楽園(茨城県水戸市)内にある水戸藩主別邸「好文亭」に1842年設置された。食事を入れた箱を、滑車に回したヒモを引いて1階と2階の間で上げ下げした。
古い物では他に永平寺大庫院の1930年設置などが稼働している。
ここでは昇降路の設備とカゴの設備に分けて記述する。
昇降路はシャフトとも呼ばれ、エレベーターが上下するための何らかの構造物で覆われた縦に長い空間のことである。シャフトを構成する材料は鉄筋コンクリート構造や鉄骨構造が多い。 シャフト一体型と呼ばれる、シャフト部材と機器本体を一体で工場にて製作し現場に据付するタイプもある。シャフト一体型は小規模集合住宅に適しており、昇降行程が低く、小容量の後付用以外にはほとんど用いられない。 昇降路の最下階のさらに下部をピット、最上階のさらに上部をオーバーヘッドと呼ぶ。
ガイドレールとはエレベーターを導く軌道であり、シャフト内に設置される。材質は鋼でできており、形状は鉄道のレールとよく似ている。それを垂直方向につなげてエレベーターの軌道を構成していく。ガイドレールは、かごの走行を円滑にし、各階に設置されたドアやカウンターウエイトなどの構造物とのクリアランス(すき間)を確保すると同時に、万一かごが落下した際に非常止め装置をガイドレールに噛ませて緊急停止させる目的もある。ガイドレールとかご、カウンターウエイトが接触する部分にはガイドシューと呼ばれる潤滑具やガイドローラーなどを設けて摩擦や振動を低減させている。
カウンターウェイトとも呼ばれ、つるべ式エレベーターで用いられるおもりである。全体の形状は扁平で縦に長く、非常に重い鉄の塊である。つるべ式はトラクション式とも呼ばれ、ワイヤーロープの両端にかごとおもりをぶら下げてバランスを取り、ワイヤーロープ折り返し中間地点に設置された電動機(モーター)と、それに連結された滑車(シーブ)に掛かる摩擦力によってかごとウェイトを上昇下降させる方式である。この方式ではロープ両端の重量バランスが良いので、比較的小さい力でロープに吊るされた物体を上昇下降させることができる。かごとカウンターウェイトのバランスが均等にとれている状態では、人の手でエレベーターを動かすこともできるほどにモーターに掛かる負担は小さくなる。カウンターウェイトの総重量は無積載状態のかごの質量にかご積載容量の50 %を付加した重量になるように設計されている。
ワイヤーロープはトラクション式エレベーターなどで用いられる巻上索である。材質は炭素鋼が用いられ、建築基準法によって安全率を10以上確保することが義務付けられている。ロープの構造は、まずストランドと呼ばれる細い鋼線をより合わせたものがあり、さらにそのストランドを8本ほどより合わせてできている。柔軟性を保つために、ロープの中心部にはマニラアサやサイザルアサなどの硬質繊維芯が入っている。太さは直径10 mm・12 mm・16 mmなどがあり、かご積載量に応じて使用する本数が増えたり、より太いものが使われる。トラクション式ではロープの両端にかごとカウンターウェイトが吊るされていて、それらの連結部にはソケットと呼ばれる器具にバビットメタルを注入するという末端処理が施されていて、連結強度を確保している。
高層ビルのエレベーターでは使用するワイヤーの質量が多く、そのままの状態では最上下階近辺ではかご側とカウンターウェイト側の重量がワイヤーロープの自重によってアンバランスになり、巻上機のシーブから滑り落ちてしまう恐れがある。そのアンバランスを解消するために、かご底部とカウンターウェイト底部との間には、コンペンセーティングロープあるいはコンペンセーティンチェーンと呼ばれる、重量バランス調整用のワイヤーロープやチェーンが渡されている。
映画等に登場する、エレベーターのワイヤーが切れて高速で落下するシーンには誤りが多い。エレベーターのかごを吊り下げるワイヤーの強度は定員の約10倍の重さに耐えられる強度を有することが義務づけられており、ワイヤーの使用本数も3本以上いるため、その全てが切断すること自体が極めてまれである。万一、切断してかごが落下に転じても、調速機ロープが同時に切断されない限りは、定格速度の1.4倍で非常止め装置が作動して急停止する。つまり、映画『マトリックス』のワンシーンのように爆破されたり、主ロープと調速機ロープが同時に破断されない限り、落下事故は起き得ない。
なお、2011年7月26日には東京メトロ有楽町線・副都心線平和台駅でエレベーターのワイヤー3本が全て切れて非常止め装置が作動するまで数m落下する事故があり、乗っていた50歳代の女性が尻や肘に2週間の打撲傷を負うという事故が発生している。1945年7月28日、エンパイア・ステート・ビルディングに航空機が激突したことによってエレベーターのかごが非常止め装置も効かないままエレベーターシャフトの底まで300メートル以上落下する事故が起こったことがあるが、乗っていた従業員は奇跡的に生存していた。
以前は「非常止め装置が調速機ロープを切断されるなどして作動しなくても、エレベーターはエレベーターシャフト周壁との間隙が小さいことにより、かごにかかる空気抵抗が大きいため、ある程度の減速効果を有する」と言われていたが、東芝エレベーターテスト塔での落下事故で、減速効果はほとんどないと証明された。このような効果を得るには、シャフト内の空気量が不変でなければならない。
非常止め装置はかご枠の下部にあって調速機の動作に応じて制動子がかごの降下を止める装置である。
緩衝器は昇降路最下部にあってかごや釣り合いおもりが昇降路の底部にまで進行してしまった場合に衝撃を和らげる装置である。サスペンションともいう。ばねや油圧ダンパー等が付いており、非常止め装置を使用しても減速しきれない場合の衝撃をやわらげる仕組みになっている。エレベーターの速度が分速60 m以下か油圧式エレベーターのものはばね緩衝器、分速60 m以上のものは油圧ダンパーを使用している。
人が乗るための箱状の構造物を、エレベーターではカゴ(籠)と呼ぶ。これに人または荷物を乗せ上下させる。
天井には照明が装備され明るさが確保されるほか、換気扇、扇風機が装備され通気性が確保されている。エアコンが付いているものもある。
ドアには各階の乗場側の乗場戸とかご側のかご戸がある。古いものでは手動式もあり、国によってはかご戸のないものも少なくない。 防犯のために窓が設置されていることがある。
縦開き式など特殊なエレベーターを除き、かご側のドアだけに駆動装置がある。停止階に到着したエレベーターは、かごドア側の解錠装置と乗場ドアのインターロックがかみ合い、乗場のドアはかごドアの力によりインターロックによる施錠が解放され、開閉する。
外観としては横方向に動くサイドスライドドアが主流となっている。サイドスライドドアにはサイドオープン式(片開き)とセンターオープン式(真中開き)がある。特大貨物用では上下方向に動くドアが採用されている場合があるが、このドアは乗降中に戸が頭部に衝突したり戸が下方から出てきて危険であるので、荷物用・自動車用以外には使用できない。
操作盤はエレベーターの操作に使われる。一般的に階数ボタンと戸扱いボタンがあり、乗客は行先指定や扉の開閉を行う。操作盤の上部にはインジケーターがあることがほとんどである。
ほとんどの機種では非常連絡装置が取り付けられている。地震や火災・故障により閉じ込められた時などに使用し、メンテナンス会社や建物の管理人と連絡をとることができる。 メンテナンス会社と契約を結んでいない場合には、建物の基準階で警報音が鳴るだけである。
障害などで通常の操作盤を扱うことが難しい人のために、低い位置に操作盤が設置されていることもある。これらは一般的に車椅子操作盤と呼ばれ、扱われた際に扉の開放時間が長くなる・扉の開閉速度が遅くなるように設定されている。
かごがどの階にあるか、またかごが上下どちらに動いているかを表示する装置。 インジケーターは基本カゴ内と各階の乗り場に設置される。ただし、近年設置されたエレベーターの場合は、複数台のエレベーターを一括管理する群管理システムを採用し、全ての階での待ち時間が最短となるように最適な運用をするため、人が待っている階を通過する・その階の手前で折り返すなどのことがあり、そのことを利用者に知られないようにするため、乗り場のインジケーターを備えず、到着を予告するホールランタンのみを備える場合が多い。
インジケーターの表示方式は、次のように分類できる。
かごドアの端部には挟まれによる事故を防ぐため、セーフティシューと呼ばれる大きな棒状の安全スイッチが取り付けられている。物理的に押されることによって反応する。
近年のエレベーターでは、赤外線センサーなどを設置しているものがある。センサーが遮られることでドアへの接触の前に反転する。これにより台車や扉を破損する可能性が大幅に低下した。 多数のセンサーを異なる方向に設置してさらに検出精度を向上させたものは、マルチビームドアセンサーと呼ばれることが多い。
これらの安全装置が非搭載であるまたは故障しており、危険に人や物を挟み込んでしまうおそれのあるものは、俗にギロチンドアと呼ばれる。
近年のエレベーターではカゴ側のドアの内側にもセンサーが設置されている。このセンサーは戸開時に照査し、検知するとドアの開閉を一時停止または減速させ、「ドアから離れてください」というアナウンスをする。
一部のエレベーターは避難用の救出口をもっている。これは中から脱出するためではないので、外から施錠されていることが多い。 郡管理されているエレベーターで1つだけ故障した場合などに、隣のカゴを動かして救出にあたる際に使われる。
エレベータの防犯装置として、防犯カメラ、警報装置、各階強制停止装置、利用者・利用階検知システムなどがある。
防犯のため、エレベーターのかご内の状況が外部から見えるよう、ドアや壁に窓(通称 : 防犯窓)を装着し、あるいはかご内に監視カメラが設置され、内部の映像を乗り場のところに設置したモニターに映し出しているエレベーターもある。この形式のエレベーターの場合、外部からかご内の様子が見えることで犯罪やいたずらを未然に防ぎ、安心してエレベーターを利用できるといった長所がある。
窓付きドアのエレベーターは、主にマンション・団地などの集合住宅、鉄道駅、一部の商業施設などで見かける。防犯カメラのついたものは、集合住宅や一部のオフィスビルで見受けられる。
また、深夜になると各階へ昇降する際、途中階全てに停止するエレベーターもある。たとえば1階から5階へ向かう際、2階・3階・4階で停止しドアを開ける手順を経過することになるので防犯の効果は高くなる。その反面、昇降に時間がかかり効率を悪化させるという欠点がある。
本項目では、バリアフリー構造について紹介する。
かごの奥側の側面には鏡が設置されていることがある。これはエレベーター利用者が車いすを使用している場合、前を向いたまま室内に入ることになるため、狭い室内では車いすに乗りながら転回することができないことを考え、後ろ向きのままエレベータから降りられるように考慮して設置されているものである。
車椅子などで乗り込んだ際、降りるときも前進で降りられるように出入り口をかごの前後に配置した形式がある。これを「ウォークスルー式」または貫通2方向型という。貫通2方向型の機種は、大規模病院や事業所などでストレッチャーや貨物搬送の都合から採用することがある。
建物の構造上、貫通2方向型が設置できない場合などのために、前面と側面の2方向にドアが配置された直角2方向型の機種もある。駅舎やペデストリアンデッキのエレベーターに多い。乗客には降り口が判別し難い場合があるので、目的階に到着すると「後ろのドアが開きます」や「こちらのドアが開きます」などの音声によって降り口が案内される。
他には手摺を付けて車椅子で移動しやすくしている場合がある。
昭和40年代頃までは半導体技術が現在のように発展していなかったために、エレベーターの制御回路にはリレー式シーケンス制御が採用されていた。今では到底考えられないが、速度制御、ドア開閉制御、呼び出し制御、混雑回避制御などありとあらゆる制御回路が数百個から数千個にも及ぶ大量のリレー群とタイマーリレー、その他機械式接点によって構成されていた。リレー式回路は主に手作業で制御回路を構築するので、回路設計、回路変更に多大な費用と労力が掛かるものが多かった。さらに接点の接触不良や焼き付きなどの動作不良も多く、メンテナンスマンを大いに悩ませたが、交換パーツの調達性は今日でも良好である。
昭和50年代に入ると半導体産業やコンピューターテクノロジーが隆盛し、エレベーターの制御回路にもマイコン方式が取り入れられた。これによって機器設置、回路設計の負担が減り、高品質で多彩な運転制御が可能になった。特にモーター制御では加減速制御の品質が一段と飛躍した。巻上げ電動機には1980年代前半まで、高速のものには直流電動機が、低速のものには誘導電動機が用いられ、速度制御方式はそれぞれワードレオナード方式と極数切替法、次いでパワーエレクトロニクスの発展によりサイリスタなどによる電動機入力電圧制御に移り変わった。1983年に交流電力のVVVFインバータ制御がエレベータ向けにも実用化された。それ以降、高速低速ともにインバータによる誘導電動機駆動を経て、現在では永久磁石同期電動機駆動の巻上機が主流となった。
一方、油圧式エレベーターでは流量制御バルブによる制御が用いられ、油温や積載荷重により走行性能の変動を受けやすかったが、1980年代後半以降はマイコン制御化やバルブの改良により解消された。また、1990年代に入ると規格型エレベーターを中心にVVVFインバータ制御方式が広く普及し、乗り心地向上や省エネ、走行時間短縮を実現している。
これらの技術革新によって、現在では各階への停止位置をミリ単位で微調整することが可能とされている。
なお、半導体制御化が進んでいるが、重要な箇所にはリレーが残っている。リレーは信号側と動作側が電気的に絶縁されているので大電流に強いこと、電磁波ノイズに強いこと、昔に比べ動作の信頼性が高くなっていることもあいまって、現在でも主回路、ドア制御回路などの重要な箇所にリレーを部分的に使用しているメーカーは多い。
1つの建物で複数のエレベーターが並んでいる場合、それらを同じように各階に止めていくのは効率が悪い。特に、デパートなど、特定のフロアなどに客が集中する場合には、その階へ優先的に輸送することが望ましい。そのため、エレベーターの制御の単独化や、特定階の不停止制御(フロアカットもしくはサービスカット)を行い、一部の階だけに停止させる急行運転(あるいは直通運転)を行なうこともしばしば見受けられる。また、事務所ビルでは、最終退館者が防犯機器を操作した時点でその階を通過し、最初の出勤者が入館手続きを取ると停止するというシステムを採用するケースもある。屋上階には停止しないというシステムも、防犯上の事情から実行されている。
エレベーターに乗ると、身体が床に押し付けられたり上に引っ張られたりするような感覚がある。これはエレベーターの速度の変化によって生ずる加速度が搭乗者に働くからである。速さが激しく変わるようなエレベーターは搭乗者にとって不快である。また、かごをガイドするガイドレールの取り付け方によっては横方向の揺れが発生し、乗り心地は大きく変化する。超高層ビルで運用されるエレベーター(最下階から最上階まで直通するような速度の速いエレベーター)ではレールの歪みやレール取り付け方法、加速度のコントロールに細心の注意が払われている。横浜ランドマークタワーのエレベーターは床面に立てた硬貨が倒れないほどに乗り心地がよいといわれる。これは、加速制御の巧みさだけでなく、ガイドレールの配置や歪みにまで丹念に作りこまれているからである。
一部の鉄道駅などには「構内外共用型」というエレベーターが存在する。これは、1台のエレベーターで「駅外と改札外コンコース」「改札内とプラットホーム」の移動のみを可能とするものである。乗った場所により降りられる場所が決められており、「駅外とホームや改札内」や「改札外とホーム」などの直接移動はできない。通常、「改札内」と「改札外」は同一平面となるため、かごの扉は2つある場合が多い。本来2台以上が必要なものが1台ですむため、設置やメンテナンスのコストが大幅に節減できる反面、利用者はかご呼び出しから乗れるまでの時間がかかる場合がある。そのため、エレベーターの利用が少ない、小規模な駅に設置される場合が多い。交通バリアフリー法の施行を機に敷地の問題やエレベーターシャフトの設置スペースに制約のある駅の改修工事において採用されるケースも出てきた。
鍵や暗証番号を入力しないと呼出しボタンや行き先ボタンが機能しないエレベーター。認知症の入居者が不用意に外出してしまうのを防ぐため、特別養護階のある老人ホームに設置されているほか、建物所有者の自宅階や店舗・病院の従業員などといった、特定の人物以外の利用を制限したい場合にも用いられる。逆のパターンとして、かご内の操作盤でカードキーや特定のコマンドを入力することによって着床を行う階が設定できるエレベーターもあり、特定階への部外者の立入を制限したい場合に設定される。企業の本社ビルで特定階が丸ごと役員室になっている場合が該当する。類例としてビジネスホテルにて上下ともフロント階に必ず停止させ扉越しに乗客を確認するなど、外来者も使用するエレベーターでは停止階制御の機能が持たされることがある。
監視カメラで常に人の動きを感知し、激しい動きがあると注意を促すアナウンスが流れるもの。エレベーター内で争い等が起きたときや、防犯に有効である。
エレベーターの速度は一般的に45m/min~105m/min。上り世界最速のエレベーターは中国・広州市の「広州周大福金融中心」にある75.6km/h(1,260m/min)のエレベーターで、下り世界最速のエレベーターは横浜ランドマークタワーにある45km/h(750m/min)のエレベーターである。
日本では建築基準法の規定により、一人を65kgと見積もって定員を計算する。かごの大きさは小型で1m四方ほど、大型では2m以上のものもある。日本でトップクラスの乗用大型エレベーターは、1970年日本万国博覧会(大阪万博)の日立グループ館に設置された、130人・8,350kgの内径6mのカゴが二台連結された、日立製の二階建て油圧エレベーター(現存しない)である。
エレベーターを開発する際には、テストする際に実際のビルと同じ高さの建設物が必要となる。そのため、各社ではテスト塔とよばれる高い建設物を作り、製品の安全性、機能性などをテストしている。
オフィスビル等の高層建築物には、エレベーターが必須である。日本などでは高齢化などのためバリアフリーの重要性も高い。また、近年経済発展のめざましい中華人民共和国は、ビルなどの建設ラッシュであるため、エレベーターを製造するメーカーの競争は激しい。各メーカーでは差別化を図る意味で、さまざまな機能などが付けられたエレベーターが製造され存在する。また建築物以外にも、船舶艦艇(揚弾機含む)・陸上車両内外(リフター付はしご自動車・パワーゲート・バス内他)・大形航空機内等にも設置されたエレベーターが存在する。
基本的に火災時の避難には使用しないことと表示されている。しかし、マンションの高層化に伴い東京消防庁は停電対策の予備電源や防災センターとの通信設備などの厳格な要件を課した上で条件を満たす場合には火災時の避難にエレベーターを使うよう指導することとなった。
アメリカ西海岸の地域は地震多発地域でありカリフォルニア州法はエレベーターに関する耐震規定が設けられている。
エレベーター内は構造上密室になりがちであるため、痴漢などの犯罪が発生する可能性が少なくない。そのため、エレベーターには管理会社へ通報できる装置が備えられている。
乗客の自主的な防犯対策として、以下のものがある。
エレベーターは可動や経年変化によって消耗する部品があり、定期的なメンテナンスを必要とする。メンテナンスを行わないエレベーターは重大な事故を招きかねない。
エレベーターの寿命は機器全体として考えた場合は長く、25年前後使用されることが多い。法定償却耐用年数は17年と定められている。ただし、電子部品やワイヤー、軸受などはほぼ10年など、個々の部品の寿命は一般的な物理的寿命と大差ない。寿命を迎えた場合には、一式取り替える撤去新設工事だけでなく、リニューアル・延命工事も広く施工され、巻上機やかご・レールはそのまま使用するが、電動機や制御機器を最新型のものに取り替えて最新型と同等の性能を発揮できるようにする。特に1980年代以前に製造されたエレベーターは遅くとも2012年までに部品供給の停止が予告されているので、リニューアルは必須となる。
日本においては建築物に設置されるものは建築基準法の適用を受ける。また、労働基準法指定事業所に設置されるものには労働安全衛生法の適用を受ける。
日本で昇降機(エレベーター、エスカレーター、小荷物専用昇降機等)を建築物に設置する場合は、建築基準法の規定に基づく確認・完了検査を受けなければならない。しかし、建築基準法で定める昇降機であるにもかかわらず、建築基準法の規定に基づく確認・完了検査を受けずに設置されている昇降機を違法設置エレベーターという。
建築基準法や各種法令では、5階建以下の建築物(集合住宅、雑居ビルなど)ではエレベーターの設置が義務づけられていないが、6階建以上の建築物を建てる時は、(屋上を除く)全ての階に停止するエレベーターの設置が必須となり、設置していない建物には建築許可が出ないが、昭和50年代以前に建築された古い集合住宅だと、一部の階にしか停止しない(全ての階に停止しない)「スキップフロア型」を採用しているのもある。
特に工場や作業場等に多数設置されている、労働安全衛生法で規定される荷物用エレベーターや簡易リフトは、労働安全衛生法と共に一般のエレベーターと同様に建築基準法の規定も適用される。特に労働安全衛生法で規定されている簡易リフトは、かごの床面積により建築基準法で小荷物専用昇降機に規定されるものを除き、その多くは建築基準法に規定されるエレベーターの基準が適用されるが、その基準を満たしていないものが数多く設置されている。
さらに、昇降路の壁が設定されていないなど建築基準法はもちろん、労働安全衛生法の簡易リフトの規定すら満たしていない非常に危険な違法設置エレベーターも数多く設置されており、毎年全国の工場等で多数の死傷事故が発生している。こうしたことから、全国の特定行政庁及び労働基準監督署は、違法設置エレベーターに関する周知活動等を行っている。
斜行エレベーター・水平エレベーターと、鉄道(ケーブルカー含)・鉄道型遊戯施設の基本構造上の区別は曖昧であり、管轄法規が峻別している。
エレベーターとは、建築基準法第34条で規定される「昇降機」の一種別である。なお、この「昇降機」は建築基準法施行令第129条の3の規定により、大きく「エレベーター」、「エスカレーター」、「小荷物専用昇降機」の3種類に分けられている。
建築基準法で規定される「エレベーター」には以下の用途種別が定められている。
建築基準法に規定されるエレベーターは、前記に規定されるもの以外に以下のものが規定されている。
建築基準法(第34条2項)により、地上からの高さが31 m以上あるか、または45 mあるかまたは、地上11階以上(一部のマンションでは16階以上)の建築物には、一般用のエレベーターのほかに、非常用エレベーターの設置が義務付けられる。これは災害発生時に高層建築では消防隊が階段を上がって救出に向かうことが困難であるためであり、専用運転に切り替えられる装備をもつ。また地上から10階以下では設置は義務付けされないが設置されているケースもある。
非常用エレベーターは、火災等で商用電源が遮断されても運転できるよう非常電源(ディーゼル発電機など)から電気が受けられ、電線も普通の火災で焼けないよう耐火電線を用いて配線する。
かつては機械室がないタイプは一切認められていなかったが、2015年の国土交通省告示の改正により、駆動装置・制御盤等を、最上階フロア床面より上方に設置した機械室無しタイプは非常用エレベーターとして適用することが認められた。この告示はその後2017年に再び改正され、IPX2以上の防水措置を講じることで、最上階の床面よりも下方に制御盤や駆動装置を設置することができるようになった。
またかつては他の一般用エレベーターよりも速度が遅い仕様が多かったので(現在は最上階まで1分以内に到達できることが条件で、60 m/minが下限)、乗用として使用されることはほとんどなく、通常時は荷物輸送やビルメンテナンス要員・警備員の移動に用いられてきた。そのため用途種別はほとんどの場合「人荷用」となっており、最近の一部を除き一般客の目に触れないように設置されることが多い。一部の建物では、一般客が利用するエレベーターと非常用エレベーターを兼用している建物もある。
なお、非常用エレベーターは設置されている建物の全ての階に停止でき、かつ全階のエレベーターホールにはかご位置を知らせるインジケーターを設置しなければならず、エレベーターホールも防火戸等により煙や炎を完全に遮断することができる構造が必要になる。乗場には非常用エレベーターを示す、赤文字で「非常用エレベータ」、その下に最大定員と積載荷重を記載したプレートを掲示しなければならない。定員は最低で17名(積載荷重1,150 kg)と定められている。消防隊専用の装備として、主に1階か避難階に設置され、押すと他のかご内および、乗場の呼びを全て解除し呼び戻しボタンのある階へ直行する「かご呼び戻しボタン」、建物管理者や警備員から鍵を借りて操作すると消防隊専用に切り替わる「一次消防・二次消防切り替えスイッチ」がある。
一次消防運転では乗場呼びが無効になり、一種の専用運転となる。二次消防運転では乗場の戸閉検出装置が無効となり、かごまたは乗場の扉が閉まらない状態でも走行可能になるが、速度は最高でも90 m/minに制限される。
2022年現在、日本国内での総据付台数ベースでのシェアは以下のとおり。
以上の5社でシェア約9割を占め、以降をシンドラーエレベータ、中央エレベータ工業等がその他を占める。
以前、フジテックは2007年の時点では大手5社の中で最下位であったが、近年エクシオール(同社製現行主力製品。エアコンを標準で搭載している。)を大規模に展開するなど日本全国でシェアを急拡大し、国内4位に躍り出た。
小荷物専用昇降機は上記の5社も生産しているが、これに限ればクマリフトがシェア1位となっている。なお、三菱電機の小荷物専用昇降機は子会社の菱電エレベータ施設(自社ではRYODENブランドの「リョーデンリフト」として販売。日本オーチス・エレベータにも供給)のOEMである。フジテックは精電社のOEMで小荷物専用昇降機のみの設置は認めていない(同社製エレベーター・エスカレーターと同時設置でなければ販売しない)。
メーカーの選定に際しては、建物所有者の資本系列や融資元金融機関の系列が絡むことが多い。例えば、丸の内ビルディングや横浜ランドマークタワーなど三菱地所が所有する建物では、必然的に三菱製が採用されることになる(ただし、横浜ランドマークタワーのプラザ棟のように、メーカー名が伏せられているがパネル形状から明らかに日立製とわかるなど例外がある)他、三井不動産系のビル、ららぽーと等ではフジテック製エレベーターが多く採用されている。また、ラゾーナ川崎のように、東芝の土地に出来た建物も東芝エレベータが使われている。さらに特殊な事例として、茨城県内では日立製作所が創業した日立市があることから比較的県内(茨城県庁、日立市庁舎、コートホテル水戸、クラウンホテル勝田2号店等)では日立製のエレベーターが採用されることが多くなっている。
逆に大手スーパーマーケットチェーン、一般工場、財閥系を除く不動産業者による賃貸マンションや分譲マンションなどは建物によってさまざまであり、これは設計事務所が設備設計を行う際に、参考としてメーカーが設計図面上で選定されていることが多いものの、エレベーターの確認申請は建築設計図面とは別に提出され、メーカーを変更しても特に問題はないためであり、施工段階で、元請業者による見積もりが取られた際に、元請業者によって安価なメーカーが選ばれる事が多いためである。一部マンションなどでは、保守点検の効率化・コスト削減などの観点からデベロッパーの管理会社によってメーカーが指定されることもしばしばだ。
メーカーの業種は大抵「機械」だが、三菱電機ビルソリューションズと日立ビルシステムだけは「建設業」となっている。この2社はそもそも建築物管理業であることに因む。
メンテナンスはメーカー自身、もしくは系列のメンテナンス会社が行うケースがほとんどである。一方、メーカー系列に属さない独立系メンテナンス会社もある。比較的割高なメーカー系のメンテナンスに対して、近年は安価な料金を掲げる独立系メンテナンス会社への切り替えも見られる。1980年代に独立系メンテナンス会社に対するメーカーの部品売り渋りが問題となり、独立系メンテナンス会社がメーカーを相手取って裁判を起こし、10年がかりで勝訴した。しかし、メーカーと独立系メンテナンス会社との関係が険悪なのは現在も変わらず、2009年に国土交通省が行った実態調査でこれが浮き彫りになった。独立系メンテナンス会社は業界団体の日本エレベーター協会からも事実上排除されており、加盟している会社はほとんどない。東芝エレベータは独立系メンテナンス会社に対する部品供給について価格・納期などで厳しい条件になると公言していた(現在は独立系に言及した記述は削除されている)。また、商品の性質上個人顧客がメインの三菱日立ホームエレベーターやパナソニック ホームエレベーターでは、独立系メンテナンス会社にメンテナンスを依頼しないように案内している。
また、フジテックは基本的に自社メンテナンスを推奨しており、独立系メンテナンスになる場合には新設設置は基本的に行わない。ただし、既存のフジテック製エレベーターを独立系メンテナンスに変更することは可能である。
その一方で、後述の通り東芝エレベータが独立系のエス・イー・シーエレベーターと業務提携するなど、従来の保守で収益をあげるビジネスモデルに陰りも出てきており、メーカーと独立系の関係にも変化が見られるようになった。
北米や欧州の国々では日本とは異なり法令で直接構造基準等を設けているわけではない。
ヨーロッパではEU圏内の市場に出回る製品等の均一な安全性を確保するため製品ごとに指令が出されており、昇降機にもlift Directiveという指令があり、これに基づいて欧州統一規格ENが定められている。
アメリカではASMEA17.1、カナダでもB44という基準が指定されているが、規格は各州の州法で定められており、どの年度版を基準にしているかは各州により異なる。
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"text": "エレベーター(アメリカ英語: Elevator / イギリス英語: Lift)は、人や荷物を載せて垂直または斜め・水平に移動させる装置。日本語では昇降機(しょうこうき)ともいう。 人が乗れない小荷物専用のものは建築基準法では小荷物専用昇降機と記されている。近年まではダムウェーター(Dumbwaiter)と記載されていたが、dumb waiter(直訳:物の言えない給仕人)が差別用語とされたため読み替えられることが増えた。なお小荷物専用昇降機最大手のクマリフトは2023年4月時点でもダムウェーターと呼んでいる。",
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"text": "一般的に多数のフロアを有するオフィスビルやホテル・デパートに設置されるほか、福祉施設など階段での移動が困難な人の利用が想定される施設にも設置されることがある。歩行が不自由な人がいる一戸建て住宅にも小型のホームエレベーターを取り付けることがある。",
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"text": "この機器の日本語での名称 (カタカナ表記)は、「エレベーター」と表記されたり「エレベータ」と表記されたり、表記が一貫していない。しかし、JISでは用語や記述記号についての定めに基づき、「エレベータ」と表記する。",
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"text": "一般には、外来語で英語の語尾が「-er」「-or」「-ar」の場合、長音符号で表記するので、「エレベーター」となる。しかし、JISでは、学術用語や別の規格がある場合以外は、その言葉が3音節以上であれば、長音符号を省くのが原則となっている。したがってJISでは「エレベータ」と表記する。これらは、どちらが正しくてどちらが誤りというわけではない。製造メーカーは、JISに従い「エレベータ」と表記することが多い。放送や新聞などの報道では「エレベーター」と表記される。",
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"text": "なお、業界団体名は「社団法人日本エレベータ協会」から、2012年に一般社団法人に移行したのを機に「一般社団法人 日本エレベーター協会」と改称、公式サイト内では社名などの固有名詞を除き「エレベーター」と表記している。東芝エレベータおよび日本オーチス・エレベータは社名を改称していないが、サイト内では「エレベーター」と表記している。",
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"text": "エレベーターは既に紀元前から存在し、古代ギリシアのアルキメデスがロープと滑車で操作するものを開発していた。ローマ時代に入ると、ローマ皇帝ネロは、宮殿内に設置した人力エレベーターを使用していたほか、コロッセオには剣闘士と戦う猛獣を闘技場のあるフロアまで運ぶ人力エレベーターが用意されていた。",
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"text": "中世ヨーロッパでも、滑車を用いた巻上機があり、一部で利用されていた。17世紀に入ると、釣り合いおもり(カウンターウェイト)を用いたものが発明された。",
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"text": "今日でもこれ等に連なる舞台用の人力迫は現役で使われているが、電動が主流になっている。",
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"text": "19世紀初頭には、水圧を利用したエレベーターがヨーロッパに登場し、工場などで実際に使用された。また1835年に蒸気機関を動力として利用したものが現れた。動力式エレベータは最初にイングランドで導入され、1840年代にはアメリカの工場やホテルでも導入が広がった。ただし、水力や蒸気機関を用いたエレベーターは、非常に速度が低く、安全性にも問題があった。",
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"text": "これに解決の糸口を与えたのは、アメリカのエリシャ・オーチス (Elisha Graves Otis、1811-1861) である。彼は、1853年のニューヨーク万国博覧会にて、逆転止め歯形による落下防止装置(調速機、ガバナーマシン)を取り付けた蒸気エレベーターを発表した。エレベーターという名称もこのときオーチスによって命名された。オーチスは、来場客の面前で、吊り上げたエレベーターの綱を切ってみせ、その安全性をアピールした。このエレベータはニューヨーク水晶宮に設置されていた。",
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"text": "水力式や蒸気機関式は、冬季に水が凍結すると運行に支障が出た。1882年、最初の電動式エレベーターがニューイングランドの綿工場に設置されると、その後1889年ごろより高速運転可能な装置が考案され、電気の供給安定とともにエレベーターの動力源として電動式が主流となった。",
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"text": "電動式エレベーターは制御機構の高度化と建物内の高速な垂直方向の流通アクセス性の向上により、超高層建築物の建設に追い風をもたらした。",
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"text": "1880年代以降はアメリカ合衆国のシカゴとニューヨークで高層ビルの建築競争が始まる。特に1920年代にはニューヨーク市マンハッタン地区ではクライスラー・ビルディングが高層ビルとして初めてエッフェル塔の高さを上回るほどとなり、世界一のビルの高さを競う新築超高層ビルの建設ラッシュが起き、この動きはのちに世界的に広がった。",
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"text": "なお、1890年11月10日に東京・浅草の展望台「凌雲閣」に日本初の電動式エレベータが設置されたことにちなみ、日本エレベータ協会は、11月10日を「エレベータの日」としている。ただし、この国産エレベータは安全性に問題があるという理由で約半年後に当時の警視庁から運転が差し止められた。",
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"text": "日本で現存最古のエレベーターは東華菜館(京都市)に1926年設置された米オーチス社製。これの見学を兼ねて来店する客もいる。蛇腹扉の開閉や昇降運転は手動式で、店員が行う。",
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"text": "人でなく物を運ぶ昇降機で保存されている最古のものは、偕楽園(茨城県水戸市)内にある水戸藩主別邸「好文亭」に1842年設置された。食事を入れた箱を、滑車に回したヒモを引いて1階と2階の間で上げ下げした。",
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"text": "古い物では他に永平寺大庫院の1930年設置などが稼働している。",
"title": "歴史"
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"text": "ここでは昇降路の設備とカゴの設備に分けて記述する。",
"title": "構造"
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"text": "昇降路はシャフトとも呼ばれ、エレベーターが上下するための何らかの構造物で覆われた縦に長い空間のことである。シャフトを構成する材料は鉄筋コンクリート構造や鉄骨構造が多い。 シャフト一体型と呼ばれる、シャフト部材と機器本体を一体で工場にて製作し現場に据付するタイプもある。シャフト一体型は小規模集合住宅に適しており、昇降行程が低く、小容量の後付用以外にはほとんど用いられない。 昇降路の最下階のさらに下部をピット、最上階のさらに上部をオーバーヘッドと呼ぶ。",
"title": "構造"
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"text": "ガイドレールとはエレベーターを導く軌道であり、シャフト内に設置される。材質は鋼でできており、形状は鉄道のレールとよく似ている。それを垂直方向につなげてエレベーターの軌道を構成していく。ガイドレールは、かごの走行を円滑にし、各階に設置されたドアやカウンターウエイトなどの構造物とのクリアランス(すき間)を確保すると同時に、万一かごが落下した際に非常止め装置をガイドレールに噛ませて緊急停止させる目的もある。ガイドレールとかご、カウンターウエイトが接触する部分にはガイドシューと呼ばれる潤滑具やガイドローラーなどを設けて摩擦や振動を低減させている。",
"title": "構造"
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"text": "カウンターウェイトとも呼ばれ、つるべ式エレベーターで用いられるおもりである。全体の形状は扁平で縦に長く、非常に重い鉄の塊である。つるべ式はトラクション式とも呼ばれ、ワイヤーロープの両端にかごとおもりをぶら下げてバランスを取り、ワイヤーロープ折り返し中間地点に設置された電動機(モーター)と、それに連結された滑車(シーブ)に掛かる摩擦力によってかごとウェイトを上昇下降させる方式である。この方式ではロープ両端の重量バランスが良いので、比較的小さい力でロープに吊るされた物体を上昇下降させることができる。かごとカウンターウェイトのバランスが均等にとれている状態では、人の手でエレベーターを動かすこともできるほどにモーターに掛かる負担は小さくなる。カウンターウェイトの総重量は無積載状態のかごの質量にかご積載容量の50 %を付加した重量になるように設計されている。",
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"text": "ワイヤーロープはトラクション式エレベーターなどで用いられる巻上索である。材質は炭素鋼が用いられ、建築基準法によって安全率を10以上確保することが義務付けられている。ロープの構造は、まずストランドと呼ばれる細い鋼線をより合わせたものがあり、さらにそのストランドを8本ほどより合わせてできている。柔軟性を保つために、ロープの中心部にはマニラアサやサイザルアサなどの硬質繊維芯が入っている。太さは直径10 mm・12 mm・16 mmなどがあり、かご積載量に応じて使用する本数が増えたり、より太いものが使われる。トラクション式ではロープの両端にかごとカウンターウェイトが吊るされていて、それらの連結部にはソケットと呼ばれる器具にバビットメタルを注入するという末端処理が施されていて、連結強度を確保している。",
"title": "構造"
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"text": "高層ビルのエレベーターでは使用するワイヤーの質量が多く、そのままの状態では最上下階近辺ではかご側とカウンターウェイト側の重量がワイヤーロープの自重によってアンバランスになり、巻上機のシーブから滑り落ちてしまう恐れがある。そのアンバランスを解消するために、かご底部とカウンターウェイト底部との間には、コンペンセーティングロープあるいはコンペンセーティンチェーンと呼ばれる、重量バランス調整用のワイヤーロープやチェーンが渡されている。",
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"text": "映画等に登場する、エレベーターのワイヤーが切れて高速で落下するシーンには誤りが多い。エレベーターのかごを吊り下げるワイヤーの強度は定員の約10倍の重さに耐えられる強度を有することが義務づけられており、ワイヤーの使用本数も3本以上いるため、その全てが切断すること自体が極めてまれである。万一、切断してかごが落下に転じても、調速機ロープが同時に切断されない限りは、定格速度の1.4倍で非常止め装置が作動して急停止する。つまり、映画『マトリックス』のワンシーンのように爆破されたり、主ロープと調速機ロープが同時に破断されない限り、落下事故は起き得ない。",
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"text": "なお、2011年7月26日には東京メトロ有楽町線・副都心線平和台駅でエレベーターのワイヤー3本が全て切れて非常止め装置が作動するまで数m落下する事故があり、乗っていた50歳代の女性が尻や肘に2週間の打撲傷を負うという事故が発生している。1945年7月28日、エンパイア・ステート・ビルディングに航空機が激突したことによってエレベーターのかごが非常止め装置も効かないままエレベーターシャフトの底まで300メートル以上落下する事故が起こったことがあるが、乗っていた従業員は奇跡的に生存していた。",
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"text": "以前は「非常止め装置が調速機ロープを切断されるなどして作動しなくても、エレベーターはエレベーターシャフト周壁との間隙が小さいことにより、かごにかかる空気抵抗が大きいため、ある程度の減速効果を有する」と言われていたが、東芝エレベーターテスト塔での落下事故で、減速効果はほとんどないと証明された。このような効果を得るには、シャフト内の空気量が不変でなければならない。",
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"text": "非常止め装置はかご枠の下部にあって調速機の動作に応じて制動子がかごの降下を止める装置である。",
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"text": "緩衝器は昇降路最下部にあってかごや釣り合いおもりが昇降路の底部にまで進行してしまった場合に衝撃を和らげる装置である。サスペンションともいう。ばねや油圧ダンパー等が付いており、非常止め装置を使用しても減速しきれない場合の衝撃をやわらげる仕組みになっている。エレベーターの速度が分速60 m以下か油圧式エレベーターのものはばね緩衝器、分速60 m以上のものは油圧ダンパーを使用している。",
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"text": "人が乗るための箱状の構造物を、エレベーターではカゴ(籠)と呼ぶ。これに人または荷物を乗せ上下させる。",
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"text": "天井には照明が装備され明るさが確保されるほか、換気扇、扇風機が装備され通気性が確保されている。エアコンが付いているものもある。",
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"paragraph_id": 32,
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"text": "ドアには各階の乗場側の乗場戸とかご側のかご戸がある。古いものでは手動式もあり、国によってはかご戸のないものも少なくない。 防犯のために窓が設置されていることがある。",
"title": "構造"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "縦開き式など特殊なエレベーターを除き、かご側のドアだけに駆動装置がある。停止階に到着したエレベーターは、かごドア側の解錠装置と乗場ドアのインターロックがかみ合い、乗場のドアはかごドアの力によりインターロックによる施錠が解放され、開閉する。",
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"text": "外観としては横方向に動くサイドスライドドアが主流となっている。サイドスライドドアにはサイドオープン式(片開き)とセンターオープン式(真中開き)がある。特大貨物用では上下方向に動くドアが採用されている場合があるが、このドアは乗降中に戸が頭部に衝突したり戸が下方から出てきて危険であるので、荷物用・自動車用以外には使用できない。",
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"text": "操作盤はエレベーターの操作に使われる。一般的に階数ボタンと戸扱いボタンがあり、乗客は行先指定や扉の開閉を行う。操作盤の上部にはインジケーターがあることがほとんどである。",
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"text": "ほとんどの機種では非常連絡装置が取り付けられている。地震や火災・故障により閉じ込められた時などに使用し、メンテナンス会社や建物の管理人と連絡をとることができる。 メンテナンス会社と契約を結んでいない場合には、建物の基準階で警報音が鳴るだけである。",
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"text": "障害などで通常の操作盤を扱うことが難しい人のために、低い位置に操作盤が設置されていることもある。これらは一般的に車椅子操作盤と呼ばれ、扱われた際に扉の開放時間が長くなる・扉の開閉速度が遅くなるように設定されている。",
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"text": "かごがどの階にあるか、またかごが上下どちらに動いているかを表示する装置。 インジケーターは基本カゴ内と各階の乗り場に設置される。ただし、近年設置されたエレベーターの場合は、複数台のエレベーターを一括管理する群管理システムを採用し、全ての階での待ち時間が最短となるように最適な運用をするため、人が待っている階を通過する・その階の手前で折り返すなどのことがあり、そのことを利用者に知られないようにするため、乗り場のインジケーターを備えず、到着を予告するホールランタンのみを備える場合が多い。",
"title": "構造"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "インジケーターの表示方式は、次のように分類できる。",
"title": "構造"
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"text": "かごドアの端部には挟まれによる事故を防ぐため、セーフティシューと呼ばれる大きな棒状の安全スイッチが取り付けられている。物理的に押されることによって反応する。",
"title": "構造"
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"text": "近年のエレベーターでは、赤外線センサーなどを設置しているものがある。センサーが遮られることでドアへの接触の前に反転する。これにより台車や扉を破損する可能性が大幅に低下した。 多数のセンサーを異なる方向に設置してさらに検出精度を向上させたものは、マルチビームドアセンサーと呼ばれることが多い。",
"title": "構造"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "これらの安全装置が非搭載であるまたは故障しており、危険に人や物を挟み込んでしまうおそれのあるものは、俗にギロチンドアと呼ばれる。",
"title": "構造"
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "近年のエレベーターではカゴ側のドアの内側にもセンサーが設置されている。このセンサーは戸開時に照査し、検知するとドアの開閉を一時停止または減速させ、「ドアから離れてください」というアナウンスをする。",
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"title": "構造"
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"text": "一部のエレベーターは避難用の救出口をもっている。これは中から脱出するためではないので、外から施錠されていることが多い。 郡管理されているエレベーターで1つだけ故障した場合などに、隣のカゴを動かして救出にあたる際に使われる。",
"title": "構造"
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"text": "エレベータの防犯装置として、防犯カメラ、警報装置、各階強制停止装置、利用者・利用階検知システムなどがある。",
"title": "構造"
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{
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"text": "防犯のため、エレベーターのかご内の状況が外部から見えるよう、ドアや壁に窓(通称 : 防犯窓)を装着し、あるいはかご内に監視カメラが設置され、内部の映像を乗り場のところに設置したモニターに映し出しているエレベーターもある。この形式のエレベーターの場合、外部からかご内の様子が見えることで犯罪やいたずらを未然に防ぎ、安心してエレベーターを利用できるといった長所がある。",
"title": "構造"
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"text": "窓付きドアのエレベーターは、主にマンション・団地などの集合住宅、鉄道駅、一部の商業施設などで見かける。防犯カメラのついたものは、集合住宅や一部のオフィスビルで見受けられる。",
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"paragraph_id": 49,
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"text": "また、深夜になると各階へ昇降する際、途中階全てに停止するエレベーターもある。たとえば1階から5階へ向かう際、2階・3階・4階で停止しドアを開ける手順を経過することになるので防犯の効果は高くなる。その反面、昇降に時間がかかり効率を悪化させるという欠点がある。",
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"text": "本項目では、バリアフリー構造について紹介する。",
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"paragraph_id": 51,
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"text": "かごの奥側の側面には鏡が設置されていることがある。これはエレベーター利用者が車いすを使用している場合、前を向いたまま室内に入ることになるため、狭い室内では車いすに乗りながら転回することができないことを考え、後ろ向きのままエレベータから降りられるように考慮して設置されているものである。",
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},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "車椅子などで乗り込んだ際、降りるときも前進で降りられるように出入り口をかごの前後に配置した形式がある。これを「ウォークスルー式」または貫通2方向型という。貫通2方向型の機種は、大規模病院や事業所などでストレッチャーや貨物搬送の都合から採用することがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "建物の構造上、貫通2方向型が設置できない場合などのために、前面と側面の2方向にドアが配置された直角2方向型の機種もある。駅舎やペデストリアンデッキのエレベーターに多い。乗客には降り口が判別し難い場合があるので、目的階に到着すると「後ろのドアが開きます」や「こちらのドアが開きます」などの音声によって降り口が案内される。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "他には手摺を付けて車椅子で移動しやすくしている場合がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "昭和40年代頃までは半導体技術が現在のように発展していなかったために、エレベーターの制御回路にはリレー式シーケンス制御が採用されていた。今では到底考えられないが、速度制御、ドア開閉制御、呼び出し制御、混雑回避制御などありとあらゆる制御回路が数百個から数千個にも及ぶ大量のリレー群とタイマーリレー、その他機械式接点によって構成されていた。リレー式回路は主に手作業で制御回路を構築するので、回路設計、回路変更に多大な費用と労力が掛かるものが多かった。さらに接点の接触不良や焼き付きなどの動作不良も多く、メンテナンスマンを大いに悩ませたが、交換パーツの調達性は今日でも良好である。",
"title": "制御方式"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "昭和50年代に入ると半導体産業やコンピューターテクノロジーが隆盛し、エレベーターの制御回路にもマイコン方式が取り入れられた。これによって機器設置、回路設計の負担が減り、高品質で多彩な運転制御が可能になった。特にモーター制御では加減速制御の品質が一段と飛躍した。巻上げ電動機には1980年代前半まで、高速のものには直流電動機が、低速のものには誘導電動機が用いられ、速度制御方式はそれぞれワードレオナード方式と極数切替法、次いでパワーエレクトロニクスの発展によりサイリスタなどによる電動機入力電圧制御に移り変わった。1983年に交流電力のVVVFインバータ制御がエレベータ向けにも実用化された。それ以降、高速低速ともにインバータによる誘導電動機駆動を経て、現在では永久磁石同期電動機駆動の巻上機が主流となった。",
"title": "制御方式"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "一方、油圧式エレベーターでは流量制御バルブによる制御が用いられ、油温や積載荷重により走行性能の変動を受けやすかったが、1980年代後半以降はマイコン制御化やバルブの改良により解消された。また、1990年代に入ると規格型エレベーターを中心にVVVFインバータ制御方式が広く普及し、乗り心地向上や省エネ、走行時間短縮を実現している。",
"title": "制御方式"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "これらの技術革新によって、現在では各階への停止位置をミリ単位で微調整することが可能とされている。",
"title": "制御方式"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "なお、半導体制御化が進んでいるが、重要な箇所にはリレーが残っている。リレーは信号側と動作側が電気的に絶縁されているので大電流に強いこと、電磁波ノイズに強いこと、昔に比べ動作の信頼性が高くなっていることもあいまって、現在でも主回路、ドア制御回路などの重要な箇所にリレーを部分的に使用しているメーカーは多い。",
"title": "制御方式"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1つの建物で複数のエレベーターが並んでいる場合、それらを同じように各階に止めていくのは効率が悪い。特に、デパートなど、特定のフロアなどに客が集中する場合には、その階へ優先的に輸送することが望ましい。そのため、エレベーターの制御の単独化や、特定階の不停止制御(フロアカットもしくはサービスカット)を行い、一部の階だけに停止させる急行運転(あるいは直通運転)を行なうこともしばしば見受けられる。また、事務所ビルでは、最終退館者が防犯機器を操作した時点でその階を通過し、最初の出勤者が入館手続きを取ると停止するというシステムを採用するケースもある。屋上階には停止しないというシステムも、防犯上の事情から実行されている。",
"title": "制御方式"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "エレベーターに乗ると、身体が床に押し付けられたり上に引っ張られたりするような感覚がある。これはエレベーターの速度の変化によって生ずる加速度が搭乗者に働くからである。速さが激しく変わるようなエレベーターは搭乗者にとって不快である。また、かごをガイドするガイドレールの取り付け方によっては横方向の揺れが発生し、乗り心地は大きく変化する。超高層ビルで運用されるエレベーター(最下階から最上階まで直通するような速度の速いエレベーター)ではレールの歪みやレール取り付け方法、加速度のコントロールに細心の注意が払われている。横浜ランドマークタワーのエレベーターは床面に立てた硬貨が倒れないほどに乗り心地がよいといわれる。これは、加速制御の巧みさだけでなく、ガイドレールの配置や歪みにまで丹念に作りこまれているからである。",
"title": "制御方式"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "一部の鉄道駅などには「構内外共用型」というエレベーターが存在する。これは、1台のエレベーターで「駅外と改札外コンコース」「改札内とプラットホーム」の移動のみを可能とするものである。乗った場所により降りられる場所が決められており、「駅外とホームや改札内」や「改札外とホーム」などの直接移動はできない。通常、「改札内」と「改札外」は同一平面となるため、かごの扉は2つある場合が多い。本来2台以上が必要なものが1台ですむため、設置やメンテナンスのコストが大幅に節減できる反面、利用者はかご呼び出しから乗れるまでの時間がかかる場合がある。そのため、エレベーターの利用が少ない、小規模な駅に設置される場合が多い。交通バリアフリー法の施行を機に敷地の問題やエレベーターシャフトの設置スペースに制約のある駅の改修工事において採用されるケースも出てきた。",
"title": "制御方式"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "鍵や暗証番号を入力しないと呼出しボタンや行き先ボタンが機能しないエレベーター。認知症の入居者が不用意に外出してしまうのを防ぐため、特別養護階のある老人ホームに設置されているほか、建物所有者の自宅階や店舗・病院の従業員などといった、特定の人物以外の利用を制限したい場合にも用いられる。逆のパターンとして、かご内の操作盤でカードキーや特定のコマンドを入力することによって着床を行う階が設定できるエレベーターもあり、特定階への部外者の立入を制限したい場合に設定される。企業の本社ビルで特定階が丸ごと役員室になっている場合が該当する。類例としてビジネスホテルにて上下ともフロント階に必ず停止させ扉越しに乗客を確認するなど、外来者も使用するエレベーターでは停止階制御の機能が持たされることがある。",
"title": "制御方式"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "監視カメラで常に人の動きを感知し、激しい動きがあると注意を促すアナウンスが流れるもの。エレベーター内で争い等が起きたときや、防犯に有効である。",
"title": "制御方式"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "エレベーターの速度は一般的に45m/min~105m/min。上り世界最速のエレベーターは中国・広州市の「広州周大福金融中心」にある75.6km/h(1,260m/min)のエレベーターで、下り世界最速のエレベーターは横浜ランドマークタワーにある45km/h(750m/min)のエレベーターである。",
"title": "速度"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "日本では建築基準法の規定により、一人を65kgと見積もって定員を計算する。かごの大きさは小型で1m四方ほど、大型では2m以上のものもある。日本でトップクラスの乗用大型エレベーターは、1970年日本万国博覧会(大阪万博)の日立グループ館に設置された、130人・8,350kgの内径6mのカゴが二台連結された、日立製の二階建て油圧エレベーター(現存しない)である。",
"title": "定員・容量"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "エレベーターを開発する際には、テストする際に実際のビルと同じ高さの建設物が必要となる。そのため、各社ではテスト塔とよばれる高い建設物を作り、製品の安全性、機能性などをテストしている。",
"title": "機器の設置・運用・管理"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "オフィスビル等の高層建築物には、エレベーターが必須である。日本などでは高齢化などのためバリアフリーの重要性も高い。また、近年経済発展のめざましい中華人民共和国は、ビルなどの建設ラッシュであるため、エレベーターを製造するメーカーの競争は激しい。各メーカーでは差別化を図る意味で、さまざまな機能などが付けられたエレベーターが製造され存在する。また建築物以外にも、船舶艦艇(揚弾機含む)・陸上車両内外(リフター付はしご自動車・パワーゲート・バス内他)・大形航空機内等にも設置されたエレベーターが存在する。",
"title": "機器の設置・運用・管理"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "基本的に火災時の避難には使用しないことと表示されている。しかし、マンションの高層化に伴い東京消防庁は停電対策の予備電源や防災センターとの通信設備などの厳格な要件を課した上で条件を満たす場合には火災時の避難にエレベーターを使うよう指導することとなった。",
"title": "機器の設置・運用・管理"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "機器の設置・運用・管理"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "アメリカ西海岸の地域は地震多発地域でありカリフォルニア州法はエレベーターに関する耐震規定が設けられている。",
"title": "機器の設置・運用・管理"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "エレベーター内は構造上密室になりがちであるため、痴漢などの犯罪が発生する可能性が少なくない。そのため、エレベーターには管理会社へ通報できる装置が備えられている。",
"title": "機器の設置・運用・管理"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "乗客の自主的な防犯対策として、以下のものがある。",
"title": "機器の設置・運用・管理"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "エレベーターは可動や経年変化によって消耗する部品があり、定期的なメンテナンスを必要とする。メンテナンスを行わないエレベーターは重大な事故を招きかねない。",
"title": "機器の設置・運用・管理"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "エレベーターの寿命は機器全体として考えた場合は長く、25年前後使用されることが多い。法定償却耐用年数は17年と定められている。ただし、電子部品やワイヤー、軸受などはほぼ10年など、個々の部品の寿命は一般的な物理的寿命と大差ない。寿命を迎えた場合には、一式取り替える撤去新設工事だけでなく、リニューアル・延命工事も広く施工され、巻上機やかご・レールはそのまま使用するが、電動機や制御機器を最新型のものに取り替えて最新型と同等の性能を発揮できるようにする。特に1980年代以前に製造されたエレベーターは遅くとも2012年までに部品供給の停止が予告されているので、リニューアルは必須となる。",
"title": "機器の設置・運用・管理"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "日本においては建築物に設置されるものは建築基準法の適用を受ける。また、労働基準法指定事業所に設置されるものには労働安全衛生法の適用を受ける。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "日本で昇降機(エレベーター、エスカレーター、小荷物専用昇降機等)を建築物に設置する場合は、建築基準法の規定に基づく確認・完了検査を受けなければならない。しかし、建築基準法で定める昇降機であるにもかかわらず、建築基準法の規定に基づく確認・完了検査を受けずに設置されている昇降機を違法設置エレベーターという。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "建築基準法や各種法令では、5階建以下の建築物(集合住宅、雑居ビルなど)ではエレベーターの設置が義務づけられていないが、6階建以上の建築物を建てる時は、(屋上を除く)全ての階に停止するエレベーターの設置が必須となり、設置していない建物には建築許可が出ないが、昭和50年代以前に建築された古い集合住宅だと、一部の階にしか停止しない(全ての階に停止しない)「スキップフロア型」を採用しているのもある。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "特に工場や作業場等に多数設置されている、労働安全衛生法で規定される荷物用エレベーターや簡易リフトは、労働安全衛生法と共に一般のエレベーターと同様に建築基準法の規定も適用される。特に労働安全衛生法で規定されている簡易リフトは、かごの床面積により建築基準法で小荷物専用昇降機に規定されるものを除き、その多くは建築基準法に規定されるエレベーターの基準が適用されるが、その基準を満たしていないものが数多く設置されている。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "さらに、昇降路の壁が設定されていないなど建築基準法はもちろん、労働安全衛生法の簡易リフトの規定すら満たしていない非常に危険な違法設置エレベーターも数多く設置されており、毎年全国の工場等で多数の死傷事故が発生している。こうしたことから、全国の特定行政庁及び労働基準監督署は、違法設置エレベーターに関する周知活動等を行っている。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "斜行エレベーター・水平エレベーターと、鉄道(ケーブルカー含)・鉄道型遊戯施設の基本構造上の区別は曖昧であり、管轄法規が峻別している。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "エレベーターとは、建築基準法第34条で規定される「昇降機」の一種別である。なお、この「昇降機」は建築基準法施行令第129条の3の規定により、大きく「エレベーター」、「エスカレーター」、「小荷物専用昇降機」の3種類に分けられている。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "建築基準法で規定される「エレベーター」には以下の用途種別が定められている。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "建築基準法に規定されるエレベーターは、前記に規定されるもの以外に以下のものが規定されている。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "建築基準法(第34条2項)により、地上からの高さが31 m以上あるか、または45 mあるかまたは、地上11階以上(一部のマンションでは16階以上)の建築物には、一般用のエレベーターのほかに、非常用エレベーターの設置が義務付けられる。これは災害発生時に高層建築では消防隊が階段を上がって救出に向かうことが困難であるためであり、専用運転に切り替えられる装備をもつ。また地上から10階以下では設置は義務付けされないが設置されているケースもある。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "非常用エレベーターは、火災等で商用電源が遮断されても運転できるよう非常電源(ディーゼル発電機など)から電気が受けられ、電線も普通の火災で焼けないよう耐火電線を用いて配線する。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "かつては機械室がないタイプは一切認められていなかったが、2015年の国土交通省告示の改正により、駆動装置・制御盤等を、最上階フロア床面より上方に設置した機械室無しタイプは非常用エレベーターとして適用することが認められた。この告示はその後2017年に再び改正され、IPX2以上の防水措置を講じることで、最上階の床面よりも下方に制御盤や駆動装置を設置することができるようになった。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "またかつては他の一般用エレベーターよりも速度が遅い仕様が多かったので(現在は最上階まで1分以内に到達できることが条件で、60 m/minが下限)、乗用として使用されることはほとんどなく、通常時は荷物輸送やビルメンテナンス要員・警備員の移動に用いられてきた。そのため用途種別はほとんどの場合「人荷用」となっており、最近の一部を除き一般客の目に触れないように設置されることが多い。一部の建物では、一般客が利用するエレベーターと非常用エレベーターを兼用している建物もある。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "なお、非常用エレベーターは設置されている建物の全ての階に停止でき、かつ全階のエレベーターホールにはかご位置を知らせるインジケーターを設置しなければならず、エレベーターホールも防火戸等により煙や炎を完全に遮断することができる構造が必要になる。乗場には非常用エレベーターを示す、赤文字で「非常用エレベータ」、その下に最大定員と積載荷重を記載したプレートを掲示しなければならない。定員は最低で17名(積載荷重1,150 kg)と定められている。消防隊専用の装備として、主に1階か避難階に設置され、押すと他のかご内および、乗場の呼びを全て解除し呼び戻しボタンのある階へ直行する「かご呼び戻しボタン」、建物管理者や警備員から鍵を借りて操作すると消防隊専用に切り替わる「一次消防・二次消防切り替えスイッチ」がある。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "一次消防運転では乗場呼びが無効になり、一種の専用運転となる。二次消防運転では乗場の戸閉検出装置が無効となり、かごまたは乗場の扉が閉まらない状態でも走行可能になるが、速度は最高でも90 m/minに制限される。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "2022年現在、日本国内での総据付台数ベースでのシェアは以下のとおり。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "以上の5社でシェア約9割を占め、以降をシンドラーエレベータ、中央エレベータ工業等がその他を占める。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "以前、フジテックは2007年の時点では大手5社の中で最下位であったが、近年エクシオール(同社製現行主力製品。エアコンを標準で搭載している。)を大規模に展開するなど日本全国でシェアを急拡大し、国内4位に躍り出た。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "小荷物専用昇降機は上記の5社も生産しているが、これに限ればクマリフトがシェア1位となっている。なお、三菱電機の小荷物専用昇降機は子会社の菱電エレベータ施設(自社ではRYODENブランドの「リョーデンリフト」として販売。日本オーチス・エレベータにも供給)のOEMである。フジテックは精電社のOEMで小荷物専用昇降機のみの設置は認めていない(同社製エレベーター・エスカレーターと同時設置でなければ販売しない)。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "メーカーの選定に際しては、建物所有者の資本系列や融資元金融機関の系列が絡むことが多い。例えば、丸の内ビルディングや横浜ランドマークタワーなど三菱地所が所有する建物では、必然的に三菱製が採用されることになる(ただし、横浜ランドマークタワーのプラザ棟のように、メーカー名が伏せられているがパネル形状から明らかに日立製とわかるなど例外がある)他、三井不動産系のビル、ららぽーと等ではフジテック製エレベーターが多く採用されている。また、ラゾーナ川崎のように、東芝の土地に出来た建物も東芝エレベータが使われている。さらに特殊な事例として、茨城県内では日立製作所が創業した日立市があることから比較的県内(茨城県庁、日立市庁舎、コートホテル水戸、クラウンホテル勝田2号店等)では日立製のエレベーターが採用されることが多くなっている。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "逆に大手スーパーマーケットチェーン、一般工場、財閥系を除く不動産業者による賃貸マンションや分譲マンションなどは建物によってさまざまであり、これは設計事務所が設備設計を行う際に、参考としてメーカーが設計図面上で選定されていることが多いものの、エレベーターの確認申請は建築設計図面とは別に提出され、メーカーを変更しても特に問題はないためであり、施工段階で、元請業者による見積もりが取られた際に、元請業者によって安価なメーカーが選ばれる事が多いためである。一部マンションなどでは、保守点検の効率化・コスト削減などの観点からデベロッパーの管理会社によってメーカーが指定されることもしばしばだ。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "メーカーの業種は大抵「機械」だが、三菱電機ビルソリューションズと日立ビルシステムだけは「建設業」となっている。この2社はそもそも建築物管理業であることに因む。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "メンテナンスはメーカー自身、もしくは系列のメンテナンス会社が行うケースがほとんどである。一方、メーカー系列に属さない独立系メンテナンス会社もある。比較的割高なメーカー系のメンテナンスに対して、近年は安価な料金を掲げる独立系メンテナンス会社への切り替えも見られる。1980年代に独立系メンテナンス会社に対するメーカーの部品売り渋りが問題となり、独立系メンテナンス会社がメーカーを相手取って裁判を起こし、10年がかりで勝訴した。しかし、メーカーと独立系メンテナンス会社との関係が険悪なのは現在も変わらず、2009年に国土交通省が行った実態調査でこれが浮き彫りになった。独立系メンテナンス会社は業界団体の日本エレベーター協会からも事実上排除されており、加盟している会社はほとんどない。東芝エレベータは独立系メンテナンス会社に対する部品供給について価格・納期などで厳しい条件になると公言していた(現在は独立系に言及した記述は削除されている)。また、商品の性質上個人顧客がメインの三菱日立ホームエレベーターやパナソニック ホームエレベーターでは、独立系メンテナンス会社にメンテナンスを依頼しないように案内している。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "また、フジテックは基本的に自社メンテナンスを推奨しており、独立系メンテナンスになる場合には新設設置は基本的に行わない。ただし、既存のフジテック製エレベーターを独立系メンテナンスに変更することは可能である。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "その一方で、後述の通り東芝エレベータが独立系のエス・イー・シーエレベーターと業務提携するなど、従来の保守で収益をあげるビジネスモデルに陰りも出てきており、メーカーと独立系の関係にも変化が見られるようになった。",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "日本におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "北米や欧州の国々では日本とは異なり法令で直接構造基準等を設けているわけではない。",
"title": "海外におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパではEU圏内の市場に出回る製品等の均一な安全性を確保するため製品ごとに指令が出されており、昇降機にもlift Directiveという指令があり、これに基づいて欧州統一規格ENが定められている。",
"title": "海外におけるエレベーター"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "アメリカではASMEA17.1、カナダでもB44という基準が指定されているが、規格は各州の州法で定められており、どの年度版を基準にしているかは各州により異なる。",
"title": "海外におけるエレベーター"
}
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エレベーターは、人や荷物を載せて垂直または斜め・水平に移動させる装置。日本語では昇降機(しょうこうき)ともいう。
人が乗れない小荷物専用のものは建築基準法では小荷物専用昇降機と記されている。近年まではダムウェーター(Dumbwaiter)と記載されていたが、dumb waiterが差別用語とされたため読み替えられることが増えた。なお小荷物専用昇降機最大手のクマリフトは2023年4月時点でもダムウェーターと呼んでいる。 一般的に多数のフロアを有するオフィスビルやホテル・デパートに設置されるほか、福祉施設など階段での移動が困難な人の利用が想定される施設にも設置されることがある。歩行が不自由な人がいる一戸建て住宅にも小型のホームエレベーターを取り付けることがある。 この機器の日本語での名称 (カタカナ表記)は、「エレベーター」と表記されたり「エレベータ」と表記されたり、表記が一貫していない。しかし、JISでは用語や記述記号についての定めに基づき、「エレベータ」と表記する。 一般には、外来語で英語の語尾が「-er」「-or」「-ar」の場合、長音符号で表記するので、「エレベーター」となる。しかし、JISでは、学術用語や別の規格がある場合以外は、その言葉が3音節以上であれば、長音符号を省くのが原則となっている。したがってJISでは「エレベータ」と表記する。これらは、どちらが正しくてどちらが誤りというわけではない。製造メーカーは、JISに従い「エレベータ」と表記することが多い。放送や新聞などの報道では「エレベーター」と表記される。 なお、業界団体名は「社団法人日本エレベータ協会」から、2012年に一般社団法人に移行したのを機に「一般社団法人 日本エレベーター協会」と改称、公式サイト内では社名などの固有名詞を除き「エレベーター」と表記している。東芝エレベータおよび日本オーチス・エレベータは社名を改称していないが、サイト内では「エレベーター」と表記している。
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{{複数の問題|出典の明記 = 2021年9月|独自研究=2021年12月|雑多=2021年12月}}
{{画像改訂依頼|定員積載の記載例|昨今の機種のもの|date=2023年4月}}
{{画像改訂依頼|ドアの注意書き|日本エレベーター協会に準じたもの|date=2023年4月}}
{{Otheruses|昇降機|その他}}
<!--
記事の最上部にこの画像を入れる必要はあるのか?とりあえずコメントにする
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
|枠幅= 200px
| 1=Elevator-Hall.jpg
| 2=エレベーターロビー(展望エレベーター)<br />([[名古屋港]]ポートビル)
| 3=Elevator-Appearance.jpg
| 4=クリスタルエレベーター<br />(名古屋港ポートビル)
| 5=Kurayoshi Park Square05n4592.jpg
| 6=シースルーエレベーター<br />([[倉吉パークスクエア]])
}}
-->
'''エレベーター'''({{lang-en-us|Elevator}} / {{lang-en-gb|Lift}})は、[[人]]や荷物を載せて[[垂直]]または斜め・水平に移動させる装置。日本語では'''昇降機'''(しょうこうき)ともいう。
人が乗れない小荷物専用のものは[[建築基準法]]では'''小荷物専用昇降機'''と記されている。近年まではダムウェーター([[:en:Dumbwaiter (elevator)|Dumbwaiter]])と記載されていたが、dumb waiter(直訳:物の言えない給仕人)が差別用語とされたため読み替えられることが増えた<ref>http://shintoh-ev.co.jp/tips/index.html<br />神東エレベータ株式会社 -豆知識-</ref>。なお小荷物専用昇降機最大手の[[クマリフト]]は2023年4月時点でもダムウェーターと呼んでいる。
一般的に多数のフロアを有するオフィスビルやホテル・デパートに設置されるほか、福祉施設など階段での移動が困難な人の利用が想定される施設にも設置されることがある。歩行が不自由な人がいる一戸建て住宅にも小型のホームエレベーターを取り付けることがある。
この機器の日本語での名称 ([[カタカナ]]表記)は、「エレベーター」と表記されたり「エレベータ」と表記されたり、表記が一貫していない。しかし、[[日本産業規格|JIS]]では用語や記述記号についての定めに基づき<ref>[[日本産業規格(その他)の一覧#JIS Z 8000〜8999|JIS Z 8301]] 「規格票の様式及び作成方法」附属書G(規定)文章の書き方、用字、用語、記述符号及び数字 6.2 c および表G.3</ref>、「エレベータ」と表記する<ref>これはJIS独自のものではなく、[[国語審議会]]が審議して[[内閣]]が定めた内閣[[告示]]に基づいている。[[外来語の表記]]は『内閣告示第二号』([[1991年|平成3年]][[6月28日]])によって定められており、その「用例集」には、「エレベーター/エレベータ」の両方が記載されている。[[日本産業規格(電気・電子)の一覧 (C 3000-3999)|JIS C 3408]]「エレベータ用ケーブル」などのJIS規格では、「エレベータ」を採用している。</ref>。
一般には、外来語で英語の語尾が「-er」「-or」「-ar」の場合、長音符号で表記するので、「エレベーター」となる。しかし、JISでは、学術用語や別の規格がある場合以外は、その言葉が3音節以上であれば、[[長音符|長音符号]]を省くのが原則となっている。したがってJISでは「エレベータ」と表記する。これらは、どちらが正しくてどちらが誤りというわけではない。製造メーカーは、JISに従い「エレベータ」と表記することが多い。放送や新聞などの報道では「エレベーター」と表記される。
なお、業界団体名は「社団法人日本エレベータ協会」から、2012年に一般社団法人に移行したのを機に「一般社団法人 日本エレベーター協会」と改称、公式サイト内では社名などの固有名詞を除き「エレベーター」と表記している。[[東芝エレベータ]]および[[日本オーチス・エレベータ]]は社名を改称していないが、サイト内では「エレベーター」と表記している。
== 歴史 ==
エレベーターは既に[[紀元前]]から存在し、[[古代ギリシア]]の[[アルキメデス]]が[[ロープ]]と[[滑車]]で操作するものを開発していた。[[ローマ時代]]に入ると、ローマ皇帝[[ネロ]]は、[[宮殿]]内に設置した[[人力]]エレベーターを使用していたほか、[[コロッセオ]]には[[剣闘士]]と戦う[[猛獣]]を[[闘牛場|闘技場]]のあるフロアまで運ぶ人力エレベーターが用意されていた<ref name=telegraph11655510>[https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/italy/11655510/Colosseum-killing-machine-reconstructed-after-more-than-1500-years.html Colosseum killing machine reconstructed after more than 1,500 years] - [[デイリー・テレグラフ]]</ref>。
[[中世]][[ヨーロッパ]]でも、滑車を用いた[[クレーン#中世|巻上機]]があり、一部で利用されていた。[[17世紀]]に入ると、釣り合いおもり([[カウンターウェイト]])を用いたものが[[発明]]された。
今日でもこれ等に連なる[[舞台]]用の人力[[迫]]は現役で使われているが、電動が主流になっている。
[[19世紀]]初頭には、[[水圧]]を利用したエレベーターがヨーロッパに登場し、[[工場]]などで実際に使用された。また[[1835年]]に[[蒸気機関]]を[[動力]]として利用したものが現れた。動力式エレベータは最初に[[イングランド]]で導入され、[[1840年代]]にはアメリカの工場やホテルでも導入が広がった<ref name="LandauConditP35">{{harvnb|Landau|Condit|1996|p=35}}; {{harvnb|Abramson|2001|p=84}}</ref>。ただし、水力や蒸気機関を用いたエレベーターは、非常に速度が低く、[[安全性]]にも問題があった。
これに解決の糸口を与えたのは、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[エリシャ・オーチス]] (Elisha Graves Otis、1811-1861) である。彼は、[[1853年]]の[[ニューヨーク万国博覧会 (1853年)|ニューヨーク万国博覧会]]にて、逆転止め歯形による落下防止装置([[調速機]]、ガバナーマシン)を取り付けた[[蒸気]]エレベーターを発表した。エレベーターという名称もこのときオーチスによって命名された<ref name="cycusa_95">平凡社『アメリカを知る辞典』エレベーターp.95</ref>。オーチスは、来場客の面前で、吊り上げたエレベーターの綱を切ってみせ、その安全性をアピールした。このエレベータは[[ニューヨーク水晶宮]]に設置されていた<ref name="TheElevatorMuseumTimeline">"Skyscrapers," ''Magical Hystory Tour: The Origins of the Commonplace & Curious in America'' (September 1, 2010).</ref>。
水力式や蒸気機関式は、冬季に水が凍結すると運行に支障が出た。[[1882年]]、最初の[[電動機|電動]]式エレベーターが[[ニューイングランド]]の綿工場に設置されると<ref name="cycusa_95"/>、その後[[1889年]]ごろより高速運転可能な装置が考案され、[[電気]]の供給安定とともにエレベーターの動力源として電動式が主流となった。
電動式エレベーターは制御機構の高度化と[[建物]]内の高速な垂直方向の流通アクセス性の向上により、[[超高層建築物]]の建設に追い風をもたらした。
[[1880年代]]以降は[[アメリカ合衆国]]の[[シカゴ]]と[[ニューヨーク]]で[[高層ビル]]の建築競争が始まる。特に[[1920年代]]にはニューヨーク市[[マンハッタン]]地区では[[クライスラー・ビルディング]]が高層ビルとして初めて[[エッフェル塔]]の高さを上回るほどとなり、[[世界一の一覧|世界一]]のビルの高さを競う新築[[超高層ビル]]の建設ラッシュが起き、この動きはのちに世界的に広がった。
* [[1857年]][[3月23日]]、オーチスの旅客用エレベータが[[ニューヨーク]]の[[:en:E. V. Haughwout Building|488 ブロードウェイ]]に初めて採用される。これが[[世界初の一覧|世界初]]の[[実用]]エレベーターを設置した事例となる。
* [[1859年]]、[[ニューヨーク]]の[[ブロードウェイ]]に建てられた[[ホテル]]に、オーチスのエレベーターが採用される。それまでホテルの上方階は、荷物の上げ下ろしが大変なので、不人気で[[料金]]も安かった。しかし実用的なエレベーターの登場以降、[[環境]]のよい上方階は[[宿泊]]客の人気を呼ぶようになった。
* [[1861年]]、オーチスは蒸気エレベーターの[[特許]]を取り、[[オーチス・エレベータ・カンパニー]] (Otis Elevator Company) を設立。
* [[1870年]]、[[ニューヨーク]]の[[エクイタブル生命ビル]]が旅客用エレベータを設置した世界初の[[オフィスビル]]として建設される<ref>Equitable Life Assurance Society of the United States (November 1901). “[https://books.google.co.jp/books?id=jmwPAAAAYAAJ&pg=RA1-PA43&redir_esc=y&hl=ja The Elevator Did It]”. The Equitable News: An Agents' Journal (23): 11 2012年1月10日閲覧。.</ref>。
* [[1875年]]、[[日本]]における最初のエレベーターとされる水圧式の荷物用エレベーターが[[王子製紙]]十条工場に設置された。
* [[1880年]]、[[ドイツ国]]([[ドイツ帝国]])の[[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]が世界初の電動式エレベータを開発<ref>[http://inventors.about.com/library/inventors/blelevator.htm The History of the Elevator — Elisha Otis<!-- Bot generated title -->]</ref>。
* [[1887年]]、アメリカの[[:en:Alexander Miles|アレクサンダー・マイルス]]が[[自動ドア]]の付いたエレベータの特許を取得。
* [[1889年]]、[[パリ]]の[[エッフェル塔]]に水圧式エレベーターが設置される。
* 1889年、オーチス・エレベータ社が電動式エレベーターを開発。ニューヨークのビルに世界で初めて採用される。以降、ニューヨークの[[超高層建築物|摩天楼]]化に拍車がかかっていく。
* [[1890年]][[11月10日]]、[[東京都|東京]][[浅草]]の[[凌雲閣]]に、[[藤岡市助]]と[[三宅順祐]]が設計した日本初の乗用エレベーターが設置された。エレベーターは地階に据え付けた7.5[[馬力]]の[[直流電動機]]1基に対し、M字状にロープで連結したかご2機を同時に運転し(交走式)、1階か8階だけに止まる独自の構造をしていた。速度は15 m/min程度の一段速度制御であった。2機のエレベーターは3畳敷の大きさで、かご内には[[布団]]を敷いた[[腰掛け]]が設置されていた。減速装置は[[平歯車]]を何段か組み合わせた歯車減速機で、ベルトが何本か見えることから運転方向の切換えは正逆1組のベルトをベルトシッパーで切換える方式であったと考えられる。なおロープは[[アサ|麻]]ロープが使われていた。構造が不完全で故障が多く、[[警視庁]]から派遣された技術者に「危険なり」との理由で運転停止を言い渡されて、のちに撤去された。また、当時は「エレベートル」と表記されていた。
* [[1896年]]、[[オーチス・エレベータ・カンパニー|オーチス・エレベータ]]社のエレベータが[[日本銀行]]に取付けられた。速度が30 m/minの貨幣運搬用水圧式荷物用エレベーターで、[[米貿]]の日本国への輸入1号機となった。
* [[1901年]]、[[大阪府]]東区の[[日本生命保険]]本店に[[オーチス・エレベータ・カンパニー|オーチス・エレベータ]]社のロープコントロール式の24 m/minのエレベーターが設置された。このエレベーターは1961年まで稼働していたが、法令上の理由で撤去され、その時の機器一式が1966年に[[国立科学博物館]]に寄贈された。[[国立博物館]]では一時館内で公開展示をしていたが、その後展示品は解体され2006年時点では部品状態で[[国立科学博物館]]に保管中である。部品の保管状態は良好で、稼働可能な状態で現存する国内最古のエレベーター機器と考えられる。
* [[1915年]]、日本初の製作が国産化された乗用エレベーターとなった東松式エレベーターと呼ばれる、[[押しボタン]]式全自動エレベーターが大阪府本町の伊藤丸紅呉服店に設置された。製作は機械技術の東松孝時が経営する東松工作所(後の旧日本エレベーター製造)によるものだった。
* [[1919年]]、東松孝時は日本最初のエレベーター製作の法人組織日本エレベーター製造を設立した。(後述)
* [[1927年]]、[[日本オーチス・エレベータ|東洋オーチス・エレベータ]]社(現:日本オーチス・エレベータ)が本格的に開業。
* [[1961年]][[8月]]、210 m/min (=12.6 [[キロメートル毎時|km/h]])のエレベーター([[三菱電機]]製)を有する[[藤田観光#過去に運営していたホテル|京都国際ホテル]]が開業。当時日本最高速。
* [[1968年]][[4月12日]]、300 m/min (=18 km/h) のエレベーター([[日立製作所]]製)を有する[[霞が関ビルディング]]が開業。当時日本最高速。
* [[1974年]][[3月]]、540 m/min (=32.4 km/h) のエレベーター(日立製作所・三菱電機製)を有する[[新宿住友ビルディング]]が開業。当時世界最高速タイ。
* [[1978年]][[4月6日]]、600 m/min (=36 km/h) のエレベーター(三菱電機製)を有する[[サンシャイン60]]が開業。当時世界最高速。
* [[1993年]][[3月]]、[[川崎市]]にある川崎ハローブリッジに日本で初めてとなる[[横断歩道橋|立体横断歩道橋]]に整備されたエレベーターが完成<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26324/1-19.pdf |title=川崎ハローブリッジ |website=かわさき区の宝物シート |publisher=川崎市川崎区 |accessdate=2020-09-02}}</ref>。
* 1993年[[7月16日]]、750 m/min (=45 km/h) のエレベーター(三菱電機製)を有する[[横浜ランドマークタワー]]が開業。当時世界最高速。
* [[2003年]]、[[長崎市道相生町上田町2号線]]に日本で初めて[[公道]]に整備されたエレベーターが完成。
* [[2004年]][[12月31日]]、1,010 m/min(=60.6 km/h)のエレベーター([[東芝エレベータ]]製)を有する[[台北]]国際金融センター(通称[[台北101|TAIPEI101]])が開業。ランドマークタワーの導入機は世界第2位となった。ただし、1,010 m/minの速度が出るのは昇りのみで、降りではランドマークタワーが最速。かご内の[[気圧]]制御などの初の実用例となっている。
* [[2006年]][[1月17日]]、東芝エレベータが[[磁石]]を使って姿勢を安定させるエレベーターを開発した。昇降路に取り付けられたガイドレールとかごが接触しないため[[振動]]や[[騒音]]が抑えられる。
* 2006年[[3月1日]]、日立製作所が2列の昇降路を最上部と底部でつなぎ、複数のかごを循環運転させる[[循環]]型エレベーターの実証[[実験]]に成功したと発表。
* [[2016年]]、1,080 m/min(=64.8 km/h)エレベーター(三菱電機製)を有する[[上海中心]]が一部開業。ランドマークタワーの導入機は世界第3位となった。ただし、1,080 m/minの速度が出るのは昇りのみで、降りではランドマークタワーが最速。
* [[2014年]][[4月21日]]、日立製作所が従来よりモーター出力を向上し、ロープ重量の30 %軽量化による世界最速となる1,200 m/min(=72 km/h)のエレベーターの開発に成功したと発表。2016年に[[中華人民共和国|中国]][[広州]]の高層ビルに設置。
なお、[[1890年]][[11月10日]]に[[東京]]・[[浅草]]の展望台「凌雲閣」に日本初の電動式エレベータが設置されたことにちなみ、[[日本エレベータ協会]]は、11月10日を「エレベータの日」としている<ref>[http://www.n-elekyo.or.jp/encyclopedia/history/elevator.html 社団法人 日本エレベータ協会|昇降機百科|エレベーターの歴史・変遷]。</ref>。ただし、この国産エレベータは安全性に問題があるという理由で約半年後に当時の警視庁から運転が差し止められた{{sfn|三井宣夫・前島正裕|2007|p=23–32}}。
日本で現存最古のエレベーターは[[東華菜館]](京都市)に[[1926年]]設置された米オーチス社製。これの見学を兼ねて来店する客もいる。[[蛇腹]]扉の開閉や昇降運転は手動式で、店員が行う。
人でなく物を運ぶ昇降機で保存されている最古のものは、[[偕楽園]]([[茨城県]][[水戸市]])内にある水戸藩主別邸「好文亭」に[[1842年]]設置された。[[食事]]を入れた箱を、[[滑車]]に回したヒモを引いて1階と2階の間で上げ下げした<ref>【くらし物語】エレベーター 日本の技の今昔/速さだけじゃない 宇宙へも参ります『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年3月17日(NIKKEIプラス1)。</ref>。
古い物では他に[[永平寺]]大庫院の[[1930年]]設置などが稼働している。
== 構造 ==
ここでは昇降路の設備とカゴの設備に分けて記述する。
<!-- 記事の整形と最新機種への置き換えにあたり、画像を一時的に撤去しています -->
=== 昇降路 ===
昇降路はシャフトとも呼ばれ、エレベーターが上下するための何らかの構造物で覆われた縦に長い空間のことである。シャフトを構成する材料は[[鉄筋コンクリート]]構造や[[鉄骨]]構造が多い。
シャフト一体型と呼ばれる、シャフト部材と機器本体を一体で工場にて製作し現場に据付するタイプもある。シャフト一体型は小規模集合住宅に適しており、昇降行程が低く、小容量の後付用以外にはほとんど用いられない。
昇降路の最下階のさらに下部をピット、最上階のさらに上部をオーバーヘッドと呼ぶ。
==== ガイドレール ====
ガイドレールとはエレベーターを導く軌道であり、シャフト内に設置される。材質は鋼でできており、形状は鉄道のレールとよく似ている。それを垂直方向につなげてエレベーターの軌道を構成していく。ガイドレールは、かごの走行を円滑にし、各階に設置されたドアやカウンターウエイトなどの構造物とのクリアランス(すき間)を確保すると同時に、万一かごが落下した際に非常止め装置をガイドレールに噛ませて緊急停止させる目的もある。ガイドレールとかご、カウンターウエイトが接触する部分にはガイドシューと呼ばれる潤滑具やガイドローラーなどを設けて摩擦や振動を低減させている。
==== 釣り合いおもり ====
カウンターウェイトとも呼ばれ、つるべ式エレベーターで用いられるおもりである。全体の形状は扁平で縦に長く、非常に重い鉄の塊である。つるべ式はトラクション式とも呼ばれ、ワイヤーロープの両端にかごとおもりをぶら下げてバランスを取り、ワイヤーロープ折り返し中間地点に設置された[[電動機]](モーター)と、それに連結された[[滑車]](シーブ)に掛かる摩擦力によってかごとウェイトを上昇下降させる方式である。この方式ではロープ両端の重量バランスが良いので、比較的小さい力でロープに吊るされた物体を上昇下降させることができる。かごとカウンターウェイトのバランスが均等にとれている状態では、人の手でエレベーターを動かすこともできるほどにモーターに掛かる負担は小さくなる。カウンターウェイトの総重量は無積載状態のかごの質量にかご積載容量の50 %を付加した重量になるように設計されている。
==== ワイヤーロープ ====
[[ファイル:Elevator motor in machine room.jpg|サムネイル|機械室でのロープと巻上機]]
ワイヤーロープはトラクション式エレベーターなどで用いられる巻上索である。材質は[[炭素鋼]]が用いられ、[[建築基準法]]によって[[安全率]]を10以上確保することが義務付けられている。ロープの構造は、まず[[ストランド]]と呼ばれる細い[[鋼]]線をより合わせたものがあり、さらにそのストランドを8本ほどより合わせてできている。柔軟性を保つために、ロープの中心部には[[マニラアサ]]や[[サイザルアサ]]などの硬質[[繊維]]芯が入っている。太さは直径10{{nbsp}}[[ミリメートル|mm]]・12{{nbsp}}mm・16{{nbsp}}mmなどがあり、かご積載量に応じて使用する本数が増えたり、より太いものが使われる。トラクション式ではロープの両端にかごとカウンターウェイトが吊るされていて、それらの連結部には[[ソケット (電気器具)|ソケット]]と呼ばれる器具に[[バビットメタル]]を注入するという末端処理が施されていて、連結強度を確保している。
高層ビルのエレベーターでは使用するワイヤーの質量が多く、そのままの状態では最上下階近辺ではかご側とカウンターウェイト側の重量がワイヤーロープの自重によってアンバランスになり、巻上機のシーブから滑り落ちてしまう恐れがある。そのアンバランスを解消するために、かご底部とカウンターウェイト底部との間には、コンペンセーティングロープあるいはコンペンセーティン[[チェーン]]{{要曖昧さ回避|date=2023年7月}}と呼ばれる、重量バランス調整用のワイヤーロープやチェーンが渡されている。
[[映画]]等に登場する、エレベーターのワイヤーが切れて高速で落下するシーンには誤りが多い。エレベーターのかごを吊り下げるワイヤーの強度は定員の約10倍の重さに耐えられる強度を有することが義務づけられており、ワイヤーの使用本数も3本以上いるため、その全てが切断すること自体が極めてまれである。万一、切断してかごが落下に転じても、調速機ロープが同時に切断されない限りは、定格速度の1.4倍で非常止め装置が作動して急停止する。つまり、映画『[[マトリックス (映画)|マトリックス]]』のワンシーンのように爆破されたり、主ロープと調速機ロープが同時に破断されない限り、落下事故は起き得ない。
なお、[[2011年]][[7月26日]]には[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]][[平和台駅 (東京都)|平和台駅]]でエレベーターのワイヤー3本が全て切れて非常止め装置が作動するまで数m落下する事故があり、乗っていた50歳代の女性が尻や肘に2週間の打撲傷を負うという事故が発生している<ref>{{Cite web|和書|date=2012-03-29 |url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/HONSHI/20120329/210382/ |title=ロープ3本が切れてエレベータが落下、目視外観検査の限界が露呈 |publisher=日経BP(日経クロステック) |accessdate=2020-06-27}}</ref>。[[1945年]][[7月28日]]、[[1945年エンパイア・ステート・ビルディングB-25爆撃機衝突事故|エンパイア・ステート・ビルディングに航空機が激突]]したことによってエレベーターのかごが非常止め装置も効かないままエレベーターシャフトの底まで300メートル以上落下する事故が起こったことがあるが、乗っていた従業員は<!--破壊されたワイヤーが衝撃を和らげたためか-->奇跡的に生存していた。
以前は「非常止め装置が調速機ロープを切断されるなどして作動しなくても、エレベーターはエレベーターシャフト周壁との間隙が小さいことにより、かごにかかる[[空気抵抗]]が大きいため、ある程度の減速効果を有する」と言われていた{{要出典|date=2010年7月}}が、東芝エレベーターテスト塔での落下事故で、減速効果はほとんどないと[[証明]]された。このような効果を得るには、シャフト内の[[空気]]量が不変でなければならない。
==== 安全装置 ====
[[ファイル:Elevator speed governor.jpg|サムネイル|調速機]]
===== 非常止め装置 =====
非常止め装置はかご枠の下部にあって調速機の動作に応じて制動子がかごの降下を止める装置である<ref name="project37" />。
===== 調速機 =====
* 調速機(把持)
*: 把持のための調速機はかごや釣り合いおもりの異常速度を検知してロープをロープキャッチで把持する装置で機械室に設けられる<ref name="project37" />。[[ガバナー]]とも呼ばれ、万一、主ロープが切断された場合でもかごを緊急停止させる機能をもつ。
*: 調速機は、かごとロープ(主ロープとは別)を伝って連動しており、かごが動くと調速機のプーリーが従動して回転する。調速機ロープの終端部はかご側に位置し、その終端部に鋭いクサビ型の金属片が装着してある。万一、主ロープの切断などによってある速度(建築基準法の規定では[[定格]][[速度]]の1.4倍)でかごが落下すると、調速機が遠心力によって機能し調速機ロープをロックさせる。ロープがロックされるとクサビ型の金属片はかごとレールの隙間に挟まり込み、かごを停止させる仕組みになっている。
* 調速機(過速)
*: 機械室には過速時にかごの異常速度を検知してスイッチを開路する調速機がある<ref name="project37" />。
[[ファイル:HK Kln West Yau Ma Tei 天璽 The Cullinan glass lift bottom fitting June-2011.jpg|サムネイル|緩衝器]]
===== 緩衝器 =====
[[緩衝器]]は昇降路最下部にあってかごや釣り合いおもりが昇降路の底部にまで進行してしまった場合に衝撃を和らげる装置である<ref name="project37" />。サスペンションともいう。[[ばね]]や[[ショックアブソーバー|油圧ダンパー]]等が付いており、非常止め装置を使用しても減速しきれない場合の衝撃をやわらげる仕組みになっている。エレベーターの速度が分速60{{nbsp}}m以下か油圧式エレベーターのものはばね緩衝器、分速60{{nbsp}}m以上のものは油圧ダンパーを使用している。
=== かご ===
人が乗るための箱状の構造物を、エレベーターではカゴ(籠)と呼ぶ。これに人または荷物を乗せ上下させる。
[[天井]]には照明が装備され明るさが確保されるほか、換気扇、扇風機が装備され通気性が確保されている。[[エアコン]]が付いているものもある。
==== ドア ====
ドアには各階の乗場側の乗場戸とかご側のかご戸がある。古いものでは手動式もあり、国によってはかご戸のないものも少なくない。
防犯のために窓が設置されていることがある。
* 乗場戸
*: 乗場戸上部に設置される安全装置にドアインターロック装置があり、乗場戸が完全に閉まらない限り運転されないようになっている。
* かご戸
*: かご戸上部に設置される安全装置にゲートスイッチがあり、かご戸が完全に閉まらない限り運転されないようになっている。
縦開き式など特殊なエレベーターを除き、かご側のドアだけに駆動装置がある。停止階に到着したエレベーターは、かごドア側の解錠装置と乗場ドアのインターロックがかみ合い、乗場のドアはかごドアの力によりインターロックによる施錠が解放され、開閉する。
外観としては横方向に動くサイドスライドドアが主流となっている。サイドスライドドアにはサイドオープン式(片開き)とセンターオープン式(真中開き)がある。特大貨物用では上下方向に動くドアが採用されている場合があるが、このドアは乗降中に戸が頭部に衝突したり戸が下方から出てきて危険であるので、荷物用・自動車用以外には使用できない<ref>[https://web.archive.org/web/20010219213835/http://www.houko.com/00/02/S25/338.HTM#s5-4.2 建築基準法施行令第129条の6の解説設計上の留意事項]</ref>。
==== 操作盤 ====
操作盤はエレベーターの操作に使われる。一般的に階数ボタンと戸扱いボタンがあり、乗客は行先指定や扉の開閉を行う。操作盤の上部にはインジケーターがあることがほとんどである。
ほとんどの機種では非常連絡装置が取り付けられている。地震や火災・故障により閉じ込められた時などに使用し、メンテナンス会社や建物の管理人と連絡をとることができる。
メンテナンス会社と契約を結んでいない場合には、建物の基準階で警報音が鳴るだけである。
障害などで通常の操作盤を扱うことが難しい人のために、低い位置に操作盤が設置されていることもある。これらは一般的に車椅子操作盤と呼ばれ、扱われた際に扉の開放時間が長くなる・扉の開閉速度が遅くなるように設定されている。
===== インジケーター =====
[[ファイル:HITACHI EV LCD1.jpg|thumb|液晶画面によるインジケーター(日立製)]]
かごがどの階にあるか、またかごが上下どちらに動いているかを表示する装置。
インジケーターは基本カゴ内と各階の乗り場に設置される。ただし、近年設置されたエレベーターの場合は、複数台のエレベーターを一括管理する群管理システムを採用し、全ての階での待ち時間が最短となるように最適な運用をするため、人が待っている階を通過する・その階の手前で折り返すなどのことがあり、そのことを利用者に知られないようにするため、乗り場のインジケーターを備えず、到着を予告するホールランタンのみを備える場合が多い。
インジケーターの表示方式は、次のように分類できる。
* 機械式
*: 針が動く、円盤が回る等の方式がある。
*: 近年でも景観などの理由で設置されることがあるが、デジタル制御化されている。
* 行灯式
** 階を表す数字などの形に光るもの
** 光る形が階を表す数字等の形でないもの
* セグメント式
*: 主に1990年ごろの機種に採用されたが、コストカットのために近年でも標準仕様とする例がある。
** [[7セグメントディスプレイ|7セグメント]]
**: B([[地下]])・R([[屋上]])を8・Aと同じ表示字形で表示することになる([[File:7-segment_abcdefg.svg |14px]]・[[File:7-segment_abcefg.svg| 14px]])ため、地下や屋上<!-- および中間階(Mに相当するが、7セグメントではMに相当する表示も困難であり、仮に存在したとしても実際に目撃したことはない)などの特殊な階 -->を持たないエレベーターで採用されることが多い。
** [[16セグメントディスプレイ|16セグメント]]
**: 数字だけでなくB、R、M([[中二階|中間階]])等のアルファベットを表示する必要がある場合には、前述の理由により、7セグメントよりも16セグメントの方が適している。
** カスタムしたもの
**: 16セグメントで視認性が悪いBやGをよりわかりやすく表示できるよう、セグメントが追加されている。
* [[ドットマトリクス#LEDマトリクス|マトリクス]]式
*: 基本的に方向・階数ともに5×7のマトリクスを使用して数字を表す。
*: 解像度の違うマトリクスを使用する機種もある。
*: 方向と階数のセグメント欄を統合し、一つの大きい表示領域とした機種もある。文字のセンタリングが可能などの利点がある。
* [[液晶画面|LCD]]式
*: 矢印にアニメーションを付加して分かりやすくできる、他情報も表示することが可能、複数言語に対応できる、などの利点が存在する。
==== 安全装置 ====
*戸閉時にドアへの挟まれを防止する安全装置
かごドアの端部には挟まれによる事故を防ぐため、セーフティシューと呼ばれる大きな棒状の安全スイッチが取り付けられている。物理的に押されることによって反応する。
近年のエレベーターでは、赤外線センサーなどを設置しているものがある。センサーが遮られることでドアへの接触の前に反転する。これにより台車や扉を破損する可能性が大幅に低下した。
多数のセンサーを異なる方向に設置してさらに検出精度を向上させたものは、マルチビームドアセンサーと呼ばれることが多い。
これらの安全装置が非搭載であるまたは故障しており、危険に人や物を挟み込んでしまうおそれのあるものは、俗にギロチンドアと呼ばれる。
* 戸開時にドアへの挟まれを防止する安全装置
近年のエレベーターではカゴ側のドアの内側にもセンサーが設置されている。このセンサーは戸開時に照査し、検知するとドアの開閉を一時停止または減速させ、「ドアから離れてください」というアナウンスをする。
*地震の際に作動する装置
**地震時管制運転装置
**:地震時管制運転装置は所定以上の揺れを感知した際にかごを最寄階に停止させる装置である。日本では耐震設計施工指針に定められている。
**地震感知器
**:エレベーターの[[地震]]感知器には、検出する[[地震波]]の種類によって大別して3種類がある。
**: [[初期微動]](P波 : 高速で伝わる[[縦波と横波|縦波]])を検知し、あるいは[[主要動]](S波 : P波に続いて到達する[[縦波と横波|横波]])のレベルが低いうちに検知して最寄階に停止後、[[震度]]4以上(以降震度は目安)の大きな揺れがなければ一定時間後に自動復旧するもの。
**: 震度4以上の揺れを検知して、最寄階に停止し[[運転]]を休止するもの。この場合[[保守]]会社の作業員が機器の安全を確認後地震感知器を復旧する。
**: 更に大きな揺れ(震度5クラス)を検知した場合でなおかつ最寄りの階まで数階離れている場合(急行ゾーン)は、途中で急停止させる。保守会社またはビルの技術者の指示により釣り合いおもりと反対方向の最寄階まで極低速で運転する。
**ただし、いずれも地震の揺れにより機器が損傷し地震感知器とは別の安全装置が働いた場合は、閉じ込められることもある。原因は、乗場側の戸閉検出装置がかごの接触により誤動作する場合が大半である。この場合には途中で急停止するので、かご内に閉じ込められることになる。一度この状態になると、エレベーターの保守会社が現地に出向かないと復旧することができないので、主に保守会社か[[日本の消防|消防]]の[[レスキュー隊]]による救出に数時間から丸一日以上を要することもあり、地震が発生する度に大きな問題になっている。
==== 安全設備 ====
* 故障の際の救出を迅速に行うための設備
一部のエレベーターは避難用の救出口をもっている。これは中から脱出するためではないので、外から施錠されていることが多い。
郡管理されているエレベーターで1つだけ故障した場合などに、隣のカゴを動かして救出にあたる際に使われる。
* 防犯性を高める設備
エレベータの防犯装置として、防犯カメラ、警報装置、各階強制停止装置、利用者・利用階検知システムなどがある<ref name="project37" />。
[[防犯]]のため、エレベーターのかご内の状況が外部から見えるよう、[[扉|ドア]]や[[壁]]に[[窓]](通称 : '''防犯窓''')を装着し、あるいはかご内に[[監視カメラ]]が設置され、内部の映像を乗り場のところに設置したモニターに映し出しているエレベーターもある。この形式のエレベーターの場合、外部からかご内の様子が見えることで[[犯罪]]や[[いたずら]]を未然に防ぎ、安心してエレベーターを利用できるといった長所がある。
窓付きドアのエレベーターは、主に[[マンション]]・[[団地]]などの[[集合住宅]]、[[鉄道駅]]、一部の[[商業施設]]などで見かける。防犯カメラのついたものは、集合住宅や一部の[[オフィスビル]]で見受けられる。
また、深夜になると各階へ昇降する際、途中階全てに停止するエレベーターもある。たとえば1階から5階へ向かう際、2階・3階・4階で停止しドアを開ける手順を経過することになるので防犯の効果は高くなる。その反面、昇降に時間がかかり効率を悪化させるという欠点がある。
==== バリアフリー構造 ====
本項目では、[[バリアフリー]]構造について紹介する。
かごの奥側の側面には鏡が設置されていることがある。これはエレベーター利用者が車いすを使用している場合、前を向いたまま室内に入ることになるため、狭い室内では車いすに乗りながら転回することができないことを考え、後ろ向きのままエレベータから降りられるように考慮して設置されているものである<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=エレベーターで「車いす用」「一般用」を両方押したら起きること|url=https://withnews.jp/article/f0200114001qqf2191119001qqF1W06910701qq000020348A|website=withnews.jp|accessdate=2021-09-30|language=ja|last=野口みな子|date=2020-01-14}}</ref>。
車椅子などで乗り込んだ際、降りるときも前進で降りられるように出入り口をかごの前後に配置した形式がある<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/000212148.pdf|title=教えて国土交通省!|accessdate=2021-10-09|publisher=国土交通省}}</ref>。これを「ウォークスルー式」または貫通2方向型という。貫通2方向型の機種は、大規模[[病院]]や事業所などで[[ストレッチャー]]や貨物搬送の都合から採用することがある。
建物の構造上、貫通2方向型が設置できない場合などのために、前面と側面の2方向にドアが配置された直角2方向型の機種もある<ref name=":2" />。駅舎や[[ペデストリアンデッキ]]のエレベーターに多い。乗客には降り口が判別し難い場合があるので、目的階に到着すると「後ろのドアが開きます」や「こちらのドアが開きます」などの[[音声]]によって降り口が案内される。
他には手摺を付けて車椅子で移動しやすくしている場合がある。
== 駆動方式 ==
[[ファイル:Elevator hydraulic.jpg|サムネイル|油圧式エレベーターの底部]]
=== トラクション式 ===
: 昇降路の直上や昇降路内に設置された巻上機を用い、ロープで接続されたカゴとバランスウェイトをガイドレールに沿って上下させる。従来のものは巻上機が昇降路上部にあるものが多いが、近年設置されるマシンルームレスと呼ばれるものは部品の小型化が貢献し巻上機が昇降路横に設置されている。これにより機械室のスペースが不要となった。<br/>
: トラクション式の派生として、かごが2階建てになっているダブルデッキエレベーターもある。カゴは建物の2階分に相当する単位で昇降し、下部は奇数階・上部は偶数階に停止する仕組みになっている。昇降路あたりの輸送力が向上し、建物のフロア面積を効率的に利用できるというメリットがある一方で、奇数・偶数階間の移動ができない、一方の階の利用者が他方の階の利用者の乗降を待つ必要があるといったデメリットもある。
: 日本では[[六本木ヒルズ森タワー]]・[[虎ノ門ヒルズ森タワー]]・[[東京ガーデンテラス紀尾井町]]・[[ホテルオークラ東京#施設の概要|オークラプレステージタワー]]・[[ミッドランドスクエア]]・[[北浜 NEXU BUILD|大阪大林ビルディング]]のみに導入されている。なお、森タワー・東京ガーデンテラス紀尾井町のものは建物の階高の違いを吸収するためにカゴの上下階の間隔が可変になっている。
=== 巻胴式 ===
: 4人乗りなどの小型エレベーターでは、さらなる省スペースのためにバランスウェイトを設置しないことがある。この場合はカゴと乗員の負荷全てを巻上機が負担することになる。速度がかなり遅いなどの欠点がある。
=== 油圧式 ===
: 乗用では機械室を設けるスペースがない、荷物用ではより大きな出力が必要などの理由で設置される。油圧式には2種類あり、カゴにジャッキを繋げる直接式とバランスウェイトをジャッキで押し上げる間接式がある。直接式はロープやバランスウェイトが不要である。マシンルームレスの登場や巻上機の改善により、近年では減少傾向にある。
=== 水圧式 ===
:水圧式は油圧式の亜種であり、量産機種ではOTIS社のスペックエコのみで採用されている。直接油圧式と同じ仕組みをとり、油の代わりに水を使用して臭いを解消した。
=== スクリュー式 ===
: かごに取り付けられた[[ナット]]を高速回転させて昇降路に取り付けられた[[ボルト (部品)|ボルト]]を利用し昇降する。量産機種では日本エレベーター製造のSC309のみ採用している。
=== リニアモーター式 ===
: ガイドレールと共にリニアモーターを取り付け、その動力でカゴを上下させるもの。摩擦の影響を受けないため高速運転に向くなどの利点があるが、設置コストが非常に高いためほぼ採用されていない。
== 制御方式 ==
=== 制御方式の歴史 ===
[[昭和]]40年代頃までは[[半導体]]技術が現在のように発展していなかったために、エレベーターの制御回路には[[継電器|リレー]]式[[シーケンス制御]]が採用されていた。今では到底考えられないが、速度制御、ドア開閉制御、呼び出し制御、混雑回避制御などありとあらゆる制御回路が数百個から数千個にも及ぶ大量のリレー群とタイマーリレー、その他機械式接点によって構成されていた。リレー式回路は主に手作業で制御回路を構築するので、回路設計、回路変更に多大な費用と労力が掛かるものが多かった。さらに接点の接触不良や焼き付きなどの動作不良も多く、メンテナンスマンを大いに悩ませたが、交換パーツの調達性は今日でも良好である。
昭和50年代に入ると[[半導体]]産業やコンピューターテクノロジーが隆盛し、エレベーターの制御回路にも[[組み込みシステム|マイコン]]方式が取り入れられた。これによって機器設置、回路設計の負担が減り、高品質で多彩な運転制御が可能になった。特にモーター制御では加減速制御の品質が一段と飛躍した。巻上げ電動機には[[1980年代]]前半まで、高速のものには[[分巻整流子電動機|直流電動機]]が、低速のものには[[誘導電動機]]が用いられ、速度制御方式はそれぞれ[[分巻整流子電動機#ワードレオナード方式|ワードレオナード方式]]と[[かご形三相誘導電動機|極数切替法]]、次いで[[パワーエレクトロニクス]]の発展により[[サイリスタ]]などによる電動機入力電圧制御に移り変わった。[[1983年]]に[[交流]]電力の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]がエレベータ向けにも実用化された。それ以降、高速低速ともにインバータによる誘導電動機駆動を経て、現在では[[永久磁石同期電動機]]駆動の巻上機が主流となった。
一方、油圧式エレベーターでは流量制御バルブによる制御が用いられ、油温や積載荷重により走行性能の変動を受けやすかったが、1980年代後半以降はマイコン制御化やバルブの改良により解消された。また、[[1990年代]]に入ると規格型エレベーターを中心にVVVFインバータ制御方式が広く普及し、乗り心地向上や省エネ、走行時間短縮を実現している。
これらの技術革新によって、現在では各階への停止位置をミリ単位で微調整することが可能とされている。
なお、[[半導体]]制御化が進んでいるが、重要な箇所にはリレーが残っている。リレーは信号側と動作側が電気的に絶縁されているので大電流に強いこと、電磁波[[ノイズ]]に強いこと、昔に比べ動作の信頼性が高くなっていることもあいまって、現在でも主回路、ドア制御回路などの重要な箇所にリレーを部分的に使用しているメーカーは多い。
=== 停止階制御 ===
1つの建物で複数のエレベーターが並んでいる場合、それらを同じように各階に止めていくのは効率が悪い。特に、[[デパート]]など、特定のフロアなどに客が集中する場合には、その階へ優先的に輸送することが望ましい。そのため、エレベーターの制御の単独化や、特定階の不停止制御('''フロアカット'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yokohamamitsui.com/equipment/elevator/|title=エレベーター計画・セキュリティ 横浜三井ビルディング|publisher=三井不動産|accessdate=2021-12-11}}</ref>もしくは'''サービスカット'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/PU/JP-2005-352660/F79CF3232E38813B2581C1A6C6EC00219BF7777760D3E6572859FE219D968BF9/11/ja|title=2005-352660号 セキュリティ評価装置及び方法|publisher=j-platpat|accessdate=2021-12-11}}</ref>)を行い、一部の階だけに停止させる急行運転(あるいは直通運転)を行なうこともしばしば見受けられる。また、事務所ビルでは、最終退館者が防犯機器を操作した時点でその階を通過し、最初の出勤者が入館手続きを取ると停止するというシステムを採用するケースもある。屋上階には停止しないというシステムも、防犯上の事情から実行されている。
=== 乗り心地 ===
エレベーターに乗ると、[[身体]]が[[床]]に押し付けられたり上に引っ張られたりするような感覚がある。これはエレベーターの[[速度]]の変化によって生ずる[[加速度]]が搭乗者に働くからである。[[速さ]]が激しく変わるようなエレベーターは搭乗者にとって不快である。また、かごをガイドするガイドレールの取り付け方によっては横方向の揺れが発生し、乗り心地は大きく変化する。[[超高層ビル]]で運用されるエレベーター(最下階から最上階まで直通するような速度の速いエレベーター)ではレールの歪みやレール取り付け方法、加速度のコントロールに細心の注意が払われている。[[横浜ランドマークタワー]]のエレベーターは床面に立てた[[硬貨]]が倒れないほどに乗り心地がよいといわれる。これは、加速制御の巧みさだけでなく、ガイドレールの配置や歪みにまで丹念に作りこまれているからである。
=== 構内外共用型 ===
一部の鉄道駅などには「構内外共用型」というエレベーターが存在する。これは、1台のエレベーターで「駅外と改札外コンコース」「改札内とプラットホーム」の移動のみを可能とするものである。乗った場所により降りられる場所が決められており、「駅外とホームや改札内」や「改札外とホーム」などの直接移動はできない。通常、「改札内」と「改札外」は同一平面となるため、かごの扉は2つある場合が多い。本来2台以上が必要なものが1台ですむため、設置やメンテナンスのコストが大幅に節減できる反面、利用者はかご呼び出しから乗れるまでの時間がかかる場合がある。そのため、エレベーターの利用が少ない、小規模な駅に設置される場合が多い。[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|交通バリアフリー法]]の施行を機に敷地の問題やエレベーターシャフトの設置スペースに制約のある駅の改修工事において採用されるケースも出てきた。
=== シークレットコール ===
鍵や[[暗証番号]]を入力しないと呼出しボタンや行き先ボタンが機能しないエレベーター。[[認知症]]の入居者が不用意に外出してしまうのを防ぐため、特別養護階のある[[老人ホーム]]に設置されているほか、建物所有者の自宅階や店舗・病院の従業員などといった、特定の人物以外の利用を制限したい場合にも用いられる。逆のパターンとして、かご内の操作盤でカードキーや特定のコマンドを入力することによって着床を行う階が設定できるエレベーターもあり、特定階への部外者の立入を制限したい場合に設定される。企業の本社ビルで特定階が丸ごと役員室になっている場合が該当する。類例としてビジネスホテルにて上下ともフロント階に必ず停止させ扉越しに乗客を確認するなど、外来者も使用するエレベーターでは停止階制御の機能が持たされることがある。
=== 監視カメラとの連動 ===
監視カメラで常に人の動きを感知し、激しい動きがあると注意を促すアナウンスが流れるもの。エレベーター内で争い等が起きたときや、防犯に有効である。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meltec.co.jp/press/__icsFiles/afieldfile/2006/03/22/060309.pdf|title=エレベーター内にて暴れなどの異常事態が発生した場合、防犯カメラの画像をリアルタイムで解析・検知するサービス「モーションサーチ」を開始|accessdate=2019-01-15|date=2006-03-09|format=PDF|publisher=三菱電機ビルテクノサービス}}</ref>
== 速度 ==
エレベーターの速度は一般的に45m/min~105m/min<ref>{{Cite web|和書|title=世界一速いエレベーターは?ランキングTOP3 |url=https://aiwaok.jp/articles/fast-elevator-ranking-world |website=アイニチ株式会社 |date=2015-12-01 |access-date=2022-10-28 |language=ja}}</ref>。上り世界最速のエレベーターは[[中華人民共和国|中国]]・[[広州市]]の「[[CTF金融センター|広州周大福金融中心]]」にある75.6km/h(1,260m/min)のエレベーターで<ref>{{Cite web|和書|title=日立エレベーターギネスに 時速75キロ、中国の高層ビル |url=https://www.sankei.com/photo/story/news/190927/sty1909270006-n1.html |website=産経フォト |access-date=2022-12-13 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>、下り世界最速のエレベーターは[[横浜ランドマークタワー]]にある45km/h(750m/min)のエレベーターである<ref>{{Cite web|和書|title=下り「世界最速」のエレベーターと言えばココ…時速45キロでビューン |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20220409-OYT1T50111/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-04-09 |access-date=2022-10-28 |language=ja}}</ref>。
== 定員・容量 ==
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
|枠幅= 200px
| 1=エレベーター定員.jpg
| 2=定員と積載量の記載例
| 3=Hankyuu BLDG shuttleEV interior.JPG
| 4=大阪の[[大阪梅田ツインタワーズ・ノース]]のシャトルエレベータ室内(ホールから)定員は80名、5基が稼働している}}
[[日本]]では[[建築基準法]]の規定により、一人を65[[キログラム|kg]]と見積もって定員を[[計算]]する<ref>{{Cite web|和書|title=一般社団法人 日本エレベーター協会|よくあるお問い合わせ |url=https://www.n-elekyo.or.jp/contact/ |website=www.n-elekyo.or.jp |access-date=2022-10-28 |publisher=日本エレベーター協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=エレベーターの定員は、1人あたり何kgで計算されている? |url=https://aiwaok.jp/articles/elevator-capacity |website= |date=2015-05-08 |access-date=2022-10-28 |language=ja |publisher=アイニチ株式会社}}</ref>。かごの大きさは小型で1m四方ほど、大型では2m以上のものもある。日本でトップクラスの乗用大型エレベーターは、1970年[[日本万国博覧会]](大阪万博)の日立グループ館に設置された、130人・8,350kgの内径6mのカゴが二台連結された、[[日立ビルシステム|日立]]製の二階建て油圧エレベーター(現存しない)である<ref>[http://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1970/ex/1970_expo_sp_05.pdf 日立評論1970年EX号:260人乗り日立超大型油圧式乗用エレベータ]</ref>。
== 機器の設置・運用・管理 ==
=== 開発 ===
エレベーターを開発する際には、テストする際に実際のビルと同じ高さの建設物が必要となる。そのため、各社ではテスト塔とよばれる高い建設物を作り、製品の安全性、機能性などをテストしている。
<gallery>
File:G1TOWER.jpg|日立の研究塔<br />[[G1TOWER]]<br />高さ世界一213.5 m
File:Mitsubishi Elevator of SOLAE Test Tower 2010-2-27.JPG|三菱電機の試験塔<br />[[SOLAÉ]]<br />高さ173 m
File:Schindler test tower head office.jpg|シンドラー社の試験塔
</gallery>
=== 設置 ===
{{Vertical_images_list
|幅= 220px
|枠幅= 220px
| 1=Komoa Shiotsu el.jpg
| 2=[[コモアしおつ]]へ伸びる[[斜行エレベーター]]
| 3=OTIS-Narita.jpeg
| 4=[[成田国際空港]]に設置されていたオーチス製[[水平エレベーター]]、「[[成田空港第2ターミナルシャトルシステム]]」。<br />ご覧の通り、一見すると[[鉄道事業法]]による[[新交通システム]]のようであるが、[[成田国際空港]]という私有地内での運行であること、及び、運行により収益を得ていないこと<sub>等</sub>から、[[鉄道事業法]]による[[新交通システム]]ではなく、[[建築基準法]]による'''水平エレベーター'''扱いであった。<small>(現在は廃止)</small>
| 5=US Navy 061111-N-3729H-301 A flight deck handling member performs hand signals to communicate with elevator operators to lower aircraft and support equipment from the flight deck to the hangar bay aboard the nuclear-powered air.jpg
| 6=空母「[[ジョン・C・ステニス (空母)|ジョン・C・ステニス]]」のエレベーター
}}
オフィスビル等の[[高層建築物]]には、エレベーターが必須である。[[日本]]などでは[[高齢化]]などのため[[バリアフリー]]の重要性も高い。また、近年[[経済]]発展のめざましい[[中華人民共和国]]は、ビルなどの建設ラッシュであるため、エレベーターを製造するメーカーの競争は激しい。各メーカーでは[[差別化]]を図る意味で、さまざまな機能などが付けられたエレベーターが製造され存在する。また建築物以外にも、船舶艦艇(揚弾機含む)・陸上車両内外(リフター付はしご自動車・[[パワーゲート]]・バス内他)・大形航空機内等にも設置されたエレベーターが存在する。
=== 運用 ===
==== 乗務員 ====
{{Main|エレベーターガール}}
==== 防災 ====
===== 建物避難時 =====
基本的に火災時の避難には使用しないことと表示されている。しかし、マンションの高層化に伴い[[東京消防庁]]は停電対策の予備電源や防災センターとの通信設備などの厳格な要件を課した上で条件を満たす場合には火災時の避難にエレベーターを使うよう指導することとなった。
===== 耐震基準 =====
アメリカ西海岸の地域は地震多発地域でありカリフォルニア州法はエレベーターに関する耐震規定が設けられている<ref name="project37" />。
==== 防犯 ====
エレベーター内は構造上密室になりがちであるため、[[痴漢]]などの犯罪が発生する可能性が少なくない。そのため、エレベーターには管理会社へ通報できる装置が備えられている。
===== 自主防犯 =====
乗客の自主的な防犯対策として、以下のものがある<ref>[[さいたま市]]防犯ガイドブック9頁</ref>。
* 乗る前に周囲に不審人物がいないか確認する。
* 乗ったら壁を背にし非常ベル等のボタンが押せる場所の前に立つ。
* 不安を感じたら全ての階のボタンを押し、開扉したらすぐに降りる。
* なるべく見知らぬ人と2人きりで乗らない。
=== 管理 ===
エレベーターは可動や経年変化によって消耗する部品があり、定期的なメンテナンスを必要とする。メンテナンスを行わないエレベーターは重大な事故を招きかねない。
=== 寿命 ===
エレベーターの[[寿命]]は機器全体として考えた場合は長く、25年前後使用されることが多い。[[法定]][[減価償却|償却]][[耐用年数]]は17年と定められている。ただし、電子部品やワイヤー、[[軸受]]などはほぼ10年など、個々の部品の寿命は一般的な[[物理]]的寿命と大差ない。寿命を迎えた場合には、一式取り替える撤去新設工事だけでなく、[[三菱電機ビルテクノサービス#リニューアル|リニューアル]]・延命工事も広く施工され、巻上機やかご・レールはそのまま使用するが、電動機や制御機器を最新型のものに取り替えて最新型と同等の性能を発揮できるようにする。特に1980年代以前に製造されたエレベーターは遅くとも2012年までに部品供給の停止が予告されている<ref>[http://www.mitsubishielectric.co.jp/elevator/parts/infomation/download.html エレベーター部品供給停止のお知らせ] 三菱電機ウェブサイト</ref><ref>[http://www.hitachi.co.jp/products/urban/em/parts/index.html 部品供給停止のお知らせ] 日立製作所ウェブサイト</ref><ref>電力変換器 ([https://dattech.com.vn/bien-tan-invt/ Inverter current INVT])東芝エレベータウェブサイト</ref>ので、リニューアルは必須となる。
== 日本におけるエレベーター ==
=== 法令等 ===
日本においては建築物に設置されるものは建築基準法の適用を受ける<ref name="project37">{{Cite web|和書|url=http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/kpr/prn0037bpdf/kp0037b06.pdf|title=国総研プロジェクト研究報告 第37号(第2章)|publisher=[[国土技術政策総合研究所]] |accessdate=2018-01-25}}</ref>。また、労働基準法指定事業所に設置されるものには労働安全衛生法の適用を受ける<ref name="project37" />。
日本で昇降機(エレベーター、エスカレーター、小荷物専用昇降機等)を建築物に設置する場合は、建築基準法の規定に基づく確認・完了検査を受けなければならない。しかし、建築基準法で定める昇降機であるにもかかわらず、建築基準法の規定に基づく確認・完了検査を受けずに設置されている昇降機を違法設置エレベーターという。
建築基準法や各種法令では、5階建以下の建築物([[集合住宅]]、[[雑居ビル]]など)ではエレベーターの設置が義務づけられていない<ref group="注釈">高齢者や障害者の来訪も想定される、公共性の高い施設([[病院]]、[[老人ホーム]]、[[役所|市・町・村役場]]、[[ショッピングセンター]]など)であれば、2階〜5階建でもエレベーターの設置がほぼ必須となる。</ref>が、6階建以上の建築物を建てる時は、(屋上を除く)全ての階に停止するエレベーターの設置が必須となり、設置していない建物には建築許可が出ないが、昭和50年代以前に建築された古い集合住宅だと、一部の階にしか停止しない(全ての階に停止しない)「[[スキップフロア]]型」を採用しているのもある。
特に工場や作業場等に多数設置されている、労働安全衛生法で規定される荷物用エレベーターや簡易リフトは、労働安全衛生法と共に一般のエレベーターと同様に建築基準法の規定も適用される。特に労働安全衛生法で規定されている簡易リフトは、かごの床面積により建築基準法で小荷物専用昇降機に規定されるものを除き、その多くは建築基準法に規定されるエレベーターの基準が適用されるが、その基準を満たしていないものが数多く設置されている。
さらに、昇降路の壁が設定されていないなど建築基準法はもちろん、労働安全衛生法の簡易リフトの規定すら満たしていない非常に危険な違法設置エレベーターも数多く設置されており、毎年全国の工場等で多数の死傷事故が発生している。こうしたことから、全国の特定行政庁及び労働基準監督署は、違法設置エレベーターに関する周知活動等を行っている。
[[斜行エレベーター]]・[[水平エレベーター]]と、[[鉄道]]([[ケーブルカー]]含)・鉄道型遊戯施設の基本構造上の区別は曖昧であり、管轄法規が峻別している。
=== 法令上の区分 ===
エレベーターとは、建築基準法第34条で規定される「昇降機」の一種別である。なお、この「昇降機」は建築基準法施行令第129条の3の規定により、大きく「エレベーター」、「エスカレーター」、「小荷物専用昇降機」の3種類に分けられている。
==== エレベーターの種別 ====
建築基準法で規定される「エレベーター」には以下の用途種別が定められている。
; 乗用エレベーター
:主に人の輸送を目的とするもの。[[マンション]]や[[公団住宅]]、オフィスビル、商業施設、宿泊施設、総合病院、一戸建て住居などに設置されている。特に住戸内のみを昇降するエレベーターでかご床面積が1.1{{nbsp}}m{{Sup|2}}以下のものは、ホームエレベーターという(別記記載)。また、マンション等では、かご内にトランクが設置されている場合があり、寝台やストレッチャーに乗せた患者の[[病院]]への搬送や、[[棺桶]]を上げ下げするため等に使用される。
; 人荷共用エレベーター
: 人及び荷物を輸送することを目的とするもの。法規上の取扱いは乗用と同じ。
; 寝台用エレベーター
: 主として病院、[[養護施設]]等で用いられ、寝台や[[ストレッチャー]]に載せた患者を輸送することを主目的としていることから、法規上の取扱は乗用より緩和されている。建築基準法施行令第129条の3により寝台やストレッチャーを日常的に使用する建物以外への設置は禁じられている。また、多人数が乗り込む場合を考慮し、乗用エレベーターを併設することもある。
; 荷物用エレベーター
: 主に荷物を輸送する目的のためのもの。荷扱者または運転者以外の利用は不可。なお、労働安全衛生法で規定される「簡易リフト」にも、建築基準法で規定される「エレベーター」もしくは「小荷物専用昇降機」の規定が適用される。
; [[自動車]]運搬用エレベーター
: 主に駐車場に設置され、自動車を輸送することを目的とするもの。{{要出典|date=2015年10月|自動車の運転手以外が乗ることは禁じられている。}}
;小荷物専用昇降機
:次の3つの条件を全て満たしたものとなる。主に物品の運搬を目的としたもので人が乗ることは厳禁である。かつては「ダムウェーター」という名称だったが、dumbwaiterがdumb(物の言えない, 口のきけない)waiter(給仕人)として差別用語にあたるため<ref group="注釈">これは日本での話であり、英語版Wikipediaでもdumbwaiter項はそのままである。</ref>、小荷物専用昇降機に変えられた。建築基準法の条文も同様に変更されている。
:#かごの床面積が1平方メートル以下
:#かご天井の高さが1.2{{nbsp}}m以下
:#積載量が500{{nbsp}}[[キログラム|kg]]以下
:労働安全衛生法で規定される「簡易リフト」は、上記の1・2のいずれか一方でも満たしていれば該当する。
==== 特殊な構造または使用形態のエレベーター ====
建築基準法に規定されるエレベーターは、前記に規定されるもの以外に以下のものが規定されている。
; 天井救出口がないエレベーター
: かごの天井部に救出用の開口部を設けないエレベーター。
; オープンタイプエレベーター
: 昇降路の壁または囲いの一部を有しないエレベーター。
; 昇降行程が短いエレベーター
: 昇降行程が7{{nbsp}}m以下の乗用エレベーター及び寝台用エレベーター。地震時管制運転装置など一部の安全装置が緩和されている。
; 定格速度が速いエレベーター
: かごの定格速度が240{{nbsp}}m/min以上の乗用エレベーター。
; ホームエレベーター
: かごが住戸内のみを昇降する昇降行程が10{{nbsp}}m以下のエレベーターで、かごの床面積が1.1{{nbsp}}m{{Sup|2}}以下のもの。通常の乗用エレベーターと比較して安全装置の一部が緩和されている。また、建築基準法第12条に規定される定期報告が義務付けられていない。
; かごの戸、天井などがない自動車用エレベーター
: 自動車運搬用エレベーターで、かごの壁または囲い、天井および出入口の戸の全部または一部を有しないもの。
; ヘリポート用エレベーター
: ヘリコプターの発着の用に供される屋上に突出して停止するエレベーターで、屋上部分の昇降路の囲いの全部または一部を有しないもの。
[[File:Escar 2.jpg|thumb|250x200px|主に鉄道会社が設置している車いす昇降装置 エスカル]]
; ロングスパンエレベーター
: 資材や作業員を搬送する建設工事用の幅の広い仮設のエレベーター。
; 段差解消機
: 車いすに座ったまま使用するエレベーター。かごの定格速度が15{{nbsp}}m/min以下かつその床面積が2.25{{nbsp}}m<sup>2</sup>以下で、昇降行程が4{{nbsp}}m以下または階段および傾斜路に沿って昇降するもの。なお、荷物用のリフトはこの規定によらない。
; いす式階段昇降機
: 階段及び傾斜路に沿って一人の者がいすに座った状態で昇降するエレベーターで、定格速度が9{{nbsp}}m/min以下のもの。
==== 非常用エレベーター ====
[[File:非常用エレベーター.JPG|thumb|非常用エレベーターを示すプレートとかご呼び戻しボタン]]
[[建築基準法]](第34条2項)により、地上からの高さが31{{nbsp}}m以上あるか、または45{{nbsp}}mあるかまたは、地上11階以上(一部のマンションでは16階以上)の[[建築物]]には、一般用のエレベーターのほかに、非常用エレベーターの設置が義務付けられる。これは[[災害]]発生時に高層建築では[[消防]]隊が[[階段]]を上がって救出に向かうことが困難であるためであり、専用運転に切り替えられる装備をもつ。また地上から10階以下では設置は義務付けされないが設置されているケースもある。
非常用エレベーターは、火災等で[[商用電源]]が遮断されても運転できるよう非常[[電源]]([[ディーゼル]][[発電機]]など)から[[電気]]が受けられ、[[電線]]も普通の[[火災]]で焼けないよう耐火電線を用いて配線する。
かつては機械室がないタイプは一切認められていなかった<ref group="注釈">火災発生時に消火活動で放水する水が直接駆動装置等にかかる恐れがあるため。</ref>が、2015年の国土交通省告示の改正<ref group="注釈">平成27年12月28日 国土交通省告示第1274号 特殊な構造又は使用形態のエレベーター及びエスカレーターの構造方法を定める件の一部改正</ref>により、駆動装置・制御盤等を、最上階フロア床面より上方に設置した機械室無しタイプは非常用エレベーターとして適用することが認められた<ref>[http://www.toshiba-elevator.co.jp/elv/newsrelease/2016/post-117.html マシンルームレスタイプの非常用エレベーターの販売について]東芝エレベータウェブサイト ニュースリリース</ref>。この告示はその後2017年に再び改正され、IPX2以上の防水措置を講じることで、最上階の床面よりも下方に制御盤や駆動装置を設置することができるようになった<ref>[http://www.hbs.co.jp/products/urban/em/elevator/order/emergency/pdf/re_578q_202003.pdf 日立機械室レス非常用エレベーターカタログ]p.2。</ref>。
またかつては他の一般用エレベーターよりも速度が遅い仕様が多かったので(現在は最上階まで1分以内に到達できることが条件で、60{{nbsp}}m/minが下限)、乗用として使用されることはほとんどなく、通常時は荷物輸送やビルメンテナンス要員・[[警備員]]の移動に用いられてきた。そのため用途種別はほとんどの場合「人荷用」となっており、最近の一部を除き一般客の目に触れないように設置されることが多い。一部の建物では、一般客が利用するエレベーターと非常用エレベーターを兼用している建物もある。
なお、非常用エレベーターは設置されている建物の全ての階に停止でき、かつ全階のエレベーターホールにはかご位置を知らせる[[インジケーター]]を設置しなければならず、エレベーターホールも[[防火戸]]等により[[煙]]や[[炎]]を完全に遮断することができる構造が必要になる。乗場には非常用エレベーターを示す、赤文字で「非常用エレベータ」、その下に最大定員と積載荷重を記載したプレートを掲示しなければならない。定員は最低で17名(積載[[荷重]]1,150{{nbsp}}kg)と定められている。消防隊専用の装備として、主に1階か避難階に設置され、押すと他のかご内および、乗場の呼びを全て解除し呼び戻しボタンのある階へ直行する「かご呼び戻しボタン」、建物管理者や警備員から鍵を借りて操作すると消防隊専用に切り替わる「一次消防・二次消防切り替えスイッチ」がある。
一次消防運転では乗場呼びが無効になり、一種の専用運転となる。二次消防運転では乗場の戸閉検出装置が無効となり、かごまたは乗場の扉が閉まらない状態でも走行可能になるが、速度は最高でも90{{nbsp}}m/minに制限される。
=== 製造メーカー ===
* 日本の主なメーカー(大手)
** [[三菱電機ビルソリューションズ]] - [[三菱電機]]より昇降機事業を移管。2022年4月に三菱電機ビルテクノサービスから社名変更。
** [[日立ビルシステム]] - 国内市場の設計開発部署を2014年に[[日立製作所]]から移行し、実質的な全面移管。海外市場は日立本体が行う。
** [[東芝エレベータ]] - 2001年に[[東芝]]より昇降機事業を全面移管。
** [[フジテック]] - 日本の5大 大手の中で唯一電機メーカーに属さない専業メーカー。近年エアコンを標準搭載したモデルなどを精力的に発表し、国内シェアを押し上げている。
** [[日本オーチス・エレベータ]] - 過去に[[資本提携]]([[持分法]]適用会社)の関係があったことから[[パナソニックホールディングス#過去のメインブランド・商標|National]] OTIS(ナショナル・オーチス)を展開。[[東芝]]資本のTOYO OTIS(東洋オーチス)ブランドも存在した。現在は貨物用エレベーターの製造は日本においては行っていない。
* 日本の主なメーカー(中堅・小規模)
** [[三菱日立ホームエレベーター]] - 2000年に三菱電機と日立製作所のホームエレベーター事業が統合して設立した企業
** [[パナソニック]] - 住宅用のみの販売([https://panasonic.co.jp/phs/pev パナソニック エレベーター])となっている。過去に販売したNational OTISブランドの純正保守は日本オーチス・エレベータが担当。
** [[三精テクノロジーズ]]
** [[エス・イー・シーエレベーター]] - 詳細はメンテナンス(保守)を参照のこと。
** [[横浜エレベータ]]
** [[三洋輸送機工業]]
** [[守谷輸送機工業]]
** [[中央エレベーター工業]]
** [[日本エレベーター製造]] - スクリュー式エレベーター開発の経緯から、駅舎のエレベーターに強みを持つ。
** [http://www.daiko-s.co.jp/ ダイコー]
** [[日本エレベータ工業]]
** [[クマリフト]] - 工場向けの荷物用・人荷用エレベーターや低層階や雑居ビルなど向けの比較的小型なエレベーターに強みを持つ。<ref>{{Cite web|和書|title=総合エレベーターメーカーのクマリフト株式会社 |url=https://www.kumalift.co.jp/ |website=クマリフト株式会社 総合エレベーターメーカー |access-date=2023-02-14 |language=ja}}</ref>
**[http://www.aiwa-elevator.com/ アイワ]
**[https://www.watabesangyou.co.jp/?gclid=Cj0KCQjwgLOiBhC7ARIsAIeetVDywUnnXiRy04Wmk-KClFfCZ0DazjbK90Lcv2xgzU5nBQM1BLHf9YUaAlMTEALw_wcB ワタベ産業]
**[https://ayc.co.jp/ 朝日輸送機]
**[http://www.nittoh-ev.co.jp/ 日東エレベーター] - 防爆型エレベーターなど、自社独自開発の特殊エレベーターに特化する。
**[https://www.ihi.co.jp/it/products/industrial-machinery_system/parking/index.html IHIトレーディング] - 大手総合重機メーカーである[[IHI]]グループ。車用輸送機を得意とする他、乗用エレベーターも販売している。
**[https://www.elevator.co.jp/?gclid=Cj0KCQjwgLOiBhC7ARIsAIeetVB9cXcHNmJqhkOq3nDb5s9hKiiuyCS3CEbr76Rew_oHc1N49WZsZRgaAqjLEALw_wcB エレベータシステムズ] - エステムのブランドでエレベーターを販売する。独立系保守会社としての顔も持つ。
**[http://www.fuji-elevator.co.jp/ 富士エレベーター工業]
**[http://www.ev-the.com/ 東洋ハイドロ] - 社名にあるハイドロの通り、油圧式エレベータ専業メーカーとして発足した。現在はロープ式エレベーターも製造する。
**[http://www.nipponkiki.co.jp/products/elevator/index.html 日本機器鋼業] - ヘリポート用特殊昇降機や舞台昇降装置を得意とする。各種乗用や貨物用エレベーターも製造する。
* 船舶用の主なメーカー
** [[潮冷熱]]
** [[守谷輸送機工業]]
** [[シンドラーグループ]]
** [[三菱重工]]
** [[コネ (会社)|コネ]] - 東芝エレベータに出資しており協力関係にある。そのため、同社のダブルデッキエレベーターは東芝エレベータからのOEM。
* かつて存在したメーカー
** [[シンドラーエレベータ]] - 旧・日本エレベーター工業。[[2006年]]のエレベーターでの死亡事故発生後は規模を縮小し、[[2016年]]秋に日本でのエレベーター・エスカレーター事業から撤退。その後、捜査・訴訟に対応する企業として存続していたが、[[2021年]]に清算された。事業撤退以降、日本におけるシンドラー社製(旧・日本エレベーター工業製も含む)のエレベーターの保守点検・修理・改修は[[日本オーチス・エレベータ]]が引き継いで行っている<ref group="注釈" name="OESC">[[2016年]][[10月3日]]から[[2018年]][[5月31日]]までは[[日本オーチス・エレベータ]]の子会社の[[オーチス・エレベータサービス]](2018年6月1日に日本オーチス・エレベータに吸収合併された企業)が行っていた。</ref>他、グループであった、シンドラーエレベータ純正兼独立保守会社の[[マーキュリーアシェンソーレ]](現マーキュリーエレベータ)は同社に譲渡され、完全独立系となった。なお、大阪府に本社を構える[[日本エレベータ工業]]とは資本関係もなく、全く関係はない。
**日本エレベーター製造 - 旧東松工作所。1915年に前身の東松工作所が製造した、わが国初の国産化した乗用エレベーターとなった「東松式エレベーター」と呼ばれる押しボタン式全自動エレベーターが大阪本町の呉服店に設置された。その後東松孝時はわが国最初の法人組織日本エレベーター製造を1919年に設立した。当時、関西方面の建築設計界で活躍していた片岡安博士を社長に東松孝時は常務取締役となって自身が経営する東松工作所を継承した。当初は交流一段制御の低速交流エレベーターが主体であったが、1931年には明電舎と協力して国産技術による初の90{{nbsp}}m/min直流エレベーターを製造した。当時は一社で電気品と機械品をすべて製造するのは難しかったため、電気品は専門メーカーの協力を得ていた。その後国産技術の奨励の時流に乗り1936年に新しく完成した[[国会議事堂]]のエレベーター一式を納入するなど、国内トップメーカーとして多くの業績を上げた。1936年に[[日立製作所]]に買収され、販売、据付、保守を分担する会社として存続したが、1940年に解散してエレベーター事業は[[日立製作所]]に一本化された。[[日立製作所]]に買収されるまでに合計約3,000台のエレベーターを製造した。なお、現[[日本エレベーター製造]]とは別会社である。
**[[コネ (会社)|コネ]] - 2002年に第三者割当増資により、[[東芝]]株を取得したことで東芝との資本関係を構築。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toshiba-elevator.co.jp/elv/newsrelease/2001/post-2.html |title=フィンランド・コネ社との昇降機事業における資本提携について |access-date=2023年2月15日 |publisher=東芝エレベータ株式会社}}</ref>実験棟に共同でエレベーターを開発するなどしていたが、[[2015年]]に日本から撤退。純正保守は東芝より昇降機部門を全面移管した[[東芝エレベータ]]が引き続き請け負っている。
2022年現在、日本国内での総据付台数ベースでの[[市場占有率|シェア]]は以下のとおり。
* 1位 [[三菱電機]]
* 2位 [[日立ビルシステム]]
* 3位 [[東芝エレベータ]]
* 4位 [[フジテック]]
* 5位 [[日本オーチス・エレベータ]]
以上の5社でシェア約9割を占め、以降を[[シンドラーエレベータ]]、中央エレベータ工業等がその他を占める。
以前、フジテックは2007年の時点では大手5社の中で最下位であったが、近年エクシオール(同社製現行主力製品。エアコンを標準で搭載している。)を大規模に展開するなど日本全国でシェアを急拡大し、国内4位に躍り出た。
小荷物専用昇降機は上記の5社も生産しているが、これに限れば[[クマリフト]]がシェア1位となっている。なお、三菱電機の小荷物専用昇降機は子会社の菱電エレベータ施設(自社ではRYODENブランドの「リョーデンリフト」として販売。日本オーチス・エレベータにも供給)のOEMである。フジテックは精電社のOEMで小荷物専用昇降機のみの設置は認めていない(同社製エレベーター・エスカレーターと同時設置でなければ販売しない)。
メーカーの選定に際しては、建物所有者の資本系列や[[融資]]元[[金融機関]]の系列が絡むことが多い。例えば、[[丸の内ビルディング]]や[[横浜ランドマークタワー]]など[[三菱地所]]が所有する建物では、必然的に三菱製が採用されることになる(ただし、横浜ランドマークタワーのプラザ棟のように、メーカー名が伏せられているがパネル形状から明らかに日立製とわかるなど例外がある)他、[[三井不動産]]系のビル、[[ららぽーと]]等ではフジテック製エレベーターが多く採用されている。<ref>{{Cite web|和書|title=フジテック|エレベータ・エスカレータの新規設置、メンテナンス、リニューアル |url=https://www.fujitec.co.jp/project/6991 |website=www.fujitec.co.jp |access-date=2023-04-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=フジテック|エレベータ・エスカレータの新規設置、メンテナンス、リニューアル |url=https://www.fujitec.co.jp/project/2371 |website=www.fujitec.co.jp |access-date=2023-04-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=フジテック|エレベータ・エスカレータの新規設置、メンテナンス、リニューアル |url=https://www.fujitec.co.jp/project/5023 |website=www.fujitec.co.jp |access-date=2023-04-26}}</ref>また、[[ラゾーナ川崎]]のように、東芝の土地に出来た建物も東芝エレベータが使われている。さらに特殊な事例として、[[茨城県]]内では[[日立製作所]]が創業した[[日立市]]があることから比較的県内([[茨城県]]庁、[[日立市]]庁舎、コートホテル[[水戸市|水戸]]、クラウンホテル[[勝田市|勝田]]2号店等)では日立製のエレベーターが採用されることが多くなっている。
逆に大手[[スーパーマーケット]]チェーン、一般工場、財閥系を除く不動産業者による賃貸マンションや分譲マンションなどは建物によってさまざまであり、これは設計事務所が設備設計を行う際に、参考としてメーカーが設計図面上で選定されていることが多いものの、エレベーターの確認申請は建築設計図面とは別に提出され、メーカーを変更しても特に問題はないためであり、施工段階で、元請業者による見積もりが取られた際に、元請業者によって安価なメーカーが選ばれる事が多いためである。一部マンションなどでは、保守点検の効率化・コスト削減などの観点からデベロッパーの管理会社によってメーカーが指定されることもしばしばだ。
メーカーの業種は大抵「機械」だが、三菱電機ビルソリューションズと日立ビルシステムだけは「建設業」となっている。この2社はそもそも[[建築物管理]]業であることに因む。
=== メンテナンス(保守) ===
メンテナンスは[[メーカー]]自身、もしくは[[子会社|系列]]のメンテナンス会社が行うケースがほとんどである。一方、メーカー系列に属さない独立系メンテナンス会社もある。比較的割高なメーカー系のメンテナンスに対して、近年は安価な料金を掲げる独立系メンテナンス会社への切り替えも見られる。1980年代に独立系メンテナンス会社に対するメーカーの部品売り渋りが問題となり、独立系メンテナンス会社がメーカーを相手取って裁判を起こし、10年がかりで勝訴した。しかし、メーカーと独立系メンテナンス会社との関係が険悪なのは現在も変わらず、2009年に国土交通省が行った実態調査でこれが浮き彫りになった<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/house05_hh_000114.html 「エレベーターの保守管理等に関する実態調査」の結果について] 国土交通省2009年7月7日報道発表資料</ref>。独立系メンテナンス会社は業界団体の[[日本エレベーター協会]]からも事実上排除されており、加盟している会社はほとんどない。東芝エレベータは独立系メンテナンス会社に対する部品供給について価格・納期などで厳しい条件になると公言していた<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.toshiba-elevator.co.jp/elv/qa/maintenance/|title= メンテナンスに関するご質問|accessdate= 2019年11月8日|archiveurl= https://web.archive.org/web/20190607030418/https://www.toshiba-elevator.co.jp/elv/qa/maintenance/|archivedate= 2019年7月7日}}</ref>(現在は独立系に言及した記述は削除されている)。また、商品の性質上個人顧客がメインの三菱日立ホームエレベーターやパナソニック ホームエレベーターでは、独立系メンテナンス会社にメンテナンスを依頼しないように案内している<ref>[http://www.mh-he.co.jp/support/ エレベーター所有者の管理義務]三菱日立ホームエレベーター公式サイト</ref><ref>[https://sumai.panasonic.jp/catalog/electric_circuit.html?top_link=sumai400# ホームエレベーター/小型エレベーター 総合カタログ(新商品1418フォレスト掲載版)]</ref>。
また、[[フジテック]]は基本的に自社メンテナンスを推奨しており、独立系メンテナンスになる場合には新設設置は基本的に行わない。ただし、既存の[[フジテック]]製エレベーターを独立系メンテナンスに変更することは可能である。
その一方で、後述の通り東芝エレベータが独立系のエス・イー・シーエレベーターと業務提携するなど、従来の保守で収益をあげるビジネスモデルに陰りも出てきており、メーカーと独立系の関係にも変化が見られるようになった。
==== 日本での保守契約形態 ====
* POG(パーツ・オイル・グリース)
:その名の通り、電球類などの消耗部品(パーツ)・潤滑油(オイル・グリース)の取り替え及び補給のみを保証範囲とする保守契約。主要部品の取り替えは、個別に有償にて取り替えを発注することになる。
* FM(フルメンテナンス)
:前述のPOG契約に加えて、意匠部品以外の主要部品も保証範囲としている保守契約。POG契約では個別の有償対応となる主要部品の取り替えを、保守会社側の立案する保全計画に基づいて定期的に実施することにより、各機器の状態の悪化を抑えられるというメリットがある。
==== 日本でのメンテナンス形態 ====
* メーカー直轄
** [[エス・イー・シーエレベーター]] - 他社製エレベーターの保守点検・修理も行っている(後述)。また、[[2023年]][[1月26日]]より、[[東芝エレベータ]]と業務提携契約を締結。同社製エレベーターの純正保守も行う。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toshiba-elevator.co.jp/elv/newsrelease/2023/post-25.html |title=エス・イー・シーエレベーターと昇降機の保守事業で業務提携 |access-date=2023年2月15日 |publisher=東芝エレベータ株式会社}}</ref>
** [[エレベータシステムズ]] - 他社製エレベーターの保守点検・修理も行っている。
** [[東芝エレベータ]] - [[エス・イー・シーエレベーター|SEC]]製のエレベーターの保守点検・修理も行っている(先述)。
** [[日本エレベーター製造]]
** [[日本オーチス・エレベータ]] - シンドラー社製(旧・日本エレベーター工業製も含む)のエレベーターの保守点検・修理も行っている<ref group="注釈" name="OESC"/>。
** [[日立ビルシステム]] - 三菱日立ホームエレベーター製のエレベーターの保守点検・修理も行っている。
** [[フジテック]]
** [[三菱電機ビルソリューションズ]] - 三菱電機時代のエレベーター、三菱日立ホームエレベーター製のエレベーターの保守点検・修理・改修も行っている。
** [[横浜エレベータ]]
* メーカーの子会社
** エレケア - 日立ビルシステム子会社
** [[菱電エレベータ施設]] - [[三菱電機|三菱電機ビルソリューションズ]]の子会社。同社製エレベーターの実施設計・据付工事を行う。純正保守も行っている他、自社製品である小荷物専用昇降機のリョーデンリフトの設計・製造・据え付けを行う。
** [[トーコービルシステム]] - [[三菱電機]]グループ。三菱電機ビルソリューションズ子会社の菱電エレベータ施設とは異なり、三菱日立ホームエレベーターの据付も担っている。メーカー純正同等の保守が受けられる。
* 独立系(一部)
** [[エス・イー・シーエレベーター]] - 日本最王手の独立系メンテナンス会社。エレベーターの製造許可を取得しており、メーカーとしての顔も持つ(前述)。
** [https://kyoritsu-dengyo.co.jp/ 共立電業] - 独立系ではあるものの、フジテックの特約店としてフジテック製エレベータの据付工事や純正保守を手掛ける。
** [[エレベーターコミュニケーションズ]]
** [[マーキュリーアシェンソーレ|マーキュリーエレベータ]] - マーキュリーアシェンソーレから社名変更。元[[シンドラーエレベータ]]の子会社。[[シンドラーエレベータ]]の整備協力会社として同社製エレベーターの純正保守と同時に独立系としての顔も持っていた。[[シンドラーエレベータ]]の日本撤退時に[[日本オーチス・エレベータ]]に譲渡され、同社の子会社となったが、日本オーチス・エレベータの純正保守は行っておらず、完全独立系となっている。
** [[コスモエレベーター]]
** [[ジャパンエレベーターサービスホールディングス]] - 近年独立系のシェアを急拡大しており、関東首都圏を中心に展開する。全国にある小規模な独立系メンテナンス会社を協力会社とすることで全国に対応しているのが特徴である。
** [[セフティエレベーター]]
** [[京都エレベータ]] - [[京都府]]に本社を構える独立系メンテナンス会社。[[YouTube]]チャンネルにてエレベーターの雑学などを公開している。
=== 著名なエレベーター ===
* [[横浜ランドマークタワー]] - [[時速]]45.0{{nbsp}}km([[分速]]750メートル)の速度で下降する、世界で第1位の'''下り最高速エレベーター'''(三菱電機製)
* [[関西電力黒部専用鉄道]] - 鉄道車両を運ぶことの出来る竪坑エレベーターがある。[[2007年]]時日本最大の巻き上げ能力(最大積載量4,500{{nbsp}}kg)を有していたが、2011年に[[梅田阪急ビル]]の80人乗り大型エレベーター(最大積載量5,250 kg)に凌駕される。
* [[華厳滝エレベーター]] - 岩盤の中をくり貫いて作られた。
* [[秋芳洞]]エレベーター([[山口県]][[美祢市]]) - 地上にある[[秋吉台案内所]]エレベーター口より、地下80{{nbsp}}mへ降下できる。
* [[長崎市道相生町上田町2号線|グラバースカイロード]]([[長崎市]]) - 日本で初めてエレベーターとして作られた公道。
* [[東華菜館]]([[京都市]]) - 現存する日本最古(1926年設置)のエレベーター(米[[OTIS]]製)がある。
* 北海道建設会館([[北海道]][[札幌市]]中央区) - 駐車場棟に、国内唯一の旋回を行いながら昇降する自動車用エレベーター(三菱スターパーク)が設置されている。旋回部分が[[三菱重工業]]製、昇降部分が[[三菱電機]]製。駆動方式はロープ式。最大積載荷重は2,850{{nbsp}}kg。三菱重工業広島造船所(現、三菱重工業広島製作所)にて[[昭和41年]]製造、完成。
<!--
=== 主な事故 ===
* 2003年[[10月17日]]、[[福島県]][[安達郡]][[本宮町 (福島県)|本宮町]](現 : [[本宮市]])の万世地下歩道で、利用者が[[子供|幼児]]2人の乗った[[乳母車|ベビーカー]]と共にエレベーターへ乗り込もうとしたところ、ベビーカーが扉にはさまり、そのままの状態で上昇した。これによりベビーカーは損壊、幼児1名がかごの下からシャフトへ転落、[[外傷|負傷]]した。事故原因は制御回路の設計ミスと安全装置の不備である。
* [[2004年]]、[[新潟県中越地震]]の[[長周期地震動]]によって、震度3だった[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]にある[[六本木ヒルズ森タワー]]でエレベーター6機が[[六本木ヒルズ森タワー#エレベーターのトラブル|損傷]]した。
* [[2005年]][[5月28日]]、[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]の那珂第一市営住宅1棟(13階建て)で、シャフト上部の機器交換作業中に、かごを一時的に吊り下げる鎖が切れ、作業員2人を乗せたかごが12階から1階まで落下した。これにより作業員のうち1人は死亡、もう1人は足の骨を折る重傷を負った。本来であれば非常停止装置などが作動し途中で停止するはずだったが、動作は確認されなかった。
* [[2006年]][[6月]]、東京都港区にある23階建ての住宅「シティハイツ竹芝」で高校2年生の利用者が篭と建物に挟まれる[[死亡]]事故が発生し、当該エレベータを製造した[[シンドラーエレベータ]]に[[警察|捜査当局]]が強制[[捜査]]を始めた。これをきっかけに国内外各地で、ドアが開いたまま上昇、閉じ込め、天井への衝突など同社製エレベータの動作トラブルが相次いで報じられた。また、当時のメンテナンスを[[シンドラーエレベータ]]による純正保守ではなく、独立系メンテナンス会社の[[エス・イー・シーエレベーター]]が請け負っており、[[エス・イー・シーエレベーター]]の社員に有罪判決が下ったことから、独立系メンテナンス会社についても社会的注目を集めることとなる。なお、[[2012年]][[10月31日]]には[[石川県]][[金沢市]]の[[アパホテル]]金沢駅前の同社製エレベーターで同様の死亡事故が発生しており、メンテナンスは[[シンドラーエレベータ]]から委託を受けた[[日本エレベータ工業]]が受注していた。その後この事件がきっかけとなり、戸開走行保護装置や非常止め装置(二重ブレーキ)の設置が[[建築基準法]](平成20年政令第290号)改正により定められることとなった。
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== 海外におけるエレベーター ==
=== 法令等 ===
北米や欧州の国々では日本とは異なり法令で直接構造基準等を設けているわけではない。
ヨーロッパではEU圏内の市場に出回る製品等の均一な安全性を確保するため製品ごとに指令が出されており、昇降機にもlift Directiveという指令があり、これに基づいて欧州統一規格ENが定められている。
アメリカではASMEA17.1、カナダでもB44という基準が指定されているが、規格は各州の州法で定められており、どの年度版を基準にしているかは各州により異なる。
=== 製造メーカー ===
* [[オーチス・エレベータ・カンパニー]] - 世界最大のエレベーターメーカーであり、世界シェアトップである。日本にも[[日本オーチス・エレベータ]]を擁し、シェアは国内5位。大手としては[[シンドラーエレベータ]]日本撤退以降、唯一の外国発祥メーカーである。
* [[シンドラーグループ]] - かつて日本においても[[シンドラーエレベータ]]を展開。現在は撤退している。
* [[ティッセンクルップ]] - エレベーター部門を売却し、現在「TK Elevator」に改称している。
* [[コネ (会社)|コネ]]
* [[現代エレベーター]]
=== 著名なエレベーター ===
==== 中国 ====
* [[CTF金融センター]] - [[時速]]75.6{{nbsp}}km([[分速]]1,260{{nbsp}}m)の速度で上昇する、世界で第1位の'''上り最高速エレベーター'''([[日立ビルシステム|日立製作所]]製・下りは分速600{{nbsp}}m)
==== ドイツ ====
* [[ケールシュタインハウス|ケールシュタインハウス(旧「鷲の巣」山荘)]]([[ドイツ|ドイツ連邦共和国]][[バイエルン州]][[ベルヒテスガーデン]]近辺) - [[ケールシュタイン]]山頂(海抜1,881{{nbsp}}m) 近くに建つ[[ティーハウス]]。海抜1,700{{nbsp}}m まで続く車道より同建造物まで直結する長さ124{{nbsp}}mの専用エレベーター(内部は鏡貼り)がある。
==== 米国 ====
* [[大陸間弾道ミサイル|ICBM]][[タイタンI (ミサイル)|タイタンI]] - 地下サイロ内で直立状態で保管し、発射時には直立のまま燃料を注入し、燃料込みで105{{nbsp}}t超になる全長31{{nbsp}}mのミサイル本体と、その他別重量の支持体他を一緒にエレベーターで地上に上げ、地上で点火・発射した。このサイロエレベーターは量産された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Elevators}}
{{Wiktionary|エレベーター}}
* [[エレベーターガール]]
* [[搬器]]
* [[エスカレータ]]
* [[パーテルノステル]]
* [[シーケンス制御]]
* [[カントリーエレベーター]]
* [[階段昇降機]]
* [[階]]
* [[迫]]
* [[カーレーター]]
* [[船舶昇降機]](ボートリフト) - 船舶を一般的には水ごと上下させる装置。[[ファルカーク・ホイール]]など。
* [[エレベータークラブ]]
* [[斜行エレベーター]]
* [[水平エレベーター]]
* [[軌道エレベータ]] - 惑星(例えば地球)の表面から[[静止軌道]]以上まで垂直方向に伸び、宇宙ロケットなどの代わりに物資などを運ぶ構想。研究開発が行われているが、実現していない。
* [[:en:Dumbwaiter (elevator)|Dumbwaiter]] - ダムウェイター。レストランなどにおける貨物用の小型エレベーター。
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author1=三井宣夫|authorlink1=三井宣夫|author2=前島正裕|authorlink2=前島正裕| translator=| title=[https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/30/BNSM_E3003.pdf わが国の最古級エレベーター巻上機]| page=| publisher=[[国立科学博物館]]| location =| year=2007| isbn=| ref=harv}}{{small|([https://web.archive.org/web/20200722193250/https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/30/BNSM_E3003.pdf アーカイブ])}}
== 外部リンク ==
* [https://www.n-elekyo.or.jp/ 一般社団法人日本エレベーター協会]
* [https://blog.goo.ne.jp/elemania 東京エレベーター研究会](アマチュアサイト。関東のエレベータ中心)
* [https://www.youtube.com/watch?v=66pX61Z2csA YouTubeのクリップ - ベルリンテレビ塔のエレベーター]
{{部屋}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:えれへえたあ}}
[[Category:エレベーター|*]]
[[Category:空間]]
[[Category:陸上交通]]
[[Category:鉄道]]
|
2003-09-15T10:25:26Z
|
2023-12-20T00:13:57Z
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[
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黄道吉日
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黄道吉日(こうどうきちにち)とは、何事を行うにも吉であり、あらゆる凶悪が避けられるとする日のこと。単に黄道ともいう。
元々は陰陽道での言葉で、青龍・明堂・金匱・天得・玉堂・司命のことを黄道六辰といい、これらに当たる日を黄道吉日と呼んで、最上の吉日としていた。後に、黄道六辰に限らず単に日柄の良い日のことを黄道吉日と呼ぶようになった。
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アイン・ランド
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アイン・ランド(Ayn Rand、/ˈaɪn ˈrænd/;、1905年2月2日 - 1982年3月6日)は、ロシア系アメリカ人の小説家、思想家、劇作家、映画脚本家である。本名アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム(露: Алиса Зиновьевна Розенбаум)。二冊のベストセラー小説『水源』、『肩をすくめるアトラス』で知られる。また自ら「客観主義」と名付けた思想体系の創出者としても知られる。
ロシアで生まれ、同国で教育を受けた後、1926年にアメリカ合衆国に移住。ハリウッドで映画脚本家として働き、劇作品の一つは1935年から1936年までブロードウェイで上演された。初期の小説2作品は当初それほど評判にならなかったが、小説『水源』(1943年)で名声を得た。
1957年には代表作の小説『肩をすくめるアトラス』を出版。その後は自らの思想を伝播するノンフィクションに転向した。自ら雑誌を刊行し、いくつかのエッセー集を発表し、1982年に死去した。ランドは理性を知識を得る唯一の手段として擁護し、信仰や宗教を拒絶した。合理的かつ倫理的なエゴイズムを支持し、倫理的利他主義を拒絶した。政治においては「実力への着手」(Initiation of Force、自分の側からの強制力の行使)を非難し、集産主義および国家主義に反対した。また、無政府主義にも反対した。最小国家主義および自由放任資本主義を、個人の権利を守る唯一の社会制度と信じ、支持した。芸術においてはロマン主義的写実主義を唱道した。一部のアリストテレス派哲学者や古典的自由主義を除き、殆ど全ての思想家及び思想的伝統を辛辣に批判した。
文芸評論の世界では、ランドの虚構は殆ど認められていない。アカデミズムの世界では、ランドの思想はほぼ無視または否認されている。客観主義運動は、ランドの思想を一般および学界に広めることを目指す運動である。リバタリアンやアメリカの保守主義において、ランドは大きな影響力を保ち続けている。
ランドは1905年2月2日にサンクトペテルブルクに住む中産階級の一家の、3人姉妹の長女として生まれた。父はジノヴィ・ザハーロヴィチ・ローゼンバウム、母はアンナ・ボリソヴナ(旧姓カプラン)で、2人はほぼ非順守派のユダヤ人であった。父ジノヴィ・ローゼンバウムは薬剤師として成功し、薬局一店舗とこの薬局が入るビルを所有するに至った。ランドは学校には退屈し、彼女自身によれば8歳の時には映画の脚本を書き始め、10歳の時には小説を書き始めた。ランドが12歳の時、二月革命(1917年)が起きた。この時はニコライ2世よりもアレクサンドル・ケレンスキーに好感を持っていた。
その後の十月革命と、ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキの独裁確立により、ランドの一家はそれまでの快適な生活を破壊された。父の薬局事業は没収され、一家は転居を強制された。ランド一家はロシア内戦中白軍の支配下にあったクリミアに逃れた。ランドの回想によれば、ランドは高校時代に無神論の立場を取ることを決め、理性を他のあらゆる人間的価値の上位に置くことに決めた。ランドが16歳でクリミアの高校を卒業した後、一家はペトログラード(旧サンクトペテルブルク)に戻った。ペトログラードでの生活条件はひどく、時に飢餓寸前の状態に陥った。
ロシア革命後、大学が女性に解放され、ランドはペトログラード大学に入学した最初の女性の一人になった。ランドは、この大学の社会教育学部で歴史を専攻した。大学ではアリストテレスおよびプラトンの著作に出会った。アリストテレスには最大の影響を、プラトンには最大の反面教師としての影響を、それぞれ受けることになった。アリストテレスとプラトンに次いでランドが熱心に著作を研究した思想家は、フリードリヒ・ニーチェであった。フランス語、ドイツ語、ロシア語を読むことができたランドは、フョードル・ドストエフスキー、ヴィクトル・ユーゴー、エドモン・ロスタン、フリードリヒ・シラーなどの作家にも出会い、これらの作家の作品を長く愛読した。
卒業直前、ランドは他の多くの「ブルジョア」学生と共に大学から追放された。しかし海外から訪れた科学者グループからの抗議を受け、追放された学生の多くは学業の修了と卒業を許可された。ランドも1924年に大学を卒業した。その後1年間レニングラードの国立映画専門学校で学んだ。学校の課題の一つとしてポーランド人女優ポーラ・ネグリに関する評論を書き、これがランドの最初の刊行作になった。
この頃までに筆名としてアイン・ランドを名乗ることを決めていた。名前の由来は諸説あるが、「ランド」は本名の姓Rosenbaumのキリル文字での短縮形、「アイン」はフィンランド語での名前、もしくは「目」を意味するヘブライ語「 עין」(アイン)から取ったと言われる。
1925年、ランドはアメリカの親類を訪問するビザを取得した。ニューヨーク港に着いたランドは、マンハッタンの摩天楼群が織りなすスカイラインに、感激のあまり「光輝の涙」を流したと後に回想している。米国に留まり映画脚本家になることを決心していたランドは、最初にシカゴの親類を訪れた。親類の一人は映画館を1つ所有しており、彼女が数十の映画を無料で見ることを許した。数ヶ月の滞在後、ランドはシカゴの親類の家を後にし、カリフォルニア州ハリウッドへと出発した。
当初ハリウッドでの生活は苦しく、生活費を稼ぐために雑多な仕事に従事した。著名映画監督セシル・B・デミル (Cecil B. DeMille) との面識を得て、彼の映画「キング・オブ・キングス」(The King of Kings)でのエキストラに採用され、その後も下級シナリオライターとしての仕事を獲得した。「キング・オブ・キングス」での仕事中、若く野心的な俳優フランク・オコナー(Frank O'Connor)と出会い、1929年4月15日に結婚。1931年にはアメリカ市民権を取得した。1930年代、ランドは作家業の補助として様々な職業に就いた。その中には、当時の5大映画会社の一つ、RKOスタジオの衣装部門の責任者の仕事もあった。両親と2人の妹を米国に呼び寄せようと何度か試みたが、彼らは移住許可を取得できなかった。
ランドが作家として最初に成功した作品は、1932年に映画会社ユニバーサル・スタジオに買い取られた脚本「レッドポーン」(Red Pawn)であった。ただしこの脚本は結局映画化されなかった。次に書かれた法廷ドラマ「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、まず1934年にハリウッドでエドワード・E・クライヴ (Edward E. Clive) によって映画化され、1935年にはブロードウェイで上演され成功を収めた。劇場版の「1月16日の夜に」では、毎晩観客の中から「陪審員」が選ばれ、陪審員の「評決」に応じ、2つ用意された別々の結末の一方が演じられた。1941年には、映画会社パラマウント・ピクチャーがこの劇の映画版を制作した。ランドはこの映画の制作に参加せず、その結果に対しきわめて批判的だった。
ランドの最初の小説は、1936年に出版された半自伝的作品『われら生きるもの』(We the Living)である。ソビエト政権下のロシアを舞台にしたこの小説は、個人と国家の対立に焦点を当てている。この小説の1959年版のまえがきでランドは、「(『われら生きるもの』は)私の小説の中で最も自伝に近い作品である。文字通りの意味での自伝ではないが、知的な意味での自伝とは言える。筋書きは創作だが、背景は創作ではない[....]」と述べている。出版当初の売れ行きは悪く、アメリカの出版社はこの作品を絶版にした。ただしヨーロッパでは売れ続けた。後に『水源』等がベストセラーになったことにより、ランドは1959年にこの小説の改訂版を出版できた。以来『われら生きるもの』の販売部数は300万部を超えている。1942年にはイタリアでこの小説を元にした2部作の映画、『ノア・ビビ』(Noi vivi)および『アディオ・キラ』(Addio, Kira)が制作された。ランドはこの映画化について知らなかった。この2部作映画は1960年に再発見され、ランドの承認の下、1本の映画『われら生きるもの』(We the Living)に再編集され、1986年に発表された。
次の大作『水源』(The Fountainhead)を書いた後の休み中には、短篇小説『アンセム』(Anthem)を書いている。『アンセム』には、全体主義的な集産主義が勝利した結果、「I(私)」という言葉さえ忘れ去られ「We(私たち)」という言葉に取って代わられた、ディストピア的な未来像が描かれている。この小説は1938年にイングランドで出版されたが、アメリカでは当初この小説を出版してくれる出版社が見つからなかった。『われら生きるもの』の場合と同様、その後『水源』がベストセラーになったおかげで、ランドは1946年にこの小説の改訂版を出版できた。『アンセム』の販売部数は350万部を超えている。
1940年代、ランドは政治活動に積極的に関与するようになった。1940年の大統領選挙でランドは、夫と共に、共和党ウェンデル・L・ウィルキー (Wendell Lewis Willkie) 陣営のボランティア専従スタッフとして活動した。この活動の過程で、ランドは初めて公衆を前に演説する経験をした。ニューヨーク市では、ウィルキー支持のニュース映画を見たばかりの聴衆から、時に敵意をむき出しにした質問を受けることもあった。ランドはこうした敵意ある質問にも当意即妙に答えた。これはランドにとって非常に楽しい経験だった。またこの活動により、自由市場資本主義を支持する知識人達との交流も生まれた。ジャーナリストのヘンリー・ハズリット (Henry Hazlitt) 夫妻と友人になり、ハズリットの紹介でオーストリア学派の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises) とも知り合った。ランドと彼らの間には思想的相違があったが、ランドはハズリットとミーゼスの著作を生涯にわたり支持し、彼らもランドへの賞賛を表明した。ミーゼスはランドのことを「the most courageous man in America(アメリカで最も勇敢な人)」と述べたことがある。この賛辞はランドを特に喜ばせた。ミーゼスがランドを「woman」ではなく「man」と呼んだからである。ランドはリバタリアンの作家イザベル・パターソンとも友情を育んだ。二人は幾度となく会った。博識なパターソンに、ランドは夜遅くまでアメリカの歴史や政治について尋ねた。パターソン唯一のノンフィクション『The God of the Machine』には、ランドが与えたアイデアが反映されている。
執筆に7年を費やし、1943年に出版されたロマンス思想小説『水源』(The Fountainhead)は、作家アイン・ランド初の大ヒット作となった。この小説は、妥協しない若き建築家ハワード・ロークと、「second-hander(セコハン人間、受け売り人間)」との対立を中心に描かれている。セコハン人間とは、他人を自己より上位に置き、他人を通じて生きようとする人々である。『水源』はボブスメリル社 (Bobbs-Merrill Company) が出版を引き受ける前に、12の出版社から出版を拒否されている。ボブスメリル社が『水源』の出版引き受けを決めたのは、同社の編集者アーチボルド・オグデン (Archibald Ogden) が、『水源』を出版しなければ会社を辞める、と雇い主を脅したからである。『水源』の仕上げにかかっている間、疲労と闘うため、ランドは「ベンゼドリン」という商品名のアンフェタミン(中枢神経刺激薬)の処方を受けていた。この薬は原稿を締め切りに間に合わせるための長時間執筆に役立ったが、ランドは疲弊し切り、原稿完成時、医師から2週間の安静を命じられたほどであった。この薬を約30年にわたり使用し続けたことが、後に彼女と付き合った人々から、気分の移り変わりが激しいと時に評される一因だった可能性がある。
『水源』は最終的に世界的成功を収め、ランドに名声と経済的安寧をもたらした。1943年、ランドはこの小説の映画化の権利をワーナー・ブラザース社に売却し、同映画の脚本を書くためハリウッドに戻った。『水源』映画版(邦題「摩天楼」)の脚本を完成させると、ランドは映画プロデューサーのハル・ウォリス (Hal Wallis) に、脚本家兼スクリプトドクターとして雇われた。ウォリスの下でランドが脚本を書いた映画には、アカデミー賞にノミネートされた「ラブ・レター」(Love Letters、1945年)や「大空に駈ける恋」(You Came Along、1945年)などがある。この間、ランドには他のプロジェクトに関わる余裕ができた。こうしたプロジェクトの一つに、彼女の思想をノンフィクションの形で論じた『個人主義の道徳的基礎』(The Moral Basis of Individualism)の執筆計画があった。計画された本は完成しなかったが、この本の内容を要約した『明日への唯一つの道』(The Only Path to Tomorrow)というエッセイが、「リーダーズ・ダイジェスト」(Reader's Digest)誌の1944年1月号に発表された。
ハリウッドで働く間、ランドは、自由市場を擁護し共産主義に反対する政治活動への関与を深めた。ハリウッドの反共産主義グループ「アメリカの理想を守るための映画同盟」 (Motion Picture Alliance for the Preservation of American Ideals) と関係を持つようになり、このグループの立場からの記事を複数書いた。反共産主義アメリカ作家協会 (the anti-Communist American Writers Association) の一員にもなった。イザベル・パターソンがランド宅を訪れ、カリフォルニアに住むランドの盟友たちに会った時、パターソンは、ランドの大切な盟友たちに向かって無礼な(とランドが見なす)発言をした。パターソンとランドの不和はこの発言で決定的となった。1947年、第二次赤狩りの間、ランドはアメリカ合衆国議会下院の非米活動委員会 (Un-American Activities Committee) で「友好的証人」(friendly witness) として証言台に立った。ランドは、ソ連での彼女の個人的経験と、映画「Song of Russia」(1944年)で描かれたソ連像がかけ離れていることを証言した。ランドはこの映画が、ソ連での生活を実際よりもはるかに良好かつ幸福に描くことで、ソ連の状況を著しく歪めていると主張した。ランドはまた、当時評判だった映画「我等の生涯の最良の年」(The Best Years of Our Lives、1946年)がビジネス界をネガティブに描いている(と彼女が解釈した)点の批判も希望したが、この点についての証言は許可されなかった。聴聞の後、調査の有効性をどう思うか尋ねられたランドは、このプロセスは「無駄骨」(futile) だったと答えている。
『水源』(The Fountainhead)の映画版(邦題「摩天楼」)は、数回の遅延の後、1949年に公開された。ランド自身による脚本をほぼそのまま使用した映画だったが、ランドはこの映画を「初めから終わりまで嫌い」で、編集、演技などさまざまな要素への不満を述べた。
『水源』(The Fountainhead)出版後、ランドは数年にわたり読者から多数の手紙を受け取った。読者の中には、この小説から深い影響を受けた者もいた。1951年、ランドはロサンゼルスからニューヨークに転居した。ニューヨークでランドは、こうした崇拝者たちのグループを自分のそばに集めた。このグループは、社会主義国家における集産主義組織を意味する「The Collective」(集団)を(冗談で)自称した。このグループには、後の連邦準備制度理事会議長アラン・グリーンスパン (Alan Greenspan) や、若い心理学学生ネイサン・ブルメンタル(Nathan Blumenthal、後のナサニエル・ブランデンNathaniel Branden)とその妻バーバラ (Barbara) や、バーバラの従兄弟レナード・ピーコフもいた。当初このグループは、週末にランドのアパートを訪れ思想的な議論をする友人同士の、形式張らない集まりだった。その後ランドは、新しい小説『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)の原稿を書きながら、この小説の草案をこのグループに読ませるようになった。1954年には、年下のナサニエル・ブランデンとの親密な関係が愛人関係に発展した。この関係はランドとプランデンそれぞれの配偶者の同意に基づくものだった。
1957年に出版された『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)はランドの最高傑作になった。ランドはこの小説のテーマを「人間存在における精神の役割と、そこから導き出される新しい道徳思想、すなわち合理的利己の道徳の提示」と説明している。『肩をすくめるアトラス』では、ランドのオブジェクティビズム思想の中心テーゼが唱道され、人間による達成に関する彼女の考えが表現されている。この小説では、ディストピア化したアメリカ合衆国で、トップレベルの創造性を持つ実業家、科学者、芸術家がストライキを決行し、山岳地の奥に密かに独立自由経済社会を建設する。この小説の主人公でストライキの指導者であるジョン・ゴールトは、このストライキを、国家の富と達成に最も貢献をしている人々の精神を引き揚げることにより、「世界のモーターを止める」ことと述べる。この架空のストライキを通じランドが表現しようとしたのは、合理的で生産的な人々の努力がなければ、経済は崩壊し社会は瓦解するということである。『肩をすくめるアトラス』は恋愛小説、ミステリー、およびSFの要素を含んでいる。主人公ジョン・ゴールトが行う長大な演説は、ランドの小説作品の中で、彼女のオブジェクティビズム思想を最も詳しく述べたものである。
多くの否定的なレビューにもかかわらず、『肩をすくめるアトラス』は国際的ベストセラーになった。ジャーナリストのマイク・ウォレス (Mike Wallace) によるインタビューの中で、ランドは自分自身を「存命する中で最も創造的な思想家」と表現している。この小説を完成後、ランドは深刻な抑鬱症に陥った。『肩をすくめるアトラス』はランドの最後のフィクション作品であり、彼女の人生の転換点であった。この作品をもってランドの小説家としてのキャリアは終わり、大衆的思想家としての役割が始まった。
1958年、ナサニエル・ブランデンは、ランドの思想の普及を目的とする「ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ」(Nathaniel Branden Lectures) を設立した。「ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ」は、後に「NBI: ナサニエル・ブランデン研究所」 (Nathaniel Branden Institute) として法人化された。NBIのメンバーは、同研究所の講演会で講演し、ランドが編集する定期刊行誌に論文を寄稿した。ランドは後にこれらの論文のいくつかを書籍化して出版した。NBIの文化は知的馴れ合いであり、ランドへの阿諛追従であったと批判する者もいる。NBIの批判者には、NBIの元研究生や、ブランデン自身が含まれる。NBIやオブジェクティビズム運動自体が、カルトもしくは宗教であると述べる者もいる。ランドは、文学や音楽から性、 髭に至るまで、幅広いトピックについて意見を表明した。ランドの追従者の中には、彼女の好みを模倣したり、彼女の小説の登場人物に合う服を着たり、彼女と同じような家具を買ったりする者もいた。NBIの研究生の多くは、ランドの眼鏡に適わなかった。ランドは研究生たちを厳格な基準に従わせた。自分に同意しない者には、冷たく対応したり、怒りを向けたりすることもあった。ただし、かつてのNBI研究生たちの中には、これらの行動は誇張して伝えられており、問題があったのは、ニューヨークでランドと特に親しかった追従者との関係に限られていたと信じる者もいる。
1960年代から1970年代にかけ、ランドはオブジェクティビズム思想の発展と普及のため、ノンフィクション作品の執筆や学生向けの講演を精力的に行った。ランドが講演した大学には、イェール大学、プリンストン大学、コロンビア大学、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学などが含まれる。1963年にはルイス & クラーク大学から名誉博士号を授与された。フォード・ホール・フォーラム (Ford Hall Forum) で毎年講演するようにもなり、講演後は聴衆からの質問に応じた。これらの講演や質疑応答で、ランドは当時の政治的・社会的問題について、しばしば議論の的になる立場を取った。たとえばランドは、人工妊娠中絶の権利を支持し、ベトナム戦争と徴兵に反対し(ただし多くの徴兵忌避者を「クズ」(bum) と糾弾している)、1973年の第四次中東戦争でパレスティナおよびアラブと闘うイスラエルを「野蛮人と闘う文明人」と呼んで支持し、アメリカに入植したヨーロッパ人にはアメリカ先住民から土地を奪う権利があったと述べ、同性愛は「不道徳」(immoral) で「胸が悪くなる」(disgusting) と述べながら、同性愛を規制するすべての法律の廃止を唱えた。また、米国大統領選挙において何人かの共和党候補者を支持した。中でも最も強く支持したのは1964年の大統領選に出馬したバリー・ゴールドウォーターであった。ランドはゴールドウォーターの立候補を、刊行誌「ザ・オブジェクティビスト・ニューズレター」(The Objectivist Newsletter)で数回にわたり後押ししている。
1964年、ナサニエル・ブランデンは若い女優パトリシア・スコット (Patrecia Scott) と愛人関係になった(後にブランデンは彼女と結婚した)。ナサニエル・ブランデンと妻バーバラはこの愛人関係をランドに隠し続けた。1968年にランドがこの愛人関係を知ったとき、ブランデンとの愛人関係は既に終わっていたが、ランドはブランデンおよびバーバラと絶縁した。これによりNBIは終焉を迎えた。ランドは「ザ・オブジェクティビスト」(The Objectivist)誌でナサニエル・ブランデンとの絶縁を発表した。絶縁の理由は、ナサニエル・ブランデンの不誠実、およびその他の「彼の個人的生活における非合理的な行動」であるとした。ブランデンは後にあるインタビューで、「アイン・ランドの神秘性を永続化したこと」および「オブジェクティビズム運動に浸透したあの恐ろしい知的抑圧の雰囲気に寄与したこと」を、「すべてのオブジェクティビズム学徒」に対し謝罪している。その後数年間で、ランドは複数の盟友と交際を絶っている。
1974年、ランドは肺ガンの手術を受けた。ランドは数十年にわたるヘビー・スモーカーだった。1976年にはニューズ・レターの執筆から退いた。またこの年、(社会保障および公的医療保障には当初反対していたにもかかわらず)周囲の説得に応じ、彼女の弁護士の所属事務所のコンサルタントであるエヴァ・プライアーが、社会保障および公的医療保障の利用を申請することを許した。1970年代末にはオブジェクティビズム運動におけるランドの活動は徐々に沈滞し、特に1979年11月9日に夫が死去してからは沈滞が顕著になった。ランドが最後に取り組んだプロジェクトの一つに『肩をすくめるアトラス』のテレビ化があったが、これは未完に終わった。
1982年3月6日、ランドはニューヨーク市の自宅で心不全により死去した。遺体はニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された。ランドの葬儀にはアラン・グリーンスパンを含む複数の著名追従者が参列した。ランドの柩のそばには、ドルマークをかたどった高さ180センチのフラワーアレンジメントが添えられた。遺言状で、ランドはレナード・ピーコフを遺産相続人に指名していた。
ランドは自らの思想を「オブジェクティビズム」 と呼んだ。ランドによれば、オブジェクティビズムの本質は「人間を英雄的存在と見なす人間観」であり、この人間観によれば、「自己の幸福の追求が人生の正しい目的であり、生産的な達成が人間にとって最も崇高な活動であり、理性が人間にとって唯一の絶対的基準である」とされた。ランドはオブジェクティビズムを一つの思想体系と見なし、自らの主張を形而上学、認識論、倫理学、政治思想、および美学に展開した。
形而上学においては実在論を支持し、神秘主義あるいは超自然主義(と彼女が見なす立場)には、あらゆる形態の宗教を含め、すべて反対した。認識論においては、感覚を通じた知覚、および理性を、すべての知識の基礎と見なした。ランドは、感覚を通じた知覚の妥当性を、自明と見なした。理性を、「人間の五感を通じて提供される素材を識別し、統合する能力」と説明した。「直覚」、「直観」、「啓示」、あるいは「ただわかる」といった、非知覚的知識あるいは先験的知識の存在を主張する立場を、すべて拒絶した。ランドは「オブジェクティビズム認識論入門」(Introduction to Objectivist Epistemology)において概念形成の理論を提示し、分析/総合の二分論の否認を支持した。
倫理学においては、道徳原理として合理的エゴイズム(合理的利己)を主張した。ランドは、個人は「自己を他者の犠牲にすることも、他者を自己の犠牲にすることもなく、自己自身のために存在する」べきであると述べた。ランドは『利己主義という気概』(The Virtue Of Selfishness)という著書で、エゴイズムを「自己本位であることの美徳」(the virtue of selfishness) と呼んだ。この著書でランドは、is-ought問題(「-である」という命題からの推論で「-すべき」という命題を導く矛盾)に対する彼女の解決を示した。その解決は、道徳の基盤を「人間が人間として生存する必要性」に置くメタ倫理学に依拠するものであった。ランドは道徳的利他主義を、人間の生命および幸福に対する要求と相容れないとして、非難した。自分の側からの強制力の行使 (the initiation of force) は邪悪かつ不合理であると考え、『肩をすくめるアトラス』の中で「強制と精神は相反する」 (Force and mind are opposites) と書いた。
ランドの政治思想においては、財産権を含む個人の権利が強調された。ランドは、自由放任資本主義を唯一の道徳的な社会システムと見なした。彼女の見解では、自由放任資本主義が、個人の権利を保護を基盤とする唯一の社会システムだったからである。国家主義には反対した。ランドが考える国家主義には、神権政治、絶対君主制、ナチズム、ファシズム、共産主義、民主社会主義、独裁制も含まれた。ランドは、強制力による権利の実現は、憲法による制限を受けた政府のみが行うべきであると信じた。政治に関するランドの見解は、しばしば保守またはリバタリアニズムに分類されるが、彼女自身が好んだ呼称は「資本主義徹底派」(radical for capitalism) であった。ランドは政治運動で保守派と協働したが、宗教や倫理などの問題では、保守派に同意しなかった。リバタリアニズムを無政府主義と同類視して非難した。無政府主義は、主観主義に基づくナイーブな理論であり、実践においては集産主義にしかつながらないとして退けた。
ランドの美学は、「芸術家による形而上学的価値判断に基づく、現実の選択的再創造」(selective re-creation of reality according to an artist's metaphysical value-judgments)として定義される。芸術は、哲学的概念を、人々が把握しやすい形式に具現化することによって、人間の意識のニーズを満たすものであると述べた。作家としてランドが最も力を注いだ芸術形式は文学であり、ロマン主義を、文学において人間の自由意志の存在を最も正確に反映するアプローチと見なした。ランドは自分の文学へのアプローチを「ロマン主義的写実主義」(romantic realism) と称した。
ランドはアリストテレスに最も大きな影響を受けたと認めている。哲学の歴史上推薦できるのは、アリストテレス、アクィナス、アイン・ランドの「3人のA」だけだとも述べた。事実ランドがアリストテレスに負うところは大きく、マイク・ウォレスによる1959年のインタビューで、ランドは「私が精神的に恩義を受けていることを認めるのは、アリストテレスだけです。アリストテレスは、私がこれまで影響を受けた唯一の哲学者です。アリストテレスの影響による部分を除き、私は自分の思想を、自分自身で築き上げました」と答えている。ただしランドは、若い頃にフリードリヒ・ニーチェからインスピレーションを受けてもいる。研究者によると、ニーチェの影響は、ランドの日記の初期の記述や、後にランドが改訂した『われら生きるもの』(We the Living)の初版の文章や、彼女の叙述スタイル全体などに見いだされる。ただしランドは、『水源』(The Fountainhead)執筆時までには、ニーチェの考えを拒絶するようになっている。また、初期ランドがどの程度ニーチェの影響を受けたかについては、疑問が出されている。ランドが特に軽蔑した哲学者の中には、イマヌエル・カントもいた。ランドはカントを「モンスター」と呼んでいる。ただし、哲学研究者のジョージ・ウォルシュ (George Walsh)とフレッド・セドン (Fred Seddon)は、ランドがカントを誤解し、見解の相違を誇張していたと主張している。
ランドは、哲学への自分の最も重要な貢献は、「概念論と、倫理学。それから悪、すなわち権利の侵害は、自分の側から強制力の使用によって存立するという、政治学上の発見」であると述べている。認識論は哲学の根本をなす部門の一つと信じ、理性の賞揚を自分の哲学の最も重要な側面と見なした。「私は資本主義の擁護者というよりはエゴイズムの擁護者であり、エゴイズムの擁護者であるというよりは理性の擁護者である。理性の至高性を認め、これを一貫して適用すれば、残りは当然のこととして導かれる」と述べた。
ランドの作品は、彼女の存命中から、強烈な賞賛と非難の両方を巻き起こした。最初の小説『われら生きるもの』(We the Living)は、文芸評論家H.L.メンケン (H.L. Mencken) に賞賛された。ブロードウェイで上演された演劇「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、批評家からも観客からも好評だった。『水源』(The Fountainhead)は、「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙のレビューアーから「偉大」(masterful) と評された。ランドの小説の出版当時には、冗長でメロドラマ的であると嘲る批評家もいた。それでもランドの小説は、主に口コミを通じてベストセラーになった。
ランドが最初にレビューを受けた作品は「1月16日の夜に」(Night of January 16th)だった。この劇に対しては、おおむね肯定的なレビューが寄せられた。しかしランドは、肯定的なレビューにも決まりの悪い思いをしていた。この劇の上演にあたり、プロデューサーが彼女の脚本を大幅に変更していたからである。ランドは、最初の小説『われら生きるもの』(We the Living)には多くのレビューが書かれなかったと信じていた。しかしランド研究者のマイケル・S・ベルリナーは、この小説に対して、200以上の出版物で約125件のレビューが公開されていることを明らかにした。ベルリナーは、「『われら生きるもの』はランドの作品の中で最も多くのレビューが書かれた小説である」と述べている。『われら生きるもの』に対するレビューは、全体として、後のランドの作品に対するレビューよりも肯定的だった。1938年に出版された短篇小説『アンセム』(Anthem)は、イングランドで出版された初版も、その後の改訂版も、レビューアーにはほとんど注目されなかった。
ランドの最初のベストセラー『水源』(The Fountainhead)は、『われら生きるもの』に比べ、書かれたレビューの数がはるかに少なかった。レビューアーの意見もまちまちだった。「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙に掲載された肯定的なレビューの一つは、ランド自身も高く評価した。このレビューの書き手は、ランドを「きらびやかに、美しく、痛烈に」書く「すばらしい力を持つ作家」と呼び、「この偉大な作品を読めば、我々の時代における基本的な概念のいくつかについて考え抜かずにはいられないだろう」と述べた。他にも肯定的なレビューはあったが、ランドはそれらのほとんどを、自分のメッセージを理解していない、もしくは掲載紙誌がマイナーであるとして、無視した。否定的なレビューのいくつかは、この小説の長さを批判していた。たとえば、あるレビューアーはこの小説を「本の鯨」と呼び、別のレビューアーは「この小説に入れ込む人間には、紙の配給に関する厳しい授業を受けさせる必要がある」と書いた。登場人物に同情心がないと批判するレビューアーや、ランドの文体を「不快なほど単調」と批判するレビューアーもいた。
1957年に出版された『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)には多数のレビューが書かれた。多くのレビューが、この小説にきわめて否定的だった。保守派の批評家ホイタッカー・チェンバース (Whittaker Chambers) は、「ナショナル・レビュー」(National Review)誌でこの小説を「青臭く」「とんでもなく愚かしい」と評した。チェンバースは、この小説が「救済のない刺々しさ」に貫かれていると述べ、ランドが神を排した体制(チェンバースによればソビエトに類する体制)を支持していると非難し、「『肩をすくめるアトラス』のほぼすべてのページから、痛ましい必然による命令として聞こえてくる声がある。『ガス室に行け!』の声だ」と述べた。『肩をすくめるアトラス』に対する肯定的なレビューも、いくつかの出版物で書かれた。たとえば著名な書評家ジョン・チェンバレン (John Chamberlain) は、この小説を賞賛した。しかし、後にランド研究者のミミ・リーセル・グラッドスタイン (Mimi Reisel Gladstein) が書いたところによれば、「レビューアーたちは、まるで酷評の巧みさを競い合うかのようだった。彼らは『肩をすくめるアトラス』を“忌むべきはったり”と評したり、“悪夢”と評したりした。この小説が“憎悪によって書かれている”と述べたり、“無慈悲な弱い者いじめと冗長さを示している”などと述べたりした」。作家のフラナリー・オコナー(Flannery O'Connor)は、友人への手紙で「アイン・ランドのフィクションはおよそ考えられる中で最低のフィクションだ。地下鉄で拾い上げたらすぐそばのクズ箱に直行だろう」と書いた。
ランドのノンフィクションについて書かれたレビューは、彼女の小説について書かれたレビューより、ずっと少なかった。ランドの最初のノンフィクション『新しい知識人のために』(For the New Intellectual)に対する批判の趣旨は、『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)に対する批判の趣旨と、ほぼ同じだった。哲学研究者シドニー・フック (Sidney Hook) は、ランドの確信を「ソビエト連邦での哲学の書かれ方」になぞらえた。作家ゴア・ヴィダル (Gore Vidal) は、ランドの見解を「その不道徳性においてほぼ完璧」と評した。その後の著書は、発刊するたびにレビューアーから注目されなくなった。
2005年、アイン・ランド生誕100年にあたり、評論家のエドワード・ロスタイン (Edward Rothstein) は「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙で、ランドのフィクションは古風でユートピア的な「レトロ・ファンタジー」であり、理解され損ねた芸術家によるプログラム的新ロマン主義であると述べた。またロスタインは、ランドの小説の登場人物たちによる「民主社会に対する孤立した拒絶」を批判した。2007年、書評家のレスリー・クラーク (Leslie Clark) はランドのフィクションを「擬似哲学の青さびが付いたロマンス小説」と評した。2009年、男性向けファッション・ビジネス・カルチャー誌「GQ」コラムニストのトム・カーソン (Tom Carson) は、ランドの著書を、『ベン・ハー』(Ben-Hur)や『レフトビハインド』(Left Behind)シリーズと同類の、「資本主義版のミドルブロー(中程度知識層向け)宗教小説」と評した。
1991年、アメリカ議会図書館と米国最大の書籍通販組織「ブック・オブ・ザ・マンス・クラブ」(the Book-of-the-Month Club) は、同クラブ会員に「人生で最も影響を受けた本」を尋ねる調査を行った。この調査でランドの『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)は、聖書に次ぎ2番目に多くの票を集めた。また、1998年のランダムハウス/モダンライブラリーの「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」で『肩をすくめるアトラス』が第一位、『水源』が第二位を獲得し、また10位内に4つの作品がランクインした。ランドの著書は現在も幅広い読者に購入され、読まれ続けている。販売総部数は2013年時点で2,900万部を超える。なお販売総部数の約10%は「アイン・ランド協会」(The Ayn Rand Institute) による学校への寄贈用である。ランドの影響が最も大きいのは米国であるが、彼女の作品は世界中で関心を引いている。インドでは現在もランドの作品がベストセラーに名を連ね続けている。
同時代でランドを賞賛した作家には、アイラ・レヴィン (Ira Levin)、ケイ・ノルティ・スミス (Kay Nolte Smith)、L.ニール・スミス (L. Neil Smith) などがいる。後の世代の作家であるエリカ・ホルツァー (Erika Holzer) やテリー・グッドカインド (Terry Goodkind) も、ランドの影響を受けている。人生や思想の上でランドに重要な影響を受けたことを公言しているアーチストには、他に漫画家のスティーヴ・ディッコ (Steve Ditko) や、ハードロック/プログレッシブ・ロックバンドのラッシュ (Rush) のドラマー、ニール・パート (Neil Peart) などがいる。ランドはビジネスを肯定的に描いて見せた。このため経営者や起業家の中にも、ランドの作品を賞賛する者や、ランドの作品の普及に努める者は多い。銀行持株会社BB&Tのジョン・アリソン (John Allison)や、スポーツ・エンタテイメント会社コムキャスト・スペクタカー (Comcast Spectacor) のエド・スナイダー (Ed Snider) は、ランドの思想の普及活動に資金を拠出した。他にもプロバスケットボールチームのダラス・マーベリックス (Dallas Mavericks) のオーナー、マーク・キューバン (Mark Cuban) や、食料品スーパーマーケットチェーンのホールフーズ・マーケットのCEO、ジョン・P.マッキー (John P. Mackey) など様々な経営者・起業家が、自分の成功にランドが重要な役割を果たしたと述べている。
ランドとその作品は、アニメ、ライブコメディ、ドラマ、ゲームショーを含むテレビ番組や、映画、ビデオゲームなど、様々なメディアで取り上げられている。ランドやランドをベースにしたキャラクターは、米国の著名な作家達による様々な文芸作品やSFに登場し、(肯定的であれ否定的であれ)大きな存在感を示している。「リーズン」(Reason)誌の編集主幹であるニック・ギレスピー (Nick Gillespie) は、「ランドの名声は、虐げられた形で不滅になっています。様々な作品に登場しているランドには、まるで主人公のようなインパクトがあります」、「ランドを冷酷で非人間的と非難することは、大衆文化に浸透しきっています」と述べている。ランドの生涯については2本の映画が制作されている。ドキュメンタリー映画「アイン・ランド:ア・センス・オブ・ライフ」(Ayn Rand: A Sense of Life、1997年)は、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。1999年に制作されたテレビドラマ「ザ・パッション・オブ・アイン・ランド」(The Passion of Ayn Rand)は、バーバラ・ブランデン (Barbara Branden) による同名の伝記(1986年)をドラマ化したもので、複数の賞を受賞した。ニック・ガエターノ (Nick Gaetano) がデザインしたランドの肖像画は、米国の切手にもなった。
ランド自身は「保守」や「リバタリアン」に分類されることを拒否していたにもかかわらず、ランドは右派政治運動やリバタリアニズムに強い影響を与え続けている。ケイトー研究所 (Cato Institute) の上級研究員、ジム・パウエル (Jim Powell) は、近代におけるアメリカのリバタリアニズムにおいて最も重要な3人の女性として、ローズ・ワイルダー・レイン (Rose Wilder Lane)、イザベル・パターソンと共にアイン・ランドを挙げている。リバタリアン党の創設者の1人、デヴィッド・ノーラン (David Nolan) は、「アイン・ランドがいなかったら、リバタリアン運動は存在しなかっただろう」と述べている。ジャーナリストのブライアン・ドハティ (Brian Doherty) は、リバタリアン運動の歴史を記述する中で、ランドを「20世紀のリバタリアンの中で社会全体に最も大きな影響を与えた人物」と呼んでいる。伝記作家のジェニファー・バーンズ (Jennifer Burns) は、ランドを「右派の人生への究極のゲートウェイドラッグ」と呼んだ。
ウィリアム・F.バックリー・ジュニア(William F. Buckley, Jr.)をはじめとする「ナショナル・レビュー」(National Review)誌の寄稿者達は、ランドを厳しく批判していた。1950年代から1960年代にかけて、同誌にはウィテカー・チェンバース (Whittaker Chambers)、ゲイリー・ウィルズ (Garry Wills)、およびM.スタントン・エヴァンズ (M. Stanton Evans) による多数の批判が掲載された。しかしランドの保守派への影響があまりにも大きかったため、バックリーをはじめとする「ナショナル・レビュー」誌寄稿者達も、伝統的価値観念やキリスト教的精神と資本主義の擁護をどうすれば統合できるか、再検討することを迫られた。
妊娠中絶合法化を支持し、神の存在を否定するなど、ランド自身は保守派としては典型的ではない立場も取っている。しかし政治の世界でランドからの影響を公言する人物は、一般に保守派で、米国共和党の党員であることが多い。1987年に「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙に掲載された記事で、ランドはレーガン政権の「桂冠小説家」(novelist laureate) と呼ばれていた。共和党連邦議会議員や保守派の政治評論家も、ランドの影響を受けたことを認め、ランドの小説を推薦している。
2000年代末の金融危機は、ランドの作品、特に『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)への新たな関心を呼び起こした(この金融危機が『肩をすくめるアトラス』で予見されていたと見る者もいた)。現実の世界の出来事とこの小説のプロットを比較する、様々な論説が書かれた。同じ時期、ティーパーティー運動参加者の中に、ランドや彼女の小説の主人公ジョン・ゴールトに言及するプラカードを掲げる者が多く見られた。同時に、ランドの思想に対する批判も、政治的左派を中心に高まった。批判者達は、ランドによる利己主義と自由市場の擁護が、特にアラン・グリーンスパンへの影響を通じ経済危機を引き起こしたと非難した。たとえば「マザー・ジョーンズ」(Mother Jones)誌は「伝統的なヒエラルキーを逆さにし、 富や才能や権力を握る人々を被抑圧者に変えて見せるのが、常にランドの特殊な才能だった」と論じ、「ネイション」(The Nation)誌は「ランディアニズムの道徳構文法」とファシズムの類似性を主張した。
ランドの存命中、彼女の作品はアカデミズムの世界の研究者からはほとんど注目されなかった。ランドの思想に関する最初の学問的書物は、1971年に出版された。その著者は、ランドについて書くことは、ランドを真剣に取り扱ったことでランドとの「連座による罪」に問われかねない「危険な企て」であると述べた。1982年にランドが死去する前に、ランドの思想に関するいくつかの論文が学術誌に掲載されているが、その多くは「ザ・パーソナリスト」(The Personalist)誌に掲載されたものだった。リバタリアンの哲学研究者ロバート・ノージック (Robert Nozick) による「ランディアンの主張について」(On the Randian Argument)はその一つである。この論文でノージックは、形而上学におけるランドの主張に不備があり、デイヴィッド・ヒューム (David Hume) が提起したis-ought問題が解決されていないと論じた。「パーソナリスト」誌には、ノージックに対する他の哲学研究者からの反論も掲載された。反論者達は、ノージックがランドの立場を誤って述べていると主張した。ランドの存命中、文学者としてのランドを学問的に検討した論考は、さらに限られていた。演劇研究者のミミ・グラッドスターン (Mimi Gladstein) が1973年にランドの研究を開始した当時、ランドの小説に関する学術論文は1本も見つからなかった。1970年代を通じて発表された文学者としてのランドの研究論文は3本だけだった。
ランドの死去後、ランドの作品への関心は徐々に高まった。歴史家のジェニファー・バーンズ (Jennifer Burns) によれば、これまでランドに対する研究者達の関心には「重なり合う3つの波」があり、その内最も新しい波は2000年以来の「学問的研究の爆発」(an explosion of scholarship) である。ただし現在、ランドやオブジェクティビズムを哲学上の専門や研究分野に含める大学はほとんど存在しない。多くの文学科や哲学科では、ランドは大衆文化現象と見なされ、真剣な研究の対称として扱われていない。
学術機関でランドの作品について教授している研究者としては、グラッドスタイン (Gladstein)、クリス・マシュー・スカバラ (Chris Matthew Sciabarra)、アラン・ゴットヘルフ (Allan Gotthelf)、エドウィン・A.ロック (Edwin A. Locke)、タラ・スミス (Tara Smith) などがいる。スカバラは、ランドの哲学的および文学的業績の研究に貢献する超党派の査読付き定期刊行誌である「ザ・ジャーナル・オブ・アイン・ランド・スタディーズ」(The Journal of Ayn Rand Studies)の、共同編集者を務めている。1987年、ゴットヘルフは、ジョージ・ウォルシュ (George Walsh)およびデヴィッド・ケリー (David Kelley) と共に「アイン・ランド・ソサイアティ」(Ayn Rand Society) の創設を支援した。ゴットヘルフは、ランドおよびランドの思想に関するセミナーを積極的に後援している。スミスはランドの思想に関する学術的な本および論文を複数書いている。ケンブリッジ大学出版局 (Cambridge University Press) から出版されたランドの倫理論に関する書籍、『アイン・ランドの規範倫理:有徳のエゴイスト』(Ayn Rand's Normative Ethics: The Virtuous Egoist)はその1つである。ランドの思想は、クレムゾン大学およびデューク大学でも研究対象になっている。英米文学の研究者はランドの作品をほぼ無視している。ただし1990年代以降は、ランドの作品に注目する研究者が増えている。
ランド研究者のダグラス・デン・アイル (Douglas Den Uyl) とダグラス・B.ラスムッセン (Douglas B. Rasmussen) は、ランドの思想の重要性と独自性を強調する際、ランドの文体が「文学的、誇張法的、かつ感情的」であると述べた。哲学研究者のジャック・ホイーラーは、ランドの倫理学には「絶え間ない大言壮語とランディアンの噴怒の絶え間ない発散」があるが、この倫理学は「きわめて巨大な業績であり、その研究は他のどの現代思想の研究よりはるかに有益である」と述べた。2001年にジョン・デヴィッド・ルイス (John David Lewis) は、オンライン文学百科事典「リテラリー・エンサイクロペディア」(Literary Encyclopedia)のランドの項で、「ランドは同世代の作家の中で最も知的に挑戦的なフィクションを書いた」と断言した。「ザ・クロニクル・オブ・ハイアー・エジュケーション」(The Chronicle of Higher Education)紙の1999年のインタビューで、スカバラは「彼らがランドを笑うことはわかっている」と述べながら、学術界でもランドの業績への関心が高まると予言した。
哲学研究者のマイケル・ヒューマー (Michael Huemer) は、ランドの思想、特に倫理学は、解釈が困難で論理的な一貫性に欠けており、これに説得される人は非常に少ないと主張した。ヒューマーは、ランドが注目を集めるのは、特に小説家として「人を引き込まずにはいない文章を書く才能」のためであるとしている。『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)がルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises)、フリードリヒ・ハイエク (Friedrich Hayek)、フレデリック・バスティア (Frederic Bastiat) といった他の古典的自由主義哲学者の作品だけでなく、ランド自身のノンフィクション作品よりもよく売れるのは、ヒューマーによればランドのこの才能のためである。
政治学者のチャールズ・マーレイ (Charles Murray) は、ランドの文学的業績を賞賛する一方で、ランドが自分の思想をジョン・ロックやフリードリヒ・ニーチェなどの先行する思想家達からも受け継いでいることを認めず、哲学的にアリストテレスにのみ負っていると主張したことを批判している。マーレイによれば、「アリストテレスにわずかばかり助けられただけで、オブジェクティビズムが自分の頭脳から生まれ全面開花したと主張することによって、ランドは現実から乖離しただけでなく、子供じみることにもなってしまった」。
ランドはオブジェクティビズムが統一された思想体系であると主張したが、哲学研究者のロバート・H.バス (Robert H. Bass) は、ランドの中心的な倫理思想が彼女の中心的な政治思想と一貫せず矛盾すると主張した。
1985年、ランドの相続人レナード・ピーコフは、ランドの思想および作品の伝播を目的とする非営利組織「アイン・ランド協会」(Ayn Rand Institute) を設立した。1990年、哲学研究者のデヴィッド・ケリー (David Kelley) は、「アトラス・ソサイエティ」(The Atlas Society) として知られる「オブジェクティビズム研究所」(Institute for Objectivist Studies) を設立した。2001年、歴史家のジョン・マカスキー (John McCaskey) は、アカデミズムの世界で行われる学問的なオブジェクティビズム研究に資金を提供する「オブジェクティビストの奨学のためのアンセム基金」(Anthem Foundation for Objectivist Scholarship) を組織した。BB&T社の慈善基金も、ランドの思想や作品の教授に資金を提供している。資金の提供を受けている学校には、テキサス大学オースティン校 (The University of Texas at Austin)、ピッツバーグ大学 (University of Pittsburgh)、およびノースカロライナ大学チャペルヒル校 (University of North Carolina at Chapel Hill) などがある。これらの資金提供がランドに関連する研究や教授を条件としていることが、議論になるケースもある。
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"text": "アイン・ランド(Ayn Rand、/ˈaɪn ˈrænd/;、1905年2月2日 - 1982年3月6日)は、ロシア系アメリカ人の小説家、思想家、劇作家、映画脚本家である。本名アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム(露: Алиса Зиновьевна Розенбаум)。二冊のベストセラー小説『水源』、『肩をすくめるアトラス』で知られる。また自ら「客観主義」と名付けた思想体系の創出者としても知られる。",
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"text": "ロシアで生まれ、同国で教育を受けた後、1926年にアメリカ合衆国に移住。ハリウッドで映画脚本家として働き、劇作品の一つは1935年から1936年までブロードウェイで上演された。初期の小説2作品は当初それほど評判にならなかったが、小説『水源』(1943年)で名声を得た。",
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"text": "1957年には代表作の小説『肩をすくめるアトラス』を出版。その後は自らの思想を伝播するノンフィクションに転向した。自ら雑誌を刊行し、いくつかのエッセー集を発表し、1982年に死去した。ランドは理性を知識を得る唯一の手段として擁護し、信仰や宗教を拒絶した。合理的かつ倫理的なエゴイズムを支持し、倫理的利他主義を拒絶した。政治においては「実力への着手」(Initiation of Force、自分の側からの強制力の行使)を非難し、集産主義および国家主義に反対した。また、無政府主義にも反対した。最小国家主義および自由放任資本主義を、個人の権利を守る唯一の社会制度と信じ、支持した。芸術においてはロマン主義的写実主義を唱道した。一部のアリストテレス派哲学者や古典的自由主義を除き、殆ど全ての思想家及び思想的伝統を辛辣に批判した。",
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"text": "文芸評論の世界では、ランドの虚構は殆ど認められていない。アカデミズムの世界では、ランドの思想はほぼ無視または否認されている。客観主義運動は、ランドの思想を一般および学界に広めることを目指す運動である。リバタリアンやアメリカの保守主義において、ランドは大きな影響力を保ち続けている。",
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"text": "ランドは1905年2月2日にサンクトペテルブルクに住む中産階級の一家の、3人姉妹の長女として生まれた。父はジノヴィ・ザハーロヴィチ・ローゼンバウム、母はアンナ・ボリソヴナ(旧姓カプラン)で、2人はほぼ非順守派のユダヤ人であった。父ジノヴィ・ローゼンバウムは薬剤師として成功し、薬局一店舗とこの薬局が入るビルを所有するに至った。ランドは学校には退屈し、彼女自身によれば8歳の時には映画の脚本を書き始め、10歳の時には小説を書き始めた。ランドが12歳の時、二月革命(1917年)が起きた。この時はニコライ2世よりもアレクサンドル・ケレンスキーに好感を持っていた。",
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"text": "その後の十月革命と、ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキの独裁確立により、ランドの一家はそれまでの快適な生活を破壊された。父の薬局事業は没収され、一家は転居を強制された。ランド一家はロシア内戦中白軍の支配下にあったクリミアに逃れた。ランドの回想によれば、ランドは高校時代に無神論の立場を取ることを決め、理性を他のあらゆる人間的価値の上位に置くことに決めた。ランドが16歳でクリミアの高校を卒業した後、一家はペトログラード(旧サンクトペテルブルク)に戻った。ペトログラードでの生活条件はひどく、時に飢餓寸前の状態に陥った。",
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"text": "ロシア革命後、大学が女性に解放され、ランドはペトログラード大学に入学した最初の女性の一人になった。ランドは、この大学の社会教育学部で歴史を専攻した。大学ではアリストテレスおよびプラトンの著作に出会った。アリストテレスには最大の影響を、プラトンには最大の反面教師としての影響を、それぞれ受けることになった。アリストテレスとプラトンに次いでランドが熱心に著作を研究した思想家は、フリードリヒ・ニーチェであった。フランス語、ドイツ語、ロシア語を読むことができたランドは、フョードル・ドストエフスキー、ヴィクトル・ユーゴー、エドモン・ロスタン、フリードリヒ・シラーなどの作家にも出会い、これらの作家の作品を長く愛読した。",
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"text": "卒業直前、ランドは他の多くの「ブルジョア」学生と共に大学から追放された。しかし海外から訪れた科学者グループからの抗議を受け、追放された学生の多くは学業の修了と卒業を許可された。ランドも1924年に大学を卒業した。その後1年間レニングラードの国立映画専門学校で学んだ。学校の課題の一つとしてポーランド人女優ポーラ・ネグリに関する評論を書き、これがランドの最初の刊行作になった。",
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"text": "この頃までに筆名としてアイン・ランドを名乗ることを決めていた。名前の由来は諸説あるが、「ランド」は本名の姓Rosenbaumのキリル文字での短縮形、「アイン」はフィンランド語での名前、もしくは「目」を意味するヘブライ語「 עין」(アイン)から取ったと言われる。",
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"text": "1925年、ランドはアメリカの親類を訪問するビザを取得した。ニューヨーク港に着いたランドは、マンハッタンの摩天楼群が織りなすスカイラインに、感激のあまり「光輝の涙」を流したと後に回想している。米国に留まり映画脚本家になることを決心していたランドは、最初にシカゴの親類を訪れた。親類の一人は映画館を1つ所有しており、彼女が数十の映画を無料で見ることを許した。数ヶ月の滞在後、ランドはシカゴの親類の家を後にし、カリフォルニア州ハリウッドへと出発した。",
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"text": "当初ハリウッドでの生活は苦しく、生活費を稼ぐために雑多な仕事に従事した。著名映画監督セシル・B・デミル (Cecil B. DeMille) との面識を得て、彼の映画「キング・オブ・キングス」(The King of Kings)でのエキストラに採用され、その後も下級シナリオライターとしての仕事を獲得した。「キング・オブ・キングス」での仕事中、若く野心的な俳優フランク・オコナー(Frank O'Connor)と出会い、1929年4月15日に結婚。1931年にはアメリカ市民権を取得した。1930年代、ランドは作家業の補助として様々な職業に就いた。その中には、当時の5大映画会社の一つ、RKOスタジオの衣装部門の責任者の仕事もあった。両親と2人の妹を米国に呼び寄せようと何度か試みたが、彼らは移住許可を取得できなかった。",
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"text": "ランドが作家として最初に成功した作品は、1932年に映画会社ユニバーサル・スタジオに買い取られた脚本「レッドポーン」(Red Pawn)であった。ただしこの脚本は結局映画化されなかった。次に書かれた法廷ドラマ「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、まず1934年にハリウッドでエドワード・E・クライヴ (Edward E. Clive) によって映画化され、1935年にはブロードウェイで上演され成功を収めた。劇場版の「1月16日の夜に」では、毎晩観客の中から「陪審員」が選ばれ、陪審員の「評決」に応じ、2つ用意された別々の結末の一方が演じられた。1941年には、映画会社パラマウント・ピクチャーがこの劇の映画版を制作した。ランドはこの映画の制作に参加せず、その結果に対しきわめて批判的だった。",
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"text": "ランドの最初の小説は、1936年に出版された半自伝的作品『われら生きるもの』(We the Living)である。ソビエト政権下のロシアを舞台にしたこの小説は、個人と国家の対立に焦点を当てている。この小説の1959年版のまえがきでランドは、「(『われら生きるもの』は)私の小説の中で最も自伝に近い作品である。文字通りの意味での自伝ではないが、知的な意味での自伝とは言える。筋書きは創作だが、背景は創作ではない[....]」と述べている。出版当初の売れ行きは悪く、アメリカの出版社はこの作品を絶版にした。ただしヨーロッパでは売れ続けた。後に『水源』等がベストセラーになったことにより、ランドは1959年にこの小説の改訂版を出版できた。以来『われら生きるもの』の販売部数は300万部を超えている。1942年にはイタリアでこの小説を元にした2部作の映画、『ノア・ビビ』(Noi vivi)および『アディオ・キラ』(Addio, Kira)が制作された。ランドはこの映画化について知らなかった。この2部作映画は1960年に再発見され、ランドの承認の下、1本の映画『われら生きるもの』(We the Living)に再編集され、1986年に発表された。",
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"text": "次の大作『水源』(The Fountainhead)を書いた後の休み中には、短篇小説『アンセム』(Anthem)を書いている。『アンセム』には、全体主義的な集産主義が勝利した結果、「I(私)」という言葉さえ忘れ去られ「We(私たち)」という言葉に取って代わられた、ディストピア的な未来像が描かれている。この小説は1938年にイングランドで出版されたが、アメリカでは当初この小説を出版してくれる出版社が見つからなかった。『われら生きるもの』の場合と同様、その後『水源』がベストセラーになったおかげで、ランドは1946年にこの小説の改訂版を出版できた。『アンセム』の販売部数は350万部を超えている。",
"title": "生涯"
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"text": "1940年代、ランドは政治活動に積極的に関与するようになった。1940年の大統領選挙でランドは、夫と共に、共和党ウェンデル・L・ウィルキー (Wendell Lewis Willkie) 陣営のボランティア専従スタッフとして活動した。この活動の過程で、ランドは初めて公衆を前に演説する経験をした。ニューヨーク市では、ウィルキー支持のニュース映画を見たばかりの聴衆から、時に敵意をむき出しにした質問を受けることもあった。ランドはこうした敵意ある質問にも当意即妙に答えた。これはランドにとって非常に楽しい経験だった。またこの活動により、自由市場資本主義を支持する知識人達との交流も生まれた。ジャーナリストのヘンリー・ハズリット (Henry Hazlitt) 夫妻と友人になり、ハズリットの紹介でオーストリア学派の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises) とも知り合った。ランドと彼らの間には思想的相違があったが、ランドはハズリットとミーゼスの著作を生涯にわたり支持し、彼らもランドへの賞賛を表明した。ミーゼスはランドのことを「the most courageous man in America(アメリカで最も勇敢な人)」と述べたことがある。この賛辞はランドを特に喜ばせた。ミーゼスがランドを「woman」ではなく「man」と呼んだからである。ランドはリバタリアンの作家イザベル・パターソンとも友情を育んだ。二人は幾度となく会った。博識なパターソンに、ランドは夜遅くまでアメリカの歴史や政治について尋ねた。パターソン唯一のノンフィクション『The God of the Machine』には、ランドが与えたアイデアが反映されている。",
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"text": "執筆に7年を費やし、1943年に出版されたロマンス思想小説『水源』(The Fountainhead)は、作家アイン・ランド初の大ヒット作となった。この小説は、妥協しない若き建築家ハワード・ロークと、「second-hander(セコハン人間、受け売り人間)」との対立を中心に描かれている。セコハン人間とは、他人を自己より上位に置き、他人を通じて生きようとする人々である。『水源』はボブスメリル社 (Bobbs-Merrill Company) が出版を引き受ける前に、12の出版社から出版を拒否されている。ボブスメリル社が『水源』の出版引き受けを決めたのは、同社の編集者アーチボルド・オグデン (Archibald Ogden) が、『水源』を出版しなければ会社を辞める、と雇い主を脅したからである。『水源』の仕上げにかかっている間、疲労と闘うため、ランドは「ベンゼドリン」という商品名のアンフェタミン(中枢神経刺激薬)の処方を受けていた。この薬は原稿を締め切りに間に合わせるための長時間執筆に役立ったが、ランドは疲弊し切り、原稿完成時、医師から2週間の安静を命じられたほどであった。この薬を約30年にわたり使用し続けたことが、後に彼女と付き合った人々から、気分の移り変わりが激しいと時に評される一因だった可能性がある。",
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"text": "『水源』は最終的に世界的成功を収め、ランドに名声と経済的安寧をもたらした。1943年、ランドはこの小説の映画化の権利をワーナー・ブラザース社に売却し、同映画の脚本を書くためハリウッドに戻った。『水源』映画版(邦題「摩天楼」)の脚本を完成させると、ランドは映画プロデューサーのハル・ウォリス (Hal Wallis) に、脚本家兼スクリプトドクターとして雇われた。ウォリスの下でランドが脚本を書いた映画には、アカデミー賞にノミネートされた「ラブ・レター」(Love Letters、1945年)や「大空に駈ける恋」(You Came Along、1945年)などがある。この間、ランドには他のプロジェクトに関わる余裕ができた。こうしたプロジェクトの一つに、彼女の思想をノンフィクションの形で論じた『個人主義の道徳的基礎』(The Moral Basis of Individualism)の執筆計画があった。計画された本は完成しなかったが、この本の内容を要約した『明日への唯一つの道』(The Only Path to Tomorrow)というエッセイが、「リーダーズ・ダイジェスト」(Reader's Digest)誌の1944年1月号に発表された。",
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"text": "ハリウッドで働く間、ランドは、自由市場を擁護し共産主義に反対する政治活動への関与を深めた。ハリウッドの反共産主義グループ「アメリカの理想を守るための映画同盟」 (Motion Picture Alliance for the Preservation of American Ideals) と関係を持つようになり、このグループの立場からの記事を複数書いた。反共産主義アメリカ作家協会 (the anti-Communist American Writers Association) の一員にもなった。イザベル・パターソンがランド宅を訪れ、カリフォルニアに住むランドの盟友たちに会った時、パターソンは、ランドの大切な盟友たちに向かって無礼な(とランドが見なす)発言をした。パターソンとランドの不和はこの発言で決定的となった。1947年、第二次赤狩りの間、ランドはアメリカ合衆国議会下院の非米活動委員会 (Un-American Activities Committee) で「友好的証人」(friendly witness) として証言台に立った。ランドは、ソ連での彼女の個人的経験と、映画「Song of Russia」(1944年)で描かれたソ連像がかけ離れていることを証言した。ランドはこの映画が、ソ連での生活を実際よりもはるかに良好かつ幸福に描くことで、ソ連の状況を著しく歪めていると主張した。ランドはまた、当時評判だった映画「我等の生涯の最良の年」(The Best Years of Our Lives、1946年)がビジネス界をネガティブに描いている(と彼女が解釈した)点の批判も希望したが、この点についての証言は許可されなかった。聴聞の後、調査の有効性をどう思うか尋ねられたランドは、このプロセスは「無駄骨」(futile) だったと答えている。",
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"text": "『水源』(The Fountainhead)の映画版(邦題「摩天楼」)は、数回の遅延の後、1949年に公開された。ランド自身による脚本をほぼそのまま使用した映画だったが、ランドはこの映画を「初めから終わりまで嫌い」で、編集、演技などさまざまな要素への不満を述べた。",
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"text": "『水源』(The Fountainhead)出版後、ランドは数年にわたり読者から多数の手紙を受け取った。読者の中には、この小説から深い影響を受けた者もいた。1951年、ランドはロサンゼルスからニューヨークに転居した。ニューヨークでランドは、こうした崇拝者たちのグループを自分のそばに集めた。このグループは、社会主義国家における集産主義組織を意味する「The Collective」(集団)を(冗談で)自称した。このグループには、後の連邦準備制度理事会議長アラン・グリーンスパン (Alan Greenspan) や、若い心理学学生ネイサン・ブルメンタル(Nathan Blumenthal、後のナサニエル・ブランデンNathaniel Branden)とその妻バーバラ (Barbara) や、バーバラの従兄弟レナード・ピーコフもいた。当初このグループは、週末にランドのアパートを訪れ思想的な議論をする友人同士の、形式張らない集まりだった。その後ランドは、新しい小説『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)の原稿を書きながら、この小説の草案をこのグループに読ませるようになった。1954年には、年下のナサニエル・ブランデンとの親密な関係が愛人関係に発展した。この関係はランドとプランデンそれぞれの配偶者の同意に基づくものだった。",
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"text": "1957年に出版された『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)はランドの最高傑作になった。ランドはこの小説のテーマを「人間存在における精神の役割と、そこから導き出される新しい道徳思想、すなわち合理的利己の道徳の提示」と説明している。『肩をすくめるアトラス』では、ランドのオブジェクティビズム思想の中心テーゼが唱道され、人間による達成に関する彼女の考えが表現されている。この小説では、ディストピア化したアメリカ合衆国で、トップレベルの創造性を持つ実業家、科学者、芸術家がストライキを決行し、山岳地の奥に密かに独立自由経済社会を建設する。この小説の主人公でストライキの指導者であるジョン・ゴールトは、このストライキを、国家の富と達成に最も貢献をしている人々の精神を引き揚げることにより、「世界のモーターを止める」ことと述べる。この架空のストライキを通じランドが表現しようとしたのは、合理的で生産的な人々の努力がなければ、経済は崩壊し社会は瓦解するということである。『肩をすくめるアトラス』は恋愛小説、ミステリー、およびSFの要素を含んでいる。主人公ジョン・ゴールトが行う長大な演説は、ランドの小説作品の中で、彼女のオブジェクティビズム思想を最も詳しく述べたものである。",
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"text": "多くの否定的なレビューにもかかわらず、『肩をすくめるアトラス』は国際的ベストセラーになった。ジャーナリストのマイク・ウォレス (Mike Wallace) によるインタビューの中で、ランドは自分自身を「存命する中で最も創造的な思想家」と表現している。この小説を完成後、ランドは深刻な抑鬱症に陥った。『肩をすくめるアトラス』はランドの最後のフィクション作品であり、彼女の人生の転換点であった。この作品をもってランドの小説家としてのキャリアは終わり、大衆的思想家としての役割が始まった。",
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"text": "1958年、ナサニエル・ブランデンは、ランドの思想の普及を目的とする「ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ」(Nathaniel Branden Lectures) を設立した。「ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ」は、後に「NBI: ナサニエル・ブランデン研究所」 (Nathaniel Branden Institute) として法人化された。NBIのメンバーは、同研究所の講演会で講演し、ランドが編集する定期刊行誌に論文を寄稿した。ランドは後にこれらの論文のいくつかを書籍化して出版した。NBIの文化は知的馴れ合いであり、ランドへの阿諛追従であったと批判する者もいる。NBIの批判者には、NBIの元研究生や、ブランデン自身が含まれる。NBIやオブジェクティビズム運動自体が、カルトもしくは宗教であると述べる者もいる。ランドは、文学や音楽から性、 髭に至るまで、幅広いトピックについて意見を表明した。ランドの追従者の中には、彼女の好みを模倣したり、彼女の小説の登場人物に合う服を着たり、彼女と同じような家具を買ったりする者もいた。NBIの研究生の多くは、ランドの眼鏡に適わなかった。ランドは研究生たちを厳格な基準に従わせた。自分に同意しない者には、冷たく対応したり、怒りを向けたりすることもあった。ただし、かつてのNBI研究生たちの中には、これらの行動は誇張して伝えられており、問題があったのは、ニューヨークでランドと特に親しかった追従者との関係に限られていたと信じる者もいる。",
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"paragraph_id": 23,
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"text": "1960年代から1970年代にかけ、ランドはオブジェクティビズム思想の発展と普及のため、ノンフィクション作品の執筆や学生向けの講演を精力的に行った。ランドが講演した大学には、イェール大学、プリンストン大学、コロンビア大学、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学などが含まれる。1963年にはルイス & クラーク大学から名誉博士号を授与された。フォード・ホール・フォーラム (Ford Hall Forum) で毎年講演するようにもなり、講演後は聴衆からの質問に応じた。これらの講演や質疑応答で、ランドは当時の政治的・社会的問題について、しばしば議論の的になる立場を取った。たとえばランドは、人工妊娠中絶の権利を支持し、ベトナム戦争と徴兵に反対し(ただし多くの徴兵忌避者を「クズ」(bum) と糾弾している)、1973年の第四次中東戦争でパレスティナおよびアラブと闘うイスラエルを「野蛮人と闘う文明人」と呼んで支持し、アメリカに入植したヨーロッパ人にはアメリカ先住民から土地を奪う権利があったと述べ、同性愛は「不道徳」(immoral) で「胸が悪くなる」(disgusting) と述べながら、同性愛を規制するすべての法律の廃止を唱えた。また、米国大統領選挙において何人かの共和党候補者を支持した。中でも最も強く支持したのは1964年の大統領選に出馬したバリー・ゴールドウォーターであった。ランドはゴールドウォーターの立候補を、刊行誌「ザ・オブジェクティビスト・ニューズレター」(The Objectivist Newsletter)で数回にわたり後押ししている。",
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"text": "1964年、ナサニエル・ブランデンは若い女優パトリシア・スコット (Patrecia Scott) と愛人関係になった(後にブランデンは彼女と結婚した)。ナサニエル・ブランデンと妻バーバラはこの愛人関係をランドに隠し続けた。1968年にランドがこの愛人関係を知ったとき、ブランデンとの愛人関係は既に終わっていたが、ランドはブランデンおよびバーバラと絶縁した。これによりNBIは終焉を迎えた。ランドは「ザ・オブジェクティビスト」(The Objectivist)誌でナサニエル・ブランデンとの絶縁を発表した。絶縁の理由は、ナサニエル・ブランデンの不誠実、およびその他の「彼の個人的生活における非合理的な行動」であるとした。ブランデンは後にあるインタビューで、「アイン・ランドの神秘性を永続化したこと」および「オブジェクティビズム運動に浸透したあの恐ろしい知的抑圧の雰囲気に寄与したこと」を、「すべてのオブジェクティビズム学徒」に対し謝罪している。その後数年間で、ランドは複数の盟友と交際を絶っている。",
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"paragraph_id": 25,
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"text": "1974年、ランドは肺ガンの手術を受けた。ランドは数十年にわたるヘビー・スモーカーだった。1976年にはニューズ・レターの執筆から退いた。またこの年、(社会保障および公的医療保障には当初反対していたにもかかわらず)周囲の説得に応じ、彼女の弁護士の所属事務所のコンサルタントであるエヴァ・プライアーが、社会保障および公的医療保障の利用を申請することを許した。1970年代末にはオブジェクティビズム運動におけるランドの活動は徐々に沈滞し、特に1979年11月9日に夫が死去してからは沈滞が顕著になった。ランドが最後に取り組んだプロジェクトの一つに『肩をすくめるアトラス』のテレビ化があったが、これは未完に終わった。",
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"paragraph_id": 26,
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"text": "1982年3月6日、ランドはニューヨーク市の自宅で心不全により死去した。遺体はニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された。ランドの葬儀にはアラン・グリーンスパンを含む複数の著名追従者が参列した。ランドの柩のそばには、ドルマークをかたどった高さ180センチのフラワーアレンジメントが添えられた。遺言状で、ランドはレナード・ピーコフを遺産相続人に指名していた。",
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"text": "ランドは自らの思想を「オブジェクティビズム」 と呼んだ。ランドによれば、オブジェクティビズムの本質は「人間を英雄的存在と見なす人間観」であり、この人間観によれば、「自己の幸福の追求が人生の正しい目的であり、生産的な達成が人間にとって最も崇高な活動であり、理性が人間にとって唯一の絶対的基準である」とされた。ランドはオブジェクティビズムを一つの思想体系と見なし、自らの主張を形而上学、認識論、倫理学、政治思想、および美学に展開した。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "形而上学においては実在論を支持し、神秘主義あるいは超自然主義(と彼女が見なす立場)には、あらゆる形態の宗教を含め、すべて反対した。認識論においては、感覚を通じた知覚、および理性を、すべての知識の基礎と見なした。ランドは、感覚を通じた知覚の妥当性を、自明と見なした。理性を、「人間の五感を通じて提供される素材を識別し、統合する能力」と説明した。「直覚」、「直観」、「啓示」、あるいは「ただわかる」といった、非知覚的知識あるいは先験的知識の存在を主張する立場を、すべて拒絶した。ランドは「オブジェクティビズム認識論入門」(Introduction to Objectivist Epistemology)において概念形成の理論を提示し、分析/総合の二分論の否認を支持した。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "倫理学においては、道徳原理として合理的エゴイズム(合理的利己)を主張した。ランドは、個人は「自己を他者の犠牲にすることも、他者を自己の犠牲にすることもなく、自己自身のために存在する」べきであると述べた。ランドは『利己主義という気概』(The Virtue Of Selfishness)という著書で、エゴイズムを「自己本位であることの美徳」(the virtue of selfishness) と呼んだ。この著書でランドは、is-ought問題(「-である」という命題からの推論で「-すべき」という命題を導く矛盾)に対する彼女の解決を示した。その解決は、道徳の基盤を「人間が人間として生存する必要性」に置くメタ倫理学に依拠するものであった。ランドは道徳的利他主義を、人間の生命および幸福に対する要求と相容れないとして、非難した。自分の側からの強制力の行使 (the initiation of force) は邪悪かつ不合理であると考え、『肩をすくめるアトラス』の中で「強制と精神は相反する」 (Force and mind are opposites) と書いた。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "ランドの政治思想においては、財産権を含む個人の権利が強調された。ランドは、自由放任資本主義を唯一の道徳的な社会システムと見なした。彼女の見解では、自由放任資本主義が、個人の権利を保護を基盤とする唯一の社会システムだったからである。国家主義には反対した。ランドが考える国家主義には、神権政治、絶対君主制、ナチズム、ファシズム、共産主義、民主社会主義、独裁制も含まれた。ランドは、強制力による権利の実現は、憲法による制限を受けた政府のみが行うべきであると信じた。政治に関するランドの見解は、しばしば保守またはリバタリアニズムに分類されるが、彼女自身が好んだ呼称は「資本主義徹底派」(radical for capitalism) であった。ランドは政治運動で保守派と協働したが、宗教や倫理などの問題では、保守派に同意しなかった。リバタリアニズムを無政府主義と同類視して非難した。無政府主義は、主観主義に基づくナイーブな理論であり、実践においては集産主義にしかつながらないとして退けた。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ランドの美学は、「芸術家による形而上学的価値判断に基づく、現実の選択的再創造」(selective re-creation of reality according to an artist's metaphysical value-judgments)として定義される。芸術は、哲学的概念を、人々が把握しやすい形式に具現化することによって、人間の意識のニーズを満たすものであると述べた。作家としてランドが最も力を注いだ芸術形式は文学であり、ロマン主義を、文学において人間の自由意志の存在を最も正確に反映するアプローチと見なした。ランドは自分の文学へのアプローチを「ロマン主義的写実主義」(romantic realism) と称した。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "ランドはアリストテレスに最も大きな影響を受けたと認めている。哲学の歴史上推薦できるのは、アリストテレス、アクィナス、アイン・ランドの「3人のA」だけだとも述べた。事実ランドがアリストテレスに負うところは大きく、マイク・ウォレスによる1959年のインタビューで、ランドは「私が精神的に恩義を受けていることを認めるのは、アリストテレスだけです。アリストテレスは、私がこれまで影響を受けた唯一の哲学者です。アリストテレスの影響による部分を除き、私は自分の思想を、自分自身で築き上げました」と答えている。ただしランドは、若い頃にフリードリヒ・ニーチェからインスピレーションを受けてもいる。研究者によると、ニーチェの影響は、ランドの日記の初期の記述や、後にランドが改訂した『われら生きるもの』(We the Living)の初版の文章や、彼女の叙述スタイル全体などに見いだされる。ただしランドは、『水源』(The Fountainhead)執筆時までには、ニーチェの考えを拒絶するようになっている。また、初期ランドがどの程度ニーチェの影響を受けたかについては、疑問が出されている。ランドが特に軽蔑した哲学者の中には、イマヌエル・カントもいた。ランドはカントを「モンスター」と呼んでいる。ただし、哲学研究者のジョージ・ウォルシュ (George Walsh)とフレッド・セドン (Fred Seddon)は、ランドがカントを誤解し、見解の相違を誇張していたと主張している。",
"title": "思想"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "ランドは、哲学への自分の最も重要な貢献は、「概念論と、倫理学。それから悪、すなわち権利の侵害は、自分の側から強制力の使用によって存立するという、政治学上の発見」であると述べている。認識論は哲学の根本をなす部門の一つと信じ、理性の賞揚を自分の哲学の最も重要な側面と見なした。「私は資本主義の擁護者というよりはエゴイズムの擁護者であり、エゴイズムの擁護者であるというよりは理性の擁護者である。理性の至高性を認め、これを一貫して適用すれば、残りは当然のこととして導かれる」と述べた。",
"title": "思想"
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"text": "ランドの作品は、彼女の存命中から、強烈な賞賛と非難の両方を巻き起こした。最初の小説『われら生きるもの』(We the Living)は、文芸評論家H.L.メンケン (H.L. Mencken) に賞賛された。ブロードウェイで上演された演劇「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、批評家からも観客からも好評だった。『水源』(The Fountainhead)は、「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙のレビューアーから「偉大」(masterful) と評された。ランドの小説の出版当時には、冗長でメロドラマ的であると嘲る批評家もいた。それでもランドの小説は、主に口コミを通じてベストセラーになった。",
"title": "反響と遺産"
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"text": "ランドが最初にレビューを受けた作品は「1月16日の夜に」(Night of January 16th)だった。この劇に対しては、おおむね肯定的なレビューが寄せられた。しかしランドは、肯定的なレビューにも決まりの悪い思いをしていた。この劇の上演にあたり、プロデューサーが彼女の脚本を大幅に変更していたからである。ランドは、最初の小説『われら生きるもの』(We the Living)には多くのレビューが書かれなかったと信じていた。しかしランド研究者のマイケル・S・ベルリナーは、この小説に対して、200以上の出版物で約125件のレビューが公開されていることを明らかにした。ベルリナーは、「『われら生きるもの』はランドの作品の中で最も多くのレビューが書かれた小説である」と述べている。『われら生きるもの』に対するレビューは、全体として、後のランドの作品に対するレビューよりも肯定的だった。1938年に出版された短篇小説『アンセム』(Anthem)は、イングランドで出版された初版も、その後の改訂版も、レビューアーにはほとんど注目されなかった。",
"title": "反響と遺産"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "ランドの最初のベストセラー『水源』(The Fountainhead)は、『われら生きるもの』に比べ、書かれたレビューの数がはるかに少なかった。レビューアーの意見もまちまちだった。「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙に掲載された肯定的なレビューの一つは、ランド自身も高く評価した。このレビューの書き手は、ランドを「きらびやかに、美しく、痛烈に」書く「すばらしい力を持つ作家」と呼び、「この偉大な作品を読めば、我々の時代における基本的な概念のいくつかについて考え抜かずにはいられないだろう」と述べた。他にも肯定的なレビューはあったが、ランドはそれらのほとんどを、自分のメッセージを理解していない、もしくは掲載紙誌がマイナーであるとして、無視した。否定的なレビューのいくつかは、この小説の長さを批判していた。たとえば、あるレビューアーはこの小説を「本の鯨」と呼び、別のレビューアーは「この小説に入れ込む人間には、紙の配給に関する厳しい授業を受けさせる必要がある」と書いた。登場人物に同情心がないと批判するレビューアーや、ランドの文体を「不快なほど単調」と批判するレビューアーもいた。",
"title": "反響と遺産"
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"tag": "p",
"text": "1957年に出版された『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)には多数のレビューが書かれた。多くのレビューが、この小説にきわめて否定的だった。保守派の批評家ホイタッカー・チェンバース (Whittaker Chambers) は、「ナショナル・レビュー」(National Review)誌でこの小説を「青臭く」「とんでもなく愚かしい」と評した。チェンバースは、この小説が「救済のない刺々しさ」に貫かれていると述べ、ランドが神を排した体制(チェンバースによればソビエトに類する体制)を支持していると非難し、「『肩をすくめるアトラス』のほぼすべてのページから、痛ましい必然による命令として聞こえてくる声がある。『ガス室に行け!』の声だ」と述べた。『肩をすくめるアトラス』に対する肯定的なレビューも、いくつかの出版物で書かれた。たとえば著名な書評家ジョン・チェンバレン (John Chamberlain) は、この小説を賞賛した。しかし、後にランド研究者のミミ・リーセル・グラッドスタイン (Mimi Reisel Gladstein) が書いたところによれば、「レビューアーたちは、まるで酷評の巧みさを競い合うかのようだった。彼らは『肩をすくめるアトラス』を“忌むべきはったり”と評したり、“悪夢”と評したりした。この小説が“憎悪によって書かれている”と述べたり、“無慈悲な弱い者いじめと冗長さを示している”などと述べたりした」。作家のフラナリー・オコナー(Flannery O'Connor)は、友人への手紙で「アイン・ランドのフィクションはおよそ考えられる中で最低のフィクションだ。地下鉄で拾い上げたらすぐそばのクズ箱に直行だろう」と書いた。",
"title": "反響と遺産"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ランドのノンフィクションについて書かれたレビューは、彼女の小説について書かれたレビューより、ずっと少なかった。ランドの最初のノンフィクション『新しい知識人のために』(For the New Intellectual)に対する批判の趣旨は、『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)に対する批判の趣旨と、ほぼ同じだった。哲学研究者シドニー・フック (Sidney Hook) は、ランドの確信を「ソビエト連邦での哲学の書かれ方」になぞらえた。作家ゴア・ヴィダル (Gore Vidal) は、ランドの見解を「その不道徳性においてほぼ完璧」と評した。その後の著書は、発刊するたびにレビューアーから注目されなくなった。",
"title": "反響と遺産"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2005年、アイン・ランド生誕100年にあたり、評論家のエドワード・ロスタイン (Edward Rothstein) は「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙で、ランドのフィクションは古風でユートピア的な「レトロ・ファンタジー」であり、理解され損ねた芸術家によるプログラム的新ロマン主義であると述べた。またロスタインは、ランドの小説の登場人物たちによる「民主社会に対する孤立した拒絶」を批判した。2007年、書評家のレスリー・クラーク (Leslie Clark) はランドのフィクションを「擬似哲学の青さびが付いたロマンス小説」と評した。2009年、男性向けファッション・ビジネス・カルチャー誌「GQ」コラムニストのトム・カーソン (Tom Carson) は、ランドの著書を、『ベン・ハー』(Ben-Hur)や『レフトビハインド』(Left Behind)シリーズと同類の、「資本主義版のミドルブロー(中程度知識層向け)宗教小説」と評した。",
"title": "反響と遺産"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1991年、アメリカ議会図書館と米国最大の書籍通販組織「ブック・オブ・ザ・マンス・クラブ」(the Book-of-the-Month Club) は、同クラブ会員に「人生で最も影響を受けた本」を尋ねる調査を行った。この調査でランドの『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)は、聖書に次ぎ2番目に多くの票を集めた。また、1998年のランダムハウス/モダンライブラリーの「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」で『肩をすくめるアトラス』が第一位、『水源』が第二位を獲得し、また10位内に4つの作品がランクインした。ランドの著書は現在も幅広い読者に購入され、読まれ続けている。販売総部数は2013年時点で2,900万部を超える。なお販売総部数の約10%は「アイン・ランド協会」(The Ayn Rand Institute) による学校への寄贈用である。ランドの影響が最も大きいのは米国であるが、彼女の作品は世界中で関心を引いている。インドでは現在もランドの作品がベストセラーに名を連ね続けている。",
"title": "反響と遺産"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "同時代でランドを賞賛した作家には、アイラ・レヴィン (Ira Levin)、ケイ・ノルティ・スミス (Kay Nolte Smith)、L.ニール・スミス (L. Neil Smith) などがいる。後の世代の作家であるエリカ・ホルツァー (Erika Holzer) やテリー・グッドカインド (Terry Goodkind) も、ランドの影響を受けている。人生や思想の上でランドに重要な影響を受けたことを公言しているアーチストには、他に漫画家のスティーヴ・ディッコ (Steve Ditko) や、ハードロック/プログレッシブ・ロックバンドのラッシュ (Rush) のドラマー、ニール・パート (Neil Peart) などがいる。ランドはビジネスを肯定的に描いて見せた。このため経営者や起業家の中にも、ランドの作品を賞賛する者や、ランドの作品の普及に努める者は多い。銀行持株会社BB&Tのジョン・アリソン (John Allison)や、スポーツ・エンタテイメント会社コムキャスト・スペクタカー (Comcast Spectacor) のエド・スナイダー (Ed Snider) は、ランドの思想の普及活動に資金を拠出した。他にもプロバスケットボールチームのダラス・マーベリックス (Dallas Mavericks) のオーナー、マーク・キューバン (Mark Cuban) や、食料品スーパーマーケットチェーンのホールフーズ・マーケットのCEO、ジョン・P.マッキー (John P. Mackey) など様々な経営者・起業家が、自分の成功にランドが重要な役割を果たしたと述べている。",
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"text": "ランドとその作品は、アニメ、ライブコメディ、ドラマ、ゲームショーを含むテレビ番組や、映画、ビデオゲームなど、様々なメディアで取り上げられている。ランドやランドをベースにしたキャラクターは、米国の著名な作家達による様々な文芸作品やSFに登場し、(肯定的であれ否定的であれ)大きな存在感を示している。「リーズン」(Reason)誌の編集主幹であるニック・ギレスピー (Nick Gillespie) は、「ランドの名声は、虐げられた形で不滅になっています。様々な作品に登場しているランドには、まるで主人公のようなインパクトがあります」、「ランドを冷酷で非人間的と非難することは、大衆文化に浸透しきっています」と述べている。ランドの生涯については2本の映画が制作されている。ドキュメンタリー映画「アイン・ランド:ア・センス・オブ・ライフ」(Ayn Rand: A Sense of Life、1997年)は、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。1999年に制作されたテレビドラマ「ザ・パッション・オブ・アイン・ランド」(The Passion of Ayn Rand)は、バーバラ・ブランデン (Barbara Branden) による同名の伝記(1986年)をドラマ化したもので、複数の賞を受賞した。ニック・ガエターノ (Nick Gaetano) がデザインしたランドの肖像画は、米国の切手にもなった。",
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"text": "ランド自身は「保守」や「リバタリアン」に分類されることを拒否していたにもかかわらず、ランドは右派政治運動やリバタリアニズムに強い影響を与え続けている。ケイトー研究所 (Cato Institute) の上級研究員、ジム・パウエル (Jim Powell) は、近代におけるアメリカのリバタリアニズムにおいて最も重要な3人の女性として、ローズ・ワイルダー・レイン (Rose Wilder Lane)、イザベル・パターソンと共にアイン・ランドを挙げている。リバタリアン党の創設者の1人、デヴィッド・ノーラン (David Nolan) は、「アイン・ランドがいなかったら、リバタリアン運動は存在しなかっただろう」と述べている。ジャーナリストのブライアン・ドハティ (Brian Doherty) は、リバタリアン運動の歴史を記述する中で、ランドを「20世紀のリバタリアンの中で社会全体に最も大きな影響を与えた人物」と呼んでいる。伝記作家のジェニファー・バーンズ (Jennifer Burns) は、ランドを「右派の人生への究極のゲートウェイドラッグ」と呼んだ。",
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"text": "ウィリアム・F.バックリー・ジュニア(William F. Buckley, Jr.)をはじめとする「ナショナル・レビュー」(National Review)誌の寄稿者達は、ランドを厳しく批判していた。1950年代から1960年代にかけて、同誌にはウィテカー・チェンバース (Whittaker Chambers)、ゲイリー・ウィルズ (Garry Wills)、およびM.スタントン・エヴァンズ (M. Stanton Evans) による多数の批判が掲載された。しかしランドの保守派への影響があまりにも大きかったため、バックリーをはじめとする「ナショナル・レビュー」誌寄稿者達も、伝統的価値観念やキリスト教的精神と資本主義の擁護をどうすれば統合できるか、再検討することを迫られた。",
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"text": "妊娠中絶合法化を支持し、神の存在を否定するなど、ランド自身は保守派としては典型的ではない立場も取っている。しかし政治の世界でランドからの影響を公言する人物は、一般に保守派で、米国共和党の党員であることが多い。1987年に「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙に掲載された記事で、ランドはレーガン政権の「桂冠小説家」(novelist laureate) と呼ばれていた。共和党連邦議会議員や保守派の政治評論家も、ランドの影響を受けたことを認め、ランドの小説を推薦している。",
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"text": "2000年代末の金融危機は、ランドの作品、特に『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)への新たな関心を呼び起こした(この金融危機が『肩をすくめるアトラス』で予見されていたと見る者もいた)。現実の世界の出来事とこの小説のプロットを比較する、様々な論説が書かれた。同じ時期、ティーパーティー運動参加者の中に、ランドや彼女の小説の主人公ジョン・ゴールトに言及するプラカードを掲げる者が多く見られた。同時に、ランドの思想に対する批判も、政治的左派を中心に高まった。批判者達は、ランドによる利己主義と自由市場の擁護が、特にアラン・グリーンスパンへの影響を通じ経済危機を引き起こしたと非難した。たとえば「マザー・ジョーンズ」(Mother Jones)誌は「伝統的なヒエラルキーを逆さにし、 富や才能や権力を握る人々を被抑圧者に変えて見せるのが、常にランドの特殊な才能だった」と論じ、「ネイション」(The Nation)誌は「ランディアニズムの道徳構文法」とファシズムの類似性を主張した。",
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"text": "ランドの存命中、彼女の作品はアカデミズムの世界の研究者からはほとんど注目されなかった。ランドの思想に関する最初の学問的書物は、1971年に出版された。その著者は、ランドについて書くことは、ランドを真剣に取り扱ったことでランドとの「連座による罪」に問われかねない「危険な企て」であると述べた。1982年にランドが死去する前に、ランドの思想に関するいくつかの論文が学術誌に掲載されているが、その多くは「ザ・パーソナリスト」(The Personalist)誌に掲載されたものだった。リバタリアンの哲学研究者ロバート・ノージック (Robert Nozick) による「ランディアンの主張について」(On the Randian Argument)はその一つである。この論文でノージックは、形而上学におけるランドの主張に不備があり、デイヴィッド・ヒューム (David Hume) が提起したis-ought問題が解決されていないと論じた。「パーソナリスト」誌には、ノージックに対する他の哲学研究者からの反論も掲載された。反論者達は、ノージックがランドの立場を誤って述べていると主張した。ランドの存命中、文学者としてのランドを学問的に検討した論考は、さらに限られていた。演劇研究者のミミ・グラッドスターン (Mimi Gladstein) が1973年にランドの研究を開始した当時、ランドの小説に関する学術論文は1本も見つからなかった。1970年代を通じて発表された文学者としてのランドの研究論文は3本だけだった。",
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"text": "ランドの死去後、ランドの作品への関心は徐々に高まった。歴史家のジェニファー・バーンズ (Jennifer Burns) によれば、これまでランドに対する研究者達の関心には「重なり合う3つの波」があり、その内最も新しい波は2000年以来の「学問的研究の爆発」(an explosion of scholarship) である。ただし現在、ランドやオブジェクティビズムを哲学上の専門や研究分野に含める大学はほとんど存在しない。多くの文学科や哲学科では、ランドは大衆文化現象と見なされ、真剣な研究の対称として扱われていない。",
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"text": "学術機関でランドの作品について教授している研究者としては、グラッドスタイン (Gladstein)、クリス・マシュー・スカバラ (Chris Matthew Sciabarra)、アラン・ゴットヘルフ (Allan Gotthelf)、エドウィン・A.ロック (Edwin A. Locke)、タラ・スミス (Tara Smith) などがいる。スカバラは、ランドの哲学的および文学的業績の研究に貢献する超党派の査読付き定期刊行誌である「ザ・ジャーナル・オブ・アイン・ランド・スタディーズ」(The Journal of Ayn Rand Studies)の、共同編集者を務めている。1987年、ゴットヘルフは、ジョージ・ウォルシュ (George Walsh)およびデヴィッド・ケリー (David Kelley) と共に「アイン・ランド・ソサイアティ」(Ayn Rand Society) の創設を支援した。ゴットヘルフは、ランドおよびランドの思想に関するセミナーを積極的に後援している。スミスはランドの思想に関する学術的な本および論文を複数書いている。ケンブリッジ大学出版局 (Cambridge University Press) から出版されたランドの倫理論に関する書籍、『アイン・ランドの規範倫理:有徳のエゴイスト』(Ayn Rand's Normative Ethics: The Virtuous Egoist)はその1つである。ランドの思想は、クレムゾン大学およびデューク大学でも研究対象になっている。英米文学の研究者はランドの作品をほぼ無視している。ただし1990年代以降は、ランドの作品に注目する研究者が増えている。",
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"text": "ランド研究者のダグラス・デン・アイル (Douglas Den Uyl) とダグラス・B.ラスムッセン (Douglas B. Rasmussen) は、ランドの思想の重要性と独自性を強調する際、ランドの文体が「文学的、誇張法的、かつ感情的」であると述べた。哲学研究者のジャック・ホイーラーは、ランドの倫理学には「絶え間ない大言壮語とランディアンの噴怒の絶え間ない発散」があるが、この倫理学は「きわめて巨大な業績であり、その研究は他のどの現代思想の研究よりはるかに有益である」と述べた。2001年にジョン・デヴィッド・ルイス (John David Lewis) は、オンライン文学百科事典「リテラリー・エンサイクロペディア」(Literary Encyclopedia)のランドの項で、「ランドは同世代の作家の中で最も知的に挑戦的なフィクションを書いた」と断言した。「ザ・クロニクル・オブ・ハイアー・エジュケーション」(The Chronicle of Higher Education)紙の1999年のインタビューで、スカバラは「彼らがランドを笑うことはわかっている」と述べながら、学術界でもランドの業績への関心が高まると予言した。",
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"text": "哲学研究者のマイケル・ヒューマー (Michael Huemer) は、ランドの思想、特に倫理学は、解釈が困難で論理的な一貫性に欠けており、これに説得される人は非常に少ないと主張した。ヒューマーは、ランドが注目を集めるのは、特に小説家として「人を引き込まずにはいない文章を書く才能」のためであるとしている。『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)がルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises)、フリードリヒ・ハイエク (Friedrich Hayek)、フレデリック・バスティア (Frederic Bastiat) といった他の古典的自由主義哲学者の作品だけでなく、ランド自身のノンフィクション作品よりもよく売れるのは、ヒューマーによればランドのこの才能のためである。",
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"text": "政治学者のチャールズ・マーレイ (Charles Murray) は、ランドの文学的業績を賞賛する一方で、ランドが自分の思想をジョン・ロックやフリードリヒ・ニーチェなどの先行する思想家達からも受け継いでいることを認めず、哲学的にアリストテレスにのみ負っていると主張したことを批判している。マーレイによれば、「アリストテレスにわずかばかり助けられただけで、オブジェクティビズムが自分の頭脳から生まれ全面開花したと主張することによって、ランドは現実から乖離しただけでなく、子供じみることにもなってしまった」。",
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"text": "ランドはオブジェクティビズムが統一された思想体系であると主張したが、哲学研究者のロバート・H.バス (Robert H. Bass) は、ランドの中心的な倫理思想が彼女の中心的な政治思想と一貫せず矛盾すると主張した。",
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"text": "1985年、ランドの相続人レナード・ピーコフは、ランドの思想および作品の伝播を目的とする非営利組織「アイン・ランド協会」(Ayn Rand Institute) を設立した。1990年、哲学研究者のデヴィッド・ケリー (David Kelley) は、「アトラス・ソサイエティ」(The Atlas Society) として知られる「オブジェクティビズム研究所」(Institute for Objectivist Studies) を設立した。2001年、歴史家のジョン・マカスキー (John McCaskey) は、アカデミズムの世界で行われる学問的なオブジェクティビズム研究に資金を提供する「オブジェクティビストの奨学のためのアンセム基金」(Anthem Foundation for Objectivist Scholarship) を組織した。BB&T社の慈善基金も、ランドの思想や作品の教授に資金を提供している。資金の提供を受けている学校には、テキサス大学オースティン校 (The University of Texas at Austin)、ピッツバーグ大学 (University of Pittsburgh)、およびノースカロライナ大学チャペルヒル校 (University of North Carolina at Chapel Hill) などがある。これらの資金提供がランドに関連する研究や教授を条件としていることが、議論になるケースもある。",
"title": "反響と遺産"
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] |
アイン・ランドは、ロシア系アメリカ人の小説家、思想家、劇作家、映画脚本家である。本名アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム。二冊のベストセラー小説『水源』、『肩をすくめるアトラス』で知られる。また自ら「客観主義」と名付けた思想体系の創出者としても知られる。 ロシアで生まれ、同国で教育を受けた後、1926年にアメリカ合衆国に移住。ハリウッドで映画脚本家として働き、劇作品の一つは1935年から1936年までブロードウェイで上演された。初期の小説2作品は当初それほど評判にならなかったが、小説『水源』(1943年)で名声を得た。 1957年には代表作の小説『肩をすくめるアトラス』を出版。その後は自らの思想を伝播するノンフィクションに転向した。自ら雑誌を刊行し、いくつかのエッセー集を発表し、1982年に死去した。ランドは理性を知識を得る唯一の手段として擁護し、信仰や宗教を拒絶した。合理的かつ倫理的なエゴイズムを支持し、倫理的利他主義を拒絶した。政治においては「実力への着手」を非難し、集産主義および国家主義に反対した。また、無政府主義にも反対した。最小国家主義および自由放任資本主義を、個人の権利を守る唯一の社会制度と信じ、支持した。芸術においてはロマン主義的写実主義を唱道した。一部のアリストテレス派哲学者や古典的自由主義を除き、殆ど全ての思想家及び思想的伝統を辛辣に批判した。 文芸評論の世界では、ランドの虚構は殆ど認められていない。アカデミズムの世界では、ランドの思想はほぼ無視または否認されている。客観主義運動は、ランドの思想を一般および学界に広めることを目指す運動である。リバタリアンやアメリカの保守主義において、ランドは大きな影響力を保ち続けている。
|
{{Infobox 作家
| name = アイン・ランド<br />Ayn Rand
| pseudonym = アイン・ランド
| image =Ayn Rand (1943 Talbot portrait).jpg
| caption = 1943年
| birth_name = アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム<br />Alisa Zinov'yevna Rosenbaum
| birth_date = {{生年月日と年齢|1905|2|2|no}}
| birth_place = {{RUS1883}}、[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1905|2|2|1982|3|6}}
| death_place = {{USA}}、[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]
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| ethnicity = [[ロシア系ユダヤ人]]
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| subject = [[哲学]]
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| spouse = フランク・オコナー<br>(1929年4月15日結婚 – 1979年11月7日死別)
| influences = [[アリストテレス]]、[[トマス・アクィナス]]、[[ジョン・ロック]]、[[カール・メンガー]]、[[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス|ミーゼス]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[オー・ヘンリー]]、[[ヴィクトル・ユーゴー]]、[[H.L.メンケン]]、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、[[イザベル・パターソン]]
| influenced = [[アラン・グリーンスパン]]、[[オブジェクティビズム|客観主義]]運動参加者他
| notableworks = 「[[水源 (小説)|水源]]」<br>「[[肩をすくめるアトラス]]」
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| signature = Sign Ayn Rand.png
| signature_alt = Ayn Rand
}}
'''アイン・ランド'''(Ayn Rand、/ˈaɪn ˈrænd/;<ref>{{harvnb|Branden|1986|p=71}}; {{harvnb|Gladstein|1999|p=9}}</ref>、[[1905年]][[2月2日]] - [[1982年]][[3月6日]])は、[[ロシア系アメリカ人]]の[[小説家]]、[[思想家]]<ref>{{harvnb|Den Uyl|Rasmussen|1986|p=x}}; {{harvnb|Sciabarra|1995|pp=1–2}}; {{harvnb|Kukathas|1998|p=55}}; {{harvnb|Badhwar|Long|2010}}.</ref>、[[劇作家]]、[[脚本|映画脚本家]]である。本名'''アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム'''({{lang-ru-short|Алиса Зиновьевна Розенбаум}})。二冊のベストセラー小説『[[水源 (小説)|水源]]』、『[[肩をすくめるアトラス]]』で知られる。また自ら「[[オブジェクティビズム|客観主義]]」と名付けた思想体系の創出者としても知られる。
ロシアで生まれ、同国で教育を受けた後、1926年にアメリカ合衆国に移住。[[ハリウッド]]で映画脚本家として働き、劇作品の一つは1935年から1936年まで[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]で上演された。初期の小説2作品は当初それほど評判にならなかったが、小説『[[水源 (小説)|水源]]』(1943年)で名声を得た。
1957年には代表作の小説『[[肩をすくめるアトラス]]』を出版。その後は自らの思想を伝播するノンフィクションに転向した。自ら雑誌を刊行し、いくつかのエッセー集を発表し、1982年に死去した。ランドは理性を知識を得る唯一の手段として擁護し、信仰や宗教を拒絶した。合理的かつ倫理的なエゴイズムを支持し、倫理的利他主義を拒絶した。政治においては「実力への着手」(Initiation of Force、自分の側からの強制力の行使)を非難し<ref>{{harvnb|Barry|1987|p=122}}; {{harvnb|Peikoff|1991|pp=309–314}}; {{harvnb|Sciabarra|1995|p=298}}; {{harvnb|Gotthelf|2000|p=91}}; {{harvnb|Gladstein|2009|p=46}}</ref>、[[集産主義]]および[[国家主義]]に反対した。また、[[無政府主義]]にも反対した。[[最小国家主義]]および[[レッセフェール|自由放任]]資本主義を、個人の権利を守る唯一の社会制度と信じ、支持した。芸術においては[[ロマン主義|ロマン主義的]][[写実主義]]を唱道した。一部のアリストテレス派哲学者や[[古典的自由主義]]を除き、殆ど全ての思想家及び思想的伝統を辛辣に批判した<ref>{{harvnb|O'Neill|1977|pp=18–20}}; {{harvnb|Sciabarra|1995|pp=12, 118}}</ref>。
文芸評論の世界では、ランドの虚構は殆ど認められていない<ref name="Gladstein 117-119">{{harvnb|Gladstein|1999|pp=117–119}}</ref>。アカデミズムの世界では、ランドの思想はほぼ無視または否認されている。[[オブジェクティビズム|客観主義]]運動は、ランドの思想を一般および学界に広めることを目指す運動である<ref name="reception">{{harvnb|Sciabarra|1995|pp=1–2}}</ref>。[[リバタリアニズム|リバタリアン]]やアメリカの[[保守|保守主義]]において、ランドは大きな影響力を保ち続けている<ref name="politicalinfluence">{{harvnb|Burns|2009|p=4}}; {{harvnb|Gladstein|2009|pp=107–108, 124}}</ref>。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
ランドは1905年2月2日に[[サンクトペテルブルク]]に住む中産階級の一家の、3人姉妹の長女として生まれた。父はジノヴィ・ザハーロヴィチ・ローゼンバウム、母はアンナ・ボリソヴナ(旧姓カプラン)で、2人はほぼ[[非順守派]]の[[ユダヤ人]]であった。父ジノヴィ・ローゼンバウムは薬剤師として成功し、薬局一店舗とこの薬局が入るビルを所有するに至った<ref>{{harvnb|Heller|2009|pp=3–5}}; {{harvnb|Britting|2004|pp=2–3}}; {{harvnb|Burns|2009|p=9}}</ref>。ランドは学校には退屈し、彼女自身によれば8歳の時には映画の脚本を書き始め、10歳の時には小説を書き始めた<ref>{{cite episode|series=The Tomorrow Show|network=NBC|airdate=July 2, 1979|credits=Tom Snyder}}</ref>。ランドが12歳の時、[[2月革命 (1917年)|二月革命(1917年)]]が起きた。この時は[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]よりも[[アレクサンドル・ケレンスキー]]に好感を持っていた。
その後の[[十月革命]]と、[[ウラジーミル・レーニン]]が指導する[[ボリシェヴィキ]]の独裁確立により、ランドの一家はそれまでの快適な生活を破壊された。父の薬局事業は没収され、一家は転居を強制された。ランド一家は[[ロシア内戦]]中[[白軍]]の支配下にあった[[クリミア]]に逃れた。ランドの回想によれば、ランドは高校時代に[[無神論]]の立場を取ることを決め、[[理性]]を他のあらゆる人間的価値の上位に置くことに決めた。ランドが16歳でクリミアの高校を卒業した後、一家はペトログラード(旧[[サンクトペテルブルク]])に戻った。ペトログラードでの生活条件はひどく、時に飢餓寸前の状態に陥った<ref>{{harvnb|Branden|1986|pp=35–39}}</ref><ref>{{harvnb|Britting|2004|pp=14–20}}</ref>。
[[File:Twelvecollegia.jpg|thumb|left|alt=川沿いに建つ大きな建物と、そばを通る多数の人々や馬車を描いたモノクロ版画|ランドはペトログラード国立大学で3ヶ年のプログラムを修了した。]]
ロシア革命後、大学が女性に解放され、ランドは[[ペトログラード大学]]に入学した最初の女性の一人になった<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=15}}</ref>。ランドは、この大学の社会教育学部で歴史を専攻した<ref>{{harvnb|Sciabarra|1995|p=77}}</ref>。大学では[[アリストテレス]]および[[プラトン]]の著作に出会った<ref>{{harvnb|Sciabarra|1999|pp=5–8}}</ref>。アリストテレスには最大の影響を、プラトンには最大の反面教師としての影響を、それぞれ受けることになった<ref>{{harvnb|Heller|2009|p=41}}; {{harvnb|Peikoff|1991|pp=451–460}}</ref>。アリストテレスとプラトンに次いでランドが熱心に著作を研究した思想家は、[[フリードリヒ・ニーチェ]]であった<ref>{{harvnb|Britting|2004|pp=17–18, 22–24}}</ref>。フランス語、ドイツ語、ロシア語を読むことができたランドは、[[フョードル・ドストエフスキー]]、[[ヴィクトル・ユーゴー]]、[[エドモン・ロスタン]]、[[フリードリヒ・シラー]]などの作家にも出会い、これらの作家の作品を長く愛読した<ref>{{harvnb|Britting|2004|pp=17, 22}}</ref>。
卒業直前、ランドは他の多くの「[[ブルジョワジー|ブルジョア]]」学生と共に大学から追放された。しかし海外から訪れた科学者グループからの抗議を受け、追放された学生の多くは学業の修了と卒業を許可された<ref>{{harvnb|Heller|2009|p=47}}; {{harvnb|Britting|2004|p=24}}</ref>。ランドも1924年に大学を卒業した<ref>{{harvnb|Sciabarra|1999|p=1}}</ref>。その後1年間[[レニングラード]]の国立映画専門学校で学んだ。学校の課題の一つとしてポーランド人女優[[ポーラ・ネグリ]]に関する評論を書き、これがランドの最初の刊行作になった<ref name="Heller49-50">{{harvnb|Heller|2009|pp=49–50}}</ref>。
この頃までに筆名としてアイン・ランドを名乗ることを決めていた<ref>{{harvnb|Britting|2004|p=33}}</ref>。名前の由来は諸説あるが、「ランド」は本名の姓Rosenbaumの[[キリル文字]]での短縮形<ref>{{harvnb|Gladstein|2009|p=7}}; {{harvnb|Heller|2009|p=55}}</ref>、「アイン」はフィンランド語での名前、もしくは「目」を意味する[[ヘブライ語]]「 עין」(アイン)から取った<ref>ランド自身は「アイン」の語源はフィンランド語であると述べている{{harv|Rand|1995|p=40}}。しかしこの点について疑問をさしはさみ、ヘブライ語のあだ名から来たのではないかと述べている伝記も存在する。{{harvnb|Heller|2009|pp=55–57}}に詳しい議論がある。</ref>と言われる。
[[File:Pola Negri by Ayn Rand cover.jpg|thumb|right|alt=白黒の絵とロシア語が書かれた茶色の表紙。左側の絵は黒髪の女性の肖像画。右側の絵は摩天楼。|1925年に出版されたランドの最初の刊行作、女優ポーラ・ネグリに関する2,500語の研究論文<ref name="Heller49-50"/>。]]
=== アメリカへの移住 ===
1925年、ランドはアメリカの親類を訪問する[[査証|ビザ]]を取得した。[[ニューヨーク港]]に着いたランドは、[[マンハッタン]]の[[超高層建築物|摩天楼]]群が織りなすスカイラインに、感激のあまり「光輝の涙」を流したと後に回想している<ref>{{harvnb|Heller|2009|p=53}}</ref>。米国に留まり映画脚本家になることを決心していたランドは、最初に[[シカゴ]]の親類を訪れた。親類の一人は映画館を1つ所有しており、彼女が数十の映画を無料で見ることを許した。数ヶ月の滞在後、ランドはシカゴの親類の家を後にし、[[カリフォルニア州]][[ハリウッド]]へと出発した<ref>{{harvnb|Heller|2009|pp=57–60}}</ref>。
当初ハリウッドでの生活は苦しく、生活費を稼ぐために雑多な仕事に従事した。著名映画監督[[セシル・B・デミル]] (Cecil B. DeMille) との面識を得て、彼の映画「[[キング・オブ・キングス (1927年の映画)|キング・オブ・キングス]]」(''The King of Kings'')でのエキストラに採用され、その後も下級シナリオライターとしての仕事を獲得した<ref>{{harvnb|Britting|2004|pp=34–36}}</ref>。「キング・オブ・キングス」での仕事中、若く野心的な俳優フランク・オコナー(Frank O'Connor)と出会い、1929年4月15日に結婚。1931年にはアメリカ市民権を取得した。1930年代、ランドは作家業の補助として様々な職業に就いた。その中には、当時の5大映画会社の一つ、[[RKO|RKOスタジオ]]の衣装部門の責任者の仕事もあった<ref>{{harvnb|Britting|2004|pp=35–40}}; {{harvnb|Paxton|1998|pp=74, 81, 84}}</ref>。両親と2人の妹を米国に呼び寄せようと何度か試みたが、彼らは移住許可を取得できなかった<ref>{{harvnb|Heller|2009|pp=96–98}}; {{harvnb|Britting|2004|pp=43–44, 52}}</ref>。
=== 初期のフィクション ===
ランドが作家として最初に成功した作品は、1932年に映画会社[[ユニバーサル・ピクチャーズ|ユニバーサル・スタジオ]]に買い取られた脚本「[[レッドポーン]]」(''Red Pawn'')であった。ただしこの脚本は結局映画化されなかった<ref>{{harvnb|Britting|2004|pp=40, 42}}</ref>。次に書かれた法廷ドラマ「[[1月16日の夜に]]」(''Night of January 16th'')は、まず1934年にハリウッドでエドワード・E・クライヴ (Edward E. Clive) によって映画化され、1935年には[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]で上演され成功を収めた。劇場版の「1月16日の夜に」では、毎晩観客の中から「[[陪審員]]」が選ばれ、陪審員の「評決」に応じ、2つ用意された別々の結末の一方が演じられた<ref>{{harvnb|Heller|2009|pp=76, 92}}</ref>。1941年には、映画会社[[パラマウント映画|パラマウント・ピクチャー]]がこの劇の映画版を制作した。ランドはこの映画の制作に参加せず、その結果に対しきわめて批判的だった<ref>{{harvnb|Heller|2009|pp=78}}; {{harvnb|Gladstein|2009|p=87}}</ref>。
ランドの最初の小説は、1936年に出版された半自伝的作品『[[われら生きるもの]]』(''We the Living'')である。[[ソビエト連邦|ソビエト]]政権下の[[ロシア]]を舞台にしたこの小説は、個人と国家の対立に焦点を当てている。この小説の1959年版のまえがきでランドは、「(『われら生きるもの』は)私の小説の中で最も自伝に近い作品である。文字通りの意味での自伝ではないが、知的な意味での自伝とは言える。筋書きは創作だが、背景は創作ではない[‥‥]」<ref>{{cite book |last=Rand |first=Ayn |chapter=Foreword |title=We the Living |location=New York |publisher=Dutton |page=xviii |isbn=0-525-94054-5 |oclc=32780458 |edition=60th Anniversary |year=1995 |origyear=1936}}</ref>と述べている。出版当初の売れ行きは悪く、アメリカの出版社はこの作品を[[絶版]]にした<ref>{{harvnb|Gladstein|2009|p=13}}</ref>。ただしヨーロッパでは売れ続けた<ref>Ralston, Richard E. "Publishing ''We the Living''". In {{harvnb|Mayhew|2004|p=141}}</ref>。後に『水源』等がベストセラーになったことにより、ランドは1959年にこの小説の改訂版を出版できた。以来『[[われら生きるもの]]』の販売部数は300万部を超えている<ref>Ralston, Richard E. "Publishing ''We the Living''". In {{harvnb|Mayhew|2004|p=143}}</ref>。1942年にはイタリアでこの小説を元にした2部作の映画、『ノア・ビビ』(''Noi vivi'')および『アディオ・キラ』(''Addio, Kira'')が制作された。ランドはこの映画化について知らなかった。この2部作映画は1960年に再発見され、ランドの承認の下、1本の映画『われら生きるもの』(''We the Living'')に再編集され、1986年に発表された<ref>{{harvnb|Paxton|1998|p=104}}</ref>。
次の大作『[[水源 (小説)|水源]]』(''The Fountainhead'')を書いた後の休み中には、短篇小説『[[アンセム (小説)|アンセム]]』(''Anthem'')を書いている。『[[アンセム (小説)|アンセム]]』には、[[全体主義]]的な[[集産主義]]が勝利した結果、「I(私)」という言葉さえ忘れ去られ「We(私たち)」という言葉に取って代わられた、[[ディストピア]]的な未来像が描かれている<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=50}}; {{harvnb|Heller|2009|p=102}}</ref>。この小説は1938年に[[イングランド]]で出版されたが、アメリカでは当初この小説を出版してくれる出版社が見つからなかった。『[[われら生きるもの]]』の場合と同様、その後『[[水源 (小説)|水源]]』がベストセラーになったおかげで、ランドは1946年にこの小説の改訂版を出版できた。『[[アンセム (小説)|アンセム]]』の販売部数は350万部を超えている<ref>Ralston, Richard E. "Publishing ''Anthem''". In {{harvnb|Mayhew|2005a|pp=24–27}}</ref>。
=== 『水源』と積極的政治活動 ===
1940年代、ランドは政治活動に積極的に関与するようになった。1940年の大統領選挙でランドは、夫と共に、[[共和党 (アメリカ)|共和党]][[ウェンデル・L・ウィルキー]] (Wendell Lewis Willkie) 陣営のボランティア専従スタッフとして活動した。この活動の過程で、ランドは初めて公衆を前に演説する経験をした。[[ニューヨーク]]市では、ウィルキー支持のニュース映画を見たばかりの聴衆から、時に敵意をむき出しにした質問を受けることもあった。ランドはこうした敵意ある質問にも当意即妙に答えた。これはランドにとって非常に楽しい経験だった<ref>{{harvnb|Britting|2004|p=57}}</ref>。またこの活動により、[[自由市場]][[資本主義]]を支持する知識人達との交流も生まれた。ジャーナリストの[[ヘンリー・ハズリット]] (Henry Hazlitt) 夫妻と友人になり、ハズリットの紹介で[[オーストリア学派]]の経済学者[[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス]] (Ludwig von Mises) とも知り合った。ランドと彼らの間には思想的相違があったが、ランドはハズリットとミーゼスの著作を生涯にわたり支持し、彼らもランドへの賞賛を表明した。ミーゼスはランドのことを「the most courageous man in America(アメリカで最も勇敢な人)」と述べたことがある。この賛辞はランドを特に喜ばせた。ミーゼスがランドを「woman」ではなく「man」と呼んだからである<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=114}}; {{harvnb|Heller|2009|p=249}}; {{harvnb|Branden|1986|pp=188–189}}</ref>。ランドは[[リバタリアニズム|リバタリアン]]の作家[[イザベル・パターソン]]とも友情を育んだ。二人は幾度となく会った。博識なパターソンに、ランドは夜遅くまでアメリカの歴史や政治について尋ねた。パターソン唯一のノンフィクション『''The God of the Machine''』には、ランドが与えたアイデアが反映されている<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=75–78}}</ref>。
執筆に7年を費やし、1943年に出版されたロマンス思想小説『[[水源 (小説)|水源]]』(''The Fountainhead'')は、作家アイン・ランド初の大ヒット作となった<ref>{{harvnb|Britting|2004|pp=61–78}}</ref>。この小説は、妥協しない若き建築家ハワード・ロークと、「second-hander(セコハン人間、受け売り人間)」との対立を中心に描かれている。セコハン人間とは、他人を自己より上位に置き、他人を通じて生きようとする人々である。『水源』は[[Bobbs-Merrill Company|ボブスメリル社]] (Bobbs-Merrill Company) が出版を引き受ける前に、12の出版社から出版を拒否されている。ボブスメリル社が『水源』の出版引き受けを決めたのは、同社の編集者アーチボルド・オグデン (Archibald Ogden) が、『水源』を出版しなければ会社を辞める、と雇い主を脅したからである<ref>{{harvnb|Britting|2004|pp=58–61}}</ref>。『水源』の仕上げにかかっている間、疲労と闘うため、ランドは「ベンゼドリン」という商品名の[[アンフェタミン]]([[中枢神経刺激薬]])の処方を受けていた<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=85}}</ref>。この薬は原稿を締め切りに間に合わせるための長時間執筆に役立ったが、ランドは疲弊し切り、原稿完成時、医師から2週間の安静を命じられたほどであった<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=89}}</ref>。この薬を約30年にわたり使用し続けたことが、後に彼女と付き合った人々から、気分の移り変わりが激しいと時に評される一因だった可能性がある<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=178}}; {{harvnb|Heller|2009|pp=304–305}}</ref>。
『水源』は最終的に世界的成功を収め、ランドに名声と経済的安寧をもたらした<ref>{{harvnb|Doherty|2007|p=149}}; {{harvnb|Branden|1986|pp=180–181}}</ref>。1943年、ランドはこの小説の映画化の権利を[[ワーナー・ブラザース]]社に売却し、同映画の脚本を書くためハリウッドに戻った。『水源』映画版(邦題「[[摩天楼 (1949年の映画)|摩天楼]]」)の脚本を完成させると、ランドは映画プロデューサーのハル・ウォリス (Hal Wallis) に、脚本家兼[[スクリプトドクター]]として雇われた。ウォリスの下でランドが脚本を書いた映画には、アカデミー賞にノミネートされた「ラブ・レター」(''Love Letters''、1945年)や「大空に駈ける恋」(''You Came Along''、1945年)などがある<ref>{{harvnb|Britting|2004|pp=68–80}}; {{harvnb|Branden|1986|pp=183–198}}</ref>。この間、ランドには他のプロジェクトに関わる余裕ができた。こうしたプロジェクトの一つに、彼女の思想をノンフィクションの形で論じた『個人主義の道徳的基礎』(''The Moral Basis of Individualism'')の執筆計画があった。計画された本は完成しなかったが、この本の内容を要約した『明日への唯一つの道』(''The Only Path to Tomorrow'')というエッセイが、「[[リーダーズ・ダイジェスト]]」(''Reader's Digest'')誌の1944年1月号に発表された<ref>{{harvnb|Sciabarra|1995|p=112}}; {{harvnb|Heller|2009|p=171}}</ref>。
ハリウッドで働く間、ランドは、[[自由市場]]を擁護し[[共産主義]]に反対する政治活動への関与を深めた。ハリウッドの[[反共主義|反共産主義]]グループ「[[アメリカの理想を守るための映画同盟]]」 (Motion Picture Alliance for the Preservation of American Ideals) と関係を持つようになり、このグループの立場からの記事を複数書いた。[[反共産主義アメリカ作家協会]] (the anti-Communist American Writers Association) の一員にもなった<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=100–101, 123}}</ref>。イザベル・パターソンがランド宅を訪れ、カリフォルニアに住むランドの盟友たちに会った時、パターソンは、ランドの大切な盟友たちに向かって無礼な(とランドが見なす)発言をした。パターソンとランドの不和はこの発言で決定的となった<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=130–131}}; {{harvnb|Heller|2009|pp=214–215}}</ref>。1947年、第二次[[赤狩り]]の間、ランドはアメリカ合衆国議会下院の[[下院非米活動委員会|非米活動委員会]] (Un-American Activities Committee) で「友好的証人」(friendly witness) として証言台に立った。ランドは、ソ連での彼女の個人的経験と、映画「Song of Russia」(1944年)で描かれたソ連像がかけ離れていることを証言した<ref>{{harvnb|Mayhew|2005b|pp=91–93}}</ref>。ランドはこの映画が、ソ連での生活を実際よりもはるかに良好かつ幸福に描くことで、ソ連の状況を著しく歪めていると主張した<ref>{{harvnb|Mayhew|2005b|pp=188–189}}</ref>。ランドはまた、当時評判だった映画「[[我等の生涯の最良の年]]」(''The Best Years of Our Lives''、1946年)がビジネス界をネガティブに描いている(と彼女が解釈した)点の批判も希望したが、この点についての証言は許可されなかった<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=125}}</ref>。聴聞の後、調査の有効性をどう思うか尋ねられたランドは、このプロセスは「無駄骨」(futile) だったと答えている<ref>{{harvnb|Mayhew|2005b|p=83}}</ref>。
『水源』(''The Fountainhead'')の映画版(邦題「[[摩天楼 (1949年の映画)|摩天楼]]」)は、数回の遅延の後、1949年に公開された。ランド自身による脚本をほぼそのまま使用した映画だったが、ランドはこの映画を「初めから終わりまで嫌い」で、編集、演技などさまざまな要素への不満を述べた<ref>{{harvnb|Britting|2004|p=71}}</ref>。
=== 『肩をすくめるアトラス』とオブジェクティビズム ===
『水源』(''The Fountainhead'')出版後、ランドは数年にわたり読者から多数の手紙を受け取った。読者の中には、この小説から深い影響を受けた者もいた。1951年、ランドは[[ロサンゼルス]]から[[ニューヨーク]]に転居した。ニューヨークでランドは、こうした崇拝者たちのグループを自分のそばに集めた。このグループは、社会主義国家における[[集産主義]]組織を意味する「The Collective」(集団)を(冗談で)自称した。このグループには、後の[[連邦準備制度]]理事会議長[[アラン・グリーンスパン]] (Alan Greenspan) や、若い心理学学生ネイサン・ブルメンタル(Nathan Blumenthal、後のナサニエル・ブランデンNathaniel Branden)とその妻バーバラ (Barbara) や、バーバラの従兄弟[[レナード・ピーコフ]]もいた。当初このグループは、週末にランドのアパートを訪れ思想的な議論をする友人同士の、形式張らない集まりだった。その後ランドは、新しい小説『肩をすくめるアトラス』(''Atlas Shrugged'')の原稿を書きながら、この小説の草案をこのグループに読ませるようになった。1954年には、年下のナサニエル・ブランデンとの親密な関係が愛人関係に発展した。この関係はランドとプランデンそれぞれの配偶者の同意に基づくものだった<ref>{{harvnb|Branden|1986|pp=256–264, 331–343}}</ref>。
[[ファイル:Ayn Rand (1957 Phyllis Cerf portrait).jpg|サムネイル|364x364ピクセル|『肩をすくめるアトラス』の口絵に載ったランド(1957年)]]
1957年に出版された『[[肩をすくめるアトラス]]』(''Atlas Shrugged'')はランドの最高傑作になった<ref>{{harvnb|Sciabarra|1995|p=113}}; {{harvnb|Mayhew|2005b|p=78}}</ref>。ランドはこの小説のテーマを「人間存在における精神の役割と、そこから導き出される新しい道徳思想、すなわち合理的[[利己主義|利己]]の[[道徳]]の提示」と説明している<ref>Salmieri, Gregory. "''Atlas Shrugged'' on the Role of the Mind in Man's Existence". In {{harvnb|Mayhew|2009|p=248}}</ref>。『肩をすくめるアトラス』では、ランドのオブジェクティビズム思想の中心[[命題|テーゼ]]が唱道され、人間による達成に関する彼女の考えが表現されている。この小説では、[[ディストピア]]化したアメリカ合衆国で、トップレベルの創造性を持つ実業家、科学者、芸術家がストライキを決行し、山岳地の奥に密かに独立自由経済社会を建設する。この小説の主人公でストライキの指導者であるジョン・ゴールトは、このストライキを、国家の富と達成に最も貢献をしている人々の精神を引き揚げることにより、「世界のモーターを止める」ことと述べる。この架空の[[ストライキ]]を通じランドが表現しようとしたのは、合理的で生産的な人々の努力がなければ、経済は崩壊し社会は瓦解するということである。『肩をすくめるアトラス』は恋愛小説<ref>{{cite news |last=Dowd |first=Maureen |authorlink=:en:Maureen Dowd |title=Atlas Without Angelina |url=http://www.nytimes.com/2011/04/17/opinion/17dowd.html |date=April 17, 2011 |newspaper=[[New York Times]] |accessdate=July 30, 2012 }}</ref><ref>{{harvnb|McConnell|2010|p=507}}</ref>、ミステリー、および[[サイエンス・フィクション|SF]]<ref>{{harvnb|Gladstein|1999|p=42}}</ref>の要素を含んでいる。主人公ジョン・ゴールトが行う長大な演説は、ランドの小説作品の中で、彼女のオブジェクティビズム思想を最も詳しく述べたものである。
多くの否定的なレビューにもかかわらず、『肩をすくめるアトラス』は国際的ベストセラーになった。ジャーナリストの[[マイク・ウォレス]] (Mike Wallace) によるインタビューの中で、ランドは自分自身を「存命する中で最も創造的な思想家」と表現している<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=2}}</ref>。この小説を完成後、ランドは深刻な抑鬱症に陥った<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=178}}; {{harvnb|Heller|2009|pp=303–306}}</ref>。『肩をすくめるアトラス』はランドの最後のフィクション作品であり、彼女の人生の転換点であった。この作品をもってランドの小説家としてのキャリアは終わり、大衆的思想家としての役割が始まった<ref>{{harvnb|Younkins|2007|p=1}}</ref>。
1958年、ナサニエル・ブランデンは、ランドの思想の普及を目的とする「ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ」(Nathaniel Branden Lectures) を設立した。「ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ」は、後に「NBI: ナサニエル・ブランデン研究所」 (Nathaniel Branden Institute) として法人化された。NBIのメンバーは、同研究所の講演会で講演し、ランドが編集する定期刊行誌に論文を寄稿した。ランドは後にこれらの論文のいくつかを書籍化して出版した。NBIの文化は知的馴れ合いであり、ランドへの阿諛追従であったと批判する者もいる。NBIの批判者には、NBIの元研究生や、ブランデン自身が含まれる。NBIやオブジェクティビズム運動自体が、[[カルト]]もしくは宗教であると述べる者もいる<ref>{{harvnb|Gladstein|2009|pp=105–106}}; {{harvnb|Burns|2009|pp=232–233}}</ref>。ランドは、文学や音楽から性、 髭に至るまで、幅広いトピックについて意見を表明した。ランドの追従者の中には、彼女の好みを模倣したり、彼女の小説の登場人物に合う服を着たり、彼女と同じような家具を買ったりする者もいた<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=236–237}}</ref>。NBIの研究生の多くは、ランドの眼鏡に適わなかった<ref>{{harvnb|Heller|2009|p=303}}</ref>。ランドは研究生たちを厳格な基準に従わせた。自分に同意しない者には、冷たく対応したり、怒りを向けたりすることもあった<ref>{{harvnb|Doherty|2007|pp=237–238}}; {{harvnb|Heller|2009|p=329}}; {{harvnb|Burns|2009|p=235}}</ref>。ただし、かつてのNBI研究生たちの中には、これらの行動は誇張して伝えられており、問題があったのは、ニューヨークでランドと特に親しかった追従者との関係に限られていたと信じる者もいる<ref>{{harvnb|Doherty|2007|p=235}}; {{harvnb|Burns|2009|p=235}}</ref>。
=== 後半生 ===
1960年代から1970年代にかけ、ランドはオブジェクティビズム思想の発展と普及のため、ノンフィクション作品の執筆や学生向けの講演を精力的に行った。ランドが講演した大学には、[[イェール大学]]、[[プリンストン大学]]、[[コロンビア大学]]<ref>{{harvnb|Branden|1986|pp=315–316}}</ref>、[[ハーバード大学]]、[[マサチューセッツ工科大学]]<ref>{{harvnb|Gladstein|1999|p=14}}</ref>などが含まれる。1963年にはルイス & クラーク大学から名誉博士号を授与された<ref>{{harvnb|Branden|1986|p=318}}</ref>。フォード・ホール・フォーラム (Ford Hall Forum) で毎年講演するようにもなり、講演後は聴衆からの質問に応じた<ref>{{harvnb|Gladstein|1999|p=16}}</ref>。これらの講演や質疑応答で、ランドは当時の政治的・社会的問題について、しばしば議論の的になる立場を取った。たとえばランドは、[[人工妊娠中絶]]の権利を支持し<ref>{{harvnb|Heller|2009|pp=320–321}}</ref>、[[ベトナム戦争]]と[[徴兵制度|徴兵]]に反対し(ただし多くの[[兵役逃れ|徴兵忌避者]]を「クズ」(bum) と糾弾している)<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=228–229, 265}}; {{harvnb|Heller|2009|p=352}}</ref>、1973年の[[第四次中東戦争]]で[[パレスティナ]]および[[アラブ人|アラブ]]と闘う[[イスラエル]]を「野蛮人と闘う文明人」<ref>{{harvnb|Rand|2005|p=96}}; {{harvnb|Burns|2009|p=266}}</ref>と呼んで支持し、アメリカに入植したヨーロッパ人には[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民]]から土地を奪う権利があったと述べ<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=266}}; {{harvnb|Heller|2009|p=391}}</ref>、[[同性愛]]は「不道徳」(immoral) で「胸が悪くなる」(disgusting) と述べながら、同性愛を規制するすべての法律の廃止を唱えた<ref>{{harvnb|Heller|2009|pp=362, 519}}</ref>。また、米国大統領選挙において何人かの共和党候補者を支持した。中でも最も強く支持したのは1964年の大統領選に出馬した[[バリー・ゴールドウォーター]]であった。ランドはゴールドウォーターの立候補を、刊行誌「ザ・オブジェクティビスト・ニューズレター」(''The Objectivist Newsletter'')で数回にわたり後押ししている<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=204–206}}; {{harvnb|Heller|2009|pp=322–323}}</ref>。
[[File:Ayn Rand Marker.jpg|thumb|left|ニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地にあるランド夫妻の墓標|alt=2つの墓標がセットになり、左側に「Frank O'Connor」、右側に「Ayn Rand O'Connor」と刻まれている。]]
1964年、ナサニエル・ブランデンは若い女優パトリシア・スコット (Patrecia Scott) と愛人関係になった(後にブランデンは彼女と結婚した)。ナサニエル・ブランデンと妻バーバラはこの愛人関係をランドに隠し続けた。1968年にランドがこの愛人関係を知ったとき、ブランデンとの愛人関係は既に終わっていたが<ref>{{harvnb|Britting|2004|p=101}}</ref>、ランドはブランデンおよびバーバラと絶縁した。これによりNBIは終焉を迎えた<ref>{{harvnb|Branden|1986|pp=344–358}}</ref>。ランドは「ザ・オブジェクティビスト」(''The Objectivist'')誌でナサニエル・ブランデンとの絶縁を発表した。絶縁の理由は、ナサニエル・ブランデンの不誠実、およびその他の「彼の個人的生活における非合理的な行動」<ref>{{harvnb|Heller|2009|pp=378–379}}</ref>であるとした。ブランデンは後にあるインタビューで、「アイン・ランドの神秘性を永続化したこと」および「オブジェクティビズム運動に浸透したあの恐ろしい知的抑圧の雰囲気に寄与したこと」を、「すべてのオブジェクティビズム学徒」に対し謝罪している<ref>{{harvnb|Heller|2009|p=411}}</ref>。その後数年間で、ランドは複数の盟友と交際を絶っている<ref>{{harvnb|Branden|1986|pp=386–389}}</ref>。
1974年、ランドは肺ガンの手術を受けた。ランドは数十年にわたるヘビー・スモーカーだった<ref>{{harvnb|Heller|2009|pp=391–393}}</ref>。1976年にはニューズ・レターの執筆から退いた。またこの年、([[社会保障]]および[[メディケア (アメリカ合衆国)|公的医療保障]]には当初反対していたにもかかわらず)周囲の説得に応じ、彼女の弁護士の所属事務所のコンサルタントであるエヴァ・プライアーが、[[社会保障]]および[[メディケア (アメリカ合衆国)|公的医療保障]]の利用を申請することを許した<ref>{{harvnb|McConnell|2010|pp=520–521}}</ref>。1970年代末にはオブジェクティビズム運動におけるランドの活動は徐々に沈滞し、特に1979年11月9日に夫が死去してからは沈滞が顕著になった<ref>{{harvnb|Branden|1986|pp=392–395}}</ref>。ランドが最後に取り組んだプロジェクトの一つに『肩をすくめるアトラス』のテレビ化があったが、これは未完に終わった<ref>{{harvnb|Heller|2009|p=406}}</ref>。
1982年3月6日、ランドはニューヨーク市の自宅で[[心不全]]により死去した<ref>{{harvnb|Heller|2009|p=410}}</ref>。遺体はニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された<ref>{{harvnb|Heller|2009|pp=405, 410}}</ref>。ランドの葬儀には[[アラン・グリーンスパン]]を含む複数の著名追従者が参列した。ランドの柩のそばには、[[$|ドルマーク]]をかたどった高さ180センチの[[フラワーデザイン|フラワーアレンジメント]]が添えられた<ref>{{harvnb|Branden|1986|p=403}}</ref>。遺言状で、ランドは[[レナード・ピーコフ]]を遺産相続人に指名していた<ref>{{harvnb|Heller|2009|p=400}}</ref>。
== 思想 ==
{{Main article|オブジェクティビズム}}
ランドは自らの思想を「[[オブジェクティビズム]]」 と呼んだ。ランドによれば、オブジェクティビズムの本質は「人間を英雄的存在と見なす人間観」であり、この人間観によれば、「自己の幸福の追求が人生の正しい目的であり、生産的な達成が人間にとって最も崇高な活動であり、理性が人間にとって唯一の絶対的基準である」とされた<ref>{{harvnb|Rand|1992|pp=1170–1171}}</ref>。ランドはオブジェクティビズムを一つの思想体系と見なし、自らの主張を[[形而上学]]、[[認識論]]、[[倫理学]]、[[政治哲学|政治思想]]、および[[美学]]に展開した<ref>{{harvnb|Peikoff|1991|pp=2–3}}; {{harvnb|Den Uyl|Rasmussen|1986|p=224}}; {{harvnb|Gladstein|Sciabarra|1999|p=2}}</ref>。
[[形而上学]]においては[[実在論]]を支持し、[[神秘主義]]あるいは[[超自然]]主義(と彼女が見なす立場)には、あらゆる形態の宗教を含め、すべて反対した<ref>Den Uyl, Douglas J. & Rasmussen, Douglas B. "Ayn Rand's Realism". In {{harvnb|Den Uyl|Rasmussen|1986|pp=3–20}}</ref>。[[認識論]]においては、[[感覚]]を通じた[[知覚]]、および[[理性]]を、すべての知識の基礎と見なした。ランドは、感覚を通じた知覚の妥当性を、自明と見なした<ref>{{harvnb|Peikoff|1991|pp=38–39}}; {{harvnb|Gotthelf|2000|p=54}}</ref>。理性を、「人間の五感を通じて提供される素材を識別し、統合する能力」と説明した<ref>{{harvnb|Rand|1964|p=22}}</ref>。「直覚」、「[[直観]]」、「[[啓示]]」、あるいは「ただわかる」といった、非知覚的知識あるいは[[アプリオリ|先験的]]知識の存在を主張する立場を、すべて拒絶した<ref>{{harvnb|Rand|1982|pp=62–63}}</ref>。ランドは「オブジェクティビズム認識論入門」(''Introduction to Objectivist Epistemology'')において概念形成の理論を提示し、[[分析/総合の二分論]]の否認を支持した<ref>{{harvnb|Salmieri|Gotthelf|2005|p=1997}}; {{harvnb|Gladstein|1999|pp=85–86}}</ref>。
[[倫理学]]においては、道徳原理として合理的エゴイズム(合理的利己)を主張した。ランドは、個人は「自己を他者の犠牲にすることも、他者を自己の犠牲にすることもなく、自己自身のために存在する」べきであると述べた<ref>{{harvnb|Rand|1989|p=3}}</ref>。ランドは『利己主義という気概』(''The Virtue Of Selfishness'')という著書で、エゴイズムを「自己本位であることの美徳」(the virtue of selfishness) と呼んだ<ref name="Kukathas">{{harvnb|Kukathas|1998|p=55}}</ref>。この著書でランドは、[[ヒュームの法則|is-ought問題]](「-である」という命題からの推論で「-すべき」という命題を導く矛盾)に対する彼女の解決を示した。その解決は、道徳の基盤を「人間が人間として生存する必要性」<ref>{{harvnb|Rand|1964|p=25}}; {{harvnb|Badhwar|Long|2010}}; {{harvnb|Peikoff|1991|pp=207, 219}}</ref>に置く[[メタ倫理学]]に依拠するものであった。ランドは道徳的[[利他主義]]を、人間の生命および幸福に対する要求と相容れないとして、非難した<ref>{{harvnb|Badhwar|Long|2010}}</ref>。自分の側からの強制力の行使 (the initiation of force) は邪悪かつ不合理であると考え、『肩をすくめるアトラス』の中で「強制と精神は相反する」 (Force and mind are opposites) と書いた<ref>{{harvnb|Rand|1992|p=1023}}; {{harvnb|Peikoff|1991|pp=313–320}}</ref>。
ランドの政治思想においては、[[財産権]]を含む個人の[[権利]]が強調された<ref>{{harvnb|Peikoff|1991|pp=350–352}}</ref>。ランドは、[[レッセフェール|自由放任]][[資本主義]]を唯一の道徳的な社会システムと見なした。彼女の見解では、自由放任資本主義が、個人の権利を保護を基盤とする唯一の社会システムだったからである<ref>{{harvnb|Gotthelf|2000|pp=91–92}}; {{harvnb|Peikoff|1991|pp=379–380}}</ref>。[[国家主義]]には反対した。ランドが考える国家主義には、[[神権政治]]、[[絶対君主制]]、[[ナチズム]]、[[ファシズム]]、[[共産主義]]、[[民主社会主義]]、[[独裁政治|独裁制]]も含まれた<ref>{{harvnb|Peikoff|1991|pp=369}}</ref>。ランドは、強制力による権利の実現は、[[憲法]]による制限を受けた政府のみが行うべきであると信じた<ref>{{harvnb|Peikoff|1991|p=367}}</ref>。政治に関するランドの見解は、しばしば[[保守]]または[[リバタリアニズム]]に分類されるが、彼女自身が好んだ呼称は「資本主義[[急進主義|徹底派]]」(radical for capitalism) であった。ランドは政治運動で保守派と協働したが、宗教や倫理などの問題では、保守派に同意しなかった<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=174–177, 209, 230–231}}; {{harvnb|Den Uyl|Rasmussen|1986|pp=225–226}}; {{harvnb|Doherty|2007|pp=189–190}}; {{harvnb|Branden|1986|p=252}}</ref>。[[リバタリアニズム]]を[[アナキズム|無政府主義]]と同類視して非難した<ref>{{harvnb|Sciabarra|1995|pp=266–267}}; {{harvnb|Burns|2009|pp=268–269}}</ref>。無政府主義は、主観主義に基づくナイーブな理論であり、実践においては[[集産主義]]にしかつながらないとして退けた<ref>{{harvnb|Sciabarra|1995|pp=280–281}}; {{harvnb|Peikoff|1991|pp=371–372}}; {{harvnb|Merrill|1991|p=139}}</ref>。
ランドの[[美学]]は、「芸術家による形而上学的価値判断に基づく、現実の選択的再創造」(selective re-creation of reality according to an artist's metaphysical value-judgments)として定義される。芸術は、哲学的概念を、人々が把握しやすい形式に具現化することによって、人間の意識のニーズを満たすものであると述べた<ref>{{harvnb|Sciabarra|1995|pp=204–205}}</ref>。作家としてランドが最も力を注いだ芸術形式は文学であり、[[ロマン主義]]を、文学において人間の自由意志の存在を最も正確に反映するアプローチと見なした<ref>{{harvnb|Peikoff|1991|p=428}}</ref>。ランドは自分の文学へのアプローチを「[[ロマン主義]]的[[写実主義]]」(romantic realism) と称した<ref>{{harvnb|Sciabarra|1995|p=207}}; {{harvnb|Peikoff|1991|p=437}}</ref>。
ランドは[[アリストテレス]]に最も大きな影響を受けたと認めている<ref>{{harvnb|Rand|1992|p=1171}}</ref>。哲学の歴史上推薦できるのは、アリストテレス、[[トマス・アクィナス|アクィナス]]、アイン・ランドの「3人のA」だけだとも述べた<ref name="Sciabarra1995p12">{{harvnb|Sciabarra|1995|p=12}}</ref>。事実ランドがアリストテレスに負うところは大きく、マイク・ウォレスによる1959年のインタビューで、ランドは「私が精神的に恩義を受けていることを認めるのは、アリストテレスだけです。アリストテレスは、私がこれまで影響を受けた唯一の哲学者です。アリストテレスの影響による部分を除き、私は自分の思想を、自分自身で築き上げました」と答えている<ref>http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&NR=1&v=zEruXzQZhNI</ref>。ただしランドは、若い頃に[[フリードリヒ・ニーチェ]]からインスピレーションを受けてもいる<ref>{{harvnb|Heller|2009|p=42}}; {{harvnb|Burns|2009|pp=16, 22}}; {{harvnb|Sciabarra|1995|pp=100–106}}</ref>。研究者によると、ニーチェの影響は、ランドの日記の初期の記述や<ref>{{harvnb|Rand|1997|pp=21}}; {{harvnb|Burns|2009|pp=24–25}}; {{harvnb|Sciabarra|1998|pp=136, 138–139}}</ref>、後にランドが改訂した『われら生きるもの』(''We the Living'')の初版の文章や<ref>{{harvnb|Merrill|1991|pp=38–39}}; {{harvnb|Sciabarra|1998|p=135}}; Loiret-Prunet, Valerie. "Ayn Rand and Feminist Synthesis: Rereading ''We the Living''". In {{harvnb|Gladstein|Sciabarra|1999|p=97}}</ref>、彼女の叙述スタイル全体などに見いだされる<ref>{{harvnb|Badhwar|Long|2010}}; Sheaffer, Robert. "Rereading Rand on Gender in the Light of Paglia". In {{harvnb|Gladstein|Sciabarra|1999|p=313}}.</ref>。ただしランドは、『水源』(''The Fountainhead'')執筆時までには、ニーチェの考えを拒絶するようになっている<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=41, 68}}; {{harvnb|Heller|2009|p=42}}; {{harvnb|Merrill|1991|pp=47–49}}</ref>。また、初期ランドがどの程度ニーチェの影響を受けたかについては、疑問が出されている<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=303–304}}; {{harvnb|Sciabarra|1998|pp=135, 137–138}}; Mayhew, Robert. "''We the Living'' '36 and '59". In {{harvnb|Mayhew|2004|p=205}}.</ref>。ランドが特に軽蔑した哲学者の中には、[[イマヌエル・カント]]もいた。ランドはカントを「モンスター」と呼んでいる<ref>{{harvnb|Rand|1971|p=4}}</ref>。ただし、哲学研究者のジョージ・ウォルシュ (George Walsh)<ref name="Walsh">{{harvnb|Walsh|2000}}</ref>とフレッド・セドン (Fred Seddon)<ref>{{harvnb|Seddon|2003|pp=63–81}}</ref>は、ランドがカントを誤解し、見解の相違を誇張していたと主張している。
ランドは、哲学への自分の最も重要な貢献は、「[[概念]]論と、倫理学。それから悪、すなわち権利の侵害は、自分の側から強制力の使用によって存立するという、政治学上の発見」であると述べている<ref>{{harvnb|Rand|2005|p=166}}</ref>。認識論は哲学の根本をなす部門の一つと信じ、理性の賞揚を自分の哲学の最も重要な側面と見なした<ref>{{cite book |title=[[:en:Return of the Primitive: The Anti-Industrial Revolution|Return of the Primitive: The Anti-Industrial Revolution]] |chapter=The Left: Old and New |page=62 |isbn=0-452-01184-1 |oclc=39281836 |year=1999 |location=New York |publisher=Meridian |last=Rand |first=Ayn |others=Edited by Peter Schwartz}}</ref>。「私は資本主義の擁護者というよりはエゴイズムの擁護者であり、エゴイズムの擁護者であるというよりは理性の擁護者である。理性の至高性を認め、これを一貫して適用すれば、残りは当然のこととして導かれる」と述べた<ref>{{harvnb|Rand|1971|p=1}}</ref>。
== 反響と遺産 ==
=== レビュー ===
ランドの作品は、彼女の存命中から、強烈な賞賛と非難の両方を巻き起こした。最初の小説『われら生きるもの』(''We the Living'')は、文芸評論家H.L.メンケン (H.L. Mencken) に賞賛された<ref>{{harvnb|Rand|1995|pp=10, 13–14}}</ref>。[[ブロードウェイ]]で上演された演劇「[[1月16日の夜に]]」(''Night of January 16th'')は、批評家からも観客からも好評だった<ref name="Branden 122-124">{{harvnb|Branden|1986|pp=122–124}}</ref>。『水源』(''The Fountainhead'')は、「[[ニューヨーク・タイムズ]]」(''The New York Times'')紙のレビューアーから「偉大」(masterful) と評された<ref name="Pruette">{{cite news |first=Lorine |last=Pruette |work=The New York Times |date=May 16, 1943 |title=Battle Against Evil |page=BR7 |url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F20610FD3D5C167B93C4A8178ED85F478485F9 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511114039/http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F20610FD3D5C167B93C4A8178ED85F478485F9 |archivedate=2011年5月11日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }} Reprinted in {{cite book |title=Books of the Century |editor-first=Charles |editor-last=McGrath |year=1998 |location=New York |publisher=Times Books |isbn=0-8129-2965-9 |oclc=38439024 |pages=135–136}}</ref>。ランドの小説の出版当時には、冗長でメロドラマ的であると嘲る批評家もいた<ref name="Gladstein 117-119"/>。それでもランドの小説は、主に口コミを通じてベストセラーになった<ref>{{harvnb|Paxton|1998|p=120}}; {{harvnb|Britting|2004|p=87}}</ref>。
ランドが最初にレビューを受けた作品は「[[1月16日の夜に]]」(''Night of January 16th'')だった。この劇に対しては、おおむね肯定的なレビューが寄せられた。しかしランドは、肯定的なレビューにも決まりの悪い思いをしていた。この劇の上演にあたり、プロデューサーが彼女の脚本を大幅に変更していたからである<ref name="Branden 122-124"/>。ランドは、最初の小説『われら生きるもの』(''We the Living'')には多くのレビューが書かれなかったと信じていた。しかしランド研究者のマイケル・S・ベルリナーは、この小説に対して、200以上の出版物で約125件のレビューが公開されていることを明らかにした。ベルリナーは、「『われら生きるもの』はランドの作品の中で最も多くのレビューが書かれた小説である」と述べている。『われら生きるもの』に対するレビューは、全体として、後のランドの作品に対するレビューよりも肯定的だった<ref>Berliner, Michael S. "Reviews of ''We the Living''". In {{harvnb|Mayhew|2004|pp=147–151}}</ref>。1938年に出版された短篇小説『[[アンセム (小説)|アンセム]]』(''Anthem'')は、イングランドで出版された初版も、その後の改訂版も、レビューアーにはほとんど注目されなかった<ref>Berliner, Michael S. "Reviews of ''Anthem''". In {{harvnb|Mayhew|2005a|pp=55–60}}</ref>。
ランドの最初のベストセラー『水源』(''The Fountainhead'')は、『われら生きるもの』に比べ、書かれたレビューの数がはるかに少なかった。レビューアーの意見もまちまちだった<ref name="tfreviews">Berliner, Michael S. "''The Fountainhead'' Reviews". In {{harvnb|Mayhew|2006|pp=77–82}}</ref>。「ニューヨーク・タイムズ」(''The New York Times'')紙に掲載された肯定的なレビューの一つは、ランド自身も高く評価した<ref>{{harvnb|Rand|1995|p=74}}</ref>。このレビューの書き手は、ランドを「きらびやかに、美しく、痛烈に」書く「すばらしい力を持つ作家」と呼び、「この偉大な作品を読めば、我々の時代における基本的な概念のいくつかについて考え抜かずにはいられないだろう」と述べた<ref name="Pruette"/>。他にも肯定的なレビューはあったが、ランドはそれらのほとんどを、自分のメッセージを理解していない、もしくは掲載紙誌がマイナーであるとして、無視した<ref name="tfreviews"/>。否定的なレビューのいくつかは、この小説の長さを批判していた<ref name="Gladstein 117-119"/>。たとえば、あるレビューアーはこの小説を「本の鯨」と呼び、別のレビューアーは「この小説に入れ込む人間には、紙の配給に関する厳しい授業を受けさせる必要がある」と書いた。登場人物に同情心がないと批判するレビューアーや、ランドの文体を「不快なほど単調」と批判するレビューアーもいた<ref name="tfreviews"/>。
1957年に出版された『肩をすくめるアトラス』(''Atlas Shrugged'')には多数のレビューが書かれた。多くのレビューが、この小説にきわめて否定的だった<ref name="Gladstein 117-119"/><ref name="asreviews">Berliner, Michael S. "The ''Atlas Shrugged'' Reviews". In {{harvnb|Mayhew|2009|pp=133–137}}</ref>。保守派の批評家ホイタッカー・チェンバース (Whittaker Chambers) は、「ナショナル・レビュー」(''National Review'')誌でこの小説を「青臭く」「とんでもなく愚かしい」と評した。チェンバースは、この小説が「救済のない刺々しさ」に貫かれていると述べ、ランドが神を排した体制(チェンバースによればソビエトに類する体制)を支持していると非難し、「『肩をすくめるアトラス』のほぼすべてのページから、痛ましい必然による命令として聞こえてくる声がある。『[[ガス室]]に行け!』の声だ」と述べた<ref>{{cite journal |last=Chambers |first=Whittaker |authorlink=:en:Whittaker Chambers |title=Big Sister is Watching You |journal=[[:en:National Review|National Review]] |pages=594–596 |url=http://www.nationalreview.com/articles/222482/big-sister-watching-you/flashback |date=December 8, 1957 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511214136/http://www.nationalreview.com/articles/222482/big-sister-watching-you/flashback |archivedate=2011年5月11日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。『肩をすくめるアトラス』に対する肯定的なレビューも、いくつかの出版物で書かれた。たとえば著名な書評家ジョン・チェンバレン (John Chamberlain) は、この小説を賞賛した<ref name="asreviews"/>。しかし、後にランド研究者のミミ・リーセル・グラッドスタイン (Mimi Reisel Gladstein) が書いたところによれば、「レビューアーたちは、まるで酷評の巧みさを競い合うかのようだった。彼らは『肩をすくめるアトラス』を“忌むべきはったり”と評したり、“悪夢”と評したりした。この小説が“憎悪によって書かれている”と述べたり、“無慈悲な弱い者いじめと冗長さを示している”などと述べたりした」<ref name="Gladstein 117-119"/>。作家の[[フラナリー・オコナー]](Flannery O'Connor)は、友人への手紙で「アイン・ランドのフィクションはおよそ考えられる中で最低のフィクションだ。地下鉄で拾い上げたらすぐそばのクズ箱に直行だろう」と書いた<ref>{{cite book |last=O'Connor |first=Flannery |title=The Habit of Being: Letters of Flannery O'Connor |editor-first=Sally |editor-last=Fitzgerald |location=New York |publisher=Farrar, Straus, and Giroux |year=1979 |isbn=0-374-52104-2 |oclc=18175642 |page=398}}</ref>。
ランドのノンフィクションについて書かれたレビューは、彼女の小説について書かれたレビューより、ずっと少なかった。ランドの最初のノンフィクション『新しい知識人のために』(''For the New Intellectual'')に対する批判の趣旨は、『肩をすくめるアトラス』(''Atlas Shrugged'')に対する批判の趣旨と、ほぼ同じだった<ref name="Gladstein119">{{harvnb|Gladstein|1999|p=119}}</ref><ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=193–194}}</ref>。哲学研究者シドニー・フック (Sidney Hook) は、ランドの確信を「ソビエト連邦での哲学の書かれ方」になぞらえた<ref>{{cite news |first=Sidney |last=Hook |authorlink=:en:Sidney Hook |title=Each Man for Himself |work=[[:en:The New York Times Book Review|The New York Times Book Review]] |date=April 9, 1961 |page=28 |url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F70914F83B5B147A93CBA9178FD85F458685F9 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511114045/http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F70914F83B5B147A93CBA9178FD85F458685F9 |archivedate=2011年5月11日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。作家ゴア・ヴィダル (Gore Vidal) は、ランドの見解を「その不道徳性においてほぼ完璧」と評した<ref>{{cite book |first=Gore |last=Vidal |authorlink=:en:Gore Vidal |title=Rocking the Boat |chapter=Two Immoralists: Orville Prescott and Ayn Rand |publisher=Little, Brown |location=Boston |year=1962 |oclc=291123 |page=234}} Reprinted from ''[[Esquire (magazine)|Esquire]]'', July 1961.</ref>。その後の著書は、発刊するたびにレビューアーから注目されなくなった<ref name="Gladstein119"/>。
2005年、アイン・ランド生誕100年にあたり、評論家のエドワード・ロスタイン (Edward Rothstein) は「ニューヨーク・タイムズ」(''The New York Times'')紙で、ランドのフィクションは古風でユートピア的な「レトロ・ファンタジー」であり、理解され損ねた芸術家によるプログラム的新ロマン主義であると述べた。またロスタインは、ランドの小説の登場人物たちによる「民主社会に対する孤立した拒絶」を批判した<ref name="NYT100">{{cite news |url=http://www.nytimes.com/2005/02/02/books/02rand.html?pagewanted=all |work=The New York Times |title=Considering the Last Romantic, Ayn Rand, at 100 |first=Edward |last=Rothstein |date=February 2, 2005 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110512144841/http://www.nytimes.com/2005/02/02/books/02rand.html?pagewanted=all |archivedate=2011年5月12日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。2007年、書評家のレスリー・クラーク (Leslie Clark) はランドのフィクションを「擬似哲学の青さびが付いたロマンス小説」と評した<ref>{{cite news |first=Leslie |last=Clark |title=The philosophical art of looking out number one |url=http://www.heraldscotland.com/the-philosophical-art-of-looking-out-number-one-1.835066 |work=[[:en:The Herald (Glasgow)|The Herald]] |date=February 17, 2007 |accessdate=April 2, 2010}}</ref>。2009年、男性向けファッション・ビジネス・カルチャー誌「GQ」コラムニストのトム・カーソン (Tom Carson) は、ランドの著書を、『ベン・ハー』(''Ben-Hur'')や『レフトビハインド』(''Left Behind'')シリーズと同類の、「資本主義版のミドルブロー(中程度知識層向け)宗教小説」と評した<ref name="GQB">{{cite journal |url=http://www.gq.com/entertainment/books/200911/ayn-rand-dick-books-fountainhead?printable=true |title=The Bitch is Back |first=Andrew |last=Corsello |journal=GQ |publisher=Condé Nast Publications |date=October 27, 2009 |accessdate=April 9, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110514133528/http://www.gq.com/entertainment/books/200911/ayn-rand-dick-books-fountainhead?printable=true |archivedate=2011年5月14日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。
=== 大衆への浸透 ===
1991年、[[アメリカ議会図書館]]と米国最大の書籍通販組織「ブック・オブ・ザ・マンス・クラブ」(the Book-of-the-Month Club) は、同クラブ会員に「人生で最も影響を受けた本」を尋ねる調査を行った。この調査でランドの『肩をすくめるアトラス』(''Atlas Shrugged'')は、聖書に次ぎ2番目に多くの票を集めた<ref name="Doherty11">{{harvnb|Doherty|2007|p=11}}</ref>。また、1998年の[[ランダムハウス]]/モダンライブラリーの「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」<ref>[http://www.randomhouse.com/modernlibrary/100bestnovels.html Randomhouse/Modernlibrary 100 Best Novels The Reader's List]。</ref>で『肩をすくめるアトラス』が第一位、『水源』が第二位を獲得し、また10位内に4つの作品がランクインした<ref>しかし、この結果については「組織票を反映しているのではないのか」という声もある。www.さとなお.comの[http://www.satonao.com/archives/2007/05/post_1964.html ご注意(2007年05月18日)]。</ref>。ランドの著書は現在も幅広い読者に購入され、読まれ続けている。販売総部数は2013年時点で2,900万部を超える。なお販売総部数の約10%は「[[アイン・ランド協会]]」(The Ayn Rand Institute) による学校への寄贈用である<ref>{{cite web |url=http://www.aynrand.org/site/News2?page=NewsArticle&id=28024 |title=Ayn Rand Hits a Million...Again! |publisher=Ayn Rand Institute |date=May 14, 2013 |accessdate=July 3, 2013 |deadlinkdate=2018年3月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130705073504/http://www.aynrand.org/site/News2?page=NewsArticle&id=28024 |archivedate=2013年7月5日 }}</ref>。ランドの影響が最も大きいのは米国であるが、彼女の作品は世界中で関心を引いている<ref>{{harvnb|Gladstein|2003|pp=384–386}}; {{cite book |last=Delbroy |first=Bibek |authorlink=:en:Bibek Debroy |chapter=Ayn Rand—The Indian Connection |title=Ayn Rand at 100 |editor-last=Machan |editor-first=Tibor R |editor-link=Tibor R. Machan |location=New Delhi, India |publisher=Pragun Publications |year=2006 |isbn=81-89645-57-9 |oclc=76829742 |pages=2–4}}; {{cite news |last=Cohen |first=David |url=http://www.guardian.co.uk/education/2001/dec/07/internationaleducationnews.highereducation |title=A growing concern |work=The Guardian |date=December 7, 2001 |location=London |accessdate=April 15, 2011}}</ref>。インドでは現在もランドの作品がベストセラーに名を連ね続けている<ref>[[Agence France-Presse]]/[[:en:Jiji Press|Jiji Press]], "In India, Ayn Rand never out of style", ''[[Japan Times]]'', June 2, 2012, p.4</ref>。
同時代でランドを賞賛した作家には、[[アイラ・レヴィン]] (Ira Levin)、ケイ・ノルティ・スミス (Kay Nolte Smith)、L.ニール・スミス (L. Neil Smith) などがいる。後の世代の作家であるエリカ・ホルツァー (Erika Holzer) や[[テリー・グッドカインド]] (Terry Goodkind) も、ランドの影響を受けている<ref>{{cite journal |last=Riggenbach |first=Jeff |authorlink=:en:Jeff Riggenbach |journal=[[:en:The Journal of Ayn Rand Studies|The Journal of Ayn Rand Studies]] |title=Ayn Rand's Influence on American Popular Fiction |volume=6 |issue=1 |date=Fall, 2004 |pages=91–144 |url=http://www.aynrandstudies.com/jars/archives/jars6-1/jars6_1jriggenbach.pdf |accessdate=April 20, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110514042655/http://www.aynrandstudies.com/jars/archives/jars6-1/jars6_1jriggenbach.pdf |archivedate=2011年5月14日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。人生や思想の上でランドに重要な影響を受けたことを公言しているアーチストには、他に漫画家の[[スティーヴ・ディッコ]] (Steve Ditko) や<ref>{{harvnb|Sciabarra|2004|pp=8–11}}</ref>、ハードロック/プログレッシブ・ロックバンドの[[ラッシュ (カナダのバンド)|ラッシュ]] (Rush) のドラマー、[[ニール・パート]] (Neil Peart) などがいる<ref>{{cite journal |last=Sciabarra |first=Chris Matthew |authorlink=:en:Chris Matthew Sciabarra |journal=[[:en:The Journal of Ayn Rand Studies|The Journal of Ayn Rand Studies]] |title=Rand, Rush, and Rock |volume=4 |issue=1 |date=Fall, 2002 |pages=161–185 |url=http://www.nyu.edu/projects/sciabarra/essays/rush.htm |accessdate=April 20, 2011}}</ref>。ランドはビジネスを肯定的に描いて見せた。このため経営者や起業家の中にも、ランドの作品を賞賛する者や、ランドの作品の普及に努める者は多い<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=168–171}}</ref>。銀行持株会社BB&Tのジョン・アリソン (John Allison)や、スポーツ・エンタテイメント会社コムキャスト・スペクタカー (Comcast Spectacor) のエド・スナイダー (Ed Snider) は、ランドの思想の普及活動に資金を拠出した<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=298}}; {{harvnb|Branden|1986|p=419}}</ref>。他にもプロバスケットボールチームの[[ダラス・マーベリックス]] (Dallas Mavericks) のオーナー、マーク・キューバン (Mark Cuban) や、食料品スーパーマーケットチェーンの[[ホールフーズ・マーケット]]のCEO、ジョン・P.マッキー (John P. Mackey) など様々な経営者・起業家が、自分の成功にランドが重要な役割を果たしたと述べている<ref name="NYTimes07">{{cite news |url=http://www.nytimes.com/2007/09/15/business/15atlas.html?_r=3&oref=slogin&pagewanted=print |work=The New York Times |title=Ayn Rand's Literature of Capitalism |first=Harriet |last=Rubin |date=September 15, 2007 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110512144741/http://www.nytimes.com/2007/09/15/business/15atlas.html?_r=3&oref=slogin&pagewanted=print |archivedate=2011年5月12日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。
ランドとその作品は、アニメ、ライブコメディ、ドラマ、ゲームショーを含むテレビ番組<ref name="illustrated4-5">{{harvnb|Sciabarra|2004|pp=4–5}}</ref>や、映画、ビデオゲーム<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=282}}</ref>など、様々なメディアで取り上げられている。ランドやランドをベースにしたキャラクターは、米国の著名な作家達による様々な文芸作品やSFに登場し、(肯定的であれ否定的であれ)大きな存在感を示している<ref>{{harvnb|Sciabarra|2004|p=3}}</ref>。「リーズン」(''Reason'')誌の編集主幹であるニック・ギレスピー (Nick Gillespie) は、「ランドの名声は、虐げられた形で不滅になっています。様々な作品に登場しているランドには、まるで主人公のようなインパクトがあります」、「ランドを冷酷で非人間的と非難することは、大衆文化に浸透しきっています」と述べている<ref>{{cite episode |title=Book Bag: Marking the Ayn Rand Centennial |episodelink= |url=http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=4475441 |series=Day to Day |serieslink=:en:Day to Day |network=National Public Radio |airdate=February 2, 2005 |credits=[[:en:Alex Chadwick|Alex Chadwick]] (host), Nick Gillespie (contributor)}}</ref>。ランドの生涯については2本の映画が制作されている。ドキュメンタリー映画「アイン・ランド:ア・センス・オブ・ライフ」(''Ayn Rand: A Sense of Life''、1997年)は、[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞]]にノミネートされた<ref>{{harvnb|Gladstein|1999|p=128}}</ref>。1999年に制作されたテレビドラマ「ザ・パッション・オブ・アイン・ランド」(''The Passion of Ayn Rand'')は、バーバラ・ブランデン (Barbara Branden) による同名の伝記(1986年)をドラマ化したもので、複数の賞を受賞した<ref name="Gladstein122">{{harvnb|Gladstein|2009|p=122}}</ref>。ニック・ガエターノ (Nick Gaetano) がデザインしたランドの肖像画は、米国の切手にもなった<ref>{{cite book |title=Krause-Minkus Standard Catalog of U.S. Stamps |editor-first=Maurice D. |editor-last=Wozniak |publisher=[[Krause Publications]] |year=2001 |edition=5th |isbn=0-87349-321-4 |oclc=48663542 |page=380}}</ref>。
=== 政治的影響 ===
[[File:TDTP08.JPG|thumb|left| 2009年のティーパーティー集会で参加者の一人が掲げていたプラカード。アイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』の主人公ジョン・ゴールトの名前に言及している。|alt=街頭デモで「I am John Galt」と大文字で書かれたプラカードを掲げる男性]]
ランド自身は「[[保守]]」や「[[リバタリアニズム|リバタリアン]]」に分類されることを拒否していたにもかかわらず<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=258}}; {{harvnb|Rand|2005|p=73}}</ref>、ランドは[[右翼|右派]]政治運動やリバタリアニズムに強い影響を与え続けている<ref name="politicalinfluence"/>。[[ケイトー研究所]] (Cato Institute) の上級研究員、ジム・パウエル (Jim Powell) は、近代におけるアメリカのリバタリアニズムにおいて最も重要な3人の女性として、ローズ・ワイルダー・レイン (Rose Wilder Lane)、[[イザベル・パターソン]]と共にアイン・ランドを挙げている<ref>{{cite journal |last=Powell |first=Jim |authorlink=:en:Jim Powell (historian) |title=Rose Wilder Lane, Isabel Paterson, and Ayn Rand: Three Women Who Inspired the Modern Libertarian Movement |url=http://www.thefreemanonline.org/featured/rose-wilder-lane-isabel-paterson-and-ayn-rand-three-women-who-inspired-the-modern-libertarian-movement/ |journal=[[:en:The Freeman|The Freeman: Ideas on Liberty]] |date=May, 1996 |volume=46 |issue=5 |page=322 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511104313/http://www.thefreemanonline.org/featured/rose-wilder-lane-isabel-paterson-and-ayn-rand-three-women-who-inspired-the-modern-libertarian-movement/ |archivedate=2011年5月11日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。[[リバタリアン党 (アメリカ)|リバタリアン党]]の創設者の1人、デヴィッド・ノーラン (David Nolan) は、「アイン・ランドがいなかったら、リバタリアン運動は存在しなかっただろう」と述べている<ref>{{harvnb|Branden|1986|p=414}}</ref>。ジャーナリストのブライアン・ドハティ (Brian Doherty) は、リバタリアン運動の歴史を記述する中で、ランドを「20世紀のリバタリアンの中で社会全体に最も大きな影響を与えた人物」と呼んでいる<ref name="Doherty11" />。伝記作家のジェニファー・バーンズ (Jennifer Burns) は、ランドを「右派の人生への究極の[[ゲートウェイドラッグ]]」と呼んだ<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=4}}</ref>。
ウィリアム・F.バックリー・ジュニア(William F. Buckley, Jr.)をはじめとする「ナショナル・レビュー」(''National Review'')誌の寄稿者達は、ランドを厳しく批判していた。1950年代から1960年代にかけて、同誌にはウィテカー・チェンバース (Whittaker Chambers)、ゲイリー・ウィルズ (Garry Wills)、およびM.スタントン・エヴァンズ (M. Stanton Evans) による多数の批判が掲載された。しかしランドの保守派への影響があまりにも大きかったため、バックリーをはじめとする「ナショナル・レビュー」誌寄稿者達も、伝統的価値観念やキリスト教的精神と資本主義の擁護をどうすれば統合できるか、再検討することを迫られた<ref>{{harvnb|Burns|2004}}</ref>。
妊娠中絶合法化を支持し、神の存在を否定するなど、ランド自身は保守派としては典型的ではない立場も取っている<ref name="MJones">{{cite journal |url=http://motherjones.com/media/2009/07/and-rand-played |title=And the Rand Played On |first=Amy |last=Benfer |work=[[:en:Mother Jones (magazine)|Mother Jones]] |date=July/August, 2009 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110503215311/http://motherjones.com/media/2009/07/and-rand-played |archivedate=2011年5月3日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。しかし政治の世界でランドからの影響を公言する人物は、一般に保守派で、[[共和党 (アメリカ)|米国共和党]]の党員であることが多い<ref>{{harvnb|Doherty|2009|pp=54}}</ref>。1987年に「ニューヨーク・タイムズ」(''The New York Times'')紙に掲載された記事で、ランドは[[ロナルド・レーガン|レーガン]]政権の「桂冠小説家」(novelist laureate) と呼ばれていた<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=279}}</ref>。共和党連邦議会議員や保守派の政治評論家も、ランドの影響を受けたことを認め、ランドの小説を推薦している<ref>{{harvnb|Gladstein|2009|p=124}}; {{harvnb|Heller|2009|p=xi}}; {{harvnb|Doherty|2009|p=51}}; {{harvnb|Burns|2009|p=283}}</ref>。
2000年代末の[[金融危機]]は、ランドの作品、特に『肩をすくめるアトラス』(''Atlas Shrugged'')への新たな関心を呼び起こした(この金融危機が『肩をすくめるアトラス』で予見されていたと見る者もいた)<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=283–284}}; {{harvnb|Doherty|2009|pp=51–52}}; {{harvnb|Gladstein|2009|p=125}}</ref>。現実の世界の出来事とこの小説のプロットを比較する、様々な論説が書かれた<ref>{{harvnb|Gladstein|2009|p=125}}; {{harvnb|Doherty|2009|pp=54}}</ref>。同じ時期、[[ティーパーティー運動]]参加者の中に、ランドや彼女の小説の主人公ジョン・ゴールトに言及するプラカードを掲げる者が多く見られた<ref>{{harvnb|Doherty|2009|pp=51–52}}</ref>。同時に、ランドの思想に対する批判も、政治的[[左翼|左派]]を中心に高まった。批判者達は、ランドによる利己主義と自由市場の擁護が、特に[[アラン・グリーンスパン]]への影響を通じ経済危機を引き起こしたと非難した<ref>{{harvnb|Burns|2009|p=283}}</ref>。たとえば「マザー・ジョーンズ」(''Mother Jones'')誌は「伝統的なヒエラルキーを逆さにし、 富や才能や権力を握る人々を被抑圧者に変えて見せるのが、常にランドの特殊な才能だった」と論じ<ref name="MJones" />、「[[ネイション (雑誌)|ネイション]]」(''The Nation'')誌は「ランディアニズムの道徳構文法」と[[ファシズム]]の類似性を主張した<ref>{{cite journal |first=Corey |last=Robin |title=Garbage and Gravitas |url=http://www.thenation.com/article/garbage-and-gravitas |journal=[[:en:The Nation|The Nation]] |date=June 7, 2010 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110514200011/http://www.thenation.com/article/garbage-and-gravitas |archivedate=2011年5月14日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。
=== アカデミズムの反応 ===
ランドの存命中、彼女の作品はアカデミズムの世界の研究者からはほとんど注目されなかった<ref name="reception"/>。ランドの思想に関する最初の学問的書物は、1971年に出版された。その著者は、ランドについて書くことは、ランドを真剣に取り扱ったことでランドとの「連座による罪」に問われかねない「危険な企て」であると述べた<ref>{{harvnb|O'Neill|1977|p=3}}</ref>。1982年にランドが死去する前に、ランドの思想に関するいくつかの論文が学術誌に掲載されているが、その多くは「ザ・パーソナリスト」(''The Personalist'')誌に掲載されたものだった<ref name="Gladstein115">{{harvnb|Gladstein|1999|p=115}}</ref>。リバタリアンの哲学研究者[[ロバート・ノージック]] (Robert Nozick) による「ランディアンの主張について」(''On the Randian Argument'')はその一つである。この論文でノージックは、形而上学におけるランドの主張に不備があり、[[デイヴィッド・ヒューム]] (David Hume) が提起した[[ヒュームの法則|is-ought問題]]が解決されていないと論じた<ref>{{cite journal |title=On the Randian Argument |last=Nozick |first=Robert |authorlink=:en:Robert Nozick |journal=[[:en:The Personalist|The Personalist]] |date=Spring, 1971|volume=52 |pages=282–304}}</ref>。「パーソナリスト」誌には、ノージックに対する他の哲学研究者からの反論も掲載された。反論者達は、ノージックがランドの立場を誤って述べていると主張した<ref name="Gladstein115" />。ランドの存命中、文学者としてのランドを学問的に検討した論考は、さらに限られていた。演劇研究者のミミ・グラッドスターン (Mimi Gladstein) が1973年にランドの研究を開始した当時、ランドの小説に関する学術論文は1本も見つからなかった。1970年代を通じて発表された文学者としてのランドの研究論文は3本だけだった<ref>{{harvnb|Gladstein|2003|pp=373–374, 379–381}}</ref>。
ランドの死去後、ランドの作品への関心は徐々に高まった<ref>{{harvnb|Gladstein|2009|pp=114–122}}; {{harvnb|Salmieri|Gotthelf|2005|p=1995}}; {{cite journal |last=McLemee |first=Scott |url=http://linguafranca.mirror.theinfo.org/9909/rand.html |title=The Heirs Of Ayn Rand: Has Objectivism Gone Subjective? |journal=[[:en:Lingua Franca (magazine)|Lingua Franca]] |date=September, 1999 |volume=9 |issue=6 |pages=45–55 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110515004459/http://linguafranca.mirror.theinfo.org/9909/rand.html |archivedate=2011年5月15日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。歴史家のジェニファー・バーンズ (Jennifer Burns) によれば、これまでランドに対する研究者達の関心には「重なり合う3つの波」があり、その内最も新しい波は2000年以来の「学問的研究の爆発」(an explosion of scholarship) である<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=295–296}}</ref>。ただし現在、ランドやオブジェクティビズムを哲学上の専門や研究分野に含める大学はほとんど存在しない。多くの文学科や哲学科では、ランドは大衆文化現象と見なされ、真剣な研究の対称として扱われていない<ref>{{harvnb|Gladstein|2009|p=116}}</ref>。
学術機関でランドの作品について教授している研究者としては、グラッドスタイン (Gladstein)、クリス・マシュー・スカバラ (Chris Matthew Sciabarra)、アラン・ゴットヘルフ (Allan Gotthelf)、エドウィン・A.ロック (Edwin A. Locke)、タラ・スミス (Tara Smith) などがいる。スカバラは、ランドの哲学的および文学的業績の研究に貢献する超党派の[[査読]]付き定期刊行誌である「ザ・ジャーナル・オブ・アイン・ランド・スタディーズ」(''The Journal of Ayn Rand Studies'')の、共同編集者を務めている<ref>{{harvnb|Gladstein|2009|p=118}}</ref>。1987年、ゴットヘルフは、ジョージ・ウォルシュ (George Walsh)およびデヴィッド・ケリー (David Kelley) と共に「アイン・ランド・ソサイアティ」(Ayn Rand Society) の創設を支援した。ゴットヘルフは、ランドおよびランドの思想に関するセミナーを積極的に後援している<ref>{{harvnb|Gotthelf|2000|pp=2, 25}}; {{cite journal |first=William |last=Thomas |title=Ayn Rand Through Two Lenses |journal=Navigator |date=April, 2000 |volume=3 |issue=4 |pages=15–19 |url=http://www.atlassociety.org/on-ayn-rand-gotthelf}}</ref>。スミスはランドの思想に関する学術的な本および論文を複数書いている。[[ケンブリッジ大学出版局]] (Cambridge University Press) から出版されたランドの倫理論に関する書籍、『アイン・ランドの規範倫理:有徳のエゴイスト』(''Ayn Rand's Normative Ethics: The Virtuous Egoist'')はその1つである。ランドの思想は、[[クレムゾン大学]]および[[デューク大学]]でも研究対象になっている<ref>{{cite news |url=http://www.rutlandherald.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20050515/NEWS/505150346/1014 |title=Ayn Rand at 100: An 'ism' struts its stuff |first=Benjamin |last=Harvey |work=[[:en:Rutland Herald|Rutland Herald]] |agency=Columbia News Service |date=May 15, 2005 |accessdate=June 4, 2009}}</ref>。英米文学の研究者はランドの作品をほぼ無視している<ref>{{harvnb|Gladstein|2003|p=375}}</ref>。ただし1990年代以降は、ランドの作品に注目する研究者が増えている<ref>{{harvnb|Gladstein|2003|pp=384–391}}</ref>。
ランド研究者のダグラス・デン・アイル (Douglas Den Uyl) とダグラス・B.ラスムッセン (Douglas B. Rasmussen) は、ランドの思想の重要性と独自性を強調する際、ランドの文体が「文学的、誇張法的、かつ感情的」であると述べた<ref>{{harvnb|Den Uyl|Rasmussen|1978|p=203}}</ref>。哲学研究者のジャック・ホイーラーは、ランドの倫理学には「絶え間ない大言壮語とランディアンの噴怒の絶え間ない発散」があるが、この倫理学は「きわめて巨大な業績であり、その研究は他のどの現代思想の研究よりはるかに有益である」と述べた<ref>Wheeler, Jack. "Rand and Aristotle". In {{harvnb|Den Uyl|Rasmussen|1986|p=96}}</ref>。2001年にジョン・デヴィッド・ルイス (John David Lewis) は、オンライン文学百科事典「リテラリー・エンサイクロペディア」(''Literary Encyclopedia'')のランドの項で、「ランドは同世代の作家の中で最も知的に挑戦的なフィクションを書いた」と断言した<ref>{{cite web |last=Lewis |first=John David |authorlink=:en:John David Lewis |url=http://www.litencyc.com/php/speople.php?rec=true&UID=3705 |work=[[:en:The Literary Encyclopedia (English)|The Literary Encyclopedia]] |title=Ayn Rand |accessdate=August 2, 2009 |date=October 20, 2001}}</ref>。「ザ・クロニクル・オブ・ハイアー・エジュケーション」(''The Chronicle of Higher Education'')紙の1999年のインタビューで、スカバラは「彼らがランドを笑うことはわかっている」と述べながら、学術界でもランドの業績への関心が高まると予言した<ref>{{cite journal |last=Sharlet |first=Jeff |authorlink=:en:Jeff Sharlet (writer) |work=[[The Chronicle of Higher Education]] |url=http://chronicle.com/article/Ayn-Rand-Has-Finally-Caught/20237/ |title=Ayn Rand Has Finally Caught the Attention of Scholars |date=April 9, 1999 |volume=45 |issue=31 |pages=A17–A18 |accessdate=April 15, 2011}}</ref>。
哲学研究者のマイケル・ヒューマー (Michael Huemer) は、ランドの思想、特に倫理学は、解釈が困難で論理的な一貫性に欠けており<ref>{{cite journal |first=Michael |last=Humer |title=Is Benevolent Egoism Coherent? |work=[[:en:The Journal of Ayn Rand Studies|The Journal of Ayn Rand Studies]] |volume=3 |issue=2 |date=Spring, 2002 |pages=259–288 |url=http://aynrandstudies.com/jars/archives/jars3-2/jars3_2mhuemer.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110915095043/http://www.aynrandstudies.com/jars/archives/jars3-2/jars3_2mhuemer.pdf |archivedate=2011年9月15日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>、これに説得される人は非常に少ないと主張した<ref name="whyrand">{{cite web |first=Michael |last=Huemer |url=http://www.cato-unbound.org/2010/01/22/michael-huemer/why-ayn-rand-some-alternate-answers/ |title=Why Ayn Rand? Some Alternate Answers |work=[[:en:Cato Unbound|Cato Unbound]] |date=January 22, 2010 |accessdate=August 18, 2012}}</ref>。ヒューマーは、ランドが注目を集めるのは、特に小説家として「人を引き込まずにはいない文章を書く才能」のためであるとしている。『肩をすくめるアトラス』(''Atlas Shrugged'')が[[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス]] (Ludwig von Mises)、[[フリードリヒ・ハイエク]] (Friedrich Hayek)、[[フレデリック・バスティア]] (Frederic Bastiat) といった他の古典的自由主義哲学者の作品だけでなく、ランド自身のノンフィクション作品よりもよく売れるのは、ヒューマーによればランドのこの才能のためである<ref name="whyrand"/>。
政治学者のチャールズ・マーレイ (Charles Murray) は、ランドの文学的業績を賞賛する一方で、ランドが自分の思想を[[ジョン・ロック]]や[[フリードリヒ・ニーチェ]]などの先行する思想家達からも受け継いでいることを認めず、哲学的にアリストテレスにのみ負っていると主張したことを批判している。マーレイによれば、「アリストテレスにわずかばかり助けられただけで、オブジェクティビズムが自分の頭脳から生まれ全面開花したと主張することによって、ランドは現実から乖離しただけでなく、子供じみることにもなってしまった」<ref>{{cite web |url=http://www.claremont.org/publications/crb/id.1708/article_detail.asp |publisher=The Claremont Institute |title=Who is Ayn Rand? |first=Charles |last=Murray |year=2010 |accessdate=December 7, 2012 |deadlinkdate=2018年3月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100604055034/http://www.claremont.org/publications/crb/id.1708/article_detail.asp |archivedate=2010年6月4日 }}</ref>。
ランドはオブジェクティビズムが統一された思想体系であると主張したが、哲学研究者のロバート・H.バス (Robert H. Bass) は、ランドの中心的な倫理思想が彼女の中心的な政治思想と一貫せず矛盾すると主張した<ref>{{cite journal |first=Robert H. |last=Bass |title=Egoism versus Right |work=[[:en:The Journal of Ayn Rand Studies|The Journal of Ayn Rand Studies]] |volume=7 |issue=2 |date=Spring, 2006 |pages=329–349 |url=http://aynrandstudies.com/jars/archives/jars7-2/jars7_2rbass1.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121105111109/http://www.aynrandstudies.com/jars/archives/jars7-2/jars7_2rbass1.pdf |archivedate=2012年11月5日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。
=== オブジェクティビズム運動 ===
1985年、ランドの相続人[[レナード・ピーコフ]]は、ランドの思想および作品の伝播を目的とする非営利組織「[[アイン・ランド協会]]」(Ayn Rand Institute) を設立した。1990年、哲学研究者のデヴィッド・ケリー (David Kelley) は、「[[アトラス・ソサイエティ]]」(The Atlas Society) として知られる「オブジェクティビズム研究所」(Institute for Objectivist Studies) を設立した<ref>{{harvnb|Burns|2009|pp=280–281}}; {{harvnb|Gladstein|2009|pp=19, 114}}</ref>。2001年、歴史家のジョン・マカスキー (John McCaskey) は、アカデミズムの世界で行われる学問的なオブジェクティビズム研究に資金を提供する「オブジェクティビストの奨学のためのアンセム基金」(Anthem Foundation for Objectivist Scholarship) を組織した<ref>{{harvnb|Gladstein|2009|p=117}}</ref>。BB&T社の慈善基金も、ランドの思想や作品の教授に資金を提供している。資金の提供を受けている学校には、[[テキサス大学オースティン校]] (The University of Texas at Austin)、[[ピッツバーグ大学]] (University of Pittsburgh)、および[[ノースカロライナ大学チャペルヒル校]] (University of North Carolina at Chapel Hill) などがある。これらの資金提供がランドに関連する研究や教授を条件としていることが、議論になるケースもある<ref>{{harvnb|Gladstein|2009|pp=116–117}}; {{harvnb|Burns|2009|p=297}}</ref>。
== 主な著作 ==
;小説
* 1936年 ''We the Living''
** 『[[われら生きるもの]]』(脇坂あゆみ訳、[[ビジネス社]]、2012年12月)ISBN 978-4828416908
* 1943年 ''The Fountainhead''
** 『[[水源 (小説)|水源]]』([[藤森かよこ]]訳、[[ビジネス社]]、2004年7月)ISBN 978-4828411323
:『水源』は、1949年に[[ゲイリー・クーパー]]主演、ランド自身の脚本によって映画化(オリジナルタイトルは、''The Fountainhead'' であるが、日本では、『[[摩天楼 (1949年の映画)|摩天楼]]』という日本語の題で公開)された。
* 1957年 ''Atlas Shrugged''
** 『[[肩をすくめるアトラス]]』([[脇坂あゆみ]]訳、ビジネス社、2004年10月)ISBN 978-4828411491
::改訳文庫版(全3巻) アトランティス 第一部 2014年 ISBN 978-4908222016 、第二部 2014年 ISBN 978-4908222023 、第三部 2015年 ISBN 978-4908222030
;映画
* 1942年 ''Noi Vivi'' ''Addio Kira'' (著者の許諾を得ずにイタリアで制作、1986年米国で復刻版公開)
** 『われら生きるもの』(アトランティス、2013年11月)
;その他のフィクション
* 1932年 ''Red Pawn''
** 「[[レッドポーン]]」
* 1934年 ''Night of January 16th''
** 「[[1月16日の夜に]]」
* 1938年 ''Anthem''
** 『[[アンセム (小説)|アンセム]]』
* 2015年 ''Ideal''
** 『[[イデアル (小説)|イデアル]]』
;ノンフィクション
* 1961年 ''For the New Intellectual''
** 『新しい知識人たちへ』
* 1964年 ''The Virtue of Selfishness''
** 『利己主義という気概---エゴイズムを積極的に肯定する』(藤森かよこ訳、ビジネス社、2008年12月)ISBN 978-4828414669
**『SELFISHNESS 自分の価値を実現する』完全日本語訳(オブジェクティビズム研究会訳、田村洋一監訳、Evolving、2021年5月)ISBN 978-4908148224
* 1966年 ''Capitalism: The Unknown Ideal''
** 『資本主義: 知られざる理想』
* 1969年 ''The Romantic Manifesto''
** 『ロマン主義宣言』
* 1971年 ''The New Left: The Anti-Industrial Revolution''
** 『新左翼: 反産業革命』
* 1979年 ''Introduction to Objectivist Epistemology''
** 『オブジェクティビズム認識論入門』
* 1982年 ''Philosophy: Who Needs It''
** 『哲学: 誰がそれを必要とするか』
== 脚注・参照 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*[[古藤晃]] 『ビジネス英語を速く読む』、[[光文社新書]]、2001年10月。ISBN 978-4-334-03108-4
:日本のビジネスマンがアメリカを理解する上で読むべき本として、『Atlas Shrugged(肩をすくめるアトラス)』を紹介。また、多くの文章を引用している。
<!-- これは投稿者さんが本項を書くにあたり直接「参考」にした文献なのでしょうか、それとも寧ろ「推薦資料 (further reading)」なのでしょうか? 説明書きを見るに後者とも取れますが… -->
* {{Citation |ref=harv |url=http://plato.stanford.edu/entries/ayn-rand/ |title=Ayn Rand |last1=Badhwar |first1=Neera |last2=Long |first2=Roderick T. |editor-first=Edward N. (ed) |editor-last=Zalta |editor-link= |date=June 8, 2010 |work=Stanford Encyclopedia of Philosophy |accessdate=June 16, 2010}}
* {{Cite book |ref=harv |title=On Classical Liberalism and Libertarianism |last=Barry |first=Norman P. |authorlink= |location=New York |publisher= St. Martin's Press |year=1987 |isbn=0-312-00243-2 |oclc=14134854}}
* {{Cite book |ref=harv |title= The Passion of Ayn Rand |last=Branden |first=Barbara |authorlink= |location=Garden City, New York |publisher=Doubleday & Company |year=1986 |isbn=0-385-19171-5 |oclc=12614728}}
* {{Cite book |ref=harv |title=Ayn Rand |last=Britting |first=Jeff |authorlink= |location=New York |publisher=Overlook Duckworth |year=2004 |isbn=1-58567-406-0 |oclc=56413971 |series=Overlook Illustrated Lives series}}
* {{Cite journal |ref=harv |last=Burns |first=Jennifer |date=November 2004 |title=Godless Capitalism: Ayn Rand and the Conservative Movement |journal=Modern Intellectual History |volume=1 |issue=3 |pages=359–385 |doi=10.1017/S1479244304000216}}
* {{Cite book |ref=harv |title= Goddess of the Market: Ayn Rand and the American Right |last=Burns |first=Jennifer |location=New York |publisher=Oxford University Press |year=2009 |isbn=978-0-19-532487-7 |oclc=313665028}}
* {{Cite journal2 |title=Nozick On the Randian Argument |last1=Den Uyl |first1=Douglas |last2=Rasmussen |first2=Douglas |journal=The Personalist |date=April 1978 |volume=59 |pages=184–205 |name-list-style=amp}}
* {{Cite book2 |title=The Philosophic Thought of Ayn Rand |editor1-last=Den Uyl |editor1-first=Douglas |editor2-last=Rasmussen |editor2-first=Douglas |location=Chicago |publisher=University of Illinois Press |year=1986 |origyear=1984 |isbn=0-252-01407-3 |edition=paperback |name-list-style=amp |oclc=15669115}}
* {{Cite book |ref=harv |title= Radicals for Capitalism: A Freewheeling History of the Modern American Libertarian Movement |last=Doherty |first=Brian |authorlink= |location=New York |publisher=Public Affairs |year=2007 |isbn=1-58648-350-1 |oclc=76141517}}
* {{Cite journal |ref=harv |first=Brian |last=Doherty |title=She's Back! |url=http://reason.com/archives/2009/11/09/ayn-rand-is-back/singlepage |journal=Reason |date=December 2009 |volume=41 |issue=7 |pages=51–58 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511102914/http://reason.com/archives/2009/11/09/ayn-rand-is-back/singlepage |archivedate=2011年5月11日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}
* {{Cite book |ref=harv |title=The New Ayn Rand Companion |last=Gladstein |first=Mimi Reisel |authorlink= |location=Westport, Connecticut |publisher=Greenwood Press |year=1999 |isbn=0-313-30321-5 |oclc=40359365}}
* {{Cite journal |ref=harv |title=Ayn Rand Literary Criticism |last=Gladstein |first=Mimi Reisel |journal=The Journal of Ayn Rand Studies |volume=4 |issue=2 |year=2003 |pages=373–394 |url=http://www.aynrandstudies.com/jars/archives/jars4-2/jars4_2mgladstein.pdf |accessdate=April 20, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110514042510/http://www.aynrandstudies.com/jars/archives/jars4-2/jars4_2mgladstein.pdf |archivedate=2011年5月14日 |deadurl=yes |jstor=41560226 |deadlinkdate=2018年3月 }}
* {{Cite book |ref=harv |title=Ayn Rand |last=Gladstein |first=Mimi Reisel |location=New York |publisher=Continuum |year=2009 |isbn=978-0-8264-4513-1 |oclc=319595162 |series=Major Conservative and Libertarian Thinkers series}}
* {{Cite book2 |title=Feminist Interpretations of Ayn Rand |editor1-last=Gladstein |editor1-first=Mimi Reisel |editor2-last=Sciabarra |editor2-first=Chris Matthew |location=University Park, Pennsylvania |publisher=Pennsylvania State University Press |year=1999 |isbn=0-271-01830-5 |oclc=38885754 |series=Re-reading the Canon series |name-list-style=amp}}
* {{Cite book |ref=harv |title= On Ayn Rand |last=Gotthelf |first=Allan |authorlink= |location=Belmont, California |publisher=Wadsworth Publishing |year=2000 |isbn=0-534-57625-7 |oclc=43668181 |series=Wadsworth Philosophers Series}}
* {{Cite book |ref=harv |title= Ayn Rand and the World She Made |last=Heller |first=Anne C. |location=New York |publisher=Doubleday |year=2009 |isbn=978-0-385-51399-9 |oclc=229027437}}
* {{Cite encyclopedia |last=Kukathas |first=Chandran |authorlink= |year=1998 |title=Rand, Ayn (1905–82) |editor-last=Craig |editor-first=Edward |encyclopedia=[[Routledge Encyclopedia of Philosophy]] |location=New York |publisher=Routledge |volume=8 |pages=55–56 |isbn=0-415-07310-3 |oclc=318280731 |editor=}}
* {{Cite book |ref=harv |title=Essays on Ayn Rand's We the Living |editor-last=Mayhew |editor-first=Robert |location=Lanham, Maryland |publisher=Lexington Books |year=2004 |isbn=0-7391-0697-X |oclc=52979186}}
* {{Cite book |ref=harv |title=Essays on Ayn Rand's Anthem |editor-last=Mayhew |editor-first=Robert |location=Lanham, Maryland |publisher=Lexington Books |year=2005a |isbn=0-7391-1031-4 |oclc=57577415}}
* {{Cite book |ref=harv |title=Ayn Rand and Song of Russia |last=Mayhew |first=Robert |location=Lanham, Maryland |publisher=Scarecrow Press |year=2005b |isbn=0-8108-5276-4 |oclc=55474309}}
* {{Cite book |ref=harv |title=Essays on Ayn Rand's The Fountainhead |editor-last=Mayhew |editor-first=Robert |location=Lanham, Maryland |publisher=Lexington Books |year=2006 |isbn=0-7391-1578-2 |oclc=70707828}}
* {{Cite book |ref=harv |title=Essays on Ayn Rand's Atlas Shrugged |editor-last=Mayhew |editor-first=Robert |location=Lanham, Maryland |publisher=Lexington Books |year=2009 |isbn=978-0-7391-2780-3 |oclc=315237945}}
* {{Cite book |ref=harv |title=100 Voices: An Oral History of Ayn Rand |last=McConnell |first=Scott |location=New York |publisher=New American Library |year=2010 |isbn=978-0-451-23130-7 |oclc=555642813}}
* {{Cite book |ref=harv |title=The Ideas of Ayn Rand |last=Merrill |first=Ronald E. |location=La Salle, Illinois |publisher=Open Court Publishing |year=1991 |isbn=0-8126-9157-1 |oclc=23254190}}
* {{Cite book |ref=harv |title=With Charity Toward None: An Analysis of Ayn Rand's Philosophy |last=O'Neill |first=William F. |location=New York |publisher=Littlefield, Adams & Company |year=1977 |origyear=1971 |isbn=0-8226-0179-6 |oclc=133489}}
* {{Cite book |ref=harv |title=Ayn Rand: A Sense of Life (The Companion Book) |last=Paxton |first=Michael |authorlink= |location=Layton, Utah |publisher=Gibbs Smith |year=1998 |isbn=0-87905-845-5 |oclc=38048196}}
* {{Cite book |ref=harv |title= Objectivism: The Philosophy of Ayn Rand |last=Peikoff |first=Leonard |authorlink= |location=New York |publisher=E. P. Dutton |year=1991 |isbn=0-452-01101-9 |oclc=28423965}}
* {{Cite book |ref=harv |last=Rand |first=Ayn |title= The Virtue of Selfishness |isbn=0-451-16393-1 |oclc=28103453 |year=1964 |publisher=Penguin |location=New York}}
* {{Cite journal |ref=harv |last=Rand |first=Ayn |title=Brief Summary |journal= The Objectivist |date=September 1971 |volume=10 |issue=9 |pages=1–4}}
* {{Cite book |ref=harv |last=Rand |first=Ayn |title= Philosophy: Who Needs It |editor-last=Peikoff |editor-first=Leonard |year=1982 |location=New York |publisher=Signet |edition=paperback |isbn=0-451-13249-1}}
* {{Cite book |ref=harv |title= The Voice of Reason |first=Ayn |last=Rand |editor-first=Leonard |editor-last=Peikoff |location=New York |publisher=New American Library |year=1989 |isbn=0-453-00634-5 |oclc=18048955}}
* {{Cite book |ref=harv |last=Rand |first=Ayn |title= Atlas Shrugged |location=New York |publisher=Dutton |year=1992 |origyear=1957 |edition=35th anniversary |isbn=0-525-94892-9 |oclc=60339555}}
* {{Cite book |ref=harv |title= Letters of Ayn Rand |last=Rand |first=Ayn |editor-first=Michael S |editor-last=Berliner |location=New York |publisher=Dutton |year=1995 |isbn=0-525-93946-6 |oclc=31412028}}
* {{Cite book |ref=harv |last=Rand |first=Ayn |editor-last=Harriman |editor-first=David |title=Journals of Ayn Rand |location=New York |publisher=Dutton |year=1997 |isbn=0-525-94370-6 |oclc=36566117}}
* {{Cite book |ref=harv |last=Rand |first=Ayn |editor-last=Mayhew |editor-first=Robert |year=2005 |title=Ayn Rand Answers, the Best of Her Q&A |isbn=0-451-21665-2 |oclc=59148253 |publisher=New American Library |location=New York}}
* {{Cite book2 |editor-first=John R. |editor-last=Shook |first1=Gregory |last1=Salmieri |first2=Allan |last2=Gotthelf |author2-link= |chapter=Rand, Ayn (1905–82) |title=The Dictionary of Modern American Philosophers |publisher=Thoemmes Continuum |location=London |year=2005 |isbn=1-84371-037-4 |oclc=53388453 |name-list-style=amp |volume=4 |pages=1995–1999}}
* {{Cite book |ref=harv |title= Ayn Rand: The Russian Radical |last=Sciabarra |first=Chris Matthew |authorlink= |location=University Park, Pennsylvania |publisher=Pennsylvania State University Press |year=1995 |isbn=0-271-01440-7 |oclc=31133644}}
* {{Cite journal |ref=harv |title=A Renaissance in Rand Scholarship |last=Sciabarra |first=Chris Matthew |journal=Reason Papers |volume=23 |date=Fall 1998 |pages=132–159 |url=http://www.reasonpapers.com/pdf/23/rp_23_16.pdf |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110513120014/http://www.reasonpapers.com/pdf/23/rp_23_16.pdf |archivedate=2011年5月13日 |deadurl=no |deadlinkdate=2018年3月 }}
* {{Cite journal |ref=harv |last=Sciabarra |first=Chris Matthew |url=http://www.aynrandstudies.com/jars/archives/jars1-1/jars1_1csciabarra.pdf |title=The Rand Transcript |journal=The Journal of Ayn Rand Studies |volume=1 |issue=1 |date=Fall 1999 |pages=1–26 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110514042557/http://www.aynrandstudies.com/jars/archives/jars1-1/jars1_1csciabarra.pdf |archivedate=2011年5月14日 |deadurl=yes |jstor=41560109 |deadlinkdate=2018年3月 }}
* {{Cite journal |ref=harv |last=Sciabarra |first=Chris Matthew |title=The Illustrated Rand |journal=The Journal of Ayn Rand Studies |volume=6 |issue=1 |date=Fall 2004 |url=http://www.nyu.edu/projects/sciabarra/essays/illustratedrand.pdf |pages=1–20 |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121012191607/http://www.nyu.edu/projects/sciabarra/essays/illustratedrand.pdf |archivedate=2012年10月12日 |deadurl=no |jstor=41560268 |deadlinkdate=2018年3月 }}
* {{Cite book |ref=harv |last=Seddon |first=Fred |title=Ayn Rand, Objectivists, and the History of Philosophy |publisher=University Press of America |location=Lanham, Maryland |year=2003 |pages=63–81 |isbn=0-7618-2308-5 |oclc=51969016}}
* {{Cite journal |ref=harv |last=Walsh |first=George V. |title=Ayn Rand and the Metaphysics of Kant |journal=The Journal of Ayn Rand Studies |date=Fall 2000 |volume=2 |issue=1 |pages=69–103 |url=http://www.aynrandstudies.com/jars/archives/jars2-1/jars2_1gwalsh.pdf |accessdate=April 15, 2011 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110514042532/http://www.aynrandstudies.com/jars/archives/jars2-1/jars2_1gwalsh.pdf |archivedate=2011年5月14日 |deadurl=yes |jstor=41560132 |deadlinkdate=2018年3月 }}
* {{Cite book |ref=harv |title=Ayn Rand's Atlas Shrugged: A Philosophical and Literary Companion |editor-last=Younkins |editor-first=Edward W. |location=Burlington, Vermont |publisher=Ashgate Publishing |year=2007 |isbn=978-0-7546-5533-6 |oclc=69792104}}
== 関連項目 ==
*[[教訓主義]]
*[[オブジェクティビズム]]
*{{enlink|Atlas Shrugged: Part I|p=off|s=off}}(映画化された『肩をすくめるアトラス』の第1部)
*{{enlink|Atlas Shrugged: Part II|p=off|s=off}}(映画化された『肩をすくめるアトラス』の第2部)
*{{enlink|The Virtue of Selfishness|p=off|s=off}}(『利己主義という気概---エゴイズムを積極的に肯定する』)
*[[ジミー・ウェールズ]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Ayn Rand}}
;日本語
* [http://www.aynrand2001japan.com/index1.html 藤森かよこの日本アイン・ランド研究会]:『水源』の翻訳者のサイト
* [http://www.ethospathoslogos.com/ 杉田敏ホームページ]:アイン・ランドの作品を感銘を受けた著書として、NHKの「[[やさしいビジネス英語]]」のテキストなどで紹介。
* [http://aynrandjapan.org/index.html 日本アイン・ランド協会]
* [[山形浩生]]による『肩をすくめるアトラス』の書評:[https://web.archive.org/web/20110105082219/http://book.asahi.com/review/TKY200503160346.html 『朝日新聞』2004年12月]
* [http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Ayn%20Rand%20Literature.htm 「未来図書目録 アイン・ランドとは誰か」橋本努]:『インターコミュニケーション』 2002年Spring
* [http://www.aynrandreaders.tokyo/ 東京アイン・ランド読者会(主催 佐々木一郎)]
;英語
* {{IEP|rand|Ayn Rand}}
* {{SEP|ayn-rand|Ayn Rand}}
{{社会哲学と政治哲学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:らんと あいん}}
[[Category:アイン・ランド|*]]
[[Category:20世紀アメリカ合衆国の哲学者]]
[[Category:20世紀アメリカ合衆国の女性著作家]]
[[Category:20世紀の女性哲学者]]
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[[Category:サンクトペテルブルク大学出身の人物]]
[[Category:反アラブ感情]]
[[Category:1905年生]]
[[Category:1982年没]]
|
2003-09-15T10:43:39Z
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2023-12-25T04:53:26Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
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エスカレーター
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エスカレーター(英: Escalator)は、主として人が建物の各階に移動する目的で設置・利用される階段状の昇降装置。自動階段のこと。情報の分野などでは最後の長音を省略するルールによってエスカレータともする。
"Escalator"という語は元々、アメリカ合衆国の企業オーチス・エレベーター社(Otis Elevator Company)の登録商標で、商品名である。しかし、当時この自動式階段を表す適当な語句が他に無く、一般に「エスカレーター」と呼ばれたため、普通名称化した経緯がある。オーチス・エレベーター社では既に商標権を放棄している(「#商標権の喪失」で後述)。
“escalator”という名称の由来については、様々な歴史家や著作家がそれぞれ独自の見解を表明しており、それらに基づいた誤解がインターネット上に蔓延している。
アメリカの発明家チャールズ・シーバーガー (Charles Seeberger) は、パリ万博への出展に合わせて、1900年に "escalator" を商標とした。
シーバーガー自身の説明によると、1895年に法律家に発明に名前を付けることを助言され、この名前を考案したとされている。オーチス・エレベータ・カンパニーが保管していたシーバーガーの手稿によれば、彼はラテン語辞書を使って語幹に scala という語(後述)を採用し、接頭辞として e を、接尾辞として tor を加え escalator としたことがわかる。シーバーガー本人の大まかな解釈は「-から上に移動するための手段」であり、「カ」の部分にアクセントをつけて発音することを本人が強く望んでいた(ラテン語の scala は ca の a が長母音で、そこがアクセントとなるため)。
したがってエスカレーターという名称はフランス語やギリシア語に由来しないし、エレベーターから派生した語でもない。ラテン語で読めばエスカラトル、「上に上げるもの、送るもの」の意味となる。なお、その語源となったラテン語の女性名詞 scala は、同じくラテン語の動詞 scando(よじ登る、乗る)からの派生語であり、物事の起きた回数を示す「度目」、あるいは物事の進む段階としての「階梯」を意味し、直接的には「階段」という意味ではなく、複数形 scalae で用いられる時に「階段」あるいは「はしご」の意味をもつ。
動詞の "escalate" は1922年に登場した新語で、「エスカレーターを使って上に登る」または「エスカレーターで移動する」という意味だった。そこから「徐々に増大または発展、悪化する」こと、特に「局地戦から大規模な戦争(核戦争を含む)に発展すること」を意味するようになった。後者の意味が最初に印刷物に記載されたのは1959年の『マンチェスター・ガーディアン』紙だが、その意味でこの語がよく使われるようになったのは1960年代後半から1970年代前半のことである。
また、"escalate" はエスカレーターとともに日本にも導入され、「エスカレートする」は日本語のカタカナ言葉として一般化した。
1950年、オーチス社の社長・シーバーガーとホートンエレベーター(Haughton Elevator Co.)との間で商標権問題が起きた。これをきっかけとして、オーチス社は "escalator" という言葉を独占的に使えなくなり、商標の保持に関心のある会社や個人にとっては貴重な警告となった。
この裁判所の裁定において、「'escalator' という言葉が、特定の製品ではなく、エスカレーター全般を指す名詞として一般に認識されてきた期間」が問題とされ、オーチス社自身が同社の特許文書や広告でその語を普通名詞のように使っていたことが指摘された。その結果、オーチス社は最終的に"escalator" という言葉の商標権を放棄することになった。
外観は階段に酷似し、自動で昇降する階段状の踏み面(ステップ)と、ステップと連動して動くベルト状の手すりを特徴とする。
機構の露出部分の多さから建物のインテリアに大きな影響を与えるので、意匠に工夫を凝らしたものが多い。螺旋状のスパイラルエスカレーター(三菱電機製が世界唯一であり、中国の上海新世界大丸百貨店や、日本では横浜ランドマークタワーなどに設置されている)や、途中で水平部分をもつエスカレーターも登場している。また、乗り降りを容易にするため、乗降口に水平部分を持たせた(踊り場のある)エスカレーターも出回っている。最近では操作を行うことで複数のステップが水平部分を構築し、車椅子を乗せられるものもある。
標準的な速度は毎分30mであるが、速度は調整することが可能である。
横幅はステップ幅、欄干有効幅、全体幅があり、800型、1200型等の規格は欄干有効幅で決まる。
機構的にエレベーターに比べ省エネルギーである。近年ではさらに進んで赤外線センサによって人の接近を検知し、利用時のみ稼働するものも増えている。特に郊外の鉄道駅に多い。完全に停止させてしまうと、上りと下りの判別が付きにくくなってしまうため、利用者がいない間は低速で運転し、利用者が来ると通常速度に切り替えるものも存在する。
木製のエスカレーターも存在し、欧米の古い建築物で見ることができる。しかし、老朽化や火災の原因となることもあり、減少傾向にある。特に1987年、英国ロンドンのキングス・クロス・セント・パンクラス駅の火災(キングス・クロス火災)は大災害となったことで知られている。
エスカレーターはステップとステップの間に隙間があり、まれに乗っている人の衣類などを挟むことがあるため、衝撃を感知すると緊急停止する安全装置が設置されている。しかし、後述のような設計上の想定外の利用が後をたたないため、この装置が誤作動を起こすことが増えている。そこでJR東日本では2009年度から2015年度までに、エスカレーターを駆け下ることなどで生じる瞬間的な振動で緊急停止しないようにエスカレーターを改良し、安全装置がむやみに作動しないようにして誤作動を8割減らすようにするという。
エスカレーター事故は機械の故障で起きることもあるが、多くの場合は乗客が安全に注意していれば事故には発展しない。以下によくある事故の形態を挙げる。
東京消防庁の調査ではエスカレーター事故の95%以上を占める。乗降口でうまく移動できずにつまずいたり、体勢を変える際にバランスを崩すなどの原因が多い。多くは重大事故に至らないが、後列の利用者を巻き込んで転倒した場合は、大きな怪我をさせることもあり、2014年11月28日に神奈川県茅ヶ崎市で、他の者の転倒に巻き込まれて1人が死亡する事故が起きている。このため、乗降口でうまく移動が出来ないような人に対してエスカレーターを使用しないように呼びかけている場合もある。
また、混雑時に機械の急停止や逆回転が起こった場合は将棋倒しなどの群集事故を引き起こすこともある。
中国では過積載による逆回転で、2010年12月14日に国貿駅で25人が負傷、2011年7月5日動物園駅で1人が死亡し30人が負傷する事故が起きている。
エスカレーターに乗っている際に、手すりに寄りかかったり座ったりした場合バランスを崩して転落することがある。下層階の転落は負傷の原因となるが、ショッピングセンターなどの大型施設では吹き抜け部分にエスカレーターを設置することが一般的となっているため、高層階からの転落により死亡事故に至るケースも絶えない。
2008年9月13日、ノルウェーのリュングダールで11歳の少年がエスカレーターから転落して死亡した。2009年4月20日、スウェーデンのファールンで十代の少年がエスカレーターから転落して頭部に重傷を負い、間もなく死亡した。2009年6月26日、スウェーデンのヘルシンボリで成人男性がエスカレーターから転落して死亡した。以上3件はいずれも手摺に乗ったことが転落の原因である。
日本においても、2004年6月28日に兵庫県西宮市で4階から転落、2010年1月30日には神奈川県横浜市で4階から転落により死亡事故が発生している。 2009年4月には、東京都港区汐留のビルで、エスカレーターの手すりに後ろ向きに寄り掛かった男性が身体を持ち上げられ、エスカレーター脇の吹き抜けから約9m落下し死亡する事故が発生。2015年6月に、消費者庁の消費者安全調査委員会が事故の調査報告書において、誘導手すりや落下物防止板の設置の必要性や、ガイドラインの制定、法整備の検討などについて言及している。
エスカレーターは天井や梁などの構造物の横を通過するため、手すりの外に身を乗り出していた場合、手すりと構造物の間に身体が挟まれ、負傷の原因となることがある。生命に係る重大事故となりやすいため、防止のための法的規制も講じられており、日本の建築基準法令においては、エスカレーターと天井と交差する部分に保護板を設置することが義務付けられている。
2002年6月15日、米国メリーランド州コロンビアのJ.C.ペニーで、同従業員(24歳)がエスカレーターで1階から2階に上がろうとした際、天井とエスカレーターの間に首を挟まれ死亡した。
日本においても2007年10月16日に神奈川県平塚市に所在する西友平塚店にて、天井と手すりに頭を挟まれた児童が重傷を負った。原因はエスカレータを製造したシンドラーエレベータによって設置された法令要件を満たさない保護版が原因だったとされるが、エスカレータ設置時には民間確認検査機関であるイーホームズの完了検査をパスしており、イーホームズにも責任の所在があるとして同社も書類送検された。
また珍しい例としては、2011年12月21日に神奈川県川崎市でエスカレーター脇に捨てられたゴミと手すりの間に手が挟まり、手指が切断される事故が起きている。2013年4月24日には秋葉原駅において、手すり下部のレールが利用者の荷物の接触で変型し、手すりとレールの間に指を挟まれる事故が起きた。
動作しているエスカレーターのいずれかの部分に衣服などが挟まった場合、そのまま身体が巻き込まれる場合がある。昇降口の通路との接続部分や踏板側面の隙間に巻き込まれる場合が多いが、時にはステップの櫛板に引っかかってしまう場合もある。防止のための法的規制も講じられており、日本の建築基準法令においては建築基準法施行令において、巻き込みが起こった場合の自動停止装置の設置が義務づけられている。インドでは女性の着るサリーの裾が巻き込まれる危険があるため「サリーガード」と呼ばれる器具が設置されている。
2004年12月31日、台湾・台北市の市政府駅では女性の頭髪がエスカレーターに巻き込まれ、頭に20針の大怪我を負った。2005年2月21日、エルサルバドル人の寿司職人 Francisco Portillo は、米国ボストン地下鉄のエスカレーターにシャツが巻き込まれ、首が締め付けられて死亡した。申し立てによると彼はその時に酔っ払っていた。
日本においては2005年から2010年頃に流行したクロックスがエスカレーターに巻き込まれる事例が急増し、負傷者が続出したことがあった。
1987年、英国ロンドンのキングス・クロス・セント・パンクラス駅で、古いエスカレーターの機械部分から発火し、切符売り場のホールで爆発が起きて31名が死亡した(キングス・クロス火災)。この火災は、エスカレーターの保守点検を正しく厳密に行う必要性と、放っておくと機械にはホコリが溜まる性質があることを改めて明らかにした。駅が公共機関(ロンドン地下鉄)のものであること、かなりの死傷者が出たことから、この事故には多数の非難と抗議が集中し、被害者およびその家族から全ての木製エスカレーターの撤去を要求する声があがった。公式の調査報告によれば、火災はくすぶりながらしばらくの間気づかれずに徐々に進行し、トレンチ効果と呼ばれる現象によって切符売り場ホールで爆発することになったと結論付けられた。火災の根本原因はタバコの火の不始末だった。エスカレーターの機械室には約8800キログラムものデトリタスがあり、これが導火線の役割を果たし、ベニヤ板、紙やプラスチック製の広告、塗料の溶剤、ホールの合板などに引火し、さらにメラミン粒子が空気中に拡散したために爆発へと発展した。この火災の結果、ロンドン地下鉄ではグリーンフォード駅のものを除いて全ての木製エスカレーターを撤去した。また、各駅の地下部分は完全禁煙とされ、その後、全駅が完全禁煙となった。
エスカレーターは防火上は竪穴区画であり、スプリンクラーや防火シャッターを設置したり、防火壁で囲んだりする等の対策が施される。過熱の危険を防ぐため、電動機や機械部分が設置されたスペースには換気機構が必要となる。
2014年10月には日本の大阪市において、夕方の通勤・通学で混雑する南海難波駅で、3Fの改札外とショッピングモールのある1Fとをつなぐエスカレーターから出火する事故が起きている。
2011年3月11日と同年4月7日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)とその余震によってイオンタウン仙台泉大沢の2基、イオン仙台幸町ショッピングセンターの1基、イオン郡山フェスタ店の1基が下層のエスカレーターを押し潰す形で落下した。
2008年(平成20年)8月3日、東京国際展示場(東京ビッグサイト)西展示棟で行われたワンダーフェスティバルで、上りエスカレーターが逆回転し、約50人が転倒、10人が負傷する事故が起きた。防犯カメラの映像から、事故発生当時は会場の混雑により1枚の踏板に3〜4名が載る過積載の状態となっており、それが事故の主因となったものとして疑われた。その後、集客力の大きいイベントではエスカレーターの利用そのものを制限する動きが見られるようになった。2015年1月に公表された事故調査の結果では、過積載の状態ではあったものの製品の性能や安全性を大きく損なうほどのものではないとされ、モーターを固定するボルトの緩みやブレーキの制動力不足など、設備の施工不良に起因する事故であったとされている(「ワンダーフェスティバル#エスカレーター事故」も参照)。
1982年2月17日、ソビエト連邦(当時)の首都を走るモスクワ地下鉄のアヴィアモトルナヤ駅でエスカレーターが崩壊し、8名が死亡、30名以上が負傷した。夕方のラッシュ時の乗客の荷重により駆動ローラが急回転し始めた際、不正に設定されたサービスブレーキにより回転を止められなかったことが原因として非難された。
最も珍奇な事故としては、2015年7月26日に中国荊州市の安良デパートで発生した「喫人電梯」事故がある。エスカレーターの踏板が突如抜け、乗っていた女性が駆動ローラの内部に巻き込まれて死亡したものである。踏板から落ちた女性が上半身だけ出して近くの服務員に助けを求めるが、そのまま中へと巻き込まれていく様子を映した監視カメラの映像が公開されたため、大きな衝撃を呼んだ。
1930年代にも、エスカレーターが原因で子供が負傷したとして百貨店が訴えられる事件が発生している。このような訴訟は多くが却下されている。また近年ではエスカレーターの安全に関する規制が強化されてきたため、訴訟そのものも減っている。
乗客の安全を強化するため、最近のエスカレーターにはいくつかの安全強化策が施されている。次に挙げたのは ASME A17.1 で規格化されている安全対策である。
エスカレーターの特許を最初に出願したのは米国マサチューセッツ州ソーガスのネイサン・エイムズで、1859年のことである。ただし、その設計に基づいて実動するエスカレーターが製作されたことはない。"revolving stairs"(回転階段)と名付けたその発明は思索的なもので、特許明細にはどういう材料で製造するかも書かれておらず、用途も明確でなかった(木材や布張りでも製作可能であること、住居内で足腰が不自由な人の補助として使えるかもしれないということは記してある)。その機構の動力源としては、人力や水力を示唆していた。
1889年、レモン・ソウダー (Leamon Souder) がエスカレーター式の "stairway" と名付けた機器の特許を取得した。一連の段とリンクで構成された機器だが、実物が製作されることはなかった。ソウダーは全部で4種類の形状のエスカレーターについて特許を取得しており、うち2件は螺旋階段状のエスカレーターについてのものだった(米国特許番号 723,325 と 792,623)。
1892年、ジェシー・W・リノが "Endless Conveyor or Elevator"(無限コンベヤまたはエレベーター)と題した特許を取得した。その数ヵ月後、ジョージ・A・ホイーラーがさらにエスカレーターらしいアイデアの特許を取得したが、これは製作されなかった。ホイーラーの特許を買い取ったのがチャールズ・シーバーガーである。シーバーガーはホイーラーの設計からいくつかの特徴を取り入れ、オーチス・エレベータ・カンパニーで1899年に試作品を製作した。
リノは世界初の実動するエスカレーターを製作し(彼自身はこれを "inclined elevator"すなわち「傾斜エレベーター」と呼んでいた)、1896年にニューヨークのコニーアイランドにあった Old Iron Pier に設置した。この機器は傾斜したベルトの表面に鋳鉄製の羽根板またはクリート (cleat) が並んでいて、それを牽引に使うという簡単な構造であり、25度の傾斜だった。数カ月後、同型の試作品が数カ月の試用期間を経てブルックリン橋のマンハッタン側に設置された(リノはオーチス・エレベータ・カンパニーに入社し、彼の特許を全て同社に売却後退職)。リノの設計形式のエスカレーターはBig Dig プロジェクト(1991〜2006)により撤去されるまでボストン地下鉄で使われていた。スミソニアン博物館はリノの設計形式の1914年製のエスカレーターをアメリカの歴史的遺物として再組み立てを検討したが、「ノスタルジア以上に運送と組み立てのコストが膨大になる」という理由で実施されなかった。
1895年5月頃、チャールズ・シーバーガーは1892年にホイーラーが特許を取得したものとよく似たエスカレーターの設計を開始した。この機器は平らな動く階段であり、ある重要な細部が今日のエスカレーターと異なっているだけだった。それは、各段の表面が滑らかで現在のエスカレーターのように櫛状の凹凸がなく、先端部分で乗客の足を安全に送り出す機構がなかった点である。そのため、乗客は横にひょいと跳んで降りる必要があった。それを容易にするため、エスカレーターの先端は手摺が途切れても(小型の動く歩道のように)水平にしばらく続き、それから三角に中央が突き出た "divider" と呼ばれる部分に飲み込まれる形になっていた。シーバーガーは1899年にオーチス・エレベータ・カンパニーと手を組み、フランスのパリ万国博覧会(1900年)に出展し、1等賞を勝ち取った。パリ万博にはリノの傾斜エレベーターも出展された。他に James M. Dodge と Link Belt Machinery Co. や、フランスの Hallé と Piat という2社もエスカレーターを出展した。
Piat社は1898年11月16日、段のないエスカレーターをハロッズのナイツブリッジ店に設置したが、同社は百貨店側に特許権を引き渡してしまった。Bill Lancaster の The Department Store: a Social History によれば、「(初めてエスカレーターを)体験した客はそれによってへたり込み、店員が配った気付け薬とコニャックでやっと元気を取り戻した」という。このハロッズのエスカレーターは「224個の部品から成る」連続な皮革製ベルトであり、「強く連結されていて、上へと動いていく」もので、イングランド初の「動く階段」だった。
ヨーロッパでは他にHocquardt社が1906年に Fahrtreppe(ドイツ語でエスカレーターの意)の特許権を得ている。Hallé社はパリ万博後もエスカレーターの販売を続けていたが、最終的に大企業に押しのけられる形となった。
20世紀前半、いくつかの企業がエスカレーター製品を開発製造したが、販売に際しては商標権を持つオーチス以外はエスカレーターという名称を使えなかった。ニューヨークを拠点とするPeelle社は Motorstair、ウェスティングハウスは Electric Stairway、トレドを拠点とする Haughton Elevator 社は Moving Stairs と称した。
コネ社とシンドラー社がエスカレーター市場に参入したのはオーチスから遅れること数十年だったが、徐々にシェアを伸ばしていった。現在では、この2社と三菱電機がオーチスの主なライバルとなっている。
シンドラー社はエスカレーター市場では世界第1位、エレベーター市場でも世界第2位となっているが、同社がエスカレーター市場に参入したのは1936年のことである。1979年、シンドラーは Haughton Elevator を買収することでアメリカ合衆国に進出した。その9年後にはウェスティングハウスの北米のエスカレーター/エレベーター部門も傘下に収めた。
コネ社は本来はエレベーターを得意とし、1970年代に国際的買収を繰り返して成長した。スウェーデンのエレベーター業者 Asea-Graham を初めとして、フランスやドイツやオーストリアの小さめの企業を買収し、その後、ウェスティングハウスのヨーロッパのエレベーター部門を傘下に収めた。エスカレーター市場には Montgomery Elevator Company を買収し、オーレンシュタイン・ウント・コッペルのエスカレーター部門を取得してから本格的に参入した。
エスカレーターの設置目的は大別して、
などがある。ただし、階段に比べて非常に高価であり、保守点検等コストも掛かる事から、設置場所は主に百貨店、地下街やショッピングセンターなどの商業施設、駅、空港、港のフェリーターミナルなどの交通機関の乗り場、病院やホテルなどの大型施設に限られる。
先を急ぐためエスカレーター上を階段のように歩く人のため、幅が2人分以上あるエスカレーターの片側を空ける慣習やマナーが存在する地域が、日本を含む世界各地にある。イギリスやアメリカ、台湾、香港 などの混雑の激しい駅などでは、急ぐ人のために左側を空けることがマナーとなっている。オーストラリアやニュージーランドでは、逆に左側に立って右側を空けることがマナーとなっている。
しかしながら、カナダトロントや日本の鉄道事業者など、いくつかの交通機関では、安全性の問題から、エスカレーターでの歩行を禁止している。
日本では、1914年(大正3年)3月に開催された東京大正博覧会において、初めて設置された。上野の山に設けられた博覧会第一会場の正門から第二会場の池之端までの連絡路として設置され、長さ約240mであった。途中は鉄橋状となり、上野東照宮の桜並木を見下せ、乗るのを怖がる者もあったが、1人10銭と有料だったのもかかわらず盛況だった。発動機は池之端側が高さ約9m、30馬力で、上野側が高さ6m、25馬力のものが設置され、最大輸送力は毎分80人、昇降合わせて毎分160人とされた。また、第二会場に建つ鉱山大模型館の中には約15mのエスカレーターが設置され、不忍池を展望できた。
また同年9月15日には、三越日本橋店の新館に常設のエスカレーターが完成。同年10月1日のオープンに合わせて使用が開始された。日本の百貨店へのエスカレーター普及期にあっては、エスカレーターの脇にエスカレーターガールという女性が立って乗り込みの案内をしていたことがあった。
現代では広く普及し、日本エレベーター協会会員企業がメンテナンス契約をしている国内のエレベーターは7万246基ある(2021年3月時点)。
日本で最も長いエスカレーターは、香川県丸亀市にあるニューレオマワールドのエスカレーター「マジックストロー」が高低差42m・全長96mで、日本一となっている。なお、和歌山県那智勝浦町のホテル浦島の3基乗継ぎのエスカレーター「スペースウオーカー」は、高低差約80m(地上1階から32階まで)、全長154m。広島市南区段原にある車椅子も乗車可能な比治山スカイウォーク(ひじやまスカイウォーク)は、動く歩道:77mまでいれると総延長:207.4m、高低差:37.5m。
最も短いエスカレーターは、川崎市のJR川崎駅前の地下街アゼリアと川崎岡田屋モアーズ地下2階を結ぶエスカレーター「プチカレーター」(アゼリアはモアーズの地下1階と地下2階の間に接する)で、ステップ5段分しかなく、高低差83.4cm。1991年度版ギネスブックに掲載されている。
通行料を徴収するものもわずかに存在する。日本初の屋外エスカレーターとして1959年に開業した神奈川県藤沢市江ノ島の「江の島エスカー」、福島県会津若松市にある「飯盛山スロープコンベア」、徳島県鳴門市にある「エスカヒル・鳴門」内のエスカレーターがある。
阪急電鉄が1967年に左側空けの呼び掛けを始め、大阪万博(1970年)でも同様な措置がとられたことから、大阪や神戸では左側空けが定着した。
これに対して東京では、自然発生的に右側空けが始まった。また、東京と地方を結ぶ新幹線網の拡大もあり、地方都市に右空けの東京方式が広がった。
京都の一部(主に京都市営地下鉄)では、元来は左側空けであったものを、近畿地方以外からの観光客などのエスカレーター利用状況に対応するため、右側を空けるように変更した事例もある。また滋賀県でも、京都の影響から地元住民も右側を開ける事例が多い。
エスカレーターの業界団体である日本エレベーター協会はエスカレーターの使用について、「エスカレーターの安全基準は、ステップ上に立ち止まって利用することを前提にしてる」「バランスを崩したり、つまずいたりして、転倒するおそれがある」「他の利用者に接触して転倒させたりするおそれがある」などとして、利用者にエスカレーターでの歩行禁止を呼びかけている。
2004年(平成16年)7月より、日本の地下鉄では初めて、名古屋市営地下鉄が駅構内放送などで歩行禁止の呼びかけを開始し、順次「エスカレーターでの歩行はおやめ下さい」のステッカーやポスターも貼られている。また、2008年より駅長らが毎月10日に肉声でエスカレーターを歩かないよう訴えているほか、運営する交通局職員の勤務時間帯以外に、空けられた右側にあえて立ち止まって乗るよう指導している。
その後、横浜市営地下鉄や福岡市地下鉄、札幌市営地下鉄、大阪市営地下鉄、京都市営地下鉄や東日本旅客鉄道や都営地下鉄や東京地下鉄でも、エスカレーターでの歩行禁止を呼びかける掲示が出されるようになった。
2021年(令和3年)3月30日に「埼玉県エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」が公布され、同年10月1日に施行された。エスカレーターの利用者は「立ち止まった状態でエスカレーターを利用しなければならないこと」管理者は「利用者に対し、立ち止まった状態でエスカレーターを利用すべきことを周知しなければならない」と義務づけられている。尚、本条例による違反についての罰則はない。
日本エレベーター協会が2012年~2016年に行ったアンケートにおいて、「エスカレーターを歩かない方がいい」という回答が7割近くあり、人やカバンとぶつかって危険と感じた回答者が5割強ありながら、なおそれでも「エスカレーターを歩いてしまう」という回答が微減ながら8割強のまま推移している。
また、日本のエスカレーター全般が諸外国に比べて遅すぎるゆえに歩く人が減らないのではという意見や、エスカレーターで急ぐ人の歩く意欲を減らすために高速エスカレーターの拡充を求める意見もある。
病気、けが、障害などの身体的な理由から片側の方向にしか立てない事情を持つ人もいるため、片側空けの習慣にに対して疑問を呈する意見も上がっており、識者からは「両側乗り」、コロナ禍以降は密を避ける観点から一段空けて左右交互に立つ「ジグザグ乗り」を推奨する意見もみられる。
2010年(平成22年)3月29日から5月9日からの間、関東・中部・関西の25の鉄道事業者および日本エレベータ協会(当時)でエスカレーターの安全利用を呼びかける、「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンが実施された。主要新聞にも新聞広告が掲載され、駅にポスターやステッカーが貼られた。
また 2012年(平成24年)には、7月23日から 8月31日の間「昨今駅においては、お客さまがエスカレーターをご利用になる際に、ご自身でバランスを崩して転倒されたり、駆け上がったり駆け下りたりした際に他のお客さまと衝突し転倒させるなどの事象が発生しています。お客さまのお怪我を防止するために、ご利用の際には手すりにつかまるなど、安全なエスカレーターの利用について鉄道事業者が共同で呼びかけを実施します。」として、関東・中部・関西の鉄道事業者25社局で、同様のキャンペーンが行われた。
さらに2013年(平成25年)7月25日、北海道・関東・中部・関西の27の鉄道事業者、商業施設、森ビル、日本民営鉄道協会、日本エレベーター協会と共同で、エスカレーターの安全利用を呼びかける「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを同年7月29日から実施、さらに2014年(平成26年)においても、同年7月22日から全国の鉄道事業者42社局、商業施設、森ビル、日本民営鉄道協会、日本エレベーター協会と共同で、エスカレーターの安全利用を呼びかける「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを実施している。
このような取り組みは、2017年現在、毎年続いており、2016年および2017年のキャンペーンは、鉄道事業者51社局ならびに森ビル、首都圏の空港ターミナルビル運営会社3社、民鉄協、日本地下鉄協会そして日本エレベーター協会・川崎市・千葉市が共同して実施する大掛かりなものになった。2017年に共同掲出されたポスターは、昨年までとは打って変わって、スーツを着た男性と女性とが整然と並んで手すりを持ち、下りエスカレーターを降りるという意匠であり、昨年までよりも『手すりを持っての整列乗車』を強く意識させるポスターとなった。
壊れたエスカレーター現象(英: broken escalator phenomenon)は、停止したエスカレーターに乗るとバランスを崩したりめまいや違和感が生じてしまう現象で、ウォーカー効果とも呼ばれる。通常に歩いている時は脳が無意識的にコントロールしており、稼働中のエスカレーターに合わせた動きをするが、停止した状態でも無意識に稼働中のエスカレーターに合わせた動きをしてしまうのが原因だといわれる。普通の階段でも見た目をエスカレーター風に変えると同様の現象がでる。
中高一貫教育や中高(小中高大学、更に幼稚園までが加わる事も)一貫校など、無試験で内部進学が可能な学校のことを、エスカレーターの動作に例えて俗に「エスカレーター式」あるいは「エレベーター式」と呼ぶ
第二次ロンドン海軍軍縮条約において、1937年4月1日までに調印しないワシントン海軍軍縮条約批准国があった場合に諸々の制限を緩和する条項が盛り込まれ、通称エスカレーター条項と呼ばれた。これも上記と同じくエスカレーターの動作になぞらえた通称である。
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"text": "したがってエスカレーターという名称はフランス語やギリシア語に由来しないし、エレベーターから派生した語でもない。ラテン語で読めばエスカラトル、「上に上げるもの、送るもの」の意味となる。なお、その語源となったラテン語の女性名詞 scala は、同じくラテン語の動詞 scando(よじ登る、乗る)からの派生語であり、物事の起きた回数を示す「度目」、あるいは物事の進む段階としての「階梯」を意味し、直接的には「階段」という意味ではなく、複数形 scalae で用いられる時に「階段」あるいは「はしご」の意味をもつ。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "動詞の \"escalate\" は1922年に登場した新語で、「エスカレーターを使って上に登る」または「エスカレーターで移動する」という意味だった。そこから「徐々に増大または発展、悪化する」こと、特に「局地戦から大規模な戦争(核戦争を含む)に発展すること」を意味するようになった。後者の意味が最初に印刷物に記載されたのは1959年の『マンチェスター・ガーディアン』紙だが、その意味でこの語がよく使われるようになったのは1960年代後半から1970年代前半のことである。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "また、\"escalate\" はエスカレーターとともに日本にも導入され、「エスカレートする」は日本語のカタカナ言葉として一般化した。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1950年、オーチス社の社長・シーバーガーとホートンエレベーター(Haughton Elevator Co.)との間で商標権問題が起きた。これをきっかけとして、オーチス社は \"escalator\" という言葉を独占的に使えなくなり、商標の保持に関心のある会社や個人にとっては貴重な警告となった。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "この裁判所の裁定において、「'escalator' という言葉が、特定の製品ではなく、エスカレーター全般を指す名詞として一般に認識されてきた期間」が問題とされ、オーチス社自身が同社の特許文書や広告でその語を普通名詞のように使っていたことが指摘された。その結果、オーチス社は最終的に\"escalator\" という言葉の商標権を放棄することになった。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "外観は階段に酷似し、自動で昇降する階段状の踏み面(ステップ)と、ステップと連動して動くベルト状の手すりを特徴とする。",
"title": "機構"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "機構の露出部分の多さから建物のインテリアに大きな影響を与えるので、意匠に工夫を凝らしたものが多い。螺旋状のスパイラルエスカレーター(三菱電機製が世界唯一であり、中国の上海新世界大丸百貨店や、日本では横浜ランドマークタワーなどに設置されている)や、途中で水平部分をもつエスカレーターも登場している。また、乗り降りを容易にするため、乗降口に水平部分を持たせた(踊り場のある)エスカレーターも出回っている。最近では操作を行うことで複数のステップが水平部分を構築し、車椅子を乗せられるものもある。",
"title": "機構"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "標準的な速度は毎分30mであるが、速度は調整することが可能である。",
"title": "機構"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "横幅はステップ幅、欄干有効幅、全体幅があり、800型、1200型等の規格は欄干有効幅で決まる。",
"title": "機構"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "機構的にエレベーターに比べ省エネルギーである。近年ではさらに進んで赤外線センサによって人の接近を検知し、利用時のみ稼働するものも増えている。特に郊外の鉄道駅に多い。完全に停止させてしまうと、上りと下りの判別が付きにくくなってしまうため、利用者がいない間は低速で運転し、利用者が来ると通常速度に切り替えるものも存在する。",
"title": "機構"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "木製のエスカレーターも存在し、欧米の古い建築物で見ることができる。しかし、老朽化や火災の原因となることもあり、減少傾向にある。特に1987年、英国ロンドンのキングス・クロス・セント・パンクラス駅の火災(キングス・クロス火災)は大災害となったことで知られている。",
"title": "機構"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "エスカレーターはステップとステップの間に隙間があり、まれに乗っている人の衣類などを挟むことがあるため、衝撃を感知すると緊急停止する安全装置が設置されている。しかし、後述のような設計上の想定外の利用が後をたたないため、この装置が誤作動を起こすことが増えている。そこでJR東日本では2009年度から2015年度までに、エスカレーターを駆け下ることなどで生じる瞬間的な振動で緊急停止しないようにエスカレーターを改良し、安全装置がむやみに作動しないようにして誤作動を8割減らすようにするという。",
"title": "機構"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "エスカレーター事故は機械の故障で起きることもあるが、多くの場合は乗客が安全に注意していれば事故には発展しない。以下によくある事故の形態を挙げる。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "東京消防庁の調査ではエスカレーター事故の95%以上を占める。乗降口でうまく移動できずにつまずいたり、体勢を変える際にバランスを崩すなどの原因が多い。多くは重大事故に至らないが、後列の利用者を巻き込んで転倒した場合は、大きな怪我をさせることもあり、2014年11月28日に神奈川県茅ヶ崎市で、他の者の転倒に巻き込まれて1人が死亡する事故が起きている。このため、乗降口でうまく移動が出来ないような人に対してエスカレーターを使用しないように呼びかけている場合もある。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "また、混雑時に機械の急停止や逆回転が起こった場合は将棋倒しなどの群集事故を引き起こすこともある。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "中国では過積載による逆回転で、2010年12月14日に国貿駅で25人が負傷、2011年7月5日動物園駅で1人が死亡し30人が負傷する事故が起きている。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "エスカレーターに乗っている際に、手すりに寄りかかったり座ったりした場合バランスを崩して転落することがある。下層階の転落は負傷の原因となるが、ショッピングセンターなどの大型施設では吹き抜け部分にエスカレーターを設置することが一般的となっているため、高層階からの転落により死亡事故に至るケースも絶えない。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2008年9月13日、ノルウェーのリュングダールで11歳の少年がエスカレーターから転落して死亡した。2009年4月20日、スウェーデンのファールンで十代の少年がエスカレーターから転落して頭部に重傷を負い、間もなく死亡した。2009年6月26日、スウェーデンのヘルシンボリで成人男性がエスカレーターから転落して死亡した。以上3件はいずれも手摺に乗ったことが転落の原因である。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "日本においても、2004年6月28日に兵庫県西宮市で4階から転落、2010年1月30日には神奈川県横浜市で4階から転落により死亡事故が発生している。 2009年4月には、東京都港区汐留のビルで、エスカレーターの手すりに後ろ向きに寄り掛かった男性が身体を持ち上げられ、エスカレーター脇の吹き抜けから約9m落下し死亡する事故が発生。2015年6月に、消費者庁の消費者安全調査委員会が事故の調査報告書において、誘導手すりや落下物防止板の設置の必要性や、ガイドラインの制定、法整備の検討などについて言及している。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "エスカレーターは天井や梁などの構造物の横を通過するため、手すりの外に身を乗り出していた場合、手すりと構造物の間に身体が挟まれ、負傷の原因となることがある。生命に係る重大事故となりやすいため、防止のための法的規制も講じられており、日本の建築基準法令においては、エスカレーターと天井と交差する部分に保護板を設置することが義務付けられている。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2002年6月15日、米国メリーランド州コロンビアのJ.C.ペニーで、同従業員(24歳)がエスカレーターで1階から2階に上がろうとした際、天井とエスカレーターの間に首を挟まれ死亡した。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "日本においても2007年10月16日に神奈川県平塚市に所在する西友平塚店にて、天井と手すりに頭を挟まれた児童が重傷を負った。原因はエスカレータを製造したシンドラーエレベータによって設置された法令要件を満たさない保護版が原因だったとされるが、エスカレータ設置時には民間確認検査機関であるイーホームズの完了検査をパスしており、イーホームズにも責任の所在があるとして同社も書類送検された。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また珍しい例としては、2011年12月21日に神奈川県川崎市でエスカレーター脇に捨てられたゴミと手すりの間に手が挟まり、手指が切断される事故が起きている。2013年4月24日には秋葉原駅において、手すり下部のレールが利用者の荷物の接触で変型し、手すりとレールの間に指を挟まれる事故が起きた。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "動作しているエスカレーターのいずれかの部分に衣服などが挟まった場合、そのまま身体が巻き込まれる場合がある。昇降口の通路との接続部分や踏板側面の隙間に巻き込まれる場合が多いが、時にはステップの櫛板に引っかかってしまう場合もある。防止のための法的規制も講じられており、日本の建築基準法令においては建築基準法施行令において、巻き込みが起こった場合の自動停止装置の設置が義務づけられている。インドでは女性の着るサリーの裾が巻き込まれる危険があるため「サリーガード」と呼ばれる器具が設置されている。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2004年12月31日、台湾・台北市の市政府駅では女性の頭髪がエスカレーターに巻き込まれ、頭に20針の大怪我を負った。2005年2月21日、エルサルバドル人の寿司職人 Francisco Portillo は、米国ボストン地下鉄のエスカレーターにシャツが巻き込まれ、首が締め付けられて死亡した。申し立てによると彼はその時に酔っ払っていた。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "日本においては2005年から2010年頃に流行したクロックスがエスカレーターに巻き込まれる事例が急増し、負傷者が続出したことがあった。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1987年、英国ロンドンのキングス・クロス・セント・パンクラス駅で、古いエスカレーターの機械部分から発火し、切符売り場のホールで爆発が起きて31名が死亡した(キングス・クロス火災)。この火災は、エスカレーターの保守点検を正しく厳密に行う必要性と、放っておくと機械にはホコリが溜まる性質があることを改めて明らかにした。駅が公共機関(ロンドン地下鉄)のものであること、かなりの死傷者が出たことから、この事故には多数の非難と抗議が集中し、被害者およびその家族から全ての木製エスカレーターの撤去を要求する声があがった。公式の調査報告によれば、火災はくすぶりながらしばらくの間気づかれずに徐々に進行し、トレンチ効果と呼ばれる現象によって切符売り場ホールで爆発することになったと結論付けられた。火災の根本原因はタバコの火の不始末だった。エスカレーターの機械室には約8800キログラムものデトリタスがあり、これが導火線の役割を果たし、ベニヤ板、紙やプラスチック製の広告、塗料の溶剤、ホールの合板などに引火し、さらにメラミン粒子が空気中に拡散したために爆発へと発展した。この火災の結果、ロンドン地下鉄ではグリーンフォード駅のものを除いて全ての木製エスカレーターを撤去した。また、各駅の地下部分は完全禁煙とされ、その後、全駅が完全禁煙となった。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "エスカレーターは防火上は竪穴区画であり、スプリンクラーや防火シャッターを設置したり、防火壁で囲んだりする等の対策が施される。過熱の危険を防ぐため、電動機や機械部分が設置されたスペースには換気機構が必要となる。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2014年10月には日本の大阪市において、夕方の通勤・通学で混雑する南海難波駅で、3Fの改札外とショッピングモールのある1Fとをつなぐエスカレーターから出火する事故が起きている。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2011年3月11日と同年4月7日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)とその余震によってイオンタウン仙台泉大沢の2基、イオン仙台幸町ショッピングセンターの1基、イオン郡山フェスタ店の1基が下層のエスカレーターを押し潰す形で落下した。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)8月3日、東京国際展示場(東京ビッグサイト)西展示棟で行われたワンダーフェスティバルで、上りエスカレーターが逆回転し、約50人が転倒、10人が負傷する事故が起きた。防犯カメラの映像から、事故発生当時は会場の混雑により1枚の踏板に3〜4名が載る過積載の状態となっており、それが事故の主因となったものとして疑われた。その後、集客力の大きいイベントではエスカレーターの利用そのものを制限する動きが見られるようになった。2015年1月に公表された事故調査の結果では、過積載の状態ではあったものの製品の性能や安全性を大きく損なうほどのものではないとされ、モーターを固定するボルトの緩みやブレーキの制動力不足など、設備の施工不良に起因する事故であったとされている(「ワンダーフェスティバル#エスカレーター事故」も参照)。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1982年2月17日、ソビエト連邦(当時)の首都を走るモスクワ地下鉄のアヴィアモトルナヤ駅でエスカレーターが崩壊し、8名が死亡、30名以上が負傷した。夕方のラッシュ時の乗客の荷重により駆動ローラが急回転し始めた際、不正に設定されたサービスブレーキにより回転を止められなかったことが原因として非難された。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "最も珍奇な事故としては、2015年7月26日に中国荊州市の安良デパートで発生した「喫人電梯」事故がある。エスカレーターの踏板が突如抜け、乗っていた女性が駆動ローラの内部に巻き込まれて死亡したものである。踏板から落ちた女性が上半身だけ出して近くの服務員に助けを求めるが、そのまま中へと巻き込まれていく様子を映した監視カメラの映像が公開されたため、大きな衝撃を呼んだ。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1930年代にも、エスカレーターが原因で子供が負傷したとして百貨店が訴えられる事件が発生している。このような訴訟は多くが却下されている。また近年ではエスカレーターの安全に関する規制が強化されてきたため、訴訟そのものも減っている。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "乗客の安全を強化するため、最近のエスカレーターにはいくつかの安全強化策が施されている。次に挙げたのは ASME A17.1 で規格化されている安全対策である。",
"title": "安全対策"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "エスカレーターの特許を最初に出願したのは米国マサチューセッツ州ソーガスのネイサン・エイムズで、1859年のことである。ただし、その設計に基づいて実動するエスカレーターが製作されたことはない。\"revolving stairs\"(回転階段)と名付けたその発明は思索的なもので、特許明細にはどういう材料で製造するかも書かれておらず、用途も明確でなかった(木材や布張りでも製作可能であること、住居内で足腰が不自由な人の補助として使えるかもしれないということは記してある)。その機構の動力源としては、人力や水力を示唆していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1889年、レモン・ソウダー (Leamon Souder) がエスカレーター式の \"stairway\" と名付けた機器の特許を取得した。一連の段とリンクで構成された機器だが、実物が製作されることはなかった。ソウダーは全部で4種類の形状のエスカレーターについて特許を取得しており、うち2件は螺旋階段状のエスカレーターについてのものだった(米国特許番号 723,325 と 792,623)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1892年、ジェシー・W・リノが \"Endless Conveyor or Elevator\"(無限コンベヤまたはエレベーター)と題した特許を取得した。その数ヵ月後、ジョージ・A・ホイーラーがさらにエスカレーターらしいアイデアの特許を取得したが、これは製作されなかった。ホイーラーの特許を買い取ったのがチャールズ・シーバーガーである。シーバーガーはホイーラーの設計からいくつかの特徴を取り入れ、オーチス・エレベータ・カンパニーで1899年に試作品を製作した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "リノは世界初の実動するエスカレーターを製作し(彼自身はこれを \"inclined elevator\"すなわち「傾斜エレベーター」と呼んでいた)、1896年にニューヨークのコニーアイランドにあった Old Iron Pier に設置した。この機器は傾斜したベルトの表面に鋳鉄製の羽根板またはクリート (cleat) が並んでいて、それを牽引に使うという簡単な構造であり、25度の傾斜だった。数カ月後、同型の試作品が数カ月の試用期間を経てブルックリン橋のマンハッタン側に設置された(リノはオーチス・エレベータ・カンパニーに入社し、彼の特許を全て同社に売却後退職)。リノの設計形式のエスカレーターはBig Dig プロジェクト(1991〜2006)により撤去されるまでボストン地下鉄で使われていた。スミソニアン博物館はリノの設計形式の1914年製のエスカレーターをアメリカの歴史的遺物として再組み立てを検討したが、「ノスタルジア以上に運送と組み立てのコストが膨大になる」という理由で実施されなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1895年5月頃、チャールズ・シーバーガーは1892年にホイーラーが特許を取得したものとよく似たエスカレーターの設計を開始した。この機器は平らな動く階段であり、ある重要な細部が今日のエスカレーターと異なっているだけだった。それは、各段の表面が滑らかで現在のエスカレーターのように櫛状の凹凸がなく、先端部分で乗客の足を安全に送り出す機構がなかった点である。そのため、乗客は横にひょいと跳んで降りる必要があった。それを容易にするため、エスカレーターの先端は手摺が途切れても(小型の動く歩道のように)水平にしばらく続き、それから三角に中央が突き出た \"divider\" と呼ばれる部分に飲み込まれる形になっていた。シーバーガーは1899年にオーチス・エレベータ・カンパニーと手を組み、フランスのパリ万国博覧会(1900年)に出展し、1等賞を勝ち取った。パリ万博にはリノの傾斜エレベーターも出展された。他に James M. Dodge と Link Belt Machinery Co. や、フランスの Hallé と Piat という2社もエスカレーターを出展した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "Piat社は1898年11月16日、段のないエスカレーターをハロッズのナイツブリッジ店に設置したが、同社は百貨店側に特許権を引き渡してしまった。Bill Lancaster の The Department Store: a Social History によれば、「(初めてエスカレーターを)体験した客はそれによってへたり込み、店員が配った気付け薬とコニャックでやっと元気を取り戻した」という。このハロッズのエスカレーターは「224個の部品から成る」連続な皮革製ベルトであり、「強く連結されていて、上へと動いていく」もので、イングランド初の「動く階段」だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでは他にHocquardt社が1906年に Fahrtreppe(ドイツ語でエスカレーターの意)の特許権を得ている。Hallé社はパリ万博後もエスカレーターの販売を続けていたが、最終的に大企業に押しのけられる形となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "20世紀前半、いくつかの企業がエスカレーター製品を開発製造したが、販売に際しては商標権を持つオーチス以外はエスカレーターという名称を使えなかった。ニューヨークを拠点とするPeelle社は Motorstair、ウェスティングハウスは Electric Stairway、トレドを拠点とする Haughton Elevator 社は Moving Stairs と称した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "コネ社とシンドラー社がエスカレーター市場に参入したのはオーチスから遅れること数十年だったが、徐々にシェアを伸ばしていった。現在では、この2社と三菱電機がオーチスの主なライバルとなっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "シンドラー社はエスカレーター市場では世界第1位、エレベーター市場でも世界第2位となっているが、同社がエスカレーター市場に参入したのは1936年のことである。1979年、シンドラーは Haughton Elevator を買収することでアメリカ合衆国に進出した。その9年後にはウェスティングハウスの北米のエスカレーター/エレベーター部門も傘下に収めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "コネ社は本来はエレベーターを得意とし、1970年代に国際的買収を繰り返して成長した。スウェーデンのエレベーター業者 Asea-Graham を初めとして、フランスやドイツやオーストリアの小さめの企業を買収し、その後、ウェスティングハウスのヨーロッパのエレベーター部門を傘下に収めた。エスカレーター市場には Montgomery Elevator Company を買収し、オーレンシュタイン・ウント・コッペルのエスカレーター部門を取得してから本格的に参入した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "エスカレーターの設置目的は大別して、",
"title": "利用シーンと注意"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "などがある。ただし、階段に比べて非常に高価であり、保守点検等コストも掛かる事から、設置場所は主に百貨店、地下街やショッピングセンターなどの商業施設、駅、空港、港のフェリーターミナルなどの交通機関の乗り場、病院やホテルなどの大型施設に限られる。",
"title": "利用シーンと注意"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "先を急ぐためエスカレーター上を階段のように歩く人のため、幅が2人分以上あるエスカレーターの片側を空ける慣習やマナーが存在する地域が、日本を含む世界各地にある。イギリスやアメリカ、台湾、香港 などの混雑の激しい駅などでは、急ぐ人のために左側を空けることがマナーとなっている。オーストラリアやニュージーランドでは、逆に左側に立って右側を空けることがマナーとなっている。",
"title": "利用シーンと注意"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、カナダトロントや日本の鉄道事業者など、いくつかの交通機関では、安全性の問題から、エスカレーターでの歩行を禁止している。",
"title": "利用シーンと注意"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "利用シーンと注意"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "日本では、1914年(大正3年)3月に開催された東京大正博覧会において、初めて設置された。上野の山に設けられた博覧会第一会場の正門から第二会場の池之端までの連絡路として設置され、長さ約240mであった。途中は鉄橋状となり、上野東照宮の桜並木を見下せ、乗るのを怖がる者もあったが、1人10銭と有料だったのもかかわらず盛況だった。発動機は池之端側が高さ約9m、30馬力で、上野側が高さ6m、25馬力のものが設置され、最大輸送力は毎分80人、昇降合わせて毎分160人とされた。また、第二会場に建つ鉱山大模型館の中には約15mのエスカレーターが設置され、不忍池を展望できた。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "また同年9月15日には、三越日本橋店の新館に常設のエスカレーターが完成。同年10月1日のオープンに合わせて使用が開始された。日本の百貨店へのエスカレーター普及期にあっては、エスカレーターの脇にエスカレーターガールという女性が立って乗り込みの案内をしていたことがあった。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "現代では広く普及し、日本エレベーター協会会員企業がメンテナンス契約をしている国内のエレベーターは7万246基ある(2021年3月時点)。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "日本で最も長いエスカレーターは、香川県丸亀市にあるニューレオマワールドのエスカレーター「マジックストロー」が高低差42m・全長96mで、日本一となっている。なお、和歌山県那智勝浦町のホテル浦島の3基乗継ぎのエスカレーター「スペースウオーカー」は、高低差約80m(地上1階から32階まで)、全長154m。広島市南区段原にある車椅子も乗車可能な比治山スカイウォーク(ひじやまスカイウォーク)は、動く歩道:77mまでいれると総延長:207.4m、高低差:37.5m。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "最も短いエスカレーターは、川崎市のJR川崎駅前の地下街アゼリアと川崎岡田屋モアーズ地下2階を結ぶエスカレーター「プチカレーター」(アゼリアはモアーズの地下1階と地下2階の間に接する)で、ステップ5段分しかなく、高低差83.4cm。1991年度版ギネスブックに掲載されている。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "通行料を徴収するものもわずかに存在する。日本初の屋外エスカレーターとして1959年に開業した神奈川県藤沢市江ノ島の「江の島エスカー」、福島県会津若松市にある「飯盛山スロープコンベア」、徳島県鳴門市にある「エスカヒル・鳴門」内のエスカレーターがある。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "阪急電鉄が1967年に左側空けの呼び掛けを始め、大阪万博(1970年)でも同様な措置がとられたことから、大阪や神戸では左側空けが定着した。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "これに対して東京では、自然発生的に右側空けが始まった。また、東京と地方を結ぶ新幹線網の拡大もあり、地方都市に右空けの東京方式が広がった。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "京都の一部(主に京都市営地下鉄)では、元来は左側空けであったものを、近畿地方以外からの観光客などのエスカレーター利用状況に対応するため、右側を空けるように変更した事例もある。また滋賀県でも、京都の影響から地元住民も右側を開ける事例が多い。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "エスカレーターの業界団体である日本エレベーター協会はエスカレーターの使用について、「エスカレーターの安全基準は、ステップ上に立ち止まって利用することを前提にしてる」「バランスを崩したり、つまずいたりして、転倒するおそれがある」「他の利用者に接触して転倒させたりするおそれがある」などとして、利用者にエスカレーターでの歩行禁止を呼びかけている。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2004年(平成16年)7月より、日本の地下鉄では初めて、名古屋市営地下鉄が駅構内放送などで歩行禁止の呼びかけを開始し、順次「エスカレーターでの歩行はおやめ下さい」のステッカーやポスターも貼られている。また、2008年より駅長らが毎月10日に肉声でエスカレーターを歩かないよう訴えているほか、運営する交通局職員の勤務時間帯以外に、空けられた右側にあえて立ち止まって乗るよう指導している。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "その後、横浜市営地下鉄や福岡市地下鉄、札幌市営地下鉄、大阪市営地下鉄、京都市営地下鉄や東日本旅客鉄道や都営地下鉄や東京地下鉄でも、エスカレーターでの歩行禁止を呼びかける掲示が出されるようになった。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)3月30日に「埼玉県エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」が公布され、同年10月1日に施行された。エスカレーターの利用者は「立ち止まった状態でエスカレーターを利用しなければならないこと」管理者は「利用者に対し、立ち止まった状態でエスカレーターを利用すべきことを周知しなければならない」と義務づけられている。尚、本条例による違反についての罰則はない。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "日本エレベーター協会が2012年~2016年に行ったアンケートにおいて、「エスカレーターを歩かない方がいい」という回答が7割近くあり、人やカバンとぶつかって危険と感じた回答者が5割強ありながら、なおそれでも「エスカレーターを歩いてしまう」という回答が微減ながら8割強のまま推移している。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "また、日本のエスカレーター全般が諸外国に比べて遅すぎるゆえに歩く人が減らないのではという意見や、エスカレーターで急ぐ人の歩く意欲を減らすために高速エスカレーターの拡充を求める意見もある。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "病気、けが、障害などの身体的な理由から片側の方向にしか立てない事情を持つ人もいるため、片側空けの習慣にに対して疑問を呈する意見も上がっており、識者からは「両側乗り」、コロナ禍以降は密を避ける観点から一段空けて左右交互に立つ「ジグザグ乗り」を推奨する意見もみられる。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2010年(平成22年)3月29日から5月9日からの間、関東・中部・関西の25の鉄道事業者および日本エレベータ協会(当時)でエスカレーターの安全利用を呼びかける、「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンが実施された。主要新聞にも新聞広告が掲載され、駅にポスターやステッカーが貼られた。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "また 2012年(平成24年)には、7月23日から 8月31日の間「昨今駅においては、お客さまがエスカレーターをご利用になる際に、ご自身でバランスを崩して転倒されたり、駆け上がったり駆け下りたりした際に他のお客さまと衝突し転倒させるなどの事象が発生しています。お客さまのお怪我を防止するために、ご利用の際には手すりにつかまるなど、安全なエスカレーターの利用について鉄道事業者が共同で呼びかけを実施します。」として、関東・中部・関西の鉄道事業者25社局で、同様のキャンペーンが行われた。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "さらに2013年(平成25年)7月25日、北海道・関東・中部・関西の27の鉄道事業者、商業施設、森ビル、日本民営鉄道協会、日本エレベーター協会と共同で、エスカレーターの安全利用を呼びかける「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを同年7月29日から実施、さらに2014年(平成26年)においても、同年7月22日から全国の鉄道事業者42社局、商業施設、森ビル、日本民営鉄道協会、日本エレベーター協会と共同で、エスカレーターの安全利用を呼びかける「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを実施している。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "このような取り組みは、2017年現在、毎年続いており、2016年および2017年のキャンペーンは、鉄道事業者51社局ならびに森ビル、首都圏の空港ターミナルビル運営会社3社、民鉄協、日本地下鉄協会そして日本エレベーター協会・川崎市・千葉市が共同して実施する大掛かりなものになった。2017年に共同掲出されたポスターは、昨年までとは打って変わって、スーツを着た男性と女性とが整然と並んで手すりを持ち、下りエスカレーターを降りるという意匠であり、昨年までよりも『手すりを持っての整列乗車』を強く意識させるポスターとなった。",
"title": "日本におけるエスカレーター"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "壊れたエスカレーター現象(英: broken escalator phenomenon)は、停止したエスカレーターに乗るとバランスを崩したりめまいや違和感が生じてしまう現象で、ウォーカー効果とも呼ばれる。通常に歩いている時は脳が無意識的にコントロールしており、稼働中のエスカレーターに合わせた動きをするが、停止した状態でも無意識に稼働中のエスカレーターに合わせた動きをしてしまうのが原因だといわれる。普通の階段でも見た目をエスカレーター風に変えると同様の現象がでる。",
"title": "壊れたエスカレーター現象"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "中高一貫教育や中高(小中高大学、更に幼稚園までが加わる事も)一貫校など、無試験で内部進学が可能な学校のことを、エスカレーターの動作に例えて俗に「エスカレーター式」あるいは「エレベーター式」と呼ぶ",
"title": "比喩的な用法"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "第二次ロンドン海軍軍縮条約において、1937年4月1日までに調印しないワシントン海軍軍縮条約批准国があった場合に諸々の制限を緩和する条項が盛り込まれ、通称エスカレーター条項と呼ばれた。これも上記と同じくエスカレーターの動作になぞらえた通称である。",
"title": "比喩的な用法"
}
] |
エスカレーターは、主として人が建物の各階に移動する目的で設置・利用される階段状の昇降装置。自動階段のこと。情報の分野などでは最後の長音を省略するルールによってエスカレータともする。
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{{半保護}}
[[ファイル:OldEscalator in Macy's NYC.jpg|thumb|200px|古いエスカレーター(ステップ上面や手すり部分が木製、ニューヨークの[[メイシーズ]]デパートにて)]]
[[ファイル:Escalators connecting the Mucha Neihu Line and the Bannan Line Concourse.JPG|thumb|200px|現代のエスカレーター([[台北捷運]][[忠孝復興駅]]構内)]]
'''エスカレーター'''({{lang-en-short|Escalator}})は、主として人が建物の各階に移動する目的で設置・利用される[[階段]]状の昇降装置。'''自動階段'''のこと。情報の分野などでは最後の長音を省略するルールによって'''エスカレータ'''ともする。
== 名称 ==
"Escalator"という語は元々、[[アメリカ合衆国]]の企業[[オーチス・エレベータ・カンパニー|オーチス・エレベーター社]](Otis Elevator Company)の[[登録商標]]で、商品名である。しかし、当時この自動式階段を表す適当な語句が他に無く、一般に「エスカレーター」と呼ばれたため、[[商標の普通名称化|普通名称化]]した経緯がある。オーチス・エレベーター社では既に[[商標権]]を放棄している(「[[#商標権の喪失]]」で後述)。
“escalator”という名称の由来については、様々な歴史家や著作家がそれぞれ独自の見解を表明しており、それらに基づいた誤解が[[インターネット]]上に蔓延している<ref>以下に挙げる7つの文献はオーチス社自身のものもあるが、それぞれ相互に矛盾がある。<br />Barrow, Dennis. "Seeberg.doc", Internal document, Otis Elevator Co., Farmington, CT: United Technologies;<br/>"escalator, ''noun''." ''OED Online''. June 2004. Oxford University Press, available: http://dictionary.oed.com/cgi/entry/50077810;<br/>"Otis Firsts: Escalators in the Gaslight Era", Otis Elevator Co.;<br/>"Subject: History of the Escalator" (unnumbered sales circular letter). Internal document, Otis Elevator Co., Farmington, CT: United Technologies, October 16, 1962;<br/>"The Word ‘Escalator’", ''Human Interest'', Online. The Museum for the Preservation of Elevating History;<br/> Worthington, Jr., William. "Early Risers", ''American Heritage of Invention & Technology'', Vol. 4, No. 3 (Winter 1989): 42;<br/>Wosk, Julie. "Perspectives on the Escalator in Photography and Art", in ''Up Down Across: Elevators, Escalators and Moving Sidewalks.'' (Alisa Goetz, ed.) London: Merrell, 2003.</ref>。
=== 名称の由来と当初の意図 ===
アメリカの発明家[[チャールズ・シーバーガー]] ([[:en:Charles Seeberger|Charles Seeberger]]) は、[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万博]]への出展に合わせて、1900年に "escalator" を[[商標]]とした。
シーバーガー自身の説明によると、1895年に法律家に発明に名前を付けることを助言され、この名前を考案したとされている。[[オーチス・エレベータ・カンパニー]]が保管していたシーバーガーの手稿によれば、彼は[[ラテン語]]辞書を使って[[語幹]]に ''scala'' という語(後述)を採用し、[[接頭辞]]として ''e'' を、[[接尾辞]]として ''tor'' を加え ''escalator'' としたことがわかる<ref>De Fazio, Diane H. ''Like Blood to the Veins: Escalators, their History, and the Making of the Modern World'' (Master's Thesis, Columbia University Graduate School of Architecture, Planning, and Preservation), 2007: 58 – 61.</ref>。シーバーガー本人の大まかな解釈は「-から上に移動するための手段」であり、「カ」の部分にアクセントをつけて発音することを本人が強く望んでいた<ref>De Fazio, 60. シーバーガーは1906年には一般大衆が「レ」にアクセントをつけて発音していることに気づいていた。</ref>(ラテン語の ''scala'' は ca の a が長母音で、そこがアクセントとなるため)。
したがってエスカレーターという名称は[[フランス語]]や[[ギリシア語]]に由来しない{{要出典|date=2011年11月}}し、[[エレベーター]]から派生した語でもない。ラテン語で読めばエスカラトル、「上に上げるもの、送るもの」の意味となる。なお、その語源となったラテン語の女性名詞 ''scala'' は、同じくラテン語の動詞 ''scando''(よじ登る、乗る)からの派生語であり、物事の起きた回数を示す「度目」、あるいは物事の進む段階としての「階梯」を意味し、直接的には「階段」という意味ではなく、複数形 ''scalae'' で用いられる時に「階段」あるいは「[[梯子|はしご]]」の意味をもつ<ref>田中秀央編, 羅和辞典 増補改訂版, 研究社 (1966).</ref><ref>Lewis, Charlton T. and Charles Short. ''A Latin Dictionary: Founded on Andrews’ Edition of Freund’s Latin Dictionary''. Oxford: Clarendon Press, 1984.</ref>。
==== 「エスカレーター」からの派生語 ====
[[動詞]]の "escalate" は1922年に登場した新語で、「エスカレーターを使って上に登る」または「エスカレーターで移動する」という意味だった。そこから「徐々に増大または発展、悪化する」こと、特に「[[限定戦争|局地戦]]から大規模な戦争([[核戦争]]を含む)に発展すること」<ref>一例として、[http://www.nids.mod.go.jp/publication/briefing/pdf/2016/201604.pdf 「限定戦争とエスカレーション」(防衛研究所理論研究部社会経済研究室 川村幸城)]『NIDS NEWS』2016年4月号([[防衛研究所]])2019年1月22日閲覧。</ref>を意味するようになった。後者の意味が最初に印刷物に記載されたのは1959年の『[[ガーディアン|マンチェスター・ガーディアン]]』紙だが、その意味でこの語がよく使われるようになったのは1960年代後半から1970年代前半のことである<ref>"escalate, ''verb''." ''The Oxford English Dictionary''. 2nd ed. 1989. ''OED Online''. Oxford University Press Feb. 2007.</ref>。
また、"escalate" はエスカレーターとともに日本にも導入され、「エスカレートする」は日本語の[[外来語|カタカナ言葉]]として一般化した。
=== 商標権の喪失 ===
{{See also|商標の普通名称化}}
1950年、オーチス社の社長・シーバーガーと[[シンドラーグループ|ホートンエレベーター(Haughton Elevator Co.)]]との間で商標権問題が起きた。これをきっかけとして、オーチス社は "escalator" という言葉を独占的に使えなくなり、商標の保持に関心のある会社や個人にとっては貴重な警告となった<ref>Folsom, Ralph H. and Larry L. Teply. "Trademarked Generic Words", ''The Yale Law Journal'', Vol. 89, No. 7 (Jun. 1980): 1323–1359.</ref>。
この裁判所の裁定において、「'escalator' という言葉が、特定の製品ではなく、エスカレーター全般を指す名詞として一般に認識されてきた期間」が問題とされ、オーチス社自身が同社の特許文書や広告でその語を普通名詞のように使っていたことが指摘された<ref>''Haughton Elevator Co. v. Seeberger''85 U. S. P. Q. (BNA) 80–81 (Dec. Comm. Pat. 1950).</ref>。その結果、オーチス社は最終的に"escalator" という言葉の商標権を放棄することになった。
== 機構 ==
[[ファイル:Escalators_-_tokyo_area_-_2020_1_3.webm|thumb|thumbtime=3|200px|エスカレーターの動き]]
[[ファイル:DMNS Escalator.jpg|thumb|200px|デンバー自然科学博物館([[アメリカ合衆国]][[コロラド州]][[デンバー]]市)のエスカレーターの1基。通常は露出しない内部の機構を見せて、同館の展示物の一つとしている。]]
外観は階段に酷似し、自動で昇降する階段状の踏み面(ステップ)と、ステップと連動して動くベルト状の手すりを特徴とする。
機構の露出部分の多さから建物のインテリアに大きな影響を与えるので、意匠に工夫を凝らしたものが多い。[[螺旋]]状のスパイラルエスカレーター([[三菱電機]]製が世界唯一であり、中国の上海新世界大丸百貨店や、日本では横浜ランドマークタワーなどに設置されている<ref name="日経20210711"/>)や、途中で水平部分をもつエスカレーターも登場している。また、乗り降りを容易にするため、乗降口に水平部分を持たせた([[踊り場]]のある)エスカレーターも出回っている。最近では操作を行うことで複数のステップが水平部分を構築し、[[車椅子]]を乗せられるものもある。
標準的な速度は毎分30mであるが、速度は調整することが可能である。
* 実例としては、深い場所にある地下鉄駅で、最大の毎分40mに設定しているエスカレーターがある。逆に、一部の大型ショッピングセンターなどで、高齢者などへの安全を図って通常よりも遅く設定している場合もある。
横幅はステップ幅、欄干有効幅、全体幅があり、800型、1200型等の規格は欄干有効幅で決まる。
{| class="wikitable"
!ステップ幅!!欄干有効幅!!全体幅!!備考
|-
|604ミリメートル||800ミリメートル||1,150ミリメートル||標準800型、全メーカーで生産
|-
|802ミリメートル||910ミリメートル||1,150ミリメートル||数字は[[日立製作所]]製、日立、[[フジテック]]で生産
|-
|1,004ミリメートル||1,200ミリメートル||1,330ミリメートル||数字は日立製、[[三菱電機|三菱]]、日立、[[東芝]]で生産
|-
|1,004ミリメートル||1,200ミリメートル||1,550ミリメートル||標準1200型、全メーカーで生産
|-
|1,095ミリメートル||1,300ミリメートル||1,550ミリメートル||日立で生産
|}
機構的に[[エレベーター]]に比べ[[省エネルギー]]である。近年ではさらに進んで[[赤外線センサ]]によって人の接近を検知し、利用時のみ稼働するものも増えている。特に郊外の鉄道駅に多い。完全に停止させてしまうと、上りと下りの判別が付きにくくなってしまうため、利用者がいない間は低速で運転し、利用者が来ると通常速度に切り替えるものも存在する。
木製のエスカレーターも存在し、欧米の古い建築物で見ることができる。しかし、老朽化や[[火災]]の原因となることもあり、減少傾向にある。特に1987年、[[イギリス|英国]][[ロンドン]]の[[キングス・クロス・セント・パンクラス駅]]の火災([[キングス・クロス火災]])は大災害となったことで知られている。
=== 構成 ===
[[ファイル:Escalator_steps.jpg|thumb|200px|踏板]]
[[ファイル:Praha, Nové Město, I P Pavlova, odkrytý eskalátor.jpg|thumb|200px|駆動ローラ]]
[[ファイル:Fahrtreppe.Handlaufantriebsrad.JPG|thumb|200px|手すり駆動ローラ]]
[[ファイル:物をのせないで下さい 禁煙 (2656952904).jpg|200px|thumb|真ん中]]
* ステップ
** 踏板 - ステップのメインとなるところ
** ライザ - ステップの蹴上げ部分
** ステップチェーン - ステップ同士を連結するチェーン
** 駆動ローラ - ステップチェーンの左右についており、ステップを牽引するためのローラ
** 追従ローラ - ステップの左右についており、踏板を水平に保つためのローラ
** 駆動レール - 駆動ローラを走行させるレール
** 追従レール - 追従ローラを走行させるレール
** [[車椅子]]専用ステップ - 特殊ステップがフォークを利用して車椅子が乗れる大きさにできる。
** スカートガード - ステップの両側の鉄板で、側面をふさぎ表面を平滑に保つ
** コームプレート - ステップの出入口に取り付けられる[[櫛|くし]]状の板
* 駆動装置
** 駆動ユニット - 電動機と減速歯車からなり、ステップチェーンを走行させる
** 駆動チェーン - 駆動ユニットからステップチェーンに動力を伝達するチェーン
* 手すり
** 手すり駆動ローラ - 手すりを駆動させるためのローラ
** 手すりチェーン - 手すり駆動ローラを回転させ、手すりに動力を伝達するチェーン
** 加圧ローラ - 手すり駆動ローラと対になって手すりを表裏から挟み込み、手すり駆動ローラの摩擦力を確保するローラ
** 手すり案内レール
** インレット - 帰路側への手すりの出入り口で、手や物の引き込まれを防ぐために安全装置が設けられる
<!--**ステップリンク - ←メーカーによってステップチェーンと同等のものかステップとの速さを合わせるためのリンクか異なる模様。確認が取れないのでコメントアウト-->
=== 機構の改良 ===
エスカレーターはステップとステップの間に隙間があり、まれに乗っている人の衣類などを挟むことがあるため、衝撃を感知すると緊急停止する安全装置が設置されている。しかし、後述のような設計上の想定外の利用が後をたたないため、この装置が誤作動を起こすことが増えている。そこで[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]では2009年度から2015年度までに、エスカレーターを駆け下ることなどで生じる瞬間的な振動で緊急停止しないようにエスカレーターを改良し、安全装置がむやみに作動しないようにして誤作動を8割減らすようにするという<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090303-OYT1T00943.htm 「JR東、全エスカレーター改良へ…駆け下り振動で停止防ぐ」][[読売新聞]](2009年3月3日21時23分配信)</ref>。
== 事故 ==
[[ファイル:Taipei MRT escalator safety guidelines 20160501.jpg|thumb|right|[[台北捷運]]によるエスカレーター利用にあたっての注意書き。手すりを捕まるような注意喚起から、ゴムサンダルやロングスカートの巻き込まれ注意、高齢者はエスカレーターではなくエレベーターを使うようにと言った事項が記載されている。]]
エスカレーター事故は機械の故障で起きることもあるが、多くの場合は乗客が安全に注意していれば事故には発展しない<ref name="autogenerated1">Elevator Escalator Safety Foundation, "How to Ride Safely on Elevators, Escalators, and Moving Walks," 2007.</ref>。以下によくある事故の形態を挙げる。
=== 転倒 ===
[[ファイル:Leave an open step and stand on the escalator.jpg|thumb|200px|「1段空けて、お乗り下さい」と記載された注意表記<br>[[東京国際展示場]]([[ワンダーフェスティバル#エスカレーター事故|事故]]後の2009年撮影)]]
[[東京消防庁]]の調査ではエスカレーター事故の95%以上を占める<ref>[https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/hp-seianka/es/es.html エスカレーターに係る事故防止対策検討委員会結果報告書]</ref>。乗降口でうまく移動できずにつまずいたり、体勢を変える際にバランスを崩すなどの原因が多い。多くは重大事故に至らないが、後列の利用者を巻き込んで転倒した場合は、大きな怪我をさせることもあり、2014年11月28日に[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]で、他の者の転倒に巻き込まれて1人が死亡する事故が起きている<ref>[http://mainichi.jp/feature/news/20141130k0000m040027000c.html エスカレーター事故:茅ケ崎駅で男性3人倒れ、書家死亡][[毎日新聞]]2014年11月29日18時53分配信</ref>。このため、乗降口でうまく移動が出来ないような人に対してエスカレーターを使用しないように呼びかけている場合もある。
また、混雑時に機械の急停止や逆回転が起こった場合は[[将棋倒し]]などの[[群集事故]]を引き起こすこともある。
[[中華人民共和国|中国]]では過積載による逆回転で、2010年12月14日に[[国貿駅 (深圳市)|国貿駅]]で25人が負傷、2011年7月5日[[動物園駅 (北京市)|動物園駅]]で1人が死亡し30人が負傷する事故が起きている<ref>[http://www2.explore.ne.jp/news/articles/17013.html?r=sh 北京、深圳、東京…すべて同一メーカーのエスカレーター事故][[上海エクスプローラー|エクスプロア上海]](2011年7月6日掲載)</ref>。
=== 転落 ===
エスカレーターに乗っている際に、手すりに寄りかかったり座ったりした場合バランスを崩して転落することがある。下層階の転落は負傷の原因となるが、[[ショッピングセンター]]などの大型施設では吹き抜け部分にエスカレーターを設置することが一般的となっているため、高層階からの転落により死亡事故に至るケースも絶えない。
2008年9月13日、[[ノルウェー]]のリュングダールで11歳の少年がエスカレーターから転落して死亡した<ref>[http://www.nrk.no/nyheter/distrikt/sorlandet/1.6221481 Rulletrappa i kjøpesenteret Sentrumsgården i Lyngdal hadde ikke påbudt fallsikring]</ref>。2009年4月20日、[[スウェーデン]]の[[ファールン]]で十代の少年がエスカレーターから転落して頭部に重傷を負い、間もなく死亡した<ref>[http://www.dt.se/nyheter/falun/article422379.ece Joakim kunde inte räddas]</ref>。2009年6月26日、[[スウェーデン]]の[[ヘルシンボリ]]で成人男性がエスカレーターから転落して死亡した<ref>[http://www.kvp.se/nyheter/1.1620536/foll-mot-doden-fran-rulltrappa Föll mot döden från rulltrappa]</ref>。以上3件はいずれも手摺に乗ったことが転落の原因である。
[[日本]]においても、2004年6月28日に[[兵庫県]][[西宮市]]で4階から転落、2010年1月30日には神奈川県[[横浜市]]で4階から転落により死亡事故が発生している。
2009年4月には、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[汐留]]のビルで、エスカレーターの手すりに後ろ向きに寄り掛かった男性が身体を持ち上げられ、エスカレーター脇の吹き抜けから約9m落下し死亡する事故が発生。2015年6月に、[[消費者庁]]の消費者安全調査委員会が事故の調査報告書<ref>消費者安全法第24条第3項に基づく事故等原因調査報告書(平成21年4月8日に東京都内で発生したエスカレーター事故)(概要) http://www.caa.go.jp/csic/action/pdf/090408_gaiyo.pdf</ref><ref>消費者安全法第24条第3項に基づく事故等原因調査報告書(平成21年4月8日に東京都内で発生したエスカレーター事故) http://www.caa.go.jp/csic/action/pdf/090408_honbun.pdf</ref>において、誘導手すりや落下物防止板の設置の必要性や、ガイドラインの制定、法整備の検討などについて言及している。
=== 挟まれ ===
エスカレーターは天井や梁などの構造物の横を通過するため、手すりの外に身を乗り出していた場合、手すりと構造物の間に身体が挟まれ、負傷の原因となることがある。生命に係る重大事故となりやすいため、防止のための法的規制も講じられており、日本の[[建築基準法]]令においては<ref>「通常の使用状態において人又は物が挟まれ、又は障害物に衝突することがないようにしたエスカレーターの構造及びエスカレーターの勾配に応じた踏段の定格速度を定める件」(平成12年[[建設省]]告示第1417号)</ref>、エスカレーターと天井と交差する部分に保護板を設置することが義務付けられている。
2002年6月15日、米国[[メリーランド州]]コロンビアの[[J.C.ペニー]]で、同従業員(24歳)がエスカレーターで1階から2階に上がろうとした際、天井とエスカレーターの間に首を挟まれ死亡した<ref>[http://findarticles.com/p/articles/mi_qn4183/is_20050329/ai_n13478539/pg_1 Escalator fatality leads to $5M lawsuit] Daily Record, The (Baltimore), Find Articles at BNET.com</ref>。
日本においても2007年10月16日に[[神奈川県]][[平塚市]]に所在する[[西友]]平塚店にて、天井と手すりに頭を挟まれた児童が重傷を負った。原因はエスカレータを製造した[[シンドラーエレベータ]]によって設置された法令要件を満たさない保護版が原因だったとされるが、エスカレータ設置時には民間[[建築確認申請|確認検査]]機関である[[イーホームズ]]の[[完了検査申請|完了検査]]をパスしており、[[イーホームズ]]にも責任の所在があるとして同社も書類送検された。<ref>{{Cite web|和書|title=失敗事例 > 平塚エスカレータ首はさまれ |url=https://www.shippai.org/fkd/cf/CZ0200806.html |website=www.shippai.org |access-date=2023-05-16}}</ref>
また珍しい例としては、2011年12月21日に神奈川県[[川崎市]]でエスカレーター脇に捨てられたゴミと手すりの間に手が挟まり、手指が切断される事故が起きている<ref>[http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1112230012/ ※記事名不明] [[神奈川新聞]]カナコロ{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>。2013年4月24日には秋葉原駅において、手すり下部のレールが利用者の荷物の接触で変型し、手すりとレールの間に指を挟まれる事故が起きた<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20140128k0000e040214000c.html ※記事名不明] [[毎日新聞]]{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>。
=== 巻き込み ===
動作しているエスカレーターのいずれかの部分に衣服などが挟まった場合、そのまま身体が巻き込まれる場合がある。昇降口の通路との接続部分や踏板側面の隙間に巻き込まれる場合が多いが、時にはステップの櫛板に引っかかってしまう場合もある。防止のための法的規制も講じられており、日本の建築基準法令においては[[建築基準法]]施行令において、巻き込みが起こった場合の自動停止装置の設置が義務づけられている<ref>[http://www.n-elekyo.or.jp/safety/escalator.html エスカレーターの安全対策][[日本エレベーター協会]]</ref>。[[インド]]では女性の着る[[サリー (民族衣装)|サリー]]の裾が巻き込まれる危険があるため「サリーガード」と呼ばれる器具が設置されている<ref>[http://www.delhimetrorail.com/commuters/passenger_safety.html Special devices in India]</ref>。
2004年12月31日、[[中華民国|台湾]]・[[台北市]]の[[市政府駅]]では女性の頭髪がエスカレーターに巻き込まれ、頭に20針の大怪我を負った<ref>http://www.twce.org.tw/info/%E6%8A%80%E5%B8%AB%E5%A0%B1/431-4-2.htm</ref>。2005年2月21日、[[エルサルバドル]]人の寿司職人 Francisco Portillo は、米国[[ボストン]][[マサチューセッツ湾交通局|地下鉄]]のエスカレーターにシャツが巻き込まれ、首が締め付けられて死亡した。申し立てによると彼はその時に酔っ払っていた<ref>Daniel, Mac. [http://www.boston.com/news/local/articles/2005/03/02/man_is_strangled_after_clothing_snags_in_mbta_escalator/ Man is Strangled After Clothing Snags in MBTA Escalator] ''[[ボストン・グローブ|The Boston Globe]],'' March 2, 2005</ref>。
日本においては2005年から2010年頃に流行した[[クロックス]]がエスカレーターに巻き込まれる事例が急増し、負傷者が続出したことがあった<ref>[https://www.j-cast.com/tv/2007/09/07011059.html 人気サンダル「エスカレーター」で事故多発のなぜ?] [[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]]2007年9月7日12時42分配信</ref>。
=== その他 設備の不具合 ===
==== 火災 ====
1987年、英国[[ロンドン]]の[[キングス・クロス・セント・パンクラス駅]]で、古いエスカレーターの機械部分から発火し、切符売り場のホールで爆発が起きて31名が死亡した([[キングス・クロス火災]])。この火災は、エスカレーターの保守点検を正しく厳密に行う必要性と、放っておくと機械には[[埃|ホコリ]]が溜まる性質があることを改めて明らかにした<ref>Moodie, K. “The King’s Cross Fire: Damage Assessment and Overview of the Technical Investigation.” ''Fire Safety Journal'', Vol. 18, 1992: 13–33.</ref>。駅が公共機関([[ロンドン地下鉄]])のものであること、かなりの死傷者が出たことから、この事故には多数の非難と抗議が集中し、被害者およびその家族から全ての木製エスカレーターの撤去を要求する声があがった。公式の調査報告によれば、火災はくすぶりながらしばらくの間気づかれずに徐々に進行し、[[トレンチ効果]]と呼ばれる現象によって切符売り場ホールで爆発することになったと結論付けられた。火災の根本原因は[[タバコ]]の火の不始末だった<ref>”Sam Webb Considers the Conclusions of the Fennell Report,” “Building Design”, Nov. 19, 1988: 2.</ref>。エスカレーターの機械室には約8800キログラムもの[[デトリタス]]があり、これが導火線の役割を果たし、[[ベニヤ板]]、紙やプラスチック製の広告、塗料の溶剤、ホールの合板などに引火し、さらに[[メラミン]]粒子が空気中に拡散したために爆発へと発展した<ref>”Building Design Editorial: the King’s Cross Inquiry,” “Building Design”, Nov. 19, 1988: 9</ref>。この火災の結果、ロンドン地下鉄ではグリーンフォード駅のものを除いて全ての木製エスカレーターを撤去した。また、各駅の地下部分は完全禁煙とされ、その後、全駅が完全禁煙となった。
エスカレーターは防火上は竪穴区画であり、[[スプリンクラー]]や防火シャッターを設置したり、防火壁で囲んだりする等の対策が施される。過熱の危険を防ぐため、電動機や機械部分が設置されたスペースには換気機構が必要となる。
[[2014年]]10月には日本の[[大阪市]]において、夕方の通勤・通学で混雑する[[難波駅 (南海)|南海難波駅]]で、3Fの改札外とショッピングモールのある1Fとをつなぐエスカレーターから出火する事故が起きている<ref>[http://www.sankei.com/west/news/141020/wst1410200068-n1.html 「南海難波駅のエスカレーターで火災 1人軽症」]『[[産経新聞]]』2014年10月20日</ref>。
==== 施工不良 ====
2011年3月11日と同年4月7日、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])とその[[宮城県沖地震 (2011年)|余震]]によって[[イオンタウン仙台泉大沢]]の2基、[[イオン仙台幸町ショッピングセンター]]の1基、イオン郡山フェスタ店の1基が下層のエスカレーターを押し潰す形で落下した。<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK01016_R01C11A2000000/ 「落ちていたエスカレーター 震災で建物と設備の連携不足が露呈」]『[[日本経済新聞]]』ニュースサイト(2011年12月1日23時0分配信)</ref>
[[2008年]](平成20年)8月3日、[[東京国際展示場]](東京ビッグサイト)西展示棟で行われた[[ワンダーフェスティバル]]で、上りエスカレーターが逆回転し、約50人が転倒、10人が負傷する事故が起きた。防犯カメラの映像から、事故発生当時は会場の混雑により1枚の踏板に3〜4名が載る過積載の状態となっており、それが事故の主因となったものとして疑われた<ref>[http://gigazine.net/news/20080805_wf2008_before/ 「東京ビッグサイト」でエスカレーターが停止して逆流する直前のムービーと、崩壊した瞬間の写真](2008年8月5日、[[GIGAZINE]])</ref>。その後、集客力の大きいイベントではエスカレーターの利用そのものを制限する動きが見られるようになった。2015年1月に公表された事故調査の結果では、過積載の状態ではあったものの製品の性能や安全性を大きく損なうほどのものではないとされ、モーターを固定するボルトの緩みやブレーキの制動力不足など、設備の施工不良に起因する事故であったとされている<ref>[[国土交通省]]社会資本整備審議会昇降機等事故調査部会 東京都内エスカレーター事故調査報告書(概要) https://www.mlit.go.jp/common/001066072.pdf</ref><ref>国土交通省社会資本整備審議会昇降機等事故調査部会 東京都内エスカレーター事故調査報告書 https://www.mlit.go.jp/common/001066073.pdf</ref>(「[[ワンダーフェスティバル#エスカレーター事故]]」も参照)。
==== 設定不良 ====
1982年2月17日、[[ソビエト連邦]](当時)の首都を走る[[モスクワ地下鉄]]のアヴィアモトルナヤ駅でエスカレーターが崩壊し、8名が死亡、30名以上が負傷した。夕方の[[ラッシュ時]]の乗客の荷重により駆動ローラが急回転し始めた際、不正に設定されたサービスブレーキにより回転を止められなかったことが原因として非難された<ref>{{Cite web |url=http://www.vmdaily.ru/article.php?aid=10055 |title=февраля 1982 года, произошла катастрофа на станции метро «Авиамоторная» |accessdate=2010年5月24日 |date=2002年2月18日 |work= |publisher=夕刊モスクワ |language=ロシア語 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111003053938/http://www.vmdaily.ru/article/10055.html |archivedate=2011年10月3日 }}</ref>。
==== 強度不足 ====
最も珍奇な事故としては、2015年7月26日に中国[[荊州市]]の安良デパートで発生した「喫人電梯」事故がある。エスカレーターの踏板が突如抜け、乗っていた女性が駆動ローラの内部に巻き込まれて死亡したものである。踏板から落ちた女性が上半身だけ出して近くの服務員に助けを求めるが、そのまま中へと巻き込まれていく様子を映した監視カメラの映像が公開されたため、大きな衝撃を呼んだ。
=== 事故と訴訟 ===
1930年代にも、エスカレーターが原因で子供が負傷したとして百貨店が訴えられる事件が発生している<ref>“Negligence: Escalator Not an Attractive Nuisance,” ''Michigan Law Review'', Vol. 38, No. 2 (Dec. 1939): 265 – 267.</ref>。このような訴訟は多くが却下されている。また近年ではエスカレーターの安全に関する規制が強化されてきたため、訴訟そのものも減っている。
== 安全対策 ==
乗客の安全を強化するため、最近のエスカレーターにはいくつかの安全強化策が施されている。次に挙げたのは [[アメリカ機械工学会|ASME]] A17.1 で規格化されている安全対策である。
* すべり止め : エスカレーターの手摺部分に出っ張りをつける。物や人が金属製の表面をすべり落ちないようにするための対策である。
* くし板衝撃スイッチ : ステップとくし板の間に何かが挟まると、エスカレーターを停止させる。
* 巻き込み防止ブラシ : 動くステップとスカートガードの間に連続な硬いブラシを設置するもの。衣服や靴が巻き込まれるのを防ぐ役目を担う。
* 緊急停止ボタン : エスカレーターの上端と下端にある赤いボタン(機種によっては手摺にもある)で、押すことでエスカレーターを緊急停止できる。透明なカバーで保護されていることが多い。再起動するには鍵が必要である。
* 手摺を延長する : 動くステップに乗る前から手摺をつかむことができ、乗降に際して安全性が増す。
* 平らなステップ : 動く歩道のように、最初と最後の2、3ステップを平らにする。これも乗降に際しての安全性を増す対策のひとつである。特に長いエスカレーターに多い。
* 手摺引き込み口のスイッチ : 手摺のベルトが引き込まれる部分にセンサーを設置し、そこに異物がある場合エスカレーターを停止する。
* 手摺速度センサー : 光学式のセンサーで、手摺の速度とステップの速度に差が生じると警報を鳴らし、その後自動的にエスカレーターを停止させる。
* ステップ欠落検知器 : 光学式または機械式のセンサーで、欠落したステップを検知するとエスカレーターを自動的に停止させる。
* ステップの端をやや高くする : 乗客があまり端に寄って乗らないようにする効果がある。
* 安全標識 : エスカレーターの入口部分の両脇などに設置する。
* センサースイッチ : 人間が1段目に乗ったことを検出して自動的にエスカレーターを起動し、誰も乗っていないことを検出すると自動的にエスカレーターを停止させる。
* ステップ境界照明 : [[LED照明]]などでステップとステップの境界を下から照らすことで、乗客に注意を喚起する。
* ステップ境界線 : 同様にステップを個々に目立たせるために通常黄色の線をステップの端に描く。塗料ではなくプラスチック製の場合もある。
* ステップ衝撃センサー:ステップに一定以上の衝撃が加わると、エスカレーターが自動的に緊急停止する機能。
== 歴史 ==
[[ファイル:Illustration_of_revolving_stairs_(U.S._Patent_25,076_issued_to_Nathan_Ames,_9_August_1859).jpg|thumb|米国特許 #25,076: Revolving Stairs の図面。ネイサン・エイムズ(1859年8月9日)。]]
エスカレーターの特許を最初に出願したのは[[アメリカ合衆国|米国]][[マサチューセッツ州]]ソーガスの[[ネイサン・エイムズ]]で、1859年のことである。ただし、その設計に基づいて実動するエスカレーターが製作されたことはない。"revolving stairs"(回転階段)と名付けたその発明は思索的なもので、特許明細にはどういう材料で製造するかも書かれておらず、用途も明確でなかった(木材や布張りでも製作可能であること、住居内で足腰が不自由な人の補助として使えるかもしれないということは記してある)。その機構の動力源としては、人力や水力を示唆していた<ref>Ames, N. "Revolving Stairs," U. S. Patent 25076. Aug. 9, 1859. Available: http://uspto.gov</ref>。
1889年、レモン・ソウダー (Leamon Souder) がエスカレーター式の "stairway" と名付けた機器の特許を取得した。一連の段とリンクで構成された機器だが、実物が製作されることはなかった<ref>Souder, Leamon. "Stairway," U. S. Patent 406314. July 2, 1889. Available: http://uspto.gov</ref>。ソウダーは全部で4種類の形状のエスカレーターについて特許を取得しており、うち2件は螺旋階段状のエスカレーターについてのものだった(米国特許番号 723,325 と 792,623)。
1892年、[[ジェシー・ウィルフォード・リノ|ジェシー・W・リノ]]が "Endless Conveyor or Elevator"(無限コンベヤまたはエレベーター)と題した特許を取得した<ref>Reno, Jesse W. "Endless Conveyer or Elevator," U. S. Patent 47091815. March 1892. Available: http://uspto.gov</ref>。その数ヵ月後、ジョージ・A・ホイーラーがさらにエスカレーターらしいアイデアの特許を取得したが、これは製作されなかった<ref>Wheeler, G. A., "Elevator," U. S. Patent 479864, Aug. 2, 1892. Available: http://uspto.gov.</ref>。ホイーラーの特許を買い取ったのが[[チャールズ・シーバーガー]]である。シーバーガーはホイーラーの設計からいくつかの特徴を取り入れ、[[オーチス・エレベータ・カンパニー]]で1899年に試作品を製作した。
リノは世界初の実動するエスカレーターを製作し(彼自身はこれを "inclined elevator"すなわち「[[斜行エレベーター|傾斜エレベーター]]」と呼んでいた)、1896年に[[ニューヨーク]]の[[コニーアイランド]]にあった Old Iron Pier に設置した<ref>記録上も実際上もこれが世界初の実用化されたエスカレーターと認められている。ただし、このエスカレーターが運用開始した日付は資料によって異なる。</ref>。この機器は傾斜したベルトの表面に鋳鉄製の羽根板またはクリート (cleat) が並んでいて、それを牽引に使うという簡単な構造であり、25度の傾斜だった。数カ月後、同型の試作品が数カ月の試用期間を経て[[ブルックリン橋]]のマンハッタン側に設置された(リノはオーチス・エレベータ・カンパニーに入社し、彼の特許を全て同社に売却後退職)。リノの設計形式のエスカレーターは[[:en:Big Dig|Big Dig]] プロジェクト(1991〜2006)により撤去されるまで[[マサチューセッツ湾交通局|ボストン地下鉄]]で使われていた。[[スミソニアン博物館]]はリノの設計形式の1914年製のエスカレーターをアメリカの歴史的遺物として再組み立てを検討したが、「ノスタルジア以上に運送と組み立てのコストが膨大になる」という理由で実施されなかった<ref>Topel, Michael. "Ancient Escalator Was a Link to History", ''The Patriot-Ledger'', Apr. 3, 1995. See also King, John. "A Matter of Perception: Escalators, Moving Walks, and the Motion of Society", in ''Up Down Across: Elevators, Escalators and Moving Sidewalks''. (Alisa Goetz, ed.) London: Merrell, 2003: 79–89.</ref>。
1895年5月頃、チャールズ・シーバーガーは1892年にホイーラーが特許を取得したものとよく似たエスカレーターの設計を開始した。この機器は平らな動く階段であり、ある重要な細部が今日のエスカレーターと異なっているだけだった。それは、各段の表面が滑らかで現在のエスカレーターのように櫛状の凹凸がなく、先端部分で乗客の足を安全に送り出す機構がなかった点である。そのため、乗客は横にひょいと跳んで降りる必要があった。それを容易にするため、エスカレーターの先端は手摺が途切れても(小型の動く歩道のように)水平にしばらく続き、それから三角に中央が突き出た "divider" と呼ばれる部分に飲み込まれる形になっていた。シーバーガーは1899年にオーチス・エレベータ・カンパニーと手を組み、フランスの[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会(1900年)]]に出展し、1等賞を勝ち取った。パリ万博にはリノの傾斜エレベーターも出展された。他に James M. Dodge と Link Belt Machinery Co. や、フランスの Hallé と Piat という2社もエスカレーターを出展した。
Piat社は1898年11月16日、段のないエスカレーターを[[ハロッズ]]の[[ナイツブリッジ]]店に設置したが、同社は百貨店側に特許権を引き渡してしまった。Bill Lancaster の ''The Department Store: a Social History'' によれば、「(初めてエスカレーターを)体験した客はそれによってへたり込み、店員が配った気付け薬と[[コニャック]]でやっと元気を取り戻した」という<ref>Lancaster, Bill. ''The Department Store: a Social History''. London: Leicester University Press, 1995: 50.</ref>。このハロッズのエスカレーターは「224個の部品から成る」連続な皮革製ベルトであり、「強く連結されていて、上へと動いていく」もので、[[イングランド]]初の「動く階段」だった<ref>"The First Moving Staircase in England," ''The Drapers' Record'', Nov. 19, 1898: 465.</ref>。
ヨーロッパでは他にHocquardt社が1906年に ''Fahrtreppe''([[ドイツ語]]でエスカレーターの意)の特許権を得ている。Hallé社はパリ万博後もエスカレーターの販売を続けていたが、最終的に大企業に押しのけられる形となった。
20世紀前半、いくつかの企業がエスカレーター製品を開発製造したが、販売に際しては商標権を持つオーチス以外はエスカレーターという名称を使えなかった。ニューヨークを拠点とするPeelle社は ''Motorstair''、[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]は ''Electric Stairway''、[[トレド (オハイオ州)|トレド]]を拠点とする Haughton Elevator 社は ''Moving Stairs'' と称した。
[[コネ (会社)|コネ]]社と[[シンドラーエレベータ|シンドラー]]社がエスカレーター市場に参入したのはオーチスから遅れること数十年だったが、徐々にシェアを伸ばしていった。現在では、この2社と[[三菱電機]]がオーチスの主なライバルとなっている。
シンドラー社はエスカレーター市場では世界第1位、エレベーター市場でも世界第2位となっているが、同社がエスカレーター市場に参入したのは1936年のことである<ref>Dorsch, Jeff. "Schindler Holding Ltd.," ''Hoover’s Business Database'', http://www.hoovers.com, Mar. 2007.</ref>。1979年、シンドラーは Haughton Elevator を買収することでアメリカ合衆国に進出した。その9年後にはウェスティングハウスの北米のエスカレーター/エレベーター部門も傘下に収めた。
コネ社は本来はエレベーターを得意とし、1970年代に国際的買収を繰り返して成長した。スウェーデンのエレベーター業者 Asea-Graham を初めとして、フランスやドイツやオーストリアの小さめの企業を買収し、その後、ウェスティングハウスのヨーロッパのエレベーター部門を傘下に収めた。エスカレーター市場には Montgomery Elevator Company を買収し、[[オーレンシュタイン・ウント・コッペル]]のエスカレーター部門を取得してから本格的に参入した。
== 利用シーンと注意 ==
=== 目的と設置場所 ===
エスカレーターの設置目的は大別して、
* 段差(高低差)の大きい場所における利用者の肉体的負担の緩和
* 交通量の多い階段における利用者の円滑かつ安全な移動の促進
* [[バリアフリー]]の観点から、高齢者などの弱者に配慮して設置する場合
**台湾などでは安全保持の観点から、エレベーターも併設されている場所については高齢者や妊婦、障害者等の行動不便者に対してエスカレーターを使わないように呼びかけている<ref name="taipeimetro">[https://www.metro.taipei/cp.aspx?n=1CA42956BE125ECD&s=C173FAF89B446F92 臺北大眾捷運股份有限公司 如何搭車 安全宣導 文字説明]</ref>。日本では[[横浜高速鉄道]]が同様の呼びかけを行っている<ref name="mm21rw">[http://www.mm21railway.jp/voice/qa0005.html 横浜高速鉄道 みなとみらい線|お客様の声を反映してNo.0005 横浜駅のエスカレーターの高速運転について]</ref>。
などがある。ただし、階段に比べて非常に高価であり、[[メンテナンス|保守点検]]等コストも掛かる事から、設置場所は主に[[百貨店]]、[[地下街]]や[[ショッピングセンター]]などの商業施設、[[鉄道駅|駅]]、[[空港]]、[[港]]の[[フェリー]]ターミナルなどの交通機関の乗り場、[[病院]]や[[ホテル]]などの大型施設に限られる。
=== 片側空け ===
[[ファイル:Escalator in Umeda.jpg|thumb|150px|大阪市[[梅田]]のエスカレーター。左側が空けられている。]]
先を急ぐためエスカレーター上を階段のように歩く人のため、幅が2人分以上あるエスカレーターの片側を空ける[[慣習]]や[[マナー]]が存在する地域が、日本を含む世界各地にある。イギリス<ref>{{cite news|author=Susan Thompson Last updated November 16, 2011 3:39PM |url=http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/film/london_film_festival/article6883065.ece |title=The Times | UK News, World News and Opinion |publisher=Entertainment.timesonline.co.uk |date=2003-11-22 |accessdate=2011-11-16 |location=London}}</ref><ref>{{cite web|url=http://golondon.about.com/od/londontransport/qt/standonright.htm |title=Stand On The Right |publisher=Golondon.about.com |date=2010-06-14 |accessdate=2011-11-16}}</ref>やアメリカ<ref>{{cite web|url=http://www.virtualtourist.com/travel/North_America/United_States_of_America/Washington_DC/Local_Customs-Washington_DC-Metro_Metro_Etiquette-BR-1.html |title=Metro / Metro Etiquette, Washington D.C. - Local Customs |publisher=VirtualTourist |date= |accessdate=2011-11-16}}</ref>、[[台湾]]、[[香港]]<ref>{{cite web|url=http://www.sinosplice.com/life/archives/2010/03/23/stand-on-the-right-walk-on-the-left |title=Stand on the Right, Walk on the Left |publisher=Sinosplice |date=2010-03-23 |accessdate=2011-11-16}}</ref> などの混雑の激しい駅などでは、急ぐ人のために左側を空けることがマナーとなっている。[[オーストラリア]]や[[ニュージーランド]]では、逆に左側に立って右側を空けることがマナーとなっている<ref>{{cite news|url=http://www.theage.com.au/news/opinion/keep-it-to-the-left/2005/07/28/1122143960027.html|title=Keep it to the left|publisher=http://www.theage.com.au|accessdate=2010-10-30|location=Melbourne|first=Jim|last=Schembri|date=2005-07-29}}</ref>。
しかしながら、カナダ[[トロント]]や[[日本の鉄道]]事業者など、いくつかの交通機関では、安全性の問題から、エスカレーターでの歩行を禁止している<ref>[http://www.bbc.com/news/magazine-23444086 Escalator etiquette: The dos and don'ts] 2015-01-09閲覧</ref>。
== 日本におけるエスカレーター ==
[[ファイル:Escalator 1914 Tokyo.png|thumb|東京大正博覧会会場に設置されたエスカレーター(1914年)]]
日本では、[[1914年]](大正3年)3月に開催された[[東京大正博覧会]]<!--東京大正博覧会?-->において、初めて設置された。[[上野]]の山に設けられた博覧会第一会場の正門から第二会場の[[池之端]]までの連絡路として設置され、長さ約240mであった<ref name="tokyo">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908590/50 エスカレーダーで第二會場へ]『東京大正博覧会観覧案内』東京大正博覧会案内編輯局 編 (文洋社, 1914年)</ref>。途中は鉄橋状となり、[[上野東照宮]]の桜並木を見下せ、乗るのを怖がる者もあった<ref name="tokyo"/>が、1人10[[銭]]と有料だったのもかかわらず盛況だった<ref name="日経20210711">【文化時評】エスカレーターが運ぶ未来『日本経済新聞』朝刊2021年7月11日12面</ref>。発動機は池之端側が高さ約9m、30[[馬力]]で、上野側が高さ6m、25馬力のものが設置され、最大輸送力は毎分80人、昇降合わせて毎分160人とされた<ref name="tokyo"/>。また、第二会場に建つ鉱山大模型館の中には約15mのエスカレーターが設置され、[[不忍池]]を展望できた<ref name="tokyo"/>。
<!--どのように普及したか。バリアフリー化とエスカレーター、など。-->
また同年9月15日には、[[三越]]日本橋店の新館に常設のエスカレーターが完成。同年10月1日のオープンに合わせて使用が開始された<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』302頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。日本の[[百貨店]]へのエスカレーター普及期にあっては、エスカレーターの脇にエスカレーターガールという女性が立って乗り込みの案内をしていたことがあった<ref>[http://www.a-kenkyo.or.jp/shuken/ 『秋建時報』(第1154号)・土木建築の近代化遺産・木内百貨店]</ref>。
現代では広く普及し、[[日本エレベーター協会]]会員企業がメンテナンス契約をしている国内のエレベーターは7万246基ある(2021年3月時点)<ref name="日経20210711"/>。
日本で最も長いエスカレーターは、[[香川県]][[丸亀市]]にある[[ニューレオマワールド]]のエスカレーター「マジックストロー」が高低差42m・全長96mで、日本一となっている。<!--マジックストローってどこ製?-->なお、[[和歌山県]][[那智勝浦町]]の[[ホテル浦島]]の3基乗継ぎのエスカレーター「スペースウオーカー」は、高低差約80m(<!--表示では-->地上1階から32階まで)、全長154m。[[南区 (広島市)|広島市南区]]段原にある車椅子も乗車可能な比治山スカイウォーク(ひじやまスカイウォーク)は、動く歩道:77mまでいれると総延長:207.4m、高低差:37.5m。
最も短いエスカレーターは、[[川崎市]]のJR[[川崎駅]]前の[[川崎アゼリア|地下街アゼリア]]と[[横浜岡田屋|川崎岡田屋モアーズ]]地下2階を結ぶエスカレーター「プチカレーター」(アゼリアはモアーズの地下1階と地下2階の間に接する)で、ステップ5段分しかなく、高低差83.4cm。1991年度版[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に掲載されている<ref>{{Cite web|和書|title=プチカレーター {{!}} 川崎モアーズ|url=https://kawasaki-mores.jp/petit/|website=kawasaki-mores.jp|accessdate=2020-10-13}}</ref>。
通行料を徴収するものもわずかに存在する。日本初の屋外エスカレーターとして1959年に開業した[[神奈川県]][[藤沢市]][[江ノ島]]の「[[江の島エスカー]]」、[[福島県]][[会津若松市]]にある「[[飯盛山 (福島県)|飯盛山]]スロープコンベア」、[[徳島県]][[鳴門市]]にある「[[エスカヒル鳴門|エスカヒル・鳴門]]」内のエスカレーターがある。
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Eskahill Naruto03s3872.jpg|[[エスカヒル鳴門]]
Hotel Urashima01s1500.jpg|ホテル浦島の「スペースウォーカー」(一段目)
esukare-ta.jpg|川崎モアーズにある[[世界一の一覧|世界一短い]]エスカレーター
Canal garden06s3072.jpg|踊場のあるエスカレーター([[神戸モザイク]])
Escalator.jpg|[[横浜ランドマークタワー|ランドマークプラザ]]にある曲線型エスカレーター(写真下)
エスカレーターと階段.jpg|直線型エスカレーターと階段が併設されているスーパー
Movingwalk Escalator.JPG|途中から動く歩道となるエスカレーター([[京阪鴨東線|京阪]][[出町柳駅]])
Kansai International Airport Escalator 01.JPG|カートの侵入を防ぐポールが設置された、[[関西国際空港]]のエスカレーター
</gallery>
=== 片側空けの習慣 ===
[[阪急電鉄]]が1967年に左側空けの呼び掛けを始め、[[日本万国博覧会|大阪万博]](1970年)でも同様な措置がとられたことから、大阪や神戸では左側空けが定着した<ref name="nikkei20160910">[https://style.nikkei.com/article/DGXKZO07062470Z00C16A9W02001 【たどって!なるほど】エスカレーター片側空け どうして?「追い越し」感覚 自然に定着/大阪左空け 万博で広がる]『日本経済新聞』朝刊2016年9月10日 日経プラスワン(別刷り)2019年1月22日閲覧</ref>。
これに対して東京では、自然発生的に右側空けが始まった<ref name="nikkei20160910"/>。また、東京と地方を結ぶ新幹線網の拡大もあり、地方都市に右空けの東京方式が広がった<ref name="nikkei20160910"/>。
[[京都市|京都]]の一部(主に[[京都市営地下鉄]])では、元来は左側空けであったものを、近畿地方以外からの観光客などのエスカレーター利用状況に対応するため、右側を空けるように変更した事例もある<ref>丸山健夫著『謎山トキオの謎解き分析〜右と左の50の謎』日科技連出版社 (2010年12月初版)</ref>。また滋賀県でも、京都の影響から地元住民も右側を開ける事例が多い<ref>http://photozou.jp/photo/show/1045563/77671609 写真は[[南草津駅]]のエスカレーター。大阪へ45分ほどと通勤圏内だが、右側を開けている。</ref>。
=== 歩行禁止の呼びかけ ===
現在、日本エレベーター協会はエスカレーターの使用について、「エスカレーターの安全基準は、ステップ上に立ち止まって利用することを前提にしてる」「バランスを崩したり、つまずいたりして、転倒するおそれがある」「他の利用者に接触して転倒させたりするおそれがある」などとして、利用者にエスカレーターでの歩行禁止を呼びかけている<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.n-elekyo.or.jp/instructions/escalator.html | title=一般社団法人 日本エレベーター協会|エスカレーターのご利用について: | publisher=日本エレベーター協会 |accessdate=2015-07-10 }}</ref>。
[[2004年]](平成16年)7月より、[[日本の地下鉄]]では初めて、[[名古屋市営地下鉄]]が駅構内放送などで歩行禁止の呼びかけを開始し<ref>{{Cite web|和書| url =http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/life/911/li_091102.htm | title =駅エスカレーター 「片側空け歩行」習慣、実は禁止 | publisher = 読売新聞 YOMIURI ONLINE(「九州発」) | date = 2009-11-02 |accessdate=2009-11-03 }}</ref>、順次「エスカレーターでの歩行はおやめ下さい」のステッカーやポスター<ref>http://www.kotsu.city.nagoya.jp/info/2007/007514.html</ref>も貼られている。また、2008年より駅長らが毎月10日に肉声でエスカレーターを歩かないよう訴えているほか、運営する交通局職員の勤務時間帯以外に、空けられた右側にあえて立ち止まって乗るよう指導している。
その後、[[横浜市営地下鉄]]や[[福岡市地下鉄]]、[[札幌市営地下鉄]]、[[大阪市営地下鉄]]、[[京都市営地下鉄]]や[[東日本旅客鉄道]]や[[都営地下鉄]]や[[東京地下鉄]]でも、エスカレーターでの歩行禁止を呼びかける掲示が出されるようになった<ref>{{Cite web|和書| url = http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100306/trd1003061617012-n1.htm | title = エスカレーター歩行は「危険」 駅など注意呼びかけ広がる | publisher = MSN産経ニュース | date = 2010-03-06 |accessdate=2010-03-06 }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = http://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000218673.html | title = 地下鉄エスカレーターの張り紙について - 京都市情報館| publisher = 京都市交通局企画総務部 総務課 | date = 2017-04-06 |accessdate=2017-08-25 }}</ref>。
[[2021年]](令和3年)3月30日に「埼玉県エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」が公布され、同年10月1日に施行された。エスカレーターの利用者は「立ち止まった状態でエスカレーターを利用しなければならないこと」管理者は「利用者に対し、立ち止まった状態でエスカレーターを利用すべきことを周知しなければならない」と義務づけられている。尚、本条例による違反についての罰則はない<ref>{{Cite web|和書|title=エスカレーターの安全利用について|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0310/escalator/escalator.html|website=埼玉県|accessdate=2021-07-30|language=ja|last=埼玉県}}</ref>。
=== 乗り方に関する意見 ===
日本エレベーター協会が2012年~2016年に行ったアンケートにおいて、「エスカレーターを歩かない方がいい」という回答が7割近くあり、人やカバンとぶつかって危険と感じた回答者が5割強ありながら、なおそれでも「エスカレーターを歩いてしまう」という回答が微減ながら8割強のまま推移している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.n-elekyo.or.jp/docs/20170321_elecampaignquestionnaire.pdf |title=エレベーターの日「安全利用キャンペーン」アンケートの集計結果について(2016年度) |format=pdf|date=2017-03-21 |publisher=日本エレベーター協会 |accessdate=2017-09-12}}</ref>。
また、日本のエスカレーター全般が諸外国に比べて遅すぎるゆえに歩く人が減らないのではという意見や、エスカレーターで急ぐ人の歩く意欲を減らすために高速エスカレーターの拡充を求める意見もある<ref>{{Cite web|和書| url = https://limo.media/articles/-/16581 | title = 高速エスカレーターは便利か恐怖か、利用者の声とその実態 | publisher = LIMO [リーモ] | くらしとお金の経済メディア| date = 2020-03-25 |accessdate=2021-04-23 }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://f-navigation.jp/column/life/776.html | title = エスカレーターの「歩行禁止」は浸透しない? | publisher = Facebookナビ 株式会社オールアバウトナビ | date = 2015-09-03 |accessdate=2021-04-23 }}</ref>。
病気、けが、障害などの身体的な理由から片側の方向にしか立てない事情を持つ人もいるため、片側空けの習慣にに対して疑問を呈する意見も上がっており、識者からは「両側乗り」、コロナ禍以降は密を避ける観点から一段空けて左右交互に立つ「ジグザグ乗り」を推奨する意見もみられる<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/137380 エスカレーター 歩かない考 右側立つ人には事情が] - 東京新聞 2021年10月18日</ref>。
=== 安全キャンペーン ===
[[2010年]](平成22年)3月29日から5月9日からの間、関東・中部・関西の25の鉄道事業者および[[日本エレベーター協会|日本エレベータ協会(当時)]]でエスカレーターの安全利用を呼びかける、「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンが実施された<ref>{{Cite web|和書| url =http://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-m07.html | title =「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンの実施について | publisher = 東京地下鉄株式会社 | date = 2010-03-19 |accessdate=2010-06-09 }}</ref>。{{要出典範囲|date=2021年9月26日 (日) 16:26 (UTC)|主要新聞にも新聞広告が掲載され、駅にポスターやステッカーが貼られた}}。
また [[2012年]](平成24年)には、7月23日から 8月31日の間「昨今駅においては、お客さまがエスカレーターをご利用になる際に、ご自身でバランスを崩して転倒されたり、駆け上がったり駆け下りたりした際に他のお客さまと衝突し転倒させるなどの事象が発生しています。お客さまのお怪我を防止するために、ご利用の際には手すりにつかまるなど、安全なエスカレーターの利用について鉄道事業者が共同で呼びかけを実施します。」<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2012/07/20m7k100.htm | title = エスカレーターの安全利用キャンペーンを実施 | publisher = 東京都 | date = 2012-07-23 |accessdate=2012-08-30 }}</ref>として、関東・中部・関西の鉄道事業者25社局で、同様のキャンペーンが行われた。
さらに2013年(平成25年)7月25日、北海道・関東・中部・関西の27の鉄道事業者、商業施設、[[森ビル]]、[[日本民営鉄道協会]]、日本エレベーター協会と共同で、エスカレーターの安全利用を呼びかける「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを同年7月29日から実施<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.n-elekyo.or.jp/docs/20130725eskapress.pdf |title=エスカレーター「みんなで手すりにつかまろう!」キャンペーン |format=pdf|date=2013-07-26 |publisher=日本エレベーター協会 |accessdate=2015-07-10}}</ref>、さらに2014年(平成26年)においても、同年7月22日から全国の鉄道事業者42社局、商業施設、森ビル、日本民営鉄道協会、日本エレベーター協会と共同で、エスカレーターの安全利用を呼びかける「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを実施している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.n-elekyo.or.jp/docs/20140718_oshirase.pdf |title=エスカレーター「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを 7月22日(火)から実施します。 |format=pdf|date=2014-07-18 |publisher=日本エレベーター協会 |accessdate=2015-07-10}}</ref>。
このような取り組みは、2017年現在、毎年続いており、2016年および2017年のキャンペーンは、鉄道事業者51社局ならびに森ビル、首都圏の[[空港ターミナルビル]]運営会社3社、[[日本民営鉄道協会|民鉄協]]、[[日本地下鉄協会]]そして日本エレベーター協会・川崎市・千葉市が共同して実施する大掛かりなものになった。2017年に共同掲出されたポスターは、昨年までとは打って変わって、スーツを着た男性と女性とが整然と並んで手すりを持ち、下りエスカレーターを降りるという意匠であり、昨年までよりも『手すりを持っての整列乗車』を強く意識させるポスターとなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.n-elekyo.or.jp/docs/20160712_EscalatorCampaign.pdf |title=エスカレーター「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを 7月19日(火)から実施します。 |format=pdf|date=2016-07-12 |publisher=日本エレベーター協会 |accessdate=2017-09-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.n-elekyo.or.jp/docs/20170718_EscalatorCampaign.pdf |title=エスカレーター「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを 7月21日(金)から実施します。 |format=pdf|date=2017-07-18 |publisher=日本エレベーター協会 |accessdate=2017-09-12}}</ref>。
== 壊れたエスカレーター現象 ==
壊れたエスカレーター現象({{lang-en-short|broken escalator phenomenon}})は、停止したエスカレーターに乗るとバランスを崩したり[[めまい]]や違和感が生じてしまう現象で、ウォーカー効果とも呼ばれる。通常に歩いている時は脳が無意識的にコントロールしており、稼働中のエスカレーターに合わせた動きをするが、停止した状態でも無意識に稼働中のエスカレーターに合わせた動きをしてしまうのが原因だといわれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/19/news017.html|title=停止したエスカレーターを上るとき、何だか変な感じがする“科学的な理由”|publisher=[[ITmedia]]|accessdate=2018-12-12}}</ref><ref>{{cite journal|url=https://www.rtri.or.jp/rd/news/human/human_200711.html#sect05 |title=足下にご注意下さい(その2)- エスカレータとバリアフリー -|issue=第152号 |journal=人間科学ニュース |publisher=[[鉄道総合技術研究所]] |year=2007|month=11|accessdate=2018-12-12}}</ref>。普通の階段でも見た目をエスカレーター風に変えると同様の現象がでる<ref>[http://www.ntt.co.jp/journal/1202/files/jn201202026.pdf/NTTコミュニケーション科学基礎研究所 五味裕章上席特別研究員]、2018年12月11日閲覧。</ref>。
== 比喩的な用法 ==
[[中高一貫教育]]や中高(小中高大学、更に幼稚園までが加わる事も)一貫校など、無試験で[[進学#内部進学|内部進学]]が可能な[[学校]]のことを、エスカレーターの動作に例えて俗に「'''エスカレーター式'''」あるいは「エレベーター式」と呼ぶ<ref>厳密には「無試験」ではあるが「無条件」ではない。成績不良により内部進学を拒否される例もある。{{Cite web|和書|title=名門校進学を巡る裁判が示した、「エスカレーター式」の真実(荘司 雅彦) @gendai_biz |url=https://gendai.media/articles/-/49632 |website=現代ビジネス |access-date=2022-04-29 |language=ja}}</ref>
[[第二次ロンドン海軍軍縮会議|第二次ロンドン海軍軍縮条約]]において、[[1937年]][[4月1日]]までに調印しない[[ワシントン海軍軍縮条約]]批准国があった場合に諸々の制限を緩和する条項が盛り込まれ、通称エスカレーター条項と呼ばれた。これも上記と同じくエスカレーターの動作になぞらえた通称である。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[動く歩道]]
* [[エレベーター]]
* [[中環至半山自動扶梯]]
* [[カーレーター]]
== 外部リンク ==
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{{Commons|Category:Escalators in Japan|日本のエスカレータ}}
* [http://www.theelevatormuseum.org/f/f_4.htm Moving Stairways/Escalators at www.theelevatormuseum.org]
* [http://www.eesf.org/ The Elevator Escalator Safety Foundation]
* [https://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/tokyo/chapter1/03_012.html 東京大正博覧会第二会場のエスカレーター]1914年
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{{Normdaten}}
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計測工学
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計測工学(けいそくこうがく、instrumentation engineering)とは、物理量の正確な測定・計測のための計器の開発、測定誤差の検証・補償などを専門に行う計量学の分野。
この分野には物理量を信号に変換するセンサの開発、そのセンサの特性の測定などを含む。
センサとしては、温度を測定する温度に依存する電気抵抗素子・圧力を測定するピエゾ圧電素子・光を測定する光電素子などがある。
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'''計測工学'''(けいそくこうがく、instrumentation engineering)とは、[[物理量]]の正確な[[測定]]・[[計測]]のための計器の開発、測定[[誤差]]の検証・[[補償]]などを専門に行う[[計量学]]の分野。
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==追跡性(tracability: [[トレーサビリティ (計測器)|トレーサビリティ]])==
*[[原器]]
*[[標準器]]([[較正器]])
*[[較正]]
==計測器の特性==
*[[有効測定範囲]]
*[[許容誤差]]
*[[感度]]
==計測誤差==
*[[測定者]]
*[[計測器]]
*その他
==統計処理==
*[[有効数字]]
*[[端数処理]](丸め)
==計測方法==
*[[アッベの原理]]
*[[直接測定]]
*[[間接測定]]
*[[偏位法]]
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==関連項目==
*[[逐次三点法]]
*[[制御工学]]
*[[センサネットワーク]]
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ムアンマル・アル=カッザーフィー
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ムアンマル・アル=カッザーフィー(アラビア語: معمر أبو منيار القذافي, muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī, 1942年6月7日 - 2011年10月20日)は、リビアの軍人・革命家・政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(社会主義人民リビア・アラブ国)の元首。
1969年のリビア革命(英語版)によって政権を獲得後、2011年に至るまで長期にわたり独裁政権を維持したが、2011年リビア内戦によって政権は崩壊、自身も反カッザーフィー派部隊によって殺害された。
日本では一般にカダフィ大佐という呼称で知られている。1993年から2009年まで1リビア・ディナール紙幣や50ディナール紙幣に肖像が使用されていた。
称号は「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者及び革命指導者」(زعيم وقائد الثورة في ليبيا, zaʿīm wa-qāʾid al-ṯawrah fī lībiyā, ザイーム・ワ=カーイド・ッ=サウラ・フィー・リービヤー)、「敬愛なる指導者」(الأخ القائد, al-aḫ al-qāʾid, アル=アフ・ル=カーイド)。
カッザーフィーの名称は世界各国で実に多様な綴りで表される。アラビア語リビア方言での一般的な発音に従うならばガッダーフィ(Gaddafi)であり、アルジャジーラ等ではこの表記を採用している。カッザーフィー自身は、1986年にアメリカの学校に宛てた書簡では El-Gadhafi と署名している。しかし彼の公式ウェブサイトの各言語版では El Gathafi, Al Gathafi など複数の表記が見られる。国際連合安全保障理事会では「カダフィ、ムアンマル・ムハンマド・アブミンヤール(Qadhafi, Muammar Mohammed Abu Minyar)」名で本人特定をしている。
日本では「カダフィ大佐」という呼び名が一般的である。特に新聞などのメディア報道では「カダフィ大佐」という呼称がされている。明仁天皇とカッザーフィーが慶事等で祝電、答電を送り合う場合、日本語では「リビア国革命指導者カダフィ閣下」と表記され、彼自身の公式ウェブサイト(#外部リンク参照)日本語版でも敬称は「閣下」である。
日本の新聞報道では、1969年から1977年までは「カダフィ革命評議会議長」、1977年から1979年までは「カダフィ全国人民会議書記長」、1979年に一切の公職を退いてからは「カダフィ元首」「カダフィ国家元首」「リビアの国家元首カダフィ前書記長」などと表記されていた。しかしリビアは公式には「直接民主制」(ジャマーヒリーヤ)を標榜しているために政府や国家元首は存在しないことになっている。このためか、1985年あたりからは「リビアの最高指導者カダフィ大佐」と表記されるようになった。
読売新聞は、2011年リビア騒乱以降、彼本人が「もう軍人でも大佐でもない」と言っているとしてそれまで使用してきた「リビアの最高指導者カダフィ大佐」の表記をやめ「リビアの最高指導者カダフィ氏」と表記している(2011年2月19日東京本社版朝刊国際面より)。
カッザーフィーが「大佐」(العقيد, al-ʿaqīd, アル=アキード。英訳: colonel)と呼ばれている理由については諸説がある。いずれの説でも、カッザーフィーが敬愛するエジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領が「陸軍大佐」であったからそれに倣った、という点は一致している。
なお、リビアの事実上の国家元首が軍の中堅幹部階級である「大佐」であることに違和感を覚える向きも多い が、リビアは建前上は「国家元首」の概念そのものを否定しているのであり、リビアの国家元首をあらわす称号が「大佐」だというわけではない。当然ながら、リビア軍には大佐より上の階級(将官)も存在し、軍の司令官であり士官学校時代以来のカッザーフィーの友人であるアブー=バクル・ユーニス・ジャーベル(英語版)は准将(عميد, ʿamīd, アミード)である。
1942年、カッザーフィーは、リビアの砂漠地帯に住むベドウィン(アラブ化したベルベル人のカッザーファ部族)の子として、スルトで生まれた。ムスリムの学校で初等教育を受ける。第一次中東戦争の影響を受け、エジプト自由将校団の中心人物であるガマール・アブドゥル=ナーセルのエジプト革命に魅せられ、アラブの統一による西洋、特にキリスト教圏への対抗を志す。1956年のスエズ危機では反イスラエル運動に参加する。ミスラタで中等学校を卒業、歴史に特に興味を示した。
1961年にベンガジの陸軍士官学校に進んだ。在学中から仲間たちとサヌーシー朝王家打倒を計画し自由将校団の組織を始める。1965年に卒業するとイギリス留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊の将校となる。ただしイギリスに留学経験があるものの英語は苦手のようで、1986年4月に米軍がトリポリを空爆し米・リビア関係が極度に緊迫した時期、アメリカのある小学校の生徒たちがカッザーフィーに世界平和を求める手紙を書いて送ったところ(先制攻撃したのはアメリカなのだが)、カッザーフィーは全員に英語で返事を書いたが、文法やつづりが間違いだらけだったという逸話がある。2007年8月の朝日新聞国際面の特集でも「カダフィ大佐は外国要人と会談する際に最近、英語も上達してきたようだ」との特派員の記述がある。
1969年9月1日、カッザーフィーは同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを起こし、政権を掌握した。病気療養のためにトルコに滞在中であった国王イドリース1世は廃位されて王政は崩壊、カッザーフィー率いる新政権は共和政を宣言して国号を「リビア・アラブ共和国」とした。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命指導評議会(日本のメディアは終始一貫して「革命評議会」と呼称していた)が共和国の最高政治機関となることが宣言された(カッザーフィーが革命指導評議会議長と公表されたのは翌年)。
カッザーフィーは1973年より「文化革命」を始め、イスラームとアラブ民族主義と社会主義とを融合した彼独特の「ジャマーヒリーヤ」(直接民主制と訳される)という国家体制の建設を推進していった。翌年には「政治理論の研究に専念するため」として革命評議会議長職権限をナンバー2のジャルード少佐に委譲した(あくまで権限移譲であり、退任はしなかった)。1976年には毛沢東語録に倣い、自身の思想をまとめた『緑の書』という題名の本を出版した。緑とは、イスラームのシンボルカラーで、社会主義の赤に対して「イスラム社会主義」を象徴する。そして1977年、カッザーフィーは人民主権確立宣言を行い、「ジャマーヒリーヤ」を正式に国家の指導理念として導入した。これにより、国号も「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」(1986年に「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」と改称)に改められた。ジャマーヒリーヤ体制のもと、国権の最高機関として全国人民会議が設置され、カッザーフィーが初代全国人民会議書記長(国会議長職に相当し国家元首としての権能も有した)に就任した。その後カッザーフィーは1979年に全国人民会議書記長を辞任して一切の公職を退いたが、「革命指導者」の称号のもと、実質上の元首としてリビアを指導した。
カッザーフィーは、ナーセルの汎アラブ主義の後継者として1972年にはエジプトのアンワル・アッ=サーダート、シリアのハーフィズ・アル=アサドと組んで汎アラブ主義三か国によるアラブ共和国連邦を構想したが、本格的な統合を見ないまま5年後に解消している。1970年代はカッザーフィーの汎アラブ思想に振り回されたエジプトのサーダート大統領からは「頭のてっぺんから足の爪の先まで狂っている男」と評されており、中華人民共和国にアブデルサラム・ジャルード(英語版)首相を派遣して核兵器の購入を申し出て中国政府を驚愕させたこともあった。後にリビアがIAEAの査察を受け入れた際に中国製の核爆弾設計図が報告されるもこれはパキスタンから流入したものとされる。
カッザーフィーはパレスチナ解放機構 (PLO) の有力かつ公然の支持者であった。そのため1979年にサーダート大統領がイスラエルと和平したエジプトとの関係を決定的に悪化させた。また、資金援助などを通じて西アフリカを中心に影響力を維持していたほか、地域機関であるサヘル・サハラ諸国共同体 (CEN-SAD) を創設し、アフリカにおける影響力拡大の足場としていた。
当時のカッザーフィーの欧米諸国との関係は常に対立的で、アラブ最強硬派と目されていた。1984年の駐英リビア大使館員による反リビアデモ警備をしていた英国警官射殺事件、1985年のローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件、1986年の西ベルリンディスコ爆破事件など、テロ支援の問題から欧米との関係は悪化の一途をたどり、1970年代と1980年代の欧米やイスラエルに対する過激派のテロを支援した疑惑がもたれていた。それに対し、アメリカはカッザーフィーの居宅を狙って空爆する強硬手段(リビア爆撃)を取り、カッザーフィーを暗殺しようとした。カッザーフィーは外出しており危うく難を逃れた。1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否し、国連制裁を受ける。そのためリビアは当時のアメリカのロナルド・レーガン政権から「テロリスト」「狂犬」として名指しの批判を受け、以後アメリカとの対立は続いた。
この経験から、以降は住む場所を頻繁に変えていたという。また、この空爆の直前、作戦に反対だったイタリア政府(当時政権の座にあったベッティーノ・クラクシ首相、ジュリオ・アンドレオッティ外相の決断による)から極秘に空爆を通告されていたことが後日判明した。汎アラブ主義に対する評価はさまざまであるが栗本慎一郎等一部保守派の中にも死後に「カダフィーの内政やテロ支援での独裁政治はともかく石油の関税自主権を国際石油資本から取り戻し国民にも一定の繁栄をもたらした。」と評価する声もある。
アメリカによる経済制裁を受けて以降、カッザーフィーの態度には変化が訪れる。
1988年3月3日にカッザーフィーはトリポリにある刑務所の壁を自らブルドーザーを運転して破壊、囚人400人を恩赦により解放するパフォーマンスをおこなった。こうしたポピュリズム的な派手なパフォーマンスで国民から支持を得る一方で、1999年にはパンナム機爆破事件の容疑者のハーグ国際法廷への引渡しに応じ、2003年8月、リビアの国家としての事件への関与は否定しつつも、リビア人公務員が起こした事件の責任を負うとして総額27億ドルの補償に合意した。カッザーフィーは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件に際して、アラブ諸国の中でアル=カーイダに対する激しい非難を表明した指導者の1人であり、世界的なテロ批判の風潮に乗りリビア国内のイスラーム過激派組織「リビア・イスラーム戦闘団」と戦った。
さらにはイラク戦争の後、ジョージ・W・ブッシュ政権率いるアメリカなど西側諸国によって新たな攻撃対象にされるのを恐れてか、2003年末には核放棄を宣言し査察団の受け入れを行った。アメリカなどはこれらの対応を評価しそれまで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外す措置を取った。そして2006年5月15日にリビアとアメリカの国交正常化が発表された。リビア政府はパンナム機爆破事件などの遺族補償として、15億ドルを米政府に支払った。一方の米側も、一連のテロの報復として米軍機がリビアを空爆した際の民間被害に対し、3億ドルの支払いに応じていた。2008年10月にはアメリカ人犠牲者への補償金の支払いが完了し、国交を完全に正常化。2009年7月のラクイラサミットでは、夕食会の記念撮影の際にバラク・オバマ米大統領と握手を交し、国交正常化を印象付けた。なおオバマ大統領についてカッザーフィーはリビア国内での演説で「オバマはイスラム教徒である」との誤った認識を語ったことがある。
こうした態度の変化には、カッザーフィーの政治的関心が、各国間の対立が激しくて進展を見せない「汎アラブ主義」から、欧米との利害対立が比較的少ないといわれている「汎アフリカ主義」に移行しつつあるのでは、と指摘する意見がある。事実、2000年にトーゴで開かれたアフリカ統一機構 (OAU) 首脳会議に、長年同機構とは疎遠であったカッザーフィーが出席して地域統合の必要性を唱え、2002年のアフリカ統一機構からアフリカ連合への改組ではリビアは主導的な役割を果たした国の1つだった。
2009年9月にリビア革命40周年記念式典が行われ、リビア原油の主要輸出先であるイタリアのベルルスコーニ首相が植民地支配の謝罪・賠償合意に訪問し、式典にはベネズエラのチャベス大統領、スーダンのバシール大統領、ジンバブエのムガベ大統領、カタールのハマド首長、フィリピンのアロヨ大統領、イラクのハーシミー副大統領らが姿を見せ、最高指導者のカッザーフィーと笑顔で握手するなどした。リビアの国営通信社によると約50カ国から首脳や閣僚らが参列したが西側諸国は参加せず多くはアフリカや中東諸国だった。
態度を軟化させたとはいえその特異な言動と舌鋒は衰えを見せず、2009年9月23日に初めて出席した国連総会では、ニューヨーク郊外のニュージャージー州に遊牧民族の伝統に則りテントを張り、そこを宿にした。
また一般演説の席上、国連安保理を「テロ理事会」と批判。国連安保理常任理事国にのみ与えられている拒否権を、国連憲章の前文で謳われている加盟国の平等に反するものと批判し、演壇から国連憲章を投げ捨ててみせ大国による体制を批判したほか、「ターリバーンが作りたかったのは宗教国家だったのだ。だったらバチカンのように作らせてやればいい。バチカンがわれわれ(ムスリム)にとって危険な存在だろうか」と発言。さらに「オバマがずっと執権していればいい。オバマはアフリカの息子であり私の息子でもある」、「ケネディ元大統領が暗殺されたのはイスラエルに査察団を送り込んだため。調査した方がいい」「豚インフルエンザ(2009年新型インフルエンザ)はワクチンを売るために人工的につくられたもの、ワクチンは無料で提供しなければならない」などと発言した。カッザーフィーの演説は規定の時間である15分を上回る、1時間36分の長時間にわたった。この演説に対してオバマ大統領、ヒラリー・クリントン国務長官などは、はじめから退席。イラン大統領のマフムード・アフマディーネジャードも途中で退席。矢継ぎ早に言葉が飛び出す長時間の演説に、国連のアラビア語の同時通訳士が疲れきり、途中で交代する場面も見られた。
なお、この際に国連憲章を投げ捨てた行為は、2年後に同じ国連総会の場で、自らの政権を打倒したリビア国民評議会のマフムード・ジブリール執行委員会委員長(暫定首相)によって批判されることになる。
隣国チュニジアのジャスミン革命の影響を受け、2011年2月、カッザーフィーの退陣を求める欧州の影響を受けた大規模な反政府デモが発生。国民に対し徹底抗戦を呼びかけたが欧米を中心とした軍事介入と、欧州に援助された旧王党派などの反カッザーフィー派の蜂起を招き、2011年8月24日までにカッザーフィーは自身の居住区から撤退。反政府勢力により首都全土が制圧され、政権は事実上崩壊した(2011年リビア内戦)。
内戦が展開するなか、2月26日に国連安保理は全会一致で国際連合安全保障理事会決議1970を採択、6月27日に国連安保理から付託を受けた国際刑事裁判所は人道に対する罪を犯した疑いでカッザーフィーに逮捕状を請求し、9月9日に主任検察官から要請を受けた国際刑事警察機構は身柄拘束のための国際手配を行った。
8月に事実上政権が崩壊した後も抗戦を続けたカッザーフィーだったが、9月21日には評議会軍が南部サブハを制圧、更に10月17日にバニワリドを制圧し、2011年10月20日、リビア国民評議会は旧政権派の最後の拠点であったスルト周辺でカッザーフィーが死亡したと発表した。死亡の経緯については陥落したスルトから複数の護衛車両と共に脱出を試みた所をNATO軍(フランス空軍の戦闘機ミラージュ2000とアメリカ空軍の無人攻撃機RQ-1 プレデター)による航空攻撃を受け、破壊された車両から「近郊の下水排水口に逃げ込んだ所を反カダフィ派部隊に拘束」され、「その場で死亡した」という点では国民評議会、NATOを初めとする関係勢力、各国報道機関などで概ね一致している。しかしこの様な結果になった経緯については大きく異なる見解が出されている。
リビア国民評議会は「カッザーフィーをベンガジなどの主要都市に移送する予定であった」が、「途中で旧政府軍との戦闘が発生し、その銃撃戦に巻き込まれて死亡した」と公式見解を発表した。だが複数の消息筋は旧政府軍との戦闘はなく、カッザーフィーに対する私刑として民兵が射殺したと報道された。また殺害直後の現場を撮影した映像が流出し、そこではカッザーフィーの血塗れの死体を取り囲んで歓声を上げる民兵の集団が映されている。また更に死体を半裸にして地面に投げ出す、殴る蹴るなどの暴行を加えるなどの非倫理的行為が行われている。アルジャジーラなどの報道機関がこの事実を報道するとカッザーフィーの死亡経緯についての国民評議会の見解に大きな疑問が投げかけられた。
国際法において戦時捕虜の処刑は不法行為であり、本来であればカッザーフィーに対する処分は公の裁判を経て決める必要があり、またカッザーフィーにはその権利が基本的人権として認められていた。もし意図的に捕虜にしたカッザーフィーを処刑したのであれば国際法違反となり、国際社会からの批判は避けられない。国連はリビア国民評議会に「カッザーフィー死亡の経緯について追加調査と説明を行う義務がある」と勧告した。アムネスティ・インターナショナルは「新政権は(旧政権のような)虐待の文化と決別しなければならない」として、復讐を名目とした戦争犯罪はカッザーフィー政権への反乱の正当性を失わせると指摘した。NATO軍は自軍の攻撃がカッザーフィーの拘束・殺害双方において決定打となったのではないかとの報道について、「(カッザーフィーが)乗っているのは知らなかった。個人は標的にしていない」と戦争犯罪に加担した可能性について釈明に追われた。
21日、インターネットに殺害時の映像を掲載した反カッザーフィー派兵士は「自分が殺害した」とした上で、殺害の理由については「ベンガジかミスラタのいずれに連行するかで議論になり、自軍の拠点に連行できる見通しが無くなった為にその場で処刑した」と述べたと報道されている。この説の場合、民兵間の口論に巻き込まれる形で処刑された事になる。またこの兵士はカッザーフィーが捕らえられたのは下水排水口ではなく路上であり、NATO軍の車列攻撃は無関係であると主張している。他に同じくカッザーフィー殺害を主張する少年兵士が存在しており、カッザーフィーが所持していた金色の拳銃を奪って射殺したという。
22日、カッザーフィーの遺体はリビア西部のミスラタに運ばれ、埋葬方法や時期についての議論がまとまるまでに遺体の腐敗を防ぐため、ミスラタにあるショッピングセンターの大型冷蔵室に遺体を保管する事が決定した。同日中に生存説などを払拭するために遺体の一般公開が行われ、カッザーフィーの遺体を一目見ようと数百人が行列を作ったという。
遺族関係者などはカッザーフィーの故郷で死亡地点でもあるスルトへの埋葬を求めていたが、国民評議会は最終的にこれを拒否し、10月25日の未明に砂漠の中の秘密の場所にカッザーフィーの遺体を埋葬したと発表した。遺体を埋葬した場所がカッザーフィーの支持者によって「聖地」にされることを防ぐため、国民評議会は遺体の埋葬場所を公表しないとしている。カッザーフィーの死の報を聞いたリビア国民が歓喜している写真や映像が全世界に配信され、改めて独裁政治の抑圧の凄まじさを死してなお見せ付ける結末となった。
さらに、1984年に当時30歳の男性が、反体制テロリストの嫌疑を掛けられてベンガジのバスケットボール場で多数の児童たちを立ち会わせた見世物裁判にかけられ、コート内で絞首刑に処せられるまでの一部始終を撮影したベータマックステープがヒューマン・ライツ・ウォッチの関係者により発掘された(提供したのは処刑された男性の兄弟だった)。この映像はデジタル化した上で公開された。(詳細は英語版を参照)。この処刑はカッザーフィー政権初の公開処刑とされ、映像はリビア国営テレビでリビア全土に中継されていた。
エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領に心酔しており、クーデターで政権を握った翌年に初めてエジプトを訪問、ナーセルと会談している。が、直後にナーセルは急死、その後、エジプトとリビアは20年にわたって友好、敵対の関係を繰り返すことになった。
当時、汎アラブ主義を唱えていたカッザーフィーは、1973年エジプトを訪問しサーダート大統領に対し、エジプトとリビアの合併を執拗に迫り、「サーダートが合併に合意するまで帰国しない」と主張しエジプト側を大いに困らせたことがある。1977年にエジプトとイスラエルが和解するやカッザーフィーはPLO、イラク、シリアとともに反エジプトの急先鋒に立ち、国交を断絶し、エジプトをアラブ連盟から追放した。そしてエジプトと同じだった国旗を一夜にして緑一色に変更した。その後もカッザーフィーはサーダート政権の打倒を繰り返し呼びかけ、1981年、実際にサーダートが暗殺されるとトリポリ放送を通じ「いかなる暴君にも必ず終りがある。自由の戦士たちよ、おめでとう」と祝福の声明を出した。後継のホスニー・ムバーラク政権に対しても敵意をむき出しにし、1985年にはスーダンでクーデターが起きた際に「エジプト国民もムバーラク政権も打倒せよ」と呼びかけ猛反発を買った。1989年5月に開催されたアラブ首脳会議ではエジプトの20年ぶりの連盟復帰が議題にされることになっていた。これにカッザーフィーは強く抗議し国営ジャマヒリア通信を通じ「エジプトが復帰するなら絶対に会議に参加しない。いかなる理由があろうと絶対に認めない」と強硬姿勢を示していた。が、突然方針を変更、会議に参加しエジプトの復帰が決まるとムバーラクに急接近し、翌年には17年ぶりにエジプトを訪問し国交を回復、後年まで友好関係は続いていた。1998年にカッザーフィーが骨折して入院した際にはムバーラクが病院へ見舞った。
1974年、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの支配体制打倒を呼びかけ、皇帝と激しい対立関係に陥った。1979年、イラン革命が起きると関係を修復し、翌年勃発したイラン・イラク戦争ではアラブ諸国の中でも珍しくシリアとともにイランを支持・支援した。
その後モロッコのハッサン国王(1984年にカッザーフィーが14年ぶりにモロッコを訪問して和解)やチュニジアのハビーブ・ブルギーバに対しても敵対発言をしたかと思えば和解を繰り返すなどしている。サウジアラビア国王のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズともアラブ首脳会議で罵りあって退席したりと対立が続いていたがのちにカタール国王のハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーの仲介で和解している。
1982年、イスラエル軍のレバノン侵攻でPLO議長のヤーセル・アラファートの動向に世界中の注目が集まる中、「アラファートがいまだ独身なのは彼がホモだからだ」と突然発言。この発言はアラファートからは相手にされなかったものの、1992年4月にアラファートの乗った飛行機がリビアの砂漠で不時着した際は議長を救助し真っ先に病院に見舞った。この当時、リビアはパンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連制裁を受ける瀬戸際にあった。アラファートは「私はわが友人、カッザーフィーの側に立たねばならない」とリビアを擁護。カッザーフィーとアラファートの関係は決して悪いものではなかった。
1990年、湾岸危機が起きた際にはイラクとクウェートの和解を目指して提案を行ったが失敗している。
1991年10月にパレスチナ問題の解決を目指しマドリードで開かれた中東和平会議の際には「我々がヒトラーの尻ぬぐいをする必要はない」とイスラエルとの和平交渉を厳しく批判した。翌年オスロ合意にも反発し1995年からはリビアから一切のパレスチナ人を追放した。そしてイスラエルとパレスチナがひとつの国家「イスラティナ」を樹立すべきだと提案したが相手にされず、その後もアラブ首脳会議でイスラティナ構想を提唱しているがパレスチナのマフムード・アッバース議長からは苦笑いされるだけで終わっている。1995年、イスラエル首相のイツハク・ラビンが暗殺された際には国営ジャマヒリア通信を通じ「彼の手は虐殺されたパレスチナ人の血で染まっている」と歓迎声明を出した。
1999年、ヨルダン国王のフセイン1世が死去した際、ヨルダン王制の打倒を呼びかけた。しかしその後、後継のアブドゥッラー2世とは関係は悪くなかったようで、リビア革命40年記念式典にもアブドゥッラーは招待されて出席している。
2006年12月、イラクのサッダーム・フセインが処刑されると「彼は殉教者になった」としてリビアは3日間喪に服した。1979年に副大統領だったサッダームとカッザーフィーはバグダードで会談している。ただ、カッザーフィーは1992年に国連制裁を受けた際に同じく制裁を受けていたイラクのサッダーム政権に友好協力を呼び掛ける書簡を送ったことがあるものの、同じアラブの反米指導者とはいえそれほど親しい間柄にあったわけでも無かった(イラン・イラク戦争でリビアがイランを支持したこと、イラクのクウェート侵攻をリビアが批判したことも原因)。
2009年11月、FIFAワールドカップアフリカ予選試合でエジプトとアルジェリアが険悪な関係となる中で、アラブ連盟のムーサ事務局長がカッザーフィーに仲介を要請、カッザーフィーはこれを受諾した。
1974年、ソビエト連邦を初めて友好親善訪問。軍事的な同盟関係にあるにもかかわらずレオニード・ブレジネフとの会談でソ連の対外政策を厳しく批判、ソ連指導部の表情を曇らせた。1980年代には反米姿勢を強めてワルシャワ条約機構に参加すると表明してソ連指導部を驚かせた。
1984年に地中海のクレタ島でフランス大統領のフランソワ・ミッテランと会談。フランス大統領との会談は1973年に訪仏して以来11年ぶりだった。その後2007年にニコラ・サルコジがリビアを訪問するまでフランス大統領とは会談をする機会がなかった。同年カッザーフィーがフランスを34年ぶりに訪問した際にはルーヴル美術館訪問のために交通をすべてストップし、サルコジとの会談ではサルコジが会談後の記者会見で「大佐に人権改善を要請した」と話したものの、カッザーフィーは「そのような話はなかった」と発言するなど大いに話題をまいた。
フランスの司法当局は、サルコジが2007年の大統領選挙で勝利した際にカッザーフィー側から5,000万ユーロに及ぶ違法な資金援助を受けた疑いがあるとして、退任後の2018年に汚職などの容疑で訴追した。
1976年、ニューズウィーク誌が「CIAがアラブ各国とともにいかなる手段を使ってでもカッザーフィー議長を打倒することで合意した」と報道。この頃からアメリカは強硬派カッザーフィーを警戒していた。
1986年4月にアメリカ軍の空爆を受けた際は「ベトナム戦争のビデオを見ていた」と当時語っている。なおこの空爆では間一髪で爆撃を逃れたとされる。のち1989年になって当時のマルタ政府が空爆情報を事前にリビア側に伝えていたとされたが、のちにイタリア政府も事前に伝えていたことが明らかになった。この空爆ではしばらく公の場に姿をみせず、死亡説も流れたが、数日後、国営テレビでアメリカを厳しく非難する演説を行い健在を誇示した。この演説はアフリカの地図をバックに、海軍の軍服姿で行った。カッザーフィーは陸軍軍人だがこのときなぜ海軍の軍服姿だったかは不明。翌1987年、シリア大統領のハーフィズ・アル=アサドと会談した際にアメリカを激しく非難、再び米・リビア関係が緊迫した。2004年6月、アメリカ合衆国第40代大統領のロナルド・レーガンが死去した際には国営通信を通じ「レーガンが、86年に行ったリビアの子供らに対する醜悪な犯罪について、裁判で釈明せずに死去したことを非常に憂慮する」との声明を出した。
1992年8月31日、クーデターでの政権掌握23周年を記念してテレビ演説し、「アメリカの民主党はユダヤ人の支持する大きな組織だ」として共和党への支持を表明。これまでのリビアの外交政策を転換して欧米諸国との関係改善に意欲を示し注目された。
2008年12月、カッザーフィーの五男がスイスで婦女暴行容疑で一時拘束される事件が発生。のちに息子は釈放されたもののカッザーフィーは激怒し、スイスへの石油供給を停止する報復措置をとったうえ、リビア滞在中のスイス人ビジネスマン2人を拘束した。
スイス政府はリビアとの交渉の末、ハンス=ルドルフ・メルツ連邦大統領がリビアを訪問してカッザーフィーに事実上謝罪した。しかし当初これでビジネスマン2人は解放され大統領とともに帰国するとみられていたが結局解放されず、スイス国内では大統領批判が起きた。リビアは拘束されたスイス人を裁判にかける動きに出た。またカッザーフィーは「スイスを分割してしまうよう」国連に提案するなどした。スイス大統領は9月の国連総会の際にカッザーフィーと会談して早期釈放を働きかけたが、カッザーフィーは「私の息子は侮辱を受けた」と述べ、解放を確約しなかった。スイス人2人は紆余曲折の末、2009年11月9日にようやく解放され、スイス大使館に保護された。
しかしその後、リビアは2人を裁判にかけた(結果は1人は無罪、1人は有罪で禁固4か月の判決)。これで問題は収束するかと思いきや、今度はスイスが一部のリビア人の入国を禁止する措置をとり、これに反発したリビアがスイス人を含む欧州人(英国人は除く)の入国を禁止すると発表するなど外交報復合戦に発展している。その後、EU各国の仲介努力がなされ、リビアはスイス大使館が保護している無罪だった1人の国外退去は認めチュニジアに出国させたが、有罪だったもう1人の身柄引き渡しを求めてスイス大使館を武装警察隊が包囲する事態に発展。スイスは国際外交法に違反する行為だと非難した。しかしこのスイス人は自ら禁固刑に服すると表明し、スイス大使館を出たところ、リビア警察に手錠を掛けられ、刑務所に連行されていった。カッザーフィーは演説でイスラム教のモスクを破壊する異教徒の国だ、としてスイスに対する「聖戦」を呼びかけた。さらにリビアはスイス製品の輸入を全面禁止するなど報復がエスカレートしている。
このカッザーフィーの聖戦の呼びかけについて2010年2月にアメリカ合衆国のクローリー国務次官補が記者会見で、2009年でのカッザーフィーの国連演説での振る舞いをひきあいに「私の記憶では沢山の言葉と沢山の紙が飛び交ったが余り筋が通っていなかった」などと発言した。リビア側がこの発言に反発し、公式謝罪がなければトリポリのアメリカ企業に対して何らかの措置に出る可能性があると警告した。米・リビア間の外交問題に発展しかねない情勢となったため、同次官補は急きょ駐米リビア大使と会談するなど事態の鎮静化に動きだし、「大佐を中傷する意図はなかった。発言は米国の政策を反映したものではなく、私の発言が二国間関係のさらなる発展を妨げる障害になったことを遺憾に思う」と釈明し事実上謝罪した。またこれを受けてリビアと米国の関係を話し合うためにフェルトマン国務次官補(中東担当)が2010年3月にリビアを訪問した。
2009年6月、イタリアを初訪問。黒い陸軍軍服姿で空港に降り立ったカッザーフィーは「イタリアが(昨年)我々に謝罪したため、私はここに来た」と語り、胸にはかつてイタリア軍に絞首刑にされた反植民地闘争の英雄オマル・ムフタールの写真をつけていた。友好訪問でこのようなことを行う首脳は異例であり国際常識では考えられないことである。訪問中、ローマ大学での講演には2時間近く遅れ、関係者らを激怒させたあげく、下院議長のジャンフランコ・フィーニとも会談予定だったが、予定の時間から2時間たっても現れず、議長は「遅刻の理由の説明もないままだ」と会談をキャンセル、その後に予定されていた国会議員らとの会合も取り止めになるなどわがままぶりを発揮した。このような遅刻や突然の会談キャンセルはリビア国内でも日常茶飯事である。 女性団体での会合では「アラブでは女性がこれまで家具のように扱われてきた」と述べ、アラブ諸国での女性の地位・権利向上に理解を示した。
1996年、リビアを友好訪問したトルコの首相に対しトルコがイスラエルやアメリカと友好関係にあることなどを厳しく非難した。
1973年7月のドバイ日航機ハイジャック事件では、自国のベンガジにあるベニナ空港にハイジャック機が降り、現地で犯人グループ(日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の混成)は投降、人質を解放した。このときカッザーフィーは投降した犯人グループが第三国に出国することを黙認していた。
カッザーフィーは、日本のラブホテルで使用しているのと同じ回転ベッドを日本より輸入し使用していた。この事実は1986年、トリポリの住居をレーガン政権下のアメリカ軍機に爆撃され、アメリカ政府の非人道性を訴えるため各国の報道陣に爆撃現場を公開した時に発覚した。公式サイトで使用されている、カッザーフィーの背後に世界地図が描かれている画像には日本列島がない(そのほかイギリスをはじめ、いくつかの島が省略されてしまっている)。
1995年1月に阪神・淡路大震災が発生した際には、「経済力で悪魔(アメリカ)に奉仕してきた日本人に天罰がくだった」と国営ジャマーヒリーヤ通信を通じて声明を出した。日本の外務省から「国際常識にもとる発言」だとしてただちに抗議に遭う。
2009年11月には、当時、日本リビア友好協会会長だった小池百合子と会談した。この時、小池からは、土産としてWiiが送られた。また「アフリカ支援の見返りとして石油利権の優先権を与える用意がある」とし、更に日本と深い関係にある欧米に対する態度が軟化した事で、今後リビアと日本の関係は進展していくと思われていた。
2009年12月15日、明治大学軍縮平和研究所が主催する衛星回線を使った対話集会に参加、講演を行ったあと、大学生らの質問に答えた。日本について「私はこれまで日本人を困らせたくないので、話すことを避けてきた」「欧米諸国と違い、日本はアフリカ大陸で植民地政策や侵略行為をしなかった」「国連で日本はアメリカに追随してばかり。もっと自由な意思を持たないといけない」「広島と長崎に原爆を落としたアメリカの(軍の)駐留を認めているのは悲しいことだ。あなたたちの祖父などを殺した国となぜ仲良くなれるのか」「日本はアジアの近隣諸国との友好、信頼関係を重視すべきだ」などと語った。またオバマ大統領について、イラク戦争の幕引きに乗り出したことなどを念頭に「(ブッシュ)前大統領の政策を継承する大統領ではない」と指摘しアフガニスタンへのアメリカ軍増派についても「総撤退する前に兵力を増強して威力を示すのは軍事戦略上の常識だ」と発言した。一方、中華人民共和国やインドについては「移民してアフリカの人々を追い出そうとしている」と語ったが「(アフリカの)石油を守ると言って軍隊を送り込む欧米と比べれば(中華人民共和国は)悪くない」と述べるなど、弁舌は健在だった。
2003年11月、韓国の仏教人権委員会はカッザーフィーを反独裁、民族解放運動を支援し、民主主義と自由、平等のために戦う闘争家と称え、外部勢力に対抗して、自由と平等、正義という大義を守るために行った先駆者としての役割を高く評価し「仏教人権賞」を授与した。
1997年、国連制裁で飛行が禁止されているにもかかわらずクーデター後のニジェールを訪問し熱狂的歓迎を受けた。
2009年2月、アフリカ・ウガンダの地元大衆紙が同国の部族王国の皇太后とカッザーフィーが「不倫関係にある」と報道。怒った駐ウガンダ・リビア大使が裁判所とウガンダ・メディア委員会に起訴した。委員会は10月、同紙に対し、5万ドル(約450万円)の損害賠償と謝罪文の掲載を命じた。
2010年3月中旬、宗教対立が続くナイジェリア情勢に関連してカッザーフィーはナイジェリアが北部のイスラム、南部のキリスト両教徒を中心とした2国家に分かれればよい、と発言した。これにナイジェリアが猛反発し、駐リビア大使を召還した。それにも関らずその後もカッザーフィーは「ナイジェリアは旧ユーゴスラビアのようになるのがふさわしい」と声明を発表した。
外遊の際などには必ずといっていいほど自国大使館の庭にテントを張って野営、そこで首脳会談を行うなどした。これは自分がベドウィン(遊牧民)出身であることを強調するためであるとされる。また若い女性兵士をボディーガードとして引き連れて行動する。この女性たちは西側メディアからは「カダフィ・ガールズ」と呼ばれた。
1989年9月、ベオグラードで開かれた非同盟諸国首脳会議に出席。会場外にテントを張り、ラクダを空輸して話題をさらった。この際、テントの中で日本をはじめ外国メディアとの会見に応じ、当時世界を席捲していたソビエト連邦のペレストロイカについて「私は支持している。しかし我々のほうが先に『緑の書』で革命を行っている」と語った。またレバノンでの欧米人人質は解放されるべきだ、とも語った。首脳会議での演説では「イスラエルをアラスカに移してしまえ」と発言した。
1990年、国際会議で「イスラエルにミサイルを打ち込むべきだ」と発言したが、イスラエルは「いつものカッザーフィー発言だ」として相手にしなかった。
2009年11月、国連サミットにおいて発展途上国の貧困へのアピールとして総長以下、各国国家代表も参加した「断食」のパフォーマンスを尻目に、500人のイタリア美女を集めたパーティを催し、その健在ぶりを誇示した。
2010年3月にシルトでアラブ連盟首脳会議を開催、開催国としてアラブ各国首脳を出迎えたが、カッザーフィーへの個人的わだかまりなどから加盟22カ国・機構のうち出席した首脳は10か国あまりにとどまった。前日の外相会議ではイラクの外相がカッザーフィーが以前に旧バース党のメンバーらと会談したことを非難、抗議して退場する一幕もあった。
2010年6月12日、ワールドカップ開催中、リビア国内での演説で国際サッカー連盟 (FIFA) について「選手の人身売買を行っている国際的なマフィアだ」と批判した。「貧しい国から選手を金で買い、練習をさせて金持ちの国に売っている」と主張し貧しい小国もワールドカップの開催地となる権利があると強調、「FIFAは人身売買でもうけた金で、貧しい国でのW杯開催を手助けすべきだ」と述べた。ちなみにリビアはこの年のワールドカップでは予選で敗退し本大会には出場していない。 2011年2月、騒乱状態のリビアにて、「中華人民共和国の天安門事件では、戦車によって人々が蹂躙されて中国の統一が保たれた。国家の統一のためならどんなこともする」と述べ、反体制派に対する虐殺などの弾圧を正当化した。これに対し、中華人民共和国外交部は困惑するも「リビアができるだけ早く社会の安定と正常な秩序を回復するよう強く希望する」として、カダフィの発言については批判しなかった。なお、当時の中国は首都トリポリとカッザーフィーの故郷スルトを結ぶ鉄道の建設などリビアで複数の権益を抱えており、内戦を受けて軍艦や輸送機などを派遣して中国人労働者3万人をリビアから退避させた。中国国内ではアラブの春に影響された中国ジャスミン革命も起きており、中国政府はカッザーフィー政権への武器提供疑惑が取り沙汰されていた。
1978年8月31日、レバノンのイスラーム教シーア派ウラマー、ムーサー・アッ=サドルがリビア訪問中に行方不明になった。リビア側は一貫して同師らはローマに向け出国したと説明してきたが、イタリアに入国記録はなく、レバノン司法当局はリビア政権が関与し誘拐、殺害した可能性が高いとして2008年8月27日、誘拐教唆などの容疑でカッザーフィーらリビア人計8人の逮捕状を取った。
1980年5月、国外に逃れた反体制派リビア人に対しただちに帰国するよう命令を出し、「帰国しない場合は命は保証しない」と恐怖の通告を行った。その後実際に欧州各地で亡命リビア人が何者かに殺害される事件が相次いだ。この事件についてナンバー2のジャルード少佐は当時「我が国では深遠なる革命が起きているのだ。革命有志たちが行っていることだ」と語っていた。
1988年にはテロ支援をやめると宣言を出す。「アラブの暴れん坊」から「地中海の紳士」へ変貌か?とも言われたが当時世界からは全く相手にされなかった。
1992年4月、パンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で国際連合がリビアに制裁を課した。この時カッザーフィーは「制裁が発動されればリビア国内のすべての油井に火を放つ」などと発言していたが実行はしなかった。また過去に何度か「もうアラブ連盟を脱退する」などの発言を行ってきたが実行に移した事はなかった。
アラブの指導者のなかではめずらしく、長い間ひげをたくわえない人物であったが、2000年あたりから口やあごに無精ひげを生やし始めていた。髪は長髪に伸ばし、軍帽の脇から髪が振り出している肖像が公開されている。
1970から80年代までは陸軍軍服姿や質素なベスト姿が多かったカッザーフィーだが、1990年あたりからさまざまな民族衣装や独特の服装を好んで着るようになっていた。あるときは白や黒の陸軍士官制服姿だったり、ベレー帽に野戦戦闘服姿だったり、アフリカの過去の著名な指導者の姿がプリントされたサファリルックだったりした。スーツの場合は純白のものを好んで着ることが多く、ネクタイは殆どしなかった。民族衣装は茶色、紫色、紺色、深紅色、青色などさまざまな色彩のものを着て登場した。またサングラスを着用していることが多かった。
カッザーフィーは「指導者が豊かさを享受するのは国民の後でよい」という理由から住居は兵舎を使用していると公言していた。
しかしこれはあくまで公においてのことであり、実際は暗殺を回避するため、1970年代から、「バアブ・アル=アズィースィーヤ(英語版)」と呼ばれる対空機関砲を備えた重装備の要塞のような場所に居住・執務していたとされる。1986年4月にアメリカ軍に空爆された際は、この「バアブ・アル=アズィーズィーヤ」から掘られた地下トンネルで脱出したことが1990年に明らかになっている。また車で国内移動の際も豪華なベンツ等に自身が乗っていると装いつつ、後続の護衛車に乗っている場合が多かった。これも暗殺を防ぐためだったと考えられる。また海外での国際会議に出席する際には、現地のホテルなどを使用せず、軍事用テントを設営して宿泊していた。
また複数の豪邸、専用ヨットなど贅沢三昧な私生活を送っていた事は国民の間にも知られていた。アメリカに敵対しながらアメリカの有名な女性歌手を借り切った豪華客船に招き家族で私的なコンサートを楽しむなど独裁者として日々の饗宴を満喫していたが、この女性歌手は後に出演料を返却した。
1986年、米軍の爆撃により破壊された首都トリポリの自宅を世界のマスメディアに向け自ら公開、その際に、日本のラブホテルで使用されるような「回転ベッド」の愛用が明らかになり、国際社会の失笑を買った。
また公的な資金もカッザーフィーの思うがままに使用された。サッカー好きの息子サーディーを自ら所有するクラブアル=アリSC(英語版)の選手とし、さらにリビア代表選手に仕立て上げただけでなく、イタリアの名門サッカークラブユヴェントスFCの株を国営公社に買い取らせ、役員に就任させている。そのほかにもセリエAに多額の資金援助を行い、ペルージャ・カルチョ等の有名クラブに所属させたが、明らかに力量不足であり、通算2試合だけしか出場できなかった。世界有数の強豪国であるサッカーアルゼンチン代表を、これまた高額なギャラでリビアに招き親善試合をしたこともある。
反乱軍によるリビア制圧後には、豪奢な邸宅と完全カスタムされたフィアット・500EV等の高価な私財が発見された。そのほか海外に天文学的な金額の隠し財産があることも判明し、如何にして現在のリビア政府に戻すべきか検討もされている。
2016年になって、カッザーフィー政権時代のリビアが、タックスヘイヴン(租税回避地)を隠れ蓑にする形で、核兵器開発に向けての取引を実施していたことが明らかになった。
告発サイトであるウィキリークスは、カッザーフィーは建物の2階より上階には滞在できないこと、長時間の航空機による移動や海上の飛行を嫌うなど、高所恐怖症である可能性を指摘した。
7男1女で、長男のムハンマド(英語版)は、カッザーフィーと第一夫人との間の子(ちなみに次男以降は全員第二夫人との間の子)で、リビアオリンピック委員会委員長であった。
次男のサイフ・アル=イスラームは、1972年生まれで、2011年までカッザーフィー開発基金(旧:国際慈善基金)総裁を務め、2005年4月には愛知万博視察のために来日している。その際に日本のTBSテレビのインタビューを受けたことがある。また、愛知万博においてリビアをフレンドシップ国として交流していた田原市も訪れ、渡辺崋山の絵を寄贈している。2006年には国際慈善基金総裁としてフィリピンのイスラム武装組織アブ・サヤフに誘拐された人質の解放に一役買った。2009年にパンナム機爆破事件のメグラヒ懲役囚が末期がんを理由にスコットランドの拘置所から釈放された問題では釈放に向け積極的に動き、メグラヒと一緒に飛行機に乗りトリポリの空港に降り立った。近年、父親の政治を批判したり、国内の民主化が必要だとする発言を行うなどして注目された。2009年10月6日に父カッザーフィーが「サイフ・アル=イスラームには、彼に役割を果たさせる地位が必要だ」と発言し、急きょ設けられた「人民社会指導部総合調整官」という職に就任した。後継者としての立場を強めたのではないかとも言われた。「人民社会指導部」は全人民会議、全人民委員会に助言を行う機関とされるが実態は不明。2010年6月、ロシアの首都モスクワで自身の描いた絵画の個展を開き、注目された。2011年2月の反政府デモに対してはテレビで武力弾圧を肯定する演説をおこなった。8月22日までに三男サーアディーと共に反カッザーフィー勢力に身柄を拘束されたと報道されたが、その日の夜に報道陣前に無事な姿を見せ抵抗継続を訴えている。その後行方がわからなくなったが、11月19日にリビア南部で身柄を拘束された。その後裁判にかけられ、2015年には銃殺刑が言い渡されたが、2017年6月に恩赦により釈放。2018年12月に予定されていた大統領選挙への出馬を表明した ものの選挙は延期され続けており、2020年2月現在も実施されていない。
三男のアッ=サーディーは、元プロサッカー選手。リビアの旧宗主国でもあるイタリアのサッカークラブ、ペルージャに入団したことは大きな話題となった。2002年日韓ワールドカップを見に日本に入国したことがあるが、成田空港で彼のボディガードが拳銃を所持していたために足止めをくらったことがある。彼はリビア軍の司令官の娘と結婚、選手引退後はリビアサッカー協会会長を務めていた。1996年にトリポリでサッカーの試合中に観客が暴動をおこし、通りに繰り出して「反カッザーフィー」を叫んだ事件では、サッカーの審判団がアッ=サーディーがオーナーを務めるサッカークラブに有利な判定を連発したことが原因とされている。
四男のハーンニーバールは、海運会社を経営するビジネスマンだが、欧州での豪遊で知られ、パリでスピード違反事件を起こしてしまったり、スイスで婦女暴行事件を起こしたとして拘束されてしまったり(結局無罪放免となった)、数々のトラブルを起こしている。2009年12月22日にはスイスでの暴行事件を報じた際に自分の顔写真を掲載したとしてスイスの新聞「トリビューン・ド・ジュネーブ」に名誉棄損での損害賠償を求める訴えを起こした。また同25日にはイギリスの高級ホテルにボディーガードらと宿泊していたが部屋から女性の悲鳴が聞こえたためにホテル側が警察に通報し、警察が到着するとハーンニーバールの妻(元モデル)が顔から血だらけになっていたなどの騒ぎを起こしている。なお、妻は2011年リビア内戦の際にレバノンへ亡命を図ろうとしたものの、拒否されている。
五男のアル=ムアタシム=ビッラーフ は、リビア陸軍少尉で、過去、父親に反乱を企てたこともある。が、のちに父親はそれを許し、2009年には「国家安全保障顧問」という地位にあった。2009年、リビアと米国の今後の関係についてヒラリー・クリントン米国務長官と会談を行い父親の有力後継者として注目された。2011年10月20日、父親と共に死亡した。
六男はサイフ・アル=アラブ(英語版)。ドイツに留学経験のある学生とされるが、2011年4月30日夜、NATO軍の空爆で29歳で死亡したとリビア政府から発表された。政権運営にはほとんど関わっていなかったとされている。
七男のハミース(英語版)はトリポリの軍学校で軍事学と科学の学士位を取得後、モスクワに留学しフルンゼ軍事学院(ru)とロシア連邦軍士官学校(ru)を卒業。2010年にはマドリードのIE ビジネススクールで修士位を取得した。 2011年リビア内戦ではリビア軍で最も重要とされる第32特殊連隊(通称ハミース旅団)の司令官に就任した。8月29日に死亡したとの発表が10月にあった。
長女のアーイシャ(英語版)は、弁護士で、イラク元大統領サッダーム・フセインの弁護団に加わると報道され(実際にはイラクに入国できず)、注目を浴びた。アーイシャは2006年に父親カッザーフィーのいとこと結婚した。2009年7月に、国連開発計画(UNDP)の親善大使に任命されていたが、2011年の内戦でリビア政府による市民への武力行使に対する措置としてその役を解任された。また内戦を避けマルタへ亡命を図ろうとしたものの、拒否されている。特定の部隊を率いているわけでは無いが、リビア軍将校の肩書があり、階級は陸軍中将である。
養女のハナは、1986年のアメリカ軍のリビア爆撃で死亡したとされ、2006年には爆撃20周年・ハナ死亡20年の追悼行事が開催されたが、2011年リビア内戦によるトリポリ陥落後、実は生存しており、医師としてトリポリの病院に勤務していたとの報道もなされた(ハナ死亡後に養女とした別の少女に再びハナと名付けたという説もある)。
甥のムハンマド・ムフタール・ラシュタルは、2007年よりニカラグア大統領のダニエル・オルテガの個人秘書や外交顧問を務めていた。
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"text": "ムアンマル・アル=カッザーフィー(アラビア語: معمر أبو منيار القذافي, muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī, 1942年6月7日 - 2011年10月20日)は、リビアの軍人・革命家・政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(社会主義人民リビア・アラブ国)の元首。",
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"text": "1969年のリビア革命(英語版)によって政権を獲得後、2011年に至るまで長期にわたり独裁政権を維持したが、2011年リビア内戦によって政権は崩壊、自身も反カッザーフィー派部隊によって殺害された。",
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"text": "日本では一般にカダフィ大佐という呼称で知られている。1993年から2009年まで1リビア・ディナール紙幣や50ディナール紙幣に肖像が使用されていた。",
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"text": "称号は「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者及び革命指導者」(زعيم وقائد الثورة في ليبيا, zaʿīm wa-qāʾid al-ṯawrah fī lībiyā, ザイーム・ワ=カーイド・ッ=サウラ・フィー・リービヤー)、「敬愛なる指導者」(الأخ القائد, al-aḫ al-qāʾid, アル=アフ・ル=カーイド)。",
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"text": "カッザーフィーの名称は世界各国で実に多様な綴りで表される。アラビア語リビア方言での一般的な発音に従うならばガッダーフィ(Gaddafi)であり、アルジャジーラ等ではこの表記を採用している。カッザーフィー自身は、1986年にアメリカの学校に宛てた書簡では El-Gadhafi と署名している。しかし彼の公式ウェブサイトの各言語版では El Gathafi, Al Gathafi など複数の表記が見られる。国際連合安全保障理事会では「カダフィ、ムアンマル・ムハンマド・アブミンヤール(Qadhafi, Muammar Mohammed Abu Minyar)」名で本人特定をしている。",
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"text": "日本では「カダフィ大佐」という呼び名が一般的である。特に新聞などのメディア報道では「カダフィ大佐」という呼称がされている。明仁天皇とカッザーフィーが慶事等で祝電、答電を送り合う場合、日本語では「リビア国革命指導者カダフィ閣下」と表記され、彼自身の公式ウェブサイト(#外部リンク参照)日本語版でも敬称は「閣下」である。",
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"text": "日本の新聞報道では、1969年から1977年までは「カダフィ革命評議会議長」、1977年から1979年までは「カダフィ全国人民会議書記長」、1979年に一切の公職を退いてからは「カダフィ元首」「カダフィ国家元首」「リビアの国家元首カダフィ前書記長」などと表記されていた。しかしリビアは公式には「直接民主制」(ジャマーヒリーヤ)を標榜しているために政府や国家元首は存在しないことになっている。このためか、1985年あたりからは「リビアの最高指導者カダフィ大佐」と表記されるようになった。",
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"text": "読売新聞は、2011年リビア騒乱以降、彼本人が「もう軍人でも大佐でもない」と言っているとしてそれまで使用してきた「リビアの最高指導者カダフィ大佐」の表記をやめ「リビアの最高指導者カダフィ氏」と表記している(2011年2月19日東京本社版朝刊国際面より)。",
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"text": "カッザーフィーが「大佐」(العقيد, al-ʿaqīd, アル=アキード。英訳: colonel)と呼ばれている理由については諸説がある。いずれの説でも、カッザーフィーが敬愛するエジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領が「陸軍大佐」であったからそれに倣った、という点は一致している。",
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"text": "なお、リビアの事実上の国家元首が軍の中堅幹部階級である「大佐」であることに違和感を覚える向きも多い が、リビアは建前上は「国家元首」の概念そのものを否定しているのであり、リビアの国家元首をあらわす称号が「大佐」だというわけではない。当然ながら、リビア軍には大佐より上の階級(将官)も存在し、軍の司令官であり士官学校時代以来のカッザーフィーの友人であるアブー=バクル・ユーニス・ジャーベル(英語版)は准将(عميد, ʿamīd, アミード)である。",
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"text": "1942年、カッザーフィーは、リビアの砂漠地帯に住むベドウィン(アラブ化したベルベル人のカッザーファ部族)の子として、スルトで生まれた。ムスリムの学校で初等教育を受ける。第一次中東戦争の影響を受け、エジプト自由将校団の中心人物であるガマール・アブドゥル=ナーセルのエジプト革命に魅せられ、アラブの統一による西洋、特にキリスト教圏への対抗を志す。1956年のスエズ危機では反イスラエル運動に参加する。ミスラタで中等学校を卒業、歴史に特に興味を示した。",
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"text": "1961年にベンガジの陸軍士官学校に進んだ。在学中から仲間たちとサヌーシー朝王家打倒を計画し自由将校団の組織を始める。1965年に卒業するとイギリス留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊の将校となる。ただしイギリスに留学経験があるものの英語は苦手のようで、1986年4月に米軍がトリポリを空爆し米・リビア関係が極度に緊迫した時期、アメリカのある小学校の生徒たちがカッザーフィーに世界平和を求める手紙を書いて送ったところ(先制攻撃したのはアメリカなのだが)、カッザーフィーは全員に英語で返事を書いたが、文法やつづりが間違いだらけだったという逸話がある。2007年8月の朝日新聞国際面の特集でも「カダフィ大佐は外国要人と会談する際に最近、英語も上達してきたようだ」との特派員の記述がある。",
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"text": "1969年9月1日、カッザーフィーは同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを起こし、政権を掌握した。病気療養のためにトルコに滞在中であった国王イドリース1世は廃位されて王政は崩壊、カッザーフィー率いる新政権は共和政を宣言して国号を「リビア・アラブ共和国」とした。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命指導評議会(日本のメディアは終始一貫して「革命評議会」と呼称していた)が共和国の最高政治機関となることが宣言された(カッザーフィーが革命指導評議会議長と公表されたのは翌年)。",
"title": "生涯"
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"text": "カッザーフィーは1973年より「文化革命」を始め、イスラームとアラブ民族主義と社会主義とを融合した彼独特の「ジャマーヒリーヤ」(直接民主制と訳される)という国家体制の建設を推進していった。翌年には「政治理論の研究に専念するため」として革命評議会議長職権限をナンバー2のジャルード少佐に委譲した(あくまで権限移譲であり、退任はしなかった)。1976年には毛沢東語録に倣い、自身の思想をまとめた『緑の書』という題名の本を出版した。緑とは、イスラームのシンボルカラーで、社会主義の赤に対して「イスラム社会主義」を象徴する。そして1977年、カッザーフィーは人民主権確立宣言を行い、「ジャマーヒリーヤ」を正式に国家の指導理念として導入した。これにより、国号も「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」(1986年に「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」と改称)に改められた。ジャマーヒリーヤ体制のもと、国権の最高機関として全国人民会議が設置され、カッザーフィーが初代全国人民会議書記長(国会議長職に相当し国家元首としての権能も有した)に就任した。その後カッザーフィーは1979年に全国人民会議書記長を辞任して一切の公職を退いたが、「革命指導者」の称号のもと、実質上の元首としてリビアを指導した。",
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"text": "カッザーフィーは、ナーセルの汎アラブ主義の後継者として1972年にはエジプトのアンワル・アッ=サーダート、シリアのハーフィズ・アル=アサドと組んで汎アラブ主義三か国によるアラブ共和国連邦を構想したが、本格的な統合を見ないまま5年後に解消している。1970年代はカッザーフィーの汎アラブ思想に振り回されたエジプトのサーダート大統領からは「頭のてっぺんから足の爪の先まで狂っている男」と評されており、中華人民共和国にアブデルサラム・ジャルード(英語版)首相を派遣して核兵器の購入を申し出て中国政府を驚愕させたこともあった。後にリビアがIAEAの査察を受け入れた際に中国製の核爆弾設計図が報告されるもこれはパキスタンから流入したものとされる。",
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"text": "カッザーフィーはパレスチナ解放機構 (PLO) の有力かつ公然の支持者であった。そのため1979年にサーダート大統領がイスラエルと和平したエジプトとの関係を決定的に悪化させた。また、資金援助などを通じて西アフリカを中心に影響力を維持していたほか、地域機関であるサヘル・サハラ諸国共同体 (CEN-SAD) を創設し、アフリカにおける影響力拡大の足場としていた。",
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"text": "当時のカッザーフィーの欧米諸国との関係は常に対立的で、アラブ最強硬派と目されていた。1984年の駐英リビア大使館員による反リビアデモ警備をしていた英国警官射殺事件、1985年のローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件、1986年の西ベルリンディスコ爆破事件など、テロ支援の問題から欧米との関係は悪化の一途をたどり、1970年代と1980年代の欧米やイスラエルに対する過激派のテロを支援した疑惑がもたれていた。それに対し、アメリカはカッザーフィーの居宅を狙って空爆する強硬手段(リビア爆撃)を取り、カッザーフィーを暗殺しようとした。カッザーフィーは外出しており危うく難を逃れた。1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否し、国連制裁を受ける。そのためリビアは当時のアメリカのロナルド・レーガン政権から「テロリスト」「狂犬」として名指しの批判を受け、以後アメリカとの対立は続いた。",
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"text": "この経験から、以降は住む場所を頻繁に変えていたという。また、この空爆の直前、作戦に反対だったイタリア政府(当時政権の座にあったベッティーノ・クラクシ首相、ジュリオ・アンドレオッティ外相の決断による)から極秘に空爆を通告されていたことが後日判明した。汎アラブ主義に対する評価はさまざまであるが栗本慎一郎等一部保守派の中にも死後に「カダフィーの内政やテロ支援での独裁政治はともかく石油の関税自主権を国際石油資本から取り戻し国民にも一定の繁栄をもたらした。」と評価する声もある。",
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"text": "アメリカによる経済制裁を受けて以降、カッザーフィーの態度には変化が訪れる。",
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"text": "1988年3月3日にカッザーフィーはトリポリにある刑務所の壁を自らブルドーザーを運転して破壊、囚人400人を恩赦により解放するパフォーマンスをおこなった。こうしたポピュリズム的な派手なパフォーマンスで国民から支持を得る一方で、1999年にはパンナム機爆破事件の容疑者のハーグ国際法廷への引渡しに応じ、2003年8月、リビアの国家としての事件への関与は否定しつつも、リビア人公務員が起こした事件の責任を負うとして総額27億ドルの補償に合意した。カッザーフィーは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件に際して、アラブ諸国の中でアル=カーイダに対する激しい非難を表明した指導者の1人であり、世界的なテロ批判の風潮に乗りリビア国内のイスラーム過激派組織「リビア・イスラーム戦闘団」と戦った。",
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"text": "さらにはイラク戦争の後、ジョージ・W・ブッシュ政権率いるアメリカなど西側諸国によって新たな攻撃対象にされるのを恐れてか、2003年末には核放棄を宣言し査察団の受け入れを行った。アメリカなどはこれらの対応を評価しそれまで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外す措置を取った。そして2006年5月15日にリビアとアメリカの国交正常化が発表された。リビア政府はパンナム機爆破事件などの遺族補償として、15億ドルを米政府に支払った。一方の米側も、一連のテロの報復として米軍機がリビアを空爆した際の民間被害に対し、3億ドルの支払いに応じていた。2008年10月にはアメリカ人犠牲者への補償金の支払いが完了し、国交を完全に正常化。2009年7月のラクイラサミットでは、夕食会の記念撮影の際にバラク・オバマ米大統領と握手を交し、国交正常化を印象付けた。なおオバマ大統領についてカッザーフィーはリビア国内での演説で「オバマはイスラム教徒である」との誤った認識を語ったことがある。",
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"text": "こうした態度の変化には、カッザーフィーの政治的関心が、各国間の対立が激しくて進展を見せない「汎アラブ主義」から、欧米との利害対立が比較的少ないといわれている「汎アフリカ主義」に移行しつつあるのでは、と指摘する意見がある。事実、2000年にトーゴで開かれたアフリカ統一機構 (OAU) 首脳会議に、長年同機構とは疎遠であったカッザーフィーが出席して地域統合の必要性を唱え、2002年のアフリカ統一機構からアフリカ連合への改組ではリビアは主導的な役割を果たした国の1つだった。",
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"text": "2009年9月にリビア革命40周年記念式典が行われ、リビア原油の主要輸出先であるイタリアのベルルスコーニ首相が植民地支配の謝罪・賠償合意に訪問し、式典にはベネズエラのチャベス大統領、スーダンのバシール大統領、ジンバブエのムガベ大統領、カタールのハマド首長、フィリピンのアロヨ大統領、イラクのハーシミー副大統領らが姿を見せ、最高指導者のカッザーフィーと笑顔で握手するなどした。リビアの国営通信社によると約50カ国から首脳や閣僚らが参列したが西側諸国は参加せず多くはアフリカや中東諸国だった。",
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"text": "態度を軟化させたとはいえその特異な言動と舌鋒は衰えを見せず、2009年9月23日に初めて出席した国連総会では、ニューヨーク郊外のニュージャージー州に遊牧民族の伝統に則りテントを張り、そこを宿にした。",
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"text": "また一般演説の席上、国連安保理を「テロ理事会」と批判。国連安保理常任理事国にのみ与えられている拒否権を、国連憲章の前文で謳われている加盟国の平等に反するものと批判し、演壇から国連憲章を投げ捨ててみせ大国による体制を批判したほか、「ターリバーンが作りたかったのは宗教国家だったのだ。だったらバチカンのように作らせてやればいい。バチカンがわれわれ(ムスリム)にとって危険な存在だろうか」と発言。さらに「オバマがずっと執権していればいい。オバマはアフリカの息子であり私の息子でもある」、「ケネディ元大統領が暗殺されたのはイスラエルに査察団を送り込んだため。調査した方がいい」「豚インフルエンザ(2009年新型インフルエンザ)はワクチンを売るために人工的につくられたもの、ワクチンは無料で提供しなければならない」などと発言した。カッザーフィーの演説は規定の時間である15分を上回る、1時間36分の長時間にわたった。この演説に対してオバマ大統領、ヒラリー・クリントン国務長官などは、はじめから退席。イラン大統領のマフムード・アフマディーネジャードも途中で退席。矢継ぎ早に言葉が飛び出す長時間の演説に、国連のアラビア語の同時通訳士が疲れきり、途中で交代する場面も見られた。",
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"text": "なお、この際に国連憲章を投げ捨てた行為は、2年後に同じ国連総会の場で、自らの政権を打倒したリビア国民評議会のマフムード・ジブリール執行委員会委員長(暫定首相)によって批判されることになる。",
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"text": "隣国チュニジアのジャスミン革命の影響を受け、2011年2月、カッザーフィーの退陣を求める欧州の影響を受けた大規模な反政府デモが発生。国民に対し徹底抗戦を呼びかけたが欧米を中心とした軍事介入と、欧州に援助された旧王党派などの反カッザーフィー派の蜂起を招き、2011年8月24日までにカッザーフィーは自身の居住区から撤退。反政府勢力により首都全土が制圧され、政権は事実上崩壊した(2011年リビア内戦)。",
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"text": "内戦が展開するなか、2月26日に国連安保理は全会一致で国際連合安全保障理事会決議1970を採択、6月27日に国連安保理から付託を受けた国際刑事裁判所は人道に対する罪を犯した疑いでカッザーフィーに逮捕状を請求し、9月9日に主任検察官から要請を受けた国際刑事警察機構は身柄拘束のための国際手配を行った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "8月に事実上政権が崩壊した後も抗戦を続けたカッザーフィーだったが、9月21日には評議会軍が南部サブハを制圧、更に10月17日にバニワリドを制圧し、2011年10月20日、リビア国民評議会は旧政権派の最後の拠点であったスルト周辺でカッザーフィーが死亡したと発表した。死亡の経緯については陥落したスルトから複数の護衛車両と共に脱出を試みた所をNATO軍(フランス空軍の戦闘機ミラージュ2000とアメリカ空軍の無人攻撃機RQ-1 プレデター)による航空攻撃を受け、破壊された車両から「近郊の下水排水口に逃げ込んだ所を反カダフィ派部隊に拘束」され、「その場で死亡した」という点では国民評議会、NATOを初めとする関係勢力、各国報道機関などで概ね一致している。しかしこの様な結果になった経緯については大きく異なる見解が出されている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "リビア国民評議会は「カッザーフィーをベンガジなどの主要都市に移送する予定であった」が、「途中で旧政府軍との戦闘が発生し、その銃撃戦に巻き込まれて死亡した」と公式見解を発表した。だが複数の消息筋は旧政府軍との戦闘はなく、カッザーフィーに対する私刑として民兵が射殺したと報道された。また殺害直後の現場を撮影した映像が流出し、そこではカッザーフィーの血塗れの死体を取り囲んで歓声を上げる民兵の集団が映されている。また更に死体を半裸にして地面に投げ出す、殴る蹴るなどの暴行を加えるなどの非倫理的行為が行われている。アルジャジーラなどの報道機関がこの事実を報道するとカッザーフィーの死亡経緯についての国民評議会の見解に大きな疑問が投げかけられた。",
"title": "生涯"
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"text": "国際法において戦時捕虜の処刑は不法行為であり、本来であればカッザーフィーに対する処分は公の裁判を経て決める必要があり、またカッザーフィーにはその権利が基本的人権として認められていた。もし意図的に捕虜にしたカッザーフィーを処刑したのであれば国際法違反となり、国際社会からの批判は避けられない。国連はリビア国民評議会に「カッザーフィー死亡の経緯について追加調査と説明を行う義務がある」と勧告した。アムネスティ・インターナショナルは「新政権は(旧政権のような)虐待の文化と決別しなければならない」として、復讐を名目とした戦争犯罪はカッザーフィー政権への反乱の正当性を失わせると指摘した。NATO軍は自軍の攻撃がカッザーフィーの拘束・殺害双方において決定打となったのではないかとの報道について、「(カッザーフィーが)乗っているのは知らなかった。個人は標的にしていない」と戦争犯罪に加担した可能性について釈明に追われた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "21日、インターネットに殺害時の映像を掲載した反カッザーフィー派兵士は「自分が殺害した」とした上で、殺害の理由については「ベンガジかミスラタのいずれに連行するかで議論になり、自軍の拠点に連行できる見通しが無くなった為にその場で処刑した」と述べたと報道されている。この説の場合、民兵間の口論に巻き込まれる形で処刑された事になる。またこの兵士はカッザーフィーが捕らえられたのは下水排水口ではなく路上であり、NATO軍の車列攻撃は無関係であると主張している。他に同じくカッザーフィー殺害を主張する少年兵士が存在しており、カッザーフィーが所持していた金色の拳銃を奪って射殺したという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "22日、カッザーフィーの遺体はリビア西部のミスラタに運ばれ、埋葬方法や時期についての議論がまとまるまでに遺体の腐敗を防ぐため、ミスラタにあるショッピングセンターの大型冷蔵室に遺体を保管する事が決定した。同日中に生存説などを払拭するために遺体の一般公開が行われ、カッザーフィーの遺体を一目見ようと数百人が行列を作ったという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "遺族関係者などはカッザーフィーの故郷で死亡地点でもあるスルトへの埋葬を求めていたが、国民評議会は最終的にこれを拒否し、10月25日の未明に砂漠の中の秘密の場所にカッザーフィーの遺体を埋葬したと発表した。遺体を埋葬した場所がカッザーフィーの支持者によって「聖地」にされることを防ぐため、国民評議会は遺体の埋葬場所を公表しないとしている。カッザーフィーの死の報を聞いたリビア国民が歓喜している写真や映像が全世界に配信され、改めて独裁政治の抑圧の凄まじさを死してなお見せ付ける結末となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "さらに、1984年に当時30歳の男性が、反体制テロリストの嫌疑を掛けられてベンガジのバスケットボール場で多数の児童たちを立ち会わせた見世物裁判にかけられ、コート内で絞首刑に処せられるまでの一部始終を撮影したベータマックステープがヒューマン・ライツ・ウォッチの関係者により発掘された(提供したのは処刑された男性の兄弟だった)。この映像はデジタル化した上で公開された。(詳細は英語版を参照)。この処刑はカッザーフィー政権初の公開処刑とされ、映像はリビア国営テレビでリビア全土に中継されていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領に心酔しており、クーデターで政権を握った翌年に初めてエジプトを訪問、ナーセルと会談している。が、直後にナーセルは急死、その後、エジプトとリビアは20年にわたって友好、敵対の関係を繰り返すことになった。",
"title": "国際関係"
},
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"paragraph_id": 36,
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"text": "当時、汎アラブ主義を唱えていたカッザーフィーは、1973年エジプトを訪問しサーダート大統領に対し、エジプトとリビアの合併を執拗に迫り、「サーダートが合併に合意するまで帰国しない」と主張しエジプト側を大いに困らせたことがある。1977年にエジプトとイスラエルが和解するやカッザーフィーはPLO、イラク、シリアとともに反エジプトの急先鋒に立ち、国交を断絶し、エジプトをアラブ連盟から追放した。そしてエジプトと同じだった国旗を一夜にして緑一色に変更した。その後もカッザーフィーはサーダート政権の打倒を繰り返し呼びかけ、1981年、実際にサーダートが暗殺されるとトリポリ放送を通じ「いかなる暴君にも必ず終りがある。自由の戦士たちよ、おめでとう」と祝福の声明を出した。後継のホスニー・ムバーラク政権に対しても敵意をむき出しにし、1985年にはスーダンでクーデターが起きた際に「エジプト国民もムバーラク政権も打倒せよ」と呼びかけ猛反発を買った。1989年5月に開催されたアラブ首脳会議ではエジプトの20年ぶりの連盟復帰が議題にされることになっていた。これにカッザーフィーは強く抗議し国営ジャマヒリア通信を通じ「エジプトが復帰するなら絶対に会議に参加しない。いかなる理由があろうと絶対に認めない」と強硬姿勢を示していた。が、突然方針を変更、会議に参加しエジプトの復帰が決まるとムバーラクに急接近し、翌年には17年ぶりにエジプトを訪問し国交を回復、後年まで友好関係は続いていた。1998年にカッザーフィーが骨折して入院した際にはムバーラクが病院へ見舞った。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "1974年、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの支配体制打倒を呼びかけ、皇帝と激しい対立関係に陥った。1979年、イラン革命が起きると関係を修復し、翌年勃発したイラン・イラク戦争ではアラブ諸国の中でも珍しくシリアとともにイランを支持・支援した。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "その後モロッコのハッサン国王(1984年にカッザーフィーが14年ぶりにモロッコを訪問して和解)やチュニジアのハビーブ・ブルギーバに対しても敵対発言をしたかと思えば和解を繰り返すなどしている。サウジアラビア国王のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズともアラブ首脳会議で罵りあって退席したりと対立が続いていたがのちにカタール国王のハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーの仲介で和解している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1982年、イスラエル軍のレバノン侵攻でPLO議長のヤーセル・アラファートの動向に世界中の注目が集まる中、「アラファートがいまだ独身なのは彼がホモだからだ」と突然発言。この発言はアラファートからは相手にされなかったものの、1992年4月にアラファートの乗った飛行機がリビアの砂漠で不時着した際は議長を救助し真っ先に病院に見舞った。この当時、リビアはパンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連制裁を受ける瀬戸際にあった。アラファートは「私はわが友人、カッザーフィーの側に立たねばならない」とリビアを擁護。カッザーフィーとアラファートの関係は決して悪いものではなかった。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1990年、湾岸危機が起きた際にはイラクとクウェートの和解を目指して提案を行ったが失敗している。",
"title": "国際関係"
},
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"paragraph_id": 41,
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"text": "1991年10月にパレスチナ問題の解決を目指しマドリードで開かれた中東和平会議の際には「我々がヒトラーの尻ぬぐいをする必要はない」とイスラエルとの和平交渉を厳しく批判した。翌年オスロ合意にも反発し1995年からはリビアから一切のパレスチナ人を追放した。そしてイスラエルとパレスチナがひとつの国家「イスラティナ」を樹立すべきだと提案したが相手にされず、その後もアラブ首脳会議でイスラティナ構想を提唱しているがパレスチナのマフムード・アッバース議長からは苦笑いされるだけで終わっている。1995年、イスラエル首相のイツハク・ラビンが暗殺された際には国営ジャマヒリア通信を通じ「彼の手は虐殺されたパレスチナ人の血で染まっている」と歓迎声明を出した。",
"title": "国際関係"
},
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1999年、ヨルダン国王のフセイン1世が死去した際、ヨルダン王制の打倒を呼びかけた。しかしその後、後継のアブドゥッラー2世とは関係は悪くなかったようで、リビア革命40年記念式典にもアブドゥッラーは招待されて出席している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2006年12月、イラクのサッダーム・フセインが処刑されると「彼は殉教者になった」としてリビアは3日間喪に服した。1979年に副大統領だったサッダームとカッザーフィーはバグダードで会談している。ただ、カッザーフィーは1992年に国連制裁を受けた際に同じく制裁を受けていたイラクのサッダーム政権に友好協力を呼び掛ける書簡を送ったことがあるものの、同じアラブの反米指導者とはいえそれほど親しい間柄にあったわけでも無かった(イラン・イラク戦争でリビアがイランを支持したこと、イラクのクウェート侵攻をリビアが批判したことも原因)。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2009年11月、FIFAワールドカップアフリカ予選試合でエジプトとアルジェリアが険悪な関係となる中で、アラブ連盟のムーサ事務局長がカッザーフィーに仲介を要請、カッザーフィーはこれを受諾した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1974年、ソビエト連邦を初めて友好親善訪問。軍事的な同盟関係にあるにもかかわらずレオニード・ブレジネフとの会談でソ連の対外政策を厳しく批判、ソ連指導部の表情を曇らせた。1980年代には反米姿勢を強めてワルシャワ条約機構に参加すると表明してソ連指導部を驚かせた。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1984年に地中海のクレタ島でフランス大統領のフランソワ・ミッテランと会談。フランス大統領との会談は1973年に訪仏して以来11年ぶりだった。その後2007年にニコラ・サルコジがリビアを訪問するまでフランス大統領とは会談をする機会がなかった。同年カッザーフィーがフランスを34年ぶりに訪問した際にはルーヴル美術館訪問のために交通をすべてストップし、サルコジとの会談ではサルコジが会談後の記者会見で「大佐に人権改善を要請した」と話したものの、カッザーフィーは「そのような話はなかった」と発言するなど大いに話題をまいた。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "フランスの司法当局は、サルコジが2007年の大統領選挙で勝利した際にカッザーフィー側から5,000万ユーロに及ぶ違法な資金援助を受けた疑いがあるとして、退任後の2018年に汚職などの容疑で訴追した。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "1976年、ニューズウィーク誌が「CIAがアラブ各国とともにいかなる手段を使ってでもカッザーフィー議長を打倒することで合意した」と報道。この頃からアメリカは強硬派カッザーフィーを警戒していた。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "1986年4月にアメリカ軍の空爆を受けた際は「ベトナム戦争のビデオを見ていた」と当時語っている。なおこの空爆では間一髪で爆撃を逃れたとされる。のち1989年になって当時のマルタ政府が空爆情報を事前にリビア側に伝えていたとされたが、のちにイタリア政府も事前に伝えていたことが明らかになった。この空爆ではしばらく公の場に姿をみせず、死亡説も流れたが、数日後、国営テレビでアメリカを厳しく非難する演説を行い健在を誇示した。この演説はアフリカの地図をバックに、海軍の軍服姿で行った。カッザーフィーは陸軍軍人だがこのときなぜ海軍の軍服姿だったかは不明。翌1987年、シリア大統領のハーフィズ・アル=アサドと会談した際にアメリカを激しく非難、再び米・リビア関係が緊迫した。2004年6月、アメリカ合衆国第40代大統領のロナルド・レーガンが死去した際には国営通信を通じ「レーガンが、86年に行ったリビアの子供らに対する醜悪な犯罪について、裁判で釈明せずに死去したことを非常に憂慮する」との声明を出した。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "1992年8月31日、クーデターでの政権掌握23周年を記念してテレビ演説し、「アメリカの民主党はユダヤ人の支持する大きな組織だ」として共和党への支持を表明。これまでのリビアの外交政策を転換して欧米諸国との関係改善に意欲を示し注目された。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2008年12月、カッザーフィーの五男がスイスで婦女暴行容疑で一時拘束される事件が発生。のちに息子は釈放されたもののカッザーフィーは激怒し、スイスへの石油供給を停止する報復措置をとったうえ、リビア滞在中のスイス人ビジネスマン2人を拘束した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "スイス政府はリビアとの交渉の末、ハンス=ルドルフ・メルツ連邦大統領がリビアを訪問してカッザーフィーに事実上謝罪した。しかし当初これでビジネスマン2人は解放され大統領とともに帰国するとみられていたが結局解放されず、スイス国内では大統領批判が起きた。リビアは拘束されたスイス人を裁判にかける動きに出た。またカッザーフィーは「スイスを分割してしまうよう」国連に提案するなどした。スイス大統領は9月の国連総会の際にカッザーフィーと会談して早期釈放を働きかけたが、カッザーフィーは「私の息子は侮辱を受けた」と述べ、解放を確約しなかった。スイス人2人は紆余曲折の末、2009年11月9日にようやく解放され、スイス大使館に保護された。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "しかしその後、リビアは2人を裁判にかけた(結果は1人は無罪、1人は有罪で禁固4か月の判決)。これで問題は収束するかと思いきや、今度はスイスが一部のリビア人の入国を禁止する措置をとり、これに反発したリビアがスイス人を含む欧州人(英国人は除く)の入国を禁止すると発表するなど外交報復合戦に発展している。その後、EU各国の仲介努力がなされ、リビアはスイス大使館が保護している無罪だった1人の国外退去は認めチュニジアに出国させたが、有罪だったもう1人の身柄引き渡しを求めてスイス大使館を武装警察隊が包囲する事態に発展。スイスは国際外交法に違反する行為だと非難した。しかしこのスイス人は自ら禁固刑に服すると表明し、スイス大使館を出たところ、リビア警察に手錠を掛けられ、刑務所に連行されていった。カッザーフィーは演説でイスラム教のモスクを破壊する異教徒の国だ、としてスイスに対する「聖戦」を呼びかけた。さらにリビアはスイス製品の輸入を全面禁止するなど報復がエスカレートしている。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "このカッザーフィーの聖戦の呼びかけについて2010年2月にアメリカ合衆国のクローリー国務次官補が記者会見で、2009年でのカッザーフィーの国連演説での振る舞いをひきあいに「私の記憶では沢山の言葉と沢山の紙が飛び交ったが余り筋が通っていなかった」などと発言した。リビア側がこの発言に反発し、公式謝罪がなければトリポリのアメリカ企業に対して何らかの措置に出る可能性があると警告した。米・リビア間の外交問題に発展しかねない情勢となったため、同次官補は急きょ駐米リビア大使と会談するなど事態の鎮静化に動きだし、「大佐を中傷する意図はなかった。発言は米国の政策を反映したものではなく、私の発言が二国間関係のさらなる発展を妨げる障害になったことを遺憾に思う」と釈明し事実上謝罪した。またこれを受けてリビアと米国の関係を話し合うためにフェルトマン国務次官補(中東担当)が2010年3月にリビアを訪問した。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2009年6月、イタリアを初訪問。黒い陸軍軍服姿で空港に降り立ったカッザーフィーは「イタリアが(昨年)我々に謝罪したため、私はここに来た」と語り、胸にはかつてイタリア軍に絞首刑にされた反植民地闘争の英雄オマル・ムフタールの写真をつけていた。友好訪問でこのようなことを行う首脳は異例であり国際常識では考えられないことである。訪問中、ローマ大学での講演には2時間近く遅れ、関係者らを激怒させたあげく、下院議長のジャンフランコ・フィーニとも会談予定だったが、予定の時間から2時間たっても現れず、議長は「遅刻の理由の説明もないままだ」と会談をキャンセル、その後に予定されていた国会議員らとの会合も取り止めになるなどわがままぶりを発揮した。このような遅刻や突然の会談キャンセルはリビア国内でも日常茶飯事である。 女性団体での会合では「アラブでは女性がこれまで家具のように扱われてきた」と述べ、アラブ諸国での女性の地位・権利向上に理解を示した。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1996年、リビアを友好訪問したトルコの首相に対しトルコがイスラエルやアメリカと友好関係にあることなどを厳しく非難した。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1973年7月のドバイ日航機ハイジャック事件では、自国のベンガジにあるベニナ空港にハイジャック機が降り、現地で犯人グループ(日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の混成)は投降、人質を解放した。このときカッザーフィーは投降した犯人グループが第三国に出国することを黙認していた。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "カッザーフィーは、日本のラブホテルで使用しているのと同じ回転ベッドを日本より輸入し使用していた。この事実は1986年、トリポリの住居をレーガン政権下のアメリカ軍機に爆撃され、アメリカ政府の非人道性を訴えるため各国の報道陣に爆撃現場を公開した時に発覚した。公式サイトで使用されている、カッザーフィーの背後に世界地図が描かれている画像には日本列島がない(そのほかイギリスをはじめ、いくつかの島が省略されてしまっている)。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "1995年1月に阪神・淡路大震災が発生した際には、「経済力で悪魔(アメリカ)に奉仕してきた日本人に天罰がくだった」と国営ジャマーヒリーヤ通信を通じて声明を出した。日本の外務省から「国際常識にもとる発言」だとしてただちに抗議に遭う。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2009年11月には、当時、日本リビア友好協会会長だった小池百合子と会談した。この時、小池からは、土産としてWiiが送られた。また「アフリカ支援の見返りとして石油利権の優先権を与える用意がある」とし、更に日本と深い関係にある欧米に対する態度が軟化した事で、今後リビアと日本の関係は進展していくと思われていた。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2009年12月15日、明治大学軍縮平和研究所が主催する衛星回線を使った対話集会に参加、講演を行ったあと、大学生らの質問に答えた。日本について「私はこれまで日本人を困らせたくないので、話すことを避けてきた」「欧米諸国と違い、日本はアフリカ大陸で植民地政策や侵略行為をしなかった」「国連で日本はアメリカに追随してばかり。もっと自由な意思を持たないといけない」「広島と長崎に原爆を落としたアメリカの(軍の)駐留を認めているのは悲しいことだ。あなたたちの祖父などを殺した国となぜ仲良くなれるのか」「日本はアジアの近隣諸国との友好、信頼関係を重視すべきだ」などと語った。またオバマ大統領について、イラク戦争の幕引きに乗り出したことなどを念頭に「(ブッシュ)前大統領の政策を継承する大統領ではない」と指摘しアフガニスタンへのアメリカ軍増派についても「総撤退する前に兵力を増強して威力を示すのは軍事戦略上の常識だ」と発言した。一方、中華人民共和国やインドについては「移民してアフリカの人々を追い出そうとしている」と語ったが「(アフリカの)石油を守ると言って軍隊を送り込む欧米と比べれば(中華人民共和国は)悪くない」と述べるなど、弁舌は健在だった。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "2003年11月、韓国の仏教人権委員会はカッザーフィーを反独裁、民族解放運動を支援し、民主主義と自由、平等のために戦う闘争家と称え、外部勢力に対抗して、自由と平等、正義という大義を守るために行った先駆者としての役割を高く評価し「仏教人権賞」を授与した。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "1997年、国連制裁で飛行が禁止されているにもかかわらずクーデター後のニジェールを訪問し熱狂的歓迎を受けた。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2009年2月、アフリカ・ウガンダの地元大衆紙が同国の部族王国の皇太后とカッザーフィーが「不倫関係にある」と報道。怒った駐ウガンダ・リビア大使が裁判所とウガンダ・メディア委員会に起訴した。委員会は10月、同紙に対し、5万ドル(約450万円)の損害賠償と謝罪文の掲載を命じた。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2010年3月中旬、宗教対立が続くナイジェリア情勢に関連してカッザーフィーはナイジェリアが北部のイスラム、南部のキリスト両教徒を中心とした2国家に分かれればよい、と発言した。これにナイジェリアが猛反発し、駐リビア大使を召還した。それにも関らずその後もカッザーフィーは「ナイジェリアは旧ユーゴスラビアのようになるのがふさわしい」と声明を発表した。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "外遊の際などには必ずといっていいほど自国大使館の庭にテントを張って野営、そこで首脳会談を行うなどした。これは自分がベドウィン(遊牧民)出身であることを強調するためであるとされる。また若い女性兵士をボディーガードとして引き連れて行動する。この女性たちは西側メディアからは「カダフィ・ガールズ」と呼ばれた。",
"title": "国際会議等での発言・パフォーマンス"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1989年9月、ベオグラードで開かれた非同盟諸国首脳会議に出席。会場外にテントを張り、ラクダを空輸して話題をさらった。この際、テントの中で日本をはじめ外国メディアとの会見に応じ、当時世界を席捲していたソビエト連邦のペレストロイカについて「私は支持している。しかし我々のほうが先に『緑の書』で革命を行っている」と語った。またレバノンでの欧米人人質は解放されるべきだ、とも語った。首脳会議での演説では「イスラエルをアラスカに移してしまえ」と発言した。",
"title": "国際会議等での発言・パフォーマンス"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1990年、国際会議で「イスラエルにミサイルを打ち込むべきだ」と発言したが、イスラエルは「いつものカッザーフィー発言だ」として相手にしなかった。",
"title": "国際会議等での発言・パフォーマンス"
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"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2009年11月、国連サミットにおいて発展途上国の貧困へのアピールとして総長以下、各国国家代表も参加した「断食」のパフォーマンスを尻目に、500人のイタリア美女を集めたパーティを催し、その健在ぶりを誇示した。",
"title": "国際会議等での発言・パフォーマンス"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2010年3月にシルトでアラブ連盟首脳会議を開催、開催国としてアラブ各国首脳を出迎えたが、カッザーフィーへの個人的わだかまりなどから加盟22カ国・機構のうち出席した首脳は10か国あまりにとどまった。前日の外相会議ではイラクの外相がカッザーフィーが以前に旧バース党のメンバーらと会談したことを非難、抗議して退場する一幕もあった。",
"title": "国際会議等での発言・パフォーマンス"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2010年6月12日、ワールドカップ開催中、リビア国内での演説で国際サッカー連盟 (FIFA) について「選手の人身売買を行っている国際的なマフィアだ」と批判した。「貧しい国から選手を金で買い、練習をさせて金持ちの国に売っている」と主張し貧しい小国もワールドカップの開催地となる権利があると強調、「FIFAは人身売買でもうけた金で、貧しい国でのW杯開催を手助けすべきだ」と述べた。ちなみにリビアはこの年のワールドカップでは予選で敗退し本大会には出場していない。 2011年2月、騒乱状態のリビアにて、「中華人民共和国の天安門事件では、戦車によって人々が蹂躙されて中国の統一が保たれた。国家の統一のためならどんなこともする」と述べ、反体制派に対する虐殺などの弾圧を正当化した。これに対し、中華人民共和国外交部は困惑するも「リビアができるだけ早く社会の安定と正常な秩序を回復するよう強く希望する」として、カダフィの発言については批判しなかった。なお、当時の中国は首都トリポリとカッザーフィーの故郷スルトを結ぶ鉄道の建設などリビアで複数の権益を抱えており、内戦を受けて軍艦や輸送機などを派遣して中国人労働者3万人をリビアから退避させた。中国国内ではアラブの春に影響された中国ジャスミン革命も起きており、中国政府はカッザーフィー政権への武器提供疑惑が取り沙汰されていた。",
"title": "国際会議等での発言・パフォーマンス"
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"text": "1978年8月31日、レバノンのイスラーム教シーア派ウラマー、ムーサー・アッ=サドルがリビア訪問中に行方不明になった。リビア側は一貫して同師らはローマに向け出国したと説明してきたが、イタリアに入国記録はなく、レバノン司法当局はリビア政権が関与し誘拐、殺害した可能性が高いとして2008年8月27日、誘拐教唆などの容疑でカッザーフィーらリビア人計8人の逮捕状を取った。",
"title": "テロ行為の疑惑と変容"
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"text": "1980年5月、国外に逃れた反体制派リビア人に対しただちに帰国するよう命令を出し、「帰国しない場合は命は保証しない」と恐怖の通告を行った。その後実際に欧州各地で亡命リビア人が何者かに殺害される事件が相次いだ。この事件についてナンバー2のジャルード少佐は当時「我が国では深遠なる革命が起きているのだ。革命有志たちが行っていることだ」と語っていた。",
"title": "テロ行為の疑惑と変容"
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"text": "1988年にはテロ支援をやめると宣言を出す。「アラブの暴れん坊」から「地中海の紳士」へ変貌か?とも言われたが当時世界からは全く相手にされなかった。",
"title": "テロ行為の疑惑と変容"
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"paragraph_id": 75,
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"text": "1992年4月、パンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で国際連合がリビアに制裁を課した。この時カッザーフィーは「制裁が発動されればリビア国内のすべての油井に火を放つ」などと発言していたが実行はしなかった。また過去に何度か「もうアラブ連盟を脱退する」などの発言を行ってきたが実行に移した事はなかった。",
"title": "テロ行為の疑惑と変容"
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"text": "アラブの指導者のなかではめずらしく、長い間ひげをたくわえない人物であったが、2000年あたりから口やあごに無精ひげを生やし始めていた。髪は長髪に伸ばし、軍帽の脇から髪が振り出している肖像が公開されている。",
"title": "人物像"
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"text": "1970から80年代までは陸軍軍服姿や質素なベスト姿が多かったカッザーフィーだが、1990年あたりからさまざまな民族衣装や独特の服装を好んで着るようになっていた。あるときは白や黒の陸軍士官制服姿だったり、ベレー帽に野戦戦闘服姿だったり、アフリカの過去の著名な指導者の姿がプリントされたサファリルックだったりした。スーツの場合は純白のものを好んで着ることが多く、ネクタイは殆どしなかった。民族衣装は茶色、紫色、紺色、深紅色、青色などさまざまな色彩のものを着て登場した。またサングラスを着用していることが多かった。",
"title": "人物像"
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"text": "カッザーフィーは「指導者が豊かさを享受するのは国民の後でよい」という理由から住居は兵舎を使用していると公言していた。",
"title": "人物像"
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"text": "しかしこれはあくまで公においてのことであり、実際は暗殺を回避するため、1970年代から、「バアブ・アル=アズィースィーヤ(英語版)」と呼ばれる対空機関砲を備えた重装備の要塞のような場所に居住・執務していたとされる。1986年4月にアメリカ軍に空爆された際は、この「バアブ・アル=アズィーズィーヤ」から掘られた地下トンネルで脱出したことが1990年に明らかになっている。また車で国内移動の際も豪華なベンツ等に自身が乗っていると装いつつ、後続の護衛車に乗っている場合が多かった。これも暗殺を防ぐためだったと考えられる。また海外での国際会議に出席する際には、現地のホテルなどを使用せず、軍事用テントを設営して宿泊していた。",
"title": "人物像"
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"text": "また複数の豪邸、専用ヨットなど贅沢三昧な私生活を送っていた事は国民の間にも知られていた。アメリカに敵対しながらアメリカの有名な女性歌手を借り切った豪華客船に招き家族で私的なコンサートを楽しむなど独裁者として日々の饗宴を満喫していたが、この女性歌手は後に出演料を返却した。",
"title": "人物像"
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"text": "1986年、米軍の爆撃により破壊された首都トリポリの自宅を世界のマスメディアに向け自ら公開、その際に、日本のラブホテルで使用されるような「回転ベッド」の愛用が明らかになり、国際社会の失笑を買った。",
"title": "人物像"
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"text": "また公的な資金もカッザーフィーの思うがままに使用された。サッカー好きの息子サーディーを自ら所有するクラブアル=アリSC(英語版)の選手とし、さらにリビア代表選手に仕立て上げただけでなく、イタリアの名門サッカークラブユヴェントスFCの株を国営公社に買い取らせ、役員に就任させている。そのほかにもセリエAに多額の資金援助を行い、ペルージャ・カルチョ等の有名クラブに所属させたが、明らかに力量不足であり、通算2試合だけしか出場できなかった。世界有数の強豪国であるサッカーアルゼンチン代表を、これまた高額なギャラでリビアに招き親善試合をしたこともある。",
"title": "人物像"
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"text": "反乱軍によるリビア制圧後には、豪奢な邸宅と完全カスタムされたフィアット・500EV等の高価な私財が発見された。そのほか海外に天文学的な金額の隠し財産があることも判明し、如何にして現在のリビア政府に戻すべきか検討もされている。",
"title": "人物像"
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"text": "2016年になって、カッザーフィー政権時代のリビアが、タックスヘイヴン(租税回避地)を隠れ蓑にする形で、核兵器開発に向けての取引を実施していたことが明らかになった。",
"title": "人物像"
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"text": "告発サイトであるウィキリークスは、カッザーフィーは建物の2階より上階には滞在できないこと、長時間の航空機による移動や海上の飛行を嫌うなど、高所恐怖症である可能性を指摘した。",
"title": "人物像"
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"text": "7男1女で、長男のムハンマド(英語版)は、カッザーフィーと第一夫人との間の子(ちなみに次男以降は全員第二夫人との間の子)で、リビアオリンピック委員会委員長であった。",
"title": "家族"
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"text": "次男のサイフ・アル=イスラームは、1972年生まれで、2011年までカッザーフィー開発基金(旧:国際慈善基金)総裁を務め、2005年4月には愛知万博視察のために来日している。その際に日本のTBSテレビのインタビューを受けたことがある。また、愛知万博においてリビアをフレンドシップ国として交流していた田原市も訪れ、渡辺崋山の絵を寄贈している。2006年には国際慈善基金総裁としてフィリピンのイスラム武装組織アブ・サヤフに誘拐された人質の解放に一役買った。2009年にパンナム機爆破事件のメグラヒ懲役囚が末期がんを理由にスコットランドの拘置所から釈放された問題では釈放に向け積極的に動き、メグラヒと一緒に飛行機に乗りトリポリの空港に降り立った。近年、父親の政治を批判したり、国内の民主化が必要だとする発言を行うなどして注目された。2009年10月6日に父カッザーフィーが「サイフ・アル=イスラームには、彼に役割を果たさせる地位が必要だ」と発言し、急きょ設けられた「人民社会指導部総合調整官」という職に就任した。後継者としての立場を強めたのではないかとも言われた。「人民社会指導部」は全人民会議、全人民委員会に助言を行う機関とされるが実態は不明。2010年6月、ロシアの首都モスクワで自身の描いた絵画の個展を開き、注目された。2011年2月の反政府デモに対してはテレビで武力弾圧を肯定する演説をおこなった。8月22日までに三男サーアディーと共に反カッザーフィー勢力に身柄を拘束されたと報道されたが、その日の夜に報道陣前に無事な姿を見せ抵抗継続を訴えている。その後行方がわからなくなったが、11月19日にリビア南部で身柄を拘束された。その後裁判にかけられ、2015年には銃殺刑が言い渡されたが、2017年6月に恩赦により釈放。2018年12月に予定されていた大統領選挙への出馬を表明した ものの選挙は延期され続けており、2020年2月現在も実施されていない。",
"title": "家族"
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"text": "三男のアッ=サーディーは、元プロサッカー選手。リビアの旧宗主国でもあるイタリアのサッカークラブ、ペルージャに入団したことは大きな話題となった。2002年日韓ワールドカップを見に日本に入国したことがあるが、成田空港で彼のボディガードが拳銃を所持していたために足止めをくらったことがある。彼はリビア軍の司令官の娘と結婚、選手引退後はリビアサッカー協会会長を務めていた。1996年にトリポリでサッカーの試合中に観客が暴動をおこし、通りに繰り出して「反カッザーフィー」を叫んだ事件では、サッカーの審判団がアッ=サーディーがオーナーを務めるサッカークラブに有利な判定を連発したことが原因とされている。",
"title": "家族"
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"text": "四男のハーンニーバールは、海運会社を経営するビジネスマンだが、欧州での豪遊で知られ、パリでスピード違反事件を起こしてしまったり、スイスで婦女暴行事件を起こしたとして拘束されてしまったり(結局無罪放免となった)、数々のトラブルを起こしている。2009年12月22日にはスイスでの暴行事件を報じた際に自分の顔写真を掲載したとしてスイスの新聞「トリビューン・ド・ジュネーブ」に名誉棄損での損害賠償を求める訴えを起こした。また同25日にはイギリスの高級ホテルにボディーガードらと宿泊していたが部屋から女性の悲鳴が聞こえたためにホテル側が警察に通報し、警察が到着するとハーンニーバールの妻(元モデル)が顔から血だらけになっていたなどの騒ぎを起こしている。なお、妻は2011年リビア内戦の際にレバノンへ亡命を図ろうとしたものの、拒否されている。",
"title": "家族"
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"text": "五男のアル=ムアタシム=ビッラーフ は、リビア陸軍少尉で、過去、父親に反乱を企てたこともある。が、のちに父親はそれを許し、2009年には「国家安全保障顧問」という地位にあった。2009年、リビアと米国の今後の関係についてヒラリー・クリントン米国務長官と会談を行い父親の有力後継者として注目された。2011年10月20日、父親と共に死亡した。",
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"text": "六男はサイフ・アル=アラブ(英語版)。ドイツに留学経験のある学生とされるが、2011年4月30日夜、NATO軍の空爆で29歳で死亡したとリビア政府から発表された。政権運営にはほとんど関わっていなかったとされている。",
"title": "家族"
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"text": "七男のハミース(英語版)はトリポリの軍学校で軍事学と科学の学士位を取得後、モスクワに留学しフルンゼ軍事学院(ru)とロシア連邦軍士官学校(ru)を卒業。2010年にはマドリードのIE ビジネススクールで修士位を取得した。 2011年リビア内戦ではリビア軍で最も重要とされる第32特殊連隊(通称ハミース旅団)の司令官に就任した。8月29日に死亡したとの発表が10月にあった。",
"title": "家族"
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"text": "長女のアーイシャ(英語版)は、弁護士で、イラク元大統領サッダーム・フセインの弁護団に加わると報道され(実際にはイラクに入国できず)、注目を浴びた。アーイシャは2006年に父親カッザーフィーのいとこと結婚した。2009年7月に、国連開発計画(UNDP)の親善大使に任命されていたが、2011年の内戦でリビア政府による市民への武力行使に対する措置としてその役を解任された。また内戦を避けマルタへ亡命を図ろうとしたものの、拒否されている。特定の部隊を率いているわけでは無いが、リビア軍将校の肩書があり、階級は陸軍中将である。",
"title": "家族"
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"paragraph_id": 94,
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"text": "養女のハナは、1986年のアメリカ軍のリビア爆撃で死亡したとされ、2006年には爆撃20周年・ハナ死亡20年の追悼行事が開催されたが、2011年リビア内戦によるトリポリ陥落後、実は生存しており、医師としてトリポリの病院に勤務していたとの報道もなされた(ハナ死亡後に養女とした別の少女に再びハナと名付けたという説もある)。",
"title": "家族"
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"paragraph_id": 95,
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"text": "甥のムハンマド・ムフタール・ラシュタルは、2007年よりニカラグア大統領のダニエル・オルテガの個人秘書や外交顧問を務めていた。",
"title": "家族"
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] |
ムアンマル・アル=カッザーフィーは、リビアの軍人・革命家・政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(社会主義人民リビア・アラブ国)の元首。 1969年のリビア革命によって政権を獲得後、2011年に至るまで長期にわたり独裁政権を維持したが、2011年リビア内戦によって政権は崩壊、自身も反カッザーフィー派部隊によって殺害された。 日本では一般にカダフィ大佐という呼称で知られている。1993年から2009年まで1リビア・ディナール紙幣や50ディナール紙幣に肖像が使用されていた。
|
{{大統領
| 人名=ムアンマル・アル=カッザーフィー
| 各国語表記={{lang|ar|مُعَمَّر القَذَّافِي}}
| 画像=Muammar al-Gaddafi at the AU summit.jpg
| 画像サイズ=200px
| キャプション=[[アフリカ連合]]のサミット出席時のカッザーフィー(2009年2月)
| 代数=
| 職名=[[File:Coat of arms of Libya (1977-2011).svg|25px]] [[リビアの革命指導者|革命指導者]]
| 国名=[[File:Flag of Libya (1977–2011).svg|27px]] [[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|大リビア・アラブ社会主義人民<br/>ジャマーヒリーヤ国]]
| 就任日=[[1977年]][[3月2日]]
| 退任日=[[2011年]][[8月23日]]
| 代数2=初
| 職名2=全国人民会議書記長
| 国名2= [[File:Flag of Libya (1977–2011).svg|27px]] [[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|大リビア・アラブ社会主義人民<br/>ジャマーヒリーヤ国]]
| 就任日2=[[1977年]][[3月2日]]
| 退任日2=[[1979年]][[3月2日]]
| 代数3=
| 職名3= {{ill|リビア革命指導評議会|en|Libyan Revolutionary Command Council|label=革命指導評議会議長}}
| 国名3= [[File:Flag of Libya (1969–1972).svg|27px]] [[リビア・アラブ共和国]]
| 就任日3=[[1969年]][[9月1日]]
| 退任日3=[[1977年]][[3月2日]]
| 代数4=第2
| 職名4=[[リビアの首相|首相]]
| 国名4=[[File:Flag of Libya (1969–1972).svg|27px]] [[リビア・アラブ共和国]]
| 就任日4=[[1970年]][[1月16日]]
| 退任日4=[[1972年]][[7月16日]]
| 代数5=第7
| 職名5=総会議長
| 国名5= [[File:Flag of the African Union.svg|25px]] [[アフリカ連合]]
| 就任日5=[[2009年]][[2月2日]]
| 退任日5=[[2010年]][[1月31日]]
| 出生日=[[1942年]][[6月7日]]
| 生地={{flagicon|ITA1861}} [[イタリア領リビア]]、[[スルト (リビア)|スルト]]
| 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1942|6|7|2011|10|20}}
| 没地={{LBY1977}}、スルト近郊
| 配偶者=Fatiha al-Nuri(1969年 - 1970年)<br>{{ill|サフィーヤ・ファルカーシュ|en|Safia Farkash|}}(1971年 - 2011年)</small>
| 子女={{ill|ムハンマド・アル=カッザーフィー|en|Muhammad Gaddafi|label=ムハンマド}}<br>[[サイフ・アル=イスラーム・ムアンマル・アル=カッザーフィー|サイフ・アル=イスラーム]]<br>[[アッ=サーディー・アル=カッザーフィー|アッ=サーディー]]<br>[[ハーンニーバール・ムアンマル・アル=カッザーフィー|ハーンニーバール]]<br>[[アル=ムアタシム=ビッラーフ・アル=カッザーフィー|アル=ムアタシム=ビッラーフ]]<br>{{ill|サイフ・アル=アラブ・ムアンマル・アル=カッザーフィー|en|Saif al-Arab al-Gaddafi|label=サイフ・アル=アラブ}}<br>{{ill|ハミース・ムアンマル・アル=カッザーフィー|en|Khamis Gaddafi|label=ハミース}}<br>{{ill|アーイシャ・アル=カッザーフィー|en|Ayesha Gaddafi|label=アーイシャ}}
| 政党= {{ill|リビア・アラブ社会主義同盟 |en|Arab Socialist Union (Libya)}}([[1971年]] - [[1977年]])
| サイン=Muammar al-Gaddafi Signature.svg
}}
{{Infobox Royal styles
|royal name = 大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者及び革命指導者<br/>{{lang|ar|الشقيق القائد ومرشد الثورة}}
|image =
|dipstyle = [[閣下]]
|color = #C0A73F
|background = Green
}}
'''ムアンマル・アル=カッザーフィー'''({{lang-ar|معمر أبو منيار القذافي}}, {{Transl|ar|DIN|muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī}}, [[1942年]][[6月7日]]<ref>[[6月19日]]生まれ説もある。かつては9月生まれ説もあった。</ref> - [[2011年]][[10月20日]])は、[[リビア]]の[[軍人]]・[[革命家]]・[[政治家]]で、[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国]](社会主義人民リビア・アラブ国)の[[リビアの元首一覧|元首]]。
[[1969年]]の{{仮リンク|リビア革命 (1969年)|label=リビア革命|en|1969 Libyan coup d'état}}によって政権を獲得後、[[2011年]]に至るまで長期にわたり[[独裁政治|独裁政権]]を維持したが、[[2011年リビア内戦]]によって政権は崩壊、自身も反カッザーフィー派部隊によって殺害された<ref name="カダフィ大佐が死亡=リビア国民評議会発表">[http://www.jiji.com/jc/ws?g=world&k=WorldEurope328590 カダフィ大佐が死亡=リビア国民評議会発表] 時事通信</ref>。
[[日本]]では一般に'''カダフィ大佐'''という呼称で知られている。[[1993年]]から[[2009年]]まで1[[リビア・ディナール]]紙幣や50ディナール紙幣に肖像が使用されていた。
== 名称表記 ==
称号は「[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者及び革命指導者]]」({{lang|ar|زعيم وقائد الثورة في ليبيا}}, {{Transl|ar|DIN|zaʿīm wa-qāʾid al-ṯawrah fī lībiyā}}, ザイーム・ワ=カーイド・ッ=サウラ・フィー・リービヤー)、「敬愛なる指導者」({{lang|ar|الأخ القائد}}, {{Transl|ar|DIN|al-aḫ al-qāʾid}}, アル=アフ・ル=カーイド)<ref>公式サイト([[#外部リンク]]参照)より。</ref>。
カッザーフィーの名称は世界各国で実に多様な綴りで表される<ref>[[井上ひさし]]の『ニホン語日記』によれば1969年の革命でにわかに政権指導者になったとき、欧米メディアの「カダフィ」のローマ字表記は7つから8つあったという。冠詞の "al" をつけるか否かやイニシャルだけで G, Q, K などが使用される([[アーンミーヤ|リビア方言]]([[:en:Libyan Arabic|en]])では[[フスハー|正則アラビア語]]の q の文字は g, k, kh と3通りに発音される可能性がある)ためで、実際に日本以外の主要メディアにおける表記は40種前後もあり、さらに個人名ムアンマルの表記のヴァリエーションも含めれば更に総数は増える。詳しくは本項目英語版該当記事([[:en:Muammar al-Gaddafi#Name|en]])参照。</ref>。[[アラビア語リビア方言]]での一般的な発音に従うならば'''ガッダーフィ'''('''''Gaddafi''''')であり、[[アルジャジーラ]]等ではこの表記を採用している。カッザーフィー自身は、[[1986年]]にアメリカの学校に宛てた書簡では '''''El-Gadhafi''''' と署名している。しかし彼の公式ウェブサイトの各言語版では '''''El Gathafi''''', '''''Al Gathafi''''' など複数の表記が見られる<ref>参考リンク:[http://newsling.wordpress.com/2011/02/21/gaddafi-qaddafi-kaddafi-lets-call-the-whole-thing-off/ Gaddafi? Qaddafi? Kaddafi? Let's call the whole things off! - newsling]</ref>。[[国際連合安全保障理事会]]では「'''カダフィ、ムアンマル・ムハンマド・アブミンヤール'''('''''Qadhafi, Muammar Mohammed Abu Minyar''''')」名で本人特定をしている<ref>2011年(平成23年)3月8日[[外務省]][[告示]]第75号「国際連合安全保障理事会決議に基づく資産凍結等の措置の対象となるリビアのカダフィ革命指導者及びその関係者を指定する件」</ref>。
日本では「カダフィ大佐」という呼び名が一般的である。特に[[新聞]]などのメディア報道では「カダフィ大佐」という呼称がされている。[[明仁天皇]]とカッザーフィーが慶事等で[[祝電]]、[[答電]]を送り合う場合、日本語では「リビア国革命指導者カダフィ閣下」と表記され、彼自身の公式ウェブサイト([[#外部リンク]]参照)日本語版でも敬称は「[[閣下]]」である。
日本の新聞報道では、[[1969年]]から[[1977年]]までは「カダフィ革命評議会議長」、1977年から[[1979年]]までは「カダフィ全国人民会議書記長」、1979年に一切の公職を退いてからは「カダフィ元首」「カダフィ国家元首」「リビアの国家元首カダフィ前書記長」などと表記されていた。しかしリビアは公式には「[[直接民主制]]」([[ジャマーヒリーヤ]])を標榜しているために政府や[[国家元首]]は存在しないことになっている。このためか、[[1985年]]あたりからは「リビアの最高指導者カダフィ大佐」と表記されるようになった。
読売新聞は、[[2011年リビア騒乱]]以降、彼本人が「もう軍人でも大佐でもない」と言っているとしてそれまで使用してきた「リビアの最高指導者カダフィ大佐」の表記をやめ「リビアの最高指導者カダフィ氏」と表記している(2011年[[2月19日]]東京本社版朝刊国際面より)。
=== 「大佐」の語義の諸説 ===
カッザーフィーが「[[大佐]]」({{lang|ar|العقيد}}, {{Transl|ar|DIN|al-ʿaqīd}}, アル=アキード。英訳: [[:en:Colonel|colonel]])と呼ばれている理由については諸説がある。いずれの説でも、カッザーフィーが敬愛する[[エジプト]]の[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]大統領が「陸軍大佐」であったからそれに倣った、という点は一致している。
なお、リビアの事実上の国家元首が軍の中堅幹部階級である「大佐」であることに違和感を覚える向きも多い<ref>もっとも、小国や軍の規模の小さい国(欧州の公国、アフリカ諸国など)では、軍の常設の最高位が大佐である場合もある。これは近代以前の軍隊では[[連隊]]が平時の編成上の最大単位であり、連隊長を務める大佐が実質的に軍の最高位であったことも関係している。英語版 [[:en:Colonel#Colonel as highest ranking officer|Colonel]] の該当項目も参照のこと。</ref> が、リビアは建前上は「国家元首」の概念そのものを否定しているのであり、リビアの国家元首をあらわす称号が「大佐」だというわけではない。当然ながら、[[リビア軍]]には大佐より上の階級([[将官]])も存在し、軍の[[司令官]]であり[[士官学校]]時代以来のカッザーフィーの友人である{{仮リンク|アブー=バクル・ユーニス・ジャーベル|en|Abu-Bakr Yunis Jabr}}は[[准将]]({{lang|ar|عميد}}, {{Transl|ar|DIN|ʿamīd}}, アミード)である。
<!--
; 「大佐」は誤訳であるという説
: カーネル・カッザーフィーと名乗るため日本語ではカーネルを大佐と翻訳しているが、本来のカーネルには軍事とは無関係に指導者という意味もあり、軍人としての大佐ではない<ref>ただし、カダフィ自身は「私はもう軍人ではないので『カーネル』と呼ばないで欲しい」と発言したという報道(2009年9月の朝日新聞「特派員コラム」)もあり、これに従うならば、カダフィ自身もこの「カーネル」を軍人としての階級であると理解していることになる。</ref>以上は「カダフィ大佐」は誤訳であり「指導者カダフィ」が正しい翻訳であるという説である。しかし、日本ではカーネルという単語の用法が正しく理解されていないため<ref>軍事用語では「カーネル、Colonel」は陸軍大佐であり、海軍大佐は「キャプテン Captain」を使う。日本語では「海軍大尉」「艦長」という誤訳が見られる</ref><ref>http://www.kfc.co.jp/room/story.html</ref>'''カダフィ大佐'''で定着してしまった。[[リビア軍]]には革命の前後とも大佐より上の階級が存在しているが、国家元首が大佐であることから[[リビア軍]]には大佐よりも上の階級が無いなどの誤解が生まれる原因にもなっている。
-->
; 「大佐」はニックネームであるという説
: エジプトのナーセルの地位が大佐であったため、自らもニックネームとして大佐を名乗ったのが定着した。
: また2011年2月23日の中日新聞及び東京新聞国際面の特派員記事によれば、カッザーフィーは軍籍を離れて久しいが、「リビアでは、元軍人に敬意を払うため、退役した時の最終階級で呼ばれる慣習がある」ため、現在もニックネームで大佐と呼ばれているに過ぎないという。
; 「大佐」は軍事上の階級であるという説
: カッザーフィーの軍事上の階級はもともと[[中尉]]({{lang|ar|ملازم أول}}, {{Transl|ar|DIN|mulāzim ʾawwal}}, ムラーズィム・アウワル)であったが<ref>大佐昇進以前のカッザーフィーの階級を[[大尉]]({{lang-en-short|[[:en:Captain|captain]]}})と解説する例もあるが、これは誤りである。またアブー=バクル・ユーニス・ジャーベルも[[少将]]({{lang-en-short|[[:en:Major General|major general]]}})と誤記されることがある。<br>参考リンク:[http://www.uniforminsignia.org/?option=com_insigniasearch&Itemid=53&result=1056 Libyan Army - UNIFORM INSIGNIA]</ref>、1969年の革命によって、エジプトのナーセルに倣って儀礼的に大佐に昇格した。その後も、革命の初心を忘れないようにということで大佐の階級のまま現在にいたっている。在東京のリビア人民局(事実上の大使館)はこの説明を採っている<ref>{{cite news|title=カダフィ大佐 なぜ大佐?|newspaper=読売新聞|date=2009-07-10|url=http://osaka.yomiuri.co.jp/mono/mo71023b.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071026023506/http://osaka.yomiuri.co.jp/mono/mo71023b.htm|archivedate=2007年10月26日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。ただし、カッザーフィー自身は「私はもう軍人ではないので『大佐』と呼ばないで欲しい」と発言しているという<ref>2009年9月の朝日新聞「特派員コラム」</ref>。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[1942年]]、カッザーフィーは、リビアの[[砂漠]]地帯に住む[[ベドウィン]]([[アラブ]]化した[[ベルベル人]]のカッザーファ部族)の子として、[[スルト (リビア)|スルト]]で生まれた。[[ムスリム]]の学校で初等教育を受ける。[[第一次中東戦争]]の影響を受け、エジプト自由将校団の中心人物であるガマール・アブドゥル=ナーセルの[[エジプト革命 (1952年)|エジプト革命]]に魅せられ、アラブの統一による[[西洋]]、特に[[キリスト教]]圏への対抗を志す。[[1956年]]の[[第二次中東戦争|スエズ危機]]では反[[イスラエル]]運動に参加する。[[ミスラタ]]で中等学校を卒業、歴史に特に興味を示した。
=== 軍人として ===
[[1961年]]に[[ベンガジ]]の[[陸軍士官学校]]に進んだ。在学中から仲間たちと[[リビア王国|サヌーシー朝]]王家打倒を計画し自由将校団の組織を始める。[[1965年]]に卒業すると[[イギリス]]留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊の[[将校]]となる。ただしイギリスに留学経験があるものの英語は苦手のようで、1986年4月に米軍がトリポリを空爆し米・リビア関係が極度に緊迫した時期、アメリカのある小学校の生徒たちがカッザーフィーに世界平和を求める手紙を書いて送ったところ(先制攻撃したのはアメリカなのだが)、カッザーフィーは全員に英語で返事を書いたが、文法やつづりが間違いだらけだったという逸話がある。2007年8月の朝日新聞国際面の特集でも「カダフィ大佐は外国要人と会談する際に最近、英語も上達してきたようだ」との特派員の記述がある。
=== 政権掌握 ===
[[ファイル:Nasser Qaddafi Atassi 1969.jpg|サムネイル|クーデター成功後、アラブ首脳会議に出席したカッザーフィー(中央軍服姿)<br />両隣にナセル(エジプト)とアタッシ(シリア)の両大統領。]]
[[1969年]][[9月1日]]、カッザーフィーは同志の[[将校]]たちと共に首都[[トリポリ]]で[[クーデター]]を起こし、政権を掌握した。病気療養のために[[トルコ]]に滞在中であった国王[[イドリース1世 (リビア王)|イドリース1世]]は廃位されて王政は崩壊、カッザーフィー率いる新政権は共和政を宣言して国号を「[[リビア・アラブ共和国]]」とした。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命指導評議会(日本のメディアは終始一貫して「革命評議会」と呼称していた)が共和国の最高政治機関となることが宣言された(カッザーフィーが革命指導評議会議長と公表されたのは翌年)。
[[File:Commemorative Medal-Libyan Revolution-Obverse.png|200px|thumb|right|1969年リビア革命の10周年を記念して発行されたカッザーフィーの[[肖像]]入り[[メダル]]]]カッザーフィーは[[1973年]]より「文化革命」を始め、[[イスラーム]]と[[汎アラブ主義|アラブ民族主義]]と[[社会主義]]とを融合した彼独特の「'''[[ジャマーヒリーヤ]]'''」([[直接民主制]]と訳される)という国家体制の建設を推進していった。翌年には「政治理論の研究に専念するため」として革命評議会議長職権限をナンバー2のジャルード少佐に委譲した(あくまで権限移譲であり、退任はしなかった)。[[1976年]]には[[毛主席語録|毛沢東語録]]に倣い<ref>Soumiea Abushagur (2011). The Art of Uprising: The Libyan Revolution in Graffiti. Lulu.com. p. 18. ISBN 9781105155352.</ref><ref>Christopher H. Dalton; Richard A. Lobban Jr. (2014). Libya: History and Revolution (illustrated ed.). ABC-CLIO. p. 129. ISBN 978-1440828850.</ref>、自身の思想をまとめた『[[緑の書]]』という題名の本を出版した。緑とは、イスラームのシンボルカラーで、社会主義の赤に対して「イスラム社会主義」を象徴する。そして[[1977年]]、カッザーフィーは人民主権確立宣言を行い、「ジャマーヒリーヤ」を正式に国家の指導理念として導入した。これにより、国号も「'''社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国'''<ref>日本国外務省ホームページの表記による [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/libya/data.html]。2004年以前は「社会主義人民リビア・アラブ国」という表記を採用していた。</ref>」([[1986年]]に「'''大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国'''」と改称)に改められた。ジャマーヒリーヤ体制のもと、国権の最高機関として全国人民会議が設置され、カッザーフィーが初代全国人民会議書記長(国会議長職に相当し国家元首としての権能も有した)に就任した。その後カッザーフィーは[[1979年]]に全国人民会議書記長を辞任して一切の公職を退いたが、「革命指導者」の称号のもと、実質上の元首としてリビアを指導した。
=== 汎アラブ主義・反米主義路線 ===
カッザーフィーは、ナーセルの[[汎アラブ主義]]の後継者として[[1972年]]にはエジプトの[[アンワル・アッ=サーダート]]、[[シリア]]の[[ハーフィズ・アル=アサド]]と組んで汎アラブ主義三か国による[[アラブ共和国連邦]]を構想したが、本格的な統合を見ないまま5年後に解消している。1970年代はカッザーフィーの汎アラブ思想に振り回されたエジプトのサーダート大統領からは「頭のてっぺんから足の爪の先まで狂っている男」と評されており、[[中華人民共和国]]に{{仮リンク|アブデルサラム・ジャルード|en|Abdessalam Jalloud}}首相を派遣して[[核兵器]]の購入を申し出て中国政府を驚愕させたこともあった<ref>The Risk Report Volume 1 Number 10 (December 1995) Page 1, 3-4. "Libya Has Trouble Building the Most Deadly Weapons". The Risk Report Volume 1 Number 10 (December 1995) Page 1, 3-4. Wisconsin Project reports.</ref>。後にリビアが[[IAEA]]の査察を受け入れた際に中国製の核爆弾設計図が報告されるもこれは[[パキスタン]]から流入したものとされる<ref>{{cite news |publisher=[[ワシントン・ポスト]] |date=2004-02-15 |title=Libyan Arms Designs Traced Back to China|url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/2004/02/15/libyan-arms-designs-traced-back-to-china/2aacac24-4d49-4198-9aa0-7d68962fd8c2/?utm_term=.cdacdb2097a5|accessdate=2019-06-27}}</ref>。
[[ファイル:Vladimir Putin with Muammar Gaddafi-2.jpg|thumb|220px|2008年4月、[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]とカッザーフィー]]
カッザーフィーは[[パレスチナ解放機構]] (PLO) の有力かつ公然の支持者であった。そのため[[1979年]]にサーダート大統領が[[イスラエル]]と和平したエジプトとの関係を決定的に悪化させた。また、資金援助などを通じて[[西アフリカ]]を中心に影響力を維持していたほか、地域機関である[[サヘル・サハラ諸国共同体]] (CEN-SAD) を創設し、[[アフリカ]]における影響力拡大の足場としていた。
当時のカッザーフィーの欧米諸国との関係は常に対立的で、アラブ最強硬派と目されていた。[[1984年]]の駐英リビア[[大使館]]員による反リビアデモ警備をしていた英国[[警官]]射殺事件{{Enlink|Murder of Yvonne Fletcher}}、1985年の[[ローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件]]、1986年の[[西ベルリン]]ディスコ爆破事件など、テロ支援の問題から欧米との関係は悪化の一途をたどり、[[1970年代]]と[[1980年代]]の[[欧米]]や[[イスラエル]]に対する過激派の[[テロ]]を支援した疑惑がもたれていた。それに対し、アメリカはカッザーフィーの居宅を狙って空爆する強硬手段([[リビア爆撃 (1986年)|リビア爆撃]])を取り、カッザーフィーを[[暗殺]]しようとした。カッザーフィーは外出しており危うく難を逃れた。<!--この空爆により養女ハナを失った。しかしながら、2011年のリビア内戦によりカダフィ政権が崩壊すると、養女のハナは実際には密かに生存しており医師となっていることが判明した。-->[[1988年]]の死者270人を出した[[パンアメリカン航空103便爆破事件|パンナム機爆破事件]]はリビアの[[諜報機関]]員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否し、国連制裁を受ける。そのためリビアは当時の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ロナルド・レーガン]]政権から「[[テロリズム|テロリスト]]」「狂犬」として名指しの批判を受け、以後アメリカとの対立は続いた。
この経験から、以降は住む場所を頻繁に変えていたという。また、この空爆の直前、作戦に反対だった[[イタリア政府]](当時政権の座にあった[[ベッティーノ・クラクシ]]首相、[[ジュリオ・アンドレオッティ]]外相の決断による)から極秘に空爆を通告されていたことが後日判明した<ref>[[毎日新聞]]2008年11月01日</ref>。汎アラブ主義に対する評価はさまざまであるが[[栗本慎一郎]]等一部保守派の中にも死後に「カダフィーの内政やテロ支援での独裁政治はともかく[[石油]]の[[関税自主権]]を[[国際石油資本]]から取り戻し国民にも一定の繁栄をもたらした。」と評価する声もある。
=== 冷戦後の路線 ===
[[ファイル:Muammar al-Gaddafi-6-30112006.jpg|right|220px|thumb|2006年]]
アメリカによる経済制裁を受けて以降、カッザーフィーの態度には変化が訪れる。
[[1988年]][[3月3日]]にカッザーフィーはトリポリにある刑務所の壁を自らブルドーザーを運転して破壊、囚人400人を恩赦により解放するパフォーマンスをおこなった。こうした[[ポピュリズム]]的な派手なパフォーマンスで国民から支持を得る一方で、[[1999年]]にはパンナム機爆破事件の容疑者の[[ハーグ国際法廷]]への引渡しに応じ、[[2003年]]8月、リビアの国家としての事件への関与は否定しつつも、リビア人公務員が起こした事件の責任を負うとして総額27億ドルの補償に合意した。カッザーフィーは、[[2001年]][[9月11日]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]に際して、[[アラブ諸国]]の中で[[アルカーイダ|アル=カーイダ]]に対する激しい非難を表明した指導者の1人であり、世界的なテロ批判の風潮に乗りリビア国内のイスラーム過激派組織「[[リビア・イスラーム戦闘団]]」と戦った。
さらには[[イラク戦争]]の後、[[ジョージ・W・ブッシュ]]政権率いるアメリカなど[[西側諸国]]によって新たな攻撃対象にされるのを恐れてか、[[2003年]]末には'''核放棄'''を宣言し査察団の受け入れを行った。アメリカなどはこれらの対応を評価しそれまで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外す措置を取った。そして[[2006年]][[5月15日]]にリビアとアメリカの国交正常化が発表された。リビア政府はパンナム機爆破事件などの遺族補償として、15億ドルを米政府に支払った。一方の米側も、一連のテロの報復として米軍機がリビアを空爆した際の民間被害に対し、3億ドルの支払いに応じていた<ref>“ブッシュ米大統領、カダフィ大佐と初めて電話会談 有力後継者、訪米へ”. 産経新聞. (2008年11月18日)</ref>。2008年10月にはアメリカ人犠牲者への補償金の支払いが完了し、国交を完全に正常化。[[2009年]]7月の[[第35回主要国首脳会議|ラクイラサミット]]では、夕食会の記念撮影の際に[[バラク・オバマ]]米大統領と握手を交し、国交正常化を印象付けた<ref>{{cite news|url=http://www.mainichi.jp/select/world/news/20090710dde007030014000c.html|title=ラクイラ・サミット:固めの握手 カダフィ大佐と米大統領|newspaper=毎日新聞|date=2009-07-10|accessdate=2009-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090715070814/http://www.mainichi.jp/select/world/news/20090710dde007030014000c.html|archivedate=2009年7月15日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。なおオバマ大統領についてカッザーフィーはリビア国内での演説で「オバマはイスラム教徒である」との誤った認識を語ったことがある。
こうした態度の変化には、カッザーフィーの政治的関心が、各国間の対立が激しくて進展を見せない「汎アラブ主義」から、欧米との利害対立が比較的少ないといわれている「[[パン・アフリカ主義|汎アフリカ主義]]」に移行しつつあるのでは、と指摘する意見がある。事実、[[2000年]]に[[トーゴ]]で開かれた[[アフリカ統一機構]] (OAU) 首脳会議に、長年同機構とは疎遠であったカッザーフィーが出席して地域統合の必要性を唱え、[[2002年]]のアフリカ統一機構から[[アフリカ連合]]への改組ではリビアは主導的な役割を果たした国の1つだった。
2009年9月にリビア革命40周年記念式典が行われ、リビア原油の主要輸出先である[[イタリア]]の[[ベルルスコーニ]]首相が植民地支配の謝罪・賠償合意に訪問し、式典には[[ベネズエラ]]の[[ウゴ・チャベス|チャベス]]大統領、[[スーダン]]の[[オマル・アル=バシール|バシール]]大統領、[[ジンバブエ]]の[[ムガベ]]大統領、[[カタール]]のハマド首長、[[フィリピン]]の[[グロリア・アロヨ|アロヨ]]大統領、[[イラク]]の[[ターリク・アル=ハーシミー|ハーシミー]]副大統領らが姿を見せ、最高指導者のカッザーフィーと笑顔で握手するなどした。リビアの国営通信社によると約50カ国から首脳や閣僚らが参列したが西側諸国は参加せず多くはアフリカや中東諸国だった<ref>{{cite news |title=リビア革命40周年式典 西側首脳は欠席 |newspaper=日テレNEWS24 |date=2009-09-02 |url=http://www.news24.jp/articles/2009/09/02/10142993.html |accessdate=2010-01-10}}</ref><ref>{{cite news |title=リビアで革命40周年記念式典、西側首脳は欠席 |newspaper=ロイター |date=2009-09-02 |url=https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-11305020090902 |accessdate=2010-01-10}}</ref>。
==== 2009年国連総会での演説 ====
態度を軟化させたとはいえその特異な言動と舌鋒は衰えを見せず、[[2009年]][[9月23日]]に初めて出席した国連総会では、[[ニューヨーク]]郊外の[[ニュージャージー州]]に[[遊牧民|遊牧民族]]の伝統に則りテントを張り、そこを宿にした。
また一般演説の席上、国連安保理を「テロ理事会」と批判。[[国際連合安全保障理事会常任理事国|国連安保理常任理事国]]にのみ与えられている拒否権を、[[国際連合憲章|国連憲章]]の前文で謳われている加盟国の平等に反するものと批判し、演壇から国連憲章を投げ捨ててみせ大国による体制を批判したほか<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090924-OYT1T00131.htm|title=カダフィ氏、国連総会で大荒れ…憲章投げ捨てる|newspaper=読売新聞|date=2009-09-24|accessdate=2009-09-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090926152518/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090924-OYT1T00131.htm|archivedate=2009年9月26日|deadurldate=2017年9月}}</ref>、「[[ターリバーン]]が作りたかったのは[[宗教国家]]だったのだ。だったら[[バチカン]]のように作らせてやればいい。バチカンがわれわれ([[ムスリム]])にとって危険な存在だろうか」と発言。さらに「オバマがずっと執権していればいい。オバマはアフリカの息子であり私の息子でもある」、「[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]元大統領が暗殺されたのはイスラエルに査察団を送り込んだため。調査した方がいい」「豚インフルエンザ(2009年新型インフルエンザ)はワクチンを売るために人工的につくられたもの、ワクチンは無料で提供しなければならない」などと発言した。カッザーフィーの演説は規定の時間である15分を上回る、1時間36分の長時間にわたった。この演説に対してオバマ大統領、[[ヒラリー・クリントン]]国務長官などは、はじめから退席。[[イラン]]大統領の[[マフムード・アフマディーネジャード]]も途中で退席。矢継ぎ早に言葉が飛び出す長時間の演説に、国連の[[アラビア語]]の[[通訳|同時通訳]]士が疲れきり、途中で交代する場面も見られた。
なお、この際に国連憲章を投げ捨てた行為は、2年後に同じ国連総会の場で、自らの政権を打倒した[[リビア国民評議会]]の[[マフムード・ジブリール]]執行委員会委員長(暫定首相)によって批判されることになる<ref>{{Cite news
|url = http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110925-OYT1T00521.htm
|title = リビア暫定首相「民主国家を建設」…国連で演説
|work = YOMIURI ONLINE
|newspaper = [[読売新聞]]
|date = 2011-09-25
|accessdate = 2011-09-25
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20120117230431/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110925-OYT1T00521.htm
|archivedate = 2012年1月17日
|deadurldate = 2017年9月
}}</ref>。
==== 政権崩壊 ====
隣国[[チュニジア]]の[[ジャスミン革命]]の影響を受け、[[2011年]]2月、カッザーフィーの退陣を求める欧州の影響を受けた大規模な反政府デモが発生。国民に対し徹底抗戦を呼びかけたが欧米を中心とした軍事介入と、欧州に援助された旧王党派などの反カッザーフィー派の蜂起を招き、[[2011年]][[8月24日]]までにカッザーフィーは自身の居住区から撤退。反政府勢力により首都全土が制圧され、政権は事実上崩壊した('''[[2011年リビア内戦]]''')。
内戦が展開するなか、[[2月26日]]に国連安保理は全会一致で[[国際連合安全保障理事会決議1970]]を採択、[[6月27日]]に国連安保理から付託を受けた[[国際刑事裁判所]]は[[人道に対する罪]]を犯した疑いでカッザーフィーに逮捕状を請求し<ref name="test">“カダフィ大佐らに逮捕状=デモ弾圧、市民殺害の疑い―国際刑事裁”. 時事通信. (2011年6月27日) 2011年6月29日閲覧。</ref>、[[9月9日]]に主任検察官から要請を受けた[[国際刑事警察機構]]は身柄拘束のための[[国際手配]]を行った<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0905Y_Z00C11A9FF1000/ カダフィ大佐を国際手配 ICPO、身柄拘束要請 :日本経済新聞](2011年9月9日)2015年5月23日閲覧。</ref><ref>[https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-23104220110909 ICC検察官、カダフィ大佐の国際手配強化をICPOに要請 | Reuters](2011年9月9日)2015年5月23日閲覧。</ref>。
==== 殺害 ====
{{Main|ムアンマル・アル=カッザーフィーの死}}
8月に事実上政権が崩壊した後も抗戦を続けたカッザーフィーだったが、9月21日には評議会軍が南部サブハを制圧、更に10月17日にバニワリドを制圧し、2011年10月20日、リビア国民評議会は旧政権派の最後の拠点であった[[スルト (リビア)|スルト]]周辺でカッザーフィーが死亡したと発表した<ref name="カダフィ大佐が死亡=リビア国民評議会発表"/>。死亡の経緯については陥落したスルトから複数の護衛車両と共に脱出を試みた所を[[北大西洋条約機構|NATO]]軍([[フランス空軍]]の戦闘機[[ミラージュ2000 (戦闘機)|ミラージュ2000]]と[[アメリカ空軍]]の[[無人攻撃機]][[RQ-1 プレデター]]<ref>{{Cite web|author=|url=https://www.foxnews.com/politics/u-s-drone-involved-in-final-qaddafi-strike-as-obama-heralds-regimes-end|title=U.S. Drone Involved in Final Qaddafi Strike, as Obama Heralds Regime's 'End'|publisher=[[FOXニュース]]|date=2011-10-20|accessdate=2019-07-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=|url=https://www.gizmodo.jp/2011/10/qaddafi-died-packing-a-giant-golden-gun.html|title=カダフィは誰に殺された? 暗殺再現アニメ|publisher=[[GIZMODO]]|date=2011-10-21|accessdate=2019-07-03}}</ref>)による航空攻撃を受け<ref name="毎日新聞20111022">[https://web.archive.org/web/20111024160358/http://mainichi.jp/select/world/news/20111022ddm007030010000c.html リビア:カダフィ大佐死亡 NATO、作戦終了へ 「貢献格差」明らか] 毎日新聞 2011年10月22日閲覧</ref>、破壊された車両から「近郊の下水排水口に逃げ込んだ所を反カダフィ派部隊に拘束」され、「その場で死亡した」という点では国民評議会、NATOを初めとする関係勢力、各国報道機関などで概ね一致している。しかしこの様な結果になった経緯については大きく異なる見解が出されている。
リビア国民評議会は「カッザーフィーをベンガジなどの主要都市に移送する予定であった」が、「途中で旧政府軍との戦闘が発生し、その銃撃戦に巻き込まれて死亡した」と公式見解を発表した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/news/111020/mds11102023070008-n1.htm 【カダフィ大佐死亡】 国民評議会副議長が確認 リビア全土解放を宣言へ] 産経新聞 2011年10月21日閲覧</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20111023182841/http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20111021k0000m030157000c.html リビア:カダフィ大佐 故郷のシルトで最後を迎える] 毎日新聞、2011年10月21日</ref>。だが複数の消息筋は旧政府軍との戦闘はなく、カッザーフィーに対する[[私刑]]として民兵が射殺したと報道された<ref name="日経20111021">{{cite news |title= 「大佐は銃撃戦で死亡」反カダフィ派が表明映像と食い違い、議論も|newspaper=日本経済新聞夕刊3版 |date=2011-10-21 |page=3 }}</ref><ref name="中日20111021">{{cite news |title=カダフィ大佐拘束後、銃撃戦で死亡か「連行中、殺害」情報も |newspaper=中日新聞夕刊D版 |date=2011-10-21 |page=1}}</ref>。また殺害直後の現場を撮影した映像が流出し、そこではカッザーフィーの血塗れの死体を取り囲んで歓声を上げる[[民兵]]の集団が映されている。また更に死体を半裸にして地面に投げ出す、殴る蹴るなどの暴行を加えるなどの非倫理的行為が行われている。[[アルジャジーラ]]などの報道機関がこの事実を報道するとカッザーフィーの死亡経緯についての国民評議会の見解に大きな疑問が投げかけられた<ref name="日経20111021"/><ref name="中日20111021"/>。
国際法において戦時[[捕虜]]の処刑は不法行為であり、本来であればカッザーフィーに対する処分は公の裁判を経て決める必要があり、またカッザーフィーにはその権利が[[人権|基本的人権]]として認められていた。もし意図的に捕虜にしたカッザーフィーを処刑したのであれば国際法違反となり<ref>[https://jp.reuters.com/article/mostViewedNews/idJPJAPAN-23758320111022 再送:カダフィ大佐の死因は調査必要、「即時処刑は違法」=国連] ロイター通信</ref>、国際社会からの批判は避けられない。国連はリビア国民評議会に「カッザーフィー死亡の経緯について追加調査と説明を行う義務がある」と勧告した<ref>国連、カダフィ大佐の死因解明を要請 CNN</ref>。[[アムネスティ・インターナショナル]]は「新政権は(旧政権のような)虐待の文化と決別しなければならない」として、復讐を名目とした[[戦争犯罪]]はカッザーフィー政権への反乱の正当性を失わせると指摘した<ref>カダフィ大佐死亡:移送途中に銃殺の可能性強まる 毎日新聞</ref>。NATO軍は自軍の攻撃がカッザーフィーの拘束・殺害双方において決定打となったのではないかとの報道について、「(カッザーフィーが)乗っているのは知らなかった。個人は標的にしていない」と戦争犯罪に加担した可能性について釈明に追われた<ref name="毎日新聞20111022"/>。
21日、インターネットに殺害時の映像を掲載した反カッザーフィー派兵士は「自分が殺害した」とした上で、殺害の理由については「ベンガジか[[ミスラタ]]のいずれに連行するかで議論になり、自軍の拠点に連行できる見通しが無くなった為にその場で処刑した」と述べたと報道されている。この説の場合、民兵間の口論に巻き込まれる形で処刑された事になる<ref name="jiji1022">「カダフィを射殺」と名乗り=街頭で遭遇、2発撃ち込む-兵士 時事通信</ref>。またこの兵士はカッザーフィーが捕らえられたのは下水排水口ではなく路上であり、NATO軍の車列攻撃は無関係であると主張している<ref name="jiji1022"/>。他に同じくカッザーフィー殺害を主張する少年兵士が存在しており、カッザーフィーが所持していた金色の拳銃を奪って射殺したという<ref>[http://www.47news.jp/news/2011/10/post_20111022213101.html カダフィ氏は少年が殺害 金色の銃でと英紙報道] 47news</ref>。
22日、カッザーフィーの遺体はリビア西部の[[ミスラタ]]に運ばれ、埋葬方法や時期についての議論がまとまるまでに遺体の腐敗を防ぐため、ミスラタにあるショッピングセンターの大型冷蔵室に遺体を保管する事が決定した<ref>[http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381959FE0E0E2E3998DE0E0E3E2E0E2E3E39C9C97E2E2E2 カダフィ大佐の遺体、事実上公開 店の冷蔵室に] 日本経済新聞 2011年10月22日閲覧</ref>。同日中に生存説などを払拭するために遺体の一般公開が行われ、カッザーフィーの遺体を一目見ようと数百人が行列を作ったという<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011102200336&google_editors_picks=true カダフィ大佐の遺体公開=遺族は故郷埋葬を要求-リビア] 時事通信</ref>。
遺族関係者などはカッザーフィーの故郷で死亡地点でもあるスルトへの埋葬を求めていたが、国民評議会は最終的にこれを拒否し、10月25日の未明に砂漠の中の秘密の場所にカッザーフィーの遺体を埋葬したと発表した。遺体を埋葬した場所がカッザーフィーの支持者によって「聖地」にされることを防ぐため、国民評議会は遺体の埋葬場所を公表しないとしている<ref>[http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20111026k0000m030055000c.html リビア:カダフィ大佐遺体を埋葬 砂漠の秘密の場所] 毎日新聞</ref>。カッザーフィーの死の報を聞いたリビア国民が歓喜している写真や映像が全世界に配信され、改めて独裁政治の抑圧の凄まじさを死してなお見せ付ける結末となった。
さらに、[[1984年]]に当時30歳の男性が、反体制テロリストの嫌疑を掛けられて[[ベンガジ]]のバスケットボール場で多数の児童たちを立ち会わせた[[見世物裁判]]にかけられ、コート内で[[絞首刑]]に処せられるまでの一部始終を撮影した[[ベータマックス]]テープが[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]の関係者により発掘された(提供したのは処刑された男性の兄弟だった)。この映像は[[デジタイズ|デジタル化]]した上で公開された。(詳細は[[:en:Execution of Al-Sadek Hamed Al-Shuwehdy|英語版]]を参照)。この処刑はカッザーフィー政権初の公開処刑とされ、映像はリビア国営テレビでリビア全土に中継されていた。
== 国際関係 ==
=== アラブおよびその周辺 ===
; エジプト
エジプトの[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]大統領に心酔しており、[[クーデター]]で政権を握った翌年に初めてエジプトを訪問、ナーセルと会談している。が、直後にナーセルは急死、その後、エジプトとリビアは20年にわたって友好、敵対の関係を繰り返すことになった。
当時、[[汎アラブ主義]]を唱えていたカッザーフィーは、[[1973年]]エジプトを訪問し[[アンワル・アッ=サーダート|サーダート]][[エジプトの大統領|大統領]]に対し、エジプトとリビアの合併を執拗に迫り、「サーダートが合併に合意するまで帰国しない」と主張しエジプト側を大いに困らせたことがある。[[1977年]]にエジプトとイスラエルが和解するやカッザーフィーは[[パレスチナ解放機構|PLO]]、[[イラク]]、シリアとともに反エジプトの急先鋒に立ち、国交を断絶し、エジプトを[[アラブ連盟]]から追放した。そしてエジプトと同じだった国旗を一夜にして緑一色に変更した。その後もカッザーフィーはサーダート政権の打倒を繰り返し呼びかけ、[[1981年]]、実際にサーダートが暗殺されると[[トリポリ放送]]を通じ「いかなる暴君にも必ず終りがある。自由の戦士たちよ、おめでとう」と祝福の声明を出した。後継の[[ホスニー・ムバーラク]]政権に対しても敵意をむき出しにし、[[1985年]]には[[スーダン]]でクーデターが起きた際に「エジプト国民もムバーラク政権も打倒せよ」と呼びかけ猛反発を買った。[[1989年]]5月に開催された[[アラブ首脳会議]]ではエジプトの20年ぶりの連盟復帰が議題にされることになっていた。これにカッザーフィーは強く抗議し国営[[ジャマヒリア通信]]を通じ「エジプトが復帰するなら絶対に会議に参加しない。いかなる理由があろうと絶対に認めない」と強硬姿勢を示していた。が、突然方針を変更、会議に参加しエジプトの復帰が決まるとムバーラクに急接近し、翌年には17年ぶりにエジプトを訪問し国交を回復、後年まで友好関係は続いていた。[[1998年]]にカッザーフィーが骨折して入院した際にはムバーラクが病院へ見舞った。
; 他の中東・北アフリカ諸国
[[1974年]]、イラン皇帝[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]の支配体制打倒を呼びかけ、皇帝と激しい対立関係に陥った。[[1979年]]、[[イラン革命]]が起きると関係を修復し、翌年勃発した[[イラン・イラク戦争]]ではアラブ諸国の中でも珍しくシリアとともにイランを支持・支援した。
その後[[モロッコ]]の[[ハサン2世 (モロッコ王)|ハッサン国王]](1984年にカッザーフィーが14年ぶりにモロッコを訪問して和解)や[[チュニジア]]の[[ハビーブ・ブルギーバ]]に対しても敵対発言をしたかと思えば和解を繰り返すなどしている。[[サウジアラビア]]国王の[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ]]ともアラブ首脳会議で罵りあって退席したりと対立が続いていたがのちに[[カタール]]国王の[[ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー]]の仲介で和解している。
[[1982年]]、[[イスラエル軍]]のレバノン侵攻でPLO議長の[[ヤーセル・アラファート]]の動向に世界中の注目が集まる中、「アラファートがいまだ独身なのは彼が[[同性愛|ホモ]]だからだ」と突然発言。この発言はアラファートからは相手にされなかったものの、[[1992年]]4月にアラファートの乗った飛行機がリビアの[[砂漠]]で[[不時着]]した際は議長を救助し真っ先に病院に見舞った。この当時、リビアは[[パンナム機爆破事件]]の容疑者引き渡し問題で国連制裁を受ける瀬戸際にあった。アラファートは「私はわが友人、カッザーフィーの側に立たねばならない」とリビアを擁護。カッザーフィーとアラファートの関係は決して悪いものではなかった。
[[1990年]]、[[湾岸危機]]が起きた際にはイラクと[[クウェート]]の和解を目指して提案を行ったが失敗している。
[[1991年]]10月に[[パレスチナ問題]]の解決を目指し[[マドリード]]で開かれた[[中東和平会議]]の際には「我々が[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の尻ぬぐいをする必要はない」とイスラエルとの和平交渉を厳しく批判した。翌年[[オスロ合意]]にも反発し[[1995年]]からはリビアから一切のパレスチナ人を追放した。そしてイスラエルとパレスチナがひとつの国家「[[イスラティナ]]」を樹立すべきだと提案したが相手にされず、その後もアラブ首脳会議で[[イスラティナ構想]]を提唱しているがパレスチナの[[マフムード・アッバース]]議長からは苦笑いされるだけで終わっている。[[1995年]]、イスラエル首相の[[イツハク・ラビン]]が暗殺された際には[[国営ジャマヒリア通信]]を通じ「彼の手は虐殺された[[パレスチナ人]]の血で染まっている」と歓迎声明を出した。
[[1999年]]、[[ヨルダン]]国王の[[フセイン1世]]が死去した際、ヨルダン王制の打倒を呼びかけた。しかしその後、後継の[[アブドゥッラー2世]]とは関係は悪くなかったようで、リビア革命40年記念式典にもアブドゥッラーは招待されて出席している。
[[2006年]]12月、イラクの[[サッダーム・フセイン]]が[[処刑]]されると「彼は[[殉教者]]になった」としてリビアは3日間喪に服した。[[1979年]]に副大統領だったサッダームとカッザーフィーは[[バグダード]]で会談している。ただ、カッザーフィーは1992年に国連制裁を受けた際に同じく制裁を受けていたイラクのサッダーム政権に友好協力を呼び掛ける書簡を送ったことがあるものの、同じアラブの反米指導者とはいえそれほど親しい間柄にあったわけでも無かった(イラン・イラク戦争でリビアがイランを支持したこと、イラクの[[クウェート侵攻]]をリビアが批判したことも原因)。
2009年11月、[[FIFAワールドカップ]]アフリカ予選試合でエジプトと[[アルジェリア]]が険悪な関係となる中で、アラブ連盟のムーサ事務局長がカッザーフィーに仲介を要請、カッザーフィーはこれを受諾した。
=== 欧米 ===
; 旧ソ連
[[1974年]]、[[ソビエト連邦]]を初めて友好親善訪問。軍事的な同盟関係にあるにもかかわらず[[レオニード・ブレジネフ]]との会談でソ連の対外政策を厳しく批判、ソ連指導部の表情を曇らせた。1980年代には反米姿勢を強めて[[ワルシャワ条約機構]]に参加すると表明してソ連指導部を驚かせた<ref>Harris, Lillian Craig (1986). Libya: Qadhafi's Revolution and the Modern State. Boulder, Colorado: Westview Press. ISBN 0-8133-0075-4, pp. 98–99</ref><ref>Kawczynski, Daniel (2011). Seeking Gaddafi: Libya, the West and the Arab Spring. Biteback. ISBN 978-1-84954-148-0, p. 115</ref><ref>Bruce St. John, Ronald (2012). Libya: From Colony to Revolution (revised edition). Oxford: Oneworld. ISBN 978-1-85168-919-4, pp. 210–211.</ref>。
; フランス
[[1984年]]に[[地中海]]の[[クレタ島]]で[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]]の[[フランソワ・ミッテラン]]と会談。フランス大統領との会談は[[1973年]]に訪仏して以来11年ぶりだった。その後[[2007年]]に[[ニコラ・サルコジ]]がリビアを訪問するまでフランス大統領とは会談をする機会がなかった。同年カッザーフィーがフランスを34年ぶりに訪問した際には[[ルーヴル美術館]]訪問のために交通をすべてストップし、サルコジとの会談ではサルコジが会談後の記者会見で「大佐に人権改善を要請した」と話したものの、カッザーフィーは「そのような話はなかった」と発言するなど大いに話題をまいた。
フランスの司法当局は、サルコジが[[2007年フランス大統領選挙|2007年の大統領選挙]]で勝利した際にカッザーフィー側から5,000万ユーロに及ぶ違法な資金援助を受けた疑いがあるとして、退任後の2018年に汚職などの容疑で訴追した<ref>{{Cite news
|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3168271|title=サルコジ仏元大統領、汚職疑惑で訴追 リビア大佐から選挙資金調達か|work=AFPBBNews|publisher=フランス通信社|date=2018-03-22|accessdate=2018-03-24}}</ref>。
; アメリカ
[[1976年]]、[[ニューズウィーク]]誌が「CIAがアラブ各国とともにいかなる手段を使ってでもカッザーフィー議長を打倒することで合意した」と報道。この頃からアメリカは強硬派カッザーフィーを警戒していた。
[[1986年]]4月に[[アメリカ軍]]の空爆を受けた際は「[[ベトナム戦争]]のビデオを見ていた」と当時語っている。なおこの空爆では間一髪で爆撃を逃れたとされる。のち[[1989年]]になって当時の[[マルタ共和国|マルタ]]政府が空爆情報を事前にリビア側に伝えていたとされたが、のちにイタリア政府も事前に伝えていたことが明らかになった。この空爆ではしばらく公の場に姿をみせず、死亡説も流れたが、数日後、国営テレビでアメリカを厳しく非難する演説を行い健在を誇示した。この演説はアフリカの地図をバックに、[[海軍]]の軍服姿で行った。カッザーフィーは陸軍軍人だがこのときなぜ海軍の軍服姿だったかは不明。翌[[1987年]]、シリア大統領のハーフィズ・アル=アサドと会談した際にアメリカを激しく非難、再び米・リビア関係が緊迫した。[[2004年]]6月、アメリカ合衆国第40代大統領のロナルド・レーガンが死去した際には国営通信を通じ「レーガンが、86年に行ったリビアの子供らに対する醜悪な犯罪について、裁判で釈明せずに死去したことを非常に憂慮する」との声明を出した。
[[1992年]]8月31日、クーデターでの政権掌握23周年を記念してテレビ演説し、「アメリカの[[民主党 (アメリカ)|民主党]]は[[ユダヤ人]]の支持する大きな組織だ」として[[共和党 (アメリカ)|共和党]]への支持を表明。これまでのリビアの外交政策を転換して欧米諸国との関係改善に意欲を示し注目された。
; スイス
[[2008年]]12月、カッザーフィーの五男が[[スイス]]で[[婦女暴行]]容疑で一時拘束される事件が発生。のちに息子は釈放されたもののカッザーフィーは激怒し、スイスへの石油供給を停止する報復措置をとったうえ、リビア滞在中の[[スイス人]][[ビジネスマン]]2人を拘束した。
スイス政府はリビアとの交渉の末、[[ハンス=ルドルフ・メルツ]]連邦大統領がリビアを訪問してカッザーフィーに事実上謝罪した。しかし当初これでビジネスマン2人は解放され大統領とともに帰国するとみられていたが結局解放されず、スイス国内では大統領批判が起きた。リビアは拘束されたスイス人を裁判にかける動きに出た。またカッザーフィーは「スイスを分割してしまうよう」国連に提案するなどした。スイス大統領は9月の国連総会の際にカッザーフィーと会談して早期釈放を働きかけたが、カッザーフィーは「私の息子は侮辱を受けた」と述べ、解放を確約しなかった。スイス人2人は紆余曲折の末、[[2009年]][[11月9日]]にようやく解放され、スイス大使館に保護された。
しかしその後、リビアは2人を裁判にかけた(結果は1人は無罪、1人は有罪で禁固4か月の判決)。これで問題は収束するかと思いきや、今度はスイスが一部のリビア人の入国を禁止する措置をとり、これに反発したリビアがスイス人を含む欧州人(英国人は除く)の入国を禁止すると発表するなど外交報復合戦に発展している。その後、[[ヨーロッパ連合|EU]]各国の仲介努力がなされ、リビアはスイス大使館が保護している無罪だった1人の国外退去は認めチュニジアに出国させたが、有罪だったもう1人の身柄引き渡しを求めてスイス大使館を武装警察隊が包囲する事態に発展。スイスは国際外交法に違反する行為だと非難した。しかしこのスイス人は自ら禁固刑に服すると表明し、スイス大使館を出たところ、リビア警察に手錠を掛けられ、刑務所に連行されていった。カッザーフィーは演説でイスラム教のモスクを破壊する異教徒の国だ、としてスイスに対する「聖戦」を呼びかけた。さらにリビアはスイス製品の輸入を全面禁止するなど報復がエスカレートしている。
このカッザーフィーの聖戦の呼びかけについて2010年2月にアメリカ合衆国のクローリー国務次官補が記者会見で、2009年でのカッザーフィーの国連演説での振る舞いをひきあいに「私の記憶では沢山の言葉と沢山の紙が飛び交ったが余り筋が通っていなかった」などと発言した。リビア側がこの発言に反発し、公式謝罪がなければトリポリのアメリカ企業に対して何らかの措置に出る可能性があると警告した。米・リビア間の外交問題に発展しかねない情勢となったため、同次官補は急きょ駐米リビア大使と会談するなど事態の鎮静化に動きだし、「大佐を中傷する意図はなかった。発言は米国の政策を反映したものではなく、私の発言が二国間関係のさらなる発展を妨げる障害になったことを遺憾に思う」と釈明し事実上謝罪した。またこれを受けてリビアと米国の関係を話し合うためにフェルトマン国務次官補(中東担当)が2010年3月にリビアを訪問した。
; イタリア
[[2009年]]6月、イタリアを初訪問。黒い陸軍軍服姿で空港に降り立ったカッザーフィーは「イタリアが(昨年)我々に謝罪したため、私はここに来た」と語り、胸にはかつてイタリア軍に絞首刑にされた反植民地闘争の英雄[[オマル・ムフタール]]の写真をつけていた。友好訪問でこのようなことを行う首脳は異例であり国際常識では考えられないことである。訪問中、[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学|ローマ大学]]での講演には2時間近く遅れ、関係者らを激怒させたあげく、下院議長の[[ジャンフランコ・フィーニ]]とも会談予定だったが、予定の時間から2時間たっても現れず、議長は「遅刻の理由の説明もないままだ」と会談をキャンセル、その後に予定されていた国会議員らとの会合も取り止めになるなどわがままぶりを発揮した。このような遅刻や突然の会談キャンセルはリビア国内でも日常茶飯事である。 女性団体での会合では「アラブでは女性がこれまで家具のように扱われてきた」と述べ、アラブ諸国での女性の地位・権利向上に理解を示した。
; トルコ
[[1996年]]、リビアを友好訪問した[[トルコ]]の首相に対しトルコがイスラエルやアメリカと友好関係にあることなどを厳しく非難した。<!-- 、訪問客に肘鉄をくらわせた。 --><!-- 比喩か事実か不明のためco -->
=== アジア ===
; 日本
1973年7月の[[ドバイ日航機ハイジャック事件]]では、自国の[[ベンガジ]]にある[[ベニナ空港]]にハイジャック機が降り、現地で犯人グループ([[日本赤軍]]と[[パレスチナ解放人民戦線]](PFLP)の混成)は投降、人質を解放した。このときカッザーフィーは投降した犯人グループが第三国に出国することを黙認していた。
カッザーフィーは、[[日本]]の[[ラブホテル]]で使用しているのと同じ[[回転ベッド]]を日本より輸入し使用していた。この事実は1986年、[[トリポリ]]の住居を[[レーガン政権]]下の[[アメリカ軍]]機に[[リビア爆撃 (1986年)|爆撃]]され、アメリカ政府の非人道性を訴えるため各国の報道陣に爆撃現場を公開した時に発覚した。公式サイトで使用されている、カッザーフィーの背後に世界地図が描かれている画像には日本列島がない(そのほか[[イギリス]]をはじめ、いくつかの島が省略されてしまっている)。
1995年1月に[[阪神・淡路大震災]]が発生した際には、「経済力で悪魔(アメリカ)に奉仕してきた日本人に天罰がくだった」と国営ジャマーヒリーヤ通信を通じて声明を出した。日本の外務省から「国際常識にもとる発言」だとしてただちに抗議に遭う。
2009年11月には、当時、日本リビア友好協会会長だった[[小池百合子]]と会談した<ref>https://m.youtube.com/watch?v=OzG9ztnBOZo</ref>。この時、小池からは、土産として[[Wii]]が送られた<ref> https://mobile.twitter.com/ecoyuri/status/5883654473?lang=ja</ref>。また「アフリカ支援の見返りとして石油利権の優先権を与える用意がある」とし、更に日本と深い関係にある欧米に対する態度が軟化した事で、今後リビアと日本の関係は進展していくと思われていた。
2009年12月15日、[[明治大学]]軍縮平和研究所が主催する衛星回線を使った対話集会に参加、講演を行ったあと、大学生らの質問に答えた。日本について「私はこれまで日本人を困らせたくないので、話すことを避けてきた」「欧米諸国と違い、日本はアフリカ大陸で植民地政策や侵略行為をしなかった」「国連で日本はアメリカに追随してばかり。もっと自由な意思を持たないといけない」「[[広島市への原子爆弾投下|広島]]と[[長崎市への原子爆弾投下|長崎]]に[[原子爆弾|原爆]]を落としたアメリカの(軍の)駐留を認めているのは悲しいことだ。あなたたちの祖父などを殺した国となぜ仲良くなれるのか」「日本はアジアの近隣諸国との友好、信頼関係を重視すべきだ」などと語った。またオバマ大統領について、イラク戦争の幕引きに乗り出したことなどを念頭に「(ブッシュ)前大統領の政策を継承する大統領ではない」と指摘しアフガニスタンへのアメリカ軍増派についても「総撤退する前に兵力を増強して威力を示すのは軍事戦略上の常識だ」と発言した。一方、中華人民共和国や[[インド]]については「移民してアフリカの人々を追い出そうとしている」と語ったが「(アフリカの)石油を守ると言って軍隊を送り込む欧米と比べれば(中華人民共和国は)悪くない」と述べるなど、弁舌は健在だった。
; 韓国
[[2003年]]11月、[[韓国]]の仏教人権委員会はカッザーフィーを反独裁、民族解放運動を支援し、民主主義と自由、平等のために戦う闘争家と称え、外部勢力に対抗して、自由と平等、正義という大義を守るために行った先駆者としての役割を高く評価し「仏教人権賞」を授与した。
=== その他の国 ===
[[1997年]]、国連制裁で飛行が禁止されているにもかかわらずクーデター後の[[ニジェール]]を訪問し熱狂的歓迎を受けた。
2009年2月、アフリカ・[[ウガンダ]]の地元大衆紙が同国の部族王国の[[皇太后]]とカッザーフィーが「不倫関係にある」と報道。怒った駐ウガンダ・リビア大使が裁判所と[[ウガンダ・メディア委員会]]に起訴した。委員会は10月、同紙に対し、5万ドル(約450万円)の損害賠償と謝罪文の掲載を命じた。
2010年3月中旬、宗教対立が続くナイジェリア情勢に関連してカッザーフィーはナイジェリアが北部のイスラム、南部のキリスト両教徒を中心とした2国家に分かれればよい、と発言した。これにナイジェリアが猛反発し、駐リビア大使を召還した。それにも関らずその後もカッザーフィーは「ナイジェリアは旧ユーゴスラビアのようになるのがふさわしい」と声明を発表した。
== 国際会議等での発言・パフォーマンス ==
[[外遊]]の際などには必ずといっていいほど自国大使館の庭に[[テント]]を張って野営、そこで首脳会談を行うなどした。これは自分が[[ベドウィン]]([[遊牧民]])出身であることを強調するためであるとされる。また若い女性兵士を[[ボディーガード]]として引き連れて行動する。この女性たちは西側メディアからは「カダフィ・ガールズ」と呼ばれた<ref>{{cite news |title=カダフィ・ガールズ 写真特集 |newspaper=時事通信 |date=2011-04-10 |url=http://www.jiji.com/jc/d4?p=qag100&d=d4_mili&j4 |accessdate=2011-06-29}}</ref>。
[[1989年]]9月、[[ベオグラード]]で開かれた[[非同盟運動|非同盟諸国首脳会議]]に出席。会場外にテントを張り、[[ラクダ]]を空輸して話題をさらった。この際、テントの中で日本をはじめ外国メディアとの会見に応じ、当時世界を席捲していた[[ソビエト連邦]]の[[ペレストロイカ]]について「私は支持している。しかし我々のほうが先に『[[緑の書]]』で革命を行っている」と語った。またレバノンでの欧米人人質は解放されるべきだ、とも語った。首脳会議での演説では「イスラエルを[[アラスカ]]に移してしまえ」と発言した。
1990年、国際会議で「イスラエルに[[ミサイル]]を打ち込むべきだ」と発言したが、イスラエルは「いつものカッザーフィー発言だ」として相手にしなかった。
2009年11月、[[国連サミット]]において発展途上国の貧困へのアピールとして総長以下、各国国家代表も参加した「[[断食]]」のパフォーマンスを尻目に、500人のイタリア美女を集めたパーティを催し、その健在ぶりを誇示した。
2010年3月にシルトでアラブ連盟首脳会議を開催、開催国としてアラブ各国首脳を出迎えたが、カッザーフィーへの個人的わだかまりなどから加盟22カ国・機構のうち出席した首脳は10か国あまりにとどまった。前日の外相会議ではイラクの外相がカッザーフィーが以前に旧バース党のメンバーらと会談したことを非難、抗議して退場する一幕もあった。
2010年[[6月12日]]、[[2010 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]開催中、リビア国内での演説で[[国際サッカー連盟]] (FIFA) について「選手の人身売買を行っている国際的なマフィアだ」と批判した。「貧しい国から選手を金で買い、練習をさせて金持ちの国に売っている」と主張し貧しい小国もワールドカップの開催地となる権利があると強調、「FIFAは人身売買でもうけた金で、貧しい国でのW杯開催を手助けすべきだ」と述べた。ちなみにリビアはこの年のワールドカップでは予選で敗退し本大会には出場していない。
2011年2月、[[騒乱]]状態の[[リビア]]にて、「[[中華人民共和国]]の[[六四天安門事件|天安門事件]]では、戦車によって人々が蹂躙されて中国の統一が保たれた。国家の統一のためならどんなこともする<ref>{{cite news |title=Qaddafi's Most Bizarre Moments in a Bizarre Speech |newspaper=The Atlantic |date=2011-02-22 |url=https://www.theatlantic.com/international/archive/2011/02/qaddafi-s-most-bizarre-moments-in-a-bizarre-speech/342161/ |accessdate=2018-01-30}}</ref>」と述べ、反体制派に対する[[虐殺]]などの弾圧を正当化した<ref name="nikkei201102">{{Cite news|title=中国、カダフィ大佐の「天安門」発言に困惑|agency=日本経済新聞|date=2011-02-24|accessdate=2018-08-26}}</ref><ref>{{cite news|title=【リビア騒乱】腹心の公安相が辞任し反乱を呼びかけ 内戦の様相|newspaper=産経新聞|date=2011-02-23|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110223/mds11022308570011-n1.htm|accessdate=2011-06-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110224200557/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110223/mds11022308570011-n1.htm|archivedate=2011年2月24日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。これに対し、[[中華人民共和国外交部]]は困惑するも「リビアができるだけ早く社会の安定と正常な秩序を回復するよう強く希望する」として、カダフィの発言については批判しなかった<ref name="nikkei201102" />。なお、当時の中国は首都トリポリとカッザーフィーの故郷スルトを結ぶ鉄道の建設などリビアで複数の権益を抱えており<ref>{{cite news |title=中国鉄建、リビアで受注した3件の鉄道工事、全面停止 |newspaper=The Atlantic |date=2011-03-08 |url=https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20110308/Searchina_20110308037.html |accessdate=2018-08-26}}</ref><ref>{{cite news |title=<中華経済>中国鉄建がリビアの幹線鉄道建設受注 |newspaper=[[Record China]] |date=2008-02-18 |url=https://www.recordchina.co.jp/b15778-s0-c20-d0000.html |accessdate=2018-08-28}}</ref>、内戦を受けて軍艦や輸送機などを派遣して中国人労働者3万人をリビアから退避させた<ref>{{Cite news|url=https://www.mod.go.jp/msdf/navcol/SSG/topics-column/col-095.html|title= 海洋安全保障雑感~米国東海岸便り(No.7)|work=海上自衛隊幹部学校|publisher=海上自衛隊幹部学校|date=2017-11-28|accessdate=2019-04-21}}</ref>。中国国内では[[アラブの春]]に影響された[[中国ジャスミン革命]]も起きており、中国政府はカッザーフィー政権への武器提供疑惑が取り沙汰されていた<ref>{{Cite news|title=カダフィ政権への中国の武器売却疑惑、リビア暫定政府が調査|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2824880|agency=AFP|date=2011-09-06|accessdate=2016-01-05}}</ref>。
== テロ行為の疑惑と変容 ==
[[1978年]][[8月31日]]、[[レバノン]]の[[イスラーム教]][[シーア派]][[ウラマー]]、[[ムーサー・アッ=サドル]]がリビア訪問中に行方不明になった。リビア側は一貫して同師らは[[ローマ]]に向け出国したと説明してきたが、[[イタリア]]に入国記録はなく、レバノン司法当局はリビア政権が関与し[[誘拐]]、殺害した可能性が高いとして[[2008年]][[8月27日]]、誘拐教唆などの容疑でカッザーフィーらリビア人計8人の逮捕状を取った。
[[1980年]]5月、国外に逃れた反体制派リビア人に対しただちに帰国するよう命令を出し、「帰国しない場合は命は保証しない」と恐怖の通告を行った。その後実際に欧州各地で亡命リビア人が何者かに殺害される事件が相次いだ。この事件についてナンバー2の[[ジャルード]]少佐は当時「我が国では深遠なる革命が起きているのだ。革命有志たちが行っていることだ」と語っていた。
[[1988年]]には[[テロ]]支援をやめると宣言を出す。「アラブの暴れん坊」から「地中海の紳士」へ変貌か?とも言われたが当時世界からは全く相手にされなかった。
[[1992年]]4月、[[パンアメリカン航空103便爆破事件|パンナム機爆破事件]]の容疑者引き渡し問題で[[国際連合]]がリビアに制裁を課した。この時カッザーフィーは「制裁が発動されればリビア国内のすべての[[油井]]に火を放つ」などと発言していたが実行はしなかった。また過去に何度か「もうアラブ連盟を脱退する」などの発言を行ってきたが実行に移した事はなかった。
== 人物像 ==
=== 容貌 ===
アラブの指導者のなかではめずらしく、長い間[[髭|ひげ]]をたくわえない人物であったが、2000年あたりから口やあごに無精ひげを生やし始めていた。髪は長髪に伸ばし、軍帽の脇から髪が振り出している肖像が公開されている。
=== 派手な衣装 ===
1970から80年代までは[[陸軍]][[軍服]]姿や質素な[[ベスト]]姿が多かったカッザーフィーだが、1990年あたりからさまざまな[[民族衣装]]や独特の服装を好んで着るようになっていた。あるときは白や黒の陸軍[[士官]]制服姿だったり、[[ベレー帽]]に野戦戦闘服姿だったり、アフリカの過去の著名な指導者の姿がプリントされた[[サファリルック]]だったりした。[[背広|スーツ]]の場合は純白のものを好んで着ることが多く、ネクタイは殆どしなかった。民族衣装は[[茶色]]、[[紫色]]、[[紺色]]、[[深紅色]]、[[青色]]などさまざまな色彩のものを着て登場した。また[[サングラス]]を着用していることが多かった。
=== 私生活 ===
カッザーフィーは「指導者が豊かさを享受するのは国民の後でよい」という理由から住居は兵舎を使用していると公言していた。
しかしこれはあくまで公においてのことであり、実際は暗殺を回避するため、1970年代から、「{{仮リンク|バーブ・アズィーズィーヤ|en|Bab al-Azizia|label=バアブ・アル=アズィースィーヤ}}」と呼ばれる対空機関砲を備えた重装備の要塞のような場所に居住・執務していたとされる。1986年4月にアメリカ軍に空爆された際は、この「バアブ・アル=アズィーズィーヤ」から掘られた地下トンネルで脱出したことが1990年に明らかになっている。また車で国内移動の際も豪華なベンツ等に自身が乗っていると装いつつ、後続の護衛車に乗っている場合が多かった。これも暗殺を防ぐためだったと考えられる。また海外での国際会議に出席する際には、現地のホテルなどを使用せず、軍事用テントを設営して宿泊していた。
また複数の豪邸、専用ヨットなど贅沢三昧な私生活を送っていた事は国民の間にも知られていた。アメリカに敵対しながらアメリカの有名な女性歌手を借り切った豪華客船に招き家族で私的なコンサートを楽しむなど独裁者として日々の饗宴を満喫していたが、この女性歌手は後に出演料を返却した<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20110224/21/|title=マライア・キャリー、カダフィ家族のためにプライベートコンサート|accessdate=2021/11/14}}</ref>。
[[1986年]]、[[米軍]]の[[爆撃]]により破壊された首都[[トリポリ]]の自宅を世界の[[マスメディア]]に向け自ら公開、その際に、日本の[[ラブホテル]]で使用されるような「[[回転ベッド]]」の愛用が明らかになり、国際社会の失笑を買った<ref name="postseven">[https://www.news-postseven.com/archives/20110523_20436.html?DETAIL 小学館 NEWSポストセブン 2011.05.23 07:00 - カダフィ氏「回転ベッド」愛用し、階段を35段以上上れない]</ref>。
また公的な資金もカッザーフィーの思うがままに使用された。サッカー好きの息子[[アッ=サーディー・アル=カッザーフィー|サーディー]]を自ら所有するクラブ{{仮リンク|アル=アリSC (トリポリ)|en|Al-Ahly SC (Tripoli)|label=アル=アリSC}}の選手とし、さらに[[サッカーリビア代表|リビア代表]]選手に仕立て上げただけでなく、イタリアの名門サッカークラブ[[ユヴェントスFC]]の株を国営公社に買い取らせ、役員に就任させている<ref>[https://web.archive.org/web/20130518235337/http://www.47news.jp/CN/200208/CN2002082701000517.html カダフィの息子が役員に 伊の強豪ユベントス] - 47NEWS 2002/08/27</ref>。そのほかにも[[セリエA (サッカー)|セリエA]]に多額の資金援助を行い、[[ペルージャ・カルチョ]]等の有名クラブに所属させたが、明らかに力量不足であり、通算2試合だけしか出場できなかった<ref>[http://qoly.jp/index.php/topic/166-201108/5718-gaddafi とあるリビア人選手のサッカー人生] - Qoly</ref>。世界有数の強豪国である[[サッカーアルゼンチン代表]]を、これまた高額なギャラでリビアに招き親善試合をしたこともある。
反乱軍によるリビア制圧後には、豪奢な邸宅と完全カスタムされた[[フィアット・500]]EV等の高価な私財が発見された。そのほか海外に天文学的な金額の隠し財産があることも判明し、如何にして現在のリビア政府に戻すべきか検討もされている。
[[2016年]]になって、カッザーフィー政権時代のリビアが、[[タックス・ヘイヴン|タックスヘイヴン]]([[租税回避]]地)を隠れ蓑にする形で、核兵器開発に向けての取引を実施していたことが明らかになった<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160523/k00/00m/030/085000c リビア 租税回避地使い核取引 130億円送金] 毎日新聞 2016年5月23日</ref>。
=== 高所恐怖症 ===
告発サイトである[[ウィキリークス]]は、カッザーフィーは[[建物]]の2階より上階には滞在できないこと、長時間の[[航空機]]による移動や海上の飛行を嫌うなど、[[高所恐怖症]]である可能性を指摘した<ref name="postseven" />。
== 家族 ==
7男1女で、長男の{{ill|ムハンマド・アル=カッザーフィー|en|Muhammad Gaddafi|label=ムハンマド}}は、カッザーフィーと第一夫人との間の子(ちなみに次男以降は全員第二夫人との間の子<ref name="family">{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/aug/30/gaddafi-family |title=The Gaddafi family – its key members |publisher=[[ガーディアン]] |date=2011-08-30 |accessdate=2011-10-29 }}</ref>)で、[[リビアオリンピック委員会]]委員長であった<ref name="family"/>。
次男の[[サイフ・アル=イスラーム・ムアンマル・アル=カッザーフィー|サイフ・アル=イスラーム]]は、1972年生まれで、2011年までカッザーフィー開発基金(旧:国際慈善基金)総裁を務め、[[2005年]]4月には[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]視察のために来日している。その際に日本の[[TBSテレビ]]のインタビューを受けたことがある。また、愛知万博においてリビアをフレンドシップ国として交流していた[[田原市]]も訪れ、[[渡辺崋山]]の絵を寄贈している。2006年には国際慈善基金総裁としてフィリピンのイスラム武装組織[[アブ・サヤフ]]に誘拐された人質の解放に一役買った。2009年にパンナム機爆破事件のメグラヒ懲役囚が末期がんを理由に[[スコットランド]]の拘置所から釈放された問題では釈放に向け積極的に動き、メグラヒと一緒に飛行機に乗りトリポリの空港に降り立った。近年{{いつ|date=2011年10月14日JST}}、父親の政治を批判したり、国内の民主化が必要だとする発言を行うなどして注目された。2009年10月6日に父カッザーフィーが「サイフ・アル=イスラームには、彼に役割を果たさせる地位が必要だ」と発言し、急きょ設けられた「人民社会指導部総合調整官」という職に就任した。後継者としての立場を強めたのではないかとも言われた。「人民社会指導部」は全人民会議、全人民委員会に助言を行う機関とされるが実態は不明。2010年6月、ロシアの首都モスクワで自身の描いた絵画の個展を開き、注目された。2011年2月の反政府デモに対してはテレビで武力弾圧を肯定する演説をおこなった。8月22日までに三男サーアディーと共に反カッザーフィー勢力に身柄を拘束されたと報道されたが、その日の夜に報道陣前に無事な姿を見せ抵抗継続を訴えている<ref>{{Cite news
|url=https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-22830220110823
|title=カダフィ大佐の次男拘束、正式な確認はなかった=IOC
|work=ロイター
|publisher=[[ロイター]]
|date=2011-08-23
|accessdate=2011-08-23
}}</ref>。その後行方がわからなくなったが、11月19日にリビア南部で身柄を拘束された<ref>{{Cite news
|url = http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111119-OYT1T00799.htm
|title = カダフィ氏次男のセイフ・イスラム氏を拘束
|work = YOMIURI ONLINE
|newspaper = [[読売新聞]]
|date = 2011-11-19
|accessdate = 2011-11-19
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20120117230404/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111119-OYT1T00799.htm
|archivedate = 2012年1月17日
|deadurldate = 2017年9月
}}</ref>。その後裁判にかけられ、2015年には銃殺刑が言い渡されたが、2017年6月に恩赦により釈放<ref>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/world/35102575.html|title=カダフィ大佐の息子、恩赦で釈放 リビア|work=CNN.co.jp|agency=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|date=2017-06-12|accessdate=2018-11-08}}</ref>。2018年12月に予定されていた大統領選挙への出馬を表明した<ref>{{Cite news|url=https://www.telegraph.co.uk/news/2018/03/20/gaddafis-son-saif-run-libyan-president-2018-elections/|title=Gaddafi's son Saif 'to run for Libyan president' in 2018 elections|newspaper=[[デイリー・テレグラフ]]|date=2018-03-20|accessdate=2018-11-08}}</ref> ものの選挙は延期され続けており、2020年2月現在も実施されていない<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2019041000249&g=int|title=リビア「国民会議」を延期=戦闘激化、政治解決困難に|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2019-04-10|accessdate=2020-02-17}}</ref>。
三男の[[アッ=サーディー・アル=カッザーフィー|アッ=サーディー]]は、元プロサッカー選手。リビアの旧[[宗主国]]でもある[[イタリア]]の[[サッカー]]クラブ、[[ペルージャ・カルチョ|ペルージャ]]に入団したことは大きな話題となった<ref name="family"/>。2002年日韓ワールドカップを見に日本に入国したことがあるが、成田空港で彼のボディガードが拳銃を所持していたために足止めをくらったことがある。彼はリビア軍の司令官の娘と結婚、選手引退後はリビアサッカー協会会長を務めていた。1996年にトリポリでサッカーの試合中に観客が暴動をおこし、通りに繰り出して「反カッザーフィー」を叫んだ事件では、サッカーの審判団がアッ=サーディーがオーナーを務めるサッカークラブに有利な判定を連発したことが原因とされている。
四男<!--1975年生-->の[[ハーンニーバール・ムアンマル・アル=カッザーフィー|ハーンニーバール]]は、海運会社を経営するビジネスマンだが<ref name="family"/>、欧州での豪遊で知られ、パリでスピード違反事件を起こしてしまったり、スイスで婦女暴行事件を起こしたとして拘束されてしまったり(結局無罪放免となった)、数々のトラブルを起こしている。2009年12月22日にはスイスでの暴行事件を報じた際に自分の顔写真を掲載したとしてスイスの新聞「トリビューン・ド・ジュネーブ」に名誉棄損での損害賠償を求める訴えを起こした。また同25日にはイギリスの高級ホテルにボディーガードらと宿泊していたが部屋から女性の悲鳴が聞こえたためにホテル側が警察に通報し、警察が到着するとハーンニーバールの妻(元モデル)が顔から血だらけになっていたなどの騒ぎを起こしている。なお、妻は[[2011年リビア内戦]]の際に[[レバノン]]へ亡命を図ろうとしたものの、拒否されている<ref name=msnsankei20110224>{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110224/mds11022408170007-n1.htm|title=カダフィ一族まで海外逃亡の動き 長女、五男の妻が脱出図り、拒否|newspaper=産経新聞|date=2011-02-24|accessdate=2011-02-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110225103038/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110224/mds11022408170007-n1.htm|archivedate=2011年2月25日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
五男の[[アル=ムアタシム=ビッラーフ・アル=カッザーフィー|アル=ムアタシム=ビッラーフ]]<!--1977年生--><ref>{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/africaandindianocean/libya/8723027/Libya-the-battle-for-control-of-Sirte.html |title=Libya: the battle for control of Sirte |publisher=[[デイリー・テレグラフ]] |date=2011-08-25 |accessdate=2011-10-29 }}</ref> は、リビア陸軍少尉で、過去、父親に反乱を企てたこともある。が、のちに父親はそれを許し、2009年には「国家安全保障顧問」という地位にあった。2009年、リビアと米国の今後の関係について[[ヒラリー・クリントン]][[アメリカ合衆国国務長官|米国務長官]]と会談を行い父親の有力後継者として注目された<ref name="family"/>。2011年10月20日、父親と共に死亡した<ref>[http://www.excite.co.jp/News/world_g/20111024/Jiji_20111024X351.html カダフィ大佐四男も処刑か=拘束後の生存映像-シリアTV](時事通信社2011年10月24日)2011年10月30日閲覧</ref>。
六男は{{ill|サイフ・アル=アラブ・ムアンマル・アル=カッザーフィー|en|Saif al-Arab al-Gaddafi|label=サイフ・アル=アラブ}}。ドイツに留学経験のある学生とされるが、2011年4月30日夜、NATO軍の空爆で29歳で死亡したとリビア政府から発表された<ref name="family"/>。政権運営にはほとんど関わっていなかったとされている。
七男の{{ill|ハミース・ムアンマル・アル=カッザーフィー|en|Khamis Gaddafi|label=ハミース}}はトリポリの軍学校で軍事学と科学の学士位を取得後、モスクワに留学しフルンゼ軍事学院([[:ru:Военная академия им. М. В. Фрунзе|ru]])とロシア連邦軍士官学校([[:ru:Военная академия Генерального штаба Вооружённых сил Российской Федерации|ru]])を卒業<ref name="family"/>。2010年にはマドリードの[[IE ビジネススクール]]で修士位を取得した。
[[2011年リビア内戦]]では[[リビア軍]]で最も重要とされる第32特殊連隊(通称ハミース旅団)の[[司令官]]に就任した。8月29日に死亡したとの発表が10月にあった。
長女の{{ill|アーイシャ・アル=カッザーフィー|en|Ayesha Gaddafi|label=アーイシャ}}は、[[弁護士]]で、[[イラク]]元[[大統領]][[サッダーム・フセイン]]の弁護団に加わると報道され(実際にはイラクに入国できず)、注目を浴びた<ref name="family"/>。アーイシャは2006年に父親カッザーフィーのいとこと結婚した。2009年7月に、国連開発計画(UNDP)の親善大使に任命されていたが、2011年の内戦でリビア政府による市民への武力行使に対する措置としてその役を解任された<ref>{{cite news|url=http://www.asahi.com/international/update/0224/TKY201102240502.html|title=カダフィ大佐娘の親善大使解任 国連開発計画|newspaper=朝日新聞|date=2011-02-24|accessdate=2011-06-29}}</ref>。また内戦を避け[[マルタ]]へ亡命を図ろうとしたものの、拒否されている<ref name=msnsankei20110224/>。特定の部隊を率いているわけでは無いが、リビア軍将校の肩書があり、階級は[[陸軍中将]]である。
養女のハナは、1986年のアメリカ軍のリビア爆撃で死亡したとされ、2006年には爆撃20周年・ハナ死亡20年の追悼行事が開催されたが、[[2011年リビア内戦]]によるトリポリ陥落後、実は生存しており、医師としてトリポリの病院に勤務していたとの報道もなされた(ハナ死亡後に養女とした別の少女に再びハナと名付けたという説もある)。
甥のムハンマド・ムフタール・ラシュタルは、2007年より[[ニカラグア]]大統領の[[ダニエル・オルテガ]]の個人秘書や外交顧問を務めていた。
==関連文献==
* {{Cite book|和書|author=[[最首公司]]|title=リビアの革命児カダフィ|publisher=ホーチキ商事出版部|date=1973-06-25|id={{NDLJP|12179602}}}}
* {{Cite book|和書|author=最首公司|title=カダフィとアラブ民族主義|publisher=ホーチキ商事出版部|date=1975-09-10|id={{NDLJP|12180059}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[佐々木良昭]]|title=リビアがわかる本 激動の国リビアと中東の暴れん坊カダフィのすべて|publisher=ダイナミックセラーズ|date=1986-07-30|id={{NDLJP|12180191}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[平田伊都子]]|title=カダフィ正伝|publisher=集英社|date=1990}}
* {{Cite book|和書|editor=[[水谷周]]|title=アラブ民衆革命を考える|publisher=国書刊行会|date=2011}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
* {{仮リンク|第三国際理論|en|Third International Theory}}
* [[石油輸出国機構]]
* [[ロナルド・レーガン]]
* [[マヌエル・ノリエガ]]
* [[バスク祖国と自由]]
* [[IRA]]
* [[アフリカ連合]]
* [[アフリカ合衆国]]
* [[ラスベガス]]
* [[東日本大震災]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Muammar al-Gaddafi}}
* [https://web.archive.org/web/20110816144809/http://www.algathafi.org/ カダフィ閣下が語る(公式ホームページ)] - 2011年のアーカイブ
* {{BBC Online|id=news/world-africa-12688033|title=The Muammar Gaddafi story}}
* [https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%80%E3%83%95%E3%82%A3-44975 カダフィとは] - [[コトバンク]]
* [https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%80%E3%83%95%E3%82%A3%E5%A4%A7%E4%BD%90-666880 カダフィ大佐(カダフィタイサ)とは] - コトバンク
* [https://kotobank.jp/word/M.+%E3%82%AB%E3%83%80%E3%83%95%E3%82%A3-1619905 M. カダフィとは] - コトバンク
* [https://www.youtube.com/watch?v=dnFOgQEqMBk CNN Official Interview: Larry King speaks with Gadhafi " He leads a revolution'] CNN
{{先代次代|[[リビアの元首一覧|リビア国家元首]]|[[1969年]] - [[2011年]]|[[イドリース1世 (リビア王)|イドリース1世]]<br />([[リビア王国]]国王)|[[ムスタファ・アブドルジャリル]]<br />([[リビア国民評議会]]議長)}}
{{先代次代|[[リビア・アラブ共和国]]<br />[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国]]<br />最高指導者|[[1969年]] - [[2011年]]|政権樹立|政権崩壊}}
{{先代次代|[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国]]<br />全国人民会議書記長|[[1977年]] - [[1979年]]|創設| アブドゥルアーティー・アル=オベイディー}}
{{先代次代|[[リビア・アラブ共和国]]<br />革命指導評議会議長|[[1969年]] - [[1977年]]|創設|大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリヤ国<br />全国人民会議書記長に移行}}
{{先代次代|[[リビア・アラブ共和国]]<br />[[リビアの首相|首相]]|[[1970年]] - [[1972年]]|{{仮リンク|マフムード・アル=マグリビー|en|Mahmud Sulayman al-Maghribi}}|{{仮リンク|アブデルサラム・ジャルード|en|Abdessalam Jalloud}}}}
{{先代次代|[[アフリカ連合#歴代の総会議長|アフリカ連合総会議長]]|[[2009年]] - [[2010年]]|[[ジャカヤ・キクウェテ]]|[[ビング・ワ・ムタリカ]]}}
{{アフリカ連合の総会議長}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あるかつさあふいい むあんまる}}
[[Category:ムアンマル・アル=カッザーフィー|*]]
[[Category:リビアの国家元首]]
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電気計器
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電気計器(でんきけいき)は、電気諸量の測定のための計器である。
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電気計器(でんきけいき)は、電気諸量の測定のための計器である。 電気標準器
指示電気計器
積算電気計器
計器用変成器
保守点検用電気計測器
保護継電器
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{{複数の問題
| 出典の明記 = 2019年9月
| 特筆性 = 2019年9月
| 脚注の不足 = 2022年2月13日 (日) 16:25 (UTC)
| 独自研究 = 2022年2月13日 (日) 16:25 (UTC)
| Wikify = 2022年2月13日 (日) 16:25 (UTC)
}}
[[File:Oscilloscope Tektronix 7854 on Tektronix lab cart with four smaller electronic measurement and test devices underneath.jpg|thumb|[[テクトロニクス]] 7854 [[オシロスコープ]] ( [[半導体カーブトレーサ]]、[[時間領域反射率測定法]](TDR)プラグインを装備。)下段のモジュール群は [[電圧計]]、 [[カウンタ]], 周波数標準器、そして[[ファンクションジェネレータ]]を装備する。]]
[[File:HP 34401A Multimeter.jpg|thumb|デジタルマルチメータ 正面のスイッチで[[電圧計]]、[[電流計]]、抵抗計、[[周波数計]]と機能切替ができる。]]
[[File:Fluke Clamp meter.jpg|thumb|[[クランプメータ]] クランプを開いて測定対象の電線を輪の中に入れる。]]
'''電気計器'''(でんきけいき)は、[[電気]]諸量の[[測定]]のための計器である。
* [[電気標準器]]
* [[指示電気計器]]
* [[積算電気計器]]
* [[計器用変成器]]
* [[保守点検用電気計測器]]
* [[保護継電器]]
<!--
'''電気電子計測器'''は[[測定対象]](DUT)に信号を与え、その際の応答を表示できるものである。測定対象の適切な動作検討や故障部位の追跡が可能で詳細な解析に欠かせない装置である。
==電気電子計測器==
===基礎製品===
次の項目は動作中の回路において電圧や電流を測定できる。または、回路を構成する単体部品の測定を行う装置である。
* [[電圧計]] ([[電圧]]を測定する)
* [[抵抗計]] ([[電気抵抗]]を測定する)
* [[電流計]] - [[ガルバノメータ]]やフェムト・ピコアンメータ ([[電流]]を測定する)
* [[電力計]] ([[電力]]を測定する)
* [[回路計]] - AVO (電流・電圧・抵抗)やDMM (Digital Multimeter) (上記3つのすべてが測定できる)
* [[LCRメータ]] - インダクタンス (L)、 静電容量 (C) および 抵抗(R) 測定 (LCRの値を測定する)
* [[クランプメータ]] (回路を切り開くことなく非接触で測定できる)
* [[オシロスコープ]] (電圧の変化を時間でとらえる)
===応用製品===
* パワーアナライザ (電力計、電力を複数チャンネル入力で測定および解析できる)
* [[ロジックアナライザ]] (Tests [[digital circuit]]s)
* [[スペクトラムアナライザ]] (SA) (Measures spectral energy of signals)
* [[プロトコルアナライザ]] (Tests functionality, performance and conformance of protocols)
* [[ベクトルシグナルアナライザ]] (VSA) (Like the SA but it can also perform many more useful digital demodulation functions)
* [[ネットワーク・アナライザ (高周波回路)]] (NA) (高周波回路網の通過・反射電力の周波数特性を測定する)
* [[時間領域反射率測定法]] (Tests integrity of long cables)
* [[半導体カーブトレーサ]]
==外部接続==
; 有線接続 ([[イーサネット]]または[[USB]]) :イーサネットによる接続はWebブラウザベースで操作やデータのやり取りが可能。USBはデバイスドライバが必要な場合OSが限定されるがマスストレージとしてデータのやり取りが可能な場合もある。
; 無線接続 ([[Wi-Fi]]または[[Bluetooth]]) :[[赤外線カメラ]]などはWi-Fiによるワイヤレス接続に対応するものがある。現場作業向けテスターやクランプメータはBluetooth接続によりスマホやタブレットに数値表示できる機種がある。
<gallery>
PicoScope6000CDLaptop.jpg|ピコテクノロジ製PC接続型オシロスコープ
Logic analyzer Agilent 16902A.jpg|アジレント製ロジックアナライザ
Tektronix LogicAnalyzer TLA5204.jpg|テクトロニクス製ロジックアナライザ
Space Aggressors test Red Flag Airmen (2743147).jpeg|アジレント製携帯型スペクトラムアナライザ
Netzwerkanalysator ZVA40 RSD.jpg|ローデ・シュワルツ製ベクトルネットワークアナライザ
Hioki 3390 Power analyzer.jpg|[[日置電機]]株式会社のパワーアナライザ
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トレーサビリティ (計測器)
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トレーサビリティとは、「不確かさがすべて表記された切れ目のない比較の連鎖によって、決められた基準に結びつけられ得る測定結果または標準の値の性質。基準は通常、国家標準または、国際標準」と定義されている。(JIS Z8103:2000計測用語より引用)
過去のJISでは、「標準器又は計測器がより高度の標準によって次々に校正され国家標準につながる経路の確立している度合」と定義されていたが、ISOとの整合性を取るために、上記のように変更された。
トレーサビリティチャートとは対象とする校正に用いた機器の校正経路を記載した書類である。単にトレーサビリティと表現した場合、この書類をさすことが多い。 しかし、このチャートは必ずしも計測器のトレーサビリティを保証するものではない。
校正事業者の審査機関等(JCSS、A2LA等)より審査を受け、国際標準化機構および国際電気標準会議が定めた校正機関に関する基準 (ISO/IEC 17025) の要求事項に適合していることが確認され、校正事業者として登録された場合は、認定を受けた範囲内で審査機関等のロゴが入っている校正証明書を発行することができる。このロゴがトレーサビリティを保証しているため、トレーサビリティチャートの必要がない。
そもそも、トレーサビリティチャートはISO 9000などの品質マネジメントシステムが普及したときに標準供給の方が追いつかず、審査機関等のロゴが入っている校正証明書を得ることが困難であったため暫定対応として行われた措置であり、JCSS等のシステムが整った現在では、トレーサビリティチャートを使ったトレーサビリティの保証は、ISO 9000などのマネジメントシステムにおいては一般的ではない。
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トレーサビリティとは、「不確かさがすべて表記された切れ目のない比較の連鎖によって、決められた基準に結びつけられ得る測定結果または標準の値の性質。基準は通常、国家標準または、国際標準」と定義されている。(JIS Z8103:2000計測用語より引用) 過去のJISでは、「標準器又は計測器がより高度の標準によって次々に校正され国家標準につながる経路の確立している度合」と定義されていたが、ISOとの整合性を取るために、上記のように変更された。
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'''トレーサビリティ'''とは、「[[不確かさ (測定)|不確かさ]]がすべて表記された切れ目のない比較の連鎖によって、決められた基準に結びつけられ得る測定結果または標準の値の性質。基準は通常、[[国家標準]]または、[[国際標準]]」と定義されている。([[日本工業規格|JIS]] Z8103:2000[[計測用語]]より引用)
過去のJISでは、「[[標準器]]又は[[計測器]]がより高度の[[標準]]によって次々に[[較正|校正]]され国家標準につながる[[経路]]の確立している度合」と定義されていたが、ISOとの整合性を取るために、上記のように変更された。
== トレーサビリティチャート ==
トレーサビリティチャートとは対象とする校正に用いた機器の校正経路を記載した書類である。単にトレーサビリティと表現した場合、この書類をさすことが多い。
しかし、このチャートは'''必ずしも計測器のトレーサビリティを保証するものではない。'''<ref>http://www.nite.go.jp/data/000001144.pdf 製品評価技術基盤機構 認定センター『測定機器の国家計量標準へのトレーサビリティについて』(pdf). 2015年11月26日閲覧。</ref>
校正事業者の審査機関等([[JCSS]]、[[A2LA]]等)より審査を受け、国際標準化機構および国際電気標準会議が定めた校正機関に関する基準 (ISO/IEC 17025) の要求事項に適合していることが確認され、校正事業者として登録された場合は、認定を受けた範囲内で審査機関等のロゴが入っている[[校正証明書]]を発行することができる。このロゴがトレーサビリティを保証しているため、トレーサビリティチャートの必要がない。<ref>http://www.nite.go.jp/data/000001144.pdf 同上</ref>
そもそも、トレーサビリティチャートはISO 9000などの品質マネジメントシステムが普及したときに標準供給の方が追いつかず、審査機関等のロゴが入っている校正証明書を得ることが困難であったため暫定対応として行われた措置であり、JCSS等のシステムが整った現在では、トレーサビリティチャートを使ったトレーサビリティの保証は、ISO 9000などのマネジメントシステムにおいては一般的ではない。<ref>http://www.meti.go.jp/committee/summary/0003070/gijiroku10.html 経済産業省『計量行政審議会計量制度検討小委員会第3WG(平成17年度第10回) 議事録』. 2015年11月26日閲覧。</ref>
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite jis|Z|8103|2000|name=計測用語}}
* VIM(国際計量用語集)
== 関連項目 ==
* [[不確かさ (測定)]]
* [[ISO/IEC 17025]]
* [[正確度と精度]]
* [[計測機器の一覧]]
* [[標準原器]]
* [[枡座]]・[[秤座]] - 江戸時代に度量衡の計測器を一定にすることを目的に置かれた[[座]]。
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[[Category:計量学]]
[[Category:測定]]
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ディオゲネス・ラエルティオス
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ディオゲネス・ラエルティオス(希: Διογένης Λαέρτιος〈Dīogénēs Lāértios〉羅: Diogenes Laërtius)は、3世紀前半頃に活躍した哲学史家。『ギリシア哲学者列伝』の著者として知られる。
本来の長母音を省略せずにディーオゲネース・ラーエルティオスとも呼ばれる。
その名前は古来からいろいろな表記がされていて確かなことが分からない。「ラエルティオス」というのは字(Signum)であるという説もあれば、キリキアのラエルテという地名であるという説もある。
その著書『ギリシア哲学者列伝』(希: Βίοι καὶ γνῶμαι τῶν ἐν φιλοσοφίᾳ εὐδοκιμησάντων)10巻は多くの逸話と哲学者たちの諸説をあわせて記述した古代ギリシア・ローマ哲学についての貴重な資料である。史料の抜き書きを行い学説よりも面白おかしい逸話や奇矯な言行への好みがあらわれた「列伝」の性格から著者の面影を察することができる。
「ラエルティオスは自殺には好意的に、暴飲に非常な憎悪を抱き、無神論者を非難し霊魂不滅を信じている」と言ったのはニーチェであった。古典学者パトリッティは「ディオゲネス・ラエルティオスがいかなる人物で、いかなる時代に、またいかなる境遇のもとに生きたかは誰にも知られていないが、彼はこれによって哲学者たちの偉大さを明らかにしたのでもなく、後世に彼らの学説を伝えたのでもなく、むしろその書物を美しく飾ろうとして、その伝記の中に自作のエピグラムや碑銘文を挿入したのである」という。
伝記を多く書いた英文学研究者の中野好夫はラエルティオスの選んだ逸話の無類さをほめている。
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ディオゲネス・ラエルティオスは、3世紀前半頃に活躍した哲学史家。『ギリシア哲学者列伝』の著者として知られる。 本来の長母音を省略せずにディーオゲネース・ラーエルティオスとも呼ばれる。
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[[File:Diogenes Laertius.jpg|thumb|ディオゲネス・ラエルティオス]]
'''ディオゲネス・ラエルティオス'''({{lang-el-short|Διογένης Λαέρτιος}}〈{{transl|el|Dīogénēs Lāértios}}〉{{lang-la-short|Diogenes Laërtius}})は、[[3世紀]]前半頃に活躍した[[哲学史]]家。『[[ギリシア哲学者列伝]]』の著者として知られる。
本来の長母音を省略せずに'''ディオゲネース・ラーエルティオス'''とも呼ばれる。
== 人物 ==
その名前は古来からいろいろな表記がされていて確かなことが分からない。「ラエルティオス」というのは[[字]](Signum)であるという説もあれば、[[キリキア]]のラエルテという地名であるという説もある。
その著書『[[ギリシア哲学者列伝]]』({{lang-el-short|Βίοι καὶ γνῶμαι τῶν ἐν φιλοσοφίᾳ εὐδοκιμησάντων}})10巻は多くの逸話と哲学者たちの諸説をあわせて記述した古代ギリシア・ローマ哲学についての貴重な資料である。史料の抜き書きを行い学説よりも面白おかしい逸話や奇矯な言行への好みがあらわれた「列伝」の性格から著者の面影を察することができる。
「ラエルティオスは自殺には好意的に、暴飲に非常な憎悪を抱き、無神論者を非難し霊魂不滅を信じている」と言ったのは[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]であった。古典学者パトリッティは「ディオゲネス・ラエルティオスがいかなる人物で、いかなる時代に、またいかなる境遇のもとに生きたかは誰にも知られていないが、彼はこれによって哲学者たちの偉大さを明らかにしたのでもなく、後世に彼らの学説を伝えたのでもなく、むしろその書物を美しく飾ろうとして、その伝記の中に自作の[[エピグラム]]や碑銘文を挿入したのである」という。
伝記を多く書いた英文学研究者の[[中野好夫]]はラエルティオスの選んだ逸話の無類さをほめている<ref>講演録「伝記文学の面白さ」より、岩波同時代ライブラリー刊行</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=ディオゲネス・ラエルティオス |others=[[加来彰俊]] 訳 |title=ギリシア哲学者列伝〈上〉 |date=1984-10-16 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |volume=青 663-1 |isbn=978-4003366318 |ref={{sfnref|ラエルティオス|1984}} }}
* {{Cite book|和書|author=ディオゲネス・ラエルティオス |others=加来彰俊 訳 |title=ギリシア哲学者列伝〈中〉 |date=1989-09-18 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |volume=青 663-2 |isbn=978-4003366325 |ref={{sfnref|ラエルティオス|1989}} }}
* {{Cite book|和書|author=ディオゲネス・ラエルティオス |others=加来彰俊 訳 |title=ギリシア哲学者列伝〈下〉 |date=1994-07-18 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |volume=青 663-3 |isbn=978-4003366332 |ref={{sfnref|ラエルティオス|1994}} }}
* {{Cite book|和書|author=フリードリヒ・ニーチェ |authorlink=フリードリヒ・ニーチェ |others=[[戸塚七郎]]・[[泉治典]]・[[上妻精]] 訳 |title=古典ギリシアの精神 ニーチェ全集〈1〉 |date=1994-05-01 |publisher=[[筑摩書房]] |series=ちくま学芸文庫 |isbn=978-4480080714 |pages={{要ページ番号|date=2021年8月}} |chapter=ラエルティオス・ディオゲネスの史料 |ref={{sfnref|ニーチェ|1994}} }}
==関連項目==
* [[プルタルコス]]『[[対比列伝]]』
== 外部リンク ==
* [http://classicpersuasion.org/pw/diogenes/ On-line version of Lives and Opinions of Eminent Philosophers]{{en icon}}
* [http://www.tertullian.org/rpearse/manuscripts/diogenes_laertius.htm Diogenes Laertius: the Manuscripts of "The Lives and Opinions of Eminent Philosphers"] ''(notes on the publication history of Diogenes Laertius, from R.D. Hicks' edition of the "Lives", 1925)''{{en icon}}
* {{IEP|dioglaer|Diogenes Laertius}}
* {{kotobank}}
* {{kotobank|ディオゲネス・ラエルティオス}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ておけねす らえるていおす}}
[[Category:3世紀の著作家]]
[[Category:3世紀の哲学者]]
[[Category:古代ギリシアの哲学者]]
[[Category:古代ギリシアの著作家]]
[[Category:古代ギリシアの歴史家]]
[[Category:哲学史家]]
[[Category:3世紀の古代ローマ人]]
[[Category:古代ローマの哲学者]]
[[Category:ギリシア詞華集のエピグラム詩人]]
[[Category:生没年不詳]]
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ピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン)
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ピアノソナタ第14番(ピアノソナタだいじゅうよんばん)嬰ハ短調 作品27-2 『幻想曲風ソナタ』("Sonata quasi una Fantasia")は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1801年に作曲したピアノソナタ。『月光ソナタ』という通称とともに広く知られている。
1801年、ベートーヴェンが30歳のときの作品。1802年3月のカッピによる出版が初版であり、ピアノソナタ第13番と対になって作品27として発表された。両曲ともに作曲者自身により「幻想曲風ソナタ」という題名を付されており、これによって曲に与えられた性格が明確に表されている。
『月光ソナタ』という愛称はドイツの音楽評論家、詩人であるルートヴィヒ・レルシュタープのコメントに由来する。ベートーヴェンの死後5年が経過した1832年、レルシュタープはこの曲の第1楽章がもたらす効果を指して「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現した。以後10年経たぬうちに『月光ソナタ』という名称がドイツ語や英語による出版物において使用されるようになり、19世紀終盤に至るとこの名称が世界的に知られるようになる。一方、作曲者の弟子であったカール・チェルニーもレルシュタープの言及に先駆けて「夜景、遥か彼方から魂の悲しげな声が聞こえる」と述べている。このように『月光ソナタ』の愛称と共に広く知られる以前より人々の想像を掻き立て、人気を博した本作であったが、ベートーヴェン自身はそのことを快く思っていなかったとされる。なお、後述の尋常小学校の物語が引用されることがあるが、作り話である。
曲は伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディに献呈された。ベートーヴェンはブルンスヴィック家を介した縁で自らのピアノの弟子となったこの14歳年少の少女に夢中になる。1801年11月16日に友人のフランツ・ベルハルト・ヴェーゲラーへ宛てた書簡には次のようにある。「このたびの変化は1人の可愛い魅力に富んだ娘のためなのです。彼女は私を愛し、私も彼女を愛している。(中略)ただ、残念なことには身分が違うのです」。その後、グイチャルディはヴェンゼル・ロベルト・フォン・ガレンベルクと結婚してベートーヴェンのもとを去っていく。この献呈は当初から意図されていたわけではなく、グイチャルディにはロンド ト長調 作品51-2が捧げられるはずであった。しかし、ロンドをヘンリエッテ・リヒノフスキー伯爵令嬢へ贈ることが決まり、代わりにグイチャルディへと献呈されたのがこのソナタであったようである。なお、ジュリエッタはアントン・シンドラーの伝記で「不滅の恋人」であるとされている。
曲の内容は『幻想曲風ソナタ』という表題が示すとおり、伝統的な古典派ソナタから離れてロマン的な表現に接近している。速度の面では緩やかな第1楽章、軽快な第2楽章、急速な第3楽章と楽章が進行するごとにテンポが速くなる序破急的な展開となっている。また、形式的にはソナタ形式のフィナーレに重心が置かれた均衡の取れた楽章配置が取られ、情動の変遷が強健な意志の下に揺るぎない帰結を迎えるというベートーヴェン特有の音楽が明瞭に立ち現われている。
本作はピアノソナタ第8番『悲愴』、同第23番(熱情)と並んで3大ピアノソナタと呼ばれることもある。
約15-16分。
三部形式。『月光の曲』として非常に有名な楽章である。冒頭に「全曲を通して可能な限り繊細に、またsordinoを使用せずに演奏すること」(Si deve suonare tutto questo pezzo delicatissimamente e senza sordino.)との指示がある(譜例1)。「sordino(弱音器)」とは「ダンパー」のことを指すとされ、冒頭の指示は現代のピアノにおいては「サステインペダルを踏み込んだ状態で」と解釈される。
譜例1
序奏に続いてA主題が提示される(譜例2)。途切れることのない3連符の上に出される符点リズムの旋律は、葬送と関係するという見方もある。
譜例2
続く素材(B主題)はロ長調(?)で出される(譜例3)。
譜例3
中間部が譜例2から始まるとやがて旋律的要素は影をひそめ、3連符の音型が緩やかに弧を描きつつ高音へ昇って降りきたり、その後譜例2の再現を行い、その途中からはホ長調でA主題の旋律が始まり、譜例3(B主題)も続いて嬰ハ長調(?)で再現される。3連符の動きが約2オクターブの音域を行きつ戻りつする中、低音部で譜例2のリズムが繰り返されるコーダを経て、最弱音で楽章を閉じる。アタッカの指示があり、休みを置かずにただちに次の楽章に移る。
複合三部形式。スケルツォもしくはメヌエットに相当する楽章であるが、いずれであるとも明記されていない。暗い両端楽章の間にあって効果的に両者を繋ぐ役割を果たしており、フランツ・リストはこの楽章を「2つの深淵の間の一輪の花」に例えた。レガートとスタッカートが対比される譜例4により開始される。
譜例4
譜例4が変奏され、なだらかな中間楽節が出ると譜例4が回帰して主部を結び、中間以降が繰り返される。トリオは二部形式で前後半が各々反復される。前半はアクセントが強調されて重々しく奏される(譜例5)。
譜例5
後半はピアニッシモで始まった後に再びアクセントが強調されるが、最後は穏やかに結ばれる。反復後にアレグレット・ダ・カーポで主部に戻る。
ソナタ形式。ピアノソナタ第14番としては、第3楽章のみソナタ形式となっている。堅牢な構築の上に激情がほとばしり、類稀なピアノ音楽となった。急速に上昇するアルペッジョからなる譜例6の第1主題は、第1楽章の3連符の動機を急速に展開させたものである。頂点のスフォルツァンドでダンパーが解放される。
譜例6
第2主題には、短調のソナタ形式としては珍しく、属調の嬰ト短調で現れ、第1主題と対照的に流麗な旋律である(譜例7)。
譜例7
第2主題が変奏して繰り返された後、経過句の部分にナポリの6の和音が結構長く使われ、続いて譜例8が出されて緊張感が高まる。
譜例8
高まった緊張がコデッタでしばし和らぎ、提示部の繰り返しとなる。展開部はまず第1主題に始まって、まもなく嬰ヘ短調による第2主題へと接続される。主題は低音部に移され、徐々に勢いを落としてピアニッシモに落ち着く。途中で、一瞬ト長調に転調するが、すぐに嬰ヘ短調を呼び戻し、嬰ハ短調の属和音まで突進する。 再現部は第1主題の再現後に経過句を省略して(推移無し・確保無し)、主調のままの嬰ハ短調で第2主題(譜例7)の再現を行い、譜例8もこれに続くが、譜例8の途中の部分からは、旋律が提示部と同じ形ではなくちょっとした変奏が求められている。コーダは規模の大きな堂々たるもので、まず譜例6に始まり減七の和音がフェルマータを付されて引き伸ばされる。続いて譜例7が扱われると、およそ3オクターブを駆け巡るアルペッジョが吹き荒れる。カデンツァ風のパッセージを経て一度アダージョに落ち着くものの、すぐさま元のテンポに復帰して提示部コデッタに現れた旋律を出す。最後は両手のユニゾンでアルペッジョを奏し、フォルテッシモの主和音が全曲に終止符を打つ。
日本では戦前の尋常小学校の国語の教科書に、「月光の曲」と題する仮構が読み物として掲載されたことがあった。
この物語は19世紀にヨーロッパで創作され、愛好家向けの音楽新聞あるいは音楽雑誌に掲載された。日本では、1888年に積善館より出版された英語テキスト『New national readers』第5巻およびその日本語訳『ニューナショナル第五読本直訳』の12章に「BEETHOVEN'S MOONLIGHT SONATA」(第十二課 「ベトーブン」ノ月光ノ「ソナタ」)として掲載された。 その後、1892年に上梓された小柳一蔵著『海外遺芳巻ノ一』に『月夜奏琴』という表題で掲載されている。『月夜奏琴』を口語調に書き直したものが『月光の曲』である。
ベートーヴェンが月夜の街を散歩していると、ある家の中からピアノを弾く音が聞こえた。良く見てみるとそれは盲目の少女であった。感動したベートーヴェンはその家を訪れ、溢れる感情を元に即興演奏を行った。自分の家に帰ったベートーヴェンはその演奏を思い出しながら曲を書き上げた。これが「月光の曲」である。
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"text": "『月光ソナタ』という愛称はドイツの音楽評論家、詩人であるルートヴィヒ・レルシュタープのコメントに由来する。ベートーヴェンの死後5年が経過した1832年、レルシュタープはこの曲の第1楽章がもたらす効果を指して「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現した。以後10年経たぬうちに『月光ソナタ』という名称がドイツ語や英語による出版物において使用されるようになり、19世紀終盤に至るとこの名称が世界的に知られるようになる。一方、作曲者の弟子であったカール・チェルニーもレルシュタープの言及に先駆けて「夜景、遥か彼方から魂の悲しげな声が聞こえる」と述べている。このように『月光ソナタ』の愛称と共に広く知られる以前より人々の想像を掻き立て、人気を博した本作であったが、ベートーヴェン自身はそのことを快く思っていなかったとされる。なお、後述の尋常小学校の物語が引用されることがあるが、作り話である。",
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"text": "曲は伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディに献呈された。ベートーヴェンはブルンスヴィック家を介した縁で自らのピアノの弟子となったこの14歳年少の少女に夢中になる。1801年11月16日に友人のフランツ・ベルハルト・ヴェーゲラーへ宛てた書簡には次のようにある。「このたびの変化は1人の可愛い魅力に富んだ娘のためなのです。彼女は私を愛し、私も彼女を愛している。(中略)ただ、残念なことには身分が違うのです」。その後、グイチャルディはヴェンゼル・ロベルト・フォン・ガレンベルクと結婚してベートーヴェンのもとを去っていく。この献呈は当初から意図されていたわけではなく、グイチャルディにはロンド ト長調 作品51-2が捧げられるはずであった。しかし、ロンドをヘンリエッテ・リヒノフスキー伯爵令嬢へ贈ることが決まり、代わりにグイチャルディへと献呈されたのがこのソナタであったようである。なお、ジュリエッタはアントン・シンドラーの伝記で「不滅の恋人」であるとされている。",
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"text": "曲の内容は『幻想曲風ソナタ』という表題が示すとおり、伝統的な古典派ソナタから離れてロマン的な表現に接近している。速度の面では緩やかな第1楽章、軽快な第2楽章、急速な第3楽章と楽章が進行するごとにテンポが速くなる序破急的な展開となっている。また、形式的にはソナタ形式のフィナーレに重心が置かれた均衡の取れた楽章配置が取られ、情動の変遷が強健な意志の下に揺るぎない帰結を迎えるというベートーヴェン特有の音楽が明瞭に立ち現われている。",
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"text": "三部形式。『月光の曲』として非常に有名な楽章である。冒頭に「全曲を通して可能な限り繊細に、またsordinoを使用せずに演奏すること」(Si deve suonare tutto questo pezzo delicatissimamente e senza sordino.)との指示がある(譜例1)。「sordino(弱音器)」とは「ダンパー」のことを指すとされ、冒頭の指示は現代のピアノにおいては「サステインペダルを踏み込んだ状態で」と解釈される。",
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"text": "中間部が譜例2から始まるとやがて旋律的要素は影をひそめ、3連符の音型が緩やかに弧を描きつつ高音へ昇って降りきたり、その後譜例2の再現を行い、その途中からはホ長調でA主題の旋律が始まり、譜例3(B主題)も続いて嬰ハ長調(?)で再現される。3連符の動きが約2オクターブの音域を行きつ戻りつする中、低音部で譜例2のリズムが繰り返されるコーダを経て、最弱音で楽章を閉じる。アタッカの指示があり、休みを置かずにただちに次の楽章に移る。",
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"text": "複合三部形式。スケルツォもしくはメヌエットに相当する楽章であるが、いずれであるとも明記されていない。暗い両端楽章の間にあって効果的に両者を繋ぐ役割を果たしており、フランツ・リストはこの楽章を「2つの深淵の間の一輪の花」に例えた。レガートとスタッカートが対比される譜例4により開始される。",
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"text": "ベートーヴェンが月夜の街を散歩していると、ある家の中からピアノを弾く音が聞こえた。良く見てみるとそれは盲目の少女であった。感動したベートーヴェンはその家を訪れ、溢れる感情を元に即興演奏を行った。自分の家に帰ったベートーヴェンはその演奏を思い出しながら曲を書き上げた。これが「月光の曲」である。",
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ピアノソナタ第14番(ピアノソナタだいじゅうよんばん)嬰ハ短調 作品27-2 『幻想曲風ソナタ』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1801年に作曲したピアノソナタ。『月光ソナタ』という通称とともに広く知られている。
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[[file:Beethoven Piano Sonata 14 - title page 1802.jpg|350px|thumb|初版譜表紙 1802年]]
{{Portal クラシック音楽}}
'''ピアノソナタ第14番'''(ピアノソナタだいじゅうよんばん)[[嬰ハ短調]] [[作品番号|作品27-2]] 『'''幻想曲風ソナタ'''』("Sonata quasi una Fantasia")は、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]が[[1801年]]に作曲した[[ピアノソナタ]]。『'''月光ソナタ'''』という通称とともに広く知られている。
== 概要 ==
[[1801年]]、ベートーヴェンが30歳のときの作品{{sfn|大木|1980|p=357}}。[[1802年]]3月のカッピによる出版が初版であり{{sfn|大木|1980|p=354}}、[[ピアノソナタ第13番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第13番]]と対になって作品27として発表された<ref name=hyperion>{{Cite web|url=http://www.hyperion-records.co.uk/tw.asp?w=W12923 |title=Piano Sonata in C sharp minor 'Moonlight', Op 27 No 2 |publisher=[[ハイペリオン・レコード|Hyperion Recprds]] |accessdate=2015-12-08}}</ref>。両曲ともに作曲者自身により「幻想曲風ソナタ」という題名を付されており<ref name=allmusic>{{allmusic|class=composition |id=mc0002373304 |accessdate=2015-12-08}}</ref>、これによって曲に与えられた性格が明確に表されている{{sfn|大木|1980|p=354}}。
『月光ソナタ』という愛称は[[ドイツ]]の[[音楽評論家]]、[[詩人]]である[[ルートヴィヒ・レルシュタープ]]のコメントに由来する。ベートーヴェンの死後5年が経過した[[1832年]]、レルシュタープはこの曲の第1楽章がもたらす効果を指して「[[スイス]]の[[ルツェルン湖]]の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現した{{sfn|大木|1980|p=356}}<ref>{{cite book|last=Kerst |first=Friedrich |title=Beethoven: The Man and the Artist, as Revealed in His Own Words |year=2004 |page=47 |isbn=978-1-59540-149-6}}</ref>。以後10年経たぬうちに『月光ソナタ』という名称がドイツ語や英語による出版物において使用されるようになり<ref>ドイツ語文献の一例。『''Mondscheinsonate''』という表現が見られる。 [https://books.google.co.jp/books?id=dSFDAAAAcAAJ&pg=PA41&dq=mondscheinsonate&hl=en&sa=X&ei=7owMT9e7EJOA2AWAq9WdBw&redir_esc=y#v=onepage&q=mondscheinsonate&f=false ''Allgemeiner musikalischer Anzeiger'']. Vol. 9, No. 11, Tobias Haslinger, Vienna, 1837, p. 41.</ref><ref>英語文献の一例。『''Moonlight Sonata''』との表現が見られる。 Ignace Moscheles, ed. [https://books.google.co.jp/books?id=CfAoAAAAYAAJ&pg=PA109&dq=%22moonlight+sonata%22&hl=en&sa=X&ei=CYoMT_b2CaKg2gXVqIT0Dw&redir_esc=y#v=onepage&q=%22moonlight%20sonata%22&f=false ''The Life of Beethoven''.] Henry Colburn pub., vol. II, 1841, p. 109.</ref>、[[19世紀]]終盤に至るとこの名称が世界的に知られるようになる<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=XigOAAAAQAAJ&pg=PA60&dq=%22moonlight+sonata%22+universally&hl=en&sa=X&ei=7JIMT42TG8zy2gXP_JyXBw&redir_esc=y#v=onepage&q=%22moonlight%20sonata%22%20universally&f=false ''Aunt Judy's Christmas Volume'']. H.K.F. Gatty, ed., George Bell & Sons, London, 1879, p. 60.</ref>。一方、作曲者の弟子であった[[カール・チェルニー]]もレルシュタープの言及に先駆けて「夜景、遥か彼方から魂の悲しげな声が聞こえる」と述べている<ref name=hyperion />。このように『月光ソナタ』の愛称と共に広く知られる以前より人々の想像を掻き立て、人気を博した本作であったが、ベートーヴェン自身はそのことを快く思っていなかったとされる{{sfn|大木|1980|p=356}}。なお、後述の尋常小学校の物語が引用されることがあるが、作り話である。
曲は伯爵令嬢[[ジュリエッタ・グイチャルディ]]に献呈された{{sfn|大木|1980|p=357}}。ベートーヴェンはブルンスヴィック家を介した縁で自らのピアノの弟子となったこの14歳年少の少女に夢中になる{{refnest|group= "注"|ブルンスヴィック家の当主[[フランツ・ブルンスヴィック|フランツ]]は[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第23番]](熱情){{sfn|大木|1980|p=377}}、その姉の[[テレーゼ・ブルンスヴィック|テレーゼ]]は[[ピアノソナタ第24番 (ベートーヴェン)|同24番]]の献呈を受けた人物である{{sfn|大木|1980|p=380}}。}}。1801年[[11月16日]]に友人の[[フランツ・ベルハルト・ヴェーゲラー]]へ宛てた書簡には次のようにある。「このたびの変化は1人の可愛い魅力に富んだ娘のためなのです。彼女は私を愛し、私も彼女を愛している。(中略)ただ、残念なことには身分が違うのです」{{sfn|大木|1980|p=357}}。その後、グイチャルディは[[ヴェンゼル・ロベルト・フォン・ガレンベルク]]と結婚してベートーヴェンのもとを去っていく。この献呈は当初から意図されていたわけではなく、グイチャルディには[[2つのロンド (ベートーヴェン)|ロンド ト長調 作品51-2]]が捧げられるはずであった。しかし、ロンドをヘンリエッテ・リヒノフスキー伯爵令嬢へ贈ることが決まり{{refnest|group= "注"|彼女は[[ピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第8番]]『悲愴』をはじめ、数々の作品を献呈されている[[カール・アロイス・フォン・リヒノフスキー]]伯爵の娘である{{sfn|大木|1980|p=357}}。}}、代わりにグイチャルディへと献呈されたのがこのソナタであったようである{{sfn|大木|1980|p=357}}。なお、ジュリエッタは[[アントン・シンドラー]]の伝記で「[[不滅の恋人]]」であるとされている。
曲の内容は『幻想曲風ソナタ』という表題が示すとおり、伝統的な古典派ソナタから離れてロマン的な表現に接近している<ref name=allmusic />。速度の面では緩やかな第1楽章、軽快な第2楽章、急速な第3楽章と楽章が進行するごとにテンポが速くなる[[序破急]]的な展開となっている。また、形式的には[[ソナタ形式]]のフィナーレに重心が置かれた均衡の取れた楽章配置が取られ<ref name=schiff>{{Cite web|url=http://www.theguardian.com/arts/audio/2006/nov/22/culture1414 |title=Andras Schiff lecture recital: Beethoven's Piano Sonata Op 27 no 2 |publisher=[[ガーディアン|The Guardian]] |accessdate=2015-12-12}}</ref>、情動の変遷が強健な意志の下に揺るぎない帰結を迎えるというベートーヴェン特有の音楽が明瞭に立ち現われている{{sfn|大木|1980|p=354}}。
本作は[[ピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第8番『悲愴』]]、同[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|第23番(熱情)]]と並んで[[ベートーヴェンの三大ピアノソナタ|3大ピアノソナタ]]と呼ばれることもある。
== 演奏時間 ==
約15-16分{{sfn|大木|1980|p=357}}<ref name=allmusic />。
== 楽曲構成 ==
[[File:Manuscript of the Piano Sonata No. 14 in C-sharp minor Op.27-2 by Beethoven.pdf|thumb|right|350px|ピアノソナタ第14番の手稿譜。画像をクリックして他のページを参照可能。]]
=== 第1楽章 ===
; [[wikt:adagio|Adagio]] [[wikt:sostenuto|sostenuto]] 2/2[[拍子]] 嬰ハ短調
[[三部形式]]{{sfn|大木|1980|p=357}}。『'''月光の曲'''』として非常に有名な楽章である。冒頭に「全曲を通して可能な限り繊細に、またsordinoを使用せずに演奏すること」(Si deve suonare tutto questo pezzo delicatissimamente e senza sordino.)との指示がある(譜例1)。「sordino(弱音器)」とは「ダンパー」のことを指すとされ、冒頭の指示は現代のピアノにおいては「サステインペダルを踏み込んだ状態で」と解釈される<ref name=hyperion /><ref name=schiff />。
譜例1
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff { \key cis \minor \time 2/2 \tempo "Adagio sostenuto."
\override Score.NonMusicalPaperColumn #'line-break-permission = ##f
\times 2/3 { gis8^\markup { Si deve suonare tutto questo pezzo delicatissimamente e senza sordino. }
[ cis e] } \times 2/3 { gis, cis e } \times 2/3 { gis,[ cis e] } \times 2/3 { gis, cis e }
gis,8*2/3[ cis e] gis, cis e gis,[ cis e] gis, cis e
a,([ cis e] a, cis e) a,([ d fis] a, d fis)
gis,([ bis fis'] gis, cis e gis,[ cis dis!] fis, bis dis)
}
\new Dynamics {
\override TextScript #'whiteout = ##t
s8_\markup \italic { sempre \dynamic pp e senza sordino. }
}
\new Staff { \key cis \minor \time 2/2 \clef bass
<cis, cis,>1 <b b,> <a a,>2 <fis fis,>2 <gis gis,> <gis gis,>
}
>>
}
</score>
序奏に続いてA主題が提示される(譜例2)。途切れることのない3連符の上に出される符点リズムの旋律は、葬送と関係するという見方もある<ref name=schiff />。
譜例2
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key cis \minor \time 2/2 \partial 4
<<
{ gis'8. gis16 gis2. gis8. gis16 gis2( a gis fis4 b) e, }
\\
{
gis,8*2/3[^\markup \dynamic pp cis e] gis,[ dis' fis] gis, dis' fis gis,[ dis' fis] gis, dis' fis
gis,[ cis e] gis, cis e a,[ cis fis] a, cis fis gis,[ b e] gis, b e a,[ b dis] a b dis gis,[ b e]
}
>>
}
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key cis \minor \time 2/2 \clef bass
s4 <bis, gis bis,>1 <cis cis,>2( ^\( <fis, fis,>) \) <b b,> <b b,> <e e,>1*1/4
}
>>
}
</score>
続く素材(B主題)は[[ロ長調]](?)で出される(譜例3)。
譜例3
<score>
\relative c' \new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key cis \minor \time 2/2 \partial 4
<<
{ b'4( c2. ais4) b2.*1/3 }
\\
{ b,8*2/3[ dis fis] b,[ \< e g] b, e g\! b,[ \> e g] b, e g \! b,[ dis! fis] }
>>
}
</score>
中間部が譜例2から始まるとやがて旋律的要素は影をひそめ、3連符の音型が緩やかに弧を描きつつ高音へ昇って降りきたり、その後譜例2の再現を行い、その途中からは[[ホ長調]]でA主題の旋律が始まり、譜例3(B主題)も続いて[[嬰ハ長調]](?)で再現される{{sfn|大木|1980|p=358}}。3連符の動きが約2[[オクターブ]]の音域を行きつ戻りつする中、低音部で譜例2のリズムが繰り返される[[コーダ (音楽)|コーダ]]を経て、最弱音で楽章を閉じる。[[アタッカ]]の指示があり、休みを置かずにただちに次の楽章に移る{{sfn|大木|1980|p=358}}<ref name=score>{{Cite web|url=http://javanese.imslp.info/files/imglnks/usimg/1/19/IMSLP51726-PMLP01458-Beethoven_Werke_Breitkopf_Serie_16_No_137_Op_27_No_2.pdf |title=Beethoven, Piano Sonata No.14 |publisher=[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル|Breitkopf & Härtel]] |format=PDF |accessdate=2015-12-13}}</ref><ref group= "注">"attacca subito il seguente."</ref>。
=== 第2楽章 ===
; [[wikt:allegretto|Allegretto]] 3/4拍子 [[変ニ長調]]
[[複合三部形式]]。[[スケルツォ]]もしくは[[メヌエット]]に相当する楽章であるが、いずれであるとも明記されていない{{sfn|大木|1980|p=358}}。暗い両端楽章の間にあって効果的に両者を繋ぐ役割を果たしており、[[フランツ・リスト]]はこの楽章を「2つの深淵の間の一輪の花」に例えた<ref name=hyperion /><ref name=schiff />{{sfn|大木|1980|p=358}}。[[レガート]]と[[スタッカート]]が対比される譜例4により開始される<ref group= "注">冒頭に見られるイタリア語の指示は「最初の部分は繰り返しなし」の意。</ref>。
譜例4
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff { \key des \major \time 3/4 \partial 4
\tempo \markup {
\column {
\line { Allegretto. }
\line \tiny { La prima parte senza repetizione. }
}
}
<des' aes>4\p ( <c aes>2 <bes g>4 <es aes,>-.) r <des f,>-. <c aes>-. r <bes g>-. aes-. r
<ges'! des>4( <f des>2 <es c>4 <aes des,>-.) r <ges bes,>-. <f des>-. r <es c>-. des-.
}
\new Staff { \key des \major \time 3/4 \clef bass
f,4( es2 des4 c-.) r <bes des,>-. <es es,>-. r <des es,>-. <c aes>-. r \clef treble
bes'( aes2 ges4 f-.) r <es ges,>-. <aes aes,>-. r <ges aes,>-. <f des>-.
}
>>
}
</score>
譜例4が変奏され、なだらかな中間楽節が出ると譜例4が回帰して主部を結び、中間以降が繰り返される。[[複合三部形式|トリオ]]は[[二部形式]]で前後半が各々反復される{{sfn|大木|1980|p=358}}。前半はアクセントが強調されて重々しく奏される(譜例5)。
譜例5
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff { \key des \major \time 3/4 \tempo "Trio." \partial 4
\set tieWaitForNote = ##t
<f~ f,~>4\sf <f f,>2 <ges~ ges,~>4\sf <ges ges,>2 <es'~ es,~>4\sf ( ^\( <es es,> <c c,>) \) <aes aes,>-. <des des,>( _\( <f f,>) \)
<f,~ f,~>\sf <f f,>2 <ges~ ges,~>4\sf <ges ges,>2 <ges'~ ges,~>4\sf ( <ges ges,> <bes bes,>) <c, c,>-. <es es,>( <des des,>)
}
\new Staff { \key des \major \time 3/4 \clef bass
<<
{ d,,4\rest aes2.~ aes~ aes~ aes~ aes~ aes~ aes2 aes4~ aes2 }
\\
{ s4 des,2.\fp es ges f des\fp es aes,2 aes'4 \stemUp des,2 }
>>
}
>>
}
</score>
後半は[[強弱法|ピアニッシモ]]で始まった後に再びアクセントが強調されるが、最後は穏やかに結ばれる。反復後に[[wikt:allegretto|アレグレット]]・[[ダ・カーポ (演奏記号)|ダ・カーポ]]で主部に戻る。
=== 第3楽章 ===
; [[wikt:presto|Presto]] [[wikt:agitato|agitato]] 4/4拍子 [[嬰ハ短調]]
[[ソナタ形式]]{{sfn|大木|1980|p=358}}。ピアノソナタ第14番としては、第3楽章のみソナタ形式となっている。堅牢な構築の上に激情がほとばしり、類稀なピアノ音楽となった{{sfn|大木|1980|p=357}}{{sfn|大木|1980|p=358}}。急速に上昇する[[アルペッジョ]]からなる譜例6の第1主題は、第1楽章の3連符の動機を急速に展開させたものである<ref name=allmusic />。頂点の[[強弱法|スフォルツァンド]]でダンパーが解放される<ref name=score />。
譜例6
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff { \key cis \minor \time 4/4 \tempo "Presto agitato."
\clef bass r16 gis, cis e gis cis, e gis cis e, gis cis \clef treble e gis, cis e
gis cis, e gis cis e, gis cis e gis, cis e <gis e cis gis>8-. < gis e cis gis>-.
}
\new Dynamics {
s1\p s2. s4\sf
}
\new Staff { \key cis \minor \time 4/4 \clef bass
cis,,,,8-. gis'-. cis,-. gis'-. cis,-. gis'-. cis,-. gis'-.
cis, gis' cis, gis' cis, gis' <cis cis,>\sustainOn << gis { s16 s16\sustainOff } >>
}
>>
}
</score>
第2主題には、短調のソナタ形式としては珍しく、属調の[[嬰ト短調]]で現れ、第1主題と対照的に流麗な旋律である(譜例7)。
譜例7
<score>
\relative c' \new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key cis \minor \time 4/4 \partial 2.
dis'2( b8. gis16) \grace { fisis16[ gis ais] } gis4( fisis!~ fisis8)[\< fisis( dis'8.\> fisis,16)]\!
ais4( gis~ gis8)[\< gis( dis'8.\> gis,16)]\! \stemUp b4( ais~ ais8)[\< ais( dis8.\> ais16)]\! b8-.
}
</score>
第2主題が変奏して繰り返された後、経過句の部分に[[ナポリの六度|ナポリの6]]の[[和音]]が結構長く使われ、続いて譜例8が出されて緊張感が高まる。
譜例8
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key cis \minor \time 4/4 \partial 2*7/4
<b' dis,>8-. <b dis,>-. <b dis,>-. <b dis,>-. <b dis,>-. <ais dis,>-. <gis dis>-. | <fisis dis>
<dis' fisis,>[ <dis fisis,> <dis fisis,>] <dis fisis,> <dis fisis,> <dis gis,> <dis ais> | <dis b>
}
\new Dynamics {
s8\p
}
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key cis \minor \time 4/4 \clef bass
gis,,8-. gis-. gis-. gis-. gis-. ais-. b-. | <cis dis,>
<dis cis>[ <dis cis> <dis cis>] <dis cis> <dis cis> <dis b> <dis ais> | <gis, gis,>
}
>>
}
</score>
高まった緊張が[[コーダ (音楽)|コデッタ]]でしばし和らぎ、提示部の繰り返しとなる。展開部はまず第1主題に始まって、まもなく[[嬰ヘ短調]]による第2主題へと接続される。主題は低音部に移され、徐々に勢いを落として[[強弱法|ピアニッシモ]]に落ち着く。途中で、一瞬[[ト長調]]に転調するが、すぐに[[嬰ヘ短調]]を呼び戻し、嬰ハ短調の属和音まで突進する。
再現部は第1主題の再現後に経過句を省略して(推移無し・確保無し)、主調のままの嬰ハ短調で第2主題(譜例7)の再現を行い{{sfn|大木|1980|p=359}}、譜例8もこれに続くが、譜例8の途中の部分からは、旋律が提示部と同じ形ではなくちょっとした変奏が求められている。コーダは規模の大きな堂々たるもので、まず譜例6に始まり[[減七の和音]]が[[フェルマータ]]を付されて引き伸ばされる。続いて譜例7が扱われると、およそ3オクターブを駆け巡るアルペッジョが吹き荒れる。[[カデンツァ]]風のパッセージを経て一度[[wikt:adagio|アダージョ]]に落ち着くものの、すぐさま元のテンポに復帰して提示部コデッタに現れた旋律を出す{{sfn|大木|1980|p=359}}。最後は両手の[[一度|ユニゾン]]でアルペッジョを奏し、[[強弱法|フォルテッシモ]]の主和音が全曲に終止符を打つ。
== 「月光の曲」 ==
{{wikisource|初等科國語 七/月光の曲|月光の曲}}
日本では戦前の[[尋常小学校]]の国語の教科書に、「月光の曲」と題する仮構が読み物として掲載されたことがあった。
この物語は19世紀にヨーロッパで創作され、愛好家向けの音楽新聞あるいは音楽雑誌に掲載された。日本では、[[1888年]]に積善館より出版された英語テキスト『New national readers』第5巻およびその日本語訳『ニューナショナル第五読本直訳』の12章に「BEETHOVEN'S MOONLIGHT SONATA」(第十二課 「ベトーブン」ノ月光ノ「ソナタ」)として掲載された<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/904688/38 Barnes's new national readers(New national fifth reader): 12.BEETHOVEN'S MOONLIGHT SONATA 1888年発行]</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/870969/57 ニューナショナル第五読本直訳講義 第十二課 「ベトーブン」ノ月光ノ「ソナタ」 1889年6月発行 p.103]</ref>。
その後、[[1892年]]に上梓された小柳一蔵著『海外遺芳巻ノ一』に『月夜奏琴』という表題で掲載されている<ref>[[中村とうよう]]『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』1974年</ref>。『月夜奏琴』を口語調に書き直したものが『月光の曲』である。
=== あらすじ ===
ベートーヴェンが月夜の街を散歩していると、ある家の中からピアノを弾く音が聞こえた。良く見てみるとそれは[[視覚障害者|盲目]]の少女であった。感動したベートーヴェンはその家を訪れ、溢れる感情を元に[[即興演奏]]を行った。自分の家に帰ったベートーヴェンはその演奏を思い出しながら曲を書き上げた。これが「月光の曲」である。
== 試聴 ==
{{multi-listen start}}
{{multi-listen item
| filename = Beethoven Moonlight 1st movement.ogg
| title = ピアノソナタ第14番 第1楽章
}}
{{multi-listen item
| filename = Beethoven Moonlight 2nd movement.ogg
| title = ピアノソナタ第14番 第2楽章
}}
{{multi-listen item
| filename = Beethoven Moonlight 3rd movement.ogg
| title = ピアノソナタ第14番 第3楽章
|description = Bernd KruegerによるMIDIデジタルピアノ演奏(2007年)
}}
{{multi-listen end}}
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group= "注"}}
'''出典'''
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|first=正興 |last=大木 |title=最新名曲解説全集 第14巻 独奏曲I |publisher=[[音楽之友社]] |year=1980 |isbn=978-4276010147 |ref=harv}}
* CD解説 [[ハイペリオン・レコード|Hyperion Records]], Piano Sonata in C sharp minor 'Moonlight', Op 27 No 2
* 楽譜 Beethoven: Piano Sonata No.14, [[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル|Breitkopf & Härtel]], [[ライプツィヒ|Leiptig]]
== 関連項目 ==
* [[月光#音楽]]
* [[月の光#「月の光」と名のついた音楽作品]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Piano Sonata No. 14 (Beethoven)}}
* [http://www.theguardian.com/arts/audio/2006/nov/22/culture1414 A lecture] by [[シフ・アンドラーシュ|András Schiff]] on Beethoven's piano sonata Op 27 no 2, [[ガーディアン|The Guardian]] {{en icon}}
* {{IMSLP2|work= Piano_Sonata_No.14%2C_Op.27/2_(Beethoven%2C_Ludwig_van)}}
* {{mutopia|276|Sonata No. 14}}
* [http://cantorion.org/pieces/303/Piano-Sonata-No.-14-%22Moonlight%22 Cantorion] 無料楽譜
* [http://www.dlib.indiana.edu/variations/scores/aek3910/index1.html Ricordi edition], The William and Gayle Cook Music Library, [[インディアナ大学システム|インディアナ大学]][[ジェイコブズ音楽院]]
* [http://www.oocities.com/Vienna/2192/essays1.html 32のピアノソナタに関するアルフレート・ブレンデルの考察] {{en icon}}
* {{allmusic|first=James |last=Reel |class=composition |id=mc0002373304}}
* {{PTNA2|musics|6554}}
* [http://www.scores4free.com/beethoven/beethoven.html Beethoven Scores] + audio & MIDI.
{{ベートーヴェンのピアノソナタ}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ひあのそなた14はんへえとおうえん}}
[[Category:ベートーヴェンのピアノソナタ|*14]]
[[Category:1801年の楽曲]]
[[Category:嬰ハ短調]]
[[Category:幻想曲]]
[[Category:月を題材とした楽曲]]
|
2003-09-15T12:17:28Z
|
2023-08-23T20:35:09Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E7%AC%AC14%E7%95%AA_(%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3)
|
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指示電気計器
|
指示電気計器(しじでんきけいき)とは、電気諸量を直接に指針などでアナログ表示する電気計器である。
|
[
{
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"text": "指示電気計器(しじでんきけいき)とは、電気諸量を直接に指針などでアナログ表示する電気計器である。",
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}
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指示電気計器(しじでんきけいき)とは、電気諸量を直接に指針などでアナログ表示する電気計器である。
|
{{出典の明記|date=2017年10月15日 (日) 01:31 (UTC)}}
'''指示電気計器'''(しじでんきけいき)とは、[[電気]]諸量を直接に指針などで[[アナログ]]表示する[[電気計器]]である。
==分類==
===動作原理===
{| class="wikitable"
|+ '''指示電気計器の動作原理による分類'''
|-----
! colspan="2" | 種類
! rowspan="2" | 記号
! rowspan="2" | 文字記号
! colspan="3" | 使用範囲
! rowspan="2" | 測定要素
! rowspan="2" | 指示
! rowspan="2" | 用途
! rowspan="2" | 動作原理
! rowspan="2" | 特徴
|-----
! || || [[周波数]][Hz] || [[電流]][A] || [[電圧]][V]
|-----
| colspan="2" | 可動コイル形 || || M
| [[直流]] || 10<sup>-4</sup>~10<sup>4</sup>
| 10<sup>-2</sup>~10<sup>3</sup>
| 電圧・電流・[[電気抵抗]]・[[温度]]・[[磁束]]・回転 || 平均値
| 標準用・携帯用・配電盤用
| 可動コイルと永久磁石磁界との相互作用 || 高感度、消費電力・外部磁界の影響小
|-----
| colspan="2" | 可動鉄片形 || || S
| 10<sup>1</sup>~10<sup>2</sup> || 10<sup>-2</sup>~10<sup>4</sup>
| 10<sup>1</sup>~10<sup>5</sup> || 電圧・電流 || 実効値
| 携帯用・配電盤用 || 可動鉄片と固定コイル磁界との相互作用
| 安価、堅牢、外部磁界・波形・周波数の影響大、零点付近の目盛間隔が狭くなる
|-----
| rowspan="2" | 電流力計形 || 空心 ||
| rowspan="2" | D || rowspan="2" | 直流~10<sup>3</sup>
| rowspan="2" | 10<sup>-1</sup>~10<sup>4</sup>
| rowspan="2" | 10<sup>1</sup>~10<sup>5</sup>
| rowspan="2" | 電圧・電流・[[電力]] || rowspan="2" | 実効値
| rowspan="2" | 標準用・携帯用
| rowspan="2" | 電流の流れた2つコイル磁界の相互作用 || rowspan="2" | 交直差小、外部磁界の影響・消費電力大
|-----
| 鉄心入 ||
|-----
| colspan="2" | 静電形 || || E
| 直流~10<sup>6</sup> || align="center" | -
| 10<sup>2</sup>~10<sup>5</sup> || 電圧 || 実効値
| 携帯用・据置用
| 2つの金属板間の電位差による静電吸引力 || 機器単独で高電圧測定可能、消費電力・交直差・波形の影響小
|-----
| colspan="2" | 誘導形 || || I
| 10<sup>1</sup> || 10<sup>-1</sup>~10<sup>4</sup>
| 10<sup>1</sup>~10<sup>5</sup> || 電力量・電力・電圧・電流 || 実効値
| 配電盤用
| 固定コイル磁界とアルミニウムの回転円盤の誘導うず電流との相互作用 || 構造が簡単、堅牢、駆動トルク・周波数の影響大
|-----
| colspan="2" | 振動片形 || || V
| 10<sup>1</sup> || align="center" | -
| align="center" | - || 周波数 || align="center" | -
| 配電盤用
| 固有振動数の異なる振動片の交流電流との共振 || 構造が堅牢、半永久的に使用可能、周波数変化に対する即応性が劣る
|-----
| colspan="2" | 可動コイル比率計形 || || XM
| 直流 || 10<sup>-4</sup>~10<sup>4</sup>
| 10<sup>-2</sup>~10<sup>3</sup> || 電気抵抗・絶縁抵抗・温度 || 平均値
| 携帯用・配電盤用 || 2つの電気量を2つのコイルに与えそのトルクの比率を表すもの ||
|-----
| colspan="2" | 可動鉄片比率計形 || || XS
| 10<sup>1</sup>~10<sup>2</sup> || 10<sup>-2</sup>~10<sup>4</sup>
| 10<sup>1</sup>~10<sup>5</sup> || 電圧・電流 || 実効値
| 携帯用・配電盤用 || 2つの電気量を2つのコイルに与えそのトルクの比率を表すもの ||
|-----
| rowspan="2" | 電流力比率計形 || 空心 ||
| rowspan="2" | XD || rowspan="2" | 直流~10<sup>3</sup>
| rowspan="2" | 10<sup>-1</sup>~10<sup>4</sup>
| rowspan="2" | 10<sup>1</sup>~10<sup>5</sup>
| rowspan="2" | [[力率]]・[[位相]]・周波数 || rowspan="2" | 実効値
| rowspan="2" | 配電盤用
| rowspan="2" | 2つの電気量を2つの電流力形コイルに与えそのトルクの比率を表すもの
| rowspan="2" |
|-----
| 鉄心入 ||
|-----
| colspan="2" | 整流形 || || R
| 10<sup>1</sup>~10<sup>4</sup> || 10<sup>-4</sup>~10<sup>4</sup>
| 10<sup>0</sup>~10<sup>5</sup> || 電圧・電流 || 平均値×正弦波の波形率
| 携帯用・配電盤用
| 整流素子の出力を可動コイル形で指示するもの || [[交流]]用の中では最も高感度、波形の影響大
|-----
| rowspan="2" | 熱電形 || 直熱 ||
| rowspan="2" | H || rowspan="2" | 直流~10<sup>7</sup>
| rowspan="2" | 10<sup>-3</sup>~10<sup>4</sup>
| rowspan="2" | 10<sup>1</sup>~10<sup>2</sup>
| rowspan="2" | 電圧・電流・電力 || rowspan="2" | 実効値
| rowspan="2" | 携帯用
| rowspan="2" | 測定電流に比例する抵抗の温度上昇による、熱電対の出力を可動コイル形で指示するもの
| rowspan="2" | 高周波用計器に最適、過負荷に弱い、指示が安定するまで時間がかかる、周辺温度の影響あり
|-----
| 絶縁 ||
|}
*電流・電圧の使用範囲は、[[計器用変成器]]・分流器・倍率器などを外付けする場合を含む。
*変換器形(電子デバイス形)は、測定値を直流電流で出力する[[トランスデューサ]]と可動コイル形を組合わせたもので、近年使用される割合が増加しているものである。(従来はトランスデューサ形と呼ばれていたが1997年のJIS改正により呼称変更)
===使用回路===
*直流用
*交流用
*交直両用
*平衡三相用
*不平衡三相用
===表示部(指針・目盛)===
*平等目盛
*不平等目盛
*対数目盛
*広角度目盛
*両振れ目盛
*多重目盛
*鏡付目盛
===取り付け位置===
*鉛直用
*水平用
*傾斜用
===測定要素===
*[[電圧計]]
*[[電流計]]
*[[電力計]]
*[[無効電力計]]
*[[位相計]]
*[[力率計]]
*[[無効率計]]
*[[周波数計]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
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[[category:電気・電子計測機器]]
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2017-10-18T14:21:10Z
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"Template:脚注ヘルプ"
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|
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相撲用語一覧
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相撲用語一覧(すもうようごいちらん)は、大相撲・相撲界の用語一覧である。
相星 - 合口 - 明荷(あけに) - あっぱ - 兄弟子勝ち - あまのさん - あんこ - あんま - 泉川 - 板番付 - 一代年寄 - 一番太鼓 - 一番出世 - 一門 - 痛み分け - いなす - 引退相撲 - うがい - 打止め - 打ち出し - 腕相撲 - えびすこ - 押し相撲 - おっつけ - 大銀杏 - 大頭 - 大相撲 - 大関 - 親方 - 恩返し - 女相撲
腕(かいな) - 腕をかえす - 型 - 搗ち上げ - 勝ち越し - がちんこ - 角界 - 角番 - 髪結 - かわいがり - がぶり - 神魂神社 - 閂(かんぬき) - 勧進相撲 - 敢闘賞 - 柝が入る(きがはいる) - 木戸番 (相撲) - 技能賞 - 決まり手 - 木村家(行司) - 木村庄之助 - 木村玉之助 - 給金相撲 - 行司 - 金星 - 禁じ手 - 糞袋が重い - 蔵前国技館 - 軍配 - 稽古 - 化粧廻し - 懸賞 - 興行 - 公傷制度 - 国技 - 国際相撲連盟 - ごっつあん - 小結 - 蒙御免(ごめんこうむる) - これより三役 - こんぱち
下がり - 三賞 - 三段構え - 三段目 - 三役 - 志賀清林 - 式守伊之助 - 式守家(行司) - 四股 - 四股名 - 師匠 - 支度部屋 - 死に体 - 蛇の目の砂 - 注連縄 - 十枚目 - 十両 - 十両土俵入り - 殊勲賞 - 手刀 - 巡業 - 準年寄 - 勝負審判 - 女子相撲 - 初切(しょっきり) - 序二段 - 序ノ口 - 新相撲 - 新弟子検査 - しんない - スカす -相撲 - 相撲教習所 - 相撲健康体操 - 相撲研修道場 - 相撲甚句 -相撲神社 - 相撲取り - 相撲博物館 - 相撲部屋 - 摺り足(すりあし) - 座り相撲 - 上覧相撲 - セキタン - 関取 - 関脇 - 世話人 - 千秋楽 - そっぷ - 蹲踞(そんきょ)
当麻蹴速 - 当麻町相撲館 - 柝(たく) - 大横綱 - 台覧相撲 - 立合い - 立行司 - 太刀持 - たにまち - 溜席 - 俵 - 力紙 - 力水 - ちゃんこ - ちゃんこ鍋 - ちゃんこ番 - 注射 - ちょこれんぱん - 塵手水(ちりちょうず) - 突き相撲 - 付け人 - 露払 - 連相撲(つらずもう) - 手合(てあい) - 手刀(てがたな) - 手乞(てごい) - 手相撲 - 鉄砲 - 寺切り -天覧相撲 - 東西 - 東西角力協会 - 徳俵 - 床山 - 年寄 - 年寄名跡 - 飛び付き - 土俵 - 土俵入り - 土俵祭 - 止め名 - 巴戦 -取組 - 取り直し
中入 - 中剃り - 中日 - 鉈 - 西 - 二枚鑑札 - 二番太鼓 - 日本新相撲連盟 - 日本相撲協会 - 日本相撲協会錬成歌 - ヌケヌケ - 猫騙し - 根岸流 - 野見宿禰
端紙 - はっけよい - 八艘飛び - 八番相撲 - 花道 - 花相撲 - 花の○○組(花のニッパチ組、花のサンパチ組、花の六三組、花のゴーイチ組、花のロクイチ組、花のヨン組) - 跳ね太鼓 - 張出 - 馬力 - 番付 - 番付表 - 半身(はんみ) - 東 - 一人相撲 - 鬢付油(びんつけあぶら) - 武家相撲 - 房 - 不浄負け - 不戦勝 - ぶちかまし - ぶつかり稽古 - 懐が深い - 触れ太鼓 - 部屋 - 星取表 - 褒賞金 - 最手(ほて) - 本場所 - 本割
前頭 - 前相撲 - 前捌き - 前褌(まえみつ) - 幕内 - 幕下 - 幕下付出 - 髷(まげ) - 負け越し - 枡席 - 股割り - 待った - 廻し - 満員御礼 - 水入り - 褌(みつ) - 向正面 - 向給金 - 胸を出す - 虫眼鏡 - 物言い - 申し合い -もろ差し
矢柄投げ - 櫓 - 櫓太鼓 - 家賃が高い - 山稽古 - 弓取式 - 横綱 - 横綱大関 - 横綱審議委員会 - 横綱土俵入り - 横褌(よこみつ) - 吉田司家 - 寄せ太鼓 - 四つ相撲 - 四つ身 - 呼出 - 寄り
力士 - 力士会 - 両国国技館 - 連合稽古
若者頭(わかいものがしら) - 割
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相撲用語一覧(すもうようごいちらん)は、大相撲・相撲界の用語一覧である。
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'''相撲用語一覧'''(すもうようごいちらん)は、[[大相撲]]・[[相撲界]]の用語一覧である。
{{seealso|大相撲隠語一覧|大相撲の決まり手一覧|大相撲力士一覧|横綱一覧}}
==五十音順の一覧表==
=== あ行 ===
[[ファイル:Banzuke2.jpg|サムネイル|[[番付]] ( ばんづけ)]]
[[相星]] - [[合口]] - [[明荷]](あけに) - [[妻|あっぱ]] - [[兄弟子勝ち]] - [[ジョーク|あまのさん]] - [[あんこ (相撲)|あんこ]] - [[あんま (相撲)|あんま]] - [[泉川]] - [[番付|板番付]] - [[年寄|一代年寄]] - [[櫓太鼓|一番太鼓]] - [[前相撲|一番出世]] - [[一門_(相撲)|一門]] - [[痛み分け]] - [[いなす]] - [[引退相撲]] - [[ビール|うがい]] - [[打止め]] - [[打ち出し]] - [[腕相撲]] - [[えびすこ]] - [[押し相撲]] - [[おっつけ]] - [[大銀杏]] - [[幕下|大頭]] - [[大相撲]] - [[大関]] - [[年寄|親方]] - [[恩返し (相撲)|恩返し]] - [[女相撲]]
=== か行 ===
[[腕 (相撲)|腕]](かいな) - [[腕をかえす]] - [[型 (相撲)|型]] - [[かち上げ (相撲)|搗ち上げ]] - [[勝ち越し]] - [[がちんこ]] - [[相撲界|角界]] - [[角番]] - [[髪結]] - [[かわいがり]] - [[がぶり]] - [[神魂神社]] - [[閂 (相撲)|閂]](かんぬき) - [[大相撲|勧進相撲]] - [[三賞|敢闘賞]] - [[柝が入る]](きがはいる) - [[木戸番 (相撲)]] - [[三賞|技能賞]] - [[決まり手]] - [[木村家]](行司) - [[木村庄之助]] - [[木村玉之助]] - [[勝ち越し|給金相撲]] - [[行司]] - [[金星 (相撲)|金星]] - [[禁手|禁じ手]] - 糞袋が重い - [[蔵前国技館]] - [[行司|軍配]] - [[稽古]] - [[廻し|化粧廻し]] - [[懸賞 (相撲)|懸賞]] - [[興行]] - [[公傷制度]] - [[国技]] - [[国際相撲連盟]] - [[ごっつあん]] - [[小結]] - [[番付#大相撲の番付|蒙御免]](ごめんこうむる) - [[これより三役]] - [[こんぱち]]
===さ行===
[[廻し|下がり]] - [[三賞]] - [[三段構え]] - [[三段目]] - [[三段目付出]] - [[三役]] - [[志賀清林]] - [[式守伊之助]] - [[式守家]](行司) - [[四股]] - [[四股名]] - [[年寄|師匠]] - [[支度部屋]] - [[死に体]] - [[土俵|蛇の目の砂]] - [[注連縄]] - [[十枚目]] - [[十両]] - [[土俵入り|十両土俵入り]] - [[三賞|殊勲賞]] - [[手刀]] - [[相撲巡業|巡業]] - [[準年寄]] - [[勝負審判]] - [[新相撲|女子相撲]] - [[初切]](しょっきり) - [[序二段]] - [[序ノ口]] - [[新相撲]] - [[新弟子検査]] - [[素人|しんない]] - [[スカす]] -[[相撲]] - [[相撲教習所]] - [[相撲健康体操]] - [[相撲研修道場]] - [[相撲甚句]] -[[相撲神社]] - [[相撲取り]] - [[相撲博物館]] - [[相撲部屋]] - [[摺り足]](すりあし) - [[座り相撲]] - [[上覧相撲]] - [[セキタン]] - [[関取]] - [[関脇]] - [[世話人]] - [[千秋楽]] - [[そっぷ]] - [[蹲踞]](そんきょ)
=== た行 ===
[[当麻蹴速]] - [[当麻町相撲館]] - [[柝]](たく) - [[横綱|大横綱]] - [[天覧相撲|台覧相撲]] - [[立合い]] - [[立行司]] - [[横綱土俵入り|太刀持]] - [[たにまち]] - [[溜席]] - [[土俵|俵]] - [[力紙]] - [[力水 (相撲)|力水]] - [[料理|ちゃんこ]] - [[ちゃんこ鍋]] - [[ちゃんこ番]] - [[八百長|注射]] - [[賭博|ちょこれんぱん]] - [[塵手水]](ちりちょうず) - [[突き相撲]] - [[付け人]] - [[横綱土俵入り|露払]] - [[ヌケヌケ|連相撲]](つらずもう) - [[手合]](てあい) - [[手刀]](てがたな) - [[相撲|手乞]](てごい) - [[オナニー|手相撲]] - [[突っ張り#鉄砲|鉄砲]] - [[窃盗|寺切り]] -[[天覧相撲]] - [[東西声|東西]] - [[東西角力協会]] - [[徳俵]] - [[床山]] - [[年寄]] - [[年寄名跡]] - [[たらい回し|飛び付き]] - [[土俵]] - [[土俵入り]] - [[土俵|土俵祭]] - [[止め名]] - [[巴戦]] -[[取組]] - [[取り直し]]
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[[中入]] - [[中剃り]] - [[中日]] - [[鉈#相撲用語の鉈|鉈]] - [[西#西に関する項目|西]] - [[二枚鑑札]] - [[櫓太鼓|二番太鼓]] - [[新相撲|日本新相撲連盟]] - [[日本相撲協会]] - [[日本相撲協会錬成歌]] - [[ヌケヌケ]] - [[猫騙し]] - [[根岸流 (書風)|根岸流]] - [[野見宿禰]]
===は行===
[[借金|端紙]] - [[行司|はっけよい]] - [[舞の海秀平|八艘飛び]] - [[八番相撲]] - [[花道]] - [[花相撲]] - 花の○○組([[花のニッパチ組]]、[[花のサンパチ組]]、[[花の六三組]]、花のゴーイチ組、[[花のロクイチ組]]、[[花のヨン組]]) - [[櫓太鼓|跳ね太鼓]] - [[張出]] - [[馬力]] - [[番付]] - [[番付|番付表]] - [[半身]](はんみ) - [[東#東に関する項目|東]] - [[一人相撲]] - [[鬢付油]](びんつけあぶら) - [[武家相撲]] - [[土俵|房]] - [[不浄負け]] - [[不戦勝 (相撲)|不戦勝]] - [[ぶちかまし]] - [[ぶつかり稽古]] - [[懐が深い]] - [[触れ太鼓]] - [[相撲部屋|部屋]] - [[星取表]] - [[力士褒賞金|褒賞金]] - [[最手]](ほて) - [[本場所]] - [[割 (相撲)|本割]]
===ま行===
[[前頭]] - [[前相撲]] - [[前捌き]] - [[廻し|前褌]](まえみつ) - [[幕内]] - [[幕下]] - [[幕下付出]] - [[大銀杏|髷]](まげ) - [[負け越し]] - [[枡席]] - [[股割り]] - [[待った]] - [[廻し]] - [[満員御礼]] - [[水入り]] - [[廻し|褌]](みつ) - [[向正面]] - [[負け越し|向給金]] - [[ぶつかり稽古|胸を出す]] - [[序ノ口|虫眼鏡]] - [[物言い]] - [[申し合い]] -[[もろ差し]]
===や行===
[[ファイル:100 views edo 005.jpg|サムネイル|櫓太鼓]]
[[矢柄投げ]] - [[櫓]] - [[櫓太鼓]] - [[家賃#派生した俗語|家賃が高い]] - [[山稽古]] - [[弓取式]] - [[横綱]] - [[横綱大関]] - [[横綱審議委員会]] - [[横綱土俵入り]] - [[廻し|横褌]](よこみつ) - [[吉田司家]] - [[櫓太鼓|寄せ太鼓]] - [[四つ相撲]] - [[四つ身]] - [[呼出]] - [[寄り (相撲)|寄り]]
===ら行===
[[力士]] - [[力士会]] - [[両国国技館]] - [[稽古|連合稽古]]
===わ行===
[[若者頭]](わかいものがしら) - [[割 (相撲)|割]]
== 参考 ==
* [https://www.chanko.info/shopinfo/trivia_chanko.html#vol07 ちゃんこ豆知識 八、お相撲言葉番付 - 相撲茶屋 恵大宛 公式サイト]
== 外部リンク ==
*[http://www.sumo.or.jp/IrohaKnowledge/glossary 相撲用語集 - 日本相撲協会公式サイト]
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[[Category:相撲関連一覧|すもうようこ]]
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計器用変成器
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計器用変成器(けいきようへんせいき instrument transformer)は変成器の一種で、交流の高電圧・大電流の測定のため、電気計器の測定範囲を拡大するための電気計器の総称である。 計器用変成器は他の用途に用いられる変成器と異なり、その変成比が正確であることが重要な性能の1つである。電力の測定に用いる場合はこれに加え、一次側と二次側の位相差が小さいことが必要である。
計器用変圧器(けいきようへんあつき, VT, Voltage Transformer)は変圧器の一種で、交流高電圧の測定に用いられる。かつてはPT(Potential Transformer) とも呼ばれていた。 制御回路に使用しやすい電圧に降圧させ、電圧計等の計器や保護継電器を動作させるために使用するものである。
電力用変圧器との差は、測定誤差を小さくするために巻線の電気抵抗や磁束の漏れを小さくしていることと、二次側に電流をあまり流す必要がないので小容量であることである。
変圧比は、一次電圧と二次電圧の比である。一次巻線・二次巻線の巻数をそれぞれ N1 ・ N2 、一次電圧・二次電圧をそれぞれ V1 ・ V2 とすると次のようになる。
N 2 N 1 = V 2 V 1 {\displaystyle {\frac {N_{2}}{N_{1}}}={\frac {V_{2}}{V_{1}}}}
計器用変流器(けいきようへんりゅうき, 英語: CT, Current Transformer)は変流器の一種で、交流大電流の測定に用いられる。 制御回路に使用しやすい電圧に降圧させ、電圧計等の計器や保護継電器を動作させるために使用するものである。
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計器用変成器は変成器の一種で、交流の高電圧・大電流の測定のため、電気計器の測定範囲を拡大するための電気計器の総称である。
計器用変成器は他の用途に用いられる変成器と異なり、その変成比が正確であることが重要な性能の1つである。電力の測定に用いる場合はこれに加え、一次側と二次側の位相差が小さいことが必要である。
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{{出典の明記|date=2013年11月}}
'''計器用変成器'''(けいきようへんせいき instrument transformer)は[[変成器]]の一種で、[[交流]]の高[[電圧]]・大[[電流]]の[[測定]]のため、[[電気計器]]の測定範囲を拡大するための[[電気計器]]の総称である。
計器用変成器は他の用途に用いられる変成器と異なり、その変成比が正確であることが重要な性能の1つである。[[電力]]の測定に用いる場合はこれに加え、一次側と二次側の位相差が小さいことが必要である。
== 計器用変圧器 ==
'''計器用変圧器'''(けいきようへんあつき, '''VT''', ''V''oltage ''T''ransformer)は[[変圧器]]の一種で、交流高電圧の測定に用いられる。かつては'''PT'''(''P''otential ''T''ransformer) とも呼ばれていた。
制御回路に使用しやすい電圧に降圧させ、[[電圧計]]等の計器や[[保護継電器]]を動作させるために使用するものである。
電力用[[変圧器]]との差は、測定誤差を小さくするために巻線の[[電気抵抗]]や磁束の漏れを小さくしていることと、二次側に電流をあまり流す必要がないので小容量であることである。
=== 変圧比 ===
変圧比は、一次[[電圧]]と二次電圧の比である。一次巻線・二次巻線の巻数をそれぞれ ''N<sub>1</sub>'' ・ ''N<sub>2</sub>'' 、一次電圧・二次電圧をそれぞれ ''V<sub>1</sub>'' ・ ''V<sub>2</sub>'' とすると次のようになる。
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== 計器用変流器 ==
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'''計器用変流器'''(けいきようへんりゅうき, {{lang-en|'''CT''', ''C''urrent ''T''ransformer}})は変流器の一種で、交流大電流の測定に用いられる。
制御回路に使用しやすい電圧に降圧させ、[[電圧計]]等の計器や[[保護継電器]]を動作させるために使用するものである。
=== 変流比 ===
変流比は、一次[[電流]]と二次電流の比である。一次巻線・二次巻線の巻数をそれぞれ ''N<sub>1</sub>'' ・ ''N<sub>2</sub>'' 、一次電流・二次電流をそれぞれ ''I<sub>1</sub>'' ・ ''I<sub>2</sub>'' とすると次のようになる。
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== 脚注 ==
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山陽道
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山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。
街道においては江戸時代を中心に、
などとも呼ばれた。
律令に規定された行政区画は、当時「五畿七道」と称されたように、中央の五畿と地方である七道から成っていた。山陽道はその「五畿七道」の一つ、本州の瀬戸内海側を指しており、畿内の西に位置し、現在の兵庫県西部から山口県までに至る瀬戸内海沿岸を総称した。なおこれを統括する役所は原則的には存在しておらず、基本的には区画を示すものであった。
山陽道は時代背景により、以下のように区分し称される場合もある。
古代の山陽道は、大和朝廷と九州の太宰府を結ぶ幹線道として最も重要視され、畿内を起点に放射状に延びる七道駅路(大路、中路、小路)のなかで唯一の大路であった。
古代日本では、太陽の出没方向に因んで東西を日縦(ひたて)、それに直行する南北方向を日横(ひよこ)と呼んでいた。そして山稜の南斜面(上古・中古中国語で「陽」)を影面(かげとも)、北斜面(上古・中古中国語で「陰」)を背面(そとも)と呼び、共に日縦である本州西部南岸の街道を「影面の道」(漢訳すると「山陽道」)、本州西部北岸の街道を「背面の道」(漢訳すると「山陰道」)とも呼ぶようになったとされる。
大同2年(807年)の改制までは、播磨以西の山陽道には51の駅家があり(駅間距離13里程度)、それぞれに25疋の駅馬が置かれていた。この改制以降は、新任国司の赴任も海路を使うようになるなど駅路の利用は衰微していった。
『延喜式』(927年に編纂)には、駅路(七道)ごとに各駅名が記載されており、これを元に当時の駅路を大まかに復元することができる。延喜式の兵部省諸国駅伝馬条による、駅家・駅路関係の史料からは、山城国の山崎駅から筑前国の久爾駅まで58駅を数えていたことがうかがえる。なお奈良時代には、平城京から木津川沿いを北上し、河内国交野郡(現、枚方市・交野市)の楠葉駅を経て淀川対岸の摂津国島上郡(現、高槻市・島本町)の大原駅を経由する路線であった。その後平安時代には、平安京から南下して山城国乙訓郡(現、大山崎町・長岡京市)の山崎駅から高槻を経て、西へと向かう路線となったようである。
古代の山陽道の場合、原則30里(当時の一里は約540メートルで、30里は約16キロメートル)ごとに駅家(うまや)を設けていた。道幅は約6 - 9メートルで、その行程は直線的に短絡するよう計画されており、各国の国府を効率良く結んでいた。本道から外れた美作国へは、播磨国草上駅から西北に分岐した道路(美作路)が伸びていた。
山陽道が重視されたのは外交使節の入京路に当たっていたからで、駅家は瓦葺きで白壁にしていたので、天平元年(729年)そのための財政措置が行われた。
当初はこの陸上交通路によって地方官である国司が往復し、各地域からの税である庸・調を運ぶことを原則としていた。しかし大量の物資を輸送するのは水運を利用する方が効率的であり、次第に瀬戸内海を経由する水運の比重が高まっていった。やがて律令制の納税、軍制の形骸化に呼応するかのように、駅伝制は急速な衰退をみせ、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。
実際の古代山陽道の路線趾が、発掘調査において確認された事例は極めて少なく、高槻市郡家(ぐんげ)川西遺跡(幅8メートル)、岡山県備中国分尼寺跡(幅7メートル)、兵庫県たつの市小犬丸(こいぬまる)遺跡、上郡町落地(おろち)遺跡など数例に留まる。広島県府中市での発掘調査では、市内3か所で古代山陽道の遺構が出土し、道幅が10メートルであったことや、600メートル離れた備後国府跡への分岐点も確認されている。
以下に駅馬について、分国名/駅名(設置郡名)・備考(駅馬数等)・古代山陽道駅家想定地(推定地関連情報)の順に列挙する。
太宰府路
(比喜(比菩))
鎌倉時代は、計画的な国家整備道路としての駅路は存在しなくなったものの、陸上の移動交通がまったく廃絶する訳では無く、その後も地域間の連絡路としての機能はある程度保たれることになった。そして駅家に代わるものとして、宿駅と呼ばれる交通の要地にあって、宿泊のための設備や輸送に携わる人馬を有した集落が発達した。これらは江戸時代にかけての宿場町として発展したものが多い。この時期の山陽道は、幕府出先機関である鎮西探題府がある博多と、京都守護(のちに六波羅探題)が置かれた京都を結ぶ交通の要路で、幕府の緊急連絡の際は早馬を使用した。
山陽道の交通が注目されたのは2度の蒙古襲来(元寇)のときで、最初の文永の役(1274年)のときに早馬による蒙古襲来の第一報で博多・京都間に約9日を要し、その他の飛脚による通報に16日前後を要している。これは、古代律令時代の飛駅による通報と比較して格段に遅い通信であった。2度目の弘安の役(1281年)の時には、博多・京都間を6、7日で通報に要していたことから、文永の役から弘安の役までの間に、中世交通史の研究者である新城常三は鎌倉幕府が逓送制度に何らかの改善がなされたものと推測しており、道路文化研究者で工学博士の武部健一も、蒙古襲来が山陽道の整備改善に寄与する契機となっていると指摘している。
山陽道においては、次第に従来の極端な直線的志向は廃れ、より整備の簡便な自然地形を利用する経路へと路線の変更がなされたようである。すなわち災害からの復旧を含めて、峠の迂回、河川渡河地点の変更、有力集落間の連絡重視などが主な理由となり、路線の付け替えは各所で行われた。沖積平野の出現による海岸線の後退も手伝い、全体としては次第に瀬戸内海の海岸沿いの経路が志向されることになった。
この変遷の概略としては、従前から平地部の連絡が多かった摂津、播磨では古代の路の近辺にその路線を見いだす事ができうる。しかいそれでもまったく同一の場所に整備が続けられることはなく、例えば姫路付近でも南側へ断層面を利用する形での小幅な変更がなされている。さらに備前への連絡は、野磨(上郡町)を過ぎて、坂長(備前市吉永町)→和気→珂磨(赤磐市松木)→高月(赤磐市馬屋)の路線であったものが、備前市片上→備前市香登→岡山市一日市→岡山市藤井へと大きく変更され、旭川を渡り備中へと続く。
備中では小田川沿いの平地が最も妥当な選択であったので、基本的にこの路線は踏襲されている。そして現在の国道313号(高梁市~井原市:高梁へは美作から、あるいは高梁川沿いを遡る形で連絡が可能)も、いわゆる宿駅が整備され街道(備中往来)として利用されていたようである。
しかし備後では、福山市北部(府中~駅家付近)と安芸の三原市北西部(高坂・本郷)の経路から、芦田川に沿う形をとり尾道方面を経由する変更が行われている。また安芸では峠は避けられない宿命であるものの、路線の変更が繰り返されており府中手前では短絡を緩和し、沿岸部の 海田市を経由する路線(安芸山陽道)へとなった。ただ国を通過する路線が全く変更されたと言う点では、備前と備後の例が最も大きなものではないかと思われる。
さらに室町時代後期になると、道路整備が地方領主の手に移り、いわゆる城下町形成の手段に用いられるなどしているため、いわゆる東西短絡の性格から外れることになる場合もあった(岡山城下など)。
江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。かつては、一級の幹線道として扱われた山陽道も、五街道と連結する脇街道へと扱いは格下げされた。
明治政府は、国道に番号を付けて管理する制度を採った。江戸時代までの山陽道は、明治時代には東京と神戸を結ぶ国道3号(2号から京都で分岐)、および、東京と長崎を結ぶ国道4号の一部になり、大正期には東京と鹿児島を結ぶ国道2号(1号から三重県で分岐)の一部になった。
現在では山陽道の機能は、大阪と北九州(門司)を結ぶ国道2号に引き継がれている。しかし、律令時代や江戸時代の山陽道とは異なる道筋の部分も多い。一例をあげると岡山県岡山市 - 広島県福山市にかけての国道2号は、かつての山陽道を踏襲しておらず、大幅に異なるルートである旧鴨方往来(浜街道)を併走する。これは国道整備において、主要都市となっていた岡山と福山との間を、本来の東西短絡の性格で道路敷設したためではないかと推測される。 なおこのため岡山県や広島県東部では、かつての山陽道(小田川沿い)やそれに並行する道路は、「旧山陽道」と呼ぶのが一般的となっている。さらに「山陽道」と呼んだ場合には、「山陽自動車道」のことを一般に示している。
鉄道の山陽本線や山陽新幹線、高速道路の山陽自動車道も、古来の山陽道をたどるように敷設されている場合もある。現代においても、近畿地方と九州を結ぶ機能を律令時代から維持し続けている。
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"text": "山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。",
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"text": "律令に規定された行政区画は、当時「五畿七道」と称されたように、中央の五畿と地方である七道から成っていた。山陽道はその「五畿七道」の一つ、本州の瀬戸内海側を指しており、畿内の西に位置し、現在の兵庫県西部から山口県までに至る瀬戸内海沿岸を総称した。なおこれを統括する役所は原則的には存在しておらず、基本的には区画を示すものであった。",
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"text": "山陽道は時代背景により、以下のように区分し称される場合もある。",
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"text": "古代の山陽道は、大和朝廷と九州の太宰府を結ぶ幹線道として最も重要視され、畿内を起点に放射状に延びる七道駅路(大路、中路、小路)のなかで唯一の大路であった。",
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"text": "古代日本では、太陽の出没方向に因んで東西を日縦(ひたて)、それに直行する南北方向を日横(ひよこ)と呼んでいた。そして山稜の南斜面(上古・中古中国語で「陽」)を影面(かげとも)、北斜面(上古・中古中国語で「陰」)を背面(そとも)と呼び、共に日縦である本州西部南岸の街道を「影面の道」(漢訳すると「山陽道」)、本州西部北岸の街道を「背面の道」(漢訳すると「山陰道」)とも呼ぶようになったとされる。",
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"text": "大同2年(807年)の改制までは、播磨以西の山陽道には51の駅家があり(駅間距離13里程度)、それぞれに25疋の駅馬が置かれていた。この改制以降は、新任国司の赴任も海路を使うようになるなど駅路の利用は衰微していった。",
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"text": "『延喜式』(927年に編纂)には、駅路(七道)ごとに各駅名が記載されており、これを元に当時の駅路を大まかに復元することができる。延喜式の兵部省諸国駅伝馬条による、駅家・駅路関係の史料からは、山城国の山崎駅から筑前国の久爾駅まで58駅を数えていたことがうかがえる。なお奈良時代には、平城京から木津川沿いを北上し、河内国交野郡(現、枚方市・交野市)の楠葉駅を経て淀川対岸の摂津国島上郡(現、高槻市・島本町)の大原駅を経由する路線であった。その後平安時代には、平安京から南下して山城国乙訓郡(現、大山崎町・長岡京市)の山崎駅から高槻を経て、西へと向かう路線となったようである。",
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"text": "古代の山陽道の場合、原則30里(当時の一里は約540メートルで、30里は約16キロメートル)ごとに駅家(うまや)を設けていた。道幅は約6 - 9メートルで、その行程は直線的に短絡するよう計画されており、各国の国府を効率良く結んでいた。本道から外れた美作国へは、播磨国草上駅から西北に分岐した道路(美作路)が伸びていた。",
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"text": "山陽道が重視されたのは外交使節の入京路に当たっていたからで、駅家は瓦葺きで白壁にしていたので、天平元年(729年)そのための財政措置が行われた。",
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"text": "当初はこの陸上交通路によって地方官である国司が往復し、各地域からの税である庸・調を運ぶことを原則としていた。しかし大量の物資を輸送するのは水運を利用する方が効率的であり、次第に瀬戸内海を経由する水運の比重が高まっていった。やがて律令制の納税、軍制の形骸化に呼応するかのように、駅伝制は急速な衰退をみせ、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。",
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"text": "実際の古代山陽道の路線趾が、発掘調査において確認された事例は極めて少なく、高槻市郡家(ぐんげ)川西遺跡(幅8メートル)、岡山県備中国分尼寺跡(幅7メートル)、兵庫県たつの市小犬丸(こいぬまる)遺跡、上郡町落地(おろち)遺跡など数例に留まる。広島県府中市での発掘調査では、市内3か所で古代山陽道の遺構が出土し、道幅が10メートルであったことや、600メートル離れた備後国府跡への分岐点も確認されている。",
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"text": "以下に駅馬について、分国名/駅名(設置郡名)・備考(駅馬数等)・古代山陽道駅家想定地(推定地関連情報)の順に列挙する。",
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"text": "太宰府路",
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"text": "(比喜(比菩))",
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"text": "鎌倉時代は、計画的な国家整備道路としての駅路は存在しなくなったものの、陸上の移動交通がまったく廃絶する訳では無く、その後も地域間の連絡路としての機能はある程度保たれることになった。そして駅家に代わるものとして、宿駅と呼ばれる交通の要地にあって、宿泊のための設備や輸送に携わる人馬を有した集落が発達した。これらは江戸時代にかけての宿場町として発展したものが多い。この時期の山陽道は、幕府出先機関である鎮西探題府がある博多と、京都守護(のちに六波羅探題)が置かれた京都を結ぶ交通の要路で、幕府の緊急連絡の際は早馬を使用した。",
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"text": "山陽道の交通が注目されたのは2度の蒙古襲来(元寇)のときで、最初の文永の役(1274年)のときに早馬による蒙古襲来の第一報で博多・京都間に約9日を要し、その他の飛脚による通報に16日前後を要している。これは、古代律令時代の飛駅による通報と比較して格段に遅い通信であった。2度目の弘安の役(1281年)の時には、博多・京都間を6、7日で通報に要していたことから、文永の役から弘安の役までの間に、中世交通史の研究者である新城常三は鎌倉幕府が逓送制度に何らかの改善がなされたものと推測しており、道路文化研究者で工学博士の武部健一も、蒙古襲来が山陽道の整備改善に寄与する契機となっていると指摘している。",
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"text": "山陽道においては、次第に従来の極端な直線的志向は廃れ、より整備の簡便な自然地形を利用する経路へと路線の変更がなされたようである。すなわち災害からの復旧を含めて、峠の迂回、河川渡河地点の変更、有力集落間の連絡重視などが主な理由となり、路線の付け替えは各所で行われた。沖積平野の出現による海岸線の後退も手伝い、全体としては次第に瀬戸内海の海岸沿いの経路が志向されることになった。",
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"text": "この変遷の概略としては、従前から平地部の連絡が多かった摂津、播磨では古代の路の近辺にその路線を見いだす事ができうる。しかいそれでもまったく同一の場所に整備が続けられることはなく、例えば姫路付近でも南側へ断層面を利用する形での小幅な変更がなされている。さらに備前への連絡は、野磨(上郡町)を過ぎて、坂長(備前市吉永町)→和気→珂磨(赤磐市松木)→高月(赤磐市馬屋)の路線であったものが、備前市片上→備前市香登→岡山市一日市→岡山市藤井へと大きく変更され、旭川を渡り備中へと続く。",
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"text": "備中では小田川沿いの平地が最も妥当な選択であったので、基本的にこの路線は踏襲されている。そして現在の国道313号(高梁市~井原市:高梁へは美作から、あるいは高梁川沿いを遡る形で連絡が可能)も、いわゆる宿駅が整備され街道(備中往来)として利用されていたようである。",
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"text": "しかし備後では、福山市北部(府中~駅家付近)と安芸の三原市北西部(高坂・本郷)の経路から、芦田川に沿う形をとり尾道方面を経由する変更が行われている。また安芸では峠は避けられない宿命であるものの、路線の変更が繰り返されており府中手前では短絡を緩和し、沿岸部の 海田市を経由する路線(安芸山陽道)へとなった。ただ国を通過する路線が全く変更されたと言う点では、備前と備後の例が最も大きなものではないかと思われる。",
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"text": "さらに室町時代後期になると、道路整備が地方領主の手に移り、いわゆる城下町形成の手段に用いられるなどしているため、いわゆる東西短絡の性格から外れることになる場合もあった(岡山城下など)。",
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"text": "江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。かつては、一級の幹線道として扱われた山陽道も、五街道と連結する脇街道へと扱いは格下げされた。",
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"text": "明治政府は、国道に番号を付けて管理する制度を採った。江戸時代までの山陽道は、明治時代には東京と神戸を結ぶ国道3号(2号から京都で分岐)、および、東京と長崎を結ぶ国道4号の一部になり、大正期には東京と鹿児島を結ぶ国道2号(1号から三重県で分岐)の一部になった。",
"title": "道(みち)としての山陽道"
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"text": "現在では山陽道の機能は、大阪と北九州(門司)を結ぶ国道2号に引き継がれている。しかし、律令時代や江戸時代の山陽道とは異なる道筋の部分も多い。一例をあげると岡山県岡山市 - 広島県福山市にかけての国道2号は、かつての山陽道を踏襲しておらず、大幅に異なるルートである旧鴨方往来(浜街道)を併走する。これは国道整備において、主要都市となっていた岡山と福山との間を、本来の東西短絡の性格で道路敷設したためではないかと推測される。 なおこのため岡山県や広島県東部では、かつての山陽道(小田川沿い)やそれに並行する道路は、「旧山陽道」と呼ぶのが一般的となっている。さらに「山陽道」と呼んだ場合には、「山陽自動車道」のことを一般に示している。",
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"text": "鉄道の山陽本線や山陽新幹線、高速道路の山陽自動車道も、古来の山陽道をたどるように敷設されている場合もある。現代においても、近畿地方と九州を結ぶ機能を律令時代から維持し続けている。",
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山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。
本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。
行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。 街道においては江戸時代を中心に、 西国街道(さいごくかいどう、さいこくかいどう、せいごくかいどう、せいこくかいどう)
西国道(さいごくどう、さいこくどう、せいごくどう、せいこくどう)
西国路(さいごくじ、さいこくじ、せいごくじ、せいこくじ)
中国街道(ちゅうごくかいどう)
中国路(ちゅうごくじ)
山陽路(さんようじ) などとも呼ばれた。
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{{Otheruseslist|'''[[五畿七道]]'''の一つである'''[[行政区分]]'''、および同所を通る'''古代から中世の[[街道]]'''|同所を通る'''近世の街道'''|西国街道|「山陽道」と通称される'''[[日本の高速道路|高速道路]]'''|山陽自動車道}}
{{Redirect|西道|[[鹿児島県]][[鹿児島市]]の[[桜島]]にある[[町丁]]|桜島西道町}}
'''山陽道'''(さんようどう、かげとものみち)は、[[五畿七道]]の一つである。
[[本州]]西部の[[瀬戸内海]]側の[[行政区分]]、および同所を通る[[幹線道路]]([[古代]]から[[中世]])を指す。
行政区分としては、'''影面道'''、'''光面道'''(かげとものみち)、または'''中国'''(ちゅうごく)とも称された<ref>[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&dtype=0&dname=0ss&stype=0 Yahoo!辞書 - 大辞林] 2019年5月31日サービス終了。</span></ref>。
街道においては江戸時代を中心に、
*'''[[西国街道]]'''(さいごくかいどう、さいこくかいどう、せいごくかいどう、せいこくかいどう)
*'''西国道'''(さいごくどう、さいこくどう、せいごくどう、せいこくどう)
*'''西国路'''(さいごくじ、さいこくじ、せいごくじ、せいこくじ)
*'''中国街道'''(ちゅうごくかいどう)
*'''中国路'''(ちゅうごくじ)
*'''山陽路'''(さんようじ)
などとも呼ばれた<ref>松村明監修『大辞泉』小学館(1998年)</ref>。
== 行政区画としての山陽道 ==
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[[File:Sanyodo.svg|thumb|山陽道]]
律令に規定された行政区画は、当時「五畿七道」と称されたように、中央の五畿と地方である七道から成っていた。山陽道はその「五畿七道」の一つ、本州の瀬戸内海側を指しており、[[畿内]]の西に位置し、現在の[[兵庫県]]西部から[[山口県]]までに至る瀬戸内海沿岸を総称した。なおこれを統括する役所は原則的には存在しておらず、基本的には区画を示すものであった。
*[[播磨国]](現在の[[兵庫県]]南西部)
*[[美作国]](現在の[[岡山県]]東北部)- [[和銅]]6年([[713年]])に備前国より分割された。
*[[備前国]](現在の岡山県東南部,[[香川県]][[小豆郡]]と[[直島諸島]],兵庫県[[赤穂市]]の一部)
*[[備中国]](現在の岡山県西部)
*[[備後国]](現在の[[広島県]]東部)
*[[安芸国]](現在の広島県西部)
*[[周防国]](現在の[[山口県]]東南部)
*[[長門国]](現在の山口県西部)
=== 変遷 ===
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|title = 山陽道令制国の変遷
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; 名称の変更に限るもので、令制国間の郡・郷の移動に関しては記載していない。
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{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|||:|02|||||:|03|:||04|:|05| 01='''古代国<br/>([[令制国]]前身)'''|02='''[[大宝律令]]制定<br/>([[701年]])'''|03='''[[824年]]-明治'''|04='''[[明治|明治時代]]'''|05='''現在の[[都道府県]]'''}}
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{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[針間国造|針間国]]|02='''[[播磨国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[播磨国]]'''|04=[[兵庫県]](南西部)}}
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{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|-|+|*|02|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[吉備国]]<ref group="注">かつては[[上道国造|上道国]]、[[三野国造|三野国]]、[[大伯国造|大伯国]]、[[下道国造|下道国]]、[[加夜国造|加夜国]]、[[笠臣国造|笠臣国]]、[[吉備穴国造|吉備穴国]]、[[吉備中県国造|吉備中県国]]、
[[吉備品治国造|吉備品治国]]があった。</ref>|02='''[[備中国]]'''<br/>([[689年]]-)|03='''[[備中国]]'''|04=岡山県(西部)}}
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{{Reflist|group=注}}
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{{令制国一覧}}
== 道(みち)としての山陽道 ==
{{出典の明記|date=2011年1月|section=1}}
山陽道は時代背景により、以下のように区分し称される場合もある。
=== 古代山陽道 ===
[[File:Kyuusanyoudou-2017.jpg|thumb|広島県府中市府中町での旧山陽道の発掘作業]]
==== 概要 ====
古代の山陽道は、大和朝廷と九州の太宰府を結ぶ幹線道として最も重要視され、畿内を起点に放射状に延びる七道駅路(大路、中路、小路)のなかで唯一の大路であった{{sfn|浅井建爾|2001|p=87}}。
古代日本では、太陽の出没方向に因んで東西を日縦(ひたて)、それに直行する南北方向を日横(ひよこ)と呼んでいた。そして山稜の南斜面([[上古中国語|上古]]・[[中古中国語]]で[[陰陽#陰陽性質表|「陽」]])を影面(かげとも)、北斜面(上古・中古中国語で「陰」)を背面(そとも)と呼び、共に日縦である本州西部南岸の街道を「影面の道」(漢訳すると「山陽道」)、本州西部北岸の街道を「背面の道」(漢訳すると「[[山陰道]]」)とも呼ぶようになったとされる。
[[大同 (日本)|大同]]2年(807年)の改制までは、播磨以西の山陽道には51の[[駅家]]があり(駅間距離13里程度)、それぞれに25疋の駅馬が置かれていた。この改制以降は、新任国司の赴任も海路を使うようになるなど[[駅路]]の利用は衰微していった。
『[[延喜式]]』(927年に編纂)には、駅路(七道)ごとに各駅名が記載されており、これを元に当時の駅路を大まかに復元することができる。延喜式の兵部省諸国駅伝馬条による、駅家・駅路関係の史料からは、[[山城国]]の山崎駅から[[筑前国]]の久爾駅まで58駅を数えていたことがうかがえる。なお[[奈良時代]]には、平城京から[[木津川 (京都府)|木津川]]沿いを北上し、河内国交野郡(現、枚方市・交野市)の楠葉駅を経て[[淀川]]対岸の[[摂津国]][[島上郡]](現、高槻市・島本町)の大原駅を経由する路線であった。その後[[平安時代]]には、平安京から南下して山城国乙訓郡(現、大山崎町・長岡京市)の山崎駅から高槻を経て、西へと向かう路線となったようである。
古代の山陽道の場合、原則30里(当時の一里は約540メートルで、30里は約16キロメートル)ごとに駅家(うまや)を設けていた{{sfn|浅井建爾|2001|p=87}}。道幅は約6 - 9メートルで、その行程は直線的に短絡するよう計画されており、各国の[[国府]]を効率良く結んでいた。本道から外れた[[美作国]]へは、[[播磨国]]草上駅から西北に分岐した道路(美作路)が伸びていた。
山陽道が重視されたのは外交使節の入京路に当たっていたからで、駅家は瓦葺きで白壁にしていたので、天平元年(729年)そのための財政措置が行われた。
当初はこの陸上交通路によって地方官である国司が往復し、各地域からの税である[[庸]]・[[調]]を運ぶことを原則としていた。しかし大量の物資を輸送するのは水運を利用する方が効率的であり、次第に[[瀬戸内海]]を経由する水運の比重が高まっていった。やがて律令制の納税、軍制の形骸化に呼応するかのように、駅伝制は急速な衰退をみせ、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。
実際の古代山陽道の路線趾が、発掘調査において確認された事例は極めて少なく、[[高槻市]]郡家(ぐんげ)川西遺跡(幅8メートル)、岡山県[[備中国分寺|備中国分尼寺]]跡(幅7メートル)、兵庫県[[たつの市]]小犬丸(こいぬまる)遺跡、[[上郡町]]落地(おろち)遺跡など数例に留まる。[[広島県]][[府中市 (広島県)|府中市]]での発掘調査では、市内3か所で古代山陽道の遺構が出土し、道幅が10メートルであったことや<ref name="bingo20171102">備後ふちゅう かわら版 2017年11月2日 中国新聞備後府中販売所</ref>、600メートル離れた[[備後国府]]跡への分岐点も確認されている<ref name="kouhou20160701">広報 ふちゅう 2016年7月1日(1214号) 府中市人事課秘書課編集発行</ref>。
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File:Hiezawa Pond, teibou.jpg|稗沢池(兵庫県明石市)中央堤防として残る路線跡
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==== 駅家一覧 ====
以下に駅馬について、'''分国名'''/'''駅名'''('''設置郡名''')・'''備考'''('''駅馬数等''')・'''古代山陽道駅家想定地'''('''推定地関連情報''')の順に列挙する。
*山城(1駅)
**山崎([[乙訓郡]]) 駅馬数20疋
*摂津(5駅)
**大原([[島上郡]]神内・梶原南地区) [[711年]]設置 摂津国島上郡大原駅 [[大阪府]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]]桜井一丁目([[桜井駅跡]])
**殖村([[島下郡]]) 711年設置
**草野(かやの、[[豊島郡 (大阪府)|豊島郡]]) 駅馬数13疋 [[箕面市]]萱野地区
**葦屋([[菟原郡]]) 12疋 深江北町遺跡
**須磨([[八部郡]]) 13疋
*播磨(9駅、廃駅2駅)
**明石([[明石郡]]) 駅馬数30疋<ref name="名前なし-1">『[[延喜式]]』の兵部省の項</ref> [[兵庫県]][[明石市]]
**邑美(廃止)兵庫県明石市長坂寺遺跡<ref>{{Cite web|和書|title=古代官道に関する調査研究|url=https://www.hyogo-koukohaku.jp/|website=兵庫県立 考古博物館|accessdate=2021-10-31|language=ja|last=兵庫県立考古博物館}}</ref>
**賀古(かこ、[[加古郡|賀古郡]]) 40疋<ref name="名前なし-1"/> 兵庫県[[加古川市]]野口町(古大内遺跡<ref>{{Cite web|和書|title=古代官道に関する調査研究|url=https://www.hyogo-koukohaku.jp/|website=兵庫県立 考古博物館|accessdate=2021-10-31|language=ja|last=兵庫県立考古博物館}}</ref>)
**佐突(廃止)兵庫県姫路市別所町佐土周辺
**草上([[飾磨郡]]) 30疋<ref name="名前なし-1"/> 兵庫県[[姫路市]]今宿
**大市([[揖保郡]]) 20疋<ref name="名前なし-1"/> 兵庫県姫路市太市中(向山遺跡<ref>{{Cite web|和書|title=古代官道に関する調査研究|url=https://www.hyogo-koukohaku.jp/|website=兵庫県立 考古博物館|accessdate=2021-10-31|language=ja|last=兵庫県立考古博物館}}</ref>)
**布勢(揖保郡) 20疋<ref name="名前なし-1"/> 兵庫県[[たつの市]]揖西町(小犬丸遺跡<ref>{{Cite web|和書|title=龍野市小犬丸遺跡|url=http://sitereports.nabunken.go.jp/18758|website=sitereports.nabunken.go.jp|accessdate=2021-10-31}}</ref>)
**高田([[赤穂郡]]) 20疋<ref name="名前なし-1"/>兵庫県赤穂郡上郡町(辻ヶ内遺跡<ref>{{Cite web|和書|title=古代官道に関する調査研究|url=https://www.hyogo-koukohaku.jp/|website=兵庫県立 考古博物館|accessdate=2021-10-31|language=ja|last=兵庫県立考古博物館}}</ref>)
**[[山陽道野磨駅家跡|野磨]](やま、赤穂郡) 20疋<ref name="名前なし-1"/> 兵庫県赤穂郡[[上郡町]](落地(おろち)遺跡(八反坪地区・飯坂地区))
**越部(揖保郡) 5疋<ref name="名前なし-1"/> (美作路 - 播磨国府と美作国府を結ぶ支路)兵庫県たつの市新宮町
**中川([[佐用郡]]) 5疋<ref name="名前なし-1"/> (美作路 - 播磨国府と美作国府を結ぶ支路)兵庫県佐用郡佐用町
[[File:Takatsuki-no-umaya-ato, sekihi.jpg|thumb|240px|right|{{center|高月駅家推定地([[岡山県]][[赤磐市]])}}]]
*備前(4駅)
**坂長([[和気郡]]) 駅馬数20疋 [[岡山県]][[備前市]]吉永町
**珂磨([[磐梨郡]]) 20疋 (788年に藤野駅を廃止して置かれた)
**高月([[赤坂郡]]) 20疋 [[赤磐市]]馬屋
**津高([[津高郡]]) 14疋 [[岡山市]][[一宮地域|一宮]]付近
*備中(4駅)
**津峴([[都宇郡]]) 駅馬数20疋 [[倉敷市]]矢部
**川邊([[下道郡]]) 20疋 倉敷市[[真備町]]川辺
**小田([[小田郡]]) 20疋 小田郡[[矢掛町]]小田
**後月([[後月郡]]) 20疋 [[井原市]]七日市町
*備後(5駅、『延喜式』では安那、品治、葦田の3駅となっている)
**安那(やすな、[[安那郡]]) 駅馬数20疋 [[広島県]][[福山市]](旧[[深安郡]][[神辺町]])御領
**品治(ほんじ、[[品治郡]]) 20疋 福山市駅家町
**葦田(看度?、[[御調郡]]) 20疋
*安芸(13駅)
**真良(しんら、[[沼田郡]]) 駅馬数20疋 [[三原市]]高坂町真良
**梨葉(なしわ、沼田郡) 20疋 三原市[[本郷町 (広島県)|本郷町]]
**都宇・津宇(つう、沼田郡) 20疋(『[[倭名類聚抄]]』に「沼田七郷」として今有・沼田・舩木・安直・真良・梨葉・津宇)
**鹿附(かむつき、沼田郡) 20疋
**木綿(ゆう、[[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]]) 20疋 [[東広島市]]西条地区
**大山(賀茂郡) 20疋 東広島市八本松地区
**荒山([[安芸郡 (広島県)|安芸郡]]) 20疋 [[広島市]][[安芸区]]中野東地区
**安芸(安芸郡) 20疋 安芸郡[[府中町]]城ケ丘 下岡田遺跡
**伴部([[佐伯郡]]) 20疋 広島市[[安佐南区]]伴地区
**大町(佐伯郡) 20疋 広島市[[佐伯区]]利松地区周辺
**種篦(へら、佐伯郡) 20疋 [[廿日市市]]下平良地区
**濃唹(のお・おおの、佐伯郡) 20疋 廿日市市大野高畑地区(『[[万葉集]]』高庭馬家(たかばのうまや)跡)
**遠管(おくだ、佐伯郡) 20疋 [[大竹市]]
*周防(8駅、廃駅1駅)
**石国(いわくに、[[玖珂郡]]) 駅馬数20疋 [[山口県]][[岩国市]]関戸付近
**野口(玖珂郡) 20疋 岩国市[[玖珂町]]野口
**周防(光市小周防、[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]熊毛町三丘・高水・勝間付近の諸説) 20疋
**生屋(いくのや、[[都濃郡]]) 20疋 (現生野屋)生野郷
**平野(都濃郡) 20疋 旧[[新南陽市]]西部に平野郷が存在した
**大前(おおさき、[[889年]]に廃止) [[防府市]]
**勝間(かつま、[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]]) 20疋 防府市勝間
**八千(やち、[[吉敷郡]]) 20疋 [[山口市]]鋳銭司矢地
**賀孕(かがほ、吉敷郡) 20疋 山口市嘉川(賀宝とも)山口市賀川
*長門(5駅)
**阿潭(あたみ、[[厚狭郡]]) 駅馬数20疋 [[宇部市]]吉見
**厚狭(厚狭郡) 20疋 [[山陽小野田市]]
**埴生(はぶ、厚狭郡) 20疋 山陽小野田市埴生
**宅賀(たか、[[豊浦郡]]) 20疋(室賀とも)下関市小月
**臨門(りんもん、豊浦郡) 20疋(外国の賓客を接待する役割も兼ねており、[[日本書紀]]には穴門館(後に臨海館)と記載あり)下関市前田付近
太宰府路
*豊前(2駅)
**杜崎(もにさい、[[企救郡]]) 駅馬数20疋 [[福岡県]][[北九州市]][[門司区]]
(比喜(比菩))
**到津(いたむつ、企救郡) 15疋 北九州市[[小倉北区]]
*筑前(9駅、『延喜式』では8駅となっている)
**独見(ひとみ、[[遠賀郡]]) 駅馬数15疋 北九州市[[八幡東区]]
**夜久(やく、遠賀郡) 15疋 北九州市[[八幡西区]]上津役
**嶋門(遠賀郡) 23疋 遠賀郡[[遠賀町]]
**津日([[宗像郡]]) 22疋 [[宗像市]](旧宗像郡[[玄海町 (福岡県)|玄海町]])
**席内(宗像郡) 15疋 [[古賀市]]筵内付近(席打とも)
**夷守(ひなもり、[[糟屋郡]]) 15疋
**美野([[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]) 15疋
**久爾([[席田郡 (福岡県)|席田郡]]) 10疋 [[福岡市]][[博多区]]東平尾付近
=== 中世山陽道 ===
{{See also|筑紫大道}}
鎌倉時代は、計画的な国家整備道路としての駅路は存在しなくなったものの、陸上の移動交通がまったく廃絶する訳では無く、その後も地域間の連絡路としての機能はある程度保たれることになった。そして駅家に代わるものとして、[[宿駅]]と呼ばれる交通の要地にあって、宿泊のための設備や輸送に携わる人馬を有した集落が発達した。これらは江戸時代にかけての宿場町として発展したものが多い。この時期の山陽道は、幕府出先機関である[[鎮西探題府]]がある博多と、京都守護(のちに[[六波羅探題]])が置かれた京都を結ぶ交通の要路で、幕府の緊急連絡の際は早馬を使用した{{sfn|武部健一|2015|pp=91–92}}。
山陽道の交通が注目されたのは2度の[[元寇|蒙古襲来(元寇)]]のときで、最初の[[文永の役]](1274年)のときに早馬による蒙古襲来の第一報で博多・京都間に約9日を要し、その他の飛脚による通報に16日前後を要している{{sfn|武部健一|2015|pp=91–92}}。これは、古代律令時代の飛駅{{efn|早馬の最も早い連絡便のこと。}}による通報と比較して格段に遅い通信であった{{sfn|武部健一|2015|pp=91–92}}。2度目の[[弘安の役]](1281年)の時には、博多・京都間を6、7日で通報に要していたことから、文永の役から弘安の役までの間に、中世交通史の研究者である[[新城常三]]は鎌倉幕府が逓送制度に何らかの改善がなされたものと推測しており、道路文化研究者で工学博士の武部健一も、蒙古襲来が山陽道の整備改善に寄与する契機となっていると指摘している{{sfn|武部健一|2015|pp=91–92}}。
山陽道においては、次第に従来の極端な直線的志向は廃れ、より整備の簡便な自然地形を利用する経路へと路線の変更がなされたようである。すなわち災害からの復旧を含めて、峠の迂回、河川渡河地点の変更、有力集落間の連絡重視などが主な理由となり、路線の付け替えは各所で行われた。沖積平野の出現による海岸線の後退も手伝い、全体としては次第に瀬戸内海の海岸沿いの経路が志向されることになった。
この変遷の概略としては、従前から平地部の連絡が多かった摂津、播磨では古代の路の近辺にその路線を見いだす事ができうる。しかいそれでもまったく同一の場所に整備が続けられることはなく、例えば姫路付近でも南側へ断層面を利用する形での小幅な変更がなされている。さらに備前への連絡は、野磨(上郡町)を過ぎて、坂長(備前市吉永町)→和気→珂磨(赤磐市松木)→高月(赤磐市馬屋)の路線であったものが、備前市片上→備前市香登→岡山市一日市→岡山市藤井へと大きく変更され、[[旭川 (岡山県) |旭川]]を渡り備中へと続く。
備中では[[小田川 (高梁川水系)|小田川]]沿いの平地が最も妥当な選択であったので、基本的にこの路線は踏襲されている。そして現在の[[国道313号]]([[高梁市]]~井原市:高梁へは美作から、あるいは[[高梁川]]沿いを遡る形で連絡が可能)も、いわゆる宿駅が整備され街道(備中往来)として利用されていたようである。
しかし備後では、福山市北部(府中~駅家付近)と安芸の三原市北西部(高坂・本郷)の経路から、[[芦田川]]に沿う形をとり[[尾道]]方面を経由する変更が行われている。また安芸では峠は避けられない宿命であるものの、路線の変更が繰り返されており[[府中町|府中]]手前では短絡を緩和し、沿岸部の [[海田町|海田市]]を経由する路線(安芸山陽道)へとなった。ただ国を通過する路線が全く変更されたと言う点では、備前と備後の例が最も大きなものではないかと思われる。<!--周防・長門の詳細は今後の課題で-->
さらに[[室町時代]]後期になると、道路整備が地方領主の手に移り、いわゆる[[城下町]]形成の手段に用いられるなどしているため、いわゆる東西短絡の性格から外れることになる場合もあった([[岡山城]]下など)。
=== 近世山陽道 ===
{{main|西国街道}}
[[江戸時代]]には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても[[江戸幕府]]の[[道中奉行]]が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う[[問屋場]]や、諸[[大名]]の宿舎としての[[本陣]]、[[脇本陣]]、そして[[武士]]や一般庶民などの宿舎であった[[旅籠]]などが整備された。かつては、一級の幹線道として扱われた山陽道も、[[五街道]]と連結する[[脇往還|脇街道]]へと扱いは格下げされた{{sfn|浅井建爾|2001|p=87}}。
=== 明治以降 ===
明治政府は、国道に番号を付けて管理する制度を採った。江戸時代までの山陽道は、[[明治時代]]には[[東京市|東京]]と[[神戸市|神戸]]を結ぶ国道3号(2号から[[京都市|京都]]で分岐)、および、東京と[[長崎市|長崎]]を結ぶ国道4号の一部になり、大正期には東京と[[鹿児島市|鹿児島]]を結ぶ国道2号(1号から三重県で分岐)の一部になった。
現在では山陽道の機能は、[[大阪市|大阪]]と[[北九州市|北九州]]([[門司区|門司]])を結ぶ国道2号に引き継がれている。しかし、律令時代や江戸時代の山陽道とは異なる道筋の部分も多い。一例をあげると岡山県岡山市 - 広島県福山市にかけての国道2号は、かつての山陽道を踏襲しておらず、大幅に異なるルートである旧[[鴨方往来]](浜街道)を併走する。これは国道整備において、主要都市となっていた岡山と福山との間を、本来の東西短絡の性格で道路敷設したためではないかと推測される。
なおこのため岡山県や広島県東部では、かつての山陽道(小田川沿い)やそれに並行する道路は、「旧山陽道」と呼ぶのが一般的となっている。さらに「山陽道」と呼んだ場合には、「山陽自動車道」のことを一般に示している。<!-- 話題的にやや外れているような気はします -->
鉄道の[[山陽本線]]や[[山陽新幹線]]、高速道路の山陽自動車道も、古来の山陽道をたどるように敷設されている場合もある。現代においても、[[近畿地方]]と[[九州]]を結ぶ機能を律令時代から維持し続けている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 脚注 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{columns-list|2|
*[[伝馬制]]
*[[日本の古代道路]]
*[[山陽本線]]
*[[山陽新幹線]]
*[[国道2号]]
*[[国道171号]]
*[[山陽自動車道]]
*[[山陽地方]]
*[[畿内]]
*[[北部九州]]
*[[日本の交通]]
*[[山陽電気鉄道]]
}}
== 外部リンク ==
*[http://www.mogurin.or.jp/maibun/kojikodo/ 古路・古道・歴史散歩]公益財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課 - 広島県下の旧山陽道、西国街道および雲石街道他脇街道調査
{{国道2号}}
{{国道313号}}
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[[Category:国道2号]]
[[Category:国道313号]]
[[Category:山陽道|*]]
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プリンス・オブ・ウェールズ
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プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ語: Tywysog Cymru、英語: Prince of Wales)は、イギリスにおいて、王位の法定推定相続人たる王子にあたえられる称号である(王女に与えられたことは今までない)。もとは字義の通りウェールズの君主を意味したが、14世紀にイングランドがウェールズを征服して以降、この称号をイングランド(のちイギリス)君主の男子の跡継ぎ(法定推定相続人)に与えるようになり、これが立太子の意味を持つようになった。日本では、歴史的人物を除き、君主の後継者である王子(皇子)を表す称号として皇太子と訳す。
2022年9月8日、プリンス・オブ・ウェールズだったチャールズ3世は、国王に即位すると、翌9日、長男ウィリアムにプリンス・オブ・ウェールズの称号を与えた。
2013年王位継承法の制定までは、男子優先長子相続制により、君主の長女(王女)は兄や弟がいなくても法定推定相続人とはならかったため、この称号も授与されなかった(例えば、エリザベス2世は王位継承前には「エディンバラ公爵夫人エリザベス王女(The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh)」と呼ばれていた)。
プリンス・オブ・ウェールズは、「殿下」(His Royal Highness)の敬称で呼ばれ、その妻はプリンセス・オブ・ウェールズ(Princess of Wales)の称号を帯びる。ただし、即位前にプリンセス・オブ・ウェールズの地位にあったチャールズの後妻カミラは、国民的人気が高い前妻のダイアナに遠慮し、コーンウォール公爵夫人(スコットランドにおいてはロスシー公爵夫人)の称号を名乗っていた。
もともとプリンス・オブ・ウェールズの称号は、グウィネズ地方のウェールズ人支配者(公)、末代公サウェリンことサウェリン・アプ・グリフィズがウェールズのほぼ全域のウェールズ人諸侯に支配力を及ぼして、全ウェールズの君主としてウェールズ公(ラテン語: Princeps Walliae、ウェールズ語: Tywysog Cymru)の称号を名乗ったことに始まる。この場合のプリンケプスは王子の意味ではなく、君主(元は「第一人者」の意)、すなわち「公」あるいは「大公」と訳される地位のことであり、現在でもアンドラ公国、モナコ公国、リヒテンシュタイン公国において用いられている(princeの語源も参照)。なお、イギリスの王子が一般に「プリンス」と称するのはハノーヴァー朝以降である。
ウェールズ諸侯の名目上の主君であるイングランド王ヘンリー3世は、1267年にサウェリンをプリンス・オブ・ウェールズとして承認し、ここにウェールズ公国(Principality of Wales)が成立した。しかし、ヘンリー3世を継いだイングランド王エドワード1世はサウェリンと対立、1282年から1283年のウェールズ侵攻で、サウェリンを敗死に追い込み、サウェリンの弟ダヴィズを処刑してその一族を滅ぼした。
エドワードはサウェリンの作ったウェールズ公の黄金の冠をイングランドに持ち去ってウェストミンスター寺院に安置すると、ウェールズ公国をイングランド王の所領に定め、グウィネズを始めとするウェールズ諸侯領を奪ってウェールズ公直轄領とした。王宮所在地はグウィネズのカーナーヴォン城に定められるが、1284年、ここでエドワード1世の子エドワード(後のエドワード2世)が生まれた。
1301年、エドワード1世はウェールズ人の反乱を抑えるため、王子エドワードにプリンス・オブ・ウェールズの称号を授けてウェールズの名目上の君主とした。このために、身重の王妃エリナーを当時ウェールズ侵攻の前線基地であったカーナーヴォン城に連れて行き、そこで王子を出産させたのである。エドワード2世をウェールズ人に「ウェールズ生まれの」支配者として受け入れさせるためであった。エドワード1世はウェールズの諸侯に赤ん坊を見せて「ウェールズ生まれで英語を話さない」と即位を認めさせた、という逸話がある(ただし、当時のイングランド王は英語ではなくフランス語を常用していたため、この逸話の真実性には疑問がある)。
のちにエドワード2世の子エドワード3世が1343年、自身の長男で第一王位継承者のエドワード(黒太子)にプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、エドワードがイングランド王位を継ぐ前に死去すると、プリンス・オブ・ウェールズはその長男の次期国王リチャード(2世)に譲られた。こうしてイングランドの次期国王がプリンス・オブ・ウェールズとなる慣例が定着し、現在に至るまで続いている。
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"text": "エドワードはサウェリンの作ったウェールズ公の黄金の冠をイングランドに持ち去ってウェストミンスター寺院に安置すると、ウェールズ公国をイングランド王の所領に定め、グウィネズを始めとするウェールズ諸侯領を奪ってウェールズ公直轄領とした。王宮所在地はグウィネズのカーナーヴォン城に定められるが、1284年、ここでエドワード1世の子エドワード(後のエドワード2世)が生まれた。",
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"text": "1301年、エドワード1世はウェールズ人の反乱を抑えるため、王子エドワードにプリンス・オブ・ウェールズの称号を授けてウェールズの名目上の君主とした。このために、身重の王妃エリナーを当時ウェールズ侵攻の前線基地であったカーナーヴォン城に連れて行き、そこで王子を出産させたのである。エドワード2世をウェールズ人に「ウェールズ生まれの」支配者として受け入れさせるためであった。エドワード1世はウェールズの諸侯に赤ん坊を見せて「ウェールズ生まれで英語を話さない」と即位を認めさせた、という逸話がある(ただし、当時のイングランド王は英語ではなくフランス語を常用していたため、この逸話の真実性には疑問がある)。",
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"text": "のちにエドワード2世の子エドワード3世が1343年、自身の長男で第一王位継承者のエドワード(黒太子)にプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、エドワードがイングランド王位を継ぐ前に死去すると、プリンス・オブ・ウェールズはその長男の次期国王リチャード(2世)に譲られた。こうしてイングランドの次期国王がプリンス・オブ・ウェールズとなる慣例が定着し、現在に至るまで続いている。",
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プリンス・オブ・ウェールズは、イギリスにおいて、王位の法定推定相続人たる王子にあたえられる称号である(王女に与えられたことは今までない)。もとは字義の通りウェールズの君主を意味したが、14世紀にイングランドがウェールズを征服して以降、この称号をイングランド(のちイギリス)君主の男子の跡継ぎ(法定推定相続人)に与えるようになり、これが立太子の意味を持つようになった。日本では、歴史的人物を除き、君主の後継者である王子(皇子)を表す称号として皇太子と訳す。 2022年9月8日、プリンス・オブ・ウェールズだったチャールズ3世は、国王に即位すると、翌9日、長男ウィリアムにプリンス・オブ・ウェールズの称号を与えた。 2013年王位継承法の制定までは、男子優先長子相続制により、君主の長女(王女)は兄や弟がいなくても法定推定相続人とはならかったため、この称号も授与されなかった(例えば、エリザベス2世は王位継承前には「エディンバラ公爵夫人エリザベス王女」と呼ばれていた)。 プリンス・オブ・ウェールズは、「殿下」の敬称で呼ばれ、その妻はプリンセス・オブ・ウェールズの称号を帯びる。ただし、即位前にプリンセス・オブ・ウェールズの地位にあったチャールズの後妻カミラは、国民的人気が高い前妻のダイアナに遠慮し、コーンウォール公爵夫人(スコットランドにおいてはロスシー公爵夫人)の称号を名乗っていた。
|
{{otheruses}}
{{Infobox Monarchy
|royal_title = 皇太子
|realm = {{flagicon|GBR}} [[イギリス|グレートブリテン及び北アイルランド連合王国]]
|native_name ={{Lang|cy|Tywysog Cymru}}<br/>{{Lang|en|Prince of Wales}}
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|coatofarmscaption = [[プリンス・オブ・ウェールズの羽根|公紋章]]
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}}
[[ファイル:Coat of arms of the Prince of Wales.svg|thumb|100px|先代のプリンス・オブ・ウェールズ、チャールズの[[紋章]]。紋章中央にインエスカッシャンされている赤と黄金の獅子の紋章が[[ウェールズ公国]]以来のプリンス・オブ・ウェールズの紋章である。]]
'''プリンス・オブ・ウェールズ'''({{lang-cy|Tywysog Cymru}}、{{lang-en|Prince of Wales}})は、[[イギリス]]において、[[イギリスの君主|王位]]の[[法定推定相続人]]たる王子にあたえられる[[称号]]である(王女に与えられたことは今までない)。もとは字義の通り[[ウェールズ]]の[[君主]]を意味したが、[[14世紀]]にイングランドがウェールズを征服して以降、この称号をイングランド(のちイギリス)君主の男子の跡継ぎ(法定推定相続人)に与えるようになり、これが立太子の意味を持つようになった。日本では、歴史的人物を除き、君主の後継者である王子(皇子)を表す称号として皇太子と訳す。
2022年9月8日、プリンス・オブ・ウェールズだった[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]は、国王に即位すると、翌9日、長男[[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム]]にプリンス・オブ・ウェールズの称号を与えた<ref>{{Cite news |url=https://www.bbc.com/news/uk-wales-62856181 |title=William and Kate named Prince and Princess of Wales by the King |publisher=BBC |language=English |date=2022-09-09 |accessdate= 2022-09-10 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/britain-royals-queen-king-speech-idJPKBN2QA1KX |title=チャールズ新英国王が初演説、国民に「生涯通じ奉仕」誓う |access-date=2022-9-27 |publisher=[[ロイター]] |archive-url=https://megalodon.jp/2022-0927-1657-08/https://jp.reuters.com:443/article/britain-royals-queen-king-speech-idJPKBN2QA1KX |archive-date=2022-9-27}}</ref>。
[[2013年王位継承法]]の制定までは、男子優先長子相続制により、君主の長女(王女)は兄や弟がいなくても法定推定相続人とはならなかったため、この称号も授与されなかった(例えば、[[エリザベス2世]]は王位継承前には「[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公爵]]夫人エリザベス王女({{lang|en|The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh}})」と呼ばれていた)。
プリンス・オブ・ウェールズは、「殿下」({{lang|en|His Royal Highness}})の敬称で呼ばれ、その妻は[[プリンセス・オブ・ウェールズ]]({{lang|en|Princess of Wales}})の称号を帯びる。ただし、即位前にプリンセス・オブ・ウェールズの地位にあったチャールズの後妻[[カミラ (イギリス王妃)|カミラ]]は、国民的人気が高い前妻の[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ]]<ref group="注釈">ダイアナはチャールズとの離婚後も「プリンセス・オブ・ウェールズ」の称号を保持していた。</ref>に遠慮し、[[コーンウォール公|コーンウォール公爵]]夫人(スコットランドにおいては[[ロスシー公|ロスシー公爵]]夫人)の称号を名乗っていた。
== 起源 ==
もともとプリンス・オブ・ウェールズの称号は、[[グウィネズ (ウェールズ)|グウィネズ]]地方の[[ウェールズ人]]支配者(公)、末代公サウェリンこと[[サウェリン・アプ・グリフィズ]]がウェールズのほぼ全域のウェールズ人[[諸侯]]に支配力を及ぼして、全ウェールズの君主としてウェールズ公({{lang-la|''Princeps Walliae''}}、{{lang-cy|''Tywysog Cymru''}})の称号を名乗ったことに始まる。この場合の[[プリンス|プリンケプス]]は王子の意味ではなく、君主(元は「[[プリンケプス|第一人者]]」の意)、すなわち「[[公]]」あるいは「[[大公]]」と訳される地位のことであり、現在でも[[アンドラ公国]]、[[モナコ公国]]、[[リヒテンシュタイン|リヒテンシュタイン公国]]において用いられている([[:wikt:prince|princeの語源]]も参照)。なお、イギリスの王子が一般に「プリンス」と称するのは[[ハノーヴァー朝]]以降である。
ウェールズ諸侯の名目上の主君であるイングランド王[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]は、[[1267年]]にサウェリンをプリンス・オブ・ウェールズとして承認し、ここに'''ウェールズ公国'''(Principality of Wales)が成立した。しかし、ヘンリー3世を継いだイングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]はサウェリンと対立、[[1282年]]から[[1283年]]のウェールズ侵攻で、サウェリンを敗死に追い込み、サウェリンの弟[[ダヴィズ・アプ・グリフィズ|ダヴィズ]]を処刑してその一族を滅ぼした。
エドワードはサウェリンの作ったウェールズ公の黄金の冠をイングランドに持ち去って[[ウェストミンスター寺院]]に安置すると、ウェールズ公国をイングランド王の所領に定め、グウィネズを始めとするウェールズ諸侯領を奪ってウェールズ公直轄領とした。王宮所在地はグウィネズの[[カーナーヴォン城]]に定められるが、[[1284年]]、ここでエドワード1世の子[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード]](後のエドワード2世)が生まれた。
[[1301年]]、エドワード1世はウェールズ人の反乱を抑えるため、王子エドワードにプリンス・オブ・ウェールズの称号を授けてウェールズの名目上の君主とした。このために、身重の王妃[[エリナー・オブ・カスティル|エリナー]]を当時ウェールズ侵攻の前線基地であったカーナーヴォン城に連れて行き、そこで王子を出産させたのである。エドワード2世をウェールズ人に「ウェールズ生まれの」支配者として受け入れさせるためであった。エドワード1世はウェールズの諸侯に赤ん坊を見せて「ウェールズ生まれで英語を話さない」と即位を認めさせた、という逸話がある(ただし、当時のイングランド王は英語ではなくフランス語を常用していたため、この逸話の真実性には疑問がある)。
のちにエドワード2世の子[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]が[[1343年]]、自身の長男で第一王位継承者の[[エドワード黒太子|エドワード]](黒太子)にプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、エドワードがイングランド王位を継ぐ前に死去すると、プリンス・オブ・ウェールズはその長男の次期国王[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード]](2世)に譲られた。こうしてイングランドの次期国王がプリンス・オブ・ウェールズとなる慣例が定着し、現在に至るまで続いている。
== プリンス・オブ・ウェールズ一覧 ==
=== アベルフラウ家 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:95%; text-align:center"
|-
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!width = "40%" bgcolor = "#FFDEAD"|付記
|-
|[[ファイル:Sin foto.svg|100px|center]]
|<center>'''[[ダヴィズ・アプ・サウェリン]]'''<br>1244年 - 1246年</center>
|1212年3月 - 1246年2月25日
|
|-
|[[ファイル:Llywelyn le Dernier.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[サウェリン・アプ・グリフィズ]]'''<br>1246年 - 1282年</center>
|1228年頃 - 1282年12月11日
|ダヴィズの甥。
|-
|[[ファイル:Sin foto.svg|100px|center]]
|<center>'''[[ダヴィズ・アプ・グリフィズ]]'''<br>1282年 - 1283年</center>
|1238年7月11日 - 1283年10月3日
|サウェリンの弟。
|-
|}
=== プランタジネット家 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:95%; text-align:center"
|-
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|-
|[[ファイル:Edward II of England in the Genealogical Chronicle of English kings.png|100px|center]]
|<center>'''[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード]]'''<br>1301年 - 1307年</center>
|1284年4月25日 - 1327年9月21日
|[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード1世]]の四男。後のイングランド王エドワード2世。
|-
|[[ファイル:Plantagenet, Edward, The Black Prince, Iconic Image.JPG|100px|center]]
|<center>'''[[エドワード黒太子|エドワード]]'''<br>1343年 - 1376年</center>
|1330年6月15日 - 1376年6月8日
|エドワード2世の孫。エドワード黒太子。
|-
|[[ファイル:RichardIIWestminsterHead.JPG|100px|center]]
|<center>'''[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード]]'''<br>1376年 - 1377年</center>
|1367年1月6日 - 1400年2月14日
|エドワード黒太子の次男。後のイングランド王リチャード2世。
|-
|}
=== ランカスター家 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:95%; text-align:center"
|-
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!width = "40%" bgcolor = "#FFDEAD"|付記
|-
|[[ファイル:Henry5.JPG|100px|center]]
|<center>'''[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー]]'''<br>1399年 - 1413年</center>
|1387年9月16日 - 1422年8月31日
|リチャード2世の従兄[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]の次男。後のイングランド王ヘンリー5世。
|-
|[[ファイル:Edward.4.plantagenet.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[エドワード・オブ・ウェストミンスター|エドワード]]'''<br>1454年 - 1471年</center>
|1453年10月13日 - 1471年5月4日
|ヘンリー5世の孫。
|-
|}
=== ヨーク家 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:95%; text-align:center"
|-
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|-
|[[ファイル:King Edward V from NPG.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード]]'''<br>1471年 - 1483年</center>
|1470年11月4日 - 1483年7月6日
|ヘンリー5世のはとこ[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|リチャード・プランタジネット]]の孫。後のイングランド王エドワード5世。
|-
|[[ファイル:Edward of Middleham (geograph).jpg|100px|center]]
|<center>'''[[エドワード・オブ・ミドルハム|エドワード]]'''<br>1483年 - 1484年</center>
|1473年頃 - 1484年4月9日
|エドワード5世の従弟。
|-
|}
=== テューダー家 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:95%; text-align:center"
|-
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|-
|[[ファイル:Arthur Prince of Wales c 1500.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[アーサー・テューダー|アーサー]]'''<br>1489年 - 1502年</center>
|1486年9月20日 – 1502年4月2日
|リチャード・プランタジネットのはとこ[[ジョン・ボーフォート (初代サマセット公)|ジョン・ボーフォート]]の曾孫。
|-
|[[ファイル:HenryVIII 1509.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー]]'''<br>1504年 - 1509年</center>
|1491年6月28日 - 1547年1月28日
|アーサーの弟。後のイングランド王ヘンリー8世。
|-
|[[ファイル:Portrait of Edward VI of England.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード]]'''<br>1537年 - 1547年</center>
|1537年10月12日 - 1553年7月6日
|ヘンリー8世の息子。後のイングランド王エドワード6世。
|-
|}
=== ステュアート家 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:95%; text-align:center"
|-
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|-
|[[ファイル:Henry Prince of Wales 1610 Robert Peake.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー・フレデリック]]'''<br>1610年 - 1612年</center>
|1594年2月19日 - 1612年11月6日
|エドワード6世の従兄のスコットランド王[[ジェームズ5世 (スコットランド王)|ジェームズ5世]]の曾孫。
|-
|[[ファイル:Charles I (Prince of Wales).jpg|100px|center]]
|<center>'''[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ]]'''<br>1616年 - 1625年</center>
|1600年11月19日 - 1649年1月30日
|ヘンリー・フレデリックの弟。後のイングランド王チャールズ1世。
|-
|[[ファイル:Charles II when Prince of Wales by William Dobson, 1642.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ]]'''<br>1638年 - 1649年</center>
|1630年5月29日 - 1685年2月6日
|チャールズ1世の次男。後のイングランド王チャールズ2世。
|-
|[[ファイル:James Francis Edward Stuart c. 1703 attributed to Alexis Simon Belle.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ・フランシス・エドワード]]'''<br>1688年</center>
|1688年6月10日 - 1766年1月1日
|チャールズ2世の甥。
|-
|}
=== ハノーヴァー家 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:95%; text-align:center"
|-
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|-
|[[ファイル:King George II by Charles Jervas.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ・オーガスタス]]'''<br>1714年 - 1727年</center>
|1683年11月10日 - 1760年10月25日
|ジェームズ・フランシス・エドワードのはとこのグレートブリテン王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の長男。後のグレートブリテン王ジョージ2世。
|-
|[[ファイル:Frederick Lewis, Prince of Wales by Philip Mercier.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]'''<br>1729年 - 1751年</center>
|1707年2月1日 - 1751年3月31日
|ジョージ2世の長男。
|-
|[[ファイル:George III As Prince of Wales.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ・ウィリアム・フレデリック]]'''<br>1751年 - 1760年</center>
|1738年6月4日 - 1820年1月29日
|フレデリック・ルイスの長男。後のグレートブリテン王ジョージ3世。
|-
|[[ファイル:George IV bust1.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ・オーガスタス・フレデリック]]'''<br>1762年 - 1820年</center>
|1762年8月12日 - 1830年6月26日
|ジョージ3世の長男。後のグレートブリテン王ジョージ4世。
|-
|}
=== サクス=コバーグ=ゴータ家/ウィンザー家 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:95%; text-align:center"
|-
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|-
|[[ファイル:Prince of Wales00.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[エドワード7世 (イギリス王)|アルバート・エドワード]]'''<br>1841年 - 1901年</center>
|1841年11月9日 - 1910年5月6日
|ジョージ4世の弟[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|エドワード]]の孫。後のイギリス王エドワード7世。
|-
|[[ファイル:George V of the United Kingdom01.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート]]'''<br>1901年 - 1910年</center>
|1865年6月3日 - 1936年1月20日
|エドワード7世の次男。後のイギリス王ジョージ5世。
|-
|[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-13538, Edward Herzog von Windsor.jpg|100px|center]]
|<center>'''[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ]]'''<br>1910年 - 1936年</center>
|1894年6月23日 - 1972年5月28日
|ジョージ5世の長男。後のイギリス王エドワード8世。
|-
|}
=== マウントバッテン=ウィンザー家 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:95%; text-align:center"
|-
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|-
|[[ファイル:HRH Prince Charles 43 Allan Warren (cropped).jpg|100px|center]]
|<center>'''[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ]]'''<br>1958年 - 2022年</center>
|1948年11月14日 -
|エドワード8世の弟のイギリス王[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]の孫。後のイギリス王チャールズ3世。
|-
|[[ファイル:William Submarines Crop.png|100px|center]]
|<center>'''[[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイ]]'''<br>2022年 - </center>
|1982年6月21日 -
|チャールズ3世の長男。
|-
|}
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[イギリス王室]]
* [[ウェールズの君主]]
* [[プリンス・オブ・ウェールズの羽根]]
* [[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)]]
* [[プリンス・オブ・ウェールズ (空母)]]
* [[プリンス・オブ・ウェールズ (紅茶)]]
* [[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)]]
* [[プリンスオブウェールズステークス (カナダ)]]
* [[エスケープ事件]]
* [[ドーファン]]([[フランス王国]]の王太子の称号)
* [[アストゥリアス公]]([[スペイン]]王家の推定相続人の称号)
* [[ブラバント公]]([[ベルギー]]王家の法定推定相続人の称号)
[[Category:プリンス・オブ・ウェールズ|!]]
|
2003-09-15T12:48:38Z
|
2023-12-09T04:33:37Z
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[
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"Template:Cite web",
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"Template:Lang-en",
"Template:Lang",
"Template:Lang-la",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA
|
16,969 |
蔵前国技館
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蔵前国技館(くらまえこくぎかん、正字体:藏前國技館)は、1984年(昭和59年)秋場所まで、東京での大相撲の本場所が開催されていた施設である。外観は純和風で独特の雰囲気のあるものであった。
東京都台東区蔵前2丁目1-1に所在していた。最寄り駅は都営地下鉄浅草線蔵前駅で、他に国鉄総武線浅草橋駅も徒歩圏内であった。
1941年(昭和16年)に購入していた日本相撲協会の土地に戦後、海軍厚木飛行場の格納庫を解体した鉄骨の払い下げを受けて仮設される。収容人員は約11,000人。2階建てで、1階は溜まり席と枡席、2階は椅子席と貴賓席が設けられていた。GHQにより両国国技館が接収され、相撲興行が出来なくなった相撲協会は、明治神宮外苑の野天相撲や浜町の仮設国技館などで興行を続けていたが、本格的な興行場所を求めて蔵前に1949年(昭和24年)10月23日の地鎮祭より建設を開始、翌年「仮設」のまま蔵前国技館として開館した。
蔵前国技館が正式に完成したのは1954年(昭和29年)9月である。1952年(昭和27年)9月場所直前の9月19日、享保年間より250年にわたって続いてきた四本柱を撤廃、この場所より吊り天井となり4色(青・白・赤・黒)の房がぶらさげられるようになった。この時は吊り天井に屋根は無く、翌1953年(昭和28年)5月場所からは神明造の屋根(四本柱時代の1931年(昭和6年)5月場所より入母屋造の屋根から改められた)付きの吊り天井となった。これで土俵の雰囲気が変わるのはやむを得なかったが、勝負は見やすくなった。四本柱撤廃と同時期に1909年(明治42年)1月の回向院以来、43年間にわたって本場所では絶えていた力士幟が1952年(昭和27年)1月場所より復活、国技館の前は相撲情緒が大いに盛り上がった。またこの場所より弓取式を連日、結びの一番後に行うことになった。
開館式(1954年9月18日)では、千代の山と鏡里の両横綱が三段構えを行った。1971年(昭和46年)1月の改修落成記念式でも、玉の海と北の富士の両横綱がこれを行っている。
この前年(1953年)の5月場所からテレビ中継放送が始まり、1958年(昭和33年)5月場所からは、東西2階席手摺りに自動電光掲示板が新設(十両以上の取組)された。1955年(昭和30年)5月場所(5月24日)10日目には昭和天皇が初めて国技館で相撲を観戦、以後天覧相撲は国技館で行われることとなる。
以上のように相撲史に残る数多くの出来事があり、「栃若時代」「柏鵬時代」「輪湖時代」の各黄金時代の舞台となるなど、蔵前国技館が使用されていた時代は、戦後の大相撲で最も活気ある時代でもあったといえる。
この時代の興行収入やプロレス・ボクシングなどの使用料収入が両国「新」国技館の建設費用に貢献したと言われている。プロレスでは、プロレスブームの出発点となった力道山・木村政彦対シャープ兄弟の一戦に始まり、力道山対木村の日本選手権、ミルドレッド・バークらを招いて行われた日本初の女子プロレス大会、アントニオ猪木対ジョニー・バレンタインの東京プロレス旗揚げ戦、ジャイアント馬場対ボボ・ブラジルの馬場の三十二文ロケット三連発、ザ・ファンクス対ブッチャー・シークの『世界オープンタッグ選手権』最終戦、初代タイガーマスクデビュー戦・タイガーマスク対ダイナマイトキッドなど、昭和プロレスの名勝負の数々が戦われた会場でもある。プロレス最後の興行は1984年8月2日、新日本プロレスのアントニオ猪木対長州力戦であった。猪木が長州からグランドコブラで3カウント奪いプロレスでは蔵前国技館最後の勝利者となった。ボクシングでもポーン・キングピッチ対関光徳の世界フライ級タイトルマッチを皮切りに数多くの世界戦が組まれた。蔵前国技館で初めて世界王座を獲得した日本人選手はファイティング原田で、ポーンを11ラウンドK.O.で退けた後に世界チャンピオン誕生を祝福する座布団の舞が起こった。また、沼田義明対小林弘の史上初となる日本人同士の世界戦が行われたのも蔵前国技館である。
なお、当時は現在の両国国技館のようにエレベーター式の昇降型土俵ではなかったため、プロレスやボクシングなどの興行を行うときには、土俵の真上に(土俵に覆い被せる形で)リングを設置していた。そのため、プロレス興行に登場する悪役レスラーが、リングの下から土俵の土や砂を握って、反則攻撃に使うことがお馴染みとなっていた。また、あくまで女人禁制の大相撲の土俵上であるために女子プロレスなど女子が出場する大会には次第に貸さなくなり花束嬢はリングには上がれずレスラーがリングに上がる前に花束を渡していた。
1953年(昭和28年)、第1回全日本剣道選手権大会、1956年(昭和31年)、第1回世界柔道選手権大会の会場にも使用された。
漫画『あしたのジョー』でも金竜飛戦の会場として描かれたことがあった。
1966年(昭和41年)5月の運営審議委員会において協会は「新国技館」の設計図と模型を運審に提出し、新国技館建設(蔵前国技館の改築)の了承を運審から得たが、具体的な動きにはつながらなかった。1966年5月18日付の『報知新聞』には「蔵前国技館の跡地に収容人数2万2000人の新国技館を建設する」という趣旨の記事が掲載されていたが、この年あたりから相撲人気の陰りが見えて民放テレビ各局が相撲中継から撤退した影響で、結局この「新大国技館構想」は実現しなかった。
1975年10月19日、キャンディーズの『キャンディーズ10,000人カーニバル』、1976年10月11日、『キャンディーズ10000人カーニバル Vol.2』のコンサートがそれぞれ開催され、『10000人カーニバルVol.2』では、13500人が入場している。
建物の老朽化もあり1984年(昭和59年)9月場所千秋楽を最後に閉館。翌年1月初場所から隅田川向かいの両国国技館(2代目)で興行となった。蔵前国技館跡地は東京都に売却され、その売却益が両国国技館建設の資金となった。跡地は現在、東京都下水道局北部下水道事務所と見学施設「蔵前水の館」となっており、見学施設内には蔵前国技館に関する展示もある。
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蔵前国技館は、1984年(昭和59年)秋場所まで、東京での大相撲の本場所が開催されていた施設である。外観は純和風で独特の雰囲気のあるものであった。
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{{体育館
|名称=蔵前国技館<br />The Kuramae Kokugikan<br />Sumo Arena
|画像=[[ファイル:Kuramae Kokugikan in 1950s.JPG|300px|旧蔵前国技館(昭和29年頃)]]
|用途=大相撲興行・イベントホール
|正式名称=藏前國技館
|旧用途=
|収容人数=約11,000人
|設計者=
|事業主体=
|管理運営=[[財団法人]][[日本相撲協会]]
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|階数=地上2階
|高さ=
|総工費=
|着工=[[1949年]]10月
|竣工=[[1954年]]9月
|所在地郵便番号=111-0051
|所在地=[[東京都]][[台東区]][[蔵前]]2丁目1-1
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}}
[[Image:Kuramae Kokugikan main entrance.jpg|thumb|250px|蔵前国技館正門(昭和29年)]]
'''蔵前国技館'''(くらまえこくぎかん、正字体:'''藏前國技館''')は、1984年(昭和59年)秋場所まで、[[東京都|東京]]での[[大相撲]]の[[本場所]]が開催されていた施設である。外観は純和風で独特の雰囲気のあるものであった<ref name="Obayashi_photo">{{Cite web|和書|url=https://www.obayashi.co.jp/works/work_H694 |title=蔵前国技館 |publisher=[[大林組]] |accessdate=2021-04-06}}</ref>。
== 概要 ==
東京都[[台東区]][[蔵前]]2丁目1-1に所在していた。最寄り駅は[[都営地下鉄浅草線]][[蔵前駅]]で、他に[[日本国有鉄道|国鉄]][[中央・総武緩行線|総武線]][[浅草橋駅]]も徒歩圏内であった。
[[1941年]]([[昭和]]16年)に購入していた[[日本相撲協会]]の土地に戦後、[[大日本帝国海軍|海軍]][[厚木飛行場]]の[[格納庫]]を解体した鉄骨の払い下げを受けて仮設される<ref name="kajima">{{Cite web|和書|url=https://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki26/index-j.html |title=第26回 国技館―伝統と技術が融合した相撲の殿堂 |website=鹿島の軌跡 ~歴史の中から見えてくるものがある~ |publisher=[[鹿島建設]] |accessdate=2021-04-06}}</ref>。収容人員は約11,000人。2階建てで、1階は溜まり席と[[枡席]]、2階は椅子席と[[貴賓室|貴賓席]]が設けられていた。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により[[両国国技館#旧国技館|両国国技館]]が[[接収]]され、相撲興行が出来なくなった相撲協会は、[[明治神宮外苑]]の野天相撲や[[日本橋浜町|浜町]]の仮設国技館<!--(当時は'''假設國技館'''と書いた)-->などで興行を続けていたが、本格的な興行場所を求めて蔵前に[[1949年]]([[昭和]]24年)[[10月23日]]の[[地鎮祭]]より建設を開始、翌年「仮設」のまま蔵前国技館として開館した。
蔵前国技館が正式に完成したのは[[1954年]](昭和29年)9月である<ref name="Obayashi_1954">{{Cite web|和書|url=https://www.obayashi.co.jp/works/work_H694 |title=1954年の大林組 |publisher=大林組 |accessdate=2021-04-06}}</ref>。[[1952年]](昭和27年)9月場所直前の9月19日、[[享保]]年間より250年にわたって続いてきた四本柱を撤廃、この場所より[[吊り天井]]となり4色(青・白・赤・黒)の房がぶらさげられるようになった。この時は吊り天井に屋根は無く、翌[[1953年]](昭和28年)5月場所からは[[神明造]]の屋根(四本柱時代の[[1931年]](昭和6年)5月場所より[[入母屋造]]の屋根から改められた)付きの吊り天井となった。これで土俵の雰囲気が変わるのはやむを得なかったが、勝負は見やすくなった。四本柱撤廃と同時期に[[1909年]]([[明治]]42年)1月の[[回向院]]以来、43年間にわたって本場所では絶えていた力士[[幟]]が[[1952年]](昭和27年)1月場所より復活、国技館の前は相撲情緒が大いに盛り上がった。またこの場所より[[弓取式]]を連日、結びの一番後に行うことになった。
開館式([[1954年]][[9月18日]])では、[[千代の山雅信|千代の山]]と[[鏡里喜代治|鏡里]]の両[[横綱]]が[[三段構え]]を行った。[[1971年]](昭和46年)1月の改修落成記念式でも、[[玉の海正洋|玉の海]]と[[北の富士勝昭|北の富士]]の両横綱がこれを行っている。
この前年(1953年)の5月場所からテレビ[[中継放送]]が始まり、[[1958年]](昭和33年)5月場所からは、東西2階席手摺りに自動[[電光掲示板]]が新設([[十両]]以上の取組)された。[[1955年]](昭和30年)5月場所(5月24日)10日目には[[昭和天皇]]が初めて国技館で相撲を観戦、以後[[天覧相撲]]は国技館で行われることとなる。
以上のように相撲史に残る数多くの出来事があり、「[[栃錦清隆|栃]][[若乃花幹士 (初代)|若]]時代」「[[柏戸剛|柏]][[大鵬幸喜|鵬]]時代」「[[輪島大士|輪]][[北の湖敏満|湖]]時代」の各黄金時代の舞台となるなど、蔵前国技館が使用されていた時代は、戦後の大相撲で最も活気ある時代でもあったといえる。
この時代の興行収入や[[プロレス]]・[[ボクシング]]などの使用料収入が両国「新」国技館の建設費用に貢献したと言われている。プロレスでは、プロレスブームの出発点となった[[力道山]]・[[木村政彦]]対[[シャープ兄弟]]の一戦に始まり、力道山対木村の日本選手権、[[ミルドレッド・バーク]]らを招いて行われた日本初の[[女子プロレス]]大会、[[アントニオ猪木]]対[[ジョニー・バレンタイン]]の[[東京プロレス]]旗揚げ戦、[[ジャイアント馬場]]対[[ボボ・ブラジル]]の馬場の[[ドロップキック|三十二文ロケット]]三連発、[[ザ・ファンクス]]対[[アブドーラ・ザ・ブッチャー|ブッチャー]]・[[ザ・シーク|シーク]]の『[[世界オープンタッグ選手権]]』最終戦、[[佐山聡|初代タイガーマスク]]デビュー戦・タイガーマスク対[[ダイナマイトキッド]]など、昭和プロレスの名勝負の数々が戦われた会場でもある。プロレス最後の興行は1984年8月2日、新日本プロレスのアントニオ猪木対長州力戦であった。猪木が長州からグランドコブラで3カウント奪いプロレスでは蔵前国技館最後の勝利者となった。ボクシングでも[[ポーン・キングピッチ]]対[[関光徳]]の世界[[フライ級]][[タイトルマッチ]]を皮切りに数多くの世界戦が組まれた。蔵前国技館で初めて世界王座を獲得した日本人選手は[[ファイティング原田]]で、ポーンを11ラウンド[[ノックアウト|K.O.]]で退けた後に世界チャンピオン誕生を祝福する[[座布団の舞]]が起こった。また、[[沼田義明]]対[[小林弘]]の史上初となる日本人同士の世界戦が行われたのも蔵前国技館である。
なお、当時は現在の両国国技館のように[[エレベーター]]式の昇降型[[土俵]]ではなかったため、プロレスやボクシングなどの興行を行うときには、土俵の真上に(土俵に覆い被せる形で)リングを設置していた。そのため、プロレス興行に登場する[[ヒール (プロレス)|悪役レスラー]]が、リングの下から土俵の土や砂を握って、反則攻撃に使うことがお馴染みとなっていた。また、あくまで[[女人禁制]]の大相撲の土俵上であるために女子プロレスなど女子が出場する大会には次第に貸さなくなり花束嬢はリングには上がれずレスラーがリングに上がる前に花束を渡していた<ref>[https://www.zakzak.co.jp/spo/news/180407/spo1804070003-n3.html 世界が八角理事長にNO! 女人禁制問題、米・英・仏でも報道 「日本でどのように女性が扱われているかを物語った」(3/3ページ)]『[[夕刊フジ|zakzak]]』2018年4月7日</ref>。
[[1953年]](昭和28年)、第1回[[全日本剣道選手権大会]]、[[1956年]](昭和31年)、[[1956年世界柔道選手権大会|第1回世界柔道選手権大会]]の会場にも使用された。
漫画『[[あしたのジョー]]』でも金竜飛戦の会場として描かれたことがあった。
[[1966年]](昭和41年)5月の[[運営審議委員会]]において協会は「新国技館」の設計図と模型を運審に提出し、新国技館建設(蔵前国技館の改築)の了承を運審から得たが、具体的な動きにはつながらなかった<ref>朝日新聞1966年5月18日付朝刊スポーツ面</ref>。1966年5月18日付の『[[スポーツ報知|報知新聞]]』には「蔵前国技館の跡地に収容人数2万2000人の新国技館を建設する」という趣旨の記事が掲載されていたが、この年あたりから相撲人気の陰りが見えて民放テレビ各局が相撲中継から撤退した影響で、結局この「新大国技館構想」は実現しなかった<ref>『[[NHK G-Media 大相撲ジャーナル|大相撲ジャーナル]]』2014年2月号98頁から99頁</ref>。
[[1975年]][[10月19日]]、[[キャンディーズ]]の『[[キャンディーズ10,000人カーニバル]]』、[[1976年]][[10月11日]]、『[[蔵前国技館10,000人カーニバルVol.2 キャンディーズ・ライブ|キャンディーズ10000人カーニバル Vol.2]]』のコンサートがそれぞれ開催され、『10000人カーニバルVol.2』では、13500人が入場している。
建物の老朽化もあり[[1984年]](昭和59年)9月場所[[千秋楽]]を最後に閉館。翌年1月初場所から[[隅田川]]向かいの[[両国国技館]](2代目)で興行となった。蔵前国技館跡地は東京都に売却され、その売却益が両国国技館建設の資金となった。跡地は現在、[[東京都下水道局]]北部下水道事務所と見学施設「蔵前水の館」となっており、見学施設内には蔵前国技館に関する展示もある。
== 蔵前国技館に関する記録 ==
* 蔵前仮設国技館最初の場所(1950年1月場所)で[[幕内]]最高優勝をしたのは千代の山(大関、当時は「千代ノ山」)、蔵前国技館となってから(1954年9月場所)最初は[[栃錦清隆|栃錦]]で、最後の場所(1984年9月場所)では[[前頭|平幕]]の[[多賀竜昇司|多賀竜]](最高位は関脇)だった。多賀竜は蔵前国技館での優勝経験者として最後に現役に残った力士でもあった。
* 蔵前での優勝の最多は[[大鵬幸喜|大鵬]]と[[北の湖敏満|北の湖]]でともに16回。また、ともに蔵前場所連続優勝の記録でも最多(5場所連続)である。北の湖は最初の6回の優勝は全て蔵前での本場所で達成(しかも1月場所と5月場所のみ)している。
* 旧両国国技館と蔵前国技館の両方で優勝したのは、[[羽黒山政司|羽黒山]]だけ(旧両国で3回、蔵前で1回。蔵前での唯一の優勝は37歳2か月の時に全勝で記録し同時に最年長全勝優勝の記録となっている。)。戦後すぐの流浪の時期も含めれば、[[東富士欽壹|東富士]]、[[照國萬藏|照國]]、それに千代の山らも、ふたつの「仮設国技館」で優勝したことになる。[[増位山大志郎|増位山]]の2度の優勝は、ともに大阪[[福島区|福島公園]]と浜町公園での本場所で、蔵前での優勝はなかったが、やはりふたつの「仮設国技館」で優勝している。
* 蔵前国技館と新両国国技館で優勝した力士は[[千代の富士貢|千代の富士]]だけ(蔵前で2回、新両国で11回。千代の富士は初優勝以降蔵前での本場所を10回経験しているが優勝は2回だけである。)。国技館移転をまたいで優勝した者には、他に[[北天佑勝彦|北天佑]]がいるが、2度目の優勝は地方場所([[名古屋市|名古屋]])でだった。
* 蔵前で幕内を務め、現役で最後に残ったのは[[水戸泉政人|水戸泉]]。[[2011年の相撲|2011年]]([[平成]]23年)5月[[技量審査場所]]で[[序二段]](元[[十両]])の[[栃天晃正嵩|栃天晃]]が引退し、蔵前国技館を経験した力士は全て[[引退]]した。
* 蔵前の土俵に上がった最古参の幕内経験者は元[[大関]]の[[名寄岩静男|名寄岩]]で仮設開館当時35歳3か月。1954年9月場所まで土俵を務めた。
== エピソード ==
* 蔵前国技館では1階観客通路に面して[[支度部屋]]が設けられていた。従って観客は支度部屋の様子を窓越しに見ることができ、支度部屋と土俵を行き来する力士たちを通路で直に見ることもできた。現在の両国国技館では保安などの関係から観客通路は支度部屋から分離されている。
* 1967年に公開された[[映画]]『[[007は二度死ぬ (映画)|007は二度死ぬ]]』では、主要な東京ロケ地のひとつとして使用された。
* 1971年の改修前は館内にすきま風が吹き、初場所では寒さに震えながら観客が相撲を観戦するような状態だった。大相撲担当記者からそのことを問われた、相撲協会理事長の[[双葉山定次|時津風]]が「そこは土俵の熱戦で暖まっていただいて……」と苦しい答弁をする程だったが、時津風の没後3年して改修が完了した。
* 両国国技館は地下に[[焼き鳥]]の仕込や調理を一括しておこなう「焼き鳥工場」があることで有名だが、この焼き鳥事業は[[相撲茶屋|国技館サービス株式会社]]の前身・相撲サービス株式会社が蔵前国技館時代から行なっていた事業。当時は地上にあった調理場で一つひとつ炭火焼きにしていた。そのため午前中は国技館から鶏肉を焼く煙と香匂が広がり、これも蔵前界隈の風情を代表する光景のひとつだった。
* 大相撲や格闘技以外のイベントでは、[[日本将棋連盟]]が行うイベント『[[将棋の日]]』で使用されたことがあり、将棋の対局が土俵上で行われた。1975年にはイベントの一環として『将棋の日』開催当時に行われていた[[第14期十段戦 (将棋)|第14期十段戦]]七番勝負の[[中原誠]]対[[大山康晴]]の対局の一部が蔵前国技館での[[公開対局 (将棋)|公開対局]]として行われたが、これは将棋史上初のタイトル戦の公開対局だった。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Kuramae Kokugikan}}
* [[相撲用語一覧]]
* [[相撲]]
* [[大相撲]]
* [[出羽ノ花國市]] - 蔵前建設の際に奔走。
{{相撲}}
{{デフォルトソート:くらまえこくきかん}}
[[Category:現存しない東京都区部のスポーツ施設]]
[[Category:大相撲本場所の開催会場|廃くらまえこくきかん]]
[[Category:現存しない日本のプロレス会場]]
[[Category:現存しない日本のボクシング会場]]
[[Category:現存しない関東地方の屋内競技施設]]
[[Category:台東区のスポーツ史]]
[[Category:現存しない台東区の建築物]]
[[Category:1954年竣工の日本の建築物|廃くらまえこくきかん]]
[[Category:1954年開設のスポーツ施設|廃くらまえこくきかん]]
[[Category:1984年廃止のスポーツ施設]]
[[Category:昭和時代戦後の東京]]
[[Category:蔵前|歴]]
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16,972 |
安中榛名駅
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安中榛名駅(あんなかはるなえき)は、群馬県安中市東上秋間にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)北陸新幹線の駅。一部の「あさま」のみ停車する。
北陸新幹線高崎駅 - 長野駅間のルートは、群馬・長野県境の標高差をいかにして通過するかが問題であり、当初は直線的に高崎から長野原町付近を通過して長野へ抜ける案や、松井田町(現:安中市)付近を通過して下仁田町の物見山の直下を貫く長大トンネルで佐久へ抜ける案などが検討されたが、地質的な工事の難易度、通過される軽井沢町の反対、急勾配を通過可能な新幹線車両の設計にめどがついたことなどから、高崎駅から連続30‰勾配を使用しつつ軽井沢駅で向かい、長野駅へ向かう計画となった。
このうち、高崎駅 - 軽井沢駅間のルートは2案が検討され、一つは現行のルートに近い、高崎駅を出たのちに榛名町中里見(現:高崎市中里見町)付近を通って北に迂回し、連続急勾配とトンネルにより、榛名山南麓の霧積山、子持山の直下をトンネルで抜けつつ南下して軽井沢に抜ける北回り案、もう一つは、高崎駅を出たのちに榛名町下里見(現:高崎市下里見町)付近から南西に迂回し、信越本線を磯部駅 - 松井田駅間で跨ぎ(駅設置も考慮)、妙義山南麓をトンネルと連続急勾配で大きく迂回しつつ軽井沢に抜ける南回り案であり、結果、トンネル建設にあたって比較的地質が安定しており、比較的大回りとならない北回り案(開業時点で信越本線比で+0.9 km、南回り案では+約9 km)が採用されることとなった。
1982年(昭和57年)には日本鉄道建設公団(以下、鉄建公団)では環境影響評価実施のために駅・ルートの概要を公表するが、この当初工事実施計画の時点では高崎駅 - 軽井沢駅間に駅は設置される計画はなかった。これに対して群馬県は、同年12月に鉄建公団が環境影響評価報告書案を沿線各県に提出したのちも、新駅設置の強い要望があることを主張した上で、報告書案に対する知事意見書の提出を渋るなど慎重姿勢を取った。群馬県がこのような態度をとった理由としては、整備新幹線建設にあたっては、建設のための財源枠組み計画により、群馬県なども拠出を行うことや、南回り案に見られるように松井田附近に駅が設置される噂が広まっていた経緯などがある。
1985年(昭和60年)に入り群馬県では関係各所へ新駅設置について要望を重ね、同年11月には自由民主党と群馬県知事清水一郎の間で、新安中駅(仮称)設置の確約がなされた。なお同年12月25日に、鉄建公団は北陸新幹線高崎駅 - 小松駅間の工事実施計画を運輸大臣に申請している。この時点で工事実施計画に新安中駅の設置は組み込まれなかったものの、駅設置の要望が出ることを織り込んで、中間に水平区間を確保していたとの話もある。
翌1986年(昭和61年)3月、群馬県知事の清水は鉄建公団総裁に対し、関係市町村から構成する西毛地区開発協議会が策定した、具体的な道路整備計画、駅周辺整備計画、観光開発計画を添えて、駅設置の知事要望書を提出した。
これを受けて鉄建公団では、安中市に駅を設置することは列車運行上も支障なく、地域振興の中心となり、観光ルートの拠点ともなるとして、1986年(昭和61年)8月29日、ルートを微調整の上、当駅を設置する工事実施計画の追加申請を運輸大臣宛てに行い、当駅が設置されることとなった。
地上駅。通過線なしの可動式安全柵付相対式ホーム(幅 4.5 m)2面2線(長さ 310 m)を有し、積雪もさほど多くないため長野までの各駅と同様半覆いタイプの上屋としている。上屋には安中市の木であるスギ材を一部に使用し、可動式安全柵には安中市の花であるウメの花をあしらっている。
地上駅ではあるが、ホームは駅舎から見ると2階相当の位置にあり、各ホームと駅舎は地下通路により連絡する。
駅舎のデザインは「新しい街に相応しく個性的でモダンな駅」を志向し、晴天率が高いという土地柄を意識して青空・自然をイメージしている。駅舎は青く着色したガラスで構成された中央のアトリウムとチェック模様のタイルからなる壁面から構成される。また、意識的に周囲の景観を内部に取り込むため、タイルのチェック模様を室内に連続させるなどの工夫がされている。構内には待合室・便所のほか、みどりの窓口、自動券売機、指定席券売機が設置されているほか、立ち食いそばなどの売店(荻野屋安中榛名駅売店)、駅レンタカー窓口がある。
(出典:JR東日本:駅構内図)
前述の荻野屋運営の売店により、峠の釜めしが販売されている。
開業前は1日1,500人程度の乗降を見込んでいたが、駅周辺開発の遅れなどから利用は伸び悩み、開業1か月時点の速報で、1日平均乗降人員は523人(1/2した値を乗車人員とするとおおよその乗車人員262.5人)となり、当時全国の新幹線駅で最低の乗降人員とされていた白石蔵王駅(当時1日乗降人員850人)を下回って、1か月速報値ながら全国最低となり、2000年(平成12年)時点では1日平均乗車人員は169人となっていた。
2019年(令和元年)度の時点では、1日平均乗車人員285人となったが、北陸新幹線の駅としては最低値であり、当駅以後に開業した他の新幹線路線駅を含めても、奥津軽いまべつ駅、木古内駅、いわて沼宮内駅の次に少ない乗車人員となった。
2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
前述の経緯から当駅は特に集落などもない丘陵上の山林を切り開いて開業したこともあり、開業と同年に公開されたアニメ映画「もののけ姫」になぞらえて、マスメディアなどから「もののけ駅」と揶揄されたこともあった。
駅周辺の開発については、開業前の1993年(平成5年)に、群馬県と安中市、および上越新幹線上毛高原駅が所在する月夜野町(現:みなかみ町)、JR東日本によって「定住型リゾートオフィスモデル事業調査」が行われた。これは、東京 100 km 圏、新幹線で1時間、かつリゾート地(安中榛名の場合は軽井沢)を後背地に持つ立地を活かして、快適な住環境と都内の本社と通信回線で結ばれたサテライトオフィスをセットとして、職住に加えて「遊」を近接させた開発を行おうとする構想であり、当駅については住宅地開発と併せてソフトウェア開発企業など高度情報産業を誘致する「新安中マルチメディアタウン構想」が提案された。
このうち駅南方の住宅地についてはJR東日本を主体に開発が行われ、着手の遅延により駅開業には間に合わなかったものの、2003年(平成15年)10月に「びゅうヴェルジェ安中榛名」の名称で約600区画の分譲を開始し、2016年(平成28年)6月末に完売した。
しかし、商業区画についてはその後大企業のデータバックアップ施設の誘致などに切り替わったものの、企業等の誘致には至っていない。
また、駅前にはびゅうヴェルジェ安中榛名の販売センターとコンビニエンスストアが入居する「秋間みのりが丘コミュニティプラザ」が設けられていたが、分譲終了に伴い閉鎖されてしまい、駅構内の売店を除き商業施設は皆無となった。その後、コミュニティプラザは安中市の所有となり、2023年(令和5年)には民間企業のサテライトオフィスとして賃貸されている。
ボルテックスアークの磯部駅や安中駅周辺への路線バスが発着する。
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安中榛名駅(あんなかはるなえき)は、群馬県安中市東上秋間にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)北陸新幹線の駅。一部の「あさま」のみ停車する。
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<!--検証可能性を満たす出典を提示ください。-->
{{駅情報
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|文字色=
|駅名= 安中榛名駅
|画像= JR Hokuriku Shinkansen Annakaharuna Station building.jpg
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|画像説明= 駅舎(2021年7月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|36|21|44.7|N|138|50|58.5|E}}}}
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|前の駅= [[高崎駅|高崎]]
|駅間A= 18.5
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|電報略号= アハ<ref name="Shinmai17">{{Cite book |和書 |author=信濃毎日新聞社出版部 |title=長野県鉄道全駅 増補改訂版 |publisher=信濃毎日新聞社 |date=2011-07-24 |isbn=9784784071647 |page=17}}</ref>
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|キロ程= 18.5 km([[高崎駅|高崎]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から123.5
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|所在地= [[群馬県]][[安中市]][[東上秋間]]2552-5<ref name="ekiinfo"/>
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|備考= {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[みどりの窓口]] 有}}
}}
'''安中榛名駅'''(あんなかはるなえき)は、[[群馬県]][[安中市]][[東上秋間]]<ref name="ekiinfo">{{Cite web|和書|title=駅の情報(安中榛名駅):JR東日本 |url=http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=96 |website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社 |access-date=2023-10-29 |language=ja |publisher=東日本旅客鉄道株式会社}}</ref>にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[北陸新幹線]]の[[鉄道駅|駅]]<ref name="Shinmai17"/>。一部の「[[あさま]]」のみ停車する{{sfn|双葉社|2022|p=131}}。
== 歴史 ==
{{See also|北陸新幹線#歴史}}
北陸新幹線[[高崎駅]] - [[長野駅]]間のルートは、群馬・長野県境の標高差をいかにして通過するかが問題であり、当初は直線的に高崎から[[長野原町]]付近を通過して長野へ抜ける案や、[[松井田町]](現:[[安中市]])付近を通過して[[下仁田町]]の物見山の直下を貫く長大トンネルで[[佐久市|佐久]]へ抜ける案などが検討されたが、地質的な工事の難易度、通過される[[軽井沢町]]の反対、急勾配を通過可能な新幹線車両の設計にめどがついたことなどから、高崎駅から連続30‰勾配を使用しつつ[[軽井沢駅]]で向かい、長野駅へ向かう計画となった<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=新幹線全史 「政治」と「地形」で解き明かす |date=2023-09-10 |publisher=[[NHK出版]] |pages=276-281 |first=正浩 |author-link=竹内正浩 |last=竹内 |series=NHK出版新書}}</ref>。
このうち、高崎駅 - 軽井沢駅間のルートは2案が検討され、一つは現行のルートに近い、高崎駅を出たのちに[[榛名町]]中里見(現:高崎市中里見町)付近を通って北に迂回し、連続急勾配とトンネルにより、[[榛名山]]南麓の霧積山、子持山の直下をトンネルで抜けつつ南下して軽井沢に抜ける北回り案、もう一つは、高崎駅を出たのちに榛名町下里見(現:高崎市下里見町)付近から南西に迂回し、[[信越本線]]を[[磯部駅]] - [[松井田駅]]間で跨ぎ(駅設置も考慮)、[[妙義山]]南麓をトンネルと連続急勾配で大きく迂回しつつ軽井沢に抜ける南回り案であり<ref name=":1" />、結果、トンネル建設にあたって比較的地質が安定しており、比較的大回りとならない北回り案(開業時点で信越本線比で+0.9 km、南回り案では+約9 km)が採用されることとなった<ref name=":1" />。
[[1982年]](昭和57年)には[[日本鉄道建設公団]](以下、鉄道公団)では環境影響評価実施のために駅・ルートの概要を公表するが、この当初工事実施計画の時点では高崎駅 - [[軽井沢駅]]間に駅は設置される計画はなかった<ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=現代群馬県政史 |publisher=[[群馬県]] |pages=476-478 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3019990/1/296 |editor=群馬県政史編さん委員会 |doi=10.11501/3019990 |volume=4 |date=1993-03}}</ref>。これに対して群馬県は、同年12月に鉄道公団が環境影響評価報告書案を沿線各県に提出したのちも、新駅設置の強い要望があることを主張した上で、報告書案に対する知事意見書の提出を渋るなど慎重姿勢を取った<ref name=":2" />。群馬県がこのような態度をとった理由としては、[[整備新幹線]]建設にあたっては、建設のための財源枠組み計画により、群馬県なども拠出を行うことや、南回り案に見られるように松井田附近に駅が設置される噂が広まっていた経緯などがある<ref name=":1" />。
[[1985年]](昭和60年)に入り群馬県では関係各所へ新駅設置について要望を重ね、同年11月には[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]と群馬県知事[[清水一郎 (政治家)|清水一郎]]の間で、新安中駅(仮称)設置の確約がなされた<ref name=":2" />。なお同年12月25日に、鉄道公団は北陸新幹線高崎駅 - [[小松駅]]間の工事実施計画を運輸大臣に申請している<ref name=":0">{{Cite journal|和書|editor=鉄道電化協会|date=1986-10|title=ニュース:北陸新幹線高崎・小松間の工事実施計画認可の追加申請について|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2313674/1/25|journal=電気鉄道|volume=40|issue=10|page=38|publisher=鉄道電化協会|doi=10.11501/2313674|issn=0285-3167}}</ref>。この時点で工事実施計画に新安中駅の設置は組み込まれなかったものの、駅設置の要望が出ることを織り込んで、中間に水平区間を確保していたとの話もある<ref name=":1" />。
翌[[1986年]](昭和61年)3月、群馬県知事の清水は鉄道公団総裁に対し、関係市町村から構成する[[西毛]]地区開発協議会が策定した、具体的な道路整備計画、駅周辺整備計画、観光開発計画を添えて、駅設置の知事要望書を提出した<ref name=":0" /><ref name=":2" />。
これを受けて鉄道公団では、安中市に駅を設置することは列車運行上も支障なく、地域振興の中心となり、観光ルートの拠点ともなるとして、[[1986年]](昭和61年)8月29日、ルートを微調整の上、当駅を設置する工事実施計画の追加申請を運輸大臣宛てに行い、当駅が設置されることとなった<ref name=":0" />。
=== 年表 ===
* [[1982年]](昭和57年):鉄道公団が北陸新幹線高崎駅 - 小松駅間建設にあたっての環境影響評価実施のために駅・ルートの概要を公表するが、この当初工事実施計画の時点では高崎駅 - 軽井沢駅間に駅は計画されず<ref name=":2" />。
* [[1985年]](昭和60年)
** 11月:[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]と群馬県知事清水一郎の間で、新安中駅(仮称)設置の確約がなされる<ref name=":2" />。
** [[12月25日]]:鉄道公団が北陸新幹線高崎駅 - 小松駅間の工事実施計画を運輸大臣に申請<ref name=":1" /><ref name=":0" />。この時点では新安中駅(仮称)の新設計画は加味されず。
* [[1986年]](昭和61年)
** 3月:群馬県知事の清水から鉄道公団総裁に対し駅設置の知事要望書を提出<ref name=":0" /><ref name=":2" />。
** 8月29日:鉄道公団から運輸大臣宛てに、新安中駅(仮称)を設置する工事実施計画追加申請がなされ、当駅設置が決定<ref name=":0" />。
* [[1997年]]([[平成]]9年)
** [[4月15日]]:開業日発表と併せ、駅名が「安中榛名」に決定<ref>{{Cite journal|和書|date=1997-11|title=「安中榛名」に決定、北陸新幹線新駅(県内経済記事 1997年4月)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2864180/1/30|journal=調査月報|issue=168|page=56|publisher=群馬経済研究所|doi=10.11501/2864180|issn=0911-5854}}</ref>。
** [[10月1日]]:北陸新幹線の高崎駅 - [[長野駅]]間開業に伴い、駅開業<ref name="Shinmai17" />。
* [[2004年]](平成16年)3月13日:前年に[[びゅうヴェルジェ安中榛名]]の分譲を開始したことから、同日のダイヤ改正で停車列車を下り1本、上り3本増加させ、上下各12本の停車とする<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2003_2/20031207_1.pdf |title=Ⅰ.新幹線(2004年3月ダイヤ改正について) |access-date=2023-10-29 |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2003-12-12 |format=PDF |archive-url=https://web.archive.org/web/20231029123651/https://www.jreast.co.jp/press/2003_2/20031207_1.pdf |archive-date=2023-10-29}}</ref>。この数字は現在に至るまで変わっていない。
* [[2008年]](平成20年)[[3月14日]]:東京方面で[[Suica]] [[定期乗車券|FREX定期券・Suica FREXパル定期券]]が利用できるようになる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|title=Suicaをご利用いただけるエリアが広がります。|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2008-12-22|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200524150337/https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|archivedate=2020-05-25}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)3月14日:北陸新幹線長野駅 - [[金沢駅]]間の延伸に伴い、停車列車12往復のうち上下各1本を金沢駅発着の「[[はくたか]]」(上り:574号、下り:575号)とする{{sfn|マイナビ|2015|p=144}}。
* [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:同日実施の[[ダイヤ改正]]に伴い、「はくたか」の停車を取りやめ。長野方面でSuica FREX定期券・Suica FREXパル定期券の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2015/20151214.pdf|title=Suica FREX 定期券をご利用いただける駅が増えます|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-12-21|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190715072502/https://www.jreast.co.jp/press/2015/20151214.pdf|archivedate=2019-07-15}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[4月1日]]:当駅 - [[東京駅]]間において[[タッチでGo!新幹線]]のサービスを開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20171202.pdf|title=「タッチでGo!新幹線」の開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2017-12-05|accessdate=2020-05-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200524135958/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20171202.pdf|archivedate=2020-05-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/20180127-576812/|title = JR東日本「タッチでGo! 新幹線」4/1サービス開始へ - 詳細も発表|website = [[マイナビニュース]]|date = 2018-01-27|accessdate = 2022-02-15}}</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月25日]]:[[令和元年東日本台風]]の被害に伴う暫定措置により、同日より11月29日まで「はくたか」が3年7か月ぶりに停車するようになる<ref>{{Cite press release|和書|url = https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191023_ho01.pdf|title = 北陸新幹線(東京~金沢間)の直通運転再開に伴う暫定ダイヤについて|publisher = 東日本旅客鉄道|archiveurl = https://web.archive.org/web/20191023111736/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191023_ho01.pdf|date = 2019-10-23|archivedate = 2019-10-23|accessdate = 2022-02-15|format = PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/90651|title = 「かがやき」2本減「あさま」11本減 北陸新幹線、全線再開後の暫定ダイヤ発表|website = 乗りものニュース|date = 2019-10-23|accessdate = 2022-02-15}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)3月14日:[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf |title=「新幹線eチケットサービス」が始まります!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道、北海道旅客鉄道、西日本旅客鉄道|date=2020-02-04|accessdate=2020-05-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200524140435/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|archivedate=2020-05-24}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[3月13日]]:タッチでGo!新幹線のサービスを当駅から[[上越妙高駅]]までの区間に拡大<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|title=タッチでGo!新幹線 サービスエリア拡大について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113025314/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|archivedate=2020-11-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/20201115-1491604/|title = JR東日本「タッチでGo! 新幹線」エリア拡大、新幹線回数券は廃止|website = マイナビニュース|date = 2020-11-15|accessdate = 2022-02-15}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[地上駅]]。通過線なしの[[ホームドア|可動式安全柵]]付[[プラットホーム|相対式ホーム]](幅 4.5 m<ref name=":02">{{Cite journal|和書|author=三輪誠|authorlink=|year=|date=1997-11-01|title=平成9年10月1日開業! 北陸新幹線高崎―長野間 路線と施設の概要|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=37|issue=11号(通巻439号)|page=|pages=62-69|publisher=[[交友社]]|ref=rf439|isbn=|naid=}}</ref>)2面2線(長さ 310 m<ref name=":02" />)を有し<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=JR東日本:駅構内図・バリアフリー情報(安中榛名駅) |url=https://www.jreast.co.jp/estation/stations/96.html |website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社 |access-date=2023-10-29 |language=ja}}</ref>、積雪もさほど多くないため長野までの各駅と同様半覆いタイプの上屋としている<ref name=":3">{{Cite journal|和書|date=1997-12|title=北陸新幹線の開業|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3255425/1/8|journal=日本鉄道施設協会誌|volume=35|issue=12|pages=881-905|publisher=日本鉄道施設協会|doi=10.11501/3255425}}</ref>。上屋には安中市の木である[[スギ]]材を一部に使用し、可動式安全柵には安中市の花である[[ウメ]]の花をあしらっている<ref name=":02" />。
地上駅ではあるが、ホームは駅舎から見ると2階相当の位置にあり、各ホームと駅舎は地下通路により連絡する<ref name=":6" />。
駅舎のデザインは「新しい街に相応しく個性的でモダンな駅<ref name=":3" />」を志向し、晴天率が高いという土地柄を意識して青空・自然をイメージしている<ref name=":02" />。駅舎は青く着色したガラスで構成された中央のアトリウムとチェック模様のタイルからなる壁面から構成される<ref name=":3" />。また、意識的に周囲の景観を内部に取り込むため、タイルのチェック模様を室内に連続させるなどの工夫がされている<ref name=":3" />。構内には待合室・便所のほか、[[みどりの窓口]]、[[自動券売機]]、[[指定席券売機]]が設置されているほか、立ち食いそばなどの売店([[荻野屋]]安中榛名駅売店<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=峠の釜めし販売店舗 {{!}} 荻野屋 |url=https://www.oginoya.co.jp/tenpo/shop-list/stores/ |website=峠の釜めし本舗おぎのや |date=2019-12-08 |access-date=2023-10-28 |language=ja |publisher=[[荻野屋]]}}</ref>)、[[駅レンタカー]]窓口がある<ref name=":6" />。
=== のりば ===
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 北陸新幹線
|下り
|[[長野駅|長野]]・[[富山駅|富山]]・[[金沢駅|金沢]]方面
|-
!2
|上り
|[[高崎駅|高崎]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[東京駅|東京]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/96.html JR東日本:駅構内図])
<gallery>
JR Hokuriku Shinkansen Annakaharuna Station Gates.jpg|改札口(2021年7月)
JR Hokuriku Shinkansen Annakaharuna Station Platform.jpg|ホーム(2021年7月)
</gallery>
== 駅弁 ==
前述の荻野屋運営の売店により、[[峠の釜めし]]が販売されている<ref name=":5" />。
== 利用状況 ==
開業前は1日1,500人程度の乗降を見込んでいたが、駅周辺開発の遅れなどから利用は伸び悩み、開業1か月時点の速報で、1日平均乗降人員は523人(1/2した値を乗車人員とするとおおよその乗車人員262.5人)となり、当時全国の新幹線駅で最低の乗降人員とされていた[[白石蔵王駅]](当時1日乗降人員850人)を下回って、1か月速報値ながら全国最低となり<ref>{{Cite journal|和書|date=1998-01|title=新幹線安中榛名駅の1日平均乗客数、全国最低(県内経済記事 1997年11月)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2864187/1/29|journal=調査月報|issue=175|page=54|publisher=群馬経済研究所|doi=10.11501/2864187|issn=0911-5854}}</ref>、2000年(平成12年)時点では1日平均乗車人員は169人となっていた<ref name=":0" group="利用客数" />。
2019年(令和元年)度の時点では、1日平均乗車人員285人となったが、北陸新幹線の駅としては最低値であり、当駅以後に開業した他の新幹線路線駅を含めても、[[奥津軽いまべつ駅]]、[[木古内駅]]、[[いわて沼宮内駅]]の次に少ない乗車人員となった{{sfn|双葉社|2022|p=89}}{{sfn|双葉社|2022|p=145}}。
2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
|- style="background: #ddd;"
! colspan="4" |乗車人員推移
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
!備考
|-
|2000年(平成12年)
|169
|<ref group="利用客数" name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_05.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2001年(平成13年)
|170
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_05.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2002年(平成14年)
|151
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_05.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2003年(平成15年)
|161
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_05.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|びゅうヴェルジェ安中榛名分譲開始
|-
|2004年(平成16年)
|199
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_05.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|前年度末のダイヤ改正で停車本数増加
|-
|2005年(平成17年)
|234
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_05.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2006年(平成18年)
|245
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_05.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2007年(平成19年)
|253
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_05.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2008年(平成20年)
|275
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_05.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2009年(平成21年)
|261
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_05.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2010年(平成22年)
|252
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_05.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2011年(平成23年)
|270
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_05.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2012年(平成24年)
|271{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2012年度)」では、266人と記載されている<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_08.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}}
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2013年(平成25年)
|270{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2013年度)」では、267人と記載されている<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_08.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}}
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2014年(平成26年)
|277{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2014年度)」では、270人と記載されている<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_08.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}}
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2015年(平成27年)
|277{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2015年度)」では、272人と記載されている<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_08.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}}
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|北陸新幹線金沢延伸開業
|-
|2016年(平成28年)
|280
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|びゅうヴェルジェ安中榛名完売
|-
|2017年(平成29年)
|292
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2018年(平成30年)
|300{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2018年度)」では、298人と記載されている<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_07.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}}
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2019年(令和元年)
|285{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2019年度)」では、284人と記載されている<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_07.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}}
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>{{sfn|双葉社|2022|p=132}}
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|155
|<ref group="利用客数" name="passenger/2020_shinkansen">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|177
|<ref group="利用客数" name="passenger/2021_shinkansen">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-03}}</ref>
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|230
|<ref group="利用客数" name="passenger/2022_shinkansen">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-09}}</ref>
|
|}
; 備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|東上秋間|秋間みのりが丘|びゅうヴェルジェ安中榛名}}[[ファイル:Annaka Haruna Station March2017.jpg|thumb|駅前商業区画(2017年5月)]]
前述の経緯から当駅は特に集落などもない丘陵上の山林を切り開いて開業したこともあり、開業と同年に公開されたアニメ映画「[[もののけ姫]]」になぞらえて、マスメディアなどから「もののけ駅」と揶揄されたこともあった<ref>{{Cite journal|和書|last=米原|first=守|date=1998-01|title=わが支局 わが日々 安中榛名駅の逆襲|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3361117/1/43|journal=新聞研究|issue=558|page=82|publisher=日本新聞協会|doi=10.11501/3361117}}</ref>。
駅周辺の開発については、開業前の1993年(平成5年)に、群馬県と安中市、および[[上越新幹線]][[上毛高原駅]]が所在する[[月夜野町]](現:[[みなかみ町]])、JR東日本によって「定住型リゾートオフィスモデル事業調査」が行われた<ref name=":7" /><ref>{{Cite journal|editor=日経産業消費研究所|date=1993-02|title=群馬県が定住型オフィス、新幹線駅周辺を対象に調査(ニュース追跡 インサイドと展望)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2867871/1/14|journal=日経地域情報|issue=165|page=27|publisher=日経産業消費研究所|doi=10.11501/2867871|issn=0912-3881}}</ref>。これは、東京 100 km 圏、新幹線で1時間、かつリゾート地(安中榛名の場合は[[軽井沢]])を後背地に持つ立地を活かして、快適な住環境と都内の本社と通信回線で結ばれた[[サテライト・オフィス|サテライトオフィス]]をセットとして、職住に加えて「遊」を近接させた開発を行おうとする構想であり<ref name=":7" />、当駅については住宅地開発と併せてソフトウェア開発企業など高度情報産業を誘致する「新安中マルチメディアタウン構想」が提案された<ref name=":7">{{Cite journal|和書|date=1993-09|title=定住型リゾートオフィス構想、県などで調査(県内経済記事 1993年7月)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2864135/1/29|journal=調査月報|issue=123|page=55|publisher=群馬経済研究所|doi=10.11501/2864135|issn=0911-5854}}</ref><ref name=":4">{{Cite journal|和書|date=1995-04|title=新幹線・新安中駅周辺、バックアップ施設を誘致(県内経済記事 1995年2月)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2864154/1/23|journal=調査月報|issue=142|page=43|publisher=群馬経済研究所|doi=10.11501/2864154|issn=0911-5854}}</ref>。
このうち駅南方の住宅地についてはJR東日本を主体に開発が行われ、着手の遅延により駅開業には間に合わなかったものの、[[2003年]](平成15年)10月に「[[びゅうヴェルジェ安中榛名]]」の名称で約600区画の分譲を開始し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2003_1/20030904.pdf |title=- 長野新幹線 駅前定住型リゾートシテイ - 「びゅうヴェルジェ安中榛名」いよいよ10月から販売開始! ~グランドオープンを記念し、9月28日「街びらきフェスタ」を開催!~ |access-date=2023-10-29 |publisher=東日本旅客鉄道 |format=PDF |date=2003-09-04}}</ref>、[[2016年]](平成28年)6月末に完売した<ref name="完売">{{Cite news |title=JR東日本 「びゅうヴェルジェ安中榛名」完売 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2016-07-25}}</ref>。
しかし、商業区画についてはその後大企業のデータバックアップ施設の誘致などに切り替わったものの<ref name=":4" />、企業等の誘致には至っていない。
また、駅前にはびゅうヴェルジェ安中榛名の販売センターと[[コンビニエンスストア]]が入居する「秋間みのりが丘コミュニティプラザ」が設けられていたが、分譲終了に伴い閉鎖されてしまい<ref>{{Cite web|和書|title=北陸新幹線安中榛名駅前施設(旧コミュニティプラザ)の利活用事業者を募集します - 安中市ホームページ |url=https://www.city.annaka.lg.jp/page/1300.html |website=www.city.annaka.lg.jp |access-date=2023-10-29}}</ref>、駅構内の売店を除き商業施設は皆無となった。その後、コミュニティプラザは安中市の所有となり、2023年(令和5年)には民間企業のサテライトオフィスとして賃貸されている<ref>{{Cite web|和書|title=北陸新幹線安中榛名駅前施設(旧コミュニティプラザ)利活用事業者の決定について - 安中市ホームページ |url=https://www.city.annaka.lg.jp/page/1301.html |website=www.city.annaka.lg.jp |access-date=2023-10-29}}</ref>。
=== 主な施設等 ===
* [[びゅうヴェルジェ安中榛名]]
* みのりが丘パノラマパーク<ref name="tokyo20201026">{{Cite news |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/64251 |title=住民ボランティアが花苗植え 安中・みのりが丘パノラマパークで |newspaper=東京新聞 TOKYO Web |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201101140945/https://www.tokyo-np.co.jp/article/64251 |date=2020-10-26 |archivedate=2020-11-01 |accessdate=2022-02-15}}</ref>
* 秋間みのりが丘北側広場(多目的運動場)
* [[群馬県道48号下仁田安中倉渕線]] - 当駅開業にあたりアクセス道路として改良が行われた<ref>{{Cite journal|和書|date=1997-11|title=1.8キロ暫定開通 安中榛名駅へのバイパス(県内経済記事 1997年9月)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2864185/1/33|journal=調査月報|issue=173|page=62|publisher=群馬経済研究所|doi=10.11501/2864185|issn=0911-5854}}</ref>。[[2019年]](令和元年)には、安中榛名駅前交差点が群馬県内初の[[ラウンドアバウト]]とされた<ref>{{Cite news |url=https://www.sankei.com/article/20190821-EU7MAGRS5VK2LPJPQ63U3Q36VM/ |title=ラウンドアバウト、年度内に正式導入 群馬県、安中に県内初 |newspaper=産経ニュース |date=2019-08-21 |accessdate=2022-02-15}}</ref>。
=== バス路線 ===
[[ファイル:VortexarkBus.JPG|thumb|バスのりば]]
[[ボルテックスアーク]]の[[磯部駅_(群馬県)|磯部駅]]や[[安中駅]]周辺への路線バスが発着する{{sfn|マイナビ|2015|p=35}}。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 北陸新幹線
:: [[高崎駅]] - '''安中榛名駅''' - [[軽井沢駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|3}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="利用客数"|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title = 徹底ガイド! 北陸新幹線まるわかりBOOK|publisher = [[マイナビ]]|date = 2015-02-08|isbn = 978-4-8399-5292-1|ref = {{sfnref|マイナビ|2015}} }}
* {{Cite book|和書|title = 全国新幹線完全ガイド|publisher = [[双葉社]]|date = 2022-01-14|isbn = 978-4-575-45900-5|ref = {{sfnref|双葉社|2022}} }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[鉄道と政治]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=96|name=安中榛名}}
{{北陸新幹線}}
{{DEFAULTSORT:あんなかはるな}}
[[Category:群馬県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 あ|んなかはるな]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1997年開業の鉄道駅]]
[[Category:北陸新幹線|あんなかはるなえき]]
[[Category:安中市の建築物|あんなかはるなえき]]
[[Category:安中市の交通|あんなかはるなえき]]
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16,973 |
決まり手
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決まり手(きまりて)とは、勝敗が決した際の技のことである。
極まり手(きまりて)とも表記される。決まり手には技と非技(勇み足など自滅的なもの)があり、前者を「決まり手」、後者を「勝負結果」として区別する場合もある。また、髷(まげ)を引っ張る、まわしの前袋が外れる(不浄負け)などの反則・禁手による決着もある。
相撲の技を言葉で表現しようとする試みは、戦国時代(16世紀後半)に始まるといわれる。『信長公記』に相撲の記事があり、その中で勝負の結果を決まり手も含めて表現したことが始まりとも伝えられる。この時代には土俵がなかったので、投げ・掛け・反り・捻りのいわゆる四十八手が言われていた(元禄年間(1688~1704年)に四十八手に分類されたとも伝わる)。18世紀に土俵が完成してから、寄り・押し系の決まり手も生まれた。
戦前までは、各種マスコミにより決まり手報道はばらばらであったため、1955年に日本相撲協会は決まり手68手と非技2つ(勇み足と腰くだけ)を決め、場内放送で公式に流すことにした。また、日本相撲協会の星取表にも十両以上の決まり手を掲載するようになった。1960年に出し投げが上手出し投げと下手出し投げに分かれ、また切り返しから河津掛けが分離し、70手となった。2000年にそれまでの決まり手に技12手、非技3つが加えられ、現在は技は82手、非技は5つある。アマチュア相撲でも、大相撲にならって決まり手を決定している。
決まり手の決定は決まり手係の親方が判断する。最初は十両以上の取組に限られていたが、現在はすべての取組に対して場内放送が行われる。ただし、星取表への掲載は十両以上である。
本場所での場内放送のアナウンスでは「ただいまの決まり手は○○。○○で(力士の四股名)の勝ち」(上位5番を除く幕下以下および大相撲トーナメントなどの本場所ではない場合は「○○で(力士の四股名)の勝ち」)となっている。反則・非技の場合は「ただいまの一番は(力士の四股名)に、(「○○をする反則」または非技の内容)があり、(相手力士の四股名)の勝ちであります」とアナウンスされる。
寄り切り、押し出し、叩き込み、上手投げなどは頻繁に出現するが、反り技を中心に滅多に出現しない決まり手もいくつか存在する。珍しい決まり手が出たときには大いに報道される。なお、撞木反りのように1955年の決まり手制定以来出たことがないというものも存在する。
崩し、誘い、抑え込み、起し、極て技、出し技など48手ある。 出典
フィニッシュとも呼ばれる。一般にはピンフォールあるいはタップアウトに持ち込んで勝敗を決した技を指すが、それらの他に「(テクニカル)ノックアウト」「判定」「反則」もある。最後にピンフォールを決めた際の技の名のみであるから、其処に持ち込むまでに披露された技の名は出ない。投げ技などの名が出ることはない。昭和期のプロレスでは、ほとんどすべての試合の決まり手が「体固め」であった。総合格闘技ではグラウンドパンチで決着した場合「パウンドによるTKO」となる。
「逃げ」「まくり」「つけ回い(ツケマイ)」「差し」「まくり差し」「抜き」(または「道中競り」)「恵まれ」がある。競艇#1周目第1ターンマークの攻防、競艇#道中(ゴールまで)の攻防を参照。競輪とは異なり、2着の決まり手は存在しない。競艇#2着の決まり手を参照。
「逃げ」「捲り」「差し」「マーク」の4種類があり、2着までの選手に公式に記録される。レース開催日に競輪場で配布される出走表には、各選手の直近4ヶ月の決まり手回数が掲載され、レース展開を予想する重要な要素となっている。
「逃げ」「先行」「差し」「追い込み」がある。
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決まり手(きまりて)とは、勝敗が決した際の技のことである。
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'''決まり手'''(きまりて)とは、[[勝敗]]が決した際の[[技]]のことである。
== 相撲 ==
'''極まり手'''(きまりて)とも表記される。決まり手には[[技]]と非技([[勇み足]]など自滅的なもの)があり、前者を「決まり手」、後者を「[[勝負]]結果」として区別する場合もある。また、[[髷]](まげ)を引っ張る、[[廻し|まわし]]の前袋が外れる([[不浄負け]])などの[[反則行為|反則]]・[[禁じ手|禁手]]による決着もある。
[[相撲]]の技を言葉で表現しようとする試みは、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]](16世紀後半)に始まるといわれる。『[[信長公記]]』に相撲の記事があり、その中で勝負の結果を決まり手も含めて表現したことが始まりとも伝えられる。この時代には[[土俵]]がなかったので、投げ・掛け・反り・捻りのいわゆる[[四十八手]]が言われていた([[元禄]]年間([[1688年|1688]]~[[1704年]])に四十八手に分類されたとも伝わる)。18世紀に土俵が完成してから、寄り・押し系の決まり手も生まれた。
[[戦前]]までは、各種[[マスメディア|マスコミ]]により決まり手報道はばらばらであったため、[[1955年]]に[[日本相撲協会]]は決まり手68手と非技2つ([[勇み足]]と[[腰砕け|腰くだけ]])を決め、場内放送で公式に流すことにした。また、日本相撲協会の星取表にも[[十両]]以上の決まり手を掲載するようになった。[[1960年]]に出し投げが[[上手出し投げ]]と[[下手出し投げ]]に分かれ、また[[切り返し]]から[[河津掛け]]が分離し、70手となった。[[2000年]]にそれまでの決まり手に技12手、非技3つが加えられ、現在は技は82手、非技は5つある。[[アマチュア相撲]]でも、大相撲にならって決まり手を決定している。
決まり手の決定は決まり手係の[[年寄|親方]]が判断する<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/a2ba8b4d853eb34226102cd74ce602a382b782e9 大相撲の決まり手はどう決まる? 間違えたときは? 決まり手係・大山親方に聞いた]</ref>。最初は[[十両]]以上の取組に限られていたが、現在はすべての取組に対して場内放送が行われる。ただし、[[星取表]]への掲載は十両以上である。
本場所での場内放送のアナウンスでは「ただいまの決まり手は○○。○○で(力士の四股名)の勝ち」(上位5番を除く幕下以下および[[大相撲トーナメント]]などの本場所ではない場合は「○○で(力士の四股名)の勝ち」)となっている。反則・非技の場合は「ただいまの一番は(力士の四股名)に、(「○○をする反則」または非技の内容)があり、(相手力士の四股名)の勝ちであります」とアナウンスされる。
大相撲において、[[寄り切り]]・[[押し出し (相撲)|押し出し]]・[[叩き込み]]・[[上手投げ]]などは頻繁に出現するが、反り技を中心にめったに出現しない決まり手もいくつかあり、さらに[[撞木反り]]のように1955年の決まり手制定以降一度も出たことがないというものも存在する。珍しい決まり手が出たときには大いに報道される。
{{See also|大相撲の決まり手一覧}}
== 腕相撲 ==
崩し、誘い、抑え込み、起し、極て技、出し技など48手ある。
出典<ref>[http://www.udezumou.com/rightpage.waza.htm 腕相撲の技]</ref>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* 平極め
* もみ極め
* 誘い四方大廻し
* 棒引き崩し
* 指ほどき引き崩し
* 盤石の構え
* 直線引きつぶし
* 手首吊りつぶし
* 寄りかぶせ吊り
* 寄り身平手吊り崩し
* 支え吊り込返し
* 寄り身指吊り崩し
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* 巻きほどき極め
* 肩抑さえ
* 押し手抑さえ
* 回転巻き起こし
* 受け流し崩し
* ピストン
* 捨て身煽り崩し
* 棒崩し
* 燕返し
* 引き落とし極め
* 体引きほどき極め
* 突き出し小手返し
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* かつぎ起こし
* 十字固め
* 瞬発手首返し
* 逆手抑さえ
* 巻き起こし
* 引きひねり極め
* 平抑さえ
* ねじりほどき極め
* かかえ伸し極め
* 巻き崩し
* 巻き込み引き崩し
* 指攻め引きつぶし
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* 神田地獄
* 九十度回転極め
* すくい倒し
* 引きつぶし極め
* おいかぶせ引き崩し
* 突き引き起こし
* 一丁半
* 人の字受け
* 逆手突き出し極め
* 引きつぶし吊り極め
* 三所攻め
* 突き出し極め
</div>{{clear|left}}
== プロレス・総合格闘技 ==
フィニッシュとも呼ばれる。一般には[[ピンフォール]]あるいは[[タップアウト]]に持ち込んで勝敗を決した技を指すが、それらの他に「(テクニカル)[[ノックアウト]]」「判定」「反則」もある。最後にピンフォールを決めた際の技の名のみであるから、其処に持ち込むまでに披露された技の名は出ない。投げ技などの名が出ることはない。昭和期のプロレスでは、ほとんどすべての試合の決まり手が「体固め」であった。総合格闘技ではグラウンドパンチで決着した場合「パウンドによるTKO」となる。
{{節スタブ}}
== 競艇 ==
「逃げ」「まくり」「つけ回い(ツケマイ)」「差し」「まくり差し」「抜き」(または「道中競り」)「恵まれ」がある。[[競艇#1周目第1ターンマークの攻防]]、[[競艇#道中(ゴールまで)の攻防]]を参照。競輪とは異なり、2着の決まり手は存在しない。[[競艇#2着の決まり手]]を参照。
{{節スタブ}}
== 競輪 ==
「逃げ」「捲り」「差し」「マーク」の4種類があり、2着までの選手に公式に記録される。レース開催日に競輪場で配布される出走表には、各選手の直近4ヶ月の決まり手回数が掲載され、レース展開を予想する重要な要素となっている。
* 最終周回の1コーナーまでに先行した選手がそのまま2着までにゴールした場合は「逃げ」。
* 最終周回の1コーナーから3コーナーの間で後方から追い上げて先頭に立つか先頭を競い、2着までにゴールした場合は「まくり」。
* 他の選手の直後を走行し、最終周回の3コーナー以降に追い抜いて2着までにゴールした場合は「差し」。
* 「差し」で前の選手を抜けなかった場合は「マーク」。本来は2着の決まり手であるが、1位入線の選手が失格となった場合、繰り上がって1着になった選手に付くこともある。
{{節スタブ}}
== 競馬 ==
{{Main|脚質}}
「逃げ」「先行」「差し」「追い込み」がある。
{{節スタブ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[フィニッシュ・ホールド]]
{{相撲}}
{{相撲の決まり手}}
{{Sports-stub}}
{{DEFAULTSORT:きまりて}}
[[Category:相撲の決まり手|*]]
[[Category:大相撲]]
[[Category:プロレス用語]]
[[Category:総合格闘技]]
[[Category:競艇]]
[[Category:競輪用語]]
[[Category:競馬用語]]
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"Template:相撲",
"Template:Sports-stub"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%BA%E3%81%BE%E3%82%8A%E6%89%8B
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麻生駅
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麻生駅(あさぶえき)は、北海道札幌市北区北40条西5丁目にある札幌市営地下鉄南北線の駅である。駅番号はN01。なお、かつてはほぼ同じ位置に札幌市電鉄北線の麻生町停留場があった。
1面2線の島式ホーム。南側にクロス式転轍機が、北側に片渡り式転轍機と縦に2編成留置できる留置線が2本ある。開業以来、南側の転轍機は事故などで運行が乱れたときを除き、2番ホームで停泊した列車(初電)と深夜の到着便の一部(2本あるうち東側の留置線および1番ホームで停泊する便)にしか使われず、それ以外の時間帯に到着する電車は2番ホームから北側の留置線へ一旦回送された後1番ホームに入線し、真駒内方面行として出発する方式をとっていたが、2012年6月4日より南側の転轍機を利用しホームで折り返しをする方式に変更された。また、2023年4月1日〜7月31日までは設備更新工事のため、再び全列車が2番ホームに到着し、留置線に引き上げてから折り返す。 南北線初の可動式ホーム柵(ホームドア)設置駅である。
ホーム両端に階段・エスカレーターがあり、ホームとコンコースを結ぶエレベーター(通過型)は専用の改札とともにホーム中央に設置された。コンコースのこの付近に地上へのエレベーター(直角型)も設置された。駅出入口は8ヶ所あり、南側の出入口がバスターミナルに接続している。北側の1番出入口は構造物の関係で、一度階段を下りてからまた上る特殊な構造になっている。
当駅の南側に急曲線が存在するため、到着および発車後には車内で連結部に立ち入らないよう注意する放送が流される。
札幌市交通局によると、2020年度の1日平均乗車人員は15,036人である。札幌市営地下鉄では札幌中心部のさっぽろ駅、大通駅に次ぐ第3位で、他線との乗り換えがない単独駅としては第1位である。2001年度までは減少傾向が続いていたが、その後は概ね横ばい傾向にある。2020年は新型コロナウイルスの流行とそれに伴う「緊急事態宣言」による外出の自粛で利用者数が激減したと推定される。
近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通りである。
西5丁目樽川通、丘珠空港通など、5つの通りが集中する。駅付近は商業地で、大型店以外にも業務ビルと中小の商店が密集する。駅の所在地は北40条西5丁目であるが、駅北側の地名は麻生町である。
バスの乗り場は駅の南北端に2つあり、方向別で分けられている。
行先や乗り場は麻生バスターミナルを参照。
|
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"text": "麻生駅(あさぶえき)は、北海道札幌市北区北40条西5丁目にある札幌市営地下鉄南北線の駅である。駅番号はN01。なお、かつてはほぼ同じ位置に札幌市電鉄北線の麻生町停留場があった。",
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"text": "西5丁目樽川通、丘珠空港通など、5つの通りが集中する。駅付近は商業地で、大型店以外にも業務ビルと中小の商店が密集する。駅の所在地は北40条西5丁目であるが、駅北側の地名は麻生町である。",
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"text": "バスの乗り場は駅の南北端に2つあり、方向別で分けられている。",
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麻生駅(あさぶえき)は、北海道札幌市北区北40条西5丁目にある札幌市営地下鉄南北線の駅である。駅番号はN01。なお、かつてはほぼ同じ位置に札幌市電鉄北線の麻生町停留場があった。
|
{{Otheruses|[[札幌市営地下鉄南北線]]の駅|[[名古屋鉄道]][[名鉄揖斐線|揖斐線]]に存在した麻生駅(あそうえき)|麻生駅 (岐阜県)}}
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 麻生駅
|画像 = Asabu-station.JPG
|pxl = 300px
|画像説明= 8番出入口
|地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=14|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail-metro|marker2=rail|coord={{coord|43|6|32.6|N|141|20|17.3|E}}|title=札幌市交通局 麻生駅|coord2={{coord|43|6|47.1|N|141|20|6.9|E}}|title2=JR北海道 新琴似駅|marker-color=008000|marker-color2=2cb431}} 上は乗換の新琴似駅
|よみがな= あさぶ
|ローマ字= Asabu
|前の駅 =
|駅間A =
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|次の駅 = [[北34条駅|北34条]] N02
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|所属事業者= [[札幌市交通局]]
|所属路線= [[札幌市営地下鉄南北線]]
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|座標 = {{coord|43|6|32.6|N|141|20|17.3|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地下駅]]
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|開業年月日= [[1978年]]([[昭和]]53年)3月16日
|廃止年月日=
|乗車人員= 15,036
|統計年度= 2020年
|乗換 = [[新琴似駅]]([[北海道旅客鉄道]][[札沼線]])
|備考 =
}}
'''麻生駅'''(あさぶえき)は、[[北海道]][[札幌市]][[北区 (札幌市)|北区]][[北○条西 (札幌市)|北40条西5丁目]]にある[[札幌市営地下鉄南北線]]の[[鉄道駅|駅]]である。駅番号は'''N01'''。なお、かつてはほぼ同じ位置に[[札幌市電]]鉄北線の'''麻生町停留場'''があった。
== 歴史 ==
* [[1963年]]([[昭和]]38年)[[11月17日]]:市電鉄北線 北27条 - 麻生町間延伸 (非電化) に伴い、停留場開業
* [[1964年]](昭和39年)[[12月1日]]:市電鉄北線 麻生町 - 新琴似駅前間延伸 (非電化)
* [[1967年]](昭和42年)[[11月1日]]:市電鉄北線全線電化
* [[1974年]](昭和49年)[[5月1日]]:市電鉄北線廃止
* [[1978年]](昭和53年)[[3月16日]]:[[札幌市営地下鉄南北線|地下鉄南北線]][[北24条駅]] - '''麻生駅'''間延伸開業に伴い、駅設置
* [[2008年]]([[平成]]20年)[[11月1日]]:JR線不通時に[[新琴似駅]]から当駅を通じての[[振替輸送#JR北海道の場合|代替輸送]]開始
* [[2009年]](平成21年)12月:ICカード専用改札機設置
* [[2012年]](平成24年)
** [[6月4日]]:ホームでの折り返し運転開始<ref name="RJ550"/>
** [[7月10日]]:[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式ホーム柵]]が稼動開始<ref>[https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk6_000022.html ホームドアの設置状況>札幌市南北線]国土交通省 2016年2月12日閲覧</ref>
* [[2015年]](平成27年)[[6月11日]]:北改札口の[[キヨスク]]が[[セブン-イレブン]]に転換、営業開始
== 駅構造 ==
1面2線の島式ホーム。南側にクロス式[[分岐器|転轍機]]が、北側に片渡り式転轍機と縦に2編成留置できる留置線が2本ある。開業以来、南側の転轍機は事故などで運行が乱れたときを除き、2番ホームで停泊した列車(初電)と深夜の到着便の一部(2本あるうち東側の留置線および1番ホームで停泊する便)にしか使われず、それ以外の時間帯に到着する電車は2番ホームから北側の留置線へ一旦回送された後1番ホームに入線し、真駒内方面行として出発する方式をとっていたが、2012年6月4日より南側の転轍機を利用しホームで折り返しをする方式に変更された<ref name="RJ550">{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |date = 2012-8 |volume = 46 |issue = 8 |page = 147 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。また、2023年4月1日〜7月31日までは設備更新工事のため、再び全列車が2番ホームに到着し、留置線に引き上げてから折り返す。
南北線初の可動式ホーム柵([[ホームドア]])設置駅である。
ホーム両端に階段・エスカレーターがあり、ホームとコンコースを結ぶエレベーター(通過型)は専用の改札とともにホーム中央に設置された。コンコースのこの付近に地上へのエレベーター(直角型)も設置された。駅出入口は8ヶ所あり、南側の出入口がバスターミナルに接続している。北側の1番出入口は構造物の関係で、一度階段を下りてからまた上る特殊な構造になっている。<ref name="構内">{{PDFLink|[http://www.city.sapporo.jp/st/subway/ekikonaizu/documents/n01asabu.pdf 麻生駅構内図]}}</ref>
当駅の南側に急曲線が存在するため、到着および発車後には車内で連結部に立ち入らないよう注意する放送が流される。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!ホーム!!路線!!行先
|-
!1・2
|[[ファイル:Subway_SapporoNamboku.svg|15px|■]] 南北線
|[[さっぽろ駅|さっぽろ]]・[[大通駅|大通]]・[[真駒内駅|真駒内]]方面
|}
<gallery widths="250" style="font-size:90%;">
File:Namboku-line Asabu-sta Gate(South).jpg|改札口
ファイル:Asabu station platform 20160207 201111.jpg|ホーム
ファイル:Asabu station name-signboards 20160207 201144.jpg|駅名標
</gallery>
== 利用状況 ==
[[札幌市交通局]]によると、2020年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''15,036人'''である。札幌市営地下鉄では札幌中心部の[[さっぽろ駅]]、[[大通駅]]に次ぐ第3位で、他線との乗り換えがない単独駅としては第1位である。2001年度までは減少傾向が続いていたが、その後は概ね横ばい傾向にある。2020年は[[新型コロナウイルス]]の流行とそれに伴う「[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]」による外出の自粛で利用者数が激減したと推定される。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通りである。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
!rowspan="1"|年度
!style="text-align:center;" colspan="1"|1日平均<br/>乗車人員
!rowspan="1"|出典
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|27,306
|<ref name="1994-">{{PDFlink|[http://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/chikatetsu/documents/p050-051jousyajinin.pdf 地下鉄駅別乗車人員経年変化(1日平均)]}}</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|27,563
|<ref name="1994-"/>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|26,361
|<ref name="1994-"/>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|24,873
|<ref name="1994-"/>
|-
|1998年(平成10年)
|24,025
|<ref name="1994-"/>
|-
|1999年(平成11年)
|23,403
|<ref name="1994-"/>
|-
|2000年(平成12年)
|23,042
|<ref name="1994-"/>
|-
|2001年(平成13年)
|22,520
|<ref name="1994-"/>
|-
|2002年(平成14年)
|22,363
|<ref name="1994-"/>
|-
|2003年(平成15年)
|21,877
|<ref name="2003-">{{PDFlink|[http://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/chikatetsu/documents/p050-051jousyajinin.pdf 地下鉄駅別1日平均乗車人員「年度別駅別人員の推移(一日平均)」]}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|21,831
|<ref name="2003-"/>
|-
|2005年(平成17年)
|22,420
|<ref name="2003-"/>
|-
|2006年(平成18年)
|22,502
|<ref name="2003-"/>
|-
|2007年(平成19年)
|22,330
|<ref name="2003-"/>
|-
|2008年(平成20年)
|22,030
|<ref name="2003-"/>
|-
|2009年(平成21年)
|21,257
|<ref name="2003-"/>
|-
|2010年(平成22年)
|21,263
|<ref name="2003-"/>
|-
|2011年(平成23年)
|21,156
|<ref name="2003-"/>
|-
|2012年(平成24年)
|21,348
|<ref name="2003-"/>
|-
|2013年(平成25年)
|21,389
|<ref name="2003-"/>
|-
|2014年(平成26年)
|21,116
|<ref name="2014-">{{PDFlink|[http://www.city.sapporo.jp/st/bukai/documents/bukai_h28_5_01_hosoku02.pdf 年度別駅別人員の推移(一日平均)]}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|20,658
|<ref name="2014-"/>
|-
|2016年(平成28年)
|20,930
|<ref name="2017-">{{PDFlink|[http://www.city.sapporo.jp/st/keikaku/documents/ichinichiheikinjoushajinin.pdf 年度別駅別人員の推移(一日平均)]}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|20,854
|<ref name="2017-"/>
|-
|2018年(平成30年)
|20,678
|<ref name="2019-">{{PDFlink|[https://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/1_pdfsam_data2019.pdf 年度別駅別人員の推移(一日平均)]}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|20,242
|<ref name="2020-">{{PDFlink|[https://www.city.sapporo.jp/st/keikaku/documents/ichinichiheikinjyousyajinin.pdf 年度別駅別人員の推移(一日平均)]}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|15,036
|<ref name="2021-">{{PDFlink|[https://www.city.sapporo.jp/st/keikaku/documents/nenndobetsuekibetsu.pdf 年度別駅別人員の推移(一日平均)]}}</ref>
|}
== 駅周辺 ==
西5丁目樽川通、丘珠空港通など、5つの通りが集中する。駅付近は商業地で、大型店以外にも業務ビルと中小の商店が密集する。駅の所在地は北40条西5丁目であるが、駅北側の地名は[[麻生町 (札幌市)|麻生町]]である。
* [[北海道旅客鉄道|JR]][[札沼線|札沼線(学園都市線)]] [[新琴似駅]] - 北西約500メートル
* [[国道231号]]
**[[北海道中央バス]]「北41東1」停留所
* [[札幌市新琴似図書館]]
* 北区新琴似まちづくりセンター
* [[北警察署 (北海道)|北警察署]]麻生交番
* 札幌市麻生児童会館
* 麻生総合センター
* 麻生緑地
* [[札幌市麻生球場]]
* 札幌市下水道科学館
* [[札幌北郵便局]]
* 札幌麻生郵便局
* [[北海道労働金庫]]札幌麻生支店
* [[北洋銀行]]麻生支店
* [[北海道銀行]]麻生支店
* [[北陸銀行]]麻生支店
* 札幌市農業協同組合(JAさっぽろ)新琴似支店
* [[イオン札幌麻生店]](麻生駅直結)
* [[東光ストア]]麻生店
* [[ロイヤルホスト]]麻生店
* [[サイゼリヤ]]イオン札幌麻生店
* [[ニトリ]]札幌本社
** ニトリ麻生店(本店)
* [[進学会|北大学力増進会]]札幌北本部、スポーツクラブZip麻生
== バス路線 ==
バスの乗り場は駅の南北端に2つあり、方向別で分けられている。
行先や乗り場は[[麻生バスターミナル]]を参照。
== その他 ==
* 駅スタンプは麻生駅のイニシャルAの中に札幌市下水道科学館が描かれている<ref>[http://www.stsp.or.jp/eki/st/n/index.html#麻生駅 地下鉄駅情報(南北線)] - 札幌市交通事業振興公社、2016年2月12日閲覧</ref>。
== 隣の駅 ==
; 札幌市営地下鉄
: [[ファイル:Subway_SapporoNamboku.svg|15px|■]] 南北線
:: '''麻生駅 (N01)''' - [[北34条駅]] (N02)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Asabu Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[石狩モノレール]]
== 外部リンク ==
* [https://www.city.sapporo.jp/st/subway/ekikonaizu/ekikonaizu.html 札幌市営地下鉄駅構内図]
{{札幌市営地下鉄南北線}}
{{DEFAULTSORT:あさふ}}
[[Category:札幌市北区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 あ|さふ]]
[[Category:札幌市営地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:1978年開業の鉄道駅]]
|
2003-09-15T13:01:47Z
|
2023-09-19T17:37:27Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E9%A7%85
|
16,975 |
札幌市営地下鉄東豊線
|
東豊線(とうほうせん)は、北海道札幌市東区の栄町駅から同市豊平区の福住駅までを結ぶ、札幌市営地下鉄の路線。中央のレールをまたいでゴムタイヤで走行する方式の案内軌条式鉄道である。
車体及び路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「スカイブルー」(水色: )。駅ナンバリングにおける路線記号はH。
札幌市東区は多くの人口を抱えているにもかかわらず、1971年の地下鉄南北線開業後も主たる交通機関は都心部へ直行する路線バスであったが、冬季の積雪による車線減少やバスの高頻度運行が主要道路の慢性的な渋滞を引き起こす要因となっていた。また、地下鉄南北線開業後にバス路線を各駅に短絡させたことで乗客が集中し、南北線では通勤・通学時間帯を中心にピーク時の乗車率が200%を超える激しい混雑を引き起こすなど、南北線の輸送力も限界に近づいていた。
このような状態を解消するため、東区選出の札幌市議会議員が中心となって新路線の建設を推し進め、まず1988年に栄町駅 - 豊水すすきの駅間が開業。初期構想の段階では東区内のルート選定について、当時往来の多かった東区役所から東8丁目篠路通経由で栄町へ向かう経路や苗穂丘珠通を経由する経路などいくつかの試案が取り沙汰されていたが、最終的にこれらを折衷して東15丁目屯田通経由の現行ルートとした結果、開業当初の利用者数は当初見込みを大きく下回り、市民から「政治路線」と揶揄されたこともあった。
終点側は当初、市電山鼻線・山鼻西線の置き換えを見込んでいたことから、山鼻地区への延伸も検討されていたが、市電の廃止に沿線地域が難色を示したことに加え、東区と同様に豊平区でもバスの高頻度運行などの要因で国道36号の慢性的な渋滞が深刻化し、緊急の改善が求められたことから、月寒・北野方面を目指すルートに決定。しかし、当時は北野周辺の人口の伸び具合が予想より下回っていたことから、需要、投資効果、経営上の適正などを考慮して、1987年(昭和62年)9月1日に終点側の延伸計画を北野より3駅手前の福住までに短縮。1994年に豊水すすきの駅 - 福住駅間が延伸開業した。
東豊線沿線には車両基地が無いため東豊線の車両は東西線二十四軒駅 - 西28丁目駅間にある西車両基地に所属している。このため、東西線と東豊線は専用の連絡線で結ばれている。
西車両基地を出庫した車両は東西線内を回送運転し、西11丁目駅から連絡線を通って東豊線さっぽろ駅に出る。東豊線内では、出庫した車両はさっぽろ駅から客扱いをする。そのため1日に数便「さっぽろ駅始発→栄町駅行」という列車がある。
入庫時は前記と逆の順路となるが、入庫車両は栄町駅から客扱いを行わず回送車となる。開業当初は営業運転としており「栄町駅始発→さっぽろ駅行」の列車が存在していたが、中間駅のさっぽろ駅で客扱いを終了すると、車内の残留客や遺失物確認等のため本線上で長時間停車を余儀なくされる上、さっぽろ駅から連絡線に入る場合も栄町方面への本線と平面交差しなければならないなど、ダイヤが乱れる要因が多いため、数年で消滅した。
また、本線上の事故や車両故障などの要因で西車両基地まで回送できなくなった場合に備え、栄町駅の北側にピット線(栄町検車線)が設けられている。ここは当初東豊線の車両基地とする計画であったが、用地取得の問題などから断念され、規模を縮小したものである。
通常は西車両基地を利用するが、大規模に渡る改修や点検、新車両の搬入や廃車回送などで東西線ひばりが丘駅付近にある東車両基地を利用する場合もある。
数値は一部を除いて2014年度、札幌市交通局調べ。
利用客数は増加傾向にあるものの、市営地下鉄3路線で最も少ない。
当路線の収支は以下の通り。収入には営業外収益、支出には人件費、経費、減価償却費、営業外費用を含む。
日中7 - 8分間隔、朝ラッシュ時4分間隔、夕ラッシュ時5 - 6分間隔で運転されている。
全線通しの運転がほとんどだが、上述の通り「さっぽろ駅発→栄町駅行」が一日数便存在する。
また、主に札幌ドームでJリーグ(北海道コンサドーレ札幌のホームゲーム等)やコンサートなどの大規模イベントが開催される際は大量の利用が予想されるため、臨時列車を随時運行することがある。運行間隔は平日のラッシュ時とほぼ同様になる。
臨時増発する際は福住駅や栄町駅の留置線を利用し、車両を待機させている(通常のラッシュ時も同様)。
当初、大通駅とさっぽろ駅における南北線と東豊線の乗り換えは、いずれも改札内乗り換えの方法を採用していたが、2017年(平成29年)9月1日からさっぽろ駅での乗り換え方法が改札外乗り換えに変更された。これに伴い、両者の乗り換えは最短経路の場合を除いて不可能となった(乗車区間が重複することから、折り返しとなる駅から別途料金が発生することになる)。具体的には、南北線(麻生方面)←→東豊線(栄町方面)はさっぽろ駅、南北線(真駒内方面)←→東豊線(福住方面)は大通駅でしか乗り換えができない。なお、一日乗車券や全線定期券を利用の場合は、この限りではない。
全駅が北海道札幌市内に所在。全線地下。
※北13条東駅 - さっぽろ駅の間で札幌市北区を通るが、駅はない。
開業当初から、全駅にエレベーターやエスカレーター、身障者(車椅子)用トイレを設置している。また、札幌市営地下鉄では初めてすべての駅ホーム・切符売場・改札口にLED式案内表示器を導入した。
LED式案内表示器については、初代表示器は3色LEDを使用した1段表示で、改札口付近・ホーム共に電車が来ない間は注意喚起やお知らせ、イベントなどの案内が緑色で、電車が前々駅を発車してから前駅発車、到着・発車までの状況をオレンジ色で、それぞれ文字のみで表示させるシステムである。当時未設置の南北線は後に表示器部分のみが導入され、東西線はホームにのみ設置していたフラップ式案内装置と切り替える形で東豊線のものと同じ形の表示器が導入された。ちなみに大通ホーム以外の東豊線全駅では16×16ドット式LEDが採用されており、やや癖のある明朝体で表示されていた。対して大通ホーム、南北線・東西線は24×24ドット式LEDが採用されており、24x24ドットならではの鮮やかな明朝体を表示させることができる。
2016年1月16日にはフルカラーLEDを使用した2段表示の2代目表示器に切り替わった。これにより従来は始発駅にしかなかった発車時刻の表示のみならず次発の電車の発車時刻表示も行われ、英語での案内の追加、列車の到着状況を分かりやすく表示(前々駅、前駅、当駅の表示に、列車のイラストで現在地を示す)できるようになった。また、遅延表示などの情報も追加されている。ちなみに初代表示機にあった注意喚起やお知らせ、イベントなどの案内については、2016年度はシステム切替の関係により表示されず、2017年度から下段に白地のスクロールで表示されるようになった。改札口付近では発車時刻表示の切り替え時に途中終了する以外は常時表示され、ホームでは初代表示機同様に電車が来ない間だけ表示される。
豊水すすきの駅 - 福住駅間は建設費削減のため、全駅が島式ホームで統一されたほか、ホーム長も6両分しか整備されていない(将来的に8両編成が停車できるよう準備工事はなされている)。先行開業した栄町駅 - 豊水すすきの駅間は当初から8両編成対応のホーム長となっているが、開業から2021年現在までの東豊線電車はすべて4両編成のため、ホームの約半分が使用されておらず転落防止柵が設置されている。
札幌市営地下鉄では、乗客の列車との接触・線路への転落を防ぐとともに、将来のワンマン運転に対応させるため、東京・大阪・横浜・福岡などの地下鉄で既に採用されている可動式ホーム柵(ホームドア)を各線に設置することを決定した。
東豊線では2016年8月13日の栄町駅での稼働開始以降、福住側から順に各駅で順次設置工事が行われ、設置が完了した駅から順次稼働開始。そして2017年3月24日稼働開始の新道東駅を以って東豊線全駅への設置が完了し、併せて4月1日からワンマン運転が開始された。ホーム柵は同市営地下鉄3路線の中で唯一ガラスが付いている。
開扉時はチャイムが、閉扉時にはアラームが鳴るが、その時にセンサーが障害物を感知した際には警告ブザーが鳴ると共にランプが点滅する。ホーム柵は日立製ではあるが、チャイムとアラーム、ブザーは三菱電機製エレベーターの『気配りアナウンス』用チャイム、開閉報知アラーム(強制戸閉、開延長終了、戸開中センサー感知)、警告用ブザー(満員、戸開前センサー長時間感知)を採用。これは東西線と南北線のホーム柵で使用されているチャイムとアラーム、ブザーにそれぞれ起因し、東西線と南北線では三菱製のホーム柵が導入されていることから音源の統一を図る必要性が出たためである。
東豊線計画の元になったのは、1974年3月に提出された報告書『最適交通体系の選択と投資順位の研究』で提案された四号線(元町 - 月寒間)である。
札幌市交通局が発案した「地下鉄50キロ計画」では、現在豊平区側の終点である福住付近から同じ豊平区の「共進会場駅」と「月寒東駅」、そして隣接している清田区の「北野駅」(当初は北野通と清田通の交点付近)まで延伸する計画が提示された。福住延伸開業時に設置された東豊線各駅ホームの壁にある路線案内図では、福住駅より先に2駅程度の空白が設けられているものの、未だ実現には至っていない。なお福住駅の設置が、当初の月寒中央駅側よりも清田寄りの位置になってしまったため、駅間距離の近い「共進会場駅」は不可能に近くなった一方、終端側の引込線は北野通に向け北にカーブしかけた所で終わっており、福住駅から国道36号線をそのまま南下するにも大規模な再工事を要するか、あるいは不自然なカーブで国道の真下に戻ることになる。国道36号線の南進による「札幌ドーム駅」(後述)・「東月寒駅」・「北野駅」(上記予定地とは異なる)を経て「清田駅」(北野通と厚別滝野公園通の交点、清田区役所付近)まで延伸する案も2001年に答申されたものの、実際の延長路線のルートや計画は未定であり、開業の見通しはまったく立っていない。なお札幌市は、11万人程度である清田区の人口が将来、増加し20万人を超えた場合の開業を検討している。また2009年時点では公共交通機関の利用者が低迷している中で、新たに膨大な投資を必要とする地下鉄についてはなかなか厳しい判断をせざるを得ないとの考え方が示されている。
2011年の札幌市総合交通計画策定委員会第5回で提示された「清田地区の公共交通機能向上に関する検討」においては2001年の答申案のルート4.2kmの建設で2030年の利用人員を1日43,900人・総事業費約835億円の概算で30年間以内の黒字化は困難と判断しており、2012年の総合交通計画で延伸計画は盛り込まれず、清田区の人口減少もあり2020年の改訂版では「事業採算性などを勘案した慎重な検討が必要」と追記される程度にとどまっている。
このほか札幌商工会議所の要望案として2005年に札幌競馬場を札幌ドームの南側80-100ヘクタールの敷地に拡張移転させドーム化し、合わせて東豊線を福住駅から1.2km延伸し「ドーム・札幌競馬場駅」を設ける案を打ち出し地下鉄延伸工事費に300億円を見込んでいたが、日本中央競馬会 (JRA) は移転について慎重な姿勢を示し、現在地で引き続き開催・場外発売を行っている。
その後、2012年には北海道新幹線の札幌駅延伸を見据えて札幌商工会議所が札幌市などに提言した「札幌広域圏の総合交通体系のグランドデザイン〜北海道新幹線開業時期の前倒しへ〜」の中で、丘珠空港の滑走路をジェット旅客機も発着できるように延長した上で東豊線を丘珠空港まで延伸させ空港アクセス線として用いる案が盛り込まれた。丘珠空港の滑走路延伸が1,800m案でまとまり2030年代の実現に向け動き始めたことから、今後東豊線の延伸についても何らかの動きが出る可能性がある。
|
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"text": "東豊線(とうほうせん)は、北海道札幌市東区の栄町駅から同市豊平区の福住駅までを結ぶ、札幌市営地下鉄の路線。中央のレールをまたいでゴムタイヤで走行する方式の案内軌条式鉄道である。",
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"text": "車体及び路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「スカイブルー」(水色: )。駅ナンバリングにおける路線記号はH。",
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"text": "札幌市東区は多くの人口を抱えているにもかかわらず、1971年の地下鉄南北線開業後も主たる交通機関は都心部へ直行する路線バスであったが、冬季の積雪による車線減少やバスの高頻度運行が主要道路の慢性的な渋滞を引き起こす要因となっていた。また、地下鉄南北線開業後にバス路線を各駅に短絡させたことで乗客が集中し、南北線では通勤・通学時間帯を中心にピーク時の乗車率が200%を超える激しい混雑を引き起こすなど、南北線の輸送力も限界に近づいていた。",
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"text": "このような状態を解消するため、東区選出の札幌市議会議員が中心となって新路線の建設を推し進め、まず1988年に栄町駅 - 豊水すすきの駅間が開業。初期構想の段階では東区内のルート選定について、当時往来の多かった東区役所から東8丁目篠路通経由で栄町へ向かう経路や苗穂丘珠通を経由する経路などいくつかの試案が取り沙汰されていたが、最終的にこれらを折衷して東15丁目屯田通経由の現行ルートとした結果、開業当初の利用者数は当初見込みを大きく下回り、市民から「政治路線」と揶揄されたこともあった。",
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"text": "終点側は当初、市電山鼻線・山鼻西線の置き換えを見込んでいたことから、山鼻地区への延伸も検討されていたが、市電の廃止に沿線地域が難色を示したことに加え、東区と同様に豊平区でもバスの高頻度運行などの要因で国道36号の慢性的な渋滞が深刻化し、緊急の改善が求められたことから、月寒・北野方面を目指すルートに決定。しかし、当時は北野周辺の人口の伸び具合が予想より下回っていたことから、需要、投資効果、経営上の適正などを考慮して、1987年(昭和62年)9月1日に終点側の延伸計画を北野より3駅手前の福住までに短縮。1994年に豊水すすきの駅 - 福住駅間が延伸開業した。",
"title": "歴史"
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"text": "東豊線沿線には車両基地が無いため東豊線の車両は東西線二十四軒駅 - 西28丁目駅間にある西車両基地に所属している。このため、東西線と東豊線は専用の連絡線で結ばれている。",
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"text": "西車両基地を出庫した車両は東西線内を回送運転し、西11丁目駅から連絡線を通って東豊線さっぽろ駅に出る。東豊線内では、出庫した車両はさっぽろ駅から客扱いをする。そのため1日に数便「さっぽろ駅始発→栄町駅行」という列車がある。",
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"text": "入庫時は前記と逆の順路となるが、入庫車両は栄町駅から客扱いを行わず回送車となる。開業当初は営業運転としており「栄町駅始発→さっぽろ駅行」の列車が存在していたが、中間駅のさっぽろ駅で客扱いを終了すると、車内の残留客や遺失物確認等のため本線上で長時間停車を余儀なくされる上、さっぽろ駅から連絡線に入る場合も栄町方面への本線と平面交差しなければならないなど、ダイヤが乱れる要因が多いため、数年で消滅した。",
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"text": "また、本線上の事故や車両故障などの要因で西車両基地まで回送できなくなった場合に備え、栄町駅の北側にピット線(栄町検車線)が設けられている。ここは当初東豊線の車両基地とする計画であったが、用地取得の問題などから断念され、規模を縮小したものである。",
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"text": "通常は西車両基地を利用するが、大規模に渡る改修や点検、新車両の搬入や廃車回送などで東西線ひばりが丘駅付近にある東車両基地を利用する場合もある。",
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"text": "数値は一部を除いて2014年度、札幌市交通局調べ。",
"title": "利用状況"
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"text": "利用客数は増加傾向にあるものの、市営地下鉄3路線で最も少ない。",
"title": "利用状況"
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"text": "当路線の収支は以下の通り。収入には営業外収益、支出には人件費、経費、減価償却費、営業外費用を含む。",
"title": "収支"
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"text": "日中7 - 8分間隔、朝ラッシュ時4分間隔、夕ラッシュ時5 - 6分間隔で運転されている。",
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"text": "全線通しの運転がほとんどだが、上述の通り「さっぽろ駅発→栄町駅行」が一日数便存在する。",
"title": "運行形態"
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"text": "また、主に札幌ドームでJリーグ(北海道コンサドーレ札幌のホームゲーム等)やコンサートなどの大規模イベントが開催される際は大量の利用が予想されるため、臨時列車を随時運行することがある。運行間隔は平日のラッシュ時とほぼ同様になる。",
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"text": "臨時増発する際は福住駅や栄町駅の留置線を利用し、車両を待機させている(通常のラッシュ時も同様)。",
"title": "運行形態"
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"text": "当初、大通駅とさっぽろ駅における南北線と東豊線の乗り換えは、いずれも改札内乗り換えの方法を採用していたが、2017年(平成29年)9月1日からさっぽろ駅での乗り換え方法が改札外乗り換えに変更された。これに伴い、両者の乗り換えは最短経路の場合を除いて不可能となった(乗車区間が重複することから、折り返しとなる駅から別途料金が発生することになる)。具体的には、南北線(麻生方面)←→東豊線(栄町方面)はさっぽろ駅、南北線(真駒内方面)←→東豊線(福住方面)は大通駅でしか乗り換えができない。なお、一日乗車券や全線定期券を利用の場合は、この限りではない。",
"title": "南北線との乗り換えについて"
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"text": "全駅が北海道札幌市内に所在。全線地下。",
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"text": "※北13条東駅 - さっぽろ駅の間で札幌市北区を通るが、駅はない。",
"title": "駅一覧"
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"text": "開業当初から、全駅にエレベーターやエスカレーター、身障者(車椅子)用トイレを設置している。また、札幌市営地下鉄では初めてすべての駅ホーム・切符売場・改札口にLED式案内表示器を導入した。",
"title": "駅の設備"
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"text": "LED式案内表示器については、初代表示器は3色LEDを使用した1段表示で、改札口付近・ホーム共に電車が来ない間は注意喚起やお知らせ、イベントなどの案内が緑色で、電車が前々駅を発車してから前駅発車、到着・発車までの状況をオレンジ色で、それぞれ文字のみで表示させるシステムである。当時未設置の南北線は後に表示器部分のみが導入され、東西線はホームにのみ設置していたフラップ式案内装置と切り替える形で東豊線のものと同じ形の表示器が導入された。ちなみに大通ホーム以外の東豊線全駅では16×16ドット式LEDが採用されており、やや癖のある明朝体で表示されていた。対して大通ホーム、南北線・東西線は24×24ドット式LEDが採用されており、24x24ドットならではの鮮やかな明朝体を表示させることができる。",
"title": "駅の設備"
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"text": "2016年1月16日にはフルカラーLEDを使用した2段表示の2代目表示器に切り替わった。これにより従来は始発駅にしかなかった発車時刻の表示のみならず次発の電車の発車時刻表示も行われ、英語での案内の追加、列車の到着状況を分かりやすく表示(前々駅、前駅、当駅の表示に、列車のイラストで現在地を示す)できるようになった。また、遅延表示などの情報も追加されている。ちなみに初代表示機にあった注意喚起やお知らせ、イベントなどの案内については、2016年度はシステム切替の関係により表示されず、2017年度から下段に白地のスクロールで表示されるようになった。改札口付近では発車時刻表示の切り替え時に途中終了する以外は常時表示され、ホームでは初代表示機同様に電車が来ない間だけ表示される。",
"title": "駅の設備"
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"text": "豊水すすきの駅 - 福住駅間は建設費削減のため、全駅が島式ホームで統一されたほか、ホーム長も6両分しか整備されていない(将来的に8両編成が停車できるよう準備工事はなされている)。先行開業した栄町駅 - 豊水すすきの駅間は当初から8両編成対応のホーム長となっているが、開業から2021年現在までの東豊線電車はすべて4両編成のため、ホームの約半分が使用されておらず転落防止柵が設置されている。",
"title": "駅の設備"
},
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"text": "札幌市営地下鉄では、乗客の列車との接触・線路への転落を防ぐとともに、将来のワンマン運転に対応させるため、東京・大阪・横浜・福岡などの地下鉄で既に採用されている可動式ホーム柵(ホームドア)を各線に設置することを決定した。",
"title": "可動式ホーム柵"
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"text": "東豊線では2016年8月13日の栄町駅での稼働開始以降、福住側から順に各駅で順次設置工事が行われ、設置が完了した駅から順次稼働開始。そして2017年3月24日稼働開始の新道東駅を以って東豊線全駅への設置が完了し、併せて4月1日からワンマン運転が開始された。ホーム柵は同市営地下鉄3路線の中で唯一ガラスが付いている。",
"title": "可動式ホーム柵"
},
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"text": "開扉時はチャイムが、閉扉時にはアラームが鳴るが、その時にセンサーが障害物を感知した際には警告ブザーが鳴ると共にランプが点滅する。ホーム柵は日立製ではあるが、チャイムとアラーム、ブザーは三菱電機製エレベーターの『気配りアナウンス』用チャイム、開閉報知アラーム(強制戸閉、開延長終了、戸開中センサー感知)、警告用ブザー(満員、戸開前センサー長時間感知)を採用。これは東西線と南北線のホーム柵で使用されているチャイムとアラーム、ブザーにそれぞれ起因し、東西線と南北線では三菱製のホーム柵が導入されていることから音源の統一を図る必要性が出たためである。",
"title": "可動式ホーム柵"
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"text": "東豊線計画の元になったのは、1974年3月に提出された報告書『最適交通体系の選択と投資順位の研究』で提案された四号線(元町 - 月寒間)である。",
"title": "計画区間と延伸構想"
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"text": "札幌市交通局が発案した「地下鉄50キロ計画」では、現在豊平区側の終点である福住付近から同じ豊平区の「共進会場駅」と「月寒東駅」、そして隣接している清田区の「北野駅」(当初は北野通と清田通の交点付近)まで延伸する計画が提示された。福住延伸開業時に設置された東豊線各駅ホームの壁にある路線案内図では、福住駅より先に2駅程度の空白が設けられているものの、未だ実現には至っていない。なお福住駅の設置が、当初の月寒中央駅側よりも清田寄りの位置になってしまったため、駅間距離の近い「共進会場駅」は不可能に近くなった一方、終端側の引込線は北野通に向け北にカーブしかけた所で終わっており、福住駅から国道36号線をそのまま南下するにも大規模な再工事を要するか、あるいは不自然なカーブで国道の真下に戻ることになる。国道36号線の南進による「札幌ドーム駅」(後述)・「東月寒駅」・「北野駅」(上記予定地とは異なる)を経て「清田駅」(北野通と厚別滝野公園通の交点、清田区役所付近)まで延伸する案も2001年に答申されたものの、実際の延長路線のルートや計画は未定であり、開業の見通しはまったく立っていない。なお札幌市は、11万人程度である清田区の人口が将来、増加し20万人を超えた場合の開業を検討している。また2009年時点では公共交通機関の利用者が低迷している中で、新たに膨大な投資を必要とする地下鉄についてはなかなか厳しい判断をせざるを得ないとの考え方が示されている。",
"title": "計画区間と延伸構想"
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"text": "2011年の札幌市総合交通計画策定委員会第5回で提示された「清田地区の公共交通機能向上に関する検討」においては2001年の答申案のルート4.2kmの建設で2030年の利用人員を1日43,900人・総事業費約835億円の概算で30年間以内の黒字化は困難と判断しており、2012年の総合交通計画で延伸計画は盛り込まれず、清田区の人口減少もあり2020年の改訂版では「事業採算性などを勘案した慎重な検討が必要」と追記される程度にとどまっている。",
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"text": "このほか札幌商工会議所の要望案として2005年に札幌競馬場を札幌ドームの南側80-100ヘクタールの敷地に拡張移転させドーム化し、合わせて東豊線を福住駅から1.2km延伸し「ドーム・札幌競馬場駅」を設ける案を打ち出し地下鉄延伸工事費に300億円を見込んでいたが、日本中央競馬会 (JRA) は移転について慎重な姿勢を示し、現在地で引き続き開催・場外発売を行っている。",
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"text": "その後、2012年には北海道新幹線の札幌駅延伸を見据えて札幌商工会議所が札幌市などに提言した「札幌広域圏の総合交通体系のグランドデザイン〜北海道新幹線開業時期の前倒しへ〜」の中で、丘珠空港の滑走路をジェット旅客機も発着できるように延長した上で東豊線を丘珠空港まで延伸させ空港アクセス線として用いる案が盛り込まれた。丘珠空港の滑走路延伸が1,800m案でまとまり2030年代の実現に向け動き始めたことから、今後東豊線の延伸についても何らかの動きが出る可能性がある。",
"title": "計画区間と延伸構想"
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東豊線(とうほうせん)は、北海道札幌市東区の栄町駅から同市豊平区の福住駅までを結ぶ、札幌市営地下鉄の路線。中央のレールをまたいでゴムタイヤで走行する方式の案内軌条式鉄道である。 車体及び路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「スカイブルー」。駅ナンバリングにおける路線記号はH。
|
{{Redirect|東豊線|長野県長野市にある都市計画道路|東豊線 (長野市)}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:ST Logo.svg|26px|札幌市営地下鉄|link=札幌市営地下鉄]] 東豊線
|路線色 = #0080ff
|ロゴ=[[File:Subway_SapporoToho.svg|48px|■]]
|画像 = Sapporo 9000 9001 Odori 20150521.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 東豊線用の9000形電車<br />(2015年5月 [[大通駅]])
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[北海道]][[札幌市]]
|種類 = [[地下鉄]]・[[案内軌条式鉄道]]
|路線網 = [[札幌市営地下鉄]]
|起点 = [[栄町駅 (札幌市)|栄町駅]]
|終点 = [[福住駅]]
|駅数 = 14駅
|輸送実績 =
|1日利用者数 =
|路線記号 = H
|路線色3 = [[File:Subway SapporoToho.svg|15px]] スカイブルー
|開業 = [[1988年]][[12月2日]]
|最終延伸 = [[1994年]][[10月14日]]
|所有者 = [[札幌市交通局]]
|運営者 = 札幌市交通局
|車両基地 = [[#車両基地|西車両基地]]
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離 = 13.6 [[キロメートル|km]]
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最大勾配 =
|最小曲線半径 =
|閉塞方式 = [[車内信号]]式
|保安装置 = [[自動列車制御装置|ATC]]、[[自動列車運転装置|ATO]]
|最高速度 = 70 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="gaiyou">{{Cite web|和書|url=https://www.city.sapporo.jp/st/subway/gaiyo/gaiyo.html|title=地下鉄(高速電車)の概要|publisher=札幌市|accessdate=2020-5-1}}</ref>
|路線図 =
|路線図名 =
|路線図表示 = <!--collapsed-->
}}
'''東豊線'''(とうほうせん)は、[[北海道]][[札幌市]][[東区 (札幌市)|東区]]の[[栄町駅 (札幌市)|栄町駅]]から同市[[豊平区]]の[[福住駅]]までを結ぶ、[[札幌市営地下鉄]]の路線。中央のレールをまたいで[[ゴムタイヤ式地下鉄|ゴムタイヤで走行する方式]]の[[案内軌条式鉄道]]である。
車体及び路線図や乗り換え案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は「スカイブルー」(水色:[[File:Subway_SapporoToho.svg|15px|■]] )。[[駅ナンバリング]]における路線記号は'''H'''<ref group="注">to'''H'''o。Tが[[札幌市営地下鉄東西線|東西線(Tozai)]]で使われたため。</ref>。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):13.6 km
* 駅数:14駅(起終点駅含む)
* [[複線]]区間:全線
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]1,500 V・[[架空電車線方式]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:[[車内信号]]式 ([[自動列車制御装置|ATC]])
* 最高速度:70 km/h<ref name="gaiyou" />
== 歴史 ==
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#0080ff}}
{{BS-table}}
{{BS4||||utKDSTa|||栄町検車線|}}
{{BS4||||utBHF|0.0|H01 [[栄町駅 (札幌市)|栄町駅]]||}}
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{{BS4||utSTR+r||utKRZW|||[[創成川]]/←[[札幌市営地下鉄南北線|南北線]]↓|}}
{{BS4||utSTR||utSTR|||←[[北海道旅客鉄道|JR北]]:[[函館本線]]→|}}
{{BS4||umtKRZh|hBHFq|umtKRZh|||[[札幌駅]]|}}
{{BS4||utINT|O2=HUBaq|HUBq|utINT|O4=HUBeq|6.7|H07 [[さっぽろ駅]]||}}
{{BS4|utSTR+l|utKRZt|utSTRq|utABZgr|||←連絡線/↑←N06 南北線|}}
{{BS6|utSTRq|utABZqr|utKRZt|utBHFq|O4=HUBa|utKRZt||||T09 ←[[札幌市営地下鉄東西線|東西線]]→|}}
{{BS6|uSTRq|uKHSTeq|O2=uKHSTa|P2=HUBaq|utBHF|O3=HUBq|HUBtg|utBHF|O5=HUBeq||7.3|H08 [[大通駅]]|←N07 南北線|}}
{{BS6||uSTR|utSTR||utSTR||||↑←[[札幌市電|市電]][[西4丁目停留場]]|}}
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{{BS6|uSTRq|O1=HUB-L|uKHSTeq|O2=uKHSTe|P2=HUBaq|utBHF|O3=HUBeq|P3=HUB-R||utSTR||||←N08 南北線すすきの駅|}}
{{BS6|HUB-L||utSTR|O3=HUBlf-R|HUB-Rq|utSTR|O5=HUB-Rq|HUBlg-R|||↑←市電[[すすきの駅|すすきの停留場]]|}}
{{BS6|HUB-L||utSTR||utBHF|HUB-R|8.1|H09 [[豊水すすきの駅]]||}}
{{BS6|HUBlf-L|HUB-Lq|utSTRr|O3=HUB-Lq|HUB-Lq|utKRZW|O5=HUB-Lq|HUBrf-R|||[[創成川|鴨々川]]/←南北線↑|}}
{{BS4||||utKRZW|||[[豊平川]]|}}
{{BS4||||utBHF|9.5|H10 [[学園前駅 (北海道)|学園前駅]]||}}
{{BS4||||utBHF|10.4|H11 [[豊平公園駅]]||}}
{{BS4||||utBHF|11.4|H12 [[美園駅]]||}}
{{BS4||||utKRZW|||[[望月寒川]]|}}
{{BS4||||utBHF|12.6|H13 [[月寒中央駅]]||}}
{{BS4||||utKRZW|||[[月寒川]]|}}
{{BS4||||utKBHFe|13.6|H14 [[福住駅]]||}}
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札幌市東区は多くの人口を抱えているにもかかわらず、1971年の[[札幌市営地下鉄南北線|地下鉄南北線]]開業後も主たる交通機関は都心部へ直行する[[路線バス]]であったが、冬季の[[積雪]]による車線減少やバスの高頻度運行が主要道路の慢性的な[[渋滞]]を引き起こす要因となっていた。また、地下鉄南北線開業後にバス路線を各駅に短絡させたことで乗客が集中し、南北線では[[ラッシュ時|通勤・通学時間帯]]を中心にピーク時の[[乗車率]]が200%を超える激しい混雑を引き起こすなど、南北線の輸送力も限界に近づいていた。
このような状態を解消するため、東区選出の札幌市議会議員が中心となって新路線の建設を推し進め、まず[[1988年]]に[[栄町駅 (札幌市)|栄町駅]] - [[豊水すすきの駅]]間が開業。初期構想の段階では東区内のルート選定について、当時往来の多かった東区役所から東8丁目篠路通経由で栄町へ向かう経路や苗穂丘珠通を経由する経路などいくつかの試案が取り沙汰されていたが、最終的にこれらを折衷して東15丁目屯田通経由の現行ルートとした結果、開業当初の利用者数は当初見込みを大きく下回り、市民から「[[鉄道と政治|政治路線]]」と揶揄されたこともあった。
終点側は当初、[[札幌市電|市電山鼻線・山鼻西線]]の置き換えを見込んでいたことから、[[山鼻]]地区への延伸も検討されていたが、市電の廃止に沿線地域が難色を示したことに加え、東区と同様に豊平区でもバスの高頻度運行などの要因で[[国道36号]]の慢性的な渋滞が深刻化し、緊急の改善が求められたことから、[[月寒]]・[[北野 (札幌市)|北野]]方面を目指すルートに決定。しかし、当時は北野周辺の人口の伸び具合が予想より下回っていたことから、需要、投資効果、経営上の適正などを考慮して、[[1987年]](昭和62年)[[9月1日]]に終点側の延伸計画を北野より3駅手前の福住までに短縮<ref>[[北海道新聞]] 1987年9月1日 朝刊21面</ref>。[[1994年]]に豊水すすきの駅 - [[福住駅]]間が延伸開業した。
=== 年表 ===
* [[1971年]]([[昭和]]46年):札幌市長期総合計画にて地下鉄3号線(第二南北線)として[[元町 (札幌市)|元町]] - [[山鼻]]間11 kmの計画が盛り込まれる<ref name="tohokensetsu1"> 札幌市高速鉄道 東豊線建設史 - 札幌市交通局(1989年)</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)[[8月9日]]:[[札幌市議会]]にて3号線建設を可決<ref name="tohokensetsu1"/>。
* [[1982年]](昭和57年)[[1月30日]]:栄町駅 - すすきの駅(仮称)間の地方鉄道敷設免許を取得<ref name="tohokensetsu1"/>。
* [[1983年]](昭和58年)[[7月6日]]:栄町駅 - すすきの駅(仮称)間着工<ref name="tohokensetsu1"/>。
* [[1988年]](昭和63年)
**[[9月28日]]:豊水すすきの駅 - 福住駅間の鉄道事業免許を取得。
**[[12月2日]]:[[栄町駅 (札幌市)|栄町駅]] - [[豊水すすきの駅]]間(8.1 km)が開業<ref name="hokkaido-np-1988-12-1">“札幌の地下鉄東豊線が開通”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1988年12月1日)</ref>。[[札幌市交通局7000形電車|7000形]]車両(15編成60両。第1編成が1次車、第2編成 - 第15編成は2次車)が営業運転開始。日本において、[[昭和]]最後の鉄道路線の新規開業であった。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[1月8日]]:豊水すすきの駅 - 福住駅間着工。
* [[1994年]](平成6年)[[10月14日]]:豊水すすきの駅 - [[福住駅]]間(5.5 km)が延伸開業<ref name="hokkaido-np-1994-10-13">“都心直結 期待を乗せて 東豊線延長 福住駅で発車式”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1994年10月13日)</ref>。これに伴い、新7000形車両(7000形第3次車両)5編成20両を増備。
* [[2000年]](平成12年)4月:大通駅、さっぽろ駅を除く全12駅の管理業務を一般財団法人[[札幌市交通事業振興公社]]に委託<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=公社概要|publisher=一般財団法人 札幌市交通事業振興公社|url=https://www.stsp.or.jp/about/overview/|accessdate=2021-06-25}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)4月:さっぽろ駅の管理業務を一般財団法人札幌市交通事業振興公社に委託<ref name=":0" />。
* [[2006年]](平成18年)4月:大通駅の管理業務を一般財団法人札幌市交通事業振興公社に委託<ref name=":0" />。
* [[2007年]](平成19年)
** [[1月13日]]:[[車内放送]]が自動放送([[英語]]放送対応)となる。
** 1月中旬:車内放送で広告放送を開始。
* [[2009年]](平成21年)[[1月30日]]:ICカード「[[SAPICA]]」を導入。
* [[2012年]](平成24年)
** [[3月19日]]:[[北海道日本ハムファイターズ]]のロゴマークや選手がデザインされた[[ラッピング車両]]「ファイターズ号」(7000形第16編成)運転開始<ref>{{Cite web|和書|date=2012-09-25 |url=http://www.city.sapporo.jp/st/event/2347.html |title=東豊線ラッピング車両「ファイターズ号」を運行します。 |publisher=札幌市交通局 |accessdate=2016-05-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121025154804/http://www.city.sapporo.jp/st/event/2347.html |archivedate=2012-10-25 |deadlinkdate=2017-10}}</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20120319-919782.html 「ファイターズ号」東豊線で運行] - 日刊スポーツ、2012年3月19日</ref>。2015年12月まで。
** [[5月1日]]:[[docomo Wi-Fi]]のサービス提供が開始される<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1205/01/news058.html docomo Wi-Fiが札幌市営地下鉄東豊線、横浜市営地下鉄グリーンラインなどでサービス開始] - ITmedia Mobile、2012年5月1日</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[5月8日]]:[[札幌市交通局9000形電車|9000形]]車両運行開始<ref name="response20150508" />。
* [[2016年]](平成28年)
** [[1月16日]]:駅ホームで2代目表示器こと、フルカラー2段表示LED式発車標の運用開始。
** [[3月6日]]:すべての駅において駅構内の自動放送を更新。福住行は女声、栄町行は男声に変更。アナウンス内容に大きな変更はない。
** [[3月17日]]:2代目「ファイターズ号」運転開始(9000形第2編成)<ref>{{Cite web|和書|date=2016-03-15 |url=http://www.city.sapporo.jp/st/event/2439.html |title=地下鉄東豊線ラッピング車両「ファイターズ号」のリニューアル&運行開始について |publisher=札幌市交通局 |accessdate=2016-05-19}}</ref>。
** [[6月25日]]:7000形車両が営業運転を終了。
** [[7月18日]]:[[自動列車運転装置|ATO]]による9000形車両の自動運転を開始。
** [[7月20日]]:栄町駅に東豊線初の[[ホームドア|可動式ホーム柵]]が試験設置される。
** [[8月13日]]:栄町駅にて可動式ホーム柵の稼働開始。
** [[9月6日]]:9000形車両の全編成の導入が完了する。
* [[2017年]](平成29年)
** [[3月24日]]:可動式ホーム柵が全駅設置完了。
** [[4月1日]]:[[ワンマン運転]]を開始。
** [[9月1日]]:さっぽろ駅における南北線との乗り換え方法が改札外乗り換えに変更<ref name="passageway">[https://www.city.sapporo.jp/st/passageway.html 地下鉄さっぽろ駅連絡通路柵撤去について(9月1日~)札幌市交通局]</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[9月8日]]:この日の夜、キツネが線路上に侵入したことが原因となり、運行中の電車が一時停止するトラブルが2件発生{{Sfn|五十嵐|2022}}。野生動物の侵入で札幌市営地下鉄の営業に支障が出た初の事例となった{{Sfn|五十嵐|2022}}<ref>{{Cite web|和書|date=2022-09-10 |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/728995 |title=地下鉄に迷いコンじゃった 札幌・東豊線、キツネ侵入で一時停止 |publisher=:北海道新聞 |accessdate=2022-09-10}}</ref>。
== 使用車両 ==
=== 現用車両 ===
* [[札幌市交通局9000形電車|9000形]]:20編成80両。後述の7000形の代替を目的として、2014年から2016年にかけて[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]において新形式車両として当該車両を4両編成20本・計80両新製・導入する計画で<ref>[http://www.khi.co.jp/news/detail/20130522_1.html 札幌市交通局向け地下鉄電車を受注] - 川崎重工業(2013年5月22日配信) 2013年5月25日閲覧</ref>、2014年10月31日札幌市交通局のホームページにおいて9000形の外観が公開された<ref name="sapporocity20141031">[http://www.city.sapporo.jp/st/sharyo/documents/9000-2.html 東豊線新型車両について] - 札幌市交通局(2014年10月31日配信)</ref>。第1編成の東車両基地への搬入は2014年12月15日に行われ<ref>[http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sapporo/580624.html 地下鉄東豊線、新型車両が完成 ホーム柵対応、来年4月運転開始] - 北海道新聞(2014年12月16日配信)</ref>、以降は試運転を経て2015年4月28日に運行開始される予定であった<ref>[http://response.jp/article/2014/11/04/236554.html 札幌市東豊線の新型車両、来年4月から運転開始] - Response(2014年11月4日配信)</ref><ref>[http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/572952.html 地下鉄東豊線に新型車両「9000形」 来年4月下旬から営業運転] - 北海道新聞(2014年11月7日配信)</ref><ref>[http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2015/03/19_18.html 札幌市営地下鉄東豊線用9000形公開。] - 鉄道ホビダス 編集長敬白(2015年3月19日配信)</ref>が延期され、同年5月8日に決定、栄町駅から運行を開始した<ref>{{PDFlink|[http://www.city.sapporo.jp/st/sharyo/documents/documents/9000.pdf 東豊線新型車両「9000形」の営業開始について]}} - 札幌市交通局(2015年5月1日配信)</ref><ref name="response20150508">[http://response.jp/article/2015/05/08/250692.html 札幌市地下鉄17年ぶりの新車「9000形」が東豊線にデビュー] - レスポンス、2015年5月8日</ref>。<!--最終的には全20編成になる予定。→当節の最初の方に書いてある。-->
<gallery widths="180" style="font-size:90%">
SapporoSubway ec9000.jpg|大通駅に進入する9000形(大通駅)
</gallery>
=== 過去の車両 ===
* [[札幌市交通局7000形電車|7000形]]:最大時には20編成80両(4両編成)が在籍した。片側3扉である。開業時から運用された1・2次車(1 - 15編成)と、福住延伸時に増備された3次車(16 - 20編成)では車両形状・形式こそ同じものの、カラーリングや設備、内装等が異なる。車番は7100、7200、7300、7800と付けられ、将来的に最大8両編成までの増結に対応した設計となっていた。2016年6月25日に営業運転を終了した。札幌市営地下鉄で路線開業時の車両が運用されていたのは東豊線が最後となった。
<gallery widths="180" style="font-size:90%">
Sapporo Subway 7119 20071014 h14.jpg|7000形3次車719号車(福住駅にて)
</gallery>
== 車両基地 ==
[[File:Sapporo-ST-Nishikichi-Hendensho01.JPG|250px|thumb|西車両基地(2011年5月)]]
東豊線沿線には[[車両基地]]が無いため東豊線の車両は[[札幌市営地下鉄東西線|東西線]][[二十四軒駅]] - [[西28丁目駅]]間にある西車両基地に所属している。このため、東西線と東豊線は専用の[[連絡線]]で結ばれている。
西車両基地を出庫した車両は東西線内を[[回送]]運転し、[[西11丁目駅]]から連絡線を通って東豊線[[さっぽろ駅]]に出る<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=gX0eSCFbHbw&t=0s 【秘密の線路に潜入】なぜ札幌の地下鉄・東西線を東豊線の車両が走るのか?『もんすけ調査隊』2022年8月19日(金)放送「今日ドキッ!」]</ref>。東豊線内では、出庫した車両はさっぽろ駅から客扱いをする。そのため1日に数便「さっぽろ駅始発→栄町駅行」という列車がある。
入庫時は前記と逆の順路となるが、入庫車両は栄町駅から客扱いを行わず回送車となる。開業当初は営業運転としており「栄町駅始発→さっぽろ駅行」の列車が存在していたが、中間駅のさっぽろ駅で客扱いを終了すると、車内の残留客や遺失物確認等のため[[停車場#本線|本線]]上で長時間停車を余儀なくされる上、さっぽろ駅から連絡線に入る場合も栄町方面への本線と[[平面交差]]しなければならないなど、ダイヤが乱れる要因が多いため、数年で消滅した。
また、本線上の事故や車両故障などの要因で西車両基地まで回送できなくなった場合に備え、栄町駅の北側にピット線(栄町検車線)が設けられている。ここは当初東豊線の車両基地とする計画であったが、用地取得の問題などから断念され、規模を縮小したものである。
通常は西車両基地を利用するが、大規模に渡る改修や点検、新車両の搬入や[[廃車 (鉄道)|廃車]]回送などで東西線[[ひばりが丘駅]]付近にある[[札幌市営地下鉄東西線#東車両基地|東車両基地]]を利用する場合もある。
== 利用状況 ==
数値は一部を除いて2014年度、[[札幌市交通局]]調べ。
* 一日平均乗車人員(乗換人員除く) 144,668人
* 一日平均輸送人員(乗換人員含む) 171,337人
* 2014年度時点での最混雑区間 北13条東→さっぽろ間
** ピーク1時間混雑率 127.0%
*2020年2月時点での最混雑区間 北13条東→さっぽろ間・豊平公園→大通間<ref>“[https://web.archive.org/web/20200414122405/http://www.city.sapporo.jp/st/documents/konzatsu_jokyo2020_2gatsu2shu_toho.pdf 東豊線の混雑状況] ([[Portable Document Format|PDF]])”. 札幌市交通局. 2020年4月14日時点の[http://www.city.sapporo.jp/st/documents/konzatsu_jokyo2020_2gatsu2shu_toho.pdf オリジナル]よりアーカイブ。 2020年4月14日閲覧。</ref>
* 輸送密度 59,424.1人キロ/日キロ
利用客数は増加傾向にあるものの、市営地下鉄3路線で最も少ない。
== 収支 ==
当路線の収支は以下の通り。収入には営業外収益、支出には人件費、経費、減価償却費、営業外費用を含む。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!年度!!収入!!支出!!損益!!出典
|-
|2014
|155億6000万円
|134億1000万円
|21億5000万円
|<ref>[http://www.city.sapporo.jp/st/zaimu/kessan/kessan-kousoku.html 平成26年度決算の概要(高速電車)] - 札幌市交通局、2016年10月11日閲覧</ref>
|-
|2015
|
|
|
|
|-
|2016
|
|
|
|
|-
|2017
|
|
|
|
|-
|2018
|
|
|
|
|-
|2019
|138億4400万円
|138億4800万円
|△400万円
|<ref>{{Cite web|和書|title=令和元年度決算の概要(高速電車)|url=https://www.city.sapporo.jp/st/zaimu/kessan/kessan-kousoku.html|website=札幌市|accessdate=2021-06-25|language=ja|last=札幌市}}</ref>
|-
|2020
|
|
|
|
|-
|2021
|
|
|
|
|-
|2022
|
|
|
|
|-
|}
== 運行形態 ==
日中7 - 8分間隔、朝ラッシュ時4分間隔、夕ラッシュ時5 - 6分間隔で運転されている。
全線通しの運転がほとんどだが、上述の通り「さっぽろ駅発→栄町駅行」が一日数便存在する。
また、主に[[札幌ドーム]]でJリーグ(北海道コンサドーレ札幌のホームゲーム等)やコンサートなどの大規模イベントが開催される際は大量の利用が予想されるため、[[臨時列車]]を随時運行することがある。運行間隔は平日のラッシュ時とほぼ同様になる。
臨時増発する際は福住駅や栄町駅の留置線を利用し、車両を待機させている(通常のラッシュ時も同様)。
== 南北線との乗り換えについて ==
当初、大通駅とさっぽろ駅における南北線と東豊線の乗り換えは、いずれも改札内乗り換えの方法を採用していたが、2017年(平成29年)9月1日からさっぽろ駅での乗り換え方法が改札外乗り換えに変更された。これに伴い、両者の乗り換えは最短経路の場合を除いて不可能となった(乗車区間が重複することから、折り返しとなる駅から別途料金が発生することになる)。具体的には、南北線(麻生方面)←→東豊線(栄町方面)はさっぽろ駅、南北線(真駒内方面)←→東豊線(福住方面)は大通駅でしか乗り換えができない<ref name="passageway" />。なお、一日乗車券や全線定期券を利用の場合は、この限りではない。
== 駅一覧 ==
全駅が[[北海道]][[札幌市]]内に所在。全線地下。
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #0080ff"|駅番号
!style="width:8em; border-bottom:solid 3px #0080ff"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0080ff"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0080ff"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #0080ff"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #0080ff"|所在地
|-
!H01
|[[栄町駅 (札幌市)|栄町駅]]
|style="text-align:center"| -
|style="text-align:right"|0.0
|
|rowspan="6"|[[東区 (札幌市)|東区]]
|-
!H02
|[[新道東駅]]
|style="text-align:right"|0.9
|style="text-align:right"|0.9
|
|-
!H03
|[[元町駅 (北海道)|元町駅]]
|style="text-align:right"|1.2
|style="text-align:right"|2.1
|
|-
!H04
|[[環状通東駅]]
|style="text-align:right"|1.4
|style="text-align:right"|3.5
|
|-
!H05
|[[東区役所前駅]]
|style="text-align:right"|1.0
|style="text-align:right"|4.5
|
|-
!H06
|[[北13条東駅]]
|style="text-align:right"|0.9
|style="text-align:right"|5.4
|
|-
!H07
|[[さっぽろ駅]]
|style="text-align:right"|1.3
|style="text-align:right"|6.7
|[[札幌市営地下鉄]]:[[File:Subway_SapporoNamboku.svg|15px|■]][[札幌市営地下鉄南北線|南北線]] (N06)<br />[[北海道旅客鉄道]]:{{color|#ed1c23|■}}{{color|#f7931d|■}}[[函館本線]]・{{color|#0072bc|■}}[[千歳線]]・{{color|#00a54f|■}}[[札沼線]](学園都市線)…[[札幌駅]] (01)
|rowspan="3"|[[中央区 (札幌市)|中央区]]
|-
!H08
|[[大通駅]]
|style="text-align:right"|0.6
|style="text-align:right"|7.3
|札幌市営地下鉄:[[File:Subway_SapporoNamboku.svg|15px|■]]南北線 (N07)、[[File:Subway_SapporoTozai.svg|15px|■]][[札幌市営地下鉄東西線|東西線]] (T09)<br />[[札幌市電]]:一条線 …[[西4丁目停留場]]{{refnest|[[大通駅]]・[[豊水すすきの駅]]における札幌市電との乗継割引は、[[2015年]][[12月20日]](札幌市電のループ化開業)以降においては、札幌市電の[[西4丁目停留場]]・[[狸小路停留場]]・[[すすきの駅|すすきの停留場]]のいずれの停留場と乗り継ぐ場合にも適用される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.sapporo.jp/st/shiden/shiden_loop.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151219164413/http://www.city.sapporo.jp/st/shiden/shiden_loop.html|archivedate=2015年12月19日|title=市電のループ化開業に関するお知らせ|publisher=札幌市|accessdate=2015-12-21|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。|group=注|name=transfer-20151220}}
|-
!H09
|[[豊水すすきの駅]]
|style="text-align:right"|0.8
|style="text-align:right"|8.1
|札幌市電:山鼻線 …[[すすきの駅|すすきの停留場]]<ref group="注" name="transfer-20151220" />
|-
!H10
|[[学園前駅 (北海道)|学園前駅]]
|style="text-align:right"|1.4
|style="text-align:right"|9.5
|
|rowspan="5"|[[豊平区]]
|-
!H11
|[[豊平公園駅]]
|style="text-align:right"|0.9
|style="text-align:right"|10.4
|
|-
!H12
|[[美園駅]]
|style="text-align:right"|1.0
|style="text-align:right"|11.4
|
|-
!H13
|[[月寒中央駅]]
|style="text-align:right"|1.2
|style="text-align:right"|12.6
|
|-
!H14
|[[福住駅]]
|style="text-align:right"|1.0
|style="text-align:right"|13.6
|
|}
※北13条東駅 - さっぽろ駅の間で札幌市[[北区 (札幌市)|北区]]を通るが、駅はない。
== 駅の設備 ==
開業当初から、全駅に[[エレベーター]]や[[エスカレーター]]、身障者(車椅子)用トイレを設置している。また、札幌市営地下鉄では初めてすべての駅ホーム・切符売場・改札口に[[発光ダイオード|LED]]式案内表示器を導入した。
LED式案内表示器については、初代表示器は3色LEDを使用した1段表示で、改札口付近・ホーム共に電車が来ない間は注意喚起やお知らせ、イベントなどの案内が緑色で、電車が前々駅を発車してから前駅発車、到着・発車までの状況をオレンジ色で、それぞれ文字のみで表示させるシステムである。当時未設置の南北線は後に表示器部分のみが導入され、東西線はホームにのみ設置していた[[反転フラップ式案内表示機|フラップ式案内装置]]と切り替える形で東豊線のものと同じ形の表示器が導入された。ちなみに大通ホーム以外の東豊線全駅では16×16ドット式LEDが採用されており、やや癖のある[[明朝体]]で表示されていた。対して大通ホーム、南北線・東西線は24×24ドット式LEDが採用されており、24x24ドットならではの鮮やかな明朝体を表示させることができる。
2016年1月16日にはフルカラーLEDを使用した2段表示の2代目表示器に切り替わった。これにより従来は始発駅にしかなかった発車時刻の表示のみならず次発の電車の発車時刻表示も行われ、英語での案内の追加、列車の到着状況を分かりやすく表示(前々駅、前駅、当駅の表示に、列車のイラストで現在地を示す)できるようになった。また、遅延表示などの情報も追加されている<ref>{{Cite web|和書|date=2015-12-11 |url=http://www.city.sapporo.jp/st/documents/s_1.pdf |title=新表示器表示イメージ |format=PDF |publisher=札幌市交通局 |accessdate=2016-07-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151222100539/http://www.city.sapporo.jp/st/documents/s_1.pdf |archivedate=2015-12-22 |deadlinkdate=2017-10}}</ref>。ちなみに初代表示機にあった注意喚起やお知らせ、イベントなどの案内については、2016年度はシステム切替の関係により表示されず、2017年度から下段に白地のスクロールで表示されるようになった。改札口付近では発車時刻表示の切り替え時に途中終了する以外は常時表示され、ホームでは初代表示機同様に電車が来ない間だけ表示される。
豊水すすきの駅 - 福住駅間は建設費削減のため、全駅が[[島式ホーム]]で統一されたほか、ホーム長も6両分しか整備されていない(将来的に8両編成が停車できるよう準備工事はなされている)。先行開業した栄町駅 - 豊水すすきの駅間は当初から8両編成対応のホーム長となっているが、開業から2021年現在までの東豊線電車はすべて4両編成のため、ホームの約半分が使用されておらず転落防止柵が設置されている。
<gallery style="font-size:90%">
Toho-line Odori-sta Platform(track 1).jpg|大通駅・福住方面ホーム <br />転落防止柵と当初予定していた乗車口の印が見える。
Sapporo Subway Toho Line Electric Sign at Odori Station.jpg|東豊線開業当初から2016年まで使用されていた初代表示器ことLED式案内表示器 <br />電車がホームに進入すると行先表示がされる。現在の東豊線は全駅とも2代目表示器に交換されている。
Toho-line timetable(Gate).JPG|2代目表示器ことLED式発車標(改札口・切符売場)<br />発車時刻と「行」は白、行先は青で表示される。また改札口と切符売場の発車標は時刻の左側に発車する側のホーム番号が書かれており、青をバックに白文字が表示される。
Toho-line_timetable.JPG|LED式発車標(ホーム)<br />こちらは列車が近づいているときに表示されるパターンで、上段は発車時刻と行き先が表示され、下段は列車の到着状況を分かりやすく表示するイラストが表示される。<br />ちなみにこのパターンでは、まもなく列車が到着することを表している。
Toho-line timetable(delay).jpg|LED式発車標(ホーム)<br />こちらは列車遅延時のパターンで、行先の隣に遅延状況が表示される。黄で表示され、英語でも表示される。
Toho-line timetable(stopped).jpg|LED式発車標(ホーム)<br />こちらは人身事故等による折り返し運転時に表示される。時刻や遅延状況、始発駅での先発・次発表示はされず行先のみの表示となる。また、下段には運休区間・折り返し区間を日本語と英語で表示する他、写真のように運休区間を赤色で表示する。
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== 可動式ホーム柵 ==
札幌市営地下鉄では、乗客の列車との接触・線路への転落を防ぐとともに、将来の[[ワンマン運転]]に対応させるため、東京・大阪・横浜・福岡などの地下鉄で既に採用されている[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式ホーム柵]](ホームドア)を各線に設置することを決定した。
東豊線では2016年8月13日の[[栄町駅 (札幌市)|栄町駅]]での稼働開始以降、福住側から順に各駅で順次設置工事が行われ、設置が完了した駅から順次稼働開始。そして2017年3月24日稼働開始の[[新道東駅]]を以って東豊線全駅への設置が完了し、併せて4月1日からワンマン運転が開始された。ホーム柵は同市営地下鉄3路線の中で唯一ガラスが付いている。
開扉時はチャイムが、閉扉時にはアラームが鳴るが、その時にセンサーが障害物を感知した際には警告ブザーが鳴ると共にランプが点滅する。ホーム柵は[[日立製作所|日立]]製ではあるが、チャイムとアラーム、ブザーは[[三菱電機]]製エレベーターの『気配りアナウンス』用チャイム、開閉報知アラーム(強制戸閉、開延長終了、戸開中センサー感知)、警告用ブザー(満員、戸開前センサー長時間感知)を採用。これは東西線と南北線のホーム柵で使用されているチャイムとアラーム、ブザーにそれぞれ起因し、東西線と南北線では三菱製のホーム柵が導入されていることから音源の統一を図る必要性が出たためである。
== 計画区間と延伸構想 ==
東豊線計画の元になったのは、1974年3月に提出された報告書『最適交通体系の選択と投資順位の研究』で提案された四号線(元町 - 月寒間)である。
[[札幌市交通局]]が発案した「地下鉄50キロ計画」では、現在[[豊平区]]側の終点である福住付近から同じ豊平区の「[[北海道立産業共進会場|共進会場]]駅」と「月寒東駅」、そして隣接している[[清田区]]の「北野駅」(当初は北野通と清田通の交点付近)まで延伸する計画が提示された。福住延伸開業時に設置された東豊線各駅ホームの壁にある路線案内図では、福住駅より先に2駅程度の空白が設けられているものの、未だ実現には至っていない。なお[[福住駅]]の設置が、当初の[[月寒中央駅]]側よりも清田寄りの位置になってしまったため、駅間距離の近い「共進会場駅」は不可能に近くなった一方、終端側の引込線は北野通に向け北にカーブしかけた所で終わっており、福住駅から国道36号線をそのまま南下するにも大規模な再工事を要するか、あるいは不自然なカーブで国道の真下に戻ることになる。国道36号線の南進による「札幌ドーム駅」(後述)・「東月寒駅」・「北野駅」(上記予定地とは異なる)を経て「清田駅」(北野通と厚別滝野公園通の交点、清田区役所付近)まで延伸する案も2001年に答申されたものの<ref>[http://www.ma-aru.jp/topics/8453 札幌市の地下鉄清田延長計画はどうなったのか] - マ・アル清田、2014年11月19日</ref>、実際の延長路線のルートや計画は未定であり、開業の見通しはまったく立っていない。なお札幌市は、11万人程度である清田区の人口が将来、増加し20万人を超えた場合の開業を検討している。また2009年時点では公共交通機関の利用者が低迷している中で、新たに膨大な投資を必要とする地下鉄についてはなかなか厳しい判断をせざるを得ないとの考え方が示されている<ref>平成21年第一部予算特別委員会-03月16日-07号における札幌市長答弁</ref>。
2011年の札幌市総合交通計画策定委員会第5回で提示された「清田地区の公共交通機能向上に関する検討」においては2001年の答申案のルート4.2kmの建設で2030年の利用人員を1日43,900人・総事業費約835億円の概算で30年間以内の黒字化は困難と判断しており<ref>[https://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/shisaku/sogokotsukeikaku/iinkai.html 札幌市総合交通計画策定委員会] [https://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/shisaku/sogokotsukeikaku/documents/5kiyotakento_bukaihokoku.pdf 第5回開催資料5 清田地区における公共交通の機能向上に関する検討 検討報告] - 札幌市役所</ref>、2012年の総合交通計画で延伸計画は盛り込まれず、清田区の人口減少もあり2020年の改訂版では「事業採算性などを勘案した慎重な検討が必要」と追記される程度にとどまっている<ref>[https://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/shisaku/sogokotsukeikaku/documents/01-02.pdf 札幌市総合交通計画改訂版 各交通モード・施設の基本的な考え方] - 札幌市役所</ref>。
このほか[[札幌商工会議所]]の要望案として2005年に[[札幌競馬場]]を[[札幌ドーム]]の南側80-100ヘクタールの敷地に拡張移転させドーム化し、合わせて東豊線を福住駅から1.2km延伸し「ドーム・札幌競馬場駅」を設ける案を打ち出し地下鉄延伸工事費に300億円を見込んでいたが、[[日本中央競馬会]] (JRA) は移転について慎重な姿勢を示し<ref>札幌競馬場ドーム隣へ?! 札商、JRAに要請 来月にも 屋根付きコース構想 - 北海道新聞2005年12月29日朝刊</ref>、現在地で引き続き開催・場外発売を行っている<ref group="注"> 札幌競馬場は2013年にリニューアル工事が行われ、翌年新スタンドが竣工している</ref>。
その後、2012年には[[北海道新幹線]]の札幌駅延伸を見据えて札幌商工会議所が札幌市などに提言した「札幌広域圏の総合交通体系のグランドデザイン〜北海道新幹線開業時期の前倒しへ〜」の中で、[[札幌飛行場|丘珠空港]]の滑走路をジェット旅客機も発着できるように延長した上で東豊線を丘珠空港まで延伸させ[[空港連絡鉄道|空港アクセス線]]として用いる案が盛り込まれた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sapporo-cci.or.jp/web/request/files/5317e2418a00a00473e42890dd3a639e19fe18d8.pdf |title=札幌広域圏の総合交通体系のグランドデザイン 〜北海道新幹線 開業時期の前倒しへ〜(骨子) |year=2012 |access-date=2022-06-23 |publisher=札幌商工会議所}}</ref>。丘珠空港の滑走路延伸が1,800m案でまとまり2030年代の実現に向け動き始めたことから、今後東豊線の延伸についても何らかの動きが出る可能性がある。
== 備考 ==
* 公式文書での呼び名は'''札幌市高速電車東豊線'''である。
* 南北線・東西線で導入されている「女性と子どもの安心車両」は、編成長が短いなどの理由で導入されておらず、導入予定もない。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite news |title = 地下鉄線路にキツネ 迷いコンじゃった | newspaper = 北海道新聞 | date = 2022-09-10 | author = 五十嵐俊介 | at = 地域の話題:札幌 14面 | ref ={{SfnRef|五十嵐|2022}}}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[札幌市営地下鉄]]
* [[札幌市営地下鉄南北線]]
* [[札幌市営地下鉄東西線]]
{{デフォルトソート:さつほろしえいちかてつとうほうせん}}
[[Category:日本の地下鉄路線|とうほう]]
[[Category:札幌市営地下鉄|とうほうせん]]
[[Category:案内軌条式鉄道路線|とうほうせん]]
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ネメシス'90改
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『ネメシス'90改』(ネメシスきゅうじゅうかい、NEMESIS'90改)は、1993年11月に発売されたX68000用シューティングゲーム。MSX版『グラディウス2』のリメイク作品。開発はSPS。
基本的には原作『グラディウス2』と同じだが、システムやステージ構成などに細かい変更がある他、グラフィックの大幅なクオリティアップが為されている。
タイトルが『NEMESIS'90"改"』となっている理由は、本来は1990年に発売予定であったが、開発の遅れにより90年に発売することが出来なかったための名称であり、他に『NEMESIS'90』と言う名のゲームが存在したわけではない。
なお、SPSは初代『グラディウス』、『沙羅曼蛇』、『A-JAX』などのコナミ製シューティングゲーム (STG) を、シャープ製パーソナルコンピュータであるX68000へ移植を行った実績があるメーカーであるが、ディスク1に入っているドキュメントからは、本作は製作発表してから開発がほとんど進まず、頓挫した数年後にSTG開発に携わった事の無いスタッフが引き継いで完成させたらしい事が読み取れる。
メタリオン初期パワーメーターゲージ
メタリオン最終パワーメーターゲージ
オリジナル面は以下の2つ。従前の面は折り返し時はスクロールが早くなるが、オリジナル面のスクロールは通常の速度。
オリジナルの『グラディウス2』はMSX用SCC音源内蔵1Mbitロムカセットだったが本作は機種に合わせて1.2Mbyteフロッピーディスク2枚組で発売され、またデータを全て読み込んだ後、両ディスクとも排出して強制的にオンメモリ動作する仕様になっていた。
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『ネメシス'90改』(ネメシスきゅうじゅうかい、NEMESIS'90改)は、1993年11月に発売されたX68000用シューティングゲーム。MSX版『グラディウス2』のリメイク作品。開発はSPS。
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{{出典の明記|date=2019年5月4日 (土) 13:36 (UTC)}}
{{コンピュータゲーム| Title = ネメシス'90改
| Plat = [[X68000]]
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『'''ネメシス'90改'''』(ネメシスきゅうじゅうかい、NEMESIS'90改)は、[[1993年]]11月に発売された[[X68000]]用[[シューティングゲーム]]。[[MSX]]版『'''[[グラディウス2]]'''』のリメイク作品。開発は[[エス・ピー・エス|SPS]]。
== 概要 ==
基本的には原作『[[グラディウス2]]』と同じだが、システムやステージ構成などに細かい変更がある他、[[グラフィック]]の大幅なクオリティアップが為されている。
タイトルが『NEMESIS'90"'''改'''"』となっている理由は、本来は[[1990年]]に発売予定であったが、開発の遅れにより90年に発売することが出来なかったための名称であり、他に『NEMESIS'90』と言う名のゲームが存在したわけではない。
なお、SPSは初代『[[グラディウス (ゲーム)|グラディウス]]』、『[[沙羅曼蛇]]』、『[[A-JAX]]』などの[[コナミ]]製シューティングゲーム (STG) を、[[シャープ]]製[[パーソナルコンピュータ]]である[[X68000]]へ移植を行った実績があるメーカーであるが、[[フロッピーディスク|ディスク]]1に入っている[[テキストファイル|ドキュメント]]からは、本作は製作発表してから開発がほとんど進まず、頓挫した数年後にSTG開発に携わった事の無いスタッフが引き継いで完成させたらしい事が読み取れる。
== 変更点 ==
=== グラフィック・サウンド ===
*[[グラフィック]]が書き換えられ、自機や一部の敵[[キャラクター|キャラ]]がデザインまで含め大幅に変更された外見になっている。
*多重[[スクロール]]する背景が追加され、メインの背景もスムーズにスクロールするようになった。
*ゲーム開始時の[[オープニングデモ]]で、自機メタリオンが発進して画面手前側に飛び出すアニメーションと、[[エンディングデモ]]で惑星に帰還するカットが追加されている。
*効果音は[[適応的差分パルス符号変調|ADPCM]]で再生され、ゲーム起動時にX68000側の[[記憶装置|メモリ]]容量と[[クロック|クロックスピード]]を自動判定の上で、メモリ3MB以上で、かつ[[MC68000]] 16MHz相当以上の動作速度であれば、疑似的に[[デバイスドライバ|ADPCM多重再生ドライバ]]による4重再生を行う仕様になっている。[[効果音]]には[[グラディウスシリーズ#パワーアップ|パワーアップ]]や爆発の音等、『グラディウス』『グラディウスII』から録音したらしいものも多い。
*[[背景音楽|BGM]]は[[MIDI]][[音源モジュール|音源]]にも対応している。
*[[グラディウスシリーズ#パワーメーター|パワーアップゲージ]]の点灯部は[[アーケードゲーム|アーケード]] (AC) 版『グラディウス』などのデザインを踏襲したものの、多段表示になっている。
=== パワーアップ ===
*ミサイル、レーザー、アップ/ダウンレーザーの2段階パワーアップがなくなった。これによりパワーアップゲージは以下のような構成となる。
メタリオン初期パワーメーターゲージ
{| style="text-align: center;font-size:80%" border="1" width="68%"
|
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6
|-
|style="width:5%"|1st
|style="width:11%;" BGCOLOR="#D0d0FF"|SPEED
|style="width:11%;" BGCOLOR="#D0d0FF"|MISSILE
|style="width:11%;" BGCOLOR="#d0d0FF"|DOUBLE
|style="width:11%;" BGCOLOR="#d0d0FF"|LASER
|style="width:11%;" BGCOLOR="#d0d0FF"|OPTION
|style="width:11%;font-size:90%" BGCOLOR="#d0d0FF"|FORCE FIELD
|}
メタリオン最終パワーメーターゲージ
{| style="text-align: center;font-size:80%" border="1" width="100%"
|
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9
|-
|style="width:5%"|1st
|style="width:10%;" BGCOLOR="#D0D0FF"|SPEED
|style="width:10%;" BGCOLOR="#D0D0FF"|MISSILE
|style="width:10%;" BGCOLOR="#D0D0FF"|BACK BEAM
|style="width:10%;" BGCOLOR="#D0D0FF"|DOUBLE
|style="width:10%;font-size:85%" BGCOLOR="#D0D0FF"|UP LASER
|style="width:10%;font-size:75%" BGCOLOR="#D0D0FF"|DOWN LASER
|style="width:10%;" BGCOLOR="#D0D0FF"|LASER
|style="width:10%;" BGCOLOR="#D0D0FF"|OPTION
|style="width:10%;;font-size:90%" BGCOLOR="#D0D0FF"|FORCE FIELD
|-
|2nd
|style="width:10%;" BGCOLOR="#fffffF"|
|style="width:10%;" BGCOLOR="#D0D0FF"|NAPALM MISSILE
|style="width:10%;" BGCOLOR="#FFFFFF"|
|style="width:10%;font-size:100%" BGCOLOR="#D0D0FF"|REFLEX RING
|style="width:10%;font-size:85%" BGCOLOR="#ffffff"|
|style="width:10%;font-size:75%" BGCOLOR="#ffffFF"|
|style="width:10%;" BGCOLOR="#D0D0FF"|EXTEND LASER
|style="width:10%;" BGCOLOR="#FFFFFF"|
|style="width:10%;|
|-
|3rd
|style="width:10%;" BGCOLOR="#fffffF"|
|style="width:10%;font-size:75%" BGCOLOR="#ffffFF"|
|style="width:10%;" BGCOLOR="#FFFFFF"|
|style="width:10%;font-size:90%" BGCOLOR="#D0D0FF"|FIRE BLUSTER
|style="width:10%;" BGCOLOR="#FFFFFF"|
|style="width:10%;font-size:75%" BGCOLOR="#FFFFFF"|
|style="width:10%;font-size:90%" BGCOLOR="#ffffFF"|
|style="width:10%;" BGCOLOR="#FFFFFF"|
|style="width:10%;" BGCOLOR="#FFFFFF"|
|}
*レーザーを発射し切った後もワインダーが使用できる・[[グラディウスシリーズ#オプション|オプション]]が4つ装備できる・シールドが画面前方から飛来してくる等、自機の性能がAC版『グラディウス』の仕様に近くなった。
*アップ/ダウンレーザーは最初から広がる形のものが撃てるが、[[MSX]]版より広がり幅が狭く威力が弱い。
*ナパームミサイルは弾速が非常に遅い上に地形を這わなくなり、『グラディウスII』のスプレッドボムと同じような効果の装備になった。
*特殊アイテムのベクトルレーザーの性能が変化し、ほとんど広がらなくなった。
*[[ボスキャラクター|ボス]]を早く倒しても、追加パワーアップは1個しかもらえなくなった。
*パワーアップをした瞬間は、自機が無敵になる。
=== ステージ ===
*全体的に[[モブキャラクター|ザコ]]敵の動きが速くなっており、一部MSX版では出てこなかったザコが追加・差し替え等されている。
*敵を全滅させる青カプセルは、原作では出現箇所が固定されていたが、本作ではAC版シリーズのようにパワーアップカプセルn個<!-- 数えてないです -->出現毎に出現する。
*ボスの攻撃パターンに一部変更や追加がある。またコアの遮蔽板を破壊すると1周目から大量の[[撃ち返し|撃ち返し弾]]が発生する。
*5面では『沙羅曼蛇』3面のような[[紅炎|プロミネンス]]が地表から噴き出すようになった。
*2面と5面にオリジナルのボスが追加され、「ミスフィッツ艦」(3面)と「メイヘム艦」(4面)は1回ずつの登場となった。
*ボス艦内の地形が変更され、狭くなった。また、ボスを倒した後のコア残骸にはバリアとの当たり判定があり、艦内へ入る時バリアを装着していてもこれに削られて無くなってしまう。
*エクストラステージは、2面・4面・6面の特定の場所から入るように変わった。エクストラステージ内の地形なども変更されている。
*折り返し面で、オリジナルステージが出てくることがある。
;パターン1、すべて従前の面
:6面→5面→4面→3面→2面→1面
;パターン2、オリジナル面が入りステージ数が1つ少なくなる
:6面→5面→3'面→2'面→1面
オリジナル面は以下の2つ。従前の面は折り返し時はスクロールが早くなるが、オリジナル面のスクロールは通常の速度。
;3'面(隕石ステージ)
:破壊不可能な多量の隕石の中を進んでいく。『沙羅曼蛇』の5面のようなイメージである。ボスは「ビッグコアMk.II」を小型にしたような外見。BGMは「帰還のテーマ」。
;2'面(水ステージ)
:多数の滝が登場する美しいステージだが、滝に触れてしまうとミスになる。『[[グラディウスIII -伝説から神話へ-|グラディウスIII]]』2面のような泡も登場する。ボスも『グラディウスIII』の2面ボス「バブルアイ」に酷似している。BGMは「スペーストリッキーエリアのテーマ」。
=== その他 ===
オリジナルの『グラディウス2』はMSX用[[SCC]]音源内蔵1Mbit[[ロムカセット]]だったが本作は機種に合わせて1.2Mbyteフロッピーディスク2枚組で発売され、またデータを全て読み込んだ後、両ディスクとも排出して強制的にオン[[主記憶装置|メモリ]]動作する仕様になっていた。
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カーディフ
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カーディフ(ウェールズ語: Caerdydd、英: Cardiff)は、ウェールズの首府。人口は36万人で、ウェールズで最大の都市である。ウェールズの南東部に位置し、ロンドンからは約250kmの距離にある。ウェールズ議会が設置されている。
街の歴史は1世紀にローマ人がこの地に砦を築いたことに始まる。ローマ人と共にケルト人の商人も定住するようになり、小都市に発展したが、4世紀後半にローマ軍が撤収してしまったため、人口は著しく減少したと推定されている。11世紀になり、ウィリアム1世 がカーディフ城を建設したことにより、街は再び発展するようになった。
カーディフ北西の丘陵には炭鉱があり、ウェールズ炭は質が高いことで知られていた。産業革命以降、カーディフ港からの石炭の積み出しで産業が飛躍的に発展した。カーディフには仕事を求めてイングランドやアイルランドからも移民が流入し、人口が急増した。
1955年、ウェールズの首府となったが、ウェールズ議会が設置されたのは1998年である。
日本からはアムステルダム・スキポール空港接続のKLMの便とドーハ接続のカタール航空定期便が有る。
もしくは、ヒースロー空港からヒースロー・エクスプレスを使いパディントン駅でグレート・ウェスタン・レールウェイに乗り継ぐと、ヒースロー空港から概ね3時間で到着する。
夏はイギリスの中では温暖で日照に恵まれる一方、冬は雨が多く湿潤である。 夏の最高気温は大抵19°Cから22°Cで推移し、冬の最低気温は0°C以上であることが多い。また、年間を通じて予期せぬ雨が降ることが多い。
カーディフはBBCのテレビ・ドラマ「秘密情報部トーチウッド」の舞台になっており、市内の各所がドラマの中に登場し、それぞれが観光名所となっている。訪れるファンが多い。
カーディフに本拠地を置くサッカークラブチーム
カーディフに本拠地を置くラグビークラブチーム
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カーディフは、ウェールズの首府。人口は36万人で、ウェールズで最大の都市である。ウェールズの南東部に位置し、ロンドンからは約250kmの距離にある。ウェールズ議会が設置されている。
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{{Otheruses|イギリス ウェールズの都市|イギリスの映画監督|ジャック・カーディフ|アメリカ合衆国 ニューヨーク州の都市|カーディフ (ニューヨーク州)}}
{{世界の市
|正式名称 = カーディフ<br />{{flagicon|WAL}}
|公用語名称 = Cardiff
|愛称 =
|標語 = Y ddraig goch ddyry cychwyn<br />(赤い竜は道を指す)
|画像 = CardiffMontage1.jpg
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|画像の見出し = 時計回りに上から、{{仮リンク|カーディフ城|en|Cardiff Castle}}, [[w:Welsh National War Memorial|Welsh National War Memorial]], [[w:Cardiff city centre|Cardiff city centre]], The [[w:Senedd|Senedd]], [[w:Cardiff Bay|Cardiff Bay]], [[w:Alliance (sculpture)|Alliance]]および[[w:Llandaff Cathedral|Llandaff Cathedral]].
|市旗 = Flag of Cardiff.svg
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[[ファイル:Cardiff City Hall cropped.jpg|サムネイル|カーディフ市役所]]
[[ファイル:Summer on Queen Street - Cardiff - geograph.org.uk - 1363923.jpg|サムネイル|クイーンストリート]]
[[ファイル:Cardiff Bay from Penarth.jpg|サムネイル|カーディフ湾]]
'''カーディフ'''({{lang-cy|Caerdydd}}、{{lang-en-short|Cardiff}})は、[[ウェールズ]]の首府。人口は36万人で、ウェールズで最大の[[都市]]である。ウェールズの南東部に位置し、[[ロンドン]]からは約250kmの距離にある。[[ウェールズ議会]]が設置されている。
== 歴史 ==
街の歴史は1世紀に[[ローマ人]]がこの地に[[砦]]を築いたことに始まる。ローマ人と共に[[ケルト人]]の商人も定住するようになり、小都市に発展したが、4世紀後半にローマ軍が撤収してしまったため、人口は著しく減少したと推定されている。11世紀になり、[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世 ]]がカーディフ城を建設したことにより、街は再び発展するようになった。
カーディフ北西の丘陵には炭鉱があり、[[ウェールズ炭]]は質が高いことで知られていた。[[産業革命]]以降、カーディフ港からの[[石炭]]の積み出しで産業が飛躍的に発展した。カーディフには仕事を求めて[[イングランド]]や[[アイルランド]]からも移民が流入し、人口が急増した。
1955年、ウェールズの首府となったが、[[ウェールズ議会]]が設置されたのは1998年である[http://www.visitbritain.com/ja/Things-to-do/Cheap-and-free-Britain/Free-Cardiff.htm]。
== 交通 ==
=== 空港 ===
* [[カーディフ空港]]
日本からは[[アムステルダム・スキポール空港]]接続の[[KLM]]の便と[[ドーハ]]接続の[[カタール航空]]定期便が有る。
もしくは、[[ロンドン・ヒースロー空港|ヒースロー空港]]から[[ヒースロー・エクスプレス]]を使い[[パディントン駅]]で[[グレート・ウェスタン・レールウェイ]]に乗り継ぐと、ヒースロー空港から概ね3時間で到着する。
=== 鉄道 ===
; [[アリーヴァ・トレインズ・ウェールズ]]
:[[カーディフ中央駅]]、クイーンストリート駅を中心にカーディフ市内と郊外への路線網の他、ウェールズ国内各地や[[イングランド]]のボーダーズ地方、[[マンチェスター]]などとを結ぶ。
;[[グレート・ウェスタン・レールウェイ]]
: ロンドンの[[パディントン駅]]より、[[カーディフ中央駅]]までインターシティ(主に[[イギリス鉄道800形]])で約2時間。
;[[クロスカントリー (列車運行会社)|クロスカントリー・トレインズ]]
: [[グロスター]]、[[バーミンガム・ニューストリート駅]]を経て[[ノッティンガム]]への列車を毎時1本運行している(旧[[セントラル・トレインズ]]が運行していたもの)。
== 気候 ==
夏はイギリスの中では温暖で日照に恵まれる一方、冬は雨が多く湿潤である。
夏の最高気温は大抵19℃から22℃で推移し、冬の最低気温は0℃以上であることが多い。また、年間を通じて予期せぬ雨が降ることが多い。
{{Weather box
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| source 1 = [[Met Office]]<ref name="Met office">{{cite web |url=http://www.metoffice.gov.uk/public/weather/climate/gcjszmp44|title=Cardiff 1981–2010 Averages |publisher=Met Office |accessdate=13 September 2012}}</ref>
| source 2 = [[Royal Netherlands Meteorological Institute|KNMI]]<ref name="KNMI">{{cite web |url=http://eca.knmi.nl/indicesextremes/customquerytimeseriesplots.php?|title=Cardiff Extreme Values|accessdate=19 February 2012 |publisher=KNMI}}</ref>
| date = February 2012}}
== 教育 ==
* [[カーディフ大学]]
* [[ウェールズ大学]]インスティテュート・カーディフ(UWIC; University of Wales, Institute Cardiff)
*カーディフ・メトロポリタン大学
== 観光・ホテル ==
* カーディフ城
* ウェールズ国立博物館
* [[ミレニアム・スタジアム]]
* その他:
カーディフはBBCのテレビ・ドラマ「[[秘密情報部トーチウッド]]」の舞台になっており、市内の各所がドラマの中に登場し、それぞれが観光名所となっている。訪れるファンが多い。
*ヴォコカーディフ
*ヒルトンカーディフ
*インディゴカーディフ
== スポーツ ==
'''カーディフに本拠地を置く[[サッカー]]クラブチーム'''
* [[カーディフ・シティ]]
* [[カーディフ・シティLFC|カーディフ・シティ・レディース]]
'''カーディフに本拠地を置く[[ラグビーフットボール|ラグビー]]クラブチーム'''
* カーディフ・ブルース(ユニオン)
* カーディフ・デーモンズ(リーグ)
== カーディフ出身の人物 ==
{{main|Category:カーディフ出身の人物}}
* [[マーティン・ロイドジョンズ]] - [[牧師]]、[[福音派]]の指導者
* [[ロアルド・ダール]] - [[小説家]]
* [[シャーリー・バッシー]] - ミュージカル歌手
* [[シャルロット・チャーチ]] - [[歌手]]
* [[アンディ・ベル]] - ミュージシャン。[[オアシス (バンド)|オアシス]]の元ベーシスト。
* [[ライアン・ギグス]] - [[プロサッカー選手]]
* [[ヨアン・グリフィズ]] - 俳優
* [[C・W・ニコル]] - 作家(正確にはカーディフ西方の[[ニース・ポート・タルボット|ニース]]出身)
* [[ローナ・モーガン]] - 女優、モデル
* [[バッジー]] - ハードロックバンド。結成時のメンバー3人全員がカーディフのタイガー・ベイ出身。
* [[ガレス・ベイル]]-サッカー選手
== 姉妹都市 ==
* {{flagicon|UKR}} [[ルハンシク]] [[ウクライナ]]
* {{flagicon|NOR}} [[ホルダラン県]]、[[ノルウェー]]
* {{flagicon|BOL}} [[スクレ (ボリビア)|スクレ]]、[[ボリビア]]
* {{flagicon|FRA}} [[ナント]]、[[フランス]]
* {{flagicon|GER}} [[シュトゥットガルト]]、[[ドイツ]]
* {{flagicon|CHN}} [[廈門市|アモイ]]、[[中華人民共和国]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Cardiff|Cardiff}}
'''政府'''
* [http://www.cardiff.gov.uk/ カーディフ公式サイト] {{en icon}} {{cy icon}}
'''観光'''
* [http://www.visitbritain.com/ja/Destinations-and-Maps/Countries/Wales.htm 英国政府観光庁 - カーディフ] {{ja icon}}
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[[Category:カーディフ|*]]
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16,979 |
応仁の乱
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応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱。
室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の抗争となり、幕府勢力が東西に分かれて争う戦乱に発展、さらに各々の領国にも争いが拡大する大乱となった。
明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。
11年に亘る戦乱は、西軍が解体されたことで収束したが、主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受けて荒廃した。
応仁元年(1467年)に起きたことから一般に「応仁の乱」と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁はわずか3年で文明へと改元された。そのため、近年では「応仁・文明の乱」(おうにん・ぶんめいのらん)と称されることもある。
鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、相次ぐ戦乱の結果、力をつけてきた国人・商人・農民などの台頭によって、その既得権益を侵食されつつあった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は成立当初から将軍の権力基盤は脆弱で、三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)など宿老の影響力が強かった。それは宿老や守護大名も例外ではなく、領国の守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。こうした環境が、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。幕府は、4代将軍足利義持の弟で、籤引きによって選ばれた6代将軍足利義教が専制政治を敷き、守護大名を抑えつけて将軍の権力を強化したが、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に暗殺されてしまう。この混乱を収束させたのは管領細川持之と畠山持国であった。しかし、嘉吉2年(1442年)細川持之は隠居し翌年死去、7代将軍となった義教の嫡子である9歳の義勝も就任1年足らずで急逝した。義勝の同母弟である8歳の足利義政が、管領に就任していた畠山持国邸における衆議により次期将軍に選ばれ、文安6年(1449年)に正式に将軍職を継承した。
管領であった畠山持国は、足利義教に隠居させられていたが、嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還し、義教によって家督を追われた者達を復権させ勢力を拡大した。持国には子がなかったため、弟の持富を養子に迎えていた。しかし、永享9年(1437年)に義夏(後の畠山義就)が生まれたため、文安5年(1448年)に持富を廃嫡して義夏を家督につけた。これは将軍・足利義政にも認められ、義夏は義政から偏諱を授けられている。
そして、畠山持国、足利義政、義政の乳母今参局は一致して斯波氏家臣の争いに介入し、宝徳3年(1451年)の織田郷広の尾張守護代復帰を支援した。しかしこれは越前・遠江守護代甲斐常治の意を受けた日野重子(義政の母)の反対により頓挫した。さらに、畠山家内部でも重臣神保氏・遊佐氏は持富の廃嫡に納得せず、持国の甥で持富の子弥三郎を擁立するべきと主張した(持富は宝徳4年(1452年)に死去)。
このため享徳3年(1454年)4月3日畠山持国は神保国宗を誅殺した。この畠山氏の内紛に対し、細川勝元、山名宗全、そして畠山氏被官の多くが、勝元と宗全の下に逃れた畠山弥三郎・政長兄弟を支持し、8月21日に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃した。難を逃れた畠山持国は8月28日に隠居させられ、義就は京都を追われ、足利義政は弥三郎を家督継承者と認めなくてはならなかった。一方で、弥三郎を匿った細川勝元の被官の処刑も命ぜられ、喧嘩両成敗の形も取られた。しかし山名宗全はこの命令に激怒し、処刑を命令した義政とそれを受け入れた勝元に対して反発した。足利義政は宗全追討を命じたが、細川勝元の嘆願により撤回され、宗全が但馬国に隠居することで決着した。12月6日に宗全が但馬国に下向すると、13日に義就が軍勢を率いて上洛して弥三郎は逃走。再び畠山義就が家督継承者となった。
なお、文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。
翌享徳4年3月26日(1455年4月12日)に畠山持国は死去し、畠山義就が畠山氏の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である山城国木津を攻撃、細川勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で山名宗全は、長禄2年(1458年)に赦免され、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった。長禄3年(1459年)には弥三郎が赦免され、上洛を果たしたがまもなく死去。代わって政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立された。
寛正元年(1460年)9月20日には義政によって政長の畠山氏家督が認められ、義就は追放された。義就は河内嶽山城に籠もって徹底抗戦を図ったため義政は追討軍を発し、義就を攻撃させた(嶽山城の戦い)。しかし義就は寛正4年(1463年)4月15日まで攻撃を耐え抜き、嶽山城が落城した後は紀伊国、次いで吉野へ逃れた。
一方、関東では、享徳3年(1455年)に幕府に叛旗を翻し享徳の乱を起こした鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏を討伐するため、長禄元年(1457年)足利義政は、異母兄の足利政知を新たな鎌倉公方として関東に派遣したが、政知は鎌倉へ下向できず、長禄2年(1458年)伊豆国堀越に留まった(後の堀越公方)。足利義政は斯波義敏を始めとする成氏追討軍を派遣しようとしたが、義敏が執事の甲斐常治と内乱を起こしたため更迭、息子の松王丸(義寛)を斯波氏当主に替えた。さらに寛正2年(1461年)、足利義政は斯波氏の家督を松王丸から、足利政知の執事である渋川義鏡の子・斯波義廉に替え、堀越府の軍事力強化を企図した。しかし、渋川義鏡が扇谷上杉家の上杉持朝と対立し、その後失脚したため、足利義政は斯波義敏の復権を画策した。
畠山氏や斯波氏の他にも、富樫氏、小笠原氏、六角氏でもお家騒動が起こっている。幕府はこれらの調停も行ったが、対応が首尾一貫せず、守護家に分裂の火種を残した。この政策は、室町幕府政所執事であり、義政側近の伊勢貞親が、将軍権力の向上を企図して主導したものであった。さらに、寛正4年(1463年)8月、義政の母日野重子が没し、大赦が行われ、畠山義就、武衛騒動で失脚した斯波義敏ら多数の者が赦免された。
この前後の一貫性のない幕府・朝廷の対応を興福寺別当尋尊は「公武御成敗諸事正体無し」と批判している。しかし、この大赦には、斯波義敏の妾と伊勢貞親の妾が姉妹であることや、細川勝元への牽制などの動機があった。ところが、この伊勢貞親の政策の裏では、中央から遠ざかっていた山名宗全が斯波義廉に接近、畠山義就、伊予国や安芸国で細川勝元と対立する大内政弘とも提携、反勢力の中核となっていった。
また、嘉吉の乱鎮圧に功労のあった山名宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが長禄2年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減のため、長禄の変で赤松氏遺臣が功績を立てたことを根拠に赤松政則を加賀守護職に取り立てたことから両者は激しく対立した。
後に勝元が養子で宗全の末子豊久を廃嫡したことが応仁の乱の一因となったともされる。
足利義政は29歳になったが今だ子はなく、生存している足利宗家の男子は3名のみと断絶が危惧される情勢にあった。寛正5年11月26日(1464年12月24日)、義尋は還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。まもなく義視は、義政の正室日野富子の妹である日野良子を妻に迎えたが、これは義政と富子のとりもちによるものであった。『応仁記』一巻本には義政が「男子が生まれても僧門に入れる」と義視に約束したという記述があるが、確証はない。
寛正6年11月23日(1465年12月11日)、義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生する。義尚は出生当時から「世嗣」として扱われていたが、義視の後継者待遇も変わらずに順調に昇進を続けており、20歳以上離れた義尚後継までの中継ぎとして扱われていた。
富子の依頼により山名宗全が義尚の後見人とされたという『応仁記』一巻本・三巻本の記述が従来の通説であったが、近年では反証もあげられている。実際に義尚の後見人であったのは「御父」とされた義政側近の伊勢貞親であり、むしろ宗全は赤松政則を支援する義政側近と敵対していたため、義政の早期隠退と義視の将軍就任を望む立場であった。また『大乗院寺社雑事記』には義視と宗全が共同して義就を支援していた記述が見られる。更に、細川・山名の両氏が対立関係となるのは寛正6年(1465年)から文明6年(1474年)までであり、勝元と宗全の対立を乱の原因とする理解は、『応仁記』一巻本・三巻本の叙述によるものであるとの見解も提起されている。
文正元年(1466年)7月23日、足利義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を突然、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。さらに8月25日には越前・尾張・遠江守護職を義敏に与え、義廉を討つよう命じている。しかし勝元はこれを拒否し、宗全も義廉について戦うと表明した。貞親ら側近衆は守護大名の抵抗により窮地に追い込まれた。
9月5日、伊勢貞親が義政に義視の誅殺を訴える事件が発生した。義政は一旦これを認めたが、9月6日に義視は居館であった今出川殿を脱出し、宗全の屋敷を経て勝元の屋敷に移った。勝元は宗全と協力して足利義視の無実を訴えた。これを受けて義政は伊勢貞親を切腹させるよう命じた。貞親は逃亡し、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則も失脚して都を追われた。有力な側近を失った義政の影響力は著しく低下し14日に斯波家の家督は斯波義廉に戻された。
文正元年(1466年)12月、7年前の追放以来畿内近国で抵抗・逃亡を続けていた畠山義就が大軍を率いて上洛し、千本地蔵院(京都市北区)に陣取った。これまで連携していた細川勝元と山名宗全であったが、畠山氏の継承問題を巡っては立場を異にしていたため、両畠山の抗争が再び中央に持ち込まれ緊張が高まると対立するようになる。
年が明けて1月2日(1467年2月6日)、将軍義政は正月の恒例である春日万里小路の畠山邸(政長側)への御成を取り止めて室町第に義就を招き、さらに追い討ちをかけるように山名邸の酒宴に出席して義就・宗全側を支持する姿勢を示した。1月6日には政長の管領職を罷免し、畠山邸を義就へ明け渡すよう命じた。これに対して勝元は室町第を包囲して将軍から義就追討令を得ようと企図したが、勝元夫人(宗全の娘)が事前に宗全に情報を漏らしたため、宗全・義就・斯波義廉(管領)が先手を打って室町第を占拠し、勝元側は御所巻に失敗した。
1月18日(2月22日)、政長は自邸に火を放って上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷き抗戦の構えを見せた。義就は天皇や上皇らも室町第に避難させて将軍とともに抱え込み、勝元・政長・京極持清の兵がこれを御所巻にした。ここに至って将軍義政は畠山氏の私闘への関与を禁じたが、宗全や山名政豊(宗全の孫)・斯波義廉・朝倉孝景(斯波氏宿老)らはこれに取り合わず義就に加勢した。義政の命に従って政長への加勢を止めた勝元は「弓矢の道」に背くものとして非難を受けた。義就側は釈迦堂から出兵して御霊社の政長軍を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけて自害を装い逃走した。勝元邸に匿われたといわれる。
山名宗全らが室町第を占拠したことで幕府中枢から排除された格好となった細川勝元は、御霊合戦の後も没落せずなお京都に留まり続けていた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていたが、勝元も代々管領職を務める細川京兆家当主の立場で独自に(管領の職務である)軍勢催促状や感状の発給、軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行った。そして四国など細川氏一族の分国からも兵を京都へ集結させるなどしたため緊迫した状態が続いた。3月5日に改元されて後の応仁元年(1467年)4月に細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。また細川方の兵は宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。
宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上の兵力だったというが、これは誇張と考えられる。京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。守護分国の分布では、東軍が細川氏一族の畿内と四国に加えその近隣地域の自派の守護、西軍は山名氏の他に細川派の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は細川氏・畠山政長・京極持清・武田信賢に文正の政変で失脚した赤松政則・斯波義敏を加えた顔ぶれで、西軍の主力は山名氏・斯波義廉(管領)・畠山義就・一色義直・土岐成頼・大内政弘であった。
応仁元年(1467年)5月、東軍はかつての播磨守護赤松氏の一門赤松政則が山名分国の播磨国に侵攻し奪還した。また武田信賢・細川成之らが若狭国の一色氏の領地へ、斯波義敏が越前国へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃している。
そして、5月26日に京都での戦いが始まる(上京の戦い)。夜明け前、東軍は成身院光宣(興福寺衆徒)が室町第西隣の一色義直邸に近い正実坊を、武田信賢が実相院を占拠した。武田信賢・細川成之の軍が続いて一色邸を襲撃し、義直は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。細川勝元は戦火から保護するという名目で室町第を押さえて将軍らを確保し、自邸(今出川邸)に本陣を置いた。勝元は匿っていた畠山政長を含む自派の諸将兵に応じるよう呼びかけた。また西軍についた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された。
京都で開戦した26日、西軍は斯波義廉(管領)配下の朝倉・甲斐氏の兵が山名宗全邸南側の細川勝久邸を攻めて細川勢と激戦を展開し、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。東軍の赤松政則は南下して正親町を通り、猪熊に攻め上って斯波勢を退け、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之邸に逃げ込んだ。西軍は勝久邸を焼き払い、さらに成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿・革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが東軍の抵抗で勝敗は決せず、翌日両軍は引き上げた。この合戦による火災のため、京都は北の船岡山から南の二条通りまでの一帯が延焼した。将軍義政は28日に両軍に和睦を命じ、勝元の行動を非難しながら、義就には河内下向を指示し、また伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど乱の収束と復権に向けた動きを取っていた。
ところが6月3日に勝元の要請によって将軍の牙旗が東軍に下され、足利義視が総大将に推戴されたことで、戦乱は拡大する方向に向かっていく。東軍は軍事行動を再開し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに将軍義政が降伏を勧告すると斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもったが、東軍は義廉邸も攻撃した。京都は再び兵火に巻き込まれ、南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。義廉・六角高頼・土岐成頼はいったんは降伏の意向を示したが、東軍に激しく抗戦する朝倉孝景(斯波氏宿老)の首級を条件とされたため断念した。
西軍は6月14日に大和国の古市胤栄、19日に紀伊国の畠山政国などの援軍が到着し始めたが、8月23日に周防国から大内政弘が伊予国の河野通春ら7か国の軍勢1万と水軍2千艘を率いて入京して勢いを回復した。同日天皇・上皇が室町第に避難し、一郭が仮の内裏とされた。一方では足利義視が伊勢貞親の復帰に危険を感じて出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡した。この頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。
大内政弘は8月中に船岡山に陣取った。9月1日に攻めかかった武田勢を畠山義就・朝倉孝景が追い出し、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った。6日に将軍義政は再度義就の河内下向を命じたが、義就は従わず戦いを続けた。9月18日に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、10月3日に発生した相国寺の戦いは激戦となり両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、焼亡した相国寺跡には斯波義廉が陣取り、また義就は宗全邸の西に進出し、東軍は劣勢に立たされた。
朝廷においては10月3日に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したほか、12月5日(12月31日)に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠・光忠父子・阿野季遠・清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは富子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。
応仁2年(1468年)3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。5月2日に細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に勝元が宗全の陣を、8月1日に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。
管領斯波義廉は西軍に属したものの、将軍義政から直ちに解任されなかった。将軍が主宰する御前沙汰なども管領不在のまま行われていた。だが、応仁2年(1468年)、幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に義廉は和睦を提案し、山名宗全と畠山義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、7月10日に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる。
応仁2年(1468年)9月22日、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は足利義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏10月16日には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、11月10日には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。11月23日(12月19日)、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。
一方で幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく。
大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国は西軍によって制圧されつつあり(西岡の戦い)、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。このため東軍は反大内氏の活動を活発化させた。文明元年(1469年)には九州の大友親繁・少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(1470年)2月には教幸自身が反乱を起こしている。しかしいずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。
これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった。
東軍は将軍義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して官軍の体裁を整え、西軍は賊軍の立場に置かれていた。しかし、正親町三条家・阿野家・葉室家などのように将軍姻戚の日野家と対立する公家の一部は義視とともに西軍に投じており、さらに西軍は「西陣南帝」と呼ばれた小倉宮後裔を担ぐなど朝廷も一時分裂状態に陥った。
宗教勢力の動きでは蓮如率いる浄土真宗本願寺派の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・富樫政親の要請を受けて下間蓮崇率いる一向一揆が政親方に加担。本願寺派と敵対する浄土真宗高田派と結んだ西軍の富樫幸千代と戦い、翌文明6年に幸千代を破っている。ただこの一件が後に加賀一向一揆を勃発させる遠因となった。
関東や九州では鎌倉公方や少弐氏らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、大乱以前から長い戦乱状態にあった。室町幕府が直轄しない関東八ヶ国及び伊豆・甲斐(鎌倉府管轄)は享徳の乱の最中にあったが、将軍義政が送り込んだ堀越公方に対し、古河公方側が西軍と連携する動きもあった。文明7年には関東管領上杉顕定の後見人の越後守護上杉房定(実父)が西軍の能登守護畠山義統とともに東軍の畠山政長が領する越中を攻撃している。
下表に東軍(細川方)と西軍(山名方)それぞれに参加した大名や国人を列挙する。
※◆は西軍から東軍へ寝返った武将、★は東軍から西軍へ寝返った武将、×は応仁の乱終戦までに死去した武将を示す。
その他
文明3年(1471年)5月21日、斯波義廉(前管領)の宿老で西軍の主力であった朝倉孝景が、義政による越前国守護職補任を受けて東軍側に寝返った。本来越前守護職は斯波氏のものであったが、これが臣下のはずの朝倉氏に与えられ越前一国の支配権を公認された形となった、まさに下剋上である。西軍の主力の移籍により、東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕すらも生まれた。一方で西軍は8月、擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して「新主」とした(西陣南帝)。同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった。
文明4年(1472年)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。開戦要因の一つであった山名氏の播磨・備前・美作は赤松政則に全て奪還された上、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗した。3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した。5月には宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲り隠居する事件が起きたが、桜井英治はこれを手打ちの意思を伝えるデモンストレーションであったと見ている。
12月19日(1474年1月7日)には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。幕府では文明3年に長らく空席だった侍所頭人(所司)に赤松政則が任ぜられ、政所の業務も文明5年になると政所頭人(執事)伊勢貞宗によって再開されるなど、幕府業務の回復に向けた動きがみられた。管領は義尚の将軍宣下に合わせて畠山政長が任じられたものの、一連の儀式が終わると辞任してしまい、再び空席になってしまったために富子の兄である公家の日野勝光が幕府の役職に就かないまま、管領の職務を代行した。一方で富子の勢力が拡大し、義政の実権は失われていった。
文明6年(1474年)3月、義政は小河に建設した新邸に移り、室町第には富子と義尚が残された。興福寺別当尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、公方(義政)は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の時の如くなり」と評している。だが、義政の大御酒が平時と異なったのは、室町第に退避していた後土御門天皇もその酒宴に加わっており、幕府のみならず朝廷の威信の低下にもつながる事態となっていた。
文明6年4月3日(4月19日)、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃した。さらにこの頃、西軍の一色義直の子義春が義政の元に出仕し、丹後一色氏も東軍に帰順した。その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘・土岐成頼を中心に惰性的な小競り合いを続けていた。また、赤松政則は和睦に反対し続けていた。
一方、西軍の土岐成頼の重臣で従三位の奉公衆斎藤妙椿も文明6年の和睦に反対し、美濃の兵を率いて近江・京都・伊勢に出兵した。更に越前にも出兵し、同年6月に西軍の斯波義廉の重臣甲斐敏光と東軍に寝返っていた朝倉孝景を停戦させている。
文明7年(1475年)2月、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命された。西幕府の管領で敏光の主君であった斯波義廉も同年11月、守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶った。しかし和平工作を行っていた日野勝光が死去したため、和睦の流れは一時頓挫した。翌文明8年(1476年)9月には、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速した。
主戦派の畠山義就は大内政弘の降伏によって孤立することを恐れ、文明9年(1477年)9月22日に河内国に下国した。11月3日、大内政弘は東幕府に正式に降参し、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された。大内軍が11月11日(1477年12月16日)に京から撤収し、能登守護の畠山義統や土岐成頼も京の自邸を焼き払って帰国した。義視・義材(後の10代将軍)親子は正式な赦免を受けないまま、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した。こうして西軍は解体され、9日後の11月20日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ京都における大乱の幕が降ろされた。なお、西陣南帝は「諸将みな分国に帰り、京都に置き去りにされてしまわれた」とされているものの、その後の消息は不明。
この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵されていた。
西軍が消滅したとはいえ、それは単に京都での戦闘が終結したということに過ぎなかった。畠山義就は京都での退去後にも幕府の命令に従わず、河内国を占拠して政長方を駆逐し、続いて大和国に侵攻した。さらに義就は政長が守護を務めていた山城国に侵攻した。文明14年(1482年)末から文明15年(1483年)にかけては義就が宇治以南の南山城を占拠し、幕府の命令が届かない状態となった。将軍義尚や富子は政長を見限って義就を赦免しようとしたが、義政の反対で中止された。ついに文明16年(1484年)には政長の守護職を解き、幕府の直轄(御料国)としたが、戦乱はなおも続いた。
文明17年(1485年)7月、義就方の斎藤彦次郎が政長方に寝返ったことにより、義就方と政長方の大軍が対峙することになった。しかし山城国の国人が団結し、撤退しなければ攻撃すると両軍に通達し、義就・政長らは山城国より撤退した。以降、国人たちは山城国一揆を組織し、一種の自治的な政権をつくることとなる。一方で義就は山城国より撤退したことが評価され、文明18年(1486年)3月に義政と義尚から正式に赦免され、応仁の乱の戦後処理はここに完了した。
応仁の乱は幕府権力が崩壊した戦国時代の始まりであるとの説が通説であったが、近年では幕府の権威は明応の政変頃まで一応保たれていたという見解もあり、明応の政変以降を戦国時代の始まりととらえる説もある。とはいえ、応仁の乱以降身分や社会の流動化が加速されたことは間違いない。
東洋史学者の内藤湖南は講演『応仁の乱に就て』において、応仁の乱前後を「最も肝腎な時代」であると指摘し、「大体今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知つて居つたらそれで沢山です」と発言し、古代史学者との間に論争を巻き起こした。なお後述するように歴史資料が失われたことで、応仁の乱以前には不明な点も多い。
応仁の乱により、多賀高忠、浦上則宗、斎藤妙椿、尼子清定など、守護家に迫る勢力を有する国人が台頭した。また、東西両軍は味方を得るために、それまでの家格を無視した叙任を行った。西軍は一介の国人であった越智家栄を大和守護に任命し、東軍は西軍の有力武将だったが守護代でもなかった朝倉孝景を越前守護につけた。
文明7年、能登守護畠山義統と越後守護上杉房定が政長の分国越中を侵略した際には、足利義政が「諸国の御沙汰は毎事力法量(諸国の沙汰は力次第である)」と述べ、守護が他国を侵略することも是認された。このため室町幕府の家格秩序は崩壊し、身分秩序が流動化することになった。また長期にわたる京都での軍事活動により、守護の財政は逼迫した。権威と財政を失った守護は、国人や家臣団に対する支配力を著しく低下させた。国人や家臣は守護の影響を排除して自らの地盤を固め、領主化していった。
それまで在京が原則であった守護は自らの領国を守るため下国し、守護代に任せていた領国経営を自らの権威により行おうとした。これにより守護は幕府の統制を離れ、幕府は段銭などの徴収がままならなくなった。いくつかの守護は領主化を強化することで戦国大名へと成長することが出来たが、既に乱の最中に守護代や家臣に権力を奪われた者もおり、没落した守護も多かった。この従来の家格秩序を破る風潮は下克上と呼ばれ、戦国時代を象徴する言葉となる。
また、守護在京制の崩壊により、文明18年(1486年)には京都に残る守護が摂津・丹波を基盤とする細川氏一門のみとなった。守護の協力を得られなくなった幕府は、将軍近臣の奉公衆や奉行衆による運営を余儀なくされ、畿内政権としての道を歩み始めた。その一方で、細川勝元が幕府を西軍方に占拠されていた時に始めた、細川京兆家当主としての軍勢催促状などの軍事決裁行為が管領復帰後も継続され、勝元没後に管領となった畠山政長も義就との戦いのためにほとんど在京しなかったために、勝元の子政元が細川政国の後見を受けて同様の措置をもって幕府の軍事行動を指揮したため、細川京兆家が本来管領が有していた幕府の軍事的権限を行使するようになった。やがて細川氏と幕府の利害が対立し、明応の政変とその後の京兆専制を招くことになる。
領主化を推進する守護や国人によって一円知行化が進められ、公家や寺社の荘園は横領された。さらに幕府の権威低下により、遠国など幕府の権力が届かない地域の荘園・国衙領支配は絶望的になり、荘園制度の崩壊が加速した。収入を断たれた公家は没落し、朝廷行事や官位昇進への興味も失った。甘露寺親長は日記に「高官無益なり」と書き記し、文明5年には顕官である近衛大将の希望者が現れないという事態が発生している。前関白一条教房のように京都を去る公家や、町広光のように家を意図的に断絶させる公家まで現れた。また、西軍について失脚した西川房任の子孫が細川高国に仕えて薬師寺国長の寄子に付けられるなど、生活が立ち行かなくなって公家身分を棄てる例もあった。更に朝廷収入も激減し、即位礼や大喪の礼などの儀式を行うことも困難となった。このため戦国期には献金による売官が行われるようになった。これは京都文化が地方に伝播する一因ともなった。
文明2年頃には戦火で京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失し、罹災を免れたのは土御門内裏などわずかであった。このため類聚国史(一部)など京都にあった歴史的資料の多くが焼失・散逸し、これ以前の歴史研究に影響を及ぼした。
京都七口関は両軍の争奪戦となり、物資の流入も停滞した。さらに足軽の放火・略奪が追い打ちをかけ、京都の大半の人々は大いに困窮した。また文明5年には疫病が流行し、宗全や勝元も命を落とした。
しかし、義政はこれを顧みず日夜酒宴に明け暮れ(ただし、これは将軍御所に退避した天皇に対する饗応の意味もある)、小河邸や東山山荘を造営した。また富子は困窮した東西軍の守護に金銭を貸し付けるほか、米の投機を行って大いに利益を上げた。
寺社、公家、武家屋敷があった上京が焼け、商工業者が居住していた下京が焼け残ったことは、その後の京都の商業勃興をもたらした。
応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった周辺都市や地方の所領などに疎開していった。応仁の乱後の文明11年(1479年)に室町殿や内裏の造営が開始されたが、都市の荒廃による環境悪化によって疫病や火災、盗賊、一揆などの発生が頻発したこと、加えて在京していた守護大名やその家臣達(都市消費者として一定の役割を果たしていた)が領国の政情不安のために帰国したまま帰ってこなかったこともあり、京都の再建は順調とは言えなかった。また、こうした災害を理由とした改元(長享・延徳・明応)が相次いだ。
将軍義政は、義教の死後中断していた勘合貿易を宝徳3年(1451年)に復活させた。勘合貿易の復活や側近の守護大名及び幕府官僚の財政再建によって、応仁の乱前の幕府財政は比較的安定してはいた。だが、義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった。
一方で、町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられる。また、当時町衆における法華宗の受容も、社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられる。
それでも明応7年(1498年)頃より京都の住民に対する地子銭徴収が次第に増加していったこと、永正5年(1508年)以後の酒屋役徴収の強化命令が幕府から出されている事からこの時期に京都の人口回復が軌道に乗り出したと考えられ、明応9年の祇園祭の前後数年間が京都の本格的な復興期と考えられている。
応仁の乱の戦いで特徴的とされるものは、正規の武士身分ではない足軽の活躍である。それまでは騎乗の権利の有する正規の武士が、少数の従卒を率いる小グループ同士の戦いであり、戦いの進行も名乗りを上げた後、騎射、馬上で薙刀などを使う打物戦、最後に下馬しての徒戦という順に進んでた。
応仁の乱は大規模な戦闘が続いたことで兵力不足に悩んだ両軍は、兵站や土木作業に従事する足軽を戦力に加えた。足軽は技量が低い者も多く、それまではタブーであった馬への攻撃も行われた。主力武器も個人戦向けの薙刀から、集団戦に適した槍へと移行した。
東軍の足軽大将骨皮道賢や西軍の御厨子某は、後方攪乱として足軽によるゲリラ戦を行って名を上げるなど散兵も活用された。
足軽は盗賊などの無法者を多く含んでおり、高い自立性を持っていた。彼らは異形の装いをし、市街の放火や略奪を頻繁に行った。このため一条兼良は『樵談治要』において「洛中洛外の諸社諸寺五山十刹公家門跡の滅亡は彼らが所行なり」と非難している。一方で東寺などの権門寺社も自衛のために足軽を雇用することもあった。
乱のきっかけは畠山義就を山名宗全が支援したことであるが、何故ここまで乱の規模が拡大し、長期間継続したのかという問題には様々な解釈が建てられている。
多くの大名には陣営を積極的に選ぶ理由はほとんど無かった。富子は義視が西軍に逃亡した後も土御門内裏が炎上しないように西軍の大内政弘と連絡を取り合っているなど、将軍継嗣の問題だけでは説明がつかないという見方もある。永原慶二は幕政の中心人物である勝元と宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は戦わざるを得なくなったとしており、戦い自体にはさしたる必然性もなく、戦意がない合戦が生み出されたとしている。
当時の人々も理解できなかったらしく、尋尊は「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と「尋尊大僧正記」に記している。
応仁の乱が描かれた代表的な軍記物としては、『応仁記』『後太平記』『瓦林正頼記』などがある。特に、著名な軍記物語である『応仁記』は、細かい描写がなされて乱の研究に欠かせない史料であるが、儒教的色彩が濃く、幾つかの誤りが指摘されるようになった。実子・足利義尚の将軍職擁立を切望する日野富子が山名宗全に依頼し、足利義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍したという説は誤りであるとされ、富子が乱の元凶であったとする説を現在にまで流布させる要因となった。
摂津・河内・和泉(摂河泉と呼ばれる)3ヶ国のうち摂津・和泉は細川氏が、河内は畠山氏が守護を務めていた。しかし、畠山氏がお家騒動で混乱し、応仁の乱で大内政弘が西上して京都の戦闘が各地に及ぶと、近郊の摂河泉は東西両軍の衝突地域となっていった。また、山城国は畠山氏の領国であるが、細川勝元が畠山持国への対抗から山城国人を被官に加え、畠山持国の弱体化を目論みお家騒動を煽った影響で山城国は義就と政長どちらに付くかで分裂した。
畠山義就は乱直前の足利幕府への工作で守護職を取り戻し、御霊合戦で畠山政長を破り立場を固めた。ところが、政長を援助していた細川勝元が諸国の軍勢を動員すると、幕府から守護職を取り上げられ政長に替えられ、再び地位を失うと義就は実力行使で領国奪取に動いた。一方、大内軍は上洛して西軍の主力として京都で東軍と戦っていたが、文明元年4月に義就が山城国西岡を攻めて陣取っていた西軍を丹波国へ追い落とし(西岡の戦い)、山城勝竜寺城へ入って摂津・丹波付近を伺うようになると、大内軍も7月に摂津国へ侵攻して諸城を落とし、摂津の殆どを制圧した。しかし、池田城だけは城主の抵抗で持ちこたえ、10月に山名宗全の次男の山名是豊と赤松政則が東軍の援軍として大内軍を撃破して兵庫を奪還したため、大内政弘は池田城の包囲を解いて東軍迎撃に向かった。これに対し、是豊は摂津神呪寺に着陣して大内軍と戦い、その後は東進して摂津と山城の国境の山崎に布陣した。
文明2年1月から4月にかけて山崎の是豊と勝竜寺城の義就が交戦したが決着は着かず、5月に東軍の裏工作で摂津国に留まっていた大内政弘の家臣仁保弘有が寝返り、直後に茨木城と椋橋城が東軍に奪回され反撃の契機となった。一方、大内政弘は南山城の木津川流域を攻撃目標として7月に八幡へ進出して木津を除く南山城を制圧した。だが、木津に拠点を構える東軍の抵抗は激しく、大内軍は木津を奪えないまま下狛(精華町)に待機して一進一退の状況を続けていった。義就は8月に山城国から大和国を経て河内国へ侵攻、若江城と誉田城を包囲したが落とせず撤退、山名是豊は領国の備後で西軍が蜂起したため12月に下向していった。山城国は山名是豊が東幕府から守護に任じられていたが、大内軍による南山城の占拠や是豊が備後国への撤退後は義就が実力で山城を支配することになり、守護でないにもかかわらず義就は山城国を実質上占領下に置いた。
文明3年6月、大内軍と畠山軍が合流して摂津・和泉に侵入したが、敵の反撃で失敗、以後畿内で大きな戦闘はほとんど行われず、文明4年10月に木津から出陣した東軍は大内軍の反撃で退散、文明7年4月に大内軍が木津へ攻撃して失敗したことが挙げられる程度であった。文明8年に政長は家臣の遊佐長直を河内国に下向させて若江城に赴任させたが、義就は翌文明9年9月に河内へ向かい、9月から10月にかけて若江城を始めとする河内の諸城を陥落させ長直を追放、河内を制圧した(若江城の戦い)。大内軍も呼応して木津を落としたが、大内政弘は幕府と和睦して11月に帰国したため、木津と摂津は東軍の手に戻された。以後、南山城は政長を始めとする幕府が領有したが、河内は守護ではない義就が占拠した状態が続いていくことになる。
大和国も畠山持国の影響力が強かったため、大和国人もお家騒動で互いに敵対していった。義就に就いた国人は越智家栄・古市胤栄で、政長には筒井順永・成身院光宣・十市遠清・箸尾為国らが味方した。光宣は乱勃発直後から政長に仕え、御霊合戦後に政長を勝元の屋敷へ手引きして、文明元年に亡くなるまで東軍に属していた。古市胤栄は義就に手助けすべく応仁元年6月に上洛したが、他の国人衆は表立って活動は行わなかった。
事態が動いたのは文明2年に大内軍が摂津国から南山城へ南下した時で、山城国と大和国を結ぶ重要拠点の木津を大内軍が攻めてきたため、筒井順永は木津防衛に向かい大内軍の進出を阻止した。一方、越智家栄は義就の河内侵攻に参加、古市胤栄は下狛の大内軍陣地に合流して順永と交戦、文明3年になると十市遠清も東軍方として動き、1月に近江の東軍を助けて西軍の六角高頼軍を撃破、6月に順永・遠清・箸尾為国が畠山軍の河内侵攻を阻止するなど大和国人の殆どが乱に参戦するようになった。
文明4年10月に順永は下狛の大内軍に夜襲を仕掛けたが逆襲に遭い敗走、文明5年の和睦でも戦乱は止まず、文明6年になると大和国人衆の紛争が続出して戦乱は大和に拡大していった。文明7年4月に大内軍の木津攻撃を順永が撃退、5月に大和春日社頭で順永・遠清・為国ら東軍と家栄・胤栄ら西軍が衝突して東軍が勝利、古市胤栄は敗北の責任を取り隠居、弟の澄胤に家督を譲った。また、文明8年に筒井順永が亡くなり嫡男の順尊が後を継いだ。
文明9年に義就が河内国に侵攻・制圧すると大内軍も木津を攻撃し、木津を守る順尊ら政長派は木津を放棄、本拠地も失い没落したため、戦乱の末に大和国は越智家栄・古市澄胤ら義就派が勝利して大和は義就の手に入った。大和国は興福寺が支配していたが、大乱に伴う分裂で国人衆の台頭を抑えられず権威が下降した。興福寺別当の尋尊は日記で戦闘を詳細に書き記す一方で、混乱を収められない無力さを嘆いている。以後、没落した政長派は潜伏して遊撃兵として義就派への抵抗を続け、大和は義就派と政長派が抗争を繰り返していった。
近江国は京極氏と六角氏それぞれが治めていたが、六角氏も幕府の介入でお家騒動が悪化・分裂したため京極持清が東幕府の支援を得て近江の六角高頼を攻撃、高頼は美濃国の斎藤妙椿の後ろ盾で対抗していった。京極持清・勝秀父子は高頼の従兄の六角政堯と共に高頼の居城である近江観音寺城に度々攻め入り、高頼も応戦した。美濃国では守護の土岐成頼は西軍に加わるため上洛、守護代の斎藤利藤は幼いため叔父の斎藤妙椿が後見役として実質的に美濃を治めていたが、西美濃の国人長江氏・富島氏は京極氏と組んで妙椿に反乱を起こした。
美濃国の内乱は応仁2年までに妙椿に鎮圧されたが、近江国は決着が着かず一進一退、観音寺城が東軍に奪われては西軍に奪回されることが繰り返されていった。しかし、応仁2年に勝秀が死去、続いて文明2年に持清も亡くなり京極氏はお家騒動で2つに割れて弱体化(京極騒乱)、勝秀の弟政光と家臣の多賀清直・宗直父子は勝秀の遺児乙童子丸を擁立して西軍に寝返り、政光の弟政経と多賀高忠は乙童子丸の弟孫童子丸を擁立して争った。文明3年に政堯が高頼に討ち取られると戦況は西軍に傾き、文明3年と4年に妙椿が高頼に援軍を派遣して東軍を圧迫する。文明5年3月に宗全が亡くなると、妙椿は上洛して宗全に代わる西軍の指導者に成り上がった。
追い詰められた東軍は、信濃国の小笠原家長・木曾家豊に美濃の背後を突くよう要請、合わせて富島氏の再起を促し挟撃を図った。妙椿は直ちに反乱を押さえ伊勢国に出陣して東軍を牽制し、11月に出陣した小笠原家長らに東美濃を占拠されるという痛手を被ったが、文明7年1月に妙椿は信濃勢に勝利してそれ以上の侵略を阻止した。一方、京極氏は文明3年に孫童子丸が、4年に政光が没して政経が当主となったが、乙童子丸・清直父子が北近江、高頼が南近江を確保していたため東軍は劣勢となった。
そして、文明7年10月に近江国で決戦となり、妙椿の援軍と合流した高頼が勝利を収め、近江における戦乱は終結した。幕府も乙童子丸・清直父子と高頼及び成頼・妙椿らと文明10年(1478年)に和睦してそれぞれの支配を認めた。しかし、京極騒乱は収まらず政経は抵抗を続け、幕府も後に態度を翻して近江出兵を強行したり(長享・延徳の乱)、乙童子丸から家督を取り上げ政経に与えたりしていた。美濃国でも妙椿没後に実権を握った甥の妙純と利藤が争ったり(文明美濃の乱)、成頼の後継者を巡り内乱が発生したため(船田合戦)、近江と美濃の戦乱はなおも続いていくことになる。
越前・尾張・遠江3ヶ国は斯波氏領国であるが、畠山氏と同じくお家騒動と家臣団の内乱で戦争状態となっていた。義敏は乱直前に3ヶ国守護に復権したが、文正の政変で守護職を失い義廉が守護に戻った状態で乱が勃発、義敏は越前国に入り義廉派と交戦、義廉は京都で家臣の朝倉孝景・甲斐敏光らと共に東軍と戦っていた。特に朝倉孝景の活躍は目覚しく、御霊合戦では義就に加勢して政長軍を破り、一条大宮の戦いでも戦果を挙げて東軍から討伐対象に挙げられていた程であった。
しかし、朝倉孝景に対して東軍が応仁2年から内応工作を始めると、孝景は閏10月に義敏征伐を口実に越前国に下る一方で東軍と裏交渉を行い、文明3年5月21日に孝景の越前守護職任命を記した足利義政と細川勝元の書状が届き、孝景は公然と東軍に寝返った。これにより朝倉孝景は斯波義敏と同陣営に属することになるが、両者はかつて長禄合戦で敵対していたため、共同戦線を張れないことを察した足利義政は義敏に中立を命じたため、義敏の家臣が孝景に味方しても義敏本人は合戦に参加しなかった。また、応仁2年に斯波義廉は関東との秘密交渉の発覚で足利義政から管領と守護職を取り上げられ(西幕府では存続)、細川勝元と義敏の息子松王丸がそれぞれ管領と守護職に就任した。甲斐敏光は義廉の陣営に留まっていたが、孝景の寝返りを知ると越前へ下向した。
越前では朝倉孝景と甲斐敏光が中心となり合戦を繰り広げていったが、東幕府の支持を得た孝景が有利であり、文明4年8月に甲斐敏光の本拠地である府中(越前市)を落として甲斐敏光を加賀へ追い落とし、残党も翌文明5年8月の合戦で討ち取った。甲斐敏光は挽回を図り文明6年閏5月に富樫幸千代の援助で再度越前に攻め入るが、朝倉軍に連敗を続けた末に斎藤妙椿の斡旋で孝景と和睦、越前奪還を諦めた。
朝倉孝景の越前統一は間近に迫ったが、文明7年4月に孝景の急成長に危機感を抱いた義敏が大野郡土橋城に籠城して国人二宮氏と結託、孝景は義政から義敏の保護を命じられていたため迂闊に土橋城を攻撃出来ず、大野郡の占拠は長期間に亘った。7月に孝景は二宮氏を土橋城外に誘き出して討ち取り、11月に土橋城の攻撃を開始したため、義敏は観念して12月に降伏、孝景の処置で京都に送り返され越前は孝景に平定された。
甲斐敏光は文明7年2月に松王丸(元服して義良と改名)と共に上洛して足利義政から遠江守護代に命じられ下向、朝倉孝景に続いて甲斐敏光にも見捨てられた斯波義廉は11月に残された領国・尾張に向かったが、尾張でも内乱が発生、文明10年に幕府から反逆者と指名されたのを最後に消息を絶った。遠江では駿河守護今川義忠が東軍の命令を受けて文明5年から遠江へ侵攻していたが、文明7年に甲斐敏光が東軍から守護代に任命されると大義名分を失い、文明8年に今川義忠が戦死すると今川氏は後継者に嫡男龍王丸(後の今川氏親)と従弟の小鹿範満が擁立されお家騒動が発生、遠江侵攻は中断された。
斯波義良は応仁の乱終結後は越前の奪還を図り、文明11年(1479年)に甲斐敏光と二宮氏などを連れて越前に攻め入った。文明13年(1481年)に孝景は亡くなったが、後を継いだ息子氏景は斯波軍を越前から追い出し完全平定を果たした。義良も越前奪回を諦め文明15年(1483年)に尾張へ下向、甲斐敏光も朝倉氏景と和睦して越前は朝倉氏、遠江は甲斐氏、尾張は織田氏がそれぞれ守護代として受け持つことを取り決めた。かくして越前は朝倉氏が実質的に領有を果たし、斯波氏と甲斐氏は尾張・遠江を拠点としたが、やがて今川氏親と織田氏の勢いに押されていった。
播磨・備前・美作は元は赤松氏領だった所を山名宗全・山名教之・山名政清ら山名一族が嘉吉の乱で奪い取った経緯があり、再興を目指す赤松の遺臣達にとって山名氏との衝突は避けられなかった。長禄の変で赤松郎党が手柄を立てたことにより、赤松政則は細川勝元の支援で加賀半国守護に就任して復権の足掛かりを築き、赤松政則は家臣の浦上則宗と共に義政の警固や屋敷建造、土一揆鎮圧などに努め義政の側近として重用された。宗全からは敵視され文正の政変で失脚したが程無く復帰、応仁の乱では在京して則宗と共に西軍と戦った。
播磨3ヶ国では宗全を始めとする山名一族は軍勢を引き連れて上洛したため、好機と捉えた宇野政秀ら赤松氏家臣団は3ヶ国の奪還に動き出した。乱勃発直後の応仁元年5月に宇野政秀は播磨に下向して赤松氏遺臣の蜂起を促し、播磨を手に入れると備前・美作にも侵攻し備前も奪回したが、美作は守護代の抵抗が強く一度敗退、完全平定まで3年後の文明2年までかかった。この間、宇野政秀は文明元年に摂津で山名是豊と合流して池田城の救援に赴き大内軍を撃破、兵庫を奪還している。また、乱における活躍で赤松政則は東軍から3ヶ国の守護に任じられ、赤松氏の再興に大きく前進した。
文明6年に細川氏と山名氏は単独で和睦を結び戦争から離脱した。赤松政則は和睦に反対したが、文明9年の終戦で3ヶ国守護と侍所頭人の地位を保証され赤松氏の再興を果たし、側近の浦上則宗も侍所所司代として赤松氏の重臣に成り上がった。しかし、山名氏は和睦で失った3ヶ国の奪還を狙い、宗全の後を継いだ山名政豊は播磨を伺い、赤松政則も山名氏領国の不満分子を嗾けて反乱を起こさせたため、両者は終結後も3ヶ国を巡り争奪戦を繰り広げていった。
備後は宗全の次男山名是豊が治めていたが、宗全と不仲であった所を勝元に籠絡され、山名氏の大半が西軍に属したのと異なり唯一東軍に与した。安芸国は大内氏と武田氏の対立の場となっていて、安芸国人の殆どを勢力下に収める大内氏に対し、武田氏は大内氏に危機感を抱く細川氏の支援で対抗した。文安4年に安芸国で最初の衝突が発生、これ以後は大内氏が度々安芸に侵攻しては勝元が武田氏と反大内の国人を支援して侵略を阻止していった。伊予国で大内氏が河野氏を支援したことも勝元が大内氏と対立する原因となった。
乱勃発で大内政弘は宗全の要請で領国周防から出陣、応仁元年7月20日に兵庫に上陸して8月23日に上洛、西軍と合流して東軍の脅威となった。対する武田信賢・国信兄弟と毛利豊元・吉川経基・小早川煕平ら反大内の安芸国人は東軍に加わり、是豊も上洛して東軍と合流した。上洛せず安芸・備後に留まった国人勢力も二分されそれぞれ争ったが、備後は宗全の影響力が健在だったため東軍が不利で、応仁2年11月に是豊が一時帰国しなければならない程であった。文明元年に是豊は再び上洛、その途上で摂津の大内軍を破り山崎に布陣して翌文明2年西軍と交戦、備後が西軍の加勢でまたもや劣勢になったため12月に帰国した。一方の武田信賢らは京都に留まり西軍と戦った。
文明3年になると信賢と国信の弟で安芸の留守を守っていた武田元綱が西軍の工作で反乱を起こし、毛利豊元も大内氏に誘われて安芸に帰国すると西軍に寝返り、安芸・備後は西軍有利に傾いた。東軍は国人衆に忠誠を誓わせ寝返り防止に努め、山名是豊も備後で転戦して形勢を立て直そうとしたが、文明5年から文明7年の2年間西軍の小早川弘景ら安芸・備後国人衆が東軍方の小早川敬平が籠城する高山城を包囲したにもかかわらず救援に来なかったことから人望を失い、備後から追放され消息を絶った。文明7年4月23日に安芸・備後の東西両軍は和睦を結び、中国地方の戦乱は終息に向かった。
戦後備後は山名是豊の甥(弟とも)に当たる山名政豊が領有することになり、残党は政豊に討伐された。安芸は武田氏を始め国人が割拠する状態に置かれ、武田元綱は文明13年に信賢の後を継いだ武田国信と和睦、安芸の国人領主として兄から独立し大内氏と友好関係を結んだ。他の国人衆も大内氏との対立を解消し安芸は平穏になったが、戦乱を通して大内氏の影響力は増大、備後で山名政豊と国人が対立して支配が揺らいだため、大内氏と新たに台頭した尼子経久が国人衆を巻き込み衝突していった。
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"text": "応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱。",
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"text": "室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の抗争となり、幕府勢力が東西に分かれて争う戦乱に発展、さらに各々の領国にも争いが拡大する大乱となった。",
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"text": "応仁元年(1467年)に起きたことから一般に「応仁の乱」と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁はわずか3年で文明へと改元された。そのため、近年では「応仁・文明の乱」(おうにん・ぶんめいのらん)と称されることもある。",
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"text": "鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、相次ぐ戦乱の結果、力をつけてきた国人・商人・農民などの台頭によって、その既得権益を侵食されつつあった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は成立当初から将軍の権力基盤は脆弱で、三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)など宿老の影響力が強かった。それは宿老や守護大名も例外ではなく、領国の守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。こうした環境が、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。幕府は、4代将軍足利義持の弟で、籤引きによって選ばれた6代将軍足利義教が専制政治を敷き、守護大名を抑えつけて将軍の権力を強化したが、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に暗殺されてしまう。この混乱を収束させたのは管領細川持之と畠山持国であった。しかし、嘉吉2年(1442年)細川持之は隠居し翌年死去、7代将軍となった義教の嫡子である9歳の義勝も就任1年足らずで急逝した。義勝の同母弟である8歳の足利義政が、管領に就任していた畠山持国邸における衆議により次期将軍に選ばれ、文安6年(1449年)に正式に将軍職を継承した。",
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"text": "管領であった畠山持国は、足利義教に隠居させられていたが、嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還し、義教によって家督を追われた者達を復権させ勢力を拡大した。持国には子がなかったため、弟の持富を養子に迎えていた。しかし、永享9年(1437年)に義夏(後の畠山義就)が生まれたため、文安5年(1448年)に持富を廃嫡して義夏を家督につけた。これは将軍・足利義政にも認められ、義夏は義政から偏諱を授けられている。",
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"text": "そして、畠山持国、足利義政、義政の乳母今参局は一致して斯波氏家臣の争いに介入し、宝徳3年(1451年)の織田郷広の尾張守護代復帰を支援した。しかしこれは越前・遠江守護代甲斐常治の意を受けた日野重子(義政の母)の反対により頓挫した。さらに、畠山家内部でも重臣神保氏・遊佐氏は持富の廃嫡に納得せず、持国の甥で持富の子弥三郎を擁立するべきと主張した(持富は宝徳4年(1452年)に死去)。",
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"text": "このため享徳3年(1454年)4月3日畠山持国は神保国宗を誅殺した。この畠山氏の内紛に対し、細川勝元、山名宗全、そして畠山氏被官の多くが、勝元と宗全の下に逃れた畠山弥三郎・政長兄弟を支持し、8月21日に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃した。難を逃れた畠山持国は8月28日に隠居させられ、義就は京都を追われ、足利義政は弥三郎を家督継承者と認めなくてはならなかった。一方で、弥三郎を匿った細川勝元の被官の処刑も命ぜられ、喧嘩両成敗の形も取られた。しかし山名宗全はこの命令に激怒し、処刑を命令した義政とそれを受け入れた勝元に対して反発した。足利義政は宗全追討を命じたが、細川勝元の嘆願により撤回され、宗全が但馬国に隠居することで決着した。12月6日に宗全が但馬国に下向すると、13日に義就が軍勢を率いて上洛して弥三郎は逃走。再び畠山義就が家督継承者となった。",
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"text": "なお、文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。",
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"text": "翌享徳4年3月26日(1455年4月12日)に畠山持国は死去し、畠山義就が畠山氏の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である山城国木津を攻撃、細川勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で山名宗全は、長禄2年(1458年)に赦免され、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった。長禄3年(1459年)には弥三郎が赦免され、上洛を果たしたがまもなく死去。代わって政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立された。",
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"text": "寛正元年(1460年)9月20日には義政によって政長の畠山氏家督が認められ、義就は追放された。義就は河内嶽山城に籠もって徹底抗戦を図ったため義政は追討軍を発し、義就を攻撃させた(嶽山城の戦い)。しかし義就は寛正4年(1463年)4月15日まで攻撃を耐え抜き、嶽山城が落城した後は紀伊国、次いで吉野へ逃れた。",
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"text": "一方、関東では、享徳3年(1455年)に幕府に叛旗を翻し享徳の乱を起こした鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏を討伐するため、長禄元年(1457年)足利義政は、異母兄の足利政知を新たな鎌倉公方として関東に派遣したが、政知は鎌倉へ下向できず、長禄2年(1458年)伊豆国堀越に留まった(後の堀越公方)。足利義政は斯波義敏を始めとする成氏追討軍を派遣しようとしたが、義敏が執事の甲斐常治と内乱を起こしたため更迭、息子の松王丸(義寛)を斯波氏当主に替えた。さらに寛正2年(1461年)、足利義政は斯波氏の家督を松王丸から、足利政知の執事である渋川義鏡の子・斯波義廉に替え、堀越府の軍事力強化を企図した。しかし、渋川義鏡が扇谷上杉家の上杉持朝と対立し、その後失脚したため、足利義政は斯波義敏の復権を画策した。",
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"text": "畠山氏や斯波氏の他にも、富樫氏、小笠原氏、六角氏でもお家騒動が起こっている。幕府はこれらの調停も行ったが、対応が首尾一貫せず、守護家に分裂の火種を残した。この政策は、室町幕府政所執事であり、義政側近の伊勢貞親が、将軍権力の向上を企図して主導したものであった。さらに、寛正4年(1463年)8月、義政の母日野重子が没し、大赦が行われ、畠山義就、武衛騒動で失脚した斯波義敏ら多数の者が赦免された。",
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"text": "この前後の一貫性のない幕府・朝廷の対応を興福寺別当尋尊は「公武御成敗諸事正体無し」と批判している。しかし、この大赦には、斯波義敏の妾と伊勢貞親の妾が姉妹であることや、細川勝元への牽制などの動機があった。ところが、この伊勢貞親の政策の裏では、中央から遠ざかっていた山名宗全が斯波義廉に接近、畠山義就、伊予国や安芸国で細川勝元と対立する大内政弘とも提携、反勢力の中核となっていった。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "また、嘉吉の乱鎮圧に功労のあった山名宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが長禄2年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減のため、長禄の変で赤松氏遺臣が功績を立てたことを根拠に赤松政則を加賀守護職に取り立てたことから両者は激しく対立した。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "後に勝元が養子で宗全の末子豊久を廃嫡したことが応仁の乱の一因となったともされる。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "足利義政は29歳になったが今だ子はなく、生存している足利宗家の男子は3名のみと断絶が危惧される情勢にあった。寛正5年11月26日(1464年12月24日)、義尋は還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。まもなく義視は、義政の正室日野富子の妹である日野良子を妻に迎えたが、これは義政と富子のとりもちによるものであった。『応仁記』一巻本には義政が「男子が生まれても僧門に入れる」と義視に約束したという記述があるが、確証はない。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "寛正6年11月23日(1465年12月11日)、義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生する。義尚は出生当時から「世嗣」として扱われていたが、義視の後継者待遇も変わらずに順調に昇進を続けており、20歳以上離れた義尚後継までの中継ぎとして扱われていた。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "富子の依頼により山名宗全が義尚の後見人とされたという『応仁記』一巻本・三巻本の記述が従来の通説であったが、近年では反証もあげられている。実際に義尚の後見人であったのは「御父」とされた義政側近の伊勢貞親であり、むしろ宗全は赤松政則を支援する義政側近と敵対していたため、義政の早期隠退と義視の将軍就任を望む立場であった。また『大乗院寺社雑事記』には義視と宗全が共同して義就を支援していた記述が見られる。更に、細川・山名の両氏が対立関係となるのは寛正6年(1465年)から文明6年(1474年)までであり、勝元と宗全の対立を乱の原因とする理解は、『応仁記』一巻本・三巻本の叙述によるものであるとの見解も提起されている。",
"title": "背景"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "文正元年(1466年)7月23日、足利義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を突然、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。さらに8月25日には越前・尾張・遠江守護職を義敏に与え、義廉を討つよう命じている。しかし勝元はこれを拒否し、宗全も義廉について戦うと表明した。貞親ら側近衆は守護大名の抵抗により窮地に追い込まれた。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "9月5日、伊勢貞親が義政に義視の誅殺を訴える事件が発生した。義政は一旦これを認めたが、9月6日に義視は居館であった今出川殿を脱出し、宗全の屋敷を経て勝元の屋敷に移った。勝元は宗全と協力して足利義視の無実を訴えた。これを受けて義政は伊勢貞親を切腹させるよう命じた。貞親は逃亡し、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則も失脚して都を追われた。有力な側近を失った義政の影響力は著しく低下し14日に斯波家の家督は斯波義廉に戻された。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "文正元年(1466年)12月、7年前の追放以来畿内近国で抵抗・逃亡を続けていた畠山義就が大軍を率いて上洛し、千本地蔵院(京都市北区)に陣取った。これまで連携していた細川勝元と山名宗全であったが、畠山氏の継承問題を巡っては立場を異にしていたため、両畠山の抗争が再び中央に持ち込まれ緊張が高まると対立するようになる。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "年が明けて1月2日(1467年2月6日)、将軍義政は正月の恒例である春日万里小路の畠山邸(政長側)への御成を取り止めて室町第に義就を招き、さらに追い討ちをかけるように山名邸の酒宴に出席して義就・宗全側を支持する姿勢を示した。1月6日には政長の管領職を罷免し、畠山邸を義就へ明け渡すよう命じた。これに対して勝元は室町第を包囲して将軍から義就追討令を得ようと企図したが、勝元夫人(宗全の娘)が事前に宗全に情報を漏らしたため、宗全・義就・斯波義廉(管領)が先手を打って室町第を占拠し、勝元側は御所巻に失敗した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1月18日(2月22日)、政長は自邸に火を放って上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷き抗戦の構えを見せた。義就は天皇や上皇らも室町第に避難させて将軍とともに抱え込み、勝元・政長・京極持清の兵がこれを御所巻にした。ここに至って将軍義政は畠山氏の私闘への関与を禁じたが、宗全や山名政豊(宗全の孫)・斯波義廉・朝倉孝景(斯波氏宿老)らはこれに取り合わず義就に加勢した。義政の命に従って政長への加勢を止めた勝元は「弓矢の道」に背くものとして非難を受けた。義就側は釈迦堂から出兵して御霊社の政長軍を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけて自害を装い逃走した。勝元邸に匿われたといわれる。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "山名宗全らが室町第を占拠したことで幕府中枢から排除された格好となった細川勝元は、御霊合戦の後も没落せずなお京都に留まり続けていた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていたが、勝元も代々管領職を務める細川京兆家当主の立場で独自に(管領の職務である)軍勢催促状や感状の発給、軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行った。そして四国など細川氏一族の分国からも兵を京都へ集結させるなどしたため緊迫した状態が続いた。3月5日に改元されて後の応仁元年(1467年)4月に細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。また細川方の兵は宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上の兵力だったというが、これは誇張と考えられる。京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。守護分国の分布では、東軍が細川氏一族の畿内と四国に加えその近隣地域の自派の守護、西軍は山名氏の他に細川派の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は細川氏・畠山政長・京極持清・武田信賢に文正の政変で失脚した赤松政則・斯波義敏を加えた顔ぶれで、西軍の主力は山名氏・斯波義廉(管領)・畠山義就・一色義直・土岐成頼・大内政弘であった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "応仁元年(1467年)5月、東軍はかつての播磨守護赤松氏の一門赤松政則が山名分国の播磨国に侵攻し奪還した。また武田信賢・細川成之らが若狭国の一色氏の領地へ、斯波義敏が越前国へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "そして、5月26日に京都での戦いが始まる(上京の戦い)。夜明け前、東軍は成身院光宣(興福寺衆徒)が室町第西隣の一色義直邸に近い正実坊を、武田信賢が実相院を占拠した。武田信賢・細川成之の軍が続いて一色邸を襲撃し、義直は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。細川勝元は戦火から保護するという名目で室町第を押さえて将軍らを確保し、自邸(今出川邸)に本陣を置いた。勝元は匿っていた畠山政長を含む自派の諸将兵に応じるよう呼びかけた。また西軍についた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "京都で開戦した26日、西軍は斯波義廉(管領)配下の朝倉・甲斐氏の兵が山名宗全邸南側の細川勝久邸を攻めて細川勢と激戦を展開し、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。東軍の赤松政則は南下して正親町を通り、猪熊に攻め上って斯波勢を退け、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之邸に逃げ込んだ。西軍は勝久邸を焼き払い、さらに成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿・革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが東軍の抵抗で勝敗は決せず、翌日両軍は引き上げた。この合戦による火災のため、京都は北の船岡山から南の二条通りまでの一帯が延焼した。将軍義政は28日に両軍に和睦を命じ、勝元の行動を非難しながら、義就には河内下向を指示し、また伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど乱の収束と復権に向けた動きを取っていた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ところが6月3日に勝元の要請によって将軍の牙旗が東軍に下され、足利義視が総大将に推戴されたことで、戦乱は拡大する方向に向かっていく。東軍は軍事行動を再開し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに将軍義政が降伏を勧告すると斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもったが、東軍は義廉邸も攻撃した。京都は再び兵火に巻き込まれ、南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。義廉・六角高頼・土岐成頼はいったんは降伏の意向を示したが、東軍に激しく抗戦する朝倉孝景(斯波氏宿老)の首級を条件とされたため断念した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "西軍は6月14日に大和国の古市胤栄、19日に紀伊国の畠山政国などの援軍が到着し始めたが、8月23日に周防国から大内政弘が伊予国の河野通春ら7か国の軍勢1万と水軍2千艘を率いて入京して勢いを回復した。同日天皇・上皇が室町第に避難し、一郭が仮の内裏とされた。一方では足利義視が伊勢貞親の復帰に危険を感じて出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡した。この頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "大内政弘は8月中に船岡山に陣取った。9月1日に攻めかかった武田勢を畠山義就・朝倉孝景が追い出し、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った。6日に将軍義政は再度義就の河内下向を命じたが、義就は従わず戦いを続けた。9月18日に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、10月3日に発生した相国寺の戦いは激戦となり両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、焼亡した相国寺跡には斯波義廉が陣取り、また義就は宗全邸の西に進出し、東軍は劣勢に立たされた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "朝廷においては10月3日に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したほか、12月5日(12月31日)に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠・光忠父子・阿野季遠・清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは富子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "応仁2年(1468年)3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。5月2日に細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に勝元が宗全の陣を、8月1日に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "管領斯波義廉は西軍に属したものの、将軍義政から直ちに解任されなかった。将軍が主宰する御前沙汰なども管領不在のまま行われていた。だが、応仁2年(1468年)、幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に義廉は和睦を提案し、山名宗全と畠山義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、7月10日に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "応仁2年(1468年)9月22日、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は足利義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏10月16日には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、11月10日には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。11月23日(12月19日)、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "一方で幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国は西軍によって制圧されつつあり(西岡の戦い)、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。このため東軍は反大内氏の活動を活発化させた。文明元年(1469年)には九州の大友親繁・少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(1470年)2月には教幸自身が反乱を起こしている。しかしいずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "東軍は将軍義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して官軍の体裁を整え、西軍は賊軍の立場に置かれていた。しかし、正親町三条家・阿野家・葉室家などのように将軍姻戚の日野家と対立する公家の一部は義視とともに西軍に投じており、さらに西軍は「西陣南帝」と呼ばれた小倉宮後裔を担ぐなど朝廷も一時分裂状態に陥った。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "宗教勢力の動きでは蓮如率いる浄土真宗本願寺派の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・富樫政親の要請を受けて下間蓮崇率いる一向一揆が政親方に加担。本願寺派と敵対する浄土真宗高田派と結んだ西軍の富樫幸千代と戦い、翌文明6年に幸千代を破っている。ただこの一件が後に加賀一向一揆を勃発させる遠因となった。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "関東や九州では鎌倉公方や少弐氏らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、大乱以前から長い戦乱状態にあった。室町幕府が直轄しない関東八ヶ国及び伊豆・甲斐(鎌倉府管轄)は享徳の乱の最中にあったが、将軍義政が送り込んだ堀越公方に対し、古河公方側が西軍と連携する動きもあった。文明7年には関東管領上杉顕定の後見人の越後守護上杉房定(実父)が西軍の能登守護畠山義統とともに東軍の畠山政長が領する越中を攻撃している。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "下表に東軍(細川方)と西軍(山名方)それぞれに参加した大名や国人を列挙する。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "※◆は西軍から東軍へ寝返った武将、★は東軍から西軍へ寝返った武将、×は応仁の乱終戦までに死去した武将を示す。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "その他",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "文明3年(1471年)5月21日、斯波義廉(前管領)の宿老で西軍の主力であった朝倉孝景が、義政による越前国守護職補任を受けて東軍側に寝返った。本来越前守護職は斯波氏のものであったが、これが臣下のはずの朝倉氏に与えられ越前一国の支配権を公認された形となった、まさに下剋上である。西軍の主力の移籍により、東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕すらも生まれた。一方で西軍は8月、擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して「新主」とした(西陣南帝)。同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "文明4年(1472年)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。開戦要因の一つであった山名氏の播磨・備前・美作は赤松政則に全て奪還された上、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗した。3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した。5月には宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲り隠居する事件が起きたが、桜井英治はこれを手打ちの意思を伝えるデモンストレーションであったと見ている。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "12月19日(1474年1月7日)には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。幕府では文明3年に長らく空席だった侍所頭人(所司)に赤松政則が任ぜられ、政所の業務も文明5年になると政所頭人(執事)伊勢貞宗によって再開されるなど、幕府業務の回復に向けた動きがみられた。管領は義尚の将軍宣下に合わせて畠山政長が任じられたものの、一連の儀式が終わると辞任してしまい、再び空席になってしまったために富子の兄である公家の日野勝光が幕府の役職に就かないまま、管領の職務を代行した。一方で富子の勢力が拡大し、義政の実権は失われていった。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "文明6年(1474年)3月、義政は小河に建設した新邸に移り、室町第には富子と義尚が残された。興福寺別当尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、公方(義政)は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の時の如くなり」と評している。だが、義政の大御酒が平時と異なったのは、室町第に退避していた後土御門天皇もその酒宴に加わっており、幕府のみならず朝廷の威信の低下にもつながる事態となっていた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "文明6年4月3日(4月19日)、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃した。さらにこの頃、西軍の一色義直の子義春が義政の元に出仕し、丹後一色氏も東軍に帰順した。その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘・土岐成頼を中心に惰性的な小競り合いを続けていた。また、赤松政則は和睦に反対し続けていた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 51,
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"text": "一方、西軍の土岐成頼の重臣で従三位の奉公衆斎藤妙椿も文明6年の和睦に反対し、美濃の兵を率いて近江・京都・伊勢に出兵した。更に越前にも出兵し、同年6月に西軍の斯波義廉の重臣甲斐敏光と東軍に寝返っていた朝倉孝景を停戦させている。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "文明7年(1475年)2月、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命された。西幕府の管領で敏光の主君であった斯波義廉も同年11月、守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶った。しかし和平工作を行っていた日野勝光が死去したため、和睦の流れは一時頓挫した。翌文明8年(1476年)9月には、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "主戦派の畠山義就は大内政弘の降伏によって孤立することを恐れ、文明9年(1477年)9月22日に河内国に下国した。11月3日、大内政弘は東幕府に正式に降参し、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された。大内軍が11月11日(1477年12月16日)に京から撤収し、能登守護の畠山義統や土岐成頼も京の自邸を焼き払って帰国した。義視・義材(後の10代将軍)親子は正式な赦免を受けないまま、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した。こうして西軍は解体され、9日後の11月20日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ京都における大乱の幕が降ろされた。なお、西陣南帝は「諸将みな分国に帰り、京都に置き去りにされてしまわれた」とされているものの、その後の消息は不明。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵されていた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "西軍が消滅したとはいえ、それは単に京都での戦闘が終結したということに過ぎなかった。畠山義就は京都での退去後にも幕府の命令に従わず、河内国を占拠して政長方を駆逐し、続いて大和国に侵攻した。さらに義就は政長が守護を務めていた山城国に侵攻した。文明14年(1482年)末から文明15年(1483年)にかけては義就が宇治以南の南山城を占拠し、幕府の命令が届かない状態となった。将軍義尚や富子は政長を見限って義就を赦免しようとしたが、義政の反対で中止された。ついに文明16年(1484年)には政長の守護職を解き、幕府の直轄(御料国)としたが、戦乱はなおも続いた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "文明17年(1485年)7月、義就方の斎藤彦次郎が政長方に寝返ったことにより、義就方と政長方の大軍が対峙することになった。しかし山城国の国人が団結し、撤退しなければ攻撃すると両軍に通達し、義就・政長らは山城国より撤退した。以降、国人たちは山城国一揆を組織し、一種の自治的な政権をつくることとなる。一方で義就は山城国より撤退したことが評価され、文明18年(1486年)3月に義政と義尚から正式に赦免され、応仁の乱の戦後処理はここに完了した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "応仁の乱は幕府権力が崩壊した戦国時代の始まりであるとの説が通説であったが、近年では幕府の権威は明応の政変頃まで一応保たれていたという見解もあり、明応の政変以降を戦国時代の始まりととらえる説もある。とはいえ、応仁の乱以降身分や社会の流動化が加速されたことは間違いない。",
"title": "戦乱の影響"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "東洋史学者の内藤湖南は講演『応仁の乱に就て』において、応仁の乱前後を「最も肝腎な時代」であると指摘し、「大体今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知つて居つたらそれで沢山です」と発言し、古代史学者との間に論争を巻き起こした。なお後述するように歴史資料が失われたことで、応仁の乱以前には不明な点も多い。",
"title": "戦乱の影響"
},
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"paragraph_id": 59,
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"text": "応仁の乱により、多賀高忠、浦上則宗、斎藤妙椿、尼子清定など、守護家に迫る勢力を有する国人が台頭した。また、東西両軍は味方を得るために、それまでの家格を無視した叙任を行った。西軍は一介の国人であった越智家栄を大和守護に任命し、東軍は西軍の有力武将だったが守護代でもなかった朝倉孝景を越前守護につけた。",
"title": "戦乱の影響"
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"text": "文明7年、能登守護畠山義統と越後守護上杉房定が政長の分国越中を侵略した際には、足利義政が「諸国の御沙汰は毎事力法量(諸国の沙汰は力次第である)」と述べ、守護が他国を侵略することも是認された。このため室町幕府の家格秩序は崩壊し、身分秩序が流動化することになった。また長期にわたる京都での軍事活動により、守護の財政は逼迫した。権威と財政を失った守護は、国人や家臣団に対する支配力を著しく低下させた。国人や家臣は守護の影響を排除して自らの地盤を固め、領主化していった。",
"title": "戦乱の影響"
},
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"text": "それまで在京が原則であった守護は自らの領国を守るため下国し、守護代に任せていた領国経営を自らの権威により行おうとした。これにより守護は幕府の統制を離れ、幕府は段銭などの徴収がままならなくなった。いくつかの守護は領主化を強化することで戦国大名へと成長することが出来たが、既に乱の最中に守護代や家臣に権力を奪われた者もおり、没落した守護も多かった。この従来の家格秩序を破る風潮は下克上と呼ばれ、戦国時代を象徴する言葉となる。",
"title": "戦乱の影響"
},
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"paragraph_id": 62,
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"text": "また、守護在京制の崩壊により、文明18年(1486年)には京都に残る守護が摂津・丹波を基盤とする細川氏一門のみとなった。守護の協力を得られなくなった幕府は、将軍近臣の奉公衆や奉行衆による運営を余儀なくされ、畿内政権としての道を歩み始めた。その一方で、細川勝元が幕府を西軍方に占拠されていた時に始めた、細川京兆家当主としての軍勢催促状などの軍事決裁行為が管領復帰後も継続され、勝元没後に管領となった畠山政長も義就との戦いのためにほとんど在京しなかったために、勝元の子政元が細川政国の後見を受けて同様の措置をもって幕府の軍事行動を指揮したため、細川京兆家が本来管領が有していた幕府の軍事的権限を行使するようになった。やがて細川氏と幕府の利害が対立し、明応の政変とその後の京兆専制を招くことになる。",
"title": "戦乱の影響"
},
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"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "領主化を推進する守護や国人によって一円知行化が進められ、公家や寺社の荘園は横領された。さらに幕府の権威低下により、遠国など幕府の権力が届かない地域の荘園・国衙領支配は絶望的になり、荘園制度の崩壊が加速した。収入を断たれた公家は没落し、朝廷行事や官位昇進への興味も失った。甘露寺親長は日記に「高官無益なり」と書き記し、文明5年には顕官である近衛大将の希望者が現れないという事態が発生している。前関白一条教房のように京都を去る公家や、町広光のように家を意図的に断絶させる公家まで現れた。また、西軍について失脚した西川房任の子孫が細川高国に仕えて薬師寺国長の寄子に付けられるなど、生活が立ち行かなくなって公家身分を棄てる例もあった。更に朝廷収入も激減し、即位礼や大喪の礼などの儀式を行うことも困難となった。このため戦国期には献金による売官が行われるようになった。これは京都文化が地方に伝播する一因ともなった。",
"title": "戦乱の影響"
},
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"paragraph_id": 64,
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"text": "文明2年頃には戦火で京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失し、罹災を免れたのは土御門内裏などわずかであった。このため類聚国史(一部)など京都にあった歴史的資料の多くが焼失・散逸し、これ以前の歴史研究に影響を及ぼした。",
"title": "戦乱の影響"
},
{
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"text": "京都七口関は両軍の争奪戦となり、物資の流入も停滞した。さらに足軽の放火・略奪が追い打ちをかけ、京都の大半の人々は大いに困窮した。また文明5年には疫病が流行し、宗全や勝元も命を落とした。",
"title": "戦乱の影響"
},
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"paragraph_id": 66,
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"text": "しかし、義政はこれを顧みず日夜酒宴に明け暮れ(ただし、これは将軍御所に退避した天皇に対する饗応の意味もある)、小河邸や東山山荘を造営した。また富子は困窮した東西軍の守護に金銭を貸し付けるほか、米の投機を行って大いに利益を上げた。",
"title": "戦乱の影響"
},
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"paragraph_id": 67,
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"text": "寺社、公家、武家屋敷があった上京が焼け、商工業者が居住していた下京が焼け残ったことは、その後の京都の商業勃興をもたらした。",
"title": "戦乱の影響"
},
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"paragraph_id": 68,
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"text": "応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった周辺都市や地方の所領などに疎開していった。応仁の乱後の文明11年(1479年)に室町殿や内裏の造営が開始されたが、都市の荒廃による環境悪化によって疫病や火災、盗賊、一揆などの発生が頻発したこと、加えて在京していた守護大名やその家臣達(都市消費者として一定の役割を果たしていた)が領国の政情不安のために帰国したまま帰ってこなかったこともあり、京都の再建は順調とは言えなかった。また、こうした災害を理由とした改元(長享・延徳・明応)が相次いだ。",
"title": "戦乱の影響"
},
{
"paragraph_id": 69,
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"text": "将軍義政は、義教の死後中断していた勘合貿易を宝徳3年(1451年)に復活させた。勘合貿易の復活や側近の守護大名及び幕府官僚の財政再建によって、応仁の乱前の幕府財政は比較的安定してはいた。だが、義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった。",
"title": "戦乱の影響"
},
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"text": "一方で、町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられる。また、当時町衆における法華宗の受容も、社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられる。",
"title": "戦乱の影響"
},
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"paragraph_id": 71,
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"text": "それでも明応7年(1498年)頃より京都の住民に対する地子銭徴収が次第に増加していったこと、永正5年(1508年)以後の酒屋役徴収の強化命令が幕府から出されている事からこの時期に京都の人口回復が軌道に乗り出したと考えられ、明応9年の祇園祭の前後数年間が京都の本格的な復興期と考えられている。",
"title": "戦乱の影響"
},
{
"paragraph_id": 72,
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"text": "応仁の乱の戦いで特徴的とされるものは、正規の武士身分ではない足軽の活躍である。それまでは騎乗の権利の有する正規の武士が、少数の従卒を率いる小グループ同士の戦いであり、戦いの進行も名乗りを上げた後、騎射、馬上で薙刀などを使う打物戦、最後に下馬しての徒戦という順に進んでた。",
"title": "戦乱の影響"
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{
"paragraph_id": 73,
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"text": "応仁の乱は大規模な戦闘が続いたことで兵力不足に悩んだ両軍は、兵站や土木作業に従事する足軽を戦力に加えた。足軽は技量が低い者も多く、それまではタブーであった馬への攻撃も行われた。主力武器も個人戦向けの薙刀から、集団戦に適した槍へと移行した。",
"title": "戦乱の影響"
},
{
"paragraph_id": 74,
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"text": "東軍の足軽大将骨皮道賢や西軍の御厨子某は、後方攪乱として足軽によるゲリラ戦を行って名を上げるなど散兵も活用された。",
"title": "戦乱の影響"
},
{
"paragraph_id": 75,
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"text": "足軽は盗賊などの無法者を多く含んでおり、高い自立性を持っていた。彼らは異形の装いをし、市街の放火や略奪を頻繁に行った。このため一条兼良は『樵談治要』において「洛中洛外の諸社諸寺五山十刹公家門跡の滅亡は彼らが所行なり」と非難している。一方で東寺などの権門寺社も自衛のために足軽を雇用することもあった。",
"title": "戦乱の影響"
},
{
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"text": "乱のきっかけは畠山義就を山名宗全が支援したことであるが、何故ここまで乱の規模が拡大し、長期間継続したのかという問題には様々な解釈が建てられている。",
"title": "後世の評価と研究"
},
{
"paragraph_id": 77,
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"text": "多くの大名には陣営を積極的に選ぶ理由はほとんど無かった。富子は義視が西軍に逃亡した後も土御門内裏が炎上しないように西軍の大内政弘と連絡を取り合っているなど、将軍継嗣の問題だけでは説明がつかないという見方もある。永原慶二は幕政の中心人物である勝元と宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は戦わざるを得なくなったとしており、戦い自体にはさしたる必然性もなく、戦意がない合戦が生み出されたとしている。",
"title": "後世の評価と研究"
},
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"paragraph_id": 78,
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"text": "当時の人々も理解できなかったらしく、尋尊は「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と「尋尊大僧正記」に記している。",
"title": "後世の評価と研究"
},
{
"paragraph_id": 79,
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"text": "応仁の乱が描かれた代表的な軍記物としては、『応仁記』『後太平記』『瓦林正頼記』などがある。特に、著名な軍記物語である『応仁記』は、細かい描写がなされて乱の研究に欠かせない史料であるが、儒教的色彩が濃く、幾つかの誤りが指摘されるようになった。実子・足利義尚の将軍職擁立を切望する日野富子が山名宗全に依頼し、足利義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍したという説は誤りであるとされ、富子が乱の元凶であったとする説を現在にまで流布させる要因となった。",
"title": "後世の評価と研究"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "摂津・河内・和泉(摂河泉と呼ばれる)3ヶ国のうち摂津・和泉は細川氏が、河内は畠山氏が守護を務めていた。しかし、畠山氏がお家騒動で混乱し、応仁の乱で大内政弘が西上して京都の戦闘が各地に及ぶと、近郊の摂河泉は東西両軍の衝突地域となっていった。また、山城国は畠山氏の領国であるが、細川勝元が畠山持国への対抗から山城国人を被官に加え、畠山持国の弱体化を目論みお家騒動を煽った影響で山城国は義就と政長どちらに付くかで分裂した。",
"title": "各地の戦乱"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "畠山義就は乱直前の足利幕府への工作で守護職を取り戻し、御霊合戦で畠山政長を破り立場を固めた。ところが、政長を援助していた細川勝元が諸国の軍勢を動員すると、幕府から守護職を取り上げられ政長に替えられ、再び地位を失うと義就は実力行使で領国奪取に動いた。一方、大内軍は上洛して西軍の主力として京都で東軍と戦っていたが、文明元年4月に義就が山城国西岡を攻めて陣取っていた西軍を丹波国へ追い落とし(西岡の戦い)、山城勝竜寺城へ入って摂津・丹波付近を伺うようになると、大内軍も7月に摂津国へ侵攻して諸城を落とし、摂津の殆どを制圧した。しかし、池田城だけは城主の抵抗で持ちこたえ、10月に山名宗全の次男の山名是豊と赤松政則が東軍の援軍として大内軍を撃破して兵庫を奪還したため、大内政弘は池田城の包囲を解いて東軍迎撃に向かった。これに対し、是豊は摂津神呪寺に着陣して大内軍と戦い、その後は東進して摂津と山城の国境の山崎に布陣した。",
"title": "各地の戦乱"
},
{
"paragraph_id": 82,
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"text": "文明2年1月から4月にかけて山崎の是豊と勝竜寺城の義就が交戦したが決着は着かず、5月に東軍の裏工作で摂津国に留まっていた大内政弘の家臣仁保弘有が寝返り、直後に茨木城と椋橋城が東軍に奪回され反撃の契機となった。一方、大内政弘は南山城の木津川流域を攻撃目標として7月に八幡へ進出して木津を除く南山城を制圧した。だが、木津に拠点を構える東軍の抵抗は激しく、大内軍は木津を奪えないまま下狛(精華町)に待機して一進一退の状況を続けていった。義就は8月に山城国から大和国を経て河内国へ侵攻、若江城と誉田城を包囲したが落とせず撤退、山名是豊は領国の備後で西軍が蜂起したため12月に下向していった。山城国は山名是豊が東幕府から守護に任じられていたが、大内軍による南山城の占拠や是豊が備後国への撤退後は義就が実力で山城を支配することになり、守護でないにもかかわらず義就は山城国を実質上占領下に置いた。",
"title": "各地の戦乱"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "文明3年6月、大内軍と畠山軍が合流して摂津・和泉に侵入したが、敵の反撃で失敗、以後畿内で大きな戦闘はほとんど行われず、文明4年10月に木津から出陣した東軍は大内軍の反撃で退散、文明7年4月に大内軍が木津へ攻撃して失敗したことが挙げられる程度であった。文明8年に政長は家臣の遊佐長直を河内国に下向させて若江城に赴任させたが、義就は翌文明9年9月に河内へ向かい、9月から10月にかけて若江城を始めとする河内の諸城を陥落させ長直を追放、河内を制圧した(若江城の戦い)。大内軍も呼応して木津を落としたが、大内政弘は幕府と和睦して11月に帰国したため、木津と摂津は東軍の手に戻された。以後、南山城は政長を始めとする幕府が領有したが、河内は守護ではない義就が占拠した状態が続いていくことになる。",
"title": "各地の戦乱"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "大和国も畠山持国の影響力が強かったため、大和国人もお家騒動で互いに敵対していった。義就に就いた国人は越智家栄・古市胤栄で、政長には筒井順永・成身院光宣・十市遠清・箸尾為国らが味方した。光宣は乱勃発直後から政長に仕え、御霊合戦後に政長を勝元の屋敷へ手引きして、文明元年に亡くなるまで東軍に属していた。古市胤栄は義就に手助けすべく応仁元年6月に上洛したが、他の国人衆は表立って活動は行わなかった。",
"title": "各地の戦乱"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "事態が動いたのは文明2年に大内軍が摂津国から南山城へ南下した時で、山城国と大和国を結ぶ重要拠点の木津を大内軍が攻めてきたため、筒井順永は木津防衛に向かい大内軍の進出を阻止した。一方、越智家栄は義就の河内侵攻に参加、古市胤栄は下狛の大内軍陣地に合流して順永と交戦、文明3年になると十市遠清も東軍方として動き、1月に近江の東軍を助けて西軍の六角高頼軍を撃破、6月に順永・遠清・箸尾為国が畠山軍の河内侵攻を阻止するなど大和国人の殆どが乱に参戦するようになった。",
"title": "各地の戦乱"
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{
"paragraph_id": 86,
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"text": "文明4年10月に順永は下狛の大内軍に夜襲を仕掛けたが逆襲に遭い敗走、文明5年の和睦でも戦乱は止まず、文明6年になると大和国人衆の紛争が続出して戦乱は大和に拡大していった。文明7年4月に大内軍の木津攻撃を順永が撃退、5月に大和春日社頭で順永・遠清・為国ら東軍と家栄・胤栄ら西軍が衝突して東軍が勝利、古市胤栄は敗北の責任を取り隠居、弟の澄胤に家督を譲った。また、文明8年に筒井順永が亡くなり嫡男の順尊が後を継いだ。",
"title": "各地の戦乱"
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{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "文明9年に義就が河内国に侵攻・制圧すると大内軍も木津を攻撃し、木津を守る順尊ら政長派は木津を放棄、本拠地も失い没落したため、戦乱の末に大和国は越智家栄・古市澄胤ら義就派が勝利して大和は義就の手に入った。大和国は興福寺が支配していたが、大乱に伴う分裂で国人衆の台頭を抑えられず権威が下降した。興福寺別当の尋尊は日記で戦闘を詳細に書き記す一方で、混乱を収められない無力さを嘆いている。以後、没落した政長派は潜伏して遊撃兵として義就派への抵抗を続け、大和は義就派と政長派が抗争を繰り返していった。",
"title": "各地の戦乱"
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"paragraph_id": 88,
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"text": "近江国は京極氏と六角氏それぞれが治めていたが、六角氏も幕府の介入でお家騒動が悪化・分裂したため京極持清が東幕府の支援を得て近江の六角高頼を攻撃、高頼は美濃国の斎藤妙椿の後ろ盾で対抗していった。京極持清・勝秀父子は高頼の従兄の六角政堯と共に高頼の居城である近江観音寺城に度々攻め入り、高頼も応戦した。美濃国では守護の土岐成頼は西軍に加わるため上洛、守護代の斎藤利藤は幼いため叔父の斎藤妙椿が後見役として実質的に美濃を治めていたが、西美濃の国人長江氏・富島氏は京極氏と組んで妙椿に反乱を起こした。",
"title": "各地の戦乱"
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"paragraph_id": 89,
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"text": "美濃国の内乱は応仁2年までに妙椿に鎮圧されたが、近江国は決着が着かず一進一退、観音寺城が東軍に奪われては西軍に奪回されることが繰り返されていった。しかし、応仁2年に勝秀が死去、続いて文明2年に持清も亡くなり京極氏はお家騒動で2つに割れて弱体化(京極騒乱)、勝秀の弟政光と家臣の多賀清直・宗直父子は勝秀の遺児乙童子丸を擁立して西軍に寝返り、政光の弟政経と多賀高忠は乙童子丸の弟孫童子丸を擁立して争った。文明3年に政堯が高頼に討ち取られると戦況は西軍に傾き、文明3年と4年に妙椿が高頼に援軍を派遣して東軍を圧迫する。文明5年3月に宗全が亡くなると、妙椿は上洛して宗全に代わる西軍の指導者に成り上がった。",
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"paragraph_id": 90,
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"text": "追い詰められた東軍は、信濃国の小笠原家長・木曾家豊に美濃の背後を突くよう要請、合わせて富島氏の再起を促し挟撃を図った。妙椿は直ちに反乱を押さえ伊勢国に出陣して東軍を牽制し、11月に出陣した小笠原家長らに東美濃を占拠されるという痛手を被ったが、文明7年1月に妙椿は信濃勢に勝利してそれ以上の侵略を阻止した。一方、京極氏は文明3年に孫童子丸が、4年に政光が没して政経が当主となったが、乙童子丸・清直父子が北近江、高頼が南近江を確保していたため東軍は劣勢となった。",
"title": "各地の戦乱"
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"text": "そして、文明7年10月に近江国で決戦となり、妙椿の援軍と合流した高頼が勝利を収め、近江における戦乱は終結した。幕府も乙童子丸・清直父子と高頼及び成頼・妙椿らと文明10年(1478年)に和睦してそれぞれの支配を認めた。しかし、京極騒乱は収まらず政経は抵抗を続け、幕府も後に態度を翻して近江出兵を強行したり(長享・延徳の乱)、乙童子丸から家督を取り上げ政経に与えたりしていた。美濃国でも妙椿没後に実権を握った甥の妙純と利藤が争ったり(文明美濃の乱)、成頼の後継者を巡り内乱が発生したため(船田合戦)、近江と美濃の戦乱はなおも続いていくことになる。",
"title": "各地の戦乱"
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"text": "越前・尾張・遠江3ヶ国は斯波氏領国であるが、畠山氏と同じくお家騒動と家臣団の内乱で戦争状態となっていた。義敏は乱直前に3ヶ国守護に復権したが、文正の政変で守護職を失い義廉が守護に戻った状態で乱が勃発、義敏は越前国に入り義廉派と交戦、義廉は京都で家臣の朝倉孝景・甲斐敏光らと共に東軍と戦っていた。特に朝倉孝景の活躍は目覚しく、御霊合戦では義就に加勢して政長軍を破り、一条大宮の戦いでも戦果を挙げて東軍から討伐対象に挙げられていた程であった。",
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"text": "しかし、朝倉孝景に対して東軍が応仁2年から内応工作を始めると、孝景は閏10月に義敏征伐を口実に越前国に下る一方で東軍と裏交渉を行い、文明3年5月21日に孝景の越前守護職任命を記した足利義政と細川勝元の書状が届き、孝景は公然と東軍に寝返った。これにより朝倉孝景は斯波義敏と同陣営に属することになるが、両者はかつて長禄合戦で敵対していたため、共同戦線を張れないことを察した足利義政は義敏に中立を命じたため、義敏の家臣が孝景に味方しても義敏本人は合戦に参加しなかった。また、応仁2年に斯波義廉は関東との秘密交渉の発覚で足利義政から管領と守護職を取り上げられ(西幕府では存続)、細川勝元と義敏の息子松王丸がそれぞれ管領と守護職に就任した。甲斐敏光は義廉の陣営に留まっていたが、孝景の寝返りを知ると越前へ下向した。",
"title": "各地の戦乱"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "越前では朝倉孝景と甲斐敏光が中心となり合戦を繰り広げていったが、東幕府の支持を得た孝景が有利であり、文明4年8月に甲斐敏光の本拠地である府中(越前市)を落として甲斐敏光を加賀へ追い落とし、残党も翌文明5年8月の合戦で討ち取った。甲斐敏光は挽回を図り文明6年閏5月に富樫幸千代の援助で再度越前に攻め入るが、朝倉軍に連敗を続けた末に斎藤妙椿の斡旋で孝景と和睦、越前奪還を諦めた。",
"title": "各地の戦乱"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "朝倉孝景の越前統一は間近に迫ったが、文明7年4月に孝景の急成長に危機感を抱いた義敏が大野郡土橋城に籠城して国人二宮氏と結託、孝景は義政から義敏の保護を命じられていたため迂闊に土橋城を攻撃出来ず、大野郡の占拠は長期間に亘った。7月に孝景は二宮氏を土橋城外に誘き出して討ち取り、11月に土橋城の攻撃を開始したため、義敏は観念して12月に降伏、孝景の処置で京都に送り返され越前は孝景に平定された。",
"title": "各地の戦乱"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "甲斐敏光は文明7年2月に松王丸(元服して義良と改名)と共に上洛して足利義政から遠江守護代に命じられ下向、朝倉孝景に続いて甲斐敏光にも見捨てられた斯波義廉は11月に残された領国・尾張に向かったが、尾張でも内乱が発生、文明10年に幕府から反逆者と指名されたのを最後に消息を絶った。遠江では駿河守護今川義忠が東軍の命令を受けて文明5年から遠江へ侵攻していたが、文明7年に甲斐敏光が東軍から守護代に任命されると大義名分を失い、文明8年に今川義忠が戦死すると今川氏は後継者に嫡男龍王丸(後の今川氏親)と従弟の小鹿範満が擁立されお家騒動が発生、遠江侵攻は中断された。",
"title": "各地の戦乱"
},
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"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "斯波義良は応仁の乱終結後は越前の奪還を図り、文明11年(1479年)に甲斐敏光と二宮氏などを連れて越前に攻め入った。文明13年(1481年)に孝景は亡くなったが、後を継いだ息子氏景は斯波軍を越前から追い出し完全平定を果たした。義良も越前奪回を諦め文明15年(1483年)に尾張へ下向、甲斐敏光も朝倉氏景と和睦して越前は朝倉氏、遠江は甲斐氏、尾張は織田氏がそれぞれ守護代として受け持つことを取り決めた。かくして越前は朝倉氏が実質的に領有を果たし、斯波氏と甲斐氏は尾張・遠江を拠点としたが、やがて今川氏親と織田氏の勢いに押されていった。",
"title": "各地の戦乱"
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"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "播磨・備前・美作は元は赤松氏領だった所を山名宗全・山名教之・山名政清ら山名一族が嘉吉の乱で奪い取った経緯があり、再興を目指す赤松の遺臣達にとって山名氏との衝突は避けられなかった。長禄の変で赤松郎党が手柄を立てたことにより、赤松政則は細川勝元の支援で加賀半国守護に就任して復権の足掛かりを築き、赤松政則は家臣の浦上則宗と共に義政の警固や屋敷建造、土一揆鎮圧などに努め義政の側近として重用された。宗全からは敵視され文正の政変で失脚したが程無く復帰、応仁の乱では在京して則宗と共に西軍と戦った。",
"title": "各地の戦乱"
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"text": "播磨3ヶ国では宗全を始めとする山名一族は軍勢を引き連れて上洛したため、好機と捉えた宇野政秀ら赤松氏家臣団は3ヶ国の奪還に動き出した。乱勃発直後の応仁元年5月に宇野政秀は播磨に下向して赤松氏遺臣の蜂起を促し、播磨を手に入れると備前・美作にも侵攻し備前も奪回したが、美作は守護代の抵抗が強く一度敗退、完全平定まで3年後の文明2年までかかった。この間、宇野政秀は文明元年に摂津で山名是豊と合流して池田城の救援に赴き大内軍を撃破、兵庫を奪還している。また、乱における活躍で赤松政則は東軍から3ヶ国の守護に任じられ、赤松氏の再興に大きく前進した。",
"title": "各地の戦乱"
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"text": "文明6年に細川氏と山名氏は単独で和睦を結び戦争から離脱した。赤松政則は和睦に反対したが、文明9年の終戦で3ヶ国守護と侍所頭人の地位を保証され赤松氏の再興を果たし、側近の浦上則宗も侍所所司代として赤松氏の重臣に成り上がった。しかし、山名氏は和睦で失った3ヶ国の奪還を狙い、宗全の後を継いだ山名政豊は播磨を伺い、赤松政則も山名氏領国の不満分子を嗾けて反乱を起こさせたため、両者は終結後も3ヶ国を巡り争奪戦を繰り広げていった。",
"title": "各地の戦乱"
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"text": "備後は宗全の次男山名是豊が治めていたが、宗全と不仲であった所を勝元に籠絡され、山名氏の大半が西軍に属したのと異なり唯一東軍に与した。安芸国は大内氏と武田氏の対立の場となっていて、安芸国人の殆どを勢力下に収める大内氏に対し、武田氏は大内氏に危機感を抱く細川氏の支援で対抗した。文安4年に安芸国で最初の衝突が発生、これ以後は大内氏が度々安芸に侵攻しては勝元が武田氏と反大内の国人を支援して侵略を阻止していった。伊予国で大内氏が河野氏を支援したことも勝元が大内氏と対立する原因となった。",
"title": "各地の戦乱"
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"text": "乱勃発で大内政弘は宗全の要請で領国周防から出陣、応仁元年7月20日に兵庫に上陸して8月23日に上洛、西軍と合流して東軍の脅威となった。対する武田信賢・国信兄弟と毛利豊元・吉川経基・小早川煕平ら反大内の安芸国人は東軍に加わり、是豊も上洛して東軍と合流した。上洛せず安芸・備後に留まった国人勢力も二分されそれぞれ争ったが、備後は宗全の影響力が健在だったため東軍が不利で、応仁2年11月に是豊が一時帰国しなければならない程であった。文明元年に是豊は再び上洛、その途上で摂津の大内軍を破り山崎に布陣して翌文明2年西軍と交戦、備後が西軍の加勢でまたもや劣勢になったため12月に帰国した。一方の武田信賢らは京都に留まり西軍と戦った。",
"title": "各地の戦乱"
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"text": "文明3年になると信賢と国信の弟で安芸の留守を守っていた武田元綱が西軍の工作で反乱を起こし、毛利豊元も大内氏に誘われて安芸に帰国すると西軍に寝返り、安芸・備後は西軍有利に傾いた。東軍は国人衆に忠誠を誓わせ寝返り防止に努め、山名是豊も備後で転戦して形勢を立て直そうとしたが、文明5年から文明7年の2年間西軍の小早川弘景ら安芸・備後国人衆が東軍方の小早川敬平が籠城する高山城を包囲したにもかかわらず救援に来なかったことから人望を失い、備後から追放され消息を絶った。文明7年4月23日に安芸・備後の東西両軍は和睦を結び、中国地方の戦乱は終息に向かった。",
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"text": "戦後備後は山名是豊の甥(弟とも)に当たる山名政豊が領有することになり、残党は政豊に討伐された。安芸は武田氏を始め国人が割拠する状態に置かれ、武田元綱は文明13年に信賢の後を継いだ武田国信と和睦、安芸の国人領主として兄から独立し大内氏と友好関係を結んだ。他の国人衆も大内氏との対立を解消し安芸は平穏になったが、戦乱を通して大内氏の影響力は増大、備後で山名政豊と国人が対立して支配が揺らいだため、大内氏と新たに台頭した尼子経久が国人衆を巻き込み衝突していった。",
"title": "各地の戦乱"
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] |
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱。 室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の抗争となり、幕府勢力が東西に分かれて争う戦乱に発展、さらに各々の領国にも争いが拡大する大乱となった。 明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。 11年に亘る戦乱は、西軍が解体されたことで収束したが、主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから一般に「応仁の乱」と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁はわずか3年で文明へと改元された。そのため、近年では「応仁・文明の乱」(おうにん・ぶんめいのらん)と称されることもある。
|
{{Battlebox
| battle_name = '''応仁の乱'''
| campaign=応仁の乱
| colour_scheme = background:#ffff99; color:#2222cc
| image = [[File:Shinnyodō engi, vol.3 (part).jpg|300px]]
| caption = 『[[真正極楽寺|真如堂]]縁起絵巻』掃部助久国筆
| conflict = 応仁の乱
| date = ([[天保暦|旧暦]])[[応仁]]元年 - [[文明 (日本)|文明]]9年<br/>([[ユリウス暦]])[[1467年]] - [[1477年]]
| place = [[京都]]
| result = 西軍の消滅
| combatant1 = 東軍
| combatant2 = 西軍
| commander1 = [[ファイル:松笠菱(細川向かい松).jpg|20px]] [[細川勝元]]<br/> [[ファイル:松笠菱(細川向かい松).jpg|20px]] [[細川政元]]([[#各勢力の動向|ほか]])
| commander2 = [[ファイル:五七桐に七葉根笹.png|20px]] [[山名宗全]]<br/> [[ファイル:Japanese Crest Oouchi Hisi.svg|20px]] [[大内政弘]]([[#各勢力の動向|ほか]])
| strength1 = 約160,000(諸説あり)
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'''応仁の乱'''(おうにんのらん)は、[[室町時代]]中期の[[応仁]]元年([[1467年]])に発生し、[[文明 (日本)|文明]]9年([[1477年]])までの約11年に及んで継続した[[内乱]]。
[[室町幕府]][[管領]]家の[[畠山氏]]と[[斯波氏]]それぞれの家督争いに端を発し、[[足利将軍家]]の後継者問題も絡んで幕政の中心であった[[細川勝元]]と[[山名宗全]]の二大有力守護大名の抗争となり、幕府勢力が東西に分かれて争う戦乱に発展、さらに各々の領国にも争いが拡大する大乱となった。
[[明応]]2年([[1493年]])の[[明応の政変]]と並んで[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]移行の原因とされる{{Efn|応仁の乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなったとする説もあるが、応仁の乱以降も室町幕府は衰退しつつ影響力が一応維持されていた。このため、明応の政変以後を戦国時代とする説も存在する。}}。
11年に亘る戦乱は、西軍が解体されたことで収束したが、主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受けて荒廃した{{Sfn|キーン|p=83}}。
応仁元年(1467年)に起きたことから一般に「応仁の乱」と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁はわずか3年で文明へと[[改元]]された。そのため、近年では「'''応仁・文明の乱'''」(おうにん・ぶんめいのらん)と称されることもある<ref>[[百瀬今朝雄]]「応仁・文明の乱」(『岩波講座日本歴史7 中世3』岩波書店、1976年)</ref>。
== 背景 ==
{{脚注の不足|date=2019年9月|section=1}}
=== 足利義政の8代将軍就任 ===
[[鎌倉時代]]後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、相次ぐ戦乱の結果、力をつけてきた[[国人]]・商人・農民などの台頭によって、その既得権益を侵食されつつあった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は成立当初から将軍の権力基盤は脆弱で、[[管領|三管領]]([[細川氏]]、斯波氏、畠山氏)など宿老の影響力が強かった。それは宿老や[[守護大名]]も例外ではなく、領国の[[守護代]]や有力家臣の強い影響を受けていた。こうした環境が、[[家督]]相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「[[お家騒動]]」を発生させる原因になった。幕府は、4代将軍[[足利義持]]の弟で、籤引きによって選ばれた6代将軍[[足利義教]]が専制政治を敷き、守護大名を抑えつけて将軍の権力を強化したが、[[嘉吉]]元年([[1441年]])に[[赤松満祐]]に[[嘉吉の乱|暗殺されてしまう]]。この混乱を収束させたのは管領[[細川持之]]と[[畠山持国]]であった。しかし、嘉吉2年(1442年)細川持之は[[隠居]]し翌年死去、7代将軍となった義教の嫡子である9歳の[[足利義勝|義勝]]も就任1年足らずで急逝した。義勝の同母弟である8歳の'''[[足利義政]]'''が、管領に就任していた畠山持国邸における衆議により次期将軍に選ばれ、[[文安]]6年([[1449年]])に正式に将軍職を継承した。
=== 細川氏・山名氏の連携と、管領畠山持国の隠居 ===
管領であった畠山持国は、足利義教に隠居させられていたが、嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還し、義教によって家督を追われた者達を復権させ勢力を拡大した。持国には子がなかったため、弟の[[畠山持富|持富]]を養子に迎えていた。しかし、[[永享]]9年([[1437年]])に義夏(後の[[畠山義就]])が生まれたため、文安5年([[1448年]])に持富を廃嫡して義夏を家督につけた。これは将軍・足利義政にも認められ、義夏は義政から偏諱を授けられている。
そして、畠山持国、足利義政、義政の乳母[[今参局]]は一致して[[斯波氏]]家臣の争いに介入し、宝徳3年(1451年)の[[織田郷広]]の尾張守護代復帰を支援した。しかしこれは越前・遠江守護代[[甲斐常治]]の意を受けた[[日野重子]](義政の母)の反対により頓挫した。さらに、畠山家内部でも重臣[[神保氏]]・[[遊佐氏]]は持富の廃嫡に納得せず、持国の甥で持富の子[[畠山政久|弥三郎]]を擁立するべきと主張した(持富は[[宝徳]]4年([[1452年]])に死去)。
このため[[享徳]]3年([[1454年]])[[4月3日_(旧暦)|4月3日]]畠山持国は神保国宗を誅殺した。この畠山氏の内紛に対し、'''[[細川勝元]]'''、'''[[山名宗全]]'''、そして畠山氏被官の多くが、勝元と宗全の下に逃れた畠山弥三郎・[[畠山政長|政長]]兄弟を支持し、[[8月21日_(旧暦)|8月21日]]に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃した。難を逃れた畠山持国は[[8月28日_(旧暦)|8月28日]]に隠居させられ、義就は京都を追われ、足利義政は弥三郎を家督継承者と認めなくてはならなかった。一方で、弥三郎を匿った細川勝元の被官の処刑も命ぜられ、[[喧嘩両成敗]]の形も取られた。しかし山名宗全はこの命令に激怒し、処刑を命令した義政とそれを受け入れた勝元に対して反発した。足利義政は宗全追討を命じたが、細川勝元の嘆願により撤回され、宗全が[[但馬国]]に隠居することで決着した。[[12月6日_(旧暦)|12月6日]]に宗全が但馬国に下向すると、[[12月13日_(旧暦)|13日]]に義就が軍勢を率いて上洛して弥三郎は逃走。再び畠山義就が家督継承者となった{{sfnm|1a1=大阪府|1pp=54-59|2a1=桜井|2pp=283-285|3a1=石田|3pp=109-111, 124-125}}。
なお、文安4年([[1447年]])に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。
=== 管領細川勝元と畠山義就の対立 ===
翌享徳4年[[3月26日_(旧暦)|3月26日]]([[1455年]][[4月12日]])に畠山持国は死去し、畠山義就が畠山氏の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である[[山城国]][[木津町|木津]]を攻撃、細川勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で山名宗全は、長禄2年([[1458年]])に赦免され、同年に義就と共に八幡[[神人]]討伐に参陣した頃から親義就派となっていった{{sfnm|1a1=桜井|1pp=299-300, 304|2a1=石田|2pp=136, 160-162}}。長禄3年([[1459年]])には弥三郎が赦免され、上洛を果たしたがまもなく死去。代わって政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立された。
寛正元年([[1460年]])[[9月20日_(旧暦)|9月20日]]には義政によって政長の畠山氏家督が認められ、義就は追放された。義就は[[河内国|河内]][[嶽山城]]に籠もって徹底抗戦を図ったため義政は追討軍を発し、義就を攻撃させた([[嶽山城の戦い]])。しかし義就は寛正4年([[1463年]])[[4月15日_(旧暦)|4月15日]]まで攻撃を耐え抜き、嶽山城が落城した後は[[紀伊国]]、次いで[[吉野]]へ逃れた{{sfnm|1a1=大阪府|1pp=59-65|2a1=小川|2pp=135-137|3a1=石田|3pp=163-165}}。
=== 足利義政の関東政策と斯波氏 ===
一方、[[関東地方|関東]]では、享徳3年([[1455年]])に幕府に叛旗を翻し[[享徳の乱]]を起こした[[鎌倉公方]](後に[[古河公方]])[[足利成氏]]を討伐するため、長禄元年([[1457年]])足利義政は、異母兄の[[足利政知]]を新たな鎌倉公方として関東に派遣したが、政知は[[鎌倉市|鎌倉]]へ下向できず、長禄2年([[1458年]])[[伊豆国]]堀越に留まった(後の[[堀越公方]])。足利義政は[[斯波義敏]]を始めとする成氏追討軍を派遣しようとしたが、義敏が執事の[[甲斐常治]]と[[長禄合戦|内乱]]を起こしたため更迭、息子の[[斯波義寛|松王丸]](義寛)を[[斯波氏]]当主に替えた。さらに寛正2年([[1461年]])、足利義政は斯波氏の家督を松王丸から、足利政知の執事である[[渋川義鏡]]の子・[[斯波義廉]]に替え、堀越府の軍事力強化を企図した。しかし、渋川義鏡が[[扇谷上杉家]]の[[上杉持朝]]と対立し、その後失脚したため、足利義政は斯波義敏の復権を画策した{{Sfn|石田|pp=147-157, 165-174, 182-185}}。
{{Main|武衛騒動}}
=== 足利義政と政所執事 ===
畠山氏や斯波氏の他にも、[[富樫氏]]、[[小笠原氏]]、[[六角氏]]でもお家騒動が起こっている。幕府はこれらの調停も行ったが、対応が首尾一貫せず、守護家に分裂の火種を残した。この政策は、室町幕府[[政所]]執事であり、義政側近の[[伊勢貞親]]が、将軍権力の向上を企図して主導したものであった。さらに、寛正4年(1463年)8月、義政の母日野重子が没し、[[大赦]]が行われ、畠山義就、武衛騒動で失脚した斯波義敏ら多数の者が赦免された。
この前後の一貫性のない幕府・朝廷の対応を[[興福寺]][[別当]][[尋尊]]は「公武御成敗諸事正体無し」と批判している。しかし、この大赦には、斯波義敏の妾と伊勢貞親の妾が姉妹であることや、細川勝元への牽制などの動機があった{{Sfn|桜井|p=301}}。ところが、この伊勢貞親の政策の裏では、中央から遠ざかっていた山名宗全が斯波義廉に接近、畠山義就、伊予国や安芸国で細川勝元と対立する[[大内政弘]]とも提携、反勢力の中核となっていった{{sfnm|1a1=石田|1pp=160-165, 177-179|2a1=川岡|2pp=109-111}}。
また、嘉吉の乱鎮圧に功労のあった山名宗全は主謀者[[赤松氏]]の再興に反対していたが[[長禄]]2年([[1458年]])、勝元が宗全の勢力削減のため、[[長禄の変]]で赤松氏遺臣が功績を立てたことを根拠に[[赤松政則]]を[[加賀国|加賀]]守護職に取り立てたことから両者は激しく対立した。
後に勝元が養子で宗全の末子[[山名豊久|豊久]]を廃嫡したことが応仁の乱の一因となったともされる。
=== 足利義視の還俗と義尚誕生 ===
足利義政は29歳になったが今だ子はなく、生存している足利宗家の男子は3名のみと断絶が危惧される情勢にあった{{sfn|家永遵嗣|2014|p=9}}。[[寛正]]5年[[11月26日_(旧暦)|11月26日]]([[1464年]][[12月24日]])、義尋は還俗し名を[[足利義視]]と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。まもなく義視は、義政の正室[[日野富子]]の妹である[[日野良子]]を妻に迎えたが、これは義政と富子のとりもちによるものであった{{sfn|家永遵嗣|2014|p=9}}。『応仁記』一巻本には義政が「男子が生まれても僧門に入れる」と義視に約束したという記述があるが、確証はない{{sfn|家永遵嗣|2014|p=9-10}}。
寛正6年[[11月23日_(旧暦)|11月23日]](1465年[[12月11日]])、義政と富子との間に[[足利義尚]](後に義煕と改名)が誕生する。義尚は出生当時から「世嗣」として扱われていたが、義視の後継者待遇も変わらずに順調に昇進を続けており、20歳以上離れた義尚後継までの中継ぎとして扱われていた{{sfn|家永遵嗣|2014|p=10-11}}。
富子の依頼により山名宗全が義尚の後見人とされたという『[[応仁記]]』一巻本・三巻本の記述が従来の通説であったが{{sfn|家永遵嗣|2014|p=2}}、近年では反証もあげられている{{Sfn|石田|pp=182-190}}{{sfn|家永遵嗣|2014|p=3}}。実際に義尚の後見人であったのは「御父」とされた義政側近の[[伊勢貞親]]であり{{sfn|家永遵嗣|2014|p=13}}、むしろ宗全は[[赤松政則]]を支援する義政側近と敵対していたため、義政の早期隠退と義視の将軍就任を望む立場であった{{sfn|呉座|2016|p=73}}。また『大乗院寺社雑事記』には義視と宗全が共同して義就を支援していた記述が見られる{{sfn|家永遵嗣|2014|p=3}}。更に、細川・山名の両氏が対立関係となるのは寛正6年([[1465年]])から文明6年([[1474年]])までであり、勝元と宗全の対立を乱の原因とする理解は、『応仁記』一巻本・三巻本の叙述によるものであるとの見解も提起されている<ref>[[家永遵嗣]]『室町幕府将軍権力の研究』(東京大学日本史学研究室、1995年)</ref><ref>家永遵嗣「軍記『応仁記』と応仁の乱」(学習院大学文学部史学科編『歴史遊学―史料を読む―』山川出版社、2001年)</ref><ref>家永遵嗣「再論・軍記『応仁記』と応仁の乱」(学習院大学文学部史学科編『〔増補〕歴史遊学』山川出版社、2011年)</ref>。
=== 文正の政変 ===
{{Main|文正の政変}}
[[文正]]元年([[1466年]])[[7月23日_(旧暦)|7月23日]]、足利義政は側近の伊勢貞親・[[季瓊真蘂]]らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を突然、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。さらに[[8月25日_(旧暦)|8月25日]]には[[越前国|越前]]・[[尾張国|尾張]]・[[遠江国|遠江]]守護職を義敏に与え、義廉を討つよう命じている{{sfn|家永遵嗣|2014|p=27}}。しかし勝元はこれを拒否し、宗全も義廉について戦うと表明した{{sfn|家永遵嗣|2014|p=27}}。貞親ら側近衆は守護大名の抵抗により窮地に追い込まれた。
9月5日、伊勢貞親が義政に義視の誅殺を訴える事件が発生した。義政は一旦これを認めたが、[[9月6日_(旧暦)|9月6日]]に義視は居館であった今出川殿を脱出し、宗全の屋敷を経て勝元の屋敷に移った{{sfn|家永遵嗣|2014|p=28}}。勝元は宗全と協力して足利義視の無実を訴えた。これを受けて義政は伊勢貞親を切腹させるよう命じた。貞親は逃亡し、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則も失脚して都を追われた。有力な側近を失った義政の影響力は著しく低下し[[9月14日_(旧暦)|14日]]に斯波家の家督は斯波義廉に戻された。
== 経過 ==
=== 御霊合戦 ===
{{Main|御霊合戦}}
[[File:Ōnin War monument, Kamigoryō-jinja.jpg|thumb|right|250px|「応仁の乱勃発地」の石碑(京都市上京区御霊前通烏丸東入、[[上御霊神社]]鳥居前)]]
文正元年(1466年)12月、7年前の追放以来畿内近国で抵抗・逃亡を続けていた畠山義就が大軍を率いて上洛し、[[地蔵院 (京都市北区)|千本地蔵院]]([[京都市]][[北区 (京都市)|北区]])に陣取った{{efn|『応仁別記』には富子と宗全の働きかけにより義政が義就の上洛を許したという記述がある{{harv|家永遵嗣|2014|p=32}}。}}。これまで連携していた細川勝元と山名宗全であったが、畠山氏の継承問題を巡っては立場を異にしていたため、両畠山の抗争が再び中央に持ち込まれ緊張が高まると対立するようになる。
年が明けて[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]([[1467年]][[2月6日]])、将軍義政は正月の恒例である春日万里小路の畠山邸(政長側)への御成を取り止めて{{sfn|呉座|2016|p=84}}[[花の御所|室町第]]に義就を招き、さらに追い討ちをかけるように山名邸の酒宴に出席して義就・宗全側を支持する姿勢を示した。1月6日には政長の管領職を罷免し、畠山邸を義就へ明け渡すよう命じた{{sfn|呉座|2016|p=84}}。これに対して勝元は室町第を包囲して将軍から義就追討令を得ようと企図したが、勝元夫人(宗全の娘)が事前に宗全に情報を漏らしたため、宗全・義就・斯波義廉(管領)が先手を打って室町第を占拠し{{sfn|呉座|2016|p=84}}、勝元側は[[御所巻]]に失敗した。
[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[2月22日]])、政長は自邸に火を放って[[上御霊神社]](京都市[[上京区]])に陣を敷き抗戦の構えを見せた。義就は[[後土御門天皇|天皇]]や[[後花園天皇|上皇]]らも室町第に避難させて将軍とともに抱え込み{{Sfn|永原|p=261}}、勝元・政長・[[京極持清]]の兵がこれを御所巻にした{{sfn|呉座|2016|p=85-86}}。ここに至って将軍義政は畠山氏の私闘への関与を禁じたが、宗全や[[山名政豊]](宗全の孫)・斯波義廉・[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]](斯波氏宿老)らはこれに取り合わず義就に加勢した{{sfn|呉座|22016|p=86}}。義政の命に従って政長への加勢を止めた勝元は「弓矢の道」に背くものとして非難を受けた{{sfnm|1a1=桜井|1pp=304-305|2a1=石田|2pp=198-203|3a1=小川|3pp=153-158}}{{sfn|呉座|2017|p=87}}。義就側は釈迦堂から出兵して御霊社の政長軍を攻撃した([[御霊合戦]])。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけて自害を装い逃走した。勝元邸に匿われたといわれる{{sfn|呉座|2016|p=86}}。
=== 大乱前夜 ===
[[File:Ounin no Ran 1467.png|thumb|400px|応仁元年(1467年)の勢力図<br>水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲]]
山名宗全らが室町第を占拠したことで幕府中枢から排除された格好となった細川勝元は、御霊合戦の後も没落せずなお京都に留まり続けていた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていたが{{Sfn|桜井|pp=313-315}}、勝元も代々管領職を務める細川京兆家当主の立場で独自に(管領の職務である)軍勢催促状や感状の発給、軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行った{{Sfn|吉田|p=338}}。そして[[四国]]など細川氏一族の分国からも兵を京都へ集結させるなどしたため緊迫した状態が続いた。[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]に改元されて後の[[応仁]]元年(1467年)4月に細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。また細川方の兵は宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。
宗全は[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。『[[応仁記]]』によれば東軍が16万、西軍が11万以上の兵力だったというが、これは誇張と考えられる。京都に集結した諸将は[[北陸地方|北陸]]、[[信越地方|信越]]、[[東海地方|東海]]と[[九州]]の[[筑前国|筑前]]、[[豊後国|豊後]]、[[豊前国|豊前]]が大半であった。守護分国の分布では、東軍が細川氏一族の[[畿内]]と四国に加えその近隣地域の自派の守護、西軍は山名氏の他に細川派の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は細川氏・畠山政長・京極持清・[[武田信賢]]に[[文正の政変]]で失脚した[[赤松政則]]・[[斯波義敏]]を加えた顔ぶれで、西軍の主力は山名氏・斯波義廉(管領)・畠山義就・[[一色義直]]・[[土岐成頼]]・[[大内政弘]]であった{{Sfn|呉座|p=94}}。
=== 開戦と東軍の足利義視推戴 ===
応仁元年(1467年)5月、東軍はかつての[[播磨国|播磨]]守護赤松氏の一門[[赤松政則]]が山名分国の[[播磨国]]に侵攻し奪還した。また[[武田信賢]]・[[細川成之]]らが[[若狭国]]の[[一色氏]]の領地へ、[[斯波義敏]]が[[越前国]]へ侵攻した。[[美濃国|美濃]][[土岐氏]]一門の[[土岐政康|世保政康]]も旧領であった一色氏の[[伊勢国]]を攻撃している。
そして、5月26日に京都での戦いが始まる([[上京の戦い]])。夜明け前、東軍は[[成身院光宣]]([[興福寺]][[衆徒]])が室町第西隣の一色義直邸に近い正実坊を、武田信賢が実相院を占拠した<ref>宮本義己『応仁の乱に生きる』下(日本放送出版協会、1994年)</ref>。武田信賢・細川成之の軍が続いて一色邸を襲撃し、義直は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。[[細川勝元]]は戦火から保護するという名目で室町第を押さえて将軍らを確保し、自邸(今出川邸)に本陣を置いた。勝元は匿っていた[[畠山政長]]を含む自派の諸将兵に応じるよう呼びかけた。また西軍についた幕府奉行衆の責任を追及し、[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]には恩賞方を管轄していた[[飯尾為数]]が殺され、8月には[[伊勢貞藤]](貞親の弟)が追放された{{Sfn|吉田|p=336}}。[[File:Onin-War-1467-1477-The-Battle-of-Onin-by-Utagawa-Yoshitora.png|thumb|300px|応仁の乱]]京都で開戦した26日、西軍は[[斯波義廉]](管領)配下の朝倉・甲斐氏の兵が[[山名宗全]]邸南側の[[細川勝久]]邸を攻めて細川勢と激戦を展開し、東から援軍に来た[[京極持清]]を返り討ちにした。東軍の赤松政則は南下して正親町を通り、猪熊に攻め上って斯波勢を退け、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之邸に逃げ込んだ。西軍は勝久邸を焼き払い、さらに成之邸に攻め寄せ雲の寺、[[知恩寺|百万遍]]の仏殿・[[行願寺|革堂]]にも火を放ち成之邸を攻撃したが東軍の抵抗で勝敗は決せず、翌日両軍は引き上げた。この合戦による火災のため、京都は北の[[船岡山]]から南の二条通りまでの一帯が延焼した{{sfnm|1a1=石田|1pp=209-210|2a1=小川|2pp=167-169}}。将軍義政は[[5月28日 (旧暦)|28日]]に両軍に和睦を命じ、勝元の行動を非難しながら、義就には[[河内国|河内]]下向を指示し、また伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど乱の収束と復権に向けた動きを取っていた{{Sfn|永原|p=265}}。
ところが[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]に勝元の要請によって将軍の牙旗が東軍に下され、足利義視が総大将に推戴されたことで{{Sfn|永原|p=266}}、戦乱は拡大する方向に向かっていく。東軍は軍事行動を再開し、[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]には赤松政則が一条大宮で[[山名教之]]を破った。さらに将軍義政が降伏を勧告すると[[斯波義廉]]ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもったが<ref>『私要鈔』同年六月九日条</ref>、東軍は義廉邸も攻撃した。京都は再び兵火に巻き込まれ、南北は二条から御霊の辻まで、東西は[[大舎人町]]から[[室町小路|室町]]までが炎上した。義廉・[[六角高頼]]・[[土岐成頼]]はいったんは降伏の意向を示したが、東軍に激しく抗戦する朝倉孝景(斯波氏宿老)の首級を条件とされたため断念した<ref>『雑事記』同年六月十三日条</ref>。
=== 西軍大内政弘の入京と義視の逃亡 ===
西軍は[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]に[[大和国]]の[[古市胤栄]]、[[6月19日 (旧暦)|19日]]に紀伊国の[[畠山政国 (総州家)|畠山政国]]などの援軍が到着し始めたが、[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]に[[周防国]]から[[大内政弘]]が[[伊予国]]の[[河野通春]]ら7か国の軍勢1万と[[水軍]]2千艘<ref>尋尊大僧正記</ref>を率いて入京して勢いを回復した。同日天皇・上皇が室町第に避難し、一郭が仮の内裏とされた。一方では足利義視が伊勢貞親の復帰に危険を感じて出奔し、[[北畠教具]]を頼って伊勢国に逃亡した。この頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。
大内政弘は8月中に船岡山に陣取った。[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]に攻めかかった武田勢を[[畠山義就]]・[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]が追い出し、武田勢が逃げ込んだ[[三宝院]]に火を放った。[[9月6日 (旧暦)|6日]]に将軍義政は再度義就の河内下向を命じたが、義就は従わず戦いを続けた{{Efn|義政は大乱の元凶は両畠山氏の騒乱にあるとする姿勢を保ち、5月と9月に義就の河内下向で事態の沈静化を図った。しかし、その義政が家督交替に関与していて、東軍に取り込まれて中立姿勢を取っていない以上停戦命令は無意味であり、戦争の解決に繋がらなかった{{Sfn|石田|pp=210-216, 224-225}}。}}。[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]に京都郊外の[[南禅寺]]山でも戦いが起こり([[東岩倉の戦い]])、[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]に発生した[[相国寺の戦い]]は激戦となり両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、焼亡した相国寺跡には[[斯波義廉]]が陣取り、また義就は宗全邸の西に進出し、東軍は劣勢に立たされた。
朝廷においては[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる[[治罰]][[院宣]]を発したほか、[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]([[12月31日]])に[[正親町三条公治|正親町三条公躬]](公治)・[[葉室教忠]]・[[葉室光忠|光忠]]父子・[[阿野季遠]]・[[清水谷実久]]ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは富子の実家である[[日野家]]と対立関係にあった[[正親町三条家|三条家]]の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。
=== 斯波義廉の管領解任 ===
応仁2年([[1468年]])[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]に北大路烏丸で大内政弘と[[毛利豊元]]・[[小早川煕平]]が交戦、[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]には、[[稲荷山]]の[[伏見稲荷大社|稲荷社]]に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の[[骨皮道賢]]が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]に[[細川成之]]が[[斯波義廉]]邸を攻めたり、[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]に勝元が宗全の陣を、[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。
管領斯波義廉は西軍に属したものの、将軍義政から直ちに解任されなかった。将軍が主宰する[[御前沙汰]]なども管領不在のまま行われていた<ref name="kinoshita">木下昌規「応仁・文明の乱期室町幕府の政務体制における一考察」(『大正大学大学院研究論集』33号、2009年/改題所収:「応仁・文明の乱期における室町幕府と日野勝光」木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2)</ref>。だが、応仁2年(1468年)、幕府と敵対していた関東の古河公方[[足利成氏]]に義廉は和睦を提案し、[[山名宗全]]と[[畠山義就]]の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる{{sfnm|1a1=小川|1pp=187-198|2a1=石田|2pp=241-244}}。
=== 義視の西軍入りと大内軍の優勢 ===
応仁2年(1468年)[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は足利義尚派の[[日野勝光]]の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、[[11月10日 (旧暦)|11月10日]]には義視と親しい[[有馬元家]]を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して[[比叡山]]に登った。[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]([[12月19日]])、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。
一方で幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく{{sfnm|1a1=桜井|1pp=315-317|2a1=石田|2pp=238-241|3a1=小川|3pp=198-201}}。
大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国は西軍によって制圧されつつあり([[西岡の戦い]])、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は[[摂津国|摂津]]・[[丹波国|丹波]]・山城に移っていった。このため東軍は反[[大内氏]]の活動を活発化させた。[[文明 (日本)|文明]]元年([[1469年]])には九州の[[大友親繁]]・[[少弐政資|少弐頼忠]]が政弘の叔父[[大内教幸|教幸]]を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年([[1470年]])2月には教幸自身が反乱を起こしている。しかしいずれも留守居の[[陶弘護]]に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。
これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった{{sfnm|1a1=桜井|1pp=317-318|2a1=小川|2pp=201-210}}。
=== 各勢力の動向 ===
東軍は将軍義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰[[院宣]]を駆使して[[官軍]]の体裁を整え、西軍は[[賊軍]]の立場に置かれていた。しかし、[[正親町三条家]]・[[阿野家]]・[[葉室家]]などのように将軍姻戚の[[日野家]]と対立する公家の一部は義視とともに西軍に投じており、さらに西軍は「[[西陣南帝]]」と呼ばれた[[小倉宮]]後裔を担ぐなど朝廷も一時分裂状態に陥った。
宗教勢力の動きでは[[蓮如]]率いる[[浄土真宗]][[本願寺派]]の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・[[富樫政親]]の要請を受けて[[下間蓮崇]]率いる[[一向一揆]]が政親方に加担。本願寺派と敵対する[[真宗高田派|浄土真宗高田派]]と結んだ西軍の[[富樫幸千代]]と戦い、翌文明6年に幸千代を破っている{{Sfn|辻川|pp=95-107}}。ただこの一件が後に[[加賀一向一揆]]を勃発させる遠因となった。
関東や九州では[[鎌倉公方]]や[[少弐氏]]らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、大乱以前から長い戦乱状態にあった。室町幕府が直轄しない[[関東地方|関東]]八ヶ国及び[[伊豆国|伊豆]]・[[甲斐国|甲斐]]([[鎌倉府]]管轄)は[[享徳の乱]]の最中にあったが、将軍義政が送り込んだ[[堀越公方]]に対し、[[古河公方]]側が西軍と連携する動きもあった{{Sfn|石田|pp=241-244, 266}}。文明7年には[[関東管領]][[上杉顕定]]の後見人の[[越後国|越後]]守護[[上杉房定]](実父)が西軍の[[能登国|能登]]守護[[畠山義統]]とともに東軍の[[畠山政長]]が領する越中を攻撃している{{Sfn|桜井|p=319}}。
下表に東軍(細川方)と西軍(山名方)それぞれに参加した大名や[[国人]]を列挙する<ref>[[安田元久]]編『鎌倉・室町人名辞典』(新人物往来社、1985年10月1日)</ref>。
※◆は西軍から東軍へ寝返った武将、★は東軍から西軍へ寝返った武将、×は応仁の乱終戦までに死去した武将を示す。
{| class="wikitable"
|+
! 氏族 !! 領国 !! 東軍 !! 西軍 !! 備考
|-
! [[足利氏]]
| [[奉公衆]]領<br/>[[奉行衆]]領
| [[足利義政]](第8代将軍)<br/>[[足利義尚]](第9代将軍)||[[足利義視]](義政の弟)★<br/>([[足利義稙|足利義材]]→第10代将軍)<br/>||将軍家
|-
! [[伊勢氏]]
| 山城<br/><br/><br/><br/>三河<br/>
|[[伊勢貞親]](政所執事)×<br/>[[伊勢貞宗]](貞親の嫡子)<br/>[[伊勢盛定]]([[後北条氏]]の祖・[[伊勢宗瑞]]の父)<br />[[蜷川親元]](政所執事代)<br />[[戸田宗光]]<br />[[松平信光]]([[徳川氏]]の祖)||[[伊勢貞藤]](貞親の弟)<br/><br/><br/><br/><br/><br/>||[[政所|政所執事]]<br/>将軍養育係<br/>[[七頭]]<br/><br/><br/>
|-
! [[吉良氏]]
| 三河
| [[吉良義真]](西条家)||[[吉良義藤]](東条家)||[[御一家]]
|-
! [[渋川氏]]
| 肥前
| ||[[渋川教直]]([[九州探題]]・肥前守護)||御一家
|-
![[斯波氏]]
| 越前・遠江<br/><br/><br/><br/><br/>尾張
| [[斯波義敏]](大野系当主)<br/>[[斯波義寛]](義敏の子)<br/>[[斯波持種]](大野家)×<br/>[[甲斐敏光]](越前遠江守護代)◆<br/>[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]◆<br/>[[織田敏定]](清洲家)||[[斯波義廉]](管領・渋川系当主)<br/><br/><br/><br/><br/>[[織田敏広]](尾張守護代・岩倉家) ||[[管領]](1467-77年)<br/>足利氏庶流・[[管領|三管領家]]<br/>※[[武衛騒動]]も参照<br/><br/>
|-
! [[畠山氏]]
| 河内・紀伊<br/>越中<br/><br/>能登
| [[畠山政長]](管領・尾州家)<br/>[[神保長誠]](越中紀伊郡守護代)<br/>[[遊佐長直]](河内守護代)<br/><br/>|| [[畠山義就]](総州家)<br/>[[畠山政国 (総州家)|畠山政国]](義就の猶子)×<br/>[[遊佐就家]]<br/>[[畠山義統]](能登守護)||管領(-1467,73,77年-)<br/>足利氏庶流・三管領家
|-
!
| 大和<br/><br/><br/><br/>
| [[筒井順永]]<br/>[[成身院光宣]](順永の兄)×<br/>[[十市遠清]]<br/>[[箸尾為国]]||[[越智家栄]]<br/>[[古市胤栄]]<br/>[[古市澄胤]](胤栄の弟)<br/><br/>||
|-
! [[細川氏]]
| 摂津・丹波<br/>讃岐<br/><br/><br/><br/><br/><br/>和泉<br/><br/>備中<br/>淡路<br/>阿波・三河<br/><br/><br/><br/>伊予<br/>土佐<br/>
| [[細川勝元]](管領・宗家)×<br/>[[細川政元]](勝元の子)<br/>[[細川政国]](典厩家・政元後見)<br/>[[安富元綱]](執事)×<br/>[[安富元家]]<br/>[[内藤元貞]](丹波守護代)<br/>[[細川四天王]](讃岐守護代等)<br/>[[細川常有]](和泉上半国守護)<br/>[[細川政久]](和泉下半国守護)<br/>[[細川勝久]](備中守護)<br/>[[細川成春]](淡路守護)<br/>[[細川成之]](阿波三河守護)<br/>[[東条国氏]](三河守護代)×<br/>[[三好長之]](阿波郡守護代)<br/>[[三好之長]](長之の子)<br/>[[細川賢氏]](伊予守護)<br/>[[細川勝益]](土佐守護代)<br/>[[長宗我部文兼]]|| ||管領(1468-73年)<br/>足利氏庶流・三管領家
|-
! [[赤松氏]]
| 播磨・備前<br/>美作・加賀<br/><br/><br/><br/>
|[[赤松政則]](侍所所司)<br/>[[浦上則宗]](侍所所司代)<br/>[[宇野政秀]](赤松分家)<br/>[[小寺則職 (室町時代)|小寺則職]]<br/>[[松田元成]]||[[有馬元家]](赤松分家)×<br/><br/><br/><br/> ||七頭・[[四職]]<br/>[[侍所|侍所所司]](1471年-)<br/><br/><br/><br/>
|-
! [[山名氏]]
| 但馬・播磨<br/><br/><br/>因幡<br/>伯耆・備前<br/><br/>石見・美作<br/>備後・安芸
| <br/><br/><br/><br/><br/><br/><br/>[[山名是豊]](宗全の子)||[[山名宗全]](宗家)×<br/>[[山名教豊]](宗全の子)×<br/>[[山名政豊]](教豊の子)<br/>[[山名豊氏]](因幡守護)<br/>[[山名教之]](伯耆備前守護)×<br/>[[山名豊之]](教之の子)×<br/>[[山名政清]](教之の子)<br/> ||七頭・四職<br/>1474年以降は東軍<br/>播磨・備前・美作は<br/>赤松氏に奪還された
|-
!
| 安芸<br/><br/><br/>
| [[小早川煕平]](沼田家)×<br/>[[小早川敬平]]([[小早川煕平|煕平]]の子)<br/><br/>[[吉川経基]]<br/>||[[小早川盛景]](竹原家)<br/>[[小早川弘景 (二代)|小早川弘景]](盛景の子)<br/>[[小早川弘平]](弘景の子)<br/>[[毛利豊元]]★||
|-
! [[武田氏]]
| 若狭・丹後<br/><br/><br/><br/>安芸
| [[武田信賢]](若狭丹後守護)×<br/>[[武田国信]](信賢の弟)<br/>[[逸見繁経]]×<br/>[[粟屋賢家]]<br/><br/>||<br/><br/><br/><br/>[[武田元綱]](安芸分郡守護)★ ||
|-
! [[一色氏]]
| 丹後・伊勢<br/><br/>尾張<br/>三河<br/><br/>
| ||[[一色義直]](宗家)<br/>[[一色義春]](義直の子)<br/>[[一色義遠]](尾張分郡守護)<br/>[[一色政照]](三河分郡守護)<br/>[[一色時家]]||七頭・四職<br/>足利氏庶流<br/><br/><br/><br/>
|-
! [[六角氏]]
| 近江<br/><br/><br/>
| [[六角政堯]](→近江守護)×<br/><br/><br/>||六角亀寿丸(宗家){{Efn|亀寿丸を[[六角高頼]]の幼名とする説と、別人の[[六角政頼]]とする説の両説がある。}}<br/>[[山内政綱]](亀寿丸後見)<br/>[[伊庭貞隆]]||[[佐々木氏]]嫡流<br/><br/><br/>
|-
!
| 近江<br/><br/>
| [[朽木貞綱]]<br/>[[蒲生貞秀]]|| ||
|-
! [[京極氏]]
| 近江・隠岐<br/><br/><br/><br/><br/>出雲<br/>飛騨
| [[京極持清]](侍所所司)×<br/>[[京極勝秀]](持清の嫡男)×<br/>[[京極孫童子丸]](勝秀の嫡男)×<br/>[[京極政経]](持清の三男)<br/>[[多賀高忠]](侍所所司代)<br/>[[尼子清定]](出雲守護代)<br/><br/>||<br/><br/>[[京極高清|京極乙童子丸]](勝秀の子)★<br/>[[京極政光]](持清の次男)★×<br/>[[多賀清直]]★<br/><br/>[[三木久頼]]★×||七頭・四職<br/>侍所所司(-1466年)<br/>佐々木氏庶流<br/>※[[京極騒乱]]も参照<br/><br/><br/><br/>
|-
!
| 飛騨<br/><br/><br/><br/>
|[[姉小路基綱]](古川家)<br/>[[姉小路之綱]](向家)<br/>[[江馬左馬助]]<br/>[[内ヶ島為氏]]||[[姉小路勝言]](宗家・小島家)★<br/><br/><br/><br/>||飛騨国司家<br/><br/><br/><br/>
|-
! [[土岐氏]]
| 美濃<br/><br/><br/><br/><br/>伊勢
| <br/><br/>[[富島光仲]]<br/>[[長江景秀]]×<br/>[[長江利景]](景秀の子)<br/>[[土岐政康]](伊勢守護→解任)||[[土岐成頼]](美濃守護)<br/>[[斎藤利藤]](美濃守護代)<br/>[[斎藤妙椿]](利藤の後見)<br/>[[斎藤妙純]](利藤の弟)<br/>[[石丸利光]]<br/> ||七頭<br/><br/><br/><br/><br/><br/>
|-
!
| 伊勢
| [[関盛元]]||[[長野政高]]★||
|-
! [[北畠氏]]
| 伊勢<br/><br/><br/>
| [[北畠教具]](伊勢国司)×{{Efn|乱の初期には伊勢に侵攻し東軍の土岐氏領を攻めていた。}}<br/>[[北畠政郷]](教具の子)<br/>[[木造教親]](北畠分家)×|| ||伊勢国司家<br/><br/><br/>
|-
! [[仁木氏]]
| 伊勢<br/>伊賀<br/>丹波
| <br/>[[仁木政長]](伊賀守護)<br/>[[仁木成長]](丹波仁木氏)|| [[仁木教将]](伊勢仁木氏)<br/><br/><br/>||足利氏庶流<br/><br/><br/>
|-
! [[今川氏]]
| 駿河
| [[今川義忠]](駿河守護)★×|| ||足利氏庶流(吉良氏分家)
|-
! [[小笠原氏]]
| 信濃<br/><br/>
| [[小笠原政秀]](信濃守護・鈴岡家)<br/>[[小笠原家長]](松尾家)||[[小笠原清宗]](府中家)<br/> ||
|-
! [[木曾氏]]
| [[木曽谷|木曽]]<br/>
| [[木曾家豊]]|| ||
|-
! [[富樫氏]]
| 加賀<br/>
| [[富樫政親]](加賀半国守護)◆||[[富樫幸千代]](政親の弟)||
|-
! [[大内氏]]
| 長門・周防<br/>豊前・筑前<br/>石見<br/><br/><br/>
| [[大内教幸|大内道頓]](政弘の伯父)◆<br/>[[内藤武盛]](長門守護代)◆<br/>[[仁保盛安]]◆<br/>[[吉見信頼]]◆<br/> ||[[大内政弘]](宗家)<br/>[[内藤弘矩]]<br/>[[陶弘護]](周防守護代)<br/>[[益田兼堯]]<br/>[[相良正任]]||
|-
! [[河野氏]]
| 伊予
| [[河野教通]](宗家)||[[河野通春]](予州家)||
|-
! [[少弐氏]]
|豊前・筑前<br/><br/>
| [[少弐教頼]](筑前守護)×<br/>[[少弐政資]](教頼の子)|| ||
|-
! [[宗氏]]
| 対馬
| [[宗貞国]](対馬守護)|| ||
|-
! [[大友氏]]
| 豊後・筑後
| [[大友親繁]](豊後筑後守護)|| ||
|-
! [[菊池氏]]
| 肥後
| [[菊池重朝]](肥後守護)|| ||
|-
!
| 肥後
|[[阿蘇惟歳]]||[[相良為続]]★||
|-
! [[島津氏]]
| 薩摩・大隅<br/>日向<br/><br/>
| [[島津立久]](宗家)×<br/>[[島津忠昌]](立久の子)<br/><br/><br/>||[[島津季久]](豊州家)<br/>[[島津久逸]](伊作家)★<br/>[[島津国久]](薩州家)★<br/>[[島津友久]](相州家)★||
|-
! [[伊東氏]]
| 日向
|||[[伊東祐堯]]★||
|}
その他
*[[一条兼良]]([[関白]]・藤河ノ記の著者)
*[[一条教房]](兼良の嫡男・土佐一条氏の祖)
*[[三条西実隆]]([[実隆公記]]の著者)
*[[大乗院 (門跡寺院)|大乗院]]門跡[[尋尊]](兼良の子・[[尋尊大僧正記]]の著者)
*大乗院門跡[[経覚]]([[九条家]]の出・[[経覚私要鈔]]の著者)
*[[斎藤親基]](武士・[[斎藤親基日記]]の著者)
*[[東常縁]](武士・歌人)
*[[万里集九]](禅僧・[[梅花無尽蔵]]の著者)
*[[雪舟]](禅僧・水墨画家)
*[[正広]](禅僧・歌人)
*[[専順]](僧・歌人)
*[[宗祇]](僧・歌人)
=== 細川勝元と山名宗全の死去 ===
文明3年([[1471年]])[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]、斯波義廉(前管領)の宿老で西軍の主力であった朝倉孝景が、義政による越前国守護職補任を受けて東軍側に寝返った。本来越前守護職は斯波氏のものであったが、これが臣下のはずの朝倉氏に与えられ越前一国の支配権を公認された形となった、まさに[[下剋上]]である。西軍の主力の移籍により、東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕すらも生まれた。一方で西軍は8月、擁立を躊躇していた[[後南朝]]勢力の[[小倉宮]]皇子と称する人物を擁立して「新主」とした([[西陣南帝]]){{Sfn|森|p=237}}。同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地[[古河城]]を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった{{sfnm|1a1=桜井|1pp=210-212|2a1=石田|2pp=252-261|3a1=小川|3pp=318-320}}。
文明4年([[1472年]])になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。開戦要因の一つであった山名氏の播磨・備前・美作は赤松政則に全て奪還された上、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗した。3月に勝元は猶子[[細川勝之|勝之]]を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸([[細川政元]])を擁立した後、剃髪した。5月には宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲り隠居する事件が起きたが、[[桜井英治]]はこれを[[手打ち]]の意思を伝えるデモンストレーションであったと見ている{{sfnm|1a1=桜井|1pp=320-321|2a1=石田|2pp=262-263|3a1=小川|3pp=213-216}}。
=== 足利義政の隠居と和睦交渉 ===
[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]([[1474年]][[1月7日]])には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。幕府では文明3年に長らく空席だった侍所頭人(所司)に赤松政則が任ぜられ、政所の業務も文明5年になると政所頭人(執事)[[伊勢貞宗]]によって再開されるなど、幕府業務の回復に向けた動きがみられた。管領は義尚の将軍宣下に合わせて畠山政長が任じられたものの、一連の儀式が終わると辞任してしまい、再び空席になってしまったために富子の兄である公家の日野勝光が幕府の役職に就かないまま、管領の職務を代行した<ref name=kinoshita/>。一方で富子の勢力が拡大し、義政の実権は失われていった。
文明6年([[1474年]])3月、義政は小河に建設した新邸に移り、室町第には富子と義尚が残された。興福寺別当尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、[[公方]](義政)は大御酒、諸大名は[[笠懸|犬笠懸]]、天下泰平の時の如くなり」と評している{{Sfn|永原|p=327}}。だが、義政の大御酒が平時と異なったのは、室町第に退避していた後土御門天皇もその酒宴に加わっており、幕府のみならず朝廷の威信の低下にもつながる事態となっていた<ref name="isihara">石原比位呂「義政期の将軍家と天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6 P332-343</ref>。
文明6年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[4月19日]])、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃した。さらにこの頃、西軍の一色義直の子[[一色義春|義春]]が義政の元に出仕し、[[丹後国|丹後]]一色氏も東軍に帰順した。その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘・土岐成頼を中心に惰性的な小競り合いを続けていた。また、赤松政則は和睦に反対し続けていた。
一方、西軍の土岐成頼の重臣で[[従三位]]の[[奉公衆]][[斎藤妙椿]]も文明6年の和睦に反対し<ref>『大乗院寺社雑事記』文明6年4月19日</ref>、美濃の兵を率いて近江・京都・伊勢に出兵した。更に越前にも出兵し、同年6月に西軍の斯波義廉の重臣[[甲斐敏光]]と東軍に寝返っていた朝倉孝景を停戦させている。
=== 終息 ===
文明7年([[1475年]])2月、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命された{{Sfn|呉座|pp=193}}。西幕府の管領で敏光の主君であった斯波義廉も同年11月、守護代[[織田敏広]]を連れて尾張国へ下国し、消息を絶った{{Sfn|呉座|pp=193}}。しかし和平工作を行っていた日野勝光が死去したため、和睦の流れは一時頓挫した{{Sfn|呉座|pp=193}}。翌文明8年([[1476年]])9月には、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速した{{Sfn|呉座|pp=193-194}}。
主戦派の畠山義就は大内政弘の降伏によって孤立することを恐れ、文明9年([[1477年]])[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]に河内国に下国した{{Sfn|呉座|pp=194-195}}。[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]、大内政弘は東幕府に正式に降参し、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された{{Sfn|呉座|pp=197}}。大内軍が[[11月11日 (旧暦)|11月11日]](1477年[[12月16日]])に京から撤収し、能登守護の畠山義統や土岐成頼も京の自邸を焼き払って帰国した{{Sfn|呉座|pp=197}}。義視・[[足利義稙|義材]](後の10代将軍)親子は正式な赦免を受けないまま{{efn|正式に赦免されたのは文明10年([[1478年]])[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]{{harv|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=302}}}}、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した{{Sfn|呉座|pp=198}}。こうして西軍は解体され、9日後の[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ京都における大乱の幕が降ろされた。なお、西陣南帝は「諸将みな分国に帰り、京都に置き去りにされてしまわれた」<ref>{{Cite | 和書 | editor = 後南朝史編纂会 | title = 後南朝史論集:吉野皇子五百年忌記念 | publisher = 原書房 | edition = 新装 | page = 20 | date = 1981-07 | isbn = 4-562-01145-9 }}</ref>とされているものの、その後の消息は不明{{Efn|[[壬生晴富]]の日記『[[晴富宿禰記]]』の文明11年7月11日の条として「南方宮、今時越後越中次第国人等奉送之、著越前国北庄給之由」とあり、[[瀧川政次郎]]はこの「南方宮」が西陣南帝のことであるとしている。}}。
この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵されていた{{sfnm|1a1=桜井|1pp=321-322|2a1=石田|2pp=263-274|3a1=小川|3pp=216-223}}。
=== 畠山義就の赦免 ===
西軍が消滅したとはいえ、それは単に京都での戦闘が終結したということに過ぎなかった。畠山義就は京都での退去後にも幕府の命令に従わず、河内国を占拠して政長方を駆逐し、続いて大和国に侵攻した{{Sfn|呉座|pp=204-209}}。さらに義就は政長が守護を務めていた[[山城国]]に侵攻した。文明14年([[1482年]])末から文明15年([[1483年]])にかけては義就が[[宇治市|宇治]]以南の南山城を占拠し、幕府の命令が届かない状態となった{{Sfn|呉座|pp=219}}。将軍義尚や富子は政長を見限って義就を赦免しようとしたが、義政の反対で中止された{{Sfn|呉座|pp=220}}。ついに文明16年([[1484年]])には政長の守護職を解き、幕府の直轄(御料国)としたが、戦乱はなおも続いた{{Sfn|呉座|pp=220}}。
文明17年([[1485年]])7月、義就方の斎藤彦次郎が政長方に寝返ったことにより、義就方と政長方の大軍が対峙することになった。しかし山城国の[[国人]]が団結し、撤退しなければ攻撃すると両軍に通達し、義就・政長らは山城国より撤退した{{Sfn|呉座|pp=221-223}}。以降、国人たちは[[山城国一揆]]を組織し、一種の自治的な政権をつくることとなる{{Sfn|呉座|pp=224-225}}。一方で義就は山城国より撤退したことが評価され、文明18年([[1486年]])3月に義政と義尚から正式に赦免され、応仁の乱の戦後処理はここに完了した{{Sfn|呉座|pp=225}}。
== 戦乱の影響 ==
応仁の乱は幕府権力が崩壊した[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の始まりであるとの説が通説であったが、近年では幕府の権威は[[明応の政変]]頃まで一応保たれていたという見解もあり、明応の政変以降を戦国時代の始まりととらえる説もある。とはいえ、応仁の乱以降身分や社会の流動化が加速されたことは間違いない。
東洋史学者の[[内藤湖南]]は講演『応仁の乱に就て』において、応仁の乱前後を「最も肝腎な時代」であると指摘し、「大体今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知つて居つたらそれで沢山です」と発言し、古代史学者との間に論争を巻き起こした。なお後述するように歴史資料が失われたことで、応仁の乱以前には不明な点も多い。
=== 幕府・守護権力の変化 ===
応仁の乱により、[[多賀高忠]]、[[浦上則宗]]、[[斎藤妙椿]]、[[尼子清定]]など、守護家に迫る勢力を有する国人が台頭した。また、東西両軍は味方を得るために、それまでの家格を無視した叙任を行った。西軍は一介の国人であった[[越智家栄]]を大和守護に任命し、東軍は西軍の有力武将だったが守護代でもなかった[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]を越前守護につけた。
文明7年、能登守護[[畠山義統]]と越後守護[[上杉房定]]が政長の分国越中を侵略した際には、足利義政が「諸国の御沙汰は毎事力法量(諸国の沙汰は力次第である)」と述べ、守護が他国を侵略することも是認された{{Sfn|桜井|p=319}}。このため室町幕府の家格秩序は崩壊し、身分秩序が流動化することになった。また長期にわたる京都での軍事活動により、守護の財政は逼迫した。権威と財政を失った守護は、国人や家臣団に対する支配力を著しく低下させた。国人や家臣は守護の影響を排除して自らの地盤を固め、領主化していった。
それまで在京が原則であった守護は自らの領国を守るため下国し、守護代に任せていた領国経営を自らの権威により行おうとした。これにより守護は幕府の統制を離れ、幕府は[[段銭]]などの徴収がままならなくなった。いくつかの守護は領主化を強化することで[[戦国大名]]へと成長することが出来たが、既に乱の最中に守護代や家臣に権力を奪われた者もおり、没落した守護も多かった。この従来の家格秩序を破る風潮は[[下克上]]と呼ばれ、戦国時代を象徴する言葉となる。
また、守護在京制の崩壊により、文明18年([[1486年]])には京都に残る守護が摂津・丹波を基盤とする細川氏一門のみとなった。守護の協力を得られなくなった幕府は、将軍近臣の[[奉公衆]]や[[奉行衆]]による運営を余儀なくされ、畿内政権としての道を歩み始めた。その一方で、細川勝元が幕府を西軍方に占拠されていた時に始めた、細川京兆家当主としての軍勢催促状などの軍事決裁行為が管領復帰後も継続され、勝元没後に管領となった畠山政長も義就との戦いのためにほとんど在京しなかったために、勝元の子政元が[[細川政国]]の後見を受けて同様の措置をもって幕府の軍事行動を指揮したため、細川京兆家が本来管領が有していた幕府の軍事的権限を行使するようになった{{Sfn|吉田|pp=338-341}}。やがて細川氏と幕府の利害が対立し、明応の政変とその後の[[細川政権 (戦国時代)|京兆専制]]を招くことになる。
=== 公家の没落 ===
領主化を推進する守護や国人によって[[一円知行]]化が進められ、公家や寺社の[[荘園 (日本)|荘園]]は横領された。さらに幕府の権威低下により、遠国など幕府の権力が届かない地域の荘園・[[国衙領]]支配は絶望的になり、[[荘園_(日本)|荘園制度]]の崩壊が加速した。収入を断たれた公家は没落し、朝廷行事や官位昇進への興味も失った。[[甘露寺親長]]は日記に「高官無益なり」と書き記し、文明5年には顕官である[[近衛大将]]の希望者が現れないという事態が発生している。前関白[[一条教房]]のように京都を去る公家や、[[町広光]]のように家を意図的に断絶させる公家まで現れた{{Sfn|桜井|p=312}}。また、西軍について失脚した[[西川房任]]の子孫が[[細川高国]]に仕えて[[薬師寺国長]]の[[寄子]]に付けられるなど、生活が立ち行かなくなって公家身分を棄てる例もあった<ref>馬部隆弘「摂津守護代薬師寺氏の寄子編成」(初出:『新修 茨城市史年報』第15号(2017年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P183.</ref>。更に朝廷収入も激減し、[[即位礼]]や[[大喪の礼]]などの儀式を行うことも困難となった。このため戦国期には献金による[[売官]]が行われるようになった。これは京都文化が地方に伝播する一因ともなった。
=== 京都の被害 ===
文明2年頃には戦火で京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失し、罹災を免れたのは土御門内裏などわずかであった。このため[[類聚国史]](一部)など京都にあった歴史的資料の多くが焼失・散逸し、これ以前の歴史研究に影響を及ぼした。
[[七口の関|京都七口関]]は両軍の争奪戦となり、物資の流入も停滞した。さらに足軽の放火・略奪が追い打ちをかけ、京都の大半の人々は大いに困窮した。また文明5年には疫病が流行し、宗全や勝元も命を落とした{{Sfn|永原|p=320}}。
しかし、義政はこれを顧みず日夜酒宴に明け暮れ(ただし、これは将軍御所に退避した天皇に対する饗応の意味もある<ref name="isihara" />)、[[小河邸]]や[[慈照寺|東山山荘]]を造営した。また富子は困窮した東西軍の守護に金銭を貸し付けるほか、[[米]]の[[投機]]を行って大いに利益を上げた{{Efn|『[[大乗院寺社雑事記]]』内の『尋尊大僧正記』文明9年7月には富子が「畠山左衛門佐」に一千貫を貸し付けているという記録がある。[[永原慶二]]はこれを西軍の主将[[畠山義就]](右衛門佐)と解釈している。しかし、西軍に参加している守護大名の[[畠山義統]](左衛門佐)という研究者も存在する<ref>[[鈴木眞哉]]『NHK歴史番組を斬る!』洋泉社、2012年</ref>。
[[呉座勇一]]は尋尊が東軍の[[畠山政長]](左衛門督)をしばしば「左衛門佐」と誤記していることを指摘し、富子が東西両軍に金を貸しているという批判は誤りであるとしている{{Sfn|呉座|pp=194-195}}。}}。
寺社、公家、武家屋敷があった[[上京]]が焼け、商工業者が居住していた[[下京]]が焼け残ったことは、その後の京都の商業勃興をもたらした<ref name=repo2>伊藤信博「[http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/32-2/ito.pdf 酒飯論絵巻に描かれる食物について -第三段、好飯の住房を中心に]」『言語文化論集』32巻2号、2011年</ref>。
=== 京都の復興 ===
応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は京都周辺の[[山科区|山科]]や[[宇治市|宇治]]、[[大津市|大津]]、[[奈良市|奈良]]、[[堺市|堺]]といった周辺都市や地方の所領などに疎開していった。応仁の乱後の文明11年([[1479年]])に[[花の御所|室町殿]]や内裏の造営が開始されたが、都市の荒廃による環境悪化によって[[疫病]]や火災、盗賊、一揆などの発生が頻発したこと、加えて在京していた守護大名やその家臣達(都市消費者として一定の役割を果たしていた)が領国の政情不安のために帰国したまま帰ってこなかったこともあり、京都の再建は順調とは言えなかった。また、こうした災害を理由とした[[改元]]([[長享]]・[[延徳]]・[[明応]])が相次いだ。
将軍義政は、義教の死後中断していた[[日明貿易|勘合貿易]]を[[宝徳]]3年([[1451年]])に復活させた。勘合貿易の復活や側近の守護大名及び幕府官僚の財政再建によって、応仁の乱前の幕府財政は比較的安定してはいた。だが、義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった。
一方で、[[町衆]]主導によって行われたと評価されてきた明応9年([[1500年]])の[[祇園祭]]の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられる{{Efn|また室町幕府も明応9年をはじめ、以後の祇園祭に度々介入して主導権の回復を図り実際に戦国時代初頭には幕府の命令による祇園祭の延期や年2度開催が度々行われた。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられている。}}。また、当時町衆における[[法華宗]]の受容も、社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられる。
それでも明応7年([[1498年]])頃より京都の住民に対する[[地子銭]]徴収が次第に増加していったこと、[[永正]]5年([[1508年]])以後の[[酒屋役]]徴収の強化命令が幕府から出されている事からこの時期に京都の人口回復が軌道に乗り出したと考えられ、明応9年の祇園祭の前後数年間が京都の本格的な復興期と考えられている。
=== 戦術の変化 ===
応仁の乱の戦いで特徴的とされるものは、正規の武士身分ではない[[足軽]]の活躍である。それまでは騎乗の権利の有する正規の武士が、少数の従卒を率いる小グループ同士の戦いであり、戦いの進行も[[名乗り]]を上げた後、[[騎射]]、馬上で[[薙刀]]などを使う打物戦、最後に下馬しての徒戦という順に進んでた。
応仁の乱は大規模な戦闘が続いたことで兵力不足に悩んだ両軍は、[[兵站]]や[[土木]]作業に従事する足軽を戦力に加えた。足軽は技量が低い者も多く、それまではタブーであった馬への攻撃も行われた。主力武器も個人戦向けの薙刀から、集団戦に適した[[槍]]へと移行した。
東軍の[[足軽大将]][[骨皮道賢]]や西軍の御厨子某は、後方攪乱として足軽による[[ゲリラ戦]]を行って名を上げるなど[[散兵]]も活用された。
足軽は盗賊などの無法者を多く含んでおり、高い自立性を持っていた。彼らは異形の装いをし、市街の放火や略奪を頻繁に行った。このため[[一条兼良]]は『[[樵談治要]]』において「洛中洛外の諸社諸寺五山十刹公家門跡の滅亡は彼らが所行なり」と非難している。一方で[[東寺]]などの権門寺社も自衛のために足軽を雇用することもあった{{sfnm|1a1=桜井|1pp=309-311|2a1=石田|2pp=232-235}}。
== 後世の評価と研究 ==
=== 拡大の要因 ===
乱のきっかけは畠山義就を山名宗全が支援したことであるが、何故ここまで乱の規模が拡大し、長期間継続したのかという問題には様々な解釈が建てられている。
多くの大名には陣営を積極的に選ぶ理由はほとんど無かった{{Sfn|永原|p=277}}。富子は義視が西軍に逃亡した後も土御門内裏が炎上しないように西軍の大内政弘と連絡を取り合っているなど、将軍継嗣の問題だけでは説明がつかないという見方もある{{Sfn|桜井|p=324}}。[[永原慶二]]は幕政の中心人物である勝元と宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は戦わざるを得なくなったとしており、戦い自体にはさしたる必然性もなく、戦意がない合戦が生み出されたとしている{{Sfn|永原|p=278}}。
当時の人々も理解できなかったらしく、尋尊は「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と「尋尊大僧正記」に記している。
=== 軍記による描写 ===
応仁の乱が描かれた代表的な[[軍記物]]としては、『[[応仁記]]』『[[後太平記]]』『[[瓦林正頼記]]』などがある。特に、著名な[[軍記物語]]である『応仁記』は、細かい描写がなされて乱の研究に欠かせない史料であるが、儒教的色彩が濃く、幾つかの誤りが指摘されるようになった。実子・[[足利義尚]]の将軍職擁立を切望する[[日野富子]]が山名宗全に依頼し、足利義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍したという説は誤りであるとされ、富子が乱の元凶であったとする説を現在にまで流布させる要因となった。
== 各地の戦乱 ==
===摂津・河内・和泉・山城===
摂津・河内・和泉(摂河泉と呼ばれる)3ヶ国のうち摂津・和泉は細川氏が、河内は畠山氏が守護を務めていた。しかし、畠山氏がお家騒動で混乱し、応仁の乱で大内政弘が西上して京都の戦闘が各地に及ぶと、近郊の摂河泉は東西両軍の衝突地域となっていった。また、山城国は畠山氏の領国であるが、細川勝元が畠山持国への対抗から山城[[国人]]を被官に加え、畠山持国の弱体化を目論みお家騒動を煽った影響で山城国は義就と政長どちらに付くかで分裂した。
[[畠山義就]]は乱直前の足利幕府への工作で守護職を取り戻し、御霊合戦で[[畠山政長]]を破り立場を固めた。ところが、政長を援助していた細川勝元が諸国の軍勢を動員すると、幕府から守護職を取り上げられ政長に替えられ、再び地位を失うと義就は実力行使で領国奪取に動いた。一方、大内軍は上洛して西軍の主力として京都で東軍と戦っていたが、文明元年4月に義就が山城国[[西岡]]を攻めて陣取っていた西軍を丹波国へ追い落とし([[西岡の戦い]])、山城[[勝竜寺城]]へ入って摂津・丹波付近を伺うようになると、大内軍も7月に摂津国へ侵攻して諸城を落とし、摂津の殆どを制圧した。しかし、[[池田城 (摂津国)|池田城]]だけは城主の抵抗で持ちこたえ、10月に山名宗全の次男の[[山名是豊]]と赤松政則が東軍の援軍として大内軍を撃破して[[兵庫津|兵庫]]を奪還したため、大内政弘は池田城の包囲を解いて東軍迎撃に向かった。これに対し、是豊は摂津[[神呪寺]]に着陣して大内軍と戦い、その後は東進して摂津と山城の国境の[[山崎宿|山崎]]に布陣した。
文明2年1月から4月にかけて山崎の是豊と勝竜寺城の義就が交戦したが決着は着かず、5月に東軍の裏工作で摂津国に留まっていた大内政弘の家臣[[仁保弘有]]が寝返り、直後に[[茨木城]]と[[椋橋城]]が東軍に奪回され反撃の契機となった。一方、大内政弘は南山城の[[木津川 (京都府)|木津川]]流域を攻撃目標として7月に八幡へ進出して木津を除く南山城を制圧した。だが、木津に拠点を構える東軍の抵抗は激しく、大内軍は木津を奪えないまま下狛([[精華町]])に待機して一進一退の状況を続けていった。義就は8月に山城国から大和国を経て河内国へ侵攻、[[若江城]]と[[誉田城]]を包囲したが落とせず撤退、山名是豊は領国の[[備後国|備後]]で西軍が蜂起したため12月に下向していった。山城国は山名是豊が東幕府から守護に任じられていたが、大内軍による南山城の占拠や是豊が備後国への撤退後は義就が実力で山城を支配することになり、守護でないにもかかわらず義就は山城国を実質上占領下に置いた。
文明3年6月、大内軍と畠山軍が合流して摂津・和泉に侵入したが、敵の反撃で失敗、以後畿内で大きな戦闘はほとんど行われず、文明4年10月に木津から出陣した東軍は大内軍の反撃で退散、文明7年4月に大内軍が木津へ攻撃して失敗したことが挙げられる程度であった。文明8年に政長は家臣の[[遊佐長直]]を河内国に下向させて若江城に赴任させたが、義就は翌文明9年9月に河内へ向かい、9月から10月にかけて若江城を始めとする河内の諸城を陥落させ長直を追放、河内を制圧した([[若江城の戦い (室町時代)|若江城の戦い]])。大内軍も呼応して木津を落としたが、大内政弘は幕府と和睦して11月に帰国したため、木津と摂津は東軍の手に戻された。以後、南山城は政長を始めとする幕府が領有したが、河内は守護ではない義就が占拠した状態が続いていくことになる{{sfnm|1a1=大阪府|1pp=262-282|2a1=石田|2pp=246-255|3a1=福島|3pp=13-22}}。
===大和===
大和国も畠山持国の影響力が強かったため、大和国人もお家騒動で互いに敵対していった。義就に就いた国人は[[越智家栄]]・[[古市胤栄]]で、政長には[[筒井順永]]・[[成身院光宣]]・[[十市遠清]]・[[箸尾為国]]らが味方した。光宣は乱勃発直後から政長に仕え、御霊合戦後に政長を勝元の屋敷へ手引きして、文明元年に亡くなるまで東軍に属していた。古市胤栄は義就に手助けすべく応仁元年6月に上洛したが、他の国人衆は表立って活動は行わなかった。
事態が動いたのは文明2年に大内軍が摂津国から南山城へ南下した時で、山城国と大和国を結ぶ重要拠点の木津を大内軍が攻めてきたため、筒井順永は木津防衛に向かい大内軍の進出を阻止した。一方、越智家栄は義就の河内侵攻に参加、古市胤栄は下狛の大内軍陣地に合流して順永と交戦、文明3年になると十市遠清も東軍方として動き、1月に近江の東軍を助けて西軍の[[六角高頼]]軍を撃破、6月に順永・遠清・箸尾為国が畠山軍の河内侵攻を阻止するなど大和国人の殆どが乱に参戦するようになった。
文明4年10月に順永は下狛の大内軍に夜襲を仕掛けたが逆襲に遭い敗走、文明5年の和睦でも戦乱は止まず、文明6年になると大和国人衆の紛争が続出して戦乱は大和に拡大していった。文明7年4月に大内軍の木津攻撃を順永が撃退、5月に大和春日社頭で順永・遠清・為国ら東軍と家栄・胤栄ら西軍が衝突して東軍が勝利、古市胤栄は敗北の責任を取り隠居、弟の[[古市澄胤|澄胤]]に家督を譲った。また、文明8年に筒井順永が亡くなり嫡男の[[筒井順尊|順尊]]が後を継いだ。
文明9年に義就が河内国に侵攻・制圧すると大内軍も木津を攻撃し、木津を守る順尊ら政長派は木津を放棄、本拠地も失い没落したため、戦乱の末に大和国は越智家栄・古市澄胤ら義就派が勝利して大和は義就の手に入った。大和国は興福寺が支配していたが、大乱に伴う分裂で国人衆の台頭を抑えられず権威が下降した。興福寺別当の尋尊は日記で戦闘を詳細に書き記す一方で、混乱を収められない無力さを嘆いている。以後、没落した政長派は潜伏して遊撃兵として義就派への抵抗を続け、大和は義就派と政長派が抗争を繰り返していった{{Sfn|朝倉|pp=121-141}}。
===近江・美濃===
近江国は京極氏と六角氏それぞれが治めていたが、六角氏も幕府の介入でお家騒動が悪化・分裂したため[[京極持清]]が東幕府の支援を得て近江の[[六角高頼]]を攻撃、高頼は美濃国の斎藤妙椿の後ろ盾で対抗していった。京極持清・[[京極勝秀|勝秀]]父子は高頼の従兄の[[六角政堯]]と共に高頼の居城である近江[[観音寺城]]に度々攻め入り、高頼も応戦した。美濃国では守護の[[土岐成頼]]は西軍に加わるため上洛、守護代の[[斎藤利藤]]は幼いため叔父の斎藤妙椿が後見役として実質的に美濃を治めていたが、西美濃の国人[[長江氏]]・[[富島氏]]は京極氏と組んで妙椿に反乱を起こした。
美濃国の内乱は応仁2年までに妙椿に鎮圧されたが、近江国は決着が着かず一進一退、観音寺城が東軍に奪われては西軍に奪回されることが繰り返されていった。しかし、応仁2年に勝秀が死去、続いて文明2年に持清も亡くなり京極氏はお家騒動で2つに割れて弱体化([[京極騒乱]])、勝秀の弟[[京極政光|政光]]と家臣の[[多賀清直]]・[[多賀宗直|宗直]]父子は勝秀の遺児[[京極高清|乙童子丸]]を擁立して西軍に寝返り、政光の弟[[京極政経|政経]]と[[多賀高忠]]は乙童子丸の弟[[京極孫童子丸|孫童子丸]]を擁立して争った。文明3年に政堯が高頼に討ち取られると戦況は西軍に傾き、文明3年と4年に妙椿が高頼に援軍を派遣して東軍を圧迫する。文明5年3月に宗全が亡くなると、妙椿は上洛して宗全に代わる西軍の指導者に成り上がった。
追い詰められた東軍は、[[信濃国]]の[[小笠原家長]]・[[木曾家豊]]に美濃の背後を突くよう要請、合わせて富島氏の再起を促し挟撃を図った。妙椿は直ちに反乱を押さえ伊勢国に出陣して東軍を牽制し、11月に出陣した小笠原家長らに東美濃を占拠されるという痛手を被ったが、文明7年1月に妙椿は信濃勢に勝利してそれ以上の侵略を阻止した。一方、京極氏は文明3年に孫童子丸が、4年に政光が没して政経が当主となったが、乙童子丸・清直父子が北近江、高頼が南近江を確保していたため東軍は劣勢となった。
そして、文明7年10月に近江国で決戦となり、妙椿の援軍と合流した高頼が勝利を収め、近江における戦乱は終結した。幕府も乙童子丸・清直父子と高頼及び成頼・妙椿らと文明10年([[1478年]])に和睦してそれぞれの支配を認めた。しかし、京極騒乱は収まらず政経は抵抗を続け、幕府も後に態度を翻して近江出兵を強行したり([[長享・延徳の乱]])、乙童子丸から家督を取り上げ政経に与えたりしていた。美濃国でも妙椿没後に実権を握った甥の[[斎藤妙純|妙純]]と利藤が争ったり(文明美濃の乱)、成頼の後継者を巡り内乱が発生したため([[船田合戦]])、近江と美濃の戦乱はなおも続いていくことになる{{sfnm|1a1=岐阜県|1pp=118-127|2a1=宮島|2pp=21-28}}<ref>戦国合戦史研究会編『戦国合戦大事典 〈第5巻〉 岐阜県 滋賀県 福井県』(新人物往来社、1988年)P24 - P27, P154 - P172</ref>。
===越前・尾張・遠江===
越前・尾張・遠江3ヶ国は斯波氏領国であるが、畠山氏と同じくお家騒動と家臣団の内乱で戦争状態となっていた。義敏は乱直前に3ヶ国守護に復権したが、[[文正の政変]]で守護職を失い義廉が守護に戻った状態で乱が勃発、義敏は越前国に入り義廉派と交戦、義廉は京都で家臣の[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]・[[甲斐敏光]]らと共に東軍と戦っていた。特に朝倉孝景の活躍は目覚しく、御霊合戦では義就に加勢して政長軍を破り、一条大宮の戦いでも戦果を挙げて東軍から討伐対象に挙げられていた程であった。
しかし、朝倉孝景に対して東軍が応仁2年から内応工作を始めると、孝景は閏10月に義敏征伐を口実に越前国に下る一方で東軍と裏交渉を行い、文明3年5月21日に孝景の越前守護職任命を記した足利義政と細川勝元の書状が届き、孝景は公然と東軍に寝返った。これにより朝倉孝景は斯波義敏と同陣営に属することになるが、両者はかつて長禄合戦で敵対していたため、共同戦線を張れないことを察した足利義政は義敏に中立を命じたため、義敏の家臣が孝景に味方しても義敏本人は合戦に参加しなかった。また、応仁2年に斯波義廉は関東との秘密交渉の発覚で足利義政から管領と守護職を取り上げられ(西幕府では存続)、細川勝元と義敏の息子松王丸がそれぞれ管領と守護職に就任した。甲斐敏光は義廉の陣営に留まっていたが、孝景の寝返りを知ると越前へ下向した。
越前では朝倉孝景と甲斐敏光が中心となり合戦を繰り広げていったが、東幕府の支持を得た孝景が有利であり、文明4年8月に甲斐敏光の本拠地である府中([[越前市]])を落として甲斐敏光を加賀へ追い落とし、残党も翌文明5年8月の合戦で討ち取った。甲斐敏光は挽回を図り文明6年閏5月に[[富樫幸千代]]の援助で再度越前に攻め入るが、朝倉軍に連敗を続けた末に斎藤妙椿の斡旋で孝景と和睦、越前奪還を諦めた。
朝倉孝景の越前統一は間近に迫ったが、文明7年4月に孝景の急成長に危機感を抱いた義敏が[[大野郡 (福井県)|大野郡]]土橋城に籠城して国人二宮氏と結託、孝景は義政から義敏の保護を命じられていたため迂闊に土橋城を攻撃出来ず、大野郡の占拠は長期間に亘った。7月に孝景は二宮氏を土橋城外に誘き出して討ち取り、11月に土橋城の攻撃を開始したため、義敏は観念して12月に降伏、孝景の処置で京都に送り返され越前は孝景に平定された。
甲斐敏光は文明7年2月に松王丸(元服して義良と改名)と共に上洛して足利義政から遠江守護代に命じられ下向、朝倉孝景に続いて甲斐敏光にも見捨てられた斯波義廉は11月に残された領国・尾張に向かったが、尾張でも内乱が発生、文明10年に幕府から反逆者と指名されたのを最後に消息を絶った。遠江では[[駿河国|駿河]]守護[[今川義忠]]が東軍の命令を受けて文明5年から遠江へ侵攻していたが、文明7年に甲斐敏光が東軍から守護代に任命されると大義名分を失い、文明8年に今川義忠が戦死すると[[今川氏]]は後継者に嫡男[[今川氏親|龍王丸]](後の今川氏親)と従弟の[[小鹿範満]]が擁立されお家騒動が発生、遠江侵攻は中断された。
斯波義良は応仁の乱終結後は越前の奪還を図り、文明11年([[1479年]])に甲斐敏光と二宮氏などを連れて越前に攻め入った。文明13年([[1481年]])に孝景は亡くなったが、後を継いだ息子[[朝倉氏景 (8代当主)|氏景]]は斯波軍を越前から追い出し完全平定を果たした。義良も越前奪回を諦め文明15年([[1483年]])に尾張へ下向、甲斐敏光も朝倉氏景と和睦して越前は[[朝倉氏]]、遠江は[[甲斐氏]]、尾張は[[織田氏]]がそれぞれ守護代として受け持つことを取り決めた。かくして越前は朝倉氏が実質的に領有を果たし、斯波氏と甲斐氏は尾張・遠江を拠点としたが、やがて今川氏親と織田氏の勢いに押されていった{{sfnm|1a1=石田|1pp=201-202, 209, 217-219, 257-260, 264, 269-270|2a1=福井県|2pp=613-630|3a1=静岡県|3pp=383-386, 404-406}}。
===播磨・備前・美作===
播磨・[[備前国|備前]]・[[美作国|美作]]は元は赤松氏領だった所を山名宗全・山名教之・[[山名政清]]ら山名一族が嘉吉の乱で奪い取った経緯があり、再興を目指す赤松の遺臣達にとって山名氏との衝突は避けられなかった。長禄の変で赤松郎党が手柄を立てたことにより、赤松政則は細川勝元の支援で加賀半国守護に就任して復権の足掛かりを築き、赤松政則は家臣の[[浦上則宗]]と共に義政の警固や屋敷建造、土一揆鎮圧などに努め義政の側近として重用された。宗全からは敵視され文正の政変で失脚したが程無く復帰、応仁の乱では在京して則宗と共に西軍と戦った。
播磨3ヶ国では宗全を始めとする山名一族は軍勢を引き連れて上洛したため、好機と捉えた[[宇野政秀]]ら赤松氏家臣団は3ヶ国の奪還に動き出した。乱勃発直後の応仁元年5月に宇野政秀は播磨に下向して赤松氏遺臣の蜂起を促し、播磨を手に入れると備前・美作にも侵攻し備前も奪回したが、美作は守護代の抵抗が強く一度敗退、完全平定まで3年後の文明2年までかかった。この間、宇野政秀は文明元年に摂津で山名是豊と合流して池田城の救援に赴き大内軍を撃破、兵庫を奪還している。また、乱における活躍で赤松政則は東軍から3ヶ国の守護に任じられ、赤松氏の再興に大きく前進した。
文明6年に細川氏と山名氏は単独で和睦を結び戦争から離脱した。赤松政則は和睦に反対したが、文明9年の終戦で3ヶ国守護と[[侍所]]頭人の地位を保証され赤松氏の再興を果たし、側近の浦上則宗も侍所所司代として赤松氏の重臣に成り上がった。しかし、山名氏は和睦で失った3ヶ国の奪還を狙い、宗全の後を継いだ山名政豊は播磨を伺い、赤松政則も山名氏領国の不満分子を嗾けて反乱を起こさせたため、両者は終結後も3ヶ国を巡り争奪戦を繰り広げていった{{sfnm|1a1=兵庫県|1pp=71-77, 80-81, 88-89, 95-97, 101-103, 123-125|2a1=岡山県|2pp=45-54, 72-78, 83-90}}。
===備後・安芸===
備後は宗全の次男[[山名是豊]]が治めていたが、宗全と不仲であった所を勝元に籠絡され、山名氏の大半が西軍に属したのと異なり唯一東軍に与した。[[安芸国]]は大内氏と[[武田氏]]の対立の場となっていて、安芸国人の殆どを勢力下に収める大内氏に対し、武田氏は大内氏に危機感を抱く細川氏の支援で対抗した。文安4年に安芸国で最初の衝突が発生、これ以後は大内氏が度々安芸に侵攻しては勝元が武田氏と反大内の国人を支援して侵略を阻止していった。伊予国で大内氏が[[河野氏]]を支援したことも勝元が大内氏と対立する原因となった。
乱勃発で大内政弘は宗全の要請で領国周防から出陣、応仁元年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]に兵庫に上陸して8月23日に上洛、西軍と合流して東軍の脅威となった。対する武田信賢・[[武田国信|国信]]兄弟と毛利豊元・[[吉川経基]]・小早川煕平ら反大内の安芸国人は東軍に加わり、是豊も上洛して東軍と合流した。上洛せず安芸・備後に留まった国人勢力も二分されそれぞれ争ったが、備後は宗全の影響力が健在だったため東軍が不利で、応仁2年11月に是豊が一時帰国しなければならない程であった。文明元年に是豊は再び上洛、その途上で摂津の大内軍を破り山崎に布陣して翌文明2年西軍と交戦、備後が西軍の加勢でまたもや劣勢になったため12月に帰国した。一方の武田信賢らは京都に留まり西軍と戦った。
文明3年になると信賢と国信の弟で安芸の留守を守っていた[[武田元綱]]が西軍の工作で反乱を起こし、毛利豊元も大内氏に誘われて安芸に帰国すると西軍に寝返り、安芸・備後は西軍有利に傾いた。東軍は国人衆に忠誠を誓わせ寝返り防止に努め、山名是豊も備後で転戦して形勢を立て直そうとしたが、文明5年から文明7年の2年間西軍の[[小早川弘景 (二代)|小早川弘景]]ら安芸・備後国人衆が東軍方の[[小早川敬平]]が籠城する[[高山城 (安芸国)|高山城]]を包囲したにもかかわらず救援に来なかったことから人望を失い、備後から追放され消息を絶った。文明7年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]に安芸・備後の東西両軍は和睦を結び、中国地方の戦乱は終息に向かった。
戦後備後は山名是豊の甥(弟とも)に当たる山名政豊が領有することになり、残党は政豊に討伐された。安芸は武田氏を始め国人が割拠する状態に置かれ、武田元綱は文明13年に信賢の後を継いだ武田国信と和睦、安芸の国人領主として兄から独立し大内氏と友好関係を結んだ。他の国人衆も大内氏との対立を解消し安芸は平穏になったが、戦乱を通して大内氏の影響力は増大、備後で山名政豊と国人が対立して支配が揺らいだため、大内氏と新たに台頭した[[尼子経久]]が国人衆を巻き込み衝突していった{{Sfn|広島県|pp=437-445, 448-465}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
=== 中央関係 ===
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* [[鈴木良一 (歴史学者)|鈴木良一]]、1973年、『応仁の乱』、[[岩波新書]] ISBN 4004131006
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=== 地方関係 ===
* {{Cite book ja-jp |author = [[岐阜県]]編 |year = 1969 |title = 岐阜県史 通史編 中世 |publisher = 岐阜県 |ref = {{SfnRef|岐阜県}}}}
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* 戦国合戦史研究会、1988年、『戦国合戦大事典 五』、新人物往来社
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== 関連項目 ==
* [[応仁記]]・応仁略記
* [[享徳の乱]] - ほぼ同時期に起きた関東地方の戦乱。応仁の乱よりも長期に渉った。
* [[西陣織]] - 応仁の乱を期に発展。
* [[足軽]] - 主たる戦力の一つ。
* [[京極騒乱]] - 応仁の乱の只中に発生した京極氏のお家騒動・内乱。
* [[観音寺城#第一次観音寺城の戦い|第一次観音寺城の戦い]]
* [[観音寺城#第二次観音寺城の戦い|第二次観音寺城の戦い]]
* [[観音寺城#第三次観音寺城の戦い|第三次観音寺城の戦い]]
* [[原田城]] - 東軍の拠点の1つ。
* [[法華一揆|天文法華の乱]] - [[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])に京都で起こった宗教戦争。被害は応仁の乱以上とされている。
* [[京都の大火]]
* 日野富子 - [[世界文化社]]「[[ロマンコミックス 人物日本の女性史]]」第18巻(1985年)。[[歴史漫画]]。
* [[花の乱]] - NHK[[大河ドラマ]](1994年)。応仁の乱前後の時代が描かれた。
* 応仁記 - [[ウォーゲーム日本史]]第23号(2014年)。応仁の乱をテーマにしたボードゲーム付き雑誌。
* [[戦国大戦]] - セガ(現・[[セガ・インタラクティブ]])のトレーディングカードアーケードゲーム(2010年)。ver2.2『-1477 破府、六十六州の欠片へ-』(2014年)は応仁の乱を題材としている。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Ōnin War}}
* [http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1734_21414.html 應仁の亂に就て]--内藤湖南([[青空文庫]])
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保守点検用電気計測器
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保守点検用電気計測器(ほしゅてんけんようでんきけいそくき)とは、電力機器・電子機器・電気回路・電子回路などの保守・点検を行うための携帯型電気計器である。
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'''保守点検用電気計測器'''(ほしゅてんけんようでんきけいそくき)とは、[[電力機器]]・[[電子機器]]・[[電気回路]]・[[電子回路]]などの[[メンテナンス|保守・点検]]を行うための携帯型[[電気計器]]である。
== 保守点検用電気計測器の例 ==
* [[回路計]](テスター)
** [[アナログマルチメータ]]
** [[デジタルマルチメータ]]
* [[架線電流計]](クランプメータ)
** 交流用 : [[変流器|計器用変流器]]を使用
** 交直両用 : [[ホール素子]]を使用
* [[絶縁抵抗計]](メガー)
* [[接地抵抗計]]
* [[検相器]]
* [[ターンδ測定器]]
* [[接触抵抗測定器]]
* [[静電容量測定器]]
* [[ロジック・アナライザ]]
* [[オシロスコープ]]
* 電荷測定器
* 低周波発振器(テスト・オシレータ)
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学部
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学部(がくぶ)とは、専攻する学問分野によって大別される、専攻領域に従った大学(短期大学を除く)および一部の専門学校における教育・研究上の組織区分であり構成単位。また、修士等の大学院レベルの課程に対して、学士レベルの課程を指すこともある。
ヨーロッパにおける後期中世のほとんどの大学のモデルとなった中世のパリ大学には、神学部、法学部、医学部、学芸学部(英語版)(arts)の4つの学部(仏: faculté)があった。全ての学生は高等学部とも知られていたその他の3学部の1つで教育を続けるために、まず学芸学部(教養学部)を卒業しなければならなかった。これら4学部を設置する特権は、通常大学に対する中世の免許状の一部であったが、全ての大学が実際にそうしていた訳ではない。
「学芸学部」(Faculty of Arts) は以下の7つのリベラル・アーツ(自由七科)からその名をとっている: 三学(文法、修辞学、論理学)および四科(英語版)(幾何学、算術、天文学、音楽)。ドイツ、スカンジナビア、スラブおよびその他の大学におけるこの学部の名称は、しばしば哲学部('faculty of philosophy')と文字通り翻訳される。マギステル・アルツィウム(M.A.、ラテン語: Magister Artium、英: Master of Arts、文学修士)の学位はこの教養学部「Faculty of Arts」の名称に由来する。一方、ピロソピアエ・ドクトル(Ph.D.、ラテン語: Philosphiae Doctor、英: Doctor of Philosophy、哲学博士)はドイツの教育に起源があり、この学部のドイツ語名称に由来している。
これら日本語において学部と翻訳される日本国外の大学の教育研究組織は学士課程のみならず修士課程や博士課程などの大学院レベルの課程を含むことが多い。大学院レベルと対比して学部(学士)レベルの教育課程、教育研究組織を英語で指すときはUndergraduate (program, school, college) などという。現在では、学部組織と大学院の研究教育組織は必ずしも一致していない。かつては学部組織が主で、大学院及び研究組織は付属という関係であったが、大学院重点化大学においては立場が逆転している。教員もかつては学部に所属していたが、大学院重点後においては大学院に所属し、学部教員を兼務する形に改革されている。テレビに出演する多くの教授の所属名が、「○○大学教授」から「○○大学大学院教授」に変わったことからも分かる。重点化大学以外においても学部組織とは一致しない大学院・研究推進組織が設置される。
現代の大学における学部の数は大抵増加している。これは伝統四学部の細分化や、工学あるいは農学といった元々は職業専門学校内で発展した学術分野を大学に吸収していったことによる。一方で大学再編の波や研究分野の垣根が低くなったこと、学際研究の活発化、文理融合教育研究の推進などにより、学部統合の動きが出始めている。(→文理融合学部)
日本の大学における学部(がくぶ)とは、学士号の取得を目的とした学士課程の教育が行われる機関である。学校教育法により、大学は学部の設置を義務付けられているが、学部を置かず学群などの学部に代わる組織を置くこともできる。日本では大学院の課程は研究科に属するものであって学部に属するものではないが、通俗的に○学研究科を○学部の大学院と言うことがある。大学院大学など現在は学部学生のいない大学、学部のない大学も設置可能である。
1877年に東京開成学校と東京医学校を制度上統合して東京大学が成立した際、法学部、理学部、文学部、医学部の4つの部が置かれたのが、日本の近代教育における「学部」の始まりである。このとき校地が神田錦町(旧・東京開成学校)と本郷(旧・東京医学校)とに分かれたまま、その双方に綜理(総長に相当)が任じられる事実上2校の連合体であり、東京医学校が東京大学医学部となったのに対し、東京開成学校の言い換えとして「東京大学三学部」が使われるようになった。1881年になると組織の実質的統合がなされ、1人の総理(加藤弘之)のもとそれぞれの学部に部長が置かれる体制が確立する。
1886年第1次帝国大学令により、帝国大学は「卒業証書」(学士)が与えられる「分科大学」(学部に相当)と、「学位」が与えられる大学院から成ることが定められた。
「学部」という名称の法的起源は、1918年大学令と1919年第2次帝国大学令である。
1918年大学令により、専門学校が学位授与機関としての正規の大学(旧制大学)に昇格することが認められた。その際、大学令により「学部」を設置し文部大臣の認可を得た、「相当数の専任教員を置くこと」が条件とされた。また、1919年第2次帝国大学令により、分科大学は「学部」に改められた。
現在でも大学には、学部を置くことが常例とされ(学校教育法第85条本文)、学部には、学生と専任(常勤)の教員が同時に所属し(大学院の教員を兼務する者も含む)、専攻に基づく教育研究が行われる。また、各学部には、所属する専任教授により構成される「教授会」が置かれ、学部ごとに人事やカリキュラムなどについての意思決定が行われる。但し現在は、筑波大学など学部ではなく学群・学域(金沢大学・大阪府立大学など)などを置いて学生と教員の組織が別である大学も認められている。また大学院大学(国立大学法人奈良先端科学技術大学院大学など)という学部が存在せず、学生がいない大学がいくつか認められている。
なお、高等教育を行う学校(学校教育法第1条に定める「学校」)と位置付けられている短期大学と高等専門学校では、学部を置かず、学科を置く。
学校教育法第84条86条において、大学は、通信による教育を行うことができると定められ、さらに夜間において授業を行う学部・通信による教育を行う学部も認められている。より具体的に、学校教育法施行規則において、二部授業を行うことができると定められており、これに基づき届出を行えば、二部を設置し二部制で授業を行う事が認められる。この学校教育法施行規則に基づき、大学設置基準第26条で、昼夜開講制が認められる。
学部には、下位区分として専攻分野ごとに学科が設けられ、学科ごとに学生および教員が所属する学科制が一般的である。しかし、学科の代わりに学生の履修上の区分に応じて組織される課程が設けられる課程制をとる学部もある。なお、学科や課程の下にさらにコースが置かれるコース制を敷くものもある。制度上は、(学科に対する)課程、(学科や課程の下の)コースに所属するのは、学生のみでも構わないものの、これらの「課程」「系」「コース」に教員が置かれることがある。京都大学法学部、関西学院大学神学部のように、学科を置いていない学部も稀に存在する。
各大学が学則で定める卒業要件を満たした者には、卒業資格が与えられる。「専攻分野」がそのまま「学部名」となっているため、通例、学部名を専攻分野名として付記した「学士(専攻分野)」の学位が、学位記(卒業証書と一体となっているものを含む)とともに大学から授与される。
政府は、科学研究費補助金の管理のため、国内に存在するすべての学部に「3桁」の識別番号を割り振っている(研究科・大学付属研究所・付属病院など、専任の教員・常勤の研究者が在籍する大学の部局、全て含む)。この「部局表」により、国内に存在する全ての学部は、100番ごと、系統別に区切られ、3桁の整理番号が割り当てられる。よって、この部局表により、日本に存在する全ての学部が一覧できる。
002番の教養学部 ~ 720番の事業構想学部まで、日本に存在する「学部数」は、平成17年時点で200学部を超えている。
教養部は、学部1-2年次に配置される教養課程(一般教育)を担当する学内組織である。学部と同様に、教養部に所属する専任教授によって構成される「教授会」である『教養部教授会』が置かれる。ここで、教養部の教員採用からカリキュラムの作成まで、各種の意思決定が行われる。学部に準じた独立性と、意思決定の権限を有するため、学内外で学部とほぼ同等の扱いを受ける。上にあげた部局表では、国内に存在する全ての「学部」に3桁の番号が割り振られているが、一番はじめとなる「001番」は「教養部」である。
1994年以降、教養部を廃止する大学が増え、かわって学部が4年制(6年制)一貫教育を行うようになった。旧教養部が行ってきた教養教育は大幅に縮減され、共通教育科目・外国語科目・健康スポーツ科目などに改められた。一方で、専門教育の半年から1年程度の前倒しが行われるカリキュラム改正が相次いだ。
また、学部の入試問題は、各学部に所属する教員ではなく、教養部に所属する教員により作成されるケースが多く、学部入試問題の作成の任を負うという重要な役割を担ってきた。一方で教養部は作成せず文学部・理学部などの教員が関連する科目の作問・採点を作成していた大学もあった(大阪大学など)。
しかし、「90年代の教養部廃止により、入試問題の作成が困難となっている」との指摘が 、大学側からなされるなど、「大学改革」の名の下に進められた、『教養部の解体』による弊害が、近年になって顕在化している。現在は旧教養部担当教員と学部教員が関連する科目を協働で作問・採点を行っている大学が多い。
2022年現在、国立大学で教養部を設置しているのは東京医科歯科大学のみである。
多くは単位制を導入しており、進級、卒業するためには規定の単位の取得が必要である。単位は主に規定の点数を下回った場合には認められない。規定の単位には文系の学部では卒業論文、理系の学部では卒業研究が含まれることが多い。
修業年限は4年で、最大8年を在籍できるとする大学が多いが医学、歯学、薬学、獣医学などを学ぶ学部の修業年限は6年で、この場合最長12年まで在籍できることが多い。つまり、最長修業年限を最短修業年限の2倍とする場合が多いのである。
こうした医学部、歯学部、薬学部、獣医学部に加え、法学部については、国家試験合格が事実上の資格審査であるとして、卒業論文を課さない大学も多い。代わりに医学部・歯学部では口頭試問などの卒業試験が行われることが多い。多くの大学の経済学部を中心に卒業論文が課されない(必須でない)学部も少なくない。また、美術学部、芸術学部の美術系学科、建築学部・建築学科などでは専攻により卒業論文に代えて卒業制作に、音楽学部、芸術学部の音楽系学科では卒業演奏や卒業制作(作曲)に置き換えられていることもある。
なお、修業年限が4年の場合は3年以上、修業年限が4年を超える学部の場合は3年以上で文部科学大臣の定める期間在学し、卒業の要件として定める単位を優秀な成績で修得したと認める場合は早期の卒業が認められている。(学校教育法第89条)
但し、3年次から大学院修士課程へ飛び級により入学する場合は、通常大学を中途退学したという扱いになる。これは、修業年限は満たしていても単位などの卒業要件を満たしていない場合があるためである。
大学や学部にもよるが、学部の1年次・2年次には、学問に共通の基礎的教養を学ぶ、いわゆる教養科目が多く配当される。3年次からは学部専門の領域を学ぶ、いわゆる専門科目で占められることが多いため、学習と研究に要する時間も多くなる。現在は教養部が廃止されたため、1年次から専門科目のうち基礎的な科目、入門的な科目が配当される。廃止前よりも1年程度前倒しで配当されている。一方で英語の科目などは3年時以降も配当されるところが増えている。 医学部、歯学部、薬学部、獣医学部といった医学系の学部では教育期間は6年間となる。1・2年次は教養科目、3・4年次は専門科目というのは基本的に他の学部と同じである(近年の医学知識増加に対応して、一部の大学では1年時から専門科目を学び始める)。5・6年次には臨床の場での経験によって、より専門的な知識を身に付けると同時に、6年次には資格を得るのに必要な国家試験の対策にも勤しむこととなる。 さらに医学部、歯学部では資格を得た後に研修医として研修が医師法・歯科医師法によって義務付けられている。
日本の学校教育法以下においては、学部(学部以外の教育研究上の基本となる組織を含む)と、研究科(研究科以外の教育研究上の基本となる組織を含む)の双方については、個別に扱っている。しかし、現実的には独立研究科を除き、一体に教育研究が行われている。
文部科学省への申請・届出上も、教員の本所属が学部(〔学系などの〕学部以外の教育研究上の基本となる組織を含む)と研究科(〔研究部などの〕研究科以外の教育研究上の基本となる組織を含む)どちらであるのかというのも明確にしなければならない。かつては学部に本所属し、大学院の教員を兼務する形であったが、大学院重点化した大学においては教員は大学院に本所属し、学部教員を兼務する形になっている。
日本の学部は「卒業」をともなう課程である。これに対して、日本の大学院の課程は全て「修了」とされ、「卒業」とはされない。したがって、「大学院を卒業する」という表現は法的には誤ったものである。しかし通俗的には、大学院修了者は院卒者と呼ばれることが多い。 一方で、修士あるいは博士の学位を取れずに単位のみ認定されて中退する単位取得認定中退に対し、「卒業」すると俗称することがある。
大学内においては、大学院の課程に対して、4年以上の課程または6年以上の課程を学部と呼ぶこともある。また、慣習的に○○学部の大学院という表現をすることもある。(後者の用例では「○○大学大学院○○研究科」は、○○学部の教員・施設等を母体としているものとみなされる。)
学校教育法(第85条および第100条を除く)および他の法令(教育公務員特例法(昭和24年法律第1号)および当該法令に特別の定めのあるものを除く)において、大学の学部という用語には、学校教育法第85条に規定する「学部以外の教育研究上の基本となる組織」を含むものとされている(学校教育法141条)。したがって、当該大学の教育研究上の目的を達成するため有益かつ適切である場合においては、学部以外の教育研究上の基本となる組織を置くことができる(学校教育法第85条ただし書)。
代表例として、学生が所属する学群・学域・学類と、教員が所属する学系の2つをもって、「教育研究上の基本となる組織」とする方式がある。
「学部以外の教育研究上の基本となる組織」についても、申請・届出の場面を除けば、法的には、学部と同じ扱いとなるが、厳密には学部と同一のものではない。例えば「○○学群」の課程を修めて大学を卒業した場合は、「○○学部卒業」と履歴書などに書くと不適切な記載となる。
学部以外を設置している大学は、学群制または学域制を採用し設置している。 筑波大学は大学設置当初から学部を置いたことがなく、「学群・学類、学系」制である。福島大学・桜美林大学・高知工科大学・札幌大学・宮城大学などは学部を廃止して「学群・学類、学系」制に移行した。
金沢大学・大阪府立大学・電気通信大学などは「学域・学類」制に移行した。
この他、名桜大学など、「学群・学類」制と「学部・学科」制を混在させている大学もある。
また、和洋女子大学のように学部を学群へ改称するという手続きで「学群・学類(・専修・コース)」制を導入しながらも、再び改称する手続きによって「学部・学科」制に戻した大学もある。
※学域はこの他、札幌大学、京都工芸繊維大学のように学科に変えて採用されていたり、大学院などで研究科の専攻に変えて採用されている。
アメリカ合衆国の大学においては、学部段階の教育を行う部局は一つしか設置されていない場合が多く(例:ハーバード大学におけるハーバード・カレッジ)、日本の専門領域に分化した学部にあたる部局は存在しない。ただし日本人にわかりやすいように、各専攻を卒業学部として紹介することがある(例:ハーバード大学を経済学専攻で卒業→ハーバード大学経済学部卒業)。
また、分野ごとの教育研究部局(ロー・スクール、メディカル・スクールなど)は大学院レベルの教育課程しか設置されていないものが多い。日本語ではこれらを法学部、医学部などと訳すこともある。
韓国の4年制以上の大学(大学校)においては、日本の学部に相当する部局を大学という。
例えば、ソウル大学校医学部は、すなわちソウル大学校医科大学であり、ソウル大学校経営学部はすなわちソウル大学経営大学となる。
韓国史において「学部」とは、大韓帝国の学事を担当する役所で、その前身は1894年(高宗31年)の甲午改革により礼曹を改組した「学務衙門」であった。
中華人民共和国や中華民国など中華圏の総合大学においては学部に相当する部局を学院(School)という。ただしこれは学部レベルの課程(中国語: 本科)だけではなく大学院レベルの教育課程をも包含している。
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"text": "教養部は、学部1-2年次に配置される教養課程(一般教育)を担当する学内組織である。学部と同様に、教養部に所属する専任教授によって構成される「教授会」である『教養部教授会』が置かれる。ここで、教養部の教員採用からカリキュラムの作成まで、各種の意思決定が行われる。学部に準じた独立性と、意思決定の権限を有するため、学内外で学部とほぼ同等の扱いを受ける。上にあげた部局表では、国内に存在する全ての「学部」に3桁の番号が割り振られているが、一番はじめとなる「001番」は「教養部」である。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1994年以降、教養部を廃止する大学が増え、かわって学部が4年制(6年制)一貫教育を行うようになった。旧教養部が行ってきた教養教育は大幅に縮減され、共通教育科目・外国語科目・健康スポーツ科目などに改められた。一方で、専門教育の半年から1年程度の前倒しが行われるカリキュラム改正が相次いだ。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、学部の入試問題は、各学部に所属する教員ではなく、教養部に所属する教員により作成されるケースが多く、学部入試問題の作成の任を負うという重要な役割を担ってきた。一方で教養部は作成せず文学部・理学部などの教員が関連する科目の作問・採点を作成していた大学もあった(大阪大学など)。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "しかし、「90年代の教養部廃止により、入試問題の作成が困難となっている」との指摘が 、大学側からなされるなど、「大学改革」の名の下に進められた、『教養部の解体』による弊害が、近年になって顕在化している。現在は旧教養部担当教員と学部教員が関連する科目を協働で作問・採点を行っている大学が多い。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2022年現在、国立大学で教養部を設置しているのは東京医科歯科大学のみである。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "多くは単位制を導入しており、進級、卒業するためには規定の単位の取得が必要である。単位は主に規定の点数を下回った場合には認められない。規定の単位には文系の学部では卒業論文、理系の学部では卒業研究が含まれることが多い。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "修業年限は4年で、最大8年を在籍できるとする大学が多いが医学、歯学、薬学、獣医学などを学ぶ学部の修業年限は6年で、この場合最長12年まで在籍できることが多い。つまり、最長修業年限を最短修業年限の2倍とする場合が多いのである。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "こうした医学部、歯学部、薬学部、獣医学部に加え、法学部については、国家試験合格が事実上の資格審査であるとして、卒業論文を課さない大学も多い。代わりに医学部・歯学部では口頭試問などの卒業試験が行われることが多い。多くの大学の経済学部を中心に卒業論文が課されない(必須でない)学部も少なくない。また、美術学部、芸術学部の美術系学科、建築学部・建築学科などでは専攻により卒業論文に代えて卒業制作に、音楽学部、芸術学部の音楽系学科では卒業演奏や卒業制作(作曲)に置き換えられていることもある。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "なお、修業年限が4年の場合は3年以上、修業年限が4年を超える学部の場合は3年以上で文部科学大臣の定める期間在学し、卒業の要件として定める単位を優秀な成績で修得したと認める場合は早期の卒業が認められている。(学校教育法第89条)",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "但し、3年次から大学院修士課程へ飛び級により入学する場合は、通常大学を中途退学したという扱いになる。これは、修業年限は満たしていても単位などの卒業要件を満たしていない場合があるためである。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "大学や学部にもよるが、学部の1年次・2年次には、学問に共通の基礎的教養を学ぶ、いわゆる教養科目が多く配当される。3年次からは学部専門の領域を学ぶ、いわゆる専門科目で占められることが多いため、学習と研究に要する時間も多くなる。現在は教養部が廃止されたため、1年次から専門科目のうち基礎的な科目、入門的な科目が配当される。廃止前よりも1年程度前倒しで配当されている。一方で英語の科目などは3年時以降も配当されるところが増えている。 医学部、歯学部、薬学部、獣医学部といった医学系の学部では教育期間は6年間となる。1・2年次は教養科目、3・4年次は専門科目というのは基本的に他の学部と同じである(近年の医学知識増加に対応して、一部の大学では1年時から専門科目を学び始める)。5・6年次には臨床の場での経験によって、より専門的な知識を身に付けると同時に、6年次には資格を得るのに必要な国家試験の対策にも勤しむこととなる。 さらに医学部、歯学部では資格を得た後に研修医として研修が医師法・歯科医師法によって義務付けられている。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "日本の学校教育法以下においては、学部(学部以外の教育研究上の基本となる組織を含む)と、研究科(研究科以外の教育研究上の基本となる組織を含む)の双方については、個別に扱っている。しかし、現実的には独立研究科を除き、一体に教育研究が行われている。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "文部科学省への申請・届出上も、教員の本所属が学部(〔学系などの〕学部以外の教育研究上の基本となる組織を含む)と研究科(〔研究部などの〕研究科以外の教育研究上の基本となる組織を含む)どちらであるのかというのも明確にしなければならない。かつては学部に本所属し、大学院の教員を兼務する形であったが、大学院重点化した大学においては教員は大学院に本所属し、学部教員を兼務する形になっている。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "日本の学部は「卒業」をともなう課程である。これに対して、日本の大学院の課程は全て「修了」とされ、「卒業」とはされない。したがって、「大学院を卒業する」という表現は法的には誤ったものである。しかし通俗的には、大学院修了者は院卒者と呼ばれることが多い。 一方で、修士あるいは博士の学位を取れずに単位のみ認定されて中退する単位取得認定中退に対し、「卒業」すると俗称することがある。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "大学内においては、大学院の課程に対して、4年以上の課程または6年以上の課程を学部と呼ぶこともある。また、慣習的に○○学部の大学院という表現をすることもある。(後者の用例では「○○大学大学院○○研究科」は、○○学部の教員・施設等を母体としているものとみなされる。)",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "学校教育法(第85条および第100条を除く)および他の法令(教育公務員特例法(昭和24年法律第1号)および当該法令に特別の定めのあるものを除く)において、大学の学部という用語には、学校教育法第85条に規定する「学部以外の教育研究上の基本となる組織」を含むものとされている(学校教育法141条)。したがって、当該大学の教育研究上の目的を達成するため有益かつ適切である場合においては、学部以外の教育研究上の基本となる組織を置くことができる(学校教育法第85条ただし書)。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "代表例として、学生が所属する学群・学域・学類と、教員が所属する学系の2つをもって、「教育研究上の基本となる組織」とする方式がある。",
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},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "「学部以外の教育研究上の基本となる組織」についても、申請・届出の場面を除けば、法的には、学部と同じ扱いとなるが、厳密には学部と同一のものではない。例えば「○○学群」の課程を修めて大学を卒業した場合は、「○○学部卒業」と履歴書などに書くと不適切な記載となる。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "学部以外を設置している大学は、学群制または学域制を採用し設置している。 筑波大学は大学設置当初から学部を置いたことがなく、「学群・学類、学系」制である。福島大学・桜美林大学・高知工科大学・札幌大学・宮城大学などは学部を廃止して「学群・学類、学系」制に移行した。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "金沢大学・大阪府立大学・電気通信大学などは「学域・学類」制に移行した。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この他、名桜大学など、「学群・学類」制と「学部・学科」制を混在させている大学もある。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "また、和洋女子大学のように学部を学群へ改称するという手続きで「学群・学類(・専修・コース)」制を導入しながらも、再び改称する手続きによって「学部・学科」制に戻した大学もある。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "※学域はこの他、札幌大学、京都工芸繊維大学のように学科に変えて採用されていたり、大学院などで研究科の専攻に変えて採用されている。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国の大学においては、学部段階の教育を行う部局は一つしか設置されていない場合が多く(例:ハーバード大学におけるハーバード・カレッジ)、日本の専門領域に分化した学部にあたる部局は存在しない。ただし日本人にわかりやすいように、各専攻を卒業学部として紹介することがある(例:ハーバード大学を経済学専攻で卒業→ハーバード大学経済学部卒業)。",
"title": "アメリカ合衆国"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また、分野ごとの教育研究部局(ロー・スクール、メディカル・スクールなど)は大学院レベルの教育課程しか設置されていないものが多い。日本語ではこれらを法学部、医学部などと訳すこともある。",
"title": "アメリカ合衆国"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "韓国の4年制以上の大学(大学校)においては、日本の学部に相当する部局を大学という。",
"title": "韓国"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "例えば、ソウル大学校医学部は、すなわちソウル大学校医科大学であり、ソウル大学校経営学部はすなわちソウル大学経営大学となる。",
"title": "韓国"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "韓国史において「学部」とは、大韓帝国の学事を担当する役所で、その前身は1894年(高宗31年)の甲午改革により礼曹を改組した「学務衙門」であった。",
"title": "韓国"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "中華人民共和国や中華民国など中華圏の総合大学においては学部に相当する部局を学院(School)という。ただしこれは学部レベルの課程(中国語: 本科)だけではなく大学院レベルの教育課程をも包含している。",
"title": "中華圏"
}
] |
学部(がくぶ)とは、専攻する学問分野によって大別される、専攻領域に従った大学(短期大学を除く)および一部の専門学校における教育・研究上の組織区分であり構成単位。また、修士等の大学院レベルの課程に対して、学士レベルの課程を指すこともある。
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'''学部'''(がくぶ)とは、専攻する[[学問]]分野によって大別される、専攻領域に従った[[大学]](短期大学を除く)および一部の専門学校<ref group="注釈">[[文化学院]]・[[財界二世学院]]・[[代々木アニメーション学院]]など、大学以外の教育施設でも学部制度を採用している。ただし、文化学院と財界二世学院は既に廃校になっている。</ref><ref group="注釈">[[短期大学]]の名称の一つとしてよく用いられる「○○大学'''短期大学部'''」は学部には該当しない。</ref>における[[教育]]・[[研究]]上の組織区分であり構成単位<ref>「明鏡国語辞典」大修館書店</ref><ref>「広辞苑-第6版」岩波書店</ref>。また、[[修士]]等の[[大学院]]レベルの課程に対して、[[学士]]レベルの課程を指すこともある。
== 概要 ==
[[ヨーロッパ]]における後期中世のほとんどの大学のモデルとなった[[中世]]の[[パリ大学]]には、[[神学部]]、[[法学部]]、[[医学部]]、{{仮リンク|学芸学部 (欧米)|en|Faculty of Arts|label=学芸学部}}(arts)の4つの学部({{lang-fr-short|faculté}})があった。全ての学生は高等学部とも知られていたその他の3学部の1つで教育を続けるために、まず学芸学部([[教養学部]])を卒業しなければならなかった。これら4学部を設置する特権は、通常大学に対する中世の免許状の一部であったが、全ての大学が実際にそうしていた訳ではない。
「学芸学部」({{interlang|en|Faculty of Arts}}) は以下の7つの[[リベラル・アーツ]](自由七科)からその名をとっている: [[トリウィウム|三学]]([[文法学|文法]]、[[修辞学]]、[[論理学]])および{{仮リンク|クワドリウィウム|en|Quadrivium|label=四科}}([[幾何学]]、[[算術]]、[[天文学]]、[[音楽]])。[[ドイツ]]、[[スカンジナビア]]、[[スラブ]]およびその他の大学におけるこの学部の名称は、しばしば哲学部('faculty of philosophy')と文字通り翻訳される。マギステル・アルツィウム(M.A.、{{lang-la|Magister Artium}}、{{lang-en-short|Master of Arts}}、{{仮リンク|文学修士|en|Master of arts}})の[[学位]]はこの教養学部「Faculty of Arts」の名称に由来する。一方、ピロソピアエ・ドクトル([[Ph.D.]]、{{lang-la|Philosphiae Doctor}}、{{lang-en-short|Doctor of Philosophy}}、哲学博士)はドイツの教育に起源があり、この学部のドイツ語名称に由来している。
これら日本語において'''学部'''と翻訳される日本国外の大学の教育研究組織は学士課程のみならず[[大学院#修士課程・博士前期課程|修士課程]]や[[博士課程]]などの[[大学院]]レベルの課程を含むことが多い。大学院レベルと対比して学部(学士)レベルの教育課程、教育研究組織を英語で指すときはUndergraduate (program, school, college) などという。現在では、学部組織と大学院の研究教育組織は必ずしも一致していない。かつては学部組織が主で、大学院及び研究組織は付属という関係であったが、大学院重点化大学においては立場が逆転している。教員もかつては学部に所属していたが、大学院重点後においては大学院に所属し、学部教員を兼務する形に改革されている。テレビに出演する多くの教授の所属名が、「○○大学教授」から「○○大学大学院教授」に変わったことからも分かる。重点化大学以外においても学部組織とは一致しない大学院・研究推進組織が設置される。
現代の大学における学部の数は大抵増加している。これは伝統四学部の細分化や、[[工学]]あるいは[[農学]]といった元々は職業専門学校内で発展した学術分野を大学に吸収していったことによる。一方で大学再編の波や研究分野の垣根が低くなったこと、学際研究の活発化、文理融合教育研究の推進などにより、学部統合の動きが出始めている。(→[[文理融合学部]])
==日本==
[[日本]]の大学における'''学部'''(がくぶ)とは、[[学士]]号の取得を目的とした学士課程の教育が行われる機関である。[[学校教育法]]により、大学は学部の設置を義務付けられているが、学部を置かず学群などの学部に代わる組織を置くこともできる。日本では大学院の課程は研究科に属するものであって学部に属するものではないが、通俗的に○学研究科を○学部の大学院と言うことがある。大学院大学<ref group="注釈">[[政策研究大学院大学]]、[[北陸先端科学技術大学院大学]]、[[神戸情報大学院大学]]など。</ref>など現在は学部学生のいない大学、学部のない大学も設置可能である。
=== 英語表記 ===
* '''Faculty''' - 一般的な表記。[[ヨーロッパ]]の影響による。
* ('''Undergraduate''') '''School''' - [[アメリカ合衆国]]の影響により近年見られる名称。対応する[[大学院]][[研究科]]と合わせてSchoolと表記する例が見られる。立教大学など。
* ('''Undergraduate''') '''College''' - アメリカ合衆国の影響により近年見られる名称。また、[[東京大学教養学部]]・[[国際基督教大学]]教養学部などの[[リベラル・アーツ]]教育を標榜する学部([[リベラル・アーツ・カレッジ]])。
=== 概要 ===
1877年に[[東京開成学校]]と[[東京医学校]]を制度上統合して[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]が成立した際、[[法学部]]、[[理学部]]、[[文学部]]、[[医学部]]の4つの部が置かれたのが、日本の近代教育における「学部」の始まりである{{efn|ただし「法」の「学部」ではなく「法学」の「部」という意味であり、学部の長の職名は法令上は「長」で実際には「部長」といったり「学部長」といったり定まらなかった。}}。このとき校地が[[神田錦町]](旧・東京開成学校)と[[本郷 (文京区)|本郷]](旧・東京医学校)とに分かれたまま、その双方に綜理(総長に相当)が任じられる事実上2校の連合体であり、東京医学校が東京大学医学部となったのに対し、東京開成学校の言い換えとして「東京大学三学部」が使われるようになった{{efn|この表現は3学部が本郷へ移転完了し工芸学部が新設された1885年以降廃れたが、同窓会などで出身者に対して用いられた。}}。1881年になると組織の実質的統合がなされ、1人の総理([[加藤弘之]])のもとそれぞれの学部に部長が置かれる体制が確立する<ref>東京大学職制(明治14年6月15日太政官第51号達)</ref>。
1886年第1次[[帝国大学令]]により、[[帝国大学]]は「卒業証書」([[学士]])が与えられる「'''[[分科大学]]'''」(学部に相当)と、「学位」が与えられる[[大学院]]から成ることが定められた。
「'''学部'''」という名称の法的起源は、1918年[[大学令]]と1919年第2次帝国大学令である。
1918年[[大学令]]により、[[旧制専門学校|専門学校]]が学位授与機関としての正規の大学([[旧制大学]])に昇格することが認められた。その際、大学令により「学部」を設置し[[文部大臣]]の認可を得た、「相当数の[[教授#教授職の種類|専任教員]]を置くこと」が条件とされた。また、1919年第2次帝国大学令により、分科大学は「学部」に改められた。
現在でも大学には、学部を置くことが常例とされ([[学校教育法]]第85条本文)、学部には、[[学生]]と専任(常勤)の[[教員]]が同時に所属し(大学院の教員を兼務する者も含む)、[[専攻]]に基づく[[教育研究]]が行われる。また、各学部には、所属する専任教授により構成される「[[教授会]]」が置かれ、学部ごとに人事やカリキュラムなどについての意思決定が行われる。但し現在は、[[筑波大学]]など学部ではなく'''[[学群]]'''・'''学域'''([[金沢大学]]・[[大阪府立大学]]など)などを置いて学生と教員の組織が別である大学も認められている。また大学院大学(国立大学法人[[奈良先端科学技術大学院大学]]など)という学部が存在せず、学生がいない大学がいくつか認められている。
なお、高等教育を行う学校(学校教育法第1条に定める「学校」)と位置付けられている短期大学と高等専門学校では、学部を置かず、学科を置く。
学校教育法第84条86条において、大学は、通信による教育を行うことができると定められ、さらに夜間において授業を行う学部・通信による教育を行う学部も認められている。より具体的に、[[学校教育法施行規則]]において、二部授業を行うことができると定められており、これに基づき届出を行えば、二部を設置し二部制で授業を行う事が認められる。この学校教育法施行規則に基づき、[[大学設置基準]]第26条で、[[昼夜開講制]]が認められる。
学部には、下位区分として専攻分野ごとに[[学科 (学校)|学科]]が設けられ、学科ごとに学生および教員が所属する[[学科制]]が一般的である。しかし、学科の代わりに学生の[[履修]]上の区分に応じて組織される[[課程]]が設けられる[[課程制]]をとる学部もある。なお、学科や課程の下にさらに[[コース]]が置かれるコース制を敷くものもある。[[制度]]上は、(学科に対する)課程、(学科や課程の下の)コースに所属するのは、学生のみでも構わないものの、これらの「課程」「系」「コース」に教員が置かれることがある。[[京都大学]][[京都大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]、[[関西学院大学]][[神学部]]のように、学科を置いていない学部も稀に存在する。
各大学が[[学則]]で定める卒業要件を満たした者には、卒業資格が与えられる。「専攻分野」がそのまま「学部名」となっているため、通例、学部名を専攻分野名として付記した「[[学士]](専攻分野)」の学位が、[[学位記]]([[卒業証書]]と一体となっているものを含む)とともに大学から授与される。
=== 日本に存在する学部の数 ===
{{未検証|date=2017年10月|section=1}}
政府は、[[科学研究費補助金]]の管理のため、国内に存在するすべての学部に「3桁」の識別番号を割り振っている(研究科・大学付属研究所・付属病院など、専任の教員・常勤の研究者が在籍する大学の部局、全て含む)。この「部局表」により、国内に存在する全ての学部は、100番ごと、系統別に区切られ、3桁の整理番号が割り当てられる。よって、この部局表により、日本に存在する全ての学部が一覧できる。
*例:〔教養学系〕教養学部002~、〔教育学系〕教育学部101~、〔人文学系〕文学部201~、 〔社会科学系〕社会学部301~、〔理学・工学系〕理学部401~、 〔農学系〕農学部501~、 〔医学・看護学系〕医学部601~、〔体育学・芸術学・生活学系〕体育学部701~ 。
002番の教養学部 ~ 720番の事業構想学部まで、日本に存在する「学部数」は、平成17年時点で'''200学部'''を超えている。<ref>[http://www-shinsei.jsps.go.jp/kaken/kakenhi_taiken/taiken_free/code/buka.html 所属部局番号一覧] 独立行政法人日本学術振興会</ref> {{See|学部の一覧}}
===教養部===
{{also|教養課程と専門課程}}
[[教養部]]は、学部1-2年次に配置される教養課程(一般教育)を担当する学内組織である。学部と同様に、教養部に所属する専任教授によって構成される「[[教授会]]」である『教養部教授会』が置かれる。ここで、教養部の教員採用からカリキュラムの作成まで、各種の意思決定が行われる。学部に準じた独立性と、意思決定の権限を有するため、学内外で学部とほぼ同等の扱いを受ける。上にあげた部局表では、国内に存在する全ての「学部」に3桁の番号が割り振られているが、一番はじめとなる「001番」は「教養部」である。
[[1994年]]以降、教養部を廃止する大学が増え、かわって学部が4年制(6年制)一貫教育を行うようになった。旧教養部が行ってきた教養教育は大幅に縮減され、共通教育科目・外国語科目・健康スポーツ科目などに改められた。一方で、専門教育の半年から1年程度の前倒しが行われるカリキュラム改正が相次いだ。
また、学部の入試問題は、各学部に所属する教員ではなく、教養部に所属する教員により作成されるケースが多く、学部入試問題の作成の任を負うという重要な役割を担ってきた。一方で教養部は作成せず文学部・理学部などの教員が関連する科目の作問・採点を作成していた大学もあった([[大阪大学]]など)。
しかし、「90年代の教養部廃止により、入試問題の作成が困難となっている」との指摘が<ref>岐阜大学 佐々木嘉三副学長へのインタビュー Guideline 2007年4・5月 河合塾</ref>
、大学側からなされるなど、{{要出典範囲|「大学改革」の名の下に進められた、『教養部の解体』による弊害が、近年になって顕在化している|date=2012年6月}}。現在は旧教養部担当教員と学部教員が関連する科目を協働で作問・採点を行っている大学が多い。
[[2022]]年現在、国立大学で教養部を設置しているのは[[東京医科歯科大学]]のみである<ref>[http://www.tmd.ac.jp/artsci/ 東京医科歯科大学教養部]</ref>。
=== 教育課程 ===
多くは[[単位制]]を導入しており、進級、卒業するためには規定の単位の取得が必要である。単位は主に規定の点数を下回った場合には認められない。規定の単位には[[文系]]の学部では[[卒業論文]]、[[理系]]の学部では[[卒業研究]]が含まれることが多い。
[[修業年限]]は4年で、最大8年を在籍できるとする大学が多いが医学、歯学、薬学、獣医学などを学ぶ学部の修業年限は6年で、この場合最長12年まで在籍できることが多い。つまり、最長修業年限を最短修業年限の2倍とする場合が多いのである。
こうした[[医学部]]、[[歯学部]]、[[薬学部]]、[[獣医学部]]に加え、[[法学部]]については、[[国家試験]]合格が事実上の資格審査であるとして、卒業論文を課さない大学も多い。代わりに医学部・歯学部では口頭試問などの卒業試験が行われることが多い。多くの大学の経済学部を中心に卒業論文が課されない(必須でない)学部も少なくない。また、[[美術学部]]、[[芸術学部]]の美術系学科、[[建築学部]]・[[建築学科]]などでは専攻により卒業論文に代えて[[卒業制作]]に、[[音楽学部]]、芸術学部の音楽系学科では卒業演奏や卒業制作(作曲)に置き換えられていることもある。
なお、修業年限が4年の場合は3年以上、修業年限が4年を超える学部の場合は3年以上で文部科学大臣の定める期間在学し、卒業の要件として定める単位を優秀な成績で修得したと認める場合は早期の卒業が認められている。([[学校教育法]]第89条)
但し、3年次から大学院修士課程へ飛び級により入学する場合は、通常大学を中途退学したという扱いになる。これは、修業年限は満たしていても単位などの卒業要件を満たしていない場合があるためである。
<!--
大学を[[卒業]]すると[[学士]]の[[学位]]が授与される。また、公的資格を所管する各省庁から認定を受けたカリキュラムを有する大学では、所定のカリキュラムを履修し単位を取得することにより、卒業時に公的資格を取得することができる(試験の一部免除や受験資格の付与、及び、実務年数要件の緩和も含む)。大学で取得できる公的資格として著名なものに[[教員免許]]がある。
なお、学士取得者を主な対象とする発展的な教育研究の場として、[[大学院]]を設けている大学が多い。また、学部を設置しない大学院のみの[[大学院大学]]もある。-->
=== 学生生活 ===
<!--日本の大学(学部)の入学者は、18歳で[[高等学校]]を卒業してすぐの者が大多数を占める。高等学校在学中に[[大学受験]]に合格することを'''現役合格'''といい、高等学校卒業後に大学入学を志願する者を[[過年度生]]という。過年度生の多くは高等学校卒業後に大学に進学せず、大学受験に向けて専業的に学ぶ者(俗に'''浪人生'''という)である。浪人生が、高校卒業の翌年に入学することを俗に1浪といい、2年後に入学した場合は2浪と、数が増えていく。いわゆる難関校や医学部・獣医学部・芸術系の学部には、2浪以上の者も珍しくない。過年度生を含む大学(学部)の進学率は、44.2%(平成17年度)となっている。また、過年度生には、浪人生以外にも、就職後に入学した者や([[社会人]]入学者と呼ぶ)、他の大学を卒業後や中退後や在学中に[[再受験]]し入学し直す者(再受験生と呼ぶ)も含まれる。逆に高校を2年で終え、3年目を飛び越して大学に入学する[[飛び級]]、飛び入学のケースもあるが、日本では例外的な扱いとなっており、[[千葉大学]]など一部の大学の一部の学部で限定的に実施されているのみで、このケースの入学者は極めて少ない。
学生生活は、'''[[文系と理系]]'''で大きく異なる。概して、文系は必修科目(卒業するために必ず取らなくてはならない科目)が少なく単位選択の自由度が高い上、教員から課される課題も多くはないため([[教養学部]]や[[外国語学部]]のような例外もあるが)、単位取得のための受講と学習・研究に割く時間は理系に比べて少なく、留年するケースは比較的少ない。(日本の大学は入学は厳しく、卒業は易しい)。#それを客観的に裏づける統計の数字を求めます。他方、理系は専攻の専門分化が厳密であることが多いため、必修科目が多く単位選択の自由度が低い。そしてその性質上、実験や演習が課されて拘束される時間が長く、それに伴って単位取得のための受講と学習・研究に要する時間が多くなりやすく、文系に比べると[[留年]]する可能性が高い傾向にある(特に学生生活が長い医歯薬系はその傾向が高い)。文系・理系の学生とも、余暇は[[部活動]]や[[サークル活動]]に積極的に参加したり、[[アルバイト]]で得た資金を元に[[海外旅行]]に出かけたりするなど、様々な経験をしている。一部には、[[ボランティア]]活動等の社会奉仕に関わった日数を換算して単位として認める大学もある。また、[[司法試験]]などの[[国家資格]]を得るために[[専修学校|専門学校]]等に並行して通う学生(いわゆる[[ダブルスクール|ダブル・スクール]])も存在する。大学によっては[[学生自治会]]などが設けられて相互扶助活動を行ない、これらの余暇活動を支援している。-->
大学や学部にもよるが、学部の1年次・2年次には、学問に共通の基礎的教養を学ぶ、いわゆる[[教養課程と専門課程|教養科目]]が多く配当される。3年次からは学部専門の領域を学ぶ、いわゆる[[教養課程と専門課程|専門科目]]で占められることが多いため、学習と研究に要する時間も多くなる。現在は教養部が廃止されたため、1年次から専門科目のうち基礎的な科目、入門的な科目が配当される。廃止前よりも1年程度前倒しで配当されている。一方で英語の科目などは3年時以降も配当されるところが増えている。
<!--また、3年次後半以降は、卒業後の進路を決めるための[[就職]]活動に入り、卒業後に志望する企業やその業界の調査・研究・応募(エントリー)が本格化する。4年次に入る頃には企業の採用内定を確保する者も出始め、4年次の半ばにはほぼ就職活動も収束するケースが多い。これと相前後して、4年間の大学における学習と研究の成果を集成した卒業論文・卒業研究の立案・作成が始められる。多くの大学では、卒業論文・卒業研究が卒業の要件とされており、これを提出せず、または、提出しても基準に達していないと判定されると、卒業できず留年となる。ちなみに、留年には、この他、卒業要件となる単位の不足が原因となることや、あえて卒業を先延ばしする自主留年もある。自主留年の理由としては、[[国家資格]]取得や大学院進学のための学習を続け、あるいは[[就職活動]]を続けるのに都合が良いことなどがある。(後者については、2008年の[[世界金融危機 (2007年-)|金融危機]]に起因する経済情勢の悪化を理由に採用内定を取り消された学生に対し、授業料免除の上で1年間の留年を認める大学も現れている)-->
[[医学部]]、[[歯学部]]、[[薬学部]]、[[獣医学部]]といった医学系の学部では教育期間は6年間となる。1・2年次は教養科目、3・4年次は専門科目というのは基本的に他の学部と同じである(近年の医学知識増加に対応して、一部の大学では1年時から専門科目を学び始める)。5・6年次には臨床の場での経験によって、より専門的な知識を身に付けると同時に、6年次には資格を得るのに必要な国家試験の対策にも勤しむこととなる。
さらに[[医学部]]、[[歯学部]]では資格を得た後に[[研修医]]として研修が[[医師法]]・[[歯科医師法]]によって義務付けられている。
<!--
大学卒業後は、企業等に就職する者、大学院に進学する者、他の専攻分野に学士入学する者、専修学校等で資格取得のための学習を続ける者がいる。フリーター・ニートの問題は大学に限らない。むしろ、専修学校や高校卒後、就職も進学もしなかった者に多い。また、[[1960年代]]の一時期には、[[学生運動]]が吹き荒れ大学紛争が全国で多発した時期もあったが、現在では非常に落ち着いている。その理由としては、以下のような理由が考えられる{{誰2|date=2008年12月}}。
* 大学当局が構内における学生独自の運動を厳しく規制するようになったこと
* 日本が豊かになり社会の多様化に伴い、価値観の異なる学生が増え集団で活動する土壌ができにくくなったこと
* 学生運動の頃は[[ベトナム戦争]]や[[石油危機]]など学生が[[政治]]や[[司法]]に関心を持ちやすい土壌があったのに対し、現在においては、それらに関心の薄い学生が増え大きな紛争になりにくいといったこと
* 学生運動の沈静化に伴い、一部の学生が先鋭化して[[あさま山荘事件]]や[[山岳ベース事件]]などに加わった。これらの[[テロリズム]]の残虐性や冷徹な組織管理などが、一般市民だけでなく学生からも支持されないようになったこと
* [[1970年代]]中盤から激化した[[受験戦争]]により、「良い学校を出なければ良い就職や良い生活ができない」というような考え方が生まれ、[[就職活動]]に於いて学生運動の経験がマイナス材料になるという考え方が広まったこと(実際に、内定後に学生運動に加わっていたことを理由に内定取り消しにあった学生が[[憲法]]の定める[[思想の自由]]に反するとして訴訟を起こした[[三菱樹脂事件|事件]]がある)-->
=== 学部等と研究科等の関係 ===
日本の学校教育法以下においては、学部(学部以外の教育研究上の基本となる組織を含む)と、研究科(研究科以外の教育研究上の基本となる組織を含む)の双方については、個別に扱っている。しかし、現実的には独立研究科を除き、一体に教育研究が行われている。
文部科学省への申請・届出上も、教員の本所属が学部(〔[[学系]]などの〕学部以外の教育研究上の基本となる組織を含む)と研究科(〔[[研究部]]などの〕研究科以外の教育研究上の基本となる組織を含む)どちらであるのかというのも明確にしなければならない。かつては学部に本所属し、大学院の教員を兼務する形であったが、大学院重点化した大学においては教員は大学院に本所属し、学部教員を兼務する形になっている。
日本の学部は「[[卒業]]」をともなう[[課程]]である。これに対して、日本の大学院の課程は全て「[[修了]]」とされ、「[[卒業]]」とはされない。したがって、「大学院を卒業する」という表現は法的には誤ったものである。しかし通俗的には、大学院修了者は院卒者と呼ばれることが多い。 一方で、修士あるいは博士の学位を取れずに単位のみ認定されて中退する単位取得認定中退に対し、「卒業」すると俗称することがある。
大学内においては、大学院の課程に対して、4年以上の課程または6年以上の課程を学部と呼ぶこともある。また、慣習的に○○学部の大学院という表現をすることもある。(後者の用例では「○○大学大学院○○研究科」は、○○学部の教員・施設等を母体としているものとみなされる。)
=== 学部以外の教育研究上の基本となる組織 ===
学校教育法(第85条および第100条を除く)および他の法令([[教育公務員特例法]](昭和24年法律第1号)および当該法令に特別の定めのあるものを除く)において、大学の学部という用語には、学校教育法第85条に規定する「学部以外の教育研究上の基本となる組織」を含むものとされている(学校教育法141条)。したがって、当該大学の[[教育研究]]上の目的を達成するため有益かつ適切である場合においては、学部以外の教育研究上の基本となる組織を置くことができる(学校教育法第85条ただし書)。
代表例として、学生が所属する学群・学域・学類と、教員が所属する学系の2つをもって、「教育研究上の基本となる組織」とする方式がある。
「学部以外の教育研究上の基本となる組織」についても、申請・届出の場面を除けば、法的には、学部と同じ扱いとなるが、厳密には学部と同一のものではない。例えば「○○学群」の課程を修めて大学を卒業した場合は、「○○学部卒業」と履歴書などに書くと不適切な記載となる。
学部以外を設置している大学は、[[学群]]制または学域制を採用し設置している。
[[筑波大学]]は大学設置当初から学部を置いたことがなく、「学群・学類、学系」制である。[[福島大学]]・[[桜美林大学]]・[[高知工科大学]]・[[札幌大学]]・[[宮城大学]]などは学部を廃止して「学群・学類、学系」制に移行した。
[[金沢大学]]・[[大阪府立大学]]・[[電気通信大学]]などは「学域・学類」制に移行した。
この他、[[名桜大学]]など、「学群・学類」制と「学部・学科」制を混在させている大学もある。
また、[[和洋女子大学]]のように学部を学群へ改称するという手続きで「学群・学類(・専修・コース)」制を導入しながらも、再び改称する手続きによって「学部・学科」制に戻した大学もある。
;学群採用状況
* [[学群#学群制を採用する大学・大学校一覧]]
;学域採用状況
* 金沢大学 - [[人間社会学域]], [[理工学域]], [[医薬保健学域]]
* 大阪府立大学 - [[現代システム科学域]], [[工学域]], [[生命環境科学域]], [[地域保健学域]]
* 電気通信大学 - [[情報理工学域]]
※学域はこの他、[[札幌大学]]、[[京都工芸繊維大学]]のように[[学科 (学校)|学科]]に変えて採用されていたり、大学院などで研究科の専攻に変えて採用されている。
==アメリカ合衆国==
アメリカ合衆国の大学においては、学部段階の教育を行う部局は一つしか設置されていない場合が多く(例:[[ハーバード大学]]におけるハーバード・カレッジ)、日本の専門領域に分化した学部にあたる部局は存在しない。ただし日本人にわかりやすいように、各専攻を卒業学部として紹介することがある(例:ハーバード大学を経済学専攻で卒業→ハーバード大学経済学部卒業)。
また、分野ごとの教育研究部局([[ロー・スクール]]、[[メディカル・スクール]]など)は大学院レベルの教育課程しか設置されていないものが多い。日本語ではこれらを法学部、医学部などと訳すこともある。
==韓国==
韓国の4年制以上の大学(大学校)においては、日本の学部に相当する部局を大学という。
例えば、ソウル大学校医学部は、すなわちソウル大学校医科大学であり、ソウル大学校経営学部はすなわちソウル大学経営大学となる。
韓国史において「学部」とは、[[大韓帝国]]の学事を担当する役所で、その前身は1894年(高宗31年)の[[甲午改革]]により[[礼曹]]を改組した「学務衙門」であった<ref>馬越徹「韓国近代大学の成立と展開」名古屋大学出版会 1995</ref>。
== 中華圏 ==
[[中華人民共和国]]や[[中華民国]]など[[中華圏]]の総合大学においては学部に相当する部局を'''学院'''(School)という。ただしこれは学部レベルの課程([[中国語]]: '''本科''')だけではなく大学院レベルの教育課程をも包含している。
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[学部の一覧]]
* [[学群]]
* [[研究科]] - [[専攻]] - [[専攻科]]
* [[学科 (学校)]] - [[課程]] - [[課程制]]
* [[講座制と学科目制]]
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[[category:高等教育]]
[[category:学校教育]]
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巴戦
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巴戦(ともえせん)とは、大相撲における優勝決定戦の方式の一種で、本割の結果、相星の力士(または優勝決定戦の途中の勝ち残り)が3人いる場合の優勝者決定のための戦いである。連続して2勝した力士が優勝となる。
優勝決定戦に出場する3人の力士が土俵下でくじ引きをして、○(丸)が描かれた紙を引いた力士は休みとなり、残りの2人(「東」「西」と書かれた紙を引いた力士がそれぞれ東・西から上がる)がまず対戦する。勝者は続けて休みの力士と対戦し、勝った場合は優勝となる。負けた場合は土俵を降りて、初戦で負けた力士が土俵に上がる。以後、2連勝する力士が出るまで続けられる。
取組が15番あり、かつ横綱や大関といった強い力士がいる幕内において巴戦が行われた例は少ない。実力の均衡する十両や、7番しかない幕下以下ではしばしば行われる。なお、同点力士が5人・6人となった場合も、予選を行って3人に絞り、巴戦を行う。4人・7人・8人の場合は単純なトーナメント形式で決定戦を行い、巴戦は行わない。9人~12人の場合は原則として5人または6人→3人と絞り巴戦となる(ただし9人の場合は過去10例のうち2例が例外的にまず9人のうち2人を対戦させてその敗者を脱落させて8人にした上でのトーナメントとなっている)。
実力が互角でそれぞれの戦いの勝率が1/2同士であることを仮定してそれぞれの力士の優勝確率を計算すると、○を引いた力士の優勝確率は4/14(勝率約0.286)であり他の2人は5/14(勝率約0.357)であって、○を引いた力士が不利となる。なぜなら「東」または「西」を引いた力士は最初の対戦で負けても、一旦控えとなって次に○を引いた力士が勝てば再び対戦できるのに対し、○を引いた力士の場合は、最初に対戦する時に負けた時点で相手力士の優勝が決まってしまうためである(相手は先勝しているため2連勝となる)。過去7回行われた巴戦で3回○を引いた力士が優勝しているが、いずれも下記の通り2連勝目が前頭で「実力が互角でそれぞれの戦いの勝率が1/2同士である」仮定が成り立たない例であった。
大相撲における他の優勝決定戦と異なる点としては、対戦で負けても優勝の可能性が残る場合がある点が挙げられる。具体的には、次のようなケースである。
実際に巴戦の対戦で負けながらその後連勝して優勝した例としては、幕内では1990年(平成2年)3月場所の北勝海が該当する(初戦で負けたものの、3戦目・4戦目で連勝)。
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巴戦(ともえせん)とは、大相撲における優勝決定戦の方式の一種で、本割の結果、相星の力士(または優勝決定戦の途中の勝ち残り)が3人いる場合の優勝者決定のための戦いである。連続して2勝した力士が優勝となる。
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{{otheruses|大相撲|戦闘機の[[空中戦]]|ドッグファイト}}
'''巴戦'''(ともえせん)とは、[[大相撲]]における[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]の方式の一種で、[[割 (相撲)|本割]]の結果、[[相星]]の[[力士]](または優勝決定戦の途中の勝ち残り)が3人いる場合の優勝者決定のための戦いである。連続して2勝した力士が優勝となる。
== 解説 ==
優勝決定戦に出場する3人の力士が[[土俵]]下で[[くじ|くじ引き]]をして、'''○'''('''丸''')が描かれた紙を引いた力士は休みとなり、残りの2人(「'''東'''」「'''西'''」と書かれた紙を引いた力士がそれぞれ東・西から上がる)がまず対戦する。勝者は続けて休みの力士と対戦し、勝った場合は優勝となる。負けた場合は土俵を降りて、初戦で負けた力士が土俵に上がる。以後、2連勝する力士が出るまで続けられる。
取組が15番あり、かつ[[横綱]]や[[大関]]といった強い力士がいる[[幕内]]において巴戦が行われた例は少ない。実力の均衡する[[十両]]や、7番しかない[[幕下]]以下ではしばしば行われる。なお、同点力士が5人・6人となった場合も、予選を行って3人に絞り、巴戦を行う。4人・7人・8人の場合は[[トーナメント方式#勝ち残り式トーナメント|単純なトーナメント形式]]で決定戦を行い、巴戦は行わない。9人~12人の場合は原則として5人または6人→3人と絞り巴戦となる(ただし9人の場合は過去10例のうち2例が例外的にまず9人のうち2人を対戦させてその敗者を脱落させて8人にした上でのトーナメントとなっている)。
実力が互角でそれぞれの戦いの勝率が1/2同士であることを仮定してそれぞれの力士の優勝[[確率]]を計算すると、○を引いた力士の優勝確率は4/14(勝率約0.286)であり他の2人は5/14(勝率約0.357)であって、○を引いた力士が不利となる<ref>[http://shochandas.xsrv.jp/tomoe/tomoe.htm 巴戦の数理]</ref>。なぜなら「東」または「西」を引いた力士は最初の対戦で負けても、一旦控えとなって次に○を引いた力士が勝てば再び対戦できるのに対し、○を引いた力士の場合は、最初に対戦する時に負けた時点で相手力士の優勝が決まってしまうためである(相手は先勝しているため2連勝となる)。過去7回行われた巴戦で3回○を引いた力士が優勝しているが、いずれも下記の通り2連勝目が前頭で「実力が互角でそれぞれの戦いの勝率が1/2同士である」仮定が成り立たない例であった。
大相撲における他の優勝決定戦と異なる点としては、対戦で負けても優勝の可能性が残る場合がある点が挙げられる。具体的には、次のようなケースである。
* 「東」または「西」を引いた力士が初戦で負けたとき。
* 前の対戦の勝者が負けたとき。
実際に巴戦の対戦で負けながらその後連勝して優勝した例としては、幕内では[[1990年]](平成2年)3月場所の[[北勝海]]が該当する(初戦で負けたものの、3戦目・4戦目で連勝)。
== 幕内での優勝決定巴戦の一覧 ==
幕内ではこれまでに、3人による決定戦で7度、5人による決定戦の決勝戦として1度、巴戦が行われている。
=== 3人による決定戦 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! 場所|| nowrap |本割成績||結果|| 備考
|-
|rowspan="3" nowrap| [[1956年]](昭和31年)3月場所||rowspan="3"| 12勝3敗
|東[[大関]] [[若乃花幹士 (初代)|若ノ花]] ◯(叩き込み)× 東[[前頭]]15 [[若羽黒朋明|若羽黒]]
| rowspan="3" style="text-align:left; font-size:smaller;"|史上初の巴戦であると同時に、出場全力士が昭和生まれのはじめての決定戦であり、結果、朝汐は最初の昭和生まれの優勝力士になった<br>若ノ花はのちの初代若乃花、朝汐はのち3代朝潮
|-
|東大関 若ノ花 ×(寄り倒し)◯ 東[[関脇]] [[朝潮太郎 (3代)|朝汐]]
|-
|東前頭15 若羽黒 ×(寄り切り)◯ 東関脇 '''朝汐'''
|-
| rowspan="3"|[[1961年]](昭和36年)9月場所|| rowspan="3"|12勝3敗
|西大関 [[柏戸剛|柏戸]] ◯(寄り切り)× 西前頭4 [[明武谷力伸|明武谷]]
| rowspan="3" style="text-align:left; font-size:smaller;"|大鵬と柏戸は場所後[[横綱]]
|-
| 西大関 柏戸 ×(うっちゃり)◯ 東大関 [[大鵬幸喜|大鵬]]
|-
| 西前頭4 明武谷 ×(寄り倒し)◯ 東大関 '''大鵬'''
|-
| rowspan="2"|[[1965年]](昭和40年)9月場所||rowspan="2"|12勝3敗
| 東張出横綱 柏戸 ◯(寄り切り)× 東前頭5 明武谷
| rowspan="2"|
|-
| 東張出横綱 '''柏戸''' ◯(寄り切り)× 西横綱 [[佐田の山晋松|佐田の山]]
|-
| rowspan="4"|[[1990年]](平成2年)3月場所|| rowspan="4"|13勝2敗
| 東大関 [[小錦八十吉 (6代)|小錦]] ◯(寄り切り)× 西横綱 [[北勝海信芳|北勝海]]
| rowspan="4" style="text-align:left; font-size:smaller;"|3人決定戦で4番を要したのは史上最多<br>霧島は場所後大関
|-
| 東大関 小錦 ×(寄り切り)◯ 東関脇 [[霧島一博|霧島]]
|-
| 西横綱 北勝海 ◯(押し出し)× 東関脇 霧島
|-
| 西横綱 '''北勝海''' ◯(下手投げ)× 東大関 小錦
|-
| rowspan="2"|[[1993年]](平成5年)7月場所|| rowspan="2"|13勝2敗
| 東横綱 [[曙太郎|曙]] ◯(押し倒し)× 東関脇 [[花田虎上|若ノ花]]
| rowspan="2" style="text-align:left; font-size:smaller;"|同期生3人による巴戦、若ノ花と貴ノ花は同部屋([[貴乃花部屋|二子山部屋]])<br>若ノ花はのちの3代若乃花、貴ノ花はのち貴乃花<br>若ノ花は場所後大関
|-
| 東横綱 '''曙''' ◯(寄り倒し)× 東大関 [[貴乃花光司|貴ノ花]]
|-
| rowspan="3"|[[1994年]](平成6年)3月場所|| rowspan="3"|12勝3敗
|nowrap| 東張出大関 [[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]] ◯(叩き込み)× 東前頭12 [[貴闘力忠茂|貴闘力]]
| rowspan="3" style="text-align:left; font-size:smaller;"|貴ノ浪と貴闘力は同部屋対戦(二子山部屋)
|-
| 東張出大関 貴ノ浪 ×(突き倒し)◯ 東横綱 曙
|-
| 東前頭12 貴闘力 ×(押し倒し)◯ 東横綱 '''曙'''
|-
| rowspan="2" |[[2022年]](令和4年)11月場所
| rowspan="2" |12勝3敗
|東前頭筆頭 [[髙安晃|髙安]] ×(叩き込み)○ 西前頭9 [[阿炎政虎|阿炎]]
| rowspan="2" style="text-align:left; font-size:smaller;"|阿炎は初優勝
|-
|東大関 [[貴景勝貴信|貴景勝]] ×(押し出し)○ 西前頭9 '''阿炎'''
|}
*'''太字'''は優勝。
=== 5人による決定戦 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! 場所|| nowrap|本割成績||colspan="2"|結果||備考
|-
| rowspan="4" nowrap|[[1996年]](平成8年)11月場所|| rowspan="4"|11勝4敗
| rowspan="2"|1回戦||東大関 若乃花 ×(寄り倒し)◯ 西大関 [[武蔵丸光洋|武蔵丸]]
| rowspan="4" style="text-align:left; font-size:smaller;"|1回戦は曙が不戦勝(シード)<br>11勝での優勝は[[1972年]]1月場所の[[栃東知頼|栃東]]、2017年9月場所の[[日馬富士公平|日馬富士]]、2023年9月場所の貴景勝と並ぶ15日制での最少勝ち星<br>若乃花と貴ノ浪は同部屋(二子山部屋)
|-
| 東大関2 貴ノ浪 ◯(すくい投げ)× 西関脇 [[魁皇博之|魁皇]]
|-
| rowspan="2" nowrap|決勝戦<br>(巴戦)
| 西大関 武蔵丸 ◯(寄り切り)× 西横綱 曙
|-
| nowrap| 西大関 '''武蔵丸''' ◯(寄り切り)× 東大関2 貴ノ浪
|}
*'''太字'''は優勝。
== 参考文献 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[相撲用語一覧]]
{{相撲}}
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[[Category:大相撲]]
[[Category:優勝]]
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スコットランド
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スコットランド(英語: Scotland、スコットランド語: Scotland、スコットランド・ゲール語: Alba [ˈal̪ɣapə] ( 音声ファイル))は、イギリスを構成するカントリーの一つである。スコットランド本土は、グレートブリテン島の北3分の1を占め、南東にイングランドとの国境を持ち、北と西に大西洋、北東に北海、南をアイリッシュ海に囲まれている。また、スコットランドには790以上の島々があり、主に北部諸島とヘブリディーズ諸島の群島を中心にしている。
843年に成立し1707年5月1日にグレートブリテン王国の一部となった、ヨーロッパ中世初期に独立した主権国家としてのスコットランド (スコットランド王国) に由来するスコットランド政府が管轄する地域。
特有の様々な衣装(スタイル)、称号、その他の象徴(王室ゆかりのシンボル)が存続しているだけでなく、法制度も独立していて公法・私法ともに管轄権を有する。 法律、教育、宗教、その他の機関が他のカンパニーと異なる形で存在し続け、独自の文化と国民性を継続させた。
1999年、スコットランド議会が再設置(議員129名の一院制)され、国内政策の多くの分野で権限を持っている。 首長は首相で、副首相も置かれる。 英国議会には「スコットランド」として59人の国会議員を擁し、英国・アイルランド評議会のメンバーとして、スコットランド議会の5人の議員を派遣している。
教育、社会サービス、道路、交通などの事項をカバーする限定的な自治権は、スコットランド政府から32の行政区画または地方自治体(スコットランド特有の「カウンシルエリア(council area)」)に委譲されている。人口ではグラスゴー市が、面積ではハイランド州が最大である。
スコットランドの名称は、この地を統一したスコット人 (Scots) に由来する。スコットランド・ゲール語では「アルバ (Alba)」と呼ぶ。ラテン語では「カレドニア (Caledonia)」と呼ばれる。
語源については、スコットは古アイルランド語で「荒らす」を指した「スコティ (Scoti)」に由来するとされ、「アルバ」と「カレドニア」は古代に有力だったクランの名に由来するとされる。
スコットランドは、グレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランド国境に接する。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接する。本島と別に790以上の島から構成される。
グレートブリテン島の3分の1を占める北部、およびシェトランド諸島、オークニー諸島、ヘブリディーズ諸島などの島々からなる。南西部のキンタイア半島からアイルランドまで30キロメートル、東海岸からノルウェーまで305キロメートル、北のフェロー諸島まで270キロメートルである。北部(ハイランド)は山岳地帯であり、氷河に削られた丘陵や陸地に食い込んだフィヨルドなど北欧に近い地形である。最高峰ベンネビス山(標高1344メートル)はグランピアン山地(英語版)西端にある。グレートブリテン島最大の淡水湖であるネス湖もある。地質学的には先カンブリア時代とカンブリア紀の岩石から成り、それらはカレドニア造山運動で隆起した。例外はデボン紀の旧赤色砂岩で主にマレー湾・フォース湾岸に分布する。それに対し、中部(ローランド)は、古生代の岩石から成る谷あいで、産業革命に重要な石炭と鉄鉱石を産出した。火山活動も盛んであった。南部(サザン・アップランド)はシルル紀の岩石が風化されて形成したなだらかな丘陵地帯が続き、イングランドの地形に近い。
グランピアン山地(右図)をマレー湾とアバディーンから南西に伸びて境する大断層があり、北はグレートグレン断層(英語版) 、南はハイランド境界断層(英語版) と呼ばれる。
典型的な西岸海洋性気候で、北大西洋海流(メキシコ湾流の延長)と偏西風の影響により緯度の割に比較的穏やかである。年較差が小さく過ごし易い。ただし、稀に-20°C以下になることがあるため、建物は寒さ対策を施した造りとなっている。
首都のエディンバラはスコットランド第2の人口を有する都市であり、ヨーロッパの主要な金融センターの一つである。人口最大の都市であるグラスゴーは大グラスゴーの中心であり、都市圏人口は約150万人に及ぶ。スコットランドの沿岸部は北大西洋および北海に接し、その中心都市であるアバディーンは北海油田の基地となっている。
紀元前10世紀頃、大陸よりケルト系のピクト人が到来。その後紀元前43年よりローマ帝国が侵入し、現在のスターリングに前線司令部を設置。ハドリアヌスの長城、アントニヌスの長城およびヴィンドランダ要塞(英語版)などの拠点が築かれた。ローマ軍は、各地の要塞を拠点としながらブリテン島支配を図り、たびたびピクト人との戦いにも勝利したが(グラウピウス山の戦い)、全域を支配するまでには至らなかった。
407年のローマ軍撤退後、ブリトン人など諸民族が数波にわたり到来する中、隣のアイルランド島より、現在のスコットランド人の直接祖先となるケルト系スコット人(英語版)(ゲール族)が到来。スコットランド北西部をスコット人(ダルリアダ王国)、北東部をピクト人(アルバ王国)、南部をブリトン人(ストラスクライド王国(英語版))とアングル人(ノーサンブリア王国)が支配し、12世紀頃まで諸民族による勢力均衡・群雄割拠の時代が続いた。また、8世紀頃からヴァイキングが沿岸にたびたび襲来した。
9世紀(伝統的立場では843年)に、ダルリアダ王国のケネス1世がアルバ王国を征服し、スコットランド王国が成立した。1071年、ブリテン島南部イングランド王国を支配するウィリアム征服王が、北部のスコットランド王国への侵攻を開始。以降、両王家には婚姻関係も生まれ、しばしば和議が図られるが、イングランドとスコットランドとの争いはやまず、13世紀から14世紀にかけて長期にわたり、両国間の緊張が続き(スコットランド独立戦争)、1314年にロバート・ブルースがスコットランドの大部分を再征服した(バノックバーンの戦い)。
1603年、ステュアート朝のジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世となり、イングランドと同君連合を結ぶ。スコットランドの宗教改革、清教徒革命(主教戦争、三王国戦争(スコットランド内戦(英語版)、イングランド内戦、アイルランド同盟戦争(英語版)(アイルランド反乱(英語版)、アイルランド侵略))、イングランド共和国の成立、イングランド王政復古)。殺戮時代、名誉革命。
1707年には、イングランド王国と合同して、グレートブリテン王国(略称:GB)(又はグレートブリテン連合王国(略称:UK))となる。
1999年、スコットランド議会が設置された。これは、権限委譲と分権議会の設置を定めた1998年スコットランド法の改正によって決定されたプロセスである。2007年5月3日の2007年スコットランド議会総選挙(英語版)でスコットランド国民党 (SNP) が第一党となった。2011年5月5日の2011年スコットランド議会総選挙(英語版)でSNPが過半数を獲得。
2012年10月15日にEdinburgh Agreementを締結。
2013年11月26日、スコットランド行政府のアレックス・サモンド(Alex Salmond、SNP党首)は、スコットランドの独立の是非を問う住民投票に対する公約となる独立国家スコットランドの青写真「Scotland's Future」を発表。
2014年9月18日、スコットランドの独立の是非を問う住民投票を実施。反対票が55%を占め、独立は否決された。
1707年の合同法 (Act of Union) によって、それまで同じ君主を冠してきたものの別々の王国であったイングランド王国とスコットランド王国は合邦し、グレートブリテン王国が成立した。この合邦は形式的には対等とされていたが、新国家の議会や王宮など主な機関は旧イングランド王国に座することになり、イングランドによる不公平な併合であったと考えるスコットランド人が少なくない。
スコットランドは伝統的に労働党の支持者が多く、トニー・ブレア、ゴードン・ブラウンと2代続けてスコットランド出身の党首・連合王国首相を輩出しているが、先述の経緯からスコットランド独立を掲げる民族主義的なスコットランド国民党(SNP)も多くの支持を集めている。
2014年9月、スコットランド独立を問う住民投票が実施され、44.7%対55.3%で否決された。スコットランド以外のグレートブリテン及び北アイルランド連合王国諸国は反対派が明らかに多かった。
2005年5月現在、スコットランドに割り当てられているイギリス議会(ウェストミンスター議会)下院の議席数は59である。2005年総選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。
2015年5月現在、スコットランドに割り当てられているイギリス議会(ウェストミンスター議会)下院の議席数は59である。2015年総選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。
1707年の合同法でスコットランド議会は閉鎖され事実上廃止となったが、1998年スコットランド法の制定により1999年5月6日に1999年スコットランド議会総選挙(英語版)を行い、再開された。スコットランド議会は一定範囲で所得税率を変更することができる他、スコットランド法でウェストミンスター議会留保事項と規定されている事柄以外について、独自の法令を成立させることができる。これまでに、福祉政策や狐狩り規制、公共施設内での禁煙などに関して、スコットランド独自の法令が施行されている。ウェストミンスター議会留保事項には、外交、軍事、財政・金融、麻薬取締り、移民の規制など、全国的に取り組む必要がある事柄が規定されている。
2003年5月1日に開催され、圧倒的な労働党支持の中、スコットランド労働党党首ジャック・マコンネル(英語版)が首相に任命された。
2007年5月3日に開催され、スコットランド国民党が第一党の座を獲得。5月16日にはスコットランド国民党党首のアレックス・サモンドが首相に選出された。
2011年5月5日に開催され、スコットランド国民党が過半数を獲得。党首アレックス・サモンドが首相に再選された。再開以来、初めて単一政党が過半数を獲得した。
1952年2月6日にエリザベス王女が連合王国の国王(イギリスの君主)に即位した際、その呼称が「エリザベス2世女王 (Queen Elizabeth II)」となることをめぐって問題が生じた。というのも、イングランドには過去に同名の国王(エリザベス1世)がいたが、スコットランドには過去に同名の国王が存在していなかったので、イングランドを基準にすれば新国王の呼称は「エリザベス2世女王」であるが、スコットランドを基準にすれば新しい国王の呼称は「エリザベス(1世)女王 (Queen Elizabeth)」となるからである。
そこで、スコットランドの民族主義政党であるスコットランド国民党の指導的立場にいたジョン・マコーミック(英語版)は、「新国王がスコットランドにおいて「エリザベス2世女王」と名乗ることは、1707年合同法違反だ」として裁判を起こした。裁判の結果はマコーミックの敗訴であった。「王がどう名乗るかは国王大権 (royal prerogative) に属することであり、マコーミックに裁判で争う権利は認められない」とされたのである。これでエリザベスはイングランドでもスコットランドでも「エリザベス2世女王」と堂々と名乗れるようになった。
エリザベス2世は後に将来においても発生し得るこの問題を公平に解決するための新基準を提案している。スコットランド基準とイングランド基準で呼称の「~世」の部分が異なる場合、数値が大きな方を採用するというものである。たとえば、将来ジェームズという名の王が即位する場合、イングランド基準では「ジェームズ3世男王 (King James III)」となるが、スコットランド基準では「ジェームズ8世男王 (King James VIII)」となるため、大きな方の「ジェームズ8世男王」を採用するというものである。ただし実際にこのようなことが起きたとしても、この基準を新国王ジェームズが採用するとは限らない。裁判所が表明したように、どう名乗るかは国王大権に属することであるから、「ジェームズ3世」と「ジェームズ8世」のどちらを名乗るかはそのジェームズに委ねられるからである。
この新基準は過去に遡って適用することが容易である。1707年以降この呼称上の問題が生じるイギリス国王は4人(ウィリアム4世、エドワード7世、エドワード8世、エリザベス2世)いるが、この新基準の適用を受けても4人の呼称はイングランド基準のままであり、変更の必要がないからである。
イギリスの郵便ポストには王の名が頭文字で刻印されているが、エリザベス2世即位後にスコットランドに設置された郵便ポストは王冠が描かれているのみで王の名は書かれていない。これは、彼女の呼称に不満を抱いた一部の過激な民族主義者がエリザベス2世の名が刻印された郵便ポストを破壊したり、「2世」の部分を削り取ったりしたためである。
スコットランド法は大陸法を基調とする。チャンネル諸島を除くブリテン諸島ではアイルランド共和国にいたるまで英米法を採用しており、スコットランドが唯一の大陸法社会である。
古くは石炭がスコットランドの主要産業であり、産業革命を支えた。
1960年代に北海油田が開発されると、漁港アバディーンは石油基地として大きな発展をとげた。石油資源の存在はスコットランド独立派の強みとなっている。
1980年代からは半導体産業や情報通信産業の誘致が盛んに行われており、スコットランド中部のIT産業の集積地帯はシリコングレンと呼ばれている。
民族衣装として名高いタータンやキルトは、元々はハイランド地方の伝統衣装であった。ジャコバイト反乱(1715年の反乱、1745年の反乱)後、18世紀半ばに禁止された。その後、1822年にジョージ4世がスコットランド訪問の時にタータン柄のキルトを着用したため、スコットランド全域に広がった。
「経済学の父」ことアダム・スミス、詩人ロバート・バーンズ、作家ウォルター・スコット、シャーロック・ホームズの生みの親アーサー・コナン・ドイル、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作家ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジェームズ・ボズウェル、トーマス・カーライル、俳優のショーン・コネリー、ユアン・マクレガーなどはスコットランドの生まれである。
スコットランドは、産業革命以前より、科学・技術の中心地であったため、多くの科学者・技術者を輩出している。その発見・発明は、現代社会にはなくてはならないものが多い。電話を発明したグレアム・ベル、ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング、蒸気機関を発明したジェームズ・ワット、ファックスを発明したアレクサンダー・ベイン、テレビを発明したジョン・ロジー・ベアード、空気入りタイヤを発明したジョン・ボイド・ダンロップ、道路のアスファルト舗装(マカダム舗装)を発明したジョン・ロウドン・マカダム、消毒による無菌手術を開発したジョゼフ・リスターなどはスコットランドの生まれである。
羊の内臓を羊の胃袋に詰めて茹でたハギスが有名。また、スコッチ・ウイスキーは定義上スコットランド産でなければならない。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多い。
コリン・ジョイス(『驚きの英国史』NHK出版新書 2012年pp.79-83)ではイギリス人の生活を皮肉って次の物がすべてスコットランド人によるものだとしている。マーマレード、レインコート、自転車、タイヤ、乾留液(タールマック舗装)、蒸気エンジン、イングランド銀行、糊つき切手、タバコ、電話、ローストビーフ、アメリカ海軍、麻酔薬などである。『聖書』にもスコットランド人が最初に出てくるが、これはジェームズ6世が英訳を進めたからである。
スコットランドの花 (The Flower of Scotland) が事実上の「国歌」である。
カトリックとプロテスタントがほぼ拮抗している。公立学校も、カトリック校と無宗教校(事実上プロテスタント)に分かれている。これはスポーツの世界にも影響を及ぼしており、カトリック系住民が応援するセルティックFCとプロテスタント系住民が応援するレンジャーズFCと激しいライバル関係となってあらわれている。
スコットランドはゴルフの発祥の地としても知られ、セント・アンドルーズは聖地として世界中のゴルファーの憧れの地となっている。さらに冬季オリンピック競技としても有名なカーリングも、1511年の刻印のあるストーンが発見されており、スコットランドで15~16世紀に始まったとされる。そのため、国際大会の前には勇敢なるスコットランドが演奏される。
スコットランドではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1890年にサッカーリーグのスコティッシュ・フットボールリーグが創設された。 そこから分離する形で1998年にスコティッシュ・プレミアリーグが設立され、さらに2013年にはスコティッシュ・プレミアシップが発足している。スコットランドには「世界最大のサッカーダービー」とも言われる「オールドファーム・ダービー」が存在し、セルティックFCとレンジャーズFCによる激しいライバル関係は世界中に知られている。なお、過去にオールドファームでゴールを決めた日本人選手は、中村俊輔、旗手怜央、前田大然、古橋亨梧の4名となっている。
スコットランドではラグビーも人気スポーツの一つである。代表チームはラグビーワールドカップで、歴代9大会中7大会で決勝トーナメント進出しており、1991年大会では4位となった。2011年大会と2019年大会では、いずれもグループリーグ3位となった。2015年と2019年と日本代表戦が行われ、その間の2016年にも日本とのテストマッチが組まれている(2019年は日本勝利、他3回はスコットランド勝利)。さらに毎年2〜3月には、6か国対抗のシックスネイションズに参加している。なお、5ネイションズ時代の1999年を最後に優勝からは遠ざかっている。
スコットランドを大きく分けると、「ハイランド地方」と「ローランド地方」の2つに区分することができる。
1973年~1996年までは、9つの地方と3つの島嶼部のリージョンに分けられていた。また、一部カウンシル・エリアと同地域もある。
現在も警察・消防など行政機関の中には、かつてのリージョンの区画を管轄区分に用いるものがある。
32のカウンシル・エリア (council area) に区分される。
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"title": "政治"
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"text": "2007年5月3日に開催され、スコットランド国民党が第一党の座を獲得。5月16日にはスコットランド国民党党首のアレックス・サモンドが首相に選出された。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "2011年5月5日に開催され、スコットランド国民党が過半数を獲得。党首アレックス・サモンドが首相に再選された。再開以来、初めて単一政党が過半数を獲得した。",
"title": "政治"
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"text": "1952年2月6日にエリザベス王女が連合王国の国王(イギリスの君主)に即位した際、その呼称が「エリザベス2世女王 (Queen Elizabeth II)」となることをめぐって問題が生じた。というのも、イングランドには過去に同名の国王(エリザベス1世)がいたが、スコットランドには過去に同名の国王が存在していなかったので、イングランドを基準にすれば新国王の呼称は「エリザベス2世女王」であるが、スコットランドを基準にすれば新しい国王の呼称は「エリザベス(1世)女王 (Queen Elizabeth)」となるからである。",
"title": "政治"
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"text": "そこで、スコットランドの民族主義政党であるスコットランド国民党の指導的立場にいたジョン・マコーミック(英語版)は、「新国王がスコットランドにおいて「エリザベス2世女王」と名乗ることは、1707年合同法違反だ」として裁判を起こした。裁判の結果はマコーミックの敗訴であった。「王がどう名乗るかは国王大権 (royal prerogative) に属することであり、マコーミックに裁判で争う権利は認められない」とされたのである。これでエリザベスはイングランドでもスコットランドでも「エリザベス2世女王」と堂々と名乗れるようになった。",
"title": "政治"
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"text": "エリザベス2世は後に将来においても発生し得るこの問題を公平に解決するための新基準を提案している。スコットランド基準とイングランド基準で呼称の「~世」の部分が異なる場合、数値が大きな方を採用するというものである。たとえば、将来ジェームズという名の王が即位する場合、イングランド基準では「ジェームズ3世男王 (King James III)」となるが、スコットランド基準では「ジェームズ8世男王 (King James VIII)」となるため、大きな方の「ジェームズ8世男王」を採用するというものである。ただし実際にこのようなことが起きたとしても、この基準を新国王ジェームズが採用するとは限らない。裁判所が表明したように、どう名乗るかは国王大権に属することであるから、「ジェームズ3世」と「ジェームズ8世」のどちらを名乗るかはそのジェームズに委ねられるからである。",
"title": "政治"
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"text": "この新基準は過去に遡って適用することが容易である。1707年以降この呼称上の問題が生じるイギリス国王は4人(ウィリアム4世、エドワード7世、エドワード8世、エリザベス2世)いるが、この新基準の適用を受けても4人の呼称はイングランド基準のままであり、変更の必要がないからである。",
"title": "政治"
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"text": "イギリスの郵便ポストには王の名が頭文字で刻印されているが、エリザベス2世即位後にスコットランドに設置された郵便ポストは王冠が描かれているのみで王の名は書かれていない。これは、彼女の呼称に不満を抱いた一部の過激な民族主義者がエリザベス2世の名が刻印された郵便ポストを破壊したり、「2世」の部分を削り取ったりしたためである。",
"title": "政治"
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"text": "スコットランド法は大陸法を基調とする。チャンネル諸島を除くブリテン諸島ではアイルランド共和国にいたるまで英米法を採用しており、スコットランドが唯一の大陸法社会である。",
"title": "政治"
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"text": "古くは石炭がスコットランドの主要産業であり、産業革命を支えた。",
"title": "経済"
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"text": "1960年代に北海油田が開発されると、漁港アバディーンは石油基地として大きな発展をとげた。石油資源の存在はスコットランド独立派の強みとなっている。",
"title": "経済"
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"text": "1980年代からは半導体産業や情報通信産業の誘致が盛んに行われており、スコットランド中部のIT産業の集積地帯はシリコングレンと呼ばれている。",
"title": "経済"
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"text": "民族衣装として名高いタータンやキルトは、元々はハイランド地方の伝統衣装であった。ジャコバイト反乱(1715年の反乱、1745年の反乱)後、18世紀半ばに禁止された。その後、1822年にジョージ4世がスコットランド訪問の時にタータン柄のキルトを着用したため、スコットランド全域に広がった。",
"title": "文化"
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"text": "「経済学の父」ことアダム・スミス、詩人ロバート・バーンズ、作家ウォルター・スコット、シャーロック・ホームズの生みの親アーサー・コナン・ドイル、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作家ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジェームズ・ボズウェル、トーマス・カーライル、俳優のショーン・コネリー、ユアン・マクレガーなどはスコットランドの生まれである。",
"title": "文化"
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"text": "スコットランドは、産業革命以前より、科学・技術の中心地であったため、多くの科学者・技術者を輩出している。その発見・発明は、現代社会にはなくてはならないものが多い。電話を発明したグレアム・ベル、ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング、蒸気機関を発明したジェームズ・ワット、ファックスを発明したアレクサンダー・ベイン、テレビを発明したジョン・ロジー・ベアード、空気入りタイヤを発明したジョン・ボイド・ダンロップ、道路のアスファルト舗装(マカダム舗装)を発明したジョン・ロウドン・マカダム、消毒による無菌手術を開発したジョゼフ・リスターなどはスコットランドの生まれである。",
"title": "文化"
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"text": "羊の内臓を羊の胃袋に詰めて茹でたハギスが有名。また、スコッチ・ウイスキーは定義上スコットランド産でなければならない。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多い。",
"title": "文化"
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"text": "コリン・ジョイス(『驚きの英国史』NHK出版新書 2012年pp.79-83)ではイギリス人の生活を皮肉って次の物がすべてスコットランド人によるものだとしている。マーマレード、レインコート、自転車、タイヤ、乾留液(タールマック舗装)、蒸気エンジン、イングランド銀行、糊つき切手、タバコ、電話、ローストビーフ、アメリカ海軍、麻酔薬などである。『聖書』にもスコットランド人が最初に出てくるが、これはジェームズ6世が英訳を進めたからである。",
"title": "文化"
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"text": "スコットランドの花 (The Flower of Scotland) が事実上の「国歌」である。",
"title": "文化"
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"text": "カトリックとプロテスタントがほぼ拮抗している。公立学校も、カトリック校と無宗教校(事実上プロテスタント)に分かれている。これはスポーツの世界にも影響を及ぼしており、カトリック系住民が応援するセルティックFCとプロテスタント系住民が応援するレンジャーズFCと激しいライバル関係となってあらわれている。",
"title": "宗教"
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"text": "スコットランドはゴルフの発祥の地としても知られ、セント・アンドルーズは聖地として世界中のゴルファーの憧れの地となっている。さらに冬季オリンピック競技としても有名なカーリングも、1511年の刻印のあるストーンが発見されており、スコットランドで15~16世紀に始まったとされる。そのため、国際大会の前には勇敢なるスコットランドが演奏される。",
"title": "スポーツ"
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"text": "スコットランドではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1890年にサッカーリーグのスコティッシュ・フットボールリーグが創設された。 そこから分離する形で1998年にスコティッシュ・プレミアリーグが設立され、さらに2013年にはスコティッシュ・プレミアシップが発足している。スコットランドには「世界最大のサッカーダービー」とも言われる「オールドファーム・ダービー」が存在し、セルティックFCとレンジャーズFCによる激しいライバル関係は世界中に知られている。なお、過去にオールドファームでゴールを決めた日本人選手は、中村俊輔、旗手怜央、前田大然、古橋亨梧の4名となっている。",
"title": "スポーツ"
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"text": "スコットランドではラグビーも人気スポーツの一つである。代表チームはラグビーワールドカップで、歴代9大会中7大会で決勝トーナメント進出しており、1991年大会では4位となった。2011年大会と2019年大会では、いずれもグループリーグ3位となった。2015年と2019年と日本代表戦が行われ、その間の2016年にも日本とのテストマッチが組まれている(2019年は日本勝利、他3回はスコットランド勝利)。さらに毎年2〜3月には、6か国対抗のシックスネイションズに参加している。なお、5ネイションズ時代の1999年を最後に優勝からは遠ざかっている。",
"title": "スポーツ"
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"text": "スコットランドを大きく分けると、「ハイランド地方」と「ローランド地方」の2つに区分することができる。",
"title": "行政区画"
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"text": "1973年~1996年までは、9つの地方と3つの島嶼部のリージョンに分けられていた。また、一部カウンシル・エリアと同地域もある。",
"title": "行政区画"
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"text": "現在も警察・消防など行政機関の中には、かつてのリージョンの区画を管轄区分に用いるものがある。",
"title": "行政区画"
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"text": "32のカウンシル・エリア (council area) に区分される。",
"title": "行政区画"
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] |
スコットランドは、イギリスを構成するカントリーの一つである。スコットランド本土は、グレートブリテン島の北3分の1を占め、南東にイングランドとの国境を持ち、北と西に大西洋、北東に北海、南をアイリッシュ海に囲まれている。また、スコットランドには790以上の島々があり、主に北部諸島とヘブリディーズ諸島の群島を中心にしている。
|
{{基礎情報 国
| 略名 =スコットランド
| 日本語国名 =スコットランド
| 公式国名 ='''{{lang|en|Scotland}}'''([[英語]]、[[スコットランド語]])<br>{{lang|gd|'''Alba'''}}([[スコットランド・ゲール語]])
| 国旗画像 =Flag of Scotland.svg
| 国章画像 =[[Image:Royal Arms of the Kingdom of Scotland.svg|100px|スコットランドの国章]]
| 国章リンク =([[:en:Royal Standard of Scotland|国章]])
| 標語 =''{{lang|la|In My Defens God Me Defend}}''([[スコットランド語]])<br>(和訳例)神の守りが我が守り
| 国歌 =[[スコットランドの花]](事実上)<br>{{center| }}<small>(他に複数の非公式な国歌的愛唱歌がある。詳細は[[スコットランドの国歌]]を参照)</small>
| 位置画像 =Scotland in the UK and Europe.svg
| 公用語 =[[英語]](主な[[方言]]として[[スコットランド英語]]および[[イギリス英語]])、[[スコットランド・ゲール語]]、[[スコットランド語]]、[[イギリス手話]]
| 首都 =[[エディンバラ]]
| 最大都市 =[[グラスゴー]]
| 元首等肩書 =[[イギリスの君主|連合王国国王]]
| 元首等氏名 =[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]
| 首相等肩書 =[[スコットランド首相|首相]]
| 首相等氏名 =[[ハムザ・ユーサフ]] ([[スコットランド国民党|SNP]])
| 面積順位 =
| 面積大きさ =1 E10
| 面積値 =78,772
| 水面積率 =1.9%
| 人口統計年 =2012
| 人口順位 =
| 人口大きさ =1 E6
| 人口値 =5,254,800
| 人口密度値 =65.9
| GDP統計年元 =2010
| GDP値元 =1,397億7,400万
| GDP/人元 =26,766
| 建国形態 =建国
| 建国年月日 =[[841年]]、[[ケネス1世 (スコットランド王)|ケネス1世]]即位年
| 通貨 =[[スターリング・ポンド|UKポンド]]
| 通貨コード =GBP
| 時間帯 =0
| 夏時間 =+1 UTC
| ISO 3166-1 = GB ([[ISO 3166-2:GB|GB-SCT]])
| ccTLD ={{仮リンク|.scot|en|.scot}}
| 国際電話番号 =44
| 注記 =
}}
'''スコットランド'''({{Lang-en|Scotland}}、{{lang-sco|Scotland}}、{{lang-gd|[[Alba]]}} {{IPA-gd|ˈal̪ˠapə||Alba-gd.ogg}})は、[[イギリス]]を構成する[[イギリスのカントリー|カントリー]]の一つである。スコットランド本土は、[[グレートブリテン島]]の北3分の1を占め<ref name="Stats 1">{{Cite web|url=http://www.ons.gov.uk/ons/guide-method/geography/beginner-s-guide/administrative/the-countries-of-the-uk/index.html|title=The Countries of the UK|publisher=[[Office for National Statistics]]|accessdate=24 June 2012|date=6 April 2010}}</ref><ref name="Country">{{Cite web|url=http://www.number10.gov.uk/Page823|title=Countries within a country|accessdate=24 August 2008|website=10 Downing Street|quote=The United Kingdom is made up of four countries: England, Scotland, Wales and Northern Ireland|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100416083521/http://www.number10.gov.uk/Page823|archivedate=16 April 2010}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.iso.org/iso/newsletter_i-9.pdf|title=ISO 3166-2 Newsletter Date: 28 November 2007 No I-9. "Changes in the list of subdivision names and code elements" (Page 11)|accessdate=31 May 2008|website=[[International Organization for Standardization]] codes for the representation of names of countries and their subdivisions – Part 2: Country subdivision codes|quote=SCT Scotland ''country''}}</ref>、南東に[[イングランド]]との国境を持ち、北と西に[[大西洋]]、北東に[[北海]]、南を[[アイリッシュ海]]に囲まれている。また、スコットランドには790以上の島々があり<ref name="Scottish Executive">{{Cite web|title=Scottish Executive Resources|website=Scotland in Short|url=http://www.gov.scot/Resource/Doc/923/0010669.pdf|date=17 February 2007|publisher=Scottish Executive|accessdate=14 September 2006}}</ref>、主に[[北部諸島 (イギリス)|北部諸島]]と[[ヘブリディーズ諸島]]の群島を中心にしている。
== 概要 ==
843年に成立し1707年5月1日に[[グレートブリテン王国]]の一部となった、[[ヨーロッパ史|ヨーロッパ]][[中世前期|中世初期]]に独立した[[主権国家体制|主権国家]]としての[[スコットランド王国|スコットランド (スコットランド王国) ]]に由来する[[スコットランド政府]]が管轄する[[地域]]。
特有の様々な衣装(スタイル)、称号、その他の象徴(王室ゆかりのシンボル)が存続しているだけでなく、[[スコットランド法|法制度]]も独立していて公法・私法ともに管轄権を有する<ref>Collier, J. G. (2001) [http://assets.cambridge.org/052178/2600/sample/0521782600ws.pdf ''Conflict of Laws (Third edition)''](pdf) [[Cambridge University Press]]. "For the purposes of the English [[conflict of laws]], every country in the world which is not part of [[England and Wales]] is a foreign country and its foreign laws. This means that not only totally foreign independent countries such as France or Russia ... are foreign countries but also [[British Colonies]] such as the [[Falkland Islands]]. Moreover, the other parts of the United Kingdom{{spaced ndash}}Scotland and Northern Ireland{{spaced ndash}}are foreign countries for present purposes, as are the other [[British Islands]], the [[Isle of Man]], [[Jersey]] and [[Guernsey]]."</ref>。
法律、教育、宗教、その他の機関が他のカンパニーと異なる形で存在し続け、独自の文化と国民性を継続させた<ref name="administrative control">Devine, T. M. (1999), ''The Scottish Nation 1700–2000'', P.288–289, {{ISBN2|0-14-023004-1}} ''"created a new and powerful ''local state'' run by the Scottish bourgeoisie and reflecting their political and religious values. It was this local state, rather than a distant and usually indifferent Westminster authority, that in effect routinely governed Scotland"''</ref>。
1999年、[[スコットランド議会]]が再設置(議員129名の一院制)され、国内政策の多くの分野で権限を持っている<ref>{{Cite web|url=https://www.gov.uk/guidance/devolution-settlement-scotland|title=Devolution Settlement, Scotland|publisher=gov.uk|accessdate=7 May 2017}}</ref>。
首長は[[スコットランド首相|首相]]で、[[スコットランド副首相|副首相]]も置かれる<ref>{{Cite web|url=https://www.gov.scot/about/who-runs-government/cabinet-and-ministers/|title=Cabinet and ministers|website=Gov.scot|accessdate=3 January 2019}}</ref>。
[[イギリスの議会|英国議会]]には「スコットランド」として59人の国会議員を擁し、英国・アイルランド評議会のメンバーとして<ref>{{Cite web|url=http://www.britishirishcouncil.org/member-administrations/scotland-alba|title=Scotland / Alba|publisher=British-Irish Council|accessdate=4 May 2013|date=7 December 2011}}</ref>、スコットランド議会の5人の議員を派遣している<ref>{{Cite web|url=http://www.britishirish.org/members-2/|title=Members|publisher=British-Irish Parliamentary Assembly|accessdate=1 August 2018}}</ref>。
教育、社会サービス、道路、交通などの事項をカバーする限定的な自治権は、スコットランド政府から32の[[スコットランドの地方行政区画|行政区画]]または地方自治体(スコットランド特有の「カウンシルエリア(council area)」<ref name="cosla.gov.uk">{{Cite web|url=http://www.cosla.gov.uk/scottish-local-government|title=Scottish Local Government|website=Cosla.gov.uk|accessdate=3 January 2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190113100338/http://www.cosla.gov.uk/scottish-local-government|archivedate=13 January 2019}}</ref>)に委譲されている<ref name="cosla.gov.uk" />。人口では[[グラスゴー]]市が、面積では[[ハイランド]]州が最大である。
== 地名 ==
スコットランドの名称は、この地を統一した[[スコットランド人|スコット人]] (Scots) に由来する。[[スコットランド・ゲール語]]では「[[アルバ (スコットランド)|アルバ]] (Alba)」と呼ぶ。[[ラテン語]]では「[[カレドニア]] (Caledonia)」と呼ばれる。
語源については、スコットは古アイルランド語で「荒らす」を指した「スコティ (Scoti)」に由来するとされ、「アルバ」と「カレドニア」は古代に有力だった[[クラン]]の名に由来するとされる。
== 地理・地質 ==
{{main|{{仮リンク|スコットランドの地理|en|Geography of Scotland}}}}
[[File:Scotland (Location) Named (HR).png|right|thumb|地形区分、島を除く国土は4つに分かれる]]
スコットランドは、グレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部で[[イングランド]]国境に接する。東方に[[北海]]、北西方向は[[大西洋]]、南西方向は[[ノース海峡 (イギリス)|ノース海峡]]および[[アイリッシュ海]]に接する。本島と別に790以上の島から構成される。
[[グレートブリテン島]]の3分の1を占める北部、および[[シェトランド諸島]]、[[オークニー諸島]]、[[ヘブリディーズ諸島]]などの島々からなる。南西部の[[キンタイア]]半島からアイルランドまで30キロメートル、東海岸からノルウェーまで305キロメートル、北の[[フェロー諸島]]まで270キロメートルである。北部([[ハイランド地方|ハイランド]])は山岳地帯であり、氷河に削られた丘陵や陸地に食い込んだ[[フィヨルド]]など北欧に近い地形である。最高峰[[ベンネビス山]](標高1344メートル)は{{仮リンク|グランピアン山地|en|Grampian Mountains}}西端にある。グレートブリテン島最大の淡水湖である[[ネス湖]]もある。地質学的には[[先カンブリア時代]]と[[カンブリア紀]]の[[岩石]]から成り、それらは[[カレドニア造山運動]]で隆起した。例外は[[デボン紀]]の[[旧赤色砂岩]]で主に[[マレー湾]]・[[フォース湾]]岸に分布する。それに対し、中部([[ローランド地方|ローランド]])は、[[古生代]]の岩石から成る谷あいで、[[産業革命]]に重要な[[石炭]]と[[鉄鉱石]]を産出した。[[火山活動]]も盛んであった。南部([[サザン・アップランド]])は[[シルル紀]]の岩石が[[風化]]されて形成したなだらかな[[丘陵]]地帯が続き、イングランドの地形に近い。
グランピアン山地(右図)をマレー湾とアバディーンから南西に伸びて境する大断層があり、北は{{仮リンク|グレートグレン断層|en|Great Glen Fault}} 、南は{{仮リンク|ハイランド境界断層|en|Highland Boundary Fault}} と呼ばれる。
== 気候 ==
{{Main|{{仮リンク|スコットランドの気候|en|Climate of Scotland}}}}
典型的な[[西岸海洋性気候]]で、[[北大西洋海流]]([[メキシコ湾流]]の延長)と[[偏西風]]の影響により[[緯度]]の割に比較的穏やかである。年較差が小さく過ごし易い。ただし、稀に-20℃以下になることがあるため、建物は寒さ対策を施した造りとなっている。
*冬は緯度の割には暖かく、最寒月平均気温は2℃~6℃で、[[日本]]の[[関東]]中部から北部にかけてと同じぐらいの気温にしか下がらない。
*夏は最暖月でも14℃~19℃程度と涼しく、日本の[[北海道]]西部と同じぐらいの気温にしか上がらない。
== 首都と都市 ==
[[首都]]の[[エディンバラ]]はスコットランド第2の人口を有する都市であり、[[ヨーロッパ]]の主要な[[金融センター]]の一つである。人口最大の都市である[[グラスゴー]]は[[:en:Greater Glasgow|大グラスゴー]]の中心であり、都市圏人口は約150万人に及ぶ。スコットランドの沿岸部は北大西洋および北海に接し、その中心都市である[[アバディーン]]は北海油田の基地となっている。
== 歴史 ==
{{main|スコットランドの歴史}}
=== 古代 ===
[[File:Edinburgh Castle from the south east.JPG|thumb|[[エディンバラ城]]]]
[[紀元前10世紀]]頃、大陸より[[ケルト人|ケルト系]]の[[ピクト人]]が到来。その後[[紀元前43年]]より[[ローマ帝国]]が侵入し、現在の[[スターリング (スコットランド)|スターリング]]に前線司令部を設置。[[ハドリアヌスの長城]]、[[アントニヌスの長城]]および{{仮リンク|ヴィンドランダ要塞|en|Vindolanda}}などの拠点が築かれた。ローマ軍は、各地の要塞を拠点としながら[[ブリテン島]]支配を図り、たびたびピクト人との戦いにも勝利したが([[グラウピウス山の戦い]])、全域を支配するまでには至らなかった。
=== 中世 ===
{{See also|{{仮リンク|レッジド|en|Rheged|label=レッジド王国}}|[[バーニシア|バーニシア王国]]|[[デイラ|デイアラ王国]]|ゴドズィン王国|[[ロージアン|ロージアン王国]]}}
[[407年]]のローマ軍撤退後、[[ブリトン人]]など諸民族が数波にわたり到来する中、隣の[[アイルランド島]]より、現在のスコットランド人の直接祖先となる[[ケルト人|ケルト系]]{{仮リンク|スコット人|en|Scoti}}([[ゲール人|ゲール族]])が到来。スコットランド北西部をスコット人([[ダルリアダ王国]])、北東部をピクト人([[アルバ王国]])、南部をブリトン人({{仮リンク|ストラスクライド王国|en|Kingdom of Strathclyde}})と[[アングル人]]([[ノーサンブリア|ノーサンブリア王国]])が支配し、[[12世紀]]頃まで諸民族による勢力均衡・群雄割拠の時代が続いた。また、8世紀頃から[[ヴァイキング]]が沿岸にたびたび襲来した。
{{See also|デーンロウ|北海帝国}}
9世紀(伝統的立場では[[843年]])に、[[ダルリアダ王国]]の[[ケネス1世 (スコットランド王)|ケネス1世]]が[[アルバ王国]]を征服し、[[スコットランド王国]]が成立した。[[1071年]]、ブリテン島南部[[イングランド王国]]を支配する[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム征服王]]が、北部の[[スコットランド王国]]への[[ノルマン・コンクエスト|侵攻]]を開始。以降、両王家には婚姻関係も生まれ、しばしば和議が図られるが、イングランドとスコットランドとの争いはやまず、13世紀から14世紀にかけて長期にわたり、両国間の緊張が続き([[スコットランド独立戦争]])、[[1314年]]に[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]]がスコットランドの大部分を再征服した([[バノックバーンの戦い]])。
{{See also|中世後期のスコットランド}}
=== 近世 ===
[[File:The Battle of Culloden.jpg|thumb|[[カロデンの戦い]]]]
[[1603年]]、[[ステュアート朝]]の[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]]がイングランド王ジェームズ1世となり、イングランドと[[同君連合]]を結ぶ。[[宗教改革#スコットランドの宗教改革|スコットランドの宗教改革]]、[[清教徒革命]]([[主教戦争]]、[[三王国戦争]]({{仮リンク|スコットランド内戦|en|Scotland in the Wars of the Three Kingdoms}}、[[イングランド内戦]]、{{仮リンク|アイルランド同盟戦争|en|Irish Confederate Wars}}({{仮リンク|アイルランド反乱 (1641年)|en|Irish Rebellion of 1641|label=アイルランド反乱}}、[[クロムウェルのアイルランド侵略|アイルランド侵略]]))、[[イングランド共和国]]の成立、[[イングランド王政復古]])。[[殺戮時代]]、[[名誉革命]]。
{{See also|{{仮リンク|スコットランドの権限委譲の歴史|en|History of Scottish devolution}}}}
[[1707年]]には、イングランド王国と[[合同法 (1707年)|合同]]して、[[グレートブリテン王国]](略称:GB)(又はグレートブリテン連合王国(略称:UK))となる。
=== 現代 ===
{{See also|北海油田|{{仮リンク|西ロージアン問題|en|West Lothian question}}|ポンド危機|スコットランド独立運動|クライド海軍基地}}
[[1999年]]、[[スコットランド議会]]が設置された。これは、権限委譲と分権議会の設置を定めた[[1998年スコットランド法]]の改正によって決定されたプロセスである。[[2007年]][[5月3日]]の{{仮リンク|2007年スコットランド議会総選挙|en|Scottish Parliament general election, 2007}}で[[スコットランド国民党]] (SNP) が第一党となった。[[2011年]][[5月5日]]の{{仮リンク|2011年スコットランド議会総選挙|en|Scottish Parliament general election, 2011}}でSNPが過半数を獲得。
{{See also|[[:en:Yes Scotland|Yes Scotland]]|[[:en:Better Together (campaign)|Better Together]]}}
[[2012年]][[10月15日]]に[[:en:Edinburgh Agreement (2012)|Edinburgh Agreement]]を締結。
[[2013年]][[11月26日]]、スコットランド行政府の[[アレックス・サモンド]](Alex Salmond、SNP党首)は、スコットランドの独立の是非を問う[[住民投票]]に対する公約となる独立国家スコットランドの青写真「[[:en:Scotland's Future|Scotland's Future]]」を発表<ref>{{Cite news |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131127/k10013365121000.html |title=スコットランド独立国家へ白書発表 |newspaper=NHK NEWS WEB |publisher=日本放送協会 |date=2013-11-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131129184248/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131127/k10013365121000.html |archivedate=2013-11-29}}</ref><ref>[http://jp.reuters.com/news/video?videoId=274710381 行政府首相、スコットランド独立の青写真発表]</ref>。
[[2014年]][[9月18日]]、[[2014年スコットランド独立住民投票|スコットランドの独立の是非を問う住民投票]]を実施。反対票が55%を占め、独立は否決された<ref>[http://www.bbc.com/news/uk-scotland-29270441 Scottish referendum: Scotland votes 'No' to independence]([[英国放送協会|BBC]] [[2014年]][[9月19日]])</ref>。
== 政治 ==
{{main|{{仮リンク|スコットランドの政治|en|Politics of Scotland}}}}
[[1707年]]の[[合同法 (1707年)|合同法]] (Act of Union) によって、それまで同じ君主を冠してきたものの別々の王国であったイングランド王国とスコットランド王国は合邦し、グレートブリテン王国が成立した。この合邦は形式的には対等とされていたが、新国家の議会や王宮など主な機関は旧イングランド王国に座することになり、イングランドによる不公平な併合であったと考える[[スコットランド人]]が少なくない。
スコットランドは伝統的に[[労働党 (イギリス)|労働党]]の支持者が多く、[[トニー・ブレア]]、[[ゴードン・ブラウン]]と2代続けてスコットランド出身の党首・連合王国首相を輩出しているが、先述の経緯からスコットランド独立を掲げる民族主義的なスコットランド国民党(SNP)も多くの支持を集めている。
=== 2014年スコットランド独立住民投票 ===
{{main|2014年スコットランド独立住民投票}}
2014年9月、スコットランド独立を問う住民投票が実施され、44.7%対55.3%で否決された。スコットランド以外のグレートブリテン及び北アイルランド連合王国諸国は反対派が明らかに多かった。
=== ウェストミンスター議会 ===
==== 2005年総選挙 ====
2005年5月現在、スコットランドに割り当てられている[[イギリス議会]](ウェストミンスター議会)[[庶民院 (イギリス)|下院]]の議席数は59である。2005年総選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。
*[[労働党 (イギリス)|労働党]] - 41議席
*[[自由民主党 (イギリス)|自由民主党]] - 11議席
*[[スコットランド国民党]] - 6議席
*[[保守党 (イギリス)|保守党]] - 1議席
==== 2015年総選挙 ====
2015年5月現在、スコットランドに割り当てられている[[イギリス議会]](ウェストミンスター議会)[[庶民院 (イギリス)|下院]]の議席数は59である。2015年総選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。
*[[保守党 (イギリス)|保守党]] - 2議席
*[[労働党 (イギリス)|労働党]] - 1議席
*[[スコットランド国民党]] - 56議席
=== スコットランド議会 ===
[[File:Scotland Parliament Holyrood.jpg|thumb|[[スコットランド議会]]]]
{{Main|スコットランド議会}}{{関連記事|スコットランド首相|スコットランド副首相|スコットランド政府}}1707年の[[合同法 (1707年)|合同法]]でスコットランド議会は閉鎖され事実上廃止となったが、1998年スコットランド法の制定により[[1999年]][[5月6日]]に{{仮リンク|1999年スコットランド議会総選挙|en|Scottish Parliament general election, 1999}}を行い、再開された。スコットランド議会は一定範囲で所得税率を変更することができる他、スコットランド法でウェストミンスター議会留保事項と規定されている事柄以外について、独自の法令を成立させることができる。これまでに、福祉政策や狐狩り規制、公共施設内での禁煙などに関して、スコットランド独自の法令が施行されている。ウェストミンスター議会留保事項には、外交、軍事、財政・金融、麻薬取締り、移民の規制など、全国的に取り組む必要がある事柄が規定されている。
==== 2003年の選挙結果 ====
{{Main|{{仮リンク|2003年スコットランド議会総選挙|en|Scottish Parliament general election, 2003}}}}
2003年5月1日に開催され、圧倒的な労働党支持の中、スコットランド労働党党首{{仮リンク|ジャック・マコンネル|en|Jack McConnell}}が首相に任命された。
*労働党 - 50議席
*[[スコットランド国民党]] (SNP) - 27議席
*保守党 - 18議席
*[[:en:Scottish Liberal Democrats|自由民主党]] - 17議席
*[[:en:Scottish Green Party|緑の党]] - 7議席
*[[:en:Scottish Socialist Party|スコットランド社会党]] - 6議席
*その他 - 4議席
==== 2007年の選挙結果 ====
{{Main|{{仮リンク|2007年スコットランド議会総選挙|en|Scottish Parliament general election, 2007}}}}
2007年5月3日に開催され、[[スコットランド国民党]]が第一党の座を獲得。5月16日にはスコットランド国民党党首の[[アレックス・サモンド]]が首相に選出された。
*[[スコットランド国民党]] (SNP) - 47議席
*労働党 - 46議席
*保守党 - 17議席
*自由民主党 - 16議席
*緑の党 - 2議席
*その他 - 1議席
==== 2011年の選挙結果 ====
[[File:The Queen at the Scottish Parliament.jpg|thumb|right|2011年7月1日、エリザベス2世女王が議会に登場]]
{{Main|{{仮リンク|2011年スコットランド議会総選挙|en|Scottish Parliament general election, 2011}}}}
2011年5月5日に開催され、[[スコットランド国民党]]が過半数を獲得。党首アレックス・サモンドが首相に再選された。再開以来、初めて単一政党が過半数を獲得した。
[[File:Deputy Secretary Blinken Meets With Scottish First Minister Sturgeon (18490445358).jpg|thumb|right|[[ニコラ・スタージョン]]自治政府首相 (左)]]
*[[スコットランド国民党]] (SNP) - 69議席
*労働党 - 37議席
*保守党 - 15議席
*自由民主党 - 5議席
*緑の党 - 2議席
*その他 - 1議席
==== 2016年の選挙結果 ====
{{main|{{仮リンク|2016年スコットランド議会総選挙|en|2016 Scottish Parliament election}}}}
*スコットランド国民党 (SNP) - 63議席、女性党首[[ニコラ・スタージョン]]が2014年11月から首相
*保守党が最大野党。任期は本来4年であるが、それではたまたま英国議会選挙と重なるため、今期のみ任期を5年とされ、次回選挙は2021年5月に予定されている。
=== エリザベス2世女王の呼称問題 ===
[[ファイル:Queen Elizabeth II on 3 June 2019.jpg|thumb|200px|グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国国王(1952年2月6日 - 2022年9月8日)<br>[[エリザベス2世]]女王]]
[[1952年]][[2月6日]]にエリザベス王女が連合王国の国王([[イギリスの君主]])に即位した際、その呼称が「エリザベス2世女王 (Queen Elizabeth II)」となることをめぐって問題が生じた。というのも、[[イングランド]]には過去に同名の国王([[エリザベス1世]])がいたが、スコットランドには過去に同名の国王が存在していなかったので、イングランドを基準にすれば新国王の呼称は「エリザベス2世女王」であるが、スコットランドを基準にすれば新しい国王の呼称は「エリザベス(1世)女王 (Queen Elizabeth)」となるからである。
そこで、スコットランドの民族主義政党である[[スコットランド国民党]]の指導的立場にいた{{仮リンク|ジョン・マコーミック|en|John MacCormick}}は、「新国王がスコットランドにおいて「エリザベス2世女王」と名乗ることは、1707年合同法違反だ」として裁判を起こした。裁判の結果はマコーミックの敗訴であった。「王がどう名乗るかは[[国王大権 (イギリス)|国王大権]] (royal prerogative) に属することであり、マコーミックに裁判で争う権利は認められない」とされたのである。これでエリザベスはイングランドでもスコットランドでも「エリザベス2世女王」と堂々と名乗れるようになった。
エリザベス2世は後に将来においても発生し得るこの問題を公平に解決するための新基準を提案している。スコットランド基準とイングランド基準で呼称の「~世」の部分が異なる場合、数値が大きな方を採用するというものである。たとえば、将来ジェームズという名の王が即位する場合、イングランド基準では「ジェームズ3世男王 (King James III)」となるが、スコットランド基準では「ジェームズ8世男王 (King James VIII)」となるため、大きな方の「ジェームズ8世男王」を採用するというものである。ただし実際にこのようなことが起きたとしても、この基準を新国王ジェームズが採用するとは限らない。裁判所が表明したように、どう名乗るかは国王大権に属することであるから、「ジェームズ3世」と「ジェームズ8世」のどちらを名乗るかはそのジェームズに委ねられるからである。
この新基準は過去に遡って適用することが容易である。1707年以降この呼称上の問題が生じるイギリス国王は4人([[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]、[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]、[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]、エリザベス2世)いるが、この新基準の適用を受けても4人の呼称はイングランド基準のままであり、変更の必要がないからである。
イギリスの郵便ポストには王の名が頭文字で刻印されているが、エリザベス2世即位後にスコットランドに設置された郵便ポストは王冠が描かれているのみで王の名は書かれていない。これは、彼女の呼称に不満を抱いた一部の過激な民族主義者がエリザベス2世の名が刻印された郵便ポストを破壊したり、「2世」の部分を削り取ったりしたためである。
=== 法 ===
[[スコットランド法]]は[[大陸法]]を基調とする。[[チャンネル諸島]]を除く[[ブリテン諸島]]では[[アイルランド|アイルランド共和国]]にいたるまで[[英米法]]を採用しており、スコットランドが唯一の大陸法社会である。
{{main|スコットランド法}}
== 経済 ==
{{main|{{仮リンク|スコットランドの経済|en|Economy of Scotland}}}}
[[File:Oil platform in the North SeaPros.jpg|thumb|right|[[北海]]に位置する[[w:Drilling rig|掘削装置]]]]
古くは[[石炭]]がスコットランドの主要産業であり、[[産業革命]]を支えた。
1960年代に[[北海油田]]が開発されると、漁港[[アバディーン]]は石油基地として大きな発展をとげた。石油資源の存在はスコットランド独立派の強みとなっている。
1980年代からは半導体産業や情報通信産業の誘致が盛んに行われており、スコットランド中部のIT産業の集積地帯は[[シリコングレン]]と呼ばれている。
== 国民 ==
{{Main|スコットランド人|イギリスの人口統計|{{仮リンク|スコットランドの人口統計|en|Demography of Scotland}}}}
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|スコットランドの文化|en|Culture of Scotland}}}}
[[File:Bagpipe performer.jpg|thumb|upright|[[グレート・ハイランド・バグパイプ]]を演奏するパイプ・メジャー]]
[[民族服|民族衣装]]として名高い[[タータン]]や[[キルト (衣装)|キルト]]は、元々はハイランド地方の伝統衣装であった。[[ジャコバイト]]反乱([[ジャコバイトの反乱 (1715年の反乱)|1715年の反乱]]、[[ジャコバイトの反乱 (1745年の反乱)|1745年の反乱]])後、18世紀半ばに禁止された。その後、[[1822年]]に[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]がスコットランド訪問の時にタータン柄のキルトを着用したため、スコットランド全域に広がった。
「[[経済学]]の父」こと[[アダム・スミス]]、詩人ロバート・バーンズ、作家[[ウォルター・スコット]]、[[シャーロック・ホームズ]]の生みの親[[アーサー・コナン・ドイル]]、『[[宝島]]』や『[[ジキル博士とハイド氏]]』の作家[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]、[[ジェームズ・ボズウェル]]、[[トーマス・カーライル]]、俳優の[[ショーン・コネリー]]、[[ユアン・マクレガー]]などはスコットランドの生まれである。
スコットランドは、産業革命以前より、科学・技術の中心地であったため、多くの科学者・技術者を輩出している。その発見・発明は、現代社会にはなくてはならないものが多い。[[電話]]を発明した[[グレアム・ベル]]、[[ペニシリン]]を発見した[[アレクサンダー・フレミング]]、[[蒸気機関]]を発明した[[ジェームズ・ワット]]、[[ファックス]]を発明した[[アレクサンダー・ベイン]]、[[テレビ]]を発明した[[ジョン・ロジー・ベアード]]、空気入り[[タイヤ]]を発明した[[ジョン・ボイド・ダンロップ]]、道路のアスファルト[[舗装]]([[マカダム舗装]])を発明した[[:en:John Loudon McAdam|ジョン・ロウドン・マカダム]]、[[消毒]]による無菌手術を開発した[[ジョゼフ・リスター]]などはスコットランドの生まれである。
{{main|スコットランド料理}}
羊の内臓を羊の[[胃]]袋に詰めて茹でた[[ハギス]]が有名。また、[[スコッチ・ウイスキー]]は定義上スコットランド産でなければならない。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多い。
[[コリン・ジョイス]](『驚きの英国史』[[NHK出版新書]] 2012年pp.79-83)ではイギリス人の生活を皮肉って次の物がすべてスコットランド人によるものだとしている。[[マーマレード]]、[[レインコート]]、[[自転車]]、[[タイヤ]]、[[乾留液]](タールマック舗装)、[[蒸気エンジン]]、[[イングランド銀行]]、糊つき[[切手]]、[[タバコ]]、[[電話]]、[[ローストビーフ]]、[[アメリカ海軍]]、[[麻酔薬]]などである。『[[聖書]]』にもスコットランド人が最初に出てくるが、これはジェームズ6世が英訳を進めたからである。
[[スコットランドの花]] (The Flower of Scotland) が事実上の「国歌」である。
== 宗教 ==
{{Main|スコットランドの宗教|スコットランド国教会|スコットランドのカトリック|スコットランド聖公会}}
[[カトリック教会|カトリック]]と[[プロテスタント]]がほぼ拮抗している。公立学校も、カトリック校と無宗教校(事実上プロテスタント)に分かれている。これは[[スポーツ]]の世界にも影響を及ぼしており、カトリック系住民が応援する[[セルティックFC]]とプロテスタント系住民が応援する[[レンジャーズFC]]と激しいライバル関係となってあらわれている。
{| class="wikitable"
! colspan="5" |スコットランドにおける所属する宗教
|-
|'''宗教/宗派'''
|'''現在の信仰する宗教'''
|'''%'''
|'''成長過程で信仰した宗教'''
|'''%'''
|-
|[[スコットランド国教会]]
|2,146,251
|42.4
|2,392,601
|47.3
|-
|[[無宗教]]
|1,394,460
|27.5
|887,221
|17.5
|-
|[[カトリック教会|カトリック]]
|803,732
|15.9
|859,503
|17.5
|-
|キリスト教その他宗派
|344,562
|6.8
|424,221
|8.4
|-
|宗教を明記せず
|278,061
|5.5
|422,862
|8.4
|-
|[[イスラム教]]
|42,557
|0.8
|42,264
|0.8
|-
|その他宗教
|26,974
|0.6
|8,447
|0.2
|-
|[[仏教]]
|6,830
|0.1
|4,704
|0.1
|-
|[[シク教]]
|6,572
|0.1
|6,821
|0.1
|-
|[[ユダヤ教]]
|6,448
|0.1
|7,446
|0.1
|-
|[[ヒンドゥー教]]
|5,564
|0.1
|5,921
|0.1
|-
|'''Base/Total'''
|'''5,062,011'''
|'''100'''
|'''5,062,011'''
|'''100'''
|}
== スポーツ ==
{{main|{{仮リンク|スコットランドのスポーツ|en|Sport in Scotland}}}}
スコットランドは[[ゴルフ]]の発祥の地としても知られ、[[セント・アンドルーズ]]は聖地として世界中のゴルファーの憧れの地となっている。さらに[[冬季オリンピック]]競技としても有名な[[カーリング]]も、[[1511年]]の刻印のあるストーンが発見されており<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.joc.or.jp/games/olympic/vancouver/sports/curling/preview.html|title= バンクーバーオリンピック2010 カーリング 見どころ - JOC|publisher= 日本オリンピック委員会|date= |accessdate=2022-02-13}}</ref>、スコットランドで15~16世紀に始まったとされる。そのため、国際大会の前には[[勇敢なるスコットランド]]が演奏される。
=== サッカー ===
{{main|{{仮リンク|スコットランドのサッカー|en|Football in Scotland}}}}
スコットランドでは[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1890年]]にサッカーリーグの[[スコティッシュ・フットボールリーグ]]が創設された。
そこから分離する形で[[1998年]]に[[スコティッシュ・プレミアリーグ]]が設立され、さらに[[2013年]]には[[スコティッシュ・プレミアシップ]]が発足している。スコットランドには「'''世界最大の[[ダービーマッチ|サッカーダービー]]'''」とも言われる「'''[[オールドファーム]]・ダービー'''」が存在し、[[セルティックFC]]と[[レンジャーズFC]]による激しいライバル関係は世界中に知られている。なお、過去に[[オールドファーム]]でゴールを決めた日本人選手は、[[中村俊輔]]、[[旗手怜央]]、[[前田大然]]、[[古橋亨梧]]の4名となっている。
{{See also|サッカースコットランド代表|スコットランドサッカー協会}}
=== ラグビー ===
スコットランドでは[[ラグビーフットボール|ラグビー]]も人気スポーツの一つである。[[ラグビースコットランド代表|代表チーム]]は[[ラグビーワールドカップ]]で、歴代9大会中7大会で決勝トーナメント進出しており、[[ラグビーワールドカップ1991|1991年大会]]では4位となった。[[ラグビーワールドカップ2011|2011年大会]]と[[ラグビーワールドカップ2019|2019年大会]]では、いずれもグループリーグ3位となった。2015年と2019年と[[ラグビー日本代表|日本代表]]戦が行われ、その間の2016年にも日本との[[テストマッチ]]が組まれている(2019年は日本勝利、他3回はスコットランド勝利)。さらに毎年2〜3月には、6か国対抗の[[シックスネイションズ]]に参加している。なお、5ネイションズ時代の1999年を最後に優勝からは遠ざかっている。
== 行政区画 ==
[[File:Scotland1974Numbered.png|thumb|300px]]
{{see|スコットランドの地方行政区画}}
スコットランドを大きく分けると、「[[ハイランド地方]]」と「[[ローランド地方]]」の2つに区分することができる。
===リージョン(地方)===
[[1973年]]~[[1996年]]までは、[[スコットランドの地方行政区画#リージョン|9つの地方と3つの島嶼部]]の[[リージョン]]に分けられていた。また、一部[[カウンシル・エリア]]と同地域もある。
現在も警察・消防など行政機関の中には、かつてのリージョンの区画を管轄区分に用いるものがある。
{| class="sortable wikitable"
|- bgcolor="#efefef"
! scope="col" |地図上のNo.
! scope="col" |地方・島嶼部
! scope="col" |中心都市<ref name=whitaker>{{cite book |title=Whitaker's Concise Almanack 1995 |year=1994 |publisher=J Whitaker & Sons Ltd |location=London |isbn=0-85021-247-2 |pages=570–571 }}</ref>
! scope="col" |面積<br>(ヘクタール)<ref name=whitaker/>
! scope="col" |人口(人)<ref name=whitaker/>
|-
| 01
| [[:en:Strathclyde|ストラスクライド地方]]
| [[グラスゴー]]
| 1,350,283
| 2,286,800
|-
| 02
| [[ダンフリーズ・アンド・ガロウェイ|ダンフリーズ・アンド・ガロウェイ地方]]
| [[ダンフリーズ]]
| 639,561
| 147,900
|-
| 03
| [[スコティッシュ・ボーダーズ|ボーダーズ地方]]
| [[:en:Newtown St Boswells|ニュータウン・セント・ボスウェルズ]]
| 471,253
| 105,300
|-
| 04
| [[ロージアン|ロージアン地方]]
| [[エディンバラ]]
| 171,595
| 750,600
|-
| 05
| [[:en:Central Region, Scotland|セントラル地方]]
| [[スターリング (スコットランド)|スターリング]]
| 263,455
| 272,900
|-
| 06
| [[ファイフ|ファイフ地方]]
| [[:en:Glenrothes|グレンロセス]]
| 131,201
| 351,200
|-
| 07
| [[:en:Tayside|テイサイド地方]]
| [[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]]
| 749,650
| 395,200
|-
| 08
| [[:en:Grampian|グランピアン地方]]
| [[アバディーン]]
| 869,772
| 528,100
|-
| 09
| [[ハイランド|ハイランド地方]]
| [[インヴァネス]]
| 2,539,759
| 206,900
|-
| 10
| [[アウター・ヘブリディーズ|ウェスタンアイランズ地方]] (島嶼部)
| [[ストーノーウェイ]]
| 289,798
| 29,600
|-
| ''未表示''
| [[シェトランド諸島|シェトランド地方]] (島嶼部)
| [[ラーウィック]]
| 143,268
| 22,522
|-
| ''未表示''
| [[オークニー諸島|オークニー地方]] (島嶼部)
| [[カークウォール]]
| 97,581
| 19,600
|}
=== カウンシル(州) ===
[[File:ScotlandLabelled.png|thumb|300px]]
32の'''カウンシル・エリア''' (council area) に区分される。
{| class="wikitable sortable"
|-
! No. !! カウンシル・エリア名 !! 行政中心地 !! 人口([[2011年]]) !! 面積(km²) !! 人口密度
|-
| 1 || [[インヴァークライド]] || [[グリーノック]] || 81,500 || 160 || 509
|-
| 2 || [[レンフルーシャー]] || [[ペイズリー (イギリス)|ペイズリー]] || 174,900 || 261 || 670
|-
| 3 || [[ウェスト・ダンバートンシャー]] || [[ダンバートン]] || 90,700 || 159 || 570
|-
| 4 || [[イースト・ダンバートンシャー]] || {{仮リンク|カーキンティロッホ|en|Kirkintilloch|label=}}|| 105,000 || 175 || 600
|-
| 5 || [[グラスゴー]] || - || 593,200 || 175 || 3,389
|-
| 6 || [[イースト・レンフルーシャー]] || {{仮リンク|ギフノック|en|Giffnock}} || 90,600 || 174 || 520
|-
| 7 || [[ノース・ラナークシャー]] || [[マザーウェル]] || 156,000 || 297 || 525
|-
| 8 || [[フォルカーク (カウンシル・エリア)|フォルカーク]] || [[フォルカーク]] || 156,000 || 297 || 525
|-
| 9 || [[ウェスト・ロージアン]] || [[リヴィングストン (ウェスト・ロージアン)|リヴィングストン]] || 175,100 || 427 || 410
|-
| 10 || [[エディンバラ]] || - || 476,600 || 259 || 1,840
|-
| 11 || [[ミッドロージアン]] || [[ダルキース]] || 83,200 || 354 || 235
|-
| 12 || [[イースト・ロージアン]] || {{仮リンク|ハッディントン (イースト・ローデシア)|label=ハッディントン|en|Haddington, East Lothian}} || 99,700 || 679 || 146
|-
| 13 || [[クラックマナンシャー]] || {{仮リンク|アロア (イギリス)|label=アロア|en|Alloa}} || 51,400 || 159 || 323
|-
| 14 || [[ファイフ]] || {{仮リンク|グレンロス|en|Glenrothes}} || 365,200 || 1,325 || 275
|-
| 15 || [[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]] || - || 147,300 || 67 || 2,198
|-
| 16 || [[アンガス (スコットランド)|アンガス]] || {{仮リンク|フォーファー|en|Forfar}} || 116,000 || 2,082 || 55
|-
| 17 || [[アバディーンシャー]] || [[アバディーン]] || 253,000 || 6,313 || 40
|-
| 18 || [[アバディーン]] || - || 222,800 || 186 || 1,197
|-
| 19 || [[マレー (スコットランド)|マレー]] || [[エルギン]] || 93,300 || 2,238 || 41
|-
| 20 || [[ハイランド]] || [[インヴァネス]] || 232,100 || 30,659 || 7
|-
| 21 || [[アウター・ヘブリディーズ]]<br/>(西部島嶼) || [[ストーノーウェイ]] || 27,700 || 3,071 || 9
|-
| 22 || [[アーガイル・アンド・ビュート]] || {{仮リンク|ロッホギルフェッド|en|Lochgilphead|label=}}|| 88,200 || 6,909 || 12
|-
| 23 || [[パース・アンド・キンロス]] || [[パース (スコットランド)|パース]] || 146,700 || 5,286 || 27
|-
| 24 || [[スターリング (カウンシル・エリア)|スターリング]] || [[スターリング (スコットランド)|スターリング]] || 90,200 || 2,187 || 41
|-
| 25 || [[ノース・エアシャー]]<br/>(ノース・エアーシア) || [[アーバイン (スコットランド)|アーバイン]] || 138,200 || 885 || 156
|-
| 26 || [[イースト・エアシャー]]<br/>(イースト・エアーシア) || [[キルマーノック]] || 122,700 || 1,262 || 97
|-
| 27 || [[サウス・エアシャー]]<br/>(サウス・エアーシア) || [[エア (サウス・エアーシャー)|エア]] || 112,800 || 1,222 || 92
|-
| 28 || [[ダンフリーズ・アンド・ガロウェイ]] || [[ダンフリーズ]] || 151,300 || 6,426 || 23
|-
| 29 || [[サウス・ラナークシャー]] || [[ハミルトン (スコットランド)|ハミルトン]] || 313,800 || 1,772 || 177
|-
| 30 || [[スコティッシュ・ボーダーズ]] || {{仮リンク|ニュータウン・セント・ボスウェルズ|en|Newtown St Boswells}} || 113,900 || 4,732 || 24
|-
| 31 || [[オークニー]] || [[カークウォール]] || 21,400 || 990 || 21
|-
| 32 || [[シェトランド]] || [[ラーウィック]] || 23,200 || 1,468 || 15
|}
=== 主要都市 ===
{{see|{{仮リンク|スコットランドの都市の一覧|en|List of towns and cities in Scotland by population}}}}
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|-----
|align="center"| '''4'''
|align="center"| '''[[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]]'''
|align="center"|
|align="right"|147,285人
|align="center"| '''9'''
|align="center"| '''[[ハミルトン (スコットランド)|ハミルトン]]'''
|align="center"| [[サウス・ラナークシャー]]
|align="right"|53,188人
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|align="center"| '''5'''
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|align="center"| [[レンフルーシャー]]
|align="right"|76,834人
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File:Glasgow Finnieston area.jpg|[[グラスゴー]]
File:Skyline of Edinburgh.jpg|[[エディンバラ]]
File:Aberdeen - panoramio (2).jpg|[[アバディーン]]
File:Taybridge Roundabout - geograph.org.uk - 357377.jpg|[[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]]
File:Paisley Night (11610620145).jpg|[[ペイズリー (イギリス)|ペイズリー]]
</gallery>
;その他の主な都市
*[[スターリング (スコットランド)|スターリング]]
*[[パース (スコットランド)|パース]]
*[[エア (サウス・エアーシャー)|エア]]
*[[グリーノック]]
*[[ダンファームリン]]
*[[キルマーノック]]
== 教育 ==
{{main|イギリスの教育#スコットランドの教育制度}}
*[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]
*[[グラスゴー大学]]
*[[エディンバラ大学]]
*[[アバディーン大学]]
*[[スターリング大学]]
*[http://www.smo.uhi.ac.uk/ Sabhal Mòr Ostaig]
== 日本との関係 ==
=== 姉妹自治体・提携自治体 ===
=== 姉妹都市 ===
;日本 - 都市名・自治体名
*{{Flagicon|新潟県}}[[新潟県]] - [[グラスゴー]]([[:en:Strathclyde|ストラスクライド地方]])
*{{Flagicon|京都府}}[[京都府]] - [[エディンバラ]]([[ロージアン|ロージアン地方]])
*{{Flagicon|北海道}}[[北海道]] [[余市町]] - [[イースト・ダンバートンシャー|イースト・ダンバートンシャー州]]([[:en:Strathclyde|ストラスクライド地方]])
*{{Flagicon|長崎県}}[[長崎県]][[長崎市]] - [[アバディーン]]([[ハイランド|ハイランド地方]])
== 著名な出身者 ==
{{Main|Category:スコットランドの人物}}
{{colbegin|2}}
*[[アンドリュー・カーネギー]] - [[実業家]]。アメリカの鉄鋼王、大富豪。莫大な財産を寄付し慈善活動を行ったことでも世界で知られる。
*[[アダム・スミス]] - [[経済学者]]
*[[アンディ・マレー]] - [[テニス選手]]
*[[アンガス・ヤング]] - [[ギタリスト]]
*[[ウォルター・スコット]] - [[詩人]]、[[作家]]
*[[デイヴィッド・ヒューム]] - [[哲学者]]
*[[ジェームズ・リンド]] - [[医師]]。壊血病とビタミンCの因果関係を突き止め、世界で初めて[[臨床試験]]による[[根拠に基づく医療]]を実践した。
*[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]] - 物理学者。[[電磁気学]]の基礎を作った([[マクスウェルの方程式]])。
*[[ウィリアム・トムソン]] - 物理学者。[[熱力学]]・[[電磁気学]]・[[流体力学]]などに貢献した。ケルヴィン卿。
*[[ウィリアム・ジャーディン (船医)|ウィリアム・ジャーディン]] - 船医、[[ジャーディン・マセソン|ジャーディン・マセソン商会]]創業者
*[[ジェームス・マセソン]] - [[実業家]]、ジャーディン・マセソン商会創業者
*[[トーマス・ブレーク・グラバー]] - 実業家、グラバー商会(ジャーディン・マセソン商会長崎代理店)創業者。[[高島炭鉱]]経営者、[[三菱財閥]]相談役
*[[グラハム・ベル]] - [[科学者]]、[[発明家]]
*[[アレクサンダー・フレミング]] - [[細菌学者]]
*[[ジェームズ・ワット]] - [[発明家]]、機械技術者
*[[デイヴィッド・リヴィングストン]] - [[探検家]]
*[[ウィリアム・ラムゼー]] - [[化学者]]
*[[ジェームズ・ハットン]] - [[地質学者]]
*[[ジョゼフ・ブラック]] - [[物理学者]]、[[化学者]]
*[[ジェームズ・フレイザー]] - 社会人類学者
*[[ブレンダン・ウィルソン]] - 哲学者、[[東京大学]]名誉教授
*[[アーサー・コナン・ドイル]] - 作家
*[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]] - 作家
*[[ロバート・バーンズ]] - 詩人
*[[トニー・ブレア]] - 政治家、第73代[[イギリスの首相|首相]]
*[[ゴードン・ブラウン]] - 政治家、第74代首相
*[[アレックス・ファーガソン]] - 元サッカー指導者
*[[シャーリー・マンソン]] - 歌手
*[[ショーン・コネリー]] - 俳優
*[[イアン・マクダーミド]] - 俳優
*[[ロバート・カーライル]] - 俳優
*[[ロビー・コルトレーン]] - 俳優
*[[ユアン・マクレガー]] - 俳優
*[[ジェラルド・バトラー]] - 俳優
*[[ジェイムズ・ディロン]] - [[現代音楽]][[作曲家]]
*[[ケイティー・タンストール]] - 歌手
*[[ケイティ・リューング]] - 女優
*[[デボラ・カー]] - 女優
*[[デビッド・クルサード]] - 元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー
*[[ジャッキー・スチュワート]] - 元F1ドライバー、チームオーナー
*[[ポール・ディ・レスタ]] - 元F1ドライバー
*[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]] - 元F1ドライバー
*[[コリン・マクレー]] - 元[[世界ラリー選手権|WRC]]ドライバー
*[[ジミー・マクレー]] - 元WRCドライバー
*[[:en:Alister McRae|アリスター・マクレー]] - 元WRCドライバー
*サムウェル・ロマーソン - 作家
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*[[ドリュー・ギャロウェイ|ドリュー・マッキンタイア]] - [[WWE]]所属の[[プロレスラー]]
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*[[竹鶴リタ]] - [[ニッカウヰスキー]]創業者である[[竹鶴政孝]]の妻。[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[マッサン]]』のヒロイン「エリー」のモデル。
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*[[アンドリュー・ロバートソン (サッカー選手)|アンドリュー・ロバートソン]] - サッカー選手
*[[トラヴィス (バンド)|トラヴィス]] - グラスゴー出身のロック・バンド
*[[ベイ・シティ・ローラーズ]] - メンバーの多くがエディンバラ出身のロック・バンド
{{colend}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 富田理恵『世界歴史の旅 スコットランド』山川出版社、2002。ISBN 4-634-63270-5
== 関連項目 ==
*[[スコットランド人]]
*[[スコットランド語]]
*[[ハイランド地方]]
*[[ローランド地方]]
*[[ハイランダー]]
*[[交響曲第3番 (メンデルスゾーン)|交響曲第3番イ短調『スコットランド』]]([[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]])
*[[在エディンバラ日本国総領事館]]
== 外部リンク ==
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* [https://www.gov.scot/ スコットランド政府] {{en icon}}
* [https://www.scotland.org/ Scotland.org] {{en icon}}
* [https://www.edinburgh.uk.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在エディンバラ日本国総領事館] {{ja icon}}
* [https://www.visitscotland.com/ スコットランド観光庁] {{en icon}}
* [https://www.visitbritain.com/jp/ja/ 英国政府観光庁 - スコットランド] {{ja icon}}
* [https://www.st-andrew-society.info/ The St. Andrew Society of Yokohama and Tokyo] {{en icon}}
* [http://www.japan-scotland.jp/ 日本スコットランド協会]
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[[Category:スコットランド|*すこつとらんと]]
[[Category:ケルト]]
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水間鉄道
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水間鉄道株式会社(みずまてつどう)は、大阪府貝塚市に本社を置き、同市を中心に鉄道事業およびバス事業を運営している会社である。略称は水鉄(すいてつ)で、公式ウェブサイトのURLも「suitetsu.com」であり、バス事業は「水鉄バス」と呼ばれる。グルメ杵屋の完全子会社。
大正時代に水間観音への参詣鉄道として敷設されて以降、小規模ながらも堅実な経営を続けていた。
南海電気鉄道との結び付きが強く、かつては筆頭株主だった。ただし、南海の傘下およびグループ企業とはならず後述する経営破綻まで独立系のままだった。水間線では1990年(平成2年)まで南海から譲渡された車両を使用していた。また貝塚駅の自動改札機は、南海で1980年代に使用していたものを転用していたこともあった。
1980年代のバブル期に、沿線外での不動産事業を積極的に展開して最盛期には約20億円を売り上げたが、不動産事業がバブル崩壊後に不振に陥り、多額の借り入れが経営を圧迫した。さらに乗客が減少したことから自主再建を断念し、2005年(平成17年)4月30日に会社更生法の適用を大阪地方裁判所へ申請した。
同年6月30日に外食チェーンのグルメ杵屋が支援企業に決定した後は、同社傘下で再建が進み、2006年(平成18年)6月16日に会社更生計画が終結し、新生会社として再出発した。
経営破綻前は鉄道・バスともにカード式乗車券は利用できなかったが、経営改善策の一環として2007年(平成19年)6月よりスルッとKANSAIに加盟。第7回スルッとKANSAIバスまつりから参加してバス車両を出展している。2009年(平成21年)6月1日より鉄道・路線バスにPiTaPaを導入(コミュニティバス「は〜もに〜ばす」は除く)、ICOCAも利用可能になった。水間線は中間駅がすべて無人駅であることから、バス型の精算機(ICカードリーダー)を電車の車内に設置している。2013年(平成25年)3月23日より交通系ICカード全国相互利用サービスに対応するICカードが利用可能なった。2015年(平成27年)11月15日より「は〜もに〜ばす」でもICカードが利用可能となり、水間鉄道の鉄道・バス全線でICカード対応が完了した。PiTaPa定期サービスは提供していない。
水間線は全線単線で、交換駅は名越駅だけである。ほとんどの列車がこの駅で交換する。車庫は水間観音駅に隣接。
このほか、途中の清児(せちご)駅から分岐して、和泉山脈を超えて和歌山県粉河町(現紀の川市)まで連絡する線路を建設する計画を持っていたが、すでに計画は消滅しており、路線建設用に買収していた土地のなかには住宅地になった場所もある。「水間鉄道新線計画」を参照のこと。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。
同様に東急電鉄から東急車輛製造(現:総合車両製作所)製の車両を中古導入している弘南鉄道と「弘南鉄道+水間鉄道 PROJECT 7000」としてコラボレーション活動を行っている。
路線バス事業は、主に一般路線バス「コスモスライナー」と、貝塚市コミュニティバス「は〜もに〜ばす」の2本立てとなっている。
2005年の経営破綻時まで、毎年約5,000万円の赤字を出していたバス部門の立て直しは、関西佳子が社長就任後に特に注力した点であった。貝塚市と連携し5年間かけて、自社路線の9割を市からの補助による運行という形でコミュニティバス化した。その際に循環路線では、1台の車両で広い地域を回れるよう鉄道駅を中心に8の字形に循環する経路とした。その後はバス事業の赤字は解消し、2011年からは黒字が続いたという。
そのためコミュニティバスは、他の自治体で多い運行受託ではなく、分離会計全額補助による自主運行となっている。
2006年8月28日から、一般路線バスは「コスモスライナー」の名称で、「MIZUMA」のロゴと貝塚市の花であるコスモスをあしらった、黄色・ピンク・ライトグリーンのカラフルなバス車両で運行している。バリアフリー対応のワンステップバスで、車種はいすゞ・エルガミオである。
2009年には鉄道と同時に、一般路線バスにもPiTaPaを導入。その際には「は〜もに〜ばす」ではPiTaPaは利用できなかったが、2015年11月15日より「は〜もに〜ばす」にもPiTaPaが導入され、水間鉄道の鉄道・バス全線で交通系ICカードが使用可能となった。
大阪府が自動車NOx・PM法の適用区域のため、鉄道とは異なり中古車は導入していない。水間鉄道で使用していた中古バス車両は、九州産交バスや因の島運輸に移籍している。
初乗り運賃は大人170円・小児90円、以降乗車距離に応じて加算される対キロ区間制である(2019年10月1日改定)。
乗車時に中扉から乗り、右にある整理券発券機から整理券を取る。降車時に前方に設置されている次停表示機の下段に表示された整理券番号に応じた運賃を支払う。整理券にはバーコードが印刷されているので降車時運賃投入前に整理券を投入する。交通系ICカードは乗車時・降車時にカードリーダーにタッチする。整理券は始発停留所から発行される。運賃箱は両替方式なので、予め小銭の用意をするか停車中に両替をしておく必要がある。
公式サイトでは南海貝塚駅東口 - 二色南町までの運賃を記しているが、実際には始発地の南海貝塚駅東口から人工島内を通って再び戻ることも可能である。その場合の運賃は170円となる。
下記の2形態に大別される。当節では主に二色海浜緑地公園線「コスモスライナー」について触れる。
1989年4月1日に運転を開始。かつては二色の浜産業団地線、二色産業団地線と呼ばれており、現在は二色海浜緑地公園線と呼ばれているが、路線名の変遷の過程は不明である。
各系統の経由停留所は主な箇所のみ示している。なお、いずれの系統も南海貝塚駅東口 - 貝塚駅下り - 合同宿舎前 - 二色アジュール前 - 五中前 - 二色住宅 - 市民の森間を経由する。
上記のように系統番号が付与されているが、実際はバスの前面・側面の行先表示器には番号表示はなされず、「二色海浜緑地公園行」「貝塚駅東口バスターミナル行」と単に行先のみが記されている(側面の表示には経由地が示される)。
毎年7月の海の日直前の土曜・日曜日に行われる感田神社夏祭り(ふとん太鼓)期間中およびふとん太鼓の試験担ぎの行われる日は、一部の時間帯で合同宿舎前 - 南海貝塚駅東口間で迂回運行され、貝塚駅下り停留所は休止となる。また、毎年10月第2土曜・日曜日に行われるだんじり祭りの期間中およびだんじり試験曳きの行われる時間帯は、南海貝塚駅東口停留所ではなく西口のかつてあったバス停留所の位置から発着する。
2008年11月15日改正で系統・路線番号が大きく変わったため、その以前と以後で項を分けて記載する。系統番号は、本文中では廃止直前のものを記載する。
2021年(令和3年)、5年後に1926年の開業から100周年の節目を迎えるにあたり、「#水鉄 このまちを鉄道から元気にしたい!! 〜貝塚観光倍増プロジェクト〜」と題し、ドラマを制作する企画を立てた。制作資金はクラウドファンディングサイト「CAMPFIRE」で支援を募り、当初は伸び悩んだものの、鉄道系YouTuberのにっこーけんに動画での告知を依頼し、その動画が公開されると支援が集まった。またこのクラウドファンディングには、同じく鉄道系YouTuberの西園寺が全面的に協力してドラマにも出演した。目標金額は7,700,000円で、結果的に11,318,968円の支援が集まり、3エピソード全6話という大規模な作品となった。作品は特設YouTubeチャンネルで公開され、2021年12月10日時点で、6話総合で68,348回再生されている。出演は俳優の松平健をはじめ、長田成哉、野添義弘、富田翔、森山くるみ、又野暁仁、佐竹桃華のほか、地元住民らもエキストラとして出演した。
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"text": "毎年7月の海の日直前の土曜・日曜日に行われる感田神社夏祭り(ふとん太鼓)期間中およびふとん太鼓の試験担ぎの行われる日は、一部の時間帯で合同宿舎前 - 南海貝塚駅東口間で迂回運行され、貝塚駅下り停留所は休止となる。また、毎年10月第2土曜・日曜日に行われるだんじり祭りの期間中およびだんじり試験曳きの行われる時間帯は、南海貝塚駅東口停留所ではなく西口のかつてあったバス停留所の位置から発着する。",
"title": "バス事業"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2008年11月15日改正で系統・路線番号が大きく変わったため、その以前と以後で項を分けて記載する。系統番号は、本文中では廃止直前のものを記載する。",
"title": "バス事業"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)、5年後に1926年の開業から100周年の節目を迎えるにあたり、「#水鉄 このまちを鉄道から元気にしたい!! 〜貝塚観光倍増プロジェクト〜」と題し、ドラマを制作する企画を立てた。制作資金はクラウドファンディングサイト「CAMPFIRE」で支援を募り、当初は伸び悩んだものの、鉄道系YouTuberのにっこーけんに動画での告知を依頼し、その動画が公開されると支援が集まった。またこのクラウドファンディングには、同じく鉄道系YouTuberの西園寺が全面的に協力してドラマにも出演した。目標金額は7,700,000円で、結果的に11,318,968円の支援が集まり、3エピソード全6話という大規模な作品となった。作品は特設YouTubeチャンネルで公開され、2021年12月10日時点で、6話総合で68,348回再生されている。出演は俳優の松平健をはじめ、長田成哉、野添義弘、富田翔、森山くるみ、又野暁仁、佐竹桃華のほか、地元住民らもエキストラとして出演した。",
"title": "ドラマ制作"
}
] |
水間鉄道株式会社(みずまてつどう)は、大阪府貝塚市に本社を置き、同市を中心に鉄道事業およびバス事業を運営している会社である。略称は水鉄(すいてつ)で、公式ウェブサイトのURLも「suitetsu.com」であり、バス事業は「水鉄バス」と呼ばれる。グルメ杵屋の完全子会社。
|
{{基礎情報 会社
|社名 = 水間鉄道株式会社
|英文社名 = Mizuma Railway Co.,Ltd.
|ロゴ = [[File:Mizuma Railway Logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報 =
|略称 = 水鉄(すいてつ)、MIZUMA
|国籍 = {{JPN}}
|郵便番号 = 597-0001
|本社所在地 = [[大阪府]][[貝塚市]]近木町2番2号
|設立 = [[1924年]]([[大正]]13年)[[4月17日]]
|業種 = 陸運業
|統一金融機関コード =
|SWIFTコード =
|事業内容 = 旅客鉄道事業<br />一般乗合旅客自動車運送事業 ほか
|代表者 = 代表取締役 [[藤本昌信]]
|資本金 = 1億円([[2018年]]3月31日時点<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>)
|売上高 = 5億911万8000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
|営業利益 = △2674万1000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
|純利益 = 402万5000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
|純資産 = △7522万1000円<br />(2018年3月31日時点<ref name="nenpou2017" />)
|総資産 = 5億2763万3000円<br />(2018年3月31日時点<ref name="nenpou2017" />)
|従業員数 = 63人(2018年3月31日時点<ref>[http://www.suitetsu.com/company/profile.html 会社概要] - 水間鉄道</ref>)
|決算期 = 3月31日
|主要株主 = [[グルメ杵屋]] 100%<br />(2018年3月31日時点<ref>グルメ杵屋第52期有価証券報告書<!-- ウェブで閲覧できる場合は、出典として別途記載願います --></ref>)
|主要子会社 =
|関係する人物 =
|外部リンク = https://www.suitetsu.com/
|特記事項 = [[2005年]][[4月30日]][[会社更生法]]の適用を申請。[[2006年]][[6月16日]]会社更生計画終結。
}}
'''水間鉄道株式会社'''(みずまてつどう)は、[[大阪府]][[貝塚市]]に本社を置き、同市を中心に[[鉄道事業者|鉄道事業]]および[[バス (交通機関)|バス]]事業を運営している会社である。[[略称]]は'''水鉄'''(すいてつ)で、公式[[ウェブサイト]]の[[Uniform Resource Locator|URL]]も「suitetsu.com」であり、バス事業は「水鉄バス」と呼ばれる。[[グルメ杵屋]]の[[完全子会社]]。
== 概要 ==
[[大正]]時代に[[水間寺|水間観音]]への[[参拝|参詣]]鉄道として敷設<ref>[https://www.sankei.com/article/20180408-GSHT72QBIZOW3NGRBWCLYL6GG4/ 【関西プチ遺産】「信号機支配」の中でゆったりした時間が流れる「水間観音駅」(大阪府貝塚市)] - [[産経新聞]]、2018年4月8日</ref>されて以降、小規模ながらも堅実な経営を続けていた。
[[南海電気鉄道]]との結び付きが強く、かつては筆頭[[株主]]だった。ただし、南海の傘下およびグループ企業とはならず後述する経営破綻まで独立系のままだった。[[水間鉄道水間線|水間線]]では[[1990年]](平成2年)まで南海から譲渡された車両を使用していた。また[[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]]の[[自動改札機]]は、南海で[[1980年代]]に使用していたものを転用していたこともあった。
1980年代の[[バブル景気|バブル期]]に、沿線外での[[不動産]]事業を積極的に展開して最盛期には約20億円を売り上げたが、不動産事業が[[バブル崩壊]]後に不振に陥り、多額の借り入れが経営を圧迫した。さらに乗客が減少したことから自主再建を断念し、[[2005年]]([[平成]]17年)[[4月30日]]に[[会社更生法]]の適用を[[大阪地方裁判所]]へ申請した<ref name="sahikoku-np200504030">[https://www.shikoku-np.co.jp/national/economy/article.aspx?id=20050430000363 水間鉄道が会社更生法/負債140億円、営業継続] - 四国新聞、2005年4月30日</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20150116-O74K2QELYVPEZESR2MLRSMWW3Q/ 「水間鉄道」再生へ加速 地域の大切な公共交通と貝塚市が支援] - 産経新聞、2015年1月16日</ref>。
同年[[6月30日]]に[[外食産業|外食チェーン]]の[[グルメ杵屋]]が支援企業に決定した後は、同社傘下で再建が進み、[[2006年]](平成18年)[[6月16日]]に会社更生計画が終結し、新生会社として再出発した。
経営破綻前は鉄道・バスともに[[乗車カード|カード式乗車券]]は利用できなかったが、経営改善策の一環として[[2007年]](平成19年)6月より[[スルッとKANSAI]]に加盟。第7回スルッとKANSAIバスまつりから参加してバス車両を出展している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.surutto.com/about/release/s070823.pdf|accessdate=2007/08/28|archiveurl=https://web.archive.org/web/*/http://www.surutto.com/about/release/s070823.pdf|archivedate=2008/08/20|title=「第7回スルッとKANSAIバスまつり」の詳細が決まりました|format=PDF}}</ref>。[[2009年]](平成21年)6月1日より鉄道・路線バスに[[PiTaPa]]を導入([[コミュニティバス]]「[[は〜もに〜ばす]]」は除く)<ref name="mizuma20090514">{{PDFlink|[http://www.suitetsu.com/info/pitapa/img/20090514pitapa.pdf いよいよ水間鉄道にPiTaPaが導入されます!]}} 水間鉄道、2009年5月14日、2020年8月13日閲覧。</ref>、[[ICOCA]]も利用可能になった。水間線は[[停車場#停車場の種類|中間駅]]がすべて[[無人駅]]であることから、バス型の精算機<!--ソースの原文まま -->(ICカードリーダー)を電車の車内に設置している<ref name="nikkeinet20080819">[http://www.nikkei.co.jp/news/retto/20080818c6b1802618.html 水間鉄道、「ピタパ」電車内OK バス型の精算機導入]{{リンク切れ|date=2011年12月}} NIKKEI NET 2008年8月19日</ref>。[[2013年]](平成25年)[[3月23日]]より[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]に対応するICカードが利用可能なった。2015年(平成27年)11月15日より「は〜もに〜ばす」でもICカードが利用可能となり、水間鉄道の鉄道・バス全線でICカード対応が完了した<ref name="mizuma20151115"/>。PiTaPa定期サービス<ref>[https://www.pitapa.com/service/pass.html PiTaPa割引サービス(PiTaPa定期サービス)]</ref>は提供していない。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Suitetsu001.JPG|鉄道事業<br />主力車両の[[水間鉄道7000系電車|1000形]]
Mizuma Railway Bus yellow.jpg|バス事業<br />旧来の譲渡車を置き換えた路線バス
</gallery>
== 歴史 ==
[[File:Mizuma Railway Logomark old.svg|thumb|right|200px|旧社章]]
=== 創立から終戦まで ===
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[8月8日]]<ref name=":0">[{{NDLDC|2955432/3}} 「鉄道免許状下付」『官報』1923年8月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>:仮称「水間蒸気鉄道株式会社」として鉄道敷設免許を申請、認可を受ける<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=会社概要・沿革|url=http://www.suitetsu.com/company/profile.html|website=水間鉄道|accessdate=2020-08-12|publisher=}}</ref>([[泉南郡]][[木島村 (大阪府)|木島村]] - 同郡[[麻生郷村]]間)<ref name=":0" />。
* [[1924年]](大正13年)[[4月17日]] - 水間鉄道株式会社として設立。本店を大阪府泉南郡[[貝塚市|貝塚町]][[大字]]貝塚近木974番地に置く([[資本金]]40万円)<ref name=":1" />。当時は紡績・繊維産業で栄えていた貝塚の地元有志による寄付金で設立された純民間資本の鉄道会社であった<ref name=":6">{{Cite web|和書|url=https://www.ksdh.or.jp/pages/wp-content/uploads/2014/10/464.2014_11.12.pdf|title=KANSAI元気魂 市民の足を守れ!アイデアと行動力で挑んだローカル線「水間鉄道」再建物語|accessdate=2020-08-13|publisher=[[関西電気保安協会]]|website=『電気と保安』No.464 2014年11・12月号}}</ref>。
* [[1925年]](大正14年)
** [[12月24日]]:[[海塚駅|貝塚南駅]](のちの海塚駅) - [[名越駅]]間が開通し<ref>[{{NDLDC|2956159/4}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年1月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、[[水間鉄道水間線|水間線]]が開業<ref>{{Cite book|和書|author=|title=水間鉄道いまむかし|publisher=貝塚市教育委員会|date=平成21年1月|page=|isbn=}}</ref>。
** [[12月28日]]:南海[[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]] - 貝塚南駅間に[[貨物線]]が開通、貨物営業を開始<ref name=":1" />
* [[1926年]](大正15年)[[1月30日]]:名越駅 - 水間駅(現在の[[水間観音駅]])間が開通、水間線が全線開業<ref>[{{NDLDC|2956191/4}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年2月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1934年]]([[昭和]]9年)[[1月20日]]:貝塚駅 - 貝塚南駅間で[[旅客輸送|旅客営業]]を開始<ref name=":1" /><ref>[{{NDLDC|2958599/24}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1934年2月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1938年]](昭和13年):水間に[[日本料理|料理]][[旅館]]「一龍」を開業<ref name=":1" />。
* [[1943年]](昭和18年):[[太平洋戦争]]開戦に伴い、大阪府により料理旅館「一龍」が練成場として強制買収される<ref name=":1" />。
=== 戦後から1990年代まで ===
* [[1949年]](昭和24年):本社社屋を新築し、本店を貝塚市海塚339番地へ移転<ref name=":1" />。
* [[1950年]]([[昭和]]25年)[[12月8日]]:[[路線バス|乗合バス]]事業を開始(蕎原線、市内循環線)<ref name=":1" />。
* [[1951年]](昭和26年):[[観光バス|貸切バス]]事業の認可を受け営業開始<ref name=":1" />。
* [[1953年]](昭和28年):[[清児駅]]から粉河町まで鉄道路線の延伸を計画し、別会社として紀泉鉄道株式会社を設立。本店を水間鉄道と同じく貝塚市海塚339番地に置く<ref name=":1" />。
* 1954年(昭和29年):明治交通株式会社から[[タクシー]]事業の営業権を譲受し、タクシー営業に進出。
* 1958年(昭和33年):タクシー事業を[[会社分割|分社化]]、水鉄タクシー株式会社を設立<ref name=":1" />。本店を貝塚市海塚249番地に置く<ref name=":1" />。
* 1959年(昭和34年):鉄道路線の延伸計画を断念し、紀泉鉄道株式会社を吸収合併<ref name=":1" />。
* 1967年(昭和42年):宅地開発事業に進出、「近義の里」住宅地(105戸)を開発する<ref name=":1" />。
* 1968年(昭和43年)
** 水鉄自動車整備株式会社を設立(1991年清算結了)<ref name=":1" />。
** 水鉄地所株式会社を設立<ref name=":1" />(1982年「水鉄建設株式会社」へ商号変更)。
* 1969年(昭和44年)
** 宅地開発事業の拡充のため開発課を設置<ref name=":1" />。
** 6月10日:自社開発した住宅地「近義の里」の最寄り駅として、水間線に[[近義の里駅]]を開業<ref name=":1" />。
* 1972年(昭和47年):貨物営業を廃止<ref name=":1" />。
* 1976年(昭和51年)
** 日産チェリー阪南販売株式会社を設立。本店を大阪府[[泉北郡]]忠岡町北出2丁目7-15に置く<ref name=":1" />。
** 水間関連事業協同組合を設立(2004年清算結了)<ref name=":1" />。
* 1978年(昭和53年):特定バス事業(契約輸送)を開始<ref name=":1" />。
* 1979年(昭和54年)
** 本社社屋を新築し、本店を貝塚市加治60番地1へ移転<ref name=":1" />。
** 水鉄住宅販売株式会社を設立(1993年清算結了)<ref name=":1" />。
* 1982年(昭和57年):株式会社水鉄観光を設立。本店を貝塚市加治60番地1に置く<ref name=":1" />。
* 1985年(昭和60年):水間線の[[閉塞 (鉄道)|閉塞]]方式をタブレット閉塞から自動閉塞へ変更<ref name=":1" />。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** 7月20日:本社社屋を新築し、本店を貝塚市二色中町5番地1へ移転<ref name=":1" /><ref name=":12">{{Cite book|title=新生水鉄のあゆみ|date=1993年4月17日|year=|publisher=水間鉄道株式会社}}</ref>。
** 8月1日:バス熊取・粉河線を運行開始。
** 8月2日:シンボルマークを変更しコーポレートカラーを制定、現在のものとなる<ref name=":12" />。
* 1991年(平成3年):新規事業として「[[靴下]]専門店 トリコロール」を開店(1993年閉店)<ref name=":1" />。
* 1996年(平成8年):鉄道[[未成線]](清児 - 犬鳴間)の免許廃止<ref name=":1" />。
=== 2000年代以降 - 経営破綻と再建 ===
* [[2000年]](平成12年):日産チェリー阪南販売株式会社を「水間保興株式会社」へ商号変更<ref name=":1" />。
* [[2003年]](平成15年)
** [[9月1日]]:貸切バス事業を株式会社ミズマ(現:[[日本観光]])に譲渡し、貸切バスから撤退。
** 12月1日:貝塚市[[コミュニティバス]]「[[は〜もに〜ばす]]」運行開始<ref name=":1" />。
* [[2005年]](平成17年)
** 水鉄タクシー株式会社の株式を譲渡<ref name=":1" />。岸交グループ(岸和田交通)グループ入りし「岸交グループ[[水鉄タクシー]]株式会社」となる。
** [[4月30日]]:大阪地方裁判所に[[会社更生法]]の適用を申請、[[倒産|経営破綻]]<ref name="sahikoku-np200504030" />。負債額は約258億円<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=意外な子会社 水間鉄道|「グルメ杵屋」創業者の“恩返し”(2ページ目)|url=https://maonline.jp/articles/mizuma|website=M&A Online|accessdate=2020-08-12|publisher=|date=2019-08-23}}</ref>。
** 7月:グルメ杵屋会長の椋本(むくもと)彦之が、戦時中に貝塚へ[[疎開#学童疎開|疎開]]していた縁から、水間鉄道の経営再建支援を名乗り出る<ref name=":6" /><ref name=":2" /><ref name=":3">{{Cite web|和書|title=意外な子会社 水間鉄道|「グルメ杵屋」創業者の“恩返し”(3ページ目)|url=https://maonline.jp/articles/mizuma|website=M&A Online|accessdate=2020-08-12|publisher=|date=2019-08-23}}</ref>。
** 9月:元[[南海電気鉄道]]の関西(せきにし)美津治が無報酬で立て直しを引き受け、水間鉄道の代表取締役社長に就任<ref name=":3" />。娘の関西佳子が父の依頼で[[システムエンジニア]]として入社<ref name=":3" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kit-press.com/?post_type=suteki&p=3299|title=私的・すてき人 File.047 水間鉄道株式会社社長 関西佳子さん「鉄道は沿線文化の担い手 泉州の魅力をたくさんの人に発信したい」|accessdate=2020-08-13|publisher=キット・コーポレーション[[合資会社]]|website=キットプレス 南大阪をもっと楽しく、もっと便利に|date=2008-11-27}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)
** [[1月1日]]:バス熊取・粉河線の運行から撤退。
** [[4月6日]]:グルメ杵屋が株式を100%取得し、同社の完全子会社となる。
** [[6月16日]]:大阪地方裁判所より会社更生計画終結の決定を受け、会社更生手続きが完了<ref name=":1" />。
* [[2007年]](平成19年)
** [[2月1日]]:小型バス6台にて貸切バス事業を再開。
** 4月1日:水間線で[[自動列車停止装置]] (ATS) の使用を開始<ref name=":1" />。
** 6月8日:[[スルッとKANSAI|スルッとKANSAI協議会]]に加盟<ref name=":1" /><ref name=":6" />。
* [[2008年]](平成20年)
** 5月20日<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=http://ke.kabupro.jp/tsp/20080530/351e0f50_20080530.pdf|title=子会社の代表等及び当社の部門長の異動に関するお知らせ|accessdate=2020-08-13|publisher=[[グルメ杵屋]]|date=2008-05-30}}</ref>:関西佳子が代表取締役社長に就任<ref name=":3" /><ref name=":4" />。鉄道会社では全国初の女性社長となる<ref>{{Cite web|和書|title=ローカル鉄道を建て直した女社長 水間鉄道社長 関西佳子さん(2011年4月30日放送)|url=https://www.asahi.co.jp/life/old/backnum/110430.html|website=朝日放送テレビ {{!}} LIFE〜夢のカタチ〜|accessdate=2020-08-12|publisher=[[朝日放送テレビ]]}}</ref>。前社長で父の関西美津治は取締役に就任<ref name=":4" />。
** 本社を貝塚市近木1488-8へ移転<ref name=":1" />。
* [[2009年]](平成21年)
** [[6月1日]]:
*** 水間線と路線バス(コミュニティバスを除く<ref name="mizuma20090514" />)に[[PiTaPa]]を導入<ref name="nikkeinet20080819" /><ref name="mizuma20090514" /><ref name=":6" />。水間線は全10駅中8駅が無人駅のため、駅構内ではなく車内にICカードリーダーを搭載する<ref name=":7">{{Cite web|和書|title=「引き受けるしかない」の覚悟で挑んだ会社の再建/水間鉄道・関西佳子|url=https://www.mashingup.jp/2014/09/041125yoshiko_sekinishi.html|website=MASHING UP|date=2014-09-30|accessdate=2020-08-13|language=ja|last=深澤真紀}}</ref>。これについて関西佳子は、[[叡山電鉄]]からの助言によるものであると述べている<ref name=":7" />。
*** PiTaPa導入に伴い、水間線全線で[[ワンマン運転]]を開始<ref name="mizuma20090514" /><ref name=":6" />。
*** 同時に、水間駅を「水間観音駅」へ駅名変更<ref name="mizuma20090514" />。
* [[2010年]](平成22年)[[9月20日]]:貝塚駅の[[バリアフリー]]化を完了<ref name=":1" />。
* [[2011年]](平成23年)4月1日:水間線のワンマン運転化により[[車掌]]がいなくなったため<ref name=":6" />、女性[[乗務員|アテンダント]]を導入<ref name=":1" /><ref name=":6" />。
* [[2013年]](平成25年)[[3月23日]]:[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始に伴い、[[Suica]]・[[PASMO]]など8種類のICカードにも対応。
* [[2014年]](平成26年)
** 5月4日:水間観音駅の待合室で「まち愛Café みずかめ庵 和」を営業開始。
** 6月:関西佳子が入社10年を機に、社長職を退き会長となる<ref name=":6" />。
* [[2015年]](平成27年)
** [[11月15日]]:貝塚市コミュニティバス「は〜もに〜ばす」にPiTaPaを導入<ref name="mizuma20151115" />。
** [[12月17日]]:[[三ツ松駅]]付近で2013年8月27日に発生した[[踏切障害事故|踏切事故]]で、作動しない[[遮断機]]があったのに放置していたとして、[[助役 (鉄道)|助役]]や[[運転士]]らが[[書類送検]]される<ref name="sankei20151217">[http://www.sankei.com/west/news/151217/wst1512170074-n1.html 水間鉄道助役らを書類送検、踏切事故で安全対策怠った疑い 大阪府警] - 産経新聞、2015年12月17日</ref>。
* [[2016年]](平成28年)5月:[[トミーテック]]「[[鉄道むすめ]]」の[[キャラクター]]「[[鉄道むすめの登場人物#WEB|水間みつま]]」がデビュー。水間鉄道水間線のアテンダントという設定で<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=PU30 水間みつま{{!}}キャラクター紹介|url=https://tetsudou-musume.net/contents/chara/chara.php?cid=PU30|website=鉄道むすめ〜鉄道制服コレクション〜|accessdate=2020-08-12|publisher=トミーテック}}</ref>、水間観音駅と三ツ松駅から命名された<ref name=":5" /><ref>{{PDFlink|[http://www.suitetsu.com/event/20190425.pdf 鉄道むすめ「水間みつま」一日フリー乗車券発売]}} - 水間鉄道、2019年4月25日</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20180424-QDH3S7YHTBND3G4A4Q7WTOW6MY/ 【鉄道ファン必見】「萌えキャラ」がローカル線の救世主に グッズ即完売、イベントも盛況] - 産経新聞、2018年4月24日</ref>。イラストは[[伊能津]]が担当<ref name=":5" />。
* [[2017年]](平成29年):[[東急車輛製造]](現:[[総合車両製作所]])製の元[[東急7000系電車]]をともに保有・使用していることが縁で、[[青森県]]の[[弘南鉄道]]と[[コラボレーション]]企画を実施<ref>[https://www.sankei.com/article/20170729-4HQJVV65FJPOPL3SVREFXFTHNE/ 大阪・水間鉄道に青森・弘南鉄道のカラー車両登場 ローカル鉄道同士コラボ] - 産経新聞、2017年7月29日</ref>。
* [[2019年]](平成31年/[[令和]]元年)
** 4月25日:女性アテンダントの制服変更に伴い、「鉄道むすめ」キャラクター「水間みつま」新制服バージョンが登場<ref name=":8">{{Cite web|和書|url=http://www.suitetsu.com/event/20190522.pdf|title=改元に伴う水間鉄道での企画について|accessdate=2020-08-13|publisher=水間鉄道|date=2019-04-22}}</ref><ref name=":9">{{Cite web|和書|url=http://www.suitetsu.com/event/20190425.pdf|title=鉄道むすめ「水間みつま」一日フリー乗車券発売(〜制服リニューアル〜 デビュー記念デザイン)|accessdate=2020-08-13|publisher=水間鉄道|date=2020-04-22}}</ref>。
** 5月1日:平成から令和への[[改元]]を祝う記念行事として、写真展「平成を振り返る」を開催し、鉄道車両に記念[[ヘッドマーク]](副標)を装着して運行した<ref name=":8" /><ref name=":10">{{Cite web|url=http://www.suitetsu.com/event/20190422_3.pdf|title=改元記念副標掲出|accessdate=2020-08-13|publisher=水間鉄道|date=2020-04-22}}</ref>。ヘッドマークは弘南鉄道に加え、[[北陸鉄道]]でもコラボ掲出された<ref name=":10" />。また改元記念[[一日乗車券]]として「令和」の文字が[[揮毫]]されたデザインと「水間みつま」新制服バージョンの2種類が発売された<ref name=":8" /><ref name=":9" /><ref>{{Cite web|和書|title=水間鉄道で「令和」改元記念企画を実施|鉄道ニュース|2019年4月24日掲載|鉄道ファン・railf.jp|url=https://railf.jp/news/2019/04/24/153000.html|website=鉄道ファン・railf.jp|accessdate=2020-08-13|language=ja}}</ref>。
== 鉄道事業 ==
=== 路線 ===
[[File:Mizuma Line map ja.png|thumb|right|300px|路線図]]
* [[水間鉄道水間線|水間線]]: [[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]] - [[水間観音駅]] 5.5 km(第1種鉄道事業者)
水間線は全線[[単線]]で、[[列車交換|交換駅]]は[[名越駅]]だけである。ほとんどの列車がこの駅で[[列車交換|交換]]する。車庫は水間観音駅に隣接。
このほか、途中の清児(せちご)駅から分岐して、和泉山脈を超えて[[和歌山県]][[粉河町]](現[[紀の川市]])まで連絡する線路を建設する計画を持っていたが、すでに計画は消滅しており、路線建設用に買収していた土地のなかには住宅地になった場所もある。「[[水間鉄道水間線#水間鉄道新線計画|水間鉄道新線計画]]」を参照のこと。
=== 運賃 ===
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定<ref>{{PDFlink|[http://www.suitetsu.com/event/20190905_1.pdf 消費税率引き上げに伴う鉄道旅客運賃の運賃改定について]}} - 水間鉄道、2019年9月5日(2019年10月27日閲覧)</ref>。
{| class="wikitable" style="margin-left: 3em; text-align: center;" rules="all"
|-
!キロ程!!運賃(円)
|-
|初乗り1.5 km||180
|-
|1.6 - 3.0||220
|-
|3.1 - 4.5||270
|-
|4.6 - 5.5||300
|}
=== 車両 ===
{{Main2|詳細は「[[水間鉄道水間線#車両]]」および以下の項目を}}
* [[水間鉄道7000系電車|1000形]]: 主力車両。[[東急7000系電車]]の中古譲渡車。
同様に[[東急電鉄]]から[[東急車輛製造]](現:[[総合車両製作所]])製の車両を中古導入している[[弘南鉄道]]と「弘南鉄道+水間鉄道 PROJECT 7000」として[[コラボレーション]]活動を行っている<ref>{{Twitter|tsukasahirakawa|弘南鉄道【公式】+水間鉄道 & PROJECT 7000♡【公式】|lang=ja}}</ref>。
== バス事業 ==
[[ファイル:Mizuma Railway Cosmos Liner.jpg|thumb|right|「コスモスライナー」の車両<br />[[いすゞ・エルガミオ]]ワンステップ]]
路線バス事業は、主に一般路線バス「コスモスライナー」<ref>[http://www.suitetsu.com/bustimetable/2014bustimetable.html コスモスライナー 路線図] 水間鉄道</ref>と、貝塚市コミュニティバス「[[は〜もに〜ばす]]」<ref>[http://www.suitetsu.com/bush/hinfomation.html 「は〜もに〜ばす」運行のご案内【令和2年4月11日ダイヤ改正】] 水間鉄道</ref>の2本立てとなっている。
[[2005年]]の経営破綻時まで、毎年約5,000万円の[[黒字と赤字|赤字]]を出していた<ref name=":7" />バス部門の立て直しは、関西佳子が社長就任後に特に注力した点であった<ref name=":7" />。貝塚市と連携し5年間かけて、自社路線の9割を市からの[[補助金|補助]]による運行という形でコミュニティバス化した<ref name=":7" />。その際に循環路線では、1台の車両で広い地域を回れるよう鉄道駅を中心に8の字形に循環する経路とした<ref name=":7" />。その後はバス事業の赤字は解消し、[[2011年]]からは黒字が続いたという<ref name=":7" />。
そのためコミュニティバスは、他の自治体で多い運行受託ではなく、分離会計全額補助による自主運行となっている。<!--[[富山地方鉄道]]の富山港線フィーダーバスと同様の運行形態である。※富山港線フィーダーバスは[[富山ライトレール]]が地鉄に運行委託していたものが、吸収合併により地鉄が運行主体となったため経緯が異なる-->
[[2006年]][[8月28日]]から、一般路線バスは「コスモスライナー」の名称で、「MIZUMA」の[[ロゴ]]と貝塚市の花である[[コスモス]]をあしらった、黄色・ピンク・ライトグリーンのカラフルなバス車両で運行している。[[バリアフリー]]対応の[[ワンステップバス]]で、車種は[[いすゞ・エルガミオ]]である。
[[2009年]]には鉄道と同時に、一般路線バスにもPiTaPaを導入。その際には「は〜もに〜ばす」ではPiTaPaは利用できなかったが、[[2015年]][[11月15日]]より「は〜もに〜ばす」にもPiTaPaが導入され<ref name="mizuma20151115">水間鉄道公式サイト、2015年11月23日閲覧。</ref>、水間鉄道の鉄道・バス全線で交通系ICカードが使用可能となった。
大阪府が[[自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法|自動車NOx・PM法]]の適用区域のため、鉄道とは異なり中古車は導入していない。水間鉄道で使用していた中古バス車両は、[[九州産交バス]]や[[因の島運輸]]に移籍している。
=== 運賃 ===
[[ファイル:次停表示器に組み込まれた運賃表示.jpg|thumb|right|「コスモスライナー」の運賃表示<br />始発地の貝塚駅から1番を表示し、人工島内を巡回して再び貝塚駅へ戻る途中での運賃表示。初乗り運賃に戻っている。]]
初乗り運賃は大人170円・小児90円、以降乗車距離に応じて加算される対キロ区間制である(2019年10月1日改定)<ref>[http://www.suitetsu.com/bush/2014busunchin.html 路線バス運賃 コスモスライナー(二色海浜緑地公園線)運賃表] 水間鉄道、2020年8月13日閲覧。</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.suitetsu.com/event/20190905_2.pdf 消費税率引き上げに伴う一般路線バスの運賃改定について]}} - 水間鉄道、2019年9月5日(2019年11月2日閲覧)</ref>。
* 南海貝塚駅東口 - 貝塚駅下り:170円
* 南海貝塚駅東口 - 市民の森:240円
* 南海貝塚駅東口 - 人工島内:320円
乗車時に中扉から乗り、右にある整理券発券機から整理券を取る。降車時に前方に設置されている次停表示機の下段に表示された整理券番号に応じた運賃を支払う。整理券には[[バーコード]]が印刷されているので降車時運賃投入前に整理券を投入する。交通系ICカードは乗車時・降車時にカードリーダーにタッチする。整理券は始発停留所から発行される。[[運賃箱]]は両替方式なので、予め小銭の用意をするか停車中に両替をしておく必要がある。
公式サイトでは南海貝塚駅東口 - 二色南町までの運賃を記しているが、実際には始発地の南海貝塚駅東口から人工島内を通って再び戻ることも可能である。その場合の運賃は170円となる。
=== 運行系統 ===
下記の2形態に大別される<!--二色海浜緑地公園線がメインで毎日運行。蕎原線は休日ダイヤ設定日のみに運行される-->。当節では主に二色海浜緑地公園線「コスモスライナー」について触れる。
==== 二色海浜緑地公園線「コスモスライナー」 ====
1989年4月1日に運転を開始<ref name=":12" />。かつては二色の浜産業団地線<ref name=":12" />、二色産業団地線と呼ばれており<ref name=":13" />、現在は二色海浜緑地公園線<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.suitetsu.com/event/2019_07_nishikibus.pdf|title=『二色海浜緑地公園線』運行経路の一部変更及び運休バス停について (編注:2019年度)|accessdate=2020-10-20|publisher=水間鉄道株式会社}}</ref>と呼ばれているが、路線名の変遷の過程は不明である。
各系統の経由停留所は主な箇所のみ示している。なお、いずれの系統も[[貝塚駅 (大阪府)|南海貝塚駅]]東口 - 貝塚駅下り - 合同宿舎前 - 二色アジュール前 - [[貝塚市立第五中学校|五中]]前 - 二色住宅 - 市民の森間を経由する。
* 6番 南海貝塚駅東口 → 市民の森 → [[二色の浜公園|海浜緑地公園]]・[[国華園]]前 → 三洋電機正門前 → 明治関西工場前 → 二色南町(9番に続行)
*: 南海貝塚駅東口乗り場から、臨海部にあるアジュール二色団地などを擁する二色地区(パークタウン)を経由し、二色大橋を渡って人工島内へ至る。
*: パークタウンからの輸送のほか、人工島にある[[二色の浜公園|二色の浜公園海浜緑地]]来園者、大型園芸スーパーである[[国華園]]への来店者、人工島内にある工場の通勤客の輸送を主体とする。
*: 人工島内にあるすべての停留所に立ち寄るため基本系統とみなされる。平日はほぼ終日、土日祝日は朝夕以降に運行。
*: 21時47分に南海貝塚駅東口を発車する便は、9番に続行せず二色南町で運行を打ち切り回送となる。
* 7番 南海貝塚駅東口 → 市民の森
*: 6番を市民の森までの区間便としたもの。22時以降に運行。2019年3月末までは三洋電機正門前までの区間便で、平日10・11時台にも運行されていた。
* 8番 南海貝塚駅東口 → 市民の森 → 海浜緑地公園・国華園前 → 明治関西工場前 → 二色南町(9番に続行)
*: 6番の三洋電機北門前・三洋電機正門前経由を省いたもの。土日祝日の昼間に運行。
* 9番 二色南町 → 市民の森 → 南海貝塚駅東口(6番・8番の復路)
* 10番 市民の森 → 南海貝塚駅東口
*: 7番の方向を逆にした経路であるが、7番の復路としては運行されず、早朝に運行される。
上記のように[[系統番号 (バス)|系統番号]]が付与されているが、実際はバスの前面・側面の[[方向幕|行先表示器]]には番号表示はなされず、「二色海浜緑地公園行」「貝塚駅東口バスターミナル行」と単に行先のみが記されている(側面の表示には経由地が示される)。
毎年7月の[[海の日]]直前の土曜・日曜日に行われる[[感田神社]]夏祭り([[ふとん太鼓]])期間中およびふとん太鼓の試験担ぎの行われる日は、一部の時間帯で合同宿舎前 - 南海貝塚駅東口間で迂回運行され、貝塚駅下り停留所は休止となる。また、毎年10月第2土曜・日曜日に行われる[[だんじり]]祭りの期間中およびだんじり試験曳きの行われる時間帯は、南海貝塚駅東口停留所ではなく西口のかつてあったバス停留所の位置から発着する。
==== 貝塚市コミュニティバス「は〜もに〜ばす」 ====
[[File:Harmony bus pink.jpg|thumb|right|貝塚市コミュニティバス「[[は〜もに〜ばす]]」の車両<br />[[日野・ポンチョ]](1ドアロングボディ)]]
[[ファイル:Harmony-Bus Kaizuka.jpg|thumb|right|「は〜もに〜ばす」過去の車両<br />[[いすゞ・ジャーニー#2代目(1999年-2021年)|いすゞ・ジャーニー]]]]
{{See|は〜もに〜ばす}}
=== 休廃止系統 ===
2008年11月15日改正で系統・路線番号が大きく変わったため、その以前と以後で項を分けて記載する<ref name=":13">{{Cite web|和書|url=http://www.suitetsu.com/info/kaisei/buskaisei.html|title=路線バスダイヤ変更のお知らせ|accessdate=2020-09-03|publisher=水間鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080819193255/http://www.suitetsu.com/info/kaisei/buskaisei.html|archivedate=2008-08-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.suitetsu.com/bustimetable/timetable/00a.pdf|title=主要ターミナル・各系統折り返し時刻表|accessdate=2020-09-03|publisher=水間鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081227081305/http://www.suitetsu.com/bustimetable/timetable/00a.pdf|format=PDF|archivedate=2008-12-27}}</ref>。系統番号は、本文中では廃止直前のものを記載する。
==== 2008年11月15日以降に廃止された系統 ====
* 1番 水間駅前 → 和泉橋本駅前(三ツ松住宅経由)
* 2番 和泉橋本駅前 → 水間駅前(貝塚サンヨー前・三ツ松住宅経由)
* 3番 和泉橋本駅前 → 貝塚サンヨー前 → 橋本団地 → 和泉橋本駅前
: 1 - 3番系統は、2011年12月1日から2014年3月31日の間「は〜もに〜ばす」実証運行に伴い運行を休止し、そのまま廃止された。
* 4番<ref group="注釈">1993年3月31日時点では9番</ref> 蕎原(そぶら)線:水間観音駅 - 蕎原
<!--*:土休日のみ運行。平日は同じ経路で「[[は〜もに〜ばす]]」黄バス(蕎原方面)が運行される。-->
: 4番系統は平日の運行を2008年11月15日改正、土日祝日の運行を2014年9月1日改正で打ち切り、「は〜もに〜ばす」 黄バス(蕎原方面)へ移行した。
==== 2008年11月15日改正で廃止された系統 ====
* 1番 南海貝塚駅東口 - 和泉橋本駅前 - 三ツ松団地折返場(王子口経由)
* 2番 南海貝塚駅東口 - 和泉橋本駅前 - 三ツ松団地折返場(王子経由)
* 3番 南海貝塚駅東口 - 和泉橋本駅前 - 三ツ松団地折返場(貝塚市役所前・王子口経由)
* 5番<ref group="注釈">1993年3月31日時点では4番</ref> 南海貝塚駅東口 - 和泉橋本駅前 - 貝塚サンヨー前(東貝塚駅前経由)
: いずれも2008年11月15日改正で南海貝塚駅東口 - 和泉橋本駅前の区間を廃止し再編された。
* 9番 南海貝塚駅東口 - 明治乳業前 - 二色南町 - 二色産業団地
* 10番 明治乳業前 - 南海貝塚駅東口
: 2007年11月末日までは貝塚駅西口発着であった。2008年11月15日改正で二色南町までに短縮された。
==== 2008年11月14日以前に廃止された系統 ====
* 5番 久保線:南海貝塚駅東口 - 久保住宅前:2006年10月1日廃止<ref name=":11">{{Cite web|和書|url=http://www.suitetsu.com/info/kaisei/touhaigou_kinkoku.pdf|title=謹告|accessdate=2020-09-03|publisher=水間鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070819181503if_/http://www.suitetsu.com/info/kaisei/touhaigou_kinkoku.pdf|archivedate=2007-08-19|format=PDF}}</ref>。
* 6番 七山線:南海貝塚駅東口 - 七山(王子口経由):2006年10月1日廃止<ref name=":11" />。
* 7番 七山線:南海貝塚駅東口 - 七山(王子経由):2006年10月1日廃止<ref name=":11" />。
: 5 - 7番系統の貝塚市内の経由地は「は〜もに〜ばす」が運行している。
* 8番 貝塚駅東口 - 蕎原:廃止日不明。
* 熊取・粉河線([[熊取駅]]前 - [[粉河駅]]前):[[南海ウイングバス南部]]・[[和歌山バス那賀]]と[[共同運行]]。1990年8月1日新設、2006年1月1日撤退。
* 大宮線、小垣内線:南海貝塚駅東口 - 七山 - 小垣内 - 大宮:1960年代新設<ref name=":14">{{Cite book|title=水間鉄道50年の歩み|date=1973年4月17日|year=|publisher=水間鉄道株式会社}}</ref>、廃止日不明。
* 貝塚土丸線、貝塚朝代線:南海貝塚駅東口 - 貝田 - 朝代 - 土丸:1960年代新設<ref name=":14" />、廃止日不明。
* 二色之浜線:南海貝塚駅東口 - 脇之浜 - 二色之浜:1966年6月2日新設<ref name=":14" />、1988年4月1日廃止<ref name=":12" />。
* 三ケ山循環線:水間駅前 - 三ケ山 - 水間駅前:1956年4月11日新設<ref name=":14" />、1984年4月1日廃止<ref name=":12" />。
== ドラマ制作 ==
{{出典の明記|date=2023-08|section=1}}
[[2021年]](令和3年)、5年後に1926年の開業から100周年の節目を迎えるにあたり、「#水鉄 このまちを鉄道から元気にしたい!! 〜貝塚観光倍増プロジェクト〜」と題し、[[ドラマ]]を制作する企画を立てた。制作資金は[[クラウドファンディング]]サイト「[[CAMPFIRE (企業)|CAMPFIRE]]」で支援を募り、当初は伸び悩んだものの、鉄道系[[YouTuber]]の[[にっこーけん (YouTuber)|にっこーけん]]に動画での告知を依頼し、その動画が公開されると支援が集まった。またこのクラウドファンディングには、同じく鉄道系YouTuberの[[西園寺 (YouTuber)|西園寺]]が全面的に協力してドラマにも出演した。目標金額は7,700,000円で、結果的に11,318,968円の支援が集まり、3エピソード全6話という大規模な作品となった。作品は特設[[YouTube]]チャンネルで公開され、2021年12月10日時点で、6話総合で68,348回再生されている。出演は俳優の[[松平健]]をはじめ、[[長田成哉]]、[[野添義弘]]、[[富田翔]]、[[森山くるみ]]、又野暁仁、佐竹桃華のほか、地元住民らも[[エキストラ]]として出演した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[は〜もに〜ばす]]
* [[貝塚市]]
* [[水間寺]](水間観音)
* [[南海電気鉄道]]
* [[弘南鉄道]]
* [[鉄道むすめ]] / [[鉄道むすめの登場人物#WEB]]
* [[グルメ杵屋]] - 親会社
== 外部リンク ==
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* [https://www.suitetsu.com/ 水間鉄道株式会社]
* {{Facebook|mizuma.railway|水間鉄道株式会社}}
* {{Twitter|MizumaRailway|【公式】水間鉄道 / Mizuma Railway}}(2022年3月9日 - )
* {{Twitter|tsukasahirakawa|弘南鉄道【公式】+水間鉄道 & PROJECT 7000♡【公式】|lang=ja}}
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[[Category:水間鉄道|*]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:近畿地方の乗合バス事業者]]
[[Category:近畿地方の貸切バス事業者]]
[[Category:貝塚市の企業]]
[[Category:大阪府の交通]]
[[Category:1924年設立の企業]]
[[Category:南海グループの歴史]]
[[Category:経営再建した企業]]
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マチュ・ピチュ
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座標: 南緯13度9分47秒 西経72度32分44秒 / 南緯13.16306度 西経72.54556度 / -13.16306; -72.54556
マチュ・ピチュ(スペイン語:Machu Picchu、ケチュア語:Machu Pikchu)は、15世紀のインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根(標高2,430m)にある。
当時、インカ帝国の首都は、標高3,400mに位置するクスコに所在した。標高2,430mのマチュ・ピチュから、さらに約1,000メートル高い場所にあった。現在のクスコはペルー有数の都市で、1983年より、その市街地は世界遺産(文化遺産)に登録されている。
なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服により滅亡した。アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係・役割分担などの理由はまだ明確には分かっていない。
多くの言語で「Machu Picchu」と呼ばれるこの遺跡名は、「老いた峰(Old Peak)」を意味するケチュア語「machu pikchu」を地名化したものの転写である。山裾からは遺跡の存在は確認できないことから、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと雅称される。一方、遺跡の背後に見える尖った山はワイナ・ピチュ(Huayna Picchu、若い峰)で、標高2720m。山頂には神官の住居跡とみられる遺跡があり、山腹にはマチュ・ピチュの太陽の神殿に対する月の神殿が存在する。
この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13kmで、石の建物の総数は約200戸が数えられる。
熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。南緯13度で、10月から翌年4月までの長い雨季と5月から9月までの短い乾季に分かれる。行政上クスコ県に属しており、クスコの北西約70kmに位置する。2015年の第39回世界遺産委員会終了時点でペルー国内に12件あるユネスコの世界遺産のうちでは、クスコとともに最初(1983年)に登録された。
周辺地域はアンデス文明が発達していたが文字を持たないため、未だに解明されていない多くの謎を持つ。2007年7月、新・世界七不思議の1つに選ばれた。
アメリカの探検家ハイラム・ビンガム3世は、1911年7月24日にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を調査して世界に発表した。
ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は『ナショナル・ジオグラフィック』1913年4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽に処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。
マチュ・ピチュとはビンガムがその名前で世界に紹介しただけで、間違えて広まってしまったという説がある。ビンガムが地元民に遺跡の名前を尋ねたところ、地元民は今立っている山の名前を聞かれたと思ってマチュ・ピチュと答えたことで遺跡の名前がマチュ・ピチュであると間違って伝わった、という説である。クスコの農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い1902年7月14日に遺跡の存在を確認しており、ビンガムがまだペルーに到着していなかった1904年の地図帳には、ワイナピチュという地名でインカの遺跡があることがすでに記載されていた。1912年にビンガムが地元の地主の関係者から遺跡がワイナピチュと呼ばれていることを伝えられていたという話もある。16世紀後半の古文書にワイナピチュと呼んでいた遺跡を地元の先住民が再開発しようとしていたという記録も残っている。ビンガムは、発見者ではなく、既に地元では存在が知られていた遺跡を確認して、最初に学術調査をしただけである。
ビンガムはイェール大学の教職を辞してからコネチカット州の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後40年近くも残っていた。それは1つに彼の情熱的な文章のせいであった。
この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものであった。
遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。
この都市はインカの王パチャクティ(Pachacuti)の時代の1440年頃に建設が着手され、1533年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々の生活が続いていた。
ペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガーラ (Dr. Alfredo Valencia Zegarra)とコロンビアの水利技術者ケネス・ライト(Kenneth Wright)による調査では、この都市の建設に要した努力の60%は急傾斜の城壁の見えない土台などの部分に傾注されており、降雨量の多いこの地で、積み上げられた石積みが500年もの間崩れないのは、農耕のためだけに斜面を整地したのではなかった。渓谷から細かい砂と表土を運び上げ、現在見える石積みの下に、うね状に盛り上げた表層を造ったとしている。
なぜこのような急峻な山の上に造ったかという質問に対して、ラファイエット単科大学のナイルズ(Dr.Niles of Lafayette College)は、「パチャクチがこの場所を選んだのは......圧倒する景色としか答えようがありません」と言う。
イェール大学の近年の研究成果では、高地であり、かつ両側が切り立った崖上になっているため、太陽観測に最も適し、かつ宗教的理念として、太陽に近いところである、という点が場所選定の理由として挙げられている。
急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、頂上にはインティワタナ(Intihuatana、太陽をつなぎ止める石)が設置されている。夏至と冬至が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したとも言われている。
インカの神は日本やエジプトと同じく太陽神であるため、太陽により近い山の頂(いただき)は儀礼場として適当だった。 神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神が人間に下賜されたものとして人々に食べられたか、いずれにしても宗教儀礼的意味が色濃く反映されている。そのようないきさつから、現在、マチュピチュは宗教都市として捉えられている。
なおインカの人々にとっての神は、太陽とともに月も挙げられ、多くの遺跡には太陽神殿と月の神殿が対で祭られている。マチュ・ピチュの太陽神殿に対しては、ワイナ・ピチュ(「若い峰」という意味で、マチュ・ピチュの背後にある尖った山)の裏手に、月の神殿が洞窟に作られている。
マチュピチュ遺跡内にはインカのシンボルでもあるコンドルの神殿がありワイナ・ピチュ側からマチュピチュ遺跡を見下ろすとコンドルの形に見える。
2015年12月26日、福島県安達郡大玉村がマチュピチュ村にとって初の友好都市協定締結。かつて村長を務め、マチュピチュの発展に尽力した野内与吉が大玉村出身であることによる。マチュピチュ遺跡が世界文化遺産に登録された当初は世界各国から友好都市協定への打診を受けていたが、野内与吉への大恩もあり、マチュピチュ村側から大玉村へ締結の打診をし、お互いの交友を重ねた後に締結した。
2020年12月1日、マチュピチュ村役場が令和2年度外務大臣表彰を受賞。
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"text": "ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は『ナショナル・ジオグラフィック』1913年4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽に処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。",
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"text": "マチュ・ピチュとはビンガムがその名前で世界に紹介しただけで、間違えて広まってしまったという説がある。ビンガムが地元民に遺跡の名前を尋ねたところ、地元民は今立っている山の名前を聞かれたと思ってマチュ・ピチュと答えたことで遺跡の名前がマチュ・ピチュであると間違って伝わった、という説である。クスコの農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い1902年7月14日に遺跡の存在を確認しており、ビンガムがまだペルーに到着していなかった1904年の地図帳には、ワイナピチュという地名でインカの遺跡があることがすでに記載されていた。1912年にビンガムが地元の地主の関係者から遺跡がワイナピチュと呼ばれていることを伝えられていたという話もある。16世紀後半の古文書にワイナピチュと呼んでいた遺跡を地元の先住民が再開発しようとしていたという記録も残っている。ビンガムは、発見者ではなく、既に地元では存在が知られていた遺跡を確認して、最初に学術調査をしただけである。",
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"text": "ビンガムはイェール大学の教職を辞してからコネチカット州の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後40年近くも残っていた。それは1つに彼の情熱的な文章のせいであった。",
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"text": "遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。",
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"text": "この都市はインカの王パチャクティ(Pachacuti)の時代の1440年頃に建設が着手され、1533年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々の生活が続いていた。",
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"text": "ペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガーラ (Dr. Alfredo Valencia Zegarra)とコロンビアの水利技術者ケネス・ライト(Kenneth Wright)による調査では、この都市の建設に要した努力の60%は急傾斜の城壁の見えない土台などの部分に傾注されており、降雨量の多いこの地で、積み上げられた石積みが500年もの間崩れないのは、農耕のためだけに斜面を整地したのではなかった。渓谷から細かい砂と表土を運び上げ、現在見える石積みの下に、うね状に盛り上げた表層を造ったとしている。",
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"text": "なぜこのような急峻な山の上に造ったかという質問に対して、ラファイエット単科大学のナイルズ(Dr.Niles of Lafayette College)は、「パチャクチがこの場所を選んだのは......圧倒する景色としか答えようがありません」と言う。",
"title": "神をまつる神殿としての役割"
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"text": "インカの神は日本やエジプトと同じく太陽神であるため、太陽により近い山の頂(いただき)は儀礼場として適当だった。 神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神が人間に下賜されたものとして人々に食べられたか、いずれにしても宗教儀礼的意味が色濃く反映されている。そのようないきさつから、現在、マチュピチュは宗教都市として捉えられている。",
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"text": "なおインカの人々にとっての神は、太陽とともに月も挙げられ、多くの遺跡には太陽神殿と月の神殿が対で祭られている。マチュ・ピチュの太陽神殿に対しては、ワイナ・ピチュ(「若い峰」という意味で、マチュ・ピチュの背後にある尖った山)の裏手に、月の神殿が洞窟に作られている。",
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"text": "マチュピチュ遺跡内にはインカのシンボルでもあるコンドルの神殿がありワイナ・ピチュ側からマチュピチュ遺跡を見下ろすとコンドルの形に見える。",
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"text": "2015年12月26日、福島県安達郡大玉村がマチュピチュ村にとって初の友好都市協定締結。かつて村長を務め、マチュピチュの発展に尽力した野内与吉が大玉村出身であることによる。マチュピチュ遺跡が世界文化遺産に登録された当初は世界各国から友好都市協定への打診を受けていたが、野内与吉への大恩もあり、マチュピチュ村側から大玉村へ締結の打診をし、お互いの交友を重ねた後に締結した。",
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マチュ・ピチュは、15世紀のインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根(標高2,430m)にある。 当時、インカ帝国の首都は、標高3,400mに位置するクスコに所在した。標高2,430mのマチュ・ピチュから、さらに約1,000メートル高い場所にあった。現在のクスコはペルー有数の都市で、1983年より、その市街地は世界遺産(文化遺産)に登録されている。 なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服により滅亡した。アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係・役割分担などの理由はまだ明確には分かっていない。
|
{{Otheruses|都市遺跡|都市遺跡を含む世界遺産登録対象|マチュ・ピチュの歴史保護区}}
{{出典の明記|date=2012年3月}}
{{coord|13|9|47|S|72|32|44|W|display=title}}
[[ファイル:80 - Machu Picchu - Juin 2009 - edit.jpg|thumb|320x320px|マチュ・ピチュ遺跡([[2009年]])]]
{{Location map | Peru| lat_deg= -13.09
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'''マチュ・ピチュ'''([[スペイン語]]:'''Machu Picchu'''、[[ケチュア語族|ケチュア語]]:Machu Pikchu)は、[[15世紀]]の[[インカ帝国]]の[[遺跡]]で、[[アンデス山脈|アンデス山麓]]に属する[[ペルー]]の[[ウルバンバ谷]]に沿った山の尾根([[高さ#地理|標高]]2,430[[メートル|m]])にある<ref name="2430m, unesco19820621">
{{Cite web |date=June 21, 1982 |title=Sanctuaire historique de Macchupicchu - UNESCO advisory body evaluation |url=http://whc.unesco.org/archive/advisory_body_evaluation/274.pdf |format=PDF |work=(official website) |language=fr |publisher=[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]] |quote=L'aménagement de cette prodigieuse ville strictement planifiée à 2430 mètres d'altitude constitue l'une des réalisations les plus spectaculaires de l'empire inca. |accessdate=2012-03-12}}</ref><ref name="2430m, MachuPicchu, unesco">
{{Cite web |title=Historic Sanctuary of Machu Picchu |url=http://whc.unesco.org/en/list/274 |work=(official website) |language=en |publisher=UNESCO [[世界遺産|World Heritage]] Center |quote=Machu Picchu stands 2,430 m above sea-level, ... |accessdate=2012-03-12}}</ref>。
当時、[[インカ帝国]]の[[首都]]は、標高3,400mに位置する[[クスコ]]に所在した。標高2,430[[メートル|m]]のマチュ・ピチュから、さらに約1,000メートル高い場所にあった。現在のクスコは[[ペルー]]有数の都市で、[[1983年]]より、その市街地は[[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])に登録されている。
なお、インカ帝国は[[1533年]]に[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|スペイン人による征服]]により滅亡した。[[アンデス文明]]は[[文字]]を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係・役割分担などの理由はまだ明確には分かっていない。
== 概要 ==
多くの言語で「Machu Picchu」と呼ばれるこの遺跡名は、「老いた峰(Old Peak)」を意味する[[ケチュア語]]「machu pikchu」を地名化したものの[[転写 (言語学)|転写]]である。山裾からは遺跡の存在は確認できないことから、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと雅称される。一方、遺跡の背後に見える尖った山は[[ワイナ・ピチュ]](Huayna Picchu、若い峰)で、標高2720m<ref>{{Cite web|和書|url =https://kotobank.jp/word/ワイナピチュ-1742535 |title=ワイナピチュ|work=コトバンク|accessdate=2018-01-08 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hankyu-travel.com/guide/peru/machupicchu.php|title = マチュピチュ・クスコの観光|publisher=阪急交通社 |accessdate = 2018-01-08 }}</ref>。山頂には神官の住居跡とみられる遺跡があり、山腹にはマチュ・ピチュの[[太陽神殿|太陽の神殿]]に対する月の神殿が存在する。
この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。
[[熱帯]]山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。南緯13度で、10月から翌年4月までの長い雨季と5月から9月までの短い乾季に分かれる。行政上[[クスコ県]]に属しており、[[クスコ]]の北西約70kmに位置する。2015年の[[第39回世界遺産委員会]]終了時点でペルー国内に12件ある[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]のうちでは、クスコとともに最初([[1983年]])に登録された。
{{Main|マチュ・ピチュの歴史保護区}}
周辺地域はアンデス文明が発達していたが文字を持たないため、未だに解明されていない多くの謎を持つ。[[2007年]]7月、[[新・世界七不思議]]の1つに選ばれた。
== ハイラム・ビンガム3世の遺跡調査記録 ==
[[ファイル:Machupicchu hb10.jpg|サムネイル|発見された翌年の[[1912年]]に撮影されたマチュ・ピチュ]]
[[ファイル:Hiram Bingham III at his tent door near Machu Picchu in 1912.jpg|thumb|150px|滞在中のハイラム・ビンガム3世]]
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[探検家]][[ハイラム・ビンガム3世]]は、[[1911年]][[7月24日]]にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を調査して世界に発表した。
ビンガムは[[1915年]]までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は『[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナル・ジオグラフィック]]』[[1913年]]4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また[[1930年]]の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽に処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。
マチュ・ピチュとはビンガムがその名前で世界に紹介しただけで、間違えて広まってしまったという説がある。ビンガムが地元民に遺跡の名前を尋ねたところ、地元民は今立っている山の名前を聞かれたと思ってマチュ・ピチュと答えたことで遺跡の名前がマチュ・ピチュであると間違って伝わった、という説である。[[クスコ]]の農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い[[1902年]][[7月14日]]に遺跡の存在を確認しており、ビンガムがまだペルーに到着していなかった1904年の地図帳には、ワイナピチュという地名でインカの遺跡があることがすでに記載されていた。1912年にビンガムが地元の地主の関係者から遺跡がワイナピチュと呼ばれていることを伝えられていたという話もある。16世紀後半の古文書にワイナピチュと呼んでいた遺跡を地元の先住民が再開発しようとしていたという記録も残っている。ビンガムは、発見者ではなく、既に地元では存在が知られていた遺跡を確認して、最初に学術調査をしただけである。
ビンガムは[[イェール大学]]の教職を辞してから[[コネチカット州]]の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後40年近くも残っていた。それは1つに彼の情熱的な文章のせいであった。
== 人口は最大でも750名 ==
この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための[[避暑地]]としての冬の都([[離宮]])や、田舎の別荘といった種類のものであった。
遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。
この都市はインカの王[[パチャクテク|パチャクティ]](Pachacuti)の時代の[[1440年]]頃に建設が着手され、[[1532年|1533年]]にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々の生活が続いていた。
[[ファイル:Machu Picchu05.jpg|建造から500年を経てなお健在な急斜面の石積み|thumb]]
ペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガーラ (Dr. Alfredo Valencia Zegarra)とコロンビアの水利技術者ケネス・ライト(Kenneth Wright)による調査では、この都市の建設に要した努力の60%は急傾斜の城壁の見えない土台などの部分に傾注されており、[[降水量|降雨量]]の多いこの地で、積み上げられた石積みが500年もの間崩れないのは、農耕のためだけに斜面を整地したのではなかった。渓谷から細かい砂と表土を運び上げ、現在見える石積みの下に、うね状に盛り上げた表層を造ったとしている。
== 神をまつる神殿としての役割 ==
[[ファイル:Temploluna huayna picchu video.jpg|月の神殿|thumb]]
[[File:Machu Picchu (3833992683).jpg|thumb|段々畑]]
なぜこのような急峻な山の上に造ったかという質問に対して、ラファイエット単科大学のナイルズ(Dr.Niles of Lafayette College)は、「パチャクチがこの場所を選んだのは……圧倒する景色としか答えようがありません」と言う。
イェール大学の近年の研究成果では、高地であり、かつ両側が切り立った崖上になっているため、太陽観測に最も適し、かつ宗教的理念として、太陽に近いところである、という点が場所選定の理由として挙げられている。
急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、頂上にはインティワタナ(Intihuatana、太陽をつなぎ止める石)が設置されている。[[夏至]]と[[冬至]]が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したとも言われている。
インカの神は日本やエジプトと同じく太陽神であるため、太陽により近い山の頂(いただき)は儀礼場として適当だった。
神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神が人間に下賜されたものとして人々に食べられたか、いずれにしても宗教儀礼的意味が色濃く反映されている。そのようないきさつから、現在、マチュピチュは宗教都市として捉えられている。
なおインカの人々にとっての神は、太陽とともに月も挙げられ、多くの遺跡には太陽神殿と月の神殿が対で祀られている。マチュ・ピチュの太陽神殿に対しては、[[ワイナ・ピチュ]](「若い峰」という意味で、マチュ・ピチュの背後にある尖った山)の裏手に、月の神殿が洞窟に作られている。
マチュピチュ遺跡内にはインカのシンボルでもあるコンドルの神殿がありワイナ・ピチュ側からマチュピチュ遺跡を見下ろすとコンドルの形に見える。
== 国際関係 ==
=== {{JPN}} ===
[[2015年]]12月26日、[[福島県]][[安達郡]][[大玉村]]がマチュピチュ村にとって初の友好都市協定締結。かつて村長を務め、マチュピチュの発展に尽力した[[野内与吉]]が大玉村出身であることによる<ref>[http://www.asahi.com/sp/articles/ASH934T23H93UGTB003.html マチュピチュ村、福島の恩忘れず 大玉村と友好都市に]朝日新聞</ref><ref>{{Cite web|和書|url=
https://news.yahoo.co.jp/articles/9571be95868dc977d553aa5e53c6977ebb0ca629?page=1|
title=マチュピチュと福島県大玉村、世界初の友好都市協定を締結|publisher=THE PAGE|author=中野宏一|accessdate=2022/04/23|date=2015/10/26}}</ref>。マチュピチュ遺跡が世界文化遺産に登録された当初は世界各国から友好都市協定への打診を受けていたが、野内与吉への大恩もあり、マチュピチュ村側から大玉村へ締結の打診をし、お互いの交友を重ねた後に締結した。
[[2020年]]12月1日、マチュピチュ村役場が令和2年度外務大臣表彰を受賞<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100120927.pdf 令和2年度外務大臣表彰(団体)|外務省]</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/files/100120947.pdf Foreign Minister’s Commendations for FY 2020 (Groups) | Ministry of Foreign Affairs of Japan] {{en icon}}</ref>。
== パノラマ ==
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[[File:Machu Picchu Up-close Panorama.jpg|thumb|800px|center|Up-close view of Incan ruins on Machu Picchu]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="*"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2012年3月}}
* "Lost City" Yielding Its Secrets 2003年3月18日付 New York Times記事
* {{Cite book|和書 |author=高野潤 |date=2009-07 |title=カラー版 マチュピチュ―天空の聖殿 |edition= |series=[[中公新書]] |volume= |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=4-12-102012-X |ref=Takano 2009}}USBN-13 978-4-12-102012-3。
== 関連項目 ==
{{commons&cat|Machu_Picchu|Machu_Picchu}}
{{wikivoyage|Machu_Picchu|マチュ・ピチュ{{en icon}}}}
* [[野内与吉]] - マチュピチュ観光の拠点となるマチュピチュ村の事実上初代村長。
* [[別子銅山]] - 東洋のマチュピチュと呼ばれている
* [[竹田城]] - 日本のマチュピチュと呼ばれている
* [[新田金山城]] - 関東のマチュピチュと呼ばれている
* [[天空の城#南アメリカ]]
* [[ワイナ・ピチュ]] - マチュ・ピチュの背後にある峰
* [[シウダー・ペルディダ]] - [[コロンビア]]のマチュピチュと呼ばれる。マチュピチュより650年前に築かれた古代都市遺跡
== 外部リンク ==
* [https://whc.unesco.org/en/list/274/documents/%23ABevaluation Historic Sanctuary of Machu Picchu]
* [https://whc.unesco.org/en/list/274 Historic Sanctuary of Machu Picch] - UNESCO World Heritage Center
* [https://ja.aerialviews.org/マチュ・ピチュ.htm マチュ・ピチュ | ペルーの考古遺跡]
{{新・世界の七不思議}}
{{Authority control}}
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[[Category:ペルーの考古遺跡]]
[[Category:ペルーの世界遺産]]
[[Category:考古天文学]]
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2003-09-15T14:34:03Z
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2023-11-27T01:24:18Z
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[
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16,993 |
水間鉄道水間線
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水間線(みずません)は、大阪府貝塚市の貝塚駅から水間観音駅までを結ぶ、水間鉄道(水鉄)が運営する鉄道路線。
水間寺(通称「水間観音」)への参詣鉄道として建設された。貝塚駅は、大阪市などに通じる南海本線との乗換駅になっているほか、水間線の沿線開発も進み、貝塚市内陸部にとって通勤・通学路線となっている。
終点の水間観音駅の駅舎は国の登録有形文化財(1998年登録)で、1926年の全通時から使われている。
2007年にはPiTaPa導入を視野にスルッとKANSAI協議会に加盟した。そのPiTaPa導入は2009年6月1日のダイヤ改正から行われた。水間線は2013年3月23日から開始された交通系ICカード全国相互利用の対象になっている。
貝塚駅 - 水間観音駅間で1時間あたり基本的に2本(30分間隔)、朝と平日夕方は3本(20分間隔)運転されている。途中駅で折り返す列車はない。所要時間は約15分。列車交換は途中駅で唯一の交換可能駅である名越駅で行われる。
2009年6月1日より、PiTaPa導入と同時に朝夕ラッシュ時を含む全列車がワンマン運転となった。かつて朝夕のラッシュ時以外の時間帯の列車だけをワンマン化したこともあったが、その際、主な利用客である高齢者層がワンマン運転のシステムになじめなかったため、PiTaPaが導入されるまで早朝深夜以外の時間帯は再び車掌を乗務させていた。
2020年11月30日のダイヤ改正までは1時間あたり基本的に3本運転されていた。
終点の水間観音駅が水間寺の最寄り駅であることから、大晦日から正月にかけて臨時列車の増発や特別ダイヤでの運行が行われる。
また、大規模なイベントの開催時にも臨時列車の運行および通常列車の時刻変更が行われ、貝塚駅 - 水間観音駅ノンストップの「特急」が運行されることもある。「特急」へは運賃のみで乗車できる場合と、乗車にグッズ等の購入が必要な場合がある。
例年延長運転(2019年度までは終夜運転)を行っている。2022年度(2023年正月)の場合、大晦日から元日午前2時半頃にかけて、1時間間隔で計3.5往復運行された。2020年度も終夜運転を行う予定であったが、国土交通省からの要望により中止された。
正月三が日(1月1日 - 3日)は特別ダイヤでの運行となる。土休日ダイヤを基本に、7・8時台を毎時3本から2本に減便、10-15時台を毎時2本から3本に増便している。2022年のみ、1月4日 - 15日にも3往復の増発を行った。
2020年までは、通常のダイヤ(当時は終日1時間に約3本運転)で運行していた。また2021年は通常の土休日ダイヤで運行された。
車両は南海電気鉄道の中古車両を使用していたが、1990年に架線電圧を600Vから1500Vに昇圧し、全車両を元東急7000系電車の7000系に置き換えた。2006年から7000系は順次、更新改造され1000形に改番された。1000形は2両編成4本の計8両を所有している。
(出典:)
地域の住民や学生の足であるだけでなく、途中の石才駅近辺には自動車教習所があり、そこに通う人々が多く利用する。さらに正月には水間観音への初詣参拝でにぎわう。
1960 - 1970年代には年間400万人前後が利用したが、沿線の少子高齢化などで2010年度には200万人を割り込み、2020年以降は新型コロナウイルス感染症の流行による影響も受けた。このため、水間観音駅でロケーション撮影した松平健出演のPRドラマ『アワー・ホーム』の制作と配信、車両基地内にある車庫線約100メートルの有料運転体験などにより知名度や利用者数の拡大と増収を図っている。
水間線の輸送実績を下表に記す。輸送量は減少している。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
出典:『鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修)
水間線の営業成績を下表に記す。旅客運賃収入が増加した時期もあったが最近では減少している。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
出典:『鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修)
出典:『鉄道省鉄道統計資料』『鉄道統計資料』『鉄道統計』『国有鉄道陸運統計』各年度版
清児駅から分岐して大阪府泉佐野市南部の犬鳴山を経て和歌山県那賀郡粉河町(現在の紀の川市)まで延長する計画があった。1927年、当時は水間駅の少し手前から粉河まで、犬鳴電気鉄道と粉河電気鉄道によって申請されたが粉河電気鉄道は却下。犬鳴電気鉄道は1928年1月21日に免許されたが期限内に工事施行の認可申請がされず1930年10月24日に免許が失効した。その後、水間鉄道が1950年12月23日に水間 - 粉河間の鉄道敷設免許を取得。資金調達のため1953年に紀泉鉄道という別会社を設立し、同年に起点を清児駅に変更して1955年6月16日に着工したものの、紀泉熊取駅の少し手前まで工事が進んだところで、資金不足で工事は中止された。1959年3月9日に水間鉄道は紀泉鉄道を吸収合併し、維持していた免許も1967年1月18日に山越えとなる犬鳴 - 粉河間が当面開通の見込みが無いとの理由で当時の運輸省より免許返納を勧められたため起業を廃止。残る清児 - 犬鳴間も何度か第三セクター方式で再起が試みられたが、資金調達の目処がつかなかった。1996年にこの区間の建設も断念し、こちらも起業廃止届を申請し、同年9月11日付で認可され計画は立ち消えとなった。
2006年時点で、清児駅付近の住宅地内に残っていた用地は宅地化され、清児から熊取町七山付近までに痕跡が一部残るのみで、熊取ニュータウンの中央部に都市計画道路と一緒に確保されていた用地は道路用地を除きほとんど宅地化された(熊取ニュータウン内にある、敷地への立入りを禁ずる看板には水間鉄道のほかに道路管理者の名前も見える)。
|
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"text": "水間線(みずません)は、大阪府貝塚市の貝塚駅から水間観音駅までを結ぶ、水間鉄道(水鉄)が運営する鉄道路線。",
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"text": "水間寺(通称「水間観音」)への参詣鉄道として建設された。貝塚駅は、大阪市などに通じる南海本線との乗換駅になっているほか、水間線の沿線開発も進み、貝塚市内陸部にとって通勤・通学路線となっている。",
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"text": "終点の水間観音駅の駅舎は国の登録有形文化財(1998年登録)で、1926年の全通時から使われている。",
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"text": "2007年にはPiTaPa導入を視野にスルッとKANSAI協議会に加盟した。そのPiTaPa導入は2009年6月1日のダイヤ改正から行われた。水間線は2013年3月23日から開始された交通系ICカード全国相互利用の対象になっている。",
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"text": "貝塚駅 - 水間観音駅間で1時間あたり基本的に2本(30分間隔)、朝と平日夕方は3本(20分間隔)運転されている。途中駅で折り返す列車はない。所要時間は約15分。列車交換は途中駅で唯一の交換可能駅である名越駅で行われる。",
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"text": "2009年6月1日より、PiTaPa導入と同時に朝夕ラッシュ時を含む全列車がワンマン運転となった。かつて朝夕のラッシュ時以外の時間帯の列車だけをワンマン化したこともあったが、その際、主な利用客である高齢者層がワンマン運転のシステムになじめなかったため、PiTaPaが導入されるまで早朝深夜以外の時間帯は再び車掌を乗務させていた。",
"title": "運行形態"
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"text": "2020年11月30日のダイヤ改正までは1時間あたり基本的に3本運転されていた。",
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"text": "また、大規模なイベントの開催時にも臨時列車の運行および通常列車の時刻変更が行われ、貝塚駅 - 水間観音駅ノンストップの「特急」が運行されることもある。「特急」へは運賃のみで乗車できる場合と、乗車にグッズ等の購入が必要な場合がある。",
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"text": "例年延長運転(2019年度までは終夜運転)を行っている。2022年度(2023年正月)の場合、大晦日から元日午前2時半頃にかけて、1時間間隔で計3.5往復運行された。2020年度も終夜運転を行う予定であったが、国土交通省からの要望により中止された。",
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"text": "正月三が日(1月1日 - 3日)は特別ダイヤでの運行となる。土休日ダイヤを基本に、7・8時台を毎時3本から2本に減便、10-15時台を毎時2本から3本に増便している。2022年のみ、1月4日 - 15日にも3往復の増発を行った。",
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"text": "2020年までは、通常のダイヤ(当時は終日1時間に約3本運転)で運行していた。また2021年は通常の土休日ダイヤで運行された。",
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"text": "車両は南海電気鉄道の中古車両を使用していたが、1990年に架線電圧を600Vから1500Vに昇圧し、全車両を元東急7000系電車の7000系に置き換えた。2006年から7000系は順次、更新改造され1000形に改番された。1000形は2両編成4本の計8両を所有している。",
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"text": "地域の住民や学生の足であるだけでなく、途中の石才駅近辺には自動車教習所があり、そこに通う人々が多く利用する。さらに正月には水間観音への初詣参拝でにぎわう。",
"title": "利用状況"
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"text": "1960 - 1970年代には年間400万人前後が利用したが、沿線の少子高齢化などで2010年度には200万人を割り込み、2020年以降は新型コロナウイルス感染症の流行による影響も受けた。このため、水間観音駅でロケーション撮影した松平健出演のPRドラマ『アワー・ホーム』の制作と配信、車両基地内にある車庫線約100メートルの有料運転体験などにより知名度や利用者数の拡大と増収を図っている。",
"title": "利用状況"
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"text": "水間線の輸送実績を下表に記す。輸送量は減少している。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
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"text": "出典:『鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修)",
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"text": "水間線の営業成績を下表に記す。旅客運賃収入が増加した時期もあったが最近では減少している。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
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"text": "出典:『鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修)",
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"text": "出典:『鉄道省鉄道統計資料』『鉄道統計資料』『鉄道統計』『国有鉄道陸運統計』各年度版",
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"text": "清児駅から分岐して大阪府泉佐野市南部の犬鳴山を経て和歌山県那賀郡粉河町(現在の紀の川市)まで延長する計画があった。1927年、当時は水間駅の少し手前から粉河まで、犬鳴電気鉄道と粉河電気鉄道によって申請されたが粉河電気鉄道は却下。犬鳴電気鉄道は1928年1月21日に免許されたが期限内に工事施行の認可申請がされず1930年10月24日に免許が失効した。その後、水間鉄道が1950年12月23日に水間 - 粉河間の鉄道敷設免許を取得。資金調達のため1953年に紀泉鉄道という別会社を設立し、同年に起点を清児駅に変更して1955年6月16日に着工したものの、紀泉熊取駅の少し手前まで工事が進んだところで、資金不足で工事は中止された。1959年3月9日に水間鉄道は紀泉鉄道を吸収合併し、維持していた免許も1967年1月18日に山越えとなる犬鳴 - 粉河間が当面開通の見込みが無いとの理由で当時の運輸省より免許返納を勧められたため起業を廃止。残る清児 - 犬鳴間も何度か第三セクター方式で再起が試みられたが、資金調達の目処がつかなかった。1996年にこの区間の建設も断念し、こちらも起業廃止届を申請し、同年9月11日付で認可され計画は立ち消えとなった。",
"title": "水間鉄道新線計画"
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"text": "2006年時点で、清児駅付近の住宅地内に残っていた用地は宅地化され、清児から熊取町七山付近までに痕跡が一部残るのみで、熊取ニュータウンの中央部に都市計画道路と一緒に確保されていた用地は道路用地を除きほとんど宅地化された(熊取ニュータウン内にある、敷地への立入りを禁ずる看板には水間鉄道のほかに道路管理者の名前も見える)。",
"title": "水間鉄道新線計画"
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] |
水間線(みずません)は、大阪府貝塚市の貝塚駅から水間観音駅までを結ぶ、水間鉄道(水鉄)が運営する鉄道路線。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Mizuma Railway Logomark.svg|20px]] 水間線
|路線色 = skyblue
|画像 = Mizuma railway 1005F 20070429.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 水間線内を走る[[水間鉄道7000系電車|1000形]]電車<br />([[清児駅]] - [[名越駅]]間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]][[貝塚市]]
|起点 = [[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]]
|終点 = [[水間観音駅]]
|駅数 = 10駅<ref name="転換力"/>
|開業 = [[1925年]][[12月24日]]
|最終延伸 = [[1926年]][[1月30日]]
|廃止 =
|所有者 = <!-- 社章 -->[[水間鉄道]]
|運営者 = <!-- 社章 -->水間鉄道
|車両基地 = 水間車庫
|使用車両 = [[水間鉄道7000系電車|1000形]]
|路線距離 = 5.5 [[キロメートル|km]]<ref name="転換力">【転換力】水間鉄道(大阪府貝塚市)マツケン動画で全国"発進" 斬新企画次々、ファン拡大へ『[[読売新聞]]』朝刊2022年6月2日(地域面)</ref>
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]])
|線路数 = [[単線]]<ref name="転換力"/>
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|最高速度 = 60 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』(ネコ・パブリッシング)</ref>
|路線図 = [[File:Mizuma_Line_map_ja.png|280px]]
}}
'''水間線'''(みずません)は、[[大阪府]][[貝塚市]]の[[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]]から[[水間観音駅]]までを結ぶ、[[水間鉄道]](水鉄)が運営する[[鉄道路線]]<ref name="転換力"/>。
== 概要 ==
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=skyblue
|title-color=black
|top=
|map=
{{BS3||STRq|BHFq|O3=HUBa|||[[南海電気鉄道|南海]]:{{rint|osaka|nm}} [[南海本線]]|}}
{{BS3||STR+l|KBHFeq|O3=HUBe|0.0|[[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]]||}}
{{BS|eBHF|0.2|''[[海塚駅]]''|-1972|}}
{{BS|BHF|0.8|[[貝塚市役所前駅]]||}}
{{BS|BHF|1.2|[[近義の里駅]]||}}
{{BS|KRZu|||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:{{JR西路線記号|K|R}} [[阪和線]]|}}
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{{BS|BHF|2.8|[[清児駅]]||}}
{{BS|eABZgr|||''[[犬鳴山 (大阪府)|犬鳴]]・[[粉河町|粉河]]方面([[未成線]])''|}}
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{{BS|BHF|4.3|[[森駅 (大阪府)|森駅]]||}}
{{BS|BHF|4.7|[[三ツ松駅]]||}}
{{BS|BHF|5.1|[[三ヶ山口駅]]||}}
{{BS3|STR+l|ABZgr|||||}}
{{BS3|KDSTe|STR|||水間車庫||}}
{{BS|KBHFe|5.5|[[水間観音駅]]||}}
}}
[[水間寺]](通称「水間観音」)への参詣鉄道として建設された<ref name="転換力" />。[[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]]は、[[大阪市]]などに通じる[[南海本線]]との[[乗換駅]]になっている<ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/station/kaizuka.html 貝塚駅 駅と周辺情報] ほか南海電鉄(2022年6月4日閲覧)</ref>ほか、水間線の沿線開発も進み、貝塚市内陸部にとって通勤・通学路線となっている。
終点の[[水間観音駅]]の[[駅舎]]は国の[[登録有形文化財]]<ref name="転換力"/>(1998年登録)で、1926年の全通時から使われている。
2007年には[[PiTaPa]]導入を視野に[[スルッとKANSAI]]協議会に加盟した。そのPiTaPa導入は2009年6月1日の[[ダイヤ改正]]から行われた<ref name="press_20090514">{{Cite press release |title=いよいよ水間鉄道にPiTaPaが導入されます |publisher=水間鉄道 |date=2009-05-14 |url=https://www.suitetsu.com/info/pitapa/img/20090514pitapa.pdf |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20210624115826/https://www.suitetsu.com/info/pitapa/img/20090514pitapa.pdf |archive-date=2021-01-24}}</ref>。水間線は2013年3月23日から開始された[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカード全国相互利用]]の対象になっている。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):5.5 km<ref name="転換力"/>
* [[軌間]]:1067 mm
* 駅数:10駅(起終点駅含む)<ref name="転換力"/>
* 複線区間:なし(全線[[単線]]<ref name="転換力"/>)
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化([[直流電化|直流]]1500 [[ボルト (単位)|V]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:60 km/h<ref name="terada" />
== 運行形態 ==
貝塚駅 - 水間観音駅間で1時間あたり基本的に2本(30分間隔)、朝と平日夕方は3本(20分間隔)運転されている。途中駅で折り返す列車はない。所要時間は約15分<ref name="転換力"/>。[[列車交換]]は途中駅で唯一の交換可能駅である[[名越駅]]で行われる。
2009年6月1日より、PiTaPa導入と同時に朝夕[[ラッシュ時]]を含む全列車が[[ワンマン運転]]となった<ref name="press_20090514" />。かつて朝夕のラッシュ時以外の時間帯の列車だけをワンマン化したこともあったが、その際、主な利用客である高齢者層がワンマン運転のシステムになじめなかったため、PiTaPaが導入されるまで早朝深夜以外の時間帯は再び[[車掌]]を乗務させていた。
2020年11月30日のダイヤ改正までは1時間あたり基本的に3本運転されていた。
=== 臨時列車 ===
終点の水間観音駅が水間寺の最寄り駅であることから、[[大晦日]]から[[正月]]にかけて臨時列車の増発や特別ダイヤでの運行が行われる。
また、大規模なイベントの開催時にも臨時列車の運行および通常列車の時刻変更が行われ、貝塚駅 - 水間観音駅ノンストップの「特急」が運行されることもある。「特急」へは運賃のみで乗車できる場合と、乗車にグッズ等の購入が必要な場合がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.suitetsu.com/event/rokatetsu2022.pdf |title=「近畿ローカル鉄道まつり2022in貝塚」 |access-date=2023-01-01 |publisher=水間鉄道株式会社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221113010842/https://www.suitetsu.com/event/rokatetsu2022.pdf |archive-date=2022-11-13}}</ref>。
==== 大晦日終夜・延長運転 ====
例年延長運転(2019年度までは[[終夜運転]])を行っている。2022年度(2023年正月)の場合、[[大晦日]]から[[元日]]午前2時半頃にかけて、1時間間隔で計3.5往復運行された<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.suitetsu.com/event/2022nennmatsunenshi%20unkou.pdf |title=水間観音 初詣対応 年末年始の運行(電車)について |access-date=2023-1-1 |publisher=水間鉄道株式会社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221220073847/https://www.suitetsu.com/event/2022nennmatsunenshi%20unkou.pdf |archive-date=2022-12-20}}</ref>。2020年度も終夜運転を行う予定であったが、国土交通省からの要望により中止された。
==== 正月特別ダイヤ ====
[[正月三が日]](1月1日 - 3日)は特別ダイヤでの運行となる。土休日ダイヤを基本に、7・8時台を毎時3本から2本に減便、10-15時台を毎時2本から3本に増便している<ref name=":1" />。2022年のみ、1月4日 - 15日にも3往復の増発を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.suitetsu.com/event/nenmatsunensi2021.12.10.pdf |title=水間観音 初詣対応 年末年始の運行(電車)について |access-date=2023-01-21 |publisher=水間鉄道 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211212082909if_/https://www.suitetsu.com/event/nenmatsunensi2021.12.10.pdf |archive-date=2021-12-12}}</ref>。
2020年までは、通常のダイヤ(当時は終日1時間に約3本運転)で運行していた。また2021年は通常の土休日ダイヤで運行された。
== 車両 ==
車両は[[南海電気鉄道]]の中古車両を使用していたが、[[1990年]]に架線電圧を600Vから1500Vに昇圧し、全車両を元[[東急7000系電車 (初代)|東急7000系]]電車の7000系に置き換えた。2006年から7000系は順次、更新改造され1000形に改番された。1000形は2両編成4本の計8両を所有している。
* [[水間鉄道7000系電車|1000形]](元[[水間鉄道7000系電車|7000系]])
=== 旧在籍車 ===
(出典:<ref>{{Cite book|title=水間鉄道50年の歩み|date=1973年4月17日|year=|publisher=水間鉄道株式会社}}</ref><ref name=":0">{{Cite book|title=新生水鉄のあゆみ|date=1993年4月17日|year=|publisher=水間鉄道株式会社}}</ref>)<!-- 水鉄50,70年の記念誌ではモハ1251、サハ1891より前は貨物用を除き形式符号がないが、他出典未確認のため残しておく -->
* モハ1形(1・2):開業に先立って1925年6月に購入した車両。購入前は南海鉄道2代22・2代23号で、もとは高野登山鉄道11・12号。15m級で荷物室を備えており、定員74名。2は1946年に水間車庫の火災により焼失。1は1948年に車体を新造し2代目1となった。
* モハ3形(3・4): 1927年1月[[汽車製造|汽車会社]]東京工場で新製された木製[[ボギー台車|ボギー車]]。11m級で定員74人。[[第二次世界大戦]]後に4は踏切事故を起こして5に改番されたが、1948年の水間車庫火災により焼失し、その台枠を利用してモハ55形(初代55)を製作する。3は1962年4月に廃車されたのち本社前で会議室として使用されていたが、1977年の本社移転時に解体された。
* モハ15形(15・16):1929年7月に加藤車両で新製された半鋼製2軸単車。9m級で定員50人。1939年に旅館「一龍」の建設資金に充てるため日満工業に売却された。
* モハ105形(105・106):1939年12月[[木南車輌製造|木南車両]]で新製された半鋼製ボギー車。11m級で定員70人。105は1946年の水間車庫火災により焼失し、1950年頃まで車体が保管されていたが結局解体された。106は1952年[[荒尾市営電気鉄道]]に売却され、同101号となった。
* 2代目モハ1形(2代目1):1949年4月、旧2の台枠と初代1の機器を利用して広瀬車両で新製された半鋼製車両。車体は元と同じく15m級だが、定員90名。1969年10月廃車。
* モハ55形(初代55):1949年4月、5の台枠と電動機・制御器を利用して広瀬車両で新製された半鋼製車両。車体長の級・定員ともに旧5と同一。輸送力増強のため1952年末に[[尾道鉄道]]のデキニ25と入れ替わり、尾道鉄道25号となる。
* モハ111形(111):1949年、廃車予定だった[[南海加太線]]101号の車体を購入したうえで機器を補い電動車とした。15m級で定員90人。1956年5月に廃車、機器・台車は11号に使用され、車体は二色幼稚園に移送された。
* モハ55形(2代目55):1953年にモハ55形(初代55)と交換する形で尾道鉄道のデキニ25が入線。もとは[[宇部鉄道]]のデハニ101形(101)半鋼製ボギー車(1930年[[日本車両製造|日本車輌]]製) である。荷物室は存置されていた。15m級で定員90人。1970年10月廃車。
* モハ55形(56):1953年に尾道鉄道のデハニ301が入線。2代目55と異なり荷物室は撤去された。もとは宇部鉄道デハニ301形(301)半鋼製ボギー車(1931年日本車輌製)である。15m級で定員100人。1969年廃車。
* モハ11形(11):1956年5月、111の車体を、元[[阪神急行電鉄]]67号の車体で置き換えた木造車。1967年1月廃車。
* モハ250形(251・252):1958年及び1962年[[アルナ車両|ナニワ工機]]で新製された全鋼製ボギー車。15m級で定員110人。1972年廃車、モハ252のみ水間車庫で保管されたが現在は存在しない。
* モハ360形(361)・クハ380形(381):1966年南海から借入れて、のちに譲り受けた[[南海の簡易半鋼車|モハ1037・クハ1825]]。水鉄初の17m級車であり、またクハ381は水鉄初の制御車であった。1971年10月廃車。
* モハ360形(362)・クハ380形(363):1966年に[[淡路鉄道|鉄道線]]を廃止した[[淡路交通]]から譲り受けたモハ1010・1011。1971年12月廃車。
* モハ360形(364・365):1968年10月に南海から借入れて、同年12月譲り受けた[[高野山電気鉄道101形電車|モハ561形]](2代目562・569)。もとは[[高野山電気鉄道]]デ102・デニ501(1928年日本車輌製)。1972年11月廃車。
* モハ1251形(1258・1275)・サハ1891形(1892):もと南海[[南海1251形電車|1251形]]で1970年12月に譲り受けた。15m級で定員100人。水鉄初の3両編成を組成した。1201形導入に伴い1972年廃車。
* モハ501形・クハ551形・サハ581形:もと南海[[南海1201形電車|1201形]]で、1971年から1972年かけて12両(電動車10両、付随車2両)を譲り受け、既存の車両を全て置き換えた。18m級の大型車両で、1974年に塗装を変更するとともに車番を500番台に変更、1984年には電動車3台を制御車・片運転室化し、塗装を再変更した。7000系導入に伴い1990年8月1日を最後に運用を終了し廃車、[[野上電気鉄道]]へ5両が再譲渡されたものの重量超過のため入籍せず解体された。現在はクハ553が水間検車区構内に留置されている。
* ワブ1形(1):開業時に南海から譲り受けた木造有蓋車。もとは1899年12月製造の南海ワ56である。
* フト1形(1・2):開業時に南海から譲り受けた無蓋車。もとは1906年9月製造の南海ワ56である。フト2は1948年の水間車庫火災により焼失、フト1は1972年の貨物営業廃止後に解体された。
== 利用状況 ==
地域の住民や学生の足であるだけでなく、途中の[[石才駅]]近辺には[[自動車教習所]]があり、そこに通う人々が多く利用する。さらに正月には水間観音への[[初詣]]参拝でにぎわう。
1960 - 1970年代には年間400万人前後が利用したが、沿線の少子高齢化などで2010年度には200万人を割り込み、2020年以降は[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]による影響も受けた<ref name="転換力"/>。このため、水間観音駅で[[ロケーション撮影]]した[[松平健]]出演のPRドラマ『アワー・ホーム』の制作と配信、[[車両基地]]内にある車庫線約100メートルの有料運転体験などにより知名度や利用者数の拡大と増収を図っている<ref name="転換力"/>。
=== 輸送実績 ===
水間線の輸送実績を下表に記す。輸送量は減少している。
表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;"
|-
! colspan="7"|年度別輸送実績
|-
! rowspan="2"|年 度
! colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人
! rowspan="2"|輸送密度<br />人/日
! rowspan="2"|特 記 事 項
|-
|通 勤<br />定 期
|通 学<br />定 期
|定期外
|合 計
|-
! style="font-weight: normal;"|1970年(昭和45年)
|
|
| style="background-color: #ccffcc;"|144.8
| style="background-color: #ccffcc;"|'''385.9'''
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年)
| style="background-color: #ffcccc;"|158.5
|106.0
|151.5
|'''416.0'''
| style="background-color: #ffcccc;"|8,410
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年)
|156.8
|107.6
|153.1
| style="background-color: #ffcccc;"|'''417.5'''
|8,164
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年)
|158.0
| style="background-color: #ccffcc;"|105.2
|152.2
|'''415.6'''
|8,150
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年)
|153.7
|111.6
|151.8
|'''417.2'''
|8,050
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年)
|151.8
| style="background-color: #ffcccc;"|113.4
|151.2
|'''416.5'''
|8,016
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年)
|151.6
|110.4
| style="background-color: #ffcccc;"|154.4
|'''416.5'''
|8,010
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年)
|154.7
|105.5
|153.5
|'''413.8'''
|7,961
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年)
|151.2
|100.6
|149.8
|'''401.7'''
|7,749
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年)
|145.8
|92.2
|142.5
|'''380.5'''
|7,407
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年)
|142.5
|91.2
|135.2
|'''368.9'''
|7,174
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年)
|139.6
|92.4
|133.7
|'''365.7'''
|7,076
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年)
|135.4
|85.3
|127.7
|'''348.4'''
|6,777
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年)
|130.7
|76.3
|121.4
|'''328.4'''
|6,416
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年)
|123.4
|68.3
|112.7
|'''304.4'''
|5,997
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1989年([[平成]]元年)
|120.2
|60.4
|110.7
|'''291.3'''
|5,775
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年)
|121.4
|63.4
|110.8
|'''295.6'''
|5,748
| style="text-align:left;"|冷房電車導入
|-
! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年)
|124.3
|57.3
|113.7
|'''295.3'''
|5,783
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年)
|130.5
|59.1
|115.9
|'''305.5'''
|5,903
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年)
|133.9
|59.0
|118.6
|'''311.5'''
|5,948
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年)
|137.7
|60.8
|113.1
|'''311.6'''
|5,912
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年)
|137.5
|60.3
|110.2
|'''308.0'''
|5,798
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年)
|129.9
|53.1
|102.7
|'''285.7'''
|5,385
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年)
|124.6
|54.9
|97.0
|'''276.5'''
|5,187
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年)
|116.6
|57.7
|92.7
|'''267.0'''
|5,026
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年)
|109.0
|60.0
|92.4
|'''261.4'''
|4,941
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年)
|106.7
|55.4
|88.6
|'''250.7'''
|4,748
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年)
|102.9
|56.3
|83.1
|'''242.3'''
|4,570
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年)
|94.1
|55.0
|78.5
|'''227.6'''
|4,275
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年)
|88.5
|55.0
|76.8
|'''220.3'''
|4,079
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年)
|87.3
|54.8
|73.0
|'''215.1'''
|3,964
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年)
|89.1
|52.2
|72.9
|'''214.2'''
|3,947
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年)
|90.0
|55.2
|73.7
|'''218.9'''
|4,043
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年)
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年)
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年)
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年)
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年)
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年)
|76.4
|39.5
|72.6
|'''188.5'''
|3,111
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年)
|77.0
|38.1
|72.9
|'''188.0'''
|3,514
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年)
|80.7
|35.4
|73.9
|'''190.0'''
|3,514
| style="text-align:left;"|輸送密度は誤記(旅客人キロを365日5.5kmで除すと3,601)
|-
! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年)
|
|
|
|
|3,601
| style="text-align:left;"|輸送密度の計算の基礎となる各数値が前年と全く同じになっており誤記と思われる。正しい数値は不明
|-
! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年)
|78.2
|33.2
|74.5
|'''185.9'''
|3,545
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年)
|77.0
|30.9
|75.9
|'''183.8'''
|3,518
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年)
|77.8
|30.2
|75.6
|'''183.6'''
|3,521
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2019年(令和元年)
|79.6
|31.9
|72.0
|'''183.5'''
|3,478
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2020年(令和2年)
| style="background-color: #ccffff;"|73.5
| style="background-color: #ccffff;"|25.7
| style="background-color: #ccffff;"|54.0
| style="background-color: #ccffff;"|'''153.2'''
| style="background-color: #ccffff;"|2,797
|
|}
出典:『鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修)
=== 営業成績 ===
水間線の営業成績を下表に記す。旅客運賃収入が増加した時期もあったが最近では減少している。
表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:right; width:100%;"
|-
! colspan="11"|年度別営業成績
|-
! rowspan="2"|年 度
! colspan="5"|旅客運賃収入:千円
! rowspan="2"|運輸雑収<br />千円
! rowspan="2"|営業収益<br />千円
! rowspan="2"|営業経費<br />千円
! rowspan="2"|営業損益<br />千円
! rowspan="2"|営業<br />係数
|-
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|定 期 外
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|合 計
|-
! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年)
|137,651
|←←←←
|159,117
|
|
|883
|'''299,303'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年)
|207,220
|←←←←
| style="background-color: #ffcccc;"|225,247
|''0''
|'''432,467'''
|4,093
|'''436,560'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年)
|146,087
| style="background-color: #ffcccc;"|49,690
|215,436
|''0''
|'''411,213'''
|6,856
|'''418,069'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年)
|141,144
|45,509
|204,976
|''0''
|'''391,629'''
|6,652
|'''398,271'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年)
|156,394
|46,714
|222,252
|''0''
|'''425,360'''
| style="background-color: #ccffff;"|3,140
|'''428,500'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年)
|153,560
|47,527
|213,988
|''0''
|'''415,075'''
|5,563
|'''420,638'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年)
|157,515
|42,929
|219,179
|''0''
|'''419,623'''
|9,663
|'''429,286'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年)
|164,215
|44,287
|220,637
|''0''
|'''429,139'''
|10,686
|'''439,825'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年)
|168,028
|44,374
|224,334
|''0''
| style="background-color: #ffcccc;"|'''436,736'''
|11,348
| style="background-color: #ffcccc;"|'''448,084'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年)
|171,546
|45,591
|214,896
|''0''
|'''432,033'''
|11,071
|'''443,104'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年)
|170,604
|44,879
|212,139
|''0''
|'''427,622'''
| style="background-color: #ffcccc;"|11,945
|'''439,567'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年)
| style="background-color: #ffcccc;"|173,655
|42,796
|214,570
|''0''
|'''431,021'''
|10,665
|'''441,686'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年)
|166,658
|43,769
|203,001
|''0''
|'''413,428'''
|10,051
|'''423,479'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年)
|156,962
|45,964
|194,225
|''0''
|'''397,151'''
|8,864
|'''406,015'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年)
|147,755
|48,034
|193,915
|''0''
|'''389,704'''
|9,052
|'''398,756'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年)
|144,493
|44,179
|186,028
|''0''
|'''374,700'''
|8,491
|'''383,191'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年)
|138,936
|44,128
|174,374
|''0''
|'''357,438'''
|7,300
|'''364,738'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年)
|126,910
|42,657
|163,972
|''0''
|'''333,539'''
|10,813
|'''344,352'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年)
|118,955
|40,699
|160,559
|''0''
|'''320,213'''
|14,314
|'''334,527'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年)
| style="background-color: #ccffff;"|116,884
|38,984
| style="background-color: #ccffff;"|152,589
|''0''
| style="background-color: #ccffff;"|'''308,457'''
|14,712
| style="background-color: #ccffff;"|'''323,169'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年)
|119,222
| style="background-color: #ccffff;"|36,516
|153,875
|''0''
|'''309,613'''
|18,641
|'''328,254'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年)
|
|
|155,338
|''0''
|'''314,626'''
|15,871
|'''331,698'''
|'''253,818'''
|'''77,880'''
|76.5
|}
出典:『鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修)
=== 第二次世界大戦前の輸送収支実績 ===
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead">年度別実績</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;"
|-
!年度
!輸送人員(人)
!貨物量(トン)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!営業益金(円)
!その他損金(円)
!支払利子(円)
!政府補助金(円)
|-
|1925||144,812||237||18,765||16,925||1,840||||||
|-
|1926||474,670||2,095||54,056||47,313||6,743||雑損3,516||205||17,996
|-
|1927||578,593||4,663||66,501||55,578||10,923||雑損152||||13,237
|-
|1928||569,131||6,949||65,151||53,717||11,434||雑損438||132||15,927
|-
|1929||601,202||5,234||66,591||52,808||13,783||雑損100||90||16,545
|-
|1930||525,966||3,415||55,233||49,488||5,745||||44||22,955
|-
|1931||466,579||3,232||48,942||45,696||3,246||雑損483||||18,990
|-
|1932||444,722||3,813||45,797||42,949||2,848||償却金700||5||21,532
|-
|1933||437,789||4,698||20,422||17,353||3,069||雑損1,248||||21,753
|-
|1934||507,989||3,797||54,100||50,616||3,484||雑損償却金1,547||13||20,336
|-
|1935||527,652||4,103||55,803||47,416||8,387||雑損償却金17,549||||12,985
|-
|1936||544,665||4,685||57,557||42,220||15,337||自動車業1,216<br>償却金6,140||||
|-
|1937||577,471||4,166||58,835||46,115||12,720||自動車業3,007<br>雑損償却金9,530||491||1,936
|-
|1939||969,788||5,585||||||||||||
|-
|1941||1,444,885||9,019||||||||||||
|-
|1943||2,170,306||11,520||||||||||||
|-
|1945||2,768,160||6,108||||||||||||
|-
|}
出典:『[[鉄道省]]鉄道統計資料』『鉄道統計資料』『鉄道統計』『国有鉄道陸運統計』各年度版
</div></div>
== 歴史 ==
*[[1923年]]([[大正]]12年)8月8日 鉄道免許状下付([[泉南郡]][[木島村]] - 同郡[[麻生郷村]]間)<ref>[{{NDLDC|2955432/3}} 「鉄道免許状下付」『[[官報]]』1923年8月10日]([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref>
*[[1925年]](大正14年)
**[[12月24日]]:貝塚南駅(のちの海塚駅) - 名越駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2956159/4}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年1月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
**[[12月28日]]:貝塚駅 - 貝塚南駅間に貨物線を開設。
*[[1926年]](大正15年)[[1月30日]]:名越駅 - 水間駅間が開業して全通<ref>[{{NDLDC|2956191/4}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年2月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*[[1934年]]([[昭和]]9年)[[1月20日]]:貝塚駅 - 貝塚南駅間の旅客営業開始<ref>[{{NDLDC|2958599/24}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1934年2月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*[[1952年]](昭和27年)[[1月1日]]:貝塚南駅を海塚駅に改称。
*[[1960年]](昭和35年)[[11月23日]]:三ヶ山口駅開業。
*[[1967年]](昭和42年)[[7月10日]]:貝塚市役所前駅開業。
*[[1969年]](昭和44年)[[6月10日]]:近義の里駅開業。
*[[1972年]](昭和47年)
**[[5月1日]]:貨物営業廃止。
**[[12月25日]]:海塚駅廃止。
*1973年(昭和48年)10月:南海電鉄の昇圧に伴い、水鉄独自の清児変電所を運転開始<ref name=":0" />。
*[[1985年]](昭和60年)[[12月18日]]:自動閉塞化。
*[[1990年]]([[平成]]2年)[[8月2日]]:架線電圧を1500Vに昇圧。
*[[2009年]](平成21年)[[6月1日]]:[[PiTaPa]]導入。ワンマン運転を開始。水間駅を水間観音駅に改称。
*[[2013年]](平成23年)[[8月27日]]:三ツ松駅付近で遮断機が上がった状態で電車と乗用車が接触する[[踏切障害事故|踏切事故]]が発生。この事故で不作動の遮断機があったのに放置していたとして、2015年12月17日に助役や運転士らを[[書類送検]]<ref name="sankei20151217">{{Cite news |title=水間鉄道助役らを書類送検、踏切事故で安全対策怠った疑い 大阪府警 |newspaper=産経新聞 |date=2015-12-17 |url=http://www.sankei.com/west/news/151217/wst1512170074-n1.html |access-date=2023-04-04 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160304091625/http://www.sankei.com/west/news/151217/wst1512170074-n1.html |archive-date=2016-03-04}}</ref>。
*[[2020年]]([[令和]]2年)[[11月30日]]:ダイヤ改正により土日祝ダイヤを導入<ref>{{Cite press release|和書|title=令和2年11月30日ダイヤ改正について|publisher=水間鉄道|date=2020-11-3|url=http://www.suitetsu.com/event/20201102-1.pdf|format=PDF|accessdate=2020-11-3}}</ref>。
== 水間鉄道新線計画 ==
清児駅から分岐して大阪府[[泉佐野市]]南部の[[犬鳴山 (大阪府)|犬鳴山]]を経て[[和歌山県]][[那賀郡 (和歌山県)|那賀郡]][[粉河町]](現在の[[紀の川市]])まで延長する計画があった。1927年、当時は水間駅の少し手前から粉河まで、犬鳴電気鉄道と粉河電気鉄道によって申請されたが粉河電気鉄道は却下<ref>{{Cite news |和書 |title=私設鉄道認可九線却下九線 |newspaper=[[時事新報#大阪時事新報|大阪時事新報]] |date=1927-09-23 |author= |url={{新聞記事文庫|url|0100157374|title=私設鉄道認可九線却下九線 : 省議決定発表|oldmeta=00102026}} |accessdate=2018-03-15}}</ref>。犬鳴電気鉄道は1928年1月21日に免許されたが期限内に工事施行の認可申請がされず1930年10月24日に免許が失効した<ref>{{Cite journal |和書 |title=鉄道免許失効 |journal=官報 |date=1930年10月24日 |issue=1147 |publisher=大蔵省印刷局 |id={{NDLJP|2957614}} |url={{NDLDC|2957614/7}} }}</ref>。その後、水間鉄道が[[1950年]][[12月23日]]に水間 - 粉河間の鉄道敷設免許を取得。資金調達のため[[1953年]]に紀泉鉄道という別会社を設立し、同年に起点を清児駅に変更して[[1955年]][[6月16日]]に着工したものの、紀泉熊取駅の少し手前まで工事が進んだところで、資金不足で工事は中止された。[[1959年]][[3月9日]]に水間鉄道は紀泉鉄道を吸収合併し、維持していた免許も[[1967年]][[1月18日]]に山越えとなる犬鳴 - 粉河間が当面開通の見込みが無いとの理由で当時の[[運輸省]]より免許返納を勧められたため起業を廃止。残る清児 - 犬鳴間も何度か[[第三セクター]]方式で再起が試みられたが、資金調達の目処がつかなかった。[[1996年]]にこの区間の建設も断念し、こちらも起業廃止届を申請し、同年[[9月11日]]付で認可され計画は立ち消えとなった。
2006年時点で、清児駅付近の住宅地内に残っていた用地は宅地化され、清児から[[熊取町]]七山付近までに痕跡が一部残るのみで、熊取ニュータウンの中央部に都市計画道路と一緒に確保されていた用地は道路用地を除きほとんど宅地化された(熊取ニュータウン内にある、敷地への立入りを禁ずる看板には水間鉄道のほかに道路管理者の名前も見える)。
;計画されていた駅<ref>草町義和「幻の鉄路をたどる(6) 水間鉄道粉河延長線(紀泉鉄道)」『[[鉄道ジャーナル]]』2015年4月号124~131頁</ref>
:清児駅 - 病院前駅 - 七山駅 - 紀泉熊取駅 - 朝代駅 - 土丸駅 - 大木駅 - 犬鳴不動駅 - 神通駅 - 紀泉池田駅 - 紀泉長田駅 - 紀泉粉河駅
== 駅一覧 ==
* 全駅が[[大阪府]][[貝塚市]]内に所在、全列車が各駅に停車。
* 線路(全線単線) … ◇・∨・∧:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:8em; border-bottom:solid 2px skyblue;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 2px skyblue;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 2px skyblue;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 2px skyblue;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 2px skyblue;"|線路
|-
|[[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]]
|style="text-align:right;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|南海電気鉄道:[[File:Nankai mainline simbole.svg|15px|NK]] [[南海本線]] (NK26)
|∨
|-
|[[貝塚市役所前駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|0.8
|
||
|-
|[[近義の里駅]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|1.2
|
||
|-
|[[石才駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|2.0
|
||
|-
|[[清児駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|2.8
|
||
|-
|[[名越駅]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|3.2
|
|◇
|-
|[[森駅 (大阪府)|森駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|4.3
|
||
|-
|[[三ツ松駅]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|4.7
|
||
|-
|[[三ヶ山口駅]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|5.1
|
||
|-
|[[水間観音駅]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|5.5
|
|∧
|}
*近義の里駅 - 石才駅間で、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[阪和線]]と[[立体交差]]しているが、交差地点の近辺には両路線ともに駅はなく、接続はしていない。
*貝塚駅より0.2kmの地点には、かつて[[海塚駅]]があった(1925年 - 1972年)。開業当時はこの駅が起点駅であったためか、線内の[[距離標]](キロポスト)は、現在でもこの地点を基準として設置され、同地点から水間観音駅に向かって純粋に数字が増えていく。
**海塚駅跡付近に建つ0キロポストより貝塚側は「貝塚連絡線」という。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 小林庄三『水間鉄道』ネコパブリッシング、2006年
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mizuma_Railway}}
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[岸和田少年愚連隊|『岸和田少年愚連隊 BOYS BE AMBITIOUS』]](1996年に公開された映画。カオルちゃんが水間鉄道を無理やり停車させる場面がある)
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[[Category:水間鉄道|路みすません]]
[[Category:近畿地方の鉄道路線|みすません]]
[[Category:大阪府の交通]]
|
2003-09-15T14:37:55Z
|
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16,994 |
坊主
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坊主 (ぼうず)とは僧のこと。
「坊主」とは、「房主」と書くのが本来である。始めは僧房の主(あるじ)のこと、つまり一坊の主としての住持や住職のみを指していた。これに対して十分な経験を持ちながら、特定の房(坊)を持たない僧侶を法師と称して区別した。また、こうした坊主身分のことを特に坊主衆(ぼうずしゅう)とも称した。古典文芸作品では、坊主は小僧の対義語で、お寺で一番身分の高い僧侶である。日本では中世以来、次第に法師など住職以外の一般の僧の総称となった。したがって、本来は尊称であった。「坊さん」「お坊さん」と呼ぶのも、同じ語源による。
時代がたつと、僧形の者、髪を剃ったり短く刈ったりした者、また、毛のない頭やそれに見立てられるものをも広くさすようになる。法師は流浪の者が多く僧侶といえども髪や髭が伸びていることが多かったことの対比としての表現だった。武家時代に、大名などに仕えて、僧形で茶の湯など雑役をつとめた者も坊主と呼ばれ、その職掌によって茶坊主・太鼓坊主などと呼ばれた。また、男の子の愛称となったのは、昔、僧のように幼時に髪を剃っていた事からであろう。
なお、キリスト教伝来の当初には、宣教師を(南蛮)坊主と呼んだ事もあったという。
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坊主 (ぼうず)とは僧のこと。
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{{Otheruseslist|主に僧|イネの品種|坊主 (米)|[[鳥取県]][[岩美町]]の[[無人島]]|網代埼<!--坊主 (鳥取県)-->|その他|#その他|その他の"ぼうず"|ボーズ}}
'''坊主''' (ぼうず)とは[[僧]]のこと。
[[File:Vowz Band 坊主バンド 2023.jpg|thumb|「[https://www.youtube.com/channel/UCQ0JCoHGukZIPrD88f42NFA 坊主バンド]」。現役の[[僧侶]]による[[演奏会|ライブ]]。2023年]]
== 概要 ==
「坊主」とは、「'''房主'''」と書くのが本来である。始めは僧房の主(あるじ)のこと、つまり一坊の主としての住持や[[住職]]のみを指していた。これに対して十分な経験を持ちながら、特定の房(坊)を持たない僧侶を[[法師]]と称して区別した。また、こうした坊主身分のことを特に'''坊主衆'''(ぼうずしゅう)とも称した。古典文芸作品では、坊主は[[小僧]]の対義語で、お寺で一番身分の高い僧侶である。日本では中世以来、次第に法師など住職以外の一般の[[僧]]の総称となった。したがって、本来は尊称であった。「坊さん」「お坊さん」と呼ぶのも、同じ語源による。
時代がたつと、僧形の者、髪を剃ったり短く刈ったりした者、また、毛のない頭やそれに見立てられるものをも広くさすようになる。法師は流浪の者が多く僧侶といえども髪や髭が伸びていることが多かったことの対比としての表現だった。武家時代に、[[大名]]などに仕えて、僧形で[[茶道|茶の湯]]など雑役をつとめた者も坊主と呼ばれ、その職掌によって[[茶坊主]]・太鼓坊主などと呼ばれた。また、男の子の愛称となったのは、昔、僧のように幼時に髪を剃っていた事からであろう。
なお、[[キリスト教]]伝来の当初には、[[宣教師]]を(南蛮)坊主と呼んだ事もあったという。
== その他 ==
* [[日本語]]で[[少年]]のこと。 「うちの坊主」のよう[[子供]]([[男]]子)に使う。
** 僧は髪を短くしている事が多いこと、立派になるため修行中であること、妻帯や飲酒が禁止であること、などの共通点から。
* [[丸刈り]]のこと。
* [[水商売]]で、[[お客]]が一人も来ない[[日]]([[夜]])のこと。
* [[釣り]]で全く魚が釣れなかったこと。上記からの転用。
* [[物流]]業界の用語で、何らかの理由で伝票が外れ、行き先が分からなくなった荷物のこと。
* [[タイヤ]]の山が全くないこと<ref>クルマのメンテナンス 青山元男著 ナツメ出版 p136 ISBN 978-4-8163-4964-5</ref>。
* [[坊主 (米)]] - [[イネ]]の品種。
== 出典 ==
<references/>
== 関連項目 ==
{{Wiktionarypar|坊主}}
* [[葬式仏教]]
* [[百人一首#坊主めくり|坊主めくり]]
* [[門徒]]
* [[花札]]
* [[小僧]]
* [[茶坊主]]
* [[同朋衆]]
* [[芥子坊主]]
* [[ネギ坊主]]
* [[スキンヘッド]]
* [[丸刈り]]
* [[マルコメ#CM|マルコメ君]]
*{{prefix}}
*{{intitle}}
{{Buddhism-stub}}
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|
16,995 |
近鉄京都線
|
京都線(きょうとせん)は、京都府京都市下京区の京都駅から奈良県奈良市の大和西大寺駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
駅ナンバリング等で使われる路線記号はBで、番号は直通運転している橿原線と一体で振られている。
日本を代表する国際的観光都市である京都市と奈良市の都市間輸送および沿線の住宅地および関西文化学術研究都市の足を担っており、京都市への通勤・通学路線であると同時に両都市を結ぶ観光路線でもある。
終点の大和西大寺駅は近鉄の京都線・奈良線・橿原線が乗り入れる奈良市内随一のジャンクションであり、一部の列車は大和西大寺駅から近鉄奈良線を経由して奈良市の中心駅である近鉄奈良駅に至るほか、橿原線に直通して天理方面への急行や、橿原神宮前方面および大和八木駅から大阪線に直通して伊勢志摩方面へ向かう特急列車が運行されている。さらに、竹田駅から京都市営地下鉄烏丸線国際会館駅まで直通運転が行われている。このように本路線は乗り換えなしで各方面に行き来することが可能であり、京都市内中心部や滋賀県、北陸地方、東海道・山陽新幹線沿線方面から、奈良県や三重県中部(伊勢志摩地方)への観光の大動脈としても機能している。京田辺市の新田辺駅以南の沿線では関西文化学術研究都市の開発により宅地開発が進展した。
1991年から西日本旅客鉄道(JR西日本)も、並行するJR奈良線京都駅 - 奈良駅間で快速列車を運転し対抗しているが、JR奈良線は一部単線区間が残っており、近鉄京都線の方が運転本数の多さなどでまだ優勢である。ただ、外国人観光客に関してはジャパンレールパスが近鉄では利用できないため、JRを使うケースも多い。新田辺駅 - 新祝園駅間では、JR西日本の片町線(学研都市線)とも、京都駅 - 桃山御陵前駅間ではJR奈良線 - 東福寺駅 - 京阪本線からなるルートとも並行している。
全線で、ICカードPiTaPa・ICOCA・Suicaなどの全国相互利用乗車カードが利用可能である。また、以前はスルッとKANSAI対応カードおよびJスルーカードにも対応していた。
全線、大阪統括部(旧上本町営業局)の管轄である。
起点の京都駅は3階にある東海道新幹線ホームの真下の2階に所在し、2012年3月に4番線が増設され3面3線から4面4線構造に拡張された。1・2番線は主に特急や団体臨時列車の発車用で、急行・準急・普通はほとんどが3・4番線からの発車となっている。1・2・3番線は両面ホーム、4番線は片面ホームであり、その階下部分には飲食店や土産物店などが並ぶ近鉄名店街『みやこみち』がある。出発後はすぐに左へとカーブし、東海道新幹線をくぐるとすぐに東寺駅に着く。高架橋からは右手に東寺の五重塔を望むことができる。この先竹田駅までは高架線を走行する。竹田駅は、京都市営地下鉄烏丸線との共同使用駅で、上下線とも島式ホームの外側に近鉄、内側に京都市営地下鉄の列車が発着する。伏見駅を過ぎると、左手に伏見桃山城を遠望しつつ京阪本線の高架下をくぐり、京阪本線との乗換駅、近鉄丹波橋駅へ到着する。かつては京阪本線との直通運転を行っていた時期もあり駅付近にはその名残を垣間見ることができる。
近鉄丹波橋駅を出発して左右にカーブするとすぐに桃山御陵前駅に到着する。この後も急カーブが連続するために列車はスピードを落として走行する。この付近は地下水が豊富で古くからの日本酒の名産地として知られている。やがて近鉄の名鉄橋である澱川橋梁を渡る。このあたりから列車の速度が上がり、向島駅を通過する。ここから列車は巨椋池を干拓した広大な農地を一直線に走り抜ける。宇治市に入って京滋バイパスをくぐり、住宅街の中にある小倉駅を過ぎると、やがて陸上自衛隊大久保駐屯地が手前に見える高架駅の大久保駅に到着する。その後さらに列車は南へ進み城陽市に入り、長大なプレートガーター橋の木津川橋梁を渡ってしばらく進むと新田辺車庫が見え、京田辺市の中心駅の新田辺駅に到着する。6両編成の普通(地下鉄烏丸線からの直通の普通も含む)や準急は同駅までの運転となっている。
この区間では日中は普通より急行の方が列車本数が多く、普通も一部をのぞいて4両編成で運転されている。新田辺駅発車後は左にカーブし、右手にJR片町線(学研都市線)が現れる。片町線とは、ここから木津川台駅の先まで並走することとなる。タイミングが合えば、近鉄の普通列車と各駅に停車する片町線電車の長区間の並走が見られる。近鉄側が急行・特急電車の場合は、通過駅がある影響で片町線電車を大きく追い越すこととなる。しばらく進むと、同志社大学(京田辺キャンパス)の最寄り駅で天井川があった興戸駅が見える。この先、近年高架駅となった三山木駅より先は田園風景も見られるようになり、三山木駅からほどなくして、1993年に新設された近鉄宮津駅と西大寺検車区宮津車庫が見えてくる。その先をさらに進むと国立国会図書館関西館などのあるけいはんな学研都市の最寄り駅新祝園駅に到着する。木津川台駅の先で、新田辺付近から長く並走してきた片町線を渡る。列車はさらに南下するが、京都府内の駅は山田川駅までである。奈良県に入ると、すり鉢状の地形に設けられた平城ニュータウンの最寄り駅、高の原駅に到着する。この駅は京都府と奈良県の県境にある。高の原駅を出ると、列車は森の中を突き進む。やがてスピードを大きく落として、急カーブを右に曲がれば平城駅に到着する。その後左にカーブすると、奈良線・橿原線と接続するジャンクション駅である大和西大寺駅に到着する。京都線はここまでであるが、列車の大半は近鉄奈良駅、橿原神宮前駅方面へ直通する。
京都線では、特急・急行・準急・普通が運転されている。急行と普通の一部は竹田駅から京都市営地下鉄烏丸線に乗り入れ、近鉄奈良駅(急行のみ)・新田辺駅 - 地下鉄国際会館駅間で相互直通運転を行っている。以下に1時間毎の運転本数と各種別の詳細を示す。
線内の各区間の昼間時の1時間毎の運転本数の内訳は以下のようになる(2022年12月17日ダイヤ変更時点)。
2012年3月20日のダイヤ変更で昼間時間帯の各列車の運転本数が削減されたために、20分ヘッドを基本としつつ、一部区間や一部の種別で15分ヘッドも織り交ぜた複合的なダイヤとなった(ただし竹田駅以南は地下鉄烏丸線との直通列車も入るほか、京都駅 - 新田辺駅間の普通列車が毎時1本設定されていたので若干変則的である)。このため、正しくは20分や15分といった運転サイクルではなく、「60分ヘッドの中に毎時3本・4本・6本のパターンが混在している」と言える。2022年12月17日のダイヤ変更では特急・急行が20分ヘッドを基本とし(急行は時間帯や待避駅の違いによりやや間隔がずれる)、曜日や時間帯によって京奈特急や地下鉄烏丸線と直通する急行を加えたダイヤとなったが、普通列車は引き続き変則的となっている。
特急は京都駅 - 近鉄奈良駅・橿原神宮前駅間に1時間に3 - 4本運転されているほか(橿原神宮前発着は吉野線連絡あり)、京都駅 - 賢島駅間(2022年12月17日変更時点で、全区間通しは平日1往復・土休日2往復と、「しまかぜ」の1往復週6日運行のみ。他に鳥羽、宇治山田、松阪、名張発着が設定されている)にも運転されており、京都線において昼間は10分 - 20分間隔、夕方から夜にかけては15分間隔の運転である。京都線内では全列車が近鉄丹波橋駅、大和西大寺駅に停車し、加えて上り京都行きは朝9時台までの全列車およびそれ以降の一部列車、下り列車は15時以降の全列車が高の原駅にも停車している。毎月26日をはじめとした、天理教月次祭が催される日には、天理駅発着の臨時特急も1往復追加される。
かつては近鉄奈良駅発着列車と橿原神宮前駅発着列車の一部が京都駅 - 大和西大寺駅間で併結運転を行っていたが、2018年3月17日のダイヤ変更で全列車とも単独運転となっている。また、京都駅 - 近鉄奈良駅間にアーバンライナー車両による特急が設定されていたが、2009年3月20日のダイヤ変更により同区間のアーバンライナー車両の定期運用は消滅した。
2022年4月29日には京都駅 - 近鉄奈良駅 - 大阪難波駅を結ぶ観光特急「あをによし」が運転を開始した。
京都線の一般速達種別で、京都線内では特急停車駅に加えて東寺駅・竹田駅・桃山御陵前駅・大久保駅・新田辺駅・新祝園駅に停車する。ターミナル駅からの距離に関わらず主要駅にこまめに停車する点が、遠近分離型の停車パターンを採用する他の近鉄各線の急行と異なる点である。奈良線や橿原線への直通運転も行われている。京都駅 - 大和西大寺駅・近鉄奈良駅・橿原神宮前駅間で終日運転されているほか、朝夕時間帯には京都駅 - 天理駅間および京都駅 - 新田辺駅間、京都発近鉄宮津行きの列車が設定されている。近鉄宮津行きの急行は他の定期急行の停車駅に加えて興戸駅・三山木駅にも停車し、同志社大学京田辺キャンパスへの通学客の利便性を確保している。昼間時間帯と朝には地下鉄烏丸線国際会館駅 - 近鉄奈良駅間直通の急行も1時間に1往復程度運転されるが、2022年12月のダイヤ変更において平日は朝夕時間帯のみの運転となった。
2022年12月まで昼間時間帯は1時間に京都駅 - 近鉄奈良駅間の系統と国際会館駅 - 近鉄奈良駅間の系統がそれぞれ1本、京都駅 - 橿原神宮前駅間の系統が2本の計4本運転されていた。近鉄京都駅の発車時刻は毎時12分、27分、42分で、42分発と12分発の間に竹田駅から地下鉄烏丸線直通列車が加わる。地下鉄烏丸線直通列車は竹田駅で京都駅発着の普通列車と接続しており、京都駅 - 大和西大寺駅間の有効本数は昼間は毎時4本を確保していた。ただし後述の待避などの関係上、京都以外の各駅において間隔は不揃いである。
2022年12月17日のダイヤ変更後の平日昼間は京都駅 - 大和西大寺駅間で毎時3本運転されており、大半は橿原線に直通し京都駅 - 橿原神宮前駅間で運転される。近鉄京都駅の発車時刻は毎時01分、20分、40分と約20分に1本運転されている。土休日昼間はこれに国際会館駅 - 近鉄奈良駅間の系統が毎時1本加わる。ダイヤ変更前と同様に後述の待避などの関係上、京都以外の各駅において間隔は不揃いである。
すべて6両編成で運転されていたが、2021年7月3日のダイヤ変更で早朝、平日の日中、夜の一部の急行が4両編成で運転されるようになった。また、4両編成の一部の列車では、新田辺駅以北では急行、以南では普通として運転する列車や、大和西大寺駅で橿原線内を普通に種別変更して運転する列車もある。
2003年3月の快速急行の急行への統合以降は、特急と急行の運転間隔が異なるので、地下鉄直通をのぞき大久保駅・新田辺駅・新祝園駅・高の原駅のいずれかで特急待避を行うようになった。2012年3月20日のダイヤ変更で特急と(地下鉄直通を除いた)急行の運転間隔が同一に戻ってもこの運転方式が続いたが、2018年3月17日のダイヤ変更で特急が1本増発され地下鉄直通系統も含めた急行と特急の本数が同一になったことで、地下鉄直通列車も前記4駅のいずれかで特急の待ち合わせを行うようになった。また、地下鉄烏丸線からの直通列車に関しては竹田駅で近鉄京都駅発着の各駅停車(または準急)と接続している。
急行の京都駅 - 大和西大寺駅間の標準所要時間は40分前後である。早朝・深夜の特急待避が無い列車は37 - 38分で走破する。また、昼間の新田辺駅以南では普通より急行の本数が多かったが、2022年12月17日のダイヤ変更で平日のみ急行が3本となり、急行と普通の数が揃った。
2022年12月17日のダイヤ変更以後は平日土休日を問わず下り列車は運転されなくなった。全列車が新田辺駅始発の京都駅行きで、平日は朝時間帯に4本、夕時間帯に2本、土休日は3 - 5時間おきに1日3本が運行されている。新田辺駅 - 近鉄丹波橋駅間は各駅に停車し、近鉄丹波橋駅 - 京都駅間は急行と同一の停車駅で運転される。
3駅しか通過せず、普通も追い抜かない(ただし一時期は夕方の京都駅発の準急が上鳥羽口駅で普通を追い抜いていたことがあったが、現在は準急と普通の京都駅での発車順序を入れ替えたため追い抜きは廃止された)、京都線の輸送力の補完の意味合いが強く、丹波橋駅で接続する京阪本線から京都駅への速達アクセスとしても機能している。ただしおよそ半数の列車は終点京都駅まで急行に抜かれないため、急行の混雑緩和に役立っている。編成両数は6両または4両である。
また、夕方ラッシュ時運行の6両編成の列車は、京都駅での折り返し場面で急行と準急の運用を入れかえる新田辺車庫の出庫列車の役割も兼ねていた(入庫は2021年ダイヤ改正で6両編成は終了)。すなわち、京都行き急行から折り返し新田辺行き準急、京都行き準急から折り返し近鉄奈良・天理・橿原神宮前行き急行となる運用パターンになっていた。
なお、1994年までは京都駅 - 大和西大寺駅・近鉄奈良駅間に運転されており、当時は向島駅を通過し小倉駅 - 近鉄奈良駅間は各駅に停車していた(1988年の地下鉄開業までは、竹田駅も通過していた)。1960年代までは京都駅 - 新田辺駅間は急行と同一、新田辺駅以南は各駅停車であった時代もあり、丹波橋駅以南各駅停車(向島駅は当時未開業)と新田辺駅以南各駅停車の設定が変動していた時期もあった。
2000年代後半以降はダイヤ変更のたびに本数が減少する傾向にあり、2010年3月のダイヤ変更では本数が大幅に削減された。特に夕方ラッシュ時には従来30分間隔で運転されていたものが60分間隔とされ、運転本数が半減している。2021年7月のダイヤ変更では平日の朝上りが廃止された一方で、土休日下りの朝に設定された。この準急は竹田駅で京都市営地下鉄烏丸線からの急行に接続する。
各駅に停車する。現行のダイヤでは大半の列車が新田辺駅で系統分離されており、終日、京都駅 - 新田辺駅、地下鉄烏丸線国際会館駅 - 新田辺駅、新田辺駅 - 大和西大寺駅・橿原神宮前駅間で運転されている。一部時間帯では、京都駅 - 大和西大寺駅・天理駅(土休日上り1本・下り2本のみ)・橿原神宮前駅、国際会館駅 - 近鉄宮津駅(平日上り1本のみ)、新田辺駅 - 近鉄宮津駅・奈良駅(土休日1往復のみ)・天理駅間でも運転されている。
新田辺駅以北では、昼間時間帯は1時間に京都駅発着が4本、地下鉄線直通が2本の計6本が設定されている。京都駅 - 竹田駅間は1時間4本であるが、京都市営地下鉄とのダイヤ調整のため15分間隔ではない。新田辺駅以南では、昼間時間帯はおおむね15 - 25分間隔で1時間3本となる。
編成両数は地下鉄直通の全列車と、ラッシュ時などの京都駅 - 新田辺駅間・新田辺駅 - 近鉄宮津駅間の一部の区間運転列車が6両編成で、その他は4両編成である。狛田駅と山田川駅および直通する橿原線内の普通のみの停車駅のホーム有効長が4両分までのため、大和西大寺駅発着および橿原線・天理線直通の列車は4両編成で運転している。一部、京都駅 - 新田辺駅間を6両編成で運転し、新田辺駅で連結・切り離し作業あるいは車両の取り替えを行い新田辺駅以南を4両編成で運転する列車もある。新田辺駅 - 近鉄宮津駅間の臨時普通は6両編成、朝ラッシュ時にごくわずかに設定されている定期の普通は2021年7月3日のダイヤ変更前は4両編成で運転されていたが、ダイヤ変更後は6両編成で運転され、新田辺駅で京都行きになる。
なお、1997年の地球温暖化防止京都会議中には烏丸線直通の普通列車が高の原駅まで乗り入れていた。ただし当時、6両編成が停車できなかった興戸駅と4両対応の狛田駅・山田川駅は通過していた。また、2012年3月20日のダイヤ変更前は大和西大寺行きは時間帯によっては大和西大寺駅から天理行きまたは橿原神宮前行きに変更していた。一旦、大和西大寺行きとして運転していた理由としてダイヤが乱れた時に運休あるいは別編成を大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅・天理駅間に充当できるようにするためであるほか、大和西大寺駅から先を急行として種別変更もされる列車があるためでもある。したがって、実際には大和西大寺駅で折り返さずに京都駅 - 橿原神宮前駅・天理駅間を直通で運転していた。
1998年から京都駅 - 近鉄奈良駅間で日中に1時間あたり2本設定された。竹田駅・近鉄丹波橋駅・大和西大寺駅・新大宮駅(2000年から)に停車し、竹田駅で国際会館駅発着の急行と接続して速達性の向上を図った(当時の日中は1時間あたり京都発着の快速急行と急行が2本ずつ、国際会館発着の急行が2本)が、利用は芳しくなく誤乗も多かったため、2003年春のダイヤ変更で廃止され急行に格下げされた。以降、日中の竹田駅 - 大和西大寺駅間の急行が1時間あたり6本となり、2012年3月19日まで続いた。定期列車が設定される前にも1988年のなら・シルクロード博覧会などの際にも臨時に運転されていたことがある(日中1時間に1本の運転。停車駅は近鉄丹波橋駅・大和西大寺駅で、2002年以降の特急と同じであった)。
新田辺・宮津・西大寺の各車庫へ出入庫するための回送列車が運行されている。一部は京都市営地下鉄車両の回送列車もある。特に、近鉄奈良・大和西大寺方面の回送列車の一部は、近鉄宮津駅 - 大和西大寺駅間のみであるが、奈良線快速急行の折り返しで8・10両編成で運転されている。
同志社の京田辺キャンパス、同志社女子大学京田辺キャンパス開校日に運転される。朝方は京都発(9:31発)新田辺行き急行1本が近鉄宮津行きに延長され、新田辺から各駅に停まる(ただし天理教月次祭等開催時は天理行き急行となり興戸・三山木・近鉄宮津の3駅を通過する)。夕方は近鉄宮津発新田辺行き各駅停車が5本運転される(15:18、16:24、16:39、16:53、18:24発)。その一部は新田辺から定期運転の京都行き準急や国際会館行き各駅停車へ変更され運転される。
大晦日から元旦にかけての終夜運転は、京都から伊勢方面・橿原神宮前・近鉄奈良への特急を各系統合わせて30 - 60分間隔で運転しているほか、京都駅 - 新田辺駅・大和西大寺駅間に普通を15 - 30分間隔で運転する形態となっている。時刻については近鉄の公式ホームページでも紹介されている。なお、2020年度は終夜運転は実施されなかった。2021年度は橿原神宮前発京都行きと京都駅発宇治山田駅行きの特急が2往復のほか、京都駅 - 橿原神宮前駅間に普通が30 - 60分間隔で運転された。
近鉄奈良線で使用される自社車両が京都線でも使用されるほか、京都市営地下鉄烏丸線10系、20系の乗り入れ運用もある(主に新田辺駅以北折り返しの普通で運用。昼間時は近鉄奈良駅直通急行運用もあり)。
近鉄京都発着の列車で、地下鉄線対応の3200系・3220系を含む6両単独編成は近鉄宮津駅以南発着の普通をのぞき、すべての種別にて運用されている(狛田駅・山田川駅および橿原線内の普通のみの停車駅のホーム有効長が4両分までしかないため)。
また、5800系や5820系といったL/Cカーは京都線・橿原線・天理線運用とそれに関連する運用の場合は座席は常時ロングシートの状態で運転される。なお、2009年3月20日からは阪神電気鉄道との直通運転の開始に伴い、同社乗り入れ対応車両を捻出する必要が出て来たため、地下鉄線対応車と8600系8619編成を除く6両固定編成については同日以降定期運用が消滅している。
2012年までは3000系も京都線系統を中心に使用されており、これ以外にも奈良・京都・橿原線系統以外の一般車両が運用された珍しい例として、地下鉄直通運転開始前の一時期、名古屋線から転属したモ1650形(抑速ブレーキ非装備、2700mm幅車体)が8000系・8400系の増結用に使用されたことがあった。
2016年3月27日から車掌のタブレット端末(パナソニック製TOUGHPAD FZ-B2)の操作による車内自動放送が開始された。
各駅の記事も参照。
過去には以下の方式が用いられたが、2022年時点でいずれも使用駅はない。
京阪電気鉄道と大阪電気軌道(通称「大軌」。近鉄の前身)の合弁会社である奈良電気鉄道(通称「奈良電」)により、私鉄路線がなかった2つの古都を結ぶ目的で開業した。京都駅 - 近鉄丹波橋駅間は国鉄奈良線の旧線跡を利用して建設され、全通時より大軌の奈良線・畝傍線(現在の橿原線)と相互直通運転をしていた。さらに戦後直後から1968年までは、京阪本線との直通運転も行った。
近鉄の路線となったのは、1963年10月1日のことである。なお、同線の建設や近鉄統合に関しては、「奈良電気鉄道」の項目も参照。
建設に当たり、宇治川以北のルート選定は難航した。
建設当時沿線は陸軍第16師団・工兵第16大隊の演習地となっており、用地買収の速成の観点から軍用地の土地交換を申し出た。陸軍省での検討が難航していると仄聞した会社側は、省からの回答を待たずに無橋脚へと踏切る形となった。また、桃山御陵前駅の前後は、京都府より桃山御陵への参拝道との平面交差に対し、安全上の問題から変更指示を受けたため、地下線での建設を計画した。それに対し、伏見の酒造組合が地下水の枯渇を理由に反対運動を行った。後に会社側でもボーリング調査等を行い、問題ないことを表明した。同時期に奈良線伏見貨物線の共用を願い出ていた最中に伏見町からの町域を全線高架化するようにとの建議がなされた。鉄道省側は当該線の高架費用負担を嫌い、会社側に高架化を条件に払下げるとしたため、残る高架方式での建設となった。桃山御陵前駅 - 向島駅間の宇治川に架かる澱川橋梁が日本最長164.6mの単純トラス橋構造となったのは、このような複雑な事情による。
現在でも陸上自衛隊の演習地が宇治川周辺に存在する。しかし、伏見区内の住宅開発が進んだ事もあって大久保駅前にある陸上自衛隊大久保駐屯地や京阪宇治線木幡駅の周辺に移転しており、現在では澱川橋梁の近辺で演習が行われることはない。
奈良電が開業するにあたっては、当時の東海道線を跨線し、国鉄京都駅の烏丸口側(北側の中央口)に奈良電の高架駅を設ける予定であったが、工事速成の観点から八条口(南口)側に仮設駅を設けるよう、大阪鉄道局長から通達があり、仮設駅として開業した。 この仮設であった駅は、昭和恐慌などの影響で計画自体が着手すらままならない状況のまま戦後を迎えた。東海道新幹線が建設される際にはその直上に新幹線の線路とプラットホームを設置し、奈良電の駅も高架3線化された。この際に仮設駅扱いであった現在の位置を本設駅として変更を行い、北側までの免許を取り消すことになった。
平城宮跡付近の迂回を目的とする連続立体交差事業に伴い、大和西大寺駅の高架化および移設が計画されており、大和西大寺駅付近の開かずの踏切が除却される予定である。
平城駅 - 大和西大寺駅間は現在の線路から最大で100mほど離れて西へ膨らむように南下して新しい大和西大寺駅に進入する。
近鉄は、2022年4月15日に運賃改定の申請資料において、老朽化した車両約450両のうち新造から55年を超えた車両について、2024年度から順次必要分を新型車両に置き換える計画を発表した。
新型車両は2024年秋から運行開始予定で、奈良線、京都線、橿原線、天理線(以降他線区も展開予定)で4両10編成(計40両)が導入される。ロングシートとクロスシートを切り替えできるL/Cカーとなる。
駅ナカ・駅チカにある店舗
1日当たりの乗降客数は次の通り。
|
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"text": "京都線(きょうとせん)は、京都府京都市下京区の京都駅から奈良県奈良市の大和西大寺駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。",
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"text": "駅ナンバリング等で使われる路線記号はBで、番号は直通運転している橿原線と一体で振られている。",
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"text": "日本を代表する国際的観光都市である京都市と奈良市の都市間輸送および沿線の住宅地および関西文化学術研究都市の足を担っており、京都市への通勤・通学路線であると同時に両都市を結ぶ観光路線でもある。",
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"text": "終点の大和西大寺駅は近鉄の京都線・奈良線・橿原線が乗り入れる奈良市内随一のジャンクションであり、一部の列車は大和西大寺駅から近鉄奈良線を経由して奈良市の中心駅である近鉄奈良駅に至るほか、橿原線に直通して天理方面への急行や、橿原神宮前方面および大和八木駅から大阪線に直通して伊勢志摩方面へ向かう特急列車が運行されている。さらに、竹田駅から京都市営地下鉄烏丸線国際会館駅まで直通運転が行われている。このように本路線は乗り換えなしで各方面に行き来することが可能であり、京都市内中心部や滋賀県、北陸地方、東海道・山陽新幹線沿線方面から、奈良県や三重県中部(伊勢志摩地方)への観光の大動脈としても機能している。京田辺市の新田辺駅以南の沿線では関西文化学術研究都市の開発により宅地開発が進展した。",
"title": "概要"
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"text": "1991年から西日本旅客鉄道(JR西日本)も、並行するJR奈良線京都駅 - 奈良駅間で快速列車を運転し対抗しているが、JR奈良線は一部単線区間が残っており、近鉄京都線の方が運転本数の多さなどでまだ優勢である。ただ、外国人観光客に関してはジャパンレールパスが近鉄では利用できないため、JRを使うケースも多い。新田辺駅 - 新祝園駅間では、JR西日本の片町線(学研都市線)とも、京都駅 - 桃山御陵前駅間ではJR奈良線 - 東福寺駅 - 京阪本線からなるルートとも並行している。",
"title": "概要"
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"text": "全線で、ICカードPiTaPa・ICOCA・Suicaなどの全国相互利用乗車カードが利用可能である。また、以前はスルッとKANSAI対応カードおよびJスルーカードにも対応していた。",
"title": "概要"
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"text": "全線、大阪統括部(旧上本町営業局)の管轄である。",
"title": "概要"
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"text": "起点の京都駅は3階にある東海道新幹線ホームの真下の2階に所在し、2012年3月に4番線が増設され3面3線から4面4線構造に拡張された。1・2番線は主に特急や団体臨時列車の発車用で、急行・準急・普通はほとんどが3・4番線からの発車となっている。1・2・3番線は両面ホーム、4番線は片面ホームであり、その階下部分には飲食店や土産物店などが並ぶ近鉄名店街『みやこみち』がある。出発後はすぐに左へとカーブし、東海道新幹線をくぐるとすぐに東寺駅に着く。高架橋からは右手に東寺の五重塔を望むことができる。この先竹田駅までは高架線を走行する。竹田駅は、京都市営地下鉄烏丸線との共同使用駅で、上下線とも島式ホームの外側に近鉄、内側に京都市営地下鉄の列車が発着する。伏見駅を過ぎると、左手に伏見桃山城を遠望しつつ京阪本線の高架下をくぐり、京阪本線との乗換駅、近鉄丹波橋駅へ到着する。かつては京阪本線との直通運転を行っていた時期もあり駅付近にはその名残を垣間見ることができる。",
"title": "沿線風景"
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"text": "近鉄丹波橋駅を出発して左右にカーブするとすぐに桃山御陵前駅に到着する。この後も急カーブが連続するために列車はスピードを落として走行する。この付近は地下水が豊富で古くからの日本酒の名産地として知られている。やがて近鉄の名鉄橋である澱川橋梁を渡る。このあたりから列車の速度が上がり、向島駅を通過する。ここから列車は巨椋池を干拓した広大な農地を一直線に走り抜ける。宇治市に入って京滋バイパスをくぐり、住宅街の中にある小倉駅を過ぎると、やがて陸上自衛隊大久保駐屯地が手前に見える高架駅の大久保駅に到着する。その後さらに列車は南へ進み城陽市に入り、長大なプレートガーター橋の木津川橋梁を渡ってしばらく進むと新田辺車庫が見え、京田辺市の中心駅の新田辺駅に到着する。6両編成の普通(地下鉄烏丸線からの直通の普通も含む)や準急は同駅までの運転となっている。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "この区間では日中は普通より急行の方が列車本数が多く、普通も一部をのぞいて4両編成で運転されている。新田辺駅発車後は左にカーブし、右手にJR片町線(学研都市線)が現れる。片町線とは、ここから木津川台駅の先まで並走することとなる。タイミングが合えば、近鉄の普通列車と各駅に停車する片町線電車の長区間の並走が見られる。近鉄側が急行・特急電車の場合は、通過駅がある影響で片町線電車を大きく追い越すこととなる。しばらく進むと、同志社大学(京田辺キャンパス)の最寄り駅で天井川があった興戸駅が見える。この先、近年高架駅となった三山木駅より先は田園風景も見られるようになり、三山木駅からほどなくして、1993年に新設された近鉄宮津駅と西大寺検車区宮津車庫が見えてくる。その先をさらに進むと国立国会図書館関西館などのあるけいはんな学研都市の最寄り駅新祝園駅に到着する。木津川台駅の先で、新田辺付近から長く並走してきた片町線を渡る。列車はさらに南下するが、京都府内の駅は山田川駅までである。奈良県に入ると、すり鉢状の地形に設けられた平城ニュータウンの最寄り駅、高の原駅に到着する。この駅は京都府と奈良県の県境にある。高の原駅を出ると、列車は森の中を突き進む。やがてスピードを大きく落として、急カーブを右に曲がれば平城駅に到着する。その後左にカーブすると、奈良線・橿原線と接続するジャンクション駅である大和西大寺駅に到着する。京都線はここまでであるが、列車の大半は近鉄奈良駅、橿原神宮前駅方面へ直通する。",
"title": "沿線風景"
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"text": "京都線では、特急・急行・準急・普通が運転されている。急行と普通の一部は竹田駅から京都市営地下鉄烏丸線に乗り入れ、近鉄奈良駅(急行のみ)・新田辺駅 - 地下鉄国際会館駅間で相互直通運転を行っている。以下に1時間毎の運転本数と各種別の詳細を示す。",
"title": "運行形態"
},
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"tag": "p",
"text": "線内の各区間の昼間時の1時間毎の運転本数の内訳は以下のようになる(2022年12月17日ダイヤ変更時点)。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "2012年3月20日のダイヤ変更で昼間時間帯の各列車の運転本数が削減されたために、20分ヘッドを基本としつつ、一部区間や一部の種別で15分ヘッドも織り交ぜた複合的なダイヤとなった(ただし竹田駅以南は地下鉄烏丸線との直通列車も入るほか、京都駅 - 新田辺駅間の普通列車が毎時1本設定されていたので若干変則的である)。このため、正しくは20分や15分といった運転サイクルではなく、「60分ヘッドの中に毎時3本・4本・6本のパターンが混在している」と言える。2022年12月17日のダイヤ変更では特急・急行が20分ヘッドを基本とし(急行は時間帯や待避駅の違いによりやや間隔がずれる)、曜日や時間帯によって京奈特急や地下鉄烏丸線と直通する急行を加えたダイヤとなったが、普通列車は引き続き変則的となっている。",
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"text": "特急は京都駅 - 近鉄奈良駅・橿原神宮前駅間に1時間に3 - 4本運転されているほか(橿原神宮前発着は吉野線連絡あり)、京都駅 - 賢島駅間(2022年12月17日変更時点で、全区間通しは平日1往復・土休日2往復と、「しまかぜ」の1往復週6日運行のみ。他に鳥羽、宇治山田、松阪、名張発着が設定されている)にも運転されており、京都線において昼間は10分 - 20分間隔、夕方から夜にかけては15分間隔の運転である。京都線内では全列車が近鉄丹波橋駅、大和西大寺駅に停車し、加えて上り京都行きは朝9時台までの全列車およびそれ以降の一部列車、下り列車は15時以降の全列車が高の原駅にも停車している。毎月26日をはじめとした、天理教月次祭が催される日には、天理駅発着の臨時特急も1往復追加される。",
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"text": "かつては近鉄奈良駅発着列車と橿原神宮前駅発着列車の一部が京都駅 - 大和西大寺駅間で併結運転を行っていたが、2018年3月17日のダイヤ変更で全列車とも単独運転となっている。また、京都駅 - 近鉄奈良駅間にアーバンライナー車両による特急が設定されていたが、2009年3月20日のダイヤ変更により同区間のアーバンライナー車両の定期運用は消滅した。",
"title": "運行形態"
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"text": "2022年4月29日には京都駅 - 近鉄奈良駅 - 大阪難波駅を結ぶ観光特急「あをによし」が運転を開始した。",
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"text": "京都線の一般速達種別で、京都線内では特急停車駅に加えて東寺駅・竹田駅・桃山御陵前駅・大久保駅・新田辺駅・新祝園駅に停車する。ターミナル駅からの距離に関わらず主要駅にこまめに停車する点が、遠近分離型の停車パターンを採用する他の近鉄各線の急行と異なる点である。奈良線や橿原線への直通運転も行われている。京都駅 - 大和西大寺駅・近鉄奈良駅・橿原神宮前駅間で終日運転されているほか、朝夕時間帯には京都駅 - 天理駅間および京都駅 - 新田辺駅間、京都発近鉄宮津行きの列車が設定されている。近鉄宮津行きの急行は他の定期急行の停車駅に加えて興戸駅・三山木駅にも停車し、同志社大学京田辺キャンパスへの通学客の利便性を確保している。昼間時間帯と朝には地下鉄烏丸線国際会館駅 - 近鉄奈良駅間直通の急行も1時間に1往復程度運転されるが、2022年12月のダイヤ変更において平日は朝夕時間帯のみの運転となった。",
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"text": "2022年12月まで昼間時間帯は1時間に京都駅 - 近鉄奈良駅間の系統と国際会館駅 - 近鉄奈良駅間の系統がそれぞれ1本、京都駅 - 橿原神宮前駅間の系統が2本の計4本運転されていた。近鉄京都駅の発車時刻は毎時12分、27分、42分で、42分発と12分発の間に竹田駅から地下鉄烏丸線直通列車が加わる。地下鉄烏丸線直通列車は竹田駅で京都駅発着の普通列車と接続しており、京都駅 - 大和西大寺駅間の有効本数は昼間は毎時4本を確保していた。ただし後述の待避などの関係上、京都以外の各駅において間隔は不揃いである。",
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"text": "2022年12月17日のダイヤ変更後の平日昼間は京都駅 - 大和西大寺駅間で毎時3本運転されており、大半は橿原線に直通し京都駅 - 橿原神宮前駅間で運転される。近鉄京都駅の発車時刻は毎時01分、20分、40分と約20分に1本運転されている。土休日昼間はこれに国際会館駅 - 近鉄奈良駅間の系統が毎時1本加わる。ダイヤ変更前と同様に後述の待避などの関係上、京都以外の各駅において間隔は不揃いである。",
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "すべて6両編成で運転されていたが、2021年7月3日のダイヤ変更で早朝、平日の日中、夜の一部の急行が4両編成で運転されるようになった。また、4両編成の一部の列車では、新田辺駅以北では急行、以南では普通として運転する列車や、大和西大寺駅で橿原線内を普通に種別変更して運転する列車もある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2003年3月の快速急行の急行への統合以降は、特急と急行の運転間隔が異なるので、地下鉄直通をのぞき大久保駅・新田辺駅・新祝園駅・高の原駅のいずれかで特急待避を行うようになった。2012年3月20日のダイヤ変更で特急と(地下鉄直通を除いた)急行の運転間隔が同一に戻ってもこの運転方式が続いたが、2018年3月17日のダイヤ変更で特急が1本増発され地下鉄直通系統も含めた急行と特急の本数が同一になったことで、地下鉄直通列車も前記4駅のいずれかで特急の待ち合わせを行うようになった。また、地下鉄烏丸線からの直通列車に関しては竹田駅で近鉄京都駅発着の各駅停車(または準急)と接続している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "急行の京都駅 - 大和西大寺駅間の標準所要時間は40分前後である。早朝・深夜の特急待避が無い列車は37 - 38分で走破する。また、昼間の新田辺駅以南では普通より急行の本数が多かったが、2022年12月17日のダイヤ変更で平日のみ急行が3本となり、急行と普通の数が揃った。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2022年12月17日のダイヤ変更以後は平日土休日を問わず下り列車は運転されなくなった。全列車が新田辺駅始発の京都駅行きで、平日は朝時間帯に4本、夕時間帯に2本、土休日は3 - 5時間おきに1日3本が運行されている。新田辺駅 - 近鉄丹波橋駅間は各駅に停車し、近鉄丹波橋駅 - 京都駅間は急行と同一の停車駅で運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "3駅しか通過せず、普通も追い抜かない(ただし一時期は夕方の京都駅発の準急が上鳥羽口駅で普通を追い抜いていたことがあったが、現在は準急と普通の京都駅での発車順序を入れ替えたため追い抜きは廃止された)、京都線の輸送力の補完の意味合いが強く、丹波橋駅で接続する京阪本線から京都駅への速達アクセスとしても機能している。ただしおよそ半数の列車は終点京都駅まで急行に抜かれないため、急行の混雑緩和に役立っている。編成両数は6両または4両である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "また、夕方ラッシュ時運行の6両編成の列車は、京都駅での折り返し場面で急行と準急の運用を入れかえる新田辺車庫の出庫列車の役割も兼ねていた(入庫は2021年ダイヤ改正で6両編成は終了)。すなわち、京都行き急行から折り返し新田辺行き準急、京都行き準急から折り返し近鉄奈良・天理・橿原神宮前行き急行となる運用パターンになっていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "なお、1994年までは京都駅 - 大和西大寺駅・近鉄奈良駅間に運転されており、当時は向島駅を通過し小倉駅 - 近鉄奈良駅間は各駅に停車していた(1988年の地下鉄開業までは、竹田駅も通過していた)。1960年代までは京都駅 - 新田辺駅間は急行と同一、新田辺駅以南は各駅停車であった時代もあり、丹波橋駅以南各駅停車(向島駅は当時未開業)と新田辺駅以南各駅停車の設定が変動していた時期もあった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2000年代後半以降はダイヤ変更のたびに本数が減少する傾向にあり、2010年3月のダイヤ変更では本数が大幅に削減された。特に夕方ラッシュ時には従来30分間隔で運転されていたものが60分間隔とされ、運転本数が半減している。2021年7月のダイヤ変更では平日の朝上りが廃止された一方で、土休日下りの朝に設定された。この準急は竹田駅で京都市営地下鉄烏丸線からの急行に接続する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "各駅に停車する。現行のダイヤでは大半の列車が新田辺駅で系統分離されており、終日、京都駅 - 新田辺駅、地下鉄烏丸線国際会館駅 - 新田辺駅、新田辺駅 - 大和西大寺駅・橿原神宮前駅間で運転されている。一部時間帯では、京都駅 - 大和西大寺駅・天理駅(土休日上り1本・下り2本のみ)・橿原神宮前駅、国際会館駅 - 近鉄宮津駅(平日上り1本のみ)、新田辺駅 - 近鉄宮津駅・奈良駅(土休日1往復のみ)・天理駅間でも運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "新田辺駅以北では、昼間時間帯は1時間に京都駅発着が4本、地下鉄線直通が2本の計6本が設定されている。京都駅 - 竹田駅間は1時間4本であるが、京都市営地下鉄とのダイヤ調整のため15分間隔ではない。新田辺駅以南では、昼間時間帯はおおむね15 - 25分間隔で1時間3本となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "編成両数は地下鉄直通の全列車と、ラッシュ時などの京都駅 - 新田辺駅間・新田辺駅 - 近鉄宮津駅間の一部の区間運転列車が6両編成で、その他は4両編成である。狛田駅と山田川駅および直通する橿原線内の普通のみの停車駅のホーム有効長が4両分までのため、大和西大寺駅発着および橿原線・天理線直通の列車は4両編成で運転している。一部、京都駅 - 新田辺駅間を6両編成で運転し、新田辺駅で連結・切り離し作業あるいは車両の取り替えを行い新田辺駅以南を4両編成で運転する列車もある。新田辺駅 - 近鉄宮津駅間の臨時普通は6両編成、朝ラッシュ時にごくわずかに設定されている定期の普通は2021年7月3日のダイヤ変更前は4両編成で運転されていたが、ダイヤ変更後は6両編成で運転され、新田辺駅で京都行きになる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "なお、1997年の地球温暖化防止京都会議中には烏丸線直通の普通列車が高の原駅まで乗り入れていた。ただし当時、6両編成が停車できなかった興戸駅と4両対応の狛田駅・山田川駅は通過していた。また、2012年3月20日のダイヤ変更前は大和西大寺行きは時間帯によっては大和西大寺駅から天理行きまたは橿原神宮前行きに変更していた。一旦、大和西大寺行きとして運転していた理由としてダイヤが乱れた時に運休あるいは別編成を大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅・天理駅間に充当できるようにするためであるほか、大和西大寺駅から先を急行として種別変更もされる列車があるためでもある。したがって、実際には大和西大寺駅で折り返さずに京都駅 - 橿原神宮前駅・天理駅間を直通で運転していた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1998年から京都駅 - 近鉄奈良駅間で日中に1時間あたり2本設定された。竹田駅・近鉄丹波橋駅・大和西大寺駅・新大宮駅(2000年から)に停車し、竹田駅で国際会館駅発着の急行と接続して速達性の向上を図った(当時の日中は1時間あたり京都発着の快速急行と急行が2本ずつ、国際会館発着の急行が2本)が、利用は芳しくなく誤乗も多かったため、2003年春のダイヤ変更で廃止され急行に格下げされた。以降、日中の竹田駅 - 大和西大寺駅間の急行が1時間あたり6本となり、2012年3月19日まで続いた。定期列車が設定される前にも1988年のなら・シルクロード博覧会などの際にも臨時に運転されていたことがある(日中1時間に1本の運転。停車駅は近鉄丹波橋駅・大和西大寺駅で、2002年以降の特急と同じであった)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "新田辺・宮津・西大寺の各車庫へ出入庫するための回送列車が運行されている。一部は京都市営地下鉄車両の回送列車もある。特に、近鉄奈良・大和西大寺方面の回送列車の一部は、近鉄宮津駅 - 大和西大寺駅間のみであるが、奈良線快速急行の折り返しで8・10両編成で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "同志社の京田辺キャンパス、同志社女子大学京田辺キャンパス開校日に運転される。朝方は京都発(9:31発)新田辺行き急行1本が近鉄宮津行きに延長され、新田辺から各駅に停まる(ただし天理教月次祭等開催時は天理行き急行となり興戸・三山木・近鉄宮津の3駅を通過する)。夕方は近鉄宮津発新田辺行き各駅停車が5本運転される(15:18、16:24、16:39、16:53、18:24発)。その一部は新田辺から定期運転の京都行き準急や国際会館行き各駅停車へ変更され運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "大晦日から元旦にかけての終夜運転は、京都から伊勢方面・橿原神宮前・近鉄奈良への特急を各系統合わせて30 - 60分間隔で運転しているほか、京都駅 - 新田辺駅・大和西大寺駅間に普通を15 - 30分間隔で運転する形態となっている。時刻については近鉄の公式ホームページでも紹介されている。なお、2020年度は終夜運転は実施されなかった。2021年度は橿原神宮前発京都行きと京都駅発宇治山田駅行きの特急が2往復のほか、京都駅 - 橿原神宮前駅間に普通が30 - 60分間隔で運転された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "近鉄奈良線で使用される自社車両が京都線でも使用されるほか、京都市営地下鉄烏丸線10系、20系の乗り入れ運用もある(主に新田辺駅以北折り返しの普通で運用。昼間時は近鉄奈良駅直通急行運用もあり)。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "近鉄京都発着の列車で、地下鉄線対応の3200系・3220系を含む6両単独編成は近鉄宮津駅以南発着の普通をのぞき、すべての種別にて運用されている(狛田駅・山田川駅および橿原線内の普通のみの停車駅のホーム有効長が4両分までしかないため)。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また、5800系や5820系といったL/Cカーは京都線・橿原線・天理線運用とそれに関連する運用の場合は座席は常時ロングシートの状態で運転される。なお、2009年3月20日からは阪神電気鉄道との直通運転の開始に伴い、同社乗り入れ対応車両を捻出する必要が出て来たため、地下鉄線対応車と8600系8619編成を除く6両固定編成については同日以降定期運用が消滅している。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2012年までは3000系も京都線系統を中心に使用されており、これ以外にも奈良・京都・橿原線系統以外の一般車両が運用された珍しい例として、地下鉄直通運転開始前の一時期、名古屋線から転属したモ1650形(抑速ブレーキ非装備、2700mm幅車体)が8000系・8400系の増結用に使用されたことがあった。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2016年3月27日から車掌のタブレット端末(パナソニック製TOUGHPAD FZ-B2)の操作による車内自動放送が開始された。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "各駅の記事も参照。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "過去には以下の方式が用いられたが、2022年時点でいずれも使用駅はない。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "京阪電気鉄道と大阪電気軌道(通称「大軌」。近鉄の前身)の合弁会社である奈良電気鉄道(通称「奈良電」)により、私鉄路線がなかった2つの古都を結ぶ目的で開業した。京都駅 - 近鉄丹波橋駅間は国鉄奈良線の旧線跡を利用して建設され、全通時より大軌の奈良線・畝傍線(現在の橿原線)と相互直通運転をしていた。さらに戦後直後から1968年までは、京阪本線との直通運転も行った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "近鉄の路線となったのは、1963年10月1日のことである。なお、同線の建設や近鉄統合に関しては、「奈良電気鉄道」の項目も参照。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "建設に当たり、宇治川以北のルート選定は難航した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "建設当時沿線は陸軍第16師団・工兵第16大隊の演習地となっており、用地買収の速成の観点から軍用地の土地交換を申し出た。陸軍省での検討が難航していると仄聞した会社側は、省からの回答を待たずに無橋脚へと踏切る形となった。また、桃山御陵前駅の前後は、京都府より桃山御陵への参拝道との平面交差に対し、安全上の問題から変更指示を受けたため、地下線での建設を計画した。それに対し、伏見の酒造組合が地下水の枯渇を理由に反対運動を行った。後に会社側でもボーリング調査等を行い、問題ないことを表明した。同時期に奈良線伏見貨物線の共用を願い出ていた最中に伏見町からの町域を全線高架化するようにとの建議がなされた。鉄道省側は当該線の高架費用負担を嫌い、会社側に高架化を条件に払下げるとしたため、残る高架方式での建設となった。桃山御陵前駅 - 向島駅間の宇治川に架かる澱川橋梁が日本最長164.6mの単純トラス橋構造となったのは、このような複雑な事情による。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "現在でも陸上自衛隊の演習地が宇治川周辺に存在する。しかし、伏見区内の住宅開発が進んだ事もあって大久保駅前にある陸上自衛隊大久保駐屯地や京阪宇治線木幡駅の周辺に移転しており、現在では澱川橋梁の近辺で演習が行われることはない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "奈良電が開業するにあたっては、当時の東海道線を跨線し、国鉄京都駅の烏丸口側(北側の中央口)に奈良電の高架駅を設ける予定であったが、工事速成の観点から八条口(南口)側に仮設駅を設けるよう、大阪鉄道局長から通達があり、仮設駅として開業した。 この仮設であった駅は、昭和恐慌などの影響で計画自体が着手すらままならない状況のまま戦後を迎えた。東海道新幹線が建設される際にはその直上に新幹線の線路とプラットホームを設置し、奈良電の駅も高架3線化された。この際に仮設駅扱いであった現在の位置を本設駅として変更を行い、北側までの免許を取り消すことになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "平城宮跡付近の迂回を目的とする連続立体交差事業に伴い、大和西大寺駅の高架化および移設が計画されており、大和西大寺駅付近の開かずの踏切が除却される予定である。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "平城駅 - 大和西大寺駅間は現在の線路から最大で100mほど離れて西へ膨らむように南下して新しい大和西大寺駅に進入する。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "近鉄は、2022年4月15日に運賃改定の申請資料において、老朽化した車両約450両のうち新造から55年を超えた車両について、2024年度から順次必要分を新型車両に置き換える計画を発表した。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "新型車両は2024年秋から運行開始予定で、奈良線、京都線、橿原線、天理線(以降他線区も展開予定)で4両10編成(計40両)が導入される。ロングシートとクロスシートを切り替えできるL/Cカーとなる。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "駅ナカ・駅チカにある店舗",
"title": "駅内店舗"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1日当たりの乗降客数は次の通り。",
"title": "主要駅の乗降客数"
}
] |
京都線(きょうとせん)は、京都府京都市下京区の京都駅から奈良県奈良市の大和西大寺駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。 駅ナンバリング等で使われる路線記号はBで、番号は直通運転している橿原線と一体で振られている。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 京都線
|路線色 = #FAB202
|ロゴ = [[File:KT number-B.svg|40px|B]]
|画像 = Kintetsu-5800 001 JPN.JPG
|画像サイズ = 300px <!-- 画像を差し替える場合は京都線内の画像にしてください。-->
|画像説明 = [[近鉄5800系電車|5800系電車]]による近鉄奈良行き急行<br>(2006年3月26日 [[狛田駅]] - [[新祝園駅]]間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[京都府]]、[[奈良県]]
|起点 = [[京都駅]]
|終点 = [[大和西大寺駅]]
|路線記号 = [[File:KT number-B.svg|20px|B]]
|駅数 = 26駅
|開業 = [[1928年]][[11月3日]]
|全通 = 1928年[[11月15日]]
|廃止 =
|所有者 = <!-- [[奈良電気鉄道]]→ -->[[近畿日本鉄道]]
|運営者 = 近畿日本鉄道
|車両基地 = [[西大寺検車区]]、同区新田辺車庫、<br />同区宮津車庫
|使用車両 = [[#車両|車両]]の節を参照
|路線距離 = 34.6 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]])
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|最大勾配 =
|保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS|近鉄型ATS]]、[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]
|最高速度 = 105 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図 = [[File:近鉄京都線路線図.jpg|300px]]
}}
'''京都線'''(きょうとせん)は、[[京都府]][[京都市]][[下京区]]の[[京都駅]]から[[奈良県]][[奈良市]]の[[大和西大寺駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]。
[[駅ナンバリング]]等で使われる路線記号は'''B'''で、番号は[[直通運転]]している[[近鉄橿原線|橿原線]]と一体で振られている<ref name="kintetsu20150819">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hpyouu.pdf 駅ナンバリングを全線で実施します]}} - 近畿日本鉄道、2015年8月19日</ref><ref group="注釈">京都市内では[[京福電気鉄道北野線]]も「B」を用いているが、近鉄の方は「B01」のように2桁表記であるのに加え、北野線の最大の駅番号が「B9」であるため、被ることはない。</ref>。
== 概要 ==
<!-- 煩雑になるため高架・高速・直通先省略-->
<!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします -->
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#fab202
|title-color=white
|collapse=yes
|top=[[京都市電]]は交差していた九条線・伏見線以外は<br>アイコン([[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=京都市電]])のみで表記
----
|map=
{{BS4|||tKHSTa||||[[国際会館駅]]|}}
{{BS4|||LSTR||||[[京都市営地下鉄|地下鉄]]:{{rint|kyoto|k}} [[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]|}}
{{BS4||tHSTq|O2=HUBa|tKRZt|tSTRq|||地下鉄:{{rint|kyoto|t}} [[京都市営地下鉄東西線|東西線]]|}}
{{BS2||O1=HUBlf|tHST|O2=HUBeq||| [[烏丸御池駅]]|}}
{{BS4|STR+4||tSTR||||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:[[山陰本線]]({{rint|ja|wkes}} [[嵯峨野線]])|}}
{{BS4|ABZql|BHFq|O2=HUBa|tKRZ|ABZq+r|||{{BSsplit|JR西:[[東海道本線]]|←({{rint|ja|wkay}} [[JR京都線]]/{{rint|ja|wkay}} [[琵琶湖線]])→}}|}}
{{BS4|STR+l|KBHFeq|O2=HUBtl|tBHF|O3=HUBeq|STR|0.0|B01 [[京都駅]]|[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=京都市電]]|}}
{{BS4|KRZu|BHFq|O2=HUBe|tKRZ|KRZu|||[[東海旅客鉄道|JR東海]]:{{rint|ja|新幹線|東海道}} [[東海道新幹線]]|}}
{{BS4|STR||tSTR|STRl|||JR西:{{rint|ja|wkd}} [[奈良線]]|}}
{{BS4|STR||tSTR|O3=POINTERg@fq||||[[京都市営地下鉄|地下鉄]]:{{rint|kyoto|k}} [[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]|}}
{{BS4|eBHF||tSTR||0.4|''[[八条駅]]''|-1946|}}
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{{BS4|emhKRZ|uexBHFq|O2=HUBe|tSTR||||''九条近鉄前停留場 [[京都市電]]:[[京都市電九条線|九条線]]''|}}
{{BS4|STR||tHST||||[[九条駅 (京都府)|九条駅]]|}}
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{{BS4|SKRZ-Au|RAq|tSKRZ-A||||{{Ja Exp Route Sign|E89}} [[第二京阪道路]]|}}
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{{BS4|KBSTaq|KRZo|ABZgr||||地下鉄[[竹田車庫]]|}}
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{{BS4||SKRZ-Au|||||{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]]|}}
{{BS2|BHF||3.6|B05 [[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]|(2) 1987-|}}
{{BS2|eBHF||3.9|''竹田駅''|(1) -1987|}}
{{BS2|BUE|||竹田第1号踏切}}
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{{BS4|BUE|BUE|STR|||丹波橋第1号踏切}}
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{{BS2|BHF||11.4|B10 [[小倉駅 (京都府)|小倉駅]]||}}
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{{BS2|STR|HST+l|||[[JR小倉駅]] JR西:{{rint|ja|wkd}} 奈良線|}}
{{BS2|BUE|STR||小倉第2号踏切|}}
{{BS2|BUE|STR||小倉第3号踏切|}}
{{BS2|BHF|STR|12.7|B11 [[伊勢田駅]]||}}
{{BS2|BUE|STR||伊勢田第1号踏切|}}
{{BS2|BHF|HST|13.6|B12 [[大久保駅 (京都府)|大久保駅]]|[[新田駅 (京都府)|新田駅]]|}}
{{BS2|BUE|STR||大久保第4号踏切|}}
{{BS2|BHF|STR|14.6|B13 [[久津川駅]]||}}
{{BS2|BUE|STR||久津川第1号踏切|}}
{{BS2|STR|STRl|||JR西:{{rint|ja|wkd}} [[奈良線]]|}}
{{BS2|BUE|||久津川第2号踏切|}}
{{BS2|BUE|||久津川第3号踏切|}}
{{BS2|BUE|||久津川第4号踏切|}}
{{BS2|eBUE|||久津川第5号踏切|- 2017}}
{{BS2|BUE|||久津川第5号踏切|2017/8/26 -}}
{{BS2|eBUE|||久津川第6号踏切|}}
{{BS2|BUE|||久津川第7号踏切|}}
{{BS2|BHF||15.9|B14 [[寺田駅 (京都府)|寺田駅]]||}}
{{BS2|BUE|||寺田第1号踏切|}}
{{BS2|BUE|||寺田第2号踏切|}}
{{BS2|BUE|||寺田第3号踏切|}}
{{BS2|SKRZ-Au||||{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]]|}}
{{BS2|BHF||17.4|B15 [[富野荘駅]]||}}
{{BS2|BUE|||富野荘第1号踏切|}}
{{BS2|eBUE|||富野荘第2号踏切|}}
{{BS2|BUE|||富野荘第3号踏切|}}
{{BS2|hKRZWae|||[[木津川橋梁 (近鉄京都線)|木津川橋梁]]|[[木津川 (京都府)|木津川]]|}}
{{BS2|eBHF|||''[[木津川駅 (京都府)|木津川駅]]''|-1974|}}
{{BS2|STR2|STRc3||||}}
{{BS2|KDSTa|O1=STRc1|STR+4||[[西大寺検車区]]新田辺車庫||}}
{{BS4|STR+r|STRl|ABZg+r||||JR西:[[片町線]]({{rint|ja|wkhg}} 学研都市線)|}}
{{BS4|BHF||BHF||19.6|B16 [[新田辺駅]]|/左:[[京田辺駅]]|}}
{{BS4|LSTR||BUE|||新田辺第1号踏切|}}
{{BS4|||BUE|||新田辺第2号踏切|}}
{{BS4|||BUE|||新田辺第3号踏切|}}
{{BS4|||BUE|||新田辺第4号踏切|}}
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{{BS4|||eBUE|||新田辺第6号踏切|}}
{{BS4|LSTR||BUE|||新田辺第7号踏切|}}
{{BS4|TUNNEL1W|WASSERq|TUNNEL1W||||馬坂川|}}
{{BS4|WBRÜCKE1|WASSERq|WBRÜCKE1||||防賀川|}}
{{BS4|STR||BHF||21.1|B17 [[興戸駅]]||}}
{{BS4|LSTR||BUE|||興戸第1号踏切|}}
{{BS4|LSTR||BUE|||興戸第2号踏切|}}
{{BS4|HST||STR||||[[同志社前駅]]|}}
{{BS4|LSTR||BUE|||興戸第3号踏切|}}
{{BS4|||BUE|||興戸第4号踏切|}}
{{BS4|LSTR||BUE|||興戸第5号踏切|}}
{{BS4|WBRÜCKE1|WASSERq|WBRÜCKE1||||普賢寺川|}}
{{BS4|LSTR||eBUE|||三山木第1号踏切|- 2005}}
{{BS4|STR||BHF||22.4|B18 [[三山木駅]]||}}
{{BS4|HST||STR||||[[JR三山木駅]]|}}
{{BS4|LSTR||BUE|||三山木第2号踏切|}}
{{BS4|HST|STR+l|ABZgr||||[[JR三山木駅]]|}}
{{BS4|STR|DST|BHF||23.1|B19 [[近鉄宮津駅]]||}}
{{BS4|STR|STRl|ABZg+r|||西大寺検車区宮津車庫||}}
{{BS4|LSTR||BUE|||宮津第1号踏切}}
{{BS4|||BUE|||宮津第2号踏切}}
{{BS4|||BUE|||宮津第3号踏切}}
{{BS4|LSTR||BUE|||宮津第4号踏切}}
{{BS4|WBRÜCKE1|WASSERq|WBRÜCKE1||||煤谷川|}}
{{BS4|STR||BHF||24.4|B20 [[狛田駅]]||}}
{{BS4|HST||STR||||[[下狛駅]]|}}
{{BS4|LSTR||eBUE|||狛田第1号踏切| -2017}}
{{BS4|||BUE|||狛田第1号踏切|2021/1/30-}}
{{BS4|||BUE|||狛田第2号踏切}}
{{BS4|||BUE|||狛田第3号踏切}}
{{BS4|||BUE|||狛田第4号踏切}}
{{BS4|||BUE|||狛田第5号踏切}}
{{BS4|||BUE|||狛田第6号踏切}}
{{BS4|LSTR||BUE|||狛田第7号踏切}}
{{BS4|BHF|O1=HUBaq||O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq||26.7|B21 [[新祝園駅]]|/左:[[祝園駅]]|}}
{{BS4|LSTR||BUE|||新祝園第1号踏切}}
{{BS4|||BUE|||新祝園第2号踏切}}
{{BS4|||BUE|||新祝園第3号踏切}}
{{BS4|||BUE|||新祝園第4号踏切}}
{{BS4|LSTR||BUE|||新祝園第5号踏切}}
{{BS4|STR||BHF||28.2|B22 [[木津川台駅]]||}}
{{BS4|WBRÜCKE1|WASSERq|WBRÜCKE1|WASSERq|||藤木川|}}
{{BS4|STRl|STRq|KRZo|HSTq|||[[西木津駅]] JR西:片町線({{rint|ja|wkhg}} 学研都市線)}}
{{BS2||BUE||木津川台第1号踏切}}
{{BS2||BUE||木津川台第2号踏切}}
{{BS2||BHF|29.2|B23 [[山田川駅]]||}}
{{BS2||BUE||山田川駅構内踏切}}
{{BS2||BUE||山田川第1号踏切}}
{{BS4|WASSERq|WASSERq|WBRÜCKE1||||山田川|}}
{{BS4|||STR|WDOCKS|||荒神塚池||}}
{{BS2||SKRZ-Au||| {{Ja Exp Route Sign|E24}} [[京奈和自動車道]]|}}
{{BS2||STR+GRZq|||↑[[京都府]]/[[奈良県]]↓|}}
{{BS2||BHF|30.8|B24 [[高の原駅]]||}}<!-- 大和路線は直接乗り換えできるほど近くを通っていません。-->
{{BS2||eBUE||高の原第1号踏切| -19??}}
{{BS2||BUE||高の原第2号踏切}}
{{BS2||BUE||高の原第3号踏切}}
{{BS2||BHF|33.5|B25 [[平城駅]]||}}
{{BS2||WBRÜCKE1|||秋篠川|}}
{{BS2||BUE||平城第1号踏切}}
{{BS2||BUE||平城第2号踏切}}
{{BS2||BUE||平城第3号踏切}}
{{BS2||BUE||平城第4号踏切}}
{{BS2||BUE||平城第5号踏切}}
{{BS2||BUE||平城第6号踏切}}
{{BS4||STRq|ABZg+r||||{{rint|osaka|ktan}} [[近鉄奈良線|奈良線]](大阪難波・神戸三宮方面)|}}
{{BS2||BUE||菖蒲池第8号踏切}}
{{BS2||BHF|34.6|B26 [[大和西大寺駅]]||}}
{{BS6||||ABZgl|ABZq+r|KHSTeq|||{{rint|osaka|ktan}} 奈良線 / [[近鉄奈良駅]]|}}
{{BS4|||STR|KDSTe||[[西大寺検車区]]||}}
{{BS2||LSTR|O2=POINTERg@fq|||{{rint|osaka|ktba}} [[近鉄橿原線|橿原線]]|}}
{{BS4|||LABZgl|KHSTeq|||{{rint|osaka|kth}} [[近鉄天理線|天理線]] / [[天理駅]]}}
{{BS4||LSTR+l|LABZgr||||||}}
{{BS4||LABZql|KRZu+r|O3=lHST|LSTRq||| [[大和八木駅]] {{rint|osaka|ktd}} [[近鉄大阪線|大阪線]]||}}
{{BS2||KHSTe|||[[橿原神宮前駅]]|}}
}}
日本を代表する国際的観光都市である[[京都市]]と[[奈良市]]の[[インターアーバン|都市間輸送]]および沿線の住宅地および[[関西文化学術研究都市]]の足を担っており、京都市への通勤・通学路線であると同時に両都市を結ぶ観光路線でもある。
終点の大和西大寺駅は近鉄の京都線・[[近鉄奈良線|奈良線]]・橿原線が乗り入れる奈良市内随一の[[ジャンクション (鉄道)|ジャンクション]]であり、一部の列車は大和西大寺駅から近鉄奈良線を経由して奈良市の中心駅である[[近鉄奈良駅]]に至るほか、橿原線に直通して[[天理駅|天理]]方面への急行や、[[橿原神宮前駅|橿原神宮前]]方面および[[大和八木駅]]から[[近鉄大阪線|大阪線]]に直通して[[伊勢志摩]]方面へ向かう[[近鉄特急|特急列車]]が運行されている。さらに、[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]から[[京都市営地下鉄]][[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]][[国際会館駅]]まで[[直通運転]]が行われている。このように本路線は乗り換えなしで各方面に行き来することが可能であり、京都市内中心部や[[滋賀県]]、[[北陸地方]]、[[東海道・山陽新幹線]]沿線方面から、[[奈良県]]や[[三重県]]中部(伊勢志摩地方)への観光の大動脈としても機能している。[[京田辺市]]の[[新田辺駅]]以南の沿線では関西文化学術研究都市の開発により宅地開発が進展した。
[[1991年]]から[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)も、並行するJR[[奈良線]]京都駅 - [[奈良駅]]間で[[快速列車]]を運転し対抗しているが、JR奈良線は一部[[単線]]区間が残っており、近鉄京都線の方が運転本数の多さなどでまだ優勢である。ただ、外国人観光客に関しては[[ジャパンレールパス]]が近鉄では利用できないため、JRを使うケースも多い。新田辺駅 - 新祝園駅間では、JR西日本の[[片町線]](学研都市線)とも、京都駅 - 桃山御陵前駅間ではJR奈良線 - 東福寺駅 - [[京阪本線]]からなるルートとも並行している。
全線で、ICカード[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]・[[Suica]]などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用乗車カード]]が利用可能である。また、以前は[[スルッとKANSAI]]対応カードおよび[[Jスルーカード]]にも対応していた。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):34.6 km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:26駅(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:105 km/h<ref name="terada" />
全線、大阪統括部(旧上本町営業局)の管轄である。
== 沿線風景 ==
=== 京都駅 - 新田辺駅間 ===
起点の京都駅は3階にある[[東海道新幹線]]ホームの真下の2階に所在し、2012年3月に4番線が増設され3面3線から4面4線構造に拡張された。1・2番線は主に[[近鉄特急|特急]]や[[団体臨時列車]]の発車用で、急行・準急・普通はほとんどが3・4番線からの発車となっている。1・2・3番線は両面ホーム、4番線は片面ホームであり、その階下部分には飲食店や土産物店などが並ぶ近鉄名店街『みやこみち』がある。出発後はすぐに左へとカーブし、東海道新幹線をくぐるとすぐに[[東寺駅]]に着く。[[高架橋]]からは右手に[[東寺]]の五重塔を望むことができる。この先[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]までは高架線を走行する。竹田駅は、[[京都市営地下鉄]][[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]との[[共同使用駅]]で、上下線とも島式ホームの外側に近鉄、内側に京都市営地下鉄の列車が発着する。[[伏見駅 (京都府)|伏見駅]]を過ぎると、左手に[[伏見桃山城]]を遠望しつつ[[京阪本線]]の高架下をくぐり、京阪本線との乗換駅、[[近鉄丹波橋駅]]へ到着する。かつては京阪本線との直通運転を行っていた時期もあり駅付近にはその名残を垣間見ることができる。
近鉄丹波橋駅を出発して左右にカーブするとすぐに[[桃山御陵前駅]]に到着する。この後も急カーブが連続するために列車はスピードを落として走行する。この付近は地下水が豊富で古くからの[[日本酒]]の名産地として知られている。やがて近鉄の名鉄橋である[[澱川橋梁]]を渡る。このあたりから列車の速度が上がり、[[向島駅]]を通過する。ここから列車は[[巨椋池]]を干拓した広大な農地を一直線に走り抜ける。[[宇治市]]に入って[[京滋バイパス]]をくぐり、住宅街の中にある[[小倉駅 (京都府)|小倉駅]]を過ぎると、やがて[[大久保駐屯地|陸上自衛隊大久保駐屯地]]が手前に見える高架駅の[[大久保駅 (京都府)|大久保駅]]に到着する。その後さらに列車は南へ進み[[城陽市]]に入り、長大なプレートガーター橋の[[木津川橋梁 (近鉄京都線)|木津川橋梁]]を渡ってしばらく進むと新田辺車庫が見え、[[京田辺市]]の中心駅の[[新田辺駅]]に到着する。6両編成の普通(地下鉄烏丸線からの直通の普通も含む)や準急は同駅までの運転となっている。
=== 新田辺駅 - 大和西大寺駅間 ===
この区間では日中は普通より急行の方が列車本数が多く、普通も一部をのぞいて4両編成で運転されている。新田辺駅発車後は左にカーブし、右手にJR[[片町線]](学研都市線)が現れる。片町線とは、ここから[[木津川台駅]]の先まで並走することとなる。タイミングが合えば、近鉄の普通列車と各駅に停車する片町線電車の長区間の並走が見られる。近鉄側が急行・特急電車の場合は、通過駅がある影響で片町線電車を大きく追い越すこととなる。しばらく進むと、[[同志社大学]](京田辺キャンパス)の最寄り駅で[[天井川]]があった[[興戸駅]]が見える。この先、近年高架駅となった[[三山木駅]]より先は田園風景も見られるようになり、三山木駅からほどなくして、1993年に新設された[[近鉄宮津駅]]と[[西大寺検車区]]宮津車庫が見えてくる。その先をさらに進むと[[国立国会図書館関西館]]などのある[[関西文化学術研究都市|けいはんな学研都市]]の最寄り駅[[新祝園駅]]に到着する。木津川台駅の先で、新田辺付近から長く並走してきた片町線を渡る。列車はさらに南下するが、[[京都府]]内の駅は[[山田川駅]]までである。[[奈良県]]に入ると、すり鉢状の地形に設けられた[[平城ニュータウン]]の最寄り駅、[[高の原駅]]に到着する。この駅は京都府と奈良県の県境にある。高の原駅を出ると、列車は森の中を突き進む。やがてスピードを大きく落として、急カーブを右に曲がれば[[平城駅]]に到着する。その後左にカーブすると、奈良線・橿原線と接続するジャンクション駅である[[大和西大寺駅]]に到着する。京都線はここまでであるが、列車の大半は[[近鉄奈良駅]]、[[橿原神宮前駅]]方面へ直通する。
== 運行形態 ==
京都線では、[[近鉄特急|特急]]・[[急行列車|急行]]・[[準急列車|準急]]・[[普通列車|普通]]が運転されている。急行と普通の一部は[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]から京都市営地下鉄烏丸線に乗り入れ、[[近鉄奈良駅]](急行のみ)・[[新田辺駅]] - 地下鉄[[国際会館駅]]間で相互直通運転を行っている。以下に1時間毎の運転本数と各種別の詳細を示す。
=== 運転本数 ===
線内の各区間の昼間時の1時間毎の運転本数の内訳は以下のようになる(2022年12月17日ダイヤ変更時点)。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
|-
!colspan="3"|種別\駅名
!style="width:1em;"|{{縦書き|京都|height=6em}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|竹田|height=6em}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|新田辺|height=6em}}
!…
!style="width:1em;"|{{縦書き|大和西大寺|height=6em}}
!直通先
|- style="text-align:center;"
!rowspan="9" style="width:1em;"|運行本数
|rowspan="2" |特急 || 京奈<br>(あをによしを含む) ||colspan="9" style="background-color:#fcc;"|1-2本(土休日は2本) ||近鉄奈良
|- style="text-align:center;"
| 京橿 ||colspan="9" style="background-color:#fcc;"|2本 ||橿原神宮前
|- style="text-align:center;"
|rowspan="3" colspan="2"|急行 ||colspan="9" style="background-color:#fc9;"|1本 ||橿原神宮前
|- style="text-align:center;"
|colspan="9" style="background-color:#fc9;"|2本 ||橿原神宮前または<br>天理または<br>近鉄奈良または<br>大和西大寺
|- style="text-align:center;"
|colspan="3"|烏丸線← ||colspan="6" style="background-color:#fc9;"|1本<br>(土休日のみ) ||近鉄奈良
|- style="text-align:center;"
|rowspan="4" colspan="2"|普通 ||colspan="9" style="background-color:#E1E1E1"|1-2本<br>(土休日のみ)||橿原神宮前または<br>大和西大寺
|- style="text-align:center;"
|colspan="6" style="background-color:#E1E1E1"|4本<br>(土休日は3-2本) ||colspan="3"| ||
|- style="text-align:center;"
|colspan="6"| ||colspan="3" style="background-color:#E1E1E1"|3本<br>(土休日は2-1本) ||橿原神宮前または<br>大和西大寺
|- style="text-align:center;"
|colspan="3"|烏丸線← ||colspan="3" style="background-color:#E1E1E1"|2本 ||colspan="3"| ||
|}
2012年3月20日のダイヤ変更で昼間時間帯の各列車の運転本数が削減されたために、20分[[ダイヤグラム#パターンダイヤ|ヘッド]]を基本としつつ、一部区間や一部の種別で15分ヘッドも織り交ぜた複合的なダイヤとなった(ただし竹田駅以南は地下鉄烏丸線との直通列車も入るほか、京都駅 - 新田辺駅間の普通列車が毎時1本設定されていたので若干変則的である)。このため、正しくは20分や15分といった運転サイクルではなく、「60分ヘッドの中に毎時3本・4本・6本のパターンが混在している」と言える。2022年12月17日のダイヤ変更では特急・急行が20分ヘッドを基本とし(急行は時間帯や待避駅の違いによりやや間隔がずれる)、曜日や時間帯によって京奈特急や地下鉄烏丸線と直通する急行を加えたダイヤとなったが、普通列車は引き続き変則的となっている。
=== 特急 ===
{{Main|近鉄特急}}
特急は京都駅 - 近鉄奈良駅・[[橿原神宮前駅]]間に1時間に3 - 4本運転されているほか(橿原神宮前発着は[[近鉄吉野線|吉野線]]連絡あり)、京都駅 - [[賢島駅]]間(2022年12月17日変更時点で、全区間通しは平日1往復・土休日2往復と、「[[近鉄50000系電車|しまかぜ]]」の1往復週6日運行のみ。他に鳥羽、宇治山田、松阪、名張発着が設定されている)にも運転されており、京都線において昼間は10分 - 20分間隔、夕方から夜にかけては15分間隔の運転である。<!-- 2018年3月17日以降、平日・土休日とも定期列車が下り30本・上り31本(「しまかぜ」除く)運転されている。 -->京都線内では全列車が[[近鉄丹波橋駅]]、[[大和西大寺駅]]に停車し、加えて上り京都行きは朝9時台までの全列車およびそれ以降の一部列車、下り列車は15時以降の全列車が[[高の原駅]]にも停車している。毎月26日をはじめとした、[[天理教]]月次祭が催される日には、[[天理駅]]発着の臨時特急も1往復追加される。
かつては近鉄奈良駅発着列車と橿原神宮前駅発着列車の一部が京都駅 - 大和西大寺駅間で[[増解結|併結運転]]を行っていたが、2018年3月17日のダイヤ変更で全列車とも単独運転となっている。また、京都駅 - 近鉄奈良駅間に[[近鉄特急#特急に使用される車両|アーバンライナー]]車両による特急が設定されていたが、2009年3月20日のダイヤ変更により同区間のアーバンライナー車両の定期運用は消滅した。
2022年4月29日には京都駅 - 近鉄奈良駅 - 大阪難波駅を結ぶ観光特急「[[近鉄12000系電車#19200系|あをによし]]」が運転を開始した。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|+主要列車の1日の運用(2022年12月17日ダイヤ変更時点)
|-
!愛称
!運行区間
!style="width:5em;"|平日
!style="width:5em;"|土休日
!1日の運用
!備考
|-
!しまかぜ
|京都 - 賢島|| colspan="2" |1往復
|京都→賢島→京都||水曜運休
|-
!あをによし
|京都 - 近鉄奈良・大阪難波
| colspan="2" |4往復
|大阪難波→近鉄奈良→京都→近鉄奈良→京都→近鉄奈良→京都→近鉄奈良→京都→近鉄奈良→京都→近鉄奈良→大阪難波||木曜運休
|-
! rowspan="5" |伊勢志摩ライナー
|橿原神宮前 → 京都
|朝に1本
|運休
| rowspan="5" |(橿原神宮前→)京都→賢島→京都→近鉄奈良→京都→橿原神宮前→京都→橿原神宮前→大和西大寺
()は平日のみ
|大和西大寺発橿原神宮前行の折り返し
|-
|京都 - 賢島
| colspan="2" |日中に1往復
|
|-
|京都 - 近鉄奈良
| colspan="2" |夕方に1往復
|
|-
|京都 - 橿原神宮前
| colspan="2" |夜に1往復
|
|-
|京都 → 橿原神宮前
| colspan="2" |夜に1本
|折り返し上り最終の<br />橿原神宮前発大和西大寺行となる
|}
<gallery>
ファイル:Kintetsu-30000 001 JPN.JPG|[[近鉄30000系電車|30000系]]「ビスタEX」
ファイル:Kintetsu-23000 001 JPN.JPG|[[近鉄23000系電車|23000系]]「伊勢志摩ライナー」
ファイル:KINTETSU50000 20131028A.jpg|50000系「しまかぜ」
ファイル:19200系.jpg|19200系「あをによし」
ファイル:Kintetsu-18200.JPG|[[近鉄18200系電車|18200系]]「あおぞらII」
ファイル:KINTETSU15400 "KAGIROHI".JPG|[[近鉄12000系電車#15400系|15400系]]「かぎろひ」
ファイル:Kintetsu 20000 Series between Miminashi and Daifuku.jpg|[[近鉄20000系電車|20000系]]「楽」
</gallery>
=== 急行 ===
[[ファイル:Kyoto City 10 series EMU early type 001.JPG|250px|thumb|地下鉄烏丸線から乗り入れる奈良行き急行。]]
京都線の一般速達種別で、京都線内では特急停車駅に加えて[[東寺駅]]・竹田駅・[[桃山御陵前駅]]・[[大久保駅 (京都府)|大久保駅]]・新田辺駅・[[新祝園駅]]に停車する。[[ターミナル駅]]からの距離に関わらず主要駅にこまめに停車する点が、遠近分離型の停車パターンを採用する他の近鉄各線の急行と異なる点である。奈良線や橿原線への直通運転も行われている。京都駅 - 大和西大寺駅・近鉄奈良駅・橿原神宮前駅間で終日運転されているほか、朝夕時間帯には京都駅 - 天理駅間および京都駅 - 新田辺駅間、京都発[[近鉄宮津駅|近鉄宮津]]行きの列車が設定されている。近鉄宮津行きの急行は他の定期急行の停車駅に加えて[[興戸駅]]・[[三山木駅]]にも停車し、[[同志社大学]]京田辺キャンパスへの通学客の利便性を確保している。昼間時間帯と朝には地下鉄烏丸線国際会館駅 - 近鉄奈良駅間直通の急行も1時間に1往復程度運転されるが、2022年12月のダイヤ変更において平日は朝夕時間帯のみの運転となった<ref>{{Cite press release|和書|title=2022年12月17日(土)ダイヤ変更について|publisher=近畿日本鉄道|date=2022-10-12|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/20221217daiyahenkou.pdf|format=PDF|access-date=2022-10-13}}</ref>。
2022年12月まで昼間時間帯は1時間に京都駅 - 近鉄奈良駅間の系統と国際会館駅 - 近鉄奈良駅間の系統がそれぞれ1本、京都駅 - 橿原神宮前駅間の系統が2本の計4本運転されていた。近鉄京都駅の発車時刻は毎時12分、27分、42分で、42分発と12分発の間に竹田駅から地下鉄烏丸線直通列車が加わる。地下鉄烏丸線直通列車は竹田駅で京都駅発着の普通列車と接続しており、京都駅 - 大和西大寺駅間の有効本数は昼間は毎時4本を確保していた。ただし後述の待避などの関係上、京都以外の各駅において間隔は不揃いである。
2022年12月17日のダイヤ変更後の平日昼間は京都駅 - 大和西大寺駅間で毎時3本運転されており、大半は橿原線に直通し京都駅 - 橿原神宮前駅間で運転される。近鉄京都駅の発車時刻は毎時01分、20分、40分と約20分に1本運転されている。土休日昼間はこれに国際会館駅 - 近鉄奈良駅間の系統が毎時1本加わる。ダイヤ変更前と同様に後述の待避などの関係上、京都以外の各駅において間隔は不揃いである。
すべて6両編成で運転されていたが、2021年7月3日のダイヤ変更で早朝、平日の日中、夜の一部の急行が4両編成で運転されるようになった。また、4両編成の一部の列車では、新田辺駅以北では急行、以南では普通として運転する列車や、大和西大寺駅で橿原線内を普通に種別変更して運転する列車もある。
2003年3月の快速急行の急行への統合以降は、特急と急行の運転間隔が異なるので、地下鉄直通をのぞき大久保駅・新田辺駅・新祝園駅・高の原駅のいずれかで特急待避を行うようになった。2012年3月20日のダイヤ変更で特急と(地下鉄直通を除いた)急行の運転間隔が同一に戻ってもこの運転方式が続いたが、2018年3月17日のダイヤ変更で特急が1本増発され地下鉄直通系統も含めた急行と特急の本数が同一になったことで、地下鉄直通列車も前記4駅のいずれかで特急の待ち合わせを行うようになった。また、地下鉄烏丸線からの直通列車に関しては竹田駅で近鉄京都駅発着の各駅停車(または準急)と接続している。
急行の京都駅 - 大和西大寺駅間の標準所要時間は40分前後である。早朝・深夜の特急待避が無い列車は37 - 38分で走破する。また、昼間の新田辺駅以南では普通より急行の本数が多かったが、2022年12月17日のダイヤ変更で平日のみ急行が3本となり、急行と普通の数が揃った。
=== 準急 ===
[[ファイル:KT series3200-Kyoto.jpg|250px|thumb|3200系車両で運転される新田辺行き準急。]]
2022年12月17日のダイヤ変更以後は平日土休日を問わず下り列車は運転されなくなった。全列車が新田辺駅始発の京都駅行きで、平日は朝時間帯に4本、夕時間帯に2本、土休日は3 - 5時間おきに1日3本が運行されている。新田辺駅 - 近鉄丹波橋駅間は各駅に停車し、近鉄丹波橋駅 - 京都駅間は急行と同一の停車駅で運転される。
3駅しか通過せず、普通も追い抜かない(ただし一時期は夕方の京都駅発の準急が[[上鳥羽口駅]]で普通を追い抜いていたことがあったが、現在は準急と普通の京都駅での発車順序を入れ替えたため追い抜きは廃止された)、京都線の輸送力の補完の意味合いが強く、丹波橋駅で接続する[[京阪本線]]から京都駅への速達アクセスとしても機能している。ただしおよそ半数の列車は終点京都駅まで急行に抜かれないため、急行の混雑緩和に役立っている。編成両数は6両または4両である。<!-- 他線の例は設定目的が違っており、通過駅数が同じもの、少ないものをただ列挙しても何の参考にもならない。-->
また、夕方ラッシュ時運行の6両編成の列車は、京都駅での折り返し場面で急行と準急の運用を入れかえる新田辺車庫の出庫列車の役割も兼ねていた(入庫は2021年ダイヤ改正で6両編成は終了)。すなわち、京都行き急行から折り返し新田辺行き準急、京都行き準急から折り返し近鉄奈良・天理・橿原神宮前行き急行となる運用パターンになっていた。
なお、[[1994年]]までは京都駅 - 大和西大寺駅・近鉄奈良駅間に運転されており、当時は[[向島駅]]を通過し[[小倉駅 (京都府)|小倉駅]] - 近鉄奈良駅間は各駅に停車していた([[1988年]]の地下鉄開業までは、竹田駅も通過していた)。[[1960年代]]までは京都駅 - 新田辺駅間は急行と同一、新田辺駅以南は各駅停車であった時代もあり、丹波橋駅以南各駅停車(向島駅は当時未開業)と新田辺駅以南各駅停車の設定が変動していた時期もあった。
2000年代後半以降はダイヤ変更のたびに本数が減少する傾向にあり、2010年3月のダイヤ変更では本数が大幅に削減された。特に夕方ラッシュ時には従来30分間隔で運転されていたものが60分間隔とされ、運転本数が半減している。2021年7月のダイヤ変更では平日の朝上りが廃止された一方で、土休日下りの朝に設定された。この準急は竹田駅で京都市営地下鉄烏丸線からの急行に接続する。
=== 普通 ===
[[ファイル:KC series10-Kyoto.jpg|250px|thumb|国際会館行きの列車も設定されている。]]
各駅に停車する。現行のダイヤでは大半の列車が新田辺駅で系統分離されており、終日、京都駅 - 新田辺駅、地下鉄烏丸線国際会館駅 - 新田辺駅、新田辺駅 - 大和西大寺駅・橿原神宮前駅間で運転されている。一部時間帯では、京都駅 - 大和西大寺駅・天理駅(土休日上り1本・下り2本のみ)・橿原神宮前駅、国際会館駅 - 近鉄宮津駅(平日上り1本のみ)、新田辺駅 - 近鉄宮津駅・奈良駅(土休日1往復のみ)・天理駅間でも運転されている。
新田辺駅以北では、昼間時間帯は1時間に京都駅発着が4本、地下鉄線直通が2本の計6本が設定されている。京都駅 - 竹田駅間は1時間4本であるが、京都市営地下鉄とのダイヤ調整のため15分間隔ではない。新田辺駅以南では、昼間時間帯はおおむね15 - 25分間隔で1時間3本となる。
編成両数は地下鉄直通の全列車と、ラッシュ時などの京都駅 - 新田辺駅間・新田辺駅 - 近鉄宮津駅間の一部の区間運転列車が6両編成で、その他は4両編成である。[[狛田駅]]と[[山田川駅]]および直通する橿原線内の普通のみの停車駅のホーム[[有効長]]が4両分までのため、大和西大寺駅発着および橿原線・天理線直通の列車は4両編成で運転している。一部、京都駅 - 新田辺駅間を6両編成で運転し、新田辺駅で連結・切り離し作業あるいは車両の取り替えを行い新田辺駅以南を4両編成で運転する列車もある。新田辺駅 - 近鉄宮津駅間の臨時普通は6両編成、朝ラッシュ時にごくわずかに設定されている定期の普通は2021年7月3日のダイヤ変更前は4両編成で運転されていたが、ダイヤ変更後は6両編成で運転され、新田辺駅で京都行きになる。
なお、[[1997年]]の[[第3回気候変動枠組条約締約国会議|地球温暖化防止京都会議]]中には烏丸線直通の普通列車が高の原駅まで乗り入れていた。ただし当時、6両編成が停車できなかった興戸駅と4両対応の狛田駅・山田川駅は通過していた。また、2012年3月20日のダイヤ変更前は大和西大寺行きは時間帯によっては大和西大寺駅から天理行きまたは橿原神宮前行きに変更していた。一旦、大和西大寺行きとして運転していた理由としてダイヤが乱れた時に運休あるいは別編成を大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅・天理駅間に充当できるようにするためであるほか、大和西大寺駅から先を急行として種別変更もされる列車があるためでもある。したがって、実際には大和西大寺駅で折り返さずに京都駅 - 橿原神宮前駅・天理駅間を直通で運転していた。
=== 快速急行(廃止) ===
[[1998年]]から京都駅 - 近鉄奈良駅間で日中に1時間あたり2本設定された。竹田駅・近鉄丹波橋駅・大和西大寺駅・[[新大宮駅]](2000年から)に停車し、竹田駅で国際会館駅発着の急行と接続して速達性の向上を図った(当時の日中は1時間あたり京都発着の快速急行と急行が2本ずつ、国際会館発着の急行が2本)が、利用は芳しくなく誤乗も多かったため、2003年春のダイヤ変更で廃止され急行に格下げされた<ref name="JRC608">{{Cite journal|和書 |journal = RAIL FAN |date = 2003-06-01 |issue = 6 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 17 }}</ref>。以降、日中の竹田駅 - 大和西大寺駅間の急行が1時間あたり6本となり、2012年3月19日まで続いた。定期列車が設定される前にも[[1988年]]の[[なら・シルクロード博覧会]]などの際にも臨時に運転されていたことがある(日中1時間に1本の運転。停車駅は近鉄丹波橋駅・大和西大寺駅で、2002年以降の特急と同じであった<!--当該記事のほか、広報「きんてつ」1988年6月号にも記載あり。-->)。
=== 回送列車 ===
新田辺・宮津・西大寺の各車庫へ出入庫するための[[回送]]列車が運行されている。一部は京都市営地下鉄車両の回送列車もある。特に、近鉄奈良・大和西大寺方面の回送列車の一部は、近鉄宮津駅 - 大和西大寺駅間のみであるが、奈良線快速急行の折り返しで8・10両編成で運転されている。
=== 臨時運転 ===
[[同志社]]の京田辺キャンパス、[[同志社女子大学]]京田辺キャンパス開校日に運転される。朝方は京都発(9:31発)新田辺行き急行1本が近鉄宮津行きに延長され、新田辺から各駅に停まる(ただし天理教月次祭等開催時は天理行き急行となり興戸・三山木・近鉄宮津の3駅を通過する)。夕方は近鉄宮津発新田辺行き各駅停車が5本運転される(15:18、16:24、16:39、16:53、18:24発)。その一部は新田辺から定期運転の京都行き準急や国際会館行き各駅停車へ変更され運転される。
=== 大晦日終夜運転 ===
[[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけての[[終夜運転]]は、京都から伊勢方面・橿原神宮前・近鉄奈良への特急を各系統合わせて30 - 60分間隔で運転しているほか、京都駅 - 新田辺駅・大和西大寺駅間に普通を15 - 30分間隔で運転する形態となっている。時刻については近鉄の公式ホームページでも紹介されている。なお、2020年度は終夜運転は実施されなかった。2021年度は橿原神宮前発京都行きと京都駅発[[宇治山田駅]]行きの特急が2往復のほか、京都駅 - 橿原神宮前駅間に普通が30 - 60分間隔で運転された。
== 車両 ==
{{See also|近鉄奈良線#車両}}
近鉄奈良線で使用される自社車両が京都線でも使用されるほか、[[京都市営地下鉄烏丸線]][[京都市交通局10系電車|10系]]、[[京都市交通局20系電車|20系]]の乗り入れ運用もある(主に新田辺駅以北折り返しの普通で運用。昼間時は近鉄奈良駅直通急行運用もあり)。
近鉄京都発着の列車で、地下鉄線対応の[[近鉄3200系電車|3200系]]・[[近鉄3220系電車|3220系]]を含む6両単独編成は[[近鉄宮津駅]]以南発着の普通をのぞき、すべての種別にて運用されている(狛田駅・山田川駅および橿原線内の普通のみの停車駅のホーム有効長が4両分までしかないため)。
また、[[近鉄5800系電車|5800系]]や[[近鉄5820系電車|5820系]]といった[[L/Cカー]]は京都線・橿原線・天理線運用とそれに関連する運用の場合は座席は常時ロングシートの状態で運転される<ref group="注釈">奈良線では一部運用や乗務員の判断によって、<!-- 平日の10時 - 16時と土曜・休日の終日はクロスシート…座席に関して近鉄からの正式な発表があるのか? -->ロングシートとクロスシートの座席運用が混在する。</ref>。なお、[[2009年]][[3月20日]]からは[[阪神電気鉄道]]との直通運転の開始に伴い、同社乗り入れ対応車両を捻出する必要が出て来たため、地下鉄線対応車と[[近鉄8000系電車#8600系|8600系]]8619編成を除く6両固定編成については同日以降定期運用が消滅している。
2012年までは[[近鉄3000系電車|3000系]]も京都線系統を中心に使用されており、これ以外にも奈良・京都・橿原線系統以外の一般車両が運用された珍しい例として、地下鉄直通運転開始前の一時期、名古屋線から転属した[[近鉄1600系電車|モ1650形]](抑速ブレーキ非装備、2700mm幅車体)が8000系・8400系の増結用に使用されたことがあった。
<gallery>
ファイル:Kintetsu-3000 001 JPN.JPG|3000系
ファイル:KT series3200-Kyoto.jpg|3200系
ファイル:Kintetsu 3220 KL21.jpg|3220系
ファイル:Kyoto City 10 series EMU early type 001.JPG|京都市営地下鉄10系
ファイル:京都市営地下鉄20系KS31編成 急行 国際会館行.jpg|京都市営地下鉄20系
</gallery>
== 旅客案内 ==
=== 車内自動放送 ===
2016年3月27日から車掌の[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]端末([[パナソニック]]製TOUGHPAD FZ-B2<ref>[https://biz.panasonic.com/jp-ja/case-studies/kintetsu 近畿日本鉄道株式会社様 - 事例] - パナソニック、2022年1月27日閲覧</ref>)の操作による[[車内放送|車内自動放送]]が開始された。
=== 駅の案内設備 ===
各駅の記事も参照。
==== 発車標 ====
; [[反転フラップ式案内表示機]](パタパタ)
: 使用駅:東寺駅、竹田駅、大久保駅、新祝園駅、高の原駅
: ディスプレイ式案内が普及する以前、近鉄で最も主流だった形式。
: 大まかな形式はどの駅も同じだが、細部で仕様が異なる。
; ディスプレイ式(フルカラーLCD)
: 使用駅:京都駅、近鉄丹波橋駅、桃山御陵前駅、新田辺駅、大和西大寺駅
: 主要駅で設置されている。
; LED電光掲示板(24ドット)
: 使用駅:向島駅、三山木駅
: LED電光掲示板を用いたもので、基本的にjiskan24フォントが使用されている。
: 向島駅は行き先と停車駅案内のある2段式。三山木駅は行き先だけが表示される1段式のものを使用。
過去には以下の方式が用いられたが、2022年時点でいずれも使用駅はない。
; [[ブラウン管]]式
: ブラウン管テレビを用いた発車案内。
; 液晶式
: 液晶式で、種別部分はフルカラーでの表示が可能。
; 幕式
: [[方向幕]]のように上下方向に巻き取られて表示が変わる。
== 歴史 ==
[[ファイル:Kyoto-Nara Railway Line Map.jpg|thumb|right|200px|京都・奈良間鉄道路線図<br />([[:ファイル:Kyoto-Nara Railway Line Map.svg|→SVG版]])]]
[[ファイル:Kyoto-Fushimi Railway Line Map.jpg|thumb|right|200px|京都伏見付近拡大図<br />([[:ファイル:Kyoto-Fushimi Railway Line Map.svg|→SVG版]])]]
[[京阪電気鉄道]]と[[大阪電気軌道]](通称「大軌」。近鉄の前身)の合弁会社である[[奈良電気鉄道]](通称「奈良電」)により、[[私鉄]]路線がなかった2つの[[古都]]を結ぶ目的で開業した。京都駅 - 近鉄丹波橋駅間は[[鉄道省|国鉄]][[奈良線]]の旧線跡を利用して建設され、全通時より大軌の[[近鉄奈良線|奈良線]]・畝傍線(現在の[[近鉄橿原線|橿原線]])と[[直通運転|相互直通運転]]をしていた。さらに戦後直後から1968年までは、[[京阪本線]]との直通運転も行った。
近鉄の路線となったのは、[[1963年]]10月1日のことである。なお、同線の建設や近鉄統合に関しては、「[[奈良電気鉄道]]」の項目も参照。
=== 宇治川以北のルート選定 ===
建設に当たり、[[淀川|宇治川]]以北のルート選定は難航した。
建設当時沿線は[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[第16師団 (日本軍)|第16師団]]・[[工兵]]第16大隊の演習地となっており、用地買収の速成の観点から軍用地の土地交換を申し出た。[[陸軍省]]での検討が難航していると仄聞した会社側は、省からの回答を待たずに無橋脚へと踏切る形となった<ref group="注釈">陸軍から架橋訓練の支障となる[[橋脚]]を宇治川に作ることを咎められ無橋脚橋梁を架橋することとなったと通俗的に言われているが、実際は工期の遅れを恐れた会社側の判断で無橋脚による架橋が行われた。</ref>。また、桃山御陵前駅の前後は、京都府より[[桃山御陵]]への参拝道との平面交差に対し、安全上の問題から変更指示を受けたため、地下線での建設を計画した。それに対し、[[伏見区|伏見]]の酒造組合が地下水の枯渇を理由に反対運動を行った。後に会社側でもボーリング調査等を行い、問題ないことを表明した。同時期に[[奈良線]]伏見貨物線の共用を願い出ていた最中に[[伏見市|伏見町]]からの町域を全線高架化するようにとの建議がなされた。鉄道省側は当該線の高架費用負担を嫌い、会社側に高架化を条件に払下げるとしたため、残る高架方式での建設となった。[[桃山御陵前駅]] - 向島駅間の宇治川に架かる[[澱川橋梁]]が日本最長164.6mの単純[[トラス橋]]構造となったのは、このような複雑な事情による。
現在でも[[陸上自衛隊]]の演習地が宇治川周辺に存在する。しかし、伏見区内の住宅開発が進んだ事もあって[[大久保駅 (京都府)|大久保駅]]前にある[[陸上自衛隊]][[大久保駐屯地]]や[[京阪宇治線]][[木幡駅 (京阪)|木幡駅]]の周辺に移転しており、現在では澱川橋梁の近辺で演習が行われることはない。
=== 奈良電京都駅計画の変更 ===
奈良電が開業するにあたっては、当時の東海道線を跨線し、国鉄京都駅の烏丸口側(北側の中央口)に奈良電の高架駅を設ける予定であったが、工事速成の観点から八条口(南口)側に仮設駅を設けるよう、大阪鉄道局長から通達があり、仮設駅として開業した。
この仮設であった駅は、[[昭和恐慌]]などの影響で計画自体が着手すらままならない状況のまま戦後を迎えた。[[東海道新幹線]]が建設される際にはその直上に新幹線の線路とプラットホームを設置し、奈良電の駅も高架3線化された。この際に仮設駅扱いであった現在の位置を本設駅として変更を行い、北側までの免許を取り消すことになった。
=== 年表 ===
<!-- 1トピックしかない年は1行で記述。-->
* [[1928年]]([[昭和]]3年)
** [[11月3日]]:奈良電気鉄道が桃山御陵前駅 - 西大寺駅(現在の大和西大寺駅)間を開業。
** [[11月15日]]:京都駅 - 桃山御陵前駅間が開業し全通。
* [[1929年]](昭和4年)[[7月10日]]:[[木津川 (京都府)|木津川]]の河畔に木津川駅を設置。
* [[1930年]](昭和5年)4月1日以前:小倉駅を奈良電小倉駅に改称<ref name="chizucho_teiho">“[https://www.railforum.jp/ftrain/public/dl/chizucho/kansai1_27-28.html 日本鉄道旅行地図帳 追加・訂補 8号 関西1]”、鉄道フォーラム、2021年10月14日閲覧。</ref>。
* [[1935年]](昭和10年)[[6月29日]]:[[鴨川水害]]で十条駅 - 城南宮前駅間で路盤崩壊のため不通、同月30日運転再開。
* [[1940年]](昭和15年)[[4月5日]]:城南宮前駅を奈良電竹田駅に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2364368/83}} 地方鉄道・軌道異動表]」『電気協会雑誌』第224号、日本電気協会、1940年8月、附録5頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>{{Refnest|group="注釈"|『日本鉄道旅行地図帳』では4月1日改称<ref name="地図帳27"/>。『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』では竹田駅に1月改称<ref name="100nenayumi">{{Cite book|和書|author=近畿日本鉄道株式会社 |title=近畿日本鉄道 100年のあゆみ |date=2010-12 |publisher=近畿日本鉄道 |id={{全国書誌番号|21906373}} }}</ref>{{Rp|page=681}}。}}。上鳥羽口駅開業<ref name="地図帳27">{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介|title=[[日本鉄道旅行地図帳]] |publisher=[[新潮社]] |volume=8 関西1 |year=2008 |isbn=978-4-10-790026-5 |page=27}}</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[5月20日]]:八条駅・木津川駅休止。
** [[12月21日]]:奈良電気鉄道の電車が京阪神急行電鉄の[[丹波橋駅]](現在は京阪電気鉄道の駅<ref group="注釈" name="keihanshin">当時、京阪電気鉄道は[[阪神急行電鉄]]に合併し京阪神急行電鉄となっていた。戦後1949年12月1日に淀川左岸の[[阪急京都本線|新京阪線]]を残して京阪電気鉄道として分離独立した。</ref>)に乗り入れ、同駅から京阪神急行電鉄京阪線の[[三条駅 (京都府)|三条駅]]まで直通運転開始。伏見駅 - 堀内駅 - 桃山御陵前駅間廃止。
* [[1946年]](昭和21年)[[10月1日]]:京都駅 - 東寺駅間の八条駅、富野荘駅 - 新田辺駅間の木津川駅廃止。
* [[1947年]](昭和22年)4月1日:京阪神急行電鉄(1949年から京阪電気鉄道<ref group="注釈" name="keihanshin" />)の電車が丹波橋駅から奈良電に乗り入れ、京都駅まで直通運転開始。
* [[1948年]](昭和23年)[[7月1日]]:木津川駅再開業。
* [[1954年]](昭和29年)[[7月5日]]:興戸駅開業。
* [[1963年]](昭和38年)
** 9月:京都駅高架化。
** 10月1日:近畿日本鉄道が奈良電気鉄道を合併し、京都線となる。奈良電竹田駅を竹田駅に、奈良電小倉駅を小倉駅に改称<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修) |title=日本鉄道旅行地図帳 |publisher=[[新潮社]] |volume=8 関西1 |year=2008 |isbn=978-4-10-790026-5 |pages=27-28}}</ref>。
* [[1965年]](昭和40年)[[8月23日]]:木津川駅休止。
* [[1967年]](昭和42年)[[3月29日]]:旧堀内駅を復活し、現在位置の近鉄丹波橋駅設置。伏見駅 - 近鉄丹波橋駅 - 桃山御陵前駅間復活。ただし1年間は丹波橋駅・近鉄丹波橋駅の併用となる(近鉄の特急・急行・準急は近鉄丹波橋駅を、普通と京阪直通列車は丹波橋駅を使用、ただし当初の正式駅名は両駅とも丹波橋駅)。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[10月10日]]:[[自動列車停止装置|ATS]]使用開始。
** [[12月20日]]:伏見駅 - 丹波橋駅(京阪) - 桃山御陵前駅間廃止。また、丹波橋駅での京阪との相互直通運転と丹波橋駅・近鉄丹波橋駅の併用も廃止。近鉄使用の丹波橋駅を近畿日本丹波橋駅として分離。なお、この日より奈良線大型車両の京都線での運用を開始する。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[9月13日]]:京都駅 - 東寺駅間高架化。
** [[9月21日]]:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
* [[1970年]](昭和45年)[[3月1日]]:近畿日本丹波橋駅を近鉄丹波橋駅に改称。
* [[1972年]](昭和47年)[[11月22日]]:高の原駅開業。
* [[1974年]](昭和49年)[[7月20日]]:木津川駅廃止。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[3月30日]]:向島駅開業。
** 7月:特急に限り6両編成運転開始。
* [[1981年]](昭和56年)[[3月18日]]:[[近鉄800系電車|800系]]・[[近鉄820系電車|820系]]運用終了。
* [[1982年]](昭和57年)[[3月18日]]:平日朝の急行を6両編成に増結。同年6月1日に急行の6両編成運転を一旦中止。
* [[1987年]](昭和62年)
** 7月:竹田駅を移転。
** [[10月22日]]:大久保駅付近高架化完成、同駅に待避線が設けられる<ref>{{Cite news |title=15日まず下り線使用 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1987-10-09 |page=1 }}</ref>。<!-- 同日付であることが「80年のあゆみ」に記載 -->
** [[12月6日]]:急行の6両編成運転を再開。準急、普通の一部区間での6両運転も開始。
* [[1988年]](昭和63年)[[8月28日]]:[[京都市営地下鉄烏丸線]]との相互直通運転を開始(当時は北大路駅まで)。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[10月24日]]:京都市営地下鉄烏丸線の北大路駅 - 北山駅間延伸開業に伴い、直通運転区間も延長。
* [[1993年]](平成5年)
** 3月18日:宮津車庫完成。
** 7月:東寺駅 - 竹田駅間の連続立体交差化工事に着手<ref name="100nenayumi" />{{Rp|page=437}}。
** 9月21日:近鉄宮津駅開業。待避可能駅。この近鉄宮津駅開業および[[近鉄志摩線|志摩線]]複線化工事の進捗・同年10月の[[伊勢神宮式年遷宮]]の輸送対応と合わせ、主要線区でダイヤ変更を実施。
* [[1994年]](平成6年)9月21日:木津川台駅開業。
* [[1995年]](平成7年)[[3月16日]]:同志社大学京田辺キャンパスへの通学客に対応するため、平日朝方に京都発近鉄宮津ゆき急行を2本新設(1本は京都発新田辺ゆき急行の区間延長。従来の急行停車駅のほか三山木駅にも停車)。
* [[1996年]](平成8年)[[3月15日]]:[[近鉄23000系電車|23000系]](伊勢志摩ライナー)を京都発着の特急にも運用開始。新祝園駅で待避線の使用開始。
* [[1997年]](平成9年)
** 3月18日:同日のダイヤ変更で「土曜・休日ダイヤ」が導入されたのに伴い、土曜・休日朝方にも京都発近鉄宮津ゆき急行を1本設定。また、平日朝方に高の原始発の京都ゆき急行を1本新設。
** [[5月22日]]:京都市営地下鉄烏丸線の北山駅 - 国際会館駅間延伸開業に伴うダイヤ修正を実施(延伸区間は6月3日の正午に開業、それまではいわゆる「予行運転」の形で延伸区間は回送列車として運行)。
* [[1998年]](平成10年)
** [[3月17日]]:土曜・休日昼間、京都駅 - 近鉄奈良駅間に快速急行を新設。
** [[10月3日]]:東寺駅 - 竹田駅間の下り線高架化<ref>{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |date = 1999-03 |volume = 49 |issue = 3 |page = 87 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)
** 3月16日:同日より京都駅21:00発以降の下り特急7本が高の原駅にも停車。
** [[11月27日]]:東寺駅 - 竹田駅間、上下線とも高架化。上鳥羽口駅は通過線が設けられて待避可能駅に。
* [[2000年]](平成12年)3月15日:国際会館駅 - 近鉄奈良駅間直通の急行を新設し京都市営地下鉄烏丸線との相互直通運転区間を近鉄奈良駅まで延長。快速急行が平日昼間にも設定され増発、停車駅に新大宮駅を追加。急行の停車駅に新祝園駅を、準急の停車駅に向島駅をそれぞれ追加、京都発近鉄宮津ゆき急行は興戸駅にも停車。
* [[2001年]](平成13年)
** [[2月1日]]:各駅で[[スルッとKANSAI]]対応カードの取り扱い開始。
** [[10月14日]]:各駅で[[Jスルーカード]]の取り扱い開始。
* [[2002年]](平成14年)
** [[3月20日]]:同日より近鉄丹波橋駅にすべての特急が停車(これまでにも大晦日終夜運転に限って停車していた)。また、高の原駅停車の特急を京都駅19:00発以降の下り特急にも拡大(8本が新たに停車)。
** 5月27・29日:[[上皇明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]の奈良視察に伴う[[お召し列車]]を運転(27日:京都駅から近鉄奈良駅へ、29日:橿原神宮前駅から京都駅へ)。両行程共に[[近鉄21000系電車|21000系]](アーバンライナー)の第11編成を4両に短縮の上で充当。
* [[2003年]](平成15年)[[3月6日]]:京都駅 - 近鉄奈良駅間の快速急行を急行に統合し廃止<ref name="JRC608" />。京伊特急の一部が大和八木 - 賢島間で阪伊乙特急と併結運転(併結運転列車の京伊特急側の号車番号は「A号車、B号車、…」とする)。
* [[2005年]](平成17年)[[8月6日]]:三山木駅付近高架化完成。
* [[2007年]](平成19年)4月1日:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。
* [[2008年]](平成20年)
** [[6月14日]]:京都駅 - 竹田駅間で車上速度パターン照査式ATS (ATS-SP) 使用開始。
** 10月30・31日:天皇・皇后の奈良視察に伴うお召し列車を京都駅 - 近鉄奈良駅間に運転(往路は30日、復路は31日)。往復共に[[近鉄21020系電車|21020系]](アーバンライナーnext)21021F が充当される<ref>[http://railf.jp/news/2008/10/31/180000.html 近鉄21020系によるお召列車運転] - 鉄道ファン(交友社)「railf.jp」鉄道ニュース、2008年10月31日</ref>。
* [[2009年]](平成21年)3月1日:Jスルーカードの自動改札機・のりこし精算機での取り扱いを終了<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/jcard20081202.pdf Jスルーカードの利用終了について]}} - 近畿日本鉄道ほか 2008年12月2日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[10月7日]]:天皇・皇后の奈良視察に伴うお召し列車を、京都駅から近鉄奈良駅へ運転。21020系(アーバンライナーnext)21021F を充当。<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.nara.jp/secure/53534/gyoukoukei.pdf 行幸啓について]}} - 奈良県ホームページ</ref><ref>[http://railf.jp/news/2010/10/08/110000.html 近鉄21020系使用のお召列車が運転される] - 鉄道ファン(交友社)「railf.jp」鉄道ニュース、2010年10月8日</ref>
* [[2014年]](平成26年)
** 10月10日:京伊特急でも[[近鉄50000系電車|50000系]]による観光特急「しまかぜ」を運転開始<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/simakaze.pdf 観光特急「しまかぜ」平成26年10月10日(金)、京都発着の定期運行開始!]}} - 近畿日本鉄道ニュースリリース、2014年4月24日</ref>。
** 11月15・17日:天皇・皇后の奈良視察([[全国豊かな海づくり大会]]臨席など)に伴うお召し列車を運転(15日:京都駅から橿原神宮前駅まで、17日:近鉄奈良駅から京都駅まで)<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.nara.jp/secure/128732/h26houdousiryou.pdf 行幸啓について]}} - 奈良県ホームページ(2014年11月22日閲覧)。</ref>。
* [[2016年]](平成28年)4月2・4日:天皇・皇后の奈良視察([[神武天皇]]式年祭参拝など)に伴うお召し列車を、京都駅 - 橿原神宮前駅間に運転(往路は2日、復路は4日)<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.nara.jp/secure/154208/H28houdousiryou.pdf 行幸啓について]}} - 奈良県ホームページ(2016年4月4日閲覧)</ref>。
* [[2021年]]([[令和]]3年)7月3日:[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウィルス感染症流行]]の影響による旅客利用状況から、夜間中心に大幅な列車本数削減・運転区間短縮・終電繰上げを伴うダイヤ変更を実施<ref>{{Cite press release|和書|title=2021年7月3日(土)ダイヤ変更について|publisher=近畿日本鉄道|date=2021-05-12|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahenkou.pdf|format=PDF|accessdate=2022-01-14}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** 4月12日:京都市営地下鉄20系が近鉄京都線直通運転開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20220413-2320891/ |title=京都市営地下鉄烏丸線の新型車両20系、近鉄京都線へ直通運転を開始 |access-date=2022-07-19 |website=マイナビニュース |date=2022-04-13 |publisher=マイナビ}}</ref>。
** 4月29日:[[近鉄12000系電車#19200系|19200系]]による観光特急「あをによし」が運転開始<ref>[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/awoniyosi.pdf 2022年4月29日に大阪~奈良~京都を結ぶ観光特急「あをによし」がデビュー!]</ref>。
** 12月17日:ダイヤ変更で、平日の京都市営地下鉄烏丸線国際会館駅 - 近鉄奈良駅間直通の急行が朝夕の運転となる。
* [[2023年]](令和5年)5月16日・18日:上皇夫妻私的旅行に伴うお召列車を運転(16日:京都駅から奈良駅まで、18日奈良駅から京都駅まで)。50000系SV01編成「しまかぜ」を充当。
== 今後の予定 ==
<!-- 予定期日を迎えたものは、内容によっては年表以外の節に記述を移すことがあります。-->
=== 奈良線移設・大和西大寺駅高架工事 ===
{{Main|近鉄奈良線#平城宮跡付近の連続立体交差化}}
[[平城宮|平城宮跡]]付近の迂回を目的とする[[連続立体交差事業]]に伴い、[[大和西大寺駅]]の高架化および移設が計画されており、大和西大寺駅付近の[[開かずの踏切]]が除却される予定である。
平城駅 - 大和西大寺駅間は現在の線路から最大で100mほど離れて西へ膨らむように南下して新しい大和西大寺駅に進入する。
=== 新型車両導入 ===
{{See also|近畿日本鉄道の車両形式#今後の計画}}
近鉄は、2022年4月15日に運賃改定の申請資料において、老朽化した車両約450両のうち新造から55年を超えた車両について、2024年度から順次必要分を新型車両に置き換える計画を発表した<ref>{{Cite news|title=鉄軌道旅客運賃の改定を申請しました |url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/220415knr.pdf|format=PDF|date=2022-04-15|publisher=近畿日本鉄道|accessdate=2022-07-19}}</ref>。
新型車両は2024年秋から運行開始予定で、奈良線、京都線、橿原線、天理線(以降他線区も展開予定)で4両10編成(計40両)が導入される<ref>{{Cite press release|和書|title=2024年秋 新型一般車両を導入します|publisher=近畿日本鉄道|date=2022-05-17|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/sinngatasyaryou.pdf|format=PDF|access-date=2022-07-19}}</ref>。ロングシートとクロスシートを切り替えできる[[L/Cカー]]となる。
== 駅一覧 ==
<!-- 運行形態(運転区間・時間帯)などの詳細は「運行形態」章に記述してください -->
<!-- あくまで種別ごとの停車駅を示しているので、停車駅が同じなら地下鉄直通を分ける必要はありません。-->
;凡例
:●:停車、|・↑:通過(↑:上りのみ運転)、▼:京都発近鉄宮津行のみ停車、※:[[奈良競輪場|奈良競輪]]開催時臨時停車
:普通列車は各駅に停車(表中省略)。準急は上りのみ運転。
:特急列車については[[近鉄特急|特急列車記事]]を参照のこと
:<nowiki>#</nowiki>印の駅は[[待避駅|列車待避]]可能駅
:↷印の駅は折り返し運転可能駅
:<nowiki>*</nowiki>印の駅は車両基地所在駅
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #fab202;"|駅番号
!style="width:9em; border-bottom:solid 3px #fab202;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #fab202;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #fab202;"|営業<br />キロ
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #fab202; background-color:#cf9;"|{{縦書き|準急}}
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #fab202; background-color:#fc9;"|{{縦書き|急行}}
!style="border-bottom:solid 3px #fab202;"|接続路線
!colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #fab202;"|所在地
|-
!B01
|[[京都駅]]↷
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center; background-color:#cf9;"|●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;"|●
|[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] [[東海道新幹線]]<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|A}} [[東海道本線]]([[JR京都線]]・[[琵琶湖線]]、JR-A31)・{{JR西路線記号|K|B}} [[湖西線]] (JR-B31)<ref group="注釈">湖西線の正式な起点は東海道本線(琵琶湖線)[[山科駅]]だが、全列車が京都駅に乗り入れている。</ref>・{{JR西路線記号|K|D}} [[奈良線]] (JR-D01)・{{JR西路線記号|K|E}} [[山陰本線]]([[嵯峨野線]]、JR-E01)<br />[[京都市営地下鉄]]:[[ファイル:Subway KyotoKarasuma.svg|15px|K]] [[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]] (K11)
| rowspan="23" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;" |{{縦書き|[[京都府]]|height=6em}}
|rowspan="9" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[京都市]]|height=4em}}
|style="white-space:nowrap;"|[[下京区]]
|-
!B02
|[[東寺駅]]
|style="text-align:right;" |0.9
|style="text-align:right;" |0.9
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |●
|
|rowspan="2"|[[南区 (京都市)|南区]]
|-
!B03
|[[十条駅 (近鉄)|十条駅]]
|style="text-align:right;" |0.6
|style="text-align:right;" |1.5
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |↑
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
|-
!B04
|[[上鳥羽口駅]]#
|style="text-align:right;" |1.0
|style="text-align:right;" |2.5
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |↑
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
|rowspan="6"|[[伏見区]]
|-
!B05
|[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]
|style="text-align:right;" |1.1
|style="text-align:right;" |3.6
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |●
|京都市営地下鉄:[[ファイル:Subway KyotoKarasuma.svg|15px|K]] 烏丸線 (K15)(大和西大寺方面〈急行が近鉄奈良駅、普通が新田辺駅〉から[[国際会館駅]]まで直通運転)
|-
!B06
|[[伏見駅 (京都府)|伏見駅]]
|style="text-align:right;" |1.3
|style="text-align:right;" |4.9
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |↑
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
|-
!B07
|[[近鉄丹波橋駅]]
|style="text-align:right;" |1.1
|style="text-align:right;" |6.0
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |●
|[[京阪電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Keihan lines.png|25px]] [[京阪本線]]…[[丹波橋駅]] (KH30)
|-
!B08
|[[桃山御陵前駅]]
|style="text-align:right;" |0.5
|style="text-align:right;" |6.5
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |●
|
|-
!B09
|[[向島駅]]#↷
|style="text-align:right;" |2.1
|style="text-align:right;" |8.6
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
|-
!B10
|[[小倉駅 (京都府)|小倉駅]]
|style="text-align:right;" |2.8
|style="text-align:right;" |11.4
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
| colspan="2" rowspan="3" |[[宇治市]]
|-
!B11
|[[伊勢田駅]]
|style="text-align:right;" |1.3
|style="text-align:right;" |12.7
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
|-
!B12
|[[大久保駅 (京都府)|大久保駅]]#
|style="text-align:right;" |0.9
|style="text-align:right;" |13.6
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |●
|
|-
!B13
|[[久津川駅]]
|style="text-align:right;" |1.0
|style="text-align:right;" |14.6
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
| colspan="2" rowspan="3" |[[城陽市]]
|-
!B14
|[[寺田駅 (京都府)|寺田駅]]
|style="text-align:right;" |1.3
|style="text-align:right;" |15.9
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
|-
!B15
|[[富野荘駅]]
|style="text-align:right;" |1.5
|style="text-align:right;" |17.4
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
|-
!B16
|[[新田辺駅]]#↷*
|style="text-align:right;" |2.2
|style="text-align:right;" |19.6
|style="text-align:center; background-color:#cf9;" |●
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |●
|
| colspan="2" rowspan="4" |[[京田辺市]]
|-
!B17
|[[興戸駅]](同志社前)
|style="text-align:right;" |1.5
|style="text-align:right;" |21.1
|style="text-align:center;" |
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |▼
|
|-
!B18
|[[三山木駅]]
|style="text-align:right;" |1.3
|style="text-align:right;" |22.4
|style="text-align:center;" |
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |▼
|
|-
!B19
|[[近鉄宮津駅]]#*
|style="text-align:right;" |0.7
|style="text-align:right;" |23.1
|style="text-align:center;" |
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |▼
|
|-
!B20
|[[狛田駅]]
|style="text-align:right;" |1.3
|style="text-align:right;" |24.4
|style="text-align:center;" |
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
|colspan="2" rowspan="2"|[[相楽郡]]<br />[[精華町]]
|-
!B21
|[[新祝園駅]]#
|style="text-align:right;" |2.3
|style="text-align:right;" |26.7
|style="text-align:center;" |
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |●
|西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|H}} [[片町線]](学研都市線)…[[祝園駅]] (JR-H20)
|-
!B22
|[[木津川台駅]]
|style="text-align:right;" |1.5
|style="text-align:right;" |28.2
|style="text-align:center;" |
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
| colspan="2" |[[木津川市]]
|-
!B23
|[[山田川駅]]
|style="text-align:right;" |1.0
|style="text-align:right;" |29.2
|style="text-align:center;" |
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" ||
|
|colspan="2"|相楽郡<br />精華町
|-
!B24
|[[高の原駅]]#
|style="text-align:right;" |1.6
|style="text-align:right;" |30.8
|style="text-align:center;" |
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |●
|
| colspan="3" rowspan="3" |[[奈良県]]<br />[[奈良市]]
|-
!B25
|[[平城駅]]
|style="text-align:right;" |2.7
|style="text-align:right;" |33.5
|style="text-align:center;" |
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |※
|
|-
!B26
|[[大和西大寺駅]]#↷*
|style="text-align:right;" |1.1
|style="text-align:right;" |34.6
|style="text-align:center;" |
|style="text-align:center; background-color:#fc9;" |●
|[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄橿原線|橿原線]](普通・急行・特急が[[橿原神宮前駅]]、普通・急行が{{近鉄駅番号|H}} [[近鉄天理線|天理線]][[天理駅]]、特急が{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]]経由で{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄志摩線|志摩線]][[賢島駅]]まで直通運転)・{{近鉄駅番号|A}} [[近鉄奈良線|奈良線]] (A26)([[近鉄奈良駅]]まで直通運転)
|}
<gallery widths="100" perrow="10">
ファイル:近鉄京都線 京都駅 Ticket barrier of Kintetsu Kyōto station 2013.1.10 - panoramio.jpg|京都駅
ファイル:KT-TōjiStation.jpg|東寺駅
ファイル:Kintetsu jujo stn01.jpg|十条駅
ファイル:Kintetsu kamitobaguchi stn.jpg|上鳥羽口駅
ファイル:TakedaStation-NorthGate.jpg|竹田駅
ファイル:Fushimi stn Kintetsu.jpg|伏見駅
ファイル:Keihan Tambashi station south gate.jpg|近鉄丹波橋駅
ファイル:Kintetsu Momoyamagoryomae station 20210131.jpg|桃山御陵前駅
ファイル:向島駅 01.JPG|向島駅
ファイル:近鉄京都線 小倉駅 Ogura station 2013.1.10 - panoramio.jpg|小倉駅
ファイル:近鉄京都線 伊勢田駅 Iseda station 2013.1.10 - panoramio.jpg|伊勢田駅
ファイル:Kintetsu okubo stn east.gfdl.jpg|大久保駅
ファイル:Kintetsu Kutsukawa sta 001.jpg|久津川駅
ファイル:Kintetsu Terada sta 001.jpg|寺田駅
ファイル:Kintetsu Tominosho sta 002.jpg|富野荘駅
ファイル:KT-Shin-TanabeStation-WestGate.jpg|新田辺駅
ファイル:Kintetsu Kodo sta 001.jpg|興戸駅
ファイル:Kintetsu Miyamaki station 20090411.JPG|三山木駅
ファイル:Kintetsu Miyazu sta 001.jpg|近鉄宮津駅
ファイル:Komada stn.jpg|狛田駅
ファイル:ShinHousono-Station.jpg|新祝園駅
ファイル:Kizugawadai Station 2007-03-06.jpg|木津川台駅
ファイル:Yamadagawa Station 2007-03-06.jpg|山田川駅
ファイル:SunTownPLAZA Cosmos-kan (AEON MALL TAKANOHARA).JPG|高の原駅
ファイル:Kintetsu-Heijo-station01.jpg|平城駅
ファイル:Kintetsu Yamato-Saidaiji station on 8th May 2020.jpg|大和西大寺駅
</gallery>
=== かつて存在した駅 ===
*[[八条駅]](京都駅 - 東寺駅間、1928年11月15日開業、1945年5月20日休止、1946年10月1日廃止) - 東海道本線と並行向きに京都駅を出た列車が、南へ進行方向を変えるあたり、つまり京都駅と東寺駅とのほぼ中間に位置する八条通りの東寺寄りに設けられていた駅。京都駅および東寺駅の駅間距離は極めて短く(八条駅が廃止されて以降もまだ短い部類に入る)、しかもいずれの駅へも徒歩圏内にあり、その関係で不要不急とみなされ廃止された。
*[[丹波橋駅]](伏見駅 - 桃山御陵前駅間、1945年開業、1968年12月19日廃止) - 京阪電気鉄道への乗り入れを目的に近隣の堀内駅を一旦廃止した上で開設。近畿日本丹波橋駅(現在の近鉄丹波橋駅)が丹波橋駅5・6番線として暫定開業した1967年より後も継続使用していたが、乗り入れ廃止により近畿日本丹波橋駅に一本化して同駅を正式に開業した際に廃止。
*[[木津川駅 (京都府)|木津川駅]](富野荘駅 - 新田辺駅間、1929年7月10日開業、1945年5月20日休止、1946年10月1日廃止、1948年7月1日再開、1965年8月23日休止、1974年7月20日廃止) - 水泳客用に夏季のみ設けられた[[臨時駅]]。
== 車両基地 ==
{{Main|西大寺検車区}}
*[[西大寺検車区]]新田辺車庫(京都府京田辺市、新田辺駅北方、収容能力 56両)
*西大寺検車区宮津車庫(京都府京田辺市、近鉄宮津駅隣接、収容能力 74両)
*西大寺検車区西大寺車庫(奈良県奈良市、大和西大寺駅南東方、収容能力 277両)
<gallery widths="230px">
ファイル:KT-Shin-TanabeStation-Platform.jpg|西大寺検車区新田辺車庫(写真駅左奥)
ファイル:Saidaiji inspection depot.JPG|西大寺検車区西大寺車庫
</gallery>
== 橋梁 ==
*[[澱川橋梁]](桃山御陵前駅 - 向島駅間。1927年10月 - 1928年6月建設)
*[[木津川橋梁 (近鉄京都線)|木津川橋梁]](富野荘駅 - 新田辺駅間。1927年10月 - 1928年6月建設)
<gallery widths="230px">
ファイル:Yodogawa Railway bridge of Kintetsu 002 KYOTO JPN.jpg|澱川橋梁(向島駅 - 桃山御陵前駅間の[[淀川|宇治川]]に架かる日本最長164.6mの単純[[トラス橋]]。[[登録有形文化財]])
ファイル:Kyoto City 1106.jpg|木津川橋梁(新田辺 - 富野荘駅間の[[木津川 (京都府)|木津川]]に架かる493.17mの橋)
</gallery>
== 駅内店舗 ==
駅ナカ・駅チカにある店舗
* [[都シティ 近鉄京都駅]](旧名称:ホテル近鉄京都駅)
* Time’s Place
** 京都駅(Kyoto)
** 西大寺駅(Saidaiji)
* 近鉄名店街 みやこみち
** 京都駅
* [[ファミリーマート]]([[近鉄リテーリング]])
** 京都駅(近鉄京都駅店、近鉄京都駅3番ホーム前店)
** 近鉄丹波橋駅(近鉄丹波橋駅1番ホーム店)
** 向島駅(近鉄向島駅改札内橋上店)
** 大久保駅(近鉄大久保駅店)
** 新田辺駅(近鉄新田辺駅改札外橋上店)
** 高の原駅(近鉄高の原駅改札内橋上店)
** 大和西大寺駅(近鉄大和西大寺駅3番ホーム店、近鉄大和西大寺駅改札外橋上店、近鉄大和西大寺駅改札内橋上店)
<gallery widths="230">
ファイル:FamilyMart Kintetsu Kyoto Station store.jpg|近鉄京都駅店
ファイル:K-FamilyMart in front of No.3 platform of Kintetsu Kyoto Station store.JPG|近鉄京都駅3番ホーム前店
ファイル:Kintetsu-eki-fami at No.1 platform of Tambabashi Station store.JPG|近鉄丹波橋駅1番ホーム店
ファイル:Kintetsu Mukaijima sta 003.jpg|近鉄向島駅改札内橋上店(写真改札奥)
ファイル:Kintetsu-eki-fami Okubo Station store (1).JPG|近鉄大久保駅店
ファイル:K-FamilyMart on the bridge of Kintetsu Takanohara station store.JPG|近鉄高の原駅改札内橋上店
ファイル:K-FamilyMart Kintetsu Saidaiji station No.3 platform store (1).JPG|近鉄大和西大寺駅3番ホーム店
ファイル:FamilyMart Kintetsu Saidaiji-eki kaisatsu-gai kyojo store.jpg|近鉄大和西大寺駅改札外橋上店
ファイル:FamilyMart Kintetsu Saidaiji-eki Kaisatsu-nai Kyojo store.jpg|近鉄大和西大寺駅改札内橋上店
</gallery>
== 主要駅の乗降客数 ==
1日当たりの乗降客数は次の通り<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/i.html 駅別乗降人員 京都線] - 近畿日本鉄道</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|+
!駅名
!2005年<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20071030054545/http://www.kintetsu.jp/kouhou/corporation/koutsu/i.html|title=駅別乗降員(一日乗降人員 (調査日:平成17年11月8日〔火〕))|accessdate=2007年10月30日|publisher=}}</ref>
!2010年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.jp/kouhou/corporation/koutsu/i.html|title=駅別乗降員(一日乗降人員 (調査日:平成22年11月9日〔火〕))|accessdate=2011年5月28日|publisher=}}</ref>
!2012年<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160331144150/http://www.kintetsu.co.jp:80/tetsudo/i.html|title=駅別乗降員(一日乗降人員 (調査日:平成24年11月13日〔火〕))|accessdate=2012年11月13日|publisher=}}</ref>
!2015年<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20170829011841/http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/i.html|title=駅別乗降員(一日乗降人員 (調査日:平成24年11月13日〔火〕))|accessdate=2017年8月29日|publisher=}}</ref>
!2018年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/i.html|title=駅別乗降員(一日乗降人員 (調査日:平成30年11月13日(火)))|accessdate=2019年11月6日|publisher=}}</ref>
!2021年<ref>{{Cite web|和書|title=近畿日本鉄道|駅別乗降人員 京都線 |url=https://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/i.html |website=www.kintetsu.co.jp |access-date=2022-07-10}}</ref>
|-
!京都
|89,420
|87,880
|80,732
|82,414
|83,478
|63,506
|-
!東寺
|9,765
|9,267
|8,153
|8,742
|9,285
|7,123
|-
!竹田
|11,454
|11,476
|11,402
|10,806
|11,719
|9,855
|-
!近鉄丹波橋
|52,365
|47,904
|46,534
|46,795
|46,900
|36,707
|-
!桃山御陵前
|15,407
|15,216
|14,855
|14,997
|15,214
|12,759
|-
!向島
|13,840
|16,616
|16,050
|16,517
|15,839
|13,105
|-
!小倉
|18,542
|16,674
|16,232
|16,453
|15,940
|13,067
|-
!大久保
|28,635
|26,217
|25,349
|24,813
|25,445
|21,953
|-
!新田辺
|26,625
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|25,881
|24,474
|20,895
|-
!興戸
|14,972
|14,305
|13,367
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|-
!新祝園
|11,535
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|-
!高の原
|33,802
|36,489
|35,637
|35,623
|34,836
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|-
!大和西大寺
|53,480
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|39,811
|-
|-
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|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 脚注 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | title = まるごと近鉄ぶらり沿線の旅 | author = 徳田耕一(編著) | publisher = [[河出書房新社]] | year = 2005 | id = ISBN 4309224393 }}
* {{Cite book | 和書 | series = カラーブックス | title = 日本の私鉄 近鉄1 | author1=諸河久|authorlink1=諸河久|author2=杉谷広規(編著) | publisher = [[保育社]] | year = 1998 | id = ISBN 458650904X }}
* {{Cite book | 和書 | series = カラーブックス | title = 日本の私鉄 近鉄2 | author = 諸河久・山辺誠(編著) | publisher = 保育社 | year = 1998 | id = ISBN 4586509058 }}
* {{Cite journal | 和書 | journal = 近鉄時刻表 | volume = 各号 | author = [[近畿日本鉄道]](編著) | publisher = 近畿日本鉄道 }}
* {{Cite journal | 和書 | journal = [[鉄道ピクトリアル]] | date = 2003年1月 | volume = 増刊号 | title = 特集:近畿日本鉄道 | author = 電気車研究会 | publisher = 電気車研究会 }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kintetsu Kyoto Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[近鉄特急]]
** [[近鉄特急史]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kintetsu.jp/kouhou/Rireki/A40003.html 路線の履歴書 京都線]
* [https://tid.kintetsu.co.jp/LocationWeb/trainlocationinfoweb03.html 京都線] - 近鉄列車走行位置
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[[Category:近畿地方の鉄道路線|きようとせん]]
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16,996 |
ウィツィロポチトリ
|
ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)は、アステカ神話の太陽神・軍神・狩猟神である。
その名は「蜂鳥(huitzilin)の左(opochtli)」を意味する。女神コアトリクエの息子であり、月神コヨルシャウキの弟である。コアトリクエは、コアテペック山で羽毛の珠を拾ったことにより受胎。それを知ったコアトリクエの子たちは、母の懐妊に面目を潰されたと感じ、コアトリクエを殺害しようとした。しかしコアテペック山で、完全武装したウィツィロポチトリが誕生し、「トルコ石の蛇」を使ってコヨルシャウキを八つ裂きにし、兄弟の大半を滅ぼした。ウィツィロポチトリの兄弟殺しは、アステカの版図の拡大を象徴しているという。
メソアメリカの神話では太陽はしばしば戦士であり、人間の生贄を求めるものであった。そして、蜂鳥は天界の太陽の家(トナティウ・イチャン)で転生した戦士だと言われていた。戦士であり太陽であるとされたウィツィロポチトリには、生贄として人間の心臓が捧げ続けられていた。
蜂鳥をかたどった頭飾りをつけ、左足に蜂鳥の羽飾りをつけ、五つの房の着いた盾と槍を持った戦士の姿で表される。ウィツィロポチトリは図像表現において、同様に戦士の神であるテスカトリポカと関連付けられている。これら2神は共に、煙を吐く鏡、赤い皮ひもで結ばれた白い輪状の胸飾り、蛇または鏡に置き換えられた片足、トルコ石の投槍器(シウアトラトル)、シウコアトルの仮面(シウコアナワリ)などの特徴を備えて描かれることがある。『マリアベッキアーノ絵文書』ではウィツィロポチトリはテスカトリポカの友と呼ばれている。
アステカの部族神として、最も篤く信仰された。テノチティトラン(現在のメキシコシティ)がアステカの首都となったのもウィツィロポチトリの神託によるものであり、メキシコの国旗、国章にも描かれている。アステカの大神殿テンプロ・マヨールはトラロックとウィツィロポチトリを祀った双子神殿である。
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ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)は、アステカ神話の太陽神・軍神・狩猟神である。
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[[ファイル:Huitzilopochtli 1.jpg|thumb|right|200px|ウィツィロポチトリ]]
'''ウィツィロポチトリ'''('''Huitzilopochtli''')は、[[アステカ神話]]の[[太陽神]]・軍神・狩猟神である。
==概要==
その名は「[[ハチドリ|蜂鳥]]([[wikt:en:huitzilin|huitzilin]])の左([[wikt:en:opochtli|opochtli]])」を意味する。女神[[コアトリクエ]]の息子であり、月神[[コヨルシャウキ]]の弟である。コアトリクエは、[[コアテペック]]山で羽毛の珠を拾ったことにより受胎。それを知ったコアトリクエの子たちは、母の懐妊に面目を潰されたと感じ、コアトリクエを殺害しようとした。しかしコアテペック山で、完全武装したウィツィロポチトリが誕生し、「[[シウコアトル|トルコ石の蛇]]」を使ってコヨルシャウキを八つ裂きにし、兄弟の大半を滅ぼした。ウィツィロポチトリの[[フラトリサイド|兄弟殺し]]は、[[アステカ]]の版図の拡大を象徴しているという。
メソアメリカの神話では太陽はしばしば戦士であり、人間の生贄を求めるものであった。そして、蜂鳥は天界の太陽の家(トナティウ・イチャン)で転生した戦士だと言われていた<ref>Sahagun, Bernardino de (1950-82): book3. p. 49.</ref>。戦士であり太陽であるとされたウィツィロポチトリには、[[生贄]]として人間の[[心臓]]が捧げ続けられていた。
蜂鳥をかたどった頭飾りをつけ、左足に蜂鳥の羽飾りをつけ、五つの房の着いた[[盾]]と[[槍]]を持った戦士の姿で表される。ウィツィロポチトリは図像表現において、同様に戦士の神である[[テスカトリポカ]]と関連付けられている。これら2神は共に、煙を吐く鏡、赤い皮ひもで結ばれた白い輪状の胸飾り、蛇または鏡に置き換えられた片足、トルコ石の投槍器(シウ[[アトラトル]])、シウコアトルの仮面(シウコアナワリ)<ref>Sahagun, Bernardino de (1950-82): book3. p. 4.</ref><ref>Sahagun, Bernardino de (1997): p. 94.</ref><ref>Quiñones Keber, Eloise (1995): p. 10.</ref>などの特徴を備えて描かれることがある<ref>シウアトラトル、シウコアナワリは火の神[[シウテクトリ]]の持ち物でもある。また、狩猟の神[[ミシュコアトル]]もシウアトラトルを持つことがある。</ref>。『マリアベッキアーノ絵文書』ではウィツィロポチトリはテスカトリポカの友と呼ばれている<ref>Boone, Elizabeth Hill (1983): p. 198.</ref>。
アステカの部族神として、最も篤く信仰された。[[テノチティトラン]](現在の[[メキシコシティ]])がアステカの首都となったのもウィツィロポチトリの神託によるものであり、[[メキシコの国旗]]、[[国章]]にも描かれている。アステカの大神殿[[テンプロ・マヨール]]は[[トラロック]]とウィツィロポチトリを祀った双子神殿である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[カール・タウベ]]『アステカ・マヤの神話』藤田美砂子訳 [[丸善]] ISBN 978-4621060445
* {{cite book |author=Sahagún, Bernardino de |authorlink=ベルナルディーノ・デ・サアグン |year=1950–82 |origyear=ca. 1540–85 |title=Florentine Codex: General History of the Things of New Spain, 13 vols. in 12 |edition=translation of ''Historia General de las Cosas de la Nueva España'' |others=Charles E. Dibble and Arthur J. O. Anderson (eds., trans., notes and illus.) |series=vols. I-XII |location=Santa Fe, NM and Salt Lake City |publisher=The School of American Research and The University of Utah Press |isbn=0-87480-082-X |oclc=276351}}
* {{cite book |author=Sahagún, Bernardino de |year=1997 |origyear=ca.1558–61 |title=Primeros Memoriales |others=[[Thelma D. Sullivan]] (English trans. and paleography of Nahuatl text), with [[H.B. Nicholson]], [[Arthur J.O. Anderson]], [[Charles E. Dibble]], [[Eloise Quiñones Keber]], and Wayne Ruwet (completion, revisions, and ed.) |series=Civilization of the American Indians series vol. 200, part 2 |location=Norman |publisher=[[University of Oklahoma Press]] |isbn=978-0-8061-2909-9 |oclc=35848992}}
*{{cite book |author=Quiñones Keber, Eloise |year=1995 |title=Codex Telleriano-Remensis: Ritual, Divination, and History in a Pictorial Aztec Manuscript |publisher=University of Texas Press |isbn=978-0-292-76901-4}}
* {{cite book |author=Boone, Elizabeth Hill |authorlink=Elizabeth Hill Boone |year=1983 |title=The Codex Magliabechiano and the Lost Prototype of the Magliabechiano Group |edition=issued together with reprint of ''The Book of the Life of the Ancient Mexicans'' by Zelia Nuttall [1903], part 2 in two-volume set|location=Berkeley |publisher=[[University of California Press]] |isbn=0-520-04520-3 |oclc=8113016}}
{{Commons|Huitzilopochtli}}
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|
16,997 |
近鉄橿原線
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橿原線(かしはらせん)は、奈良県奈良市の大和西大寺駅から奈良県橿原市の橿原神宮前駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。
駅ナンバリング等で使われる路線記号はBで、番号は直通運転している京都線と一体(京都駅を01とする)で振られている。
奈良盆地の中央を南北に貫き、奈良近郊と橿原を結ぶ。京都線の延長線として京都と橿原、さらには大和八木駅で大阪線と接続しており、京都・奈良と三重県中部・伊勢志摩地方をつなぐルートにもなっている。直通運転はできないものの京都と吉野方面の連絡も担う。京都線と合わせて近鉄の背骨ともいえる主要5大ルートの一つを形成しており、近鉄路線網の中で京都、奈良、伊勢志摩、吉野の回遊を支える重要な役割を担っている。また、支線格となる天理線関係の波動輸送の需要も大きく、神戸・大阪から天理をつなぐルートの一部を構成する。
PiTaPa・ICOCAなどの全国相互利用サービスのIC乗車カードが使用できる。また、以前はスルッとKANSAI対応カードおよびJスルーカードにも対応していた。一般列車は車掌のタブレット操作による車内自動放送を実施している(2016年3月27日開始)。
全線、大阪統括部の管轄である(旧営業局時代は、橿原神宮前駅構内のみ天王寺営業局、それ以外は上本町営業局が管轄していた)。
特急・急行・普通列車が運行されている。当線を経由して京都駅 - 橿原神宮前駅間および京都駅 - 賢島駅間で運転される特急の詳細は「近鉄特急」の項を参照のこと。特急は日中は京都駅 - 橿原神宮前駅間で1時間に2本が運転され、一部時間帯に賢島駅発着の列車が追加される。 橿原線内では大和八木駅、日中に西ノ京駅(京橿特急と土休日1列車のみ京伊特急)にも停車する。
橿原線では唯一の料金不要の速達種別である。
橿原線内では近鉄郡山駅、平端駅、田原本駅、大和八木駅、八木西口駅、畝傍御陵前駅に停車し、日中に限り西ノ京駅にも停車する。大多数の列車が京都線に直通し、終日、京都駅 - 橿原神宮前駅間のほか、朝夕に天理線に直通して京都駅 - 天理駅間にも運転されている。昼間時は橿原神宮前駅発着が1時間に2本(30分間隔)運転される。一部の大和西大寺駅発着の列車には、大和西大寺駅で種別変更して奈良線では快速急行・準急・普通として、京都線では普通として、それぞれ直通運行されるものもある。従来橿原線内では待避可能駅である平端駅で特急列車を待避せず、全列車が大和西大寺駅 - 天理駅・橿原神宮前駅間で先着していたが、2022年の12月のダイヤ変更で一部の急行列車が平端駅で特急列車の待避が行われるようになった。編成両数は、一部の列車が4両編成で運転されるが基本は6両編成で運転される。
西ノ京駅への急行停車は2007年3月のダイヤ変更から土曜・休日ダイヤの昼間時のみ実施しており、2012年3月のダイヤ変更以降は平日にも停車するようになった。
終日、京都駅・大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅間のほか、朝夕は天理線に直通して大和西大寺駅 - 天理駅間でも運転されている。昼間時は1時間に橿原神宮前駅発着が3本(約20分間隔)が設定されている。編成両数は原則として4両編成であるが、早朝・深夜の天理線直通1往復は2両編成であり、これは奈良線系統では唯一の存在である。
特急列車の待避および急行との緩急接続は平端駅で行われるが、橿原神宮前駅発着の列車は橿原線内を全区間先着で運転される列車も存在する。
2010年3月のダイヤ変更から2012年3月のダイヤ変更までは、土休日の日中の一部の天理線直通列車が天理線内折り返し列車に縮小されており、橿原神宮前駅発着の毎時4本のみという時間帯も生じていた。2012年3月のダイヤ変更までは、時間帯によっては大和西大寺駅から同駅始発の京都行普通列車に系統変更するものも多くあったり、時刻表などの上では線内列車として扱われているが、実際には京都発大和西大寺行きの京都線普通列車がそのまま引き続き橿原神宮前行きまたは天理行きとして運転されるものも多かった。現在では京都線直通列車として運転されている。
また、2012年3月から2021年7月のダイヤ変更までは日中にも天理線直通の列車が毎時1本運行され、大和西大寺駅 - 平端駅間は橿原神宮前発着列車も合わせて毎時4本設定されていたが、2021年7月のダイヤ変更で日中の天理線直通列車が天理線内折り返し列車に縮小された。
1972年まで近鉄難波駅(1970年の難波線開業以前は上本町駅)から天理駅まで定期列車として運行されていた。橿原線内は各駅に停車していた。
平日早朝の特急用車両による大和西大寺駅発のものや田原本線への回送列車を含め、橿原線内の全区間で設定されているが、八木西口駅 - 橿原神宮前駅間では大阪線五位堂検修車庫で車両検査を行う際の回送列車が不定期で運転されることがあり、後述の南大阪線車両の牽引回送時にも八木西口駅隣接の短絡線を通過して大阪線に入線している。
線内の昼間時の1時間毎の運転本数をまとめると以下のようになる。
大晦日から元旦にかけての終夜運転は、近年では京都駅から伊勢方面および橿原神宮前駅への特急が両者合わせて30 - 60分間隔で運転されているほか、大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅間に普通を20 - 30分間隔で運行する形態となっている。ただし、2009年(平成21年)12月31日から2010年(平成22年)1月1日にかけての終夜運転では普通の本数が例年より減少した。2020年は終夜運転を実施しない。時刻については近鉄の公式ホームページでも掲載される。
2010年に、第27回全国都市緑化ならフェアが県営馬見丘陵公園で開催されることを受けて、利用客の便宜を図って、大和西大寺発新王寺行き臨時急行「やまと花ごよみ号」が運転され、同号は奈良市などから会場北側に位置する田原本線池部駅への直通列車として運転するもので、橿原線内は定期急行列車の停車駅、西田原本駅で折り返した後、田原本線内は定期列車の時刻で普通列車として運転した。 運転期間は当初10月18日から20日までの3日間のみだったが、11月13日と14日の2日間にも追加運転された。各日往路1本運転し、期間中の田原本線内では「やまと花ごよみ」のヘッドマークを掲出して運転していた。
天理教の祭事が行われる時の臨時急行は、奈良線に直通する大阪難波駅 - 天理駅間の列車も運行される。
奈良線・京都線で使われる車両が橿原線でも使用されている。
8600系8619Fや京都市営地下鉄烏丸線乗り入れ対応の3200系・3220系、5800系・5820系L/Cカー、1026系1026F - 1029F、9820系といった6両固定編成および、3両編成を2編成併結した8000系・8400系の6両編成は急行通過駅のプラットホーム有効長の関係で急行に限定して使用される。
終点の橿原神宮前駅構内には、標準軌の橿原線と狭軌の南大阪線・吉野線との台車交換施設があり、南大阪線系の車両が大阪線五位堂検修車庫で検査の際には、この台車交換施設で台車を交換し、大阪線所属の電動貨車モト90形(97・98)で牽引搬送して検査入場している。
橿原線は大阪線・奈良線と組み合わせると布施駅 - 大和西大寺駅 - 大和八木駅 - 布施駅が「環状経路」となっているため、運賃計算上の特例が存在する。
大阪電気軌道(大軌)が最初に建設した現在の奈良線に次ぐ路線として、畝傍線(うねびせん)の名で西大寺駅 - 橿原神宮前駅間が1923年までに全通した。同線への免許が交付されるに当たり、天理軽便鉄道(現在の近鉄天理線)と大和鉄道(現在の近鉄田原本線)を買収することが条件付けられたが、前者は1921年に合併したものの、後者については諸事情があって遅れ、傘下に置いたのは1924年ごろ、自社線にしたのは大和鉄道が信貴生駒電鉄に合併されて、大阪電気軌道が近畿日本鉄道となった後の1964年であった。
当初は大阪から橿原方面へ向かうルートとしての役割も担っていたが、短絡ルートとなる八木線(後に桜井線を経て現在の大阪線となる)が1925年に開業したことで、上本町 - 八木間におけるその地位は譲った。しかし、1928年には奈良電気鉄道(1963年に買収されて近鉄京都線となる)が開業し、今度は京都から橿原・吉野・伊勢方面への連絡ルートとしての使命も果たすようになった。なお奈良電気鉄道は、開業当初から奈良線・畝傍線と直通運転を行っていた。
その後橿原神宮の神域拡張のため、1939年に八木西口駅 - 橿原神宮駅(現在の橿原神宮前駅)間を東側の現在の位置に移設している。この時、線名も現在の橿原線となった。
なお1966年に京都駅から伊勢方面へ向かう「京伊特急」が新設された際、当初は連絡線の配置の都合から大和八木駅を2回通り、八木西口駅と大和八木駅の構内で2度スイッチバックする形態の運行をしていたが、1967年には新ノ口駅から直接大阪線の大和八木駅へ入れる新しい短絡線を完成させ、入れ換えの煩わしさを解消させている。
橿原線は、架線電圧の1500Vへの昇圧後も建築限界(車両限界)が、標準軌の他路線よりも狭隘なまま残り、車両の製造・運用面での制約となっていた(京都線で奈良線用大型通勤車の運用が始まった後も、橿原線直通の運用には800系・820系の使用を余儀なくされた。また特急専用車両でも、当路線での使用を前提とした18000系・18200系・18400系は、幅の狭い車体を採用している)。1973年9月に建築限界の拡大工事が完了し、制約が解消された。
八木西口駅 - 畝傍御陵前駅間の奈良県立医科大学附属病院付近に新駅の設置が計画されており、近鉄側は条件として八木西口駅の廃止を主張している。橿原市は2020年4月、八木西口駅を移設する案、八木西口駅を存続させた上で新駅を設置する案、新駅を建設しない案の3案を比較検討する業務を、公募した業者に委託することとした。その後2022年7月に、近鉄の運賃改定における公聴会にて新駅設置に関して近鉄側が八木西口駅の廃止を条件としない形で協議を行う旨の文書を提出した。
2015年11月10日調査 。
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"text": "橿原線(かしはらせん)は、奈良県奈良市の大和西大寺駅から奈良県橿原市の橿原神宮前駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。",
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"text": "駅ナンバリング等で使われる路線記号はBで、番号は直通運転している京都線と一体(京都駅を01とする)で振られている。",
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"text": "奈良盆地の中央を南北に貫き、奈良近郊と橿原を結ぶ。京都線の延長線として京都と橿原、さらには大和八木駅で大阪線と接続しており、京都・奈良と三重県中部・伊勢志摩地方をつなぐルートにもなっている。直通運転はできないものの京都と吉野方面の連絡も担う。京都線と合わせて近鉄の背骨ともいえる主要5大ルートの一つを形成しており、近鉄路線網の中で京都、奈良、伊勢志摩、吉野の回遊を支える重要な役割を担っている。また、支線格となる天理線関係の波動輸送の需要も大きく、神戸・大阪から天理をつなぐルートの一部を構成する。",
"title": "概要"
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"text": "PiTaPa・ICOCAなどの全国相互利用サービスのIC乗車カードが使用できる。また、以前はスルッとKANSAI対応カードおよびJスルーカードにも対応していた。一般列車は車掌のタブレット操作による車内自動放送を実施している(2016年3月27日開始)。",
"title": "概要"
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"text": "全線、大阪統括部の管轄である(旧営業局時代は、橿原神宮前駅構内のみ天王寺営業局、それ以外は上本町営業局が管轄していた)。",
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"text": "特急・急行・普通列車が運行されている。当線を経由して京都駅 - 橿原神宮前駅間および京都駅 - 賢島駅間で運転される特急の詳細は「近鉄特急」の項を参照のこと。特急は日中は京都駅 - 橿原神宮前駅間で1時間に2本が運転され、一部時間帯に賢島駅発着の列車が追加される。 橿原線内では大和八木駅、日中に西ノ京駅(京橿特急と土休日1列車のみ京伊特急)にも停車する。",
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"text": "橿原線では唯一の料金不要の速達種別である。",
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"text": "橿原線内では近鉄郡山駅、平端駅、田原本駅、大和八木駅、八木西口駅、畝傍御陵前駅に停車し、日中に限り西ノ京駅にも停車する。大多数の列車が京都線に直通し、終日、京都駅 - 橿原神宮前駅間のほか、朝夕に天理線に直通して京都駅 - 天理駅間にも運転されている。昼間時は橿原神宮前駅発着が1時間に2本(30分間隔)運転される。一部の大和西大寺駅発着の列車には、大和西大寺駅で種別変更して奈良線では快速急行・準急・普通として、京都線では普通として、それぞれ直通運行されるものもある。従来橿原線内では待避可能駅である平端駅で特急列車を待避せず、全列車が大和西大寺駅 - 天理駅・橿原神宮前駅間で先着していたが、2022年の12月のダイヤ変更で一部の急行列車が平端駅で特急列車の待避が行われるようになった。編成両数は、一部の列車が4両編成で運転されるが基本は6両編成で運転される。",
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"text": "西ノ京駅への急行停車は2007年3月のダイヤ変更から土曜・休日ダイヤの昼間時のみ実施しており、2012年3月のダイヤ変更以降は平日にも停車するようになった。",
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"text": "終日、京都駅・大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅間のほか、朝夕は天理線に直通して大和西大寺駅 - 天理駅間でも運転されている。昼間時は1時間に橿原神宮前駅発着が3本(約20分間隔)が設定されている。編成両数は原則として4両編成であるが、早朝・深夜の天理線直通1往復は2両編成であり、これは奈良線系統では唯一の存在である。",
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"text": "特急列車の待避および急行との緩急接続は平端駅で行われるが、橿原神宮前駅発着の列車は橿原線内を全区間先着で運転される列車も存在する。",
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"text": "2010年3月のダイヤ変更から2012年3月のダイヤ変更までは、土休日の日中の一部の天理線直通列車が天理線内折り返し列車に縮小されており、橿原神宮前駅発着の毎時4本のみという時間帯も生じていた。2012年3月のダイヤ変更までは、時間帯によっては大和西大寺駅から同駅始発の京都行普通列車に系統変更するものも多くあったり、時刻表などの上では線内列車として扱われているが、実際には京都発大和西大寺行きの京都線普通列車がそのまま引き続き橿原神宮前行きまたは天理行きとして運転されるものも多かった。現在では京都線直通列車として運転されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "また、2012年3月から2021年7月のダイヤ変更までは日中にも天理線直通の列車が毎時1本運行され、大和西大寺駅 - 平端駅間は橿原神宮前発着列車も合わせて毎時4本設定されていたが、2021年7月のダイヤ変更で日中の天理線直通列車が天理線内折り返し列車に縮小された。",
"title": "運行形態"
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"text": "1972年まで近鉄難波駅(1970年の難波線開業以前は上本町駅)から天理駅まで定期列車として運行されていた。橿原線内は各駅に停車していた。",
"title": "運行形態"
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"text": "平日早朝の特急用車両による大和西大寺駅発のものや田原本線への回送列車を含め、橿原線内の全区間で設定されているが、八木西口駅 - 橿原神宮前駅間では大阪線五位堂検修車庫で車両検査を行う際の回送列車が不定期で運転されることがあり、後述の南大阪線車両の牽引回送時にも八木西口駅隣接の短絡線を通過して大阪線に入線している。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "線内の昼間時の1時間毎の運転本数をまとめると以下のようになる。",
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"text": "大晦日から元旦にかけての終夜運転は、近年では京都駅から伊勢方面および橿原神宮前駅への特急が両者合わせて30 - 60分間隔で運転されているほか、大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅間に普通を20 - 30分間隔で運行する形態となっている。ただし、2009年(平成21年)12月31日から2010年(平成22年)1月1日にかけての終夜運転では普通の本数が例年より減少した。2020年は終夜運転を実施しない。時刻については近鉄の公式ホームページでも掲載される。",
"title": "運行形態"
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"text": "2010年に、第27回全国都市緑化ならフェアが県営馬見丘陵公園で開催されることを受けて、利用客の便宜を図って、大和西大寺発新王寺行き臨時急行「やまと花ごよみ号」が運転され、同号は奈良市などから会場北側に位置する田原本線池部駅への直通列車として運転するもので、橿原線内は定期急行列車の停車駅、西田原本駅で折り返した後、田原本線内は定期列車の時刻で普通列車として運転した。 運転期間は当初10月18日から20日までの3日間のみだったが、11月13日と14日の2日間にも追加運転された。各日往路1本運転し、期間中の田原本線内では「やまと花ごよみ」のヘッドマークを掲出して運転していた。",
"title": "運行形態"
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"text": "天理教の祭事が行われる時の臨時急行は、奈良線に直通する大阪難波駅 - 天理駅間の列車も運行される。",
"title": "運行形態"
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"text": "奈良線・京都線で使われる車両が橿原線でも使用されている。",
"title": "車両"
},
{
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"text": "8600系8619Fや京都市営地下鉄烏丸線乗り入れ対応の3200系・3220系、5800系・5820系L/Cカー、1026系1026F - 1029F、9820系といった6両固定編成および、3両編成を2編成併結した8000系・8400系の6両編成は急行通過駅のプラットホーム有効長の関係で急行に限定して使用される。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "終点の橿原神宮前駅構内には、標準軌の橿原線と狭軌の南大阪線・吉野線との台車交換施設があり、南大阪線系の車両が大阪線五位堂検修車庫で検査の際には、この台車交換施設で台車を交換し、大阪線所属の電動貨車モト90形(97・98)で牽引搬送して検査入場している。",
"title": "車両"
},
{
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"text": "橿原線は大阪線・奈良線と組み合わせると布施駅 - 大和西大寺駅 - 大和八木駅 - 布施駅が「環状経路」となっているため、運賃計算上の特例が存在する。",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "大阪電気軌道(大軌)が最初に建設した現在の奈良線に次ぐ路線として、畝傍線(うねびせん)の名で西大寺駅 - 橿原神宮前駅間が1923年までに全通した。同線への免許が交付されるに当たり、天理軽便鉄道(現在の近鉄天理線)と大和鉄道(現在の近鉄田原本線)を買収することが条件付けられたが、前者は1921年に合併したものの、後者については諸事情があって遅れ、傘下に置いたのは1924年ごろ、自社線にしたのは大和鉄道が信貴生駒電鉄に合併されて、大阪電気軌道が近畿日本鉄道となった後の1964年であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "当初は大阪から橿原方面へ向かうルートとしての役割も担っていたが、短絡ルートとなる八木線(後に桜井線を経て現在の大阪線となる)が1925年に開業したことで、上本町 - 八木間におけるその地位は譲った。しかし、1928年には奈良電気鉄道(1963年に買収されて近鉄京都線となる)が開業し、今度は京都から橿原・吉野・伊勢方面への連絡ルートとしての使命も果たすようになった。なお奈良電気鉄道は、開業当初から奈良線・畝傍線と直通運転を行っていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "その後橿原神宮の神域拡張のため、1939年に八木西口駅 - 橿原神宮駅(現在の橿原神宮前駅)間を東側の現在の位置に移設している。この時、線名も現在の橿原線となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "なお1966年に京都駅から伊勢方面へ向かう「京伊特急」が新設された際、当初は連絡線の配置の都合から大和八木駅を2回通り、八木西口駅と大和八木駅の構内で2度スイッチバックする形態の運行をしていたが、1967年には新ノ口駅から直接大阪線の大和八木駅へ入れる新しい短絡線を完成させ、入れ換えの煩わしさを解消させている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "橿原線は、架線電圧の1500Vへの昇圧後も建築限界(車両限界)が、標準軌の他路線よりも狭隘なまま残り、車両の製造・運用面での制約となっていた(京都線で奈良線用大型通勤車の運用が始まった後も、橿原線直通の運用には800系・820系の使用を余儀なくされた。また特急専用車両でも、当路線での使用を前提とした18000系・18200系・18400系は、幅の狭い車体を採用している)。1973年9月に建築限界の拡大工事が完了し、制約が解消された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "八木西口駅 - 畝傍御陵前駅間の奈良県立医科大学附属病院付近に新駅の設置が計画されており、近鉄側は条件として八木西口駅の廃止を主張している。橿原市は2020年4月、八木西口駅を移設する案、八木西口駅を存続させた上で新駅を設置する案、新駅を建設しない案の3案を比較検討する業務を、公募した業者に委託することとした。その後2022年7月に、近鉄の運賃改定における公聴会にて新駅設置に関して近鉄側が八木西口駅の廃止を条件としない形で協議を行う旨の文書を提出した。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2015年11月10日調査 。",
"title": "主要駅の乗降客数"
}
] |
橿原線(かしはらせん)は、奈良県奈良市の大和西大寺駅から奈良県橿原市の橿原神宮前駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。 駅ナンバリング等で使われる路線記号はBで、番号は直通運転している京都線と一体(京都駅を01とする)で振られている。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 橿原線
|路線色 = #FAB202
|ロゴ = [[File:KT number-B.svg|40px|B]]
|画像 = Kintetsu Series 8400 Kashihara.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = [[近鉄8000系電車#8400系|8400系]]京都ゆき急行。右手には[[薬師寺]]<br />([[西ノ京駅]]付近)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[奈良県]]
|起点 = [[大和西大寺駅]]
|終点 = [[橿原神宮前駅]]
|路線記号 = [[File:KT number-B.svg|20px|B]]
|駅数 = 17駅
|開業 = [[1921年]][[4月1日]]
|全通 = [[1939年]][[7月28日]]
|廃止 =
|所有者 = <!-- [[大阪電気軌道|大阪電気軌道→関西急行鉄道]]→ -->[[近畿日本鉄道]]
|運営者 = 近畿日本鉄道
|車両基地 = [[西大寺検車区]]
|使用車両 = [[#車両|車両]]の節を参照
|路線距離 = 23.8 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]])
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|最大勾配 =
|保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS|近鉄型ATS]]<!--、[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]-->
|最高速度 = 100 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図 =
}}
{{試聴|filename=Kintetsu-Kashihara-Line_Amagatsuji-Nishinokyo.ogv|title=近鉄橿原線 尼ヶ辻・西ノ京間の車窓|description=近鉄特急車内より撮影。尼ヶ辻、西ノ京付近は風致地区に指定されており、橿原線開業当時の面影が残っている。溜池や棚田の向こうに若草山が見える。|format=[[Ogg]]}}
'''橿原線'''(かしはらせん)は、[[奈良県]][[奈良市]]の[[大和西大寺駅]]から奈良県[[橿原市]]の[[橿原神宮前駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]である。
[[駅ナンバリング]]等で使われる路線記号は'''B'''で、番号は[[直通運転]]している[[近鉄京都線|京都線]]と一体([[京都駅]]を01とする)で振られている<ref name="kintetsu20150819">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hpyouu.pdf 駅ナンバリングを全線で実施します]}} - 近畿日本鉄道、2015年8月19日</ref>。
== 概要 ==
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#fab202
|title-color=white
|collapse=yes
|map=
<!-- 煩雑になるため高架・高速・直通先省略-->
<!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします -->
{{BS5|STR|||||||{{rint|osaka|ktby}} [[近鉄京都線|京都線]]|}}
{{BS5|ABZql|BHFq|eABZq+r|ABZq+r||0.0|B26 [[大和西大寺駅]]|{{rint|osaka|ktan}} [[近鉄奈良線|奈良線]]|}}
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{{BS5|||||STR|||{{rint|osaka|ktfy}} [[近鉄吉野線|吉野線]]|}}
}}
[[奈良盆地]]の中央を南北に貫き、[[奈良市|奈良]]近郊と橿原を結ぶ。京都線の延長線として京都と橿原、さらには[[大和八木駅]]で[[近鉄大阪線|大阪線]]と接続しており、京都・奈良と[[三重県]]中部・[[伊勢志摩]]地方をつなぐルートにもなっている。直通運転はできないものの京都と[[吉野]]方面の連絡も担う。京都線と合わせて近鉄の背骨ともいえる主要5大ルートの一つを形成しており、近鉄路線網の中で京都、奈良、伊勢志摩、吉野の[[回遊]]を支える重要な役割を担っている。また、支線格となる[[近鉄天理線|天理線]]関係の[[臨時列車|波動輸送]]の需要も大きく、[[神戸]]・[[大阪市|大阪]]から[[天理市|天理]]をつなぐルートの一部を構成する。
[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]のIC乗車カードが使用できる。また、以前は[[スルッとKANSAI]]対応カードおよび[[Jスルーカード]]にも対応していた。一般列車は車掌の[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]操作による[[車内放送|車内自動放送]]を実施している(2016年3月27日開始)。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):23.8 km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:17駅(起終点駅・八木西口駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:100 km/h<ref name="terada" />
全線、大阪統括部の管轄である(旧営業局時代は、橿原神宮前駅構内のみ天王寺営業局、それ以外は上本町営業局が管轄していた)。
== 運行形態 ==
=== 列車種別 ===
[[特別急行列車|特急]]・[[急行列車|急行]]・[[普通列車|普通]]列車が運行されている。当線を経由して[[京都駅]] - [[橿原神宮前駅]]間および京都駅 - [[賢島駅]]間で運転される特急の詳細は「[[近鉄特急]]」の項を参照のこと。特急は日中は京都駅 - 橿原神宮前駅間で1時間に2本が運転され、一部時間帯に賢島駅発着の列車が追加される。 橿原線内では[[大和八木駅]]、日中に[[西ノ京駅]](京橿特急と土休日1列車のみ京伊特急)にも停車する。
==== 急行 ====
橿原線では唯一の料金不要の速達種別である。
橿原線内では[[近鉄郡山駅]]、[[平端駅]]、[[田原本駅]]、大和八木駅、[[八木西口駅]]、[[畝傍御陵前駅]]に停車し、日中に限り西ノ京駅にも停車する。大多数の列車が[[近鉄京都線|京都線]]に直通し、終日、京都駅 - 橿原神宮前駅間のほか、朝夕に[[近鉄天理線|天理線]]に直通して京都駅 - [[天理駅]]間にも運転されている。昼間時は橿原神宮前駅発着が1時間に2本(30分間隔)運転される。一部の大和西大寺駅発着の列車には、大和西大寺駅で種別変更して[[近鉄奈良線|奈良線]]では快速急行・準急・普通として、京都線では普通として、それぞれ直通運行されるものもある。従来橿原線内では待避可能駅である平端駅で特急列車を待避せず、全列車が大和西大寺駅 - 天理駅・橿原神宮前駅間で先着していたが、2022年の12月のダイヤ変更で一部の急行列車が平端駅で特急列車の待避が行われるようになった。編成両数は、一部の列車が4両編成で運転されるが基本は6両編成で運転される。
西ノ京駅への急行停車は2007年3月のダイヤ変更から土曜・休日ダイヤの昼間時のみ実施しており、2012年3月のダイヤ変更以降は平日にも停車するようになった。
==== 普通 ====
終日、京都駅・大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅間のほか、朝夕は天理線に直通して大和西大寺駅 - 天理駅間でも運転されている。昼間時は1時間に橿原神宮前駅発着が3本(約20分間隔)が設定されている。編成両数は原則として4両編成であるが、早朝・深夜の天理線直通1往復は2両編成であり、これは奈良線系統では唯一の存在である。
特急列車の待避および急行との緩急接続は平端駅で行われるが、橿原神宮前駅発着の列車は橿原線内を全区間先着で運転される列車も存在する。
2010年3月のダイヤ変更から2012年3月のダイヤ変更までは、土休日の日中の一部の天理線直通列車が天理線内折り返し列車に縮小されており、橿原神宮前駅発着の毎時4本のみという時間帯も生じていた。2012年3月のダイヤ変更までは、時間帯によっては大和西大寺駅から同駅始発の京都行普通列車に系統変更するものも多くあったり、時刻表などの上では線内列車として扱われているが、実際には京都発大和西大寺行きの京都線普通列車がそのまま引き続き橿原神宮前行きまたは天理行きとして運転されるものも多かった。現在では京都線直通列車として運転されている。
また、2012年3月から2021年7月のダイヤ変更までは日中にも天理線直通の列車が毎時1本運行され、大和西大寺駅 - 平端駅間は橿原神宮前発着列車も合わせて毎時4本設定されていたが、2021年7月のダイヤ変更で日中の天理線直通列車が天理線内折り返し列車に縮小された。
=== 過去にあった列車種別 ===
==== 準急 ====
1972年まで[[大阪難波駅|近鉄難波駅]](1970年の[[近鉄難波線|難波線]]開業以前は[[大阪上本町駅|上本町駅]])から天理駅まで定期列車として運行されていた。橿原線内は各駅に停車していた。
=== 回送列車 ===
平日早朝の特急用車両による大和西大寺駅発のものや田原本線への回送列車を含め、橿原線内の全区間で設定されているが、八木西口駅 - 橿原神宮前駅間では大阪線[[五位堂検修車庫]]で車両検査を行う際の回送列車が不定期で運転されることがあり、[[#車両|後述]]の南大阪線車両の牽引回送時にも八木西口駅隣接の短絡線を通過して大阪線に入線している。
=== 運転本数 ===
線内の昼間時の1時間毎の運転本数をまとめると以下のようになる。
* 特急2本、急行2本、普通3本
=== 大晦日終夜運転 ===
[[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけての[[終夜運転]]は、近年では京都駅から[[伊勢市|伊勢]]方面および橿原神宮前駅への特急が両者合わせて30 - 60分間隔で運転されているほか、大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅間に普通を20 - 30分間隔で運行する形態となっている。ただし、[[2009年]](平成21年)[[12月31日]]から[[2010年]](平成22年)[[1月1日]]にかけての終夜運転では普通の本数が例年より減少した<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/091110syuyaosaka.pdf 年末年始ダイヤのご案内(大阪)]}} - 近畿日本鉄道 2009年11月10日</ref>。2020年は終夜運転を実施しない。時刻については近鉄の公式ホームページでも掲載される。
=== 臨時列車 ===
2010年に、第27回全国都市緑化ならフェアが県営馬見丘陵公園で開催されることを受けて、利用客の便宜を図って、大和西大寺発新王寺行き臨時急行「やまと花ごよみ号」が運転され、同号は奈良市などから会場北側に位置する田原本線池部駅への直通列車として運転するもので、橿原線内は定期急行列車の停車駅、西田原本駅で折り返した後、田原本線内は定期列車の時刻で普通列車として運転した。
運転期間は当初10月18日から20日までの3日間のみだったが、11月13日と14日の2日間にも追加運転された。各日往路1本運転し、期間中の田原本線内では「やまと花ごよみ」のヘッドマークを掲出して運転していた。
[[天理教]]の祭事が行われる時の臨時急行は、[[近鉄奈良線|奈良線]]に直通する[[大阪難波駅]] - [[天理駅]]間の列車も運行される。
== 車両 ==
{{Main|近鉄奈良線#車両}}
奈良線・京都線で使われる車両が橿原線でも使用されている。
[[近鉄8000系電車#8600系|8600系8619F]]や[[京都市営地下鉄烏丸線]]乗り入れ対応の[[近鉄3200系電車|3200系]]・[[近鉄3220系電車|3220系]]<ref>保安上は烏丸線の車両である[[京都市交通局10系電車]]も走行可能であるが、当線に乗り入れた事はない。</ref>、[[近鉄5800系電車|5800系]]・[[近鉄5820系電車|5820系]][[L/Cカー]]、[[近鉄1220系電車#1020系|1026系]]1026F - 1029F、[[近鉄9020系電車#9820系|9820系]]といった6両固定編成および、3両編成を2編成併結した8000系・8400系の6両編成は急行通過駅のプラットホーム[[有効長]]の関係で急行に限定して使用される。
終点の橿原神宮前駅構内には、[[標準軌]]の橿原線と[[狭軌]]の[[近鉄南大阪線|南大阪線]]・[[近鉄吉野線|吉野線]]との台車交換施設があり、南大阪線系の車両が大阪線五位堂検修車庫で検査の際には、この台車交換施設で台車を交換し、大阪線所属の電動貨車[[近鉄モト2720形電車|モト90形]](97・98)で牽引搬送して検査入場している。
== 運賃計算の特例 ==
橿原線は大阪線・奈良線と組み合わせると[[布施駅]] - 大和西大寺駅 - 大和八木駅 - 布施駅が「環状経路」となっているため、運賃計算上の特例が存在する<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/gyoumu/kippu/unchin/unchin.html 運賃と使用時のご注意] - 近畿日本鉄道</ref>。
*普通券・回数券では、「環状経路」内は最短距離で計算するが、最短でない経路で乗車することもできる。
*定期券では、橿原線の尼ヶ辻駅 - 新ノ口駅間と大阪線[[近鉄難波線|難波線]]の大阪難波駅 - 布施駅間を発着とする定期券については、大和西大寺駅経由または大和八木駅経由のどちらでも乗車できる。ただし、券面に記載されていない経路では[[途中下車]]できない。
== 歴史 ==
[[大阪電気軌道]](大軌)が最初に建設した現在の奈良線に次ぐ路線として、'''畝傍線'''(うねびせん)の名で西大寺駅 - 橿原神宮前駅間が[[1923年]]までに全通した。同線への免許が交付されるに当たり、[[天理軽便鉄道]](現在の近鉄天理線)と[[大和鉄道]](現在の[[近鉄田原本線]])を買収することが条件付けられたが<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100223864|title=大軌新線附帯条件 : 楽観悲観孰れが是|oldmeta=00099702}} 「大軌新線附帯条件」] 1918年12月7日付大阪新報 (神戸大学附属図書館新聞記事文庫)</ref>、前者は[[1921年]]に合併したものの、後者については諸事情があって遅れ、傘下に置いたのは[[1924年]]ごろ、自社線にしたのは大和鉄道が[[信貴生駒電鉄]]に合併されて、大阪電気軌道が近畿日本鉄道となった後の[[1964年]]であった。
当初は大阪から[[橿原市|橿原]]方面へ向かうルートとしての役割も担っていたが、短絡ルートとなる'''八木線'''(後に'''桜井線'''を経て現在の[[近鉄大阪線|大阪線]]となる)が[[1925年]]に開業したことで、上本町 - 八木間におけるその地位は譲った。しかし、[[1928年]]には[[奈良電気鉄道]]([[1963年]]に買収されて近鉄京都線となる)が開業し、今度は[[京都市|京都]]から橿原・[[吉野山|吉野]]・伊勢方面への連絡ルートとしての使命も果たすようになった。なお奈良電気鉄道は、開業当初から奈良線・畝傍線と[[直通運転]]を行っていた。
その後[[橿原神宮]]の[[神域]]拡張のため、[[1939年]]に八木西口駅 - 橿原神宮駅(現在の橿原神宮前駅)間を東側の現在の位置に移設している。この時、線名も現在の'''橿原線'''となった。
なお[[1966年]]に京都駅から伊勢方面へ向かう「[[近鉄特急|京伊特急]]」が新設された際、当初は連絡線の配置の都合から大和八木駅を2回通り、八木西口駅と大和八木駅の構内で2度[[スイッチバック]]する形態の運行をしていたが、[[1967年]]には新ノ口駅から直接大阪線の大和八木駅へ入れる新しい短絡線を完成させ、入れ換えの煩わしさを解消させている。
橿原線は、架線電圧の1500Vへの昇圧後も[[建築限界]]([[車両限界]])が、[[標準軌]]の他路線よりも狭隘なまま残り、車両の製造・運用面での制約となっていた(京都線で奈良線用大型通勤車の運用が始まった後も、橿原線直通の運用には[[近鉄800系電車|800系]]・[[近鉄820系電車|820系]]の使用を余儀なくされた。また特急専用車両でも、当路線での使用を前提とした[[近鉄18000系電車|18000系]]・[[近鉄18200系電車|18200系]]・[[近鉄18400系電車|18400系]]は、幅の狭い車体を採用している)。1973年9月に建築限界の拡大工事が完了し、制約が解消された。
=== 年表 ===
* [[1921年]](大正10年)[[4月1日]]:大阪電気軌道が畝傍線として西大寺駅(現在の大和西大寺駅) - 郡山駅(現在の近鉄郡山駅)間を複線で開業。
* [[1922年]](大正11年)4月1日:郡山駅 - 平端駅間が複線で開業。
* [[1923年]](大正12年)
** [[3月21日]]:平端駅 - 橿原神宮前駅(現在の駅とは別)間が開業。八木駅(現在の八木西口駅) - 橿原神宮前駅間は複線。
** [[12月24日]]:石見駅 - 八木駅間が複線化<ref name="100ayumi_p84">『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.84</ref>。
* [[1924年]](大正13年)
** [[3月2日]]:平端駅 - 石見駅間が複線化され全線複線化<ref name="100ayumi_p84" />。
** 11月:畝火山駅を畝傍山駅に改称。
* [[1928年]](昭和3年)8月:八木駅を大軌八木駅に改称<ref name="100ayumi_p86">『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.86</ref>。
* [[1929年]](昭和4年)1月5日:大阪電気軌道桜井線(現在の大阪線)開通に伴い、立体交差部分に大軌八木駅を移転して大軌八木駅とし、これまでの大軌八木駅は八木西口駅となる(扱い上は大軌八木駅構内の別ホーム)。
* [[1930年]](昭和5年)[[7月10日]]:吉野線の橿原神宮前駅 - 久米寺駅(現在の橿原神宮前駅)間を[[三線軌条]]化し、畝傍線の電車が乗り入れ開始。
* [[1937年]](昭和12年)3月:畝傍山駅を神武御陵前駅に改称。
* [[1939年]](昭和14年)[[7月28日]]:八木西口駅 - 神武御陵前駅 - 橿原神宮前駅間を廃止。八木西口駅 - 橿原神宮駅(現在の橿原神宮前駅)の新線が開業。畝傍線を橿原線に、神武御陵前駅を移転し畝傍御陵前駅に改称。
* [[1940年]](昭和15年)[[4月1日]]:久米寺駅を橿原神宮駅駅に統合。<!--駅名に「駅」を含むので駅駅で正当 -->
* [[1941年]](昭和16年)[[3月15日]]:大軌郡山駅を関急郡山駅に、大軌田原本駅を関急田原本駅に、大軌八木駅を大和八木駅に改称。
* [[1942年]](昭和17年)[[10月1日]]:大和西大寺駅 - 八木西口駅間を、[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に変更(八木西口駅以南は、1939年の新線切り替え以来鉄道)。
* [[1944年]](昭和19年)[[6月1日]]:関急郡山駅を近畿日本郡山駅に、関急田原本駅を近畿日本田原本駅に改称。
* [[1964年]](昭和39年)10月1日:近畿日本田原本駅を田原本駅に改称。
* [[1967年]](昭和42年)[[12月20日]]:新ノ口駅 - 大和八木駅間に大阪線伊勢中川方面との連絡線完成。
* [[1968年]](昭和43年)[[10月10日]]:[[自動列車停止装置|ATS]]使用開始。
* [[1969年]](昭和44年)[[9月21日]]:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
* [[1970年]](昭和45年)[[3月1日]]:近畿日本郡山駅を近鉄郡山駅に、橿原神宮駅駅を橿原神宮前駅に改称。<!--駅駅で正当-->
* [[1973年]](昭和48年)[[9月20日]]:[[建築限界]]拡大工事竣工。
* [[1977年]](昭和52年)[[6月5日]]:筒井駅付近(約1km)高架化。
* [[1979年]](昭和54年)[[7月1日]]:ファミリー公園前駅開業(当初は季節限定の[[臨時駅]]として開業)。
* [[1992年]](平成4年)[[12月20日]]:大和西大寺駅 - 平端駅間に列車運行管理システム(KOSMOS)稼働開始。
* [[1993年]](平成5年)9月21日:ファミリー公園前駅に普通が終日停車となる。
* [[1996年]](平成8年)3月15日:[[近鉄23000系電車|23000系]](伊勢志摩ライナー)を京伊特急(・京奈特急)にも運用開始。
* [[1998年]](平成10年)4月1日:平端駅 - 橿原神宮前駅間に列車運行管理システム(KOSMOS)稼働開始。
* [[2000年]](平成12年)
** 3月15日:天理駅発着の急行のうち昼間の毎時1本を橿原神宮前駅発着の急行および平端駅 - 天理駅間普通に置き換え、昼間の平端駅 - 橿原神宮前駅間は特急を除けば毎時急行3本・普通3本に増発。また大和西大寺駅 - 天理駅間の普通のうち昼間の毎時1本が平端駅 - 天理駅間に短縮され、昼間の大和西大寺駅 - 平端駅間は普通が毎時5本から4本に削減。急行で[[近鉄3220系電車|3220系]]運行開始。
** 3月21日:ご乗降確認システム(フェアシステムK)稼働開始。
* [[2001年]](平成13年)
** [[2月1日]]:各駅で[[スルッとKANSAI]]対応カードの取り扱い開始。これに伴い、大和西大寺駅・田原本駅・大和八木駅・橿原神宮前駅における「途中下車指定駅」の制度が廃止。
** [[10月14日]]:各駅で[[Jスルーカード]]の取り扱い開始。
* [[2002年]](平成14年)[[5月29日]]:[[上皇明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]の奈良視察に伴う[[お召し列車]]を橿原神宮前駅発京都駅行で運転(同月27日にも京都駅発近鉄奈良駅行で運転)。[[近鉄21000系電車|21000系]](アーバンライナー)の第11編成を4両に短縮の上で充当。
* [[2003年]](平成15年)[[3月6日]]:京伊特急の一部が大和八木駅 - 賢島駅間で阪伊乙特急と併結運転。橿原神宮前駅発着の急行のうち昼間の毎時1本を普通に置き換え、昼間の平端駅 - 橿原神宮前駅間は特急を除けば毎時急行2本・普通4本となる(大和西大寺駅 - 平端駅間も昼間の普通は実質的に毎時5本に戻される)。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月24日]]:急行停車駅に西ノ京駅が一部追加(土休日ダイヤの日中のみ)。
** 4月1日:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。
* [[2009年]](平成21年)3月1日:Jスルーカードの自動改札機・のりこし精算機での取り扱いを終了<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/jcard20081202.pdf Jスルーカードの利用終了について]}} - 近畿日本鉄道ほか 2008年12月2日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)
** [[3月20日]]:特急停車駅に西ノ京駅も一部追加(土休日ダイヤの日中のみ)。
** [[10月10日]]:天皇・皇后の奈良視察に伴うお召し列車を、近鉄奈良駅から大和西大寺駅・大和八木駅経由で[[室生口大野駅]]まで運転(同日には[[大和朝倉駅]]から[[大阪上本町駅]]間にも運転され、同月7日には京都駅から近鉄奈良駅間にも運転)。[[近鉄21020系電車|21020系]](アーバンライナーnext)21021F を充当<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.nara.jp/secure/53534/gyoukoukei.pdf 行幸啓について]}} - 奈良県ホームページ</ref><ref>[http://railf.jp/news/2010/10/11/102600.html 近鉄で21020系使用のお召列車運転] - 鉄道ファン(交友社)「railf.jp」鉄道ニュース、2010年10月11日</ref>。
<!--* 2012年(平成24年)3月20日:普通列車の京都線直通を開始。 → http://www.kintetsu.jp/news/files/120120daiyahenkouteisei120319.pdf には、この日のダイヤ変更以前から京都-橿原神宮前間直通の普通があったような記述がありますが。→ダイヤ変更以前も大和西大寺で行き先を変更をする形で直通列車はあった。このダイヤ変更から公式に直通列車として案内するようになった。-->
* [[2012年]](平成24年)3月20日:特急・急行の停車駅に、西ノ京駅が平日ダイヤの日中にも追加。
* [[2014年]](平成26年)
** 10月10日:京伊特急にも観光特急[[近鉄50000系電車|50000系]](しまかぜ)を運用開始<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/simakaze.pdf 観光特急「しまかぜ」平成26年10月10日(金)、京都発着の定期運行開始!]}} - 近畿日本鉄道ニュースリリース、2014年4月24日</ref>。
** 11月15日:天皇・皇后の奈良視察([[全国豊かな海づくり大会]]臨席など)に伴うお召し列車を、京都駅から橿原神宮前駅まで運転(片道のみ。11月17日には近鉄奈良駅から京都駅間にも運転)<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.nara.jp/secure/128732/h26houdousiryou.pdf 行幸啓について]}} - 奈良県ホームページ(2014年11月22日閲覧)。</ref>。
* [[2016年]](平成28年)4月2・4日:天皇・皇后の奈良視察([[神武天皇]]式年祭参拝など)に伴うお召し列車を、京都駅 - 橿原神宮前駅間に運転(往路は2日、復路は4日)<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.nara.jp/secure/154208/H28houdousiryou.pdf 行幸啓について]}} - 奈良県ホームページ(2016年4月4日閲覧)</ref>。
{{-}}
== 今後の予定 ==
八木西口駅 - 畝傍御陵前駅間の[[奈良県立医科大学附属病院]]付近に新駅の設置が計画されており、近鉄側は条件として八木西口駅の廃止を主張している<ref>[https://www.sankei.com/article/20170105-7SI72P55FVKKREZDU42K7CQBCU/ 「八木西口駅」廃止か存続か 近鉄と橿原市協議1年、なお平行線] - 産経新聞、2017年1月5日</ref>。橿原市は2020年4月、八木西口駅を移設する案、八木西口駅を存続させた上で新駅を設置する案、新駅を建設しない案の3案を比較検討する業務を、公募した業者に委託することとした<ref>[https://www.kensetsunews.com/archives/444302 参加表明4月17日まで/橿原市の新駅整備等まちづくり効果検討] - 建設通信新聞、2020年4月17日</ref>。その後2022年7月に、近鉄の運賃改定における[[公聴会]]にて新駅設置に関して近鉄側が八木西口駅の廃止を条件としない形で協議を行う旨の文書を提出した<ref>{{cite news |url=https://www.nara-np.co.jp/news/20220721214152.html |title=近鉄八木西口駅、新駅と併存可能性も 近鉄が廃止から転換、荒井・奈良知事は歓迎 |newspaper=[[奈良新聞]] |date=2022-07-01 |accessdate=2023-04-11}}</ref>。
{{seealso|八木西口駅#今後の予定}}
== 駅一覧 ==
<!-- 運行形態(運転区間・時間帯)などの詳細は「運行形態」章に記述してください -->
* 全駅[[奈良県]]内に所在。
* 平端駅が橿原線内で唯一の[[待避駅|列車待避]]可能駅。
; 凡例
: ●:停車、|:通過、▲:昼間時のみ停車
: 普通列車は省略:各駅に停車
: 特急列車は[[近鉄特急|特急列車記事]]を参照のこと。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #fab202;"|駅番号
!style="width:9em; border-bottom:solid 3px #fab202;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #fab202;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #fab202;"|営業<br />キロ
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #fab202; background:#fc9;"|{{縦書き|急行}}
!style="border-bottom:solid 3px #fab202;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #fab202;" colspan="2"|所在地
|-
!B26
|[[大和西大寺駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]]([[京都駅]]まで直通運転)・{{近鉄駅番号|A}} [[近鉄奈良線|奈良線]] (A26)<ref group="*" name="tenri">天理教の祭事が行われるときの天理駅発着の急行は、[[近鉄難波線|難波線]][[大阪難波駅]]へも直通する。なお、[[阪神本線]][[三宮駅|神戸三宮駅]]発が運行されることがある。</ref>
|rowspan="3" colspan="2"|[[奈良市]]
|-
!B27
|[[尼ヶ辻駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|
|-
!B28
|[[西ノ京駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:center; background:#fc9;"|▲
|
|-
!B29
|[[九条駅 (奈良県)|九条駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|
|rowspan="5" colspan="2"|[[大和郡山市]]
|-
!B30
|[[近鉄郡山駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|
|-
!B31
|[[筒井駅 (奈良県)|筒井駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|8.4
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|
|-
!B32
|[[平端駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|9.9
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|H}} [[近鉄天理線|天理線]] (H32)(大和西大寺方面から[[天理駅]]まで直通運転)
|-
!B33
|[[ファミリー公園前駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|10.9
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|
|-
!B34
|[[結崎駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|12.4
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|
|rowspan="4" style="width;1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[磯城郡]]|height=4em}}
|[[川西町 (奈良県)|川西町]]
|-
!B35
|[[石見駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|13.8
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|
|[[三宅町]]
|-
!B36
|[[田原本駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|15.9
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|I}} [[近鉄田原本線|田原本線]] (I36)…[[西田原本駅]]
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[田原本町]]
|-
!B37
|[[笠縫駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|17.3
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|
|-
!B38
|[[新ノ口駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|19.1
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|
|rowspan="5" colspan="2"|[[橿原市]]
|-
!B39
|[[大和八木駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|20.5
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]] (D39)(特急が{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄志摩線|志摩線]][[賢島駅]]まで直通運転)
|-
!B40
|[[八木西口駅]]<ref group="*" name="yakini">八木西口駅は、運賃計算上は大和八木駅と同一駅とみなされているため、独自の営業キロを持たない。なお大和八木駅 - 八木西口駅間の実キロは0.4kmである。</ref>
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|20.5
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|
|-
!B41
|[[畝傍御陵前駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|22.8
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|
|-
!B42
|[[橿原神宮前駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|23.8
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|F}} [[近鉄南大阪線|南大阪線]]・{{近鉄駅番号|F}} [[近鉄吉野線|吉野線]] (F42)
|-
|}
{{Reflist|group="*"}}
*ホーム[[有効長]]は大和西大寺駅が10両、西ノ京駅・近鉄郡山駅・平端駅・田原本駅・大和八木駅・八木西口駅・畝傍御陵前駅・橿原神宮前駅が6両、その他の駅は4両である。
== 主要駅の乗降客数 ==
[[2015年]][[11月10日]]調査 [http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/c.html#02]。
*大和西大寺 46,530人
*西ノ京 7,288人
*近鉄郡山 18,377人
*筒井 7,960人
*平端 4,237人
*田原本 13,173人
*大和八木(八木西口) 36,886人
*畝傍御陵前 3,872人
*橿原神宮前 18,862人
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
*{{cite book | 和書 | title = まるごと近鉄ぶらり沿線の旅 | author = 徳田耕一(編著) | publisher = 河出書房新社 | year = 2005 | id = ISBN 4309224393 }}
*{{cite book | 和書 | series = カラーブックス | title = 日本の私鉄 近鉄1 | author = 諸河久・杉谷広規(編著) | publisher = 保育社 | year = 1998 | id = ISBN 458650904X }}
*{{cite book | 和書 | series = カラーブックス | title = 日本の私鉄 近鉄2 | author = 諸河久・山辺誠(編著) | publisher = 保育社 | year = 1998 | id = ISBN 4586509058 }}
*{{cite book | 和書 | title = 近鉄時刻表 各号 | author = [[近畿日本鉄道]](編著) | publisher = 近畿日本鉄道 }}
*{{cite journal | 和書 | journal = 鉄道ピクトリアル | volume = 2003年1月臨時増刊号 | title = 特集:近畿日本鉄道 | author = 電気車研究会(編) | year = 2003 }}
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[近鉄特急史]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kintetsu.co.jp/railway/rosen/A50003R.html 京都線・橿原線 - 近畿日本鉄道]
* [https://tid.kintetsu.co.jp/LocationWeb/trainlocationinfoweb04.html 橿原線] - 近鉄列車走行位置
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中国自動車道
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中国自動車道(ちゅうごくじどうしゃどう、英語: CHUGOKU EXPWY)は、大阪府吹田市から兵庫県、岡山県、 広島県、島根県を経由して山口県下関市へ至る高速道路。略称は中国道(ちゅうごくどう)。高速自動車国道であり、政令による正式な路線名は中国縦貫自動車道である。
なお、吹田ジャンクション (JCT) - 神戸JCT、山口JCT - 下関インターチェンジ (IC) はアジアハイウェイ1号線「AH1」にも指定されている。
中国自動車道の高速道路ナンバリングによる路線番号は、関門橋(関門自動車道)とともに「E2A」が割り振られている。起終点付近を除き国道2号とは並行していないが、山陽自動車道の並行道路と見なし「E2A」が付番された。
中国自動車道は、中国地方のほぼ中央部を東西に貫く形で建設され1983年に全線開通した。総延長は540.1 kmに及び、高速自動車国道の中では東北自動車道に次いで長い。山間部を中心にICの間隔が長い点も特徴の1つであり、並行する山陽自動車道と比べて距離が長い上に、中国自動車道のICの合計数の方が少ない。高速道路網としては初期に整備された部類に入り、当初「中国地方においては、高速道路網の東西軸は1本のみを建設する」とされていたため、中国地方の高速道路網の「背骨」として中国縦貫自動車道(国土開発幹線自動車道の路線名)の路線が指定され、山陽地方からも山陰地方からもほぼ等距離にアクセス出来る中国山地沿いの位置に建設された。しかし、山肌を縫うように建設された結果、高速道路としてはカーブやアップダウンの多い線形になり、大半の区間で最高速度が80 km/h以下に制限されている。
冬季は日本海からの季節風の影響を受けて、山間部や山口県内を中心に凍結や積雪がしばしば生じるため、冬用タイヤ着用などの規制が実施される場合が多々ある。
開通から1990年代初頭まで、山陽地方や九州方面へのアクセスの根幹は当時唯一の路線であった中国自動車道が担っていた。また、岡山市など山陽地方東部の都市へのアクセスは、当時未開通だった山陽自動車道(以下山陽道)に並行する、阪神高速3号神戸線および国道2号バイパス(第二神明道路 - 加古川バイパス - 姫路バイパス - 太子竜野バイパス)といった自動車専用道路や岡山ブルーラインなどが利用されることもあった。
1990年代には、距離が短く直線的に計画され冬季の交通障害も少なく岡山市や広島市などの中国地方の主要都市の中心部近くを通過する山陽道への交通量の移行が漸次起こっている。1992年6月に山陽道の広島JCT - 山口JCT間が全通すると当該区間の通過交通の大半が山陽道へと移行、1993年12月には山陽道の山陽姫路東IC - 広島JCT間も全通し、通過交通や山陽地方都市部への交通の多くが播但連絡道路福崎IC - 山陽姫路東ICを介して山陽道を利用するルートへと移行した。なお、中国道が全線4車線化したのは1992年11月のことであり、既に通過交通の多くが移行しつつある時期であった。
そして1997年に山陽道が全線開通すると、通過交通や山陽地方都市部を目的とする交通は、ほぼ全面的に山陽道へと移行した。さらに2001年に山陽道宇部下関線が開通すると、宇部市・山陽小野田市へのアクセスや通過交通の一部を同線が担うようになった。
21世紀初頭においては、日本を縦断する国土軸において、山陽道を補完する役割を担う一方で、中国山地沿いの各都市(宍粟市、美作市、津山市、真庭市、新見市、庄原市、三次市、安芸高田市、美祢市など)や、鳥取自動車道・米子自動車道・松江自動車道・浜田自動車道などを介して接続される山陰地方の各都市にとっては、他地域との交流の上で重要な交通ルートとされる。
近畿地方における高速自動車国道の路線として、中国縦貫自動車道は、その起点の吹田市において近畿自動車道天理吹田線の終点であり、吹田市 - 神戸市において山陽自動車道吹田山口線と重複している。特に中国池田ICで接続する阪神高速11号池田線、西宮山口JCTで接続する阪神高速7号北神戸線、神戸JCTで接続する山陽自動車道、吉川JCTで分岐する舞鶴若狭自動車道の相互交通が集中する中国池田IC - 西宮山口JCT間は、交通量が極めて多く、宝塚東・宝塚西トンネル周辺を中心として渋滞の発生が顕著である(交通量の節も参照)。ただ、2018年3月18日に新名神高速道路・高槻JCT/IC - 神戸JCTの全線が開通した結果、中国道を経由していた東西間の交通量が分散された。
国土交通省近畿地方整備局の定める「関西4環状ネットワーク」においては、関西中央環状道路を構成する道路の1つと位置付けられており、山陽自動車道・神戸淡路鳴門自動車道・紀淡連絡道路(構想段階)・近畿自動車道と組み合わせて1周約240 kmの環状道路を形成している。
1995年に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)で京阪神の交通網が大きく寸断された際に、道路以外も含めた交通の大動脈の中で、対面通行ながらも唯一機能したルートでもある。この結果、交通量の大半が神戸市の海沿いに集中していたことが改めてクローズアップされた。
例年10月から11月にかけて、交通量が多く道路の劣化が激しい宝塚IC付近を中心に中国道集中工事を実施している。これにより、例年大規模な渋滞が発生するものの、集中工事方式を採用することで年間の工事渋滞や規制件数が大幅に低減するとされる。しかし、それでも、2020年に6月12日から6月28日にかけては、吹田JCTから中国池田IC間の区間を、補修工事のために通行止にした。
なお、広島北JCT・下関JCTは中国道の一方向(それぞれ吹田方面・下関方面)と接続する路線(それぞれ広島道・山陽道宇部下関線)の本線が直結しており、もう一方向が分岐側となっている。また、山口JCTは山陽道が分岐側だが、山陽道が2車線で合流するのに対し、中国道吹田方面→下関方面は路面標示により1車線に減少するよう変更されている。
中国道はほとんどの区間で80 km/hに制限される。これは、建設時期が山陽道よりも早く、建設当時の技術的な問題もあり、極力元の地形に沿った形でルート選定がされたため、急カーブや急勾配の坂道が連続することが要因である。中国道は全体を通じ、半径500 m未満のカーブが非常に多く、広島県庄原市の東城IC - 庄原ICは中国道で最小半径のR=250 mが連続する場所も見られる。また、北房IC - 新見ICは、1種4級で、かつ半径250 mの急カーブも有し、急勾配が連続するため、最高速度が60 km/hの区間も有る。
例外は、山崎断層帯の直上に建設した区間であり、この区間はトンネルも無い。さらに、直線的な区間である。ただ、山崎断層帯の直上に建設したため、工事中には断層に伴う破砕帯が次々と現れた上に、断層の破砕帯からは塩類を含んだ地下水が湧出してくるため、道路の安全な通行を保証するためには、頻回な設備の補修が必要とされる区間でもある。
1989年には小月IC - 下関IC間の下り線には、事故防止のために道路上に、そこをタイヤが通過した際の走行音が、リズムを取るように聞こえる舗装が行われた。
道路照明灯は吹田JCT - 神戸JCT間に設置されている。
売店は吉和SAを除く全てのサービスエリア (SA) と、赤松・社・安富・上月・真庭・江の川・本郷・王司の各パーキングエリア (PA) に設置されている。これらの中で24時間営業の売店を有するのは、西宮名塩SA・赤松PA下り線・社PA上り線・加西SA・勝央SA・安佐SA・美東SAのみである。レストランは安佐SA・吉和SA・鹿野SA・美東SAを除く全てのサービスエリアに設置されている。また、ガソリンスタンドは吉和SA・鹿野SAを除く、全てのサービスエリアと王司PAに設置されている。これらの中で24時間営業のガソリンスタンドを有するのは、西宮名塩SA・加西SA・勝央SA・七塚原SA・安佐SA・美東SAのみである。
山陽道全通後は交通量の減少により、ガソリンスタンドやスナックコーナーの閉鎖、営業時間短縮などの規模縮小が目立つ。特に安佐SA - 美東SA間の途中にある吉和SA・鹿野SAのガソリンスタンドが続けざまに廃止されており、この間は150 km近くにわたってガソリンスタンドが無い。このため、NEXCO西日本は2015年4月20日より1年間、吉和IC・六日市IC周辺の指定ガソリンスタンドで給油するETC利用車に対して、1時間以内の中途出場を認める社会実験を行い、 翌2016年に更に1年間継続を決め、翌2017年にも更に継続された。
一方で、尾道道・松江道全通後の交通量の増加により、それまで無人のPAであった江の川PAに売店が設置された。
牛頭山・加計東/西トンネルは、広島北JCT - 戸河内ICの区間に存在する。いずれも2 kmを超える長大トンネルである上に、その前後にも1 km前後のトンネルが連続するため難所とされる。ちなみに、この区間の道程の約17.2 kmのうち7割を超える12.4 kmがトンネルである。また、開通からしばらくの間は、これらのトンネルは暫定2車線で供用されていた。
2005年10月に行われた道路公団民営化後、中国自動車道はNEXCO西日本が全区間を管轄している。
24時間交通量(台) 道路交通センサス
(出典:「道路交通情勢調査票(道路交通センサス)平成17年度」(大阪府ホームページ)・「道路に関するデータ 道路・街路交通情勢調査(道路交通センサス)平成11年度調査結果」(兵庫県ホームページ)・「中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量」(中国地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
吹田JCT - 神戸JCT間は中国道・山陽道双方の交通が人口の多い阪神地区において、集中するために常に交通量が多く、中国池田IC - 西宮北IC間では、日交通量10万台以上と極めて混雑する状態で、宝塚東・宝塚西トンネルを先頭にした渋滞が常態化していたが、新名神高速の高槻JCT - 神戸JCT間が開業したことにより、状況は変わりつつある。
一方、山陽道と並行する神戸JCT - 山口JCT間では西に向かうにつれ交通量が減少する。特に少ない戸河内IC - 山口IC間の日交通量は3000台前後で、山陽道(本線)の最少交通量区間である山口南IC - 山口JCT間でも22,634台の日交通量があるのとは対照的である。これは、1997年12月10日に山陽道が全線開通したことで、これまでこの区間を中国道経由で通過していた高速バスや貨物自動車の大半が山陽道へシフトし、その後は通常の昼間に大型車が通過することは少なくなった。結果、交通量が増加する大型連休、お盆、年末年始において、山陽道では渋滞が多く発生するのに対し、並行する中国道の神戸JCT - 山口JCTの区間ではほとんど発生しない。このため、NEXCO西日本ではキャンペーンなどで交通量の多い時期に山陽道を通過利用する車に対し中国道経由への迂回を呼びかけている。
なお、2005年9月7日に台風14号による路盤崩壊により山陽道の岩国IC - 玖珂ICが不通に陥った。山陽道が復旧した12月1日までは通過交通を中心に、一時的に中国自動車道の広島北JCT - 山口JCTの交通量が増加し、この通行止め期間中の2005年9月から11月にかけて実施された平成17年(2005年)度道路交通センサスの交通量調査では、日平均1万台程度の交通量があった。結果、2010年の交通センサスでは2005年に比べて8割程度交通量が減少した区間も見られる。
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中国自動車道は、大阪府吹田市から兵庫県、岡山県、
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{{混同|中華人民共和国の高速道路|redirect=中国道|中国の国道|x1=中国(中華人民共和国)に存在する}}
{{Infobox road
|種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]])
|アイコン = [[ファイル:CHUGOKU EXP(E2A).svg|130px|中国自動車道]]
|名前 = {{Ja Exp Route Sign|E2A}} 中国自動車道
|名前の補足 = {{AHN-AH|1}} [[アジアハイウェイ1号線]]
|地図画像 = {{Highway system OSM map|frame-lat=34.67|frame-long=133.13|frame-width=300|frame-height=200|zoom=6|lengt=|plain=yes|stroke-width=3}}
|総距離 = 540.1 [[キロメートル|km]](国内2位)
|制定年 = [[1964年]]([[昭和]]39年)
|開通年 = [[1970年]](昭和45年) - [[1983年]](昭和58年)
|起点 = [[大阪府]][[吹田市]]([[吹田ジャンクション|吹田JCT]])
|主な経由都市 = <!-- 府県境の自治体 -->[[池田市]]、[[宝塚市]]、[[西宮市]]、[[神戸市]]<br />[[加東市]]、[[津山市]]、[[真庭市]]、[[新見市]]、[[三次市]]<br />[[広島市]]、[[山口市]]
|終点 = [[山口県]][[下関市]]([[下関インターチェンジ|下関IC]])
|接続する主な道路 = {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E26}} [[近畿自動車道]]<br /> [[ファイル:Hanshin Urban Expwy Sign 0007.svg|24px]] [[阪神高速7号北神戸線]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山陽自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E27}} [[舞鶴若狭自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E95}} [[播但連絡道路]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E29}} [[播磨自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E29}} [[鳥取自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E73}} [[米子自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E73}} [[岡山自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E54}} [[尾道自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E54}} [[松江自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E74}} [[浜田自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E74}} [[広島自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山陽自動車道]] [[山陽自動車道#宇部下関線|宇部下関線]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[関門橋|関門橋(関門自動車道)]]
}}
'''中国自動車道'''(ちゅうごくじどうしゃどう、{{lang-en|CHUGOKU EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-03|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[大阪府]][[吹田市]]から[[兵庫県]]、[[岡山県]]、
[[広島県]]、[[島根県]]を経由して[[山口県]][[下関市]]へ至る[[日本の高速道路|高速道路]]。[[略語|略称]]は'''中国道'''(ちゅうごくどう)。[[高速自動車国道]]であり、政令による正式な路線名は[[中国縦貫自動車道]]である。
なお、[[吹田ジャンクション]] (JCT) - [[神戸ジャンクション|神戸JCT]]、[[山口ジャンクション|山口JCT]] - [[下関インターチェンジ]] (IC) は[[アジアハイウェイ1号線]]「AH1」にも指定されている。
== 概要 ==
[[File:Yamaguchitown Narai Nishinomiyacity Hyogopref Chugoku Expressway.JPG|thumb|250px|西宮市と神戸市との境目付近<br />兵庫県西宮市山口町名来で撮影]]
中国自動車道の[[高速道路ナンバリング]]による路線番号は、[[関門橋|関門橋(関門自動車道)]]とともに「'''E2A'''」が割り振られている<ref group="注釈">[[宍粟ジャンクション|宍粟JCT]] - [[佐用ジャンクション|佐用JCT]]間は、「'''E29'''」、[[落合ジャンクション|落合JCT]] - [[北房ジャンクション|北房JCT]]間は「E73」、[[千代田ジャンクション|千代田JCT]] - [[広島北ジャンクション|広島北JCT]]間は「E74」がそれぞれ重複付番されている。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html |title=高速道路ナンバリング一覧 |publisher=国土交通省 |accessdate=2017-05-05 }}</ref>。起終点付近を除き[[国道2号]]とは並行していないが、[[山陽自動車道]]の並行道路と見なし「E2A」が付番された。
中国自動車道は、[[中国地方]]のほぼ中央部を東西に貫く形で建設され[[1983年]]に全線開通した。総延長は540.1 [[キロメートル|km]]に及び、高速自動車国道の中では[[東北自動車道]]に次いで長い。山間部を中心に[[インターチェンジ|IC]]の間隔が長い点も特徴の1つであり、並行する山陽自動車道と比べて距離が長い上に、中国自動車道のICの合計数の方が少ない。高速道路網としては初期に整備された部類に入り、当初「中国地方においては、高速道路網の東西軸は1本のみを建設する」とされていたため、中国地方の高速道路網の「背骨」として[[中国縦貫自動車道]]([[国土開発幹線自動車道]]の路線名)の路線が指定され、[[山陽地方]]からも[[山陰地方]]からもほぼ等距離にアクセス出来る[[中国山地]]沿いの位置に建設された<ref group="注釈">その後、[[1966年]]に公布された[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]で[[山陽自動車道]]が計画され、[[1987年]]に行われた国土開発幹線自動車道建設法の改正で[[山陰自動車道]]の計画が策定された。</ref>。しかし、<!-- 長大[[トンネル]]等の土木技術が確立途上にあった時期と重なり、 -->山肌を縫うように建設された結果、高速道路としてはカーブやアップダウンの多い[[線形 (路線)|線形]]になり、大半の区間で[[最高速度]]が80 [[キロメートル毎時|km/h]]以下に制限されている。
[[File:Chugoku-expwy-curve-muikaichi_kano.jpg|thumb|250px|鹿野IC - 六日市ICの急カーブ<br />急傾斜な坂道と急カーブが続く。]]
冬季は日本海からの季節風の影響を受けて、山間部や山口県内を中心に凍結や積雪がしばしば生じるため、冬用タイヤ着用などの規制が実施される場合が多々ある<ref group="注釈">その一方で兵庫県内(特に福崎IC以東)や大阪府内においては、冬タイヤ着用が求められる事はほとんどない。</ref>。
{{double image aside|center|National Expressway Plan(1943).svg|250|Tanaka's plan(Seichi Tanaka).svg|250|内務省土木局が1943年(昭和18年)に計画した自動車国道網(画像左)と[[田中清一]]が「平和国家建設国土計画大綱」で提案した全国道路網(画像右)。戦後の高速道路建設は当初田中案を原型に進められた。東京 - 名古屋間では紆余曲折を経て東名の建設が先行したが、中国地方では田中案に由来する中国道の建設が先行した。}}
=== 山陽自動車道との関係 ===
開通から1990年代初頭まで、山陽地方や[[九州]]方面へのアクセスの根幹は当時唯一の路線であった中国自動車道が担っていた。また、[[岡山市]]など山陽地方東部の都市へのアクセスは、当時未開通だった[[山陽自動車道]](以下山陽道)に並行する、[[阪神高速3号神戸線]]および国道2号バイパス([[第二神明道路]] - [[加古川バイパス]] - [[姫路バイパス]] - [[太子竜野バイパス]])といった[[自動車専用道路]]や[[岡山ブルーライン]]などが利用されることもあった。
1990年代には、距離が短く直線的に計画され冬季の交通障害も少なく岡山市や広島市などの中国地方の主要都市の中心部近くを通過する山陽道への交通量の移行が漸次起こっている。1992年6月に山陽道の[[広島JCT]] - [[山口JCT]]間が全通すると当該区間の通過交通の大半が山陽道へと移行、1993年12月には山陽道の[[山陽姫路東IC]] - [[広島JCT]]間も全通し、通過交通や山陽地方都市部への交通の多くが[[播但連絡道路]][[福崎IC]] - [[山陽姫路東IC]]を介して山陽道を利用するルートへと移行した。なお、中国道が全線4車線化したのは1992年11月のことであり、既に通過交通の多くが移行しつつある時期であった。
そして[[1997年]]に山陽道が全線開通すると、通過交通や山陽地方都市部を目的とする交通は、ほぼ全面的に山陽道へと移行した<ref group="注釈">[[#車線・最高速度|最高速度の節]]、および、[[#交通量|交通量の節]]を参照。</ref>。さらに[[2001年]]に山陽道宇部下関線が開通すると、[[宇部市]]・[[山陽小野田市]]へのアクセスや通過交通の一部を同線が担うようになった。
21世紀初頭においては、日本を縦断する[[国土軸]]において、山陽道を補完する役割を担う一方で、中国山地沿いの各都市([[宍粟市]]、[[美作市]]、[[津山市]]、[[真庭市]]、[[新見市]]、[[庄原市]]、[[三次市]]、[[安芸高田市]]、[[美祢市]]など)や、[[鳥取自動車道]]・[[米子自動車道]]・[[松江自動車道]]・[[浜田自動車道]]などを介して接続される山陰地方の各都市にとっては、他地域との交流の上で重要な交通ルートとされる<ref group="注釈">高速道路計画当初は、山陽・山陰の各中心都市へは中国自動車道から上記各自動車道という支線により高速道路網を構築する計画であり、一部残存区間があるものの2020年7月現在では進捗中である。</ref>。
{{Maplink2|type=line|type2=line|frame=yes|id=Q1091207|id2=Q7413195|frame-lat=34.528|frame-long=133.249|frame-align=center|frame-width=1000|frame-height=350|zoom=8|stroke-color=#ff0000|stroke-color2=#0000FF|stroke-width=4|stroke-width2=4|title=中国自動車道|title2=山陽自動車道(各支線を含む)|text=赤色が中国自動車道、青色が山陽自動車道。どちらも中国地方を東西に貫いている。}}
[[近畿地方]]における高速自動車国道の路線として、中国縦貫自動車道は、その起点の吹田市において[[近畿自動車道|近畿自動車道天理吹田線]]の終点であり、吹田市 - [[神戸市]]において[[山陽自動車道|山陽自動車道吹田山口線]]と重複している。特に[[中国池田インターチェンジ|中国池田IC]]で接続する[[阪神高速11号池田線]]、[[西宮山口ジャンクション|西宮山口JCT]]で接続する[[阪神高速7号北神戸線]]、[[神戸ジャンクション|神戸JCT]]で接続する山陽自動車道、[[吉川ジャンクション|吉川JCT]]で分岐する[[舞鶴若狭自動車道]]の相互交通が集中する中国池田IC - 西宮山口JCT間は、交通量が極めて多く、[[宝塚東・宝塚西トンネル]]周辺を中心として[[渋滞]]の発生が顕著である([[#交通量|交通量の節]]も参照)。ただ、2018年3月18日に[[新名神高速道路]]・[[高槻ジャンクション・インターチェンジ|高槻JCT/IC]] - 神戸JCTの全線が開通した結果、中国道を経由していた東西間の交通量が分散された<ref>{{Cite news |title=【関西の議論】中国道“名物”「宝塚トンネル常時渋滞」の本当の理由…2年後には劇的解消“秘策”が |newspaper=[[MSN産経ニュース]]関西版 |date=2014-04-21 |url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140421/wlf14042107000001-n1.htm |publisher=産経新聞社 |accessdate=2014-06-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140421172342/http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140421/wlf14042107000001-n1.htm |archivedate=2014-04-21}}</ref>。
[[国土交通省]][[近畿地方整備局]]の定める「[[放射線・環状線#京阪神|関西4環状ネットワーク]]」においては、関西中央環状道路を構成する道路の1つと位置付けられており、山陽自動車道・[[神戸淡路鳴門自動車道]]・[[紀淡連絡道路]](構想段階)・近畿自動車道と組み合わせて1周約240 kmの環状道路を形成している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kkr.mlit.go.jp/road/kansen/kanjo/04/c.htm |title=関西中央環状道路 |work=関西4環状ネットワーク |publisher=国土交通省近畿地方整備局 |accessdate=2014-06-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131104033933/http://www.kkr.mlit.go.jp/road/kansen/kanjo/04/c.htm |archivedate=2013-11-04 |deadlikdate=2018-07-15}}</ref>。
1995年に発生した[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])で京阪神の交通網が大きく寸断された際に、道路以外も含めた交通の大動脈の中で、[[対面通行]]ながらも唯一機能したルートでもある。この結果、交通量の大半が神戸市の海沿いに集中していたことが改めてクローズアップされた。
例年10月から11月にかけて、交通量が多く道路の劣化が激しい宝塚IC付近を中心に中国道集中工事を実施している。これにより、例年大規模な渋滞が発生するものの、集中工事方式を採用することで年間の工事渋滞や規制件数が大幅に低減するとされる<ref>この集中工事方式の高速道路の補修方法は、交通量が多い[[東名高速道路]]や名神高速道路でも採用している。</ref>。しかし、それでも、2020年に6月12日から6月28日にかけては、吹田JCTから中国池田IC間の区間を、補修工事のために通行止にした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.w-nexco.co.jp/emc/emcpdfs/20200628060533-01.pdf |title=E2A中国自動車道(吹田JCT〜中国池田IC)終日通行止めは6月28日(日)朝5時に終了いたしました。 — リニューアル工事へのご理解とご協力をいただき誠にありがとうございました — |date=2020-06-28 |accessdate=2020-06-28 |publisher=西日本高速道路株式会社 |format=PDF}}</ref>。
なお、広島北JCT・下関JCTは中国道の一方向(それぞれ吹田方面・下関方面)と接続する路線(それぞれ[[広島自動車道|広島道]]・山陽道宇部下関線)の本線が直結しており、もう一方向が分岐側となっている<ref group="注釈">同様の例として、[[安代ジャンクション|安代JCT]]、[[長岡ジャンクション|長岡JCT]]、[[更埴ジャンクション|更埴JCT]]、[[川之江東ジャンクション|川之江東JCT]]、[[日出ジャンクション|日出JCT]]がある</ref>。また、山口JCTは山陽道が分岐側だが、山陽道が2車線で合流するのに対し、中国道吹田方面→下関方面は路面標示により1車線に減少するよう変更されている。
== インターチェンジなど ==
* IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である区間は既開通区間に存在する。<br />施設欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である区間は未開通区間または未供用施設に該当する。<br />未開通区間の名称は仮称である。
* [[スマートインターチェンジ]] (SIC) は背景色<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。
* 路線名の特記が無き物は[[市町村道|市道]]である。
* [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。
*: 新見ICと東城ICは◎としている。これは当該BSは本高速道路に属すIC設備に併設されているBSが休止中で、IC近隣に設置された施設でIC設備からも離れているBSが運用中のためである。しかし、実際の運用上の扱いは同一である。
* 英略字は以下の項目を示す。
*: IC:[[インターチェンジ]]、SIC:[[スマートインターチェンジ]]、JCT:[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、SA:[[サービスエリア]]、PA:[[パーキングエリア]]、TB:[[本線料金所]]、BS:[[バスストップ]]、CB:チェーンベース(チェーン脱着場)
{| class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|起点<br /><span style="font-size:small">から<br />([[キロメートル|km]])</span>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!colspan="2" style="border-bottom:3px solid green"|所在地
|-
!style="background-color:#BFB"|35
|[[吹田ジャンクション|吹田JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E26}} [[近畿自動車道]]
|style="text-align:right"|0.0
|style="text-align:center"|-
|[[京都南インターチェンジ|京都]]・[[小牧インターチェンジ|名古屋]]・[[名神高速道路]]方面のみ接続<br />{{0}}
|rowspan="4" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[大阪府]]}}
|rowspan="2"|[[吹田市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|1
|[[中国吹田インターチェンジ|中国吹田IC]]
|[[大阪府道2号大阪中央環状線|府道2号大阪中央環状線]]
|style="text-align:right"|1.0
|style="text-align:center"|
|神戸JCT方面出入口
|-
!style="background-color:#BFB" rowspan="2"|2
|[[中国豊中インターチェンジ|中国豊中IC]]
|府道2号大阪中央環状線
|style="text-align:right"|8.3
|style="text-align:center"|
|吹田JCT方面出入口
|[[豊中市]]
|-
|[[中国池田インターチェンジ|中国池田IC]]
|[[国道176号]](バイパス)
|style="text-align:right"|10.5
|style="text-align:center"|
|神戸JCT方面出入口、[[阪神高速11号池田線]]と接続
|[[池田市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|3
|[[宝塚インターチェンジ|宝塚IC]]
|国道176号(バイパス)<br />[[兵庫県道42号尼崎宝塚線|県道42号尼崎宝塚線]]
|style="text-align:right"|16.6
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="31" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[兵庫県]]}}
|[[宝塚市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[西宮名塩サービスエリア|西宮名塩SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|24.1
|style="text-align:center"|◆
|SICは計画中
|rowspan="3"|[[西宮市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|4
|[[西宮山口ジャンクション|西宮山口JCT]]
|[[File:Hanshin Urban Expwy Sign 0007.svg|26px]] [[阪神高速7号北神戸線]]
|style="text-align:right"|27.5
|style="text-align:center"|-
|吹田JCT方面⇔神戸JCT方面、<br />吹田JCT方面⇔[[伊川谷ジャンクション|伊川谷JCT]]方面のみ接続
|-
!style="background-color:#BFB"|5
|[[西宮北インターチェンジ|西宮北IC]]
|[[兵庫県道82号大沢西宮線|県道82号大沢西宮線]]
|style="text-align:right"|29.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|5-1
|[[神戸ジャンクション|神戸JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山陽自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]]
|style="text-align:right"|31.7
|style="text-align:center"|-
|
|rowspan="4"|[[神戸市]]<br />[[北区 (神戸市)|北区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[長尾バスストップ|長尾BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|33.6
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|5-2
|[[神戸三田インターチェンジ|神戸三田IC]]
|[[六甲北有料道路]]
|style="text-align:right"|36.7
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[赤松パーキングエリア|赤松PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|38.4
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|6
|[[吉川ジャンクション|吉川JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E27}} [[舞鶴若狭自動車道]]
|style="text-align:right"|40.5
|style="text-align:center"|-
|
|rowspan="2"|[[三木市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|7
|[[吉川インターチェンジ|吉川IC]]
|[[兵庫県道17号西脇三田線|県道17号西脇三田線]]<br />[[国道428号]]
|style="text-align:right"|43.7
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|7-1
|[[ひょうご東条インターチェンジ|ひょうご東条IC]]
|[[兵庫県道91号はりま東条インター線|県道91号はりま東条インター線]]<br />[[兵庫県道313号平木南山線|県道313号平木南山線]]
|style="text-align:right"|47.7
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="4"|[[加東市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[東条バスストップ|東条BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|49.7
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[社パーキングエリア|社PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|55.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|8
|[[滝野社インターチェンジ|滝野社IC]]
|[[国道175号]](社バイパス)<br />県道17号西脇三田線
|style="text-align:right"|59.4
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[泉バスストップ|泉BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|66.6
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="4"|[[加西市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|8-1
|[[加西インターチェンジ|加西IC]]
|[[兵庫県道24号多可北条線|県道24号多可北条線]]
|style="text-align:right"|69.1
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[北条バスストップ|北条BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|72.2
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB" rowspan="2"|-
|rowspan="2"|[[加西サービスエリア|加西SA]]
|style="text-align:center" rowspan="2"|-
|style="text-align:right" rowspan="2"|75.6
|style="text-align:center" rowspan="2"|
|rowspan="2"|
|-
|rowspan="2"|[[神崎郡]]<br />[[福崎町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|9
|[[福崎インターチェンジ|福崎IC]]
|{{Ja Exp Route Sign|E95}} [[播但連絡道路]]
|style="text-align:right"|79.2
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|9-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[夢前バスストップ|夢前BS/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[兵庫県道67号姫路神河線|県道67号姫路神河線]](市道経由)<br />[[兵庫県道23号三木宍粟線|県道23号三木宍粟線]](市道経由)
|style="text-align:right"|86.0
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2"|[[姫路市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[安富パーキングエリア|安富PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|94.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|10
|[[山崎インターチェンジ (兵庫県)|山崎IC]]
|[[国道29号]]
|style="text-align:right"|99.6
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="5"|[[宍粟市]]
|-
!style="background-color:#BFB; white-space:nowrap;"|10-1
|[[宍粟ジャンクション|宍粟JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E29}} [[播磨自動車道]]
|style="text-align:right"|103.6
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[山崎本線料金所|山崎TB]]
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="background-color:#CCC; text-align:right"|103.8
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="background-color:#CCC"|[[2004年]]12月20日廃止
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[揖保川パーキングエリア|揖保川PA ]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|106.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[葛根バスストップ|葛根BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|110.2
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[南光バスストップ|南光BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|113.8
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="4"|[[佐用郡]]<br />[[佐用町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|10-2
|[[佐用ジャンクション|佐用JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E29}} [[鳥取自動車道]]
|style="text-align:right"|117.4
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|11
|[[佐用インターチェンジ|佐用IC]]
|[[国道373号]]
|style="text-align:right"|119.2
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[上月パーキングエリア|上月PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|125.7
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|11-1
|[[作東インターチェンジ|作東IC]]
|[[岡山県道86号作東インター線|県道86号作東インター線]]<br />[[岡山県道・兵庫県道365号上福原佐用線|県道365号上福原佐用線]]
|style="text-align:right"|131.3
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="25" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[岡山県]]}}
|rowspan="5"|[[美作市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[作東バスストップ|作東BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|133.9
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[楢原パーキングエリア|楢原PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|136.4
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|12
|[[美作インターチェンジ|美作IC]]
|[[岡山県道51号美作奈義線|県道51号美作奈義線]]
|style="text-align:right"|139.4
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|12-1
|[[勝央ジャンクション|勝央JCT]]
|[[美作岡山道路]]
|style="text-align:right"|141.9
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[勝間田バスストップ|勝間田BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|144.0
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2"|[[勝田郡]]<br />[[勝央町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[勝央サービスエリア|勝央SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|145.3
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|13
|[[津山インターチェンジ|津山IC]]
|[[国道53号]]
|style="text-align:right"|150.7
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="5"|[[津山市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[津山北バスストップ|津山北BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|156.0
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[二宮パーキングエリア|二宮PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|159.1
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|14
|[[院庄インターチェンジ|院庄IC]]
|[[国道179号]]<br />[[岡山県道206号院庄線|県道206号院庄線]]
|style="text-align:right"|161.1
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[久米バスストップ|久米BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|166.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[美作追分パーキングエリア|美作追分PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|173.9
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="7"|[[真庭市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|15
|[[落合ジャンクション|落合JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E73}} [[米子自動車道]]
|style="text-align:right"|175.0
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|16
|[[落合インターチェンジ|落合IC]]
|[[国道313号]]
|style="text-align:right"|181.6
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[真庭パーキングエリア|真庭PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|184.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|17
|[[北房ジャンクション|北房JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E73}} [[岡山自動車道]]
|style="text-align:right"|191.0
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|18
|[[北房インターチェンジ|北房IC]]
|国道313号
|style="text-align:right"|193.4
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[呰部バスストップ|呰部BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|196.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[布瀬バスストップ|布瀬BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|205.5
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="6"|[[新見市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|18-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[大佐サービスエリア|大佐SA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[岡山県道32号新見勝山線|県道32号新見勝山線]](市道経由)
|style="text-align:right"|209.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[熊谷バスストップ|熊谷BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|215.6
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|19
|[[新見インターチェンジ|新見IC]]
|[[国道180号]]<br />[[岡山県道・鳥取県道8号新見日南線|県道8号新見日南線]]
|style="text-align:right"|221.6
|style="text-align:center"|◎
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[神郷パーキングエリア|神郷PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|228.8
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[哲西バスストップ|哲西BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|237.9
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|20
|[[東城インターチェンジ|東城IC]]
|[[国道182号]]
|style="text-align:right"|246.4
|style="text-align:center"|◎
|
|rowspan="24" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[広島県]]}}
|rowspan="6"|[[庄原市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[帝釈峡パーキングエリア|帝釈峡PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|249.2<br />250.1
|style="text-align:center"|
|下り線 三次・広島方面<br />上り線 津山・大阪方面
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[帝釈バスストップ|帝釈BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|259.7
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[本村パーキングエリア|本村PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|265.9<br />267.0
|style="text-align:center"|
|下り線 三次・広島方面<br />上り線 津山・大阪方面
|-
!style="background-color:#BFB"|21
|[[庄原インターチェンジ|庄原IC]]
|[[国道432号]]
|style="text-align:right"|276.6
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[七塚原サービスエリア|七塚原SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|283.1<br />283.2
|style="text-align:center"|
|下り線 広島・北九州方面<br />上り線 津山・大阪方面
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[和知バスストップ|和知BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|286.5
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="5"|[[三次市]]
|-
!style="background-color:#BFB" rowspan="2"|21-1
|[[三次東ジャンクション|三次東JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E54}} [[松江自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E54}} [[尾道自動車道]]
|style="text-align:right" rowspan="2"|288.6
|style="text-align:center" rowspan="2"|-
|
|-
|[[三次東ジャンクション|三次東IC]]
|[[広島県道434号和知三次線|県道434号和知三次線]]
|
|-
!style="background-color:#BFB"|22
|[[三次インターチェンジ|三次IC]]
|[[国道375号]]<br />[[広島県道470号三次インター線|県道470号三次インター線]]
|style="text-align:right"|293.6
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[江の川パーキングエリア|江の川PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|299.1<br />302.0
|style="text-align:center"|
|上り線 松江・大阪方面<br />下り線 広島・北九州方面
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[高宮バスストップ|高宮BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|308.3
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[安芸高田市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|23
|[[高田インターチェンジ (広島県)|高田IC]]
|[[広島県道64号三次美土里線|県道64号三次美土里線]]
|style="text-align:right"|313.8
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[美土里バスストップ|美土里BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|315.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[本郷パーキングエリア|本郷PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|317.9<br />322.2
|style="text-align:center"|
|上り線 三次・大阪方面<br />下り線 広島・北九州方面
|-
!style="background-color:#BFB"|24
|[[千代田インターチェンジ|千代田IC]]
|[[広島県道5号浜田八重可部線|県道5号浜田八重可部線]]
|style="text-align:right"|328.9
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2"|[[山県郡]]<br />[[北広島町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|25
|[[千代田ジャンクション|千代田JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E74}} [[浜田自動車道]]
|style="text-align:right"|330.9
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[安佐サービスエリア|安佐SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|339.9<br />340.4
|style="text-align:center"|
|下り線 広島・北九州方面<br />上り線 浜田・大阪方面
|rowspan="2"|[[広島市]]<br />[[安佐北区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|26
|[[広島北ジャンクション|広島北JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E74}} [[広島自動車道]]
|style="text-align:right"|343.0
|style="text-align:center"|-
|[[三次インターチェンジ|三次IC]]・[[浜田インターチェンジ|浜田IC]]方面⇔[[広島ジャンクション|広島JCT]]方面直結
|-
!style="background-color:#BFB"|26-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[加計バスストップ|加計BS/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[国道191号]](町道経由)
|style="text-align:right"|355.0
|style="text-align:center"|○
|広島北JCT方面出入口<br />山口JCT方面は事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001630067.pdf|title=スマートインターチェンジ等の高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2023-09-08|accessdate=2023-09-08|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref>
|rowspan="3"|山県郡<br />[[安芸太田町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|27
|[[戸河内インターチェンジ|戸河内IC]]
|[[国道186号]]<br />国道191号
|style="text-align:right"|360.4
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[筒賀パーキングエリア|筒賀PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|363.2
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|28
|[[吉和インターチェンジ (中国自動車道)|吉和IC]]
|国道186号
|style="text-align:right"|376.6
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="2"|[[廿日市市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[吉和サービスエリア|吉和SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|379.1
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[宇佐BS/CB]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|387.4
|style="text-align:center"|◆
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[山口県]]<br>[[岩国市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[深谷パーキングエリア|深谷PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|395.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|29
|[[六日市インターチェンジ|六日市IC]]
|[[国道187号]]
|style="text-align:right"|403.6
|style="text-align:center"|◆
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[島根県]]<br>[[鹿足郡]]<br>[[吉賀町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[朝倉パーキングエリア|朝倉PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|408.5
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|30
|[[鹿野インターチェンジ|鹿野IC]]
|[[国道315号]]
|style="text-align:right"|430.6
|style="text-align:center"|◆
|
|rowspan="24" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|山口県}}
|rowspan="2"|[[周南市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[鹿野サービスエリア|鹿野SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|432.2<br />432.8
|style="text-align:center"|
|下り線 山口・北九州方面<br />上り線 広島・大阪方面
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[串バスストップ|<span style="background-color:#CCC">串BS</span>/CB]]
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="text-align:right"|439.7
|style="text-align:center"|◆
|CBは上り線のみ
|rowspan="9"|[[山口市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|31
|[[徳地インターチェンジ|徳地IC]]
|[[国道489号]]
|style="text-align:right"|447.4
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[荷卸峠パーキングエリア|荷卸峠PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|455.7
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[仁保バスストップ|仁保BS]]
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="text-align:right"|460.6
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|32
|[[山口インターチェンジ|山口IC]]
|[[国道262号]]
|style="text-align:right"|467.4
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|32-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[湯田温泉パーキングエリア|湯田温泉PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|市道湯田パーキング線
|style="text-align:right"|473.4
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|33
|[[山口ジャンクション|山口JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道
|style="text-align:right"|474.8
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|34
|[[小郡インターチェンジ (中国自動車道)|小郡IC]]
|[[国道9号]]
|style="text-align:right"|480.1
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|34-1
|[[小郡インターチェンジ (中国自動車道)#小郡ジャンクション|小郡JCT]]
|[[山口宇部道路]]
|style="text-align:right"|480.2
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[美東サービスエリア|美東SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|487.5<br />487.7
|style="text-align:center"|
|下り線 下関・北九州方面<br />上り線 山口・広島方面
|rowspan="6"|[[美祢市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[真名バスストップ|真名BS]]
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="text-align:right"|489.5
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|34-2
|[[美祢東ジャンクション|美祢東JCT]]
|[[小郡萩道路]](美東大田道路)
|style="text-align:right"|490.5
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|35
|[[美祢インターチェンジ|美祢IC]]
|[[国道435号]]
|style="text-align:right"|498.2
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[伊佐パーキングエリア|伊佐PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|505.5
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|35-1
|[[美祢西インターチェンジ|美祢西IC]]
|[[山口県道33号下関美祢線|県道33号下関美祢線]]
|style="text-align:right"|511.7
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|35-2
|[[下関ジャンクション|下関JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山陽自動車道#宇部下関線|山陽自動車道 宇部下関線]]
|style="text-align:right"|519.1
|style="text-align:center"|-
|
|rowspan="7"|[[下関市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[下関ジャンクション#長門吉田バスストップ|長門吉田BS]]
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="text-align:right"|519.4
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[小月バスストップ|小月BS]]
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="text-align:right"|524.0
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB" |36
|[[小月インターチェンジ|小月IC]]
|[[国道491号]]<br><span style="background-color:#CCC">{{Ja Exp Route Sign|E9}} [[山陰自動車道]](調査中)<ref>{{Cite web|和書|date=2016-03-08 |url=http://www.cgr.mlit.go.jp/bunkakai/h27/pdf/06/05【資料3-2】【俵山・豊田道路】.pdf |title=平成28年度 新規事業候補箇所説明資料 一般国道491号(山陰自動車道) 俵山・豊田道路 |format=PDF |publisher=国土交通省 中国地方整備局 |page=10 |accessdate=2017-03-20}}</ref></span>
|style="text-align:right"|524.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
||[[王司パーキングエリア|王司PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|529.1
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[長門勝山バスストップ|長門勝山BS]]
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="text-align:right"|535.9
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|37
|[[下関インターチェンジ|下関IC]]
|[[山口県道57号下関港線|県道57号下関港線]]<br />[[山口県道258号武久椋野線|県道258号武久椋野線]]
|style="text-align:right"|540.1
|style="text-align:center"|
|
|-
|colspan="8" style="text-align:center;"|{{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[関門橋|関門橋(関門自動車道)]]
|}
== 歴史 ==<!--その年の社会背景を知るために、年号への内部リンクを辿る事は有るでしょうから、内部リンクを設けても良いでしょう。しかし、日付への内部リンクは不要でしょう。まして「2月」などに内部リンクしても何の意味も無いです。-->
{{Timeline of release years
| title = 全通までの各年ごとの開通区間
| 1970 = (3月)中国吹田IC - 中国豊中IC<br />(7月)中国豊中IC - 宝塚IC
| 1973 = (11月)小月IC - 下関IC
| 1974 = (6月)西宮北IC - 福崎IC<br />(7月)小郡IC - 小月IC<br />(12月)美作IC - 落合IC
| 1975 = (4月)山口IC - 小郡IC<br />(10月)宝塚IC - 西宮北IC・福崎IC - 美作IC
| 1976 = (12月)落合IC - 北房IC
| 1978 = (10月)北房IC - 三次IC
| 1979 = (10月)三次IC - 千代田IC
| 1980 = (10月)鹿野IC - 山口IC
| 1983 = (3月)千代田IC - 鹿野IC
}}
* [[1970年]]([[昭和]]45年)
**3月1日 : '''中国自動車道'''<ref group="注釈">前年([[1969年]])に開通した'''中央高速道路'''(現・[[中央自動車道]])の[[暫定2車線]]の[[対面通行]]区間であった[[中央線 (道路)|中央線]]を、破線(追い越し可能区間)で供用した結果、正面衝突事故が相次いだため、[[警察庁]]から[[日本道路公団]]に営業路線名で「高速道路」の名称使用を自粛するよう要請があり、暫定措置として[[1972年]]まで法定路線名をそのまま使用した。なお、開通時には、現在と同じく中国自動車道の名称が使われた。『交通工学』1970年春季増刊号・田中敬一・田口二朗「万国博関連道路計画について」写真より</ref>中国吹田IC - 中国豊中ICが[[暫定2車線]]で開通<ref group="注釈">同時期に開催されていた[[日本万国博覧会]]会場へのアクセス路線として[[北大阪急行電鉄]]が'''会場線'''という臨時線を、[[1970年]]2月24日から1970年9月14日まで現上り線の敷地を利用して万国会場前まで供用していたため、現下り線部分を暫定2車線対面通行にして開通させた。なお、前述の中央高速での反省を踏まえ、中国吹田IC - 中国豊中IC間は[[追い越し]]禁止区間(中央線を黄色の実線で供用)とされた。</ref>。
**7月23日 : 中国豊中IC - 宝塚ICが開通。
* [[1973年]](昭和48年)11月14日 : 小月IC - 下関ICが開通。同時に関門橋(関門自動車道)と接続。
* [[1974年]](昭和49年)
**6月4日 : 西宮北IC - 福崎ICが開通。
**7月31日 : 小郡IC - 小月ICが開通。
**12月21日 : 美作IC - 落合ICが開通。
* [[1975年]](昭和50年)
**4月1日 : 山口IC - 小郡ICが開通。
**10月16日 : 宝塚IC - 西宮北IC、福崎IC - 美作ICが開通。
**12月10日 : 院庄IC開通
* [[1976年]](昭和51年)12月24日 : 落合IC - 北房ICが開通。
* [[1978年]](昭和53年)10月28日 : 北房IC - 三次ICが開通(北房IC - 庄原ICは暫定2車線)。
* [[1979年]](昭和54年)
**5月15日 : 吹田JCT(名神 - 中国道直結[[ランプ (道路)|ランプ]])開通。東名[[東京インターチェンジ|東京IC]]から三次ICまで高速自動車国道で結ばれる。
**10月18日 : 三次IC - 千代田ICが開通。
* [[1980年]](昭和55年)10月17日 : 鹿野IC - 山口ICが開通(鹿野IC-徳地ICは暫定2車線)。
* [[1982年]](昭和57年)4月20日 : 東城IC - 庄原ICが4車線化。
* [[1983年]](昭和58年)
**2月:山崎TB設置<ref>高速自動車道新聞 昭和63年8月11・21日合併号</ref>。
**3月18日 : 新見IC - 東城ICが4車線化。
**3月24日 : 千代田IC - 鹿野ICが開通し'''全線開通'''(広島北JCT - 鹿野ICは暫定2車線)。
* [[1984年]](昭和59年)3月30日 : 北房IC - 新見ICが4車線化。
* [[1986年]](昭和61年)11月10日 : 鹿野IC - 徳地ICが4車線化。
* [[1987年]](昭和62年)12月4日 : 山口JCT開通により山陽自動車道と接続。
* [[1988年]](昭和63年)
**3月24日 : 吉川JCT開通により舞鶴自動車道(現在の舞鶴若狭自動車道)と接続。
**7月8日 : 神戸三田IC開通。
**7月9日 : 西宮名塩SA開設。
**7月19日 : 神戸三田IC - 吉川JCTが6車線化。
* [[1989年]]([[平成]]元年)11月10日 : 六日市IC - 鹿野ICが4車線化。
* [[1990年]](平成2年)
**3月30日 : 西宮北IC - 神戸三田ICが6車線化。
**9月25日 : 戸河内IC - 吉和ICが4車線化。
**11月15日 : 吉和IC - 六日市ICが4車線化。
* [[1991年]](平成3年)
**3月19日 : 加西IC開通。
**12月7日 : 千代田JCT開通により浜田自動車道と接続。
* [[1992年]](平成4年)
**11月15日 : 最後まで暫定2車線だった広島北JCT - 戸河内ICの4車線化工事が完了し、'''全線で4車線'''以上を確保。
**12月18日 : 落合JCT開通により米子自動車道と接続。
* [[1996年]](平成8年)
**4月10日 : ひょうご東条IC開通。
**11月14日 : 神戸JCT開通により山陽自動車道と接続。
* [[1997年]](平成9年)
**3月15日 : 北房JCT開通により岡山自動車道と接続。
**9月13日 : 美祢西IC開通。
* [[2001年]](平成13年)3月11日 : 下関JCT開通により山陽自動車道と接続。
* [[2003年]](平成15年)4月28日 : 西宮山口JCT開通により阪神高速7号北神戸線と接続。
* [[2004年]](平成16年)
**12月18日 : 大佐SAスマートIC社会実験、加計BSスマートIC[[社会実験]]開始(2006年9月30日終了)<ref group="注釈">当初の実験期間は、2005年3月15日までだった。</ref>。
**12月20日 : [[山崎本線料金所]](山崎IC - 佐用ICに設置)廃止。
* [[2005年]](平成17年)3月6日 : 作東IC開通。
* [[2006年]](平成18年)10月1日 : 大佐スマートIC、加計スマートIC供用開始。
* [[2008年]](平成20年)11月11日 : 山口JCTがフル化。山陽自動車道と全方向接続。
* [[2010年]](平成22年)
**3月20日 : 美祢東JCT開通に伴い、小郡萩道路と接続。
**3月28日 : 佐用JCT開通に伴い、鳥取自動車道と接続。
* [[2013年]](平成25年)3月30日 : 三次東JCT開通に伴い、松江自動車道と接続。
* [[2014年]](平成26年)3月30日 : 三次東JCTにて尾道自動車道と接続。
* [[2016年]](平成28年)
**3月27日 : 勝央JCT及び小郡JCTが開通。
**4月23日 : 建設中の[[新名神高速道路]](高槻 - 神戸)建設現場における[[新名神高速道路有馬川橋橋桁落下事故|有馬川橋橋桁落下事故]]で付近の[[国道176号線]]が通行止めとなったため、西宮北IC - 神戸三田ICで無料通行を実施<ref>{{Cite news |title=橋桁落下事故が発生した国道176号の迂回路として高速道路の通行料金を無料化 |newspaper=クリッカー clicccar.com |date=2016-04-24 |author=山内博 |url=http://clicccar.com/2016/04/24/368299/ |publisher=[[三栄書房]] |accessdate=2018-04-14}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)3月18日 : 神戸JCTで新名神高速道路と接続<ref name="press20180124">{{Cite press release |和書 |title=E1A新名神高速道路(川西IC〜神戸JCT間)が平成30年3月18日(日曜)に開通します - 高槻JCT・IC〜神戸JCT間が全線開通します - |publisher=西日本高速道路 |date=2018-01-24 |url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/hq/h30/0124/ |accessdate=2018-01-24}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)3月21日 : 湯田温泉スマートIC供用開始<ref name="press20200129">{{Cite web|和書|url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/chugoku/r2/0129/|title=E2A中国自動車道 湯田温泉スマートインターチェンジが令和2年3月21日(土曜)に開通します 名称は「湯田温泉スマートインターチェンジ」に決定しました - 休憩施設名称も「湯田PA」から「湯田温泉PA」に変更します - |date=2020-01-29 |accessdate=2020-01-29 |publisher=山口市・西日本高速道路株式会社}}</ref>。湯田PAの名称が「湯田温泉PA」に変更<ref name="press20200129" />。
* [[2022年]](令和4年)
**3月12日 : 宍粟JCTにて播磨自動車道と接続<ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/hq/r4/0210/ |title=E29播磨自動車道(播磨新宮IC〜宍粟JCT間)は令和4年3月12日(土曜)に開通します - E29中国横断自動車道姫路鳥取線が全線開通します - |date=2022-02-10 |accessdate=2022-02-10 |publisher=西日本高速道路株式会社}}</ref>。
**3月31日:吉和SA上下線のインフォメーションなどの営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.w-holdings.co.jp/news/archives/yosiwa-release202203.html |title=E2A 中国自動車道 吉和SA(上下線)閉店のお知らせ |accessdate=2022-09-01 |publisher=西日本高速道路}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
**1月17日:同日1時より同年3月26日5時まで、リニューアル工事に伴い吹田JCT - 中国池田IC間を終日通行止(予定)<ref>{{PDFlink|[https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/hq/r4/1130/pdfs/01.pdf E2A 中国自動車道(吹田JCT~神戸JCT)のリニューアル工事 令和5年1~4月の交通規制の日程をお知らせします] - 西日本高速道路}}</ref>。
== 路線状況 ==
=== 車線・最高速度 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!rowspan="2" |区間||colspan="3" |[[車線]]||colspan="2" |[[最高速度]]||rowspan="2" |設計速度||rowspan="2" |備考
|-
!上下線||上り線||下り線
!style="width:99px" |[[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]]||左記を除く車両
|-
| 吹田JCT - 中国池田IC||4||2||2||rowspan="4" |80 km/h||rowspan="2" |100 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(法定)||rowspan="2" |100 km/h||※1
|-
| 中国池田IC - 宝塚IC||rowspan="2" |6||rowspan="2" |3||rowspan="2" |3||rowspan="5" |※2
|-
| 宝塚IC - 吉川JCT||rowspan="2" |80 km/h<br />(指定)||rowspan="2" |80 km/h
|-
| 吉川JCT - 呰部BS||rowspan="3" |4||rowspan="3" |2||rowspan="3" |2
|-
| 呰部BS - 新見IC||colspan="2" |60 km/h<br />(指定)||60 km/h
|-
| 新見IC - 広島北JCT||80 km/h||80 km/h<br >(指定)||80 km/h
|-
| 広島北JCT||2||1||1||colspan="2" |50 km/h<br />(指定)||60 km/h||※3
|-
| 広島北JCT - 下関IC||4||2||2||80 km/h||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||※2
|}
* ※1 : 上り線に1箇所[[登坂車線]]あり。
* ※2 : 上下線に数箇所登坂車線あり。
* ※3 : 中国自動車道を連続走行する場合。
* 広島北JCTは上下線ともに1車線ずつに減少し、広島道からの合流で再び2車線に戻る。
* 山口JCTの分岐後、下り線は一旦右車線が絞り込まれて1車線に減少するが、[[山陽自動車道|山陽道]]からの合流で再び2車線に戻る。
* 下関JCTの合流は右からであり、下り線は山陽道宇部下関線が合流した先は、追越車線である。その際、左車線は減少する。
[[ファイル:中国道の速度制限看板.jpg|サムネイル|呰部BS - 新見ICは最高速度が60kmに制限されている]]
中国道はほとんどの区間で80 [[キロメートル毎時|km/h]]に制限される。これは、建設時期が山陽道よりも早く、建設当時の技術的な問題もあり、極力元の地形に沿った形でルート選定がされたため、急カーブや急勾配の坂道が連続することが要因である。中国道は全体を通じ、半径500 [[メートル|m]]未満のカーブが非常に多く、広島県庄原市の東城IC - 庄原ICは中国道で最小半径のR=250 mが連続する場所も見られる。また、北房IC - 新見ICは、1種4級で、かつ半径250 mの急カーブも有し、急勾配が連続するため、最高速度が60 km/hの区間も有る<ref group="注釈">なお、北房IC側の4 kmは、道路改良工事により、最高速度が80 km/hに緩和された。</ref>。
例外は、[[山崎断層|山崎断層帯]]の直上に建設した区間であり、この区間はトンネルも無い。さらに、直線的な区間である<ref name="O_Y_fault_p151">岡田 篤正・八木 浩司 『図説 日本の活断層 ―空撮写真で見る主要活断層帯36ー』 p.151 朝倉書店 2019年2月20日発行 ISBN 978-4-254-16073-4</ref><!--トンネルが無い事は一目瞭然だし、カーブの半径も計測できる物理量で、必要ならば人工衛星の画像から計測できるので良いとして、この「直線的」かどうかは、主観が入るため、この箇所の出典は欠かせません。絶対に除去しないでください。また、この区間に関して、もしも「こんなのは直線的ではなく、劣悪な線形だ」などという出典が有りましたら、是非、それを用いて、両論併記の状態にしてください。-->。ただ、山崎断層帯の直上に建設したため、工事中には断層に伴う破砕帯が次々と現れた上に、断層の破砕帯からは塩類を含んだ地下水が湧出してくるため、道路の安全な通行を保証するためには、頻回な設備の補修が必要とされる区間でもある<ref name="O_Y_fault_p151">岡田 篤正・八木 浩司 『図説 日本の活断層 ―空撮写真で見る主要活断層帯36ー』 p.151 朝倉書店 2019年2月20日発行 ISBN 978-4-254-16073-4</ref>。
<!--筒賀断層区間にあたる戸河内IC - 冠山TN西側までは谷が狭すぎる…?-->
1989年には[[小月インターチェンジ|小月IC]] - [[下関インターチェンジ|下関IC]]間の下り線には、事故防止のために道路上に、そこをタイヤが通過した際の走行音が、リズムを取るように聞こえる舗装が行われた<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 2 |publisher=講談社 }}</ref>。
道路照明灯は吹田JCT - 神戸JCT間に設置されている。
=== サービスエリア・パーキングエリア ===
売店は吉和SAを除く全てのサービスエリア (SA) と、赤松・社・安富・上月・真庭・江の川・本郷・王司の各パーキングエリア (PA) に設置されている。これらの中で24時間営業の売店を有するのは、西宮名塩SA・赤松PA下り線・社PA上り線・加西SA・勝央SA・安佐SA・美東SAのみである。レストランは安佐SA・吉和SA・鹿野SA・美東SAを除く全てのサービスエリアに設置されている。また、[[ガソリンスタンド]]は吉和SA・鹿野SAを除く、全てのサービスエリアと王司PAに設置されている。これらの中で24時間営業のガソリンスタンドを有するのは、西宮名塩SA・加西SA・勝央SA・七塚原SA・安佐SA・美東SAのみである。
山陽道全通後は交通量の減少により、ガソリンスタンドやスナックコーナーの閉鎖、営業時間短縮などの規模縮小が目立つ。特に安佐SA - 美東SA間の途中にある吉和SA・鹿野SAのガソリンスタンドが続けざまに廃止されており、この間は150 km近くにわたってガソリンスタンドが無い。このため、NEXCO西日本は2015年4月20日より1年間、吉和IC・六日市IC周辺の指定ガソリンスタンドで給油するETC利用車に対して、1時間以内の中途出場を認める社会実験を行い<ref>{{Cite press release |和書 |title=『高速道路外ガソリンスタンドサービス社会実験』の開始 ― ETC車限定・中国道 吉和ICおよび六日市IC ― |publisher=西日本高速道路 |date=2015-04-16 |url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/chugoku/h27/0414/ |accessdate=2016-04-11}}</ref>、
翌2016年に更に1年間継続を決め<ref>{{Cite web|和書|date=2016-04-18 |url=https://corp.w-nexco.co.jp/newly/h28/0418a/ |title=高速道路外ガソリンスタンドサービス社会実験(ETC車限定)を昨年度に引き続き継続します |publisher=西日本高速道路 |accessdate=2016-06-25}}</ref>、翌2017年にも更に継続された<ref>{{Cite web|和書|date=2017-04-19 |url=https://corp.w-nexco.co.jp/newly/h29/0419/ |title=高速道路外ガソリンスタンドサービス社会実験(ETC車限定)を昨年度に引き続き継続します |publisher=西日本高速道路 |accessdate=2017-04-23}}</ref>。
一方で、尾道道・松江道全通後の交通量の増加により、それまで無人のPAであった江の川PAに売店が設置された<ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/chugoku/h27/1002/ |title=中国自動車道 江の川PA(上下線)営業店舗のないPAでの新たな取り組み |access-date=2023-01-07 |publisher=西日本高速道路}}</ref>。
=== 主なトンネルと橋 ===
[[File:Takarazuka-higashi tunnel 001.jpg|thumb|right|225px|宝塚東トンネル下り線入口。<br />宝塚西トンネルと併せて渋滞の頻発箇所として知られる。]]
* [[宝塚東・宝塚西トンネル|宝塚東トンネル]](宝塚IC - 西宮名塩SA) : 上り線364 m 下り線362 m
* [[宝塚東・宝塚西トンネル|宝塚西トンネル]](宝塚IC - 西宮名塩SA) : 上り線347 m 下り線244 m
* 青葉台シェルター(宝塚IC - 西宮名塩SA):上り線496 m 下り線533 m
* 有安トンネル(下り線のみ)(吉川IC - ひょうご東条IC):40 m <ref name="t1">[https://corp.w-nexco.co.jp/newly/h25/0611/pdfs/01.pdf 【別紙】トンネル内の道路附属物一斉点検結果(その他構造物)]</ref>
* 加古川橋(滝野社IC - 加西IC)
* 西下野トンネル(揖保川PA - 佐用JCT): 上り線710 m 下り線698 m
* 漆野トンネル(揖保川PA - 佐用JCT): 上り線200 m 下り線184 m
* 金近トンネル(揖保川PA - 佐用JCT):上り線1,063 m 下り線845 m
* [[杉坂トンネル]](上月PA - 作東IC) : 上り線650 m 下り線516 m
* 北房トンネル(北房IC - 大佐SA):上り線473 m 下り線383 m
* 呰部トンネル(北房IC - 大佐SA):上り線140 m 下り線247 m
* 阿口トンネル(上り線のみ)• 三尾トンネル(下り線のみ)(北房IC - 大佐SA):上り線562 m 下り線602 m
* 布瀬トンネル(北房IC - 大佐SA):上り線1,173 m 下り線1,260 m
* 大佐トンネル(北房IC - 大佐SA) : 上り線1,572 m 下り線1,596 m
* 熊谷トンネル(大佐SA - 新見IC):上り線202 m 下り線183 m
* 高尾トンネル(上り線のみ)• 大仁子トンネル(下り線のみ)(大佐SA - 新見IC):上り線1,165 m 下り線266 m
* 新見トンネル(新見IC - 神郷PA):上り線1,300 m 下り線1,165 m
* [[帝釈橋 (中国自動車道)|帝釈橋]](帝釈峡PA - 帝釈BS):上り線284 m 下り線267 m
* 中山トンネル(帝釈BS - 本村PA):上り線956 m 下り線934 m
* 中原トンネル(高田IC - 千代田IC):上り線1,019 m 下り線1,025 m
* [[牛頭山トンネル]](広島北JCT - 加計スマートIC) : 上り線3,573 m 下り線3,558 m(中国道最長トンネル)
* [[平トンネル]](広島北JCT - 加計スマートIC) : 上り線1,055 m 下り線1,042 m
* [[船場トンネル]](広島北JCT - 加計スマートIC) : 上り線1,001 m 下り線987 m
* [[澄合トンネル|三谷トンネル(上り線のみ)・澄合トンネル]](広島北JCT - 加計スマートIC) : 三谷:上り線75 m 澄合:上り線802 m 下り線704 m
*: 以前、上り線は加計側の三谷トンネルと、広島北側の澄合トンネルとが[[覆道]]によって繋がれていた。しかし、覆道が撤去され分離された。
* [[加計東トンネル]](広島北JCT - 加計スマートIC) : 上り線3,277 m 下り線3,365 m
* [[加計西トンネル]](加計スマートIC - 戸河内IC) : 上り線2,691 m 下り線2,672 m
* 戸河内トンネル(戸河内IC - 筒賀PA):上り線361 m 下り線385 m
* 筒賀トンネル(筒賀IC - 吉和IC):上り線410 m 下り線414 m
* 萩原トンネル(下り線のみ)(筒賀PA - 吉和IC):262 m
* 椿山トンネル(筒賀PA - 吉和IC):上り線976 m 下り線381 m
* 小原トンネル(下り線のみ)(筒賀PA - 吉和IC):391 m
* 大井トンネル(筒賀PA - 吉和IC):上り線91 m 下り線150 m
* 桜ケ瀬トンネル(下り線のみ)(筒賀PA - 吉和IC):169 m
* 布原トンネル(筒賀PA - 吉和IC):上り線280 m 下り線202 m
* 馬越トンネル(筒賀PA - 吉和IC):上り線472 m 下り線475 m
* [[境トンネル (広島県)|境トンネル]](筒賀PA - 吉和IC) : 上り線459 m 下り線464 m
* [[冠山トンネル]](吉和SA - 深谷PA) : 上り線2,140 m 下り線2,198 m
*: トンネル手前で中国自動車道の最高地点([[高さ|海抜]]721 m)を通過する。
* 鬼ヶ城山トンネル(吉和SA - 深谷PA):上り線211 m 下り線206 m
* 田野原トンネル(深谷PA - 六日市IC):上り線303 m 下り線320 m
* 藏木トンネル(深谷PA - 六日市IC):上り線437 m 下り線462 m
* 六日市トンネル(六日市IC - 朝倉PA):上り線346 m 下り線380 m
* 愛宕トンネル(六日市IC - 朝倉PA):上り線699 m 下り線657 m
* 蓼野トンネル(朝倉PA - 鹿野IC):上り線1,285 m 下り線1,275 m
* [[米山トンネル (中国自動車道)|米山トンネル]](朝倉PA - 鹿野IC) : 上り線3,154 m 下り線3,260 m
* 巣山トンネル(鹿野SA - 徳地IC):上り線304 m 下り線363 m
* 高瀬トンネル(鹿野SA - 徳地IC):上り線661 m 下り線304 m
* 仏坂トンネル(小郡JCT - 美東SA):上り線219 m 下り線208 m
* 根越トンネル(美祢IC - 伊佐PA):390 m
牛頭山・加計東/西トンネルは、広島北JCT - 戸河内ICの区間に存在する。いずれも2 kmを超える長大トンネルである上に、その前後にも1 km前後のトンネルが連続するため難所とされる。ちなみに、この区間の道程の約17.2 kmのうち7割を超える12.4 kmがトンネルである。また、開通からしばらくの間は、これらのトンネルは[[暫定2車線]]で供用されていた。
==== トンネルの数 ====
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!区間!!上り線!!下り線
|-
|吹田JCT - 宝塚IC||0||0
|-
|宝塚IC - 西宮名塩SA||3||3
|-
|西宮名塩SA - 吉川IC||0||0
|-
|吉川IC - ひょうご東条IC||0||1
|-
|ひょうご東条IC - 揖保川PA||0||0
|-
|揖保川PA - 佐用JCT||3||3
|-
|佐用JCT - 上月PA||0||0
|-
|上月PA - 作東IC||1||1
|-
|作東IC - 北房IC||0||0
|-
|北房IC - 大佐SA||5||5
|-
|大佐SA - 新見IC||2||2
|-
|新見IC - 神郷PA||1||1
|-
|神郷PA - 帝釈峡PA||0||0
|-
|帝釈峡PA - 本村PA||1||1
|-
|本村PA - 高田IC||0||0
|-
|高田IC - 本郷PA||0||1
|-
|本郷PA - 千代田IC||1||0
|-
|千代田IC - 広島北JCT||0||0
|-
|広島北JCT - 加計SIC||6||5
|-
|加計SIC - 戸河内IC||1||1
|-
|戸河内IC - 筒賀PA||1||1
|-
|筒賀PA - 吉和IC||6||9
|-
|吉和IC - 吉和SA||0||0
|-
|吉和SA - 深谷PA||2||2
|-
|深谷PA - 六日市IC||2||2
|-
|六日市IC - 朝倉PA||2||2
|-
|朝倉PA - 鹿野IC||2||2
|-
|鹿野IC - 鹿野SA||0||0
|-
|鹿野SA - 徳地IC||2||2
|-
|徳地IC - 小郡IC||0||0
|-
|小郡IC - 美東SA||1||1
|-
|美東SA - 美祢IC||0||0
|-
|美祢IC - 伊佐PA||1||1
|-
|伊佐PA - 下関IC||0||0
|-
!合計!!41!!44
|}
=== 道路管理者 ===
2005年10月に行われた道路公団民営化後、中国自動車道は[[西日本高速道路|NEXCO西日本]]が全区間を管轄している。
* [[西日本高速道路関西支社|関西支社]]
** 神戸管理事務所 : 吹田JCT - 吉川IC
** 福崎高速道路事務所 : 吉川IC - 佐用IC
* [[西日本高速道路中国支社|中国支社]]
** 津山高速道路事務所 : 佐用IC - 新見IC
** 三次高速道路事務所 : 新見IC - 高田IC
** 千代田高速道路事務所 : 高田IC - 六日市IC
** 山口高速道路事務所 : 六日市IC - 下関IC
==== ハイウェイラジオ ====
* 中国豊中(中国吹田IC - 中国豊中IC)
* 西宮(宝塚IC - 西宮北IC)
* 加西(加西IC - 福崎IC)
* 勝央(美作IC - 勝間田BS)
* 新見(大佐SA - 熊谷BS)
* 高田(美土里BS - 本郷PA)
* 吉和(吉和SA - 冠山トンネル)
* 小郡(真名BS - 美祢IC)
* 王司(王司PA前後)
=== 交通量 ===
'''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 区間!!平成11(1999)年度!!平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度
!令和3(2021)年度
|-
| 吹田JCT - 中国吹田IC || {{0}}33,771 || {{0}}56,265 || {{0}}65,007 || {{0}}65,654
|37,228
|-
| 中国吹田IC - 中国豊中IC || {{0}}65,036 || {{0}}67,039 || {{0}}76,425 || {{0}}75,575
|45,679
|-
| 中国豊中IC - 中国池田IC || {{0}}54,583 || {{0}}56,422 || {{0}}66,308 || {{0}}63,986
|34,945
|-
| 中国池田IC - 宝塚IC || {{0}}88,790|| {{0}}90,913 || 105,478 || {{0}}96,007
|64,642
|-
| 宝塚IC - 西宮山口JCT || rowspan="2" | 104,214|| 105,048 || 124,014 || 109,285
|77,225
|-
| 西宮山口JCT - 西宮北IC || {{0}}91,905 || 101,217 || {{0}}95,809
|64,408
|-
| 西宮北IC - 神戸JCT || {{0}}84,854|| {{0}}78,692 || {{0}}91,488 || {{0}}87,183
|57,852
|-
| 神戸JCT - 神戸三田IC || {{0}}46,104 || {{0}}46,118 || {{0}}48,850 || {{0}}44,064
|41,867
|-
| 神戸三田IC - 吉川JCT || {{0}}43,933 || {{0}}45,048 || {{0}}49,604 || {{0}}45,391
|41,073
|-
| 吉川JCT - 吉川IC || {{0}}30,040 || {{0}}31,026 || {{0}}32,082 || {{0}}31,270
|28,885
|-
| 吉川IC - ひょうご東条IC || {{0}}26,783 || {{0}}27,402 || {{0}}28,006 || {{0}}27,637
|25,274
|-
| ひょうご東条IC - 滝野社IC || {{0}}24,483 || {{0}}24,297 || {{0}}24,559 || {{0}}24,881
|22,412
|-
| 滝野社IC - 加西IC || {{0}}19,170 || {{0}}19,292 || {{0}}19,638 || {{0}}20,503
|18,351
|-
| 加西IC - 福崎IC || {{0}}18,032 || {{0}}18,117 || {{0}}18,383 || {{0}}19,546
|17,671
|-
| 福崎IC - 夢前SIC || rowspan="2" | {{0}}14,512 || rowspan="2" | {{0}}14,187 || rowspan="2" | {{0}}15,298 || {{0}}16,688
|14,618
|-
| 夢前SIC - 山崎IC || {{0}}16,416
|13,918
|-
| 山崎IC - 佐用JCT || rowspan="2" | {{0}}12,720 || {{0}}12,624 || {{0}}13,789 || {{0}}14,884
|12,223
|-
| 佐用JCT - 佐用IC || {{0}}12,624 || {{0}}11,970 || {{0}}12,816
|10,039
|-
| 佐用IC - 作東IC || rowspan="2" | {{0}}10,416 || {{0}}10,971 || {{0}}10,895 || {{0}}11,643
|9,316
|-
| 作東IC - 美作IC || {{0}}11,076 || {{0}}10,922 || {{0}}11,751
|9,351
|-
| 美作IC - 勝央JCT || rowspan="2" | {{00}}9,658 || rowspan="2" | {{0}}10,423 || rowspan="2" | {{0}}10,355 || rowspan="2" | {{0}}11,040
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|-
| 勝央JCT - 津山IC
|8,878
|-
| 津山IC - 院庄IC || {{00}}9,995 || {{0}}10,423 || {{0}}11,295 || {{0}}11,745
|9,592
|-
| 院庄IC - 落合JCT || {{0}}10,267 || {{0}}11,103 || {{0}}12,678 || {{0}}12,876
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|-
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|-
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|-
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|-
| 北房IC - 大佐SASIC || rowspan="2" | {{00}}4,829 || {{00}}5,996 || {{00}}5,267 || {{00}}5,283
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|-
| 大佐SASIC - 新見IC || {{00}}5,929 || {{00}}5,042 || {{00}}5,096
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|-
| 新見IC - 東城IC || {{00}}3,967 || {{00}}4,805 || {{00}}3,637 || {{00}}4,042
|4,356
|-
| 東城IC - 庄原IC || {{00}}4,411|| {{00}}5,285 || {{00}}4,183 || {{00}}4,551
|4,800
|-
| 庄原IC - 三次東IC/JCT || rowspan="2" | {{00}}5,574 || rowspan="2" | {{00}}6,666 || rowspan="2" | {{00}}5,502 || rowspan="2" | {{00}}5,655
| rowspan="2" | 5,747
|-
| 三次東IC/JCT - 三次IC
|-
| 三次IC - 高田IC || {{00}}8,729 || {{0}}10,235 || {{00}}9,090 || {{0}}10,793
|9,925
|-
| 高田IC - 千代田IC || {{00}}9,516 || {{0}}11,169 || {{0}}10,112 || {{0}}11,617
|10,711
|-
| 千代田IC - 千代田JCT || {{0}}12,077 || {{0}}13,887 || {{0}}13,296 || {{0}}14,459
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|-
| 千代田JCT - 広島北JCT || {{0}}14,397|| {{0}}16,597 || {{0}}17,144 || {{0}}16,911
|14,960
|-
| 広島北JCT - 加計SIC || rowspan="2" | {{00}}4,718 || {{0}}13,737 || {{00}}5,608 || {{00}}6,130
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|-
| 加計SIC - 戸河内IC || {{0}}13,341 || {{00}}4,666 || {{00}}5,238
|5,086
|-
| 戸河内IC - 吉和IC || {{00}}2,405 || {{0}}11,361 || {{00}}2,466 || {{00}}3,346
|3,579
|-
| 吉和IC - 六日市IC || {{00}}2,101 || {{0}}11,254 || {{00}}2,299 || {{00}}3,161
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|-
| 六日市IC - 鹿野IC || {{00}}1,940 || {{0}}11,136 || {{00}}2,183 || {{00}}2,989
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|-
| 鹿野IC - 徳地IC || {{00}}2,047 || {{0}}11,044 || {{00}}2,234 || {{00}}3,054
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| 徳地IC - 山口IC || {{00}}1,912 || {{0}}10,670 || {{00}}2,087 || {{00}}2,945
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|-
| 山口IC - 湯田温泉PASIC || rowspan="2" | {{00}}2,734 || rowspan="2" | {{0}}10,670 || rowspan="2" | {{00}}3,286 || rowspan="2" | {{00}}4,125
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| 湯田温泉PASIC - 山口JCT
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|-
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| 美祢東JCT - 美祢IC|| {{0}}22,371 || {{0}}25,092
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|-
| 美祢IC - 美祢西IC || {{0}}22,025|| {{0}}20,346 || {{0}}21,757 || {{0}}23,967
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|-
| 美祢西IC - 下関JCT || rowspan="2" | {{0}}22,796 || {{0}}20,522 || {{0}}21,934 || {{0}}24,284
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|-
| 小月IC - 下関IC || {{0}}26,695 || {{0}}28,093 || {{0}}29,719 || {{0}}32,400
|30,489
|}
<small>(出典:「[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/1904/00002742/tyousahyou.pdf 道路交通情勢調査票(道路交通センサス)平成17年度]」([[大阪府]]ホームページ)・「[https://web.pref.hyogo.lg.jp/ks08/wd10_000000017.html 道路に関するデータ 道路・街路交通情勢調査(道路交通センサス)平成11年度調査結果]」([[兵庫県]]ホームページ)・「[https://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/doyroj/sensasu/06_danmen/danmen1.htm 中国地方の平成17年度道路交通センサス断面交通量]」([[中国地方整備局]]ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/r3/ 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small>
* 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf |title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について |date=2020-10-14 |accessdate=2021-04-04 |publisher=国土交通省 道路局 |format=PDF}}</ref>。
[[File:JP Chugoku Expressway.JPG|thumb|2006年10月8日に撮影した中国自動車道上り線、六日市IC - 吉和IC。交通量が少ない様子が見て取れる。]]
[[File:Chugoku-expwy-curve1.jpg|thumb|荷卸峠へ向かう中国自動車道(山口県山口市)]]
吹田JCT - 神戸JCT間は中国道・山陽道双方の交通が人口の多い阪神地区において、集中するために常に交通量が多く、中国池田IC - 西宮北IC間では、日交通量10万台以上と極めて混雑する状態で、宝塚東・宝塚西トンネルを先頭にした渋滞が常態化していたが、新名神高速の高槻JCT - 神戸JCT間が開業したことにより、状況は変わりつつある。
一方、山陽道と並行する神戸JCT - 山口JCT間では西に向かうにつれ交通量が減少する。特に少ない戸河内IC - 山口IC間の日交通量は3000台前後で、山陽道(本線)の最少交通量区間である山口南IC - 山口JCT間でも22,634台の日交通量があるのとは対照的である。これは、[[1997年]]12月10日に山陽道が全線開通したことで、これまでこの区間<!--といいつつ、この時点では神戸J - 福崎の気がするが。--->を中国道経由で通過していた[[高速バス]]や[[貨物自動車]]の大半が山陽道へシフトし、その後は通常の昼間に[[大型自動車|大型車]]が通過することは少なくなった。結果、交通量が増加する大型連休、お盆、年末年始において、山陽道では渋滞が多く発生するのに対し、並行する中国道の神戸JCT - 山口JCTの区間ではほとんど発生しない。このため、NEXCO西日本ではキャンペーンなどで交通量の多い時期に山陽道を通過利用する車に対し中国道経由への迂回を呼びかけている<ref>{{Cite press release |和書 |title=NEXCO西日本中国支社管内のお盆期間における高速道路の渋滞予測 ― 8月11日と12日に最大25km の渋滞発生!渋滞を避けた分散利用を ― |publisher=西日本高速道路 |date=2012-07-13 |url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/chugoku/h24/0713/ |accessdate=2018-04-14}}</ref>。
なお、[[2005年]]9月7日に[[平成17年台風第14号|台風14号]]による路盤崩壊により山陽道の[[岩国インターチェンジ|岩国IC]] - [[玖珂インターチェンジ|玖珂IC]]が不通に陥った。山陽道が復旧した12月1日までは通過交通を中心に、一時的に中国自動車道の広島北JCT - 山口JCTの交通量が増加し、この通行止め期間中の2005年9月から11月にかけて実施された平成17年(2005年)度道路交通センサスの交通量調査では、日平均1万台程度の交通量があった。結果、2010年の交通センサスでは2005年に比べて8割程度交通量が減少した区間も見られる。
== 地理 ==
=== 通過する自治体 ===
* [[大阪府]]
** [[吹田市]] - [[豊中市]] - [[池田市]]
* [[兵庫県]]
** [[川西市]] - [[宝塚市]] - [[伊丹市]] - 宝塚市 - [[西宮市]] - [[神戸市]][[北区 (神戸市)|北区]] - [[三木市]] - [[加東市]] - [[加西市]] - 加東市 - 加西市 - [[神崎郡]][[福崎町]] - [[姫路市]] - [[宍粟市]] - [[佐用郡]][[佐用町]]
* [[岡山県]]
** [[美作市]] - [[勝田郡]][[勝央町]] - [[津山市]] - [[真庭市]] - [[新見市]]
* [[広島県]]
** [[庄原市]] - [[三次市]] - [[安芸高田市]] - [[山県郡]][[北広島町]] - [[広島市]][[安佐北区]] - 山県郡[[安芸太田町]] - [[廿日市市]]
* [[山口県]]
** [[岩国市]]
* [[島根県]]
** [[鹿足郡]][[吉賀町]]
* 山口県
** [[周南市]] - [[山口市]] - [[宇部市]] - [[美祢市]] - [[山陽小野田市]] - 美祢市 - [[下関市]]
=== 接続する高速道路 ===
* {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]]([[吹田ジャンクション|吹田JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E26}} [[近畿自動車道]](吹田JCTで接続)
* [[File:Hanshin Urban Expwy Sign 0007.svg|26px]] [[阪神高速7号北神戸線]]([[西宮山口ジャンクション|西宮山口JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山陽自動車道]]([[神戸ジャンクション|神戸JCT]]で接続)
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* {{Ja Exp Route Sign|E74}} [[広島自動車道]]([[広島北ジャンクション|広島北JCT]]で接続)
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* {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山陽自動車道]]([[下関ジャンクション|下関JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E9}} [[山陰自動車道]]([[小月インターチェンジ|小月IC]]で接続予定)
* {{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[関門橋]]([[下関インターチェンジ|下関IC]]で直結)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[近畿地方の道路一覧]]・[[中国地方の道路一覧]]
* [[大阪高速鉄道大阪モノレール線]] - [[柴原阪大前駅]]と[[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]の間で並走する。
* [[北大阪急行電鉄]] - 臨時路線の会場線([[日本万国博覧会|大阪万博]]の会場アクセス路線)は、中国自動車道上り線の建設予定地に作られた。そのため中国自動車道開通当初は現在の下り線を暫定2車線で供用していた。
* [[姫新線]]・[[芸備線]]・[[山口線]] - 中国自動車道と並行する鉄道路線(在来線)。
* [[アジアハイウェイ1号線]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Chugoku Expressway}}
* [https://www.jehdra.go.jp/ 独立行政法人 日本高速道路保有・債務返済機構]
* [https://www.w-nexco.co.jp/ 西日本高速道路株式会社]
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17,001 |
リニアモーター
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リニアモーター(英: linear motor)とは、軸のない電気モーター(電動機)のこと。一般的なモーターが回転運動をするのに対し、リニアモーターは基本的に直線運動をする。
応用例として磁気浮上式リニアモーターカーが知られるため、浮上技術のことと誤解されやすいが、あくまでも駆動装置である。浮上の有無とは関係なく、また浮上するための装置でもない。
リニアとはモーターが発する運動の方向に由来しており、よく知られた回転式 (英: rotating) のモーターとは異なり、このモーターは直線的な(linear)方向に動力を発する。
ここでいう「直線」とは、端の無い環状ではない、というような意味あいであり、ガイドに沿って曲げることもできる。例えば、扇形に並べて、普通のモーターより圧倒的な薄さで円弧運動を行わせることもでき、ハードディスクのヘッドなどはこの形で使用している。これは水平方向(ステータ⇔ロータに垂直方向)の例だが、垂直方向(ステータ⇔ロータ方向)に曲げることもできる。
原理的には、一周して円環形にして回転運動をさせることもできる。したがって、回転モーターとの本質的な違いは、回転運動か直線運動かではなく、機械的な軸がありトルクを利用するかどうかであるといえる。
リニアモーターには、動作原理により、リニア誘導モーター(LIM)、リニア同期モーター(LSM)、リニア直流モーター(LDM)、リニアステッピングモーターがある。
ローレンツ力を用いた電磁式リニアモーターだけでなく、超音波モーターと同じ作動原理であるピエゾ効果を応用した圧電素子で駆動するリニアモーターも存在する。
同期電動機と同様の原理で作動する。他のリニアモーターよりも効率が高い。二次側も励磁する必要がある。N極とS極を切り替えるタイミングを車上の磁石の極と同期させる必要がある。
誘導電動機と同様の原理で作動する。
アクチュエータ等に使用される。 LDMはその構造から,コイル可動形と磁石可動形に細分される。また整流子の有無により整流子式と無整流子式に分類される。整流子式は軌道に交互に+極と-極が配置されており、整流子がその上を通過すると車上の界磁のN極とS極が切り替わる。一方、ブラシレスモーターに相当する無整流子式リニア直流モーターはリニア同期モーターとほぼ同一の構造である。リニア直流モーターは軌道、車上共に界磁を必要とする。
リニア直流モーターの一種で界磁を切り替える為にサイリスタを使用する。二次側が永久磁石ではない場合には励磁する必要がある。効率は比較的高い。
一部の光学機器等の精密機器等に使用される。従来、ズームレンズのオートフォーカスでは鏡胴に形成された円筒カムによってレンズを複雑に前後させる事によって拡大、縮小、焦点をあわせていたが、各レンズをリニアステッピングモーターによって独立して前後に移動させる事により従来の機構が不要になった。
このモーターは現在アクチュエータ等の用途に向けて開発が進められている。リニアステッピングモーターと類似の構造で界磁に希土類磁石を必要としない。高精度の位置決めが可能である。またアクチュエータ以外の用途としてベネズエラのアンデス大学でリニアリラクタンスモーターを推進に使用するTELMAGVが開発中である
これもリニアモーターの一種で特定の周波数の振動を印加する事によってアクチュエータがその共振周波数に応じた位置に移動する。印加する周波数を変えると位置も変わる。
静電気によって作動する。従来のローレンツ力による電磁式のリニアモーターよりも効率が低く高電圧を必要とする為、大半は実験的な段階に留まる。静電リニアアクチュエータとしても開発中である。
ピエゾ素子によって駆動されるリニアモーター。効率は低いが高精度の制御が可能である。精密機械等に使用される。
界磁(電磁石)が車両にあるリニアモーター。車両に電力を供給する必要があるが、リニア誘導モーターの場合には軌道にコイルを配置する必要が無いので、建設費を地上一次式よりも廉価に抑えられる。1台の磁石で浮上と案内、推進を兼ねる場合もある。励磁時に車体付近に磁性体があると吸い寄せられ、事故につながる可能性がある。
地上(軌道上)に並べられた界磁(電磁石)によって推進する。車上の界磁(磁石)が永久磁石や超伝導磁石の場合には、車体に電力を給電しなくても(吸引式磁気浮上の場合は浮上、案内用の電磁石に電力を供給する必要があるが)推進できる。高速化に適している反面、軌道にコイルを配置しなければならないので、建設費は高くなる。推進用の界磁が軌道上にあるので、車体を軽量化できる。加速にリニアモーターが使用されているローラーコースターで使用されるのは、大半がこの形式である。励磁時に軌道付近に磁性体があると吸い寄せられ、事故につながる可能性がある。
基本的な原理は回転型のモーターと同一で、誘導型では磁界中に置かれた導体に電流を流したときに生じるローレンツ力を利用しており、同期型では磁極同士の吸引・反発力を利用している。
もっとも原始的な構造は、回転型のモーターを直線に切り開いた形を想像すると理解しやすい。回転磁界を起こす代わりに直進させる磁界変化を起こしている。
同期型のリニアモーターの原理を簡略的に表すと、以下のようなものである。
リニアモーターカーでの応用例では、以下のようなイメージになる。
車体本体(図例では個々の中段の S N S)の磁極は変わらず、推進コイル(ガイドレール側)の磁極を次々と変えていく。この変化させる時間間隔によって速度も調節できる。
リニアモーターカーに使われていることでよく知られている。
他にも、精密さを求められる工作機械や半導体製造装置、宇宙船、加速器、サスペンション、自動車用電動カーテン、髭剃り機など、応用範囲は幅広い。カメラのオートフォーカス(リニアステッピングモータ)にも使用される。航空母艦のカタパルトとして実験された事もある。一部の回転寿司店では、注文した商品を客の前まで運ぶのに、新幹線の車両などを模ったリニアモーター式の運搬器具を用いている。
近年は、半導体製造技術の進歩により、MEMSでアクチュエータとしてのリニアモータの開発も進みつつある。
レールガンがリニアモーターの原理を応用していると誤解される場合があるが、これは電流が磁界から受けるローレンツ力を用いた全く別の原理に基づくものである。リニアモーターと原理的に近いのはコイルガンである。 コイルガンとは別にリニアモーターそのものを用いて物体を発射する兵器は「リニアガン、リニアモーターガン」と呼ばれることが多い。 兵器でなければ(主に宇宙技術が多い)、「マスドライバー」と呼ばれることもある。
以下の鉄道路線・装置でこの方式を採用している。
交通機関用は主にリニア同期モーター(LSM)とリニア誘導モーター(LIM)の2種類であり、山梨で実験中の超電導リニアやドイツのトランスラピッドは地上一次式LSMである。ミニ地下鉄やリニアモーターカーには車上一次式LIMが使用されているので地上側にコイルを配置する必要がないので建設費が安くなる。 地上一次式のLSMは車両側の推進用の集電装置が不要である(ただし、車内で使うサービス電源が必要な場合は集電装置、もしくは自家発電装置が必要がある)。
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"text": "アクチュエータ等に使用される。 LDMはその構造から,コイル可動形と磁石可動形に細分される。また整流子の有無により整流子式と無整流子式に分類される。整流子式は軌道に交互に+極と-極が配置されており、整流子がその上を通過すると車上の界磁のN極とS極が切り替わる。一方、ブラシレスモーターに相当する無整流子式リニア直流モーターはリニア同期モーターとほぼ同一の構造である。リニア直流モーターは軌道、車上共に界磁を必要とする。",
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リニアモーターとは、軸のない電気モーター(電動機)のこと。一般的なモーターが回転運動をするのに対し、リニアモーターは基本的に直線運動をする。 応用例として磁気浮上式リニアモーターカーが知られるため、浮上技術のことと誤解されやすいが、あくまでも駆動装置である。浮上の有無とは関係なく、また浮上するための装置でもない。
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{{出典の明記|date=2023-3}}
[[ファイル:Linear Motor of Toei Ōedo Line.jpg|thumb|right|250px|東京都交通局大江戸線のリニアモーター]]
'''リニアモーター'''({{lang-en-short|linear motor}})とは、[[回転軸|軸]]のない[[電動機|電気モーター(電動機)]]のこと。一般的なモーターが[[回転運動]]をするのに対し、リニアモーターは基本的に[[直線]]運動をする。
応用例として[[磁気浮上式鉄道|磁気浮上式]][[リニアモーターカー]]が知られるため、浮上技術のことと誤解されやすいが、あくまでも駆動装置である。浮上の有無とは関係なく、また浮上するための装置でもない。
== リニアの意味 ==
<!--「リニア」とは「連続した」という意味であり--><!-- 辞書によれば「直線のような、線から成る」とあります(ジーニアス英和辞典第3版) --><!--連続なら通常はcontinuousとか。linearが連続なら普通のモーターは不連続?-->
リニアとはモーターが発する運動の方向に由来しており、よく知られた回転式 ({{lang-en-short|rotating}}) のモーターとは異なり、このモーターは直線的な({{lang|en|linear}})方向に動力を発する。
ここでいう「直線」とは、端の無い環状ではない、というような意味あいであり、ガイドに沿って曲げることもできる。例えば、扇形に並べて、普通のモーターより圧倒的な薄さで円弧運動を行わせることもでき、[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]の[[ヘッド]]などはこの形で使用している。これは水平方向([[固定子|ステータ]]⇔[[回転子|ロータ]]に垂直方向)の例だが、垂直方向(ステータ⇔ロータ方向)に曲げることもできる。
原理的には、一周して円環形にして回転運動をさせることもできる。したがって、回転モーターとの本質的な違いは、回転運動か直線運動かではなく、[[機械]]的な[[軸 (機械要素)|軸]]があり[[トルク]]を利用するかどうかであるといえる。
== 特徴 ==
=== 回転式モーターに対する利点 ===
* [[軸受]]や[[減速機]]が無く駆動系を小さくできるので、 回転式モーターを置くだけの空間がない場合に使用できる。
* 回転する[[車輪]]([[輪軸 (鉄道車両)|輪軸]])を伴わない非接触走行の場合にも適用できる。
=== 回転式モーターに対する欠点 ===
* 損失が多く[[消費電力]]が増える。
* [[地上一次式]]の場合、動かそうとする対象が[[界磁]]の付近に無い部分でも[[励磁]]するので[[出力]]を上げると損失も増える。
* 減速機が無いため、[[制動]]に必要なブレーキ力が大きくなる。
== 種類 ==
[[#top|リニアモーター]]には、動作原理により、リニア[[誘導電動機|誘導モーター]](LIM<ref>{{lang-en-short|linear induction motor}}</ref>)、リニア[[同期電動機|同期モーター]](LSM<ref>{{lang-en-short|linear synchronous motor}}</ref>)、リニア[[直流モーター]](LDM<ref>{{lang-en-short|linear direct motor}}</ref>)、リニア[[ステッピングモーター]]がある。
[[ローレンツ力]]を用いた電磁式リニアモーターだけでなく、[[超音波モーター]]と同じ作動原理である[[ピエゾ効果]]を応用した[[圧電素子]]で駆動するリニアモーターも存在する。
=== リニア同期モーター ===
同期電動機と同様の原理で作動する。他のリニアモーターよりも効率が高い。二次側も励磁する必要がある。N極とS極を切り替えるタイミングを車上の磁石の極と同期させる必要がある。
=== リニア誘導モーター ===
[[誘導電動機]]と同様の原理で作動する。
=== リニア直流モーター ===
[[アクチュエータ]]等に使用される<ref>[http://www.eml.ee.tcu.ac.jp/LM/cyokuryuu.htm リニア直流モーター]</ref>。
LDMはその構造から,コイル可動形<ref>{{lang-en-short|moving coil type LDM}}</ref>と磁石可動形に細分される。また[[整流子]]の有無により整流子式と無整流子式に分類される。整流子式は軌道に交互に+極と-極が配置されており、整流子がその上を通過すると車上の界磁のN極とS極が切り替わる<ref>過去に[[有井製作所]]から玩具として販売された例がある。</ref>。一方、[[ブラシレスモータ|ブラシレスモーター]]に相当する無整流子式リニア直流モーターはリニア同期モーターとほぼ同一の構造である。リニア直流モーターは軌道、車上共に界磁を必要とする<ref>[http://www.geocities.jp/toyota_jyouhou/toyota4.html リニア直流モーター]</ref>。
=== リニアサイリスタモーター ===
リニア直流モーターの一種で界磁を切り替える為に[[サイリスタ]]を使用する。二次側が永久磁石ではない場合には励磁する必要がある。効率は比較的高い<ref>[http://www.j-tokkyo.com/1994/B60L/JP06121411.shtml 直流リニアモーターの励磁制御方法]</ref>。
=== リニアステッピングモーター ===
一部の[[光学機器]]等の精密機器等に使用される<ref>[http://www.technohands.co.jp/products/linear-stepping-motor.html テクノハンズ]</ref>。従来、[[ズームレンズ]]の[[オートフォーカス]]では鏡胴に形成された円筒カムによってレンズを複雑に前後させる事によって拡大、縮小、焦点をあわせていたが、各レンズをリニアステッピングモーターによって独立して前後に移動させる事により従来の機構が不要になった。
=== リニアリラクタンスモーター ===
このモーターは現在アクチュエータ等の用途に向けて開発が進められている。リニアステッピングモーターと類似の構造で界磁に[[希土類]]磁石を必要としない。高精度の位置決めが可能である<ref>{{PDFlink|[http://158.132.178.85/norbert/Papers/C024.pdf 汎用の三相モーター制御装置の為の集積位置センサを備えた低コストリニアスイッチトリラクタンスモーター]}}</ref>。また[[アクチュエータ]]以外の用途として[[ベネズエラ]]の[[:en:University of the Andes (Venezuela)|アンデス大学]]で[[リラクタンスモータ|リニアリラクタンスモーター]]を推進に使用する[[:en:TELMAGV|TELMAGV]]が開発中である
=== リニア共振アクチュエータ ===
これもリニアモーターの一種で特定の周波数の振動を印加する事によってアクチュエータがその共振周波数に応じた位置に移動する。印加する周波数を変えると位置も変わる<ref>[http://www.fem.info.gifu-u.ac.jp/contents/brush.html モーター駆動形リニア共振アクチュエータの振動解析]</ref>。
=== リニア静電モーター ===
[[静電気]]によって作動する。従来の[[ローレンツ力]]による電磁式のリニアモーターよりも効率が低く高電圧を必要とする為、大半は実験的な段階に留まる<ref>特願平6-306150</ref><ref>[https://www.aml.t.u-tokyo.ac.jp/research/es_motor/demed_j.html 交流駆動両電極形静電モーター]</ref>。静電リニアアクチュエータとしても開発中である。
=== リニア圧電モーター ===
ピエゾ素子によって駆動されるリニアモーター。効率は低いが高精度の制御が可能である。精密機械等に使用される<ref>[https://www.aml.t.u-tokyo.ac.jp/research/sawmotor/sawmotor_j.html 弾性表面波リニアモーター] - 東京大学 先端メカトロニクス研究室</ref>。
=== 界磁(電磁石)の配置による分類 ===
==== 車上一次式リニアモーター ====
界磁(電磁石)が車両にあるリニアモーター。車両に電力を供給する必要があるが、リニア誘導モーターの場合には軌道にコイルを配置する必要が無いので、建設費を地上一次式よりも廉価に抑えられる。1台の磁石で浮上と案内、推進を兼ねる場合もある。励磁時に車体付近に磁性体があると吸い寄せられ、事故につながる可能性がある。
==== 地上(軌道)一次式リニアモーター ====
地上(軌道上)に並べられた界磁(電磁石)によって推進する。車上の界磁(磁石)が永久磁石や超伝導磁石の場合には、車体に電力を給電しなくても(吸引式磁気浮上の場合は浮上、案内用の電磁石に電力を供給する必要があるが)推進できる。高速化に適している反面、軌道にコイルを配置しなければならないので、建設費は高くなる。推進用の界磁が軌道上にあるので、車体を軽量化できる。加速にリニアモーターが使用されている[[ローラーコースター]]で使用されるのは、大半がこの形式である。励磁時に軌道付近に磁性体があると吸い寄せられ、事故につながる可能性がある。
== 原理 ==
基本的な原理は回転型のモーターと同一で、誘導型では磁界中に置かれた導体に電流を流したときに生じる[[ローレンツ力]]を利用しており、同期型では磁極同士の吸引・反発力を利用している。
もっとも原始的な構造は、回転型のモーターを直線に切り開いた形を想像すると理解しやすい。回転磁界を起こす代わりに直進させる磁界変化を起こしている。
同期型のリニアモーターの原理を簡略的に表すと、以下のようなものである。
*静止状態では、直線的に配置された固定電磁石と可動する電磁石は逆の極(たとえばNとS)。
[[ファイル:Linearmotor1.PNG]]
*動かしたい方向の、直線的に配置された固定電磁石をSにする。すると、可動電磁石は、その方向に動き出す。(動かしたい方向と反対側の固定電磁石をNにすると、より強い力で駆動される。)
[[ファイル:Linearmotor2.PNG]]
*固定電磁石の磁極変化を繰り返していくと、可動電磁石は、前方に引き寄せられつづける。
[[ファイル:Linearmotor3.PNG]]
[[リニアモーターカー]]での応用例では、以下のようなイメージになる。
車体本体(図例では個々の中段の S N S)の磁極は変わらず、推進コイル(ガイドレール側)の磁極を次々と変えていく。この変化させる時間間隔によって速度も調節できる。
== 用途 ==
[[リニアモーターカー]]に使われていることでよく知られている。
他にも、精密さを求められる[[工作機械]]や[[半導体製造装置]]、[[宇宙船]]、[[加速器]]、[[サスペンション]]、[[自動車]]用電動[[カーテン]]、[[髭剃り機]]など、応用範囲は幅広い。[[カメラ]]の[[オートフォーカス]]([[リニアステッピングモータ]])にも使用される。[[航空母艦]]の[[カタパルト]]として実験された事もある。一部の[[回転寿司]]店では、注文した商品を客の前まで運ぶのに、新幹線の車両などを模ったリニアモーター式の運搬器具を用いている。
近年は、[[半導体]]製造技術の進歩により、[[MEMS]]で[[アクチュエータ]]としてのリニアモータの[[開発]]も進みつつある。
[[レールガン]]がリニアモーターの[[原理]]を応用していると誤解される場合があるが、これは電流が磁界から受ける[[ローレンツ力]]を用いた全く別の原理に基づくものである。リニアモーターと原理的に近いのは[[コイルガン]]である。
コイルガンとは別にリニアモーターそのものを用いて物体を発射する兵器は「リニアガン、リニアモーターガン」と呼ばれることが多い。
兵器でなければ(主に宇宙技術が多い)、「[[マスドライバー]]」と呼ばれることもある。
=== 鉄道 ===
以下の[[鉄道路線]]・装置でこの方式を採用している。
; 車輪式リニアモーターカー
:* 日本
:** [[日本の貨車操車場|リニアモータ台車式入替装置]] - [[貨物列車]]などの[[編成 (鉄道)|組成]]・[[入換 (鉄道)|入換]]に[[コンピュータ]]化された[[武蔵野操車場|武蔵野]]、[[北上操車場|北上]]、[[新南陽駅|新南陽]]、[[郡山貨物ターミナル駅|郡山]]、[[川崎貨物駅|塩浜]]、[[高崎操車場|高崎]]の各[[操車場]]で使用されていた<ref>[http://expechizen.exblog.jp/10814093/ リニアモーターヤード]</ref><ref>この時のリニアモータの経験が後に役立った。</ref><ref>{{Cite book |title=新交通システム |author= |date = 1990 |issue = |volume = |publisher =保育社 |isbn=9784586508037 |page =72 }}</ref>。保守車両として[[国鉄ヤ250形貨車]]があった。
:** [https://www.rtri.or.jp/rd/division/rd44/rd4430/rd44300201.html 鉄道総研架線集電試験用台車] - リニアサイリスタモータ駆動による架線集電試験装置<ref>[http://www.rtri.or.jp/rd/division/rd44/rd4430/index.html 電車線構造研究室]</ref>。
:** [[ミニ地下鉄]](リニアメトロ / 日本地下鉄協会)<ref>全てのミニ地下鉄がリニアモータによる推進を使用している訳ではない。</ref>
:*** [[Osaka Metro長堀鶴見緑地線]]([[1990年]]3月20日開業、開業時の名称は大阪市営地下鉄鶴見緑地線)
:*** [[都営地下鉄大江戸線]]([[1991年]]12月10日開業)
:*** [[神戸市営地下鉄海岸線]]([[2001年]]7月7日開業)
:*** [[福岡市地下鉄七隈線]]([[2005年]]2月3日開業)
:*** [[Osaka Metro今里筋線]]([[2006年]]12月24日開業)
:*** [[横浜市営地下鉄グリーンライン]]([[2008年]]3月30日開業)
:*** [[仙台市地下鉄東西線]]([[2015年]]12月6日開業)
:** [[リムトレン]](日本モノレール協会)
:*** [['88さいたま博覧会]]で使用された車輪式のリニアモーターカー 現時点では実用化されていない。
:* [[カナダ]]
:** [[バンクーバー・スカイトレイン]]
:* [[アメリカ合衆国]]
:** [[空気浮上式鉄道#TACV|TACV]] - リニア誘導モータを備えた空気浮上式試作車両の計画。[[空気浮上式鉄道#LIMRV|LIMRV]]、[[空気浮上式鉄道#TACRV|TACRV]]、[[空気浮上式鉄道#UTACV|UTACV]]が製造された。
:*** [[空気浮上式鉄道#LIMRV|LIMRV]] - 車載のガスタービン発電機で駆動するリニア誘導モータを備えた試作車両
:* [[中華人民共和国]]
:** [[広州地下鉄]] - [[広州地下鉄4号線|4号線]]、[[広州地下鉄5号線|5号線]]、[[広州地下鉄6号線|6号線]]([[川崎重工]]の技術供与で製造された)
:** [[北京地下鉄首都機場線]] - [[2008年]]開業
:
; [[磁気浮上式鉄道]]
:* [[日本]]
:** [[HSST]] - [[日本航空]]が[[クラウス=マッファイ]]から技術を導入して開発
:*** [[愛知高速交通東部丘陵線]](リニモ、2005年3月6日開業)(磁気浮上式)
:** [[超電導リニア]](試験中、JR東海が[[中央新幹線]]として[[2027年]]開業を目標にすると発表)
:** [[イーエムエルプロジェクト]](試験のみで終了)
:* [[ドイツ]]
:** [[M-Bahn]] - [[1989年]]に[[西ドイツ]](当時)の[[西ベルリン]]市内ライスドライエック駅 - ケンパープラッツ駅間約1.6 kmで開業したが[[1992年]]閉鎖した。
:** [[トランスラピッド]] - [[上海]]で運行されている。
:** [[クラウス=マッファイ・トランスアーバン]] - [[トロント]]で開発が進められていたが、西ドイツ政府の補助金打ち切りで中止。
:* [[イギリス]]
:** [[バーミンガムピープルムーバ]] - 1984年にバーミンガム空港 - バーミンガム国際展示場駅間約620mで開業した磁気浮上式鉄道として世界初の営業路線、1995年に運行を停止
:* [[アメリカ合衆国]]
:** [[ROMAG]] - 1970年代に開発していたが中止。
:* [[大韓民国]]
:** [[エキスポ科学公園]] - [[UTM-02]] [[クラウス=マッファイ]]から技術を導入して開発
:* 中華人民共和国
:** [[上海トランスラピッド]] - ドイツから[[トランスラピッド]]を導入
:
; [[空気浮上式鉄道]]
:* [[フランス]]
:** [[アエロトラン|アエロトラン S44]] - リニア誘導モータを備えた試作車両
:* [[アメリカ合衆国]]
:** [[空気浮上式鉄道#TACV|TACV]] - リニア誘導モータを備えた空気浮上式試作車両の計画。[[空気浮上式鉄道#LIMRV|LIMRV]]、[[空気浮上式鉄道#TACRV|TACRV]]、[[空気浮上式鉄道#UTACV|UTACV]]が製造された。
:*** [[空気浮上式鉄道#UTACV|UTACV]] - リニア誘導モータを備えた試作空気浮上車両
:** [[オーチス・ホバー|空気浮上式ピープルムーバー]] - [[ゼネラルモーターズ]]よって開発が進められていたが[[オーチス・エレベータ・カンパニー|オーチス・エレベータ]]に譲渡されてからケーブル式になった。
:* [[イギリス]]
:** [[トラックト・ホバークラフト]] - リニア誘導モータを備えた試作車両
=== 遊具 ===
* [[東京ディズニーランド]]「[[ビッグサンダー・マウンテン]]」 - 加速・減速にリニアモーターが使用されている。
* [[富士急ハイランド]]「[[高飛車 (コースター)|高飛車]]」「[[ZOKKON]]」 - 加速にリニア同期モーター(LSM)が採用されている。
* [[東京ドームシティアトラクションズ]]「[[リニアゲイル]]」 - 加速にリニア誘導モーター(LIM)が使用されている。世界初の吊り下がり式リニア[[ローラーコースター|コースター]](現在は閉鎖)。
* [[鈴鹿サーキット]][[モートピア]]「マッドコブラ」 - 加速にリニア誘導モーター(LIM)が使用されている。日本で初めて加速にリニアモーターが使用されたコースター(現在は閉鎖)。
[[交通機関]]用は主にリニア同期モーター(LSM)とリニア誘導モーター(LIM)の2種類であり、[[山梨県|山梨]]で[[実験]]中の[[超電導リニア]]やドイツの[[トランスラピッド]]は地上一次式LSMである。[[ミニ地下鉄]]や[[リニアモーターカー]]には車上一次式LIMが使用されているので地上側にコイルを配置する必要がないので建設費が安くなる。
地上一次式のLSMは車両側の推進用の[[集電装置]]が不要である(ただし、車内で使うサービス電源が必要な場合は集電装置、もしくは[[自家発電]]装置が必要がある)<ref>磁気浮上式鉄道の場合は浮上、案内用の電磁石の[[励磁]]用に電源が必要である</ref>。
== 関連項目 ==
* [[リニアモーターカー]]
* [[磁気浮上式鉄道]]
* [[電磁式カタパルト]]
* [[ミニ地下鉄]]
* [[分子モーター]]
== 脚注 ==
<references />
{{電動機}}
{{Normdaten}}
[[Category:電動機|りにあもおた]]
[[Category:直線運動|りにあもおた]]
|
2003-09-15T17:23:13Z
|
2023-08-31T01:21:46Z
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[
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"Template:Lang",
"Template:PDFlink",
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"Template:電動機",
"Template:Normdaten",
"Template:出典の明記"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
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17,004 |
痛風
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痛風(つうふう、英語: gout)とは、尿酸が体内で析出して結晶ができることにより、関節炎などを来たす疾患で、その背景には高尿酸血症などが存在する。
この疾患の「痛風」という日本語名の由来には、以下の様に幾つかの説が存在する。
ヒトを含むヒト科は、進化の過程で尿酸オキシダーゼを失ったため、プリン塩基を処分する時、体内では尿酸までで処理が止まってしまい、尿酸よりも水溶性が高いアラントインへの変換は、一部が体内で発生した活性酸素種によって非酵素的に進む程度である。
尿酸は水溶性が低いため、体内に蓄積すると、特に体温の低い末梢部で体液に溶け切れなくなった尿酸が析出しやすい。析出して結晶化した尿酸は、炎症を引き起こして痛風発作を誘発する。痛風発作は尿酸ナトリウムの針状結晶によって引き起こされる。X線回折法により痛風患者より得られた針状結晶は尿酸水素ナトリウムの結晶であることが確認された。
高尿酸血症の患者にきっかけが加わると痛風を発症する。何がきっかけなのか明確ではないことも多い。
健康状態における人体の血中には、ごく普通に尿酸が含有されているが、この濃度(血中尿酸値)が何らかの理由により著しく上昇すると、本来人体が持つ恒常化機能を超えて飽和解消できず、特に体温が低い足部などにおいて、尿酸が溶解しきれずに尿酸塩として結晶化して関節包内などに付着することが知られている。この状況においては、白血球群のうち、特に好中球が尿酸結晶を攻撃(捕食活動)を行うことが知られている。
好中球による尿酸結晶捕食活動が激化すると、その活動による過大なエネルギーや、尿酸を抱え込んで死亡した好中球の遺骸そのものによる影響などから、血管壁がダメージを受けて大きな炎症を発生する。当然に、当該部位周囲の神経組織をも相当に刺激し、患者は「内側からの激痛」を感じることとなる。
また、血中含有尿酸の濃度が急激に低下した場合においても、痛風発作が生じることが知られている。これは、好中球が攻撃対象である尿酸結晶の行方を急激に見失うと、対象を探し続けて活動を激化させることによるためとも言われているが異論も多く、血中尿酸値急降下時の明確な発作システム自体の解明はなされていない。ただし後述の通り、疫学的には、血中尿酸値の上昇とともに血中尿酸値の急降下も、痛風発作の要因であることは広く知られており、痛風発作時であっても尿酸生成阻害剤や尿酸排出促進剤などを発作前から服用していた場合はそのまま飲み続けるのに対して、痛風発作時に尿酸生成阻害剤や尿酸排出促進剤などを開始することは薦められない。
必ずしも恒常的な高尿酸血症患者がすべて痛風発作を起こすわけではなく、そのメカニズムは解明しきれていないが、よく知られている発作のきっかけとしては、脱水症状に伴う急激な尿酸値の変動、物理的衝撃による結晶の剥落、不適切なタイミングでの尿酸コントロール薬の投与、激しすぎるスポーツなどが考えられている。酒の痛飲は、エタノールによって利尿が起こって発生する脱水症状に加え、乳酸と尿酸の競合による尿酸排出の遅れによって尿酸値を激しく変動させ、翌日朝に痛風を起こすきっかけとなることが多いともされる。
あくまで、高尿酸血症の患者でも痛風を起こさないケースは少なくないため、引き金となる要因が全て分かっているわけではない。アメリカ合衆国で、高尿酸血症の患者に尿酸値を下げる薬を処方しないのはその考え方に基づいているが、高尿酸血症は腎臓結石など別の病気のリスク要因であることは忘れるべきではない。
血清尿酸値に影響を及ぼす比較的頻度の高い遺伝子としてURAT1 (SLC22A12) が知られていたが、ゲノムワイド関連解析により大規模に発見された。即ち SLC11A9, SLC2A9, SLC17A1, SLC22A12, SLC22A11, SLC16A9, ABCG2, LRP2, PDZK1, GCKR, TRIM46, INHBB, INHBC, SFMBT1, TMEM171, VEGFA, BAZ1B, STC1, PRKAG2, HNF4G, A1CF, ATXN2, UBE2Q2, IGF1R, NFAT5, MAF, HLFなどである。これらの遺伝子は一般の痛風の発症に関係していると考えられる。この中でSLCのつくものはATP結合カセットを持たないトランスポーター(輸送蛋白質)であり、腎臓の尿細管に分布し尿酸の尿中排泄に関係すると考えられる。ABCG2は主として腸管に分布し、腸からの尿酸排泄の低下により高尿酸血症を来し、痛風を来す事が示唆されている。この他、痛風になりやすいヒトは、アセトアルデヒド脱水素酵素に特定の変異を持っているとする研究結果も存在する。
範囲=患者のうち90%以上、文献によっては98%以上が男性であると記載する。これほどに男女差が大きい疾患は他では少なく、疫学的研究によると、蒸留酒である焼酎やウイスキーなどは醸造酒と比べてプリン体の含有量が少ないことが知られているものの、エタノールは肝臓で尿酸が作られるのを促進して尿酸濃度をあげてしまうため、痛風のリスクを高める。
特にプリン体を多く含む上に、ホップが持つ食欲増進効果などによって食事量が増加しがちなビールは最もリスクが高い。
一方で、ワインは醸造酒であるにもかかわらず飲んでも痛風のリスクを高めないとする報告もある。
少量飲酒者(アルコール12.5g/日以下)で1.16、中程度飲酒者(12.6-37.4g/日)で1.58、大量飲酒者(37.5g/日以上)で2.64のように飲酒により痛風のリスクが上昇するとの報告がある。
飲酒が痛風のリスクを上昇させる理由として、アルコール代謝によるATPの分解に伴うプリン体からの尿酸の生成、アルコール飲料に含まれるプリン体の摂取、飲酒により生成される乳酸が尿酸の排泄を阻害、などが原因として考えられている。
尿酸とはプリン体と呼ばれる物質の代謝産物であり、プリン体を多く摂取すると高尿酸血症、さらには痛風の引き金となると考えられる。肉のみならず魚に含まれるプリン体も痛風のリスクを高めるが、野菜に含まれるプリン体(麦芽、豆類に多い)は高めない。また、フルクトース(果糖)は急速に代謝されてアシドーシスを引き起こしやすく、酸性下で尿酸が析出しやすくなる。フルクトースを構成体に持つ砂糖の多いドリンクを週に5-6杯飲む場合やフルクトースを含むフルーツジュースの摂取も痛風のリスクを増大させる。近年、高尿酸血症に関わる遺伝子が各国(含日本)で発見されている。
そのほか、精神的ストレスや水分摂取の不足も発症の引き金となる。特に水分摂取の不足に関しては、日常的に意識して水分を多めに取り、血中尿酸濃度を(排尿によって体外に出す事で)低く保つことが勧められている。
2018年(平成30年)10月10日付けのBMJ誌電子版に、ニュージーランドオタゴ大学のTanya J Majorらは、食事の内容は血清尿酸値に影響は与えるが、一般集団の血清尿酸値の変動に対する食生活の寄与は、遺伝的な要因に比べると遙かに小さかったとする報告を掲載した。
関節に激烈な痛みが起こり、発赤や発熱を伴う。尿酸の結晶は比重が高く重力に引かれて足部に沈着しやすいため、痛風発作(痛風性関節炎)は足趾(特に母趾MP関節)に好発する。
初発症状は足部であることが多いが、足関節、膝関節から発症することもある。足の親指の付け根やアキレス腱部分などに発作が起きると痛みを感ずるだけではなく、歩行困難となる場合もある。
発作を繰り返すたびに症状は増悪する。発作の痛みは強く、非常に苦痛を伴う。
また、耳介などに痛風結節と呼ばれる皮下結節を作ることがあり、これが診断の助けとなる。X線では骨髄腫のようにpunched out(打ち抜き)と呼ばれる骨破壊像が見える。痛風と鑑別を要する関節炎の疾患としては関節リウマチ、変形性関節症、偽痛風がある。
好中球の活動抑制、抗炎症薬の投与、鎮痛薬の投与、患部の管理、緩やかな尿酸の排出、尿酸値上昇要因の排除、の5手法併用を以って行う。
現状では、非ステロイド系鎮痛消炎薬を使用することが多い。例えば、力価60mgのロキソプロフェンナトリウム製剤を、その投入が不要と認められるまで、概ね8時間以上の間隔で経口投与することが多い。ロキソプロフェン製剤服用にあたっては、胃壁へのダメージを避ける目的で、テプレノン製剤・レバミピド製剤などの胃粘膜保護剤を併せて処方することが多い。
高尿酸血症患者においては、その治療方法そのものが、すなわち痛風発作の予防方法のほぼ全てを充足するほか、非高尿酸血症者においても、日常において血中尿酸の急激な濃淡を起こさないような体調・ストレスの管理を要する。
痛風患者は発作の前兆を感じることがあると言われ、そのときコルヒチンを飲むと発作を予防する効果があるとされている。しかしこの治療法に臨床研究に基づく根拠はない。ただし、発作の初期症状である発作発現部に感じる「違和感」や、ごく軽い内部から感じる痒み等については、痛風発作の初発患者のほとんどがこれを軽微な思い過ごしと見過ごして発作を激痛による歩行困難となるまで重篤化させるが、再発患者は既にその初期症状の特徴である患部の微妙な違和感を体験しているため、痛風発作発生のごく初期にいち早く診療を受けてコルヒチンを処方され服用して、激痛が発生する前に発作の進行を抑制・寛解させるケースが非常に多い。これは、痛風発作の激痛に懲りた経験のある患者にとって再度くりかえし過酷な発作を蒙りたくないと考えるゆえの当然の行動によるものであり、あくまで発作歴のある患者が発作初期の患部の違和感を素早く感知して早期に対症療法を受けたことによる成果であって、「前兆」「予感」等ではなく発作の「自覚症状」にもとづくものであり、その診療経緯は当然に診察医のカルテにも記録されるので、疫学的に反映させることが可能なものである。
痛風を来す作用が極めて強く、1つの遺伝子が痛風の原因となる場合(単一遺伝子病)と、1つの遺伝子の作用が弱く、複数の遺伝子と環境要因が加わって痛風を来す場合(多因子病)がある。前者にはPRPP合成酵素亢進症、HPRT欠損症(レッシュ・ナイハン症候群)などの酵素異常症、ウロモデュリン異常症などがある。後者には多数の遺伝子があり、上記のように少なくとも27個の遺伝子が関係している。
水分を多めに摂る事で、非常な痛みを伴う症状の発生を予防できる事は、古くから経験によって知られていた。これは排尿によって血中尿酸濃度を下げる効果があるため、関節への尿酸結晶の発生を避けられるためである。そのため、現代でも水を飲むことが奨励され、酒を飲んだらその二倍は水を飲むように指導される。
特に利尿作用のある緑茶・紅茶・コーヒー等を多量に摂取して大量に排尿すれば、それだけ大量の尿酸が体外に排泄される事にも繋がるため、より症状発生の予防ができるとされている。しかし利尿作用も度が過ぎると、脱水症状を起こして症状が悪化したり、尿路結石が出来る可能性もある。
ヨーロッパに喫茶の習慣が伝えられると、痛風の症状を緩和できたり予防できるとして、盛んに喫茶が流行・奨励された。なお、当時の緑茶が日本や中国などのアジアでしか生産されていなかったこともあり、大変贅沢な療法とされ、オランダが日本産や中国産の、イギリスが中国産の緑茶を独占的に扱っていたため、緑茶が高価過ぎて手が出せない事情から、フランスやドイツでは、コーヒーの飲用が流行したという。紅茶は、保存に便利で効果の程は緑茶と大きく変わらないとして、後々のイギリスにおける紅茶文化発展の元となった。
また、尿酸値を下げることが発作のリスクを抑えるという観点から、肝機能向上(中性脂肪を減らし、肝臓内に蓄えられているプリン体自体を減らす)と腎機能向上(腎臓の負担を減らし、効率的に尿酸の排出をうながす)は重要な療法といえる。具体的には、散歩などの有酸素運動、低塩分、低カロリーな食事、カリウムを多く含む食品の摂取、十分な水分補給と入浴、睡眠などが効果があるとされる。
アメリカにおいて尿酸値を下げる効果と痛風発作の痛みを緩和する効果があると広く信じられているアメリカンチェリーは、アントシアニンなどのポリフェノール類が働いているといわれている。一方、アメリカ食品医薬品局 (FDA) は、痛風への効能を謳ってチェリー加工品を販売する業者に対し、証明されていない効能をラベルに載せるのをやめるよう警告している。
経験的な民間療法として、スライスした生たまねぎを半分から一個分、水にさらさずに食べることにより、発作時の劇的な痛みを軽減し、また痛みの続く期間を短くするという説がある。また、日常的に摂取することにより、発作を抑え、痛風体質の改善にも高い効果があると言われている。これは、たまねぎに多く含まれているクェルセチンの炎症抑制効果と、尿酸の増加を抑制する効果のためではないかと言われている。ただし、生のたまねぎの摂取は、体質によって胃が痛むなどの副作用もあり、この点には注意が必要である。
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"text": "痛風(つうふう、英語: gout)とは、尿酸が体内で析出して結晶ができることにより、関節炎などを来たす疾患で、その背景には高尿酸血症などが存在する。",
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"text": "この疾患の「痛風」という日本語名の由来には、以下の様に幾つかの説が存在する。",
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"text": "ヒトを含むヒト科は、進化の過程で尿酸オキシダーゼを失ったため、プリン塩基を処分する時、体内では尿酸までで処理が止まってしまい、尿酸よりも水溶性が高いアラントインへの変換は、一部が体内で発生した活性酸素種によって非酵素的に進む程度である。",
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"text": "尿酸は水溶性が低いため、体内に蓄積すると、特に体温の低い末梢部で体液に溶け切れなくなった尿酸が析出しやすい。析出して結晶化した尿酸は、炎症を引き起こして痛風発作を誘発する。痛風発作は尿酸ナトリウムの針状結晶によって引き起こされる。X線回折法により痛風患者より得られた針状結晶は尿酸水素ナトリウムの結晶であることが確認された。",
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"text": "高尿酸血症の患者にきっかけが加わると痛風を発症する。何がきっかけなのか明確ではないことも多い。",
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"text": "必ずしも恒常的な高尿酸血症患者がすべて痛風発作を起こすわけではなく、そのメカニズムは解明しきれていないが、よく知られている発作のきっかけとしては、脱水症状に伴う急激な尿酸値の変動、物理的衝撃による結晶の剥落、不適切なタイミングでの尿酸コントロール薬の投与、激しすぎるスポーツなどが考えられている。酒の痛飲は、エタノールによって利尿が起こって発生する脱水症状に加え、乳酸と尿酸の競合による尿酸排出の遅れによって尿酸値を激しく変動させ、翌日朝に痛風を起こすきっかけとなることが多いともされる。",
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"text": "そのほか、精神的ストレスや水分摂取の不足も発症の引き金となる。特に水分摂取の不足に関しては、日常的に意識して水分を多めに取り、血中尿酸濃度を(排尿によって体外に出す事で)低く保つことが勧められている。",
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"text": "特に利尿作用のある緑茶・紅茶・コーヒー等を多量に摂取して大量に排尿すれば、それだけ大量の尿酸が体外に排泄される事にも繋がるため、より症状発生の予防ができるとされている。しかし利尿作用も度が過ぎると、脱水症状を起こして症状が悪化したり、尿路結石が出来る可能性もある。",
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"text": "ヨーロッパに喫茶の習慣が伝えられると、痛風の症状を緩和できたり予防できるとして、盛んに喫茶が流行・奨励された。なお、当時の緑茶が日本や中国などのアジアでしか生産されていなかったこともあり、大変贅沢な療法とされ、オランダが日本産や中国産の、イギリスが中国産の緑茶を独占的に扱っていたため、緑茶が高価過ぎて手が出せない事情から、フランスやドイツでは、コーヒーの飲用が流行したという。紅茶は、保存に便利で効果の程は緑茶と大きく変わらないとして、後々のイギリスにおける紅茶文化発展の元となった。",
"title": "民間療法"
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"text": "また、尿酸値を下げることが発作のリスクを抑えるという観点から、肝機能向上(中性脂肪を減らし、肝臓内に蓄えられているプリン体自体を減らす)と腎機能向上(腎臓の負担を減らし、効率的に尿酸の排出をうながす)は重要な療法といえる。具体的には、散歩などの有酸素運動、低塩分、低カロリーな食事、カリウムを多く含む食品の摂取、十分な水分補給と入浴、睡眠などが効果があるとされる。",
"title": "民間療法"
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"text": "経験的な民間療法として、スライスした生たまねぎを半分から一個分、水にさらさずに食べることにより、発作時の劇的な痛みを軽減し、また痛みの続く期間を短くするという説がある。また、日常的に摂取することにより、発作を抑え、痛風体質の改善にも高い効果があると言われている。これは、たまねぎに多く含まれているクェルセチンの炎症抑制効果と、尿酸の増加を抑制する効果のためではないかと言われている。ただし、生のたまねぎの摂取は、体質によって胃が痛むなどの副作用もあり、この点には注意が必要である。",
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痛風とは、尿酸が体内で析出して結晶ができることにより、関節炎などを来たす疾患で、その背景には高尿酸血症などが存在する。
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'''痛風'''(つうふう、{{lang-en|gout}})とは、[[尿酸]]が体内で析出して結晶ができることにより、[[関節炎]]などを来たす疾患で、その背景には[[高尿酸血症]]などが存在する。
[[File:Wikipedia:ビデオウィキ-痛風.webm|thumb|ウィキペディア:ビデオウィキ-痛風]]
== 日本語の名称 ==
この疾患の「痛風」という日本語名の由来には、以下の様に幾つかの説が存在する。
* 痛みが起こる場所(発作の箇所)が、まるで風が吹くように足・膝・腰・肩・肘・手・胸骨など、全身の関節や骨端部を移動し、なおかつ風が強くなったり穏やかになったりするように痛みが酷くなったり和らいだりを繰り返すことから命名されたという説。
* 痛みの悪風に中る(あたる)という意味で「痛風」となったとする説。
* 痛み発作が出ている部分は吹いてきた風が当たるだけでも痛いから「痛風」となったとする説。
== 原因 ==
[[画像:Fluorescent uric acid.JPG|250px|thumb|関節液中の尿酸ナトリウムの針状結晶]]
ヒトを含むヒト科は、進化の過程で[[尿酸オキシダーゼ]]を失ったため、[[プリン塩基]]を処分する時、体内では[[尿酸]]までで処理が止まってしまい、尿酸よりも水溶性が高い[[アラントイン]]への変換は、一部が体内で発生した[[活性酸素種]]によって非酵素的に進む程度である<ref>藏城雅文、[https://doi.org/10.6032/gnam.38.145 尿酸の酸化作用と抗酸化作用] 『痛風と核酸代謝』 2014年 38巻 2号 p.145-, {{doi|10.6032/gnam.38.145}}</ref>。
{{Main|尿酸オキシダーゼ}}
尿酸は水溶性が低いため、体内に蓄積すると、特に体温の低い末梢部で体液に溶け切れなくなった尿酸が析出しやすい。析出して結晶化した尿酸は、炎症を引き起こして痛風発作を誘発する<ref>高木和貴, 上田孝典、「[https://hdl.handle.net/10098/2955 尿酸分解酵素PEG化ウリカーゼの適応と意義]」『高尿酸血症と痛風』18(2), 2010, pp.41-46, {{hdl|10098/2955}}</ref><ref name=msd.home>[https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/08-骨、関節、筋肉の病気/痛風と偽痛風/痛風 痛風] MSDマニュアル家庭版</ref>。痛風発作は尿酸ナトリウムの針状結晶によって引き起こされる<ref>金子希代子、山辺智代、藤森新、「尿酸塩結晶生成に及ぼす溶液中のタンパク質とpHの影響 - フローサイトメーターを用いた検討」『痛風と核酸代謝』 2001年 25巻 2号 p.121-128, {{doi|10.6032/gnam1999.25.2_121}}</ref>。X線回折法により痛風患者より得られた針状結晶は尿酸水素ナトリウムの結晶であることが確認された<ref>後藤武史ほか「X線回折法による痛風結節内容物の結晶学的同定」、『整形外科と災害外科』1984年 32巻 3号 p.755-758, {{doi|10.5035/nishiseisai.32.755}}</ref>。
[[高尿酸血症]]の患者にきっかけが加わると痛風を発症する。何がきっかけなのか明確ではないことも多い。
健康状態における人体の血中には、ごく普通に[[尿酸]]が含有されているが、この濃度(血中尿酸値)が何らかの理由により著しく上昇すると、本来人体が持つ恒常化機能を超えて飽和解消できず、特に体温が低い足部などにおいて、尿酸が溶解しきれずに尿酸塩として[[結晶]]化して[[関節包]]内などに付着することが知られている。この状況においては、[[白血球]]群のうち、特に[[好中球]]が尿酸結晶を攻撃(捕食活動)を行うことが知られている。
好中球による尿酸結晶捕食活動が激化すると、その活動による過大なエネルギーや、尿酸を抱え込んで死亡した好中球の遺骸そのものによる影響などから、血管壁がダメージを受けて大きな炎症を発生する。当然に、当該部位周囲の[[神経]]組織をも相当に刺激し、患者は「内側からの激痛」を感じることとなる。
また、血中含有尿酸の濃度が急激に低下した場合においても、痛風発作が生じることが知られている。これは、好中球が攻撃対象である尿酸結晶の行方を急激に見失うと、対象を探し続けて活動を激化させることによるためとも言われているが異論も多く、血中尿酸値急降下時の明確な発作システム自体の解明はなされていない。ただし後述の通り、疫学的には、血中尿酸値の上昇とともに血中尿酸値の急降下も、痛風発作の要因であることは広く知られており、痛風発作時であっても尿酸生成阻害剤や尿酸排出促進剤などを発作前から服用していた場合はそのまま飲み続けるのに対して、痛風発作時に尿酸生成阻害剤や尿酸排出促進剤などを開始することは薦められない。
必ずしも恒常的な高尿酸血症患者がすべて痛風発作を起こすわけではなく、そのメカニズムは解明しきれていないが、よく知られている発作のきっかけとしては、脱水症状に伴う急激な尿酸値の変動、物理的衝撃による結晶の剥落、不適切なタイミングでの尿酸コントロール薬の投与、激しすぎるスポーツなどが考えられている。酒の痛飲は、エタノールによって利尿が起こって発生する脱水症状に加え、[[乳酸]]と尿酸の競合による尿酸排出の遅れによって尿酸値を激しく変動させ、翌日朝に痛風を起こすきっかけとなることが多いともされる。
あくまで、高尿酸血症の患者でも痛風を起こさないケースは少なくないため、引き金となる要因が全て分かっているわけではない。アメリカ合衆国で、高尿酸血症の患者に尿酸値を下げる薬を処方しないのはその考え方に基づいているが、高尿酸血症は[[腎臓結石]]など別の病気のリスク要因であることは忘れるべきではない。
血清尿酸値に影響を及ぼす比較的頻度の高い遺伝子としてURAT1 (SLC22A12) が知られていたが、[[ゲノムワイド関連解析]]により大規模に発見された。即ち SLC11A9, SLC2A9, SLC17A1, SLC22A12, SLC22A11, SLC16A9, ABCG2, LRP2, PDZK1, [[GCKR]], TRIM46, INHBB, INHBC, SFMBT1, TMEM171, VEGFA, BAZ1B, STC1, PRKAG2, HNF4G, A1CF, ATXN2, UBE2Q2, [[IGF1R]], [[NFAT5]], MAF, HLFなどである。これらの遺伝子は一般の痛風の発症に関係していると考えられる。この中でSLCのつくものはATP結合カセットを持たないトランスポーター(輸送蛋白質)であり、腎臓の尿細管に分布し尿酸の尿中排泄に関係すると考えられる。ABCG2は主として腸管に分布し、腸からの尿酸排泄の低下により高尿酸血症を来し、痛風を来す事が示唆されている<ref>{{Cite journal
| url = http://www.nature.com/ncomms/journal/v3/n4/full/ncomms1756.html
| title = Decreased extra-renal urate excretion is a common cause of hyperuricemia.
| year = 2012
| volume = 3
| journal = Nature Communications
| author = Kimiyoshi Ichida
| coauthors = Hirotaka Matsuo, Tappei Takada, Akiyoshi Nakayama, Keizo Murakami, Toru Shimizu, Yoshihide Yamanashi, Hiroshi Kasuga, Hiroshi Nakashima, Takahiro Nakamura, Yuzo Takada, Yusuke Kawamura, Hiroki Inoue, Chisa Okada, Yoshitaka Utsumi, Yuki Ikebuchi, Kousei Ito, Makiko Nakamura, Yoshihiko Shinohara, Makoto Hosoyamada, et al.
| doi = 10.1038/ncomms1756
| pmid = 22473008
}}</ref>。この他、痛風になりやすいヒトは、[[アセトアルデヒド脱水素酵素]]に特定の変異を持っているとする研究結果も存在する<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/27181629 Identification of rs671, a common variant of ALDH2, as a gout susceptibility locus]</ref>。
== 疫学 ==
===飲酒による影響===
範囲=患者のうち90%以上<ref>[https://www.apha.jp/medicine_room/entry-3681.html 痛風(高尿酸血症)] 一般社団法人 愛知県薬剤師会</ref><ref>[http://www.tufu.or.jp/gout/gout1/41.html 痛風はなぜ男性に多いのか?] 公益財団法人 痛風・尿酸財団</ref>、文献によっては98%以上<ref>{{Cite web|和書|date=2004-09-01|url=https://www.min-iren.gr.jp/?p=3232 |title=痛風(高尿酸血症)患者の98%が男性、30歳代で増加 肥満や飲酒、ストレスが発症の誘因 痛みがなくても尿酸値に注意して|website=min-iren.gr.jp|publisher=全日本民主医療機関連合会|accessdate=2020-01-07}}</ref>が男性であると記載する。これほどに男女差が大きい疾患は他では少なく、[[疫学]]的研究によると、蒸留酒である[[焼酎]]や[[ウイスキー]]などは醸造酒と比べて[[プリン塩基|プリン体]]の含有量が少ないことが知られているものの、[[エタノール]]は肝臓で尿酸が作られるのを促進して尿酸濃度をあげてしまうため、痛風のリスクを高める。
特にプリン体を多く含む上に、ホップが持つ食欲増進効果などによって食事量が増加しがちな[[ビール]]は最もリスクが高い<ref name="名前なし-1">Choi HK; Atkinson K; Karlson EW; Willett W; Curhan G. Alcohol intake and risk of incident gout in men: a prospective study. [[ランセット|Lancet]] 2004 17;363:1277-81.</ref>。
一方で、ワインは醸造酒であるにもかかわらず飲んでも痛風のリスクを高めないとする報告もある<ref name="名前なし-1"/>。
少量飲酒者(アルコール12.5g/日以下)で1.16、中程度飲酒者(12.6-37.4g/日)で1.58、大量飲酒者(37.5g/日以上)で2.64のように飲酒により痛風のリスクが上昇するとの報告がある。
飲酒が痛風のリスクを上昇させる理由として、アルコール代謝による[[ATP]]の分解に伴うプリン体からの尿酸の生成、アルコール飲料に含まれるプリン体の摂取、飲酒により生成される[[乳酸]]が尿酸の排泄を阻害、などが原因として考えられている<ref>金子希代子, 山岡法子, 福内友子 ほか「[https://doi.org/10.6032/gnam.41.228 アルコールが尿酸代謝に悪い理由]」『痛風と核酸代謝』2017年 41巻 2号 p.228- {{DOI|10.6032/gnam.41.228}}, 日本痛風・核酸代謝学会</ref>。
===プリン体等による影響===
[[尿酸]]とはプリン体と呼ばれる物質の[[代謝]]産物であり、プリン体を多く摂取すると[[高尿酸血症]]、さらには痛風の引き金となると考えられる。[[食肉|肉]]のみならず[[魚]]に含まれるプリン体も痛風の[[リスク]]を高めるが、[[野菜]]に含まれるプリン体([[麦芽]]<ref>[http://www.kirin.co.jp/customer/qa_prn.html KIRIN_お問い合わせ プリン体と人体の関係について (参考)]</ref>、[[豆]]類に多い)は高めない<ref>Choi HK; Atkinson K; Karlson EW; Willett W; Curhan G. Purine-rich foods, dairy and protein intake, and the risk of gout in men. [[ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン|NEJM]]. 2004 11;350:1093-103.</ref>。また、[[フルクトース]](果糖)は急速に代謝されて[[アシドーシス]]を引き起こしやすく<ref>高橋隆一 [http://www.umin.ac.jp/fukusayou/adr123e.htm 高カロリー輸液施行中に認められるアシドーシス]</ref>、酸性下で尿酸が析出しやすくなる。フルクトースを構成体に持つ[[砂糖]]の多いドリンクを週に5-6杯飲む場合やフルクトースを含むフルーツジュースの摂取も痛風のリスクを増大させる<ref>Hyon K Choi, Gary Curhan. [http://www.bmj.com/cgi/content/short/bmj.39449.819271.BEv1 Soft drinks, fructose consumption, and the risk of gout in men: prospective cohort study] [[ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル|BMJ]] 2008; 336: 309-12.</ref>。近年、高尿酸血症に関わる遺伝子が各国(含日本)で発見されている。
そのほか、精神的ストレスや水分摂取の不足も発症の引き金となる。特に水分摂取の不足に関しては、日常的に意識して水分を多めに取り、血中尿酸濃度を([[排泄|排尿]]によって体外に出す事で)低く保つことが勧められている。
2018年(平成30年)10月10日付けの[[ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル|BMJ誌]]電子版に、[[ニュージーランド]][[オタゴ大学]]のTanya J Majorらは、食事の内容は血清尿酸値に影響は与えるが、一般集団の血清尿酸値の変動に対する食生活の寄与は、遺伝的な要因に比べると遙かに小さかったとする報告を掲載した<ref>{{Cite journal|last=Merriman|first=Tony R.|last2=Dalbeth|first2=Nicola|last3=Topless|first3=Ruth K.|last4=Major|first4=Tanya J.|date=2018-10-10|title=Evaluation of the diet wide contribution to serum urate levels: meta-analysis of population based cohorts|url=https://www.bmj.com/content/363/bmj.k3951|journal=BMJ|volume=363|pages=k3951|language=en|doi=10.1136/bmj.k3951|issn=1756-1833|pmid=30305269}}</ref>。
== 症状 ==
{{出典の明記|date=2023年2月}}
関節に激烈な痛みが起こり、発赤や発熱を伴う。尿酸の結晶は比重が高く重力に引かれて足部に沈着しやすいため、痛風発作(痛風性関節炎)は足趾(特に母趾MP関節)に好発する。
初発症状は足部であることが多いが、足関節、膝関節から発症することもある。足の親指の付け根やアキレス腱部分などに発作が起きると痛みを感ずるだけではなく、歩行困難となる場合もある。
発作を繰り返すたびに症状は増悪する。発作の痛みは強く、非常に苦痛を伴う。
また、[[耳介]]などに'''痛風結節'''と呼ばれる皮下結節を作ることがあり、これが診断の助けとなる。X線では骨髄腫のように'''punched out'''('''打ち抜き''')と呼ばれる骨破壊像が見える。痛風と鑑別を要する関節炎の疾患としては[[関節リウマチ]]、[[変形性関節症]]、[[偽痛風]]がある。
[[ファイル:右距腿関節の痛風症状(腫れが最も著しいとき).jpg|サムネイル]]
== 検査 ==
* 痛風を発症する患者では、少なくとも非発作時には[[血液検査]]での[[高尿酸血症]]が見られるが、25%の患者で発作時に尿酸値が正常である。
* 関節穿刺液検査における多形核細胞の増加と尿酸結晶の証明(これが一番大事だが、感度は100%ではない。85%程度とする文献がある)。
== 治療 ==
{{出典の明記|date=2023年2月}}
=== 対症療法 ===
好中球の活動抑制、抗炎症薬の投与、鎮痛薬の投与、患部の管理、緩やかな尿酸の排出、尿酸値上昇要因の排除、の5手法併用を以って行う。
==== 好中球の活動抑制 ====
* [[コルヒチン|コルヒチン製剤]]力価0.5 mgを、発作を起こすに足る程度の好中球の活動の抑制が果たされるまで、概ね4時間以上の間隔で経口投与することが多い。
* 日本において認可されているコルヒチン剤は製品名「コルヒチン」として[[塩野義製薬]]が生産していたが、2010年4月に[[高田製薬]]に販売が継承された。国内では先発品の本剤しかないが、薬価が安いことがあり、ジェネリック品は開発されていない。海外においてもインガラボラトリ社([[インド]])の製品名「ガウトニル」など対外向けジェネリック産品が生産されているが、日本においては未認可である。
==== 消炎・鎮痛 ====
現状では、非ステロイド系鎮痛消炎薬を使用することが多い。例えば、力価60mgの[[ロキソニン|ロキソプロフェンナトリウム製剤]]を、その投入が不要と認められるまで、概ね8時間以上の間隔で経口投与することが多い。ロキソプロフェン製剤服用にあたっては、[[胃]]壁へのダメージを避ける目的で、[[テプレノン|テプレノン製剤]]・[[レバミピド|レバミピド製剤]]などの胃粘膜保護剤を併せて処方することが多い。
* [[NSAIDs]](非ステロイド系抗炎症鎮痛薬)と呼ばれる種類の痛み止めの薬で対症療法を行う。[[インドメタシン]]などに、臨床研究に基づく科学的根拠がある([[根拠に基づく医療]])。
* 疼痛が強い患者では、[[ステロイド]]の全身投与や、単関節炎患者では関節内投与が極めて有効である。最近では、最初にNSAIDsではなくステロイドを服用したほうが、効果は同等で副作用([[悪心]]、[[消化管出血]]など)は少ないとする報告がある<ref>Man CY et al. Comparison of oral prednisolone/paracetamol and oral indomethacin/paracetamol combination therapy in the treatment of acute goutlike arthritis: A double-blind, randomized, controlled trial. Ann Emerg Med 2007;49:670-7.</ref>。
==== 患部の管理 ====
* 発作を起こしている関節ないし周辺部位は、安静および冷涼に保持する必要があり、患部を動かしたり熱温する行為は炎症を重篤化させることが知られている。特に、発作時患部の駆動および温度上昇の双方を同時にもたらす入浴は禁忌とする。患者が、安易に民間療法的な発想で、痛風発作と同様に関節部に痛みを伴う関節リウマチの慢性期療法等の温泉療法を連想し入浴を行うと、痛風発作の症状をほぼ100%悪化させる。
==== 緩やかな尿酸の排出 ====
* 体内の尿酸を自然に排泄する手段として、水分を多めに摂り排尿を促す。
* [[クエン酸カリウム]]・[[クエン酸ナトリウム]]配合剤は<ref name=hosoya>細谷龍男、「[https://doi.org/10.6032/gnam1999.26.Supplement_45 第4章 合併症,併発症に対する治療]」『痛風と核酸代謝』 2002年 26巻 Supplement号 p.45-57, {{doi|10.6032/gnam1999.26.Supplement_45}}, 日本痛風・核酸代謝学会</ref>、尿のpHをアルカリ化するため尿酸の排出が促され、痛風を緩和するとされている。
* 尿酸排泄促進薬の使用中は酸性尿となるため尿路結石や腎障害を発症しやすく、尿アルカリ化薬を併用する。
* 痛風発作中に尿酸降下薬の投与を開始すると発作を増悪させるので、投与を開始してはならない。ただし尿酸降下薬の投与中は原則として服用を中止しない。
==== 尿酸値上昇要因の排除 ====
* 血内の尿酸を濃化させる行為を慎む。具体的には、業務・対人などストレスを発生させる行為の中止、負荷のかかる運動の中止(負荷のかかる運動によって死滅した筋細胞はプリン体の主要な供給源のひとつである)、プリン体を多く含む食材の摂食中止、飲酒の中止などを行う。
===== 食事療法 =====
* 高尿酸血症・痛風の治療ガイドラインの「生活指導」では、特に「1日400mgを目安にしたプリン体の摂取制限」が示されている<ref>[http://www.tufu.or.jp/gout/gout_4-1.html 食品・飲料中のプリン体含有量/公益財団法人痛風財団]</ref>。
=== 予防 ===
[[高尿酸血症]]患者においては、その治療方法そのものが、すなわち痛風発作の予防方法のほぼ全てを充足するほか、非高尿酸血症者においても、日常において血中尿酸の急激な濃淡を起こさないような体調・ストレスの管理を要する。
* 尿酸産生抑制剤である[[アロプリノール]]や[[フェブキソスタット]]・[[トピロキソスタット]]、尿酸排泄促進剤である[[ベンズブロマロン]](分泌後再吸収阻害剤)、[[プロベネシド]](分泌前再吸収阻害剤)<ref>J Rheumatol 2013 Jun; 40:872.</ref>を予防的に経口投与し、[[高尿酸血症]]を改善する。これらは、高尿酸血症の原因が、尿酸産生過剰によるものか尿酸排泄能力低下によるものか、あるいは薬効の患者への影響度などを見極めて使い分ける。
* 血中尿酸値の濃化・淡化を問わず、その急激な変動そのものが痛風発作の原因となるため、これらの薬剤については、急激な尿酸値低下による発作の悪化や再発を誘引せぬよう、痛風発作の発現中ならびに寛解直後数週間の服用は推奨されていない。
* 『高尿酸血症・痛風の治療ガイドライン』<ref>『[http://www.tufu.or.jp/medical/guideline.html 高尿酸血症・痛風の治療ガイドライン ダイジェスト版]』日本痛風・核酸代謝学会、2002年9月。ISBN 4-901935-02-X。</ref>では、「適度な量の飲酒」、「[[プリン体]]の摂取を控えめにする」、「十分な水分摂取」、「尿をアルカリ性に保つ」、「運動」、「ストレスの解消」がすすめられている。
* [[帝人ファーマ]]が創製し、同社が日本で、イプセンがヨーロッパで、TAP社、(後に[[武田薬品]]に買収される)が米国で開発したフェブキソスタットが新規痛風治療薬として米国では2009年、日本では2011年にフェブリク(帝人ファーマ製造販売)として承認された。
* [[富士薬品]]が創製したトピロキソスタットが、2013年よりトピロリック(富士薬品)/ウリアデック([[三和化学研究所]])の2ブランドで販売されている。
=== その他 ===
痛風患者は発作の前兆を感じることがあると言われ、そのとき[[コルヒチン]]を飲むと発作を予防する効果があるとされている。しかしこの治療法に臨床研究に基づく根拠はない。ただし、発作の初期症状である発作発現部に感じる「違和感」や、ごく軽い内部から感じる痒み等については、痛風発作の初発患者のほとんどがこれを軽微な思い過ごしと見過ごして発作を激痛による歩行困難となるまで重篤化させるが、再発患者は既にその初期症状の特徴である患部の微妙な違和感を体験しているため、痛風発作発生のごく初期にいち早く診療を受けてコルヒチンを処方され服用して、激痛が発生する前に発作の進行を抑制・寛解させるケースが非常に多い。これは、痛風発作の激痛に懲りた経験のある患者にとって再度くりかえし過酷な発作を蒙りたくないと考えるゆえの当然の行動によるものであり、あくまで発作歴のある患者が発作初期の患部の違和感を素早く感知して早期に対症療法を受けたことによる成果であって、「前兆」「予感」等ではなく発作の「自覚症状」にもとづくものであり、その診療経緯は当然に診察医のカルテにも記録されるので、疫学的に反映させることが可能なものである。
== 遺伝 ==
痛風を来す作用が極めて強く、1つの遺伝子が痛風の原因となる場合(単一遺伝子病)と、1つの遺伝子の作用が弱く、複数の遺伝子と環境要因が加わって痛風を来す場合(多因子病)がある。前者にはPRPP合成酵素亢進症、HPRT欠損症(レッシュ・ナイハン症候群)などの酵素異常症、ウロモデュリン異常症などがある。後者には多数の遺伝子があり、上記のように少なくとも27個の遺伝子が関係している。
== 民間療法 ==
水分を多めに摂る事で、非常な痛みを伴う症状の発生を予防できる事は、古くから経験によって知られていた。これは[[排泄|排尿]]によって血中尿酸濃度を下げる効果があるため、関節への尿酸結晶の発生を避けられるためである。そのため、現代でも水を飲むことが奨励され、酒を飲んだらその二倍は水を飲むように指導される。
特に[[利尿作用]]のある[[緑茶]]・[[紅茶]]・[[コーヒー]]等を多量に摂取して大量に排尿すれば、それだけ大量の尿酸が体外に排泄される事にも繋がるため、より症状発生の予防ができるとされている。{{要出典範囲|しかし利尿作用も度が過ぎると、[[脱水症状]]を起こして症状が悪化したり、[[尿路結石]]が出来る可能性もある|date=2021年9月}}。
ヨーロッパに喫茶の習慣が伝えられると、{{要出典範囲|痛風の症状を緩和できたり予防できるとして、盛んに喫茶が流行・奨励された|date=2021年9月}}。なお、当時の緑茶が日本や[[中国]]などの[[アジア]]でしか生産されていなかったこともあり、大変贅沢な療法とされ、[[オランダ]]が日本産や中国産の、[[イギリス]]が中国産の緑茶を独占的に扱っていたため、緑茶が高価過ぎて手が出せない事情から、[[フランス]]や[[ドイツ]]では、コーヒーの飲用が流行したという。紅茶は、保存に便利で効果の程は緑茶と大きく変わらないとして、後々のイギリスにおける紅茶文化発展の元となった。
また、尿酸値を下げることが発作のリスクを抑えるという観点から、肝機能向上(中性脂肪を減らし、肝臓内に蓄えられているプリン体自体を減らす)と腎機能向上(腎臓の負担を減らし、効率的に尿酸の排出をうながす)は重要な療法といえる。具体的には、散歩などの有酸素運動、低塩分、低カロリーな食事、カリウムを多く含む食品の摂取、十分な水分補給と入浴、睡眠などが効果があるとされる。
アメリカにおいて尿酸値を下げる効果と痛風発作の痛みを緩和する効果があると広く信じられている[[アメリカンチェリー]]は、[[アントシアニン]]などの[[ポリフェノール]]類が働いているといわれている。一方、[[アメリカ食品医薬品局]] (FDA) は、痛風への効能を謳ってチェリー加工品を販売する業者に対し、証明されていない効能をラベルに載せるのをやめるよう警告している<ref>[http://www.fda.gov/ICECI/EnforcementActions/WarningLetters/2005/ucm075624.htm FDAから業者への警告通知]</ref><ref>[http://www.usatoday.com/news/health/2006-03-19-cherry-warnings_x.htm USA Todayの記事]</ref>。
経験的な民間療法として、スライスした生[[たまねぎ]]を半分から一個分、水にさらさずに食べることにより、発作時の劇的な痛みを軽減し、また痛みの続く期間を短くするという説がある。また、日常的に摂取することにより、発作を抑え、痛風体質の改善にも高い効果があると言われている。これは、たまねぎに多く含まれている[[クェルセチン]]の炎症抑制効果と、尿酸の増加を抑制する効果のためではないかと言われている。ただし、生のたまねぎの摂取は、体質によって胃が痛むなどの副作用もあり、この点には注意が必要である。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[整形外科学]]
* [[リウマチ学]]
* [[酸性食品とアルカリ性食品]]
* [[ニワトリ|鶏]]の[[尿酸]]塩沈着症
* [[偽痛風]]
* [[去勢]] - ヒポクラテスによる発言として、去勢すると痛風にならないとされた。
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20131116223031/http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20131113.html 尿酸値に潜む死の予言] 痛風予備軍が心筋梗塞、NHK「ためしてガッテン」、2013年11月13日
* 谷口敦夫、「[https://doi.org/10.1254/fpj.136.330 ガイドラインに基づく高尿酸血症・痛風の治療]」 『日本薬理学雑誌』 2010年 136巻 6号 p.330-334, {{doi|10.1254/fpj.136.330}}
* [http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/7219473.stm Gout surge blamed on sweet drinks] BBCニュース、2008年2月1日、「医者は痛風の患者さんに、砂糖の摂取を減らすように勧めるべきである」{{en icon}}
*「[https://www.tufu.or.jp/gout/gout1/37 痛風とはどんな病気?]」痛風・尿酸財団
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:つうふう}}
[[Category:痛風|*]]
[[Category:代謝内分泌疾患]]
[[Category:関節炎]]
[[Category:食生活と健康]]
[[Category:尿酸]]
{{腎泌尿器疾患}}
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2003-09-15T22:48:33Z
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2023-11-28T17:15:32Z
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ヘパリン
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ヘパリン (heparin) は抗凝固薬の一つであり、血栓塞栓症や播種性血管内凝固症候群 (DIC) の治療、人工透析、体外循環での凝固防止などに用いられる。ヘパリンの原料は牛や豚の腸粘膜から採取されるが、牛海綿状脳症 (BSE) 発生後の現在は健康な豚から採取されたものがほとんどである。
肝細胞から発見されたため "heparin" と名付けられた(hepato- は「肝の」という意味)が、小腸、筋肉、肺、脾や肥満細胞など体内で幅広く存在する。化学的にはグリコサミノグリカンであるヘパラン硫酸の一種であり、β-D-グルクロン酸あるいは α-L-イズロン酸と D-グルコサミンが 1,4 結合により重合した高分子で、ヘパラン硫酸と比べて硫酸化の度合いが特に高いという特徴がある。この分子中に多数含まれる硫酸基が負に帯電しているため、種々の生理活性物質と相互作用する。
生体内において肝臓で生成される。ヘパリンは細胞表面に存在し、種々の細胞外マトリクスタンパク質と相互作用している。それらのタンパク質の中には、上記の抗凝固作用に関与する凝固系や線溶系のタンパク質の他に、種々の成長因子、脂質代謝関連タンパク質など100を超える種類のタンパク質が含まれ、細胞増殖や脂質代謝にも関与している。
アンチトロンビンを活性化し、抗凝血作用能の賦活を通して凝固系を抑制する(APTTを延長する)。アンチトロンビンIIIはトロンビン、第Xa因子(第X因子の活性型)およびその他のセリンプロテアーゼを、その活性セリン部位と結合することで阻害する。ヘパリンはこのアンチトロンビンIIIと結合し、構造を変化させて阻害作用を活性化する。トロンビンはヘパリン-アンチトロンビンIII複合体に対して、第Xa因子よりも高い親和性を有する。
トロンビンの阻害には、アンチトロンビンIIIおよびトロンビンの両分子がヘパリンに結合している必要があるが、第Xa因子の阻害では、ヘパリンと第Xa因子の結合は必要でなく、ヘパリンとアンチトロンビンIIIの結合だけでよい。
低分子量ヘパリン (LMWH, Low Molecular Weight Heparin) は出血の副作用が少なく、近年使用頻度が増えてきている。低分子量ヘパリンは、糖鎖が短いためアンチトロンビンIIIとは結合できるが、トロンビンとは結合できないことから、トロンビンの作用を阻害せず、アンチトロンビンIIIとヘパリンの結合のみでよい第Xa因子の作用は阻害する。
ヘパリンは、分子サイズが大きく表面電荷が高いために腸管からは吸収されない。したがって、通常静脈内注射あるいは皮下注射により投与される。ただし、筋肉注射は血腫の危険性が高いため行われない。
未分画ヘパリンの静脈内投与は、血液中からの急速な消失相とそれに続く緩慢な消失相がある。前者は上皮細胞やマクロファージへの結合で、後者は腎臓からの排泄に起因する。静脈内投与では、作用が速やかに現れるが、皮下投与では作用が現れるまで約60分要する。血中半減期は約40–90分である。
低分子量ヘパリンは、皮下注射により投与され、未分画ヘパリンよりも長い半減期(腎排泄のみ)を有する。その消失は一相性であり、血中濃度の予測が未分画ヘパリンよりも容易で、急速な消失がないため投与頻度も少なくて済む。また、低分子量ヘパリンはAPTTを延長しない。
血栓塞栓症や播種性血管内凝固症候群 (DIC) の治療、人工透析、人工心肺での凝固防止などに、日常的に広く用いられている。採血した血液の凝固防止にも用いられる。
ヘパリン置換とは、抗血小板薬や抗凝固薬を服用している患者が外科手術や内視鏡的治療を受ける際に、これらの薬をヘパリンに変更すること。ヘパリンブリッジとも呼ばれる。術前に抗血小板薬や抗凝固薬を服用している患者は、凝固系の働きが抑えられているため、外科手術や内視鏡的治療によって出血してしまうと、止血に難渋する、と考えられてきた。ワーファリンなどの薬がその対象であるが、半減期が長いため手術の数日前から服用を止めなければ周術期の出血リスクが高まる。
抗凝固薬の休薬ができる場合は休薬とするが、血栓塞栓症のハイリスク患者では逆に周術期の血栓塞栓症リスクが高まる。そこで、内服している抗凝固薬の代わりにヘパリンを経静脈投与することでそのリスクを減らすべきとされてきた。
抗凝固薬であるワーファリンと同じ抗凝固薬であり、半減期が短いヘパリンで置換することに関しては病態生理学的合理性があるが、抗血小板薬を作用機序の異なるヘパリンで置換することに関しては、半減期が短い抗血小板薬が臨床的に利用できない現状、ヘパリンで代替するしかなく、賛否両論が長く続いてきた。しかし、ヘパリン置換による有益性を示すエビデンスがほとんど報告されていないことから、近年は、抗血小板薬の内服はできるだけ継続し、ヘパリン置換は行わないことが各種ガイドラインで推奨されている。
硫酸プロタミン(英語版)がヘパリンの抗凝固作用を打ち消すために投与されてきた(過去6時間以内に投与されたヘパリン100単位あたり1mg)。ヘパリンを過剰投与された患者やヘパリンが不要になった患者に、その作用を逆転させる目的で使用される。
ヘパリンの重大な副作用として、血小板が免疫反応の標的となり血小板が分解されて血小板減少症を引き起こすヘパリン起因性血小板減少症(HIT)が知られている。不顕性の血小板数減少と症候性の血栓症(動静脈血栓の発生、増加、拡大)を特徴とする。この症状は通常、投与を中止すると回復し、一般に合成ヘパリンを使用することで回避できる。また、ヘパリン使用初期に良性の血小板減少症がみられるが、これはヘパリンを中止しなくても消失する。
他の副作用として、2つの非出血性副作用が知られている。一つは血清アミノ基転移酵素値の上昇で、ヘパリン投与患者の80%に見られると報告されている。この異常は肝機能障害とは無関係であり、本剤の投与を中止すると消失する。もう一つの合併症は高カリウム血症で、ヘパリン投与患者の5 - 10%に認められ、ヘパリンによるアルドステロン抑制の結果である。高カリウム血症は、ヘパリン治療開始後数日以内に現れることが多い。さらに稀に、慢性的な使用により脱毛や骨多孔症が起こり得る。
多くの薬剤と同様に、ヘパリンの過剰摂取は致命的となる可能性がある。2006年9月、インディアナポリスの病院で3人の早産児が誤ってヘパリンを過剰投与され死亡し、ヘパリンは世界的に注目された。
ヘパリンは下記の患者には禁忌である。
ヘパリンは分子量3 - 30kDaのポリマーであるが、市販されている多くのヘパリン製剤の平均分子量は12 - 15kDaの範囲にある。ヘパリンはグリコサミノグリカンという糖質(近縁の分子であるヘパラン硫酸を含む)の一員であり、可変的に硫酸化された繰り返し2糖単位から構成されている。ヘパリンに存在する主な2糖単位を以下に示す。最も一般的な2糖単位は、2-O-硫酸化イズロン酸(IdoA)と6-O-硫酸化、N-硫酸化グルコサミン(GlcN)、IdoA(2S)-GlcNS(6S)から構成される。例えば、牛肺由来のヘパリンの85%、豚腸管粘膜由来のヘパリンの約75%がこれで構成されている。
3-O-硫酸化グルコサミン(GlcNS(3S,6S))や遊離アミン基(GlcNH)を含む2糖類も稀に存在するが、以下に示していない。生理的条件下では、エステル硫酸基とアミド硫酸基は脱プロトン化され、正電荷の対イオンを引きつけ、ヘパリン塩を形成する。ヘパリンは通常この形で抗凝固剤として投与される。
ヘパリン1単位(ハウエル単位)は、純ヘパリン0.002mgにほぼ相当する量であり、猫の血液1mlを0°Cで24時間保持するのに必要な量である。
ヘパリンの立体構造は、オリゴ糖の内部に位置するイズロン酸が2つの低エネルギーの立体配座のどちらかで存在するため、複雑である。この立体配座平衡は、隣接するグルコサミン糖の硫酸化状態に影響される。しかしながら、6つのGlcNS(6S)-IdoA(2S)繰り返しユニットからなるヘパリン12糖の溶液構造がNMR分光法と分子モデリング技術の組み合わせにより決定されている。すべてのIdoA(2S)がS0立体配座にあるモデル(右図のAおよびB)と、C4立体配座にあるモデル(以下のCおよびD)の2つのモデルが構築された。しかし、これらの立体配座間の変化が協調的に起こることを示す証拠はない。これらのモデルは、タンパク質データバンクコード1HPNに対応している。
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"text": "ヘパリン (heparin) は抗凝固薬の一つであり、血栓塞栓症や播種性血管内凝固症候群 (DIC) の治療、人工透析、体外循環での凝固防止などに用いられる。ヘパリンの原料は牛や豚の腸粘膜から採取されるが、牛海綿状脳症 (BSE) 発生後の現在は健康な豚から採取されたものがほとんどである。",
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"text": "肝細胞から発見されたため \"heparin\" と名付けられた(hepato- は「肝の」という意味)が、小腸、筋肉、肺、脾や肥満細胞など体内で幅広く存在する。化学的にはグリコサミノグリカンであるヘパラン硫酸の一種であり、β-D-グルクロン酸あるいは α-L-イズロン酸と D-グルコサミンが 1,4 結合により重合した高分子で、ヘパラン硫酸と比べて硫酸化の度合いが特に高いという特徴がある。この分子中に多数含まれる硫酸基が負に帯電しているため、種々の生理活性物質と相互作用する。",
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"text": "アンチトロンビンを活性化し、抗凝血作用能の賦活を通して凝固系を抑制する(APTTを延長する)。アンチトロンビンIIIはトロンビン、第Xa因子(第X因子の活性型)およびその他のセリンプロテアーゼを、その活性セリン部位と結合することで阻害する。ヘパリンはこのアンチトロンビンIIIと結合し、構造を変化させて阻害作用を活性化する。トロンビンはヘパリン-アンチトロンビンIII複合体に対して、第Xa因子よりも高い親和性を有する。",
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"text": "低分子量ヘパリン (LMWH, Low Molecular Weight Heparin) は出血の副作用が少なく、近年使用頻度が増えてきている。低分子量ヘパリンは、糖鎖が短いためアンチトロンビンIIIとは結合できるが、トロンビンとは結合できないことから、トロンビンの作用を阻害せず、アンチトロンビンIIIとヘパリンの結合のみでよい第Xa因子の作用は阻害する。",
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"title": "薬物動態"
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"text": "低分子量ヘパリンは、皮下注射により投与され、未分画ヘパリンよりも長い半減期(腎排泄のみ)を有する。その消失は一相性であり、血中濃度の予測が未分画ヘパリンよりも容易で、急速な消失がないため投与頻度も少なくて済む。また、低分子量ヘパリンはAPTTを延長しない。",
"title": "薬物動態"
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"text": "血栓塞栓症や播種性血管内凝固症候群 (DIC) の治療、人工透析、人工心肺での凝固防止などに、日常的に広く用いられている。採血した血液の凝固防止にも用いられる。",
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"text": "ヘパリン置換とは、抗血小板薬や抗凝固薬を服用している患者が外科手術や内視鏡的治療を受ける際に、これらの薬をヘパリンに変更すること。ヘパリンブリッジとも呼ばれる。術前に抗血小板薬や抗凝固薬を服用している患者は、凝固系の働きが抑えられているため、外科手術や内視鏡的治療によって出血してしまうと、止血に難渋する、と考えられてきた。ワーファリンなどの薬がその対象であるが、半減期が長いため手術の数日前から服用を止めなければ周術期の出血リスクが高まる。",
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"text": "抗凝固薬であるワーファリンと同じ抗凝固薬であり、半減期が短いヘパリンで置換することに関しては病態生理学的合理性があるが、抗血小板薬を作用機序の異なるヘパリンで置換することに関しては、半減期が短い抗血小板薬が臨床的に利用できない現状、ヘパリンで代替するしかなく、賛否両論が長く続いてきた。しかし、ヘパリン置換による有益性を示すエビデンスがほとんど報告されていないことから、近年は、抗血小板薬の内服はできるだけ継続し、ヘパリン置換は行わないことが各種ガイドラインで推奨されている。",
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"text": "硫酸プロタミン(英語版)がヘパリンの抗凝固作用を打ち消すために投与されてきた(過去6時間以内に投与されたヘパリン100単位あたり1mg)。ヘパリンを過剰投与された患者やヘパリンが不要になった患者に、その作用を逆転させる目的で使用される。",
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"text": "ヘパリンの重大な副作用として、血小板が免疫反応の標的となり血小板が分解されて血小板減少症を引き起こすヘパリン起因性血小板減少症(HIT)が知られている。不顕性の血小板数減少と症候性の血栓症(動静脈血栓の発生、増加、拡大)を特徴とする。この症状は通常、投与を中止すると回復し、一般に合成ヘパリンを使用することで回避できる。また、ヘパリン使用初期に良性の血小板減少症がみられるが、これはヘパリンを中止しなくても消失する。",
"title": "副作用"
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"text": "他の副作用として、2つの非出血性副作用が知られている。一つは血清アミノ基転移酵素値の上昇で、ヘパリン投与患者の80%に見られると報告されている。この異常は肝機能障害とは無関係であり、本剤の投与を中止すると消失する。もう一つの合併症は高カリウム血症で、ヘパリン投与患者の5 - 10%に認められ、ヘパリンによるアルドステロン抑制の結果である。高カリウム血症は、ヘパリン治療開始後数日以内に現れることが多い。さらに稀に、慢性的な使用により脱毛や骨多孔症が起こり得る。",
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"text": "ヘパリンは下記の患者には禁忌である。",
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"text": "ヘパリンは分子量3 - 30kDaのポリマーであるが、市販されている多くのヘパリン製剤の平均分子量は12 - 15kDaの範囲にある。ヘパリンはグリコサミノグリカンという糖質(近縁の分子であるヘパラン硫酸を含む)の一員であり、可変的に硫酸化された繰り返し2糖単位から構成されている。ヘパリンに存在する主な2糖単位を以下に示す。最も一般的な2糖単位は、2-O-硫酸化イズロン酸(IdoA)と6-O-硫酸化、N-硫酸化グルコサミン(GlcN)、IdoA(2S)-GlcNS(6S)から構成される。例えば、牛肺由来のヘパリンの85%、豚腸管粘膜由来のヘパリンの約75%がこれで構成されている。",
"title": "化学的特徴"
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"title": "化学的特徴"
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"text": "ヘパリン1単位(ハウエル単位)は、純ヘパリン0.002mgにほぼ相当する量であり、猫の血液1mlを0°Cで24時間保持するのに必要な量である。",
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"text": "ヘパリンの立体構造は、オリゴ糖の内部に位置するイズロン酸が2つの低エネルギーの立体配座のどちらかで存在するため、複雑である。この立体配座平衡は、隣接するグルコサミン糖の硫酸化状態に影響される。しかしながら、6つのGlcNS(6S)-IdoA(2S)繰り返しユニットからなるヘパリン12糖の溶液構造がNMR分光法と分子モデリング技術の組み合わせにより決定されている。すべてのIdoA(2S)がS0立体配座にあるモデル(右図のAおよびB)と、C4立体配座にあるモデル(以下のCおよびD)の2つのモデルが構築された。しかし、これらの立体配座間の変化が協調的に起こることを示す証拠はない。これらのモデルは、タンパク質データバンクコード1HPNに対応している。",
"title": "化学的特徴"
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ヘパリン (heparin) は抗凝固薬の一つであり、血栓塞栓症や播種性血管内凝固症候群 (DIC) の治療、人工透析、体外循環での凝固防止などに用いられる。ヘパリンの原料は牛や豚の腸粘膜から採取されるが、牛海綿状脳症 (BSE) 発生後の現在は健康な豚から採取されたものがほとんどである。 肝細胞から発見されたため "heparin" と名付けられたが、小腸、筋肉、肺、脾や肥満細胞など体内で幅広く存在する。化学的にはグリコサミノグリカンであるヘパラン硫酸の一種であり、β-D-グルクロン酸あるいは α-L-イズロン酸と D-グルコサミンが 1,4 結合により重合した高分子で、ヘパラン硫酸と比べて硫酸化の度合いが特に高いという特徴がある。この分子中に多数含まれる硫酸基が負に帯電しているため、種々の生理活性物質と相互作用する。 生体内において肝臓で生成される。ヘパリンは細胞表面に存在し、種々の細胞外マトリクスタンパク質と相互作用している。それらのタンパク質の中には、上記の抗凝固作用に関与する凝固系や線溶系のタンパク質の他に、種々の成長因子、脂質代謝関連タンパク質など100を超える種類のタンパク質が含まれ、細胞増殖や脂質代謝にも関与している。
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{{Drugbox|drug_name=ヘパリン|image=Heparin.svg|CAS_number=9005-49-6|KEGG=D07510|PubChemSubstance=96024437|ChEBI=28304|chemical_formula=(C<sub>26</sub>H<sub>40</sub>N<sub>2</sub>O<sub>36</sub>S<sub>5</sub>)<sub>n</sub>|image2=|caption=ヘパリンの基本単位 (例)|molecular_weight=1116.91×n<br/>約3,000 - 35,000Da<ref>{{Cite journal|author=辻肇|year=2008|title=ヘパリン類の適正使用|url=http://jsth.org/publications/pdf/tokusyu/19_2.187.2008.pdf|journal=日本血栓止血学会誌|volume=19|issue=2|page=187-190}}</ref>|日化辞番号=J293.322E}}{{Drugbox|drug_name=ヘパリンナトリウム|CAS_number=9041-08-1|PubChemSubstance=7849173|KEGG=D02112|日化辞番号=J209.198D}}
'''ヘパリン''' (heparin) は[[抗凝固薬]]の一つであり、[[血栓塞栓症]]や[[播種性血管内凝固症候群]] (DIC) の治療、[[人工透析]]、[[人工心肺装置|体外循環]]での凝固防止などに用いられる。ヘパリンの原料は牛や豚の腸粘膜から採取されるが、[[牛海綿状脳症]] (BSE) 発生後の現在は健康な豚から採取されたものがほとんどである。
[[肝]]細胞から発見されたため "heparin" と名付けられた(hepato- は「肝の」という意味)が、[[小腸]]、[[筋肉]]、[[肺]]、[[脾]]や[[肥満細胞]]など体内で幅広く存在する。化学的には[[グリコサミノグリカン]]である[[ヘパラン硫酸]]の一種であり、β-<small>D</small>-[[グルクロン酸]]あるいは α-<small>L</small>-[[イズロン酸]]と <small>D</small>-[[グルコサミン]]が 1,4 結合により重合した高分子で、ヘパラン硫酸と比べて[[硫酸]]化の度合いが特に高いという特徴がある。この分子中に多数含まれる硫酸基が負に帯電しているため、種々の生理活性物質と相互作用する。
生体内において肝臓で生成される。ヘパリンは[[細胞]]表面に存在し、種々の[[細胞外マトリクス]]タンパク質と相互作用している。それらのタンパク質の中には、上記の抗凝固作用に関与する凝固系や線溶系のタンパク質の他に、種々の[[成長因子]]、[[脂質]]代謝関連タンパク質など100を超える種類のタンパク質が含まれ、[[増殖|細胞増殖]]や脂質代謝にも関与している。
== 歴史 ==
* [[1916年]]、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]の医学生ジェイ・マクリーン([[w:Jay McLean|Jay McLean]])が[[イヌ]]の肝臓から抗凝固物質ヘパリンを発見した。
== 作用機序 ==
[[画像:Antithrom+heparin.jpeg|thumb|250px|アンチトロンビンとヘパリン(右側面)の複合体]]
[[アンチトロンビン]]を活性化し、抗凝血作用能の賦活を通して凝固系を抑制する([[APTT]]を延長する)。アンチトロンビンIIIは[[トロンビン]]、[[第Xa因子]]([[第X因子]]の活性型)およびその他のセリンプロテアーゼを、その活性セリン部位と結合することで阻害する。ヘパリンはこのアンチトロンビンIIIと結合し、構造を変化させて阻害作用を活性化する。トロンビンはヘパリン-アンチトロンビンIII複合体に対して、第Xa因子よりも高い親和性を有する。
トロンビンの阻害には、アンチトロンビンIIIおよびトロンビンの両分子がヘパリンに結合している必要があるが、第Xa因子の阻害では、ヘパリンと第Xa因子の結合は必要でなく、ヘパリンとアンチトロンビンIIIの結合だけでよい。
[[低分子量ヘパリン]] (LMWH, Low Molecular Weight Heparin) は出血の副作用が少なく、近年使用頻度が増えてきている。低分子量ヘパリンは、[[糖鎖]]が短いためアンチトロンビンIIIとは結合できるが、トロンビンとは結合できないことから、トロンビンの作用を阻害せず、アンチトロンビンIIIとヘパリンの結合のみでよい第Xa因子の作用は阻害する。
== 薬物動態 ==
ヘパリンは、分子サイズが大きく表面電荷が高いために腸管からは吸収されない。したがって、通常静脈内[[注射]]あるいは皮下注射により投与される。ただし、筋肉注射は[[血腫]]の危険性が高いため行われない。
未分画ヘパリンの静脈内投与は、血液中からの急速な消失相とそれに続く緩慢な消失相がある。前者は[[上皮細胞]]や[[マクロファージ]]への結合で、後者は[[腎臓]]からの排泄に起因する。静脈内投与では、作用が速やかに現れるが、皮下投与では作用が現れるまで約60分要する。血中[[半減期 (薬学)|半減期]]は約40–90分である。
低分子量ヘパリンは、皮下注射により投与され、未分画ヘパリンよりも長い半減期(腎排泄のみ)を有する。その消失は一相性であり、血中濃度の予測が未分画ヘパリンよりも容易で、急速な消失がないため投与頻度も少なくて済む。また、低分子量ヘパリンは[[活性化部分トロンボプラスチン時間|APTT]]を延長しない。
== 用途 ==
[[血栓塞栓症]]や[[播種性血管内凝固症候群]] (DIC) の治療、[[人工透析]]、[[人工心肺装置|人工心肺]]での凝固防止などに、日常的に広く用いられている。採血した血液の凝固防止にも用いられる。
=== ヘパリン置換 ===
'''ヘパリン置換'''とは、[[抗血小板剤|抗血小板薬]]や[[抗凝固薬]]を服用している患者が外科手術や[[内視鏡]]的治療を受ける際に、これらの薬を'''ヘパリン'''に変更すること。'''ヘパリンブリッジ'''とも呼ばれる。術前に抗血小板薬や抗凝固薬を服用している患者は、凝固系の働きが抑えられているため、外科手術や内視鏡的治療によって出血してしまうと、止血に難渋する、と考えられてきた。[[ワルファリン|ワーファリン]]などの薬がその対象であるが、半減期が長いため手術の数日前から服用を止めなければ[[周術期]]の出血リスクが高まる。
抗凝固薬の休薬ができる場合は休薬とするが、血栓塞栓症のハイリスク患者では逆に周術期の血栓塞栓症リスクが高まる。そこで、内服している抗凝固薬の代わりにヘパリンを経静脈投与することでそのリスクを減らすべきとされてきた。
==== ヘパリンを用いることの利点 ====
* 半減期が短く、抗凝固作用が可逆的であるため、術前の4 - 6時間前まで継続できる。
* 拮抗薬として[[硫酸プロタミン]](英語版)があり、効果時間の調整や過剰投与した際に中和することができる<ref name="名前なし-20230316104333">''Internal medicine'', Jay H. Stein, p. 635</ref>。
===== 抗血小板療法に対するヘパリン置換の衰退 =====
抗凝固薬であるワーファリンと同じ抗凝固薬であり、半減期が短いヘパリンで置換することに関しては病態生理学的合理性があるが、抗血小板薬を作用機序の異なるヘパリンで置換することに関しては、半減期が短い抗血小板薬が臨床的に利用できない現状、ヘパリンで代替するしかなく、賛否両論が長く続いてきた。しかし、ヘパリン置換による有益性を示すエビデンスがほとんど報告されていないことから、近年は、抗血小板薬の内服はできるだけ継続し、ヘパリン置換は行わないことが各種ガイドラインで推奨されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-circ.or.jp/cms/wp-content/uploads/2022/03/JCS2022_hiraoka.pdf |title=2022年改訂版 非心臓手術における合併心疾患の評価と管理に関するガイドライン |access-date=2023-01-22 |publisher=日本循環器学会 |page=53}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://minds.jcqhc.or.jp/docs/gl_pdf/G0001242/4/Exdontia_in_patient_with_antithrombotic_treatment.pdf |title=抗血栓療法患者の抜歯に関するガイドライン 2020年版 |access-date=2023-01-22 |publisher=日本有病者歯科医療学会}}</ref>。
=== ヘパリンの拮抗薬 ===
[[硫酸プロタミン]](英語版)がヘパリンの抗凝固作用を打ち消すために投与されてきた(過去6時間以内に投与されたヘパリン100単位あたり1mg)<ref name="名前なし-20230316104333"/>。ヘパリンを過剰投与された患者やヘパリンが不要になった患者に、その作用を逆転させる目的で使用される<ref>{{cite web |title=Protamine Sulfate |url=https://www.drugs.com/monograph/protamine-sulfate.html |publisher=The American Society of Health-System Pharmacists |access-date=8 December 2016 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20161106063702/https://www.drugs.com/monograph/protamine-sulfate.html |archive-date=6 November 2016}}</ref>。
== 副作用 ==
ヘパリンの重大な副作用として、[[血小板]]が免疫反応の標的となり血小板が分解されて血小板減少症を引き起こす[[ヘパリン起因性血小板減少症]](HIT)が知られている。不顕性の血小板数減少と症候性の[[血栓症]](動静脈血栓の発生、増加、拡大)を特徴とする。この症状は通常、投与を中止すると回復し、一般に合成ヘパリンを使用することで回避できる。また、ヘパリン使用初期に良性の血小板減少症がみられるが、これはヘパリンを中止しなくても消失する。
他の副作用として、2つの非出血性副作用が知られている。一つは血清[[アミノ基転移酵素]]値の上昇で、ヘパリン投与患者の80%に見られると報告されている。この異常は肝機能障害とは無関係であり、本剤の投与を中止すると消失する。もう一つの合併症は[[高カリウム血症]]で、ヘパリン投与患者の5 - 10%に認められ、ヘパリンによるアルドステロン抑制の結果である。高カリウム血症は、ヘパリン治療開始後数日以内に現れることが多い。さらに稀に、慢性的な使用により[[脱毛]]や[[骨多孔症]]が起こり得る。
多くの薬剤と同様に、ヘパリンの過剰摂取は致命的となる可能性がある。2006年9月、インディアナポリスの病院で3人の早産児が誤ってヘパリンを過剰投与され死亡し、ヘパリンは世界的に注目された<ref>{{cite news|vauthors=Kusmer K|publisher=Fox News|agency=Associated Press|title=3rd Ind. preemie infant dies of overdose|url=http://www.foxnews.com/story/0,2933,214729,00.html|date=20 September 2006|access-date=2007-01-08|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20071018064124/http://www.foxnews.com/story/0,2933,214729,00.html|archive-date=2007-10-18}}</ref>。
=== 禁忌 ===
ヘパリンは下記の患者には禁忌である。
* 出血している患者
** 血小板減少性紫斑病、血管障害による出血傾向、血友病その他の血液凝固障害(汎発性血管内血液凝固症候群<DIC>を除く)、月経期間中、手術時、消化管潰瘍、尿路出血、喀血、流早産・分娩直後など性器出血を伴う妊産褥婦、頭蓋内出血の疑いのある患者など
* 出血する可能性のある患者
** 内臓腫瘍、消化管の憩室炎、大腸炎、亜急性細菌性心内膜炎、重症高血圧症、重症糖尿病の患者など
* 重篤な肝障害のある患者
* 重篤な腎障害のある患者
* 中枢神経系の手術または外傷後日の浅い患者
* 製剤成分に対し過敏症の既往歴のある患者
* ヘパリン起因性血小板減少症(HIT:heparin-induced thrombocytopenia)の既往歴のある患者
== 化学的特徴 ==
=== 分子構造 ===
[[ファイル:Heparin_ball-and-stick.png|右|サムネイル|270x270ピクセル|ヘパリンの[[球棒モデル]]]]
ヘパリンは[[分子量]]3 - 30[[統一原子質量単位|kDa]]のポリマーであるが、市販されている多くのヘパリン製剤の平均分子量は12 - 15kDaの範囲にある<ref name="Francis">{{cite book|vauthors=Francis CW, Kaplan KL|chapter=Chapter 21. Principles of Antithrombotic Therapy|veditors=Lichtman MA, Beutler E, Kipps TJ|title=Williams Hematology|edition=7th|year=2006|chapter-url=http://www.accessmedicine.com/content.aspx?aID=2138678|isbn=978-0-07-143591-8|display-editors=etal|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20110707080715/http://www.accessmedicine.com/content.aspx?aID=2138678|archive-date=2011-07-07}}</ref>。ヘパリンは[[グリコサミノグリカン]]という糖質(近縁の分子である[[ヘパラン硫酸]]を含む)の一員であり、可変的に硫酸化された繰り返し[[二糖類|2糖]]単位から構成されている<ref>{{cite journal|year=2000|title=Synthesis and heparin-like biological activity of amino acid-based polymers|journal=Polymers for Advanced Technologies|volume=11|issue=8–12|pages=377–387|doi=10.1002/1099-1581(200008/12)11:8/12<377::AID-PAT985>3.0.CO;2-D|vauthors=Bentolila A, Vlodavsky I, Haloun C, Domb AJ}}</ref>。ヘパリンに存在する主な2糖単位を以下に示す。最も一般的な2糖単位は、2-''O''-硫酸化[[イズロン酸]](IdoA)と6-''O''-硫酸化、''N''-硫酸化[[グルコサミン]](GlcN)、IdoA(2S)-GlcNS(6S)から構成される。例えば、牛肺由来のヘパリンの85%、豚腸管粘膜由来のヘパリンの約75%がこれで構成されている<ref name="GattiCasu1979">{{cite journal|year=1979|title=Studies on the Conformation of Heparin by1H and13C NMR Spectroscopy|journal=Macromolecules|volume=12|issue=5|pages=1001–1007|bibcode=1979MaMol..12.1001G|doi=10.1021/ma60071a044|issn=0024-9297|vauthors=Gatti G, Casu B, Hamer GK, Perlin AS}}</ref>。
3-O-硫酸化グルコサミン(GlcNS(3S,6S))や遊離アミン基(GlcNH<sup>3+</sup>)を含む2糖類も稀に存在するが、以下に示していない。生理的条件下では、エステル硫酸基とアミド硫酸基は脱プロトン化され、正電荷の対イオンを引きつけ、ヘパリン塩を形成する。ヘパリンは通常この形で抗凝固剤として投与される。<gallery>
File:GlcA-GlcNAc.png|<center>'''GlcA-GlcNAc'''</center>
File:GlcA-GlcNS.png|<center>'''GlcA-GlcNS'''</center>
File:IdoA-GlcNS.png|<center>'''IdoA-GlcNS'''</center>
File:IdoA(2S)-GlcNS.png|<center>'''IdoA(2S)-GlcNS'''</center>
File:IdoA-GlcNS(6S).png|<center>'''IdoA-GlcNS(6S)'''</center>
File:IdoA(2S)-GlcNS(6S).png|<center>'''IdoA(2S)-GlcNS(6S)'''</center>
</gallery>
:* GlcA = β-{{small|D}}-[[グルクロン酸|glucuronic acid]],
:* IdoA = α-{{small|L}}-[[イズロン酸|iduronic acid]],
:* IdoA(2S) = 2-''O''-sulfo-α-{{small|L}}-iduronic acid,G
:* lcNAc = 2-deoxy-2-acetamido-α-{{small|D}}-glucopyranosyl,
:* GlcNS = 2-deoxy-2-sulfamido-α-{{small|D}}-glucopyranosyl,
:* GlcNS(6S) = 2-deoxy-2-sulfamido-α-{{small|D}}-glucopyranosyl-6-''O''-sulfate
ヘパリン1単位(ハウエル単位)は、純ヘパリン0.002mgにほぼ相当する量であり、猫の血液1mlを0℃で24時間保持するのに必要な量である<ref>{{cite web|url=http://cancerweb.ncl.ac.uk/cgi-bin/omd?Howell+unit|archive-url=https://archive.today/20070813174048/http://cancerweb.ncl.ac.uk/cgi-bin/omd?Howell+unit|url-status=dead|archive-date=2007-08-13|title=Online Medical Dictionary|access-date=2008-07-11|publisher=Centre for Cancer Education|year=2000}}</ref>。
=== 三次元構造 ===
[[ファイル:Heparin-3D-structures.png|サムネイル|ヘパリンの立体構造]]
ヘパリンの立体構造は、オリゴ糖の内部に位置するイズロン酸が2つの低エネルギーの立体配座のどちらかで存在するため、複雑である。この立体配座平衡は、隣接するグルコサミン糖の硫酸化状態に影響される<ref>{{cite journal|date=January 1990|title=Conformer populations of L-iduronic acid residues in glycosaminoglycan sequences|journal=Carbohydrate Research|volume=195|issue=2|pages=157–67|doi=10.1016/0008-6215(90)84164-P|pmid=2331699|vauthors=Ferro DR, Provasoli A, Ragazzi M, Casu B, Torri G, Bossennec V, Perly B, Sinaÿ P, Petitou M, Choay J|display-authors=6}}</ref>。しかしながら、6つのGlcNS(6S)-IdoA(2S)繰り返しユニットからなるヘパリン12糖の溶液構造がNMR分光法と分子モデリング技術の組み合わせにより決定されている<ref>{{cite journal|date=August 1993|title=N.m.r. and molecular-modelling studies of the solution conformation of heparin|journal=The Biochemical Journal|volume=293|issue=Pt 3|pages=849–58|doi=10.1042/bj2930849|pmid=8352752|pmc=1134446|vauthors=Mulloy B, Forster MJ, Jones C, Davies DB}}</ref>。すべてのIdoA(2S)が<sup>2</sup>S<sub>0</sub>立体配座にあるモデル(右図のAおよびB)と、<sup>1</sup>C<sub>4</sub>立体配座にあるモデル(以下のCおよびD)の2つのモデルが構築された。しかし、これらの立体配座間の変化が協調的に起こることを示す証拠はない。これらのモデルは、タンパク質データバンクコード1HPNに対応している<ref>{{cite web|url=http://www.rcsb.org/pdb/files/1hpn.pdb|vauthors=Mulloy B, Forster MJ|title=N.M.R. and molecular-modeling studies of the solution conformation of heparin|accessdate=2021-12-23}}</ref>。
== 関連項目 ==
* [[ヘパリン類似物質]]
* [[低分子量ヘパリン]]
* [[軟膏剤]]
* [[ワセリン]]
* 拮抗薬:{{ill2|硫酸プロタミン|en|Protamine sulfate}}
* [[ヘパリン置換]]
== 外部リンク ==
* [http://data.cas-msds.com/Heparin.html ヘパリン研究データ]{en}
* [https://www.asahi.com/articles/ASP4G3JQQP4BULBJ008.html ワクチン後の血栓症、原因は? 薬の副作用に類似と報告(朝日新聞2021年4月15日、コロナ感染症関連記事)]
* [https://www.pmda.go.jp/files/000144347.pdf 重篤副作用疾患別対応マニュアル ヘパリン起因性血小板減少症(HIT)平成22年3月 厚生労働省]
* [https://www.pmda.go.jp/files/000143764.pdf ヘパリン起因性血小板減少症(HIT)厚生労働省]
== 参考資料 ==
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{{DEFAULTSORT:へはりん}}
[[Category:抗凝固薬]]
[[Category:生理活性物質]]
[[Category:多糖類]]
[[Category:グリコサミノグリカン]]
[[Category:硫酸エステル]]
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17,007 |
槐 (夏)
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槐(かい)は、夏朝の第8代帝。『竹書紀年』によれば、44年在位したという。
即位3年目に9種類の九夷(畎夷・於夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷)が来訪したという。
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槐(かい)は、夏朝の第8代帝。『竹書紀年』によれば、44年在位したという。 即位3年目に9種類の九夷(畎夷・於夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷)が来訪したという。
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{{基礎情報 中国君主
|名 =槐
|代数 =第8代
|呼称 =帝
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|王朝 =夏
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|諱 =夏后槐
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|注釈 =名は別に'''芬'''(ふん)とも作る
}}
'''槐'''(かい)は、[[夏 (三代)|夏朝]]の第8代帝。『[[竹書紀年]]』によれば、44年在位したという。
即位3年目に9種類の[[:zh:九夷|九夷]](畎夷・於夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷)が来訪したという。
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17,008 |
芒 (夏)
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芒(ぼう)は、夏朝の第9代帝。『竹書紀年』によれば、58年間在位した。
在位中、東海で釣りをし、大魚を得たという。
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芒(ぼう)は、夏朝の第9代帝。『竹書紀年』によれば、58年間在位した。 在位中、東海で釣りをし、大魚を得たという。
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{{基礎情報 中国君主
|名 =芒
|代数 =第9代
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'''芒'''(ぼう)は、[[夏 (三代)|夏朝]]の第9代帝。『[[竹書紀年]]』によれば、58年間在位した<ref name="zhushu_jinian">{{Cite wikisource|今本竹書紀年/夏紀#芒|wslanguage=zh}}</ref>。
在位中、東海で釣りをし、大魚を得たという<ref name="zhushu_jinian" />。
== 脚注 ==
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17,009 |
洩
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洩(せつ)は、夏朝の第10代帝。『竹書紀年』によると、在位21年。
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洩(せつ)は、夏朝の第10代帝。『竹書紀年』によると、在位21年。
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{{基礎情報 中国君主
|名 =洩
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'''洩'''(せつ)は、[[夏 (三代)|夏朝]]の第10代帝。『[[竹書紀年]]』によると、在位21年。
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17,010 |
伝通院
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伝通院(でんづういん)は、東京都文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗の寺。正式名称は、無量山 伝通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川伝通院とも。徳川将軍家の菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。
室町時代の応永22年(1415年)秋に、浄土宗第七祖の聖冏が、江戸の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の草庵で開創し、山号を無量山、寺号を寿経寺とした(現在、この場所には徳川家康の側室茶阿の局の菩提寺・吉水山宗慶寺がある)。開山は、弟子である聖聡(増上寺の開山上人)の切望によるものという。本尊は、平安時代の僧・源信(恵心僧都)作とされる阿弥陀如来像。
慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は久松俊勝菩提寺の安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨をこの地に埋葬し、現在まで残る墓を建立。寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、安楽寺住職から受けた彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。
家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師(慈昌)の言上を受けて、伝通院の建立を決めたという。慶長13年(1608年)9月15日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧廓山(後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。
寺は江戸幕府から寺領約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位紫衣を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。境内には徳川氏ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされている。元和9年(1623年)に830石に加増されている。また慶長18年(1613年)には増上寺から学僧300人が移されて関東十八檀林の上席に指定され、檀林(仏教学問所)として多いときには1000人もの学僧が修行していたといわれている。正保4年(1647年)に三代将軍家光の次男亀松が葬られてからは、さらに幕府の加護を受けて伽藍などが増築されていった。享保6年(1721年)と享保10年(1725年)の2度も大火に遭っている。伝通院の威容は、『江戸名所図会』『無量山境内大絵図』『東都小石川絵図』の安政4年(1857年)改訂版でも知ることができる。高台の風光明媚な地であったため、富士山・江戸湾・江戸川なども眺望できたという。
幕末の文久3年(1863年)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が山内の大信寮で結成され、山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まった。塔頭処静院(しょじょういん)の住職・琳瑞は尊皇憂国の僧だったが、幕臣の子弟により暗殺された。 また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったという。
明治維新によって江戸幕府・徳川将軍家は瓦解し、その庇護は完全に失われた。明治2年(1869年)に勅願寺となるが、当時の廃仏毀釈運動(仏教排斥運動)のために塔頭・別院の多くが独立して規模がかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなった。同じ浄土宗である信濃の善光寺とも交流があった関係で、塔頭の一つ縁受院が善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっている。縁受院は明治17年(1884年)に善光寺と改称して現在に至る。明治23年(1890年)に境内に移した浄土宗の学校をもとに淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部)を創立した。また、明治時代になって墓地が一般に開放されるようになると、庶民の墓も建てられるようになった。
甘利晴彦も伝通院の近くでうまれた。家康と正誉と同じ家の嫡子である。甲府尊体寺甘利信恒徳川家康、甘利徳川家である。また文豪永井荷風は、明治12年(1879年)に伝通院の近くで生まれ、明治26年(1893年)までここで育った。その思い出は、随筆『伝通院』(明治42年頃)を生み出し、「パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院がある」と賞賛した。また、荷風は明治41年(1908年)に外遊先より帰国して数年ぶりに伝通院を訪れたが、その晩に本堂が焼失した(3度目の大火)ため、同随筆の中で「なんという不思議な縁であろう。本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」と記している。
夏目漱石は若い頃にこの近くに下宿しており、小説『こゝろ』で伝通院に言及している。幸田露伴一家は大正13年(1924年)に伝通院の近くに転居して、現在も子孫が住んでいる。
1945年(昭和20年)5月25日のアメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。1949年(昭和24年)に本堂を再建。現在の本堂は、1988年(昭和63年)に戦後2度目に再建されたもので鉄筋コンクリート造りである。2012年(平成24年)3月には山門が木造で再建された。
敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校日本指圧専門学校がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した指塚がある。ほかにも境内には、書家・中村素堂の書による碑「如是我聞」がある。
毎年春の桜や、7月に朝顔市が開かれることでも知られている。
都営地下鉄三田線春日駅・東京メトロ南北線・丸ノ内線後楽園駅6番出口より徒歩約10分(経路案内)。拝観時間は10:00~17:00。拝観料は無料。
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"text": "慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は久松俊勝菩提寺の安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨をこの地に埋葬し、現在まで残る墓を建立。寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、安楽寺住職から受けた彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。",
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"text": "1945年(昭和20年)5月25日のアメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。1949年(昭和24年)に本堂を再建。現在の本堂は、1988年(昭和63年)に戦後2度目に再建されたもので鉄筋コンクリート造りである。2012年(平成24年)3月には山門が木造で再建された。",
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"text": "敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校日本指圧専門学校がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した指塚がある。ほかにも境内には、書家・中村素堂の書による碑「如是我聞」がある。",
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伝通院(でんづういん)は、東京都文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗の寺。正式名称は、無量山 伝通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川伝通院とも。徳川将軍家の菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。
|
{{Otheruses|東京都文京区の寺院、またそれを題材にした永井荷風の随筆|徳川家康の母の伝通院|於大の方}}
{{日本の寺院
|名称 = 伝通院
|画像 = [[ファイル:Denduin20131123.jpg|260px]]
|画像説明 = 本堂
|所在地 = [[東京都]][[文京区]]小石川三丁目14番6号
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 42 | 緯度秒 = 43.9 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 44 | 経度秒 = 48.7 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
|山号 = 無量山{{sfn|江戸名所図会|1927|p=6}}
|院号 = 伝通院
|寺号 = 寿経寺{{sfn|江戸名所図会|1927|p=6}}
|宗旨 =
|宗派 = [[浄土宗]]
|本尊 = [[阿弥陀如来]]{{sfn|江戸名所図会|1927|p=6}}
|創建年 = [[応永]]22年([[1415年]])
|開山 =
|開基 =
|正式名 = 無量山伝通院寿経寺
|別称 = 小石川伝通院
|札所等 = [[江戸三十三箇所|江戸三十三観音札所]] 12番
|文化財 =
|地図 = Tokyo city
|位置=}}
'''伝通院'''(でんづういん)は、[[東京都]][[文京区]][[小石川]]三丁目の高台にある[[浄土宗]]の[[寺院|寺]]。正式名称は、'''無量山 伝通院 寿経寺'''(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または'''小石川伝通院'''とも。[[徳川将軍家]]の[[菩提寺]]。[[江戸三十三箇所|江戸三十三箇所観音札所]]の第十二番札所。
== 開山 ==
[[室町時代]]の[[応永]]22年([[1415年]])秋に、浄土宗第七祖の[[聖冏]]が、[[江戸]]の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の[[草庵]]で開創し、[[山号]]を'''無量山'''、[[寺号]]を'''寿経寺'''とした(現在、この場所には[[徳川家康]]の側室[[茶阿の局]]の菩提寺・吉水山[[宗慶寺]]がある)。開山は、弟子である[[聖聡]](増上寺の開山上人)の切望によるものという。本尊は、[[平安時代]]の[[僧]]・[[源信 (僧侶)|源信]](恵心僧都)作とされる[[阿弥陀如来]]像{{sfn|江戸名所図会|1927|p=6}}。
== 将軍家の菩提寺として ==
[[ファイル:伝通院.jpg|thumb|180px|[[於大の方]]]]
[[慶長]]7年([[1602年]])8月に徳川家康の生母・[[於大の方]]が[[京都]][[伏見城]]で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに[[江戸]]へ運び、大塚町の[[智香寺]](智光寺)で火葬した。位牌は[[久松俊勝]]菩提寺の[[安楽寺 (蒲郡市)|安楽寺]]([[愛知県]][[蒲郡市]])に置かれ、[[光岳寺]](千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年([[1603年]])に家康は母の遺骨をこの地に埋葬し、現在まで残る墓を建立。寿経寺をここに移転して[[仏堂|堂宇]](堂の建物)を建て、安楽寺住職から受けた彼女の法名「'''伝通院殿'''」にちなんで[[院号]]を'''伝通院'''とした。
家康は、当初は菩提寺である芝の[[増上寺]]に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師([[慈昌]])の言上を受けて、伝通院の建立を決めたという。慶長13年([[1608年]])9月15日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧[[廓山]](後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。
[[ファイル:Odai.jpg|180px|thumb|於大の墓]]
寺は[[江戸幕府]]から[[寺領]]約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位[[紫衣]]を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の[[寛永寺]]と並んで'''江戸の三霊山'''と称された。境内には[[徳川氏]]ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされている。[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])に830石に加増されている。また慶長18年([[1613年]])には増上寺から学僧300人が移されて[[関東十八檀林]]の上席に指定され、[[檀林]](仏教学問所)として多いときには1000人もの学僧が修行していたといわれている。[[正保]]4年([[1647年]])に三代将軍[[徳川家光|家光]]の次男亀松が葬られてからは、さらに幕府の加護を受けて伽藍などが増築されていった。[[享保]]6年([[1721年]])と享保10年([[1725年]])の2度も大火に遭っている。伝通院の威容は、『[[江戸名所図会]]』『無量山境内大絵図』『東都小石川絵図』の[[安政]]4年([[1857年]])改訂版でも知ることができる{{sfn|江戸名所図会|1927|pp=7-11}}。高台の風光明媚な地であったため、[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]・[[江戸湾]]・[[江戸川]]なども眺望できたという。
[[幕末]]の[[文久]]3年([[1863年]])2月4日、[[新撰組]]の前身となる[[浪士組]]が山内の大信寮で結成され、[[山岡鉄舟]]・[[清河八郎]]を中心に[[近藤勇]]・[[土方歳三]]・[[沖田総司]]・[[芹沢鴨]]ら250人が集まった。[[塔頭]]処静院(しょじょういん)の住職・[[琳瑞]]は尊皇憂国の僧だったが、幕臣の子弟により暗殺された。
また伝通院は、[[彰義隊]]結成のきっかけの場ともなったという。
== 明治以降の衰勢 ==
[[明治維新]]によって江戸幕府・徳川将軍家は瓦解し、その庇護は完全に失われた。[[明治]]2年([[1869年]])に[[勅願寺]]となるが、当時の[[廃仏毀釈]]運動(仏教排斥運動)のために塔頭・[[別院]]の多くが独立して規模がかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなった。同じ浄土宗である[[信濃国|信濃]]の[[善光寺]]とも交流があった関係で、塔頭の一つ縁受院が善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっている。縁受院は明治17年([[1884年]])に[[善光寺 (文京区)|善光寺]]と改称して現在に至る。明治23年([[1890年]])に境内に移した浄土宗の学校をもとに淑徳女学校(現在の[[淑徳SC中等部・高等部]]<ref>現在同地に所在するのは淑徳SC中等部・高等部(学校法人淑徳学園)だが、[[東京都]][[板橋区]]の[[淑徳中学校・高等学校]]([[学校法人大乗淑徳学園]])もルーツは同じである(1945年以降は別系統)。</ref>)を創立した。また、[[明治|明治時代]]になって墓地が一般に開放されるようになると、庶民の墓も建てられるようになった。
== 永井荷風の「伝通院」 ==
甘利晴彦も伝通院の近くでうまれた。家康と正誉と同じ家の嫡子である。甲府尊体寺甘利信恒徳川家康、甘利徳川家である。また文豪[[永井荷風]]は、[[明治]]12年([[1879年]])に伝通院の近くで生まれ、明治26年(1893年)までここで育った。その思い出は、[[随筆]]『'''伝通院'''』(明治42年頃)を生み出し、「パリに[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム]]があるように、小石川にも伝通院がある」と賞賛した。また、荷風は明治41年([[1908年]])に外遊先より帰国して数年ぶりに伝通院を訪れたが、その晩に本堂が焼失した(3度目の大火)ため、同随筆の中で「なんという不思議な縁であろう。本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」と記している。
[[夏目漱石]]は若い頃にこの近くに下宿しており、小説『[[こゝろ]]』で伝通院に言及している。[[幸田露伴]]一家は[[大正]]13年([[1924年]])に伝通院の近くに転居して、現在も子孫が住んでいる。
* その他の「伝通院」を描いた文学作品
** [[菊池寛]]『若杉裁判長』『納豆合戦』
** 佐々木味津三『右門捕物帖・首つり五人男』
** [[徳田秋声]]『新世帯』、『黴』、『足迹』
** [[岡本綺堂]]『有喜世新聞の話』
** [[宮本百合子]]『一本の花』
** [[中里介山]]『中里介山 大菩薩峠・禹門三級の巻』、『大菩薩峠・白骨の巻』
** [[夏目漱石]]『琴のそら音』、『趣味の遺伝』、『こころ』、『それから』
** [[夢野久作]]『街頭から見た新東京の裏面』
** [[二葉亭四迷]]『平凡』
== 戦災・戦後 ==
[[File:Denzū-in 01.jpg|thumb|250px|山門(2022年)]]
1945年([[昭和]]20年)5月25日の[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]による[[空襲]]で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した<ref>明治41年12月の火事により本堂が全焼している。[{{NDLDC|1920436/278}} 明治41年12月4日東京朝日新聞『新聞集成明治編年史 第十三巻』]写真あり(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。1949年(昭和24年)に本堂を再建。現在の本堂は、1988年(昭和63年)に戦後2度目に再建されたもので[[鉄筋コンクリート]]造りである。2012年([[平成]]24年)3月には山門が木造で再建された<ref>{{Cite news | url = | title = 東京大空襲で焼失 伝通院山門 67年ぶりに再建 | newspaper = [[東京新聞]] | date = 2012-03-05 | accessdate = }}</ref>。
敷地の隣に[[浪越徳治郎]]が創立した日本唯一の[[指圧]]の専門学校[[日本指圧専門学校]]がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した'''指塚'''がある。ほかにも境内には、書家・[[中村素堂]]の書による碑「如是我聞」がある。
毎年春の[[サクラ|桜]]や、7月に朝顔市が開かれることでも知られている。
== 交通 ==
都営地下鉄三田線[[春日駅 (東京都)|春日駅]]・東京メトロ南北線・丸ノ内線[[後楽園駅]]6番出口より徒歩約10分({{OSM経路図|start=35.70829,139.75202|goal=35.71245,139.74687|name=経路案内}})。拝観時間は10:00~17:00。拝観料は無料。
== ギャラリー ==
<gallery>
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 01.jpg|[[聖冏|了誉聖冏]]の墓
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 02.jpg|案内板
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 03.jpg|法蔵地蔵
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 04.jpg|指塚
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 05.jpg|本堂から見た山門
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 08.jpg|伝通院([[於大の方|於大]])の墓
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 06.jpg|[[千姫]]の墓
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 16.jpg|[[清河八郎]]の墓
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 14.jpg|[[久野久 (ピアニスト)|久野久]]の墓
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 13.jpg|[[柴田錬三郎]]の碑(墓)
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 12.jpg|[[堺屋太一]]の墓
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 17.jpg|[[佐藤春夫]]の墓
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 09.jpg|[[簡野道明]]の墓
File:Denzū-in or Denzuin Temple Bunkyo City Tokyo Japan 15.jpg|[[ジュゼッペ・キアラ]](岡本三右衛門)の碑
</gallery>
== 伝通院に埋葬された著名な人たち(没年順) ==
* [[了誉聖冏]](1341年 - 1420年) 浄土宗第七祖で、伝通院の開山上人。三日月上人・繊月上人ともいう。
* [[於大の方|伝通院]](1528年 - 1602年) 傳通院殿蓉誉光岳智香(智光)大禅定尼。家康の母。墓は本堂の左側に五輪の大塔がある。
* [[正誉廓山]](1559年 - 1625年) 伝通院の中興第一世。増上寺の十三世。
* [[初姫]](1602年 - 1630年) 2代将軍[[徳川秀忠]]の四女。
* 徳川亀松(1643年 - 1647年) 月渓院殿。3代将軍[[徳川家光]]の次男。
* お夏の方(1581年 - 1660年) 於奈津、清雲院殿。家康の側室。
* [[千姫]](1597年 - 1666年) 天樹院殿栄譽源法松山禅定尼。2代将軍徳川秀忠の長女、豊臣秀頼・本多忠刻の妻。
* [[鷹司孝子]](1602年 - 1674年) 本理院殿照譽円光徹心大禅定尼。3代将軍徳川家光の正室。
* [[藤井徳昭|藤井紋太夫]](? - 1694年) 光含院。[[水戸徳川家]]の家老。主君[[徳川光圀]]によって刺殺される。
* [[葛西因是]](1764年 - 1823年) 儒学者。
* [[清河八郎]](1830年 - 1863年) 幕末の勤皇志士、[[浪士組]]の創設者。首だけ埋葬。
* 阿蓮(おれん、1839年 - 1862年) 清河八郎の妻。
* [[澤宣嘉]](1835年 - 1873年) 幕末の公卿([[七卿落ち]]・[[生野の変]])、明治期の政治家。
* [[大原重実]](1833年 - 1877年)幕末の[[公家]]である[[大原重徳]]の子。自宅で強盗に刺殺された。大原家の墓所は[[谷中霊園]]にあるため、墓石は無縁塔に移されている。
* [[杉浦重剛]](1855年 - 1924年) 思想家・教育者。
* [[久野久 (ピアニスト)]](1886年 - 1925年) 日本初のピアニスト。無縁墓となっている。
* [[古泉千樫]](1886年 - 1927年) 歌人。
* [[簡野道明]](1865年 - 1938年) 漢学者。
* [[大海原重義]](1882年 - 1940年)[[内務官僚]]・[[知事]]。旧[[彦根藩|彦根藩士]]で、[[近江鉄道]]や[[大日本製糖]]の重役を務めた[[大海原尚義]]の子。
* [[千種任子]](1855年 - 1944年) [[明治天皇]]側室(権典侍)・[[滋宮韶子内親王]](明治天皇第三皇女)・[[増宮章子内親王]](明治天皇第四皇女)の生母。
* [[佐藤春夫]](1892年 - 1964年) 詩人・作家。永井荷風に師事。
* [[高畠達四郎]](1895年 - 1976年) 洋画家。
* [[柴田錬三郎]](1917年 - 1978年) 直木賞作家。「眠狂四郎無頼控」の作者。
* [[橋本明治]](1904年 - 1991年) 日本画家。
* [[浪越徳治郎]](1905年 - 2000年) 指圧療法の確立者。
* [[矢数道明]](1905年 - 2002年) 医師。東洋医学、漢方医学者。
* [[榮久庵憲司]](1929年 - 2015年)[[工業デザイナー]]。[[キッコーマン]]の卓上醤油瓶などを発明。[[僧侶]]の家系。
* [[堺屋太一]](1935年 - 2019年)[[経済産業省|通産官僚]]。[[小説家]]。[[評論家]]。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連文献 ==
* {{cite book|和書|title=[[江戸名所図会]]|id={{NDLJP|1174157/8}}|publisher=有朋堂書店|editor=斎藤長秋|volume=3|series=有朋堂文庫|year=1927|chapter=巻之四 天権之部 無量院伝通院|pages=6-15|ref={{sfnref|江戸名所図会|1927}}}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Denzū-in}}
* [http://www.denzuin.or.jp/ 傳通院ホームページ]
* [http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_jisha_denzuin.html 文京の観光案内 伝通院](文京区による紹介)
* [http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49653_38960.html 永井荷風『伝通院』](青空文庫)
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんつういん}}
[[Category:浄土宗の寺院]]
[[Category:文京区の寺]]
[[Category:小石川]]
[[Category:徳川氏|寺]]
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2003-09-16T00:05:28Z
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2023-08-28T20:49:31Z
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17,012 |
不降
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不降(ふこう)は、夏朝の第11代帝。帝孔甲の父。弟は帝扃。『竹書紀年』によると、19年間在位した。即位後、6年目に九苑を討ったという。
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不降(ふこう)は、夏朝の第11代帝。帝孔甲の父。弟は帝扃。『竹書紀年』によると、19年間在位した。即位後、6年目に九苑を討ったという。
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{{基礎情報 中国君主
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[[File:Xia Dynasty pottery zun.jpg|thumb|不降]]
'''不降'''(ふこう)は、[[夏 (三代)|夏朝]]の第11代帝。帝[[孔甲 (夏)|孔甲]]の父。弟は帝[[扃]]。『[[竹書紀年]]』によると、19年間在位した。即位後、6年目に九苑を討ったという。
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[[Category:夏の君主]]
[[Category:生没年不詳]]
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17,013 |
アプト式
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アプト式(Abt system)とはラック式鉄道の方式の一つで、2~3枚のラックレールを歯形をずらして設置したものを指す。このアプト式ラックレール走行用の機関車をアプト式機関車という。
カール・ローマン・アプトが1882年に特許を取得した方式で、「アプト式」の名称は開発者の名前にちなむ。「Abt」のドイツ語発声に近い片仮名であるが、日本では過去にアブトと表記されたこともあった。
日本の営業用路線ではこの方式によるラック式鉄道しか存在しなかったため、ラック式鉄道そのものを「アプト式」と誤解して呼ぶことがあるが、ラック式鉄道にはアプト式の他にマーシュ、リッゲンバッハ、シュトループ、ロヒャー、フォン・ロールの各方式があり(いずれも現存している)、その中で一番よく使用されている(約80%)のがアプト式である。
前述のように「アプト式」とは、2枚または3枚のラックレール(Rack-rail)およびピニオンギア(Pinion-gear)を位相をずらして設置する方式で、複数の歯の位相をずらすことにより駆動力の円滑化および歯の長寿命化を図るとともに、常にピニオンのいずれかの歯がラックレールと深く噛み合っていることによりラックレールの歯が1列だけの方式より安全性の向上が図られ、これ以前にあったリッゲンバッハ式などのはしご状ラックレールより低コストというメリットがある。
登山鉄道はもとより亜幹線鉄道にも世界各地で広く採用され、特にスイスを中心とした欧州の鉄道に多く存在している。日本では、信越本線の碓氷峠では3組のラックピニオンを120度ずらして使用していた。大井川鐵道井川線も3組のラックピニオンを使用している。2組のラックピニオンを180度ずらして使用している例としては、スイスの氷河急行で有名なマッターホルン・ゴッタルド鉄道や蒸気機関車で有名なブリエンツ・ロートホルン鉄道などがある。
日本の鉄道では以下の路線・区間で採用されている。
碓氷峠はラックレールの位置が左右のレールより高く、大井川鐵道井川線は低いという相違がある。このため碓氷峠はキハ58系など一部の車両が通過できず、逆に大井川鐵道井川線は通過車両に制約がないものの分岐器がピニオンを避けるために特殊な構造となっている。
なお信越本線横川 - 軽井沢間が廃線になった後、碓氷峠鉄道文化むらが開設され鉄道資料館などでアプト式鉄道の展示を行っている。
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アプト式とはラック式鉄道の方式の一つで、2~3枚のラックレールを歯形をずらして設置したものを指す。このアプト式ラックレール走行用の機関車をアプト式機関車という。 カール・ローマン・アプトが1882年に特許を取得した方式で、「アプト式」の名称は開発者の名前にちなむ。「Abt」のドイツ語発声に近い片仮名であるが、日本では過去にアブトと表記されたこともあった。 日本の営業用路線ではこの方式によるラック式鉄道しか存在しなかったため、ラック式鉄道そのものを「アプト式」と誤解して呼ぶことがあるが、ラック式鉄道にはアプト式の他にマーシュ、リッゲンバッハ、シュトループ、ロヒャー、フォン・ロールの各方式があり(いずれも現存している)、その中で一番よく使用されている(約80%)のがアプト式である。
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{{otheruses|ラック式鉄道の一形式であるアプト式|ラック式鉄道全般|ラック式鉄道}}
[[画像:SMR Axle on display at Llanberis 05-07-24 20.jpeg|thumb|アプト式のラックレールとピニオン]]
[[画像:Abt_rack_rail_02.jpg|thumb|3枚ラックの大井川鐵道井川線のラックレール]]
[[画像:Crossing-for-System-ABT.jpg|thumb|ラックレールが低い鉄道の特殊な分岐器([[大井川鐵道]][[アプトいちしろ駅]])]]
[[画像:ED42-1.jpg|thumb|アプト式鉄道の電気機関車([[国鉄ED42形電気機関車|ED42形電気機関車]])]]
'''アプト式'''(<span lang="en" xml:lang="en">Abt system</span>)とは[[ラック式鉄道]]の方式の一つで、2~3枚のラックレールを歯形をずらして設置したものを指す<ref name="アプト式鉄道">『新版 鉄道用語辞典』久保田博、グランプリ出版、2003年新版、ISBN 4-87687-247-3、P.7-8「アプト式鉄道」。</ref>。このアプト式ラックレール走行用の機関車をアプト式機関車という<ref>『国鉄アプト式電気機関車(上)』小林正義、ネコ・パブリッシング、2011年、ISBN 978-4-7770-5317-9、P.2-3・6・16・40。 </ref><!--アプト式の場合、車両側のピニオンも位相をずらして数列のアプト式専用ピニオンなので「ラック式機関車」はアバウトな表現です。『国鉄アプト式電気機関車(上)』を見る限り、アプト式を使用する鉄道でラックとアプトの使い分けは、路線・車両そのものが「アプト」、登坂に使用する機器類(歯車・台車・モーターなど)と歯軌条の呼称が「ラック」のようです。-->。
[[カール・ローマン・アプト]]が[[1882年]]に特許を取得した方式で、「アプト式」の名称は開発者の名前にちなむ。「Abt」の[[ドイツ語]]発声に近い[[片仮名]]であるが、日本では過去に'''アブト'''と表記されたこともあった<ref>土木関係では従来から「プ」で表記していた事と、機械標準用語委員会の決定にならって1953年車両称号規程改正の際に「アプト」に変更された(星晃「車両称号規程こぼれ話」『鉄道』2号(日本鉄道協会・1953年)、16頁)。アブトは英語式の発音とされていた(『鉄道ピクトリアル』377号、49頁)。</ref>。
日本の営業用路線ではこの方式によるラック式鉄道しか存在しなかったため、ラック式鉄道そのものを「アプト式」と誤解して呼ぶことがあるが、ラック式鉄道にはアプト式の他にマーシュ、リッゲンバッハ、シュトループ、ロヒャー、[[フォン・ロール]]の各方式があり(いずれも現存している)、その中で一番よく使用されている(約80%)のがアプト式である<ref name="アプト式鉄道"></ref>。
== アプト式ラックレール ==
前述のように「アプト式」とは、2枚または3枚の[[ラック]]レール(Rack-rail)および[[歯車|ピニオンギア]](Pinion-gear)を[[位相]]をずらして設置する方式で、複数の歯の位相をずらすことにより駆動力の円滑化および歯の長寿命化を図るとともに、常にピニオンのいずれかの歯がラックレールと深く噛み合っていることによりラックレールの歯が1列だけの方式より安全性の向上が図られ、これ以前にあったリッゲンバッハ式などのはしご状ラックレールより低コストというメリットがある<ref>『新版 鉄道用語辞典』久保田博、グランプリ出版、2003年新版、ISBN 4-87687-247-3、P.304「ラック式鉄道」</ref>。
[[登山鉄道]]はもとより亜幹線鉄道にも世界各地で広く採用され、特に[[スイス]]を中心とした[[ヨーロッパ|欧州]]の鉄道に多く存在している。日本では、[[信越本線]]の[[碓氷峠]]では3組のラックピニオンを120度ずらして使用していた。[[大井川鐵道井川線]]も3組のラックピニオンを使用している。2組のラックピニオンを180度ずらして使用している例としては、[[スイス]]の[[氷河急行]]で有名な[[マッターホルン・ゴッタルド鉄道]]や蒸気機関車で有名な[[ブリエンツ・ロートホルン鉄道]]などがある。
[[日本の鉄道]]では以下の路線・区間で採用されている。
* [[1893年]] - [[1963年]] [[日本国有鉄道|国鉄]]信越本線[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - [[軽井沢駅]]間
* [[1990年]] - [[大井川鐵道井川線]][[アプトいちしろ駅]] - [[長島ダム駅]]間
碓氷峠はラックレールの位置が左右のレールより高く、大井川鐵道井川線は低いという相違がある。このため碓氷峠は[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]など一部の車両が通過できず、逆に大井川鐵道井川線は通過車両に制約がないものの[[分岐器]]がピニオンを避けるために特殊な構造となっている。
なお信越本線横川 - 軽井沢間が廃線になった後、[[碓氷峠鉄道文化むら]]が開設され鉄道資料館などでアプト式鉄道の展示を行っている。
=== 日本のアプト方式ラック式鉄道車両 ===
; [[日本国有鉄道]]
* 蒸気機関車:[[国鉄3900形蒸気機関車|3900形]]・[[国鉄3920形蒸気機関車|3920形]]・[[国鉄3950形蒸気機関車|3950形・3980形]]
* 電気機関車:[[国鉄EC40形電気機関車|EC40形]]・[[国鉄ED40形電気機関車|ED40形]]・[[国鉄ED41形電気機関車|ED41形]]・[[国鉄ED42形電気機関車|ED42形]]
* 貨車([[歯車車]]):ピ1形・ピ30形
; 大井川鐵道
* 電気機関車:[[大井川鉄道ED90形電気機関車|ED90形]]
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[軌道 (鉄道)]]
* [[ラック・アンド・ピニオン]]
* [[歯車]]
== 外部リンク ==
* [http://www.youtube.com/watch?v=9iG6iQdzZgE 【探訪】ダム湖に浮かぶ秘境の駅 奥大井湖上駅] 産経新聞撮影
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17,014 |
遮断器
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遮断器(しゃだんき、英語: circuit breaker)は、電力回路・電力機器などの負荷電流の開閉や異常状態発生時に、仮に電路が短絡状態になっていたとしても安全に回路を開閉できるようにするための器具。開閉器の一種である。
電路上の特別高圧や高圧電路の区分、高圧機器の点検修理や切り換え時に用いられる断路器(disconnecter)とは異なる(断路器は負荷電流の開閉に使用してはならない)。
遮断器はかつてしゃ断器と表記されていた。1981年まで使われていた当用漢字に「遮」の字がなかったためである。現在の表記となったのは、1985年制定の JEC-2300 からのことである。
電力用遮断器は、通常の電流(電路)の開閉のほか、事故による大電流発生時の迅速な回線の切断(遮断)と復旧(投入)、電力系統の安定性確保のために用いられる。
鉄道用の直流遮断器については2006年に国際規格IEC61992が整備され、遮断時間によって3つに分けられている。
日本産業規格JIS E 2501にはH1とH2があり、H1はIEC規格対応、H2は従来のJEC規格対応となっている。
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遮断器は、電力回路・電力機器などの負荷電流の開閉や異常状態発生時に、仮に電路が短絡状態になっていたとしても安全に回路を開閉できるようにするための器具。開閉器の一種である。 電路上の特別高圧や高圧電路の区分、高圧機器の点検修理や切り換え時に用いられる断路器(disconnecter)とは異なる(断路器は負荷電流の開閉に使用してはならない)。 遮断器はかつてしゃ断器と表記されていた。1981年まで使われていた当用漢字に「遮」の字がなかったためである。現在の表記となったのは、1985年制定の JEC-2300 からのことである。
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{{Otheruses|[[電力機器]]|[[踏切]]などで、[[列車]]の通過時に、[[道路]]を閉鎖して[[交通]]を止める設備|遮断機}}
'''遮断器'''(しゃだんき、{{lang-en|circuit breaker}})は、[[電力回路]]・[[電力機器]]などの負荷電流の開閉や異常状態発生時に、仮に電路が短絡状態になっていたとしても安全に回路を開閉できるようにするための器具<ref>{{Cite book |和書 |author=電気と工事編集部 |title=電気工事基礎用語事典 第2版 |publisher=オーム社 |pages=121}}</ref>。[[開閉器]]の一種である。
電路上の特別高圧や高圧電路の区分、高圧機器の点検修理や切り換え時に用いられる[[断路器]](disconnecter)とは異なる(断路器は負荷電流の開閉に使用してはならない)<ref>{{Cite book |和書 |author=電気と工事編集部 |title=電気工事基礎用語事典 第2版 |publisher=オーム社 |pages=183}}</ref>。
遮断器はかつて'''しゃ断器'''と表記されていた。[[1981年]]まで使われていた[[当用漢字]]に「遮」の字がなかったためである。現在の表記となったのは、[[1985年]]制定の ''JEC-2300'' からのことである。
== 電力用遮断器 ==
[[ファイル:FUJI EA603B MCCB 500A.jpg|thumb|100px|MCCB]]
[[ファイル:FUJI HA12U VCB 600A.jpg|thumb|100px|VCB]]
電力用遮断器は、通常の電流(電路)の開閉のほか、事故による大電流発生時の迅速な回線の切断(遮断)と復旧(投入)、電力系統の安定性確保のために用いられる<ref name="toyoda">{{Cite journal |和書 |url=https://doi.org/10.1541/ieejjournal.127.607|author=豊田 充 |title=電力用遮断器の技術変遷 |journal=電気学会誌 |volume=127 |issue=9 |publisher=電気学会 |year=2007 |pages=607-610}}</ref>。
=== 低圧用 ===
; [[配線用遮断器]](Molded Case Circuit Breaker、略称MCCB)
: MCCB(Molded Case Circuit Breaker)は低圧屋内電路の保護を目的としたモールドケースの遮断器で、[[アメリカ合衆国|米国]]の規格「UL489」に由来しており国際的にも通用する名称である<ref name="mitsubishi">{{Cite web|url=https://dl.mitsubishielectric.co.jp/dl/fa/document/catalog/lvcb/yn-c-0657/y0657d1502.pdf |title=三菱ノーヒューズ遮断器技術資料集|publisher=三菱電機|accessdate=2023-12-22}}</ref>。日本では電灯分電盤用配線用遮断器や住宅用分電盤用配線用遮断器に用いられている<ref name="mitsubishi" />。ノーヒューズブレーカ(NFB)ともいうが本来は[[三菱電機]]の商品名である<ref name="mitsubishi" />。
; [[漏電遮断器]](Earth-Leakage Circuit Breaker、略称ELCB)
: 低圧屋内電路での[[感電]]事故や[[漏電]]火災防止を目的としたモールドケースの遮断器<ref name="mitsubishi" />。
; [[低圧気中遮断器]](Air Circuit Breaker、略称ACB)
: 他の低圧用の遮断器と同じく回路の開閉を大気中で行う機器だが、元来は構造が大きく異なり一般的に金属板に覆われた機器で、旧JIS(JIS C 8372)では「低圧遮断器」として区別されていた<ref name="mitsubishi" />。しかし、モールドケースに格納されたものが主流となっており、JISでも他の低圧用の遮断器と同じ規格を適用している<ref name="mitsubishi" />。
=== 高圧・特別高圧用 ===
; [[油遮断器]](Oil Circuit Breaker、略称OCB)
: 絶縁油中で遮断するもので、当初は接点を開いたときのアークによる油分解によるガスとその圧力で遮断していたが(並切)、火災が多発したため遮断部を絶縁物で囲んでアークを発生させる消弧室方式に移行した<ref name="toyoda" />。
; [[空気遮断器]](AirBlast circuit Breaker、略称ABB)
: 火災発生の危険を回避するため、絶縁媒体を空気にしたもので、油遮断器と同じく当初は接点を開くだけだったが、アークが空間に広がって火災が多発したため消弧室方式に移行し、高圧空気をアークに一気に吹き付て遮断する方式が出現した<ref name="toyoda" />。
; [[ガス遮断器]](Gas Circuit Breaker、略称GCB)
: 高圧ガスを吹き付ける遮断器で、機械圧縮室を持つバッファ方式やアーク自体のエネルギーを用いる自力方式、その併用などの方式がある<ref name="toyoda" />。
; [[真空遮断器]](Vacuum Circuit Breaker、略称VCB)
: 高真空中の高い絶縁耐力と拡散作用を利用した遮断器<ref name="toyoda" />。
; [[磁気遮断器]](Magnetic Blow-out circuit Breaker、略称MBB)
== 鉄道用遮断器 ==
鉄道用の直流遮断器については2006年に国際規格IEC61992が整備され、遮断時間によって3つに分けられている<ref name="rtri">{{Cite web|url=https://bunken.rtri.or.jp/doc/fileDown.jsp?RairacID=0004007644 |title=直流高速度遮断器|publisher=公益財団法人鉄道総合技術研究所|accessdate=2023-12-26}}</ref>。
* 超高速度遮断器(種別V)
* 高速度遮断器(種別H)
* 準高速度遮断器(種別S)
日本産業規格JIS E 2501にはH1とH2があり、H1はIEC規格対応、H2は従来のJEC規格対応となっている<ref name="rtri" />。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アンペアブレーカー]]
* [[電力ヒューズ]]
* [[開閉器]]
* [[電気保安操作]]
* [[安全器]]
* [[サーキットブレーカー制度]]
{{電力供給}}
{{電気電力}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しやたんき}}
[[Category:電力機器]]
[[Category:配電]]
[[fi:Sulake#Palautettavia sulakkeita]]
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17,016 |
開閉器
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開閉器(かいへいき)は、電力回路・電力機器の正常動作時の電路を開閉(on/off)する電力機器である。スイッチ (switch) とも言う。
慣用的には、電力回路・電力機器に用いる大型のものを開閉器、電子機器に用いる小型のものをスイッチと呼ぶことが多い。
電気回路をつなげるような開閉器の動作を「入れる」・「オン(に)する」・「閉じる」・「投入する」・「クローズ(にする)」という。逆に、電気回路を断ち切るような開閉器の動作を「切る」・「オフ(に)する」・「開く」・「開放する」・「オープン(にする)」という。
開放型・閉鎖型問わず開閉器ユニットのことをスイッチギヤ(英語版)と言うが、日本においては特に金属箱に収めた開閉装置のことをスイッチギヤと呼んでいる。
それぞれに、片切(かたきり、Single Pole)スイッチ、両切(りょうぎり、Double Pole)スイッチがある。
片切スイッチは負荷に繋がる2本の電源線のうち片方を開閉するものであり、日本の屋内配電で一般的に使用される。内線規程では、必ず電源の電圧側極に挿入することと定められている。
両切スイッチは負荷に繋がる2本の電源線を両方同時に開閉するものであり、商用電源電圧が200Vを超えるヨーロッパの屋内配電で利用されるほか、日本の屋内配電では浴室や洗面所など湿気の多い場所の負荷を開閉するスイッチや、オフィスの200V照明回路などに使用することが推奨されている。
他に、端子0と端子1、端子0と端子2の接続を切り替える「三路スイッチ」、端子1と端子3・端子2と端子4、端子1と端子4・端子2と端子3の接続を切り替える「四路スイッチ」がある。
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開閉器(かいへいき)は、電力回路・電力機器の正常動作時の電路を開閉(on/off)する電力機器である。スイッチ (switch) とも言う。
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{{出典の明記|date=2016年12月8日 (木) 09:28 (UTC)}}
[[File:switches-electrical.agr.jpg|300px|thumb|スイッチの例]]
'''開閉器'''(かいへいき)は、[[電力回路]]・[[電力機器]]の[[正常]][[動作]]時の[[電路]]を[[開閉]](on/off)する電力機器である。'''スイッチ''' (switch) とも言う。
== 概要 ==
慣用的には、電力回路・電力機器に用いる大型のものを開閉器、[[電子機器]]に用いる小型のものをスイッチと呼ぶことが多い。
電気回路をつなげるような開閉器の動作を「入れる」・「オン(に)する」・「閉じる」・「投入する」・「クローズ(にする)」という。逆に、電気回路を断ち切るような開閉器の動作を「切る」・「オフ(に)する」・「開く」・「開放する」・「オープン(にする)」という。
== 開閉器 ==
=== 仕様 ===
* [[定格]][[電圧]]
* 定格[[電流]]
* 定格開閉電流
** [[負荷]]電流
** 励磁電流
** [[充電]]電流
* 定格投入電流
* 定格短時間耐電流
* 電気的[[寿命]]
* 機械的寿命
* [[絶縁 (電気)|絶縁]]階級
* 定格制御電圧
* 定格制御電流
=== 操作方法 ===
* 引外し方式
** [[直流]]電圧引外し方式
** [[コンデンサ]]引外し方式
** 過電流引外し方式
** 不足電圧引外し方式
=== 種類 ===
==== 高圧交流負荷開閉器 (LBS) ====
{{main|高圧交流負荷開閉器}}
* 区分開閉器
** 柱上設置: PAS (Pole mounted Air Switch), PGS (Pole mounted Gas Switch)
** 地中線引込: UGS (Underground Gas Switch), UAS (Underground Air Switch)
*** [[地絡]]トリップ形区分開閉器(GR付PAS, PGS, UGS, UAS)
*** 過電流蓄勢トリップ付き地絡トリップ形区分開閉器(SOG付PAS, PGS, UGS, UAS)
* 高圧交流気中負荷開閉器 (AS)
** 限流ヒューズ付き高圧交流気中負荷開閉器
* 高圧交流真空負荷開閉器 (VS)
* 高圧交流ガス負荷開閉器 (GS)
==== 低圧交流負荷開閉器 ====
* [[電磁開閉器]] (Electromagnetic Switch) - 電磁[[接触器]] (Electromagnetic Contact) と熱動式過電流リレー (Thermal Relay) を組み合わせたもの
==== 高圧直流負荷開閉器 ====
==== 低圧直流負荷開閉器 ====
==== スイッチギヤ ====
開放型・閉鎖型問わず開閉器ユニットのことを{{仮リンク|スイッチギヤ|en|Switchgear}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.abb.co.jp/cawp/jpabb805/69573274c8a096c3c125734f00242afe.aspx|title=必要な機能を1つのモジュールに集約 ABBのスイッチギア|accessdate=2015-09-15}}</ref>と言うが、日本においては特に金属箱に収めた開閉装置のことをスイッチギヤと呼んでいる<ref>例として{{Cite web|和書|url=http://www.hitachi.co.jp/products/power/sse/products/c-vis_j/index.html|title=24kVスイッチギア(C-VIS):日立受変電システム|accessdate=2015-09-15}}、
{{Cite web|和書|url=https://www.toshiba.co.jp/sis/swgr/products.htm|title=製品情報:スイッチギヤ:社会インフラシステム社:東芝|accessdate=2015-09-15}}</ref>。
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画像:PAS2007.jpg|柱上設置の区分開閉器
画像:電磁開閉器.jpg|電磁開閉器(電磁接触器+熱動式過電流リレー)
</gallery>
== スイッチ ==
=== 種類 ===
==== 配電用 ====
* [[タンブラスイッチ]]
* [[中間スイッチ]]
* [[埋め込みスイッチ]]…部屋の入口付近の壁面に埋め込んだスイッチ。
それぞれに、片切(かたきり、Single Pole)スイッチ、両切(りょうぎり、Double Pole)スイッチがある。
片切スイッチは負荷に繋がる2本の電源線のうち片方を開閉するものであり、日本の屋内配電で一般的に使用される。内線規程では、必ず電源の電圧側極に挿入することと定められている。
両切スイッチは負荷に繋がる2本の電源線を両方同時に開閉するものであり、商用電源電圧が200Vを超えるヨーロッパの屋内配電で利用されるほか、日本の屋内配電では浴室や洗面所など湿気の多い場所の負荷を開閉するスイッチや、オフィスの200V照明回路などに使用することが推奨されている。
他に、端子0と端子1、端子0と端子2の接続を切り替える「三路スイッチ」、端子1と端子3・端子2と端子4、端子1と端子4・端子2と端子3の接続を切り替える「四路スイッチ」がある。
==== 電子機器用 ====
* [[トグルスイッチ]]・スナップスイッチ
* [[タクティルスイッチ]]・[[タクタイルスイッチ]] - [[タクトスイッチ]]は[[アルプスアルパイン]]の登録商標
* [[押しボタンスイッチ]]
* [[スライドスイッチ]]
* [[ロータリースイッチ]]
* [[マイクロスイッチ]]
* [[ディップスイッチ]]
* {{仮リンク|リードスイッチ|en|Reed switch}} - [[磁石]]でオン・オフを行うもの
* [[水銀スイッチ]] - [[水銀]]を封入し、向きを変えることでオン・オフを行うもの →水銀の環境汚染のため既に製造中止
* [[キースイッチ]] - [[鍵]]でオン・オフを行うもの
* [[アナログスイッチ]](トランスミッションゲート)
* [[高周波スイッチ]] (RFスイッチ)
* [[メンブレンスイッチ]] - [[家電機器|家電]]などでよく使われている、膜のように薄いスイッチ
* [[静電容量スイッチ]]
* [[リミットスイッチ]]
* [[近接スイッチ]]
* [[光電スイッチ]]
* [[圧力スイッチ]]
* [[温度スイッチ]]
* [[オープンコレクタ]] - [[トランジスタ]]のスイッチ
<gallery>
ファイル:Nedap ESD1 - printer controller - DIP switch - all off-91979.jpg|ディップスイッチ
ファイル:Reed Switch.jpg|リードスイッチ
ファイル:Mercury switch.jpg|水銀スイッチ
ファイル:Nova1200.agr.jpg|トグルスイッチ
</gallery>
=== 日本のスイッチメーカー ===
* [[アルプスアルパイン]]
* [[パナソニック|パナソニック株式会社]][http://sumai.panasonic.jp/wiring/switch_concent/]
* [[SMK (企業)|SMK株式会社]]
* [[NKKスイッチズ|NKKスイッチズ株式会社]]
==開閉器に関する主な事故==
*[[1973年]][[9月4日]] - [[東京都]][[墨田区]]の[[電柱]]に落雷。柱上にあった開閉器の底が抜け、燃える[[絶縁油]]が周囲に飛散して9人が重軽傷。事故前から真空構造の開閉器への交換が順次進められていたが間に合わなかった形となった<ref>「夕食の買い物にカミナリ 主婦ら9人重軽傷」『朝日新聞』昭和48年(1973年)9月5日朝刊、12版、15面</ref>。
== 関連項目 ==
* [[電気保安操作]]
* [[継電器]]
* [[接触器]]
* [[遮断器]]
* [[電鍵]]
* [[安全器]]
* [[チャタリング]] - 電子スイッチのon/off時に発生する電磁ノイズ
* [[キュービクル式高圧受電設備]] - 開閉器を内蔵する電気盤
== 出典・脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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[[Category:スイッチ|*]]
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高圧
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高圧(こうあつ、英語:high pressure)は、正しくは、高圧力のことで、0.1MPa以上は高圧である。高圧ガス保安法では、0.2MPa以上が高圧とされている。転じて、論理ではなく威圧的な態度の人を高圧的ともいう。
高圧では、物理的・化学的特性が変化する。
非常に高い高圧は、超高圧といわれる。超高圧は、超高圧発生装置によって発生させることができる。超高圧の明確な定義はなく、また、高圧との境界はあいまいだが、室温で、ほとんどの気体、液体が固体になる1〜3GPaが妥当である。
近年、熱に変わる状態因子として、食品に対する高静水圧利用が注目されてきている。 現在、アメリカではオレンジジュースやアボカド等の非加熱殺菌など、多くのものに高静水圧処理が利用されている。
日本では、1987年以降、京都大学林力丸名誉教授の呼びかけにより、食品への高静水圧利用研究が各地で開催された。以来、多くの研究成果が発表され、今日に至っている。食品加工での高静水圧処理の特徴は非共有結合のみの変化である。これは加熱による成分劣化、栄養素の分解及び有毒因子の生成を引き起こす心配が無いことであり、この点は加熱による有用な共有結合の変化、香気の発生や褐色化反応が起きないことを示している。それが食品への高静水圧利用の大きなメリットである。 また、熱に比べ圧力の継続にはエネルギーが不要である。また圧力は食品の内部にまで瞬時に伝わり、熱に比べて伝達に要する時間が短い。すなわち、圧力の利用は省エネルギーである。更に、熱処理と圧力処理を併用すると、風味豊かな新しい食品が製造できる。
高圧を利用した食品としては、明治屋のジャム、越後製菓の越後のごはん、シジシージャパンのパスカルフーズ商品などがある。
高静水圧を食品に用いて処理後の加工後にも履歴の残る変化は、High-Pressure Induced Transformation(Hi-Pit)と呼ばれ、細菌、菌類、ウイルスの殺菌や、食品中の有用成分の増加などに有効である。 この効果を用いて、血圧降下作用のあるγ-アミノ酪酸(GABA)を増強した玄米が製品化されている。(越後製菓「ギャバ玄米」)
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高圧は、正しくは、高圧力のことで、0.1MPa以上は高圧である。高圧ガス保安法では、0.2MPa以上が高圧とされている。転じて、論理ではなく威圧的な態度の人を高圧的ともいう。
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{{出典の明記|date=2011年7月}}
{{Otheruses|高い圧力|高い電圧|高圧 (電気)}}
'''高圧'''(こうあつ、[[英語]]:high pressure)は、正しくは、'''高圧力'''のことで、0.1MPa以上は高圧である。[[高圧ガス保安法]]では、0.2MPa以上が高圧とされている。転じて、論理ではなく威圧的な態度の人を高圧的ともいう。
== 高圧下における現象 == <!--例を募集します。-->
高圧では、物理的・化学的特性が変化する。
* 常圧で[[半導体]]である[[ケイ素]]や[[ゲルマニウム]]は、高圧で[[構造相転移]]を起こし、金属化した金属相は、[[超伝導|超伝導体]]である。
* われわれは常温常圧で、高圧下において出現した相(=高圧相)を見ることができる。[[ダイヤモンド]]や[[ホウ素]]である。準安定状態である。
* 高圧下で行われる化学反応に、[[化学平衡]]の移動を利用したものがある。
== 高圧を利用する例 ==
* [[圧力鍋]]
* オートクレーブ(高圧滅菌器)
* [[高圧洗浄機]]
* [[ウォータージェットメス]]
== 超高圧について ==
{{Main2|超高圧の実験|圧力#超高圧の実験}}
非常に高い高圧は、'''超高圧'''といわれる。超高圧は、'''超高圧発生装置'''によって発生させることができる。超高圧の明確な定義はなく、また、高圧との境界はあいまいだが、室温で、ほとんどの気体、液体が固体になる1〜3GPaが妥当である。
== 食品への高圧利用 ==
近年、熱に変わる状態因子として、食品に対する高静水圧利用が注目されてきている。
現在、アメリカではオレンジジュースやアボカド等の非加熱殺菌など、多くのものに高静水圧処理が利用されている。
日本では、1987年以降、[[京都大学]]林力丸名誉教授の呼びかけにより、食品への高静水圧利用研究が各地で開催された。以来、多くの研究成果が発表され、今日に至っている。食品加工での高静水圧処理の特徴は[[非共有結合]]のみの変化である。これは加熱による成分劣化、栄養素の分解及び有毒因子の生成を引き起こす心配が無いことであり、この点は加熱による有用な[[共有結合]]の変化、香気の発生や褐色化反応が起きないことを示している。それが食品への高静水圧利用の大きなメリットである。
また、熱に比べ圧力の継続にはエネルギーが不要である。また圧力は食品の内部にまで瞬時に伝わり、熱に比べて伝達に要する時間が短い。すなわち、圧力の利用は省エネルギーである。更に、熱処理と圧力処理を併用すると、風味豊かな新しい食品が製造できる。
高圧を利用した食品としては、[[明治屋]]の[[ジャム]]、[[越後製菓]]の越後のごはん、[[シジシージャパン]]の[[パスカルフーズ]]商品などがある。
高静水圧を食品に用いて処理後の加工後にも履歴の残る変化は、'''High-Pressure Induced Transformation(Hi-Pit)'''と呼ばれ、細菌、菌類、ウイルスの殺菌や、食品中の有用成分の増加などに有効である。
この効果を用いて、血圧降下作用のある[[γ-アミノ酪酸]](GABA)を増強した玄米が製品化されている。([[越後製菓]]「ギャバ玄米」)
== 関連項目 ==
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17,021 |
ハンバーガー
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ハンバーガー (hamburger) とは、牛肉のパティをバンズと呼ばれるパンに挟んだ食べ物。サンドイッチの一種。
アメリカ合衆国を代表する国民食とされるドイツ発祥の料理。マクドナルドがフランチャイズを成功させ、ファストフードの代名詞となっている。この料理は世界中に広まり、文化や好みに合わせて多様なアレンジがなされ、バンズの代わりにご飯やレタスで挟んだものや、ビーフパティの代わりに大豆タンパクなどを用いたベジタリアンのための「ヴェジーバーガー」(Veggie burger)などが作り出されている。
付け合わせはフライドポテトが定番となっている。
手で持ち、かぶり付くのがポピュラーな食べ方であるが、レストラン等ではナイフやフォークが提供される場合もある。
挽肉料理のルーツは遊牧民タタールに由来すると考えられているタルタルステーキに遡るとされている。遠征の際、馬を食料とした遊牧民が、筋張った肉を食する際に食べ易く工夫したことがハンバーグの由来とされる。ドイツに伝わったタルタルステーキは、ハンブルクで労働者の人気料理になるなど、ヨーロッパで独自の発展を遂げた。
ハンブルクで船乗りらに売られていた料理 “Hamburger Rundstück” は「ハンブルクの丸いもの」という意味で、牛肉のステーキと目玉焼きを半切のパンにのせていた。これがアメリカ合衆国(米国)へ伝わり、「ハンバーガー」と略称されるようになった。18世紀より米国に移住したドイツ人が食した独自の挽肉料理が「ハンブルク風(ハンバーグ)ステーキ」と呼称するようになったもので、1891年の文献には既に「ハンバーガーステーキ」の文字が見られる。
ハンバーグをパンに挟んだ形状であるハンバーガーの誕生や命名の由来については諸説がある。1904年に米国セントルイスで開催されたセントルイス万国博覧会の会場内で、ハンバーガーステーキを挟んだサンドイッチが「ハンバーガー」という表記のもとで販売されていたという事実からも、20世紀の初頭には専用の丸いバンと組み合わさり、今日のハンバーガーの原型がアメリカで誕生していたと考えられる。
このほか、1900年にコネチカット州ニューヘイブンの食堂で開発されたという説や、ウィスコンシン州シーモアのチャーリー・ナグリーンが1885年にハンバーガーを考案したという説もある。ナグリーンは当初地元の農業品評会にて揚げたミートボールを売っていたがあまり売れなかったため、これを平板状にし、さらにそれをパンの間にはさんだものを販売したという。ニューヘイブンでは、急いでいる客にまかない用だった挽肉を焼いてパンに挟んで提供したのが始まりだと話している。また、ニューヨーク州ハンバーグ村は、ドイツの都市ハンブルクではなく自身がハンバーガーの名称の由来であると主張している。
1920年代には、ビリー・イングラムとウォルター・アンダーソンの2人がカンザス州にホワイトキャッスルを開き、1個5セントで販売を始めた。後にアメリカ中に店舗が拡大し、これがハンバーガーチェーンの先駆けになったという。
ハンバーガーは、1940年代にマクドナルド兄弟がカリフォルニア州に開いたドライブインでメニューに出され、評判になったことで、アメリカを中心に各国に広まった。その拡がりは「マクドナルド理論」といい、トーマス・フリードマンより「マクドナルドの店舗がある国同士は戦争をしない」という学説が出されたほどである。この説は1999年のアメリカ合衆国のセルビア爆撃で破られた。
また該当国の国内通貨価値を知る上での経済指標として利用される事もあり、これはビッグマック指数と呼ばれる。
2010年代からはアメリカの大手チェーンがエンドウ豆や大豆を使用した代用肉のハンバーガーを投入し、割高ながら人気を博している。
hamburgerという単語は「牛挽肉の料理」という意味を含むため、牛挽肉以外のものを使った場合ハンバーガーの名称が用いられることはない。例えばフィッシュ・サンドイッチ、チキン・サンドイッチ(chicken sandwich)、ステーキ・サンドイッチ(steak sandwich)などと呼ばれている。それ以外にも末尾に「バーガー」を付けるパターンもあり、例えば、植物由来の蛋白質からパテを作るインポッシブルフーズ社は、自社製品を使ったサンドウィッチを「ハンバーガー」ではなく「インポッシブルバーガー」と称している。
ハンバーガーチェーンが普及する以前から、漫画・アニメの『ポパイ』の登場人物としてウインピーという中年男がいつも食べているので知られていた。
第二次世界大戦後、長崎県の佐世保に駐留した米軍を通じて、本格的に日本にハンバーガーが持ち込まれたとされている。連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収された三信ビルディングに1948年(昭和23年)秋に開店したレストラン「ニューワールドサービス」で提供されたほか、1950年(昭和25年)には東京・六本木に「ザ・ハンバーガー・イン」が創業する。また、佐世保市の米軍基地周辺では戦後すぐからハンバーガーを売り出す店があった。宮城県仙台市青葉区の「ほそやのサンド」(1949年〈昭和24年〉開業)は営業を継続している日本のハンバーガーショップとして日本最古であるが、同店は当初は山形県東根市のアメリカ軍キャンプ前に店を構えていた。
ファストフード店として日本に初めて上陸したバーガーショップは、1963年(昭和38年)に沖縄県北中城村屋宜原にオープンしたA&W屋宜原店である(ただし、当時の沖縄県はアメリカ統治下である)。同社はマクドナルドやKFCに10年も先駆けて日本に上陸している。牛豚肉のパティに限らず、鶏肉や魚介類、野菜料理(きんぴら等)を具材としたり、パンの代わりに米飯や野菜(レタス等)で挟んだりと、多様なハンバーガーが売り出されている。
ファストフード以外でも素材・製法にこだわった高級志向のハンバーガー専門店が1990年代後半から登場し始め、やがて「グルメバーガー」と呼ばれるようになる。また、「ご当地バーガー」という地域おこしの為のご当地グルメも見られる。
台湾には、主に夜市と屋台で販売されている割包というハンバーガーがある。割包は、半月型の白色の蒸しパンに豚角煮と高菜、粉にしたピーナッツが挟まれている。割包の半月型の形が財布に似ているとされており、金運が上がる縁起の良い料理とされている。また、ハンバーガーチェーンについては、マクドナルド、バーガーキング、モスバーガー、ロッテリアなどが出店しており、高雄市や台南市などの台湾南部には、フライドチキンバーガーを売りにした丹丹漢堡というハンバーガーチェーンがある。
香港では、外資系のハンバーガーチェーンの出店が進んでいる。香港には、マクドナルドやモスバーガー、バーガーキング、フィリピン人労働者が多いことからジョリビーなどが出店している。また、茶餐廳の有名店である蘭芳園のカツを使用したハンバーガーである金牌猪扒包は香港市民の間で広く知られている。
西安市には、 肉夾饃という白色のパンに煮込んだ細切りの肉を挟んだハンバーガーがある。また、中国にはマクドナルド、バーガーキング、カールスジュニア、シェイク・シャック、モスバーガーといった外資系のハンバーガーチェーンが出店しており、2020年以降、事業拡大が盛んである。
韓国では、マクドナルドとロッテリアでプルコギバーガー、KFCでチキンプルコギ、バーガーキングでプルコギワッパーというプルコギ味のハンバーガーが限定販売されている。また、分厚いチキンバーガーで知られているen:Mom's Touch(マムズタッチ)という韓国全土に展開しているハンバーガーチェーンがある。
2009年6月に北朝鮮当局は、シンガポールの会社と契約し、平壌直轄市牡丹峰区域に北朝鮮初のハンバーガーショップである三台星清涼飲料店をオープンさせた。翌年には、万景台区域にある凱旋青年公園内に新しい支店がオープンしている。三台星清涼飲料店のメニューにあるフィッシュバーガーにはヒラメを使用しており、ハンバーガーとキムチやマッシュポテトのセットメニューも販売されている。また、高麗航空の機内食では、ハンバーガーが提供されている。
タイでは、外資系のハンバーガーチェーンが多く出店しており、マクドナルド、バーガーキング、カールスジュニア、モスバーガー、25ディグリーズなどが出店している。バンコクの歓楽街ナナ・プラザでキッチンカーで販売を行っているナナ・バーガーは、ハンバーガーの有名店として知られている。
インドでは、ヒンドゥー教の影響により、牛肉の摂取が禁忌となっており、マクドナルドやバーガーキングのメニューでもチキンを使用したハンバーガーが大多数となっている。また、インドには、ベジタリアンの国民も多くいるため、ベジタリアン向けのメニューがマクドナルドに存在している。
オーストラリアでは、マクドナルドの他にバーガーキング系列のハングリージャックスと2004年に創業したヘルシーなハンバーガーを売りにしたグリルドというハンバーガーチェーンがある。
ニュージーランドでは、1995年にオークランドで創業したニュージーランド産の牛肉を100%使用しているBurger Fuelというハンバーガーチェーンがニュージーランド国内各地あり、2006年以降、オーストラリアやアメリカ、中東諸国にも進出を果たしている。また、南島のクイーンズタウンには、CNNやロンリープラネットで賞賛された地産地消を行っているファーグバーガーというハンバーガーレストランが存在している。
フランスでは、コンサルタント会社ジラ・コンセイユの調査によると、2017年に販売されたハンバーガーが約14億6000万個 とサンドウィッチ(ジャンボン・ブール)の約12億2000万個を上回り、ハンバーガーの販売数は10年前の約14倍だったことが判明した。また、フランス通信社の記事によると、フランス国内のレストランの約85%がハンバーガーを提供しており、マクドナルドやバーガーキングといったファストフード店での販売が全体の30%で残り70%がレストランでの販売であった。
フィレンツェでは、最高級ブランド牛であるキアニーナ牛を使用したハンバーガーが存在する。シチリア島のパレルモには地元民によく食べられている煮込んだモツ肉を使用したハンバーガーが存在している。また、イタリアではハンバーガーはパニーノもしくはパニーニと呼ばれることも多い。
ギリシャでは、 1975年にヤニス・ディオニシアディスがテッサロニキで創業したGOODY’Sというハンバーガーチェーンがギリシャ国内でマクドナルドより売上を上げている。GOODY’Sは、ヨーロッパのファストフードを提供している企業の中で売上高10位に位置しており、キプロスやブルガリアにも出店している。ヨーロッパで初めて良質なオリーブ・オイルだけで調理を行ったファストフード店である。
マルタでは、パテにマルタ料理によく登場するウサギ肉を使用したハンバーガーを提供するレストランが存在している。また、伝統的に食べられているフティーラというパンをバンズとしたハンバーガーも存在している。
スウェーデンでは、牛肉のパテと野菜にオリジナルドレッシングがたくさん掛かったマックスオリジナルバーガーが有名なマックスハンバーガーがコマーシャルエージェンシー ISI Wissing ABの調査によると、マクドナルドとバーガーキングを抑えてファストフード店市場占有率1位で約40%を占めている。
フィンランドにはパテにトナカイやヘラジカの肉を使用したハンバーガーを提供するレストランが存在している。また、バンズにライ麦を使用したハンバーガーがあるヘスバーガーはフィンランド国内でマクドナルドの店舗数を上回っており、エストニアやラトビア、リトアニアなどにも出店している。
ロシアでは、ソ連時代の1990年1月31日、モスクワにあるプーシキン広場でマクドナルドの1号店がオープンしたことをきっかけにハンバーガーブームが発生した。当時ビッグマック1個の値段が1ヶ月のメトロ、バスなどの交通費と同じくらいであったが、オープン初日には、3万人以上が店舗を訪れており、使い捨ての容器がお土産になるほどであった。マクドナルドへの行列は1992年になっても続き、2号店のオープニングセレモニーには当時の大統領であったボリス・エリツィンも参加している。2017年頃から、モスクワやサンクトペテルブルクを中心に高価格帯でクオリティの高いプレミアムバーガーがブームになっており、提供するレストランが乱立している。また、ロシアではグレーチカという蕎麦の実を使用したハンバーガーやライ麦バーガーが人気を博している。ライ麦バーガーについては、ハンバーガーを提供しているほぼ全てのレストランで販売されている。
セルビアには、 国民食の一つである肉料理のチェヴァプチチを挟んだハンバーガーを提供するレストランが多く存在している。また、レスコヴァツの名物料理でスパイスが効いた肉料理のプレスカヴィツァを挟んだハンバーガーも存在している。
北マケドニアのハンバーガーには、フライドポテトが挟まれている。また、かつてマクドナルドは北マケドニア国内に7店舗あり、2013年に撤退した。撤退した理由としてマクドナルドのハンバーガーにはフライドポテトが挟まれていないからだという噂もある。
トルコには、ウルスラック・ブルゲルという濡れバーガーが存在する。ウルスラック・ブルゲルは、主にケバブ屋で蒸した状態で販売されている。上下のハンズはソースに浸している。具はハンバーグ1枚だけとなっていることが多い。
カナダには、ハービーズというハンバーガーチェーンがあり、野菜やソースをカウンターにあるケースから選ぶことができ、オリジナルのハンバーガーを作ることが可能である。また、1928年に創業したハンバーガーチェーンであるトリプルオーズは、カナダ産牛肉のパテと巨大なピクルスを売りにしている。
メキシコでは、ハンバーガーを販売している屋台が多く営業している。また、アボカドや細く切ったトルティーヤを挟んだハンバーガーも多く存在している。
ハンバーグのパティは、挽肉を成型して調理する過程で有害な菌の混入、繁殖が生じる機会が生じやすく、これを原因とする集団食中毒の発生がしばしばみられる。重篤な食中毒を引き起こす腸管出血性大腸菌の代表格であるO-157自体、1982年に米国オレゴン州とミシガン州で発生した、大手ハンバーガーチェーンの集団食中毒事件を契機に発見されたものである。この事件を契機に、各外食チェーン店でHACCPの導入など衛生面の管理強化が進んだが、1993年には再びアメリカのハンバーガーチェーン店、ジャック・イン・ザ・ボックスの大腸菌集団感染があり、全米各地で被害者が続出して社会問題となった。
日本でも2018年、大手ハンバーガーチェーン「モスバーガー」19店舗にて計28人が腸管出血性大腸菌O125による食中毒が発生した。
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"title": "概要"
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"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "挽肉料理のルーツは遊牧民タタールに由来すると考えられているタルタルステーキに遡るとされている。遠征の際、馬を食料とした遊牧民が、筋張った肉を食する際に食べ易く工夫したことがハンバーグの由来とされる。ドイツに伝わったタルタルステーキは、ハンブルクで労働者の人気料理になるなど、ヨーロッパで独自の発展を遂げた。",
"title": "歴史"
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"text": "ハンブルクで船乗りらに売られていた料理 “Hamburger Rundstück” は「ハンブルクの丸いもの」という意味で、牛肉のステーキと目玉焼きを半切のパンにのせていた。これがアメリカ合衆国(米国)へ伝わり、「ハンバーガー」と略称されるようになった。18世紀より米国に移住したドイツ人が食した独自の挽肉料理が「ハンブルク風(ハンバーグ)ステーキ」と呼称するようになったもので、1891年の文献には既に「ハンバーガーステーキ」の文字が見られる。",
"title": "歴史"
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"text": "ハンバーグをパンに挟んだ形状であるハンバーガーの誕生や命名の由来については諸説がある。1904年に米国セントルイスで開催されたセントルイス万国博覧会の会場内で、ハンバーガーステーキを挟んだサンドイッチが「ハンバーガー」という表記のもとで販売されていたという事実からも、20世紀の初頭には専用の丸いバンと組み合わさり、今日のハンバーガーの原型がアメリカで誕生していたと考えられる。",
"title": "歴史"
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"text": "このほか、1900年にコネチカット州ニューヘイブンの食堂で開発されたという説や、ウィスコンシン州シーモアのチャーリー・ナグリーンが1885年にハンバーガーを考案したという説もある。ナグリーンは当初地元の農業品評会にて揚げたミートボールを売っていたがあまり売れなかったため、これを平板状にし、さらにそれをパンの間にはさんだものを販売したという。ニューヘイブンでは、急いでいる客にまかない用だった挽肉を焼いてパンに挟んで提供したのが始まりだと話している。また、ニューヨーク州ハンバーグ村は、ドイツの都市ハンブルクではなく自身がハンバーガーの名称の由来であると主張している。",
"title": "歴史"
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"text": "1920年代には、ビリー・イングラムとウォルター・アンダーソンの2人がカンザス州にホワイトキャッスルを開き、1個5セントで販売を始めた。後にアメリカ中に店舗が拡大し、これがハンバーガーチェーンの先駆けになったという。",
"title": "歴史"
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"text": "ハンバーガーは、1940年代にマクドナルド兄弟がカリフォルニア州に開いたドライブインでメニューに出され、評判になったことで、アメリカを中心に各国に広まった。その拡がりは「マクドナルド理論」といい、トーマス・フリードマンより「マクドナルドの店舗がある国同士は戦争をしない」という学説が出されたほどである。この説は1999年のアメリカ合衆国のセルビア爆撃で破られた。",
"title": "歴史"
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"text": "また該当国の国内通貨価値を知る上での経済指標として利用される事もあり、これはビッグマック指数と呼ばれる。",
"title": "歴史"
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"text": "2010年代からはアメリカの大手チェーンがエンドウ豆や大豆を使用した代用肉のハンバーガーを投入し、割高ながら人気を博している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "hamburgerという単語は「牛挽肉の料理」という意味を含むため、牛挽肉以外のものを使った場合ハンバーガーの名称が用いられることはない。例えばフィッシュ・サンドイッチ、チキン・サンドイッチ(chicken sandwich)、ステーキ・サンドイッチ(steak sandwich)などと呼ばれている。それ以外にも末尾に「バーガー」を付けるパターンもあり、例えば、植物由来の蛋白質からパテを作るインポッシブルフーズ社は、自社製品を使ったサンドウィッチを「ハンバーガー」ではなく「インポッシブルバーガー」と称している。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "ハンバーガーチェーンが普及する以前から、漫画・アニメの『ポパイ』の登場人物としてウインピーという中年男がいつも食べているので知られていた。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "第二次世界大戦後、長崎県の佐世保に駐留した米軍を通じて、本格的に日本にハンバーガーが持ち込まれたとされている。連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収された三信ビルディングに1948年(昭和23年)秋に開店したレストラン「ニューワールドサービス」で提供されたほか、1950年(昭和25年)には東京・六本木に「ザ・ハンバーガー・イン」が創業する。また、佐世保市の米軍基地周辺では戦後すぐからハンバーガーを売り出す店があった。宮城県仙台市青葉区の「ほそやのサンド」(1949年〈昭和24年〉開業)は営業を継続している日本のハンバーガーショップとして日本最古であるが、同店は当初は山形県東根市のアメリカ軍キャンプ前に店を構えていた。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "ファストフード店として日本に初めて上陸したバーガーショップは、1963年(昭和38年)に沖縄県北中城村屋宜原にオープンしたA&W屋宜原店である(ただし、当時の沖縄県はアメリカ統治下である)。同社はマクドナルドやKFCに10年も先駆けて日本に上陸している。牛豚肉のパティに限らず、鶏肉や魚介類、野菜料理(きんぴら等)を具材としたり、パンの代わりに米飯や野菜(レタス等)で挟んだりと、多様なハンバーガーが売り出されている。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "ファストフード以外でも素材・製法にこだわった高級志向のハンバーガー専門店が1990年代後半から登場し始め、やがて「グルメバーガー」と呼ばれるようになる。また、「ご当地バーガー」という地域おこしの為のご当地グルメも見られる。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "台湾には、主に夜市と屋台で販売されている割包というハンバーガーがある。割包は、半月型の白色の蒸しパンに豚角煮と高菜、粉にしたピーナッツが挟まれている。割包の半月型の形が財布に似ているとされており、金運が上がる縁起の良い料理とされている。また、ハンバーガーチェーンについては、マクドナルド、バーガーキング、モスバーガー、ロッテリアなどが出店しており、高雄市や台南市などの台湾南部には、フライドチキンバーガーを売りにした丹丹漢堡というハンバーガーチェーンがある。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "香港では、外資系のハンバーガーチェーンの出店が進んでいる。香港には、マクドナルドやモスバーガー、バーガーキング、フィリピン人労働者が多いことからジョリビーなどが出店している。また、茶餐廳の有名店である蘭芳園のカツを使用したハンバーガーである金牌猪扒包は香港市民の間で広く知られている。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "西安市には、 肉夾饃という白色のパンに煮込んだ細切りの肉を挟んだハンバーガーがある。また、中国にはマクドナルド、バーガーキング、カールスジュニア、シェイク・シャック、モスバーガーといった外資系のハンバーガーチェーンが出店しており、2020年以降、事業拡大が盛んである。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "韓国では、マクドナルドとロッテリアでプルコギバーガー、KFCでチキンプルコギ、バーガーキングでプルコギワッパーというプルコギ味のハンバーガーが限定販売されている。また、分厚いチキンバーガーで知られているen:Mom's Touch(マムズタッチ)という韓国全土に展開しているハンバーガーチェーンがある。",
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"text": "2009年6月に北朝鮮当局は、シンガポールの会社と契約し、平壌直轄市牡丹峰区域に北朝鮮初のハンバーガーショップである三台星清涼飲料店をオープンさせた。翌年には、万景台区域にある凱旋青年公園内に新しい支店がオープンしている。三台星清涼飲料店のメニューにあるフィッシュバーガーにはヒラメを使用しており、ハンバーガーとキムチやマッシュポテトのセットメニューも販売されている。また、高麗航空の機内食では、ハンバーガーが提供されている。",
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"text": "タイでは、外資系のハンバーガーチェーンが多く出店しており、マクドナルド、バーガーキング、カールスジュニア、モスバーガー、25ディグリーズなどが出店している。バンコクの歓楽街ナナ・プラザでキッチンカーで販売を行っているナナ・バーガーは、ハンバーガーの有名店として知られている。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "インドでは、ヒンドゥー教の影響により、牛肉の摂取が禁忌となっており、マクドナルドやバーガーキングのメニューでもチキンを使用したハンバーガーが大多数となっている。また、インドには、ベジタリアンの国民も多くいるため、ベジタリアン向けのメニューがマクドナルドに存在している。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "オーストラリアでは、マクドナルドの他にバーガーキング系列のハングリージャックスと2004年に創業したヘルシーなハンバーガーを売りにしたグリルドというハンバーガーチェーンがある。",
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"text": "ニュージーランドでは、1995年にオークランドで創業したニュージーランド産の牛肉を100%使用しているBurger Fuelというハンバーガーチェーンがニュージーランド国内各地あり、2006年以降、オーストラリアやアメリカ、中東諸国にも進出を果たしている。また、南島のクイーンズタウンには、CNNやロンリープラネットで賞賛された地産地消を行っているファーグバーガーというハンバーガーレストランが存在している。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "フランスでは、コンサルタント会社ジラ・コンセイユの調査によると、2017年に販売されたハンバーガーが約14億6000万個 とサンドウィッチ(ジャンボン・ブール)の約12億2000万個を上回り、ハンバーガーの販売数は10年前の約14倍だったことが判明した。また、フランス通信社の記事によると、フランス国内のレストランの約85%がハンバーガーを提供しており、マクドナルドやバーガーキングといったファストフード店での販売が全体の30%で残り70%がレストランでの販売であった。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "フィレンツェでは、最高級ブランド牛であるキアニーナ牛を使用したハンバーガーが存在する。シチリア島のパレルモには地元民によく食べられている煮込んだモツ肉を使用したハンバーガーが存在している。また、イタリアではハンバーガーはパニーノもしくはパニーニと呼ばれることも多い。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "ギリシャでは、 1975年にヤニス・ディオニシアディスがテッサロニキで創業したGOODY’Sというハンバーガーチェーンがギリシャ国内でマクドナルドより売上を上げている。GOODY’Sは、ヨーロッパのファストフードを提供している企業の中で売上高10位に位置しており、キプロスやブルガリアにも出店している。ヨーロッパで初めて良質なオリーブ・オイルだけで調理を行ったファストフード店である。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "マルタでは、パテにマルタ料理によく登場するウサギ肉を使用したハンバーガーを提供するレストランが存在している。また、伝統的に食べられているフティーラというパンをバンズとしたハンバーガーも存在している。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "スウェーデンでは、牛肉のパテと野菜にオリジナルドレッシングがたくさん掛かったマックスオリジナルバーガーが有名なマックスハンバーガーがコマーシャルエージェンシー ISI Wissing ABの調査によると、マクドナルドとバーガーキングを抑えてファストフード店市場占有率1位で約40%を占めている。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "フィンランドにはパテにトナカイやヘラジカの肉を使用したハンバーガーを提供するレストランが存在している。また、バンズにライ麦を使用したハンバーガーがあるヘスバーガーはフィンランド国内でマクドナルドの店舗数を上回っており、エストニアやラトビア、リトアニアなどにも出店している。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "ロシアでは、ソ連時代の1990年1月31日、モスクワにあるプーシキン広場でマクドナルドの1号店がオープンしたことをきっかけにハンバーガーブームが発生した。当時ビッグマック1個の値段が1ヶ月のメトロ、バスなどの交通費と同じくらいであったが、オープン初日には、3万人以上が店舗を訪れており、使い捨ての容器がお土産になるほどであった。マクドナルドへの行列は1992年になっても続き、2号店のオープニングセレモニーには当時の大統領であったボリス・エリツィンも参加している。2017年頃から、モスクワやサンクトペテルブルクを中心に高価格帯でクオリティの高いプレミアムバーガーがブームになっており、提供するレストランが乱立している。また、ロシアではグレーチカという蕎麦の実を使用したハンバーガーやライ麦バーガーが人気を博している。ライ麦バーガーについては、ハンバーガーを提供しているほぼ全てのレストランで販売されている。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "セルビアには、 国民食の一つである肉料理のチェヴァプチチを挟んだハンバーガーを提供するレストランが多く存在している。また、レスコヴァツの名物料理でスパイスが効いた肉料理のプレスカヴィツァを挟んだハンバーガーも存在している。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "北マケドニアのハンバーガーには、フライドポテトが挟まれている。また、かつてマクドナルドは北マケドニア国内に7店舗あり、2013年に撤退した。撤退した理由としてマクドナルドのハンバーガーにはフライドポテトが挟まれていないからだという噂もある。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "トルコには、ウルスラック・ブルゲルという濡れバーガーが存在する。ウルスラック・ブルゲルは、主にケバブ屋で蒸した状態で販売されている。上下のハンズはソースに浸している。具はハンバーグ1枚だけとなっていることが多い。",
"title": "各国のハンバーガー"
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"text": "カナダには、ハービーズというハンバーガーチェーンがあり、野菜やソースをカウンターにあるケースから選ぶことができ、オリジナルのハンバーガーを作ることが可能である。また、1928年に創業したハンバーガーチェーンであるトリプルオーズは、カナダ産牛肉のパテと巨大なピクルスを売りにしている。",
"title": "各国のハンバーガー"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "メキシコでは、ハンバーガーを販売している屋台が多く営業している。また、アボカドや細く切ったトルティーヤを挟んだハンバーガーも多く存在している。",
"title": "各国のハンバーガー"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ハンバーグのパティは、挽肉を成型して調理する過程で有害な菌の混入、繁殖が生じる機会が生じやすく、これを原因とする集団食中毒の発生がしばしばみられる。重篤な食中毒を引き起こす腸管出血性大腸菌の代表格であるO-157自体、1982年に米国オレゴン州とミシガン州で発生した、大手ハンバーガーチェーンの集団食中毒事件を契機に発見されたものである。この事件を契機に、各外食チェーン店でHACCPの導入など衛生面の管理強化が進んだが、1993年には再びアメリカのハンバーガーチェーン店、ジャック・イン・ザ・ボックスの大腸菌集団感染があり、全米各地で被害者が続出して社会問題となった。",
"title": "ハンバーガーと食中毒"
},
{
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"tag": "p",
"text": "日本でも2018年、大手ハンバーガーチェーン「モスバーガー」19店舗にて計28人が腸管出血性大腸菌O125による食中毒が発生した。",
"title": "ハンバーガーと食中毒"
}
] |
ハンバーガー (hamburger) とは、牛肉のパティをバンズと呼ばれるパンに挟んだ食べ物。サンドイッチの一種。
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{{Otheruseslist|実在のハンバーガー全般|1982年に[[データイースト]]が'''ハンバーガー'''の題名で出したアーケードゲーム|バーガータイム|オランダのプロ野球選手|ハルトフ・ハンバーガー|日本の漫画家・イラストレーター|ハンバーガー (漫画家)}}
[[ファイル:NCI Visuals Food Hamburger.jpg|サムネイル|250ピクセル|ハンバーガー]]
'''ハンバーガー''' ({{lang|en|hamburger}}) とは、[[牛肉]]の[[パテ (料理)#英語圏のパティ|パティ]]を[[バンズ]]と呼ばれる[[パン]]に挟んだ[[食べ物]]。[[サンドイッチ]]の一種。
== 概要 ==
[[ファイル:Flickr XP-ert 489502412--Cheeseburgers on grill.jpg|サムネイル|ファストフード店での調理の様子]]
[[ファイル:ベーコンチーズバーガー.jpg|サムネイル|180ピクセル|ベーコンチーズバーガー]]
[[アメリカ合衆国]]を代表する[[国民食]]とされる[[ドイツ]]発祥の料理。[[マクドナルド]]が[[フランチャイズ]]を成功させ、[[ファーストフード|ファストフード]]の代名詞となっている。この料理は世界中に広まり、文化や好みに合わせて多様なアレンジがなされ、バンズの代わりに[[飯|ご飯]]や[[レタス]]で挟んだものや、ビーフパティの代わりに[[ダイズ|大豆]][[蛋白質|タンパク]]などを用いた[[ベジタリアン]]のための「[[ヴェジーバーガー]]」([[:en:Veggie burger|Veggie burger]])などが作り出されている。
付け合わせは[[フライドポテト]]が定番となっている。
手で持ち、かぶり付くのがポピュラーな食べ方であるが、レストラン等では[[ナイフ]]や[[フォーク (食器)|フォーク]]が提供される場合もある。
== 歴史 ==
[[挽肉]]料理のルーツは[[遊牧民]][[タタール]]に由来すると考えられている[[タルタルステーキ]]に遡るとされている。遠征の際、[[馬]]を食料とした遊牧民が、筋張った肉を食する際に食べ易く工夫したことが[[ハンバーグ]]の由来とされる。[[ドイツ]]に伝わったタルタルステーキは、[[ハンブルク]]で労働者の人気料理になるなど、[[ヨーロッパ]]で独自の発展を遂げた。
ハンブルクで船乗りらに売られていた料理 “Hamburger Rundstück” は「ハンブルクの丸いもの」という意味で、牛肉の[[ステーキ]]と[[目玉焼き]]を半切のパンにのせていた。これが[[アメリカ合衆国]](米国)へ伝わり、「ハンバーガー」と略称されるようになった<ref>【At the Scene[現場を旅する]】「本家」の人気バーガー[[朝日新聞グローブ|『朝日新聞』GLOBE]](朝刊別刷り)2019年12月号17面[旅]</ref>。18世紀より米国に移住したドイツ人が食した独自の挽肉料理が「ハンブルク風(ハンバーグ)ステーキ」と呼称するようになったもので、[[1891年]]の文献には既に「ハンバーガーステーキ」の文字が見られる。
ハンバーグをパンに挟んだ形状であるハンバーガーの誕生や命名の由来については諸説がある。[[1904年]]に米国[[セントルイス]]で開催された[[セントルイス万国博覧会]]の会場内で、ハンバーガーステーキを挟んだ[[サンドイッチ]]が「ハンバーガー」という表記のもとで販売されていたという事実からも、[[20世紀]]の初頭には専用の丸い[[バンズ|バン]]と組み合わさり、今日のハンバーガーの原型がアメリカで誕生していたと考えられる<ref>{{Cite web|和書|title=一般社団法人 日本ハンバーグ・ハンバーガー協会 - ハンバーガーの歴史 |url=http://nhha.lin.gr.jp/hh/history/hamburger.html |website=nhha.lin.gr.jp |access-date=2022-09-01}}</ref>。
このほか、[[1900年]]に[[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]の食堂で開発されたという説や、[[ウィスコンシン州]]シーモアのチャーリー・ナグリーンが[[1885年]]にハンバーガーを考案したという説もある。ナグリーンは当初地元の農業品評会にて揚げた[[ミートボール]]を売っていたがあまり売れなかったため、これを平板状にし、さらにそれをパンの間にはさんだものを販売したという。ニューヘイブンでは、急いでいる客に[[まかない]]用だった挽肉を焼いてパンに挟んで提供したのが始まりだと話している。また、[[ニューヨーク州]]ハンバーグ村は、ドイツの都市ハンブルクではなく自身がハンバーガーの名称の由来であると主張している。
1920年代には、ビリー・イングラムとウォルター・アンダーソンの2人が[[カンザス州]]に[[ホワイト・キャッスル (ファストフード)|ホワイトキャッスル]]を開き、1個5[[セント_(通貨)|セント]]で販売を始めた。後にアメリカ中に店舗が拡大し、これがハンバーガーチェーンの先駆けになったという。
ハンバーガーは、[[1940年代]]に[[マクドナルド兄弟]]が[[カリフォルニア州]]に開いた[[ドライブイン]]でメニューに出され、評判になったことで、アメリカを中心に各国に広まった。その拡がりは「マクドナルド理論」といい、[[トーマス・フリードマン]]より「[[マクドナルド]]の店舗がある国同士は戦争をしない」という学説が出されたほどである。この説は1999年のアメリカ合衆国の[[アライド・フォース作戦|セルビア爆撃]]で破られた。
また該当国の国内[[通貨]]価値を知る上での経済指標として利用される事もあり、これは[[ビッグマック指数]]と呼ばれる。
2010年代からはアメリカの大手チェーンが[[エンドウ豆]]や[[大豆]]を使用した[[コピー食品|代用肉]]のハンバーガーを投入し、割高ながら人気を博している<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190530/k10011934581000.html?utm_int=detail_contents_tokushu_003 ビジネス特集 ハンバーガー大国に異変 ~“肉なし”が急拡大~][[日本放送協会|NHK]](2019年5月30日)2019年12月3日閲覧</ref>。
== バリエーション ==
{| class="wikitable"
|-
! style="width:15em" | 名称 !! style="width:10em" | 国 !! 備考
|-
|[[スライダー (サンドイッチ)|スライダー]]|| ||
|-
|[[チーズバーガー]]|| ||[[チーズ]]をトッピングしたもの。
|-
|[[ヴェジーバーガー]]|| ||[[ベジタリアン]]向けに、肉由来の食材が使用されていないもの。
|-
| フィッシュバーガー || ||
|-
| エッグバーガー || ||
|-
|[[ポーボーイ]]<br>Po' boy ||アメリカ合衆国<br> [[ルイジアナ州]]|| [[フライ (料理)|フライ]]にしたシーフードや[[ローストビーフ]]、[[ローストチキン]]などを[[シーザーサラダ]]と一緒に挟んだ、サンドウィッチに近いハンバーガー。
|-
| カリフォルニアバーガー<br>California burger || アメリカ合衆国<br>[[カリフォルニア州]]|| アメリカ国内では[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]側と[[アメリカ合衆国東海岸|東海岸]]側で全く異なる[[レシピ]]のカリフォルニアバーガーが存在する。東海岸は[[トマト]]、[[レタス]]、[[タマネギ]]を挟む。カリフォルニア州を含む西海岸はベーコンと[[ワカモレ]]を挟んだもの。
|-
| 50/50バーガー<br>50/50 burger || アメリカ合衆国<br>[[南カリフォルニア]]|| 半分が牛挽肉、半分がベーコン挽肉のパティが用いられたバーガー。
|-
| フラバーガー<br>Hula burger || アメリカ合衆国<br>[[ハワイ州]]|| パティの代わりに、スライスした[[パイナップル]]、チーズを挟んだハンバーガー{{R|世界}}。
|-
|[[サーモンバーガー]]<br>salmon burger || アメリカ合衆国<br>[[アラスカ州]]|| パティに[[サケ]]を用いたバーガー。
|-
| ロッシーニバーガー<br>The Rossini burger || アメリカ合衆国<br>[[ニューヨーク]]||[[ジョアキーノ・ロッシーニ]]にちなんだ高級バーガー。
|-
| 777バーガー<br>777 burger || アメリカ合衆国<br>[[ラスベガス]]||
|-
|[[ジューシールーシー]]<br>Juicy Lucy || アメリカ合衆国<br>[[ミネアポリス]]||ハンバーグの中にチーズを挟み込んだもの
|-
|[[ルーサー・バーガー]]<br>Luther Burger || アメリカ合衆国<br>[[インディアナポリス]]||[[ルーサー・ヴァンドロス]]が創作したと言われている。
|-
| スラッグバーガー<br>[[:en:Slugburger|Slugburger]]|| アメリカ合衆国<br>[[ミシシッピ州]]||
|-
| フリータ・キュバーナ<br>Frita Cubana || アメリカ合衆国<br>[[フロリダ州]]||
|-
| カロライナ・バーガー<br>Carolina burger || アメリカ合衆国<br>[[ノース・カロライナ州]]||
|-
| スロッパー<br>[[:en:Slopper|Slopper]]|| アメリカ合衆国<br>[[プエブロ]]、[[コロラドスプリングス]]||
|-
| ニュートリ・バーガー<br>The Nutri-burger ||[[イギリス]]|| イギリスの[[栄養士]]リビー・リモンによって開発されたバーガー。[[豆]]類を中心に50種類以上の素材が使われ、「世界一ヘルシーなハンバーガー」と言われている。
|-
| アンブルゲサ<br>Hamburguesa ||[[キューバ]]||挽肉ではなく牛肉を叩いて繊維を潰し、塩、[[胡椒]]等の[[香辛料|スパイス]]で味付けして鉄板で焼いたものを挟む<ref name="世界">{{Cite web|和書|url=https://www.ntt-card.com/trace/vol44/special/page02.shtml|title=奥深きハンバーガーの世界|accessdate=2017-11-27}}</ref>。
|-
| アンブルゲサ・メヒカーナ<br>Hamburguesa Mexicana ||[[メキシコ]]|| 上記のキューバと同じく[[スペイン語圏]]であるため同名だが、レシピは大きく異なる。
|-
| ボフサンドイッチ<br>BØFSANDWICH ||[[デンマーク]]|| bøfは牛肉を意味する。
|-
| バーガー・ウィズ・ザ・ロット<br>Burger With The Lot ||[[オーストラリア]]||
|-
| ウスラック・ブルゲル<br>Islak burger ||[[トルコ]]|| バンズ全体にソースが塗られている。名前は「濡れたバーガー」を意味する。
|-
| チキンバーガー<br>Chicken burger ||[[インド]]||[[ヒンドゥー教徒]]や[[イスラム教徒]]が多いため、牛肉と[[豚肉]]を避けたバーガー。
|-
| ピエスカビッツァ<br>[[:en:Pljeskavica|Pljeskavica]]||[[セルビア]]||
|-
| グリレッタ<br>Grilletta ||[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]|| [[東ベルリン]]都心の飲食店不足を補うため1982年頃に考案。ハードな[[カイザーロール|丸パン]]で豚挽肉のパティを挟んだ。物資不足のため、[[ケチャップ]]の代わりに自家製[[チャツネ]]を用いる場合もあった。
|-
| チミチュリス・バーガー<br>[[:en:Chimichurris|The Chimichurri burger]]||[[ドミニカ共和国]]||
|-
|[[ご当地バーガー]]|| 日本 ||
|-
|[[ライスバーガー]]|| 日本 ||
|-
|[[テリヤキバーガー]]||日本||[[照り焼き|テリヤキ]]ソースを用いたもの。
|}
== 各国のハンバーガー ==
=== アメリカ ===
hamburgerという単語は「牛挽肉の料理」という意味を含むため、牛挽肉以外のものを使った場合ハンバーガーの名称が用いられることはない。例えば[[魚|フィッシュ]]・サンドイッチ、[[鶏肉|チキン]]・サンドイッチ([[w:chicken sandwich|chicken sandwich]])、[[ステーキ]]・サンドイッチ([[w:steak sandwich|steak sandwich]])などと呼ばれている。それ以外にも末尾に「バーガー」を付けるパターンもあり、例えば、植物由来の[[蛋白質]]からパテを作るインポッシブルフーズ社は、自社製品を使ったサンドウィッチを「ハンバーガー」ではなく「インポッシブルバーガー」と称している<ref>【ヒットの地球儀】米国・100%植物由来のバーガー/見栄えも歯応えも肉のよう『[[日経産業新聞]]』2018年3月19日(グローバル面)。</ref>。
=== 日本 ===
ハンバーガーチェーンが普及する以前から、漫画・アニメの『[[ポパイ]]』の登場人物として[[ウインピー]]という中年男がいつも食べているので知られていた。
[[第二次世界大戦]]後、[[長崎県]]の[[佐世保市|佐世保]]に駐留した[[アメリカ軍|米軍]]を通じて、本格的に日本にハンバーガーが持ち込まれたとされている<ref name="協会">{{Cite web|和書|url=http://nhha.lin.gr.jp/hh/history/hamburger.html|title=ハンバーガーの歴史|publisher=一般社団法人日本ハンバーグ・ハンバーガー協会|accessdate=2017-12-04}}</ref>。[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) に[[接収]]された[[三信ビルディング]]に[[1948年]](昭和23年)秋に開店した[[レストラン]]「ニューワールドサービス」で提供されたほか、[[1950年]](昭和25年)には東京・[[六本木]]に「ザ・ハンバーガー・イン」が創業する<ref name="MAP">{{Cite book|和書|year=2010|title=THE BURGER MAP 首都圏版|author=松原好秀|publisher=幹書房|id=ISBN 978-4902615708|pages=53-54}}</ref>。また、佐世保市の[[佐世保基地 (アメリカ海軍)|米軍基地]]周辺では戦後すぐからハンバーガーを売り出す店があった{{R|MAP}}。[[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]]の「ほそやのサンド」([[1949年]]〈昭和24年〉開業)は営業を継続している日本のハンバーガーショップとして[[日本最古の一覧|日本最古]]であるが{{r|:0}}、同店は当初は[[山形県]][[東根市]]のアメリカ軍キャンプ前に店を構えていた{{R|MAP|:0}}。
ファストフード店として日本に初めて上陸したバーガーショップは、[[1963年]](昭和38年)に[[沖縄県]][[北中城村]]屋宜原にオープンした[[A&Wレストラン|A&W]]屋宜原店である(ただし、当時の沖縄県は[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ統治下]]である)<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20170621-aw/|title=だから愛される!沖縄ご当地バーガー「A&W」の歴史と人気の秘密を探る|author=阿久津彩子|date=2017-06-21|publisher=[[マイナビニュース]]|accessdate=2017-12-04}}</ref>。同社はマクドナルドやKFCに10年も先駆けて日本に上陸している。牛豚肉の[[パティ]]に限らず、鶏肉や魚介類、野菜料理([[金平|きんぴら]]等)を具材としたり、[[パン]]の代わりに米飯や野菜(レタス等)で挟んだりと、多様なハンバーガーが売り出されている<ref>一例として、[http://mos.jp/menu/detail/020015/35/ モスライスバーガー彩り野菜のきんぴら](2018年3月26日閲覧)。</ref>。
ファストフード以外でも素材・製法にこだわった高級志向のハンバーガー専門店が[[1990年代]]後半から登場し始め<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.leon.jp/gourmet/28879|title=グルメバーガー、食べたいなら自分で作ってみよう!|date=2020-07-02|website=[[LEON (雑誌)|LEON]]|accessdate=2020-07-06}}</ref>、やがて「グルメバーガー」と呼ばれるようになる。また、「[[ご当地バーガー]]」という[[地域おこし]]の為の[[ご当地グルメ]]も見られる。
==== 日本におけるハンバーガーフランチャイズチェーン ====
===== 展開中のもの =====
* [[マクドナルド]]
* [[モスバーガー]]
* [[ロッテリア]]
* [[ファーストキッチン]]
* [[バーガーキング]]
* [[フレッシュネスバーガー]]
* [[ウェンディーズ]] - 2009年の撤退後、2011年に再進出。
* [[サンテオレ]] - 旧・明治サンテオレ。
* [[ドムドムハンバーガー]]
* [[クアアイナ]]
* [[カールスジュニア]]
* [[Rバーガー]]
* [[ラッキーピエロ]] - [[北海道]][[函館市]]を中心として[[道南]]地方に17店舗を展開<ref>[https://diamond.jp/articles/-/101725 なぜ函館の人気ハンバーガー店「ラッキーピエロ」は全国展開しないのか][[週刊ダイヤモンド|ダイヤモンド・オンライン]](2019年12月3日閲覧)</ref>。
* [[A&Wレストラン|A&W]] - 沖縄県に25店舗を構える。通称「エンダー」。
* [[ダグズバーガー]] - 国内外に5店舗を構える。
* [[ジェフ (ファーストフード)|Jef(ジェフ)]] - 沖縄県に5店舗を構える。
* [[シェイク・シャック]]
* [[ウマミバーガー]]
* [[ファットバーガー]]
* [[THE COUNTER]]
* [[Teddy's Bigger Burgers]]
* [[the 3rd Burger]]
* [[TORIKI BURGER]] - 居酒屋チェーン[[鳥貴族]]が運営するチキンバーガー専門店。
* [[サフラーハンバーガー]](山形県を中心に展開。現在は江俣店のみ)
* [[JJバーガー]]
* [[ライオンバーガー]]
===== 撤退したもの =====
* [[Becker's|Becker's(ベッカーズ)]]
* サンディーヌ(経営は[[日本レストランエンタプライズ]])
* アートサンズ([[アートコーヒー]]の系列店)
* たいんばーがー (東京・[[堀切]]などに店舗有り)
* バーガーエクスプレス
* バーガーキッド
* バーガーワールド
* ワールドバーガーランド
* ココ、サンドイッチ&バーガー
* バーガークラシック
* ブルースターバーガー
* OATMAN DINER - [[埼玉県]][[川越市]]、東京・[[池袋]]などに店舗有り。
* ハンバーガーショップ スワロウ
* [[クイズノス・サブ]]
* [[森永LOVE]]
* [[バーガーシティ]]
* [[グリコア]] - [[江崎グリコ]]グループ。
* [[ウインピー]]
* ハンダス - [[ミツカン]]グループ。ミツカンの本拠地である[[愛知県]][[半田市]]に因んだネーミング。
* [[VICMONT(ビクモン)]] - 沖縄県で2008年秋まで展開していた。
* [[雪印]]スノーピア
* [[アービーズ]]
* [[ホワイトキャッスル]]
=== 台湾 ===
[[台湾]]には、主に[[夜市]]と屋台で販売されている[[割包]]というハンバーガーがある。割包は、半月型の白色の蒸しパンに豚角煮と[[タカナ|高菜]]、粉にした[[ラッカセイ|ピーナッツ]]が挟まれている。割包の半月型の形が財布に似ているとされており、金運が上がる縁起の良い料理とされている<ref>{{Cite web|和書|title=タピオカブームに続け! 台湾屋台料理「割包(グァバオ)」専門店『福包』が中野の飲み屋街にオープン|url=https://www.syokuraku-web.com/bar-restaurant/37838/|website=食楽web|accessdate=2021-01-11|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=藍家割包で角煮入りのハンバーガー『割包』を食べよう!店舗の場所も紹介!{{!}} TRAVEL STAR|url=https://travel-star.jp/posts/8182|website=travel-star.jp|accessdate=2021-01-11|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【台湾B級グルメ】台湾人オススメ「割包・刈包(台湾ハンバーガー)」のお店|url=https://wu-channel.com/jp/taiwan-gourment/chinese-burger/|website=wu-channel 東京私手帖|date=2020-08-12|accessdate=2021-01-11|language=ja|first=Wu-Channel|last=東京私手帖}}</ref>。また、ハンバーガーチェーンについては、マクドナルド、バーガーキング、モスバーガー、ロッテリアなどが出店しており、[[高雄市]]や[[台南市]]などの台湾南部には、フライドチキンバーガーを売りにした[[丹丹漢堡]]というハンバーガーチェーンがある<ref>{{Cite web|和書|title=高雄人的ファストフードといったら「丹丹漢堡」 {{!}} 台北ナビ|url=https://www.taipeinavi.com/special/5059641|website=taipei|accessdate=2021-01-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=丹丹漢堡 台湾南部限定のハンバーガーチェーン!ダンダンハンバーガー|url=https://petit-tw.jp/dan-dan-hamburger/|website=ぷちち台湾 台湾旅行|date=2018-11-17|accessdate=2021-01-11|language=ja|last=2020年2月27日}}</ref>。
=== 香港 ===
[[香港]]では、外資系のハンバーガーチェーンの出店が進んでいる。香港には、マクドナルドやモスバーガー、バーガーキング、フィリピン人労働者が多いことから[[ジョリビー]]などが出店している。また、[[茶餐廳]]の有名店である蘭芳園のカツを使用したハンバーガーである金牌猪扒包は香港市民の間で広く知られている<ref>{{Cite web|和書|title=香港のハンバーガー事情 {{!}} 香港ナビ|url=https://www.hongkongnavi.com/special/5039069|website=hongkong|accessdate=2021-01-11}}</ref>。
=== 中国 ===
[[西安市]]には、 [[肉夾モー|肉夾饃]]という白色のパンに煮込んだ細切りの肉を挟んだハンバーガーがある<ref>{{Cite web|和書|title=【レシピあり】中華ハンバーガー『肉夾饃(ロージャーモー)』がウマすぎ!あまりの美味しさに言葉の法則が無視されるレベル / 沢井メグのリアル中華:第20回|url=https://rocketnews24.com/2020/01/07/1304575/|website=ロケットニュース24|date=2020-01-07|accessdate=2021-01-11|language=ja|last=沢井メグ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=西安名物が流行?末広町「MOOGA(モーガ)」で食べる肉夾饃と凉皮セット {{!}} 80C|url=https://80c.jp/restaurant/20180526-2.html|website=80C[ハオチー] 今の中華料理がわかるWEBメディア|date=2018-05-26|accessdate=2021-01-11|language=ja|last=80C_K}}</ref>。また、[[中国]]にはマクドナルド、バーガーキング、カールスジュニア、シェイク・シャック、モスバーガーといった外資系のハンバーガーチェーンが出店しており、[[2020年]]以降、事業拡大が盛んである<ref>{{Cite web|和書|title=ファーストフード大手 中国で事業拡大続く_中国国際放送局|url=http://japanese.cri.cn/20200820/a11d56d5-c890-b916-ae4c-a5e1b4e3a07d.html|website=japanese.cri.cn|accessdate=2021-01-11}}</ref>。
=== 韓国 ===
[[大韓民国|韓国]]では、マクドナルドとロッテリアでプルコギバーガー、KFCでチキンプルコギ、バーガーキングでプルコギワッパーという[[プルコギ]]味のハンバーガーが限定販売されている<ref>{{Cite web|和書|title=韓国限定ハンバーガーを食べ比べ! {{!}} ソウルナビ|url=https://www.seoulnavi.com/special/5048122|website=seoul|accessdate=2021-01-11}}</ref>。また、分厚いチキンバーガーで知られている[[:en:Mom's Touch]](マムズタッチ)という韓国全土に展開しているハンバーガーチェーンがある<ref>{{Cite web|和書|title=写真のままのクオリティ!韓国発ファストフードMOM`sTOUCH|url=https://maychocolate.com/momstouch/|website=なんでも韓国通信|date=2017-11-12|accessdate=2021-01-11|language=ja|last=メイチョ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=MOM's TOUCH 明洞店|明洞(ソウル)のグルメ・レストラン|url=https://www.konest.com/m/gourmet_detail.html?id=14925|website=www.konest.com|accessdate=2021-01-11|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=韓国発のハンバーガーチェーン店“MOM’S TOUCH”はもう食べた?|url=https://www.jiro-kankoku.com/blog_trend/moms-touch/|website=韓国旅行ブログ『JIRO(ジロー)』|accessdate=2021-01-11|language=ja}}</ref>。
=== 北朝鮮 ===
[[2009年]]6月に[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]当局は、[[シンガポール]]の会社と契約し、[[平壌直轄市]][[牡丹峰区域]]に北朝鮮初のハンバーガーショップである三台星清涼飲料店をオープンさせた<ref>{{Cite web|和書|title=平壌でハンバーガーショップが大人気(10月14日)|url=https://jp.yna.co.kr/view/MYH20101014006600882|website=聯合ニュース|date=2010-10-14|accessdate=2021-01-11|language=ja|last=오에}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【北朝鮮フォーカス】北朝鮮初のファストフード店、平壌にオープン 韓国・小売り・卸売り|url=https://www.nna.jp/news/show/450414|website=NNA.ASIA|accessdate=2021-01-11|language=ja}}</ref>。翌年には、[[万景台区域]]にある[[凱旋青年公園]]内に新しい支店がオープンしている<ref>{{Cite web|和書|title=平壌でもハンバーガーが人気…予約なければ食べられず|url=https://s.japanese.joins.com/JArticle/133870?sectcode=500&servcode=500|website=中央日報|accessdate=2021-01-13|language=ja}}</ref>。三台星清涼飲料店のメニューにあるフィッシュバーガーには[[ヒラメ]]を使用しており、ハンバーガーと[[キムチ]]や[[マッシュポテト]]のセットメニューも販売されている<ref>{{Cite web|和書|title=平壌で初 ファーストフード店オープン ハンバーガー、ワッフルなど|url=http://60.43.217.162/j-2009/04/0904j0820-00007.htm|website=60.43.217.162|accessdate=2021-01-11}}</ref>。また、[[高麗航空]]の機内食では、ハンバーガーが提供されている<ref>{{Cite web|和書|title=北高麗航空の“世界最悪”機内食 「ハンバーガーの中には…」|url=https://s.japanese.joins.com/JArticle/148137?sectcode=500&servcode=500|website=中央日報 |accessdate=2021-01-11|language=ja}}</ref>。
=== タイ ===
[[タイ王国|タイ]]では、外資系のハンバーガーチェーンが多く出店しており、マクドナルド、バーガーキング、カールスジュニア、モスバーガー、25ディグリーズなどが出店している。[[バンコク]]の歓楽街[[ナナ・プラザ]]でキッチンカーで販売を行っているナナ・バーガーは、ハンバーガーの有名店として知られている<ref>{{Cite web|和書|title=バンコクの歓楽街、ソイカウボーイとナナでハンバーガーを食べ比べてきた!|url=https://bkk-issyou.net/soicowboynanaburger|website=バンコクに一生住む?|accessdate=2021-01-11|language=ja|last=2016/12/12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=バンコク『ナナバーガー』でチーズバーガーを食べて”ナナプラザ”をスルーする決断|url=https://foodnews.jp/archives/11399|website=Food News フードニュース|date=2017-07-04|accessdate=2021-01-11|language=ja|last=yellow}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ナナプラザ周辺で極厚ハンバーガーを食べてみる。 #バンコク|url=https://asianmobile.org/nana-burger2019/|website=アジア旅行とモバイルとネコの情報サイト|accessdate=2021-01-11|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ナナバーガー (NANA BURGER)アジアで1番おいしい!? バンコクで噂のハンバーガーとは!?|url=https://asianwaker.com/2018/07/01/nana-burger/|website=アジアの歩き方|date=2018-07-01|accessdate=2021-01-11|language=ja}}</ref>。
=== インド ===
[[インド]]では、[[ヒンドゥー教]]の影響により、牛肉の摂取が[[タブー|禁忌]]となっており、マクドナルドやバーガーキングのメニューでもチキンを使用したハンバーガーが大多数となっている。また、インドには、[[菜食主義|ベジタリアン]]の国民も多くいるため、ベジタリアン向けのメニューがマクドナルドに存在している<ref>{{Cite web|和書|title=インド系バーガーの最高峰 インドのバーガーキングのマトンワッパーがウマい|url=https://blog.tirakita.com/2016/03/インド系バーガーの最高峰 インドのバーガーキ.shtml|website=インド大好き!ティラキタブロ グ|accessdate=2021-01-13|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=インドのマクドナルドに君臨しているバーガー「マハラジャ」を食べてみた - GIGAZINE|url=https://gigazine.net/amp/20131223-india-mcdonalds|website=gigazine.net|accessdate=2021-01-13}}</ref>。
=== オーストラリア ===
[[オーストラリア]]では、マクドナルドの他にバーガーキング系列の[[ハングリージャックス]]<ref>{{Cite web|和書|title=ハンバーガーチェーンNo.2のご当地メニュー「オージーバーガー」|url=https://tokuhain.arukikata.co.jp/sydney/2009/06/post_107.html|website=地球の歩き方 オーストラリア/シドニー特派員ブログ|accessdate=2021-01-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=オーストラリアのバーガーキング【ハングリージャックス】の前でスマホをフルフルせよ! Frequent Flyer|url=https://fromau.net/wp/in-hungry-jacks-shake-the-smartphone/|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref>と[[2004年]]に創業したヘルシーなハンバーガーを売りにしたグリルドというハンバーガーチェーンがある<ref>{{Cite web|和書|title=ガッツリ食べるならここ!シドニーの最高に旨いハンバーガー7店 {{!}} JAMS.TV オーストラリア生活情報ウェブサイト|url=https://www.jams.tv/gourmet/145978|website=JAMS.TV|date=2019-05-29|accessdate=2021-01-12|language=jp|last=Jams.tv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=グリルド|url=https://www.sydneynavi.com/food/127/|website=sydney|accessdate=2021-01-12}}</ref>。
=== ニュージーランド ===
[[ニュージーランド]]では、[[1995年]]に[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]で創業したニュージーランド産の牛肉を100%使用しているBurger Fuelというハンバーガーチェーンがニュージーランド国内各地あり、[[2006年]]以降、オーストラリアやアメリカ、中東諸国にも進出を果たしている<ref>{{Cite web|和書|title=ニュージーランドに来たら絶対食べたい『Burger Fuel』の絶品ハンバーガー!|url=https://motitabi.com/burger_fuel|website=世界ぶらりと食べ歩き|date=2018-09-04|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref>。また、[[南島 (ニュージーランド)|南島]]の[[クイーンズタウン (ニュージーランド)|クイーンズタウン]]には、[[CNN]]や[[ロンリープラネット]]で賞賛された地産地消<ref>{{Cite web|和書|title=世界トップ10のハンバーガー屋にQueenstownのあの店が選ばれる!|url=https://nzlife.net/archives/11107|website=日刊ニュージーランドライフ|date=2014-09-30|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref>を行っているファーグバーガーというハンバーガーレストランが存在している<ref>{{Cite web|和書|title=世界の「ファーグバーガー」はクイーンズタウンで一番人気!行ってみたら評判通り最高だった!|url=https://ohayotourism.com/newzealand/fergburger/|website=ニュージーランド旅行記ブログ|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Fergburgerはニュージーランドの名物ハンバーガー!行列必須の人気店! {{!}} TRAVEL STAR|url=https://travel-star.jp/posts/11412|website=travel-star.jp|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=クイーンズタウンで食べたい!人気のハンバーガー店【ファーグバーガー】|url=https://yochi-orange.com/queenstown-fergburger/|website=オレンジ日誌|date=2020-09-19|accessdate=2021-01-12|language=ja|last=YOCHI}}</ref>。
=== フランス ===
[[フランス]]では、コンサルタント会社ジラ・コンセイユの調査によると、[[2017年]]に販売されたハンバーガーが約14億6000万個 とサンドウィッチ(ジャンボン・ブール)の約12億2000万個を上回り、ハンバーガーの販売数は10年前の約14倍だったことが判明した<ref>{{Cite news|title=フランスでハンバーガー人気、販売数が定番バゲットサンド上回る|url=https://jp.reuters.com/article/burger-idJPKBN1GZ0AY|work=Reuters|date=2018-03-23|accessdate=2021-01-12|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref>。また、[[フランス通信社]]の記事によると、フランス国内のレストランの約85%がハンバーガーを提供しており、マクドナルドやバーガーキングといったファストフード店での販売が全体の30%で残り70%がレストランでの販売であった<ref>{{Cite web|和書|title=フランスのリヨン生まれのハンバーガー「キング・マルセル」|url=https://tokuhain.arukikata.co.jp/lyon/2020/07/post_334.html|website=地球の歩き方 フランス/リヨン特派員ブログ|accessdate=2021-01-12}}</ref>。
=== イタリア ===
[[フィレンツェ]]では、最高級ブランド牛である[[キアニーナ牛]]を使用したハンバーガーが存在する<ref>{{Cite web|和書|title=フィレンツェで大人気!「ドロゲリア」の病みつきハンバーガーの魅力|url=https://tabicoffret.com/article/72867/|website=たびこふれ|accessdate=2021-01-13|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=イタリア観光ブログ : キアーナ牛のハンバーガーを食す!|url=https://blog.his-j.com/.s/rome/2009/10/10364290821.html|website=blog.his-j.com|accessdate=2021-01-13}}</ref>。[[シチリア|シチリア島]]の[[パレルモ]]には地元民によく食べられている煮込んだモツ肉を使用したハンバーガーが存在している<ref>{{Cite web|和書|title=シチリア島パレルモの名物! ジャンクの王道・モツバーガー {{!}} 気になる世界の街角から|url=https://crea.bunshun.jp/articles/-/1351|website=CREA Traveller|accessdate=2021-01-13|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【ラ・ミーア・マンマ!イターリア!!】シチリア発「モツバーガー」|02<西洋>ラ・ミーア・マンマ!イターリア!! |url=https://www.tsujicho.com/column//cat664/post-303.html|website=www.tsujicho.com|accessdate=2021-01-13}}</ref>。また、[[イタリア]]ではハンバーガーは[[パニーノ]]もしくはパニーニと呼ばれることも多い<ref>{{Cite web|和書|title=「ハンバーガー」は通じない?イタリアのファストフード店で使える実用イタリア語集 {{!}} THE RYUGAKU [ザ・留学]|url=https://theryugaku.jp/3637/|website=アブログ|accessdate=2021-01-13|language=ja|last=Alitalia}}</ref>。
=== ギリシャ ===
[[ギリシャ]]では、 [[1975年]]にヤニス・ディオニシアディスが[[テッサロニキ]]で創業したGOODY’Sというハンバーガーチェーンがギリシャ国内でマクドナルドより売上を上げている<ref>{{Cite web|和書|title=ギリシャ独自のファスト・フードがいっぱい!「GOODY'S」|url=https://www.ab-road.net/europe/greece/athens/guide/02916.html|website=海外旅行情報 エイビーロード|accessdate=2021-01-13|language=ja}}</ref>。GOODY’Sは、ヨーロッパのファストフードを提供している企業の中で売上高10位に位置しており、[[キプロス]]や[[ブルガリア]]にも出店している。ヨーロッパで初めて良質な[[オリーブ・オイル]]だけで調理を行ったファストフード店である<ref>{{Cite web|和書|title=ギリシャのファストフードGOODY'Sよりスター・ウォーズ・バーガー発売|url=https://tokuhain.arukikata.co.jp/athena/2012/02/goodys.html|website=地球の歩き方 ギリシア/アテネ特派員ブログ|accessdate=2021-01-13}}</ref>。
=== マルタ ===
[[マルタ]]では、パテにマルタ料理によく登場する[[ウサギ]]肉を使用したハンバーガーを提供するレストランが存在している<ref>{{Cite web|和書|title=【ウサギ肉ハンバーガー】マルタ島セントジュリアンの「バッドアス・バーガーズ」 {{!}} On The Run|url=https://ontherun.blue/archives/7185|website=ontherun.blue|accessdate=2021-01-13}}</ref>。また、伝統的に食べられているフティーラというパンをバンズとしたハンバーガーも存在している<ref>{{Cite web|和書|title=ウサギ料理が名物!?地中海の小島マルタで食べる絶品グルメ {{!}} マルタ|url=https://www.travel.co.jp/guide/article/36728/|website=LINEトラベルjp 旅行ガイド|accessdate=2021-01-13|language=ja-JP|first=やま|last=かづ}}</ref>。
=== スウェーデン ===
[[スウェーデン]]では、牛肉のパテと野菜にオリジナルドレッシングがたくさん掛かったマックスオリジナルバーガーが有名な[[マックスハンバーガー]]がコマーシャルエージェンシー ISI Wissing ABの調査によると、マクドナルドとバーガーキングを抑えてファストフード店市場占有率1位で約40%を占めている<ref>{{Cite web|和書|title=日本人の口にも合う!スウェーデンのおすすめグルメはMAXバーガーで決まり!!|url=https://swetabi.com/max-hamburger|website=スウェーデン観光・移住に関する情報発信ブログ|Swetabi|date=2019-07-18|accessdate=2021-01-12|language=ja|last=スウェーデン観光・移住に関する情報発信ブログ|Swetabi}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=MAXというスウェーデンのハンバーガー屋さん|url=https://tokuhain.arukikata.co.jp/stockholm/2012/07/max.html|website=地球の歩き方 スウェーデン/ストックホルム特派員ブログ|accessdate=2021-01-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【ジャンクフード好き必見】北欧(スウェーデン)最強ファーストフード MAX とは!?|url=https://itislagom.com/the-best-junk-food-in-scandinavia-is-max/|date=2020-04-14|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref>。
=== フィンランド ===
[[フィンランド]]にはパテに[[トナカイ]]や[[ヘラジカ]]の肉を使用したハンバーガーを提供するレストランが存在している<ref>{{Cite web|和書|title=トナカイのハンバーガーがヘルシンキ市内で食べれる、おすすめレストラン {{!}} キートスショップ|url=https://kiitos.shop/blog/archive/helsinki-reindeer-meat-hamburger-restaurant-recommended.html?amp=1|website=kiitos.shop|accessdate=2021-01-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=フィンランドのハンバーガー|url=https://www.tumlare.co.jp/blog/?p=143|website=北欧現地ブログ|date=2014-02-20|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref>。また、バンズに[[ライムギ|ライ麦]]を使用したハンバーガーがあるヘスバーガーはフィンランド国内でマクドナルドの店舗数を上回っており、[[エストニア]]や[[ラトビア]]、[[リトアニア]]などにも出店している<ref>{{Cite web|和書|title=【フィンランド旅行記15】ヘスバーガー(Hesburger)!その味わいは?|url=https://etours.world/finland/staff-blog/725/|website=いい旅フィンランド|date=2018-02-07|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【フィンランド 最新レポ】 マクドナルドよりも人気の「ヘスバーガー」へ行ってみた (2019年7月2日)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Nicheee_2234110/|website=エキサイトニュース|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ラトビアでハンバーガーを食べるなら「HESBURGER(ヘスバーガー)」!|url=https://tabicoffret.com/article/77747/|website=たびこふれ|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref>。
=== ロシア ===
[[ロシア]]では、[[ソビエト連邦|ソ連]]時代の[[1990年]][[1月31日]]、[[モスクワ]]にあるプーシキン広場でマクドナルドの1号店がオープンしたことをきっかけにハンバーガーブームが発生した<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアのマクドナルド1号店が30周年を迎える|url=https://sputniknews.jp/20200131/7055904.html|website=jp.sputniknews.com|accessdate=2021-01-13|language=ja}}</ref>。当時ビッグマック1個の値段が1ヶ月の[[モスクワ地下鉄|メトロ]]、バスなどの交通費と同じくらいであったが、オープン初日には、3万人以上が店舗を訪れており、使い捨ての容器がお土産になるほどであった。マクドナルドへの行列は1992年になっても続き、2号店のオープニングセレモニーには当時の大統領であった[[ボリス・エリツィン]]も参加している<ref>{{Cite web|和書|title=ソ連のマクドナルド第1号店がいかにロシア人を熱狂させたか|url=https://jp.rbth.com/history/81550-soren-makudonarudo-dai-ichi-gouten/amp|website=jp.rbth.com|accessdate=2021-01-13}}</ref>。2017年頃から、モスクワや[[サンクトペテルブルク]]を中心に高価格帯でクオリティの高いプレミアムバーガーがブームになっており、提供するレストランが乱立している<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアのグルメバーガーブームの今|url=http://mtcjapan.ru/restaurant/783.html|website=MTCjapan|date=2017-07-28|accessdate=2021-01-13|language=ja}}</ref>。また、ロシアではグレーチカという[[ソバ|蕎麦]]の実を使用したハンバーガーやライ麦バーガーが人気を博している<ref>{{Cite web|和書|title=ヴィーガン向けの蕎麦バーガー:「グレーチカ」が流行している理由(レシピ)|url=https://jp.rbth.com/cuisine/83927-vegan-muke-soba-burger/amp|website=jp.rbth.com|accessdate=2021-01-13}}</ref>。ライ麦バーガーについては、ハンバーガーを提供しているほぼ全てのレストランで販売されている<ref>{{Cite web|和書|title=ディルのピザ?国際的な料理がどのようにして“ロシア化”したのか?(写真特集)|url=https://jp.rbth.com/cuisine/84458-kokusai-ryouri-no-roshia-ka/amp|website=jp.rbth.com|accessdate=2021-01-13}}</ref>。
=== セルビア ===
[[セルビア]]には、 国民食の一つである肉料理の[[チェヴァプチチ]]を挟んだハンバーガーを提供するレストランが多く存在している。また、[[レスコヴァツ]]の名物料理でスパイスが効いた肉料理の[[プレスカヴィツァ]]を挟んだハンバーガーも存在している<ref>{{Cite web|和書|title=【セルビアに行くなら食うしかない】セルビア風ハンバーガーを一挙紹介|url=https://inoshunnomad.com/serbian-burger|website=inoshunnomad.com|accessdate=2021-01-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=セルビア料理の説明【ファストフード】|url=https://www.serbianwalker.com/serbian-fast-food/|website=Serbian Walker {{!}} セルビア情報サイト|accessdate=2021-01-13|language=ja|last=2011年10月7日2020年6月8日}}</ref>。
=== 北マケドニア ===
[[北マケドニア]]のハンバーガーには、[[フライドポテト]]が挟まれている<ref>{{Cite web|和書|title=ランチ事情 {{!}} 海外インターンシップ マケドニア|url=https://internship.writerity.com/%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%81%e4%ba%8b%e6%83%85/|website=ヨーロッパ 海外ITインターンシップ|date=2018-06-25|accessdate=2021-01-12|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=きっとあなたが知らない「マケドニア」|url=https://tabippo.net/macedonia-hypertravel/|website=きっとあなたが知らない「マケドニア」|date=2018-07-27|accessdate=2021-01-12}}</ref>。また、かつてマクドナルドは北マケドニア国内に7店舗あり、[[2013年]]に撤退した。撤退した理由としてマクドナルドのハンバーガーにはフライドポテトが挟まれていないからだという噂もある<ref>{{Cite web|和書|title=マクドナルド、マケドニアから撤退か|url=https://fbc.de/ost/ost26674/|website=FBC|date=2013-05-21|accessdate=2021-01-12|language=ja|first=Ishiguro/FBC|last=GmbH}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ビックマックって何??マクドナルドが無い国をご紹介! - 異国旅|url=https://ikokutabi.com/not_mac/|website=ikokutabi.com|date=2018-02-12|accessdate=2021-01-12|language=ja}}</ref>。
=== トルコ ===
[[トルコ]]には、ウルスラック・ブルゲルという濡れバーガーが存在する。ウルスラック・ブルゲルは、主に[[ケバブ]]屋で蒸した状態で販売されている。上下のハンズはソースに浸している。具はハンバーグ1枚だけとなっていることが多い<ref>{{Cite web|和書|title=【激ウマ】トルコでケバブの次に有名な名物「濡れバーガー」を食べに行くべし! – 世界を旅するガイドブック Photrip フォトリップ|url=https://photrip-guide.com/2017/01/22/islak-burger/amp/|website=photrip-guide.com|accessdate=2021-01-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=トルコのB級グルメ・濡れバーガー|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/374181/|website=[トルコ] All About|accessdate=2021-01-13|language=ja}}</ref>。
=== カナダ ===
[[カナダ]]には、ハービーズというハンバーガーチェーンがあり、野菜やソースをカウンターにあるケースから選ぶことができ、オリジナルのハンバーガーを作ることが可能である<ref>{{Cite web|和書|title=目の前でトッピングを選ぶカナダのバーガーチェーン、ハービーズ|フル旅|url=https://www.full-tabi.com/vancouver/gourmet/harveys_vancouver.html|website=フル旅|accessdate=2021-01-13}}</ref>。また、[[1928年]]に創業したハンバーガーチェーンであるトリプルオーズは、カナダ産牛肉のパテと巨大なピクルスを売りにしている<ref>{{Cite web|和書|title=目の前でトッピングを選ぶカナダのバーガーチェーン、ハービーズ|フル旅|url=https://www.full-tabi.com/vancouver/gourmet/harveys_vancouver.html|website=フル旅|accessdate=2021-01-13}}</ref>。
=== メキシコ ===
[[メキシコ]]では、ハンバーガーを販売している屋台が多く営業している<ref>{{Cite web|和書|title=メキシコシティで絶対食べたい激旨ハンバーガー【アレナメヒコの近く!】|VIVA! MEXICO メキシコ情報ブログ|url=https://allartesania.com/arena-mexico-hamburger/|website=VIVA! MEXICO メキシコ情報ブログ|accessdate=2021-01-13|language=ja}}</ref>。また、[[アボカド]]や細く切った[[トルティーヤ]]を挟んだハンバーガーも多く存在している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wowneta.jp/news-read/29346.html|title=メキシコのハンバーガーは大きさ注意【メキシコ】|accessdate=2020年1月13日|publisher=}}</ref>。
== ハンバーガーを題材とした作品 ==
* [[本日のバーガー]] - 原作:[[花形怜]]、作画:[[才谷ウメタロウ]]による[[漫画]]。2015年から2021年まで[[芳文社]]の[[週刊漫画TIMES]]で連載され、全18巻(143話)が刊行されている。
== ハンバーガーと食中毒 ==
ハンバーグのパティは、挽肉を成型して調理する過程で有害な菌の混入、繁殖が生じる機会が生じやすく、これを原因とする集団[[食中毒]]の発生がしばしばみられる。重篤な食中毒を引き起こす[[腸管出血性大腸菌]]の代表格である[[O-157]]自体、[[1982年]]に米国[[オレゴン州]]と[[ミシガン州]]で発生した、大手ハンバーガーチェーンの集団食中毒事件を契機に発見されたものである<ref>{{Cite web|和書|date= 2011.02.14|url= http://www.city.yokohama.lg.jp/sakae/guide/gomizero/eisei/chyo.html|title=正しく知ろう 腸管出血性大腸菌O157 |publisher= 横浜市栄区ホームページ|accessdate=2018-09-20}}</ref>。この事件を契機に、各外食チェーン店で[[HACCP]]の導入など衛生面の管理強化が進んだが、1993年には再びアメリカのハンバーガーチェーン店、[[ジャック・イン・ザ・ボックスの大腸菌集団感染]]があり、全米各地で被害者が続出して社会問題となった。
日本でも2018年、大手ハンバーガーチェーン「[[モスバーガー]]」19店舗にて計28人が腸管出血性大腸菌O125による食中毒が発生した<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-09-14|url= https://www.sanspo.com/geino/news/20180914/sot18091423490010-n1.html|title= 8都県28人食中毒 本部納入の食材が原因か|publisher= サンスポ|accessdate=2018-09-20}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name=":0">{{Cite web|和書
| author = 村次龍志
| url = http://allabout.co.jp/1/237815/1/product/miyagi_gourmet_06.htm
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20160517182257/allabout.co.jp/1/237815/1/product/miyagi_gourmet_06.htm
| title = 国内最長の歴史を誇るハンバーガーはさすがのおいしさ。サンドイッチも驚くほどの逸品が揃う
| website = [[All About]]
| accessdate = 2017-12-4
| archivedate = 2016-5-17
| deadlinkdate = 2021年8月11日 }}</ref>
}}
== 文献 ==
{{参照方法|date=2017年12月14日|section=1}}
*{{Cite book | 和書
|author = アンドルー・F・スミス
|translator = 小巻靖子
|title = ハンバーガーの歴史
|year = 2011
|publisher = ブルース・インターアクションズ
|series = P-Vine BOOKs
|isbn = 978-4-86020-417-4
}}
== 関連項目 ==
* [[ドイツ料理]]
* [[ハンバーグ]]
* [[タルタルステーキ]]
* [[チーズステーキ]]
* [[バーガー]](曖昧さ回避)
* [[外食産業]]
* [[食品消費個人責任法|チーズバーガー法]]
* [[ファストフードが世界を食いつくす]]
** [[ファーストフード・ネイション]] - 上記書物の映画版
* [[本日のバーガー]] - 世界中の実在するハンバーガーや創作バーガーが登場する漫画
* [[スーパーサイズ・ミー]] - ドキュメンタリー映画
* [[ミミズバーガー]] - ハンバーガーの[[都市伝説]]
* [[バーガータイム]] - アーケードゲーム
* [[バーガーバーガー]] - 経営シミュレーションゲーム
* [[グーテンバーガー]] - 2002年まで発売された自販機ハンバーガー
* [[日本ハンバーグ・ハンバーガー協会]]
* {{仮リンク|ハンバーガーの一覧|en|List_of_hamburgers}}
* [[ハンバーガーボタン]] - [[グラフィカルユーザインタフェース]]でメニュー表示に用いられる横三本線のアイコン。
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{Cookbook|肉料理/ハンバーガー}}
* [http://nhha.lin.gr.jp/ 一般社団法人日本ハンバーグ・ハンバーガー協会]{{リンク切れ|date=2022年12月}}
* [https://shokuhin.net/58351/2022/06/29/ 半世紀の歴史に幕 日本ハンバーグ・ハンバーガー協会「解散お礼の会」] 食品新聞 2022.6.29
{{日本のファーストフードチェーン店}}
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{{Normdaten}}
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[[Category:ハンバーガー|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の食文化]]
[[Category:国民食]]
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武江
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武江(ぶこう)
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武江(ぶこう) 武江 (河川) - 中国の湖南省と広東省を流れる珠江水系の河川。
武江区 - 広東省韶関市の市轄区。
江戸の別名。
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'''武江'''(ぶこう)
* {{仮リンク|武江 (河川)|zh|武江 (河流)}} - [[中華人民共和国|中国]]の[[湖南省]]と[[広東省]]を流れる[[珠江]]水系の河川。
* [[武江区]] - 広東省[[韶関市]]の[[市轄区]]。
* [[江戸]]の別名。
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17,030 |
熊沢寛道
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熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年〈明治22年〉12月18日 - 1966年〈昭和41年〉6月11日)は日本の皇位僭称者。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
戦前は皇位や皇族を僭称することは不敬罪として処罰対象であったが、GHQ体制下で取締りが弱くなった戦後の一時期、皇位継承者を自称する者たちが各地に出現し、世間の耳目を集めた。熊沢はこれら「自称天皇」の代表的存在である。
熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
その姓は熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって、熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。
熊沢寛道は幼名を金三郎といい、「金さ」と呼ばれた。実父の弥三郎は農業を営んでおり、寛道は三男であった。愛知県内の小学校を卒業後、1910年(明治43年)に徴兵によって豊橋騎兵連隊に入伍し、1913年(大正2年)浄土宗西山派立専門学寮に入寮し、卒業後、聖峰中学校に通いつつ、浄土宗西山派の布教僧となったが、1931年(昭和6年)に還俗。同年に、名古屋市で洋品雑貨商を開業。
既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父・熊沢大然(くまざわ ひろしか)より、「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育った。養父は自身が後亀山天皇の直系子孫だとして明治政府に上奏、戦前にも上奏したが、ことごとく無視されたという。
1920年(大正9年)、養父の死後、熊沢は南朝の天皇としてひそかに即位したとされる。養父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)や明治神宮に送り続けていた。また、熊沢は1935年(昭和10年)前後で、葛尾天皇らと共に福島県双葉郡浪江町・大堀村辺りで後南朝の埋蔵金発掘をしている。
1945年(昭和20年)、名古屋市千種区内で雑貨商を営んでいた熊沢は、戦災で店を失い、廃業を余儀なくされる。同年、日本が連合国の占領下に入った後、11月にGHQのマッカーサー総司令官あてに請願書を送った。その嘆願書が丸の内郵船ビル総司令部翻訳課の担当中尉と親しい雑誌『ライフ』記者の目に止まった。
翌1946年(昭和21年)1月、アメリカの記者5名とGHQ将校が5時間取材し、その記事は『ライフ』、AP通信、ロイターなどで報道され、日本の新聞各社が彼を熊沢天皇と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった。彼に取り巻き利益を得ようと集まった支持者は、熊沢のために資金や公邸を提供した。また、熊沢のほか、南朝の天皇を自称する者が数名現れた。
政府当局はこの頃、熊沢天皇の調査を行っているが、それは天皇制批判の自由、言論の自由に対し、不敬罪の適用、天皇制護持を図る当局の態度を示すものであった。しかし、結局のところ熊沢に対して不敬罪の起訴は出来なかったが、その後、1946年(昭和21年)5月19日のプラカード事件では松島松太郎を不敬罪で起訴している。
勢いづいた熊沢は、1946年(昭和21年)5月政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。体制派の歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢に次第に冷ややかになっていった。
情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月に政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して、党首として選挙で候補者を立てるが失敗した。
なお、この選挙の際、熊沢は有名な竹内文書について、信雅王が先祖から伝承した品や宝物としていたものが盗まれたものだと主張した。これは熊沢の支持者の吉田長蔵が福島県双葉郡葛尾村にある光福寺(後に観福寺)という南朝方の寺から明治中期に虚無僧の斎藤慈教により盗まれた宝を、1920年(大正9年)に天津教の竹内巨麿が古物商から買い取ったと言ったことによる。
1951年(昭和26年)1月、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。
同年9月、サンフランシスコ講和条約が締結されると、人々の熊沢への関心も次第に薄れていった。その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して、南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。
1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。
1966年(昭和41年)6月11日、東京の板橋病院で膵癌のため死去。晩年は東京池袋の人世横丁に間借りし、著書『日本史の誤りを正す』の編纂に専念していた。
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熊沢 寛道は日本の皇位僭称者。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
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{{Infobox 人物
|氏名= 熊沢 寛道
|ふりがな= くまざわ ひろみち
|画像= Kumazawa Hiromichi.JPG
|画像サイズ=
|画像説明= 1955年
|出生名= 金三郎
|生年月日= [[1889年]][[12月18日]]
|生誕地= {{JPN}}・[[愛知県]]
|没年月日= {{死亡年月日と没年齢|1889|12|18|1966|6|11}}午後3時すぎ
|死没地= {{JPN}}・[[東京都]][[板橋区]][[東坂下]]2-22-14<br>[[志村橋外科病院]]
|死因= [[膵癌]]
|住居=
|国籍= {{JPN}}
|別名= 大延天皇<br/>熊沢天皇
|民族= [[大和民族]]
|出身校= [[京都西山短期大学|浄土宗西山派立専門学寮]]<br/>旧制聖峰中学
|時代= [[19世紀|19]] - [[20世紀]]<br/>([[明治]] - [[昭和]])
|職業= [[比丘]]([[1931年]]以前)<br>[[雑貨店]]経営([[1931年]] - [[1945年]])<br>[[政治活動家]]([[1946年]] - )
|活動期間= [[1920年]] - [[1957年]](自称南朝天皇)<br/>[[1957年]] - [[1966年]](自称南朝法皇)
|著名な実績=
|代表作=
|前任者= 熊沢大然
|後任者= [[尊信天皇]]
|政党= 正皇党([[1947年]])
|政治運動= 皇位不適格訴訟([[1951年]])
|敵対者= [[昭和天皇]]
|宗教= [[仏教]]
|宗派= [[浄土宗]][[西山浄土宗|西山派]]
|親= 熊沢弥三郎(実父)<br>熊沢大然(養父)
|墓地=[[一宮市]]の時之島玄曽墓地}}
'''熊沢 寛道'''(くまざわ ひろみち、[[1889年]]〈[[明治]]22年〉[[12月18日]] - [[1966年]]〈[[昭和]]41年〉[[6月11日]]<ref name="名前なし-1">「熊沢寛道」『20世紀日本人名事典』</ref>)は[[日本]]の[[王位請求者|皇位僭称者]]。'''大延天皇'''、また'''熊沢天皇'''(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
== 自称天皇 ==
戦前は皇位や皇族を僭称することは[[不敬罪]]として処罰対象であったが、[[GHQ]]体制下で取締りが弱くなった戦後の一時期、皇位継承者を自称する者たちが各地に出現し、世間の耳目を集めた。熊沢はこれら「自称天皇」の代表的存在である。
熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は[[応仁の乱]]の際に「[[西陣南帝]]」と呼ばれた人物だとし、その父は[[南朝 (日本)|南朝]]の[[後亀山天皇]]の孫とされる尊雅王([[南天皇]])であるとする<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=V0AyAQAAIAAJ&q=%E8%A5%BF%E9%99%A3%E5%8D%97%E5%B8%9D&dq=%E8%A5%BF%E9%99%A3%E5%8D%97%E5%B8%9D&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjE8Pmyr5_TAhVGwbwKHdgAAUA4ChDoAQgyMAQ 日本史の虛像と実像、p.390]</ref>。また、[[足利氏]]から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった[[斯波氏]]が[[尾張国]][[守護職]]をしており、[[宗良親王]]の末裔の[[大橋氏]]や、[[楠木氏]]ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国[[時之島]]([[愛知県]][[一宮市]])に隠れ住んだと述べている。
その[[姓]]は[[熊野三山|熊野宮]]の「熊」と[[陸奥国|奥州]]の地名・沢邑の「沢」をとって、熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。
== 生涯 ==
熊沢寛道は[[幼名]]を金三郎といい、「金さ」と呼ばれた。実父の弥三郎は[[農業]]を営んでおり、寛道は三男であった。[[愛知県]]内の小学校を卒業後、[[1910年]](明治43年)に[[徴兵]]によって[[豊橋市|豊橋]][[騎兵連隊]]に入伍し、[[1913年]]([[大正]]2年)[[京都西山短期大学|浄土宗西山派立専門学寮]]に入寮し、卒業後、聖峰中学校に通いつつ、[[浄土宗]]西山派の布教僧となったが、[[1931年]](昭和6年)に[[還俗]]。同年に、[[名古屋市]]で洋品雑貨商を開業<ref>秦の説に拠れば、「小学校卒業後、上京。[[正則中学校]]に通いつつ浄土宗の寺で修行したとあり、神戸で布教僧をしたためか話術に長け、筆も達筆」だったとする(秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』([[東京大学出版会]]、[[2002年]]([[平成]]14年)) ISBN 4-13-030120-9)。</ref>。
既に[[明治]]時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父・[[熊沢大然]](くまざわ ひろしか)より、「お前は[[南朝 (日本)|南朝]]の子孫だ」と言い聞かされて育った。養父は自身が[[後亀山天皇]]の直系子孫だとして[[明治政府]]に[[上奏]]、戦前にも上奏したが、ことごとく無視されたという<ref name="名前なし-1"/>。
[[1920年]](大正9年)、養父の死後、熊沢は南朝の天皇としてひそかに即位したとされる。養父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人([[近衛文麿]]、[[東條英機]]、[[荒木貞夫]]、[[徳富蘇峰]]など)や[[明治神宮]]に送り続けていた<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=UdAPAAAAYAAJ&q=%E7%86%8A%E6%B2%A2%E3%80%80%E5%A4%A7%E6%AD%A39%E5%B9%B4&dq=%E7%86%8A%E6%B2%A2%E3%80%80%E5%A4%A7%E6%AD%A39%E5%B9%B4&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjKiPqisMrVAhXEgLwKHZnQB5MQ6AEILjAC 文藝春秋, 第 65 巻]、p.79</ref>。また、熊沢は[[1935年]](昭和10年)前後で、[[葛尾天皇]]らと共に[[福島県]][[双葉郡]][[浪江町]]・[[大堀村]]辺りで後南朝の埋蔵金発掘をしている。
[[1945年]](昭和20年)、名古屋市[[千種区]]内で雑貨商を営んでいた熊沢は、戦災で店を失い、廃業を余儀なくされる。同年、日本が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の占領下に入った後、11月に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]総司令官あてに請願書を送った。その嘆願書が[[丸の内]][[郵船ビルディング|郵船ビル]]総司令部翻訳課の担当中尉と親しい雑誌『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』記者の目に止まった。
翌[[1946年]](昭和21年)[[1月]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の記者5名とGHQ将校が5時間取材し、その記事は『ライフ』、[[AP通信]]、[[ロイター]]などで報道され、日本の新聞各社が彼を'''熊沢天皇'''と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった<ref name="名前なし-1"/>。彼に取り巻き利益を得ようと集まった支持者は、熊沢のために資金や公邸を提供した。また、熊沢のほか、南朝の天皇を自称する者が数名現れた。
政府当局はこの頃、熊沢天皇の調査を行っているが、それは天皇制批判の自由、[[言論の自由]]に対し、[[不敬罪]]の適用、天皇制護持を図る当局の態度を示すものであった。しかし、結局のところ熊沢に対して不敬罪の起訴は出来なかったが、その後、1946年(昭和21年)[[5月19日]]の[[プラカード事件]]では[[松島松太郎]]を不敬罪で起訴している<ref>国史大辞典編集委員会 編『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』第4巻([[吉川弘文館]]、[[1984年]](昭和59年)) ISBN 4-642-00504-8 865頁〔佐藤昌三執筆〕</ref>。
[[ファイル:Hiromichi Kumazawa.JPG|thumb|180px|熊沢寛道(1947年)]]
勢いづいた熊沢は、1946年(昭和21年)[[5月]]政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、[[昭和天皇]]の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。体制派の[[歴史学者]]は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢に次第に冷ややかになっていった。
情勢を打開すべく、[[1947年]](昭和22年)[[3月]]に政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して<ref>この「南朝奉戴国民同盟」には、[[外村天皇]]こと外村光陽も理論武装する為に参加している。</ref>、党首として選挙で候補者を立てるが失敗した。
なお、この選挙の際、熊沢は有名な[[竹内文書]]について、信雅王が先祖から伝承した品や宝物としていたものが盗まれたものだと主張した。これは熊沢の支持者の吉田長蔵が福島県双葉郡[[葛尾村]]にある光福寺(後に[[観福寺 (葛尾村)|観福寺]])という南朝方の寺から明治中期に虚無僧の斎藤慈教により盗まれた宝を、[[1920年]](大正9年)に[[皇祖皇太神宮天津教|天津教]]の竹内巨麿が古物商から買い取ったと言ったことによる<ref>[[長山靖生]]「竹内文献創作の起源と増幅」『別冊歴史読本 古史古伝と偽書の謎』([[新人物往来社]]、[[2004年]](平成16年)) ISBN 4-404-03077-0 87頁</ref>。
[[1951年]](昭和26年)1月、[[東京地方裁判所]]に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で[[棄却]]された(「皇位不適格訴訟」)<ref name="名前なし-1"/>。
同年9月、[[サンフランシスコ講和条約]]が締結されると、人々の熊沢への関心も次第に薄れていった<ref name="名前なし-1"/>。その後も、折に触れ[[週刊誌]]や[[同人誌]]のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、[[映画]]の幕間の[[アトラクション]]に登場して、南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。
[[1957年]](昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、'''[[法皇]]'''を自称するようになり、[[1960年]](昭和35年)の[[第29回衆議院議員総選挙]]では天皇廃止論を主張したという理由で[[日本共産党]]の[[神山茂夫]]の支持を表明した。
[[1966年]](昭和41年)6月11日、[[東京]]の板橋病院で[[膵癌]]のため死去。晩年は東京[[池袋]]の人世横丁に間借りし、著書『日本史の誤りを正す』の編纂に専念していた<ref name="名前なし-1"/>。
== 著書 ==
*『大延文叢』(日本国体明徴会、[[1953年]](昭和28年))
* 『南朝と足利天皇血統秘史 : 万世一系はいづこ』(三秘同心会、[[1962年]](昭和37年))
== 注記 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[保阪正康]]『昭和史を騒がせた人びと』(グラフ社、[[1986年]](昭和61年)) ISBN 4-7662-0115-9
* [[玉川信明]] 編『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である <small>御落胤と偽天皇</small>』(社会評論社、[[1990年]](平成2年)) ISBN 4-7845-0522-9
* [[南博 (社会心理学者)|南博]]、[[師岡佑行]]、[[村上重良]]編『近代庶民生活誌 第11巻 (天皇・皇族)』(三一書房、1990年(平成2年)) ISBN 4-3809-0523-3
* 岡田晃房『熊沢天皇の末裔を訪ねて』、山地悠一郎『熊沢天皇は本当にニセモノだったのか』、田中聡『自称天皇たちの戦後史』
:『天皇の伝説』所収([[メディアワークス]]/[[主婦の友社]]、[[1997年]](平成9年)) ISBN 4-07-307253-6
* [[秦郁彦]]『昭和史の謎を追う』下([[文春文庫]]、[[1999年]](平成11年)) ISBN 4-16-745305-3
: 第27~28章 熊沢天皇始末記 上、下 p127~p170 〔初出:『正論』、[[1989年]](平成元年)[[6月]]~7月号〕
* 『別冊歴史読本 天皇家歴史大事典』([[新人物往来社]]、[[2000年]](平成12年))ISBN 978-4-4040-2753-5
: [[長山靖生]]「偽史のなかの天皇」p175~p180
* 保阪正康『天皇が十九人いた <small>さまざまなる戦後</small>』([[角川文庫]]、[[2001年]](平成13年)) ISBN 4-04-355603-9
: 天皇が十九人いた p14~p41 〔初出:『文藝春秋臨増 文藝春秋ノンフィクション』、[[1987年]](昭和62年)[[4月]]〕
* 山地悠一郎『後南朝再発掘 <small>熊沢天皇事件の真実</small>』(叢文社、[[2003年]](平成15年)) ISBN 4-7947-0452-6
* 早瀬晴夫『消された皇統 : 幻の皇統系譜考』(今日の話題社、2003年(平成15年)) ISBN 4-8756-5530-4
* 藤巻一保『吾輩は天皇なり <small>熊沢天皇事件</small>』(学研新書、[[2007年]](平成19年)) ISBN 978-4-05-403470-9
* 近藤佐知彦『天皇ヒロミチとその時代 逆説的天皇論の試み』(晃洋書房、[[2009年]](平成21年))ISBN 978-4-77-101996-6
* [[原田実 (作家)|原田実]]『トンデモニセ天皇の世界』(文芸社、[[2013年]](平成25年)) ISBN 978-4-28-614192-3
* 中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎 (別冊宝島 2192)』(宝島社、[[2014年]](平成26年)) ISBN 978-4-80-022710-2
== 関連項目 ==
* [[大覚寺統]]
* [[後南朝]]
* [[西陣南帝]]
* [[天皇の一覧]]
*[[熊沢蕃山]] - 熊沢が一族として主張。
* [[有田正憲]](『[[南朝奉戴会]]』) - 戦前から熊沢を支援し続け、最期まで看取った。
* [[熊澤秀浩]](元[[プロ野球選手]]) - 選手名鑑で「熊沢天皇の末裔」と紹介された。
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:くまさわ ひろみち}}
[[Category:王族詐称者]]
[[Category:正則高等学校出身の人物]]
[[Category:愛知県出身の人物]]
[[Category:還俗した僧]]
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2003-09-16T01:42:53Z
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17,032 |
享保
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享保(きょうほう)は、日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。
この改元は改元の決定から日付までを幕府側の事実上の指定で決められたものである。これは事実上の将軍の代始改元を目指したものであるが、以後は幕府権力の衰退もありこれが最後となった。
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享保(きょうほう)は、日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。
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[[画像:Jokyo-reki.jpg|thumb|右|[[伊勢神宮]]が発行した[[伊勢暦|暦]]。[[1729年|1729]](享保14)年版。[[国立科学博物館]]の展示。]]
'''享保'''(きょうほう)は、[[日本]]の[[元号]]の一つ。[[正徳 (日本)|正徳]]の後、[[元文]]の前。[[1716年]]から[[1736年]]までの期間を指す。この時代の[[天皇]]は[[中御門天皇]]、[[桜町天皇]]。[[江戸幕府]]将軍は[[徳川吉宗]]。
== 改元 ==
*正徳6年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]([[グレゴリオ暦]]1716年[[8月9日]]) 7代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家継]]死去のため改元
*享保21年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]](グレゴリオ暦[[1736年]][[6月7日]]) 元文に改元
この改元は改元の決定から日付までを幕府側の[[事実上]]の指定で決められたものである。これは事実上の将軍の代始改元を目指したものであるが、以後は幕府権力の衰退もありこれが最後となった<ref>久保貴子「改元にみる朝幕関係」『近世の朝廷運営-朝幕関係の展開-』(岩田書院、1998年) ISBN 4-87294-115-2 P240-241</ref>。
== 出典 ==
『[[後周書]]』にある「'''享'''茲大命、'''保'''有万国」から。
天から大命を授けられ、そして万国を平和に保つという意味である
== 享保年間の出来事 ==
8代将軍[[徳川吉宗]]による[[享保の改革]]。
*4年 : [[11月9日 (旧暦)|11月9日]] - 徳川吉宗による[[相対済令]]の発令。
*7年 : [[12月21日]] - [[目安箱]]の投書をきっかけとして、徳川吉宗の命により[[小石川養生所]]を開設。
*9年 : [[4月14日]] - [[享保の大火]](妙知焼け)、大坂。
*15年 : [[8月3日]] - 享保の大火(西陣焼け)、京都。
*17年 : [[享保の大飢饉]]
=== 誕生 ===
*4年 : [[田沼意次]]([[江戸幕府]][[側用人]]・[[老中]] [[遠江国]][[相良藩]]初代藩主)、[[井伊直陽]]([[越後国|越後]][[与板藩]]第2代藩主)
*5年 : [[細川重賢]]([[熊本藩]]第7代藩主)
*8年 : [[池大雅]](絵師)
*13年 : [[平賀源内]]
*15年 : [[本居宣長]](医師)
*18年 : [[閑院宮典仁親王]]( [[光格天皇]]の実父)
=== 死去 ===
*4年 : [[安藤東野]](享年37)
*5年 : [[間部詮房]](享年53)
*9年 : [[近松門左衛門]](享年72)
*10年 : [[新井白石]](享年69)
*13年 : [[荻生徂徠]](享年62)
*15年 : [[徳川継友]](享年39)
*17年 : [[井伊直陽]](享年14)
*19年 : [[紀伊國屋文左衛門]](享年66)
==西暦との対照表==
※は小の月を示す。
{|class="wikitable" style="white-space:nowrap" style="font-size:small"
|-
!享保元年([[丙申]])!!一月※!!二月!!閏二月※!!三月※!!四月!!五月※!!六月※!!七月!!八月※!!九月!!十月!!十一月!!十二月※
|-
|グレゴリオ暦||[[1716年|1716]]/1/25||2/23||3/24||4/22||5/21||6/20||7/19||8/17||9/16||10/15||11/14||12/14||[[1717年|1717]]/1/13
|-
|ユリウス暦||1716/1/14||2/12||3/13||4/11||5/10||6/9||7/8||8/6||9/5||10/4||11/3||12/3||1717/1/2
|-
!享保二年([[丁酉]])!!一月!!二月!!三月※!!四月※!!五月!!六月※!!七月※!!八月!!九月※!!十月!!十一月!!十二月※!!
|-
|グレゴリオ暦||[[1717年|1717]]/2/11||3/13||4/12||5/11||6/9||7/9||8/7||9/5||10/5||11/3||12/3||[[1718年|1718]]/1/2||
|-
|ユリウス暦||1717/1/31||3/2||4/1||4/30||5/29||6/28||7/27||8/25||9/24||10/23||11/22||12/22||
|-
!享保三年([[戊戌]])!!一月!!二月!!三月※!!四月!!五月※!!六月!!七月※!!八月※!!九月!!十月※!!閏十月!!十一月※!!十二月
|-
|グレゴリオ暦||[[1718年|1718]]/1/31||3/2||4/1||4/30||5/30||6/28||7/28||8/26||9/24||10/24||11/22||12/22||[[1719年|1719]]/1/20
|-
|ユリウス暦||1718/1/20||2/19||3/21||4/19||5/19||6/17||7/17||8/15||9/13||10/13||11/11||12/11||1719/1/9
|-
!享保四年([[己亥]])!!一月!!二月!!三月※!!四月!!五月※!!六月!!七月※!!八月※!!九月!!十月※!!十一月!!十二月※!!
|-
|グレゴリオ暦||[[1719年|1719]]/2/19||3/21||4/20||5/19||6/18||7/17||8/16||9/14||10/13||11/12||12/11||[[1720年|1720]]/1/10||
|-
|ユリウス暦||1719/2/8||3/10||4/9||5/8||6/7||7/6||8/5||9/3||10/2||11/1||11/30||12/30||
|-
!享保五年([[庚子]])!!一月!!二月!!三月※!!四月!!五月!!六月※!!七月!!八月※!!九月※!!十月!!十一月※!!十二月!!
|-
|グレゴリオ暦||[[1720年|1720]]/2/8||3/9||4/8||5/7||6/6||7/6||8/4||9/3||10/2||10/31||11/30||12/29||
|-
|ユリウス暦||1720/1/28||2/27||3/28||4/26||5/26||6/25||7/24||8/23||9/21||10/20||11/19||12/18||
|-
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|-
|グレゴリオ暦||[[1721年|1721]]/1/28||2/26||3/28||4/26||5/26||6/25||7/24||8/23||9/21||10/21||11/19||12/19||[[1722年|1722]]/1/17
|-
|ユリウス暦||1721/1/17||2/15||3/17||4/15||5/15||6/14||7/13||8/12||9/10||10/10||11/8||12/8||1722/1/6
|-
!享保七年([[壬寅]])!!一月※!!二月!!三月※!!四月!!五月※!!六月!!七月!!八月※!!九月!!十月※!!十一月!!十二月※!!
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|グレゴリオ暦||[[1722年|1722]]/2/16||3/17||4/16||5/15||6/14||7/13||8/12||9/11||10/10||11/9||12/8||[[1723年|1723]]/1/7||
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エア・コンディショナー
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エア・コンディショナー(英: air conditioner)とは、空調設備の一つで、室内の空気の温度や湿度などを調整する機械である。日本での通称はエアコン(以下「エアコン」と表記)。
狭義では、パッケージ・エア・コンディショナーや家庭用のルーム・エア・コンディショナーのうち、水以外の熱媒体で熱を搬送する装置、つまりヒートポンプを指す。 なお、「エアコン」は「エアー・コンディショニング」または「エアー・コンディション」の略として使用される場合もある。
また、日本語で「クーラー」というとエアコンの冷房用での使用や冷房専用タイプを指すことが多いが、英語の「Cooler」は主としてクーラーボックスを意味する。
日本語の「エアコン」は冷房と暖房が出来るヒートポンプ式の空調設備を示すが、英語で「air conditioner」や「Air conditioning」というとヒートポンプなど技術的な意味を問わず、冷房、冷房機など冷房専用タイプを含む意味である。英語で日本語の「エアコン」に相当する単語、熟語は無く、相当する製品は「heating and air conditioning system」(暖房と冷房システム)や「Cool & Heat」と呼ばれ販売されている。
日本では、上記の狭義で説明されているヒートポンプ式の空調機器を「エアコンディショナー」として家庭用品品質表示法の適用対象としており、電気機械器具品質表示規程に定めがある。
1758年、ベンジャミン・フランクリンとジョン・ハドリーは、蒸発の原理(蒸発熱)を使って物体を急速に冷却する実験を行った。フランクリンとハドリーはアルコールなどの揮発性の高い液体の蒸発を試し、エーテルを使うと物体を氷点下にまで冷却できることを発見した。実験では水銀柱式温度計の球部を冷却対象とし、蒸発を早めるためにふいごを使った。周囲の気温が65 °F (18 °C)の状態で、温度計の球部を 7 °F(−14 °C)にまで冷却することができた。フランクリンは、温度が氷点下になると間もなく温度計の球部表面に薄く氷が張ったことに気づいた。そして 7 °F(−14 °C)にまで達したとき、氷の厚さは6ミリメートル(4分の1インチ)ほどになっていた。フランクリンは「この実験で、暖かい夏の日に人間を凍死させられる可能性があることがわかった」と結論付けた。
1820年、イギリスの科学者で発明家のマイケル・ファラデーは、圧縮により液化したアンモニアを蒸発できるようにすると、周囲の空気を冷却できることを発見した。 1842年、アメリカ合衆国(アメリカ)フロリダ州の医師ジョン・ゴリーは圧縮冷凍技術を使って氷を作り、アパラチコーラ(英語版)の彼の病院でそれを使い、患者のために病室を冷やした。彼はさらにその製氷機を使って建物全体の温度を調節しようと考えた。そして、都市全体の空調を集中制御するという構想まで描いた。彼の試作品は常にうまく機能するわけではなかったが、ゴリーは製氷機の特許を1851年に取得した。しかし、彼の財政上の後援者が死に、その希望は潰えた。彼はその機械を本格的に開発する資金を集められなかった。ゴリーの伝記を書いたビビアン・シャーロックによれば、ゴリーは製氷で財を成したフレデリック・チューダー(英語版)が彼の発明を誹謗するキャンペーンを行ったと疑い、チューダーを非難した。ゴリーは貧困の中で1855年に亡くなり、その空調のアイディアは約50年間顧みられることはなかった。
空気調和の初期の商業利用は、個人の快適さのためではなく、工業の生産過程で必要とされる冷気を生み出すために使われた。最初の電気式エア・コンディショナーは1902年、アメリカニューヨーク州シラキュースのウィリス・キャリアが発明した。印刷工場の製造工程を改善するために設計されており、温度だけでなく湿度も制御できるようになっていた。温度と湿度を低く保つことで、紙の状態が一定となり、インクの付き方 = 仕上がりが一定になる。その後もキャリアの技術は様々な仕事場の生産性向上に応用され、増大する需要に応えるために The Carrier Air Conditioning Company of America(キヤリア社)を創設した。その後、エア・コンディショナーは住宅や自動車で室内の快適さを向上させる手段として使われるようになっていった。アメリカでは1950年代に家庭用エア・コンディショナーが爆発的に売れるようになった。
1906年、アメリカのスチュアート・W・クラマー(英語版)は、自身の経営する織物工場内に湿気を追加する方法を探していた。クラマーは同年出願した特許で初めて「エア・コンディショニング(空気調和)」という言葉を使った。これは、織物製造工程として当時よく行われていた水調和(英: water conditioning)を真似て名付けたものだった。彼は加湿と換気を組み合わせて工場内の湿度を制御し、織物工場に最適な湿度を実現した。ウィリス・キャリアはこの用語を採用し、社名にも組み込んだ。水分を空気中に蒸発させるこの方式には冷却効果があり、現在ではミスト散布として知られている。
初期のエア・コンディショナーや冷蔵庫は、アンモニア、クロロメタン、プロパンといった有毒または可燃性のガスを使用しており、それらが漏れ出すと死亡事故に繋がる危険性があった。トマス・ミジリーは世界初のフロン類であるフレオンを1928年に開発した。この冷媒は人間には安全だったが、後になって、太陽光に含まれる紫外線を吸収して地表の生物を守っているオゾン層にとって有害だということがわかった。「フレオン」はデュポン社の商標であり、実際はクロロフルオロカーボン(CFC)、ハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロカーボン(HFC)といった物質で、商品名(R-11, R-12, R-22, R-134a)には分子構成を示す数が付けられている。住宅などの空調によく使われたものはR-22という商品名のHCFCである。これは2010年までに新製品には使われなくなり、2020年以降に完全に製造されなくなる予定である。アメリカでは自動車のエア・コンディショナーのほとんどがR-12を使っていたが、1994年にR-134aに切り替えられた。R-11とR-12はアメリカ合衆国内では既に生産されておらず、廃棄されたエア・コンディショナーから回収したガスをきれいにしたものが売られているだけとなっている。オゾン層に影響しないいくつかの冷媒が代替フロンとして開発されており、例えばR-410Aはブランド名「プロン」で販売されている。オゾン層に悪影響を与える主な冷媒はR-11、R-22、R-123である。ただし、R-410A冷媒などの代替フロンは強力な温室効果ガスでもあったフロン類ほどではないものの、やはり地球温暖化係数が高いため、これに代わる次世代冷媒の開発が行われている。
第二次世界大戦後、エアコンの開発・生産と利用は世界的に広がった。室外機と分離することで住宅の壁に掛けられるほど薄型・軽量化されたエアコンが1968年(昭和43年)に日本で発売され(三菱電機)、国立科学博物館の重要科学技術史資料(未来技術遺産)の一つに2018年選定されている。
熱帯・亜熱帯の国々の経済成長や、日本などにおける夏場の仕事・生活の環境改善は、エアコンによる冷房の普及があったからこそという評価もある。赤道近くにあるシンガポールの元首相リー・クアンユーは「東南アジア諸国にとって、エアコンは20世紀最大の発明」と語ったことがある。一方、欧州各国の中には夏場に高温となる地域があるにもかかわらず、家庭における普及率は低迷しており、2017年時点で5 %と推測する報告書もある。イギリスでは2022年時点でも多くの学校には冷房が無い。
空気調和テクノロジーにおける技術革新は続き、近年ではエネルギー効率と屋内の空気質の改善が中心テーマとなっている。従来の冷媒の代替として二酸化炭素(R-744)のような自然に存在する物質も提案されている。
基本機能として冷房専用形と冷暖房兼用のヒートポンプ形がある。
また、次のような形態がある。
冷房または暖房のみを必要とする消費者のために、それぞれに特化した機種がある。長所は、特化することで、価格が安く、消費電力が少なく、室内機や室外機が小さく、操作が簡単なことである。機種によっては、広い場所で使用するために強力な性能を持っている物もある。
韓国ではオンドルが普及しているため、冷房専用の床置型が多い。
ルームエアコンとも呼ばれる家庭用エアコンには、形態として、圧縮機・凝縮器・蒸発器が一体となった窓型と、圧縮機・凝縮器が一体となった室外機と、蒸発器が内蔵された室内機とで構成されるセパレート型(東芝では「スプリット型」という)の2種類がある。セパレート型では、日本などの東アジア圏では壁掛型が主流である。一方、欧州では横長長方形の窓型がほとんどである。
さらに米国では、一般家庭であってもダクトを使用して各部屋に冷暖房を行うダクト方式が普及してきたが、日本のエアコンに代表されるダクトレス方式も評価されつつある。
能力によって、2.2 kW、2.5 kW、2.8 kW、3.6 kW、4.0 kW、4.5 kW、5.0 kW、5.6 kW、6.3 kW、7.1 kW などがある。使用する電圧も、単相100Vと、単相200Vと、動力の三相200Vがある。通常、エアコン一台に子ブレーカー一個を用意する。なお、日本の家庭用エアコンは窓型、セパレート型とも、2001年より家電リサイクル法の対象となり、廃棄の際に適正な処理が義務付けられた。
動力の三相200Vエアコンは室外ユニットや室内ユニット共外観上一般の100/200V単相エアコンと同じであるが、省令による規制があるため受電方法が異なる。電気設備技術基準(経産省令)の規定では家庭で三相200Vを使用できるのは屋外機器のみとされている。そのため動力エアコンは室外電源のみ三相200Vであり室内ユニットの運転および通信制御は別途室内側で受電した単相100/200Vで行われる。従って一部のメーカー(ダイキン工業など室内電源を室外ユニット送り以外で受電不可能な機種)での業務用エアコンを住宅へ設置した場合、電力会社との図面協議で指摘され送電拒否や変更を求められるケースが生じる。
家庭用エアコンは、冷房・暖房・ドライ(除湿)など多様な空気調整が可能な機種が製造・販売の多くを占める。最近はトップランナー方式による省エネ化が進み、内部の改良とも相まって以前のものよりも消費電力が少なくなっている。日本国内で発売されるセパレート型のエアコンはほぼ全てインバータ制御を内蔵した機種になっている(ただし、窓型エアコンについては非インバータのものが大半を占めている)。インバータエアコンは1981年に当時の東京芝浦電気(現・東芝)が世界で初めて発売した。当初は、圧縮機には誘導電動機を用いていたが、1990年代に高効率なブラシレスDCモータを採用してPAM制御により電圧を細かく制御し、現在では、日本で発売される家庭用エアコンに搭載される圧縮機用・ファン用のモータは、ほぼ全てがブラシレスDCモータになっている。日本ではインバータエアコンが主流であるが、世界的に見れば一定速である非インバータエアコンがまだまだ主流である。
また、非インバータエアコンでは商用電源周波数による能力の差があり、50Hz地域では60Hz地域より1 - 2割能力が落ちるが、インバータエアコンではそれがない。そのため、非インバータが主流であった当時のエアコンのカタログは50Hz・60Hz地域で別々に作成していた。現在では、非インバータの窓型エアコンのカタログで、50Hz・60Hzそれぞれの場合の能力が併記されているのが見受けられる。能力の違いは圧縮機に用いる誘導電動機の回転数が電源周波数に依存するためである。なお日本での窓用エアコンでのインバータ採用例は松下電器産業(現・パナソニック)のCW-G18系が空前にして絶後になった。同機種は年毎の僅かなマイナーチェンジのみで20年以上発売され続けた。窓用インバータエアコンは森田電工(現・ユーイング)からも発売されていたが、現在同社はエアコン事業から撤退している。
差別化機能としてマイナスイオンの発生、フィルタの自動清掃、空気清浄機、換気、加湿、赤外線センサによる温度監視、人工知能による解析、HA JEMA標準端子-A、インターネットによるデータ取得など、様々機能が開発されている。韓国ではミセモンジ(粒子状物質)対策として空気清浄機能付きが多い。
家庭用での暖房では、「すぐに温風がふき出して欲しい」という需要が高い。そのため、外気温が低い場合は、停止中でも機器を予熱をする機能を持つ機種がある。また、冷媒寝込みを防ぐためのヒーターを持つ機種もある。このような機種では冬場の待機電力は多い。省エネと快適性を両立させるため、気象予報などのデータから室温の変化を予測して先回りで制御する機種もある。
また、寒冷地など暖房時に外気温が低すぎる場合は、屋外で燃焼をした熱をヒートポンプする「石油エアコンディショナー」がある。同様にガス の火で熱を発生させ、その熱を室内へ送る「ガスエアコンディショナー」もある。寒冷地で、除霜運転が多いことが予想される場合は有効な選択である。なお、家庭用では、冷房にガスや石油の力はあまり使用されていない。過去にパナソニックや東芝なども石油や都市ガス等を使ったエアコンも販売されていたが、暖房時におけるエアコン自体の性能向上に伴い、採用されるケースが少なくなった。
窓型エアコンは、「ウインドエアコン」とも呼ばれる。長所は、セパレート型に比べ、小型であり、安く、個人で取り付け(取り外し)ができることである。壁に配管用の穴を開けたり、室内機の固定工事を施す必要が無く、窓さえあれば設置できるため、賃貸物件等でエアコンの設置に制限がある場合にも向いている。短所は、圧縮機を室内側と離隔できないため騒音や振動が大きいこと、装置重量を分散できないため小型のシステムとなり能力は落ちることである。窓用は可搬型のスポットクーラー等との共通性もあるため完全に廃れてはいないものの、平成期以後は比較的家賃が安い物件にもエアコンの固定設置が進んだことで需要が減って量産効果も出にくくなり価格競争力も失われつつある。
ちなみに海外にも日本と同様の壁掛型(欧米では窓型の方が主流)のエアコンが普及しているが、日本のエアコンほど機能面では豊富でなく、シンプルな単機能のものが多い。また欧米では暖房としてセントラルヒーティングや暖炉などが住宅に備わっているケースもあるため、「air conditioner」というと冷房専用機を前提に話をしているケースが多々ある。
家庭用のルームエアコンは家電製品であると共に、住宅設備としての一面も併せ持つ。そのため、販路や商習慣の違いによって電器店向けの機種と、住宅設備工事業者向けの機種が用意されている。後者は住宅を新築する際に同時に据え付けるというニーズに対応したものであり、型番やスペック、価格(量販店向けの機種はオープン価格なのに対して、住宅設備向けは希望価格が定められている)で区別される。
業務用エアコンは、大型のものや各種原動機を使用したものが存在する。2002年からフロン類を冷媒とする業務用機器は、フロン回収破壊法の対象となり、廃棄する場合、適正な処理が義務付けられた。
ビル用マルチエアコンは、一つの室外機で複数の室内機を使用し空調を行うものである。中小規模の建築物で一般に使用されていて、以下の特徴がある。
大型又は大規模のビルの空調装置は、冷媒に水を使用しており、冷房の場合には、チリングユニット、吸収式冷凍機、ターボ冷凍機などの吸収式冷凍サイクル又はヒートポンプ式冷凍サイクルを使用した熱源機器類と冷水槽との間でポンプによる循環を行い、熱源機器類で作られた冷水が冷水槽に溜まる。そこから別のポンプにより、部屋の天井に設置されたファンコイルユニット又はビルの屋上に設置されているエアハンドリングユニットにある熱交換器との間で冷水が循環して部屋の空調を行う。また、熱源機器類の運転時に、冷凍サイクルの凝縮器から発生する熱は、熱交換器で冷却水(水を使用する)と熱交換を行い、ポンプによりビルの屋上に設置してあるクーリングタワーとの間で冷却水が循環して冷却されるシステムとなっている為、広い意味での「エア・コンディショナー」と言える。歴史的には欧米で先行して普及したセントラルヒーティングのシステムに冷房機能を追加したもので、古い設備などでは暖房にはボイラーを用いるものもある。
コンビニエンスストア専用の冷凍・空調統合システムが存在し、以下のような特徴がある。
メーカーの発想に違いがあり冷媒回路を空調、冷蔵、冷凍で共有する方式(システムダウン時、どちらも運転不能)や三菱電機のように熱交換器で相互の熱のやりとりをすることで冷媒回路や通信制御が全く独立していて単独で機能するのもある。
内燃機関(エンジン)を動力にヒートポンプを作動させるもの。主に都市ガスを用いるガスエンジンヒートポンプ(GHP)の他、北海道など寒地の世帯に普及している灯油暖房インフラを利用する灯油エンジンヒートポンプ(KHP)がある。現行のエンジンはレシプロ機関だが、次世代型としてマイクロガスタービンも構想されているものの製品化に到っていない。以下のような特徴がある。
LPGは災害時に供給が止まることが少なく、発電機で少量の電気を供給すれば稼動する。一方運搬に必要な道路のインフラストラクチャーの損傷具合によっては都市ガス同様に復旧が遅くなる事もある。ただし、都市ガスは復旧が遅く長期に渡って空調が使えなくなる。したがって都市ガスが無ければ営業自体ができない店舗(飲食店やガス炊きボイラーの浴場)はともかく、病院や事務所など直接ガスに依存しない施設ではGHPのみに依存すると空調に支障をきたす場合がある。なお現行のGHPにおいては、使用燃料を都市ガス(13A)とLPG間で相互に切り替えることが可能であるため、必要に応じて都市ガスからLPGに切り替えたうえでボンベを接続することで、運転の継続が可能となる。
電力ピークカットを目的とした税優遇措置は、2011年現在も有効である。
自動車に取り付けてあるエアコン。基本的な構造は、冷房の場合は通常のエアコンと変わりなく、コンプレッサーを使う方式である。コンプレッサーは電磁クラッチの断続によってエンジンの動力で冷媒を圧縮し、圧縮されて蓄熱された冷媒は、車両前方のラジエーター前などに配置されたコンデンサー(凝縮器)で走行風や電動ファンによる強制空冷で冷却されガス状の冷媒が液化される。液化された冷媒は室内エアコンユニットのエバポレーター(蒸発器)に送られる。エバポレーターにはエキスパンションバルブ(膨張弁)が内蔵されており、ここで液化された冷媒が一気に気化されることにより、冷房サイクルが成立する。冷房を終えた冷媒はコンプレッサーに返送され、一部の余剰の冷媒は必要に応じてレシーバータンク(貯蔵庫)に蓄えられて再液化及び乾燥剤による除湿が行われる。
暖房は建物用エアコンと違い、液冷エンジン(水冷エンジン)においてはエンジンを冷却した冷却液(冷却水、クーラント)を室内のヒーターコアに導き、熱交換している。すなわちカーエアコンの暖房は、エンジンの廃熱利用にあたる。
これらの冷温風は電動送風機であるブロワモーターにより室内各所に送風される。カーエアコンはこれらの冷温風により、フロントガラスやサイドガラスの霜取りや曇り取り(デフォッガー/デフロスター)を行う機能も持たせられている。
温度調節はドライバーが手動で任意に行うマニュアルエアコンと、建物用エアコンのようにあらかじめ設定した室温に室温センサーなどで自動調節を行うオートエアコンが存在し、今日の日本市場ではオートエアコンが主流である。
クーラーの冷媒には一般的にはR134aが用いられる。かつてはフロン12(R12)が広く用いられていたが、オゾン層破壊が問題になったことにより現在ではR134aに完全に置き換えられている。しかし、R134a冷媒は強力な温室効果ガスでもあったR12ほどではないもののやはり地球温暖化係数(GWP)が高い温室効果ガスであることから、欧州F-Gas 規制 が制定され、2017年1月までに全ての欧州内の乗用車および軽トラックの新車のカーエアコンに使用される冷媒はGWP が150 以下の冷媒を採用しなければならなくなった。2011年1月から発売される新型車から段階的廃止が始まり、代替冷媒としてCO2やHFO-1234yfが採用される模様である。
近年では花粉症対策などを謡ったクリーンエアフィルタがカーエアコンに装着される事も一般化している。バスの冷房装置については、機関直結式冷房装置、独立機関式冷房装置を参照。
鉄道車両に取り付けてある冷房装置(一部を除き冷房専用であることから、エアコンと呼ばれることは少ない)。基本的には電気で作動するが、気動車ではカーエアコンと同様、走行用エンジンの動力の一部を利用して作動するものが多い。
電車の場合、屋根または床下にコンプレッサー・エバポレーター・コンデンサーが一体化されたものが搭載され、最近のものでは、換気機能を有するものや空気清浄機を内蔵するものがあり、換気や暖房によって天井に上った空気を下へ戻すために冬でも送風を行うものもある。
温度と湿度をセンサーで取得し解析、気流を制御することで快適な状態に保つ機能も実現している。
冷房は室内機が結露し、その水分を屋外へ排水するため、湿度が下がる。これは、体感温度を下げる助けになる。
しかし、インバーターエアコンでは自在に出力を調整出来るため、始動時は高出力運転を行うが、室温が安定した後は低出力の運転を行う。低出力の運転では室内機が結露を起こさないため、室温だけが下がり相対湿度は上昇する。相対湿度の上昇は、不快感やカビ、ダニの発生の原因になる事があるため、除湿機を併用したり、冷房のかわりに再熱除湿を使用して、湿度の上昇に注意する必要がある。
暖房は室内で燃焼を行わないため、相対湿度が下がる。これは、体感温度を下げる副作用となる。結果、過度な暖房をし、自律神経失調症につながる場合もある。エアコンのみで暖房を行う場合は、加湿器を併用するなど、乾燥に注意する必要がある。
冷房運転は室温を設定温度に合わせるものであり、除湿運転は湿度を設定した湿度に合わせるものである。目的に応じ選択することにより快適な状態となる。同じ室温でも湿度が低ければ体感温度が下がり快適に感じるため、日本の夏のような多湿の場合は、室温をあまり下げなくても除湿をすれば快適に感じる場合がある。
除湿運転の原理には、弱冷房除湿方式と再熱除湿方式の2種類がある。
弱冷房除湿方式は、弱く冷房をかけて除湿する方式である。そのため温度を下げる能力は冷房運転より低下するため、消費電力も少なくなる。この方式では湿度と同時に温度も下がり、温度と湿度を独立に制御することができない。そのため、梅雨時など室温が高くない場合は肌寒く感じることもある。室温が低い場合には、除湿能力が低下する。
再熱除湿方式は、冷房により一度温度が下がった空気を、再度加熱(再熱)することにより、所望の湿度に調節する方式である。原理上、温度と湿度を独立に制御することが可能であり、また弱冷房除湿方式に比べ室温が低い場合でも除湿能力がある。ヒーターで再熱する場合冷房運転よりも消費電力は多い。このタイプの再熱除湿は近年の家庭用エアコンでは採用されていないが、一部の鉄道車両用エアコンなどで採用されている。近年の家庭用エアコンで多く採用されている再熱除湿は室外機の廃熱をリサイクルする方式で冷房に比べて温度を下げる能力が低下する。そのため、昼間など大きな冷房能力が必要なときに使用すると、室温が下がらずに消費電力だけ大きくなる場合もある。機種によっては温度や湿度をセンサー監視し、最適なモードへ自動的に切り替える機種もある。近年ではインターネットでクラウドサービスに接続し、天気予報などから最適な条件となる設定値に合わせる機種も登場している。
除湿運転の場合、冷房運転だけでは取りきれない湿度を下げる事が出来るため、設定温度を高めにしても体感温度は下がる場合もあり、実際の消費電力は個々のケースによる。
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"text": "エア・コンディショナー(英: air conditioner)とは、空調設備の一つで、室内の空気の温度や湿度などを調整する機械である。日本での通称はエアコン(以下「エアコン」と表記)。",
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"text": "狭義では、パッケージ・エア・コンディショナーや家庭用のルーム・エア・コンディショナーのうち、水以外の熱媒体で熱を搬送する装置、つまりヒートポンプを指す。 なお、「エアコン」は「エアー・コンディショニング」または「エアー・コンディション」の略として使用される場合もある。",
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"text": "また、日本語で「クーラー」というとエアコンの冷房用での使用や冷房専用タイプを指すことが多いが、英語の「Cooler」は主としてクーラーボックスを意味する。",
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"text": "日本語の「エアコン」は冷房と暖房が出来るヒートポンプ式の空調設備を示すが、英語で「air conditioner」や「Air conditioning」というとヒートポンプなど技術的な意味を問わず、冷房、冷房機など冷房専用タイプを含む意味である。英語で日本語の「エアコン」に相当する単語、熟語は無く、相当する製品は「heating and air conditioning system」(暖房と冷房システム)や「Cool & Heat」と呼ばれ販売されている。",
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"text": "日本では、上記の狭義で説明されているヒートポンプ式の空調機器を「エアコンディショナー」として家庭用品品質表示法の適用対象としており、電気機械器具品質表示規程に定めがある。",
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"text": "1758年、ベンジャミン・フランクリンとジョン・ハドリーは、蒸発の原理(蒸発熱)を使って物体を急速に冷却する実験を行った。フランクリンとハドリーはアルコールなどの揮発性の高い液体の蒸発を試し、エーテルを使うと物体を氷点下にまで冷却できることを発見した。実験では水銀柱式温度計の球部を冷却対象とし、蒸発を早めるためにふいごを使った。周囲の気温が65 °F (18 °C)の状態で、温度計の球部を 7 °F(−14 °C)にまで冷却することができた。フランクリンは、温度が氷点下になると間もなく温度計の球部表面に薄く氷が張ったことに気づいた。そして 7 °F(−14 °C)にまで達したとき、氷の厚さは6ミリメートル(4分の1インチ)ほどになっていた。フランクリンは「この実験で、暖かい夏の日に人間を凍死させられる可能性があることがわかった」と結論付けた。",
"title": "歴史"
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"text": "1820年、イギリスの科学者で発明家のマイケル・ファラデーは、圧縮により液化したアンモニアを蒸発できるようにすると、周囲の空気を冷却できることを発見した。 1842年、アメリカ合衆国(アメリカ)フロリダ州の医師ジョン・ゴリーは圧縮冷凍技術を使って氷を作り、アパラチコーラ(英語版)の彼の病院でそれを使い、患者のために病室を冷やした。彼はさらにその製氷機を使って建物全体の温度を調節しようと考えた。そして、都市全体の空調を集中制御するという構想まで描いた。彼の試作品は常にうまく機能するわけではなかったが、ゴリーは製氷機の特許を1851年に取得した。しかし、彼の財政上の後援者が死に、その希望は潰えた。彼はその機械を本格的に開発する資金を集められなかった。ゴリーの伝記を書いたビビアン・シャーロックによれば、ゴリーは製氷で財を成したフレデリック・チューダー(英語版)が彼の発明を誹謗するキャンペーンを行ったと疑い、チューダーを非難した。ゴリーは貧困の中で1855年に亡くなり、その空調のアイディアは約50年間顧みられることはなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "空気調和の初期の商業利用は、個人の快適さのためではなく、工業の生産過程で必要とされる冷気を生み出すために使われた。最初の電気式エア・コンディショナーは1902年、アメリカニューヨーク州シラキュースのウィリス・キャリアが発明した。印刷工場の製造工程を改善するために設計されており、温度だけでなく湿度も制御できるようになっていた。温度と湿度を低く保つことで、紙の状態が一定となり、インクの付き方 = 仕上がりが一定になる。その後もキャリアの技術は様々な仕事場の生産性向上に応用され、増大する需要に応えるために The Carrier Air Conditioning Company of America(キヤリア社)を創設した。その後、エア・コンディショナーは住宅や自動車で室内の快適さを向上させる手段として使われるようになっていった。アメリカでは1950年代に家庭用エア・コンディショナーが爆発的に売れるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "1906年、アメリカのスチュアート・W・クラマー(英語版)は、自身の経営する織物工場内に湿気を追加する方法を探していた。クラマーは同年出願した特許で初めて「エア・コンディショニング(空気調和)」という言葉を使った。これは、織物製造工程として当時よく行われていた水調和(英: water conditioning)を真似て名付けたものだった。彼は加湿と換気を組み合わせて工場内の湿度を制御し、織物工場に最適な湿度を実現した。ウィリス・キャリアはこの用語を採用し、社名にも組み込んだ。水分を空気中に蒸発させるこの方式には冷却効果があり、現在ではミスト散布として知られている。",
"title": "歴史"
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"text": "初期のエア・コンディショナーや冷蔵庫は、アンモニア、クロロメタン、プロパンといった有毒または可燃性のガスを使用しており、それらが漏れ出すと死亡事故に繋がる危険性があった。トマス・ミジリーは世界初のフロン類であるフレオンを1928年に開発した。この冷媒は人間には安全だったが、後になって、太陽光に含まれる紫外線を吸収して地表の生物を守っているオゾン層にとって有害だということがわかった。「フレオン」はデュポン社の商標であり、実際はクロロフルオロカーボン(CFC)、ハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロカーボン(HFC)といった物質で、商品名(R-11, R-12, R-22, R-134a)には分子構成を示す数が付けられている。住宅などの空調によく使われたものはR-22という商品名のHCFCである。これは2010年までに新製品には使われなくなり、2020年以降に完全に製造されなくなる予定である。アメリカでは自動車のエア・コンディショナーのほとんどがR-12を使っていたが、1994年にR-134aに切り替えられた。R-11とR-12はアメリカ合衆国内では既に生産されておらず、廃棄されたエア・コンディショナーから回収したガスをきれいにしたものが売られているだけとなっている。オゾン層に影響しないいくつかの冷媒が代替フロンとして開発されており、例えばR-410Aはブランド名「プロン」で販売されている。オゾン層に悪影響を与える主な冷媒はR-11、R-22、R-123である。ただし、R-410A冷媒などの代替フロンは強力な温室効果ガスでもあったフロン類ほどではないものの、やはり地球温暖化係数が高いため、これに代わる次世代冷媒の開発が行われている。",
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"text": "第二次世界大戦後、エアコンの開発・生産と利用は世界的に広がった。室外機と分離することで住宅の壁に掛けられるほど薄型・軽量化されたエアコンが1968年(昭和43年)に日本で発売され(三菱電機)、国立科学博物館の重要科学技術史資料(未来技術遺産)の一つに2018年選定されている。",
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"text": "熱帯・亜熱帯の国々の経済成長や、日本などにおける夏場の仕事・生活の環境改善は、エアコンによる冷房の普及があったからこそという評価もある。赤道近くにあるシンガポールの元首相リー・クアンユーは「東南アジア諸国にとって、エアコンは20世紀最大の発明」と語ったことがある。一方、欧州各国の中には夏場に高温となる地域があるにもかかわらず、家庭における普及率は低迷しており、2017年時点で5 %と推測する報告書もある。イギリスでは2022年時点でも多くの学校には冷房が無い。",
"title": "歴史"
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"text": "空気調和テクノロジーにおける技術革新は続き、近年ではエネルギー効率と屋内の空気質の改善が中心テーマとなっている。従来の冷媒の代替として二酸化炭素(R-744)のような自然に存在する物質も提案されている。",
"title": "歴史"
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"text": "基本機能として冷房専用形と冷暖房兼用のヒートポンプ形がある。",
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"text": "また、次のような形態がある。",
"title": "型式"
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"text": "冷房または暖房のみを必要とする消費者のために、それぞれに特化した機種がある。長所は、特化することで、価格が安く、消費電力が少なく、室内機や室外機が小さく、操作が簡単なことである。機種によっては、広い場所で使用するために強力な性能を持っている物もある。",
"title": "型式"
},
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"text": "韓国ではオンドルが普及しているため、冷房専用の床置型が多い。",
"title": "型式"
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"text": "ルームエアコンとも呼ばれる家庭用エアコンには、形態として、圧縮機・凝縮器・蒸発器が一体となった窓型と、圧縮機・凝縮器が一体となった室外機と、蒸発器が内蔵された室内機とで構成されるセパレート型(東芝では「スプリット型」という)の2種類がある。セパレート型では、日本などの東アジア圏では壁掛型が主流である。一方、欧州では横長長方形の窓型がほとんどである。",
"title": "家庭用"
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"text": "さらに米国では、一般家庭であってもダクトを使用して各部屋に冷暖房を行うダクト方式が普及してきたが、日本のエアコンに代表されるダクトレス方式も評価されつつある。",
"title": "家庭用"
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"text": "能力によって、2.2 kW、2.5 kW、2.8 kW、3.6 kW、4.0 kW、4.5 kW、5.0 kW、5.6 kW、6.3 kW、7.1 kW などがある。使用する電圧も、単相100Vと、単相200Vと、動力の三相200Vがある。通常、エアコン一台に子ブレーカー一個を用意する。なお、日本の家庭用エアコンは窓型、セパレート型とも、2001年より家電リサイクル法の対象となり、廃棄の際に適正な処理が義務付けられた。",
"title": "家庭用"
},
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"text": "動力の三相200Vエアコンは室外ユニットや室内ユニット共外観上一般の100/200V単相エアコンと同じであるが、省令による規制があるため受電方法が異なる。電気設備技術基準(経産省令)の規定では家庭で三相200Vを使用できるのは屋外機器のみとされている。そのため動力エアコンは室外電源のみ三相200Vであり室内ユニットの運転および通信制御は別途室内側で受電した単相100/200Vで行われる。従って一部のメーカー(ダイキン工業など室内電源を室外ユニット送り以外で受電不可能な機種)での業務用エアコンを住宅へ設置した場合、電力会社との図面協議で指摘され送電拒否や変更を求められるケースが生じる。",
"title": "家庭用"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "家庭用エアコンは、冷房・暖房・ドライ(除湿)など多様な空気調整が可能な機種が製造・販売の多くを占める。最近はトップランナー方式による省エネ化が進み、内部の改良とも相まって以前のものよりも消費電力が少なくなっている。日本国内で発売されるセパレート型のエアコンはほぼ全てインバータ制御を内蔵した機種になっている(ただし、窓型エアコンについては非インバータのものが大半を占めている)。インバータエアコンは1981年に当時の東京芝浦電気(現・東芝)が世界で初めて発売した。当初は、圧縮機には誘導電動機を用いていたが、1990年代に高効率なブラシレスDCモータを採用してPAM制御により電圧を細かく制御し、現在では、日本で発売される家庭用エアコンに搭載される圧縮機用・ファン用のモータは、ほぼ全てがブラシレスDCモータになっている。日本ではインバータエアコンが主流であるが、世界的に見れば一定速である非インバータエアコンがまだまだ主流である。",
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"text": "また、非インバータエアコンでは商用電源周波数による能力の差があり、50Hz地域では60Hz地域より1 - 2割能力が落ちるが、インバータエアコンではそれがない。そのため、非インバータが主流であった当時のエアコンのカタログは50Hz・60Hz地域で別々に作成していた。現在では、非インバータの窓型エアコンのカタログで、50Hz・60Hzそれぞれの場合の能力が併記されているのが見受けられる。能力の違いは圧縮機に用いる誘導電動機の回転数が電源周波数に依存するためである。なお日本での窓用エアコンでのインバータ採用例は松下電器産業(現・パナソニック)のCW-G18系が空前にして絶後になった。同機種は年毎の僅かなマイナーチェンジのみで20年以上発売され続けた。窓用インバータエアコンは森田電工(現・ユーイング)からも発売されていたが、現在同社はエアコン事業から撤退している。",
"title": "家庭用"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "差別化機能としてマイナスイオンの発生、フィルタの自動清掃、空気清浄機、換気、加湿、赤外線センサによる温度監視、人工知能による解析、HA JEMA標準端子-A、インターネットによるデータ取得など、様々機能が開発されている。韓国ではミセモンジ(粒子状物質)対策として空気清浄機能付きが多い。",
"title": "家庭用"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "家庭用での暖房では、「すぐに温風がふき出して欲しい」という需要が高い。そのため、外気温が低い場合は、停止中でも機器を予熱をする機能を持つ機種がある。また、冷媒寝込みを防ぐためのヒーターを持つ機種もある。このような機種では冬場の待機電力は多い。省エネと快適性を両立させるため、気象予報などのデータから室温の変化を予測して先回りで制御する機種もある。",
"title": "家庭用"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "また、寒冷地など暖房時に外気温が低すぎる場合は、屋外で燃焼をした熱をヒートポンプする「石油エアコンディショナー」がある。同様にガス の火で熱を発生させ、その熱を室内へ送る「ガスエアコンディショナー」もある。寒冷地で、除霜運転が多いことが予想される場合は有効な選択である。なお、家庭用では、冷房にガスや石油の力はあまり使用されていない。過去にパナソニックや東芝なども石油や都市ガス等を使ったエアコンも販売されていたが、暖房時におけるエアコン自体の性能向上に伴い、採用されるケースが少なくなった。",
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"text": "窓型エアコンは、「ウインドエアコン」とも呼ばれる。長所は、セパレート型に比べ、小型であり、安く、個人で取り付け(取り外し)ができることである。壁に配管用の穴を開けたり、室内機の固定工事を施す必要が無く、窓さえあれば設置できるため、賃貸物件等でエアコンの設置に制限がある場合にも向いている。短所は、圧縮機を室内側と離隔できないため騒音や振動が大きいこと、装置重量を分散できないため小型のシステムとなり能力は落ちることである。窓用は可搬型のスポットクーラー等との共通性もあるため完全に廃れてはいないものの、平成期以後は比較的家賃が安い物件にもエアコンの固定設置が進んだことで需要が減って量産効果も出にくくなり価格競争力も失われつつある。",
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"text": "ちなみに海外にも日本と同様の壁掛型(欧米では窓型の方が主流)のエアコンが普及しているが、日本のエアコンほど機能面では豊富でなく、シンプルな単機能のものが多い。また欧米では暖房としてセントラルヒーティングや暖炉などが住宅に備わっているケースもあるため、「air conditioner」というと冷房専用機を前提に話をしているケースが多々ある。",
"title": "家庭用"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "家庭用のルームエアコンは家電製品であると共に、住宅設備としての一面も併せ持つ。そのため、販路や商習慣の違いによって電器店向けの機種と、住宅設備工事業者向けの機種が用意されている。後者は住宅を新築する際に同時に据え付けるというニーズに対応したものであり、型番やスペック、価格(量販店向けの機種はオープン価格なのに対して、住宅設備向けは希望価格が定められている)で区別される。",
"title": "家庭用"
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"text": "業務用エアコンは、大型のものや各種原動機を使用したものが存在する。2002年からフロン類を冷媒とする業務用機器は、フロン回収破壊法の対象となり、廃棄する場合、適正な処理が義務付けられた。",
"title": "業務用"
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"tag": "p",
"text": "ビル用マルチエアコンは、一つの室外機で複数の室内機を使用し空調を行うものである。中小規模の建築物で一般に使用されていて、以下の特徴がある。",
"title": "業務用"
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"tag": "p",
"text": "大型又は大規模のビルの空調装置は、冷媒に水を使用しており、冷房の場合には、チリングユニット、吸収式冷凍機、ターボ冷凍機などの吸収式冷凍サイクル又はヒートポンプ式冷凍サイクルを使用した熱源機器類と冷水槽との間でポンプによる循環を行い、熱源機器類で作られた冷水が冷水槽に溜まる。そこから別のポンプにより、部屋の天井に設置されたファンコイルユニット又はビルの屋上に設置されているエアハンドリングユニットにある熱交換器との間で冷水が循環して部屋の空調を行う。また、熱源機器類の運転時に、冷凍サイクルの凝縮器から発生する熱は、熱交換器で冷却水(水を使用する)と熱交換を行い、ポンプによりビルの屋上に設置してあるクーリングタワーとの間で冷却水が循環して冷却されるシステムとなっている為、広い意味での「エア・コンディショナー」と言える。歴史的には欧米で先行して普及したセントラルヒーティングのシステムに冷房機能を追加したもので、古い設備などでは暖房にはボイラーを用いるものもある。",
"title": "業務用"
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"text": "コンビニエンスストア専用の冷凍・空調統合システムが存在し、以下のような特徴がある。",
"title": "業務用"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "メーカーの発想に違いがあり冷媒回路を空調、冷蔵、冷凍で共有する方式(システムダウン時、どちらも運転不能)や三菱電機のように熱交換器で相互の熱のやりとりをすることで冷媒回路や通信制御が全く独立していて単独で機能するのもある。",
"title": "業務用"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "内燃機関(エンジン)を動力にヒートポンプを作動させるもの。主に都市ガスを用いるガスエンジンヒートポンプ(GHP)の他、北海道など寒地の世帯に普及している灯油暖房インフラを利用する灯油エンジンヒートポンプ(KHP)がある。現行のエンジンはレシプロ機関だが、次世代型としてマイクロガスタービンも構想されているものの製品化に到っていない。以下のような特徴がある。",
"title": "業務用"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "LPGは災害時に供給が止まることが少なく、発電機で少量の電気を供給すれば稼動する。一方運搬に必要な道路のインフラストラクチャーの損傷具合によっては都市ガス同様に復旧が遅くなる事もある。ただし、都市ガスは復旧が遅く長期に渡って空調が使えなくなる。したがって都市ガスが無ければ営業自体ができない店舗(飲食店やガス炊きボイラーの浴場)はともかく、病院や事務所など直接ガスに依存しない施設ではGHPのみに依存すると空調に支障をきたす場合がある。なお現行のGHPにおいては、使用燃料を都市ガス(13A)とLPG間で相互に切り替えることが可能であるため、必要に応じて都市ガスからLPGに切り替えたうえでボンベを接続することで、運転の継続が可能となる。",
"title": "業務用"
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"text": "電力ピークカットを目的とした税優遇措置は、2011年現在も有効である。",
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"text": "自動車に取り付けてあるエアコン。基本的な構造は、冷房の場合は通常のエアコンと変わりなく、コンプレッサーを使う方式である。コンプレッサーは電磁クラッチの断続によってエンジンの動力で冷媒を圧縮し、圧縮されて蓄熱された冷媒は、車両前方のラジエーター前などに配置されたコンデンサー(凝縮器)で走行風や電動ファンによる強制空冷で冷却されガス状の冷媒が液化される。液化された冷媒は室内エアコンユニットのエバポレーター(蒸発器)に送られる。エバポレーターにはエキスパンションバルブ(膨張弁)が内蔵されており、ここで液化された冷媒が一気に気化されることにより、冷房サイクルが成立する。冷房を終えた冷媒はコンプレッサーに返送され、一部の余剰の冷媒は必要に応じてレシーバータンク(貯蔵庫)に蓄えられて再液化及び乾燥剤による除湿が行われる。",
"title": "車両用"
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"text": "暖房は建物用エアコンと違い、液冷エンジン(水冷エンジン)においてはエンジンを冷却した冷却液(冷却水、クーラント)を室内のヒーターコアに導き、熱交換している。すなわちカーエアコンの暖房は、エンジンの廃熱利用にあたる。",
"title": "車両用"
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"text": "これらの冷温風は電動送風機であるブロワモーターにより室内各所に送風される。カーエアコンはこれらの冷温風により、フロントガラスやサイドガラスの霜取りや曇り取り(デフォッガー/デフロスター)を行う機能も持たせられている。",
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"text": "温度調節はドライバーが手動で任意に行うマニュアルエアコンと、建物用エアコンのようにあらかじめ設定した室温に室温センサーなどで自動調節を行うオートエアコンが存在し、今日の日本市場ではオートエアコンが主流である。",
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"text": "クーラーの冷媒には一般的にはR134aが用いられる。かつてはフロン12(R12)が広く用いられていたが、オゾン層破壊が問題になったことにより現在ではR134aに完全に置き換えられている。しかし、R134a冷媒は強力な温室効果ガスでもあったR12ほどではないもののやはり地球温暖化係数(GWP)が高い温室効果ガスであることから、欧州F-Gas 規制 が制定され、2017年1月までに全ての欧州内の乗用車および軽トラックの新車のカーエアコンに使用される冷媒はGWP が150 以下の冷媒を採用しなければならなくなった。2011年1月から発売される新型車から段階的廃止が始まり、代替冷媒としてCO2やHFO-1234yfが採用される模様である。",
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"paragraph_id": 42,
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"text": "近年では花粉症対策などを謡ったクリーンエアフィルタがカーエアコンに装着される事も一般化している。バスの冷房装置については、機関直結式冷房装置、独立機関式冷房装置を参照。",
"title": "車両用"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両に取り付けてある冷房装置(一部を除き冷房専用であることから、エアコンと呼ばれることは少ない)。基本的には電気で作動するが、気動車ではカーエアコンと同様、走行用エンジンの動力の一部を利用して作動するものが多い。",
"title": "車両用"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "電車の場合、屋根または床下にコンプレッサー・エバポレーター・コンデンサーが一体化されたものが搭載され、最近のものでは、換気機能を有するものや空気清浄機を内蔵するものがあり、換気や暖房によって天井に上った空気を下へ戻すために冬でも送風を行うものもある。",
"title": "車両用"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "温度と湿度をセンサーで取得し解析、気流を制御することで快適な状態に保つ機能も実現している。",
"title": "温度と湿度の調節"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "冷房は室内機が結露し、その水分を屋外へ排水するため、湿度が下がる。これは、体感温度を下げる助けになる。",
"title": "温度と湿度の調節"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "しかし、インバーターエアコンでは自在に出力を調整出来るため、始動時は高出力運転を行うが、室温が安定した後は低出力の運転を行う。低出力の運転では室内機が結露を起こさないため、室温だけが下がり相対湿度は上昇する。相対湿度の上昇は、不快感やカビ、ダニの発生の原因になる事があるため、除湿機を併用したり、冷房のかわりに再熱除湿を使用して、湿度の上昇に注意する必要がある。",
"title": "温度と湿度の調節"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "暖房は室内で燃焼を行わないため、相対湿度が下がる。これは、体感温度を下げる副作用となる。結果、過度な暖房をし、自律神経失調症につながる場合もある。エアコンのみで暖房を行う場合は、加湿器を併用するなど、乾燥に注意する必要がある。",
"title": "温度と湿度の調節"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "冷房運転は室温を設定温度に合わせるものであり、除湿運転は湿度を設定した湿度に合わせるものである。目的に応じ選択することにより快適な状態となる。同じ室温でも湿度が低ければ体感温度が下がり快適に感じるため、日本の夏のような多湿の場合は、室温をあまり下げなくても除湿をすれば快適に感じる場合がある。",
"title": "温度と湿度の調節"
},
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"text": "除湿運転の原理には、弱冷房除湿方式と再熱除湿方式の2種類がある。",
"title": "温度と湿度の調節"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "弱冷房除湿方式は、弱く冷房をかけて除湿する方式である。そのため温度を下げる能力は冷房運転より低下するため、消費電力も少なくなる。この方式では湿度と同時に温度も下がり、温度と湿度を独立に制御することができない。そのため、梅雨時など室温が高くない場合は肌寒く感じることもある。室温が低い場合には、除湿能力が低下する。",
"title": "温度と湿度の調節"
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"tag": "p",
"text": "再熱除湿方式は、冷房により一度温度が下がった空気を、再度加熱(再熱)することにより、所望の湿度に調節する方式である。原理上、温度と湿度を独立に制御することが可能であり、また弱冷房除湿方式に比べ室温が低い場合でも除湿能力がある。ヒーターで再熱する場合冷房運転よりも消費電力は多い。このタイプの再熱除湿は近年の家庭用エアコンでは採用されていないが、一部の鉄道車両用エアコンなどで採用されている。近年の家庭用エアコンで多く採用されている再熱除湿は室外機の廃熱をリサイクルする方式で冷房に比べて温度を下げる能力が低下する。そのため、昼間など大きな冷房能力が必要なときに使用すると、室温が下がらずに消費電力だけ大きくなる場合もある。機種によっては温度や湿度をセンサー監視し、最適なモードへ自動的に切り替える機種もある。近年ではインターネットでクラウドサービスに接続し、天気予報などから最適な条件となる設定値に合わせる機種も登場している。",
"title": "温度と湿度の調節"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "除湿運転の場合、冷房運転だけでは取りきれない湿度を下げる事が出来るため、設定温度を高めにしても体感温度は下がる場合もあり、実際の消費電力は個々のケースによる。",
"title": "温度と湿度の調節"
}
] |
エア・コンディショナーとは、空調設備の一つで、室内の空気の温度や湿度などを調整する機械である。日本での通称はエアコン(以下「エアコン」と表記)。 狭義では、パッケージ・エア・コンディショナーや家庭用のルーム・エア・コンディショナーのうち、水以外の熱媒体で熱を搬送する装置、つまりヒートポンプを指す。
なお、「エアコン」は「エアー・コンディショニング」または「エアー・コンディション」の略として使用される場合もある。 また、日本語で「クーラー」というとエアコンの冷房用での使用や冷房専用タイプを指すことが多いが、英語の「Cooler」は主としてクーラーボックスを意味する。 日本語の「エアコン」は冷房と暖房が出来るヒートポンプ式の空調設備を示すが、英語で「air conditioner」や「Air conditioning」というとヒートポンプなど技術的な意味を問わず、冷房、冷房機など冷房専用タイプを含む意味である。英語で日本語の「エアコン」に相当する単語、熟語は無く、相当する製品は「heating and air conditioning system」(暖房と冷房システム)や「Cool & Heat」と呼ばれ販売されている。 日本では、上記の狭義で説明されているヒートポンプ式の空調機器を「エアコンディショナー」として家庭用品品質表示法の適用対象としており、電気機械器具品質表示規程に定めがある。
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'''エア・コンディショナー'''({{lang-en-short|air conditioner}})とは、[[空気調和設備|空調設備]]の一つで、室内の[[空気]]の[[温度]]や[[湿度]]などを調整する[[機械]]である。[[日本]]での[[通称]]は'''エアコン'''(以下「エアコン」と表記)。
[[狭義]]では、パッケージ・エア・コンディショナーや家庭用のルーム・エア・コンディショナーのうち、[[水]]以外の熱媒体で[[熱]]を搬送する装置、つまり[[ヒートポンプ]]を指す。
なお、「エアコン」は「エアー・コンディショニング」または「エアー・コンディション」の略として使用される場合もある。
また、[[日本語]]で「クーラー」というとエアコンの[[冷房]]用での使用や冷房専用タイプを指すことが多いが、[[英語]]の「[[:en:cooler|Cooler]]」は主として[[クーラーボックス]]を意味する。
日本語の「エアコン」は[[冷房]]と[[暖房]]が出来るヒートポンプ式の空調設備を示すが、英語で「air conditioner」や「Air conditioning」というとヒートポンプなど技術的な意味を問わず、冷房、冷房機など冷房専用タイプを含む意味である。英語で日本語の「エアコン」に相当する単語、熟語は無く、相当する製品は「heating and air conditioning system」(暖房と冷房システム)や「Cool & Heat」と呼ばれ販売されている。
日本では、上記の狭義で説明されているヒートポンプ式の空調機器を「エアコンディショナー」として[[家庭用品品質表示法]]の適用対象としており、電気機械器具品質表示規程に定めがある<ref name="caa">{{Cite web|和書|date=2022-04-01 |url=https://www.caa.go.jp/policies/policy/representation/household_goods/law/law_06/ |title=電気機械器具品質表示規程 |publisher=[[消費者庁]] |accessdate=2022-10-10}}</ref>。
== 歴史 ==
[[1758年]]、[[ベンジャミン・フランクリン]]と[[ジョン・ハドリー]]は、[[蒸発]]の原理([[蒸発熱]])を使って物体を急速に[[冷却]]する実験を行った。フランクリンとハドリーは[[アルコール]]などの[[相転移#物理学的性質|揮発性]]の高い液体の蒸発を試し、[[エーテル (化学)|エーテル]]を使うと物体を[[氷点下]]にまで冷却できることを発見した。実験では[[水銀]]柱式[[温度計]]の球部を冷却対象とし、蒸発を早めるために[[ふいご]]を使った。周囲の気温が{{Lang|en|{{convert|65|°F|°C|abbr=on}}}}の状態で、温度計の球部を 7 {{°F}}(−14 ℃)にまで冷却することができた。フランクリンは、温度が氷点下になると間もなく温度計の球部表面に薄く[[氷]]が張ったことに気づいた。そして 7 {{°F}}(−14 ℃)にまで達したとき、氷の厚さは6[[ミリメートル]](4分の1[[インチ]])ほどになっていた。フランクリンは「この実験で、暖かい夏の日に人間を[[凍死]]させられる可能性があることがわかった」と結論付けた<ref>[http://www.historycarper.com/resources/twobf3/letter1.htm Cooling by Evaporation (Letter to John Lining)]. Benjamin Franklin, London, June 17, 1758</ref>。
[[1820年]]、[[イギリス]]の[[科学者]]で[[発明家]]の[[マイケル・ファラデー]]は、圧縮により[[液化]]した[[アンモニア]]を蒸発できるようにすると、周囲の空気を冷却できることを発見した。
[[1842年]]、[[アメリカ合衆国]](アメリカ)[[フロリダ州]]の医師[[ジョン・ゴリー]]は圧縮冷凍技術を使って氷を作り、{{仮リンク|アパラチコーラ|en|Apalachicola, Florida}}の彼の病院でそれを使い、患者のために病室を冷やした<ref>[http://www.facstaff.bucknell.edu/mvigeant/therm_1/AC_final/bg.htm History of Air Conditioning] Source: Jones Jr., Malcolm. "Air Conditioning". ''Newsweek''. Winter 1997 v130 n24-A p42(2). Retrieved 1 January 2007.</ref>。彼はさらにその[[製氷機]]を使って建物全体の温度を調節しようと考えた。そして、[[都市]]全体の[[空気調和|空調]]を集中[[制御]]するという構想まで描いた。彼の試作品は常にうまく機能するわけではなかったが、ゴリーは製氷機の[[特許]]を[[1851年]]に取得した。しかし、彼の[[パトロン|財政上の後援者]]が死に、その希望は潰えた。彼はその機械を本格的に開発する資金を集められなかった。ゴリーの伝記を書いたビビアン・シャーロック<ref>{{lang-en-short|Vivian M. Sherlock}}</ref>によれば、ゴリーは製氷で財を成した{{仮リンク|フレデリック・チューダー|en|Frederic Tudor}}が彼の[[発明]]を誹謗するキャンペーンを行ったと疑い、チューダーを非難した。ゴリーは[[貧困]]の中で[[1855年]]に亡くなり、その空調のアイディアは約50年間顧みられることはなかった。
[[空気調和]]の初期の[[商業]]利用は、個人の快適さのためではなく、[[工業]]の生産過程で必要とされる冷気を生み出すために使われた。最初の電気式エア・コンディショナーは[[1902年]]、アメリカ[[ニューヨーク州]][[シラキュース (ニューヨーク州)|シラキュース]]の[[ウィリス・キャリア]]が発明した。[[印刷会社|印刷工場]]の製造[[工程]]を改善するために[[設計]]されており、[[温度]]だけでなく[[湿度]]も制御できるようになっていた。温度と湿度を低く保つことで、紙の状態が一定となり、[[インク]]の付き方 = 仕上がりが一定になる。その後もキャリアの技術は様々な仕事場の[[生産性]]向上に応用され、増大する[[需要]]に応えるために The Carrier Air Conditioning Company of America([[キヤリア (空調設備メーカー)|キヤリア]]社)を創設した。その後、エア・コンディショナーは[[住宅]]や[[自動車]]で室内の快適さを向上させる手段として使われるようになっていった。アメリカでは[[1950年代]]に家庭用エア・コンディショナーが爆発的に売れるようになった。
[[1906年]]、アメリカの{{仮リンク|スチュアート・W・クラマー|en|Stuart W. Cramer}}は、自身の経営する[[織物]]工場内に湿気を追加する方法を探していた。クラマーは同年出願した特許で初めて「エア・コンディショニング(空気調和)」という言葉を使った。これは、織物製造工程として当時よく行われていた水調和({{lang-en-short|water conditioning}})を真似て名付けたものだった。彼は加湿と[[換気]]を組み合わせて工場内の湿度を制御し、織物工場に最適な湿度を実現した。ウィリス・キャリアはこの用語を採用し、社名にも組み込んだ。水分を空気中に蒸発させるこの方式には冷却効果があり、現在では[[ミスト散布]]として知られている。
初期のエア・コンディショナーや[[冷蔵庫]]は、[[アンモニア]]、[[クロロメタン]]、[[プロパン]]といった[[毒|有毒]]または[[可燃性ガス|可燃性のガス]]を使用しており、それらが漏れ出すと死亡事故に繋がる危険性があった。[[トマス・ミジリー]]は世界初の[[フロン類]]であるフレオンを[[1928年]]に開発した。この[[冷媒]]は人間には安全だったが、後になって、[[太陽光]]に含まれる[[紫外線]]を吸収して地表の生物を守っている[[オゾン層]]にとって有害だということがわかった。「フレオン」は[[デュポン]]社の[[商標]]であり、実際はクロロフルオロカーボン(CFC)、[[ハイドロクロロフルオロカーボン]](HCFC)、[[フルオロカーボン|ハイドロフルオロカーボン]](HFC)といった物質で、商品名(R-11, R-12, R-22, R-134a)には[[分子]]構成を示す数が付けられている。住宅などの空調によく使われたものはR-22という商品名のHCFCである。これは[[2010年]]までに新製品には使われなくなり、[[2020年]]以降に完全に製造されなくなる予定である。アメリカでは自動車のエア・コンディショナーのほとんどがR-12を使っていたが、[[1994年]]にR-134aに切り替えられた。R-11とR-12はアメリカ合衆国内では既に生産されておらず、廃棄されたエア・コンディショナーから回収したガスをきれいにしたものが売られているだけとなっている。オゾン層に影響しないいくつかの冷媒が[[代替フロン]]として開発されており、例えばR-410Aはブランド名「プロン」<ref>{{lang-en-short|Puron}}</ref>で販売されている。オゾン層に悪影響を与える主な冷媒はR-11、R-22、R-123である。ただし、R-410A冷媒などの代替フロンは強力な[[温室効果ガス]]でもあったフロン類ほどではないものの、やはり[[地球温暖化]]係数が高いため、これに代わる次世代冷媒の開発が行われている。
[[第二次世界大戦]]後、エアコンの開発・生産と利用は世界的に広がった。[[室外機]]と分離することで住宅の壁に掛けられるほど薄型・軽量化されたエアコンが[[1968年]]([[昭和]]43年)に日本で発売され([[三菱電機]])、[[国立科学博物館]]の[[重要科学技術史資料]](未来技術遺産)の一つに2018年選定されている<ref>[https://www.sankei.com/life/news/180821/lif1808210009-n1.html 未来遺産にコーラの自販機、クオーツ式腕時計、エアコンなど19件]『[[産経新聞]]』朝刊2018年8月22日(2018年8月22日閲覧)。</ref>。
[[熱帯]]・[[亜熱帯]]の国々の[[経済成長]]や、日本などにおける[[夏]]場の仕事・生活の環境改善は、エアコンによる冷房の普及があったからこそという評価もある<ref>[https://www.jica.go.jp/aboutoda/odajournalist/2007/173.html JICA国際協力専門員 杉下恒夫「アジアの奇跡はエアコンから」][[国際協力機構]]/[[政府開発援助|ODA]]ジャーナリストのつぶやきNo.173(2007年8月27日)2018年8月22日閲覧)。</ref>。[[赤道]]近くにある[[シンガポール]]の元首相[[リー・クアンユー]]は「東南アジア諸国にとって、エアコンは[[20世紀]]最大の発明」と語ったことがある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKDZO57903860Q3A730C1MM0000/ 「エアコン文明」]([[大橋光夫]])、『日本経済新聞』夕刊2013年7月30日(2018年9月2日閲覧)。</ref>。一方、[[ヨーロッパ|欧州]]各国の中には夏場に高温となる地域があるにもかかわらず、家庭における普及率は低迷しており、[[2017年]]時点で5 %と推測する報告書もある<ref>{{Cite web|和書|date=2019-07-26 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35140450-2.html |title=記録的猛暑続く欧州、エアコン普及率5%未満 |publisher=CNN |accessdate=2019-07-26}}</ref>。イギリスでは2022年時点でも多くの学校には冷房が無い<ref>{{Cite web|和書|title=ヨーロッパで記録的な暑さ続く 市民生活への影響広がる {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220719/k10013724281000.html |website=NHKニュース |access-date=2022-07-19 |last=日本放送協会}}</ref>。
空気調和テクノロジーにおける技術革新は続き、近年ではエネルギー効率と屋内の[[空気質]]の改善が中心テーマとなっている。従来の冷媒の代替として[[二酸化炭素]](R-744)のような[[自然]]に存在する物質も提案されている<ref>[http://www.r744.com/faq.php R744.com - FAQ]</ref>。
== 型式 ==
[[ファイル:Heatpump.svg|thumb|200 px|気体液化ヒートポンプのしくみ。<br />1:凝縮器、2:膨張弁、3:蒸発器、4:圧縮機<br />赤が高温、青が低温。]]
[[画像:Air_conditioner_02.jpg|thumb|100 px|室外機と室内機を接続する冷媒配管。断熱材で覆われる。]]
基本機能として冷房専用形と冷暖房兼用の[[ヒートポンプ]]形がある。
また、次のような形態がある。
=== ユニットの形態 ===
* 一体型 - [[圧縮機]]・[[コンデンサー|凝縮器]]・[[エバポレーター|蒸発器]]が一体となったもの。冷媒配管が不要である。家庭用の窓枠取り付け型、[[キャスター (移動用部品)|キャスター]]がついて自由に移動できる[[冷風機]]、[[鉄道車両]]用などに見られる。
* リモートコンデンサ型 - 圧縮機・蒸発器が一体となった室内機と、凝縮器のみを内蔵した室外機を冷媒配管で接続したもの。室内側に圧縮機があるためメンテナンスが容易で、カスタマイズ([[暖房|ヒーター]]や[[加湿器]]の取り付けなど)を必要とする工場(設備)用や、業務([[オフィスビル|ビル]])用の一部で使われていたが、室内に圧縮機の[[騒音]]や[[振動]]が発生することや、室内機に圧縮機を内蔵する構造から室内機のバリエーションが限られ(基本的に床置き形のみ)、室内の状況に応じた機器(室内機)の配置がしにくいとった問題がある。このため近年では後述するリモートコンデンシングユニット型(家庭用のセパレートタイプ)やマルチ式(ビル用など)が主流となっている。[[通称]]「中コン(なかこん:室内機側に圧縮機 = コンプレッサーがあるため)」または「[http://www.hitachi-ap.co.jp/products/business/ac/equipment/general/tatujin/index.html リモコン型](一部のエアコンメーカー)」。
* リモートコンデンシングユニット型 - 圧縮機・凝縮器が一体となった室外機と、蒸発器が内蔵された室内機を冷媒配管で接続したもの。家庭用のセパレートタイプはこの方式。
* マルチ式 - 圧縮機・凝縮器が一体となった室外機と、蒸発器が内蔵された複数の室内機を冷媒配管で接続したもの。業務(ビル)用の主流。家庭用にも販売されているが、実例は少ない。
=== 室内機の形態 ===
* 床置型(スタンドスタイル) - 業務(ビル)用の古い([[1970年代]]まで使われた)タイプ。[[タンス]]程度の大きさ、あるいは窓際に高さ1メートル程度の上部に吹出し口を持つ室内機が、壁際にむき出しで設置されている。室内機の分、床面積が減るため新規の建物では使われなくなった。現在でも古い[[地下鉄]]の[[鉄道駅|駅]]や[[工場]]、[[事務室]]などでよく見かける事ができる。[[大韓民国|韓国]]では家庭用タイプにおいても室内機が壁掛型よりも床置型の方が多い<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=韓国のエアコン事情|一般社団法人日本エアコンクリーニング協会 |url=https://www.j-aca.jp/foreign/korea.html |website=エアコンクリーニング依頼、研修、講習・一般社団法人日本エアコンクリーニング協会 |access-date=2023-10-03 |language=ja}}</ref>。なお、圧縮機・凝縮器・蒸発器・送風機を一体として、[[キャスター (移動用部品)|キャスター]]がついて自由に移動できるものは[[冷風機]]として、業務用・家庭用共に販売されている。
* 壁掛型 - 家庭用セパレートエアコンのタイプ。業務用も存在する。
* 天井吊型 - 倉庫などのような天井骨組みがむき出しの場合や[[学校]]などの一部公共施設に使われる。
* 天井埋め込みカセット型 - 通称「天カセ」。表面に吸込口・吹出し口のある蒸発器内蔵ユニットを天井内に埋め込むもの。天井面がフラットになり、床置き形のように床面積も減らないため、[[店舗]]やオフィスビルなど業務用で多く用いられている。
* 床置型([[石油ファンヒーター|ファンヒーター]]スタイル) - 家庭用セパレートタイプのバリエーションの1つで、[[石油ストーブ]]類似の形態をしている。[[1980年代]]頃までは主に[[和室]]用に使われたが、冷房能力上の問題点(熱対流上壁掛型・天井埋め込みカセット型に比べて不利)から急速に数を減らした。しかし完全な消滅には至っていない。また、同様の理由で暖房時は有利という面もある。
* ダクト接続型 - ユニットとダクトを接続し、任意の場所に吸込口・吹出し口を設けられるもの。大型ビルやホテル等用。
=== 冷房専用及び暖房専用機種 ===
冷房または暖房のみを必要とする消費者のために、それぞれに特化した機種がある。長所は、特化することで、価格が安く、消費電力が少なく、室内機や室外機が小さく、操作が簡単なことである。機種によっては、広い場所で使用するために強力な性能を持っている物もある。
韓国では[[オンドル]]が普及しているため、冷房専用の床置型が多い<ref name=":3" />。
== 家庭用 ==
[[画像:Air_conditioner_01.jpg|thumb|200px|right|蒸発器 (暖房時は凝縮器として働く)]]
ルームエアコンとも呼ばれる家庭用エアコンには、形態として、圧縮機・凝縮器・蒸発器が一体となった'''窓型'''と、圧縮機・凝縮器が一体となった室外機と、蒸発器が内蔵された室内機とで構成される'''セパレート型'''([[東芝]]では「'''スプリット型'''」という)の2種類がある。セパレート型では、[[日本]]などの[[東アジア]]圏では壁掛型が主流である。一方、[[欧州]]では横長長方形の窓型がほとんどである。
さらに米国では、一般家庭であっても[[ダクト]]を使用して各部屋に冷暖房を行う'''ダクト方式'''が普及してきたが、日本のエアコンに代表される'''ダクトレス'''方式も評価されつつある<ref>[http://www.toushin-1.jp/articles/-/3794 日本標準のダクトレス型エアコンが米国でも普及へ] 投信1(2017年7月29日)2017年8月2日閲覧</ref>。
能力によって、2.2 kW、2.5 kW、2.8 kW、3.6 kW、4.0 kW、4.5 kW、5.0 kW、5.6 kW、6.3 kW、7.1 kW などがある。使用する電圧も、単相100Vと、単相200Vと、動力の[[三相交流|三相]]200Vがある。通常、エアコン一台に子ブレーカー一個を用意する。なお、日本の家庭用エアコンは窓型、セパレート型とも、[[2001年]]より[[家電リサイクル法]]の対象となり、廃棄の際に適正な処理が義務付けられた。
動力の三相200Vエアコンは室外ユニットや室内ユニット共外観上一般の100/200V単相エアコンと同じであるが、省令による規制があるため受電方法が異なる。[[電気設備に関する技術基準を定める省令|電気設備技術基準]](経産省令)の規定では家庭で三相200Vを使用できるのは屋外機器のみとされている<ref group="注">具体的には電技解釈第162条に、住宅の屋内電路の対地電圧は原則として150V以下にする旨定められている。</ref>。そのため動力エアコンは室外電源のみ三相200Vであり室内ユニットの運転および通信制御は別途室内側で受電した単相100/200Vで行われる。従って一部のメーカー([[ダイキン工業]]など室内電源を室外ユニット送り以外で受電不可能な機種)での業務用エアコンを住宅へ設置した場合、電力会社との図面協議で指摘され送電拒否や変更を求められるケースが生じる。
家庭用エアコンは、冷房・暖房・ドライ(除湿)など多様な空気調整が可能な機種が製造・販売の多くを占める。最近は[[トップランナー方式]]による[[省エネルギー|省エネ]]化が進み、内部の改良とも相まって以前のものよりも消費電力が少なくなっている。日本国内で発売されるセパレート型のエアコンはほぼ全て[[インバータ]]制御を内蔵した機種になっている(ただし、窓型エアコンについては非インバータのものが大半を占めている)。インバータエアコンは[[1981年]]に当時の東京芝浦電気(現・[[東芝]])が世界で初めて発売した<ref>{{Cite web|和書|url=http://sts.kahaku.go.jp/material/2019pdf/no265.pdf|title=2019年度登録 「重要科学技術史資料(未来技術遺産)」世界初の家庭用インバータ・エアコン|accessdate=2020-04-15|publisher=国立科学博物館}}</ref>。当初は、圧縮機には[[誘導電動機]]を用いていたが、[[1990年代]]に高効率な[[ブラシレスDCモータ]]を採用してPAM制御により電圧を細かく制御し<ref>{{Cite web|和書|url=http://sts.kahaku.go.jp/material/2019pdf/no266.pdf|title=2019年度登録 「重要科学技術史資料(未来技術遺産)」世界初のPAM制御インバータ家庭用エアコン|accessdate=2020-04-15|publisher=国立科学博物館}}</ref>、現在では、日本で発売される家庭用エアコンに搭載される圧縮機用・ファン用のモータは、ほぼ全てがブラシレスDCモータになっている。日本ではインバータエアコンが主流であるが、世界的に見れば一定速である非インバータエアコンがまだまだ主流である。
また、非インバータエアコンでは[[商用電源周波数]]による能力の差があり、50Hz地域では60Hz地域より1 - 2割能力が落ちるが、インバータエアコンではそれがない。そのため、非インバータが主流であった当時のエアコンのカタログは50Hz・60Hz地域で別々に作成していた。現在では、非インバータの窓型エアコンのカタログで、50Hz・60Hzそれぞれの場合の能力が併記されているのが見受けられる。能力の違いは圧縮機に用いる誘導電動機の回転数が電源周波数に依存するためである。なお日本での窓用エアコンでのインバータ採用例は松下電器産業(現・[[パナソニック]])のCW-G18系が空前にして絶後になった。同機種は年毎の僅かなマイナーチェンジのみで20年以上発売され続けた。窓用インバータエアコンは森田電工(現・[[ユーイング (企業)|ユーイング]])からも発売されていたが、現在同社はエアコン事業から撤退している。
差別化機能として[[マイナスイオン]]の発生、[[エアフィルタ|フィルタ]]の自動清掃、[[空気清浄機]]、[[換気]]、[[加湿器|加湿]]、[[赤外線センサ]]による温度監視、[[人工知能]]による解析、[[ホームオートメーション|HA]] [[日本電機工業会|JEMA]]標準端子-A、インターネットによるデータ取得など、様々機能が開発されている<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=世界初、人工衛星に搭載された赤外線センサー活用のエアコン「霧ヶ峰」 ~スマホで部屋の熱画像も |url=https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/news/1203912.html |website=家電 Watch |date=2019-08-28 |access-date=2023-10-03 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=シャープ、空気清浄機の最上位機と同じ清浄能力を備えたルームエアコン |url=https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/news/1220819.html |website=家電 Watch |date=2019-11-26 |access-date=2023-01-28 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref>。韓国ではミセモンジ([[粒子状物質]])対策として空気清浄機能付きが多い<ref name=":3" />。
家庭用での暖房では、「すぐに温風がふき出して欲しい」という需要が高い。そのため、外気温が低い場合は、停止中でも機器を予熱をする機能を持つ機種がある。また、冷媒寝込みを防ぐためのヒーターを持つ機種もある。このような機種では冬場の待機電力は多い。省エネと快適性を両立させるため、気象予報などのデータから室温の変化を予測して先回りで制御する機種もある。
また、寒冷地など暖房時に外気温が低すぎる場合は、屋外で燃焼をした熱をヒートポンプする「石油エアコンディショナー」がある。同様にガス<ref group="注">[[都市ガス]]もしくは[[液化石油ガス|プロパンガス]]を燃料としている。</ref> の火で熱を発生させ、その熱を室内へ送る「ガスエアコンディショナー」もある。寒冷地で、除霜運転が多いことが予想される場合は有効な選択である。なお、家庭用では、冷房にガスや石油の力はあまり使用されていない。過去にパナソニックや東芝なども石油や都市ガス等を使ったエアコンも販売されていたが<ref group="注">主に都市ガス会社への[[OEM]]が中心である。</ref>、暖房時におけるエアコン自体の性能向上に伴い、採用されるケースが少なくなった。
窓型エアコンは、「ウインドエアコン」とも呼ばれる。長所は、セパレート型に比べ、小型であり、安く、個人で取り付け(取り外し)ができることである。壁に配管用の穴を開けたり、室内機の固定工事を施す必要が無く、窓さえあれば設置できるため、賃貸物件等でエアコンの設置に制限がある場合にも向いている。短所は、圧縮機を室内側と離隔できないため騒音や振動が大きいこと、装置重量を分散できないため小型のシステムとなり能力は落ちることである。窓用は可搬型のスポットクーラー等との共通性もあるため完全に廃れてはいないものの、平成期以後は比較的家賃が安い物件にもエアコンの固定設置が進んだことで需要が減って量産効果も出にくくなり価格競争力も失われつつある。
ちなみに海外にも日本と同様の壁掛型(欧米では窓型の方が主流)のエアコンが普及しているが、日本のエアコンほど機能面では豊富でなく、シンプルな単機能のものが多い。また欧米では暖房として[[セントラルヒーティング]]や[[暖炉]]などが住宅に備わっているケースもあるため、「{{lang|en|air conditioner}}」というと冷房専用機を前提に話をしているケースが多々ある。
家庭用のルームエアコンは家電製品であると共に、住宅設備としての一面も併せ持つ。そのため、販路や商習慣の違いによって電器店向けの機種と、住宅設備工事業者向けの機種が用意されている。後者は住宅を新築する際に同時に据え付けるというニーズに対応したものであり、型番やスペック、価格(量販店向けの機種は[[オープン価格]]なのに対して、住宅設備向けは希望価格が定められている)で区別される。
== 業務用 ==
業務用エアコンは、大型のものや各種[[原動機]]を使用したものが存在する。[[2002年]]から[[フロン類]]を冷媒とする業務用機器は、[[フロン回収破壊法]]の対象となり、廃棄する場合、適正な処理が義務付けられた。
=== ビル用マルチエアコン ===
[[画像:Air_conditioner_04.jpg|thumb|200px|right|業務用エアコンの室外機]]
[[File:Coolingtower.JPG|thumb|ビルの屋上に設置してあるクーリングタワー]]
ビル用マルチエアコンは、一つの室外機で複数の室内機を使用し空調を行うものである。中小規模の[[建築物]]で一般に使用されていて、以下の特徴がある。
* 室内機の個別起動・停止が可能である。
* 増設が容易に出来る。
大型又は大規模のビルの空調装置は、冷媒に水を使用しており、冷房の場合には、チリングユニット、[[吸収式冷凍機]]、[[ターボ冷凍機]]などの吸収式冷凍サイクル又はヒートポンプ式冷凍サイクルを使用した熱源機器類と冷水槽との間でポンプによる循環を行い、熱源機器類で作られた冷水が冷水槽に溜まる。そこから別のポンプにより、部屋の天井に設置された[[ファンコイルユニット]]又はビルの屋上に設置されている[[エアハンドリングユニット]]にある熱交換器との間で冷水が循環して部屋の空調を行う。また、熱源機器類の運転時に、冷凍サイクルの凝縮器から発生する熱は、熱交換器で冷却水(水を使用する)と熱交換を行い、ポンプによりビルの屋上に設置してある[[冷却塔|クーリングタワー]]との間で冷却水が循環して冷却されるシステムとなっている為、広い意味での「エア・コンディショナー」と言える。歴史的には欧米で先行して普及したセントラルヒーティングのシステムに冷房機能を追加したもので、古い設備などでは暖房にはボイラーを用いるものもある。
=== コンビニエンスストア用 ===
[[コンビニエンスストア]]専用の冷凍・空調統合システムが存在し、以下のような特徴がある。
* 冷凍・空調統合システムであるため冷媒の総使用量が少ない。
* 冷蔵・冷凍ショーケースの廃熱で暖房するため効率が高い。
* 冷房時も制御の工夫により最大需要電力・使用電力量とも少なくなっている。
メーカーの発想に違いがあり冷媒回路を空調、冷蔵、冷凍で共有する方式(システムダウン時、どちらも運転不能)や[[三菱電機]]のように熱交換器で相互の熱のやりとりをすることで冷媒回路や通信制御が全く独立していて単独で機能するのもある。
=== エンジンヒートポンプ ===
[[内燃機関]](エンジン)を動力にヒートポンプを作動させるもの。主に都市ガスを用いる'''[[ガスエンジン]]ヒートポンプ'''(GHP)の他、北海道など寒地の世帯に普及している灯油暖房インフラを利用する'''灯油エンジンヒートポンプ'''(KHP)がある。現行のエンジンは[[レシプロ機関]]だが、次世代型として[[マイクロガスタービン]]も構想されているものの製品化に到っていない。以下のような特徴がある。
* 消費電力が小さく、電力ピークカットの効果も高い。[[発電機]]を搭載した機種もあり、自己消費電力のほとんどをまかなう為、商用の消費電力はごく僅かである。
* 空調用の受電設備が不要なため、新規導入時のイニシャルコスト面でメリットがある。
* 所要能力の大きい事業用では電気式だと地域の給電網が対応しきれない場合もあり、その際に有力な選択肢であった。しかしヒートポンプの効率向上もあって消費電力あたりの能力が上がったことでそのニーズも減っている。
* [https://p2earth.com/1562/ KHP]は2011年7月31日に生産が終了しており、最新モデルで補給品供給期は2020年11月が最後である。
* 電気式のものより、ガスエンジン回りの整備・点検や、消耗品の交換費用が多くかかる。
* 機器本体のみを比較すると、初期導入費用が電気式より高い。
* 多くのガス事業者で、通常より安価な空調用のガス料金を別途設定しているため、メータと配管を他の系統と別にすることが多い。
* 室外機の設置スペースまたは高さが電気式に比べ大きく必要(20馬力システムだと電気式と比較した場合占有面積は2割増し、高さは1.5倍、重量は2倍ある)。
* モーターに比べ騒音が大きい。またガス燃焼特有の主として[[窒素酸化物]]に加えて、燃料ガスの[[付臭剤]]が[[TBM]]に代表される[[硫黄]]化合物であれば硫黄酸化物いわゆる[[亜硫酸ガス]]による臭気が発生する{{Efn2|エンジン自体は[[液化石油ガス|LPG]][[タクシー]]や[[天然ガス自動車|CNG車]]と同じだが、[[排気ガス]]に関する厳しい規制が無く野放し状態だった。2003年時点では[[陸用内燃機関]]としての自主規制により100ppm、[[東京都]]における[[火力発電所]]の10ppmより一桁甘い規制がなされ、現在はほぼ使用されていない}}。当然、[[一酸化炭素]]も排出される。
* 上記窒素酸化物を含んだ燃焼排気ガスから[[亜硝酸]]を含んだドレイン排水が発生するが、強酸性であるため[[中和]]処置を行わず垂れ流しにすると[[コンクリート]]の腐食を誘発する。
* ガスエンジンの廃熱を暖房に利用できるため、[[寒冷地]]においても暖房運転の立ち上がりが良い。また暖房時の室外熱交換器の除霜にもエンジン廃熱を用いるため、暖房能力の低下を抑えることができる。
* エンジンがコスト面から旧式を使っており総合効率は1を少し上回る程度(エンジンが30%程度、ヒートポンプがEER値が3〜4の場合システムCOP値は1〜1.2)で近年の電気式の省エネ化(特にマルチでなく1:1システムが顕著)でCOP値が4以上と従来機の半分の電気代で運転できる事から、導入費用+保守費用+ガス代を考えてもGHPが割高となるケースがある。上記の排気ガス規制とあいまって新規採用が減少、特に店舗用の小型機器業界は壊滅状態である。
* エンジン式の構造上、現状では冷媒漏れが避けられない。
* 燃料(特に都市ガス)の供給が絶たれると運転できない。
* 商用電力を利用して運転するため、原則停電時には運転できない。ただし、電源自立型と呼ばれるタイプでは、発電機とバッテリを内蔵することで停電時でも起動、運転が可能となる。発電した電力のうち余剰分は、通常の電力として使用することも可能である。
[[液化石油ガス|LPG]]は災害時に供給が止まることが少なく、発電機で少量の電気を供給すれば稼動する。一方運搬に必要な道路の[[インフラストラクチャー]]の損傷具合によっては都市ガス同様に復旧が遅くなる事もある。ただし、都市ガスは復旧が遅く長期に渡って空調が使えなくなる。したがって都市ガスが無ければ営業自体ができない店舗(飲食店やガス炊きボイラーの[[浴場]])はともかく、病院や事務所など直接ガスに依存しない施設ではGHPのみに依存すると空調に支障をきたす場合がある。なお現行のGHPにおいては、使用燃料を都市ガス(13A)とLPG間で相互に切り替えることが可能であるため、必要に応じて都市ガスからLPGに切り替えたうえでボンベを接続することで、運転の継続が可能となる。
電力ピークカットを目的とした税優遇措置は、2011年現在も有効である。
== 車両用 ==
=== カーエアコン ===
{{Main|カーエアコン|カークーラー|カーヒーター}}
{{Vertical_images_list
|1=1st gen Honda Fit cockpit.jpg
|3=1st gen Honda Fit manual air conditioner console.jpg
|4=[[ホンダ・フィット]]のマニュアル式エアコン操作パネル
|5=Nissan Dayz S AA0 Interior.jpg
|6=[[日産・デイズ]]の[[タッチパネル]]式オートエアコン操作パネル
}}
自動車に取り付けてあるエアコン。基本的な構造は、冷房の場合は通常のエアコンと変わりなく、[[圧縮機|コンプレッサー]]を使う方式である。コンプレッサーは[[電磁クラッチ]]の断続によってエンジンの動力で冷媒を圧縮し、圧縮されて蓄熱された冷媒は、車両前方の[[ラジエーター]]前などに配置された'''コンデンサー'''(凝縮器)で走行風や電動ファンによる強制空冷で冷却されガス状の冷媒が液化される。液化された冷媒は室内エアコンユニットの'''エバポレーター'''(蒸発器)に送られる。エバポレーターには'''エキスパンションバルブ'''(膨張弁)が内蔵されており、ここで液化された冷媒が一気に気化されることにより、冷房サイクルが成立する。冷房を終えた冷媒はコンプレッサーに返送され、一部の余剰の冷媒は必要に応じて'''レシーバータンク'''(貯蔵庫)に蓄えられて再液化及び[[乾燥剤]]による除湿が行われる。
暖房は建物用エアコンと違い、[[液冷エンジン]]([[水冷エンジン]])においてはエンジンを冷却した冷却液([[冷却水]]、クーラント)を室内のヒーターコアに導き、熱交換している。すなわちカーエアコンの暖房は、エンジンの廃熱利用にあたる。
これらの冷温風は電動送風機である'''ブロワモーター'''により室内各所に送風される。カーエアコンはこれらの冷温風により、フロントガラスやサイドガラスの霜取りや曇り取り([[デフォッガー]]/[[デフロスター]])を行う機能も持たせられている。
温度調節はドライバーが手動で任意に行う'''マニュアルエアコン'''と、建物用エアコンのようにあらかじめ設定した室温に室温センサーなどで自動調節を行う'''オートエアコン'''が存在し、今日の日本市場ではオートエアコンが主流である。
クーラーの冷媒には一般的には[[代替フロン|R134a]]が用いられる。かつては[[フロン類|フロン12(R12)]]が広く用いられていたが、オゾン層破壊が問題になったことにより現在ではR134aに完全に置き換えられている。しかし、R134a冷媒は強力な[[温室効果ガス]]でもあったR12ほどではないもののやはり地球温暖化係数(GWP)が高い温室効果ガスであることから、欧州F-Gas 規制<ref group="注">{{lang-en-short|F-Gas regulation}}</ref> が制定され、2017年1月までに全ての欧州内の乗用車および軽トラックの新車のカーエアコンに使用される冷媒はGWP が150 以下の冷媒を採用しなければならなくなった。2011年1月から発売される新型車から段階的廃止が始まり、代替冷媒として[[二酸化炭素|CO2]]やHFO-1234yfが採用される模様である。
近年では[[花粉症]]対策などを謡った[[クリーンエアフィルタ]]がカーエアコンに装着される事も一般化している。バスの冷房装置については、[[機関直結式冷房装置]]、[[独立機関式冷房装置]]を参照。
=== 鉄道用 ===
{{Main2|電車の冷房装置については[[集中式冷房装置]]、[[分散式冷房装置]]、[[集約分散式冷房装置]]を、気動車の冷房装置については、[[機関直結式冷房装置]]、[[独立機関式冷房装置]]を}}[[鉄道車両]]に取り付けてある冷房装置(一部を除き冷房専用であることから、エアコンと呼ばれることは少ない)。基本的には電気で作動するが、[[気動車]]ではカーエアコンと同様、走行用エンジンの動力の一部を利用して作動するものが多い。
電車の場合、屋根または床下にコンプレッサー・エバポレーター・コンデンサーが一体化されたものが搭載され、最近のものでは、換気機能を有するものや空気清浄機を内蔵するものがあり、換気や暖房によって天井に上った空気を下へ戻すために冬でも送風を行うものもある。
=== 航空機 ===
{{Main|環境制御システム (航空機)}}
== 温度と湿度の調節 ==
温度と湿度をセンサーで取得し解析、気流を制御することで快適な状態に保つ機能も実現している<ref name=":4" />。
=== 相対湿度の低下 ===
冷房は室内機が[[結露]]し、その水分を屋外へ排水するため、湿度が下がる。これは、[[体感温度]]を下げる助けになる。
しかし、インバーターエアコンでは自在に出力を調整出来るため、始動時は高出力運転を行うが、室温が安定した後は低出力の運転を行う。低出力の運転では室内機が結露を起こさないため、室温だけが下がり相対湿度は上昇する。相対湿度の上昇は、不快感や[[カビ]]、[[ダニ]]の発生の原因になる事があるため、[[除湿機]]を併用したり、冷房のかわりに再熱除湿を使用して、湿度の上昇に注意する必要がある。
暖房は室内で燃焼を行わないため、相対湿度が下がる。これは、[[体感温度]]を下げる副作用となる。結果、過度な暖房をし、[[自律神経失調症]]につながる場合もある。エアコンのみで暖房を行う場合は、[[加湿器]]を併用するなど、乾燥に注意する必要がある。
=== 冷房と除湿 ===
冷房運転は室温を設定温度に合わせるものであり、除湿運転は湿度を設定した湿度に合わせるものである。目的に応じ選択することにより快適な状態となる。同じ室温でも湿度が低ければ体感温度が下がり快適に感じるため、日本の夏のような多湿の場合は、室温をあまり下げなくても除湿をすれば快適に感じる場合がある。
除湿運転の原理には、'''弱冷房除湿方式'''と'''再熱除湿方式'''の2種類がある。
'''弱冷房除湿方式'''は、弱く冷房をかけて除湿する方式である。そのため温度を下げる能力は冷房運転より低下するため、消費電力も少なくなる。この方式では湿度と同時に温度も下がり、温度と湿度を独立に制御することができない。そのため、梅雨時など室温が高くない場合は肌寒く感じることもある。室温が低い場合には、除湿能力が低下する。
'''再熱除湿方式'''は、冷房により一度温度が下がった空気を、再度加熱(再熱)することにより、所望の湿度に調節する方式である。原理上、温度と湿度を独立に制御することが可能であり、また弱冷房除湿方式に比べ室温が低い場合でも除湿能力がある。ヒーターで再熱する場合冷房運転よりも消費電力は多い。このタイプの再熱除湿は近年の家庭用エアコンでは採用されていないが、一部の鉄道車両用エアコンなどで採用されている。近年の家庭用エアコンで多く採用されている再熱除湿は室外機の廃熱をリサイクルする方式で冷房に比べて温度を下げる能力が低下する。そのため、昼間など大きな冷房能力が必要なときに使用すると、室温が下がらずに消費電力だけ大きくなる場合もある。機種によっては温度や湿度をセンサー監視し、最適なモードへ自動的に切り替える機種もある。近年ではインターネットでクラウドサービスに接続し、天気予報などから最適な条件となる設定値に合わせる機種も登場している<ref name=":2" />。
除湿運転の場合、冷房運転だけでは取りきれない湿度を下げる事が出来るため、設定温度を高めにしても体感温度は下がる場合もあり、実際の消費電力は個々のケースによる。
== 電気代 ==
* エアコンは消費電力が大きく、一般的なピークは夏期の日中である。対策として設定温度を上げる、[[すだれ]]を降ろして部屋に流入する熱を減らす、部屋を仕切って冷やす空間を最小限にすることで消費電力を抑えられる。ただし風量を弱くしても、室内機のファンの回転が弱まるだけで、設定温度まで冷やす(または暖める)ことに変わりはなく、設定温度になるまでに時間がかかるため、エアコンの消費電力の大半を占めるコンプレッサーが長く高出力運転し、かえって消費電力量が増える<ref>{{Cite web |title=electricitysaving-winter |url=https://www.daikin.co.jp/school/electricitysaving-winter |website=www.daikin.co.jp |access-date=2023-01-28 |language=ja-JP}}</ref><ref>[http://www.daikin.co.jp/air/tech/compressor/summary/index.html?ID=air_tech 圧縮機とは?-ダイキン工業]</ref>。
* [[インターネット]]上で「外出時などの時も冷房をつけたままにしておく方が電気代が安い」という情報が広まっているのを受けて、[[ダイキン]]が行った実験では、間取りなどが同じ条件で片方はつけたまま、もう片方は30分ごとに運転を入り切りしたところ、日中(9時〜18時)はつけたままの方が電気代が安くなり、夜(18時〜23時)は入り切りした方が安くなるとの結果が出た。昼夜で結果が違う理由は、昼夜の気温差で、一番電力を消費する起動時の電力量に差があるからである。なお、この実験ではこのような結果だが、実際には部屋の間取りや断熱性、天候などの環境要因によって結果が違ってくるとしている<ref>[http://www.daikin.co.jp/press/2016/160812_2/index.html <参考資料>第5回『ダイキン 空気のお悩み調査隊がゆく!』エアコンをつけっぱなしにするのとこまめに入り切りするのでは、どちらの電気代が安くなるの?]『ダイキン工業株式会社』2016年8月12日</ref>。
* [[経済産業省]] [[資源エネルギー庁]]「[[省エネルギー|省エネ]]性能カタログ」より作成されたエアコン期間消費電力量の推移からその電気代を出した調査によると、1995年に40,284円だったものが2000年には27,459円と5年間で約3分の2まで減少している<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「エアコンは電気代が高い」のウソとホント|MONO TRENDY|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO04846080U6A710C1000000|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2020-08-20|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>。その後も2006年の23,814円まで毎年少しずつ電気代は減少してきたが、2015年の22,518円までの9年間では電気代はほぼ横ばいとなっている<ref name=":0" />。
* 必要なエアコンの能力は、設置する畳数のみに左右されず、住宅の断熱性能や[[気密性|気密性能]]、[[窓]]の[[方位]]や[[庇]]などによって大きく異なる<ref>{{Cite web|和書|title=エアコン選び 「余裕持って大きめ」は間違い|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO19460320R30C17A7000000/|website=日本経済新聞 電子版|accessdate=2020-08-20|language=ja}}</ref>。[[日本建材・住宅設備産業協会]]の資料によると、夏場において冷房中に熱が流入する割合の73%が窓に代表される開口部である<ref>{{Cite web|和書|title=低い断熱性、なぜ放置 「窓」後進国ニッポン|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO78836460U4A021C1000000/|website=日本経済新聞 電子版|accessdate=2020-08-20|language=ja}}</ref>。そのため対策、樹脂サッシの採用やガラスの複層化、[[二重窓]]の設置などにより断熱を強化することで、エアコンによる電気代を節約する手法がある<ref>{{Cite web|和書|title=「窓を断熱する」と、電気代はどのくらい安くなるの?気になるお値段は… {{!}} Sumai 日刊住まい|url=https://sumaiweb.jp/articles/23072|website=Sumai 日刊住まい|date=2016-07-12|accessdate=2020-08-20|language=ja}}</ref>。
* 各メーカーでは消費電力を抑えるために[[人工知能|AI]]による気温予測など、様々な機能を開発している<ref name=":2" />。
== 問題点 ==
* 室外機は特に冬場に暖房にすると音が強くなることがある。
* 風量を強くすると、空気循環(サーキュレーション)も出来て効果的であるが、暖房時は設定温度を下げて風量を強く設定しても、吹き出し温度が低くなると寒く感じるのを防ぐ為風量が弱くなる機種も多い。この場合、風量を「強」にしても「自動」にしても同じである。冷房時は設定温度を上げて風量を上げると、除湿能力が低下する場合がある(湿度が高いと体感温度が上がって設定温度を低くしがちになったり、[[熱中症]]や[[食中毒]]の原因になったりする)。このため設定温度だけを上げて風量は自動に設定し、送風の補助として扇風機や[[サーキュレーター]]などを併用する使い方もある。
* 通常のエアコンは[[換気]]能力を備えていないが、1999年ごろから換気機能を備えたエアコンが登場し、後付けの換気ユニットも販売されている<ref>{{Cite web|和書|title=エアコンに「換気」機能搭載進む 給排気の訴求強化 別売りユニット開発のメーカーも |url=https://dempa-digital.com/article/383820 |website=電波新聞デジタル |date=2022-12-21 |access-date=2023-01-28 |language=ja}}</ref>。換気のためのダクトが別に存在し、直接外気に晒すタイプと、室外機に接続するタイプがある。「[[原子力事故|原発事故]]が発生し屋内退避指示が出たらエアコンを止めること」と周知する[[報道機関]]が存在するが<ref>{{Citation|title=【原発】「屋内退避」が発令されたらどうすれば・・・(11/03/18)|url=https://www.youtube.com/watch?v=cYpYSLYd_1w|language=ja-JP|access-date=2023-01-28}}</ref>、換気機能が付いている場合であり、換気機能が付いていないエアコンまたは換気をオフにできるエアコンを止める必要はない。
* 家電品の中では、メンテナンスコストと掃除の要求頻度が比較的高い。室外機は内部の掃除を怠ると、増殖した[[カビ]]が室内に拡散される場合がある<ref>[https://www.sankei.com/life/news/180628/lif1806280026-n1.html 梅雨の季節…どうするエアコンのカビ対策「家庭でも掃除は可能です」][[産経新聞|産経ニュース]](2018年6月28日)2018年9月2日閲覧。</ref>。対策として熱交換器の位置を工夫することで室内機内部の湿度上昇を抑え結露を防止したり、高機能フィルターにより埃の吸い込みを抑えた製品もある<ref name=":2" />。
* 水冷式の屋外機内では、メンテナンスが不十分であると細菌が発生しやすく、飛沫による拡散が問題となる可能性がある。2012年、[[カナダ]]の[[ケベック・シティー]]の住民など176人が[[レジオネラ症]]を発症し、うち12名が死亡する事件が発生した<ref>{{Cite news
|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2900438?pid=9507295
|title=カナダ・ケベックシティの在郷軍人病、死者12人に
|work=AFPBB News
|publisher=フランス通信社
|date=2012-09-12
|accessdate=2012-10-06
}}</ref>。
*寒冷地に対応した機種も存在している。基本的に日常の運転時間を学習し、概ね運転1時間から30分前から室外機コンプレッサーを電熱ヒーターで温め、室外機の着霜や凍結での排水障害を凍結防止の電気ヒーターで溶かすという、旧来のパッケージ・ビル用等の大型機種の機能を応用している<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=ダイキンの寒冷地エアコン ポータルサイト|ダイキン工業株式会社|url=https://www.daikinaircon.com/kanreichi/|website=ダイキンの寒冷地エアコン ポータルサイト|ダイキン工業株式会社|accessdate=2020-12-24|language=ja}}</ref>。電熱ヒーターでの等価熱量を掛けているため省エネ性能を引き下げることや、霜取り中は暖房が停止する<ref>{{Cite web|和書|title=大雪の困りごとと解決法 {{!}} 空気の困りごとラボ {{!}} ダイキン工業株式会社|url=https://www.daikin.co.jp/air/life/laboratory/snow/|website=www.daikin.co.jp|accessdate=2020-12-24|language=ja}}</ref>ためメーカー各社は様々な工夫を施している<ref name=":1" />。コンプレッサーモーターの多極化による低速回転の安定性や、圧縮高温ガスの室外熱交換器への再循環弁制御での除霜などもあるが、効果は前述したほどではない。
== エアコンメーカー ==
=== 日本の主なエアコンメーカー ===
* [[アイシン]](GHP式) - 過去には室内ユニットは三菱重工製を使用していたが、現在は室内ユニットのみダイキンからの[[OEM]]。かつて中型タイプの室外機はパナソニック産機からのOEMだった。
* [[ヴァレオ|ヴァレオサーマルシステムズ]](自動車向け)
* [[神戸製鋼所]](業務用空調)
* [[ケーヒン]](自動車向け)
* [[小泉成器]](ウインド型・千石のOEM)
* [[コロナ (住宅関連機器メーカー)|コロナ]](基幹部分は東芝製) - 冷房専用機種・ウインド型も販売。
* [[カルソニックカンセイ]](自動車向け)
* [[シャープ]] - 過去に業務用も販売(ダイキン製)
* [[千石 (電気メーカー)|千石]](OEM生産のみ)
* [[ダイキン工業]] - 2010年より空調事業(家庭用・業務用)の世界シェア1位。国内シェア1位のパナソニックと包括提携。GHPの室外機はアイシンからのOEM。
* [[デンソー]] - 自動車向けが中心だが、過去にはオフィス用灯油ヒートポンプ(KHP)タイプも取り扱っていた(パナソニック産機製)。主に同社の工場等で見かける。
* [[デンソーエース]] - 旧ゼネラルエアコンテクニカ、スキニー<ref group="注">三菱電機や東芝キヤリアからのOEM。</ref>というブランドでトヨタ系列施設、輸入住宅、コンビニで使用。
* [[長府製作所]](基幹部分は三菱電機製、一部機種はダイキンのOEM)
* [[キヤリア (空調設備メーカー)|東芝キヤリア]] - [[東芝]]とキヤリアとの合弁という形で設立(2010年5月より家庭用エアコンの販売は[[東芝ライフスタイル]]が担当)。かつては石油もしくはガスエアコン(いずれも家庭用ならびに業務用)にも手掛けていたが、現在は撤退している。
* [[トヨトミ]](ウインド型)
* [[ジョンソンコントロールズ|日立ジョンソンコントロールズ空調]] - 日立の空調部門([[日立アプライアンス]]→[[日立グローバルライフソリューションズ]])と米国ジョンソンコントロールズとの合弁会社で家庭用から[[チラー]]も含めた業務用と幅広い。かつては都市ガス向け家庭用ガスルームエアコンやGHPも手掛けていたが日立ブランドとしては撤退してはいるものの、現在のGHPはヤンマー向けOEM展開は継続中。
* [[富士通ゼネラル]] - 主に家庭用。パッケージエアコンや業務用エアコンは海外のみで販売。
* [[富士電機]] - 業務用ではエアスカットというブランドで販売(三菱重工製)。家庭用は海外向け。現在は富士通ゼネラルのOEM。
* [[パナソニック]] - 家庭用空調機器の国内シェア1位。空調事業世界シェア1位のダイキン工業と包括提携。
** [[パナソニック産機システムズ]] - パナソニックの子会社で三洋電機の業務用空調事業を引き継いだ会社。これまで親会社が取り組んでいなかった業務用GHPやチラーといった大型特殊空調事業にも参入している。
* [[三菱電機]] - 一部の業務用エアコンは三菱重工業のOEM。過去に家庭用ガスルームエアコンも製造していたが、現在は撤退している。
* [[三菱重工業]] - 一部のハウジングエアコンは三菱電機のOEM。業務用ガスエアコンの室外機はアイシンもしくはパナソニック産機からのOEM。[[三菱自動車工業|三菱自動車]]ならびに[[三菱ふそうトラック・バス|三菱ふそう]]向けの自動車用も製造。
* [[ヤンマーエネルギーシステム]](GHP式) - 室内機は日立(Hタイプ)とダイキン(Dタイプ)からのOEM。
* [[アイリスオーヤマ]] - 2017年から事業参入。
=== かつて手掛けていた日本のエアコンメーカー ===
* [[吉井電気]](ウインド型)ブランド名アビテラックス(Abitelax)
* [[ハイアール|ハイアールジャパンホールディングス]](ウインド型)
* [[三協]]
* [[GAC]] - デンソーエースに統合。日本で初めて窓用タテ型ウインドエアコンを製造。GEスキニーというブランドで1974年〜1983年まで製造・販売された。
* [[ソニー]] - ダイキン工業のOEM。
* [[松下冷機]] - パナソニックに吸収された。
* [[三洋電機]] - [[2010年]]モデルから家庭用エアコンは富士通ゼネラルのOEMだったが、パナソニックの完全子会社化に伴い、家庭用からは撤退。業務用もパナソニック産機システムズに引き継ぐ形で撤退。
* 高木産業(現[[パーパス]]) - 家庭用ガスエアコンのみ販売。パナソニックのOEM。
* 東洋キヤリア工業 - 東芝キヤリアに統合。統合前は東芝や三洋からのOEM。
* [[ノーリツ]] - 三洋などからのOEM。
* [[日本電気ホームエレクトロニクス]](三洋などからのOEM。)
* [[日本ビクター]](現[[JVCケンウッド]]) - 三菱重工業のOEM。
* [[ブラザー工業]] - 三菱電機のOEM。
* [[船井電機]]
* [[ホリエ電機]] - 壁掛型、ウインド型共に手掛けていたが1998年に解散した。
* [[ロバート・ボッシュ (企業)|ゼクセル]](旧・ヂーゼル機器) - 自動車向け。ヴァレオサーマルシステムズに社名変更。
* [[ヤマハ発動機]] - GHP式。室内ユニットはパナソニックもしくは三菱電機製。「リビングメイト」と呼ばれるハウジングモデルは室内・室外共にパナソニック産機製が使われた。筆頭株主である[[ヤマハ]]のルートを通じて学校施設への納入が多かった。
* [[ユーイング (企業)|ユーイング]](旧・森田電工) - ウインド型。
* [[リンナイ]] - LPガスや都市ガスを用いた家庭用ガスエアコン。主に東芝やシャープからのOEM。
* [[サンデン]] - 自動車向け。特に吊り下げ型[[カーエアコン]]の[[カークーラー|レザム]]が有名だったが、吊り下げ型エアコンもエアコンを標準装備する車が増加したことにより、市場縮小していった。
=== 外国の主なエアコンメーカー ===
* [[キヤリア (空調設備メーカー)|キヤリア]]
* [[グリー・エレクトリック]](珠海格力電器股份有限公司)
* [[ハイセンス]]
* [[LGグループ|LG]]
* [[サムスン電子|サムソン]]
* [[ハイアール]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[エアクリーナー]]
* [[エコキュート]]
* [[省エネルギー]]
* [[トリジェネレーション]]
* [[冷風機]]
* [[扇風機]]、[[エアサーキュレーター]] - 暖気・冷気の拡散や冷房の代用・補助に使われる。
* [[クーラー病]]
* [[バードギール]] - 中東の伝統的な空調システム
* [[冷凍機]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Air conditioners}}
* [http://www.jraia.or.jp/index.html 一般社団法人 日本冷凍空調工業会]
* [https://www.tepco.co.jp/ep/private/savingenergy/airconditioner01.html エアコン 使い方] - [[東京電力エナジーパートナー]]
* [https://criepi.denken.or.jp/asst/ エアコン選定支援ツール] - [[電力中央研究所]]のサイト。部屋の条件から最適なkWを算出できる。
* [https://www.asahi.com/articles/ASN6V36QYN6TUTIL028.html エアコン内部洗浄で発火の恐れ 「業者に依頼を推奨」(朝日新聞デジタル記事2020年6月26日)]
{{DEFAULTSORT:えあこんていしよなあ}}
[[Category:空気調和設備]]
[[Category:家電機器]]
[[Category:建築環境工学]]
[[Category:冷却]]
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アルタイ諸語
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アルタイ諸語(アルタイしょご、英: Altaic languages)は、ユーラシア大陸を横断する形で分布する言語連合である。かねて歴史比較言語学において共通点が指摘されてきた。歴史的にはウラル・アルタイ語仮説に由来し、一般にテュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族からなりたつ。これらの諸言語が共通の祖先(祖語)を持ち、アルタイ語族をなすという仮説がながらく提唱されており、1960年代までは広く受け入れられていたが、21世紀現在、言語学界においてこの主張は議論の対象となっている。
広義にはこれらに日琉語族、朝鮮語族(まれにアイヌ語族やニブフ語)も加えられ、拡大アルタイ語族(英: Macro-Altaic languages)、また近年はマーティン・ロベーツらの造語で「トランスユーラシア語族(英: Transeurasian languages)」と呼ばれるが、これらに関しては常に議論の対象となっており、証明が受け入れられていた時期はない。「拡大アルタイ語族」からの逆成で、テュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族を「縮小アルタイ語族(英: Micro-Altaic languages)」と呼ぶことがある。
「アルタイ諸語」の名は、中央アジアのアルタイ山脈(阿爾泰山脈)にちなみ命名されたものである。
アルタイ諸語であることが広く認められている言語グループには以下の3つがある。 これらそれぞれの中での系統関係は実証されているが、これらの間の系統関係については決着を見てはいない。
これらの言語グループにはいくつかの重要な共通の特徴が見られる。
また広義には、日琉語族(日本語、琉球語)と朝鮮語族(朝鮮語、済州語)もアルタイ諸語である。ただし、現在は、母音調和の特徴は欠いている。
アルタイ諸語を共通の祖語をもつアルタイ語族とする説は古くからあるが、母音調和を共通に行う3グループですら数詞などの基礎語彙が全く違うため、少なくとも伝統的な比較言語学の手法によってアルタイ祖語を復元し、アルタイ語族の存在を証明することは困難である。
アルタイ諸語の研究は18世紀の北欧において開始され、のち20世紀前半にいたるまで北欧はアルタイ言語学の中心地のひとつであった。1730年、スウェーデンの外交官であり地理学者であったフィリップ・ヨハン・フォン・シュトラーレンベルク(英語版)(Philip Johan von Strahlenberg、1676–1747)が大北方戦争の際にロシア帝国の捕虜となりユーラシア大陸を移動した経験をもとに刊行した本で、ツングース諸語・モンゴル諸語・チュルク諸語に関する記述がある。それより一世紀経つと、フィンランドの語源学者・文献学者 マティアス・カストレン(英語版)(Matthias Alexander Castrén, 1813–1853)は1854年の著作でアルタイ諸語にチュルク、モンゴル、満州・ツングースだけでなくフィン・ウゴル語派、サモエード諸語などのウラル語族までを含めた。
19世紀から20世紀にかけてツングース諸語・モンゴル諸語・チュルク諸語を研究する学者の多くは、これらアルタイ語族をフィン・ウゴル語派やサモエード諸語などのウラル語族とあわせて考えた(ウラル・アルタイ語族説)が、ロシアの歴史言語学者セルゲイ・スタロスティン(1953–2005)がそれを否定し、現在ではこれらの考え方は棄却されている。
1857年オーストリアの Anton Boller が日本語をウラル-アルタイ語族に位置づけ、1920年代にはフィンランドの言語学者グスターフ・ラムステッドやエフゲニー・ポリワーノフは、朝鮮語を同語族に分類した。ラムステッドのmagnum opus "Einführung in die altaische Sprachwissenschaft " (アルタイ諸語入門、'Introduction to Altaic Linguistics') が出版された。
以降、 ニコラス・ポッペ、Karl H. Menges、Vladislav Illich-Svitych、Vera Cincius のツングース研究などがある。ポッペは朝鮮語について、
との仮説を提出している。
ロイ・アンドリュー・ミラーは、多くのアルタイ言語学者は日本語をアルタイ語族に帰属すると考えているし、またミラー自身も同様に考える、との見解を提出し、以降、日本語もアルタイ語族にあらためて再分類された。
John C. Street はチュルク - モンゴル - ツングース語族から朝鮮 - 日本 - アイヌ語族集団と北東アジア語族集団が分岐したとする説を提起した。
ジョーゼフ・グリーンバーグはユーラシア大語族 (Eurasiatic languages) を提唱したさいに、日本 ‐ アイヌ ‐ 朝鮮言語集団と他のギリヤーク語、エスキモー・アレウト語族、シベリアのチュクチ・カムチャツカ語族と区分した。
マルティン・ロベーツは、従来の広義のアルタイ語族(チュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族、日本語族、朝鮮語族)を「トランスユーラシア語族」 (Transeurasian) と呼称している。「トランスユーラシア祖語」は紀元前6千年紀の遼西興隆窪文化を原郷とし、雑穀農耕とともに周辺に拡散していったとしている。ベイズ法による系統解析により、トランスユーラシア祖語から日本・朝鮮系統/アルタイ系統の分岐を紀元前4700年、アルタイ祖語からツングース/チュルク・モンゴル系統の分岐を紀元前3293年、チュルク・モンゴル祖語からチュルク語族/モンゴル語族の分岐を紀元前1552年、日本・朝鮮祖語から日本語族/朝鮮語族の分岐を紀元前1850年と算出した。
いずれにせよ、このアルタイ語族という分類の理論的な問題としてまず、それが語族なのか、言語連合(独: Sprachbund)なのか、という問題がある。
Sergei Anatolyevich Starostin の語彙比較分析によれば、潜在的な類縁関係を持つ同根語が15%から20%の割合で対応関係が認められた。
Starostin は結論として、アルタイ諸語はインドーヨーロッパ語族やフィン・ウゴル語派といった他のユーラジア語族よりも古く、それが後世のアルタイ諸語同士における対応関係の少なさを説明する、とした。
2003年には Claus Schönig はアルタイ諸語は発生的・遺伝的 (genetic) 関係において共通する基礎語彙をもっていないとした。
Starostinを代表とする辞典 Etymological Dictionary of the Altaic Languagesの編纂過程でのAnna V. Dybo、Oleg A. Mudrak、Ilya Gruntov、マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)らの研究では2800個の同根語集団を抽出し、この同根語集団を基礎に音韻的対応関係、文法的対応関係、アルタイ祖語の内的再構を試みたが、他の研究者との間で議論が継続中である。
Starostinらの研究(2003)における子音対応表は、同研究におけるアルタイ祖語の内的構成を踏まえて作られた。
他、母音対応表、韻律対応表、形態対応表、同根語表、基礎語彙表も作られ、各表の対応関係を見ると、各諸語の対応関係が成立している。しかし、それはアルタイ語族の存在の証明とはいまだなっていない。
他、突厥文字の代表的史料であるモンゴルの8世紀のオルホン碑文の対照研究からも様々な研究がなされている。
アルタイ諸語を話す民族はY染色体ハプログループC2が高頻度で観察され、とりわけC-M86との関連性が想定される。ただしこのタイプはニブフやコリヤーク人でも高頻度であり、アルタイ諸語の基層にニブフ語のような古アジア諸語を想定できるかもしれない。
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アルタイ諸語は、ユーラシア大陸を横断する形で分布する言語連合である。かねて歴史比較言語学において共通点が指摘されてきた。歴史的にはウラル・アルタイ語仮説に由来し、一般にテュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族からなりたつ。これらの諸言語が共通の祖先(祖語)を持ち、アルタイ語族をなすという仮説がながらく提唱されており、1960年代までは広く受け入れられていたが、21世紀現在、言語学界においてこの主張は議論の対象となっている。 広義にはこれらに日琉語族、朝鮮語族(まれにアイヌ語族やニブフ語)も加えられ、拡大アルタイ語族、また近年はマーティン・ロベーツらの造語で「トランスユーラシア語族」と呼ばれるが、これらに関しては常に議論の対象となっており、証明が受け入れられていた時期はない。「拡大アルタイ語族」からの逆成で、テュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族を「縮小アルタイ語族」と呼ぶことがある。 「アルタイ諸語」の名は、中央アジアのアルタイ山脈(阿爾泰山脈)にちなみ命名されたものである。
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'''アルタイ諸語'''(アルタイしょご、{{lang-en-short|Altaic languages}})は、[[ユーラシア大陸]]を横断する形で分布する[[言語連合]]である。かねて[[比較言語学|歴史比較言語学]]において共通点が指摘されてきた。歴史的には[[ウラル・アルタイ語族|ウラル・アルタイ語]]仮説に由来し、一般に[[テュルク語族]]、[[モンゴル語族]]、[[ツングース語族]]からなりたつ。これらの諸言語が共通の祖先([[祖語]])を持ち、アルタイ[[語族]]をなすという仮説がながらく提唱されており、1960年代までは広く受け入れられていた<ref name=":0">{{Cite journal|last=Georg|author=|first=Stefan|last2=Michalove|first2=Peter A.|last3=Ramer|first3=Alexis Manaster|last4=Sidwell|first4=Paul J.|year=|date=1999-03|title=Telling general linguists about Altaic|url=https://www.cambridge.org/core/journals/journal-of-linguistics/article/telling-general-linguists-about-altaic/4062C2C55ABDE1D32E08D74FA26A6330#|journal=Journal of Linguistics|volume=35|issue=1|page=|pages=73-74|language=en|doi=10.1017/S0022226798007312|issn=1469-7742}}</ref>が、21世紀現在、言語学界においてこの主張は議論の対象となっている{{efn|"While 'Altaic' is repeated in encyclopedias and handbooks most specialists in these languages no longer believe that the three traditional supposed Altaic groups, Turkic, Mongolian and Tungusic, are related."<ref>{{cite book|first=Lyle |last=Campbell |first2= Mauricio J. |last2=Mixco|title= A Glossary of Historical Linguistics |year=2007|publisher= University of Utah Press|page= 7}}</ref>}}{{efn|"When cognates proved not to be valid, Altaic was abandoned, and the received view now is that Turkic, Mongolian, and Tungusic are unrelated." <ref>{{cite book|first=Johanna |last=Nichols|title= Linguistic Diversity in Space and Time |year=1992|publisher= Chicago|page= 4}}</ref>}}{{efn|"Careful examination indicates that the established families, Turkic, Mongolian, and Tungusic, form a linguistic area (called Altaic)...Sufficient criteria have not been given that would justify talking of a genetic relationship here."<ref>{{cite book|first= R.M.W.|last= Dixon|title= The Rise and Fall of Languages |year=1997|publisher= Cambridge|page= 32}}</ref>}}{{efn|"...[T]his selection of features does not provide good evidence for common descent" and "we can observe convergence rather than divergence between Turkic and Mongolic languages--a pattern than is easily explainable by borrowing and diffusion rather than common descent",<ref>{{cite book|first=Asya|last= Pereltsvaig|title= Languages of the World, An Introduction |year=2012|publisher= Cambridge|pages=211-216}}</ref> has a good discussion of the Altaic hypothesis.}}。
広義にはこれらに[[日琉語族]]、[[朝鮮語族]](まれに[[アイヌ語|アイヌ語族]]や[[ニブフ語]])も加えられ<ref name=":0" />、拡大アルタイ語族({{Lang-en-short|Macro-Altaic languages}})、また近年は[[マーティン・ロベーツ]]らの造語で「'''トランスユーラシア語族'''({{Lang-en-short|Transeurasian languages}})」<ref>
Robbeets, M. (2014). [https://www.researchgate.net/publication/300009126_Chapter_9_The_Japanese_inflectional_paradigm_in_a_Transeurasian_perspective The Japanese inflectional paradigm in a Trans-Eurasian perspective.] In Robbeets, M. & Bisang, W. (Eds), Paradigm Change in the Trans-Eurasian Languages and Beyond. Amsterdam: Benjamins, pp. 197–232.</ref>と呼ばれる<ref>[[アレキサンダー・ボビン|アレキサンダー・ヴォヴィン]]の「WHY JAPONIC IS NOT DEMONSTRABLY RELATED TO ‘ALTAIC’ OR KOREAN」には「アルタイ語族の[[ニュースピーク]]」と評されている。</ref>が、これらに関しては常に議論の対象となっており、証明が受け入れられていた時期はない。「拡大アルタイ語族」からの逆成で、テュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族を「縮小アルタイ語族({{Lang-en-short|Micro-Altaic languages}})」と呼ぶことがある。<ref>Stratification in the peopling of China: how far does the linguistic evidence match genetics and archaeology? In; Sanchez-Mazas, Blench, Ross, Lin & Pejros eds. Human migrations in continental East Asia and Taiwan: genetic, linguistic and archaeological evidence. 2008. Taylor & Francis.</ref>
「アルタイ諸語」の名は、中央アジアの[[アルタイ山脈]](阿爾泰山脈)にちなみ命名されたものである<ref>(Turks, Kalmyks).[http://starling.rinet.ru/maps/maps23.php?lan=en]</ref>。
==構成言語と共通の特徴==
アルタイ諸語であることが広く認められている言語グループには以下の3つがある。
これらそれぞれの中での系統関係は実証されているが、これらの間の系統関係については決着を見てはいない。
*[[チュルク語族]]([[アルタイ語]]、[[トルコ語]]、[[ウイグル語]]、[[ウズベク語]]、[[カザフ語]]、[[キルギス語]]、[[トゥバ語]]など)
*[[モンゴル語族]]([[モンゴル語]]、[[オイラート語]]、[[ブリヤート語]]など)
*[[ツングース語族]]([[エヴェンキ語]]、[[満州語]]など)
これらの言語グループにはいくつかの重要な共通の特徴が見られる。
*[[母音調和]]を行う
*[[膠着語]]である
*原則として[[SOV型]]([[主語]] - [[目的語]] - [[述語]])の語順をとる<ref>ただし、隣接する国・地域同士の言語は語族に関係なく語順が似てしまうことがある。また、SOV型は世界的に最も多く見られる語順である([[言語類型論#語順]])。</ref>
*語頭に[[R]]音が立つことを嫌い、固有語にR音で始まる語をほとんど持たない
また広義には、[[日琉語族]]([[日本語]]、[[琉球諸語|琉球語]])と[[朝鮮語族]]([[朝鮮語]]、[[済州語]])もアルタイ諸語である。ただし、現在は、母音調和の特徴は欠いている。
* 朝鮮語については過去に母音調和があった([[中期朝鮮語]])。
* 日本語についても、過去に母音調和を行っていた痕跡が見られるとする主張もある([[日本祖語#有坂=池上の法則|有坂池上法則]]など)<ref>[[金田一京助]]による身体語に関する考察などがよく知られている。詳細は[[母音調和#日本語における母音調和]]を参照。</ref>。
==アルタイ語族==
アルタイ諸語を共通の[[祖語]]をもつ'''アルタイ語族'''とする説は古くからあるが、母音調和を共通に行う3グループですら{{要検証範囲|数詞などの基礎語彙が全く違うため|date=2020年12月}}、少なくとも伝統的な[[比較言語学]]の手法によってアルタイ祖語を復元し、アルタイ語族の存在を証明することは困難である。
=== 研究史 ===
アルタイ諸語の研究は18世紀の北欧において開始され、のち20世紀前半にいたるまで北欧はアルタイ言語学の中心地のひとつであった。[[1730年]]、[[スウェーデン]]の外交官であり地理学者であった{{仮リンク|フィリップ・ヨハン・フォン・シュトラーレンベルク|en|Philip Johan von Strahlenberg}}({{lang|sv|Philip Johan von Strahlenberg}}、1676–1747)が[[大北方戦争]]の際にロシア帝国の捕虜となりユーラシア大陸を移動した経験をもとに刊行した本で、[[ツングース諸語]]・[[モンゴル諸語]]・[[チュルク諸語]]に関する記述がある。それより一世紀経つと、[[フィンランド]]の語源学者・文献学者 {{仮リンク|マティアス・カストレン|en|Matthias Castrén}}({{lang|fi|Matthias Alexander Castrén}}, 1813–1853)は[[1854年]]の著作でアルタイ諸語にチュルク、モンゴル、満州・ツングースだけでなく[[フィン・ウゴル語派]]、[[サモエード諸語]]などのウラル語族までを含めた。
19世紀から20世紀にかけて[[ツングース諸語]]・[[モンゴル諸語]]・[[チュルク諸語]]を研究する学者の多くは、これらアルタイ語族を[[フィン・ウゴル語派]]や[[サモエード諸語]]などのウラル語族とあわせて考えた([[ウラル・アルタイ語族]]説)が、ロシアの歴史言語学者[[セルゲイ・スタロスティン]](1953–2005)がそれを否定し、現在ではこれらの考え方は棄却されている。
[[1857年]][[オーストリア]]の {{de|Anton Boller}} が日本語をウラル-アルタイ語族に位置づけ、1920年代には[[フィンランド]]の言語学者[[グスターフ・ラムステッド]]や[[エフゲニー・ポリワーノフ]]は、朝鮮語を同語族に分類した。ラムステッドの[[大いなる業|magnum opus]] "Einführung in die altaische Sprachwissenschaft " (アルタイ諸語入門、'Introduction to Altaic Linguistics') が出版された。
以降、 [[ニコラス・ポッペ]]、Karl H. Menges、Vladislav Illich-Svitych、Vera Cincius のツングース研究などがある。ポッペは朝鮮語について、
*アルタイ諸語のモンゴル語・テュルク諸語・ツングース語群との系統関係はないが、アルタイ系語族からの影響が見られる。
*朝鮮語は上記3語族と分岐する以前に文字体系の構築があったのではないか。
との仮説を提出している。
[[ロイ・アンドリュー・ミラー]]は、多くのアルタイ言語学者は日本語をアルタイ語族に帰属すると考えているし、またミラー自身も同様に考える、との見解を提出し<ref>Roy Andrew Miller:ロイ・アンドリュー・ミラー『日本語 歴史と構造』[[小黒昌一]]訳、三省堂、1972年(原著は1967年)。R.A.ミラー『日本語とアルタイ諸語』西田龍雄監訳、近藤達生、庄垣内正弘、橋本勝、樋口康一共訳、大修館書店、1981(原著は1971年)</ref>、以降、日本語もアルタイ語族にあらためて再分類された。
{{en|John C. Street}} はチュルク - モンゴル - ツングース語族から朝鮮 - 日本 - アイヌ語族集団と北東アジア語族集団が分岐したとする説を提起した。
[[ジョーゼフ・グリーンバーグ]]は[[ユーラシア大語族]] ({{en|Eurasiatic languages}}) を提唱したさいに、[[日本]] ‐ [[アイヌ]] ‐ 朝鮮言語集団と他の[[ニヴフ語|ギリヤーク語]]、[[エスキモー・アレウト語族]]、[[シベリア]]の[[チュクチ・カムチャツカ語族]]と区分した。
[[マルティン・ロベーツ]]は、従来の広義のアルタイ語族([[チュルク語族]]、[[モンゴル語族]]、[[ツングース語族]]、[[日本語族]]、[[朝鮮語族]])を「'''トランスユーラシア語族'''」 (Transeurasian) と呼称している。「トランスユーラシア祖語」は紀元前6千年紀の[[遼西]][[興隆窪文化]]を[[原郷]]とし、[[雑穀]]農耕とともに周辺に拡散していったとしている<ref>Robbeets, M (2017) [https://library.oapen.org/handle/20.500.12657/29648 The language of the Transeurasian farmers]. In Robbeets, M and Savelyev, A (eds), Language Dispersal Beyond Farming (pp. 93–116). Amsterdam: Benjamins.</ref><ref>
Robbeets, M (2020) [https://oxford.universitypressscholarship.com/view/10.1093/oso/9780198804628.001.0001/oso-9780198804628-chapter-45 The Transeurasian homeland: where, what and when?] In Robbeets, M, Hübler, N and Savelyev, A (eds), The Oxford Guide to the Transeurasian Languages. Oxford: Oxford University Press.</ref>。[[ベイズ法]]による系統解析により、トランスユーラシア祖語から日本・朝鮮系統/アルタイ系統の分岐を紀元前4700年、アルタイ祖語からツングース/チュルク・モンゴル系統の分岐を紀元前3293年、チュルク・モンゴル祖語からチュルク語族/モンゴル語族の分岐を紀元前1552年、日本・朝鮮祖語から日本語族/朝鮮語族の分岐を紀元前1850年と算出した<ref>
Robbeets, M and Bouckaert, R (2018) [https://academic.oup.com/jole/article/3/2/145/5067185?login=true Bayesian phylolinguistics reveals the internal structure of the Transeurasian family.] Journal of Linguistic Evolution 3, 145–162.</ref>。
*下図:マルティン・ロベーツによる「トランスユーラシア語族」の系統
{{clade
|label1='''Transeurasian'''(トランスユーラシア)
|1={{clade
|label1=Japano-Koreanic(日本・朝鮮)
|1={{clade
|1=[[日本語族|Japonic]](日本)
|2=[[朝鮮語族|Koreanic]](朝鮮)
}}
|label2=Altaic(アルタイ)
|2={{clade
|1=[[ツングース語族|Tungusic]](ツングース)
|label2=Turko-Mongolic(チュルク・モンゴル)
|2={{clade
|1=[[モンゴル語族|Mongolic]](モンゴル)
|2=[[チュルク語族|Turkic]](チュルク)
}}
}}
}}
}}
いずれにせよ、このアルタイ語族という分類の理論的な問題としてまず、それが[[語族]]なのか、[[言語連合]](独: {{de|Sprachbund}})なのか、という問題がある。
=== 同根語による比較対象と内的再構 ===
{{ru|Sergei Anatolyevich Starostin}} の語彙比較分析によれば、潜在的な類縁関係を持つ[[同根語]]が15%から20%の割合で対応関係が認められた。
*チュルクとモンゴル語: 20%
*チュルクとツングース語:18%
*チュルクと朝鮮語:17%,
*モンゴル語とツングース語:22%
*モンゴル語と朝鮮語:16%
*ツングース語と朝鮮語: 21%
Starostin は結論として、アルタイ諸語はインドーヨーロッパ語族やフィン・ウゴル語派といった他のユーラジア語族よりも古く、それが後世のアルタイ諸語同士における対応関係の少なさを説明する、とした。
2003年には Claus Schönig はアルタイ諸語は発生的・遺伝的 ({{en|genetic}}) 関係において共通する基礎語彙をもっていないとした。
Starostinを代表とする辞典 ''{{en|Etymological Dictionary of the Altaic Languages}}''<ref>3 vols.(Brill,2003)</ref>の編纂過程でのAnna V. Dybo、Oleg A. Mudrak、Ilya Gruntov、[[マーティン・ロベーツ]](Martine Robbeets)らの研究では2800個の[[同根語]]集団を抽出し、この同根語集団を基礎に音韻的対応関係、文法的対応関係、アルタイ祖語の[[内的再構]]を試みたが、他の研究者との間で議論が継続中である。
===子音対応表===
Starostinらの研究(2003)における子音対応表は、同研究におけるアルタイ祖語の内的構成を踏まえて作られた<ref>詳細や注釈は英語版wikipedia項目[[:en:Altaic Languages]]を参照</ref>。
{| class="wikitable"
|- align="center"
! アルタイ祖語
! チュルク祖語
! モンゴル祖語
! ツングース祖語
! 朝鮮・韓国祖語
! 日本祖語
|- align="center"
! {{Unicode|pʰ}}
| {{Unicode|0-¹, j-, p}}
| {{Unicode|h-}}²{{Unicode|, j-, -b-, -h-}}²{{Unicode|, -b}}
| {{Unicode|p}}
| {{Unicode|p}}
| {{Unicode|p}}
|- align="center"
! {{Unicode|tʰ}}
| {{Unicode|t-, d-}}³{{Unicode|, t}}
| {{Unicode|t, tʃ}}<sup>4</sup>{{Unicode|, -d}}
| {{Unicode|t}}
| {{Unicode|t}}
| {{Unicode|t}}
|- align="center"
! {{Unicode|kʰ}}
| {{Unicode|k}}
| {{Unicode|k-, -k-, -ɡ-<sup>5</sup>, -ɡ}}
| {{Unicode|x-, k, x}}
| {{Unicode|k, h}}
| {{Unicode|k}}
|- align="center"
! {{Unicode|p}}
| {{Unicode|b}}
| {{Unicode|b-}}<sup>6</sup>, {{Unicode|h-}}², {{Unicode|b}}
| {{Unicode|p-, b}}
| {{Unicode|p}}
| {{Unicode|p}}
|- align="center"
! {{Unicode|t}}
| {{Unicode|d-, t}}
| {{Unicode|t, tʃ}}<sup>4</sup>
| {{Unicode|d-, dʒ-}}<sup>7</sup>{{Unicode|, t}}
| {{Unicode|t, -r-}}
| {{Unicode|t-, d-, t}}
|- align="center"
! {{Unicode|k}}
| {{Unicode|k-, k, ɡ}}<sup>8</sup>
| {{Unicode|k-, ɡ}}
| {{Unicode|k-, ɡ-, ɡ}}
| {{Unicode|k-, -h-, -0-, -k}}
| {{Unicode|k}}
|- align="center"
! {{Unicode|b}}
| {{Unicode|b}}
| {{Unicode|b-, -h-, -b-<sup>9</sup>, -b}}
| {{Unicode|b}}
| {{Unicode|p, -b-}}
| {{Unicode|p-, w, b<sup>10</sup>, p<sup>11</sup>}}
|- align="center"
! {{Unicode|d}}
| {{Unicode|j-, d}}
| {{Unicode|d, dʒ}}<sup>4</sup>
| {{Unicode|d}}
| {{Unicode|t, -r-}}
| {{Unicode|d-, t-, t, j}}
|- align="center"
! {{Unicode|ɡ}}
| {{Unicode|ɡ}}
| {{Unicode|ɡ-, -h-, -ɡ-<sup>5</sup>, -ɡ}}
| {{Unicode|ɡ}}
| {{Unicode|k, -h-, -0-}}
| {{Unicode|k-, k, 0<sup>12</sup>}}
|- align="center"
! {{Unicode|tʃʰ}}
| {{Unicode|tʃ}}
| {{Unicode|tʃ}}
| {{Unicode|tʃ}}
| {{Unicode|tʃ}}
| {{Unicode|t}}
|- align="center"
! {{Unicode|tʃ}}
| {{Unicode|d-, tʃ}}
| {{Unicode|d-, dʒ-}}<sup>4</sup>{{Unicode|, tʃ}}
| {{Unicode|s-, -dʒ-, -s-}}
| {{Unicode|tʃ}}
| {{Unicode|t-, -s-}}
|- align="center"
! {{Unicode|dʒ}}
| {{Unicode|j}}
| {{Unicode|dʒ}}
| {{Unicode|dʒ}}
| {{Unicode|tʃ}}
| {{Unicode|d-, j}}
|- align="center"
! {{Unicode|s}}
| {{Unicode|s}}
| {{Unicode|s}}
| {{Unicode|s}}
| {{Unicode|s-, h-, s}}
| {{Unicode|s}}
|- align="center"
! {{Unicode|ʃ}}
| {{Unicode|s-, tʃ-<sup>13</sup>, s}}
| {{Unicode|s-, tʃ-<sup>13</sup>, s}}
| {{Unicode|ʃ}}
| {{Unicode|s}}
| {{Unicode|s}}
|- align="center"
! {{Unicode|z}}
| {{Unicode|j}}
| {{Unicode|s}}
| {{Unicode|s}}
| {{Unicode|s}}
| {{Unicode|s}}
|- align="center"
! {{Unicode|m}}
| {{Unicode|b-, -m-}}
| {{Unicode|m}}
| {{Unicode|m}}
| {{Unicode|m}}
| {{Unicode|m}}
|- align="center"
! {{Unicode|n}}
| {{Unicode|j-, -n-}}
| {{Unicode|n}}
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| {{Unicode|n}}
| {{Unicode|n}}
|- align="center"
! {{Unicode|nʲ}}
| {{Unicode|j-, nʲ}}
| {{Unicode|dʒ-, j, n}}
| {{Unicode|nʲ}}
| {{Unicode|n-, nʲ}}<sup>14</sup>
| {{Unicode|m-, n, m}}
|- align="center"
! {{Unicode|ŋ}}
| {{Unicode|0-, j-, ŋ}}
| {{Unicode|0-, j-, ɡ-<sup>15</sup>, n-<sup>16</sup>, ŋ, n, m, h}}
| {{Unicode|ŋ}}
| {{Unicode|n-, ŋ, 0}}
| {{Unicode|0-, n-, m-<sup>7</sup>, m, n}}
|- align="center"
! {{Unicode|r}}
| {{Unicode|r}}
| {{Unicode|r}}
| {{Unicode|r}}
| {{Unicode|r}}
| {{Unicode|r, t<sup>17</sup>}}
|- align="center"
! {{Unicode|rʲ}}
| {{Unicode|rʲ}}
| {{Unicode|r}}
| {{Unicode|r}}
| {{Unicode|r}}
| {{Unicode|r, t}}
|- align="center"
! {{Unicode|l}}
| {{Unicode|j-, l}}
| {{Unicode|n-, l-, l}}
| {{Unicode|l}}
| {{Unicode|n-, r}}
| {{Unicode|n-, r}}
|- align="center"
! {{Unicode|lʲ}}
| {{Unicode|j-, lʲ}}
| {{Unicode|d-, dʒ-}}<sup>4</sup>{{Unicode|, l}}
| {{Unicode|l}}
| {{Unicode|n-, r}}
| {{Unicode|n-, s}}
|- align="center"
! {{Unicode|j}}
| {{Unicode|j}}
| {{Unicode|j, h}}
| {{Unicode|j}}
| {{Unicode|j, 0}}
| {{Unicode|j, 0}}
|}
他、母音対応表、韻律対応表、形態対応表、同根語表、基礎語彙表も作られ、各表の対応関係を見ると、各諸語の対応関係が成立している。しかし、それはアルタイ語族の存在の証明とはいまだなっていない。
他、[[突厥文字]]の代表的史料であるモンゴルの8世紀の[[オルホン碑文]]の対照研究からも様々な研究がなされている。
{{main|突厥文字}}
==語彙対応比較表==
{|class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size: 85%"
|-
! colspan=15|語彙対応比較表
|-
![[印欧語族]]
! rowspan=2|[[チュルク語族]]
! [[モンゴル語族]]
! colspan=4|[[ツングース語族]]
! colspan=3|[[朝鮮語族]]
! colspan=2|[[扶余語族]]
! colspan=2|[[日琉語族]]
|-
! [[英語]]
! [[モンゴル語]]
! 全般
! [[女真語]]
! [[満洲語]]
! [[エヴェンキ語]]
! [[新羅語]]
! [[中期朝鮮語]]
! [[朝鮮語|現代朝鮮語]]
! [[高句麗語]]<br> pronun.
! [[百済語]]
! [[古代日本語]]
! [[現代日本語]]
|-
|ruler<br>(支配者)|| qaγan<br>kagan || kaγan(可汗) || *** || *** || han {{ManchuSibeUnicode|ᡥᠠᠨ}} ( "king, hong taiji-sure han") || ***|| kan<br><br>han<br><br>kɯm("[[Gojoseon]] languages")|| nim-kɯm || nim-kɯm <br> || kʌi / kai(皆)<br> kai-sɐ(皆次)<br><br> ka(加)[[扶余諸語]] || ka<br><br>kisi<br><br>nirim|| kami<sub>1</sub>(かみ 上)<br>[[wiktionary:君#Noun|ki<sub>1</sub>mi<sub>1</sub>]](きみ 君)|| kami(かみ 上)<br>kimi(きみ 君)
|-
|royal family<br>(王族)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***||kəsə-kan("king")<br>kəsɯl-han("king") || ***|| kɯ,kə,kɯn("big")|| kochu-ka<br>(古鄒加)|| kənkir-ji("king")|| kitsaki(きさき 妃)|| kisaki(きさき [[妃]])
|-
|owner<br>(あるじ)|| *** || *** || *** || *** ||i {{ManchuSibeUnicode|ᡳ}} (possessive)|| ***|| *** || (n)im ||(n)im || i<br>(伊) || *** || i(い)<br>usi(うし) || nushi(ぬし 主)
|-
|title of honor<br>(敬称の接辞)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***|| ~ ji / ki /di(支,智,至)|| ***|| ~ ji || ~ ji / ki<br>(支)|| ~ ji / ki(支)|| -ti/-ki || -shi(-し -氏)
|-
|excellent shooter<br>(優れた射手)|| *** || jəmə("noted bow")<br>Jobe-Mergen("hunting expert") || *** || *** || *** || ***|| *** || *** || ~mani("expert") || [[jumong]]<br>(朱蒙)<br>[[扶余諸語]] || *** || yɯmi/yɯ(ゆみ 弓)|| yumi(ゆみ [[弓]])
|-
|gold<br>(金)|| *** || *** || *** || *** || sele {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡝᠯᡝ}} ("iron")<br />šun {{ManchuSibeUnicode|ᡧᡠᠨ}} ("sun")|| sigūn("sun")||so("gold") || *** || sö("metal")<br> söh || so<br>(蘇)<br>so-miuən/so-mun<br>(蘇文)<br> || so || saɸi<sub>1</sub>(さび 錆) || sabi(さび [[錆]])
|-
|silver<br>(銀)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***|| *** || *** || sö("metal") || tʃiεt<br>(折)<br>tʃiεu-ʃιi/so-l<br>(召尸) || siri("metal") || ʦuʣu(すず 錫) || suzu(すず [[錫]])
|-
|lead<br>(鉛)|| *** || *** || *** || *** ||yaru-{{ManchuSibeUnicode|ᠶᠠᡵᡠᠮᠪᡳ}}(to lead)|| nalban("tin")||*** || nam{{IPA|ɔ}}r || nap/납 || nəi-miuət<br>namer<ref name="genzai">板橋義三,[[アレクサンダー・ヴォヴィン]],[[長田俊樹]](2003)日本語系統論の現在</ref> <br> (乃勿) || *** || namari(なまり 鉛)<ref name="genzai" /> || namari(なまり [[鉛]])
|-
|recover territory<br>(領土の回復)|| *** || *** || *** || *** || tabu- {{ManchuSibeUnicode|ᡨᠠᠪᡠᠮᠪᡳ}} (to divide,to tear) || ***|| *** || *** || taɕi ("again")<br/> tø- ("re-")<br>muli(tsi)- ("repel")<br>mol-("expel")|| ta mul<br>(多勿) || *** || tamu(たむ 手向)<br>tamuk(たむく 手向く) || temuka-(てむか- 手向か-)
|-
|north(back)<br>(北、転化して後方)|| arka("back") || hoina ([[ダウール語]] huain{{IPA|ə}})<br>utara<br>umara || xama || *** || juleri {{ManchuSibeUnicode|ᠵᡠᠯᡝᡵᡳ}} ("front")<br>amargi {{ManchuSibeUnicode|ᠠᠮᠠᡵᡤᡳ}} ("north")<br>amasi {{ManchuSibeUnicode|ᠠᠮᠠᠰᡳ}} ("back") || ***|| *** || tuih || tui <br> ("back, behind") || je<br>(提)<br> jwat<br>(絶) <br>ʣo-li<br>(助利)<br>椽那部,提那部,絶奴部,後部 || *** || tʃe>se(せ 背) || se(せ 背)
|-
|south(front)<br>(南、転化して前方)||kuzey,Ön(front)|| *** || *** || *** ||julergi {{ManchuSibeUnicode|ᠵᡠᠯᡝᡵᡤᡳ}} ("south")|| ***||arihi|| *** || kət("surface, look")<br>arp(front)|| kuan<ref name="genzai" /><br>(灌)<br>(灌奴部)|| *** || kasira(かしら 頭)<ref name="genzai" /> <br>kaɸo(かほ 顏)<br>kan-("pre-") || kashira(かしら 頭)<br>kao(かお 顔)<br>kana-(かな- 叶-)
|-
|east(left)<br>(東、転化して左)|| doğu,sol(left)|| źeü ,<br> źegün || źun || *** || dergi {{ManchuSibeUnicode|ᡩᡝᡵᡤᡳ}} ("east") || jun<br>jəgin("left")|| *** || *** || wen("left")<br> sae("east") || źwən/sun<br>(順) <br> (順奴部) || *** || a-dʒuma/a-duma(あづま 東) || azuma(あずま 東)
|-
|west(right)<br>(西、転化して右)||batı|| ürüne ,<br> barun || xangid || *** || wargi {{ManchuSibeUnicode|ᠸᠠᡵᡤᡳ}} ("west") || anŋū(right)|| *** || *** || or{{IPA|ɯ}}n("right")<br>par{{IPA|ɯ}}n("right") || yən<br> (涓) <br> (涓奴部) || *** || ini-si(いにし 去にし) || nishi(にし 西)
|-
|stone<br>(石)|| taš || cila{{IPA|ɣ}}u(n) (Classical) <br /> culuu ([[ハルハ方言]]) <br /> šuluu(n) ([[ブリヤート語]]) || *** || *** || tahan {{ManchuSibeUnicode|ᡨᠠᡥᠠᠨ}} ("steppingstones") || ***|| *** || tōlh || tōl <br> tok(dialect) || *** || turak || isi(いし 石) || ishi(いし 石)
|-
|rock, cliff<br>(岩、崖)|| *** || *** || pax(石・崖) <br> (Nivkh) || hurhe || wehe {{ManchuSibeUnicode|ᠸᡝᡥᡝ}} ("stone")|| ***||*** || pahoy|| pawi|| pa-・ιəi/pua-・ιəi<br>pàI/pa'i<ref name="genzai" /><br>(巴衣,波衣)<br>pua-ɣei/paxe<br> (波兮) || *** ||[[wiktionary:岩#Noun|i{{IPA|ɸ}}a]] / [[wiktionary:巌#Noun|i{{IPA|ɸ}}a{{IPA|ɸ}}o]](いは/いはほ 岩/巖) <ref name="genzai" /> <br>mama("cliff")|| iwa / iwao (いわ/いわお 岩/巌)
|-
|land<br>(土地)|| *** || ńurū || na ("land") || na || na {{ManchuSibeUnicode|ᠨᠠ}} ("land") || ***||nu¨~nu¨ri/nε <br> bəl|| *** || bəl <br><br> nuri("world") || no <br> 内/奴~弩/悩<br>nori<br>奴閭 || no <br> buri || nu/no(ぬ/の 野)<br>na(な 奴) || no(の 野)
|-
|nation<br>(国)|| ili || ulus(<*hulu-s<* bulu-s) || guru-n(< * buru-n) || guru-n(< * buru-n) || gurun {{ManchuSibeUnicode|ᡤᡠᡵᡠᠨ}} ("nation")|| ***|| *** ||narah|| nara || (nua) > na <ref name="genzai" /> <br> no <br> 內,那,奴,惱 || *** || nu/na(ぬ/な 奴)<ref name="genzai" /> || ***
|-
|walled city, fort, castle<br>(城塞都市、砦、城)|| qol-γan || küri-yen 'fence, hedge, device',/qol-γan || kur ~kur ~kuran || *** || kuren {{ManchuSibeUnicode|ᡴᡠᡵᡝᠨ}} ("castle, citadl") <br>hecen {{ManchuSibeUnicode|ᡥᡝᠴᡝᠨ}} ("city")<br>golo {{ManchuSibeUnicode|ᡤᠣᠯᠣ}}(province) || ***|| ***|| kolh || ko{{IPA|ɯ}}l <br> gol || kol<ref name="genzai" /> / hol <br> (忽)<br> kuru / kolo <br>(溝婁,屈, 骨) || *** || ko{{IPA|ɸ}}ori(こほり 郡)<br> ki<sub>2</sub>(き 城)<ref name="genzai" /> || kōri(こおり 郡)<br>-ki(-き 城)
|-
|capital's names<br>(首都)|| cholpon("Venus") || čolbaŋ("Venus")|| *** || ***|| *** || *** || sərabəl <br> səbəl ||shəbɯl|| seoul <br> saet-piəl("Venus") || cholbon(卒本)<br> solbon(率本)<br>puru-na(不耐,平壤)|| soburi || *** || ***
|-
|middle<br>(中央)|| *** || *** || *** || *** ||dulimbai {{ManchuSibeUnicode|ᡩᡠᠯᡳᠮᠪᠠᡳ}} ("middle")|| *** || ka[[有声両唇摩擦音|β]]{{IPA|ɔ}}n<br>가ㅸㄴ|| kaun(-de)<br /> -gaus/-aus("half") || kab{{IPA|ə}}l <br>加火 || *** || *** || kapi>kaɸi(かひ)<br>kapa>kaɸa(かは 側) || kai(かい)<br>kawa(かわ 側)
|-
|so big, best<br>(巨大な、最高の)|| *** || *** || maŋga ("strong") || maŋga || mangga {{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠩᡤᠠ}} ("difficult; tough, strong; somewhat more, somewhat better") || maŋa ("strong")||*** ||*** || mal-말 <br> mat 맏("first;eldest;oldest") || māk/mo <br>(莫)<br> ma<br>(馬)<br>makhara<br>(莫何邏)|| *** || ma-(ま 眞)<br>kara(から "birth, parentage")<br>makari(まかり "genuine")<br> || ma-(ま 真)<br>gara(から 柄)<br>makari(まかり)
|-
|tribal elder<br>(長老)|| *** || *** || *** || *** || mahala {{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᡥᠠᠯᠠ}} ("hat, cap")<br>maktara- {{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᡴᡨᠠᡵᠠᠮᠪᡳ}}("to prise") || ***||kak-kan<br><br>kan-ki/kanji<br><br>~ji("title of honor") || *** || hara("grand")<br>~ji("title of honor")<br>har-abə-ji("grand father")<br>~achi("legation staff's title")|| makha-ha-raji<br>(莫何何羅支/太大兄)<br>~ji/ki("title of honor")<br>兄 laji / haraji("patriarch")||*** || ma-(ま-)<br>kakar-(かか- "devolve on, to depend")<br>-dati(-だち "patriarch")<br>ukara(うから "tribe")<br>-ti(-ち "title of honor")<br>[[muraji]](むらじ 連)||ma-(ま-)<br>kakar-(かか-)<br>-tachi/-dachi(-たち/-だち -達)<br>-kara(-から)
|-
|leader, chief<br>(指導者、長)|| baš(head) || *** || *** || *** || *** || ***|| Marip-gan("king")<br> Mae-kɯm("king")|| maruha <br> mari("head") || məri("head") || makri-key/makli-ji/mori-ji<br>(莫離支)||*** || makari(まかり "true,genuine") || makari(まかり)
|-
|summit<br>(峰)|| *** || *** || *** || *** || soni hon {{ManchuSibeUnicode|ᠰᠣᠨᡳ ᡥᠣᠨ}} ("singular, odd")<br>sukdun {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡠᡴᡩᡠᠨ}} ("air") || ***|| *** || sunɯrk || {{IPA|tɕəŋ}}suri ("top of the head") || süni <br>(首泥) || *** || sone<sub>1</sub>(そね "continuous mountain ridge")|| one(おね [[尾根]])
|-
|mountain<br>(山)|| taγ("mountain") || a{{IPA|ɣ}}ula(n) (Classical Mongolian)<br /> ūl ([[ハルハ方言]])<br /> ūla ([[ブリヤート語]])<br /> aul{{IPA|ə}} ([[ダウール語]]) || *** || aliin || alin {{ManchuSibeUnicode|ᠠᠯᡳᠨ}} ("mountain")<br>tala {{ManchuSibeUnicode|ᡨᠠᠯᠠ}} ("field")<br>mulu {{ManchuSibeUnicode|ᠮᡠᠯᡠ}} ("ridge of mountain") || ***|| 督 t{{IPA|ɔ}}r{{IPA|ɔ}}(山),<br>tara(多禮,多羅)<br>("land") || moyh(山)|| me <br> tang,tal("land")<br> tuk("hill")<br>orɯm (Jeju dialect)|| tat / tar <br> (達)<br> ma<br>(馬)<br>|| *** || take<sub>2</sub>(たけ 嶽)<br>mure(むれ "mountain")<br>tara(たら)|| take(たけ 岳)<br>yama(やま 山)
|-
|high mountain<br>(高山)|| *** || *** || *** || *** || dabagan {{ManchuSibeUnicode|ᡩᠠᠪᠠᡤᠠᠨ}} ("mountain peaks")|| ***|| *** || *** || *** || {{IPA|ɣ}}apma<br>(盒馬)||*** || jama(やま 山) || take(たけ 岳)<br>yama(やま 山)
|-
|soil<br>(土壌)|| saz || *** || *** || *** ||yonggan {{ManchuSibeUnicode|ᠶᠣᠩᡤᠠᠨ}} ("sand")|| *** || ***|| *** || h{{IPA|ɨ}}rk || sirk/sik<ref>Lee, Ki moon (1968, 1969)</ref><br>(息) || *** || su(す 洲)<br>situ("dampness") || su(す [[洲]])
|-
|road<br>(道)|| yol("road") || tsam || *** || *** || jugūn {{ManchuSibeUnicode|ᠵᡠᡤᡡᠨ}} ("road") || ***|| ***|| kirh || kil || tsir<br>(助乙) ||*** || ti("road") || michi (みち 道)
|-
|knot, joint<br>(結び目)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***|| *** || m{{IPA|ʌ}}d{{IPA|ɨ}}i || madi || muči<ref>Park, Byong chae (1968)</ref>/moti<ref>Ryu, Ryeol (1983)</ref><br>(蕪子) || *** || pusi(ふし 節)<br>mutsu-(むす- 結-) || fushi/bushi(ふし/ぶし 節)<br>musu-(むす- 結-)
|-
|tree, wood<br>(木、材木)|| ï("forest")/ïγac("tree") || *** || *** || *** || *** || ***||*** || 斤:nal(訓)/kɯn || kɯru ("stump; unit for counting trees")<br>namu 나무 ("tree; wood") || kil<ref name="genzai" /><br>k{{IPA|ιə}}nul,naro?<br>(斤乙)<br>ɣei/ɣit<br>(盻/肹)<ref>Murayama Shichirō 1962</ref> || *** || ki<sub>2</sub>/ ke<sub>2</sub>/ko<sub>2</sub>(き/け/こ 木)<ref name="genzai" /> <br>ko<sub>2</sub>nara(こなら 小楢) || ki(き 木)<br>konara(こなら [[小楢]])
|-
|willow tree<br>(柳)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***||*** || *** || *** || yoɯɪn<ref name="genzai" /><br>(要隠)||***|| yana-ki<sub>2</sub>(やなき 揚柳)<ref name="genzai" /> || yana-gi(やなぎ [[ヤナギ|柳]])
|-
|bamboo<br>(竹)|| *** || *** || *** || niru("arrow") || niru {{ManchuSibeUnicode|ᠨᡳᡵᡠ}} ("arrow") || ***||*** || *** || *** || na<ref name="genzai" /><br>(奈)||***|| no<sub>2</sub>(の bamboo arrow)<ref name="genzai" /><br>si-no(しの 篠) || no(の)<br>shino(しの [[篠]])
|-
|pine tree<br>(松)|| *** || *** || *** || *** || bahiya {{ManchuSibeUnicode|ᠪᠠᡥᡳᠶᠠ}} ("pine cone") || ***||*** || sol(松)/pos(樺) || sol,sonamu || busi<ref name="genzai" />/pιu-sie<br>(夫斯)<br>pιu-so <br> (扶蘇) ||bu(扶,負)<br>so(蘇)|| matu(まつ 松)<ref name="genzai" /> <br>pusi(ふし 節)<ref name="genzai" /> || matsu(まつ [[松]])<br>fushi(ふし 節)
|-
|chestnut<br>(栗、栃)|| *** || *** || *** || sisi("nut") || sisi {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡳᠰᡳ}} ("hazelnuts")|| ***|| *** || *** || *** || toŋsje/tosi<br>(冬斯)<ref name="名前なし-1">Shichiro Murayama 1962</ref> || *** || toti(とち 栃) || tochi(とち [[栃]])
|-
|peach<br>(桃)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***|| *** || poksi{{IPA|ə}}ŋ<br>(桃) || poksuŋ-a, poksa (桃) || pasi<br>(波尸) || *** || *** || ***
|-
|garlic<br>(にんにく)|| *** || maŋgirsun(野蒜) || *** || *** || maca {{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠴᠠ}} ("garlic chives") || ***|| *** || manʌl<br>(蒜) || manɯl || mier<ref name="genzai" />/mair/marɔ<br>(買尸) || *** || mi<sub>1</sub>ra (みら 彌良)<ref name="genzai" /> || nira (にら [[韮]])
|-
|grain<br>(穀粒)|| *** || *** || *** || mirɣei("crop") || muji {{ManchuSibeUnicode|ᠮᡠᠵᡳ}} ("barley") || ***||*** || nad ("grain") || nad ("grain")<br>nuy("grains of unhulled rice amongst hulled rice")<br> narak("rice plant; unhulled rice; grain of rice") || nabar<ref name="genzai" /> /niəŋ-biuʌt <br> 仍伐|| *** || nape<sub>2</sub>>naɸe<sub>2</sub>(なへ 苗)<ref name="名前なし-2">Shinmura Izuru Memorial Foundation(2002)Kōjien</ref><br>ina-ɸo(いなほ 稻穂)<br />mi<sub>2</sub>(み 實)<br>mame(まめ 豆) || nae(なえ [[苗]])<br>inaho(いなほ [[稲穂]])<br>mi(み 実)<br>mame(まめ [[豆]])
|-
|root<br>(根)|| *** || *** || tʃamγ(根株)<br> ([[ニブフ語]]) || da || da {{ManchuSibeUnicode|ᡩᠠ}}("root") || ***|| pul?(根) || pulhuy(根) || ppuri || tsʌm<ref name="genzai" /> (斬)|| *** || *** || ne (ね 根)
|-
|plow<br>(鍬)|| kerci-("to cut, to dig trenches") || *** || gerbe-("break, snap")<br> (Nanai) || *** ||halhan {{ManchuSibeUnicode|ᡥᠠᠯᡥᠠᠨ}} ("plow, hoe") || gerbe-("break, snap")||*** || karai(木[杴]・鍬, kal-(plow)<br>kal(刀) || *** || ka-ʃιi/kar<ref name="genzai" /><br>(加尸) || *** || kar-(か- 刈-)<ref name="genzai" /> <br>kuɸa(くは 鍬) || kar-(か- 刈-)<br>kuwa(くわ [[鍬]])
|-
|ax<br>(斧)|| *** || *** || *** || *** || anjikū {{ManchuSibeUnicode|ᠠᠨᠵᡳᡴᡡ}} ("hatchet") || ***||*** || *odzg{{IPA|ɔ}}y<br />(烏子蓋) ("ax")<br> n{{IPA|ɔ}}lh ("blade") || nal ("blade")<br />nas ("sickle; scythe")<br />tōkki ("ax")|| ・ιo-sie, nərə-si<br>(於斯) || *** || wono<sub>2</sub>(をの 斧) || ono(おの [[斧]])
|-
|basin<br>(盆地)|| *** || *** || *** || *** || sara {{ManchuSibeUnicode|ᠰᠠᡵᠠ}} ("cap,lid,umbrella") || ***||*** || sora (盆) ("basin") || *** || s{{IPA|ɐ}}r/s{{IPA|ʌ}}l (西) || *** || sara(さら 皿) || sara(さら [[皿]])
|-
|water<br>(水)|| *** || mören(江, 海) <br> müren (沐漣) /moron (木連) (Khitanese) || mu || mu 沒 || muke {{ManchuSibeUnicode|ᠮᡠᡴᡝ}}("water") || mū("water")||*** || m{{IPA|ɨ}}l || mul || mi<ref name="genzai" /> <br>(米)<br> mie<br>(買)<br>moro<br>(模盧) || mi(彌) || mi<sub>1</sub>/mi<sub>1</sub>du/mi<sub>1</sub>n-(み/みづ/み- 水)<ref name="genzai" /> || mizu(みず [[水]])
|-
|spring water<br>(泉)| bul-a-q/bul-a-γ("fountain, spring") || {{IPA|ɯ}}s (水"water") || eri~erri("small river")<br> (Nivkh) || ula("river") || šeri {{ManchuSibeUnicode|ᡧᡝᡵᡳ}} ("spring") || ***|| {{IPA|ɯ}}l(乙) || umɯl ("well") || umul ("well") || ə{{IPA|ɯ}}l/uir<ref name="genzai" /><br>(於乙):井 <br>iri <br>(伊梨):泉|| *** || wi (ゐ 井)<br>ura(うら 浦) || i(い 井)<br>ura(うら 浦)
|-
|dike<br>(堤防)|| töpü || *** || *** || *** || do- {{ManchuSibeUnicode|ᡩᠣᠮᠪᡳ}} ("to stop") || ***|| *** || *** || əntək<br>tuk(堤) || tu<ref name="genzai" /> <br>(吐)|| *** || take<sub>2</sub>(たけ 嶽)<br>tutumi(つつみ 堤)<ref name="genzai" /><br>tum-(つ- 積-)|| take(たけ 岳)<br>tsutsumi(つつみ 堤)<br>tsum-(つ- 積-)
|-
|pond<br>(池)|| *** || namug ("marsh, swamp") || namu("sea, ocean; lake") || *** || mūsa {{ManchuSibeUnicode|ᠮᡡᠰᠠ}} ("swamp") || ***||*** || ***|| ? n{{IPA|ɛ}}nmul ("stream") <br> mos ("pond")<br> nɯp{{IPA|ʰ}} 늪 ("swamp")|| nami<ref name="genzai" /> / naymi<br>(内米)|| mi(r)ji<br>(蜜地,彌知) || nami<sub>1</sub> (なみ 波)<ref name="genzai" /><br>nada(なだ 灘) || nami(なみ [[波]])<br>nada(なだ [[灘]])
|-
|branch<br><br>(枝)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***|| *** || kar{{IPA|ʌ}}i (派) || kal{{IPA|ɛ}} (派) || kai (改) || *** || *** || ***
|-
|river<br>(川)|| köl("lake") || *** || *** || *** || bira {{ManchuSibeUnicode|ᠪᡳᡵᠠ}} ("river") || ***||*** || k{{IPA|ɔ}}r{{IPA|ɔ}}m <br /> nāyh || karam <br>n{{IPA|ɛː}} || kur<br>(屈)<br> na<br>(那)|| nari(那利)<br> 久麻那利 || kaɸa(かは 川) || kawa(かわ [[川]])
|-
|sea<br>(海)|| *** || *** || *** || namu ||mederi {{ManchuSibeUnicode|ᠮᡝᡩᡝᡵᡳ}} ("ocean") || ***||波珍 pad{{IPA|ɔ}}l || padah~parʌl || pada(바다) || patan<ref name="genzai" />/padal/padan <br>(波旦)<br>pa-sia<br>(波且) || *** || wata([[海|わた]])<ref name="genzai" /> || wada-tsu-mi([[ワタツミ|わだつみ]] 綿津見/少童神/海神)
|-
|cow<br>(牛)|| *** || *** || *** || *** || eje {{ManchuSibeUnicode|ᡝᠵᡝ}} ("castrated cow, ox"),<br>ihan {{MongolUnicode|ᡳᡥᠠᠨ}}|| ***||*** || ʃyo/쇼 || so || {{IPA|ʃ}}ιəu/*sü <br> (首)<ref name="genzai" /> || *** || usi(うし 牛)<ref name="genzai" /> || ushi(うし 牛)
|-
|pig<br>(豚)|| *doŋuz > domuz || *** || *** || *** || ulgiyan {{ManchuSibeUnicode|ᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ}} ("pig")<br>ulha {{ManchuSibeUnicode|ᡠᠯᡥᠠ}} ("domestic animal, livestocks") || ***|| *** || tot{{IPA|ʰ}} 돝 || tw{{IPA|ɛː}}ji, toyaji(dialect), tochi(dialect) ||u<ref name="genzai" /><br>烏<br>o-sie<br>(烏斯)<br>o-s^i¨{{IPA|ʌ}}ŋ <br>(烏生) || *{{IPA|tɕ}}o-n{{IPA|ʲ}}i <br>(猪耳) || usi(うし 牛)
wi (ゐ 亥)<ref name="genzai" />
| usi(うし 牛))<br>i(い [[イノシシ|亥]])
|-
|water deer<br>(鹿、特に[[キバノロ]])|| *** || *** || *** || *** || kandahan {{ManchuSibeUnicode|ᡴᠠᠨᡩᠠᡥᠠᠨ}} ("a kind of deer") || ***||*** || ***|| korani("Manchurian elk")<br />kōr{{IPA|ɛŋ}}i, kor{{IPA|ɛ}}i ([[Gyeongsang dialect]]) || kosya<ref name="genzai" /> <br> ([[wiktionary:古斯也#Noun|古斯也]]) || *** || ka(か 鹿) || shika(しか [[シカ|鹿]])
|-
|horse<br>(馬)|| *** || mori~muri || mori <br> (Nanai) || *** || morin {{ManchuSibeUnicode|ᠮᠣᡵᡳᠨ}}("horse")|| ***||*** || mʌl/(馬) || mal || mielo/meru<ref name="genzai" /><br>(滅) || *** || uma(うま 馬)<ref name="genzai" /> || uma(うま 馬)
|-
|swan<br>(白鳥)|| qoγu || *** || *** || hoiholo("streptopelia") || hoiho {{ManchuSibeUnicode|ᡥᠣᡳᡥᠣ}}<br>gaha {{ManchuSibeUnicode|ᡤᠠᡥᠠ}} ("bird, raven")<br>gasha {{ManchuSibeUnicode|ᡤᠠᠰᡥᠠ}} ("big bird") || ***||*** || kohay<br />kon || koni || koɣoi<ref name="genzai" /> <br> (古衣) || *** || kuguɸi<sub>1</sub>(くぐひ [[ハクチョウ|鵠]])<ref name="genzai" /> || ***
|-
|bear<br>(熊)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***|| *** || kom || kōm || komok<ref name="genzai" /> <br>(功木)|| koma || kuma(くま 熊)<ref name="genzai" /> || kuma(くま [[熊]])
|-
|owl<br>(フクロウ)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***|| *** || *** || *** || ʦu<ref name="genzai" /><br>(租) || *** || tuku(つく 木菟)<ref name="名前なし-2"/><br>ʦu(す 巢)|| tuku(つく [[ミミズク|木菟]])<ref name="名前なし-2"/><br>su(す 巣)
|-
|rabbit<br>(ウサギ)|| tawïsγan || *** || *** || gurmahai("rabbit") || gulmahūn {{ManchuSibeUnicode|ᡤᡠᠯᠮᠠᡥᡡᠨ}}("rabbit") || ***|| *** || thos-gi || tho-ggi || u-si-ɣam<ref name="genzai" />/o-sie-həm<br>(烏斯含)|| *** || wosagi<sub>1</sub>/usagi<sub>1</sub>(をさぎ/うさぎ 兎)<ref name="genzai" /> || usagi(うさぎ [[兎]])<ref name="名前なし-2"/>
|-
|weasel<br>(イタチ)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***|| *** || yezï ~ yez{{IPA|ɣ}}-<br />("fox") || yəu ("fox")<br> yəsi(dialect) || yia-ʃιi/yar<ref name="genzai" /> <br> (也尸) || *** || itatʃi(いたち 鼬)<ref name="名前なし-2"/> || itachi(いたち [[鼬]])
|-
|horn<br>(角)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***||*** || *** || bbul || tsιi-nyiak<ref name="genzai" /><br>(次若)|| *** || tuno(つの 角)<ref name="genzai" /> || tsuno(つの [[角]])
|-
|wing<br>(羽)|| *älig > el ("hand") || *** || *** || *** || ***|| ***||*** || *** || nar{{IPA|ɛ}}, nalg{{IPA|ɛ}} || əji, nərəgi<br>(於支) || *** || atʃi(あし 脚) || ashi(あし [[脚]])
|-
|foot<br>(足)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***||*** ||*** || tari || γwi/kwai<ref name="名前なし-1"/> <br>tor<br>(廻)|| *** || kuw-(く- 蹴-)<ref name="名前なし-2"/><br>ko-yu(こゆ 越ゆ)<ref name="名前なし-2"/> || ker-(け- 蹴-)<br>koe-(こえ- 越え-)
|-
|mouth<br>(口)|| *** || qurc(Khalka)("skewer, spit" 串) || *** || *** ||angga {{ManchuSibeUnicode|ᠠᠩᡤᠠ}}("mouth") || ***||*** || k{{IPA|ʌ}}l-(曰: "to say")<br> koc ("skewer, spit; promontory" 串) || kulrε ([[Jeju dialect]]) <br> kul (South Jeolla dialect)<br>kar-(曰: "to say")|| huət-ts‘ii/kuci<ref name="genzai" /><br>kútsi/kutui<br>kolci<br>(忽次)<br>ko-ts‘ii<br>(古次)<br>kuan/kuen<br>(串) || *** || kutu~kuti < *kutui(くち 口)<ref name="genzai" /><br>ko<sub>2</sub>to<sub>2</sub>(こと 言) || kuchi(くち [[口]])<br>koto(こと 言)
|-
|hair<br>(毛)|| *** || *** || *** || *** ||funiyehe {{ManchuSibeUnicode|ᡶᡠᠨᡳᠶᡝᡥᡝ}} ("hair") || *** ||***|| *** || təl (毛) || təl(毛乙)>tiəl(鐵)<br> || *** || tar-u("trail, hang out") || tare-
|-
|decay<br>(朽ちる)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***||***|| korh-(“decay”) || korh-(“decay”)<br>korm-(“fester”) || kut-si/kur<br>骨尸 || *** || kut-(くち- 朽ち-)<br>kutsar-(くさ- 腐-) || kuti-(くち- 朽ち-)<br>kusar-(くさ- 腐-)
|-
|tooth<br>(歯)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***||*** || ***|| i ("tooth") || kʌi-ʃιi<br> (皆尸) || *** || ki<sub>1</sub> (き 牙)<ref name="genzai" /> || kiba(きば [[牙]])
|-
|heart<br>(心臓)|| göğüs || kökün || *** || *** || huhun {{ManchuSibeUnicode|ᡥᡠᡥᡠᠨ}} ("breast, bosom") || ***|| *** || *** || kogäŋi ("core") / kas{{IPA|ʰ}}{{IPA|ɯ}}m ("chest, heart")|| kor<ref name="genzai" />/kasi/kιo-sιi<br>(居尸) || *** || ko<sub>2</sub>ko<sub>2</sub>ro<sub>2</sub><ref name="genzai" />/kokori [[日本語の方言#上代東国方言|上代東国方言]] (こころ/ここり 心) || kokoro(こころ [[心]])
|-
|transverse<br>(横)|| *** || *** || *** || *** ||hetu {{ManchuSibeUnicode|ᡥᡝᡨᡠ}}("transverve")|| ***||*** || əs/엇 || yəp || ・ιo-sie/*es <br> (於斯) || *** || yo<sub>2</sub>ko<sub>2</sub>(よこ 横)<br>yo<sub>2</sub>k-(よけ- 避け-) || yoko(よこ 横)<br>yoker-(よけ- 避け-)
|-
|valley<br>(谷)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***||*** || tʌn~tuʌn("valley")<br>təŋg{{IPA|ɛ}}("valley")|| *** || tan<ref name="genzai" />/tuən/t‘ən <br> (旦,頓,呑) || *** || tani(たに 谷)<ref name="genzai" /> || tani(たに [[谷]])
|-
|side edge<br>(角)|| kera || *** || *** || *** || huwesi{{ManchuSibeUnicode|ᡥᡠᠸᡝᠰᡳ}} ("cutter, small blade") || ***||*** || kʌs || kā || ka-(・a) <br> (加阿) || *** || kado<sub>1</sub>(かど 角) || kado(かど [[角]])
|-
|cap<br>(冠)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***|| *** || kosgal<br>(冠 : "cap")<br>kat<br>(笠, 帽, 冠 : "hat, cap") || kokal<br>(弁 : "conical cap")<br>[[カッ|kat]] (黑笠) || kwot-su (骨蘇)|| *** || katsa(かさ 笠) || kasa(かさ [[笠]])
|-
|ball<br>(玉)|| *** || {{IPA|ə}}nduh{{IPA|ə}} ([[ダウール語]]) || (x)elū- || *** || umhan {{ManchuSibeUnicode|ᡠᠮᡥᠠᠨ}} ("egg") <br>muheren {{ManchuSibeUnicode|ᠮᡠᡥᡝᡵᡝᠨ}} ("circle")
muheliyen {{ManchuSibeUnicode|ᠮᡠᡥᡝᠯᡳᠶᡝᠨ}}("circle")
| elū||*** || *** || al || an{{IPA|ʃ}}i<br>(安市)<br>an{{IPA|ʒ}}ip<br>(安十)|| *** || *** || maru (まる 丸)
|-
|layer<br>(層、重ね)|| *** || *** || *** || *** || fe {{ManchuSibeUnicode|ᡶᡝ}} ("ex-, past, former") || ***||*** || pʌl || *** || biar<ref name="genzai" />/bjet <br> (別) || *** || pe<sub>1</sub>>ɸe<sub>1</sub>("layer")<ref name="genzai" /> || ***
|-
|neighbor<br>(隣人)|| *** || *** || *** || *** || imiya- {{ManchuSibeUnicode|ᡳᠮᡳᠶᠠᠮᠪᡳ}} ("to gather together") || ***||*** || ib{{IPA|ɯ}}t (隣)|| iut (隣)|| ιi-bιuʌt/iboc<ref name="genzai" /> <br> (伊伐)|| *** || ipa>ipe<sub>1</sub>>iɸe<sub>1</sub>(いへ 家)<ref name="名前なし-2"/>|| ie(いえ 家)
|-
|frost<br>(霜)|| *** || *** || *** || *** || sohin {{ManchuSibeUnicode|ᠰᠣᡥᡳᠨ}} ("ice")<br>juhe {{ManchuSibeUnicode|ᠵᡠᡥᡝ}}("ice") || ***||*** || səri || səri || sat <br> (薩)<br> sat-ɣan/sal-han<br>(薩寒)|| *** || sim-("to frost up")<br>sayi/seye<br>zayi/zaye<br>("icicle, ice") || shimo (しも 霜)
|-
|lush<br>(植物が繁茂している様子)|| *** || *** || *** || *** || kūkə("blue-green,cyan blue") || ***||*** || ***|| kəch-(蕪)<br />kis- ("lush, overgrown with weeds, overrun with plants") || ka-tʃιe <br> (加支) || *** || kati(かち 褐)|| kachi(かち 褐)
|-
|group, tribe<br>(部族)|| uruk ("clan") || ulus ("people, nation, tribe, [[horde]]") || *** || *** || urse {{ManchuSibeUnicode|ᡠᡵᠰᡝ}} ("people")<br>uce {{ManchuSibeUnicode|ᡠᠴᡝ}} ("entrance") || ***||*** || ul("relations; relatives; kinsfolk; clan")<br />uri ("we, us; the Korean people, Koreans") || uri || ul <br>(于尸)|| *** || uti(うち)<br>udi (うぢ 氏) || uchi(うち)<br>uji(うじ [[氏]])
|-
|mother<br>(母)|| Ana || *** || *** || eniyen ||eme {{ManchuSibeUnicode|ᡝᠮᡝ}}(mother)|| ***|| *** ||어ㅿㅣ<br>əzi|| əmi<br>ame,ema(north dialect)|| ya chi <br> (也次)<br>ya pa<br>(也派)<ref>Murayama Shichirō (1962)</ref>|| *** || [[無声両唇摩擦音|{{IPA|ɸ}}]]a{{IPA|ɸ}}a(はは 母)<br>oya(おや 親)<br> || haha(はは [[母]])<br>oya(おや [[親]])
|-
|baby<br>(赤ん坊)|| koto("son"匈奴語)<br />kız ("girl; daughter")<br>O'gul || *** || *** || omo || jui {{ManchuSibeUnicode|ᠵᡠᡳ}} ("kid") || kuŋa ("child")|| *** || *** || kkoma(童)<br>kkoma-(小-) || gu(仇)<ref name="genzai" /><br>gιəu-sie / kus / kyus<br>(仇斯)|| *** || ko<sub>1</sub>(こ 子)<ref name="genzai" /> || ko(こ 子)
|-
|writing literature<br>(文章)|| *** || *** || *** || herse || hergen {{ManchuSibeUnicode|ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ}} (“script”) || ***|| *** || kɯl || kɯl || kιən-ʃιi/kɯl<br>(斤尸) || *** || kak-(か- 書-)<br>kuk-(くく- 括-)<br>*kuru-(くる-) || kak-(か- 書-)<br>kukur-(くく- 括-)<br>kurum-(くる-)
|-
|jade<br>(ヒスイ)|| *** || gas || *** || γun || *** || ***|| *** || kusɯl ("jewel") || kus{{IPA|ɯ}}l || kusi<ref name="genzai" /> <br>ko-{{IPA|ʃ}}ie<br>(古斯)|| *** || kusiro<sub>2</sub>("bracelet")<ref name="genzai" /> || kushiro<br>
|-
|cool wind, clear wind<br>(冷たい風)|| *** || *** || *** || *** || simeli {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡳᠮᡝᠯᡳ}} ("cool") || ***|| *** ||san{{IPA|ʌ}}l("cool")<br>-i("-wind")|| s{{IPA|ə}}n{{IPA|ɯ}}l("cool") || ʃa-nιet-ιi<br>(沙熱伊) || *** || same-(さめ- 冷め-) || same-(さめ- 冷め-)
|-
|hole<br>(穴)|| *** || *** || *** || *** || dunggu {{ManchuSibeUnicode|ᡩᡠᠩᡤᡠ}} ("cave")|| ***||*** || s{{IPA|ʌ}}zi ("interval, gap") || sai<br>("interval, gap")<br>t’ul-(透)<br>t{{IPA|ɯ}}m(隙孔) || dzei-ts‘ii/tsei-ts‘ii/cic<ref name="genzai" /> <br> (斉次/濟次) || *** || tʃuk-(すく 透く)<br> tʃuki(すき 隙) || suki (すき 透き/隙)
|-
|hole<br>(穴)|| qapca("gorge, ravine"), qapi¨γ("Gate") || *** || *** || *** || yeru {{ManchuSibeUnicode|ᠶᡝᡵᡠ}} ("hole") || ***||*** || ***|| kul (穴)
kuməg ("hole")
| kap<br>(甲)<br>kapi<ref name="genzai" /><br>(甲比) || *** || kapi<sub>1</sub>>kaɸi<sub>1</sub>(かひ 峽)<ref name="genzai" /> || kubomi (くぼみ 窪み)
|-
|three<br>(3)|| bis(5) || gurav || *** || ilan || ilan {{ManchuSibeUnicode|ᡳᠯᠠᠨ}} || ***|| mil || sei/səih || 셋 sʰet̚ || mir/mil<ref name="genzai" /><br>(密) <br> siet<br>(悉)<br>s^ïei<br>(史) || *** || mi<sub>1</sub>(み "3")<ref name="genzai" /> || mi(み "3")
|-
|five<br>(5)|| üç(3) || tabun || dügün || sunja || sunja {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡠᠨᠵᠠ}}|| ***|| *** || tasul (打戌) || tasət <br> 닷 tah || uc<ref name="genzai" />/ütsi/uci/üc/uca/uchha <br>(于次,弓次) || *** || itu(いつ "5")<ref name="genzai" /> || itsu(いつ "5")
|-
|seven<br>(7)||Yeti || *** || nadan || nadan || nadan {{ManchuSibeUnicode|ᠨᠠᡩᠠᠨ}}|| ***|| *** ||(n)ìlgɯp(一急) || (n)ìlgúp || nanön<br>nanin<ref name="genzai" /><br>(難隠)<br> nanən/nanun <br> || *** || nana(なな "7")<ref name="genzai" /> || nana(なな "7")
|-
|ten<br>(10)|| on <br> toquz(9) || arav || juwa || juwan || juwan {{ManchuSibeUnicode|ᠵᡠᠸᠠᠨ}}|| {{IPA|ʒ}}uwan|| *** || *** || yəl(10)<br> on(100)<br> chɯmun(1000) || tək/tok<ref name="genzai" />/duk<br>(德) || *** || to<sub>2</sub>/to<sub>2</sub>wo(とを "10")<ref name="genzai" /> || tō(とお "10")
|-
|hard<br>(固い)|| *** || *** || *** || manga("hard") || mangga {{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠩᡤᠠ}} ("hard") || maŋa|| *** || modir- || mōjir- ("harsh; severe; cruel") || ma <br>(馬) || *** || ma- (まあ-)<br>mata-(また- 全-) || ma-(まあ-)<br>matta-ku(まったく 全く)
|-
|high<br>(高い)|| *** || *** || *** || *** || den {{ManchuSibeUnicode|ᡩᡝᠨ}} ("high")<br />dekde- {{ManchuSibeUnicode|ᡩᡝᡴᡩᡝᠮᠪᡳ}} ("to rise") || ***||*** || ***|| tarak- ("to fall")<br>tarak ("loft") || dat/§ap/tar<ref name="genzai" /><br>(達) || *** || taka-/daka-(たか-/だか- 高)<ref name="genzai" /> || taka-/daka(たか-/だか 高)
|-
|rough<br>(荒い)|| *** || *** || *** || *** || kata- {{ManchuSibeUnicode|ᡴᠠᡨᠠᠮᠪᡳ}} ("to dry") || ***|| ka¨c{{IPA|ʰɔ}}¨l || kəc{{IPA|ʰ}}ɯl- (荒) || *** || kur'iy<ref name="genzai" /> <br>(骨衣) || *** || kata- (かた-) || kata- (かた-)
|-
|round<br>(丸い|| *** || *** || *** || *** || torho- {{ManchuSibeUnicode|ᡨᠣᡵᡥᠣᠮᠪᡳ}} ("to roll,to circle") || ***||*** || tuŋgɯl-(圓)|| tuŋgɯl-(圓} || toŋ-pιuəi<ref name="genzai" /><br>(冬非)|| *** || tubura(つぶら 圓ら)<ref name="genzai" /> || tsubura(つぶら 円ら)
|-
|new<br>(新しい)|| *** || *** || *** || iche || ice {{ManchuSibeUnicode|ᡳᠴᡝ}} (“new”) || ***|| say || say (새) || s{{IPA|ɛ}} || {{IPA|ʃ}}ιəu/*su<ref name="genzai" /> <br>(首) || *** || zu("new, present, developing,a gleam")<br>su-("fresh")<br>sa-("young")<ref name="genzai" /> || ***
|-
|deep<br>(深い)|| *** || *** || *** || *** || *** || ***||*** || kiph u˙n || kiph- <br> puk ("deeply, completely, fully") || bιuk-sie<br>(伏斯)<br>puk<ref name="genzai" /><br>(伏)|| *** || puka-si>ɸuka-si(ふかし 深し)<ref name="genzai" />|| fuka-i(ふかい 深い)
|-
|flat, level,shallow<ref name="genzai" /> || biri || *** || *** || *** || ba {{ManchuSibeUnicode|ᠪᠠ}} ("field, district")<br >pile- {{ManchuSibeUnicode|ᡦᡳᠯᡝᠮᠪᡳ}} ("to confirm, to criticize")<br>tehere-("to flat, to be equal") || ***||*** || *** || pʌl || biri<ref name="genzai" /><br>(比里)<br>pii-lιεt <br> (比烈)|| *** || pi<sub>1</sub>ra<nowiki>-></nowiki>ɸi<sub>1</sub>ra-(ひら- 平ら-)<br>pisi(ひし 菱)<ref name="genzai" /> || hirata-(ひらた- 平た-)<br>hishi(ひし [[菱]])
|-
|wide<br>(広い)|| *** || osy/esy 阿斯(寬大:gererous, tolerant)<br> nalai || *** || očo 我撮(寬) || onco {{ManchuSibeUnicode|ᠣᠨᠴᠣ}} (wast) || ***||*** || 어위 (< *어쉬) || nəlb 넓- (廣)<br>n{{IPA|ə}}g{{IPA|ɯ}}r{{IPA|ə}} (寬)<br>{{IPA|ə}}dzi (仁, 寬) || nərə-si, ə-si<br>(於斯) || *** || naras-u(ならす 均す)<br>os-u(おす 押す) || narasu(ならす 均す)<br>osu(おす 押す)
|-
|abreast, both<br>(並び、両方の)|| *** || *** || *** || gəli || ***|| ***|| *** || k{{IPA|ʌ}}rb- (並 :“abreast”) || naran- || nɐrɐsi (斤)
k{{IPA|ʌ}}n (斤)
| *** || kan-("to combine")|| narabu (ならぶ 並ぶ)
|-
|bent<br>(曲げる、曲がる)|| *** || *** || *** || gokoro-("to bend") || ***|| ***|| *** || *** || kub- (曲-), kub{{IPA|ɯ}}l (曲)|| kub{{IPA|ə}}l,kutkwa <br>(屈火)|| *** || kugu-/kaga-(くぐ-/かが- 屈-)<br>kubi(くび 首) || kuguma-/kagam-(くぐま-/かが- 屈ま-/屈-)<br>kubi(くび [[首]])
|-
|black<br>(黒色)|| Qara || *** || *** || *** || kara {{ManchuSibeUnicode|ᡴᠠᡵᠠ}} ("black horse"), <br>sahaliyan {{ManchuSibeUnicode|ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ}} ("black")|| ***|| *** || kəm-/검- || kʌm 검 || kəmur<ref name="genzai" />/kəmhək(今勿) || *** || kuro<sub>1</sub>(くろ 黑)<ref name="genzai" /> || kuro(くろ [[黒]])
|-
|white<br>(白色)|| Aq || *** || *** || canggian || šara- {{ManchuSibeUnicode|ᡧᠠᡵᠠᠮᠪᡳ}} (-"to become white")<br>šeyen {{ManchuSibeUnicode|ᡧᡝᠶᡝᠨ}} ("white")<br>šanggiyan {{ManchuSibeUnicode|ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ}} ("white") || ***|| *** || {{IPA|ʃ}}je-("to become white")<br>hʌy-(白) ||hʌy- <br>hin <br>hayan <br>nun (雪)|| ʃιi-lap<ref name="genzai" /><br>(尸臘)<br>nə γei<br>(奈兮)|| *** || sira(しら 白)<ref name="genzai" /><br>siram- (しらむ- 白む-)|| shiro(しろ [[白]])<br>shiram (しらむ 白む)
|-
|red<br>(赤色)|| Qyzyl || *hula{{IPA|ɣ}}an > ulaan || *** || fula gian("red") || šušu {{ManchuSibeUnicode|ᡧᡠᡧᡠ}} ("purple")<br>fulgiyan {{ManchuSibeUnicode|ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ}} ("red") || ***|| sapi(泗沘) || sitpɯk(赤) || 붉은pulgɯn<br>시뻘건sippəlgən("deep red") || s^a-bιuk/sa(i)puk<ref name="genzai" /><br>(沙伏)<br> s^a-pιuəi-kιən/sa(i)pikon<br>沙非斤<br>sapi || supi(赤鳥) || so<sub>2</sub>po>so<sub>2</sub>ɸo(赤土 : "red soil")<ref name="genzai" /><br>sabi(さび 錆)|| soho<br>sabi(さび 錆)
|-
|yellow<br>(黄色)|| *** || *** || *** || *** || suwayan {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡠᠸᠠᠶᠠᠨ}} ("yellow") || ***|| *** || *** || *** || kuət<ref name="genzai" /><br>(骨)<br>kweyru<br>|| *** || ki<sub>2</sub>-~ kú-(き/く 黄)<ref name="genzai" />|| ki(き 黄)
|-
|blue<br>(青色)|| *** || *** || *** || *** || lamun {{ManchuSibeUnicode|ᠯᠠᠮᡠᠨ}} ("blue")|| ***|| səri 昔里<br>(靑) || *** || *** || sal<br>sat<br> (薩) || *** || so<sub>1</sub>ra(そら 空)<br>sumi<sub>1</sub>re(すみれ 菫)||sora(そら [[空]])<br>sumire(すみれ [[菫]])
|-
|green<br>(緑色)|| *** || *** || *** || habha("leaf") ||niowanggiyan {{ManchuSibeUnicode|ᠨᡳᠣᠸᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ}}(green)|| ***|| *** || phɯrɯn ("green, blue") || phurɯn ("green, blue")<br> pharan ("blue")|| bιuʌt-lιək <br> (伐力) <br> puruk || *** || mido(みど 綠)<br>pa>ɸa(は 葉)<br>tura/tuta(つら/つた 蔦)|| midori(みどり [[緑]])<br>ha(は [[葉]])<br>tsuru/tsuta(つる/つた [[蔓]]/[[蔦]])
|-
|to meet<br>(会う)|| bak-("to see, to look; to find") || *** || *** || baka- ("to look for, to seek, to search") || baha- {{ManchuSibeUnicode|ᠪᠠᡥᠠᠮᠪᡳ}} ("to get, to obtain") || baka-("to find")|| *** || poizʌp- ("to humbly show oneself, to meet (an honored person)") || po-("to see, to look")/ poyp-("to have an audience with, to meet (an honored person)") || pʌk/*pak <br>(伯) || *** || wakar-(わか- 分か-) || wakar-(わか- 分か-)
|-
|to swing<br>(揺れる、揺らす)|| bula-("to stir") || büle-("to shake") || *** || *** || fori- {{ManchuSibeUnicode|ᡶᠣᡵᡳᠮᠪᡳ}} ("to strike") || ***|| *** || *** || pud{{IPA|ɯ}}l-("tremble, shake") || pu<br>(釜)|| *** || pur<nowiki>-></nowiki>ɸur-(ふ- 振-) || fu-(ふ- 振-)
|-
|to enter<br>(入る)|| *** || ire- <br> (to come) || i-(入) || *** || ibe- {{ManchuSibeUnicode|ᡳᠪᡝᠮᠪᡳ}} ("to get forward") || ***||*** || ip(口)/ip(門戸) || ir-(to arrive; to come)<br />ip || ・ιi/*i <ref name="genzai" /> <br>(伊) || *** || ir-(い- 入-)<ref name="genzai" /> || hair-(はい- 入-)
|-
|to get<br>(取る)|| tor("trap") || tor("net") || *** || *** || duri- {{ManchuSibeUnicode|ᡩᡠᡵᡳᠮᠪᡳ}} ("to get") || ***|| *** || *** || t{{IPA|ɯ}}l-("to take, to hold") || toŋ<br>(冬)|| *** || tor-(と- 取-) || to-(と- 取-)
|-
|}
==アルタイ系民族==
アルタイ諸語を話す民族はY染色体[[ハプログループC-M217 (Y染色体)|ハプログループC2]]が高頻度で観察され、とりわけC-M86との関連性が想定される<ref>『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>。ただしこのタイプは[[ニブフ]]や[[コリヤーク人]]でも高頻度であり、{{独自研究範囲|アルタイ諸語の基層に[[ニブフ語]]のような[[古アジア諸語]]を想定できるかもしれない。|date= 2020年2月}}
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==関連項目==
* [[ウラル語族]]
* [[古シベリア諸語]]
* [[デネ・エニセイ語族]]
* [[コーカサス諸語]]
* [[日本語の起源]]
* [[ニコラス・ポッペ]]
* [[匈奴語]]
* [[鮮卑語]]
{{世界の語族}}
{{アルタイ諸語}}
{{DEFAULTSORT:あるたいしよこ}}
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17,036 |
空気調和設備
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空気調和設備(くうきちょうわせつび)は、空気調和(温度・湿度・空気清浄度などの室内環境の調整)をするための建築設備である。一般に、空調設備(くうちょうせつび)と呼ばれ、さらに人に対しての空気調和を保健空調(対人空調)、物品に対しては、産業(プロセス)空調と呼ばれる。
20世紀後半から、地球温暖化による建築物の外皮(ペリメーターゾーン)の熱負荷上昇、OA化による建築物の内皮(インテリアゾーン)の熱負荷上昇に伴い従前の空調方式では人間の居住環境の維持が難しくなってきている。さらに建築物の高層化、気密化が進み、種々の空気調和設備が設置されるようになってきた。
熱輸送方式にはいくつかの種類があり、適合する用途が異なる。
全空気方式は、熱輸送に空気のみを用いるもので中央式の代表的なものである。劇場・体育館などの大空間に適する。ダクトと呼ばれる金属の筒で空気を輸送するのが一般的。
水・空気方式は、熱輸送に水と空気とを併用するものである。
水方式は、熱輸送に水のみを使用するものである。
熱輸送に冷媒配管を使用するエア・コンディショナーが代表的なものである。小型の建物では最も多く採用されている方式である。昨今は機器性能の向上、建築計画上の工夫により、大規模(延床面積7万m)な事務所ビルでも採用事例がある。上記の他方式に比較し、成績係数(COP)が高く、最も省エネルギーを図れる。また、個別分散型になるため、温度制御対象が小区画になり、温度制御が容易で、快適性が増すものの、維持管理対象が小型で多数分散し、個々の耐久性も中央式と比較し短いため、長期的な修繕、更新コストは高くなる傾向にある。
加湿器
除湿機
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空気調和設備(くうきちょうわせつび)は、空気調和(温度・湿度・空気清浄度などの室内環境の調整)をするための建築設備である。一般に、空調設備(くうちょうせつび)と呼ばれ、さらに人に対しての空気調和を保健空調(対人空調)、物品に対しては、産業(プロセス)空調と呼ばれる。 20世紀後半から、地球温暖化による建築物の外皮(ペリメーターゾーン)の熱負荷上昇、OA化による建築物の内皮(インテリアゾーン)の熱負荷上昇に伴い従前の空調方式では人間の居住環境の維持が難しくなってきている。さらに建築物の高層化、気密化が進み、種々の空気調和設備が設置されるようになってきた。
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{{出典の明記|date=2022年12月16日 (金) 10:28 (UTC)}}
'''空気調和設備'''(くうきちょうわせつび)は、[[空気調和]]([[温度]]・[[湿度]]・空気清浄度などの室内[[環境]]の調整)をするための建築[[設備]]である。一般に、'''空調設備'''(くうちょうせつび)と呼ばれ、さらに人に対しての空気調和を'''保健空調(対人空調)'''、物品に対しては、'''産業(プロセス)空調'''と呼ばれる。
[[20世紀]]後半から、[[地球温暖化]]による建築物の外皮(ペリメーターゾーン)の熱負荷上昇、OA化による建築物の内皮(インテリアゾーン)の熱負荷上昇に伴い従前の空調方式では人間の居住環境の維持が難しくなってきている。さらに[[建築物]]の高層化、気密化が進み、種々の空気調和設備が設置されるようになってきた。
==熱輸送方式による分類==
熱輸送方式にはいくつかの種類があり、適合する用途が異なる。
===全空気方式===
全空気方式は、熱輸送に空気のみを用いるもので中央式の代表的なものである。[[劇場]]・[[体育館]]などの大空間に適する。[[ダクト]]と呼ばれる金属の筒で空気を輸送するのが一般的。
;特徴
*空調機を集中配置するため、保守が容易である。
*[[換気]]量を大きくすることができる。
*外気冷房・[[全熱交換器]]の設置など[[省エネルギー]]制御方式を行うことが容易である。
*ダクトスペース・空調機械室が大きくなる。
;主な方式
*単一ダクト方式:ダクトが1つであるため、冷房・暖房の混在する用途には不向きである。
**定風量方式:一定風量を空調機から供給する方式。温度調節は送風温度の変更で行う。
**変風量方式:温度調節を風量変更で行う方式。VAV方式 (variable air volume system) と呼ぶこともある。
*二重ダクト方式:2つのダクトでそれぞれ温風・冷風を供給し混合することで温度調節を行うもの。混合損失で[[省エネルギー]]の面で問題があり、イニシャルコストも高いため、[[クリーンルーム]]や特殊環境試験装置など特殊用途に用いられている。
===水・空気方式===
水・空気方式は、熱輸送に水と空気とを併用するものである。
;特徴
*ダクトスペースが小さくできる。
*エアフィルタなどを分散配置するため保守に手間がかかる。
;主な方式
*[[ファンコイルユニット]]・単一ダクト併用方式:[[熱交換器]]・[[送風機]]・[[エアフィルタ]]が内蔵された室内ユニットに冷水または温水を供給し、温度調節を行うもの。[[換気]]はダクトで行う。
*[[インダクションユニット]]方式:[[熱交換器]]・[[エアフィルタ]]が内蔵された室内ユニットに、ダクトから圧力を高めた一次空気を吹き込み室内の空気を吸引し、供給する冷温水の量で温度調節を行うもの。各ユニットにダクトの接続が必要である。
===水方式===
水方式は、熱輸送に水のみを使用するものである。
;特徴
*ダクトスペースが不要である。
*エアフィルタなどを分散配置するため保守に手間がかかる。
*換気に[[換気扇]]・全熱交換器など別の機器が必要である。
;主な方式
*ファンコイルユニット方式:熱交換器・送風機・エアフィルタが内蔵された室内ユニットに冷水または温水を供給し温度調節を行うもの。
*[[水熱源ヒートポンプパッケージ方式]]:水熱源のヒートポンプエアコンを各空調箇所に分散配置するもの。
===冷媒方式===
熱輸送に[[冷媒]]配管を使用する[[エア・コンディショナー]]が代表的なものである。小型の建物では最も多く採用されている方式である。昨今は機器性能の向上、建築計画上の工夫により、大規模(延床面積7万[[平方メートル|m<sup>2</sup>]])な事務所ビルでも採用事例がある。上記の他方式に比較し、[[成績係数]](COP)が高く、最も省エネルギーを図れる。また、個別分散型になるため、温度制御対象が小区画になり、温度制御が容易で、快適性が増すものの、維持管理対象が小型で多数分散し、個々の耐久性も中央式と比較し短いため、長期的な修繕、更新コストは高くなる傾向にある。
==構成要素==
;[[換気]]
*[[ダクト]]
*[[送風機]]
*[[エアフィルタ]]
*[[空気清浄器]]
;[[湿度]]調整
[[加湿器]]
*電極式蒸気加湿器
*電熱式蒸気加湿器
*気化式加湿器/滴下式加湿器
*水スプレー加湿器
*超音波加湿器
*遠心噴霧加湿器
*エアワッシャ―加湿
*マイクロバブル加湿/ナノフォグ加湿
[[除湿機]]
*冷却式除湿機(過冷却による除湿方式)
*物理吸着式除湿機(全熱交換器ローターを用いた除湿方式/デシカント方式)
;[[配管]]
*冷媒配管
*温水配管
*冷水配管
*冷却水配管
*蒸気配管
==自動制御==
*電気式
*空気式
*電子式
*電子・空気式
*自力式
*中央管制装置 - [[中央監視装置]]
==関連項目==
*[[熱源設備]] - [[地域熱供給]] - [[ボイラ]] - [[冷凍機]] - [[冷却塔]]
*[[空気調和]]:目的
*[[空気調和工学]]:熱量計算・快適性評価
*[[省エネルギー]]
*[[建築物環境衛生管理技術者]]([[特定建築物]]における空気調和、設備、環境衛生等に関する監督を行う者)
*[[シックハウス症候群]]
*[[エア・コンディショナー]]
*[[バードギール]] ‐ 中東地域の伝統的な空気・温度調整建築物
{{DEFAULTSORT:くうきちようわせつひ}}
[[Category:空気調和設備|*]]
[[Category:設備]]
[[Category:建築設備]]
[[Category:暖房換気空調]]
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17,037 |
除湿機
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除湿機(じょしつき)とは、室内気の減湿に使用される空気調和設備である。多湿時に汗が乾きにくいために人間が感じ取る不快指数を下げるために使用される。また、衣類の乾燥や乾燥圧縮空気の供給にも使用される。
冷却コイルを使用するタイプや化学的な吸湿作用を利用するタイプなどがある。
温度が下がると誤解されることがあるが、熱を外部に放散しない限り、温度は上昇する。
なお、加湿機能を併せもったものは湿度調和機と呼ぶ(冷暖房機能まで併せもっている場合にはエアコンに分類される)。
冷凍機により露点温度以下に冷却することにより除湿を行うものである。 室内で使用した場合、熱を室外に放出しない限り冷凍機の入力エネルギー+潜熱分だけ室温は上昇する。露点5°C程度まで使用可能である。
圧縮方式は、圧縮機で空気を圧縮することにより除湿を行うものである。
吸着方式は、水分を吸着しやすい固体に空気を通過させることにより除湿を行う。吸着能力の低下した物質は温度を上げた空気によって乾燥させることにより再生を行う。熱源として低温排熱の利用が可能である。露点-70°C程度まで使用可能である。
吸収方式は、水分を吸収しやすい液体に空気を接触させることにより除湿を行う。濃度の低下した溶液は温度を上げ濃縮させることにより再生を行う。熱源として排熱の利用が可能である。露点-20°C程度まで使用可能である。
一般家庭用の除湿機、すなわち家電としての除湿機には以下のようなものがある。概ね小型で移動も楽である。
なお、近年では除湿乾燥機の名称で販売されることが多い。これは室内干しをした洗濯物や部屋の結露を乾燥させる目的が多く、かつ、そうした目的を持つ消費者へのアピールのためである。靴などを乾燥させる専用のアタッチメントが、オプションとして用意されているものもある。空気清浄機能などを持ったものもある。特殊なものに、部屋の壁に取り付け、湿気と排熱を外部に放出する備え付け型もある。これであれば、室温は上昇しない。また、押入れ専用の除湿機もある。電源を切っても本体内温度を下げるためファンが約2分間回るので、電源プラグはファン停止を確認してから抜く(いきなりプラグを抜いての強制終了は機器故障のおそれあり)。
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] |
除湿機(じょしつき)とは、室内気の減湿に使用される空気調和設備である。多湿時に汗が乾きにくいために人間が感じ取る不快指数を下げるために使用される。また、衣類の乾燥や乾燥圧縮空気の供給にも使用される。 冷却コイルを使用するタイプや化学的な吸湿作用を利用するタイプなどがある。 温度が下がると誤解されることがあるが、熱を外部に放散しない限り、温度は上昇する。 なお、加湿機能を併せもったものは湿度調和機と呼ぶ(冷暖房機能まで併せもっている場合にはエアコンに分類される)。
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[[File:Maytag dehumidifier1.jpg|180px|thumb|right|除湿機]]
'''除湿機'''(じょしつき)とは、室内気の減湿に使用される[[空気調和設備]]である<ref name="jpo-card-D4">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/D4.pdf 意匠分類定義カード(D4)] 特許庁</ref>。多湿時に汗が乾きにくいために人間が感じ取る[[不快指数]]を下げるために使用される。また、衣類の乾燥や乾燥圧縮空気の供給にも使用される。
冷却コイルを使用するタイプや化学的な吸湿作用を利用するタイプなどがある<ref name="jpo-card-D4"/>。
[[温度]]が下がると誤解されることがあるが、[[熱]]を外部に放散しない限り、温度は上昇する。
なお、加湿機能を併せもったものは湿度調和機と呼ぶ<ref name="jpo-card-D4"/>(冷暖房機能まで併せもっている場合には[[エアコン]]に分類される)<ref name="jpo-card-D4"/>。
==冷却方式==
[[冷凍機]]により[[露点温度]]以下に冷却することにより除湿を行うものである。
室内で使用した場合、熱を室外に放出しない限り冷凍機の入力[[エネルギー]]+[[潜熱]]分だけ室温は上昇する。露点5℃程度まで使用可能である。
;直膨コイル方式
:冷凍機の[[冷媒]]を[[冷却コイル]]で[[蒸発]]させ冷却するもの。
;ブライン間接冷却方式
:冷媒で[[ブライン]]を冷却し、ブラインで空気を冷却するもの。
;冷水エアワッシャ方式
:冷媒で冷水を作り、冷水を空気と混合することにより冷却するもの。
==圧縮方式==
圧縮方式は、[[圧縮機]]で空気を圧縮することにより除湿を行うものである。
;圧縮冷却方式
:等温度圧縮を行うことにより、相対湿度を上昇させ水分を凝縮させるもの。露点-20℃程度まで使用可能である。
;透過膜方式
:空気を圧縮し、[[水蒸気]]を透過膜で分離するもの。露点-40℃程度まで使用可能である。
==吸着方式==
吸着方式は、水分を吸着しやすい固体に空気を通過させることにより除湿を行う。吸着能力の低下した物質は温度を上げた空気によって乾燥させることにより再生を行う。熱源として低温排熱の利用が可能である。露点-70℃程度まで使用可能である。
;吸着塔式
:吸着剤を充填した塔2つを吸着・再生を切替ながら使用するもの。
;ハニカムローター回転式
:吸着性のローターを回転させ吸湿・再生を繰り返すもの。(スウェーデンのカール・ムンタース博士の発明)
==吸収方式==
吸収方式は、水分を吸収しやすい液体に空気を接触させることにより除湿を行う。濃度の低下した溶液は温度を上げ濃縮させることにより再生を行う。熱源として排熱の利用が可能である。露点-20℃程度まで使用可能である。
;湿式吸収式
:吸収液を空気中に噴霧することによって除湿を行うもの。
;湿式ハニカムローター回転式
:吸湿性の強い液体を含ませたローターを回転させ吸湿・濃縮を繰り返すもの。
== 方式の比較 ==
{| class="wikitable"
!!!冷却方式!!圧縮方式!!吸着方式!!吸収方式
|-
!得意な室温
|高温||低温||低温||低温
|-
!室温の上昇
|小さい||小さい||大きい/小さい||大きい/小さい
|-
!騒音
|大きい||大きい||小さい||小さい
|-
!質量
|大きい||大きい||小さい||小さい
|-
!必要動力
|大きい||大きい||小さい||小さい
|}
== 家庭用の除湿機(除湿乾燥機) ==
一般家庭用の除湿機、すなわち[[家庭用電気機械器具|家電]]としての除湿機には以下のようなものがある。概ね小型で移動も楽である。
なお、近年では除湿乾燥機の名称で販売されることが多い。これは室内干しをした[[洗濯]]物や部屋の[[結露]]を乾燥させる目的が多く、かつ、そうした目的を持つ[[消費者]]へのアピールのためである。[[靴]]などを乾燥させる専用のアタッチメントが、オプションとして用意されているものもある。空気清浄機能などを持ったものもある。特殊なものに、部屋の壁に取り付け、湿気と排熱を外部に放出する備え付け型もある。これであれば、室温は上昇しない。また、[[押入れ]]専用の除湿機もある。電源を切っても本体内温度を下げるためファンが約2分間回るので、電源プラグはファン停止を確認してから抜く(いきなりプラグを抜いての強制終了は機器故障のおそれあり)。
; コンプレッサー式
: 前述の冷却方式のうち、直膨コイル方式に相当する。いわゆる家庭用の[[冷房|クーラー]]の冷却風と放熱風が混合され、同時に出るものである。コンビニクーラー<ref>[http://www.sharp.co.jp/products/living/dehumidifier/prod01/ 「冷風・衣類乾燥」除湿機] - [[シャープ]]から発売されている除湿機の一つ。ただし、同社では現在この名称は使用しておらず、『「冷風・衣類乾燥」除湿機』と呼んでいる。なお、現在同社では冷風を出す機能を持たない除湿機を生産していない。</ref>などの商品名のものは、これらの風を別々に出すことができる。実質的には[[冷風機]]と同じである。下記のデシカント式に比較して[[騒音]]が大きく、[[気温]]が低いときは能力が落ちる。部屋の温度上昇は小さく、[[消費電力]]もやや小さい。使用冷媒は[[フロン類|フロン]]から[[代替フロン]]に代わっている。
; デシカント式
: 前述の吸着方式のうち、ハニカムローター回転式に相当する。[[シリカゲル]]や[[ゼオライト]]等を吸湿剤とし、[[電気ヒーター]]で再生する。再生時の高温・高湿の空気を室温の空気(吸湿後の空気)にて冷却し、結露させて回収する。コンプレッサー式に比較して部屋の温度上昇の程度が高く、消費電力も大きい。騒音は小さく、気温が低い[[冬|冬季]]でも能力が落ちにくい。吸湿剤が[[におい]]を吸着・放出しやすい。尚、コンデンス式<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kankyo-eco.com/product/story-az.htm |title=コンデンス除湿機 誕生ストーリー |publisher=カンキョー |accessdate=2020-04-15}}</ref>として販売されているものは、デシカント式の改良方式と考えられる。
; ハイブリッド式
: コンプレッサー式とデシカント式を組み合わせたもの。気温に応じて除湿方式を切り替えることで、年間を通じて安定した除湿性能をもつ。
=== 日本国内の主要除湿機メーカー ===
==== 現在生産中 ====
* [http://www.munters.jp ムンタース]
* [[パナソニック エコシステムズ]]
* [[シャープ]]
* [[三菱電機]]
* [[アイリスオーヤマ]]
* [[トヨトミ]]
==== 生産より撤退 ====
* [[東芝ライフスタイル]]
* [[日立グローバルライフソリューションズ]]
* [[三洋電機]](パナソニック完全子会社化に伴い親会社「Panasonic」ブランドへ吸収合併)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}<references />
== 関連項目 ==
{{commonscat|Dehumidifiers}}
*[[加湿器]]
*[[エア・コンディショナー]]
*[[冷風機]]
*[[空気清浄機]]
{{乾燥}}
{{DEFAULTSORT:しよしつき}}
[[category:空気調和設備]]
[[Category:家電機器]]
[[Category:建築環境工学]]
[[Category:湿度]]
[[Category:乾燥]]
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17,038 |
家庭用電気機械器具
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家庭用電気機械器具(かていようでんききかいきぐ)は、家庭用の電気機械器具を指すための行政用語。普通の日本語では家電機器(かでんきき)や家電製品(かでんせいひん)という。白物家電、家庭用の照明器具、電気を使う冷暖房器具、娯楽家電などを包括する概念である。普通の日本語、一般的な日本語としては行政用語は使われず、むしろ次のように呼ばれる。
日本の諸法令などや、行政発行の文書における用例では「家庭用電気機械器具」が用いられている。
家庭用の電気製品は20世紀初頭に革新期を迎えた。1908年に電気掃除機が発明され、1920年代から1930年代にかけて電気洗濯機・テレビ・電気冷蔵庫が発明された。さらに1930年代には蛍光灯の発売が開始された。こうした一連の発明により基礎的な家電製品が揃い、現代的な生活様式が確立された。
しかし、当時の家電製品は価格が非常に高かったうえ、電気に対して恐怖心を持つ人々も多く普及の壁となっていた。初期の家電製品は性能も不安定で電気洗濯機であれば故障や感電が多発するなど実用でも難があったため、その普及は資金があり電気の知識を有している中産階級家庭に限られていた。
第二次世界大戦後は故障を起こしにくく操作性も向上させるという家電製品の改良型革新が進んだ。
家電製品に関わる業界、つまり製造・卸売・販売などする業界を家電業界と呼ぶ。製造メーカーは家電メーカー、卸売する会社は家電卸、販売する小売店は家電店という。量販するチェーン店は家電量販店という。
メーカーに関しては日本の企業一覧 (電気機器)を参照。
電気用品安全法(PSE法)がある。
第二次世界大戦後、中国の経済政策は国防力増強と重化学工業化に重点が置かれており、消費財生産が停滞し、家電産業も著しく立ち遅れていた。
テレビ技術でみると中国では1960年代には白黒テレビが生産され、1970年代初頭にはトランジスタ式カラーテレビが開発されるなど、この時点では日本や米国に大きく遅れをとってていたわけではなかった。しかし、1970年代になると日本企業では技術革新が進んで生産台数が急増したのに対し、中国では1970年代末まで白黒テレビの生産が中心で1978年時点でも中国でのカラーテレビの年間生産台数は4,000台以下だった。
中国で家電産業が発展したのは1970年代末になってからで、当時の一般家庭にみられた家電製品はラジオ、ラジカセ、扇風機などに限られ、テレビや白物家電の普及率は極めて低かった。
1972年に米中間の国交が回復すると先進諸国から工業技術の導入が始まった。1978年に改革開放路線が打ち出されるとともに重工業優先の政策が見直され、国民生活の向上に貢献できる消費財の生産への転換が図られた。その初期には衣服、食品、自転車などの軽工業が生産の中心であったが、所得増加とともに家電製品の国産化も視野に入れられるようになった。しかし、企業の生産規模は小さく品質も劣悪であった上、消費財は需要に生産が追いつかなくなったため、中国政府は家電製品など各種耐久消費財について輸入代替化を推進し、技術・設備導入と基幹部品生産外国投資の誘致を図った。
1990年代中頃までに外国企業が直接投資により中国への市場参入を試みたが、既に家電市場は供給過剰となっており、激しい投資競争は深刻なデフレを招いた。このような状況のもとで中国の有力企業が次第に台頭するようになり市場の寡占化が進んだ。
下に記述するのは、日本国内で起きたことを年表形式で記述したものである。
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"text": "家庭用電気機械器具(かていようでんききかいきぐ)は、家庭用の電気機械器具を指すための行政用語。普通の日本語では家電機器(かでんきき)や家電製品(かでんせいひん)という。白物家電、家庭用の照明器具、電気を使う冷暖房器具、娯楽家電などを包括する概念である。普通の日本語、一般的な日本語としては行政用語は使われず、むしろ次のように呼ばれる。",
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"text": "日本の諸法令などや、行政発行の文書における用例では「家庭用電気機械器具」が用いられている。",
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"text": "第二次世界大戦後は故障を起こしにくく操作性も向上させるという家電製品の改良型革新が進んだ。",
"title": "歴史"
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"text": "家電製品に関わる業界、つまり製造・卸売・販売などする業界を家電業界と呼ぶ。製造メーカーは家電メーカー、卸売する会社は家電卸、販売する小売店は家電店という。量販するチェーン店は家電量販店という。",
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"text": "メーカーに関しては日本の企業一覧 (電気機器)を参照。",
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"text": "第二次世界大戦後、中国の経済政策は国防力増強と重化学工業化に重点が置かれており、消費財生産が停滞し、家電産業も著しく立ち遅れていた。",
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"text": "テレビ技術でみると中国では1960年代には白黒テレビが生産され、1970年代初頭にはトランジスタ式カラーテレビが開発されるなど、この時点では日本や米国に大きく遅れをとってていたわけではなかった。しかし、1970年代になると日本企業では技術革新が進んで生産台数が急増したのに対し、中国では1970年代末まで白黒テレビの生産が中心で1978年時点でも中国でのカラーテレビの年間生産台数は4,000台以下だった。",
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"text": "1972年に米中間の国交が回復すると先進諸国から工業技術の導入が始まった。1978年に改革開放路線が打ち出されるとともに重工業優先の政策が見直され、国民生活の向上に貢献できる消費財の生産への転換が図られた。その初期には衣服、食品、自転車などの軽工業が生産の中心であったが、所得増加とともに家電製品の国産化も視野に入れられるようになった。しかし、企業の生産規模は小さく品質も劣悪であった上、消費財は需要に生産が追いつかなくなったため、中国政府は家電製品など各種耐久消費財について輸入代替化を推進し、技術・設備導入と基幹部品生産外国投資の誘致を図った。",
"title": "中国における家電"
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"text": "1990年代中頃までに外国企業が直接投資により中国への市場参入を試みたが、既に家電市場は供給過剰となっており、激しい投資競争は深刻なデフレを招いた。このような状況のもとで中国の有力企業が次第に台頭するようになり市場の寡占化が進んだ。",
"title": "中国における家電"
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"tag": "p",
"text": "下に記述するのは、日本国内で起きたことを年表形式で記述したものである。",
"title": "日本国内の歴史年表"
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家庭用電気機械器具(かていようでんききかいきぐ)は、家庭用の電気機械器具を指すための行政用語。普通の日本語では家電機器(かでんきき)や家電製品(かでんせいひん)という。白物家電、家庭用の照明器具、電気を使う冷暖房器具、娯楽家電などを包括する概念である。普通の日本語、一般的な日本語としては行政用語は使われず、むしろ次のように呼ばれる。 家庭用電気器具(かていようでんききぐ)
家庭用電気機器(かていようでんききき)
家庭(用)電気製品(かていでんきせいひん)
略称・電気製品(でんきせいひん)、家電製品(かでんせいひん)、家電(かでん)
家庭(用)電化製品(かていでんかせいひん)
略称・電化製品(でんかせいひん)
|
{{Redirect|家庭用電気機械器具|デンカ(電化)の略称で知られる化学用品メーカー(旧社名・電気化学工業)|デンカ}}
{{重複|date=2023年9月22日 (金) 15:55 (UTC)|dupe=家電機器}} <!-- 日本特有の行政用語としての解説か、一般用語として白物黒物両方を包括する家電としての解説か、のどちらかに振り切れておらず、家電機器と重複している中途半端な状態 -->
'''家庭用電気機械器具'''(かていようでんききかいきぐ)は、[[家庭]]用の[[電気製品の一覧|電気機械器具]]を指すための行政用語。普通の日本語では'''家電機器'''(かでんきき)や'''家電製品'''(かでんせいひん)という。[[白物家電]]、家庭用の[[照明]]器具、電気を使う[[冷暖房]]器具、[[娯楽家電]]などを包括する概念である。普通の日本語、一般的な日本語としては行政用語は使われず、むしろ次のように呼ばれる。
* '''家庭用電気器具'''(かていようでんききぐ)
* '''家庭用電気機器'''(かていようでんききき)
* '''家庭(用)電気製品'''(かてい(よう)でんきせいひん)
** 略称・'''電気製品'''(でんきせいひん)、'''家電製品'''(かでんせいひん)、'''家電'''(かでん)
* '''家庭(用)電化製品'''(かてい(よう)でんかせいひん)
** 略称・'''電化製品'''(でんかせいひん)
== 行政用語 ==
日本の諸法令<ref name=hougyou>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=336CO0000000341|title= 割賦販売法施行令(昭和三十六年政令第三百四十一号)|publisher=e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 |date=2017-12-1 |quote=2018年6月1日施行分|accessdate=2019-12-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=351CO0000000295 |title=特定商取引に関する法律施行令(昭和五十一年政令第二百九十五号)|publisher=e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 |date=2018-5-30 |quote=2018年6月15日施行分|accessdate=2019-12-27}}</ref>などや、行政発行の文書における用例では「家庭用電気機械器具」が用いられている。
== 歴史 ==
家庭用の電気製品は20世紀初頭に革新期を迎えた<ref name="kaiki76">{{Cite book |和書 |author=田中辰雄 |year=2009 |title=モジュール化の終焉 - 統合への回帰 |page=76}}</ref>。1908年に電気掃除機が発明され、1920年代から1930年代にかけて電気洗濯機・テレビ・電気冷蔵庫が発明された<ref name="kaiki76" />。さらに1930年代には蛍光灯の発売が開始された<ref name="kaiki76" />。こうした一連の発明により基礎的な家電製品が揃い、現代的な生活様式が確立された<ref name="kaiki76" />。
しかし、当時の家電製品は価格が非常に高かったうえ、電気に対して恐怖心を持つ人々も多く普及の壁となっていた<ref name="kaiki76" />。初期の家電製品は性能も不安定で電気洗濯機であれば故障や感電が多発するなど実用でも難があったため、その普及は資金があり電気の知識を有している中産階級家庭に限られていた<ref name="kaiki76" />。
第二次世界大戦後は故障を起こしにくく操作性も向上させるという家電製品の改良型革新が進んだ<ref name="kaiki76" />。
== 日本の家電製品 ==
=== 業界 ===
家電製品に関わる業界、つまり[[製造]]・[[卸売]]・[[販売]]などする[[業界]]を'''家電業界'''と呼ぶ。製造メーカーは'''家電メーカー'''、卸売する会社は'''家電卸'''、販売する[[小売]]店は'''家電店'''という。量販するチェーン店は[[家電量販店]]という。
<!--
[[2000年代]]に入り「[[ヤマダ電機]]」や「[[コジマ]]」など上位家電小売業チェーンによる販売の[[寡占]]化が進んだ結果、また[[2009年]]頃から[[家電レンタル]]業者の参入もあり、家電業界全体が熾烈な競争社会となっている。-->
メーカーに関しては[[日本の企業一覧 (電気機器)]]を参照。
=== 法制度 ===
[[電気用品安全法]](PSE法)がある。
== 中国における家電 ==
第二次世界大戦後、中国の経済政策は国防力増強と重化学工業化に重点が置かれており、消費財生産が停滞し、家電産業も著しく立ち遅れていた<ref name="amano" />。
テレビ技術でみると中国では1960年代には白黒テレビが生産され、1970年代初頭にはトランジスタ式カラーテレビが開発されるなど、この時点では日本や米国に大きく遅れをとってていたわけではなかった<ref name="amano" />。しかし、1970年代になると日本企業では技術革新が進んで生産台数が急増したのに対し、中国では1970年代末まで白黒テレビの生産が中心で1978年時点でも中国でのカラーテレビの年間生産台数は4,000台以下だった<ref name="amano" />。
中国で家電産業が発展したのは1970年代末になってからで、当時の一般家庭にみられた家電製品はラジオ、ラジカセ、扇風機などに限られ、テレビや白物家電の普及率は極めて低かった<ref name="amano">{{Cite web|和書|author=天野 倫文|url=https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jbic/report/review/pdf/22_04.pdf |title=中国家電産業の発展と日本企業|publisher=開発金融研究所報 |accessdate=2018-10-12}}</ref>。
1972年に米中間の国交が回復すると先進諸国から工業技術の導入が始まった<ref name="amano" />。1978年に[[改革開放]]路線が打ち出されるとともに重工業優先の政策が見直され、国民生活の向上に貢献できる消費財の生産への転換が図られた<ref name="amano" />。その初期には衣服、食品、自転車などの軽工業が生産の中心であったが、所得増加とともに家電製品の国産化も視野に入れられるようになった<ref name="amano" />。しかし、企業の生産規模は小さく品質も劣悪であった上、消費財は需要に生産が追いつかなくなったため、中国政府は家電製品など各種耐久消費財について輸入代替化を推進し、技術・設備導入と基幹部品生産外国投資の誘致を図った<ref name="amano" />。
1990年代中頃までに外国企業が直接投資により中国への市場参入を試みたが、既に家電市場は供給過剰となっており、激しい投資競争は深刻なデフレを招いた<ref name="amano" />。このような状況のもとで中国の有力企業が次第に台頭するようになり市場の寡占化が進んだ<ref name="amano" />。
== 日本国内の歴史年表 ==
下に記述するのは、日本国内で起きたことを[[年表]]形式で記述したものである。
* [[1920年代]]より、[[輸入]]されていた家庭用電気製品について、簡単なものから国産化を進めていった。その中で[[二股ソケット]]と自転車用[[砲弾型ランプ]]は日本オリジナルである。
* [[1950年代]]には、[[家庭の電化]]が進み製造量が飛躍的に伸び始めた。
* [[1960年代]]より、[[輸出]]されるようになっていった。
* [[1970年代]]は、品質も向上し主要な輸出品目となったが、この頃から対韓技術供与が始まり<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/9665 私とサムスンの李さんとの和解 | 長老の智慧 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース]</ref>、後の伏線となる。
* [[1980年代]]中ごろより円高で日本製品の競争力が低下し、[[韓国]]や[[台湾]]、[[東南アジア]]を中心とした[[新興工業経済地域|NIES]]諸国のメーカーが台頭した。当時の韓国や台湾ブランド製品は品質が低いものもあり、対する日本家電はバブル絶頂期の品質にあったため日本国内ではあまり浸透しなかったが、日本メーカーの海外製造拠点で生産された製品の逆輸入が広がり始める。
* [[1990年代]]中ごろより、日本メーカーは技術の確立した部品も中国などで生産するようになり、一部部品や先端商品のみの国内生産となっていった。また半導体関係は韓国と台湾が拠点となっていった。日本メーカーの海外戦略は安い人件費と目先の利益しか興味がないものであったため、この過程で技術が次々と流出した<ref>[https://www.mag2.com/p/news/265210 凋落する日本の家電メーカー、なぜ「中韓台」企業に食われたのか - まぐまぐニュース!]</ref>。
* [[2000年代]]前半に入り、海外の家電市場は東アジアのメーカーに席巻されていくが、当時はまだ楽観論が多く、やすかろう悪かろうの商品が広まっているだけであるとされた。
* [[2000年代]]後半になり、海外家電市場では日本の得意分野である一部機器(カメラ、ゲーム機など)や[[空調機器]]を除いて存在感を失った。[[スマホ]]移行失敗、テレビ事業撤退などが相次ぎ、いよいよ日本の大手メーカーの実情が国内でも露呈した。世論は一転し、海外の有力メーカーに比べコスパからデザイン性やブランド力でも劣ると評価されるようになってしまった。
* [[2010年代]]には、事業譲渡が相次いだ。大手メーカーの一世代前の技術を活用する新興企業の存在感が拡大し、[[ジェネリック家電]]が定着した。
; 小売の歴史年表
* 1950年代より、メーカー系家庭用電気製品小売業チェーンの[[個人事業主|個人商店]]の組織化(例:松下電器産業(現在の[[パナソニック]])による「ナショナルショップ(現在の[[パナソニックショップ]])」「ナショナル店会」、[[日立製作所]]の「[[日立チェーンストール]]」、[[東芝]]の「[[東芝ストアー]]」、[[三菱電機]]の「[[三菱電機ストアー]]」、[[三洋電機]]の「サンヨー薔薇チェーン」・「[[スマイるNo.1ショップ]])」など)がされ、家庭への普及の足がかりとなった。
* 1970年代より、[[スーパーマーケット]][[チェーンストア|チェーン]]が、家庭用電気製品の安売りをはじめた。
* 1970年代中ごろより、日本電気大型店協会加盟企業を中心とした、独立系家電小売業チェーンが、[[鉄道]]の主要[[鉄道駅|駅前]]に大型店舗を出店するようになった。
* 1980年代中ごろより、独立系家電小売業チェーンが、ロードサイド郊外型の大型店を出店しはじめた。この頃から、「○○電気商会」といった、メーカー系個人商店の減少が始まる。
* 1990年代後半から独立系家電小売りチェーン企業の競争が全国レベルに激化し、[[和光電気_(家電量販店)|和光デンキ]]、[[そうご電器]]など多くの地方家電が姿を消した。一方、価格破壊を全面的に打ち出した通称YKK([[ヤマダ電機]]、[[コジマ]]、[[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]])やカメラ系量販店([[ビックカメラ]]、[[ヨドバシカメラ]]など)が急速に台頭、これらは従来の電気街を凌駕する勢力を見せるようになった。
* 2000年代になってから、高齢化の進行に伴い、個人商店への回帰が徐々に始まり、その存在が見直されつつある。もっとも、経営者の後継者不足という根本的問題を解決しない限り、今後供給不足という事態に陥る危険は高い。
* 2010年頃から、[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]がプライベートブランド[[トップバリュ]]で家電製品の販売を拡大。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 外部リンク ==
* [http://www.jema-net.or.jp/index.html 一般社団法人 日本電機工業会]
* [http://www.aeha.or.jp/index.html 財団法人 家電製品協会]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かていようてんききかいきく}}
[[Category:家電機器|*かていようてんききかいきく]]
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電気保安操作
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電気保安操作(でんきほあんそうさ)は、発電・変電・送電・配電・受電設備、電力機器等の工事・整備・点検の際の作業員の安全を守るための操作である。
電気鉄道事業者(JR各社)などでは、分離操作・結合操作と呼ばれることがある。
基本は、無電圧にすることであるが、近年は不可能なことも多い。
電源の遮断は、基本的に負荷機器に近い所(下位側)から行う。
その後、高圧機器の操作に入る。
※特別高圧で受電しているなど、さらに上位系統がある場合でも、下位側から上位側へ遮断するため、基本的に低圧→高圧→特別高圧の順に遮断する。
電源の供給は逆の手順で行う。
作業指示は、他の意味に取られるような言葉では行わないようにしなければならない。
無電圧にするときに「電源を切れ。」と指示したところ、ペンチで電圧のかかった電線を切断し電気事故になったことがあったため、電力関係の保安操作指示では「開放」・「開く」・「Off」などが用いられる。(通電する際は、「投入」・「入れる」・「On」などと表現する)
さらに、かつては短絡接地器具を付ける際に「接地をとる」と言われていたことがあった。しかし、“とる”という表現は、“付ける”のか“外す”のかあいまいであるため、用いてはならない。あくまでも接地は「付ける」か「外す」と表現すべきである。
また、左から何番目などでは無く、機器の正確な名称・番号等で指示し、銘板を指差喚呼してから操作させるべきである。
開閉器、遮断器等の操作時には、指揮監督者の指示を受けたのちに声を出してカウントするよう規定されている事業者もある。(例:○○番投入します。サン・ニー・イチ・投入!など)
労働安全衛生規則第5章「電気による危険の防止」においては、次のように定められている。
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電気保安操作(でんきほあんそうさ)は、発電・変電・送電・配電・受電設備、電力機器等の工事・整備・点検の際の作業員の安全を守るための操作である。 電気鉄道事業者(JR各社)などでは、分離操作・結合操作と呼ばれることがある。 基本は、無電圧にすることであるが、近年は不可能なことも多い。
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'''電気保安操作'''('''でんきほあんそうさ''')は、[[発電]]・[[変電]]・[[送電]]・[[配電]]・[[受電設備]]、[[電力機器]]等の工事・整備・点検の際の作業員の安全を守るための操作である。
[[電気鉄道]]事業者([[JR]]各社)などでは、分離操作・結合操作と呼ばれることがある。
基本は、無[[電圧]]にすることであるが、近年は不可能なことも多い。
==電源の遮断==
電源の遮断は、基本的に負荷機器に近い所(下位側)から行う。
*分岐回線の[[配線用遮断器]]を開放する。
*全ての分岐回線を開放した後、低圧側主遮断器を開放する。
その後、[[高圧]]機器の操作に入る。
*高圧分岐(フィーダー)[[遮断器]]を開放する。
*受電用[[遮断器]]を開放した後、電源側[[開閉器]]を開放する。
*送電禁止表示の取り付けや、充電区間表示・絶縁用防具の取り付け、施錠などを行う。
*無電流にしてから、[[断路器]]および断路機能しかない接点を開く。
*[[検電器]]で停電の確認をし、[[短絡]][[接地]]器具を付ける。(短絡接地器具付ける際は、接地側を先に付け電路側を後に付ける。外すときはその逆の手順である)
*電路ごとに検電を行い、[[残留]][[電荷]]の[[放電]](大地へ逃がす)を行う。
*制御電源の開閉器を開放する。
*作業開始の指示を行う。
※[[特別高圧]]で受電しているなど、さらに上位系統がある場合でも、下位側から上位側へ遮断するため、基本的に低圧→高圧→特別高圧の順に遮断する。
電源の供給は逆の手順で行う。
== 作業指示の方法 ==
作業指示は、他の意味に取られるような言葉では行わないようにしなければならない。
無電圧にするときに「電源を切れ。」と指示したところ、ペンチで電圧のかかった電線を切断し電気事故になったことがあったため、[[電力]]関係の保安操作指示では「開放」・「開く」・「Off」などが用いられる。(通電する際は、「投入」・「入れる」・「On」などと表現する)
さらに、かつては短絡接地器具を付ける際に「接地をとる」と言われていたことがあった。しかし、“とる”という表現は、“付ける”のか“外す”のかあいまいであるため、用いてはならない。あくまでも接地は「付ける」か「外す」と表現すべきである。
また、左から何番目などでは無く、機器の正確な名称・番号等で指示し、銘板を[[指差喚呼]]してから操作させるべきである。
開閉器、遮断器等の操作時には、指揮監督者の指示を受けたのちに声を出してカウントするよう規定されている事業者もある。(例:○○番投入します。サン・ニー・イチ・投入!など)
==関連法令==
[[労働安全衛生規則]]第5章「電気による危険の防止」においては、次のように定められている。
*第339条:[[停電]]作業を行う場合の措置
**開路に用いた開閉器に、作業中、[[施錠]]し、若しくは通電禁止に関する所要事項を表示し、又は[[監視人]]を置くこと。
**開路した電路が電力[[ケーブル]]、電力[[コンデンサー]]等を有する電路で、残留電荷による危険を生ずるおそれのあるものについては、安全な方法により当該残留電荷を確実に放電させること。
**開路した電路が高圧又は特別高圧であったものについては、検電器具により停電を確認し、かつ、誤通電、他の電路との混触又は他の電路からの誘導による[[感電]]の危険を防止するため、短絡接地器具を用いて確実に短絡接地すること。
**[[事業者]]は、前項の作業中又は作業を終了した場合において、開路した電路に通電しようとするときは、あらかじめ、当該作業に従事する[[労働者]]について感電の危険が生ずるおそれのないこと及び短絡接地器具を取りはずしたことを確認した後でなければ、行ってはならない。
*第340条:断路器等の開路
**事業者は、高圧又は特別高圧の電路の断路器、線路開閉器等の開閉器で、負荷電流をしゃ断するためのものでないものを開路するときは、当該開閉器の誤操作を防止するため、当該電路が無負荷であることを示すための[[パイロットランプ]]、当該電路の系統を判別するためのタブレット等により、当該操作を行う労働者に当該電路が無負荷であることを確認させなければならない。ただし、当該開閉器に、当該電路が無負荷でなければ開路することができない緊錠装置を設けるときは、この限りでない。
*第341条:高圧[[活線]]作業
**事業者は、高圧の充電電路の点検、修理等当該充電電路を取り扱う作業を行う場合において、当該作業に従事する労働者について感電の危険が生ずるおそれのあるときは、次の各号のいずれかに該当する措置を講じなければならない。
**労働者に絶縁用保護具を着用させ、かつ、当該充電電路のうち労働者が現に取り扱つている部分以外の部分が、接触し、又は接近することにより感電の危険が生ずるおそれのあるものに絶縁用防具を装着すること。
**労働者に活線作業用器具を使用させること。
**労働者に活線作業用装置を使用させること。この場合には、労働者が現に取り扱つている充電電路と[[電位]]を異にする物に、労働者の身体又は労働者が現に取り扱つている金属製の[[工具]]、材料等の[[導電体]](以下「身体等」という。)が接触し、又は接近することによる感電の危険を生じさせてはならない。
**労働者は、前項の作業において、絶縁用保護具の着用、絶縁用防具の装着又は活線作業用器具若しくは活線作業用装置の使用を事業者から命じられたときは、これを着用し、装着し、又は使用しなければならない。
*第342条:高圧活線近接作業
**事業者は、電路又はその支持物の敷設、点検、修理、[[塗装]]等の電気工事の作業を行う場合において、当該作業に従事する労働者が高圧の充電電路に接触し、又は当該充電電路に対して頭上距離が30cm以内又は躯側距離若しくは足下距離が60cm以内に接近することにより感電の危険が生ずるおそれのあるときは、当該充電電路に絶縁用防具を装着しなければならない。ただし、当該作業に従事する労働者に絶縁用保護具を着用させて作業を行う場合において、当該絶縁用保護具を着用する身体の部分以外の部分が当該充電電路に接触し、又は接近することにより感電の危険が生ずるおそれのないときは、この限りでない。
**労働者は、前項の作業において、絶縁用防具の装着又は絶縁用保護具の着用を事業者から命じられたときは、これを装着し、又は着用しなければならない。
*第343条:絶縁用防具の装着等
**事業者は、前二条の場合において、絶縁用防具の装着又は取りはずしの作業を労働者に行なわせるときは、当該作業に従事する労働者に、絶縁用保護具を着用させ、又は活線作業用器具若しくは活線作業用装置を使用させなければならない。
**労働者は、前項の作業において、絶縁用保護具の着用又は活線作業用器具若しくは活線作業用装置の使用を事業者から命じられたときには、これを着用し、又は使用しなければならない。
*第344条:特別高圧活線作業
**事業者は、特別高圧の充電電路又はその支持[[がいし]]の点検、修理、[[清掃]]等の電気工事の作業を行う場合において、当該作業に従事する労働者について感電の危険が生ずるおそれのあるときは、次の各号のいずれかに該当する措置を講じなければならない。
**労働者に活線作業用器具を使用させること。この場合には、身体等について、次の表の上欄に掲げる充電電路の使用電圧に応じ、それぞれ同表の下欄に掲げる充電電路に対する接近限界距離を保たせなければならない。
<table border="1" cellpadding="2">
<caption>表</caption>
<tr><th>充電電路の使用電圧(単位:kV)</th><th>充電電路に対する接近限界距離(単位:cm)</th><tr>
<tr><th>22以下</th><td>20</td><tr>
<tr><th>22をこえ33以下</th><td>30</td><tr>
<tr><th>33をこえ66以下</th><td>50</td><tr>
<tr><th>66をこえ77以下</th><td>60</td><tr>
<tr><th>77をこえ110以下</th><td>90</td><tr>
<tr><th>110をこえ154以下</th><td>120</td><tr>
<tr><th>154をこえ187以下</th><td>140</td><tr>
<tr><th>187をこえ220以下</th><td>160</td><tr>
<tr><th>220をこえる場合</th><td>200</td></tr>
</table>
**労働者に活線作業用装置を使用させること。この場合には、労働者が現に取り扱つている充電電路若しくはその支持がいしと電位を異にする物に身体等が接触し、又は接近することによる感電の危険を生じさせてはならない。
**労働者は、前項の作業において、活線作業用器具又は活線作業用装置の使用を事業者から命じられたときは、これを使用しなければならない。
*第345条:特別高圧活線近接作業
**事業者は、電路又はその支持物(特別高圧の充電電路の支持がいしを除く。)の点検、修理、塗装、清掃等の電気工事の作業を行う場合において、当該作業に従事する労働者が特別高圧の充電電路に接近することにより感電の危険が生ずるおそれのあるときは、次の各号のいずれかに該当する措置を講じなければならない。
**労働者に活線作業用装置を使用させること。
**身体等について、前条第一項第一号に定める充電電路に対する接近限界距離を保たせなければならないこと。この場合には、当該充電電路に対する接近限界距離を保つ見やすい箇所に標識等を設け、又は監視人を置き作業を監視させること。
**労働者は、前項の作業において、活線作業用装置の使用を事業者から命じられたときは、これを使用しなければならない。
*第346条:低圧活線作業
**事業者は、低圧の充電電路の点検、修理等当該充電電路を取り扱う作業を行う場合において、当該作業に従事する労働者について感電の危険が生ずるおそれのあるときは、当該労働者に絶縁用保護具を着用させ、又は活線作業用器具を使用させなければならない。
**労働者は、前項の作業において、絶縁用保護具の着用又は活線作業用器具の使用を事業者から命じられたときは、これを着用し、又は使用しなければならない。
*第347条:低圧活線近接作業
**事業者は、低圧の充電電路に近接する場所で電路又はその支持物の敷設、点検、修理、塗装等の電気工事の作業を行う場合において、当該作業に従事する労働者が当該充電電路に接触することにより感電の危険が生ずるおそれのあるときは、当該充電電路に絶縁用防具を装着しなければならない。ただし、当該作業に従事する労働者に絶縁用保護具を着用させて作業を行う場合において、当該絶縁用保護具を着用する身体の部分以外の部分が当該充電電路に接触するおそれのないときは、この限りでない。
**事業者は、前項の場合において、絶縁用防具の装着又は取りはずしの作業を労働者に行なわせるときは、当該作業に従事する労働者に、絶縁用保護具を着用させ、又は活線作業用器具を使用させなければならない。
**労働者は、前二項の作業において、絶縁用防具の装着、絶縁用保護具の着用又は活線作業用器具の使用を事業者から命じられたときは、これを装着し、着用し、又は使用しなければならない。
*第350条:[[電気工事]]の作業を行う場合の作業指揮等
**事業者は、第339条(停電作業)、第341条第1項(高圧活線作業)、第342条第1項(高圧活線近接作業)、第344条第1項(特別高圧活線作業)又は第345条第1項(特別高圧活線近接作業)の作業を行うときは、当該作業に従事する労働者に対し、作業を行う期間、作業の内容並びに取り扱う電路及びこれに近接する電路の系統について周知させ、かつ、作業の[[指揮]]者を定めて、その者に次の事項を行なわせなければならない。
***労働者にあらかじめ作業の方法及び順序を周知させ、かつ、作業を直接指揮すること。
***第345条第1項の作業(特別高圧活線近接作業)を同項第2号の措置を講じて行うときは、標識等の設置又は監視人の配置の状態を確認した後に作業の着手を指示すること。
***電路を開路して作業を行うときは、当該電路の停電の状態及び開路に用いた開閉器の施錠、通電禁止に関する所要事項の表示又は監視人の配置の状態並びに電路を開路した後における短絡接地器具の取付けの状態を確認した後に作業の着手を指示すること。
[[Category:電気安全|てんきほあんそうさ]]
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17,040 |
前線
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前線(ぜんせん)
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] |
前線(ぜんせん) 戦線で敵陣と直接向かい合う場所、敵と直接交戦を行う長く伸びた陣地。
前線 (気象) - 異なる2つの気団の不連続面が地表と交わる線。
2つの海流または水塊が接触する場所、親潮前線・黒潮前線など
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'''前線'''(ぜんせん)
* [[戦線]]で敵陣と直接向かい合う場所、敵と直接交戦を行う長く伸びた[[陣地]]。
* [[前線 (気象)]] - 異なる2つの[[気団]]の[[不連続面]]が地表と交わる線。
* 2つの海流または水塊が接触する場所、[[親潮前線]]・[[黒潮前線]]など
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
* [[最前線]]
* [[フロントライン]]
* [[桜前線]]・[[梅前線]]・[[紅葉前線]]・[[ハナミズキ]]前線([[アメリカ合衆国]])
* [[銃後]]
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:せんせん}}
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"Template:Aimai"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%B7%9A
|
17,042 |
断路器
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断路器(だんろき)は、電力回路の無負荷時の電圧を開閉する電力機器である。基本的に電流の開閉はできない。一部の断路器には、変圧器の励磁電流や回路の充電電流程度の電流であれば、開閉可能なものがある。一般的に開閉器の二次側直近に設置され、これの点検・整備、あるいは修理・改造工事などの際に、下流側を無電圧にする目的で使用する。通称はDSもしくはジスコン、ディスコン(Disconnector)といわれる。
断路器での電流の開閉は重大電気事故となるため、以下の手順で保安操作を行う。
このような事故を防止するため、電気学会が定めるJEC規格において、断路器と遮断器にはインターロック回路を設け、遮断器を入れたまま断路器を切ることができないようにすることが定められている。
特別高圧回線では切り離した回線であっても隣接する活線から電磁誘導や静電誘導を受けているため、数千ボルトに充電されていることがあり、作業者がこれに触れて死亡したケースがある。そのため、停電作業時には遮断器・断路器を切って検電を行った後、アース棒等の接地用具で接地を確実に行う必要がある。
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"text": "断路器(だんろき)は、電力回路の無負荷時の電圧を開閉する電力機器である。基本的に電流の開閉はできない。一部の断路器には、変圧器の励磁電流や回路の充電電流程度の電流であれば、開閉可能なものがある。一般的に開閉器の二次側直近に設置され、これの点検・整備、あるいは修理・改造工事などの際に、下流側を無電圧にする目的で使用する。通称はDSもしくはジスコン、ディスコン(Disconnector)といわれる。",
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"text": "断路器での電流の開閉は重大電気事故となるため、以下の手順で保安操作を行う。",
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"text": "このような事故を防止するため、電気学会が定めるJEC規格において、断路器と遮断器にはインターロック回路を設け、遮断器を入れたまま断路器を切ることができないようにすることが定められている。",
"title": "事故防止"
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"text": "特別高圧回線では切り離した回線であっても隣接する活線から電磁誘導や静電誘導を受けているため、数千ボルトに充電されていることがあり、作業者がこれに触れて死亡したケースがある。そのため、停電作業時には遮断器・断路器を切って検電を行った後、アース棒等の接地用具で接地を確実に行う必要がある。",
"title": "事故防止"
}
] |
断路器(だんろき)は、電力回路の無負荷時の電圧を開閉する電力機器である。基本的に電流の開閉はできない。一部の断路器には、変圧器の励磁電流や回路の充電電流程度の電流であれば、開閉可能なものがある。一般的に開閉器の二次側直近に設置され、これの点検・整備、あるいは修理・改造工事などの際に、下流側を無電圧にする目的で使用する。通称はDSもしくはジスコン、ディスコン(Disconnector)といわれる。
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{{出典の明記|date=2013年8月}}
[[File:High Voltage DS.JPG|thumb|right|250px|6600V変電設備の断路器(閉路位置)<br>開閉は右側のアームに繋がったテコに絶縁棒を差込んで行う。構造はシンプルなナイフスイッチと何ら変わりない。遮断器を引外さないまま操作すれば事故に繋がる。]]
[[ファイル:Scheidingsschakelaar 400kV 1.JPG|サムネイル|400kV断路器の開閉操作中にアークが発生している様子。無電流であっても片側は周囲の活線から影響を受けて数千ボルトに帯電しているため、一瞬アークが生じる。]]
'''断路器'''(だんろき)は、[[電力回路]]の無負荷時の[[電圧]]を開閉する[[電力機器]]である。基本的に[[電流]]の開閉はできない。一部の断路器には、[[変圧器]]の[[励磁]]電流や回路の充電電流程度の電流であれば、開閉可能なものがある。一般的に[[開閉器]]の二次側直近に設置され、これの[[点検]]・[[整備]]、あるいは[[修理]]・[[改造]]工事などの際に、下流側を無電圧にする目的で使用する。通称はDSもしくはジスコン、ディスコン(Disconnector)といわれる。
== 事故防止 ==
{{See also|電気保安操作}}
断路器での[[電流]]の開閉は重大[[電気事故]]となるため、以下の手順で[[保安]]操作を行う。
* [[遮断器]]・[[開閉器]]を開き無電流にしてから、断路器および断路機能しかない接点を開く。
* 断路器および断路機能しかない接点を全て閉じてから、遮断器・開閉器を閉じる。
* 電流が流れている状態の断路器を開放すると[[アーク放電]]が生じ、アークが異相の極間の放電に移行して起こる相間短絡事故や、作業者がアークに感電してしまう等の死傷事故につながる。
このような事故を防止するため、[[電気学会]]が定めるJEC規格において、断路器と遮断器には[[インターロック (安全技術)|インターロック]]回路を設け、遮断器を入れたまま断路器を切ることができないようにすることが定められている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/policy/safety_security/industrial_safety/oshirase/2011/07/230701-2-4.pdf|title=IEC61936-1改訂版の解説|accessdate=2017-02-17|author=電気設備技術基準国際化委員会|format=PDF|publisher=経済産業省|page=46}}</ref>。
特別高圧回線では切り離した回線であっても隣接する活線から[[電磁誘導]]や[[静電誘導]]を受けているため、数千ボルトに充電されていることがあり<ref>{{Cite web|和書|url=http://overhead-tml.net/tml2/induction.html|title=架空送電線 : 誘導対策|accessdate=2017-02-16|publisher=株式会社工学気象研究所}}</ref>、作業者がこれに触れて死亡したケースがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen_pg/sai_det.aspx?joho_no=533|title=職場のあんぜんサイト:労働災害事例|accessdate=2017-02-16|publisher=厚生労働省}}</ref>。そのため、停電作業時には遮断器・断路器を切って[[検電]]を行った後、アース棒等の[[接地]]用具で接地を確実に行う必要がある。
<gallery>
ファイル:TrennschalterGeschlossen.jpg|水平一点切断路器
ファイル:Scheider pantograaf.jpg|パンタグラフ形断路器
</gallery>
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[電気保安操作]]
{{DEFAULTSORT:たんろき}}
[[Category:電力機器]]
|
2003-09-16T02:43:04Z
|
2023-11-22T19:22:08Z
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"Template:See also",
"Template:Cite web"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AD%E8%B7%AF%E5%99%A8
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17,043 |
接触器
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接触器(せっしょくき)は、電動機などの電力機器の起動・停止のために、電力回路を開閉する電力機器である。
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"text": "接触器(せっしょくき)は、電動機などの電力機器の起動・停止のために、電力回路を開閉する電力機器である。",
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接触器(せっしょくき)は、電動機などの電力機器の起動・停止のために、電力回路を開閉する電力機器である。
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{{Otheruseslist|電力機器|魚体の瘤状小突起物|追星}}
[[画像:電磁開閉器.jpg|thumb|150px|right|電磁開閉器(上部が電磁接触器、下部がサーマルリレー)]]
'''接触器'''(せっしょくき)は、[[電動機]]などの[[電力機器]]の[[起動]]・[[停止]]のために、[[電力回路]]を[[開閉]]する電力機器である。
==接触器の仕様==
*[[定格電圧]]
*[[定格電流]]
*[[定格開閉電流]]
*[[定格投入電流]]
*[[定格短時間耐電流]]
*[[電気的寿命]]
*[[機械的寿命]]
*[[絶縁階級]]
*[[定格制御電圧]]
*[[定格制御電流]]
*[[操作方法]]
==接触器の種類==
*[[電磁開閉器|電磁接触器]](Electromagnetic Contactor)
*[[固体接触器]](Solid-State Contactor)
==関連項目==
*[[電気保安操作]]
*[[開閉器]]
*[[電気車の速度制御]]
**[[主制御器]]:単位スイッチを単位接触器と呼ぶことがある。
{{tech-substub}}
{{Normdaten}}
[[Category:電力機器|せつしよくき]]
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"Template:Otheruseslist",
"Template:Tech-substub",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A5%E8%A7%A6%E5%99%A8
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17,044 |
踏切
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踏切(ふみきり、英: level crossing)とは、鉄道と道路の平面交差。
踏切は、国によって一般的な状態が異なり、オーストラリアの鉄道・道路では踏切の存在を示すだけの道路標識が一般的だが、日本では安全確保のための設備(踏切警報機や遮断機)が併設されていることが多く、このほかに交通信号機が追加されている個所もある。日本の法令上の名称では、平面交差する道路自体は踏切道といい(踏切道改良促進法など)、併設の保安のための設備のほうは踏切保安装置という
本記事では、「踏切」が指しうる範囲全般、つまり踏切道と踏切保安装置について総合的に解説する。どちらを明示する必要がある場合は「踏切道」「踏切保安装置」と呼び分ける。
日本の踏切は「日本の踏切」節を参照。
もともと鉄道と同一の高さで交差する道路(の交差箇所)であり、現在では、それに安全確保用の設備が併設されている場合はその設備も含めて指す言葉である。
踏切は英語圏では地図上では「Level crossing」(※)と表記され、「Over crossing」(※)や「Under crossing」(※)と区別して表記されていることがある。その意味では、立体交差と対比されている概念・用語ということになる。
日本では現在、鉄路と道路の交差には平面交差と立体交差があり、もともと「踏切」(「踏切道」の短縮形)は「鉄道を横切る(部分の)道」という意味で、道に焦点をあてて使われている。鉄道と道路が平面交差する箇所を指し、やがてそこに保安設備が設置されることが一般化してからは、鉄道と道路が平面交差する箇所だけでなく、そこに設けられる安全確保のための設備も含めて指すことが増え一般化している。
なお細かいことを言うと、もともと民営鉄道と国鉄(国鉄分割民営化後はJR)では、「踏切」という語が指す範囲が若干異なっていた経緯がある。JRでは「無舗装のものおよび駅構内等でもっぱら職員もしくは旅客の通行または荷物の運搬に供する通路を除く」と定義されており、やや範囲が狭いが、現在他の民間鉄道会社ではそうは定義していないので、このJRの定義を一般的、絶対的と見なすことはできない。
日本で「踏切」と呼ばれるようになったのは1870年代の末頃で、それまでは「横路」や「横切馬車道」などと称されていた。
歴史的には鉄路と道路の交差部分であっても人口密度の低い地域では踏切の設備(踏切保安装置)が設置されることはなかった。また、初期の鉄道では列車の運行本数が少なかったこともあり。踏切に対する鉄道と道路が交差する箇所という意識は高くはなかった。
日本では列車の通行が優先される構造(遮断機はレールと平行)の踏切がほとんどだが、日本国外では鉄路が遮断される構造(遮断機は道路と平行)の踏切も多く存在する。明治時代においては日本も同じ構造であった。現在、鉄路が遮断される形態の踏切は、阪神電気鉄道武庫川信号場(武庫川駅至近)から本線へ出る連絡線上にあるものや、東京メトロ銀座線上野検車区入り口付近に設置されているものなどが挙げられる。ただし、いずれも通過は列車優先である。
列車運行本数が多くない国では、遮断機や警報機がない踏切(日本の3・4種踏切に相当)や、道路ではなく鉄路側が遮断される踏切、時間になると踏切警手が手動で操作する踏切が多い。また、日本の踏切は警戒色である黄色と黒の縞々のカラーリングがほとんどであるが、外国では白黒のカラーリングや門形の踏切 などもある。
踏切の設置箇所には国よる差(地域差)があり、2014年度末の都市部のデータで比較すると、日本の東京23区が620、米国ニューヨークが48、英国ロンドンが13、ドイツのベルリンが46、フランスのパリとその周辺が7、大韓民国ソウル特別市が16だった。
イギリスの鉄道では、日本と異なり、軌道側を遮断して車道側を通過させる方式(も多い)。その遮断棒の色は白と黒の縞。右の写真のように、普段は鉄路を遮断機で遮断し、列車が通過する時だけその遮断機を水平に回転させて道路側を遮断する、という方式もある。
オランダは低地帯が多いこともあって鉄道の高架化や地下化が難しく、現在でも踏切が多く残っている。また、バリアフリーの観点から列車本数の少ない駅に関しては構内踏切を設ける駅も多い。2015年には30件の事故が発生し13人が死亡した。
インドの鉄道では、警報機や遮断棒は自動のものが導入されつつあるが、踏切警手が操作する踏切も多い。地元住民は警報機が鳴り響こうが列車が来るまで平気で遮断機をくぐる光景が度々目撃されている。踏切に接近する列車はその際、警笛を何度も鳴らす。
大韓民国(韓国)の鉄道にある踏切は、次の3種に分かれる。遮断棒は赤白のカラーリングである。
広域電鉄化を中心とした路線改良などにより近年は一貫して減少傾向にある。2017年時点で韓国国内の踏切は965か所存在し、内訳は1種が867か所、2種が5か所、3種が93か所である。
台湾の鉄道にある踏切では。遮断棒は自動化されたタイプと踏切警手の扱うタイプが混在している。踏切警手が遮断機の前まで出てくる場合もある。
台湾鉄路管理局の踏切道の数は2017年度で435カ所である。
次の3種に分かれる。
台湾国鉄は元々、日本統治時代の台湾において台湾総督府によって整備されたため、制度も日本に準じている。ただし、第四種は廃止されている。
警報機の色は黄と黒の縞模様が用いられるが、遮断棒の色は白と赤の縞模様となっている。
オーストラリアにある踏切は23,500余りである。このうちの21%が「アクティブ」方式つまり列車が近づいていることを知らせる遮断機および(あるいは)警報機を備えている。残りの79%は「パッシブ」方式つまり(たとえば「Stop」(止まれ)や「Give Way」(通行を譲れ)などと書かれた)道路標識が設置してあるだけで、自動車の運転者は自分自身で左右を確認して列車が来ているか来ていないかを確認しなければならない。
オーストラリアの踏切事故では、毎年30人が亡くなっている。死亡者数は年々減少する傾向にはあるものの、ひとたび乗り物と列車の衝突事故が起きると深刻な事態となる。死亡事故以外にも、毎年1,000件以上の乗り物と列車の「ニア・ヒット」つまり衝突と紙一重の出来事が起きている。「ニア・ヒット」では列車の運転士は急制動(急ブレーキ)をかけることでトラックや乗用車、自転車、歩行者などとの衝突をかろうじて回避している。死に直結する衝突事故とかろうじて助かる「ニア・ヒット」の間には、ほんの数秒の違いしかない。オーストラリアではあくまで鉄道優先のルールとなっており、踏切事故のほとんどは道路を走る側の責任であり、道路を走る側が何かしてはいけないことをした、あるいは何かのミスを犯したことが原因となっている。(オーストラリアでは)荷物を満載した貨物列車は、緊急ブレーキをかけ始めてから停止するまでに2kmも走ってしまう。
ニュージーランドの鉄道における踏切では警報・遮断機は自動で、中には警報機だけのものもある。自動車は一時停止なしで通過できる。日本製の遮断機や警報機も存在する。
アメリカ合衆国の鉄道における踏切では早くから色灯を組み合わせた警報(警鐘)機が採用されていた。これはウィグワグ (Wigwag)と呼ばれるもので、振り子型のアームの先端に、赤い色灯を組み込んだ白い丸型の標識を取り付け、警報の鳴動と共に左右に振り視認性を確保する構造になっていた。日本ではアメリカ映画で度々目にすることが出来た。
蒸気機関車牽引の列車が主流だった頃には問題なかったが、やがて鉄道・自動車の双方が高速化するにつれ、遮断機がなく視認性も劣るという理由から、日本や欧州と同じく交差した板の標識に交互点滅の色灯を設けた、遮断機つきの警報機へと置換えが進んだ。しかし、一部の市民からは慣れ親しんだウィグワグを擁護する声も大きい。イリノイ州のイリノイ鉄道博物館(英語版)やカリフォルニア州のオレンジエンパイア鉄道博物館など鉄道車両運行を行っている鉄道博物館の一部では、車輌とともにこのウィグワグも動態保存している事例が見受けられる。
日本とは異なり、アメリカではほとんどの州で踏切前の一時停止を義務付けられていない(ただし大型車は徐行して通過する。また州によっては普通車に対しても徐行義務が課せられている)。このため、不用意に一時停止すると追突される恐れすらある。しかし、長距離トラックなどの踏切突破によって事故が起きるケースが増えるなど、問題もある。
アメリカでは踏切に接近する度ごとに長・長・短・長の4回連続で警笛を鳴動させることが多くの鉄道で行われており、歩行者などへの注意喚起に努めている。また、アメリカ型の機関車は伝統的にベルを備えており、現在でも市街地通過時には連続して打ち鳴らしている。
アメリカの道路標識では、踏切があることを知らせるものに限って丸型のものを使用している(「車両進入禁止」も標識のイラストデザイン自体は日本のものに類似した丸型のものだが、アメリカでは四角い看板に丸型のイラストデザインを描いたものになっている)。
「Passage à Niveau」を縮めて「PN」(発音された "ぺェン")と呼ばれることもあり、2017 年時点でフランスには 15,405 か所の踏切があります (1938 年には 33,500 か所、1980 年には 25,000 か所)。
踏切には、車道軸のあるものや歩行者専用のものなど、いくつかの種類があります。11,200踏切には自動信号灯が装備されており、4100踏切には聖アンドリューの十字架が描かれたパネルのみが装備されています。自動踏切には赤色の点滅灯が装備されており、これには絶対停止が必要であり、音響信号も鳴ります。遮断機のある踏切の場合は遮断機の図面、遮断機のない踏切の場合は蒸気機関車を示す三角標識で予告されます。
2007 年には、自動信号機の設置を正当化する制限は、1 日あたり少なくとも 100 台の車両通行です
自動踏切には大きく分けて4種類あります:
踏切には例外的なケースがいくつかあります。
毎年、踏切は撤去され、橋やトンネルに置き換えられますが、そのプロセスはゆっくりとしています。
日本全国の踏切道数は、2021年度で32,540カ所である。1960年には全国に7万カ所以上あったものの、1961年度に踏切道改良促進法が施行されて以来、一貫して減少傾向にある。
その一方で、踏切が新設される場合もある。阪急電鉄では、2010年12月5日より西宮北口駅8号線上に、駅南側東西の往来を円滑にする目的で新たに踏切を設置した。この8号線は今津線車両の入出庫のみに使用される回送線であり、列車の通過は早朝・夜間・深夜のみで、1日10本にも満たない(2011年時点でのダイヤグラムでは、1日4本のみ)ことから設置が認められた。また、平成時代に開業した鉄道新線でも、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線や井原鉄道井原線には踏切が設置されている所もある。このほか、ひたちなか海浜鉄道湊線においてひたちなか市の土地区画整理事業による踏切の新設が行われたほか、可部線において廃線区間の一部を復活させる事業でも、踏切の新設が認められている。
明治時代の初期の鉄道では踏切(鉄路)に踏切門扉が設置され、踏切係員がその開閉を行っていた。
しかし、明治末期から大正時代になると列車接近前に道路を遮断して、列車通過後に遮断の解除を行うようになった。踏切係員は踏切番人と呼ばれ隣接する番舎(詰所兼住居)に家族と住むことが多かったが、次第に2人以上の職員による勤務体制が一般的になっていった。踏切遮断機も既にあり、1925年(大正14年)には、引掛式、上下式、引出式の3種が定められた。また、1948年(昭和23年)には昇開式、片側腕木式、両側腕木式、引戸式、綱張式が定められた。
踏切遮断機には手動式と電動式があり、古くは踏切係員が手動で操作していた。電動機付の踏切遮断機が登場した後もその操作は踏切係員が行っていた。踏切係員は1921年(大正10年)には踏切看守と呼ばれていたが、1936年(昭和11年)に踏切警手、1961年(昭和36年)に踏切保安掛(-ほあんがかり)と呼称が変わっている。
日本で自動化された踏切遮断機が登場するのは1958年(昭和33年)になってからである。踏切係員の勤務は24時間交代といった厳しいものであったため、寝過ごす等のミスで開閉器を下すことができず、衝突による死傷事故がしばしば発生していた。このため自動化は急速に進められた。
踏切の主な設備は次の通りである。これらの設備類を総称して「踏切保安装置」と呼ぶ。
日本では踏切に踏切警報機等の踏切保安設備の設置が義務づけられている。平成13年(2001年)の鉄道に関する技術上の基準を定める省令(平成13年国土交通省令第151号)では、踏切道は踏切保安設備(踏切警報機と遮断機、または踏切警報機のみ)を設けたものでなければならないとされている。ただし、以前から存在するものについてまでその義務を新たに課したものではない。
遮断機が完全に降りてから列車が到達するまでの時間は、日本では標準20秒、最短で15秒と定められている。大手私鉄のほとんどと、JRのATS-P設置路線の一部では、列車選別装置が設置され、列車種別に関わりなく列車の到達時間はこの程度となる。
現在、設置義務はなく、JRから経営分離した路線では、新たに設置した会社も設置していない会社も存在する。踏切動作反応灯でも従来の白熱電球に代わり発光ダイオード(LED)が使用されるようになった。事業者により形状は異なり、特殊信号発光機と一体にしている鉄道事業者もある。
日本では踏切は設置される保安設備により次のように分類される。現在一般的なのは第1種甲である。第3種は第1種甲に転換され数が減ってきている。信号機によって道路交通を規制する踏切は路面電車や比較的運行本数の少ない専用鉄道などで見られる。
国土交通省による2020年3月末時点(2019年度末時点)での集計によると、日本で公式に設置されている踏切の総数(3万3004カ所)のうち第1種が2万9717カ所、第2種が0カ所、第3種が684カ所、第4種が2603カ所。2017年度末時点での集計(第1種2万9801カ所、第2種0カ所、第3種723カ所、第4種2726カ所) より減っている。
自動踏切警報機と自動遮断機を設置するか、踏切保安係を配置して、列車が通る際に道路の交通を遮断機によって遮断するもの。
一部の時間帯のみ踏切保安係が遮断機を操作する踏切。つまり、踏切保安係のいない時間帯は第3種または第4種と同じになる。遮断機作動の有無を示すため踏切保安係がいる時間が掲示されている。第1種などへの置き換えにより、この種の踏切は日本国内では完全消滅している。1980年には国内に20カ所存在した(国鉄は0)が、1985年には皆無になっていた。
遮断機はないが踏切警報機が設置されている踏切。 現在は警報器更新時に遮断機が追加設置される事が多いため非常に少ない。
踏切警報機や遮断機が設置されておらず、踏切保安係も配置されていない踏切。列車の接近を知らせる装置が無く、主に踏切警標があるだけである。踏切を模した木型や「とまれみよ」といった標識だけで、実際に列車が接近していて危険ではないかの判断は、通行者の目視および聴覚等に委ねられている。このため事故が発生しやすく、後述するように国は第1種踏切への転換か廃止を求めており、新設は禁止されている。ローカル線に多いが、列車の速度が高い幹線にも存在する。交差する道路は歩行者や二輪車が通れる幅しかなく、四輪車は通れない踏切も多い。また、信号機によって道路交通を規制する方式の踏切もこれに分類される。
踏切内における鉄道対自動車の衝突事故も、しばしば発生して問題になることがある。2018年に長崎本線の踏切で発生した衝突死亡事故では、2019年4月25日に運輸安全委員会が事故調査報告書を公表。報告書は第4種踏切の危険性を指摘し、九州旅客鉄道(JR九州)など関係機関に対し、踏切の早期廃止など対策の実施を求める内容となっている。
2000年代までは近畿日本鉄道でも第4種踏切が減少しながらも存在していたが、踏切の廃止および第1種化、及び第4種踏切が存在する路線(養老線・伊賀線)の他社への譲渡や経営移管により消滅した。
2017年時点までは、西武鉄道でも第4種踏切が存在していたが、これは当時休止していた安比奈線に存在していたもので、列車の通行はなかったが、国土交通省の書類の記録に存置していたために計上されていたに過ぎず、実質的には、西武鉄道での第4種踏切は他の路線を含めて消滅していた。
2023年時点では大手私鉄でも東急電鉄(世田谷線の若林踏切)、京成電鉄、名古屋鉄道に1カ所ずつ存在している。
総務省行政評価局は2021年11月、国土交通省に対して、第4種踏切を解消(廃止かより安全な踏切への改良)するための協議会を各地域ごとに設けるよう勧告したが、特に中小鉄道会社において解消は難航している。警報機や遮断機の設置に1か所当たり約1,000万円という費用、定期的なメンテナンス費用(4種でも必要ではあるが、他に比べれば極めて軽微)が必要であり、4種踏切のある鉄道事業者には、採算が厳しい地方の事業者が多く、費用の捻出が困難であることと、地元住民が踏切の廃止(横断不能化)に反対していること(死亡事故が発生しているにもかかわらず踏切の存続を希望するケースもある)などがネックになっているとされる。法律上、踏切の廃止に地元同意は必要ないが、国土交通省は紛争を避けるため自治体や住民と協議するよう鉄道事業者に指導している。
鉄道事業者によって認められた踏切のほかに、小さな路地や畔道、山道などの里道やいわゆる赤道(あかみち)と鉄道線路が交差している場所がある。近隣住民が線路脇の土手を階段状にして上り下りしているケースもある。このような場所は踏切ではなく、法令上は一般人の立ち入り・横断は禁止されているが、実際には近隣の住民が日常的に横断し、事実上の踏切となっている。一部のメディアではそのような場所を勝手踏切と呼んでいる。一方で、国土交通省は「明確な定義がなく、鉄道事業者も踏切と認めていない」として「勝手踏切」という語を公的に認めていない。
2016年(平成28年)11月1日付の『読売新聞』の報道によると、日本全国にあるこうした場所が、正規に認可された踏切数(取材時点で3万3432か所)の約6割に相当する約1万9000か所にも及ぶことが、国土交通省の調べで判明したとしている。その後も国土交通省は鉄道事業者を通じて調査を継続し、沖縄都市モノレール線しかない沖縄県を除く46都道府県全ての鉄道に人が日常的に横断している形跡がある場所があった。2021年1月時点で判明分だけで1万7066か所で、2016年3月時点の約1万9000か所より減ったものの依然多い。最多は愛媛県(1031か所)で、続く長野県と新潟県も800か所を超える。
こうした事実上の踏切は、無許可での線路横断を禁じた鉄道営業法に違反し、それで運行トラブルを招けば往来危険罪、業務妨害罪(刑法)に問われる可能性もある。
このような場所の中には、元々は近隣住民が利用していた生活道路が後から建設された線路によって分断された歴史的経緯が存在する例もある。鉄道事業者側としてはあくまで線路内立ち入りを黙認しているという扱いで、線路内に立ち入らないよう注意書き看板などを設置している。往来が増加するなど鉄道事業者が危険と判断すればこれまで黙認されていた場合でも警察当局への通報ならびに検挙がなされるリスクが存在する。踏切ではないので踏み板などもないが、鉄道事業者によっては非公認を前提としつつ踏み板を設置した例がある。フェンスで線路への立ち入りを防ぐ対策もあるが、費用負担が大きいうえ、住民の反発を受けることもある。江ノ島電鉄は折衷案として、津波からの避難時など非常時に開けられる錠付き扉を設置した。
また、このような場所を正式に踏切にすることは踏切を新設することになり、交通量が多い場合などは鉄道に関する技術上の基準を定める省令39条に抵触する可能性がある。このため、複線化などの改良工事の際に閉鎖(横断不能化)されることもある。「勝手踏切」状態だった場所への踏切新設が行われた事例自体は存在しており、氷見線における義経岩アクセスを目的とした歩行者用踏切「義経岩踏切」等が挙げられる。
日本の道路交通法では、自動車用の信号機付きの踏切(いわゆる踏切信号)で青信号が表示されている場合を除き、踏切の種類や列車の運行時間に関係なく、踏切手前での一時停止と安全確認が義務付けられている(第33条第1項)。その際、窓開けについては義務ではないにもかかわらず、運転免許試験では窓開けをしないと減点対象となる。遮断機・警報機付きであっても例外でないのは、遮断機や警報機が故障している可能性があるためとされている。後述のように、近年でも落雷などによる突発的な故障例がある。また、保線などに使用される保守用車は、信号機や踏切に無用な影響を与えないようにするため絶縁車輪を用いている関係で軌道回路で検知できず、除雪車など一部を除き線路上を走行しても遮断機・警報機が作動しないようにしている(詳しくは「線路閉鎖」「モーターカー」を参照)。
車道と併用の踏切道の両端は歩道であるが、視覚障害者向けの点字ブロックは踏切手前までしかないことが多く、それが原因の可能性がある列車に轢かれての死亡事故も発生している。赤外線などを利用した障害物検知装置(障検)は自動車の立ち往生を想定しており、動いている人は光を遮る時間が短いため検知しない。しかし山陽電気鉄道が2021年7月から、人に特化して検知する仕組みの障害物検知装置を開発し導入した。
ケーブルカーのうち、近鉄生駒鋼索線と近鉄西信貴鋼索線では踏切が設置されており、中には自動車が走行可能な踏切もある。なお、踏切部分のケーブルは露出したままとなっている。
鉄道事業者による定義では、停車場構内にある道路と交差する踏切を指す。自動車が通過できる構内踏切も多数存在する。構内にあるため、列車通過以外に過走防護や入換車両のために遮断される回数が多く、開かずの踏切になりやすい傾向がある。
地上駅の構内で駅舎やホーム間を行き来するために設けられた通路に存在する警報機などの存在する箇所を(一般的な呼称であり厳密には上記定義に該当しないが)構内踏切、もしくは渡線道、構内通路、旅客通路と称する場合もある。しかしあくまでも道路交通との交点ではなく(したがって踏切ではなく)、運輸局への届け出上では渡線路となっているのが通例である。
また、ホームの設備として“列車がきます”の表示灯と警報音を備えた機械があるだけで、遮断機や渡線路を持たない第3種に近いものもあるが、これも構内踏切の一種となっている。
列車通過の際に通路が遮断されることによって発車時刻直前になって改札を行っても目的の列車に乗車出来なくなる恐れが高くなるため、跨線橋や地下道の整備、駅舎の橋上化や高架化などを行う事でこのような渡線路は減少傾向にある。しかし、地方の駅ではバリアフリー化のため京福電気鉄道嵐山線帷子ノ辻駅や伊予鉄道高浜線古町駅、JR九州肥薩線人吉駅、日豊本線川南駅のように構内踏切を復活させた事例 もある。
日本国有鉄道が設置した構内踏切においては、駅目の前の道路上の踏切の警報音が列車接近を知らせる役目も兼ねている関係上、道路上の踏切よりも警報音が低めに設定されている。これは、JRグループが新規に設置した鉄道駅の一部や、国鉄やJRの路線を引き継いだ第三セクター鉄道の駅にも同様のものがそのまま使われている。
また、東京都区部でも、下町の一部の路線で用いられている場合がある(京成電鉄金町線柴又駅、東武鉄道亀戸線亀戸水神駅など)。
以下のいずれかが使用されている。これらの名称または番号は、踏切に記されている事が多い。番号を使う方式の場合、踏切が廃止されても番号は詰められず、欠番のままとなる。また、名前の由来となった事象が消滅した場合(町名変更など)も、基本的に名前の変更は行われない。
踏切は鉄道車両と自動車、自転車、歩行者がともに通過・進入して交通が錯綜することから鉄道事故が起こりやすく、交通渋滞の原因ともなる。事故については、列車の接近を認識しながら無理な横断を図った場合以外に、イヤホンで音楽を聴き入っていたことなどによる不注意、歩行や視覚・聴覚に障害があるケースなど様態は様々である。国土交通省によると、第3種・第4種踏切での事故は100カ所あたり0.94件で、第1種の1.4倍に達する。運輸安全委員会は2014年度以降、死亡者が出た踏切事故の全件で現場調査・分析を行っている。その度に報告書で対策を求めているが、第1種への改修は特に中小私鉄やローカル鉄道事業者にとって費用負担が重く、立体交差化は自治体の費用負担が重く、踏切の廃止(横断不能化)は上記「事実上の踏切」と同様に周辺住民からの反対が強く、あまり進んでいない。
また特に大都市圏において列車本数や線路数が多い踏切では、朝ラッシュ時など時間帯によっては(ダイヤが乱れた場合も含む)、開いている時間が閉まっている時間よりも短く(1時間に数分しか開いていない踏切もある)、開かずの踏切となってしまっているものもある。そのため、特に交通量の多い箇所を中心に、道路や鉄道の高架化または地下化を目的とした連続立体交差事業によって踏切の除去が進められている。なお、踏切が開いている時間は、列車がわずか数秒遅れる程度でも開かなくなることがある(対向列車及び同一方向の列車間隔が主な理由)。また、遮断機が故障して上がらなくなることで、道路交通に支障が生じるケースもある。一方で、遮断機が下りないまま列車が踏切に進入する事案も発生することがあり、高松琴平電気鉄道長尾線で2023年4月に発生した件では、過去2年以内に類似の事例が4件発生していたことも鑑み、国土交通省四国運輸局が改善を指示している。
更に、渋滞原因の一つである自動車の踏切一時停止義務も、日本国外では警報機・遮断機つき(国によっては警報機のみの場合も)の場合はほとんど規制されていない ことから、第1種踏切については日本の国会でも廃止すべきか検討されたことがある。しかし、2000年8月9日に秩父鉄道において、落雷により警報機が故障した踏切で電車と踏切に進入した自動車との事故が発生した。踏切信号機を設置した踏切で青信号が表示されている場合は一時停止が不要なため、交通量の多い一部の踏切では踏切信号機を設置し、一時停止義務をなくして交通の円滑化が図られている。しかし、これにも弊害があり、踏切部分の道床の劣化が早まってしまう場合がある。福島交通飯坂線平野踏切では、交差する国道13号を重量のある大型車両が絶えず高速で通過するため、想定を超える道床からの打ち返しにより、レールの金属疲労が大きくなり、レールが破断する事態となった。
その上、その踏切が線路の曲線上に存在する場合、カントにより道路側に段差が生ずる。このような線路を複数またぐ踏切ともなれば路面が洗濯板状となってしまう。そのため『交通バラエティ 日本の歩きかた』で取り上げられた例においては段差を越える際の振動により「自転車のカゴから荷物が落ちる」「積み荷が破損する」、段差そのものにより「自動車の底部や路面に傷ができる」「(開かずの踏切だった場合に急いで通過しようとして)バランスを崩したりローライダーの如くクルマが跳ねたりする」といった弊害が発生していた。
道路法および鉄道に関する技術上の基準を定める省令に道路と鉄道が交差する場合は原則として立体交差としなければならないと定められているため、新幹線(ミニ新幹線 と東海旅客鉄道浜松工場への引込線 を除く)や武蔵野線や湖西線など、モータリゼーションによる道路整備が進んだ後に新規に開業した多くの路線では、道路との交差地点は全て立体交差とし、踏切を設けていない。例外的に踏切の新設が認められる場合として、停車場に近接した場所で道路と交差する場合において、立体交差になることで道路又は鉄道の効用が著しく阻害される場合などが道路法施行令で定められており、新設路線でも既設路線との接続駅付近に踏切が設置されている場合がある。「立体交差」も参照。
また、大地震発生時において、地震によって踏切の遮断機が上がらなくなり、避難行動や緊急自動車の走行に支障を生じるケースもあり、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)や大阪府北部地震などで問題となった。いずれのケースも、鉄道事業者側が設備の安全確認に追われる余り、遮断機を手動で昇降させる要員が足りなかったためとされる。
こうした事態を防ぐため、遮断機を上げて道路交通を再開させる手順を鉄道事業者と道路管理者である自治体などがあらかじめ定めておく「災害時指定踏切」制度が2021年4月に創設され、同年6月30日に国土交通省が181カ所を指定した。
特殊な踏切の例として、鉄道事業者が併用軌道を設けている場合、長大な踏切として扱われるという解説がよく言われるが、それは事実ではない。事業者側が監督官庁に対して、敷設許可申請 を行い、それに対しが許可が与えられる。その後、道路管理者の道路占用許可を別途受けている。その道路占用許可は道路法施行令第9条の定めにより10年以内の期限を定めて許可されるため、線路が維持される限り期限の更新を受けている。
なお、併用軌道は走行速度が低く設定されている場合が多く、ダイヤの設定の上で障害にもなっている。さらに道路の交通量が増加し車の渋滞や、車と鉄道車両との接触事故の問題などから、現在では普通鉄道の列車が併用軌道を走る区間はほぼ消滅している。
しかしながら、江ノ島電鉄線、熊本電気鉄道藤崎線では依然としてこの形態が残っている。この両者は当初軌道法に準ずる軌道路線で敷設された後、地方鉄道法に準ずる鉄道路線に切り替えたためにこの形態となったものである。
小規模の飛行場や運河の可動橋でも鉄道用の踏切警報機・遮断機を設置している場合がある。
変わり種としては山口県宇部市にある宇部伊佐専用道路と一般道路が交差する部分に鉄道用の踏切警報機・遮断機を設置しており、一般車両が専用道路を通過する大型トレーラーを通過待ちする光景が見られる。また、鉄道用の遮断機が設置されているものは、バス専用道路に例がある。
また、道路を遮断する交通機関が鉄道ではない踏切も存在する。ジブラルタル国際空港では、飛行機対道路で踏切が設置されている。かつてはロンドン・ヒースロー空港にも存在したほか、日本国内でも2004年に廃港となった群馬県の大西飛行場には、滑走路中央付近を横断する道路に対して踏切が設置されていた。
列車と動物の接触事故防止を目的とした踏切。全国で列車とシカが接触する事故は2014年度は5,000件に増加したとされる。近畿日本鉄道においてもシカの衝突が2015年には288件に達し、接触防止策を数々試すも効果が上がらなかったことから2016年5月16日より動物との接触事故防止設備を「シカ踏切」の名称で導入した。シカ踏切は線路周辺に侵入防止ネットを張ったところのうち獣道(シカ道)に通じる箇所だけネットを張らずにシカが通れるようにしておき、列車運行がある時間帯にのみシカの嫌う超音波を発信し、発信中は線路へのシカの侵入を抑制する。これによりシカとの衝突は導入直前の前は年平均10件以上あったものが年2件以下に激減し 列車運行が無い時間帯は超音波を止めることでシカは線路を侵入・横断できるのでシカに優しい踏切と呼ばれている。
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"text": "踏切(ふみきり、英: level crossing)とは、鉄道と道路の平面交差。",
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"text": "踏切は、国によって一般的な状態が異なり、オーストラリアの鉄道・道路では踏切の存在を示すだけの道路標識が一般的だが、日本では安全確保のための設備(踏切警報機や遮断機)が併設されていることが多く、このほかに交通信号機が追加されている個所もある。日本の法令上の名称では、平面交差する道路自体は踏切道といい(踏切道改良促進法など)、併設の保安のための設備のほうは踏切保安装置という",
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"text": "本記事では、「踏切」が指しうる範囲全般、つまり踏切道と踏切保安装置について総合的に解説する。どちらを明示する必要がある場合は「踏切道」「踏切保安装置」と呼び分ける。",
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"text": "日本の踏切は「日本の踏切」節を参照。",
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"text": "もともと鉄道と同一の高さで交差する道路(の交差箇所)であり、現在では、それに安全確保用の設備が併設されている場合はその設備も含めて指す言葉である。",
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"text": "踏切は英語圏では地図上では「Level crossing」(※)と表記され、「Over crossing」(※)や「Under crossing」(※)と区別して表記されていることがある。その意味では、立体交差と対比されている概念・用語ということになる。",
"title": "概要"
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"text": "日本では現在、鉄路と道路の交差には平面交差と立体交差があり、もともと「踏切」(「踏切道」の短縮形)は「鉄道を横切る(部分の)道」という意味で、道に焦点をあてて使われている。鉄道と道路が平面交差する箇所を指し、やがてそこに保安設備が設置されることが一般化してからは、鉄道と道路が平面交差する箇所だけでなく、そこに設けられる安全確保のための設備も含めて指すことが増え一般化している。",
"title": "概要"
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"text": "なお細かいことを言うと、もともと民営鉄道と国鉄(国鉄分割民営化後はJR)では、「踏切」という語が指す範囲が若干異なっていた経緯がある。JRでは「無舗装のものおよび駅構内等でもっぱら職員もしくは旅客の通行または荷物の運搬に供する通路を除く」と定義されており、やや範囲が狭いが、現在他の民間鉄道会社ではそうは定義していないので、このJRの定義を一般的、絶対的と見なすことはできない。",
"title": "概要"
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"text": "日本で「踏切」と呼ばれるようになったのは1870年代の末頃で、それまでは「横路」や「横切馬車道」などと称されていた。",
"title": "概要"
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"text": "歴史的には鉄路と道路の交差部分であっても人口密度の低い地域では踏切の設備(踏切保安装置)が設置されることはなかった。また、初期の鉄道では列車の運行本数が少なかったこともあり。踏切に対する鉄道と道路が交差する箇所という意識は高くはなかった。",
"title": "概要"
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"text": "日本では列車の通行が優先される構造(遮断機はレールと平行)の踏切がほとんどだが、日本国外では鉄路が遮断される構造(遮断機は道路と平行)の踏切も多く存在する。明治時代においては日本も同じ構造であった。現在、鉄路が遮断される形態の踏切は、阪神電気鉄道武庫川信号場(武庫川駅至近)から本線へ出る連絡線上にあるものや、東京メトロ銀座線上野検車区入り口付近に設置されているものなどが挙げられる。ただし、いずれも通過は列車優先である。",
"title": "概要"
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"text": "列車運行本数が多くない国では、遮断機や警報機がない踏切(日本の3・4種踏切に相当)や、道路ではなく鉄路側が遮断される踏切、時間になると踏切警手が手動で操作する踏切が多い。また、日本の踏切は警戒色である黄色と黒の縞々のカラーリングがほとんどであるが、外国では白黒のカラーリングや門形の踏切 などもある。",
"title": "概要"
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"text": "踏切の設置箇所には国よる差(地域差)があり、2014年度末の都市部のデータで比較すると、日本の東京23区が620、米国ニューヨークが48、英国ロンドンが13、ドイツのベルリンが46、フランスのパリとその周辺が7、大韓民国ソウル特別市が16だった。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "イギリスの鉄道では、日本と異なり、軌道側を遮断して車道側を通過させる方式(も多い)。その遮断棒の色は白と黒の縞。右の写真のように、普段は鉄路を遮断機で遮断し、列車が通過する時だけその遮断機を水平に回転させて道路側を遮断する、という方式もある。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "オランダは低地帯が多いこともあって鉄道の高架化や地下化が難しく、現在でも踏切が多く残っている。また、バリアフリーの観点から列車本数の少ない駅に関しては構内踏切を設ける駅も多い。2015年には30件の事故が発生し13人が死亡した。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "インドの鉄道では、警報機や遮断棒は自動のものが導入されつつあるが、踏切警手が操作する踏切も多い。地元住民は警報機が鳴り響こうが列車が来るまで平気で遮断機をくぐる光景が度々目撃されている。踏切に接近する列車はその際、警笛を何度も鳴らす。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "大韓民国(韓国)の鉄道にある踏切は、次の3種に分かれる。遮断棒は赤白のカラーリングである。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "広域電鉄化を中心とした路線改良などにより近年は一貫して減少傾向にある。2017年時点で韓国国内の踏切は965か所存在し、内訳は1種が867か所、2種が5か所、3種が93か所である。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "台湾の鉄道にある踏切では。遮断棒は自動化されたタイプと踏切警手の扱うタイプが混在している。踏切警手が遮断機の前まで出てくる場合もある。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "台湾鉄路管理局の踏切道の数は2017年度で435カ所である。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "次の3種に分かれる。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "台湾国鉄は元々、日本統治時代の台湾において台湾総督府によって整備されたため、制度も日本に準じている。ただし、第四種は廃止されている。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "警報機の色は黄と黒の縞模様が用いられるが、遮断棒の色は白と赤の縞模様となっている。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "オーストラリアにある踏切は23,500余りである。このうちの21%が「アクティブ」方式つまり列車が近づいていることを知らせる遮断機および(あるいは)警報機を備えている。残りの79%は「パッシブ」方式つまり(たとえば「Stop」(止まれ)や「Give Way」(通行を譲れ)などと書かれた)道路標識が設置してあるだけで、自動車の運転者は自分自身で左右を確認して列車が来ているか来ていないかを確認しなければならない。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "オーストラリアの踏切事故では、毎年30人が亡くなっている。死亡者数は年々減少する傾向にはあるものの、ひとたび乗り物と列車の衝突事故が起きると深刻な事態となる。死亡事故以外にも、毎年1,000件以上の乗り物と列車の「ニア・ヒット」つまり衝突と紙一重の出来事が起きている。「ニア・ヒット」では列車の運転士は急制動(急ブレーキ)をかけることでトラックや乗用車、自転車、歩行者などとの衝突をかろうじて回避している。死に直結する衝突事故とかろうじて助かる「ニア・ヒット」の間には、ほんの数秒の違いしかない。オーストラリアではあくまで鉄道優先のルールとなっており、踏切事故のほとんどは道路を走る側の責任であり、道路を走る側が何かしてはいけないことをした、あるいは何かのミスを犯したことが原因となっている。(オーストラリアでは)荷物を満載した貨物列車は、緊急ブレーキをかけ始めてから停止するまでに2kmも走ってしまう。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "ニュージーランドの鉄道における踏切では警報・遮断機は自動で、中には警報機だけのものもある。自動車は一時停止なしで通過できる。日本製の遮断機や警報機も存在する。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "アメリカ合衆国の鉄道における踏切では早くから色灯を組み合わせた警報(警鐘)機が採用されていた。これはウィグワグ (Wigwag)と呼ばれるもので、振り子型のアームの先端に、赤い色灯を組み込んだ白い丸型の標識を取り付け、警報の鳴動と共に左右に振り視認性を確保する構造になっていた。日本ではアメリカ映画で度々目にすることが出来た。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "蒸気機関車牽引の列車が主流だった頃には問題なかったが、やがて鉄道・自動車の双方が高速化するにつれ、遮断機がなく視認性も劣るという理由から、日本や欧州と同じく交差した板の標識に交互点滅の色灯を設けた、遮断機つきの警報機へと置換えが進んだ。しかし、一部の市民からは慣れ親しんだウィグワグを擁護する声も大きい。イリノイ州のイリノイ鉄道博物館(英語版)やカリフォルニア州のオレンジエンパイア鉄道博物館など鉄道車両運行を行っている鉄道博物館の一部では、車輌とともにこのウィグワグも動態保存している事例が見受けられる。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "日本とは異なり、アメリカではほとんどの州で踏切前の一時停止を義務付けられていない(ただし大型車は徐行して通過する。また州によっては普通車に対しても徐行義務が課せられている)。このため、不用意に一時停止すると追突される恐れすらある。しかし、長距離トラックなどの踏切突破によって事故が起きるケースが増えるなど、問題もある。",
"title": "各国の踏切"
},
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"text": "アメリカでは踏切に接近する度ごとに長・長・短・長の4回連続で警笛を鳴動させることが多くの鉄道で行われており、歩行者などへの注意喚起に努めている。また、アメリカ型の機関車は伝統的にベルを備えており、現在でも市街地通過時には連続して打ち鳴らしている。",
"title": "各国の踏切"
},
{
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"text": "アメリカの道路標識では、踏切があることを知らせるものに限って丸型のものを使用している(「車両進入禁止」も標識のイラストデザイン自体は日本のものに類似した丸型のものだが、アメリカでは四角い看板に丸型のイラストデザインを描いたものになっている)。",
"title": "各国の踏切"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "「Passage à Niveau」を縮めて「PN」(発音された \"ぺェン\")と呼ばれることもあり、2017 年時点でフランスには 15,405 か所の踏切があります (1938 年には 33,500 か所、1980 年には 25,000 か所)。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "踏切には、車道軸のあるものや歩行者専用のものなど、いくつかの種類があります。11,200踏切には自動信号灯が装備されており、4100踏切には聖アンドリューの十字架が描かれたパネルのみが装備されています。自動踏切には赤色の点滅灯が装備されており、これには絶対停止が必要であり、音響信号も鳴ります。遮断機のある踏切の場合は遮断機の図面、遮断機のない踏切の場合は蒸気機関車を示す三角標識で予告されます。",
"title": "各国の踏切"
},
{
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"text": "2007 年には、自動信号機の設置を正当化する制限は、1 日あたり少なくとも 100 台の車両通行です",
"title": "各国の踏切"
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"text": "自動踏切には大きく分けて4種類あります:",
"title": "各国の踏切"
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"text": "踏切には例外的なケースがいくつかあります。",
"title": "各国の踏切"
},
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"paragraph_id": 36,
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"text": "毎年、踏切は撤去され、橋やトンネルに置き換えられますが、そのプロセスはゆっくりとしています。",
"title": "各国の踏切"
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"text": "日本全国の踏切道数は、2021年度で32,540カ所である。1960年には全国に7万カ所以上あったものの、1961年度に踏切道改良促進法が施行されて以来、一貫して減少傾向にある。",
"title": "日本の踏切"
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"text": "その一方で、踏切が新設される場合もある。阪急電鉄では、2010年12月5日より西宮北口駅8号線上に、駅南側東西の往来を円滑にする目的で新たに踏切を設置した。この8号線は今津線車両の入出庫のみに使用される回送線であり、列車の通過は早朝・夜間・深夜のみで、1日10本にも満たない(2011年時点でのダイヤグラムでは、1日4本のみ)ことから設置が認められた。また、平成時代に開業した鉄道新線でも、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線や井原鉄道井原線には踏切が設置されている所もある。このほか、ひたちなか海浜鉄道湊線においてひたちなか市の土地区画整理事業による踏切の新設が行われたほか、可部線において廃線区間の一部を復活させる事業でも、踏切の新設が認められている。",
"title": "日本の踏切"
},
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"text": "明治時代の初期の鉄道では踏切(鉄路)に踏切門扉が設置され、踏切係員がその開閉を行っていた。",
"title": "日本の踏切"
},
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"text": "しかし、明治末期から大正時代になると列車接近前に道路を遮断して、列車通過後に遮断の解除を行うようになった。踏切係員は踏切番人と呼ばれ隣接する番舎(詰所兼住居)に家族と住むことが多かったが、次第に2人以上の職員による勤務体制が一般的になっていった。踏切遮断機も既にあり、1925年(大正14年)には、引掛式、上下式、引出式の3種が定められた。また、1948年(昭和23年)には昇開式、片側腕木式、両側腕木式、引戸式、綱張式が定められた。",
"title": "日本の踏切"
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"text": "踏切遮断機には手動式と電動式があり、古くは踏切係員が手動で操作していた。電動機付の踏切遮断機が登場した後もその操作は踏切係員が行っていた。踏切係員は1921年(大正10年)には踏切看守と呼ばれていたが、1936年(昭和11年)に踏切警手、1961年(昭和36年)に踏切保安掛(-ほあんがかり)と呼称が変わっている。",
"title": "日本の踏切"
},
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"tag": "p",
"text": "日本で自動化された踏切遮断機が登場するのは1958年(昭和33年)になってからである。踏切係員の勤務は24時間交代といった厳しいものであったため、寝過ごす等のミスで開閉器を下すことができず、衝突による死傷事故がしばしば発生していた。このため自動化は急速に進められた。",
"title": "日本の踏切"
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "踏切の主な設備は次の通りである。これらの設備類を総称して「踏切保安装置」と呼ぶ。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本では踏切に踏切警報機等の踏切保安設備の設置が義務づけられている。平成13年(2001年)の鉄道に関する技術上の基準を定める省令(平成13年国土交通省令第151号)では、踏切道は踏切保安設備(踏切警報機と遮断機、または踏切警報機のみ)を設けたものでなければならないとされている。ただし、以前から存在するものについてまでその義務を新たに課したものではない。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "遮断機が完全に降りてから列車が到達するまでの時間は、日本では標準20秒、最短で15秒と定められている。大手私鉄のほとんどと、JRのATS-P設置路線の一部では、列車選別装置が設置され、列車種別に関わりなく列車の到達時間はこの程度となる。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "現在、設置義務はなく、JRから経営分離した路線では、新たに設置した会社も設置していない会社も存在する。踏切動作反応灯でも従来の白熱電球に代わり発光ダイオード(LED)が使用されるようになった。事業者により形状は異なり、特殊信号発光機と一体にしている鉄道事業者もある。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "日本では踏切は設置される保安設備により次のように分類される。現在一般的なのは第1種甲である。第3種は第1種甲に転換され数が減ってきている。信号機によって道路交通を規制する踏切は路面電車や比較的運行本数の少ない専用鉄道などで見られる。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "国土交通省による2020年3月末時点(2019年度末時点)での集計によると、日本で公式に設置されている踏切の総数(3万3004カ所)のうち第1種が2万9717カ所、第2種が0カ所、第3種が684カ所、第4種が2603カ所。2017年度末時点での集計(第1種2万9801カ所、第2種0カ所、第3種723カ所、第4種2726カ所) より減っている。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "自動踏切警報機と自動遮断機を設置するか、踏切保安係を配置して、列車が通る際に道路の交通を遮断機によって遮断するもの。",
"title": "日本の踏切"
},
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "一部の時間帯のみ踏切保安係が遮断機を操作する踏切。つまり、踏切保安係のいない時間帯は第3種または第4種と同じになる。遮断機作動の有無を示すため踏切保安係がいる時間が掲示されている。第1種などへの置き換えにより、この種の踏切は日本国内では完全消滅している。1980年には国内に20カ所存在した(国鉄は0)が、1985年には皆無になっていた。",
"title": "日本の踏切"
},
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "遮断機はないが踏切警報機が設置されている踏切。 現在は警報器更新時に遮断機が追加設置される事が多いため非常に少ない。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "踏切警報機や遮断機が設置されておらず、踏切保安係も配置されていない踏切。列車の接近を知らせる装置が無く、主に踏切警標があるだけである。踏切を模した木型や「とまれみよ」といった標識だけで、実際に列車が接近していて危険ではないかの判断は、通行者の目視および聴覚等に委ねられている。このため事故が発生しやすく、後述するように国は第1種踏切への転換か廃止を求めており、新設は禁止されている。ローカル線に多いが、列車の速度が高い幹線にも存在する。交差する道路は歩行者や二輪車が通れる幅しかなく、四輪車は通れない踏切も多い。また、信号機によって道路交通を規制する方式の踏切もこれに分類される。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "踏切内における鉄道対自動車の衝突事故も、しばしば発生して問題になることがある。2018年に長崎本線の踏切で発生した衝突死亡事故では、2019年4月25日に運輸安全委員会が事故調査報告書を公表。報告書は第4種踏切の危険性を指摘し、九州旅客鉄道(JR九州)など関係機関に対し、踏切の早期廃止など対策の実施を求める内容となっている。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2000年代までは近畿日本鉄道でも第4種踏切が減少しながらも存在していたが、踏切の廃止および第1種化、及び第4種踏切が存在する路線(養老線・伊賀線)の他社への譲渡や経営移管により消滅した。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2017年時点までは、西武鉄道でも第4種踏切が存在していたが、これは当時休止していた安比奈線に存在していたもので、列車の通行はなかったが、国土交通省の書類の記録に存置していたために計上されていたに過ぎず、実質的には、西武鉄道での第4種踏切は他の路線を含めて消滅していた。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2023年時点では大手私鉄でも東急電鉄(世田谷線の若林踏切)、京成電鉄、名古屋鉄道に1カ所ずつ存在している。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "総務省行政評価局は2021年11月、国土交通省に対して、第4種踏切を解消(廃止かより安全な踏切への改良)するための協議会を各地域ごとに設けるよう勧告したが、特に中小鉄道会社において解消は難航している。警報機や遮断機の設置に1か所当たり約1,000万円という費用、定期的なメンテナンス費用(4種でも必要ではあるが、他に比べれば極めて軽微)が必要であり、4種踏切のある鉄道事業者には、採算が厳しい地方の事業者が多く、費用の捻出が困難であることと、地元住民が踏切の廃止(横断不能化)に反対していること(死亡事故が発生しているにもかかわらず踏切の存続を希望するケースもある)などがネックになっているとされる。法律上、踏切の廃止に地元同意は必要ないが、国土交通省は紛争を避けるため自治体や住民と協議するよう鉄道事業者に指導している。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "鉄道事業者によって認められた踏切のほかに、小さな路地や畔道、山道などの里道やいわゆる赤道(あかみち)と鉄道線路が交差している場所がある。近隣住民が線路脇の土手を階段状にして上り下りしているケースもある。このような場所は踏切ではなく、法令上は一般人の立ち入り・横断は禁止されているが、実際には近隣の住民が日常的に横断し、事実上の踏切となっている。一部のメディアではそのような場所を勝手踏切と呼んでいる。一方で、国土交通省は「明確な定義がなく、鉄道事業者も踏切と認めていない」として「勝手踏切」という語を公的に認めていない。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2016年(平成28年)11月1日付の『読売新聞』の報道によると、日本全国にあるこうした場所が、正規に認可された踏切数(取材時点で3万3432か所)の約6割に相当する約1万9000か所にも及ぶことが、国土交通省の調べで判明したとしている。その後も国土交通省は鉄道事業者を通じて調査を継続し、沖縄都市モノレール線しかない沖縄県を除く46都道府県全ての鉄道に人が日常的に横断している形跡がある場所があった。2021年1月時点で判明分だけで1万7066か所で、2016年3月時点の約1万9000か所より減ったものの依然多い。最多は愛媛県(1031か所)で、続く長野県と新潟県も800か所を超える。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "こうした事実上の踏切は、無許可での線路横断を禁じた鉄道営業法に違反し、それで運行トラブルを招けば往来危険罪、業務妨害罪(刑法)に問われる可能性もある。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "このような場所の中には、元々は近隣住民が利用していた生活道路が後から建設された線路によって分断された歴史的経緯が存在する例もある。鉄道事業者側としてはあくまで線路内立ち入りを黙認しているという扱いで、線路内に立ち入らないよう注意書き看板などを設置している。往来が増加するなど鉄道事業者が危険と判断すればこれまで黙認されていた場合でも警察当局への通報ならびに検挙がなされるリスクが存在する。踏切ではないので踏み板などもないが、鉄道事業者によっては非公認を前提としつつ踏み板を設置した例がある。フェンスで線路への立ち入りを防ぐ対策もあるが、費用負担が大きいうえ、住民の反発を受けることもある。江ノ島電鉄は折衷案として、津波からの避難時など非常時に開けられる錠付き扉を設置した。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "また、このような場所を正式に踏切にすることは踏切を新設することになり、交通量が多い場合などは鉄道に関する技術上の基準を定める省令39条に抵触する可能性がある。このため、複線化などの改良工事の際に閉鎖(横断不能化)されることもある。「勝手踏切」状態だった場所への踏切新設が行われた事例自体は存在しており、氷見線における義経岩アクセスを目的とした歩行者用踏切「義経岩踏切」等が挙げられる。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "日本の道路交通法では、自動車用の信号機付きの踏切(いわゆる踏切信号)で青信号が表示されている場合を除き、踏切の種類や列車の運行時間に関係なく、踏切手前での一時停止と安全確認が義務付けられている(第33条第1項)。その際、窓開けについては義務ではないにもかかわらず、運転免許試験では窓開けをしないと減点対象となる。遮断機・警報機付きであっても例外でないのは、遮断機や警報機が故障している可能性があるためとされている。後述のように、近年でも落雷などによる突発的な故障例がある。また、保線などに使用される保守用車は、信号機や踏切に無用な影響を与えないようにするため絶縁車輪を用いている関係で軌道回路で検知できず、除雪車など一部を除き線路上を走行しても遮断機・警報機が作動しないようにしている(詳しくは「線路閉鎖」「モーターカー」を参照)。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "車道と併用の踏切道の両端は歩道であるが、視覚障害者向けの点字ブロックは踏切手前までしかないことが多く、それが原因の可能性がある列車に轢かれての死亡事故も発生している。赤外線などを利用した障害物検知装置(障検)は自動車の立ち往生を想定しており、動いている人は光を遮る時間が短いため検知しない。しかし山陽電気鉄道が2021年7月から、人に特化して検知する仕組みの障害物検知装置を開発し導入した。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ケーブルカーのうち、近鉄生駒鋼索線と近鉄西信貴鋼索線では踏切が設置されており、中には自動車が走行可能な踏切もある。なお、踏切部分のケーブルは露出したままとなっている。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "鉄道事業者による定義では、停車場構内にある道路と交差する踏切を指す。自動車が通過できる構内踏切も多数存在する。構内にあるため、列車通過以外に過走防護や入換車両のために遮断される回数が多く、開かずの踏切になりやすい傾向がある。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "地上駅の構内で駅舎やホーム間を行き来するために設けられた通路に存在する警報機などの存在する箇所を(一般的な呼称であり厳密には上記定義に該当しないが)構内踏切、もしくは渡線道、構内通路、旅客通路と称する場合もある。しかしあくまでも道路交通との交点ではなく(したがって踏切ではなく)、運輸局への届け出上では渡線路となっているのが通例である。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "また、ホームの設備として“列車がきます”の表示灯と警報音を備えた機械があるだけで、遮断機や渡線路を持たない第3種に近いものもあるが、これも構内踏切の一種となっている。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "列車通過の際に通路が遮断されることによって発車時刻直前になって改札を行っても目的の列車に乗車出来なくなる恐れが高くなるため、跨線橋や地下道の整備、駅舎の橋上化や高架化などを行う事でこのような渡線路は減少傾向にある。しかし、地方の駅ではバリアフリー化のため京福電気鉄道嵐山線帷子ノ辻駅や伊予鉄道高浜線古町駅、JR九州肥薩線人吉駅、日豊本線川南駅のように構内踏切を復活させた事例 もある。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "日本国有鉄道が設置した構内踏切においては、駅目の前の道路上の踏切の警報音が列車接近を知らせる役目も兼ねている関係上、道路上の踏切よりも警報音が低めに設定されている。これは、JRグループが新規に設置した鉄道駅の一部や、国鉄やJRの路線を引き継いだ第三セクター鉄道の駅にも同様のものがそのまま使われている。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "また、東京都区部でも、下町の一部の路線で用いられている場合がある(京成電鉄金町線柴又駅、東武鉄道亀戸線亀戸水神駅など)。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "以下のいずれかが使用されている。これらの名称または番号は、踏切に記されている事が多い。番号を使う方式の場合、踏切が廃止されても番号は詰められず、欠番のままとなる。また、名前の由来となった事象が消滅した場合(町名変更など)も、基本的に名前の変更は行われない。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "踏切は鉄道車両と自動車、自転車、歩行者がともに通過・進入して交通が錯綜することから鉄道事故が起こりやすく、交通渋滞の原因ともなる。事故については、列車の接近を認識しながら無理な横断を図った場合以外に、イヤホンで音楽を聴き入っていたことなどによる不注意、歩行や視覚・聴覚に障害があるケースなど様態は様々である。国土交通省によると、第3種・第4種踏切での事故は100カ所あたり0.94件で、第1種の1.4倍に達する。運輸安全委員会は2014年度以降、死亡者が出た踏切事故の全件で現場調査・分析を行っている。その度に報告書で対策を求めているが、第1種への改修は特に中小私鉄やローカル鉄道事業者にとって費用負担が重く、立体交差化は自治体の費用負担が重く、踏切の廃止(横断不能化)は上記「事実上の踏切」と同様に周辺住民からの反対が強く、あまり進んでいない。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "また特に大都市圏において列車本数や線路数が多い踏切では、朝ラッシュ時など時間帯によっては(ダイヤが乱れた場合も含む)、開いている時間が閉まっている時間よりも短く(1時間に数分しか開いていない踏切もある)、開かずの踏切となってしまっているものもある。そのため、特に交通量の多い箇所を中心に、道路や鉄道の高架化または地下化を目的とした連続立体交差事業によって踏切の除去が進められている。なお、踏切が開いている時間は、列車がわずか数秒遅れる程度でも開かなくなることがある(対向列車及び同一方向の列車間隔が主な理由)。また、遮断機が故障して上がらなくなることで、道路交通に支障が生じるケースもある。一方で、遮断機が下りないまま列車が踏切に進入する事案も発生することがあり、高松琴平電気鉄道長尾線で2023年4月に発生した件では、過去2年以内に類似の事例が4件発生していたことも鑑み、国土交通省四国運輸局が改善を指示している。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "更に、渋滞原因の一つである自動車の踏切一時停止義務も、日本国外では警報機・遮断機つき(国によっては警報機のみの場合も)の場合はほとんど規制されていない ことから、第1種踏切については日本の国会でも廃止すべきか検討されたことがある。しかし、2000年8月9日に秩父鉄道において、落雷により警報機が故障した踏切で電車と踏切に進入した自動車との事故が発生した。踏切信号機を設置した踏切で青信号が表示されている場合は一時停止が不要なため、交通量の多い一部の踏切では踏切信号機を設置し、一時停止義務をなくして交通の円滑化が図られている。しかし、これにも弊害があり、踏切部分の道床の劣化が早まってしまう場合がある。福島交通飯坂線平野踏切では、交差する国道13号を重量のある大型車両が絶えず高速で通過するため、想定を超える道床からの打ち返しにより、レールの金属疲労が大きくなり、レールが破断する事態となった。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "その上、その踏切が線路の曲線上に存在する場合、カントにより道路側に段差が生ずる。このような線路を複数またぐ踏切ともなれば路面が洗濯板状となってしまう。そのため『交通バラエティ 日本の歩きかた』で取り上げられた例においては段差を越える際の振動により「自転車のカゴから荷物が落ちる」「積み荷が破損する」、段差そのものにより「自動車の底部や路面に傷ができる」「(開かずの踏切だった場合に急いで通過しようとして)バランスを崩したりローライダーの如くクルマが跳ねたりする」といった弊害が発生していた。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "道路法および鉄道に関する技術上の基準を定める省令に道路と鉄道が交差する場合は原則として立体交差としなければならないと定められているため、新幹線(ミニ新幹線 と東海旅客鉄道浜松工場への引込線 を除く)や武蔵野線や湖西線など、モータリゼーションによる道路整備が進んだ後に新規に開業した多くの路線では、道路との交差地点は全て立体交差とし、踏切を設けていない。例外的に踏切の新設が認められる場合として、停車場に近接した場所で道路と交差する場合において、立体交差になることで道路又は鉄道の効用が著しく阻害される場合などが道路法施行令で定められており、新設路線でも既設路線との接続駅付近に踏切が設置されている場合がある。「立体交差」も参照。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "また、大地震発生時において、地震によって踏切の遮断機が上がらなくなり、避難行動や緊急自動車の走行に支障を生じるケースもあり、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)や大阪府北部地震などで問題となった。いずれのケースも、鉄道事業者側が設備の安全確認に追われる余り、遮断機を手動で昇降させる要員が足りなかったためとされる。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "こうした事態を防ぐため、遮断機を上げて道路交通を再開させる手順を鉄道事業者と道路管理者である自治体などがあらかじめ定めておく「災害時指定踏切」制度が2021年4月に創設され、同年6月30日に国土交通省が181カ所を指定した。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "特殊な踏切の例として、鉄道事業者が併用軌道を設けている場合、長大な踏切として扱われるという解説がよく言われるが、それは事実ではない。事業者側が監督官庁に対して、敷設許可申請 を行い、それに対しが許可が与えられる。その後、道路管理者の道路占用許可を別途受けている。その道路占用許可は道路法施行令第9条の定めにより10年以内の期限を定めて許可されるため、線路が維持される限り期限の更新を受けている。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "なお、併用軌道は走行速度が低く設定されている場合が多く、ダイヤの設定の上で障害にもなっている。さらに道路の交通量が増加し車の渋滞や、車と鉄道車両との接触事故の問題などから、現在では普通鉄道の列車が併用軌道を走る区間はほぼ消滅している。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、江ノ島電鉄線、熊本電気鉄道藤崎線では依然としてこの形態が残っている。この両者は当初軌道法に準ずる軌道路線で敷設された後、地方鉄道法に準ずる鉄道路線に切り替えたためにこの形態となったものである。",
"title": "日本の踏切"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "小規模の飛行場や運河の可動橋でも鉄道用の踏切警報機・遮断機を設置している場合がある。",
"title": "鉄道以外での踏切"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "変わり種としては山口県宇部市にある宇部伊佐専用道路と一般道路が交差する部分に鉄道用の踏切警報機・遮断機を設置しており、一般車両が専用道路を通過する大型トレーラーを通過待ちする光景が見られる。また、鉄道用の遮断機が設置されているものは、バス専用道路に例がある。",
"title": "鉄道以外での踏切"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また、道路を遮断する交通機関が鉄道ではない踏切も存在する。ジブラルタル国際空港では、飛行機対道路で踏切が設置されている。かつてはロンドン・ヒースロー空港にも存在したほか、日本国内でも2004年に廃港となった群馬県の大西飛行場には、滑走路中央付近を横断する道路に対して踏切が設置されていた。",
"title": "鉄道以外での踏切"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "列車と動物の接触事故防止を目的とした踏切。全国で列車とシカが接触する事故は2014年度は5,000件に増加したとされる。近畿日本鉄道においてもシカの衝突が2015年には288件に達し、接触防止策を数々試すも効果が上がらなかったことから2016年5月16日より動物との接触事故防止設備を「シカ踏切」の名称で導入した。シカ踏切は線路周辺に侵入防止ネットを張ったところのうち獣道(シカ道)に通じる箇所だけネットを張らずにシカが通れるようにしておき、列車運行がある時間帯にのみシカの嫌う超音波を発信し、発信中は線路へのシカの侵入を抑制する。これによりシカとの衝突は導入直前の前は年平均10件以上あったものが年2件以下に激減し 列車運行が無い時間帯は超音波を止めることでシカは線路を侵入・横断できるのでシカに優しい踏切と呼ばれている。",
"title": "動物の衝突事故防止用の踏切"
}
] |
踏切とは、鉄道と道路の平面交差。 踏切は、国によって一般的な状態が異なり、オーストラリアの鉄道・道路では踏切の存在を示すだけの道路標識が一般的だが、日本では安全確保のための設備(踏切警報機や遮断機)が併設されていることが多く、このほかに交通信号機が追加されている個所もある。日本の法令上の名称では、平面交差する道路自体は踏切道といい(踏切道改良促進法など)、併設の保安のための設備のほうは踏切保安装置という 本記事では、「踏切」が指しうる範囲全般、つまり踏切道と踏切保安装置について総合的に解説する。どちらを明示する必要がある場合は「踏切道」「踏切保安装置」と呼び分ける。 日本の踏切は「日本の踏切」節を参照。
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{{See Wiktionary|鉄道の設備|ふみきり}}
{{出典の明記|date=2022年5月}}
<!--{{表記揺れ案内|font-size=medium|表記1=踏み切り}}-->
[[File:The 5.20 for West Kirby leaving Hoylake - geograph.org.uk - 1503619.jpg|thumb|[[イングランド]]、[[マージーサイド州]]の{{仮リンク|ホイレイク|en|Hoylake}}にある[[電車]]が通過する踏切]]
'''踏切'''(ふみきり、{{Lang-en-short|level crossing}})とは、[[鉄道]]と[[道路]]の[[平面交差]]<ref name="民鉄協踏切">[https://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/16451.html 鉄道用語辞典「踏切」]民営鉄道協会(2022年6月2日閲覧)</ref>。
踏切は、国によって一般的な状態が異なり、[[オーストラリアの鉄道]]・道路では踏切の存在を示すだけの[[道路標識]]が一般的だが、[[日本]]では安全確保のための設備([[踏切警報機]]や[[遮断機]])が併設されていることが多く、このほかに[[交通信号機]]が追加されている個所もある。日本の[[法令]]上の名称では、平面交差する道路自体は'''踏切道'''といい<ref name="民鉄協踏切"/>([[踏切道改良促進法]]など)、併設の保安のための設備のほうは'''踏切保安装置'''という<ref>[https://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/16454.html 鉄道用語辞典「踏切」]民営鉄道協会(2022年6月2日閲覧)</ref><ref group="注釈">「踏切」はもともと、基本的に「道」に焦点を当てた用語・概念で("鉄道を踏んで横切る道"といった概念の用語)、<u>安全確保用設備が無いものまで含めて指す</u>。別の言い方をすると、鉄道と道路の平面交差の箇所(場所)ということになる。日常的に人々が「踏切」という言葉で指す対象は、かなり漠然としており、「鉄道を横切る道の、まさに横切っている部分」という意味以外に、平面交差の「場所」(平面交差するあたり)をかなり漠然と指している場合もあれば、そこに伴う安全確保用装置も含めて漠然と指している場合もある。つまり一般の人々はあまり深く考えず、分解せず、漠然と「踏切」という言葉を使っている。日常用語の「踏切」では指す範囲があまりに漠然としすぎているので、専門用語では、日常語の「踏切」をできるだけ避けて、「踏切道」なのか「踏切保安装置」なのか、できるだけはっきり言い分けて区別している。</ref>
本記事では、「踏切」が指しうる範囲全般、つまり踏切道と踏切保安装置について総合的に解説する。どちらを明示する必要がある場合は「踏切道」「踏切保安装置」と呼び分ける。
日本の踏切は「[[#日本の踏切|日本の踏切]]」節を参照。
== 概要 ==
もともと鉄道と同一の高さで交差する道路(の交差箇所)であり、現在では、それに安全確保用の設備が併設されている場合はその設備も含めて指す言葉である。
踏切は英語圏では地図上では「Level crossing」(※)と表記され、「Over crossing」(※)や「Under crossing」(※)と区別して表記されていることがある<ref name="ogawa">小川裕夫『踏切天国』([[秀和システム]]、2010年)90頁</ref>。その意味では、立体交差と対比されている概念・用語ということになる。
:※ level crossingはもともと「同一の高さの交差(平面交差)」という意味の概念・用語、over crossingは「上を越える交差(オーバーパス)」、under crossingは「下へもぐる交差(アンダーパス)」。
日本では現在、鉄路と道路の交差には[[平面交差]]と[[立体交差]]があり、もともと「踏切」(「踏切道」の短縮形)は「鉄道を横切る(部分の)道」という意味で、道に焦点をあてて使われている。鉄道と道路が平面交差する箇所を指し、やがてそこに保安設備が設置されることが一般化してからは、鉄道と道路が平面交差する箇所だけでなく、そこに設けられる安全確保のための設備も含めて指すことが増え一般化している。
なお細かいことを言うと、もともと[[私鉄|民営鉄道]]と[[日本国有鉄道|国鉄]]([[国鉄分割民営化]]後は[[JR]])では、「踏切」という語が指す範囲が若干異なっていた経緯がある。JRでは「無舗装のものおよび駅構内等でもっぱら職員もしくは旅客の通行または荷物の運搬に供する通路を除く」と定義されており<ref>『[[日本大百科全書]]』【踏切】</ref>、やや範囲が狭いが、現在他の民間鉄道会社ではそうは定義していないので、このJRの定義を一般的、絶対的と見なすことはできない。
日本で「踏切」と呼ばれるようになったのは1870年代の末頃で、それまでは「横路」や「横切馬車道」などと称されていた<ref>{{Cite book |和書 |year=2015 |author=安部誠治|title=踏切事故はなぜなくならないか|page=21 |publisher=[[高文研]]}}</ref>。
歴史的には鉄路と道路の交差部分であっても人口密度の低い地域では踏切の設備(踏切保安装置)が設置されることはなかった<ref name="abe48">{{Cite book |和書 |year=2015 |author=安部誠治|title=踏切事故はなぜなくならないか|page=48 |publisher=高文研}}</ref>。また、初期の鉄道では列車の運行本数が少なかったこともあり。踏切に対する鉄道と道路が交差する箇所という意識は高くはなかった<ref name="abe48" />。
日本では[[列車]]の通行が優先される構造(遮断機は[[軌条|レール]]と平行)の踏切がほとんどだが、日本国外では鉄路が遮断される構造(遮断機は道路と平行)の踏切も多く存在する。[[明治時代]]においては日本も同じ構造であった。現在、鉄路が遮断される形態の踏切は、[[阪神電気鉄道]][[武庫川信号場]]([[武庫川駅]]至近)から[[阪神本線|本線]]へ出る連絡線上にあるものや、[[東京メトロ銀座線]][[上野検車区]]入り口付近に設置されているものなどが挙げられる。ただし、いずれも通過は列車優先である。
<gallery>
Level crossing Metro Ginza Line Ueno Depot-1.jpg|[[上野検車区]]入り口付近にある踏切。通常は線路側が仕切られている。
Nishi-Iba-Dai-ichi-Cross.JPG|フル規格[[新幹線車両]]の通過する踏切([[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工場]]入出庫線)
Kuwana-sansen-fumikiri.jpg|[[桑名駅]]の隣にある踏切。3種の[[軌間]]を渡る踏切がある。
</gallery>
列車運行本数が多くない国では、遮断機や警報機がない踏切(日本の3・4種踏切に相当)や、道路ではなく鉄路側が遮断される踏切、時間になると踏切警手が手動で操作する踏切が多い。また、日本の踏切は[[警戒色]]である黄色と黒の縞々のカラーリングがほとんどであるが、外国では白黒のカラーリングや門形の踏切<ref group="注釈">警報機は無い。普段は線路が遮断されているが、列車が近づくと道路側に遮断機が動く。</ref> などもある。
== 歴史 ==
<!-- 世界全体の踏切の歴史をここに書く。
日本国内の踏切の歴史は ここでは書かない。-->
{{節スタブ|section=1|date=2022年6月}}
== 各国の踏切 ==
踏切の設置箇所には国よる差(地域差)があり、2014年度末の都市部のデータで比較すると、日本の[[東京23区]]が620、[[アメリカ合衆国|米国]][[ニューヨーク]]が48、[[イギリス|英国]][[ロンドン]]が13、[[ドイツ]]の[[ベルリン]]が46、[[フランス]]の[[パリ]]とその周辺が7、[[大韓民国]][[ソウル特別市]]が16だった<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/fumikiri/fu_01.html 踏切道の現状] - 国土交通省(2021年5月9日閲覧)</ref>。
=== イギリス ===
{{節スタブ}}
[[ファイル:Great Bentley 330.jpg|thumb|200px|通常時は鉄路を遮断し、列車通過時に道路を遮断するイギリスの踏切。]]
[[イギリスの鉄道]]では、日本と異なり、軌道側を遮断して車道側を通過させる方式(も多い)。その遮断棒の色は白と黒の縞<ref>[[バージニア・リー・バートン]]作、[[村岡花子]]訳・挿絵『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』</ref>。右の写真のように、普段は鉄路を遮断機で遮断し、列車が通過する時だけその遮断機を水平に回転させて道路側を遮断する、という方式もある。
=== オランダ ===
[[オランダ]]は低地帯が多いこともあって鉄道の高架化や地下化が難しく、現在でも踏切が多く残っている。また、[[バリアフリー]]の観点から列車本数の少ない駅に関しては構内踏切を設ける駅も多い。2015年には30件の事故が発生し13人が死亡した<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/106858 |title=欧州で大きな踏切事故がなぜ減らないのか? |author=橋爪智之 |publisher=[[東洋経済新報社|東洋経済オンライン]] |date=2016-02-28 |accessdate=2019-11-27}}</ref>。
=== インド ===
[[File:Railway Gatekeeper in Kerala, India.jpg|thumb|遮断棒を操作する踏切警手([[ケーララ州]])]]
[[インドの鉄道]]では、警報機や遮断棒は自動のものが導入されつつあるが、踏切警手が操作する踏切も多い。地元住民は警報機が鳴り響こうが列車が来るまで平気で遮断機をくぐる光景が度々目撃されている。踏切に接近する列車はその際、[[警笛]]を何度も鳴らす。
=== 大韓民国 ===
[[大韓民国の鉄道|大韓民国(韓国)の鉄道]]にある踏切は、次の3種に分かれる。遮断棒は赤白のカラーリングである。
* 1種:遮断機と警報機、交通安全標識が設置されているか、踏切案内員配置または自動遮断機を設置。
* 2種:警報機と安全標識を設置。
* 3種:安全標識のみ設置。
[[広域電鉄]]化を中心とした路線改良などにより近年は一貫して減少傾向にある。[[2017年]]時点で韓国国内の踏切は965か所存在し、内訳は1種が867か所、2種が5か所、3種が93か所である<ref>[http://info.korail.com/mbs/www/jsp/board/view.jsp?spage=1&boardId=9863289&boardSeq=14693252&mcategoryId=&id=www_060702000000 2017 철도통계연보(2017 鉄道統計年報)] - [[国土交通部]]・[[韓国鉄道公社]]・[[韓国鉄道施設公団]](朝鮮語) 1部 550ページ</ref>。
=== 台湾 ===
[[File:大同路141巷平交道 - panoramio.jpg|thumb|台湾鉄路管理局で見られる標準的な踏切([[縦貫線]]・[[台南市]])]]
[[台湾の鉄道]]にある踏切では。遮断棒は自動化されたタイプと踏切警手の扱うタイプが混在している。踏切警手が遮断機の前まで出てくる場合もある。
[[台湾鉄路管理局]]の踏切道の数は2017年度で435カ所である<ref>[http://www.railway.gov.tw/tw/cp.aspx?sn=3706 台湾鉄路管理局の踏切道の数(2017年度)]</ref>。
次の3種に分かれる。
* 第一種:自動踏切警報機と自動遮断機を設置するか、踏切保安係を配置して、列車が通る際に道路の交通を遮断機によって遮断するもの。
* 第二種:一部の時間帯のみ踏切保安係が遮断機を操作する踏切。遮断機作動の有無を示すため踏切保安係がいる時間が掲示されている。
* 第三種甲:自動踏切警報機と自動遮断機を設置する、列車が通る際に道路の交通を遮断機によって遮断するもの。
台湾国鉄は元々、[[日本統治時代の台湾]]において[[台湾総督府鉄道|台湾総督府]]によって整備されたため、制度も日本に準じている。ただし、第四種は廃止されている。
警報機の色は黄と黒の縞模様が用いられるが、遮断棒の色は白と赤の縞模様となっている。
=== オーストラリア ===
[[オーストラリア]]にある踏切は23,500余りである<ref name="artc_safety">[https://www.artc.com.au/community/safety-around-level-crossings/ [[ARTC]], Safety Around Level Crossings.</ref>。このうちの21%が「アクティブ」方式つまり列車が近づいていることを知らせる遮断機および(あるいは)警報機を備えている<ref name="artc_safety"/>。残りの79%は「パッシブ」方式つまり(たとえば「Stop」(止まれ)や「Give Way」(通行を譲れ)などと書かれた)道路標識が設置してあるだけで、自動車の運転者は自分自身で左右を確認して列車が来ているか来ていないかを確認しなければならない<ref name="artc_safety"/>。
オーストラリアの踏切事故では、毎年30人が亡くなっている<ref name="artc_safety"/>。死亡者数は年々減少する傾向にはあるものの、ひとたび乗り物と列車の衝突事故が起きると深刻な事態となる<ref name="artc_safety"/>。死亡事故以外にも、毎年1,000件以上の乗り物と列車の「ニア・ヒット」つまり衝突と紙一重の出来事が起きている<ref name="artc_safety"/>。「ニア・ヒット」では列車の運転士は急制動(急ブレーキ)をかけることでトラックや乗用車、自転車、歩行者などとの衝突をかろうじて回避している<ref name="artc_safety"/>。死に直結する衝突事故とかろうじて助かる「ニア・ヒット」の間には、ほんの数秒の違いしかない<ref name="artc_safety"/>。オーストラリアではあくまで鉄道優先のルールとなっており、踏切事故のほとんどは道路を走る側の責任であり、道路を走る側が何かしてはいけないことをした、あるいは何かのミスを犯したことが原因となっている<ref name="artc_safety"/>。(オーストラリアでは)荷物を満載した貨物列車は、緊急ブレーキをかけ始めてから停止するまでに2kmも走ってしまう<ref name="artc_safety"/>。
{{Gallery|width = 220px
|Bahnübergang 1.jpg|汽車の絵で踏切を示す道路標識。
|Bahnübergang 2.jpg|踏切を示す道路標識。
|Bahnübergang 3.jpg|「列車に注意」と書かれた標識。
}}
=== ニュージーランド ===
[[File:Level Crossing At Kingdon Street West.jpg|thumb|警報機だけの踏切(ニュージーランド)]]
[[ニュージーランドの鉄道]]における踏切では警報・遮断機は自動で、中には警報機だけのものもある。自動車は一時停止なしで通過できる。日本製の遮断機や警報機も存在する。
=== アメリカ合衆国 ===
[[アメリカ合衆国の鉄道]]における踏切では早くから色灯を組み合わせた警報(警鐘)機が採用されていた。これは'''ウィグワグ''' (Wigwag)と呼ばれるもので、振り子型のアームの先端に、赤い色灯を組み込んだ白い丸型の標識を取り付け、警報の鳴動と共に左右に振り視認性を確保する構造になっていた。日本では[[アメリカ映画]]で度々目にすることが出来た。
[[蒸気機関車]]牽引の列車が主流だった頃には問題なかったが、やがて鉄道・自動車の双方が高速化するにつれ、遮断機がなく視認性も劣るという理由から、日本や欧州と同じく交差した板の標識に交互点滅の色灯を設けた、遮断機つきの警報機へと置換えが進んだ。しかし、一部の市民からは慣れ親しんだウィグワグを擁護する声も大きい。[[イリノイ州]]の{{仮リンク|イリノイ鉄道博物館|en|Illinois Railway Museum}}や[[カリフォルニア州]]の{{仮リンク|オレンジエンパイア鉄道博物館|en|Orange Empire Railway Museum}}など鉄道車両運行を行っている鉄道博物館の一部では、車輌とともにこのウィグワグも[[動態保存]]している事例が見受けられる。
日本とは異なり、アメリカではほとんどの[[アメリカ合衆国の州|州]]で踏切前の一時停止を義務付けられていない(ただし大型車は[[徐行]]して通過する。また州によっては普通車に対しても徐行義務が課せられている)。このため、不用意に一時停止すると[[追突]]される恐れすらある。しかし、長距離トラックなどの踏切突破によって事故が起きるケースが増えるなど、問題もある。
アメリカでは踏切に接近する度ごとに長・長・短・長の4回連続で警笛を鳴動させることが多くの鉄道で行われており<ref>{{cite web |title=Whistle signals |url=http://trn.trains.com/railroads/abcs-of-railroading/2006/05/whistle-signals |author=[[トレインズ|Trains Magazine]] |accessdate=2016-10-11}}</ref>、歩行者などへの注意喚起に努めている。また、アメリカ型の機関車は伝統的にベルを備えており、現在でも市街地通過時には連続して打ち鳴らしている。
アメリカの[[道路標識]]では、踏切があることを知らせるものに限って丸型のものを使用している(「[[一方通行#道路標識|車両進入禁止]]」も標識のイラストデザイン自体は日本のものに類似した丸型のものだが、アメリカでは四角い看板に丸型のイラストデザインを描いたものになっている)。
{{Gallery|width = 220px
|File:Wigwag pullman kamiananst.jpg|アメリカでしばしば見かけられる「ウィグワグ」(Wigwag)。赤灯部分が左右に揺れ、鐘の音が鳴り列車の接近を知らせる([[ワシントン州]][[プルマン (ワシントン州)|プルマン]])。
|File:'Empire Service' Train 235.jpg|アメリカでは踏切を通過する度に警笛を4度鳴らす鉄道が多い(画像は[[アムトラック]]の[[エンパイア・サービス (列車)|エンパイア・サービス]])。
|File:MUTCD W10-1.svg|「踏切あり」の道路標識(アメリカ)
}}
=== フランス ===
「'''P'''assage à '''N'''iveau」を縮めて「'''PN'''」(発音された "ぺェン")と呼ばれることもあり、2017 年時点でフランスには 15,405 か所の踏切があります (1938 年には 33,500 か所、1980 年には 25,000 か所)。
踏切には、車道軸のあるものや歩行者専用のものなど、いくつかの種類があります。11,200踏切には自動信号灯が装備されており、4100踏切には聖アンドリューの十字架が描かれたパネルのみが装備されています。自動踏切には赤色の点滅灯が装備されており、これには絶対停止が必要であり、音響信号も鳴ります。遮断機のある踏切の場合は遮断機の図面、遮断機のない踏切の場合は蒸気機関車を示す三角標識で予告されます。
2007 年には、自動信号機の設置を正当化する制限は、1 日あたり少なくとも 100 台の車両通行です
自動踏切には大きく分けて4種類あります:
*タイプ SAL 0: 柵はなく、R24 と呼ばれる 2 つまたは 4 つの赤く点滅する道路灯と可聴信号があります。1973 年以来、このタイプは建設されていません。
*タイプ SAL 2: このタイプは最も普及しており、点滅する赤い道路灯 (道路交通の方向ごとに 2 つ)、可聴信号、および道路の右半分をそれぞれブロックする 2 つのハーフバリアで構成されます。
*SAL2B 型:SAL2 型とは異なり、2 つのバリアが装備されており、車道を完全に遮断します。 1991 年 3 月 18 日以来、それらの建設は禁止されています。
*タイプ SAL 4: SAL2 に似ていますが、ハーフ バリアが 4 つあります。車線の出口側にある 2 つのハーフ バリアは、進入バリアが低い位置に達すると閉じます。 そのため、踏切が閉じるまでの時間が数秒延長されます。特定のケースを対象としています。:
**電車が多く停車する駅の近くにある踏切
**列車の即時通過のない定期的かつ長期にわたる閉鎖(降車ゾーンまたは近くで列車の操縦)。
**学校やスポーツセンターの近くにある踏切。
踏切には例外的なケースがいくつかあります。
* 以前はもっとあったにもかかわらず、パリには現在踏切が 1 つ (環状道路内) しかありません。検修庫に入る前に道路を横切る地下鉄の線路であるため、非常に特殊です (電車の上野車庫のようなもの)東京の銀座線)。<ref group="注釈">パリの踏切は、90 rue de Lagny Paris Xeme、座標 48.84903232270301、2.4094648226729807 にあります。</ref>
*線路上に 2 つのゲージがある踏切があります。
*高速道路(5*5車線、正確には環状道路)に踏切があります。2018年に使用されたJST変圧器工場の貨物線です。 線路はショッピングセンターに沿って走り(この時点では2車線)高速道路を横切り、路面電車を含む都市の主要動脈を横切り、住宅の駐車場を横切ります。<ref group="注釈">問題の踏切は、Google マップでは 45.71857882398235, 4.871784324717674 に位置しており、ビデオが存在します https://www.youtube.com/watch?v=nOX_qH0wp1U</ref>
毎年、踏切は撤去され、橋やトンネルに置き換えられますが、そのプロセスはゆっくりとしています。
{{Gallery|width = 220px
|File:Passage à niveau à Paris 20e pour les métros.JPG|パリの踏切
|File:Passage niveau rue Lagny Paris 6.jpg|パリの踏切の別の眺め
|File:Sal-sncf.jpg|踏切灯 R24型
|File:Aqueduc de l'Avre - panoramio (13).jpg|歩行者用踏切
|File:Passage à niveau.JPG|踏切タイプ SAL4
|File:Passage à niveau de Bertren (Hautes-Pyrénées) 2.jpg|非自動踏切
}}
{{-}}
== 日本の踏切 ==
日本全国の踏切道数は、2021年度で32,540カ所である<ref name="踏切道数">[https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/fumikiri/fu_01.html 踏切道の現状] - 国土交通省、2023年4月13日閲覧。</ref>。1960年には全国に7万カ所以上あったものの、1961年度に[[踏切道改良促進法]]が施行されて以来、一貫して減少傾向にある<ref name="踏切道数" />。
その一方で、踏切が新設される場合もある。[[阪急電鉄]]では、[[2010年]][[12月5日]]より[[西宮北口駅]]8号線上に、駅南側東西の往来を円滑にする目的で新たに踏切を設置した。この8号線は[[阪急今津線|今津線]]車両の入出庫のみに使用される[[回送]]線であり、列車の通過は早朝・夜間・深夜のみで、1日10本にも満たない(2011年時点での[[ダイヤグラム]]では、1日4本のみ)ことから設置が認められた<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201011025N1.pdf 阪急今津線高架橋の完成にともない 西宮北口駅 今津方面ゆき 新高架ホームを12月5日(日)より供用開始します]}} - 阪急電鉄 2010年11月2日</ref>。また、[[平成]]時代に開業した鉄道新線でも、[[土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線]]や[[井原鉄道井原線]]には踏切が設置されている所もある。このほか、[[ひたちなか海浜鉄道湊線]]において[[ひたちなか市]]の[[土地区画整理事業]]による踏切の新設<ref name="ひたちなか">[https://www.city.hitachinaka.lg.jp/machizukuri/kukakuseiri/1002500/1002532/1002533.html 船窪土地区画整理事業 事業概要] ひたちなか市公式ホームページ</ref>が行われたほか、[[可部線]]において[[廃線]]区間の一部を復活させる事業でも、踏切の新設が認められている。
{{Gallery|width = 220px
|File:Hankyu Nishinomiya-Kitaguchi Minami railway crossing 20110518.jpg|新設された阪急西宮北口南踏切。
}}
=== 日本国内の歴史 ===
[[明治時代]]の初期の鉄道では踏切(鉄路)に踏切門扉が設置され、踏切係員がその開閉を行っていた<ref name="abe48" />。
しかし、明治末期から[[大正時代]]になると列車接近前に道路を遮断して、列車通過後に遮断の解除を行うようになった<ref>{{Cite book |和書 |year=2015 |author=安部誠治|title=踏切事故はなぜなくならないか|pages=50-51 |publisher=高文研}}</ref>。踏切係員は踏切番人と呼ばれ隣接する番舎(詰所兼住居)に家族と住むことが多かったが、次第に2人以上の職員による勤務体制が一般的になっていった<ref>{{Cite book |和書 |year=2015 |author=安部誠治|title=踏切事故はなぜなくならないか|pages=51-52 |publisher=高文研}}</ref>。踏切[[遮断機]]も既にあり、1925年(大正14年)には、引掛式、上下式、引出式の3種が定められた<ref name="abe57">{{Cite book |和書 |year=2015 |author=安部誠治|title=踏切事故はなぜなくならないか|page=57 |publisher=高文研}}</ref>。また、1948年([[昭和]]23年)には昇開式、片側腕木式、両側腕木式、引戸式、綱張式が定められた<ref name="abe57" />。
踏切遮断機には手動式と電動式があり、古くは踏切係員が手動で操作していた<ref name="rtri">{{Cite web|和書|url=http://bunken.rtri.or.jp/doc/fileDown.jsp?RairacID=0004005981 |title=踏切警報機・遮断機 |publisher= 鉄道総研 |accessdate=2019-07-16}}</ref>。電動機付の踏切遮断機が登場した後もその操作は踏切係員が行っていた<ref name="rtri" />。踏切係員は[[1921年]](大正10年)には踏切看守と呼ばれていたが、[[1936年]](昭和11年)に踏切警手、[[1961年]](昭和36年)に踏切[[保安]]掛([[制式名称|-ほあんがかり]])と呼称が変わっている<ref>{{Cite book |和書 |year=2015 |author=安部誠治|title=踏切事故はなぜなくならないか|page=52 |publisher=高文研}}</ref>。
日本で自動化された踏切遮断機が登場するのは[[1958年]]([[昭和]]33年)になってからである<ref name="rtri" />。踏切係員の勤務は24時間[[シフト勤務|交代]]といった厳しいものであったため<ref>「京成が警手ら二人を解雇」『[[朝日新聞]]』夕刊1970年(昭和45年)2月3日3版11面</ref>、寝過ごす等のミスで開閉器を下すことができず、衝突による死傷事故がしばしば発生していた<ref>「踏切警手を書類送検 京成電鉄の衝突事故」『[[中國新聞]]』夕刊1970年(昭和45年)1月22日7面</ref>。このため自動化は急速に進められた。
=== 設備 ===
==== 主な設備全般 ====
踏切の主な設備は次の通りである{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=142}}。これらの設備類を総称して「踏切保安装置」と呼ぶ{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=142}}。
; 踏切制御装置:設置された列車検知用の[[軌道回路]]や列車検知器からの列車検知情報により踏切警報機や遮断機を作動させ、遮断が完了すると遮断反応灯や動作反応灯を点灯させ、踏切障害物検知装置による自動検知や踏切支障報知装置の押しボタンによる手動での操作により踏切支障報知装置を作動させる装置である。装置は主にリレー([[継電器]])の使用より制御されるが、最近ではコンピューターの[[マイクロプロセッサ]]の使用により制御される電子踏切制御装置が使用されている。
; [[踏切警報機]]: 道路を通行する歩行者や車両運転者などに対して踏切の存在を知らせ、列車が接近した場合は音と光で警報して道路交通を停止させる装置{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=149}}。
; [[踏切支障報知装置]]: 踏切内で非常事態が発生したことを列車の運転士に知らせる装置{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=153}}。操作装置(非常ボタン)、[[踏切障害物検知装置|障害物検知装置]]、現示装置([[日本の鉄道信号#特殊信号発光機|特殊信号発光機]]など)から構成される{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|pp=153-155}}。
; [[遮断機]]: 列車接近時に道路を遮断するための装置。
; 踏切動作反応灯: 踏切警報機と遮断機が正常に動作していることを列車に対して知らせるもの{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=158}}。なお、[[JR]]グループではこの設備が存在せず、代わりに踏切故障検出器によって自動的に踏切の故障を把握する{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=158}}。
==== 踏切警報機等 ====
[[ファイル:Level Crossing Bell Gakunan Enoo.jpg|thumb|200px|電鈴式警音器(ベルの音)<br>[[岳南電車]][[岳南江尾駅]]付近]]
[[ファイル:Sanyo signals(railroadcross).JPG|thumb|200px|特殊信号発光機(上)と踏切動作反応灯(下)。[[山陽電気鉄道]]の[[車両基地|車庫]]内イベントでの動作デモンストレーション。]]
[[ファイル:Malfunctioning Level Crossing in Hiroshima.JPG|thumb|200px|故障灯<!--が付いた踏切--><br>[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]中山踏切]]
日本では踏切に踏切警報機等の踏切保安設備の設置が義務づけられている<ref name="soumu">{{PDFlink|[https://www.soumu.go.jp/main_content/000215119.pdf 踏切道の安全確保に関する行政評価・監視]}} - [[総務省]]</ref>。[[平成]]13年(2001年)の[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令]](平成13年[[国土交通省]][[省令|令]]第151号)では、踏切道は踏切保安設備(踏切警報機と遮断機、または踏切警報機のみ)を設けたものでなければならないとされている<ref>[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令]](平成13年国土交通省令第151号)40条および62条。</ref>。ただし、以前から存在するものについてまでその義務を新たに課したものではない<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20140725192811/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090417195030.pdf 下級裁判例 平成20(ワ)8 損害賠償請求事件]}} - 裁判所</ref>。
遮断機が完全に降りてから列車が到達するまでの時間は、日本では標準20秒、最短で15秒と定められている<ref>[http://www.rail-e.or.jp/modules/library/index.php?content_id=15 鉄道に関する技術上の基準を定める省令62条の解釈基準] - 日本電気鉄道技術協会</ref>。[[大手私鉄]]のほとんどと、[[JR]]の[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]設置路線の一部では、[[列車選別装置]]が設置され、列車種別に関わりなく列車の到達時間はこの程度となる。
==== 鉄道事業者の設置する標識 ====
* 踏切警標
*: 踏切警標は黄色と黒色の縞模様の板をX字に組み合わせた標識<ref name="hyou114">{{Cite book |和書 |year=2010 |author1=磯兼雄一郎|author2=井上孝司|title=標識と信号で広がる鉄の世界|page=114|publisher=秀和システム}}</ref>。[[日本産業規格|JIS]] E 3701(踏切諸施設 - 安全色彩)で規格化されており、Xの交点は黒とすることなどが定められている<ref name="hyou114" />。
* 踏切注意標
*: 踏切注意標は踏切を通過する自動車等に対して上部に[[架空電車線方式|架線]]が張られていることを注意する標識<ref name="hyou117">{{Cite book |和書 |year=2010 |author1=磯兼雄一郎|author2=井上孝司|title=標識と信号で広がる鉄の世界|page=117|publisher=秀和システム}}</ref>。踏切注意標には制限高などが書かれており、左右の支柱の間に張ったスパン線に取り付けられている<ref name="hyou117" />。
* 踏切動作反応灯
*: 警報機や遮断機などが正常に作動していることを踏切に接近する列車に知らせるための表示灯<ref>{{Cite book |和書 |year=2010 |author1=磯兼雄一郎|author2=井上孝司|title=標識と信号で広がる鉄の世界|page=121|publisher=秀和システム}}</ref>。[[公営交通|公営]]・[[私鉄|民営鉄道]]では、[[1956年]](昭和31年)に制定された「自動踏切遮断装置の構造基準」において、遮断装置動作反応灯を設けることと規定されており、第1種踏切の遮断機が正常に降下が完了していることを知らせる踏切動作反応灯を設置している(事業者により、「踏切合図灯」「踏切反応灯」など呼称が異なる)。[[日本国有鉄道|国鉄]]・[[JR]]では、民営鉄道との共用踏切で、菱形の背板の中心で白色1灯が点滅するタイプが見られたが、それ以外の踏切には設置されていない。
現在、設置義務はなく、JRから[[第三セクター鉄道|経営分離した路線]]では、新たに設置した会社も設置していない会社も存在する。踏切動作反応灯でも従来の[[白熱電球]]に代わり[[発光ダイオード]](LED)が使用されるようになった。事業者により形状は異なり、特殊信号発光機と一体にしている鉄道事業者もある。
** 4本の棒がX字形に点灯するもの
**: [[叡山電鉄]]、[[西武鉄道]]以外の[[関東地方]]の大手私鉄および[[北総鉄道]]、[[江ノ島電鉄]]、[[箱根登山鉄道]]、[[秩父鉄道]]、[[流鉄]]、[[鹿島臨海鉄道]]、[[遠州鉄道]]、[[東海旅客鉄道|JR東海]]の一部の踏切、[[西日本鉄道]](西鉄)などに設置されている。[[1960年代]]初頭頃までは、西武鉄道や[[南海電気鉄道]]も標準デザインだった。
** 白色灯2個が交互に点灯または連続点灯するもの
**: 西武鉄道(上下2灯が交互に点滅)、[[近江鉄道]](遮断機鳴動中は下灯点滅、遮断棹閉鎖後に上灯点灯)、[[近畿日本鉄道]](上下2灯が同時点灯)、[[高松琴平電気鉄道]]、一部の[[東武鉄道]]の踏切(左右の2灯が交互に点灯)
** 白色灯1個がX字状に点灯・点滅するもの
**: [[山陽電気鉄道]]、[[神戸電鉄]]、[[広島電鉄]]、[[水間鉄道]]、[[京阪電気鉄道]]
** 白色灯1個が連続点灯するもの
**: [[第三セクター鉄道]]の多くの路線、[[関東鉄道]]、[[銚子電鉄]]、地方のJR線の一部の踏切・旧国鉄
** 白色灯1個が点滅するもの
**: [[名古屋鉄道]]、[[豊橋鉄道]]、[[阪神電気鉄道]](○字型に点滅)、[[阪急電鉄]]、[[能勢電鉄]]
** 白色灯5個が連続点灯するもの
**: 南海電気鉄道、[[阪堺電気軌道]]、[[泉北高速鉄道]]、[[和歌山電鐵貴志川線|和歌山電鐵]]、[[京阪電気鉄道]]
<gallery>
OER Level crossing working-light.jpg|4本の棒がX字形点灯([[小田急電鉄|小田急]])
Fumikiri dousa hannoutou.JPG|白色灯2個が交互に点灯(西武)
Nankai Level crossing working-light.jpg|白色灯5個が点灯(南海)
TORIIMAE crossing-No.3.jpg|白色灯2個が点灯(近鉄)
</gallery>
==== 道路管理者の設置する標識 ====
* 「踏切あり」標識
*:[[日本の道路標識|道路標識]]の一つに「踏切あり」という警戒標識がある<ref name="hyou115">{{Cite book |和書 |year=2010 |author1=磯兼雄一郎|author2=井上孝司|title=標識と信号で広がる鉄の世界|page=116|publisher=秀和システム}}</ref>。[[1986年]](昭和61年)までは、[[国鉄1800形蒸気機関車]]がモデルとされる2種類の[[蒸気機関車]]のマークが踏切を意味していたが、観光やイベント目的以外での蒸気機関車牽引列車の営業運転が終了して久しくなったうえ、国鉄分割民営化もあって、同年から[[電車]]のマークを表示した新しいデザインの標識に順次取り替えられている。しかしながら蒸気機関車マークの標識もまだ少なからず残っているため、自動車運転に関する教本などでは両方掲載されている。注意を強調するため、「踏切注意」や「注意」の補助標識を付加していることもある。
*: そのほか、[[非電化]]区間の踏切用に[[集電装置|パンタグラフ]]を消して[[気動車]]を表したものや、踏切を通過する鉄道車両を色つきのイラストで描いたものも存在する<ref group="注釈">愛知県では、[[愛知県公安委員会|公安委員会]]の委員長が名古屋鉄道出身であった一時期に[[パノラマカー]]を描いた標識を県内全域(国鉄・近鉄も含む)で使用していた。</ref>。ただし標準として定められたデザインではないため、非電化区間の踏切でも電車デザインの標識が設置されている場合が多い。[[昭文社]]発行の道路[[地図]]の中で「[[SiMAP]]」を採用した一部のシリーズにもこの踏切標識が掲載されているが、非電化線の踏切も電車のマークのデザインで掲載されている。さらに1万分の1・7千分の1・5千分の1の拡大図には、歩行者専用踏切を示すものとして、マークのデザインを電車から人間の足跡に代えたものを掲載されている(ただし、実際にはこのデザインの踏切標識は存在しない)。
*: 踏切を表す標示は道路標示の中には存在しないが、[[愛知県]]の[[名古屋鉄道]]では×印に縦棒を組み合わせて踏切を表すなど、各地で独自の標示が使われている。
<gallery>
Fumikiridourohyoushiki(SL).jpg|「踏切あり」の道路標識<br/>(蒸気機関車のデザイン)<br/>
Crossingsign.jpg|「踏切あり」の道路標識<br/>(電車のデザイン)
Crossingsign of DMU pattern.jpg|「踏切あり」の道路標識<br/>(気動車のデザイン)
</gallery>
=== 種類 ===
日本では踏切は設置される保安設備により次のように分類される<ref>「地方鉄道及び専用鉄道の踏切道保安設備設置標準について」(昭和29年4月27日鉄監第384号鉄道監督局長から陸運局長あて[[通達]])。ただしこの通達には、第1種甲と第1種乙の区別はない。</ref>。現在一般的なのは第1種甲である。第3種は第1種甲に転換され数が減ってきている。信号機によって道路交通を規制する踏切は[[路面電車]]や比較的運行本数の少ない[[専用鉄道]]などで見られる。
国土交通省による2020年3月末時点(2019年度末時点)での集計によると、日本で公式に設置されている踏切の総数(3万3004カ所)のうち第1種が2万9717カ所、第2種が0カ所、第3種が684カ所、第4種が2603カ所<ref name="日経20210504">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE30CPY0Q1A430C2000000/ 「踏切外の横断 全国1.7万ヵ所/鉄道事業者、柵設置など対策/国交省調査 費用面に課題]『[[日本経済新聞]]』朝刊2021年5月4日社会面掲載の[[共同通信]]記事(2021年5月10日閲覧)</ref>。2017年度末時点での集計(第1種2万9801カ所、第2種0カ所、第3種723カ所、第4種2726カ所)<ref name="yomiurii20180818">「遮断機ない踏切 手つかず/安全対策 費用が壁/住民反対 廃止も困難」『読売新聞』朝刊2018年8月18日(社会面)</ref> より減っている。
==== 第1種 ====
自動[[踏切警報機]]と自動遮断機を設置するか、踏切保安係を配置して、列車が通る際に道路の交通を[[遮断機]]によって遮断するもの{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=144}}。
* 第1種甲:通過する全ての列車または車両に対して、道路を遮断するもの。
* 第1種乙:[[始発列車]]から[[終電|終列車]]までの時間内の列車または車両に対して、道路を遮断するもの<ref name=鉄道ピクトリアル675-50>『[[鉄道ピクトリアル]]』No.675 p.50。[http://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/131.html 民営鉄道協会・鉄道用語辞典]{{リンク切れ|date=2021年5月}}も参照。</ref>。
==== 第2種 ====
一部の時間帯のみ踏切保安係が遮断機を操作する踏切{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=144}}。つまり、踏切保安係のいない時間帯は第3種または第4種と同じになる{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=144}}。遮断機作動の有無を示すため踏切保安係がいる時間が掲示されている。第1種などへの置き換えにより、この種の踏切は日本国内では完全消滅している<ref name="soumu" /><ref>「[https://www.komei.or.jp/komeinews/p40447/ 警報機や遮断機なし 対策急がれる第4種踏切]」『[[公明新聞]]』2019年9月16日1面</ref>。[[1980年]]には国内に20カ所存在した([[日本国有鉄道|国鉄]]は0)が、[[1985年]]には皆無になっていた<ref name=鉄道ピクトリアル675-50/>。
==== 第3種 ====
遮断機はないが踏切警報機が設置されている踏切{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=144}}。
現在は警報器更新時に遮断機が追加設置される事が多いため非常に少ない。
==== 第4種 ====
踏切警報機や遮断機が設置されておらず、踏切保安係も配置されていない踏切{{Sfn|日本鉄道電気技術協会|2015|p=144}}。列車の接近を知らせる装置が無く、主に踏切警標があるだけである<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/chubu/tetudo/fumikiri-s.htm 踏切道の種類] - 国土交通省中部運輸局(2021年5月10日閲覧)</ref>。踏切を模した木型や「とまれみよ」<ref group="注釈">「止まれ見よ」等の表記揺れあり。事業者によっては「とまれ」と記される場合もある。</ref>といった標識だけで、実際に列車が接近していて危険ではないかの判断は、通行者の目視および聴覚等に委ねられている。このため事故が発生しやすく、後述するように国は第1種踏切への転換か廃止を求めており、新設は禁止されている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO72308880Y3A620C2CM0000/ [ドキュメント日本]危ない踏切、なお2400ヵ所:減少ペース鈍化 全体の7%残る]『[[日本経済新聞]]』朝刊2023年6月29日(社会面)同日閲覧</ref>。[[ローカル線]]に多いが、列車の速度が高い[[幹線]]にも存在する<ref group="注釈">[[函館本線]]の[[北海道]][[空知総合振興局|空知地方]]区間や[[羽越本線]]の[[新潟県]]内区間など。</ref>。交差する道路は歩行者や二輪車が通れる幅しかなく、四輪車は通れない踏切も多い<ref name=朝日新聞20221212/>。また、[[信号機]]によって道路交通を規制する方式の踏切もこれに分類される。
踏切内における鉄道対自動車の衝突事故も、しばしば発生して問題になることがある。[[2018年]]に[[長崎本線]]の踏切で発生した衝突死亡事故では、[[2019年]][[4月25日]]に[[運輸安全委員会]]が事故調査報告書を公表<ref name=RA2019-3-2>
{{Cite report|和書|date = 2019-04-25 |title = 鉄道事故調査報告書 RA2019-3 Ⅱ 九州旅客鉄道株式会社 長崎線 鍋島駅~久保田駅間 踏切傷害事故 |url = https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2019-3-2.pdf|publisher = 運輸安全委員会| format = PDF |pages = 13-14 |access-date = 2023-08-29 }}</ref>。報告書は第4種踏切の危険性を指摘し、[[九州旅客鉄道]](JR九州)など関係機関に対し、踏切の早期廃止など対策の実施を求める内容となっている<ref>{{Cite web|和書|date=2019-04-27 |url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/367124 |title=死亡事故の小城の踏切 運輸安全委「廃止含め対策を」|publisher=『[[佐賀新聞]]』 |accessdate=2021-05-10}}</ref>。
2000年代までは近畿日本鉄道でも第4種踏切が減少しながらも存在していたが、踏切の廃止および第1種化、及び第4種踏切が存在する路線([[養老鉄道養老線|養老線]]・[[伊賀鉄道伊賀線|伊賀線]])の他社への譲渡や経営移管により消滅した。
2017年時点までは、西武鉄道でも第4種踏切が存在していたが、これは当時休止していた[[西武安比奈線|安比奈線]]に存在していたもので、列車の通行はなかったが、国土交通省の書類の記録に存置していたために計上されていたに過ぎず、実質的には、西武鉄道での第4種踏切は他の路線を含めて消滅していた。
2023年時点では[[大手私鉄]]でも[[東急電鉄]]([[東急世田谷線|世田谷線]]の[[若林駅_(東京都)#若林踏切|若林踏切]])、[[京成電鉄]]、名古屋鉄道に1カ所ずつ存在している。
[[総務省]][[行政評価局]]は2021年11月、国土交通省に対して、第4種踏切を解消(廃止かより安全な踏切への改良)するための協議会を各地域ごとに設けるよう勧告したが<ref>{{Cite press release
| title = 第4種踏切道の安全確保に関する実態調査 <結果に基づく勧告>| publisher = 総務省行政評価局| date = 2021-11-30| url = https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/hyouka_211130000153246.html
| language = ja |accessdate = 2023-08-29 }}</ref>、特に中小鉄道会社において解消は難航している<ref name=朝日新聞20221212>[https://www.asahi.com/articles/DA3S15500078.html 遮断機なし 警報機なし 踏切なくせない事情:事故1.7倍 死者出ても住民「廃止困る」/改良には費用の壁 中小私鉄で進まず]『朝日新聞』夕刊2022年12月12日1面(2023年1月14日閲覧)</ref>。警報機や遮断機の設置に1か所当たり約1,000万円という費用、定期的なメンテナンス費用(4種でも必要ではあるが、他に比べれば極めて軽微)が必要であり、4種踏切のある鉄道事業者には、採算が厳しい地方の事業者が多く、費用の捻出が困難であることと、地元住民が踏切の廃止(横断不能化)に反対していること(死亡事故が発生しているにもかかわらず踏切の存続を希望するケースもある)などがネックになっているとされる<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20221205-OYT1T50121/ 警報機と遮断機ない「危険な踏切」、住民の反対で廃止進まず…死亡事故あっても「存続を希望」]読売新聞オンライン(2022年12月5日)2023年1月14日閲覧</ref>。法律上、踏切の廃止に地元同意は必要ないが、国土交通省は紛争を避けるため自治体や住民と協議するよう鉄道事業者に指導している<ref name=朝日新聞20221212/>。
==== 事実上の踏切 ====
[[File:Informal level crossing JR minobu line kai-tokiwa.jpg|thumb|「勝手踏切」の例。保安設備や踏み板などもなく、「危険ですから近くの踏切を通行して下さい」との看板がある。]]
鉄道事業者によって認められた踏切のほかに、小さな[[路地]]や[[畔]]道、山道などの[[里道]]やいわゆる赤道(あかみち)と鉄道線路が交差している場所がある。近隣住民が線路脇の土手を[[階段]]状にして上り下りしているケースもある<ref name="日経20210504"/>。このような場所は踏切ではなく、法令上は一般人の立ち入り・横断は禁止されているが、実際には近隣の住民が日常的に横断し、事実上の踏切となっている。一部のメディアではそのような場所を'''勝手踏切'''と呼んでいる<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20140517000038 「勝手踏切」廃止へ 京都・宇治のJR奈良線]{{リンク切れ|date=2021年5月}}[[京都新聞]]ニュースHP(2014年05月17日13時30分配信)</ref><ref name="sankei20140426">{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140426/waf14042618000002-n1.htm|title=放置される「勝手踏切」、危険なのに閉鎖できず正式踏切にも昇格できない理由…あの「江ノ電」は全区間10kmに100カ所超も|work=MSN産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2014-04-26|accessdate=2014-04-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150212064152/http://www.sankei.com/west/news/140426/wst1404260083-n1.html |archivedate=2015-02-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160909/k10010678661000.html |date=2016-9-9 |deadlinkdate=2021-5 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160913140651/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160909/k10010678661000.html |archivedate=2016-9-13 |title=【News Up】日常に潜む危険! 勝手踏切 |website=NHK NEWSWEB |accessdate=2021-9-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/440070 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210717223341/https://toyokeizai.net/articles/-/440070 |date=2021-7-13 |archivedate=2021-7-17 |title=家の前が線路、住民たちの「勝手踏切」が招く危険 江ノ電では4月に人身事故、防ぐ手だてはあるか |author=[[渡部史絵]] |website=[[東洋経済新報社|東洋経済]]online |accessdate=2021-9-20}}</ref><ref name="東京新聞web20210922" />。一方で、国土交通省は「明確な定義がなく、鉄道事業者も踏切と認めていない」として「勝手踏切」という語を公的に認めていない<ref name="東京新聞web20210922">{{Cite web|和書|title=「撮り鉄」の共産党議員の書類送検は「狙い打ち」か? 中村格・警察庁長官を直撃してみた|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/132323/2|website=[[東京新聞]] TOKYO Web|date=2021-09-22|accessdate=2021-09-30|language=ja}}</ref>。
[[2016年]](平成28年)[[11月1日]]付の『[[読売新聞]]』の報道によると、日本全国にあるこうした場所が、正規に認可された踏切数(取材時点で3万3432か所)の約6割に相当する約1万9000か所にも及ぶことが、国土交通省の調べで判明したとしている<ref name="yomiuri20161101" />。その後も国土交通省は鉄道事業者を通じて調査を継続し、[[沖縄都市モノレール線]]しかない[[沖縄県]]を除く46都道府県全ての鉄道に人が日常的に横断している形跡がある場所があった。2021年1月時点で判明分だけで1万7066か所で、2016年3月時点の約1万9000か所より減ったものの依然多い。最多は[[愛媛県]](1031か所)で、続く[[長野県]]と[[新潟県]]も800か所を超える<ref name="日経20210504" />。
こうした事実上の踏切は、無許可での線路横断を禁じた[[鉄道営業法]]に違反し、それで運行トラブルを招けば[[往来を妨害する罪#往来危険罪|往来危険罪]]、業務妨害罪([[刑法 (日本)|刑法]])に問われる可能性もある<ref name="日経20210504"/>。
このような場所の中には、元々は近隣住民が利用していた[[生活道路]]が後から建設された線路によって分断された歴史的経緯が存在する例もある。鉄道事業者側としてはあくまで線路内立ち入りを黙認しているという扱いで、線路内に立ち入らないよう注意書き看板などを設置している。往来が増加するなど鉄道事業者が危険と判断すればこれまで黙認されていた場合でも警察当局への通報ならびに検挙がなされるリスクが存在する<ref name="東京新聞web20210922"/>。踏切ではないので踏み板などもないが、鉄道事業者によっては非公認を前提としつつ踏み板を設置した例がある<ref name="sankei20140426" /><ref name="yomiuri20161101">[https://archive.today/2016.11.01-133032/http://www.yomiuri.co.jp/national/20161101-OYT1T50114.html 「勝手踏切」1万9000か所、正規の6割も]『読売新聞』2016年11月1日</ref>。フェンスで線路への立ち入りを防ぐ対策もあるが、費用負担が大きいうえ、住民の反発を受けることもある<ref name="日経20210504"/>。[[江ノ島電鉄]]は折衷案として、[[津波]]からの避難時など非常時に開けられる[[錠]]付き扉を設置した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20211106/ddm/041/020/044000c 「勝手踏切に鍵付き扉/江ノ電設置 非常時に横断可」]『毎日新聞』朝刊2021年11月6日(社会面)2022年1月5日閲覧</ref>。
また、このような場所を正式に踏切にすることは踏切を新設することになり、交通量が多い場合などは[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令]]39条に抵触する可能性がある<ref name="sankei20140426" /><ref name="yomiuri20161101" />。このため、[[複線化]]などの改良工事の際に閉鎖(横断不能化)されることもある<ref>[https://web.archive.org/web/20170531123548/http://www.asahi.com/articles/ASJ893249J89PLZB003.html 「勝手踏切」を閉鎖、住民反発「墓参りが大変」 京都] [[朝日新聞デジタル]](2016年8月10日)</ref>。「勝手踏切」状態だった場所への踏切新設が行われた事例自体は存在しており、[[氷見線]]における[[義経岩]]アクセスを目的とした歩行者用踏切「義経岩踏切」等が挙げられる。
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Tobu-line Railroad-crossing.jpg|第1種甲踏切([[東武東上本線]] 東第244号踏切道)
Jingumae-fumikiri1.jpg|第1種手動踏切<!--第1種乙踏切 (定義が変わったので出典お願いします)-->([[名鉄名古屋本線]]・[[神宮前駅#開かずの踏切|神宮前1号踏切]]):[[2012年]][[7月1日]]午前0時をもって廃止済み。
Motosu-minami Level crossing, Motosu, Gifu.jpg|第3種踏切([[樽見鉄道樽見線]] 本巣南踏切)
Myoko-Haneuma-line Railroad-crossing.jpg|第4種踏切([[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン]] 6番なかむら踏切)
Level crossing - Kishu Railway.JPG|[[紀州鉄道]] [[学門駅]]近くの踏切。遮断機や警報機は無く、標識も設置されていない<!--「踏切注意」の道路標識は存在する-->が、踏み板はある。
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=== 踏切における道路交通 ===
[[ファイル:若林踏切1.jpg|thumb|200px|道路信号機付きの踏切([[東急世田谷線]]の[[若林駅 (東京都)#若林踏切|若林踏切]])]]
日本の[[道路交通法]]では、自動車用の[[日本の交通信号機|信号機]]付きの踏切(いわゆる踏切信号)で青信号が表示されている場合を除き、踏切の種類や列車の運行時間に関係なく、踏切手前での一時停止と安全確認が義務付けられている(第33条第1項)。その際、窓開けについては義務ではないにもかかわらず、運転免許試験では窓開けをしないと減点対象となる。遮断機・警報機付きであっても例外でないのは、遮断機や警報機が故障している可能性があるためとされている<ref group="注釈">実際に故障していたため踏切事故が発生した事例においても、鉄道事業者側のみならず、自動車の運転者の責任も免れないとされた。</ref>。[[#踏切の弊害|後述]]のように、近年でも落雷などによる突発的な故障例がある。また、[[保線]]などに使用される保守用車は、信号機や踏切に無用な影響を与えないようにするため[[絶縁 (電気)|絶縁]]車輪を用いている関係で[[軌道回路]]で検知できず、[[雪かき車|除雪車]]など一部を除き線路上を走行しても遮断機・警報機が作動しないようにしている(詳しくは「[[線路閉鎖]]」「[[モーターカー]]」を参照)。
=== 踏切における歩道・点字ブロック ===
[[車道]]と併用の踏切道の両端は[[歩道]]であるが、視覚障害者向けの[[点字ブロック]]は踏切手前までしかないことが多く、それが原因の可能性がある列車に轢かれての死亡事故も発生している<ref name="朝日20220525">[https://www.asahi.com/articles/DA3S15305294.html 踏切 足から情報を/奈良 点字ブロック劣化 死亡事故「踏切内にも設置を」障害物 検知車を想定]『朝日新聞』夕刊2022年5月25日(社会面)2022年6月2日閲覧</ref>。[[赤外線]]などを利用した障害物検知装置(障検)は自動車の立ち往生を想定しており、動いている人は光を遮る時間が短いため検知しない<ref name="朝日20220525"/>。しかし[[山陽電気鉄道]]が2021年7月から、人に特化して検知する仕組みの障害物検知装置を開発し導入した<ref>「[https://www.nhk.jp/p/ohayou/ts/QLP4RZ8ZY3/blog/bl/pzvl7wDPqn/bp/p85RQ4OkDx/ どう防ぐ? 相次ぐ高齢者の踏切事故]」[[NHKニュースおはよう日本]](2022年8月1日)</ref>。
=== ケーブルカーの踏切 ===
[[ケーブルカー]]のうち、[[近鉄生駒鋼索線]]と[[近鉄西信貴鋼索線]]では踏切が設置されており、中には自動車が走行可能な踏切もある。なお、踏切部分のケーブルは露出したままとなっている。
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Kintetsu-Kasumigaoka-Station-railroad-crossing.jpg|近鉄生駒鋼索線(山上線)霞ヶ丘1号踏切。
Kintetsu Ikoma kosakusen Nara JPN 001.jpg|同(宝山寺線)鳥居前3号踏切。[[普通自動車]]も通行可能。
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=== 構内踏切 ===
鉄道事業者による定義では、[[停車場]]構内にある道路と交差する踏切を指す。自動車が通過できる構内踏切も多数存在する。構内にあるため、列車通過以外に[[オーバーラン|過走]]防護や[[入換 (鉄道)|入換]]車両のために遮断される回数が多く、開かずの踏切になりやすい傾向がある。
地上駅の構内で駅舎や[[プラットホーム|ホーム]]間を行き来するために設けられた通路に存在する警報機などの存在する箇所を(一般的な呼称であり厳密には上記定義に該当しないが)構内踏切、もしくは渡線道、構内通路、旅客通路と称する場合もある。しかしあくまでも道路交通との交点ではなく(したがって踏切ではなく)、[[運輸局]]への届け出上では渡線路となっているのが通例である。
また、ホームの設備として“列車がきます”の表示灯と警報音を備えた機械があるだけで、遮断機や渡線路を持たない第3種に近いものもあるが、これも構内踏切の一種となっている。
列車通過の際に通路が遮断されることによって発車時刻直前になって改札を行っても目的の列車に乗車出来なくなる恐れが高くなるため、[[跨線橋]]や地下道の整備、駅舎の[[橋上駅|橋上化]]や[[高架駅|高架化]]などを行う事でこのような渡線路は減少傾向にある。しかし、地方の駅では[[バリアフリー]]化のため[[京福電気鉄道]][[京福電気鉄道嵐山本線|嵐山線]][[帷子ノ辻駅]]や[[伊予鉄道高浜線]][[古町駅]]、[[九州旅客鉄道|JR九州]][[肥薩線]][[人吉駅]]、[[日豊本線]][[川南駅]]のように構内踏切を復活させた事例<ref group="注釈">[[エレベーター]]を設置するよりも構内踏切を設置した方がコストを抑制できる、という理由が大きい。構内踏切になる前は、帷子ノ辻駅と古町駅では[[地下道]]、人吉駅と川南駅では[[跨線橋]]であった。</ref> もある。
[[日本国有鉄道]]が設置した構内踏切においては、駅目の前の道路上の踏切の警報音が列車接近を知らせる役目も兼ねている関係上、道路上の踏切よりも警報音が低めに設定されている。これは、JRグループが新規に設置した鉄道駅の一部や、国鉄やJRの路線を引き継いだ[[第三セクター鉄道]]の駅にも同様のものがそのまま使われている。
また、[[東京都区部]]でも、[[下町]]の一部の路線で用いられている場合がある([[京成電鉄]][[京成金町線|金町線]][[柴又駅]]、[[東武鉄道]][[東武亀戸線|亀戸線]][[亀戸水神駅]]など)。
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Aikamachi Station level crossing 2014-09-03.jpg|[[秋鹿町駅]]の遮断機付きの構内踏切
Nanakubo-STA-Railroad crossing.jpg|[[七久保駅]]の構内踏切(渡線路)
Hitoyoshi sta. 構内踏切.JPG|[[肥薩線]][[人吉駅]]に新設された構内踏切
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=== 踏切の位置・数の管理方法 ===
以下のいずれかが使用されている。これらの名称または番号は、踏切に記されている事が多い。番号を使う方式の場合、踏切が廃止されても番号は詰められず、欠番のままとなる。また、名前の由来となった事象が消滅した場合(町名変更など)も、基本的に名前の変更は行われない。
* それぞれの踏切に固有名詞を付ける
:例えば「中央通り踏切」「住吉踏切」「鈴木家踏切」など。
:国鉄とそれを継承したJR各社の約半数に見られる。私鉄では[[地方私鉄]]によく見られるが、大手私鉄では京阪・阪急・阪神がこの方式。準大手だが阪神・阪急と路線の繋がっている山陽電気鉄道もこの方式である。
* 始発駅から終着駅まで1・2・3…と番号を割り振る
:このため近年に開業した踏切の少ない路線でない限り番号は増え続け、100位や長大路線では1000位もある。
:こちらも国鉄・JR各社の約半数に見られるほか、大手私鉄では東武がこの例である。
* 駅を過ぎるごとに番号を1からリセットする
:例えば始発駅をA駅とすると、A駅1号踏切、A駅2号踏切、A駅3号踏切…次のB駅を通るとB駅1号踏切、B駅2号踏切…という具合である。通称としては、B駅から始発駅方向に数えてB駅逆1号、B駅逆2号という数え方も存在する。A駅から数えて4つ目で、B駅から数えて2つ目の踏切なら、A駅4号踏切だが、通称としてB駅逆2号踏切とも呼ばれることがある。この方式の場合も、後から駅が追加になった場合やホームが移転した場合でも踏切名は基本的に変更されない(A駅とB駅の間にC駅ができても、CB駅間の踏切はA駅○号となる)。[[#構内踏切|構内踏切]]は番号を付けず「構」の字などで区別する会社が多い。また[[土地区画整理事業]]などによる道路の付け替えで、既存の踏切間に踏切が新設された場合、枝番号を付けて区別する例もある<ref>[[西武新宿線]]の[[入曽駅]]〜[[狭山市駅]]間の踏切は、入曽1-1号、入曽1-2号、入曽2号の順に並んでいる。</ref>。
:こちらも私鉄に多い。大手私鉄の大多数はこの方式。
* 名称も数も付けない
:踏切の数が非常に少ない会社の場合。
:例としては東京メトロなど。
=== 踏切の弊害 ===
[[ファイル:Totsuka level crossing 01.jpg|thumb|200px|[[戸塚駅]]脇の[[国道1号]]東海道踏切(通称 戸塚大踏切、2015年3月廃止)。<br>朝夕は車両通行止となり、[[戸塚道路]]などに迂回が必要であった。[[アンダーパス]]が建設されたため廃止。]]
踏切は鉄道車両と自動車、自転車、歩行者がともに通過・進入して交通が錯綜することから[[鉄道事故]]が起こりやすく、[[交通渋滞]]の原因ともなる。事故については、列車の接近を認識しながら無理な横断を図った場合以外に、[[イヤホン]]で[[音楽]]を聴き入っていたことなどによる不注意、歩行や視覚・聴覚に障害があるケースなど様態は様々である。国土交通省によると、第3種・第4種踏切での事故は100カ所あたり0.94件で、第1種の1.4倍に達する。[[運輸安全委員会]]は2014年度以降、死亡者が出た踏切事故の全件で現場調査・分析を行っている。その度に報告書で対策を求めているが、第1種への改修は特に中小私鉄やローカル鉄道事業者にとって費用負担が重く、立体交差化は自治体の費用負担が重く、踏切の廃止(横断不能化)は上記「事実上の踏切」と同様に周辺住民からの反対が強く、あまり進んでいない<ref name="yomiurii20180818"/>。
また特に大都市圏において列車本数や線路数が多い踏切では、朝[[ラッシュ時]]など時間帯によっては([[ダイヤグラム|ダイヤ]]が乱れた場合も含む)、開いている時間が閉まっている時間よりも短く(1時間に数分しか開いていない踏切もある)、'''[[開かずの踏切]]'''となってしまっているものもある。そのため、特に交通量の多い箇所を中心に、道路や鉄道の高架化または地下化を目的とした[[連続立体交差事業]]によって踏切の除去が進められている。なお、踏切が開いている時間は、列車がわずか数秒遅れる程度でも開かなくなることがある(対向列車及び同一方向の列車間隔が主な理由)。また、遮断機が故障して上がらなくなることで、道路交通に支障が生じるケースもある<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/20170128-OYT1T50046.html 「JR踏切の遮断機、3時間上がらず…さいたま」]{{リンク切れ|date=2021年5月}}『読売新聞』2017年1月28日</ref>。一方で、遮断機が下りないまま列車が踏切に進入する事案も発生することがあり、[[高松琴平電気鉄道長尾線]]で2023年4月に発生した件では、過去2年以内に類似の事例が4件発生していたことも鑑み、国土交通省[[四国運輸局]]が改善を指示している<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASR746VJYR74PTLC00Q.html 遮断機下りない事案多発、ヒューズ損傷も 「ことでん」に改善指示] 朝日新聞 2023年7月5日</ref>。
更に、渋滞原因の一つである自動車の踏切一時停止義務も、日本国外では警報機・遮断機つき(国によっては警報機のみの場合も)の場合はほとんど規制されていない<ref group="注釈">『クルマの渋滞 アリの行列 -渋滞学が教える「混雑」の真相 -』([[技術評論社]])によると、自動車の踏切一時停止義務を設けているのは日本と韓国のみである(参考:[http://www.kotsa.or.kr/index.action 交通安全公団]{{リンク切れ|date=2021年5月}}※[[韓国語]]。2010年2月24日から第一種(または第二種)普通免許の運転免許試験の場内試験では一時停止をする必要がなくなった。2011年6月10日からはコースから踏切を廃止。第一種大型免許は従来どおり一時停止が必要。)</ref> ことから、第1種踏切については日本の国会でも廃止すべきか検討されたことがある<ref>『朝日新聞』東京版2005年2月5日:踏切横断「止まらずOKに」 自民有志が法改正検討</ref>。しかし、2000年8月9日に[[秩父鉄道]]において、[[落雷]]により警報機が故障した踏切で電車と踏切に進入した自動車との事故が発生した<ref>「[[熊谷市|熊谷]]の踏切事故・落雷で遮断機下りず」『読売新聞』2000年8月11日</ref>。踏切信号機を設置した踏切で青信号が表示されている場合は一時停止が不要なため、交通量の多い一部の踏切では踏切信号機を設置し、一時停止義務をなくして交通の円滑化が図られている。しかし、これにも弊害があり、踏切部分の道床の劣化が早まってしまう場合がある。[[福島交通飯坂線]]平野踏切では、交差する[[国道13号]]を重量のある大型車両が絶えず高速で通過するため、想定を超える道床からの打ち返しにより、[[軌条|レール]]の[[疲労 (材料)|金属疲労]]が大きくなり、レールが破断する事態となった。
その上、その踏切が線路の曲線上に存在する場合、[[カント (路線)|カント]]により道路側に段差が生ずる。このような線路を複数またぐ踏切ともなれば路面が[[洗濯板]]状となってしまう。そのため『[[交通バラエティ 日本の歩きかた]]』で取り上げられた例においては段差を越える際の振動により「自転車のカゴから荷物が落ちる」「積み荷が破損する」、段差そのものにより「自動車の底部や路面に傷ができる」「([[開かずの踏切]]だった場合に急いで通過しようとして)バランスを崩したり[[ローライダー]]の如くクルマが跳ねたりする」といった弊害が発生していた。
[[道路法]]および[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令]]に道路と鉄道が交差する場合は原則として立体交差としなければならないと定められているため、[[新幹線]]([[ミニ新幹線]]<ref>[https://mainichi.jp/articles/20170702/ddl/k06/040/080000c 【ミニ新幹線は走る 山形開通25周年】(中)つばさの事故 衝突の危険、常に カモシカ対策、知恵絞る]『[[毎日新聞]]』朝刊2017年7月2日(山形県版)2021年5月10日閲覧</ref> と[[東海旅客鉄道浜松工場]]への[[専用鉄道|引込線]]<ref>[https://trafficnews.jp/post/90172 「踏切で待ってたら新幹線N700Aが走ってきた! 日本唯一のレア踏切 東海道新幹線」] 乗りものニュース(2019年10月5日配信)2021年5月10日閲覧</ref> を除く)や[[武蔵野線]]や[[湖西線]]など、[[モータリゼーション]]による道路整備が進んだ後に新規に開業した多くの路線では、道路との交差地点は全て立体交差とし、踏切を設けていない。例外的に踏切の新設が認められる場合として、停車場に近接した場所で道路と交差する場合において、立体交差になることで道路又は鉄道の効用が著しく阻害される場合などが[[道路法施行令]]で定められており、新設路線でも既設路線との接続駅付近に踏切が設置されている場合がある。「[[立体交差]]」も参照。
=== 災害時の踏切 ===
また、大[[地震]]発生時において、地震によって踏切の遮断機が上がらなくなり、避難行動や[[緊急自動車]]の走行に支障を生じるケースもあり、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])や[[大阪府北部地震]]などで問題となった。いずれのケースも、鉄道事業者側が設備の安全確認に追われる余り、遮断機を手動で昇降させる要員が足りなかったためとされる<ref>{{Cite news |date=2018年6月21日 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32038440R20C18A6AC8000/ |title=地震渋滞 招いた「想定外」 踏切通れず、救急車遅れる |publisher=日本経済新聞社 |newspaper=日本経済新聞 |accessdate=2018年10月27日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180620193345/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32038440R20C18A6AC8000/ |archivedate=2018年6月20日}}</ref><ref>{{Cite news |date=2018年06月27日 |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20180627-OYT1T50039.html |title=地震で遮断機下りたまま、救急搬送7分が42分 |publisher=読売新聞社 |newspaper=読売新聞 YOMIURI ONLINE |accessdate=2018年10月27日|archiveurl=https://archive.today/2018.06.27-231614/http://www.yomiuri.co.jp/national/20180627-OYT1T50039.html |archivedate=2018年06月27日}}</ref>。
こうした事態を防ぐため、遮断機を上げて道路交通を再開させる手順を鉄道事業者と道路管理者である自治体などがあらかじめ定めておく「災害時指定踏切」制度が2021年4月に創設され、同年6月30日に国土交通省が181カ所を指定した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210702/ddm/012/040/121000c 「全国181カ所、災害時指定踏切に」]『毎日新聞』朝刊2021年7月2日(2021年8月9日閲覧)</ref>。
=== 併用軌道としての踏切 ===
[[ファイル:Koshigoe-Sta.jpg|thumb|併用軌道に乗り入れる場所にあるため、ホーム側にしか遮断機がない([[江ノ島電鉄線]][[腰越駅]]脇)。]]
特殊な踏切の例として、鉄道事業者が[[併用軌道]]を設けている場合、長大な踏切として扱われるという解説がよく言われるが、それは事実ではない。事業者側が監督官庁に対して、敷設許可申請<ref>[[鉄道事業法]]第61条第1項ただし書きおよび、鉄道線路の道路への敷設の許可手続を定める[[政令]]第1条。</ref><ref>https://www.mlit.go.jp/onestop/061/images/061-001.pdf</ref> を行い、それに対しが許可が与えられる。その後、道路管理者の道路占用許可を別途受けている<ref name="0906senyouQandA">{{Cite web|和書
| url = https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2009data/0906/0906senyouQ&A.pdf
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20170909052053/https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2009data/0906/0906senyouQ&A.pdf
| format = PDF
| author = 国土交通省[[道路局]]路政課道路利用調整室
| title = 鉄道の道路占用について(道路占用 Q&A)
| work = 『道路行政セミナー』2009年6月号
| publisher = [[道路新産業開発機構]]
| accessdate = 2017-9-8
| archivedate = 2017-9-9
}}</ref>。その道路占用許可は道路法施行令第9条の定めにより10年以内の期限を定めて許可されるため、線路が維持される限り期限の更新を受けている{{Refnest|group="注釈"|道路と交差する踏切道の場合も同じく道路占用許可を必要とするが、鉄道事業法第61条第1項ただし書きの適用は受けない。<ref name="0906senyouQandA" />}}。
なお、併用軌道は走行速度が低く設定されている場合が多く、ダイヤの設定の上で障害にもなっている。さらに道路の交通量が増加し車の渋滞や、車と鉄道車両との接触事故の問題などから、現在では普通鉄道の列車が併用軌道を走る区間はほぼ消滅している。
しかしながら、[[江ノ島電鉄線]]、[[熊本電気鉄道藤崎線]]では依然としてこの形態が残っている。この両者は当初[[軌道法]]に準ずる軌道路線で敷設された後、[[地方鉄道法]]に準ずる鉄道路線に切り替えたためにこの形態となったものである。
=== 日本の無踏切の鉄道路線 ===
;JR[[在来線]]
:[[湖西線]]、[[海峡線]]、[[JR東西線]]、[[京葉線]]、[[武蔵野線]]、[[根岸線]]、[[大阪環状線]]、[[本四備讃線]]、[[なにわ筋線]](予定)
;私鉄
:構造上、道路と同一面で交差しない[[モノレール]]、[[新交通システム]]、[[地下鉄]]、[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]の[[第三軌条方式]]の路線に直通する路線を除く。
:[[仙台空港鉄道仙台空港線]]、[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]、[[京成東成田線]]、[[京成千原線]]、[[東武大師線]]、[[西武有楽町線]]、[[京王相模原線]]、[[小田急多摩線]]、[[相鉄いずみ野線]]、[[相鉄新横浜線]]、[[東急田園都市線]]、[[東急新横浜線]]、[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]、[[名鉄空港線]]、[[東海交通事業城北線]]、[[近鉄鳥羽線]]、[[南海空港線]]、[[阪急神戸高速線]]、[[阪神神戸高速線]]、[[神戸電鉄公園都市線]]、[[神戸電鉄神戸高速線]]など
;踏切が他路線と接続する起終点駅または途中駅付近にしか存在せず、ほぼ全区間踏切なしの路線。
:[[鹿島線]]、[[おおさか東線]]、[[関西空港線]]、[[宮崎空港線]]、[[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線]]、[[野岩鉄道会津鬼怒川線]]、[[北総鉄道北総線]]、[[京成成田空港線]]、[[泉北高速鉄道線]]、[[智頭急行智頭線]]など
== 鉄道以外での踏切 ==
小規模の[[飛行場]]や[[運河]]の[[可動橋]]でも鉄道用の踏切警報機・遮断機を設置している場合がある。
変わり種としては[[山口県]][[宇部市]]にある[[宇部伊佐専用道路]]と一般道路が交差する部分に鉄道用の踏切警報機・遮断機を設置しており、一般車両が専用道路を通過する大型トレーラーを通過待ちする光景が見られる。また、鉄道用の遮断機が設置されているものは、[[バス専用道路]]に例がある。
また、道路を遮断する交通機関が鉄道ではない踏切も存在する。[[ジブラルタル国際空港]]では、飛行機対道路で踏切が設置されている。かつては[[ロンドン・ヒースロー空港]]にも存在したほか<ref name="airline383-79">[[イカロス出版]]『月刊エアライン』通巻383号 p.79</ref>、日本国内でも[[2004年]]に廃港となった[[群馬県]]の[[大西飛行場]]には、[[滑走路]]中央付近を横断する道路に対して踏切が設置されていた。
<gallery>
Road.ba.b777.arp.jpg|かつてロンドン・ヒースロー空港に存在した踏切
Gibraltar-lotnisko.jpg|ジブラルタル国際空港にある踏切
20040306OnishiAirport-CIMG0015.JPG|大西飛行場にあった踏切
</gallery>
== 動物の衝突事故防止用の踏切 ==
{{節スタブ}}
列車と動物の接触事故防止を目的とした踏切。全国で列車と[[シカ]]が接触する事故は2014年度は5,000件に増加したとされる<ref name="U-SONIC2960">{{Cite web|和書|url=https://u-sonic.jp/wordpress/archives/2960|title=鹿の踏切(ユーソニック)報道される。 | 鳥獣撃退 | 株式会社モハラテクニカ U-SONIC事業部|accessdate=2019-11-20}}</ref>。[[近畿日本鉄道]]においてもシカの衝突が2015年には288件に達し、接触防止策を数々試すも効果が上がらなかったことから2016年5月16日より動物との接触事故防止設備を「シカ踏切」の名称で導入した<ref name="goddezainsshika">{{Cite press release|和書|format=pdf|language=ja||title=-近鉄がプロデュース- 鹿の線路内への侵入防止システム「シカ踏切」がグッドデザイン賞を受賞! |publisher=[[近畿日本鉄道]] |date=2017-11-1 |url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/goddezainsshika.pdf |accessdate=2019-11-20}}</ref><ref name=wst1805280003>{{cite news|language=ja|title=【関西の議論】「シカ踏切」絶大な効果、逆転の発想が生んだ近鉄の接触事故対策 |url=https://www.sankei.com/article/20180528-FJWYJQ6Q4VJI5F3KP2BZQ5BF3M/ |date=2018-5-28|newspaper=[[産経新聞社]]|accessdate=2019-11-20}}</ref><ref name=trafficnews78952>{{Cite web|和書|language=ja |title=線路内侵入防止システム「シカ踏切」がグッドデザイン賞受賞 近鉄らが開発|url=https://trafficnews.jp/post/78952 |publisher=乗りものニュース |accessdate=2019-11-20}}</ref><ref name="U-SONIC3441">{{Cite web|和書|url=https://u-sonic.jp/wordpress/archives/3441|title=鉄道電気技術賞を受賞| 株式会社モハラテクニカ U-SONIC事業部|accessdate=2019-11-20}}</ref>。シカ踏切は線路周辺に侵入防止ネットを張ったところのうち[[獣道]](シカ道)に通じる箇所だけネットを張らずにシカが通れるようにしておき、列車運行がある時間帯にのみシカの嫌う超音波を発信し、発信中は線路へのシカの侵入を抑制する<ref name="U-SONIC2960" /><ref name="goddezainsshika" /><ref name=trafficnews78952 />。これによりシカとの衝突は導入直前の前は年平均10件以上あったものが年2件以下に激減し<ref name="goddezainsshika" /> 列車運行が無い時間帯は超音波を止めることでシカは線路を侵入・横断できるのでシカに優しい踏切と呼ばれている<ref name="U-SONIC2960" /><ref name=wst1805280003 />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『信号システムの進歩と発展 = 近年20年の展開と将来展望 =』日本鉄道電気技術協会、2009年。{{ISBN2|978-4-931273-98-6}}。
* {{Cite book|和書|ref={{SfnRef|日本鉄道電気技術協会|2015}}|title=鉄道信号|date=2015-1-27|publisher=日本鉄道電気技術協会|ISBN=978-4-904691-39-7}}
== 関連項目 ==
* [[踏切警報機]]
* [[遮断機]]
* [[平面交差]](鉄道同士の平面交差や、飛行機と道路の踏み切りも含む)
* [[信号保安]]
* [[鉄道信号機]]
* [[日本の鉄道信号]]
* [[軌道回路]]
* [[列車選別装置]]
* [[踏切障害事故]]
* [[開かずの踏切]]
* [[ジブラルタル#交通|ジブラルタル]](対鉄道ではなく、対飛行機の踏切がある例)
* [[大西飛行場]](日本唯一の飛行場の踏切があった。現在は閉鎖)
== 外部リンク ==
{{Commons&cat}}
* [https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1301/25/news012.html なぜ「必要悪」の踏切が存在するのか――ここにも本音と建前が] - Business Media 誠([[ITmedia]])
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[[Category:鉄道の設備]]
[[Category:道路交通]]
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鎌倉将軍一覧
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鎌倉将軍一覧(かまくらしょうぐんいちらん)では、鎌倉幕府の征夷大将軍の一覧を示す。
一般的には、征夷大将軍の地位は鎌倉殿(鎌倉幕府の長)の地位を公的に担保するもの、と考えられている。
だが征夷大将軍はもとは源頼朝が鎮守府将軍である奥州藤原氏を凌駕する官職として望んだもので、鎌倉殿の本質的属性ではなかった。実際、2代目鎌倉殿となった源頼家が征夷大将軍職に就いたのは家督相続から3年後であり、源実朝の死後に鎌倉殿となった藤原頼経も征夷大将軍職に就いたのは鎌倉下向から7年後であって(鎌倉幕府公式記録「吾妻鏡」では実朝死去後から北条政子が6年間鎌倉殿だったとしている)、その間は征夷大将軍職が空席であったが、「鎌倉殿」であることは変わらず、特に問題とされなかった。
源実朝が暗殺されたあと頼朝の子孫(源氏将軍)が絶え、京都の朝廷に対抗し、有力御家人たちを抑えられるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、初めは摂関家の子弟を将軍職に就けたが(摂家将軍)、北条氏に離反した。このため、北条氏は摂家将軍を廃して皇族(宮将軍・親王将軍)を京都から迎え将軍職に就けた。その結果、実権が北条氏に握られることとなり、将軍は名目的存在となったが、形の上では将軍はあくまでも幕府の長であり、全ての御家人の主君であることから、御家人たちに対して一定の求心力を持ち続けた。これを警戒した北条氏は、幼少の将軍を迎えては成人すると解任して京都に送還するということを幕末まで繰り返した。
北条氏が幕府内では将軍を遥かに凌駕する権力を握り、また朝廷に対して将軍職任命を容易に強要できるだけの実力を持ちながら自らは将軍にならなかったのは、北条氏を支持する御家人たちが北条氏の将軍職就任を推したが、朝廷が拒絶した、とする説が存在する。また、北条氏の出自が一介の地方豪族でしかなかったことから、仮に将軍職に就いても有力御家人たちの心服を得ることができないため、将軍職就任を断念せざるを得なかった、とする説も存在する。
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鎌倉将軍一覧(かまくらしょうぐんいちらん)では、鎌倉幕府の征夷大将軍の一覧を示す。
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'''鎌倉将軍一覧'''(かまくらしょうぐんいちらん)では、[[鎌倉幕府]]の[[征夷大将軍]]の一覧を示す。
== 概要 ==
一般的には、征夷大将軍の地位は[[鎌倉殿]](鎌倉幕府の長)の地位を公的に担保するもの、と考えられている。
だが征夷大将軍はもとは[[源頼朝]]が[[鎮守府将軍]]である[[奥州藤原氏]]を凌駕する[[官職]]として望んだもので、鎌倉殿の本質的属性ではなかった。実際、2代目鎌倉殿となった[[源頼家]]が征夷大将軍職に就いたのは家督相続から3年後であり、[[源実朝]]の死後に鎌倉殿となった[[藤原頼経]]も征夷大将軍職に就いたのは鎌倉下向から7年後であって(鎌倉幕府公式記録「[[吾妻鏡]]」では実朝死去後から[[北条政子]]が6年間鎌倉殿だったとしている)、その間は征夷大将軍職が空席であったが、「鎌倉殿」であることは変わらず、特に問題とされなかった。
[[源実朝]]が暗殺されたあと頼朝の子孫([[源氏将軍]])が絶え、[[京都]]の[[朝廷 (日本)|朝廷]]に対抗し、有力[[御家人]]たちを抑えられるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、初めは[[摂関家]]の子弟を将軍職に就けたが([[摂家将軍]])、北条氏に離反した。このため、北条氏は摂家将軍を廃して[[皇族]]([[宮将軍]]・親王将軍)を京都から迎え将軍職に就けた。その結果、実権が[[北条氏]]に握られることとなり、将軍は名目的存在となったが、形の上では将軍はあくまでも幕府の長であり、全ての御家人の主君であることから、御家人たちに対して一定の求心力を持ち続けた。これを警戒した北条氏は、幼少の将軍を迎えては成人すると解任して京都に送還するということを幕末まで繰り返した。
北条氏が幕府内では将軍を遥かに凌駕する権力を握り、また朝廷に対して将軍職任命を容易に強要できるだけの実力を持ちながら自らは将軍にならなかったのは、北条氏を支持する御家人たちが北条氏の将軍職就任を推したが、朝廷が拒絶した、とする説が存在する。また、北条氏の出自が一介の地方豪族でしかなかったことから、仮に将軍職に就いても有力御家人たちの心服を得ることができないため、将軍職就任を断念せざるを得なかった、とする説も存在する。
== 一覧 ==
* 氏名、院号、墓所は50音順ソート
* 官位は位の高い順にソート<!--
WebKit系のブラウザで折り返しに不具合が生じるため、表中では全角カッコのかわりに半角カッコ(半角カッコ+半角スペース)を使用しています。
{{Display none| }}で囲まれている文字列はソートキーです。読み仮名から濁点を取ってあります。
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{| class="sortable wikitable" style="text-align:center; font-size:95%; line-height:1.4em; margin:10px 0px;"
|-style="vertical-align:top; white-space:nowrap;"
! 代
! 氏名
! class="unsortable" | 肖像
! 院号
! 官位
! 在職
! 期間
! 出身家
! {{Nowrap|享年}}
! 墓所
|-
!1
|<small>みなもとのよりとも</small><br />[[源頼朝]]
|[[ファイル:Minamoto no Yoritomo.jpg|80px]]
| {{Display none|無しまたは不明/}}武皇
|{{Display none|1-02-00/}}[[正二位]]<br />{{Display none|05/}}[[大納言|権大納言]]
|{{Display none|1192-/}}{{Nowrap begin}}[[建久]]3年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]] ([[1192年]]){{Wrapj}}<br />- 建久10年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]] ([[1199年]]){{Nowrap end}}
|{{Display none|0}}6年 {{Nowrap|6か月}}
| style="white-space:nowrap;" |[[河内源氏]]
|53
| style="white-space:nowrap;" |{{Display none|おおくらほつけとう/}}大倉法華堂<br />[[白旗神社]]
|-
!2
|<small>みなもとのよりいえ</small><br />[[源頼家]]
|[[ファイル:Minamoto_no_Yoriie.jpg|80px]]
| style="white-space:nowrap;" |{{Display none|ほつけいん/}}法華院
|{{Display none|1-02-00/}}正二位<br />{{Display none|06/}}[[左衛門督]]
|{{Display none|1202-/}}{{Nowrap begin}}[[建仁]]2年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]] ([[1202年]])<br />- 建仁3年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]] ([[1203年]]){{Nowrap end}}
|{{Display none|0}}1年 {{Nowrap|2か月}}
|河内源氏
|23
|{{Display none|しゆせんし/}}[[修禅寺]]
|-
!3
|<small>みなもとのさねとも</small><br />[[源実朝]]
|[[ファイル:Minamoto_no_Sanetomo.jpg|80px]]
|{{Display none|たいしし/}}大慈寺
|{{Display none|1-02-00/}}正二位<br />{{Display none|03/}}[[右大臣]]
|{{Display none|1203-/}}{{Nowrap begin}}建仁3年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]] ([[1203年]])<br />- [[建保]]7年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]] ([[1219年]]){{Nowrap end}}
|15年 {{Nowrap|4か月}}
|河内源氏
|28
|{{Display none|しゆふくし/}}[[寿福寺]]<br />白旗神社
|-
!4
| style="white-space:nowrap;" |<small>ふじわらのよりつね</small><br />[[藤原頼経]]
|[[ファイル:Kujō_Yoritsune.jpg|80px]]
| {{Display none|無しまたは不明/}}-
|{{Display none|1-02-00/}}正二位<br />{{Display none|05/}}権大納言
|{{Display none|1226-/}}{{Nowrap begin}}[[嘉禄]]2年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]] ([[1226年]]){{Wrapj}}<br />- [[寛元]]2年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]] ([[1244年]]){{Nowrap end}}
|18年 {{Display none|0}}{{Nowrap|3か月}}
|[[藤原氏]]<br />{{Nowrap|([[九条家]])}}
|39
| {{Display none|無しまたは不明/}}-
|-
!5
|<small>ふじわらのよりつぐ</small><br />[[藤原頼嗣]]
|<!--[[ファイル:|80px]]-->
| {{Display none|無しまたは不明/}}-
|{{Display none|1-03-10/}}[[従三位]]<br />[[左近衛中将]]
|{{Display none|1244-/}}{{Nowrap begin}}寛元2年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]] ([[1244年]]){{Wrapj}}- [[建長]]4年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]] ([[1252年]]){{Nowrap end}}
|{{Display none|0}}7年 {{Nowrap|10か月}}
|藤原氏<br />{{Nowrap|(九条家)}}
|18
| {{Display none|無しまたは不明/}}-
|-
!6
|<small>むねたかしんのう</small><br />[[宗尊親王]]
|<!--[[ファイル:|80px]]-->
| {{Display none|無しまたは不明/}}-
|{{Display none|0-01/}}[[一品親王|一品]]<br />[[中務卿]]
|{{Display none|1252-/}}{{Nowrap begin}}建長4年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]] ([[1252年]]){{Wrapj}}<br />- [[文永]]3年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]] ([[1266年]]){{Nowrap end}}
|14年 {{Nowrap|3か月}}
|皇族
|33
| {{Display none|無しまたは不明/}}-
|-
!7
|<small>これやすしんのう</small><br />[[惟康親王]]
|<!--[[ファイル:|80px]]-->
| {{Display none|無しまたは不明/}}-
|{{Display none|0-02/}}[[正二位]]<br />{{Nowrap|[[中納言]][[右近衛大将]]}}<br />→[[品位 (位階)|二品]]
|{{Display none|1266-/}}{{Nowrap begin}}文永3年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]] ([[1266年]]){{Wrapj}}<br />- [[正応]]2年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]] ([[1289年]]){{Nowrap end}}
|23年 {{Nowrap|2か月}}
|皇族
|63
| {{Display none|無しまたは不明/}}-
|-
!8
|<small>ひさあきらしんのう</small><br />[[久明親王]]
|<!--[[ファイル:|80px]]-->
| {{Display none|無しまたは不明/}}-
|{{Display none|0-01/}}一品<br />[[式部卿]]
|{{Display none|1289-/}}{{Nowrap begin}}正応2年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]] ([[1289年]]){{Wrapj}}<br />- [[徳治]]3年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]] ([[1308年]]){{Nowrap end}}
|18年 {{Nowrap|10か月}}
|皇族
|53
| {{Display none|無しまたは不明/}}-
|-
!9
|<small>もりくにしんのう</small><br />[[守邦親王]]
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== 系図 ==
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<!--
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}-->
== 関連項目 ==
*[[源氏]]
**[[清和源氏]] - [[河内源氏]]
*[[源氏将軍]]
*[[摂家将軍]]
*[[宮将軍]]
*[[北条氏]]
**[[北条政子]] - 将軍でも執権でもないが、幕府の最高権力者として政務を執った。『[[吾妻鑑]]』では歴代鎌倉殿に数えている。
**[[得宗]] - 北条氏嫡流の当主で、[[北条時頼]]以降、執権に代わり専制的な実権を握る。
*[[鎌倉幕府の執権一覧]]
*[[征夷大将軍]]
*[[足利将軍一覧]]
*[[徳川将軍一覧]]
{{鎌倉幕府将軍}}
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[[Category:鎌倉幕府の征夷大将軍|*]]
[[Category:日本史の人物一覧]]
[[Category:神奈川県の歴史]]
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17,046 |
体重計
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体重計(たいじゅうけい、bathroom scale)は、質量計の一種であり、体重(人間や動物の質量)を測定する計量器である。家庭用の体重計はヘルスメーターとも言う。
体重計が測定する物理量(つまり体重計の示度)は、体の質量(単位はキログラム(kg)、グラム(g))である。しかし、初等教育の現場では、体重計が何を測るのかについてしばしば混乱があり、体の重量(物理量は力、単位はニュートン(N))を測っているのではないかとの誤解がある。
この誤解の根本原因は、家庭用体重計の多くではばねばかり式が採用されていることにある。つまり、体重計では、体重(人体の質量、単位はキログラム)が地球上の重力加速度によってバネに及ぼす圧縮力(単位はニュートン)とバネの伸び縮みが比例するフックの法則によって、この圧縮力(単位はニュートン)、つまり力(単位はニュートン)を測っているのではないかというように誤解されているのである。
上記のことは、計量の分野においても、50年間にわたり議論がされてきたことであり、誤解があるのもやむを得ない点があるが、現在では計量界でも、体重計だけでなくバネばかりの原理を応用するどのような秤でも、それが測定する物理量は、質量(単位はキログラム)であることで見解が一致している。
地球上でバネばかりが原理的に検出している物理量は、力(単位はニュートン)であることは確かであるが、秤の実際の目盛に示している物理量としては、この力の量を質量の値に変換することで、体重(質量、単位はキログラム)の値を表示しているのである。詳細は、秤#秤が測る物理量とはを参照。
体重計は、通常、その上に立って乗ることによって体重を計測する仕様になっている。しかし、疾病などで通常の体重計に乗れない場合は、特殊な体重計を使用する場合もあるし、子供の場合は大人が子供を抱きかかえて体重計に乗った後で大人の体重を差し引くという方法を使う場合もある。なお、特に子供の場合、体重に応じて使用する薬剤の量や輸液の量を調節せねばならないために、投薬や輸液が必要な場合、体重計を使って体重を調べる必要が出てくる。ちなみに、母乳で保育している新生児(乳児)の場合、どれだけの母乳を飲んだかを知るために、授乳前と授乳後でそれぞれ体重を量るといったことが行われる場合もある。また、学校や職場の健康診断では、業務用の体重計や水平型の体重計を使用しているところが多い。銭湯や旅館などの大浴場でも、業務用や水平型の体重計を使っているところが多い。
2000年代以降は、体重を計測すると同時に、体脂肪率やBMIを計れるもの(体組成計)が登場した。
検診、公的な記録の作成・証明(計量法での証明に当たるもの)などに使用されるものは、計量法により特定計量器として都道府県又は計量特定市が実施する2年に1回の定期検査を受検することを要し、またそれらは検定証印又は基準適合証印が付されているものでなければならない。
家庭用体重計には、技術基準に適合して製作されていることを示す家庭用計量器の正マークが表示されているが、検定証印や基準適合証印は付されておらず、定期検査の対象とはならない。ただし、当然に、取引や証明に係る行為には使用できない。
しかし、家庭用計量器においても、デジタル式のものが流通するにつれ、ばね式指示はかり等の機械式はかり(検定・定期検査を経たもの)よりも「精密」であると認識されてしまい、取引や証明、とりわけ証明の分野で使用されていることが多い。これは、明確に計量法に違反する行為であり、計量行政機関(都道府県・計量特定市)による指導・取締りを要する状況が広がっているが、経済産業省周辺では、家庭用計量器というカテゴリーそのものを見直す動きも進んでいる。
地球上では地球の自転による遠心力が働くため、赤道に近いほど重力加速度は小さくなる。日本国内では北と南で約1/800の重力差(体重100kgで100g以上の差)があり、これを補正するため、100g単位の精度で計測できる体重計では、(12地域にわたる)地域設定機能を備えたものが多い。また、地域設定機能がない場合でも、北海道用、沖縄用、本土用の3種類の体重計が予め用意されている。
国際宇宙ステーションは無重力のため、地球で一般的に使われている体重計は使えない。そのため、国際宇宙ステーションでは、縮めたバネが押し返される時の勢いを体重に換算して、計測している。
硬貨を投入して利用する有料体重計は、サービスを提供する自動販売機の草創期から存在する。日本で最初に導入された自動販売機も体重計であり、1876年7月頃から上野恩賜公園内に設置されていたものと考えられている。
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"text": "硬貨を投入して利用する有料体重計は、サービスを提供する自動販売機の草創期から存在する。日本で最初に導入された自動販売機も体重計であり、1876年7月頃から上野恩賜公園内に設置されていたものと考えられている。",
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] |
体重計は、質量計の一種であり、体重(人間や動物の質量)を測定する計量器である。家庭用の体重計はヘルスメーターとも言う。
|
[[ファイル:Personenwaage fcm.jpg|thumb|250px|体重計]]
'''体重計'''(たいじゅうけい、bathroom scale)は、[[秤|質量計]]の一種であり、[[体重]]([[人間]]や[[動物]]の[[質量]])を測定する[[計量器]]である。[[家庭]]用の体重計は'''ヘルスメーター'''<ref>{{和製英語|health meter}}</ref>とも言う。
== 体重計が示す物理量 ==
体重計が測定する[[物理量]](つまり体重計の示度)は、体の[[質量]](単位は[[キログラム]](kg)、グラム(g))である。しかし、初等教育の現場では、体重計が何を測るのかについてしばしば混乱があり、体の[[重量]]([[物理量]]は[[力 (物理学)|力]]、単位は[[ニュートン (単位)|ニュートン]](N))を測っているのではないかとの誤解がある。
この誤解の根本原因は、家庭用体重計の多くでは[[ばねばかり]]式が採用されていることにある。つまり、体重計では、体重(人体の質量、単位はキログラム)が地球上の[[重力加速度]]によってバネに及ぼす[[圧縮力]](単位はニュートン)とバネの伸び縮みが比例する[[フックの法則]]によって、この圧縮力(単位はニュートン)、つまり力(単位はニュートン)を測っているのではないかというように誤解されているのである。
上記のことは、計量の分野においても、50年間にわたり議論がされてきたことであり、誤解があるのもやむを得ない点があるが、現在では計量界でも、体重計だけでなくバネばかりの原理を応用するどのような秤でも、それが測定する物理量は、[[質量]](単位はキログラム)であることで見解が一致している。
地球上でバネばかりが原理的に検出している物理量は、力(単位はニュートン)であることは確かであるが、[[秤]]の実際の目盛に示している物理量としては、この力の量を質量の値に変換することで、体重(質量、単位はキログラム)の値を表示しているのである。詳細は、[[秤#秤が測る物理量とは]]を参照。
== 使用法 ==
[[file:Baby scale 1960.jpeg|thumb|right|200px|1970年代頃まで使われていた乳児用の体重計(ベビースケール)]]
体重計は、通常、その上に立って乗ることによって[[体重]]を[[計測]]する仕様になっている。しかし、[[疾病]]などで通常の体重計に乗れない場合は、特殊な体重計を使用する場合もあるし、子供の場合は大人が子供を抱きかかえて体重計に乗った後で大人の体重を差し引くという方法を使う場合もある。なお、特に子供の場合、体重に応じて使用する薬剤の量や[[輸液]]の量を調節せねばならないために、投薬や輸液が必要な場合、体重計を使って体重を調べる必要が出てくる。ちなみに、母乳で保育している[[新生児]](乳児)の場合、どれだけの母乳を飲んだかを知るために、授乳前と授乳後でそれぞれ体重を量るといったことが行われる場合もある。また、学校や職場の[[健康診断]]では、[[業務用]]の体重計や[[水平]]型の体重計を使用しているところが多い。[[銭湯]]や[[旅館]]などの大浴場でも、業務用や水平型の体重計を使っているところが多い。
[[2000年代]]以降は、体重を計測すると同時に、[[体脂肪率]]や[[ボディマス指数|BMI]]を計れるもの([[体組成計]])が登場した。
== 証明に用いる体重計 ==
[[ファイル:MirkoFilipovic.png|thumb|160px|試合前に計量を行う[[ミルコ・クロコップ]]]]
[[健康診断|検診]]、公的な記録の作成・証明(計量法での[[計量法#証明に該当するもの|証明]]に当たるもの)などに使用されるものは、[[計量法]]により特定計量器として[[都道府県]]又は[[計量特定市]]が実施する2年に1回の定期検査を受検することを要し、またそれらは検定証印又は基準適合証印が付されているものでなければならない<ref>[https://www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun/techno_infra/12_gaiyou_keiryouki1.html 検定証印等] 特定計量器を利用する場合、計量行政、経済産業省</ref>。
家庭用体重計には、技術基準に適合して製作されていることを示す家庭用計量器の正マークが表示されているが<ref>[https://www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun/techno_infra/13_gaiyou_kateiyoukeiryouki2.html 販売事業者の皆様へ] 家庭用特定計量器の販売のみを行う場合、計量行政、経済産業省</ref>、検定証印や基準適合証印は付されておらず、定期検査の対象とはならない。ただし、当然に、取引や証明に係る行為には使用できない。
しかし、家庭用計量器においても、[[デジタル]]式のものが流通するにつれ、[[ばね]]式指示はかり等の[[機械]]式はかり(検定・定期検査を経たもの)よりも「精密」であると認識されてしまい、取引や証明、とりわけ証明の分野で使用されていることが多い。これは、明確に[[計量法]]に違反する行為であり、計量行政機関(都道府県・計量特定市)による指導・取締りを要する状況が広がっているが、{{要出典|範囲=[[経済産業省]]周辺では、家庭用計量器というカテゴリーそのものを見直す動きも進んでいる|date=2021年9月}}。
== 地域による補正 ==
地球上では地球の[[自転]]による[[遠心力]]が働くため、[[赤道]]に近いほど[[重力加速度]]は小さくなる<ref>[https://www.aandd.co.jp/products/balance/tecdoc_notes_08.html 8.重力による誤差] 電子天びん使用時の注意点、株式会社エー・アンド・デイ</ref>。日本国内では北と南で約1/800の重力差(体重100kgで100g以上の差)があり、これを補正するため、100g単位の精度で計測できる体重計では、(12地域にわたる)地域設定機能を備えたものが多い。また、地域設定機能がない場合でも、北海道用、沖縄用、本土用の3種類の体重計が予め用意されている。
== 国際宇宙ステーションの体重計 ==
[[国際宇宙ステーション]]は無重力のため、[[地球]]で一般的に使われている体重計は使えない。そのため、国際宇宙ステーションでは、縮めたバネが押し返される時の勢いを体重に換算して、計測している<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/space/news/20090521-OYT1T00088.htm?from=nwla YOMIURI ONLINE] 2009年5月21日20時閲覧 {{リンク切れ|date=2012年3月}}</ref>。
== 兵器としての利用 ==
* [[ブービートラップ]]
* [[地雷#対戦車地雷|対戦車地雷]]のセンサー
== 自動販売機 ==
[[硬貨]]を投入して利用する有料体重計は、サービスを提供する[[自動販売機]]の草創期から存在する。[[日本]]で最初に導入された自動販売機も体重計であり、[[1876年]]7月頃から[[上野恩賜公園]]内に設置されていたものと考えられている<ref>{{Cite book|和書
|author = [[日置昌一]]
|title = 話の大事典 第2巻
|year = 1951
|publisher = [[万里閣]]
|id = {{全国書誌番号|51000822}}
|isbn =
|oclc = 33712349
|page =
}}</ref>。
== 主なメーカー ==
* [[タニタ]]
* [[オムロン ヘルスケア]]
* [[エー・アンド・デイ]]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Weighing scales|weighing scale}}
* [[計測機器の一覧]]
* [[バランスWiiボード]] - 体重計としての認可も得ている[[ゲームコントローラー]]。世界一売れた体重計(3,200万台以上)として、[[ギネス世界記録]]に認定されている<ref>[https://www.nintendo.co.jp/wii/rfpj/board/ Wii Fit Plus:世界で一番売れている体重計「バランスWiiボード」]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} -->
<!-- == 外部リンク == {{Cite web}} -->
{{Tech-stub}}
{{Product-stub}}
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[[Category:秤]]
[[Category:肥満]]
[[Category:体重]]
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17,047 |
バリン
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バリン(valine、略称:ValまたはV) は、α-アミノ酸の1種で、側鎖にイソプロピル基を持つ。2-アミノイソ吉草酸とも呼ばれる。吉草根(valerian, セイヨウカノコソウの根)が名前の由来である。
ロイシンやイソロイシンと同様に、疎水性アミノ酸、非極性側鎖アミノ酸に分類される。L-バリンは20のタンパク質を構成するアミノ酸のうちの1つで、必須アミノ酸である。コドンはGUU、GUC、GUAとGUGがある。無極性物質である。糖原性を持つ。
鎌状赤血球症は、ヘモグロビン中で親水性アミノ酸であるグルタミン酸がバリンに置き換わることによって折りたたみ構造に変化が起きることが原因である。
IUPACによると、カルボキシ基に結合している炭素原子を1として4や4'の炭素原子にメチル基が結合している。2位の炭素は不斉炭素となっており、光学異性体が存在する。
バリンを多く含む食品として、カッテージチーズ、魚、鶏肉、牛肉、ラッカセイ、ゴマ、レンズマメが挙げられる。
タバコ製造業の上位5社の1994年の報告によると、バリンは紙巻タバコへの599の添加物のうちの1つである。他の添加物と同様、添加の目的は明らかにされていない。
植物で、解糖系の中間体であるピルビン酸から、アセト乳酸シンターゼ (EC 4.1.3.18 = EC 2.2.1.6)、ケトール酸レダクトイソメラーゼ (EC 1.1.1.86)、ジヒドロキシ酸デヒドラターゼ (EC 4.1.2.9) の作用により合成される 中間体のα-ケトイソ吉草酸が、ロイシンアミノトランスフェラーゼ (EC 2.6.1.6) の作用によりグルタミン酸からのアミノ基転移を受けて合成される。最初の部分の過程はロイシンの合成と同じである。
この反応に関わる酵素には次のようなものがある。
ラセミ体のバリンはイソ吉草酸のブロモ化とそれに続く、α-ブロモ体のアミノ化反応によって合成できる。
HO2CCH2CH(CH3)2 + Br2 → HO2CCHBrCH(CH3)2 + HBr
HO2CCHBrCH(CH3)2 + 2 NH3 → HO2CCH(NH2)CH(CH3)2 + NH4Br
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バリン(valine、略称:ValまたはV) は、α-アミノ酸の1種で、側鎖にイソプロピル基を持つ。2-アミノイソ吉草酸とも呼ばれる。吉草根が名前の由来である。 ロイシンやイソロイシンと同様に、疎水性アミノ酸、非極性側鎖アミノ酸に分類される。L-バリンは20のタンパク質を構成するアミノ酸のうちの1つで、必須アミノ酸である。コドンはGUU、GUC、GUAとGUGがある。無極性物質である。糖原性を持つ。 鎌状赤血球症は、ヘモグロビン中で親水性アミノ酸であるグルタミン酸がバリンに置き換わることによって折りたたみ構造に変化が起きることが原因である。
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'''バリン'''({{en|valine}}、略称:'''Val'''または'''V'''<ref>{{IUPAC-IUB amino acids 1983}}.</ref>) は、α-[[アミノ酸]]の1種で、[[側鎖]]に[[イソプロピル基]]を持つ。2-アミノ[[3-メチルブタン酸|イソ吉草酸]]とも呼ばれる。吉草根({{en|valerian}}, [[セイヨウカノコソウ]]の根)が名前の由来である。
[[ロイシン]]や[[イソロイシン]]と同様に、[[疎水性]]アミノ酸、非極性側鎖アミノ酸に分類される。<small>L</small>-バリンは20の[[タンパク質を構成するアミノ酸]]のうちの1つで、[[必須アミノ酸]]である。[[コドン]]はGUU、GUC、GUAとGUGがある。[[:en:Chemical polarity#Nonpolar molecules|無極性物質]]である。[[糖原性]]を持つ。
[[鎌状赤血球症]]は、[[ヘモグロビン]]中で親水性アミノ酸である[[グルタミン酸]]がバリンに置き換わることによって折りたたみ構造に変化が起きることが原因である。
== 構造 ==
[[国際純正・応用化学連合|IUPAC]]によると、[[カルボキシ基]]に[[化学結合|結合]]している[[炭素]][[原子]]を1として4や4'の炭素原子に[[メチル基]]が結合している<ref>{{cite book|editor-last=Jones|editor-first=J. H.|title=Amino Acids, Peptides and Proteins|publisher=[[王立化学会]]|series=Specialist Periodical Reports|volume=16|location=[[ロンドン]]|date=1985|page=389|isbn=978-0-85186-144-9 }}</ref>。2位の炭素は[[不斉炭素]]となっており、[[光学異性体]]が存在する。
== 利用 ==
バリンを多く含む食品として、[[カッテージチーズ]]、[[魚]]、[[鶏肉]]、[[牛肉]]、[[ラッカセイ]]、[[ゴマ]]、[[レンズマメ]]が挙げられる。
[[タバコ]]製造業の上位5社の1994年の報告によると、バリンは[[タバコ|紙巻タバコ]]への599の添加物のうちの1つである。他の添加物と同様、添加の目的は明らかにされていない。
== 生合成 ==
[[植物]]で、[[解糖系]]の中間体である[[ピルビン酸]]から、アセト乳酸シンターゼ ([[EC番号 (酵素番号)|EC]] 4.1.3.18 = EC 2.2.1.6)、[[ケトール酸レダクトイソメラーゼ]] (EC 1.1.1.86)、ジヒドロキシ酸デヒドラターゼ (EC 4.1.2.9) の作用により合成される 中間体の[[α-ケトイソ吉草酸]]が、ロイシンアミノトランスフェラーゼ (EC 2.6.1.6) の作用によりグルタミン酸からの[[アミノ基転移]]を受けて合成される。最初の部分の過程は[[ロイシン]]の合成と同じである<ref>{{Lehninger3rd}}.</ref>。
#EC 4.1.3.18: ピルビン酸 → 2-[[アセト乳酸]] + [[二酸化炭素|CO<sub>2</sub>]]
#EC 1.1.1.86: 2-アセト乳酸 + [[ニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸|NADPH]] + [[水素#水素イオンと水素化物イオン|H<sup>+</sup>]] → 2,3-ジヒドロキシイソ吉草酸 + NADP<sup>+</sup>
#EC 4.1.2.9: 2,3-ジヒドロキシイソ吉草酸→ 2-オキソイソ吉草酸 + H<sub>2</sub>O
#EC 2.6.1.6: 2-オキソイソ吉草酸 + L-グルタミン酸 → L-バリン + 2-[[α-ケトグルタル酸|オキソグルタル酸]]
この反応に関わる酵素には次のようなものがある。
# {{仮リンク|アセト乳酸シンターゼ|en|Acetolactate synthase}}
# [[ケトール酸レダクトイソメラーゼ|アセトヒドロキシ酸イソメロリダクターゼ]]
# {{仮リンク|ジヒドロキシ酸デヒドラターゼ|en|Dihydroxy-acid dehydratase}}
# バリン[[アミノ基転移酵素]]
[[Image:Valine biosynthesis.png|570px|バリンの生合成]]
== 代謝性疾患 ==
バリン分解は以下の代謝性疾患で障害される。
* [[マロン酸およびメチルマロン酸尿合併症]] (CMAMMA)
* [[メープルシロップ尿症]]
* [[メチルマロン酸血症]]
* ''[[プロピオン酸血症]]''
== 合成 ==
[[ラセミ体]]のバリンは[[3-メチルブタン酸|イソ吉草酸]]のブロモ化とそれに続く、α-ブロモ体のアミノ化反応によって合成できる<ref>{{OrgSynth | last = Marvel | first = C. S. | title = ''dl''-Valine | prep = CV3P0848 | volume = 20 | page = 106 | year = 1940 | collvol = 3 | collvolpages = 848}}.</ref>。
{{Indent|HO<sub>2</sub>CCH<sub>2</sub>CH(CH<sub>3</sub>)<sub>2</sub> + [[臭素|Br<sub>2</sub>]] → HO<sub>2</sub>CCHBrCH(CH<sub>3</sub>)<sub>2</sub> + [[臭化水素|HBr]]}}
{{Indent|HO<sub>2</sub>CCHBrCH(CH<sub>3</sub>)<sub>2</sub> + 2 [[アンモニア|NH<sub>3</sub>]] → HO<sub>2</sub>CCH(NH<sub>2</sub>)CH(CH<sub>3</sub>)<sub>2</sub> + [[臭化アンモニウム|NH<sub>4</sub>Br]]}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
==外部リンク==
*{{Hfnet|625|バリン}}
* [http://gmd.mpimp-golm.mpg.de/Spectrums/c5dd47e7-96b1-4dd1-b079-4490774c199d.aspx Valine MS Spectrum](英語)
*[http://www.chem.qmul.ac.uk/iubmb/enzyme/reaction/AminoAcid/IleVal.html Isoleucine and valine biosynthesis](英語)
{{タンパク質を構成するアミノ酸}}
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コンタクト
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コンタクト(英語: contact)は、「接触」「連絡」等の意味。日本語の外来語としては、人に対して連絡をとる、あるいは関係を築く目的で近付く行為の意味で使われることが多い。
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コンタクトは、「接触」「連絡」等の意味。日本語の外来語としては、人に対して連絡をとる、あるいは関係を築く目的で近付く行為の意味で使われることが多い。 コンタクトレンズの略語。
電子回路における接点。
レーダーにおける目標捕捉の合図(軍事用語)。
航空機等のエンジン点火。
ボクシングなど格闘技において、(主に攻撃として)相手と接触すること。
接触 (数学)
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{{WikipediaPage|ウィキペディアへのコンタクトについては、[[Wikipedia:連絡先]]をご覧ください。}}
'''コンタクト'''({{Lang-en|contact}})は、「'''[[接触]]'''」「'''[[連絡]]'''」等の意味。日本語の外来語としては、人に対して連絡をとる、あるいは関係を築く目的で近付く行為の意味で使われることが多い。
* [[コンタクトレンズ]]の略語。
* [[電子回路]]における接点。
* [[レーダー]]における目標捕捉の合図(軍事用語)。
* [[航空機]]等の[[エンジン]]点火。
* [[ボクシング]]など格闘技において、(主に攻撃として)相手と接触すること。
*[[接触 (数学)]]
== 団体・作品 ==
* CONTACT - 日本のロックバンド。
* [[Contact (茅原実里のアルバム)]] - 茅原実里のアルバム。
* Contact - [[スウェーデン]]の[[パワーメタル]]バンド、[[ドラゴンランド]] の楽曲。アルバム『アストロノミー』に収録。
* [[コンタクト (ミュージカル)]] - 2000年[[トニー賞]]で最優秀作品賞など4部門でを受賞した[[ミュージカル]]。
* [[コンタクト (映画)]] - カール・セーガンのSF小説の映画化作品。
* [[コンタクト (ゲーム)]] - ニンテンドーDS対応ゲームソフト。
== その他 ==
* [[Kontact]] - KDE用の個人情報マネージャとグループウェアソフトウェアスイート。
== 関連項目 ==
{{Wikt|contact}}
* {{Intitle|コンタクト}}
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* [[連絡先 (Apple)|連絡先 (アップル)]]
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17,050 |
コンタクトレンズ
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コンタクトレンズ (英語: contact lens) とは、角膜に接触(コンタクト)させて使用するレンズの形態をした器具である。文脈によっては単にコンタクトとも呼ばれる。
性能、使用目的、効果により分類できる。日本の医薬品医療機器等法の類別に着目した場合、以下のようなものがある。
眼鏡による近視矯正では物が小さく見えるとよく言われるが、近視の多くを占める軸性近視の場合、これは厳密には正しくない。軸性近視では凸レンズである角膜や水晶体が正視の場合より網膜から離れてしまっている。凸レンズには目から離れるほど物を大きく見せる効果があるので、軸性近視の者が裸眼で物を見た場合、凸レンズである角膜や水晶体が網膜から離れてしまっている分、正視より網膜に物が大きく映っている。眼鏡で近視を矯正すると、軸性近視により網膜像が拡大される効果と凹レンズにより縮小される効果が相殺して正視に近い大きさの像が網膜に映る。それに対してコンタクトレンズによる矯正では、角膜との間の距離がゼロに近いため、軸性近視により拡大されたままに近い大きさで物を見ることになる。強度の軸性近視により網膜が委縮して視力が出にくくなっている場合、コンタクトレンズによる矯正として網膜像を拡大されたままとすることにより視力が出やすくなる。
また、強度の屈折異常や左右の視力が大きく異なる場合には眼鏡での矯正が難しいことがある。人によってはそれ以上の左右差があっても案外平気で眼鏡で矯正できることもあるが、一般に、目安として左右で2D以上の差があると眼鏡による矯正が難しいとされる。頭痛や眼精疲労を伴うために長時間装用できない者も多い。このような場合はコンタクトレンズが好適である。また、角膜に直接装着するため、裸眼と変わらない広範囲の視界を得られる上に、レンズ自体が小さいことから度数が強くても厚さはほとんど変わらない。他にも、眼鏡を装着した場合と比べて、容姿を変えることなく視力を矯正することができる、といった美容・美観上の利点を目的とする者もいる。
近視を眼鏡で矯正したときには凹レンズのプリズム効果によって輻輳が助けられて読書などで近くを見るときも目をあまり内向きにせずに済み、目が疲れにくいという効果が得られるが、コンタクトレンズではこうした効果は得られない。また、近視を眼鏡で矯正したときには見かけの調節により老眼になっても近くのものがある程度見やすい効果もあるが、コンタクトレンズではこの効果もほとんど得られない。
眼鏡は寒い屋外から暖房の効いた室内に入ったときなどに結露でレンズが曇ることがあるが、コンタクトレンズは空調の効いた室内にずっといただけでもレンズが乾燥して眼に不快感を生じたり、レンズ表面の涙の膜が破壊されることにより見え方が曇ったりすることがあり、その対策としてコンタクトレンズ用の目薬を使用する必要が生ずることさえある。
片眼鏡や鼻眼鏡のような古い形式の眼鏡は使用中に外れて落ちてしまうことがあったが、今日一般的な眼鏡は、ずれやすいものでも精々鼻先にずれてしまう程度で、地面まで落下してしまうことは考えにくい。それに対して、コンタクトレンズは白目までずれてしまって視力矯正の役を果たさなくなったり、地面まで落ちてしまったりすることがある。
コンタクトレンズは、機能の面で眼鏡よりも優れた点もある反面、装用に伴う眼への負担が大きく、手軽さに欠け、制限も多い。洗浄や消毒を適切に行う、装用時間を守る、使用期限を守る、装用したまま眠らない、自覚できる異常が無くても定期的に医師の検診を受けるなど、製品の使用説明や眼科医の指示を守って正しく使用することが重要である。1日使い捨て型のコンタクトレンズは、洗浄や消毒を行う代わりにレンズを毎回破棄する。洗浄や消毒の不備による眼障害を防ぐため、洗浄や消毒自体をしない一日使い捨てのコンタクトレンズしか処方しない方針の眼科医もある。
角膜には血管が無いため、酸素の供給は外気から涙液を介在して行なわれる。コンタクトレンズを装用した状態では、酸素が涙液へ容易に取り込まれないため、角膜へも酸素が供給されにくくなり角膜への負担になる。どんなに酸素透過性が高いレンズでも、裸眼に比べると装用状態では角膜への負担となる。
従来は材料にPMMA(Polymethylmethacrylate, ポリメチルメタアクリレート)というアクリル樹脂の硬質プラスチックを使ったもので、純粋なPMMA は、加工しやすく耐久性に優れていたが、酸素を通さないため、装用時間に限界があり装用時の違和感が大きいもので、現在はほとんど使われていない。現在、ハードレンズとして広く使用されている酸素透過性レンズ(O2レンズ、RGPレンズ、Rigid Gas Permeable Lens)と呼ばれるものは、PMMAにケイ素を加えることで酸素を透過するようにしたものであり、これは同時にハードレンズとしては比較的柔らかくなり、そのために乱暴に扱うとレンズが傷付くことがある。
ハードレンズはソフトレンズと違って、装用中にも瞬きの度にレンズが動くことにより、涙が入れ替わって涙に含まれる酸素を取り入れることができるため、角膜に多くの酸素を供給することができる。一般にハードレンズはソフトレンズに比べて単価は高いが取り扱いも容易であり、レンズの寿命もより長いため、長く使えば使うほどソフトレンズより安価となる可能性がある。
角膜に異常が起これば痛くて装用できなくなるため、角膜障害が重度になることが少ない。ただし、装着時の違和感はソフトレンズに比べて依然大きく、また激しい運動などの際にずれやすい。症例によってはハードコンタクトレンズしか使用できない場合もある。
素材は Poly-HEMA (ポリヒドロキシエチルメタアクリレート)あるいは PVP (ポリビニルピロリドン)というゲル状の合成高分子化合物(ハイドロゲル)を使った、水分を比較的多く含む含水性ソフトコンタクトレンズと、ブチルアクリレートとブチルメタクリレートの共重合体を使用した、水分を含まない非含水性ソフトコンタクトレンズ(現在日本で入手可能な製品は存在しない)とがある。
ソフトコンタクトレンズには、1日や1週間程度まで手入れを行わずに用いる使い捨てタイプ (ディスポーザブル)と、若干の手入れを行いながら2週間ほどだけ使用する頻回交換型(フリークエントリプレースメント)の他に、手入れを行いながら1ヶ月や3ヶ月程度使用する定期交換型(プランドリプレースメント)も存在する。日本では一般的に一定期間の使用後に破棄をすることから1日、1週間、2週間、1か月、3か月タイプのソフトレンズを総称して使い捨てレンズと呼んでいる。
使い捨てレンズは、目から分泌されるタンパク質などの汚れがレンズに蓄積して目に悪影響を及ぼす前に新しいレンズと交換することで安全性を高めるものなので、レンズケアの方法やレンズの交換期限を遵守するなど、正しい使用方法が求められる。
従来のソフトレンズ素材では、酸素透過率を高めるために含水率を高める必要があった。ところが、含水率が高いほど脂質やタンパク質がレンズに沈着しやすく、衛生状態を保つには洗浄や殺菌作業の頻度が増してしまうという問題があった。新素材のシリコーンハイドロゲルは、含水率に頼らず高い酸素透過性が得られるため、このような問題を解決するとして注目されている。
ソフトコンタクトレンズはハードコンタクトレンズよりも装用感で優れているが、そのために角膜に障害が起きても自覚しにくく、重症になるまで放置してしまう結果になることがある。
ハードコンタクトレンズはレンズ自体が硬質なため、特に乱視用を謳っていない製品でもある程度までの角膜乱視であればレンズと角膜間を涙が埋める涙液レンズと呼ばれる効果により乱視矯正効果があるが、それでは矯正できない乱視を矯正するための乱視用ハードコンタクトレンズも存在する。通常、矯正に用いる曲面の位置によってフロントトーリック、バックトーリック、バイトーリックと区別されている。乱視矯正に特化したハードレンズではバックトーリックを採用している場合が多く、一般的にソフトレンズよりも矯正効果が高いとされる。 円錐角膜患者のハードレンズにおける乱視矯正ではフィッティングが特に重要となるため、多くの経験を持つ医師による処方が望ましい。
ソフトコンタクトレンズではレンズが軟質であり、レンズが角膜の形状に合わせて変形してしまうので前述のような効果は得にくく矯正しにくい。故に乱視用ソフトレンズでは乱視の方向(軸角度)に対し、適切な矯正度数を追加する特殊形状となっている。 乱視用でないコンタクトレンズは瞬目時のレンズの回転は問題にならないが、乱視用のコンタクトレンズの場合は特定方向に追加度数が入っておりレンズが回転しては乱視度数を入れたがためにかえって見にくくなるという逆効果になるため、レンズの下部に厚みをつけ、重力や瞬目時の圧力に応じて厚みのある方向が必ず下に保持されるように作られているプリスムバラスト設計や、レンズの左右のみを楕円状に厚みをつけ、瞬目時の圧力により厚みのある部分が横方向に保持されるダブルスラブオフ設計などにより乱視軸とのずれを防ぐ工夫が施されている。また、一部のメーカーではこれらを組み合わせにより回転を抑える機構を持つものも存在する。 しかし、通常のソフトレンズと比べると
などが問題点である。
このような問題点のためソフトコンタクトレンズでは強い乱視でなければあえて矯正せずに乱視用でないソフトコンタクトレンズとし、近視を強めにあるいは遠視を弱めに矯正することで視力を出すことも多い。
乱視用ソフトレンズには細隙灯顕微鏡による観察で使用するための通常目視では観察できないガイドマークが存在し、眼科医による処方の際のフィッティング評価指標として用いられている。また、装用時の目安となるガイドマークや刻印などが入っていることもあり、これに従い装用することで適切な軸角度保持を補助するものも存在する。
医療機器のコンタクトレンズが、その製造販売にあたって承認を受ける必要があるのに対し、美観のための度無し色付コンタクトレンズ(おしゃれ用カラーコンタクトレンズ、「カラコン」)は雑貨として扱われ、公的な品質の審査手続きはなかった。このため、粗悪な作りのカラーコンタクトレンズは、着色剤が溶け出し炎症を起こしたり、時には失明したりと、その品質に起因する事例も報告されていたが、これを直接規制する方法がなかった。なお、度入りカラーコンタクトレンズは、以前から医療機器となっている。
また、使い捨てレンズの継続使用や、眼科医の検査を受けずに装着する連続使用等、コンタクトレンズの不適切な使用に起因すると思われる眼病の増加が、眼科医や日本眼科学会から指摘され、日本国政府は「おしゃれ用カラーコンタクトレンズ」の規制に乗り出した。2008年(平成20年)7月10日に、厚生労働省・経済産業省が、医薬品医療機器等法の枠内で規制を行う方針を固め、2009年(平成21年)4月28日に、医薬品医療機器等法および関連省令等を改正し、同年11月4日に施行されて、以降は医療機器となった。
一部の指定自動車教習所の校則(規約)においては、たとえ視力を適性試験基準以上に矯正できていても、カラーコンタクトそのものを視力矯正器具として使用するところを禁じている学校もある。しかし、運転免許証の新規取得や更新時の適性検査では、書面上そのような規定は書かれてない。ただし、裸眼により試験基準を満たしている者が、カラーコンタクトレンズを装着して適性検査を受けてしまうと、免許の条件欄に眼鏡等が記載されてしまう可能性がある。その状態で裸眼で自動車を運転すると、運転条件の交通違反となり、反則金の対象となるので注意が必要である。
1801年にトマス・ヤングが、1823年にイギリスの物理学者ジョン・ハーシェルがコンタクトレンズに関する実験を行っている。コンタクトレンズの語は、ドイツの生理学者アドルフ・ガストン・オイゲン・フィック (Adolf Gaston Eugen Fick) の名付けた"Kontaktbrille"に由来する。製品としては、カール・ツァイスが1892年に試作し、1911年に製品化しているが、全て度無しのレンズであった。
当時は原料がガラスであり、角膜すなわち黒目の曲率に合わせるためには多くの形を用意する必要があった。そこで1931年にレンズを強膜と接触させ、角膜とは間に液体を入れることで直接レンズに触れさせないタイプの「角鞏膜コンタクトレンズ」が発明され、ヨーロッパを中心に主流となった。一方、米国ではアクリル樹脂である PMMA を使った角膜に触れさせる、正確にはわずかに隙間を設ける形式の「角膜コンタクトレンズ」が急速に普及し、後にはコンタクトレンズといえば角膜コンタクトレンズを意味するようになった。
日本では、佐藤勉が角鞏膜コンタクトレンズを、水谷豊が角膜コンタクトレンズの研究を進め、しばらくの間脱落防止性能や装着時間などを競い合った。この頃には角鞏膜コンタクトレンズもアルギン酸と石膏を使ったモールディングで眼球の型を取った接触型のものができるようになった。一方、角膜コンタクトレンズは、曲率半径7.33 - 8.59で20段階に設定された角膜レンズ検査セットを患者の目に装着させて角膜の型を測定するという方法であった。
コンタクトレンズの製造方法には以下のものがある。
使い捨てコンタクトレンズではキャストモールド製法が主流となっている。
コンタクトレンズの選定にあたっては以下の検査が必要となる(眼科医による処方(英語版))。
規格として、ベースカーブ(B.C.)、直径(D)、度数(P)の 3 つと、これらの値から決定される中心厚み(C.T.)がある。また、外周部はベベル(bevel)と呼ばれる、異物感を低下させレンズの動きや涙液交換のための緩い湾曲となっている。
医薬品医療機器等法上は、コンタクトレンズの購入にあたって医師の診療は必要なく、世界からのインターネット通販も含めて、消費者が自由に購入出来る。一般的に、販売店近隣の眼科診療所での検診・診察・処方箋が求められるが、これは販売店の自主規制である。販売店が「医師の診断が必要です」と言うのは、法的に必要だという意味でなく、購入者の眼の健康のために必要だという意味である。
コンタクトレンズの検診料については、診療報酬を適用することが健康保険財政の無駄遣いだとして問題視され、厚生労働省は個別検査料の点数加算方式を改め「コンタクトレンズ検査料」が新設されることとなった。コンタクトレンズの値下げ競争が激化し、レンズの販売では殆ど利益があがらず、診療所での保険診療による報酬で利益を補填する事例が目立ったためである。
平成18年(2006年)度から、初診は387点(コンタクトレンズ患者が70%以上の診療所では193点)、何らかの疾病を伴う再診は112点(同56点)とされ、さらに2008年度からは、コンタクトレンズ処方に係わる診療が全体の30%未満の医療機関では検査料200点、眼科の常勤医師(10年以上の経験年数を有する)が1名以上勤務する保健医療機関でコンタクトレンズ処方に係わる診療が全体の40%未満の医療機関では検査料56点へ、と大幅な削減が施行された。これにより、全額自己負担(自由診療)とするクリニックも出てきている。高額化した検診を嫌って検診を受けないままコンタクトレンズを使用する者が増加し、コンタクトレンズによる眼障害が増えることが予想されるとして反対する意見もある。
また、医療と販売の分離の原則より、保険適用の眼科施設にての販売および特定の販売店舗への利益誘導は行政指導の対象となり、さらには眼科医院と販売店の間の個人情報の不適切な取扱も問題である。しかしながら、多くの眼科施設においては装用指示文書の発行を拒否するなど、医販分離の理念は徹底されていない。これらの諸問題の解決を図る法制度の整備が求められている。なお2006年度から、乳幼児の弱視や先天性白内障手術後の治療用コンタクトレンズと眼鏡には、保険適用されるようになった。詳しくは弱視#保険機関の対応を参照。
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"text": "コンタクトレンズ (英語: contact lens) とは、角膜に接触(コンタクト)させて使用するレンズの形態をした器具である。文脈によっては単にコンタクトとも呼ばれる。",
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"text": "性能、使用目的、効果により分類できる。日本の医薬品医療機器等法の類別に着目した場合、以下のようなものがある。",
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"text": "眼鏡による近視矯正では物が小さく見えるとよく言われるが、近視の多くを占める軸性近視の場合、これは厳密には正しくない。軸性近視では凸レンズである角膜や水晶体が正視の場合より網膜から離れてしまっている。凸レンズには目から離れるほど物を大きく見せる効果があるので、軸性近視の者が裸眼で物を見た場合、凸レンズである角膜や水晶体が網膜から離れてしまっている分、正視より網膜に物が大きく映っている。眼鏡で近視を矯正すると、軸性近視により網膜像が拡大される効果と凹レンズにより縮小される効果が相殺して正視に近い大きさの像が網膜に映る。それに対してコンタクトレンズによる矯正では、角膜との間の距離がゼロに近いため、軸性近視により拡大されたままに近い大きさで物を見ることになる。強度の軸性近視により網膜が委縮して視力が出にくくなっている場合、コンタクトレンズによる矯正として網膜像を拡大されたままとすることにより視力が出やすくなる。",
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"text": "また、強度の屈折異常や左右の視力が大きく異なる場合には眼鏡での矯正が難しいことがある。人によってはそれ以上の左右差があっても案外平気で眼鏡で矯正できることもあるが、一般に、目安として左右で2D以上の差があると眼鏡による矯正が難しいとされる。頭痛や眼精疲労を伴うために長時間装用できない者も多い。このような場合はコンタクトレンズが好適である。また、角膜に直接装着するため、裸眼と変わらない広範囲の視界を得られる上に、レンズ自体が小さいことから度数が強くても厚さはほとんど変わらない。他にも、眼鏡を装着した場合と比べて、容姿を変えることなく視力を矯正することができる、といった美容・美観上の利点を目的とする者もいる。",
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"text": "近視を眼鏡で矯正したときには凹レンズのプリズム効果によって輻輳が助けられて読書などで近くを見るときも目をあまり内向きにせずに済み、目が疲れにくいという効果が得られるが、コンタクトレンズではこうした効果は得られない。また、近視を眼鏡で矯正したときには見かけの調節により老眼になっても近くのものがある程度見やすい効果もあるが、コンタクトレンズではこの効果もほとんど得られない。",
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"text": "眼鏡は寒い屋外から暖房の効いた室内に入ったときなどに結露でレンズが曇ることがあるが、コンタクトレンズは空調の効いた室内にずっといただけでもレンズが乾燥して眼に不快感を生じたり、レンズ表面の涙の膜が破壊されることにより見え方が曇ったりすることがあり、その対策としてコンタクトレンズ用の目薬を使用する必要が生ずることさえある。",
"title": "視力補正用コンタクトレンズ"
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"text": "片眼鏡や鼻眼鏡のような古い形式の眼鏡は使用中に外れて落ちてしまうことがあったが、今日一般的な眼鏡は、ずれやすいものでも精々鼻先にずれてしまう程度で、地面まで落下してしまうことは考えにくい。それに対して、コンタクトレンズは白目までずれてしまって視力矯正の役を果たさなくなったり、地面まで落ちてしまったりすることがある。",
"title": "視力補正用コンタクトレンズ"
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"text": "コンタクトレンズは、機能の面で眼鏡よりも優れた点もある反面、装用に伴う眼への負担が大きく、手軽さに欠け、制限も多い。洗浄や消毒を適切に行う、装用時間を守る、使用期限を守る、装用したまま眠らない、自覚できる異常が無くても定期的に医師の検診を受けるなど、製品の使用説明や眼科医の指示を守って正しく使用することが重要である。1日使い捨て型のコンタクトレンズは、洗浄や消毒を行う代わりにレンズを毎回破棄する。洗浄や消毒の不備による眼障害を防ぐため、洗浄や消毒自体をしない一日使い捨てのコンタクトレンズしか処方しない方針の眼科医もある。",
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"text": "角膜には血管が無いため、酸素の供給は外気から涙液を介在して行なわれる。コンタクトレンズを装用した状態では、酸素が涙液へ容易に取り込まれないため、角膜へも酸素が供給されにくくなり角膜への負担になる。どんなに酸素透過性が高いレンズでも、裸眼に比べると装用状態では角膜への負担となる。",
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"text": "従来は材料にPMMA(Polymethylmethacrylate, ポリメチルメタアクリレート)というアクリル樹脂の硬質プラスチックを使ったもので、純粋なPMMA は、加工しやすく耐久性に優れていたが、酸素を通さないため、装用時間に限界があり装用時の違和感が大きいもので、現在はほとんど使われていない。現在、ハードレンズとして広く使用されている酸素透過性レンズ(O2レンズ、RGPレンズ、Rigid Gas Permeable Lens)と呼ばれるものは、PMMAにケイ素を加えることで酸素を透過するようにしたものであり、これは同時にハードレンズとしては比較的柔らかくなり、そのために乱暴に扱うとレンズが傷付くことがある。",
"title": "視力補正用コンタクトレンズ"
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"text": "ハードレンズはソフトレンズと違って、装用中にも瞬きの度にレンズが動くことにより、涙が入れ替わって涙に含まれる酸素を取り入れることができるため、角膜に多くの酸素を供給することができる。一般にハードレンズはソフトレンズに比べて単価は高いが取り扱いも容易であり、レンズの寿命もより長いため、長く使えば使うほどソフトレンズより安価となる可能性がある。",
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"text": "角膜に異常が起これば痛くて装用できなくなるため、角膜障害が重度になることが少ない。ただし、装着時の違和感はソフトレンズに比べて依然大きく、また激しい運動などの際にずれやすい。症例によってはハードコンタクトレンズしか使用できない場合もある。",
"title": "視力補正用コンタクトレンズ"
},
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"text": "素材は Poly-HEMA (ポリヒドロキシエチルメタアクリレート)あるいは PVP (ポリビニルピロリドン)というゲル状の合成高分子化合物(ハイドロゲル)を使った、水分を比較的多く含む含水性ソフトコンタクトレンズと、ブチルアクリレートとブチルメタクリレートの共重合体を使用した、水分を含まない非含水性ソフトコンタクトレンズ(現在日本で入手可能な製品は存在しない)とがある。",
"title": "視力補正用コンタクトレンズ"
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"text": "ソフトコンタクトレンズには、1日や1週間程度まで手入れを行わずに用いる使い捨てタイプ (ディスポーザブル)と、若干の手入れを行いながら2週間ほどだけ使用する頻回交換型(フリークエントリプレースメント)の他に、手入れを行いながら1ヶ月や3ヶ月程度使用する定期交換型(プランドリプレースメント)も存在する。日本では一般的に一定期間の使用後に破棄をすることから1日、1週間、2週間、1か月、3か月タイプのソフトレンズを総称して使い捨てレンズと呼んでいる。",
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"text": "使い捨てレンズは、目から分泌されるタンパク質などの汚れがレンズに蓄積して目に悪影響を及ぼす前に新しいレンズと交換することで安全性を高めるものなので、レンズケアの方法やレンズの交換期限を遵守するなど、正しい使用方法が求められる。",
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"text": "従来のソフトレンズ素材では、酸素透過率を高めるために含水率を高める必要があった。ところが、含水率が高いほど脂質やタンパク質がレンズに沈着しやすく、衛生状態を保つには洗浄や殺菌作業の頻度が増してしまうという問題があった。新素材のシリコーンハイドロゲルは、含水率に頼らず高い酸素透過性が得られるため、このような問題を解決するとして注目されている。",
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"text": "ソフトコンタクトレンズはハードコンタクトレンズよりも装用感で優れているが、そのために角膜に障害が起きても自覚しにくく、重症になるまで放置してしまう結果になることがある。",
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"text": "ハードコンタクトレンズはレンズ自体が硬質なため、特に乱視用を謳っていない製品でもある程度までの角膜乱視であればレンズと角膜間を涙が埋める涙液レンズと呼ばれる効果により乱視矯正効果があるが、それでは矯正できない乱視を矯正するための乱視用ハードコンタクトレンズも存在する。通常、矯正に用いる曲面の位置によってフロントトーリック、バックトーリック、バイトーリックと区別されている。乱視矯正に特化したハードレンズではバックトーリックを採用している場合が多く、一般的にソフトレンズよりも矯正効果が高いとされる。 円錐角膜患者のハードレンズにおける乱視矯正ではフィッティングが特に重要となるため、多くの経験を持つ医師による処方が望ましい。",
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"text": "ソフトコンタクトレンズではレンズが軟質であり、レンズが角膜の形状に合わせて変形してしまうので前述のような効果は得にくく矯正しにくい。故に乱視用ソフトレンズでは乱視の方向(軸角度)に対し、適切な矯正度数を追加する特殊形状となっている。 乱視用でないコンタクトレンズは瞬目時のレンズの回転は問題にならないが、乱視用のコンタクトレンズの場合は特定方向に追加度数が入っておりレンズが回転しては乱視度数を入れたがためにかえって見にくくなるという逆効果になるため、レンズの下部に厚みをつけ、重力や瞬目時の圧力に応じて厚みのある方向が必ず下に保持されるように作られているプリスムバラスト設計や、レンズの左右のみを楕円状に厚みをつけ、瞬目時の圧力により厚みのある部分が横方向に保持されるダブルスラブオフ設計などにより乱視軸とのずれを防ぐ工夫が施されている。また、一部のメーカーではこれらを組み合わせにより回転を抑える機構を持つものも存在する。 しかし、通常のソフトレンズと比べると",
"title": "視力補正用コンタクトレンズ"
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"text": "などが問題点である。",
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"text": "このような問題点のためソフトコンタクトレンズでは強い乱視でなければあえて矯正せずに乱視用でないソフトコンタクトレンズとし、近視を強めにあるいは遠視を弱めに矯正することで視力を出すことも多い。",
"title": "視力補正用コンタクトレンズ"
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"text": "乱視用ソフトレンズには細隙灯顕微鏡による観察で使用するための通常目視では観察できないガイドマークが存在し、眼科医による処方の際のフィッティング評価指標として用いられている。また、装用時の目安となるガイドマークや刻印などが入っていることもあり、これに従い装用することで適切な軸角度保持を補助するものも存在する。",
"title": "視力補正用コンタクトレンズ"
},
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"text": "医療機器のコンタクトレンズが、その製造販売にあたって承認を受ける必要があるのに対し、美観のための度無し色付コンタクトレンズ(おしゃれ用カラーコンタクトレンズ、「カラコン」)は雑貨として扱われ、公的な品質の審査手続きはなかった。このため、粗悪な作りのカラーコンタクトレンズは、着色剤が溶け出し炎症を起こしたり、時には失明したりと、その品質に起因する事例も報告されていたが、これを直接規制する方法がなかった。なお、度入りカラーコンタクトレンズは、以前から医療機器となっている。",
"title": "色付コンタクトレンズ"
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"text": "また、使い捨てレンズの継続使用や、眼科医の検査を受けずに装着する連続使用等、コンタクトレンズの不適切な使用に起因すると思われる眼病の増加が、眼科医や日本眼科学会から指摘され、日本国政府は「おしゃれ用カラーコンタクトレンズ」の規制に乗り出した。2008年(平成20年)7月10日に、厚生労働省・経済産業省が、医薬品医療機器等法の枠内で規制を行う方針を固め、2009年(平成21年)4月28日に、医薬品医療機器等法および関連省令等を改正し、同年11月4日に施行されて、以降は医療機器となった。",
"title": "色付コンタクトレンズ"
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"text": "一部の指定自動車教習所の校則(規約)においては、たとえ視力を適性試験基準以上に矯正できていても、カラーコンタクトそのものを視力矯正器具として使用するところを禁じている学校もある。しかし、運転免許証の新規取得や更新時の適性検査では、書面上そのような規定は書かれてない。ただし、裸眼により試験基準を満たしている者が、カラーコンタクトレンズを装着して適性検査を受けてしまうと、免許の条件欄に眼鏡等が記載されてしまう可能性がある。その状態で裸眼で自動車を運転すると、運転条件の交通違反となり、反則金の対象となるので注意が必要である。",
"title": "色付コンタクトレンズ"
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"text": "1801年にトマス・ヤングが、1823年にイギリスの物理学者ジョン・ハーシェルがコンタクトレンズに関する実験を行っている。コンタクトレンズの語は、ドイツの生理学者アドルフ・ガストン・オイゲン・フィック (Adolf Gaston Eugen Fick) の名付けた\"Kontaktbrille\"に由来する。製品としては、カール・ツァイスが1892年に試作し、1911年に製品化しているが、全て度無しのレンズであった。",
"title": "歴史"
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"text": "当時は原料がガラスであり、角膜すなわち黒目の曲率に合わせるためには多くの形を用意する必要があった。そこで1931年にレンズを強膜と接触させ、角膜とは間に液体を入れることで直接レンズに触れさせないタイプの「角鞏膜コンタクトレンズ」が発明され、ヨーロッパを中心に主流となった。一方、米国ではアクリル樹脂である PMMA を使った角膜に触れさせる、正確にはわずかに隙間を設ける形式の「角膜コンタクトレンズ」が急速に普及し、後にはコンタクトレンズといえば角膜コンタクトレンズを意味するようになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "日本では、佐藤勉が角鞏膜コンタクトレンズを、水谷豊が角膜コンタクトレンズの研究を進め、しばらくの間脱落防止性能や装着時間などを競い合った。この頃には角鞏膜コンタクトレンズもアルギン酸と石膏を使ったモールディングで眼球の型を取った接触型のものができるようになった。一方、角膜コンタクトレンズは、曲率半径7.33 - 8.59で20段階に設定された角膜レンズ検査セットを患者の目に装着させて角膜の型を測定するという方法であった。",
"title": "歴史"
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"text": "コンタクトレンズの製造方法には以下のものがある。",
"title": "製造方法"
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"text": "使い捨てコンタクトレンズではキャストモールド製法が主流となっている。",
"title": "製造方法"
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"text": "コンタクトレンズの選定にあたっては以下の検査が必要となる(眼科医による処方(英語版))。",
"title": "検査"
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"text": "規格として、ベースカーブ(B.C.)、直径(D)、度数(P)の 3 つと、これらの値から決定される中心厚み(C.T.)がある。また、外周部はベベル(bevel)と呼ばれる、異物感を低下させレンズの動きや涙液交換のための緩い湾曲となっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "医薬品医療機器等法上は、コンタクトレンズの購入にあたって医師の診療は必要なく、世界からのインターネット通販も含めて、消費者が自由に購入出来る。一般的に、販売店近隣の眼科診療所での検診・診察・処方箋が求められるが、これは販売店の自主規制である。販売店が「医師の診断が必要です」と言うのは、法的に必要だという意味でなく、購入者の眼の健康のために必要だという意味である。",
"title": "購入"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "コンタクトレンズの検診料については、診療報酬を適用することが健康保険財政の無駄遣いだとして問題視され、厚生労働省は個別検査料の点数加算方式を改め「コンタクトレンズ検査料」が新設されることとなった。コンタクトレンズの値下げ競争が激化し、レンズの販売では殆ど利益があがらず、診療所での保険診療による報酬で利益を補填する事例が目立ったためである。",
"title": "購入"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "平成18年(2006年)度から、初診は387点(コンタクトレンズ患者が70%以上の診療所では193点)、何らかの疾病を伴う再診は112点(同56点)とされ、さらに2008年度からは、コンタクトレンズ処方に係わる診療が全体の30%未満の医療機関では検査料200点、眼科の常勤医師(10年以上の経験年数を有する)が1名以上勤務する保健医療機関でコンタクトレンズ処方に係わる診療が全体の40%未満の医療機関では検査料56点へ、と大幅な削減が施行された。これにより、全額自己負担(自由診療)とするクリニックも出てきている。高額化した検診を嫌って検診を受けないままコンタクトレンズを使用する者が増加し、コンタクトレンズによる眼障害が増えることが予想されるとして反対する意見もある。",
"title": "購入"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、医療と販売の分離の原則より、保険適用の眼科施設にての販売および特定の販売店舗への利益誘導は行政指導の対象となり、さらには眼科医院と販売店の間の個人情報の不適切な取扱も問題である。しかしながら、多くの眼科施設においては装用指示文書の発行を拒否するなど、医販分離の理念は徹底されていない。これらの諸問題の解決を図る法制度の整備が求められている。なお2006年度から、乳幼児の弱視や先天性白内障手術後の治療用コンタクトレンズと眼鏡には、保険適用されるようになった。詳しくは弱視#保険機関の対応を参照。",
"title": "購入"
}
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コンタクトレンズ とは、角膜に接触(コンタクト)させて使用するレンズの形態をした器具である。文脈によっては単にコンタクトとも呼ばれる。
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'''コンタクトレンズ''' ({{lang-en|contact lens}}) とは、[[角膜]]に接触(コンタクト)させて使用する[[レンズ]]の形態をした器具である<ref>http://www.eyes-and-vision.com/eye-glasses-or-contact-lenses-for-vision-disorders.html</ref>。文脈によっては<!-- 「眼鏡とコンタクト」など視力矯正の文脈ではコンタクトだけでコンタクトレンズを意味する。「お客様とコンタクトを取る」などの文脈ではコンタクトレンズの意味ではない。-->単に'''コンタクト'''とも呼ばれる。
[[File:Contact Lens Ayala.jpg|thumb|指に載せたコンタクトレンズ]]
[[File:Contact Lens Wiki 2 3.webm|thumb|装着と脱着]]
[[File:Linsensauger 2 fcm.jpg|thumb|つけ外しできる器具がある<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASP8Z6HGKP8ZPLZU007.html?iref=ogimage_rek |title=ソフトコンタクト、簡単付け外しグッズ開発の「舞台裏」:朝日新聞デジタル |access-date=2023-11-22 |date=2021-08-30 |website=朝日新聞デジタル |language=ja}}</ref>。]]
[[File:Kontaktlinsenbehälter.jpg|thumb|消毒・保存用の道具。]]
== 分類 ==
[[File:Contactlenzen Confortissimo.JPG|thumb|]]
性能、使用目的、効果により分類できる。[[日本]]の医薬品医療機器等法の類別に着目した場合、以下のようなものがある。
; 視力補正用レンズ
: [[近視]]、[[遠視]]、[[乱視]]を補正するための[[医療機器]]である(クラスIIIに該当)。同じく視力補正のために用いられる[[眼鏡]]との最大の違いは、コンタクトレンズは角膜の上に直接乗せ接触させる点である。材質によりハードコンタクトレンズとソフトコンタクトレンズに区別することができる。
: 日本における医療機器のクラス分類告示によれば、中分類名としての視力補正用レンズには下記の治療用コンタクトレンズ等も含まれるが、一般的名称(細分類)としての視力補正用レンズには、次のものがある。
:* 再使用可能な視力補正用コンタクトレンズ
:* 再使用可能な視力補正用色付コンタクトレンズ
:* 単回使用視力補正用コンタクトレンズ
:* 単回使用視力補正用色付コンタクトレンズ
: 薄いブルーなどの色付きのレンズは、まぶしさを軽減させるためではなく、取り扱い時の視認性を向上させるためのものである。
:; コラーゲン使用眼防護具
:: [[角膜]]を保護するために眼にのせる[[コラーゲン]]製の角膜シールド
:; 角膜矯正用コンタクトレンズ
:: [[オルソケラトロジー]]治療に用いられるコンタクトレンズ
:; 網膜電位計用角膜電極
:: 網膜電位の測定時に電位信号を伝達するため、角膜表面または角膜近傍の粘膜に接触して使用する電極である。
:; [[眼科学|眼科]]手術用レーザーレンズ
:: 眼科手術用レーザとともに使用するレンズをいう。通常透明の物質で、眼球、眼窩または周辺の皮膚の組織を凝固または切断するために用いるレーザ光を治療部位へ導光するために用いられるものである。
:; 検査用コンタクトレンズ(単回使用)
:: 特定の眼科疾患または状態の診断を支援するために用いる、眼の前面に装着するコンタクトレンズのうち、単回使用のもの。
:
; 治療用コンタクトレンズ
: 眼病の治療の目的で使用するものである。眼の保護、[[前房]]の封鎖、薬剤の送達、角膜曲率の変更、または網膜の治療での使用を目的とする。日本では、医療機器(クラスIII([[高度管理医療機器]]))である。
; 検査用コンタクトレンズ(再使用可能)
: 単回使用のものは類別上「視力補正用」に位置づけられるが、再使用可能な検査用コンタクトレンズは、類別上は「検眼用器具」とされる。この「検眼用器具」には、[[検眼レンズ]]や[[隅角鏡]]などが分類される。
; 非視力補正用色付コンタクトレンズ(ファッション用[[カラーコンタクトレンズ]])
:[[File:Color contact lens eye brown.jpg|thumb|カラーコンタクトレンズ装用例]]
:* 再使用可能な非視力補正用色付コンタクトレンズ
:* 単回使用非視力補正用色付コンタクトレンズ
: 非視力補正用色付コンタクトレンズは、視力の補正や治療・検査を目的とせず、ファッションのために[[虹彩]]部分の外観上の色を変えることを目的とするコンタクトレンズである。
: 他の視力補正用のコンタクトレンズも完全に無色透明なものは少なく、着け外しや手入れといった取り扱いの際にコンタクトレンズ自体を見やすくするために薄く着色されたものが多い。その場合添付文書の品名表示は「色付ソフトコンタクトレンズ」などとなっているが、これらは取り扱いの便のための着色であって瞳の外見を変えることを目的としていないので、通常カラーコンタクトレンズには含めない。カラーコンタクトレンズと言った場合は、取り扱いのために着色されたレンズは含まず、外観上の色を変えることを目的に濃く着色されたコンタクトレンズを指す。日本では「カラコン」と略称される。
: 審美目的であるため、日本においては以前は医療機器に該当しなかったが、カラコンの品質に起因する角膜炎や[[失明]]の報告が多数あったことを受け、[[2009年]]11月以降「再使用可能な非視力補正用色付コンタクトレンズ」「単回使用非視力補正用色付コンタクトレンズ」として[[医薬品医療機器等法]]による医療機器になった。(規制の経緯については[[#色付コンタクトレンズ|後述]])。
== 視力補正用コンタクトレンズ ==
=== 特徴 ===
眼鏡による近視矯正では物が小さく見えるとよく言われるが、近視の多くを占める軸性近視の場合、これは厳密には正しくない。軸性近視では凸レンズである角膜や水晶体が正視の場合より網膜から離れてしまっている。凸レンズには目から離れるほど物を大きく見せる効果があるので、軸性近視の者が裸眼で物を見た場合、凸レンズである角膜や水晶体が網膜から離れてしまっている分、正視より網膜に物が大きく映っている。眼鏡で近視を矯正すると、軸性近視により網膜像が拡大される効果と凹レンズにより縮小される効果が相殺して正視に近い大きさの像が網膜に映る<ref>{{Cite book
|author = 宇山安夫
|title = 眼鏡士読本
|date = 1968
|page = 140
|publisher = 医学書房 }}</ref>。それに対してコンタクトレンズによる矯正では、[[角膜]]との間の距離がゼロに近いため、軸性近視により拡大されたままに近い大きさで物を見ることになる。強度の軸性近視により[[網膜]]が委縮して視力が出にくくなっている場合、コンタクトレンズによる矯正として網膜像を拡大されたままとすることにより視力が出やすくなる。
また、強度の屈折異常や左右の視力が大きく異なる場合には眼鏡での矯正が難しいことがある。人によってはそれ以上の左右差があっても案外平気で眼鏡で矯正できることもある<ref>{{Cite book
|author = 日本眼鏡学術振興会
|title = 初等眼鏡学上巻
|date = 昭和16
|page = 83
|publisher = 日本眼鏡学術振興会
|url = {{NDLDC|000000699791}} }}</ref>が、一般に、目安として左右で2D以上の差があると眼鏡による矯正が難しいとされる。頭痛や眼精疲労を伴うために長時間装用できない者も多い。このような場合はコンタクトレンズが好適である。また、角膜に直接装着するため、裸眼と変わらない広範囲の視界を得られる上に、レンズ自体が小さいことから度数が強くても厚さはほとんど変わらない。他にも、眼鏡を装着した場合と比べて、容姿を変えることなく視力を矯正することができる、といった美容・美観上の利点を目的とする者もいる。
近視を眼鏡で矯正したときには凹レンズのプリズム効果によって[[輻輳]]が助けられて読書などで近くを見るときも目をあまり内向きにせずに済み、目が疲れにくいという効果が得られるが、コンタクトレンズではこうした効果は得られない。また、近視を眼鏡で矯正したときには見かけの調節により[[老眼]]になっても近くのものがある程度見やすい効果もあるが、コンタクトレンズではこの効果もほとんど得られない<ref>{{Cite book
|author = 久保田慎
|title = コンタクトレンズと眼鏡の科学
|date = 2018
|page = 105
|publisher = 日刊工業新聞社 }}</ref><ref>{{Cite web|和書
|url = http://www.hayashi-eye-clinic.or.jp/blog/%E5%BC%B7%E5%BA%A6%E8%BF%91%E8%A6%96%E3%81%AF%E8%BF%91%E8%A6%96%E3%81%8C%E5%BC%B7%E3%81%84%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%EF%BC%81%E2%91%A1.html
|title = 強度近視は近視が強いだけじゃない
|publisher = はやし眼科
|accessdate = 2019-04-02 }}</ref>。
眼鏡は寒い屋外から暖房の効いた室内に入ったときなどに[[結露]]でレンズが曇ることがあるが、コンタクトレンズは空調の効いた室内にずっといただけでもレンズが乾燥して眼に不快感を生じたり、レンズ表面の涙の膜が破壊されることにより見え方が曇ったりすることがあり、その対策としてコンタクトレンズ用の目薬を使用する必要が生ずることさえある。
[[片眼鏡]]や[[鼻眼鏡]]のような古い形式の眼鏡は使用中に外れて落ちてしまうことがあったが、今日一般的な眼鏡は、ずれやすいものでも精々鼻先にずれてしまう程度で、地面まで落下してしまうことは考えにくい。それに対して、コンタクトレンズは白目までずれてしまって視力矯正の役を果たさなくなったり、地面まで落ちてしまったりすることがある。
コンタクトレンズは、機能の面で眼鏡よりも優れた点もある反面、装用に伴う眼への負担が大きく、手軽さに欠け、制限も多い。洗浄や消毒を適切に行う、装用時間を守る、使用期限を守る、装用したまま眠らない、自覚できる異常が無くても定期的に医師の検診を受けるなど、製品の使用説明や眼科医の指示を守って正しく使用することが重要である。1日使い捨て型のコンタクトレンズは、洗浄や消毒を行う代わりにレンズを毎回破棄する。洗浄や消毒の不備による眼障害を防ぐため、洗浄や消毒自体をしない一日使い捨てのコンタクトレンズしか処方しない方針の眼科医もある。
角膜には[[血管]]が無いため、酸素の供給は外気から涙液を介在して行なわれる。コンタクトレンズを装用した状態では、酸素が涙液へ容易に取り込まれないため、角膜へも酸素が供給されにくくなり角膜への負担になる。どんなに酸素透過性が高いレンズでも、裸眼に比べると装用状態では角膜への負担となる。
=== ハードコンタクトレンズ ===
従来は材料に'''PMMA'''(Polymethylmethacrylate, ポリメチルメタアクリレート)という[[アクリル樹脂]]の硬質プラスチックを使ったもので、純粋なPMMA は、加工しやすく耐久性に優れていたが、[[酸素]]を通さないため、装用時間に限界があり装用時の違和感が大きいもので、現在はほとんど使われていない。現在、ハードレンズとして広く使用されている酸素透過性レンズ(O2レンズ、RGPレンズ、Rigid Gas Permeable Lens)と呼ばれるものは、PMMAに[[ケイ素]]を加えることで酸素を透過するようにしたものであり、これは同時にハードレンズとしては比較的柔らかくなり、そのために乱暴に扱うとレンズが傷付くことがある<ref name="プラスチックの仕組みとはたらき">桑嶋幹・木原伸浩・工藤保広著、『プラスチックの仕組みとはたらき』、秀和システム、2005年7月11日第1版第1刷発行、ISBN 4798011088、151-153頁</ref>。
ハードレンズはソフトレンズと違って、装用中にも瞬きの度にレンズが動くことにより、涙が入れ替わって涙に含まれる酸素を取り入れることができるため、角膜に多くの酸素を供給することができる。一般にハードレンズはソフトレンズに比べて単価は高いが取り扱いも容易であり、レンズの寿命もより長いため、長く使えば使うほどソフトレンズより安価となる可能性がある。
角膜に異常が起これば痛くて装用できなくなるため、角膜障害が重度になることが少ない。ただし、装着時の違和感はソフトレンズに比べて依然大きく、また激しい運動などの際にずれやすい。症例によってはハードコンタクトレンズしか使用できない場合もある。
; 角膜矯正用コンタクトレンズ
: [[オルソケラトロジー]]用のレンズである。 睡眠中に装用し、起床時に外すハードコンタクトレンズ。角膜形状を変形させることにより視力を矯正。レンズ自体に度を入れ、普通のコンタクトレンズとしての装用も可能。
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=== ソフトコンタクトレンズ ===
[[File:Contact lens.JPG|thumb|150px]]
素材は '''Poly-HEMA''' (ポリヒドロキシエチルメタアクリレート)あるいは '''PVP''' ([[ポリビニルピロリドン]])というゲル状の合成高分子化合物(ハイドロゲル)を使った、水分を比較的多く含む'''含水性ソフトコンタクトレンズ'''と、ブチルアクリレートとブチルメタクリレートの共重合体を使用した、水分を含まない'''非含水性ソフトコンタクトレンズ'''(現在日本で入手可能な製品は存在しない)とがある。
* 弾力性に富むので装着時の違和感が小さい反面、損傷しやすく、乾くと特に脆弱となる<ref name = "プラスチックの仕組みとはたらき"/>。
* 長期間使用するものでは、細菌が繁殖しないよう頻繁な洗浄と定期的な消毒が必要である。
ソフトコンタクトレンズには、1日や1週間程度まで手入れを行わずに用いる'''使い捨てタイプ''' (ディスポーザブル)と、若干の手入れを行いながら2週間ほどだけ使用する'''頻回交換型'''(フリークエントリプレースメント)の他に、手入れを行いながら1ヶ月や3ヶ月程度使用する'''定期交換型'''(プランドリプレースメント)も存在する。日本では一般的に一定期間の使用後に破棄をすることから1日、1週間、2週間、1か月、3か月タイプのソフトレンズを総称して'''使い捨てレンズ'''と呼んでいる。
使い捨てレンズは、目から分泌される[[タンパク質]]などの汚れがレンズに蓄積して目に悪影響を及ぼす前に新しいレンズと交換することで安全性を高めるものなので、レンズケアの方法やレンズの交換期限を遵守するなど、正しい使用方法が求められる。
従来のソフトレンズ素材では、酸素透過率を高めるために[[含水率]]を高める必要があった。ところが、含水率が高いほど脂質やタンパク質がレンズに沈着しやすく、衛生状態を保つには洗浄や殺菌作業の頻度が増してしまうという問題があった。新素材の[[シリコーンハイドロゲル]]は、含水率に頼らず高い酸素透過性が得られるため、このような問題を解決するとして注目されている<ref group="注">日本では、[[メニコン]]から2週間交換タイプの2WEEKプレミオ、[[チバビジョン]]から1ヶ月交換タイプのO2オプティクス、[[ジョンソン・エンド・ジョンソン]]から2週間交換タイプの[[アキュビュー]]アドバンス、アキュビューオアシス、[[ボシュロム]]から1週間連続装用タイプの[[メダリスト]]プレミア[1週間連続装用]、2週間交換タイプの[[メダリスト]]プレミアが発売されている(2009年3月現在)。</ref>。
ソフトコンタクトレンズはハードコンタクトレンズよりも装用感で優れているが、そのために角膜に障害が起きても自覚しにくく、重症になるまで放置してしまう結果になることがある。
=== 乱視用コンタクトレンズ ===
ハードコンタクトレンズはレンズ自体が硬質なため、特に乱視用を謳っていない製品でもある程度までの角膜[[乱視]]であればレンズと角膜間を涙が埋める[[涙液レンズ]]と呼ばれる効果により乱視矯正効果があるが、それでは矯正できない乱視を矯正するための乱視用ハードコンタクトレンズも存在する。通常、矯正に用いる曲面の位置によってフロントトーリック、バックトーリック、バイトーリックと区別されている。乱視矯正に特化したハードレンズではバックトーリックを採用している場合が多く、一般的にソフトレンズよりも矯正効果が高いとされる。
[[円錐角膜]]患者のハードレンズにおける乱視矯正ではフィッティングが特に重要となるため、多くの経験を持つ[[医師]]による処方が望ましい。
ソフトコンタクトレンズではレンズが軟質であり、レンズが角膜の形状に合わせて変形してしまうので前述のような効果は得にくく矯正しにくい。故に乱視用ソフトレンズでは[[乱視]]の方向(軸角度)に対し、適切な矯正度数を追加する特殊形状となっている。
乱視用でないコンタクトレンズは瞬目時のレンズの回転は問題にならないが、乱視用のコンタクトレンズの場合は特定方向に追加度数が入っておりレンズが回転しては乱視度数を入れたがためにかえって見にくくなるという逆効果になるため、レンズの下部に厚みをつけ、重力や瞬目時の圧力に応じて厚みのある方向が必ず下に保持されるように作られている[[プリスムバラスト]]設計や、レンズの左右のみを楕円状に厚みをつけ、瞬目時の圧力により厚みのある部分が横方向に保持される[[ダブルスラブオフ]]設計などにより乱視軸とのずれを防ぐ工夫が施されている。また、一部のメーカーではこれらを組み合わせにより回転を抑える機構を持つものも存在する。
しかし、通常のソフトレンズと比べると
* 回転抑止の工夫によりレンズ径が大きく厚くなりがちで、涙液交換が起こりにくいため張り付き感やくもりなどの装用感の悪化を招きやすく意識的な瞬目や点眼が必要なこと。
* 回転を完全には防止できないため見え方の質が低下しやすいこと。
* 追加度数の存在のため使用できる製法が限定され単価が高価であること。
* 製品の規格にない乱視軸では近似して使用しなければならないこと
* 強度近視用、遠視用との組み合わせでの製品があまり存在しないこと。
* 遠近両用との組み合わせが存在しないこと。
などが問題点である。
このような問題点のためソフトコンタクトレンズでは強い乱視でなければあえて矯正せずに乱視用でないソフトコンタクトレンズとし、近視を強めにあるいは遠視を弱めに矯正することで視力を出すことも多い。
乱視用ソフトレンズには[[細隙灯顕微鏡]]による観察で使用するための通常目視では観察できないガイドマークが存在し、眼科医による処方の際のフィッティング評価指標として用いられている。また、装用時の目安となるガイドマークや刻印などが入っていることもあり、これに従い装用することで適切な軸角度保持を補助するものも存在する。
== 検査用コンタクトレンズ ==
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== 色付コンタクトレンズ ==
医療機器のコンタクトレンズが、その製造販売にあたって承認を受ける必要があるのに対し、美観のための'''度無し色付コンタクトレンズ'''(おしゃれ用[[カラーコンタクトレンズ]]、「'''カラコン'''」)は[[雑貨]]として扱われ、公的な品質の審査手続きはなかった。このため、粗悪な作りのカラーコンタクトレンズは、着色剤が溶け出し炎症を起こしたり、時には[[失明]]したりと、その品質に起因する事例も報告<ref>[https://www.nite.go.jp/jiko/chuikanki/press/2008fy/080710.html 独立行政法人製品評価技術基盤機構]</ref>されていたが、これを直接規制する方法がなかった。なお、度入りカラーコンタクトレンズは、以前から医療機器となっている。
また、使い捨てレンズの継続使用や、眼科医の検査を受けずに装着する連続使用等、コンタクトレンズの不適切な使用に起因すると思われる眼病の増加が、眼科医や日本眼科学会から指摘され<ref>[http://www.nichigan.or.jp/public/disease/hoka_contact.jsp 日本眼科学会]</ref>、[[日本国政府]]は「おしゃれ用カラーコンタクトレンズ」の規制に乗り出した。[[2008年]]([[平成]]20年)[[7月10日]]に、[[厚生労働省]]・[[経済産業省]]が、[[医薬品医療機器等法]]の枠内で規制を行う方針を固め、[[2009年]](平成21年)[[4月28日]]に、医薬品医療機器等法および関連省令等を改正し、同年11月4日に施行されて、以降は医療機器となった。
一部の[[指定自動車教習所]]の校則(規約)においては、たとえ視力を適性試験基準以上<ref group="注">[[普通自動車]]は両眼で0.7以上、[[第二種運転免許#試験科目|大型2種]]で0.8以上。</ref>に矯正できていても、カラーコンタクトそのものを視力矯正器具として使用するところを禁じている学校もある。しかし、[[運転免許証]]の新規取得や更新時の適性検査では、書面上そのような規定は書かれてない。ただし、裸眼により試験基準を満たしている者が、カラーコンタクトレンズを装着して適性検査を受けてしまうと、免許の条件欄に'''眼鏡等'''が記載されてしまう可能性がある。その状態で裸眼で自動車を運転すると、運転条件の交通違反となり、[[反則金]]の対象となるので注意が必要である。
== 歴史 ==
[[1801年]]に[[トマス・ヤング]]が、[[1823年]]にイギリスの物理学者[[ジョン・ハーシェル]]がコンタクトレンズに関する実験を行っている。コンタクトレンズの語は、ドイツの生理学者アドルフ・ガストン・オイゲン・フィック ([[:en:Adolf Gaston Eugen Fick|Adolf Gaston Eugen Fick]]) <ref group="注">アドルフ・ガストン・オイゲン・フィックは「[[フィックの法則]]」で知られる[[アドルフ・オイゲン・フィック]]の甥である。</ref>の名付けた"Kontaktbrille"に由来する。製品としては、[[カール・ツァイス]]が1892年に試作し、1911年に製品化しているが、全て度無しのレンズであった<ref name=kaji>梶浦睦雄『コンタクトレンズ』 - 『眼科最近の進歩』p.145収録、1955年、医歯薬出版株式会社。</ref>。
当時は原料がガラスであり、[[角膜]]すなわち黒目の曲率に合わせるためには多くの形を用意する必要があった。そこで[[1931年]]にレンズを強膜<ref group="注">「強膜」とは角膜の外側の「しろ目」の部分である。</ref>と接触させ、角膜とは間に液体を入れることで直接レンズに触れさせないタイプの「角鞏膜コンタクトレンズ」が発明され、ヨーロッパを中心に主流となった。一方、米国では[[アクリル樹脂]]である PMMA を使った角膜に触れさせる、正確にはわずかに隙間を設ける形式の「角膜コンタクトレンズ」が急速に普及し<ref name=sato>佐藤勉、曲谷久雄『角鞏膜コンタクトレンズの処方』 - 『眼科最近の進歩』p.161収録、1955年、医歯薬出版株式会社。</ref>、後にはコンタクトレンズといえば角膜コンタクトレンズを意味するようになった。
日本では、[[佐藤勉 (医師)|佐藤勉]]が角鞏膜コンタクトレンズを、[[水谷豊 (医師)|水谷豊]]が角膜コンタクトレンズの研究を進め、しばらくの間脱落防止性能や装着時間などを競い合った。この頃には角鞏膜コンタクトレンズも[[アルギン酸]]と[[石膏]]を使った[[モールディング]]で眼球の型を取った接触型のものができるようになった<ref name=sato/>。一方、角膜コンタクトレンズは、[[曲率半径]]7.33 - 8.59で20段階に設定された角膜レンズ検査セットを患者の目に装着させて角膜の型を測定するという方法であった<ref name=mizu>水谷豊『コンタクトレンズの処方』 - 『眼科最近の進歩』p.169収録、1955年、医歯薬出版株式会社。</ref>。
* [[1508年]]:[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が視力矯正器具としてのコンタクトレンズのアイデアを考案した<ref>Heitz, RF and Enoch, J. M. (1987) "Leonardo da Vinci: An assessment on his discourses on image formation in the eye." Advances in Diagnostic Visual Optics 19—26, Springer-Verlag.</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD111N90R10C23A7000000/ |title=コンタクトレンズ、原理はレオナルド・ダ・ヴィンチ デカルトが考案 |access-date=2023-11-22 |date=2023-08-06 |website=日本経済新聞 |language=ja}}</ref>。但し、俗説であるとの意見もある。
* [[1887年]]:アドルフ・ガストン・オイゲン・フィックにより初のガラス製コンタクトレンズが製作された。
* [[1932年]]:[[イギリス]]の[[インペリアル・ケミカル・インダストリーズ]] (ICI) 社により透明度の高いPMMAが開発され、同年、[[アメリカ合衆国]]の[[ダウ・ケミカル|ロームアンドハース]]社によって市場に導入される。
* [[1936年]]:米国のオブリッグとミュラーがPMMAをレンズに使用できることを実証した。
* [[1937年]]:ウイリアム・ファインブルームによりガラスとプラスチックの半合成レンズが作られる。
* [[1940年]]:オブリッグにより全プラスチックのレンズが作られた。
* [[1948年]]:アメリカのトヒーが PMMA を用いてハードタイプのコンタクトレンズの原型を作り出す。
* [[1949年]]:[[名古屋大学]]の[[水谷豊 (医師)|水谷豊]]博士が日本で初めて臨床試験に着手した。
* [[1951年]]:水谷、円錐角膜患者に対し、臨床的に成功を収めた。
* [[1951年]]:株式会社[[メニコン]]創業者[[田中恭一]]が日本初の角膜コンタクトレンズの実用化に成功した。
* [[1960年]]代:[[チェコスロバキア]](当時)の[[オットー・ウィフテルレ]]は自ら発明したアクリル系ハイドロゲル (HEMA) を使い、ソフトコンタクトレンズを開発した。
* [[1970年]]頃: RGP が登場した。
* [[1971年]]:米[[ボシュロム]]社によって初めて製品化されたソフトコンタクトレンズが発売された<ref group="注">[[オットー・ウィフテルレ]]から1965年にアメリカでの製造権を取得したNational Patent Development(NPD)のサブライセンス。
日本では1983年頃に順次、輸入販売開始。</ref>。
* [[1988年]]:米国では、[[アメリカ食品医薬品局]] (FDA) が使い捨てコンタクトレンズを認可した。
== 製造方法 ==
コンタクトレンズの製造方法には以下のものがある。
* キャストモールド製法(鋳型法)
* スピンキャスト製法(遠心成型法)
* レースカット製法(切削研磨法)
使い捨てコンタクトレンズではキャストモールド製法が主流となっている<ref group="注">コンタクトレンズの素材原料はさほど高価なものではないが、製品化されるまでには研究開発費・安全性データを収集するための治験費用・医療機器認可の取得に係るデータ分析や申請費用・製造や品質管理のための設備投資など様々なコストがかかってくるため、最終的な製品の価格にはそれらが反映されることになる。</ref>。
== 検査 ==
コンタクトレンズの選定にあたっては以下の検査が必要となる({{ill2|眼科医による処方|en|Eyeglass prescription}})。
; Sphere(SPH)・Power(PWR):度数
: 「-」は近視矯正で、「+」は遠視矯正で、「0」は度数が入っていないレンズ。視力矯正用のコンタクトレンズでは、度数0ならばコンタクトレンズを着けなければよいことなので、度数0のレンズは製造されない。治療用コンタクトレンズやカラーコンタクトレンズなどは、視力矯正の必要のない人も装用することから度数0のレンズも含めて製造されるか、銘柄によっては度数0のものしか製造されないこともある。
; Base Curve(BC):湾曲度合
: レンズの湾曲(カーブ)度合いのことである。ハードコンタクトレンズでは、度数と並んで重要な事項である。BCが不適切だと、瞳の上で動かなくなってレンズの下の涙が交換されず角膜障害に繋がったり、逆に動きすぎて外れてしまったりする。実際には中心部と周辺部とでカーブが異なり、また端部の形状も影響するので、単一の数値で適否が確実に分かるものではない。ある銘柄でBCいくつのレンズを処方されたことがあるからといって、違う銘柄でもそのBCのレンズがよいとは限らない。最適なBCであるか否かは、角膜にレンズを乗せてみて眼科医がレンズの動きを観察しなければ判断できない。一方、ソフトコンタクトレンズでは、レンズのカーブが角膜のカーブに合わせて変形するので、一種類のBCで多くの人に適合する。最終的には角膜にレンズを乗せてみた状態を眼科医が観察して適否を判断するが、ソフトコンタクトレンズでは一種類のBCしか用意されない銘柄が多いので、不適合の場合は銘柄自体を変更することになる。
; Diameter(DIA):直径
: 一般的に日本で販売されているものは定型である。
; Cylinder(CYL):乱視度数
: 眼鏡レンズは乱視度数-0.25Dから0.25D単位で用意されるが、乱視用コンタクトレンズは一番弱い度数でも-0.75D程度からで、その後の度数の刻みも大雑把である。弱い乱視は矯正せず、ある程度以上強い乱視も実際よりも弱くしか矯正せず、その分近視を強めに矯正して視力を出す前提の商品構成である。
; Axis(Ax):乱視軸
: 眼鏡では全く同じレンズを眼鏡枠に違う角度ではめることで乱視軸を合わせるが、乱視用コンタクトレンズではレンズ自体をその乱視軸用に作る必要がある。あらゆる乱視軸に対応しようとすると製造すべきレンズ種類が膨大になりコストが増すので、1種類から3種類程度の乱視軸しか用意されない銘柄が多い。乱視軸がぴったり合わなくても近い乱視軸のレンズで済ます前提の商品構成である。
== 構造 ==
規格として、ベースカーブ(B.C.)、直径(D)、度数(P)の 3 つと、これらの値から決定される中心厚み(C.T.)がある<ref name=doi54>{{Cite journal |last=敏 |first=格内 |last2=奈夫子 |first2=高坂 |last3=弘 |first3=金子 |date=2011 |title=ソフトコンタクトレンズの波面測定 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsem/11/1/11_1_54/_article/-char/ja/ |journal=実験力学 |volume=11 |issue=1 |pages=54–58 |doi=10.11395/jjsem.11.54}}</ref>。また、外周部はベベル(bevel)と呼ばれ、異物感を低下させレンズの動きや涙液交換のための緩い湾曲となっている<ref name=doi54/><ref>{{Cite web |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000341331 |title=コンタクトレンズのベベルについて知りたい。 |access-date=2023-11-22 |last=国立国会図書館 |website=レファレンス協同データベース |language=ja}}</ref>。
== 購入 ==
=== 購入方法 ===
[[医薬品医療機器等法]]上は、コンタクトレンズの購入にあたって医師の診療は必要なく、[[世界]]からの[[インターネット通販]]も含めて、消費者が自由に購入出来る。一般的に、販売店近隣の眼科診療所での検診・診察・[[処方箋]]が求められるが、これは販売店の自主規制である。販売店が「医師の診断が必要です」と言うのは、法的に必要だという意味でなく、購入者の眼の健康のために必要だという意味である。
=== 診療報酬 ===
コンタクトレンズの検診料については、[[診療報酬]]を適用することが健康保険財政の無駄遣いだとして問題視され、[[厚生労働省]]は個別検査料の点数加算方式を改め「コンタクトレンズ検査料」が新設されることとなった。コンタクトレンズの値下げ競争が激化し、レンズの販売では殆ど利益があがらず、診療所での保険診療による報酬で利益を補填する事例が目立ったためである。
平成18年([[2006年]])度から、初診は387点(コンタクトレンズ患者が70%以上の診療所では193点)、何らかの疾病を伴う再診は112点(同56点)とされ、さらに[[2008年]]度からは、コンタクトレンズ処方に係わる診療が全体の30%未満の医療機関では検査料200点、眼科の常勤医師(10年以上の経験年数を有する)が1名以上勤務する保健医療機関でコンタクトレンズ処方に係わる診療が全体の40%未満の医療機関では検査料56点へ、と大幅な削減が施行された。これにより、全額自己負担([[自由診療]])とするクリニックも出てきている。高額化した検診を嫌って検診を受けないままコンタクトレンズを使用する者が増加し、コンタクトレンズによる眼障害が増えることが予想されるとして反対する意見もある。
また、医療と販売の分離の原則より、保険適用の眼科施設にての販売および特定の販売店舗への利益誘導は行政指導の対象となり、さらには眼科医院と販売店の間の[[個人情報]]の不適切な取扱も問題である。しかしながら、多くの眼科施設においては装用指示文書の発行を拒否するなど、医販分離の理念は徹底されていない。これらの諸問題の解決を図る法制度の整備が求められている。なお2006年度から、乳幼児の[[弱視]]や先天性[[白内障]]手術後の治療用コンタクトレンズと[[眼鏡]]には、保険適用されるようになった。詳しくは[[弱視#保険機関の対応]]を参照。
== 製造販売元 ==
* [[サンコンタクトレンズ]]
* [[メニコン]]
* [[シード (レンズメーカー)|シード]]
* [[アルコン (企業)|アルコン]](旧[[チバビジョン]])
* [[オフテクス]]
* [[ボシュロム・ジャパン]] (Bausch&Lomb、BAUSCH&LOMB)
* [[ジョンソン・エンド・ジョンソン]]([[アキュビュー]])
* [[HOYA]]
* [[日本オプティカル]]
* [[クーパービジョン]](旧[[セイコーホールディングス|セイコーオプティカル]]→[[クーパービジョン|オキュラー社]]傘下)
** [http://www.aime.jp/ アイミー](旧[[旭化成|旭化成アイミー]]→クーパービジョン傘下→日本コンタクトレンズ傘下→スーパーマックス傘下)
* [https://www.rainbow-contact.co.jp/ レインボーオプチカル研究所]
* [http://www.innovavision.com.tw/ Innova Vision]
* [[ロート製薬]]
* [[東レ]]([[東レインターナショナル]])
* [[シンシア (医療機器メーカー)|シンシア]]
* [[アイレ (コンタクトレンズメーカー)|アイレ]]
=== 撤退した会社 ===
* [[ファシル]](旧[[クラレ]])
* [[日本コンタクトレンズ]]
== 使用する際の弊害 ==
使用時間、消毒などの使用の説明を守っていれば問題はあまりないが、適切な利用を行っていない場合は、以下の状態を引き起こす<ref name=nhk1065/>。
ソフトレンズは、[[涙液]]交換が起きづらく、目の酸素不足になりやすく、角膜が傷ついてた場合に合併症を起こす可能性がある<ref name=nhk1065>{{Cite web |url=https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_1065.html |title=【NHK健康】失明の危険も!コンタクトレンズの間違った使用による視力低下・障害を予防 |access-date=2023-12-28 |date=2021-10-03 |website=NHK健康チャンネル |language=ja}}</ref>。
コンタクトレンズでは、[[角膜剥離]]などの角膜上皮障害が起きやすい。角膜上皮障害が慢性化すると、アメーバ性角膜炎などに感染しやすくなる<ref name=nhk1065/><ref>{{Cite web |url=https://www.pref.kanagawa.jp/sys/eiken/008_topics/files/topics_100202_contactlens.htm |title=ソフトコンタクトレンズの取り扱いにご注意を!|神奈川県衛生研究所 |access-date=2023-12-28 |website=www.pref.kanagawa.jp}}</ref>。
コンタクトレンズについた汚れによるアレルギー性結膜炎、[[結膜炎#非感染性結膜炎|巨大乳頭結膜炎]]などが起きる<ref name=nhk1065/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Contact lens}}
* [[眼鏡]]
* {{ill2|強膜レンズ|en|Scleral lens}}(スクレラルレンズ)
* [[眼内レンズ]]
* [[カラーコンタクトレンズ]]
* [[ドライアイ]]
* [[レーシック]]
* [[シリコーンハイドロゲル]]
* [[スマートコンタクトレンズ]]、{{ill2|バイオニックコンタクトレンズ|en|Bionic contact lens}}
* {{ill2|コンタクトレンズ合併症|en|List of contact lens complications}}、{{ill2|コンタクトレンズを長期間使用した場合の弊害|en|Effects of long-term contact lens wear on the cornea}}
== 外部リンク ==
* [http://www.jcla.gr.jp/ 日本コンタクトレンズ協会]
* [https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/20-眼の病気/屈折異常/レンズによる視力矯正 レンズによる視力矯正] - [[MSDマニュアル]]家庭版
* [https://www.msdmanuals.com/ja-jp/プロフェッショナル/17-眼疾患/屈折異常/コンタクトレンズ コンタクトレンズ] - [[MSDマニュアル]]プロフェッショナル版
* [https://web.archive.org/web/19980126162933/http://www.root.or.jp/hoya/faq/faq.htm 目とメガネ・コンタクトレンズの FAQ+]
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
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[[Category:コンタクトレンズ|*]]
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