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ソープランド
ソープランドは、浴室で女性従業員が男性客に対し性的なサービスを行う性風俗店である。略称「ソープ」、別名「特殊浴場」、「個室(高級)サウナ」。日本で発達した営業形態であるが、やや形を変えた同様の業態が韓国や中国でもみられる。エイズなどの性感染症の流行や、不景気、若年層の風俗離れもあり、店舗数が減少している。 ソープランドは、後述するように1980年代になってからの名称で、それ以前は「トルコ風呂」(しばしば略して「トルコ」)と呼ばれていた。 古くは、1932年(昭和7年)に発表された横光利一の小説『上海』に「トルコ風呂」についての記述がある。女性がマッサージをする蒸し風呂が当時の上海にあり、日本でも知られていた。もともと中東地域の伝統的な公衆浴場(ハマム)は蒸し風呂(スチーム・サウナ)で、中では垢すりのサービスが行われていたので、これが20世紀初頭まで中東随一の大国であったトルコの名前で日本に紹介されたものとみられる。 女性がマッサージを行う個室浴場の店舗としての「トルコ風呂」が日本で初めて誕生したのは、1951年(昭和26年)4月1日に東京都中央区東銀座に開店した東京温泉である。経営者は現代史の怪人とも呼ばれる許斐氏利で、射撃の日本代表選手として海外渡航した際にスチーム・サウナに感動し、日本初の「トルコ風呂」を開業したという。サウナ施設がメインで、女性(ミストルコ)がマッサージサービスを行うもので、女性は着衣のまま性的なサービスも厳禁、その後も同店はこの姿勢を崩さなかった。 なお、これ以前に性的サービスを行う「トルコ風呂」が存在していた旨を松沢呉一が述べているが、確認できるものはない。 トルコ風呂は、個室内で裸の男性に対して女性がマッサージを行うことから、東京温泉以外では、性的サービスを行う店舗が増えていった。 広岡敬一の『ちろりん村顛末記』『戦後性風俗大系』によれば、ソープランド/トルコ風呂の歴史概略は以下のようである。 「トルコ風呂」が性風俗店の名称として大衆化されるとともに、主に日本に在住・滞在するトルコ共和国出身者の間で、日本の性風俗店に自国の名称が使われていることに対する反発がつのっていたが、1984年(昭和59年)、トルコ人留学生ヌスレット・サンジャクリが厚生省に名称変更を訴え出たことが発端となり、この問題は広く公になった。そこで、「東京都特殊浴場協会」が「トルコ風呂」に代わる名称を公募して、1984年(昭和59年)12月19日、「ソープランド」と改称した(「トルコ風呂」名称問題も参照)。なお、当時サンジャクリが名称問題で相談していたのは小池百合子で、そのことを1985年(昭和60年)4月11日付けの毎日新聞夕刊で認めている。 ソープランドは風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)に定める店舗型性風俗特殊営業である。風適法第2条第6項1号では「浴場業(公衆浴場法 (昭和二十三年法律第百三十九号)第1条第1項に規定する公衆浴場を業として経営することをいう)の施設として個室を設け、当該個室において異性の客に接触する役務を提供する営業」と定義されており、公衆浴場としての条件も満たす必要がある。 そのため保健所の検査が行われる。性風俗営業の為、18歳未満は客・従業員ともに立ち入り禁止である(風適法第18条)。2018年(平成30年)の北海道胆振東部地震に際して、被災者向けに個室の風呂のみ提供した札幌市中央区のソープランドがあった。これは公衆浴場としての条件を満たしているため、こうした営業が可能であった。 かつては「個室付き特殊浴場」と呼ばれた。特殊とは特別なサービスを行うという意味ではなく、かつての公衆浴場法において、銭湯など=普通浴場に対して「サウナ=特殊浴場」と規定されていた。「トルコ風呂」は個室サウナという位置づけで、個室には必ずサウナ施設が付けられていた。現在は公衆浴場法が改正され、特殊浴場という規定はなくなっている(法律での明文は無くなったが、物価統制令の適用を受けない「その他の公衆浴場」の一種という扱いをされている)。 また、建築基準法では風適法第2条第6項1号に定める営業を「個室付浴場業」「個室付浴場業に係る公衆浴場」と定義し、商業地域以外での建築を禁止している。 売春防止法では単純売春に対する罰則はなく、客とソープ嬢が金銭を介して性交渉を行っても摘発することはできない。しかし、経営者側が客や女性に売春のための場所を提供することは、売春防止法でいう「場所提供」にあたり、また女性の勤務を管理することは「管理売春」にあたるため違法である。ソープランドでは、従業員と客との関係は性交類似行為にとどまり、性交は行わない“建前”に基づいているため、風俗営業法の下で合法化されている。性交に及んでいれば違法となり、「従業員と客が自由恋愛のすえに性交に至ったにすぎない」という店側の弁解は最高裁の判例でも否定されている。 入浴料とサービス料を別としたり、ローションや避妊具の管理を、女性の裁量に任せているのも、働く女性は個人事業主であり、店舗経営者が管理売春に関与してないことを明確にするためである。実際、女性の自由意志で外出ができない状況が常態化していることが、物証や証言により確認できた場合に、勤務中(つまり管理売春)とみなされるという過去の判例が複数存在する。 なお、売春防止法第3条に、単純売春に対する罰則規定が存在しない背景については、売春防止法案の審議の際の国会の議事録によると、次の通りである。 一部地域を除き新規出店が条例で禁止されているため、店舗数は減少に向かう方向にあり、2004年(平成16年)末時点で1,304店舗にまで落ち込んでいる。これは1985年(昭和60年)に強化された行政の締め付け、エイズの流行、失われた20年、性風俗の多様化、若年層の風俗離れなどが考えられている。18-19歳の女性の雇用に関して法令上の禁止条項はないが、一部地域を除き、雇用されていない(警察の指導による業界団体の自主規制と考えられる)。 所轄警察署が就労する女性の身分証明書(就労者が日本国籍保持者で、尚且つ就労可能年齢ある事の証明)の提示や、従業員名簿を提出することを指導しており、保健所の立ち入り検査による店舗内の衛生状況の検査や指導も行われている。新規出店が規制されているソープランドは、息の長い高収益営業を目指しており、特に所轄保健所の指導による性感染症の検査・予防も積極的に行っている。 韓国では、「按摩施術所」と言う名称で、日本と同様店舗型で営業している。韓国でもソープランドに「터키탕(トルコ風呂、トッキータン)」の名称が使用されていたが、1997年(平成9年)、日本と同じようにトルコ政府から異議の申し立てを受け、公衆衛生法施行令を改正し터키탕(トルコ風呂)の呼称を公式に증기탕(蒸気風呂)に変更するも、現在「按摩施術所」や「按摩房」(房(バン、韓国語:방)とは店舗を指す)などの名称が一般的に使われている。 なお、「按摩」を冠した名称で営業している施設であっても、性的なサービスを提供していない、単なるマッサージ業が多い(「男女共用」「退廃禁止」など、店の看板に記載している場合も多い)。 中国でも売春は違法であるものの、洗浴中心(入浴センター)の個室において、類似のサービスを行うものが見られる。これは北京市、上海市など大都市に限らず、地方都市にも存在している。広東省を始めとする華南では、桑拿(Sāng ná サウナの当て字)の名称でまさにソープランドのようなサービスを行っている施設もある。 日本国内にはソープランドが集中している区域、いわゆるソープ街がいくつか見られる。この中にはかつて公認の売春地域、いわゆる赤線地域、または遊廓に由来するものがあるが、かつての赤線経営者がそのまま営業を続けているとは限らない。温泉街として知られる地域にもソープランド街があるが、イメージ低下を避けるため雄琴温泉や道後温泉のように本来の温泉街と隔離されたり、山中温泉のように性風俗産業の取り締まり強化により衰退している場合が多い。 風適法では1号営業と定められており、他の風俗店と比較して規制が非常に厳しい。1985年以降は改正風俗営業法とそれを受けた各地方自治体の条例等により殆どの地域で新規出店は出来ないが、改修は可能であるので、新規参入などの場合はもともとあった店舗を借り、それを改修する。この際、全面改修は新築とみなされるので、内装工事と外装工事は分けて行われる。 代表的なソープランド街を示す。ただし、ほとんどの地域ではソープランド街そのものの地名となっておらず、町の一角にソープランドが集中している場合が多い。またこの他にも、兵庫県の尼崎や姫路のようにソープランドが孤立して存在する所もある。(2023年現在島根県の玉造温泉は一軒のみ営業している) 各都道府県で定める「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例」により、ソープランド(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律第2条第6項第1号に定める店舗型性風俗特殊営業)は、以下の地域で営業を禁止されている(2009年(平成21年)現在)。 ただし、同法第28条3項にあるように、下記地域での営業禁止は、条例の施行または適用の際現に届出書を提出して店舗型性風俗特殊営業を営んでいる者の当該店舗型性風俗特殊営業については、適用しない。 ソファーや鏡台などが置いてあるスペースにベッド(マッサージ台)が置いてある。そのとなりに洗い場と浴槽があり、マットが置いてあることが多い。スペースの関係でマットを壁に立てかけて置いてある場合も多い。かつては、「個室付き特殊浴場」であったため、必ずサウナ設備(ボックス)が置いてあった。また、都道府県条例の規定により部屋を密閉できないよう、ドアに大きなのぞき窓(ガラスや柵など、遮断するようなものは付けていない)をつけたり、ドア自体がなくカーテンで仕切るところもある。 好みのソープ嬢がいる場合は指名することもできる。以前入って気にいったソープ嬢を指名する「本指名」と、ウェブサイトや雑誌の写真を見て指名する「ネット指名」「写真指名」「雑誌指名」がある。店舗に入ってから待機中のソープ嬢を指名したり店員に任せることは「フリー」と呼ばれる。 受付で入浴料(部屋の使用料という名目で、これが店の収入になる)を払うと、ホテルのロビーのような待合室に通される。本指名でない場合は、ここで出勤中のソープ嬢の写真をみて選ぶこともできる。少し待った後ソープ嬢と対面し、その女性が部屋に案内する。 部屋ではお互い服を脱ぎ、いわゆるスケベ椅子に座って全裸の女性に体を洗ってもらう(いす洗い)。風呂に入り、潜望鏡なるサービスなどを受け、その後泡踊りといわれるエアマット上のサービスを受ける(ボディ洗い)。その際性交を行う場合もある。休憩を挟んだ後、ベッドに移って性交を行う。 時間が来るとサービスは終了。ソープ嬢にサービス料を支払う。ただし、後述のランク別のサービスと料金にあるように、店のランクや店ごとのスタイルによって、行われる行為の内容・手順及び支払う料金は異なってくる。サービス料はソープ嬢の(性的な)サービスに対する対価で、入浴料のだいたい2 - 3倍であるが、これはソープ嬢と客の自由意思の範疇で行われているということになっている。希望者には部屋を出る前に、ソープ嬢から自分の出勤日などを記入した名刺を貰うことが出来る。 料金は店の格式によって多様で、サービス内容も異なる。吉原や堀之内などでは高級店・中級店・大衆店(格安店)に分類されるが、地方によっては高級店と大衆店に分けられる。値段の違いは、接客時間、女性の質、店舗の雰囲気のほか、仕事的な感じを与えないかどうかの違いがある。 店内は、高級クラブを思わせる造りと雰囲気で、ソープ嬢も美貌・容姿・技術、高度な接遇を兼ね備えている。ベテランが多く在籍し、アワ踊り、潜望鏡やその他個々のソープ嬢の持っている技術で、ソープランドの技を堪能させてくれるタイプの店や、ベテランと若い女性を両方用意している店もある。 ただし店の方針によっては、言葉遣い・接遇・話術にも一定の水準が求められるため、若い女性だとなかなか勤まらない場合も多く、必ずしも若い女性ばかりとは限らない。 接客時間も120分以上と長く、料金は地域によって差があるが、吉原や堀之内では概ね総額60,000円以上で、中級店がない地方では3万円以上が高級店と分類されている(2003年頃)。吉原で総額80,000円以上は「超高級店」になる。 高級店は建物が広めであり、待合室の入り口と待合室から個室へ向かうために出る場所は異なり、他の客との鉢合わせを避けている。高級店の特徴は、対面後すぐに身体の接触が始まり、入室後は時間を置かずに女性が男性の洋服を脱がせ、フェラチオを行う、いわゆる即尺・即ベッド(即即)サービスが売り物になっていることが多い。店のスタイルまたはソープ嬢の接客スタイルとして、どの程度まで身体接触を行うかの差はあるが、個室に入室する前に身体接触を行うこともある。さらに、一通りサービスが終わった人は、待合室とは別の部屋、いわゆる上がり部屋に通されることになる。 一部の高級店にはNS嬢というソープ嬢が存在し、コンドームをせずにプレイをすることができる。NS嬢とは「ノースキン」に由来する。 接客時間は90分前後であり、料金は吉原や堀之内の場合総額30,000 - 50,000円(2003年頃)。ソープ嬢の質は中程度。接客開始場所は個室の中で始まることがほとんどである。中級店クラスだと即尺・即ベッド(即即)サービスは行っていないことが多く、このため、入室後に身体の接触が始まる時間も高級店ほど早くないことが多い。コンドームの使用を義務付ける店が多く、本番は2回可能なことが多い。 先述の「ワンツーの店」は、かつて高級店の代名詞だったが、1990年代頃から高級店が増加したため、現在では大衆店の代名詞となっている。中には中級店であっても、コンドームの使用をソープ嬢の自由にすることで、事実上コンドームを使用しないで接客できるソープ嬢が在籍しているのを、ひとつの売りにしている店舗もある。 接客時間は45 - 60分程度と短い。総額は吉原・堀之内で20,000円前後、中級店の分類がない地方では3万円以下、1万円台の店舗である(2003年頃)。 平成不況により、高級店では本指名数が稼げなくなったソープ嬢が、薄利多売で大衆店に移籍する現象もみられる。また、大衆店や格安店であっても、他店との差をつけるために、接客時間を長めに設定している店もある。 ソープランドで接客を行う女性をソープ嬢、コンパニオンや泡姫・姫という(かつてはトルコ嬢と呼んだ)。 1回の接客におけるソープ嬢の収入は、総額の料金が3万円以下の格安店では2万円以下、総額で5万円以下の大衆店では3万円以下、総額が7万円から10万円程度の高級店では4万5千円から6万円程度である。 ソープ嬢は個人事業主の扱いであり、自分の割り当てられた個室の管理をある程度任されており、一般に店内でのリネン・ローション・ドリンク類・コンドーム・タバコなどは本人負担である。本人負担といっても、これらは店を通して購入等がされるため、嬢が支払った経費の一部は店の利益になる。このことが、入浴料無料サービスを行っても経営が成り立つ裏付けとなっている。男性客同様に嬢自身も入浴料を支払わなければならない一方、ノルマ達成や報奨金のために、嬢自身がサービス料を無料にして常連客や知人を呼び込む場合がある。これらは報奨金が大きい高級店とノルマが厳しい格安店に見られる傾向である。 ソープランドを裏方で働く男性として、店長、マネージャー、ボーイがいる。マネージャーは、男女従業員の勤務状況を管理する。乗用車での客の送迎、掃除やリネンなど消耗品の準備、雑用はボーイが行う。また地域によっては、店舗前での呼び込みも行う(街に出ての客引きは、風営法で禁止)。男性従業員がソープ嬢と恋愛することは「ご法度」とされている。 公衆浴場の検査として、定期的に保健所が査察に入る。地方公共団体の条例や各保健所の指導方針で、地域によって異なるが、保健所の検査項目は、水質、個室内照明の照度、個室内の施設や衛生状態、遮蔽などの違反の有無がある。 従業員の性病・薬物検査に関しては、保健所が指導しているとの誤解が生じているが、実際保健所の観点では個室内の性的サービスは行っていないという建前であるので、条例で定められている地域を除き、店舗を通しての性感染症検査・管理は行っていない。あくまでも、公衆浴場としての営業をする上での管理を中心に行っている。 基本的に、避妊具など性的サービスを連想させる物は、個室内に無いことになっているので、査察で見つかった際には、店には厳重注意や始末書、営業停止などの処分が下るのが一般的である。 エアーマットも御法度であり、査察の際にはエアーマットがないことになっている状態にする。抜き打ち査察の際には、男性従業員が屋上などに隠したり、いざという時には、備え付けのナイフや千枚通しで、エアマットを切り裂いて迅速に空気を抜き、残骸を倉庫や浴槽の下に隠して査察を乗り切ることもある。 吉原の場合、抜き打ち検査と一斉検査がありブロック単位で行われ、営業時間中に来ることが多いが、同じ都区内でも新宿や池袋では、営業時間外に査察が来るケースも存在する。また西川口では、従業員に胸部レントゲン検査を義務とさせており、年1回保健所にて検査を実施している。金津園では店舗休業日に保健所が査察に来ることが多い。営業時間中に査察が入る地域で接客中に査察が来た場合は、客もコンパニオンも個室内で衣類を着用し、性器の露出や裸にはならない様にし、マッサージを行っていたり会話して、査察をやり過ごすのが一般的である。
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"韓国では、「按摩施術所」と言う名称で、日本と同様店舗型で営業している。韓国でもソープランドに「터키탕(トルコ風呂、トッキータン)」の名称が使用されていたが、1997年(平成9年)、日本と同じようにトルコ政府から異議の申し立てを受け、公衆衛生法施行令を改正し터키탕(トルコ風呂)の呼称を公式に증기탕(蒸気風呂)に変更するも、現在「按摩施術所」や「按摩房」(房(バン、韓国語:방)とは店舗を指す)などの名称が一般的に使われている。", "title": "現況" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、「按摩」を冠した名称で営業している施設であっても、性的なサービスを提供していない、単なるマッサージ業が多い(「男女共用」「退廃禁止」など、店の看板に記載している場合も多い)。", "title": "現況" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中国でも売春は違法であるものの、洗浴中心(入浴センター)の個室において、類似のサービスを行うものが見られる。これは北京市、上海市など大都市に限らず、地方都市にも存在している。広東省を始めとする華南では、桑拿(Sāng ná サウナの当て字)の名称でまさにソープランドのようなサービスを行っている施設もある。", "title": "現況" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本国内にはソープランドが集中している区域、いわゆるソープ街がいくつか見られる。この中にはかつて公認の売春地域、いわゆる赤線地域、または遊廓に由来するものがあるが、かつての赤線経営者がそのまま営業を続けているとは限らない。温泉街として知られる地域にもソープランド街があるが、イメージ低下を避けるため雄琴温泉や道後温泉のように本来の温泉街と隔離されたり、山中温泉のように性風俗産業の取り締まり強化により衰退している場合が多い。", "title": "立地" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "風適法では1号営業と定められており、他の風俗店と比較して規制が非常に厳しい。1985年以降は改正風俗営業法とそれを受けた各地方自治体の条例等により殆どの地域で新規出店は出来ないが、改修は可能であるので、新規参入などの場合はもともとあった店舗を借り、それを改修する。この際、全面改修は新築とみなされるので、内装工事と外装工事は分けて行われる。", "title": "立地" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "代表的なソープランド街を示す。ただし、ほとんどの地域ではソープランド街そのものの地名となっておらず、町の一角にソープランドが集中している場合が多い。またこの他にも、兵庫県の尼崎や姫路のようにソープランドが孤立して存在する所もある。(2023年現在島根県の玉造温泉は一軒のみ営業している)", "title": "立地" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "各都道府県で定める「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例」により、ソープランド(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律第2条第6項第1号に定める店舗型性風俗特殊営業)は、以下の地域で営業を禁止されている(2009年(平成21年)現在)。", "title": "立地" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ただし、同法第28条3項にあるように、下記地域での営業禁止は、条例の施行または適用の際現に届出書を提出して店舗型性風俗特殊営業を営んでいる者の当該店舗型性風俗特殊営業については、適用しない。", "title": "立地" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ソファーや鏡台などが置いてあるスペースにベッド(マッサージ台)が置いてある。そのとなりに洗い場と浴槽があり、マットが置いてあることが多い。スペースの関係でマットを壁に立てかけて置いてある場合も多い。かつては、「個室付き特殊浴場」であったため、必ずサウナ設備(ボックス)が置いてあった。また、都道府県条例の規定により部屋を密閉できないよう、ドアに大きなのぞき窓(ガラスや柵など、遮断するようなものは付けていない)をつけたり、ドア自体がなくカーテンで仕切るところもある。", "title": "一般的な個室内の様子" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "好みのソープ嬢がいる場合は指名することもできる。以前入って気にいったソープ嬢を指名する「本指名」と、ウェブサイトや雑誌の写真を見て指名する「ネット指名」「写真指名」「雑誌指名」がある。店舗に入ってから待機中のソープ嬢を指名したり店員に任せることは「フリー」と呼ばれる。", "title": "一般的なシステム" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "受付で入浴料(部屋の使用料という名目で、これが店の収入になる)を払うと、ホテルのロビーのような待合室に通される。本指名でない場合は、ここで出勤中のソープ嬢の写真をみて選ぶこともできる。少し待った後ソープ嬢と対面し、その女性が部屋に案内する。", "title": "一般的なシステム" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "部屋ではお互い服を脱ぎ、いわゆるスケベ椅子に座って全裸の女性に体を洗ってもらう(いす洗い)。風呂に入り、潜望鏡なるサービスなどを受け、その後泡踊りといわれるエアマット上のサービスを受ける(ボディ洗い)。その際性交を行う場合もある。休憩を挟んだ後、ベッドに移って性交を行う。", "title": "一般的なシステム" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "時間が来るとサービスは終了。ソープ嬢にサービス料を支払う。ただし、後述のランク別のサービスと料金にあるように、店のランクや店ごとのスタイルによって、行われる行為の内容・手順及び支払う料金は異なってくる。サービス料はソープ嬢の(性的な)サービスに対する対価で、入浴料のだいたい2 - 3倍であるが、これはソープ嬢と客の自由意思の範疇で行われているということになっている。希望者には部屋を出る前に、ソープ嬢から自分の出勤日などを記入した名刺を貰うことが出来る。", "title": "一般的なシステム" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "料金は店の格式によって多様で、サービス内容も異なる。吉原や堀之内などでは高級店・中級店・大衆店(格安店)に分類されるが、地方によっては高級店と大衆店に分けられる。値段の違いは、接客時間、女性の質、店舗の雰囲気のほか、仕事的な感じを与えないかどうかの違いがある。", "title": "ランク別のサービスと料金" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "店内は、高級クラブを思わせる造りと雰囲気で、ソープ嬢も美貌・容姿・技術、高度な接遇を兼ね備えている。ベテランが多く在籍し、アワ踊り、潜望鏡やその他個々のソープ嬢の持っている技術で、ソープランドの技を堪能させてくれるタイプの店や、ベテランと若い女性を両方用意している店もある。", "title": "ランク別のサービスと料金" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ただし店の方針によっては、言葉遣い・接遇・話術にも一定の水準が求められるため、若い女性だとなかなか勤まらない場合も多く、必ずしも若い女性ばかりとは限らない。", "title": "ランク別のサービスと料金" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "接客時間も120分以上と長く、料金は地域によって差があるが、吉原や堀之内では概ね総額60,000円以上で、中級店がない地方では3万円以上が高級店と分類されている(2003年頃)。吉原で総額80,000円以上は「超高級店」になる。", "title": "ランク別のサービスと料金" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "高級店は建物が広めであり、待合室の入り口と待合室から個室へ向かうために出る場所は異なり、他の客との鉢合わせを避けている。高級店の特徴は、対面後すぐに身体の接触が始まり、入室後は時間を置かずに女性が男性の洋服を脱がせ、フェラチオを行う、いわゆる即尺・即ベッド(即即)サービスが売り物になっていることが多い。店のスタイルまたはソープ嬢の接客スタイルとして、どの程度まで身体接触を行うかの差はあるが、個室に入室する前に身体接触を行うこともある。さらに、一通りサービスが終わった人は、待合室とは別の部屋、いわゆる上がり部屋に通されることになる。", "title": "ランク別のサービスと料金" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一部の高級店にはNS嬢というソープ嬢が存在し、コンドームをせずにプレイをすることができる。NS嬢とは「ノースキン」に由来する。", "title": "ランク別のサービスと料金" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "接客時間は90分前後であり、料金は吉原や堀之内の場合総額30,000 - 50,000円(2003年頃)。ソープ嬢の質は中程度。接客開始場所は個室の中で始まることがほとんどである。中級店クラスだと即尺・即ベッド(即即)サービスは行っていないことが多く、このため、入室後に身体の接触が始まる時間も高級店ほど早くないことが多い。コンドームの使用を義務付ける店が多く、本番は2回可能なことが多い。", "title": "ランク別のサービスと料金" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "先述の「ワンツーの店」は、かつて高級店の代名詞だったが、1990年代頃から高級店が増加したため、現在では大衆店の代名詞となっている。中には中級店であっても、コンドームの使用をソープ嬢の自由にすることで、事実上コンドームを使用しないで接客できるソープ嬢が在籍しているのを、ひとつの売りにしている店舗もある。", "title": "ランク別のサービスと料金" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "接客時間は45 - 60分程度と短い。総額は吉原・堀之内で20,000円前後、中級店の分類がない地方では3万円以下、1万円台の店舗である(2003年頃)。", "title": "ランク別のサービスと料金" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "平成不況により、高級店では本指名数が稼げなくなったソープ嬢が、薄利多売で大衆店に移籍する現象もみられる。また、大衆店や格安店であっても、他店との差をつけるために、接客時間を長めに設定している店もある。", "title": "ランク別のサービスと料金" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ソープランドで接客を行う女性をソープ嬢、コンパニオンや泡姫・姫という(かつてはトルコ嬢と呼んだ)。", "title": "ソープ嬢" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1回の接客におけるソープ嬢の収入は、総額の料金が3万円以下の格安店では2万円以下、総額で5万円以下の大衆店では3万円以下、総額が7万円から10万円程度の高級店では4万5千円から6万円程度である。", "title": "ソープ嬢" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ソープ嬢は個人事業主の扱いであり、自分の割り当てられた個室の管理をある程度任されており、一般に店内でのリネン・ローション・ドリンク類・コンドーム・タバコなどは本人負担である。本人負担といっても、これらは店を通して購入等がされるため、嬢が支払った経費の一部は店の利益になる。このことが、入浴料無料サービスを行っても経営が成り立つ裏付けとなっている。男性客同様に嬢自身も入浴料を支払わなければならない一方、ノルマ達成や報奨金のために、嬢自身がサービス料を無料にして常連客や知人を呼び込む場合がある。これらは報奨金が大きい高級店とノルマが厳しい格安店に見られる傾向である。", "title": "ソープ嬢" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ソープランドを裏方で働く男性として、店長、マネージャー、ボーイがいる。マネージャーは、男女従業員の勤務状況を管理する。乗用車での客の送迎、掃除やリネンなど消耗品の準備、雑用はボーイが行う。また地域によっては、店舗前での呼び込みも行う(街に出ての客引きは、風営法で禁止)。男性従業員がソープ嬢と恋愛することは「ご法度」とされている。", "title": "男性従業員" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "公衆浴場の検査として、定期的に保健所が査察に入る。地方公共団体の条例や各保健所の指導方針で、地域によって異なるが、保健所の検査項目は、水質、個室内照明の照度、個室内の施設や衛生状態、遮蔽などの違反の有無がある。", "title": "保健所" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "従業員の性病・薬物検査に関しては、保健所が指導しているとの誤解が生じているが、実際保健所の観点では個室内の性的サービスは行っていないという建前であるので、条例で定められている地域を除き、店舗を通しての性感染症検査・管理は行っていない。あくまでも、公衆浴場としての営業をする上での管理を中心に行っている。", "title": "保健所" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "基本的に、避妊具など性的サービスを連想させる物は、個室内に無いことになっているので、査察で見つかった際には、店には厳重注意や始末書、営業停止などの処分が下るのが一般的である。", "title": "保健所" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "エアーマットも御法度であり、査察の際にはエアーマットがないことになっている状態にする。抜き打ち査察の際には、男性従業員が屋上などに隠したり、いざという時には、備え付けのナイフや千枚通しで、エアマットを切り裂いて迅速に空気を抜き、残骸を倉庫や浴槽の下に隠して査察を乗り切ることもある。", "title": "保健所" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "吉原の場合、抜き打ち検査と一斉検査がありブロック単位で行われ、営業時間中に来ることが多いが、同じ都区内でも新宿や池袋では、営業時間外に査察が来るケースも存在する。また西川口では、従業員に胸部レントゲン検査を義務とさせており、年1回保健所にて検査を実施している。金津園では店舗休業日に保健所が査察に来ることが多い。営業時間中に査察が入る地域で接客中に査察が来た場合は、客もコンパニオンも個室内で衣類を着用し、性器の露出や裸にはならない様にし、マッサージを行っていたり会話して、査察をやり過ごすのが一般的である。", "title": "保健所" } ]
ソープランドは、浴室で女性従業員が男性客に対し性的なサービスを行う性風俗店である。略称「ソープ」、別名「特殊浴場」、「個室(高級)サウナ」。日本で発達した営業形態であるが、やや形を変えた同様の業態が韓国や中国でもみられる。エイズなどの性感染症の流行や、不景気、若年層の風俗離れもあり、店舗数が減少している。
{{性的}} {{独自研究|date=2013年8月}} '''ソープランド'''は、[[浴室]]で[[女性]]従業員が[[男性]]客に対し性的なサービスを行う性[[風俗店]]である。略称「'''ソープ'''」、別名「'''特殊浴場'''」、「'''個室(高級)サウナ'''」。[[日本]]で発達した営業形態であるが、やや形を変えた同様の業態が韓国や中国でもみられる。エイズなどの性感染症の流行や、不景気、若年層の風俗離れもあり、店舗数が減少している。 == 歴史 == ソープランドは、後述するように[[1980年代]]になってからの名称で、それ以前は「[[トルコ風呂 (性風俗)|トルコ風呂]]」(しばしば略して「'''トルコ'''」)と呼ばれていた。 古くは、[[1932年]]([[昭和]]7年)に発表された[[横光利一]]の[[小説]]『[[上海市|上海]]』に「トルコ風呂」についての記述がある。女性がマッサージをする蒸し風呂が当時の上海にあり、日本でも知られていた。もともと[[中東]]地域の伝統的な公衆浴場([[ハンマーム|ハマム]])は蒸し風呂(スチーム・サウナ)で、中では垢すりのサービスが行われていたので、これが20世紀初頭まで中東随一の大国であった[[トルコ]]の名前で日本に紹介されたものとみられる{{efn2|中東では男性客には男性、女性客には女性の垢すり師がつくのが原則。}}。 女性がマッサージを行う個室浴場の店舗としての「トルコ風呂」が日本で初めて誕生したのは、[[1951年]](昭和26年)[[4月1日]]に[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[東銀座]]に開店した東京温泉である。経営者は現代史の怪人とも呼ばれる[[許斐氏利]]で、[[射撃]]の日本代表選手として海外渡航した際にスチーム・サウナに感動し、日本初の「トルコ風呂」を開業したという。サウナ施設がメインで、女性(ミストルコ)がマッサージサービスを行うもので、女性は着衣のまま性的なサービスも厳禁<ref>広岡敬一『ちろりん村顛末記』(朝日文庫)P.19</ref>、その後も同店はこの姿勢を崩さなかった。 なお、これ以前に性的サービスを行う「トルコ風呂」が存在していた旨を[[松沢呉一]]が述べているが、確認できるものはない<ref>松沢呉一『エロスの原風景』(ポット出版)P.84 - 93</ref>。 === 性風俗の過激化 === トルコ風呂は、個室内で裸の男性に対して女性がマッサージを行うことから、東京温泉以外では、性的サービスを行う店舗が増えていった。 [[広岡敬一]]の『ちろりん村顛末記』『戦後性風俗大系』によれば、ソープランド/トルコ風呂の歴史概略は以下のようである。 * 1953年(昭和28年):都内20店・全国70店に拡大。 手を使って[[陰茎|男性器]]をマッサージし、快楽に導く「スペシャルサービス」(おスペ)が売り物になりミス・トルコの呼び名も広がっていく{{efn2|「トルコ嬢」の名は本番サービスが主流になって以降で、当時は「体を売らない」という信条もあり指技以外の行為を求められることは恥とする気風があったとされる。}}。 * 1958年(昭和33年):[[売春防止法]]施行。 [[赤線]]廃止に伴い赤線女性のトルコ風呂流入。 同年は、都内33店・全国で100店を超える。 * 1960年(昭和35年):さらに全国的に店舗が増加。都内67店・全国167店。 ただし[[近畿地方]]では、旧赤線を引継いだ[[ちょんの間]]が残っていたため、増加傾向やサービスの過激化は、[[関東地方]]が主流となる。 * 1963年(昭和38年):赤線廃止後、本番サービスが中心となっていたが、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]を控えて、東京浄化運動による取締りが強化され、おスペサービスが限界となったという<ref>広岡敬一『ちろりん村顛末記』P.20 - 21</ref>。 * 1966年(昭和41年):トルコ風呂が[[風俗営業法]]の適用を受ける。また、この年初めて正確な調査が行われた。全国706店(東京都208店・神奈川県54店・千葉県28店・北海道25店・福島県7店・岐阜県30店・福岡県18店)という結果であった。 * 1969年(昭和44年):[[川崎市]][[堀之内 (川崎市)|堀之内]]に開店した川崎城に勤めていた濱田を名乗る女性が「泡踊り」と呼ばれるサービスを考案。 * 1970年(昭和45年):[[週刊大衆]]・[[アサヒ芸能]]・週刊現代の順に、トルコ風呂に関する記事が大きく展開されていく。 === 改名問題 === 「トルコ風呂」が性風俗店の名称として大衆化されるとともに、主に日本に在住・滞在する[[トルコ|トルコ共和国]]出身者の間で、日本の性風俗店に自国の名称が使われていることに対する反発がつのっていたが、1984年(昭和59年)、トルコ人留学生[[ヌスレット・サンジャクリ]]が[[厚生省]]に名称変更を訴え出たことが発端となり、この問題は広く公になった。そこで、「東京都特殊浴場協会」が「トルコ風呂」に代わる名称を公募して、1984年(昭和59年)12月19日、「ソープランド」と改称した([[トルコ風呂 (性風俗)#名称問題と改名|「トルコ風呂」名称問題]]も参照)。なお、当時サンジャクリが名称問題で相談していたのは[[小池百合子]]で、そのことを1985年(昭和60年)4月11日付けの[[毎日新聞]]夕刊で認めている。 == 法律上の位置づけ == {{law|section=1}} ソープランドは[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]](風適法)に定める店舗型性風俗特殊営業である。風適法第2条第6項1号では「浴場業([[公衆浴場法]] (昭和二十三年法律第百三十九号)第1条第1項に規定する[[公衆浴場]]を業として経営することをいう)の施設として個室を設け、当該個室において異性の客に接触する役務を提供する営業」と定義されており、公衆浴場としての条件も満たす必要がある。 そのため[[保健所]]の検査が行われる。性風俗営業の為、18歳未満は客・従業員ともに立ち入り禁止である(風適法第18条)。2018年([[平成]]30年)の[[北海道胆振東部地震]]に際して、被災者向けに個室の風呂のみ提供した[[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]のソープランドがあった<ref>{{Cite news | url = https://www.sankei.com/article/20180907-CKJYDCS7INOH7FJZMIQDT7XJME/ | title=【北海道震度7地震】ススキノのソープが500円で風呂提供 「私たちも被災者」通常営業は休止 | newspaper = 産経新聞 | date = 2018-09-07 | accessdate=2019-05-16}}</ref>。これは公衆浴場としての条件を満たしているため、こうした営業が可能であった。 かつては「'''個室付き特殊浴場'''」と呼ばれた。特殊とは特別なサービスを行うという意味ではなく、かつての[[公衆浴場法]]において、銭湯など=普通浴場に対して「サウナ=特殊浴場」と規定されていた。「トルコ風呂」は個室サウナという位置づけで、個室には必ずサウナ施設が付けられていた。現在は公衆浴場法が改正され、特殊浴場という規定はなくなっている(法律での明文は無くなったが、[[物価統制令]]の適用を受けない「'''その他の公衆浴場'''」の一種という扱いをされている<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/seikatsu-eisei/seikatsu-eisei04/04.html 公衆浴場法概要] - [[厚生労働省]] 「個室付き公衆浴場」がソープランドに該当</ref>)。 また、[[建築基準法]]では風適法第2条第6項1号に定める営業を「'''個室付浴場業'''」「'''個室付浴場業に係る公衆浴場'''」と定義し、[[商業地域]]以外での建築を禁止している<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325AC0000000201 建築基準法] - e-Gov</ref>。 === 売春防止法 === [[売春防止法]]では[[単純売春]]に対する[[罰則]]はなく、客と[[ソープ嬢]]が金銭を介して[[性交渉]]を行っても[[摘発]]することはできない。しかし、経営者側が客や女性に[[売春]]のための場所を提供することは、売春防止法でいう「場所提供」にあたり、また女性の勤務を管理することは「[[管理売春]]」にあたるため違法である。 ソープランドでは、個室浴場の中で異性に接触する役務([[混浴]])を提供しているに過ぎず、[[性交]]のための「場所提供」は行っていないという“[[本音と建前|建前]]”に基づいているため、風俗営業法の下で合法化されている。しかし少なくとも性交が行われていれば「場所提供」として違法となり、「従業員と客が自由恋愛のすえに性交に至ったにすぎない」という店側の弁解も[[最高裁]]の判例で否定されている<ref name="hanrei">https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/869/051869_hanrei.pdf</ref>。 また店舗経営者は管理売春としての摘発を逃れるためにソープ嬢を自由出勤制とし、[[個人事業主]]として扱っている。実際、女性の自由意志で外出ができない状況が常態化していることが物証や証言により確認できた場合に、勤務中(つまり管理売春)とみなされるという過去の判例が複数存在する<ref>事件番号 昭和53う393、福岡高等裁判所、昭和53年12月7日</ref><ref>事件番号 昭和42(あ)605、最高裁判所第三小法廷、昭和42年9月19日</ref><ref>事件番号 昭和43う482、福岡高等裁判所、昭和44年1月29日</ref>。ローションや[[避妊具]]の管理を女性の裁量に任せたり入浴料とサービス料を別としたりしているのも同様の理由である(近年は格安店を中心に入浴料とサービス料を合わせた「総額表示」としている店舗も増えている)。 なお、[[売春防止法]]第3条に、単純売春に対する罰則規定が存在しない背景については、[[売春防止法]]案の審議の際の[[国会]]の[[議事録]]によると、次の通りである<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102415206X01919560515|title=参議院法務委員会・昭和31年5月15日 政府委員・長戸寛美発言|accessdate=2013-04-21}}等</ref>。 *「立証が極度に困難であり、かつ、徹底的な[[証拠]]立てをしようとすれば、[[人権蹂躙]]の非難さえ生じ得る」こと。 * 勧誘(第5条)や売春を助長する行為(第6条 - 策15条)を処罰することで、法律の目的を達しようとするものであること。 == 現況 == 一部地域を除き新規出店が条例で禁止されているため、店舗数は減少に向かう方向にあり、2004年(平成16年)末時点で1,304店舗にまで落ち込んでいる。これは1985年(昭和60年)に強化された行政の締め付け、[[エイズ]]の流行、[[失われた20年]]、性風俗の多様化、若年層の風俗離れなどが考えられている<ref>『「夜のオンナ」はいくら稼ぐか?』p.78 -</ref>。18-19歳の女性の雇用に関して法令上の禁止条項はないが、一部地域を除き、雇用されていない(警察の指導による業界団体の[[自主規制]]と考えられる)。 所轄[[警察署]]が就労する[[女性]]の[[身分証明書]](就労者が[[日本国籍]]保持者で、尚且つ[[就労可能]]年齢ある事の証明)の提示や、従業員名簿を提出することを指導しており、[[保健所]]の立ち入り検査による店舗内の衛生状況の検査や指導も行われている<ref>[[#岩永|岩永]] p16</ref>。新規出店が規制されているソープランドは、息の長い高収益営業を目指しており、特に所轄保健所の指導による[[性感染症]]の検査・予防も積極的に行っている。 [[大韓民国|韓国]]では、「按摩施術所」と言う名称で、日本と同様店舗型で営業している。韓国でもソープランドに「{{lang|ko|터키탕}}(トルコ風呂、トッキータン)」の名称が使用されていたが、1997年(平成9年)、日本と同じようにトルコ政府から異議の申し立てを受け、公衆衛生法施行令を改正し{{lang|ko|터키탕}}(トルコ風呂)の呼称を公式に{{lang|ko|증기탕}}(蒸気風呂)に変更するも<ref>[http://www.munhwa.com/news/view.html?no=199702112001601 {{lang|ko|터키탕명칭 증기탕으로 공식 변경}}] {{lang|ko|문화 일보}}(文化日報) 1997-02-11</ref>、現在「按摩施術所」や「按摩房」(房(バン、[[韓国語]]:방)とは店舗を指す)などの名称が一般的に使われている。 なお、「按摩」を冠した名称で営業している施設であっても、性的なサービスを提供していない、単なるマッサージ業が多い(「男女共用」「退廃禁止」など、店の看板に記載している場合も多い)。 [[中華人民共和国|中国]]でも[[売春#各国の概況|売春]]は違法であるものの、'''洗浴中心'''(入浴センター)の個室において、類似のサービスを行うものが見られる<ref>[https://web.archive.org/web/20101009032359/http://www.qiuyue.com/shingo3.htm 中国現代用語辞典-入浴センター(新式銭湯)](2010年10月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。これは[[北京市]]、[[上海市]]など大都市に限らず、地方都市にも存在している。[[広東省]]を始めとする[[華南]]では、'''桑拿'''(Sāng ná サウナの当て字)の名称でまさにソープランドのようなサービスを行っている施設もある。 == 立地 == {{右| [[画像:Modern Yoshiwara Tokyo.jpg|thumb|250px|[[吉原 (東京都)|吉原]]ソープ街(2009年)]] }} === 日本 === 日本国内にはソープランドが集中している区域、いわゆるソープ街がいくつか見られる。この中にはかつて公認の売春地域、いわゆる[[赤線]]地域、または[[遊廓]]に由来するものがあるが、かつての赤線経営者がそのまま営業を続けているとは限らない。[[温泉街]]として知られる地域にもソープランド街があるが、イメージ低下を避けるため雄琴温泉や道後温泉のように本来の温泉街と隔離されたり、山中温泉のように性風俗産業の取り締まり強化により衰退している場合が多い。 [[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風適法]]では1号営業と定められており、他の[[風俗店]]と比較して規制が非常に厳しい。1985年以降は改正風俗営業法とそれを受けた各地方自治体の[[条例]]等により殆どの地域で新規出店は出来ないが、改修は可能であるので、新規参入などの場合はもともとあった店舗を借り、それを改修する。この際、全面改修は新築とみなされるので、内装工事と外装工事は分けて行われる<ref>[[#岩永|岩永]] p36-38</ref>。 ==== ソープランド街 ==== {{see also|風俗街#日本の風俗街}} 代表的なソープランド街を示す。ただし、ほとんどの地域ではソープランド街そのものの地名となっておらず、町の一角にソープランドが集中している場合が多い。またこの他にも、兵庫県の尼崎や姫路のようにソープランドが孤立して存在する所もある。(2023年現在島根県の玉造温泉と岩手県盛岡市はそれぞれ一軒のみ営業している) {{右| [[画像:so-pugai.jpg|thumb|180px|川崎[[堀之内 (川崎市)|堀之内]]ソープ街]] [[File:Hukuhara-yanagi-street 神戸福原柳筋3015152.jpg|thumb|180px|right|[[福原 (神戸市)|福原]]柳筋入口]] }} {| class="wikitable" style="background: #FFF;" |- |+代表的なソープランド街一覧 !地域名!!所在地!!旧名!!届出店舗数!!補足 |- |'''[[すすきの]]'''||[[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]||薄野遊郭|| ||他の地区と異なり、店舗所在地にまとまりがなく点在している。 |- |'''川反'''||[[秋田県]][[秋田市]]|| || || |- |'''[[国分町 (仙台市)|国分町]]'''||[[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]]国分町|| || ||[[東北地方]]最大の歓楽街である。 |- |'''[[上町および中坪 (小名浜)|上町・中坪]]'''||[[福島県]][[いわき市]][[小名浜]]|| || || |- |'''天王町'''||[[茨城県]][[水戸市]]|| || || |- |'''[[桜町 (土浦市)|桜町]]'''||茨城県[[土浦市]]桜町|| || ||二丁目のみ。 |- |'''江野町'''||[[栃木県]][[宇都宮市]]|| || || |- |'''[[大宮北銀座]]'''||[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]][[宮町 (さいたま市大宮区)|宮町]]|| || ||宮町四丁目の通称。 |- |'''[[西川口 (川口市)|西川口]]'''||埼玉県[[川口市]]西川口|| || ||[[西川口駅]]西口の一部。 |- |'''[[吉原 (東京都)|吉原]]'''||[[東京都]][[台東区]][[千束]]||[[吉原遊廓]]||約160店||旧[[赤線]]地帯。約160店が出店しており、[[日本一の一覧|日本一のソープランド街]]である。 |- |'''[[池袋]]'''||東京都[[豊島区]]池袋|| || ||[[池袋駅]]西口(北)(旧・北口)に集中。 |- |'''[[歌舞伎町]]'''||東京都[[新宿区]]歌舞伎町||[[内藤新宿]]|| ||一丁目に密集している。 |- |'''[[栄町 (千葉市)|栄町]]'''||[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]栄町|| || || [[千葉駅]]からやや離れたエリアに集中。 |- |'''[[堀之内_(川崎市)|堀之内]]'''||[[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]]|| || ||旧青線地帯。 |- |'''[[南町 (川崎市)|南町]]'''||[[神奈川県]]川崎市川崎区|| || ||旧赤線地帯。 |- |'''[[福富町 (横浜市)|福富町]]'''||神奈川県[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]|| || || |- |'''[[古町 (新潟市)|古町]]'''||[[新潟県]][[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]]||[[新潟の花街#新潟遊郭(新)|新潟遊郭]]|| ||昭和新道のみ。 |- |'''[[片山津温泉]]'''||[[石川県]][[加賀市]]|| || ||5店が営業 |- |'''[[山中温泉]]'''||[[石川県]]加賀市|| || ||2店が営業 |- |'''[[裏春日]]'''||[[山梨県]][[甲府市]][[中央 (甲府市)|中央]]|| || ||[[甲府駅]]南口にある歓楽街の通称。春桜会通りのみ。 |- |'''大門'''||[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]]||[[中村遊廓]]|| || |- |'''[[金津園]]'''||[[岐阜県]][[岐阜市]]||[[加納宿]]|| ||旧赤線地帯。[[岐阜駅]]南口からやや離れており、[[中部地方]]最大のソープランド街である。 |- |'''[[雄琴温泉|雄琴]]'''||[[滋賀県]][[大津市]]苗鹿|| || ||苗鹿三丁目のみ。[[昭和]]後期になって、雄琴温泉そばの民家さえ無い[[田んぼ]]の中に突然出来たため、他のソープランド街とは異質である。 |- |'''[[ぶらくり丁商店街|ぶらくり丁]]'''||[[和歌山県]][[和歌山市]]|| || || |- |'''[[福原 (神戸市)|福原]]'''||[[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]]福原||[[神戸の花街#福原遊廓|福原遊廓]]|| ||旧赤線地帯。 |- |'''[[皆生温泉]]'''||[[鳥取県]][[米子市]]|| || || |- |'''四日市・津'''||[[三重県]][[四日市市]]および[[津市]]|| || ||旧赤線地帯。 |- |'''薬研堀・弥生町'''||[[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]|| || || |- |'''[[竹崎町]]'''||[[山口県]][[下関市]]|| || ||三丁目の歓楽街・まるは通りのみ。 |- |'''[[八重垣新地]]'''||[[香川県]][[高松市]][[城東町 (高松市)|城東町二丁目]]||八重垣遊郭|| ||旧赤線地帯。 |- |'''秋田町'''||[[徳島県]][[徳島市]]|| || || |- |'''[[道後温泉]]'''||[[愛媛県]][[松山市]]|| || ||道後多幸町のみ。 |- |'''堺町'''||[[高知県]][[高知市]]|| || ||4店が営業、ちょんの間(ビジネス旅館)が近接 |- |'''[[南新地]]'''||[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]][[中洲]]|| || ||中洲一丁目の通称。 |- |'''[[船頭町]]'''||[[福岡県]][[北九州市]][[小倉北区]]|| || || |- |'''[[武雄温泉]]'''||[[佐賀県]][[武雄市]]|| || || |- |'''[[嬉野温泉]]'''||佐賀県[[嬉野市]]|| || || |- |'''[[下通]]'''||[[熊本県]][[熊本市]][[中央区 (熊本市)|中央区]]|| || ||中央街 |- |'''元町'''||[[大分県]][[別府市]]|| || || |- |'''上野町・[[橘通り (宮崎市)|橘通西]]'''||[[宮崎県]][[宮崎市]]|| || ||橋通西は二丁目・三丁目のみ。 |- |'''[[甲突町]]'''||[[鹿児島県]][[鹿児島市]]||沖之村遊郭|| ||8番街区のみ。 |- |'''[[辻 (那覇市)|辻]]'''||[[沖縄県]][[那覇市]]辻|| || || |- |} ==== 条例で定める日本国内のソープランド営業禁止地域 ==== 各都道府県で定める「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例」により、ソープランド([[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]]第2条第6項第1号に定める店舗型性風俗特殊営業)は、以下の地域で営業を禁止されている(2009年(平成21年)現在)。 ただし、同法第28条3項にあるように、下記地域での営業禁止は、条例の施行または適用の際現に届出書を提出して店舗型性風俗特殊営業を営んでいる者の当該店舗型性風俗特殊営業については、適用しない。 ; 都道府県内で禁止されているが、記述する地域で許可されているところ :; [[茨城県]] :: [[水戸市]]天王町・泉町三丁目の一部、[[土浦市]][[桜町 (土浦市)|桜町]]2丁目の一部以外と、日立市、古河市、石岡市、結城市、竜ケ崎市、下妻市、常総市、常陸太田市、高萩市、北茨城市、笠間市、取手市、牛久市、つくば市、ひたちなか市、鹿嶋市、潮来市、守谷市、常陸大宮市、那珂市、筑西市、坂東市、稲敷市、かすみがうら市、桜川市、神栖市、行方市、鉾田市、つくばみらい市、小美玉市、東茨城郡、那珂郡、久慈郡、稲敷郡、結城郡、猿島郡、北相馬郡以外の地域 :; [[栃木県]] :: [[宇都宮市]]江野町・池上町の一部と、足利市、小山市、栃木市、佐野市、鹿沼市、真岡市、大田原市、日光市、矢板市、那須塩原市、さくら市、那須烏山市、下野市、河内郡、上都賀郡、芳賀郡、下都賀郡、塩谷郡、那須郡以外の地域 :; [[群馬県]] :: [[沼田市]]利根町根利字トザワ区域と、前橋市、高崎市、桐生市、伊勢崎市、太田市、館林市、渋川市、藤岡市、富岡市、安中市、みどり市、北群馬郡、多野郡、甘楽郡、吾妻郡、利根郡、佐波郡、邑楽郡以外の地域 :; [[埼玉県]] :: [[さいたま市]]大宮区宮町、[[川口市]][[西川口 (川口市)|西川口]]の一部 :; [[千葉県]] :: [[千葉市]]中央区栄町の一部と、銚子市、市川市、船橋市、館山市、木更津市、松戸市、野田市、茂原市、成田市、佐倉市、東金市、旭市、習志野市、柏市、勝浦市、市原市、流山市、八千代市、我孫子市、鴨川市、鎌ケ谷市、君津市、富津市、浦安市、四街道市、袖ケ浦市、八街市、印西市、白井市、富里市、南房総市、匝瑳市、香取市、山武市、いすみ市、印旛郡、香取郡、山武郡、長生郡、夷隅郡、安房郡以外の地域 :; [[東京都]] :: [[台東区]][[千束]]4丁目16番 - 32番、41番 - 48番までの地域 :; [[富山県]] :: [[南砺市]]の国道156号の両側の路端 - 700m以外の利賀村北原・長崎・大牧・下原・栃原・新山区域と、[[富山市]]、高岡市、魚津市、氷見市、滑川市、黒部市、砺波市、小矢部市、射水市、中新川郡、下新川郡以外の地域 :; [[石川県]] :: [[金沢市]]、[[小松市]]、七尾市、加賀市、羽咋市、輪島市、珠洲市、かほく市、白山市、能美市、能美郡、石川郡、河北郡、羽咋郡、鹿島郡、鳳珠郡以外の地域 :; [[福井県]]※2023年12月時点で福井市内に2店が営業している :: [[福井市]]、敦賀市、小浜市、大野市、勝山市、鯖江市、あわら市、越前市、坂井市、吉田郡、今立郡、南条郡、丹生郡、三方郡、大飯郡、三方上中郡以外の地域 :; [[長野県]] :: [[長野市]]大字[[鶴賀 (長野市)|鶴賀]]字腰巻・[[松本市]]大手2丁目の一部と、上田市、岡谷市、飯田市、諏訪市、須坂市、小諸市、伊那市、駒ケ根市、中野市、大町市、飯山市、茅野市、塩尻市、佐久市、千曲市、東御市、安曇野市、南佐久郡、北佐久郡、小県郡、諏訪郡、上伊那郡、下伊那郡、木曽郡、東筑摩郡、北安曇郡、埴科郡、上高井郡、下高井郡、上水内郡、下水内郡以外の地域 :; [[静岡県]] :: [[熱海市]]渚町と、下田市、伊豆市、伊豆の国市、伊東市、三島市、沼津市、裾野市、御殿場市、富士市、富士宮市、静岡市、焼津市、藤枝市、島田市、牧之原市、御前崎市、菊川市、掛川市、袋井市、磐田市、浜松市、湖西市、賀茂郡、田方郡、駿東郡、榛原郡、周智郡以外の地域 :; [[三重県]] :: [[桑名市]]・いなべ市・[[四日市市]]のうち[[諏訪栄町]]8番・9番・12番・13番の街区、西新地4番・5番・6番の街区以外、[[津市]][[大門 (津市)|大門]]街区の一部と、亀山市、鈴鹿市、松阪市、伊勢市、鳥羽市、志摩市、尾鷲市、熊野市、伊賀市、名張市、三重県内各郡以外の地域 :; [[和歌山県]] :: [[和歌山市]]、海南市、橋本市、有田市、御坊市、田辺市、新宮市、紀の川市、岩出市、海草郡、伊都郡、有田郡、日高郡、西牟婁郡、東牟婁郡以外の地域 :; [[鳥取県]] ::# [[米子市]][[皆生温泉]]3丁目の区域のうち、市道皆生温泉20号線、市道皆生温泉13号線、市道皆生温泉11号線、市道皆生温泉14号線によって囲まれた区域 ::# [[東伯郡]][[三朝町]]大字三朝の区域のうち、県道鳥取鹿野倉吉線、町道堂小路線、町道三朝砂原線、町道川岸線及び三徳川左岸によって囲まれた区域 :; [[島根県]] :: 島根県の区域のうち、[[松江市]]玉湯町玉造323番地の先、勾玉橋右岸側の下流端を中心として半径30m以内の区域 :; [[岡山県]] :: [[岡山市]]、[[倉敷市]]、津山市、玉野市、笠岡市、井原市、総社市、高梁市、新見市、備前市、瀬戸内市、赤磐市、真庭市、美作市、浅口市、和気郡、都窪郡、浅口郡、小田郡、真庭郡、苫田郡、勝田郡、英田郡、久米郡、加賀郡以外の地域(営業許可されている場所はなく、県内全域が営業禁止になっている) :; [[広島県]] :: [[広島市]]中区薬研堀一番街区、四番街区、五番街区、八番街区と弥生町三番街区、六番街区 :; [[山口県]] :: [[下関市]][[竹崎町]]2丁目、3丁目、4丁目の[[山口県公安委員会]]規則で定めるもの :; [[徳島県]] :: [[徳島市]][[栄町 (徳島市)|栄町]]1丁目、[[鷹匠町 (徳島市)|鷹匠町]]1丁目、[[秋田町]] :; [[香川県]] :: [[高松市]][[城東町 (高松市)|城東町二丁目]]の市道東浜4号線・14号線・6号線・[[香川県道159号高松港線|高松港線]]により囲まれた区域と、琴平町の町道北富士見町線・南新町線・栄町東裏通2号線、琴平町字川東250番6地先~琴平町字川東246番2地先までの町有地である道路、町道大宮新地川筋線により囲まれた区域 :; [[愛媛県]] :: [[松山市]]道後多幸町のうち、県道六軒家石手線の各一側について幅20m以内の区域 :; [[高知県]] :: [[高知市]]堺町(1番街区から9番街区までを除く)と与力町1番、8番、9番街区 :; [[福岡県]] :: [[北九州市]][[小倉北区]]船頭町3番と[[福岡市]][[博多区]][[中洲]]1丁目・2丁目 :; [[佐賀県]] :: [[武雄市]]、[[嬉野市]]の一部 :; [[熊本県]] :: [[熊本市]]中央区中央街の4番・6番・8番・10番・11番 :; [[大分県]] :: [[大分市]]、[[別府市]]元町・楠町の[[大分県公安委員会]]規則で定める道路の側端から10m以内の区域と、中津市、日田市、佐伯市、臼杵市、津久見市、竹田市、豊後高田市、杵築市、宇佐市、豊後大野市、由布市、国東市、東国東郡、速見郡、玖珠郡以外の地域 :; [[宮崎県]] :: [[宮崎市]][[橘通り (宮崎市)|橘通西]]2丁目・3丁目、[[上野町 (宮崎市)|上野町]]と中央通の一部 :; [[鹿児島県]] :: [[鹿児島市]][[甲突町]]8番区域 :; [[沖縄県]] :: [[那覇市]][[辻 (那覇市)|辻]]2丁目10番 - 22番、24番・25番を除く区域と、名護市、うるま市、沖縄市、宜野湾市、浦添市、豊見城市、南城市、糸満市、宮古島市、石垣市、国頭郡、中頭郡、島尻郡、宮古郡、八重山郡以外の地域 == 一般的な個室内の様子 == {{出典の明記 | section = 1 | date = 2013年8月}} ソファーや鏡台などが置いてあるスペースにベッド(マッサージ台)が置いてある。そのとなりに洗い場と浴槽があり、マットが置いてあることが多い。スペースの関係でマットを壁に立てかけて置いてある場合も多い。かつては、「'''個室付き特殊浴場'''」であったため、必ずサウナ設備(ボックス)が置いてあった。また、都道府県条例の規定により部屋を密閉できないよう、ドアに大きなのぞき窓(ガラスや柵など、遮断するようなものは付けていない)をつけたり、ドア自体がなくカーテンで仕切るところもある。 == 一般的なシステム == {{出典の明記 | section = 1 | date = 2013年8月}} 好みのソープ嬢がいる場合は指名することもできる。以前入って気にいったソープ嬢を指名する「本指名」と、ウェブサイトや雑誌の写真を見て指名する「ネット指名」「写真指名」「雑誌指名」がある。店舗に入ってから待機中のソープ嬢を指名したり店員に任せることは「フリー」と呼ばれる。 受付で'''入浴料'''(部屋の使用料という名目で、これが店の収入になる)を払うと、ホテルのロビーのような待合室に通される。本指名でない場合は、ここで出勤中のソープ嬢の写真をみて選ぶこともできる。少し待った後ソープ嬢と対面し、その女性が部屋に案内する。 部屋ではお互い服を脱ぎ、いわゆるスケベ椅子に座って全裸の女性に体を洗ってもらう(いす洗い)。風呂に入り、[[ソープランド#サービス|潜望鏡]]なるサービスなどを受け、その後泡踊りといわれるエアマット上のサービスを受ける(ボディ洗い)。その際性交を行う場合もある。休憩を挟んだ後、ベッドに移って性交を行う。 時間が来るとサービスは終了。ソープ嬢に'''サービス料'''を支払う。ただし、後述の''ランク別のサービスと料金''にあるように、店のランクや店ごとのスタイルによって、行われる行為の内容・手順及び支払う料金は異なってくる。サービス料はソープ嬢の(性的な)サービスに対する対価で、入浴料のだいたい2 - 3倍であるが、これはソープ嬢と客の自由意思の範疇で行われているということになっている。希望者には部屋を出る前に、ソープ嬢から自分の出勤日などを記入した[[名刺]]を貰うことが出来る<ref>[[#岩永|岩永]] p18</ref>。 === その他 === * もともとソープ嬢は、プロ意識・職人気質が強く、以前はサービス中に[[接吻|キス]]をしない者が多かった。これは「体を売っても、[[心]]までは売らない」{{efn2|接吻は心を許した相手とだけ行うという不文律があったため。このようなけじめをつけることは職業人としての誇りを保ち、人間としての尊厳を両立させることが可能である心理的な防衛として機能する。}}という意志を象徴していた。しかし、[[1980年代]]に恋人風サービスが始まると、それ以降はサービスの一環として当たり前に行われるようになった。 * 入浴料1万円、サービス料2万円の場合、俗に'''ワンツーの店'''などと言うこともある<ref name="p20">[[#岩永|岩永]] p20</ref>。サービス料金については、あくまで「男女間の合意に基づく」建前のため、店舗を紹介する雑誌やウェブサイトには、入浴料しか掲示しない場合もあり、総額を知りたい場合は、電話で問い合わせをする必要がある。また、サービス料を含めた全料金を、受付時に支払う総額制のソープランドも多く見られる。 * 「駅前ソープ」と呼ばれる店がある。ソープの集中する地域以外の駅前にある店で、「本番」行為はなく[[ファッションヘルス]]同様な (遵法的で良心的な?) サービスを受けられる、総額料金1万円前後が多い。関西(特に、ソープランドの営業が全域で禁止の大阪府)では「ソープ(ランド)」の語を嫌い「マットヘルス」と呼ぶことが多く、近隣にソープランドがない(大阪市内から最寄りのソープランドは兵庫県尼崎市)為、料金も通常のソープランドの格安店並みである。 : ''用語は下記の「ソープランドに関する語」を参照'' == ランク別のサービスと料金 == 料金は店の格式によって多様で、サービス内容も異なる。吉原や堀之内などでは高級店・中級店・大衆店(格安店)に分類されるが、地方によっては高級店と大衆店に分けられる。値段の違いは、接客時間、女性の質、店舗の雰囲気のほか、仕事的な感じを与えないかどうかの違いがある<ref>[[#岩永|岩永]] p18-24</ref>。 === 高級店(上級店) === 店内は、高級[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]を思わせる造りと雰囲気で、ソープ嬢も美貌・容姿・技術、高度な[[接遇]]を兼ね備えている。ベテランが多く在籍し、[[ソープランド#サービス|アワ踊り]]、[[ソープランド#サービス|潜望鏡]]やその他個々のソープ嬢の持っている技術で、ソープランドの技を堪能させてくれるタイプの店や、ベテランと若い女性を両方用意している店もある。 ただし店の方針によっては、言葉遣い・接遇・話術にも一定の水準が求められるため、若い女性だとなかなか勤まらない場合も多く、必ずしも若い女性ばかりとは限らない。 接客時間も120分以上と長く、料金は地域によって差があるが、吉原や堀之内では概ね総額60,000円以上で、中級店がない地方では3万円以上が高級店と分類されている(2003年頃)<ref>[[#岩永|岩永]] p19</ref>。吉原で総額80,000円以上は「超高級店」になる。 高級店は建物が広めであり<ref>[[#岩永|岩永]] p21</ref>、待合室の入り口と待合室から個室へ向かうために出る場所は異なり、他の客との鉢合わせを避けている。高級店の特徴は、対面後すぐに身体の接触が始まり、入室後は時間を置かずに女性が男性の洋服を脱がせ、[[フェラチオ]]を行う、いわゆる即尺・即ベッド(即即)サービスが売り物になっていることが多い。店のスタイルまたはソープ嬢の接客スタイルとして、どの程度まで身体接触を行うかの差はあるが、個室に入室する前に身体接触を行うこともある。さらに、一通りサービスが終わった人は、待合室とは別の部屋、いわゆる上がり部屋に通されることになる。 一部の高級店にはNS嬢というソープ嬢が存在し、[[コンドーム]]をせずにプレイをすることができる。NS嬢とは「ノースキン」に由来する<ref>{{Cite news|title=ソープランドとは?プレイの内容・流れ・料金など。本番はできる?|url=https://in-bee.net/media/articles/83|accessdate=2018-10-02|language=ja-JP|work=inbee【インビー】 {{!}} 「男」と「女」の「性」のお悩み解決メディアサイト}}</ref>。 === 中級店 === 接客時間は90分前後であり、料金は吉原や堀之内の場合総額30,000 - 50,000円(2003年頃)<ref name="p20"/>。ソープ嬢の質は中程度。接客開始場所は個室の中で始まることがほとんどである。中級店クラスだと即尺・即ベッド(即即)サービスは行っていないことが多く、このため、入室後に身体の接触が始まる時間も高級店ほど早くないことが多い。コンドームの使用を義務付ける店が多く、本番は2回可能なことが多い。 先述の「ワンツーの店」は、かつて高級店の代名詞だったが、1990年代頃から高級店が増加したため、現在では大衆店の代名詞となっている。中には中級店であっても、コンドームの使用をソープ嬢の自由にすることで、事実上コンドームを使用しないで接客できるソープ嬢が在籍しているのを、ひとつの売りにしている店舗もある。 === 大衆店(格安店) === 接客時間は45 - 60分程度と短い。総額は吉原・堀之内で20,000円前後、中級店の分類がない地方では3万円以下、1万円台の店舗である(2003年頃)<ref>[[#岩永|岩永]] p19,21</ref>。 [[平成不況]]により、高級店では本指名数が稼げなくなったソープ嬢が、薄利多売で大衆店に移籍する現象もみられる。また、大衆店や格安店であっても、他店との差をつけるために、接客時間を長めに設定している店もある。 == ソープ嬢 == ソープランドで接客を行う女性をソープ嬢、[[コンパニオン]]や泡姫・姫という(かつてはトルコ嬢と呼んだ)。 1回の接客におけるソープ嬢の収入は、総額の料金が3万円以下の格安店では2万円以下、総額で5万円以下の大衆店では3万円以下、総額が7万円から10万円程度の高級店では4万5千円から6万円程度である<ref name="oretabi62-89">[[ミリオン出版]]『[[俺の旅]]』2010年11月号 p89「現役ソープ嬢・七住舞のフーゾク覗き穴」</ref>。 ソープ嬢は[[個人事業主]]の扱いであり、自分の割り当てられた個室の管理をある程度任されており、一般に店内での[[リネン]]・[[ラブローション|ローション]]・[[清涼飲料水|ドリンク]]類・[[コンドーム]]・[[タバコ]]などは本人負担である。本人負担といっても、これらは店を通して購入等がされるため、嬢が支払った経費の一部は店の利益になる。このことが、入浴料無料サービスを行っても経営が成り立つ裏付けとなっている<ref>[[#岩永|岩永]] p27-34</ref>。男性客同様に嬢自身も入浴料を支払わなければならない一方、ノルマ達成や報奨金のために、嬢自身がサービス料を無料にして常連客や知人を呼び込む場合がある。これらは報奨金が大きい高級店とノルマが厳しい格安店に見られる傾向である。<ref>[[#岩永|岩永]] p34-36</ref> == 男性従業員 == {{出典の明記 | section = 1 | date = 2013年8月}} ソープランドを裏方で働く男性として、店長、マネージャー、ボーイがいる。マネージャーは、男女従業員の勤務状況を管理する。[[乗用車]]での客の送迎、掃除やリネンなど消耗品の準備、雑用はボーイが行う。また地域によっては、店舗前での呼び込みも行う(街に出ての[[客引き]]は、風営法で禁止)。男性従業員がソープ嬢と[[恋愛]]することは「ご法度」とされている。 == 保健所 == {{出典の明記 | section = 1 | date = 2013年8月}} 公衆浴場の検査として、定期的に保健所が査察に入る。地方公共団体の条例や各保健所の指導方針で、地域によって異なるが、保健所の検査項目は、水質、個室内照明の照度、個室内の施設や衛生状態、遮蔽などの違反の有無がある。 従業員の性病・薬物検査に関しては、保健所が指導しているとの誤解が生じているが、実際保健所の観点では個室内の性的サービスは行っていないという建前であるので、[[条例]]で定められている地域を除き、店舗を通しての[[性感染症]]検査・管理は行っていない。あくまでも、公衆浴場としての営業をする上での管理を中心に行っている。 基本的に、避妊具など性的サービスを連想させる物は、個室内に無いことになっているので、査察で見つかった際には、店には厳重注意や始末書、営業停止などの処分が下るのが一般的である。 エアーマットも御法度であり、査察の際にはエアーマットがないことになっている状態にする。抜き打ち査察の際には、男性従業員が屋上などに隠したり<ref>[[#岩永|岩永]] p23</ref>、いざという時には、備え付けのナイフや千枚通しで、エアマットを切り裂いて迅速に空気を抜き、残骸を倉庫や浴槽の下に隠して査察を乗り切ることもある<ref>[[米沢りか]] 『アクション大魔王 第3巻』白泉社 1997年5月 p.169、『戦後性風俗大系』p.296 - p.297</ref>。 吉原の場合、抜き打ち検査と一斉検査がありブロック単位で行われ、営業時間中に来ることが多いが、同じ都区内でも新宿や池袋では、営業時間外に査察が来るケースも存在する。また西川口では、従業員に[[単純X線撮影|胸部レントゲン検査]]を義務とさせており、年1回保健所にて検査を実施している。金津園では店舗休業日に保健所が査察に来ることが多い。営業時間中に査察が入る地域で接客中に査察が来た場合は、客もコンパニオンも個室内で衣類を着用し、性器の露出や[[裸]]にはならない様にし、マッサージを行っていたり会話して、査察をやり過ごすのが一般的である。 ==ソープランドをテーマにした作品== {{See|ソープランドをテーマにした作品の一覧}} == ソープランドの業界用語 == {{独自研究|section=1 | date = 2012-04-08}} === 基本用語 === ; ソープ嬢 : ソープランドで男性に性的サービスをする女性従業員のこと。泡姫とも呼ばれる。公には一般的な女性接客係を意味する[[コンパニオン]]と呼ぶ。 ; ボーイ : 店内の男性一般従業員を指す。水商売では黒服と呼ばれる。主に来店前後の接客応対や、部屋の片付けの手伝い、注文への応対、送迎車の運転などをする。まれに案内役や電話受付などでコンパニオンではない女性従業員を採用している店も存在する。店によって異なるが、入店年数や経験で昇格して肩書きが変わる。肩書きなし→主任→マネージャー→店長/支配人/部長など。 : 新入りのボーイは、送迎車の運転や閉店後の掃除、備品補充などのコンパニオンと関わらない仕事から与えられ、徐々に入口の立番や個室のセットの手伝いや注文対応を任されるようになる。 ; フロント : どの店にも大なり小なり必ずフロントが存在する。ほとんどの店では、フロント担当には馴染み客を覚えている経験年数がある者しか座らせない。フロント担当は電話応対、予約管理、付け回し、会計、個室からのオーダー電話やチケットとリストの管理、コンパニオンの雑費の精算等をこなす。来店時にフロントに立ち寄らせて入浴料の会計をする店もあれば、いったん待合室に案内されてからボーイが待合室で入浴料の会計をする店とがある。 ; リスト : 出勤・接客管理や予約を管理する紙、または付け回し担当を指す。 ; チケット : チケットとは、お客の名前や会員番号と指名種別、割引有無やコースや上がり時間を書いてあり、コンパニオンが利用する紙を指す。1回の接客で1枚の店と、1日で1枚の店があるが、チケットを使わない店もある。1日1枚で使用しているチケットは1回毎にフロントに戻し、1回1枚のチケットは精算時にフロントに返す。 ; インターホン(インター、コールとも呼ぶ) : フロントと個室や控え室を結ぶ直通電話。仕事のお知らせ、接客終了の連絡、個室からのオーダー注文、トイレなども含め他の客やコンパニオンとバッティングしないように個室の出入り許可をフロントに得る等で利用する。また、個室内でトラブルがあった際もまずインターでフロントに連絡する。入浴時間がオーバーした際はフロントからインターホンを鳴らされる。 ; 時計合わせ : 個室とフロントの時刻を一致させるため、ほとんどの店では営業開始時や、コンパニオン入れ替え時にインターホンでフロントに問合せて時計あわせを行う(繁盛店は案内が重複しやすく時間ロスが発生しやすいため)。コンパニオンによっては次の予約客の案内時間が押さないように、自主的に数分進めたりする場合もある。フロントの時計が必ずしも時報の時刻と一致しているとは限らないので、個室の時計もこれに準じることになる。 ; 部屋持ち : 指名の多いコンパニオンに専用の固定の部屋を割り当てること。高級店の場合、月収も数百万円を超える場合もあり、当然指名も取りにくい。大衆・格安店でも部屋持ちのソープ嬢を置く場合もある。コンパニオンの嗜好で、部屋内の備品常設や飾り付けが許される。 ; 上がる : 女性がソープ業界から離れること。一度やめても戻ってくる(「下がる」)女性が多いといわれる。 : また、お客の入浴時間が終わることも「上がり」と呼ぶので、入浴後に男性従業員が最初にかける言葉は「お上がりなさいませ」となる。 ; 飛ぶ : コンパニオンや男性従業員が無断で店を辞めること。大概は店の雰囲気についていけない者が多く取る行動だが、中にはソープ嬢や従業員からの[[いじめ]]、[[パワーハラスメント]]や[[モラルハラスメント]]によって、これを選ぶ者も少なからずいる。ひどい場合には店主導で成績の悪い、または嫌われたコンパニオンや従業員へ給与を払わなくてすむように無断退店に追い込む例もあり、その場合は「'''飛ばし'''」と呼ぶ。ソープランドに限らず、性風俗や水商売全体で浸透している用語だが、場合によっては一般企業でも用いられる。 ; お茶をひく : 女性に客がなかなかつかずに時間を持て余している状態。[[江戸時代]]の吉原では、客のいない暇な時間に実際にお茶を挽いていた<ref>凡平著『志ん生で味わう江戸情緒(2)江戸の花街「遊廓」がわかる』(技術評論社、2005年)ISBN 9784774124377</ref>。 : 現代では、客が付かずに勤務時間が終わることを指す。 ; 口開け : その日の最初にソープ嬢に付いたお客さん。 ; ラスト : 主に店全体での最終受付時間を指す。店毎の入浴時間によってラスト案内の時間が異なる。地域によって24時の閉店と客出しを徹底している地域と、地域によって24時過ぎまで受付をしている店があり、24時以降の表記を曖昧にするためにラストと表記する店もある。 ; 日の出 : 風営法により深夜営業が出来ないため、[[日の出営業]]する店も多い。毎日違う日の出の時間を厳密に守る店もあれば、通年午前5時や午前6時を暫定の[[日の出]]として開店する店もあった。地域によっては[[夏至]]は日の出が午前4時過ぎで、[[冬至]]の日の出は午前7時過ぎになる関係もあり、それにかかる曖昧な時間として表記上だけは日の出と表記してたが、2016年(平成28年)の改正風営法の施行により、春夏秋冬や場所に関係なく午前6時以降となった。 ; 入会金 : 入会金には2つの形態があり、一つは会員権のように、優先予約権や割引価格で利用出来る権利がある任意会員の入会金で、入会しなくても入店は可能。もう一つは初回来店者に必ず課している入会金とがある。金津園では前者のシステムを採用しているタイプの店が多い。 ; 会員制 : スナックの扉に貼ってある会員制と同じ意味で、店のイメージを良くしたいという願望から表記されていることが多く、多くは広告を出したり一見客歓迎している店なので意味がない場合がほとんどであるが、熊本にある老舗店など、会員の紹介がないと入浴出来ない一見客お断りの店もごくわずか存在する。 : 通常、入会金がない会員制の店では、一度でも入っていれば会員扱いとなり、非会員客と区別する何らかの待遇サービスや、同じ会員制度でも来店頻度がより多い常連客を対象にVIP会員制度を設け、特別な割引やより多くの情報提供サービスを行っている店も存在する。 : インターネット上のみの会員制度を設け、店に来たことがない客にもメールアドレスなどの登録だけで会員用ページの閲覧サービスを提供している店も存在する。実来店の会員とネット会員2つの制度がある店では、同じ会員でも別の扱いで、予約可能時間等待遇に差がある場合が多い。 ; 入浴料 : 入店時にフロントなどで男性従業員に支払う、風呂に入るための料金<ref name="p89">孝友社出版『THE SUGAR』通巻18号 p89「僕らの生活快感事典」</ref>。必ず別途サービス料が請求される。 ; サービス料 : 入浴料とは別に個室でコンパニオンに直接支払う料金<ref name="p89"/>。しかし、コンパニオンから店へ雑費やフリー紹介料など、何らかの形で店側に支払うシステムになっており、サービス料が全額コンパニオンの収入になるわけではない。入浴料の支払い時に一緒にサービス料を支払う店も存在する。 ; 総額 : ソープランドでの客が払う総額の料金、入浴料とサービス料と指名料がその内訳。入浴料や指名料が無料や割引になっている場合や、時間帯ごとに変わる店もある。入浴料に別途消費税が発生する店もあるので、事前に電話などでの問い合わせをすることが望ましい。 ; 入浴料無料 : 来店客を増やすために店が行うシステムの一つ。入浴料は無料でもコンパニオンへのサービス料は必ず発生する。早朝や早い時間帯に行っているケースもあるが、終日入浴料無料をうたっている店も存在する。入浴料に相当する金額をコンパニオンへのサービス料からの負担で賄われるので、サービス料が全額コンパニオンの報酬となるわけではない。 ; 割引 : 割引を設定している店では、割引分を店が負担している場合と、コンパニオンが負担している場合とがある。 ; 本指名 : 一度接客されたコンパニオンを再度指名すること。「裏を返す」や「リピート指名」とも言われる。同じ指名でも割引での入浴や、写真やパネルでの再指名は、本指名とはならない。全ての店舗は、コンパニオンへ本指名でのリピート来店顧客を増やすよう指導しており、本指名が多いコンパニオンは店からも優遇されるが、本指名が少ないコンパニオンは退店させられるので、コンパニオンは本指名を増やすために接客に励んでいる。本指名の場合は、店がコンパニオンへ報酬を上乗せしている。店内略語は本指(ほんし)。 : 店のシステムによっては、コンパニオンへの指名を本指名とする条件に、電話予約や以前入浴した際のコンパニオンの名刺の提示を求めるシステムの店も存在する。 ; フリー : 本来、接客するコンパニオンを店にお任せする意味であったが、競争の激化で、来店後の写真やパネルでの指名もフリーとなる店が大半になった。店が客を紹介しているという建前で、コンパニオンへのサービス料から店に報酬を支払うシステムを採用している店も大半であり、総額が高くなる程、本指名とフリーでコンパニオンの報酬額の差が広がる。 : フリーでも、来店時刻での予約は可能である。初来店の客は、一切指名が出来ないシステムの店舗も存在する。 ; 写真フリー・店内パネル指名 : 店舗に来店してから店が準備してあるアルバムで、コンパニオンを指名すること。サービス競争の激化から、フリーでも写真で選べるようになった経緯上、他の風俗とは違い、客側からは店内で写真指名しても、指名とは言えずにフリー扱いとなる店がほとんどである。本指名やネット指名とは異なるので、コンパニオンの指名ポイントにもならず、報酬も上がらないシステムが一般的である。 : 一度接客したコンパニオンに、写真フリーやパネル指名で入浴する場合は、入浴するまでの間に店に一度接客経験がある旨を伝えないと、店舗がフリー同様となり、コンパニオンの指名獲得数とならず、本指名と比較して報酬も減るシステムの場合が多い。 ; パネマジ : [[パネルマジック]]の[[略語]]。写真やプロフィール記載と実際の容姿とが大きく異なること。あまりにも違う場合は個室に案内される前に拒否可能だが、店側が様々な理由(あるいは難癖)をつけて交代させない場合が多い。 : ただしパネルマジック自体は、性風俗産業ではごく当たり前の集客手段であり、大手では[[Adobe Photoshop]]の技能・技術を必須とし、写真加工の専門部署を置いている所もある。 : その一方で、顧客の[[口コミ]]や悪評を恐れ、または店舗がソープ嬢の容姿に絶対の自信がある場合は、親バレや友人バレを防ぐ目的で、目や口や顔のボカシを最低限入れるだけで、容姿の写真加工をしてないと顧客にアピールしたり、指名時にコンパニオンを顧客の前に並ばせる店舗があり、パネマジ対応が別れている。 ; 吉原年齢 : 一種の[[年齢詐称]]。嗜好は人それぞれで、事情を知らず若い嬢と遊びたい場合は注意が必要。入店時に決めた年齢なので、実年齢と乖離がある。長期在籍者でも20代前半のままであるが、中には実年齢表記の店もある。熟女好みも実年齢を確認した方が良い。 ; インターネット指名・雑誌指名・P指名 : インターネットや雑誌でのコンパニオン紹介を見て予約で指名すること。ほとんどのケースが初対面であるため、写真フリー同様にコンパニオンの指名ポイントとならず、本指名より報酬も減るシステムの場合もある。 ; アルバム : 入浴後の客を対象に、他の在籍女性を紹介するアルバムを用意している店も存在する。雑誌やインターネット上では顔写真を出していないコンパニオンもアルバムでは顔を確認出来る写真を掲載していることがほとんどである。 ; 指名ランキング : 通常は本指名の数の多い順のランキングであるが、ロングコースでもショートコースでも同じ数(客数のみ)で計算したり、逆にポイント制を設けて120分コースでは3P、60分コースでは1P等、時間換算以上のポイント制を与えたりする計算の店や、本指名とネット指名数の総合でランキングを決めている店や、指名数ではなくネットのアクセスランキングを基に作成していたり、店によっては本指名率でのランキングの場合もあったりなど、店によって色々なカウント方法と順位付けシステムがある。 : 本指名数ランキング上位のコンパニオンでも、一部の顧客による貸し切り状態も考えられるため、純粋にリピート本指名顧客数の多いコンパニオンであるかはランキング上では分からない。 ; 指名ノルマ : コンパニオン同士を競争させるために、指名ノルマを課す店も多い。目標をクリアするとボーナスがあったり手取りが上がる店や、逆にノルマ以下だと手取りが下げられる店と同じノルマといえども色々違う。 ; 切り返し : コンパニオンと対面してから行う延長のこと。店によっては延長用の時間設定と料金が別途ある場合もある。フリーでも切り返しでダブル以上にした場合、2枠目以降はコンパニオンへの本指名となる。 ; 手取り(バック) : 雑費を引く前の段階のコンパニオンの取り分に当たる金額。客が払うサービス料と一致しないことが多い。 ; 雑費 : コンパニオンが使う店内の消耗品などの代金を店に払うこと。雑費が存在しない店は稀である。フリー扱いの客が多く付くと雑費が増える店もある。 : 付いた客数で雑費が決まる場合と、1回出勤分で雑費が決まる場合があり、1客分100円 - 1日最大30,000円以上まで様々ある。 ; 税金 : 店がコンパニオンから徴収する雑費の一種のような位置付け。サラリーマンや自営業者の所得税や源泉徴収とは全く別物である。地域によっては組合や自治体に納める費用であったり、客の入浴料分の消費税をコンパニオンに負担させる店もあるが、そのような取り決めのない地域の店の場合は単なる店の収入源となっている場合も多くある。店によってはコンパニオンの手取りから雑費を引いた手取りから店で税金という名目で10%分をさらに徴収する店も存在し、コンパニオンがこれで所得税を納めていると勘違いしているケースも多く存在する。 ; ボーナス : ソープランドの男子従業員(ボーイ)は、盆暮れのボーナスや賞与の制度がなかったことから、コンパニオンがボーイ達をねぎらうために自主的にボーナスを与えていた習わしが、時代とともに自主的という名の強制となり、金額も店が主導で定められるように変化していった。コンパニオンの出勤日数や稼ぎの金額は関係なく一律であることが多い。 : 店主導の強制徴収となってしまった近年では雑費同様に店の収入源となるだけで、全額がボーイの手に渡ることはまれである。 ; 大入り : 店の売り上げが一定目標以上に達した場合、店の経営者から従業員に大入りが出る店もある。 ; 確認電話 : 予約時に、指名かどうかにかかわらず、来店意思を確認するために店が指定した時間までに客に意思連絡をさせるシステムのこと。システムによっては数回必要になる場合もある。確認電話を決められた時間までにしなかった場合キャンセル扱いとされ、他に入浴を希望している客が優先される。 ; 送迎車 : 駅から離れた場所にある店舗は、駅からの往復を無料サービスする送迎車を持っている場合がある。送迎車として高級外車や高級車を使う店が多く、店外でのサービス競争のひとつとなっている。送迎車待ち合わせ場所は、店への最短出口や最寄り駅でない場合もある。送迎車を使う際は予約時に店に希望する必要がある。 ; 姫予約 : 店がコンパニオンの予約を開始する前に、コンパニオン自身があらかじめ客の予約を取り次いで店に予約を入れること。コンパニオン自身が客を選ぶことができる唯一の方法である。コンパニオンとの連絡先交換を禁止している店が近年では多くなってきているため、姫予約が出来る店は限られてきている。 ; 出禁(できん) : 出入り禁止のこと。客がソープ嬢や店に対して明らかに多大な迷惑をかけた場合には、入店禁止措置(店舗からの半永久的なパージ)が取られる場合がある。例えば結婚を迫ったり[[ストーカー]]行為をした場合などである。店の禁止事項を守れない客、店にふさわしくない客、コンパニオンから接客するのが苦痛だとクレームが出た客も出入り禁止となる。店単位での出入り禁止と、コンパニオン単位の出入り禁止が存在するが、特に悪質と判断された客に対しては系列店や同地区に存在する他店舗にも出入り禁止とする措置が取られる場合もある。 ; アンケート : コンパニオンの接客内容に関して、男性従業員が客に満足度等をリサーチすること。アンケートの内容次第でコンパニオンが指導されるケースもある。アンケートはコンパニオンが希望すると閲覧が可能であるのが一般的である。恒常的な定期的なアンケートのほかに、その店での初出勤の場合や入店後日の浅いケースでは、店によるフォローの一環として男性従業員が客に聞き取り調査することもある。 ; 振替 : 事前にコンパニオン指名予約をしているにもかかわらず、客を来店させてから店の勝手な都合で他のコンパニオンでの入浴を強引に勧められること。元々出勤していないコンパニオンで来店予約を受けたり、出勤中のコンパニオンの予約をダブルブッキングで受けたりするケースの他、店側が優遇しているコンパニオンに客を付けるために振替するケースもある。 ; 外出 : 裏メニュー扱いで、本指名のトリプル(3枠分又は5時間以上が多い)以上でコンパニオンと外出を許可している店もある。基本的にコンパニオンが外出用の服装を準備する必要があるために事前予約が必要であり、決められた時間までに店に戻らなくてはいけない。コンパニオンが拒否した場合は外出ができない。外出しても店に戻ってきて店内で残り時間を過ごすことも可能である。店によっては外出前に行動範囲を制限したり、身分証明を求めるのが一般的である。 ; 薬物検査 : コンパニオンが麻薬や禁止薬物を店でも使用していたことが捜査で明らかになった店では、店にも強制捜査が入り、営業停止等の処分を科せられ、営業不可能となると経営に大きな痛手を与えることになるため、店が強制で薬物検査を実施する店もある。 ; 衛生管理 : ソープランドの求人などの項目でよく使われているが、何の衛生なのか明記されることもなく、諸事情から性的サービスを連想させる単語を明記できない理由もあり、『衛生管理万全で安心』と書いてあっても、性病検査結果提出義務のない店や、コンドームを使わない接客サービスが売りの店も多く存在し、ほぼ意味のない言葉となっている。 ; 案内所・紹介所 : 風俗街の片隅で紹介業を営む店が存在し、ポン引きとは違って路上での営業はせず、店舗形式で営業している。地域によって呼称や営業形態がさまざまであり、いかにもという案内所から、喫茶店を装ったものまである。店が決まっていない客に店を紹介し、入浴が決まったらお店の送迎等で目的のお店に案内されるのが一般的である。案内所のメリットは、風俗街に不慣れでも予算と目的に合った店を紹介してもらい、数店から写真などで選ぶことも可能である。この時の写真はインターネット等の写真と異なり、写真フリーの写真同様に目線等が入っていない写真であることが多い。基本的に紹介した店からバックマージンを得て成り立っているので、客が紹介料を負担することはない。 ; ポン引き : 路上での客引きの担当を指す言葉だが、ソープランドの場合は多くの地域で店の前の路上での客引きはもちろん、店の入り口に立つことも自治体条例で規制されていることが多く、ソープランド関係でのポン引きとは、路上で違法営業の風俗店へ客引きしている人を指すのが一般的である。違法営業故、深夜も営業していることが多い。男性とは限らず、女性も存在する。2004年(平成16年)7月には、吉原で[[割烹着]]を着た老婆が路上で客引きをし、売春防止法の斡旋容疑で逮捕されたケースも存在する。 ; 本(単位) : 客を数える単位は、人では無く『本(ぽん)』である。 ; [[カラ出勤]] : 店側が実際には出勤していないソープ嬢を、出勤していると偽る行為。人気の高いソープ嬢が出勤しているように見せかける、あるいは実際よりも多くのソープ嬢が出勤しているように見せかけることで、客からの反響を増やすことを目的に行われることがある。 === 営業スタイル === ; 2回戦 : 2回目のプレイのこと。マットで一度性交した後、休憩しベッドで2度目の性交をする場合が多い。必ずしも2回全て射精することを指すわけではない。一度も射精に至らなくても、入浴休憩ないしはマットなどを挟み3回行為に臨んだ場合は3回戦となる。 ; 2輪車 : ソープ嬢2人と同時にプレイをすること。3人の場合は3輪車と呼ぶ。 ; ダブル : 1コマの価格設定しかない店で客が2倍の2コマ分入ること。例えば60分2万円の店で、120分入ることで料金も倍の4万円になる。3コマ分180分であれば6万円の「トリプル」となる。 ;NN :ノースキン中出し ;NS :コンドームなしでのプレイ。中出しとは限らない ;即即 :シャワーや入浴前にプレイすること === 用具 === ; スケベ椅子 : ソープ嬢が客の体を洗う際、客が座る凹字型の椅子<ref name="p89"/>。座った時、男性の股間を洗いやすくするため、座る部分が縦に開口している。男性客をこの椅子に座らせ、ソープ嬢が椅子の縦開口に腕を通して男性客の股間を洗える。スケベ椅子を発明したのは、かつて[[大森海岸駅|大森海岸]]にて営業して閉店したソープランド「歌麿」の店長という説がある。また、子爵家の出で実業家[[西四辻公敬]]が開発したとの説もある。1977年([[昭和]]52年)ごろから普及した<ref name="p89"/>。座高が高いため腰への負担がかかりにくいことや、股間を洗いやすいことなどから、[[腰痛]]・[[痔疾]]などに悩む人が個人的に購入することもある。 : 近年では「介護者が洗うのが楽」という理由から、[[介護]]用品としても利用されている。 ; くぐり椅子 [[File:アクリルくぐり椅子.jpg|thumb|180px|アクリルくぐり椅子(座面補強があるタイプ)]] : スケベ椅子の座高をさらに高くしたもので、ソープ嬢が下に潜る形になる<ref name="p89"/>。スモーク色のアクリル板など薄く強度のある材質を折り曲げた形をしており、仰向けになったソープ嬢が寝そべって通過できる。男性客をこの椅子に座らせ、ソープ嬢が通過しながら男性客の股間を舌で舐め上げて洗える<ref name="p89"/>。通販で購入できる程度の値段のものや、ソープランドでの使用を主な目的として頑丈に作られた値段の張るタイプのものは、座面裏側が補強目的で二重になっている物がある。座面が補強されているタイプが一番値段が高く、値段は10万円程度し、このタイプの色は、茶色、透明、赤、紺、ガラス色などがある。また、同色・同アクリル素材の桶などの小道具も存在する。 : スケベ椅子と同じく、身体的事情を抱えた個人用品や介護用品としての需要がある。 ; ゴールドチェア・ピンクチェア [[File:ゴールドチェア(黒).jpg|thumb|180px|ゴールドチェア(黒)]] : スケベ椅子の発展形(言葉による形状の説明は困難が伴う)。岐阜の[[金津園]]をはじめ、広く使われているが詳細は店舗によってことなる。 : 両者は、色による差のみでなくその構造にも差が見られる。名称と色は多くは一致するが必ずしも一致しない場合がある。 : ゴールドチェアは椅子状で、人の字状になっている。色はピンク、赤、黒、緑がある。客は最初はチェアに跨がるような状態で、顔を穴の部分にして上部両側にあるハンドルを持ってうつ伏せ状態から始まり、ソープ嬢から舐めや胸洗い、壷洗い、アナル舐め、椅子潜り、シックスナインなどを受け、うつ伏せでのサービスが終わると仰向けになる。仰向けうつ伏せ両面からサービスがあるので、難易度は後述のピンクチェアより高度である。また、ゴールドチェアの簡易版としてシルバーチェアも存在し、こちらの大きさは小さく、色は銀色である。ゴールドチェアとシルバーチェアは、金津園でのみサービスを行っている。ゴールドチェアの略称は「GC」。 : ピンクチェアはゴールドチェアと比較すると形状が複雑であるが、仰向け状態のみのサービスであることから、サービス自体はそこまで複雑ではない。客はリクライニングした椅子のシート状の部分に仰向けに位置する。このシートには客が足を置くアームを供えており、アームには必ずタオルを巻いて使用する。客の位置するシートの下に入るようにソープ嬢が位置するシートが設けられている。このシートにソープ嬢が位置することにより、よりバリエーションのあるサービスを可能にする意図がある。ピンクチェアは金津園の他に沖縄にも設置店がある。色は金、赤、ピンク、黒などがある。ピンクチェアの略称は「PC」。 : これらチェアの使用方法には各人の流儀があり、さまざまな使用上のテクニックが存在する。 ; 浴槽 : 高級店では家庭用より長さ方向にかなり大き目の浴槽を用いる。ジェットバスなどが設置された店もある。浴槽には介護用の手すりが設けられているものが多く、客はこの手すりで自身の体を支えることにより、お湯の浮力を応用したサービスを受けられる。また、客の頭が当たる浴槽の縁に小さなエア枕を付けてくれるところが多い。 ; ベッド : 自治体条例や保健所などによって制限されていない地域を除き、あからさまなベッドは置かず、マッサージ台やソファベッドのような台にタオルやマット類を敷いて即席ベッドに仕立てて使用する。 ; [[性具#ラブローション|ローション]] : 潤滑をよくするための液体で、業務用の濃縮されたものを使用時に希釈して用いる。家庭で個人的に用いるものに比して、大量に使用して、椅子やエアーマットなどでの独特のサービス([[ローションプレイ]])に活用している。湯冷めしないよう、熱めのお湯で希釈するなど配慮されている。かつては海藻由来の成分([[アルギン酸]]など、海藻の粘り成分)を含んでいたため、海藻で作られているとの誤解も多いが、現在の製品は高分子ポリマー(たとえば[[ポリアクリル酸ナトリウム]])などの水溶性で乾燥しにくい合成材料からなっている。ピンク色のローションの方が肌が荒れにくい高級品とされ、高級店などではピンク色のローションを目にすることが多い。金津園などでは、パックに入った濃縮されていないローションを用いているケースもある。 ; ゼリー(潤滑ゼリー) : プレイ用のローションと混同される場合もあるが、プレイに使うローションとは異なり、希釈せずに粘膜を保護し、性交痛を軽減するために用いられる。プレイに使うローションは水道水で希釈するため時間経過により雑菌が繁殖することから、粘膜保護用には薄めないで使う専用品の潤滑ゼリーを用いるのが一般的である。製品としては、実際の医療現場で使われているグリセリン主体として製薬会社が製造したものから、高分子ポリマーを主成分とするものまでさまざまである。 ; [[コンドーム]] : 市販のものを用いており、主に業務用144個(グロス)入りで安価で購入出来る製品を使用している。サイズはS - LLまで様々である。雰囲気を壊さないように各々必要なサイズと接客中に使われそうな数のコンドームを枕元やベッド周辺に、封を開けたものをタオルに挟んで事前に用意しておくのが一般的である。[[陰茎]]を[[膣]]に挿入する寸前に、なるべく客に悟られないように、口を使った[[フェラチオ]]で装着してくれる(これを「フェラかぶせ」と呼ぶ<ref name="p90">孝友社出版『THE SUGAR』通巻18号 p90「僕らの生活快感事典」</ref>)ので、客はいつ装着したか分からないままサービスを楽しめる<ref name="p90"/>。また、客が[[射精]]して[[精液]]が溜まったコンドームも、なるべく客に悟られないよう体を離すときに上手に取り外し、こっそり捨ててくれる。 : なお、ノースキン(NS、後述)の時は、なるべく膣から客の精液が漏れ出さないようにして体を離し、洗い場で膣から精液を洗い流している。 ; スチームバス(サウナ) : 顔だけを出して入るスチームバス(サウナ)が置かれていることがある。通常使われることはないが、自治体の条例でサウナとしての営業を認められている都内などでは、営業時間中に常にスチーム機能が使える状態となっている。色は様々あり、材質はスケベ椅子と同じような素材で作られていることが多い。 ; 遮蔽 : 部屋の内部を隠す用具のことを指す。東京都や埼玉県の場合は、個室の扉に室内が見えるようにガラス窓を付けることが義務付けられているが、普段はタオルで見えなくすることを遮蔽という。扉の窓の大きさや材質は、地方公共団体の条例で異なるが、神奈川県では扉自体がガラス扉であることが義務付けられているので、シーツのような大きい布で覆うケースがある。地域によってはプラスチック板で覆っている店も存在する。広島県では、個室そのものの存在が禁止なので、[[カーテン]]を用いて入浴中に他の客と顔を合わさないように配慮されている。 ; [[風呂マット#性行為における風呂マット|エアーマット]] : 空気で膨らむビニール製の大型マットで、浴場の洗い場で使用する。一般的にアダルトグッズ店などで販売されている海外製のものとは異なり、業務用はより頑丈なビニール製で国内で製造されたものを使用している。色は一般的にシルバーが多いが、業務用ではシルバーの他に金と白も存在し、一般で手に入るアダルトグッズのエアーマットでは近年透明などのバリエーションもある。頭の部分を「枕」と呼ぶほか、足の方にも枕が付いたタイプがあり、足の枕を「足山」と呼ぶ場合もある。身体を乗せる筋状や山状になっている部分は「山」と呼ばれ、マットの種類や大きさを区別する上で山と枕の数で分別する。一番大きいとされているタイプでは両枕で山が9山あるタイプ(「9本マット」と呼ばれる<ref name="p88">孝友社出版『THE SUGAR』通巻18号 p88「僕らの生活快感事典」</ref>)で、高級店ではほとんどこのサイズが用意されている<ref 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ビニール製の空気マットの上に横たわった客にソープ嬢からローションで奉仕する、ソープランドならではのサービス。行為そのものにいろいろな名前がついており、行為一つ一つを技と呼ぶ。アダルトビデオのマットプレイとは異なり、終始一貫男性が受け身になるサービスであるので、うつ伏せでも仰向けでも客の手のポジションは枕に乗せておく体勢が基本ポジションで、基本的に手を出さないのがマナーである。客の好き勝手でソープ嬢の動きを止めたり、動線を邪魔するような行為をする客は、AVの見過ぎと敬遠される傾向もある。 : マットプレイでは、主に身体を使って愛撫することを洗いと呼ぶ。ソープ嬢は、枕と山の間の隙間や、山と山の間や、足山と山の間の隙間に体重をかけて微妙なバランスを取って、客に体重をかけすぎないようにサービスを行う。胸で身体を愛撫する胸洗い、舐めて洗うことを舐め洗いといい、胸が豊かなソープ嬢は胸洗いを得意とする場合が多いが、マットプレイを得意とするソープ嬢でも舐め洗いと胸洗いのどちらかに重点が偏っていると、同じマットプレイでも違う体感となる。また、身体をあわせてお互いの体感を楽しむ行為を「滑る」ともいい、時間が60分程度のコースでは、時間の都合上「滑るだけ」というマットプレイを行う場合も多く、滑るだけでは舐め洗いはほとんどしないことが多い。 : マットの上でローションの滑り具合を利用してマッサージを行う場合や、ローションを落とす際に塩や泡などを用いることもあり、ローションを落としながらマッサージするサービスもある。ローションはシャワーだけで流すよりも、最後に浴槽に入ってタオルを用いて撫でて落とすことでほとんど落とし残しがない状態となる。きちんとフルサービスを行うと、洗い流すまでに最低40分程度、マットプレイを売りにしているソープ嬢の場合60分程度も要してしまうので、マットプレイの前には身体を浴槽で十分暖めてから行うことが望ましい。フルサービスの場合、通常はうつ伏せから入り、途中で仰向けになり、最後は女性上位でフィニッシュに導くパターンが一般的である。 : マットがないソープランドも存在する。ほとんどの高級店には大きい9山両枕タイプのマットが置いてある。保健所サイドからはマットの設置は御法度であるため、保健所の見回り期間はマットサービスができない。 ; 逆マット(マットプレイ) : お客が女性にマットで愛撫することを指す。アダルトビデオの影響を受けたソープファンの中には逆マット愛好家もいるが、逆マットの際にローションの感覚とマットの扱いに慣れていない客に主導権を握らせることは、ソープ嬢の洗えない髪の毛や目元の化粧までローションで汚されてしまう場合や転倒などの危険もあり、次の接客に迷惑がかかるケースが多く、通常一見の客相手には敬遠されあまり行われない。 ; 椅子プレイ : 椅子を使うサービスの総称。泡で洗うだけの行為も含まれる。 : 「すけべ椅子」プレイは凹型の形状の椅子を用いて股間の下部の隙間から愛撫する。金色のラメのタイプが多い。 : 「くぐり椅子」プレイはかつて高級店の一部のソープ嬢やベテランソープ嬢のサービスとされていたが、サービス競争の激化に伴い時間の長めな大衆店や格安店等でもそのサービスを必須としていたり、「くぐり椅子」プレイ可能なソープ嬢も増えている。 : 椅子の座面にはタオルを用いて、座る前に暖かいお湯をかけて寒くないようにするが、くぐり椅子で一枚のタオルを座面に使うソープ嬢は椅子くぐりは行わないことが多い。 ; 生フェラ : 多くのソープランドは生でフェラチオを行うが、格安店などになるとフェラでのスキンの着用はコンパニオンの裁量に任される場合が多い。 : 大衆店や高級店で生でのフェラチオが必須サービスになっている場合でも、真性包茎や重度の仮性包茎、[[性感染症]]の疑いがある場合は、コンパニオンの裁量でフェラでのスキンの着用サービスが許されている。 ; 即即 : 即尺(入浴前にフェラチオを行う)・即ベッドのサービスを指す。高級店ではほぼ必須のサービスではあるが、それ以下の価格帯の店でも即即を売りにしている場合もある。 : 即即が必須サービスであっても、悪臭・[[恥垢]]・排泄物などの残留で体の汚れが著しい場合や性感染症の疑いがある場合は、衛生上の理由で即即はしなくてもよいと指導されている。その場合、入浴までの間はスキン着用でのフェラサービスに切り替えたり、先に入浴させたり、疾患部分と接触するサービスを断るかはコンパニオン側に選択権がある。 ; 潜望鏡 : ソープ嬢と客が一緒に風呂に入り、客が腰を浮かせ、勃起した男性器が水面上に出たところをソープ嬢が口で愛撫する行為<ref name="p89"/>。男性器を[[潜望鏡]]にたとえている<ref name="p89"/>。 ; つぼ洗い : 客に指を立てさせ、その指をソープ嬢の膣に差し入れて洗う行為<ref name="p89"/>。指だけでなく勃起した男性器をソープ嬢の[[膣]]に差し入れることもあるが、洗いが目的なので数秒で終わり本格的な性交には至らない。爪が伸びていたり鋭利な形状の場合はサービスが省略される場合もあったり、つぼ入れ中に客が勝手に指を曲げる行為も歓迎されない。 ; たわし洗い : 客の腕や脚にソープ嬢がまたがって[[陰毛]]をこすり付けて洗う行為<ref name="p89"/>。陰毛を「たわし」にたとえている。「ブラシ洗い」とも<ref name="p89"/>。 ; 椅子洗い : スケベ椅子やくぐり椅子等に座った客の身体をソープ嬢が身体全体を使って洗うこと<ref name="p89"/>。石鹸の泡で洗うだけの「ボディ洗い」と、ローションを使用した「椅子プレイ」、「くぐり椅子」等の椅子を使う行為全般の大意で利用される場合がある。 ; 指入れ : つぼ洗いと同意だが、ソープ嬢の性器が損傷を受ける原因のほとんどが客の手による過度な刺激に原因があり、一見伸びていないような爪でもかなりのダメージを与えたり、ゼリーが指入れや激しい扱いによって乾いてしまい、特に入り口付近の摩耗が大きくなるので、入り口付近の粘膜が裂傷を起こす。接客が続くソープ嬢は、自身の体を守るために指入れをさせないソープ嬢がどの価格帯の店にも存在する。メインサービスはあくまでも本番であるため、激しい指入れや乾いた性器への無理な愛撫は嫌われる行為であり、次の接客に支障をきたしたり治癒までに日数を要するような損傷を与えた客は出入り禁止となる場合もある。 ; 花時計 : 挿入したままソープ嬢が回転すること。通常は女性上位で行うが、椅子で挿入中に回転するアクロバティックなプレイも存在する。 ; NS : 「ノースキン」の略で、サービス時に[[コンドーム]]を使用しないこと。かつては「ジュンナマ」とも呼ばれていた<ref name="p88"/>。ソープ嬢は[[避妊]]のため[[経口避妊薬]]を毎日服用する。かつてはコンドーム不使用が当然であった時代もあり、その時代にはコンドーム使用はソープ嬢に対する侮辱として扱われたこともある<ref name="p88"/>。現在は性感染症予防のためコンドームを使用しているソープ嬢が多い。コンドームの使用は格安店か高級店かどうかにあまり関係がなく、店の方針やソープ嬢によるところが大きい。関東圏以外の地域の高級店はコンドーム使用率が低い傾向がある。 ; [[膣内射精|中出し]](ND) : 「ノースキン」で膣の中に射精すること。 ; お清め(フェラ) : 客が射精した後、精液などの付着した性器をフェラチオによって舐め取る行為のこと。 ; [[性的ロールプレイ|コスプレ]] : [[イメージクラブ]](イメクラ)のサービスの要素を取り入れたシステムで、お客がソープ嬢に好みの制服や服装を指定することが出来るサービス。通常一般的なお店に関してはコスプレイサービスは行っておらず主にお店側が指定されたソープ嬢のみとなっているのがほとんどなので事前確認する方がいい。サービスを受けるに当たってソープ嬢を指名する際にフロントに予約(入浴料支払い前)する必要がある。コスプレ専門店以外のお店なら無料で受けられるのがほとんどである。 : 店によってはコスプレイを売りにしている専門の店もあり「コスプレソープ」、「イメージソープ」などといわれている。一般的なお店とは異なり店に在籍しているソープ嬢ならどの子でもコスプレイサービスを受けることが出来る。ベットでのプレイがメインのお店ではマットプレイを行わず(店によって異なる)ボディー洗い後や一回戦後に、ソープ嬢が制服や服装を着直した後に再プレイするのもある。料金にいたっては服装や制服によってオプション料として別料金が必要になる場合がある。また一部の店では追加オプションとしてローターやバイブなどを提供している場合があるが別料金が必要になる。 ; 二輪車 : 1人の客に2人のソープ嬢でサービスすること<ref>[https://momojob.net/wordbook/detail/3/ ももジョブ・二輪車]</ref>。 == 事件・事故 == * [[1976年]](昭和51年)[[1月10日]] - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[新橋 (東京都港区)|新橋]]の貴悦ビルで火災が発生。中にあったソープランドで客1人が死亡、ソープ嬢ら12人が重軽傷<ref>最近のおもな雑居ビル火災『朝日新聞』1978年(昭和53年)3月10日夕刊、3版、15面</ref>。 * [[2003年]](平成15年)[[8月20日]] - [[東京都]][[台東区]][[千束]]のソープランドで、32歳の女性従業員が客の男性に絞殺された。犯人は別のソープランドの男性従業員<ref>{{Cite news|和書|title=「仕事辞めたくてやけに」 風俗店女性を絞殺 容疑男逮捕 |newspaper=東京新聞夕刊 |date=2023-8-20 |page=11}}</ref><ref name="FLASH20230505">{{Cite web|和書|url=https://smart-flash.jp/sociopolitics/234101/1/1/ |title=吉原の高級風俗店で30代女性従業員が刺殺される…20年前にも同じ店で殺人事件「またあの店なのか」 |website=Smart FLASH |date=2023-5-5 |accessdate=2023-5-7}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[1月5日]] - [[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]]西橘通のソープランドで爆発が発生した後に出火。従業員5人が重軽傷。 * [[2017年]](平成29年)[[12月17日]] - [[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]][[宮町 (さいたま市大宮区)|宮町]]のソープランドで火災([[大宮風俗ビル火災]])。5人死亡、7人重軽傷。[[日本放送協会|NHK]]が犠牲者の実名を報道したことから、物議を醸した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/15603 |title=NHKに批判殺到 大宮・風俗ビル火災の被害者を実名報道 |publisher=東京スポーツ |date=2017-12-21 |accessdate=2021-05-14}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)[[5月5日]] - 東京都台東区千束のソープランドで、30代の女性従業員が客の男性にナイフで刺されて死亡した<ref>{{Cite news|和書|title=風俗店従業員が客に刺され死亡 吉原、殺人事件で捜査 /東京都 |newspaper=朝日新聞東京地方版/東京 |date=2023-5-6 |page=23}}</ref>。事件現場は上述した2003年8月の殺人事件と同一店舗とされる{{R|FLASH20230505}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/262330 |title=東京・吉原「人気泡姫殺人事件」ソープランドで手荷物検査実施か 女性の安全が第一 |website=東スポWEB |date=2023-5-6 |accessdate=2023-5-7}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|3}} == 参考文献 == * 『保存版ソープランド投稿の本』 (No.1ムック Vol.1) フェンス 2008年5月10日 ISBN 4-9903053-0-2 * 門倉貴史 『「夜のオンナ」はいくら稼ぐか?』 [[角川書店]] 2006年7月 ISBN 978-4047100503 * 広岡敬一 『戦後性風俗大系 わが女神たち』[[朝日出版社]] 2000年4月 文庫版:[[新潮社]] 2007年 p.35 * 広岡敬一 『ちろりん村顛末記』 [[朝日新聞]] 1984年2月 *{{Cite book|和書|author= 岩永文夫|date=2003|title=フーゾク儲けのからくり : 欲望産業の原価がわかる本|publisher=ベストセラーズ|series = |id=ISBN 978-4-584-30765-6|ref=岩永}} == 関連項目 == {{columns-list|3| * [[風俗嬢]]([[セックスワーカー]]) * [[トルコ風呂 (性風俗)|トルコ風呂]] * [[湯女]] * [[銭湯]] * [[遊廓]] * [[風俗店]] * [[ゲイ向け風俗店]](売り専) * [[性風俗用語一覧]] * [[性風俗産業]] * [[マッサージパーラー]]:[[タイ王国|タイ]]にある性風俗店の一種。ソープランドと同様のサービスを受けられる。 * [[セックスボランティア]] * [[ちょんの間]] * [[イアン・ソープ]] * [[セーファーセックス]] * [[紅子 (人物)]] - 元・[[吉原]]の高級ソープランド嬢で[[写真家]]、[[YouTuber]]。 }} == 外部リンク == * [https://www.ztk.jp/top.html 全日本特殊浴場協会連合会] {{性}} {{デフォルトソート:そおふらんと}} [[Category:性風俗関連特殊営業]] [[Category:日本の文化]] [[Category:和製英語]] <!-- 宣伝リンクはご遠慮下さい。ウィキペディアは、宣伝の場ではありませんので -->
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紀元前210年
紀元前210年(きげんぜん210ねん)
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紀元前210年(きげんぜん210ねん)
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189年
189年(189 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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189年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|189}} {{year-definition|189}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[成務天皇]]59年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]849年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[後漢]] : [[中平]]6年、[[光熹]]元年、[[昭寧]]元年、[[永漢 (漢)|永漢]]元年、最終的に中平6年に戻される * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[故国川王]]11年 ** [[新羅]] : [[伐休尼師今|伐休王]]6年 ** [[百済]] : [[肖古王]]24年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2522年 * [[仏滅紀元]] : 732年 * [[ユダヤ暦]] : 3949年 - 3950年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=189|Type=J|表題=可視}} == できごと == * 後漢の[[霊帝 (漢)|霊帝]]が[[崩御]]。後を継いだ[[少帝弁|少帝]](劉弁)の[[外戚]]である[[大将軍]][[何進]]と[[宦官]]([[十常侍]])の抗争で両者が共倒れとなり、混乱の中で[[董卓]]が実権を掌握する。 * 董卓が少帝を廃し、[[献帝 (漢)|献帝]](劉協)を擁立する。 == 誕生 == {{see also|Category:189年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月7日]] - [[プブリウス・セプティミウス・ゲタ]]、[[カラカラ]]の弟にして共同皇帝(+ [[211年]]) == 死去 == {{see also|Category:189年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * 霊帝、後漢第12代皇帝(+[[156年]])。 * [[董重]]、後漢の[[驃騎将軍]]。董太后(霊帝の生母)の一族。 * [[蹇碩]]、霊帝側近の宦官。[[西園八校尉|西園軍]]の上軍校尉。 * 何進、後漢の[[大将軍]]・[[霊思何皇后|何皇后]]の異母兄で少帝の伯父。(*生年不詳) * [[何苗]]、後漢の[[車騎将軍]]・何皇后の同母兄。 * [[趙忠]]、霊帝側近の宦官・十常侍の1人。 * [[張譲]]、霊帝側近の宦官・十常侍の1人。 * [[丁原]]、後漢の[[執金吾]]。 * 霊思何皇后、少帝の生母。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|189}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=2|年代=100}} {{デフォルトソート:189ねん}} [[Category:189年|*]]
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女神
女神(めがみ)とは、女性の姿を持つ神のこと。 多神教においては、往々にして神にも性別が存在し、そのうち女性の神を女神と称する。対して男性の神を男神(おがみ)と呼ぶ。 女性は子供を産むという属性ゆえに原始宗教・神話の世界では「母神」として表現されることが多い(NEUMANN・p.95、後述論文)。日本の土偶もヨーロッパからシベリアに至るユーラシア大陸において後期旧石器時代以後、広く分布する狩猟・採集・漁労民の女神像の一環と捉えられている(後述論文)。狩猟・採集・漁労民の女神信仰は、農業民の女神信仰と根本的に異なり、農業社会では地母神信仰が顕著に見られるが、前者の信仰では大地の生産性や生命力に対する認識・信仰はない(後述論文)。前者の信仰で重要なのは、獲物が取れるかどうかであり、それは超自然的な力に左右される(後述論文)。土偶も出産や多産を願う気持ちから作られた「お産の女神」の性格をもち、子供は老後の支えとして必要であり、土偶はお産の女神と同時に「家神」としての性格ももつ(『古代学研究 159』 古代学研究会 2002年12月、p.1に所収、角林文雄 『土偶と女神』)。角林文雄は、土偶はあくまで多産信仰が基本であり、「食べ物を産み出す」性格と「食べ物(作物)の成長を守る」性格を有した女神の信仰は、農耕社会(日本では、弥生・古墳時代以降)からであるとする(『古代学研究 159』 p.4)。そしてイザナミに関連した神話に関しても、稲作農業との接点がないことから(地母神的性格はみられるものの)、原神話は縄文時代に東南アジアから伝えられたもので、のちに高天原神話に取り込まれたとする(『古代学研究 159』 p.7)。一方で、天照大神の方は食べ物を産み出す農業社会の女神としての性格をもち、農耕の守護者である天照大神と農耕の妨害者であるスサノオの対立という信仰が成立する(『古代学研究 159』 pp.8 - 9)。 美しい若い女性や、ふくよかな体格の母を思わせる姿のものが多い。中にはモイライの様な年老いた女神や、カーリーの様な恐ろしい姿の者もいる。大地や美や性愛を司る神は、各地においてたいてい女神である。それらは往々にして母性と結びつけられ、まとめて「地母神」と呼ばれる。神に人間のような性別があるかどうかは神学においては議論や研究の対象であり、神には性別が無いとする立場からは、単に外見が人間の女性に酷似する神とされる。 アブラハムの宗教のような一神教においては、唯一の存在である神には性別は存在せず、従って女神も存在しない。父なる神という呼び方も、「父」とは力の象徴とされ、さらにキリスト教においてはイエス・キリストが「アッバ」(ヘブル語で「お父ちゃん」という意味の幼児語)と神を呼んでいたことから、親しさ、親密さを表すものとされ、性別を指してはいないとされる。一方、フランス革命以降のフランスにおいては、キリスト教から脱する考えにおいて、信仰の対象ではなく単なる象徴として、女神が奉られた(自由の女神)。またヨーロッパの多神教時代の民話などを、近代以降に翻案するにあたっても、具体的な神から単なる女神へと置き換えられる場合が多い(金の斧など)。このためヨーロッパでは各地で女神像を散見する。また、カトリックにおいては聖母マリアは崇敬の対象とされ、女神的に扱っていると見られることもある。 性差が存在することによって、一神教のような男性優位の社会を主張する流れとは異なる物語の形成に繋がっている。例として、イザナギ・イザナミの婚姻譚において、男から先に声をかけなかったために失敗したといった流れがあり、一見すると男性優位の物語として語られているように見えるが、その後、産まれた男神であるヒルコを廃し(流し)、女神たるヒルメを立てているところは女性優遇といえるものであり、河合隼雄は著書『中空構造日本の深層』において、男性優位と女性優位の物語を交互に語らせることで、カウンターバランスを成立させ、男女が互いに欠点を補い合うことで安定化を図っているとした社会思想を神話によって語らせているとしている。またアマテラスとスサノオの「清い心を示す勝負」では、男神を生み出したアマテラス=女神に対して、女神を生み出したスサノオ=男神を勝たせている。女神の存在は、一方の性を優遇するといった一辺倒な社会の否定に繋がっているともいえよう。 『神皇正統記』に「陽神(おかみ)陰神(めがみ)」と表記されているように、陰陽思想の下では女神は「陰」に比定される(『神統記』内では陰神の表記が度々用いられている)。また、日本では女神の呼称の他に「姫神(ひめがみ)」という言葉を用い、これに対して男神を「彦神(ひこがみ)」と呼称する(『広辞苑 第六版』岩波書店より)。 日本では山神は女神の場合が多く(後述書 p.103)、山神が男神の場合、狩猟・伐採・芸能を司る。水や生命を育む森・山は基本的に女性原理として表現されるため、山に男女で入ると女神が嫉妬したり、女性の入山自体を嫌う話も多いとされ、山神が生産を司る以上、日本語の「ヲンナ」は「ヲミナ」=産むの意であると捉えられている。 柳田國男は『妹の力』において、霊山における女性の立ち入りを禁じる結界岩は、多くは、山の中腹にあり、本当に入山を禁じていたのなら、中腹に結界岩を置くのは不自然であり、むしろ禁じていたのではなく、足の弱い女性が頂上まで登らずとも参拝できるようにとの配慮からと考察する。 ギリシア神話には悲しみに沈んだ大地の女神デメテルにバウボ(英語版)という女が自らの性器を見せ、笑わせ、大地の生産力を回復させた話があり、日本神話にもアメノウズメが性器を見せ、神々が笑い、アマテラスが口を開いた話が見られ、怒れる自然(デメテルやアマテラス)に豊穣多産を回復させるために行う話の類型であり、自然を再生させることは、女神を笑わせ、機嫌を取り戻すことで、そうした神話(女性器を見せることで女神の笑いを取る)として表現されたものと松本信広は解釈している。関連は不明だが、古墳時代の女性埴輪の中には性器を強調したものがみられる。また、「ケルト世界のかなり古い神話的存在」で、「慣例でシーラ・ナ・ギグと呼ばれて」いる存在は、「これについての文字資料は皆無であるが、創造と破壊の女神として紹介されることが多い」が、「アメノウズメと同じような猥褻な動作をしている」。 『古事記』に記される280柱前後(神武東征以後は除く)の内、無性別の神・性別不詳の神・男神を除いた女神の数は65柱前後である。この内、オオゲツヒメが殺害されており(『紀』ではウケモチ)、またクシナダヒメの姉妹神もヤマタノオロチに殺されているため、厳密な数は不明。全体数の約4分の1とギリシア神話と比較して少ないが、これは日本神話において無性や性別不詳の神がギリシア神話と比べて多いためであり、例として、八種の雷神、因幡の白兎、サヒモチの神=サメなど人外神が豊富にいる。本州(大倭豊秋津島)=天御虚空豊秋津別も『記』における男神女神の書き順からいえば、女神だが、明記されていないなど不明瞭な部分がある。
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女神(めがみ)とは、女性の姿を持つ神のこと。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2019-05}} [[ファイル:Amsterdam - Museum Willet-Holthuysen 18.JPG|thumb|200px|[[ギリシア神話]]の女神[[アプロディーテー]]]] '''女神'''(めがみ)とは、[[女性]]の姿を持つ[[神]]のこと。 == 解説 == [[多神教]]においては、往々にして神にも性別が存在し、そのうち女性の神を女神と称する。対して男性の神を'''男神'''(おがみ)と呼ぶ。 女性は子供を産むという属性ゆえに原始宗教・神話の世界では「母神」として表現されることが多い(NEUMANN・p.95、後述論文)。日本の[[土偶]]もヨーロッパからシベリアに至るユーラシア大陸において[[後期旧石器時代]]以後、広く分布する狩猟・採集・漁労民の女神像の一環と捉えられている(後述論文)。狩猟・採集・漁労民の女神信仰は、農業民の女神信仰と根本的に異なり、農業社会では[[地母神]]信仰が顕著に見られるが、前者の信仰では大地の生産性や生命力に対する認識・信仰はない(後述論文)。前者の信仰で重要なのは、獲物が取れるかどうかであり、それは超自然的な力に左右される(後述論文)。土偶も出産や多産を願う気持ちから作られた「お産の女神」の性格をもち、子供は老後の支えとして必要であり、土偶はお産の女神と同時に「家神」としての性格ももつ(『古代学研究 159』 古代学研究会 2002年12月、p.1に所収、角林文雄 『土偶と女神』)。角林文雄は、土偶はあくまで多産信仰が基本であり、「食べ物を産み出す」性格と「食べ物(作物)の成長を守る」性格を有した女神の信仰は、農耕社会(日本では、弥生・古墳時代以降)からであるとする(『古代学研究 159』 p.4)。そして[[イザナミ]]に関連した神話に関しても、稲作農業との接点がないことから(地母神的性格はみられるものの)、原神話は縄文時代に東南アジアから伝えられたもので、のちに高天原神話に取り込まれたとする(『古代学研究 159』 p.7)。一方で、[[天照大神]]の方は食べ物を産み出す農業社会の女神としての性格をもち、農耕の守護者である天照大神と農耕の妨害者である[[スサノオ]]の対立という信仰が成立する(『古代学研究 159』 pp.8 - 9)。 美しい若い女性や、ふくよかな体格の母を思わせる姿のものが多い。中には[[モイラ (ギリシア神話)|モイライ]]の様な年老いた女神や、[[カーリー]]の様な恐ろしい姿の者もいる。大地や美や性愛を司る神は、各地においてたいてい女神である。それらは往々にして[[母性]]と結びつけられ、まとめて「地母神」と呼ばれる。神に人間のような性別があるかどうかは[[神学]]においては議論や研究の対象であり、神には性別が無いとする立場からは、単に外見が人間の女性に酷似する神とされる。 [[アブラハムの宗教]]のような[[一神教]]においては、唯一の存在である神には性別は存在せず、従って女神も存在しない。[[父なる神]]という呼び方も、「父」とは力の象徴とされ、さらに[[キリスト教]]においては[[イエス・キリスト]]が「アッバ」([[ヘブル語]]で「お父ちゃん」という意味の[[幼児語]])と神を呼んでいたことから、親しさ、親密さを表すものとされ、性別を指してはいないとされる。一方、[[フランス革命]]以降の[[フランス]]においては、キリスト教から脱する考えにおいて、信仰の対象ではなく単なる象徴として、女神が奉られた([[マリアンヌ|自由の女神]])。またヨーロッパの多神教時代の民話などを、近代以降に翻案するにあたっても、具体的な神から単なる女神へと置き換えられる場合が多い([[金の斧]]など)。このためヨーロッパでは各地で女神像を散見する。また、[[カトリック]]においては[[聖母マリア]]は[[マリア崇敬|崇敬]]の対象とされ、女神的に扱っていると見られることもある。 == 日本神話(高天原神話)における役割 == 性差が存在することによって、一神教のような男性優位の社会を主張する流れとは異なる物語の形成に繋がっている<!-- 以降、参考・[[河合隼雄]] 『中空構造日本の深層』より -->。例として、[[イザナギ]]・[[イザナミ]]の婚姻譚において、男から先に声をかけなかったために失敗したといった流れがあり、一見すると男性優位の物語として語られているように見えるが、その後、産まれた男神である[[ヒルコ]]を廃し(流し)、女神たるヒルメを立てているところは女性優遇といえるものであり、[[河合隼雄]]は著書『中空構造日本の深層』において、男性優位と女性優位の物語を交互に語らせることで、カウンターバランスを成立させ、男女が互いに欠点を補い合うことで安定化を図っているとした社会思想を神話によって語らせているとしている。また[[天照大神|アマテラス]]と[[スサノオ]]の「[[アマテラスとスサノオの誓約|清い心を示す勝負]]」では、男神を生み出したアマテラス=女神に対して、女神を生み出したスサノオ=男神を勝たせている<!-- 『中空構造日本の深層』より -->。女神の存在は、一方の性を優遇するといった一辺倒な社会の否定に繋がっているともいえよう。 『[[神皇正統記]]』に「陽神(おかみ)'''陰神'''(めがみ)」と表記されているように、[[陰陽思想]]の下では女神は「陰」に比定される(『神統記』内では陰神の表記が度々用いられている)。また、日本では女神の呼称の他に「'''姫神'''(ひめがみ)」という言葉を用い、これに対して男神を「彦神(ひこがみ)」と呼称する(『広辞苑 第六版』岩波書店より)。 == 山神と女神の関係 == 日本では[[山神]]は女神の場合が多く(後述書 p.103)、山神が男神の場合、[[狩猟]]・[[伐採]]・[[芸能]]を司る<!-- 同 p.103. -->。水や生命を育む森・山は基本的に女性原理として表現されるため<!-- 同 p.103. -->、山に男女で入ると女神が嫉妬したり、女性の入山自体を嫌う話も多いとされ<!-- 同 p.103. -->、山神が生産を司る以上、日本語の「ヲンナ」は「ヲミナ」=産むの意であると捉えられている<ref>[[千葉公慈]] 『知れば恐ろしい 日本人の風習』 [[河出文庫]] 2016年 ISBN 978-4-309-41453-9 p.103.</ref>。 柳田國男は『妹の力』において、霊山における女性の立ち入りを禁じる結界岩は、多くは、山の中腹にあり、本当に入山を禁じていたのなら、中腹に結界岩を置くのは不自然であり、むしろ禁じていたのではなく、足の弱い女性が頂上まで登らずとも参拝できるようにとの配慮からと考察する。 == 女神と笑いの関係 == ギリシア神話には悲しみに沈んだ大地の女神[[デメテル]]に{{仮リンク|バウボ|en|Baubo}}<ref>{{kotobank|バウボ}}</ref>という女が自らの性器を見せ、笑わせ、大地の生産力を回復させた話があり、日本神話にも[[アメノウズメ]]が性器を見せ、神々が笑い、アマテラスが口を開いた話が見られ、怒れる自然(デメテルやアマテラス)に豊穣多産を回復させるために行う話の類型であり<!-- 後述書 p.104. -->、自然を再生させることは、女神を笑わせ、機嫌を取り戻すことで、そうした神話(女性器を見せることで女神の笑いを取る)として表現されたものと[[松本信広]]は解釈している<ref>[[古川のり子]] 『昔ばなしの謎 あの世とこの世の神話学』 [[角川ソフィア文庫]] 2016年 ISBN 978-4-04-400080-6 p.104.</ref>。関連は不明だが、古墳時代の女性埴輪の中には性器を強調したものがみられる<ref>『女性はにわ その装いとしぐさ』 [[埼玉県立博物館]] 1998年 p.28.</ref>。また、「[[ケルト]]世界のかなり古い神話的存在」で、「慣例でシーラ・ナ・ギグと呼ばれて」いる存在は、「これについての文字資料は皆無であるが、創造と破壊の女神として紹介されることが多い」が、「アメノウズメと同じような猥褻な動作をしている」<ref>フィリップ・ヴァルテール『ユーラシアの女性神話-ユーラシア神話試論Ⅱ』([[渡邉浩司]]・渡邉裕美子訳)[[中央大学]]出版部2021年 ISBN 978-4-8057-5183-1、202頁。</ref>。 == 女神の数 == {{main2|[[ギリシア神話]]の女神の数については、[[ギリシア神話の固有名詞一覧]]を}} 『古事記』に記される280柱前後(神武東征以後は除く)の内、無性別の神・性別不詳の神・男神を除いた女神の数は65柱前後である。この内、[[オオゲツヒメ]]が殺害されており(『紀』では[[ウケモチ]])、また[[クシナダヒメ]]の姉妹神も[[ヤマタノオロチ]]に殺されているため、厳密な数は不明。全体数の約4分の1とギリシア神話と比較して少ないが<!-- ギリシア神話の固有名詞一覧の方を参照 -->、これは日本神話において無性や性別不詳の神がギリシア神話と比べて多いためであり<!-- ギリシア神話の固有名詞一覧を参照 -->、例として、八種の雷神、因幡の白兎、サヒモチの神=サメなど人外神が豊富にいる。[[本州]](大倭豊秋津島)=天御虚空豊秋津別も『記』における男神女神の書き順からいえば、女神だが、明記されていないなど不明瞭な部分がある。 == 備考 == * 女神も兼ねた柱というのもあり、例えば、神としての[[四国]]は、体一つに顔が四つで、顔にはそれぞれ名があり、男名2、女名2で男女対となっていると『[[古事記]]』には記述されている(例、[[伊予国]]の神名はエヒメと記され、女神として扱われる)。 * 元は女神を祀っていたものが、[[仏教]](厳密には[[空海]])の影響によって男神とされるようになった例としては、伏見稲荷神社がある<ref>[[関裕二]] 『寺社が語る秦氏の正体』 [[祥伝社新書]] 2018年 ISBN 978-4-396-11553-1 pp.33 - 36.</ref>。逆に[[観音菩薩]]などのように、男神だったのが女神として信仰されるようになった例もある。 <!-- * 女神は嫉妬深いため、船に女性を乗せてはいけないという俗信もある(例、[[宗像三女神]])。 --> == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {| |vaiign="top"| *[[神話]] *[[日本神話]] *[[ギリシア神話]] *[[ローマ神話]] *[[エジプト神話]] *[[北欧神話]] *[[ゲルマン神話]] *[[ケルト神話]] *[[スラヴ神話]] *[[フィンランド神話]] |valign="top"| *[[中国神話]] - [[無極五母]] *[[朝鮮神話]] *[[インド神話]] *[[イラン神話]] *[[バビロニア神話]]・[[メソポタミア神話]] *[[マヤ神話]] *[[アステカ神話]] *[[インカ神話]] *[[クトゥルフ神話]] - 怪奇小説家[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト|ラヴクラフト]]の著作を源流とする創作神話。 |valign="top"| *[[宗教]] - [[多神教]] *[[神の一覧]] *[[自由の女神像]] |} ---- {{Myth-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:めかみ}} [[Category:女神|*めかみ]] [[Category:ジェンダーと宗教]]
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16,695
1994年リレハンメルオリンピック
1994年リレハンメルオリンピック(1994ねんリレハンメルオリンピック)は、1994年2月12日から2月27日までノルウェーのオップラン県リレハンメルで行われた冬季オリンピック。 これまでオリンピックは夏冬同じ4の倍数年(子年、辰年、申年)に開催していたが、これを2年ごとの隔年開催にするために冬季大会の開催を2年ずらし単偶数年(FIFAワールドカップの開催年)に開催となった。このため、前回の1992年アルベールビルオリンピックからわずか2年後の開催となった。 なお、リレハンメルはこれまでのオリンピック開催地では最も北に位置する。 リレハンメルオリンピックの開催は1988年9月15日に韓国のソウルで開かれた第94回国際オリンピック委員会総会で決定された。開催地誘致は隣国スウェーデンのエステルスンドとのスカンジナビア半島決戦となり、初の冬季大会開催を目指すスウェーデンが有利との下馬評だったが、大会会場をコンパクトに集約したリレハンメルが開催権を得た。
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1994年リレハンメルオリンピック(1994ねんリレハンメルオリンピック)は、1994年2月12日から2月27日までノルウェーのオップラン県リレハンメルで行われた冬季オリンピック。 これまでオリンピックは夏冬同じ4の倍数年(子年、辰年、申年)に開催していたが、これを2年ごとの隔年開催にするために冬季大会の開催を2年ずらし単偶数年(FIFAワールドカップの開催年)に開催となった。このため、前回の1992年アルベールビルオリンピックからわずか2年後の開催となった。 なお、リレハンメルはこれまでのオリンピック開催地では最も北に位置する。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1994年リレハンメルオリンピック |英称・別称 = 第17回オリンピック冬季競技大会<br/>XVII Olympic Winter Games |画像 = Lillehammerutsikt fra Vingnessida 2.JPG |ロゴ = |開催都市 = {{NOR}} [[リレハンメル]] |参加国・地域数 = 67 |参加人数 = 1,739人(男子1,217人、女子522人) |競技種目数 = 6競技61種目 |開会式 = [[1994年]][[2月12日]] |閉会式 = [[1994年]][[2月27日]] |開会宣言 = [[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル5世]][[ノルウェー君主一覧|国王]] |選手宣誓 = [[ベーガール・ウルバン]] |審判宣誓 = Kari Karing |最終聖火ランナー = [[ホーコン (ノルウェー王太子)|ホーコン・マグヌス]] |主競技場 = [[リスゴーズバッケン]] |冬用前冬 = {{flagicon|FRA}}[[1992年アルベールビルオリンピック|1992年アルベールビル]] |冬用次冬 = {{flagicon|JPN}}[[1998年長野オリンピック|1998年長野]] |冬用前夏 = {{flagicon|ESP}}[[1992年バルセロナオリンピック|1992年バルセロナ]] |冬用次夏 = {{flagicon|USA}}[[1996年アトランタオリンピック|1996年アトランタ]] }} '''1994年リレハンメルオリンピック'''(1994ねんリレハンメルオリンピック)は、[[1994年]]([[平成]]6年)[[2月12日]]から[[2月27日]]まで[[ノルウェー]]の[[オップラン県]][[リレハンメル]]で行われた[[冬季オリンピック]]。 これまでオリンピックは夏冬同じ[[複偶数|4の倍数年]]([[子年]]、[[辰年]]、[[申年]])に開催していたが、これを2年ごとの隔年開催にするために冬季大会の開催を2年ずらし[[単偶数]]年([[FIFAワールドカップ]]の開催年)に開催となった。このため、前回の[[1992年アルベールビルオリンピック]]からわずか2年後の開催となった。 なお、リレハンメルはこれまでのオリンピック開催地では最も北に位置する。 == 大会開催までの経緯 == リレハンメルオリンピックの開催は[[1988年]][[9月15日]]に[[大韓民国|韓国]]の[[ソウル特別市|ソウル]]で開かれた第94回[[国際オリンピック委員会総会]]で決定された。開催地誘致は隣国[[スウェーデン]]の[[エステルスンド]]との[[スカンディナヴィア半島|スカンジナビア半島]]決戦となり、初の冬季大会開催を目指すスウェーデンが有利との下馬評だったが、大会会場をコンパクトに集約したリレハンメルが開催権を得た。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small" |-bgcolor="#efefef" |+1994年冬季オリンピック 開催地投票 |- !都市 !国 !style="background-color:silver;"|1回目 !style="background-color:silver;"|2回目 !style="background-color:silver;"|3回目 |- |[[リレハンメル]]||{{NOR}} |'''25'''||30||'''45''' |- |[[エステルスンド]]||{{SWE}} |19||'''33'''||39 |- |[[アンカレッジ]]||{{USA}} |23||22||- |- |[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]||{{BGR}} |17||-||- |- |} == ハイライト == [[ファイル:Lillehammer Seikadai.JPG|thumb|1994年リレハンメルオリンピックの[[聖火台]](2005年8月)。]] [[File:Lillehammer, Norway 20170601 175742.jpg|thumb|リレハンメル(2017年6月)。]] * リレハンメルオリンピックの開会式と閉会式は、ジャンプ会場で行われた。まず、[[フアン・アントニオ・サマランチ|サマランチ]][[国際オリンピック委員会|IOC]]会長の呼びかけにより、10年前の開催地・[[サラエボ]]が内戦の戦火に曝される現状に対し黙祷が捧げられた。[[オリンピック賛歌]]は、ノルウェーの国民的歌手で同大会のテーマソング"Fire in your heart"も歌った[[シセル|シセル・シルシェブー]]が歌い出し部分をアカペラで独唱した。続いて、クロスカントリーでリレーされた聖火がジャンプ台からトーチを持ったジャンパーによって会場に降りてきて点火された。<ref group="注釈">なお、開会式本番で聖火トーチを持ってジャンプ台から飛んだジャンパーはリハーサルで本来のジャンパーが着地失敗して骨折したため代役が務めた。</ref> *環境に優しいオリンピックを、というスローガンを掲げ、アイスホッケーの会場を岩をくり抜いた中に建設したり、スピードスケートの会場がバイキング船をモチーフにした木製の屋根を乗せた物になったり、またボランティアの手により閉幕後は積極的に花を植えたり、といった徹底ぶりが広く評価された。 *聖火台周辺にギミックがなく、かつ直接的な点火がされたオリンピックはこの会が最後であった。 * 本大会開催前には、フィギュアスケートのアメリカ代表選考会で[[トーニャ・ハーディング]]が、暴行の実行犯として前夫を雇いライバルの[[ナンシー・ケリガン]]を殴打させ、ケリガンが怪我を負う事件があった。結局、五輪の本番ではケリガンが銀メダルを獲得したが、ハーディングはフリー演技滑走前にスケート靴の紐がほどけたとアピール、泣きながら審判員に演技のやり直しを懇願、認められたものの結局8位に入賞、という対照的な結果となった。 * ノルディックスキー・ジャンプ団体で日本チームは最終ジャンパーの[[原田雅彦]]が105m以上飛ぶことができれば(=よほどの失敗ジャンプをしなければ)優勝が決まるはずであったが、結果は97.5mで2位に終わった。この失敗ジャンプで原田は大バッシングを受け、「大舞台に弱い」というイメージの払拭は長野オリンピックでの団体優勝を待たなければならなかった。 * 閉会式では、国際環境使節団の一行を乗せた[[犬ぞり]]がリレハンメル市長から次期開催都市長野市長へ宛てた環境メッセージを携え出発した。一行は燃料動力を一切使用せず、冬は犬ぞり、夏は自転車で[[シベリア]]を通り[[ユーラシア大陸]]を横断、[[カムチャツカ半島]]からは帆船で[[日本]]の[[横浜港]]へ、横浜からは自転車で長野を目指し[[1996年]][[9月25日]]に[[長野市]]に到着した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.joc.or.jp/sp/news/detail.html?id=4391|title=国際環境使節団(IEE)いよいよ長野へ到着|publisher=[[日本オリンピック委員会]]オフィシャルサイト|date=1996-10-01|accessdate=2014-06-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shinmai.co.jp/olympic/199609/96092805.htm|title=リレハンメルからの使節団 長野の環境保護期待|publisher=[[信濃毎日新聞]]オフィシャルサイト|date=1996-09-28|accessdate=2014-06-17}}</ref>。 * フラッグハンドオーバーセレモニーには、長野市の[[塚田佐]]市長(当時)が出席し、リレハンメルから長野へオリンピック旗が受け継がれ、閉会式の最後には長野大会のデモンストレーションが行われた。聖火の消えた聖火台の脇から、日本と長野の美しい自然を象徴する雪の花の精が現れ、階段を降りてフィールドに立つ。会場全体が照明で真っ赤に染まると、長野の[[民謡]]「信濃追分」を西洋の音楽の要素を入れてアレンジしたBGMが流れだし、雪の花の精は照明で花が描かれたフィールドを歩き回る。雪の花の精がノルウェーのベッテル達に会うと、ベッテル達が不思議そうに見つめる中、雪の花の精はベッテル達の合間を歩き、やがてゲートを見つめる。するとBGMが祭囃子のような音楽に変わり、ゲートからは紙吹雪が舞うと、各ゲートから日本とノルウェーのダンサーによって色鮮やかな6つの風船が運ばれた。それらは会場内を走り回ると、やがて中央に集まり、長野大会のエンブレムとなった。最後はジャンプ台にレーザー光線で「SEE YOU IN NAGANO 1998」というメッセージが映されると、花火が上がる中バルーンが空へと舞い上がり、長野大会の紹介が締めくくられた。 == 競技会場 == {| class="wikitable" !セレモニー !会場 |- |開会式 |[[Lysgårdsbakkene]] Hoppanlegg |- |メダル授与式 |[[Stampesletta|Stampesletta stadion]] |- |閉会式 |[[Lysgårdsbakkene]] Hoppanlegg |} {| class="wikitable" !競技 !メイン会場 ! |- |ソリ |[[Lillehammer Olympiske Bob og Akebane]] | align="center" | |- |アルペンスキー |[[Hafjell Alpinsenter]] |[[Kvitfjell Alpinanlegg]] |- |ボブスレー |[[Lillehammer Olympiske Bob og Akebane]] | align="center" | - |- |フリースタイルスキー |[[Kanthaugen Freestyleanlegg]] | align="center" | - |- |スピードスケート |[[Vikingskipet]] | align="center" | - |- |アイスホッケー |[[Håkons Hall]] |[[Gjøvik Olympiske Fjellhall|Gjøvik Fjellhall]] |- |ショートトラックスピードスケート |[[Nordlyshallen|Hamar OL-amfi]] | align="center" | - |- |フィギュアスケート |Hamar OL-amfi | align="center" | - |- |ノルディック複合 |[[Birkebeineren skistadion]] |[[Lysgårdsbakkene]] Hoppanlegg |- |クロスカントリースキー |Birkebeineren skistadion | align="center" | - |- |スキージャンプ |Lysgårdsbakkene Hoppanlegg | align="center" | - |- |バイアスロン |Birkebeineren skistadion | align="center" | - |} == 実施競技と日程 == {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small" |- !colspan="2"|競技名 / 日付!!style="width:1.5em"|12!!style="width:1.5em"|13!!style="width:1.5em"|14!!style="width:1.5em"|15!!style="width:1.5em"|16!!style="width:1.5em"|17!!style="width:1.5em"|18!!style="width:1.5em"|19!!style="width:1.5em"|20!!style="width:1.5em"|21!!style="width:1.5em"|22!!style="width:1.5em"|23!!style="width:1.5em"|24!!style="width:1.5em"|25!!style="width:1.5em"|26!!style="width:1.5em"|27 |- |colspan="2"|開閉会式||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|• |- |rowspan="6"|[[スキー]] |- |style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのアルペンスキー競技|アルペンスキー]] | ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのクロスカントリースキー競技|クロスカントリースキー]] | ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのスキージャンプ競技|スキージャンプ]] | || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || |- |style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのノルディック複合競技|ノルディック複合]] | || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || |- |style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのフリースタイルスキー競技|フリースタイルスキー]] | || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || |- |rowspan="4"|[[スケート]] |- |style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのショートトラックスピードスケート競技|ショートトラックスピードスケート]] | || || || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのスピードスケート競技|スピードスケート]] | || style="background:#3399ff|• || style="background:#3399ff"|• || || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || || style="background:#3399ff"|• || || style="background:#3399ff"|• || || |- |style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのフィギュアスケート競技|フィギュアスケート]] | || style="background:#3399ff"|• || || style="background:#3399ff"|• || || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || || style="background:#3399ff"|• || || style="background:#3399ff"|• || || |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのアイスホッケー競技|アイスホッケー]] |style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのバイアスロン競技|バイアスロン]] | || || || style="background:#3399ff"|• || || || style="background:#3399ff"|• || || style="background:#3399ff"|• || || || style="background:#3399ff"|• || || style="background:#3399ff"|• || || |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[1994年リレハンメルオリンピックのボブスレー競技|ボブスレー]] | || || || || || || || style="background:#3399ff"|• || style="background:#3399ff"|• || || || || style="background:#3399ff"|• || 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[[ゲオルク・ハックル]](ドイツ、[[リュージュ]]男子1人乗り) ** ドイツ(スキージャンプ男子ラージヒル団体、[[バイアスロン]]男子4×7.5kmリレー) ** [[オクサナ・バイウル]](ウクライナ、フィギュアスケート女子シングル) * {{silver2}}銀メダル ** [[河野孝典]](日本、ノルディック複合個人) ** [[原田雅彦]]・[[葛西紀明]]・[[岡部孝信]]・[[西方仁也]](日本、スキージャンプ団体) ** [[セルゲイ・シュプレツォフ]]([[ロシア]]、[[フリースタイル・スキー]]男子[[モーグル]]) ** [[エリザベス・マッキンタイア]](アメリカ、フリースタイル・スキー女子モーグル) ** [[フィリップ・ラローシュ]]([[カナダ]]、フリースタイル・スキー男子[[エアリアル]]) ** [[マリー・リンドグレン]]([[スウェーデン]]、フリースタイル・スキー女子エアリアル) ** [[チェーティル・アンドレ・オーモット]](ノルウェー、アルペンスキー男子滑降、同複合) ** [[アルベルト・トンバ]](イタリア、アルペンスキー男子[[回転 (スキー)|回転]]) ** [[ピカボ・ストリート]](アルペンスキー女子滑降) ** ビョルン・ダーリ(ノルウェー、クロスカントリースキー男子30kmフリー) ** [[グンダ・ニーマン・シュティルネマン]](ドイツ、スピードスケート女子5000m) ** ノルウェー(クロスカントリースキー男子4×10kmリレー) * {{bronze3}}銅メダル ** [[堀井学]](日本、スピードスケート男子500m) ** [[山本宏美]](日本、スピードスケート女子5000m) ** [[エドガー・グロスピロン]]([[フランス]]、[[フリースタイル・スキー]]男子[[モーグル]]) ** [[エリザベート・コジェフニコワ]](アメリカ、フリースタイル・スキー女子モーグル) ** [[ロイド・ラングロイス]]([[カナダ]]、フリースタイル・スキー男子[[エアリアル]]) ** [[ヒルデ=シノバ・リト]]([[ノルウェー]]、フリースタイル・スキー女子エアリアル) ** チェーティル・アンドレ・オーモット(ノルウェー、アルペンスキー男子[[スーパー大回転]]) ** [[ステファニア・ベルモンド]](イタリア、クロスカントリースキー女子複合(5kmクラシカル+10kmフリー)) ** グンダ・ニーマン-シュティルネマン(ドイツ、スピードスケート女子1500m) ** クラウディア・ペヒシュタイン(ドイツ、スピードスケート女子3000m) ** [[ジェーン・トービル]]、[[クリストファー・ディーン]]([[イギリス]]、[[フィギュアスケート]][[アイスダンス]]) ** イタリア(クロスカントリースキー女子4×5kmリレー) == 関連項目 == * [[国際オリンピック委員会]] * [[冬季オリンピック]] * [[1994年リレハンメルパラリンピック]] * [[2016年リレハンメルユースオリンピック]] * [[アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat|1994 Winter Olympics}} * [http://www.olympic.org/en/content/Olympic-Games/All-Past-Olympic-Games/Winter/Lillehammer-1994 IOCリレハンメルオリンピック 1994] {{en icon}} * [https://www.joc.or.jp/column/olympic/history/ JOCオリンピックの歴史] {{オリンピック}} {{1994年リレハンメルオリンピックの実施競技}} {{Olympic-stub}}{{authority control}} {{デフォルトソート:りれはんめるおりんひつく}} [[Category:冬季オリンピックの歴代大会|1994]] [[Category:1994年リレハンメルオリンピック|*りれはんめるおりんひつく]]
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1992年アルベールビルオリンピック
1992年アルベールビルオリンピック(1992ねんアルベールビルオリンピック)は、1992年(平成4年)2月8日から2月23日までフランスのサヴォワ県アルベールヴィルで行われた冬季オリンピック。 64カ国・地域、1,801人(男子1,313人、女子488人)が参加した。 夏季オリンピックと同じ4の倍数年(子年、辰年、申年)に開催された最後の冬季オリンピックであり、次の1994年リレハンメルオリンピック以後は4で割り切れない偶数の西暦年(FIFAワールドカップの開催年であり、十二支は寅・午・戌のいずれか)に開かれている。また、スピードスケート競技を屋外スケートリンクで開催した最後の冬季オリンピックでもあった。 1992年アルベールビルオリンピックの開催は、1986年10月17日にスイスのローザンヌで開かれた第91回国際オリンピック委員会総会で決定された。 開会式および閉会式の演出は31歳の振付家・演出家、フィリップ・ドゥクフレに委ねられた。夏・冬通してオリンピック初の夜の開会式。開会式では、一人の少女が一羽の鳩を空中に放ち「ラ・マルセイエーズ」を歌うオープニングから、空中ブランコや竹馬などサーカスの技、南仏の民族舞踊、アイスダンスなどによって人々が華麗に空を舞い練り歩く祝祭が繰り広げられた。 聖火の点火は冬季オリンピック史上初となる間接的な点火となった。 ソビエト連邦の崩壊直後の開催となった本大会では、旧ソ連諸国のうちロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタン、アルメニアの6か国がEUNという1つのチームになって参加した。 日本選手団はノルディック複合・団体で1972年札幌オリンピック以来の金メダルを獲得した。 ドイツに次いでメダルを獲得した国・地域EUNは旧ソ連の統一チームである。詳細はEUN。 スピードスキーでスイスの選手ニコラ・ボシャテー(英語版)が決勝前の練習中に雪上車と激突、死亡した。
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1992年アルベールビルオリンピック(1992ねんアルベールビルオリンピック)は、1992年(平成4年)2月8日から2月23日までフランスのサヴォワ県アルベールヴィルで行われた冬季オリンピック。 64カ国・地域、1,801人(男子1,313人、女子488人)が参加した。 夏季オリンピックと同じ4の倍数年(子年、辰年、申年)に開催された最後の冬季オリンピックであり、次の1994年リレハンメルオリンピック以後は4で割り切れない偶数の西暦年(FIFAワールドカップの開催年であり、十二支は寅・午・戌のいずれか)に開かれている。また、スピードスケート競技を屋外スケートリンクで開催した最後の冬季オリンピックでもあった。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1992年アルベールビルオリンピック |英称・別称 = 第16回オリンピック冬季競技大会<br/>XVI Olympic Winter Games |画像 = Albertville savoie.JPG |ロゴ = |開催都市 = {{FRA}} [[アルベールヴィル]] |参加国・地域数 = 64 |参加人数 = 1,801人(男子1,313人、女子488人) |競技種目数 = 6競技57種目 |開会式 = [[1992年]][[2月8日]] |閉会式 = [[1992年]][[2月23日]] |開会宣言 = [[フランソワ・ミッテラン]][[共和国大統領 (フランス)|大統領]] |選手宣誓 = [[スルヤ・ボナリー]] |審判宣誓 = ピエール・ボルナ |最終聖火ランナー = [[ミシェル・プラティニ]]<br/>フランソワ・シリル・グランジュ |主競技場 = テアトル・デ・セレモニー |冬用前冬 = {{flagicon|CAN}}[[1988年カルガリーオリンピック|1988年カルガリー]] |冬用次冬 = {{flagicon|NOR}}[[1994年リレハンメルオリンピック|1994年リレハンメル]] |冬用前夏 = {{flagicon|KOR}}[[1988年ソウルオリンピック|1988年ソウル]] |冬用次夏 = {{flagicon|ESP}}[[1992年バルセロナオリンピック|1992年バルセロナ]] }} '''1992年アルベールビルオリンピック'''(1992ねんアルベールビルオリンピック)は、[[1992年]][[2月8日]]から[[2月23日]]まで[[フランス]]の[[サヴォワ県]][[アルベールヴィル]]で行われた[[冬季オリンピック]]。 64カ国・地域、1,801人(男子1,313人、女子488人)が参加した。 [[夏季オリンピック]]と同じ[[複偶数|4の倍数]]年([[子年]]、[[辰年]]、[[申年]])に開催された最後の冬季オリンピックであり、次の[[1994年リレハンメルオリンピック]]以後は[[半偶数|4で割り切れない偶数]]の西暦年([[FIFAワールドカップ]]の開催年であり、[[十二支]]は[[寅]]・[[午]]・[[戌]]のいずれか)に開かれている。また、スピードスケート競技を屋外スケートリンクで開催した最後の冬季オリンピックでもあった。 == 大会開催までの経緯 == 1992年アルベールビルオリンピックの開催は、[[1986年]][[10月17日]]に[[スイス]]の[[ローザンヌ]]で開かれた第91回[[国際オリンピック委員会総会]]で決定された。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small" |-bgcolor="#efefef" |+1992年冬季オリンピック 開催地投票 |- !都市 !国 !style="background-color:silver;"|1回目 !style="background-color:silver;"|2回目 !style="background-color:silver;"|3回目 !style="background-color:silver;"|4回目 !style="background-color:silver;"|5回目 !style="background-color:silver;"|6回目 |- |[[アルベールビル]]||{{FRA}} |19||'''26'''||'''29'''||'''42'''||-||'''51''' |- |[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]||{{BGR}} |'''25'''||25||28||24||-||25 |- |[[ファールン]]||{{SWE}} |10||11||11||11||'''41'''||9 |- |[[リレハンメル]]||{{NOR}} |10||11||9||11||40||- |- |[[コルティーナ・ダンペッツォ]]||{{ITA}} |7||6||7||-||-||- |- |[[アンカレッジ]]||{{USA}} |7||5||-||-||-||- |- |[[ベルヒテスガーデン]]||{{GER}} |6||-||-||-||-||- |- |} == ハイライト == 開会式および閉会式の演出は31歳の振付家・演出家、[[フィリップ・ドゥクフレ]]に委ねられた。夏・冬通してオリンピック初の夜の開会式。開会式では、一人の少女が一羽の鳩を空中に放ち「[[ラ・マルセイエーズ]]」を歌うオープニングから、空中ブランコや竹馬など[[サーカス]]の技、南仏の民族舞踊、アイスダンスなどによって人々が華麗に空を舞い練り歩く祝祭が繰り広げられた。 聖火の点火は冬季オリンピック史上初となる間接的な点火<ref group="注釈">導火線を用いたもの。</ref>となった<ref group="注釈">夏季では1980年から導入。</ref>。 [[ソビエト連邦の崩壊]]直後の開催となった本大会では、旧ソ連諸国のうち[[ロシア]]、[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ]]、[[カザフスタン]]、[[ウズベキスタン]]、[[アルメニア]]の6か国が[[オリンピックのEUN選手団|EUN]]という1つのチームになって参加した。 日本選手団は[[ノルディック複合]]・団体で[[1972年札幌オリンピック]]以来の金メダルを獲得した。 == 実施競技 == {{col| * [[スキー]] ** [[1992年アルベールビルオリンピックのアルペンスキー競技|アルペンスキー]] ** [[1992年アルベールビルオリンピックのクロスカントリースキー競技|クロスカントリースキー]] ** [[1992年アルベールビルオリンピックのフリースタイルスキー競技|フリースタイルスキー]] ** [[1992年アルベールビルオリンピックのスキージャンプ競技|スキージャンプ]] ** [[1992年アルベールビルオリンピックのノルディック複合競技|ノルディック複合]] * スケート ** [[1992年アルベールビルオリンピックのスピードスケート競技|スピードスケート]] ** [[1992年アルベールビルオリンピックのフィギュアスケート競技|フィギュアスケート]] ** [[1992年アルベールビルオリンピックのショートトラックスピードスケート競技|ショートトラックスピードスケート]] | * [[1992年アルベールビルオリンピックのアイスホッケー競技|アイスホッケー]] * [[1992年アルベールビルオリンピックのバイアスロン競技|バイアスロン]] * [[1992年アルベールビルオリンピックのボブスレー競技|ボブスレー]] * [[1992年アルベールビルオリンピックのリュージュ競技|リュージュ]] * [[オリンピック公開競技|公開競技]] ** [[1992年アルベールビルオリンピックのカーリング競技|カーリング]] ** [[1992年アルベールビルオリンピックのスピードスキー競技|スピードスキー]] }} == 各国・地域の獲得メダル数 == {{Main|1992年アルベールビルオリンピックのメダル受賞数一覧}} {| {{RankedMedalTable}} |- | 1||style="text-align:left"| {{flagIOC|GER|1992冬季}} ||10 ||10 || 6 || 26 |- | 2||style="text-align:left"| {{flagIOC|EUN|1992冬季}} || 9 || 6 || 8 || 23 |- | 3||style="text-align:left"| {{flagIOC|NOR|1992冬季}} || 9 || 6 || 5 || 20 |- | 4||style="text-align:left"| {{flagIOC|AUT|1992冬季}} || 6 || 7 || 8 || 21 |- | 5||style="text-align:left"| {{flagIOC|USA|1992冬季}} || 5 || 4 || 2 || 11 |- | 6||style="text-align:left"| {{flagIOC|ITA|1992冬季}} || 4 || 6 || 4 || 14 |- style="background-color:#ccccff" | 7||style="text-align:left"| {{flagIOC|FRA|1992冬季}}(開催国) || 3 || 5 || 1 || 9 |- | 8||style="text-align:left"| {{flagIOC|FIN|1992冬季}} || 3 || 1 || 3 || 7 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[[ヨハン・オラフ・コス]](ノルウェー、[[スピードスケート]]男子1500m) ** [[ボニー・ブレア]](アメリカ、[[スピードスケート]]女子500m) ** ボニー・ブレア(アメリカ、スピードスケート女子1000m) ** [[グンダ・ニーマン・シュティルネマン]]([[ドイツ]]、スピードスケート女子3000m) ** グンダ・ニーマン・シュティルネマン(ドイツ、スピードスケート女子5000m) ** [[ヴィクトール・ペトレンコ]](EUN、[[フィギュアスケート]]男子シングル) ** [[クリスティー・ヤマグチ]](アメリカ、フィギュアスケート女子シングル) ** [[マーク・キルヒナー]](ドイツ、[[バイアスロン]]男子10km) ** ドイツ(バイアスロン男子4×7.5kmリレー) ** [[ゲオルク・ハックル]]([[ドイツ]]、[[リュージュ]]男子1人乗り) * {{silver2}} 銀メダル ** [[黒岩敏幸]](日本、スピードスケート男子500m) ** [[伊藤みどり]](日本、フィギュアスケート女子シングル) ** [[オリビエ・アラマン]](フランス、[[フリースタイルスキー]]男子[[モーグル]]) ** アルベルト・トンバ(イタリア、アルペンスキー男子回転) ** [[ビョルン・ダーリ]](ノルウェー、クロスカントリースキー男子30kmクラシカル) ** ベーガル・ウルバン(ノルウェー、クロスカントリースキー男子複合(10kmクラシカル+15kmフリー)) ** ステファニア・ベルモンド(イタリア、クロスカントリースキー女子複合(5kmクラシカル+10kmフリー)) ** [[ヨハン・オラフ・コス]](ノルウェー、スピードスケート男子10000m) ** グンダ・ニーマン・シュティルネマン(ドイツ、スピードスケート女子1500m) ** マーク・キルヒナー(ドイツ、バイアスロン男子20km) * {{bronze3}} 銅メダル ** [[橋本聖子]](日本、スピードスケート女子1500m) ** [[井上純一 (スピードスケート選手)|井上純一]](日本、スピードスケート男子500m) ** [[宮部行範]](日本、スピードスケート男子1000m) ** [[石原辰義]]・[[河合季信]]・[[赤坂雄一]]・[[川崎努]](日本、ショートトラック男子5000mリレー) ** [[ネルソン・カーマイケル]](アメリカ、[[フリースタイルスキー]]男子[[モーグル]]) ** チェーティル・アンドレ・オーモット(ノルウェー、アルペンスキー男子大回転) ** [[カーチャ・サイツィンガー]](ドイツ、アルペンスキー女子スーパー大回転) ** イタリア(クロスカントリースキー女子4×5kmリレー) ** [[トニ・ニエミネン]](フィンランド、スキージャンプ男子[[ノーマルヒル]]) ** [[クラウディア・ペヒシュタイン]](ドイツ、スピードスケート女子5000m) == EUN == ドイツに次いでメダルを獲得した国・地域EUNは旧ソ連の統一チームである。詳細は[[オリンピックのEUN選手団|EUN]]。 == 死亡事故 == [[スピードスキー]]で[[スイス]]の選手{{仮リンク|ニコラ・ボシャテー|en|Nicolas Bochatay}}が決勝前の練習中に雪上車と激突、死亡した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} == 関連項目 == * [[国際オリンピック委員会]] * [[アルベールビルパラリンピック]] * [[プロジェクト:オリンピック]] * [[冬の恋人たち]] * [[アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル]] == 外部リンク == {{commonscat|1992 Winter Olympics}} * [https://www.olympic.org/albertville-1992 IOCアルベールビルオリンピック1992] {{en icon}} * [https://www.joc.or.jp/column/olympic/history/ JOCオリンピックの歴史] {{オリンピック}} {{1992年アルベールビルオリンピックの実施競技}} {{authority control}} {{デフォルトソート:あるへえるひるおりんひつく}} [[Category:冬季オリンピックの歴代大会|1992]] [[Category:1992年アルベールビルオリンピック|*]]
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1988年カルガリーオリンピック
1988年カルガリーオリンピック(1988ねんカルガリーオリンピック)は、1988年2月13日から2月28日までカナダのカルガリーで行われた冬季オリンピック。 前回の1984年サラエボ大会まで冬季オリンピックの開催期間は12日間であったが、今大会より夏季オリンピックと同様に4日間延長の合計16日間で開催される事となった。 カルガリーは1964年~1972年に3回開催地に立候補していたがいずれも敗れ、1988年の開催を目指して再立候補し1981年9月30日に西ドイツのバーデン=バーデンで開かれた第84回国際オリンピック委員会総会で決定された。 スキージャンプでは、フィンランドのマッチ・ニッカネンが大活躍した。ニッカネンは、個人戦の70m級、90m級だけでなく団体戦もフィンランドチームで金メダルを獲得してジャンプでは史上唯一の三冠に輝いた。さらにこの大会では個人2種目とも最下位に終わったが、ジャンプ選手のほとんどいないイギリスから参加したマイケル・エドワーズが最も注目を集めた。 冬季オリンピック史上、初めてスピードスケート競技が屋内(オリンピックオーバル)で開催された大会でもある。屋内での開催となったことで、風や気温変動による氷の状態の変化などに左右されにくくなったことや、構造上直線部分が増えたこともあり好記録が続出した。 またボブスレー競技4人乗りに国内に競技施設を持たず、雪も降らない中米のジャマイカチームが初参加しこのエピソードから映画『クール・ランニング』が制作された。 フィギュアスケートにおいて日本の伊藤みどりが、当時の女子で最高難易度レベルのジャンプを連発し地元メディアに「flying woman(空飛ぶ女性)」と紹介され一躍人気を集めた。伊藤は、決勝では5位に終わったが、多くのファンからの要望でエキシビションに登場した。メダリストを差し置いてトリを飾ったという逸話がある。また、公開競技であるが、ショートトラックスピードスケート女子3000mで獅子井英子が金メダルを獲得した。 1976年のモントリオールオリンピック同様、開催国であるカナダの選手は金メダルを獲得していない上、自国開催で夏季、冬季ともに金メダルを取れなかった最初の国となった。なお、カナダの選手が自国開催のオリンピックで金メダルを獲得するのは2010年バンクーバーオリンピックまで22年待つこととなる。 開会宣言はモントリオール大会とは異なりエリザベス2世ではなく、カナダのジャンヌ・ソーベ総督が行っていた。 ソ連が参加した最後の冬季オリンピックでもあった。 ペアの白くまをモチーフにした「ハイデイ・ハウデイ」 "Winter Games" / David Foster 『モーターランド2』(テレビ愛知)や松島ハーフマラソンなど、現在でもテレビ番組などのテーマ曲に使われることが多い。 アメリカはカリフォルニアのパサデナで行われるローズ・パレードで、国際的に一躍有名になったマーチング・バンドの京都橘高校吹奏楽部が、ステージ・ドリルでの定番曲としても有名。 オーストリアのチームドクターが雪上車にひかれて死亡した。
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1988年カルガリーオリンピック(1988ねんカルガリーオリンピック)は、1988年2月13日から2月28日までカナダのカルガリーで行われた冬季オリンピック。 前回の1984年サラエボ大会まで冬季オリンピックの開催期間は12日間であったが、今大会より夏季オリンピックと同様に4日間延長の合計16日間で開催される事となった。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1988年カルガリーオリンピック |英称・別称 = 第15回オリンピック冬季競技大会<br />VX Olympic Winter Games |画像 = Canada olympic park summer 2005.jpeg |ロゴ = |開催都市 = {{CAN}} [[カルガリー]] |参加国・地域数 = 57 |参加人数 = 1,423人(男子1,122人、女子301人) |競技種目数 = 6競技46種目 |開会式 = [[1988年]][[2月13日]] |閉会式 = [[1988年]][[2月28日]] |開会宣言 = [[ジャンヌ・ソーベ]][[カナダの総督|総督]] |選手宣誓 = [[ピエール・ハーベイ]] |審判宣誓 = Suzanna Morrow-Francis |最終聖火ランナー = [[ロビン・ペリー]] |主競技場 = [[マクマーンスタジアム]] |冬用前冬 = [[1984年サラエボオリンピック|1984年サラエボ]] |冬用次冬 = [[1992年アルベールビルオリンピック|1992年アルベールビル]] |冬用前夏 = [[1984年ロサンゼルスオリンピック|1984年ロサンゼルス]] |冬用次夏 = [[1988年ソウルオリンピック|1988年ソウル]] }} '''1988年カルガリーオリンピック'''(1988ねんカルガリーオリンピック)は、[[1988年]]([[昭和]]63年)[[2月13日]]から[[2月28日]]まで[[カナダ]]の[[カルガリー]]で行われた[[冬季オリンピック]]。 前回の[[1984年サラエボオリンピック|1984年サラエボ]]大会まで冬季オリンピックの開催期間は12日間であったが、今大会より[[夏季オリンピック]]と同様に4日間延長の合計16日間で開催される事となった。 == 大会開催までの経緯 == カルガリーは[[1964年]]~[[1972年]]に3回開催地に立候補していたがいずれも敗れ、1988年の開催を目指して再立候補し[[1981年]][[9月30日]]に[[西ドイツ]]の[[バーデン=バーデン]]で開かれた第84回[[国際オリンピック委員会総会]]で決定された。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small" |-bgcolor="#efefef" |+1988年冬季オリンピック 開催地投票 |- !都市 !国 !style="background-color:silver;"|1回目 !style="background-color:silver;"|2回目 |- |[[カルガリー]]||{{CAN}} |'''35'''||'''48''' |- |[[ファールン]]||{{SWE}} |25||31 |- |[[コルティーナ・ダンペッツォ]]||{{ITA}} |18||- |- |} == ハイライト == [[1988年カルガリーオリンピックのスキージャンプ競技|スキージャンプ]]では、[[フィンランド]]の[[マッチ・ニッカネン]]が大活躍した。ニッカネンは、個人戦の70m級、90m級だけでなく団体戦もフィンランドチームで金メダルを獲得してジャンプでは史上唯一の三冠に輝いた。さらにこの大会では個人2種目とも最下位に終わったが、ジャンプ選手のほとんどいないイギリスから参加した[[マイケル・エドワーズ]]が最も注目を集めた。 冬季オリンピック史上、初めて[[スピードスケート]]競技が屋内([[オリンピックオーバル]])で開催された大会でもある。屋内での開催となったことで、風や気温変動による氷の状態の変化などに左右されにくくなったことや、構造上直線部分が増えたこともあり好記録が続出した。 また[[ボブスレー]]競技4人乗りに国内に競技施設を持たず、雪も降らない中米の[[ジャマイカ]]チームが初参加しこのエピソードから映画『[[クール・ランニング]]』が制作された。 [[フィギュアスケート]]において日本の[[伊藤みどり]]が、当時の女子で最高難易度レベルのジャンプを連発し地元メディアに「flying woman(空飛ぶ女性)」と紹介され一躍人気を集めた。伊藤は、決勝では5位に終わったが、多くのファンからの要望で[[エキシビション]]に登場した。メダリストを差し置いてトリを飾ったという逸話がある。また、公開競技であるが、[[ショートトラックスピードスケート]]女子3000mで[[獅子井英子]]が金メダルを獲得した。 [[1976年モントリオールオリンピック|1976年のモントリオールオリンピック]]同様、開催国であるカナダの選手は金メダルを獲得していない上、自国開催で夏季、冬季ともに金メダルを取れなかった最初の国となった。なお、カナダの選手が自国開催のオリンピックで金メダルを獲得するのは[[2010年バンクーバーオリンピック]]まで22年待つこととなる。 開会宣言はモントリオール大会とは異なり[[エリザベス2世]]ではなく、カナダのジャンヌ・ソーベ[[カナダの総督|総督]]が行っていた。 [[ソビエト連邦|ソ連]]が参加した最後の冬季オリンピックでもあった。 == 実施競技 == {{col| *[[1988年カルガリーオリンピックのアイスホッケー競技|アイスホッケー]] *[[1988年カルガリーオリンピックのアルペンスキー競技|アルペンスキー]] *[[1988年カルガリーオリンピックのクロスカントリースキー競技|クロスカントリースキー]] *[[1988年カルガリーオリンピックのスキージャンプ競技|スキージャンプ]] *[[1988年カルガリーオリンピックのスピードスケート競技|スピードスケート]] *[[1988年カルガリーオリンピックのノルディック複合競技|ノルディック複合]] *[[1988年カルガリーオリンピックのバイアスロン競技|バイアスロン]] | *[[1988年カルガリーオリンピックのフィギュアスケート競技|フィギュアスケート]] *[[1988年カルガリーオリンピックのボブスレー競技|ボブスレー]] *[[1988年カルガリーオリンピックのリュージュ競技|リュージュ]] *[[1988年カルガリーオリンピックのカーリング競技|カーリング]]([[オリンピック公開競技|公開競技]]) *[[1988年カルガリーオリンピックのショートトラックスピードスケート競技|ショートトラックスピードスケート]](公開競技) *[[1988年カルガリーオリンピックのフリースタイルスキー競技|フリースタイルスキー]](公開競技) }} == 競技会場 == *[[マクマーン・スタジアム]](開・閉会式) *オリンピックオーバル(スピードスケート) *[[スコシアバンク・サドルドーム|オリンピック・サドルドーム]](現・スコシアバンク・サドルドーム、フィギュアスケート、アイスホッケー) *ファーザー・デビッド・バウアー・オリンピック・アリーナ(アイスホッケー) *[[カナダ・オリンピック・パーク]](ボブスレー、リュージュ、スキージャンプ、ノルディック複合(飛躍)) *キャンモア・ノルディック・センター州立公園(クロスカントリースキー、ノルディック複合(距離)、バイアスロン) *マックス・ベル・センター(ショートトラックスピードスケート) *ナキスカ(アルペンスキー、フリースタイルスキー) *スタンピード・コラール == 各国・地域の獲得メダル数 == {{Main|1988年カルガリーオリンピックのメダル受賞数一覧}} {| {{RankedMedalTable}} |- | 1||style="text-align:left"| {{flagIOC|URS|1988冬季}} || 11|| 9 || 9 || 29 |- | 2||style="text-align:left"| {{flagIOC|GDR|1988冬季}} || 9 ||10 || 6 || 25 |- | 3||style="text-align:left"| {{flagIOC|SUI|1988冬季}} || 5 || 5 || 5 || 15 |- | 4||style="text-align:left"| {{flagIOC|FIN|1988冬季}} || 4 || 1 || 2 || 7 |- | 5||style="text-align:left"| {{flagIOC|SWE|1988冬季}} || 4 || 0 || 2 || 6 |- | 6||style="text-align:left"| {{flagIOC|AUT|1988冬季}} || 3 || 5 || 2 || 10 |- | 7||style="text-align:left"| {{flagIOC|NED|1988冬季}} || 3 || 2 || 2 || 7 |- | 8||style="text-align:left"| {{flagIOC|FRG|1988冬季}} || 2 || 4 || 2 || 8 |- | 9||style="text-align:left"| {{flagIOC|USA|1988冬季}} || 2 || 1 || 3 || 6 |- |10||style="text-align:left"| {{flagIOC|ITA|1988冬季}} || 2 || 1 || 2 || 5 |- style="background:#ccccff" |13||style="text-align:left"| {{flagIOC|CAN|1988冬季}}(開催国) || 0 || 2 || 3 || 5 |} == 主なメダリスト == * {{gold1}} 金メダル ** [[ピルミン・ツルブリッゲン]]([[スイス]]、[[アルペンスキー]]男子[[滑降]]) ** [[アルベルト・トンバ]]([[イタリア]]、[[アルペンスキー]]男子回転、大回転) ** [[フレニ・シュナイダー]]([[スイス]]、[[アルペンスキー]]女子回転、大回転) ** [[マッチ・ニッカネン]]([[フィンランド]]、[[スキージャンプ]]男子70m級個人、90m級個人) ** [[トーマス・グスタフソン]]([[スウェーデン]]、[[スピードスケート]]男子5000m、10000m) ** [[ボニー・ブレア]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、スピードスケート女子500m) ** [[ブライアン・ボイタノ]](アメリカ、[[フィギュアスケート]]男子シングル) ** [[カタリナ・ヴィット]]([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、フィギュアスケート女子シングル) * {{silver2}} 銀メダル ** [[ライサ・スメタニナ]]([[ソビエト連邦]]、[[クロスカントリースキー]]女子10km) ** [[ゲオルク・ハックル]]([[西ドイツ]]、[[リュージュ]]男子1人乗り) * {{bronze3}} 銅メダル ** [[黒岩彰]](日本、スピードスケート男子500m) ** [[ベーガル・ウルバン]]([[ノルウェー]]、クロスカントリースキー男子30km) ** ライサ・スメタニナ(ソビエト連邦、クロスカントリースキー女子20km) ** ボニー・ブレア(アメリカ、スピードスケート女子1000m) ** [[ヴィクトール・ペトレンコ]](ソビエト連邦、フィギュアスケート男子シングル) == マスコット == ペアの白くまをモチーフにした「'''ハイデイ・ハウデイ'''」 == 公式テーマ曲 == '''"Winter Games" / [[デイヴィッド・フォスター|David Foster]]''' 『[[モーターランド|モーターランド2]]』([[テレビ愛知]])や[[松島ハーフマラソン大会|松島ハーフマラソン]]など、現在でもテレビ番組などのテーマ曲に使われることが多い。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]は[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]の[[パサデナ (カリフォルニア州)|パサデナ]]で行われる[[ローズ・パレード]]で、国際的に一躍有名になった[[マーチングバンド|マーチング・バンド]]の[[京都橘中学校・高等学校|京都橘高校]]吹奏楽部が、ステージ・ドリルでの定番曲としても有名。 == 死亡事故 == [[オーストリア]]のチームドクターが雪上車にひかれて死亡した。 == 関連項目 == * [[1988年カルガリーオリンピックにおける懸念と論争]] * [[国際オリンピック委員会]] * [[冬季オリンピック]] * [[インスブルックパラリンピック (1988年)]] * [[プロジェクト:オリンピック]] * [[クール・ランニング]] * [[イーグル・ジャンプ]] == 外部リンク == {{commonscat|1988 Winter Olympics}} * [https://www.olympic.org/calgary-1988 IOC Calgary 1988] {{en icon}} * [https://www.joc.or.jp/column/olympic/history/ JOCオリンピックの歴史] {{オリンピック}} {{1988年カルガリーオリンピックの実施競技}} {{CND-stub}} {{Olympic-stub}} {{authority control}} {{デフォルトソート:かるかりおりんひつく}} [[Category:冬季オリンピックの歴代大会|1988]] [[Category:1988年カルガリーオリンピック|*]]
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1984年サラエボオリンピック
1984年サラエボオリンピック(1984ねんサラエボオリンピック)は、1984年(昭和59年)2月8日から2月19日までユーゴスラビア社会主義連邦共和国(現:ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボで行われた冬季オリンピック。社会主義国でオリンピックが開催されるのは1980年のモスクワ大会以来であり、冬季オリンピックでは初の開催であった。規定の変更により、入賞枠が6位から8位までに拡大された初の冬季オリンピック大会となった。 ブチコ(ユーゴスラビアに生息したとされる伝説のオオカミがモチーフ。) サラエボオリンピックの開催は1978年5月18日にギリシアのアテネで開かれた第80回国際オリンピック委員会総会で決定された。 サラエボ、イェーテボリ(スウェーデン)、12年ぶり2度目の開催を目指す札幌(日本)の3都市が立候補し、終盤まで激しい誘致合戦が繰り広げられた。既存の施設がほとんど利用できるとされた札幌が一時は最有力とも伝えられ、実際IOC委員による第1回目の投票では最も多い票数を獲得していたが、結局、大会会場をコンパクトに集約したサラエボが決選投票で逆転し開催権を獲得した。
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1984年サラエボオリンピック(1984ねんサラエボオリンピック)は、1984年(昭和59年)2月8日から2月19日までユーゴスラビア社会主義連邦共和国のサラエボで行われた冬季オリンピック。社会主義国でオリンピックが開催されるのは1980年のモスクワ大会以来であり、冬季オリンピックでは初の開催であった。規定の変更により、入賞枠が6位から8位までに拡大された初の冬季オリンピック大会となった。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1984年サラエボオリンピック |英称・別称 = 第14回オリンピック冬季競技大会<br/>XIV Olympic Winter Games<br/>XIV Зимске олимпијске игре |画像 = 1984 Winter Olympics opening ceremony at Koševo Stadium, Sarajevo.jpg |画像サイズ = 290px |画像の説明 = 開会式 |ロゴ = |開催都市 = {{YUG45}} [[サラエヴォ|サラエボ]] |参加国・地域数 = 94 |参加人数 = 3200人(男子1999人、女子1201人) |競技種目数 = 7競技112種目 |開会式 = [[1984年]][[2月8日]] |閉会式 = [[1984年]][[2月20日]] |開会宣言 = [[:en:Mika Špiljak|ミカ・シュピユリャク]][[:en:Presidency of Yugoslavia|大統領評議会]][[:en:President of the Presidency of Yugoslavia|大統領]] |選手宣誓 = [[ボヤユン・クリジャイ]] |審判宣誓 = [[ドラユガン・ペロヴィッチ]] |最終聖火ランナー = [[サユンダ・ドゥブラヴチッチ]] |主競技場 = [[アシム・フェルハトヴィッチ・ハセ競技場]] |冬用前冬 = [[1980年レークプラシッドオリンピック|1980年レークプラシッド]] |冬用次冬 = [[1988年カルガリーオリンピック|1988年カルガリー]] |冬用前夏 = [[1984年ロサンゼルスオリンピック|1984年ロサンゼルス]] |冬用次夏 = [[1988年ソウルオリンピック|1988年ソウル]] }} '''1984年サラエボオリンピック'''(1984ねんサラエボオリンピック)は、[[1984年]]([[昭和]]59年)[[2月8日]]から[[2月19日]]まで[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]](現:[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]])の[[サラエヴォ|サラエボ]]で行われた[[冬季オリンピック]]。[[社会主義国]]でオリンピックが開催されるのは[[1980年]]の[[1980年モスクワオリンピック|モスクワ大会]]以来であり、冬季オリンピックでは初の開催であった。規定の変更により、入賞枠が6位から8位までに拡大された初の冬季オリンピック大会となった。 == マスコット == '''ブチコ'''(ユーゴスラビアに生息したとされる伝説のオオカミがモチーフ。) == 大会開催までの経緯 == サラエボオリンピックの開催は[[1978年]][[5月18日]]に[[ギリシア]]の[[アテネ]]で開かれた第80回[[国際オリンピック委員会総会]]で決定された。 サラエボ、[[イェーテボリ]]([[スウェーデン]])、12年ぶり2度目の開催を目指す[[札幌市|札幌]]([[日本]])の3都市が立候補し、終盤まで激しい誘致合戦が繰り広げられた。既存の施設がほとんど利用できるとされた札幌が一時は最有力とも伝えられ、実際IOC委員による第1回目の投票では最も多い票数を獲得していたが、結局、大会会場をコンパクトに集約したサラエボが決選投票で逆転し開催権を獲得した。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small" |-bgcolor="#efefef" |+1984年冬季オリンピック 開催地投票 |- !都市 !国 !style="background-color:silver;"|1回目 !style="background-color:silver;"|2回目 |- |[[サラエヴォ|サラエボ]]||{{YUG45}} |31||'''39''' |- |[[札幌市|札幌]]||{{JPN}} |'''33'''||36 |- |[[ヨーテボリ]]||{{SWE}} |10||- |- |} == ハイライト == * [[社会主義国|共産圏]]で初めて冬季オリンピックが開催された。 * [[フアン・アントニオ・サマランチ]]がIOC会長に就任してから最初のオリンピックとなった。 * [[クロスカントリースキー]]女子20kmが新種目となった。 * [[アルペンスキー]]男子大回転で、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]の{{仮リンク|ユーレ・フランコ|en|Jure Franko}}が銀メダルを獲得したことにより同国初の冬季オリンピックメダリストになった(当大会唯一のユーゴスラビアの獲得メダル)。 * [[フィンランド]]の[[マルヤ=リーサ・キルヴェスニエミ|マルヤ=リーサ・ハマライネン]]が5km、10km、20kmで金メダルを獲得したことにより、女子クロスカントリースキー個人種目完全制覇を成し遂げた。 * [[スピードスケート]]女子種目で、東ドイツが全種目制覇を成し遂げた。 * [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フィリップ・メーア]]と[[スティーヴ・メーア]]の[[双子]]の兄弟がアルペンスキー回転種目で金銀を獲得。 * 閉会式はフィギュアスケートの会場で催された。 == 実施競技と競技日程 == {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !colspan="2"|競技名 / 日付!!style="width:1.5em"|7!!style="width:1.5em"|8!!style="width:1.5em"|9!!style="width:1.5em"|10!!style="width:1.5em"|11!!style="width:1.5em"|12!!style="width:1.5em"|13!!style="width:1.5em"|14!!style="width:1.5em"|15!!style="width:1.5em"|16!!style="width:1.5em"|17!!style="width:1.5em"|18!!style="width:1.5em"|19 |- |colspan="2"|開会式/閉会式 | ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|• |- |rowspan="4"|[[スキー]]||style="text-align:left"|[[1984年サラエボオリンピックのアルペンスキー競技|アルペンスキー]]|| || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[1984年サラエボオリンピックのクロスカントリースキー競技|クロスカントリースキー]]|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[1984年サラエボオリンピックのスキージャンプ競技|スキージャンプ]]|| || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1984年サラエボオリンピックのノルディック複合競技|ノルディック複合]]|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || 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||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |[[リュージュ]]||style="text-align:left"|[[1984年サラエボオリンピックのリュージュ競技|リュージュ]]|| || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || |- |[[アイスホッケー]]||style="text-align:left"|[[1984年サラエボオリンピックのアイスホッケー競技|アイスホッケー]]||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|• |} == 各国・地域のメダル獲得数 == {{main|1984年サラエボオリンピックのメダル受賞数一覧}} {| {{RankedMedalTable}} |- | 1||style="text-align:left"| {{flagIOC|GDR|1984冬季}} || 9 || 9 || 6 || 24 |- | 2||style="text-align:left"| {{flagIOC|URS|1984冬季}} || 6 ||10 || 9 || 25 |- | 3||style="text-align:left"| {{flagIOC|USA|1984冬季}} || 4 || 4 || 0 || 8 |- | 4||style="text-align:left"| {{flagIOC|FIN|1984冬季}} || 4 || 3 || 6 || 13 |- | 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[[アンドレア・シェーネ]](東ドイツ、スピードスケート女子3000m) ** [[カタリナ・ヴィット]](東ドイツ、[[フィギュアスケート]]女子シングル) ** [[ジェーン・トービル]]、[[クリストファー・ディーン]]([[イギリス]]、フィギュアスケート[[アイスダンス]]ペア) * {{silver2}} 銀メダル ** [[北沢欣浩]](日本、スピードスケート男子500m) ** [[ペーター・ミュラー]]([[スイス]]・[[アルペンスキー]]男子[[滑降]]) ** [[スティーヴ・メーア]](アメリカ、アルペンスキー男子回転) ** [[ライサ・スメタニナ]]([[ソビエト連邦]]、[[クロスカントリースキー]]女子10km) ** ライサ・スメタニナ(ソビエト連邦、クロスカントリースキー女子20km) ** マッチ・ニッカネン(フィンランド、スキージャンプ男子70m級個人) ** トーマス・グスタフソン(スウェーデン、スピードスケート男子10000m) ** カリン・エンケ(東ドイツ、スピードスケート女子500m) ** アンドレア・シェーネ(東ドイツ、スピードスケート女子1000m) ** アンドレア・シェーネ(東ドイツ、スピードスケート女子1500m) ** カリン・エンケ(東ドイツ、スピードスケート女子3000m) * {{bronze3}} 銅メダル ** [[ガビエ・シェンプルン]](東ドイツ、スピードスケート女子3000m) == その他 == * 大会後に勃発した[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]でメインスタジアムなど多くの競技施設が破壊され、墓場になった場所まであった。破壊された施設は戦後に再建されたものもあるが、大半の競技場が放置され現在も廃墟と化している<ref>[http://jp.reuters.com/news/sports/rpSlideshows?articleId=JPRTX14RO5#a=1 Sarajevo's decaying Olympic venues Reuters.com]</ref>。 * [[第一次世界大戦]]前の[[オーストリア=ハンガリー帝国]]による占領政策を恨んだ一部の地元住民が[[オーストリア]]代表チームに妨害行為を働いた。民間警備員がジャンプ代表選手を殴打する、閉会後に民衆が代表宿舎を襲撃し[[投石]]するなどが行われ、競技どころでなくなったオーストリア代表は冬季スポーツの強豪ながらわずか銅メダル1つと惨敗を喫した。 * サラエボは[[2010年]]に2回目の冬季オリンピックを開催しようと立候補したが、一次選考で落選した。また[[2018年]]大会にも立候補する意欲を示したが、最終的に立候補を断念している。 == 関連項目 == * [[国際オリンピック委員会]] * [[冬季オリンピック]] * [[スケンデリヤ]]-大会のフィギュアスケート競技およびアイスホッケー競技が行なわれた会場。 * [[インスブルックパラリンピック (1984年)]] * [[プロジェクト:オリンピック]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == {{commonscat|1984 Winter Olympics}} * [https://www.olympic.org/sarajevo-1984 IOC Sarajevo 1984 Page] * [https://www.joc.or.jp/column/olympic/history/ JOCオリンピックの歴史] {{Olympic-stub}} {{BIH-stub}} {{オリンピック}} {{1984年サラエボオリンピックの実施競技}} {{Authority control}} {{デフォルトソート:さらえほおりんひつく1984}} [[Category:1984年サラエボオリンピック|*]] [[Category:冬季オリンピックの歴代大会|1984]] [[Category:ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]
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1980年レークプラシッドオリンピック
1980年レークプラシッドオリンピック(1980ねんレークプラシッドオリンピック)は、1980年2月13日から2月24日までアメリカ合衆国ニューヨーク州のレークプラシッドで行われた冬季オリンピック。 レークプラシッドでは1932年にオリンピックが開かれた後、1963年7月8日にアメリカ下院で1968年冬季オリンピックの招致が可決、上院の議決を経て立候補がされたが、フランスのグルノーブルに敗れた。 1972年11月11日には、1976年のオリンピック開催をデンバーが返上したため立候補を表明した。代替地候補であったソルトレイクシティが立候補を取り下げたため、アメリカオリンピック委員会が立候補させてよい意向を示し翌31日にIOCに対してアメリカオリンピック委員会より立候補の申請がなされたが、2月1日にIOCのスポークスマンは1月15日が開催希望地の締め切り日であり、レークプラシッドからの公式の通達が来ていないと否定的なコメントが出された。2月4日のIOC理事会でインスブルックに敗れ、1980年の冬季オリンピック誘致を目指した。1974年3月31日に締め切られた立候補は、レークプラシッド以外にフランスのシャモニー、カナダのバンクーバー=ガリバルディであった。その後他の地域は立候補を取り下げ、同年10月23日にオーストリアのウィーンで行われたIOC総会で1980年モスクワオリンピックと同時に開催が決定した。この時、対立候補地はなく無競争で承認がされた。 7億5000万ドルかかった1972年札幌オリンピックに対して1932年レークプラシッドオリンピックでも使用した世界初の室内スケート場と言われたオリンピックアリーナ(アイスホッケー用)やスピードスケートの施設を有効利用した。ジャンプ台は90メートル級を新設、当初既存の施設を補修する予定だった70メートル級ジャンプ台も新設された。この際、建設費削減の為70メートル級と90メートル級のジャンプ台が初めて併設の形になった。オリンピックアリーナに併設されて人口2700人の町にはふさわしくない8000人収容のオリンピック・センターも新設された。アルペンスキーは、町の中心地から北東に13km離れた標高1460メートルのホワイトフェース山で行われ、ボブスレーとリュージュの施設も新設された。ただし周囲の町も含めても宿泊施設が不足し、観客は60kmから100kmほど離れたモントリオールやバーモント州に宿泊しなければならないことが予期された。ノルディックスキーは、南へ7kmのバン・ホーベンベルク山で開催された。 前年の1979年に行われたプレ五輪では、2月11日に氷点下25度であったため国際スキー連盟の規則である氷点下20度以下であった場合、競技を開始しない規定に基づきスキーのリレー競技が中止となった。 選手村は、新設刑務所建設の予算で建てられた。5つの刑務所の建物だけでは、選手は入りきれずトレーラーハウスも用意され1932年ロサンゼルスオリンピックで選手村制度ができて以来、金網で隔てられるなど男女に分かれていた選手村が一緒になった。 冬季オリンピック史上初めて中国が出場し、人工降雪機が採用されたのも初であった。なお、デンマークだけは選手の水準不足でメダルを獲得する可能性がないという理由で不参加であった。 レークプラシッドでは上記の通り1932年以来、2回目のオリンピック開催となった。アメリカ国内での開催も1960年の1960年スコーバレーオリンピック以来、20年ぶり3回目の冬季オリンピックだった。 聖火リレーは1月30日にギリシャのオリンピアで採火式が行われた後、アメリカ大統領専用機でバージニア州のラングレー空軍基地に到着、延べ1600kmを二手に分かれて、9日間52人のランナーでリレーされ、2月8日午後8時11分にオリンピック・スケート会場に到着した。 サイラス・ヴァンス国務長官のスピーチがモスクワ大会を非難する内容であったため、開会式をモスクワオリンピック組織委員会委員長のソ連のノビコフ副首相らがこれをボイコットした。 スピードスケートでアメリカのエリック・ハイデンが5種目完全制覇の偉業を成し遂げた。距離別のスペシャリスト化が始まっていた中、空前絶後の記録である。タイム差もかなりあり、危なげない5冠達成であった。銀メダルは1500mと5000mが同じ選手だったため4人。そのうち2人は1976年インスブルックオリンピックの金メダリストで、1人は1984年サラエボオリンピックで二冠を達成している。この大会でのアメリカの金メダルはハイデンの5個と最終日のアイスホッケーで計6個であった。 最終日に行われたアイスホッケー競技の決勝リーグ戦では、2月22日の試合でソ連を4-3で破った大学生で構成されたアメリカチームが(カーター大統領は、ソ連を破った2月22日にチームを2月25日にホワイトハウスへ招待すると祝電を打った。)フィンランドを破り、20年ぶりの金メダルを手にした。それまで、同種目を4連覇し無敵と称されたソ連チームを準決勝で破った上での栄冠であり、後に氷上の奇跡と称される歓喜のフィナーレとなった。 前年の1979年に起きたソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻に対して、当時アメリカのジミー・カーター大統領が同年夏の1980年モスクワオリンピックにボイコットの方針を表明して賛否両論の議論を巻き起こしていた。レークプラシッド大会終了後、カーター大統領は五冠のハイデンやホッケー選手ら今大会の英雄を昼食会に招いたが、その場で彼らにボイコット反対を表明されるしっぺ返しを受けてしまった。 なお、不参加の噂もあったソ連選手団は2月4日に第一陣が入村するなど参加している。 一方、イラン革命によりパフラヴィー朝のイラン王国が崩壊し、1979年2月にイラン・イスラム共和国が成立していたイランでは同年11月に起きたイランアメリカ大使館人質事件が継続中で、対米関係は極度に悪化していた。その外交的背景もあり、王国時代の1964年インスブルックオリンピックから4大会連続で冬季オリンピック大会に参加していたイラン選手団は本大会に参加しなかった。 ロニ(アライグマがモチーフとなっている。)
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1980年レークプラシッドオリンピック(1980ねんレークプラシッドオリンピック)は、1980年2月13日から2月24日までアメリカ合衆国ニューヨーク州のレークプラシッドで行われた冬季オリンピック。
{{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1980年レークプラシッドオリンピック |英称・別称 = 第13回オリンピック冬季競技大会<br/>XIII Olympic Winter Games |画像 = MacKenzie Intervale Ski Jumping Complex in 1980.jpg |ロゴ = |開催都市 = {{USA}} [[レークプラシッド (ニューヨーク州)|レークプラシッド]] |参加国・地域数 = 37 |参加人数 = 1,072人(男子839人、女子233人) |競技種目数 = 6競技38種目 |開会式 = [[1980年]][[2月13日]] |閉会式 = [[1980年]][[2月24日]] |開会宣言 = [[ウォルター・モンデール]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]] |選手宣誓 = [[エリック・ハイデン]] |審判宣誓 = [[テリー・マクダーモット]] |最終聖火ランナー = [[チャールズ・カー]] |主競技場 = [[レークプラシッド・エクウェストリアン・スタジアム]](開会式)<br />[[オリンピック・センター・アリーナ]](閉会式) |冬用前冬 = [[1976年インスブルックオリンピック|1976年インスブルック]] |冬用次冬 = [[1984年サラエボオリンピック|1984年サラエボ]] |冬用前夏 = [[1976年モントリオールオリンピック|1976年モントリオール]] |冬用次夏 = [[1980年モスクワオリンピック|1980年モスクワ]] }} '''1980年レークプラシッドオリンピック'''(1980ねんレークプラシッドオリンピック)は、[[1980年]]([[昭和]]55年)[[2月13日]]から[[2月24日]]まで[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]]の[[レークプラシッド (ニューヨーク州)|レークプラシッド]]で行われた[[冬季オリンピック]]。 == 大会開催までの経緯 == レークプラシッドでは1932年に[[1932年レークプラシッドオリンピック|オリンピック]]が開かれた後、1963年7月8日に[[アメリカ下院]]で[[1968年グルノーブルオリンピック|1968年冬季オリンピック]]の招致が可決<ref>レークプラシッド招致可決 冬季五輪で米下院 [[読売新聞]] 1963年7月10日朝刊6ページ</ref>、上院の議決を経て立候補がされたが、フランスの[[グルノーブル]]に敗れた。 1972年11月11日には、[[1976年インスブルックオリンピック|1976年のオリンピック]]開催を[[デンバー]]が返上したため立候補を表明した<ref>レークプラシッド 正式に立候補 冬季五輪の代替地に 読売新聞 1972年11月13日朝刊 18ページ</ref>。代替地候補であった[[ソルトレイクシティ]]が立候補を取り下げたため、[[アメリカオリンピック委員会]]が立候補させてよい意向を示し翌31日に[[国際オリンピック委員会|IOC]]に対してアメリカオリンピック委員会より立候補の申請がなされたが、2月1日にIOCのスポークスマンは1月15日が開催希望地の締め切り日であり、レークプラシッドからの公式の通達が来ていないと否定的なコメントが出された<ref>レークプラシッド指名 1976年冬季五輪で米委員会 1973年2月2日 読売新聞 朝刊19ページ</ref>。2月4日のIOC理事会で[[インスブルック]]に敗れ、1980年の冬季オリンピック誘致を目指した<ref>80年大会誘致めざす レークプラシッド 読売新聞 1973年2月17日 朝刊19ページ</ref>。1974年3月31日に締め切られた立候補は、レークプラシッド以外にフランスの[[シャモニー]]、カナダの[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]=ガリバルディであった<ref>開催地候補締め切る 1980年オリンピック 読売新聞 1974年4月2日 朝刊15ページ</ref>。その後他の地域は立候補を取り下げ、同年10月23日に[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で行われたIOC総会で[[1980年モスクワオリンピック]]と同時に開催が決定した。この時、対立候補地はなく無競争で承認がされた<ref>80年五輪モスクワで IOC決定 冬季はレークプラシッド=米 読売新聞 1974年10月24日 朝刊1ページ</ref>。 7億5000万ドルかかった[[1972年札幌オリンピック]]に対して[[1932年レークプラシッドオリンピック]]でも使用した世界初の室内スケート場と言われたオリンピックアリーナ([[アイスホッケー]]用)やスピードスケートの施設を有効利用した。ジャンプ台は90メートル級を新設、当初既存の施設を補修する予定だった70メートル級ジャンプ台も新設された。この際、建設費削減の為70メートル級と90メートル級のジャンプ台が初めて併設の形になった。オリンピックアリーナに併設されて人口2700人の町にはふさわしくない8000人収容のオリンピック・センターも新設された。[[アルペンスキー]]は、町の中心地から北東に13km離れた標高1460メートルのホワイトフェース山で行われ、[[ボブスレー]]と[[リュージュ]]の施設も新設された。ただし周囲の町も含めても宿泊施設が不足し、観客は60kmから100kmほど離れた[[モントリオール]]や[[バーモント州]]に宿泊しなければならないことが予期された<ref>1980年冬季五輪あと100日 レークプラシッド 早くも開会式リハーサル 読売新聞 1979年11月6日 読売新聞 17ページ</ref>。ノルディックスキーは、南へ7kmのバン・ホーベンベルク山で開催された<ref>2度目の冬季五輪開催 レークプラシッド 読売新聞 1974年10月24日 朝刊18ページ</ref>。 前年の1979年に行われたプレ五輪では、2月11日に氷点下25度であったため[[国際スキー連盟]]の規則である氷点下20度以下であった場合、競技を開始しない規定に基づきスキーのリレー競技が中止となった<ref>プレ五輪 極寒で中止 読売新聞 1979年2月13日朝刊16ページ</ref>。 [[選手村]]は、新設刑務所建設の予算で建てられた<ref>レークプラシッド 日本など1陣"入村" 読売新聞 1980年1月30日 朝刊17ページ</ref>。5つの刑務所の建物だけでは、選手は入りきれず[[トレーラーハウス]]も用意され[[1932年ロサンゼルスオリンピック]]で選手村制度ができて以来、金網で隔てられるなど男女に分かれていた選手村が一緒になった<ref>ナヌ、選手村は"男女一緒"!? 読売新聞 1980年2月13日 朝刊17ページ</ref>。 冬季オリンピック史上初めて[[オリンピックの中国選手団|中国]]が出場し<ref>一斉に36か国の旗 選手村/レークプラシッド五輪 読売新聞 1980年1月31日 朝刊17ページ</ref>、[[人工降雪機]]が採用されたのも初であった<ref>{{cite journal|和書|year=1994|title=人工降雪機の技術と動向|journal=ターボ機械|volume=22|issue=9|pages=554-559|url=https://doi.org/10.11458/tsj1973.22.554|doi=10.11458/tsj1973.22.554|accessdate=2018-2-12}}</ref>。なお、[[オリンピックのデンマーク選手団|デンマーク]]だけは選手の水準不足でメダルを獲得する可能性がないという理由で不参加であった<ref>メダル取れぬから デンマーク不参加 読売新聞 1980年1月31日 朝刊17ページ</ref>。 == ハイライト == レークプラシッドでは上記の通り[[1932年]]以来、2回目のオリンピック開催となった。アメリカ国内での開催も[[1960年]]の[[1960年スコーバレーオリンピック]]以来、20年ぶり3回目の冬季オリンピックだった。 [[オリンピック聖火|聖火リレー]]は1月30日に[[ギリシャ]]の[[オリンピア (ギリシャ)|オリンピア]]で採火式が行われた後、[[VC-25|アメリカ大統領専用機]]で[[バージニア州]]の[[ラングレー空軍基地]]に到着<ref>オリンピアで聖火の採火式 読売新聞 1980年1月31日 朝刊17ページ</ref>、延べ1600kmを二手に分かれて、9日間52人のランナーでリレーされ、2月8日午後8時11分にオリンピック・スケート会場に到着した<ref>聖火到着 理事会揺れる レークプラシッド 5000人が待つリンクへ 読売新聞 1980年2月9日 夕刊 10ページ</ref>。 [[サイラス・ヴァンス]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]のスピーチがモスクワ大会を非難する内容であったため、開会式をモスクワオリンピック組織委員会委員長の[[ソビエト連邦|ソ連]]のノビコフ副首相らがこれを[[ボイコット]]した<ref>レークプラシッド "政治の火花" 開会式ボイコット IOC総会 読売新聞 1980年2月11日 朝刊18ページ</ref>。 [[スピードスケート]]でアメリカの[[エリック・ハイデン]]が5種目完全制覇の偉業を成し遂げた<ref>ハイデン世界新で「5冠」スピード レークプラシッド冬季オリンピック 1980年2月24日 朝刊17ページ</ref>。距離別のスペシャリスト化が始まっていた中、空前絶後の記録である。タイム差もかなりあり、危なげない5冠達成であった。銀メダルは1500mと5000mが同じ選手だったため4人。そのうち2人は[[1976年インスブルックオリンピック]]の金メダリストで、1人は[[1984年サラエボオリンピック]]で二冠を達成している。この大会でのアメリカの金メダルはハイデンの5個と最終日の[[アイスホッケー]]で計6個であった。 最終日に行われたアイスホッケー競技の決勝リーグ戦では、2月22日の試合で[[1980年レークプラシッドオリンピックのソビエト連邦選手団|ソ連]]を4-3で破った大学生で構成された[[1980年レークプラシッドオリンピックのアメリカ合衆国選手団|アメリカチーム]]が(カーター大統領は、ソ連を破った2月22日にチームを2月25日に[[ホワイトハウス]]へ招待すると祝電を打った。)<ref>アメリカ"肉弾戦" ソ連を撃破 反則なんの、猛攻で大逆転 読売新聞 1980年2月23日 夕刊9ページ</ref>[[アイスホッケーフィンランド代表|フィンランド]]を破り、20年ぶりの金メダルを手にした。それまで、同種目を4連覇し無敵と称されたソ連チームを準決勝で破った上での栄冠であり、後に[[氷上の奇跡]]と称される歓喜のフィナーレとなった。 前年の1979年に起きた[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻]]に対して、当時アメリカの[[ジミー・カーター]]大統領が同年夏の[[1980年モスクワオリンピック]]にボイコットの方針を表明して<ref>インサイド・レポート 五輪ボイコット第2ハードル 米ソ譲らず 1980年2月21日 読売新聞 朝刊3ページ</ref>賛否両論の議論を巻き起こしていた。レークプラシッド大会終了後、カーター大統領は五冠のハイデンやホッケー選手ら今大会の英雄を昼食会に招いたが、その場で彼らにボイコット反対を表明されるしっぺ返しを受けてしまった。 なお、不参加の噂もあった[[オリンピックのソビエト連邦選手団|ソ連選手団]]は2月4日に第一陣が入村するなど参加している<ref>注目のソ連勢入村 レークプラシッド まず役員5人 読売新聞 1980年2月5日 夕刊8ページ</ref>。 一方、[[イラン革命]]により[[パフラヴィー朝]]のイラン王国が崩壊し、1979年2月にイラン・イスラム共和国が成立していた[[イラン]]では同年11月に起きた[[イランアメリカ大使館人質事件]]が継続中で、対米関係は極度に悪化していた。その外交的背景もあり、王国時代の[[1964年インスブルックオリンピック]]から4大会連続で冬季オリンピック大会に参加していた[[オリンピックのイラン選手団|イラン選手団]]は本大会に参加しなかった。 == マスコット == ロニ([[アライグマ]]がモチーフとなっている。) == 実施競技 == {| | *[[1980年レークプラシッドオリンピックのアイスホッケー競技|アイスホッケー]] *[[1980年レークプラシッドオリンピックのアルペンスキー競技|アルペンスキー]] *[[1980年レークプラシッドオリンピックのクロスカントリースキー競技|クロスカントリースキー]] *[[1980年レークプラシッドオリンピックのスキージャンプ競技|スキージャンプ]] *[[1980年レークプラシッドオリンピックのスピードスケート競技|スピードスケート]] |width=20| |valign=top| *[[1980年レークプラシッドオリンピックのノルディック複合競技|ノルディック複合]] *[[1980年レークプラシッドオリンピックのバイアスロン競技|バイアスロン]] *[[1980年レークプラシッドオリンピックのフィギュアスケート競技|フィギュアスケート]] *[[1980年レークプラシッドオリンピックのボブスレー競技|ボブスレー]] *[[1980年レークプラシッドオリンピックのリュージュ競技|リュージュ]] |} == 主な競技会場 == *[[ハーブ・ブルックス・アリーナ|オリンピックセンター]](アイスホッケー、フィギュアスケート) *ボブスレー・リュージュ・パーク == 各国の獲得メダル == {{main|1980年レークプラシッドオリンピックのメダル受賞数一覧}} {| {{RankedMedalTable}} |- | 1 ||style="text-align:left"| {{flagIOC|URS|1980冬季}} || 10 || 6 || 6 || 22 |- | 2 ||style="text-align:left"| {{flagIOC|GDR|1980冬季}} || 9 || 7 || 7 || 23 |- style="background-color:#ccccff" | 3 ||style="text-align:left"| {{flagIOC|USA|1980冬季}}(開催国) || 6|| 4 || 2 || 12 |- | 4 ||style="text-align:left"| {{flagIOC|AUT|1980冬季}} || 3 || 2 || 2 || 7 |- | 5 ||style="text-align:left"| {{flagIOC|SWE|1980冬季}} || 3 || 0 || 1 || 4 |- | 6 ||style="text-align:left"| {{flagIOC|LIE|1980冬季}} || 2 || 2 || 0 || 4 |- | 7 ||style="text-align:left"| {{flagIOC|FIN|1980冬季}} || 1 || 5 || 3 || 9 |- | 8 ||style="text-align:left"| {{flagIOC|NOR|1980冬季}} || 1 || 3 || 6 || 10 |- | 9 ||style="text-align:left"| {{flagIOC|NED|1980冬季}} || 1 || 2 || 1 || 4 |- |10 ||style="text-align:left"| {{flagIOC|SUI|1980冬季}} || 1 || 1 || 3 || 5 |} == 主なメダリスト == * [[ファイル:Med 1.png]] 金メダル ** [[インゲマル・ステンマルク]]([[スウェーデン]]、[[アルペンスキー]]男子[[回転 (スキー)|回転]]) ** インゲマル・ステンマルク(スウェーデン、アルペンスキー男子[[大回転]]) ** [[アンネマリー・モザー=プレル]]([[オーストリア]]、アルペンスキー女子[[滑降]]) ** [[ハンニ・ウェンツェル]]([[リヒテンシュタイン]]、アルペンスキー女子大回転) ** ハンニ・ウェンツェル(リヒテンシュタイン、アルペンスキー女子回転) ** [[トーマス・ワシュベリ]](スウェーデン、[[クロスカントリースキー]]男子15km) ** [[ライサ・スメタニナ]]([[ソビエト連邦]]、クロスカントリースキー女子5km) ** [[エリック・ハイデン]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[スピードスケート]]男子500m) ** エリック・ハイデン(アメリカ、スピードスケート男子1000m) ** エリック・ハイデン(アメリカ、スピードスケート男子1500m) ** エリック・ハイデン(アメリカ、スピードスケート男子5000m) ** エリック・ハイデン(アメリカ、スピードスケート男子10000m) ** [[アネット・ペッチ]](東ドイツ、フィギュアスケート女子シングル) ** [[イリーナ・ロドニナ]]、[[アレクサンドル・ザイツェフ (フィギュアスケート選手)|アレクサンドル・ザイツェフ]](ソビエト連邦、[[フィギュアスケート]]ペア) ** [[アイスホッケーアメリカ合衆国代表|アメリカ]]([[アイスホッケー]]男子) ** ソビエト連邦([[バイアスロン]]男子4×7.5kmリレー) * [[ファイル:Med 2.png]] 銀メダル ** [[八木弘和]](日本、スキージャンプ70m級) ** ソビエト連邦(クロスカントリースキー女子4×5kmリレー) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[国際オリンピック委員会]] * [[冬季オリンピック]] * [[ヤイロパラリンピック]] * [[ミラクル (2004年の映画)|ミラクル]] - 米国アイスホッケーナショナルチームを描いた映画 * [[プロジェクト:オリンピック]] * [[1932年レークプラシッドオリンピック]] == 外部リンク == {{commonscat|1980 Winter Olympics}} * [https://www.olympic.org/lake-placid-1980 IOC Lake Placid 1980 Page] * [https://www.joc.or.jp/column/olympic/history/ JOCオリンピックの歴史] {{オリンピック}} {{1980年レークプラシッドオリンピックの実施競技}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:1980れくふらしつと}} [[Category:冬季オリンピックの歴代大会|1980]] [[Category:1980年レークプラシッドオリンピック|*]] [[Category:ニューヨーク州レークプラシッドのスポーツ|おりんひつく1980]]
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久留米市
久留米市(くるめし)は、福岡県の南部、筑後地方に位置する市。中核市であり、福岡市、北九州市に次いで福岡県では第3位、九州全体では第9位の人口を擁している。 福岡県の南部と佐賀県の東部にまたがる筑紫平野最大の都市。市町村制施行時(1889年4月1日)からの市である。2001年に特例市に指定され、2005年2月5日に三井郡北野町・三潴郡三潴町・三潴郡城島町・浮羽郡田主丸町を編入し人口が30万人を突破、2008年4月1日に中核市に移行した。 市域は旧三潴郡・三井郡・八女郡・浮羽郡に該当する。筑後地方の中心都市であるとともに、独自の経済圏を形成しており、久留米都市圏の人口は約43万人である。 久留米市は福岡県の南部、筑後平野に位置する。中心街である西鉄久留米駅からJR久留米駅にかけての一帯は福岡市から約40kmの場所に位置するが、2005年の周辺自治体編入により市域は東西約32km、南北約16kmとなり、東西に長い自治体となった。市の北東部から南西部にかけて、筑後川が流れている。ほぼ川に沿って境界が引かれており、筑後川が市内を貫いている部分は少ない。市の南部から南東部は耳納(みのう)連山と呼ばれる山地となっており、鷹取山・発心山・耳納山などの山々が連なっている。 2016年1月25日に久留米アメダス(標高7m)において1977年に統計開始されて以来の最低気温(気象官署・アメダス)となる-6.5度を記録した(過去の最低気温記録は1980年2月10日の-6.1度)。 「久留米」という地名は室町時代から文献に見られ、「久留目」とも書かれた。(「報恩寺坪付帳」によると応永25年(1418年)には「久留目」という地名が記されている) その語源については、 などの諸説があるが定説はない。 律令制下で制定された令制国の一つである筑後国の国府が置かれ、以後、筑後国の中心として栄えた。平安時代末期の長寛2年(1164年)、肥前国の豪族草野永経が現在の草野地区(旧草野町)に入り、以後約400年間、北部の山本郡は草野氏が支配し、南部の三潴郡は筑後十五城筆頭の柳川の蒲池氏と久留米市西牟田の西牟田氏が支配してきた。 天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州国分の結果、筑前・筑後と肥前のそれぞれ一部を与えられた小早川隆景の養子・秀包が久留米城に入った。関ヶ原の戦いの結果秀包は改易され、石田三成を捕らえた三河国岡崎城主田中吉政が柳川城に入り、筑後一国を治めた。元和6年(1620年)、柳川2代目藩主田中忠政が死去すると田中家は無嗣断絶となった。田中領筑後一国は南北に分けられ、うち北部に有馬豊氏が丹波国福知山(現在の福知山市)から加増移封され、以後久留米は有馬氏の統治による久留米藩の中心地となった。江戸時代は藩の殖産興業策もあり久留米絣など、商業都市として発展する。 廃藩置県によって久留米県の県庁所在地となったが、1871年(明治4年)に三潴県に統合され、1876年(明治9年)に三潴県が福岡県に統合されたため県庁所在地ではなくなった。 1897年(明治30年)に第12師団、1907年に第18師団の駐屯地になってからは軍都としても膨張、1922年(大正11年)に始まった地下足袋生産がゴム化学工業の発展に結びつく。 太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)8月11日の久留米空襲により死者212名、焼失戸数4,506戸を出した。 1953年(昭和28年)6月に九州一帯を襲った昭和28年西日本水害では、筑後川にかかる橋梁の流出や氾濫が発生。特に、宮の陣付近で発生した堤防決壊個所からは、濁流が櫛原町、篠山町を襲い多くの家屋が浸水した。 1960年(昭和35年)3月19日、国立療養所久留米病院で火災。精神科病棟など3棟が全焼し、入院患者11人が焼死した。病院は1994年(平成4年)に国立病院機構九州医療センターとして福岡市へ移転、統合された。 ※【編入】とあるもののうち、特記ないものは久留米市への編入。 久留米市議会 焼き鳥店数が人口1万人当たり約8軒であり、日本一である。また、日吉町には文化街と呼ばれる歓楽街があり、夜に賑わいをみせる。 ブリヂストンの創業地であり久留米工場はグループのマザープラントとして重要な生産拠点となっている。 他にムーンスター、アサヒシューズと、ゴム加工品メーカーの工場が多く所在する。近年では、ダイハツ工業の子会社であるダイハツ九州の軽自動車専用エンジン工場や、東プレの子会社である東プレ九州の自動車用プレス部品製造工場などが進出し、北部九州における自動車産業集積化の一翼を担う。 また、旧城島町は筑後川沿いに数多くの酒造業が軒を連ね、伏見、灘五郷と並ぶ「日本三大酒どころ」として栄えていた。2005年の周辺町の編入により日本酒の醸造メーカーが18社となり、京都市、神戸市に次いで清酒製造場数で全国第3位と返り咲いた。 市内に本店をもつ金融機関 市内に支店をもつ金融機関 従来の製造業一辺倒からの脱却を図るために、バイオ産業の集積をめざす「福岡バイオバレープロジェクト」のもと福岡県と共同でバイオ関連産業の育成・振興が推進されている。 人口当たりの医師数は、全国トップレベルであり、久留米大学医学部をはじめ PET等の最先端医療設備を持つ施設が集積した高度医療都市である。 最寄り空港は福岡空港で、高速バスも頻繁に運行されており市民に最も利用されている。また、佐賀空港へ予約制乗合タクシーが運行されている。 市内ではJR九州が3路線、西鉄が2路線の計5路線が運行されている。 久留米市から福岡市の中心部の博多まで35kmほどであり、久留米市は移住者に対して福岡市等への通勤定期券を一部補助する制度を設けている。 中心駅は久留米駅および西鉄久留米駅。市街地の中心部に位置するのは西鉄久留米駅で、乗降客数はJR久留米駅より2万人以上多い。 路線の詳細は各バス会社の記事を確認のこと。 市内で高速バスを利用できるバス停は、縄手・JR久留米駅・市役所前・六ッ門・西鉄久留米駅・文化センター前・十三部・千本杉・久留米インター南・久留米インターチェンジ・高速宮の陣がある。 その他、久留米市社会福祉協議会が旧田主丸町において定期運行の無料福祉バスを運行している。 また、隣接する広川町の予約型乗合タクシー「ふれあいタクシー」が市内の日高整形外科病院へ乗り入れるが、久留米市内の停留所はこの1か所のみである。
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久留米市(くるめし)は、福岡県の南部、筑後地方に位置する市。中核市であり、福岡市、北九州市に次いで福岡県では第3位、九州全体では第9位の人口を擁している。
{{otheruses||手続上存在した東京都久留米市|東久留米市}} {{出典の明記|date=2021年8月30日 (月) 16:57 (UTC)}} {{画像提供依頼|月讀神社|cat=久留米市|date=2021年10月}} {{日本の市 | 画像= Kurume Montage.jpg | 画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td colspan="2">市内を流れる[[筑後川]]と[[二千年橋]]</tr> <tr><td>[[水天宮 (久留米市)|水天宮]]<td>[[成田山久留米分院]]</tr> <tr><td>[[高良大社]]<td>[[久留米ラーメン]]</tr> <tr><td colspan="2">[[石橋文化センター]]</tr></table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Kurume, Fukuoka.svg|100px|久留米市旗]] | 市旗の説明 = 久留米[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:Emblem of Kurume, Fukuoka.svg|75px|久留米市章]] | 市章の説明 = 久留米[[市町村章|市章]]<br />[[1911年]][[9月13日]]制定 | 自治体名 = 久留米市 | 都道府県 = 福岡県 | コード = 40203-6 | 隣接自治体= [[小郡市]]、[[朝倉市]]、[[筑後市]]、[[大川市]]、[[うきは市]]、[[八女市]]、[[三潴郡]][[大木町]]、[[八女郡]][[広川町 (福岡県)|広川町]]、[[三井郡]][[大刀洗町]]<br />[[佐賀県]]:[[鳥栖市]]、[[神埼市]]、[[三養基郡]][[みやき町]] | 木 = [[ハゼノキ|櫨]]、[[ツバキ|久留米つばき]]、[[クロガネモチ|くろがねもち]]、[[ケヤキ|けやき]]、[[クス|くすのき]] | 花 = [[ツツジ|久留米つつじ]]、[[コスモス]] | シンボル名 = 市の歌 | 鳥など = [[久留米市の歌]](1951年制定)<br />[[ふるさとのささやき 〜新久留米市の歌〜|ふるさとのささやき]](2005年制定) | 郵便番号 = 830-8520 | 所在地 = 久留米市城南町15番3号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-40|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}}<br />[[ファイル:Kurume City Hall.jpg|250px|center|久留米市役所本庁舎(設計:菊竹清訓)]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|40|203|image=Kurume in Fukuoka Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}} | 特記事項 = }} '''久留米市'''(くるめし)は、[[福岡県]]の南部、[[筑後地方]]に位置する[[市町村|市]]。[[中核市]]であり、[[福岡市]]、[[北九州市]]に次いで福岡県では第3位、[[九州]]全体では第9位の人口を擁している。 == 地理 == [[ファイル:Downtown Kurume.jpg|thumb|280px|西鉄久留米駅前]] [[ファイル:Tenjinomuta kurumestation.jpg|thumb|280px|西鉄久留米駅前(西口)]] [[ファイル:Kurume ichibangai.jpg|thumb|280px|久留米一番街]] [[ファイル:Emperor Showa visit to Kurume in 1949.JPG|thumb|280px|久留米に行幸した[[昭和天皇]](1949年5月28日)]] 福岡県の南部と[[佐賀県]]の東部にまたがる[[筑紫平野]]最大の都市。市町村制施行時([[1889年]][[4月1日]])からの市である。2001年に[[特例市]]に指定され、[[2005年]][[2月5日]]に[[三井郡]][[北野町]]・[[三潴郡]][[三潴町]]・[[三潴郡]][[城島町]]・[[浮羽郡]][[田主丸町]]を編入し人口が30万人を突破、[[2008年]]4月1日に[[中核市]]に移行した。 市域は旧[[三潴郡]]・[[三井郡]]・[[八女郡]]・[[浮羽郡]]に該当する。[[筑後地方]]の中心都市であるとともに、独自の経済圏を形成しており、[[久留米都市圏]]の人口は約43万人である。 === 地形 === 久留米市は福岡県の南部、筑後平野に位置する。中心街である西鉄久留米駅からJR久留米駅にかけての一帯は[[福岡市]]から約40kmの場所に位置するが、2005年の周辺自治体編入により市域は東西約32km、南北約16kmとなり、東西に長い自治体となった。市の北東部から南西部にかけて、[[筑後川]]が流れている。ほぼ川に沿って境界が引かれており、筑後川が市内を貫いている部分は少ない。市の南部から南東部は耳納(みのう)連山と呼ばれる山地となっており、鷹取山・発心山・耳納山などの山々が連なっている。 === 気候 === [[2016年]][[1月25日]]に久留米アメダス(標高7m)において[[1977年]]に統計開始されて以来の最低気温([[気象官署]]・[[アメダス]])となる-6.5度を記録した(過去の最低気温記録は[[1980年]][[2月10日]]の-6.1度)<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/ 気象庁]</ref>。 {{Kurume weatherbox}} === 隣接する自治体 === * 福岡県 ** [[小郡市]] ** [[朝倉市]] ** [[筑後市]] ** [[大川市]] ** [[うきは市]] ** [[三潴郡]][[大木町]] ** [[八女市]] ** [[八女郡]][[広川町 (福岡県)|広川町]] ** [[三井郡]][[大刀洗町]] * [[佐賀県]] ** [[鳥栖市]] ** [[神埼市]] ** [[三養基郡]][[みやき町]] <!--== 久留米地域の歴史 ==--> == 地名 == {{main|久留米市の地名}} [[ファイル:Kurume city center area Aerial photograph.2010.jpg|thumb|280px|久留米市中心部周辺の空中写真。<br/>2010年5月8日撮影の54枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] 「久留米」という地名は[[室町時代]]から文献に見られ、「久留目」とも書かれた。(「報恩寺坪付帳」によると[[応永]]25年([[1418年]])には「久留目」という地名が記されている) その語源については、 * 筑後守[[吉志公忠]]が[[天慶]]7年([[944年]])に注進した「筑後国神名帳」に「玖留目神を[[祭祀]]した」との記述があり、これによるとするもの。 * 上古、大陸から渡来した[[機織り]]の工人集団がこの地に住んでいたので「呉部(繰部くりべ)」の居住した地、あるいは「呉姫(くれひめ)」、「呉女(くれめ)」、「繰女(くりめ)」とよんだのがクルメに転訛したというもの。 * [[用明天皇]]の[[皇子]]である「[[来目皇子]](くめのみこ)」に由来するというもの。(来目皇子は[[新羅]][[討伐]]のため[[筑紫]]に下り[[推古天皇|推古]]11年([[603年]])福岡県[[糸島郡]]志摩町久米で病死している) * [[筑後川]]が大きく蛇行していることから、それを意味するクルメク(転く)を語源とするもの。 などの諸説があるが定説はない。 == 歴史 == [[律令制]]下で制定された[[令制国]]の一つである[[筑後国]]の[[国府]]が置かれ、以後、筑後国の中心として栄えた。[[平安時代]]末期の[[長寛]]2年([[1164年]])、[[肥前国]]の豪族[[草野永経]]が現在の草野地区(旧草野町)に入り、以後約400年間、北部の山本郡は草野氏が支配し、南部の三潴郡は[[筑後十五城]]筆頭の[[柳川市|柳川]]の[[蒲池氏]]と久留米市西牟田の[[西牟田氏]]が支配してきた。 [[天正]]15年([[1587年]])[[豊臣秀吉]]の九州国分の結果、筑前・筑後と肥前のそれぞれ一部を与えられた[[小早川隆景]]の養子・[[小早川秀包|秀包]]が久留米城に入った。[[関ヶ原の戦い]]の結果秀包は[[改易]]され、[[石田三成]]を捕らえた三河国岡崎城主[[田中吉政]]が柳川城に入り、筑後一国を治めた。[[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]])、柳川2代目藩主[[田中忠政]]が死去すると田中家は無嗣断絶となった。田中領筑後一国は南北に分けられ、うち北部に[[有馬豊氏]]が[[丹波国]]福知山(現在の[[福知山市]])から加増移封され、以後久留米は有馬氏の統治による[[久留米藩]]の中心地となった。江戸時代は藩の殖産興業策もあり[[久留米絣]]など、[[商業都市]]として発展する。 [[廃藩置県]]によって久留米県の県庁所在地となったが、[[1871年]]([[明治]]4年)に[[三潴県]]に統合され、[[1876年]](明治9年)に三潴県が福岡県に統合されたため県庁所在地ではなくなった。 [[1897年]](明治30年)に第12師団、[[1907年]]に第18師団の駐屯地になってからは[[軍都]]としても膨張、[[1922年]](大正11年)に始まった[[地下足袋]]生産がゴム化学工業の発展に結びつく。 [[太平洋戦争]]末期、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月11日]]の[[久留米空襲]]により死者212名、焼失戸数4,506戸を出した。 [[1953年]](昭和28年)6月に九州一帯を襲った[[昭和28年西日本水害]]では、筑後川にかかる橋梁の流出や氾濫が発生。特に、宮の陣付近で発生した堤防決壊個所からは、濁流が櫛原町、篠山町を襲い多くの家屋が浸水した<ref>「久留米全市に避難命令」『日本経済新聞』昭和28年6月27日 9面</ref>。{{main|昭和28年西日本水害}} [[1960年]](昭和35年)[[3月19日]]、国立療養所久留米病院で火災。[[精神科]]病棟など3棟が全焼し、入院患者11人が焼死した<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=143|isbn=9784816922749}}</ref>。病院は[[1994年]](平成4年)に[[国立病院機構九州医療センター]]として[[福岡市]]へ移転、統合された。 === 市政 === * [[1911年]](明治44年)[[9月13日]] - 市章を制定する<ref>図典 日本の市町村章 p207</ref> 。 * 1951年(昭和26年) - 「[[久留米市の歌]]」を制定。 * 2001年([[平成]]13年)4月1日、[[特例市]]に指定。 * 2005年(平成17年)2月1日 - 市域拡大を記念し「[[ふるさとのささやき 〜新久留米市の歌〜]]」を制定、市歌が2曲並立となる。 * 2008年4月1日、[[中核市]]に移行<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080shisei/2040keikaku/3090chuukakushi/2007-0405-1846-7.html |title=中核市久留米|publisher=久留米市|date=2015-12-4|accessdate=2020-7-11}}</ref>。 * 2015年11月2日 - 久留米市を中枢都市とし、大川市・小郡市・うきは市・三井郡大刀洗町・三潴郡大木町と「[[連携中枢都市圏構想|連携中枢都市圏]]」を形成することを宣言する<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_sougou/article/204961 西日本新聞(11月3日)]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080shisei/2090gappei/3010gyousei/renkeityusuu.html |title=連携中枢都市圏構想|publisher=久留米市|date=2020-4-2|accessdate=2020-7-11}}</ref>。 === 行政区域の変遷 === ※【編入】とあるもののうち、特記ないものは久留米市への編入。 * [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - 市町村制度発足により、'''久留米市'''が市制施行。日本で最初に市制施行した31市のひとつ。当時は日本で一番人口の少ない市であった。 ** 同時に、現在の市域にあたる以下の町村が発足。 ***[[御井郡]]弓削村・金島村・大城村・北野村・宮ノ陣村・御井町・櫛原村・高良内村・合川村・国分村・山川村・上津荒木村 *** [[山本郡 (福岡県)|山本郡]]草野村・山本村・大橋村・善導寺村 *** [[三潴郡]]鳥飼村・荒木村・安武村・大善寺村・城島村・青木村・江上村・犬塚村・三潴村 *** [[竹野郡 (福岡県)|竹野郡]]田主丸町・水分村・川会村・柴刈村・水縄村・竹野村・船越村 * [[1894年]][[7月21日]] - 【町制施行】草野村 ⇒ [[草野町]] * [[1896年]][[2月26日]] - [[郡区町村編制法]]により、御井郡・山本郡 ⇒ [[三井郡]]、竹野郡 ⇒ [[浮羽郡]]となる。 * [[1900年]][[5月31日]] - 【町制施行】城島村 ⇒ [[城島町]] * [[1901年]][[4月9日]] - 【町制施行】北野村 ⇒ [[北野町]] * [[1917年]]([[大正]]6年)[[10月1日]] - 【編入】[[鳥飼村 (福岡県三潴郡)|鳥飼村]] * [[1922年]][[8月1日]] - 【町制施行】国分村 ⇒ [[国分町 (福岡県)|国分町]] * [[1923年]][[8月1日]] - 【編入】[[節原村|櫛原村]] * [[1924年]][[11月1日]] - 【編入】[[国分町 (福岡県)|国分町]] * [[1939年]]([[昭和]]14年)[[2月11日]] - 【町制施行】大善寺村 ⇒ [[大善寺町]] * [[1940年]][[2月11日]] - 【町制施行】善導寺村 ⇒ [[善導寺町]] * [[1943年]][[10月1日]] - 【編入】[[御井町]] * [[1949年]][[9月1日]] - 【町制施行】荒木村 ⇒ [[荒木町]] * [[1951年]][[4月1日]] - 【編入】[[合川村 (福岡県)|合川村]]・[[上津荒木村]]・[[山川村 (福岡県)|山川村]] * 1951年4月1日 - 【対等合併】[[川会村]]・[[柴刈村]] ⇒ [[筑陽村]] * 1951年[[6月1日]] - 【編入】[[高良内村]] * [[1954年]][[12月1日]] - 【対等合併】田主丸町・[[水分村 (福岡県)|水分村]]・[[筑陽村]]・[[水縄村]]・[[竹野村 (福岡県)|竹野村]]および[[船越村 (福岡県)|船越村]](のちの[[吉井町 (福岡県)|吉井町]]、現[[うきは市]])の一部 ⇒ [[田主丸町]] * [[1955年]][[1月1日]] - 【対等合併】[[荒木町]]・[[安武村]] ⇒ [[筑邦町]] * 1955年[[2月1日]] - 【対等合併】城島町・[[青木村 (福岡県)|青木村]]・[[江上村 (福岡県)|江上村]] ⇒ [[城島町]](新町制) * 1955年[[3月1日]] - 【対等合併】北野町・[[弓削村 (福岡県)|弓削村]]・[[大城村]]・[[金島村 (福岡県)|金島村]] ⇒ [[北野町]](新町制) * 1955年[[7月20日]] - 【対等合併・町制施行】[[犬塚村]]・[[三潴村]] ⇒ [[三潴町]] * [[1956年]][[9月30日]] - 【編入】[[大善寺町]] ⇒ 筑邦町 * [[1958年]][[9月1日]] - 【編入】[[宮ノ陣村]]・[[山本村 (福岡県)|山本村]] * [[1959年]]4月1日 - 【編入】[[大橋村 (福岡県)|大橋村]] ⇒ 善導寺町 * [[1960年]][[7月1日]] - 【編入】[[草野町]] * [[1967年]][[2月1日]] - 【編入】[[筑邦町]] * 1967年[[4月1日]] - 【編入】[[善導寺町]] * [[1989年]]([[平成]]元年)[[2月28日]] - 三潴郡[[三潴町]]が[[筑後市]]と境界変更 * 1989年[[6月28日]] - 三潴郡[[城島町]]が[[大川市]]と境界変更 * 1989年[[9月27日]] - [[八女郡]][[広川町 (福岡県)|広川町]]と境界変更 * [[1991年]][[2月27日]] - 一部を八女郡広川町に編入(境界変更) * [[1992年]][[12月15日]] - [[小郡市]]と境界変更 * [[1994年]][[9月13日]] - 久留米市及び三潴郡三潴町が境界変更 * [[1995年]][[4月14日]] - 三井郡[[北野町]]が三井郡[[大刀洗町]]と境界変更 * [[1996年]]2月26日 - 筑後市の一部を編入(境界変更) * 1996年2月26日 - 八女郡広川町と境界変更 * 1996年2月26日 - 浮羽郡[[田主丸町]]が浮羽郡[[吉井町 (福岡県)|吉井町]]と境界変更 * [[1997年]][[4月23日]] - 三井郡北野町が三井郡大刀洗町と境界変更 * [[1998年]][[12月18日]] - 三潴郡城島町が大川市と境界変更 * [[2000年]][[8月31日]] - 三井郡北野町が三井郡大刀洗町と境界変更 * [[2001年]][[3月12日]] - 浮羽郡田主丸町が[[朝倉郡]][[朝倉町]]及び浮羽郡吉井町と境界変更 * [[2001年]]4月1日 - 特例市に移行 * 2001年6月4日 - 三潴郡城島町が三潴郡[[大木町]]と境界変更 * [[2003年]][[2月14日]] - 三潴郡三潴町が筑後市及び三潴郡大木町と境界変更 * 2003年2月14日 三井郡北野町が小郡市と境界変更 * 2003年2月14日 三井郡北野町が三井郡大刀洗町と境界変更 * 2003年[[4月8日]] - 八女郡広川町と境界変更 * [[2005年]][[2月5日]] - 【編入】北野町・三潴町・城島町・田主丸町 * [[2008年]]4月1日 - 中核市に移行 {{hidden begin |title = 市域の変遷表 |titlestyle = text-align:center; }} {|class="wikitable" border="1" style="text-align:left" | style="width:5em"| | style="width:5em"| | style="width:5em"| | style="width:5em"| | style="width:5em"| | style="width:5em"| | style="width:5em"| | style="width:5em"| | style="width:5em"| | style="width:5em"| | style="width:5em"| |- |-style="color:#fff; background-color:#005" |colspan="11"|久留米市 |- |rowspan="16"|三井郡 |colspan="2" |櫛原村 |style="color:#fff; background-color:#005" colspan="8" |1923 |- |国分村 |colspan="2"|国分町(1922) |style="color:#fff; background-color:#005" colspan="7" |1924 |- |colspan="4"|御井町 |style="color:#fff; background-color:#005" colspan="6" |1943 |- |colspan="5"|山川村 | colspan="5" rowspan="4" style="color:#fff; background-color:#005"|1951 |- |colspan="5"|上津荒木村 |- |colspan="5"|合川村 |- |colspan="5"|高良内村 |- |colspan="7"|宮ノ陣村 |colspan="3" rowspan="2" style="color:#fff; background-color:#005"|1958 |- |colspan="7"|山本村 |- |草野村 |colspan="6"|草野町(1894) |colspan="3" style="color:#fff; background-color:#005"|1960 |- |colspan="4"|善導寺村 |colspan="3" style="color:#fff; background-color:#450"|善導寺町(1940) |rowspan="2" style="color:#fff; background-color:#450"|1959 |colspan="2" rowspan="2" style="color:#fff; background-color:#005"|1967 |- |colspan="7"|大橋村 |- |北野村 | colspan="5"|北野町(1901) |colspan="3" rowspan="4" style="color:#fff;background-color:#505"|北野町(1955) |rowspan="4" style="color:#fff;background-color:#005"|2005 |- | colspan="6"|弓削村 |- | colspan="6"|金島村 |- | colspan="6"|大城村 |- | rowspan="9"|三潴郡 |鳥飼村 |style="color:#fff; background-color:#005" colspan="9" |1917 |- | colspan="5"|荒木村 |荒木町<br />(1949) | colspan="2" rowspan="2" style="color:#fff; background-color:#050"|筑邦町(1955) | colspan="2" rowspan="3" style="color:#fff; background-color:#005"|1967 |- |colspan="6"|安武村 |- |colspan="4"|大善寺村 |colspan="3"|大善寺町(1939) |style="color:#fff; background-color:#050"|1956 |- |城島村 |colspan="5"|城島町(1900) | colspan="3" rowspan="3" style="color:#fff; background-color:#468"|城島町(1955) | rowspan="12" style="color:#fff; background-color:#005"|2005 |- |colspan="6"|青木村 |- |colspan="6"|江上村 |- |colspan="6"|犬塚村 | colspan="3" rowspan="2" style="color:#fff; background-color:#500"|三潴町(1955) |- |colspan="6"|三潴村 |- | rowspan="7"|浮羽郡 | colspan="6"|田主丸町 | colspan="3" rowspan="7" style="color:#fff; background-color:#c50"|田主丸町(1954) |- | colspan="6"|水分村 |- | colspan="5"|川会村 | rowspan="2" style="color:#fff; background-color:#b23"|筑陽村<br />(1951) |- | colspan="5"|柴刈村 |- | colspan="6"|水縄村 |- | colspan="6"|竹野村 |- | colspan="6"|船越村(一部) |} {{hidden end}} === 歴代市長 === {| class="wikitable" style="font-size:90%;" !代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!任期!!備考 |- ! colspan="6" | 歴代市長<ref>年月日は、官報、国立公文書館資料、[{{NDLDC|766758}} 福岡県全誌. 下編]、久留米市史、[http://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080shisei/2010shoukai/3010shichou/2012-0112-1838-33.html 久留米市HP歴代市長] による。詳細不明分は月のみ</ref><ref group="注釈">市長の任期は、当初6年。1911年以降は4年。</ref> |- |初||[[内藤新吾]]||1889年5月17日||1894年4月9日||1期||前久留米藩公用人 |- |2||田中順信||1894年5月21日||1898年10月25日||1期||前市長時の助役 |- |3||石田瑞穂||1898年12月15日||1904年12月14日||1期||前市長時の助役 |- |4||吉田惟清||1905年9月9日||1910年11月||1期||前久留米市会議長、弁護士、病気により辞任 |- |5||若林卓爾||1910年12月29日||1916年12月20日||1期||岐阜県の郡長歴任後、帰郷就任 |- |6||石津和風||1917年5月31日||1921年2月2日||1期||辞職勧告決議可決後辞任 |- |7||船越岡次郎||1921年7月2日||1929年8月||2期||1925年、7/1離任、8/21再任、前久留米警察署長 |- |8||石野斐夫||1930年1月3日||1938年1月10日||2期||1934年、1/11再任 |- |9||[[石橋徳次郎]](二代)||1938年4月17日||1942年4月16日||1期||名誉市長(無給)、日本ゴム会長 |- |10||[[後藤多喜蔵]]||1942年12月25日||1946年10月22日||1期||公職追放により辞任 |- ! colspan="6" | 久留米市長(公選) |- |11||[[岡幸三郎]]||1947年4月6日||1953年2月10日||2期||病気により辞任 |- |12||山下善助||1952年3月12日||1956年2月29日||1期||杉本勝次は、次弟  |- |13||[[杉本勝次]]||1956年3月1日||1963年1月10日||2期||前福岡県知事、北九州市長選挙出馬の為辞任 |- |14||井上義人||1963年2月8日||1971年2月6日||2期||前市長時の助役 |- |15||近見敏之||1971年2月7日||1987年2月6日||4期||前市長時の助役 |- |16||谷口久||1987年2月7日||1995年2月6日||2期||前市長時の助役 |- |17||白石勝洋||1995年2月7日||2003年2月6日||2期||元久留米市職員 |- |18||江藤守國||2003年2月7日||2010年1月2日||2期||元久留米市職員、病気により辞任 |- |19||[[楢原利則]]||2010年2月1日||2018年1月30日||2期||元久留米市職員、前市長時の副市長、[[大刀洗町]]出身 |- |20||[[大久保勉]]||2018年1月31日||2022年1月30日||1期||元参議院議員 |- |21||[[原口新五]]||2022年1月31日||(現職)||1期目||元久留米市議会議員 |} == 行政 == === 市長 === * 原口新五(1期目) * 任期:2026年1月30日 === 市の機関 === * [http://www.city.kurume.fukuoka.jp/1050kurashi/2060hokeneisei/3010hokensyo/ 久留米市保健所] === 国の機関 === * [[福岡法務局]]久留米支局 * [[福岡地方裁判所]]久留米支部 * 久留米[[簡易裁判所]] * [[福岡家庭裁判所]]久留米支部 * [[福岡地方検察庁]]久留米支部 ** 久留米区検察庁 * 久留米[[検察審査会]] * [[福岡国税局]]久留米[[税務署]] * [[長崎税関|長崎税関本関]]三池税関支署久留米出張所 * 久留米[[公共職業安定所]](ハローワーク久留米) * 久留米[[労働基準監督署]] * 久留米年金事務所 * [[福岡運輸支局]]久留米自動車検査登録事務所 * [[九州地方整備局]]筑後川ダム統合管理事務所 * [[福岡農政事務所|九州農政局福岡地域センター久留米支所]] * [[福岡農政事務所|北部九州土地改良調査管理事務所]] === 県の機関 === * [http://www.pref.fukuoka.lg.jp/f01/kurumesougouchousha.html 福岡県久留米総合庁舎] ** 久留米県税事務所 ** 北筑後保健福祉環境事務所(分庁舎) ** 筑後労働者支援事務所(子育て女性就職支援センター) ** [[パスポート]]センター久留米支所 ** 両筑家畜保健衛生所 ** 筑後県民情報コーナー * 久留米県土整備事務所 * 久留米商工事務所 * 福岡県久留米児童相談所 * 筑後川水系農地開発事務所 === 警察 === * [[久留米警察署]] - [[2010年]][[4月1日]]、城島警察署と統合。また旧[[北野町]]の管轄を[[小郡警察署]]から移管。 * [[うきは警察署]] - 旧[[田主丸町]]域のみの管轄。 ; その他の警察関係機関 :* 久留米少年サポートセンター :* [[機動捜査隊]][[筑後地方|筑後地区]]隊 :* 筑後[[道路交通法#交通反則通告制度|交通反則通告]]センター :* [[交通機動隊]][[筑後地方|筑後地区]]隊 :* [[高速道路交通警察隊]][[久留米インターチェンジ|久留米]]分駐隊 === 消防 === * [[久留米広域市町村圏事務組合|久留米広域消防本部]] - 久留米市・小郡市・うきは市・大刀洗町・大木町 === 自衛隊 === * [[陸上自衛隊]] **[[久留米駐屯地]]([[西部方面混成団]]、[[西部方面特科連隊]]第4大隊(旧[[第4特科連隊]]"ヨントク")、[[第4高射特科大隊]]、[[自衛隊福岡地方協力本部]]筑後地区隊本部) ** [[前川原駐屯地]]([[陸上自衛隊幹部候補生学校|幹部候補生学校]]) * [[航空自衛隊]] ** [[高良台分屯基地]]([[第2高射群]]) ===国立研究開発法人=== *[[農業・食品産業技術総合研究機構]](農研機構)管理本部(九州沖縄管理部久留米事業場)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.naro.affrc.go.jp/introduction/organization.html|title=農研機構について/組織概要|publisher=農研機構|accessdate=2020-2-3}}</ref> *[[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]][[九州沖縄農業研究センター]]筑後・久留米研究拠点 == 議会 == '''[[久留米市議会]]''' * 定数:36名 * 任期:2027年(令和9年)5月1日 * 議長:吉冨巧(久留米たすき議員団、4期) * 副議長:田中貴子(公明党議員団、3期) {| class="wikitable" !会派名!!議席数!!議員名(◎は代表) |- | 久留米たすき議員団 || align="right" | 7 || ◎松岡保治、山崎ケブン、大熊博文、甲斐田義弘、石井俊一、中村博俊、そうだ耕一郎 |- | きずな議員団 || align="right" | 6 || ◎山田貴生、古賀としかず、田住和也、堀田洸太朗、石井秀夫、吉冨巧 |- | [[公明党]]議員団 || align="right" | 6 || ◎塚本弘道、田中功一、坂田光弘、山下尚、生野薫、田中貴子 |- | 立志会議員団 || align="right" | 6 || ◎権藤智喜、堺太一郎、轟照隆、長野哲、永田一伸、後藤敬介 |- | みらい久留米議員団 || align="right" | 4 || ◎古賀敏久、石田眞一郎、藤林詠子、秋永峰子 |- | 緑水会議員団 || align="right" | 4 || ◎森崎巨樹、佐藤晶二、原口和人、吉武憲治 |- | [[日本共産党]]久留米市議団 || align="right" | 2 || ◎金子むつみ、小林ときこ |- | [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="right" | 1 || ◎草場公晴 |- | 計 || align="right" | 36 || |} === 県議会 === {{main|福岡県議会}} * 久留米市・うきは市選挙区 * 定数:5名 * 任期:2023年(令和5年)4月30日~2027年(令和9年)4月29日 {| class="wikitable" |- !議員名<ref name="福岡県議会久留米市">{{Cite web|和書|url=https://www.gikai.pref.fukuoka.lg.jp/soshiki/2/giin-se-chikugo.html#02|title=筑後地域の議員一覧|section=久留米市|accessdate=2023-6-10|date=2023-5-16 |website=福岡県議会公式ホームページ|language=ja}}</ref>!!会派名!!備考 |- | 井上寛 || 公明党 ||元久留米市議会議員 |- | 中村香月 || 新政会 || |- | 新井富美子 || 民主県政県議団 ||党籍は[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] |- | 江口善明 || 自民党県議団 || |- | 原口剣生 || 自民党県議団 ||自民党福岡県連会長。原口新五市長の実兄<ref>{{cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ1S73B1Q1STGPB007.html|title=自民の分裂、一変した久留米市長選 広がった「鳩山一強」への反発|author= 高原敦、野上隆生、外尾誠|date=2022-1-25|publisher= [[朝日新聞デジタル]]|accessdate=2022-3-2}}</ref> |} === 衆議院 === * 任期 : 2021年(令和3年)10月31日 - 2025年(令和7年)10月30日(「[[第49回衆議院議員総選挙]]」参照) {| class="wikitable" |- !選挙区!!議員名!!党派名!!当選回数!!備考 |- | [[福岡県第6区]](久留米市、[[大川市]]、[[小郡市]]、[[うきは市]]、[[三井郡]]、[[三潴郡]])|| [[鳩山二郎]] || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 3 || 選挙区 |} == 産業 == === 商業 === [[焼き鳥]]店数が人口1万人当たり約8軒であり、日本一である。また、日吉町には[[文化街]]と呼ばれる歓楽街があり、夜に賑わいをみせる。 ==== 主な大規模商業施設 ==== [[ファイル:Kurume_City_Plaza_01.jpg|thumb|[[久留米シティプラザ]]]] [[ファイル:Kurume Iwataya.JPG|thumb|[[久留米岩田屋]](市内唯一の百貨店)]] [[ファイル:ゆめタウン久留米.jpg|thumb|[[ゆめタウン久留米]](市内最大の商業施設)]] * 中心市街地 ** [[久留米シティプラザ]] ** [[エマックス・クルメ]] ** [[岩田屋]]久留米店(米城ビル・千歳プラザ) ** [[くるめりあ六ツ門]] ** [[ザ・ビッグ]]十三部店 * 合川地区周辺 ** [[ゆめタウン久留米]] ** [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]楽市楽座久留米店 ** [[ミスターマックス]]久留米インター店 * 市内南部 ** [[サンリブ]]久留米 ** [[サニー (スーパーマーケット)|サニー]]久留米南ショッピングセンター * 市内東部・田主丸地区 ** [[マックスバリュ]]田主丸店 ==== 過去に存在した大規模商業施設 ==== * 中心市街地 ** [[久留米井筒屋]] ** ダイエー久留米店 ** ダイエー久留米東店(旧ユニード久留米店) ** ダイエー六ツ門店(旧ユニードショッパーズ六ツ門、現くるめりあ六ツ門) * 市内南部 ** [[カリーノ|寿屋]]久留米サウスコートショッピングセンター(寿屋久留米マルエ店) === 製造業 === [[ブリヂストン]]の創業地であり久留米工場はグループのマザープラントとして重要な生産拠点となっている。<ref>[https://www.bridgestone.co.jp/corporate/library/plant/pdf/kurume_201512.pdf ブリヂストンHP久留米工場概要]</ref> 他に[[ムーンスター]]、[[アサヒシューズ]]と、[[ゴム]]加工品メーカーの工場が多く所在する。近年では、ダイハツ工業の子会社である[[ダイハツ九州]]の軽自動車専用エンジン工場や、[[東プレ]]の子会社である東プレ九州の自動車用プレス部品製造工場などが進出し、北部九州における自動車産業集積化の一翼を担う。 また、旧城島町は筑後川沿いに数多くの[[酒造業]]が軒を連ね、[[伏見区|伏見]]、[[灘五郷]]と並ぶ「'''日本三大酒どころ'''」として栄えていた。2005年の周辺町の編入により[[日本酒]]の醸造メーカーが18社となり、[[京都市]]、[[神戸市]]に次いで清酒製造場数で全国第3位と返り咲いた。 === 金融機関 === '''市内に本店をもつ金融機関 ''' * [[筑邦銀行]] * [[筑後信用金庫]] '''市内に支店をもつ金融機関 ''' {{Div col|cols=2}} * [[みずほ銀行]](旧[[第一勧業銀行]]店) * [[三井住友銀行]](旧[[住友銀行]]店) * [[三菱UFJ銀行]](旧[[三和銀行]]店) * [[りそな銀行]](旧[[大和銀行]]店) * [[福岡銀行]] * [[西日本シティ銀行]] * [[北九州銀行]] * [[福岡中央銀行]] * [[佐賀銀行]] * [[佐賀共栄銀行]] * [[肥後銀行]] * [[熊本銀行]] * [[十八親和銀行]] * [[福岡県信用組合]] * [[大川信用金庫]] * [[九州労働金庫]] * [[日本政策金融公庫]] * [[商工組合中央金庫]] * [[ゆうちょ銀行]](熊本支店久留米出張所) {{Div col end}} === バイオ産業 === 従来の製造業一辺倒からの脱却を図るために、バイオ産業の集積をめざす「福岡バイオバレープロジェクト」のもと[[福岡県]]と共同でバイオ関連産業の育成・振興が推進されている。 === 久留米市に本社を置く主な企業 === <!-- アイウエオ順 --> {{Div col|cols=2}} * [[アイスマン (製氷機メーカー)|アイスマン]] * [[アサヒシューズ]] * [[梅の花]] * [[木村屋]](2017年1月末で営業終了、事業を[[フランソア]]へ譲渡) * [[久電舎]] * 久留米ガス([[西部ガスホールディングス|西部ガス]]グループ) * [[久留米運送]] * [[久留米リサーチ・パーク]] * [[銀のすぷーん]] * [[クロボー製菓]] * [[昭和建設]] * [[田中藍]] * [[大電]] * [[大砲 (企業)|大砲]] * [[鷹正宗]] * 楽丸酒造([[サッポロビール]]子会社。同社ブランド「和ら麦」の製造を担当) * [[東和コーポレーション]] * [[ニシケン]] * [[西鉄バス久留米]] * [[ブライトパス・バイオ]] * [[ビコム]] * [[ベストアメニティ]] * [[丸永製菓]] * [[ムーンスター]] * [[ユーコーラッキーグループ]] * [[久留米市農業協同組合]] * [[三潴町農業協同組合]] {{Div col end}} === 特産品・郷土料理 === * [[久留米絣]] * [[久留米籃胎漆器]] * 植木・苗木発祥地(田主丸町) * 豚骨[[ラーメン]]発祥地([[久留米ラーメン]]) * [[久留米やきとり]] * [[筑後うどん]] * 巨峰 * エツ料理 == 情報・通信 == === マスメディア === * [[ドリームスエフエム放送]] * [[CRCCメディア]](く{{〜}}みんテレビ) * [[西日本新聞社]]久留米総局 * [[朝日新聞西部本社]]久留米支局 * [[毎日新聞西部本社]]久留米支局 * [[読売新聞西部本社]]久留米支局 * [[NHK福岡放送局]]久留米支局 : 久留米市は[[九州朝日放送]]の発祥の地である。かつてはその名残で久留米市にも支社が存在したが、福岡本社に統合されて廃止された<ref group="注釈">[[佐賀県]]の報道取材については佐賀支局が行っている。</ref>。また[[RKB毎日放送]]、[[テレビ西日本]]、[[福岡放送]]も過去に久留米支社を置いていたが、現在はいずれも本社に統合されて廃止された。なお、[[TVQ九州放送]]は元から久留米市に支社は置いていない。 == 外交 == ; 姉妹・友好都市 * {{Flagicon|JPN}} [[郡山市]](福島県)- [[1975年]][[8月3日]]姉妹都市提携締結 *: 廃藩置県により失業した旧久留米藩の[[士族]]が入植した地。 * {{Flagicon|USA}} [[モデスト|モデスト市]](アメリカ合衆国 [[カリフォルニア州]]) *: [[1992年]][[4月15日]]姉妹都市提携締結 * {{Flagicon|CHN}} [[合肥市]](中華人民共和国 [[安徽省]]) *: [[1980年]][[5月12日]]友好都市提携締結 == 地域 == === 人口 === {{人口統計|code=40203|name=久留米市|image=Demography40203.svg}} === 医療 === 人口当たりの医師数は、全国トップレベルであり{{Refnest|group="注釈"|政令指定都市・中核市の中でトップ。人口10万人当たりの医師数:全国平均 224.5人 久留米市545.2人。<ref>[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/hoken/kiso/21.html 厚生労働省 平成21年地域保健医療基礎統計”]</ref>}}、久留米大学医学部をはじめ [[ポジトロン断層法|PET]]等の最先端医療設備を持つ施設が集積した高度医療都市である。 * [[久留米大学病院]]  一般病床数. 1,045床 [[高度救命救急センター]] [[周産期母子医療センター|総合周産期母子医療センター]] [[ドクターヘリ]] PET * [[聖マリア病院]] 一般病床数. 1,129床 [[救命救急センター]] 総合周産期母子医療センター PET [[高気圧酸素治療]] * 久留米大学医療センター 一般病床数. 250 床 * 新古賀病院 一般病床数. 202床 [[ガンマナイフ]] * 古賀病院21 一般病床数. 230床 PET [[トモセラピー]] * 田主丸中央病院  一般病床数.180床 * 久留米総合病院 一般病床数.195床 * [[赤十字血液センター|日本赤十字社九州ブロック血液センター]] == 教育 == === 大学 === ; 私立 * [[久留米大学]] * [[久留米工業大学]] * [[聖マリア学院大学]] === 短期大学 === ; 私立 * [[久留米信愛短期大学]] === 高等専門学校 === ; 国立 * [[久留米工業高等専門学校]] === 高等学校 === ; 公立 * [[福岡県立明善高等学校]] * [[福岡県立久留米高等学校]] * [[福岡県立久留米筑水高等学校]] * [[福岡県立浮羽工業高等学校]] * [[福岡県立三潴高等学校]] * [[久留米市立南筑高等学校]] * [[久留米市立久留米商業高等学校]] * [[福岡県公立三井中央高等学校]](組合立) ; 私立 * [[久留米信愛中学校・高等学校]] * [[久留米大学附設中学校・高等学校]] * [[祐誠高等学校]](旧:久留米工業大学付属高等学校) * [[久留米学園高等学校]] === 小中学校 === ; 国立 * [[福岡教育大学附属久留米中学校]]・[[福岡教育大学附属久留米小学校|小学校]] ; 市立 * 市立中学校:17校(校名は[[福岡県中学校一覧#久留米市|久留米市立中学校]]を参照) * 市立小学校:45校(校名は[[福岡県小学校一覧#久留米市|久留米市立小学校]]を参照) === 特別支援学校 === ; 県立 * 福岡県立久留米聴覚特別支援学校 * 福岡県立田主丸特別支援学校 ; 市立 * 久留米市立久留米特別支援学校 === 学校教育外の教育施設 === ; 自動車教習所 * [[大善寺自動車学校]] * [[久留米自動車学校]] * [[久留米第一自動車学校]] ; 職業訓練 * 職業訓練法人久留米地区職業訓練協会 * [[陸上自衛隊幹部候補生学校]] * 陸上自衛隊[[西部方面混成団]] == 文化財 == {{Main|久留米市指定文化財一覧}} == 交通 == === 空港 === 最寄り空港は[[福岡空港]]で、高速バスも頻繁に運行されており市民に最も利用されている。また、[[佐賀空港]]へ予約制乗合タクシーが運行されている。<!--また、空港バスも福岡空港行のものしか存在しない。--> === 鉄道路線 === 市内ではJR九州が3路線、西鉄が2路線の計5路線が運行されている。 久留米市から福岡市の中心部の博多まで35kmほどであり、久留米市は移住者に対して福岡市等への通勤定期券を一部補助する制度を設けている<ref>{{Cite web|和書|title=通勤定期利用補助金【くるめのくらし|久留米シティプロモーション】 |url=https://www.kurumepr.com/main/1437.html |website=くるめのくらし|久留米シティプロモーション |access-date=2022-06-15 |language=ja}}</ref>。 ; [[九州旅客鉄道]](JR九州) * [[九州新幹線]] ** JR[[久留米駅]] * [[鹿児島本線]] ** JR久留米駅 - [[荒木駅]] *** [[西牟田駅]]([[筑後市]])が市境近くに所在する。 * [[久大本線]] ** JR久留米駅 - [[久留米高校前駅]] - [[南久留米駅]] - [[久留米大学前駅]] - [[御井駅]] - [[善導寺駅]] - [[筑後草野駅]] - [[田主丸駅]] ; [[西日本鉄道]](西鉄) * [[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]] ** [[宮の陣駅]] - [[櫛原駅]] - [[西鉄久留米駅]] - [[花畑駅]] - [[試験場前駅]] - [[津福駅]] - [[安武駅]] - [[大善寺駅]] - [[三潴駅]] - [[犬塚駅]] * [[西鉄甘木線|甘木線]] **宮の陣駅 - [[五郎丸駅]] - [[学校前駅]] - [[古賀茶屋駅]] - [[北野駅 (福岡県)|北野駅]] - [[大城駅]] - [[金島駅 (福岡県)|金島駅]] 中心駅は久留米駅および西鉄久留米駅。市街地の中心部に位置するのは西鉄久留米駅で、乗降客数はJR久留米駅より2万人以上多い。 === バス === ==== 一般路線バス ==== [[ファイル:Nishitetsu and Horikawa bus at JR Kurume station.JPG|thumb|市中心部を走る2社のバス。左が西鉄バス、右が堀川バス。]] [[ファイル:Kurume-nishitetsutaxy46.jpg|thumb|2006年に試行運行した久留米市コミュニティバス]] * [[西鉄バス]]:地域分社の[[西鉄バス久留米]]・[[西鉄バス佐賀]]の2社が運行している。[[西鉄久留米駅]]に併設の[[西鉄久留米バスセンター]]が運行上の拠点となっている。 ** [[西鉄バス久留米]]:久留米市内各地や福岡県内の周辺市町村への路線を担当する。 *** 久留米市内各地:概ね1960年代以前から久留米市域であった地域内のみを走る路線(市内線)のほか、旧大善寺町・旧田主丸町・旧城島町・旧北野町域など、1960年代以降に久留米市に編入された地域と久留米市中心部を結ぶ路線もある。 *** 久留米市 - [[うきは市]]([[国道210号]]経由) *** 久留米市 - [[広川町 (福岡県)|広川町]] - [[八女市]]([[国道3号]]経由) *** 久留米市 - [[筑後市]]([[国道209号]]経由、西牟田経由) *** 久留米市 - [[大川市]] ** [[西鉄バス佐賀]]:久留米市と佐賀県内を結ぶ路線を担当する。 *** 久留米市 - [[みやき町]]([[北茂安町|北茂安]]) - [[上峰町]] - [[吉野ヶ里町]] - [[神埼市]] - [[佐賀市]] *** 久留米市 - みやき町(北茂安 - [[三根町|三根]]) - [[千代田町 (佐賀県)|千代田町]] - 佐賀市 *** 久留米市 - みやき町(北茂安 - [[中原町 (佐賀県)|中原]]) - [[鳥栖市]] *** 久留米市 - 鳥栖市(国道3号経由鳥栖駅方面、長門石経由青葉台方面) * [[堀川バス]]:久留米市と八女市を結ぶ路線を運行しているが、大部分は久留米市内だけでの運行となっている。 ** 久留米市 - 広川町 - 八女市([[福岡県道82号久留米立花線|県道82号]]経由) * [[甘木観光バス]]:旧[[田主丸町]]中心部と[[朝倉市]]を結ぶ。 路線の詳細は各バス会社の記事を確認のこと。 ==== 高速バス ==== 市内で高速バスを利用できるバス停は、縄手・JR久留米駅・市役所前・六ッ門・西鉄久留米駅・文化センター前・十三部・千本杉・久留米インター南・久留米インターチェンジ・高速宮の陣がある。 *●は、乗車・降車のどちらかのみ可能。 *○は、乗車・降車どちらとも可能。 *-は、その停留所を通らない。 *×は、通過。 {| class=wikitable |-align=center !種別!!名前!!始発!!縄手!!JR久!!市役所!!六ッ門!!西鉄久!!文化C!!十三部!!千本杉!!IC南!!久留米IC!!宮の陣!!終点 |-align=center |高速||[[福岡空港 - 久留米線]]||縄手||●||●||●||●||●||●||●||●||●||-||○||[[福岡空港]] |-align=center |高速||[[桜島号]]||[[西鉄天神高速バスターミナル|福岡]]・[[博多バスターミナル|博多]]||-||-||-||-||-||-||-||-||-||●||×||[[鹿児島港|鹿児島]] |-align=center |高速||[[ごかせ号]]||[[西鉄天神高速バスターミナル|福岡]]・[[博多バスターミナル|博多]]||-||-||-||-||-||-||-||-||-||●||×||高千穂・[[延岡バスセンター|延岡]] |-align=center |高速||[[フェニックス号]]||[[西鉄天神高速バスターミナル|福岡]]・[[博多バスターミナル|博多]]||-||-||-||-||-||-||-||-||-||●||×||[[宮交シティ|宮崎]] |-align=center |高速||[[ひのくに号]]||福岡空港||-||-||-||-||-||-||-||-||-||●||○||[[熊本桜町バスターミナル|熊本]] |-align=center |} ==== コミュニティバス ==== * [[よりみちバス]]「コスモス号」- 2015年12月18日運行開始。北野猪口タクシーと安全タクシーが運行。 ** 北野便・弓削便(火・木・土) ** 大城便・金島便(月・水・金) :旧[[北野町]]内を中心に、旧[[善導寺町]]と隣接する[[三井郡]][[大刀洗町]]にも乗り入れる。運賃は200円均一で、[[西鉄バス久留米]]22系統石崎-両筑苑間にも利用できる1日乗車券は300円。 * よりみちバス「インガット号」- 2016年3月1日運行開始。くまタクシー、丸金タクシーが運行。 :旧[[城島町]]内を中心に運行される。また[[西日本鉄道|西鉄]][[犬塚駅]]と旧[[城島町]]を結んでいる便も存在する。運賃は200円均一で、[[西鉄バス久留米]]15系統の一部も利用できる1日乗車券は300円。 その他、久留米市社会福祉協議会が旧田主丸町において定期運行の無料福祉バスを運行している。 また、隣接する広川町の予約型乗合タクシー「ふれあいタクシー」が市内の日高整形外科病院へ乗り入れるが、久留米市内の停留所はこの1か所のみである。 === 道路 === ; [[高速道路]] :* [[九州自動車道]] : [[久留米インターチェンジ]] ; [[一般国道]] :* [[国道3号]] :* [[国道209号]] :* [[国道210号]] :* [[国道264号]] :* [[国道322号]] :* [[国道385号]] ; [[主要地方道]] :* [[佐賀県道・福岡県道15号佐賀八女線|福岡県道15号佐賀八女線]] :* [[福岡県道・佐賀県道17号久留米基山筑紫野線|福岡県道17号久留米基山筑紫野線]] :* [[佐賀県道・福岡県道19号諸富西島線|福岡県道19号諸富西島線]] :* [[福岡県道23号久留米柳川線]] :* [[福岡県道33号甘木田主丸線]] :* [[福岡県道46号久留米停車場線]] :* [[福岡県道47号久留米城島大川線]] :* [[福岡県道53号久留米筑紫野線]] :* [[福岡県道70号田主丸黒木線]] :* [[福岡県道80号甘木朝倉田主丸線]] :* [[福岡県道81号久留米浮羽線]] :* [[福岡県道82号久留米立花線]] :* [[福岡県道83号大和城島線]] :* [[福岡県道84号三潴上陽線]] :* [[福岡県道86号久留米筑後線]] :* [[福岡県道88号久留米小郡線]] :* [[福岡県道89号瀬高久留米線]] :* [[福岡県道99号大川大木線]] :* [[福岡県道151号浮羽草野久留米線]] ; その他 :* [[耳納スカイライン]] ; 道の駅 :* [[道の駅くるめ|くるめ]]:国道210号 == 名誉市民 == * [[石橋正二郎]] - [[ブリヂストン]]創業者 * [[倉田泰蔵]] (1887−1978) - 元つちや足袋(現・ムーンスター)社長 * [[梅野実]] (1872−没) - 元[[南満州鉄道]]理事 * [[石井光次郎]] - 元[[衆議院議長]] * [[倉田雲平 (3代目)]] (1909−没) - 元月星化成(現・ムーンスター)会長 * [[石橋幹一郎]] (1920-1997) - 元ブリヂストン会長 == 出身有名人 == === 歴史 === * [[立花誾千代]] (1569 - 1602) - 戦国時代の女性城主。[[立花宗茂]]の正室。 * [[野崎教景]] (?-1852) - 九州方言語彙集である『久留米浜荻』をまとめる。 * [[真木保臣]] (1813 - 1864) - [[水天宮 (久留米市)|水天宮]]祠官、[[尊皇攘夷]]派の活動家 * [[篠原泰之進]] (1828 - 1911) - [[新撰組]]隊士。 * [[緒方春朔]] (1748 - 1810) - 久留米藩に生まれ、のち[[秋月藩]]医となる。[[人痘種痘法]]に日本で初めて成功した。 * [[蒲池豊庵]] (???? - ????) - [[柳川城]]主の[[蒲池氏]]の子孫。久留米[[郷士]]。『[[蒲池物語]]』の筆者。 * [[高山彦九郎]] (1747 - 1793) - 江戸時代後期の尊皇思想家。 1793年(寛政5年)[[久留米藩]]内で自刃。墓は久留米市寺町の光明山遍照院にある。京都の京阪三条前にある通称「土下座像」は[[高山彦九郎]]の像である。 * [[佐田白茅]] (1833 - 1907) - 久留米藩士。明治期の外交官で[[征韓論]]を建白。 * [[林田守隆]] * [[柴山典]] * [[隈本有尚]] === 剣客・武道家 === <!-- アイウエオ順 --> * [[浅野一摩]] (1852-1934) - [[剣術|剣客]]。[[津田一伝流]]。 * [[梅崎弥一郎]] (1847-1913) - 剣客。[[加藤田神陰流]]。 * [[小城満睦]] (1897-1993) - [[剣道]][[範士]]九段。 * [[加藤田平八郎]] (1808-1875)- 剣客。加藤田神陰流。 * [[末次留蔵]] (1893-1975) - [[剣道]]範士七段。[[居合道]]範士八段([[夢想神伝流]])。[[銃剣道]]範士八段。西日本随一の個人道場、武揚館を落成した。 * [[宗重遠]] (1848-1930) - 津田一伝流。剣道範士。 * [[津田教修]] (1850-1907) - 津田一伝流。[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中佐]]。 * [[中村半助]] (1845-1897) - [[柔術]]家。初代[[警視庁武術世話掛|警視庁柔術世話掛]]。 * [[中野宗助]] (1885-1963) - [[五人の剣道十段|剣道範士十段]](田主丸町)。 * [[松崎浪四郎]] (1833-1896) - 剣客。加藤田神陰流。 === 政治 === <!-- アイウエオ順 --> * [[浅野陽吉]] (1868 - 1944) - 元・[[衆議院議員]]、久留米商業学校長、郷土史研究家。 * 綾部市太 (1888 -) - 元・宮崎県議会議員、宮崎県日向市大字富高にツツジ園「迎洋園」を開園した人物でもある。後に迎洋園は閉園し、宅地化されて2001年に日向市迎洋園として日向市の地名となる(旧:浮羽郡竹野村(後の田主丸町))。 * [[石井光次郎]] (1889 - 1981) - 元・衆議院議員、第54代[[衆議院議長]]。 * [[大久保勉]] (1961 - ) - 元・参議院議員、前・久留米市長。 * [[古賀ゆきひと]] (1959 - ) - 参議院議員、元・[[福岡放送]]アナウンサー * [[楢橋渡]] (1902 - 1973) - 元・衆議院議員、[[炭鉱]]マンから[[政治家]]へ転身し、[[内閣書記官長]]・[[運輸大臣]]を歴任。 * [[楢橋進]] (1934 - 1990) - 楢橋渡の長男、渡と同じく元・衆議院議員 。 * [[橋本邦寿]] (1962 - ) - 元・[[大阪府議会]]議員 === 学問 === <!-- アイウエオ順 --> * [[荒川文六]](1878年 - 1970年):九州大学名誉教授、元学長。電気工学者。晩年を久留米市の自宅で過ごす。 * [[王丸勇]] (1901年 - 1995年): 精神医学者、久留米大学元教授、元日本精神神経学会会長、病跡学(パトグラフィー)の大家 * [[太田篤志]] (1968年 - ): 姫路獨協大学客員教授、作業療法士 * [[国武豊喜]] (1936年 - ): 化学者、九州大学元教授、北九州市立大学副学長、紫綬褒章、日本学士院賞 * [[横川新]] (1936 - 2009): 国際法学者、第12代成城大学学長 === 経済・実業 === <!-- アイウエオ順 --> * [[石橋正二郎]] (1889 - 1976)- [[ブリヂストン]]の創業者 * [[井上伝]] (1789 - 1869)- [[久留米絣]]の始祖 * [[小川トク]] (1839 - 1913)- 久留米縞織の創始者 * [[牛島謹爾]] (1864 - 1926)- アメリカで「ポテト・キング」の異名をとった大農園主。在米日本人会初代会長。 * [[倉田雲平]] (1851−1917) - つちやたび(現[[ムーンスター]])創業者。 * [[四島一二三]] (1881−1976) - 北野町出身。福岡無尽株式会社(現[[西日本シティ銀行]])創設。 * [[真藤恒]] (1910 - 2003)- 石川島播磨重工業(現[[IHI]])の社長、[[日本電信電話|NTT]]初代社長・会長。 * [[田中久重]] (1799 - 1881)-「からくり儀右衛門」で有名。佐賀[[鍋島藩]]にも出仕。 [[東芝]]の創業者。 * 田中久重(2代目) (1846−1905) -(初代養子)電気通信、海軍発注品に事業を展開。 * [[永田清 (実業家)|永田清]] (1903 - 1957)- [[日新製糖]]社長・[[日本放送協会]](NHK) 会長。NHKで[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]](現・Eテレ)を始める。 * [[日比翁助]] (1860 - 1931)- [[三越百貨店]]の創始者。[[慶應義塾]]出身。 * [[河原成美]] (1952 - )- [[力の源ホールディングス]]創業者・社長、元[[日本ラーメン協会]]副理事長。[[九州産業大学]]出身。 *[[村井利彰]] (1955 - )- [[ニチレイ]]社長・[[日本冷蔵倉庫協会]]会長・[[大日本水産会]]副会長・[[食品産業センター]]副会長。[[九州大学経済学部]]出身。 === 文芸・文化 === <!-- アイウエオ順 --> * [[江崎誠致]] (1922 - 2001)- 小説家(直木賞作家) * [[酒見賢一]] (1963 - )- 小説家 * [[福田廣宣]] (1912 - 没年不詳)- 歌人 * [[宮崎哲弥]] (1962 - )- [[評論家]] * [[元田作之進]] (1862 - 1928)- [[立教大学]]初代学長 * [[乙一]] (1978 - )- 小説家 === 芸術 === <!-- アイウエオ順 --> * [[青木繁]] (1882 - 1911)- 画家。荘島町に青木繁旧居として生家が保存・整備され広く公開されている。 * [[菊竹清訓]] (1928 - 2011)- 建築家 * [[古賀春江]] (1895 - 1933)- 画家 * [[坂本繁二郎]] (1882 - 1969)- 画家。京町に生家が現存しており保存・整備事業が進められている。 * [[重松象平]] (1973 - )- 建築家 * [[高島野十郎]] (1890 - 1975)- 画家。青木繁の影響を受ける。 * [[藤田吉香]] (1929 - 1999)- 画家。櫛原町で出生。牡丹等の静物画が多く写実主義の昭和の一時代を築く。 * [[野口竜]] (1944 - 2012)- [[漫画家]]、[[デザイナー]]、[[イラストレーター]]。 * [[松本零士]] (1938 - 2023)- [[SF漫画家]]。久留米市で出生。 * [[松本英一郎]] (1932 - 2001)- 画家。 * [[Pantovisco]] (不明)- マルチクリエーター。 === 芸能 === ==== 音楽 ====<!-- アイウエオ順 --> {{columns-list|2| * [[鮎川誠]] - ミュージシャン * [[家入レオ]] - 歌手 * [[イクマあきら]] - 歌手 * [[池松愛理]] - アイドル * [[石橋凌]] - 歌手、俳優 * [[石丸千賀]] - アイドル * [[植田真梨恵]] - 歌手 * [[坂本直弥]] - 歌手(ON/OFF) 俳優 * [[坂本和弥]] - 歌手(ON/OFF) 俳優 * [[高野洸]] - 歌手([[dream5]]) * 竹下麻衣子 - ミュージシャン([[IRabBits]]) * rio - ミュージシャン ([[vivid undress]]) * [[鶴久政治]] - (元[[チェッカーズ]]) * [[高杢禎彦]] - (元[[チェッカーズ]]) * [[中村八大]] (1931-1992)- 作曲家 * [[野崎整子]] - 歌手 * [[藤井フミヤ]] - 歌手(元チェッカーズ) * [[藤井尚之]] - ミュージシャン(元チェッカーズ) ** フミヤと尚之は実兄弟である。 * [[マオ (シド)|マオ]] - 歌手([[シド (バンド)|シド]]) * [[MAI (歌手)|MAI]] - 歌手 * [[松田聖子]] - 歌手 * [[三木聖子]] - 歌手、女優 }} ==== 演劇、演芸、俳優 ==== <!-- アイウエオ順 --> {{columns-list|2| * [[R藤本]] - お笑い芸人 * [[有坂来瞳]] - タレント * [[井上麻美 (Clik)|井上麻美]] - アイドル * [[いのくちゆか]] - 声優 * [[江上健二]] - 元舞台俳優 * [[江頭ゆい]] - 女優 * [[江口カン]] - 映像ディレクター、演出家、映画監督 * [[LL BROTHERS]] - ダンスデュオ * [[香月亜耶乃]] - タレント * [[草場恵]] - グラビアアイドル * [[こがけん]] - お笑い芸人([[おいでやすこが]]) * [[酒井広大]] - 声優 * [[坂口祐三郎]] (1941-2003)- 俳優 * [[桜井ユキ]] - 女優 * [[高田里穂]] - モデル * [[田中麗奈]] - 女優 * [[どりあんず|堤太輝]] - お笑い芸人 * [[藤田進]] (1912-1990)- 俳優 * [[藤吉久美子]] - 女優 * [[宮崎敦吉]] - 俳優、声優 * [[御船健]] - 俳優 * [[吉田羊]] - 女優 * [[財木琢磨]] - 俳優 * [[中尾拳也]] - 俳優 * [[柳家蝠よし]] - 落語家 }} === マスコミ === * [[財津ひろみ]] - 福岡放送アナウンサー * [[吉竹史]] - 元・[[毎日放送]]([[大阪市]])アナウンサー * [[武藤麻美]] - [[NHK福岡放送局]]の契約キャスター * [[豊島晋作]] - [[テレビ東京]]の[[ニュースキャスター]]、[[報道局]][[報道記者]]、[[ディレクター]] === スポーツ === <!-- アイウエオ順 --> * [[秋吉耕佑]] - [[オートバイレーサー]] *[[朝山東洋]] - 元[[プロ野球選手]]、現[[広島東洋カープ]]コーチ * [[内田博幸]] - [[騎手]]・[[中央競馬]]所属(旧三潴町出身) * [[小川健太郎]] (1934-1995)- 元プロ野球選手、[[中日ドラゴンズ]]のエース * [[小野郁]] - プロ野球選手 * [[香月良太]] - 元プロ野球選手 * [[香月良仁]] - 元プロ野球選手 * [[後藤将和]] - 元プロ野球選手(ダイエー:北野町出身) * [[後藤敬介]] - 元プロ野球選手(巨人:城島町出身) * [[坂口征二]] - [[プロレスラー]]、俳優[[坂口憲二]]の父 * [[つぼ原人]] - プロレスラー * [[城後寿]] - [[プロサッカー選手]]([[アビスパ福岡]]) * [[紫原政文]] - 競輪選手 * [[素根輝]] - 柔道選手 * [[古賀若菜]] - 柔道選手 * [[TATSUJI]] - [[K-1]]選手 * [[中園真司]] - [[ラグビーフットボール|ラグビー]]選手 * [[中野浩一]] - 元[[競輪選手]] * [[中野菜摘]] - 元女子プロ野球選手 * [[中村良二]] - 元プロ野球選手(旧北野町出身) * [[流大]] - ラグビー選手 * [[伊藤大祐]] - ラグビー選手 * [[牧原大成]] - プロ野球選手([[福岡ソフトバンクホークス]]:旧田主丸町出身) * [[町豪将]] - 元プロ野球選手 * [[松浦麻琴]] - [[バレーボール]]選手 * [[若松駿太]] - プロ野球選手([[中日ドラゴンズ]]) === その他 === <!-- アイウエオ順 --> * [[坂本元蔵]] - 久留米藩士。久留米[[ツツジ|つつじ]]の開発。 * [[上祐史浩]] - 宗教家(旧城島町出身) * [[竹ヶ原敏之介]] - 靴職人、シューズデザイナー。 * [[山崎かおり]] - [[AV女優]] * [[柳原滋雄]] - [[フリージャーナリスト]] * [[半田亘理]] - [[軍人]] ===マスコット === * 乙女(おとめ)ちゃん - コスモスの町、北野町のキャラクター。 * 九千坊の九ちゃん - 河童の町、田主丸町のキャラクター。 * [[くるっぱ]] - 久留米市の公式キャラクター。 * 分別戦隊ワケルンジャー - ゴミの選別に活躍する3人のローカルヒーロー。 * ミヅマン - YOSAKOIみづま祭りを盛り上げるキャラクター。 * ヤキ江さん - 「久留米焼きとり文化振興会」が一般公募した、雌鶏のキャラクター。 ===シンボル === * 町の木 - ケヤキ * 町の花 - 久留米つつじ、コスモス == 市外局番 == * 0942(久留米MA 旧田主丸町を除く) * 0943(田主丸MA 旧田主丸町地域) == 歴史的建造物・名所・旧跡 == {{Gallery |Kurume castle.JPG|[[久留米城]] |Route209-kurumecity.jpg|[[国道209号]]日吉町交差点付近 |Nishitetsu-kurume-basscenter.jpg|[[西鉄久留米バスセンター]]周辺 |Kurume-mutsumondouri.jpg|[[六ツ門町|六ツ門通り]] |Kurume_kourataisha.jpg|[[高良大社]] |Kurume Bairinji Temple.jpg|[[梅林寺 (久留米市)|梅林寺]] |Suitengu_kurume_city.jpg|[[水天宮 (久留米市)|全国総本宮・水天宮]] |Kurume_narita_temple.jpg|[[久留米成田山]](大本山成田山久留米分院) |Kurume_narita_temple2.jpg|[[成田山久留米分院|久留米成田山・慈母大観音]] |Kurume_shichiki_jizoson.jpg|[[七木地蔵尊]][https://welcome-kurume.com/spots/detail/173e3edd-7d9f-4144-8fe6-71f0689820bd](市指定文化財) |Kurume Hyakunen Park.jpg|[[久留米百年公園]][https://welcome-kurume.com/spots/detail/d83b256c-7157-4409-a6d9-a76e603df935] |Fukuoka Science Museum.jpg|[[福岡県青少年科学館]] |Kurume_ishibashi_bunka_center.jpg|[[石橋文化センター]] |Kurume City Public Library.jpg|久留米市立図書館 |Kurume Bird Center.jpg|[[久留米市鳥類センター]] |Kurume univ.jpg|[[久留米大学病院|久留米大学病院(病院本館)]] |Kurume_nisen-nenbashi.jpg|二千年橋(2000年完成) |Kurume_komorino_bridge.jpg|小森野橋 |Kurume-keirin-seimon.jpg|[[久留米競輪場]] |Street view of Kusano.jpg|草野の伝統的町並み |Kurume City Plaza 01.jpg|[[久留米シティプラザ]] |Shinkyo-ji 01.jpg|寺町の[[真教寺 (久留米市)|真教寺]] |Daizenji Tamatare-gu Haiden.jpg|[[大善寺玉垂宮]][https://tamataregu.or.jp/] |Kurume Ohashi Bridge.jpg|[[国道3号]]の久留米大橋 }} ===神社=== <!-- アイウエオ順 --> * [[大善寺玉垂宮]] - 毎年1月7日に日本三大火祭りのひとつ[[鬼夜]](国の[[重要無形民俗文化財]])が行われる。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kurumehotomeki.jp/event/mode=detail&id=400000000289|title=久留米観光サイトほとめきの街久留米|accessdate=2019-04-26}}</ref> * [[北野天満宮 (久留米市)|北野天満宮]] * [[櫛原天満宮]] - 通称「久留米の天神さま」。 * [[五穀神社]] - 東芝ゆかりの神社。境内に久留米の偉人の銅像がある「郷学の森」がある。 * [[水天宮 (久留米市)|水天宮]] - 全国水天宮の総本社。 * [[高良大社]] - [[筑後国]][[一宮]] * [[真木神社]] - [[水天宮 (久留米市)|水天宮]]の境内社。水天宮の第22代宮司でもあった真木和泉守こと[[真木保臣]]などが祀られている<ref name="東林寺天満宮">[https://www.torinji-tenmangu.com/2017/08/24/%E7%9C%9F%E6%9C%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE/ 水天宮に鎮座する真木神社] 東林寺天満宮</ref>。1915年(大正4年)には真木保臣の銅像が建立された<ref name="東林寺天満宮"/>。[[太平洋戦争]]中に供出されたが、1968年(昭和43年)には没後100年を記念して再建された<ref name="東林寺天満宮"/>。真木神社に隣接して、真木保臣によって尊皇・倒幕の策源地となった[[山梔窩]](さんしか)を模した古民家がある<ref name="東林寺天満宮"/>。[[筑後市]]に現存する山梔窩の現物は福岡県指定文化財となっている<ref name="東林寺天満宮"/>。 === 寺院 === * [[筑後国分寺跡]] * [[筑後国分尼寺跡]] * 元三大師・[[国分寺 (久留米市)|{{small|護國山}}國分寺]] * [[安国寺 (久留米市)|{{small|神代山}}安國萬法禪寺]](筑後安國寺、安國禪寺、萬法寺)<ref>[http://www.ankokuji.com/ 公式]</ref> * [[善導寺 (久留米市)|{{small|井上山光明院}}善導寺]] – [[浄土宗]]七大本山の一つ。九州大本山。 * [[梅林寺 (久留米市)|{{small|江南山}}梅林禪寺]] – [[有馬家]]菩提寺 * [[観興寺 (久留米市)|{{small|山本山普光院}}觀興禪寺]](観興寺) * [[光福寺 (久留米市)|{{small|蚊田山}}光福寺]] * [[成田山久留米分院|{{small|成田山}}久留米分院明王寺]](久留米成田山) * [[福聚寺 (久留米市)|{{small|慈雲山}}福聚禪寺]](福聚寺) * [[無量寺 (久留米市)|{{small|香林山冷智院}}無量寺]] * [[朝日寺 (久留米市大善寺町)|{{small|夜明山}}朝日禪寺]](朝日寺) * [[大善寺 (久留米市)|{{small|御船山等學院}}大善寺]] * 九州日光・[[専念寺 (久留米市)|{{small|西向山一心院}}專念寺]]<ref>[https://welcome-kurume.com/spots/detail/41d27630-57eb-4c63-8e18-6321bf3ca2f8 久留米市]</ref> * [[永勝寺 (久留米市)|{{small|柳坂山}}永勝禪寺]](永勝寺) * [[寺町 (久留米市)|寺町]] – 江戸時代に[[久留米城]]防衛の一環として寺をここに集めたという。現在は十七の寺院が集まって一つの聖域をつくっている。 : :* [[医王寺 (久留米市)|{{small|瑠璃光山}}醫王寺]] :* [[正覚寺 (久留米市)|{{small|持地山}}正覺禪寺]](正覚寺){{small|([[三井四国八十八ヶ所霊場]]第三十四番)|}} :* [[遍照院 (久留米市)|{{small|光明山}}遍照院]] ::* [[高山彦九郎#墓地|高山彦九郎墓]] ::* 高山彦九郎終焉の地 :* [[徳雲寺 (久留米市)|{{small|圓明山}}德雲禪寺]](徳雲寺) :* [[宗安寺 (久留米市)|{{small|廣嶽山願行院}}宗安寺]] :* [[心光寺 (久留米市)|{{small|普照山護念院}}心光寺]] :* [[本泰寺 (久留米市)|{{small|安住院法榮山}}本泰寺]] :* [[真教寺 (久留米市)|{{small|清涼山}}真教寺]] :* [[浄顕寺 (久留米市)|{{small|大願山}}淨顯寺]] :* [[西方寺 (久留米市)|{{small|光雲山}}報土院]] :* [[誓行寺|{{small|光壽山}}誓行寺]] :* [[妙正寺 (久留米市)|{{small|十如院莊嚴山}}妙正寺]] :* [[妙蓮寺 (久留米市)|{{small|七寶山}}妙蓮寺]] :* [[千栄寺|{{small|德光山}}千榮禪寺]](千栄寺) :* [[妙善寺 (久留米市)|{{small|佛行院大雲山}}妙善寺]] :* [[善福寺 (久留米市)|{{small|藤林山}}華嶽院]] :* [[少林寺 (久留米市)|{{small|瑞祥山}}少林禪寺]](少林寺) * 東光寺 ** [[東光寺城]] ===美術館・博物館・動物園=== * [[有馬記念館]] - 旧[[久留米城]]本丸にあり [[久留米藩]]の歴代藩主有馬家の歴史資料を展示 * [[久留米市美術館]] * [[久留米市鳥類センター]] * [[福岡県青少年科学館]] * [[くるめウス]][http://kurumeus.net/] === 公園 === * [[石橋文化センター]] * [[中央公園 (久留米市)|中央公園]] * [[久留米百年公園]] * [[水沼の里2000年記念の森]] * [[発心公園]] * [[福岡県緑化センター]] * [[久留米森林つつじ公園]] * [[コスモスパーク北野]] ===スポーツ施設=== * [[久留米総合スポーツセンター]] ** [[久留米アリーナ]] ** [[久留米市野球場]] * [[久留米競輪場]] ===旧跡・文化施設=== *[[久留米城]] - 県文化財 *[[発心城]] - 県史跡 * [[青木繁旧居]] - [[青木繁]]の生家が復元整備されており、屋内の見学も出来る。 * 坂本繁二郎生家 - [[坂本繁二郎]]の生家が復元整備されており、屋内の見学も出来る。 * [[石橋文化センター]] - [[ブリヂストン]]の創立25周年を記念し、1956年に[[石橋正二郎]]が久留米市へ寄贈した。 * [[久留米シティプラザ]] - 旧久留米井筒屋跡地に2016年4月27日開館 ** [[六角堂広場]] * [[道の駅くるめ]] * [[久留米市世界つつじセンター]] - 市政百周年事業により久留米市の緑と花の産業拠点として設置。国内最大級のつつじ品種数を誇る。 === 祭事・催事 === * [[鬼火]](玉垂宮、日本三大火祭りのひとつ、毎年1月7日) * 城島酒蔵びらき[https://welcome-kurume.com/events/detail/bc35e2f0-1959-4117-a0bf-04ca4a442ec2](城島町、2月中旬) * 久留米つばきフェア(石橋文化センター、久留米つばき園、久留米市世界のつばき館、3月) * 久留米つつじまつり(久留米百年公園、4月-5月) * [[水天宮春大祭]](水天宮、5月3日-7日) * あじさい祭([[千光寺 (久留米市)|千光寺]]、6月) * 高良大社川渡祭、へこかき祭り(高良大社、6月) * 城島エツ祭(六五郎橋河川敷公園、6月) * 献灯祭(高良大社、8月) * 水の祭典久留米まつり(8月3日-5日) * [[筑後川花火大会]](8月5日) * 水天宮夏大祭(8月5日-7日) * 久留米流し灯籠(筑後川河川敷、8月) * 鈴虫まつり(久留米城跡、8月) * 河童まつり(田主丸町、8月中旬) * 田主丸花火大会(田主丸町、8月下旬) * 花火動乱蜂(王子若宮八幡宮、9月) * 城島ふるさと夢まつり(城島町町民の森、9月中旬) * コスモスフェスティバル(コスモスパーク北野、10月中旬) * 高良大社おくんち(秋季大祭)(高良大社、10月) * ふるさとみづま祭(水沼の里2000年記念の森、11月上旬) * 久留米焼きとり日本一フェスタ(2012年から、9月上旬 久留米焼きとり文化振興会[http://www.kurumeyakitori.or.jp/fesuta.html] 主催) ==久留米市が舞台の作品== * [[百瀬、こっちを向いて。]](小説) * [[精姫様一条]](小説) * [[若殿八方破れ 久留米の恋絣]](小説) * [[卒業写真 (映画)|Watch with Me 〜卒業写真〜]](映画) * [[黒い看護婦]](スペシャルドラマ) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === <!-- 文献参照ページ --> {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 実際に参考にした文献一覧 --> * [[白井永二]]・土岐昌訓編集『神社辞典』[[東京堂出版]]、[[1979年]]、180-181頁 == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[東久留米市]] - 東京都。市制施行前は「久留米町」であったが、由来に関して当市との関係性はない。 == 外部リンク == {{osm box|r|4008314}} * {{Official website}} * {{Facebook|KurumeCityKouhou|キラリ久留米(久留米市広報)}} * {{YouTube|channel=UC1pZ6YREpWrY21IxQoS3LPw}} * {{LINE公式アカウント|kurume-city}} {{久留米市内の主な地域}} {{福岡県の自治体}} {{日本の中核市}} {{日本100大都市}} {{B-1グランプリ開催地}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:くるめし}} [[Category:福岡県の市町村]] [[Category:久留米市|*]] [[Category:城下町|くるめ]] [[Category:中核市]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]]
2003-09-14T10:13:30Z
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阪堺電気軌道
阪堺電気軌道株式会社(はんかいでんききどう、英: Hankai Tramway Co., Ltd.)は、大阪市内と堺市内で2路線の路面電車を運行している会社。南海電気鉄道の完全子会社であり、南海グループに属する。本社は大阪府大阪市住吉区清水丘三丁目14番72号にある。 コーポレート・スローガンは「暮らしがある。未来がある。ずっと息づく軌道がある。」。 通称「阪堺電車」「阪堺電軌」。地元の人は「チン電」と呼ぶこともある。なお阪堺電鉄(通称:「新阪堺」で大阪市電阪堺線の前身。1944年公営化、1968年廃線)とは別の会社である。 詳細は各路線の記事を参照のこと。★印は廃止系統。 普通旅客運賃(2020年10月1日改定)。乗り換えは住吉・我孫子道停留場で1回のみ可能で、それ以外の乗り換えは不可。ただし、住吉での乗り換えは阪堺線恵美須町停留場 - 東粉浜停留場間と上町線天王寺駅前停留場 - 神ノ木停留場間の相互利用のみ。なお、乗り換えには時間制限が設けられており、乗換券受取から1時間までである。有効時間ならびに有効区間は券面に記載されている。 2020年4月現在、営業用の車両についてはすべてモ101形から続く車体長14mの大型車両を採用している。また、廃止になった平野線を含め、専用軌道区間が多いこと、阪堺線は南海線と併走しており、競合していたなどの事情から、各地でカルダン駆動方式や間接制御などを用いた高性能な路面電車が登場する1950年代までは類を見ない高性能車両が揃っていた。長らく1または2ステップの車両しか在籍しておらず、超低床電車の導入は諸般の事情により見送られていたが、2013年8月に堺市の補助により1001形「堺トラム」が導入された。2020年3月からは増備車の1101形も導入されている。 非冷房車であるモ161形は夏期(6月後半 - 9月末)の運行は原則的に行われず、2013年まで平日朝ラッシュ時の阪堺線系統(恵美須町 - 我孫子道間)の1往復のみに限定して運行されていたが、前述の「堺トラム」投入により冷房車が充足したため、2014年以降夏季は完全に予備車扱いとなった(詳細は「モ161形の運用」を参照)。 阪堺電気軌道では広告塗装を施している車両が多い。広告塗装を施す車両は、主にモ701形とモ601形が多いが、モ501形とモ351形にも広告塗装車がある。 モ161形は、2010年からリバイバルカラーの復活と称した復刻塗装が行われており、モ164号が1986年頃に緑地に黄色帯正面V字の塗装を同年10月に2週間限定で復刻(通称ビークル・スター) した後、前面のV字を消した緑地の黄色帯塗装となっていた。その後、モ166・164号は、2014年にモ161形登場時の塗装とされている茶色に変更された。広告塗装は、2014年10月現在、存在しない。 モ701形・モ601形用の新型車用の標準塗装としては、白地にベージュと茶色の帯。さらに旧型車用には、南海時代からの「雲電車」と呼ばれる塗装がある。雲電車は元々立石電機(現在のオムロン)の広告塗装で、かつてはブルー・グリーン・オレンジ・イエローの4色(ただしイエローは立石電機の広告車では無く、広告主企業の倒産による応急処置であり、ごく短期で消滅)があり、車体側面上部に企業名「サイバネーションのOMRON立石電機」、車体側面中央部にメッセージが小さく入っていた。 雲電車はモ501形のオレンジ(広告塗装化で消滅中)とイエローの塗装(広告塗装化で消滅中)が、モ161形とモ351形にブルーの塗装(現在はモ161形168号が廃車、モ351形が広告塗装化で消滅中)が、モ161形164号にグリーンの塗装(塗替えにより消滅中)が復活している。これらの色は以下のような使い分けをしている。 2013年から運行しているモ1001形「堺トラム」は、公募により塗装を決定している。導入予定の3編成すべてが異なるカラーリングを採用する予定であり、最初に導入された1001号は白地・薄金地に深緑を基調としたカラーリングで、塗装そのものに「茶ちゃ」、次に導入された紫を基調とした1002号は「紫おん」、その次に導入された青を基調とした1003号は「青らん」の名が付けられた。 現在は広告塗装となっているものが大半であり、旧型車両はリバイバルカラー化などが進み、新型車用の標準塗装はゼロ、さらに現在は車庫に留置されている事業用車両も旧南海塗装などに塗り替えられている。今後は、161・351・501形は雲塗装、601・701形は登場時の新車色を標準色とすることになった。 2014年10月からは、モ161形164号が、NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」のラッピング広告電車となっていた。2016年9月30日からは166号が「HELLO KITTY LOVES すみよし」のラッピング電車に、11月1日からは164号がアニメ「文豪ストレイドッグス」のラッピング電車になっていた。
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阪堺電気軌道株式会社は、大阪市内と堺市内で2路線の路面電車を運行している会社。南海電気鉄道の完全子会社であり、南海グループに属する。本社は大阪府大阪市住吉区清水丘三丁目14番72号にある。 コーポレート・スローガンは「暮らしがある。未来がある。ずっと息づく軌道がある。」。 通称「阪堺電車」「阪堺電軌」。地元の人は「チン電」と呼ぶこともある。なお阪堺電鉄とは別の会社である。
{{Pathnav|南海電気鉄道|frame=1}} {{基礎情報 会社 |ロゴ=[[ファイル:Nankai group logo.svg|150px|ロゴマーク]] |画像=[[ファイル:Headquarters of Hankai Tramway IMG 3241 20130518.JPG|200px]] |画像説明=阪堺電気軌道本社 |社名=阪堺電気軌道株式会社 |英文社名=Hankai Tramway Co., Ltd. |種類=[[株式会社]] |市場情報=非上場 |略称=阪堺、阪堺電軌、阪堺電車 |国籍={{JPN}} |郵便番号=558-0033 |本社所在地=[[大阪府]][[大阪市]][[住吉区]]清水丘三丁目14番72号 |設立=1980年([[昭和]]55年)7月7日 |業種=陸運業 |事業内容=大阪市南部、堺市内を事業区域とした軌道事業。<br>土地・建物の賃貸と管理。<br>駐車場、食堂、喫茶店、<br>その他旅客サービス施設の経営。 |代表者=取締役社長 藤井 哲 |資本金=9000万円<br>(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>) |売上高=15億6061万7000円<br>(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />) |営業利益=563万6000円<br>(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />) |純利益=6435万9000円<br>(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />) |純資産=4億3577万7000円<br>(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />) |総資産=23億9074万円<br>(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />) |従業員数=109人<br>(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />) |決算期=3月31日 |主要株主=[[南海電気鉄道]] 100%<br>(2018年3月31日現在<ref>南海電気鉄道第101期有価証券報告書</ref>) |関係する人物= |外部リンク=https://www.hankai.co.jp/ |特記事項=南海電気鉄道の連結子会社。<br>南海電気鉄道との事業上の関係は、地域旅客運輸の相互補完資金の貸付。<br>(旧)阪堺電気軌道は1909年([[明治]]42年)12月28日設立。<br>上町線の前身、大阪馬車鉄道は1897年(明治30年)5月26日創立。 }} '''阪堺電気軌道株式会社'''(はんかいでんききどう、{{Lang-en-short|Hankai Tramway Co., Ltd.}})は、[[大阪市]]内と[[堺市]]内で2路線の[[路面電車]]を運行している会社。[[南海電気鉄道]]の完全[[子会社]]であり、[[南海グループ]]に属する。本社は[[大阪府]]大阪市[[住吉区]]清水丘三丁目14番72号にある。 コーポレート・スローガンは「'''暮らしがある。未来がある。ずっと息づく軌道がある。'''」。 通称「'''阪堺電車'''」「'''阪堺電軌'''」。地元の人は「チン電」と呼ぶこともある。なお[[阪堺電鉄]](通称:「新阪堺」で[[大阪市電阪堺線]]の前身。1944年公営化、1968年[[廃線]])とは別の会社である。 == 歴史 == === 大阪馬車鉄道から浪速電車軌道へ === * [[1895年]]([[明治]]28年)[[10月5日]] 荻田利兵衛ほか26名が発起人となり、[[大阪鉄道 (初代)|初代・大阪鉄道]]天王寺停車場(現在の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[天王寺駅]])から[[住吉大社]]や'''天下茶屋遊園'''(現在の[[大阪市]][[阿倍野区]]橋本町付近にかつて存在した遊園地)への旅客誘引を主たる目的に、大阪府[[東成郡]][[天王寺村]]大字天王寺字長者ヶ崎(現在の大阪市阿倍野区松崎町一丁目付近) - 大阪府東成郡天王寺村大字阿部野字南阪田(現在の大阪市阿倍野区晴明通付近) - 大阪府[[西成郡]][[玉出町|勝間村]](現在の大阪市[[西成区]][[玉出|玉出東]]一丁目付近)間に馬車鉄道敷設を出願。 * [[1896年]](明治29年) ** [[8月16日]] 荻田利兵衛ほか26名が発起人となり、大阪府東成郡天王寺村大字阿部野字南阪田 - 大阪府東成郡[[住吉村 (大阪府)|住吉村]](現在の大阪市[[住吉区]]住吉2丁目付近)間および大阪府東成郡天王寺村大字天王寺字長者ヶ崎 - 大阪府東成郡天王寺村字六万体(現在の大阪市[[天王寺区]][[四天王寺 (大阪市の地名)|四天王寺]]一丁目付近)間の馬車鉄道延長敷設出願。 ** [[9月15日]] 荻田利兵衛らに大阪府東成郡天王寺村大字天王寺字長者ヶ崎 - 大阪府西成郡勝間村間の敷設特許状が下付される。 * [[1897年]](明治30年) **[[ 5月26日]] '''大阪馬車鉄道株式会社'''が設立され、初代取締役社長に[[土居通夫]]が、役員に出水弥太郎をはじめとする大阪、河内の有力者や大地主らが就任。資本金5万円。現在の[[阪堺電気軌道上町線]]および後の[[大阪市電天王寺阿倍野線]](1968年12月18日廃止)の起源。 ** [[10月26日]] 臨時株主総会において、動力を馬力から電気に変更することが決議される。 * (この間) ** 政府に電気鉄道変更願を出願。 ** 政府からの「工事着手延長出願ノ件詮議及ビ難シ」の指令を受け、やむなく電化変更願を取り下げる。 * [[1898年]](明治31年)[[3月20日]] 馬車鉄道の起工式を行う。 * (この間) 路線の電化から路線の拡充に方針を転換し、以下の3線の敷設を出願<ref group="注釈">3線とも[[未成線]]に終わった。</ref>。 ** '''第一東西線''' 大阪市東区平野町(現在の大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]]平野町) - 大阪市南区[[難波]](現在の大阪市中央区難波) - 大阪市[[西区 (大阪市)|西区]]八幡屋新田(現在の大阪市[[港区 (大阪市)|港区]]八幡屋付近)間3.6マイル(5.79&nbsp;km) ** '''第一東西線''' 大阪市東区上本町二丁目(現在の大阪市中央区上本町二丁目) - 大阪市西区松島花園町(現在の大阪市西区 九条新道交差点付近)間2.5マイル(4.02&nbsp;km) ** '''南北線''' 大阪市南区難波 - 大阪市南区湊町(現在の大阪市[[浪速区]]湊町一丁目) - [[北区 (大阪市)|北区]]梅田停車場(現在の[[大阪駅]])間3マイル(4.83&nbsp;km) * [[1900年]](明治33年) ** [[9月20日]] 大阪馬車鉄道が天王寺村字長者ヶ崎(現在の天王寺駅前交差点付近) - 八弘社<ref group="注釈">当時、大阪一と云われた民営の火葬施設(後の大阪市営南斎場。1952年4月に名称を大阪市営[[瓜破斎場]]に変更し、大阪市[[東住吉区]]瓜破東〈現在の大阪市[[平野区]]瓜破東〉に移転)、および民営の霊園施設(現在の大阪市営南霊園)を運営していた企業名でもある。</ref>(現在の阿倍野) - 阿倍野(現在の東天下茶屋)間1.05マイル(1.7&nbsp;km)を開業。旅客運賃を 長者ヶ崎- 八弘社間および八弘社 - 阿倍野間をそれぞれ1区間とし、1区2銭、2区3銭(開業後しばらくは半額)とする。旅客営業時間を午前6時から午後8時までとする。 ** [[11月29日]] 天下茶屋 - 上住吉(現在の神ノ木)間延伸開業。 * [[1902年]](明治35年)[[12月27日]] 上住吉 - 下住吉(現在の住吉)間延伸開業。 * [[1903年]](明治36年) 天王寺 - 阿倍野間の開業からわずか1か月後の1900年10月26日に開業した[[南海天王寺支線|南海鉄道天王寺支線]]天王寺 - [[天下茶屋駅|天下茶屋]]間2.4&nbsp;km(1993年4月1日全線廃止)による影響の拡大から明治36年度上半期決算で初めて赤字に転落。以降、明治39年度下半期決算まで8期連続赤字となる。 * (この間) 阿倍野 - 勝間村(天下茶屋)間の支線敷設の出願を取り下げる。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]] 天王寺 - 下住吉間の電化を内務大臣に申請。 * [[1907年]](明治40年) ** [[2月]] 天王寺 - 下住吉間の電化が内務大臣から認可される。 ** [[3月29日]] 商号を'''大阪電車鉄道株式会社'''に変更し、資本金を50万円に増額。[[浅野総一郎]]や[[前島密]]が株主となり、浅野総一郎がその筆頭株主となる。 ** [[10月29日]] 商号を'''浪速電車軌道株式会社'''に変更。 ** [[11月]] 大阪市と軌道および車両の共用契約を締結。 * [[1908年]](明治41年)[[1月31日]] 天王寺 - 下住吉間の馬車鉄道による旅客営業を廃止し、路線の1067mmから1435mmへの[[改軌]]および電化・複線化工事に着手。 * [[1909年]](明治42年)[[3月]] 電動客車20両を新造。 * (この間) ** 下住吉から大阪府堺市方面への路線の延伸を出願し、南海鉄道を慌てさせる<ref group="注釈">それまで非電化であった南海鉄道の路線が電化されるに至った要因となった。</ref>。 ** 南海鉄道との合併交渉を開始。 ** [[阪堺鉄道]](南海鉄道の前身)の創業者、[[藤田伝三郎]]の仲介で南海鉄道との合併交渉が成立。 === 阪南電気軌道 === * (明治の終わり頃) 大阪府西成郡[[今宮町|今宮村]]字今池(現在の今池停留場)から大阪府東成郡[[平野 (大阪市)|平野郷町]](現在の大阪市平野区平野本町一丁目付近)に至る3.48マイルの軌道敷設が計画される。 * [[1912年]]([[大正]]元年) ** 大阪府西成郡今宮村字今池から大阪府東成郡平野郷町に至る3.48マイル軌道敷設が出願される。 ** 大阪府西成郡今宮村字今池から大阪府東成郡平野郷町に至る3.48マイルの軌道特許状ならびに命令書が下付される。 * [[1913年]](大正2年) ** [[2月14日]] '''阪南電気軌道株式会社'''が設立され、社長に[[片岡直輝]]が就任。資本金60万円。片岡社長以下全役員も阪堺電気軌道と同一の同社の姉妹会社。後の[[南海平野線|南海電気鉄道平野線]](1980年11月28日廃止)の起源。 ** 工事施行認可され、今池 - 平野間5.9kmの工事着手。 === 初代・阪堺電気軌道 === * [[1907年]](明治40年)[[4月20日]] 片岡直輝、[[大林芳五郎]]、[[奥繁三郎]]らが「大阪市南区恵美須西二丁目(現在の大阪市浪速区恵美須西二丁目)ニ起リ[[紀州街道]]ニ沿ヒ[[天下茶屋]]、[[住吉村 (大阪府)|住吉]]、堺ヲ経テ大阪府[[泉北郡]][[浜寺町|浜寺村]](現在の堺市西区浜寺公園町三丁)ニ達スル電気鉄道」の敷設を申請。 * [[1909年]](明治42年)[[12月28日]] 片岡直輝、大林芳五郎、奥繁三郎らに恵美須町 - 宿院 - 浜寺間の路線の敷設および宿院 - 大浜公園間の支線敷設特許状が下付される。 * [[1910年]](明治43年)[[3月8日]] '''阪堺電気軌道株式会社'''が設立され、社長に片岡直輝が就任。資本金300万円。現在の[[阪堺電気軌道阪堺線]]および後の[[南海大浜支線|南海電気鉄道大浜支線]]の起源。 * [[1911年]](明治44年) ** [[11月]] [[鉄道院]](現在の[[国土交通省]])の仲介で、阪堺電気軌道が競合路線となる南海鉄道と運賃協定を締結。この協定に基づき、路線開業後の旅客運賃を恵美須町 - 今池間、今池 - 勝間(現在の東玉出)間、勝間 - 住吉鳥居前間、奥ノ天神 - 大和川間、大和川 - 少林寺橋(現在の御陵前)間、少林寺橋 - 船尾間、船尾 - 浜寺公園間をそれぞれ1区間とする7区間制、1区間につき2銭と決定。 ** [[12月1日]] 恵美須町 - 市之町(現在の大小路)間開業。堺発電所、堺変電所、玉出変電所を新設。電動客車52両を新造。 ** [[12月]] 堺市より[[大浜公園 (堺市)|大浜公園]]および[[堺水族館]]の運営を受託<ref>{{Cite book|和書|author=堺市役所|authorlink=|year=1930|month=3|title=堺市史 第五編|publisher=堺市役所|isbn=}}</ref>。 * [[1912年]](明治45年) ** [[3月5日]] 市之町 - 少林寺橋(現在の御陵前)間延伸開業。 ** [[4月1日]] 少林寺橋 - 浜寺(現在の浜寺駅前)間延伸開業。大浜支線 宿院 - 大浜水族館前間開業。 ** [[6月1日]] 大浜公園内に大浜公会堂を開業。 * [[1912年]]([[大正]]元年) ** [[8月26日]] 大浜支線 大浜水族館前 - 大浜海岸間延伸開業。 ** [[11月30日]] 浜寺 - 浜寺終点間0.2km延伸開業。 * [[1913年]](大正2年) ** [[1月2日]] 大浜公園内に大浜汐湯を開業。 ** [[7月16日]] 阪南電気鉄道株式会社を合併し、今池 - 平野間の軌道敷設事業を継承するとともに、資本金を360万円に増額。 * [[1914年]](大正3年) ** [[2月14日]] 電力供給事業および電灯事業を開始。 ** [[4月26日]] 平野支線 今池 - 平野間5.9km開業。 * [[1915年]](大正4年)[[4月]] 阪堺電気軌道と南海鉄道との乗車券の共通取扱が開始される。 === 南海鉄道 === * 1909年(明治42年)12月24日 浪速電気軌道株式会社が'''[[南海電気鉄道|南海鉄道株式会社]]'''と合併。南海鉄道が浪速電車軌道から改軌および電化・複線化工事中の天王寺西門前 - 下住吉間の路線が大阪市電と連結することから上町連絡線として継承するとともに、電動客車20両を継承。 * 1910年(明治43年) ** 9月 大阪市との軌道共用契約により、電動客車30両を新造。 ** (不明)上町連絡線 天王寺 - 住吉神社前(現在の住吉)間の改軌および電化・複線化工事が完成。 ** 10月1日 上町連絡線 天王寺 - 住吉神社前間開業。 ** 11月 上町連絡線の旅客運賃を1区につき3銭に改定。 * 1911年(明治44年) ** 1月29日 大阪市との軌道共用契約に基づき、上町連絡線の大阪市電上本町線(1968年12月18日廃止) 天王寺西門前 - 上本町二丁目間および大阪市電玉造線(1961年11月1日廃止) 上本町二丁目 - 谷町六丁目間への直通運転を開始。 ** 8月20日 上町連絡線の大阪市電への乗り入れ区間を延長し、大阪市電谷町線(1944年6月1日廃止) 谷町六丁目 - 天満橋南詰間への直通運転を開始。 ** 12月21日 上町連絡線 天王寺 - 住吉神社前間と南海本線 難波 - 住吉公園(現在の住吉大社)間との選択乗車の取扱を開始。 * 1912年(明治45年) ** 1月12日 大阪市電の運賃均一制の実施のため、上町連絡線の大阪市電への乗り入れ契約を解除。 ** 2月13日 上町連絡線の大阪市電上本町線 天王寺西門前 - 上本町二丁目間、大阪市電玉造線 上本町二丁目 - 谷町六丁目間、大阪市電谷町線 谷町六丁目 - 天満橋南詰間への直通運転を廃止。上町連絡線が大阪市電と連結する役目を終え、上町線と改称。 * 1913年(大正2年)7月2日 上町線 住吉神社前 - 住吉公園間延伸開業。上町線住吉公園駅が南海線住吉公園駅に併設され、南海線との連絡駅となる。 * 1915年(大正4年)6月21日 阪堺電気軌道株式会社の路線と電灯事業および電力事業を継承する形で同社を合併。恵美須町 - 浜寺終点間の路線は南海鉄道の阪堺線に、平野支線 今池 - 平野間は従来の支線から独立路線に昇格して平野線となり、大浜支線 宿院 - 大浜海岸間は従来通り支線のまま阪堺線に属する大浜支線となる。 * 1916年(大正5年)12月22日 阪堺線 浜寺 - 浜寺終点間0.2km休止。 * 1917年(大正6年)3月15日 阪堺線 浜寺 - 浜寺終点間0.2km廃止。現在の阪堺電気軌道阪堺線の路線が形成される。 * 1921年(大正10年)12月24日 上町線 天王寺 - 公園東門間を大阪市へ譲渡。 * 1922年(大正11年)11月3日 阪堺線と平野線に路面電車では日本初となる電灯色三位式自動閉塞信号機を導入。 * 1923年(大正12年) 天王寺土地建物株式会社からの駅施設の寄付により、平野線 苗代田 - 股ヶ池間に文ノ里駅が開業。 * 1924年(大正13年) ** 2月 電動客車101形20両を新造。 ** 6月 敷地面積7647.74坪に及ぶ大和川電車車庫(現在の我孫子道車庫)を新設。 ** 10月 [[阪急電鉄|阪神急行電鉄]]の[[宝塚歌劇団|宝塚少女歌劇]]に倣い、大浜公会堂での大浜少女歌劇の公演を開始。 * 1927年([[昭和]]2年) ** 3月9日 電動客車151形10両を新造。 ** 8月 大和川2号踏切道に初めて踏切警報装置を設置。 * 1928年(昭和3年) ** 12月21日 電動客車161形10両を新造。 ** 汐湯本館沿いに演劇場を新設し、本格的な少女歌劇の公演を開始。 * 1929年(昭和4年) ** 9月21日 阿倍野斎場前交差点(現在の阿倍野交差点)経由での上町線と平野線との直通運転を開始。 ** 12月8日 平野線で2両連結運転を開始。 * 1930年(昭和5年)4月1日 旅客運賃を上町線3区間、阪堺線7区間、平野線2区間、1区4銭、2区8銭、3区以上1区につき3銭加算に改定。 * 1931年(昭和6年)1月12日 電動客車161形6両を新造。 * 1934年(昭和9年)9月21日 [[室戸台風]]による甚大な被害を受ける。 * 1935年(昭和10年) ** 7月14日 堺勧業祭祝賀花電車を運行(20日まで) ** 8月10日 平野線に中野変電所を新設。 ** 木造小型ボギー車の鋼体化改造工事および前照灯のアーク灯から白熱灯への変更工事を開始。 * 1937年(昭和12年)8月 今宮工場を廃止し、大和川電車庫へ移転。 * 1939年(昭和14年) ** 5月25日 大浜汐湯の演劇場が焼失。 ** 9月 阪堺線の南霞町(現在の新今宮駅前)駅舎および阪堺線 南霞町駅から大阪市営地下鉄1号線(現在の[[大阪市営地下鉄御堂筋線|御堂筋線]]) [[動物園前駅]]への連絡通路新設工事が竣工。 * 1940年(昭和15年) ** 3月 上町線 帝塚山三丁目 - 神ノ木間に帝塚山四丁目駅が開業。 ** 大浜汐湯の演劇場を再開。 ** 4月 大阪市電との連絡運輸(10銭連絡)を開始。 * 1942年(昭和17年) ** 2月15日 平野線 中野 - 平野間に西平野駅が開業。 ** 4月1日 旅客運賃を上町線2区間、阪堺線6区間、平野線2区間、1区につき5銭に改定。 ** 10月11日 午前・午後の呼称を廃止し、24時間制を採用。 * 1943年(昭和18年)6月15日 大阪市電との連絡運輸を廃止。 * 1944年(昭和19年) ** 2月11日 大浜汐湯閉鎖。 ** 4月1日 旅客運賃を上町線1区間、阪堺線4区間、平野線1区間、1区につき10銭に改定。 ** 4月 大和川工場(現在の大和川車両区)を新設。 === 近畿日本鉄道 === * 1944年(昭和19年) ** 6月1日 [[陸上交通事業調整法]]の交通調整により、南海鉄道株式会社と[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]]株式会社が合併し、'''[[近畿日本鉄道|近畿日本鉄道株式会社]]'''が発足。上町線、阪堺線、平野線、大浜支線はその天王寺営業局の所属となる<ref group="注釈">軌道線以外の旧南海鉄道の路線については、別途設けられた難波営業局の所属となった。</ref>。 ** 鉄・軌道の輸送事業の戦時体制への移行に伴い、大浜の汐湯や少女歌劇の閉鎖を余儀なくされる。 * 1945年(昭和20年) ** 2月10日 大浜支線 大浜北町 - 大浜海岸間休止。 ** 2月20日 数多くの鉄軌道従業員の戦地への召集による人員不足から、女子乗務員を採用。 ** 4月1日 旅客運賃を上町線2区、阪堺線5区、平野線2区、1区につき10銭に改定するとともにその区境を変更。 ** 3月13日深夜から翌[[3月14日|14日]]未明にかけての第1回[[大阪大空襲]]から7月10日の堺大空襲(第6回大阪大空襲)にかけての度重なる空襲によって大和川車庫がその被害を受け、多くの車両が焼失したほか、上町線、阪堺線、平野線、大浜支線の各駅および線路もその被害を受けるなど、戦災による甚大な被害を受ける。 * 1946年(昭和21年) ** 3月1日 旅客運賃を上町線2区間、阪堺線6区間、平野線3区間、1区につき20銭に改定するとともに、その区境駅を変更。 * 1947年(昭和22年) ** 3月1日 旅客運賃を上町線2区間、阪堺線5区間、平野線3区間、1区50銭、2区60銭、3区以上1区につき30銭に改定するとともに、その区境駅を変更。 === 南海電気鉄道 === * 1947年(昭和22年) ** 3月15日 高野下 - 極楽橋間の鉄道線と極楽橋 - 高野山間の鋼索線を経営していた[[高野山電気鉄道|高野山電気鉄道株式会社]]が商号を'''南海電気鉄道株式会社'''に変更。法人としては、現在の南海電気鉄道株式会社の直接の前身にあたる。 ** 6月1日 近畿日本鉄道株式会社が旧南海鉄道株式会社に属していた鉄・軌道事業ならびに付帯事業の一切を南海電気鉄道株式会社に譲渡。上町線、阪堺線、平野線、大浜支線は同社の軌道線となる。 ** 7月1日 浜寺公園が進駐軍に接収され、海水浴場の位置を変更。 ** 旅客運賃を1区1円50銭、2区2円50銭、3区4円、4区5円、5区6円50銭、6区7円50銭、7区9円、8区10円に改定。 * 1948年(昭和23年) ** 5月18日 暫定値上げとして、旅客運賃を1区2円50銭、2区4円50銭、3区7円、4区9円、5区11円、6区13円、7区16円、8区18円に改定。 ** 7月18日 旅客運賃を1区6円、2区11円、3区15円、4区18円、5区20円、6区22円、7区24円、8区24円に改定。 ** 10月1日 区境駅を上町線2区、阪堺線5区、平野線3区に変更。 * 1949年(昭和24年) ** 1月10日 車両の集電装置をトロリーポールからビューゲルに変更。 ** 3月3日 大浜支線 宿院 - 大浜北町間休止。 ** 7月25日 大浜水族館の堺市からの受託経営を開始。 ** 8月12日 戦災車両4両を復旧。 * 1950年(昭和25年) ** 8月15日 旅客運賃を1区につき5円に改定。地帯定期旅客運賃制を制定し、大阪市内、堺市内などの一定の区域を自由に利用できる定期乗車券の発売を開始。 * 1951年(昭和26年) ** 11月1日 区境駅を阪堺線4区、上町線2区、平野線2区に変更し、旅客運賃を1区につき10円に改定。 ** この年の旅客数が年間約26万人をピークに減少し始める。 * 1952年(昭和27年) ** 1月22日 阪堺線 宿院駅の駅舎の使用を開始。 ** 4月30日 大浜水族館を堺市へ返還。 * 1953年(昭和28年) ** 1月15日 区境駅を阪堺線5区、上町線2区、平野線2区に変更し、旅客運賃を1区につき10円に改定するとともに、阪堺線 恵美須町 - 東玉出間と阿倍野経由 上町線 天王寺駅前 - 平野線 平野間に特定旅客運賃区間を制定し、2区20円を15円とする。 ** 7月3日 浜寺公園海岸の接収が解除され、海水浴場を元の位置に復活。 * 1954年(昭和29年) ** 4月11日 阿倍野経由 上町線 天王寺駅前 - 平野線 平野間の直通運転を再開。 ** 10月 女子乗務員を廃止。 * 1955年(昭和30年) ** 6月 住吉交差点の改良工事が竣工。 ** 7月16日 住吉経由 上町線 天王寺駅前 - 阪堺線 浜寺駅前間の直通運転を開始。 * 1956年(昭和31年) ** 10月 堺市市中心部の紀州街道(現在の大道筋)の拡幅工事に伴い、阪堺線 綾ノ町 - 御陵前間2.5kmの軌道移設工事を開始。 ** 11月5日 旅客運賃を1区15円、2区20円、3区以上は1区につき10円加算に改定。 * 1957年(昭和32年) ** 10月29日 阪堺線 綾ノ町 - 御陵前間2.5kmを道路中央へ移設。 ** 12月 電動客車501形5両を新造。 * 1960年(昭和35年) ** 3月30日 堺市内の少林寺橋拡幅工事が完了し、堺市内での一連の軌道移設工事が竣工。 ** 6月 平野線での2両連結運転を中止。 * 1961年(昭和36年) ** 11月1日 南海電気鉄道株式会社が和歌山電気軌道株式会社を合併し、[[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]]をのぞく海南線、新町線、和歌浦支線を[[南海和歌山軌道線|和歌山軌道線]]としたことに伴い、阪堺線、上町線、平野線の軌道3線が[[南海大阪軌道線|大阪軌道線]]となる。 * 1962年(昭和37年) ** 6月 電動客車351形2両を新造。 ** 10月3日 駅制を廃止。出・改札の廃止、踏切の自動化など、大幅な人員削減を始める。軌道運輸事務所を新設し、上町運輸区(後の住吉公園運輸区)、阪堺運輸区(後の我孫子道運輸区)、平野運輸区を設置。 ** 11月1日 区境駅を阪堺線5区、上町線2区、平野線2区に変更し、旅客運賃を1区15円、2区25円(特定運賃区間)、3区40円、4区以上1区につき10円加算に改定。 * 1963年(昭和38年) ** 12月 電動客車351形3両を新造。 * 1966年(昭和41年) ** 1月20日 区境駅を阪堺線5区、上町線2区、平野線2区に変更し、1区20円、2区から5区まで1区につき15円加算、6区以上1区につき10円加算に改定。 ** この年、日曜祝日ダイヤを制定。 * 1967年(昭和42年) ** 2月 大阪市交通局から電動客車1601形10両を購入し、121形への改造工事を開始。 ** 4月23日 最後の木造電動客車101形のさよなら運転を行う。 ** 4月 大阪市交通局から購入した1601形10両の121形への改造工事が竣工し、大阪軌道線での営業運転を開始。 * 1968年(昭和43年)10月1日 制服および制帽のデザインを変更。 * 1969年(昭和44年)10月22日 上町線 天王寺駅前停留場と大阪市営地下鉄天王寺駅との連絡階段の供用を開始。 * 1970年(昭和45年)10月5日 旅客運賃を1区30円、2区から5区まで1区につき15円加算、6区以上10円加算に改定。 * 1971年(昭和46年)1月 阪堺線 石津川橋梁を架け替える。 * 1972年 ** 6月 電動客車のビューゲルからパンタグラフへの変更を完了。 ** 10月1日 新制服を採用。 * 1973年(昭和48年) ** 3月 1971年の都市交通審議会の答申に基づき、大阪市交通局が上町線 天王寺駅前 - 阿倍野間および平野線 阿倍野(斎場前) - 西平野間の地下に並行して、[[Osaka Metro谷町線|大阪市営地下鉄谷町線]] 天王寺 - 八尾南間10.5kmの延伸工事に着手。 ** 4月16日 住吉経由 上町線 天王寺駅前 - 阪堺線 浜寺駅前間の直通運転を中止。阪堺線での7.5分毎の運転および上町線と平野線5分毎での運転を実施。 * 1974年(昭和49年) ** 7月20日 区境駅を我孫子道停留場として大阪市内または堺市内1回乗車を1区間、大阪市内・堺市市内相互間および今池、住吉、我孫子道、阿倍野の乗り換え指定停留場での乗り換えを2区間に変更し、旅客運賃を1区間40円、2区間60円に改定。軌道線と鉄道線との共通運賃を廃止。 ** 10月19日 第1回[[堺まつり]]の開催に伴い、花電車を運転(第5回まで)。 * 1975年(昭和50年) ** 9月13日 廃車となった電動客車101形の台車「ブリル77E-1」をアメリカ合衆国カリフォルニア州の[[カリフォルニア鉄道博物館]]へ譲渡。 ** 10月14日 商品名を出さない企業のイメージ広告で車体の広告を開始。車体全体にオレンジ・グリーン・ブルーの3種類の塗色で、それぞれに白い雲が描かれた'''雲電車'''([[オムロン|立石電機]]〈現在のOMRON〉の広告)が登場。 ** 12月13日 旅客運賃を1区間60円、2区間100円に改定。 * 1976年(昭和51年) ** 4月1日 旅客運賃を1区間70円、2区間100円に改定。 ** 7月1日 '''雲電車'''32両をワンマンカーに改造し、上町線の運転系統でワンマン運転を開始。普通乗車券の発売を廃止し、従来のツーマン車を料金箱制に変更。 ** 8月30日 電動客車205形212号車を賢明学院幼稚園(大阪府堺市)へ譲渡。 * 1977年(昭和52年) ** 7月1日 職員乗車証を社員証と改称。 ** 9月17日 上町線において車内CM放送を開始。 * 1978年(昭和53年) ** 2月10日 上町線 天王寺駅前停留場に屋根を新設。 ** 3月15日 定価360円の「[[黄金の日日|黄金の日々]]」を訪ねるフリー乗車券を発売。 ** 10月9日 京都市交通局から電動客車1800形6両を購入し、251形への改造工事を開始。 ** 南海電気鉄道が軌道線部門の別会社への分離と平野線の廃止を決定。 ** 11月26日 平野線 今池 - 平野間の軌道敷地を平野線 飛田 - 阿倍野(斎場前館)間の大阪市西成区と阿倍野区との区界付近から西平野まで区間に並行して大阪松原線(現在の[[阪神高速14号松原線]]の一部区間) 山王(現在の阿倍野入口) - 松原(現在の松原JCT間)間11.2kmの建設を行っていた[[阪神高速道路公団]](現在の[[阪神高速道路|阪神高速道路株式会社]])に10年間の使用貸借契約を付帯条件付きで売却。 * 1979年(昭和54年) ** 1月8日 旅客運賃を1区間100円、2区間140円に改定。 ** 10月1日 阪堺線でワンマン運転を開始。 ** 10月 京都市交通局から購入した電動客車1800形6両の251形への改造工事が竣工し、営業運転を開始。 ** ワンマン化に不向きな小型車の電動客車205形を廃線が決まっている平野線の専用車両とする。 * 1980年(昭和55年) ** 8月21日 南海電気鉄道が廃止日を大阪市営地下鉄谷町線の天王寺 - 八尾南間の延伸開業後とする平野線 今池 - 平野間5.9kmの旅客営業の廃止を建設大臣と運輸大臣に許可申請。 ** 10月 「ブリル77E-1」台車2台、「SE-133A形主電動機」4台、制輪子8枚をアメリカ合衆国カリフォルニア州のカリフォルニア鉄道博物館へ譲渡。 ** 11月23日 100円券3枚セットの「平野線さよなら記念乗車券」を発売。 ** 11月27日 '''さよなら平野線'''電車を運行。平野線の運転系統 今池経由 阪堺線 恵美須町 - 平野系統および阿倍野経由 上町線 天王寺駅前 - 平野系統を終日無料開放。 ** 11月28日 平野線が、最終運行日(27日)に開業した大阪市営地下鉄谷町線の延伸に伴い廃止。休止中の大浜支線も廃止。<!-- 廃止日=最終営業日の翌日 -->阪堺線 今池 - 松田町間に今船停留場開業。 === 2代目・阪堺電気軌道 === * 1980年(昭和55年) ** 7月7日 '''阪堺電気軌道株式会社'''設立。 ** 12月1日 南海電気鉄道株式会社が上町線と阪堺線の軌道事業を阪堺電気軌道株式会社に営業譲渡。 ** 12月 100円券5枚セットの阪堺電気軌道株式会社発足記念乗車券を発売。 ** 全車両に優先座席を設置。 * 1981年(昭和56年) ** 3月 南海電気鉄道平野線 文ノ里停留場跡に平野線の歴史や停留場の沿革を記した記念碑を建立。 ** (この間)廃車となった電動客車205形223号車を鴨高田神社(大阪府東大阪市)に譲渡。 ** 6月1日 上町線、阪堺線の旅客案内放送にCMを採用し、放送を開始。 ** 平野線廃止記念レール・トロリー文鎮を製作。 ** 7月23日 廃車となった電動客車205形226号車・237号車を四恩学園(大阪市天王寺区)に譲渡。 ** 8月1日 旅客運賃を1回乗車120円、乗り換え・両市直通180円に改定。 ** 9月1日 阪堺清水丘駐車場を開設。 ** 12月2日 阪堺線開通70周年記念乗車券を発売。 ** 12月8日 阪堺線 南霞町停留場に阪堺霞町ショップを開業。 * 1982年(昭和57年) ** 3月6日 上町線 東天下茶屋停留場での乗車券類の発売を中止。 ** 4月20日 阪堺線 恵美須町停留場構内に商業施設を開業。 ** 5月 上町線 東天下茶屋停留場に晴明ヶ丘ショップを開業。 ** 阪堺線 綾ノ町停留場上りホームおよび宿院、御陵前の各停留場ホームに上屋を設置。 ** 7月1日 松虫交差点付近における松虫通(大阪市道木津川平野線の一部)が開通したことに伴い、上町線 松虫 - 東天下茶屋間に松虫3号踏切道(第1種甲自動)を新設。 ** 10月 初めて暖房電車の運転を開始。 ** 3月16日 施設区を設置し、信号区、電路区、保線区を統合。 ** 5月17日 交通量調査を実施。 ** 7月20日 旅客誘致用パンフレット「名所・旧跡いっぱい阪堺沿線」を製作。 * 1983年(昭和58年)8月4日 旅客運賃を1回乗車140円、乗り換え・両市直通200円に改定。 * 1985年(昭和60年) ** 7月3日 冷房車運転開始。 ** 8月1日 旅客運賃を1回乗車160円、乗り換え・両市直通230円に改定。 * 1987年(昭和62年)7月10日 電動客車モ701形営業運転開始。 * 1989年([[平成]]元年)4月1日 旅客運賃を1回乗車180円、乗り換え・両市直通250円に改定。 * 1995年(平成7年)3月1日 旅客運賃を1回乗車200円、乗り換え・両市直通280円に改定。 * 1996年(平成8年)6月25日 電動客車モ601形営業運転開始<ref name="rf_199609">[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1996年9月号 通巻425号 p.121</ref>。 * 1997年(平成9年)4月1日 旅客運賃を1回乗車200円、乗り換え・両市直通290円に改定。 * 2009年(平成21年)7月4日 36年ぶりに上町線 天王寺駅前 - 阪堺線 浜寺駅前間直通運転開始。阪堺線の恵美須町発着系統は恵美須町 - 我孫子道間の運行に短縮し、朝・夕ラッシュ時のみ恵美須町 - 浜寺駅前間を運行。 * 2010年(平成22年) ** 6月6日 南海グループと[[東京都交通局]]との共同キャンペーン「トーキョーサカ」の一環で、PR相互乗り入れとして阪堺・[[都電荒川線]]で互いの旧塗装車を運行<ref name="都報道">{{Cite web|和書|url=http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2010/05/20k5e500.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100611152435/http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2010/05/20k5e500.htm|title=都電荒川線に阪堺カラーの、阪堺電車に都電カラーの路面電車が走ります|publisher=[[東京都]]|work=報道発表資料|date=2010-5-14|accessdate=2016-1-5|archivedate=2010-6-11|deadlinkdate=2018年4月9日}}</ref>。 ** 11月12日 近い将来の各種[[乗車カード]]類の導入計画を進めるため、[[スルッとKANSAI]]協議会に加盟。 * 2011年(平成23年) ** 1月15日 旅客運賃を1回乗車、乗り換え・両市直通とも200円に改定(従来の両市直通運賃との差額90円は堺市が補助)。 ** 時期不明 阪堺線開通100周年を記念してマスコットキャラクター「ちん電くん」が誕生し、[[着ぐるみ]]も制作される。 * 2012年(平成24年)3月 全停留場に順次[[駅ナンバリング]]を導入(南海各線・[[泉北高速鉄道線|泉北高速鉄道]]も同時導入)。 * 2013年(平成25年) ** 2月2日 阪堺線恵美須町 - 浜寺駅前間直通系統を廃止<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/groupinfo/news/pdf/130118_2.pdf 2月2日(土)にダイヤ改正を実施します]}}{{リンク切れ|date=2015年2月}} - 阪堺電気軌道 2013年1月18日</ref>。 ** 8月25日 1001形「堺トラム」の運行を堺市内区間にて開始。 * 2014年(平成26年) ** 3月1日 1001形「堺トラム」第2編成運転開始。堺トラムの大阪市内乗り入れ区間が上町線天王寺駅前停留場まで拡大され、毎日運行に。南霞町停留場の地上集札を廃止<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/140206_dia.pdf|format=PDF|title=3月1日(土)にダイヤ改正を実施します|publisher=阪堺電気軌道|date=2014-02-06|accessdate=2015-02-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222015839/http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/140206_dia.pdf|archivedate=2014-02-22}}</ref>。 ** 4月1日 「[[PiTaPa]]」などの[[乗車カード|交通系ICカード]]導入<ref name="hankai20140310">{{Cite web|和書|url=http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/140310.pdf|format=PDF|title=4月1日(火)より、スルッとKANSAI IC決済サービス PiTaPaがご利用いただけます。|publisher=阪堺電気軌道|date=2014-03-10|accessdate=2015-02-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140310155616/http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/140310.pdf|archivedate=2014-03-10}}</ref>。 ** 12月1日 南霞町停留場を新今宮駅前停留場に改称。 * 2015年(平成27年) ** 2月1日 阪堺線 東湊 - 石津間に石津北停留場が開業<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hankai.co.jp/blog/?p=377|title=石津北停留場が開業しました。|publisher=阪堺電気軌道|date=2015-02-01|accessdate=2015-02-01}}</ref>。旅客運賃を1回乗車210円、乗り換え・両市直通290円に改定、ただし堺市の補助で乗り換え・両市直通も210円<ref name="hankai20150121">{{PDFlink|[http://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2015/01/b2f41072c1493869eff57ce6041e77ca.pdf 旅客運賃・料金改定について]}} - 阪堺電気軌道、2015年1月21日(2015年2月2日閲覧)</ref>。 ** 8月28日 上町線 住吉 - 住吉公園間の廃止申請書を国土交通大臣に提出したと発表<ref name="hankai150828">{{Cite web|和書|format=pdf|url=http://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2015/08/648df35ad70a218c95acb246eda4bfb1.pdf|title=上町線 住吉 - 住吉公園間(0.2km)の軌道事業の廃止申請について|publisher=阪堺電気軌道|date=2015-08-28|accessdate=2015-08-28}}</ref>。 * 2016年(平成28年) ** 1月31日<ref name="hankai150828" /> 上町線 住吉 - 住吉公園間廃止。 ** 12月3日 上町線 天王寺駅前 - 阿倍野間の軌道を新線に変更。これに伴って営業キロ程が一部区間で変更<ref>{{PDFlink|[http://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2016/11/bbf46f886e037943ed81c54cd3415a6b3.pdf 12月3日(土)初発より、上町線天王寺駅前駅〜阿倍野駅間の軌道が新線に切り替わります。]}} - 阪堺電気軌道、2016年11月18日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2016/11/813d8a6a8d226e0d5fd2cb0711cc58311.pdf 営業キロ程の一部変更のお知らせ]}} - 阪堺電気軌道、2016年11月21日閲覧</ref>。 * 2020年([[令和]]2年) ** 2月1日 阪堺線 恵美須町停留場が旧駅舎から100メートル南に建設された新駅舎へ移設され、同時に副駅名として「通天閣前」の使用を開始。また新今宮駅前停留場にも「新世界前」の副駅名が付けられる<ref>{{Cite press release|和書|title=阪堺線 恵美須町停留場が2月1日(土)に新駅舎へ移設します。|publisher=阪堺電気軌道|date=2020-01-08|url=https://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2020/01/0ebe9b2e6def39e75783c1dd2a588f3f.pdf|format=PDF|accessdate=2020-02-03}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=「恵美須町」・「新今宮駅前」の両停留場に、副駅名を設定いたします。|publisher=阪堺電気軌道|date=2020-01-30|url=https://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2020/01/d92ecf19bcd8e6692cd31545a1142c77.pdf|format=PDF|accessdate=2020-02-03}}</ref>。 ** 3月28日 1101形 第1編成運転開始<ref>{{Cite press release|和書|title=低床式車両「1101形車」が、3月28日(土)より営業運転を開始します。|publisher=阪堺電気軌道|date=2020-03-23|url=https://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2020/03/f61d836c0fa5279e18689b4d29583471.pdf|format=PDF|accessdate=2020-03-23}}</ref>。<!-- 1101形が「堺トラム」として扱われるのかが不明。堺市の補助金が入っているものの、その比率は低下しており、内外装にも違いがある。 --> ** 10月1日 旅客運賃を全線230円均一に改定<ref name="hankai20200914">{{Cite press release|和書|title=軌道旅客運賃の上限運賃変更の認可について|publisher=阪堺電気軌道|date=2020-09-14|url=https://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2020/09/2dd82e48d73b085f39c2a99c08d378b4-1.pdf#page=6|format=PDF|accessdate=2020-10-02}}</ref>。 == 路線 == === 現有路線 === * [[ファイル:Number prefix Hankai Tramway line.png|21px|HN]] [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]: 恵美須町 - 浜寺駅前 14.0&nbsp;km * [[ファイル:Number prefix Hankai Tramway line.png|21px|HN]] [[阪堺電気軌道上町線|上町線]]: 天王寺駅前 - 住吉 4.3&nbsp;km [[ファイル:Hankai4.png|thumb|none|600px|路線図]] === 廃止路線・区間 === * 上町線:(旧)天王寺駅前 - 天王寺駅前 0.1&nbsp;km * 上町線:住吉 - 住吉公園 0.2&nbsp;km * [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]: (旧)恵美須町 - 恵美須町 0.1&nbsp;km * [[南海平野線|平野線]]: 今池 - 平野 5.9&nbsp;km * [[南海大浜支線|大浜支線]]: 宿院 - 大浜海岸 1.4&nbsp;km === 譲渡区間 === * 上町線: 天王寺西門前 - (旧)天王寺駅前 === 主な運行系統 === 詳細は各路線の記事を参照のこと。★印は廃止系統。 * 天王寺駅前 - 浜寺駅前(上町線・阪堺線) * 天王寺駅前 - 我孫子道(上町線・阪堺線) * 恵美須町 - 我孫子道(阪堺線) * 我孫子道 - 浜寺駅前(阪堺線) * ★天王寺駅前 - 住吉公園(上町線) * ★恵美須町 - 浜寺駅前(阪堺線) * ★恵美須町 - 平野(阪堺線・平野線) * ★天王寺駅前 - 平野(上町線・平野線) * ★住吉 - 東湊(阪堺線) * ★住吉 - 浜寺駅前(阪堺線) == 運賃 == 普通旅客運賃(2020年10月1日改定)<ref name="hankai20200914" />。乗り換えは住吉・我孫子道停留場で1回のみ可能で、それ以外の乗り換えは不可。ただし、住吉での乗り換えは阪堺線恵美須町停留場 - 東粉浜停留場間と上町線天王寺駅前停留場 - 神ノ木停留場間の相互利用のみ。なお、乗り換えには時間制限が設けられており、乗換券受取から1時間までである。有効時間ならびに有効区間は券面に記載されている。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! rowspan="2" |乗車区間|| rowspan="2" |条件|| colspan="2" |運賃 |- ! style="width:3em" |大人|| style="width:3em" |小児 |- |1区間|| style="text-align:left" |大阪市内または堺市内を<br>1回乗車の場合 | rowspan="2" |230円|| rowspan="2" |120円 |- |2区間|| style="text-align:left" |大阪市内 - 堺市内間を連続して乗車<br>または住吉・我孫子道停留場で乗り換える場合 |- |1・2区間|| style="text-align:left" |堺市内在住65歳以上の高齢者で<br>堺市内から乗車または堺市内で降車する場合、<br>堺市が発行する「おでかけ応援カード」の<br>ICカードリーダーへの乗車降車時のタッチで | style="white-space:nowrap" |100円<ref>{{PDFlink|[http://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2015/01/0594680c83c6871c22c728da019e13f8.pdf 運賃改定における主な取扱いについて]}} - 阪堺電気軌道、2015年1月21日(2015年2月2日閲覧)</ref>|| style="text-align:center" |- |} * 大阪市内と堺市内の運賃境界は我孫子道停留場で、「堺市内のみ」は我孫子道停留場 - 堺市内各停留場(大和川以南)を乗車する場合にも適用される。大阪市内 - 堺市内運賃は我孫子道停留場を越えて安立町停留場以北 - 大和川停留場以南を乗車する場合に適用される。 * 阪堺線の堺市内区間の利用活性化のため、実験的施策として2006年10月1日から11月30日までの2か月間限定で大阪市内 - 堺市内間の通し運賃が290円から一律200円に値下げされ、均一運賃となっていた(差額運賃は堺市が負担する)。2011年1月15日からも一律200円、2015年2月1日からは210円に値下げされていた(同じく堺市の運賃分補助によるもの)。堺市の財政支援が2020年9月で終了し、同年10月1日に運賃も230円に値上げされたが全線均一は維持された<ref>[https://web.archive.org/web/20201111011019/https://www.sankeibiz.jp/business/news/200701/bsd2007010555003-n1.htm 阪堺電車10月から230円に値上げへ] - SankeiBiz、2020年7月1日</ref>。 * 親会社の南海電気鉄道とは違って、大阪府内の鉄軌道事業者の中で唯一、[[スルッとKANSAI]]対応カード(磁気カード。2017年発売終了)は使えず、2016年に発売を終了した「[[スルッとKANSAI 3dayチケット]]」などの提示利用もできなかった。その後も発売されている訪日外国人旅行者向けの「[[スルッとKANSAI 3dayチケット|KANSAI THRU PASS]]」などの提示利用もできない。 * 交通系ICカードについては、2010年11月12日にスルッとKANSAI協議会に加盟し、2014年4月1日より[[PiTaPa]]が利用可能になった([[交通系ICカード全国相互利用サービス]]にも対応し、[[ICOCA]]等も利用可能)<ref name="hankai20140310" />。ただし自社内でのICOCAカードの販売は行っておらず、ICOCAまたはPiTaPaによるIC定期も取り扱っていない(2019年2月現在)。 === フリーきっぷなど === ; {{読み仮名|TakeTake|てくてく}}きっぷ : 阪堺電車(阪堺線・上町線)全線乗り降り自由(大人600円・小児300円) ; 堺おもてなしチケット : 阪堺電車(阪堺線・上町線)全線と南海バス堺市中心部指定エリアが利用できる「阪堺拡大版」(大人700円・小児350円)、阪堺線堺市内区間(我孫子道を含む)と阪堺拡大版より広い南海バスのワイドエリアが乗り降り自由な「南海バス拡大版」(大人500円・小児250円)の2種類がある<ref name="hankai20150212">{{PDFlink|[http://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2015/02/b3e580372a4c8d676af46b3ab166289c.pdf 堺おもてなしチケット【南海バス拡大版】・【阪堺拡大版】の発売について]}} - 阪堺電気軌道、2015年2月12日</ref>。 ; 堺都心1日フリー乗車券 : 阪堺線堺市内区間(我孫子道を含む)と南海バス堺市都心部区間乗り降り自由(大人600円・小児300円) : 前述の「堺おもてなしチケット」利用エリア拡大に伴い、2015年2月28日限りで発売終了<ref name="hankai20150212" />。 : 発売当初は「そやさかい ぶらり1日乗車券」と称されていた。 ; 堺・住吉まん福チケット : 阪堺電車(阪堺線・上町線)全線と南海電車指定区間ならびに南海バス堺市内指定区間乗り降り自由(大人1,000円) : 南海電車の指定席利用の場合は別途座席指定券が必要。 == 車両 == [[ファイル:Hankai 166 Brown IMG 7957-2 20140506.JPG|thumb|モ161形モ166]] [[ファイル:Hankai700Series01.jpg|thumb|モ701形モ702(住吉駅にて)]] [[ファイル:Hankai500Series02.jpg|thumb|モ501形モ505(帝塚山四丁目駅にて)]] [[ファイル:Hankai Electic Tramway 1001.JPG|thumb|1001形 堺トラム(大和川車両区にて)]] [[ファイル:阪堺電気軌道 1101形電車.jpg|thumb|1101形(天王寺駅前停留所にて)]] 2020年4月現在、営業用の車両についてはすべて[[南海電3形電車 (軌道)|モ101形]]から続く車体長14mの大型車両を採用している。また、廃止になった[[南海平野線|平野線]]を含め、[[専用軌道]]区間が多いこと、阪堺線は[[南海本線|南海線]]と併走しており、競合していたなどの事情から、各地でカルダン駆動方式や間接制御などを用いた高性能な路面電車が登場する1950年代<!-- 戦後は1980年代末にモ701が登場するまでモ351以外に新車が入らなかったので、阪堺の車両が他と比べて高性能揃いと言えたのは、軽快電車=1980年代までではなくPCC=1950年代までだという意味では? PCCカーと思えるものは、都電と大阪市電にしかなく、各地と表現するのはおかしい。高性能路面電車としたい-->までは類を見ない高性能車両が揃っていた。長らく1または2ステップの車両しか在籍しておらず、[[超低床電車]]の導入は諸般の事情により見送られていたが、2013年8月に堺市の補助により1001形「堺トラム」が導入された。2020年3月からは増備車の1101形も導入されている。 非冷房車である[[阪堺電気軌道161形電車|モ161形]]は夏期(6月後半 - 9月末)の運行は原則的に行われず、2013年まで平日朝ラッシュ時の阪堺線系統(恵美須町 - 我孫子道間)の1往復のみに限定して運行されていたが、前述の「堺トラム」投入により冷房車が充足したため、2014年以降夏季は完全に予備車扱いとなった(詳細は「[[阪堺電気軌道161形電車#運用|モ161形の運用]]」を参照)。 === 塗装 === {{See also|南海グリーン}} 阪堺電気軌道では広告塗装を施している車両が多い。広告塗装を施す車両は、主に[[阪堺電気軌道701形電車|モ701形]]と[[阪堺電気軌道601形電車|モ601形]]が多いが、[[阪堺電気軌道501形電車|モ501形]]と[[阪堺電気軌道351形電車|モ351形]]にも広告塗装車がある。 モ161形は、2010年からリバイバルカラーの復活と称した復刻塗装が行われており、モ164号が1986年頃に緑地に黄色帯正面V字の塗装を同年10月に2週間限定で復刻(通称ビークル・スター)<ref>参考動画;[http://www.youtube.com/watch?v=AeCDwOl3Iyo|期間限定 阪堺電気軌道モ161形164 レア・カラー塗装電車"ビークル・スター"]</ref> した後、前面のV字を消した緑地の黄色帯塗装となっていた。その後、モ166・164号は、2014年にモ161形登場時の塗装とされている茶色に変更された。広告塗装は、2014年10月現在、存在しない。 モ701形・モ601形用の新型車用の標準塗装としては、白地にベージュと茶色の帯。さらに旧型車用には、南海時代からの「雲電車」と呼ばれる塗装がある。雲電車は元々立石電機(現在の[[オムロン]])の広告塗装で、かつてはブルー・グリーン・オレンジ・イエローの4色(ただしイエローは立石電機の広告車では無く、広告主企業の倒産による応急処置であり、ごく短期で消滅)があり、車体側面上部に企業名「サイバネーションのOMRON立石電機」、車体側面中央部にメッセージが小さく入っていた<ref>南海電気鉄道車両部・井上広和 『日本の私鉄 9 南海』 [[保育社]]、1981年、87頁。</ref>。 雲電車はモ501形のオレンジ(広告塗装化で消滅中)とイエローの塗装(広告塗装化で消滅中)が、モ161形とモ351形にブルーの塗装(現在はモ161形168号が廃車、モ351形が広告塗装化で消滅中)が、モ161形164号にグリーンの塗装(塗替えにより消滅中)が復活している。これらの色は以下のような使い分けをしている。 * ブルー…ワンマン専用車で旧式車体の塗装(モ161形のモ169 - 175とモ301形)だったが、モ164号、モ168号、モ351号、モ352号などで復刻された。 * オレンジ…ワンマン専用車で新製車体(モ351形・モ501形の一部) 2013年から運行している[[阪堺電気軌道1001形電車|モ1001形「堺トラム」]]は、公募により塗装を決定している。導入予定の3編成すべてが異なるカラーリングを採用する予定であり、最初に導入された1001号は白地・薄金地に深緑を基調としたカラーリングで、塗装そのものに「茶ちゃ」、次に導入された紫を基調とした1002号は「紫おん」、その次に導入された青を基調とした1003号は「青らん」の名が付けられた。 現在は広告塗装となっているものが大半であり、旧型車両はリバイバルカラー化などが進み、新型車用の標準塗装はゼロ、さらに現在は車庫に留置されている事業用車両も旧南海塗装などに塗り替えられている。今後は、161・351・501形は雲塗装、601・701形は登場時の新車色を標準色とすることになった。 2014年10月からは、モ161形164号が、[[日本放送協会|NHK]]朝の[[連続テレビ小説]]「[[マッサン]]」の[[ラッピング広告]]電車となっていた。2016年9月30日からは166号が「HELLO KITTY LOVES すみよし」のラッピング電車に、11月1日からは164号がアニメ「[[文豪ストレイドッグス]]」のラッピング電車になっていた。 === 現有車両 === * [[阪堺電気軌道161形電車|モ161]] 4両(旧・電5形、モ161, 162, 164, 166) - 一部旧塗装・非冷房。モ165, 170 は2016年現在[[休車]]状態だったが、廃車された。 * [[阪堺電気軌道351形電車|モ351]] 4両(モ351, 353 - 355) * [[阪堺電気軌道501形電車|モ501]] 5両(モ501 - 505) * [[阪堺電気軌道601形電車|モ601]] 7両(モ601 - 607) * [[阪堺電気軌道701形電車|モ701]] 11両(モ701- 711) * [[阪堺電気軌道1001形電車|1001形]](堺トラム<ref>[http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/doro/toshikotsu/hankaisen/teisho_aisho_kettei.html 阪堺線低床式車両の愛称が「堺トラム」に決定しました] - 堺市、2012年12月19日</ref>) 3車体連接車 3両(1001 - 1003) * [[阪堺電気軌道1101形電車|1101形]] 3車体連接車 1両(1101) === 過去の車両 === * [[阪堺電気軌道1形電車|電1形]] * [[阪堺電気軌道2形電車|電2形]] * [[南海電3形電車 (軌道)|モ101]] * [[阪堺電気軌道121形電車|モ121]] 10両(モ121 - 130)- 元大阪市電[[大阪市交通局1601形電車|1601形]] * [[阪堺電気軌道151形電車|モ151]] * [[阪堺電気軌道205形電車#モ201形|モ201]] * [[阪堺電気軌道205形電車|モ205]] * [[阪堺電気軌道251形電車|モ251]] 6両(モ251 - 256)- 元京都市電[[京都市交通局1800形電車|1800形]]。モ256が我孫子道車庫にて保管中 * [[阪堺電気軌道301形電車|モ301]] 7両(モ301 - 307) * [[阪堺電気軌道11形電車|デト11]] - 我孫子道車庫入換車(無番号)として現存 === 車両数の変遷 === {|class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%;text-align:center;width:75%;" |- !年 !モ121 !モ151 !モ161 !モ205 !モ251 !モ301 !モ351 !モ501 !モ601 !モ701 !合計(冷房車) |- |1978||10||4||15||36||||7||5||5||||||82(0) |- |1982||10||4||15||3||6||7||5||5||||||55(0) |- |1983||10||4||15||3||6||7||5||5||||||55(0) |- |1984||10||4||15||3||6||7||5||5||||||55(0) |- |1985||10||4||15||3||6||7||5||5||||||55(0) |- |1986||10||4||15||3||6||7||5||5(4)||||||55(4) |- |1987||10||4||15||3||6||7||5(3)||5(5)||||||55(8) |- |1988||10||3||15||3||6||7||5(5)||5(5)||||1(1)||55(11) |- |1989||10||1||15||3||6||7||5(5)||5(5)||||3(3)||55(13) |- |1990||10||||15||1||6||7||5(5)||5(5)||||4(4)||53(14) |- |1991||10||||15||||6||7||5(5)||5(5)||||5(5)||53(15) |- |1992||9||||15||||5||7||5(5)||5(5)||||6(6)||52(16) |- |1993||9||||15||||4||7||5(5)||5(5)||||7(7)||52(17) |- |1994||9||||15||||3||7||5(5)||5(5)||||8(8)||52(18) |- |1995||9||||15||||2||7||5(5)||5(5)||||9(9)||52(19) |- |1996||9||||15||||||7||5(5)||5(5)||||11(11)||52(21) |- |1997||6||||15||||||7||5(5)||5(5)||3(3)||11(11)||52(24) |- |1998||3||||15||||||3||5(5)||5(5)||6(6)||11(11)||48(27) |- |1999||2||||15||||||3||5(5)||5(5)||7(7)||11(11)||48(28) |- |2000||||||15||||||||5(5)||5(5)||7(7)||11(11)||43(28) |- |2001||||||12||||||||5(5)||5(5)||7(7)||11(11)||40(28) |- |2002||||||11||||||||5(5)||5(5)||7(7)||11(11)||39(28) |- |2003||||||11||||||||5(5)||5(5)||7(7)||11(11)||39(28) |- |2004-<br>2011||||||10||||||||5(5)||5(5)||7(7)||11(11)||38(28) |- |} * 事業用車除く * 1978年は10月1日現在、82・83年は1月1日現在、84年以降は4月1日現在 * 『私鉄車両編成表』各年版、ジェー・アール・アール == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 南海電気鉄道「有価証券報告書」(EDINETコード:E04106) * 「阪堺百年」 == 外部リンク == {{Commonscat|Hankai Tramway}} * [https://www.hankai.co.jp 阪堺電車公式サイト] * {{Instagram|hankaiofficial|阪堺電車【公式】}} * {{Twitter|hankai_official|阪堺電車【公式】}} {{南海グループ}} {{日本の路面電車}} {{スルッとKANSAI}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はんかいてんききとう}} [[Category:阪堺電気軌道|*]] [[Category:日本の軌道事業者]] [[Category:南海グループ]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:住吉区の企業]] [[Category:1980年設立の企業]]
2003-09-14T10:15:55Z
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阪堺電気軌道阪堺線
阪堺線(はんかいせん)は、大阪府大阪市浪速区の恵美須町停留場から大阪府堺市西区の浜寺駅前停留場までを結ぶ阪堺電気軌道の路線である。 大阪市内の東玉出停留場 - 住吉鳥居前停留場間と堺市内の綾ノ町停留場 - 御陵前停留場間は併用軌道となっており、どちらも紀州街道(堺市街での愛称は大道筋)の中央を通っている。上町線の電車が住吉停留場から浜寺駅前停留場まで乗り入れている。 恵美須町 - 我孫子道間の系統と、住吉 - 浜寺駅前間で上町線と堺市内間を直通する上町線天王寺駅前 - 浜寺駅前間の系統が運行されている。恵美須町 - 浜寺駅前間を直通する系統はなくなったため、両系統間を乗り継ぐ場合は我孫子道停留場で乗り換えとなっている。 恵美須町 - 我孫子道間の系統は2014年3月1日ダイヤ改正以降、運行便数が大幅に削減されている。2023年2月4日改正時点での運転間隔は以下の通り。 2009年7月4日のダイヤ改正で天王寺駅前 - 浜寺駅前間の系統が主体となり、それまで主体だった恵美須町 - 浜寺駅前間の系統の電車は朝・夕の一部を除きすべて恵美須町 - 我孫子道間の運行となった(当時の昼間時は12分間隔で運転)。さらに、2013年2月2日のダイヤ改正で恵美須町 - 浜寺駅前間の系統が全廃され、恵美須町からはすべて我孫子道までの運行となった。 上町線との直通系統は、天王寺駅前 - 浜寺駅前間の系統のほか、天王寺駅前 - 我孫子道間の系統が運行されている。 正月三が日には特別ダイヤとなり、恵美須町 - 我孫子道間を中心に大幅に増便される。 阪堺電気軌道は、利用者の減少や、2000年に国土交通省から出された安全対策事業を進めることが資金的に困難だとして、2003年に我孫子道以南の堺市内区間について廃止を含めた協議を堺市に申し入れた。これに対し堺市では、安全対策事業への補助や、市民参加の支援団体立ち上げといった路線存続に向けた動きを見せている。堺市には、かねてから東西鉄軌道として構想されているLRT建設計画があり、阪堺線との有機的な連携が期待されていた。 この動きを受けて、2006年12月に堺市が、阪堺電気軌道と親会社の南海電気鉄道のグループとのLRTに関する非公式事前協議で、グループ側から提案された相互乗り入れを受け入れる意向を示した。このため、同路線の存続と、2010年度を目途にLRTとの相互乗り入れ実現を目指す方向で話が進んでいた。 2008年4月に堺市が公表した「東西軌道(堺浜 - 堺東駅間)基本計画骨子(案)」によると、阪堺電気軌道阪堺線の堺市内区間である我孫子道 - 浜寺駅前間7.9kmの区間について、堺市が総事業費約30億円を投入し、LRT化するとともに公有民営化される方向である。また、堺市が計画するLRT路線である東西鉄軌道と交差する大小路駅から相互直通運転を行う予定としていた。 2009年9月27日に前市長の任期満了に伴って行われた堺市長選挙で当選し、10月に堺市長に就任した竹山修身はLRT建設計画のうち堺東 - 堺駅間を採算面などにより建設中止、堺駅 - 堺浜間はLRTと大阪市営地下鉄の延伸による整備に見直すことを表明した。このことから、明確な支援が行われなければ、堺市内区間の廃止問題が再度浮上する可能性も取りざたされている。 LRT建設計画のうち堺東 - 堺駅間の建設中止については、2009年12月に市議会の反発によって否決されたが、竹山が堺市内の交通体系を総合的に検討する意向を示したことでLRT関連予算を減額する修正補正予算案が2010年1月13日に可決された。同年1月22日には竹山が南海にLRT計画中止を正式に申し入れ、これに対し南海は同年秋までに阪堺線支援策を提示することを要請した。 2010年6月、堺市は南海および阪堺に対し、10年間で総額50億円(年間2億円の利用者拡大策への補助に加え、設備高度化への補助として30億円)の支援策を提示し、同年10月には阪堺との間で存続に向けた基本合意を結んでいる。 2010年4月に阪堺電気軌道は堺市内の窮状を訴える資料を公表した。それによると堺市内区間の状況は以下のようになっており、堺市内区間を存続するには軌道施設や車両などの公有化による設備維持費用の市負担と増客支援策等により1日約1,000人乗客が増えて収入が約3割増加することが必要としている。 輸送密度は下記の通り、1985年度と比較して6 - 7割も減少している。なお1985年当時の堺市内のデータイムの運転本数は毎時8本、7分30秒間隔の運転であったが、その後利用客の減少に伴い毎時6本 → 現在の毎時5本へと削減されている。 平成21年度堺区間が利用者減少にかかわらず営業収入が増えているのは収入按分を見直したため。 2011年1月15日より、存続に向け以下のような利用拡大策が実施されている。 同年3月1日には、堺市内区間および堺市内の南海バス路線を対象としたフリー切符「堺おもてなしチケット」の販売が開始された(2017年8月-2018年3月には「ハニワ課長のさかい最高きっぷ」も発売)。 これらの支援策により、堺市では年間21万5000人、1日当たり589人の利用者の増加を見込んでいたが、平成23年度の利用者数は1日あたり1,392人の増加となり、予想を上回る結果となった。2011年4月、上町線の天王寺駅前停留場付近にあべのキューズモールが開業したことも利用者増加に影響している。 (初代)阪堺電気軌道により建設された。しかしながら、全線が南海鉄道の路線(今の南海本線)と競合することもあり、一時は住吉大社の参詣客や浜寺公園への遊覧客を巡って、激しい輸送競争も行われた。その後、南海に合併されて阪堺線となった。だが1927 - 1935年には、今度は阪堺電鉄(新阪堺)によって競合線が敷設された。これは後に大阪市へ買収されて大阪市電阪堺線となり、1944 - 1968年にかけて全廃されている。 1980年に大阪馬車鉄道→浪速電車軌道が建設した上町線と共に、南海子会社の(2代目)阪堺電気軌道へ譲渡された。南海電気鉄道時代はさらに廃線となった平野線も加え、大阪軌道線と総称されていた。 全停留場大阪府に所在。 2012年3月に阪堺電気軌道で駅ナンバリングが導入されたが、この時HN27(石津 - 東湊間)とHN30(船尾 - 浜寺駅前間)は欠番となった。このうち、前者は2015年2月1日に開業した石津北停留場に付けられた。 綾ノ町 - 御陵前間の併用軌道は、戦後、堺市によって行われた大道筋の拡幅工事と平行して行われた軌道の移設の際に建設された「グリーンベルト式」の一般車両進入禁止(保守点検車両を除く)の専用軌道に近い併用軌道で、この区間の運行は、鉄道信号ではなく一般交通と同く交通信号に従う(道路信号と連動する専用の矢印信号はある)。近年は線路交換に伴い、交差点部分を除く一部の敷石・舗装が撤去されているほか、「緑化軌道」の試験も行われた。 グリーンベルト式併用軌道とは、軌道と車道の間に植え込みを配して軌道と車道を区分したもので、車道の両外側には歩道が配されている。 事業者名は廃止時点のもの
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阪堺線(はんかいせん)は、大阪府大阪市浪速区の恵美須町停留場から大阪府堺市西区の浜寺駅前停留場までを結ぶ阪堺電気軌道の路線である。
{{混同|大阪市電阪堺線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[File:Nankai group logo.svg|24px|link=阪堺電気軌道]] 阪堺線 |路線色 = green |画像 = Hankai Tramway 1003 at Abikomichi Station.JPG |画像サイズ = 300px |画像説明 = 我孫子道停留場に停車中の<br />[[阪堺電気軌道1001形電車|「堺トラム」1003号車“青らん”]] |種類 = [[軌道法|軌道]]([[路面電車]]) |国 = {{JPN}} |所在地 = [[大阪府]] |起点 = [[恵美須町駅|恵美須町停留場]] |終点 = [[浜寺駅前停留場]] |路線記号 = [[ファイル:Number prefix Hankai Tramway line.png|20px|HN]] HN |停留場数 = 31停留場 |開業 = [[1911年]][[12月1日]] |全通 = [[1912年]][[11月30日]] |廃止 = |所有者 = <!--阪堺電気軌道(旧)→南海鉄道→[[近畿日本鉄道]]→(上町線保有時は現ロゴマーク未制定)[[南海電気鉄道]]→ -->[[阪堺電気軌道]] |運営者 = 阪堺電気軌道 |車両基地 = [[大和川検車区]] |使用車両 = [[阪堺電気軌道#車両]]を参照 |路線距離 = 14.0 [[キロメートル|km]] <ref name="hankai20200108" /> |軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]]) |線路数 = [[複線]] |電化方式 = [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式 = |保安装置 = |最高速度 = 40 [[キロメートル毎時|km/h]](一部区間 50 km/h) |路線図 = Hankai4.png }} '''阪堺線'''(はんかいせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]]の[[恵美須町駅|恵美須町停留場]]から大阪府[[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]の[[浜寺駅前停留場]]までを結ぶ[[阪堺電気軌道]]の路線である。 == 概要 == 大阪市内の[[東玉出停留場]] - [[住吉鳥居前停留場]]間と堺市内の[[綾ノ町停留場]] - [[御陵前停留場]]間は[[併用軌道]]となっており、どちらも[[紀州街道]](堺市街での愛称は[[大道筋]])の中央<ref>東玉出停留場北側 - 東粉浜停留場間は配線が西側に偏っており、下り線が道路中央を通っている。そのため、北行きの道路幅に余裕が無く、東玉出停留場と塚西停留場の上り線には安全地帯が設置されていない。</ref>を通っている。[[阪堺電気軌道上町線|上町線]]の電車が[[住吉停留場 (大阪府)|住吉停留場]]から[[浜寺駅前停留場]]まで乗り入れている。 <gallery> ファイル:今池駅01.jpg|今池停留場<!--にて-->(2005年4月) ファイル:阪堺線大和川橋梁.jpg|大和川橋梁(2007年10月) </gallery> === 路線データ === * 管轄:我孫子道運輸区 * 路線距離([[営業キロ]]):14.0km <ref name="hankai20200108" /> * [[軌間]]:1435mm * 停留場数:31(起終点含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線電化(直流600V) * 最高速度:[[併用軌道]]40km/h、[[専用軌道|新設軌道]]40km/h(御陵前以南は50km/h) * 車両基地:[[大和川検車区]](我孫子道車庫) == 運行形態 == <!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします --> {{BS-map |title=停留場・施設・接続路線 |title-bg=green |title-color=white |collapse=yes |map= {{BS4|STR||||||[[南海電気鉄道|南海]]:{{rint|osaka|nm}} [[南海本線]]・{{rint|osaka|ko}} [[南海高野線|高野線]]|}} {{BS4|BHF|O1=HUBaq|HUBq|HUBlg||||[[今宮戎駅]]|}} {{BS4|STR||exKBHFa|O3=HUB||-0.1|HN51''恵美須町停留場''|-2020|}} {{BS4|STR||KBHFxa|O3=HUBe||0.0|HN51 [[恵美須町駅|恵美須町停留場]]|2020- {{rint|osaka|k}}([[恵美須町駅]])|}} 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[[東玉出停留場]]||}} {{BS4|STR||uBHF||3.5|HN60 [[塚西停留場]]||}} {{BS4|STR||uBHF||4.1|HN61 [[東粉浜停留場]]||}} {{BS4|HST||uSTR||||[[粉浜駅]]|}} {{BS4|STR||uBHF(L)f|O3=HUBa||4.5|HN10 [[住吉停留場 (大阪府)|住吉停留場]]||}} {{BS4|STR|exSTR+l|O2=HUBrg-R|uexSTRq|O3=uABZg+l|P3=HUBx-3|BHF(R)gq|O4=HUBeq|||{{rint|osaka|hnu}} [[阪堺電気軌道上町線|上町線]]|}} {{BS4|STR|exBHF(R)g|O2=HUBlf-R|uBHF(R)g|O3=HUBrf-L|||||}} {{BS4|STR|exSTR|uBHF|O3=HUBa||4.7|HN12 [[住吉鳥居前停留場]]||}} {{BS4|BHF|O1=HUBaq|exKBHFe|O2=HUBq|STR|O3=HUBrf||||[[住吉大社駅]]/HN11 ''[[住吉大社駅|住吉公園停留場]]''|}} {{BS4|STR2|STRc3|BHF||5.0|HN13 [[細井川停留場]]||}} {{BS4|STRc1|STR+4|BHF||5.5|HN14 [[安立町停留場]]||}} {{BS4||HST|STR||||[[住ノ江駅]]|}} {{BS4||STR|BHF+GRZq||6.1|HN15 [[我孫子道停留場]]|運賃区間境界|}} {{BS4||STR|ABZgl|KDSTeq||[[大和川検車区|我孫子道車庫]]||}} {{BS4||hKRZWae|O2=GRZq|hKRZWae|O3=GRZq||||[[大和川]] ↑[[大阪市]]/[[堺市]]↓|}} {{BS4||STR|BHF||6.7|HN16 [[大和川停留場]]||}} {{BS4||SKRZ-Au|SKRZ-Au||||[[阪神高速15号堺線]]|}} {{BS4||STR|O2=exlBST~L|eKRZ|O3=exlBST~R|exBSTq|||''[[帝國車輛工業|梅鉢車輛]]'' <ref group="*">西・東工場閉鎖後、鳳に移転し<br />[[帝國車輛工業]]→[[東急車輛製造]]を経て<br />現在は[[総合車両製作所]]が事業承継</ref> ''西工場/東工場 専用線''|}} {{BS4||LSTR|BHF||7.2|HN17 [[高須神社停留場]]||}}<!-- 阪堺線を目立たせるため南海本線は以下諏訪ノ森まで省略 --> {{BS4|||uBHF||7.6|HN18 [[綾ノ町停留場]]||}} {{BS4|||uBHF||8.0|HN19 [[神明町停留場]]||}} {{BS4|||uBHF||8.3|HN20 [[妙国寺前停留場]]||}} {{BS4|||uBHF||8.6|HN21 [[花田口停留場]]||}} {{BS4|||uBHF||8.9|HN22 [[大小路停留場]]||}} {{BS4|||uBHF||9.3|HN23 [[宿院停留場]]||}} {{BS4||uexSTRq|ueABZgr||||南海:''[[南海大浜支線|大浜支線]]''|}} {{BS4|||uBHF||9.7|HN24 [[寺地町停留場]]||}} {{BS4|||uBHF||10.1|HN25 [[御陵前停留場]]||}} {{BS4|||BHF||10.8|HN26 [[東湊停留場]]||}} {{BS4|||BHF||11.5|HN27 [[石津北停留場]]||}} {{BS4||LSTR|BHF||12.1|HN28 [[石津停留場]]||}} {{BS4||hKRZWae|hKRZWae||||[[石津川]]|}} {{BS4|uexHST|HST|BHF||12.8|HN29 [[船尾停留場]]||}} {{BS4|uexSTR|STR|STR||||''諏訪ノ浜停留場''/[[諏訪ノ森駅]]|}} {{BS4|uexSTR2|O1=POINTERf@gq|uexSTRc3|O2=STRl|KRZo|STR+r|||''[[阪堺電鉄]]''|}} {{BS4|uexSTRc1|uexSTR+4|STR|STR|||''浜寺停留場''|}} {{BS4||uexKBHFe|O2=HUBaq|eBHF|O3=HUBeq|STR|13.5|''海道畑停留場''|-1944|}} {{BS4|||STR|STR||||}} {{BS4|||KBHFxe|O3=HUBaq|BHF|O4=HUBeq|14.0|HN31 [[浜寺駅前停留場]]||}} {{BS4|||exSTR|STR|||[[浜寺公園駅]]|}} {{BS4|||exBHF|STR|14.2|''浜寺停留場''|-1912|}} {{BS4|||exKBHFe|STR|14.7|''浜寺公園停留場''|-1917 <ref group="*" Name="hamadera">南海本線の浜寺公園駅とは異所</ref>|}} {{BS4||||STR|||南海:{{rint|osaka|nm}} 南海本線|}} |bottom=<references group="*" /> }} 恵美須町 - 我孫子道間の系統と、住吉 - 浜寺駅前間で[[阪堺電気軌道上町線|上町線]]と堺市内間を直通する上町線[[天王寺駅|天王寺駅前]] - 浜寺駅前間の系統が運行されている。恵美須町 - 浜寺駅前間を直通する系統はなくなったため、両系統間を乗り継ぐ場合は我孫子道停留場で乗り換えとなっている。 恵美須町 - 我孫子道間の系統は2014年3月1日ダイヤ改正以降、運行便数が大幅に削減されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/140206_dia.pdf|format=PDF|title=3月1日(土)にダイヤ改正を実施します|publisher=阪堺電気軌道|date=2014-02-06|accessdate=2015-02-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222015839/http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/140206_dia.pdf |archivedate=2014-02-22}}</ref>。2023年2月4日改正時点での運転間隔は以下の通り<ref>{{Cite press release|title=2023年2月4日(土)のダイヤ変更について|publisher=阪堺電気軌道|date=2022-12-26|url=https://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2022/12/b05b2919ebd19f51b71cd36472b941d2.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-06-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hankai.co.jp/common/pdf/timetable/ebisucho-20230204.pdf |format=PDF |title=我孫子道・浜寺駅前 方面 標準時刻表 恵美須町 |access-date=2023-06-27 |publisher=阪堺電気軌道}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hankai.co.jp/common/pdf/timetable/sumiyoshi-20230204.pdf |format=PDF |title=天王寺駅前・ 恵美須町 方面 標準時刻表 住吉 |access-date=2023-06-27 |publisher=阪堺電気軌道}}</ref>。 *早朝・夜間は1時間に0-1本(平日・休日ともに) *平日朝ラッシュは10 - 30分間隔 *昼間時は平日28分間隔、休日24分間隔 *夕方以降、最終直前は25 - 30分間隔(平日・休日ともに) 2009年7月4日のダイヤ改正で天王寺駅前 - 浜寺駅前間の系統が主体となり、それまで主体だった恵美須町 - 浜寺駅前間の系統の電車は朝・夕の一部を除きすべて恵美須町 - 我孫子道間の運行となった(当時の昼間時は12分間隔で運転)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nankai.co.jp/groupinfo/news/pdf/090622.pdf |format=PDF|title=阪堺電気軌道 平成21年7月4日(土)より天王寺駅前〜浜寺駅前間の直通運転を開始します|publisher=阪堺電気軌道|date=2009-06-22|accessdate=2015-02-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090806121658/http://www.nankai.co.jp/groupinfo/news/pdf/090622.pdf|archivedate=2009-08-06}}</ref>。さらに、2013年2月2日のダイヤ改正で恵美須町 - 浜寺駅前間の系統が全廃され、恵美須町からはすべて我孫子道までの運行となった<ref name="nankai20130118">{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/groupinfo/news/pdf/130118_2.pdf 2月2日(土)にダイヤ改正を実施します]}}{{リンク切れ|date=2015年2月}} - 阪堺電気軌道 2013年1月18日</ref>。 上町線との直通系統は、天王寺駅前 - 浜寺駅前間の系統のほか、天王寺駅前 - 我孫子道間の系統が運行されている。 [[正月三が日]]には特別ダイヤとなり、恵美須町 - 我孫子道間を中心に大幅に増便される。 {| class="wikitable" style="font-size:85%;" |+'''運行系統''' |- !系統!!主な経由地!!備考 |- |天王寺駅前 - 浜寺駅前||天王寺駅前 - 住吉 - 我孫子道 - 浜寺駅前||天王寺駅前 - 住吉間は上町線。終日運行。 |- |天王寺駅前 - 我孫子道||天王寺駅前 - 住吉 - 我孫子道||天王寺駅前 - 住吉間は上町線。終日運行。 |- |恵美須町 - 我孫子道||恵美須町 - 住吉 - 我孫子道||終日運行。2009年7月3日までは早朝・夜間のみの運行。 |- |我孫子道 - 浜寺駅前||我孫子道 - 宿院 - 浜寺駅前||早朝・夕方のみの運行。<br />2013年8月25日から2014年2月10日まで[[阪堺電気軌道1001形電車|1001形堺トラム]]がこの系統のみで火曜・金曜以外の昼間に運行。 |- |恵美須町 - 浜寺駅前||恵美須町 - 住吉 - 我孫子道 - 宿院 - 浜寺駅前||2013年2月2日廃止。<br />2009年7月3日までは終日運行、2013年2月1日までは朝夕のみ運行。 |- |住吉 - 我孫子道||住吉 - 我孫子道||上町線への送り込みを兼ねた運用。<br />近年は運行されていない。 |- |住吉 - 東湊||住吉 - 我孫子道 - 東湊||臨時系統。<br />年末年始・堺まつり・住吉大社祭礼時のみの運行。<br />近年は合理化で運行されていない。 |- |住吉 - 浜寺駅前||住吉 - 我孫子道 - 宿院 - 浜寺駅前||臨時系統。<br />年末年始・堺まつり・住吉大社祭礼時のみの運行。<br />近年は合理化で運行されていない。 |} == 堺市内区間の存続と堺市LRT(東西鉄軌道)直通計画 == 阪堺電気軌道は、利用者の減少や、2000年に[[国土交通省]]から出された安全対策事業を進めることが資金的に困難だとして、2003年に我孫子道以南の堺市内区間について廃止を含めた協議を堺市に申し入れた。これに対し[[堺市]]では、安全対策事業への補助や、市民参加の支援団体立ち上げといった路線存続に向けた動きを見せている。堺市には、かねてから東西鉄軌道として構想されている[[ライトレール|LRT]]建設計画があり、阪堺線との有機的な連携が期待されていた。 この動きを受けて、[[2006年]]12月に堺市が、阪堺電気軌道と親会社の[[南海電気鉄道]]のグループとのLRTに関する非公式事前協議で、グループ側から提案された相互乗り入れを受け入れる意向を示した。このため、同路線の存続と、2010年度を目途にLRTとの相互乗り入れ実現を目指す方向で話が進んでいた。 [[2008年]]4月に堺市が公表した「東西軌道(堺浜 - 堺東駅間)基本計画骨子(案)」<ref>{{PDFlink|[http://www.city.sakai.osaka.jp/city/info/_tetuki/img/kossi.pdf 東西軌道(堺浜 - 堺東駅間)基本計画骨子(案)]}}{{リンク切れ|date=2015年2月}} - 堺市、2008年4月16日。</ref>によると、阪堺電気軌道阪堺線の堺市内区間である我孫子道 - 浜寺駅前間7.9kmの区間について、堺市が総事業費約30億円を投入し、LRT化するとともに公有民営化される方向である。また、堺市が計画するLRT路線である東西鉄軌道と交差する大小路駅から相互直通運転を行う予定としていた。 [[2009年]]9月27日に前市長の任期満了に伴って行われた堺市長選挙で当選し、10月に堺市長に就任した[[竹山修身]]はLRT建設計画のうち堺東 - 堺駅間を採算面などにより建設中止、堺駅 - 堺浜間はLRTと[[大阪市営地下鉄]]の延伸による整備に見直すことを表明した<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.co.jp/news/retto/20090928c6b2802r28.html |title=竹山・次期堺市長、LRT計画全面見直し|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2009-09-29|accessdate=2015-02-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091001152922/http://www.nikkei.co.jp/news/retto/20090928c6b2802r28.html|archivedate=2009-10-01}}</ref>。このことから、明確な支援が行われなければ、堺市内区間の廃止問題が再度浮上する可能性も取りざたされている<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/091010/osk0910101635007-n1.htm 大阪唯一の「チンチン電車」が消える? 阪堺電気軌道阪堺線]{{リンク切れ|date=2011年9月}} - [[産経新聞]]、2009年10月14日。記事内では2008年3月期で2億1300万円の営業損失を出しているが、堺市内区間の損失は2億2100万円に上り、大阪市内区間での800万円の黒字を吹き飛ばした格好になっていると記載されている。</ref>。 LRT建設計画のうち堺東 - 堺駅間の建設中止については、2009年12月に市議会の反発によって否決されたが<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091224-OYT8T01432.htm LRT予算 削減、維持ともに否決]{{リンク切れ|date=2010年9月}} - [[読売新聞]]、2009年12月25日。</ref>、竹山が堺市内の交通体系を総合的に検討する意向を示したことでLRT関連予算を減額する修正補正予算案が2010年1月13日に可決された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100114/osk1001141221003-n1.htm 交通網調査費盛りLRT減額 堺市議会が予算承認]{{リンク切れ|date=2012年2月}} - 産経新聞、2010年1月14日。</ref><ref>[http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100114ddlk27010420000c.html 堺市議会:LRT減額可決、市長の政策評価 5会派「認識近づいた」 /大阪]{{リンク切れ|date=2010年9月}} - 毎日新聞、2010年1月14日。</ref>。同年1月22日には竹山が南海にLRT計画中止を正式に申し入れ、これに対し南海は同年秋までに阪堺線支援策を提示することを要請した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100124/osk1001241521001-n1.htm 市長が計画中止を正式申し入れ…どうなる、堺市のチンチン電車]{{リンク切れ|date=2015年2月}} - 産経新聞、2010年1月23日。</ref>。 2010年6月、堺市は南海および阪堺に対し、10年間で総額50億円(年間2億円の利用者拡大策への補助に加え、設備高度化への補助として30億円)の支援策を提示し<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/feature/osaka1208015297682_02/news/20100927-OYT8T00056.htm |title=クロスロードおおさか 阪堺存続で堺は元気に?|newspaper=読売新聞|date=2010-09-27|accessdate=2015-02-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101115172159/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/feature/osaka1208015297682_02/news/20100927-OYT8T00056.htm|archivedate=2010-09-27}}</ref>、同年10月には阪堺との間で存続に向けた基本合意を結んでいる<ref>[http://www.city.sakai.lg.jp/shisei/toshi/kotsuseisaku/kasseika/kihongoi.html 阪堺線(堺市内区間)の存続に係る阪堺電気軌道株式会社との基本合意について] - 堺市、2010年10月20日。</ref>。 === 堺市内区間の現状 === 2010年4月に阪堺電気軌道は堺市内の窮状を訴える資料を公表した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/100408.pdf|format=PDF|title=阪堺線(堺市内)の存続に向けた支援策について|publisher=阪堺電気軌道|date=2010-04-28|accessdate=2015-02-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111130003951/http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/100408.pdf|archivedate=2011-11-30}}</ref>。それによると堺市内区間の状況は以下のようになっており、堺市内区間を存続するには軌道施設や車両などの公有化による設備維持費用の市負担と増客支援策等により1日約1,000人乗客が増えて収入が約3割増加することが必要としている。 輸送密度は下記の通り、1985年度と比較して6 - 7割も減少している。なお1985年当時の堺市内のデータイムの運転本数は毎時8本、7分30秒間隔の運転であったが、その後利用客の減少に伴い毎時6本 → 現在の毎時5本へと削減されている。 * 輸送密度(1日あたりの区間内平均輸送人員) ** 1985年(昭和60年)10月22日調査 : 4,486人 ** 2009年(平成21年)6月24日調査 : 1,627人<br />対1985年(昭和60年)10月22日調査比 : 63.7%減 * 停留場乗降人員 ** 1985年(昭和60年)10月22日調査 : 17,907 人 ** 2009年(平成21年)6月24日調査 : 5,453 人<br />対1985年(昭和60年)10月22日調査比 : 69.5%減 * 営業収益(平成20年度実績) ** 旅客運輸収入 : 1億6900万円 ** 運輸雑収入(広告収入、停留場構内自動販売機収入等) : 1600万円 * 営業費用(平成20年度実績) ** 人件費 : 2億2400万円 ** 電車動力費(車両運転用の電気料金) : 2300万円 ** 修繕費(線路、信号、車両等、軌道施設の点検、整備費用) : 7700万円 ** 経費(車両・停車場清掃料、水光熱費、備消品費等) : 3000万円 ** 諸税(固定資産税等) : 2300万円 ** 減価償却費 : 2500万円 * 軌道事業収支 {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="2"|乗車人員 !colspan="3"|営業収益 !rowspan="2"|営業費用 !rowspan="2"|営業損益 |- !乗車人員 !対前年比 !営業収益 !旅客運賃収入 !対前年比 |- |平成10年度 |214万7千人 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- |平成11年度 |205万9千人 |▲4.1% |3億59百万円 |3億28百万円 |&nbsp; |6億67百万円 |▲3億07百万円 |- |平成12年度 |170万5千人 |▲17.2% |3億45百万円 |3億18百万円 |▲3.0% |6億51百万円 |▲3億0500万円 |- |平成13年度 |161万1千人 |▲5.5% |3億22百万円 |3億00百万円 |▲5.7% |5億77百万円 |▲2億54百万円 |- |平成14年度 |149万7千人 |▲7.1% |3億03百万円 |2億81百万円 |▲6.3% |4億72百万円 |▲1億69百万円 |- |平成15年度 |143万0千人 |▲4.5% |2億89百万円 |2億70百万円 |▲3.9% |4億72百万円 |▲1億69百万円 |- |平成16年度 |135万7千人 |▲5.1% |2億75百万円 |2億59百万円 |▲4.1% |3億92百万円 |▲1億17百万円 |- |平成17年度 |130万4千人 |▲3.9% |2億64百万円 |2億48百万円 |▲4.2% |3億98百万円 |▲1億33百万円 |- |平成18年度 |120万9千人 |▲7.3% |2億02百万円 |1億82百万円 |▲26.6% |3億94百万円 |▲1億92百万円 |- |平成19年度 |117万4千人 |▲2.9% |1億90百万円 |1億75百万円 |▲3.8% |4億11百万円 |▲2億21百万円 |- |平成20年度 |115万1千人 |▲2.0% |1億85百万円 |1億69百万円 |▲3.4% |4億02百万円 |▲2億17百万円 |- |平成21年度 |110万4千人 |▲4.1% |1億99百万円 |1億77百万円 | 4.7% |4億03百万円 |▲2億04百万円 |- |} 平成21年度堺区間が利用者減少にかかわらず営業収入が増えているのは収入按分を見直したため。 === 利用拡大策の実施 === 2011年1月15日より、存続に向け以下のような利用拡大策が実施されている<ref>[http://www.hankai.co.jp/csr/ 阪堺電車の取り組み・活動] - 阪堺電気軌道、2017年8月21日閲覧</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=200円均一運賃および高齢者割引の実施について |publisher=阪堺電気軌道 |date=2010-12-22 |url=http://www.nankai.co.jp/groupinfo/news/pdf/101222.pdf |format=PDF |accessdate=2017-08-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110106024037/http://www.nankai.co.jp/groupinfo/news/pdf/101222.pdf |archivedate=2011-01-06}}</ref>。 * 堺市内と大阪市内の連続乗車([[我孫子道停留場]]をまたぐ乗車)の運賃が290円から200円(2015年2月1日からは210円)に値下げされた。差額は堺市が負担する。 * 65歳以上の高齢者の特定日の利用を100円均一とする。 同年3月1日には、堺市内区間および堺市内の[[南海バス]]路線を対象としたフリー切符「堺おもてなしチケット」の販売が開始された<ref>{{Cite press release |和書 |title=「堺おもてなしチケット」の発売について |publisher=阪堺電気軌道・南海バス |date=2011-02-18 |url=http://www.nankai.co.jp/groupinfo/news/pdf/110218.pdf |format=PDF |accessdate=2017-08-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110711193748/http://www.nankai.co.jp/groupinfo/news/pdf/110218.pdf |archivedate=2011-07-11 }}</ref>(2017年8月-2018年3月には「ハニワ課長のさかい最高きっぷ」<ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/otoku/sakai_saiko.html ハニワ課長のさかい最高きっぷ] - 南海電気鉄道、2017年8月21日閲覧</ref>も発売)。<!-- 「てくてくきっぷ」は阪堺線・上町線専用の1日乗車券で2011年よりも前から発売されており、この時の新規施策ではない。 --> これらの支援策により、堺市では年間21万5000人、1日当たり589人の利用者の増加を見込んでいたが、平成23年度の利用者数は1日あたり1,392人の増加となり、予想を上回る結果となった<ref>{{PDFlink|[http://www.city.sakai.lg.jp/shisei/toshi/kotsuseisaku/kasseika/suishinkondan/index.files/kaigi240414_03.pdf 阪堺線の利用拡大策実施後の利用者数について]}} - 堺市交通政策課、2012年4月</ref>。2011年4月、上町線の天王寺駅前停留場付近に[[あべのキューズタウン|あべのキューズモール]]が開業したことも利用者増加に影響している<ref>{{PDFlink|[http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/130118_2.pdf 2月2日(土)にダイヤ改正を実施します]}}{{リンク切れ|date=2015年2月}} - 阪堺電気軌道、2013年1月18日。「土・休日を中心に一昨年天王寺エリアに開業した商業施設の影響によりお客様が増加した」との記述がある。</ref>。 == 歴史 == (初代)阪堺電気軌道により建設された。しかしながら、全線が南海鉄道の路線(今の[[南海本線]])と競合することもあり、一時は[[住吉大社]]の参詣客や[[浜寺公園]]への遊覧客を巡って、激しい輸送競争も行われた。その後、南海に合併されて阪堺線となった。だが1927 - 1935年には、今度は阪堺電鉄(新阪堺)によって競合線が敷設された。これは後に[[大阪市]]へ買収されて[[大阪市電]][[大阪市電阪堺線|阪堺線]]となり、1944 - 1968年にかけて全廃されている。 1980年に大阪馬車鉄道→浪速電車軌道が建設した上町線と共に、南海子会社の(2代目)阪堺電気軌道へ譲渡された。南海電気鉄道時代はさらに廃線となった[[南海平野線|平野線]]も加え、[[南海大阪軌道線|大阪軌道線]]と総称されていた。 === 年表 === * [[1909年]](明治42年)[[12月28日]]:[[軌道条例]]に基づく特許<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』</ref>。 * [[1911年]](明治44年)[[12月1日]]:阪堺電気軌道が恵美須町 - 市ノ町(現在の大小路)間を開業。 * [[1912年]](明治45年) ** [[3月5日]]:市ノ町 - 少林寺橋(現在の御陵前)間が開業。 ** [[4月1日]]:少林寺橋駅 - 浜寺間が開業。 * 1912年(大正元年)[[11月30日]]:浜寺駅 - 浜寺公園(南海本線の駅とは別)間が開業。浜寺停留場廃止。 * 1913年(大正2年)頃:浜寺駅前停留場開業。 * [[1915年]](大正4年)[[6月21日]]:南海鉄道に合併。 * [[1916年]](大正5年)[[12月22日]]:浜寺駅前 - 浜寺公園間休止。 * [[1917年]](大正6年)[[3月15日]]:浜寺駅前 - 浜寺公園間廃止。 * [[1944年]](昭和19年) ** 宮ノ下・海道畑の両停留場廃止、住吉鳥居前・細井川・花田口・寺地町の各停留場休止<ref name="chizucho">[[#imao|今尾 (2009) p.29]]</ref>。 ** [[6月1日]]:[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]]と南海鉄道が合併して[[近畿日本鉄道]]が成立。同社天王寺営業局の所属となる。 * 年代不明:戦時中に東湊 - 浜寺駅前間で単線運転を行う。 * [[1947年]](昭和22年)6月1日:旧・南海鉄道の路線を[[南海電気鉄道]]に分離譲渡。同社大阪軌道線の一路線となる。 * [[1952年]](昭和27年):この年までに花田口停留場が再開<ref name="chizucho" />。 * [[1955年]](昭和30年)3月30日:住吉鳥居前・細井川・大和川・寺地町の各停留場が再開<ref name="chizucho" /><ref>1953年頃には細井川と大和川の両停留場が廃止されていたことが「住吉区史」に記載されている。</ref>。 * [[1957年]](昭和32年):大道筋の拡張完成により、綾ノ町 - 御陵前の軌道が移設され、現在の軌道・電停位置になる。 * [[1980年]](昭和55年) ** 11月28日:今船停留場が開業。(平野線廃止に伴う救済措置) ** 12月1日:上町線とともに阪堺電気軌道に分離譲渡。 * [[1990年]](平成2年)[[10月4日]]:[[釜ヶ崎]]で発生した[[第22次西成暴動|暴動]]により南霞町停留場(現在の新今宮駅前停留場)駅舎が放火され、5日まで阪堺線が運休。同駅舎は後に北に移設され仮設営業開始(そのまま元の位置に戻ることなく本営業になり、現在に至る)。 * [[2009年]](平成21年)[[7月4日]]:朝夕の一部を除き、恵美須町 - 我孫子道 - 浜寺駅前間通し運転を中止し、恵美須町 - 我孫子道間および天王寺駅前 - 我孫子道- 浜寺駅前間の運転に再編。 * [[2013年]](平成25年)[[2月2日]]:朝夕に残されていた恵美須町 - 我孫子道 - 浜寺駅前間通し運転を中止、恵美須町発着電車は全て我孫子道止まりに。 * [[2014年]](平成26年)[[12月1日]]:南霞町停留場を新今宮駅前停留場に改称<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/140924.pdf|format=PDF|title=12月1日(月)より南霞町停留場を「新今宮駅前」に変更いたします。|publisher=阪堺電気軌道|date=2014-09-24|accessdate=2015-02-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140924135416/http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/140924.pdf|archivedate=2014-09-24}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)2月1日:石津北停留場開業<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/groupinfo/news/pdf/141226.pdf 阪堺線 東湊〜石津間で建設中の「石津北停留場」を平成27年2月1日(日)に開業します!!]}} - 阪堺電気軌道、2014年12月26日</ref><ref name="hankai20150201">{{Cite web|和書|url=http://www.hankai.co.jp/blog/?p=377|title=石津北停留場が開業しました。|publisher=阪堺電気軌道|date=2015-02-01|accessdate=2015-02-02}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)1月31日:宿院停留場の上下の乗り場がそれぞれ道路を挟んだ向かい側に移設。 * [[2018年]](平成30年):軌道・車両および大和川橋梁が「阪堺電気軌道と関連施設群」の一部として[[土木学会選奨土木遺産]]に選ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jsce-kansai.net/wp-content/uploads/2019/08/dayori_76.pdf |title=支部だより No.76 2019.7 |accessdate=2022年6月9日 |publisher=土木学会関西支部 |year=2019 |month=7 |author=[[土木学会]]関西支部 |page=11}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年)2月1日:恵美須町停留場を南側に約100m移設<ref name="hankai20200108">{{PDFlink|[https://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2020/01/0ebe9b2e6def39e75783c1dd2a588f3f.pdf 阪堺線 恵美須町停留場が2月1日(土)に新駅舎へ移設します。]}} - 阪堺電気軌道、2020年1月8日</ref>。恵美須町停留場に副駅名〈通天閣前〉を、新今宮駅前停留場に副駅名〈新世界前〉を追加<ref>{{PDFlink|[https://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2020/01/d92ecf19bcd8e6692cd31545a1142c77.pdf 「恵美須町」・「新今宮駅前」の両停留場に、副駅名を設定いたします。]}} - 阪堺電気軌道、2020年1月30日</ref>。 * 2023年(令和5年)12月:南海本線 石津川 - 羽衣間の高架化工事に支障をきたすため、浜寺駅前停留場付近の線路を東側に移設する工事を開始(予定)<ref name="東側移設">{{Cite report |和書 |title=都市計画道路の整備・連続立体交差事業 |url=https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/gyosei/hoshin/r5_soshikiuneihoshin/r5_kensetsu.files/R05torikumi03.pdf#page=3 |author=堺市建設局道路部 連続立体推進課 |publisher=堺市建設局土木部 建設総務課 |page=3 |accessdate=2023年5月31日}}</ref>。2024年3月まで<ref name="東側移設" />。 * 2024年(令和6年)度以降:浜寺駅前停留場付近の線路を東側に移設(予定)<ref name="東側移設" />。 == 停留場一覧 == 全停留場[[大阪府]]に所在。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:3em; border-bottom:solid 3px green"|停留場<br />番号 !style="width:8em; border-bottom:solid 3px green"|停留場名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px green"|停留場間<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px green"|営業キロ !style="border-bottom:solid 3px green"|接続路線・備考 !style="width:1em; border-bottom:solid 3px green"|{{縦書き|敷設種別|height=5em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px green"|{{縦書き|道路名|height=5em}} !colspan="2" style="border-bottom:solid 3px green"|所在地 |- !HN51 |[[恵美須町駅|恵美須町停留場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Sakaisuji_line_symbol.svg|16px|K]] [[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]] (K18) |rowspan="8" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|新設軌道|height=5em}} |rowspan="8" style="text-align:center; width:1em;"|&nbsp; |rowspan="16" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=4em}} |style="white-space:nowrap;"|[[浪速区]] |- !HN52 |[[新今宮駅前停留場]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|0.5 |[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]]・{{JR西路線記号|K|Q}} [[関西本線]]([[大和路線]])([[新今宮駅]]: JR-O19・JR-Q19)<br />[[南海電気鉄道]]:[[File:Nankai mainline simbole.svg|16px|NK]] [[南海本線]]・[[File:Nankai koya line simbole.svg|16px|NK]] [[南海高野線|高野線]](新今宮駅: NK03)<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|16px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]・[[File:Osaka_Metro_Sakaisuji_line_symbol.svg|16px|K]] 堺筋線 ([[動物園前駅]]: M22・K19) |rowspan="9"|[[西成区]] |- !HN53 |[[今池停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|0.9 |&nbsp; |- !HN54 |[[今船停留場]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|1.2 |&nbsp; |- !HN55 |[[松田町停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|1.6 |&nbsp; |- !HN56 |[[北天下茶屋停留場]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|1.9 |&nbsp; |- !HN57 |[[聖天坂停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|2.3 |&nbsp; |- !HN58 |[[天神ノ森停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|2.7 |&nbsp; |- !HN59 |[[東玉出停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|3.1 |&nbsp; |rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|併用軌道|height=5em}} |rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[紀州街道]]|height=5em}} |- !HN60 |[[塚西停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|3.5 |&nbsp; |- !HN61 |[[東粉浜停留場]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|4.1 |&nbsp; |rowspan="6"|[[住吉区]] |- !HN10 |[[住吉停留場 (大阪府)|住吉停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|4.5 |【乗換指定停留場】<br />[[阪堺電気軌道]]:[[File:Number prefix Hankai Tramway line.png|16px|HN]]{{Color|orange|■}} [[阪堺電気軌道上町線|上町線]] |- !HN12 |[[住吉鳥居前停留場]] | style="text-align:right;" |0.2 | style="text-align:right;" |4.7 |南海電気鉄道:[[File:Nankai mainline simbole.svg|16px|NK]] 南海本線([[住吉大社駅]]: NK08) |- !HN13 |[[細井川停留場]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|5.0 |&nbsp; |rowspan="6" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|新設軌道|height=5em}} |rowspan="6" style="text-align:center; width:1em;"|&nbsp; |- !HN14 |[[安立町停留場]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|5.5 | |- !HN15 |[[我孫子道停留場]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|6.1 |【乗換指定停留場】<br />【大阪市内・堺市内区間境界停留場】 |- !HN16 |[[大和川停留場]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|6.7 |&nbsp; |rowspan="15" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[堺市]]|height=3em}} |rowspan="11"|[[堺区]] |- !HN17 |[[高須神社停留場]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|7.2 |&nbsp; |- !HN18 |[[綾ノ町停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|7.6 |恵美須町方面ホームは大道筋併用軌道上 |- !HN19 |[[神明町停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|8.0 |&nbsp; |rowspan="7" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|併用軌道|height=5em}} |rowspan="7" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[大道筋]]|height=4em}} |- !HN20 |[[妙国寺前停留場]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|8.3 |&nbsp; |- !HN21 |[[花田口停留場]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|8.6 |&nbsp; |- !HN22 |[[大小路停留場]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|8.9 |&nbsp; |- !HN23 |[[宿院停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|9.3 |&nbsp; |- !HN24 |[[寺地町停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|9.7 |&nbsp; |- !HN25 |[[御陵前停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|10.1 |&nbsp; |- !HN26 |[[東湊停留場]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|10.8 |&nbsp; |rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|新設軌道|height=5em}} |rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|&nbsp; |- !HN27 |[[石津北停留場]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|11.5 |&nbsp; |rowspan="4"|[[西区 (堺市)|西区]] |- !HN28 |[[石津停留場]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|12.1 |&nbsp; |- !HN29 |[[船尾停留場]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|12.8 | |- !HN31 |[[浜寺駅前停留場]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|14.0 |南海電気鉄道:[[File:Nankai mainline simbole.svg|16px|NK]] 南海本線([[浜寺公園駅]]: NK15) |} [[ファイル:Hankai-Shukuinsta2-20071001.jpg|thumb|right|240px|堺市内のグリーンベルト式併用軌道(宿院付近)]] 2012年3月に阪堺電気軌道で駅ナンバリングが導入されたが、この時HN27(石津 - 東湊間)とHN30(船尾 - 浜寺駅前間)は欠番となった。このうち、前者は2015年2月1日に開業した石津北停留場<ref name="hankai20150201"/>に付けられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hankai.co.jp/route/|title=路線図|publisher=阪堺電気軌道|accessdate=2015-02-02}}</ref>。 綾ノ町 - 御陵前間の併用軌道は、戦後、堺市によって行われた大道筋の拡幅工事と平行して行われた軌道の移設の際に建設された「グリーンベルト式」の一般車両進入禁止(保守点検車両を除く)の専用軌道に近い併用軌道で、この区間の運行は、鉄道信号ではなく一般交通と同く交通信号に従う(道路信号と連動する専用の矢印信号はある)。近年は線路交換に伴い、交差点部分を除く一部の敷石・舗装が撤去されているほか、「緑化軌道」の試験も行われた。 グリーンベルト式併用軌道とは、軌道と車道の間に植え込みを配して軌道と車道を区分したもので、車道の両外側には歩道が配されている。 === かつて存在していた停留場 === *[[宮ノ下停留場 (大阪府)|宮ノ下停留場]]:天神ノ森 - 東玉出間の南海高野線との立体交差部分 *[[海道畑停留場|海道畑(かいどうばた)停留場]]:船尾駅 - 浜寺駅前駅間の南海本線との立体交差部分 *[[浜寺終点停留場]]:浜寺駅前駅の南西で、以前「浜寺ジャンボプール」があった付近。 === 過去の接続路線 === 事業者名は廃止時点のもの *恵美須町停留場:[[大阪市電]] - 1943年9月30日まで *南霞町停留場:大阪市電(霞町) - 1966年3月31日まで *今池停留場: **[[南海平野線|南海電気鉄道平野線]] - 1980年11月27日まで **[[南海天王寺支線|南海電気鉄道天王寺支線]](今池町駅) - 1993年3月31日まで *宿院停留場:[[南海大浜支線|南海電気鉄道大浜支線]] - 1949年休止、1980年11月28日廃止 == 脚注および参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} *{{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 10 大阪 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790028-9 | ref = imao }} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] {{日本の路面電車}} {{デフォルトソート:はんかいてんききとうはんかいせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|はんかいせん]] [[Category:阪堺電気軌道|路はんかいせん]] [[Category:南海電気鉄道の廃線|はんかい]] [[Category:日本の路面電車路線]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:土木学会選奨土木遺産]]
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秩父市
秩父市(ちちぶし)は、埼玉県の南西部に位置する市。 人口は約6万人で、秩父地方の中心をなす。面積は約578kmで、埼玉県内では最も広い市町村でもある。 秩父山地に囲まれた秩父盆地の中央部に、市の中心市街地が位置している。秩父地方では唯一の市で、市域のほとんどが秩父多摩甲斐国立公園や、埼玉県立の自然公園(武甲、西秩父)に指定されている。荒川が南西から北東に流れ河岸段丘を形成している。市の南東にそびえる武甲山では石灰石を産出し、露天掘りが行われている。 盆地であるため内陸性気候である。夏は暑く時には猛暑日になることもあるが、他の関東地方の主要都市と比べると湿度が低く、熱帯夜になることも少ないため過ごしやすい。冬は埼玉県の中でも寒さが厳しく、氷点下5°Cを下回ることもしばしばある。 隣接市町村数は15で県内最多で、埼玉県の基礎自治体(市町村)では唯一南隣の東京都と北隣の群馬県の両方に接している。山梨県、長野県との県境もある。隣接都道府県数4は全国の市区町村中最多で、岐阜県高山市および京都府南丹市と並ぶ。 なお甲州市、丹波山村、奥多摩町とを直接結ぶ車道は無いため、自動車で往来する場合は他自治体を経由する必要がある。 現在の秩父市を含む地域は元は知々夫国と呼ばれ知々夫国造に支配されていた知々夫国は无邪志国造の支配した无邪志国と合わさって、7世紀に令制国の武蔵国となった。 708年(和銅元年)に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡付近から、和銅(にぎあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した。これが朝廷に献上された事を記念して「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。 現在の市域の中心部は、古く中村郷と呼ばれ、秩父盆地の中央にあることから物資の集散地であり、秩父神社の門前町として栄えた。そのため、後には大宮郷(おおみやごう)と呼ばれるようになり、自治体名も1915年までは大宮町(おおみやまち)であった。 1884年(明治17年)に秩父事件が起こる。同事件は、負債に悩む秩父の農民たちが結成した「困民党」と呼ばれる組織を中心とした武装蜂起であり、最盛期には小鹿野や吉田、さらには郡都大宮郷(現在の秩父市)等を武力占拠した。これに対し政府は、警察と憲兵隊、最終的には東京鎮台兵まで動員し、徹底的な武力鎮圧を図った。事件後の裁判の結果、死刑7名を含む4000名余が処罰された日本史上最大規模の民衆蜂起とされる。 2003年2月に、「秩父はひとつ」をスローガンとして、秩父市と東秩父村を除く秩父郡(小鹿野町、横瀬町、長瀞町、皆野町、吉田町、荒川村、両神村、大滝村)の9市町村で合併検討準備会を設置した。その後、皆野町と長瀞町が準備会から離脱し、残りの7市町村で任意合併協議会後に法定協議会を発足させた。2004年3月に小鹿野町、横瀬町、荒川村で住民投票を実施し、荒川村では合併に賛成多数だったが、小鹿野町では「両神村との合併」が多数、横瀬町では「合併に反対」が多数となった。なお、前市長の久喜邦康は一連の合併の中で、小鹿野町議を中心とした秩父市との合併に反対する運動を支持していた。 こうして小鹿野町、両神村、横瀬町も合併協議から離脱。秩父市、吉田町、荒川村、大滝村の4市町村で2005年4月に現在の秩父市が誕生することになった。なお小鹿野町は両神村と2005年10月に合併した。一方で旧吉田町に関しては、「小鹿野や両神のような『小規模な』町村との合併よりも、秩父市のような規模の大きい市との合併が望まれる」と判断し、旧秩父市との合併を希望した。 その後、皆野町では2006年4月の町長選挙で秩父市との合併に前向きな石木戸道也が町長に当選し、2008年6月19日に秩父市の栗原稔市長を訪れて、秩父市との合併を申し入れた。栗原市長も「秩父はひとつ」との考えに変化はないことから、これを受け入れ、2009年度中に法定協議会が設置される見通しになっていたが、後に破談している。 秩父市立 秩父市立 影森中学校で卒業式に唄われた「旅立ちの日に」が、全国的に歌われている。 市役所の最寄り駅は御花畑駅であるが、『JTB時刻表』では秩父駅が中心駅となっている。 タクシーの営業区域は秩父交通圏で、横瀬町、皆野町、長瀞町、小鹿野町と同じエリアとなっている。 市指定文化財については秩父市指定文化財一覧を参照。 長井龍雪監督によるテレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)、アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』(2015年)、『空の青さを知る人よ』(2019年)の3作品は「秩父三部作」と称される。 特筆ない場合は出身者を表す。
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秩父市(ちちぶし)は、埼玉県の南西部に位置する市。 人口は約6万人で、秩父地方の中心をなす。面積は約578km2で、埼玉県内では最も広い市町村でもある。
{{日本の市 | 画像 = {{Multiple image | border = infobox | total_width = 290 | image_style = border:1; | perrow = 1/2/2 | image1 = Chichibu Yomatsuri.jpg | image2 = Chichibu-jinja haiden.jpeg | image3 = 三峰神社 拝殿.JPG | image4 = Hitsujiyama-park Phlox subulata 2005.jpg | image5 = Tabidachinooka.JPG | image6 = Chichibu Titibubasi 1.jpg | image7 = Chichibu ryusei Fes 1.jpg }} |画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto;border-collapse:collapse"> <tr><td colspan="2">[[秩父夜祭]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[秩父神社]]<td>[[三峯神社]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[羊山公園]]の[[芝桜]]<td>[[秩父ミューズパーク#旅立ちの丘|旅立ちの丘]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[秩父橋]]<td>[[秩父吉田の龍勢]]</tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Chichibu, Saitama.svg|border|100px|秩父市旗]] | 市旗の説明 = 秩父[[市町村旗|市旗]]<br />[[2005年]][[4月1日]]制定 | 市章 = [[ファイル:Emblem_of_Chichibu,_Saitama.svg|70px|秩父市章]] | 市章の説明 = 秩父[[市町村章|市章]]<br />2005年4月1日制定 | 自治体名 = 秩父市 | 都道府県 = 埼玉県 | コード = 11207-1 | 隣接自治体 = [[飯能市]]、[[比企郡]][[ときがわ町]]、[[児玉郡]][[神川町]]、[[秩父郡]][[小鹿野町]]、[[皆野町]]、[[横瀬町]]、[[東秩父村]]<br />[[東京都]]:[[西多摩郡]][[奥多摩町]]<br />[[山梨県]]:[[甲州市]]、[[山梨市]]、[[北都留郡]][[丹波山村]]<br />[[長野県]]:[[南佐久郡]][[川上村 (長野県)|川上村]]<br />[[群馬県]]:[[藤岡市]]、[[多野郡]][[神流町]]、[[上野村]] | 木 = [[カエデ]] | 花 = [[シバザクラ]] | シンボル名 = 市の鳥 | 鳥など = [[オオルリ]] | 郵便番号 = 368-8686 | 所在地 = 秩父市熊木町8番15号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-11|display=inline,title}}<br />[[File:Chichibu City Hall (Main Government building)・The Prince Chichibu Memorial Civic Center 1.jpg|250px]] | 市長 = [[北堀篤]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|11|207|image=Chichibu in Saitama Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}}{{Maplink2|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=220|zoom=10|type=line|stroke-width=2|frame-latitude=36.02|frame-longitude=139.1}} | 特記事項 = |}} '''秩父市'''(ちちぶし)は、[[埼玉県]]の南西部に位置する[[市]]。 [[人口]]は約6万人で、[[秩父地方]]の中心をなす。面積は約578[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]で、埼玉県内では最も広い[[市町村]]でもある。 == 地理 == [[秩父山地]]に囲まれた[[秩父盆地]]の中央部に、市の中心[[市街地]]が位置している。秩父地方では唯一の市で、市域のほとんどが[[秩父多摩甲斐国立公園]]や、埼玉県立の自然公園(武甲、西秩父)に指定されている。[[荒川 (関東)|荒川]]が南西から北東に流れ[[河岸段丘]]を形成している。市の南東にそびえる[[武甲山]]では[[石灰石]]を産出し、[[露天掘り]]が行われている。 <gallery widths="200" heights="140"> Central Chichibu view from Hitsujiyama Park.JPG|羊山公園より見下ろす秩父市 Mount Buko 20140517 - Flickr.jpg|武甲山 Chichibushi-japan.jpg|秩父市付近の[[人工衛星]]写真(2014年9月27日撮影)。写真上方が北側。市街地の南に[[武甲山]]に連なる[[石灰岩]]採掘場が見える。<br>提供:プラネット・ラボ社<!--[[ファイル:Chichibu city center area Aerial photograph.1974.jpg|thumb|300px|秩父市中心部周辺の空中写真。--> </gallery> === 気候 === 盆地であるため[[内陸性気候]]である。夏は暑く時には[[猛暑日]]になることもあるが、他の[[関東地方]]の主要都市と比べると[[湿度]]が低く、[[熱帯夜]]になることも少ないため過ごしやすい。冬は埼玉県の中でも寒さが厳しく、[[氷点下]]5[[℃]]を下回ることもしばしばある。 {{Chichibu weatherbox}} === 隣接している自治体 === 隣接市町村数は15で県内最多で、埼玉県の[[基礎自治体]](市町村)では唯一南隣の[[東京都]]と北隣の[[群馬県]]の両方に接している。[[山梨県]]、[[長野県]]との[[県境]]もある。隣接都道府県数4は全国の市区町村中最多で、[[岐阜県]][[高山市]]および[[京都府]][[南丹市]]と並ぶ。 {{columns-list|3| ; {{Flagicon|埼玉県}}埼玉県 * [[飯能市]] * [[比企郡]][[ときがわ町]] * [[秩父郡]][[小鹿野町]]、[[東秩父村]]、[[皆野町]]、[[横瀬町]] * [[児玉郡]][[神川町]] ; {{Flagicon|群馬県}}[[群馬県]] * [[藤岡市]] * [[多野郡]][[上野村]]、[[神流町]] ; {{Flagicon|東京都}}[[東京都]] * [[西多摩郡]][[奥多摩町]] ; {{Flagicon|山梨県}}[[山梨県]] * [[甲州市]] * [[山梨市]] * [[北都留郡]][[丹波山村]] ; {{Flagicon|長野県}}[[長野県]] * [[南佐久郡]][[川上村 (長野県)|川上村]] }} なお甲州市、丹波山村、奥多摩町とを直接結ぶ車道は無いため、自動車で往来する場合は他自治体を経由する必要がある。 == 歴史 == 現在の秩父市を含む地域は元は'''[[知々夫国]]'''と呼ばれ[[知々夫国造]]に支配されていた知々夫国は[[无邪志国造]]の支配した[[无邪志国]]と合わさって、[[7世紀]]に[[令制国]]の[[武蔵国]]となった。 [[708年]]([[和銅]]元年)に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある[[和銅遺跡]]付近から、和銅(にぎあかがね、純度が高く精錬を必要としない[[自然銅]])が産出した。これが[[朝廷 (日本)|朝廷]]に献上された事を記念して「[[和銅]]」に[[改元]]するとともに、[[和同開珎]]が作られたとされる。 現在の市域の中心部は、古く中村郷と呼ばれ、秩父盆地の中央にあることから物資の集散地であり、[[秩父神社]]の[[門前町]]として栄えた。そのため、後には'''大宮郷'''(おおみやごう)と呼ばれるようになり、自治体名も[[1915年]]までは'''大宮町'''(おおみやまち)であった。 [[1884年]]([[明治]]17年)に[[秩父事件]]が起こる。同事件は、負債に悩む秩父の[[農民]]たちが結成した「[[困民党]]」と呼ばれる組織を中心とした武装蜂起であり、最盛期には小鹿野や[[吉田町 (埼玉県)|吉田]]、さらには[[郡制|郡都]]大宮郷(現在の秩父市)等を武力占拠した。これに対し[[政府]]は、[[警察]]と[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]、最終的には[[東京鎮台]]兵まで動員し、徹底的な武力鎮圧を図った。事件後の[[裁判]]の結果、[[死刑]]7名を含む4000名余が[[処罰]]された日本史上最大規模の民衆蜂起とされる。 * [[1871年]](明治4年) - [[入間県]]に所属<ref name="kadokawa1072">[[#chimeiDic|『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』]]1072-1077頁。</ref>。 * [[1872年]](明治5年) - [[大区小区制]]施行により、第10大区1・2・3・5・6小区、第11大区3・6小区に所属<ref name="kadokawa1072" />。 * [[1873年]](明治6年) - [[熊谷県]]に所属する<ref name="kadokawa1072" />。 * 1873年(明治6年) - 大宮学校(秩父第一)、郷平学校(太田)、浦山小学校が開校。 * [[1874年]](明治7年) - 久那学校が開校。 * [[1875年]](明治8年) - 影森学校が開校。 * [[1876年]](明治9年) - 埼玉県に所属<ref name="kadokawa1072" />。 * [[1878年]](明治11年) - 市街地にて[[火災|大火]]が起こり44軒が焼失。 * [[1879年]](明治12年) - [[郡区町村編制法]]施行に伴い、秩父郡に所属<ref name="kadokawa1072" />。 * [[1884年]](明治17年) - 大宮学校の[[校舎]](現:秩父市立民俗博物館)が竣工。 * [[1885年]](明治18年) - 知新学校([[尾田蒔村|尾田蒔]])、旭小学校([[原谷村 (埼玉県)|原谷]])、高篠小学校が開校。 * [[1886年]](明治19年) - 秩父新道([[本庄市|本庄]] - 大宮郷間)が開通<ref name="chichibuteijyuu">{{PDFlink|[http://www.city.chichibu.lg.jp/secure/7783/vision-third.pdf ちちぶ定住自立圏共生ビジョン 平成24年3月23日(三訂版)]}}2p - 秩父市ホームページ</ref>。 * [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]施行に伴い、[[秩父郡]]大宮郷・別所村が合併し、大宮町となる。 * [[1892年]](明治25年) - [[郵便局]]にて[[電信]]の取り扱いが始まる。 * [[1895年]](明治28年) - [[熊谷市|熊谷]] - 大宮町新道(現:[[国道140号]])が開通。 * [[1911年]](明治44年) - [[電話]]が引かれる。 * [[1914年]]([[大正]]3年) - [[秩父鉄道秩父本線|秩父鉄道]]が[[秩父駅]]まで開通する。 * [[1916年]](大正5年)[[1月1日]] - 大宮町が町名を変更し、'''秩父町'''となる<ref name="kadokawa1425">[[#chimeiDic|『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』]]1425頁</ref>。これは、秩父郡の中心にあることのほか、[[1914年]]に開業した秩父鉄道の駅が郡名を採って「秩父駅」となったことや、同県内の[[北足立郡]][[大宮町 (埼玉県)|大宮町]](現:[[さいたま市]])との混同を避けるためといったことが理由として考えられている。 * [[1922年]](大正11年) - [[電燈]]が点く。[[汽車]]が[[電車]]となる。 * [[1923年]](大正12年) - [[秩父セメント]]工場が開設される。 * [[1924年]](大正13年) - 市街地に[[水道]]が敷かれる。 * [[1930年]]([[昭和]]5年) ** 秩父鉄道が[[三峰口駅]]まで延伸。 ** [[ラジオ放送]]が開始される。 * [[1935年]](昭和10年) - 大宮小学校花の木分教場(花の木小学校)が開校。 * [[1947年]](昭和22年) - [[小学校]]及び[[中学校]]が[[学制改革|新制となる]]。 * [[1950年]](昭和25年)4月1日 - [[市制]]施行により'''秩父市'''となる<ref name="kadokawa1072" /><ref name="kadokawa1425" />。 * [[1954年]](昭和29年) ** [[5月3日]] - 秩父郡[[尾田蒔村]]・[[原谷村 (埼玉県)|原谷村]]を編入<ref name="kadokawa1425" />。 ** 11月3日 - 秩父郡[[久那村]]を編入<ref name="kadokawa1425" />。 * [[1955年]](昭和30年) - 南小学校が開校。 * [[1957年]](昭和32年)5月3日 - 秩父郡[[高篠村 (埼玉県)|高篠村]]・[[大田村 (埼玉県秩父郡)|大田村]]を編入<ref name="kadokawa1425" />。 * [[1958年]](昭和33年) ** [[5月31日]] - 秩父郡[[影森町]]を編入<ref name="kadokawa1425" />。 ** 秩父県道が国道140号線となる。 * [[1959年]](昭和34年) ** 月日不詳 - [[消防署]]が設置される。 ** 6月20日 - 豪雨により田沢工業の鉱業所から農業用[[石灰]]が溶融して[[荒川 (関東)|荒川]]へ流出。[[アユ]]など11万尾が死ぬ被害<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=136 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1962年]](昭和37年) - 新しい[[市庁舎]]が竣工。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[有線放送]]開始。 ** 西小学校が開校。 * [[1967年]](昭和42年) ** 秩父宮記念市民会館が開設される。 ** [[第22回国民体育大会|埼玉国体]]が開催され、秩父会場では[[柔道]]・[[弓道]]・[[山岳]]が開催される。 * [[1968年]](昭和43年) - 民俗博物館が開館。 * [[1969年]](昭和44年) - [[西武鉄道]]が秩父市内まで延伸し([[西武秩父線]])、[[特急]]「[[レッドアロー]]」が運行開始。 * [[1970年]](昭和45年) - 小鹿野県道が[[国道299号]]となる。 * [[1971年]](昭和46年) - [[秩父広域市町村圏組合]]が設置される。 * [[1972年]](昭和47年) - 環境衛生センター、[[秩父市公設地方卸売市場]]が開設される。 * [[1973年]](昭和48年) - 市民プールが開設される。 * [[1975年]](昭和50年) ** 高篠山に野外活動センターが開設される。 ** 川俣小学校が開校する。 * [[1978年]](昭和53年) - 市民体育館が開設される。 * [[1979年]](昭和54年) - 武甲山資料館が開設される。 * [[1980年]](昭和55年) - 中央下水処理場が開設される。 * [[1981年]](昭和56年) ** 市立病院が開院する。 ** クリーンセンターが開設される。 * [[1984年]](昭和59年) - まつり会館が開館する。 * [[1985年]](昭和60年) ** 地場産センターが開設される。 ** 新秩父橋が開通する。 * [[1986年]](昭和61年) - [[秩父市立図書館]]が開館する。 * [[1988年]](昭和63年) - 秩父鉄道の[[急行列車]]「[[SLパレオエクスプレス]]」運行開始。 * [[1989年]]([[平成]]元年) ** 西武鉄道が秩父鉄道への[[直通運転]]を開始。 ** グリーンセンター秩父(文化体育センター)開設。 * [[1990年]](平成2年) - 環境衛生センター改築。 * [[1991年]](平成3年) - [[秩父ミューズパーク]]開園。 * [[1994年]](平成6年) - 秩父公園橋、新しい佐久良橋が開通。 * [[1997年]](平成9年) - クリーンセンター改装。 * [[1998年]](平成10年)[[4月23日]] - 国道140号[[雁坂トンネル有料道路|雁坂トンネル]]開通。埼玉県と山梨県が初めて車道で結ばれる。 * [[1999年]](平成11年) ** [[3月15日]] - [[防災行政無線]]運用開始。 ** [[浦山ダム]]竣工。 * [[2001年]](平成13年) ** 消防署が改築される。 ** [[道の駅ちちぶ]]開設。 * [[2003年]](平成15年)3月 - 秩父市歴史文化伝承館竣工。 * [[2004年]](平成16年)1月1日 - 防災行政無線の夕方のチャイム『[[夕焼け小焼け]]』(旧音源)放送開始。 * [[2005年]](平成17年)4月1日 - (旧)秩父市、秩父郡[[吉田町 (埼玉県)|吉田町]]・[[荒川村 (埼玉県)|荒川村]]・[[大滝村 (埼玉県)|大滝村]]と新設合併を行い、新たに'''秩父市'''となる。 * [[2008年]](平成20年) - [[滝沢ダム]]竣工。 * [[2011年]](平成23年)[[3月11日]] - [[東日本大震災]]により、市役所本庁舎と[[秩父宮記念市民会館]]が被害を受け、使用不能になる。 * [[2016年]](平成28年) - [[秩父夜祭]]が[[無形文化遺産|ユネスコ無形文化遺産]]に登録される。 * [[2017年]](平成29年) - 市役所本庁舎と秩父宮記念市民会館が改築竣工<ref>{{Cite news|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201703/CK2017032702000185.html|title=秩父宮記念市民会館と秩父市役所本庁舎 開館を1000人が祝う |newspaper=[[東京新聞]]|date=2017-03-27|accessdate=2017-08-11}}</ref>。 == 行政 == === 歴代首長 === {| class="wikitable" |- !代(旧町)!!氏名!!就任!!退任 |- |初||近藤善吉||1889年5月||1889年12月 |- |2||伊古田豊三郎||1890年1月||1894年1月 |- |3||新井市三郎||1894年1月||1896年1月 |- |4||伊古田豊三郎||1896年1月||1899年7月 |- |5||新井市三郎||1899年7月||1911年6月 |- |6||伊古田豊三郎||1911年8月||1929年6月 |- |7||浅見宇市||1929年6月||1937年12月 |- |8||松本由太郎||1937年12月||1942年7月 |- |9||浅見宇市||1942年8月||1946年7月 |- |10||井上市太郎||1946年7月||1947年3月 |- |11||諸武三郎||1947年4月||1950年3月31日 |- !代(旧市)!!氏名!!就任!!退任 |- |初||諸武三郎||1950年4月1日||1951年4月 |- |2||高野利兵衛||1951年5月1日||1959年4月30日 |- |3||久喜文重郎||1959年5月1日||1975年4月30日 |- |4||[[加藤博康]]||1975年5月1日||1987年4月30日 |- |5||[[内田全一]]||1987年5月1日||2003年4月30日 |- |6||[[栗原稔]]||2003年5月1日||2005年3月31日 |- !代(新市)!!氏名!!就任年月日!!退任年月日 |- |初||栗原稔||2005年4月1日||2009年4月30日 |- |2||[[久喜邦康]]||2009年5月1日||2021年4月30日 |- |3||[[北堀篤]]||2021年5月1日||現職 |} === 市議会 === {{main|秩父市議会}} === 広域行政 === * [[秩父広域市町村圏組合]]:[[秩父郡]][[横瀬町]]、[[皆野町]]、[[長瀞町]]及び[[小鹿野町]]とともに消防・救急、水道事業等を共同で行っている。 == 市町村合併 == {{日本の市 (廃止) | 廃止日 = 2005年4月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''秩父市'''(旧)、[[秩父郡]][[吉田町 (埼玉県)|吉田町]]、[[荒川村 (埼玉県)|荒川村]]、[[大滝村 (埼玉県)|大滝村]] → 秩父市(新) | 現在の自治体 = 秩父市(新) | よみがな = ちちぶし | 自治体名 = 秩父市 | 画像 = | 市旗 = [[ファイル:Flag of Chichibu, Saitama.svg|border|100px|秩父市旗]] | 市旗の説明 = 秩父[[市町村旗|市旗]]<br />[[1962年]][[3月13日]]制定 | 市章 = [[ファイル:Emblem_of_Chichibu,_Saitama.svg|70px|秩父市章]] | 市章の説明 = 秩父[[市町村章|市章]]<br />[[1926年]][[4月8日]]制定 | 都道府県 = 埼玉県 | 支庁 = | コード = | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = | 人口の出典 = [[推計人口]] | 人口の時点 = | 隣接自治体 = [[飯能市]]、[[比企郡]][[ときがわ町]]、[[秩父郡]][[小鹿野町]]、[[皆野町]]、[[横瀬町]]、吉田町、[[東秩父村]]、荒川村<br />[[東京都]][[西多摩郡]][[奥多摩町]] | 木 = | 花 = | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = | 所在地 = | 外部リンク = | InternetArchive = | 緯度度 = | 緯度分 = | 緯度秒 = | 経度度 = | 経度分 = | 経度秒 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} [[2003年]]2月に、「秩父はひとつ」をスローガンとして、秩父市と[[東秩父村]]を除く[[秩父郡]]([[小鹿野町]]、[[横瀬町]]、[[長瀞町]]、[[皆野町]]、[[吉田町 (埼玉県)|吉田町]]、[[荒川村 (埼玉県)|荒川村]]、[[両神村]]、[[大滝村 (埼玉県)|大滝村]])の9市町村で合併検討準備会を設置した。その後、皆野町と長瀞町が準備会から離脱し、残りの7市町村で任意合併協議会後に法定協議会を発足させた。2004年3月に小鹿野町、横瀬町、荒川村で[[住民投票]]を実施し、荒川村では合併に賛成多数だったが、小鹿野町では「両神村との合併」が多数、横瀬町では「合併に反対」が多数となった。なお、前市長の久喜邦康は一連の合併の中で、小鹿野町議を中心とした秩父市との合併に反対する運動を支持していた。 こうして小鹿野町、両神村、横瀬町も合併協議から離脱。秩父市、吉田町、荒川村、大滝村の4市町村で2005年4月に現在の秩父市が誕生することになった。なお小鹿野町は両神村と[[2005年]]10月に合併した。一方で旧吉田町に関しては、「小鹿野や両神のような『小規模な』町村との合併よりも、秩父市のような規模の大きい市との合併が望まれる」と判断し、旧秩父市との合併を希望した。 その後、皆野町では[[2006年]]4月の町長選挙で秩父市との合併に前向きな[[石木戸道也]]が町長に当選し、[[2008年]][[6月19日]]に秩父市の[[栗原稔]]市長を訪れて、秩父市との合併を申し入れた。栗原市長も「秩父はひとつ」との考えに変化はないことから、これを受け入れ、2009年度中に法定協議会が設置される見通しになっていたが、後に破談している。 === 住所表記 === * 秩父地域 ** [[住居表示]]実施地区は現行のとおり。 *** 例:秩父市日野田町→秩父市日野田町 ** その他の区域は大字の字句を削除。 *** 例:秩父市大字大宮→秩父市大宮 * 吉田地域 ** 大字下吉田と大字上吉田は大字の字句を削除。 *** 例:秩父郡吉田町大字下吉田→秩父市下吉田 ** その他の区域は頭に吉田を付し大字の字句を削除。 *** 例:秩父郡吉田町大字久長→秩父市吉田久長 * 大滝地域 ** 大字の字句を削除。 *** 例:秩父郡大滝村大字大滝→秩父市大滝 * 荒川地域 ** 頭に荒川を付し大字の字句を削除。 *** 例:秩父郡荒川村大字日野→秩父市荒川日野 <gallery> Chicibu city hall Yoshida General Branch1.jpg|吉田総合支所(旧吉田町役場) Chichibu City Otaki General Branch.jpg|大滝総合支所 Chichibu city hall Arakawa branch 1.JPG|荒川総合支所(旧荒川村役場) History and Culture Tradition Museum Chichibu City Hall The second building.JPG|歴史文化伝承館(市の一部部署が置かれている) Former Chichibu city hall otaki branch.jpg|大滝総合支所旧庁舎(旧大滝村役場) </gallery> == 人口 == * 総人口 : 67,976人 ** 男 : 33,160人 ** 女 : 34,816人 * 世帯数 : 26,349世帯 {{人口統計|code=11207|name=秩父市|image=Population distribution of Chichibu, Saitama, Japan.svg}} == 姉妹都市・提携都市 == === 国内 === * [[東京都]][[荒川区]] *: [[1981年]][[4月25日]]姉妹都市提携 * 東京都[[豊島区]] *: [[1983年]][[10月14日]]姉妹都市提携 * [[山口県]][[山陽小野田市]](提携当時は[[小野田市]]) *: [[1996年]][[5月20日]]姉妹都市提携 === 海外 === * {{Flagicon|USA}} [[アンティオック (カリフォルニア州)|アンティオック市]]([[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]]) *: [[1967年]][[9月16日]]姉妹都市提携 * {{Flagicon|KOR}} [[江陵市]]([[大韓民国]][[江原特別自治道]]) *: [[1983年]][[2月16日]]姉妹都市提携 *::2018年10月30日、江陵市との間で「姉妹都市間の職員相互派遣に関する協定書」を締結したが、[[日韓問題|日韓関係]]が悪化していた時期であり多数の抗議を受けたため、2018年度の職員の相互派遣は中止された<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-12-07|url=https://web.archive.org/web/20181129233841/https://this.kiji.is/440202129186407521 |title= 抗議殺到…秩父市、姉妹都市の韓国・江陵市との職員相互派遣を中止に 職員の安全確保、国際情勢など配慮|publisher=埼玉新聞 |accessdate=2018-12-23}}</ref>。 * {{Flagicon|CHN}} [[臨汾市]]([[中華人民共和国]][[山西省]]) *: [[1988年]][[10月7日]]姉妹都市提携 * {{Flagicon|AUS}} [[ワリンガー|ワリンガー市]]([[オーストラリア|オーストラリア連邦]][[ニューサウスウェールズ州]]) *: [[1996年]][[4月26日]]姉妹都市提携 * {{Flagicon|THA}} [[ヤソトン|ヤソトン市]]([[タイ王国|タイ]][[ヤソトン県]]) *: [[1999年]][[5月8日]]姉妹都市提携 == 地域 == === 裁判所 === *[[さいたま地方裁判所]]秩父支部 *[[さいたま家庭裁判所]]秩父支部 *[[秩父簡易裁判所]] === 国の機関 === {{columns-list|3| *秩父[[労働基準監督署]] *秩父[[公共職業安定所]] *秩父税務署 *[[関東森林管理局]]埼玉森林管理事務所 **秩父森林事務所 **大滝森林事務所 *[[さいたま地方検察庁]]秩父支部(業務は熊谷支部内で行っている。) **秩父[[区検察庁]](業務は熊谷区検察庁内で行っている。) *[[さいたま地方法務局]]秩父支局 *[[自衛隊埼玉地方協力本部]]秩父地域事務所 *[[関東地方整備局]][[二瀬ダム]]管理所 *[[気象庁]]秩父[[特別地域気象観測所]] }} <gallery> Forestry Agency, Saitama forest management office 1.JPG|埼玉森林管理事務所 Chichibu Labor standards inspection office.JPG|秩父労働基準監督署 Saitama District Legal Affairs Chichibu Bureau bureaus.JPG|さいたま地方法務局秩父支局 </gallery> === 県の機関 === {{columns-list|2| *秩父地方庁舎 **秩父[[地域振興]]センター **秩父[[県税]]事務所 **秩父環境管理事務所 **北部教育事務所秩父支所 *農業技術研究センター秩父試験地 *秩父[[福祉事務所]] *秩父[[保健所]] *秩父農林振興センター *秩父県土整備事務所 *熊谷建築安全センター秩父駐在 *熊谷高等技術専門校秩父分校 *青少年総合野外活動センター(彩の国グリーンビレッジ ) *大滝げんきプラザ *[[彩の国ふれあいの森]] **[[埼玉県森林科学館]] * 秩父地域療育センター }} <gallery> Saitama Pref Chichibu Local Ofiice.JPG|秩父地方庁舎 Saitama Prefecture Chichibu welfare offices and Chichibu health center 1.jpg|秩父福祉事務所・秩父保健所 Chichibu Agriculture and Forestry Promotion Center.JPG|秩父農林振興センター Chichibu Land Development Office 1.JPG|秩父県土整備事務所・熊谷建築安全センター秩父駐在 Saitama Prefectural Agriculture and Forestry Research Center Chichibu test site 1.JPG|農業技術研究センター秩父試験地 </gallery> === 消防 === * [[秩父消防本部]]-([[秩父広域市町村圏組合]]が運営する[[消防本部]]) ** 秩父消防署 *** 南分署 * [[消防団|秩父市消防団]] === 警察 === * [[秩父警察署]] === その他公共機関 === <gallery style="float:right"> University of Tokyo Chichibu University Forest.JPG|東京大学秩父演習林 </gallery> *[[水資源機構]]荒川ダム総合管理所 *[[東京大学]]秩父[[演習林]] === 図書館 === * [[秩父市立図書館]] ** [[秩父市立図書館#秩父図書館|秩父市立秩父図書館]] ** [[秩父市立図書館#荒川図書館|秩父市立荒川図書館]] ** [[秩父市立図書館#吉田分館|秩父市立吉田分館]] ** [[秩父市立図書館#大滝分館|秩父市立大滝分館]] === 教育 === ==== 保育園 ==== {{columns-list|3| *日野田保育所 *秩父さくら保育園 *花の木保育所 *秩父こども園 *秩父若葉保育園 *永田保育所 *大畑こども園 *秩父かなめ保育園 *みどりのこ保育園 *原谷保育所 *くわの実保育園 *山田保育園 *影森保育所 *吉田保育所 *かみたのこども園 }} ==== 幼稚園 ==== {{columns-list|3| *秩父国際幼稚園 *秩父さくら幼稚園 *秩父緑ガ丘幼稚園 *秩父ふたば幼稚園 *かみたの幼稚園 *秩父ほうしょう幼稚園 *長瀞幼稚園 }} ==== 小学校 ==== {{columns-list|3| 秩父市立 *荒川西小学校 *荒川東小学校 *大田小学校 *尾田蒔小学校 *[[秩父市立久那小学校|久那小学校]] *[[秩父市立影森小学校|影森小学校]] *高篠小学校 *花の木小学校 *原谷小学校 *西小学校 *南小学校 *第一小学校 *吉田小学校 }} ==== 中学校 ==== {{columns-list|3| 秩父市立 *荒川中学校 *大田中学校 *尾田蒔中学校 *[[秩父市立影森中学校|影森中学校]] *高篠中学校 *秩父第一中学校 *[[秩父市立秩父第二中学校|秩父第二中学校]] *吉田中学校 }} 影森中学校で卒業式に唄われた「[[旅立ちの日に]]」が、全国的に歌われている。 ==== 高等学校 ==== * [[埼玉県立秩父高等学校]] * [[埼玉県立秩父農工科学高等学校]] ==== 専修学校 ==== * 秩父文化服装専門学校 * 秩父家政専門学校 * 秩父看護専門学校 ==== 特別支援学校 ==== * [[埼玉県立秩父特別支援学校]] * [[光の村秩父自然学園]] ==== 閉校となった学校 ==== * 小学校については「[[埼玉県小学校の廃校一覧#秩父市]]」を参照。 * 中学校については「[[埼玉県中学校の廃校一覧#秩父市]]」を参照。 * [[秩父女子高等学校]](私立) *埼玉県立秩父女子高等学校(1950年県立秩父高等学校に統合) *埼玉県立秩父農工高等学校(2005年、秩父農工高校・秩父東高校の統合により、[[埼玉県立秩父農工科学高等学校]]へ) * [[埼玉県立秩父東高等学校]](同上) === 職業訓練 === ==== 職業能力開発校 ==== * [[埼玉県立熊谷高等技術専門校秩父分校]] === 住宅団地 === {{columns-list|3| *秩父阿保住宅(阿保町) *秩父永田住宅(永田町) *秩父久那住宅(久那) *荒川上田野北住宅(荒川上田野) *荒川上田野住宅(荒川上田野) *秩父つばきの森住宅(上影森) *吉田塚越住宅(上吉田) *秩父相生住宅(相生町) *大滝強石住宅(大滝) *秩父こぶし住宅(大野原) *秩父大野原住宅(大野原) *秩父中宮地住宅(中宮地町) *秩父堀切住宅(堀切) }} == 交通 == === 鉄道 === * [[西武鉄道]] ** [[西武秩父線]] *** [[西武秩父駅]] * [[秩父鉄道]] ** [[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]] *** [[和銅黒谷駅]] - [[大野原駅]] - [[秩父駅]] - [[御花畑駅]] - [[影森駅]] - [[浦山口駅]] - [[武州中川駅]] - [[武州日野駅]] - [[白久駅]] - [[三峰口駅]] 市役所の最寄り駅は御花畑駅であるが、『[[JTB]][[時刻表]]』では秩父駅が中心駅となっている。 === 路線バス === *[[西武観光バス]] *[[秩父市営バス]] *[[小鹿野町営バス]](秩父市中心部および秩父市荒川地区と[[小鹿野町]]地区を結ぶ) === タクシー === [[タクシーの営業区域]]は'''秩父交通圏'''で、[[横瀬町]]、[[皆野町]]、[[長瀞町]]、[[小鹿野町]]と同じエリアとなっている。 === 道路 === [[ファイル:Rote140 Chichibu City2.JPG|thumb|国道140号線]] ==== 国道 ==== * [[一般国道]] ** [[国道140号]] *** [[皆野秩父バイパス]] * [[国道299号]] ==== 有料道路 ==== * [[雁坂トンネル]](国道140号線) ==== 県道 ==== * [[主要地方道]] ** [[埼玉県道11号熊谷小川秩父線]](小川県道) ** [[埼玉県道37号皆野両神荒川線]] ** [[埼玉県道43号皆野荒川線]] ** [[埼玉県道44号秩父児玉線]] ** [[群馬県道・埼玉県道71号高崎神流秩父線]] ** [[埼玉県道72号秩父荒川線]] ** [[埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線]] * [[都道府県道|一般県道]] ** [[埼玉県道208号秩父停車場秩父公園線]] ** [[埼玉県道209号小鹿野影森停車場線]] ** [[埼玉県道210号中津川三峰口停車場線]] ** [[埼玉県道270号吉田久長秩父線]] ** [[埼玉県道278号秩父多摩甲斐国立公園三峰線]] ** [[埼玉県道282号藤倉吉田線]] ** [[埼玉県道283号下小鹿野吉田線]] ** [[埼玉県道284号下日野沢東門平吉田線]] ** [[埼玉県道・群馬県道331号吉田太田部譲原線]] ===== 市道 ===== * [[秩父市道大滝幹線17号線]](旧称:'''[[中津川林道]]''') ==== 道の駅 ==== *[[道の駅あらかわ]] *[[道の駅大滝温泉]] *[[道の駅ちちぶ]] *[[道の駅龍勢会館]] == 観光 == === 名所・史跡 === * [[秩父神社]] * [[三峯神社]] * [[椋神社]] * [[聖神社 (秩父市)|聖神社]] * [[秩父三十四箇所]] - [[西国三十三所]]、[[坂東三十三箇所]]と併せて[[日本百観音]]と呼ばれる * [[橋立鍾乳洞]] * [[古秩父湾堆積層及び海棲哺乳類化石群]] - 国の[[天然記念物]] * [[ちちぶ銘仙館]] - 国の登録有形文化財([[銘仙#秩父銘仙|秩父銘仙]]は[[伝統工芸品]]の[[絹織物]])<ref>[http://www.meisenkan.com/chichibumeisen/ 秩父銘仙とは] ちちぶ銘仙館(2018年11月24日閲覧)。</ref> * [[秩父ふるさと館]] - 国の登録有形文化財 * [[栃本関所|栃本関跡]] - 国の史跡 * [[和同開珎|和同遺跡]] - 和同開珎が発掘された遺跡 * [[三十槌橋|三十槌の氷柱]]([[秩父路三大氷柱]]) * [[秩父氏館]]:県指定史跡 === 祭事 === * [[秩父夜祭]] - 毎年[[12月3日]]開催、[[ユネスコ]][[無形文化遺産]]登録、「日本三大[[山車|曳山]]祭」の一つに数えられる。 ** [[秩父まつり会館]] * [[秩父川瀬祭]] - 毎年7月19日・20日開催、小学生が[[囃子]]手・[[拍子木]]を務める。 * [[龍勢祭り]]([[椋神社]]:秩父市下吉田) ** [[道の駅龍勢会館|龍勢会館]] === 自然・公園 === [[ファイル:Misotsuchi Icicles 120215a.JPG|thumb|right|三十槌の氷柱]] * [[奥秩父山塊]] - [[秩父多摩甲斐国立公園]]、[[中津峡 (埼玉県)|中津川渓谷]]、[[二瀬ダム|秩父湖]]など * [[ジオパーク秩父]]、[[甲武信ユネスコエコパーク]] * [[雁坂峠]] - 日本三大峠 * [[雲取山]] - [[日本百名山]] * [[甲武信ヶ岳]] - 日本百名山 * [[両神山]] - 日本百名山 * [[武甲山]] - [[日本二百名山]] * [[霧藻ヶ峰]] - [[秩父宮]]ゆかりの地 * [[秩父ミューズパーク]] - 「[[旅立ちの丘]]」、コテージなど * [[羊山公園]] - 「芝桜の丘」で有名 ** [[秩父市営馬場]] * [[浦山ダム|秩父さくら湖]] * [[滝沢ダム|奥秩父もみじ湖]] * [[三十槌の氷柱]] * [[清雲寺のしだれ桜]] * [[不動滝 (秩父市)|不動滝]] * [[武甲山伏流水]] - [[平成の名水百選|名水百選]] === ダム === * [[浦山ダム]] * [[滝沢ダム]] * [[二瀬ダム]] * [[合角ダム]] === 鉄道・道路=== * [[SLパレオエクスプレス]] * [[特急]][[西武001系電車|ラビュー]]「[[ちちぶ (列車)|ちちぶ]]」 * [[秩父鉄道車両公園]] * [[三峰口駅]](秩父鉄道) - 関東の駅百選 * [[西武秩父駅]](西武鉄道) - 関東の駅百選 * [[秩父往還道]] - 日本の道100選 * [[秩父公園橋]] * [[秩父橋]] - 「[[あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。|あの花]]」で有名。 * [[雷電廿六木橋]] - 通称「ループ橋」 === 博物館・美術館 === * [[秩父市山里自然館]] * [[秩父市立大滝歴史民俗資料館]] * [[浦山歴史民俗資料館]] * 荒川歴史民俗資料館 * [[珍石館]] * [[やまとーあーとみゅーじあむ]] === 温泉・鉱泉 === * [[白久温泉]] * [[山田温泉 (埼玉県)|山田温泉]] * [[新木鉱泉]] * [[柴原温泉]] * [[和銅鉱泉]] * [[不動の湯]] === 名産 === * [[秩父銘仙]] * [[しゃくし菜]] ** [[しゃくし菜漬]] * 肉の[[味噌漬け]] * 秩父おなめ([[味噌]]) * [[こんにゃく]] <!---* [[秩父太白いも]] ---> * ちちぶ山ルビー(山梨県から導入された[[ブドウ]]の品種)<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/205791 【食卓ものがたり】ちちぶ山ルビー(埼玉県秩父市)甘さ抜群 幻のブドウ]『東京新聞』朝刊2022年10月1日(暮らし面)2022年10月3日閲覧</ref> * 武甲正宗([[武甲酒造]]、[[日本酒]]) * 秩父錦([[矢尾本店]]、日本酒) * イチローズ・モルト([[ベンチャーウイスキー]]、[[ウイスキー]]) === 郷土料理 === * [[みそポテト]] * [[ずりあげ]] * [[秩父そば]] * [[おっきりこみ]] * [[中津川いも田楽]] * [[わらじカツ]] * [[豚味噌丼]] * [[えびし]] == 文化財 == 市指定文化財については[[秩父市指定文化財一覧]]を参照。 === ユネスコ無形文化遺産 === * [[秩父夜祭|秩父祭の屋台行事と神楽]] -「[[山・鉾・屋台行事]]」 2016年12月1日登録 === 国の重要無形民俗文化財 === * [[秩父夜祭|秩父祭の屋台行事と神楽]] * [[秩父吉田の龍勢]] === 国の重要有形民俗文化財 === * [[秩父夜祭|秩父祭の屋台]] == 秩父市を舞台とする作品 == [[長井龍雪]]監督によるテレビアニメ『[[あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。]]』(2011年)、アニメ映画『[[心が叫びたがってるんだ。]]』(2015年)、『[[空の青さを知る人よ]]』(2019年)の3作品は「秩父三部作」と称される。 ; 実写映画 :* [[赤胴鈴之助#映画|赤胴鈴之助 黒雲谷の雷人]](1958年) :* [[秩父水滸伝 必殺剣]](1965年) :* [[座頭市#劇場版作品|座頭市果し状]](1968年) :* [[チー公大作戦]](2001年) :* [[草の乱]](2004年) :* [[心が叫びたがってるんだ。#実写映画|心が叫びたがってるんだ。]](2017年) : ; アニメ映画 :* [[心が叫びたがってるんだ。]](2015年) :* [[空の青さを知る人よ]](2019年) : ; テレビドラマ・特撮 :* [[思い橋]](ドラマ、1973年) :* [[ウルトラセブン]](1967年) - 第13話「V3から来た男」 :* [[ミラーマン]](1971年)- 第31話「電光石火の必殺技!」 :* [[変身忍者 嵐]](1972年)- 第16話「ロボット! 飛行タコ! 大作戦!!」 :* [[愛の戦士レインボーマン]](1972年)- 第14話「恐怖のM作戦」、第15話「殺人プロフェッショナル」 :* [[仮面ライダーV3]](1973年)- 第14話「ダブルライダー 秘密のかたみ」、第15話「ライダーV3 死の弱点!!」 :* [[ウルトラマンタロウ]](1974年)- 第49話「歌え! 怪獣ビッグマッチ」 :* [[仮面ライダースーパー1]](1980年) - 第2話「闘いの時来たり! 技は赤心小林拳」 :* [[あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。#実写ドラマ あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。|あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。]](2015年) :* [[学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで#テレビドラマ|学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで]](2018年) : ; テレビアニメ :* [[あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。]](2011年) : ; 漫画・ゲーム :* [[二ノ宮知子]]『[[GREEN〜農家のヨメになりたい〜]]』 :* [[田中圭一 (漫画家)|田中圭一]]『[[ドクター秩父山]]』 :* [[SIREN (ゲームソフト)|SIREN]](ゲーム、2003年) == 本社がある企業 == *[[キヤノン電子]] - 2000年代後半に本社機能を東京本社に移転し、実態上の本社ではなく[[登記]]上の本店となっている。 *[[矢尾百貨店]](上町1丁目) - 秩父市唯一の[[百貨店]] *[[グラファイトデザイン]](太田) - [[ゴルフクラブ]]シャフト・サイクルパーツのメーカー。[[松山英樹]]選手が優勝したマスターズで使用。 *[[秩父太平洋セメント]](大野原) == 出身者・ゆかりのある人物 == 特筆ない場合は出身者を表す。 <!---五十音順 ---> * [[アキラ100%]](お笑い芸人) * [[肥土貴美男]]([[日本放送協会|NHK]]アナウンサー) * [[新井邦二郎]](筑波大学名誉教授) * [[荒舩美栄]](タレント・アナウンサー) * [[伊古田純道]](日本初の帝王切開を行った医師) * [[井上宇市]](建築設備学者) * [[井上純一 (スピードスケート選手)|井上純一]](アルベールビル[[近代オリンピック|五輪]] [[スピードスケート]]男子500m銅メダル)秩父市合併前の[[荒川村 (埼玉県)|荒川村]]出身 * [[井上敏樹 (競馬)|井上敏樹]]([[中央競馬]][[騎手]]) * [[岡田麿里]]([[脚本家]]) * [[小澤章人]]([[サッカー選手]]) * [[柿堺香]]([[尺八]]奏者) * [[加藤峻二]](元[[競艇選手]]。73歳4カ月弱まで現役を続け、現役最年長記録を樹立) * [[金澤まい]]([[声優]]) * [[神山健治]]([[アニメーション]][[監督]]) * [[川柳川柳]]([[落語家]])秩父郡[[横瀬町]]出身 * [[冠二郎]](演歌歌手) * [[久保田未夢]](声優) * [[黒沢翔太]](元[[プロ野球選手]]・[[千葉ロッテマリーンズ]]) * [[黒沢ともよ]](声優・[[俳優|女優]]・[[歌手]]・元[[子役]]) * [[齋藤武市]]([[映画監督]]) * [[斎藤たま]]([[民俗学]]研究者、山形県出身だが浦山に28年居住後、秩父市内で死去) * [[桜井賢]]([[THE ALFEE]]メンバー)秩父市合併前の[[荒川村 (埼玉県)|荒川村]]出身 * [[ざしきわらし (お笑いコンビ)#メンバー|Sasuke]](元[[芸人]]・[[YouTuber]]グループ「'''プリッとChannel'''」のメンバー) * [[澤畑恵美]]([[声楽家]]) * [[椹木野衣]]([[美術評論家]])[[多摩美術大学]][[准教授]] * [[関根要太郎]](建築家) * [[薗田稔]]([[宗教]]学者・[[京都大学]][[名誉教授]]・秩父神社[[宮司]]) * [[高野佐三郎]](明治 - 昭和前期の[[剣道]]家。[[昭和の剣聖]]の一人) * [[田上明]]([[プロレスラー]]・元[[力士]]) * [[田島泰彦]](メディア法の研究者) * [[塚越さくら]]([[自転車競技]]) * [[月澄江]](女優) * [[中島安里紗]]([[プロレスラー]]) * [[二ノ宮知子]]([[漫画家]])秩父郡[[皆野町]]出身 * [[ハシケン]] (ミュージシャン) * [[橋立孝一郎]]([[キデイランド]]創業者。東京出身。秩父在住当時に地元女性と結婚、発祥となる書店を開く) * 橋本稜([[お笑い芸人]]・[[スクールゾーン (お笑いコンビ)|スクールゾーン]]メンバー) * [[畑時能]]([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]・[[南朝 (日本)|南朝]]方の武将、[[新田四天王]]の一人) * [[林家たい平]]([[落語家]]) * [[比古地朔弥]](漫画家) * [[平井一嘉]]([[彫刻家]]) * [[深見梨加]](声優) * [[福島圭音]](プロ野球選手・[[阪神タイガース]]) * [[藤原竜也]]([[俳優]]) * [[山田醇]]([[建築家]]) * [[山中竹春]]([[横浜市長]]) * [[与沢翼]]([[実業家]]) * [[吉田一休]]([[ドミンゴス (バンド)|ドミンゴス]]) * [[若秩父髙明]](元[[力士]]・常盤山親方) == 秩父市観光大使 == *[[アキラ100%]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171227-00010005-saitama-l11|title=アキラ100%さん、秩父市の観光大使に 魅力発信へ|publisher=[[埼玉新聞]]|date=2017-12-27|accessdate=2017-12-28}}</ref> *[[クララ・ボダン]] *[[冠二郎]] *[[桜井賢]] *[[林家たい平]] *[[藤原竜也]] ==マスコットキャラクター == * りゅうごん - 旧吉田町のキャラクター。[[石ノ森章太郎]]デザイン。 * ポテくまくん - イメージキャラクター<ref>[http://www.city.chichibu.lg.jp/5720.html 秩父市新イメージキャラクター、その名も「ポテくまくん」!] - 秩父市、2015年3月10日閲覧。</ref> ** 秩父原人チプー == その他 == * 「[[旅立ちの日に]]」 - 秩父市で生まれた卒業ソング。 * [[秩父鉱山]] - 大滝地域に存在。社宅は[[ゴーストタウン]]となっているが、鉱山自体は現在も採掘されている。 * うららぴあ([[浦山ダム]]隣接施設) * 秩父宮記念市民会館 * [[秩父宮ラグビー場]]は、当市ではなく[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]にある[[神宮外苑]]の一角に所在する。同施設の名称は[[秩父宮雍仁親王]]に因んでおり、当市とは無関係である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author =「角川日本地名大辞典」編纂委員会 |year = 1980-07-08 |title =[[角川日本地名大辞典]] 11 埼玉県 |publisher =角川書店 |isbn =4040011104 |ref=chimeiDic }} == 関連項目 == * [[秩父郡]] 同一名称の市区町村一覧 == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website}} * [http://www.chichibuji.gr.jp/ 秩父観光協会] * {{Googlemap|秩父市}} * {{WAP|pid=238446|url=www.chichibu-4gappei.com/index.html|title=秩父合併協議会|date=2005/03/07}} {{埼玉県の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ちちふし}} [[Category:埼玉県の市町村]] [[Category:秩父郡]]<!--大宮町・秩父町のカテゴリ--> [[Category:秩父市|*]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:2005年設置の日本の市町村]]
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阪堺電気軌道上町線
上町線(うえまちせん)は、大阪府大阪市阿倍野区の天王寺駅前停留場から同市住吉区の住吉停留場までを結ぶ阪堺電気軌道の路線である。 2016年1月31日改正のダイヤでは、昼間時は天王寺駅前 - 阪堺線浜寺駅前間の系統と天王寺駅前 - 阪堺線我孫子道間の系統を交互にそれぞれ12分間隔で運転している(いずれも住吉から阪堺線に乗り入れ。天王寺駅前 - 住吉間では両系統あわせて6分間隔、住吉 - 我孫子道間では阪堺線恵美須町 - 我孫子道の系統と合わせて3分または6分間隔)。 2014年3月1日のダイヤ改正までは天王寺駅前 - 住吉公園間の系統と、天王寺駅前 - 阪堺線浜寺駅前間の系統が交互にそれぞれ昼間は12分間隔(天王寺駅前 - 住吉間では両系統あわせて6分間隔)で運行されていた。天王寺駅前 - 住吉公園間の系統はこの改正で朝7・8時台のみの運転となり、2016年1月31日に廃止された。 2009年7月4日のダイヤ改正までは、天王寺駅前 - 住吉公園間の系統と、天王寺駅前 - 阪堺線我孫子道間の系統が交互にそれぞれ昼間12分間隔(天王寺駅前 - 住吉間では両系統あわせて6分間隔)で運行されていた。また、過去には早朝に出庫と上町線への送り込みを兼ねて、我孫子道発住吉行きが運転されていたことがあった。 上町線は馬車鉄道が始まりである。当初は天王寺と天下茶屋遊園への旅客輸送を目的として計画されたが、後に四天王寺と住吉大社への参詣客輸送に変更、1900年に大阪馬車鉄道が天王寺村字長者ヶ崎(後の天王寺駅前) - 天下茶屋(後の東天下茶屋)間を開業させた。1902年に天下茶屋から下住吉まで延長した。馬車鉄道は開業から僅か1か月後に開業した南海鉄道天王寺支線と競合することとなり、赤字経営が続いたため、馬車鉄道を廃止して電車化を進めることになった。社名を大阪馬車鉄道から大阪電車鉄道に改称、さらに浪速電車軌道と改称し電化改軌工事に着手したものの工事中半で南海鉄道と合併、南海が工事を引継ぎ1910年に電化して電車の運転を開始した。 大阪市では市営モンロー主義を打ち出し、市内中心部の交通は公営で行う方針をとっていたが、資金不足で着手できない大阪市電路線の建設資金を提供してもらうことで、市電への乗り入れを認めていた。これにより浪速電車軌道は大阪市と軌道共用契約を結び、合併後、この契約は南海鉄道に引き継がれ1911年から大阪市電への直通運転を始めた。翌年市電の運賃制度が変更され契約継続に困難が生じたため、直通運転は廃止された。なお、大阪市は軌道共用契約を南海以外の私鉄とも結んでいたが、実施されたのは南海上町連絡線だけである。1921年には天王寺西門前 - 天王寺駅前間が大阪市に譲渡され、大阪市電の路線網に組み込まれた。 その後、近畿日本鉄道、南海電気鉄道を経て1980年に阪堺線とともに阪堺電気軌道として分離された。 2016年1月31日、末端部分の住吉 - 住吉公園間が、当該区間の軌道・ポイントが老朽化しその改修に数億円を要するとの理由で廃止された。現存する旧・住吉公園駅舎を除き、廃線跡は駐車場となっているが、この区間には南海本線から阪堺線・上町線への送電線が残されているため旧軌道敷の駐車場内には鉄道仕様の架線支柱が建てられている。 戦後、高度成長期を迎え、モータリーゼーションの波が押し寄せ、交通渋滞が激しくなったあべの筋を走る南海電気鉄道上町線の併用軌道区間である天王寺駅前 - 松虫間を地下化する計画があった。このことは、南海電鉄の社内報『南海'71』にも将来計画として書かれているが、結局、実現には至らなかった。 また、1971年(昭和46年)12月8日の「都市交通審議会答申13号」において、当時、天王寺駅までの路線であった大阪市営地下鉄谷町線を人口増加が著しい平野方面へ延伸するよう答申された際、当初、南海上町線の天王寺駅前 - 松虫間を廃止して、この区間を地下鉄に置き換え、地下鉄谷町線を天王寺から播磨町まであべの筋(大阪府道30号大阪和泉泉南線)を南下させ、播磨町から南港通(大阪府道5号大阪港八尾線)を東へ進み、平野方面へ延伸する路線案が提示されたが、帝塚山・北畠の沿線住民から南海上町線の天王寺駅前 - 松虫間を廃止することに反対の声が上がったため、この計画案は白紙撤回となり、答申には盛り込まれず、当時、南海平野線の飛田 - 西平野間と並行する形で阪神高速道路公団が計画していた松原線の建設計画と一体化させる形で、天王寺から阿倍野まで「あべの筋」を南下して、阿倍野から阪神高速松原線(南海平野線が走っていた軌道用地は、南海電気鉄道が10年間の賃貸借契約を付帯条件に阪神高速道路公団に売却)の地下を通る現在の路線に変更された。 天王寺駅前の地下通路は地下線化の先行工事として造られた。 廃止・譲渡区間の停留場は#廃止・譲渡区間を参照。 事業者名は廃止時点のもの。 「ベーツ式」鉄柱を用いた架線柱が北畠 - 東天下茶屋間に11組、東天下茶屋の松虫側に1組、神ノ木 - 住吉間に1組残っていたが、2018年の台風21号により、北畠 - 東天下茶屋間の1本が破損したために1組が取り換えられたので、北畠 - 東天下茶屋間に残っているのは10組となっている。
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上町線(うえまちせん)は、大阪府大阪市阿倍野区の天王寺駅前停留場から同市住吉区の住吉停留場までを結ぶ阪堺電気軌道の路線である。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[File:Nankai group logo.svg|24px|link=阪堺電気軌道]] 上町線 |路線色 = orange |画像 = Hankai Tramway ja02.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = 北畠停留場付近の併用軌道を走る[[阪堺電気軌道601形電車|モ603号]] |種類 = [[軌道法|軌道]]([[路面電車]]) |国 = {{JPN}} |所在地 = [[大阪府]] |起点 = [[天王寺駅|天王寺駅前停留場]] |終点 = [[住吉停留場 (大阪府)|住吉停留場]] |路線記号 = [[ファイル:Number prefix Hankai Tramway line.png|20px|HN]] HN |停留場数 = 10停留場 |開業 = [[1900年]][[9月20日]] |全通 = [[1913年]][[7月2日]] |廃止 = |所有者 = <!--大阪馬車鉄道→大阪電車鉄道→浪速電車軌道→南海鉄道→[[近畿日本鉄道]]→(上町線保有時は現ロゴマーク未制定)[[南海電気鉄道]]→ -->[[阪堺電気軌道]] |運営者 = 阪堺電気軌道 |車両基地 = [[大和川検車区]] |使用車両 = [[阪堺電気軌道#車両]]を参照 |路線距離 = 4.3 [[キロメートル|km]]<ref name="hankai20200108">{{PDFlink|[https://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2020/01/0ebe9b2e6def39e75783c1dd2a588f3f.pdf 阪堺線 恵美須町停留場が2月1日(土)に新駅舎へ移設します。]}} - 阪堺電気軌道、2020年1月8日</ref> |軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]]) |線路数 = [[複線]] |電化方式 = [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式 = |保安装置 = |最高速度 = 40 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図 = Hankai4.png }} '''上町線'''(うえまちせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[阿倍野区]]の[[天王寺駅|天王寺駅前停留場]]から同市[[住吉区]]の[[住吉停留場 (大阪府)|住吉停留場]]までを結ぶ[[阪堺電気軌道]]の路線である。 == 路線データ == * 管轄:我孫子道運輸区・住吉公園運輸区 * 路線距離([[営業キロ]]):4.3km<ref name="hankai20200108" /> * [[軌間]]:1435mm * 停留場数:10(起終点含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線電化(直流600V) * 最高速度:北畠 - 帝塚山4丁目間30km/h(道路側の制限のため)、他区間40km/h * 車両基地:[[大和川検車区]](我孫子道車庫) [[ファイル:Hankai Tramway ja01.jpg|thumb|none|併用軌道(北畠停留場付近)]] == 運行形態 == <!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします --> {{BS-map |title=停留場・施設・接続路線 |title-bg=orange |title-color=white |collapse=yes |top=[[大阪市電]]との接続は省略 |map= {{BS|uexKBHFa|0.9|''[[天王寺駅 (南海鉄道)|天王寺駅]]''||}} {{BS|uexSTR||| (天王寺西門前)-1921|}} {{BS|uexBHF|0.7|''茶臼山停留場''|-1921|}} {{BS5|||O2=HUBrg-L|uexBHF|O3=HUB-Rq||O4=HUB-Rq||O5=HUBlg-R||''公園東門停留場''||}}<!-- 今尾 (2009) では天王寺駅前 (1) と同所 --> {{BS5|||O2=HUB-L|uexBHF|||O5=HUB-R|0.2|''天王寺駅前停留場 (I)''||}} {{BS5|||O2=HUBlf-L|uexSTR|O3=HUBlg-L|||O5=HUB-R||| (天王寺東門前)<ref group="*" Name="tennnojistn">[[#imao|今尾 (2009)]] によれば<br>1939-1940年の間に現在地に移設</ref>|}} {{BS5|||uexSTR|O3=HUB-L||STR+1|O5=HUB-R|||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]]|}} {{BS5|||uexSTR|O3=HUB-L||STR|O5=HUB-R|||JR西:[[関西本線]]({{JR西路線記号|K|Q}} [[大和路線]])|}} {{BS5||STRq|uxmKRZo|O3=HUB-L|BHFq|O4=HUBa|ABZqr+r|O5=HUB-R|||[[天王寺駅]] {{rint|osaka|m}} {{rint|osaka|t}}|}} {{BS5|||uexSTR|O3=HUB-L||O4=HUB|STR2|O5=HUB-R|||JR西:{{JR西路線記号|K|R}} [[阪和線]]|}} {{BS5||exSTRq|uexmKRZo|O3=HUB-L|exKBHFeq|O4=HUB||O5=HUB-R|||[[南海電気鉄道|南海]]:''[[南海天王寺支線|天王寺支線]]''|}} {{BS5|||uexSTR|O3=HUB-L|KBHFaq|O4=HUB|STRq|O5=HUB-R|||[[大阪阿部野橋駅]]|}} {{BS5|||uexSTR|O3=HUBlf-L|HUB-Lq|O4=HUB||O5=HUBrf-R|||[[近畿日本鉄道|近鉄]]:[[近鉄南大阪線|{{近鉄駅番号|F}} 南大阪線]]|}} {{BS3||uKBHFxa|O2=HUBaq||O3=HUBrf|0.0|HN01 [[天王寺駅|天王寺駅前停留場]]|(2) <ref group="*" Name="tennnojistn" />|}} {{BS|ueBHF|0.2|''[[常盤通駅|常盤通停留場]]''|-1940年代|}} {{BS|uBHF|0.5|HN02 [[阿倍野駅|阿倍野停留場]] {{rint|osaka|t}} ||}} {{BS3||uexSTRl|O2=ueKRZ|uexSTRq|||南海:''[[南海平野線|平野線]]''|}} {{BS3||uSKRZ-Au|RAq|||[[阪神高速14号松原線]]|}} {{BS|ueBHF|0.9|''[[中道駅|中道停留場]]''|-1944?|}} {{BS|BHF|1.2|HN03 [[松虫停留場]]||}} {{BS|BHF|1.5|HN04 [[東天下茶屋停留場]]||}} {{BS|uBHF|2.2|HN05 [[北畠停留場]]||}} {{BS|uBHF|2.6|HN06 [[姫松停留場]]||}} {{BS|uBHF|3.1|HN07 [[帝塚山三丁目停留場]]||}} {{BS|BHF|3.4|HN08 [[帝塚山四丁目停留場]]||}} {{BS|STR|||南海:{{rint|osaka|ko}} [[南海高野線|高野線]]|}} {{BS3||KRZo|BHFq|O3=HUBa|||[[住吉東駅]]|}} {{BS3||BHF|O2=HUBaq||O3=HUBrf|3.7|HN09 [[神ノ木停留場]]||}} {{BS3||O1=HUBrg-R|BHF(L)f|O2=HUB-Lq||O3=HUBlg-L|4.3|HN10 [[住吉停留場 (大阪府)|住吉停留場]]||}} {{BS3|uBHF(L)fq|O1=HUB-R|uxKRZl|uBHF(R)gq|O3=HUB-L|||{{rint|osaka|hnm}} [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]|}} {{BS3||O1=HUBlf-R|exBHF(R)g|O2=HUB-Rq||O3=HUBrf-L||||}} {{BS3||exSTRl|exKBHFeq|O3=HUBa|4.6|HN11 ''[[住吉大社駅|住吉公園停留場]]''|-2016|}} {{BS3||STRq|BHFq|O3=HUBe|||[[住吉大社駅]]|}} {{BS||||南海:{{rint|osaka|nm}} [[南海本線]]|}} |bottom=<references group="*" /> }} 2016年1月31日改正のダイヤでは、昼間時は天王寺駅前 - [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]][[浜寺駅前停留場|浜寺駅前]]間の系統と天王寺駅前 - 阪堺線[[我孫子道停留場|我孫子道]]間の系統を交互にそれぞれ12分間隔で運転している(いずれも住吉から阪堺線に乗り入れ。天王寺駅前 - 住吉間では両系統あわせて6分間隔、住吉 - 我孫子道間では阪堺線恵美須町 - 我孫子道の系統と合わせて3分または6分間隔)<ref name="hankai20160123">{{PDFlink|[http://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2015/12/e61a76dce9454a5fc64581fd3c71eb41.pdf 平成28年1月31日(日)にダイヤ変更を実施します]}} - 阪堺電気軌道 2016年1月23日</ref>。 2014年3月1日のダイヤ改正までは天王寺駅前 - 住吉公園間の系統と、天王寺駅前 - 阪堺線浜寺駅前間の系統が交互にそれぞれ昼間は12分間隔(天王寺駅前 - 住吉間では両系統あわせて6分間隔)で運行されていた<ref>{{Cite press release |和書 |title=阪堺電気軌道 平成21年7月4日(土)より天王寺駅前〜浜寺駅前間の直通運転を開始します |publisher=南海電気鉄道 |date=2009-06-22 |url=http://www.nankai.co.jp/groupinfo/news/pdf/090622.pdf |format=PDF |accessdate=2016-01-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090806121658/http://www.nankai.co.jp/groupinfo/news/pdf/090622.pdf |archivedate=2009-08-06}}</ref>。天王寺駅前 - 住吉公園間の系統はこの改正で朝7・8時台のみの運転となり<ref>{{Cite press release |和書 |title=3月1日(土)にダイヤ改正を実施します |publisher=阪堺電気軌道 |date=2014-02-06 |url=http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/140206_dia.pdf |format=PDF |accessdate=2016-01-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222015839/http://www.hankai.co.jp/topics/pdf/140206_dia.pdf |archivedate=2014-02-22}}</ref>、2016年1月31日に廃止された<ref name="hankai20160123" />。 2009年7月4日のダイヤ改正までは、天王寺駅前 - 住吉公園間の系統と、天王寺駅前 - 阪堺線我孫子道間の系統が交互にそれぞれ昼間12分間隔(天王寺駅前 - 住吉間では両系統あわせて6分間隔)で運行されていた。また、過去には早朝に出庫と上町線への送り込みを兼ねて、我孫子道発住吉行きが運転されていたことがあった。 {| class="wikitable" style="font-size:85%;" |+'''運行系統''' |- !系統!!区間!!備考 |- |天王寺駅前 - 我孫子道||天王寺駅前 - 住吉 - 我孫子道||住吉 - 我孫子道間は阪堺線。終日運行。 |- |天王寺駅前 - 浜寺駅前||天王寺駅前 - 住吉 - 我孫子道 - 浜寺駅前||住吉 - 浜寺駅前間は阪堺線。終日運行。 |- |天王寺駅前 - 住吉公園||天王寺駅前 - 住吉 - 住吉公園||2016年1月31日廃止。<br />2014年2月28日までは早朝・深夜以外に運行、2014年3月1日から2016年1月30日までは朝7・8時台のみ運行。 |} == 歴史 == 上町線は[[馬車鉄道]]が始まりである。当初は天王寺と天下茶屋遊園への旅客輸送を目的として計画されたが、後に[[四天王寺]]と[[住吉大社]]への参詣客輸送に変更、1900年に大阪馬車鉄道が天王寺村字長者ヶ崎<ref name="tennoji" />(後の天王寺駅前) - 天下茶屋(後の東天下茶屋)間を開業させた。1902年に天下茶屋から下住吉まで延長した。馬車鉄道は開業から僅か1か月後に開業した[[南海電気鉄道|南海鉄道]][[南海天王寺支線|天王寺支線]]と競合することとなり、赤字経営が続いたため、馬車鉄道を廃止して電車化を進めることになった。社名を大阪馬車鉄道から大阪電車鉄道に改称、さらに浪速電車軌道と改称し電化[[改軌]]工事に着手したものの工事中半で南海鉄道と合併、南海が工事を引継ぎ1910年に[[鉄道の電化|電化]]して電車の運転を開始した。 大阪市では[[市営モンロー主義]]を打ち出し、市内中心部の交通は公営で行う方針をとっていたが、資金不足で着手できない[[大阪市電]]路線の建設資金を提供してもらうことで、市電への乗り入れを認めていた。これにより浪速電車軌道は大阪市と軌道共用契約を結び、合併後、この契約は南海鉄道に引き継がれ1911年から大阪市電への直通運転を始めた。翌年市電の運賃制度が変更され契約継続に困難が生じたため、直通運転は廃止された。なお、大阪市は軌道共用契約を南海以外の私鉄とも結んでいたが、実施されたのは南海上町連絡線だけである。1921年には天王寺西門前 - 天王寺駅前間が大阪市に譲渡され、大阪市電の路線網に組み込まれた。 その後、[[近畿日本鉄道]]、[[南海電気鉄道]]を経て1980年に阪堺線とともに阪堺電気軌道として分離された。 2016年1月31日、末端部分の住吉 - 住吉公園間が、当該区間の軌道・ポイントが老朽化しその改修に数億円を要するとの理由で廃止された<ref name="hankai150828"/>。現存する旧・住吉公園駅舎を除き、廃線跡は駐車場となっているが、この区間には南海本線から阪堺線・上町線への送電線が残されているため旧軌道敷の駐車場内には鉄道仕様の架線支柱が建てられている。 === 年表 === * [[1900年]]([[明治]]33年) ** [[9月20日]]:大阪馬車鉄道が天王寺村字長者ヶ崎<ref name="tennoji">[{{NDLDC|807151/141}} 明治33年 大阪府統計書](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(現在の天王寺駅前) - 天下茶屋(現在の東天下茶屋)間を開業。軌間1067mm。 ** [[11月29日]]:天下茶屋 - 上住吉(現在の神ノ木)間が開業。 * [[1902年]](明治35年)[[12月27日]]:上住吉 - 下住吉(後の住吉神社前、現在の住吉)間が開業。 * [[1907年]](明治40年) ** [[2月12日]]:天王寺 - 住吉公園間の電気軌道について[[軌道条例]]に基づく特許<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』</ref>。 ** [[3月29日]]:大阪電車鉄道と改称、同年10月29日に浪速電車軌道と改称。 * [[1908年]](明治41年)[[2月1日]]:電化および1435mm軌間への[[改軌]]工事のため全線廃止。 * [[1909年]](明治42年)[[12月24日]]:南海鉄道が浪速電車軌道を合併。 * [[1910年]](明治43年)[[10月1日]]:天王寺西門前<ref name="saimonmae">起点は南海合併後の[{{NDLDC|807162/31}} 明治44年 大阪府統計書]では「天王寺西門前」となっている(馬車鉄道時代の起点 天王寺村字長者ヶ崎とは位置が異なる)。</ref> - 住吉神社前間で電車の運転を開始。路線名称を上町連絡線とする。 * [[1911年]](明治44年) ** [[1月29日]]:大阪市電の天王寺西門前 - 谷町六丁目間へ直通運転開始。 ** [[8月20日]]:大阪市電への直通運転区間を天満橋まで延長。 * [[1912年]](明治45年)[[1月12日]]:大阪市電への直通運転を廃止。路線名称を上町連絡線から上町線に変更。 * [[1913年]]([[大正]]2年)[[7月2日]]:住吉神社前 - 住吉公園間が開業。 * [[1915年]](大正4年):南海鉄道が阪堺電気軌道を合併したことに伴い住吉神社前停留場を阪堺線住吉停留場に統合。 * [[1921年]](大正10年)12月21日:天王寺西門 - 天王寺駅前間を大阪市へ譲渡。 * 年月日不明:尼崎・平野線の道路建設に伴い、天王寺駅前停留場を0.1km(営業キロ)南側へ移設。 * [[1944年]]([[昭和]]19年)[[6月1日]]:[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]]と南海鉄道が合併して近畿日本鉄道が成立。天王寺営業局の所属となる。<!--従来の天王寺駅とのほか、新たに南大阪線の[[大阪阿部野橋駅]]とも徒歩連絡を開始。→ここでいう「徒歩連絡」とは? 単なる乗り換えならこれ以前にも以後にも可能。通しの乗車券の発売なら同一会社でなくとも連絡運輸契約を結んでいれば可能。 --> * [[1947年]](昭和22年)6月1日:旧・南海鉄道の路線を南海電気鉄道に分離譲渡。同社[[南海大阪軌道線|大阪軌道線]]の一路線となる。<!-- これにより南大阪線の大阪阿部野橋駅との徒歩連絡を解消。 --> * [[1980年]](昭和55年)[[12月1日]]:阪堺電気軌道に分離譲渡。<!--これにより天王寺支線の天王寺駅など、南海電気鉄道線の接続駅での徒歩連絡を解消。 --> * [[2009年]]([[平成]]21年)[[7月4日]]:天王寺駅前 - 住吉 - 我孫子道 - 浜寺駅前間の直通運転を再開。 * [[2015年]](平成27年)8月28日:住吉 - 住吉公園間の廃止申請書を国土交通大臣に提出したことを発表<ref name="hankai150828">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2015/08/648df35ad70a218c95acb246eda4bfb1.pdf|title=上町線 住吉〜住吉公園間(0.2km)の軌道事業の廃止申請について|publisher=阪堺電気軌道|date=2015-08-28|accessdate=2015-08-28}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年) ** [[1月31日]]<ref name="hankai150828" />:住吉 - 住吉公園間を廃止<ref>{{Cite news |title=阪堺電気軌道 住吉〜住吉公園間廃止 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2016.02.02 }}</ref>。 ** [[12月3日]]:天王寺駅前 - 阿倍野間の線路が移設<ref>{{Cite news |title=12月3日新線切り替え|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=2016-11-25|page=3}}</ref><ref name="hankai20161118">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.hankai.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2016/11/bbf46f886e037943ed81c54cd3415a6b1.pdf|title=上町線 天王寺駅前〜阿倍野間の新線への切替日が、平成28年12月3日(土)に決まりました。|publisher=阪堺電気軌道|date=2016-11-18|accessdate=2020-03-27|quote=一部区間の営業キロ程が変更となります。}}</ref>。営業キロが0.1km短縮{{Refnest|『JTB時刻表』(JTBパブリッシング)2016年4月号では天王寺駅前-住吉が4.4km、同2017年3月号、2020年2月1日時点の営業キロ程表では4.3km<ref name="hankai20200108" />。}}。 *[[2018年]](平成30年):軌道・車両が「阪堺電気軌道と関連施設群」の一部として[[土木学会選奨土木遺産]]に選ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jsce-kansai.net/wp-content/uploads/2019/08/dayori_76.pdf |title=支部だより No.76 2019.7 |accessdate=2022年6月9日 |publisher=土木学会関西支部 |year=2019 |month=7 |author=[[土木学会]]関西支部 |page=11}}</ref>。 == 未完に終わった天王寺駅前 - 松虫間の地下化/廃止計画 == 戦後、高度成長期を迎え、[[モータリーゼーション]]の波が押し寄せ、交通渋滞が激しくなった[[あべの筋]]を走る南海電気鉄道上町線の[[併用軌道]]区間である天王寺駅前 - 松虫間を地下化する計画があった<ref>『南海電気鉄道五十年史』</ref>。このことは、南海電鉄の社内報『南海'71』にも将来計画として書かれているが、結局、実現には至らなかった。 また、1971年(昭和46年)12月8日の「都市交通審議会答申13号」において、当時、天王寺駅までの路線であった[[大阪市営地下鉄]][[Osaka Metro谷町線|谷町線]]を人口増加が著しい平野方面へ延伸するよう答申された際、当初、南海上町線の天王寺駅前 - 松虫間を廃止して、この区間を地下鉄に置き換え、地下鉄谷町線を天王寺から播磨町まであべの筋([[大阪府道30号大阪和泉泉南線]])を南下させ、播磨町から[[南港通]](大阪府道5号大阪港八尾線)を東へ進み、平野方面へ延伸する路線案が提示されたが、帝塚山・北畠の沿線住民から南海上町線の天王寺駅前 - 松虫間を廃止することに反対の声が上がったため、この計画案は白紙撤回となり、答申には盛り込まれず、当時、南海平野線の飛田 - 西平野間と並行する形で阪神高速道路公団が計画していた[[阪神高速14号松原線|松原線]]の建設計画と一体化させる形で、天王寺から阿倍野まで「あべの筋」を南下して、阿倍野から阪神高速松原線(南海平野線が走っていた軌道用地は、南海電気鉄道が10年間の賃貸借契約を付帯条件に[[阪神高速道路公団]]に売却)の地下を通る現在の路線に変更された。 天王寺駅前の地下通路は地下線化の先行工事として造られた。 == 停留場一覧 == *全停留場[[大阪府]][[大阪市]]に所在。 *すべて住吉から阪堺線に乗り入れ、天王寺駅前 - 住吉 - 我孫子道・浜寺駅前間の運転。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:3em; border-bottom:solid 3px orange;"|停留場<br />番号 !style="width:9em; border-bottom:solid 3px orange;"|停留場名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px orange;"|停留場間<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px orange;"|営業キロ<br /><ref name="hankai20200108" /> !style="border-bottom:solid 3px orange;"|接続路線・備考 !style="width:1em; border-bottom:solid 3px orange;"|{{縦書き|敷設種別|height=5em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px orange;"|{{縦書き|道路名|height=5em}} !style="width:4.5em; border-bottom:solid 3px orange;"|所在地 |- !HN01 |[[天王寺駅|天王寺駅前停留場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]]・{{JR西路線記号|K|Q}} [[関西本線]]([[大和路線]])・{{JR西路線記号|K|R}} [[阪和線]]([[天王寺駅]]: JR-O01・JR-Q20・JR-R20)<br />近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|F}} [[近鉄南大阪線|南大阪線]]([[大阪阿部野橋駅]]: F01)<br />[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|16px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]・[[File:Osaka_Metro_Tanimachi_line_symbol.svg|16px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]](天王寺駅: M23・T27) |rowspan="2" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|併用軌道|height=5em}} |rowspan="2" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[あべの筋]]|height=5em}} |rowspan="6"|[[阿倍野区]] |- !HN02 |[[阿倍野駅|阿倍野停留場]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|0.5 |大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Tanimachi_line_symbol.svg|16px|T]] 谷町線(阿倍野駅: T28) |- !HN03 |[[松虫停留場]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|1.2 |&nbsp; |rowspan="2" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|新設軌道|height=5em}} |rowspan="2" style="text-align:center; width:1em;"|&nbsp; |- !HN04 |[[東天下茶屋停留場]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|1.5 |&nbsp; |- !HN05 |[[北畠停留場]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|2.2 |&nbsp; |rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|併用軌道|height=5em}} |rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|旧[[熊野街道]]|height=6em}} |- !HN06 |[[姫松停留場]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|2.6 |&nbsp; |- !HN07 |[[帝塚山三丁目停留場]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|3.1 |&nbsp; |rowspan="4"|[[住吉区]] |- !HN08 |[[帝塚山四丁目停留場]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|3.4 |&nbsp; |rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|新設軌道|height=5em}} |rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|&nbsp; |- !HN09 |[[神ノ木停留場]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|3.7 |南海電気鉄道:[[File:Nankai koya line simbole.svg|16px|NK]] [[南海高野線|高野線]]([[住吉東駅]]: NK52) |- !HN10 |[[住吉停留場 (大阪府)|住吉停留場]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|4.3 |阪堺電気軌道:[[ファイル:Number_prefix_Hankai_Tramway_line.png|16px|HN]]{{Color|green|■}} [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]](恵美須町方面) |} === かつて存在していた停留場 === 廃止・譲渡区間の停留場は[[#廃止・譲渡区間]]を参照。 * [[常盤通駅|常盤通停留場]]:天王寺駅前 - 阿倍野間 * [[中道駅|中道停留場]]:阿倍野 - 松虫間 === 過去の接続路線 === 事業者名は廃止時点のもの。 *天王寺駅前停留場:[[南海天王寺支線|南海電気鉄道天王寺支線]](天王寺) - 1993年3月31日まで *阿倍野停留場:[[南海平野線|南海電気鉄道平野線]] - 1980年11月27日まで === 廃止・譲渡区間 === {| class="wikitable" rules="all" |- !&nbsp; !style="width:3em;"|停留場<br />番号 !style="width:9em;"|停留場名 !style="width:2.5em;"|停留場間<br />キロ !style="width:2.5em;"|営業キロ<br /><ref>[[#imao|今尾 (2009)]]による</ref> !接続路線・備考 !{{縦書き|軌道種別|height=5em}} !{{縦書き|道路名|height=5em}} !所在地 |- |rowspan="3" style="width:1em;"|{{縦書き|譲渡区間|height=5em}} |rowspan="4" style="font-size:80%;"|制定前に譲渡/廃止 |[[天王寺駅 (南海鉄道)|天王寺駅]] |style="text-align:right;"|0.2 |style="text-align:right;"|0.9 |大阪市電 |rowspan="6" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|併用軌道|height=5em}} |rowspan="6" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[谷町筋]]|height=4em}} |rowspan="4"|天王寺区 |- |[[茶臼山停留場]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|0.7 |&nbsp; |- style="height:6em;" |rowspan="2"|[[公園東門停留場]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.2 |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.2 |rowspan="2"|''19??年廃止''<br />南海電気鉄道:天王寺支線<br />日本国有鉄道:大阪環状線・関西本線・阪和線<br />近畿日本鉄道:南大阪線<br />大阪市営地下鉄:御堂筋線・谷町線<br />大阪市電 |- |rowspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|廃止区間|height=5em}} |- style="height:6em;" !rowspan="2"|HN01 |rowspan="2"|天王寺駅前停留場 |rowspan="2" style="text-align:center;"|- |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2"|''19??年開業''<br />南海電気鉄道:天王寺支線<br />日本国有鉄道:大阪環状線・関西本線・阪和線<br />近畿日本鉄道:南大阪線<br />大阪市営地下鉄:御堂筋線・谷町線<br />大阪市電(1968年まで) |rowspan="2"|阿倍野区 |- |rowspan="3" style="width:1em;"|{{縦書き|現存区間|height=5em}} |- |colspan="8"|[[#停留場一覧|上表]]参照 |- style="height:1em;" !rowspan="2"|HN10 |rowspan="2"|住吉停留場 |rowspan="2" style="text-align:center;"|- |rowspan="2" style="text-align:right;"|4.3 |rowspan="2"|阪堺電気軌道:[[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]](恵美須町方面) |rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|新設軌道|height=5em}} |rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|&nbsp; |rowspan="3"|住吉区 |- |rowspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|廃止区間|height=5em}} |- !HN11 |[[住吉大社駅|住吉公園停留場]] |style="text-align:right;"|0.2 |style="text-align:right;"|4.5 |''2016年1月31日廃止''<br />南海電気鉄道:[[南海本線]]([[住吉大社駅]])<br />※阪堺線[[住吉鳥居前停留場]]と近接(徒歩1分)。<br />ただし乗り換え指定停留場とはなっていない。 |} == その他 == 「ベーツ式」鉄柱を用いた架線柱が北畠 - 東天下茶屋間に11組、東天下茶屋の松虫側に1組、神ノ木 - 住吉間に1組残っていた<ref>路面電車同好会「とろりぃ・らいんず」272号</ref>が、2018年の[[平成30年台風第21号|台風21号]]により、北畠 - 東天下茶屋間の1本が破損したために1組が取り換えられたので、北畠 - 東天下茶屋間に残っているのは10組となっている。 == 脚注および参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} *{{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 10 大阪 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790028-9 | ref = imao }} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_tennouji/f03e_tennouji.htm |title=四天王寺なのに天王寺駅——1:10,000地形図「天王寺」、旧1:10,000地形図「大阪南部」、1:20,000地形図「天王寺村」—— |date=20120517112546}} - 天王寺駅周辺の変遷 <!-- http://archive.today/pwd9M ではトップページしか保存されていないと思われる --> {{日本の路面電車}} {{デフォルトソート:はんかいてんききとううえまちせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|うえまちせん]] [[Category:阪堺電気軌道|路うえまちせん]] [[Category:南海電気鉄道の廃線|うえまち]] [[Category:日本の路面電車路線]] [[Category:馬車鉄道]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:部分廃止路線]] [[Category:土木学会選奨土木遺産]]
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脂肪肝
脂肪肝(しぼうかん、英語: fatty liver)とは、肝臓に中性脂肪が異常に蓄積した状態のことを指す。 組織標本にした場合は、肝細胞内に脂肪空胞が見られる。要約すれば、何らかの理由によって脂肪代謝の処理が追いつかない状況に陥ったため、肝細胞の中に脂肪が油滴のように溜まって、肝細胞が膨れている状態である。 正常な肝臓に於いても湿重量で 5%程度の脂肪を持っているが、30%以上の脂質(主に中性脂肪)が過剰に蓄積している状態である。ボディマス指数(BMI) 30 以上の人はほとんどが脂肪肝との報告もある。希に疲労や腹部の軽い不快感を感じることがあるが特徴的な自覚症状は無く、非肥満者でも生じ肝障害の単なる合併症として捉えられていた上に、肝硬変などとは異なり未だ肝臓は可逆的な状態であるため、医師の関心が低く臨床的に軽視され臨床研究や対策が不充分と指摘されていたが、研究の進展により肥満、内臓脂肪蓄積、インスリン抵抗性などの因子が加わることで心血管疾患の発症リスクが相乗的に高まることが報告されている。 ガチョウや鴨の肝臓を強制肥育によって肥大化させた高級食材「フォアグラ」や、稀にニワトリの雌鶏に見られる「白肝」も実は脂肪肝である。このため脂肪肝のことを、俗にフォアグラ状態になっているなどと喩えられる事例も見られる。 世界的にみると飲酒が原因のアルコール性脂肪性肝炎が脂肪肝の典型例である。日本では、女性の重症型アルコール性脂肪性肝炎は増加傾向にあるのは発泡酒やワインブームの影響と見る場合があるものの、日本では酒の消費量が減少しているにも拘らず脂肪性患者数は増加している。1991-1998年に宮城県で行われた調査によると、脂肪肝の頻度は16.6%から32.6%と7年間で2倍に増加した。アメリカ合衆国で調査によれば成人だけで無く小児の13%に脂肪肝があり、肥満小児の38%は脂肪肝を有しているとの報告がある。 脂肪肝の原因は様々だが、非進行性(可逆的)変化であるため原因を除去すると正常に戻る。したがって、脂肪肝の段階で生活改善を実施して、脂肪肝を解消してしまえば、命に関わる事は無く、脂肪肝自体は病気とは捉えられていない。ただし、脂肪肝は肝臓に慢性的に炎症を誘発したり、肝機能障害を生じさせる場合が有り、放置すると不可逆的な病変である肝硬変や肝臓ガンの原因ともなる。特に、日本における脂肪肝のうち非アルコール性脂肪性肝炎は成人健診受診者の約30%(男性-約40%、女性-約17%)が罹患しているとされる。 日本人は倹約遺伝子として知られる変異型 β-adrenergic receptor (Trp64Agr)の保有率が高く、Trp64Agr を有している場合の非アルコール性脂肪性肝疾患罹患リスクは2.4倍に上昇する。このほか、PNPLA3の遺伝子多型やコリン欠乏症に関連する Val175Met 遺伝子多型を有していると脂肪肝を発症しやすい。 脂肪肝自体は病気とは捉えられず軽視されがちであるものの、肥満、脂質異常症、糖尿病などの生活習慣病と密接に関係して発生する場合もある。一方で、人間ドック受診者のうち BMI 25 以下の非肥満で且つ肝機能検査で ALT(GPT) や ALP(GOT) に何らかの異常値を認めない群からも脂肪肝の所見を有する人が 30% 程度いるとの報告がある。 しかし、アジア太平洋地域では非アルコール性脂肪性肝疾患(NAFLD)患者の15%から21%は肥満を伴っている。また、長期の糖尿病患者では気づかぬうちに脂肪肝から肝硬変に進展することもある。 なお、過剰栄養によって脂肪肝となることがある一方で、拒食症や不適切なダイエットによる低栄養や飢餓状態が長期間継続した場合も、脂肪肝になることも知られている。 脂肪蓄積が進行すると肝細胞は徐々に線維化して行く。線維化のステージは下記の様に分類される。 線維化の進展を予測できる指標として FIB-4 index がある。 いくつかの検査と問診により診断を行う。 B型肝炎ウイルス(HBs 抗原)、C型肝炎ウイルス(HVC 抗体)、各種自己抗体(自己免疫性肝炎)などの検査を行い原疾患の鑑別を行う。アラニンアミノ基転移酵素 (ALT)やアスパラギン酸アミノ基転移酵素(AST)の血液検査の結果だけで、脂肪肝の診断は行えない。理由はウイルス性肝炎が原因となる脂肪肝では ALT、AST がときに、時に100 (IU/L)を越える高値になるのに対して、非アルコール性脂肪肝では ALT、AST の上昇程度は小さい。また、非アルコール性脂肪性肝炎(NASH)では肝細胞の線維化が進行して正常な肝細胞が少なくなると、ALTやASTの値はむしろ低下するためである。 総合南東北病院資料より引用し改変。 肝生検にての病理組織所見は決定される。基本的には肝細胞の脂肪変性が認められる。 観察者の判断差異や施設間差異の低減のため、下記表によるスコアリングによる病理診断(NAS: NAFLD Activity Score)が行われる事がある。 更に、下記 Younossiの診断基準を併用する事がある。 以上 1.または 2.を満たす場合NASHと定義する。 炭水化物や糖分はグルコースに分解され生体活動で消費されるが、余剰分は中性脂肪脂に合成され肝細胞中に蓄積される。砂糖が分解してできる果糖は、量に依存する肝毒性を示す。果糖は、肝臓でのみ代謝される。この理由として、果糖はグルコースに比べ開環率が高く(約10倍も糖化反応に使われやすいため)、生体への毒性はグルコースよりも遥かに高い。この毒性を早く消す目的で、肝臓はグルコースよりも果糖を優先的に処理する。果糖は、肝臓や骨格筋にインスリン抵抗性を引き起こす。インスリン抵抗性が生じると、膵臓からのインスリン分泌が促される。過剰なインスリンによる高インスリン血症は、各種の臓器障害をもたらす。例えば、脂質異常症や肝臓の炎症をもたらす。 これとは逆に、例えば拒食症などによって、生体の飢餓状態が長期にわたって続いた場合も、肝細胞内に脂肪が蓄積して、脂肪肝になることがある。 脂肪肝においては、血清フェリチンの増加がしばしばみられ、脂肪肝のなかでも非アルコール性脂肪性肝炎 (NASH) を含んだ非アルコール性脂肪性肝疾患では、肝組織内の鉄の過剰が肝障害の増悪因子と考えられている。 糖アルコールの1種であるイノシトールは、一般にビタミンには分類されないものの、ビタミンと似たような作用を持ったビタミン様物質の1つとして挙げられる。このイノシトールの作用の1つとして、脂肪肝になりにくくする作用も存在すると言われている。
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脂肪肝とは、肝臓に中性脂肪が異常に蓄積した状態のことを指す。 組織標本にした場合は、肝細胞内に脂肪空胞が見られる。要約すれば、何らかの理由によって脂肪代謝の処理が追いつかない状況に陥ったため、肝細胞の中に脂肪が油滴のように溜まって、肝細胞が膨れている状態である。 正常な肝臓に於いても湿重量で 5%程度の脂肪を持っているが、30%以上の脂質(主に中性脂肪)が過剰に蓄積している状態である。ボディマス指数(BMI) 30 以上の人はほとんどが脂肪肝との報告もある。希に疲労や腹部の軽い不快感を感じることがあるが特徴的な自覚症状は無く、非肥満者でも生じ肝障害の単なる合併症として捉えられていた上に、肝硬変などとは異なり未だ肝臓は可逆的な状態であるため、医師の関心が低く臨床的に軽視され臨床研究や対策が不充分と指摘されていたが、研究の進展により肥満、内臓脂肪蓄積、インスリン抵抗性などの因子が加わることで心血管疾患の発症リスクが相乗的に高まることが報告されている。 ガチョウや鴨の肝臓を強制肥育によって肥大化させた高級食材「フォアグラ」や、稀にニワトリの雌鶏に見られる「白肝」も実は脂肪肝である。このため脂肪肝のことを、俗にフォアグラ状態になっているなどと喩えられる事例も見られる。
[[ファイル:Liversteatosis.png|thumb|[[コンピュータ断層撮影|CT]]によって撮影された脂肪肝。]] '''脂肪肝'''(しぼうかん、{{lang-en|fatty liver}})とは、[[肝臓]]に[[中性脂肪]]が異常に蓄積した状態のことを指す。 組織標本にした場合は、[[肝細胞]]内に脂肪空胞が見られる。要約すれば、何らかの理由によって脂肪代謝の処理が追いつかない状況に陥ったため、肝細胞の中に脂肪が油滴のように溜まって、肝細胞が膨れている状態である。 正常な肝臓に於いても湿重量で 5%程度の脂肪を持っているが、30%以上の脂質(主に中性脂肪)が過剰に蓄積している状態である<ref name=jjh.44.953>斎藤征夫、柳生聖子、服部泰子 ほか、[https://doi.org/10.1265/jjh.44.953 健康診査受診者における脂肪肝に関する研究] 『日本衛生学雑誌』 1989年 44巻 5号 p.953-961, {{doi|10.1265/jjh.44.953}}</ref>。[[ボディマス指数]](BMI) 30 以上の人はほとんどが脂肪肝との報告もある<ref name=nisshoshi.110.1597>宮本敬子、小野正文、西原利治、[https://doi.org/10.11405/nisshoshi.110.1597 非アルコール性脂肪性肝疾患の疾患関連遺伝子] 『日本消化器病学会雑誌』 2013年 110巻 9 p.1597-1601, {{doi|10.11405/nisshoshi.110.1597}}</ref>。希に疲労や腹部の軽い不快感を感じることがあるが特徴的な自覚症状は無く、非肥満者でも生じ肝障害の単なる合併症として捉えられていた上に、[[肝硬変]]などとは異なり未だ肝臓は可逆的な状態であるため、医師の関心が低く臨床的に軽視され臨床研究や対策が不充分と指摘されていた<ref name=jsgcs1982.31.3_26 />が、研究の進展により肥満、内臓脂肪蓄積、インスリン抵抗性などの因子が加わることで心血管疾患の発症リスクが相乗的に高まることが報告されている<ref name=nisshoshi.111.14 />。 [[ガチョウ]]や[[鴨]]の肝臓を強制肥育によって肥大化させた高級食材「[[フォアグラ]]」や、稀に[[ニワトリ]]の雌鶏に見られる「白肝」も実は脂肪肝である。このため脂肪肝のことを、俗に'''フォアグラ状態'''になっているなどと喩えられる事例も見られる。 == 疫学 == 世界的にみると飲酒が原因のアルコール性脂肪性肝炎が脂肪肝の典型例である<ref>土居忠、田中信悟、佐藤康裕 ほか、[https://doi.org/10.2957/kanzo.51.501 【原著】脂肪性肝疾患の頻度に及ぼすアルコール摂取の影響] 『肝臓』 2010年 51巻 9号 p.501-507, {{doi|10.2957/kanzo.51.501}}</ref><ref>山岸由幸、加藤眞三、「アルコール性肝障害」『medicina.』 43巻12号, 2006/11/30, {{doi|10.11477/mf.1402101510}}</ref>。日本では、女性の重症型アルコール性脂肪性肝炎は増加傾向にあるのは[[発泡酒]]や[[ワイン]]ブームの影響と見る場合があるものの、日本では酒の消費量が減少しているにも拘らず脂肪性患者数は増加している<ref>西原利治、大西三朗、[https://doi.org/10.2957/kanzo.44.541 NASH (非アルコール性脂肪肝炎) の新たな展開] 『肝臓』 2003年 44巻 11号 p.541-545, {{doi|10.2957/kanzo.44.541}}</ref><ref name=ningendock1986.15.211>{{Cite journal|和書|author=小野寺博義, 鵜飼克明, 岩崎隆雄, 渋谷大助, 松井昭義, 小野博美, 町田紀子, 阿部寿恵 |url=https://doi.org/10.11320/ningendock1986.15.211 |title=超音波検査を用いた健診における脂肪肝頻度の推移 |journal=健康医学 |publisher=日本人間ドック学会 |year=2000 |volume=15 |issue=3 |pages=211-214 |naid=130003380856 |ISSN=0914-0328 |doi=10.11320/ningendock1986.15.211}}</ref>。1991-1998年に宮城県で行われた調査によると、脂肪肝の頻度は16.6%から32.6%と7年間で2倍に増加した<ref name=ningendock1986.15.211 />。アメリカ合衆国で調査によれば成人だけで無く小児の13%に脂肪肝があり、肥満小児の38%は脂肪肝を有しているとの報告がある<ref>{{Cite journal|title=Steatohepatitis: A tale of two “hits”? |journal=Gastroenterology |volume=114 |issue=4 |pages=842-845 |year=1998 |ISSN=0016-5085 |doi=10.1016/S0016-5085(98)70599-2 |url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0016508598705992 |author=Christopher P. Day, Oliver F.W. James}}</ref><ref name=nisshoshi.111.14 />。 脂肪肝の原因は様々だが、非進行性(可逆的)変化であるため原因を除去すると正常に戻る<ref name=jsgcs1982.31.3_26>斎藤征夫、大塚享、高橋玲、岡本伸夫、[https://doi.org/10.11404/jsgcs1982.31.3_26 脂肪肝の推移とその発症因子に関する研究] 『消化器集団検診』 1993年 31巻 3号 p.26-32, {{doi|10.11404/jsgcs1982.31.3_26}}</ref>。したがって、脂肪肝の段階で生活改善を実施して、脂肪肝を解消してしまえば、命に関わる事は無く、脂肪肝自体は病気とは捉えられていない<ref name=jsgcs1982.31.3_26 />。ただし、脂肪肝は肝臓に慢性的に炎症を誘発したり、肝機能障害を生じさせる場合が有り、放置すると不可逆的な病変である[[肝硬変]]や[[肝臓ガン]]の原因ともなる<ref name="JSGE_Ueno">上野 隆登 『[http://www.jsge.or.jp/citizen/2009/kyusyu.html 脂肪肝、脂肪性肝炎とはどんな病気?]』 (日本消化器病学会)</ref>。特に、日本における脂肪肝のうち非アルコール性脂肪性肝炎は成人健診受診者の約30%(男性-約40%、女性-約17%<ref>戸塚久美子、「[https://hdl.handle.net/2241/00143977 食習慣と生活習慣病発症の関連 : 既存の人間ドックデータを利用した検討]」 筑波大学学位論文 12102甲第7849号, {{hdl|2241/00143977}}</ref>)が罹患しているとされる<ref name=mn.551537>[https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/201706/551537.html 糖尿病第4の合併症「脂肪肝由来の肝硬変」] 日経メディカル 記事:2017年6月6日</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=小野寺博義, 岩崎隆雄, 渋谷大助, 松井昭義, 小野博美, 町田紀子, 阿部寿恵 |url=https://doi.org/10.11320/ningendock1986.16.157 |title=超音波健診での脂肪肝例における脂肪肝および血液生化学検査値の経時的変化に関する検討 |journal=健康医学 |year=2001 |volume=16 |issue=2 |pages=157-161 doi=10.11320/ningendock1986.16.157 |publisher=日本人間ドック学会}}</ref>。 日本人は倹約遺伝子として知られる変異型 β-adrenergic receptor (Trp64Agr)の保有率が高く、Trp64Agr を有している場合の非アルコール性脂肪性肝疾患罹患リスクは2.4倍に上昇する<ref name=nisshoshi.110.1597 />。このほか、PNPLA3の遺伝子多型やコリン欠乏症に関連する Val175Met 遺伝子多型を有していると脂肪肝を発症しやすい<ref name=nisshoshi.110.1597 />。 == 臨床像 == [[画像:Stage of liver damage.JPG|200px|thumb|脂肪肝による肝臓の変化。脂肪が蓄積して肥大(左)→[[肝細胞]]が[[壊死]]し、[[繊維|線維]]に置き換わって[[瘢痕]]となり(中)→[[肝硬変]]に至る(右)。]] 脂肪肝自体は病気とは捉えられず軽視されがちであるものの<ref name=jsgcs1982.31.3_26 />、[[肥満]]、[[脂質異常症]]、[[糖尿病]]などの[[生活習慣病]]と密接に関係して発生する場合もある。一方で、[[人間ドック]]受診者のうち [[ボディマス指数|BMI]] 25 以下の非肥満で且つ肝機能検査で ALT(GPT) や ALP(GOT) に何らかの異常値を認めない群からも脂肪肝の所見を有する人が 30% 程度いるとの報告がある<ref>{{Cite journal|和書 |author=大月和宣 |url=https://doi.org/10.11404/jsgcs2000.40.6_542 |title=非肥満者における超音波診断による脂肪肝と生活習慣病の関連について |journal=日本消化器集団検診学会雑誌 |year=2002 |volume=40 |issue=6 |pages=542-546 |doi=10.11404/jsgcs2000.40.6_542|publisher=日本消化器がん検診学会}}</ref>。 しかし、アジア太平洋地域では[[非アルコール性脂肪性肝疾患]](NAFLD)患者の15%から21%は肥満を伴っている<ref>{{Cite journal|author=LiuChun-Jen |title=Prevalence and risk factors for non-alcoholic fatty liver disease in Asian people who are not obes |journal=Journal of Gastroenterology and Hepatology |volume=27 |issue=10 |pages=1555-1560 |doi=10.1111/j.1440-1746.2012.07222.x |url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1440-1746.2012.07222.x |year=2012}}</ref><ref name=nisshoshi.111.14>小川祐二, 今城健人, 米田正人 ほか、「[https://doi.org/10.11405/nisshoshi.111.14 NAFLDの疫学と病態のupdate]」『日本消化器病学会雑誌』 2014年 111巻 1号 p.14-24, {{doi|10.11405/nisshoshi.111.14}}</ref>。また、長期の糖尿病患者では気づかぬうちに脂肪肝から肝硬変に進展することもある<ref name=mn.551537 />。 なお、過剰栄養によって脂肪肝となることがある一方で、[[拒食症]]<ref name=kansenshogakuzasshi1970.78.70 />や不適切な[[ダイエット]]による低栄養や[[飢餓|飢餓状態]]が長期間継続した場合も、脂肪肝になることも知られている<ref name="JSGE_Ueno">上野 隆登 『[http://www.jsge.or.jp/citizen/2009/kyusyu.html 脂肪肝、脂肪性肝炎とはどんな病気?]』 (日本消化器病学会)</ref>。 === ステージ === 脂肪蓄積が進行すると肝細胞は徐々に線維化して行く。線維化のステージは下記の様に分類される<ref name=nisshoshi.111.25>鎌田佳宏、三善英知、竹原徹郎、[https://doi.org/10.11405/nisshoshi.111.25 NAFLDの診断と検査法のupdate] 『日本消化器病学会雑誌』 Vol.111 (2014) No.1 p.25-34, {{doi|10.11405/nisshoshi.111.25}}</ref>。 :; Stage 1 : 小葉中心部の線維化が部分的ないし広汎に :; Stage 2 : Stage 1 に加えて門脈域の線維化が部分的ないし広汎に :; Stage 3 : Bridging fibrosis :; Stage 4 : 肝硬変 線維化の進展を予測できる指標として '''FIB-4 index''' がある<ref>{{Cite journal|和書|author=小林伸行, 都築隆, 萬造時知子, 渡部洋行, 竹澤三代子, 土屋敦, 土屋章 |url=https://doi.org/10.11320/ningendock.29.34 |title=【原著】脂肪肝症例における肝線維化指標FIB4 Indexの経時的変化 |journal=人間ドック (Ningen Dock) |year=2014 |volume=29 |issue=1 |pages=34-41 |doi=10.11320/ningendock.29.34 |publisher=日本人間ドック学会}}</ref><ref>[https://www.jsh.or.jp/medical/guidelines/medicalinfo/eapharma FIB-4 index計算サイトのご案内(EAファーマ 提供)(医療従事者向け)] 日本肝臓学会</ref>。 ; FIB-4 index 算出方法 :( '''AST <math>\times </math> 年齢 ''') <math> \div </math> (''' 血小板数''' <math>\rm \times \sqrt {ALT}</math> ) :*注記 :*:AST 及び ALT は、IU/L。血小板数は、10{{sup|9}}/L (0.1万/μL) :*判定 :*: 2.67以上、肝線維化確実で NASH の可能性が高い。要肝生検<ref name=fukui-saiseikai>{{PDFlink|[https://www.fukui-saiseikai.com/archives/003/201704/634f0b21d51c73e0dd96a9799b9d8b02.pdf 非アルコール性脂肪肝炎(NASH:ナッシュ)の 拾い上げ第 2 弾 “Fib-4 index”]}} 福井県済生会病院</ref> :*: ALT値が基準値内であっても NAFLD の場合は、1.659以上(≧)、肝線維化の可能性<ref>[https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=4018 脂肪肝の肝硬変・肝細胞癌への進展] Web医事新報 日本医事新報社</ref> :*: 1.3以下、肝線維化なし。経過観察<ref name=fukui-saiseikai /> == 原因 == * [[飲酒|過度の飲酒]] : 最も多い原因で、特に[[エタノール]]換算で20 (g/日)を超える大量飲酒は、しばしば[[アルコール性肝疾患|アルコール性脂肪肝]]を引き起こす。 * [[非アルコール性脂肪性肝疾患|非アルコール性脂肪肝]] (NAFLD:Non-Alcoholic Fatty Liver Disease) * 薬剤性 **[[アスピリン]]([[ライ症候群]]<ref>大塚淳司、千布裕、[https://doi.org/10.11405/nisshoshi1964.98.184 成人Reye症候群の1例] 『日本消化器病学会雑誌』 2001年 98巻 2号 p.184-187 , {{doi|10.11405/nisshoshi1964.98.184}}</ref>) **コルチコステロイド **[[タモキシフェン]] **[[テトラサイクリン]] **[[アミオダロン]] * [[妊娠]] :[[急性妊娠脂肪肝]](AFLP)・[[HELLP症候群]]等 * 栄養摂取異常・摂食障害(過多 - [[肥満]]、不足 - [[飢餓]]、拒食症<ref name=kansenshogakuzasshi1970.78.70>{{Cite journal|和書|author=齋藤淑子, 内藤俊夫, 久木野純子, 奥村徹, 関谷栄, 礒沼弘, 渡邉一功, 檀原高, 林田康男 |title=摂食障害による超低体重の女性に発症した''Campylobacter fetus''敗血症の1例 |journal=感染症学雑誌 |ISSN=0387-5911 |publisher=日本感染症学会 |year=2004 |volume=78 |issue=1 |pages=70-75 |naid=130004112850 |doi=10.11150/kansenshogakuzasshi1970.78.70 |url=https://doi.org/10.11150/kansenshogakuzasshi1970.78.70}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=山口開, 奥瀬千晃, 鈴木啓弘, 小林裕太郎, 長田達郎, 巴雅威, 遠山裕樹, 林毅, 吉田秀樹, 高橋泰人, 前山史朗, 打越敏之, 飯野四郎 |title=栄養障害が原因と思われたnon-alcoholic steatohepatitisの1例 |journal=肝臓 |ISSN=04514203 |publisher=日本肝臓学会 |year=1998 |month=jan |volume=39 |issue=1 |pages=18-22 |naid=10005573885 |doi=10.2957/kanzo.39.18 |url=https://doi.org/10.2957/kanzo.39.18}}}</ref>、小腸外科手術後<ref>白石公彦、伊藤博道、沢田征洋 ほか、[https://doi.org/10.2957/kanzo.23.656 小腸広範切除術後の脂肪肝の一例] 『肝臓』 1982年 23巻 6号 p.656-662 , {{doi|10.2957/kanzo.23.656}}</ref>)、糖代謝異常<ref name=kanzo.51.586>木村友希、兵庫秀幸、石飛朋和 ほか、[https://doi.org/10.2957/kanzo.51.586 非アルコール性脂肪性肝疾患における糖負荷試験の有用性について] 『肝臓』 2010年 51巻 10号 p.586-588, {{DOI|10.2957/kanzo.51.586}}</ref> == 診断 == いくつかの検査と問診により診断を行う。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+NAFLD/NASH 診断チャート<ref name=NAFLD_NASHGL2>[https://www.jsge.or.jp/files/uploads/NAFLD_NASHGL2_re.pdf NAFLD/NASH 診療ガイドライン2014] 日本消化器病学会</ref> ! rowspan="4" | 脂肪肝・<br />肝障害 | rowspan="4" | HBs 抗原, HVC 抗体<br /> 各種自己抗体など | colspan="3" | 有り | colspan="3" | '''ウイルス性肝疾患、<br />自己免疫性肝疾患''' |- | rowspan="3" | 無し ! rowspan="3" | 飲酒歴 | 有り | colspan="3" | '''アルコール性肝障害''' |- | rowspan="2" | 無し | rowspan="2" | NAFLD ! rowspan="2" | 生肝検による<br />病理診断 | '''非アルコール性脂肪性肝炎'''<br />(NASH) |- | '''非アルコール性脂肪肝'''<br />NAFL |} * 「日本消化器病学会 NAFLD/NASH 診療ガイドライン2014」<ref name=NAFLD_NASHGL2 />を引用し改変 === 血液検査 === [[B型肝炎ウイルス]](HBs 抗原)、[[C型肝炎ウイルス]](HVC 抗体)、各種自己抗体([[自己免疫性肝炎]])などの検査を行い原疾患の鑑別を行う。[[アラニンアミノ基転移酵素]] (ALT)や[[アスパラギン酸アミノ基転移酵素]](AST)の血液検査の結果だけで、脂肪肝の診断は行えない。理由はウイルス性肝炎が原因となる脂肪肝では ALT、AST がときに、時に100 (IU/L)を越える高値になるのに対して、非アルコール性脂肪肝では ALT、AST の上昇程度は小さい<ref name=med.nikkek.551531>[http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/report/201706/551531.html 「たかが脂肪肝」じゃないんです] 日経メディカル 記事:2017年6月6日</ref>。また、非アルコール性脂肪性肝炎(NASH)では肝細胞の線維化が進行して正常な肝細胞が少なくなると、ALTやASTの値はむしろ低下するためである<ref name=med.nikkek.551531 />。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !検査 !! 正常値 !! 脂肪肝では? |- | AST(GOT) || 10-40 IU/L || 軽度上昇。過栄養では ALT > AST |- | ALT(GPT) || 5-35 IU/L || アルコール性の場合は AST > ALT |- | [[γ-グルタミルトランスフェラーゼ|γ-GTP]] || 50 IU/L以下 || アルコール性脂肪肝では高くなる |- | コリンエステラーゼ || 186-490 IU/L || 過栄養で上昇する |- | 総コレステロール || 120-220 mg/dl || 高くなる |- | 中性脂肪 || 50-150 mg/dl || 高くなる |- | [[血小板]] || 13-37.9 万/μL<ref>[http://uwb01.bml.co.jp/kensa/search/detail/3803129 血小板数(Plt)] BML</ref> || 20万/μL以下<ref>[https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t352/202008/566567.html 今や生活習慣病患者全例で腹部超音波は必須] 日経メディカル 2020年8月4日</ref> |} 総合南東北病院資料<ref>[http://www.minamitohoku.or.jp/up/news/minamitouhoku/topnews/201003/topic.htm 脂肪肝] 総合南東北病院資料</ref>より引用し改変。 === 画像検査 === * [[腹部超音波検査|エコー検査]] *: 「'''肝腎コントラスト'''上昇(hepatorenal contrast)」(腎よりも肝が高エコー)や「'''肝脾コントラスト'''上昇」(脾よりも肝が高エコー)が見られる。また深部減衰(deep attenuation)もみられる。肝臓は腫大し、肝右葉下端が右[[腎臓|腎]]下極よりも尾側に位置することがある。超音波が斜めに入射する[[胆嚢]]壁では、壁が不明瞭化する「'''fatty boundless sign'''」もみられる。 *: 限局性に脂肪沈着が多い部分・少ない部分がある場合、[[腫瘍]]と鑑別を要する。鑑別点は、門脈など正常の脈管構造の有無などである。 * [[コンピュータ断層撮影|CT]] *: 肝の脂肪化に伴い肝実質が低吸収となる。肝/脾のCT値比が0.9以下で肝脂肪化30%の目安となるため、CT上はこれによって脂肪肝とされることが多い。脈管が肝実質より高吸収となることもある。 * [[核磁気共鳴画像法|MRI]] === 病理検査 === [[image:Non-alcoholic fatty liver disease1.jpg|thumb|250px|非アルコール性の脂肪肝疾病(NAFLD)の[[染色|マッソン・トリクロームおよびヴァーホフ染色]]による[[顕微鏡]]写真。大きな楕円形の空隙が脂肪滴、残った肝細胞は赤、死滅した細胞の痕に集まった線維が緑に染まっている。大きく膨らんだ脂肪滴が、圧迫により肝細胞の[[細胞核|核]]を変形させている。]] [[肝生検]]にての病理組織所見は決定される。基本的には[[肝細胞]]の脂肪変性が認められる。 * アルコール性脂肪肝 * 非アルコール性脂肪肝 ; 診断基準 観察者の判断差異や施設間差異の低減のため、下記表によるスコアリングによる病理診断(NAS: NAFLD Activity Score)が行われる事がある<ref name=NAFLD_NASHGL2 />。 {| class="wikitable" |+ NAS (NAFLD Activity Score) |- ! 項目 !! 程度 !! 点数 |- ! rowspan="4" | 肝脂肪化 | 5%未満 || 0点 |- | 5-33% || 1点 |- | 33-66% || 2点 |- | 66%以上 || 3点 |- ! rowspan="4" | 小葉内炎症 | 病巣なし || 0点 |- | 200倍の視野で2箇所の病巣以下 || 1点 |- | 200倍の視野で2-4箇所の病巣 || 2点 |- | 200倍の視野で4箇所以上の病巣 || 3点 |- ! rowspan="3" | 肝細胞の風船様変化 | なし || 0点 |- | 少数の風船様変性細胞 || 1点 |- | 多数の風船様変性細胞 || 2点 |- ! |- ! rowspan="4" | 診断 | || 合計 |- | 脂肪肝 (NAFL) || 0-2点 |- | 境界型 NASH || 3-4点 |- | 非アルコール性脂肪肝炎 NASH || 0-8点 |} 更に、下記 Younossiの診断基準を併用する事がある<ref name=NAFLD_NASHGL2 />。<!--日本消化器病学会 NAFLD/NASH 診療ガイドライン2014より引用--> # 肝細胞の脂肪化(程度は問わない)に加え小葉中心性の肝細胞の風船様変性(centrilobular ballooning)やMallory-Denk体を認めるもの。 # 肝細胞の脂肪化に加え小葉中心性の細胞周囲/類洞周囲(pericellular/perisinusoidal)の線維化または架橋形成(bridging fibrosis)を認めるもの。 以上 1.または 2.を満たす場合NASHと定義する。 == 病態 == 炭水化物や[[糖分]]はグルコースに分解され生体活動で消費されるが、余剰分は中性脂肪脂に合成され肝細胞中に蓄積される。砂糖が分解してできる[[果糖]]は、量に依存する肝毒性を示す。果糖は、肝臓でのみ代謝される。この理由として、果糖はグルコースに比べ開環率が高く(約10倍も[[糖化反応]]に使われやすいため<ref name=mc>{{cite journal |doi=10.1021/bi00406a016 |author=McPherson JD, Shilton BH, Walton DJ |title=Role of fructose in glycation and cross-linking of proteins |journal=Biochemistry |volume=27 |issue=6 |pages=1901-1907 |year=1988 |month=March |pmid=3132203}}</ref>)、生体への毒性はグルコースよりも遥かに高い。この毒性を早く消す目的で、[[肝臓]]はグルコースよりも果糖を優先的に処理する<ref>{{Cite journal|和書|author=山内俊一 |url=https://doi.org/10.6032/gnam.34.219 |title=糖質ー特にフルクトースに関してー |journal=痛風と核酸代謝 |year=2010 |volume=34 |issue=2 |pages=219 |doi=10.6032/gnam.34.219 |publisher=日本痛風・尿酸核酸学会}}</ref>。果糖は、肝臓や骨格筋に[[インスリン抵抗性]]を引き起こす。インスリン抵抗性が生じると、膵臓からの[[インスリン]]分泌が促される。過剰なインスリンによる[[高インスリン血症]]は、各種の臓器障害をもたらす。例えば、[[脂質異常症]]や肝臓の炎症をもたらす<ref name="Taubes">[http://www.nytimes.com/2011/04/17/magazine/mag-17Sugar-t.html?pagewanted=all&_r=0 Is Sugar Toxic?] The New York Times、2011年4月13日</ref><ref>[http://podcast.uctv.tv/webdocuments/Fructose-Epidemic.pdf The Fructose Epidemic] Robert H. Lustig</ref>。 {{seealso|炭水化物代謝}} これとは逆に、例えば拒食症などによって、生体の飢餓状態が長期にわたって続いた場合も、肝細胞内に脂肪が蓄積して、脂肪肝になることがある。 脂肪肝においては、血清[[フェリチン]]の増加がしばしばみられ、脂肪肝のなかでも非アルコール性脂肪性肝炎 (NASH) を含んだ非アルコール性脂肪性肝疾患では、肝組織内の[[鉄過剰症|鉄の過剰]]が肝障害の増悪因子と考えられている<ref>船津和夫、山下毅、本間優 ほか、「[https://doi.org/10.11320/ningendock2005.20.32 脂肪肝における血中ヘモグロビン値の検討]」『人間ドック (Ningen Dock)』 2005年 20巻 1号 p.32-37 , {{DOI|10.11320/ningendock2005.20.32}}</ref>。 == 治療 == * [[アルコール性肝障害|アルコール性脂肪肝]]であれば、[[禁酒]]を行うと6週間以内に症状は改善する。必要であれば食生活改善を行う。なお、[[肝硬変]]に至っていない、脂肪肝の状態の肝臓は可逆的なので<ref>[http://www.kanazawa-med.ac.jp/~hospital/2013/01/-10.html 金沢医科大学 教えて!ドクター 第10回]</ref>、患者は生涯にわたる禁酒ではなく、脂肪肝が正常な肝臓に戻るまでの一時的な断酒で良い場合がある。肝臓が正常になったと診断された後には、脂肪肝を再発しない程度の適度な飲酒であれば許され得る。逆に、アルコール性脂肪肝であるのにもかかわらず飲酒してしまう対応を取った場合、アルコール性肝炎、さらには、アルコール性肝硬変へと進行してしまい、一時的な禁酒ではなく、生涯にわたる禁酒が求められる。なぜなら、肝硬変は不可逆的な肝臓の病変であり[[延命治療]]しかできないものの、飲酒は肝硬変の進行を促進するため、断酒することが、延命につながるからである<ref>[http://www.kanen.ncgm.go.jp/cont/010/alcohol.html アルコール性肝疾患] (特に「予後」の節を参照のこと)</ref>。 * 肥満を伴う[[非アルコール性脂肪性肝炎]]であれば、[[ダイエット]]等の食生活改善が基本で、間食、夜食習慣は悪化させる<ref name=nisshoshi.104.1714>加藤章信、鈴木一幸、「[https://doi.org/10.11405/nisshoshi.104.1714 肝疾患の栄養療法]」『日本消化器病学会雑誌』 2007年 104巻 12号 p.1714-1721, {{DOI|10.11405/nisshoshi.104.1714}}</ref>。コロラド州立大学教授の Michael Pagliassotti が、実験動物を、摂取エネルギー量の20%分を砂糖で飼育したところ、その実験動物には、数ヶ月後には脂肪肝が生じて、インスリン抵抗性が生じた。砂糖をやめたところ、脂肪肝は速やかに消失し、インスリン抵抗性も消失したと報告している<ref name="Taubes" /><ref name=nisshoshi.104.1714 />。 * 拒食症やタンパク質摂取を削減するダイエットが原因となっている場合、摂取カロリーの主体が炭水化物や糖質が過剰(低タンパク-高炭水化物)となっている事が多いが、タンパク質が主体の(高タンパク-低炭水化物)に食事に変えることで改善される。 * 食事療法のポイント<ref name=nisshoshi.104.1714 /> # エネルギー #* 25-35kcal/kg日,蛋白質 1.0-1.5g/kg日 # 3大栄養素の配分 #* 蛋白質 20-25%,脂質 15-20%,糖質 60% == 抗脂肪肝ビタミン様物質 == [[糖アルコール]]の1種である[[イノシトール]]は、一般にビタミンには分類されないものの、ビタミンと似たような作用を持ったビタミン様物質の1つとして挙げられる<ref>『[http://www.jfrl.or.jp/jfrlnews/files/news_no83.pdf イノシトール - ビタミン様物質としての働き]』 p.1</ref>。このイノシトールの作用の1つとして、脂肪肝になりにくくする作用も存在すると言われている<ref>『[http://www.jfrl.or.jp/jfrlnews/files/news_no83.pdf イノシトール - ビタミン様物質としての働き]』 p.2</ref>。 == 脚注 == {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[肝臓学]] * [[消化器学]] * [[脂肪肝出血症候群]] * [[脂質異常症]] * [[ニクズク肝]] * [[肝硬変]] == 外部リンク == * [http://www.jsge.or.jp/cgi-bin/yohgo/index.cgi?type=50on&pk=D75 医学用語集 脂肪肝] 日本消化器病学会 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しほうかん}} [[Category:脂肪肝|*]] [[Category:病気]] [[Category:消化器病]] [[Category:肝臓病]]
2003-09-14T10:48:25Z
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徳川恒孝
徳川 恒孝(とくがわ つねなり、旧字体:德川 恆孝、1940年〈昭和15年〉2月26日 - )は、日本の実業家。徳川宗家第18代当主。松平一郎の次男。 学習院大学政経学部政治学科卒業(学位:政治学士)。元日本郵船副社長。公益財団法人徳川記念財団初代理事長(現在は名誉理事長)。WWFジャパン代表理事。公益財団法人斯文会名誉会長。公益社団法人東京慈恵会元会長。一般社団法人横浜港振興協会元会長。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校特別講演講師。公益財団法人日本美術刀剣保存協会名誉顧問。 ちなみに、恒孝の母方の祖父で系譜上の養父に当たる家正は最後の貴族院議長であり、父方の祖父に当たる松平恆雄は貴族院に代わって成立した参議院の初代議長である。また、血統上は家康の十一男・徳川頼房の男系子孫である。
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徳川 恒孝は、日本の実業家。徳川宗家第18代当主。松平一郎の次男。 学習院大学政経学部政治学科卒業。元日本郵船副社長。公益財団法人徳川記念財団初代理事長(現在は名誉理事長)。WWFジャパン代表理事。公益財団法人斯文会名誉会長。公益社団法人東京慈恵会元会長。一般社団法人横浜港振興協会元会長。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校特別講演講師。公益財団法人日本美術刀剣保存協会名誉顧問。
{{表記揺れ案内|表記1=徳川恒孝|表記2=德川恒孝|表記3=德川恆孝|議論ページ=}} {{JIS2004}} {{Infobox 人物 |氏名=徳川 恒孝 |ふりがな=とくがわ つねなり |画像= |画像サイズ= |画像説明= |出生名=松平 恒孝(まつだいら つねなり) |生年月日={{生年月日と年齢|1940|02|26}} |生誕地={{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[渋谷区]] |没年月日= |死没地= |死因= |住居= |国籍={{JPN}} |別名= |市民権= |教育= |出身校=[[学習院大学]]政経学部卒業 |職業=[[徳川記念財団]]名誉[[理事長]]<br />[[世界自然保護基金|WWF]]ジャパン[[代表理事]]<br />[[斯文会]]名誉会長<br />[[日本美術刀剣保存協会]][[名誉顧問]] |活動期間= |時代= |配偶者=[[徳川幸子]] |子供=[[徳川家広]](長男) |親=[[松平一郎]](父)<br />[[松平豊子]](母)<br />[[徳川家正]](養父・外祖父)<br />[[徳川正子]](養母・外祖母) |親戚= |家族=[[松平恒忠]](兄)<br />[[松平恒和]](弟) |コールサイン= |受賞= |栄誉= |公式サイト= |署名= |署名サイズ= |補足= }} '''徳川 恒孝'''(とくがわ つねなり、{{smaller|旧字体:}}'''德川 恆孝'''、[[1940年]]〈[[昭和]]15年〉[[2月26日]] - )は、[[日本]]の[[実業家]]。[[徳川宗家]]第18代[[家長|当主]]。[[松平一郎]]の次男。 [[学習院大学]]政経学部政治学科卒業<ref>『江戸の遺伝子―いまこそ見直されるべき日本人の知恵』の著者プロフィール</ref>([[学位]]:[[学士(政治学)|政治学士]])。元[[日本郵船]]副社長。[[財団法人|公益財団法人]][[徳川記念財団]]初代[[理事長]](現在は名誉理事長)。[[世界自然保護基金|WWF]]ジャパン代表理事。公益財団法人[[斯文会]][[名誉会長]]。[[社団法人|公益社団法人]][[東京慈恵会]]元[[会長]]。一般社団法人横浜港振興協会元会長。[[早稲田大学]]エクステンションセンター[[八丁堀 (東京都中央区)|八丁堀]]校特別講演講師。公益財団法人[[日本美術刀剣保存協会]][[名誉顧問]]。 == 年譜 == *1940年(昭和15年) - 元[[御家門]]の[[会津松平家]]の一門に生まれる。徳川宗家に養子に入るまでの姓名は'''松平 恒孝'''。 *[[1954年]](昭和29年) - 第17代当主・徳川家正(外祖父)の養子となり、'''徳川 恒孝'''に改名<ref>著書『日本人の遺伝子』の著者プロフィール</ref>。 *[[1963年]](昭和38年) - 家正の死去により[[家督]]を継ぎ、第18代当主となる。 *[[1964年]](昭和39年) - 日本郵船株式会社に入社。 *[[2001年]]([[平成]]13年) - 日本郵船の[[取締役]]欧州大洋州事業部長から副社長に就任。 **12月 - [[皇太子]][[徳仁|徳仁親王]](現天皇)の長女・[[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]の誕生に関わる儀式において、[[武家]]末裔の代表として、後述の[[前田利祐]]とともに[[鳴弦の儀|鳴弦]]役を務める。 *[[2002年]](平成14年)[[4月]] - 日本郵船を退社、同社顧問に就任。 *[[2003年]](平成15年) **[[4月1日]] - 財団法人「[[徳川記念財団]]」を設立して理事長に就任。 **[[8月22日]] - 天皇[[明仁]]・皇后[[上皇后美智子|美智子]](当時)が[[東京都江戸東京博物館]]の「徳川将軍家展」を鑑賞。恒孝・幸子夫妻が説明役を務める。 **初代[[徳川家康|家康]]が[[江戸幕府]]を開いて400周年に当たるため、国内各地でさまざまな行事が開催され、宗家当主・記念財団理事長としてそれらに携わった。 *[[2006年]](平成18年)4月1日 - 社団法人東京慈恵会会長に就任(~2022年頃まで)。 *[[2012年]](平成24年)4月1日 - [[商工会議所|静岡商工会議所]]最高顧問に就任<ref>[http://www.shizuoka-cci.or.jp/assets/files/navigate/20120223tokugawa.pdf 静岡商工会議所最高顧問の委嘱について(24.2.23 静岡商工会議所記者懇談会資料)])</ref>。 *[[2017年]](平成29年)[[10月10日]] - 公益財団法人日本美術刀剣保存協会の名誉顧問に就任。 *[[2023年]]([[令和]]5年)[[1月1日]] - 宗家当主の座を長男・家広に譲る。 == 系譜 == *曽祖父:[[徳川家達]] - [[徳川宗家]]第16代当主、[[静岡藩]]初代藩主、[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]、[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン軍縮会議]]全権大使、第6代[[日本赤十字社]][[社長]]。 *曽祖父:[[島津忠義]] - [[島津久光]]の長男、[[薩摩藩]]第12代(最後の)藩主、[[島津氏]]第29代当主。 *曽祖父:[[松平容保]] - [[陸奥国]][[会津藩]]第9代藩主、[[京都守護職]]。 *曽祖父:[[鍋島直大]] - [[肥前国]][[佐賀藩]]第11代(最後の)藩主、駐[[イタリア王国]][[特命全権公使]]、[[皇典講究所]]第4代所長。 *祖父:[[松平恆雄]] - 松平容保の六男、[[事務次官等の一覧#外務次官|外務次官]]、駐[[イギリス|英]][[特命全権大使|大使]]、[[在アメリカ合衆国日本大使|駐米大使]]、[[宮内省|宮内大臣]]、初代[[参議院議長]]。 *祖母:[[松平信子]] - 鍋島直大の四女、[[常磐会]]会長。 *養父・外祖父:[[徳川家正]] - 徳川宗家第17代当主、貴族院議長、[[外交官]]。[[嫡男]]の[[徳川家英|家英]]早世後に[[養子縁組]]を結び養父となる。 *養母・外祖母:[[徳川正子]] - 島津忠義の十女、[[菊麿王妃常子]]と[[邦彦王妃俔子]]の妹、[[香淳皇后]]の叔母。 *父:[[松平一郎]] - [[御家門]]の[[会津松平家]]分家当主、[[東京銀行]](現・[[三菱UFJ銀行]])元会長。 *母:[[松平豊子]] - 徳川家正の長女。 *兄:[[松平恒忠]] - 日本英語交流連盟会長、日本フィンランド文化友好協会会長。 *弟:[[松平恒和]] - [[早稲田大学]]国際情報通信研究センター[[客員教授]]。 *妻:徳川幸子 - 旧姓:寺島。元[[客室乗務員]]。[[伯爵]][[寺島宗則]]の曽孫。寺島宗従の長女、[[侯爵]][[細川護立]]の外孫、[[細川護熙]]元[[内閣総理大臣|首相]]、[[近衞忠煇]]の従姉妹。 *長男:[[徳川家広]] - [[翻訳家]]、[[作家]]、[[徳川記念財団]][[理事長]]、[[ベトナム人]]女性と結婚。徳川宗家第19代当主。 *次女:[[徳川典子]] - 徳川記念財団[[学芸員]]<ref>『朝日新聞』2018年3月28日朝刊(東京本社)、第19面「リレーおぴにおん 維新150年 3 泰平260年思い、2女性が尽力」</ref>。 *大伯母:[[梨本伊都子|梨本宮伊都子妃]] - [[松平信子]]の姉 *伯父:[[徳川家正|徳川家英]] - 家正の早世した嫡男、義兄に当たる。 *叔母:[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃勢津子]] - 一郎の妹。 *従弟:[[上杉邦憲]] - [[宇宙工学|宇宙工学者]]、[[上杉氏|米沢上杉家]]第17代当主、母方の叔母の子。 *はとこ: **[[黒田長久]] - [[黒田氏|黒田家]]第15代当主、[[鳥類学|鳥類学者]]。[[日本鳥学会]]会長、[[山階鳥類研究所]]所長、[[日本野鳥の会]]会長、黒田奨学会[[総裁]]。以下その人物の祖父母が兄弟で、共に島津忠義の曽孫でその子供達の孫である。 **松平直壽 - [[越前松平家|松江松平家]]当主、同上。 **[[筑波常治]] - 筑波家当主、元早稲田大学[[教授]]、同上。 **[[筑波常遍]] - [[真言宗山階派]]大本山[[勧修寺]]第45代[[長吏 (社寺の長官)|長吏]]、常治の弟、同上。 **[[徳川宗英]] - [[田安徳川家]]第11代当主、[[作家]]、同上。 **[[徳川宗賢]] - [[言語学|言語学者]]、[[日本語学|国語学者]]。[[大阪大学]]教授、学習院大学教授、国語学会代表理事、第21期[[国語審議会]]委員。宗英の弟、故人。同上 **[[久松定成]] - [[久松氏|久松家]]先代当主、元[[愛媛大学]]教授、[[靖国神社崇敬奉賛会]]元会長、「[[サイカブト|ヒサマツサイカブトムシ]]」の発見者。故人。同上。 **[[明仁]] - 第125代[[天皇]]、同上。 **[[常陸宮正仁親王]] - [[常陸宮家]]当主、財団法人[[日本鳥類保護連盟]]総裁、同上。 **[[久邇邦昭]] - [[久邇宮|久邇家]]当主、[[神社本庁]]統理、同上。 **[[島津修久]] - 島津家第32代当主、[[島津興業]]会長、[[鶴嶺神社]][[宮司]]、[[照国神社]]宮司、[[平松神社 (鹿児島市)|平松神社]]宮司、鹿児島経済同友会代表幹事。同上。 **[[島津禎久]] - 旧[[佐土原藩]]島津家出身、[[カメラマン]]。[[山階鳥類研究所]]理事長・[[島津久永]]の長男、同上。 **[[徳川宜子]] - [[紀州徳川家]]第19代当主、[[建築家]]、同上。 **[[徳川慶朝]] - [[徳川慶喜家]]当主、カメラマン、共に松平容保の曽孫、故人。 *義従兄:[[徳川義宣]] - [[尾張徳川家]]第21代当主、[[美術史]]家。義宣の妻・三千子が恒孝と従姉、同上。 ちなみに、恒孝の母方の祖父で系譜上の養父に当たる家正は最後の貴族院議長であり、父方の祖父に当たる松平恆雄は貴族院に代わって成立した[[参議院]]の初代議長である。また、血統上は家康の十一男・[[徳川頼房]]の男系子孫である。 == 逸話 == * 祖父・家正から養子に望まれたとき、恒孝は父・一郎に「なぜボクだけがよそへ行かなければいけないのですか」と聞いた。すると、一郎は「お前は大飯を食うからだ」と答えた。当時は戦中から戦後にかけての窮乏期だったため、恒孝を家正が説得した最後の決め手は「おいしいものを沢山食べさせてあげる」だったという<ref>[[本田靖春]]『現代家系論』p.226([[文藝春秋社]]、[[1973年]])</ref>。しかし、本人の講演会での談によれば、実際には養父である家正らは非常に粗食家であったため思ったようにご飯を食べさせてもらえなかった。幼少の恒孝は空腹に耐えかね、実家の松平家にご飯を食べに帰り、その際に状況を察していた母・豊子は恒孝の分も食事を用意していたそうである。 * 徳川宗家の当主として先祖の祭祀に多大な時間を割いている。歴代当主の命日には墓所のある[[上野]][[寛永寺]]や[[芝 (東京都港区)|芝]][[増上寺]]に参る他、家康の命日の[[4月17日]]には[[久能山東照宮]]、月遅れの[[5月17日]]に[[日光東照宮]]でそれぞれ祭事があり、それぞれ[[束帯]]姿で参列する。歴代[[征夷大将軍|将軍]]の[[側室]]など徳川宗家ゆかりの人々の墓は年末年始や[[お盆|盆]]にまとめて参っているが、合計すると月平均2-3日を先祖の供養に費やさねばならないため、会社勤め時代はその都度[[有給休暇]]を使い、個人的な休みを返上するなどの努力により時間をやりくりしていた<ref>本田靖春『現代家系論』p.226-227(文藝春秋社、1973年)</ref>。 * [[越前松平家]]当主の[[松平宗紀]]とは[[学習院中・高等科|学習院]]の同級生である。恒孝は会津松平家から徳川宗家へ、宗紀は[[田安徳川家]]から松平家へ養子に入ったため苗字が入れ違いになっており、「松平が松平に、徳川が徳川に行ったらいいじゃないか」と同級生たちにからかわれたという<ref>『文藝春秋』2015年4月号</ref>。 * 日本郵船に勤務していた際、[[前田氏|加賀前田家]]18代当主の[[前田利祐]](のち[[宮内庁]]委嘱掌典)と、一時期本社の同じ部署で勤務していたことがあり、恒孝は「随分昔ですが、人を怒鳴ることで有名な副部長がいまして、『前田!徳川!ちょっと来い!』などと呼びつけたのは[[豊臣秀吉|太閤様]]以来おれだけだ、といっていたとのことです」とこの時のことを回想している<ref>{{Cite web|和書|title=「食と農を結ぶ活力あるJAづくりのために2008」|url=https://www.jacom.or.jp/archive02/document/tokusyu/toku221/toku221s08011004.html|website=農業協同組合新聞|accessdate=2019-04-30|publisher=社団法人 農協協会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190217210540/https://www.jacom.or.jp/archive02/document/tokusyu/toku221/toku221s08011004.html|archivedate=2019-4-30|date=2008-1-10|author=財団法人徳川記念財団理事長 '''徳川恒孝'''}}</ref>。 * 長男の家広が[[ベトナム人]]と結婚したときに猛反対した。一時期は家広の[[廃嫡]]も噂されたが、「(長男に)早く後を継いでもらいたい」と発言している<ref>『週刊朝日』2014年3月28日号</ref>。[[2022年]][[10月25日]]、恒孝は高齢であることなどを理由に年内で当主を退くことを決め、[[2023年]][[1月1日]]付で家広が19代当主として正式に[[家督]]を継ぐことが各メディアで報じられた<ref name="nhk20221025">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221025/k10013869731000.html | title=徳川家康の子孫 宗家が当主交代 19代家広氏が家督継承へ | publisher=NHK |date=2022-10-25 | accessdate=2022-10-25 }}</ref>{{Refnest|group="注"|代替わりの儀式として、2023年1月29日に[[増上寺]]で「継宗の儀」が行われる。また、家広は、家康命日の4月17日に墓所の久能山東照宮(静岡市)、5月17日に日光東照宮(栃木県日光市)で行われる祭事に衣冠束帯で臨む<ref name="tokyo20221026">{{Cite web|和書|author=高橋雅人 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/210250 | title=徳川家康の子孫、宗家が当主交代へ 19代は家広さん | publisher=東京新聞 |date=2022-10-26 | accessdate=2022-10-25 }}</ref>。}}。 == 著書 == === 単著 === *『江戸の遺伝子 いまこそ見直されるべき日本人の知恵』 [[PHP研究所]]、2007年 /[[PHP文庫]]、2009年 **(英訳)''The Edo Inheritance'' [[徳川家広]]英訳、[[国際文化会館|I-House Press]]、2009年 *『日本人の遺伝子』 PHP研究所、2012年 === 共著 === *『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』 [[養老孟司]] 共著、[[PHP研究所]]、2010年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == *[http://www.tokugawa.ne.jp/ 公益財団法人 徳川記念財団] {{徳川氏歴代当主|||第18代}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とくかわ つねなり}} [[Category:日本の海事実業家]] [[Category:日本の自然保護活動家]] [[Category:日本郵船の人物]] [[Category:徳川宗家|つねなり]] [[Category:会津松平家|つねなり]] [[Category:学習院中・高等科出身の人物]] [[Category:学習院大学出身の人物]] [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:20世紀日本の活動家]] [[Category:21世紀日本の活動家]] [[Category:1940年生]] [[Category:存命人物]]
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劇作家
劇作家(、英: playwright、dramatist)は、演劇の上演のために書かれる戯曲の作者。戯曲家と呼ばれることもある。日本においては演出家を兼ねている者が多い。現在までその作品が残っている最も古い劇作家としては、紀元前5世紀頃のアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの古代ギリシアにおける悲劇作家達が挙げられる。その作品である戯曲は、通常は俳優によって観客の前で演劇として上演するために執筆される。戯曲の中には、上演を目的とせず読まれることを目的に書かれたレーゼドラマや、戯曲の形式をとってはいるが上演は意図していない作品もある。 西洋文学において、今日まで伝えられている最も古い劇作家は、古代ギリシアの劇作家たちである。こうした初期の演劇は、紀元前5世紀ころにアテナイで毎年開催されていた劇作家たちの競技のために書かれたものであった。アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストパネス といった有名な劇作家たちは、今日でも踏襲されている様々な形式を確立していた。 現代のアメリカ合衆国の劇作家たちは、名声や文化的地位という意味で、かつての先達に比肩するところまでには至らないことが多い。もはや演劇は、シリアスなドラマや楽しめるコメディを観客に提供する唯一の回路ではなく、映画、テレビ、インターネットと、観客を奪い合わなければならない。さらに、合衆国における芸術への資金援助の危機的な状態や、非営利団体が運営する劇場に依存したチケットの売上を収入源とせざるを得ないという現実は、多くの劇作家たちに、なかなか新作を出せない状況をもたらしている。例えば、ニューヨークのオフ・ブロードウェイにある非営利劇場 Playwrights Horizons は、1973-74年のシーズンには31本の演劇を上演していたが、2002-03年のシーズンには6本しか上演できなかった。ライバルでもあり、大がかりな制作が行われるミュージカルは、「必見」のブロードウェイ作品(あるいはオフ・ブロードウェイ作品)となっているが、ここでも劇作家が十分な収入を得ることは容易ではなく、大きな成功を掴むといったことは望外である。 しかし、最も成功した劇作家たちは、演劇界において高い地位を占めていることが多い。これは、ハリウッドなどの映画界において脚本家が占める地位とは対照的である。アメリカ劇作家組合(Dramatists Guild of America)は、劇作家は演劇の上演に決定権をもっていると主張している。映画においては、これとは対照的に、監督は「作家」として脚本を自由に変更できる。 英語の playwright という言葉を作ったのはイングランドの詩人ベン・ジョンソンのようで、彼のエピグラム49「劇作家へ(TO PLAYWRIGHT)」では、単なる商売としてウケるように作品を作っていく劇作家を見下したような表現として、「プレイライト」が用いられていた。ジョンソンは自身も戯曲を書いていたが、自分のことは常に「詩人(poet)」と称していた。当時の劇は常に韻律をともなっていたので、それを作るのは詩人の仕事と考えられていたからである。こうした見方は19世紀はじめまで存在していた。しかし、その後は、playwright という言葉の否定的な含意はなくなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "劇作家(、英: playwright、dramatist)は、演劇の上演のために書かれる戯曲の作者。戯曲家と呼ばれることもある。日本においては演出家を兼ねている者が多い。現在までその作品が残っている最も古い劇作家としては、紀元前5世紀頃のアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの古代ギリシアにおける悲劇作家達が挙げられる。その作品である戯曲は、通常は俳優によって観客の前で演劇として上演するために執筆される。戯曲の中には、上演を目的とせず読まれることを目的に書かれたレーゼドラマや、戯曲の形式をとってはいるが上演は意図していない作品もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "西洋文学において、今日まで伝えられている最も古い劇作家は、古代ギリシアの劇作家たちである。こうした初期の演劇は、紀元前5世紀ころにアテナイで毎年開催されていた劇作家たちの競技のために書かれたものであった。アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストパネス といった有名な劇作家たちは、今日でも踏襲されている様々な形式を確立していた。", "title": "歴史上の劇作家" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現代のアメリカ合衆国の劇作家たちは、名声や文化的地位という意味で、かつての先達に比肩するところまでには至らないことが多い。もはや演劇は、シリアスなドラマや楽しめるコメディを観客に提供する唯一の回路ではなく、映画、テレビ、インターネットと、観客を奪い合わなければならない。さらに、合衆国における芸術への資金援助の危機的な状態や、非営利団体が運営する劇場に依存したチケットの売上を収入源とせざるを得ないという現実は、多くの劇作家たちに、なかなか新作を出せない状況をもたらしている。例えば、ニューヨークのオフ・ブロードウェイにある非営利劇場 Playwrights Horizons は、1973-74年のシーズンには31本の演劇を上演していたが、2002-03年のシーズンには6本しか上演できなかった。ライバルでもあり、大がかりな制作が行われるミュージカルは、「必見」のブロードウェイ作品(あるいはオフ・ブロードウェイ作品)となっているが、ここでも劇作家が十分な収入を得ることは容易ではなく、大きな成功を掴むといったことは望外である。", "title": "現代の劇作家" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかし、最も成功した劇作家たちは、演劇界において高い地位を占めていることが多い。これは、ハリウッドなどの映画界において脚本家が占める地位とは対照的である。アメリカ劇作家組合(Dramatists Guild of America)は、劇作家は演劇の上演に決定権をもっていると主張している。映画においては、これとは対照的に、監督は「作家」として脚本を自由に変更できる。", "title": "現代の劇作家" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "英語の playwright という言葉を作ったのはイングランドの詩人ベン・ジョンソンのようで、彼のエピグラム49「劇作家へ(TO PLAYWRIGHT)」では、単なる商売としてウケるように作品を作っていく劇作家を見下したような表現として、「プレイライト」が用いられていた。ジョンソンは自身も戯曲を書いていたが、自分のことは常に「詩人(poet)」と称していた。当時の劇は常に韻律をともなっていたので、それを作るのは詩人の仕事と考えられていたからである。こうした見方は19世紀はじめまで存在していた。しかし、その後は、playwright という言葉の否定的な含意はなくなった。", "title": "『プレイライト』" } ]
劇作家(げきさっか、は、演劇の上演のために書かれる戯曲の作者。戯曲家と呼ばれることもある。日本においては演出家を兼ねている者が多い。現在までその作品が残っている最も古い劇作家としては、紀元前5世紀頃のアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの古代ギリシアにおける悲劇作家達が挙げられる。その作品である戯曲は、通常は俳優によって観客の前で演劇として上演するために執筆される。戯曲の中には、上演を目的とせず読まれることを目的に書かれたレーゼドラマや、戯曲の形式をとってはいるが上演は意図していない作品もある。
{{読み仮名|'''劇作家'''|げきさっか|{{lang-en-short|playwright}}、{{lang|en|dramatist}}}}は、[[演劇]]の上演のために書かれる[[戯曲]]の作者。'''戯曲家'''と呼ばれることもある。[[日本]]においては[[演出家]]を兼ねている者が多い。現在までその作品が残っている最も古い劇作家としては、紀元前5世紀頃の[[アイスキュロス]]、[[ソフォクレス]]、[[エウリピデス]]などの[[古代ギリシア]]における悲劇作家達が挙げられる。その作品である[[戯曲]]は、通常は[[俳優]]によって[[観客]]の前で[[演劇]]として上演するために執筆される。戯曲の中には、上演を目的とせず読まれることを目的に書かれた[[レーゼドラマ]]や、戯曲の形式をとってはいるが上演は意図していない作品もある。 == 歴史上の劇作家 == 西洋文学において、今日まで伝えられている最も古い劇作家は、[[古代ギリシア]]の劇作家たちである。こうした初期の演劇は、紀元前5世紀ころに[[アテナイ]]で毎年開催されていた劇作家たちの競技のために書かれたものであった<ref>{{Cite book|last=Fraser|first=Neil|title=Theatre History Explained|publisher=The Cowood Press|year=2004|pages=11}}</ref>。[[アイスキュロス]]、[[ソポクレス]]、[[エウリピデス]]、[[アリストパネス]] といった有名な劇作家たちは、今日でも踏襲されている様々な形式を確立していた。 == 現代の劇作家 == 現代の[[アメリカ合衆国]]の劇作家たちは、名声や文化的地位という意味で、かつての先達に比肩するところまでには至らないことが多い。もはや演劇は、シリアスなドラマや楽しめるコメディを観客に提供する唯一の回路ではなく、[[映画]]、[[テレビドラマ|テレビ]]、[[インターネット]]と、観客を奪い合わなければならない。さらに、合衆国における芸術への資金援助の危機的な状態や、[[非営利団体]]が運営する劇場に依存したチケットの売上を収入源とせざるを得ないという現実は、多くの劇作家たちに、なかなか新作を出せない状況をもたらしている。例えば、[[ニューヨーク]]の[[オフ・ブロードウェイ]]にある非営利劇場 {{lang|en|[[:en:Playwrights Horizons|Playwrights Horizons]]}} は、[[1973年|1973]]-[[1974年|74年]]のシーズンには31本の演劇を上演していたが、[[2002年|2002]]-[[2003年|03年]]のシーズンには6本しか上演できなかった<ref>{{Cite journal|last=Soloski|first=Alexis|title=The Plays What They Wrote: The Best Scripts Not Yet Mounted on a New York Stage|journal=The Village Voice|date=2003-05-21|url=http://www.villagevoice.com/theater/0321,soloski,44226,11.html|accessdate=2011-2-12}}</ref>。ライバルでもあり、大がかりな制作が行われる[[ミュージカル]]は、「必見」の[[ブロードウェイ]]作品(あるいは[[オフ・ブロードウェイ]]作品)となっているが、ここでも劇作家が十分な収入を得ることは容易ではなく、大きな成功を掴むといったことは望外である。 しかし、最も成功した劇作家たちは、演劇界において高い地位を占めていることが多い。これは、[[ハリウッド]]などの映画界において[[脚本家]]が占める地位とは対照的である。アメリカ劇作家組合([[:en:Dramatists Guild of America|Dramatists Guild of America]])は、劇作家は演劇の上演に決定権をもっていると主張している。映画においては、これとは対照的に、[[映画監督|監督]]は「[[作家主義|作家]]」として脚本を自由に変更できる。 ==『プレイライト』== 英語の {{lang|en|playwright}} という言葉を作ったのは[[イングランド]]の詩人[[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]のようで、彼の[[エピグラム]]49「劇作家へ(TO PLAYWRIGHT)」<ref>{{Cite book|last=Johnson|first=Ben|title=The Works of Ben Jonson|publisher=Phillips, Sampson, and Co.|location=Boston|year=1853|pages=788|url=http://www.luminarium.org/sevenlit/jonson/epigram49.htm|accessdate=2011-2-12}}</ref>では、単なる商売としてウケるように作品を作っていく劇作家を見下したような表現として、「プレイライト」が用いられていた。ジョンソンは自身も戯曲を書いていたが、自分のことは常に「[[詩人]](poet)」と称していた。当時の劇は常に[[韻律 (韻文)|韻律]]をともなっていたので、それを作るのは詩人の仕事と考えられていたからである。こうした見方は19世紀はじめまで存在していた。しかし、その後は、{{lang|en|playwright}} という言葉の否定的な含意はなくなった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[戯曲]] * [[脚本家]] * [[:en:List of playwrights|List of playwrights]] == 外部リンク == {{wiktionary|playwright}} * [http://www.pubinfo.vcu.edu/artweb/playwriting/seminar.html The Playwriting Seminars], Virginia Commonwealth University * [http://www.plays.about.com "Guide to Plays and Playwrights"], forum to discuss classic and contemporary playwrights and playwriting techniques. * [http://www.freedrama.net Free Play Scripts], D. M. Bocaz-Larson's Website providing free play scripts and resources on drama for educational purposes * [http://ignitetheatrecompany.blogspot.com/ "Exit Stage Left... No, Your Left"], Blog for tips on dramatic structure and theatre theory. * [http://www.snodger.com.au/shop/tips.php "Tips for emerging writers"], Snodger, Award-winning Australian playwrights offer advice {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けきさくか}} [[Category:戯曲]] [[Category:演劇関係者]] [[Category:劇作家|*]] [[Category:文学関連の人物]]
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世良田氏
世良田(せらた、せらだ)氏は、鎌倉時代に清和源氏の新田氏から分立した上野国新田荘世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)の豪族。 新田義重の四男・義季(新田義兼の同母弟)が、父義重から世良田郷を譲られ、その地頭になることによって実質的に成立した。義季は得川郷(現在の太田市徳川町)を長子の四郎太郎頼有に与え、世良田郷は次子頼氏に継承させた。頼氏は世良田弥四郎を称し、世良田氏の名を興した。義季は禅寺長楽寺を建立したという。 義季・頼氏父子は世良田近辺の所領の開発を進め、世良田氏は新田一族中の有力者として台頭する。本宗家の新田政義が幕府の禁忌に触れて新田氏の惣領職を奪われると、岩松氏とともに世良田頼氏が惣領職を分担するに至った。頼氏は幕府に重きをなしたが、1272年に失脚して佐渡に流された。 長楽寺も北条得宗家に奪われて、皮肉にもその支援によって関東十刹(鎌倉十刹)に数えられる繁栄を遂げることになる(北条氏滅亡後に新田一族が奪還する)。 頼氏のあとは嫡男の教氏、その子・家時と継承された。 鎌倉時代末の争乱が始まると、家時の子弥次郎満義は惣領新田義貞に従って鎌倉攻めに参戦し、北条高時以下の北条氏を滅ぼした。 その後の満義は南北朝時代の争乱下においても、一族の江田行義(教氏の弟の有氏の子)とともに義貞に従い続き、南朝方として、終始活躍した。 その一方、満義の一族世良田義政は、下野国を拠点とした。彼は一族の義周とともに足利氏(尊氏など)を中心とした北朝方として、功績を残し上総国守護になっている。その末裔は、四職の山名氏の因幡国・伯耆国の守護に随行したという。因幡徳川氏(後に森本氏)と改め、家老の森本将監などが出たという。 『浪合記』(江戸期天野信景の著書とされる)によると、満義の嫡子の政義は信濃国で南朝方を率いた宗良親王(後醍醐天皇の皇子)に仕えて世良田郷を離れる。しかし至徳2年(1385年)に、庶長子の親季とともに信濃国浪合村(長野県下伊那郡阿智村)で戦死してしまったという(浪合の合戦)。 政親には男子がなく、世良田郷領主の世良田氏嫡流はここに断絶した(政義には庶子の政満(義秋)もおり、ともに浪合の合戦で散ったという)。 清水昇『消された一族』によれば、政親の娘の子・脇屋義則(新田義宗を父とする)が世良田の名跡を継いだという。義則の討死ののち、子・新田祐義は下野国真船村に住み、子孫は武田氏などに仕えたが、徳川家康の台頭に伴い真船氏を称した。真船氏の一部は戦国時代に陸奥国会津郡に移って瀬良田氏を称したとされる。 支族の江田氏は、新田宗家の命により丹波に派遣されていたが、細川氏のちには波多野氏に従うようになり丹波綾部の豪族として安土桃山時代まで命脈を伝えた。 三河国の戦国大名松平氏は、松平清康のとき清和源氏世良田氏の後裔と称するようになった。 清康は三河の支配層である守護足利系吉良氏への対立軸として、自身を新田源氏の名門に繋げるために、三河松平郷で没した政親(政義の子、親季の弟)の存在に着目したという。さらに政親の祖先である世良田頼氏は三河守、三河の支配者の先祖として、着眼した清康は自身の安祥松平家の世襲の通称「次郎三郎」を用い、「世良田次郎三郎清康」と称したという。 清康の孫の松平家康は初め清康からの流れとして世良田氏を称していたが、1566年、三河統一のため三河守任官を望んだ際、「世良田氏に三河守叙任の前例はない」と拒否された。そこで家康は近衛前久に相談した。近衛前久は松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを突き止め、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)するという特例措置を得、従五位下三河守に叙任された。 豊臣秀吉政権の傘下に入ったころから、再び新田源氏に復姓していたようである。その頃安房の里見氏(新田一族)に送った書状では、徳川氏と里見氏が新田一族の同族関係にあることを主張している。1590年に関東へ移封された前後には、新田一族に繋がる岩松氏の末裔を召し出して新田氏の系譜を尋ねている事項が記録にある。 この過程で家康が改竄させた徳川氏の系譜では、松平氏の祖は、親季(政親の兄)の遺児とする有親(長阿弥)ということにされている。 すなわち親季の戦死後、その子の有親も南朝方として戦った(信濃で戦死したとも言う)。有親の子世良田親氏は北朝方の追捕を逃れて時宗の僧となって徳阿弥と称し、流浪した。やがて三河国に流れつき、加茂郡松平郷の領主 松平信重(左衛門少尉)の娘婿になり、還俗して松平氏の名跡を継ぎ松平親氏(松平太郎左衛門親氏)と名乗ったとした。 また、江戸幕府七代将軍・徳川家継は童名を世良田鍋松と称した。 世良田満氏の子である経氏に始まり、その子重氏と以後子孫繁栄した。
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世良田(せらた、せらだ)氏は、鎌倉時代に清和源氏の新田氏から分立した上野国新田荘世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)の豪族。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2017年3月 | 参照方法 = 2017年3月 | 脚注の不足 = 2017年3月 | 独自研究 = 2017年3月 }} {{日本の氏族 |家名=世良田氏 |家紋=Unknown.jpg |家紋名称= |本姓=[[清和源氏]][[新田氏|新田氏流]] |家祖=[[世良田頼氏]] |種別=[[武家]] |出身地=[[上野国]][[新田荘]] |根拠地=上野国[[新田荘]][[世良田郷]] |人物= |支流=[[江田氏]]([[武家]])<br/>[[得川氏]]([[武家]]) }} '''世良田'''(せらた、せらだ)氏は、[[鎌倉時代]]に[[清和源氏]]の[[新田氏]]から分立した[[上野国]][[新田荘]][[世良田郷]](現在の[[群馬県]][[太田市]][[世良田町]])の[[豪族]]。 == 概要 == === 新田本宗家に従う === [[新田義重]]の四男・[[得川義季|義季]]([[新田義兼]]の同母弟)が、父義重から世良田郷を譲られ、その[[地頭]]になることによって実質的に成立した。義季は得川郷(現在の太田市徳川町)を長子の[[得川頼有|四郎太郎頼有]]に与え、世良田郷は次子[[世良田頼氏|頼氏]]に継承させた{{Efn|清水昇『消された一族』では、義季が世良田初代であり、世良田を継いだ頼氏を嫡男、頼有を庶子とみなしている。}}。頼氏は'''世良田弥四郎'''を称し、世良田氏の名を興した。義季は[[禅寺]][[世良田長楽寺|長楽寺]]を建立したという。 義季・頼氏父子は世良田近辺の所領の開発を進め、世良田氏は新田一族中の有力者として台頭する。本宗家の[[新田政義]]が[[鎌倉幕府|幕府]]の禁忌に触れて新田氏の[[惣領|惣領職]]を奪われると、[[岩松氏]]とともに世良田頼氏が惣領職を分担するに至った。頼氏は幕府に重きをなしたが、[[1272年]]に失脚して[[佐渡国|佐渡]]に流された。 長楽寺も[[北条氏|北条]][[得宗家]]に奪われて、皮肉にもその支援によって[[関東十刹]]([[鎌倉十刹]])に数えられる繁栄を遂げることになる(北条氏滅亡後に新田一族が奪還する)。 頼氏のあとは嫡男の[[世良田教氏|教氏]]、その子・[[世良田家時|家時]]と継承された。 鎌倉時代末の争乱が始まると、家時の子[[世良田満義|弥次郎満義]]は惣領[[新田義貞]]に従って[[鎌倉]]攻めに参戦し、[[北条高時]]以下の[[北条氏]]を滅ぼした。 その後の満義は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の争乱下においても、一族の[[江田行義]](教氏の弟の[[世良田有氏|有氏]]の子<ref>『尊卑分脈』</ref>{{Efn|ただし『徳川実紀』「新田岩松系図」「長楽寺系図」では有氏と行義の間に[[世良田義有|義有]]が入る。}})とともに義貞に従い続き、[[南朝 (日本)|南朝方]]として、終始活躍した。 その一方、満義の一族[[世良田義政]]{{Efn|『新田町誌』では満義の弟と仮定。日本家系家紋研究所編『世良田一族』(日本家系協会、[[1993年]])では有氏の曾孫。「三家考系図家譜」(『系図纂要』の得川氏系図の異説)では満義の子。}}{{Efn|[[小国浩寿]]『鎌倉府体制と東国』「上総守護と世良田義政事件―『円覚寺蔵大般若経刊記』をめぐって―」([[吉川弘文館]]、[[2001年]]、初出[[1995年]])が引用する『[[鎌倉大日記]]』によると、[[岩松政経]]の子で[[岩松直国|直国]]の兄とする。}}は、[[下野国]]を拠点とした。彼は一族の[[世良田義周|義周]]{{Efn|満義の弟とも{{要出典|date=2008年11月}}、満義の子(「東照宮御実紀」『[[徳川実紀]]』)とも伝わり定説はない。}}とともに[[足利氏]]([[足利尊氏|尊氏]]など)を中心とした[[北朝 (日本)|北朝方]]として、功績を残し[[上総国]][[守護]]になっている。その末裔は、[[四職]]の[[山名氏]]の[[因幡国]]・[[伯耆国]]の[[守護]]に随行したという。因幡徳川氏(後に[[森本氏]])と改め、家老の森本[[将監]]などが出たという<ref> 太田亮『姓氏家系大辞典』</ref>。 ===南朝方として=== 『[[浪合記]]』(江戸期[[天野信景]]の著書とされる)によると、満義の嫡子の[[世良田政義|政義]]は[[信濃国]]で南朝方を率いた[[宗良親王]]([[後醍醐天皇]]の皇子)に仕えて世良田郷を離れる。しかし[[至徳 (日本)|至徳]]2年([[1385年]])に、庶長子の[[世良田親季|親季]]とともに信濃国[[浪合村]]([[長野県]][[下伊那郡]][[阿智村]])で戦死してしまったという([[浪合の合戦]])。 政親には男子がなく、世良田郷領主の世良田氏[[嫡流]]はここに断絶した(政義には庶子の[[世良田政満|政満]](義秋{{Efn|『徳川実紀』では政義の弟とする}})もおり、ともに浪合の合戦{{Efn|『浪合記』では戦後の消息不明}}で散ったという)。 清水昇『消された一族』によれば、政親の娘の子・[[脇屋義則]]([[新田義宗]]を父とする)が世良田の名跡を継いだという。義則の討死ののち、子・[[新田祐義]]は[[下野国]]真船村に住み、子孫は[[武田氏]]などに仕えたが、[[徳川家康]]の台頭に伴い[[真船氏]]を称した。真船氏の一部は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[陸奥国]][[会津郡]]に移って[[瀬良田氏]]を称したとされる。 支族の[[江田氏]]は、[[新田宗家]]の命により[[丹波国|丹波]]に派遣されていたが、[[細川氏]]のちには[[波多野氏]]に従うようになり丹波綾部の[[豪族]]として[[安土桃山時代]]まで命脈を伝えた。 === 三河松平氏が世良田氏後裔を称した経緯 === [[三河国]]の[[戦国大名]][[松平氏]]は、[[松平清康]]のとき[[清和源氏]]'''世良田氏'''の後裔と称するようになった。 清康は三河の支配層である守護足利系[[吉良氏]]への対立軸として、自身を新田源氏の名門に繋げるために、三河[[松平郷]]で没した政親(政義の子、親季の弟)の存在に着目したという{{要出典|date=2009年8月}}。さらに政親の祖先である世良田頼氏は三河守、三河の支配者の先祖として、着眼した清康は自身の安祥松平家の世襲の通称「次郎三郎」を用い、「世良田次郎三郎清康」と称したという。 清康の孫の[[徳川家康|松平家康]]は初め清康からの流れとして世良田氏を称していたが、[[1566年]]、三河統一のため三河守任官を望んだ際、「世良田氏に三河守叙任の前例はない」と拒否された。そこで家康は[[近衛前久]]に相談した。近衛前久は松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを突き止め{{要出典|date=2020年3月}}、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)するという特例措置を得、従五位下三河守に叙任された。 [[豊臣秀吉]]政権の傘下に入ったころから、再び新田源氏に復姓していたようである。その頃[[安房国|安房]]の[[里見氏]](新田一族)に送った書状では、徳川氏と里見氏が新田一族の同族関係にあることを主張している。[[1590年]]に[[関東地方|関東]]へ移封された前後には、新田一族に繋がる[[岩松氏]]の末裔を召し出して新田氏の系譜を尋ねている事項が記録にある。 この過程で家康が改竄させた徳川氏の系譜では、松平氏の祖は、親季(政親の兄)の遺児とする[[得川有親|有親(長阿弥)]]ということにされている。 すなわち親季の戦死後、その子の有親も南朝方として戦った(信濃で戦死したとも言う<ref>「徳川家譜」(『好古類纂』所収)</ref>)。有親の子[[松平親氏|世良田親氏]]は[[北朝 (日本)|北朝]]方の追捕を逃れて[[時宗]]の僧となって徳阿弥と称し、流浪した。やがて三河国に流れつき、加茂郡[[松平郷]]の領主[[松平信重 (松平郷)| 松平信重]]([[左衛門少尉]])の娘婿になり、還俗して松平氏の名跡を継ぎ[[松平親氏]](松平太郎左衛門親氏)と名乗ったとした。 また、江戸幕府七代将軍・[[徳川家継]]は[[童名]]を'''世良田鍋松'''と称した<ref>{{Citation|和書|date=1970-07-30|chapter=徳川幕府家譜|title=徳川諸家系譜|volume=第一|publisher=[[続群書類従完成会]]|page=56|id={{NDLJP|12211158}}|ref={{SfnRef|続群書類従完成会|1970}}}}{{要登録}}</ref>。 なお、新田源氏という概念自体が江戸時代に『太平記』の影響で創作された架空のものとする説を主張している谷口雄太は、清康や家康は新田氏や世良田氏を足利系の庶流として認識していた(系図の改竄も足利将軍家と繋げるものであった)とする説を唱えている<ref>谷口雄太『中世足利氏の血統と権威』吉川弘文社、2019年、P202.</ref>。 === 泉沢氏 === 世良田満氏の子である経氏に始まり、その子重氏と以後子孫繁栄した{{要出典|date=2017年3月}}。 == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *『[[新田町]]誌』第1巻、新田町誌刊行委員会、[[1990年]]。 *群馬県史編さん委員会編 『群馬県史』 [[群馬県]]、[[1977年]]。 *[[清水昇 (作家)|清水昇]] 『消された一族-清和源氏新田氏支流・世良田氏』 [[あさを社]]、[[1990年]]。 *[[久保田順一]] 『新田一族の盛衰』 [[あかぎ出版]]、[[2003年]]。 == 関連項目 == *[[世良田駅]]([[東武伊勢崎線]]) *[[世良田東照宮]] *[[得川氏]] - 義季の長子で頼氏の兄・[[得川頼有]](下野四郎太郎)が祖。 *[[酒井氏]] *[[三河小栗氏]]([[小栗氏]]) *[[影武者徳川家康]] *[[称名寺 (府中市)]] *[[徳川家康の影武者説]] {{DEFAULTSORT:せらたし}} [[Category:世良田氏|*]] [[Category:日本の氏族|せらた]] [[Category:関東地方の氏族|せらた]] [[Category:太田市の歴史]] {{Japanese-history-stub}}
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札沼線
札沼線(さっしょうせん)は、北海道札幌市中央区の桑園駅から石狩郡当別町の北海道医療大学駅までを結ぶ、北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(地方交通線)である。「学園都市線」(がくえんとしせん)という愛称が付けられている。 改正鉄道敷設法別表第136号に規定する「石狩国札幌ヨリ当別ヲ経テ沼田ニ至ル鉄道」であり、全通時点では桑園駅から留萌本線と接する雨竜郡沼田町の石狩沼田駅までの路線であった。 石狩川左岸は早期に現在の函館本線が開通した一方、右岸は昭和期まで左岸とを結ぶ橋が無く渡船のみで、冬季や増水時に陸の孤島となることがあったことから激しい政治運動が行われ、1931年(昭和6年)10月10日に北側の石狩沼田駅 - 中徳富駅(初代。のちの新十津川駅)間が開業したのを皮切りに、南北双方から建設が進められ、1935年(昭和10年)10月3日に全通した。敷設に当たっては立憲政友会代議士の東武(あずまたけし)が尽力した。 しかし太平洋戦争が激化すると「近接して並行路線(函館本線)があり代替輸送が可能」という理由で1943年(昭和18年)10月1日から1944年(昭和19年)7月21日にかけて石狩当別駅 - 石狩沼田駅間が順次不要不急線として休止され、撤去された。 戦後は1946年(昭和21年)12月10日の石狩当別駅 - 浦臼駅間を皮切りに、1956年(昭和31年)11月16日までに全線で運行を再開した。しかし、この時期から石狩川への架橋によって道路整備が進みモータリゼーションも加わって札沼線は凋落が目立つようになった。新十津川駅 - 石狩沼田駅間がいわゆる「赤字83線」として1972年(昭和47年)6月19日に廃止。国鉄分割民営化後にはJR北海道により北海道医療大学駅 - 新十津川駅間が「当社単独では維持することが困難な線区」とされ、2020年(令和2年)5月7日付で廃止された。 現存する桑園駅 - 北海道医療大学駅間は1980年(昭和55年)から開発が開始された「札幌ニュータウンあいの里」をはじめ、札幌市北区と当別町での宅地開発の進展、沿線への北海道医療大学・北海道教育大学札幌校移転により、JR北海道の「札幌圏」を構成する通勤・通学路線に成長した。このため非電化路線でありながら高架(連続立体交差)化や駅の増設、輸送力増強のための一部複線化・列車増発が進められ、2012年(平成24年)6月1日には北海道高速鉄道開発を事業主体とした交流電化が行われ、2020年の非電化区間である北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の廃止後はJR北海道の在来線で海峡線、千歳線に次ぐ全線電化を達成した。 路線の正式名称である「札沼線」は札幌と(石狩)沼田から一文字ずつ取ったものであるが、新十津川駅 - 石狩沼田駅間廃止後に実態に合わなくなっていたことに加え、沿線に北海道教育大学札幌校や北海道医療大学など学校が数多くあることから、1991年(平成3年)3月16日のダイヤ改正時より一般公募によって学園都市線の愛称が付けられ、各種案内に用いられている。 全列車が普通列車である。運転系統としての「札沼線(学園都市線)」に路線の起点である桑園駅を始終着とする列車はなく、一駅先の函館本線札幌駅を起点として、桑園駅までは函館本線上下線の北側に並行して敷設された、札沼線系統専用の単線(通称:北線)を走行する。 2022年(令和4年)3月19日時点のダイヤでは、札幌駅 - 北海道医療大学駅間を運転する列車のほか途中のあいの里公園駅・当別駅で札幌駅へ折り返す列車が設定されている。日中時間帯は札幌駅基準で上下とも1時間に3本(20分間隔)が運転され、うちあいの里公園駅発着が1 - 2本、そのほかが当別駅または北海道医療大学駅発着となっている。札幌駅以遠への直通は早朝に上り当別始発千歳線新千歳空港行き(千歳線内は快速「エアポート」として運転)の1本のみ設定されている。札幌駅以遠との直通列車を含め、線内はほとんどの列車が各駅停車であるが、ごく一部の列車はロイズタウン駅のみ通過する。 線内の駅では車両の夜間滞泊は行われておらず、最終列車は札幌駅到着後に札幌運転所まで回送される。 2020年(令和2年)の非電化区間廃止後は、JR北海道の在来線では唯一気動車の定期運行がなく、電車のみが運転されている。 札幌運転所所属の「札幌圏」向け普通・快速列車用電車(721系、731系、733系〔0・3000番台〕、735系)が札幌圏他線区と共通で運用されている。このほか電化直後には711系電車も運用された。 電車を除く 以下、本項目の表中では一部、北海道医療大学駅を「医療大学駅」と略記する。 区間ごとの輸送密度(人/日、以下同様)は以下の通り。なお、一部の数値は函館本線札幌駅 - 桑園駅間を含むものである。 桑園駅 - 北海道医療大学駅間は2013年(平成25年)度に輸送密度が1975年(昭和50年)度比で315%に増加し、以降も新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響を受ける2020年(令和2年)度まで増加傾向が続いた。 一方で2020年(令和2年)に廃止された北海道医療大学駅 - 新十津川駅間は、2013年(平成25年)度の輸送密度が1975年(昭和50年)度(石狩当別駅 - 新十津川駅間)比で14%まで落ち込み、2013年(平成25年)度と2016年(平成28年)度以降は、JR北海道が設定した区間別で最低の輸送密度を記録している。当該区間の最低値は2017年(平成29年)度の57であり、これは、1995年(平成7年)9月4日に廃止された深名線(廃止当時80)や、2019年(平成31年)4月1日に廃止された石勝線夕張支線(廃止前年度の2017年度:69)を下回る。 区間ごとの収支(営業収益・営業費用・営業損益)と営業係数は以下の通り。▲はマイナスを意味する。JR北海道公表分についてはいずれも管理費を含めた金額である。なお、桑園駅 - 北海道医療大学駅間は札幌圏各線と合わせたデータで公表されており、単独のデータは不明。 太平洋戦争中に不要不急線として休止されていた石狩当別駅 - 石狩沼田駅間のうち、浦臼駅 - 石狩沼田駅間は、再開後も利用が振るわず、1963年(昭和38年)6月10日時点で営業係数は292となっていた。 特に新十津川駅以北は、石炭産業の凋落、自動車交通の発達や並行する国道275号の完全舗装などの道路整備、沿線の人口減少により年ごとに利用の減少が進み、同区間は営業末期の1972年(昭和47年)に発表された輸送実績では、乗車人員498人、貨物発送トン数58トンと、いずれも1960年(昭和35年)比でそれぞれ30%、62%に落ち込み、収支係数は1500にのぼった。これにより末期の同区間の運転本数は、旅客5往復/日、貨物は3日に1本程度にまで減少した。 1968年(昭和43年)に国鉄諮問委員会は「『ローカル線の輸送をいかにするか』についての意見書」中で、使命を終えた国鉄の地方線をバス転換とする方針を打ち出し、いわゆる「赤字83線」を発表し、札沼線新十津川駅 - 石狩沼田駅間もこれに含まれた。 1965年(昭和40年)頃から収入が落ち始め、1969年度(昭和44年度)の札沼線全区間の赤字額は約6億8000万円、営業係数は392だった。新十津川 ‐ 石狩沼田間の旅客数は1965年の1日1368人に対して1970年(昭和45年)は497人に減り、その70%ほどは定期客の通学、通勤だった。貨物も発着合わせて1965年の1日126tから1970年は74tに落ち込み、1970年度の営業係数は870だった。 これを受け、国鉄北海道総局では1971年(昭和46年)8月2日に新十津川駅 - 石狩沼田駅間沿線4町(新十津川町、雨竜町、北竜町、沼田町)に廃止を提案し、管轄する旭川鉄道管理局と併せて沿線住民と800回にのぼる話し合いを行った。沿線自治体による札沼線廃止反対期成会は当初「国鉄は企業努力することが先決」「このままでは受け入れる余地はない」「まず利用しやすい線にするよう企業努力するのが筋ではないか」との声が強かったが、これに対し国鉄は、存続の場合運行費の3分の1(3億円/年)を北海道、沿線自治体でそれぞれ負担、廃止を受け入れるなら1kmあたり300万円前後(今回の場合およそ1億円)の特別交付金を出すことを提案した。 最終的に沿線自治体は、これ以上の負担増は財政をパンクさせることになり、並行国道のバスを増発したほうが住民にとって便利という結論に達し、1972年(昭和47年)3月16日の沼田町を最後に沿線4町は廃止に同意した。その後、同年3月23日に旭川鉄道管理局から国鉄本社に廃止が上申され、6月18日の運転をもって新十津川駅 - 石狩沼田駅間の運輸営業が廃止された。 「赤字83線」の廃止は道内では根北線に次ぐ2番目であり、廃止区間延長34.9kmは「赤字83線」における1区間の廃止距離としては全国で最長であった。また、「赤字83線」の取り組みそれ自体による指定線区の国鉄路線の廃止はこの区間が最後となった。 新十津川駅 - 石狩沼田駅間は廃線後、線路跡は農地整備等の区画整理によってほとんど痕跡を留めておらず、わずかに一部の駅の周辺に面影を偲ぶのみとなっている。 廃止区間には元々、札沼線を補完する形で滝川駅 - 新十津川駅 - 碧水市街 - 石狩沼田駅間などに国鉄バス石狩線が運行されており、これがそのまま代替輸送を担うこととなった。このため、石狩線は石狩沼田駅 - 碧水市街間を8本/日から24本に増便したことをはじめ、鉄道廃止区間各所と上徳富市街 - 滝川間の計6区間で計93本/日の増便を行い、滝川駅での列車接続を改善するなど利便性の高いダイヤへの改善が行われた。 石狩線はその後、1987年(昭和62年)4月1日から国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)自動車事業部の路線となり、2000年(平成12年)4月1日には分社化によってジェイ・アール北海道バスに引き継がれた。 2003年(平成15年)3月1日には、ジェイ・アール北海道バスの空知地区撤退に伴い、北海道中央バスに移管され、当該区間の路線は北海道中央バス滝川営業所が運行する滝川沼田線(滝川ターミナル - 碧水市街 - 沼田駅前間)となったが、2008年(平成20年)4月1日には運転区間が滝川ターミナル - 碧水市街間に短縮され路線名も滝川北竜線となった。 2008年の短縮により廃止された碧水市街 - 沼田駅前間は沼田町営バス北竜線となった。2016年時点では、碧水市街 - 沼田駅前 - 厚生クリニック間で上下2往復+日中は予約制バスという形態であったが、2017年(平成29年)3月31日限りで定期便としては廃止され、予約制バスの状態を経て、翌2018年(平成30年)5月31日に、乗合タクシーへと改組されている。 北海道中央バス滝川北竜線は、2018年(平成30年)4月1日に滝川ターミナル廃止に伴い滝川駅への乗り入れが再開され、同年夏ダイヤの時点では滝川駅 - 碧水市街間で4往復が運転されていた。しかし、2010年(平成22年)に45,821人いた利用者は2019年(令和元年)には24,751人へと減少しており、運転手不足などから、2020年(令和2年)に2度の減便を行い、2022年(令和4年)4月1日に路線廃止となった。 廃止後は、沿線の新十津川町、雨竜町、北竜町がそれぞれ予約制乗合タクシー等の形で代替交通を確保している。 この区間では2016年(平成28年)3月26日以降廃止まで、1日に石狩当別駅 - 浦臼駅間列車が上下各5本、石狩当別駅 - 石狩月形駅間列車が下り2本・上り1本、石狩当別駅 - 新十津川駅間列車が上下各1本運行されていた。特に、浦臼駅 - 新十津川駅間は1日1往復のみの運行であり、国鉄およびJR旅客各社における旅客列車の本数としては国鉄清水港線(1984年(昭和59年)廃止)に並ぶ史上最少の運行本数であった。 列車は全てワンマン運転で、朝の石狩月形駅始発上り列車1本(およびその送り込み回送列車)が2両編成となるほかは、単行(1両)で運転されていた。 2016年(平成28年)11月18日、JR北海道は「将来にわたり持続可能な形で安全最優先の鉄道事業を運営する社会的な使命を果たすため」に「当社単独では維持することが困難な線区(以下、維持困難線区)」として、北海道医療大学駅 - 新十津川駅間を含む10路線13区間を発表した。 「維持困難線区」の中でもこの区間は「輸送密度が200人未満の線区」に属し、維持困難線区発表時点で北海道月形高等学校への通学を除けば「日常的なご利用は殆ど無い」とした。また、維持する際の課題として運営赤字と別に今後20年間で6億円におよぶ老朽施設の更新費用を挙げた。以上を踏まえ「鉄道よりもほかの交通手段が適しており(中略)バス等への転換について地域の皆様と相談を開始します」と表明した。 その後、2018年(平成30年)5月16日の月形町との個別協議では「鉄道として残すことはできない」と回答し、同年6月17日には「JR北海道の事業範囲見直しに係る関係者会議」にて示された「経営再生の見通し(案)」中で、本区間を含む「輸送密度200人未満の線区」は、「地域の皆様とともに、鉄道よりも便利で効率的な交通手段へ転換」とし、国に対しても支援を求めない方針とした。 なお「維持困難線区」発表時、現存区間についてJR北海道は「当社単独では維持することが困難な線区」の発表に際し、「大量・高速輸送の観点からも鉄道でなければ輸送を担えない」「当社単独で維持可能な線区」としている。 月形町以北の沿線(樺戸郡)は、石狩川対岸の各市町(岩見沢市、美唄市、奈井江町、砂川市、滝川市など)との結びつきが強く、札沼線は前述のように月形高校への通学(2016年度:37人)を除けば日常的に利用されず、札幌方面との流動も、所要時間や列車本数などの利便性ではるかに上回る函館本線の列車を利用して向かう住民が多い、とされていた。 また、維持困難線区発表時点で、月形町 - 岩見沢市、浦臼町 - 奈井江町、浦臼町 - 新十津川町 - 滝川市間はバス路線が設定(5.5 - 19.5往復、一部ルートは土休日運休)され、2018年(平成30年)夏ダイヤの時点で、新十津川役場 - 滝川駅前間を約10 - 15分(北海道中央バス滝川浦臼線・滝新線・ふるさと公園線、経路により異なる)、浦臼駅から奈井江駅まで約25分(浦臼町営バス、土休日運休)で連絡していた。 このためこの区間は廃止直前には「輸送に直接必要な費用」(燃料費、乗務員の人件費等)すら賄えていない状況にあった。 2018年(平成30年)2月10日に、北海道による総合交通政策検討会議が発表した「北海道の将来を見据えた鉄道網(維持困難線区)のあり方について」において、本区間は「利便性の高い最適な公共交通ネットワークの確保に向け、今後の活力ある地域づくりの観点に十分配慮しながら、 バス転換も視野に、地域における検討・協議を進めていくことが適当である」とされ、述べられた各線区の中で唯一バス転換を視野とする旨が述べられている。なお、検討会議では浦臼駅 - 新十津川駅間については、1日の利用者が平均10人を下回っていることを指摘している。 維持困難線区として発表された後、当該区間沿線の4町(当別町、月形町、浦臼町、新十津川町)は存続を目指すこととしてJR北海道との協議に応じず、2017年(平成29年)5月より4町のみでの意見交換会を開いた(以降12月まで6回開催)。 意見交換会では早期の協議入りを望む町と慎重姿勢を崩さない町とで意見が衝突したが、同年11月14日の第5回意見交換会で4町とも「同区間の現状維持は極めて厳しい」との認識で一致し、バスも含め代替交通機関を検討するとしつつ、あくまで路線存続の方針は維持した。 2018年(平成30年)1月16日には意見交換会を組織替えし、沿線4町と道による「札沼線沿線まちづくり検討会議」(以下「まちづくり検討会議」)が発足し、維持困難路線では初めてJR北海道との協議に入った。まちづくり検討会議では当初同年3月に存廃の結論を出す予定としていたが、同年3月5日に各町が個別にJR北海道とのバス転換受け入れ協議を始め8月にも結論を出す、と表明し、同年6月18日月形町、続いて同年6月25日に新十津川町、同年7月11日に浦臼町が正式に廃止受け入れを表明した。しかし結論を出すとされた同年8月2日のまちづくり検討会議では当別町が協議中であるとして廃止受け入れには至らなかった。 最終的に同年10月12日のまちづくり検討会議にて、当別町も含めた4町が同区間の廃止とバス転換で合意し、維持困難路線では、発表前に自治体が廃止を受け入れた石勝線夕張支線を除くと、初の廃止受け入れとなった。廃止時期については2019年度末を主張する月形町と、2019年内を主張する他町とで不一致が続いたが、最終的に2020年(令和2年)のゴールデンウィーク最終日である5月6日を運行最終日とし、5月7日付で廃止する方針となった。 2017年(平成29年)11月14日の会合では、営業区間を短縮した場合のコスト試算が各町長からJR北海道に要求され、同年11月23日の4町長会合で、JR北海道からは2016年(平成28年)度実績を基に、以下のように回答されている。 4町廃止受け入れ時に、以下の支援が受託費の形で沿線4町に対し行われることで合意している。 廃止直前の運行については4月11日 - 5月6日の間に以下の内容で実施する予定が2020年(令和2年)4月3日にJR北海道より発表されていた。 このうち全列車の指定席化は、年初より流行が拡大した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の蔓延防止を目的としての措置であった。ところが、JR北海道の発表後の4月7日夕方に、一部都府県に対して新型インフルエンザ等対策特別措置法2条1項に基づく緊急事態宣言が行なわれたことから、JR北海道では内容の変更を4月10日に検討開始し、15日に以下のように発表した。 しかし、翌4月16日夕方には「緊急事態宣言」が北海道を含む全ての都道府県に発令されたことを受け、同日中に以下の内容への変更が発表された。 このため翌4月17日、新十津川駅10時00分発の石狩当別行き普通列車 (5426D) をもって北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の列車運行が終了となり、以降の全便が運休となった。 最終運行が早まったため使用されなかった「さよなら列車」用のヘッドマークは、2021年12月にJR北海道から月形町に贈られた。 廃止日の2020年5月7日未明に、北海道医療大学駅 - 新十津川駅に設置されていた駅名標が撤去された。また、一部の駅では駅舎に掲げていた駅名板も撤去された。鉄道用地・設備は用地の測量、鉄道施設の調査、撤去に要する費用を確定する作業を行い、JR北海道が財産譲渡について国土交通省の許可を得たのち、土地の無償譲渡が行われる。土地の譲渡には数年間を要する。 新十津川町では無償譲渡が行われ、町が2020年度から3年間かけ、踏切撤去工事などを実施している。 浦臼町では、晩生内駅で大雪により駅舎の柱が折れるなどの事象が発生したため、倒壊の危険があるとして2021年5月末からJR北海道によって解体されることになった。 月形町ではJR北海道により踏切改良工事が行われるほか、無償譲渡後に町が線路などの撤去、用地の形状変更、鉄道用地の現状保存もしくは撤去を進める予定。 跡地については廃線跡の活用をめざす市民団体「レールネット北海道」が、旧美幸線のトロッコ王国美深をモデルとした廃線跡でのトロッコ運行を構想している。 代替交通については2018年(平成30年)2月16日のまちづくり検討会議において、JR北海道は「石狩当別 - 石狩月形間」「石狩月形 - 浦臼間」「浦臼 - 新十津川間」の3区間に分けて新しい交通体系の案を提示し、代替交通の運行は地元事業者による運行を要請したが、国・北海道の補助の活用のほか、初期投資費用と当面の運行経費をJR北海道が負担するとした。 廃止に先行して2020年(令和2年)4月1日から、廃止後に代替となる並行バス路線が存在しない石狩当別駅 - 浦臼駅間にバス路線2系統を新設している。 運賃は各町内完結の利用、町境から各2停留所相互間は200円、町境を跨いだ場合は400円となっており、月形駅停留所で2路線を乗り継ぐ場合は200円の割引を実施する。 なお、浦臼駅 - 新十津川駅間については当初、既存の並行バス路線(北海道中央バス滝川浦臼線)を維持するのみで路線の新設はなかったが、2022年(令和4年)9月30日をもって北海道中央バスの路線としては廃止され、浦臼町営バスの路線として代替された。平日4往復・土休日3往復が設定され、区間利用に乗降制限が設けられる(新十津川町内・滝川市内の停留所は、浦臼発滝川行きは降車のみ、滝川発浦臼行きは乗車のみ)。 代替バスとの乗り継ぎ拠点となる北海道医療大学駅にバスターミナルを新設する。また、パークアンドライドを行うため駐車場を1.4倍に拡大する。このほか、駐車場に面した改札口(2番ホーム石狩当別方)の新設、既存改札口の拡幅・改札機の増設が行われる。 JR北海道からの支援を活用する見通しで、市街地にバスターミナル機能を持ったまちづくり拠点(複合施設)の計画を進めており、廃止後の2020年(令和2年)度の着工を目指している。 各方面からのバス等の発着に既存の浦臼駅舎が活用される予定である。またJR北海道からの支援を活用して現駅付近に「町民が交流できる施設、絵画が常設展示できる施設等の建設」が考えられている。 篠路駅は2007年(平成19年)から2009年(平成21年)にかけて西口設置を含む再開発が行われるなど、以前より周辺整備の著しい地域であることから、周辺約1kmの高架化が決定されている。高架化に合わせて周辺の土地区画整理事業が行われることとなっており、横新道を始めとする踏切の除却や市道の拡幅も対象となっている。当初は2018年度着工、2025年度供用開始のスケジュールが組まれたが、その後事業期間は2031年度まで延長されている。 便宜上、桑園駅側の全列車が乗り入れる函館本線の札幌駅 - 桑園駅間も併せて記載する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "札沼線(さっしょうせん)は、北海道札幌市中央区の桑園駅から石狩郡当別町の北海道医療大学駅までを結ぶ、北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(地方交通線)である。「学園都市線」(がくえんとしせん)という愛称が付けられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "改正鉄道敷設法別表第136号に規定する「石狩国札幌ヨリ当別ヲ経テ沼田ニ至ル鉄道」であり、全通時点では桑園駅から留萌本線と接する雨竜郡沼田町の石狩沼田駅までの路線であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "石狩川左岸は早期に現在の函館本線が開通した一方、右岸は昭和期まで左岸とを結ぶ橋が無く渡船のみで、冬季や増水時に陸の孤島となることがあったことから激しい政治運動が行われ、1931年(昭和6年)10月10日に北側の石狩沼田駅 - 中徳富駅(初代。のちの新十津川駅)間が開業したのを皮切りに、南北双方から建設が進められ、1935年(昭和10年)10月3日に全通した。敷設に当たっては立憲政友会代議士の東武(あずまたけし)が尽力した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかし太平洋戦争が激化すると「近接して並行路線(函館本線)があり代替輸送が可能」という理由で1943年(昭和18年)10月1日から1944年(昭和19年)7月21日にかけて石狩当別駅 - 石狩沼田駅間が順次不要不急線として休止され、撤去された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "戦後は1946年(昭和21年)12月10日の石狩当別駅 - 浦臼駅間を皮切りに、1956年(昭和31年)11月16日までに全線で運行を再開した。しかし、この時期から石狩川への架橋によって道路整備が進みモータリゼーションも加わって札沼線は凋落が目立つようになった。新十津川駅 - 石狩沼田駅間がいわゆる「赤字83線」として1972年(昭和47年)6月19日に廃止。国鉄分割民営化後にはJR北海道により北海道医療大学駅 - 新十津川駅間が「当社単独では維持することが困難な線区」とされ、2020年(令和2年)5月7日付で廃止された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現存する桑園駅 - 北海道医療大学駅間は1980年(昭和55年)から開発が開始された「札幌ニュータウンあいの里」をはじめ、札幌市北区と当別町での宅地開発の進展、沿線への北海道医療大学・北海道教育大学札幌校移転により、JR北海道の「札幌圏」を構成する通勤・通学路線に成長した。このため非電化路線でありながら高架(連続立体交差)化や駅の増設、輸送力増強のための一部複線化・列車増発が進められ、2012年(平成24年)6月1日には北海道高速鉄道開発を事業主体とした交流電化が行われ、2020年の非電化区間である北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の廃止後はJR北海道の在来線で海峡線、千歳線に次ぐ全線電化を達成した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "路線の正式名称である「札沼線」は札幌と(石狩)沼田から一文字ずつ取ったものであるが、新十津川駅 - 石狩沼田駅間廃止後に実態に合わなくなっていたことに加え、沿線に北海道教育大学札幌校や北海道医療大学など学校が数多くあることから、1991年(平成3年)3月16日のダイヤ改正時より一般公募によって学園都市線の愛称が付けられ、各種案内に用いられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "全列車が普通列車である。運転系統としての「札沼線(学園都市線)」に路線の起点である桑園駅を始終着とする列車はなく、一駅先の函館本線札幌駅を起点として、桑園駅までは函館本線上下線の北側に並行して敷設された、札沼線系統専用の単線(通称:北線)を走行する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)3月19日時点のダイヤでは、札幌駅 - 北海道医療大学駅間を運転する列車のほか途中のあいの里公園駅・当別駅で札幌駅へ折り返す列車が設定されている。日中時間帯は札幌駅基準で上下とも1時間に3本(20分間隔)が運転され、うちあいの里公園駅発着が1 - 2本、そのほかが当別駅または北海道医療大学駅発着となっている。札幌駅以遠への直通は早朝に上り当別始発千歳線新千歳空港行き(千歳線内は快速「エアポート」として運転)の1本のみ設定されている。札幌駅以遠との直通列車を含め、線内はほとんどの列車が各駅停車であるが、ごく一部の列車はロイズタウン駅のみ通過する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "線内の駅では車両の夜間滞泊は行われておらず、最終列車は札幌駅到着後に札幌運転所まで回送される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)の非電化区間廃止後は、JR北海道の在来線では唯一気動車の定期運行がなく、電車のみが運転されている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "札幌運転所所属の「札幌圏」向け普通・快速列車用電車(721系、731系、733系〔0・3000番台〕、735系)が札幌圏他線区と共通で運用されている。このほか電化直後には711系電車も運用された。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "電車を除く", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "以下、本項目の表中では一部、北海道医療大学駅を「医療大学駅」と略記する。", "title": "区間別の利用状況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "区間ごとの輸送密度(人/日、以下同様)は以下の通り。なお、一部の数値は函館本線札幌駅 - 桑園駅間を含むものである。", "title": "区間別の利用状況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "桑園駅 - 北海道医療大学駅間は2013年(平成25年)度に輸送密度が1975年(昭和50年)度比で315%に増加し、以降も新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響を受ける2020年(令和2年)度まで増加傾向が続いた。", "title": "区間別の利用状況" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一方で2020年(令和2年)に廃止された北海道医療大学駅 - 新十津川駅間は、2013年(平成25年)度の輸送密度が1975年(昭和50年)度(石狩当別駅 - 新十津川駅間)比で14%まで落ち込み、2013年(平成25年)度と2016年(平成28年)度以降は、JR北海道が設定した区間別で最低の輸送密度を記録している。当該区間の最低値は2017年(平成29年)度の57であり、これは、1995年(平成7年)9月4日に廃止された深名線(廃止当時80)や、2019年(平成31年)4月1日に廃止された石勝線夕張支線(廃止前年度の2017年度:69)を下回る。", "title": "区間別の利用状況" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "区間ごとの収支(営業収益・営業費用・営業損益)と営業係数は以下の通り。▲はマイナスを意味する。JR北海道公表分についてはいずれも管理費を含めた金額である。なお、桑園駅 - 北海道医療大学駅間は札幌圏各線と合わせたデータで公表されており、単独のデータは不明。", "title": "区間別の利用状況" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "太平洋戦争中に不要不急線として休止されていた石狩当別駅 - 石狩沼田駅間のうち、浦臼駅 - 石狩沼田駅間は、再開後も利用が振るわず、1963年(昭和38年)6月10日時点で営業係数は292となっていた。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "特に新十津川駅以北は、石炭産業の凋落、自動車交通の発達や並行する国道275号の完全舗装などの道路整備、沿線の人口減少により年ごとに利用の減少が進み、同区間は営業末期の1972年(昭和47年)に発表された輸送実績では、乗車人員498人、貨物発送トン数58トンと、いずれも1960年(昭和35年)比でそれぞれ30%、62%に落ち込み、収支係数は1500にのぼった。これにより末期の同区間の運転本数は、旅客5往復/日、貨物は3日に1本程度にまで減少した。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)に国鉄諮問委員会は「『ローカル線の輸送をいかにするか』についての意見書」中で、使命を終えた国鉄の地方線をバス転換とする方針を打ち出し、いわゆる「赤字83線」を発表し、札沼線新十津川駅 - 石狩沼田駅間もこれに含まれた。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1965年(昭和40年)頃から収入が落ち始め、1969年度(昭和44年度)の札沼線全区間の赤字額は約6億8000万円、営業係数は392だった。新十津川 ‐ 石狩沼田間の旅客数は1965年の1日1368人に対して1970年(昭和45年)は497人に減り、その70%ほどは定期客の通学、通勤だった。貨物も発着合わせて1965年の1日126tから1970年は74tに落ち込み、1970年度の営業係数は870だった。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これを受け、国鉄北海道総局では1971年(昭和46年)8月2日に新十津川駅 - 石狩沼田駅間沿線4町(新十津川町、雨竜町、北竜町、沼田町)に廃止を提案し、管轄する旭川鉄道管理局と併せて沿線住民と800回にのぼる話し合いを行った。沿線自治体による札沼線廃止反対期成会は当初「国鉄は企業努力することが先決」「このままでは受け入れる余地はない」「まず利用しやすい線にするよう企業努力するのが筋ではないか」との声が強かったが、これに対し国鉄は、存続の場合運行費の3分の1(3億円/年)を北海道、沿線自治体でそれぞれ負担、廃止を受け入れるなら1kmあたり300万円前後(今回の場合およそ1億円)の特別交付金を出すことを提案した。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "最終的に沿線自治体は、これ以上の負担増は財政をパンクさせることになり、並行国道のバスを増発したほうが住民にとって便利という結論に達し、1972年(昭和47年)3月16日の沼田町を最後に沿線4町は廃止に同意した。その後、同年3月23日に旭川鉄道管理局から国鉄本社に廃止が上申され、6月18日の運転をもって新十津川駅 - 石狩沼田駅間の運輸営業が廃止された。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "「赤字83線」の廃止は道内では根北線に次ぐ2番目であり、廃止区間延長34.9kmは「赤字83線」における1区間の廃止距離としては全国で最長であった。また、「赤字83線」の取り組みそれ自体による指定線区の国鉄路線の廃止はこの区間が最後となった。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "新十津川駅 - 石狩沼田駅間は廃線後、線路跡は農地整備等の区画整理によってほとんど痕跡を留めておらず、わずかに一部の駅の周辺に面影を偲ぶのみとなっている。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "廃止区間には元々、札沼線を補完する形で滝川駅 - 新十津川駅 - 碧水市街 - 石狩沼田駅間などに国鉄バス石狩線が運行されており、これがそのまま代替輸送を担うこととなった。このため、石狩線は石狩沼田駅 - 碧水市街間を8本/日から24本に増便したことをはじめ、鉄道廃止区間各所と上徳富市街 - 滝川間の計6区間で計93本/日の増便を行い、滝川駅での列車接続を改善するなど利便性の高いダイヤへの改善が行われた。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "石狩線はその後、1987年(昭和62年)4月1日から国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)自動車事業部の路線となり、2000年(平成12年)4月1日には分社化によってジェイ・アール北海道バスに引き継がれた。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)3月1日には、ジェイ・アール北海道バスの空知地区撤退に伴い、北海道中央バスに移管され、当該区間の路線は北海道中央バス滝川営業所が運行する滝川沼田線(滝川ターミナル - 碧水市街 - 沼田駅前間)となったが、2008年(平成20年)4月1日には運転区間が滝川ターミナル - 碧水市街間に短縮され路線名も滝川北竜線となった。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2008年の短縮により廃止された碧水市街 - 沼田駅前間は沼田町営バス北竜線となった。2016年時点では、碧水市街 - 沼田駅前 - 厚生クリニック間で上下2往復+日中は予約制バスという形態であったが、2017年(平成29年)3月31日限りで定期便としては廃止され、予約制バスの状態を経て、翌2018年(平成30年)5月31日に、乗合タクシーへと改組されている。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "北海道中央バス滝川北竜線は、2018年(平成30年)4月1日に滝川ターミナル廃止に伴い滝川駅への乗り入れが再開され、同年夏ダイヤの時点では滝川駅 - 碧水市街間で4往復が運転されていた。しかし、2010年(平成22年)に45,821人いた利用者は2019年(令和元年)には24,751人へと減少しており、運転手不足などから、2020年(令和2年)に2度の減便を行い、2022年(令和4年)4月1日に路線廃止となった。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "廃止後は、沿線の新十津川町、雨竜町、北竜町がそれぞれ予約制乗合タクシー等の形で代替交通を確保している。", "title": "1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この区間では2016年(平成28年)3月26日以降廃止まで、1日に石狩当別駅 - 浦臼駅間列車が上下各5本、石狩当別駅 - 石狩月形駅間列車が下り2本・上り1本、石狩当別駅 - 新十津川駅間列車が上下各1本運行されていた。特に、浦臼駅 - 新十津川駅間は1日1往復のみの運行であり、国鉄およびJR旅客各社における旅客列車の本数としては国鉄清水港線(1984年(昭和59年)廃止)に並ぶ史上最少の運行本数であった。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "列車は全てワンマン運転で、朝の石狩月形駅始発上り列車1本(およびその送り込み回送列車)が2両編成となるほかは、単行(1両)で運転されていた。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2016年(平成28年)11月18日、JR北海道は「将来にわたり持続可能な形で安全最優先の鉄道事業を運営する社会的な使命を果たすため」に「当社単独では維持することが困難な線区(以下、維持困難線区)」として、北海道医療大学駅 - 新十津川駅間を含む10路線13区間を発表した。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "「維持困難線区」の中でもこの区間は「輸送密度が200人未満の線区」に属し、維持困難線区発表時点で北海道月形高等学校への通学を除けば「日常的なご利用は殆ど無い」とした。また、維持する際の課題として運営赤字と別に今後20年間で6億円におよぶ老朽施設の更新費用を挙げた。以上を踏まえ「鉄道よりもほかの交通手段が適しており(中略)バス等への転換について地域の皆様と相談を開始します」と表明した。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その後、2018年(平成30年)5月16日の月形町との個別協議では「鉄道として残すことはできない」と回答し、同年6月17日には「JR北海道の事業範囲見直しに係る関係者会議」にて示された「経営再生の見通し(案)」中で、本区間を含む「輸送密度200人未満の線区」は、「地域の皆様とともに、鉄道よりも便利で効率的な交通手段へ転換」とし、国に対しても支援を求めない方針とした。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお「維持困難線区」発表時、現存区間についてJR北海道は「当社単独では維持することが困難な線区」の発表に際し、「大量・高速輸送の観点からも鉄道でなければ輸送を担えない」「当社単独で維持可能な線区」としている。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "月形町以北の沿線(樺戸郡)は、石狩川対岸の各市町(岩見沢市、美唄市、奈井江町、砂川市、滝川市など)との結びつきが強く、札沼線は前述のように月形高校への通学(2016年度:37人)を除けば日常的に利用されず、札幌方面との流動も、所要時間や列車本数などの利便性ではるかに上回る函館本線の列車を利用して向かう住民が多い、とされていた。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、維持困難線区発表時点で、月形町 - 岩見沢市、浦臼町 - 奈井江町、浦臼町 - 新十津川町 - 滝川市間はバス路線が設定(5.5 - 19.5往復、一部ルートは土休日運休)され、2018年(平成30年)夏ダイヤの時点で、新十津川役場 - 滝川駅前間を約10 - 15分(北海道中央バス滝川浦臼線・滝新線・ふるさと公園線、経路により異なる)、浦臼駅から奈井江駅まで約25分(浦臼町営バス、土休日運休)で連絡していた。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "このためこの区間は廃止直前には「輸送に直接必要な費用」(燃料費、乗務員の人件費等)すら賄えていない状況にあった。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)2月10日に、北海道による総合交通政策検討会議が発表した「北海道の将来を見据えた鉄道網(維持困難線区)のあり方について」において、本区間は「利便性の高い最適な公共交通ネットワークの確保に向け、今後の活力ある地域づくりの観点に十分配慮しながら、 バス転換も視野に、地域における検討・協議を進めていくことが適当である」とされ、述べられた各線区の中で唯一バス転換を視野とする旨が述べられている。なお、検討会議では浦臼駅 - 新十津川駅間については、1日の利用者が平均10人を下回っていることを指摘している。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "維持困難線区として発表された後、当該区間沿線の4町(当別町、月形町、浦臼町、新十津川町)は存続を目指すこととしてJR北海道との協議に応じず、2017年(平成29年)5月より4町のみでの意見交換会を開いた(以降12月まで6回開催)。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "意見交換会では早期の協議入りを望む町と慎重姿勢を崩さない町とで意見が衝突したが、同年11月14日の第5回意見交換会で4町とも「同区間の現状維持は極めて厳しい」との認識で一致し、バスも含め代替交通機関を検討するとしつつ、あくまで路線存続の方針は維持した。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)1月16日には意見交換会を組織替えし、沿線4町と道による「札沼線沿線まちづくり検討会議」(以下「まちづくり検討会議」)が発足し、維持困難路線では初めてJR北海道との協議に入った。まちづくり検討会議では当初同年3月に存廃の結論を出す予定としていたが、同年3月5日に各町が個別にJR北海道とのバス転換受け入れ協議を始め8月にも結論を出す、と表明し、同年6月18日月形町、続いて同年6月25日に新十津川町、同年7月11日に浦臼町が正式に廃止受け入れを表明した。しかし結論を出すとされた同年8月2日のまちづくり検討会議では当別町が協議中であるとして廃止受け入れには至らなかった。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "最終的に同年10月12日のまちづくり検討会議にて、当別町も含めた4町が同区間の廃止とバス転換で合意し、維持困難路線では、発表前に自治体が廃止を受け入れた石勝線夕張支線を除くと、初の廃止受け入れとなった。廃止時期については2019年度末を主張する月形町と、2019年内を主張する他町とで不一致が続いたが、最終的に2020年(令和2年)のゴールデンウィーク最終日である5月6日を運行最終日とし、5月7日付で廃止する方針となった。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2017年(平成29年)11月14日の会合では、営業区間を短縮した場合のコスト試算が各町長からJR北海道に要求され、同年11月23日の4町長会合で、JR北海道からは2016年(平成28年)度実績を基に、以下のように回答されている。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "4町廃止受け入れ時に、以下の支援が受託費の形で沿線4町に対し行われることで合意している。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "廃止直前の運行については4月11日 - 5月6日の間に以下の内容で実施する予定が2020年(令和2年)4月3日にJR北海道より発表されていた。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "このうち全列車の指定席化は、年初より流行が拡大した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の蔓延防止を目的としての措置であった。ところが、JR北海道の発表後の4月7日夕方に、一部都府県に対して新型インフルエンザ等対策特別措置法2条1項に基づく緊急事態宣言が行なわれたことから、JR北海道では内容の変更を4月10日に検討開始し、15日に以下のように発表した。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "しかし、翌4月16日夕方には「緊急事態宣言」が北海道を含む全ての都道府県に発令されたことを受け、同日中に以下の内容への変更が発表された。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "このため翌4月17日、新十津川駅10時00分発の石狩当別行き普通列車 (5426D) をもって北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の列車運行が終了となり、以降の全便が運休となった。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "最終運行が早まったため使用されなかった「さよなら列車」用のヘッドマークは、2021年12月にJR北海道から月形町に贈られた。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "廃止日の2020年5月7日未明に、北海道医療大学駅 - 新十津川駅に設置されていた駅名標が撤去された。また、一部の駅では駅舎に掲げていた駅名板も撤去された。鉄道用地・設備は用地の測量、鉄道施設の調査、撤去に要する費用を確定する作業を行い、JR北海道が財産譲渡について国土交通省の許可を得たのち、土地の無償譲渡が行われる。土地の譲渡には数年間を要する。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "新十津川町では無償譲渡が行われ、町が2020年度から3年間かけ、踏切撤去工事などを実施している。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "浦臼町では、晩生内駅で大雪により駅舎の柱が折れるなどの事象が発生したため、倒壊の危険があるとして2021年5月末からJR北海道によって解体されることになった。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "月形町ではJR北海道により踏切改良工事が行われるほか、無償譲渡後に町が線路などの撤去、用地の形状変更、鉄道用地の現状保存もしくは撤去を進める予定。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "跡地については廃線跡の活用をめざす市民団体「レールネット北海道」が、旧美幸線のトロッコ王国美深をモデルとした廃線跡でのトロッコ運行を構想している。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "代替交通については2018年(平成30年)2月16日のまちづくり検討会議において、JR北海道は「石狩当別 - 石狩月形間」「石狩月形 - 浦臼間」「浦臼 - 新十津川間」の3区間に分けて新しい交通体系の案を提示し、代替交通の運行は地元事業者による運行を要請したが、国・北海道の補助の活用のほか、初期投資費用と当面の運行経費をJR北海道が負担するとした。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "廃止に先行して2020年(令和2年)4月1日から、廃止後に代替となる並行バス路線が存在しない石狩当別駅 - 浦臼駅間にバス路線2系統を新設している。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "運賃は各町内完結の利用、町境から各2停留所相互間は200円、町境を跨いだ場合は400円となっており、月形駅停留所で2路線を乗り継ぐ場合は200円の割引を実施する。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "なお、浦臼駅 - 新十津川駅間については当初、既存の並行バス路線(北海道中央バス滝川浦臼線)を維持するのみで路線の新設はなかったが、2022年(令和4年)9月30日をもって北海道中央バスの路線としては廃止され、浦臼町営バスの路線として代替された。平日4往復・土休日3往復が設定され、区間利用に乗降制限が設けられる(新十津川町内・滝川市内の停留所は、浦臼発滝川行きは降車のみ、滝川発浦臼行きは乗車のみ)。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "代替バスとの乗り継ぎ拠点となる北海道医療大学駅にバスターミナルを新設する。また、パークアンドライドを行うため駐車場を1.4倍に拡大する。このほか、駐車場に面した改札口(2番ホーム石狩当別方)の新設、既存改札口の拡幅・改札機の増設が行われる。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "JR北海道からの支援を活用する見通しで、市街地にバスターミナル機能を持ったまちづくり拠点(複合施設)の計画を進めており、廃止後の2020年(令和2年)度の着工を目指している。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "各方面からのバス等の発着に既存の浦臼駅舎が活用される予定である。またJR北海道からの支援を活用して現駅付近に「町民が交流できる施設、絵画が常設展示できる施設等の建設」が考えられている。", "title": "2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "篠路駅は2007年(平成19年)から2009年(平成21年)にかけて西口設置を含む再開発が行われるなど、以前より周辺整備の著しい地域であることから、周辺約1kmの高架化が決定されている。高架化に合わせて周辺の土地区画整理事業が行われることとなっており、横新道を始めとする踏切の除却や市道の拡幅も対象となっている。当初は2018年度着工、2025年度供用開始のスケジュールが組まれたが、その後事業期間は2031年度まで延長されている。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "便宜上、桑園駅側の全列車が乗り入れる函館本線の札幌駅 - 桑園駅間も併せて記載する。", "title": "駅一覧" } ]
札沼線(さっしょうせん)は、北海道札幌市中央区の桑園駅から石狩郡当別町の北海道医療大学駅までを結ぶ、北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(地方交通線)である。「学園都市線」(がくえんとしせん)という愛称が付けられている。
{{混同|redirect=学園都市線|学研都市線|x1=JR西日本[[片町線]]の愛称}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (hokkaido).svg|35px|link=北海道旅客鉄道]] 札沼線 |路線色=#00a54f |通称=学園都市線 |現況= |画像=733 B115 731 Gakuentoshi Line 20140323.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=733系・731系による普通列車<br>([[太美駅]] - [[当別駅]]間) |国={{JPN}} |所在地=[[北海道]] |種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[地方交通線]]) |起点=[[桑園駅]] |終点=[[北海道医療大学駅]] |駅数=14駅([[鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]のみ・起終点駅含む) |電報略号 = サセセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p25">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=25}}</ref> |路線記号={{駅番号c|#ed1c23|S02}}(桑園駅)<br>{{駅番号c|#00a54f|G}}(八軒駅 - 北海道医療大学駅間)<br><small>路線記号については[[北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー|当該記事]]も参照</small> |開業=[[1931年]][[10月10日]](札沼北線)<br>[[1934年]][[11月20日]](札沼南線) |全通=[[1935年]][[10月3日]] |廃止=[[1972年]][[6月19日]](新十津川駅 - 石狩沼田駅間)<br>[[2020年]][[5月7日]](北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)<ref group="注" name="covid19unkyu">実際の列車運行は同年4月17日で終了した。経緯は[[#最終運行の繰り上げ・廃止|後述]]。</ref> |所有者=[[北海道旅客鉄道]](JR北海道){{refnest|group="注"|電化設備は[[北海道高速鉄道開発]]から有償貸し付け<ref name="jrhokkaido-press-20111013-3" group="JR" />。}} |運営者=北海道旅客鉄道(JR北海道)<br>(全線 [[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]) |車両基地=[[札幌運転所]] |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線構造= |路線距離=28.9 [[キロメートル|km]] |営業キロ= |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]]) |線路数=[[単線]](下記以外)<br>[[複線]]([[八軒駅]] - [[あいの里教育大駅]]間) |電化区間=全線 |電化方式=[[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]] [[架空電車線方式]] |最大勾配=20 [[パーミル|‰]] |最小曲線半径=300 [[メートル|m]] |閉塞方式=[[閉塞 (鉄道)#特殊自動閉塞式|特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)]]<br>([[桑園駅]] - 八軒駅間、あいの里教育大駅 - [[北海道医療大学駅]]間)<br>[[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|複線自動閉塞式]]<br>(八軒駅 - あいの里教育大駅間) |保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-D<small>N</small>]](全線)<ref group="JR" name="jrhokkaido/safetyreport2020"/> |最高速度=85 [[キロメートル毎時|km/h]](桑園駅 - [[当別駅]]間)<br>65 km/h(当別駅 - 北海道医療大学駅間) |路線図=File:Sassho Line linemap.svg }} {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#00a54f}} {{BS-table}} {{BS-colspan|HI=style="font-size:90%;"}} * [[橋|橋梁]](河川)は主要なものを掲載 * [[札幌市交通局]]の[[札幌市営地下鉄|地下鉄]]および[[札幌市電|市電]]については以下の通り表記 ** [[File:Subway_SapporoNamboku.svg|12px]][[札幌市営地下鉄南北線|南北線]] [[File:Subway_SapporoToho.svg|12px]][[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]] [[File:BSicon exTRAM.svg|14px]]市電(廃止線区) ---- {{BS5||STR||||||[[函館本線]]([[江別駅|江別]]・[[岩見沢駅|岩見沢]]・[[旭川駅|旭川]]方面) 1882-|}}<!--この行にELCsを入れるとここで電化区間が終わっているように(旭川方面は非電化のように)見える。--> {{BS5|O1=HUBa|uexKHSTeq|STR||||||''[[札幌軌道]]'' 1911-1935|}} {{BS5|O1=HUB|WASSERq|hKRZWae|WASSERq|WASSERq|WASSERq|||[[創成川]]|}} {{BS5|O1=HUB|utSTRq|mKRZt|utSTRq|O4=HUBa|utHSTq|utSTRq|||[[File:Subway_SapporoToho.svg|12px|link=札幌市営地下鉄東豊線|札幌市営地下鉄東豊線]]([[さっぽろ駅]])<!--<ref group="*" name="代替輸送 札幌" />--> 1988-|}} {{BS5|HUBlf|O2=HUBq|HST|O3=HUBq|exKHSTa|HUBx|O5=HUBeq|P5=uexKHSTaq|uexKHSTa|62.4|01 [[札幌駅]]|1880- [[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=札幌市電|札幌市電]]''{{BSsplit|西4丁目線|(札幌駅前)''}}{{BSsplit|1918|-1971}}}} {{BS5|utSTRq|mKRZt|xmKRZt|O4=HUBe|utHSTq|uxKRZt|||[[File:Subway_SapporoNamboku.svg|12px|link=札幌市営地下鉄南北線|札幌市営地下鉄南北線]](さっぽろ駅)<!--<ref group="*" name="代替輸送 札幌" />--> 1971-|}} {{BS5|O1=POINTERg@f|uexSTRq|emKRZ|exmKRZ|uexSTRq|uexABZgr|||[[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=札幌市電|札幌市電]]''鉄北線 1927-1971''|}} {{BS5|KRW+l|KRWgr|exKRWl|exKRW+r|O5=POINTERf@gq|uexLSTR|||[[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=札幌市電|札幌市電]]''北5条線 1927-1971''|}} {{BS5|STR|STR|uexSTR+l|exmKRZ|uexABZlr|||↙[[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=札幌市電|札幌市電]]''桑園線(桑園駅前)'' 1929-1960|}} {{BS5|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|uexKHSTe|exSTR||0.0|S02 [[桑園駅]]|1924-|}} {{BS5|STR|STR|exKDSTa|exSTR||||''[[札幌市場駅]]'' 1959-1978|}} {{BS5|STR|eABZgl|exABZg+r|exSTR|||||}} {{BS5|STR|STR|exENDEe|exSTR|||||}} {{BS5|STR|STR||exSTRl|exSTRq|||''[[北海道新幹線]](建設中)''|}} {{BS5|STR|STRl|STRq|STRq|STRq|||函館本線([[小樽駅|小樽]]・[[倶知安駅|倶知安]]方面) 1880-|}} {{BS5|STRl|STRq|STR+r||||||}} {{BS5|||BHF|||2.2|G03 [[八軒駅]]|1988-|}} {{BS5|||hKRZWae|||||[[琴似川]]|}} {{BS5|||BHF|||3.7|G04 [[新川駅 (北海道)|新川駅]]<ref group="*" name="1986-1987" />|1986-|}} {{BS5|||STR|||||↙[[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=札幌市電|札幌市電]]''鉄北線(新琴似駅前)'' 1964-1974|}} {{BS5|uexSTRq|O2=HUBrg|uexKHSTeq|O3=HUBeq|BHF|||5.6|G05 [[新琴似駅]]|1934-|}} {{BS5|utSTRq|O2=HUBe|utKHSTeq|STR|||||[[File:Subway_SapporoNamboku.svg|12px|link=札幌市営地下鉄南北線|札幌市営地下鉄南北線]]([[麻生駅]])<ref group="*" name="代替輸送 新琴似" /> 1978-|}} {{BS5|||hKRZWae|||||[[創成川]]|}} {{BS5|||BHF|||7.3|G06 [[太平駅]]<ref group="*" name="1986-1987" />|1986-|}} {{BS5|||BHF|||8.6|G07 [[百合が原駅]]<ref group="*" name="1986-1987" />|1986-|}} {{BS5|||BHF|||10.2|G08 [[篠路駅]]|1934-|}} {{BS5|||hKRZWae|||||[[伏籠川]]|}} {{BS5|||BHF|||12.2|G09 [[拓北駅]]|1967-|}} {{BS5|||BHF|||13.6|G10 [[あいの里教育大駅]]<ref group="*" name="1986-1987" />|1986-|}} {{BS5|||BHF|||15.1|G11 [[あいの里公園駅]]|1958-|}} {{BS5|||eABZgl|exSTR+r|||||}} {{BS5|||hKRZWae|exhKRZWae|||[[石狩川橋梁]]| [[石狩川]]|}} {{BS5|||eABZg+l|exSTRr||||(2) 1,064 m<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20120206-1"/> / ''(1) 1,074 m''<ref name="Naruse1994_190-191"/>|}} {{BS5|||BHF|||17.9|G11-1 [[ロイズタウン駅]]|2022-|}} {{BS5|||BHF|||19.3|G12 [[太美駅]]|1934-|}} {{BS5||O2=HUBaq|exKHSTa|O3=HUBq|BHF|O4=HUBeq|exKBHFa||25.9|G13 [[当別駅]]|1934-|}} {{BS5||exSTR|STR|exSTRl|exSTRq|||''[[当別町営軌道]]'' 1949-1958|}} {{BS5|exSTRq|exSTRr|STR|||||''[[江当軌道]]'' 1927-1936|}} {{BS5|||hKRZWae|||||[[当別川]]|}} {{BS5|||KBHFxe|BL||28.9|G14 [[北海道医療大学駅]]<ref group="*" name="1981-1982" />|1981-|}} {{BS5|||exSTR+GRZq|ELCe||||↑[[交流電化|交流20 kV/50 Hz]]/2020年廃止区間(非電化)↓|}} {{BS5|||exBHF|||31.1|''[[石狩金沢駅]]''|1935-1944,1946-2020|}} {{BS5|||exBHF|||35.6|''[[本中小屋駅]]''|1935-1944,1946-2020|}} {{BS5|||exBHF|||38.8|''[[中小屋駅]]''|1935-1944,1946-2020|}} {{BS5|||exBHF|||41.6|''[[月ヶ岡駅]]''|1958-2020|}} {{BS5|||exBHF|||44.2|''[[知来乙駅]]''|1958-2020|}} {{BS5|||exBHF|||46.3|''[[石狩月形駅]]''|1935-1944,1946-2020|}} {{BS5|||exBHF|||51.0|''[[豊ヶ岡駅]]''|1960-2020|}} {{BS5|||exBHF|||53.5|''[[札比内駅]]''|1935-1943,1946-2020|}} {{BS5|||exBHF|||58.0|''[[晩生内駅]]''|1935-1943,1946-2020|}} {{BS5|||exBHF|||60.9|''[[札的駅]]''|1960-2020|}} {{BS5|||exBHF|||62.7|''[[浦臼駅]]''|1934-1943,1946-2020|}} {{BS5|||exBHF|||66.1|''[[鶴沼駅]]''|1956-2020|}} {{BS5|||exBHF|||67.9|''[[於札内駅]]''<ref group="*" name="1959-1987" />|1959-2020|}} {{BS5|||exBHF|||69.4|''[[南下徳富駅]]''|1956-2020|}} {{BS5|||exBHF|||71.5|''[[下徳富駅]]''|1934-1943,1953-2020|}} {{BS5|||exBHF|||73.9|''[[中徳富駅]]''|1956-2006|}} {{BS5|||exBHF|||76.5|''[[新十津川駅]]''|1931-1943,1953-2020|}} {{BS5|||exSTR+GRZq|||||↑2020年廃止区間/1972年廃止区間↓|}} {{BS5|||exhKRZWae|||||[[徳富川]]|}} {{BS5|||exBHF|||79.2|''[[石狩橋本駅]]''|1931-1943,1953-1972|}} {{BS5|||exBHF|||82.0|''[[上徳富駅]]''|1931-1943,1953-1972|}} {{BS5|||exBHF|||83.7|''[[北上徳富駅]]''|1956-1972|}} {{BS5|||exHST|||(86.5)|''[[南雨竜仮乗降場]]''|1956-1972|}} {{BS5|||exBHF|||88.8|''[[雨竜駅]]''|1931-1943,1953-1972|}} {{BS5|||exHST|||(89.8)|''[[中雨竜仮乗降場]]''|1956-1972|}} {{BS5|||exBHF|||92.1|''[[石狩追分駅]]''|1931-1944,1956-1972|}} {{BS5|||exBHF|||94.5|''[[渭ノ津駅]]''|1956-1972|}} {{BS5|||exBHF|||97.9|''[[和駅]]''|1931-1944,1956-1972|}} {{BS5|||exBHF|||101.0|''[[中ノ岱駅]]''|1956-1972|}} {{BS5|||exBHF|||102.8|''[[碧水駅]]''|1931-1944,1956-1972|}} {{BS5|||exBHF|||106.0|''[[北竜駅]]''|1931-1944,1956-1972|}} {{BS5|||exBHF|||108.6|''[[五ヶ山駅]]''|1956-1972|}} {{BS5|||exSTR|||||↑1972年廃止区間|}} {{BS5|STRq|KBHFxeq|exABZqr|exSTRq|exSTRq|111.4|[[石狩沼田駅]]|1910-|}} {{BS5||||||||[[留萌本線]](←[[深川駅|深川]]方面 [[留萌駅|留萌]]方面→) 1910-|}} {{BS-colspan|HI=style="font-size:90%;"}} ---- * T…トンネル * トンネル・橋梁は主要なものを記載 {{Reflist|group="*"|refs= <ref group="*" name="1986-1987">[[1986年]][[11月1日]] - [[1987年]][[3月31日]]は[[臨時駅|臨時乗降場]]。</ref> <ref group="*" name="1981-1982">[[1981年]][[12月1日]] - [[1982年]]3月31日は[[仮乗降場]]。</ref> <ref group="*" name="1959-1987">[[1959年]]12月1日 - 1987年3月31日は仮乗降場。</ref> <!--<ref group="*" name="代替輸送 札幌">札幌市営地下鉄南北線・東豊線のさっぽろ駅は、<br>JR北海道函館本線の札幌駅における代替輸送の指定駅となっている。</ref>--> <ref group="*" name="代替輸送 新琴似">札幌市営地下鉄南北線の麻生駅は、JR北海道札沼線の<br>新琴似駅における代替輸送の指定駅となっている。</ref> }} |} |} '''札沼線'''(さっしょうせん)は、[[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]の[[桑園駅]]から[[石狩郡]][[当別町]]の[[北海道医療大学駅]]までを結ぶ、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)の[[鉄道路線]]([[地方交通線]])である。「'''学園都市線'''」(がくえんとしせん)という[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]が付けられている<!-- 全線に対する愛称です。公式サイトや、時刻表にも区間は書かれていません。ノートも参照。-->。 == 概要 == [[鉄道敷設法|改正鉄道敷設法]][[鉄道敷設法別表第136号|別表第136号]]に規定する「[[石狩国]]札幌ヨリ[[当別町|当別]]ヲ経テ[[沼田町|沼田]]ニ至ル鉄道」であり、全通時点では桑園駅から[[留萌本線]]と接する[[雨竜郡]][[沼田町]]の[[石狩沼田駅]]までの路線であった<ref name="chizucho" /><ref name="jrhokkaido-press-20090909-2" group="JR" />。 [[石狩川]]左岸は早期に現在の[[函館本線]]が開通した一方、右岸は昭和期まで左岸とを結ぶ橋が無く渡船のみで、冬季や増水時に[[陸の孤島]]となることがあったことから激しい政治運動が行われ<ref name=":022">{{Cite book|title=北海道の駅 878ものがたり 〜駅名のルーツ探求〜|date=2004-02-29|publisher=富士コンテム|author=太田幸夫|edition=1|location=[[札幌市]]|isbn=4-89391-549-5|year=|page=87}}</ref>、[[1931年]]([[昭和]]6年)[[10月10日]]に北側の石狩沼田駅 - 中徳富駅(初代。のちの新十津川駅)間が開業<ref name="tanaka1 130-131" />したのを皮切りに、南北双方から建設が進められ、[[1935年]](昭和10年)[[10月3日]]に全通した<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="jrhokkaido-press-20090909-2" group="JR" /><ref name="官報 1935-09-27" group="新聞" />。敷設に当たっては[[立憲政友会]]代議士の[[東武 (衆議院議員)|東武]](あずまたけし)が尽力した。 しかし[[太平洋戦争]]が激化すると「近接して並行路線(函館本線)があり代替輸送が可能」という理由で[[1943年]]([[昭和]]18年)[[10月1日]]から[[1944年]](昭和19年)[[7月21日]]にかけて石狩当別駅 - 石狩沼田駅間が順次[[不要不急線]]として休止され<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="官報 1943-09-02" group="新聞" /><ref name="官報 1944-07-20" group="新聞" />、撤去された{{refnest|group="注"|この際撤去された線路は[[樺太東線]][[気屯駅|気屯(現:スミルヌィフ)駅]] - [[古屯駅|古屯(現:ポページノ)駅]]間の延長に転用されたといわれている<ref name=":022" />。}}。 戦後は[[1946年]](昭和21年)[[12月10日]]の石狩当別駅 - [[浦臼駅]]間<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="官報 1946-12-10" group="新聞" />を皮切りに、[[1956年]](昭和31年)[[11月16日]]までに全線で運行を再開した<ref name="tanaka1 130-131" />。しかし、この時期から石狩川への架橋によって道路整備が進み[[モータリゼーション]]も加わって札沼線は凋落が目立つようになった。[[新十津川駅]] - 石狩沼田駅間がいわゆる「[[赤字83線]]」として[[1972年]](昭和47年)[[6月19日]]に廃止<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="jrhokkaido-press-20090909-2" group="JR" />。[[国鉄分割民営化]]後にはJR北海道により北海道医療大学駅 - 新十津川駅間が「当社単独では維持することが困難な線区」とされ<ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" group="JR" /><ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" group="JR" />、[[2020年]]([[令和]]2年)5月7日付で廃止された<ref name="jrhokkaido.co.jp/press/20181221" group="JR" /><ref group="注" name="covid19unkyu"/>。 現存する桑園駅 - 北海道医療大学駅間は[[1980年]](昭和55年)から開発が開始された「札幌ニュータウン[[あいの里]]」をはじめ、札幌市[[北区 (札幌市)|北区]]と[[当別町]]での[[宅地開発]]の進展、沿線への[[北海道医療大学]]・[[北海道教育大学]][[北海道教育大学#札幌校|札幌校]]移転により、JR北海道の「札幌圏<ref name=":1" group="注" />」を構成する[[通勤]]・[[通学]]路線に成長した。このため非[[鉄道の電化|電化]]路線でありながら[[高架橋|高架]]([[連続立体交差事業|連続立体交差]])化や駅の増設、輸送力増強のための一部[[複線]]化・列車増発が進められ、[[2012年]]([[平成]]24年)[[6月1日]]には[[北海道高速鉄道開発]]を事業主体とした[[交流電化]]が行われ<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20120314-1" />、2020年の非電化区間である北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の廃止後はJR北海道の在来線で[[海峡線]]、[[千歳線]]に次ぐ全線電化を達成した。 === 名称について === 路線の正式名称である「札沼線」は'''札'''幌と(石狩)'''沼'''田から一文字ずつ取ったものであるが、新十津川駅 - 石狩沼田駅間廃止後に実態に合わなくなっていたことに加え、沿線に北海道教育大学札幌校や北海道医療大学など学校が数多くあることから、[[1991年]](平成3年)[[3月16日]]のダイヤ改正時より一般公募によって'''学園都市線'''の愛称が付けられ<ref name=":022" />、各種案内に用いられている{{Refnest|group="注"|なお他言語での案内に際して、JR北海道は中国語を除き[[翻字]](英語であれば”Gakuen-Toshi line”)で案内している<ref group="JR">{{Cite web |url = https://www3.jrhokkaido.co.jp/monitor/index_e.html|title = Train status information in suburbs of Sapporo (Kitaca area)|website = HOKKAIDO RAILWAY COMPANY|publisher = 北海道旅客鉄道|language=en|accessdate = 2020-11-22}}</ref>}}。 === 路線データ === * 管轄(事業種別):北海道旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]) * 路線距離([[営業キロ]]):桑園駅 - 北海道医療大学駅 28.9 [[キロメートル|km]] * [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]]) * 駅数:14(起終点駅含む) ** 札沼線所属駅に限定した場合、起点の桑園駅([[函館本線]]所属<ref name="teisya" />)が除外され、13駅となる。 * [[複線]]区間:八軒駅 - あいの里教育大駅間 11.4 km * [[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化([[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]] [[架空電車線方式]]) ** 電化設備は電化工事の主体となった[[北海道高速鉄道開発]]から有償貸し付けされている<ref name="jrhokkaido-press-20111013-3" group="JR" />。 * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]: ** (札幌駅 - )桑園駅 - 八軒駅間、あいの里教育大駅 - 北海道医療大学駅間 [[閉塞 (鉄道)#特殊自動閉塞式|特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)]] ** 八軒駅 - あいの里教育大駅間 [[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|複線自動閉塞式]] * 最高速度: ** (札幌駅 - )桑園駅 - 当別駅間 85 [[キロメートル毎時|km/h]] ** 当別駅 - 北海道医療大学駅間 65 km/h == 運行形態 == 全列車が[[普通列車]]である。運転系統としての「札沼線(学園都市線)」に路線の起点である桑園駅を始終着とする列車はなく、一駅先の函館本線[[札幌駅]]を起点として{{Refnest|group="注"|name="eleven"|原則として札幌駅での発車は全て11番ホーム<ref group="JR">[https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/220817_KO_sapporo_st.pdf 北海道新幹線札幌延伸に向けた工事について ~11番ホーム使用開始および札幌駅周辺での工事計画~] 北海道旅客鉄道、2022年8月17日(2023年8月14日閲覧)</ref>、到着は列車により異なる。}}、桑園駅までは函館本線上下線の北側に並行して敷設された、札沼線系統専用の単線(通称:北線)を走行する<ref name="rj339-98" /><ref name="rj622-11_24" />。 2022年(令和4年)3月19日時点のダイヤでは、札幌駅 - 北海道医療大学駅間を運転する列車のほか途中のあいの里公園駅・当別駅で札幌駅へ折り返す列車が設定されている{{Refnest|group=注|かつては、[[あいの里教育大駅]]折り返しの列車が設定されていたが、2012年(平成24年)10月27日のダイヤ改正で廃止された<ref name="jrhokkaido-press-20120803-1" group="JR" />。}}。日中時間帯は札幌駅基準で上下とも1時間に3本(20分間隔)が運転され、うちあいの里公園駅発着が1 - 2本、そのほかが当別駅または北海道医療大学駅発着となっている。札幌駅以遠への直通は早朝に上り当別始発[[千歳線]][[新千歳空港駅|新千歳空港]]行き(千歳線内は快速「[[エアポート (列車)|エアポート]]」として運転)の1本のみ設定されている{{Refnest|group=注|当初は夜間にも同様の下り列車が設定されていたが、2020年(令和2年)3月14日ダイヤ改正で消滅した<ref name="hkd-timetable202003_112-119"/>。 このほか、非電化時代の2000年(平成12年)3月11日のダイヤ改正で、函館本線経由で[[江別駅]]まで乗り入れる列車が1日2往復新設されたが後に1往復に減少し、2012年(平成24年)10月27日ダイヤ改正で消滅した。なお、2012年(平成24年)10月27日ダイヤ改正では[[新千歳空港駅]]直通列車のほか、[[千歳駅 (北海道)|千歳駅]]まで直通する列車が1日1本、[[苫小牧駅]]からあいの里公園駅までの直通列車も1日1本新設されたが<ref name="jrhokkaido-press-20120803-1" group="JR" />、2016年(平成28年)3月26日のダイヤ改正でいずれも廃止された。}}。札幌駅以遠との直通列車を含め、線内はほとんどの列車が各駅停車であるが、ごく一部の列車はロイズタウン駅のみ通過する。 線内の駅では車両の[[夜間滞泊]]は行われておらず、最終列車は札幌駅到着後に[[札幌運転所]]まで[[回送]]される。 == 使用車両 == 2020年(令和2年)の非電化区間廃止後は、JR北海道の在来線では唯一気動車の定期運行がなく、電車のみが運転されている。 [[札幌運転所]]所属の「[[札幌都市圏|札幌圏]]<ref name=":1" group="注" />」向け普通・快速列車用電車([[JR北海道721系電車|721系]]、[[JR北海道731系電車|731系]]、[[JR北海道733系電車|733系〔0・3000番台〕]]、[[JR北海道735系電車|735系]])が札幌圏他線区と共通で運用されている。このほか電化直後には[[国鉄711系電車|711系電車]]も運用された。 <gallery> ファイル:JR-HOKKAIDO 721-F2107.jpg|721系電車 ファイル:JR Hokkaido 731.jpg|731系電車 ファイル:JR HOKKAIDO EC733 B-102.jpg|733系電車 ファイル:JR HOKKAIDO EC735 A-101 TRAIN.jpg|735系電車 </gallery> === 過去の使用車両 === 電車を除く * [[蒸気機関車]] - 苗穂機関区所属 ** [[国鉄C56形蒸気機関車|C56形]] **: 苗穂機関区に8両が配置されていたが、[[1941年]]12月から[[1942年]]1月にかけての戦時供出で、全車両が[[タイ王国|タイ]]と[[ビルマ国|ビルマ]]へ送られる。そのうちの44号機が[[1979年]]に日本へ里帰りし、[[大井川鐵道]]で[[動態保存]]されている。 ** [[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]] **: 浦臼町郷土資料館の駐車場に、煙室扉と第一動輪がモニュメントとして展示されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.urausu.hokkaido.jp/kurashi/shisetsu/shiryoukan.html|title=浦臼町郷土資料館|publisher=浦臼町|accessdate=2022-10-29}}</ref>。煙室扉にはC11 177のナンバープレートが取り付けられている。 * [[気動車]] - 苗穂機関区→苗穂運転所所属 *: 国鉄時代の車両は、苗穂区が受け持つ函館本線、千歳線と共通運用であった。このうち、片運転台車は、札幌駅発新十津川駅行の列車に組み込まれていても単行運転となる末端までは行かず、石狩当別、石狩月形、浦臼、いずれかの駅で折返す([[増解結]]を行う)運用に充当されていた<ref group="注">1970年頃の石狩当別以北で、旅客営業中の気動車がム級[[有蓋車]]([[二軸車 (鉄道)|二軸車]])を1両牽引する列車もあったが、これが[[混合列車]]なのか[[荷物車]]代用なのかは不詳。(資料提供求む)</ref> ** [[国鉄キハ10系気動車|キハ12・16・17形]] ** [[国鉄キハ20系気動車|キハ21・22形]] ** [[国鉄キハ56系気動車|キハ27・56形]] ** [[国鉄キハ45系気動車|キハ46形]] ** [[国鉄キハ56系気動車#キハ53形500番台(501 - 510)|キハ53形500番台]] ** [[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形]] *** [[国鉄キハ40系気動車_(2代)#100番台|100番台]] - 国鉄時代に新製配置された北海道向けの原形 *** [[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形300番台|300番台]]・[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形330番台・キハ48形1330番台|330番台]]・[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形400番台|400番台]]・[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形700番台|700番台]]・[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形1700番台|1700番台]] ** [[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ48形]] *** [[国鉄キハ40系気動車 (2代)#300番台・1300番台|300番台]]・[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形330番台・キハ48形1330番台|1330番台]] ** [[国鉄キハ54形気動車#北海道仕様車(500番台)|キハ54形500番台]] ** [[JR北海道キハ141系気動車|キハ141系]] ** [[JR北海道キハ201系気動車|キハ201系]] == 区間別の利用状況 == 以下、本項目の表中では一部、北海道医療大学駅を「医療大学駅」と略記する。 === 輸送密度 === 区間ごとの[[輸送密度]](人/日、以下同様)<!-- 輸送密度について、JR北海道は一部資料で人/キロ/日としているが、正確には「人キロ(=運んだ人数×運んだ距離)/営業キロ/営業日数」、のため、「人/日」が正しい -->は以下の通り。なお、一部の数値は函館本線札幌駅 - 桑園駅間を含むものである。 桑園駅 - 北海道医療大学駅間は2013年(平成25年)度に輸送密度が1975年(昭和50年)度比で'''315%'''に増加し<ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2016/160729-1" />、以降も[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の影響を受ける2020年(令和2年)度まで増加傾向が続いた。 一方で2020年(令和2年)に廃止された北海道医療大学駅 - 新十津川駅間は、2013年(平成25年)度の輸送密度が1975年(昭和50年)度(石狩当別駅 - 新十津川駅間)比で'''14%'''まで落ち込み<ref name="jrhokkaido/press/2016/160729-1" group="JR" />、2013年(平成25年)度と2016年(平成28年)度以降は、JR北海道が設定した区間別で最低の輸送密度を記録している<ref group="注">2013年度は、2012年(平成24年)度まで最低であった[[江差線]]([[木古内駅]] - [[江差駅]]間、2012年度当時輸送密度50)が廃止発表後に165まで上昇し、[[2014年]](平成26年)[[5月12日]]に廃止されたため。2016年度以降は、2014年(平成26年)度以降最低であった[[留萌本線]]([[留萌駅]] - [[増毛駅]]間)が2016年(平成28年)12月5日に廃止されたため。</ref>。当該区間の最低値は2017年(平成29年)度の'''57'''であり<ref group="JR" name="jrhokkaido/press/20181109/LineAccount2017"/>、これは、[[1995年]](平成7年)[[9月4日]]に廃止された[[深名線]](廃止当時80)<ref name="rj350-89" />や、2019年(平成31年)4月1日に廃止された[[石勝線|石勝線夕張支線]](廃止前年度の2017年度:69<ref name="jrhokkaido/press/20181109/LineAccount2017" group="JR" />)を下回る。 {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+ !style="width:12em" rowspan="2"|年度 !colspan="3"|輸送密度(人/日) !colspan="2" rowspan="2"|備考 !rowspan="2"|出典 |- !colspan="2"|{{smaller|札幌駅 -<br />石狩当別駅間}} !style="width:8%"|{{smaller|石狩当別駅 -<br />新十津川駅間}} |- !1975年(昭和50年)度 |colspan="2"|&nbsp; |582 |style="text-align:left;" colspan="2"|同年度の桑園駅 - 石狩当別駅間の輸送密度は2013年度実績<ref group="注">2013年度実績は1975年度比315%の増加</ref>より、およそ5,404<ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2016/160729-1" /> |rowspan="18"|<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20090909-2"/><ref group="JR" name="jrhokkaido/corporate/senku/01" /> |- !1980年(昭和55年)度 |colspan="2"|&nbsp; |466 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !1985年(昭和60年)度 |colspan="2"|&nbsp; |317 |style="text-align:left;" colspan="2"|1981年に大学前仮乗降場(→北海道医療大学駅)開業 |- !1987年(昭和62年)度 |colspan="2"|9,492 |341 |style="text-align:left;" colspan="2"|JR北海道発足。 |- !1988年(昭和63年)度 |colspan="2"|9,963 |322 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !1989年(平成元年)度 |colspan="2"|11,162 |305 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !1990年(平成{{0}}2年)度 |colspan="2"|12,788 |279 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !1991年(平成{{0}}3年)度 |colspan="2"|14,388 |264 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !1992年(平成{{0}}4年)度 |colspan="2"|15,272 |248 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !1993年(平成{{0}}5年)度 |colspan="2"|16,247 |255 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !1994年(平成{{0}}6年)度 |colspan="2"|17,215 |266 |style="text-align:left;" colspan="2"|1994年11月:札幌駅 - 桑園駅間3線化 |- !1995年(平成{{0}}7年)度 |colspan="2"|18,662 |279 |style="text-align:left;" colspan="2"|1996年3月:太平駅 - 篠路駅間複線化、石狩当別駅 - 新十津川駅間[[ワンマン運転]]開始 |- !1996年(平成{{0}}8年)度 |colspan="2"|19,566 |256 |style="text-align:left;" colspan="2"|1997年3月:篠路駅 - あいの里教育大駅間複線化 |- !1997年(平成{{0}}9年)度 |colspan="2"|19,470 |232 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !1998年(平成10年)度 |colspan="2"|19,572 |232 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !1999年(平成11年)度 |colspan="2"|18,973 |234 |style="text-align:left;" colspan="2"|2000年3月:八軒駅 - 太平駅間複線化 |- !2000年(平成12年)度 |colspan="2"|19,971 |239 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !2001年(平成13年)度 |colspan="2"|20,663 |249 |style="text-align:left;" colspan="2"|&nbsp; |- !年度 !{{smaller|札幌駅 -<br />石狩当別駅間}} !{{smaller|桑園駅 -<br />医療大学駅間}} !{{smaller|医療大学駅 -<br />新十津川駅間}} !{{smaller|※参考:月形高校<br />全校生徒に占める<br />列車通学者(人)<br /><ref group="報道" name="pref.hokkaido/tetudoumounoarikataP15-P30" />}} !備考 !出典 |- !2002年(平成14年)度 |21,018 |&nbsp; |107 |&nbsp; |style="text-align:left;"|同年度より算出区間を変更 |rowspan="7"|<ref name="jrhokkaido-press-20090909-2" group="JR" /><ref group="JR" name="jrhokkaido/corporate/senku/01" /> |- !2003年(平成15年)度 |21,986 |&nbsp; |108 |&nbsp; |&nbsp; |- !2004年(平成16年)度 |22,765 |&nbsp; |98 |&nbsp; |&nbsp; |- !2005年(平成17年)度 |23,168 |&nbsp; |88 |&nbsp; |&nbsp; |- !2006年(平成18年)度 |23,138 |&nbsp; |84 |&nbsp; |&nbsp; |- !2007年(平成19年)度 |23,243 |&nbsp; |73 |&nbsp; |&nbsp; |- !2008年(平成20年)度 |23,821 |&nbsp; |78 |61/165 |&nbsp; |- !2009年(平成21年)度 |&nbsp; |&nbsp; |86 |69/159 |&nbsp; |<ref name="jrhokkaido/corporate/senku/01" group="JR" /> |- !2010年(平成22年)度 |24,909 |&nbsp; |97 |77/173 |&nbsp; |<ref name="jrhokkaido/corporate/senku/01" group="JR" /><ref name="rj550-46"/> |- !2011年(平成23年)度 |&nbsp; |15,490 |89 |64/151 |style="text-align:left;"|桑園駅 - 医療大学駅間の数値は2012年度の前年度比増減より算出<ref name="jrhokkaido/press/2014/140509-1" group="JR" />。 |<ref group="JR" name="jrhokkaido/corporate/senku/01" /><ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2014/140509-1" /> |- !rowspan="2"|2012年(平成24年)度 |rowspan="2"|&nbsp; |16,017 |90 |rowspan="2"|65/160 |style="text-align:left;" rowspan="2"|2012年6月:桑園駅 - 医療大学駅間交流電化 |<ref name="jrhokkaido/corporate/senku/01" group="JR" /><ref name="jrhokkaido/press/2014/140509-1" group="JR" /> |- |colspan="2"|6,107 |style="text-align:left;"|<ref group="MLIT" name="annualstatistics2012" /> |- !rowspan="2"|2013年(平成25年)度 |rowspan="2"|&nbsp; |17,023 |81 |rowspan="2"|71/151 |style="text-align:left;" rowspan="2"|医療大学駅 - 新十津川駅間:JR北海道が設定した区間別で最低値 |<ref name="jrhokkaido/corporate/senku/01" group="JR" /><ref name="jrhokkaido/press/2014/140509-1" group="JR" /> |- |colspan="2"|6,481 |<ref group="MLIT" name="annualstatistics2013" /> |- !rowspan="2"|2014年(平成26年)度 |rowspan="2"|&nbsp; |16,873 |81 |rowspan="2"|68/159 |rowspan="2"|&nbsp; |<ref group="JR" name="jrhokkaido/corporate/senku/01" /><ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2015/150508-2" /> |- |colspan="2"|6,425 |<ref group="MLIT" name="annualstatistics2014" /> |- !rowspan="2"|2015年(平成27年)度 |rowspan="2"|&nbsp; |17,359 |79 |rowspan="2"|58/146 |style="text-align:left;" rowspan="2" |2016年3月26日より浦臼駅 - 新十津川駅間1往復のみ運転。 |<ref group="JR" name="jrhokkaido/corporate/senku/01" /><ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2016/160509-3" /> |- |colspan="2"|6,607 |style="text-align:left;"|<ref group="MLIT" name="annualstatistics2015" /> |- !rowspan="2"|2016年(平成28年)度 |rowspan="2"|&nbsp; |17,590 |64 |rowspan="2"|37/117 |style="text-align:left;"|[[平成28年台風第10号|台風10号]]による影響を除くため、9 - 12月を除いた数値。<br>医療大学駅 - 新十津川駅間:JR北海道が設定した区間別で最低値 |style="text-align:left;"|<ref group="JR" name="jrhokkaido/corporate/senku/01" /><ref name="jrhokkaido/press/2017/170509-2" group="JR" /> |- |17,643 |66 |style="text-align:left;"|9 - 12月を含む数値(うち医療大学駅 - 石狩月形間は147)<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/secure/9628/30.5.29JRsetumeikai.pdf|title=JR札沼線住民説明会概要|accessdate=2018-06-09|year=2018|format=PDF|publisher=月形町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180609115651/http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/secure/9628/30.5.29JRsetumeikai.pdf|archivedate=2018-06-09}}</ref> |style="text-align:left;"|<ref name="jrhokkaido/press/2017/170509-2" group="JR" /> |- !2017年(平成29年)度 |&nbsp; |17,862 |57 |26/96 |style="text-align:left;"|桑園駅 - 医療大学駅間:新千歳空港へのアクセス好調、道東方面直通の特急列車運転再開等により、前年度比増加<br />医療大学駅 - 新十津川駅間:JR北海道が設定した区間別で最低値<br/>同年度分より集計方法見直し<ref group="注">[[ジャパンレールパス#Hokkaido_Rail_Pass|北海道レールパス]]、[[大人の休日倶楽部|大人の休日俱楽部パス(東日本・北海道)]]の利用について、計上方法見直し。</ref> |<ref name="jrhokkaido/press/20181109/LineAccount2017" group="JR" /> |- !2018年(平成30年)度 |&nbsp; |17,957 |62 |&nbsp; |&nbsp; |<ref group="JR" name="jrhokkaido/201900904_ExpenditureOfSection" /> |- !2019年(令和元年)度 |&nbsp; |17,552 |71 |&nbsp; |style="text-align:left;"|桑園駅 - 医療大学駅間:[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の拡大の影響等により、前年度比減少<br>医療大学駅間 - 新十津川駅間:廃止に関連した利用客増加により、前年度比増加 |<ref group="JR" name="jrhokkaido/20200608_senkubetu" /> |- !2020年(令和{{0}}2年)度 |&nbsp; |12,555 |112<ref group="注" name="data-2020">2020年5月6日までの実績で算出</ref> |&nbsp; |style="text-align:left;"|桑園駅 - 医療大学駅間:COVID-19の影響により、前年度比大幅減少 |<ref group="JR" name="jrhokkaido/210604_Senkubetusyushi" /> |- !2021年(令和{{0}}3年)度 |&nbsp; |13,307 |rowspan="2" style="background-color:#ddd;"|&nbsp; |rowspan="2" style="background-color:#ddd;"|&nbsp; |&nbsp; |<ref group="JR" name="jrhokkaido/220603_SenkubetsuSyusi" /> |- !2022年(令和{{0}}4年)度 |&nbsp; |14,475 |&nbsp; |<ref group="JR" name="jrhokkaido/20230609_SenkubetsuSyusi" /> |} === 収支・営業係数 === 区間ごとの[[収支]](営業収益・営業費用・営業損益)と[[営業係数]]は以下の通り。▲はマイナスを意味する。JR北海道公表分についてはいずれも管理費を含めた金額である。なお、桑園駅 - 北海道医療大学駅間は札幌圏各線<ref group="注" name=":1">当線のほか、[[函館本線]]([[小樽駅]] - [[札幌駅]] - [[岩見沢駅]]間)、[[室蘭本線]]([[苫小牧駅]] - [[沼ノ端駅]]間)、[[千歳線]](沼ノ端駅 - [[白石駅 (JR北海道)|白石駅]]間)</ref>と合わせたデータで公表されており、単独のデータは不明。 {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+札沼線(桑園駅 - 石狩沼田駅間) !rowspan="2"|年度 !colspan="3"|収支(百万円) !rowspan="2"|収支<br />係数<br />(%) !rowspan="2"|備考 !rowspan="2"|出典 |- !営業<br />収益 !営業<br />費用 !営業<br />損益 |- !1970年(昭和45年)度 |216 |1,022 |▲806 |473 |style="text-align:left;"|出典では営業係数は「収支係数(%)」と記載。<br />数値としては同様になるため他文献と表記を合わせる。 |<ref name="RP261-86_87"/> |} {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+札幌圏各線(桑園駅 - 北海道医療大学駅間含む) !rowspan="2"|年度 !colspan="3"|収支(百万円) !rowspan="2"|営業<br />係数<br />(円) !rowspan="2"|備考 !rowspan="2"|出典 |- !営業<br/>収益 !営業<br/>費用 !営業<br/>損益 |- !2014年(平成26年)度 |39,721 |42,383 |▲2,662 |107 |&nbsp; |<ref name="jrhokkaido/press/2016/160210-1" group="JR" /> |- !2015年(平成27年)度 |40,619 |42,794 |▲2,175 |105 |&nbsp; |<ref name="jrhokkaido/press/2016/161104-1" group="JR" /> |- !2016年(平成28年)度 |40,668 |46,136 |▲5,467 |113 |style="text-align:left;"|修繕費・[[減価償却]]費増加<ref group="注">千歳線での高架橋耐震対策や、電車線取り替え、733系電車の増備による。</ref>により営業費用増加。 |<ref name="jrhokkaido/press/2017/171107-2" group="JR" /> |- !2017年(平成29年)度 |42,074 |44,566 |▲2,492 |106 |style="text-align:left;"|利用増・減価償却費減少により前年度比改善。同年度分より集計方法見直し<ref name=":0" group="注">[[ジャパンレールパス#Hokkaido Rail Pass|北海道レールパス]]、[[大人の休日倶楽部|大人の休日俱楽部パス(東日本・北海道)]]の利用について、収入・計上方法見直し。車両の減価償却費について、特急型気動車、一般型気動車、のような大まかな区分から、系列ごとの区分に変更して反映。</ref> |<ref name="jrhokkaido/press/20181109/LineAccount2017" group="JR" /> |- !2018年(平成30年)度 |41,842 |44,597 |▲2,755 |107 |style="text-align:left;"|[[北海道胆振東部地震]]による運輸収入減少や高架橋の修繕費増加により、前年度比拡大 |<ref group="JR" name="jrhokkaido/201900904_ExpenditureOfSection" /> |- !2019年(令和元年)度 |42,134 |44,394 |▲2,260 |105 |style="text-align:left;"|外注による踏切や駅構内の除雪・車両の減価償却費の減少により、前年度比改善 |<ref group="JR" name="jrhokkaido/20200608_senkubetu" /> |- !2020年(令和{{0}}2年)度 |24,516 |42,394 |▲17,878 |173 |style="text-align:left;"|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響により、前年度比拡大<ref group="注">運輸収入減少に伴う営業収益の減少、線路および踏切の修繕の減少や切符の他社発売による手数料支払いの減少に伴う営業費用の減少が発生した。</ref> |<ref group="JR" name="jrhokkaido/210604_Senkubetusyushi" /> |- !2021年(令和{{0}}3年)度 |27,266 |42,125 |▲14,859 |154 |&nbsp; |<ref group="JR" name="jrhokkaido/220603_SenkubetsuSyusi" /> |- !2022年(令和{{0}}4年)度 |36,515 |43,683 |▲7,168 |120 |&nbsp; |<ref group="JR" name="jrhokkaido/20230609_SenkubetsuSyusi" /> |} {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+札沼線(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間) !rowspan="2"|年度 !colspan="3"|収支(百万円) !rowspan="2"|営業<br>係数<br>(円) !rowspan="2"|備考 !rowspan="2"|出典 |- !営業<br/>収益 !営業<br/>費用 !営業<br/>損益 |- !2014年(平成26年)度 |16 |348 |▲332 |2,162 |&nbsp; |<ref name="jrhokkaido/press/2016/160210-1" group="JR" /> |- !2015年(平成27年)度 |17 |367 |▲307 |2,213 |style="text-align:left;"|同年度の3月26日より浦臼 - 新十津川間1往復のみ運転。<br>同年度の営業費用中「輸送に直接必要な費用」は収入比'''302%'''<ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" group="JR" /> |<ref name="jrhokkaido/press/2016/161104-1" group="JR" /> |- !2016年(平成28年)度 |15 |382 |▲367 |2,609 |style="text-align:left;"|うち石狩月形以南は営業係数2020<ref name=":1" /> |<ref name="jrhokkaido/press/2017/171107-2" group="JR" /> |- !2017年(平成29年)度 |15 |329 |▲314 |2,182 |style="text-align:left;"|同年度分より集計方法見直し<ref name=":0" group="注" /> |<ref name="jrhokkaido/press/20181109/LineAccount2017" group="JR" /> |- !2018年(平成30年)度 |16 |297 |▲281 |1,803 |&nbsp; |<ref group="JR" name="jrhokkaido/201900904_ExpenditureOfSection" /> |- !2019年(令和元年)度 |24 |299 |▲275 |1,253 |style="text-align:left;"|廃止に関連した利用客増加による営業収益増加が発生 |<ref group="JR" name="jrhokkaido/20200608_senkubetu" /> |- !2020年(令和{{0}}2年)度 |5 |23 |▲18 |472 |style="text-align:left;"|営業最終年度 |<ref group="JR" name="jrhokkaido/210604_Senkubetusyushi" /><ref group="注" name="data-2020" /> |} == 1972年廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅間)について == === 廃止に至る経緯(新十津川駅 - 石狩沼田間) === 太平洋戦争中に[[不要不急線]]として休止されていた石狩当別駅 - 石狩沼田駅間のうち、浦臼駅 - 石狩沼田駅間は、再開後も利用が振るわず、1963年(昭和38年)6月10日時点で営業係数は292となっていた<ref name="斎藤1963" />。 特に新十津川駅以北は、[[石炭]]産業の凋落{{Refnest|group="注"|札沼線沿線には1963年まで月形炭鉱があり、石狩沼田駅経由で石炭を[[留萌港]]まで輸送していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://tetsudo-ch.com/11375951.html |title=突然幕を下ろした札沼線非電化区間 廃止1年後の沿線を訪ねて(1) |access-date=2023-06-15 |date=2021-05-29 |website=鉄道チャンネル}}</ref>。}}、[[モータリゼーション|自動車交通の発達]]や並行する[[国道275号]]の完全舗装などの道路整備、沿線の人口減少により年ごとに利用の減少が進み、同区間は営業末期の1972年(昭和47年)に発表された輸送実績では、乗車人員498人、貨物発送トン数58[[トン]]と、いずれも1960年(昭和35年)比でそれぞれ30%、62%に落ち込み、収支係数は1500にのぼった<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。これにより末期の同区間の運転本数は、旅客5往復/日、貨物は3日に1本程度にまで減少した<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。 [[1968年]](昭和43年)に国鉄諮問委員会は「『ローカル線の輸送をいかにするか』についての意見書」中で、使命を終えた国鉄の地方線をバス転換とする方針を打ち出し、いわゆる「[[赤字83線]]」を発表し、札沼線新十津川駅 - 石狩沼田駅間もこれに含まれた<ref>{{Cite journal|和書|author=宮下弘美 |title=北海道における鉄道敷設と運輸 : JR北海道「路線の見直し」を問う |journal=地域経済経営ネットワーク研究センター年報 |ISSN=2186-9359 |publisher=北海道大学大学院経済学研究科地域経済経営ネットワーク研究センター |year=2017 |month=mar |issue=6 |pages=145-166 |naid=120006318778 |url=https://hdl.handle.net/2115/66583}}</ref>。 1965年(昭和40年)頃から収入が落ち始め、1969年度(昭和44年度)の札沼線全区間の赤字額は約6億8000万円、営業係数は392だった<ref name=":9">{{Cite news|和書 |title=“国内最長廃止”に拒絶反応 国鉄札沼線 新十津川―沼田間 企業努力が先決 沿線住民 道総局 話し合い、はや決裂 |newspaper=北海道新聞 |date=1971-08-28 |edition=朝刊}}</ref>。新十津川 ‐ 石狩沼田間の旅客数は1965年の1日1368人に対して1970年(昭和45年)は497人に減り、その70%ほどは定期客の通学、通勤だった。貨物も発着合わせて1965年の1日126tから1970年は74tに落ち込み、1970年度の営業係数は870だった<ref name=":9" />。 これを受け、国鉄北海道総局では[[1971年]](昭和46年)[[8月2日]]に新十津川駅 - 石狩沼田駅間沿線4町([[新十津川町]]、[[雨竜町]]、[[北竜町]]、[[沼田町]])に廃止を提案し<ref name=":9" />、管轄する旭川鉄道管理局と併せて沿線住民と800回にのぼる話し合いを行った<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。沿線自治体による札沼線廃止反対期成会は当初「国鉄は企業努力することが先決」「このままでは受け入れる余地はない」「まず利用しやすい線にするよう企業努力するのが筋ではないか」との声が強かったが<ref name=":9" />、これに対し国鉄は、存続の場合運行費の3分の1(3億円/年)を北海道、沿線自治体でそれぞれ負担、廃止を受け入れるなら1kmあたり300万円前後(今回の場合およそ1億円)の特別交付金を出すことを提案した<ref name=":10" />。 最終的に沿線自治体は、これ以上の負担増は財政をパンクさせることになり、並行国道のバスを増発したほうが住民にとって便利という結論に達し<ref name=":10" />、[[1972年]](昭和47年)[[3月16日]]の沼田町を最後に沿線4町は廃止に同意した<ref name="KotsuGijutsu326_133" /><ref>{{Cite news|和書 |title=5月めどに実施 札沼線のバス代替輸送 |newspaper=北海道新聞 |date=1972-03-23 |edition=夕刊}}</ref>。その後、同年[[3月23日]]に旭川鉄道管理局から国鉄本社に廃止が上申され<ref name=":10">{{Cite news|和書 |title=“ムチ(地元経費負担)”より“アメ(特別交付金)” 札沼“北”線の廃止 |newspaper=北海道新聞 |date=1972-03-24 |edition=朝刊}}</ref>、[[6月18日]]の運転をもって新十津川駅 - 石狩沼田駅間の運輸営業が廃止された<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="jrhokkaido-press-20090909-2" group="JR" /><ref>{{Cite news|和書 |title=37年の思い出乗せ 各駅ごとに“ご苦労さん” 札沼線さようなら 沼田―新十津川 大歓迎お別れ列車 |newspaper=北海道新聞 |date=1972-06-19 |edition=朝刊}}</ref>。 「赤字83線」の廃止は道内では[[根北線]]に次ぐ2番目<ref group="注">「赤字83線」指定と無関係の[[胆振線#支線|胆振線脇方支線]]の廃止を含めると同時期の赤字ローカル線の廃止は北海道内で3番目。</ref>であり、廃止区間延長34.9kmは「赤字83線」における1区間の廃止距離としては全国で最長であった<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。また、「赤字83線」の取り組みそれ自体による指定線区の国鉄路線の廃止はこの区間が最後となった。 === 廃止後の状況(新十津川駅 - 石狩沼田間) === 新十津川駅 - 石狩沼田駅間は廃線後、線路跡は農地整備等の区画整理によってほとんど痕跡を留めておらず、わずかに一部の駅の周辺に面影を偲ぶのみとなっている。 === 廃止後の交通体系(新十津川駅 - 石狩沼田間) === {{See also|石狩線|北海道中央バス滝川営業所#主な廃止路線|沼田町#バス}} 廃止区間には元々、札沼線を補完する形で[[滝川駅]] - 新十津川駅 - 碧水市街 - 石狩沼田駅間などに[[国鉄バス]][[石狩線]]が運行されており、これがそのまま代替輸送を担うこととなった。このため、石狩線は石狩沼田駅 - 碧水市街間を8本/日から24本に増便したことをはじめ、鉄道廃止区間各所と上徳富市街 - 滝川間の計6区間で計93本/日の増便を行い、滝川駅での列車接続を改善するなど利便性の高いダイヤへの改善が行われた<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。 石狩線はその後、[[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]から国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)自動車事業部の路線となり、[[2000年]](平成12年)4月1日には分社化によって[[ジェイ・アール北海道バス]]に引き継がれた。 [[2003年]](平成15年)[[3月1日]]には、ジェイ・アール北海道バスの[[空知総合振興局|空知地区]]撤退に伴い、[[北海道中央バス]]に移管され、当該区間の路線は[[北海道中央バス滝川営業所]]が運行する滝川沼田線(滝川ターミナル - 碧水市街 - 沼田駅前間)となったが、[[2008年]](平成20年)4月1日には運転区間が滝川ターミナル - 碧水市街間に短縮され路線名も滝川北竜線となった。 2008年の短縮により廃止された碧水市街 - 沼田駅前間は[[沼田町#バス|沼田町営バス]]北竜線となった。2016年時点では、碧水市街 - 沼田駅前 - 厚生クリニック間で上下2往復+日中は予約制バスという形態であったが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.numata.hokkaido.jp/section/kensetu/ujj7s30000000phr-att/ujj7s30000000pm3.pdf|title=沼田町営バス時刻表|accessdate=2016-10-29|format=PDF|publisher=沼田町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161027125417/https://www.town.numata.hokkaido.jp/section/kensetu/ujj7s30000000phr-att/ujj7s30000000pm3.pdf|archivedate=2016-10-27}}</ref>、[[2017年]](平成29年)[[3月31日]]限りで定期便としては廃止され、[[デマンドバス|予約制バス]]の状態を経て<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.numata.hokkaido.jp/section/kensetu/h0opp2000000448w-att/h0opp200000044ei.pdf|title=沼田町営バス時刻表 平成29年7月3日現在|accessdate=2017-08-19|format=PDF|publisher=沼田町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170819103921/http://www.town.numata.hokkaido.jp/section/kensetu/h0opp2000000448w-att/h0opp200000044ei.pdf|archivedate=2017-8-19}}</ref>、翌[[2018年]](平成30年)[[5月31日]]に、乗合タクシーへと改組されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.numata.hokkaido.jp/section/kensetu/h0opp20000007rns.html?channel=main|title=乗合タクシーの運行について|accessdate=2018-06-02|publisher=沼田町}}</ref>。 北海道中央バス滝川北竜線は、2018年(平成30年)4月1日に滝川ターミナル廃止に伴い滝川駅への乗り入れが再開され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chuo-bus.co.jp/平成30年4月1日からバスのりば・窓口が滝川駅前に変わります…/main_info/881.html|title=平成30年4月1日から、バスのりば・窓口が滝川ターミナルから滝川駅前に変わります!|accessdate=2018-11-23|format=PDF|publisher=[[北海道中央バス]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181123140922/http://www.chuo-bus.co.jp/平成30年4月1日からバスのりば・窓口が滝川駅前に変わります…/main_info/881.html|archivedate=2018-11-23}}</ref>、同年夏ダイヤの時点では滝川駅 - 碧水市街間で4往復が運転されていた<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://www.chuo-bus.co.jp/city_route/course/common/images/pdf/TAKIKAWA.pdf|title=中央バス30年夏ダイヤ時刻表(滝川地区)|accessdate=2018-10-13|publisher=北海道中央バス|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180716165836/https://www.chuo-bus.co.jp/city_route/course/common/images/pdf/TAKIKAWA.pdf|archivedate=2018-7-16}}</ref>。しかし、[[2010年]](平成22年)に45,821人いた利用者は[[2019年]](令和元年)には24,751人へと減少しており<ref name=":8">{{Cite report|url=http://www.town.hokuryu.hokkaido.jp/news/engine/upload/350-1.pdf|title=北竜町地域公共交通計画(素案)|page=12|accessdate=2021-07-08|publisher=北竜町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210320153133/http://www.town.hokuryu.hokkaido.jp/news/engine/upload/350-1.pdf|archivedate=2021-03-20|format=PDF}}</ref>、運転手不足などから、2020年(令和2年)に2度の減便を行い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.shintotsukawa.lg.jp/hotnews/files/00003300/00003311/p6_13_ubugoe_okuyami_nuki.pdf|title=滝川北竜線(土日祝)運行の減便|accessdate=2021-07-08|publisher=新十津川町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210708073802/https://www.town.shintotsukawa.lg.jp/hotnews/files/00003300/00003311/p6_13_ubugoe_okuyami_nuki.pdf|archivedate=2021-07-08|work=広報しんとつかわ 2020年2月号}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sorachi.chuo-bus.co.jp/pdf/2020_winter.pdf|title=2020年冬ダイヤ 空知中央バス 北海道中央バス時刻表|accessdate=2021-07-08|publisher=空知中央バス|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210213121730/https://www.sorachi.chuo-bus.co.jp/pdf/2020_winter.pdf|archivedate=2021-02-13|format=PDF}}</ref>、2022年(令和4年)4月1日に路線廃止となった<ref name="press20220302">{{Cite web|和書|url=https://www.chuo-bus.co.jp/滝川北竜線・ふるさと公園線・高速しんとつかわ号廃止の%20お知らせ/main_info/1755 |title=令和4年4月改正 空知地区の3路線廃止と代替交通のご案内 - 滝川北竜線・ふるさと公園線・高速しんとつかわ号|publisher=北海道中央バス|date= 2022年3月2日|accessdate=2022-7-30}}</ref>。 廃止後は、沿線の新十津川町、雨竜町、北竜町がそれぞれ予約制乗合タクシー等の形で代替交通を確保している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.uryu.hokkaido.jp/soshiki/kikakuzaisei/oiwake.html|title=滝川北竜線代替交通「北竜町営 北竜追分線」について|publisher=雨竜町|accessdate=2022-7-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.uryu.hokkaido.jp/soshiki/kikakuzaisei/oshirarika.html|title=滝川北竜線代替交通「オシラリカ号」について|publisher=雨竜町|accessdate=2022-7-30}}</ref><ref name="shintotsukawa">{{Cite web|和書|url=https://www.town.shintotsukawa.lg.jp/hotnews/detail/00004041.html|title=新公共交通の利用案内|publisher=新十津川町|accessdate=2022-7-30}}</ref>。 == 2020年廃止区間(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)について == [[ファイル:JR Hokkaido KI HA 40 401.JPG|サムネイル|石狩当別駅 - 新十津川駅間の専用車として投入されていた[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形400番台|キハ40形400番台]](2007年10月6日)]] [[ファイル:JRH Kiha40 1824 in Shin-Totsugawa 02.JPG|サムネイル|新十津川駅に停車するキハ40形1700番台(2016年4月6日)]] この区間では2016年(平成28年)3月26日以降<ref name="jrhokkaido-press-20160208-2" group="JR" />廃止まで、1日に石狩当別駅 - 浦臼駅間列車が上下各5本、石狩当別駅 - 石狩月形駅間列車が下り2本・上り1本、石狩当別駅 - 新十津川駅間列車が上下各1本運行されていた<ref group="注">電化以前は、石狩当別駅 - 新十津川駅間で使用される車両の苗穂運転所への入出庫を兼ね、現在の電化区間と石狩金沢駅以北間を直通運転する列車が設定されていたが、札幌駅 - 石狩当別駅間の全営業列車を電車化した[[2012年]](平成24年)[[10月27日]]ダイヤ改正以降、電化区間と北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の非電化区間とは石狩当別駅または北海道医療大学駅で乗り換えとなり、非電化区間用の気動車は苗穂運転所から石狩当別駅までを回送列車として入出庫するようになって、石狩当別駅以南各駅と石狩金沢駅以北各駅間を直通する列車は消滅した。</ref>。特に、浦臼駅 - 新十津川駅間は1日1往復のみの運行であり<ref name="jtb-timetable-2016-04" /><ref name="jrhokkaido-press-20160208-2" group="JR" />、国鉄およびJR旅客各社における旅客列車の本数としては国鉄[[清水港線]]([[1984年]](昭和59年)廃止)に並ぶ史上最少の運行本数であった。 列車は全て[[ワンマン運転]]で、朝の石狩月形駅始発上り列車1本(およびその送り込み[[回送]]列車)が2両[[編成 (鉄道)|編成]]となるほかは、単行(1両)で運転されていた<ref name="rf694-77" />。 === JR北海道の見解 === [[2016年]](平成28年)[[11月18日]]、JR北海道は「将来にわたり持続可能な形で安全最優先の鉄道事業を運営する社会的な使命を果たすため<ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" group="JR" /><ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" group="JR" />」に「当社単独では維持することが困難な線区(以下、維持困難線区)」として、北海道医療大学駅 - 新十津川駅間を含む10路線13区間を発表した<ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" group="JR" /><ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" group="JR" />{{Refnest|group="注"|発表直前の2016年(平成28年)10月9日に、JR北海道がその数年前から浦臼町・新十津川町に対して、乗客の少なさを挙げたうえで、この区間の廃止・バス転換を打診し続けていたことが『[[北海道新聞]]』により報道されている<ref name="dd.hokkaido-np/2016-10-09/news/economy/economy/1-0325161" group="新聞" /><ref name="headlines.yahoo/2016-10-09/hl?a=20161009-00010000-doshin-hok" group="新聞" />。}}。 「維持困難線区」の中でもこの区間は「輸送密度が200人未満の線区」に属し、維持困難線区発表時点で[[北海道月形高等学校]]への通学を除けば「日常的なご利用は殆ど無い」とした。また、維持する際の課題として運営赤字と別に今後20年間で6億円におよぶ老朽施設の更新費用を挙げた<ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" group="JR" /><ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" group="JR" />。以上を踏まえ「鉄道よりもほかの交通手段が適しており(中略)バス等への転換について地域の皆様と相談を開始します」と表明した<ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" group="JR" /><ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" group="JR" />。 その後、2018年(平成30年)[[5月16日]]の月形町との個別協議では「鉄道として残すことはできない」と回答し<ref name="asahiMTW20180517011700001" group="新聞" /><ref name="mainichi20180517" group="新聞" />、同年[[6月17日]]には「JR北海道の事業範囲見直しに係る関係者会議」にて示された「経営再生の見通し(案)」中で、本区間を含む「輸送密度200人未満の線区」は、「地域の皆様とともに、鉄道よりも便利で効率的な交通手段へ転換」とし<ref group="JR" name="jrhokkaido/press/20180618_KO_mitooshi" />、国に対しても支援を求めない方針とした<ref group="新聞" name="HTB20180617" /><ref group="新聞" name="yomiuri/economy/20180618" />。 なお「維持困難線区」発表時、現存区間についてJR北海道は「当社単独では維持することが困難な線区」の発表に際し、「大量・高速輸送の観点からも鉄道でなければ輸送を担えない」「当社単独で維持可能な線区」としている<ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" group="JR" /><ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" group="JR" />。 === 地域における利用状況と周辺交通 === 月形町以北の沿線([[樺戸郡]])は、[[石狩川]]対岸の各市町([[岩見沢市]]、[[美唄市]]、[[奈井江町]]、[[砂川市]]、[[滝川市]]など)との結びつきが強く、札沼線は前述のように月形高校への通学(2016年度:37人<ref name="pref.hokkaido/tetudoumounoarikataP15-P30" group="報道" />)を除けば日常的に利用されず<ref group="注">札沼線の当該区間廃止時点で月形高校は学区としては沿線外の[[岩見沢市]]などと同一の空知南学区に属しているが、沿線の[[浦臼町]]および周辺の[[新篠津村]]を学区内扱いとする特例が設けられている。</ref>、札幌方面との流動も、所要時間や列車本数などの利便性ではるかに上回る函館本線の列車を利用して向かう住民が多い<ref name="headlines.yahoo/2016-10-09/hl?a=20161009-00010000-doshin-hok" group="新聞" />、とされていた。 また、維持困難線区発表時点で、月形町 - 岩見沢市、浦臼町 - 奈井江町、浦臼町 - 新十津川町 - 滝川市間はバス路線が設定(5.5 - 19.5往復、一部ルートは土休日運休)され<ref name=":2" /><ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.town.urausu.hokkaido.jp/syoukai/files/h29chouei_bus.pdf|title=H29年4月時刻表|accessdate=2018-04-21|format=PDF|publisher=浦臼町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180421130330/http://www.town.urausu.hokkaido.jp/syoukai/files/h29chouei_bus.pdf|archivedate=2018-04-21}}</ref><ref name="pref.hokkaido/tetudoumounoarikataP15-P30" group="報道" /><ref group="注">このほか、月形高校 - 月形駅 - 新篠津役場前 - [[江別駅]]間に[[新篠津村営バス]]が平日のみ運行されているが、[[新篠津村]]内から江別市内・月形高校への輸送を主軸に置いたダイヤ編成がなされており、全区間通しで運転する便は1.5往復にとどまる。</ref>、2018年(平成30年)夏ダイヤの時点で、新十津川役場 - [[滝川駅|滝川駅前]]間を約10 - 15分(北海道中央バス滝川浦臼線・滝新線・ふるさと公園線、経路により異なる)<ref name=":2" /><ref group="注">特に、新十津川駅から[[滝川駅]]までの間は石狩川を挟んで直線距離で約3&nbsp;kmしか離れていない。</ref>、[[浦臼駅]]から[[奈井江駅]]まで約25分(浦臼町営バス、土休日運休)<ref name=":0" />で連絡していた。 このためこの区間は廃止直前には「輸送に直接必要な費用」(燃料費、乗務員の人件費等)すら賄えていない状況にあった<ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" group="JR" />。 === 北海道「総合交通政策検討会議」における扱い === [[2018年]](平成30年)[[2月10日]]に、北海道による総合交通政策検討会議が発表した「北海道の将来を見据えた鉄道網(維持困難線区)のあり方について」において、本区間は「利便性の高い最適な公共交通ネットワークの確保に向け、今後の活力ある地域づくりの観点に十分配慮しながら、 '''バス転換も視野に、地域における検討・協議を進めていくことが適当である'''」とされ、述べられた各線区の中で唯一バス転換を視野とする旨が述べられている<ref group="報道" name="pref.hokkaido/tetudoumounoarikataP15-P30" />。なお、検討会議では浦臼駅 - 新十津川駅間については、1日の利用者が平均10人を下回っていることを指摘している<ref name="pref.hokkaido/tetudoumounoarikataP15-P30" group="報道" />。 === 沿線自治体の廃止合意に至るまでの動き === 維持困難線区として発表された後、当該区間沿線の4町([[当別町]]、[[月形町]]、[[浦臼町]]、[[新十津川町]])は存続を目指すこととしてJR北海道との協議に応じず、[[2017年]](平成29年)5月より4町のみでの意見交換会を開いた(以降12月まで6回開催)<ref name=":1" /><ref group="新聞" name="mainichi20180517" />。 意見交換会では早期の協議入りを望む町と慎重姿勢を崩さない町とで意見が衝突したが<ref group="新聞" name="hokkaido-np/20181013"/>、同年[[11月14日]]の第5回意見交換会で4町とも「同区間の現状維持は極めて厳しい」との認識で一致し、バスも含め代替交通機関を検討するとしつつ、あくまで路線存続の方針は維持した<ref group="新聞" name="hokkaido-np/144760" /><ref group="新聞" name="yomiuri/20171114" />。 [[2018年]](平成30年)[[1月16日]]には意見交換会を組織替えし、沿線4町と道による「札沼線沿線まちづくり検討会議」(以下「まちづくり検討会議」)が発足し、維持困難路線では初めてJR北海道との協議に入った<ref group="新聞" name="nikkei20180116" />。まちづくり検討会議では当初同年3月に存廃の結論を出す予定としていたが<ref group="新聞" name="mainichi20180217" /><ref group="新聞" name="mainichi20180517" />、同年[[3月5日]]に各町が個別にJR北海道とのバス転換受け入れ協議を始め8月にも結論を出す、と表明し<ref group="新聞" name="yomiuri/hokkaido/20180306" /><ref group="新聞" name="nikkei20180306" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np/169634" />、同年[[6月18日]]月形町<ref group="新聞" name="nikkei20180618" /><ref group="新聞" name="mainichi20180619" />、続いて同年[[6月25日]]に新十津川町<ref name=":3">{{Cite journal|author=|year=|date=2018-07-01|title=JR札沼線 「廃線容認」|url=http://www.town.shintotsukawa.lg.jp/hotnews/files/00003000/00003030/p1_26_okuyami_nuki.pdf|journal=広報しんとつかわ|volume=|issue=859|page=p.5|publisher=新十津川町}}</ref><ref group="新聞" name="mainichi20180626" />、同年[[7月11日]]に浦臼町が正式に廃止受け入れを表明した<ref group="新聞" name="mainichi20180712"/>。しかし結論を出すとされた同年[[8月2日]]のまちづくり検討会議では当別町が協議中であるとして廃止受け入れには至らなかった<ref group="新聞" name="nifty20180802"/><ref group="新聞" name="HTB20180802"/>。 最終的に同年[[10月12日]]のまちづくり検討会議にて、当別町も含めた4町が同区間の廃止とバス転換で合意し、維持困難路線では、発表前に自治体が廃止を受け入れた[[石勝線]]夕張支線を除くと、初の廃止受け入れとなった<ref name=":4">{{Cite journal|author=|year=|date=2018-11-01|title=札沼線沿線4町が北海道医療大学駅以北の廃止を容認|url=http://www.town.tobetsu.hokkaido.jp/uploaded/attachment/14083.pdf|journal=広報とうべつ|volume=|issue=782|page=12|publisher=当別町}}</ref><ref group="新聞" name="mainichi20181012"/><ref group="新聞" name="nikkei20181012"/><ref group="新聞" name="hokkaido-np/20181012"/>。廃止時期については2019年度末を主張する月形町と、2019年内を主張する他町とで不一致が続いたが<ref name="hokkaido-np/20181013" group="新聞" />、最終的に2020年(令和2年)の[[ゴールデンウィーク]]最終日である5月6日を運行最終日とし、5月7日付で廃止する方針となった<ref group="新聞" name="hokkaido-np/20181208"/><ref group="新聞" name="mainichi-20181220" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np/20181221" /><ref group="JR" name="jrhokkaido.co.jp/press/20181221"/>。 <!-- 廃止合意後から列車運行終了、廃止日までの動きはこの後の別節に記述移動。--> ==== 各町の主な廃止容認理由 ==== ; 当別町<ref name=":4" /> :* 今後も地域住民の利用増加が見込めず、国や道からの財政支援も期待できない。 :* JR北海道からの支援内容について大筋妥当と判断。 : ; 月形町<ref name="nikkei20180618" group="新聞" /><ref name="mainichi20180619" group="新聞" /> :* 輸送密度の少なさ。 :* バスの方が安定的に運行できること。 :* JR北海道が代替バス運行やまちづくりに協力姿勢を示したこと。 :* 月形高校の生徒がバス転換を望む意見を出したこと。 ; 浦臼町<ref name="mainichi20180712" group="新聞" /> :* 廃線後の代替交通についてJR北海道から支援を得られる見込みが立ったこと。 :* JR北海道が示した国の支援を求めない5線区に札沼線が入ったこと。 : ; 新十津川町<ref name=":3" /> :* 町民の利用が少なく、今後、観光振興や貨物輸送の利用拡大が見込めないこと。 :* 既存バスが交通体系として確立していること。 :* 廃線処理に伴う費用をJR北海道が負担すること。 === 運行継続に必要とされた費用について === 2017年(平成29年)11月14日の会合では、営業区間を短縮した場合のコスト試算が各町長からJR北海道に要求され<ref group="新聞" name="hokkaido-np/144760" />、同年11月23日の4町長会合で、JR北海道からは2016年(平成28年)度実績を基に、以下のように回答されている<ref group="新聞" name="hokkaido-np/146837" />。 {| class="wikitable" style="font-size:90%;" |+運行継続に必要とされた費用(年間)<ref name="hokkaido-np/146837" group="新聞" /> ! rowspan="2" | ! colspan="3" |区間(北海道医療大学駅から) |- !新十津川駅<br>まで !浦臼駅<br>まで !石狩月形駅<br>まで |- style="text-align:right;" ! style="text-align:left; font-size:85%;" |年間営業損失(百万円) |367 |329 |215 |- style="text-align:right;" ! style="text-align:left; font-size:85%;" |土木構造物維持費用(百万円) |30 |30 |10 |- style="text-align:right;" ! style="text-align:left; font-size:85%;" |車両更新費用(百万円) |40 |40 |30 |- |} === JR北海道による支援 === 4町廃止受け入れ時に、以下の支援が受託費の形で沿線4町に対し行われることで合意している<ref name=":5">{{Cite web|和書|url=http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/secure/10446/8-13p%EF%BC%91%E6%9C%88.pdf|title=札沼線の動向 No.8|accessdate=2019-04-10|publisher=月形町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190410131724/http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/secure/10446/8-13p%EF%BC%91%E6%9C%88.pdf|work=広報花の里つきがた|archivedate=2019-04-10|format=PDF|date=2019-01-01}}</ref><ref name="mainichi20181013" group="新聞" /><ref name="hokkaido-np/20181012" group="新聞" /><ref name="hokkaido-np/20181013" group="新聞" />。 * 当別 - 月形 - 浦臼間に新設する路線バスの初期投資(バス購入・車庫設置)費用および運行経費(20年分{{Refnest|group="注"|当初支援期間について、JR北海道は[[江差線]]([[木古内駅]] - [[江差駅]])廃止時の支援内容をベースに18年を想定したが<ref group="新聞" name="mainichi20180217" />、自治体の求める支援が枠組みの基準以下なら期間を配慮するとして、20年とされた経緯がある<ref group="新聞" name="e-kensin/110269"/>。}})の支援 * 近隣市町への既存バス路線の運行経費支援 * 近隣市町とを結ぶ新規タクシーの運行経費支援 * 駅周辺などのまちづくりに関する整備 * 鉄道用地・設備の無償譲渡 * 鉄道設備の撤去工事 === 最終運行の繰り上げ・廃止 === 廃止直前の運行については[[4月11日]] - [[5月6日]]の間に以下の内容で実施する予定が2020年(令和2年)[[4月3日]]にJR北海道より発表されていた<ref name="jrhokkaido/20200403_TimetableOfSASHOLineForlastRun" group="JR" />。 * 土休日およびゴールデンウィークにおいて、浦臼駅発着列車のうち1往復を新十津川駅まで延長運転。これに伴い、浦臼駅 - 新十津川駅間が1往復から2往復へと増便。 * 5月2日以降は、石狩当別駅 - 新十津川駅間の全列車を指定席化。また、一部列車を除き、2両・4両・5両編成のいずれかで運行。 * 新十津川駅を発車する最終便となる5月6日の新十津川駅発石狩当別行き臨時列車 (9430D) は、途中浦臼駅と石狩月形駅のみ停車。 このうち全列車の指定席化は、年初より流行が拡大した[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の蔓延防止を目的としての措置であった<ref name="jrhokkaido/20200403_TimetableOfSASHOLineForlastRun" group="JR" />。ところが、JR北海道の発表後の4月7日夕方に、一部都府県に対して[[新型インフルエンザ等対策特別措置法]]2条1項に基づく[[新型インフルエンザ等対策特別措置法#新型インフルエンザ等緊急事態|緊急事態宣言]]が行なわれたことから、JR北海道では内容の変更を4月10日に検討開始し<ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/411384" />、15日に以下のように発表した<ref name="jrhokkaido/20200415_SassyouLine" group="JR" />{{Refnest|group="注"|この発表に対して、空知管内の沿線3町(月形町、浦臼町、新十津川町)は、「住民の安心安全のためには、やむを得ない」と理解を示した。しかし、北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の廃止容認に対する厳しい判断を迫られた経緯があったことから、「前倒し以外の方法はなかったのか」と疑問の声も挙がった<ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/412742" />。}}{{Refnest|group="注"|国による「緊急事態宣言」発令前にあたる2020年4月12日には、札幌市内で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が拡大していたことを受け、北海道と札幌市が「緊急共同宣言」を発令していた<ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/411663" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/411654" />。}}。 * 同区間の定期列車の最終運行日を同年4月24日に繰り上げ。 * 別途沿線4町のみ対象とした「[[さよなら運転|ラストラン]]」を同年4月27日に実施。 しかし、翌4月16日夕方には「緊急事態宣言」が北海道を含む全ての都道府県に発令されたことを受け、同日中に以下の内容への変更が発表された<ref group="JR" name="jrhokkaido/20200416_SassyouLine" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/413130" />。 * 翌17日に新十津川駅を発着する最終列車(下り5425D、上り5426D)を上下線の最終運行とし、以降、石狩当別駅 - 新十津川駅間定期列車(北海道医療大学駅発着列車除く)は廃止日までの全列車を[[運休]]。 * 前述の「ラストラン」を中止。 このため翌4月17日、新十津川駅10時00分発の石狩当別行き普通列車 (5426D) をもって北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の列車運行が終了となり、以降の全便が運休となった<ref group="JR" name="jrhokkaido/20200416_SassyouLine" />。 最終運行が早まったため使用されなかった「さよなら列車」用の[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]は、2021年12月にJR北海道から月形町に贈られた<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/624763/|archiveurl=https://archive.ph/1L6OM|title=未使用の札沼線ヘッドマーク、月形町に寄贈 JR北海道|newspaper=北海道新聞|publisher=北海道新聞社|date=2021-12-19|accessdate=2021-12-19|archivedate=2021-12-19}}</ref>。 === 廃止後の状況(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間) === 廃止日の2020年5月7日未明に、北海道医療大学駅 - 新十津川駅に設置されていた[[駅名標]]が撤去された。また、一部の駅では駅舎に掲げていた駅名板も撤去された<ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/418928" />。鉄道用地・設備は用地の測量、鉄道施設の調査、撤去に要する費用を確定する作業を行い、JR北海道が財産譲渡について国土交通省の許可を得たのち、土地の無償譲渡が行われる。土地の譲渡には数年間を要する<ref name="mykoho">{{Cite web|和書|url=https://mykoho.jp/article/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E6%9C%88%E5%BD%A2%E7%94%BA/%E5%BA%83%E5%A0%B1%E8%8A%B1%E3%81%AE%E9%87%8C%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%8C%E3%81%9F-%E4%BB%A4%E5%92%8C2%E5%B9%B46%E6%9C%88%E5%8F%B7%EF%BC%88635%E5%8F%B7%EF%BC%89/jr%E6%9C%AD%E6%B2%BC%E7%B7%9A%E3%81%AE%E8%B7%A1%E5%9C%B0%E5%88%A9%E7%94%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/|title=JR札沼線の跡地利用について|accessdate=2021-05-19|publisher=マイ広報紙|archivedate=2021-05-19|work=広報花の里つきがた-令和2年6月号(635号)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210519085725/https://mykoho.jp/article/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E6%9C%88%E5%BD%A2%E7%94%BA/%E5%BA%83%E5%A0%B1%E8%8A%B1%E3%81%AE%E9%87%8C%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%8C%E3%81%9F-%E4%BB%A4%E5%92%8C2%E5%B9%B46%E6%9C%88%E5%8F%B7%EF%BC%88635%E5%8F%B7%EF%BC%89/jr%E6%9C%AD%E6%B2%BC%E7%B7%9A%E3%81%AE%E8%B7%A1%E5%9C%B0%E5%88%A9%E7%94%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/}}</ref>。 新十津川町では無償譲渡が行われ、町が2020年度から3年間かけ、踏切撤去工事などを実施している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.shintotsukawa.lg.jp/hotnews/files/00001100/00001181/20200415203314.pdf|title=新十津川町 年刊 まちづくり読本 令和2年度予算版|accessdate=2021-05-19|publisher=新十津川町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200419060639/http://www.town.shintotsukawa.lg.jp/hotnews/files/00001100/00001181/20200415203314.pdf|archivedate=2020-04-19}}</ref>。 浦臼町では、晩生内駅で大雪により駅舎の柱が折れるなどの事象が発生したため、倒壊の危険があるとして2021年5月末からJR北海道によって解体されることになった<ref group="新聞">{{Cite news|title=旧晩生内駅 5月末にも解体 浦臼大雪で破損 倒壊の恐れ|date=2021-05-18|newspaper=北海道新聞|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/545235/|archiveurl=https://archive.ph/glrx1|archivedate=2021-05-19}}</ref>。 月形町ではJR北海道により踏切改良工事が行われるほか、無償譲渡後に町が線路などの撤去、用地の形状変更、鉄道用地の現状保存もしくは撤去を進める予定<ref name="mykoho" />。 跡地については廃線跡の活用をめざす市民団体「レールネット北海道」が、旧[[美幸線]]の[[トロッコ王国美深]]をモデルとした廃線跡での[[トロッコ]]運行を構想している<ref group="新聞">【思い出の札沼線】(5)乗り鉄『読売新聞』朝刊2020年5月9日(北海道面)</ref>。 === 廃止後の交通体系(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間) === ==== 代替バス ==== [[ファイル:Shimodan motors Tsukigata Tobetsu 20200418.jpg|サムネイル|代替バス月形当別線「とべ〜る号」(2020年4月18日)]] [[ファイル:Bijikō A780 Tsukigata Urausu 20200418.jpg|サムネイル|代替バス月形浦臼線「かばと〜る号」(2020年4月18日)]] {{See also|下段モータース#月形当別線|美唄自動車学校#月形浦臼線|浦臼町#バス}} 代替交通については[[2018年]](平成30年)[[2月16日]]のまちづくり検討会議において、JR北海道は「石狩当別 - 石狩月形間」「石狩月形 - 浦臼間」「浦臼 - 新十津川間」の3区間に分けて新しい交通体系の案を提示し<ref name="jrhokkaido/press/2018/180216-2" group="JR" /><ref name="mainichi20180217" group="新聞" />、代替交通の運行は地元事業者による運行を要請したが、国・北海道の補助の活用のほか、初期投資費用と当面の運行経費をJR北海道が負担するとした<ref name="jrhokkaido/press/2018/180216-2" group="JR" /><ref name="mainichi20180217" group="新聞" />{{Refnest|group="注"|JR北海道と月形町との協議の中では、仮に沿線自治体が[[第三セクター鉄道]]として運営した場合の支援額も示されたが、この場合でもバス転換相当額が上限となり、将来バス転換となった場合の費用は自治体負担を要請している<ref name=":1" />}}。 廃止に先行して2020年(令和2年)4月1日から、廃止後に代替となる並行バス路線が存在しない石狩当別駅 - 浦臼駅間{{refnest|group="注"|[[2003年]](平成15年)にジェイ・アール北海道バス([[石狩線]])が北海道中央バスに移管された際浦臼駅以南は運行が廃止され、うち浦臼町内の石狩新宮(浦臼・月形町境付近。鉄道では札比内駅 - 晩生内駅間に相当)- 晩生内市街 - 浦臼駅間に代替として浦臼町営バス晩生内線<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.town.urausu.hokkaido.jp/syoukai/files/h29chouei_bus.pdf|title=H29年4月時刻表|accessdate=2018-04-21|format=PDF|publisher=浦臼町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180421130330/http://www.town.urausu.hokkaido.jp/syoukai/files/h29chouei_bus.pdf|archivedate=2018-04-21}}</ref>が平日のみ1往復運行されるのみとなっていた。なお晩生内線は後述の月形浦臼線の運行開始に伴い廃止されている<ref name="urausutownbus202004"/>。}}にバス路線2系統を新設している<ref name="hanannosatoTsukigata201911">{{Cite web|和書|url=http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/secure/11959/12-15p.pdf|title=新たな公共交通に向けて〜JR札沼線代替バスの運行について〜|pages=pp.12-15|accessdate=2019-12-01|publisher=月形町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191201105524/http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/secure/11959/12-15p.pdf|work=広報花の里つきがた|archivedate=2019-12-01|format=PDF|date=2019-11-01}}</ref><ref name=":6">{{Cite web|和書|url=https://www.town.tobetsu.hokkaido.jp/uploaded/attachment/15041.pdf|title=JR札沼線(北海道医療大学-新十津川間)廃止に伴う代替バス(月形当別線)について|accessdate=2019-09-16|publisher=当別町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191201110749/https://www.town.tobetsu.hokkaido.jp/uploaded/attachment/15041.pdf|work=当別町地域公共交通活性化協議会 令和元年度議事録 第1回当別町地域公共交通活性化協議会|archivedate=2019-12-01|format=PDF|date=}}</ref><ref group="JR" name="jrhokkaido/20200403_TimetableOfSASHOLineForlastRun" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/407136" /><ref group="新聞" name="読売 economy/20200412-OYT1T50082">{{Cite news | title=通常1日1往復、来月廃止路線が鉄道ファンで混雑するはず…臨時列車2週間運行 | newspaper=読売新聞オンライン | url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20200412-OYT1T50082/ | date=2020年4月12日}}</ref>。 運賃は各町内完結の利用、町境から各2停留所相互間は200円、町境を跨いだ場合は400円となっており、月形駅停留所で2路線を乗り継ぐ場合は200円の割引を実施する<ref name="hanannosatoTsukigata201911" /><ref name=":6" />。 {| class="wikitable" |+札沼線代替バス(新設時点)<ref name="tobetsu-tsukigata-line-tsukigataTown">{{Cite web|和書|title=月形当別線(月形⇔当別)|publisher=[[月形町]]|url=http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/7002.htm|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0404-0258-43/www.town.tsukigata.hokkaido.jp/7002.htm|archivedate=2020-04-04|accessdate=2020-05-22}}</ref><ref name="tsukigata-urausu-line-tsukigataTown">{{Cite web|和書|title=月形浦臼線(月形⇔浦臼)|publisher=[[月形町]]|url=http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/7004.htm|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0404-0322-39/www.town.tsukigata.hokkaido.jp/7004.htm|archivedate=2020-04-04|accessdate=2020-05-22}}</ref><ref name="hanannosatoTsukigata201911" /><ref name=":6" /> ! ![[下段モータース#月形当別線|月形当別線(とべ〜る号)]] ![[美唄自動車学校#月形浦臼線|月形浦臼線(かばと〜る号)]] |- !走行区間 |JR石狩当別駅南口 - 月形駅<ref group="新聞" name="読売 economy/20200412-OYT1T50082"/> |月形駅 - 浦臼駅<ref group="新聞" name="読売 economy/20200412-OYT1T50082"/> |- !主要経由地 |[[アークス (北海道の企業)|スーパーアークス]]前<ref group="注">朝の月形行、夕方の当別行各2便は月形高校通学向け便として、当別市街でスーパーアークス前を経由せず、石狩当別駅と北海道医療大学駅間を短絡。</ref>、JR北海道医療大学駅、月形高校 |月形高校、月形温泉<ref group="注">早朝の月形行1便は月形高校通学便として、月形温泉を経由しない。また全ての浦臼駅行きは石狩新宮、波止場線の各停留所を通過。</ref> |- !バス停 |24か所 |23か所 |- !本数 |9往復(18便)/日<ref group="新聞" name="読売 economy/20200412-OYT1T50082"/><ref group="注">列車の15本/日から増加。</ref> |5往復(10便)/日<ref group="新聞" name="読売 economy/20200412-OYT1T50082"/><ref group="注">列車の12本/日から減少。</ref> |- !運行 |[[下段モータース]] |[[美唄自動車学校]] |- !車両 |日野[[日野・ポンチョ|ポンチョ]](定員33名)…1台<br/>トヨタ[[トヨタ・ハイエース|ハイエース]](定員14名)…1台 |トヨタハイエース(定員14名)…1台 |- !備考 |札幌方面の列車との接続は北海道医療大学駅で実施。 | |} なお、浦臼駅 - 新十津川駅間については当初、既存の並行バス路線(北海道中央バス[[北海道中央バス滝川営業所#滝川浦臼線|滝川浦臼線]])を維持するのみで路線の新設はなかったが<ref name="mainichi20180626" group="新聞" />、2022年(令和4年)9月30日をもって北海道中央バスの路線としては廃止され、浦臼町営バスの路線として代替された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chuo-bus.co.jp/%E3%80%90%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E6%B5%A6%E8%87%BC%E7%B7%9A%E3%80%91%E3%80%90%E4%B8%8A%E7%A0%82%E5%B7%9D%E7%B7%9A%E3%80%91%E5%BB%83%E6%AD%A2%E3%81%A8%E3%80%90%E5%B2%A9%E8%A6%8B%E6%B2%A2%E4%B8%89%E5%B7%9D%E7%B7%9A%E3%80%91%E3%81%AE%E7%B5%8C%E8%B7%AF%E7%9F%AD%E7%B8%AE%E3%80%81%E8%B7%AF%E7%B7%9A%E5%90%8D%E5%A4%89%E6%9B%B4%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/main_info/1833|title=滝川浦臼線・上砂川線の廃止及び岩見沢三川線の経路短縮・路線名変更について|publisher=[[北海道中央バス]]|date=2022-09-01|accessdate=2022-09-13}}</ref>。平日4往復・土休日3往復が設定され、[[クローズドドアシステム|区間利用に乗降制限が設けられる]](新十津川町内・滝川市内の停留所は、浦臼発滝川行きは降車のみ、滝川発浦臼行きは乗車のみ)<ref name="urausu-bus-20221001">{{Cite web|和書|url=https://www.town.urausu.hokkaido.jp/gyousei/kakuka/koutsu/2022_10_koutsu_new.html|title=令和4年10月からの浦臼町地域公共交通のお知らせ|publisher=[[浦臼町]]|date=2022-08-12|accessdate=2022-09-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.urausu.hokkaido.jp/gyousei/kakuka/koutsu/files/urasuna_urataki_202210.pdf|title=浦臼砂川線・浦臼滝川線バス時刻表 令和4年10月1日現在|publisher=浦臼町|accessdate=2022-09-13}}</ref>。 ==== その他の施策 ==== * 北海道医療大学駅発着列車を廃止覚書調印時点の55本(うち40本が札幌直通)から増便<ref name="jrhokkaido/press/2018/180216-2" group="JR" /><ref name=":4" /> ** 先行して2019年(平成31年)3月16日ダイヤ改正で、あいの里公園駅・石狩当別駅 - 北海道医療大学駅で上下計12本の列車延長が行われた<ref group="JR" name="jrhokkaido/press/20181214" />。 ** 最終的な廃止後の便数は2019年(平成31年)4月9日に発表された「中期経営計画2023」中で、66本に増便とされている<ref name="jrhokkaido.co.jp/vision/20190409-03" group="JR" />、2021年(令和3年)3月13日ダイヤ改正では、あいの里公園駅・石狩当別駅 - 北海道医療大学駅で上下計10本の列車延長が行われ、北海道医療大学駅発着列車は66本に増便された<ref group="JR" name="jrhokkaido/20201209_kaisei" /><ref group="JR" name="jrhokkaido/20201218_Daikai" />。 * 浦臼町内から札幌方面への移動手段は既存の浦臼町営バス新うらうす線(浦臼駅 - 鶴沼市街 - [[奈井江駅]]間、土休日運休)<ref name="urausutownbus202004">{{Cite web|和書|url=https://www.town.urausu.hokkaido.jp/syoukai/files/new_urausu_line_timetable_r0204.pdf|title=浦臼町営バス時刻表(R02.04時刻表)|accessdate=2020-05-18|publisher=浦臼町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200421102149/https://www.town.urausu.hokkaido.jp/syoukai/files/new_urausu_line_timetable_r0204.pdf|archivedate=2020-05-18}}</ref>のほか、新規に美唄駅(毎日)、奈井江駅(土休日のみ)への乗合タクシーの運行が開始された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.urausu.hokkaido.jp/syoukai/access.html|title=交通アクセス|accessdate=2020-05-18|publisher=浦臼町|website=浦臼町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200518074814/https://www.town.urausu.hokkaido.jp/syoukai/access.html|archivedate=2020-05-18}}</ref>。 ** 当初は浦臼町営バス新うらうす線を土休日運休から毎日運行へ変更することも検討されていた<ref name="jrhokkaido.co.jp/vision/20190409-03" group="JR" /><ref name=":7">{{Cite web|和書|url=https://www.town.urausu.hokkaido.jp/gikai/files/kaigirokuR1-2tei.pdf|title=令和元年 第2回定例会 浦臼町議会会議録|accessdate=2019-09-16|publisher=浦臼町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190916080130/https://www.town.urausu.hokkaido.jp/gikai/files/kaigirokuR1-2tei.pdf|archivedate=2019-09-16|year=2019}}</ref>。これについては後に、2022年10月1日のダイヤ改正で実現された(これに際し、運転区間を[[砂川市立病院]]・[[砂川駅]]へ延長するとともに、運行主体を美唄自動車学校に変更)<ref name="urausu-bus-20221001" />。 === 廃止に関連して各町に新設される施設 === ==== 当別町 ==== 代替バスとの乗り継ぎ拠点となる北海道医療大学駅に[[バスターミナル]]を新設する<ref name=":1" /><ref name=":4" /><ref name="jrhokkaido/press/2018/180216-2" group="JR" /><ref name="jrhokkaido.co.jp/vision/20190409-03" group="JR" />。また、[[パークアンドライド]]を行うため駐車場を1.4倍に拡大する<ref name=":4" /><ref name="hokkaido-np/20181221_iryodai" group="新聞" />。このほか、駐車場に面した改札口(2番ホーム石狩当別方)の新設、既存改札口の拡幅・改札機の増設が行われる<ref name=":4" /><ref name="hokkaido-np/20181221_iryodai" group="新聞" />。 ==== 月形町 ==== JR北海道からの支援を活用する見通しで、市街地にバスターミナル機能を持ったまちづくり拠点(複合施設)の計画を進めており<ref group="新聞" name="e-kensin/110634" /><ref name="jrhokkaido.co.jp/vision/20190409-03" group="JR" />、廃止後の2020年(令和2年)度の着工を目指している<ref group="新聞" name="e-kensin/110634" />。 ==== 浦臼町 ==== 各方面からのバス等の発着に既存の浦臼駅舎が活用される予定である<ref name="jrhokkaido.co.jp/vision/20190409-03" group="JR" />。またJR北海道からの支援を活用して現駅付近に「町民が交流できる施設、絵画が常設展示できる施設等の建設」が考えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.urausu.hokkaido.jp/gikai/files/kaigirokuH31-1tei.pdf|title=平成31年 第1回定例会浦臼町議会会議録|accessdate=2019-09-16|publisher=浦臼町|format=PDF|year=2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190916075353/https://www.town.urausu.hokkaido.jp/gikai/files/kaigirokuH31-1tei.pdf|archivedate=2019-09-16}}</ref>。 == 歴史 == === 年表 === ==== 国有鉄道時代 ==== * [[1931年]](昭和6年)[[10月10日]]:[[鉄道省|国有鉄道]]'''札沼北線'''(さっしょうほくせん)として、石狩沼田駅 - 中徳富駅(初代)間 (34.9km) が開業<ref name="tanaka1 130-131" />。同区間に北竜駅、碧水駅、和駅、石狩追分駅、雨竜駅、上徳富駅、石狩橋本駅、中徳富駅(初代)を新設<ref name="tanaka1 315" /><ref name="tanaka1 312" />。 * [[1934年]](昭和9年) ** 10月10日:札沼北線の中徳富駅(初代) - 浦臼駅間 (13.8km) が延伸開業<ref name="tanaka1 130-131" />。同区間に下徳富駅、浦臼駅<ref name="tanaka1 312" />を新設。 ** [[11月20日]]:国有鉄道'''札沼南線'''(さっしょうなんせん)として、桑園駅 - 石狩当別駅間 (25.9km) が開業<ref name="tanaka1 130-131" />。同区間に新琴似駅、篠路駅、石狩太美駅、石狩当別駅<ref name="tanaka1 312" />を新設。 *** 篠路駅 - 石狩太美駅間に架橋された[[石狩川橋梁]]は橋長1074.4 m で道内最長の鉄道橋となった<ref name="Naruse1994_190-191" />。 * [[1935年]](昭和10年)[[10月3日]]:石狩当別駅 - 浦臼駅間 (36.8km) が延伸開業し、桑園駅 - 石狩沼田駅間が全通<ref name="tanaka1 130-131" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20090909-2" /><ref group="新聞" name="官報 1935-09-27" />。同区間に石狩金沢駅、本中小屋駅、中小屋駅、石狩月形駅、札比内駅、晩生内駅<ref name="tanaka1 312" />を新設。札沼北線を札沼南線に編入し、路線名称を'''札沼線'''に改称<ref name="tanaka1 130-131" />。 * [[1943年]](昭和18年)[[10月1日]]:石狩月形駅 - 石狩追分駅間 (45.9km) が[[不要不急線]]に指定され、営業休止<ref name="tanaka1 130-131" /><ref group="新聞" name="官報 1943-09-02" />。 * [[1944年]](昭和19年)[[7月21日]]:石狩当別駅 - 石狩月形駅間 (20.4km) および石狩追分駅 - 石狩沼田駅間 (19.2km) が不要不急線に指定され、営業休止<ref name="tanaka1 130-131" /><ref group="新聞" name="官報 1944-07-20" />。 * [[1946年]](昭和21年)[[12月10日]]:石狩当別駅 - 浦臼駅間 (36.8km) および同区間の各駅が営業再開<ref name="tanaka1 130-131" /><ref group="新聞" name="官報 1946-12-10" />。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:日本国有鉄道法施行に伴い、[[公共企業体]][[日本国有鉄道]](国鉄)に移管。 * [[1953年]](昭和28年)[[11月3日]]:浦臼駅 - 雨竜駅間 (26.1km) および同区間の各駅が営業再開<ref name="tanaka1 130-131" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np-1953-11-04 1" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np-1953-11-04 2" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np-1953-11-04 3" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np-1953-11-04 4" />。中徳富駅(初代)を新十津川駅に改称<ref name="tanaka1 319" />。 * [[1956年]](昭和31年)[[11月16日]]:雨竜駅 - 石狩沼田駅間 (22.6km) が営業再開し、全線での営業を再開<ref name="tanaka1 130-131" />。また、以下のように変更。 ** 再開区間の各駅の営業を再開。 ** 以下の駅を新設<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 315" /><ref name="tanaka1 312" />:鶴沼、南下徳富(以上2つは浦臼駅 - 下徳富駅間)、中徳富(下徳富駅 - 新十津川駅間、2代目、以下特記ない限り2代)、北上徳富(上徳富駅 - 雨竜駅間)、渭ノ津(石狩追分駅 - 和駅間)、中ノ岱(和駅 - 碧水駅間)、五ヶ山(北竜駅 - 石狩沼田駅間)。 ** 以下の[[仮乗降場]]([[鉄道管理局|局]]設定)を新設:南雨竜(北上徳富駅 - 雨竜駅間)、中雨竜(雨竜駅 - 石狩追分駅間) * [[1957年]](昭和32年)6月1日:[[貨物列車#混合列車|客貨混合列車]]を廃止し、[[客貨分離]]。全列車の気動車化が完了<ref name="tanaka1 130-131" />。 * [[1958年]](昭和33年)[[7月1日]]:以下の駅(いずれも旅客駅)を新設<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 312" />:釜谷臼<ref group="新聞" name="hokkaido-np-1958-07-02" />、月ヶ岡、知来乙。 * [[1959年]](昭和34年)12月1日:鶴沼駅 - 南下徳富駅間に於札内仮乗降場(局設定)を新設<ref name="sone24 24"/>。 * [[1960年]](昭和35年) ** 9月1日:晩生内駅 - 浦臼駅間に札的駅を新設<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 312" />。 ** 9月10日:石狩月形駅 - 札比内駅間に豊ヶ岡駅を新設<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 312" />。 * [[1967年]](昭和42年)[[12月15日]]:篠路駅 - 釜谷臼駅間に東篠路駅を新設<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 312" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np-1967-12-14" />。 * [[1971年]](昭和46年)[[8月2日]]:[[日本国有鉄道北海道総局|国鉄北海道総局]]が新十津川駅 - 石狩沼田駅間沿線4町([[新十津川町]]・[[雨竜町]]・[[北竜町]]・[[沼田町]])に廃止を提案<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[2月1日]]:北竜町議会が新十津川駅 - 石狩沼田駅間廃止賛成を決議<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。 ** [[2月6日]]:新十津川町議会が新十津川駅 - 石狩沼田駅間廃止に賛成<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。 ** [[2月7日]]:雨竜町議会が新十津川駅 - 石狩沼田駅間廃止に賛成<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。 ** [[3月16日]]:沼田町が新十津川駅 - 石狩沼田駅間廃止に同意<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。 ** [[3月23日]]:[[旭川鉄道管理局|国鉄旭川鉄道管理局]]が新十津川駅 - 石狩沼田駅間廃止を北海道総局を通じて本社に上申<ref name="KotsuGijutsu326_133" />。 ** [[4月6日]]:国鉄が新十津川駅 - 石狩沼田駅間の廃止を申請。 ** [[4月15日]]:本中小屋駅・中小屋駅の貨物取扱いを廃止し、旅客駅に変更。 ** [[6月18日]]:新十津川駅 - 石狩沼田駅間で「お別れ列車」運転<ref name="tanaka1 130-131" />。 ** [[6月19日]]:新十津川駅 - 石狩沼田駅間 (34.9km) の運輸営業廃止<ref name="tanaka1 130-131" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20090909-2" />、並行していた[[国鉄バス]][[石狩線]]で代替<ref name="tanaka1 315" />。 * [[1974年]](昭和49年)10月:蒸気機関車の運行を終了<ref group="報道" name="sapporokita" />。 * [[1975年]](昭和50年):[[中空知]]広域圏の開発促進と[[石狩湾新港]]建設を焦点とする貨物輸送による新しい物流ルート開発を大義として、新十津川から[[滝川駅]]へ路線を直結させる動きが起きる<ref>『[[北海道新聞]]』1975年8月5日 朝刊17面 及び 1976年1月24日 夕刊3面 より</ref>。 * [[1976年]](昭和51年)[[2月18日]]:[[滝川市]]・[[新十津川町]]・[[浦臼町]]・[[月形町]]・[[当別町]]の首長・議会・農・商団体代表らによる「札沼線整備促進期成会」が発足し、「スピードアップと運転数の増加」「利用客増に対応する複線化」「札沼線を滝川に接続する」次の3点を三大目標として活動を開始するが<ref>{{Cite book|title=滝川市史 下巻|first=滝川市|date=1981|url=https://doi.org/10.11501/9570427|publisher=滝川市|language=ja|doi=10.11501/9570427|page=643|access-date=2023-04-08}}</ref>、実現には至らず。 * [[1977年]](昭和52年)8月1日:[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形気動車]]を全国で初投入<ref>{{Cite book|和書 |title=鉄道総合年表 1972-93 |date=1993-08-30 |year=1993 |publisher=中央書院 |edition=1 |editor=池田光雅 |isbn=4-924420-82-4 |ref={{Sfnref|『鉄道総合年表1972-93』|1993}} |page=47}}</ref>。 * [[1979年]](昭和54年)[[2月1日]]:桑園駅 - 新十津川駅間 (76.5km) の貨物営業廃止<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name=":022" />。 * [[1981年]](昭和56年)[[12月1日]]:大学前仮乗降場を新設<ref group="新聞" name="hokkaido-np-1981-12-01" />。旅客のみ取扱い。 ** 東日本学園大学(現:北海道医療大学)は1974年(昭和47年)に当別町に開学。 * [[1982年]](昭和57年)4月1日:大学前仮乗降場を旅客駅に変更<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 312" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20090909-2" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" />。 * [[1983年]](昭和58年)3月1日:桑園駅 - 石狩月形駅間を[[列車集中制御装置|CTC]]化<ref>{{Cite book|和書 |title=鉄道総合年表 1972-93 |date=1993-08-30 |year=1993 |publisher=中央書院 |edition=1 |editor=池田光雅 |isbn=4-924420-82-4 |ref={{Sfnref|『鉄道総合年表1972-93』|1993}} |page=88}}</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)7月15日:札幌駅 - 石狩当別駅間を走行するキハ40形に試験的に清涼飲料水自動販売機を10月末まで試験設置<ref>{{Cite book|和書 |title=鉄道総合年表 1972-93 |date=1993-08-30 |year=1993 |publisher=中央書院 |edition=1 |editor=池田光雅 |isbn=4-924420-82-4 |ref={{Sfnref|『鉄道総合年表1972-93』|1993}} |page=110}}</ref>。 * [[1986年]](昭和61年) ** [[3月3日]]:同日実施のダイヤ改正で、札幌駅 - 篠路駅・大学前駅間の列車を増発。5往復あった新十津川駅発着の列車を3往復に減便。桑園駅 - 石狩当別駅間の最高速度を85 km/hに向上。大学前駅に折り返し設備を新設。 ** [[6月28日]]:百合が原臨時乗降場を新設<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 312" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20090909-2" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" /><ref group="注">当初は[[全国都市緑化フェア]]「[['86さっぽろ花と緑の博覧会]]」開催に伴う開設であった。</ref>。旅客のみ取扱い。 ** [[11月1日]] *** 以下の駅を新設<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 312" /><ref name="jrhokkaido-press-20090909-2" group="JR" /><ref name="jrhokkaido-press-20111013-3" group="JR" />:あいの里教育大(東篠路駅 - 釜谷臼駅間)<ref group="注">北海道教育大学札幌[[分校]](現:札幌校)のあいの里移転は翌[[1987年]](昭和62年)。</ref> *** 以下の臨時乗降場を新設<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 312" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20090909-2" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" />:新川(桑園駅 - 新琴似駅間)、太平(新琴似駅 - 百合が原臨時乗降場間)。 *** あいの里教育大駅開業に伴い、釜谷臼駅を移転(桑園起点14.7 km→15.1 km)。 ** [[12月1日]]:[[国鉄キハ54形気動車|キハ54形気動車]](500番台)を全道で初投入<ref>{{Cite book|和書 |title=鉄道総合年表 1972-93 |date=1993-08-30 |year=1993 |publisher=中央書院 |edition=1 |editort=池田光雅 |isbn=4-924420-82-4 |ref={{Sfnref|『鉄道総合年表1972-93』|1993}} |page=123}}</ref>。 ==== 民営化以後 ==== [[ファイル:JR Sassho-Line Takuhoku Station-name signboards.jpg|サムネイル|「学園都市線」の表記がなされた拓北駅駅名標(2017年3月8日撮影)]] [[ファイル:JRN DC143-100 20061103 001.jpg|サムネイル|電化以前の札沼線札幌圏区間を代表する車両であった[[JR北海道キハ141系気動車|キハ141系気動車]](2006年11月3日、札幌駅)]] [[ファイル:JR Hokkaido 201 series DMU 001.JPG|サムネイル|電化以前の札沼線では[[JR北海道キハ201系気動車|キハ201系気動車]]も運用された(2007年1月2日、石狩太美駅 - あいの里公園駅間)]] * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、全線を北海道旅客鉄道(JR北海道)が承継。併せて以下のように変更<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 312" />。 ** 新川・太平・百合が原の各臨時乗降場を旅客駅に昇格。 ** 於札内仮乗降場を旅客駅に昇格(営業キロ設定なし)。 * [[1988年]](昭和63年)11月3日: ** 桑園駅 - 新川駅間に八軒駅を新設<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 312" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20090909-2" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" />。 ** 函館本線[[琴似駅 (JR北海道)|琴似駅]] - 札幌駅間高架化と併せ桑園駅周辺が高架化<ref group="新聞" name="交通2001" />。 * [[1990年]]([[平成]]2年) ** [[3月10日]]:於札内駅に[[営業キロ]]を設定。 ** [[4月5日]]:同日より[[JR北海道キハ141系気動車|キハ141系]](キハ141・キハ142)を営業投入<ref>{{Cite book|和書 |title=鉄道総合年表 1972-93 |date=1993-08-30 |year=1993 |publisher=中央書院 |edition=1 |editor=池田光雅 |isbn=4-924420-82-4 |ref={{Sfnref|『鉄道総合年表1972-93』|1993}} |page=175}}</ref>。 * [[1991年]](平成3年) ** [[3月16日]]:「'''学園都市線'''」の愛称を設定<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="railf20120727" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20090909-2" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" />。 ** [[12月]]:効率化・経費節減の一環として、大学前駅 - 新十津川駅間の現業機関(営業・運輸・工務)を全て石狩当別駅の傘下に置く「業務機関統合方式」を開始<ref>{{Cite journal|和書|author=古田利秋|date=1997-04|title=地方線区の活性化―JR北海道の取り組み(特集:鉄道の地域経営―JR旅客鉄道4社の「営業部」「鉄道部」等の歩みから)|url=https://doi.org/10.11501/2637879|journal=運輸と経済|volume=57|issue=4|pages=13-14|publisher=交通経済研究所|language=ja|doi=10.11501/2637879|access-date=2022-12-09}}</ref>。 * [[1992年]](平成4年)9月:桑園駅 - 石狩当別駅間で[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]使用開始{{R|group="新聞"|交通1993-9}}。 * [[1993年]](平成5年)[[10月29日]]:八軒駅 - あいの里教育大駅間の複線化事業の起工式挙行<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" /><ref group="新聞" name="交通1993-11" />。 * [[1994年]](平成6年)[[11月1日]]:函館本線札幌駅 - 桑園駅間を三線化。旧函館本線下り線を札沼線列車専用の「北線<ref name="rj622-11_24" />」として札沼線列車と函館本線列車を分離<ref name="rj339-98" />。 ** 函館本線は、上り線と旧下り線の間に2本あった札幌駅[[引き上げ線]]のうち1本を桑園駅まで延長し、新下り線とした。ただし、桑園駅2番線(函館本線下り)から北線への片渡り線が設置されているため<ref name="rj622-11_24" />、設備上は引き続き「北線」を函館本線下り列車が走行することも可能である(逆は不可)。 * [[1995年]](平成7年)3月16日 ** 以下の駅名を変更<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="tanaka1 319" />:東篠路→拓北、釜谷臼→あいの里公園、大学前→北海道医療大学 ** 太平駅 - 篠路駅間が複線化<ref group="新聞" name="交通2001" />。 * [[1996年]](平成8年) ** 3月16日:石狩当別駅 - 新十津川駅間でワンマン運転開始<ref name="railf20120727" />。 ** [[6月23日]]:(桑園駅)- 八軒駅 - (新川駅)間を高架化<ref name="tanaka1 130-131" /><ref name="railf20120727" />。<!-- 高架化までの暫定措置として設置された下手稲通踏切と新川左岸道路踏切をはじめ、計6踏切を除却。 --> * [[1997年]](平成9年) ** [[3月22日]]:篠路駅 - あいの里教育大駅間が複線化<ref name="railf20120727" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" />。 ** 4月1日:新十津川駅の読み方を「しんとつ'''が'''わ」から「しんとつ'''か'''わ」に変更<ref name="tanaka1 130-131" />。 * [[1999年]](平成11年)[[8月22日]]:(八軒駅)- 新川駅 - 新琴似駅 -(太平駅)間を高架化<ref name="railf20120727" />。 * [[2000年]](平成12年) ** [[3月11日]]:八軒駅 - 太平駅間を複線化<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20090909-2" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" /><ref name="railf20120727" /><ref group="注">この複線化により同区間は2012年(平成24年)の電化まで、日本では数少ない非電化複線の高架区間として運用された。札沼線電化後は[[JR線]]には存在しない([[徳島駅]] - [[佐古駅]]間は実際は[[高徳線]]・[[徳島線]]の[[単線並列]])。他社線でも[[東海交通事業]]の[[東海交通事業城北線|城北線]]、[[伊勢鉄道]]の[[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]]で見られるのみである。</ref>。 ** 月日不詳:桑園駅 - 石狩月形駅間に[[自動進路制御装置]] (PRC) を導入<ref name="gazette" />。 * [[2001年]](平成13年)[[10月19日]]:あいの里公園駅 - 石狩太美駅間の石狩川橋梁を新橋梁に切替<ref name="北の保線143" />。[[ファイル:札沼線石狩川橋梁.jpg|サムネイル|新橋切替後の石狩川橋梁(防風柵未設置・電化前 2004年8月2日撮影)]] ** 新橋梁は全長1,064 m<ref name="jrhokkaido-press-20120206-1" group="JR" />と旧橋梁より約10 m 短縮されたが、引き続き道内最長の鉄道橋となった。同時に下流側に防風柵を設置<ref name="jrhokkaido-press-20120206-1" group="JR" />。 * [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:中徳富駅を廃止<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20051222" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np-2006-03-21" />。 * [[2007年]](平成19年)10月1日:桑園駅 - 北海道医療大学駅間で[[北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー|駅ナンバリング]]を実施<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20070912-3" />。 * [[2008年]](平成20年) ** [[10月25日]]:桑園駅 - 北海道医療大学駅間に[[乗車カード|IC乗車券]]「[[Kitaca]]」を導入<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20080910-1" />。 ** 11月1日:長時間運転を見合わせる事象が発生した場合、JRの乗車券所持者に[[札幌市営地下鉄]]の乗車券を配布する[[振替輸送#JR北海道の場合|代替輸送]]を開始。札沼線では新琴似駅で地下鉄[[札幌市営地下鉄南北線|南北線]][[麻生駅]]からの乗車券を配布<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20081029-1" />。 * [[2009年]](平成21年) [[ファイル:Gakuentoshiline-denkakoji.jpg|thumb|200px|right|電化工事中の高架区間(八軒・新川間)]] ** [[9月9日]]:桑園駅 - 北海道医療大学駅間の[[鉄道の電化|電化]]着手を発表<ref name="jrhokkaido-press-20090909-2" group="JR" /><ref name="hobidas-news-106105" group="新聞" />。 ** [[12月10日]]:篠路駅にて桑園駅 - 北海道医療大学駅間の電化工事の起工式挙行<ref group="新聞" name="mainichi-20091211" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np-2012-05-30" />。 * [[2012年]](平成24年) ** 2月10日:あいの里公園駅 - 石狩太美駅間の石狩川橋梁前後の区間の上流側に防風柵を追設し運転規制を緩和<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20120206-1" />。 ** 3月:桑園駅 - 北海道医療大学駅間の電化設備が完成<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" />。 ** [[6月1日]]:桑園駅 - 北海道医療大学駅間が電化開業([[交流電化|交流]]20,000V・50Hz)、同区間の一部列車(100本中69本<ref name="rj550-49"/>)を電車化<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20120314-1" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np-2012-06-02" />{{refnest|group="注"|一部に気動車が残存したのは、気動車([[苗穂運転所]]配置)から電車([[札幌運転所]]配置)と受け持ちが大きく変わることによる車両・要員の転換・異動が大規模となること、一時的な車両収容場所の不足に起因する<ref name="rj550-49"/>。}}。 ** [[10月27日]]:以下の内容でダイヤ改正を実施<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3" /><ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20120803-1" /><ref name="mynavi-news-2012-03-15-060" group="新聞" />。 *** 桑園駅 - 石狩当別駅間の全営業列車を電車化。 *** 千歳線新千歳空港駅直通列車(1往復)、千歳駅直通列車(上り1本のみ)、苫小牧駅からの直通列車(下り1本のみ)運転開始。 *** 石狩当別駅以南各駅と石狩金沢駅以北各駅間を直通する列車を廃止。 *** 函館本線[[江別駅]]直通列車廃止。 *** 夕[[ラッシュ時]]の下り列車を毎時3本から毎時4本に増発。 *** 石狩当別行き下り終電を30分繰り下げ、札幌駅23:37発とする。 * [[2016年]](平成28年) [[ファイル:JR Sassho-Line Shin-Totsukawa Station Timetable (2018-05-20).jpg|サムネイル|1日1本のみの列車が表記された新十津川駅の発車時刻表(2018年5月20日)]] ** [[3月26日]]:ダイヤ改正により、浦臼駅 - 新十津川駅間が1日1往復のみの運行となる<ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20160208-2" />。他線区直通列車を新千歳空港駅への1往復を除き廃止。 ** 6月:同月までに[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-D<small>N</small>]]を「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」に基づき整備期限が設けられていた桑園駅 - あいの里教育大駅間に整備<ref group="JR" name="jrhokkaido/safetyreport2020"/>。 ** [[10月9日]]:JR北海道が沿線の[[浦臼町]]・[[新十津川町]]に対してバス転換を提案し続けている旨が報道される<ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2016-10-09/news/economy/economy/1-0325161" />。 ** [[11月18日]]:JR北海道が「当社単独では維持することが困難な線区について」発表。北海道医療大学駅 - 新十津川駅間が「当社単独では維持することが困難な線区」とされる<ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" group="JR" /><ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" group="JR" />。 * [[2017年]](平成29年) ** 5月:第1回札沼線沿線4町長意見交換会開催(以降12月まで6回開催)<ref name=":1" /> ** [[11月14日]]:北海道医療大学駅 - 新十津川駅間沿線の4町長([[当別町]]・[[月形町]]・[[浦臼町]]・[[新十津川町]])が会合で、「同区間の現状維持は極めて厳しい」との認識で一致<ref group="新聞" name="hokkaido-np/144760" /><ref group="新聞" name="yomiuri/20171114" />。 ** [[11月23日]]:北海道医療大学駅 - 新十津川駅間沿線4町長の会合でJR北海道副社長の[[西野史尚]]が出席。2016年(平成28年)度実績を基に、区間を短縮した場合のコスト試算を示す<ref name="hokkaido-np/146837" group="新聞" />。 * [[2018年]](平成30年) ** [[1月16日]]:北海道医療大学駅 - 新十津川駅間沿線4町による意見交換会を改組し「札沼線沿線まちづくり検討会議」が発足<ref name=":1" />。同日第1回会議を開催<ref group="新聞" name="nikkei20180116" />。 ** [[2月10日]]:北海道総合交通政策検討会議による「北海道の将来を見据えた鉄道網(維持困難線区)のあり方について」公表。北海道医療大学駅 - 新十津川駅間について「…バス転換も視野に、地域における検討・協議を進めていくことが適当である」とする<ref name="pref.hokkaido/tetudoumounoarikataP15-P30" group="報道" />。 ** [[2月17日]]:「第2回札沼線沿線まちづくり検討会議」開催。JR北海道が北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の新しい交通体系について案を示す<ref name="jrhokkaido/press/2018/180216-2" group="JR" /><ref name="mainichi20180217" group="新聞" />。 ** [[3月5日]]:「札沼線沿線まちづくり検討会議」が、別途北海道医療大学駅 - 新十津川駅間沿線各町で個別にJR北海道と協議を始めることを表明<ref name="yomiuri/hokkaido/20180306" group="新聞" /><ref name="nikkei20180306" group="新聞" /><ref name="hokkaido-np/169634" group="新聞" />。 ** [[5月16日]]:月形町とJR北海道の個別協議にて、JR北海道から「鉄道として残すことはできない」と月形町へ最終回答<ref group="新聞" name="asahiMTW20180517011700001" /><ref group="新聞" name="mainichi20180517" />。 ** [[6月17日]]:JR北海道が「JR北海道の事業範囲見直しに係る関係者会議」にて示した「経営再生の見通し(案)」中で、北海道医療大学駅 - 新十津川駅間ほか「輸送密度200人未満の線区」にあたる4線区について「地域の皆様とともに、鉄道よりも便利で効率的な交通手段へ転換」と記す<ref group="JR" name="jrhokkaido/press/20180618_KO_mitooshi" />。 ** [[6月18日]]:月形町が北海道医療大学駅 - 新十津川駅間廃止受け入れを表明<ref name="nikkei20180618" group="新聞" /><ref name="mainichi20180619" group="新聞" />。 ** [[6月25日]]:新十津川町が北海道医療大学駅 - 新十津川駅間廃止受け入れを表明<ref group="新聞" name="mainichi20180626" />。 ** [[7月11日]]:浦臼町が北海道医療大学駅 - 新十津川駅間廃止受け入れを表明<ref name="mainichi20180712" group="新聞" />。 ** [[8月2日]]:「第3回札沼線沿線まちづくり検討会議」開催。廃止合意には至らず<ref group="新聞" name="nifty20180802" /><ref group="新聞" name="HTB20180802" />。 ** [[10月12日]]:「第4回札沼線沿線まちづくり検討会議」開催。当別町も含めた北海道医療大学駅 - 新十津川駅間沿線4町が同区間の廃止を受け入れ<ref group="新聞" name="mainichi20181012" /><ref group="新聞" name="nikkei20181012" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np/20181012" />。 ** [[12月20日]]:「第5回札沼線沿線まちづくり検討会議」開催。JR北海道と北海道医療大学駅 - 新十津川駅間沿線4町が同区間の廃止について合意<ref name=":5" /><ref name="jrhokkaido.co.jp/press/20181221" group="JR" /><ref group="新聞" name="mainichi-20181220" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np/20181221" />。 ** [[12月21日]]:JR北海道が国土交通大臣宛てに北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の鉄道事業廃止届を提出<ref name="jrhokkaido.co.jp/press/20181221" group="JR" />。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[3月14日]]:同日のダイヤ改正で夜間の千歳線新千歳空港駅からの直通列車(下り1本)を廃止、早朝の上り1本のみとなる<ref name="hkd-timetable202003_112-119" />。 ** [[3月20日]]:同日よりあいの里教育大駅 - 北海道医療大学駅間で[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-DN]]を使用開始<ref group="JR" name="jrhokkaido/safetyreport2020"/>。 ** [[4月1日]]:廃止代替バス(当別 - 月形、月形 - 浦臼)運行開始<ref name=":6" /><ref group="JR" name="jrhokkaido/20200403_TimetableOfSASHOLineForlastRun" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/407136" />。 ** [[4月3日]]:JR北海道が北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の[[4月11日]] - [[5月6日]]の間の運転計画を発表<ref group="JR" name="jrhokkaido/20200403_TimetableOfSASHOLineForlastRun" />。 ** [[4月10日]]:[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19、以下COVID-19と表記)]]の拡大防止を目的に、北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の最終運行日を同年4月25日へ前倒しし、最終列車の乗客を沿線4町の住民限定とすることを検討開始<ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/411384" />。 ** [[4月15日]]:COVID-19拡大および、[[新型インフルエンザ等対策特別措置法]]32条1項に基づく「緊急事態宣言」の影響により、JR北海道が北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の定期列車の最終運行日を同年4月24日に繰り上げ、同年4月27日に沿線4町のみ対象の「ラストラン」を行うことを発表<ref group="JR" name="jrhokkaido/20200415_SassyouLine" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/412718" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/412742" />。 ** [[4月16日]]:前述の「緊急事態宣言」の対象地域が日本国内全域に拡大されたことを受けて、JR北海道が定期列車の最終運行日を同年4月17日とし、同年4月27日の沿線4町対象の「ラストラン」の中止を発表<ref group="JR" name="jrhokkaido/20200416_SassyouLine" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/413130" />。 ** [[4月17日]]:石狩当別7:45発新十津川行、新十津川10:00発石狩当別行をもって、北海道医療大学駅 - 新十津川駅間の列車の運行を終了し、以降の同区間の列車は全列車運休となる<ref group="JR" name="jrhokkaido/20200416_SassyouLine" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/413251" /><ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/413521" />。 ** [[5月7日]]:北海道医療大学駅 - 新十津川駅間 (47.6km) の運輸営業を廃止<ref group="新聞" name="hokkaido-np/20181208" /><ref name="jrhokkaido.co.jp/press/20181221" group="JR" />。 * [[2022年]](令和4年) ** [[3月12日]]:あいの里教育大駅 - 太美駅間に[[ロイズタウン駅]]が開業<ref group="JR" name="jrhokkaido/210414_royce" /><ref group="JR" name="jrhokkaido/20211217_Daikai" />。石狩当別駅が当別駅に、石狩太美駅が太美駅に駅名を変更<ref group="JR" name="jrhokkaido/210414_royce" /><ref group="JR" name="jrhokkaido/20211217_Daikai" />。 ** [[10月16日]]:北海道新幹線工事に伴い、札幌駅の発車ホームが11番ホームに統一される<ref group="注" name="eleven"/>。 == 今後の予定 == === 篠路駅付近高架化 === [[篠路駅]]は[[2007年]](平成19年)から[[2009年]](平成21年)にかけて西口設置を含む再開発が行われるなど、以前より周辺整備の著しい地域であることから、周辺約1kmの高架化が決定されている。高架化に合わせて周辺の[[土地区画整理事業]]が行われることとなっており、横新道を始めとする踏切の除却や市道の拡幅も対象となっている<ref group="報道" name="city.sapporo-toshi-kukaku-shinoro-h2509_benkyoukai1" />。当初は2018年度着工、2025年度供用開始のスケジュールが組まれたが<ref group="新聞" name="hokkaido-np-economic-471766" />、その後事業期間は2031年度まで延長されている<ref>{{PDFlink|1=[https://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/datebook2021zennhann.pdf#page=56 札幌の都市交通データブック2021]}} - 札幌市まちづくり政策局 総合交通計画部 都市交通課 p.53、2022年8月15日閲覧。</ref>。 == 駅一覧 == === 現存区間 === 便宜上、桑園駅側の全列車が乗り入れる函館本線の札幌駅 - 桑園駅間も併せて記載する。 * 全線[[交流電化]]。全駅が[[北海道]][[石狩振興局|石狩管内]]<ref group="注" name="支庁・振興局">1972年(昭和47年)6月19日の新十津川駅 - 石狩沼田駅間廃止時点ではそれぞれ[[石狩支庁]]・[[空知支庁]]だったが、2010年(平成22年)4月1日にそれぞれ[[石狩振興局]]・[[空知総合振興局]]に改組された。</ref>に所在。 * 駅番号・区間カラー…札幌駅 - 北海道医療大学駅の各駅が対象区間。札沼線としての駅番号・カラーは八軒駅 - 北海道医療大学駅の各駅に適用。[[北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー]]を参照。 ** 札沼線単独駅の駅番号のアルファベットは、路線の愛称から採った「G ('''G'''akuentoshi-line)」である。 * {{JR特定都区市内|札}}:[[特定都区市内]]制度における「札幌市内」エリアの駅 * 他路線直通列車も含め、線内は全列車が普通列車(基本的に全ての駅に停車)。ただし、一部はロイズタウン駅(▽印)を通過する。 * 累計営業キロは桑園駅起点 * 線路 … <nowiki>||</nowiki>:複線区間、◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能)、∨:ここより下は単線、∧:ここより下は複線、終点(北海道医療大学駅、相互発着可能) * 札幌駅 - 桑園駅間は[[複々線|三線]]区間となっており、うち最も北側の1線(通称:北線)を札沼線列車専用の単線として運用している。 {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00a54f;"|{{縦書き|路線名}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00a54f;"|駅番号 !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00a54f;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00a54f;"|接続路線 !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #00a54f;"|{{縦書き|線路}} !rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00a54f;"|所在地 |- !style="border-bottom:solid 3px #00a54f;"|駅間 !style="border-bottom:solid 3px #00a54f;"|累計 |- |rowspan="2" style="text-align:center; font-size:90%;"|{{縦書き|函館本線}} !01 |[[札幌駅]] {{JR特定都区市内|札}} | style="text-align:center;" | - | style="text-align:right;" |1.6 |[[北海道旅客鉄道]]:{{color|#f7931d|■}} [[函館本線]]([[江別駅|江別]]・[[岩見沢駅|岩見沢]]方面)・{{color|#0072bc|■}} [[千歳線]]<ref group="*">千歳線の路線の起終点は函館本線[[白石駅 (JR北海道)|白石駅]]だが、旅客列車は全て札幌駅に乗り入れている。</ref><br />[[札幌市営地下鉄]]([[さっぽろ駅]]):<br />[[File:Subway_SapporoNamboku.svg|15px]] [[札幌市営地下鉄南北線|南北線]] (N06) ・[[File:Subway_SapporoToho.svg|15px]] [[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]] (H07) | style="text-align:center;" |∨ |rowspan="12" style="text-align:center;"|{{縦書き|[[札幌市]]}} |[[北区 (札幌市)|北区]]<br/><ref group="*">駅ビルは中央区に所在。</ref> |- style="height:1em;" !rowspan="2"|S02 |rowspan="2"|[[桑園駅]] {{JR特定都区市内|札}}<br><small>([[日本中央競馬会|JRA]] [[札幌競馬場]] 前)</small> | rowspan="2" style="text-align:right;" |1.6 | rowspan="2" style="text-align:right;" |0.0 | rowspan="2" |北海道旅客鉄道:{{color|#ed1c23|■}}函館本線([[小樽駅|小樽]]・[[倶知安駅|倶知安]]方面) | rowspan="2" style="text-align:center;" |◇ | rowspan="2" style="white-space:nowrap;" |[[中央区 (札幌市)|中央区]] |- style="height:.5em;" | rowspan="14" style="text-align:center;" |{{縦書き|'''札沼線'''}} |- !G03 |[[八軒駅]] {{JR特定都区市内|札}} | style="text-align:right;" |2.2 | style="text-align:right;" |2.2 |&nbsp; | style="text-align:center;" |∧ |[[西区 (札幌市)|西区]] |- !G04 |[[新川駅 (北海道)|新川駅]] {{JR特定都区市内|札}} | style="text-align:right;" |1.5 | style="text-align:right;" |3.7 |&nbsp; | style="text-align:center;" |<nowiki>||</nowiki> | rowspan="8" |北区<br/><ref group="*">太平駅は一部施設が[[東区 (札幌市)|東区]]上に所在。</ref> |- !G05 |[[新琴似駅]] {{JR特定都区市内|札}} | style="text-align:right;" |1.9 | style="text-align:right;" |5.6 |札幌市営地下鉄([[麻生駅]]):[[File:Subway_SapporoNamboku.svg|15px]] 南北線 (N01) <br />※[[振替輸送#JR北海道の場合|代替輸送]]指定駅 | style="text-align:center;" |<nowiki>||</nowiki> |- !G06 |[[太平駅]] {{JR特定都区市内|札}} | style="text-align:right;" |1.7 | style="text-align:right;" |7.3 |&nbsp; | style="text-align:center;" |<nowiki>||</nowiki> |- !G07 |[[百合が原駅]] {{JR特定都区市内|札}} | style="text-align:right;" |1.3 | style="text-align:right;" |8.6 |&nbsp; | style="text-align:center;" |<nowiki>||</nowiki> |- !G08 |[[篠路駅]] {{JR特定都区市内|札}} | style="text-align:right;" |1.6 | style="text-align:right;" |10.2 |&nbsp; | style="text-align:center;" |<nowiki>||</nowiki> |- !G09 |[[拓北駅]] {{JR特定都区市内|札}} | style="text-align:right;" |2.0 | style="text-align:right;" |12.2 |&nbsp; | style="text-align:center;" |<nowiki>||</nowiki> |- !G10 |[[あいの里教育大駅]] {{JR特定都区市内|札}} | style="text-align:right;" |1.4 | style="text-align:right;" |13.6 |&nbsp; | style="text-align:center;" |∨ |- !G11 |[[あいの里公園駅]] {{JR特定都区市内|札}} | style="text-align:right;" |1.5 | style="text-align:right;" |15.1 |&nbsp; | style="text-align:center;" |◇ |- !style="white-space:nowrap;"|G11-1 |[[ロイズタウン駅]]▽ | style="text-align:right;" |2.8 | style="text-align:right;" |17.9 |&nbsp; | style="text-align:center;" || | rowspan="4" colspan="2"|[[石狩郡]]<br />[[当別町]] |- !G12 |[[太美駅]] | style="text-align:right;" |1.4 | style="text-align:right;" |19.3 |&nbsp; | style="text-align:center;" |◇ |- !G13 |[[当別駅]] | style="text-align:right;" |6.6 | style="text-align:right;" |25.9 |&nbsp; | style="text-align:center;" |◇ |- !G14 |[[北海道医療大学駅]] | style="text-align:right;" |3.0 | style="text-align:right;" |28.9 |&nbsp; | style="text-align:center;" |∧ |} {{Reflist|group="*"}} ==== 過去の接続路線 ==== * 桑園駅 ** 函館本線札幌市場支線([[貨物線]]) - [[1978年]]10月2日廃止 ** [[札幌市電]](桑園線)…桑園駅前停留場 - [[1960年]]6月1日廃止 * 新琴似駅:札幌市電(鉄北線)…新琴似駅前停留場 - [[1974年]]5月1日廃止 * 石狩当別駅:[[当別町営軌道]] - 1956年3月31日運行終了 === 廃止区間 === * 事業者名、自治体名は廃止当時のもの。全駅北海道内に所在。 * 廃止区間は全線[[非電化]]・単線。 * 累計営業キロは桑園駅起点(廃止時点) * 北海道医療大学駅・石狩沼田駅は現存駅。他の駅は特記なければ区間廃止日に駅廃止。 * 線路 … |:列車交換不可、△:当駅始終着列車と上り列車同士の場合に限り列車交換可能、◇・∧:列車交換可能(∧:路線終点)、◆:列車交換可能だが、旅客ホームのある本線と旅客ホームのない副本線に分かれていた * 仮乗降場には営業キロが設定されていなかった。括弧内に実キロを記す。 {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2"|区間<br>廃止日 !rowspan="2"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2"|接続路線・備考 !rowspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|線路}} !rowspan="2" colspan="3"|所在地 |- !駅間 !累計 |- |rowspan="18"|2020年<br>5月7日 |[[北海道医療大学駅]] | style="text-align:center;" | - | style="text-align:right;" |28.9 | |△ |rowspan="4" style="text-align:center;"|{{縦書き|石狩振興局}}<br><ref group="注" name="支庁・振興局" /> | colspan="2" rowspan="4" |[[石狩郡]]<br>[[当別町]] |- |[[石狩金沢駅]] | style="text-align:right;" |2.2 | style="text-align:right;" |31.1 | || |- |[[本中小屋駅]] | style="text-align:right;" |4.5 | style="text-align:right;" |35.6 | || |- |[[中小屋駅]] | style="text-align:right;" |3.2 | style="text-align:right;" |38.8 | || |- |[[月ヶ岡駅]] | style="text-align:right;" |2.8 | style="text-align:right;" |41.6 | || |rowspan="28" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|空知管内}}<ref group="注" name="支庁・振興局" /> | rowspan="17" |{{縦書き|[[樺戸郡]]}} | rowspan="5" |[[月形町]] |- |[[知来乙駅]] | style="text-align:right;" |2.6 | style="text-align:right;" |44.2 | || |- |[[石狩月形駅]] | style="text-align:right;" |2.1 | style="text-align:right;" |46.3 | |◇ |- |[[豊ヶ岡駅]] | style="text-align:right;" |4.7 | style="text-align:right;" |51.0 | || |- |[[札比内駅]] | style="text-align:right;" |2.5 | style="text-align:right;" |53.5 | || |- |[[晩生内駅]] | style="text-align:right;" |4.5 | style="text-align:right;" |58.0 | || | rowspan="5" |[[浦臼町]] |- |[[札的駅]] | style="text-align:right;" |2.9 | style="text-align:right;" |60.9 | || |- |[[浦臼駅]] | style="text-align:right;" |1.8 | style="text-align:right;" |62.7 | || |- |[[鶴沼駅]] | style="text-align:right;" |3.4 | style="text-align:right;" |66.1 | || |- |[[於札内駅]] | style="text-align:right;" |1.8 | style="text-align:right;" |67.9 | || |- |[[南下徳富駅]] | style="text-align:right;" |1.5 | style="text-align:right;" |69.4 | || | rowspan="7" |[[新十津川町]] |- |[[下徳富駅]] | style="text-align:right;" |2.1 | style="text-align:right;" |71.5 | || |- |[[中徳富駅]] | style="text-align:right;" |2.4 | style="text-align:right;" |73.9 |[[2006年]][[3月18日]]廃止 || |- |[[新十津川駅]] | style="text-align:right;" |2.6 | style="text-align:right;" |76.5 | || |- |rowspan="14"|1972年<br/>6月19日 |[[石狩橋本駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|79.2 |&nbsp; |◆ |- |[[上徳富駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|82.0 |&nbsp; |◆ |- |[[北上徳富駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|83.7 |&nbsp; || |- |[[南雨竜仮乗降場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|(86.5) |&nbsp; || |rowspan="11"|{{縦書き|[[雨竜郡]]}} |rowspan="5"|[[雨竜町]] |- |[[雨竜駅]] |style="text-align:right;"|5.1 |style="text-align:right;"|88.8 |&nbsp; |◆ |- |[[中雨竜仮乗降場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|(89.8) |&nbsp; || |- |[[石狩追分駅]] |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|92.1 |&nbsp; |◆ |- |[[渭ノ津駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|94.5 |&nbsp; || |- |[[和駅]] |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:right;"|97.9 |&nbsp; |◆ |rowspan="3"|[[北竜町]] |- |[[中ノ岱駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|101.0 |&nbsp; || |- |[[碧水駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|102.8 |&nbsp; |◆ |- |[[北竜駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|106.0 |&nbsp; |◆ |rowspan="3"|[[沼田町]] |- |[[五ヶ山駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|108.6 |&nbsp; || |- |[[石狩沼田駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|111.4 |日本国有鉄道:[[留萌本線]] |∧ |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|3}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="chizucho">[[#imao|『鉄道旅行地図帳』1号北海道 pp.15,18,35-36]]</ref> <ref name="RP261-86_87">[[#RP261|『鉄道ピクトリアル』通巻261号 pp.86-87]]</ref> <ref name="Naruse1994_190-191">[[#Naruse1994|成瀬1994 pp190-191]]</ref> <ref name="KotsuGijutsu326_133">[[#KotsuGijutsu326|『交通技術』通巻326号 p.133]]</ref> <ref name="teisya">[[#teisya|『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』]]</ref> <ref name="tanaka1 130-131">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』上巻 国鉄・JR線 pp.130-131]]</ref> <ref name="tanaka1 312">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』上巻 国鉄・JR線 p.312]]</ref> <ref name="tanaka1 315">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』上巻 国鉄・JR線 p.315]]</ref> <ref name="tanaka1 319">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』上巻 国鉄・JR線 p.319]]</ref> <ref name="railf20120727">[[#杉山茂615|『鉄道ファン』通巻615号 27頁]]</ref> <!--<ref name="rf683-94_99">[[#RF683|『鉄道ファン』通巻683号 pp.94-99]]</ref>--> <ref name="rf694-77">[[#鉄道ファン694|『鉄道ファン』通巻694号 p.77]]</ref> <!--<ref name="sjr">[[#sjr-10|『週刊 JR全駅・全車両基地』通巻10号 p.11]]</ref>--> <ref name="rj339-98">[[#RJ339|『鉄道ジャーナル』通巻339号 p.98]]</ref> <ref name="rj350-89">[[#鈴木350|『鉄道ジャーナル』通巻350号 p.89]]</ref> <ref name="rj550-46">[[#RJ550|『鉄道ジャーナル』通巻550号 p.46]]</ref> <ref name="rj550-49">[[#RJ550|『鉄道ジャーナル』通巻550号 p.49]]</ref> <ref name="rj622-11_24">[[#土屋山下622|『鉄道ジャーナル』通巻622号 pp.11-24]]</ref> <ref name="gazette">[[#jr-gazette-2009-10|『JRガゼット』2009年10月号]]</ref> <ref name="jtb-timetable-2016-04">[[#jtb-timetable-2016-04|『JTB時刻表』2016年4月号]]</ref> <!--<ref name="sone24 17">[[#sone24|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』24号 p.17]]</ref>--> <ref name="sone24 24">[[#sone24|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』24号 p.24]]</ref> <ref name="北の保線143">[[#北の保線|太田2011 p.143]]</ref> <ref name="斎藤1963">[[#JREA196308|斎藤1963 p.7]]</ref> <ref name="hkd-timetable202003_112-119">[[#hkd-timetable202003|『北海道時刻表』2020年3月号 pp.112-119]]</ref> }} === 報道発表資料 === ==== JR北海道 ==== {{Reflist|3|group="JR"|refs= <ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20051222">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2005/051222.pdf|format=PDF|title=平成18年3月ダイヤ改正について|publisher=[[北海道旅客鉄道]]|date=2005-12-22|accessdate=2005-12-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051230090557/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2005/051222.pdf|archivedate=2005年12月30日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20070912-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2007/070912-3.pdf|format=PDF|title=駅番号表示(駅ナンバリング)を実施します|publisher=北海道旅客鉄道|date=2007-09-12|accessdate=2007-09-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070930015220/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2007/070912-3.pdf|archivedate=2007年9月30日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20080910-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/080910-1.pdf|format=PDF|title=Kitacaサービス開始日決定について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2008-09-10|accessdate=2008-09-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080913103748/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/080910-1.pdf|archivedate=2008年9月13日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20081029-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/081029-1.pdf|format=PDF|title=札幌市営地下鉄との代替輸送の実施について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2008-10-29|accessdate=2015-01-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150110135015/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/081029-1.pdf|archivedate=2015年1月10日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20090909-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2009/090909-2.pdf|format=PDF|title=札沼線(学園都市線)の電化について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2009-09-09|accessdate=2009-10-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091006234745/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2009/090909-2.pdf|archivedate=2009年10月6日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20111013-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/111013-3.pdf|format=PDF|title=札沼線(学園都市線)の電化開業時期について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2011-10-13|accessdate=2011-12-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111205160350/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/111013-3.pdf|archivedate=2011年12月5日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20120206-1">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2012/120206-1.pdf|format=PDF|title=強風対策について〜札沼線〜あいの里公園・石狩太美間石狩川橋梁の防風柵新設|publisher=北海道旅客鉄道|date=2012-02-04|accessdate=2017-10-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181015113057/https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2012/120206-1.pdf|archivedate=2018年10月15日|deadlinkdate=}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20120314-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2012/120314-1.pdf|format=PDF|title=学園都市線電化開業に伴う電車の投入(第一次)について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2012-03-14|accessdate=2012-09-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120925203437/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2012/120314-1.pdf|archivedate=2012年9月25日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20120803-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2012/120803-1.pdf|format=PDF|title=平成24年10月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2012-08-03|accessdate=2012-09-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120925203427/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2012/120803-1.pdf|archivedate=2012年9月25日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2014/140509-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140509-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成26年3月期決算について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-05-09|accessdate=2014-08-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140819090517/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140509-1.pdf|archivedate=2014年8月19日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2015/150508-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150508-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成26年度決算について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-05-08|accessdate=2015-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150624035503/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150508-2.pdf|archivedate=2015年6月24日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido-press-20160208-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160208-2.pdf|format=PDF|title=3月26日以降の普通列車時刻について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-02-08|accessdate=2016-02-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160209025400/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160208-2.pdf|archivedate=2016年2月9日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2016/160210-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160210-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成26年度 線区別の収支状況等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-02-10|accessdate=2016-02-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160210105033/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160210-1.pdf|archivedate=2016年2月10日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2016/160509-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160509-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成27年度決算について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-05-09|accessdate=2016-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160519034311/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160509-3.pdf|archivedate=2016年5月19日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2016/160729-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160729-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「持続可能な交通体系のあり方」について(PPT版)|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-07-29|accessdate=2016-07-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160729111508/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160729-1.pdf|archivedate=2016年7月29日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161118-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=当社単独では維持することが困難な線区について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-11-18|accessdate=2016-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161118050351/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161118-3.pdf|archivedate=2016年11月18日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161118-4.pdf|format=PDF|language=日本語|title=当社単独では維持することが困難な線区について(PPT版)|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-11-18|accessdate=2016-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161118121205/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161118-4.pdf|archivedate=2016年11月18日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2016/161104-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161104-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成27年度 線区別の収支状況等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-11-04|accessdate=2016-11-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161106113200/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161104-1.pdf|archivedate=2016年11月6日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2017/170509-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170509-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成28年度決算について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2017-05-09|accessdate=2017-11-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170513204020/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170509-2.pdf|archivedate=2017年5月13日|deadlinkdate=}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2017/171107-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171107-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成28年度 線区別の収支状況等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2017-11-07|accessdate=2017-11-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171107124454/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171107-2.pdf|archivedate=2017年11月7日|deadlinkdate=}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/corporate/senku/01">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/senku/pdf/senku/01.pdf|title=札沼線(北海道医療大学・新十津川間)|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道株式会社|work=[http://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/senku/ 線区データ(当社単独では維持することが困難な線区)]|date=2017-12-08|accessdate=2017-12-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171231094658/http://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/senku/pdf/senku/01.pdf|archivedate=2017-12-31}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/2018/180216-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2018/180216-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=札沼線(北海道医療大学・新十津川間)の新しい交通体系の提案内容について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2018-02-16|accessdate=2018-02-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180217061953/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2018/180216-2.pdf|archivedate=2018-02-17|deadlinkdate=}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/20180618_KO_mitooshi">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20180618_KO_mitooshi.pdf|format=PDF|language=日本語|title=JR北海道グループの「経営再生の見通し」(案)について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2018-06-18|accessdate=2018-06-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180619104408/http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20180618_KO_mitooshi.pdf|archivedate=2018-06-19|deadlinkdate=}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/20181109/LineAccount2017">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181109_KO_LineAccount2017.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成29年度 線区別の収支とご利用状況について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2018-11-09|accessdate=2018-11-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181109095952/http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181109_KO_LineAccount2017.pdf|archivedate=2018-11-09|deadlinkdate=}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/press/20181214">{{Cite web|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181214_KO_H31Kaisei.pdf|title=2019年3月ダイヤ改正について|accessdate=2018-12-15|date=2018-12-14|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181214160232/http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181214_KO_H31Kaisei.pdf|archivedate=2018-12-15}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido.co.jp/press/20181221">{{Cite press release |和書 |title=札沼線(北海道医療大学・新十津川間)の鉄道事業廃止届の提出について |url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181221_KO_Sassyoline.pdf |publisher=北海道旅客鉄道 |format=PDF |date=2018-12-21 |accessdate=2018-12-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181222054452/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181221_KO_Sassyoline.pdf|archivedate=2018-12-22|deadlinkdate=}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido.co.jp/vision/20190409-03">{{Cite press release|和書|author= |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/mi/vision/20190409-03.pdf|format=PDF|language=日本語|title=JR北海道グループ中期経営計画2023|work= |pages=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2019-04-09|accessdate=2019-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190409130455/http://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/mi/vision/20190409-03.pdf|archivedate=2019-04-09}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/201900904_ExpenditureOfSection">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/201900904_KO_ExpenditureOfSection.pdf|title=線区別の収支とご利用状況について|format=PDF|language=日本語|publisher=北海道旅客鉄道|date=2019-09-04|accessdate=2019-09-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190904151630/http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/201900904_KO_ExpenditureOfSection.pdf|archivedate=2019-09-05}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/20200403_TimetableOfSASHOLineForlastRun">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200403_KO_TimetableOfSASHOLineForlastRun.pdf|title=札沼線 石狩当別〜新十津川間の運転計画について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-04-03|accessdate=2020-04-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200403102132/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200403_KO_TimetableOfSASHOLineForlastRun.pdf|archivedate=2020-04-03}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/20200415_SassyouLine">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200415_KO_SassyouLine.pdf|title=札沼線(北海道医療大学・新十津川間)最終運行について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-04-15|accessdate=2020-04-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200415050110/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200415_KO_SassyouLine.pdf|archivedate=2020-04-15}}</ref> <ref group="JR" name="jrhokkaido/20200416_SassyouLine">{{Cite press 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線区別の収支とご利用状況について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2023-06-09|accessdate=2023-06-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610141458/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20230609_KO_SenkubetsuSyusi.pdf|archivedate=2023-06-10}}</ref> }} ==== 国土交通省 ==== {{Reflist|2|group="MLIT"|refs= <ref group="MLIT" name="annualstatistics2012">{{Cite press release|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001064370.pdf|format=PDF|language=日本語|title=(24)JR旅客会社運輸成績表(延日キロ,人キロ,平均数)|work=鉄道統計年報[平成24年度]|publisher=国土交通省|date=|accessdate=2018-05-20|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11690596/www.mlit.go.jp/common/001064370.pdf|archivedate=2015-03-05|deadlinkdate=}}</ref> <ref group="MLIT" name="annualstatistics2013">{{Cite press 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web|和書|url=http://www.city.sapporo.jp/toshi/kukaku/shinoro/documents/h2509_benkyoukai1.pdf|format=PDF|title=篠路駅周辺地区 土地区画整理事業に関する勉強会|publisher=札幌市|date=2013-09-27|accessdate=2014-07-14|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11238118/www.city.sapporo.jp/toshi/kukaku/shinoro/documents/h2509_benkyoukai1.pdf|archivedate=2014-07-04|deadlinkdate=2021-11-04}}</ref> <ref group="報道" name="sapporokita">{{Cite web|和書|url=http://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/episode/039.html|title=第五章:交通 39."汽笛一声"に歓声と涙-国鉄札沼線|publisher=札幌市[[北区 (札幌市)|北区役所]]|date=|accessdate=2008-12-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081202062744/http://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/episode/039.html|archivedate=2008年12月2日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <!--<ref group="報道" name="dbj_news-2009-0000003880">{{Cite press 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|url={{NDLDC|2961498/7}}|title=鉄道省告示第255号|newspaper=官報|agency=国立国会図書館デジタルコレクション|publisher=内閣印刷局|date=1943-09-02|accessdate=2015-01-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150118195228/{{NDLDC|2961498/7}}|archivedate=2015-01-18}}</ref> <ref group="新聞" name="官報 1944-07-20">{{Cite news|author= |url={{NDLDC|2961749/4}}|title=運輸通信省告示第353号|newspaper=官報|agency=国立国会図書館デジタルコレクション|publisher=[[大蔵省]]印刷局|date=1944-07-20|accessdate=2015-01-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150109221120/{{NDLDC|2961749/4}}|archivedate=2015-01-09}}</ref> <ref group="新聞" name="官報 1946-12-10">{{Cite news|author= |url={{NDLDC|2962487/3}}|title=運輸省告示第313号|newspaper=官報|agency=国立国会図書館デジタルコレクション|publisher=大蔵省印刷局|date=1946-12-10|accessdate=2015-01-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150109222250/{{NDLDC|2962487/3}}|archivedate=2015-01-09}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np-1953-11-04 1">{{Cite news|author=|url=http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090263742|title=札沼線開通 浦臼駅発車にわく処女列車|newspaper=北海道新聞|agency=フォト北海道(道新写真データベース)|publisher=北海道新聞社|date=1953-11-04|accessdate=2015-11-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151108115333/http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090263742|archivedate=2015年11月8日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np-1953-11-04 2">{{Cite news|author=|url=http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090263445|title=北海道新聞社機による夕刊投下 雨竜|newspaper=北海道新聞|agency=フォト北海道(道新写真データベース)|publisher=北海道新聞社|date=1953-11-04|accessdate=2015-11-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151108120318/http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090263445|archivedate=2015年11月8日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np-1953-11-04 3">{{Cite news|author=|url=http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090263440|title=札沼線開通 記念旗行列 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news|author=|url=http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090359165|title=札沼線の釜谷臼駅(無人駅)誕生|newspaper=北海道新聞|agency=フォト北海道(道新写真データベース)|publisher=北海道新聞社|date=1958-07-02|accessdate=2015-11-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151108125321/http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090359165|archivedate=2015年11月8日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np-1967-12-14">{{Cite news|author=|url=http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090360093|title=あすから開業 札沼線東篠路駅 ひまわり団地 住民の要望実る|newspaper=北海道新聞|agency=フォト北海道(道新写真データベース)|publisher=北海道新聞社|date=1967-12-14|accessdate=2015-11-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151108125536/http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090360093|archivedate=2015年11月8日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np-1981-12-01">{{Cite news|author=|url=http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090359468|title=大学前駅が誕生 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journal|author=斎藤俊彦|month=08|year=1963|title=戦後の新線建設を顧みる|url=https://jrea.or.jp/jrea/data/1963/JREA_1963-8.pdf|format=PDF|journal=JREA|volume=6|issue=8|page=|pages=pp.5-9|publisher=日本鉄道技術協会|ref=JREA196308}} * {{Cite journal|month=2|year=1972|title=質問に答える(45年度国鉄線区別収支係数)|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=22|issue=2(通巻261)|page=|pages=pp.86-87|publisher=[[電気車研究会]]|ref=RP261|issn=0040-4047}} * {{Cite journal|和書|author= |year=1972|month=4|title=札沼線 石狩沼田―新十津川間廃止へ|journal=[[交通技術]]|volume=27|issue=第4号(通巻326号)|page=133|publisher=交通協力会|issn=|ref=KotsuGijutsu326}} * {{Cite journal|和書|author= |year=1995|month=1|title=JR北海道札幌-桑園間3線化で輸送力増強|journal=[[鉄道ジャーナル]]|volume=29|issue=第1号(通巻339号)|page=98|publisher=[[成美堂出版]]([[鉄道ジャーナル#鉄道ジャーナル社|鉄道ジャーナル社]])|issn=0288-2337|ref=RJ339}} * {{Cite journal|和書|author=鶴 通孝 |year=2012|month=8|title=学園都市線の新しい夏 電化と輸送改善で変貌する札沼線|journal=[[鉄道ジャーナル]]|volume=46|issue=第8号(通巻550号)|publisher=[[成美堂出版]]([[鉄道ジャーナル#鉄道ジャーナル社|鉄道ジャーナル社]])|issn=0288-2337|ref=RJ550|pages=40-49}} * {{Cite 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英米法
英米法(えいべいほう、英語: Anglo-American law, common law)とは、イングランドの国王裁判所及び大法官府裁判所の判例を通じて形成されたコモン・ローとエクイティから成る法体系が、イングランドだけでなく、その支配領域(旧イギリス帝国植民地など)にあった諸地域にも広まったもの。 英米法ないし英米法系とは、イングランド法やニューヨーク州法といった特定の法秩序ないし法体系に着目した概念ではなく、ヨーロッパ大陸諸国の法体系である大陸法系と対比した場合の、複数の国の法体系の共通性ないし類似性に着目して総称した類概念である。 ゲルマン法に由来する中世的慣習法として成立した判例法たるコモン・ローがイングランド法の基礎として発展したことから、イングランド法を基礎とする英米法を指して「コモン・ロー」とも呼ぶ。 英米法は、イギリスの支配下にあった地域の多くにおいて採用されており、アメリカ合衆国の法体系もその1つであることから、「英米法」と呼ばれる。もっとも、アメリカ合衆国は比較的早期にイギリスから分離したため、他の英米法地域と比べて多くの独自性を有する。 イギリス連合王国内のスコットランドや、アメリカのルイジアナ州やアメリカの事実上の植民地であるプエルトリコでは、歴史的経緯から大陸法系あるいは大陸法と混合した法制度が整備されている。また、かつて英国の植民地であった国々の中でも、もとはフランスの植民地だったケベック州や、ポルトガルが植民地化したスリランカや南アフリカ共和国の法制度は大陸法系である。 大陸法系は、ローマ法・カノン法の全面的継受を受けたことから、私法の重要な部分が法律(特に法典)の条文によって規定されるのに対し、英米法系は、中世の英国において、ゲルマン法の一支流であるアングロ・サクソン法を背景として成立した慣習法であり、判例が第一次的法源とされ、司法的である点に基本的な相違点があるとされている。 そこから英米法系は、大陸法系と異なる次のような具体的な特色を有するものとされるが、それは、1066年のウィリアム征服王による封建制の確立から始まる英国の歴史に基づく極めて偶有性の高いものであり、英国法の歴史であるとともに、コモン・ローの歴史そのものでもある。詳細は、それぞれ英国法#歴史、コモン・ロー#歴史を参照。 日本法は、明治期に大陸法を継受したため、信託、陪審、43条、416条等民法の若干の規定を除くほか英米法系に由来する規定はなかった。 第二次世界大戦終結後の連合国軍占領下に公布された日本国憲法は、象徴天皇制や議院内閣制などの規定に英国法の影響を想起させるものもかなりあるが、最高裁判所以下の司法府の規定などにアメリカ合衆国憲法をモデルとしたもの(そもそもアメリカ合衆国は成文憲法発祥の地でもある)であり、これによって日本法はアメリカ法を継受した。その結果、一部の法律が改正がなされて、日本法は英米法系の影響を受けるに至っている。 なお、国会法、皇室典範、内閣法については、共通して立憲君主国である英国法系の新制度に合わせて制定され直した。また、アメリカ法の影響として代表的なものに刑事訴訟法と証券取引法があるが、一方で、財産法や商法、刑法、民事訴訟法など多くの法律は大陸法系であるという状況にある。
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英米法とは、イングランドの国王裁判所及び大法官府裁判所の判例を通じて形成されたコモン・ローとエクイティから成る法体系が、イングランドだけでなく、その支配領域(旧イギリス帝国植民地など)にあった諸地域にも広まったもの。
'''英米法'''(えいべいほう、[[英語]]: Anglo-American law, common law)とは、[[イングランド]]の国王裁判所及び大法官府裁判所の[[判例]]を通じて形成された[[コモン・ロー]]と[[エクイティ]]から成る法体系が、イングランドだけでなく、その支配領域(旧[[イギリス帝国]][[植民地]]など)にあった諸地域にも広まったもの。 == 概要 == [[File:Map of the Legal systems of the world (en).png|thumb|upright=1.35|世界各国の法体系<ref>[http://www.juriglobe.ca/eng/syst-onu/index-alpha.php Alphabetical Index of the 192 United Nations Member States and Corresponding Legal Systems] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160722022209/http://www.juriglobe.ca/eng/syst-onu/index-alpha.php |date=2016-07-22 }}, Website of the Faculty of Law of the University of Ottawa</ref>。大陸法は水色系、英米法は桃色系の色で塗られている。]] 英米法ないし英米法系とは、[[イングランド法]]や[[ニューヨーク州|ニューヨーク州法]]といった特定の法秩序ないし法体系に着目した概念ではなく、[[ヨーロッパ大陸]]諸国の法体系である[[大陸法|大陸法系]]と対比した場合の、複数の国の法体系の共通性ないし類似性に着目して総称した類概念である。 ゲルマン法に由来する中世的慣習法として成立した判例法たる[[コモン・ロー]]がイングランド法の基礎として発展したことから、イングランド法を基礎とする英米法を指して「コモン・ロー」とも呼ぶ。 英米法は、[[イギリス]]の支配下にあった地域の多くにおいて採用されており、[[アメリカ合衆国]]の法体系もその1つであることから、「英米法」と呼ばれる。もっとも、アメリカ合衆国は比較的早期にイギリスから分離したため、他の英米法地域と比べて多くの独自性を有する。 イギリス連合王国内の[[スコットランド]]や、アメリカの[[ルイジアナ州]]やアメリカの事実上の植民地である[[プエルトリコ]]では、歴史的経緯から大陸法系あるいは大陸法と混合した法制度が整備されている。また、かつて英国の植民地であった国々の中でも、もとはフランスの植民地だった[[ケベック州]]や、[[ポルトガル]]が植民地化したスリランカや[[南アフリカ共和国]]の法制度は大陸法系である。 == 特色 == 大陸法系は、[[ローマ法]]・[[教会法|カノン法]]の全面的継受を受けたことから、[[私法]]の重要な部分が[[法律]](特に[[法典]])の条文によって規定されるのに対し、英米法系は、中世の英国において、[[ゲルマン法]]の一支流である[[アングロ・サクソン]]法を背景として成立した[[慣習法]]であり、[[判例]]が第一次的[[法源]]とされ、[[司法]]的である点に基本的な相違点があるとされている。 そこから英米法系は、大陸法系と異なる次のような具体的な特色を有するものとされるが、それは、[[1066年]]の[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム征服王]]による[[封建制]]の確立から始まる英国の歴史に基づく極めて偶有性の高いものであり、英国法の歴史であるとともに、コモン・ローの歴史そのものでもある。詳細は、それぞれ[[英国法#歴史]]、[[コモン・ロー#歴史]]を参照。 *大陸法系がローマ法・カノン法の継受による法の断絶を経験しているのに対し、英米法系はゲルマン的な中世慣習との歴史的継続性を有していることである。 *英米法系は、[[マグナカルタ]]のような中世の伝統との連続性のある[[法の支配]]を基本理念とするのに対し、大陸系の[[公法]]では、法の断絶によって法の支配が衰退し、[[法治国家|法治主義]]がとられるようになったことである。 *英米法系は、コモン・ローとエクイティからなる法の二元性をとるのに対し、大陸法系はそのような区別を知らないことである。 *英米法系の[[裁判]]が中世からの伝統のある[[陪審制]]をとるのに対し、大陸法系では、法の断絶を経験したことによって陪審制は衰退し、素人が裁判官と一緒に審理に参加する[[参審制]]をとられるようになったことである。 *英米法系の[[司法]]制度が[[法曹一元制]]をとるのに対し、大陸法系は[[キャリア裁判官]]によるキャリアシステムをとることである。 *英米法系の[[法体系]]では、訴訟中心主義をとり、実体法は[[手続法]]の隙間からにじみ出てきたという性格が強いのに対し、大陸法系が[[実体法]]を中心とした理論的な体系となっていることである。 *英米法系は、大陸法系における[[総則]]規定や抽象的な法律行為概念等の理論を嫌い、日常的な人間の経験を重視することである。 *英米法系の[[私法]]は、中世の身分社会の影響から現実の社会の中の個人と全体との関係を重視する「関係理論」をとるのに対し、大陸法系が個人の意思から出発する「意思理論」をとることである。 *英米法系の[[刑法]]は、中世の身分社会の影響から現実の社会の中の個人と全体との関係を重視し、社会に与えた客観的な結果や影響を問題にするのに対し、大陸法系が個人の意思から出発し、その行為の目的や反倫理性を問題とすることである。 *英米法系は、[[犯罪]]も民事上の[[不法行為]]も共に国王の平和(King's peace)に対する罪にあたるとされて、[[刑事法]]と[[民事法]]の区分が曖昧でむしろ[[公法]]を中心に発達したのに対し、大陸法では、公法と私法が理論上区別され、個人の対等な関係を基本とする私法を中心に発達してきたことである。 == 日本におけるアメリカ法の継受と英米法系の影響 == [[日本法]]は、[[明治]]期に大陸法を継受したため、[[信託]]、[[陪審]]、43条、416条等[[民法 (日本)|民法]]の若干の規定を除くほか英米法系に由来する規定はなかった<ref>上掲『アメリカ法入門』2頁</ref>。 [[第二次世界大戦]]終結後の[[連合国軍占領下の日本|連合国軍占領下]]に公布された[[日本国憲法]]は、[[象徴天皇制]]や[[議院内閣制]]などの規定に英国法の影響を想起させるものもかなりあるが、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]以下の司法府の規定などに[[アメリカ合衆国憲法]]をモデルとしたもの(そもそもアメリカ合衆国は成文憲法発祥の地でもある)であり、これによって日本法はアメリカ法を継受した<ref name="名前なし-1">上掲『アメリカ法入門』8頁</ref>。その結果、一部の法律が改正がなされて、日本法は英米法系の影響を受けるに至っている。 なお、[[国会法]]、[[皇室典範]]、[[内閣法]]については、共通して[[立憲君主制|立憲君主国]]である英国法系の新制度に合わせて制定され直した。また、アメリカ法の影響として代表的なものに[[刑事訴訟法]]と[[金融商品取引法|証券取引法]]があるが、一方で、[[民法 (日本)#財産法|財産法]]や[[商法]]、[[刑法 (日本)|刑法]]、[[民事訴訟法]]など多くの法律は大陸法系であるという状況にある<ref name="名前なし-1"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === <references /> == 参考文献 == *[[伊藤正己]]・[[木下毅]]「アメリカ法入門(第5版)」(2012年、[[日本評論社]]) *[[戒能通厚]]編「現代イギリス法事典」(2003年、新世社) {{法学のテンプレート}} {{law-stub}} {{DEFAULTSORT:えいへいほう}} [[Category:英米法系|*]] [[en:Common law]]
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帝都高速度交通営団法
帝都高速度交通営団法(ていとこうそくどこうつうえいだんほう)は、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の設立を目的とした法律。法令番号は昭和16年法律第51号、1941年(昭和16年)3月7日に公布された。1951年4月6日の改正で民間資本の排除がされている。 営団地下鉄の民営化(東京メトロの設立)に伴う東京地下鉄株式会社法の施行により2004年(平成16年)4月1日に廃止。
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{{日本の法令 |題名=帝都高速度交通営団法 |番号=昭和16年法律第51号 |通称= |効力=廃止 |種類=行政手続法 |内容=[[帝都高速度交通営団]]の設立 |関連= |リンク= }} '''帝都高速度交通営団法'''(ていとこうそくどこうつうえいだんほう)は、[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)の設立を目的とした[[法律]]。[[法令番号]]は昭和16年法律第51号、[[1941年]]([[昭和]]16年)[[3月7日]]に[[公布]]された。[[1951年]][[4月6日]]の改正で民間資本の排除がされている<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/01019510406136.htm 1951年(昭和26年)4月6日法律第136号「帝都高速度交通営団法の一部を改正する法律」] - 衆議院</ref>。 営団地下鉄の民営化([[東京地下鉄|東京メトロ]]の設立)に伴う[[東京地下鉄株式会社法]]の施行により[[2004年]](平成16年)[[4月1日]]に廃止。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:ていとこうそくとこうつうえいたんほう}} [[Category:廃止された日本の法律]] [[Category:日本の鉄道関連法規]] [[Category:東京地下鉄|法ていとこうそくとこうつうえいたんほう]] [[Category:1941年の法]] [[Category:2004年に廃止された法]] [[Category:1941年の鉄道]]
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バンド・デシネ
バンド・デシネ(フランス語:bande dessinée)は、フランスやベルギーをはじめとするフランス語圏の漫画のことである。バンデシネとも呼ばれる。略称は、B.D.(ベデ)。アメリカン・コミックス、日本の漫画と並んで世界3大コミック産業の一つといわれる。 「bande dessinée」の名前は、「描かれた帯」という意味のフランス語に基づく。意訳すれば「続き漫画」であり、英語では「comic strips(コミック・ストリップ)」に相当する語である。フランス語圏で、漫画は「9番目の芸術」(le neuvième art、ル・ヌヴィエム・アール)として認識されており、批評や研究の対象となっている。 『タンタンの冒険』などをはじめとする作品群は、世界各国の漫画やその他の芸術に大きな影響を与えている。エンキ・ビラル、メビウスなどの作者もよく知られている。1980年代以降の日本漫画の作画に革命をもたらした大友克洋はバンド・デシネを代表する作家メビウスの画風に影響を受けている。 近年では、フレデリク・ボワレらの提唱する、ヌーベルまんがという新しい動きも見られる。 カナダのケベック州やアルジェリアなどフランス語圏の漫画にも影響を与えている。 バンド・デシネの源流は、19世紀にスイスのフランス語圏で活躍したロドルフ・テプフェールの作品にあると考えられている。テプフェールの考案したコマ漫画形式の作品は、書籍としてフランスでも多数出版され、多くの漫画家に影響を残した。 20世紀最初の数十年で、フランス語圏の漫画は一般的には一冊の書籍としては出版されておらず、新聞や月刊雑誌上の連載作品あるいはギャグ漫画として掲載されていた。 これらの雑誌とは別に、カトリック教会は「健全かつ正しい」子供向けの雑誌を発行し配布していた。1920年にベルギーにあるアーヴェルボーデ修道院の院長が、多くの文章と少数のイラストから構成された雑誌『プティ・ベルジュ(フランス語版)』(Petits Belges) を創刊した。 最初期の本格的なベルギーの漫画の一つは、エルジェの『タンタンの冒険旅行』である。タンタン・シリーズの第一作である『タンタンソビエトへ』は、1929年に「20世紀子ども新聞(フランス語版)(Le Petit Vingtième、ル・プティ・ヴァンティエム)」に掲載された。この作品は後のタンタンとは全く異なり、後期の作品と比べるとその作風も単純素朴で、子供向けだった。初期のタンタン作品にはしばしば政治的に偏向した表現が含まれており、後になってエルジェを後悔させることになった。 現代に通じるフランス語圏の漫画の歴史は、ハンガリーのポール・ウィンクラーがキング・フィーチャーズ・シンジケート社との契約により1934年に創刊した、ジュルナル・ドゥ・ミッキー(フランス語版)(Journal de Mickey、『ミッキー新聞』)誌から始まった。この書籍は週刊発行された8ページの漫画誌であり、事実上、フランス語圏で最初の漫画誌である。 この雑誌は成功し、すぐに他のあらゆる出版社が、アメリカ合衆国の連載シリーズを用いた雑誌を大量に出版し始めることになった。続く十年間は、海外から輸入された素材を用いた数百冊の雑誌が、市場の大半を占めていた。 ドイツがフランスとベルギーに侵攻すると、アメリカン・コミックの輸入は不可能になった。同様に、ナチスの見解で問題のあるキャラクターの登場する漫画は、全面的に発禁処分となった。 漫画への需要はこの時期にも存在し、孤立したフランスやベルギーの漫画界は競って新たな素材を手に入れようとした。例えば、後に『ブレイクとモーティマー(Blake and Mortimer)』を執筆したエドガー・P・ヤコブズ(フランス語版、英語版)は、ベルギーの漫画誌ブラヴォー(Bravo)で『フラッシュ・ゴードン』の最終回を即興で創作しなければならなかった。ヤコブズと共に、ジャック・ラウデ、レイモン・レディング、アルベール・ユデルゾ、ウィリー・ファンデルステーンらがブラヴォー誌でその作家人生を開始した。 ベルギーの漫画雑誌スピルーは戦前に創刊され、状況の変化を乗り切った数少ない漫画雑誌の一冊である。長期にわたりドイツにより出版を禁止され、紙不足に苦しめられたにもかかわらず、1944年にスピルーは特集号を出版した。 戦後、アメリカン・コミックは戦前ほどの出版量は回復できなかった。皮肉なことに、占領期間中も活動を続けていた多くの出版社や漫画家たちがドイツへの利敵行為を糾弾され、レジスタンスによって投獄された。 有名誌のひとつであるクール・ヴァイヨン誌(フランス語版、英語版)(Cœurs Vaillants、15世紀フランスの商人ジャック・クールの別名にちなむ)で起きた例を挙げる。この雑誌は1929年にクルトワ修道院の院長ガストン・クルトワ(Gaston Courtois)などにより創刊された。院長は教会の支援により戦争中もこの雑誌を刊行し続けていたため、戦争協力者として告発された。院長が追放された後に共同創刊者ジャン・ピアン(Jean Pihan)はジャン・ヴァイヨンとしてこの雑誌の出版を続け、雑誌の方向性をよりユーモラスなものへ変えた。 エルジェもレジスタンスから追及された漫画家の一人だった。彼も他の漫画家たちと同様に苦労して汚名をそそぎ、1950年に創設した創作集団「ステュディオ・エルジェ」で、彼の下に集まった受講生やアシスタントたちのための指導者の役割を演じた。ステュディオ・エルジェで学んだ漫画家として、ボッブ・ド・ムール、ジャック・マルタン、ロジェ・ルルー、エドガー=ピエール・ヤコブズがいる。これらの作家はベルジアン・コミックの特徴である清潔な描線を用いていた。 50年にわたり漫画界に大きな影響を及ぼしているレ・エディシオン・ダルゴー社やデュピュイ社を含む多くの出版社により、両国内の市場は成熟した。1950年代には、「スピルー」「ル・プティ・ヴァンティエム(フランス語版)(Le Petit Vingtième)」「ヴァイヨン」「ピロット」や、各回完結のストーリーを特徴とした最初の漫画誌「エロイック・アルボム」などの雑誌が、現在知られている形に発展していった。これら一群の漫画誌はヨーロッパ全域で高い評価を博し、多くの国が自国の漫画に加えて、あるいはその代用品として人気を得始めた。 1960年代になると、キリスト教色をまとい、多数の文章と少数のイラストによる伝統的な形式を取っていたカトリック系漫画誌の大半は人気を失い始めた。その結果として、ピロットやヴァイヨンのような漫画誌が市場を独占し、流行のスタイルによる商業的な成功を目指す多くの新人作家らの明確な目標となっていった。 1968年以降からは、それ以前には見られなかった成人読者を対象とする漫画が登場した。マルセル・ゴトリブの作品を掲載したレコ・デ・サヴァヌ誌 (L'Écho des Savanes) やクレール・ブルテシェールの『レ・フリュストゥレ』 (Les Frustrés) がその初期に含まれる。ほかには音楽レビューと漫画を特色としていた同人誌「ル・カナール・ソヴァージュ」 (Le Canard Sauvage) がある。メビウスやフィリップ・ドリュイエ、エンキ・ビラルらの壮大なSF作品やファンタジー作品を掲載したメタル・ユルラン誌 (Métal Hurlant) は、アメリカ合衆国でヘビー・メタル誌(英語版、フランス語版)(Heavy Metal)として翻訳出版され、大きな衝撃を与えた。この流行は1970年代から、オリジナルのメタル・ユルランが勢いを失う1980年代初めまで継続し、オリジナルのメタル・ユルランが1987年7月に休刊になった後も、本家から独立したアメリカ版メタル・ユルランが存続している。しかし、アメリカ版メタル・ユルランはオリジナルの影に過ぎないという意見も存在する。 1980年代の成人向け漫画は、セックスと暴力に満ちた陳腐な作品が大勢を占めていた。例として、この期間のヘビー・メタル誌が挙げられる。ラソシアシオン、アモク、フレオンなどのインディペンデント系出版社の出現により、1990年代にバンド・デシネの復興が始まった。これらの出版社から発行される作品は、大手出版社の通常出版物よりも絵画表現および物語表現の両面でより芸術的に洗練され、上質の装丁を施されている。この潮流は、英語圏でのグラフィックノベルとも相互に影響関係を持っている。 21世紀に入ると、日本の漫画に影響を受けたフランス語オリジナルの日本風バンド・デシネが登場し、これはマンフラ (manfra) あるいはフランガ (franga) と呼ばれている。さらに韓国漫画のマンファ、中国風漫画のマンホアなど、アジア風バンド・デシネが市場で意識されるに至っている。 バンデシネ(以下BD)の前史とされるロドルフ・テプフェールやギュスターヴ・ドレなど19世紀の絵物語は大人向けであったが、20世紀初頭より子ども向けの雑誌が主な掲載媒体になり、1960年代に「ピロット」「アラキリ(Hara-Kiri)」といった大人向けBD専門誌が登場するまで、約70年間はフランスではBDは子供のものと見なされ、厳しい検閲の対象となった(1949年に作られた「子ども向け読み物に関する法令」が現行法としてBDに適用されている)。1960年代までは、宗教上の理由、アメリカ大衆文化への警戒(BD誌にアメコミが多数掲載されていたため)、活字本離れへの警戒などからBD雑誌は悪書扱いされていたが、1970年代ころから子供の読み書きのための教育書として再評価されたものの、子供のもの=幼稚である、という偏見は根強かった。1960年代からBDの文化的正統性を主張する知識人・文化人の動きが見られ、1971年にはソルボンヌ大学で専門の講座が誕生し、学問の対象として認知されるかにみえたが、その後廃止された。ベルギーやドイツでは大学に専門の講座があるが、フランスでは主にアカデミック外での研究が盛んである。 この節では、これまでに日本語訳が刊行されたことのある作品のうち、代表的なものを列挙する。
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バンド・デシネは、フランスやベルギーをはじめとするフランス語圏の漫画のことである。バンデシネとも呼ばれる。略称は、B.D.(ベデ)。アメリカン・コミックス、日本の漫画と並んで世界3大コミック産業の一つといわれる。 「bande dessinée」の名前は、「描かれた帯」という意味のフランス語に基づく。意訳すれば「続き漫画」であり、英語では「comic strips(コミック・ストリップ)」に相当する語である。フランス語圏で、漫画は「9番目の芸術」として認識されており、批評や研究の対象となっている。
{{出典の明記| date = 2023年12月}} {{redirect|B.D.|その他|BD (曖昧さ回避)}} [[File:Bob-de-moor-1357174668.jpg|thumb|[[ベルギー]]の[[漫画家]] [[:en:Bob de Moor|Bob de Moor]]]] '''バンド・デシネ'''([[フランス語]]:{{lang|fr|bande dessinée}})は、[[フランス]]や[[ベルギー]]をはじめとする[[フランス語圏]]の[[漫画]]のことである。'''バンデシネ'''とも呼ばれる。[[略語|略称]]は、'''B.D.'''(ベデ)。[[アメリカン・コミックス]]、[[日本の漫画]]と並んで世界3大コミック産業の一つといわれる<ref>{{Cite book|title=The Routledge Companion to Comics|url=https://books.google.com/books?id=EevLDAAAQBAJ&pg=PA106|publisher=Routledge|date=2016-08-05|isbn=978-1-317-91538-6|language=en|first=Frank|last=Bramlett|first2=Roy|last2=Cook|first3=Aaron|last3=Meskin}}</ref>。 「{{lang|fr|bande dessinée}}」の名前は、「描かれた帯」という意味の[[フランス語]]に基づく。意訳すれば「続き漫画」であり、[[英語]]では「{{lang|en|comic strips}}([[コミック・ストリップ]])」に相当する語である。[[フランス語圏]]で、漫画は「9番目の芸術」({{lang|fr|le neuvième art}}、ル・ヌヴィエム・アール)として認識されており、批評や研究の対象となっている。 == 概要 == 『[[タンタンの冒険]]』などをはじめとする作品群は、世界各国の漫画やその他の[[芸術]]に大きな影響を与えている。[[エンキ・ビラル]]、[[ジャン・ジロー|メビウス]]などの作者もよく知られている。[[1980年代]]以降の日本漫画の作画に革命をもたらした[[大友克洋]]はバンド・デシネを代表する作家[[ジャン・ジロー|メビウス]]の画風に影響を受けている。 近年では、[[フレデリック・ボワレ|フレデリク・ボワレ]]らの提唱する、[[ヌーベルまんが]]という新しい動きも見られる。 [[カナダ]]の[[ケベック州]]や[[アルジェリア]]など[[フランス語]]圏の漫画にも影響を与えている<ref>[https://www.sankei.com/article/20180113-FQLJHVC25NJTTARQDT5ALTICRA/ アメコミと欧州文化融合、カナダ・ケベック州のマンガ紹介 京都国際マンガミュージアム - 産経ニュース]</ref>。 == 歴史 == バンド・デシネの源流は、[[19世紀]]に[[スイス]]のフランス語圏で活躍した[[ロドルフ・テプフェール]]の作品にあると考えられている。テプフェールの考案した[[コマ (映画・漫画)|コマ漫画形式]]の作品は、書籍としてフランスでも多数出版され、多くの漫画家に影響を残した<ref>Thierry Groensteen et Benoît Peeters, L'Invention de la bande dessinée</ref>。 [[20世紀]]最初の数十年で、フランス語圏の漫画は一般的には一冊の書籍としては出版されておらず、[[新聞]]や月刊[[雑誌]]上の連載作品あるいは[[ギャグ]]漫画として掲載されていた。 これらの雑誌とは別に、[[カトリック教会]]は「健全かつ正しい」子供向けの雑誌を発行し配布していた。[[1920年]]にベルギーにある[[アーヴェルボーデ修道院]]の院長が、多くの文章と少数の[[イラスト]]から構成された雑誌『{{仮リンク|プティ・ベルジュ|fr|Petits Belges}}』(Petits Belges) を創刊した。 最初期の本格的なベルギーの漫画の一つは、[[エルジェ]]の『[[タンタンの冒険旅行]]』である。タンタン・シリーズの第一作である『タンタンソビエトへ』は、[[1929年]]に「{{仮リンク|20世紀子ども新聞|fr|Le Petit Vingtième}}(Le Petit Vingtième、ル・プティ・ヴァンティエム)」に掲載された。この作品は後のタンタンとは全く異なり、後期の作品と比べるとその作風も単純素朴で、子供向けだった。初期のタンタン作品にはしばしば政治的に偏向した表現が含まれており、後になってエルジェを後悔させることになった。 現代に通じるフランス語圏の漫画の歴史は、[[ハンガリー]]の[[ポール・ウィンクラー]]が[[キング・フィーチャーズ・シンジケート]]社との契約により[[1934年]]に創刊した、{{仮リンク|ミッキー新聞|fr|Le Journal de Mickey|label=ジュルナル・ドゥ・ミッキー}}(Journal de Mickey、『ミッキー新聞』)誌から始まった。この書籍は週刊発行された8ページの漫画誌であり、事実上、フランス語圏で最初の漫画誌である。 この雑誌は成功し、すぐに他のあらゆる出版社が、[[アメリカ合衆国]]の連載シリーズを用いた雑誌を大量に出版し始めることになった。続く十年間は、海外から輸入された素材を用いた数百冊の雑誌が、市場の大半を占めていた。 [[ドイツ]]がフランスとベルギーに侵攻すると、[[アメリカン・コミック]]の輸入は不可能になった。同様に、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の見解で問題のあるキャラクターの登場する漫画は、全面的に[[発禁]]処分となった。 漫画への需要はこの時期にも存在し、孤立したフランスやベルギーの漫画界は競って新たな素材を手に入れようとした。例えば、後に『ブレイクとモーティマー(Blake and Mortimer)』を執筆した{{仮リンク|エドガー・P・ヤコブズ|fr|Edgar P. Jacobs|en|Edgar P. Jacobs}}は、ベルギーの漫画誌ブラヴォー(Bravo)で『[[フラッシュ・ゴードン]]』の最終回を即興で創作しなければならなかった。ヤコブズと共に、[[ジャック・ラウデ]]、[[レイモン・レディング]]、[[アルベール・ユデルゾ]]、[[ウィリー・ファンデルステーン]]らがブラヴォー誌でその作家人生を開始した。 ベルギーの漫画雑誌[[スピルー]]は戦前に創刊され、状況の変化を乗り切った数少ない漫画雑誌の一冊である。長期にわたりドイツにより出版を禁止され、紙不足に苦しめられたにもかかわらず、1944年にスピルーは特集号を出版した。 戦後、アメリカン・コミックは戦前ほどの出版量は回復できなかった。皮肉なことに、占領期間中も活動を続けていた多くの出版社や漫画家たちがドイツへの利敵行為を糾弾され、[[レジスタンス運動|レジスタンス]]によって投獄された。 有名誌のひとつである{{仮リンク|クール・ヴァイヨン|fr|Cœurs vaillants|en|Cœurs Vaillants|label=クール・ヴァイヨン誌}}(Cœurs Vaillants、[[15世紀]]フランスの商人[[ジャック・クール]]の別名にちなむ)で起きた例を挙げる。この雑誌は[[1929年]]にクルトワ修道院の院長ガストン・クルトワ(Gaston Courtois)などにより創刊された。院長は教会の支援により戦争中もこの雑誌を刊行し続けていたため、戦争協力者として告発された。院長が追放された後に共同創刊者ジャン・ピアン(Jean Pihan)はジャン・ヴァイヨンとしてこの雑誌の出版を続け、雑誌の方向性をよりユーモラスなものへ変えた。 エルジェもレジスタンスから追及された漫画家の一人だった。彼も他の漫画家たちと同様に苦労して汚名をそそぎ、1950年に創設した創作集団「ステュディオ・エルジェ」で、彼の下に集まった受講生やアシスタントたちのための指導者の役割を演じた。ステュディオ・エルジェで学んだ漫画家として、[[ボッブ・ド・ムール]]、[[ジャック・マルタン (漫画家)|ジャック・マルタン]]、[[ロジェ・ルルー]]、[[エドガー=ピエール・ヤコブズ]]がいる。これらの作家はベルジアン・コミックの特徴である清潔な描線を用いていた。 50年にわたり漫画界に大きな影響を及ぼしている[[レ・エディシオン・ダルゴー]]社や[[デュピュイ]]社を含む多くの出版社により、両国内の市場は成熟した。1950年代には、「スピルー」「{{仮リンク|ル・プティ・ヴァンティエム|fr|Le Petit Vingtième}}(Le Petit Vingtième)」「ヴァイヨン」「ピロット」や、各回完結のストーリーを特徴とした最初の漫画誌「エロイック・アルボム」などの雑誌が、現在知られている形に発展していった。これら一群の漫画誌はヨーロッパ全域で高い評価を博し、多くの国が自国の漫画に加えて、あるいはその代用品として人気を得始めた。 1960年代になると、[[キリスト教]]色をまとい、多数の文章と少数のイラストによる伝統的な形式を取っていたカトリック系漫画誌の大半は人気を失い始めた。その結果として、ピロットやヴァイヨンのような漫画誌が市場を独占し、流行のスタイルによる商業的な成功を目指す多くの新人作家らの明確な目標となっていった。 [[1968年]]以降からは、それ以前には見られなかった成人読者を対象とする漫画が登場した。[[マルセル・ゴトリブ]]の作品を掲載したレコ・デ・サヴァヌ誌 (L'Écho des Savanes) や[[クレール・ブルテシェール]]の『レ・フリュストゥレ』 (Les Frustrés) がその初期に含まれる。ほかには音楽レビューと漫画を特色としていた同人誌「ル・カナール・ソヴァージュ」 (Le Canard Sauvage) がある。[[ジャン・ジロー|メビウス]]や[[フィリップ・ドリュイエ]]、[[エンキ・ビラル]]らの壮大な[[サイエンス・フィクション|SF]]作品やファンタジー作品を掲載した[[メタル・ユルラン]]誌 (Métal Hurlant) は、アメリカ合衆国で{{仮リンク|ヘビー・メタル誌|en|Heavy Metal (magazine)|fr|Heavy Metal (périodique)}}(Heavy Metal)として翻訳出版され、大きな衝撃を与えた。この流行は[[1970年代]]から、オリジナルのメタル・ユルランが勢いを失う[[1980年代]]初めまで継続し、オリジナルのメタル・ユルランが1987年7月に休刊になった後も、本家から独立したアメリカ版メタル・ユルランが存続している。しかし、アメリカ版メタル・ユルランはオリジナルの影に過ぎないという意見も存在する。 1980年代の成人向け漫画は、セックスと暴力に満ちた陳腐な作品が大勢を占めていた。例として、この期間のヘビー・メタル誌が挙げられる。ラソシアシオン、アモク、フレオンなどのインディペンデント系出版社の出現により、[[1990年代]]にバンド・デシネの復興が始まった。これらの出版社から発行される作品は、大手出版社の通常出版物よりも絵画表現および物語表現の両面でより芸術的に洗練され、上質の装丁を施されている。この潮流は、英語圏での[[グラフィックノベル]]とも相互に影響関係を持っている。 21世紀に入ると、[[日本の漫画]]に影響を受けたフランス語オリジナルの日本風バンド・デシネが登場し、これは[[マンフラ]] (manfra) あるいは[[フランガ]] (franga) と呼ばれている。さらに韓国漫画の[[韓国の漫画|マンファ]]、中国風漫画の[[中国の漫画|マンホア]]など、アジア風バンド・デシネが市場で意識されるに至っている。 == 文化としての社会的受容 == バンデシネ(以下BD)の前史とされる[[ロドルフ・テプフェール]]や[[ギュスターヴ・ドレ]]など[[19世紀]]の[[絵物語]]は大人向けであったが、[[20世紀]]初頭より子ども向けの雑誌が主な掲載媒体になり、[[1960年代]]に「ピロット」「[[アラキリ]](Hara-Kiri)」といった大人向けBD専門誌が登場するまで、約70年間はフランスではBDは子供のものと見なされ、厳しい検閲の対象となった([[1949年]]に作られた「子ども向け読み物に関する法令」が現行法としてBDに適用されている)。1960年代までは、宗教上の理由、アメリカ大衆文化への警戒(BD誌に[[アメコミ]]が多数掲載されていたため)、[[活字離れ|活字本離れ]]への警戒などからBD雑誌は悪書扱いされていたが、[[1970年代]]ころから子供の読み書きのための教育書として再評価されたものの、子供のもの=幼稚である、という偏見は根強かった。1960年代からBDの文化的正統性を主張する知識人・文化人の動きが見られ、[[1971年]]には[[ソルボンヌ大学]]で専門の講座が誕生し、学問の対象として認知されるかにみえたが、その後廃止された<ref>[http://imrc.jp/images/upload/lecture/data/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%AD%A6%E8%A1%93%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E8%AB%96%E9%9B%86.pdf 「コミックスの文化的認知と学術研究の関係について」]森田直子、『世界のコミックスとコミックスの世界――グローバルなマンガ研究の可能性を開くために』ジャクリーヌ・ベルント編 京都精華大学国際マンガ研究センター、2010年</ref>。ベルギーやドイツでは大学に専門の講座があるが、フランスでは主にアカデミック外での研究が盛んである<ref>[http://imrc.jp/images/upload/lecture/data/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%AD%A6%E8%A1%93%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E8%AB%96%E9%9B%86.pdf 「グローバル化時代における、国際的マンガ研究への挑戦」]ティエリ・グルンステン、『世界のコミックスとコミックスの世界――グローバルなマンガ研究の可能性を開くために』ジャクリーヌ・ベルント編 京都精華大学国際マンガ研究センター、2010年</ref>。 == 著名な作品 == * [[タンタンの冒険]] ''Les Aventures de Tintin'' ([[エルジェ]]、1929年 - 1976年) * スピルーとファンタジオ ''[[:fr:Spirou et Fantasio|Spirou et Fantasio]]'' (ロベール・ヴェルター、ジジェ、アンドレ・フランカン他、1938年 - ) * [[スマーフ]] ''Les Schtroumpfs'' ([[ペヨ]]、1959年 - ) * [[アステリックス]] ''Astérix le Gaulois'' ([[ルネ・ゴシニ]]作、[[アルベール・ユデルゾ]]画、1959年 - ) * ブルーベリー ''[[:fr:Blueberry|Blueberry]]'' ([[ジャン・ジロー]]、1963年 - ) * [[ヴァレリアン&ロールリンヌ]] ''[[:fr:Valérian et Laureline|Valérian et Laureline]]'' ({{仮リンク|ピエール・クリスタン|fr|Pierre Christin}}作、[[ジャン=クロード・メジエール]]画、1967年 - 2018年)<!-- Christinはクリスタンとクリスティン読み方が両方ありましたが、『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』公式サイトにある原作者名表記に倣いました。--> * アルザック ''[[:fr:Arzach|Arzach]]'' ([[ジャン・ジロー|メビウス]]、1975年 - 1976年) * ''[[ヨーコ・ツノ]]シリーズ''([[:fr:Roger Leloup|Roger Leloup]]、1978年 -) * ニコポル三部作 ''[[:fr:La trilogie Nikopol|La trilogie Nikopol]]'' ([[エンキ・ビラル]]、1980年 - 1993年) * 闇の国々 ''[[:fr:Les Cités obscures|Les Cités obscures]]'' ([[ブノワ・ペータース]]作、[[フランソワ・スクイテン]]画、1983年 - ) * 塹壕の戦争: 1914-1918 ([[ジャック・タルディ]]、1993年) * 大発作 ''[[:fr:L'Ascension du Haut Mal|L'Ascension du Haut Mal]]'' ([[ダビッド・ベー]]、1996年 - 2003年) * ブラックサッド ''[[:fr:Blacksad|Blacksad]]'' (フアン・ディアス・カナレス作、[[フアンホ・ガルニド]]画、2000年 - ) == 邦訳された主な作品 == この節では、これまでに日本語訳が刊行されたことのある作品のうち、代表的なものを列挙する。 *『[[タンタンの冒険|タンタンの冒険旅行(ハードカバー完結後にタンタンの冒険に改題)]]』(1983年 - 2007年) *: [[福音館書店]]より20年以上かけて、草稿段階のシナリオをまとめた最終巻を含む全24巻が刊行。海外マンガの邦訳には珍しいロングセラーとなっている。これ以前の1968年に[[主婦の友社]]から「ぼうけんタンタン」シリーズとして邦訳が3冊刊行されたこともあるが、以後は続かなかった。 * 『[[スマーフ]]物語』(1985年 - 1986年) *: セーラー出版より全15巻が刊行。一度絶版になるが2002年に同じ出版社から改訂要素を含む新装版が発売。 * 『謎の生命体アンカル』(1986年) *: [[講談社]]がEUROPE BEST COMICシリーズと銘打ち、[[ジャン・ジロー|メビウス]]の代表作「謎の生命体アンカル」を含む3作品を邦訳。しかし日本の読者には受けず3作のみで撤退、邦訳は1巻分が終わった段階で未完となってしまったが、2010年小学館集英社プロダクションより原書全6巻を収録した完訳版が出版され、20数年を経て完結に至った。 * 『ニコポル三部作』(2000年 - 2001年) *: [[エンキ・ビラル]]の代表作であるこのシリーズは全3巻で完結しているが、同時期に世界同時発売の一環として刊行された当時最新シリーズだった「モンスターの眠り」は原書版の続刊の遅れもあり、日本語版は1巻が出たのみで未完となっている。 * 『ブラックサッド』(2005年) *: 第1作「黒猫の男」、第2作「凍える少女」は[[早川書房]]より単行本として発売。3作目以降はユーロマンガに本を移して雑誌掲載という形で発表されている。 * 『[[ペルセポリス (漫画)|ペルセポリス]]』(2005年) *: 全2巻。のちに作者が監督した同名のアニメ映画も日本公開された。 * 『BDコレクション』(2010年 - 2011年) *: [[国書刊行会]]の企画したバンド・デシネ叢書。1990年代以降に登場したモノクロでページ数の多い作品がセレクトされている。 *『[[岸辺露伴 ルーヴルへ行く]]』(2009年 - 2011年) *: [[ルーヴル美術館]]とフュチュロポリス社が共同で実施してきたBDプロジェクトの第5弾。作者の[[荒木飛呂彦]]は日本人だがフランス語版が先行発売された後、翻訳された。日本語版の発行元は[[集英社]]。 *『[[未来のアラブ人]]』(2019年) *: [[アラブの春]]や[[シリア内戦]]、およびムスリム移民の増加が注目されていた2010年代に刊行された、シリア系作家による少年時代の回顧録。 == 関連書籍 == * 『[[ユーロマンガ]]』(2008年 - 2013年) *: [[飛鳥新社]]より発売されている、バンド・デシネの邦訳版を掲載する漫画雑誌。日本ではあまり知られていない比較的新しめの作家たちを紹介している。2018年現在休刊状態にあり、第8号まで刊行されている。 == 参考書籍 == * [[古永真一]]『BD 第九の芸術』未知谷、2010年 == 脚注・出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本の漫画]] * [[アメリカン・コミックス]] * [[ヌーベルまんが]] * [[フランスにおける日本の漫画]] * [[メタルギアソリッド バンドデシネ]] * [[原正人 (バンド・デシネ研究者)]] *[[:Category:バンド・デシネ作品]] == 外部リンク == * [https://www.cbbd.be/fr/accueil Accueil — Centre Belge de la Bande Dessinée - Musée Bruxelles]{{fr icon}}{{nl icon}}{{en icon}}{{de icon}} * [https://www.lambiek.net/ Comicbook Strip books and graphic novels online and physical store | Lambiek Comic Shop]{{en icon}}{{nl icon}} * [http://www.euromanga.jp/ ユーロマンガ公式サイト](現地の最新情報や、国内のバンド・デシネ関係イベントなどの情報が定期的に掲載されている){{ja icon}} * {{Wayback |url=http://www.landrygros.com/toshokan/index.php |title=BD図書館(日本語によるバンド・デシネのレビューサイト) |date=20120307144234}}{{ja icon}} * [http://www.belgium-travel.jp/art/cartoon.html ベルギー観光局ワロン・ブリュッセル公式サイト - まんが・アートと文化]{{ja icon}} {{デフォルトソート:はんとてしね}} [[Category:バンド・デシネ|*]] [[Category:ベルギーの文化]] [[Category:フランスの文化]] [[Category:フランス語の語句]]
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N
Nは、ラテン文字(アルファベット)の14番目の文字。小文字は n。ギリシャ文字のΝ(ニュー)に由来し、キリル文字のНと同系の文字である。 2つの字形が使われる。 この文字が表す音素は、「歯茎鼻音」/n/ ないしその類似音である。 鼻音を代表する子音字として用いられることも多く、後続の子音に同化した同器官的鼻音になりやすい。 フランス語では、同じ単語内の直前に母音があり、直後が母音(発音しない e は除く)か n でなければ、直前の母音を同化し鼻母音にする。このとき、/n/ は発音しない。 ただしリエゾン(「母音+n(語境界)母音」)の場合、/n/ は発音され、鼻母音化も保たれる。 「母音+nn+母音」で鼻母音化が起こるかどうかは語による。 これらの振る舞いは m と同様である。 英語では、軟口蓋音(k・g)に先行する場合、同化され [ŋ] となる。ただし ng は二重音字として2文字で [ŋ] を表すこともある。 日本語のローマ字表記では、な行の子音の他、「ん」の表記に用いる。日本語の「ん」には、後続する音によって[m], [n], [ŋ]などいくつかあるが、訓令式では全てnに統一、ヘボン式では[m]と発音されるもの(b、m、pの前)以外をnで表す。 朝鮮語のローマ字表記では、文化観光部2000年式、マッキューン=ライシャワー式共に初声、終声両方の「ᄂ」に用いられる。また、ngで終声の「ᄋ」を表す。
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Nは、ラテン文字(アルファベット)の14番目の文字。小文字は n。ギリシャ文字のΝ(ニュー)に由来し、キリル文字のНと同系の文字である。
{{otheruses|[[ラテン文字]]のn|[[アルメニア文字]]のո|Ո}} {{A-Z}} '''N'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[14]]番目の文字。[[小文字]]は '''n'''。[[ギリシャ文字]]の{{Unicode|[[Ν]]}}(ニュー)に由来し、[[キリル文字]]の{{Unicode|[[Н]]}}と同系の文字である。 == 字形 == [[File:N cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-N.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] 2つの字形が使われる。 # 2本の縦棒と、それを結ぶ左上がりの線から成る。[[大文字]]は一般にこの字形による。 # 円の上半分の半円の2つの端から下に直線を延ばし、左の直線からさらに上にもまっすぐ延ばした形である。この直線の上端から左にセリフを出したり上端が左に曲がったりすることがある。右下は右に曲がったり、さらに上に折り返すことがある。小文字はこの字形である。大文字筆記体でこの字形を取ることがある。[[フラクトゥール]]はいずれもこの字形に基づき、<math>\mathfrak{N\ n}</math>である。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[フランス語|仏]]・[[英語|英]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[ポルトガル語|葡]]・[[インドネシア語|尼]]:エヌ(エン)''{{Audio|N (letter name).ogg|聞く}}'' * {{Lang-es-short|ene}}(エネ) * {{Lang-it-short|enne}}(エンネ) * [[エスペラント|エス]]:ノー * [[ベトナム語|越]]:エンノ == 音価 == この文字が表す音素は、「[[歯茎鼻音]]」{{ipa|n}} ないしその類似音である。 [[鼻音]]を代表する子音字として用いられることも多く、後続の子音に[[同化 (音声学)|同化]]した[[同器官的]]鼻音になりやすい。 フランス語では、同じ[[単語]]内の直前に[[母音]]があり、直後が母音([[黙字|発音しない]] e は除く)か n でなければ、直前の母音を[[同化 (音声学)|同化]]し[[鼻母音]]にする。このとき、{{ipa|n}} は発音しない。 ただし[[リエゾン]](「母音+n(語境界)母音」)の場合、{{ipa|n}} は発音され、鼻母音化も保たれる。 「母音+nn+母音」で鼻母音化が起こるかどうかは語による。 これらの振る舞いは [[m]] と同様である。 英語では、軟口蓋音(k・g)に先行する場合、[[同化 (音声学)|同化]]され {{IPA|ŋ}} となる。ただし ng は二重音字として2文字で {{IPA|ŋ}} を表すこともある。 日本語のローマ字表記では、[[な行]]の子音の他、「[[ん]]」の表記に用いる。日本語の「ん」には、後続する音によって{{IPA|m}}, {{IPA|n}}, {{IPA|ŋ}}などいくつかあるが、[[訓令式]]では全てnに統一、[[ヘボン式]]では{{IPA|m}}と発音されるもの(b、m、pの前)以外をnで表す。 朝鮮語のローマ字表記では、文化観光部2000年式、マッキューン=ライシャワー式共に初声、終声両方の「[[ㄴ]]」に用いられる。また、ngで終声の「[[ㅇ]]」を表す。 === 二重音字 === * ng {{IPA|ŋ}}([[軟口蓋鼻音]]) : インドネシア語・[[ベトナム語]]など東南アジア諸言語や、英語・ドイツ語などの[[ゲルマン語派|ゲルマン諸語]]、中国語の[[拼音]] * gn {{IPA|ɲ}}([[硬口蓋鼻音]]) : [[フランス語]]・[[イタリア語]] * nh {{IPA|ɲ}}(硬口蓋鼻音) : [[ポルトガル語]]・[[ベトナム語]] == Nの意味 == === 大文字・小文字 === * [[自然数]] ({{en|natural number}}) ** 通常は小文字斜体 ''n'' を使う ** 大文字太字の '''N''' あるいは <math>\mathbb{N}</math> は自然数全体の[[集合]] ** 扱っている中で最も大きな整数、あるいは、非常に大きな整数。[[母集団]]の数、[[医学]]で被験者数などの場合は大文字を使う。 === 原則大文字 === ==== 語学 ==== * [[ドイツ語]]で[[主格]] ({{de|Nominativ}}) ==== 自然科学 ==== * [[窒素]] ({{en|nitrogen}}) の元素記号。 * [[中性]]・[[中立]] ({{en|neutral}})。 * 単位 ** [[ニュートン (単位)|ニュートン]] ({{fr|newton}})。[[力 (物理学)|力]]の[[単位]]。 ** [[化学]]で[[規定度]] ({{en|normality}})。 ** ネナ ({{fr|nena}})。ジム・ブロワーズ ({{en|Jim Blowers}}) が[[非SI接頭辞|私的に提案した接頭辞]]で10<sup>57</sup>。 * [[解剖学]]・[[生理学]]で[[神経]] ({{en|neuron}})。 * [[核子]] ({{en|nucleon}}) * [[海王星]] ({{en|Neptune}}) * [[正規化群]] * [[ティッツ系]]((''B'', ''N'') 対)の ''N'' * [[23|二十三]]を意味する数字。[[三十六進法]]など、二十四進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において二十三([[十進法]]の'''23''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] が混同し易いために、アルファベットの I を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、…、N が[[22|二十二]]を意味する。 ==== 工学 ==== * [[中性]]/[[中立]](ニュートラル、{{en|neutral}}) * [[負性]]/[[負極]](ネガティブ、{{en|negative}}) * 高圧[[ナトリウムランプ]]。{{cite jis|C|0303|2000|name=構内電気設備の配線用図記号}}で用いられる。 * 単5形[[乾電池]]。単4形よりも径が太く高さが低い。日本では単5形と呼ばれる乾電池の種類。 * [[N値_(ボーリング調査)|N値]] - 建築・土木工事を始めるにあたって、予め地盤の強度を調査するための[[標準貫入試験]]に基づく指標。 * [[携帯電話]]の型番につけられる略号で、[[日本電気]](NEC)を指す。 * [[N階]] - エンタープライズ・[[メタバース]]の概念。仮想フロアの数が無限であることを意味する。 ==== 交通 ==== * 自動車の[[国際識別記号]]では、[[ノルウェー]] ({{en|Norway}})。 *[[鉄道]]の[[サインシステム]]における路線記号。 ** [[JR北海道|JR]][[函館線]]([[森駅 (北海道)|森駅]]〜[[流山温泉駅]]〜[[大沼駅]])('''N'''agareyama) **[[札幌市営地下鉄]][[札幌市営地下鉄南北線|南北線]] ('''N'''amboku) **[[仙台市交通局]][[仙台市地下鉄南北線|南北線]] ('''N'''amboku) **[[東京メトロ]][[東京メトロ南北線|南北線]] ('''N'''amboku) **[[長野電鉄]][[長野電鉄長野線|長野線]] ('''N'''agano) **[[Osaka Metro]][[長堀鶴見緑地線]] ('''N'''agahori) **[[近畿日本鉄道|近鉄]][[道明寺線]] **[[JR西日本|JR]][[山陽本線|山陽線]]・[[赤穂線]]([[岡山駅]]〜[[播州赤穂駅]]) **[[JR四国|JR]][[鳴門線]] ('''N'''aruto) **[[高松琴平電気鉄道]][[高松琴平電気鉄道長尾線|長尾線]] ('''N'''agao) **[[福岡市交通局]][[七隈線]] ('''N'''anakuma) **[[鹿児島市交通局|鹿児島市電]][[鹿児島市電2系統|2系統]] ('''N'''i) **[[トランジリアン]]モンパルナス線([[フランス]]) * [[自動車]]や[[オートバイ]]の[[変速機|ギア]]ポジションのニュートラル。 * [[N (ヒョンデ)]] - [[現代自動車]]のハイパフォーマンスブランド。[[ニュルブルクリンク]]と同社のR&Dセンターが所在する[[華城市|南陽(Namyang、華城市)]]の頭文字から。 * [[アポロ・アウトモビリ|アポロ・アウトモビリ社]]の[[グンペルト・アポロ]]のマイナーチェンジバージョン。アポロN。[[ファイル:SA road N1.svg|80px|thumb|ナショナルロード1号線]] * [[南アフリカ共和国]]の[[ナショナルロード (南アフリカ)|ナショナルロード]] ({{en|national road}})。N1は1号線、など。 ==== 文化・生活 ==== * [[ファイル:Compass (PSF).png|thumb|80px|北を表すN]] [[北]] ({{en|north}})。[[磁極]]の N 極も {{en|north}} による。対義語は[[南]]を表す [[S]]。 * [[否定]] ({{en|no, not}})。[[Y]] の反対 * [[テレビ番組]]表で[[ニュース番組]]。「<span style="border:thin solid rgb(0,0,0);">N</span>」で表す。 * 新型・新形式 ({{en|new}})。従来形式と同一の名称が使用される場合に、区別のため接頭もしくは接尾に付されることがある。 * [[チェス]]の棋譜などで[[ナイト (チェス)|ナイト]]({{en|kNight}})(Kは[[キング (チェス)|キング]])。将棋でもナイトに相当する[[桂馬]]を表す。 <!--* 古代ローマ人の個人名ヌメリウス ({{la|Numerius}})。--> * [[風俗|性風俗]]業界で、生(なま)。 * [[鉄道模型]]の規格名称、[[Nゲージ]]・Nスケール。[[軌間]]9[[ミリメートル|mm]]、[[縮尺]]が{{分数|1|148}}–{{分数|1|160}}の鉄道模型の規格呼称。転じてN・Nスケールの名称は{{分数|1|148}}–{{分数|1|160}}の模型製品全般の縮尺呼称としても使われる。 * [[イカロス出版]]の[[Nゲージ]]専門誌『[[N (雑誌)|N(エヌ)]]』 * [[ヌメロン]](Numer0n) * 日本における[[貸金業]]の登録番号で、[[出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律]]により特例で高金利が認められていた日賦金融業者(日掛け金融)・電話担保金融業者の登録回数を示す数字につけられる符号([[グレーゾーン金利]]が廃止された2010年にこの特例も廃止)。 * [[Nワード]]は、黒人を指す蔑称。 ==== 創作物など ==== * [[ZONE (バンド)|ZONE]]の3枚目の[[アルバム]]『[[N (ZONEのアルバム)|N]]』。 * [[田村直美]]の2枚目の[[アルバム]]『[[N']]』。 * [[ニンテンドーDS]]用ゲームソフト『[[ポケットモンスター ブラック・ホワイト]]』および続作『ポケットモンスター ブラック2・ホワイト2』の登場人物。 * 漫画[[DEATH NOTE]]の登場人物[[ニア (DEATH NOTE)|ニア]]の別名。 * [[N (スティーヴン・キングの小説)]] === 原則小文字 === * [[自然数]] ({{en|natural number}}) または[[整数]]。 * [[名詞]] ({{en|noun}})。 * [[ナノ]] ({{fr|nano}})。10{{sup-|9}}(10億分の1)。 * [[中性子]] ({{en|neutron}})。 * [[体積密度]]。 * [[電車]]等、鉄道車両(旅客車)の用途を表す副記号(サフィクス)で、[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]。単独の n は通常は [[B寝台|B 寝台車]]([[A寝台|A 寝台車]]は特別車の記号と組み合わせて sn)。 * [[英語]]で {{en|and}} の略。{{en|rock’n’roll}} など。 * 文字 n の幅。n[[ダッシュ (記号)|ダッシュ]] (–)、n[[スペース]] ({{bgcolor|#cccccc|&ensp;}}) など。幅の広い [[m]] に対する。 * [[分]](時間の)({{en|miNute}})。[[Visual Basic]] などで、[[月 (暦)|月]] ({{en|month}}) と区別するために使われる。 * [[正午]] ({{en|noon}})。[[真夜中]] ({{en|midnight}}) と対になる。 * [[染色体]]の数を表す際に使用する。[[二倍体]]の場合は2n。=をつけ、その後ろに[[染色体]]の数を記す(例:[[ヒト]]の場合、2n=46)。 * フラクトゥールでリー環のある主の部分環(三角分解 {{math|1='''g''' = '''n'''{{sub|−}} ⊕ '''h''' ⊕ '''n'''{{sub|+}}}}) == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|004E|78||1-3-46|006E|110||1-3-78|}} {{ULu|FF2E|65326||1-3-46|FF4E|65358||1-3-78|全角}} {{ULu|24C3|9411||‐|24DD|9437||1-12-39|丸囲み}} {{ULu|1F11D|127261||‐|24A9|9385||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D40D|119821||‐|1D427|119847||‐|[[太字]]}} |} == 他の表現法 == {{Letter other reps |NATO=November |Morse=-・ |Character=N |Braille=⠝ }} == 関連項目 == {{Wiktionarypar|N}} {{Wiktionarypar|n}} {{Commonscat|N}} * {{Unicode|[[Ñ|Ñ ñ]]}} - [[ティルデ]] * {{Unicode|[[Ń|Ń ń]]}} - [[アキュート・アクセント]] * {{Unicode|{{仮リンク|Ņ|de|Ņ|label=Ņ ņ}}}} - [[セディーユ]] * {{Unicode|[[Ň|Ň ň]]}} - [[ハーチェク]] * {{Unicode|{{仮リンク|Ṇ|de|Ṇ|label=Ṇ ṇ}}}} - [[サンスクリット]] * {{Unicode|[[N̂|N̂ n̂]]}} - [[サーカムフレックス]] * {{Unicode|[[N̄|N̄ n̄]]}} - [[マクロン]] * {{Unicode|{{仮リンク|Ɲ|en|Ɲ|label=Ɲ ɲ}}}} * {{Unicode|{{仮リンク|Ŋ|en|Ŋ|label=Ŋ ŋ}}}} {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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松平郷
松平郷(まつだいらごう)は、三河国の戦国大名から江戸幕府の将軍家へと発展する松平氏・徳川氏の発祥地の郷である。巴川(足助川)東岸の山地の中の小集落で、三河国加茂郡に属し、現在の愛知県豊田市松平町にあたる。一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されている。 徳川の家譜などでは、松平親氏が松平郷に到来したとなっているが、松平の村落名の初見は、天文元年(1532年)8月29日の足助町四ツ松の十明神社唐櫃銘の三州松平に住む前出雲守沙弥道悦(松平長親)が奉納したとするものである。 それに対して、松平氏の姓名のほうは、親元日記に、寛正6年(1465年)5月26日松平和泉入道(信光)とあるのが初見。また、寛正年間に菅浦文書から、松平益親という人物がいたこともわかっている。 松平氏の名前のほうが、史料上初見であり、親元日記には松平郷という村落名は見えず、松平郷の初見が天文時代であることから、松平郷から松平氏が発祥したとする流れは疑問がある。 15世紀以前の松平郷についての詳細は明らかではない。後世まとめられた松平氏の系譜によると、賀茂神社系の賀茂氏の末裔に当たる松平信盛が松平郷を開拓しその領主となり、松平太郎左衛門少尉を通称とした。つまり松平郷領主の松平氏である。 14世紀の末に南北朝時代の争乱で没落した世良田氏(得川氏)の出身と称する時宗の放浪僧の徳阿弥が父の長阿弥(世良田有親)とともに現地に流れ着き、当時の松平郷領主である松平信重(信盛の後裔の松平信頼の子)は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を買う。徳阿弥は還俗し、その娘婿となり松平太郎左衛門親氏と名乗り、松平郷領主の松平氏の名跡を相続したという。以上、徳川氏が三河守任官のため作成した系図によるが、近年の研究により否定されている。 親氏は松平郷の一角に松平城(郷敷城)を築き、その嫡子(実際は弟か叔父)とする泰親とともに近隣十数か村を切り従えたと伝えられるが、親氏は実在したかどうか疑問をもたれている。 泰親を継いだ信光は額田郡に進出し、岩津城(岡崎市岩津町)に本拠地を移した。このときの松平郷は、泰親の子で、信光の叔父(実際は親氏の子で、信光の長兄)の松平信広に譲られた。信広の子孫は松平郷を世襲し、代々「松平太郎左衛門」を通称として、松平郷松平家(挙母松平家)となった。 松平郷の地は江戸幕府により交代寄合に列せられた松平郷松平氏に改めて授けられ、江戸時代を通じてその所領であった。 明治維新後、周辺の村々とあわせて西加茂郡松平村ついで松平町となり、1970年(昭和45年)に豊田市に編入される。 現在の松平の地は、日本有数の工業都市豊田市にありながら、静かな趣のある山間の集落である。豊田市は松平親氏の没年を1393年とする説から1993年(平成5年)に「親氏公600年祭」を行い、松平信盛から松平郷松平氏に至る居館であった松平館近辺を「松平郷園地」として公園整備を行った。松平東照宮、松平城址や親氏の開基した松平家菩提寺高月院(徳川家光が改築。親氏と泰親の墓がある)も残っており、これらは初期松平氏の状況をよく残しているため「松平氏遺跡」として2000年(平成12年)に国の史跡に指定された。 松平東照宮(まつだいらとうしょうぐう)は、愛知県豊田市松平町赤原13にある東照宮。文化財としては「松平氏遺跡」のうち「松平氏館跡」として国の史跡に指定されている。 松平親氏を祀り、さらに松平郷松平家が大正時代まで在住した。境内には徳川家康産湯の井戸跡や松平家の屋敷跡などの史跡がある。近隣には松平家の菩提寺である高月院や松平城址などの史跡が散在する。 元和5年(1619年)、9代松平尚栄が、八幡宮(現在の松平東照宮)に東照大権現を勧請した。 なお、この神社の敷地自体が松平家の屋敷「松平氏館」の跡で、現在でも石垣や濠などが残されている。 高月院は愛知県豊田市松平町寒ヶ入44にある寺。 1367年に足助重政が建立したと伝えられる、建立当時は寂静寺と呼ばれていたが 1377年に松平親氏が堂塔を寄進してから高月院となり、以後松平氏の菩提寺となる。 1602年には、徳川家康より100石下賜されるなど、江戸幕府の保護を受ける。 山門と本堂は徳川家光の命により1641年に建てられたものとされる。 境内には初代松平親氏及び第二代松平泰親の墓もあるほか、第七代住職存牛が松平親忠の子であった関係で、親忠夫人の墓も並んで配されている。 作家の司馬遼太郎が生前、NHKのテレビ番組の取材でこの地を訪れたが、前述の公園整備の結果、昔の面影がほとんどなくなってしまったと感じたらしく「大いに失望した」と嘆いていた。 松平郷内の休憩所「天下茶屋」向かいには、幻想画家・蛇雄のアトリエ兼ギャラリーがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "松平郷(まつだいらごう)は、三河国の戦国大名から江戸幕府の将軍家へと発展する松平氏・徳川氏の発祥地の郷である。巴川(足助川)東岸の山地の中の小集落で、三河国加茂郡に属し、現在の愛知県豊田市松平町にあたる。一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "徳川の家譜などでは、松平親氏が松平郷に到来したとなっているが、松平の村落名の初見は、天文元年(1532年)8月29日の足助町四ツ松の十明神社唐櫃銘の三州松平に住む前出雲守沙弥道悦(松平長親)が奉納したとするものである。", "title": "史料考察" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "それに対して、松平氏の姓名のほうは、親元日記に、寛正6年(1465年)5月26日松平和泉入道(信光)とあるのが初見。また、寛正年間に菅浦文書から、松平益親という人物がいたこともわかっている。", "title": "史料考察" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "松平氏の名前のほうが、史料上初見であり、親元日記には松平郷という村落名は見えず、松平郷の初見が天文時代であることから、松平郷から松平氏が発祥したとする流れは疑問がある。", "title": "史料考察" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "15世紀以前の松平郷についての詳細は明らかではない。後世まとめられた松平氏の系譜によると、賀茂神社系の賀茂氏の末裔に当たる松平信盛が松平郷を開拓しその領主となり、松平太郎左衛門少尉を通称とした。つまり松平郷領主の松平氏である。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "14世紀の末に南北朝時代の争乱で没落した世良田氏(得川氏)の出身と称する時宗の放浪僧の徳阿弥が父の長阿弥(世良田有親)とともに現地に流れ着き、当時の松平郷領主である松平信重(信盛の後裔の松平信頼の子)は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を買う。徳阿弥は還俗し、その娘婿となり松平太郎左衛門親氏と名乗り、松平郷領主の松平氏の名跡を相続したという。以上、徳川氏が三河守任官のため作成した系図によるが、近年の研究により否定されている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "親氏は松平郷の一角に松平城(郷敷城)を築き、その嫡子(実際は弟か叔父)とする泰親とともに近隣十数か村を切り従えたと伝えられるが、親氏は実在したかどうか疑問をもたれている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "泰親を継いだ信光は額田郡に進出し、岩津城(岡崎市岩津町)に本拠地を移した。このときの松平郷は、泰親の子で、信光の叔父(実際は親氏の子で、信光の長兄)の松平信広に譲られた。信広の子孫は松平郷を世襲し、代々「松平太郎左衛門」を通称として、松平郷松平家(挙母松平家)となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "松平郷の地は江戸幕府により交代寄合に列せられた松平郷松平氏に改めて授けられ、江戸時代を通じてその所領であった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "明治維新後、周辺の村々とあわせて西加茂郡松平村ついで松平町となり、1970年(昭和45年)に豊田市に編入される。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現在の松平の地は、日本有数の工業都市豊田市にありながら、静かな趣のある山間の集落である。豊田市は松平親氏の没年を1393年とする説から1993年(平成5年)に「親氏公600年祭」を行い、松平信盛から松平郷松平氏に至る居館であった松平館近辺を「松平郷園地」として公園整備を行った。松平東照宮、松平城址や親氏の開基した松平家菩提寺高月院(徳川家光が改築。親氏と泰親の墓がある)も残っており、これらは初期松平氏の状況をよく残しているため「松平氏遺跡」として2000年(平成12年)に国の史跡に指定された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "松平東照宮(まつだいらとうしょうぐう)は、愛知県豊田市松平町赤原13にある東照宮。文化財としては「松平氏遺跡」のうち「松平氏館跡」として国の史跡に指定されている。", "title": "松平氏遺跡" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "松平親氏を祀り、さらに松平郷松平家が大正時代まで在住した。境内には徳川家康産湯の井戸跡や松平家の屋敷跡などの史跡がある。近隣には松平家の菩提寺である高月院や松平城址などの史跡が散在する。", "title": "松平氏遺跡" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "元和5年(1619年)、9代松平尚栄が、八幡宮(現在の松平東照宮)に東照大権現を勧請した。", "title": "松平氏遺跡" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、この神社の敷地自体が松平家の屋敷「松平氏館」の跡で、現在でも石垣や濠などが残されている。", "title": "松平氏遺跡" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "高月院は愛知県豊田市松平町寒ヶ入44にある寺。", "title": "松平氏遺跡" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1367年に足助重政が建立したと伝えられる、建立当時は寂静寺と呼ばれていたが", "title": "松平氏遺跡" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1377年に松平親氏が堂塔を寄進してから高月院となり、以後松平氏の菩提寺となる。", "title": "松平氏遺跡" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1602年には、徳川家康より100石下賜されるなど、江戸幕府の保護を受ける。", "title": "松平氏遺跡" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "山門と本堂は徳川家光の命により1641年に建てられたものとされる。", "title": "松平氏遺跡" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "境内には初代松平親氏及び第二代松平泰親の墓もあるほか、第七代住職存牛が松平親忠の子であった関係で、親忠夫人の墓も並んで配されている。", "title": "松平氏遺跡" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "作家の司馬遼太郎が生前、NHKのテレビ番組の取材でこの地を訪れたが、前述の公園整備の結果、昔の面影がほとんどなくなってしまったと感じたらしく「大いに失望した」と嘆いていた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "松平郷内の休憩所「天下茶屋」向かいには、幻想画家・蛇雄のアトリエ兼ギャラリーがある。", "title": "その他" } ]
松平郷(まつだいらごう)は、三河国の戦国大名から江戸幕府の将軍家へと発展する松平氏・徳川氏の発祥地の郷である。巴川(足助川)東岸の山地の中の小集落で、三河国加茂郡に属し、現在の愛知県豊田市松平町にあたる。一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されている。
[[ファイル:松平郷02.jpg|thumb|250px|松平親氏銅像]] '''松平郷'''(まつだいらごう)は、[[三河国]]の[[戦国大名]]から江戸幕府の[[征夷大将軍|将軍]]家へと発展する[[松平氏]]・[[徳川氏]]の発祥地の[[郷]]である。[[巴川 (矢作川水系)|巴川]]([[足助川]])東岸の山地の中の小集落で、三河国[[加茂郡 (三河国)|加茂郡]]に属し、現在の[[愛知県]][[豊田市]][[松平町]]にあたる。一帯に残る館跡、城跡等は'''松平氏遺跡'''として国の[[史跡]]に指定されている。 == 史料考察 == 徳川の家譜などでは、[[松平親氏]]が松平郷に到来したとなっているが、松平の村落名の初見は、[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])8月29日の[[足助町]]四ツ松の[[十明神社]]唐櫃銘の三州松平に住む前出雲守沙弥道悦([[松平長親]])が奉納したとするものである。 それに対して、松平氏の姓名のほうは、[[親元日記]]に、[[寛正]]6年([[1465年]])5月26日[[松平信光|松平和泉入道(信光)]]とあるのが初見。また、寛正年間に菅浦文書から、松平益親という人物がいたこともわかっている。 松平氏の名前のほうが、史料上初見であり、親元日記には松平郷という村落名は見えず、松平郷の初見が天文時代であることから、松平郷から松平氏が発祥したとする流れは疑問がある。 == 沿革 == {{right| <gallery widths="160px" heights="160px"> View of Paddy Field in Matsudaira, Matsudaira-cho Toyota 2009.jpg|山間部に典型的な谷戸田が散在する松平郷の風景<br />([[2009年]]([[平成]]21年)7月) Goushikijou Peak, Matsudaira-cho Toyota 2009.JPG|郷敷城主郭部<br />(2009年(平成21年)7月) </gallery> }} [[15世紀]]以前の松平郷についての詳細は明らかではない。後世まとめられた松平氏の系譜によると、[[賀茂神社]]系の[[賀茂氏]]の末裔に当たる[[松平信盛]]が松平郷を開拓しその領主となり、松平太郎左衛門少尉を通称とした。つまり松平郷領主の松平氏である。 [[14世紀]]の末に[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の争乱で没落した[[世良田氏]]([[得川氏]])の出身と称する[[時宗]]の放浪僧の徳阿弥が父の長阿弥([[得河有親|世良田有親]])とともに現地に流れ着き、当時の松平郷領主である[[松平信重 (松平郷)|松平信重]](信盛の後裔の[[松平信頼]]の子)は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を買う。徳阿弥は[[還俗]]し、その娘婿となり[[松平親氏|松平太郎左衛門親氏]]と名乗り、松平郷領主の松平氏の名跡を相続したという。以上、徳川氏が三河守任官のため作成した系図によるが、近年の研究により否定されている。 親氏は松平郷の一角に[[松平城]](郷敷城)を築き、その嫡子(実際は弟か叔父)とする[[松平泰親|泰親]]とともに近隣十数か村を切り従えたと伝えられるが、親氏は実在したかどうか疑問をもたれている。 泰親を継いだ[[松平信光|信光]]は[[額田郡]]に進出し、[[岩津城]]([[岡崎市]][[岩津町 (岡崎市)|岩津町]])に本拠地を移した。このときの松平郷は、泰親の子で、信光の叔父(実際は親氏の子で、信光の長兄)の[[松平信広 (松平郷松平家)|松平信広]]に譲られた。信広の子孫は松平郷を世襲し、代々「松平太郎左衛門」を通称として、[[松平郷松平家]](挙母松平家<ref>松平郷が旧[[西加茂郡]]挙母町(現[[豊田市]])域に存在したことからの呼称であり、松平郷松平家が旧挙母町の中心集落となった加茂郡挙母郷を領有した事実はない。</ref>)となった。 松平郷の地は[[江戸幕府]]により[[交代寄合]]に列せられた松平郷松平氏に改めて授けられ、[[江戸時代]]を通じてその所領であった。 [[明治維新]]後、周辺の村々とあわせて西加茂郡松平村ついで[[松平町]]となり、[[1970年]]([[昭和]]45年)に[[豊田市]]に編入される。 現在の松平の地は、日本有数の工業都市豊田市にありながら、静かな趣のある山間の集落である。豊田市は松平親氏の没年を[[1393年]]とする説から[[1993年]]([[平成]]5年)に「親氏公600年祭」を行い、松平信盛から松平郷松平氏に至る居館であった'''松平館'''近辺を「松平郷園地」として公園整備を行った。松平東照宮、松平城址や親氏の開基した松平家菩提寺高月院(徳川家光が改築。親氏と泰親の墓がある)も残っており、これらは初期松平氏の状況をよく残しているため「松平氏遺跡」として[[2000年]](平成12年)に国の史跡に指定された。 == 松平氏遺跡 == === 松平氏館跡 === '''松平東照宮'''(まつだいらとうしょうぐう)は、[[愛知県]][[豊田市]][[松平町 (豊田市)|松平町]][[赤原]]13にある[[東照宮]]。文化財としては「松平氏遺跡」のうち「松平氏館跡」として国の史跡に指定されている。 [[松平親氏]]を祀り、さらに[[松平郷松平家]]が[[大正時代]]まで在住した。境内には[[徳川家康]]産湯の井戸跡や松平家の屋敷跡などの史跡がある。近隣には松平家の菩提寺である[[高月院]]や松平城址などの史跡が散在する。 [[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])、9代[[松平尚栄]]が、八幡宮(現在の松平東照宮)に東照大権現を勧請した。 なお、この神社の敷地自体が松平家の屋敷「'''松平氏館'''」の跡で、現在でも石垣や濠などが残されている。 === 高月院 === {{Main|高月院}} '''[[高月院]]'''は愛知県豊田市松平町寒ヶ入44にある寺。 [[1367年]]に足助重政が建立したと伝えられる、建立当時は寂静寺と呼ばれていたが [[1377年]]に松平親氏が堂塔を寄進してから高月院となり、以後松平氏の菩提寺となる。 [[1602年]]には、徳川家康より100石下賜されるなど、江戸幕府の保護を受ける。 山門と本堂は徳川家光の命により[[1641年]]に建てられたものとされる。 境内には初代松平親氏及び第二代松平泰親の墓もあるほか、第七代住職[[存牛]]が[[松平親忠]]の子であった関係で、親忠夫人の墓も並んで配されている。 === その他 === * 松平城跡 ** 愛知県豊田市松平町三斗蒔11。 * [[大給城|大給城跡]] ** 愛知県豊田市大内町城下14。 == その他 == 作家の[[司馬遼太郎]]が生前、[[日本放送協会|NHK]]のテレビ番組の取材でこの地を訪れた{{いつ|date=2014年9月}}が、前述の公園整備の結果、昔の面影がほとんどなくなってしまったと感じたらしく「大いに失望した」と嘆いていた。 松平郷内の休憩所「天下茶屋」向かいには、幻想[[画家]]・[[蛇雄]]のアトリエ兼ギャラリーがある。 == ギャラリー == <gallery widths="140px" heights="140px"> Matsudaira-shi Hosseki-chi hi, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|「松平氏発跡地」碑<br />([[2019年]]([[令和]]元年)10月) Matsudaira-shi Yakata-ato 04, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|八幡神社東参道<br />(2019年(令和元年)11月) Hachiman Jinja Shrine Haiden, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|松平氏館跡の最奥部にある八幡神社<br />(2019年(令和元年)10月) The Large Rock in the Rear of Hachiman Jinja Shrine Haiden, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|八幡神社の神体といわれる巨岩<br />(2019年(令和元年)10月) Ubuyu no Ido, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|産湯の井戸<br />(2019年(令和元年)10月) Well No.2 & No.3, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|二の井戸・三の井戸<br />(2019年(令和元年)10月) Matsudaira-shi Yakata-ato 02, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|松平氏館跡水濠<br />(2019年(令和元年)11月) Matsudaira-shi Yakata-ato 03, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|松平氏館跡 - 松平東照宮境内<br />(2019年(令和元年)11月) Matsudaira-tosho-gu Shirine Haiden, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|松平東照宮拝殿<br />(2019年(令和元年)8月) Matsudaira Tosho-gu Shrine Honden, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|松平東照宮本殿<br />(2019年(令和元年)11月) Matsudaira-go-kan, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|松平氏に関する展示を行っている松平郷館<br />(2019年(令和元年)8月) Matsudaira-go-tei, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|松平郷亭(休憩所)<br />(2019年(令和元年)8月) The Monument of Shukushoumon in Matsudaira-go Park, Matsudaira-cho Toyota 2009.jpg|松平親氏願文(祝聖文)碑<br />([[2009年]]([[平成]]21年)9月) Matsudaira-go Park, Matsudaira-cho Toyota 2014.jpg|室町塀と桜並木<br />([[2014年]](平成26年)4月) Tenga-chaya in Matsudaira-go Park, Matsudaira-cho Toyota 2009.jpg|天下茶屋<br />(2009年(平成21年)7月) Kougetsu-in Temple Sandou Dobei, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|高月院参道土塀<br />(2019年(令和元年)10月) Kogetsu-in Temple Hondou, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|高月院本堂<br />(2019年(令和元年)8月) Matsudaira Chikauji's Tombs in Kogetsu-ji Temple, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|宝篋印塔3基(左より閑照院皎月尼(松平氏第4代松平親忠夫人)、松平親氏、第2代松平泰親の墓塔とされる)<br />(2019年(令和元年)8月) Gravesite of the Ariwaras, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|在原家墓所<br />(2019年(令和元年)10月) Gravesite of the Matsudaira-Tarozaemons 01, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|松平郷松平家墓所<br />(2019年(令和元年)11月) Gyouba, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|松平親氏行場<br />(2019年(令和元年)11月) Matsudaira-Go Observation Terrace, Matsudaira-cho Toyota 2009.jpg|松平郷展望テラス<br />(2009年(平成21年)7月) View of the City Area of Toyota from Matsudaira Observation Deck, Matsudaira-cho Toyota 2011.jpg|松平郷展望テラスからの夜景<br />([[2011年]](平成23年)5月) </gallery> == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * [[平野明夫]]『三河松平一族~徳川将軍家のルーツ』洋泉社MC新書 2010年5月10日 ISBN 978-4862485533 == 関連項目 == {{Commonscat|Matsudaira-go}} * [[中部地方の史跡一覧]] * [[六所神社 (豊田市)]] {{coord|35|3|2|N|137|15|38|E|region:JP-23|display=title}} {{DEFAULTSORT:まつたいらこう}} [[Category:郷]] [[Category:加茂郡]] [[Category:東加茂郡]] [[Category:豊田市の歴史]] [[Category:松平郷松平氏|*]] [[Category:松平氏|*]] [[Category:愛知県にある国指定の史跡|まつたいらしいせき]] [[Category:豊田市の地理]] [[Category:豊田市の建築物]] [[Category:愛知県の観光地]]
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原稿用紙
原稿用紙(げんこうようし、英語: genkō yōshi)は、日本語、中国語、韓国語の文章を書くために特別に誂えられた様式を持つ用紙のこと。一字を一つのマスに書きこみ、原稿の正確な文字数が分かるように、マス目を切ってあるところに特色がある。 転じて、漫画やイラストを描くための用紙も「原稿用紙」と呼ばれるようになった(#漫画における原稿用紙を参照)。 原稿用紙の特色は、文字を書くためのマス目が既に印刷してあるところにある。マス目の数は、1行を20字として、これを20行連ねた400字詰のものが最も一般的かつ基本形であるとされ、20字×10行の200字詰を「ペラ」「半ピラ」と俗称したりする。通常用いられる原稿用紙は200字詰と400字詰の2種類であり、それぞれタテ書き用とヨコ書き用がある。なお、この他特殊なものとして、新聞記者用に新聞紙面の1行字数に合わせたもの、テレビのテロップ作成用にテレビ画面に表示できる字数にあわせたものもある。 マス目は通常、正方形に近い形に作られ、行と行との間にある程度の余白を持って配置される。これは振仮名・傍点を記入しやすいようにとの工夫であり、行間の余白を取らない場合にはマス目を横長にするなどしてデザインすることが多い。以上のほかに、様々な飾り・デザインを組み合わせた原稿用紙もある。 また、最も一般的な400字詰原稿用紙の場合、10行目と11行目の間にマス目を切らない一行があり、中央部分に「【」のような装飾を付すことが多い。これは「魚尾(ぎょび)」と呼び、古くから和本の折り目(版心)に付けられていた飾りを模したもので、もともと原稿用紙が二つ折りにして綴じるためのものであったことの名残である。 学生や小説家などのライターが主に使用する。学生は主に読書感想文や卒業文集、小論文などを提出するときに使う。ワープロ・パソコン等の普及により、原稿用紙を使う小説家やライターは少なくなりつつある。 特殊な用途として、供述調書や内容証明(手書きの場合)にも用いられる。 江戸時代以前においては、漢籍や経文を除くほとんどの原稿が草書・連綿体で書かれていたために、それを記すための用紙が一字ごとの切れ目に対応するマス目を持つことは、無意味であるのみならず、邪魔ですらあった。したがって、この時期においては、写経などごく特殊な例外を別にすれば、せいぜい行の乱れが生じないように縦の線のみを刷った罫紙を用いる程度であった。 今日の日本における原稿用紙の起源とされているのは、鉄眼道光が開刻した黄檗版鉄眼一切経である。鉄眼は経典の版木を開刻するにあたり、縦1行の字数を20字横10行と定め、これを1ページと定めている。ただし縦の罫線までは引かれてはいるが、この時点ではまだ升目にまでは発展していなかった。鉄眼一切経6,956巻が一応の完成をみたのは天和元年(1681年)である。 現存する最古のマス目様の用紙は、頼山陽が『日本外史』を記すのに用いたものとされる。同書は漢文によって記された。20字×20行の400字詰様式の起源は、塙保己一が編纂した『群書類従』の版木であるとされる。当時の例として、吉田松陰が松下村塾の塾生に送った書状(1859年(安政6年)5月15日付)がある。20字×20行の400字詰様式の原稿用紙に書かれている。萩博物館(山口県萩市)所蔵。20字×20行かどうかは言及がないが、400字詰め原稿用紙としては藤貞幹の『好古日録』が現存する最古のものとされる。 原稿用紙の使用が一般的になったのは、明治時代中期に入ってからのことで、現在の原稿用紙の形状に近いものとしては、内田魯庵のつくった19字×10行の190字詰用紙が最も早い時期に属するものであると伝えられる。これは板木に変わって活版印刷が一般的になる中で、新聞・雑誌などに原稿を掲載する際、字数が正確に計量できることが最重要視されたことと関係する。魯庵の原稿用紙は作家の間で広く人気を呼び(夏目漱石も愛用者の一人であった)、これ以降、400字詰原稿用紙を使って原稿を書くことが一般的になったという。 東京・神楽坂にある文具店「相馬屋源四郎商店」は、自店が現代に至る原稿用紙の発祥地であると説明している。明治時代、注文の聞き違いなどで余った紙を店頭に置いていたところ、来店した作家の尾崎紅葉から「マス目の入ったものを印刷してほしい」と頼まれた。相馬屋の原稿用紙はその後、北原白秋、坪内逍遥、石川啄木、志賀直哉、夏目漱石らにも愛用され、その意見を取り入れながら改良されたという。 また一説には名編集者であった滝田樗陰が、原稿用紙の使い方がいい加減で文量が少ないことに業を煮やし、原稿用紙のマス目を守らない作家に対して、400字詰に正確に換算した分量だけの原稿料しか払わなかったところ、どの作家もいっせいに原稿用紙を使ってマス目通りに原稿を書くようになった、という文壇ゴシップもある。 作家の肉筆原稿には完成稿に至るまでの草稿もあり、本文を確定するまでの推敲や構想のメモなど、創作過程のプロセスが記録されており、作家の交友関係を示す書簡とともに、作家研究や作品研究の参考となる貴重な文学資料となっており、文学館などでも収集されている。 明治中期以降、文学者の間では400字詰原稿用紙を用いることが常識となり、これが学者などにも広がったため、現在にいたるまで原稿用紙の活躍する場は多い。その間に、原稿用紙をめぐるさまざまな慣習が発生した。 たとえば文芸の分野においては、作家に対する原稿料は400字詰原稿用紙1枚あたりを基本として計算する(欧米では単語数を基本にすることが多い)。また特に断らずに「何枚」といった場合、400字詰原稿用紙換算の枚数を指す。分量に関するこの態度は、学術の場にも引き継がれ、書いたもののおおよその目安を示す単位は400字詰原稿用紙もしくは同換算であることが多い。 ただし、400字詰め原稿用紙は持ち歩きにおいて嵩張る場合もあり、200字詰原稿用紙が用いられる事もある。ことに演技や移動が要求される映画やテレビドラマの脚本で200字詰原稿用紙が基本となっている。脚本の各種コンクールにおいても200字詰原稿用紙の使用が必須条件となっており、400字詰原稿用紙を使用した場合は失格となることが多い。 原稿用紙を使って書くことに慣れた人が多く、上記のように分量の単位として原稿用紙換算が現役であるため、日本語ワープロソフトには原稿用紙のフォーマットがテンプレートとして入っていることが多い。 論文の場合は学校(学会)指定の書式、出版社の場合は出版社指定の書式があり、必ずしも日本社会全体に通用するルールがあるとは言い難いが、ここではその中で特に一般的と思われる縦書き400字詰め原稿用紙の基本的な書き方について列記する。 原稿用紙の使い方にはルール(とされるもの)があり、入学試験などで作文・小論文が課される際に、このルールが守れていないものは減点の対象とされることが多い。 漫画・イラストなどの執筆に使う用紙も原稿用紙と呼ばれる。ケント紙・画用紙・模造紙・上質紙などを使う。 漫画専用の漫画原稿用紙があり、印刷に出ない薄い水色の線で版面や裁ち切り線、トンボ等が印刷されているのが特徴。見開き用の横倍寸の物もある。あらかじめ枠線が引かれているタイプもある。 上質紙の連量110 - 135 kgのものを使う場合が多い。原稿量が多い場合は薄い方が扱いやすいため薄い用紙を好む者もあるが、一方で薄い用紙ではスクリーントーンの作業を行う際にトーンナイフの刃が貫通してしまうことがあるため、厚い用紙を好む者もある。 同人誌では手頃なA4サイズの原稿用紙が用いられることも多いが、商業誌の場合はB4サイズの原稿用紙を用いるのが一般的である。線の荒が目立たなくなることや高密度に描き込めるなどの理由で、印刷の際は縮小されることが普通であり、原寸印刷は稀である。
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原稿用紙は、日本語、中国語、韓国語の文章を書くために特別に誂えられた様式を持つ用紙のこと。一字を一つのマスに書きこみ、原稿の正確な文字数が分かるように、マス目を切ってあるところに特色がある。 転じて、漫画やイラストを描くための用紙も「原稿用紙」と呼ばれるようになった(#漫画における原稿用紙を参照)。
<!-- {{redirect|原稿|言葉の意味|wikt:原稿}} date=2013-9 まだ項目がない --> {{出典の明記|date=2020年8月}} [[File:Squared manuscript paper.pdf|thumb|right|300px|日本語の原稿用紙<br />中央にある飾りを「魚尾」と呼ぶ]] '''原稿用紙'''(げんこうようし、{{lang-en|genkō yōshi}})は、[[日本語]]、[[中国語]]、[[韓国語]]の[[文章]]を書くために特別に誂えられた様式を持つ[[用紙]]のこと。一字を一つのマスに書きこみ、[[原稿]]の正確な文字数が分かるように、マス目を切ってあるところに特色がある。 転じて、[[漫画]]や[[イラスト]]を描くための用紙も「原稿用紙」と呼ばれるようになった([[#漫画における原稿用紙]]を参照)。 == 概要 == 原稿用紙の特色は、[[文字]]を書くためのマス目が既に[[印刷]]してあるところにある。マス目の数は、1行を20字として、これを20行連ねた'''400字詰'''のものが最も一般的かつ基本形であるとされ、20字×10行の'''200字詰'''を「'''ペラ'''」「'''半ピラ'''」と俗称したりする。通常用いられる原稿用紙は200字詰と400字詰の2種類であり、それぞれタテ書き用とヨコ書き用がある。なお、この他特殊なものとして、[[新聞記者]]用に[[新聞]]紙面の1行字数に合わせたもの、[[テレビ]]のテロップ作成用にテレビ画面に表示できる字数にあわせたものもある。 マス目は通常、[[正方形]]に近い形に作られ、行と行との間にある程度の余白を持って配置される。これは[[振仮名]]・[[傍点]]を記入しやすいようにとの工夫であり、行間の余白を取らない場合にはマス目を横長にするなどして[[デザイン]]することが多い。以上のほかに、様々な飾り・デザインを組み合わせた原稿用紙もある。 また、最も一般的な400字詰原稿用紙の場合、10行目と11行目の間にマス目を切らない一行があり、中央部分に「【」のような装飾を付すことが多い。これは「[[魚尾]](ぎょび)」と呼び、古くから[[和本]]の折り目(版心)に付けられていた飾りを模したもので、もともと原稿用紙が二つ折りにして綴じるためのものであったことの名残である。 [[学生]]や[[小説家]]などの[[著作家|ライター]]が主に使用する。学生は主に[[読書感想文]]や[[卒業文集]]、[[小論文]]などを提出するときに使う。ワープロ・[[パソコン]]等の普及により、原稿用紙を使う小説家やライターは少なくなりつつある。 特殊な用途として、[[検察官面前調書|供述調書]]や[[内容証明]](手書きの場合)にも用いられる。 == 歴史 == [[江戸時代]]以前においては、漢籍や経文を除くほとんどの原稿が[[草書]]・[[連綿体]]で書かれていたために、それを記すための用紙が一字ごとの切れ目に対応するマス目を持つことは、無意味であるのみならず、邪魔ですらあった。したがって、この時期においては、写経などごく特殊な例外を別にすれば、せいぜい行の乱れが生じないように縦の線のみを刷った[[罫紙]]を用いる程度であった。 今日の日本における原稿用紙の起源とされているのは、[[鉄眼道光]]が開刻した黄檗版鉄眼一切経である。鉄眼は[[経典]]の[[版木]]を開刻するにあたり、縦1行の字数を20字横10行と定め、これを1ページと定めている。ただし縦の罫線までは引かれてはいるが、この時点ではまだ升目にまでは発展していなかった。鉄眼一切経6,956巻が一応の完成をみたのは[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])である。 現存する最古のマス目様の用紙は、[[頼山陽]]が『[[日本外史]]』を記すのに用いたものとされる。同書は[[漢文]]によって記された。20字×20行の400字詰様式の起源は、[[塙保己一]]が編纂した『[[群書類従]]』の版木であるとされる。当時の例として、[[吉田松陰]]が[[松下村塾]]の塾生に送った書状([[1859年]]([[安政]]6年)5月15日付)がある。20字×20行の400字詰様式の原稿用紙に書かれている。[[萩博物館]]([[山口県]][[萩市]])所蔵。20字×20行かどうかは言及がないが、400字詰め原稿用紙としては[[藤貞幹]]の『好古日録』が現存する最古のものとされる<ref>日本博学倶楽部・PHP研究所「原稿用紙はなぜ四〇〇字詰めなの?あの真ん中のマークは何?」『雑学大学』PHP文庫、35頁、2000年5月15日、ISBN 9784569574059</ref>。 原稿用紙の使用が一般的になったのは、[[明治時代]]中期に入ってからのことで、現在の原稿用紙の形状に近いものとしては、[[内田魯庵]]のつくった19字×10行の190字詰用紙が最も早い時期に属するものであると伝えられる。これは[[板木]]に変わって[[活版印刷]]が一般的になる中で、新聞・[[雑誌]]などに原稿を掲載する際、字数が正確に計量できることが最重要視されたことと関係する。魯庵の原稿用紙は[[作家]]の間で広く人気を呼び([[夏目漱石]]も愛用者の一人であった)、これ以降、400字詰原稿用紙を使って原稿を書くことが一般的になったという。 [[東京]]・[[神楽坂]]にある文具店「相馬屋源四郎商店」は、自店が現代に至る原稿用紙の発祥地であると説明している。明治時代、注文の聞き違いなどで余った紙を店頭に置いていたところ、来店した作家の[[尾崎紅葉]]から「マス目の入ったものを印刷してほしい」と頼まれた。相馬屋の原稿用紙はその後、[[北原白秋]]、[[坪内逍遥]]、[[石川啄木]]、[[志賀直哉]]、夏目漱石らにも愛用され、その意見を取り入れながら改良されたという<ref>長妻直哉「偶然が生んだ原稿用紙『マス目入れたら』紅葉の一言、相馬屋主人が語る秘話」『[[日本経済新聞]]』朝刊文化面、2017年8月31日</ref>。 また一説には名[[編集者]]であった[[滝田樗陰]]が、原稿用紙の使い方がいい加減で文量が少ないことに業を煮やし、原稿用紙のマス目を守らない作家に対して、400字詰に正確に換算した分量だけの原稿料しか払わなかったところ、どの作家もいっせいに原稿用紙を使ってマス目通りに原稿を書くようになった、という[[文壇]]ゴシップもある。 作家の肉筆原稿には完成稿に至るまでの[[草稿]]もあり、本文を確定するまでの[[推敲]]や構想のメモなど、創作過程のプロセスが記録されており、作家の交友関係を示す[[書簡]]とともに、作家研究や作品研究の参考となる貴重な文学資料となっており、[[文学館]]などでも収集されている。 == 使用法 == [[明治]]中期以降、[[文学者]]の間では400字詰原稿用紙を用いることが常識となり、これが[[学者]]などにも広がったため、現在にいたるまで原稿用紙の活躍する場は多い。その間に、原稿用紙をめぐるさまざまな慣習が発生した。 たとえば文芸の分野においては、作家に対する原稿料は400字詰原稿用紙1枚あたりを基本として計算する(欧米では[[単語]]数を基本にすることが多い)。また特に断らずに「何枚」といった場合、400字詰原稿用紙換算の枚数を指す。分量に関するこの態度は、[[学術]]の場にも引き継がれ、書いたもののおおよその目安を示す単位は400字詰原稿用紙もしくは同換算であることが多い。 ただし、400字詰め原稿用紙は持ち歩きにおいて嵩張る場合もあり、200字詰原稿用紙が用いられる事もある。ことに演技や移動が要求される[[映画]]や[[テレビドラマ]]の[[脚本]]で200字詰原稿用紙が基本となっている。脚本の各種コンクールにおいても200字詰原稿用紙の使用が必須条件となっており、400字詰原稿用紙を使用した場合は失格となることが多い。 原稿用紙を使って書くことに慣れた人が多く、上記のように分量の単位として原稿用紙換算が現役であるため、日本語[[ワープロソフト]]には原稿用紙のフォーマットが[[テンプレート]]として入っていることが多い。 === 日本語での原稿用紙の書き方 === [[File:Genkō yōshi.jpg|thumb|right|400px|日本語における400字詰め原稿用紙の使い方(例)]] [[論文]]の場合は[[学校]]([[学会]])指定の[[書式]]、[[出版社]]の場合は出版社指定の書式があり、必ずしも日本社会全体に通用するルールがあるとは言い難いが、ここではその中で特に一般的と思われる縦書き400字詰め原稿用紙の基本的な書き方について列記する。 原稿用紙の使い方にはルール(とされるもの)があり、[[入学試験]]などで[[作文]]・[[小論文]]が課される際に、このルールが守れていないものは減点の対象とされることが多い。 ==== ルール ==== *[[段落]]の冒頭は1字下げる(空白を置く)。 *[[句読点]]、閉じ[[括弧]]などが行頭に来ないようにする(いわゆる[[禁則処理]]。ただし「。、」などをぶら下げると見落しやすいため、文筆を業とする人々の間では、むしろこの原則を守らないことがルールとなっている)。 *[[欧文]]は横書きとし、2文字分を1マスに入れる。 *[[感嘆符]]「!」や[[疑問符]]「?」の後ろは1マス空ける。 *[[リーダー (記号)|リーダー]](……)や[[ダッシュ (記号)|ダッシュ]](──)は2マス分を使う。 *[[鍵括弧]]で始まる「会話文」は直前で改行し、行頭に鍵括弧を配する。会話文が2行以上に渡るときは、行頭を1文字下げる(なお、同じ鍵括弧を利用する場合でも、心中語や引用では行替えをしない)。 *[[ふりがな]]は文字右隣り余白に小さく記述する。 *改行しての長文の[[引用]]は1字もしくは2字下げで書く。 == 漫画における原稿用紙 == [[漫画]]・[[イラストレーション|イラスト]]などの執筆に使う用紙も原稿用紙と呼ばれる。[[紙|ケント紙]]・[[画用紙]]・[[模造紙]]・[[上質紙]]などを使う。 漫画専用の漫画原稿用紙があり、印刷に出ない薄い水色の線で版面や裁ち切り線、[[トンボ (印刷)|トンボ]]等が印刷されているのが特徴。見開き用の横倍寸の物もある。あらかじめ枠線が引かれているタイプもある。 上質紙の[[紙#連量|連量]]110 - 135&nbsp;kgのものを使う場合が多い。原稿量が多い場合は薄い方が扱いやすいため薄い用紙を好む者もあるが、一方で薄い用紙では[[スクリーントーン]]の作業を行う際にトーンナイフの刃が貫通してしまうことがあるため、厚い用紙を好む者もある。 [[同人誌]]では手頃な[[紙の寸法|A4]]サイズの原稿用紙が用いられることも多いが、[[商業誌]]の場合は[[紙の寸法|B4]]サイズの原稿用紙を用いるのが一般的である。線の荒が目立たなくなることや高密度に描き込めるなどの理由で、印刷の際は縮小されることが普通であり、原寸印刷は稀である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[原稿]] == リンク == * [https://r-cbs.mangafactory.jp/c16286/c209-16928/ 漫画原稿用紙の使い方] - [[週刊少年ジャンプ]]が新人賞の応募者向けに解説しているサイト。 {{DEFAULTSORT:けんこうようし}} [[Category:紙製品]] [[Category:印刷物]] [[Category:文房具]] [[Category:筆記]] [[Category:文書作成]] [[Category:日本語の表記]]
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Y
鉄道のサインシステムについては、「有楽町線」を御覧ください Yは、ラテン文字(アルファベット)の25番目の文字。小文字は y 。U, V, W とともにギリシア文字の Υ(ウプシロン)に由来し、キリル文字の У は同系の文字である。Υ の別形に由来する F とも同系といえる。 漢字の「丫」と似ているが、別の文字である(「南丫島」を「南Y島」と書くのは誤植)。 縦棒の上部が左右に分岐した形である。小文字は縦棒の下部が右に分岐した線と直線になって、ベースラインを下に越える。筆記体では大文字もこの小文字書体に基づき、左の線を縦に書いた後で緩やかに湾曲して右上に伸び、縦棒をまっすぐ下に書いて左に曲げ、折り返して縦棒を右上に突き抜け、次の字に続ける。初筆は、左下からの線を緩やかに湾曲させて縦棒に連ねることが多い。フラクトゥールは Y y {\displaystyle {\mathfrak {Y\ y}}} 。 国際音声記号としては、小文字 [y] は円唇前舌狭母音(フランス語u 、ドイツ語ü、中国語yuまたはü)。スモールキャピタル(小さい大文字) [ʏ] はその少し広い発音である円唇前舌広め狭母音を表す。音素文字として、硬口蓋接近音 [j] の代用表記にも使われる。180度回転させた小文字 [ʎ] は、硬口蓋側音(「リ」のように聞こえる音)であるが、ギリシャ文字 λ (ラムダ小文字)の変形に由来する。 各言語においてこの文字が表す音価は、 ギリシャ文字の Υ(ウプシロン)がラテン文字で V(ウー)となった後で、より後代の Υ(ウプシロン)の発音を書き表すために、あらためて Υ(ウプシロン)を Y(ユー)として取り込んだものである。
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鉄道のサインシステムについては、「有楽町線」を御覧ください Yは、ラテン文字(アルファベット)の25番目の文字。小文字は y。U, V, W とともにギリシア文字の Υ(ウプシロン)に由来し、キリル文字の У は同系の文字である。Υ の別形に由来する F とも同系といえる。 漢字の「丫」と似ているが、別の文字である(「南丫島」を「南Y島」と書くのは誤植)。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2017年3月 | 独自研究 = 2017年3月 }} {{A-Z}} '''Y'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の25番目の[[文字]]。[[小文字]]は '''y''' 。[[U]], [[V]], [[W]] とともに[[ギリシア文字]]の [[Υ]](ウプシロン)に由来し、[[キリル文字]]の [[У]] は同系の文字である。[[Υ]] の別形に由来する [[F]] とも同系といえる。 漢字の「[[wikt:丫|丫]]」と似ているが、別の文字である(「[[南丫島]]」を「南Y島」と書くのは誤植)。 == 字形 == [[File:Y cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[File:Sütterlin-Y.png|サムネイル|250px|[[ジュッターリーン体]]]] 縦棒の上部が左右に分岐した形である。小文字は縦棒の下部が右に分岐した線と直線になって、[[書体#欧文書体|ベースライン]]を下に越える。筆記体では大文字もこの小文字書体に基づき、左の線を縦に書いた後で緩やかに湾曲して右上に伸び、縦棒をまっすぐ下に書いて左に曲げ、折り返して縦棒を右上に突き抜け、次の字に続ける。初筆は、左下からの線を緩やかに湾曲させて縦棒に連ねることが多い。[[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{Y\ y}</math>。 == 呼称 == * 音素名称 ** [[ラテン語]]・[[フィンランド語]]:ユー {{ipa|yː}} ** {{Lang-en|wye}}(ワイ){{ipa|waɪ}} ** [[トルコ語]]:イェ ** [[インドネシア語]]:イェー * ギリシア語「単なるウ/単なるユ/単なるイ」 ** {{Lang-de|ypsilon}}(ユプスィロン){{ipa|'ʏpsilɔn}} ** [[チェコ語]]・[[スロバキア語]]:イプスィロン ** {{Lang-pt|ípsilon}}(イープスィロン) ** {{Lang-hu|ipszilon}}(イプスィロン) ** {{Lang-eo|ipsilono}}(イプスィローノ) * ギリシア語の「イ」 ** {{Lang-es|i griega}}(イグリエガ){{ipa|iˈɣɾjeɣa}} ** {{Lang-it|i greca}}, {{Lang|it|i greco}}(イグレーカ/イグレーコ) ** [[ベトナム語]]・[[オランダ語]]・[[ルーマニア語]]・[[フランス語]]・[[ポーランド語]]:イグレク {{ipa|iˈgʁɛk}}, {{ipa|iˈgrek}} == 音素 == [[国際音声記号]]としては、小文字 {{IPA|y}} は[[円唇前舌狭母音]](フランス語[[u]] 、ドイツ語[[ü]]、中国語yuまたはü)。[[スモールキャピタル]](小さい大文字) {{IPA|ʏ}} はその少し広い発音である[[円唇前舌広め狭母音]]を表す。音素文字として、[[硬口蓋接近音]] {{IPA|j}} の代用表記にも使われる。180度回転させた小文字 {{IPA|ʎ}} は、[[硬口蓋側音]](「リ」のように聞こえる音)であるが、ギリシャ文字 [[λ]] (ラムダ小文字)の変形に由来する。 各[[言語]]においてこの文字が表す音価は、 * [[フランス語]]では原則として[[半母音]]([[硬口蓋接近音]]){{ipa|j}} で、母音にはさまれた場合は時に [[有声硬口蓋摩擦音]] {{ipa|ʝ}} で発音されることがある。つづりの読み方に関しては、"i" 2 文字のように読むと説明されることもある(例:royal 国王の → roi-ial [rwajal])。 * [[英語]]では、 ** 半母音([[硬口蓋接近音]]){{ipa|j}} を表す。'''y'''acht, '''y'''ard など。 ** 他の場合は i と同じ。強勢のある長母音としては {{ipa|aɪ}} を表す。t'''y'''re, t'''y'''pe, c'''y'''cle など。語末の多くでは {{ipa|i}} を表す。an'''y''', son'''y''', snow'''y''' など多数。 * [[インドネシア語]]、[[トルコ語]]、[[マレー語]]、[[スワヒリ語]]では半母音([[硬口蓋接近音]]){{ipa|j}} を表す。 * [[スペイン語]]では、母音が後続する場合、原則として[[有声硬口蓋摩擦音]] {{ipa|ʝ}} を表す。但し方言によっては {{ipa|ʒ}} などになる。後者はアルゼンチン、ウルグアイの方言だが、他の地域でも後者の発音になる傾向があり、一種の流行とも言われている。また語末では他の強母音に続き、上昇二重母音を形成する。 * [[イタリア語]]では [[i]] に等しい。 * [[ドイツ語]]では [[j]] に等しい場合もあるが、普通は [[ü]] に等しい。すなわち、唇を丸めて「イ」と言う[[円唇前舌狭母音]] {{ipa|y}} ないし {{ipaxl|ʏ|Y}} である。[[デンマーク語]]、[[ノルウェー語]]、[[スウェーデン語]]でもこれに近い発音である。 * ラテン文字を使う[[スラヴ語派|スラヴ語]]([[ポーランド語]]など)、または[[キリル文字]]のラテン転写で、[[ы]] に相当する音を表すのに用いる。 * [[ベトナム語]]では、やや長い {{ipa|i}} である。ひとつの音節内で他の母音とともに用いられたときは、主母音となることが多い。 * [[エスペラント]]では外来語のみに使い、読み方が不明なときは文末なら {{ipa|i}} 、それ以外は {{ipa|j}} と発音することが推奨されている。 * [[日本語]]の[[ローマ字]]綴りでは[[や行]]および[[開拗音]]の表記に使用する。 * [[朝鮮語]]のローマ字綴りでは、母音の内j系の二重母音である[[ㅑ]]、[[ㅒ]]、[[ㅕ]]、[[ㅖ]]、[[ㅛ]]、[[ㅠ]]は ya,yae,yeo,ye,yo,yu と y を含む綴りとなる。 * [[中国語]]の[[漢語拼音]]では、介音 /i/ を含む韻母の表記に使われる。ただし、声母(頭子音)が付く場合、y は i に変わる。「一」「伊」など主母音、尾音無しで介音 /i/ のみの場合、発音は {{ipa|i}} であり、半母音 {{ipa|j}} が発音されるわけではないが、yi と表記する。 == 歴史 == ギリシャ文字の Υ(ウプシロン)がラテン文字で V(ウー)となった後で、より後代の Υ(ウプシロン)の発音を書き表すために、あらためて Υ(ウプシロン)を Y(ユー)として取り込んだものである。 == Yの意味 == * [[イットリウム]]の元素記号。 * [[数学]]では、第二の未知数([[変数 (数学)|変数]])に使われる(主に小文字)。 * [[座標軸]]では、[[前後]](奥行)を表す。 * コンピュータなどで[[肯定]] ('''Y'''es) を表す。[[N]] (No) の逆。 * [[年]] ('''Y'''ear, '''Y'''2K etc.) * ¥は[[円 (通貨)|円]] (Yen)あるいは[[人民元|元]] ('''Y'''uán)。 * [[黄色]] ('''Y'''ellow) * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[函館市電|函館市電2系統]] ('''Y'''achigashira)、[[東京メトロ有楽町線]] ('''Y'''ūrakuchō)、[[名古屋ガイドウェイバス]][[ガイドウェイバス志段味線|志段味線]]([[ゆとりーとライン]])('''Y'''utorito Line)、[[Osaka Metro]][[四つ橋線]] ('''Y'''otsubashi)、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[生駒鋼索線]]、[[JR西日本|JR]][[呉線]] ('''Y'''ellow)、[[広島電鉄]][[横川線]] ('''Y'''okogawa)、[[JR四国|JR]][[予讃線]]([[高松駅 (香川県)|高松駅]]〜[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]])('''Y'''osan) の[[路線記号]]として用いられる。 * 横長 * [[首都高速八重洲線]]の頭文字のY * [[SI接頭語]] ** [[ヨタ]] (10<sup>24</sup>) (Y) ** [[ヨクト]] (10<sup>-24</sup>) (y) * [[34|三十四]]を意味する数字。[[三十六進法]]など、三十五進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において三十四([[十進法]]の'''34''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] 、およびアルファベットの [[O]] と数字の [[0]] が混同し易いために、アルファベットの I と O を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、…、[[N]] が[[22|二十二]]、[[P]] が[[23|二十三]]、…、Y が[[32|三十二]]を意味する。 * 航空機の[[エコノミークラス]] * [[スペイン語]]で「 - と」の意味の、英語の"and"に相当する単語 (y、&) * [[Y染色体]] * マクロ経済学で[[国民所得|所得]]。 * 地名 ** [[アメリカ合衆国|米国]][[アラスカ州]]の町、[[ワイ (アラスカ州)]] ([[:en:Y, Alaska|Y]])。{{lang|en|why}} のように発音する。 ** [[フランス]]・[[ソンム県]]の[[コミューン]]、[[イ (ソンム県)]] ([[:fr:Y (Somme)|Y]])。'''イ'''と発音する。 * FAU タイプに分類される[[ゼオライト]]。 * [[Yパラメータ]]、[[Y行列]]。[[二端子対回路]]([[電気回路]])における表現手法。 * Y! - [[Yahoo!]] の略称。(例:Y!ケータイ) * [[ポケットモンスター X・Y|ポケットモンスター Y]] - ゲーム『[[ポケットモンスター (ゲーム)|ポケットモンスター]]』シリーズの1作品。 * ワイ - ゲームから派生した漫画『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』に登場する架空の人物。→[[ポケットモンスターSPECIALの登場人物#カロス地方]]を参照。 * 音楽 ** [[Y (歌手)]] - [[大韓民国]]の歌手、音楽グループ:[[Golden Child]]のメインボーカリスト。 ** [[Y (大澤誉志幸のアルバム)]] - [[大澤誉志幸]]のアルバム。 ** [[Y (内田雄馬のアルバム)]] - [[内田雄馬]]のアルバム。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0059|89||1-3-57|0079|121||1-3-89|}} {{ULu|FF39|65337||1-3-57|FF59|65369||1-3-89|全角}} {{ULu|24CE|9422||‐|24E8|9448||1-12-57|丸囲み}} {{ULu|1F128|127272||‐|24B4|9396||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} |} == 他の表現法 == {{Letter other reps | NATO = Yankee | Morse = -・-- | Character = Y | Braille = ⠽ }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[Ý]] ý - [[アキュート・アクセント]] * [[Ÿ]] ÿ - [[トレマ]] * [[Ỳ|{{Unicode|Ỳ}}]] {{Unicode|ỳ}} - [[グレイヴ・アクセント]] * [[Ŷ|{{Unicode|Ŷ}}]] {{Unicode|ŷ}} - [[サーカムフレックス]] * {{仮リンク|Ỹ|no|Ỹ|label={{Unicode|Ỹ}}}} {{Unicode|ỹ}} - [[チルダ]] * {{仮リンク|Ẏ|de|Ẏ|label={{Unicode|Ẏ}}}} {{Unicode|&#7823;}} - [[ドット符号]] * {{仮リンク|Ȳ|en|Ȳ|label={{Unicode|Ȳ}}}} {{Unicode|&#563;}} - [[マクロン]] * {{仮リンク|Ɏ|en|Y with stroke|label={{Unicode|Ɏ}}}} {{Unicode|&#591;}} - [[ストローク符号]] * [[IJ|IJ]] ij - [[合字]] {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Y
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マイクロフト・ホームズ
マイクロフト・ホームズ (Mycroft Holmes) は、アーサー・コナン・ドイルの推理小説「シャーロック・ホームズシリーズ」の登場人物。シャーロック・ホームズの兄で、7歳上とされている。 いくつかの官庁で会計検査の仕事をしており、表面こそ下級役人であるものの、実際にはその卓越した頭脳で「政府の政策全般を調整する重要なポスト」にあり、その記憶力、知識を生かしてイギリス政府の中でも重宝される存在になっている。それゆえ、シャーロックには「政府そのもの」と評される一方、彼とは対照的にあまり活動的な性格ではなく、「活動的でさえあれば、私より優れた探偵になれたであろう」とも評されている。 シャーロック以上の観察力・推理力を持っているが、事件の推理については「あくまで道楽」として考えており、彼には「もし探偵の仕事が安楽椅子で推理する事に終始するならば、彼は今までで最も偉大な探偵だったろう」と評されている。 人付き合いが嫌いな者ばかりが集まった、ペル・メルにあるディオゲネス・クラブ(英語版)の創立発起人・会員でもある(それゆえ、このクラブには「来客室以外で口をきいてはいけない」などの変わった規則が存在する)。 作中では、シャーロックに事件解決を依頼したりしている。また、「最後の事件」から「空き家の怪事」までシャーロックが世間から隠遁生活をしている間、彼を金銭面などで支援したりもしている。
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マイクロフト・ホームズ は、アーサー・コナン・ドイルの推理小説「シャーロック・ホームズシリーズ」の登場人物。シャーロック・ホームズの兄で、7歳上とされている。
{{Pathnav|シャーロック・ホームズシリーズ|frame=1}} {{Infobox character | series = [[シャーロック・ホームズシリーズ]] | image = [[ファイル:Mycroft Holmes.jpg|200px]] | caption = 短編「ギリシャ語通訳」の「[[ストランド・マガジン]]」掲載時の挿絵([[シドニー・パジェット]]画) | first = 「[[ギリシャ語通訳]]」(1893年) | last = | creator = [[アーサー・コナン・ドイル]] | gender = 男性 | relatives = [[シャーロック・ホームズ]](弟) | nationality = {{GBR}} }} '''マイクロフト・ホームズ''' (Mycroft Holmes) は、[[アーサー・コナン・ドイル]]の[[推理小説]]「[[シャーロック・ホームズシリーズ]]」の登場人物。[[シャーロック・ホームズ]]の兄で、7歳上とされている。 == 人物 == いくつかの官庁で[[監査|会計検査]]の仕事をしており、表面こそ下級役人であるものの、実際にはその卓越した頭脳で「政府の政策全般を調整する重要なポスト」にあり、その記憶力、知識を生かしてイギリス政府の中でも重宝される存在になっている。それゆえ、シャーロックには「政府そのもの」と評される一方、彼とは対照的にあまり活動的な性格ではなく、「活動的でさえあれば、私より優れた[[探偵]]になれたであろう」とも評されている。 シャーロック以上の観察力・推理力を持っているが、事件の推理については「あくまで道楽」として考えており、彼には「もし探偵の仕事が[[安楽椅子探偵|安楽椅子]]で推理する事に終始するならば、彼は今までで最も偉大な探偵だったろう<ref>"If the art of the detective began and ended in reasoning from an arm-chair, my brother would be the greatest criminal agent that ever lived. "(『[[ギリシャ語通訳]]』)</ref>」と評されている。 人付き合いが嫌いな者ばかりが集まった、[[ペル・メル (ロンドン)|ペル・メル]]にある{{仮リンク|ディオゲネス・クラブ|en|Diogenes Club}}の創立発起人・会員でもある(それゆえ、このクラブには「来客室以外で口をきいてはいけない」などの変わった規則が存在する)。 作中では、シャーロックに事件解決を依頼したりしている。また、「最後の事件」から「空き家の怪事」までシャーロックが世間から隠遁生活をしている間、彼を金銭面などで支援したりもしている。 == 登場作品 == # [[ギリシャ語通訳]]([[シャーロック・ホームズの思い出]]) # [[最後の事件]]([[シャーロック・ホームズの思い出]]) # [[空き家の冒険]]([[シャーロック・ホームズの帰還]]) # [[ブルースパーティントン設計書]]([[シャーロック・ホームズ最後の挨拶]]) == 註 == <references /> {{シャーロック・ホームズシリーズ}} {{lit-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほおむす まいくろふと}} [[Category:シャーロック・ホームズ登場人物]] [[de:Figuren der Sherlock-Holmes-Erzählungen#Mycroft Holmes]] [[ru:Персонажи рассказов о Шерлоке Холмсе#Майкрофт Холмс]]
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V
Vは、ラテン文字(アルファベット)の22番目の文字。小文字は v 。U, W, Yとともにギリシャ文字のΥ(ウプシロン)に由来し、キリル文字のУは同系の文字である。Υ(ウプシロン)の別形に由来するFとも同系といえる。 キリル文字のВは、発音の上では同類の文字だが、成りたちは異なる(こちらはギリシャ文字のΒに由来)。 下で屈曲したひと連なりの線であり、2本の線分である。大文字と小文字で同じ形である。筆記体では下部が丸まることがあるが、Uないしuとの区別のため、右上で下に折り返して次の字に進む。フラクトゥールは V v {\displaystyle {\mathfrak {V\ v}}} 。 この文字が表す音声は、 Vは、本来ラテン語における半母音/w/の音素を表す文字である。古代のラテン文字にはUが存在せず、Vの文字は/w/とともに母音の/u/を表す文字としても用いられていた(例: AVGVSTVS、BVLGARI)。 Uの文字は、/u/の発音を/w/と書き分けるために、Vの小文字体をもとに中世のロマンス語において初めて登場し、やがてラテン語文献も遡って区別が行われるようになる。この表記は当初は大文字は下のとがったV、小文字は早く書くために下の丸いuだった。 ゲルマン語には、/w/ と別にラテン語にない /v/ という音素が存在しており、母音/u/を表す文字として U が定着した結果、V の文字が/v/音を表すようになった。 さらに英語などでは /w/ を表す文字として V(U) を二つ重ねて新たに W が作られた。ゲルマン語の一派である中世高地ドイツ語では W が /v/ を表す文字として使われ始め、同時にドイツ語からは /w/ の音素が失われた。さらに V が /f/ の音素で発音する変化が起こった。同一の現象はドイツ語に近いオランダ語でもみられるが、オランダ語では V の音素は /v/ とするのが標準とされており、音韻変化は不完全である。 日本語ではラテン語と同じく /w/ の音素はあるが /v/ がなかったため、近代英語などにおいて V で表される /v/ の音素を様々に音写している(この点についての詳細は、ヴの記事を参照)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Vは、ラテン文字(アルファベット)の22番目の文字。小文字は v 。U, W, Yとともにギリシャ文字のΥ(ウプシロン)に由来し、キリル文字のУは同系の文字である。Υ(ウプシロン)の別形に由来するFとも同系といえる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "キリル文字のВは、発音の上では同類の文字だが、成りたちは異なる(こちらはギリシャ文字のΒに由来)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "下で屈曲したひと連なりの線であり、2本の線分である。大文字と小文字で同じ形である。筆記体では下部が丸まることがあるが、Uないしuとの区別のため、右上で下に折り返して次の字に進む。フラクトゥールは V v {\\displaystyle {\\mathfrak {V\\ v}}} 。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この文字が表す音声は、", "title": "音素" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "Vは、本来ラテン語における半母音/w/の音素を表す文字である。古代のラテン文字にはUが存在せず、Vの文字は/w/とともに母音の/u/を表す文字としても用いられていた(例: AVGVSTVS、BVLGARI)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Uの文字は、/u/の発音を/w/と書き分けるために、Vの小文字体をもとに中世のロマンス語において初めて登場し、やがてラテン語文献も遡って区別が行われるようになる。この表記は当初は大文字は下のとがったV、小文字は早く書くために下の丸いuだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ゲルマン語には、/w/ と別にラテン語にない /v/ という音素が存在しており、母音/u/を表す文字として U が定着した結果、V の文字が/v/音を表すようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "さらに英語などでは /w/ を表す文字として V(U) を二つ重ねて新たに W が作られた。ゲルマン語の一派である中世高地ドイツ語では W が /v/ を表す文字として使われ始め、同時にドイツ語からは /w/ の音素が失われた。さらに V が /f/ の音素で発音する変化が起こった。同一の現象はドイツ語に近いオランダ語でもみられるが、オランダ語では V の音素は /v/ とするのが標準とされており、音韻変化は不完全である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本語ではラテン語と同じく /w/ の音素はあるが /v/ がなかったため、近代英語などにおいて V で表される /v/ の音素を様々に音写している(この点についての詳細は、ヴの記事を参照)。", "title": "歴史" } ]
Vは、ラテン文字(アルファベット)の22番目の文字。小文字は v。U, W, Yとともにギリシャ文字のΥ(ウプシロン)に由来し、キリル文字のУは同系の文字である。Υ(ウプシロン)の別形に由来するFとも同系といえる。 キリル文字のВは、発音の上では同類の文字だが、成りたちは異なる(こちらはギリシャ文字のΒに由来)。
{{Otheruses}} {{A-Z}} '''V'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[22]]番目の文字。小文字は '''v''' 。[[U]], [[W]], [[Y]]とともに[[ギリシャ文字]]の[[Υ]](ウプシロン)に由来し、[[キリル文字]]の[[У]]は同系の文字である。[[Υ]](ウプシロン)の別形に由来する[[F]]とも同系といえる。 キリル文字の[[В]]は、'''発音の上では同類の文字だが、成りたちは異なる'''(こちらはギリシャ文字の[[Β]]に由来)。 == 字形 == [[File:V cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-V.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] 下で屈曲したひと連なりの線であり、2本の[[線分]]である。[[大文字]]と小文字で同じ形である。[[筆記体]]では下部が丸まることがあるが、[[U]]ないし[[u]]との区別のため、右上で下に折り返して次の字に進む。[[フラクトゥール]]は <math>\mathfrak{V\ v}</math>。 == 呼称 == * [[ラテン語]]: ウー * {{Lang-fr-short|vé}}(ヴェ){{IPA|ve}} * {{Lang-it-short|vu}}(ヴ) * {{Lang-en-short|vee}}(ヴィー){{IPA|viː}}{{Audio|V (letter name).ogg|聞く}} * {{Lang-de-short|vau}}, {{Lang|de|fau}}(ファウ){{IPA|faʊ}} * [[ハンガリー語|洪]]:ヴェー {{IPA|veː}} * [[インドネシア語|尼]]:フェー {{IPA|feː}} * [[オランダ語|蘭]]:ヴェー、フェー {{IPA|veː}}、{{IPA|feː}} * {{Lang-es-short|uve}}(ウベ)、{{Lang|es|ve}}(ベ)、{{Lang|es|u corta}}(ウコルタ)、{{Lang|es|u baja}}(ウバハ)、{{Lang|es|u chica}}(ウチカ) * [[エスペラント]]:ヴォ * [[日本語]]:ブイ({{IPA|bɯi}}、{{IPA|bui}})、ヴィー({{IPA|viː}})、ヴイ({{IPA|vɯi}}、{{IPA|vui}})、ヴィ({{IPA|vi}}) == 音素 == この文字が表す音声は、 * [[国際音声記号]]では、小文字の{{IPA|v}}が[[有声唇歯摩擦音]]を表す。通常は[[子音]]として発音されるが、{{IPA|vͅ}}と単独で[[音節]]性を持つこともできる。 * [[フランス語]]、[[英語]]、[[イタリア語]]、[[ハンガリー語]]、[[ポルトガル語]]、[[エスペラント]]、[[リス語]]<ref>徐琳ほか、『傈僳語簡志』p126、1986年、民族出版社、北京</ref>では {{IPA|v}}。 ** フランス語では語末の子音は発音されない語が多いが、v は発音することが多い。 * [[ラテン語]]では本来は、母音{{IPA|u}} と半母音 {{IPA|w}} を区別せず表した。{{IPA|u}} のために専用の文字 [[U]] が導入されてからは、もっぱら {{IPA|w}} を表す。 * [[チワン語]]では {{IPA|w}} を表す<ref>韋景雲、覃祥周、『壮語基礎教程』p29、2008年、中央民族大学出版社、北京、ISBN 978-7-81108-475-7</ref>。 * ドイツ語、[[インドネシア語]]では {{IPA|f}}を表す。 ** ドイツ語では、主に[[ラテン語]]などからの[[借用語]]では、{{IPA|v}} と発音する。 ** [[インドネシア語]]ではしばしば {{IPA|p}} で発音する。 * [[オランダ語]]では {{IPA|v}} だが、特に語頭で[[無声音|無声化]]した {{IPA|f}} で発音する人が多い。 * [[スペイン語]]では [[B]] と V を発音上は区別しないため、もっぱら {{IPA|b}}を表す。ただしイタリア系移民の多い[[アルゼンチン]]や、アルゼンチンとともに[[ブラジル]]([[ポルトガル語圏]])と国境を接する[[ウルグアイ]]などのうち一部地域では、他国語の影響で両者を区別し、 {{IPA|v}}を表す([[リオプラテンセ・スペイン語]]など)。 * [[中国語]]の共通語([[普通話]])の[[拼音]]では、ラテン基本字26字のうち唯一使用されない。ただし、[[ü]]({{IPA|y}} を表す[[ウムラウト]]付きu)が使用できない場合、vで代用することがある。中国語[[インプット メソッド エディタ|IME]]のローマ字入力の際にもvキーで入力するものが多い。また、中国のパスポートでもVで代用されている。 * [[日本語]]のローマ字表記では通常使われないが、IMEでの「[[ヴ]]」と[[ヴァ行]]音の入力に使われる。また、Unicodeにおける「ヴ」の名称もKATAKANA LETTER '''V'''UとVを使用している。 * [[ミャオ語]]の川黔滇方言、滇東北方言では{{IPA|v}}を表すが、黔東方言では[[有声軟口蓋摩擦音]]{{IPA|ɣ}}を表す<ref>王輔世、『苗語簡志』pp146-147、1985年、民族出版社、北京</ref>。 * [[ペー語]]では子音としての{{IPA|v}}と音節主音、[[母音]]としての{{IPA|vͅ}}の両方に用いる<ref>徐琳、趙衍蓀、『白語簡志』p135、1984年、民族出版社、北京</ref>。 * [[ハニ語]]の[[1957年]]に考案された『哈尼族文字方案』では、母音の後にvを付けると[[母音#緊張|緊張母音]]を表す<ref>李永燧、『哈尼語語法』p14、1990年、民族出版社、北京、ISBN 710500648X</ref>。 == 歴史 == Vは、本来[[ラテン語]]における半母音{{ipa|w}}の[[音素]]を表す文字である。[[古代]]のラテン文字には[[U]]が存在せず、Vの文字は{{ipa|w}}とともに[[母音]]の{{ipa|u}}を表す文字としても用いられていた(例: [[アウグストゥス|AVGVSTVS]]、[[ブルガリ|BVLGARI]])。 [[U]]の文字は、{{ipa|u}}の発音を{{ipa|w}}と書き分けるために、Vの小文字体をもとに[[中世]]の[[ロマンス語]]において初めて登場し、やがてラテン語文献も遡って区別が行われるようになる。この表記は当初は大文字は下のとがったV、小文字は早く書くために下の丸いuだった。 [[ゲルマン語]]には、{{ipa|w}} と別にラテン語にない {{ipa|v}} という音素が存在しており、母音{{ipa|u}}を表す文字として U が定着した結果、V の文字が{{ipa|v}}音を表すようになった。 さらに[[英語]]などでは {{ipa|w}} を表す文字として V(U) を[[合字|二つ重ねて]]新たに [[W]] が作られた。ゲルマン語の一派である中世高地ドイツ語では W が {{ipa|v}} を表す文字として使われ始め、同時にドイツ語からは {{ipa|w}} の音素が失われた。さらに V が {{ipa|f}} の音素で発音する変化が起こった。同一の現象はドイツ語に近い[[オランダ語]]でもみられるが、オランダ語では V の音素は {{ipa|v}} とするのが標準とされており、音韻変化は不完全である。 [[日本語]]ではラテン語と同じく {{ipa|w}} の音素はあるが {{ipa|v}} がなかったため、近代英語などにおいて V で表される {{ipa|v}} の音素を様々に[[音写]]している(この点についての詳細は、[[ヴ]]の記事を参照)。 == V の意味・用法 == === 主に大文字 === === 記号 === * [[バナジウム]]の元素記号。({{en|'''v'''anadium}})。 * [[ボルト (単位)|ボルト]]([[電圧]]の[[単位]])の単位記号。({{en|'''v'''olt}})。 * [[分散 (確率論)|分散]] ({{en|'''v'''ariance}})。 * [[量記号]] ** [[体積]]・容積 ({{en|'''v'''olume}})。 ** [[電圧]]・[[電位]] ({{en|'''v'''oltage}})。 ** [[色空間]]の明度 ({{en|'''v'''alue}})。 ** [[比視感度]]。 * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[JR西日本|JR]][[関西線]]([[加茂駅 (京都府)|加茂駅]]〜[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]])、[[JR西日本|JR]][[伯備線]]の[[路線記号]]として用いられる。 * [[時刻表]]で[[近鉄特急]]の[[ビスタカー]]使用列車を示す記号。 * [[京急1000形電車 (2代)]]の大半の編成の編成記号。 * [[軍用機の命名規則 (アメリカ合衆国)|アメリカ軍用機の命名規則]]のでの記号 ** 現状接頭記号としては、[[要人輸送機|要人輸送]]。 ** 型式記号としては、[[V/STOL|垂直または単距離離着陸機]]。 * 紋章学での英仏式の略記号で、[[ヴァート (紋章学)|緑色]] ({{en|'''v'''ert}})。 === 企業 === * [[Visa|VISA]]社の[[ニューヨーク証券取引所]][[証券コード]]([[ティッカーシンボル]])。 * [[携帯電話]]では'''V'''odafone(現[[ソフトバンク]])。 * 音楽業界では[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]]を表す * [[V_(カナダのテレビ局)]] - [[カナダ]] [[ケベック州]]の[[フランス語]][[テレビ]]ネットワーク。 === 製品 === * [[ナチス・ドイツ]]が[[第二次世界大戦]]末期に開発した[[ロケット]]兵器'''V'''ergeltungswaffe([[報復兵器]])の略称。[[V1飛行爆弾]]、[[V2ロケット]]など。 * [[メルセデス・ベンツ]]の車種・Vクラス。 * [[ボルボ・カーズ|ボルボ]]の、ワゴン車種名を示す略号。 * [[V (オペレーティングシステム)|V]] - 1980年代に開発された[[分散コンピューティング|分散]][[オペレーティングシステム|OS]]。 * 中国で発売されている[[Wii]]タイプのゲーム機。[[Vii]]とは異なる。 * [[ソニー]]の[[記録メディア]] ([[VHS]], [[DVD]], [[Blu-ray Disc|BD]]) のブランド。 === 作品タイトル === * [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]の[[交響曲第88番 (ハイドン)|交響曲第88番]]『V字』。 * [[V.]] - [[トマス・ピンチョン]]の小説 * [[V (1983年のテレビドラマ)]] - 1983年にアメリカで製作されたテレビミニシリーズ。地球に来襲した異星人「ビジター」と人類との戦いを描く。 ** [[V (2009年のテレビドラマ)]] - 2009年から2011年まで放送された上記作品のリメイク版。 * [[音楽ゲーム]]、[[beatmania IIDX]]シリーズ (beatmania IIDX 5th Style以降) に収録されている楽曲・TAKA名義の[[石川貴之]]の楽曲。[[アントニオ・ヴィヴァルディ]]の[[四季 (ヴィヴァルディ)|四季]]の『冬』をモチーフとしている。続編の『V2<!-- 2は正しくは下付 -->』は「beatmania IIDX 16 EMPRESS」に収録。 * [[V (マルーン5のアルバム)]] - [[マルーン5]]が2014年に発表した5thアルバム。 * [[V (MY FIRST STORYのアルバム)]] - [[MY FIRST STORY]]が[[2020年]]に発売したアルバム。 * V (ボルト) - [[遊助]]のシングル「[[V/時給850円のサンタクロース]]」収録曲。[[テレビ東京]]系 アニメ『[[ポケットモンスター XY]]』OPテーマ。 * [[戸塚祥太]]の楽曲。[[A.B.C-Z]]のアルバム「[[ABC STAR LINE]]」収録曲。 * [[堂本光一]]のアルバム「[[PLAYFUL]]」収録曲。 === 人物 === * [[V (歌手)]] - [[BTS (音楽グループ)|BTS]]のメンバー。 * [[1980年代]]の[[グラフィックノベル]]『[[Vフォー・ヴェンデッタ]]』の主人公。復讐を意味するVendettaの頭文字をとっている。[[2006年]]に[[Vフォー・ヴェンデッタ (映画)|映画化]]もされている。 === その他 === * [[ローマ数字]]の[[5]] (V)。 ** 医療用[[カルテ]]の日付記載で[[5月]]を表す。例:「3/V」(5月3日)。 ** ヨーロッパの古い日付表記で、[[5日]]を表す。 ** 第五[[脳神経]]([[三叉神経]])。 * [[31|三十一]]を意味する数字。[[三十六進法]]など、三十二進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において三十一([[十進法]]の'''31''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] 、およびアルファベットの [[O]] と数字の [[0]] が混同し易いために、アルファベットの I と O を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、…、[[N]] が[[22|二十二]]、[[P]] が[[23|二十三]]、…、V が[[29|二十九]]を意味する。 * [[母音]] ({{en|'''v'''owel}}、'''v'''owelle)。 * [[バーチャルYouTuber]] ({{en|'''v'''irtual YouTuber}})。通称である「VTuber」をさらに略して、Vと呼ぶことがある。 * 放送業界では[[ビデオ信号記録装置|ビデオテープ]]、転じて、収録済の素材を表す。 * 優勝・勝利 ({{en|'''v'''ictory}})。 ** [[Vサイン]]([[ピースサイン]]) ** V+数字で、連続優勝。 * [[V字回復]] - 企業などの業績が急激に落ち込み、その後企業努力などで一気に業績が回復すること。 * [[V字谷]] - V字の断面をした谷。 * [[動詞]] ({{en|'''v'''erb}})。 * [[ベクトル空間]]を表すのにしばしば用いる。 === 主に小文字 === * [[空間ベクトル|ベクトル]] ({{en|'''v'''ector}}) 変数。2文字目には ''[[u]]'' を使うことが多い。 * [[速度]]({{en|'''v'''elocity}})の量記号。2文字目には ''[[u]]'' を使うことが多い。 * [[量子群]]のパラメータ * [[バージョン]]({{en|'''v'''ersion}})。v1.1など(大文字で表記される場合もある)。 * 巻(かん)({{en|'''v'''olume}})。 * 記号の[[ASCII]]表現。 ** [[インターネット]]上の[[チャット]]や[[電子掲示板|掲示板]]では[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]をvで表す事がある。連続して使われることもある(例「大好きvvv」)。主に若い女性が用いる表現である。 ** [[チェックマーク]]「{{Unicode|{{JIS2004フォント|✓}}}}」。対応する[[バロットサイン]]「{{Unicode|✗}}」は[[x]]。 ** 下向き[[矢印]]「↓」。対応する上向き矢印「↑」は[[^]]。 * 姓の一部の、ドイツ語の前置詞[[フォン (前置詞)|フォン]] ({{de|'''v'''on}}) またはオランダ語の前置詞[[ヴァン (前置詞)|ヴァン]] ({{nl|'''v'''an}})。 * [[副]] ({{en|'''v'''ice}})。たとえば v.president = vice president([[副大統領]]・副社長)。 === 大文字・小文字 === * [[非SI接頭辞|単位接頭辞]] - いずれもジム・ブロワーズ (Jim Blowers) の提案。 ** V = {{1e|33}} = ベンダカ ('''v'''endeka) または ブンダ ('''v'''unda) ** v = {{1e-|33}} = ベンデコ ('''v'''endeko) または ブンクト ('''v'''unkto) == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0056|86||1-3-54|0076|118||1-3-86|}} {{ULu|FF36|65334||1-3-54|FF56|65366||1-3-86|全角}} {{ULu|24CB|9419||‐|24E5|9445||1-12-54|丸囲み}} {{ULu|1F125|127269||‐|24B1|9393||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D415|119829||‐|1D42F|119855||‐|[[太字]]}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Victor |Morse=・・・- |Character=V |Braille=⠧ }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *{{仮リンク|Ṽ|ko|Ṽ|label={{Unicode|Ṽ}}}} - [[チルダ]] *[[Ʋ|{{Unicode|Ʋ}}]] *{{Unicode|{{仮リンク|&#7806;|fr|&#7806;}} &#7807;}} {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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ベーカー街221B
座標: 北緯51度31分24秒 西経0度09分30秒 / 北緯51.52333度 西経0.15833度 / 51.52333; -0.15833 ベーカー街221B(ベーカーがいにひゃくにじゅういちビー、221B Baker Street)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズにおいて、主人公の私立諮問探偵シャーロック・ホームズが住んでいたベーカー街(ベイカー・ストリート)にある下宿の住所である。 ホームズは1880年代初頭から引退する1903年まで、ハドスン夫人の経営するこの下宿で過ごした。ホームズの友人で伝記作家のジョン・H・ワトスン医師が、独身時代に共同生活をしていた場所でもある。 221Bの「B」はラテン語・フランス語のビス(Bis, 第2の)に由来し、建物の増改築などによって同じ番地に2軒の住宅が建つことになった場合などに使われた記号で、この住所つまりホームズたちの下宿の場合は階上にあることを示していた。1階のハドスン夫人の自宅はサフィックスのない唯の221だったと思われる。訳者によりベイカー街221Bのほか、「B」を「b」や「乙」としたり、「221のB」ともする。 ベーカー街は、ロンドン中で最も有名な通りである。ウエスト・エンドの中心を南北に走る街路であり、ハイド・パークの東北隅から北に向かってリージェンツ・パークの西南端に至る。 ホームズが活躍していた時代にはベーカー街の東側が1から42まで、西側が44から85まで(43は欠番)となっていて、221Bは存在しない住所だった。後にベーカー街に含まれる北のヨークプレイスは1–40、さらに北のアッパー・ベーカー街も1–54であり、221Bはどこにもなかった。 ワトスンが存在しない住所をホームズの部屋として公表したのは、実際の位置を偽装する目的であると考えられたため、本来の場所を突き止めようとする試みがシャーロキアンによって行なわれている。作中には2階の下宿へ昇るための階段が17段だった(「ボヘミアの醜聞」)こと、向かいに空き家があった(「空き家の冒険」)ことなどの手がかりが示されているものの、現在の住所で19説・21説・27説・31説・49説・59–63説・59–67A説・109説・111説・119説・221説などが乱立し、決定的な説はない。ドイルがベーカー街を訪れたことは一度もなかったという説もある。 221Bのホームズの下宿兼探偵事務所には、ボヘミア国王や英国首相も含めて多くの依頼人が訪れている。初期にはホームズに対抗心を抱いていたレストレード警部も、「六つのナポレオン」の頃には、しばしば221Bを訪れては談笑するくらいに打ち解けていた。女性の依頼人も多くいたが、その中にはのちにワトスン夫人となるメアリー・モースタン(『四つの署名』)もいる。 221Bにホームズを訪ねながら後に殺された依頼人は、「オレンジの種五つ」のジョン・オープンショウと、「踊る人形」のヒルトン・キュービットのふたり。前者の事件でホームズは大いに自尊心を傷つけられ、後者の事件ではワトスンもかつて見た事がないほどの落胆を見せた。 兄のマイクロフト・ホームズが221Bを訪ねたのは作中2度だけで、「ブルースパーティントン設計書」で、マイクロフトが来ると聞いたホームズは、これでは惑星も軌道を外れかねないと驚いている。ただし、マイクロフトは弟の依頼に応じて「最後の事件」から「空き家の冒険」までの間、ホームズの部屋をそのままにするようハドソン夫人に頼んでいるはずなので、他にも訪ねた事がある可能性もある。 依頼人だけでなく、ホームズに敵対する側の人々もたびたび221Bにやってきた。その中でも最も恐るべき人物はもちろんジェームズ・モリアーティ教授で、「最後の事件」で両者が対決するくだりはシリーズ屈指の名場面になっている。そのほか、ホームズの眼前で火掻き棒をねじまげて威嚇したグリムズビー・ロイロット博士(「まだらの紐」)や、ホームズも臍をかんで見送るしかなかった唯一の人物、恐喝王ミルヴァートン(「犯人は二人」)らが特筆される。 厳密には221Bに足を踏み入れたわけではないが、セバスチャン・モラン大佐(「空き家の冒険」)はホームズの部屋に銃弾を撃ちこんだ二人しかいない人物の1人である。なお、もう1人は他ならぬホームズ自身(「マスグレーヴ家の儀式」)。 もうひとり、やはりホームズの部屋を訪れたわけではないが特筆される人物は、221Bの下宿前で「おやすみなさい、シャーロック・ホームズさん」の言葉を残して去った「あの女性」ことアイリーン・アドラー(「ボヘミアの醜聞」)である。 長らくベーカー街は85までだったが、1921年にヨークプレイスを、1930年にアッパー・ベーカー街を合併したことで、番地が増えた。1930年にアッパー・ベーカー街を合併したとき、旧アッパー・ベーカー街41がベーカー街221となった。 アッパー・ベーカー街41にあったアビ・ロード・ビルディング・ソサイエティ(後に合併や組織変更に伴い何度も社名が変更されるため、この項目内ではアビと略す)の所有する建物が、221となった。この建物はアビの本部ビル建設のため同年に取り壊された。 1932年に215–229を占めるアビ・ハウス (Abbey House) が完成した。住所が221Bを内包するため、アビ・ハウスには世界中からホームズ宛の手紙が届くようになり、アビは返事などを担当する専門の「ホームズ秘書」を設けて対応した。1985年にはベーカー街221Bを示すブロンズ製のプラーク(銘板)が玄関脇の柱に取り付けられ、グラナダ版でホームズを演じたジェレミー・ブレットの手で除幕が行なわれている。アビ・ハウスは2002年までアビの本部ビルとして使用された。しかし、2004年にアビはSCHグループの傘下となり、2005年にアビ・ハウスを立ち退き、2006年にはアビ・ハウスを不動産開発のアビリティ・グループに売却した。その後、アビ・ハウスは取り壊された。 跡地は高級賃貸マンションとなった。かつてベーカー街221Bを示すプラークがあった場所には、「219」と番地の書かれたシンプルなプレートが取り付けられている。 1990年1月、実業家のジョン・アイディアンツがベイカー街239のビル(1815年建設、元はアッパー・ベーカー街32)を買収し、5月にシャーロック・ホームズ博物館 (The Sherlock Holmes Museum) としてオープンさせた。このビル内に「ボヘミアの醜聞」で言及された17段の階段があることを理由に、博物館の場所こそが221Bであると主張している。同年3月にベーカー街221Bを示すブループレートが取り付けられ、ウェストミンスター市議会議長の手により除幕が行われた。
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ベーカー街221Bは、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズにおいて、主人公の私立諮問探偵シャーロック・ホームズが住んでいたベーカー街(ベイカー・ストリート)にある下宿の住所である。 ホームズは1880年代初頭から引退する1903年まで、ハドスン夫人の経営するこの下宿で過ごした。ホームズの友人で伝記作家のジョン・H・ワトスン医師が、独身時代に共同生活をしていた場所でもある。 221Bの「B」はラテン語・フランス語のビスに由来し、建物の増改築などによって同じ番地に2軒の住宅が建つことになった場合などに使われた記号で、この住所つまりホームズたちの下宿の場合は階上にあることを示していた。1階のハドスン夫人の自宅はサフィックスのない唯の221だったと思われる。訳者によりベイカー街221Bのほか、「B」を「b」や「乙」としたり、「221のB」ともする。
{{Pathnav|シャーロック・ホームズシリーズ|frame=1}} {{Portal|文学}} {{Coord|51|31|24|N|0|09|30|W|region:GB_type:landmark|display=title}} [[ファイル:221B Baker Street.JPEG|thumb|200px|right|ベーカー街221Bの見取り図]] {{Maplink2|zoom=16|frame=yes|plain=no|frame-align=right|frame-width=200|frame-height=240|frame-lat=51.5235|frame-long=-0.158|type2=point |from=<!--C:Data:-->UK/Street/Baker Street.map |text=ベーカー街221B(赤の線は[[ベイカー・ストリート|ベーカー街]]) }} '''ベーカー街221B'''(ベーカーがいにひゃくにじゅういちビー、''221B Baker Street'')は、イギリスの小説家、[[アーサー・コナン・ドイル]]の[[シャーロック・ホームズシリーズ]]において、主人公の私立諮問探偵[[シャーロック・ホームズ]]が住んでいた[[ベーカー街]]([[ベイカー・ストリート]])にある[[下宿]]の住所である<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/40563|title=名探偵ホームズの人気は「ワトスン博士ありき」と言われるワケ 「バツイチ再婚説」から「女性説」まで|publisher=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2020-11-23|accessdate=2020-11-24}}</ref>。 ホームズは1880年代初頭から引退する[[1903年]]まで、[[ハドスン夫人]]の経営するこの下宿で過ごした<ref name="JT">[[ジャック・トレイシー]]『シャーロック・ホームズ大百科事典』[[日暮雅通]]訳、[[河出書房新社]]、2002年、299–301頁</ref>。ホームズの友人で伝記作家の[[ジョン・H・ワトスン]]医師が、独身時代に[[ルームシェア|共同生活]]をしていた場所でもある。 221Bの「B」は[[ラテン語]]・[[フランス語]]のビス(Bis, 第2の)に由来し、建物の増改築などによって同じ番地に2軒の住宅が建つことになった場合などに使われた記号で、この住所つまりホームズたちの下宿の場合は階上にあることを示していた。1階のハドスン夫人の自宅はサフィックスのない唯の221だったと思われる。訳者により'''ベイカー街221B'''のほか、「B」を「b」や「乙」としたり、「221のB」ともする。 == 221Bの同定 == [[ファイル:Baker Street 1890-2010's.png|thumb|200px|left|ホームズの時代と現代のベーカー街の比較]] [[ベイカー・ストリート|ベーカー街]]は、[[ロンドン]]中で最も有名な通りである<ref name="JT" />。[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウエスト・エンド]]の中心を南北に走る街路であり、[[ハイド・パーク]]の東北隅から北に向かって[[リージェンツ・パーク]]の西南端に至る。 ホームズが活躍していた時代にはベーカー街の東側が1から42まで、西側が44から85まで(43は欠番)となっていて、221Bは存在しない住所だった。後にベーカー街に含まれる北のヨークプレイスは1–40、さらに北のアッパー・ベーカー街も1–54であり、221Bはどこにもなかった。 ワトスンが存在しない住所をホームズの部屋として公表したのは、実際の位置を偽装する目的であると考えられたため、本来の場所を突き止めようとする試みが[[シャーロキアン]]によって行なわれている。作中には2階の下宿へ昇るための階段が17段だった(「[[ボヘミアの醜聞]]」)こと、向かいに空き家があった(「[[空き家の冒険]]」)ことなどの手がかりが示されているものの、現在の住所で19説・21説・27説・31説・49説・59–63説・59–67A説・109説・111説・119説・221説などが乱立し、決定的な説はない<ref>“(前略)……と諸説紛々であるが、31説が優勢である。”鈴木利男「ベイカー街」より引用 - [[小林司 (精神医学者)|小林司]]・[[東山あかね]]編『シャーロック・ホームズ大事典』[[東京堂出版]]、2001年、736–737頁</ref>。ドイルがベーカー街を訪れたことは一度もなかったという説もある<ref>[[田中喜芳]]『シャーロッキアンの優雅な週末 ホームズ学はやめられない』[[中央公論社]]、1998年、20–22頁</ref><ref>ドイルはインタビューに対し、記憶する限りではベーカー街に一度も行った事がない、と答えたことがある。一方、ベーカー街の写真館で撮影したドイルの写真が確認されている。 - コナン・ドイル著、[[ウィリアム・スチュアート・ベアリング=グールド|ベアリング゠グールド]]解説と注『詳注版 シャーロック・ホームズ全集1』[[小池滋監]]訳、[[筑摩書房]]〈[[ちくま文庫]]〉、1997年、349–350頁</ref>。 == 作中で221Bを訪ねた人々 == [[ファイル:221bg ext.jpg|thumb|150px|left|警官の歩哨付きの玄関]] 221Bのホームズの下宿兼探偵事務所には、[[ボヘミア国王]]や[[英国首相]]も含めて多くの依頼人が訪れている。初期にはホームズに対抗心を抱いていた[[レストレード]]警部も、「[[六つのナポレオン]]」の頃には、しばしば221Bを訪れては談笑するくらいに打ち解けていた。女性の依頼人も多くいたが、その中にはのちにワトスン夫人となる[[メアリー・モースタン]](『[[四つの署名]]』)もいる。 221Bにホームズを訪ねながら後に殺された依頼人は、「[[オレンジの種五つ]]」のジョン・オープンショウと、「[[踊る人形]]」のヒルトン・キュービットのふたり。前者の事件でホームズは大いに自尊心を傷つけられ、後者の事件ではワトスンもかつて見た事がないほどの落胆を見せた。 兄の[[マイクロフト・ホームズ]]が221Bを訪ねたのは作中2度だけで、「[[ブルースパーティントン設計書]]」で、マイクロフトが来ると聞いたホームズは、これでは惑星も軌道を外れかねないと驚いている。ただし、マイクロフトは弟の依頼に応じて「[[最後の事件]]」から「[[空き家の冒険]]」までの間、ホームズの部屋をそのままにするようハドソン夫人に頼んでいるはずなので、他にも訪ねた事がある可能性もある。 [[ファイル:Baker Street Sign.jpg|thumb|200px|right|ベーカー街の標識]] 依頼人だけでなく、ホームズに敵対する側の人々もたびたび221Bにやってきた。その中でも最も恐るべき人物はもちろん[[ジェームズ・モリアーティ]]教授で、「[[最後の事件]]」で両者が対決するくだりはシリーズ屈指の名場面になっている。そのほか、ホームズの眼前で[[火掻き棒]]をねじまげて威嚇したグリムズビー・ロイロット博士(「[[まだらの紐]]」)や、ホームズも臍をかんで見送るしかなかった唯一の人物、恐喝王ミルヴァートン(「[[犯人は二人]]」)らが特筆される。 厳密には221Bに足を踏み入れたわけではないが、[[セバスチャン・モラン]]大佐(「[[空き家の冒険]]」)はホームズの部屋に銃弾を撃ちこんだ二人しかいない人物の1人である。なお、もう1人は他ならぬホームズ自身(「[[マスグレーヴ家の儀式]]」)。 もうひとり、やはりホームズの部屋を訪れたわけではないが特筆される人物は、221Bの下宿前で「おやすみなさい、シャーロック・ホームズさん」の言葉を残して去った「あの女性」こと[[アイリーン・アドラー]](「[[ボヘミアの醜聞]]」)である。 == 現実の221B == 長らくベーカー街は85までだったが、[[1921年]]にヨークプレイスを、[[1930年]]にアッパー・ベーカー街を合併したことで、番地が増えた。1930年にアッパー・ベーカー街を合併したとき、旧アッパー・ベーカー街41がベーカー街221となった。 === アビ・ハウス === [[ファイル:221b Baker Street.jpg|thumb|200px|right|アビ・ハウスに設置されていたプラーク]] アッパー・ベーカー街41にあったアビ・ロード・ビルディング・ソサイエティ(後に合併や組織変更に伴い何度も社名が変更されるため、この項目内ではアビと略す)の所有する建物が、221となった。この建物はアビの本部ビル建設のため同年に取り壊された。 [[1932年]]に215–229を占める'''アビ・ハウス''' ({{en|Abbey House}}) が完成した。住所が221Bを内包するため、アビ・ハウスには世界中からホームズ宛の手紙が届くようになり、アビは返事などを担当する専門の「ホームズ秘書」を設けて対応した。1985年にはベーカー街221Bを示すブロンズ製のプラーク([[銘板]])が玄関脇の柱に取り付けられ、グラナダ版でホームズを演じた[[ジェレミー・ブレット]]の手で除幕が行なわれている。アビ・ハウスは[[2002年]]までアビの本部ビルとして使用された。しかし、[[2004年]]にアビはSCHグループの傘下となり、[[2005年]]にアビ・ハウスを立ち退き、[[2006年]]にはアビ・ハウスを不動産開発のアビリティ・グループに売却した。その後、アビ・ハウスは取り壊された。 跡地は高級賃貸マンションとなった。かつてベーカー街221Bを示すプラークがあった場所には、「219」と番地の書かれたシンプルなプレートが取り付けられている<ref name="鈴木利男">鈴木利男「アビ・ハウス」『ホームズなんでも事典』[[平賀三郎]]編著、[[青弓社]]、2010年、13–15頁</ref>。 === シャーロック・ホームズ博物館 === {{Main|シャーロック・ホームズ博物館}}[[ファイル:Bakerstreet london.JPG|thumb|200px|right|シャーロック・ホームズ博物館]] [[ファイル:Sign_at_Sherlock_Holmes_Museum_in_Baker_St_221b.jpg|thumb|200px|right|市によって設置された、シャーロック・ホームズが住んでいたことを記念する[[ブルー・プラーク]]]] [[1990年]]1月、実業家のジョン・アイディアンツがベイカー街239のビル(1815年建設、元はアッパー・ベーカー街32)を買収し、5月に'''シャーロック・ホームズ博物館''' ({{en|The Sherlock Holmes Museum}}) としてオープンさせた。このビル内に「[[ボヘミアの醜聞]]」で言及された17段の階段があることを理由に、博物館の場所こそが221Bであると主張している<ref>オープン前、イギリス最大のシャーロキアン団体、ロンドン・シャーロック・ホームズ会から金儲け主義の施設と批判された。 - 田中喜芳『シャーロッキアンの優雅な週末 ホームズ学はやめられない』[[中央公論社]]、1998年、17–18頁</ref>。同年3月にベーカー街221Bを示す[[ブルー・プラーク|ブループレート]]が取り付けられ、ウェストミンスター市議会議長の手により除幕が行われた<ref name="鈴木利男" />。 == 脚注 == <references /> ==関連項目== * [[ベイカー・ストリート駅]] - 最寄りの駅。シャーロック・ホームズにちなんだ装飾がある。 == 外部リンク == {{Commons|Category:221B Baker Street}} * [http://www.sherlock-holmes.co.uk/ THE SHERLOCK HOLMES MUSEUM] {{シャーロック・ホームズシリーズ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:へえかあかい221B}} [[Category:シャーロック・ホームズ]] [[Category:架空の建築物]]
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16,743
S
Sは、ラテン文字(アルファベット)の19番目の文字。小文字は s 。ギリシャ文字のΣ(シグマ)に由来し、キリル文字のСと同系の文字である。 左半円の下に右半円を重ねた形である。これはΣ(シグマ)の小文字語末形 ς と共通の形である。大文字も小文字も同じ形である。 この文字が表す音は、/s/(無声歯茎摩擦音)ないしその類似音である。ただし、西欧の多くの言語で、母音・有声子音に挟まれた単独のsを有声の/z/で読む。この場合、母音・有声子音に挟まれた無声の/s/を表すにはしばしばssと書く。
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Sは、ラテン文字(アルファベット)の19番目の文字。小文字は s。ギリシャ文字のΣ(シグマ)に由来し、キリル文字のСと同系の文字である。
{{otheruses|[[ラテン文字]]のS|[[アルメニア文字]]のՏ|Տ|[[キリル文字]]のЅ|Ѕ|[[グルジア文字]]のႽ|ჭ}} {{A-Z}} '''S'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[19]]番目の文字。小文字は '''s''' 。[[ギリシャ文字]]の[[Σ]](シグマ)に由来し、[[キリル文字]]の[[С]]と同系の文字である。 == 字形 == [[File:S cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-S.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]。真ん中は[[長いs]]]] 左半円の下に右半円を重ねた形である。これはΣ(シグマ)の小文字語末形 ς と共通の形である。大文字も小文字も同じ形である。 * 大文字の筆記体は、しばしば、左半円の右半分に、本来の曲線と交差しながら左下から線が延びる。 * 小文字の筆記体は、前述の大文字の筆記体の下半分であり、左下からの斜線から山形に曲がって、右下半円を上から時計回りに描き、最初の斜線に到達して引き返し、次の文字に続く。 * 過去に、「[[長いs]]」と呼ばれる、'''{{Unicode|ſ}}'''(f に似ているが、横棒がある場合右に突き出さない)が用いられた。 * [[フラクトゥール]]に関しては以下の特徴を持つ。 ** 大文字は<math>\mathfrak{S}</math>であって、他の書体の[[G]]とよく似ている。ちなみにGのフラクトゥールは<math>\mathfrak{G}</math>である。 ** 小文字は<math>\mathfrak{s}</math>であるが、この字体は語尾にしか使われず、語頭・語中には長いs({{Unicode|ſ}}) の[[ファイル:Fraktur_langes_s001.png]]が常用される。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[フランス語|仏]]・[[英語|英]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ポルトガル語|葡]]・[[ルーマニア語|羅]]・[[インドネシア語|尼]]・[[スラヴ語派|スラヴ語]]:エス * {{Lang-es-short|ese}}(エセ) * {{Lang-it-short|esse}}(エッセ) * [[ハンガリー語|洪]]:エシュ {{ipa|ɛʃ}} * [[エスペラント|エス]]:ソー == 音価 == この文字が表す音は、{{ipa|s}}([[無声歯茎摩擦音]])ないしその類似音である。ただし、西欧の多くの言語で、母音・有声子音に挟まれた単独のsを有声の{{ipa|z}}で読む。この場合、母音・有声子音に挟まれた無声の{{ipa|s}}を表すにはしばしばssと書く。 * ドイツ語では無声の{{ipa|s}}を表すのに短母音の後で ss, 長母音の後では{{Unicode|[[ß]]}}を使う。標準語では母音の前のsを有声で発音する。 *ドイツ語ではsp、stの2字でそれぞれschp、schtの綴りと同じ{{ipa|ʃp}}、{{ipa|ʃt}}を表す。しかし、schp、schtの綴りとは違う{{ipa|sp}}、{{ipa|st}}を表す例もある。 * フランス語では、無声の{{ipa|s}}を表すのにしばしば[[c]]ないし{{Unicode|[[ç]]}}を使う。また、フランス語では語末のsを原則として黙字化するが、次の単語が母音で始まる場合には[[リエゾン]]して {{ipa|z}} で発音される。 * イタリア語では、sを有声で読むか無声で読むかは方言により変化する。標準語では単語ごとに異なる。 * 英語も、単語ごとに異なる。単語によってはどちらで読んでもいいもの、意味により変化するもの、黙字となるものがある。また単語によっては、{{ipa|z}}を表すsを[[z]]で書き換えることができる。また、dessert, possession は例外的に濁る(フランス語の dessert, possession は濁らない)。 * ハンガリー語では、[[無声後部歯茎摩擦音|{{ipa|ʃ}}]]をあらわす。{{ipa|s}} をあらわすには [[sz]] を用いる。 * 日本語のローマ字表記では[[サ行]]の子音に用いる。ヘボン式ではシおよびシャ、シュ、ショの子音はshとする。 * 朝鮮語のローマ字表記では初声の{{lang|ko|[[ㅅ]]}}に用いる。{{lang|ko|[[ㅆ]]}}はssとする。 *[[二重音字|sh]](英語)は/ʃ/、[[三重音字|sch]](ドイツ語)も/ʃ/、[[四重音字|tsch]](ドイツ語)は/tʃ/である。 == Sの意味 == [[Image:SeimiKaisouChemistry.jpg|thumb|[[宇田川榕菴]]が著した「舎密開宗」の化学実験図。第一図(上部)において実験に用いる器具(管部分)を「S字様管」と記している。]] === 単位・数学記号 === * [[数学]]で[[面積]]を表すのに用いることがある * [[コクセター群]]の生成系 * [[対称代数]] * [[秒]] ('''s'''econd) ※SI 単位の場合、小文字に限る * [[ジーメンス]] ('''s'''iemens) * [[生化学]]で[[沈降係数]]を表す単位スヴェドベリ([[テオドール・スヴェドベリ]]) * [[対称操作]]のひとつである[[回映操作]]を表現する記号。具体的な使用例は[[分子対称性]]を参照。 * [[非SI接頭辞]](ジム・ブロワーズ (Jim Blowers) の提案) ** ソルタ ('''s'''orta)(10<sup>42</sup>)(大文字) ** ソトロ ('''s'''otro)(10<sup>−42</sup>)(小文字) === 自然科学 === * [[硫黄]]の[[元素記号]]。 * [[有機化学]]で[[光学異性体]]の一つ、[[RS表記法|S体]]。 * [[電界効果トランジスタ]] (FET) の端子の一つ。ソース ('''S'''ource) * [[熱力学]]で[[エントロピー]]をあらわす。 * [[コンピュータ言語]]。→[[S言語]] * [[28|二十八]]を意味する数字。[[三十六進法]]など、二十九進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において二十八([[十進法]]の'''28''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] 、およびアルファベットの [[O]] と数字の [[0]] が混同し易いために、アルファベットの I と O を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、…、[[N]] が[[22|二十二]]、[[P]] が[[23|二十三]]、…、S が[[26|二十六]]を意味する。 === 文学・風俗 === * [[文法]]で[[主語]] ('''s'''ubject) をあらわす。 * [[南]] ('''s'''outh) の略。[[磁極]]のS極もsouthによる。 * [[昭和]]の略記。 * [[洋服]]などのサイズで、小さめ ('''s'''mall)。 * [[劇場]]や[[競技場]]、[[業績]]などの順位で特別 ('''S'''pecial) または優良 ('''S'''uperior) という意味で、[[A]]よりも上で希少性の強い最上位を表す。この場合、Sは「特A」、Aは「平A」という扱いになる。用例として、S級、S席など。Sよりも上の順位でSを重ねてSSやSSSとする例もある。 * [[テレビ番組表]]で[[ステレオ放送]]の意。四角囲み記号が一般的。 * 「'''s'''ister」の略で、女学生同士の[[同性愛]]を意味する。 * [[将棋]]の[[銀将]] ('''S'''ilver) の略号。 * [[風俗]]用語で、[[スキン]]([[コンドーム]])を指す[[隠語]]。 * [[シエラ]]の略記。警察などで部隊名として使われる隠語の一種。 * [[ヤクザ]]用語で、[[メタンフェタミン|スピード]]([[覚醒剤]])の[[隠語]]。 * [[東京ディズニーシー]] (Tokyo Disney '''S'''ea) の略号。 * [[スパイ]]を示す符丁。 * [[サディズム]](サディスト)の略。 ** 派生して、[[いじめ]]たり、相手に攻撃することを好む人を表す[[若者言葉]]。対義語は[[M]]。 * 年代。1950's で1950年代。 * [[特殊作戦群]]の愛称 * 主に文末に置かれる/sは、[[皮肉記号]]。 === 作品名 === * [[毎日放送]](MBSラジオ)の[[ラジオ番組]]。→[[S (ラジオ番組)]] * [[テレビ朝日]]のサッカー[[ドキュメンタリー番組]]。[[ソニー]][[一社提供]]の[[ミニ番組]]。→[[S THE STORIES]] * 原作:[[小森陽一 (漫画原作者)|小森陽一]]、作画:[[藤堂裕]]による漫画、およびそれを原作とした[[TBSテレビ]]のテレビドラマ、その映画版。→[[S -最後の警官-]] === 建築 === * [[サービスルーム]]の略。間取図などで用いる。 === スポーツ === * 日本の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団[[東京ヤクルトスワローズ]] ('''S'''wallows) の略号。 * [[セーブ]] ('''s'''ave) の略。 * [[犠打]]をスコアブックに記載する際の略号。SH、SACを使う場合もある。 * [[野球]]の[[テレビ中継]]画面や[[野球場|球場]]内[[電光掲示板]]における、[[ボールカウント]]の略表記 ('''S'''trike)→[[ストライク (野球)]] * [[競馬]]の[[ステークス方式]]の略表記 === [[音楽]] === * しばしば[[変ホ]](イタリア式では'''ミ♭'''、英米式では'''E♭''')をあらわす。これは、ドイツ式でこの音を'''Es'''と表記し、「エス」と読むことに由来する。 * [[フランツ・リスト]]の[[作品番号|作品目録番号]]のひとつ、[[ハンフリー・サール|サール番号]]。 * [[S (シドの曲)]] - [[シド (バンド)|シド]]の楽曲。 * [[S (バンド)]] - 日本のヴィジュアル系ロックバンド。 * [[S (椎名慶治のアルバム)]] - [[椎名慶治]]のアルバム。 * [[S (蒼井翔太のアルバム)]] - [[蒼井翔太]]のアルバム。 * [[S (Silent Sirenのアルバム)]] - [[Silent Siren]]のアルバム。 * [[S (企業)]] - 日本の音楽プロデュース・アーティストマネージメント企業(株式会社S)。 === 交通・車両 === * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[JR北海道|JR]][[函館線]]([[札幌駅]]〜[[小樽駅]]〜[[長万部駅]])('''S'''apporo)、[[都営地下鉄]][[都営地下鉄新宿線|新宿線]] ('''S'''hinjuku)、[[静岡鉄道]][[静岡鉄道静岡清水線|静岡清水線]] ('''S'''hizutetsu)、[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]] ('''S'''akuradōri)、[[JR西日本|JR]][[関西空港線]]、[[Osaka Metro]][[千日前線]] ('''S'''ennichimae)、[[神戸市営地下鉄]][[北神線]]・[[西神・山手線]] ('''S'''eishin)、[[JR西日本|JR]][[山陽本線|山陽線]]([[岡山駅]]〜[[上郡駅]])、[[岡山電気軌道]][[清輝橋線]] ('''S'''eikibashi)、[[JR四国|JR]][[予讃線]](愛ある伊予灘線、[[向井原駅]]〜[[下灘駅]]〜[[伊予大洲駅]])('''S'''himonada'''S'''easide)、[[高松琴平電気鉄道]][[志度線]] ('''S'''hido) の[[路線記号]]として用いられる。 *[[電車]]等、鉄道車両の車種を表す副記号で、[[特別席|特別車両]]([[グリーン車]]。寝台車の記号Nと組み合わせて[[A寝台|A寝台車]])のこと。 * [[東京地下鉄|東京メトロ]]の路線で、他社線との相互直通がある場合に東京メトロ車両の所定運用に付けられるアルファベット。[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)、[[東武鉄道]]、[[西武鉄道]]、[[埼玉高速鉄道]]・[[東葉高速鉄道]]でも、自社線と東京メトロ線を直通走行する列車で東京メトロの車両が原則使用される場合の運行番号は「xxxxS」となる。 * [[自動列車停止装置]]の一種「ATS-S」型の略称。各社によって改良されているため、現在は存在しない。 * [[海図]]の記号で底質が[[砂]](表記はS)。 * [[エリトリア]]で第2級国道を表す ('''S'''econdary national highway)。 === 自動車 === * [[メルセデス・ベンツ]]の乗用車の1クラスである[[メルセデス・ベンツ・Sクラス|Sクラス]]。S600、S500など。 * [[ジャガー (自動車)|ジャガー]]が発売している乗用車の[[ジャガー・Sタイプ|Sタイプ]] * [[本田技研工業]]が発売していたスポーツカー。[[ホンダ・S500|S500]]、[[ホンダ・S600|S600]]、[[ホンダ・S800|S800]]など。 * [[Sタイヤ]]:[[レーシングタイヤ]]のような性格を持つ公道走行可能な[[タイヤ]]の俗称。 * [[トヨタ自動車|トヨタ]]車の形式名に於いては… ** [[トヨタ・クラウン|クラウン]]([[トヨタ・クラウンマジェスタ|マジェスタ]]含む。[[トヨタ・クラウンコンフォート|コンフォート]]除く。)、[[トヨタ・アリスト|アリスト]]/[[レクサス・GS]]を意味する車両識別記号。(例:MS40、JZS161、GRS190) **トヨタ・S型エンジン、またはそれらを搭載していることを表す。初代か2代目かは車両形式から直接はわからない。 *** 例・・・[[トヨタ・S型エンジン (初代)|初代]]:[[トヨタ・トヨエース|SK10]] 。[[トヨタ・S型エンジン (2代目)|2代目]]:ST182([[トヨタ・セリカ|セリカ]]/[[トヨタ・カリーナED|ED]]/[[トヨタ・コロナEXiV|EXiV]])、[[トヨタ・アルテッツァ|SXE10]]、SV25([[トヨタ・カムリ|カムリ]]/[[トヨタ・ビスタ|ビスタ]])。 * [[日産自動車|日産]]の型式名に於いては… ** [[日産・シルビア]]の2代目 - 7代目の車両識別記号(S10、S110、S12、S13、S14、S15)。 ** [[日産・フェアレディZ]]の初代 - 2代目の車両識別記号(S30、S130)。 === 家電・IT === * 携帯電話の電話機メーカーを指す符号。 ** [[ソニー]]または[[ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ]]。([[au (携帯電話)|au]]) ** [[シャープ]]。([[NTTパーソナル]]および[[ドコモPHS]]) 通常は「SH」。 ** [[三洋電機]]。([[ツーカー]](2001年以降の型番ルールによる)) 通常は「SA」。 ** [[セイコーインスツル]]。([[ウィルコム]][[PHS]]端末) * [[ニコン]]が発売しているコンパクトデジタルカメラ。S500、S200など。 === その他 === * [[ショート]]。投資商品を売り建てること。[[空売り]]。[[株式]]や商品[[先物]]などの[[投資]]関連用語。⇔[[ロング]] (L) * [[Sゲージ]][[鉄道模型]]のこと。縮尺1/64、軌間22.4 - 22.5[[ミリメートル|mm]]の鉄道模型の規格名称。 * S縒りはロープのより方の一種。逆方向の種類のものはZ縒りと称する。 * [[特殊作戦群]](陸上自衛隊の特殊部隊)のこと。一般隊員からは「S」と呼ばれる。報道陣の間では特戦群、特戦、特作とも略される。 * [[アイカツ!の登場人物一覧|Mr.S]] - [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]「[[アイカツ! (アニメ)|アイカツ!]]」の登場人物。 * [[営団地下鉄]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])の旧社紋。 * [[編集者]]・[[著作家|文筆家]]・[[歌人]]・[[住職]]・[[アニメーション映画|アニメ映画]]『[[コクリコ坂から]]』[[漫画原作者]]・[[群雄社出版]]編集局長の[[佐山哲郎]]の別名。 * 英語「Super」の略であり、ゲーム・マンガ・アニメ等ポップカルチャー領域における一種の能力値設定の評価単位として使用される。具体例としては『[[東京喰種トーキョーグール|東京喰種]]』における「S~SSS級喰種」、『[[三國志シリーズ]]』における適正「S」、スマホガチャゲームにおける「SR(スーパーレアの意)」等が挙げられる。通常は段階評価基準の最高ランクである「A」ランクをも上回る規格外評価とされている。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0053|83||1-3-51|0073|115||1-3-83|}} {{ULu|FF33|65331||1-3-51|FF53|65363||1-3-83|全角}} {{ULu|24C8|9416||‐|24E2|9442||1-12-44|丸囲み}} {{ULu|1F122|127266||‐|24AE|9390||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D412|119826||‐|1D42C|119852||‐|[[太字]]}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Sierra |Morse=・・・ |Character=S |Braille=⠎ }} == 関連項目 == * {{Unicode|[[Ś]] ś}} - [[アキュート・アクセント]] * {{Unicode|[[Ŝ]] ŝ}} - [[サーカムフレックス]] * {{font|font=Arial|[[Ş]] ş}} - [[セディーユ]] * {{font|font=Arial|[[Ș]] ș}} - [[コンマビロー]] * {{Unicode|[[Š]] š}} - [[ハーチェク]] * {{Unicode|[[ß]]}} - [[合字]] * {{Unicode|[[Ѕ]]}} - 同型の[[キリル文字]](ラテン文字の S に対応はしていない) {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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ボルト
ボルト 英語発音: [boʊlt] ヴォルトとも。英語発音: [voʊlt, vɒlt]
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ボルト
{{TOCright}} '''ボルト''' ==bolt== {{IPA-en|boʊlt}} *[[ボルト (部品)]] - [[ナット]]等と共に使う接合用部品。 *[[ボルト (銃)]] - [[銃の部品]]。 *[[ボルト (錠)]] - [[扉|ドア]]の錠の[[閂|かんぬき]]状部品。 *[[クロスボウ]]用の太く短い[[矢]]([[:en:Crossbow bolt|Crossbow bolt]])。 *[[ボルト (バレエ)]] - [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]作曲の[[バレエ]]。 *[[ボルト (映画)]] - [[ウォルト・ディズニー|ディズニー]]制作のアニメ映画。 *[[シボレー・ボルトEV]](Chevrolet Bolt ) - [[ゼネラルモーターズ|GM]]社の[[電気自動車]]である。[[プラグインハイブリッドカー]]の「[[シボレー・ボルト (ハイブリッドカー)]]」(Chevrolet Volt )とは違う車種であることに注意。 *[[英語圏]]の[[姓]]。 **[[ウサイン・ボルト]] - [[ジャマイカ]]の[[短距離走]]選手。 **[[トミー・ボルト]] - [[アメリカ合衆国]]のプロゴルファー。 **[[ロバート・ボルト]] - [[イギリス]]の劇作家、脚本家。 *[[ボルトガンダム]] - 『[[機動武闘伝Gガンダム]]』に登場するガンダム。 *[[B.O.L.T]](ボルト) - [[スターダストプロモーション#音楽アーティスト・アイドル|STARDUST PLANET]]に所属するガールズユニット、女性アイドルグループ。 *ボルト(キャラクター)− アニメ「[[あはれ!名作くん]]」に登場する亀のキャラクター。 ==volt== ヴォルトとも。{{IPA-en|voʊlt, vɒlt}} *[[ボルト (単位)]] - [[電圧]]の単位。 **[[電子ボルト]] - [[エネルギー]]の単位。 *[[シボレー・ボルト (ハイブリッドカー)]](Chevrolet Volt ) - [[ゼネラルモーターズ|GM]]社の[[プラグインハイブリッドカー]]。[[電気自動車]]の[[シボレー・ボルトEV]](Chevrolet Bolt )とは違う車種であることに注意。 *武装頭脳軍ボルト - 特撮テレビドラマ『[[超獣戦隊ライブマン]]』に登場する悪の軍団。 *[[V/時給850円のサンタクロース|V(ボルト)]] - [[上地雄輔|遊助]]の楽曲。 *[[VOLT]] - [[吉井和哉]]の[[スタジオ・アルバム|オリジナルアルバム]]。 *[[VOLT (雑誌)]] - [[徳間書店]]が発行する[[雑誌]]。 ==BORUTO== *[[BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-#うずまきボルト|うずまきボルト]] - [[岸本斉史]]の[[漫画]]『[[NARUTO -ナルト-]]』の登場人物。『NARUTO -ナルト-』の主人公[[うずまきナルト]]の長男で、下記作品の主人公。 **[[BORUTO -NARUTO THE MOVIE-]] - 2015年公開の日本のアニメ映画。漫画『NARUTO -ナルト-』の後日譚。 **[[BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-]] - 漫画・アニメ作品。漫画『NARUTO -ナルト-』の続編。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:ほると}} [[Category:英語の語句]] [[Category:英語の姓]] [[Category:同名の作品]]
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J
Jは、ラテン文字(アルファベット)の10番目の文字。小文字は j 。 大文字は、縦棒の下が左に曲がった形である。しばしば折り返す。フラクトゥールは J {\displaystyle {\mathfrak {J}}} で、書体によっては I {\displaystyle {\mathfrak {I}}} (I) と区別が付かない(あるいは、もともと異体字であったIとJの区別を設けていない)。このため、記号としては J {\displaystyle {\mathfrak {J}}} (J) を抜かすことがある( I {\displaystyle {\mathfrak {I}}} (I) の次の記号に K {\displaystyle {\mathfrak {K}}} (K) を使う)。また、T の筆記体と紛らわしいが、フラクトゥールで T は T {\displaystyle {\mathfrak {T}}} のようであり、区別が付く。 小文字はミーンラインより下に書かれるが、ベースラインを越えて下に突き出す。このため、実質的な大きさはこれだけでも大文字と同等である。さらに、i同様、上に点を付ける。フラクトゥールは j {\displaystyle {\mathfrak {j}}} 。文字の上部に付けるダイアクリティカルマークが付く場合、普通は点を付けないで、ダイアクリティカルマークのみを付ける。 メイリオなど、書体によってはゴシック体でも上部にセリフが付く。手書きでもセリフ付きブロック体が用いられることがある。 ギリシャ文字のΙ(イオタ)に由来し、キリル文字のІ, Јと同系の文字である。IとJの2形があったが、Iが母音を、Jが半母音を、区別して表すようになった。両者が区別して使われるようになったのは15世紀以降である。 文字 J は、半母音(硬口蓋接近音) [j] を表すのに用いられるほか、言語によっては以下のような音を表すのに用いられる。 東アジアの諸言語をラテン文字で転写する際には、[dʒ] の近似音を J で表すことが多い。有声音と無声音の区別がなく有気音と無気音を区別する言語では、無気音のほうに J が当てられる。その場合、J は無声音をも表すことになる。日本語のヤ行の子音等[j]の近似音は代わりにYで表すことが多い。
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Jは、ラテン文字(アルファベット)の10番目の文字。小文字は j。
{{Dablink|「'''J#'''」は[[Help:ページ名#特殊文字|MediaWiki上の制約]]から、この項目が表示されます。[[プログラミング言語]]については「[[J Sharp]]」をご覧ください。}} {{A-Z}} '''J'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[10]]番目の文字。小文字は '''j''' 。 == 字形 == [[File:J cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-J.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] 大文字は、縦棒の下が左に曲がった形である。しばしば折り返す。[[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{J}</math>で、書体によっては<math>\mathfrak{I}</math>([[I]]) と区別が付かない(あるいは、もともと異体字であったIとJの区別を設けていない)。このため、記号としては<math>\mathfrak{J}</math>(J) を抜かすことがある(<math>\mathfrak{I}</math>(I) の次の記号に<math>\mathfrak{K}</math>(K) を使う)。また、[[T]] の筆記体と紛らわしいが、フラクトゥールで T は<math>\mathfrak{T}</math>のようであり、区別が付く。 小文字は[[書体#欧文書体|ミーンライン]]より下に書かれるが、[[書体#欧文書体|ベースライン]]を越えて下に突き出す。このため、実質的な大きさはこれだけでも大文字と同等である。さらに、[[i]]同様、上に点を付ける。[[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{j}</math>。文字の上部に付ける[[ダイアクリティカルマーク]]が付く場合、普通は点を付けないで、ダイアクリティカルマークのみを付ける。 [[メイリオ]]など、書体によっては[[ゴシック体]]でも上部に[[セリフ (文字)|セリフ]]が付く。手書きでもセリフ付き[[ブロック体]]が用いられることがある。 == 歴史 == [[ギリシャ文字]]の{{Unicode|[[Ι]]}}(イオタ)に由来し、[[キリル文字]]の{{Unicode|[[І]]}}, {{Unicode|[[Ј]]}}と同系の文字である。IとJの2形があったが、[[I]]が[[母音]]を、'''J'''が[[半母音]]を、区別して表すようになった。両者が区別して使われるようになったのは[[15世紀]]以降である。 == 呼称 == * {{Lang-de|jot}}(ヨット){{IPA|jɔt}} * {{Lang-it|i lunga}}(イルンガ=長いI) * [[オランダ語]]・[[ハンガリー語]]:イェー * [[スウェーデン語]]・[[フィンランド語]]:イィー * [[デンマーク語]]・[[ノルウェー語]]:ヨッド * [[エスペラント]]:ヨー * {{Lang-en|jay}}(ヂェイ){{IPA|dʒeɪ}} * [[フランス語]]:ジ {{IPA|ʒi}} * [[トルコ語]]・[[ルーマニア語]]:ジェ {{IPA|ʒe}} * {{Lang-es|jota}}(ホタ)、{{lang|es|ijota}}(イホタ) * {{Lang-pt|jota}}(ジョッタ) * [[インドネシア語]]:ジェー *[[日本語]]:ジェー [d͡ʑe̞ꜜː]、ジェイ [d͡ʑe̞ꜜi] **[[日本放送協会]](NHK)では、Jの発音・表記として「ジェー」を優先し、「ジェイ」を発音の幅として認められるとする。国語辞典でも「ジェー」で項目を立てるものがほとんどである<ref>{{cite journal|和書 | title = 放送用語委員会 ● 第1413回(東京)外来語としての「アルファベット」の発音 | journal = 放送研究と調査 | volume = 67 | issue = 6 | date = 2017-06 | publisher = NHK放送文化研究所 | pages = 100-111 | url = https://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/pdf/20170701_1.pdf | format = PDF }}</ref>。 == 音価 == 文字 J は、半母音([[硬口蓋接近音]]) {{IPA|j}} を表すのに用いられるほか、言語によっては以下のような音を表すのに用いられる。 * [[有声後部歯茎摩擦音]] {{IPA|ʒ}} - フランス語、ポルトガル語、トルコ語 * [[有声後部歯茎破擦音]] {{IPA|dʒ}} - 英語 * [[無声軟口蓋摩擦音]] {{IPA|x}} - スペイン語 東アジアの諸言語をラテン文字で[[転写 (言語学)|転写]]する際には、{{IPA|dʒ}} の近似音を J で表すことが多い。[[有声音]]と[[無声音]]の区別がなく[[有気音]]と[[無気音]]を区別する言語では、無気音のほうに J が当てられる。その場合、J は無声音をも表すことになる。日本語の[[ヤ行]]の子音等{{IPA|j}}の近似音は代わりに[[Y]]で表すことが多い。 * [[朝鮮語]]では、{{IPA|dʒ}}に近い有声音で発音される{{lang|ko|[[ㅈ]]}}([[有声歯茎硬口蓋破擦音|{{IPA|dʑ}}]])に J が当てられている。大韓民国の[[文化観光部2000年式]]では無声音で{{IPA|tɕ}}と発音される場合でも母音が後続するなら J を用いる。{{lang|ko|[[ㅉ]]}}は常に無声音で発音されるが jj となる。 * [[中国語]]の[[漢語拼音]]では、J は[[無声歯茎硬口蓋破擦音]]の無気音{{IPA|tɕ}}を表す。 * [[日本語]]の[[ヘボン式ローマ字]]表記では、{{IPA|dʒ}}に近い「ジ」および「ジャ」行の子音{{IPA|dʑ}}に J が当てられている。ジャ行の表記において jy と表記されることもあるが、基本的には正しくない。なお訓令式では使用しない。 == J の意味 == === 学術的な記号・単位 === * [[エネルギー]]の[[単位]]、発熱量、[[ジュール]]。 * [[虚数単位]]の記号 ** [[電気工学]]では、[[電流]]を表す [[i]] と区別して、 i の代わりに j を虚数単位の記号に用いる(通常小文字)。 ** [[Python]]などのプログラミング言語で、虚数単位の記号に用いる。 ** [[数学]]分野では、[[四元数]]の虚数単位として用いられる。 * [[19|十九]]を意味する数字。[[二十進法]]以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において十九([[十進法]]の'''19''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] が混同し易いために、アルファベットの I を用いない(この場合、J が[[18|十八]]を意味する)例もある。 * [[APL]]の後継にあたる[[プログラミング言語]] - [[J (プログラミング言語)]] * [[医学]]や[[歯学]]領域で消毒剤としての[[ポビドンヨード]]や、[[ヨウ素]]を慣例的にJと略す。J綿球(ポビドンヨード綿球)や、JGパスタ(ヨードグリセリンパスタ製剤)など。[[ドイツ語]]のjodから。 * [[素粒子物理学]]で[[内量子数]](大文字・小文字) * [[量子力学]]で、交換積分を表す文字。[[交換相互作用]]を参照のこと。 * [[J/Ψ粒子]]の旧称、J粒子。 * [[数学]]や[[コンピュータ・プログラミング]]で、i, j, [[k]] は[[イテレータ]]、[[添数|インデックス]]、整数の値をとる変数名としてよく使われる。 === その他の記号 === * '''J'''apan([[日本]])の略としてよく用いられる(例:[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]、[[農業協同組合|JA]]、[[日本たばこ産業|JT]]、[[J-POP]]、[[日本航空|JAL]]、[[JR]]、[[日本中央競馬会|JRA]]、[[SoftBank (携帯電話)|J-PHONE]]、[[日本オリンピック委員会|JOC]]など)。 ** 日本の自動車[[国際識別記号]]。 ** なお、[[ISO 3166-1]]など、日本国の国名コードには、JP、JPNがよく使われる。過去には[[ジャップ|Jap]]が使われたが、英語で日本の蔑称にも使われたため、最近は避けられる。また、[[ISO 639]]など、[[日本語]]の言語名コードには[[JA]]がよく使われる。 ** かつての[[国際電気通信連合]]条約の[[呼出符号]]では、[[大日本帝国]]時に「J」単独での使用が認められたが、[[第二次世界大戦]]で[[日本の降伏|敗戦]]したため「J」1文字の[[世界のコールサイン割り当て一覧|コールサイン]]は取り上げられた。 ** [[サッカー]]・[[Jリーグ]]の略称。[[1993年]]から[[1995年]]頃のJリーグブーム時には、商品名(「Jビーフ」「Jポーク」等)や作品名(『[[勇者警察ジェイデッカー]]』『[[キャプテン翼 (アニメ)|キャプテン翼J]]』『[[仮面ライダーJ]]』等)にJを冠する事が流行した。 * [[トランプ]]などでジャック ([[11]]) を表す。 *[[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[JR西日本|JR]][[播但線]]、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[信貴線]]の[[路線記号]]として用いられる。 * [[不動産]]、[[建築]]において面積を表す[[畳 (単位)]](帖)の代わりとしてJと表記することがある。 * [[アステル]]・[[ウィルコム]]において、[[日本無線]]製端末を表す記号。 === 商品名・作品名・固有名等 === * [[インフィニティ (日産自動車)|INFINITI]]の車種、[[インフィニティ・J|J]]。 * 小説・ドラマ・アニメの題名 ** [[五條瑛]]のサスペンス小説の題名。 ** 日本の[[特撮]]ドラマ『[[仮面ライダーシリーズ]]』の劇場版作品『[[仮面ライダーJ]]』、及びその主人公の名。 ** 日本の[[漫画家]]・[[高橋陽一]]が原作の漫画『[[キャプテン翼]]』の小学生編を元に作られたアニメ作品『[[キャプテン翼 (アニメ)|キャプテン翼J]]』。 * 曲名 ** [[李仙姫]]の楽曲『J』。[[門倉有希]]や[[小柳ゆき]]などがカバーした。 ** [[奥井雅美]]の楽曲『[[J (奥井雅美の曲)|J]]』。アニメ『[[ジャングルDEいこう!]]』主題歌。 ** [[桂銀淑]]の楽曲『[[J (桂銀淑の曲)|J]]』。 ** プロレスラー [[ジャンボ鶴田]]の入場曲(作曲:[[鈴木宏昌]]) * 人名・団体名 ** [[LUNA SEA]]の[[ベーシスト]]で日本のミュージシャン - [[J (ミュージシャン)]] ** [[KoRocK]]のメンバーで日本の男性ダンサー - [[J (ダンサー)]] ** [[ジャニーズ事務所|ジャニーズ]]の略として用いられることがある。「[[J禁]]」など。 ** 漫画『[[魁!!男塾]]』および『[[曉!!男塾]]』『天より高く』の登場人物。⇒[[男塾 (架空の学校)#J(ジェイ)]] ** 漫画『[[爆走兄弟レッツ&amp;ゴー!!]]』の登場人物。 ** 漫画『[[BLOODY MONDAY]]』の登場人物。 ** ソルダード・J - アニメ『[[勇者王ガオガイガー]]』の登場人物。 ** アニメ『[[バトルスピリッツ 少年突破バシン]]』の登場人物。 ** アニメ『[[ポケットモンスター ダイヤモンド&amp;パール]]』の登場人物。⇒[[アニメ版ポケットモンスターの登場人物#J]] <!-- ** [[自衛隊]]を意味する[[隠語]]。J隊(自衛隊)、J官([[自衛官]])など<ref>{{Cite web|url=http://www.mmsdf.sakura.ne.jp/public/glossary/pukiwiki.php?J%C2%E2|title=【J隊】じぇいたい|accessdate=2020年7月21日|publisher=航空軍事用語辞典++}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.kkyg.jp/details/67/68/details_6867.html|title=J官【ジェーカン】|accessdate=2020年7月21日|publisher=隠語・誘導語データベース}}</ref>。/ コメントアウト。出典2件どちらも信頼できる情報源ではないため--> == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|004A|74||1-3-42|006A|106||1-3-74|}} {{ULu|FF2A|65322||1-3-42|FF4A|65354||1-3-74|全角}} {{ULu|24BF|9407||‐|24D9|9433||1-12-35|丸囲み}} {{ULu|1F119|127257||‐|24A5|9381||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D409|119817||‐|1D423|119843||‐|[[太字]]}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Juliet |Morse=・--- |Character=J0 |Braille=⠚ }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[Ĵ]] ĵ - [[サーカムフレックス]] * {{仮リンク|ǰ|en|J-caron}} - [[ハーチェク]](キャロン) * {{仮リンク|Ɉ|en|J with stroke}} - [[ストローク符号]] * {{Unicode|[[IJ|IJ]] ij}} - [[合字]] * {{Unicode|[[Ј]] ј}} - [[キリル文字]] {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/J
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ペン
ペン(蘭: 、英: pen)とは、硬筆の筆記具のうち、インクによって書く物の総称である。例えば、サインペン、フェルトペン、ボールペンなど「ペン」と付く物の他に、万年筆などもペンに当たる。元々は羽根ペンのようなつけペン形式で、先端にインクを適宜付け、毛管現象などでインクを保持させつつ書く形態であった。近代以降、ペンにインクが内蔵された形態が発達した。 ヒトがいつごろから指で砂や土に線を描いていたのか、指や棒に顔料をつけ岩壁などに線を描いていたのか正確なことは分かっていない。ただ、ラスコー洞窟の壁画など、太古の洞窟壁画には、ヒトの手形、木の棒に赤土などをつけて描いた線や絵画などが残されている。棒や茎を利用しそれを細く削ることで、指先に顔料をつけて描くのと比べて、細い線を描くことも出来る。ペンの最も単純な形態は、棒や茎の先に顔料をつけ、これを擦り付け線を描くことだとも言えよう。 シュメール人によって古代メソポタミア時代、3000年にもわたって楔形文字で様々な記録がされたわけだが、それは粘土板が湿ってやわらかいうちに、木の棒でくさびがたの印を複数つけて文字としたもので現代では楔形文字と呼ばれる。文字は粘土の凹みで表現され、インクは用いなかった。 パピルスに文字を書くには、古代エジプトでは葦の茎をペンとして使った。茎を斜めに切り、尖らせることで細い線も描けた。古代ギリシアやローマでもパピルスを用いたのだがギリシアやローマでは葦のペン以外にも青銅製のペンも用いた。なお古代ローマでは粘土板も用いられていた。ローマ軍がガリアやブリタニアに遠征した時に、小さな四角い木枠に粘土を入れた粘土板に、尖った固い筆記具でラテン語で、本拠地のローマへ通信文を書くのに用いたものが近年でも発掘されている。 タルムードの時代、ユダヤ人たちは葦の茎のペンを用いた。この時代のインクは、オリーブオイルの灯で器をあぶってできた煤を、オリーブオイルとはちみつと没食子(gallnut)に混ぜて用いた。 中世ヨーロッパでは羊皮紙に文字を書き、修道院などでは手書きの筆写による写本づくりを行っていた。ペンは鵞鳥などの羽根ペンを用い、インクは砕いた没食子を水で溶いたものとアラビアゴムの混合物を煤や鉄塩で着色した没食子インクを使った。 1809年にイギリスのフレデリック・バーソロミュー・フォルシュによって万年筆の特許が取得されるなど、近代になって、インクをペン内部に蓄えペン先にインクを供給する構造が発明された。今日利用されるペンの多くはインクをタンクもしくはカートリッジにより軸内に貯めた形態となっている。こうしたタイプのペンのインクの供給方法には、毛細管現象を利用するものと、重力により自然とペン先にインクが集まるようにしたものが見られ、こと万年筆ではその両方を利用している。 ボールペンではややその事情が異なり、先端部で自由に回転する小さなボールにインクを付着させ、ボールを転がしながら対象に擦り付ける形で線を描くものだが、19世紀末に原理は発案されながら、インクの粘性など実用に至るのは1930-1940年台である。 弱点はペン先のボールと対象の間に十分な摩擦力が無いとボールが回転せず、線を描くことが出来ない点で、あるいは、ある程度は重力でインクが降下しないとペン先のボールにインクが行き渡らないため、一般のボールペンは万年筆同様、逆さに使用したり無重力環境では利用できない。そのような環境で利用できるようにガスでインクを加圧したスペースペンも作られている。 ただ、マンガを描く人、こだわりのある芸術家などでは、今もつけペンやガラスペンなどを用いる場合があり、こういう人は、ペンをインク壺(英語版)につけては線を描いたり文字を書くということを今もさかんに行っている。 近代的なペンでは、高級品では軸が象牙製、琥珀製、貴金属製などもある。合成樹脂製の登場によって安価になり形状も多様化し、使い捨てのものも増えた。貿易における商材として関税の扱いは国により幅がある。 現在では多種多様な製品が流通しており、特定の作業に特化したもの、特殊な機能を追加したものなどもある。ペン先やペン構造に工夫の凝らされたペン、軸にゴム製の部品を組み合わせ、すべりにくくし「グリップ」性能を高めたものや、軸素材に抗菌素材を利用して衛生をアピールする製品もある。インク、顔料、塗料に特殊な工夫を凝らしたペンがある。 ペンでは一般に、書いたものが長年月消えず、文書が長期保存できることが求められ、それが評価されているものは多い。油性ボールペンなどは長年月でも退色しないことで、保存文書に適した筆記具として、公的な書類で使用することが認められている。だが最近ではそうした常識の外にビジネスチャンスを見出し、あえて書いたものが簡単に消せるインクを用いていることをアピールポイントにしたペンも登場した。あるいは一方でみつろうペン、触図筆ペンなど視覚を補うユニバーサルな製品の開発も進み、他方でペンに変わる筆記形態へと進んでいる。 ペンに強いこだわりを持つ人、「ペンのマニア」と呼べるような人もいる。 ペンは転じて、言葉・文章、文章を書くことを比喩的(メタファー的に)指す場合もある。「ペンは剣よりも強し」は、言葉の力は武力・暴力よりも強い、といった意味である。また、「ペンネーム」「ペンパル」などもその類である。 また、ペンのように細長い物をペンに喩える例も見られ、ペンではないのに名称に「ペン」と付く事例が幾つもある。例えば、アナフィラキシーショックの治療に使用することのあるエピペン、糖尿病治療に使用することのあるインスリン自己注射キットの商品名の一部(ノボペン、ヒューマペン、フレックスペン、ミリオペンなど)、電気機器への入力に使うデジタルペン、やる気ペンが挙げられ、裁縫に用いるチャコペンなどはチョークを芯にした鉛筆(ペンシル)である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ペン(蘭: 、英: pen)とは、硬筆の筆記具のうち、インクによって書く物の総称である。例えば、サインペン、フェルトペン、ボールペンなど「ペン」と付く物の他に、万年筆などもペンに当たる。元々は羽根ペンのようなつけペン形式で、先端にインクを適宜付け、毛管現象などでインクを保持させつつ書く形態であった。近代以降、ペンにインクが内蔵された形態が発達した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ヒトがいつごろから指で砂や土に線を描いていたのか、指や棒に顔料をつけ岩壁などに線を描いていたのか正確なことは分かっていない。ただ、ラスコー洞窟の壁画など、太古の洞窟壁画には、ヒトの手形、木の棒に赤土などをつけて描いた線や絵画などが残されている。棒や茎を利用しそれを細く削ることで、指先に顔料をつけて描くのと比べて、細い線を描くことも出来る。ペンの最も単純な形態は、棒や茎の先に顔料をつけ、これを擦り付け線を描くことだとも言えよう。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "シュメール人によって古代メソポタミア時代、3000年にもわたって楔形文字で様々な記録がされたわけだが、それは粘土板が湿ってやわらかいうちに、木の棒でくさびがたの印を複数つけて文字としたもので現代では楔形文字と呼ばれる。文字は粘土の凹みで表現され、インクは用いなかった。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "パピルスに文字を書くには、古代エジプトでは葦の茎をペンとして使った。茎を斜めに切り、尖らせることで細い線も描けた。古代ギリシアやローマでもパピルスを用いたのだがギリシアやローマでは葦のペン以外にも青銅製のペンも用いた。なお古代ローマでは粘土板も用いられていた。ローマ軍がガリアやブリタニアに遠征した時に、小さな四角い木枠に粘土を入れた粘土板に、尖った固い筆記具でラテン語で、本拠地のローマへ通信文を書くのに用いたものが近年でも発掘されている。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "タルムードの時代、ユダヤ人たちは葦の茎のペンを用いた。この時代のインクは、オリーブオイルの灯で器をあぶってできた煤を、オリーブオイルとはちみつと没食子(gallnut)に混ぜて用いた。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "中世ヨーロッパでは羊皮紙に文字を書き、修道院などでは手書きの筆写による写本づくりを行っていた。ペンは鵞鳥などの羽根ペンを用い、インクは砕いた没食子を水で溶いたものとアラビアゴムの混合物を煤や鉄塩で着色した没食子インクを使った。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1809年にイギリスのフレデリック・バーソロミュー・フォルシュによって万年筆の特許が取得されるなど、近代になって、インクをペン内部に蓄えペン先にインクを供給する構造が発明された。今日利用されるペンの多くはインクをタンクもしくはカートリッジにより軸内に貯めた形態となっている。こうしたタイプのペンのインクの供給方法には、毛細管現象を利用するものと、重力により自然とペン先にインクが集まるようにしたものが見られ、こと万年筆ではその両方を利用している。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ボールペンではややその事情が異なり、先端部で自由に回転する小さなボールにインクを付着させ、ボールを転がしながら対象に擦り付ける形で線を描くものだが、19世紀末に原理は発案されながら、インクの粘性など実用に至るのは1930-1940年台である。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "弱点はペン先のボールと対象の間に十分な摩擦力が無いとボールが回転せず、線を描くことが出来ない点で、あるいは、ある程度は重力でインクが降下しないとペン先のボールにインクが行き渡らないため、一般のボールペンは万年筆同様、逆さに使用したり無重力環境では利用できない。そのような環境で利用できるようにガスでインクを加圧したスペースペンも作られている。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ただ、マンガを描く人、こだわりのある芸術家などでは、今もつけペンやガラスペンなどを用いる場合があり、こういう人は、ペンをインク壺(英語版)につけては線を描いたり文字を書くということを今もさかんに行っている。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "近代的なペンでは、高級品では軸が象牙製、琥珀製、貴金属製などもある。合成樹脂製の登場によって安価になり形状も多様化し、使い捨てのものも増えた。貿易における商材として関税の扱いは国により幅がある。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現在では多種多様な製品が流通しており、特定の作業に特化したもの、特殊な機能を追加したものなどもある。ペン先やペン構造に工夫の凝らされたペン、軸にゴム製の部品を組み合わせ、すべりにくくし「グリップ」性能を高めたものや、軸素材に抗菌素材を利用して衛生をアピールする製品もある。インク、顔料、塗料に特殊な工夫を凝らしたペンがある。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ペンでは一般に、書いたものが長年月消えず、文書が長期保存できることが求められ、それが評価されているものは多い。油性ボールペンなどは長年月でも退色しないことで、保存文書に適した筆記具として、公的な書類で使用することが認められている。だが最近ではそうした常識の外にビジネスチャンスを見出し、あえて書いたものが簡単に消せるインクを用いていることをアピールポイントにしたペンも登場した。あるいは一方でみつろうペン、触図筆ペンなど視覚を補うユニバーサルな製品の開発も進み、他方でペンに変わる筆記形態へと進んでいる。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ペンに強いこだわりを持つ人、「ペンのマニア」と呼べるような人もいる。", "title": "ペンの材質、インクの変遷" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ペンは転じて、言葉・文章、文章を書くことを比喩的(メタファー的に)指す場合もある。「ペンは剣よりも強し」は、言葉の力は武力・暴力よりも強い、といった意味である。また、「ペンネーム」「ペンパル」などもその類である。", "title": "比喩" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、ペンのように細長い物をペンに喩える例も見られ、ペンではないのに名称に「ペン」と付く事例が幾つもある。例えば、アナフィラキシーショックの治療に使用することのあるエピペン、糖尿病治療に使用することのあるインスリン自己注射キットの商品名の一部(ノボペン、ヒューマペン、フレックスペン、ミリオペンなど)、電気機器への入力に使うデジタルペン、やる気ペンが挙げられ、裁縫に用いるチャコペンなどはチョークを芯にした鉛筆(ペンシル)である。", "title": "比喩" } ]
ペンとは、硬筆の筆記具のうち、インクによって書く物の総称である。例えば、サインペン、フェルトペン、ボールペンなど「ペン」と付く物の他に、万年筆などもペンに当たる。元々は羽根ペンのようなつけペン形式で、先端にインクを適宜付け、毛管現象などでインクを保持させつつ書く形態であった。近代以降、ペンにインクが内蔵された形態が発達した。
{{Otheruses|筆記具|その他}}'''ペン'''({{lang-nl-short}}、{{lang-en-short|pen}})とは、[[硬筆]]の[[文房具|筆記具]]のうち、[[インク]]によって書く物の総称である。例えば、[[サインペン]]、[[フェルトペン]]、[[ボールペン]]など「ペン」と付く物の他に、[[万年筆]]などもペンに当たる。元々は[[羽根ペン]]のような[[つけペン]]形式で、先端にインクを適宜付け、毛管現象などでインクを保持させつつ書く形態であった。近代以降、ペンにインクが内蔵された形態が発達した。 [[File:Holding-a-ruling-pen3.jpg|thumb|right|260px|ペン(と[[定規]])で[[線]]を引いているところ。]] == ペンの材質、インクの変遷 == [[File:Pen-writing.jpg|thumb|260px|right|ペンを持ち[[文書]]の内容を確認しているところ。]] [[File:Jurij Šubic - Žiga Zois.jpg|thumb|260px|right|[[羽ペン]]を持つ人([[1885年]]、[[フレスコ画]])]] [[ヒト]]がいつごろから[[指]]で[[砂]]や[[土]]に[[線]]を描いていたのか、[[指]]や[[棒]]に[[顔料]]をつけ[[岩壁]]などに線を描いていたのか正確なことは分かっていない。ただ、[[ラスコー洞窟]]の[[壁画]]など、太古の[[洞窟壁画]]には、ヒトの[[手形・足形|手形]]、[[木]]の棒に赤土などをつけて描いた線や絵画などが残されている。棒や[[茎]]を利用しそれを細く削ることで、指先に顔料をつけて描くのと比べて、細い線を描くことも出来る。ペンの最も単純な形態は、[[棒]]や茎の先に顔料をつけ、これを擦り付け線を描くことだとも言えよう。 [[シュメール人]]によって[[古代メソポタミア]]時代、3000年にもわたって[[楔形文字]]で様々な記録がされたわけだが、それは[[粘土板]]が湿ってやわらかいうちに、木の棒でくさびがたの印を複数つけて文字としたもので現代では[[楔形文字]]と呼ばれる。文字は粘土の凹みで表現され、[[インク]]は用いなかった。 [[パピルス]]に文字を書くには、[[古代エジプト]]では[[葦]]の茎をペンとして使った<ref>{{cite journal|和書|author=西川 嘉廣|title=紀元前に生まれた筆記具--「葦ペン」の歴史|journal=百万塔|issn=0439-9862|publisher=紙の博物館|date=2003年10月|number=116|pages=68-73|naid=40006005868}}</ref>。茎を斜めに切り、尖らせることで細い線も描けた。[[古代ギリシア]]や[[ローマ]]でもパピルスを用いたのだがギリシアやローマでは葦のペン以外にも[[青銅]]製のペンも用いた。なお古代ローマでは粘土板も用いられていた。ローマ軍が[[ガリア]]や[[ブリタニア]]に遠征した時に、小さな四角い木枠に粘土を入れた粘土板に、尖った固い筆記具でラテン語で、本拠地のローマへ通信文を書くのに用いたものが近年でも発掘されている{{要出典|date=2020年12月}}。 [[タルムード]]の時代、ユダヤ人たちは葦の茎のペンを用いた<ref name="Pelc">Julie Pelc, ''The Jewish Bible: A JPS Guide,The Jewish Publication Society'',2010. p.26</ref>。この時代のインクは、オリーブオイルの灯で器をあぶってできた[[煤]]を、[[オリーブオイル]]と[[はちみつ]]と[[没食子]](gallnut)に混ぜて用いた<ref name="Pelc" />。 [[中世ヨーロッパ]]では[[羊皮紙]]に文字を書き、修道院などでは手書きの筆写による[[写本]]づくりを行っていた。ペンは[[ガチョウ|鵞鳥]]などの[[羽根ペン]]を用い、インクは砕いた没食子を水で溶いたものと[[アラビアゴム]]の混合物を[[煤]]や[[鉄塩]]で着色した[[没食子インク]]を使った。 === 近代以降の発明 === [[1809年]]にイギリスのフレデリック・バーソロミュー・フォルシュによって[[万年筆]]の特許が取得されるなど、[[近代]]になって、インクをペン内部に蓄えペン先にインクを供給する構造が発明された。今日利用されるペンの多くはインクをタンクもしくはカートリッジにより軸内に貯めた形態となっている。こうしたタイプのペンのインクの供給方法には、[[毛細管現象]]を利用するものと、[[重力]]により自然とペン先にインクが集まるようにしたものが見られ、こと[[万年筆]]ではその両方を利用している。 {{See also|ビーロー・ラースロー}} [[ボールペン]]ではややその事情が異なり、先端部で自由に回転する小さなボールにインクを付着させ、ボールを転がしながら対象に擦り付ける形で線を描くものだが、19世紀末に原理は発案されながら、インクの粘性など実用に至るのは1930-1940年台である。 弱点はペン先のボールと対象の間に十分な摩擦力が無いとボールが回転せず、線を描くことが出来ない点で、あるいは、ある程度は重力でインクが降下しないとペン先のボールにインクが行き渡らないため、一般のボールペンは万年筆同様、逆さに使用したり[[無重力]]環境では利用できない。そのような環境で利用できるようにガスでインクを加圧した[[スペースペン]]も作られている。 ただ、マンガを描く人、こだわりのある芸術家などでは、今も[[つけペン]]や[[ガラスペン]]などを用いる場合があり、こういう人は、ペンを{{仮リンク|インク壺|en|Inkwell}}につけては線を描いたり文字を書くということを今もさかんに行っている。 近代的なペンでは、高級品では軸が[[象牙]]製、[[琥珀]]製、貴金属製などもある。[[合成樹脂]]製の登場によって安価になり形状も多様化し、[[使い捨て]]のものも増えた。貿易における商材として関税の扱いは国により幅がある<ref>{{Cite book|和書|title=身辺細貨、喫煙具、筆記具 &mdash; 米国の貿易および関税情報|date=|year=1970|publisher=日本貿易振興会|NCID=BA61865928}}</ref>。 現在では多種多様な製品が流通しており<ref>{{cite journal|和書|author=永井 芳男|title=ボールペンとサインペン・出そろった現代社会の筆記具--技術は突破する-36-|journal=朝日ジャーナル|issn=0571-2378|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1965年12月|volume=7|number=53|pages=35-40|naid=40000070233}}</ref><ref>{{cite journal|和書|title= 機構に工夫を凝らした文具が続々|journal=日経ものづくり|issn=1349-2772|publisher=日経BP社|date=2008年6月|volume=|number=645|pages=36-40|naid=40016083240}}</ref><ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=|year=|date=2011/04/05|title=消せる、滑らか、多色…最新ペン「選ぶべき1本」 (最新の使いこなしワザ一挙公開! 文具術--アイデア文具からデジタルまで) -- (選べる!使える!)|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/140000085133|journal=日経ビジネスassocie|volume=10|issue=6|page=|pages=44-48|publisher=日経BP社|ISSN=1347-2844}}</ref><ref>{{cite journal|和書|title=「筆記具なんてどれも同じ」と思っていませんか? シーン別 最適の1本を探す (特集 最新版 仕事に効く! 文具術) -- (賢人直伝! 特別講座)|journal=日経ビジネスassocie|issn=1347-2844|publisher=日経BP社|date=2012年3月|volume=11|number=2|pages=46-49|naid=40019201539}}</ref>、特定の作業に特化したもの<ref>{{cite journal|和書|title=技術&イノベーション 超極細ボールペン 世界最小の文字が書ける|journal=日経ビジネス|issn=0029-0491|publisher=日経BP社|date=2005年5月9日|volume=|number=1290|pages=90-92|naid=40006705541}}</ref>、特殊な機能を追加したものなどもある。ペン先やペン構造に工夫の凝らされたペン、軸にゴム製の部品を組み合わせ、すべりにくくし「グリップ」性能を高めたものや、軸素材に[[殺菌|抗菌素材]]を利用して[[衛生]]をアピールする製品もある。インク<ref>{{cite journal|和書|author=川端 克彦|title=筆記具用インキ(<特集>記録と記憶のメカニズム)|journal=化学と教育|issn=0386-2151|publisher=公益社団法人 日本化学会|year=1995|volume=43|number=5|pages=286-290|naid=110001828723|doi=10.20665/kakyoshi.43.5_286}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author=後居 洋介|title=添加剤としてのセルロースナノファイバーの特徴|journal=粉砕|issn=0429-9051|publisher=ホソカワミクロン株式会社|year=2018|volume=62|number=|pages=39-43|naid=130007530913|doi=10.24611/micromeritics.2019009}}</ref>、[[顔料]]、[[塗料]]に特殊な工夫を凝らしたペンがある<ref name=":0" />。 ペンでは一般に、書いたものが長年月消えず、文書が長期保存できることが求められ、それが評価されているものは多い。油性ボールペンなどは長年月でも退色しないことで、保存文書に適した筆記具として、公的な書類で使用することが認められている{{efn2|個人認証としての認証は、電子化により様式を変えた<ref>{{Cite journal|和書|author=安田久美子|year=|date=2007-12-06|title=動画像によるオンライン署名認証 Sequential Monte Carlo を用いたペン先追跡|journal=電子情報通信学会技術研究報告. PRMU, パターン認識・メディア理解|volume=107|issue=384|page=|pages=53-58|publisher=一般社団法人電子情報通信学会|ISSN=0913-5685|NAID=110006549345|author2=村松大吾|author3=松井淳|author4=松本隆}}</ref>。}}。だが最近ではそうした常識の外にビジネスチャンスを見出し、あえて書いたものが簡単に消せるインクを用いていることをアピールポイントにしたペンも登場した。あるいは一方でみつろうペン<ref>{{Cite web|和書|title=みつろうぺん(トップページ)|url=http://mitsuroupen.jp/|website=mitsuroupen.jp|accessdate=2020-12-20}}</ref>、触図筆ペンなど視覚を補う[[ユニバーサルデザイン|ユニバーサルな]]製品の開発<ref>{{Cite journal|和書|last=土井|author=|first=幸輝|last2=豊田|first2=航|last3=田中|first3=隆|year=|date=2011|title=S153012 視覚障害者用の触図筆ペンの開発と評価(S153012 触覚インターフェース(1))|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsmemecj/2011/0/2011__S153012-1/_article/-char/ja/|journal=年次大会 (The Proceedings of Mechanical Engineering Congress, Japan)|volume=2011|issue=|page=|pages=S153012–1–_S153012-4|publisher=一般社団法人 日本機械学会|language=日英|doi=10.1299/jsmemecj.2011._S153012-1|issn=2424-2667|trans-title=S153012 The Development and Evaluation of Tactile Drawing Pen for People with Visual Impairment}}</ref><ref>{{cite journal|和書|title=町工場発の新たな筆記具「触図筆ペン」(特集 生活を支援する福祉機器(2))|journal=リハビリテーション |number=547|date=2012年10 月|pages=14-17|author=田中隆|location=東京 |publisher= 鉄道身障者福祉協会|issn=0035-5305}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author=有限会社 安久工機|title=視覚障害者用筆記具「触図筆ペン」|journal=計測と制御|ISSN=0453-4662|publisher=公益社団法人 計測自動制御学会|year=2016|volume=55|number=2|pages=114-115|naid=130005127138|doi=10.11499/sicejl.55.114}}</ref>も進み、他方でペンに変わる筆記形態へと進んでいる<ref>{{Cite journal|和書|author=天白成一|year=|date=2010-10-01|title=iPadを利用した発声障がい者向け日常会話補助用音声合成装置|journal=電子情報通信学会技術研究報告. WIT, 福祉情報工学|volume=110|issue=221|page=|pages=81-86|publisher=一般社団法人電子情報通信学会|issn=0913-5685|author2=平井俊男|author3=傍島康雄|author4=藤井泰宏|author5=三木睦明}}</ref>。 ペンに強いこだわりを持つ人、「ペンの[[マニア]]」と呼べるような人もいる。 == 種類 == [[Image:Many colored pens.jpg|thumb|260px|right|文房具売り場に並ぶ様々なペン類。]] * [[つけペン]] ** [[つけペン#Gペン|Gペン]] ** [[丸ペン]] ** [[スクールペン]] ** [[カブラペン]] ** [[日本字ペン]] ** [[羽根ペン]] ** [[ガラスペン]] ** [[烏口]](からすぐち) {{div col}}<!-- 50音順 --> * [[蛍光ペン]] * [[サインペン]] * [[製図ペン]] * [[フェルトペン]] * [[ボールペン]] * [[万年筆]] * [[ミリペン]] * [[ローラーボール]] {{div col end}} * [[スタイラス]] ** [[デジタルペン]] ** [[アクティブペン]] == 比喩 == ペンは転じて、言葉・文章、文章を書くことを比喩的(メタファー的に)指す場合もある。「[[wikt:ペンは剣よりも強し|ペンは剣よりも強し]]」は、言葉の力は武力・暴力よりも強い、といった意味である。また、「[[ペンネーム]]」「[[ペンパル]]」などもその類である。 また、ペンのように細長い物をペンに喩える例も見られ、ペンではないのに名称に「ペン」と付く事例が幾つもある。例えば、[[アナフィラキシー]]ショックの治療に使用することのある[[エピペン]]<ref>{{Cite journal|和書|author= 佐藤さくら |author2= 田知本寛 |author3= 小俣貴嗣 |author4= 緒方美佳 |author5= 今井孝成 |author6= 富川盛光 |author7= 宿谷明紀 |author8= 海老澤元宏|title=食物アレルギー患者へのエピペン^【○!R】処方症例の検討|ISSN=0914-2649|publisher=日本小児アレルギー学会|url=http://joi.jlc.jst.go.jp/JST.JSTAGE/jspaci/21.187?from=CrossRef|journal=Nihon Shoni Arerugi Gakkaishi. The Japanese Journal of Pediatric Allergy and Clinical Immunollogy|volume=21|issue=2|pages=187–195|doi=10.3388/jspaci.21.187|issn=0914-2649}}</ref>、糖尿病治療に使用することのある[[インスリン]]自己注射キット<ref>{{Cite book|和書|title=インスリン自己注射ガイド|date=|year=2014|publisher=日本糖尿病協会|url=https://www.nittokyo.or.jp/uploads/files/GUIDE_140515_B5.pdf|format=PDF|accessdate=2020-12-20}}</ref>の商品名の一部(ノボペン<ref>{{Cite web|和書|title=ノボ、新型のインスリンペン型注入器「ノボペン4」発売|url=https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/cvdprem/topics/200906/511203.html|website=日経メディカル|accessdate=2020-12-20|language=ja|last=日経メディカル}}</ref>、ヒューマペン、フレックスペン<ref>{{Cite web|和書|title=ノボラピッド注フレックスペンの基本情報(薬効分類・副作用・添付文書など)|日経メディカル処方薬事典|url=https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/drugdic/prd/24/2492415G1031.html|website=日経メディカル処方薬事典|accessdate=2020-12-20|language=ja|last=日経メディカル処方薬事典}}</ref>、ミリオペン<ref>{{Cite web|和書|title=ヒューマログ注ミリオペンの基本情報(薬効分類・副作用・添付文書など)|日経メディカル処方薬事典|url=https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/drugdic/prd/24/2492414G5024.html|website=日経メディカル処方薬事典|accessdate=2020-12-20|language=ja|last=日経メディカル処方薬事典}}</ref>など<ref>{{Cite book|和書|title=インスリンペン型注入器とその注射針(A型専用注射針)の組み合わせ使用について|date=2009年2月|year=|publisher=医薬品医療機器総合機構|series=PMDA 医療安全情報|accessdate=2020-12-20|issue=8|url=https://www.pmda.go.jp/files/000145653.pdf|format=PDF}}</ref>)、電気機器への入力に使う[[スタイラス|デジタルペン]]<ref>{{Cite journal|和書|author=橋本 美奈子|year=|date=1996-11-15|title=ペン入力のための楕円形仮想キーボードとベクトル入力法|journal=情報処理学会論文誌|volume=37|issue=11|page=|pages=2105-2115|publisher=一般社団法人情報処理学会|ISSN=1882-7764|author2=長嶋雲兵|author3=冨樫雅文|author4=細矢治夫}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=平林ルミ|year=2010|title=小学生の視写における書字行動プロセスの時間分析|journal=特殊教育学研究|volume=48|issue=4|page=|pages=275-284|publisher=一般社団法人 日本特殊教育学会|DOI=10.6033/tokkyou.48.275|ISSN=0387-3374|NAID=110008661614|author2=河野俊寛|author3=中邑賢龍|author4=}}</ref>、やる気ペン<ref>{{cite journal|和書|author=髙瀬文人|year=|date=2019年12月|title=しゅくだいやる気ペン コクヨ 子どもの「やる気」と親子関係をリ・デザインした筆記具。 (特集 手書きを味わう 偏愛文具) -- (デジタル時代の手書きの効用。)|journal=東京人|volume=34|number=13|page=|pages=63-65|publisher=都市出版|issn=0912-0173|naid=40022045202}}</ref>が挙げられ、裁縫に用いる[[チャコ#ペン型|チャコペン]]などは[[チョーク]]を芯にした鉛筆(ペンシル)である。 == 主な製造メーカー == {{div col}}<!-- 50音順 --> * [[ウォーターマン]] * [[オート (文具)|オート]] * [[サクラクレパス]] * [[セーラー万年筆]] * [[ゼブラ (文具メーカー)|ゼブラ]] * [[寺西化学工業]] * [[トンボ鉛筆]] * [[日本パール加工]] * [[パーカー (筆記具ブランド)|パーカー]] * [[パイロットコーポレーション]] * [[ファーバーカステル]] * [[プラチナ万年筆]] * [[ぺんてる]] * [[マービー]] * [[三菱鉛筆]] <ref>{{cite journal|和書|title=商品開発 三菱鉛筆/筆記具メーカー 40年越しの改革、奏功|journal=日経ビジネス = Nikkei business|issn=0029-0491|publisher=日経BP|date=2020年9月21日|volume=|number=2058|pages=50-54|naid=40022347464}}</ref> * [[モンブラン]] {{div col end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|33em}} == 関連項目 == * [[ペン回し]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へん}} [[Category:ペン|*]] [[Category:筆記具]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3
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M
Mは、ラテン文字(アルファベット)の13番目の文字。小文字は m 。ギリシア文字のΜ(ミュー)に由来し、キリル文字のМに相当する。 2つの字形が使われる。 この文字が表す音素は、[m](両唇鼻音)およびその類似音である。
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Mは、ラテン文字(アルファベット)の13番目の文字。小文字は m。ギリシア文字のΜ(ミュー)に由来し、キリル文字のМに相当する。
{{Otheruses|文字|その他}} {{出典の明記|date=2020年10月}} {{A-Z}} '''M'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[13]]番目の文字。[[小文字]]は '''m''' 。[[ギリシア文字]]の[[Μ]](ミュー)に由来し、[[キリル文字]]の[[М]]に相当する。 == 字形 == [[File:M cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-M.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] 2つの字形が使われる。 # 横に連なる折れ線で、上で2回、下で1回屈曲する4本の直線である。普通は最初と最後の直線が垂直線となる。[[大文字]]は一般にこの字形による。 # 上の屈曲が丸まり、下部は垂直な線となる。一番左の直線はさらに上にまっすぐのびる。左にセリフを出したり左に曲がったりすることがある。右下は右に曲がったり、さらに上に折り返すことがある。小文字はこの字形である。大文字筆記体でこの字形を取ることがある。[[フラクトゥール]]はいずれもこの字形に基づき、<math>\mathfrak{M\ m}</math>である。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[フランス語|仏]]・[[英語|英]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ポルトガル語|葡]]・[[ルーマニア語|羅]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[インドネシア語|尼]] ・[[日本語|日]]:エム {{IPA|ɛm}}/{{IPA|em}} * {{Lang-es-short|eme}}(エメ){{IPA|'eme}} * {{Lang-it-short|emme}}(エンメ) * [[エスペラント|エス]]:モー == 音価 == この文字が表す音素は、{{IPA|m}}([[両唇鼻音]])およびその類似音である。 * 多くの言語で、唇歯摩擦音 {{IPA|f}}, {{IPA|v}} の前では[[異音]]として[[唇歯鼻音]] {{IPA|ɱ}} になることがある。 *フランス語では、同じ[[単語]]内の直前に[[母音]]があり、直後が母音([[黙字|発音しない]] e は除く)か m でなければ、直前の母音を[[同化 (音声学)|同化]]し[[鼻母音]]にする。このとき、{{ipa|m}} は発音しない。 **ただし[[リエゾン]](「母音+m(語境界)母音」)の場合、{{ipa|m}}は発音され、鼻母音化も保たれる。 ***「母音+mm+母音」で鼻母音化が起こるかどうかは語による。 **これらの振る舞いは [[n]] と同様である。 * スペイン語では、語末で母音を伴わないとき、{{IPA|n}} になる。 == M の意味 == === 大文字・小文字 === * [[質量]] ({{en|mass}})。 ** 通常の[[物理量]]としては小文字イタリック体の ''m'' を使う。 ** 大きな質量(2つの質量の大きいほう、天体の質量など)を ''M'' で表すこともある。 ** 質量の[[量の次元|次元]]を[[サンセリフ]][[ローマン体]]の大文字 M で表す。[[密度]]の次元は [長さ]{{sup-|3}}&times;[質量]=L{{sup-|3}}M など。 * [[等級 (天文)|等級]](天体の)({{en|magnitude}})。大文字は[[絶対等級]]、小文字は[[実視等級]]を表す。 * [[月 (暦)|月]] ({{en|month}}) または [[分]] ({{en|minute}})。[[日付|日]][[時刻|時]]の表現で、YYYY/MM/DD hh:mm:dd などのように使う。大文字・小文字共に使うが、年月日を大文字、時分秒を小文字と区別することもある([[ISO 8601]] など)。 === 原則大文字 === ==== 学術 ==== * [[ローマ数字]]で[[1000]]。 * 単位 ** [[メガ]] ({{fr|mega}})、またはミリオン ({{en|million}})。100万。例えば¥100Mは1億円。[[ビット]]と[[バイト (情報)|バイト]]に対しては1048576 (= 2{{sup|20}}) を表すこともあるが、この意味では正式には Mi([[メビ]])を使う。 ** [[平均]](mean) ** [[マイル]] ({{en|mile}})。 ** [[モル濃度]] (mol/l)。読みはモル、モル・パー・リッター、モラー (MOL per litER)。 * [[磁化]] ({{en|magnitization}})。 * 地震[[マグニチュード]] ({{en|magnitude}})。例:M 6.5。 * [[化学]]では、[[金属元素]] ({{en|metal}})。[[元素記号]]の代わりに使い、任意の金属元素を表す。 * 天体 ** [[メシエカタログ]] ({{fr|Messier}}) の符号。[[かに星雲|M1]]のようにあとにカタログ番号を続ける。 ** [[火星]] ({{en|Mars}})。 ** [[月]] ({{en|Moon}})。 ** [[ミラ型変光星]] ({{en|Mira variable}})。 * [[文法]]で、[[修飾語]] ({{en|modifier}})。S・V・O([[主語]]・[[動詞]]・[[目的語]])などと共に使う。 * 恒星の[[スペクトル型]]で、熱温度が2500–3900[[ケルビン|K]]のクラス。 * [[マッハ数]] ({{de|Mach}})。Ma とも。 *[[修士号]] (master) の略。M1と表記されれば修士課程1年生の意。 *[[行列環]] * [[数学]]においては右下添え字を伴って[[メルセンヌ数]]を表す。 * [[22|二十二]]を意味する数字。[[三十六進法]]など、二十三進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において二十二([[十進法]]の'''22''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] が混同し易いために、アルファベットの I を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、[[L]] が[[20|二十]]、M が[[21|二十一]]を意味する。 ==== 工学・産業 ==== * [[明朝体]] ({{en|mincho}})。MMは中明朝を表す(2文字目のMは{{la|medium}})。 * [[NTTドコモ]]・[[DDIセルラーグループ]]→[[Au (携帯電話)|au]]で[[モトローラ]]製を表す[[携帯電話]]端末型番の文字。[[M702iG]], [[C100M]]など。([[SoftBank (携帯電話)|ソフトバンク]]では「MO」) * [[アステル]]のPHS端末の型番では、[[三菱電機]]製を表す(通常は「D」)。 * [[電車]]の車種で、[[動力車|電動車]](モーター付車両)。対義語は「T」([[付随車]]、モーターなし車両)。[[JR]]の[[列車番号]]は、別に指定がない場合、電車列車の末尾にMを[[列車番号の付番方法|付番]]する。 * カラー印刷での[[マゼンタ]] ({{en|magenta}})。[[CMY]]・[[CMYK]][[色空間]]の[[原色]]。 * [[超音波検査#Mモード|Mモード]]。[[超音波検査]]方法。 * [[BMW]]の高性能モデル開発部門子会社 [[BMW M]]。 * 商品名 ** [[メルセデス・ベンツ]]の車種の[[メルセデス・ベンツ・Mクラス|Mクラス]]。 ** [[日産自動車]]の[[高級車|高級乗用車]][[インフィニティ・M]]。かつてのY34型[[日産・グロリア|グロリア]]の北米地域輸出名で、日本国内では[[日産・フーガ|フーガ]]に当たる。 * [[ソフトウェア開発工程]]における製造(実装、コーディング)({{en|make}})。 * [[海図]]の記号で「底質が[[泥]]」({{en|mud}})。 * [[ファイル:MacDonalds sign in Times Square.jpg|80px|thumb|[[マクドナルド]]]] [[マクドナルド]]のロゴ([[ゴールデンアーチ]])は大文字のMを模していると思われることが多いが、実際には世界初のマクドナルド店舗にあった2つのアーチを重ねて模したものである。 * [[メタルハライドランプ]]。構内電気設備配線用図記号([[JIS]] C 0303:2000)で用いられる。 * 建物などで中何階を表す(例:中2階→M2F)。一般的には地上階では中○階は○階の下で、地下階では中地下○階は地下○階の上となる(中1階は通常存在しない)。 ==== 交通 ==== [[File:LAMetroLogo.svg|thumb|80px|[[ロサンゼルス郡都市圏交通局|ロサンゼルス・メトロ]]]] [[File:Tokyo_Metro_logo.svg|thumb|80px|[[東京地下鉄|東京メトロ]]]] * [[地下鉄]]({{Lang-fr-short|métro}}、{{Lang-en-short|metro}})。地図標示やロゴに使われる。 *[[鉄道]]の[[サインシステム]]における[[路線記号]]。 **[[JR北海道|JR]][[室蘭線]]([[東室蘭駅]]〜[[室蘭駅]])('''M'''uroran) **[[東京メトロ丸ノ内線]]([[荻窪駅]]〜[[池袋駅]])('''M'''arunouchi) **[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]] ('''M'''eijō) **[[京都丹後鉄道]][[京都丹後鉄道宮舞線|宮舞線]] (miya'''M'''ai) **[[北大阪急行電鉄]][[北大阪急行電鉄南北線|南北線]]・[[Osaka Metro]][[御堂筋線]] ('''M'''idōsuji) **[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄山田線|山田線]]・[[鳥羽線]]・[[志摩線]] **[[JR西日本|JR]][[瀬戸大橋線]]([[岡山駅]]〜[[児島駅]]) **[[広島電鉄]][[広島電鉄本線|本線]]・[[宮島線]] ('''M'''ain Line, '''M'''iyajima) **[[JR四国|JR]][[牟岐線]](阿波室戸シーサイドライン)('''M'''ugi'''M'''uroto) * [[オーストラリア]]の[[大都市]]圏の[[幹線道路]]ナンバリングシステム・[[メトロード]] ({{en|Metroad}})。路線番号「M3」など。 * [[マルタ]] ({{en|Malta}})の自動車用[[国際識別記号]]。 ==== 文化 ==== * 男性 ({{la|masculus}}, {{en|male}}) * 中間・中庸 ({{la|medium}}, {{en|middle}} など)。 ** [[洋服]]などの普通サイズ。小さい ({{en|small}}) [[S]]・大きい ({{en|large}}) [[L]] などに対す。 ** 中間のウェイト(線の太さ)の[[書体]]。 ** [[言語学]]で「中期」。ME([[中英語]])など。 * [[マゾヒズム]]・マゾヒスト ({{en|masochism, masochist}})。 * 古代ローマ人の個人名[[マルクス]] ({{la|Marcus}})。 * [[明治]]の略記。 * [[日本プロ野球|日本のプロ野球]]球団[[千葉ロッテマリーンズ]] ({{en|Marines}})。 * [[野球]]の[[マジックナンバー (野球)|マジックナンバー]]。 * [[イアン・フレミング]]の[[ジェームズ・ボンド]]シリーズに登場する架空の人物であり、[[イギリス情報局秘密情報部]](MI6)の局長である。[[M (架空の人物)|M]]。 * [[ロビン・スコット]]による[[イギリス]]の音楽ユニット[[M (ミュージシャン)|M]]。 * [[コンピュータゲームのレイティングシステム|コンピュータゲームのレイティング]]で {{en|mature}}。 ** [[Entertainment Software Rating Board|ESRB]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])では「17歳以上対象」。 ** [[File:Australian OFLC M logo.svg|thumb|80px|[[Office of Film and Literature Classification|OFLC]]のレーティングM]] [[Office of Film and Literature Classification|OFLC]]([[オーストラリア]]・[[ニュージーランド]])では「15歳以上推奨(豪)」または「16歳以上推奨 (NZ)」。 * [[File:Nintendo DS Mario Edition.jpg|thumb|80px|[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]] 限定版[[ニンテンドーDS|DS]]]] [[任天堂]]のゲームキャラクターの[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]] ({{en|Mario}})。よく着用する帽子に書かれている。 * [[長調]] ({{en|major}})。ただし一般的にはMは省略されて単にA([[イ長調]])のように書かれることが多い。また、[[長三和音]]のコードネームもMは省略されることが多い。 ==== タイトル ==== * [[M (曖昧さ回避)]]参照 === 原則小文字 === * 単位 ** [[メートル]] ({{fr|metre}})。 ** [[ミリ]] ({{fr|milli}})。{{分数|1|1000}} (10<sup>-3</sup>)。 ** 時間の単位の[[分]] ({{en|minute}})。ただし正式な単位記号は {{en|min}}。 * ''m'' と ''[[n]]''([[斜体]])で、2つの[[自然数]] ({{en|natural}}) あるいは[[整数]]を表す。(''o''はゼロと紛らわしいので) ''n'' の前の文字として選ばれたためで、''m'' 自体の由来はない。 * [[磁気モーメント]] ({{en|magnetic moment}})。 * m- で[[化学接頭辞・接尾辞一覧|メタ]] ({{en|meta}}) 位を表す。 * 文法で[[性 (文法)|男性]] ({{la|masculus}})。 * 文字 m の幅。m[[ダッシュ (記号)|ダッシュ]] (―)、m[[スペース]] ({{bgcolor|#ccc|&emsp;}}) など。幅の狭い [[n]]に対する。 * 自動車メーカー・[[マツダ]]の1970年代中期まで使用された丸型ロゴは小文字で[[サンセリフ]]の"m"の書き始めと書き終わりをそれぞれ長くし、丸の中に収めたもの。 * [[英語]]で [[be動詞|{{en|am}}]] の短縮形 {{en|'m}}。 * [[真夜中]] ({{en|midnight}})。[[正午]] ({{en|noon}}) と対になる。 * フラクトゥールで[[極大イデアル]](とくに[[局所環]]の極大イデアル) * [[短調]] ({{en|minor}})。Am([[イ短調]])など。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|004D|77||1-3-45|006D|109||1-3-77|}} {{ULu|FF2D|65325||1-3-45|FF4D|65357||1-3-77|全角}} {{ULu|24C2|9410||‐|24DC|9436||1-12-38|丸囲み}} {{ULu|1F11C|127260||‐|24A8|9384||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D40C|119820||‐|1D426|119846||‐|[[太字]]}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Mike |Morse=-- |Character=M |Braille=⠍ }} == 関連項目 == {{Commonscat|m}} *[[Ḿ|{{Unicode|Ḿ}}]] - [[アキュート・アクセント]] *{{仮リンク|Ṁ|zh|Ṁ|label={{Unicode|Ṁ}}}} - [[ドット符号]] *{{仮リンク|Ṃ|fr|Ṃ|label={{Unicode|Ṃ}}}} *{{仮リンク|Ɱ|en|M with hook|label={{Unicode|Ɱ}}}} - [[フックつき文字]] {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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ウェールズ
ウェールズ(英語: Wales、ウェールズ語: Cymru [ˈkəm.rɨ] ( 音声ファイル) カムリ)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「構成国(country)」のひとつである。ウェールズはグレートブリテン島の南西に位置し、南にブリストル海峡、東にイングランド、西と北にはアイリッシュ海が存在する。 かつて、石炭を代表とする豊富な地下資源を産出し、イギリスの産業革命を支えた歴史をもつ。 ウェールズのブリトン系住民はローマ帝国の支配を受けたが、アングロ・サクソン民族に征服されたわけではなかった。イギリスのアーサー王伝説はアングロ・サクソンに抵抗したブリトン人の王の物語とされる。 中世には小部族国家が群立し、やがてグウィネズ王国(英語版)(グウィネッズ)、ポーイス王国(英語版)(ポウィス)、デヒューバース王国(英語版)などの地方王権が形成された。13世紀中葉にグウィネッズ王ルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズのほとんどの領域を支配下に収めるなど、幾度か一時的な政治的統一がなされるが、イングランドのような恒常的な統一王権が確立されることはなく、実態としてはリズラン法典に従うマナー家臣団による統治であった。 伝統的にウェールズは侵略者に対して頑強な抵抗を示し続けている。1066年に征服王ギヨームがイングランドを征服したが(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝によるウェールズへの侵略・植民政策は、ウェールズ南東部を除いて恒久的な成功とはならなかった。以降もイングランドから度重なる侵略を受け続けたが、その都度撥ね返して独立を守ってきた。 1258年にウェールズの事実上の統治者グウィネッズ王ルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)を名乗り、ウェールズ公国(Principality of Wales)が成立した。しかし、イングランドからの圧力に加えてウェールズ内部での権力闘争の激化、オックスフォード条項以降のコモンロー支配によってウェールズは弱体化していき、徐々にイングランドに臣従せざるを得なくなった。1282年、ルウェリン・アプ・グリフィズがイングランド王エドワード1世に敗れてからは、ウェールズはイングランドに占領されその支配下に置かれることとなった(Conquest of Wales by Edward I)。ウェールズはイングランドの一地方となり、エドワード1世は長男エドワード(エドワード2世)にプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、ウェールズの君主としてウェールズを統治させた(これより以後、イングランド王太子は代々プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)の称号を引き継いでいく)。 このような過程を経てウェールズはイングランドに征服されその統治を受けることになったが、このことが逆にウェールズ人の民族意識を強めた。ウェールズ人は頑なにイングランドとの同化を拒み続け、この地に植民した異民族のほとんどはことごとくウェールズ人化していったという。イングランドの中にあってもウェールズの長弓(ロングボウ)隊は、強力な戦力として名を馳せイングランド王の軍勢にとって欠かせない戦力となった。 薔薇戦争(1455年 – 1485年)の際には、ウェールズはその政争争奪の舞台になり、1485年のボズワースの戦いで勝利したリッチモンド伯がヘンリー7世として即位し、ウェールズ人のウェールズ大公の血統から出てイングランド王家に収まった(テューダー朝)。後世のテューダー家に至っては、1536年の合同法(英語版)によるウェールズ統合により、単一国家「イングランド王国」或いは「イングランドおよびウェールズ」とし、この王朝の家臣団ではウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は同王朝のヘンリー8世からエリザベス1世までの国王が推進したイングランド国教会創設などに協力的な姿勢を見せることになったのである。 クロムウェルによる独裁(イングランド共和国)の後は、政治的に力を落としたものの、ウェールズ人としてのアイデンティティは失われることはなく21世紀になった現在でも非常に強いと言われている。 ウェールズは、13世紀に公国 (Principality)を形成した。が、ウェールズ公国は、同じ世紀の末にイングランドの統治下に入った。以来、次期イングランド王(後にはグレートブリテン王)となるべき最年長の王子(王太子)が、プリンス・オブ・ウェールズ (Prince of Wales; ウェールズ大公)として戴冠するのが慣わしとなっている。 ウェールズは、1536年の合同法(英語版)による統合から長らく、単一の国である「イングランド王国」、或いは、イングランドおよびウェールズの一部として扱われ、連合王国の中でもスコットランドや北アイルランドと事情が異なった。イギリスの国旗にウェールズの国旗だけが含まれていないのは、そういう事情がある。 1997年、ウェールズ国民議会(英語: National Assembly for Wales、ウェールズ語: Cynulliad Cenedlaethol Cymru)の設置に関する住民投票が行われ、国民議会の設置が決定。1999年に、第1回選挙が行われた。2000年議員は任期4年で定数60名、小選挙区比例代表併用制によって選出される。限定的ではあるが、立法権を有する。2020年、ウェールズ国民議会は、ウェールズ議会(英語: Welsh Parliament、ウェールズ語: Senedd Cymru)に改称した。セネッド(Senedd、英語のsenateに相当)とも呼ばれる。 2021年選挙における各党の議席数は以下のとおり。 ウェールズの地方行政は1996年4月1日以降、22の単一行政体(ユニタリー)に分かれており、その内訳は9州 (county)、3市 (city)*、10州区 (county borough)† となる。行政体間の関係は対等であり、上下の関係はない。 番号は地図中に対応、括弧内はウェールズ語 ウェールズはロンドンの西方およそ200kmに位置し、アイルランドと海を隔て、リヴァプール湾、カーデガン湾、ブリストル海峡に囲まれる。国土の大部分は山地で、南北にカンブリア山脈が走る。その名前はウェールズの古名で、地質時代の古生代カンブリア紀にも名づけられた。さらに、この地域を調査した地質学者が部族名からオルドビス紀とシルル紀も命名した。北のスノードニア国立公園には最高峰スノードン山(標高1085m)がそびえる。国立公園であるスノードニア、ブレコンビーコン、ペンブルッククシャー海岸があるゴワー半島、ペンブルックシャー海岸等のあるカーデガン湾は風光明媚で遺産海岸に指定されているが、大西洋に面する海岸は数多くの難破船を出している。主な都市はカーディフ、スウォンジ、レクサム、ニューポートなどである。 ウェールズは18世紀に工業が発達し、埋蔵されていた石炭・銅・鉄・銀・鉛・金・粘板岩を産出した。19世紀後半から鉱業と金属工学はウェールズの経済において主要なものになり、ウェールズの南部と東北の工業地域の景観と社会は変化した。かつてウェールズ地方南部は、世界最大の石炭の輸出地域で20世紀前半の最盛期には、600以上の炭鉱で約20万人が働いていた。その後、石炭から石油への「エネルギー革命」で石炭産業は衰退し、南部を中心に立地した各種重工業がウェールズ経済を支えた。 1970年代にウェールズは伝統的な重工業から、軽工業あるいはサービス業へと大きく転換することになった。外国企業の誘致に成功したが、新しい産業の多くは本質的に分工場としての役割であり、流れ作業で熟練を必要としないものであった。ウェールズは人口などの経済的な絶対量は低く、またカーディフはイギリスの他の都市リーズ・マンチェスター・ブリストルや小国の首都であるダブリン・コペンハーゲン・ヘルシンキなどよりも小さく、ウェールズには大都市と呼べる街が無い。にもかかわらず金融や研究開発の分野を発展させ、付加価値の高い雇用を生み出した。 イギリスのほかの地域と比べて、ウェールズの人口当たりの経済的な成果は低い。2002年ではイギリス平均の80%、EU25カ国平均の90%であった。ただし、生活に必要なコストが地域によって異なることに注意が必要である。イギリスの地域と実際の生活水準の差は大きくない。 2002年のウェールズのGDPは260億ポンド(480億ドル)、一人当たり12,651ポンド (19,546ドル)である。2006年の時点で失業率は5.7%で、イギリス全体の平均より高いがEUの平均よりは低い値である。 ウェールズの大部分の土壌は貧しく耕作には適さないため、農業の中心は伝統的に牧畜である。独特な文化と同様にウェールズの景観は多くの観光客を惹きつけている。観光は田園地域の経済において特に重要な位置づけであり、3箇所が国立公園として保護されている。 18世紀半ばまでウェールズの経済発展は山岳地帯を中心とする地形的要因、まばらな人口、通信手段が乏しい事もあり抑制されていた。 最も先進的だった地域は小さな沿岸部の港でブリストルやリバプールと定期的な交流があった。 18世紀半ばから産業開発が進みウェールズの豊富な地下資源が活用され産業革命を支えた。1900年代初頭の爆発的な成長は1920年代には経済的に困難に直面して、相変わらず古い重工業に依存していたが、イギリスのより豊かになる軽工業分野が成長した。 1970年代ウェールズは伝統的な重工業を軽工業とサービス産業に転換した。 公共の医療機関としてNHS Wales (National Health Service Wales) Wales (Welsh: GIG Cymru)がある。1946年のNational Health Service Act 1946によって設立された。90,000人のスタッフを擁し、ウェールズ最大の雇用主である。 カーディフ空港はウェールズで唯一の大規模な空港であり、カーディフの市街の中心から南西12マイル (≒19 km)のベール・オブ・グラモーガンに位置する。イギリス国内およびヨーロッパのいくつかの都市を結んでいる。 ウェールズの鉄道はカーディフ中央駅をネットワークの中心として、国中に広がっている。ウェールズ議会が鉄道網の監督をしている。旅客鉄道会社としてはウェールズ全域を運行するトランスポート・フォー・ウェールズ・レール・サービス(英語版)の他、アヴァンティ・ウェスト・コーストが北部からロンドンへ、グレート・ウェスタン・レールウェイ(ブリストル・ロンドン方面)、クロスカントリー(バーミンガム・ノッティンガム方面)が南部に乗り入れている。 ウェールズの南部ではM4高速道路が海岸沿いにカーディフ・ニューポート・スウォンジなどの都市を繋ぎ、イングランドのロンドンまで続いている。M4高速道路のセヴァーン橋から終点までのウェールズ側の部分はウェールズ議会 (Welsh Assembly Government)の管轄である。同様に北部ではA55道路がホーリーヘッド・バンガー・コンウィなどを結んで海岸沿いにイングランドのチェスターへと通じている。同じくホーリーヘッドからは古くアイルランドとロンドンを結ぶ街道として作られたA5道路がバンガーから山間部を抜け、イングランドのシュルーズベリーなどを経てロンドンへと向かっている。ウェールズの南北を結ぶ主要な道路としてはカーディフとスランディドノを繋ぐA470道路がある。 現在のウェールズでは、ウェールズ語は英語と並んで公用語とされる。道路標識や公文書は、2カ国語で表記されている。例えば、イングランドから鉄道または自動車でウェールズに入ると、国境付近に設置された看板には、2か国語で『Welcome to Wales』『Croeso i Cymru』(クロイソ イ カムリ)と書いてある。 南部ではあまり話されないが、中北部では日常的に話される地域が多い。ただし、方言の差異が大きく、北に行くほど古い由緒正しい形を残している傾向がある。特にウェールズ最高峰であるスノードン山付近のグウィネズ地方でウェールズ語の話者が多い。この地域では、子供達が英語を習うのは小学校に入学してからのことであり、それまでは一般に、家族や近隣の友達とウェールズ語で会話している。 2001年現在、ウェールズ人全体の20.5%がウェールズ語を話すことができる。ウェールズにおいて、ウェールズ語を話す人口の割合は20世紀以降著しく減少しているが、人口増加により、ウェールズ語を話す人の絶対数は減少傾向が止まり、微増になっている。その主な理由は、小中学校でウェールズ語教育が実施されていることと、ウェールズ語によるTVプログラム(BBC WalesやHTV〔現ITV Wales〕、S4Cによる)が放送されていることによる。 北部と西部ではウェールズ語は第一言語として話され英語は第2言語である。ウェールズの人口の21.7%がウェールズ語の読みまたは書きができ(2001年時点)、16%だけが支障をきたすが会話、読み書きできる。 ウェールズは「歌の国」といわれ特にハープ奏者や男声聖歌隊そしてギネス・ジョーンズ、シャーリー・バッシー、トム・ジョーンズ、シャルロット・チャーチ、メリー・ホプキン、キャサリン・ジェンキンス、アレッド・ジョーンズ、ボニー・タイラー、ダフィー、ブリン・ターフェルなどのソロミュージシャンが有名である。 バンドではマニック・ストリート・プリーチャーズ、ステレオフォニックス、フィーダー、スーパー・ファーリー・アニマルズ、ロストプロフェッツ、フューネラル・フォー・ア・フレンド、ブレット・フォー・マイ・ヴァレンタイン、ロス・キャンペシーノス!、ゴーキーズ・サイゴティック・マンキ等が有名である。 ウェールズにはナショナル・アイステズボッドという音楽と詩の祭典がある。これは1年に1度、毎年異なる街が持ち回りで開催している。スランゴスレンで行われるスランゴスレン国際芸術祭はアイステズボッドに倣ったものであるが、世界中のミュージシャンが参加している。 ウェールズには森林や湖、丘陵、海岸などの豊かな自然が残っている。面積の約20パーセントが国立公園に指定されている。 ウェールズでは、サッカーとラグビーが最も盛んなスポーツとなっている。特にラグビーの人気は凄まじく、ウェールズ人にとってアイデンティティの一部といわれるほどである。 ウェールズではサッカーも人気のスポーツであり、1992年にプロサッカーリーグのウェルシュ・プレミアリーグが創設されている。これまでに、TNSが8連覇を含むリーグ最多14度の優勝を達成している。ウェールズサッカー協会(FAW)によって構成されるサッカーウェールズ代表は、FIFAワールドカップには1958年大会で初出場しベスト8の成績を収めた。さらに2022年大会では64年ぶり2度目の出場を果たしたが、本大会ではグループリーグ敗退となった。UEFA欧州選手権には2度出場しており、2016年大会ではベスト4に進出した。世界的に有名な選手としては、レアル・マドリードなどで活躍したガレス・ベイルが存在する。 ラグビーウェールズ代表は世界的な強豪として名を馳せており、ウェールズ人の誇りとなっている。代表チームとして参加する大会としては、ラグビーワールドカップとシックス・ネイションズがある。クラブレベルでは、アイルランドやスコットランドおよびイタリアの4ヵ国合同で行われるリーグ戦「Pro 12」や、ウェールズとイングランドによるカップ戦アングロ・ウェルシュカップ、ヨーロッパの覇権を争う大会ハイネケンカップなどがある。 ウェールズは、F1では二人の有名ドライバーを輩出している。一人は1967年のイギリスグランプリで1位のジム・クラークに4周遅れの9位に入ったアラン・リーズ。もう一人は1974年から1977年の間に3位に2度、ポールポジションを1度獲得したトム・プライスである。世界ラリー選手権では、1996年のドライバーズチャンピオンであるコリン・マクレーのコ・ドライバーを務めたニッキー・グリストと、2003年のドライバーズチャンピオンでもあるペター・ソルベルグのコ・ドライバーを務めたフィル・ミルズがいる。 自転車競技ではトラック競技の団体追抜で世界選手権を3度(2007年・2008年・2012年)制し、オリンピックでは同種目で2大会連続(北京・ロンドン)の金メダリストとなり、さらにサイクルロードレースでは2018年のツール・ド・フランスにおいて総合優勝を果たしたゲラント・トーマスはカーディフの出身である。トーマスもウェールズ人としての自覚が強く、ロードレースのバイクやヘルメットのステッカーなどは本来イギリス車連に所属しているのでイギリス国旗が遇らわれるが、トーマスもウェールズ国旗を選んでいる。 ツールの総合表彰式でも、ユニオンジャックではなくウェールズ国旗を掲げている。なお、トラック競技ではオリンピック・世界選手権共にウェールズ代表が存在しないのでイギリス代表として出走しており、コモンウェルスゲームではウェールズ代表として出走している。トーマスはイギリス国籍でツールを制した3人の選手のうち、唯一イギリス国内で生まれた選手でもある。なお、ブラッドリー・ウィギンスはイギリス国籍だがベルギーで出生し、クリス・フルームもケニアの出身で、ケニアとイギリスの二重国籍を持つ。 クリケットも人気スポーツの一つである。18世紀後半に始まり、それ以来プレーされ続けている。国内競技連盟はイングランド・ウェールズクリケット委員会であり、ウェールズはイングランドとの合同チームのイングランド代表として出場している。クリケットはウェールズの学校システム内でプレーされており、この国の主要な夏のスポーツの一つとみなされている。ウェールズにはグラモーガン・カウンティ・クリケット・クラブがあり、イングランド及びウェールズの国内リーグであるカウンティ・チャンピオンシップやトゥエンティ20形式のトゥエンティ20カップに出場している。 ウェールズには、スヌーカーの世界クラスのプレイヤーである、テリー・グリフィス、マーク・ウィリアムズ、マシュー・スティーブンスがいる。さらにアイスホッケーのカーディフ・デビルズは、かつてイギリス全体で活躍した。ボクシングでは、スーパーミドル級のWBA・WBC・WBO元世界王者のジョー・カルザゲはウェールズとイタリアのハーフであり、エンゾ・マカリネリもクルーザー級のWBO・WBU元世界王者である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウェールズ(英語: Wales、ウェールズ語: Cymru [ˈkəm.rɨ] ( 音声ファイル) カムリ)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「構成国(country)」のひとつである。ウェールズはグレートブリテン島の南西に位置し、南にブリストル海峡、東にイングランド、西と北にはアイリッシュ海が存在する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "かつて、石炭を代表とする豊富な地下資源を産出し、イギリスの産業革命を支えた歴史をもつ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ウェールズのブリトン系住民はローマ帝国の支配を受けたが、アングロ・サクソン民族に征服されたわけではなかった。イギリスのアーサー王伝説はアングロ・サクソンに抵抗したブリトン人の王の物語とされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中世には小部族国家が群立し、やがてグウィネズ王国(英語版)(グウィネッズ)、ポーイス王国(英語版)(ポウィス)、デヒューバース王国(英語版)などの地方王権が形成された。13世紀中葉にグウィネッズ王ルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズのほとんどの領域を支配下に収めるなど、幾度か一時的な政治的統一がなされるが、イングランドのような恒常的な統一王権が確立されることはなく、実態としてはリズラン法典に従うマナー家臣団による統治であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "伝統的にウェールズは侵略者に対して頑強な抵抗を示し続けている。1066年に征服王ギヨームがイングランドを征服したが(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝によるウェールズへの侵略・植民政策は、ウェールズ南東部を除いて恒久的な成功とはならなかった。以降もイングランドから度重なる侵略を受け続けたが、その都度撥ね返して独立を守ってきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1258年にウェールズの事実上の統治者グウィネッズ王ルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)を名乗り、ウェールズ公国(Principality of Wales)が成立した。しかし、イングランドからの圧力に加えてウェールズ内部での権力闘争の激化、オックスフォード条項以降のコモンロー支配によってウェールズは弱体化していき、徐々にイングランドに臣従せざるを得なくなった。1282年、ルウェリン・アプ・グリフィズがイングランド王エドワード1世に敗れてからは、ウェールズはイングランドに占領されその支配下に置かれることとなった(Conquest of Wales by Edward I)。ウェールズはイングランドの一地方となり、エドワード1世は長男エドワード(エドワード2世)にプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、ウェールズの君主としてウェールズを統治させた(これより以後、イングランド王太子は代々プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)の称号を引き継いでいく)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このような過程を経てウェールズはイングランドに征服されその統治を受けることになったが、このことが逆にウェールズ人の民族意識を強めた。ウェールズ人は頑なにイングランドとの同化を拒み続け、この地に植民した異民族のほとんどはことごとくウェールズ人化していったという。イングランドの中にあってもウェールズの長弓(ロングボウ)隊は、強力な戦力として名を馳せイングランド王の軍勢にとって欠かせない戦力となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "薔薇戦争(1455年 – 1485年)の際には、ウェールズはその政争争奪の舞台になり、1485年のボズワースの戦いで勝利したリッチモンド伯がヘンリー7世として即位し、ウェールズ人のウェールズ大公の血統から出てイングランド王家に収まった(テューダー朝)。後世のテューダー家に至っては、1536年の合同法(英語版)によるウェールズ統合により、単一国家「イングランド王国」或いは「イングランドおよびウェールズ」とし、この王朝の家臣団ではウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は同王朝のヘンリー8世からエリザベス1世までの国王が推進したイングランド国教会創設などに協力的な姿勢を見せることになったのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "クロムウェルによる独裁(イングランド共和国)の後は、政治的に力を落としたものの、ウェールズ人としてのアイデンティティは失われることはなく21世紀になった現在でも非常に強いと言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ウェールズは、13世紀に公国 (Principality)を形成した。が、ウェールズ公国は、同じ世紀の末にイングランドの統治下に入った。以来、次期イングランド王(後にはグレートブリテン王)となるべき最年長の王子(王太子)が、プリンス・オブ・ウェールズ (Prince of Wales; ウェールズ大公)として戴冠するのが慣わしとなっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ウェールズは、1536年の合同法(英語版)による統合から長らく、単一の国である「イングランド王国」、或いは、イングランドおよびウェールズの一部として扱われ、連合王国の中でもスコットランドや北アイルランドと事情が異なった。イギリスの国旗にウェールズの国旗だけが含まれていないのは、そういう事情がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1997年、ウェールズ国民議会(英語: National Assembly for Wales、ウェールズ語: Cynulliad Cenedlaethol Cymru)の設置に関する住民投票が行われ、国民議会の設置が決定。1999年に、第1回選挙が行われた。2000年議員は任期4年で定数60名、小選挙区比例代表併用制によって選出される。限定的ではあるが、立法権を有する。2020年、ウェールズ国民議会は、ウェールズ議会(英語: Welsh Parliament、ウェールズ語: Senedd Cymru)に改称した。セネッド(Senedd、英語のsenateに相当)とも呼ばれる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2021年選挙における各党の議席数は以下のとおり。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ウェールズの地方行政は1996年4月1日以降、22の単一行政体(ユニタリー)に分かれており、その内訳は9州 (county)、3市 (city)*、10州区 (county borough)† となる。行政体間の関係は対等であり、上下の関係はない。", "title": "行政区画" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "番号は地図中に対応、括弧内はウェールズ語", "title": "行政区画" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ウェールズはロンドンの西方およそ200kmに位置し、アイルランドと海を隔て、リヴァプール湾、カーデガン湾、ブリストル海峡に囲まれる。国土の大部分は山地で、南北にカンブリア山脈が走る。その名前はウェールズの古名で、地質時代の古生代カンブリア紀にも名づけられた。さらに、この地域を調査した地質学者が部族名からオルドビス紀とシルル紀も命名した。北のスノードニア国立公園には最高峰スノードン山(標高1085m)がそびえる。国立公園であるスノードニア、ブレコンビーコン、ペンブルッククシャー海岸があるゴワー半島、ペンブルックシャー海岸等のあるカーデガン湾は風光明媚で遺産海岸に指定されているが、大西洋に面する海岸は数多くの難破船を出している。主な都市はカーディフ、スウォンジ、レクサム、ニューポートなどである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ウェールズは18世紀に工業が発達し、埋蔵されていた石炭・銅・鉄・銀・鉛・金・粘板岩を産出した。19世紀後半から鉱業と金属工学はウェールズの経済において主要なものになり、ウェールズの南部と東北の工業地域の景観と社会は変化した。かつてウェールズ地方南部は、世界最大の石炭の輸出地域で20世紀前半の最盛期には、600以上の炭鉱で約20万人が働いていた。その後、石炭から石油への「エネルギー革命」で石炭産業は衰退し、南部を中心に立地した各種重工業がウェールズ経済を支えた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1970年代にウェールズは伝統的な重工業から、軽工業あるいはサービス業へと大きく転換することになった。外国企業の誘致に成功したが、新しい産業の多くは本質的に分工場としての役割であり、流れ作業で熟練を必要としないものであった。ウェールズは人口などの経済的な絶対量は低く、またカーディフはイギリスの他の都市リーズ・マンチェスター・ブリストルや小国の首都であるダブリン・コペンハーゲン・ヘルシンキなどよりも小さく、ウェールズには大都市と呼べる街が無い。にもかかわらず金融や研究開発の分野を発展させ、付加価値の高い雇用を生み出した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "イギリスのほかの地域と比べて、ウェールズの人口当たりの経済的な成果は低い。2002年ではイギリス平均の80%、EU25カ国平均の90%であった。ただし、生活に必要なコストが地域によって異なることに注意が必要である。イギリスの地域と実際の生活水準の差は大きくない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2002年のウェールズのGDPは260億ポンド(480億ドル)、一人当たり12,651ポンド (19,546ドル)である。2006年の時点で失業率は5.7%で、イギリス全体の平均より高いがEUの平均よりは低い値である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ウェールズの大部分の土壌は貧しく耕作には適さないため、農業の中心は伝統的に牧畜である。独特な文化と同様にウェールズの景観は多くの観光客を惹きつけている。観光は田園地域の経済において特に重要な位置づけであり、3箇所が国立公園として保護されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "18世紀半ばまでウェールズの経済発展は山岳地帯を中心とする地形的要因、まばらな人口、通信手段が乏しい事もあり抑制されていた。 最も先進的だった地域は小さな沿岸部の港でブリストルやリバプールと定期的な交流があった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "18世紀半ばから産業開発が進みウェールズの豊富な地下資源が活用され産業革命を支えた。1900年代初頭の爆発的な成長は1920年代には経済的に困難に直面して、相変わらず古い重工業に依存していたが、イギリスのより豊かになる軽工業分野が成長した。 1970年代ウェールズは伝統的な重工業を軽工業とサービス産業に転換した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "公共の医療機関としてNHS Wales (National Health Service Wales) Wales (Welsh: GIG Cymru)がある。1946年のNational Health Service Act 1946によって設立された。90,000人のスタッフを擁し、ウェールズ最大の雇用主である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "カーディフ空港はウェールズで唯一の大規模な空港であり、カーディフの市街の中心から南西12マイル (≒19 km)のベール・オブ・グラモーガンに位置する。イギリス国内およびヨーロッパのいくつかの都市を結んでいる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ウェールズの鉄道はカーディフ中央駅をネットワークの中心として、国中に広がっている。ウェールズ議会が鉄道網の監督をしている。旅客鉄道会社としてはウェールズ全域を運行するトランスポート・フォー・ウェールズ・レール・サービス(英語版)の他、アヴァンティ・ウェスト・コーストが北部からロンドンへ、グレート・ウェスタン・レールウェイ(ブリストル・ロンドン方面)、クロスカントリー(バーミンガム・ノッティンガム方面)が南部に乗り入れている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ウェールズの南部ではM4高速道路が海岸沿いにカーディフ・ニューポート・スウォンジなどの都市を繋ぎ、イングランドのロンドンまで続いている。M4高速道路のセヴァーン橋から終点までのウェールズ側の部分はウェールズ議会 (Welsh Assembly Government)の管轄である。同様に北部ではA55道路がホーリーヘッド・バンガー・コンウィなどを結んで海岸沿いにイングランドのチェスターへと通じている。同じくホーリーヘッドからは古くアイルランドとロンドンを結ぶ街道として作られたA5道路がバンガーから山間部を抜け、イングランドのシュルーズベリーなどを経てロンドンへと向かっている。ウェールズの南北を結ぶ主要な道路としてはカーディフとスランディドノを繋ぐA470道路がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "現在のウェールズでは、ウェールズ語は英語と並んで公用語とされる。道路標識や公文書は、2カ国語で表記されている。例えば、イングランドから鉄道または自動車でウェールズに入ると、国境付近に設置された看板には、2か国語で『Welcome to Wales』『Croeso i Cymru』(クロイソ イ カムリ)と書いてある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "南部ではあまり話されないが、中北部では日常的に話される地域が多い。ただし、方言の差異が大きく、北に行くほど古い由緒正しい形を残している傾向がある。特にウェールズ最高峰であるスノードン山付近のグウィネズ地方でウェールズ語の話者が多い。この地域では、子供達が英語を習うのは小学校に入学してからのことであり、それまでは一般に、家族や近隣の友達とウェールズ語で会話している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2001年現在、ウェールズ人全体の20.5%がウェールズ語を話すことができる。ウェールズにおいて、ウェールズ語を話す人口の割合は20世紀以降著しく減少しているが、人口増加により、ウェールズ語を話す人の絶対数は減少傾向が止まり、微増になっている。その主な理由は、小中学校でウェールズ語教育が実施されていることと、ウェールズ語によるTVプログラム(BBC WalesやHTV〔現ITV Wales〕、S4Cによる)が放送されていることによる。 北部と西部ではウェールズ語は第一言語として話され英語は第2言語である。ウェールズの人口の21.7%がウェールズ語の読みまたは書きができ(2001年時点)、16%だけが支障をきたすが会話、読み書きできる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ウェールズは「歌の国」といわれ特にハープ奏者や男声聖歌隊そしてギネス・ジョーンズ、シャーリー・バッシー、トム・ジョーンズ、シャルロット・チャーチ、メリー・ホプキン、キャサリン・ジェンキンス、アレッド・ジョーンズ、ボニー・タイラー、ダフィー、ブリン・ターフェルなどのソロミュージシャンが有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "バンドではマニック・ストリート・プリーチャーズ、ステレオフォニックス、フィーダー、スーパー・ファーリー・アニマルズ、ロストプロフェッツ、フューネラル・フォー・ア・フレンド、ブレット・フォー・マイ・ヴァレンタイン、ロス・キャンペシーノス!、ゴーキーズ・サイゴティック・マンキ等が有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ウェールズにはナショナル・アイステズボッドという音楽と詩の祭典がある。これは1年に1度、毎年異なる街が持ち回りで開催している。スランゴスレンで行われるスランゴスレン国際芸術祭はアイステズボッドに倣ったものであるが、世界中のミュージシャンが参加している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ウェールズには森林や湖、丘陵、海岸などの豊かな自然が残っている。面積の約20パーセントが国立公園に指定されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ウェールズでは、サッカーとラグビーが最も盛んなスポーツとなっている。特にラグビーの人気は凄まじく、ウェールズ人にとってアイデンティティの一部といわれるほどである。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ウェールズではサッカーも人気のスポーツであり、1992年にプロサッカーリーグのウェルシュ・プレミアリーグが創設されている。これまでに、TNSが8連覇を含むリーグ最多14度の優勝を達成している。ウェールズサッカー協会(FAW)によって構成されるサッカーウェールズ代表は、FIFAワールドカップには1958年大会で初出場しベスト8の成績を収めた。さらに2022年大会では64年ぶり2度目の出場を果たしたが、本大会ではグループリーグ敗退となった。UEFA欧州選手権には2度出場しており、2016年大会ではベスト4に進出した。世界的に有名な選手としては、レアル・マドリードなどで活躍したガレス・ベイルが存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ラグビーウェールズ代表は世界的な強豪として名を馳せており、ウェールズ人の誇りとなっている。代表チームとして参加する大会としては、ラグビーワールドカップとシックス・ネイションズがある。クラブレベルでは、アイルランドやスコットランドおよびイタリアの4ヵ国合同で行われるリーグ戦「Pro 12」や、ウェールズとイングランドによるカップ戦アングロ・ウェルシュカップ、ヨーロッパの覇権を争う大会ハイネケンカップなどがある。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ウェールズは、F1では二人の有名ドライバーを輩出している。一人は1967年のイギリスグランプリで1位のジム・クラークに4周遅れの9位に入ったアラン・リーズ。もう一人は1974年から1977年の間に3位に2度、ポールポジションを1度獲得したトム・プライスである。世界ラリー選手権では、1996年のドライバーズチャンピオンであるコリン・マクレーのコ・ドライバーを務めたニッキー・グリストと、2003年のドライバーズチャンピオンでもあるペター・ソルベルグのコ・ドライバーを務めたフィル・ミルズがいる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "自転車競技ではトラック競技の団体追抜で世界選手権を3度(2007年・2008年・2012年)制し、オリンピックでは同種目で2大会連続(北京・ロンドン)の金メダリストとなり、さらにサイクルロードレースでは2018年のツール・ド・フランスにおいて総合優勝を果たしたゲラント・トーマスはカーディフの出身である。トーマスもウェールズ人としての自覚が強く、ロードレースのバイクやヘルメットのステッカーなどは本来イギリス車連に所属しているのでイギリス国旗が遇らわれるが、トーマスもウェールズ国旗を選んでいる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ツールの総合表彰式でも、ユニオンジャックではなくウェールズ国旗を掲げている。なお、トラック競技ではオリンピック・世界選手権共にウェールズ代表が存在しないのでイギリス代表として出走しており、コモンウェルスゲームではウェールズ代表として出走している。トーマスはイギリス国籍でツールを制した3人の選手のうち、唯一イギリス国内で生まれた選手でもある。なお、ブラッドリー・ウィギンスはイギリス国籍だがベルギーで出生し、クリス・フルームもケニアの出身で、ケニアとイギリスの二重国籍を持つ。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "クリケットも人気スポーツの一つである。18世紀後半に始まり、それ以来プレーされ続けている。国内競技連盟はイングランド・ウェールズクリケット委員会であり、ウェールズはイングランドとの合同チームのイングランド代表として出場している。クリケットはウェールズの学校システム内でプレーされており、この国の主要な夏のスポーツの一つとみなされている。ウェールズにはグラモーガン・カウンティ・クリケット・クラブがあり、イングランド及びウェールズの国内リーグであるカウンティ・チャンピオンシップやトゥエンティ20形式のトゥエンティ20カップに出場している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ウェールズには、スヌーカーの世界クラスのプレイヤーである、テリー・グリフィス、マーク・ウィリアムズ、マシュー・スティーブンスがいる。さらにアイスホッケーのカーディフ・デビルズは、かつてイギリス全体で活躍した。ボクシングでは、スーパーミドル級のWBA・WBC・WBO元世界王者のジョー・カルザゲはウェールズとイタリアのハーフであり、エンゾ・マカリネリもクルーザー級のWBO・WBU元世界王者である。", "title": "スポーツ" } ]
ウェールズは、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「構成国(country)」のひとつである。ウェールズはグレートブリテン島の南西に位置し、南にブリストル海峡、東にイングランド、西と北にはアイリッシュ海が存在する。 かつて、石炭を代表とする豊富な地下資源を産出し、イギリスの産業革命を支えた歴史をもつ。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2022年9月22日 (金) 06:37 (UTC)}} {{基礎情報 国 |略名 =ウェールズ |日本語国名 =ウェールズ |公式国名 ='''{{lang|cy|Cymru}}'''{{smaller|(ウェールズ語)}}<br />'''{{lang|en|Wales}}'''{{smaller|(英語)}} |国旗画像 =Flag of Wales 2.svg |国章画像 =[[ファイル:Royal Badge of Wales (2008).svg|100px]] |国章リンク = |標語 = “{{lang|cy|Cymru am Byth}}”([[ウェールズ語]])<br />{{small|「ウェールズよ、永遠なれ」}} |国歌 =[[我が父祖の土地]] |国歌追記 =<br/>Hen Wlad Fy Nhadau{{cy icon}}<br>{{center| }} |位置画像 =Wales in the UK and Europe.svg |公用語 =[[英語]](共通語)、<br />[[ウェールズ語]] |首都 =[[カーディフ]] |最大都市 =カーディフ |元首等肩書 =[[イギリスの君主|連合王国国王]] |元首等氏名 =[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]] |首相等肩書 =[[ウェールズ首相|首相]] |首相等氏名 =[[:en:Mark Drakeford|マーク・ドレイクフォード]] |面積順位 =イギリスのなかでは3 |面積大きさ = 1 E10 |面積値 =20,761 |面積追記 =<sup>1</sup> |水面積率 =8.5 |人口統計年 =2020 |人口順位 = |人口大きさ =1 E6 |人口値 =3,230,490 |人口密度値 =156 |人口追記 =<sup>2</sup> |GDP統計年元 = |GDP値元 = |GDP元追記 = |GDP統計年MER = |GDP順位MER = |GDP値MER = |GDPMER追記 = |GDP統計年 =2006 |GDP順位 = |GDP値 =854億[[アメリカ合衆国ドル|米]] |GDP/人 =30,546米 |GDP追記 = |建国形態 = |建国年月日 = 1057年 (グリフィズ・アプ・ルウェリンによる統一)<br/>1258年 ([[ウェールズ公国]]成立) |通貨 =[[スターリング・ポンド|UKポンド]] |通貨コード =GBP |通貨追記 = |時間帯 =0 |夏時間 =+1 |時間帯追記 = |ISO 3166-1 = GB ([[ISO 3166-2:GB|GB-WLS]]) |ccTLD ={{仮リンク|.wales|en|.wales}} |ccTLD追記 ={{仮リンク|.cymru|en|.cymru}} |国際電話番号 = &#x2B;44 |国際電話番号追記 = |注記 =1 イギリス構成国中第3位<br />2 イギリス構成国中第3位 }} [[File:Royal Badge of Wales (2008).svg|thumb|right|200px|ウェールズのヘラルディック・バッジ。ウェールズの[[守護聖人]]である[[聖デイヴィッド]]およびウェールズそのものを象徴する[[リーキ]](西洋ネギ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wales-japan.com/wales/tourism/onwales/|title=ウェールズ政府公式サイト - ウェールズについて|accessdate=2019-10-29}}</ref>が描かれている。]] '''ウェールズ'''({{lang-en|{{Audio|En-us-Wales.ogg|Wales}}}}、{{lang-cy|Cymru}} {{IPA-cy|ˈkəm.rɨ||Cymru.ogg}} カムリ)は、[[イギリス|グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)]]を構成する4つの「[[イギリスのカントリー|構成国(country)]]」のひとつである。ウェールズは[[グレートブリテン島]]の南西に位置し、南に[[ブリストル海峡]]、東に[[イングランド]]、西と北には[[アイリッシュ海]]が存在する。 かつて、[[石炭]]を代表とする豊富な[[地下資源]]を産出し、イギリスの[[産業革命]]を支えた歴史をもつ。 == 歴史 == {{main|ウェールズの歴史}} [[ファイル:Cardiff castle autumn.jpg|thumb|200px|カーディフ城]] === 古代 === ウェールズのブリトン系住民は[[ローマ帝国]]の支配を受けたが、[[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン]]民族に征服されたわけではなかった。イギリスの[[アーサー王]]伝説はアングロ・サクソンに抵抗した[[ブリトン人]]の王の物語とされる。 === 中世 === 中世には小部族国家が群立し、やがて{{仮リンク|グウィネズ王国|en|Kingdom of Gwynedd}}([[グウィネズ (ウェールズ)|グウィネッズ]])、{{仮リンク|ポーイス王国|en|Kingdom of Powys}}([[ポーイス|ポウィス]])、{{仮リンク|デヒューバース|en|Deheubarth|label=デヒューバース王国}}などの地方王権が形成された。[[13世紀]]中葉にグウィネッズ王[[ルウェリン・アプ・グリフィズ]]がウェールズのほとんどの領域を支配下に収めるなど、幾度か一時的な政治的統一がなされるが、イングランドのような恒常的な統一王権が確立されることはなく、実態としては[[リズラン法典]]に従う[[マナー家臣団]]による統治であった。 伝統的にウェールズは侵略者に対して頑強な抵抗を示し続けている。[[1066年]]に征服王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ギヨーム]]が[[イングランド]]を征服したが([[ノルマン・コンクエスト]])、[[ノルマン朝]]によるウェールズへの侵略・植民政策は、ウェールズ南東部を除いて恒久的な成功とはならなかった。以降もイングランドから度重なる侵略を受け続けたが、その都度撥ね返して独立を守ってきた。 === ウェールズ公国 === [[1258年]]にウェールズの事実上の統治者グウィネッズ王[[サウェリン・アプ・グリフィズ|ルウェリン・アプ・グリフィズ]]がウェールズ大公([[プリンス・オブ・ウェールズ]])を名乗り、'''[[ウェールズ公国]]'''(Principality of Wales)が成立した。しかし、イングランドからの圧力に加えてウェールズ内部での権力闘争の激化、[[オックスフォード条項]]以降の[[コモン・ロー|コモンロー]]支配によってウェールズは弱体化していき、徐々にイングランドに臣従せざるを得なくなった。[[1282年]]、ルウェリン・アプ・グリフィズがイングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]に敗れてからは、ウェールズはイングランドに占領されその支配下に置かれることとなった([[:en:Conquest of Wales by Edward I|Conquest of Wales by Edward I]])。ウェールズはイングランドの一地方となり、エドワード1世は長男エドワード([[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]])に[[プリンス・オブ・ウェールズ]]の称号を与え、ウェールズの君主としてウェールズを統治させた(これより以後、イングランド[[王太子]]は代々プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)の称号を引き継いでいく)。 このような過程を経てウェールズはイングランドに征服されその統治を受けることになったが、このことが逆にウェールズ人の民族意識を強めた。ウェールズ人は頑なにイングランドとの同化を拒み続け、この地に植民した異民族のほとんどはことごとくウェールズ人化していったという。イングランドの中にあってもウェールズの長弓([[ロングボウ]])隊は、強力な戦力として名を馳せイングランド王の軍勢にとって欠かせない戦力となった。 === テューダー家 === [[薔薇戦争]]([[1455年]] – [[1485年]])の際には、ウェールズはその政争争奪の舞台になり、[[1485年]]の[[ボズワースの戦い]]で勝利したリッチモンド伯が[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]として即位し、ウェールズ人の[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ大公]]の血統から出てイングランド王家に収まった([[テューダー朝]])。後世の[[テューダー朝|テューダー家]]に至っては、[[1536年]]の{{仮リンク|ウェールズ法諸法|en|Laws in Wales Acts 1535–1542|label=合同法}}によるウェールズ統合により、単一国家「[[イングランド王国]]」或いは「[[イングランドおよびウェールズ]]」とし、この王朝の家臣団ではウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は同王朝の[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]から[[エリザベス1世]]までの国王が推進した[[イギリス国教会|イングランド国教会]]創設などに協力的な姿勢を見せることになったのである。 === 三王国戦争以降 === {{Main|三王国戦争}} [[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]による独裁([[イングランド共和国]])の後は、政治的に力を落としたものの、ウェールズ人としての[[アイデンティティ]]は失われることはなく[[21世紀]]になった現在でも非常に強いと言われている。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|ウェールズの政治|en|Politics of Wales}}|{{仮リンク|ウェールズ政府|en|Welsh Government}}}} ウェールズは、[[13世紀]]に[[公国]] (Principality)を形成した。が、ウェールズ公国は、同じ世紀の末に[[イングランド]]の統治下に入った。以来、次期[[イギリス君主一覧#イングランド王国|イングランド王]](後には[[グレートブリテン王国|グレートブリテン]]王)となるべき最年長の王子([[王太子]])が、'''[[プリンス・オブ・ウェールズ]]''' (''Prince of Wales''; ウェールズ大公)として戴冠するのが慣わしとなっている。 ウェールズは、[[1536年]]の{{仮リンク|ウェールズ法諸法|en|Laws in Wales Acts 1535–1542|label=合同法}}による統合から長らく、単一の国である「[[イングランド王国]]」、或いは、[[イングランドおよびウェールズ]]の一部として扱われ、連合王国の中でも[[スコットランド]]や[[北アイルランド]]と事情が異なった。[[イギリスの国旗]]に[[ウェールズの国旗]]だけが含まれていないのは、そういう事情がある。 === ウェールズ議会 === [[1997年]]、[[ウェールズ議会|ウェールズ国民議会]]({{lang-en|National Assembly for Wales}}、{{lang-cy|Cynulliad Cenedlaethol Cymru}})の設置に関する住民投票が行われ、国民議会の設置が決定。[[1999年]]に、第1回選挙が行われた。2000年議員は任期4年で定数60名、[[小選挙区比例代表併用制]]によって選出される。限定的ではあるが、立法権を有する。2020年、ウェールズ国民議会は、'''ウェールズ議会'''({{lang-en|Welsh Parliament}}、{{lang-cy|Senedd Cymru}})に改称した。セネッド({{lang|cy|Senedd}}、英語の{{lang|en|senate}}に相当)とも呼ばれる。 [[2021年]]選挙における各党の議席数は以下のとおり。 {| class="wikitable" ! colspan=2 | 政党名 !! 議席数 |- ! style="background-color: #E4003B" | | [[ウェールズ労働党]] | style="text-align: center" | 30 |- ! style="background-color: #0087DC" | | [[ウェールズ保守党]] | style="text-align: center" | 16 |- ! style="background-color: {{Plaid Cymru/meta/color}}" | | [[プライド・カムリ]] | style="text-align: center" | 13 |- ! style="background-color: #FAA61A" | | [[ウェールズ自由民主党]] | style="text-align: center" | {{0}}1 |} {{see also|{{仮リンク|ウェールズの政党|en|List of political parties in Wales}}}} == 行政区画 == {{Main|ウェールズの地方行政区画}} ウェールズの地方行政は[[1996年]][[4月1日]]以降、22の単一行政体(ユニタリー)に分かれており、その内訳は9州 (county)、3市 (city)*、10州区 (county borough)† となる。行政体間の関係は対等であり、上下の関係はない。 番号は地図中に対応、括弧内は[[ウェールズ語]] [[ファイル:WalesNumbered.png|right|200px]] [[File:Preserved_counties_Wales.png|thumb|200px|1974年-1996年の行政区画 ([[:en:Preserved counties of Wales]])]] *1 [[マーサー・ティドビル (カウンティ・バラ)|マーサー・ティドビル]] (''{{lang|cy|Merthyr Tudful}}'') † *2 [[ケアフィリ (カウンティ・バラ)|ケアフィリ]] (''{{lang|cy|Caerffili}}'') † *3 [[ブライナイ・グエント]] (''{{lang|cy|Blaenau Gwent}}'') † *4 [[トルヴァエン]] (''{{lang|cy|Tor-faen}}'') † *5 [[モンマスシャー]] (''{{lang|cy|Sir Fynwy}}=シール・ファンウイー'') *6 [[ニューポート]] (''{{lang|cy|Casnewydd}}=カースネウイズ'') * *7 [[カーディフ]] (''{{lang|cy|Caerdydd}}=カエルディーズ'') * *8 [[ヴェール・オブ・グラモーガン]] (''{{lang|cy|Bro Morgannwg}}=ブロー・モルガンウッグ'') † *9 [[ブリジェンド]] (''{{lang|cy|Pen-y-bont ar Ogwr}}=ペン・アー・ボント・アル・オグル'') † *10 [[ロンザ・カノン・タフ]] (''{{lang|cy|Rhondda Cynon Tâf}}'') † *11 [[ニース・ポート・タルボット]] (''{{lang|cy|Castell-nedd Port Talbot}}=カステッシュッネーズ・ポルト・タルボット'') † *12 [[スウォンジ]] (''{{lang|cy|Abertawe}}=アベルタウェ'') * *13 [[カーマーゼンシャー]] (''{{lang|cy|Sir Gaerfyrddin}}=シール・カエルファルズィン'') *14 [[ケレディジョン]] (''{{lang|cy|Sir Ceredigion}}=シール・ケレディギョン'') *15 [[ポーイス]] (''{{lang|cy|Powys}}=ポウィス'') *16 [[レクサム (カウンティ・バラ)|レクサム]] (''{{lang|cy|Wrecsam}}=ウレクサム'') † *17 [[フリントシャー]] (''{{lang|cy|Sir y Fflint}}=シール・アー・フリント'') *18 [[デンビーシャー]] (''{{lang|cy|Sir Ddinbych}}=シール・ズィンビッヒ'') *19 [[コンウィ (カウンティ・バラ) |コンウィ]] (''{{lang|cy|Conwy}}'') † *20 [[グウィネズ (ウェールズ)|グウィネズ]] (''{{lang|cy|Gwynedd}}'') *21 [[アングルシー島|アングルシー]] (''{{lang|cy|Ynys Môn}}=アニス・モーン'') *22 [[ペンブルックシャー]] (''{{lang|cy|Sir Benfro}}=シール・ベンヴロ'') === 主要都市 === {{see|{{仮リンク|ウェールズの都市の一覧|en|List of cities in Wales}}}} == 地理 == [[File:Snowdon from Llyn Llydaw.jpg|thumb|upright|スノードン山]] {{main|{{仮リンク|ウェールズの地理|en|Geography of Wales|redirect=1}}}} ウェールズはロンドンの西方およそ200kmに位置し、アイルランドと海を隔て、リヴァプール湾、カーデガン湾、ブリストル海峡に囲まれる。国土の大部分は山地で、南北にカンブリア山脈が走る。その名前はウェールズの古名で、[[地質時代]]の[[古生代]][[カンブリア紀]]にも名づけられた。さらに、この地域を調査した[[地質学者]]が部族名から[[オルドビス紀]]と[[シルル紀]]も命名した。北のスノードニア国立公園には最高峰[[スノードン山]](標高1085m)がそびえる。国立公園であるスノードニア、ブレコンビーコン、ペンブルッククシャー海岸があるゴワー半島、ペンブルックシャー海岸等のあるカーデガン湾は風光明媚で遺産海岸に指定されているが、大西洋に面する海岸は数多くの難破船を出している。主な都市はカーディフ、スウォンジ、レクサム、ニューポートなどである。 == 経済 == {{main|{{仮リンク|ウェールズの経済|en|Economy of Wales}}}} ウェールズは[[18世紀]]に[[工業]]が発達し、埋蔵されていた[[石炭]]・[[銅]]・[[鉄]]・[[銀]]・[[鉛]]・[[金]]・[[粘板岩]]を産出した。[[19世紀]]後半から[[鉱業]]と[[金属工学]]はウェールズの[[経済]]において主要なものになり、ウェールズの南部と東北の工業地域の景観と社会は変化した。かつてウェールズ地方南部は、世界最大の石炭の輸出地域で[[20世紀]]前半の最盛期には、600以上の炭鉱で約20万人が働いていた。その後、石炭から石油への「[[エネルギー革命]]」で[[石炭産業]]は衰退し、南部を中心に立地した各種重工業がウェールズ経済を支えた。 [[1970年代]]にウェールズは伝統的な重工業から、軽工業あるいは[[サービス業]]へと大きく転換することになった。外国企業の誘致に成功したが、新しい産業の多くは本質的に分工場としての役割であり、流れ作業で熟練を必要としないものであった。ウェールズは人口などの経済的な絶対量は低く、また[[カーディフ]]はイギリスの他の都市[[リーズ]]・[[マンチェスター]]・[[ブリストル]]や小国の首都である[[ダブリン]]・[[コペンハーゲン]]・[[ヘルシンキ]]などよりも小さく、ウェールズには大都市と呼べる街が無い。にもかかわらず[[金融]]や[[研究開発]]の分野を発展させ、[[付加価値]]の高い雇用を生み出した。 イギリスのほかの地域と比べて、ウェールズの人口当たりの経済的な成果は低い。[[2002年]]ではイギリス平均の80%、EU25カ国平均の90%であった。ただし、生活に必要なコストが地域によって異なることに注意が必要である。イギリスの地域と実際の生活水準の差は大きくない。 2002年のウェールズのGDPは260億ポンド(480億[[米ドル|ドル]])、一人当たり12,651ポンド (19,546ドル)である。2006年の時点で失業率は5.7%で、イギリス全体の平均より高いがEUの平均よりは低い値である。 ウェールズの大部分の[[土壌]]は貧しく[[耕作]]には適さないため、農業の中心は伝統的に[[牧畜]]である。独特な文化と同様にウェールズの景観は多くの[[観光|観光客]]を惹きつけている。観光は田園地域の経済において特に重要な位置づけであり、3箇所が[[国立公園]]として保護されている。 === 経済史 === [[ファイル:Port-Talbot-Steelworks.jpg|thumb|right|[[ポート タルボット 製鉄所]]は南ウェールズで最後まで残った重工業の施設の一つである。]] 18世紀半ばまでウェールズの経済発展は山岳地帯を中心とする地形的要因、まばらな人口、通信手段が乏しい事もあり抑制されていた<ref name="historical atlas">Falkus, M. and Gillingham, J., eds (1987) Historical Atlas of Britain. London: Kingfisher.</ref>。 最も先進的だった地域は小さな沿岸部の港でブリストルやリバプールと定期的な交流があった。 18世紀半ばから産業開発が進みウェールズの豊富な地下資源が活用され産業革命を支えた。[[1900年代]]初頭の爆発的な成長は[[1920年代]]には経済的に困難に直面して、相変わらず古い重工業に依存していたが、イギリスのより豊かになる軽工業分野が成長した。 1970年代ウェールズは伝統的な重工業を軽工業とサービス産業に転換した。 === 保健 === {{see|{{仮リンク|ウェールズの保健|en|Health in Wales}}}} ==== 医療 ==== {{see|{{仮リンク|ウェールズの医療|en|Healthcare in Wales}}}} 公共の医療機関として[[NHS|NHS Wales]] (National Health Service Wales) Wales (Welsh: GIG Cymru)がある。[[1946年]]のNational Health Service Act 1946によって設立された。90,000人のスタッフを擁し、ウェールズ最大の雇用主である。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|ウェールズの交通|en|Transport in Wales}}}} === 航空 === [[カーディフ空港]]はウェールズで唯一の大規模な空港であり、カーディフの市街の中心から南西12マイル (≒19 km)のベール・オブ・グラモーガンに位置する。イギリス国内およびヨーロッパのいくつかの都市を結んでいる。 === 鉄道 === ウェールズの鉄道はカーディフ中央駅をネットワークの中心として、国中に広がっている。ウェールズ議会が鉄道網の監督をしている。旅客鉄道会社としてはウェールズ全域を運行する{{仮リンク|トランスポート・フォー・ウェールズ・レール・サービス|en|Transport for Wales Rail Services|label=}}の他、[[アヴァンティ・ウェスト・コースト]]が北部からロンドンへ、[[グレート・ウェスタン・レールウェイ]]([[ブリストル]]・[[ロンドン]]方面)、[[クロスカントリー (列車運行会社)|クロスカントリー]]([[バーミンガム]]・[[ノッティンガム]]方面)が南部に乗り入れている。 === 道路 === ウェールズの南部では[[M4高速道路]]が海岸沿いに[[カーディフ]]・[[ニューポート]]・[[スウォンジ]]などの都市を繋ぎ、[[イングランド]]の[[ロンドン]]まで続いている。M4高速道路のセヴァーン橋から終点までのウェールズ側の部分はウェールズ議会 (Welsh Assembly Government)の管轄である。同様に北部ではA55道路が[[ホーリーヘッド]]・[[バンガー]]・[[コンウィ]]などを結んで海岸沿いにイングランドの[[チェスター]]へと通じている。同じくホーリーヘッドからは古く[[アイルランド]]とロンドンを結ぶ街道として作られた[[A5]]{{要曖昧さ回避|date=2021年3月}}道路が[[バンガー]]から山間部を抜け、イングランドの[[シュルーズベリー]]などを経てロンドンへと向かっている。ウェールズの南北を結ぶ主要な道路としてはカーディフと[[スランディドノ]]を繋ぐA470道路がある。 == 教育 == {{main|{{仮リンク|ウェールズの教育|en|Education in Wales}}|イギリスの教育 #ウェールズの教育制度}} * [[バンガー大学]] * [[ウェールズ大学]] * [[カーディフ大学]] * [[スウォンジー大学]] == 国民 == {{main|ウェールズ人|{{仮リンク|ウェールズの人口統計|en|Demography of Wales}}|イギリスの人口統計}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|ウェールズの文化|en|Culture of Wales}}}} === 食文化 === {{see|ウェールズ料理}} {{節スタブ}} === 言語 === {{see|{{仮リンク|ウェールズの言語|en|Languages of Wales}}}} 現在のウェールズでは、[[ウェールズ語]]は英語と並んで公用語とされる。道路標識や公文書は、2カ国語で表記されている。例えば、イングランドから鉄道または自動車でウェールズに入ると、国境付近に設置された看板には、2か国語で『Welcome to Wales』『Croeso i Cymru』(クロイソ イ カムリ)と書いてある。 南部ではあまり話されないが、中北部では日常的に話される地域が多い。ただし、方言の差異が大きく、北に行くほど古い由緒正しい形を残している傾向がある。特にウェールズ最高峰である[[スノードン山]]付近の[[グウィネズ (ウェールズ)|グウィネズ]]地方でウェールズ語の話者が多い。この地域では、子供達が英語を習うのは小学校に入学してからのことであり、それまでは一般に、家族や近隣の友達とウェールズ語で会話している。 2001年現在、ウェールズ人全体の20.5%がウェールズ語を話すことができる。ウェールズにおいて、ウェールズ語を話す人口の割合は20世紀以降著しく減少しているが、人口増加により、ウェールズ語を話す人の絶対数は減少傾向が止まり、微増になっている。その主な理由は、小中学校でウェールズ語教育が実施されていることと、ウェールズ語によるTVプログラム(BBC WalesやHTV〔現ITV Wales〕、S4Cによる)が放送されていることによる<ref>[http://www.plaidcymru.org/content.php?nID=173;lID=1 A Bilingual Wales], Accessed 27 April 2008</ref>。 北部と西部ではウェールズ語は第一言語として話され英語は第2言語である。ウェールズの人口の21.7%がウェールズ語の読みまたは書きができ(2001年時点)、16%だけが支障をきたすが会話、読み書きできる。 === 音楽 === {{see|{{仮リンク|ウェールズの音楽|en|Music of Wales}}}} ウェールズは「歌の国」といわれ<ref>[https://www.wales-japan.com/wales/culture/ ウェールズ政府公式サイト]ウェールズの伝統・文化</ref>特に[[ハープ]]奏者や男声[[聖歌隊]]そして[[ギネス・ジョーンズ]]、[[シャーリー・バッシー]]、[[トム・ジョーンズ (歌手)|トム・ジョーンズ]]、[[シャルロット・チャーチ]]、[[メリー・ホプキン]]、[[キャサリン・ジェンキンス]]、[[アレッド・ジョーンズ]]、[[ボニー・タイラー]]、[[ダフィー (歌手)|ダフィー]]、[[ブリン・ターフェル]]などのソロミュージシャンが有名である。 [[バンド (音楽)|バンド]]では[[マニック・ストリート・プリーチャーズ]]、[[ステレオフォニックス]]、[[フィーダー (バンド)|フィーダー]]、[[スーパー・ファーリー・アニマルズ]]、[[ロストプロフェッツ]]、[[フューネラル・フォー・ア・フレンド]]、[[ブレット・フォー・マイ・ヴァレンタイン]]、[[ロス・キャンペシーノス!]]、[[ゴーキーズ・サイゴティック・マンキ]]等が有名である。 ウェールズには[[ナショナル・アイステズボッド]]という音楽と詩の祭典がある。これは1年に1度、毎年異なる街が持ち回りで開催している。[[スランゴスレン]]で行われる[[スランゴスレン国際芸術祭]]は[[アイステズボッド]]に倣ったものであるが、世界中の[[音楽家|ミュージシャン]]が参加している。 === 自然 === ウェールズには森林や湖、丘陵、海岸などの豊かな自然が残っている。面積の約20パーセントが国立公園に指定されている。 === 世界遺産 === * [[グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁]] - (1986年) ** [[コンウィ城]]、[[ビューマリス城]]、[[カーナーヴォン城]]、[[ハーレフ城]] * [[ブレナヴォン|ブレナヴォンの産業景観]] - (2000年) * [[ポントカサステ水路橋と運河]] - (2009年) == スポーツ == {{main|{{仮リンク|ウェールズのスポーツ|en|Sport in Wales}}}} [[ファイル:Millennium Stadium South.jpg|thumb|200px|[[カーディフ]]にある[[ミレニアム・スタジアム]]。]] ウェールズでは、[[サッカー]]と[[ラグビーフットボール|ラグビー]]が最も盛んな[[スポーツ]]となっている。特にラグビーの人気は凄まじく、ウェールズ人にとってアイデンティティの一部といわれるほどである。 === サッカー === {{main|{{仮リンク|ウェールズのサッカー|en|Football in Wales}}}} ウェールズではサッカーも人気のスポーツであり、[[1992年]]にプロサッカーリーグの[[ウェルシュ・プレミアリーグ]]が創設されている。これまでに、[[ザ・ニュー・セインツFC|TNS]]が8連覇を含むリーグ最多14度の優勝を達成している。[[ウェールズサッカー協会]](FAW)によって構成される[[サッカーウェールズ代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[1958 FIFAワールドカップ|1958年大会]]で初出場しベスト8の成績を収めた。さらに[[2022 FIFAワールドカップ|2022年大会]]では64年ぶり2度目の出場を果たしたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/wc/20220606/1655334.html?cx_top=rankingall|title=欧州最後の切符はウェールズに! ウクライナの猛攻を凌いでて64年ぶり2度目のW杯出場|publisher=Soccer King|date=June 5 2022|access-date=June 5 2022}}</ref>、本大会ではグループリーグ敗退となった。[[UEFA欧州選手権]]には2度出場しており、[[UEFA EURO 2016|2016年大会]]ではベスト4に進出した。世界的に有名な選手としては、[[レアル・マドリードCF|レアル・マドリード]]などで活躍した'''[[ガレス・ベイル]]'''が存在する。 {{See also|カーディフ・シティFC|スウォンジー・シティAFC}} === ラグビー === [[ラグビーウェールズ代表]]は世界的な強豪として名を馳せており、ウェールズ人の誇りとなっている。代表チームとして参加する大会としては、[[ラグビーワールドカップ]]と[[シックス・ネイションズ]]がある。クラブレベルでは、[[アイルランド]]や[[スコットランド]]および[[イタリア]]の4ヵ国合同で行われるリーグ戦「[[ユナイテッド・ラグビー・チャンピオンシップ|Pro 12]]」や、ウェールズと[[イングランド]]によるカップ戦[[アングロ・ウェルシュカップ]]、[[ヨーロッパ]]の覇権を争う大会[[ハイネケンカップ]]などがある。 === モータースポーツ === ウェールズは、[[フォーミュラ1|F1]]では二人の有名ドライバーを輩出している。一人は[[1967年]]の[[イギリスグランプリ]]で1位の[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]に4周遅れの9位に入った[[アラン・リーズ]]。もう一人は[[1974年]]から[[1977年]]の間に3位に2度、ポールポジションを1度獲得した[[トム・プライス]]である。[[世界ラリー選手権]]では、[[1996年]]のドライバーズチャンピオンである[[コリン・マクレー]]の[[ナビゲーター (モータースポーツ)|コ・ドライバー]]を務めたニッキー・グリストと、[[2003年]]のドライバーズチャンピオンでもある[[ペター・ソルベルグ]]のコ・ドライバーを務めたフィル・ミルズがいる。 === 自転車競技 === 自転車競技ではトラック競技の団体追抜で世界選手権を3度(2007年・2008年・2012年)制し、[[近代オリンピック|オリンピック]]では同種目で2大会連続(北京・ロンドン)の金メダリストとなり、さらにサイクルロードレースでは[[2018年]]の[[ツール・ド・フランス]]において総合優勝を果たした'''[[ゲラント・トーマス]]'''はカーディフの出身である。トーマスもウェールズ人としての自覚が強く、ロードレースのバイクやヘルメットのステッカーなどは本来イギリス車連に所属しているのでイギリス国旗が遇らわれるが、トーマスもウェールズ国旗を選んでいる<ref> [https://www.bikeradar.com/features/pro-bike/pro-bike-geraint-thomas-pinarello-dogma-f8/?image=3&type=gallery&gallery=1&embedded_slideshow=1 bikeradar.com]Pro bike: Geraint Thomas’ Pinarello Dogma F8</ref>。 ツールの総合表彰式でも、ユニオンジャックではなくウェールズ国旗を掲げている<ref>[https://www.wsj.com/video/geraint-thomas-wins-the-tour-de-france-for-team-sky/90513424-997C-4995-B0D3-7D678F2E26BF.html WSJ.com ]Geraint Thomas Wins the Tour de France for Team Sky</ref>。なお、トラック競技ではオリンピック・世界選手権共にウェールズ代表が存在しないのでイギリス代表として出走しており、コモンウェルスゲームではウェールズ代表として出走している。トーマスはイギリス国籍でツールを制した3人の選手のうち、唯一イギリス国内で生まれた選手でもある。なお、[[ブラッドリー・ウィギンス]]はイギリス国籍だが[[ベルギー]]で出生し、[[クリス・フルーム]]も[[ケニア]]の出身で、ケニアとイギリスの二重国籍を持つ。 === クリケット === [[クリケット]]も人気スポーツの一つである。18世紀後半に始まり、それ以来プレーされ続けている。[[国内競技連盟]]は[[イングランド・ウェールズクリケット委員会]]であり、ウェールズはイングランドとの合同チームの[[クリケットイングランド代表|イングランド代表]]として出場している。クリケットはウェールズの学校システム内でプレーされており、この国の主要な夏のスポーツの一つとみなされている。ウェールズにはグラモーガン・カウンティ・クリケット・クラブがあり、イングランド及びウェールズの国内リーグである[[カウンティ・チャンピオンシップ]]や[[トゥエンティ20]]形式の[[トゥエンティ20カップ]]に出場している。 === その他の競技 === ウェールズには、[[スヌーカー]]の世界クラスのプレイヤーである、テリー・グリフィス、マーク・ウィリアムズ、マシュー・スティーブンスがいる。さらに[[アイスホッケー]]のカーディフ・デビルズは、かつてイギリス全体で活躍した。[[ボクシング]]では、[[スーパーミドル級]]の[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]・[[世界ボクシング機構|WBO]]元世界王者の[[ジョー・カルザゲ]]はウェールズと[[イタリア]]のハーフであり、[[エンゾ・マカリネリ]]も[[クルーザー級]]の[[世界ボクシング機構|WBO]]・[[世界ボクシング連合|WBU]]元世界王者である。 == 日本との関係 == ; 日本の姉妹都市 <!-- 日本 - 都市名、リージョン(地方名)、カウンティ(州・県名)--> *{{Flagicon|宮城県}}[[宮城県]] [[村田町]] - [[:en:Buckley|バックリー]]([[:en:Clwyd|クルウィド地方]] [[フリントシャー|フリントシャー州]]) *{{Flagicon|京都府}}[[京都府]] [[与謝野町]] - [[アベリストウィス]]([[:en:Dyfed|ダヴェッド地方]] [[ケレディジョン|ケレディジョン州]]) == 著名な出身者 == {{Main|Category:ウェールズの人物}} {{colbegin|2}} * [[デビッド・ロイド・ジョージ]] - [[第一次世界大戦]]中の[[イギリス首相]] * [[ティモシー・ダルトン]] - 4代目[[ジェームズ・ボンド]]役 * [[デスモンド・リュウェリン]] - 007シリーズのQ役 * [[ジョージ・ハリスン]] - [[ビートルズ]]の元[[ギタリスト]] * [[ディラン・トマス]] - [[詩人]]、[[作家]] * [[トーマス・エドワード・ロレンス]] - 「アラビアのロレンス」として知られる[[軍人]] * [[ゲラント・トーマス]] - [[自転車競技]]選手、[[ツール・ド・フランス2018]]個人総合優勝 * [[C・W・ニコル]] - [[作家]] * [[キャサリン・ゼタ=ジョーンズ]] - 女優 * [[キャサリン・ジェンキンス]] - [[メゾソプラノ]]歌手 * [[ブライアン・ジョーンズ]] - [[ローリング・ストーンズ]]元[[ギタリスト]] * [[ライアン・ギグス]] - サッカー指導者 * [[トム・ジョーンズ (歌手)|トム・ジョーンズ]] - 歌手 * [[マニック・ストリート・プリーチャーズ]] - ロックバンド * [[ロストプロフェッツ]] - ロックバンド * [[レイ・ミランド]] - 俳優 * [[リチャード・バートン]] - 俳優 * [[ジョナサン・プライス]] - 俳優 * [[アンソニー・ホプキンス]] - 俳優 * [[メリー・ホプキン]] - 歌手 * [[ジョー・カルザゲ]] - [[プロボクサー]]、世界チャンピオン * [[エンゾ・マカリネリ]] - [[プロボクサー]]、世界チャンピオン * [[シルヴィア・スレイ]] - [[画家]]、後にアメリカに帰化 * [[イアン・ラッシュ]] - サッカー指導者 * [[フィル・ミルズ]] - [[世界ラリー選手権|WRC]]ドライバー[[ペター・ソルベルグ]]のコ・ドライバー * [[ディック・フランシス]] - 元競馬[[騎手]]、[[作家]] * [[ガレス・エドワーズ]] - 元[[ラグビーフットボール|ラグビー]]選手 * [[シェーン・ウィリアムス]] - [[ラグビーフットボール|ラグビー]]選手 * [[エイドリアン・ストリート]] - 元[[プロレスラー]] * [[トニー・チャールズ]] - 元[[プロレスラー]] * [[ルーク・エヴァンズ]] - 俳優 * [[マリーナ・アンド・ザ・ダイアモンズ]] - 歌手 * [[タロン・エジャトン]] - 俳優 * [[ガレス・ベイル]] - [[サッカー選手]] * [[アーロン・ラムジー]] - [[サッカー選手]] * [[ダニエル・ジェームズ]] - [[サッカー選手]] * [[エルフィン・エバンス]] - [[世界ラリー選手権|WRC]]ドライバー {{colend}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * {{仮リンク|ウェールズ政府|en|Welsh Government}} * [[サッカーウェールズ代表]] * [[ラグビーウェールズ代表]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Wales|Wales}} ; 公式 * [https://www.visitwales.com/ ウェールズ公式観光庁] {{en icon}} * [https://www.wales-japan.com/ ウェールズ政府 日本語公式HP] {{ja icon}} * [https://gov.wales/ ウェールズ政府] {{en icon}} {{cy icon}} * [https://www.visitbritain.com/jp/ja/ 英国政府観光庁 - ウェールズ] {{ja icon}} ; その他 * [https://www.walesjapanclub.com/ ウェールズ日本人会] {{連合王国構成国と王室領}} {{ウェールズの地方行政区画}} {{Celtic nations}} {{normdaten}} {{UK-stub}} {{DEFAULTSORT:うえるす}} [[Category:ウェールズ|*]] [[Category:ケルト]]
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K
Kは、ラテン文字の11番目の文字。小文字は k。ギリシア文字のΚ(カッパ)に由来し、キリル文字のКに相当する。フランス語やイタリア語などでは、主に外来語で使われる。 1本の縦棒の途中から右上と右下に斜線が出た形である。大文字では、2本の斜線の合計の高さは縦棒と同じであるが、小文字では、半分になる。またフラクトゥールでは K k {\displaystyle {\mathfrak {K\ k}}} のようである。 この文字が表す音素は、/k/ ないしその類似音である。フランス語やイタリア語でこの音を表すには、c や qu を用いる。音声記号として小文字は無声軟口蓋閉鎖音を表す。英語では ke, ki, ky の綴り以外では通常 c を使い、子音の前に来ることはほとんどない。また、ku はほとんど外来語にしか使わない。 使用されない言語も多いが、非ラテン文字を使用する言語をラテン文字に転記する際には /k/ またはその類似音を表すためにkが用いられることが多い。
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Kは、ラテン文字の11番目の文字。小文字は k。ギリシア文字のΚ(カッパ)に由来し、キリル文字のКに相当する。フランス語やイタリア語などでは、主に外来語で使われる。
{{Otheruses||その他}} {{A-Z}} '''K'''は、[[ラテン文字]]の[[11]]番目の文字。小文字は '''k'''。ギリシア文字の[[Κ]](カッパ)に由来し、キリル文字の[[К]]に相当する。[[フランス語]]や[[イタリア語]]などでは、主に[[外来語]]で使われる。 == 字形 == [[File:K cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-K.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] 1本の縦棒の途中から右上と右下に斜線が出た形である。大文字では、2本の斜線の合計の高さは縦棒と同じであるが、小文字では、半分になる。また[[フラクトゥール]]では<math>\mathfrak{K\ k}</math>のようである。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[ブラジルポルトガル語|伯]]・[[インドネシア語|尼]]:カー * [[フランス語|仏]]・[[スペイン語|西]]:カ * {{Lang-it-short|cappa}}, {{Lang|it|kappa}}(カッパ) * {{Lang-pt-short|capa}}(カパ) * {{Lang-en-short|kay}}(ケイ){{ipa|keɪ}} * [[エスペラント|エス]]: コー * [[日本語|日]]:ケー /ke̞ː/、ケイ /ke̞i/ == 音素 == この文字が表す音素は、/k/ ないしその類似音である。フランス語やイタリア語でこの音を表すには、[[c]] や qu を用いる。音声記号として小文字は[[無声軟口蓋閉鎖音]]を表す。英語では ke, ki, ky の綴り以外では通常 c を使い、子音の前に来ることはほとんどない。また、ku はほとんど外来語にしか使わない。 使用されない言語も多いが、非ラテン文字を使用する言語をラテン文字に転記する際には {{ipa|k}} またはその類似音を表すためにkが用いられることが多い。 *[[日本語]]のローマ字表記では[[訓令式]]、[[ヘボン式]]共に[[か行]]の子音に用いられる。 *[[朝鮮語]]のローマ字表記である[[文化観光部2000年式]]では{{lang|ko|[[ㅋ]]}}および終声の{{lang|ko|[[ㄱ]]}}(母音が後続しない場合)に用いられる。[[マッキューン=ライシャワー式]]では語頭などの無声で発音される[[初声]]の{{lang|ko|ㄱ}}にもkを用いる。初声の{{lang|ko|[[ㄲ]]}}はどちらの方式も2つ重ねて kk となる。 *[[中国語]]の[[漢語拼音]]では有気軟口蓋破裂音に用いられる。 *[[キリル文字]]のкは原則として k に転記される。[[х]] を kh で転記することもある。 == Kの意味 == *(連続したものの)[[11]]番目のもの。 *[[ローマ数字]]の[[250|二百五十]]。 *[[カリウム]]の元素記号。 *[[K中間子|K 中間子]] (kaon)<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/ej3/46473/m0u/k/ プログレッシブ英和中辞典。]</ref>。 *[[物理学]]では[[波数]]や[[固有状態]]を表す。[[運動エネルギー]]を表すこともある。 *[[物理学]]で[[ボルツマン定数]]、[[ばね係数]](小文字)。 *[[物性物理学]]の[[バンド計算]]における '''k 点'''/'''K 点'''。 →[[K点|K 点]] *[[原子]]の[[電子殻]]は '''K 殻'''から始まり、L 殻、M 殻…と続いていく。 *[[接眼レンズ]]の中で、ケルナー形式を表す。 *[[ダイオード]]・[[サイリスタ]]・[[真空管]]の端子の1つ。[[カソード]](英語では Cathode だが、ドイツ語の Kathode から '''K''' が使われる) *[[数学]]分野では、[[四元数]]の[[虚数単位]]として用いられる。 *医療業界では、病名を[[ドイツ語]]表記の省略形で[[カルテ]]に記載する際、K の一字で「癌」を示す。ドイツ語で[[悪性腫瘍|癌]]を意味する '''K'''rebs または '''K'''arzinom に由来。例 : [[Ö]].K. = Ösophagus'''k'''arzinom([[食道癌]])。 *カラー[[印刷]]などで使われる基本色[[色空間#CMY|CMYK]]の中の黒 ('''K'''ey plate)。 *経済学で[[資本]]、あるいは[[マーシャルのk]]。 *[[キング]] ('''K'''ing) **[[トランプ]]などの[[キング (トランプ)|キング]] (13) を表す。 **[[チェス]]の棋譜などで[[キング (チェス)|キング]]を表す。 *[[朝鮮]]または[[大韓民国|韓国]]('''K'''orea)を表す。 *[[ドイツ語]]の '''K'''urz(短い)の略。(例:[[ワルサーPPK]] = Polizei Pistole '''K'''urz) *[[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[JR北海道|JR]][[石勝線]]・[[根室線]]([[南千歳駅]]〜[[釧路駅]])('''K'''ushiro)、[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄上飯田線|上飯田線]] ('''K'''amiiida)、[[JR西日本|JR]][[姫新線]]、[[京都市営地下鉄]][[烏丸線]] ('''K'''arasuma)、[[Osaka Metro]][[堺筋線]] (sa'''K'''aisuji)、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[湯の山線]]、[[神戸市営地下鉄]][[神戸市営地下鉄海岸線|海岸線]] ('''K'''aigan)、[[JR四国|JR]][[土讃線]]([[高知駅]]〜[[窪川駅]])('''K'''ōchi'''K'''ubokawa)、[[ことでん]][[琴平線]] ('''K'''otohira)、[[福岡市交通局]][[福岡市地下鉄空港線|空港線]] ('''K'''ūkō) の[[路線記号]]として用いられる。 *台湾で「K書」は「書を読む」のこと。 *[[スペイン]]や[[ポルトガル]]、韓国などでは「[[lol]]」のように「kkkk」などと笑いの意味で用いられる。 *[[間取り図]]などでは、[[台所|キッチン]] ('''K'''itchen) の略。(1DK など) *[[K値]]は、生物の[[細胞]]に含まれる[[アデノシン三リン酸]]が、死後[[イノシン]]などに分解されることを利用して考えられた、新鮮さを計る指標。 *日本語における人名の敬称「くん」を表す。紙媒体では丸囲みの K、[[World Wide Web|WWW]] や[[電子メール]]では全角小文字の K (k) が主に使われる。1990年代後半から女子小中学生を中心に流行。 *[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソビエト連邦]]、[[ロシア]]における潜水巡洋艦(同国における[[潜水艦]]の一分類) * [[3K]] という言葉は、労働環境・作業内容において、「きつい・汚い・危険」の略として使われることがある。 *[[アメリカ合衆国]]の[[シリアル食品]]会社、[[ケロッグ (企業)|ケロッグ]]の[[ニューヨーク証券取引所]][[証券コード]]([[ティッカーシンボル]]) *&quot;けい&quot;の音を意味する記号として。 **警察を意味する俗語。K 察。 **&quot;軽&quot;と置き換えられて使われることがある。(例:K-Car = 軽自動車(後述)) *[[20|二十]]を意味する数字(文字)。二十一進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において二十([[十進法]]の'''20''')を一桁(一字)で表すために用いられる。また、一つの部品に、[[0]]を用いずに十個以上でチャンネルを嵌合する場合、九を「[[9]]」、[[10|十]]を「[[A]]」、[[11|十一]]を「[[B]]」、[[12|十二]]を「[[C]]」、…、二十を「K」というように用いられる。 *[[二十進法]]では、本来使用されない文字であるが、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] が紛らわしいためにアルファベットの I を使用しない例があり、その場合に[[19|十九]]([[十進法]]の'''19''')を一桁で表すのに使用される。この場合、[[18|十八]]には [[J]] が充てられる。 *富裕層と貧困層などの社会階層や業種の違いによって、経済格差が広がることを「K字」と表現する。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]による[[2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|社会・経済的影響]]を受けて、注目を浴びることとなった。 *'''単位''' **[[1000]]を表す<ref>[https://kotobank.jp/word/K-12711 ASCII.jpデジタル用語辞典。]</ref>。 ***[[国際単位系]]で、1000倍を表す接頭辞、'''[[キロ]]'''(小文字)。 ****転じて、国際単位系以外でも千倍を表す接頭辞として使われる。例:[[Y2K]](Year 2000=西暦2000年) ****転じて、千円を表す単位としても使われる。例:5k(5000円) ****コンピュータ関連では1024 (=2<sup>10</sup>) 倍を表す場合がある。この場合、大文字で書かれることが多い。(⇒[[2進接頭辞|二進接頭辞]]) **[[ケルビン]] (Kelvin) 。[[温度]]の[[単位]]。273K=0℃ **[[金]]の純度を表す[[カラット]] ('''K'''arat)。 *'''鉄道''' **[[K特急]]は、[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]]の特急列車の1つ。 **[[スルッとKANSAI Kカード|K カード]]は、京阪電鉄が発売する[[乗車カード]]。 *'''スポーツ''' **[[野球]]で[[三振]]のこと。 **[[K-1]] は、格闘技イベント。 **[[スキー]]の[[スキージャンプ|ジャンプ競技]]における'''K点'''。 →[[K点]] **[[アメリカンフットボール]]で[[プレースキッカー|キッカー]]。 *'''機械メーカー及びその商品名''' **[[au (携帯電話)|au by KDDI]], [[ツーカー|Tu-Ka]] の端末製造メーカーである、[[京セラ]] ('''K'''yocera) の略号。 **[[J-PHONE]]の[[ケンウッド|'''K'''ENWOOD]]製携帯電話の略号。ボーダフォン日本法人には供給せず現在携帯事業から撤退。 **[[ペンタックス]]の[[一眼レフカメラ|一眼レフ]]用[[レンズマウント]]、「ペンタックスKマウント」(←'''K'''ing of SLR)。近年ではデジタル一眼レフカメラの型番にも「K」がついている。 **かつて[[富士通]]が販売していた[[オフィスコンピュータ]]、[[FACOM]] '''Kシリーズ'''。1984年に販売が開始され、1999年に後継機種の[[PRIMERGY 6000]]が発表されるまで販売された。オフコン全盛時代にその代名詞的存在となっていた。 **日本の[[理化学研究所]]に設置された[[スーパーコンピュータ]]の[[京 (スーパーコンピュータ)|京]]は、英語では '''K''' computer と称する。 *'''音楽・歌手''' **[[K (ミュージシャン)|K]] は、[[Moi dix Mois]] のメンバー、ギタリスト。 **Kは、[[Pay money To my Pain]]、[[GUNDOG]] のボーカリスト。 **[[BUMP OF CHICKEN]] の曲名。アルバム「[[THE LIVING DEAD]]」収録曲。 **[[ケッヘル番号]] (Köchel)。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の楽曲の整理番号。 **[[カークパトリック番号]] (Kirkpatrick)。[[ドミニコ・スカルラッティ]]のチェンバロ曲の整理番号。 **[[K (歌手)|K]] は、[[大韓民国#国民|韓国人]]男性[[歌手]]。 **[[K (川村カオリのアルバム)|K]] は、[[川村カオリ]]のアルバム。 *'''番組・作品及びその登場人物・舞台''' **韓国アニメ『[[シャドーファイター]]』の主人公。声は[[ソン・ジョンア]]。 **コミック[[ごくせん]]の舞台、'''K 市'''。 **[[文化放送]]制作の全国ネットラジオ番組『[[レコメン!]]』に登場するラジオパーソナリティ・'''K太郎'''。正体は同局[[男性]][[アナウンサー]]・[[砂山圭大郎|砂山大輔]]である。 **[[フランツ・カフカ]]の小説「城」の主人公。 **[[夏目漱石]]の小説[[こゝろ]]の登場人物。 **[[K']]([[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]シリーズに登場するキャラクター。[[草薙京]] (KUSANAGI) の '''K''' からとったもの) **『[[ひぐらしのなく頃に]]』の登場人物、[[前原圭一]]の愛称。 **映画『[[スケバン刑事|スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ]]』で、[[松浦亜弥]]が演じる主人公の少女の名。本名のイニシャルで「K」と呼ばれているのみで、本名自体は作中では明らかにされていない。本作にて4代目[[麻宮サキ]]を襲名する。 **[[石ノ森章太郎]]原作の特撮テレビ番組『[[ロボット刑事]]』の主人公。 **『[[イナズマイレブン]]』に登場するサッカーチーム、'''チーム K'''。 **[[ケイダッシュステージ]]が企画・製作した舞台劇『'''[[K (松野一茂)|K]]'''』。 **覆面作家集団のGoRAによるアニメーションを中心としたメディアミックス作品『'''[[K (アニメ)|K]]'''』。 *'''自動車・オートバイに関するもの''' **[[軽自動車]]の通称。K-car または K とも。 **[[自動車排出ガス規制]]コード([[1979年]]規制のディーゼル車) **[[スズキ (企業)|スズキ]]の[[オートバイ]]の[[商標]]、[[スズキ・K]] == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|004B|75||1-3-43|006B|107||1-3-75|}} {{ULu|FF2B|65323||1-3-43|FF4B|65355||1-3-75|全角}} {{ULu|24C0|9408||‐|24DA|9434||1-12-36|丸囲み}} {{ULu|1F11A|127258||‐|24A6|9382||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D40A|119818||‐|1D424|119844||‐|[[太字]]}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Kilo |Morse=-・- |Character=K |Braille=⠅ }} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[Ķ|{{Unicode|Ķ}}]] - [[セディーユ]] * {{仮リンク|Ḱ|en|Ḱ|label={{Unicode|Ḱ}}}} - [[アキュート・アクセント]] * {{仮リンク|Ǩ|en|Ǩ|label={{Unicode|Ǩ}}}} - [[ハーチェク]]/キャロン * {{仮リンク|Ḳ|de|Ḳ|label={{Unicode|Ḳ}}}} - [[ドット符号]] * {{仮リンク|Ḵ|de|Ḵ|label={{Unicode|Ḵ}}}} * {{仮リンク|Ƙ|en|Ƙ|label={{Unicode|Ƙ}}}} - [[フックつき文字]] * [[キープ (通貨)|{{通貨フォント|₭}}]] - ラオスの通貨単位「キープ」 * [[ケイ]] {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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ツール・ド・フランス
ツール・ド・フランスまたは(ル・)トゥール・ド・フランス(仏: Le Tour de France、以下「ツール」)は、毎年7月にフランスおよび周辺国を舞台にして行われる自転車ロードレース。1903年に始まり、主催は、傘下にスポーツ新聞『レキップ』や一般紙『ル・パリジャン』などを抱えるフランスの大企業アモリ・スポル・オルガニザシオン(ASO, Amaury Sport Organisation)。 名称はフランス語で「フランス一周」を意味する。フランス語による同様の名称のレースには、スイスで行われるツール・ド・スイスなどがある。単にル・ツール(Le Tour:ル・トゥール)と呼ばれることもある。ジロ・デ・イタリアやスペインで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャと並ぶ世界三大自転車レース(グランツール)の一つであり、FIFAワールドカップやオリンピックと並ぶ世界三大スポーツイベントの一つと称される。 「近代ツール」と区別される場合は1930年大会以降の大会を示す。この大会から個人参加が認められなくなった。 毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで、距離にして3300km前後、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走り抜く。フランス国内でのレースが中心だがイギリス、イタリア、スペイン、ベルギー、モナコなど周辺国が舞台になるステージもある。ステージ数は1993年以降「プロローグ」を含めて全21ステージが定着しているが、それ以前はもっと多いステージ数で争われることもあった。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされているが、山岳の比重が大きくなることの多いジロ・デ・イタリアやブエルタ・ア・エスパーニャに比べて平地ステージと山岳ステージのバランスがとれた構成となっている。 スポンサーの名を冠した8人編成(最低6人。2017年大会までは9人編成)のチームが、20~22チーム参加する。出場する選手の国籍はヨーロッパだけに限らず、アメリカやオーストラリア、カザフスタン、コロンビアなど多様である。 総合成績1位の選手には黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。 賞金総額は2015年の場合で約203万ユーロ、うち総合優勝者に45万ユーロとなっているほか、各ステージ優勝やスプリント賞・山岳賞などに細かく賞金が設定されている。 例年、前半は平坦基調のステージが続き、スピードマンたちの逃げやスプリンターたちによる迫力あるゴールスプリントが見られる。そして中盤に一度山岳を通過し優勝候補が絞り込まれ、その後はまた平坦ステージが続き、今度はポイント賞争いが絞り込まれる。後半にかけてはラルプ・デュエズ、ガリビエ、モン・ヴァントゥなどの峠を舞台にした山岳ステージで総合優勝や山岳賞をかけたオールラウンダーやクライマーたちの戦いが繰り広げられる。 2度の山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれピレネー山脈とアルプス山脈を使うことが多いため、「ピレネーラウンド」「アルプスラウンド」と呼ばれる。間の平坦基調ステージは主にこの二つの山脈の間を移動するために設定されているが、この緩急をつけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント賞のシステム(後述)などもあり、スプリンターが一番ポイント賞を獲得しやすいグランツールとなっている。 かつては各ステージのゴールと次のステージのスタートが同じ町だったが、スタート・ゴール地点を希望する市町村が多いため現在は一致しないことが多い。 他のグランツールではしばしば最終ステージが個人タイムトライアルとなることがあるが、ツール・ド・フランスにおいては稀である。最終日前日の第20ステージ(プロローグが設定される場合は第19ステージ)で総合優勝争いには決着がつき、最終ステージはパリ市街を中心に回るクリテリウム形式のコース設定がされ、シャンゼリゼゴールに設定されるのが恒例である。最終日は選手たちがシャンパンを片手に走る光景もよく見られるなど顔見せの凱旋パレードの色合いが強く、ポイント賞を争うスプリンターやステージ優勝を狙う選手以外は安全を優先して走る。総合優勝を争う選手は集団落車に巻き込まれないようアシスト選手で周囲を固めゴールスプリントが済んだ後にゴールに入るため、実質的な総合優勝争いは最終日の前日までとなる。もっとも、過去に最終日に個人タイムトライアルに設定されたケースもあり、総合首位が逆転するケースがしばしば起こっている。1968年、前ステージまで16秒差の総合3位につけていたヤン・ヤンセンがヘルマン・ファンスプリンヘルを、また1989年、同じくローラン・フィニョンに50秒の差をつけられていたグレッグ・レモンが大逆転したケースがある。しかし1989年のケースにおいて、フィニョンの負け方があまりにも悲劇的だったことから、最終ステージを個人タイムトライアルとすることに対し、とりわけ同胞であるフランス人から批判が殺到した。この影響を受け1990年以降、最終ステージにおける個人タイムトライアルは2023年まで行われない。2024年大会で35年ぶりに実施される予定である。 スポーツ新聞社・ロト(L'Auto、現在のレキップ紙)の宣伝のために当時の編集長アンリ・デグランジュが自動車による「ツール・ド・フランス」をヒントに企画したのが始まりで自転車レースを企画するライバル2紙、ル・プティ・ジュルナル(Le Petit Journal)によるパリ・ブレスト・パリ(現在はアマチュアが参加するブルベというイベントに変わっている)、並びにヴェロ紙(Le Velo)がスポンサーとなるボルドー〜パリ間レースに対抗するためのものであった。 1903年に行われた第1回は、パリ郊外モンジュロン(Montgeron)のカフェ「ルヴェイユ・マタン (Au Reveil Matin)」前からヴィル=ダヴレーまで、合計走行距離2428km・6ステージで行われ、1ステージ平均400kmを走るという過酷なレースであった。初期のレースではほとんど休みがない耐久戦であり、眠る際にもライダーは道路脇で眠っていたという。一方で休息日が第1回は1日おき(1ステージ走ったら1日休み)、その後も3~4日ごとに設けられるなど休息日の数は現在よりも多かった。ゴール先の宿泊先も自分で手配し、いかなる場合でも(自転車の故障による修理なども含む)他者の協力を得ることは禁止されていたため、選手は修理用の工具や交換用のタイヤを身につけて走っていた。 第3回からは距離を縮めた分、ステージ数が倍増。さらに山岳ステージが導入された。ただ当時は変速機が無く、登山用の低速ギアが後輪の反対側(ダブルコグ)に取り付けられていた。しかし、上り坂に来るたびに選手は後輪を前後反対に付け直さねばならなかったためレースは相変わらず過酷なものだった。間もなく変速機が開発されるが、デグランジュはこれを禁止した(デグランジュは「変速機は女子供が使うもの」との考えを持っていたといわれる)。 初期はルールが一定せず、第3~10回は総合優勝がポイント順位制(各ステージ首位の選手とのタイム差をポイントに換算し、点数の最も少ない選手が優勝)とされていた。また第9回からチームによる参加が認められたが、引き続き個人としての参加も可能となっていた(1936年まで)。 以後も徐々にステージ数は増えそれに伴いレースは大規模化していくが、第一次世界大戦によって1915年から1918年までは中断。1919年から再開されたがこの頃は再び走行距離も伸び1ステージ平均350kmを走るのが当たり前で、総距離は5000kmを超える傾向が1930年代まで続いた。 1930年からは商業スポンサーによるチーム(いわゆる「トレードチーム」)の参加を禁止し、チームは全て同一国籍の選手によるナショナルチームでの参加を義務付けることとなった。しかしチーム数が不足したため、ナショナルチーム以外にも地域選抜チームの参加も認められた。チームから商業スポンサーを排除した結果、主催者は選手への機材の供給を一手に引き受けなければならなくなった。主催者は運営費用を調達するため、レースの前に宣伝カーを走らせてそのスポンサー料を運営費用に充てることを思いつく。この結果、現在のツールでも見られる「キャラバン隊」がこの年に誕生した。 1930年代以降はステージ数20前後、走行距離は4500km程度の規模になり、ほぼ現在の開催スタイルとなる。1937年にデグランジュが代表の座を退くとツールでは変速機の使用が認められるようになったほか、個人参加が禁止されチームカーが導入されるなど「チームによる戦い」としてのツールが確立される。総合優勝以外の各賞が制定されたのもこの頃で、チーム賞は1930年、山岳賞は1933年(ただしジャージ制定は1975年)、ポイント賞は1953年に制定されている。 しかし第二次世界大戦によって1940年から1946年まで再び中断を余儀なくされた。この戦争を挟んだ時代に参加した選手の中にイタリアのファウスト・コッピ、ジーノ・バルタリがいる。この時代からツールはチームを編成した集団競技へと移行し、チーム編成の規定も試行錯誤が続けられた。1947年から再開され、以後1950年代にルイゾン・ボベが3連覇を達成した。 1960年代に入ると自転車レース人気の高まりからスポンサーが増え、ナショナルチーム制を取る当時のツールに対する不満が高まってきた。これに加えフランスのナショナルチーム内においてジャック・アンクティルとレイモン・プリドールが対立し、ナショナルチームとして両者を同じレースに出場させることができない状態となった。当時のフランス自転車界の二大スター選手の片方を欠くことはレースの盛り上がりをそぐことになるため、主催者はこの問題を回避すべく1962年からトレードチームによるエントリーを認めることとなった。その後、1967年と1968年には一時的にナショナルチーム制が復活するものの、現在に至るトレードチームによる戦いがここにスタートした。 1960年代にはアンクティル、1970年代前半にエディ・メルクスが4連覇を達成。1973年には独立した運営企業として「ソシエテ・デュ・ツール・ド・フランス(Société du Tour de France)」が設立された(同社は1993年にASO傘下となる)。1975年には今や恒例となっているシャンゼリゼ通り周回コースによる最終ステージがスタートした。1970年代後半からはベルナール・イノーやローラン・フィニョンらフランス人が活躍。1980年代後半は後半はヨーロッパ出身以外の選手の台頭も目立つようになり、アメリカ人のグレッグ・レモンが活躍した。 1990年代前半にはミゲル・インドゥラインが史上初の5連覇を達成。2000年代にはランス・アームストロングが7連覇を達成したが、2012年にドーピングによるものであるとして剥奪された。 2010年以降はイギリスの天下が続いており、クリス・フルームが3連覇を成し遂げている。 他に3週間程度にわたり行われる大規模なステージレースとしてはジロ・デ・イタリア(イタリア一周)とブエルタ・ア・エスパーニャ(スペイン一周)があり、これにツール・ド・フランスを加えて俗にグランツール(三大ツール)と呼ばれる。その中でもツール・ド・フランスの知名度・露出度は突出しており、日本でも「世界最大の自転車レース」として認識されている。 世界各地で開かれる他の自転車レースには興味がなくてもツール・ド・フランスだけは高い関心を持つファンも多数存在しており、開催規模や放映される国の多さ、参加する選手の国籍の多彩さなどから見ても世界屈指のスポーツ競技大会である。2010年時点、186の国と地域でテレビ放送され、うち60か国は生中継を実施している。 そのため総合優勝をはじめとした各賞のステータスが非常に高いことはもとより、各ステージの優勝もクラシックなどワンデイレースのビッグレースでの優勝に匹敵する価値があるともいわれ、1回のステージ優勝であっても生涯の勲章になる。さらに超級山岳ポイントの峠を1位で通過することも名誉なことであり、次回以降通過する際、歴代の峠の制覇者としてオフィシャルガイドに名前が掲載される。それゆえプロロードレース選手にとっては一度は出場してみたい大会の筆頭である。 レースが非常に大規模、かつメディア露出度が高いために専門の本部が置かれ、およそ500人のスタッフが運営に関わる。交通規制やレース中の警備、極端な不正行為の取締りはジャンダルマリ(フランス国家憲兵隊)とポリスナシオナル(フランス国家警察)の2系統の警察が担当しており、これに動員される人数が約2万5000人。さらにボランティアで警備などを担当する人は数十万人にのぼると推察されている。 またレース中は情報や補給食・飲料水を供給したり、機材のトラブルをサポートするメカニックが乗り込んだ「サービスカー」と呼ばれる車やオートバイが、選手と共におよそ1500台走る。このサービスカーはチーム専属の車両のほか、中立の立場で水や機材を提供するニュートラルカー(ツールでは主にマヴィックが提供するため「マヴィックカー」として知られる)も参加している。 このほかにも選手が通過するおよそ1~2時間前に各スポンサーが出す山車のような宣伝カーが連なったキャラバン隊が沿道の観客に菓子、応援グッズ、キーホルダーなどのグッズをばら撒いていく。配られる数は1000万を超え車の台数はおよそ200台にもなり、全て見るのに40分以上かかるほどである。2000年と2002年にはこのキャラバンカーに観客の子どもがはねられ死亡する事件が起きている。 キャラバン隊は現地にいる観客へのPRだけなく山岳地帯などレースのスピードが落ちる区間でチームジャージと同じ吸湿性に優れた素材で出来たTシャツを配布し、沿道に即席の応援団を作り出すことでスポンサーのロゴが中継で長く映るようにする(2008年のケス・デパーニュ)など巧妙な宣伝を行っている。近年ではキャラバン隊は選手の通過後にも登場する(2008年以降のヴィッテルなどが代表例)。 運営費は主にテレビ放映権とスポンサー収入で賄われるほか、レースの舞台となる市町村から主催者に支払われる開催料も充てられているもようだが、正確な収入および運営費用は非公開となっている。 数種の賞が設定されており、各賞に応じた色別のジャージ(リーダージャージ)、または特別なゼッケンがある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手およびチームは、翌ステージでそのジャージまたはゼッケンを着用しなければならない。2012年以降、リーダージャージはルコックによる提供。なお表彰式で着用するリーダージャージは背中にファスナーのある表彰式専用のもので、翌ステージで着用するジャージは改めて対象選手(「繰り下げルール」適用の場合は繰り下げの着用対象選手)に渡される。 黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ (maillot jaune)」は個人総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。 緑色のジャージ「マイヨ・ヴェール (maillot vert)」は「ポイント賞」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算され、スプリントポイント1位の選手が「マイヨ・ヴェール」着用の権利を得る。 白地に赤い水玉ジャージ「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ (maillot blanc à pois rouges)」は「山岳賞」に対して与えられる。山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手が「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ」着用の権利を得る。1975年に初登場。略して「マイヨ・ア・ポワ」あるいは「マイヨ・グランペール」とも呼ばれる。 白色のジャージ「マイヨ・ブラン (maillot blanc)」は開催年に25歳以下の誕生日を迎える選手の中で総合成績が最も上位の選手に与えられる(大会期間中に25歳であっても開催年中に26歳になる選手は対象外)。「新人賞」と訳されることが多いが、該当の年齢であれば複数回受賞できるため正確には「最優秀若手選手賞」と呼ぶのがふさわしい。色の由来は不明。 タイムトライアルと最終ステージを除く各ステージで特に果敢に動いたと認められた選手には「敢闘賞」として、通常白地に黒文字のゼッケンの代わりに赤地に白抜き数字のゼッケンが与えられる(ただし2004年はスポンサーの関係から青地に白数字のものが使われていた)。「敢闘賞」は他の賞と異なり審査員の主観によって選ばれる賞で、各ステージ終了直前に受賞選手1人が主催者から発表され、表彰が行われる。審査員の中には逃げ屋でおなじみとなっていたジャッキー・デュランも含まれていることもあり、逃げ集団が吸収された際は最後まで逃げていた選手、逃げ集団が逃げ切りでゴールした際は2位の選手、単独逃げ切りに成功した場合はその選手が敢闘賞となる確率が高い。2009年の最終ステージ(シャンゼリゼ通り)では、別府史之が日本人初の敢闘賞を獲得した。2010年以降、最終ステージについてはステージ敢闘賞の対象外となっている。また最終日には大会全体で最も果敢な走りをしたと認められた選手1人に「スーパー敢闘賞」(「総合敢闘賞」とも)が贈られる。 各ステージの終了後、チームごとに先頭から3人の所要時間の合計が加算され(各チームの総合時間成績の上位3人ではないことに注意)、最も少ない時間のチームが表彰される。リタイアなどによりチームが3人未満になったチームは順位から除外となる。2006年からは黄色地に黒文字のゼッケンがチーム総合首位の選手全員に与えられている。チーム総合1位のチームに敢闘賞ゼッケン対象者がいる場合は、敢闘賞ゼッケンを優先する。 その年の最大標高の山岳をトップで通過した選手にアンリ・デグランジュ記念賞が与えられる。特にジャージやゼッケンなどは設定されていないが、数千ユーロの賞金が授与される。ジロ・デ・イタリアにおけるチマ・コッピと同じもの。 所属チーム名は当時。なお、主要部門賞受賞者については 2022年の109回大会まで、国籍別ではフランスが36勝、次いでベルギーが18勝、スペインが12勝、イタリアが10勝、イギリスが6勝、ルクセンブルクが5勝、アメリカ合衆国、デンマークが3勝、スイス、オランダ、スロベニアがそれぞれ2勝、アイルランド、ドイツ、オーストラリア、コロンビアが各1勝となっている。なおランス・アームストロングの優勝剥奪(後述)があるため、大会の回数と勝利数の合計は一致しない。 ツールで総合優勝を5回達成した選手達を俗に「5勝クラブ」と呼んでいる。「5勝クラブ」に名を連ねている4人はいずれも歴史に残る名選手である。2005年にランス・アームストロングは史上初の7回の総合優勝を達成したが、2012年にドーピングによるものとして7連覇の記録は剥奪されている。 なお、ランス・アームストロングは22勝で5位となるが、ドーピングにより剥奪されている。 ツール・ド・フランスは、その初期から不正が横行していた。2回目の1904年の大会の時点で、優勝者のモリス・ガランを含む完走27選手中12選手が、列車の使用などの不正をして失格となり、アンリ・デグランジュがレースを開催しないと宣言する事態となる。このデグランジュの決断は、後に撤回されたため、ツール・ド・フランスは継続されるようになったが、貧しい階級出身者が多かった当時の自転車競技者にとって、巨額な賞金は何としてでも手に入れたいものであり、その後も不正行為は後を絶たなかった。特定の場所を通過したかどうかのチェックを行うポイント制が導入されてから、列車などの乗り物を使った不正は減少したが、代わりに薬物によるドーピングが用いられるようになる。21世紀になっても、ドーピングの問題は根深かった。2013年大会以降は、現在まで重大なドーピング問題は報告されていない。 主催者であるASOとUCIとの間で、参加チームの選定など、管理・運営に関する溝がUCIプロツアー制定初年度の2005年から生じた。さらにその溝は、年を追うごとに深刻さを増し、ジロ・デ・イタリアの主催者であるRCSスポルト、ブエルタ・ア・エスパーニャの主催者であるウニプブリクをも巻き込こんだ。そしてついに2008年、ASO、RCS、ウニプブリクが、UCIプロツアーからの離脱を決定。この決定に対し、看過できないという強硬姿勢をとったUCIとの確執がさらに続き、2008年の大会開催時に、ASOから参加を拒まれたアスタナ・チームを除く当時の17のUCIプロチームが、翌2009年シーズンのUCIプロツアーライセンスを更新しないという事態にまで発展したが、同年8月、UCIがASOの親会社であるEPAとの話し合いの末、UCIプロツアーを包含した新制度UCIワールドカレンダーを2009年シーズンから開始することで和解。ツールは2年ぶりに、ロードレースの年間シリーズに復帰することになった。 ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアを同一人物が同年に総合優勝することを指して「ダブルツール」と呼び、加えて世界選手権自転車競技大会個人ロードレースを同年に制すると「トリプルクラウン」と呼び「カンピオニッシモ(伊:campionissimo、「チャンピオン」の最上級)」として称えられる。 参加者の中で最も総合タイムの遅い選手は「ランタンルージュ (Lanterne rouge)」=「赤ランプ」と呼ばれる。これは以前は貨物列車の最後尾に目印として赤ランタンが掛けられていたことに引っ掛けて(尾灯が赤であるべきことは世界共通。前照灯参照)「一番後ろを走る存在」すなわち「最下位の選手」を意味しており、総合優勝などとは別の意味で非常に注目される存在である。 現在日本での放送はスポーツ専門チャンネル「J SPORTS」で全ステージ生中継されている(J SPORTS cycle road raceも参照)。 1985年から1991年にかけてはNHKが放映権を持ち、主にBS1で中継を行っていたほか、地上波でも数回「世界最大の自転車レース」と題して単発特番を放送していたこともある(現在この間の放送をDVD化したものがNHKエンタープライズから発売されている)。2007年からはBS1で後日ダイジェストながら放送を再開している。2013年から2015年までは「まいにち ツール・ド・フランス」のタイトルでデイリーハイライト番組を、2016年以降はウィークリーハイライトを放送。 1992年にフジテレビが放映権を取得し、同系列で「英雄たちの夏物語」というダイジェスト番組を2~3回にわたり放送していた。またJ SPORTSが生中継を始める前はフジテレビが衛星録画、山岳ステージの衛星中継を独占で行っていた。ダイジェスト番組のナレーションは窪田等が担当。テーマ音楽はTHE SQUAREの「CHASER」、エンディングテーマはビル・コンティによる映画『ライトスタッフ』のテーマ曲「The Right Stuff」。なお、2013年には第100回開催記念としてJ SPORTSが往事のコンセプトをそのまま再現した同タイトルの総集編を放送している。 1998年には当時の「SKY Sports」(J SPORTSの前身)がフジテレビからサブライセンスを受ける形で生中継を開始(その関係から、青嶋達也などフジテレビのアナウンサーが実況を担当することが多かった)。2005年にはフジテレビが放送権を放棄し、代わってJ SPORTSが5年間の独占放送の権利を取得した。2009年に契約を更新し2013年までの延長が発表され、さらに契約延長により2017年現在でも放送されている。2017年は全21ステージについて、スタートからフィニッシュまでの完全生中継が実現した。 なお、J SPORTSの生中継では、非常に長時間(2017年は最大で約8時間中継)に及ぶことから放送中に実況・解説者に補給食(レース中に選手が補給食を受け取るための袋にちなんで「サコッシュ」と呼ばれている)が配られそれを食べながら放送を行うという、他のスポーツ中継にはない特色があった。2007年にはJ SPORTSの携帯サイトにおいて視聴者が中継を見ながら食べているものを撮影してメールで送ってもらう「今日のサコッシュ」というコーナーが展開されるなど、ツール中継における名物となっていた。また2000年から2004年まで開催中に「裏ツール」サイトが公式サイト内に設置され、視聴者からの質問などをフォローしていた。川柳の投稿や放送内に行われるプレゼントクイズへの珍回答などを題材に毒舌の担当者の独断と偏見でプレゼントが贈られていた。Twitterが普及すると、ロードレース中継専用の実況ハッシュタグ「#jspocycle」と質問用ハッシュタグ「#jspocycleq」を設定、後者に関しては随時視聴者からの質問を取り上げ解説者が回答している。 また、テレビでの本放送だけでなく、J SPORTSオンデマンドでも同時ライブ配信を実施、同時にフランス現地の放送も実況を差し替えずに配信するだけでなく、最大4画面のマルチアングル配信も行っている。またYouTubeとニコニコ動画・ニコニコ生放送でも第1日などの無料同時ライブ配信やレースハイライトの配信を行っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ツール・ド・フランスまたは(ル・)トゥール・ド・フランス(仏: Le Tour de France、以下「ツール」)は、毎年7月にフランスおよび周辺国を舞台にして行われる自転車ロードレース。1903年に始まり、主催は、傘下にスポーツ新聞『レキップ』や一般紙『ル・パリジャン』などを抱えるフランスの大企業アモリ・スポル・オルガニザシオン(ASO, Amaury Sport Organisation)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "名称はフランス語で「フランス一周」を意味する。フランス語による同様の名称のレースには、スイスで行われるツール・ド・スイスなどがある。単にル・ツール(Le Tour:ル・トゥール)と呼ばれることもある。ジロ・デ・イタリアやスペインで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャと並ぶ世界三大自転車レース(グランツール)の一つであり、FIFAワールドカップやオリンピックと並ぶ世界三大スポーツイベントの一つと称される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「近代ツール」と区別される場合は1930年大会以降の大会を示す。この大会から個人参加が認められなくなった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで、距離にして3300km前後、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走り抜く。フランス国内でのレースが中心だがイギリス、イタリア、スペイン、ベルギー、モナコなど周辺国が舞台になるステージもある。ステージ数は1993年以降「プロローグ」を含めて全21ステージが定着しているが、それ以前はもっと多いステージ数で争われることもあった。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされているが、山岳の比重が大きくなることの多いジロ・デ・イタリアやブエルタ・ア・エスパーニャに比べて平地ステージと山岳ステージのバランスがとれた構成となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "スポンサーの名を冠した8人編成(最低6人。2017年大会までは9人編成)のチームが、20~22チーム参加する。出場する選手の国籍はヨーロッパだけに限らず、アメリカやオーストラリア、カザフスタン、コロンビアなど多様である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "総合成績1位の選手には黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "賞金総額は2015年の場合で約203万ユーロ、うち総合優勝者に45万ユーロとなっているほか、各ステージ優勝やスプリント賞・山岳賞などに細かく賞金が設定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "例年、前半は平坦基調のステージが続き、スピードマンたちの逃げやスプリンターたちによる迫力あるゴールスプリントが見られる。そして中盤に一度山岳を通過し優勝候補が絞り込まれ、その後はまた平坦ステージが続き、今度はポイント賞争いが絞り込まれる。後半にかけてはラルプ・デュエズ、ガリビエ、モン・ヴァントゥなどの峠を舞台にした山岳ステージで総合優勝や山岳賞をかけたオールラウンダーやクライマーたちの戦いが繰り広げられる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2度の山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれピレネー山脈とアルプス山脈を使うことが多いため、「ピレネーラウンド」「アルプスラウンド」と呼ばれる。間の平坦基調ステージは主にこの二つの山脈の間を移動するために設定されているが、この緩急をつけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント賞のシステム(後述)などもあり、スプリンターが一番ポイント賞を獲得しやすいグランツールとなっている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "かつては各ステージのゴールと次のステージのスタートが同じ町だったが、スタート・ゴール地点を希望する市町村が多いため現在は一致しないことが多い。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "他のグランツールではしばしば最終ステージが個人タイムトライアルとなることがあるが、ツール・ド・フランスにおいては稀である。最終日前日の第20ステージ(プロローグが設定される場合は第19ステージ)で総合優勝争いには決着がつき、最終ステージはパリ市街を中心に回るクリテリウム形式のコース設定がされ、シャンゼリゼゴールに設定されるのが恒例である。最終日は選手たちがシャンパンを片手に走る光景もよく見られるなど顔見せの凱旋パレードの色合いが強く、ポイント賞を争うスプリンターやステージ優勝を狙う選手以外は安全を優先して走る。総合優勝を争う選手は集団落車に巻き込まれないようアシスト選手で周囲を固めゴールスプリントが済んだ後にゴールに入るため、実質的な総合優勝争いは最終日の前日までとなる。もっとも、過去に最終日に個人タイムトライアルに設定されたケースもあり、総合首位が逆転するケースがしばしば起こっている。1968年、前ステージまで16秒差の総合3位につけていたヤン・ヤンセンがヘルマン・ファンスプリンヘルを、また1989年、同じくローラン・フィニョンに50秒の差をつけられていたグレッグ・レモンが大逆転したケースがある。しかし1989年のケースにおいて、フィニョンの負け方があまりにも悲劇的だったことから、最終ステージを個人タイムトライアルとすることに対し、とりわけ同胞であるフランス人から批判が殺到した。この影響を受け1990年以降、最終ステージにおける個人タイムトライアルは2023年まで行われない。2024年大会で35年ぶりに実施される予定である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "スポーツ新聞社・ロト(L'Auto、現在のレキップ紙)の宣伝のために当時の編集長アンリ・デグランジュが自動車による「ツール・ド・フランス」をヒントに企画したのが始まりで自転車レースを企画するライバル2紙、ル・プティ・ジュルナル(Le Petit Journal)によるパリ・ブレスト・パリ(現在はアマチュアが参加するブルベというイベントに変わっている)、並びにヴェロ紙(Le Velo)がスポンサーとなるボルドー〜パリ間レースに対抗するためのものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1903年に行われた第1回は、パリ郊外モンジュロン(Montgeron)のカフェ「ルヴェイユ・マタン (Au Reveil Matin)」前からヴィル=ダヴレーまで、合計走行距離2428km・6ステージで行われ、1ステージ平均400kmを走るという過酷なレースであった。初期のレースではほとんど休みがない耐久戦であり、眠る際にもライダーは道路脇で眠っていたという。一方で休息日が第1回は1日おき(1ステージ走ったら1日休み)、その後も3~4日ごとに設けられるなど休息日の数は現在よりも多かった。ゴール先の宿泊先も自分で手配し、いかなる場合でも(自転車の故障による修理なども含む)他者の協力を得ることは禁止されていたため、選手は修理用の工具や交換用のタイヤを身につけて走っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第3回からは距離を縮めた分、ステージ数が倍増。さらに山岳ステージが導入された。ただ当時は変速機が無く、登山用の低速ギアが後輪の反対側(ダブルコグ)に取り付けられていた。しかし、上り坂に来るたびに選手は後輪を前後反対に付け直さねばならなかったためレースは相変わらず過酷なものだった。間もなく変速機が開発されるが、デグランジュはこれを禁止した(デグランジュは「変速機は女子供が使うもの」との考えを持っていたといわれる)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "初期はルールが一定せず、第3~10回は総合優勝がポイント順位制(各ステージ首位の選手とのタイム差をポイントに換算し、点数の最も少ない選手が優勝)とされていた。また第9回からチームによる参加が認められたが、引き続き個人としての参加も可能となっていた(1936年まで)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "以後も徐々にステージ数は増えそれに伴いレースは大規模化していくが、第一次世界大戦によって1915年から1918年までは中断。1919年から再開されたがこの頃は再び走行距離も伸び1ステージ平均350kmを走るのが当たり前で、総距離は5000kmを超える傾向が1930年代まで続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1930年からは商業スポンサーによるチーム(いわゆる「トレードチーム」)の参加を禁止し、チームは全て同一国籍の選手によるナショナルチームでの参加を義務付けることとなった。しかしチーム数が不足したため、ナショナルチーム以外にも地域選抜チームの参加も認められた。チームから商業スポンサーを排除した結果、主催者は選手への機材の供給を一手に引き受けなければならなくなった。主催者は運営費用を調達するため、レースの前に宣伝カーを走らせてそのスポンサー料を運営費用に充てることを思いつく。この結果、現在のツールでも見られる「キャラバン隊」がこの年に誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1930年代以降はステージ数20前後、走行距離は4500km程度の規模になり、ほぼ現在の開催スタイルとなる。1937年にデグランジュが代表の座を退くとツールでは変速機の使用が認められるようになったほか、個人参加が禁止されチームカーが導入されるなど「チームによる戦い」としてのツールが確立される。総合優勝以外の各賞が制定されたのもこの頃で、チーム賞は1930年、山岳賞は1933年(ただしジャージ制定は1975年)、ポイント賞は1953年に制定されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかし第二次世界大戦によって1940年から1946年まで再び中断を余儀なくされた。この戦争を挟んだ時代に参加した選手の中にイタリアのファウスト・コッピ、ジーノ・バルタリがいる。この時代からツールはチームを編成した集団競技へと移行し、チーム編成の規定も試行錯誤が続けられた。1947年から再開され、以後1950年代にルイゾン・ボベが3連覇を達成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1960年代に入ると自転車レース人気の高まりからスポンサーが増え、ナショナルチーム制を取る当時のツールに対する不満が高まってきた。これに加えフランスのナショナルチーム内においてジャック・アンクティルとレイモン・プリドールが対立し、ナショナルチームとして両者を同じレースに出場させることができない状態となった。当時のフランス自転車界の二大スター選手の片方を欠くことはレースの盛り上がりをそぐことになるため、主催者はこの問題を回避すべく1962年からトレードチームによるエントリーを認めることとなった。その後、1967年と1968年には一時的にナショナルチーム制が復活するものの、現在に至るトレードチームによる戦いがここにスタートした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1960年代にはアンクティル、1970年代前半にエディ・メルクスが4連覇を達成。1973年には独立した運営企業として「ソシエテ・デュ・ツール・ド・フランス(Société du Tour de France)」が設立された(同社は1993年にASO傘下となる)。1975年には今や恒例となっているシャンゼリゼ通り周回コースによる最終ステージがスタートした。1970年代後半からはベルナール・イノーやローラン・フィニョンらフランス人が活躍。1980年代後半は後半はヨーロッパ出身以外の選手の台頭も目立つようになり、アメリカ人のグレッグ・レモンが活躍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1990年代前半にはミゲル・インドゥラインが史上初の5連覇を達成。2000年代にはランス・アームストロングが7連覇を達成したが、2012年にドーピングによるものであるとして剥奪された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2010年以降はイギリスの天下が続いており、クリス・フルームが3連覇を成し遂げている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "他に3週間程度にわたり行われる大規模なステージレースとしてはジロ・デ・イタリア(イタリア一周)とブエルタ・ア・エスパーニャ(スペイン一周)があり、これにツール・ド・フランスを加えて俗にグランツール(三大ツール)と呼ばれる。その中でもツール・ド・フランスの知名度・露出度は突出しており、日本でも「世界最大の自転車レース」として認識されている。", "title": "知名度と露出度" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "世界各地で開かれる他の自転車レースには興味がなくてもツール・ド・フランスだけは高い関心を持つファンも多数存在しており、開催規模や放映される国の多さ、参加する選手の国籍の多彩さなどから見ても世界屈指のスポーツ競技大会である。2010年時点、186の国と地域でテレビ放送され、うち60か国は生中継を実施している。", "title": "知名度と露出度" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "そのため総合優勝をはじめとした各賞のステータスが非常に高いことはもとより、各ステージの優勝もクラシックなどワンデイレースのビッグレースでの優勝に匹敵する価値があるともいわれ、1回のステージ優勝であっても生涯の勲章になる。さらに超級山岳ポイントの峠を1位で通過することも名誉なことであり、次回以降通過する際、歴代の峠の制覇者としてオフィシャルガイドに名前が掲載される。それゆえプロロードレース選手にとっては一度は出場してみたい大会の筆頭である。", "title": "知名度と露出度" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "レースが非常に大規模、かつメディア露出度が高いために専門の本部が置かれ、およそ500人のスタッフが運営に関わる。交通規制やレース中の警備、極端な不正行為の取締りはジャンダルマリ(フランス国家憲兵隊)とポリスナシオナル(フランス国家警察)の2系統の警察が担当しており、これに動員される人数が約2万5000人。さらにボランティアで警備などを担当する人は数十万人にのぼると推察されている。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "またレース中は情報や補給食・飲料水を供給したり、機材のトラブルをサポートするメカニックが乗り込んだ「サービスカー」と呼ばれる車やオートバイが、選手と共におよそ1500台走る。このサービスカーはチーム専属の車両のほか、中立の立場で水や機材を提供するニュートラルカー(ツールでは主にマヴィックが提供するため「マヴィックカー」として知られる)も参加している。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このほかにも選手が通過するおよそ1~2時間前に各スポンサーが出す山車のような宣伝カーが連なったキャラバン隊が沿道の観客に菓子、応援グッズ、キーホルダーなどのグッズをばら撒いていく。配られる数は1000万を超え車の台数はおよそ200台にもなり、全て見るのに40分以上かかるほどである。2000年と2002年にはこのキャラバンカーに観客の子どもがはねられ死亡する事件が起きている。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "キャラバン隊は現地にいる観客へのPRだけなく山岳地帯などレースのスピードが落ちる区間でチームジャージと同じ吸湿性に優れた素材で出来たTシャツを配布し、沿道に即席の応援団を作り出すことでスポンサーのロゴが中継で長く映るようにする(2008年のケス・デパーニュ)など巧妙な宣伝を行っている。近年ではキャラバン隊は選手の通過後にも登場する(2008年以降のヴィッテルなどが代表例)。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "運営費は主にテレビ放映権とスポンサー収入で賄われるほか、レースの舞台となる市町村から主催者に支払われる開催料も充てられているもようだが、正確な収入および運営費用は非公開となっている。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "数種の賞が設定されており、各賞に応じた色別のジャージ(リーダージャージ)、または特別なゼッケンがある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手およびチームは、翌ステージでそのジャージまたはゼッケンを着用しなければならない。2012年以降、リーダージャージはルコックによる提供。なお表彰式で着用するリーダージャージは背中にファスナーのある表彰式専用のもので、翌ステージで着用するジャージは改めて対象選手(「繰り下げルール」適用の場合は繰り下げの着用対象選手)に渡される。", "title": "各賞とリーダージャージについて" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ (maillot jaune)」は個人総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。", "title": "各賞とリーダージャージについて" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "緑色のジャージ「マイヨ・ヴェール (maillot vert)」は「ポイント賞」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算され、スプリントポイント1位の選手が「マイヨ・ヴェール」着用の権利を得る。", "title": "各賞とリーダージャージについて" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "白地に赤い水玉ジャージ「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ (maillot blanc à pois rouges)」は「山岳賞」に対して与えられる。山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手が「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ」着用の権利を得る。1975年に初登場。略して「マイヨ・ア・ポワ」あるいは「マイヨ・グランペール」とも呼ばれる。", "title": "各賞とリーダージャージについて" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "白色のジャージ「マイヨ・ブラン (maillot blanc)」は開催年に25歳以下の誕生日を迎える選手の中で総合成績が最も上位の選手に与えられる(大会期間中に25歳であっても開催年中に26歳になる選手は対象外)。「新人賞」と訳されることが多いが、該当の年齢であれば複数回受賞できるため正確には「最優秀若手選手賞」と呼ぶのがふさわしい。色の由来は不明。", "title": "各賞とリーダージャージについて" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "タイムトライアルと最終ステージを除く各ステージで特に果敢に動いたと認められた選手には「敢闘賞」として、通常白地に黒文字のゼッケンの代わりに赤地に白抜き数字のゼッケンが与えられる(ただし2004年はスポンサーの関係から青地に白数字のものが使われていた)。「敢闘賞」は他の賞と異なり審査員の主観によって選ばれる賞で、各ステージ終了直前に受賞選手1人が主催者から発表され、表彰が行われる。審査員の中には逃げ屋でおなじみとなっていたジャッキー・デュランも含まれていることもあり、逃げ集団が吸収された際は最後まで逃げていた選手、逃げ集団が逃げ切りでゴールした際は2位の選手、単独逃げ切りに成功した場合はその選手が敢闘賞となる確率が高い。2009年の最終ステージ(シャンゼリゼ通り)では、別府史之が日本人初の敢闘賞を獲得した。2010年以降、最終ステージについてはステージ敢闘賞の対象外となっている。また最終日には大会全体で最も果敢な走りをしたと認められた選手1人に「スーパー敢闘賞」(「総合敢闘賞」とも)が贈られる。", "title": "各賞とリーダージャージについて" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "各ステージの終了後、チームごとに先頭から3人の所要時間の合計が加算され(各チームの総合時間成績の上位3人ではないことに注意)、最も少ない時間のチームが表彰される。リタイアなどによりチームが3人未満になったチームは順位から除外となる。2006年からは黄色地に黒文字のゼッケンがチーム総合首位の選手全員に与えられている。チーム総合1位のチームに敢闘賞ゼッケン対象者がいる場合は、敢闘賞ゼッケンを優先する。", "title": "各賞とリーダージャージについて" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その年の最大標高の山岳をトップで通過した選手にアンリ・デグランジュ記念賞が与えられる。特にジャージやゼッケンなどは設定されていないが、数千ユーロの賞金が授与される。ジロ・デ・イタリアにおけるチマ・コッピと同じもの。", "title": "各賞とリーダージャージについて" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "所属チーム名は当時。なお、主要部門賞受賞者については", "title": "歴代総合優勝者" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2022年の109回大会まで、国籍別ではフランスが36勝、次いでベルギーが18勝、スペインが12勝、イタリアが10勝、イギリスが6勝、ルクセンブルクが5勝、アメリカ合衆国、デンマークが3勝、スイス、オランダ、スロベニアがそれぞれ2勝、アイルランド、ドイツ、オーストラリア、コロンビアが各1勝となっている。なおランス・アームストロングの優勝剥奪(後述)があるため、大会の回数と勝利数の合計は一致しない。", "title": "国別優勝回数" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ツールで総合優勝を5回達成した選手達を俗に「5勝クラブ」と呼んでいる。「5勝クラブ」に名を連ねている4人はいずれも歴史に残る名選手である。2005年にランス・アームストロングは史上初の7回の総合優勝を達成したが、2012年にドーピングによるものとして7連覇の記録は剥奪されている。", "title": "5勝クラブ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、ランス・アームストロングは22勝で5位となるが、ドーピングにより剥奪されている。", "title": "区間優勝回数" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ツール・ド・フランスは、その初期から不正が横行していた。2回目の1904年の大会の時点で、優勝者のモリス・ガランを含む完走27選手中12選手が、列車の使用などの不正をして失格となり、アンリ・デグランジュがレースを開催しないと宣言する事態となる。このデグランジュの決断は、後に撤回されたため、ツール・ド・フランスは継続されるようになったが、貧しい階級出身者が多かった当時の自転車競技者にとって、巨額な賞金は何としてでも手に入れたいものであり、その後も不正行為は後を絶たなかった。特定の場所を通過したかどうかのチェックを行うポイント制が導入されてから、列車などの乗り物を使った不正は減少したが、代わりに薬物によるドーピングが用いられるようになる。21世紀になっても、ドーピングの問題は根深かった。2013年大会以降は、現在まで重大なドーピング問題は報告されていない。", "title": "ツールをめぐる問題" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "主催者であるASOとUCIとの間で、参加チームの選定など、管理・運営に関する溝がUCIプロツアー制定初年度の2005年から生じた。さらにその溝は、年を追うごとに深刻さを増し、ジロ・デ・イタリアの主催者であるRCSスポルト、ブエルタ・ア・エスパーニャの主催者であるウニプブリクをも巻き込こんだ。そしてついに2008年、ASO、RCS、ウニプブリクが、UCIプロツアーからの離脱を決定。この決定に対し、看過できないという強硬姿勢をとったUCIとの確執がさらに続き、2008年の大会開催時に、ASOから参加を拒まれたアスタナ・チームを除く当時の17のUCIプロチームが、翌2009年シーズンのUCIプロツアーライセンスを更新しないという事態にまで発展したが、同年8月、UCIがASOの親会社であるEPAとの話し合いの末、UCIプロツアーを包含した新制度UCIワールドカレンダーを2009年シーズンから開始することで和解。ツールは2年ぶりに、ロードレースの年間シリーズに復帰することになった。", "title": "ツールをめぐる問題" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアを同一人物が同年に総合優勝することを指して「ダブルツール」と呼び、加えて世界選手権自転車競技大会個人ロードレースを同年に制すると「トリプルクラウン」と呼び「カンピオニッシモ(伊:campionissimo、「チャンピオン」の最上級)」として称えられる。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "参加者の中で最も総合タイムの遅い選手は「ランタンルージュ (Lanterne rouge)」=「赤ランプ」と呼ばれる。これは以前は貨物列車の最後尾に目印として赤ランタンが掛けられていたことに引っ掛けて(尾灯が赤であるべきことは世界共通。前照灯参照)「一番後ろを走る存在」すなわち「最下位の選手」を意味しており、総合優勝などとは別の意味で非常に注目される存在である。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "現在日本での放送はスポーツ専門チャンネル「J SPORTS」で全ステージ生中継されている(J SPORTS cycle road raceも参照)。", "title": "日本でのテレビ放送" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1985年から1991年にかけてはNHKが放映権を持ち、主にBS1で中継を行っていたほか、地上波でも数回「世界最大の自転車レース」と題して単発特番を放送していたこともある(現在この間の放送をDVD化したものがNHKエンタープライズから発売されている)。2007年からはBS1で後日ダイジェストながら放送を再開している。2013年から2015年までは「まいにち ツール・ド・フランス」のタイトルでデイリーハイライト番組を、2016年以降はウィークリーハイライトを放送。", "title": "日本でのテレビ放送" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1992年にフジテレビが放映権を取得し、同系列で「英雄たちの夏物語」というダイジェスト番組を2~3回にわたり放送していた。またJ SPORTSが生中継を始める前はフジテレビが衛星録画、山岳ステージの衛星中継を独占で行っていた。ダイジェスト番組のナレーションは窪田等が担当。テーマ音楽はTHE SQUAREの「CHASER」、エンディングテーマはビル・コンティによる映画『ライトスタッフ』のテーマ曲「The Right Stuff」。なお、2013年には第100回開催記念としてJ SPORTSが往事のコンセプトをそのまま再現した同タイトルの総集編を放送している。", "title": "日本でのテレビ放送" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1998年には当時の「SKY Sports」(J SPORTSの前身)がフジテレビからサブライセンスを受ける形で生中継を開始(その関係から、青嶋達也などフジテレビのアナウンサーが実況を担当することが多かった)。2005年にはフジテレビが放送権を放棄し、代わってJ SPORTSが5年間の独占放送の権利を取得した。2009年に契約を更新し2013年までの延長が発表され、さらに契約延長により2017年現在でも放送されている。2017年は全21ステージについて、スタートからフィニッシュまでの完全生中継が実現した。", "title": "日本でのテレビ放送" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "なお、J SPORTSの生中継では、非常に長時間(2017年は最大で約8時間中継)に及ぶことから放送中に実況・解説者に補給食(レース中に選手が補給食を受け取るための袋にちなんで「サコッシュ」と呼ばれている)が配られそれを食べながら放送を行うという、他のスポーツ中継にはない特色があった。2007年にはJ SPORTSの携帯サイトにおいて視聴者が中継を見ながら食べているものを撮影してメールで送ってもらう「今日のサコッシュ」というコーナーが展開されるなど、ツール中継における名物となっていた。また2000年から2004年まで開催中に「裏ツール」サイトが公式サイト内に設置され、視聴者からの質問などをフォローしていた。川柳の投稿や放送内に行われるプレゼントクイズへの珍回答などを題材に毒舌の担当者の独断と偏見でプレゼントが贈られていた。Twitterが普及すると、ロードレース中継専用の実況ハッシュタグ「#jspocycle」と質問用ハッシュタグ「#jspocycleq」を設定、後者に関しては随時視聴者からの質問を取り上げ解説者が回答している。", "title": "日本でのテレビ放送" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、テレビでの本放送だけでなく、J SPORTSオンデマンドでも同時ライブ配信を実施、同時にフランス現地の放送も実況を差し替えずに配信するだけでなく、最大4画面のマルチアングル配信も行っている。またYouTubeとニコニコ動画・ニコニコ生放送でも第1日などの無料同時ライブ配信やレースハイライトの配信を行っている。", "title": "日本でのテレビ放送" } ]
ツール・ド・フランスまたは(ル・)トゥール・ド・フランスは、毎年7月にフランスおよび周辺国を舞台にして行われる自転車ロードレース。1903年に始まり、主催は、傘下にスポーツ新聞『レキップ』や一般紙『ル・パリジャン』などを抱えるフランスの大企業アモリ・スポル・オルガニザシオン。 名称はフランス語で「フランス一周」を意味する。フランス語による同様の名称のレースには、スイスで行われるツール・ド・スイスなどがある。単にル・ツールと呼ばれることもある。ジロ・デ・イタリアやスペインで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャと並ぶ世界三大自転車レース(グランツール)の一つであり、FIFAワールドカップやオリンピックと並ぶ世界三大スポーツイベントの一つと称される。 「近代ツール」と区別される場合は1930年大会以降の大会を示す。この大会から個人参加が認められなくなった。
{{脚注の不足|date=2021-04}} {{Main2|2023年大会については[[ツール・ド・フランス2023]]を}} {{Main2|1899年から1986年の[[自動車レース]]については{{ill|ツール・ド・フランス・オートモービル|en|Tour_de_France_Automobile}}を}} {{自転車レース | レース名 = ツール・ド・フランス | 画像= | 開催時期 = 7月上旬~7月下旬(23日間) | 開催地域 = {{FRA}}及び周辺諸国 | 英語名 = Tour de France | 地域名 = Le Tour de France {{fr icon}} | 愛称 = ツール(ル・トゥール) | 分野 = [[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]] | カテゴリー = [[UCIワールドツアー]] / [[グランツール]] | 形態 = ステージレース | 主催者 = [[アモリ・スポル・オルガニザシオン]](ASO) | 責任者 = {{仮リンク|クリスティアン・プリュドム|en|Christian Prudhomme|fr|Christian Prudhomme}} | 初回開催年 = 1903年 | 開催回数 = 110回(2023年) | 最終開催年 = | 初代優勝者 = {{Flagicon|FRA}} [[モリス・ガラン]] | 最多優勝者 = {{Flagicon|FRA}} [[ジャック・アンクティル]]<br>{{Flagicon|BEL}} [[エディ・メルクス]]<br>{{Flagicon|FRA}} [[ベルナール・イノー]]<br>{{Flagicon|ESP}} [[ミゲル・インドゥライン]](5回) | 直近優勝者 = {{Flagicon|DEN}} [[ヨナス・ヴィンゲゴー]](2023年) }} '''ツール・ド・フランス'''または('''ル・''')'''トゥール・ド・フランス'''({{lang-fr-short|'''Le Tour de France'''}}、以下「ツール」)<!-- 厳密には「ル・トゥール・ドゥ・フランス」という表記の方が原音に近いが「トゥ」という音は日本語では一般的に用いられないため、「ツール」という表記に置き換えられたものと考えられる。類似例として、[[ツールマレー峠]](Col du Tourmalet。厳密な表記はトゥルマレ峠)などが挙げられる。 -->は、毎年7月に[[フランス]]および周辺国を舞台にして行われる[[ロードレース (自転車競技)|自転車ロードレース]]。[[1903年]]に始まり、主催は、傘下にスポーツ新聞『[[レキップ]]』や一般紙『[[ル・パリジャン]]』などを抱えるフランスの大企業[[アモリ・スポル・オルガニザシオン]](ASO, Amaury Sport Organisation)。 名称はフランス語で「フランス一周」を意味する<ref>『クラウン仏和辞典』第4版([[三省堂]]、1995年)1531頁</ref>。フランス語による同様の名称のレースには、[[スイス]]で行われる[[ツール・ド・スイス]]などがある。単にル・ツール(Le Tour:ル・トゥール)と呼ばれることもある。[[ジロ・デ・イタリア]]や[[スペイン]]で開催される[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]と並ぶ世界三大自転車レース<ref name=読売20230524>[https://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20230523-OYT1T50260/ [EURO EYE]別格ツールド・ド・フランス 最長の歴史■美しい歴史疾走]『[[読売新聞]]』朝刊2023年5月24日スポーツ面</ref>([[グランツール]])の一つであり、[[FIFAワールドカップ]]や[[近代オリンピック|オリンピック]]と並ぶ世界三大スポーツイベントの一つ<ref name=saitamacity>{{Cite press release|和書|title=2019ツール・ド・フランスさいたまクリテリウムを開催します|publisher=[[さいたま市]]|date=2019-4-15|url=https://www.city.saitama.jp/006/014/008/003/008/001/p064756_d/fil/2019kaisaikettei.pdf|accessdate=2019-10-9}}8ページ参照。</ref>と称される。 「近代ツール」と区別される場合は[[ツール・ド・フランス1930|1930年大会]]以降の大会を示す。この大会から個人参加が認められなくなった。 == 概要 == [[ファイル:Tour de France 2007.png|thumb|2007年のコース]] 毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで、距離にして3300[[キロメートル|km]]前後<ref group="注">UCIの規定で「グランツールに関しては、日程は23日以内で内2日間を休息日に充てること、総走行距離は3500km以内であること」と定められている。</ref>、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走り抜く。フランス国内でのレースが中心だが[[イギリス]]、[[イタリア]]、スペイン、[[ベルギー]]、[[モナコ]]など周辺国が舞台になるステージもある。ステージ数は1993年以降「プロローグ」を含めて全21ステージが定着しているが、それ以前はもっと多いステージ数で争われることもあった。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされているが、山岳の比重が大きくなることの多い[[ジロ・デ・イタリア]]や[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]に比べて平地ステージと山岳ステージのバランスがとれた構成となっている<ref group="注">[[2008年]]の場合は平坦10ステージ、山岳5ステージ、中級山岳4ステージ、個人タイムトライアル2ステージという構成。</ref>。 スポンサーの名を冠した8人編成(最低6人。2017年大会までは9人編成)のチームが、20~22チーム参加する。出場する選手の国籍は[[ヨーロッパ]]だけに限らず、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[オーストラリア]]、[[カザフスタン]]、[[コロンビア]]など多様である。 総合成績1位の選手には黄色の[[ジャージー (衣類)|ジャージ]]「[[マイヨ・ジョーヌ]]」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。 賞金総額は2015年の場合で約203万[[ユーロ]]、うち総合優勝者に45万ユーロとなっているほか、各ステージ優勝やスプリント賞・山岳賞などに細かく賞金が設定されている<ref>[http://www.letour.fr/le-tour/2015/docs/TDF15_Reglement-BD.pdf 2015年公式レギュレーション]</ref>。 == 特徴 == [[ファイル:Tour de France through London 2007 Tower Bridge.jpg|thumb|街を駆け抜ける集団]] 例年、前半は平坦基調のステージが続き、[[スピードマン]]たちの逃げや[[スプリンター (自転車競技)|スプリンター]]たちによる迫力あるゴールスプリントが見られる。そして中盤に一度山岳を通過し優勝候補が絞り込まれ、その後はまた平坦ステージが続き、今度はポイント賞争いが絞り込まれる。後半にかけては[[ラルプ・デュエズ]]、[[ガリビエ峠|ガリビエ]]、[[モン・ヴァントゥ]]などの峠を舞台にした山岳ステージで総合優勝や山岳賞をかけた[[オールラウンダー (自転車競技)|オールラウンダー]]や[[クライマー (自転車競技)|クライマー]]たちの戦いが繰り広げられる。 2度の山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれ[[ピレネー山脈]]と[[アルプス山脈]]を使うことが多いため、「ピレネーラウンド」「アルプスラウンド」と呼ばれる。間の平坦基調ステージは主にこの二つの山脈の間を移動するために設定されているが、この緩急をつけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント賞のシステム(後述)などもあり、スプリンターが一番ポイント賞を獲得しやすいグランツールとなっている。 かつては各ステージのゴールと次のステージのスタートが同じ町だったが、スタート・ゴール地点を希望する市町村が多いため現在は一致しないことが多い。 他のグランツールではしばしば最終ステージが個人タイムトライアルとなることがあるが、ツール・ド・フランスにおいては稀である。最終日前日の第20ステージ(プロローグが設定される場合は第19ステージ)で総合優勝争いには決着がつき、最終ステージは[[パリ]]市街を中心に回る[[クリテリウム]]形式のコース設定がされ、[[シャンゼリゼ通り (ツール・ド・フランス)|シャンゼリゼ]]ゴールに設定されるのが恒例である。最終日は選手たちが[[シャンパン]]を片手に走る光景もよく見られるなど顔見せの凱旋パレードの色合いが強く、ポイント賞を争うスプリンターやステージ優勝を狙う選手以外は安全を優先して走る。総合優勝を争う選手は集団落車に巻き込まれないようアシスト選手で周囲を固めゴールスプリントが済んだ後にゴールに入るため、実質的な総合優勝争いは最終日の前日までとなる。もっとも、過去に最終日に個人タイムトライアルに設定されたケースもあり、総合首位が逆転するケースがしばしば起こっている。[[ツール・ド・フランス1968|1968年]]、前ステージまで16秒差の総合3位につけていた[[ヤン・ヤンセン]]が[[ヘルマン・ファンスプリンヘル]]を、また[[ツール・ド・フランス1989|1989年]]、同じく[[ローラン・フィニョン]]に50秒の差をつけられていた[[グレッグ・レモン]]が大逆転したケースがある。しかし1989年のケースにおいて、フィニョンの負け方があまりにも悲劇的だったことから、最終ステージを個人タイムトライアルとすることに対し、とりわけ同胞であるフランス人から批判が殺到した<ref>『サイクルスポーツ』1989年10月号</ref>。この影響を受け1990年以降、最終ステージにおける個人タイムトライアルは2023年まで行われない。2024年大会で35年ぶりに実施される予定である。 == 歴史 == === 黎明期 === スポーツ新聞社・ロト(L'Auto、現在のレキップ紙)の宣伝のために当時の編集長[[アンリ・デグランジュ]]が'''自動車'''による「ツール・ド・フランス」をヒントに企画したのが始まりで自転車レースを企画するライバル2紙、ル・プティ・ジュルナル(Le Petit Journal)による[[パリ・ブレスト・パリ]](現在はアマチュアが参加する[[ブルベ]]というイベントに変わっている)、並びにヴェロ紙(Le Velo)がスポンサーとなる[[ボルドー]]〜パリ間レースに対抗するためのものであった。 [[1903年]]に行われた第1回は、パリ郊外[[モンジュロン]](Montgeron)のカフェ「ルヴェイユ・マタン (Au Reveil Matin)」前から[[ヴィル=ダヴレー]]まで、合計走行距離2428km・6ステージで行われ、1ステージ平均400kmを走るという過酷なレースであった。初期のレースではほとんど休みがない耐久戦であり、眠る際にもライダーは道路脇で眠っていたという。一方で休息日が第1回は1日おき(1ステージ走ったら1日休み)、その後も3~4日ごとに設けられるなど休息日の数は現在よりも多かった。ゴール先の宿泊先も自分で手配し、いかなる場合でも(自転車の故障による修理なども含む)他者の協力を得ることは禁止されていたため、選手は修理用の工具や交換用のタイヤを身につけて走っていた。 第3回からは距離を縮めた分、ステージ数が倍増。さらに山岳ステージが導入された。ただ当時は[[変速機 (自転車)|変速機]]が無く、登山用の低速ギアが後輪の反対側(ダブルコグ)に取り付けられていた。しかし、上り坂に来るたびに選手は後輪を前後反対に付け直さねばならなかったためレースは相変わらず過酷なものだった。間もなく変速機が開発されるが、デグランジュはこれを禁止した(デグランジュは「変速機は女子供が使うもの」との考えを持っていたといわれる)。 初期はルールが一定せず、第3~10回は総合優勝がポイント順位制(各ステージ首位の選手とのタイム差をポイントに換算し、点数の最も少ない選手が優勝)とされていた。また第9回からチームによる参加が認められたが、引き続き個人としての参加も可能となっていた([[1936年]]まで)。 以後も徐々にステージ数は増えそれに伴いレースは大規模化していくが、[[第一次世界大戦]]によって[[1915年]]から[[1918年]]までは中断。[[1919年]]から再開されたがこの頃は再び走行距離も伸び1ステージ平均350kmを走るのが当たり前で、総距離は5000kmを超える傾向が[[1930年代]]まで続いた。 === ナショナルチーム時代 === [[1930年]]からは商業スポンサーによるチーム(いわゆる「トレードチーム」)の参加を禁止し、チームは全て同一国籍の選手によるナショナルチームでの参加を義務付けることとなった。しかしチーム数が不足したため、ナショナルチーム以外にも地域選抜チームの参加も認められた。チームから商業スポンサーを排除した結果、主催者は選手への機材の供給を一手に引き受けなければならなくなった。主催者は運営費用を調達するため、レースの前に宣伝カーを走らせてそのスポンサー料を運営費用に充てることを思いつく。この結果、現在のツールでも見られる「キャラバン隊」がこの年に誕生した。 1930年代以降はステージ数20前後、走行距離は4500km程度の規模になり、ほぼ現在の開催スタイルとなる。[[1937年]]にデグランジュが代表の座を退くとツールでは変速機の使用が認められるようになったほか、個人参加が禁止されチームカーが導入されるなど「チームによる戦い」としてのツールが確立される。総合優勝以外の各賞が制定されたのもこの頃で、チーム賞は[[1930年]]、山岳賞は[[1933年]](ただしジャージ制定は[[1975年]])、ポイント賞は[[1953年]]に制定されている。 しかし[[第二次世界大戦]]によって[[1940年]]から[[1946年]]まで再び中断を余儀なくされた。この戦争を挟んだ時代に参加した選手の中にイタリアの[[ファウスト・コッピ]]、[[ジーノ・バルタリ]]がいる。この時代からツールはチームを編成した集団競技へと移行し、チーム編成の規定も試行錯誤が続けられた。[[1947年]]から再開され、以後[[1950年代]]に[[ルイゾン・ボベ]]が3連覇を達成した。 === トレードチームによる戦いへ === [[1960年代]]に入ると自転車レース人気の高まりからスポンサーが増え、ナショナルチーム制を取る当時のツールに対する不満が高まってきた。これに加えフランスのナショナルチーム内において[[ジャック・アンクティル]]と[[レイモン・プリドール]]が対立し、ナショナルチームとして両者を同じレースに出場させることができない状態となった。当時のフランス自転車界の二大スター選手の片方を欠くことはレースの盛り上がりをそぐことになるため、主催者はこの問題を回避すべく[[1962年]]からトレードチームによるエントリーを認めることとなった。その後、[[1967年]]と[[1968年]]には一時的にナショナルチーム制が復活するものの、現在に至るトレードチームによる戦いがここにスタートした。 1960年代にはアンクティル、[[1970年代]]前半に[[エディ・メルクス]]が4連覇を達成。[[1973年]]には独立した運営企業として「ソシエテ・デュ・ツール・ド・フランス(Société du Tour de France)」が設立された(同社は[[1993年]]にASO傘下となる)。[[1975年]]には今や恒例となっているシャンゼリゼ通り周回コースによる最終ステージがスタートした。1970年代後半からは[[ベルナール・イノー]]や[[ローラン・フィニョン]]らフランス人が活躍。[[1980年代]]後半は後半は[[ヨーロッパ]]出身以外の選手の台頭も目立つようになり、アメリカ人の[[グレッグ・レモン]]が活躍した。 [[1990年代]]前半には[[ミゲル・インドゥライン]]が史上初の5連覇を達成。[[2000年代]]には[[ランス・アームストロング]]が7連覇を達成したが、[[2012年]]に[[ドーピング]]によるものであるとして剥奪された<ref name="lance">{{Cite news|url=http://www.cyclingnews.com/news/uci-confirms-lance-armstrongs-life-ban|title=UCI confirms Lance Armstrong's life ban|publisher=Cyclingnews.com|date=2012-10-22|accessdate=2012-10-23}}{{en icon}}</ref>。 2010年以降は[[イギリス]]の天下が続いており、[[クリス・フルーム]]が3連覇を成し遂げている。 == 知名度と露出度 == [[ファイル:Didi Senft 01.jpg|thumb|ツールの名物「[[悪魔おじさん]]」ことディディ・ゼンフト]] 他に3週間程度にわたり行われる大規模なステージレースとしては[[ジロ・デ・イタリア]](イタリア一周)と[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]](スペイン一周)があり、これにツール・ド・フランスを加えて俗に[[グランツール]](三大ツール)と呼ばれる。その中でもツール・ド・フランスの知名度・露出度は突出しており、日本でも「世界最大の自転車レース」として認識されている。 世界各地で開かれる他の自転車レースには興味がなくてもツール・ド・フランスだけは高い関心を持つファンも多数存在しており、開催規模や放映される国の多さ、参加する選手の国籍の多彩さなどから見ても世界屈指のスポーツ競技大会である。2010年時点、186の国と地域でテレビ放送され、うち60か国は生中継を実施している。 そのため総合優勝をはじめとした各賞のステータスが非常に高いことはもとより、各ステージの優勝も[[クラシック (ロードレース)|クラシック]]などワンデイレースのビッグレースでの優勝に匹敵する価値があるともいわれ、1回のステージ優勝であっても生涯の勲章になる。さらに超級山岳ポイントの峠を1位で通過することも名誉なことであり、次回以降通過する際、歴代の峠の制覇者としてオフィシャルガイドに名前が掲載される。それゆえプロロードレース選手にとっては一度は出場してみたい大会の筆頭である。 == 運営 == レースが非常に大規模、かつメディア露出度が高いために専門の本部が置かれ、およそ500人のスタッフが運営に関わる。交通規制やレース中の警備、極端な不正行為<!--ドーピング管理の記載として不適([[ドーピング]]レベルでなく禁制薬物使用など)-->の取締りはジャンダルマリ([[フランス国家憲兵隊]])とポリスナシオナル([[フランス国家警察]])の2系統の警察が担当しており、これに動員される人数が約2万5000人。さらにボランティアで警備などを担当する人は数十万人にのぼると推察されている。 またレース中は情報や[[補給食]]・飲料水を供給したり、機材のトラブルをサポートするメカニックが乗り込んだ「サービスカー」と呼ばれる車やオートバイが、選手と共におよそ1500台走る。このサービスカーはチーム専属の車両のほか、中立の立場で水や機材を提供する[[ニュートラルカー]](ツールでは主に[[マヴィック]]が提供するため「マヴィックカー」として知られる)も参加している。 このほかにも選手が通過するおよそ1~2時間前に各スポンサーが出す[[山車]]のような宣伝カーが連なったキャラバン隊が沿道の観客に菓子、応援グッズ、キーホルダーなどのグッズをばら撒いていく。配られる数は1000万を超え車の台数はおよそ200台にもなり、全て見るのに40分以上かかるほどである。[[2000年]]と2002年にはこのキャラバンカーに観客の子どもがはねられ死亡する事件が起きている。 キャラバン隊は現地にいる観客へのPRだけなく山岳地帯などレースのスピードが落ちる区間でチームジャージと同じ吸湿性に優れた素材で出来たTシャツを配布し、沿道に即席の応援団を作り出すことでスポンサーのロゴが中継で長く映るようにする(2008年の[[ケス・デパーニュグループ|ケス・デパーニュ]])など巧妙な宣伝を行っている。近年ではキャラバン隊は選手の通過後にも登場する(2008年以降の[[ヴィッテル (ミネラルウォーター)|ヴィッテル]]などが代表例)。 運営費は主にテレビ放映権とスポンサー収入で賄われるほか、レースの舞台となる市町村から主催者に支払われる開催料も充てられているもようだが、正確な収入および運営費用は非公開となっている。 == 各賞とリーダージャージについて == [[ファイル:Maillotjaune.jpg|thumb|150px|総合1位の選手が着用するマイヨ・ジョーヌ]] 数種の賞が設定されており、各賞に応じた色別のジャージ(リーダージャージ)、または特別な[[ナンバーカード|ゼッケン]]がある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手およびチームは、翌ステージでそのジャージまたはゼッケンを着用しなければならない。2012年以降、リーダージャージは[[ルコック]]による提供。なお表彰式で着用するリーダージャージは背中に[[ファスナー]]のある表彰式専用のもので、翌ステージで着用するジャージは改めて対象選手(「繰り下げルール」適用の場合は繰り下げの着用対象選手)に渡される。 === マイヨ・ジョーヌ(個人総合時間賞) === [[ファイル:Jersey yellow.svg|50px|left]] 黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ (maillot jaune)」は個人総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。 {{Main|マイヨ・ジョーヌ}} === マイヨ・ヴェール(ポイント賞) === [[ファイル:Jersey green.svg|50px|left]] 緑色のジャージ「マイヨ・ヴェール (maillot vert)」は「[[ポイント賞 (グランツール)|ポイント賞]]」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算され、スプリントポイント1位の選手が「マイヨ・ヴェール」着用の権利を得る。 {{Main|マイヨ・ヴェール}} === マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ(山岳賞) === [[ファイル:Jersey polkadot.svg|50px|left]] 白地に赤い水玉ジャージ「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ (maillot blanc à pois rouges)」は「[[山岳賞]]」に対して与えられる。山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手が「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ」着用の権利を得る。[[1975年]]に初登場。略して「マイヨ・ア・ポワ」あるいは「マイヨ・グランペール」とも呼ばれる。 {{Main|マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ}} === マイヨ・ブラン(新人賞) === [[ファイル:Jersey white.svg|50px|left]] 白色のジャージ「マイヨ・ブラン (maillot blanc)」は開催年に25歳以下の誕生日を迎える選手の中で総合成績が最も上位の選手に与えられる(大会期間中に25歳であっても開催年中に26歳になる選手は対象外)。「新人賞」と訳されることが多いが、該当の年齢であれば複数回受賞できるため正確には「最優秀若手選手賞」と呼ぶのがふさわしい<ref group="注">そのため、[[J SPORTS cycle road race]]では「ヤングライダー賞」との呼称を用いている。実際に[[マルコ・パンターニ]]は[[1994年]]・[[1995年]]の2回、[[ヤン・ウルリッヒ]]は[[1996年]]から[[1998年]]まで、[[アンディ・シュレク]]は[[2008年]]から[[2010年]]の連続3回獲得している。</ref>。色の由来は不明。 {{Main|マイヨ・ブラン}} === ドサール・ルージュ(敢闘賞) === [[ファイル:Jersey red number.svg|50px|left]] タイムトライアルと最終ステージを除く各ステージで特に果敢に動いたと認められた選手には「敢闘賞」として、通常白地に黒文字のゼッケンの代わりに赤地に白抜き数字のゼッケンが与えられる(ただし[[ツール・ド・フランス2004|2004年]]はスポンサーの関係から青地に白数字のものが使われていた)。「敢闘賞」は他の賞と異なり審査員の主観によって選ばれる賞で、各ステージ終了直前に受賞選手1人が主催者から発表され、表彰が行われる。審査員の中には[[ルーラー|逃げ屋]]でおなじみとなっていた[[ジャッキー・デュラン]]も含まれていることもあり、逃げ集団が吸収された際は最後まで逃げていた選手、逃げ集団が逃げ切りでゴールした際は2位の選手、単独逃げ切りに成功した場合はその選手が敢闘賞となる確率が高い。[[ツール・ド・フランス2009|2009年]]の最終ステージ(シャンゼリゼ通り)では、[[別府史之]]が日本人初の敢闘賞を獲得した<ref group="注">この場合、逃げ集団を作り出したアタックを成功させた+逃げは吸収されたが最後まで逃げていたが受賞理由。</ref>。[[ツール・ド・フランス2010|2010年]]以降、最終ステージについてはステージ敢闘賞の対象外となっている。また最終日には大会全体で最も果敢な走りをしたと認められた選手1人に「スーパー敢闘賞」(「総合敢闘賞」とも)が贈られる。 === ドサール・ジョーヌ(チーム総合時間賞) === [[ファイル:Jersey yellow number.svg|50px|left]] 各ステージの終了後、チームごとに先頭から3人の所要時間の合計が加算され(各チームの総合時間成績の上位3人ではないことに注意)、最も少ない時間のチームが表彰される。リタイアなどによりチームが3人未満になったチームは順位から除外となる。[[2006年]]からは黄色地に黒文字の[[ゼッケン]]がチーム総合首位の選手全員に与えられている。チーム総合1位のチームに敢闘賞ゼッケン対象者がいる場合は、敢闘賞ゼッケンを優先する。 === その他の賞 === その年の最大標高の山岳をトップで通過した選手に'''アンリ・デグランジュ記念賞'''が与えられる。特にジャージやゼッケンなどは設定されていないが、数千[[ユーロ]]の賞金が授与される。ジロ・デ・イタリアにおける[[ジロ・デ・イタリア#そのほかの賞|チマ・コッピ]]と同じもの。 == 各種規則 == * ゴール争い時の危険防止のため集団でゴールした場合、集団内(前車との差が1秒以内。2017年以降、平坦ステージに限り3秒以内)のすべての選手は集団先頭と同タイムとみなされる。同様の目的でゴール手前3km以内([[2004年]]までは1km以内)で[[落車]]に巻き込まれたり、メカトラブルなどが発生し遅れた場合は、原則として元々その選手が加わっていた集団と同じタイムが与えられる<ref group="注">ただし個人タイムトライアル及び山岳ステージの山頂ゴールの場合には、この救済が行われない。[[2008年]]の第6ステージでは総合首位を走っていた[[ステファン・シューマッハー]]が残り500mで落車したがゴールが山頂だったため救済の対象とはならず、マイヨ・ジョーヌを失った。</ref>。 * 各ステージには制限時間があり、基本的には「そのステージの優勝選手のタイムに対し何パーセントオーバー以内」という形で定められる(具体的な割合は優勝選手の平均速度やステージ形態などにより変化する)。基本的に制限時間以内にゴールできなかった選手はタイムオーバーによるリタイア扱いとなるが、タイムオーバーした選手が出走選手数の20%以上に及ぶ場合は主催者による救済措置が取られる場合がある(詳細は[[グルペット]]を参照)。タイムトライアルではステージ優勝者のタイムに対し、25%以上でタイムオーバーとなる。 * 不正行為には罰金やポイント没収、タイム加算などの各種ペナルティが課され、ゴール地点に設置されるプレスルームで配布されるコミュニケに記載され配布される。主な不正行為としては以下のものがある。 ** 落車や修理で集団から遅れた際、集団に復帰するために規定以上にサポートカーを風除けに使う、サポートカーに掴まるなど。 ** ゴールスプリントの際の危険行為(蛇行、斜行による走路妨害、体当たりなど) ** 既定以外のユニフォーム着用 ** 山岳コースでのギャラリーによる後押し ** ゴールまで残り20kmを切ってからのサポートカーからの補給 * スプリントポイントについては与えられるポイント数がステージの形状により変わる。ゴールでのスプリントポイントは平坦ステージの場合が最も高く以下、中位のステージ、山岳ステージ、タイムトライアルの順にポイントが少なくなる。また各ステージには中間スプリント地点が設定されているが、2010年までは「ステージ毎に概ね2ヶ所程度、3位までにポイント」というルールだったのに対し、2011年からは「各ステージ1ヶ所のみ、15位までにポイント」と大幅にルールが改められた。総合成績と異なり1cmでも先に通過した選手が高いポイントを得られるためポイント設定箇所、特にゴール前ではスプリンター同士の熾烈な争いが繰り広げられることとなる。また2015年は難易度1のステージのみポイントが改定され、スプリントステージ優勝者がより有利となるようになった。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+'''スプリント・ポイント表 ~2010年''' !style= "background-color:#C0C0C0"|通過順位!!style ="background-color:#C0C0C0"|1<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|2<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|3<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|4<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|5<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|6<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|7<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|8<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|9<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|10<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|11<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|12<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|13<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|14<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|15<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|16<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|17<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|18<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|19<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|20<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|21<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|22<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|23<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|24<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|25<br />位 |- |style="background-color:#EFEFEF"|平坦ステージ||35||30||26||24||22||20||19||18||17||16||15||14||13||12||11||10||9||8||7||6||5||4||3||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|中位山岳||25||22||20||18||16||15||14||13||12||11||10||9||8||7||6||5||4||3||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|上級山岳||20||17||15||13||12||10||9||8||7||6||5||4||3||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|プロローグ&TT||15||12||10||8||6||5||4||3||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|中間スプリントポイント||6||4||2 |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |+'''スプリント・ポイント表 2011年~''' !style= "background-color:#C0C0C0"|通過順位!!style ="background-color:#C0C0C0"|1<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|2<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|3<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|4<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|5<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|6<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|7<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|8<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|9<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|10<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|11<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|12<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|13<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|14<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|15<br />位 |- |style="background-color:#EFEFEF"|難易度1ステージ(2015年)||50||30||20||18||16||14||12||10||8||7||6||5||4||3||2 |- |style="background-color:#CFCFCF"|難易度1ステージ(2011年~2014年)||45||35||30||26||22||20||18||16||14||12||10||8||6||4||2 |- |style="background-color:#EFEFEF"|難易度2ステージ||30||25||22||19||17||15||13||11||9||7||6||5||4||3||2 |- |style="background-color:#EFEFEF"|難易度3,4,5ステージ||20||17||15||13||11||10||9||8||7||6||5||4||3||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|中間スプリントポイント||20||17||15||13||11||10||9||8||7||6||5||4||3||2||1 |} * 山岳ポイントについては上り坂の勾配と長さに応じて[[カテゴリー超級 (ツール・ド・フランス)|カテゴリー超級]]からカテゴリー4級までの5段階に区分されており、通過順にカテゴリーに応じた山岳ポイントが与えられる。カテゴリー超級の坂はいずれも過酷な登りであり[[ツールマレー峠]]、[[モン・ヴァントゥ]]、[[ガリビエ峠]]、[[ラルプ・デュエズ]]等が有名である。近年はポイント稼ぎの目的でコース前半の山岳でアタックし、最後の上りとなる山頂ゴールでは大きく後退する作戦で山岳賞を狙うケースが目立ったことから[[2004年]]からルールが改正され、最後の上り坂がカテゴリー2級以上の場合は与えられるポイントが2倍となった。このため最後まで上位集団に食らいついてゴールした方が総合優勝争いだけでなく山岳賞争いでも有利になったため、戦略にも大きな影響が出ている。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+'''山岳ポイント表 ~2003年''' !style= "background-color:#C0C0C0"|通過順位!!style ="background-color:#C0C0C0"|1<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|2<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|3<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|4<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|5<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|6<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|7<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|8<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|9<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|10<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|11<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|12<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|13<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|14<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|15<br />位 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー超級||40||35||30||26||22||18||16||14||12||10||8||6||4||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー1級||30||26||22||18||14||12||10||8||6||4||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー2級||20||15||12||10||8||6||4||3||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー3級||10||7||5||3||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー4級||5||3||1 |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |+'''山岳ポイント表 2004年~2010年''' !style= "background-color:#C0C0C0"|通過順位!!style ="background-color:#C0C0C0"|1<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|2<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|3<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|4<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|5<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|6<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|7<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|8<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|9<br />位!!style="background-color:#C0C0C0"|10<br />位 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー超級||20||18||16||14||12||10||8||7||6||5 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー1級||15||13||11||9||8||7||6||5 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー2級||10||9||8||7||6||5 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー3級||4||3||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー4級||3||2||1 |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |+'''山岳ポイント表 2011年''' !style= "background-color:#C0C0C0"|通過順位!!style ="background-color:#C0C0C0"|1<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|2<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|3<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|4<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|5<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|6<br />位 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー超級||20||16||12||8||4||2 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー1級||10||8||6||4||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー2級||5||3||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー3級||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー4級||1 |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |+'''山岳ポイント表 2012年~2016年''' !style= "background-color:#C0C0C0"|通過順位!!style ="background-color:#C0C0C0"|1<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|2<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|3<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|4<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|5<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|6<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|7<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|8<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|9<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|10<br />位 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー超級||25||20||16||14||12||10||8||6||4||2 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー1級||10||8||6||4||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー2級||5||3||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー3級||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー4級||1 |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |+'''山岳ポイント表 2017年~''' !style= "background-color:#C0C0C0"|通過順位!!style ="background-color:#C0C0C0"|1<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|2<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|3<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|4<br />位!!style ="background-color:#C0C0C0"|5<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|6<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|7<br />位!!style= "background-color:#C0C0C0"|8<br />位 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー超級||20||15||12||10||8||6||4||2 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー1級||10||8||6||4||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー2級||5||3||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー3級||2||1 |- |style="background-color:#EFEFEF"|カテゴリー4級||1 |} == 歴代総合優勝者 == 所属チーム名は当時。なお、主要部門賞受賞者については{{See|ツール・ド・フランス各部門賞受賞者一覧}} {| class="wikitable" !style= "background-color:#C0C0C0"|回!!style="background-color:#C0C0C0"|開催期間!!style="background-color:#C0C0C0"|総合優勝者(所属チーム)!!style="background-color:#C0C0C0"|ステージ数!!style="background-color:#C0C0C0"|総距離!!style="background-color:#C0C0C0"|平均時速 |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1903|1]]||[[1903年]][[7月1日]]~[[7月19日|19日]]||[[モリス・ガラン]] {{Flagicon|FRA}} (La Française)||style="text-align:center"|6||2,428km||25.679km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1904|2]]||[[1904年]][[7月2日]]~[[7月24日|24日]]||[[アンリ・コルネ]] {{Flagicon|FRA}}||style="text-align:center"|6||2,429km||26.081km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1905|3]]||[[1905年]][[7月9日]]~[[7月30日|30日]]||[[ルイ・トゥルスリエ]] {{Flagicon|FRA}} ([[Équipe cycliste Peugeot|Peugeot]])||style="text-align:center"|11||2,994km||27.107km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1906|4]]||[[1906年]][[7月4日]]~[[7月29日|29日]]||[[ルネ・ポティエ]] {{Flagicon|FRA}} (Peugeot) ||style="text-align:center"|13||4,545km||24.463km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1907|5]]||[[1907年]][[7月8日]]~[[8月4日]]||[[ルシアン・プティブルトン]] {{Flagicon|FRA}} (Peugeot) ||style="text-align:center"|14||4,488km||28.470km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1908|6]]||[[1908年]][[7月13日]]~[[8月9日]]||ルシアン・プティブルトン {{Flagicon|FRA}} (Peugeot) ||style="text-align:center"|14||4,488km||28.740km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1909|7]]||[[1909年]][[7月5日]]~[[8月1日]]||[[フランソワ・ファベール]] {{Flagicon|LUX}} ([[Équipe cycliste Alcyon|Alcyon]])||style="text-align:center"|14||4,488km||28.658km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1910|8]]||[[1910年]][[7月3日]]~[[7月31日|31日]]||[[オクタブ・ラピーズ]] {{Flagicon|FRA}} (Alcyon) ||style="text-align:center"|15||4,737km||28.680km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1911|9]]||[[1911年]]7月2日~30日||[[ギュスタヴ・ガリグー]] {{Flagicon|FRA}} (Alcyon) ||style="text-align:center"|15||5,344km||27.322km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1912|10]]||[[1912年]][[6月30日]]~[[7月28日]]||[[オディル・ドフレイエ]] {{Flagicon|BEL}} (Alcyon) ||style="text-align:center"|15||5,319km||27.894km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1913|11]]||[[1913年]][[6月29日]]~[[7月27日]]||[[フィリップ・ティス]] {{Flagicon|BEL}} (Peugeot) ||style="text-align:center"|15||5,388km||26.715km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1914|12]]||[[1914年]][[6月28日]]~[[7月26日]]||フィリップ・ティス {{Flagicon|BEL}} (Peugeot) ||style="text-align:center"|15||5,405km||27.028km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1919|13]]||[[1919年]]6月29日~7月27日||[[フィルマン・ランボー]] {{Flagicon|BEL}} (La Sportive) ||style="text-align:center"|15||5,560km||24.054km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1920|14]]||[[1920年]][[6月27日]]~[[7月25日]]||フィリップ・ティス {{Flagicon|BEL}} (La Sportive) ||style="text-align:center"|15||5,519km||24.132km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1921|15]]||[[1921年]][[6月26日]]~[[7月24日]]||[[レオン・シウール]] {{Flagicon|BEL}} (La Sportive) ||style="text-align:center"|15||5,484km||24.720km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1922|16]]||[[1922年]][[6月25日]]~[[7月23日]]||フィルマン・ランボー {{Flagicon|BEL}} (Peugeot) ||style="text-align:center"|15||5,372km||24.202km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1923|17]]||[[1923年]][[6月24日]]~[[7月22日]]||[[アンリ・ペリシエ]] {{Flagicon|FRA}} (Automoto) ||style="text-align:center"|15||5,386km||24.428km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1924|18]]||[[1924年]][[6月22日]]~[[7月20日]]||[[オッタビオ・ボテッキア]] {{Flagicon|ITA1861}} (Automoto) ||style="text-align:center"|15||5,425km||24.250km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1925|19]]||[[1925年]][[6月21日]]~[[7月19日]]||オッタビオ・ボテッキア {{Flagicon|ITA1861}} (Automoto) ||style="text-align:center"|15||5,430km||24.820km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1926|20]]||[[1926年]][[6月20日]]~[[7月18日]]||[[ルシアン・ビュイス]] {{Flagicon|BEL}} (Automoto) ||style="text-align:center"|17||5,745km||24.063km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1927|21]]||[[1927年]][[6月19日]]~[[7月17日]]||[[ニコラ・フランツ]] {{Flagicon|LUX}} (Alcyon) ||style="text-align:center"|24||5,321km||27.224km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1928|22]]||[[1928年]][[6月17日]]~[[7月15日]]||ニコラ・フランツ {{Flagicon|LUX}} (Alcyon) ||style="text-align:center"|22||5,375km||27.876km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1929|23]]||[[1929年]]6月30日~7月28日||[[モリス・デワール]] {{Flagicon|BEL}} (Alcyon) ||style="text-align:center"|22||5,276km||28.320km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1930|24]]||[[1930年]]7月2日~27日||[[アンドレ・ルデュック]] {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|21||4,818km||27.978km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1931|25]]||[[1931年]]6月30日~7月26日||[[アントナン・マーニュ]] {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|24||5,095km||28.758km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1932|26]]||[[1932年]][[7月6日]]~31日||アンドレ・ルデュック {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|21||4,520km||29.313km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1933|27]]||[[1933年]]6月27日~7月23日||[[ジョルジュ・スペシェ]] {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|23||4,396km||29.730km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1934|28]]||[[1934年]]7月3日~27日||アントナン・マーニュ {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|23||4,363km||31.233km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1935|29]]||[[1935年]]7月4日~28日||[[ロマン・マース]] {{Flagicon|BEL}} (Belgique) ||style="text-align:center"|21||4,338km||30.650km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1936|30]]||[[1936年]][[7月7日]]~[[8月2日]]||[[シルベール・マース]] {{Flagicon|BEL}} (Belgique) ||style="text-align:center"|21||4,414km||30.912km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1937|31]]||[[1937年]]6月30日~7月25日||[[ロジェ・ラペビー]] {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|20||4,415km||31.768km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1938|32]]||[[1938年]]7月5日~31日||[[ジーノ・バルタリ]] {{Flagicon|ITA1861}} (Italie) ||style="text-align:center"|21||4,680km||31.565km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1939|33]]||[[1939年]]7月10日~30日||[[シルベール・マース]] {{Flagicon|BEL}} (Belgique) ||style="text-align:center"|18||4,225km||31.994km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1947|34]]||[[1947年]]6月25日~7月25日||[[ジャン・ロビック]] {{Flagicon|FRA}} (Ouest) ||style="text-align:center"|21||4,642km||31.412km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1948|35]]||[[1948年]]6月30日~7月25日||ジーノ・バルタリ {{Flagicon|ITA}} (Italie) ||style="text-align:center"|21||4,922km||33.404km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1949|36]]||[[1949年]]6月30日~[[7月21日]]||[[ファウスト・コッピ]] {{Flagicon|ITA}} (Italie) ||style="text-align:center"|21||4,808km||32.119km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1950|37]]||[[1950年]]7月13日~[[8月7日]]||[[フェルディナント・キュプラー]] {{Flagicon|SUI}} (Suisse) ||style="text-align:center"|22||4,775km||32.778km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1951|38]]||[[1951年]]7月4日~[[7月29日|29日]]||[[ユーゴ・コブレ]] {{Flagicon|SUI}} (Suisse) ||style="text-align:center"|24||4,697km||32.979km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1952|39]]||[[1952年]]6月25日~7月19日||ファウスト・コッピ {{Flagicon|ITA}} (Italie) ||style="text-align:center"|23||4,827km||31.871km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1953|40]]||[[1953年]]7月3日~26日||[[ルイゾン・ボベ]] {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|22||4,476km||34.593km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1954|41]]||[[1954年]]7月8日~8月1日||ルイゾン・ボベ {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|23||4,865km||34.639km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1955|42]]||[[1955年]]7月7日~30日||ルイゾン・ボベ {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|22||4,476km||34.639km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1956|43]]||[[1956年]]7月5日~28日||[[ロジェ・ワルコビャック]] {{Flagicon|FRA}} (Nord-Est)||style="text-align:center"|22||4,527km||36.268km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1957|44]]||[[1957年]]6月27日~7月20日||[[ジャック・アンクティル]] {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|23||4,664km||34.520km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1958|45]]||[[1958年]]6月26日~7月19日||[[シャルリー・ゴール]] {{Flagicon|LUX}} (HOL-LUX)||style="text-align:center"|24||4,319km||36.905km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1959|46]]||[[1959年]]6月26日~7月19日||[[フェデリコ・バーモンテス]] {{flagicon|ESP1945}} (Esp) ||style="text-align:center"|22||4,358km||35.474km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1960|47]]||[[1960年]]6月26日~7月17日||[[ガストネ・ネンチーニ]] {{Flagicon|ITA}} (Italie) ||style="text-align:center"|21||4,173km||37.210km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1961|48]]||[[1961年]]6月25日~[[7月16日]]||ジャック・アンクティル {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|21||4,397km||36.033km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1962|49]]||[[1962年]]6月24日~7月15日||ジャック・アンクティル {{Flagicon|FRA}} (St-Raphaël)||style="text-align:center"|22||4,274km||37.317km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1963|50]]||[[1963年]][[6月23日]]~[[7月14日]]||ジャック・アンクティル {{Flagicon|FRA}} (St-Raphaël)||style="text-align:center"|21||4,138km||36.456km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1964|51]]||[[1964年]]6月22日~7月14日||ジャック・アンクティル {{Flagicon|FRA}} (St-Raphaël)||style="text-align:center"|22||4,505km||35.419km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1965|52]]||[[1965年]]7月8日~8月1日||[[フェリーチェ・ジモンディ]] {{Flagicon|ITA}} (Salvarani) ||style="text-align:center"|22||4,188km||35.882km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1966|53]]||[[1966年]]6月21日~7月14日||[[ルシアン・エマール]] {{Flagicon|FRA}} (Ford) ||style="text-align:center"|22||4,329km||36.819km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1967|54]]||[[1967年]]6月29日~[[7月13日]]||[[ロジェ・パンジョン]] {{Flagicon|FRA}} (France) ||style="text-align:center"|22||4,779km||35.882 km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1968|55]]||[[1968年]]6月27日~7月21日||[[ヤン・ヤンセン]] {{Flagicon|NED}} (Hollande) ||style="text-align:center"|22||4,492km||34.894 km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1969|56]]||[[1969年]]6月28日~7月20日||[[エディ・メルクス]] {{Flagicon|BEL}} (Faema) ||style="text-align:center"|22||4,117km||35.296km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1970|57]]||[[1970年]]6月27日~7月19日||エディ・メルクス {{Flagicon|BEL}} (Faema) ||style="text-align:center"|22||4,492km||34.894km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1971|58]]||[[1971年]]6月26日~7月18日||エディ・メルクス {{Flagicon|BEL}} (Molten) ||style="text-align:center"|20||3,585km||37.290km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1972|59]]||[[1972年]]7月1日~23日||エディ・メルクス {{Flagicon|BEL}} (Molteni) ||style="text-align:center"|20||3,846km||35.514km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1973|60]]||[[1973年]]6月30日~7月22日||[[ルイス・オカーニャ]] {{flagicon|ESP1945}} (bic) ||style="text-align:center"|20||4,150km||33.407km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1974|61]]||[[1974年]]6月27日~7月21日||エディ・メルクス {{Flagicon|BEL}} (Molteni) ||style="text-align:center"|22||4,098km||35.661km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1975|62]]||[[1975年]]6月26日~7月20日||[[ベルナール・テヴネ]] {{Flagicon|FRA}} (Peugeot) ||style="text-align:center"|22||4,000km||34.906km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1976|63]]||[[1976年]]6月24日~7月18日||[[ルシアン・ファンインプ]] {{Flagicon|BEL}} (Gitane) ||style="text-align:center"|22||4,098km||34.518km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1977|64]]||[[1977年]]6月30日~7月24日||ベルナール・テヴネ {{Flagicon|FRA}} (Peugeot) ||style="text-align:center"|22||4,096km||35.393km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1978|65]]||[[1978年]]6月29日~7月23日||[[ベルナール・イノー]] {{Flagicon|FRA}} ([[Équipe cycliste Renault-Gitane|Renault-Gitane]])||style="text-align:center"|22||3,908km||36.084km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1979|66]]||[[1979年]]6月27日~7月22日||ベルナール・イノー {{Flagicon|FRA}} (Renault-Gitane)||style="text-align:center"|24||3,765km||36.512km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1980|67]]||[[1980年]]6月26日~7月21日||[[ヨープ・ズートメルク]] {{Flagicon|NED}} (Raleigh) ||style="text-align:center"|22||3,842km||35.068km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1981|68]]||[[1981年]]6月25日~7月19日||ベルナール・イノー {{Flagicon|FRA}} (Renault-Gitane)||style="text-align:center"|24||3,758km||37.844km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1982|69]]||[[1982年]]7月2日~25日||ベルナール・イノー {{Flagicon|FRA}} (Renault-Gitane)||style="text-align:center"|21||3,507km||37.458km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1983|70]]||[[1983年]]7月1日~24日||[[ローラン・フィニョン]] {{Flagicon|FRA}} (Renault-Gitane)||style="text-align:center"|22||3,860km||36.230km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1984|71]]||[[1984年]]6月29日~7月22日||ローラン・フィニョン {{Flagicon|FRA}} (Renault-Gitane)||style="text-align:center"|23||4,021km||34.906km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1985|72]]||[[1985年]]6月28日~7月21日||ベルナール・イノー {{Flagicon|FRA}} ([[Équipe cycliste La Vie Claire|La Vie Claire]])||style="text-align:center"|22||4,109km||36.232km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1986|73]]||[[1986年]]7月4日~27日||[[グレッグ・レモン]]{{Flagicon|USA}} (La Vie Claire) ||style="text-align:center"|23||4,084km||37.020km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1987|74]]||[[1987年]]7月1日~26日||[[ステファン・ロシュ]] {{Flagicon|IRL}} (Carrera) ||style="text-align:center"|25||4,331km||36.644km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1988|75]]||[[1988年]]7月4日~24日||[[ペドロ・デルガド]] {{Flagicon|ESP}} (Reynolds) ||style="text-align:center"|22||3,286km||38.909km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1989|76]]||[[1989年]]7月1日~23日||グレッグ・レモン{{Flagicon|USA}} (ADR) ||style="text-align:center"|21||3,285km||37.487km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1990|77]]||[[1990年]]6月30日~7月22日||グレッグ・レモン{{Flagicon|USA}} (Z) ||style="text-align:center"|21||3,286km||38.621km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1991|78]]||[[1991年]]7月6日~28日||[[ミゲル・インドゥライン]] {{Flagicon|ESP}}([[モビスター・チーム|バネスト]])||style="text-align:center"|22||3,914km||38.747km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1992|79]]||[[1992年]]7月4日~26日||ミゲル・インドゥライン {{Flagicon|ESP}}(バネスト)||style="text-align:center"|21||3,983km||39.504km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1993|80]]||[[1993年]]7月2日~25日||ミゲル・インドゥライン {{Flagicon|ESP}}(バネスト)||style="text-align:center"|20||3,714km||38.709km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1994|81]]||[[1994年]]7月2日~24日||ミゲル・インドゥライン {{Flagicon|ESP}}(バネスト)||style="text-align:center"|21||3,978km||38.381km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1995|82]]||[[1995年]]7月1日~23日||ミゲル・インドゥライン {{Flagicon|ESP}}(バネスト)||style="text-align:center"|20||3,635km||39.191km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1996|83]]||[[1996年]]6月29日~7月21日||[[ビャルヌ・リース]] {{Flagicon|DEN}}([[チーム・HTC - ハイロード|ドイツテレコム]])||style="text-align:center"|21||3,765km||39.235km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1997|84]]||[[1997年]]7月5日~27日||[[ヤン・ウルリッヒ]] {{Flagicon|GER}}(ドイツテレコム)||style="text-align:center"|21||3,950km||39.237km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1998|85]]||[[1998年]][[7月11日]]~8月2日||[[マルコ・パンターニ]] {{Flagicon|ITA}}([[メルカトーネ・ウノ]])||style="text-align:center"|21||3,875km||39.983km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス1999|86]]||[[1999年]]7月3日~25日||優勝者無し<ref group="注" name="la">優勝した[[ランス・アームストロング]]がドーピング発覚によって後年に成績剥奪となり、2位以下の順位繰り上げが行われなかったため。[[ランス・アームストロングのドーピング問題]]を参照。</ref>||style="text-align:center"|20||3,687km||<del>40.276km/h</del> |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2000|87]]||[[2000年]]7月1日~23日||優勝者無し<ref group="注" name="la" />||style="text-align:center"|21||3,662km||<del>39.545km/h</del> |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2001|88]]||[[2001年]]7月7日~29日||優勝者無し<ref group="注" name="la" />||style="text-align:center"|20||3,453km||<del>40.070km/h</del> |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2002|89]]||[[2002年]]7月6日~28日||優勝者無し<ref group="注" name="la" />||style="text-align:center"|20||3,276km||<del>39.909km/h</del> |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2003|90]]||[[2003年]]7月5日~27日||優勝者無し<ref group="注" name="la" />||style="text-align:center"|20||3,426km||<del>40.956km/h</del> |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2004|91]]||[[2004年]]7月3日~25日||優勝者無し<ref group="注" name="la" />||style="text-align:center"|20||3,391km||<del>40.563km/h</del> |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2005|92]]||[[2005年]]7月2日~24日||優勝者無し<ref group="注" name="la" />||style="text-align:center"|21||3,608km||<del>41.654km/h</del> |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2006|93]]||[[2006年]]7月1日~23日||[[オスカル・ペレイロ]]<ref group="注">全レース終了後に行われた[[ドーピング]]検査において総合1位となった[[フロイド・ランディス]]の体内から多数の禁止薬物が検出された。これを受けランディスの総合優勝は保留とされ、その後公聴会などの調査が続けられた。1年以上に亘る調査の結果、[[2007年]][[9月20日]]に「アメリカ合衆国反ドーピング機関」 (USADA) が後日ランディスの総合1位記録を取り消し失格とする告知を出したことから[[オスカル・ペレイロ]]の繰り上げ優勝はこの時点で決定的となった。[[9月21日|21日]]には、[[国際自転車競技連合|UCI]]が正式にランディスの失格とペレイロの優勝を認定し優勝が決定。そして同年[[10月15日]]に総合ディレクターのクリスティアン・プリュドムから優勝ジャージ(マイヨ・ジョーヌ)が授与された。</ref> {{Flagicon|ESP}}([[ケス・デパーニュ]])||style="text-align:center"|21||3,654km||40.784km/h |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2007|94]]||[[2007年]]7月7日~29日||[[アルベルト・コンタドール]] {{Flagicon|ESP}}(ディスカバリーチャンネル)||style="text-align:center"|20||3,554km||39.226km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2008|95]]||[[2008年]]7月5日~27日||[[カルロス・サストレ]] {{Flagicon|ESP}}([[チーム・サクソ - ティンコフ|CSC・サクソバンク]])||style="text-align:center"|21||3,523km||40.093km/h |- |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2009|96]]||[[2009年]]7月4日~26日||アルベルト・コンタドール {{Flagicon|ESP}}([[アスタナ・チーム]])||style="text-align:center"|21||3,459 km ||40.31 km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2010|97]]||[[2010年]]7月3日~25日||[[アンディ・シュレク]] {{Flagicon|LUX}}(チーム・サクソバンク)||style="text-align:center"|20||3,642km||39.596km/h |- |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2011|98]]||[[2011年]]7月2日~24日||[[カデル・エヴァンス]] {{Flagicon|AUS}}(BMC・レーシングチーム)||style="text-align:center"|21||3,471km||39.788 km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2012|99]]||[[2012年]]6月30日~7月22日||[[ブラッドリー・ウィギンス]] {{Flagicon|GBR}}([[チームスカイ|スカイ・プロサイクリング]])||style="text-align:center"|20||3,480km||39.735 km/h |- |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2013|100]]||[[2013年]]6月29日~7月21日||[[クリス・フルーム]] {{Flagicon|GBR}} (スカイ・プロサイクリング) ||style="text-align:center"|21||3,403.5km ||40.545 km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2014|101]]||[[2014年]]7月5日~7月27日||[[ヴィンチェンツォ・ニバリ]] {{Flagicon|ITA}} ([[アスタナ・プロチーム|アスタナ・チーム]]) ||style="text-align:center"|21||3,663.5km ||40.7 km/h |- |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2015|102]]||[[2015年]]7月4日~7月26日||クリス・フルーム {{Flagicon|GBR}} ([[チームスカイ]]) ||style="text-align:center"|21||3,360.3km || 39.64 km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2016|103]]||[[2016年]]7月2日~7月24日||クリス・フルーム {{Flagicon|GBR}} (チームスカイ) ||style="text-align:center"|21||3,529km || 39.62 km/h |- |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2017|104]]||[[2017年]]7月1日~7月23日||クリス・フルーム {{Flagicon|GBR}} (チームスカイ)<ref name="floome" /> ||style="text-align:center"|21||3,540km || 41.00 km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2018|105]]||[[2018年]]7月7日~7月29日||[[ゲラント・トーマス]] {{Flagicon|GBR}} ([[チームスカイ]]) ||style="text-align:center"|21||3,329km ||40.21 km/h |- |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2019|106]]||[[2019年]]7月6日~7月28日||[[エガン・ベルナル]] {{Flagicon|COL}} ([[チーム・イネオス]]) ||style="text-align:center"|21|| 3,366km ||40.58 km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2020|107]]||[[2020年]]8月29日~9月20日|| [[タデイ・ポガチャル]] {{Flagicon|SLO}} ([[UAE チーム・エミレーツ]]) ||style="text-align:center"|21|| 3,484.2km ||39.89 km/h |- |-style="background-color:#EFEFEF" |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2021|108]]||[[2021年]]6月26日~7月18日|| タデイ・ポガチャル {{Flagicon|SLO}} ([[UAE チーム・エミレーツ]]) ||style="text-align:center"|21|| 3,414.4km ||41.17 km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2022|109]]||[[2022年]]7月1日~7月24日|| [[ヨナス・ヴィンゲゴー]] {{Flagicon|DEN}}([[チーム・ユンボ・ヴィスマ]])|| style="text-align:center" |21|| 3,328km ||41.83 km/h |- |style="text-align:center"|[[ツール・ド・フランス2023|110]]||[[2023年]]7月1日~7月23日|| [[ヨナス・ヴィンゲゴー]] {{Flagicon|DEN}}([[チーム・ユンボ・ヴィスマ]])|| style="text-align:center" |21|| 3,405.1km ||41.408km/h |} == 国別優勝回数 == 2022年の109回大会まで、国籍別ではフランスが36勝、次いで[[ベルギー]]が18勝、スペインが12勝、イタリアが10勝、イギリスが6勝、[[ルクセンブルク]]が5勝、[[アメリカ合衆国]]、[[デンマーク]]が3勝、[[スイス]]、[[オランダ]]、[[スロベニア]]がそれぞれ2勝、[[アイルランド]]、[[ドイツ]]、[[オーストラリア]]、[[コロンビア]]が各1勝となっている<ref name=読売20230524/>。なお[[ランス・アームストロング]]の優勝剥奪([[ツール・ド・フランス#ドーピング問題|後述]])があるため、大会の回数と勝利数の合計は一致しない<ref>ヤエスメディアムック408『ツール・ド・フランスを知るための100の入り口』(J SPORTS企画、[[八重洲出版]]、2013年6月)55頁 ISBN 978-4-86144-311-4</ref>。 == 5勝クラブ == ツールで総合優勝を5回達成した選手達を俗に「5勝クラブ」と呼んでいる。「5勝クラブ」に名を連ねている4人はいずれも歴史に残る名選手である。2005年に[[ランス・アームストロング]]は史上初の7回の総合優勝を達成したが、2012年にドーピングによるものとして7連覇の記録は剥奪されている<ref name="lance" />。 ; [[ジャック・アンクティル]]({{FRA}}) : 優勝年……[[ツール・ド・フランス1957|1957年]]、[[ツール・ド・フランス1961|1961年]]、[[ツール・ド・フランス1962|1962年]]、[[ツール・ド・フランス1963|1963年]]、[[ツール・ド・フランス1964|1964年]] : タイムトライアルのスペシャリストである。1957年に初出場にもかかわらず、圧倒的な強さで初優勝を飾った。その後、[[肺炎]]等のため勝利から見放されていたが1961年にカムバックを遂げ勝利を重ねた。1964年のレースでは消化不良に苦しんだが(休養日に振る舞われた[[羊肉]]料理のためとされる)それを隠し通し、ライバルの追撃を振り切り5度目の栄冠を掴んでいる。 ; [[エディ・メルクス]]({{BEL}}) : 優勝年……[[ツール・ド・フランス1969|1969年]]、[[ツール・ド・フランス1970|1970年]]、[[ツール・ド・フランス1971|1971年]]、[[ツール・ド・フランス1972|1972年]]、[[ツール・ド・フランス1974|1974年]] : ツール・ド・フランス5勝に加えジロ・デ・イタリアでも5勝、世界選手権でも3回優勝している。クラシックレースでの強さも圧倒的で、勝利に対するあまりの貪欲さから「食人鬼」の異名をとった。トータル525勝、勝率28.12%は、史上最も偉大な選手としてふさわしい記録である。 : 初出場の1969年には総合優勝に加えて[[ポイント賞 (グランツール)|ポイント賞]]と[[山岳賞]]も併せて受賞し主要3部門独占を果たしており、この記録を達成した選手は今もなおメルクスただ一人である。 ; [[ベルナール・イノー]]({{FRA}}) : 優勝年……[[ツール・ド・フランス1978|1978年]]、[[ツール・ド・フランス1979|1979年]]、[[ツール・ド・フランス1981|1981年]]、[[ツール・ド・フランス1982|1982年]]、[[ツール・ド・フランス1985|1985年]] : アンクティル、メルクスに続いて初出場で初優勝を飾った。「ブルターニュの[[ヨーロッパアナグマ|アナグマ]]」の異名で呼ばれた。 : 1985年のレースでは山岳ステージの落車で鼻を骨折し呼吸が困難になるアクシデントに見舞われチームメートだった[[グレッグ・レモン]]に優勝のチャンスが舞い込んだが、翌年はイノーがレモンのアシストに徹することを条件に優勝を譲らせたという逸話が残っている。しかし翌年、6勝目を挙げるべくレモンに立ちはだかったため2人の間に確執が生じることとなった(結局この年はレモンが総合優勝をしている)。かねて公言していた通り、1986年に32歳で引退した。 ; [[ミゲル・インドゥライン]]({{ESP}}) : 優勝年……[[ツール・ド・フランス1991|1991年]]、[[ツール・ド・フランス1992|1992年]]、[[ツール・ド・フランス1993|1993年]]、[[ツール・ド・フランス1994|1994年]]、[[ツール・ド・フランス1995|1995年]] : ツール・ド・フランス史上初となる5年連続優勝を達成した。80kgを超す巨体ながら山岳ステージや個人タイムトライアルで絶対的な強さを発揮した。1992・1993年にはジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方で総合優勝する「ダブルツール」を2年連続で達成するという、空前絶後の偉業を成し遂げている。 : 圧倒的な強さに加え、どの選手からも尊敬され愛される穏やかな人柄から「ロワ・ソレイユ(太陽王)」とまで呼ばれた。また日本では「相手選手が引き離してもすぐ背後に貼りついている」様子から「[[T-800|ターミネーター]]」と呼ばれていた。 == 区間優勝回数 == *通算 {| class="wikitable" |- !順位!!名前!!国籍!!優勝回数 |- | align="center"| '''1''' || '''[[エディ・メルクス]]''' || '''{{BEL}}''' || align="center"| '''34''' |- | align="center"| '''1''' || '''[[マーク・カヴェンディッシュ]]''' || '''{{UK}}''' || align="center"| '''34''' |- | align="center"| 3 || [[ベルナール・イノー]] || {{FRA}} || align="center"| 28 |- | align="center"| 4 || [[アンドレ・ルデュック]] || {{FRA}} || align="center"| 25 |- | align="center"| 5 || [[アンドレ・ダリガード]] || {{FRA}} || align="center"| 22 |} なお、[[ランス・アームストロング]]は22勝で5位となるが、[[ドーピング]]により剥奪されている。 *一大会 : [[シャルル・ペリシエ]] (1930年) : エディ・メルクス (1970年、1974年) : [[フレディ・マルテンス]] (1976年) : 以上8勝 == ツールをめぐる問題 == ツール・ド・フランスは、その初期から不正が横行していた。2回目の[[ツール・ド・フランス1904|1904年の大会]]の時点で、優勝者の[[モリス・ガラン]]を含む完走27選手中12選手が、列車の使用などの不正をして失格となり、[[アンリ・デグランジュ]]がレースを開催しないと宣言する事態となる。このデグランジュの決断は、後に撤回されたため、ツール・ド・フランスは継続されるようになったが、貧しい階級出身者が多かった当時の自転車競技者にとって、巨額な賞金は何としてでも手に入れたいものであり、その後も不正行為は後を絶たなかった。特定の場所を通過したかどうかのチェックを行うポイント制が導入されてから、列車などの乗り物を使った不正は減少したが、代わりに薬物による[[ドーピング]]が用いられるようになる。21世紀になっても、ドーピングの問題は根深かった<ref>{{cite news |title=ツール・ド・フランス、不正の歴史 |author=Spencer Platt |newspaper=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]] |date=2013-01-22 |url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7433/?ST=m_news |accessdate=2016-06-15}}</ref>。2013年大会以降は、現在まで重大なドーピング問題は報告されていない。 === ドーピング問題 === {{seealso|ドーピング}} [[ファイル:Tour de Doping.jpg|thumb|2006年のレースでのドーピング批判の横断幕]] * [[ツール・ド・フランス1924|1924年]] ** 途中棄権した[[アンリ・ペリシエ]]らのペリシエ3兄弟が、親しい新聞記者に[[ストリキニーネ]]、[[コカイン]]などを常用していた事実を告白したことで浮上した形となり、その後深刻さを深めていった<ref> De Mondenard, Dr Jean-Pierre: Dopage, l'imposture des performances, Chiron, France, 2000</ref>。当時は競技力向上よりも苦痛を和らげるための[[鎮痛剤]]([[覚醒剤]])が主に用いられていたとされる。 * [[ツール・ド・フランス1949|1949年]]及び[[ツール・ド・フランス1952|1952年]] ** [[ファウスト・コッピ]]が生前、某テレビ番組の中で、「悪いクスリを飲んだとたん、ペダルが後ろに回ってしまった」といったジョークを交えながら、第二次世界大戦終戦直後に、[[アンフェタミン]]を服用し続けていた事実を告白した<ref>Archive extract from Quando Volava l'Airone, part of a programme called Format, Rai Tre television, 1998</ref>。 * [[ツール・ド・フランス1955|1955年]] ** 第11ステージ途中、[[モン・ヴァントゥ]]付近で棄権した[[ジャン・マレジャック]]が、後にアンフェタミンを常用していたことが判明<ref>[http://arthur73.chez-alice.fr/temoigna.html#ikuu "Le dopage est une pratique culturelle dans le cyclisme"] {{fr icon}}</ref>したが、ツール・ド・フランスで明らかになった最初のドーピング事例だった。 ** また、任意に選んだ選手中20%が覚醒剤陽性となり依存症となっていることが判明。 * [[ツール・ド・フランス1960|1960年]] ** 第14ステージ、[[中央高地 (フランス)|中央高地]]にあるエグア山で、崖下から転落するアクシデントにより途中棄権となったばかりか、この事故が原因で、後に現役引退を余儀なくされた[[ロジェ・リヴィエール]]が、事故以前からアンフェタミンなどの薬物を常用していたことが判明。 ** 総合優勝者の[[ガストネ・ネンチーニ]]の部屋から、[[ホルモン]]注射器が発見された<ref>Jean-Pierre de Mondenard, "Dictionnaire du dopage" (2004), p.896</ref>。 * [[ツール・ド・フランス1967|1967年]] ** 第13ステージで[[トム・シンプソン]]が[[モン・ヴァントゥ]]の上りで倒れ死亡する出来事が起きた。このときシンプソンの体内からアンフェタミン、[[アルコール]]や[[利尿薬]]が検出され問題となった。ただしこの年の[[モン・ヴァントゥ]]周辺の[[プロヴァンス地方]]は猛烈な暑さだったこともあり、またチームとの契約問題で精神的に追い詰められていたとの証言もあって、薬物はあったものの[[熱中症]]の作用によるものという意見も多い。実際、シンプソンの死は熱中症として扱われている。 * [[ツール・ド・フランス1977|1977年]] ** [[ヨープ・ズートメルク]]が第15 (b) ステージ、[[ジョアキン・アゴスティーニョ]]が第18ステージでそれぞれ禁止薬物使用により、区間記録を剝奪され、両選手にはそれぞれ、所定総合時間プラス10分のペナルティが科せられる。 * [[ツール・ド・フランス1978|1978年]] ** [[ラルプ・デュエズ]]を1位で入線した[[ミシェル・ポランティエール]]が、禁止薬物使用を隠蔽するため、[[尿]]を[[コンドーム]]にしまいこんで隠していたことが発覚。悪質な行為とみなされ、順位剝奪はもとより、即座に帰郷を命じられる。 * [[ツール・ド・フランス1979|1979年]] ** 最終ステージ終了後、ヨープ・ズートメルクにドーピング違反が判明し、同ステージの区間記録が剝奪され、所定総合時間プラス10分のペナルティが科せられる。 * [[ツール・ド・フランス1988|1988年]] ** 当初総合4位を記録していた[[ヘルト=ヤン・テュニス]]([[PDM]])に、[[テストステロン]]の陽性反応が出たため、所定総合時間プラス10分のペナルティが科せられた。これによりテュニスは、総合11位に降格。 ** 同年の山岳賞獲得者、[[スティーヴン・ロークス]](PDM)が、[[エリスロポエチン]](EPO)常用の事実を2009年に認める。 ** 総合優勝を果たすことになる[[ペドロ・デルガド]]([[レイノルズ・チーム|レイノルズ]])の体内から、当時既に[[国際オリンピック委員会]]では禁止薬物として指定されていた[[プロベネシド]](Probenecid)が検出されたが、[[国際自転車競技連合]]が当時そのことを認識していなかったため、制裁等の処置は行われなかった。 * [[ツール・ド・フランス1991|1991年]] ** [[PDM・コンコルド]]が第10ステージ後、突然の体調不良を訴え選手全員が棄権した。チームの声明が二転三転したこともあり薬物摂取による副作用ではないかとされている。 * [[ツール・ド・フランス1996|1996年]] ** ポイント賞獲得の[[エリック・ツァベル]]([[ドイツテレコム|チーム・テレコム]])が EPO を使用していたことを[[2007年]]に告白。また同年大会の総合優勝者、[[ビャルヌ・リース]](チーム・テレコム)が同年前後にわたり、EPO常用の事実を2007年に告白。 * [[ツール・ド・フランス1998|1998年]] ** 後に[[フェスティナ事件]]と通称される大規模な組織的ドーピングスキャンダルが発覚した。 **フェスティナ・ロータスの車から禁止薬物が発見され、第6ステージ終了後にフェスティナはツールから除名された。2000年までに出走した9名全員がEPOを使用していたことを認めた。 **期間中にTVM・ファームフリッツの禁止薬物所持が新聞でスクープされた (後に事実であったと判明) ことで各チームが度々警察の捜索を受けることとなった。 **第16ステージ終了後、[[AG2R・シトロエン・チーム|カジノ・AG2R]]所属で同ステージ終了時点の山岳賞だった[[ロドルフォ・マッシ]]がパフォーマンス向上物質所持で逮捕された (のちに不起訴)。マッシは史上初のドーピング関連の罪で逮捕されたライダーとなった。 **翌第17ステージでは度重なる[[フランス国家憲兵隊|ジャンダルマリ]]の介入に抗議して、このステージを選手全員がボイコットした。 **最終的には除外されたフェスティナやスペインから参加した全4チームを含め21チーム中計7チームがチームとして棄権した。この結果完走者は96人という[[ツール・ド・フランス1983|1983年]]以来の2桁を記録することとなった。 ** この年の出場選手のサンプルを後の技術で再検査した結果、総合上位1、2位 ([[マルコ・パンターニ]]と[[ヤン・ウルリッヒ]]) を含む18名からEPOが検出され、総合3位 ([[ボビー・ジュリック]]) を含む12名が「疑わしい」と判定された<ref>「[http://www.cyclowired.jp/?q=node/113659 98年ツール総合1位パンターニやウルリッヒら18名の検体からEPO検出]」シクロワイアード 2013年7月25日付</ref>。 {{main|フェスティナ事件}} * [[ツール・ド・フランス1999|1999年]]〜[[ツール・ド・フランス2005|2005年]]、[[ツール・ド・フランス2009|2009年]]〜[[ツール・ド・フランス2010|2010年]] **[[2012年]][[8月24日]]、前日までに[[ランス・アームストロング]]が、同年6月12日にアメリカ合衆国アンチドーピング機関(USADA)から送付されたドーピング違反にかかる告発状に対し、不服申し立てを行わなかったことを受け、USADAは、[[1998年]][[8月1日]]以降の記録を全て抹消した上で、アームストロングに対し、「永久追放」宣告を行った<ref name="1st stage's start">[http://www.cyclingnews.com/news/usada-bans-armstrong-for-life-disqualifies-all-results-since-1998 USADA bans Armstrong for life, disqualifies all results since 1998] - cyclingnews.com 8月24日付{{en icon}}</ref><ref>「[http://mainichi.jp/sports/news/20120825k0000e050209000c2.html ドーピング:米自転車のアームストロングが永久追放へ]」{{リンク切れ|date=2023年5月}}[[毎日新聞]](2012年08月25日)</ref>。 **以下はアームストロングを「永久追放」宣告するに至った、USADAの見解である<ref name="1st stage's start" />。 *** エリスロポエチン(EPO)、[[輸血]](時ドーピング)、テストステロン、[[副腎皮質ステロイド]]、及びそれらマスキング剤の使用歴があると考えられること。 *** EPO、輸血関連機器(例:測定針、血液バッグ、貯蔵容器と他の輸血機器や血液パラメータなど)、テストステロン、[[コルチコステロイド]]およびマスキング剤などを所持している疑いがあること。 *** EPO、テストステロン、[[副腎皮質ホルモン]]剤を他者へ「横流し」していた形跡があること。 *** EPO、テストステロン、[[コルチゾン]]を他者へ投与した形跡があること。 *** 支援奨励、幇助、教唆、隠蔽など、複数のアンチ·ドーピング規則違反が見られること。 **またUSADAは、1998年8月1日以降の成績抹消について、次の通り見解を示した<ref name="1st stage's start" />。 *** 元チームメイトなどの証言や観察等を通して、1998年以前から2005年までの期間中にEPO、輸血(時ドーピング)、テストステロン、コルチゾンなどの使用歴があると考えられること。 *** EPO、テストステロン、[[ヒト成長ホルモン]]については、1996年頃から使用していた可能性があること。 *** 1999年から2005年までの期間に、EPO、輸血、テストステロン、コルチゾンなどの物質の提供(横流し)を行った上、それら物質の処方指導や投与をアームストロングが行っていたことを示す証拠を、元チームメイト等から提供を受けたこと。 *** 2009年、アームストロングが4年ぶりにツール・ド・フランスに出場するまでの間、EPO、輸血時ドーピングが行われていたとする、科学的データが存在すること。 **同年10月10日 ***USADAの[[最高経営責任者|CEO]]であるトラヴィス・タイガートは、USポスタルサービスチームにおける一連のドーピング違反事例についての調査報告書を公表した<ref>[http://cyclinginvestigation.usada.org/ U.S. Postal Service Pro Cycling Team Investigation] - USADAのUSポスタルサービスチームにおけるドーピング事例に関する調査報告書{{en icon}}</ref>。 ***USADAは、アームストロングが、ドーピングの「黒幕」と目される医学博士のミケーレ・フェッラーリに対し、100万ドルを超える「顧問料」を支払っていたことを、2人との間で取り行われた金銭授受明細書に基づいて明らかにした<ref>[http://www.cyclingnews.com/news/usada-lance-armstrong-paid-ferrari-more-than-dollar-1-million USADA: Lance Armstrong paid Ferrari more than $1 million] - cyclingnews.com 10月10日付{{en icon}}</ref>。 ***またUSADAは、かつてUSポスタル、ディスカバリーチャンネルでチームぐるみのドーピングが行われていたことを証言した11名の元チームメイトの名前を発表([[リーヴァイ・ライプハイマー]]、[[クリスティアン・ヴァンデヴェルデ]]、[[デヴィッド・ザブリスキー]]、[[トム・ダニエルソン]]、[[ジョージ・ヒンカピー]]、[[マイケル・バリー]]、[[フランキー・アンドリュー]]、[[タイラー・ハミルトン]]、[[フロイド・ランディス]]、[[ステフェン・スワールト]]、[[ジョナサン・ヴォーターズ]])。このうち、ライプハイマー、ヴァンデヴェルデ、ザブリスキー、ダニエルソン、ヒンカピー、バリーの6選手に対し、6か月の出場停止処分と該当期間の成績剥奪処分を下した。6選手は、その期間についてのドーピング歴をUSADAが公表したところ、全選手がこれを認めたため、処分を受け入れた<ref>[http://www.cyclingnews.com/news/six-former-armstrong-usps-teammates-receive-bans-from-usada Six former Armstrong USPS teammates receive bans from USADA] - cyclingnews.com 10月10日付{{en icon}}</ref><ref>[http://www.cyclowired.jp/?q=node/93270 ヒンカピーが過去のドーピングを告白] - シクロワイアード2012年10月11日付記事</ref>。 ***加えてUSADAは、アームストロングがUSポスタル時代にドーピングを是とするチーム土壌を醸成したとする報告書を、当時チームメイトだった上記選手の証言を交えながら公表した<ref>[http://www.cyclingnews.com/news/usada-armstrong-created-a-doping-culture-at-us-postal USADA: Armstrong created a doping culture at US Postal] - cyclingnews.com 10月11日付{{en icon}}</ref>。 ** 同年10月22日、UCIは[[スポーツ仲裁裁判所]]への上訴を行わず、USADAの裁定を受け入れることを表明し、1999年~2005年の7連覇の記録は剥奪されることが確定した<ref name="lance" />。 * [[ツール・ド・フランス2002|2002年]] ** 総合3位の[[ライモンダス・ルムシャス]]([[ランプレ・メリダ|ランプレ・フォンディタル]])の夫人が、同年大会終了後、大量の禁止薬物所持により、警察当局に身柄を拘束される事件が発生。 * [[ツール・ド・フランス2005|2005年]] ** スポーツ仲裁裁判所(CAS)は[[2012年]][[2月9日]]、総合3位で全日程を終了した[[ヤン・ウルリッヒ]]([[T-モバイル|T-モバイル・チーム]])に対し、UCIのアンチドーピング違反規定15.2<ref>「禁止物質または禁止方法の使用の成否は,重要ではない。アンチドーピング規則違反は,禁止物質また は禁止方法を使用したこと,または使用の企てたことにより成立する。」(UCIアンチ・ドーピング規則より)</ref>違反により、2005年5月以降、引退年日の2007年2月までの記録を抹消とする裁決を下したため、ウルリッヒの当年大会記録は全て抹消された。 * [[ツール・ド・フランス2006|2006年]] ** [[フロイド・ランディス]]([[フォナック・ヒアリングシステム]])が、体力消耗度が激しい山岳区間の第17ステージにおいて、残りまだ120kmもある地点にもかかわらず単独アタックを敢行してそれが見事に決まり、同ステージ2位通過の[[カルロス・サストレ]]([[チームCSC]])に5分48秒もの差をつけて区間優勝を果たした。さらにその後、ランディスは総合1位で全日程を終えた。ところが大会終了後、上記第17ステージにおける検体について、テストステロン値が異常であるとの結果が出たことを発端に、その後に複数の検体が陽性と判明したため、ASOは、ランディスの総合優勝記録を保留とし、その後1年以上に亘ってドーピング違反の真偽が問われることになった。ランディスは公聴会等で陰謀論を唱えるなど、当初は一貫してドーピング事実を認めなかったが、[[2007年]][[9月20日]]にアメリカ合衆国アンチドーピング機関(USADA [[:en:United States Anti-Doping Agency]])が、ランディスの総合1位記録を取り消し、失格とする告知を出したことから、ランディスの総合優勝はく奪が決定した。これを受けてASOは同年10月15日、総合2位で全日程を終えた[[オスカル・ペレイロ]]([[ケス・デパーニュ・イリェス・バレアレス]])を総合優勝者として認定した。 ** [[オペラシオン・プエルト]]の余波を受けて、疑惑の渦中にあった[[ヤン・ウルリッヒ]]や[[イヴァン・バッソ]]、[[アレクサンドル・ヴィノクロフ]]などの優勝候補が大会直前になって出場を拒まれた。 * [[ツール・ド・フランス2007|2007年]] ** 優勝の大本命とされていたアレクサンドル・ヴィノクロフ([[アスタナ|アスタナ・チーム]])が第15ステージ終了後にドーピング検査で陽性反応が出たことで棄権。さらに第16ステージ終了後に[[クリスティアン・モレーニ]]([[コフィディス]])がドーピング疑惑で連行された上、総合優勝をほぼ確実にしていた[[ミカエル・ラスムッセン]]([[ラボバンク]])も検査に際して虚偽の居場所を報告したことでドーピングを疑われチームを解雇される形で棄権。この影響で[[アスタナ・チーム]]、コフィディスはチーム全体が棄権することになった。 ** 総合17位で完走した[[イバン・マヨ]]([[サウニエル・ドゥバル・プロディール]])の検体から[[エリスロポエチン]]の陽性反応が出たことをチームが明らかにするなど、レース後も混乱を引きずることとなった。 * [[ツール・ド・フランス2008|2008年]] ** [[エリスロポエチン]](EPO)よりも長い投与間隔で、ヘマトクリット値を維持することが可能な[[持続性エリスロポエチン受容体活性化剤]](CERA)の使用が、当年より欧州で可能となったことにより、これに伴うドーピング違反事例が続発した。 ***[[マヌエル・ベルトラン]]([[キャノンデール・プロサイクリング|リクイガス]]) - 第8ステージスタート前に発覚。 ***[[モイセス・ドゥエニャス]]([[バルロワールド]]) - 第11ステージスタート前に発覚。 ***第6ステージと第9ステージの上りで驚異的な走りを見せてステージ優勝を果たし総合優勝争いにも加わっていた[[リカルド・リッコ]]([[サウニエル・ドゥバル・スコット]])が第11ステージ終了後のドーピング検査での陽性が発覚し、これによりチーム監督の[[マウロ・ジャネッティ]]の判断により、サウニエル・ドゥバル・スコットは全選手を棄権させ、レースから撤退した。加えて以後しばらく、レース活動を自粛した後、サウニエル・ドゥバルがスポンサーから撤退<ref>[http://www.cyclingnews.com/road/2008/tour08/news/?id=/news/2008/jul08/jul17news4a Tour de France News Flash, July 17, 2008/Ricc� fails doping test � Saunier Duval out of Tour Taken into police custody] サイクリングニュース(2008年7月17日付記事] {{En icon}}</ref> ***大会終了後、[[ベルンハルト・コール]]([[ゲロルシュタイナー]])、[[シュテファン・シューマッハー]](ゲロルシュタイナー)、[[レオナルド・ピエポリ]](サウニエル・ドゥバル・スコット)、[[ドミトリー・フォフォノフ]]<ref group="注">フォフォノフはドクターの処方ミスだったことが証明されたため、3か月間の出場停止処分となった。</ref>([[クレディ・アグリコル]])にもCERA陽性が発覚<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/other_sports/cycling/7655977.stm Tour rocked by new positive tests(BBCニュース2008年10月6日付)] {{En icon}}</ref><ref>[http://www.lequipe.fr/Cyclisme/breves2008/20081013_184539_kohl-a-triche-lui-aussi_Dev.html Cyclisme - Dopage - Kohl a triché lui aussi(レキップ2008年10月13日付記事] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120122114937/http://www.lequipe.fr/Cyclisme/breves2008/20081013_184539_kohl-a-triche-lui-aussi_Dev.html |date=2012年1月22日 }} {{Fr icon}}</ref>。 ***一方、一時的にドーピング違反とされた[[ジミー・カスペール]]([[アグリテュベル]])は[[喘息]]治療薬の摂取量が基準値を超えたというものであったが、喘息は元々の持病であり後に無罪とされている<ref>[http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=9393 CYCLINGTIME.com 2008年10月7日のニュース]</ref>。 ** ASOは、2月13日にUCIプロツアーの有力チームの一つである[[アスタナ・チーム]](当時[[ルクセンブルク]]登録)を[[ツール・ド・フランス2007|前年のツール・ド・フランス]]でのドーピング疑惑を理由に参加招待リストから除外することを発表した<ref group="注">ただし、アスタナ・チームは実際には前年からチーム体制・スタッフ・メンバーが一変しており、実際にはUCIプロツアー参加チームの全チーム参加を目論んだUCIに対するASOの当てつけではないかとの見方がある。詳細は[[アスタナ・チーム]]の項目を参照のこと。</ref>。これにより、前年の覇者である[[アルベルト・コンタドール]]の連覇および前年3位である[[リーヴァイ・ライプハイマー]]の雪辱がレース開始前に思わぬ形で阻まれる形となった。 * [[ツール・ド・フランス2009|2009年]] ** 「ツール・ド・ドーピング」とまで言われるようになってしまったことを受け、UCIが2009年6月に、「[[バイオロジカル・パスポート]]」(生体パスポート)と呼ばれるドーピング検査を導入。これにより、[[トーマス・デッケル]]([[ロット・ベリソル|サイレンス・ロット]])にEPO陽性反応が出たため、既にスタートリストに名前があったデッケルは、同年大会直前にメンバーから外された。 ** [[クリスティアン・ファンベルガー]]、[[アントニオ・コロム]]のドーピング違反発覚が発端となり、チーム全体がドーピングスキャンダルに揺れていた[[チーム・カチューシャ]]が、参加予定選手を大幅に変更せざるを得なくなった<ref group="注">ドーピング問題が尾を引き、[[2009年]]の[[ブエルタ・ア・エスパーニャ2009|ブエルタ・ア・エスパーニャ]]に招待されなかった。</ref>。 ** 当時[[UCIプロチーム]]でありながら、[[フジ・セルベット]](2008年のツールでは、サウニエル・ドゥバル・スコットとして参加)は、前年の大会においてドーピングスキャンダルのため、全選手途中棄権となったことを[[アモリ・スポル・オルガニザシオン]](ASO)に咎められ、当大会に参加することができなかった。 ** 7月31日、[[国際自転車競技連合]](UCI)が[[ミケル・アスタルロサ]]([[エウスカルテル・エウスカディ]])に対し、同年6月26日に[[マドリード]]で[[世界アンチ・ドーピング機構]](WADA)が行った尿検査の結果、前日の7月30日にWADAから、エリスロポエチン(EPO)陽性反応が認められたという話を受け、出場保留処分としていたことを表明<ref>[http://www.cyclingnews.com/news/tour-stage-winner-astarloza-suspended-after-failed-doping-test Tour stage winner Astarloza suspended after failed doping test] サイクリングニュース 2009年7月31日付記事(英語)</ref>したことを受け、[[2010年]]5月15日、スペイン自転車競技連盟が、2年間の出場停止処分を下したことから、後日、当年第16ステージ優勝記録を含めた全記録を抹消された<ref>[http://www.cyclingnews.com/news/astarloza-suspended-for-two-years-for-epo Astarloza suspended for two years for EPO] - cyclingnews.com 2010年5月15日付記事(英語)</ref>。 ** 山岳賞を獲得した[[フランコ・ペッリツォッティ]]([[キャノンデール・プロサイクリング|リクイガス]])に、UCIのバイオロジカル・パスポートにより血液ドーピングの疑いがかけられ、2011年3月8日、CASはこれを支持して2年間の出場停止処分を下したため、後に山岳賞ははく奪された。 * [[ツール・ド・フランス2010|2010年]] ** 大会終了後の9月29日、総合優勝者の[[アルベルト・コンタドール]]([[アスタナ|チーム・アスタナ]])の広報担当者が、7月21日に行われたドーピング検査結果、[[クレンブテロール]]の陽性反応が出たことを明らかにしたことが発端となり、その後約1年半にも及ぶ「白黒」の大論争が展開された。コンタドールは検出量がごく微量であったことを受け、食肉摂取時における食物汚染によるものだと主張したが、[[国際自転車競技連合]](UCI)と世界アンチ・ドーピング機構(WADA)はそのような事実はないと結論。2011年1月、なかなか処分決定を下そうとしなかったスペイン自転車競技連合は漸く、水面下でコンタドールに1年間の出場停止処分を提示したが、その1か月後、同連盟は不処分とすることを決めた。この裁定にUCIとWADAが異議を唱え、同年3月24日、UCIが[[スポーツ仲裁裁判所]](CAS)に提訴。そして2012年2月6日、CASはコンタドールに2年間の出場停止処分とする裁定を下し、漸く決着を見た。これを踏まえてUCIは、2010年のツール・ド・フランス以降に記録したコンタドールの成績を抹消する決定を下したため、2010年のツール・ド・フランス総合優勝者は[[アンディ・シュレク]]([[チーム・サクソ - ティンコフ|チーム・サクソバンク]])となった。 ** [[シャビエル・フロレンシオ]]([[サーヴェロ・テストチーム]])が、メディカルスタッフの事前許可なしに、覚醒剤の[[エフェドリン]]を含む薬物を使用していたとして、プロローグ開始直前にメンバーから除外。よって、同チームは最初から8人での戦いを余儀なくされた。 * [[ツール・ド・フランス2011|2011年]] ** 7月11日、第5ステージ終了後に採取された[[アレクサンドル・コロブネフ]]([[チーム・カチューシャ|カチューシャ・チーム]])の尿の中から、[[利尿薬]]である[[ヒドロクロロチアジド]]の陽性反応が確認された。当初コロブネフは意図的に行ったものではないと主張。同月20日、Bサンプルでも陽性が確認されたが、2012年2月29日、スポーツ仲裁裁判所(CAS)は、競技力向上に起因するものではなく、医学的見地から使用されたとみなし、処分なしの裁定を下した。 * [[ツール・ド・フランス2012|2012年]] **[[レミ・ディ・グレゴリオ]]([[コフィディス]])が、同レース休息日となった7月10日、チームが宿泊するホテルで、警察官及び「OCLAESP」の憲兵隊にドーピング容疑で逮捕された<ref>[http://www.cyclingnews.com/news/cofidis-hotel-raided-di-gregorio-arrested-at-tour-de-france Cofidis hotel raided, Di Grégorio arrested at Tour de France] - cyclingnews.com7月11日付{{en icon}}</ref><ref>[http://www.cyclowired.jp/?q=node/87724 ディグレゴリオがドーピング容疑で逮捕 コフィディスはレースを続行] - シクロワイアード7月11日付</ref>。そして、ディ・グレゴリオのドーピング事例は、[[オゾン]]と[[ブドウ糖]]を注射を用いて注入していたと見られると、フランス検察当局は述べた<ref>[http://www.cyclingnews.com/news/prosecutors-want-di-gregorio-charged-with-prohibited-doping-methods Prosecutors want Di Gregorio charged with prohibited doping methods] - cyclingnews.com7月12日付{{en icon}} </ref>。 **2012年7月17日、国際自転車競技連合(UCI)は、[[フランク・シュレク]]([[レディオシャック・レオパード・トレック|レイディオシャック・ニッサン・トレック]])の尿サンプルから、[[世界アンチ・ドーピング機関]]が禁止薬物に指定している利尿剤キシパミドの陽性反応を検出したことを発表した。シュレクは棄権処分となり、警察の事情聴取を受けた。世界アンチ・ドーピング機関は、キシパミドを「パフォーマンスの向上目的で使用したのではないと証明することができる物質」に指定しており、シュレクには無実を証明する機会が与えられる<ref>{{Cite news | url = https://www.afpbb.com/articles/-/2890099?pid=9262240 | title = レディオシャックのシュレクから陽性反応、ツール・ド・フランス | newspaper = [[フランス通信社|AFPBB News]] | date = 2012-7-17 }}</ref>。 {{節スタブ}} === UCIプロツアーを巡る確執 === 主催者であるASOとUCIとの間で、参加チームの選定など、管理・運営に関する溝がUCIプロツアー制定初年度の2005年から生じた。さらにその溝は、年を追うごとに深刻さを増し、ジロ・デ・イタリアの主催者であるRCSスポルト、ブエルタ・ア・エスパーニャの主催者であるウニプブリクをも巻き込こんだ。そしてついに2008年、ASO、RCS、ウニプブリクが、UCIプロツアーからの離脱を決定。この決定に対し、看過できないという強硬姿勢をとったUCIとの確執がさらに続き、2008年の大会開催時に、ASOから参加を拒まれたアスタナ・チームを除く当時の17のUCIプロチームが、翌2009年シーズンのUCIプロツアーライセンスを更新しないという事態にまで発展したが、同年8月、UCIがASOの親会社であるEPAとの話し合いの末、UCIプロツアーを包含した新制度[[UCIワールドカレンダー]]を2009年シーズンから開始することで和解。ツールは2年ぶりに、ロードレースの年間シリーズに復帰することになった。 == その他 == ツール・ド・フランスと[[ジロ・デ・イタリア]]を同一人物が同年に総合優勝することを指して「[[グランツール#「ダブルツール」に関連する記録|ダブルツール]]」と呼び、加えて[[世界選手権自転車競技大会]]個人ロードレースを同年に制すると「[[グランツール#「トリプルクラウン」に関連する記録|トリプルクラウン]]」と呼び{{要出典範囲|date=2012年8月|「カンピオニッシモ(伊:campionissimo、「[[チャンピオン]]」の最上級)」として称えられる}}。 参加者の中で最も総合タイムの遅い選手は「'''ランタンルージュ''' (Lanterne rouge)」=「赤ランプ」と呼ばれる。これは以前は貨物列車の最後尾に目印として赤ランタンが掛けられていたことに引っ掛けて([[尾灯]]が赤であるべきことは世界共通。[[前照灯]]参照)「一番後ろを走る存在」すなわち「最下位の選手」を意味しており、総合優勝などとは別の意味で非常に注目される存在である。 == 日本人選手 == === 近代ツール以前 === ; [[川室競]] 第20回([[ツール・ド・フランス1926|1926年]])、第21回([[ツール・ド・フランス1927|1927年]]) : 大正15年と翌昭和2年の2大会に出場。いずれも第1ステージでリタイアに終わっている。 === 近代ツール以降 === ; [[今中大介]] 第83回([[ツール・ド・フランス1996|1996年]]) : 日本人として近代ツール初出場。第14ステージでタイムオーバーによりリタイア扱い。 ; [[新城幸也]] 第96回([[ツール・ド・フランス2009|2009年]])、第97回([[ツール・ド・フランス2010|2010年]])、第99回([[ツール・ド・フランス2012|2012年]])、第100回([[ツール・ド・フランス2013|2013年]])、第101回([[ツール・ド・フランス2014|2014年]])、第103回([[ツール・ド・フランス2016|2016年]])、第104回([[ツール・ド・フランス2017|2017年]]) : 2009年は第2ステージ5位、129位完走。2010年は第11ステージ6位、112位完走。2012年は第4ステージ敢闘賞、84位完走<ref>「[https://www.nikkansports.com/sports/cycling/news/f-sp-tp6-20120723-987785.html 新城84位で完走 注目度上げた/ツール]」[[日刊スポーツ]](2012年7月23日)2023年5月27日閲覧</ref>。2013年は99位完走。2014年は65位完走<ref>「[https://web.archive.org/web/20140807224111/http://www.asahi.com/articles/ASG7X34R7G7XKTQ2008.html 新城は65位で3年連続完走 ツール・ド・フランス]」[[朝日新聞デジタル]] 2014年7月29日掲載[[時事通信]]記事の[[インターネットアーカイブ]]による[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]](2023年5月27日閲覧)</ref>。2016年は第6ステージ敢闘賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/07/07/kiji/K20160707012924070.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160710160210/http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/07/07/kiji/K20160707012924070.html|date=2016-07-07|archivedate=2016年7月10日|title=新城 4年ぶり2度目の敢闘賞!終盤まで逃げ赤ゼッケン手に|publisher=[[スポーツニッポン]]|accessdate=2017-02-18|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、116位完走<ref>「[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/07/25/kiji/K20160725013033570.html フルーム2年連続総合V、新城は116位 ツール・ド・フランス]」スポニチアネックス(2016年7月25日)2023年5月27日閲覧</ref>。2017年は109位完走<ref name="floome">「[https://www.nikkansports.com/sports/cycling/news/1861017.html フルームが3年連続総合V ツール・ド・フランス]」日刊スポーツ(2017年7月24日)2023年5月27日閲覧</ref>。 ; [[別府史之]] 第96回(2009年) : 第3ステージ8位、第19ステージ7位、第21ステージ敢闘賞、112位完走。 == 日本でのテレビ放送 == 現在日本での放送はスポーツ専門チャンネル「[[J SPORTS]]」で全ステージ生中継されている([[J SPORTS cycle road race]]も参照)。 [[1985年]]から[[1991年]]にかけては[[日本放送協会|NHK]]が放映権を持ち、主に[[NHK BS1|BS1]]で中継を行っていたほか、地上波でも数回「世界最大の自転車レース」と題して単発特番を放送していたこともある(現在この間の放送を[[DVD]]化したものが[[NHKエンタープライズ]]から発売されている<ref>[https://web.archive.org/web/20051125024549/https://www.nhk-ep.com/view/11241.html ツール・ド・フランス 1985~1991 7YEARS BOX 【NHKエンタープライズ】](インターネットアーカイブによるキャッシュ)</ref>)。[[2007年]]からはBS1で後日ダイジェストながら放送を再開している。[[2013年]]から[[2015年]]までは「まいにち ツール・ド・フランス」のタイトルでデイリーハイライト番組を、[[2016年]]以降はウィークリーハイライトを放送。 [[1992年]]に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が放映権を取得し、同系列で「'''英雄たちの夏物語'''」というダイジェスト番組を2~3回にわたり放送していた。またJ SPORTSが生中継を始める前はフジテレビが衛星録画、山岳ステージの衛星中継を独占で行っていた。ダイジェスト番組のナレーションは[[窪田等]]が担当。テーマ音楽は[[THE SQUARE]]の「CHASER」、エンディングテーマは[[ビル・コンティ]]による映画『[[ライトスタッフ]]』のテーマ曲「The Right Stuff」。なお、2013年には第100回開催記念としてJ SPORTSが往事のコンセプトをそのまま再現した同タイトルの総集編を放送している。 [[1998年]]には当時の「SKY Sports」(J SPORTSの前身)がフジテレビからサブライセンスを受ける形で生中継を開始(その関係から、[[青嶋達也]]などフジテレビのアナウンサーが実況を担当することが多かった)。[[2005年]]にはフジテレビが放送権を放棄し、代わってJ SPORTSが5年間の独占放送の権利を取得した。[[2009年]]に契約を更新し[[2013年]]までの延長が発表され、さらに契約延長により[[2017年]]現在でも放送されている。2017年は全21ステージについて、スタートからフィニッシュまでの完全生中継が実現した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jsports.co.jp/press_release/20170621.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170828231023/https://www.jsports.co.jp/press_release/20170621.html|date=2017-06-21|archivedate=2017-08-23|title=ツール・ド・フランス2017 開幕まであと10日!~今年のツールを存分に楽しむ4つのご提案~|publisher=J SPORTS|accessdate=2020-05-28|deadlinkdate=2020-05-28}}</ref>。 なお、J SPORTSの生中継では、非常に長時間(2017年は最大で約8時間中継)に及ぶことから放送中に実況・解説者に[[補給食]](レース中に選手が補給食を受け取るための袋にちなんで「サコッシュ」と呼ばれている)が配られそれを食べながら放送を行うという、他のスポーツ中継にはない特色があった。2007年にはJ SPORTSの携帯サイトにおいて視聴者が中継を見ながら食べているものを撮影してメールで送ってもらう「今日のサコッシュ」というコーナーが展開されるなど、ツール中継における名物となっていた。また[[2000年]]から[[2004年]]まで開催中に「裏ツール」サイトが公式サイト内に設置され、視聴者からの質問などをフォローしていた。川柳の投稿や放送内に行われるプレゼントクイズへの珍回答などを題材に毒舌の担当者の独断と偏見でプレゼントが贈られていた。[[Twitter]]が普及すると、ロードレース中継専用の実況[[ハッシュタグ]]「#jspocycle」と質問用ハッシュタグ「#jspocycleq」を設定、後者に関しては随時視聴者からの質問を取り上げ解説者が回答している。 また、テレビでの本放送だけでなく、J SPORTSオンデマンドでも同時ライブ配信を実施、同時にフランス現地の放送も実況を差し替えずに配信するだけでなく、最大4画面のマルチアングル配信も行っている。また[[YouTube]]と[[ニコニコ動画]]・[[ニコニコ生放送]]でも第1日などの無料同時ライブ配信やレースハイライトの配信を行っている。 == 関連大会 == *[[ツール・ド・フランスさいたまクリテリウム]] : [[2013年]]1月、同年10月にも「ツール・ド・フランス」の名を冠した初の関連大会を日本の[[埼玉県]][[さいたま市]]で開催を目指していることが報道され<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2013/01/04/kiji/K20130104004910950.html|title=「ツール・ド・フランス」冠のレース 10月さいたま開催で調整|newspaper=スポーツニッポン|date=2012-1-4}}</ref>、3月25日には[[さいたま新都心]]周辺で開催することが発表された<ref>{{Cite news | url = https://www.nikkansports.com/sports/cycling/news/f-sp-tp6-20130325-1102836.html | title = 本場ツール・ド・フランスが埼玉に! | newspaper = 日刊スポーツ | date = 2013-03-25 }}</ref>。2013年10月26日に「[[ツール・ド・フランスさいたまクリテリウム|さいたまクリテリウムbyツールドフランス]]」の名で開催され、沿道には20万人の観客が詰め掛けた<ref>{{cite news|url=http://cyclist.sanspo.com/103336|title=役者揃いのクリテリウムはフルームが勝利 ロードレースの魅力と迫力を20万人が堪能|newspaper=[[サンケイスポーツ]]|date=2013-10-26}}</ref>。[[新型コロナ禍]]により[[2020年]]と[[2021年]]は開催が見送られ<ref>[https://www.saitama-np.co.jp/articles/9127/postDetail <新型コロナ>さいたまクリテリウム、2年連続で中止 さいたま市、感染状況を見ながら次回開催を判断]」[[埼玉新聞]]ニュースサイト(2021年7月21日)2023年5月27日閲覧</ref>、2022年から再開された。 == 関連書籍 == * [[デイヴィッド・ウォルシュ]]『ツール・ド・フランス物語』[[未知谷]]、1997年 * ポール・キメイジ『ラフ・ライド アベレージレーサーのツール・ド・フランス』未知谷、1999年 * ジャン=マリ・ルブラン『総合ディレクターツールを語る』未知谷、2000年 * [[ジャック・オジャンドル]]『MEMOIRE ツールの記録、追憶のツール』未知谷、2002年 * 安家達也『ツール100話 ツール・ド・フランス100年の歴史』未知谷、2003年 * 安家達也『ツール 伝説の峠』未知谷、2005年 * ビル・ストリックランド『ツール・ド・ランス』[[アメリカン・ブック&シネマ]]、2010年 * セルジュ・ラジェ、ルーク・エドワード・エヴァンス『ツール・ド・フランスの百年史』[[スタジオタッククリエイティブ]]、2010年 * 山口和幸『ツール・ド・フランス』[[講談社現代新書]]、2013年 * ジェレミー・ホイットル『バッド・ブラッド ツール・ド・フランスの秘められた生活』未知谷、2014年 * ムスタファ・ケスス、クレマン・ラコンブ『ツール・ド・フランス100話』[[白水社]][[文庫クセジュ]]、2014年 * マックス・レオナルド『敗者たちのツール・ド・フランス ランタン・ルージュ』[[辰巳出版]]、 2015年 ※内容は最下位選手の列伝 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} --> == 関連項目 == {{Commonscat|Tour de France}} * [[YELLOW JACKET]] * [[ツール・ド・フランス (アルバム)]] - [[クラフトワーク]]のアルバム及び楽曲。 * [[ツール!]] - ツール・ド・フランスを題材にした漫画作品。 == 外部リンク == * {{officialsite|https://www.letour.fr/}}{{en icon}}{{fr icon}}{{de icon}}{{es icon}} * [https://www.jsports.co.jp/cycle/tour/ J SPORTS ツール・ド・フランス] {{Ja icon}} * {{Twitter|letour|Tour de France}}{{en icon}} * {{Twitter|letour_jpn|ツールドフランス公式}}{{ja icon}} * {{Facebook|letour|Le Tour de France}} * {{Instagram|letourdefrance|Tour de France}} * {{Dailymotion|c=tourdefrance|Tour de France}} * {{YouTube|c=UCSpycUnuU0IVF7gGIhGojhg|Tour de France}} {{Normdaten}} {{ツール・ド・フランス}} {{ツール・ド・フランス総合優勝者}} {{UCIワールドツアー}} {{Sports-stub}} {{デフォルトソート:つうるとふらんす}} [[Category:ツール・ド・フランス|*]] [[Category:アストゥリアス皇太子賞受賞者]]
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名鉄犬山線
犬山線(いぬやません)は、愛知県清須市の枇杷島分岐点から岐阜県各務原市の新鵜沼駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。 運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍)。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。 市内電車(後の名古屋市電)で創業した名古屋鉄道の前身・名古屋電気鉄道の初期の郡部線(郊外路線、インターアーバン)であり、名古屋市と愛知県北部のベッドタウン各都市とを結ぶ。収支においては名鉄でもトップクラスである。 名古屋本線と分岐する枇杷島分岐点には乗降設備が無く、同分岐点を通過する全列車が名鉄名古屋駅方面との直通であり、犬山線と名古屋本線枇杷島分岐点以西(津島線を含む)との乗り換えは東枇杷島駅、栄生駅、名鉄名古屋駅のいずれかの駅で行うことになるが、一般的には全列車停車の名鉄名古屋駅または急行停車駅の栄生駅(同じホームで乗換可能)が利用される。 犬山線沿線は清須市西枇杷島町・名古屋市西区(庄内川以北の平田・小田井地区)・北名古屋市・岩倉市・江南市・扶桑町・犬山市・各務原市、さらに当線からの直通列車の運行される広見線沿線の可児市など名古屋都市圏のベッドタウンが連続しており、付近に競合路線がなく、犬山線に乗客が集中するためラッシュ時の混雑が激しい。途中の上小田井駅から名古屋市営地下鉄鶴舞線および同線を経由して名鉄豊田線との相互直通運転も行われている。 また、可児市から犬山市までの沿線には、日本ライン(木曽川)や犬山城・犬山城下町通り、日本モンキーパーク、明治村、リトルワールドなどの観光施設が多数立地しており、犬山線は観光路線としての性格も有している。名鉄では「犬山キャンペーン」などで集客を図っている。JR鵜沼駅に隣接する新鵜沼駅でJR高山本線に接続して名古屋と高山本線沿線を短絡することから、2001年までは高山本線直通の特急「北アルプス」が1日1往復運転され、犬山線内では岩倉駅・江南駅・犬山駅・犬山遊園駅の各特急停車駅に停車していた。「北アルプス」廃止後、JR高山本線と名鉄犬山線をつないでいた線路も撤去された。 2020年現在、西春駅南側の県道交差部(駅構内は平面)と、上小田井駅北側(新川堤防)- 中小田井駅南側、布袋駅付近のみが立体交差化されている。江南駅付近も立体交差構想があったが、予算の問題により立ち消えになった。2012年、北名古屋市は西春駅 - 徳重・名古屋芸大駅間の高架化を提案、計画推進している。犬山口駅付近の坂を除き比較的平坦な土地を行くので直通先の名鉄名古屋駅や地下鉄鶴舞線以外には当路線としてはトンネルは無く、大きな鉄橋も犬山遊園 - 新鵜沼間の木曽川に架かる犬山橋のみである。この犬山橋は、かつて道路上に線路を敷設した鉄道道路併用橋となっていたが、渋滞が激しくなり、2000年に道路専用の新しい橋ができて犬山橋は鉄道専用になった。 2020年現在、バリアフリー化が終了(エレベーター設置)している駅は新鵜沼駅・犬山駅・扶桑駅・柏森駅・江南駅・布袋駅・岩倉駅・徳重・名古屋芸大駅・西春駅・上小田井駅・中小田井駅の10駅である。 最高速度は、1968年に当時の名古屋本線と同等の110km/hに引き上げられて以降そのまま推移している。 名鉄名古屋駅 - 江南駅は県道名古屋江南線(名草線)とほぼ並行したルートで、江南駅付近で大きくカーブして、江南駅 - 犬山駅は県道一宮犬山線とほぼ並行したルートになっている。 犬山方面に向かう列車は名鉄名古屋駅から4 - 6分ほど走り、名古屋市と清須市西枇杷島町との境界となっている庄内川に架かる鉄橋を渡ると枇杷島分岐点に差し掛かり、右側へカーブしながら勾配を下る。勾配を下り終えたところには名古屋本線西枇杷島駅ホーム西側へとつながるデルタ線が分岐する下砂杁(しもすいり)信号場があり、河和駅・内海駅 - 名鉄名古屋駅間の一部特別車特急に使われる車両などが同信号所の下り線側にある着発線まで回送されてきて折り返している。なお上り線の下砂杁信号場手前には、速度超過防止ATSの照査速度をそのまま表示した98km/hという速度制限標識が存在する。通常の書式で制限速度が5km/hの倍数ではない速度制限標識は珍しい。 同信号所を過ぎると下小田井駅で、同駅の先では国道22号と名古屋高速6号清須線の下をくぐる。優等列車の速度はこのあたりで105km/hまで上がる。再び名古屋市西区に入り、高架に上がると、中小田井駅。同駅の先で上下線は離れ、上り線は名古屋市営地下鉄鶴舞線を乗り越すため、線路の位置がやや高くなり、左にカーブする。東海交通事業城北線をくぐりながら県道名古屋江南線を乗り越すと、右手から鶴舞線が上下線の間に割り込むような形で合流し、鶴舞線との乗り換え駅で快速急行停車駅の上小田井駅に到着。一部の鶴舞線列車はここから犬山線に直通する。同駅では上を名古屋第二環状自動車道、下を国道302号が交差している。直通列車の車両長が異なるため、この駅から犬山までの各駅に専用の停車位置表示が線路上に設置されている。 上小田井駅を出ると一度地上に降りるが、しばらくして県道62号と立体交差するために再び高架となり、北名古屋市に入る。県道を乗り越えると再び地上に降り、北名古屋市の玄関駅で快速急行停車駅の西春駅となる。同駅は東側から県営名古屋空港(通称・小牧空港)への連絡バスが30分間隔で出ている。また、同駅は島式ホーム2面4線で、名鉄名古屋方面と直通の普通列車の約半数はここでミュースカイ・快速特急・特急の通過待ちをする。中部国際空港(セントレア)の開港前は特急も一部列車停車していた。現在は特急は全て通過するが、犬山線には同空港行きの準急が運行されていて、西春駅にも停車する。 次の徳重・名古屋芸大駅は名古屋芸術大学や愛知県立西春高等学校への最寄り駅で、これらへの通学生の利用も多い。同駅の北側では五条川を渡る。川沿いには桜が植えられており、春先には美しい桜並木を見ることができる。川を渡ると岩倉市に入り、大山寺駅を経て左にカーブし、あとは直線で住宅地の中を進む。県道の陸橋をくぐるとまもなく、岩倉市の玄関駅でありミュースカイ停車駅の岩倉駅となる。同駅は、島式ホーム2面4線で北側に6両編成対応の引上線があり、名鉄名古屋方面と直通する普通の約半数とほとんどの地下鉄鶴舞線直通列車はここで折り返す。また、準急は同駅以北では各駅に停車する。同駅ではかつて、小牧駅までの岩倉支線と東一宮駅までの一宮線が分岐していたが、いずれも廃線となり、バスに転換されている。駅東口は2007年から2009年にかけて駅再開発工事が行われ、駅前広場とビル・マンションが建設された。 岩倉駅を出るとS字にカーブして北上する。国道155号(旧道)の踏切を越え、名神高速道路をくぐる手前に石仏駅があり、さらに北上する。このあたりはもともと田園地帯で当線では最も線形が良好な区間であり、特急や急行(6000系を除く)は最高110km/hで快走する。 石仏駅の北方で一宮市を少し通ったのちに江南市に入り国道155号(バイパス)と立体交差した後にあるのが快速急行停車駅の布袋駅である。布袋駅は2020年(令和2年)に高架化され、布袋駅前(西口)からは江南駅前(西口)経由で江南厚生病院行きのバスが発着しており、また布袋駅は上下両方向に折り返し可能な構造のため、電車の運行見合わせの時の折り返し駅にもなっている。布袋駅北東の線路隣接地に愛知県立尾北高等学校があり、尾北高校の脇を抜けて北上すると西方にコンクリート製の大仏が見える。これは布袋の大仏で、個人が所有する大仏ではかなり大きい部類に入り東大寺のそれより背が2m高い。市街地に入り右にカーブするとミュースカイ停車駅の江南駅である。江南駅は江南市の中心駅で、駅勢圏が江南市の過半のほか一宮市東部や各務原市南部、大口町西部・中部に及ぶ犬山線では乗降客数が最も多い駅だが、市街地の中のカーブの途中の駅なので駅設備は小規模で待避線・折り返し線は無く、上下両線が同じホームを使っていて混雑が激しい。江南駅から徒歩圏内に愛知県立江南高等学校と愛知県立古知野高等学校、私立の中高一貫校滝中学校・高等学校(滝学園)があり、駅前(西口)から愛知江南短期大学のスクールバスや江南自動車学校の送迎バス、病院敷地内に看護学校を併設している江南厚生病院行きの名鉄バスが発着しており、高校生・短大生・看護学生などの利用が多い。このほかすいとぴあ江南(江南厚生病院経由)、布袋駅、江南団地、名鉄一宮駅バスターミナル行きのバスも江南駅前(西口)から発着している。 江南駅から右にカーブしたのちはしばらく直線が続き、江南自動車学校を過ぎてしばらくすると扶桑町に入り、快速特急停車駅の柏森駅である。最近までは地上駅であったが橋上駅舎に改築され、バリアフリー化された。柏森駅は扶桑町内に有るが、大口町の町境に近く、町内には駅の無い大口町の玄関口の役割ももっていて、大口町内のコミュニティバスが柏森駅南駅前から発着している。左にカーブしながら柏森駅を発車すると前方には各務原の山が見え、しばらくすると快速急行停車駅の扶桑駅、右にカーブして直線区間の木津用水駅となる。ここから犬山市に入り上り坂になる。カーブして坂を上りきったところに犬山口駅がある。 犬山口駅から左へカーブして小牧線・広見線が合流すると犬山駅である。犬山駅は3面6線の構内で犬山検車区も広見線側に併設されていて、駅西口には名鉄の運転士・車掌の事務所も設置されている運転上の拠点であり、列車が頻繁に発着する。犬山線の普通列車は犬山駅を始発・終着とするものが多く、地下鉄鶴舞線直通列車も犬山駅以北には通常は運行されない。また、各務原線名鉄岐阜駅発着の列車も名古屋方面からの直通は少なく、犬山駅を始発・終着とするものが多く、小牧線平安通駅発着の全列車、広見線新可児駅発着の多くの普通列車も犬山駅を始発・終着としている。つまり犬山駅は4方向の列車の始発・終着駅としての機能を有している。犬山駅は犬山市の中心駅であるとともに観光の拠点駅となっており、駅東口から明治村、リトルワールド、日本モンキーパークへのバスも発着し、駅西口から犬山城への徒歩街道(犬山城下町通り)も整備された。 犬山駅を出ると2分ほどでミュースカイ停車駅の犬山遊園駅に到着。元々は日本モンキーパークへのアクセス駅で2008年12月までモンキーパーク園内行きの犬山モノレールが発着していたが、老朽化のため廃止され、モンキーパークへのアクセスは犬山駅東口からバス利用となっている。成田山(名古屋別院)、犬山鵜飼乗船場、および名鉄犬山ホテル(現在改築中)へは犬山遊園駅から徒歩。犬山城へも同駅から木曽川沿いの桜並木道(犬山ホテル北側)などを通って徒歩で行ける。また、犬山遊園駅では必ず同じホームに同じ方向の列車が発着するので、新鵜沼駅 - 名鉄名古屋駅方面の列車と犬山駅 - 名鉄岐阜駅方面の列車との乗り換えにも用いられる。さらに進むと犬山橋で木曽川を渡る。この橋はかつては路面電車のように道路に線路が敷設されていて、しかもその道路は1975年3月の名濃バイパス(国道41号現道)の開通までは、名古屋市から高山市などを通って富山市とを結ぶ国道41号線であった。列車の通行が車の通行の妨げとなり、また車の渋滞で列車の通行の妨げとなることも多かったが、2000年3月道路専用橋「ツインブリッジ」の完成により、旧橋は鉄道専用の鉄橋になった。専用化後は大改装が行われ、道路上に線路が敷設されていた当時の面影はほとんど残っていない。犬山鵜飼船は両橋の下をくぐって運行されている。 犬山橋を渡り終えると岐阜県各務原市に入りまもなく新鵜沼駅に到着する。2010年までは駅手前からJR高山本線へと繋がる単線の連絡線が右に分岐していた。この線路は2001年に運行取りやめとなった名古屋 - JR高山駅間の直通特急「北アルプス」が1日1往復通っていた。連絡線は「北アルプス」廃止後もしばらく残されていたが、現在は線路やポイントなどが完全に撤去され、線路跡地はホーム増設用地および道路用地と建売住宅用地に転用され、当時の面影は残っていない。「犬山線」としては新鵜沼駅が終点で、名鉄名古屋駅方面から来たミュースカイ、特急や急行などの多くの列車がこの駅で折り返しているが、犬山駅発の急行や普通は早朝の一部を除いてそのまま各務原線へと直通していく。逆に各務原線から新鵜沼駅に到着した列車は、そのまま犬山駅方面に運行され、各務原線も犬山駅が運行上の起点・終点となっている。 名鉄名古屋駅方面との直通が基本で、上小田井駅から名古屋市営地下鉄鶴舞線に直通する列車もある。また名古屋方面と各務原線・広見線との直通運転も行っているが、名古屋方面と各務原線との直通運転は2008年12月27日のダイヤ改正以後は減少し、2023年3月18日のダイヤ改正以後は完全に消滅した。 岩倉駅・布袋駅・柏森駅・扶桑駅・犬山駅・新鵜沼駅では列車の折り返しが可能であるが、犬山駅、布袋駅の折り返し設備を除きほとんどが上小田井・名古屋方面向きのみである。線内で利用者最多の江南駅にはスペースの都合上折り返し設備・待避線が無い。2018年には下小田井駅に片渡り線が設置され、岩倉・犬山方面への折り返しが可能となったが、現状使用実績はない。上小田井駅は地下鉄鶴舞線からの列車のみが折り返し可能であり、名鉄名古屋方面へは折り返しができない。 列車種別はミュースカイ・快速特急・特急・快速急行・急行・準急・普通の7種類である。ミュースカイ・快速特急・特急については「名鉄特急」も参照のこと。 全列車が2000系による運行で、大半の列車が新鵜沼駅 - 中部国際空港駅間で全日朝夕を中心に運転される。 朝上りには新可児駅発が平日3本、休日1本があったが、2019年3月16日のダイヤ改正で平日の1本が新鵜沼発の増結にまわされたため実質1本減便された。なお、いずれも犬山駅で新鵜沼駅発と新可児駅発を併結する。併結する列車の号車番号は新鵜沼駅発車時点であらかじめ5 - 8号車(新可児駅発の列車は1 - 4号車)に設定されている。 2021年5月22日のダイヤ改正で新可児行き、三柿野発、柏森駅停車のミュースカイは全て消滅した(平日朝の新可児発は存続)。また、新鵜沼駅発着の列車も朝と夜間のごく数本を除いてほとんど消滅した。 一部特別車特急は2007年6月30日のダイヤ改正で本格導入され、2008年12月27日のダイヤ改正で全列車に改められた。名鉄名古屋駅 - 犬山駅間の標準所要時分は快速特急・特急とも25分で、表定速度は68km/hである。犬山駅 - 新鵜沼駅間は駅間が短く各駅に停車するため、終点まで通して見た場合は所要29分、表定速度62km/hとなる。実際のダイヤパターンでは所要時分がさらに1 - 2分長い。なおミュースカイは遅延余裕を加味し犬山 → 名古屋を29分かけて走る。名鉄が全社的にスピードアップを進めていた1997年からの数年間は、特急が新名古屋 - 犬山間を23分で走破していた(同区間がノンストップだった頃と同等)。 一部を除いて新鵜沼駅での折り返し運転を行わず、新鵜沼駅到着後一旦犬山検車区まで回送運転を行う。また、平日の午後などに6両→8両に増結する場合は名鉄名古屋方面から6両で到着した列車が同駅での折り返しの際に名鉄岐阜方に2両増結する場合のほか、同駅で犬山検車場で8両に仕立てられた編成と名鉄名古屋方面から6両で到着した列車が車両交換される場合もある。 2008年12月のダイヤ改正までは1000系4両編成による全車特別車特急も存在していた(基本的な運転区間は新鵜沼駅 - 河和駅・内海駅。他に豊川稲荷駅や常滑駅などを発着する列車もごくわずかに存在)。このほか、1999年から空港線が開業した2005年までは1600系の定期運用が存在した。ほか、8800系(パノラマDX)(登場当時は内海駅または河和駅発着。後に西尾線吉良吉田駅発)もごく僅かではあったが乗り入れていた。2001年まではキハ8500系によるJR高山本線直通気動車特急「北アルプス」も犬山線を経由していた(時刻表上は高山駅発着の全車特別車特急の扱いで新鵜沼駅は通過)。 日中は準急と急行が毎時2本ずつ運転されている。原則、運転系統は以下のようになる。 快速急行は平日朝ラッシュ時上りのみの種別で内海行きと中部国際空港行きの2本が5000系8両編成で運転され、いずれも名鉄名古屋駅で急行に種別変更する。 名鉄名古屋 - 岩倉間は前述の一部特別車の特急と合わせてほぼ10分間隔で運転される。かつて上りの一部列車(主に広見線直通列車)は2005年1月改正まで布袋駅・岩倉駅・西春駅のいずれかで新鵜沼駅から来る全車特別車特急に1度だけ追い越されていたが、現在はほとんど待避しない。ただし、平日朝ラッシュ時には下り列車の一部は岩倉駅などで待避することがある。 準急は岩倉駅以北は各駅に停車する。準急が運転される時間帯は平日と休日で異なり、休日は6 - 23時台とほぼ終日であるのに対し、平日は7 - 23時台(上りは8時台から、下りは22時台まで)となっている。なお、犬山駅を越えて広見線方面へ運転される列車(新可児行き)はすべて犬山駅で普通に種別変更する(犬山止まりのほかに、2023年3月以降は新鵜沼駅発着の列車もある)ため、犬山駅以南の主要駅ホームの自動放送では犬山駅までの停車駅(全駅)を読み上げた後に「犬山から普通に変わります」と放送している。 最終の名鉄名古屋駅23:59発の中部国際空港駅発新鵜沼行き急行は東京駅22:03発の東海道新幹線最終「ひかり」から接続するダイヤとなっている。なお、上りの最終は岩倉駅以北の急行停車駅は新鵜沼駅発鳴海行き急行であるが、この列車は西春駅で先行する犬山駅発鳴海行き普通を追い越すため、西春駅と上小田井駅からの名鉄名古屋方面への最終は鳴海行き普通である。 平日朝には地下鉄鶴舞線からの急行が岩倉駅まで2本、犬山駅まで3本、いずれも下りにのみ設定されている(折り返しはすべて普通)。使用車両はすべて名古屋市交通局所有の3050形、またはN3000形電車で、名鉄所有の100系による運用は設定されていない。 2008年12月改正まで、急行・準急と犬山駅発着の普通(地下鉄直通含む)は岩倉駅で接続をとっていたが、現在では基本のダイヤパターンでは上小田井駅での同駅折り返しの鶴舞線電車との接続を除き、準急と岩倉駅折り返しの名鉄名古屋方面直通の普通が接続するのみ(休日のみ西春駅で地下鉄直通の普通とも接続する)となり、急行は途中駅で普通と接続しなくなった。 犬山駅における各線との接続時分は、各務原線へは急行で8 - 9分ほど、準急で6 - 7分ほどで、小牧線へは急行・準急とも下りは11 - 12分ほど(上りは7分ほど)で、広見線へは急行で4 - 6分ほどとなっている。また、原則として広見線に直通する準急は犬山駅で後続の快速特急・特急に接続するために5分ほど停車する。 2023年3月改正まで朝のみに設定されていた、各務原線に直通する列車は、金山駅・神宮前駅・名鉄名古屋駅・栄生駅で行う駅員や車掌による放送では「犬山方面行き」とのみ案内された。神宮前駅以東では普通に「名古屋方面の犬山経由岐阜行き」と放送されるほか、神宮前駅、金山駅の駅自動放送では「名古屋、犬山方面の犬山経由岐阜行き」と放送される。これは名古屋本線一宮経由の岐阜行きも頻繁に発着しており、誤乗を避けるためである。なお、2008年12月のダイヤ改正までは各務原線直通の準急・急行が終日設定されていた(誤乗が多いと苦情があり直通を中止)。2000年3月改正までは終日全区間通しで急行運転を行っていたが、同改正で全区間急行運転するのは朝と夕方以降のみとなり、昼は三柿野駅 - 岐阜駅間で普通として運転されるようになり、さらに翌年10月の改正以降は昼間は各務原線内全区間で普通として運転されていた。また、2008年12月改正前までは、昼間は上りは河和駅・内海駅 - 新可児駅(新可児駅で御嵩駅発の普通から接続)と中部国際空港駅 - 名鉄岐阜駅(各務原線経由)、下りは河和駅・内海駅 - 名鉄岐阜駅(各務原線経由)と中部国際空港駅 - 新可児駅(新可児駅で普通御嵩駅行きに接続)という折り返しパターンだった。 広見線直通系統は2008年6月29日改正までは平日の夕ラッシュ時には御嵩駅まで直通していたが、同改正をもって新可児駅 - 御嵩駅間が終日同区間内での折り返し運転(朝10時以降は全列車ワンマン運転)に変更されたため直通運用は廃止された。また、2003年3月27日改正までは全日ともほぼ終日御嵩駅までの直通列車が設定されていた(直通しない場合、終点の新可児駅または明智駅で御嵩行きに接続)。 広見線・各務原線に直通する急行または準急が犬山から普通になる場合、大抵犬山駅で切り離しを行う(8両の場合はすべて。6両の場合、岐阜行きは一部のみ)。その切り離した列車を各務原線の名鉄岐阜駅行きや広見線の新可児駅行きにすることもあるが、車内での案内はなく、基本的に「前(後)○両は犬山止まりです」という案内のみ行う。ただし、変わる場合は犬山駅到着直前に案内放送が流れる。 急行は平日の昼と夜および休日の一部列車を除き6両編成(平日の夕ラッシュ時はすべて6両で運転)、準急は平日朝の下りと夕ラッシュ時の列車と休日の一部の列車が6両となる。ほかは4両編成での運転が基本となっているが、一部の急行が4両で運転されている。4両での運転は昼間のほか、深夜の時間帯にも見られるが、特に深夜の下りは上小田井駅 - 岩倉駅間で混雑することが多い。なお、平日の急行は昼間帯が4両で運転されるのに対して前述のとおり夕ラッシュ時はすべて6両での運転となるため、新鵜沼駅・河和駅・内海駅で車両交換を行うことも多い。 急行の使用車両は3ドアの通勤形各種が混用されているが、6両編成の列車には6000系列または3500系や3300系、9500系などが使用される。 2019年3月改正以前は、休日には5300系または5700系4両編成での運行が下り1本のみ設定されていた。準急は完全に3ドアの通勤形による運用で、平日の運用は6000系列5運用と3000系列(9000番台を含む)3運用で構成され、この中には6000系の蒲郡線・広見線ワンマン仕様車による間合い運用が存在する。休日は6000系列4運用と3000系列3運用と5000系1運用で構成される。なお、2011年3月改正以前は平日にも昼間帯に限り5000系による運用が2運用分設定されていたほか、3000系列主体で運用が構成されていた。また、急行・準急とも5000系が就役した2008年春まではパノラマカーの6両編成も多数使用されていた。 早朝には平日に豊川稲荷行きと河和行き(いずれも新鵜沼駅発)、休日に伊奈駅発新鵜沼行き(2023年3月までは犬山行き)で一部特別車特急用の車両による急行運用が存在する。河和行きは1200系、豊川稲荷行きは2200系の6両、新鵜沼行きは2200系の8両で運転され、いずれの場合も特別車2両は締切扱いとなっていたが、2021年3月15日から平日の豊川稲荷行きと河和行きに限り特別車が開放され、当該列車のミューチケットが発売されている。 所要時分は名鉄名古屋駅 - 犬山駅間が急行で32分、準急で36分前後である。1990年代には28分まで短縮したこともあった(栄生駅と上小田井駅と扶桑駅を通過し、途中駅で待避をしない場合)が、現在は余裕のあるダイヤとなっている。また、名古屋本線に所属する栄生駅は快速急行は通過し、急行と準急は停車する。2005年までの急行は朝は(休日のみ)栄生駅と扶桑駅の両方を通過し、昼間は栄生駅に停車、夕方ラッシュ時は両方に停車、夜は扶桑駅に停車していた。他に、平日朝ラッシュ時には、普通列車を補完するために下小田井駅や中小田井駅に特別停車する急行もある(前述の1200系による河和行きも該当)。1993年までは徳重駅(現・徳重・名古屋芸大駅)に停車する準急(1990年10月改正からは急行の特別停車)もあったが、現在は同駅に優等列車は1本も停車しない。また、2001年9月30日までは上小田井駅は急行停車駅ではなかったために日中は基本的に通過し、主に朝夕ラッシュに特別停車していた。 毎年8月10日に各務原市で行われる「日本ライン夏まつり」の時には新鵜沼駅発岩倉行き急行が臨時列車として運転される場合もある。 ミュースカイを除く全特急列車が一部特別車化される以前(特にほぼ全特急列車が全車特別車であった2007年6月改正以前)は平日の夕ラッシュ時の下りの急行は混雑率が高かったため、下りのみ1本増発(2005年1月改正まで。晩年は神宮前駅始発で新名古屋駅発で18時台にのみ、2003年3月改正までは東岡崎駅始発で新名古屋駅発で17、18時台に。行き先はいずれも新鵜沼行き)されたり、太田川駅(1994年3月改正から2000年3月改正までは豊橋駅)→犬山駅間で8両に増結(2008年12月改正まで)されたりしていた。このほか、2008年6月改正までは平日朝に犬山経由岐阜・新可児行き急行、同年12月改正までは平日の夕方に中部国際空港(空港線開業までは常滑行き)・内海行き準急(名鉄名古屋駅からは急行。2005年1月改正までは犬山線内も急行として運転)が設定され、いずれも8両での運転でそれぞれ犬山駅と太田川駅で分割していた。 2023年3月改正をもって犬山駅以南から各務原線への直通列車が完全に消滅したため、朝ラッシュに新鵜沼駅発着の列車が増加している。 名古屋方面の列車は1時間当たり、岩倉駅 - 東岡崎駅間が2往復、犬山駅 - 東岡崎駅間が2往復の設定である。深夜の列車は豊明駅や鳴海駅までの運転となる。犬山駅発着のものは西春駅で快速特急・特急の通過待ちを行うのを基本とし、岩倉駅折り返しのものは、岩倉駅で準急と接続し、時間帯によって半数は西春駅でミュースカイの通過待ちをするのが基本となっている。 深夜には、平日・休日とも犬山駅発新鵜沼行きという、わずか2区間のみの列車が片道1本のみ設定されている。この列車は犬山駅で中部国際空港駅発新可児行き準急と接続し、一部特別車編成の6両編成で運転されている。この1本のほか、休日の早朝には2200系による新鵜沼駅発河和行き普通(名鉄名古屋駅からは急行となり、知多半田駅で再度普通に種別変更)が1本設定されている。いずれの列車も特別車2両は締切扱いとなっている。 早朝には、岩倉駅 - 下小田井駅の各駅から名古屋方面への始発列車でもある岩倉駅5:21発中部国際空港行きが設定されている。この列車は名鉄名古屋駅で準急に種別変更する(この列車は空港線が開業した2005年1月改正で設定され、当初は急行であった)。これ以外にも、平日の朝には名鉄名古屋駅で準急に種別変更する岩倉駅発中部国際空港行きがもう1本設定されているほか、名鉄名古屋駅から急行となる各務原線名鉄岐阜駅発豊橋行きと岩倉駅発豊明行きが各1本設定されている。特に豊橋行きのものは始発駅から急行に種別変更をした後の停車駅である新安城駅まで後続の列車に抜かされずに先着するダイヤが組まれている。 地下鉄鶴舞線直通列車は岩倉駅までの運転が基本であるが、平日の夕方は柏森駅まで、朝と夜は犬山駅まで区間延長される。また、平日朝には扶桑駅発着の列車が1往復設定されている(名古屋市交通局の車両を充当)。快速急行・急行・準急が上小田井駅に停車して鶴舞線と接続するので、犬山線内の鶴舞線直通の普通電車の利用者は余り多くはない。運転本数は平日の昼間は1時間に1本、休日と平日の夕方は毎時2本となる。また、平日朝は運転本数がこれより増加する。上り方は赤池駅または豊田市駅まで運転され、犬山駅から豊田市駅までの長距離各駅停車も運転されることがある。基本的に岩倉駅で快速特急・特急と接続するダイヤが組まれているが、平日夕方の柏森駅発着のものは布袋駅で快速特急・特急の通過待ちを行う。また、休日の列車はほとんどが西春駅で準急を待避する(平日は上小田井駅で準急と接続する)。1999年までは朝ラッシュ時、大山寺駅や徳重駅(現・徳重・名古屋芸大駅)を通過する列車があった。また、上小田井駅が急行停車駅となった2001年10月改正までは犬山駅発着と岩倉駅発着が毎時2往復ずつ設定され、上小田井駅 - 岩倉駅間では昼間でも新名古屋方面(当時)直通のものと合わせて普通が毎時8往復運転されていた。 地下鉄直通はすべて20m4扉車の6両であるが、名古屋方面の普通は3扉4両が基本ではあるが2両だったり6両だったりとバラバラである。近年は昼間や夕方・夜間など減車化が目立ち、昼間は3100系などによる2両編成での運用も多い。夕方(この時間帯の2両での運行は休日のみ)や夜間の時間帯でも2両編成で運行されることがある。そのため夜間帯などでは上小田井駅で6両の地下鉄車から2両の普通に乗り換えることになり、朝のラッシュ並みに混雑することがある。6両での運行は主に平日の朝のラッシュ時間帯のほか、昼過ぎの下り犬山行きで見られ、後者は6000系列や3000系列で運行され、犬山駅では1番線に入線し、到着後すぐに新鵜沼駅まで回送され、新鵜沼駅に到着後、折り返し急行河和行きか内海行きとなるパターンが多い(平日1597列車・犬山16時28分着など)。なお、岩倉駅以北の急行通過駅や大山寺駅以南の各駅における上り名鉄名古屋方面への最終である犬山駅発鳴海行き普通は1800系2両編成で運転されている。9500系導入前までは、SR車による運用が存在していた。 2008年12月改正までは鶴舞線直通も犬山駅までの直通が基本となっていて、岩倉駅 - 犬山駅間では、名鉄名古屋方面 - 犬山駅間の普通と合わせて毎時4本の設定で岩倉駅で急行・準急のいずれかと緩急接続するダイヤが基本だった。同改正以降、準急が岩倉以北各駅停車となっているため、岩倉 - 犬山間で普通が毎時4本運転される時間帯は少なくなっている。また、急行と普通の緩急接続も少なくなった。 犬山駅 - 新鵜沼駅間は全列車が途中の犬山遊園駅にも停車するが、昼間の普通列車は岐阜行きと犬山行きの毎時各2本のみである。基本的には犬山駅または新鵜沼駅で特急・急行に相互接続が行われている。犬山駅・新鵜沼駅では一部の時間帯を除き、構内の階段の昇降を要するので、階段の昇降不要な犬山遊園駅での乗り換えが推奨されている。 日本ライン夏まつりのときなどは通常犬山止まりの名古屋・小牧方面からの普通が新鵜沼まで臨時に延長運転される。2009年 - 2011年の8月の日本ライン夏まつりの時は岩倉駅 - 犬山駅間は臨時列車扱いで、岩倉発岐阜行きの普通が数本運転されていた。 愛知県の統計によれば、枇杷島分岐点 - 犬山遊園駅間における2010年度の輸送人員は56,503千人(うち定期37,664千人)、延人キロは692,915千人kmであった。 名古屋電気鉄道が一宮線押切町(廃止) - 西印田間、犬山線岩倉 - 犬山間を1912年までに開業したのが始まり。名古屋電気鉄道は市内線を名古屋市に譲渡することになり、郡部線を新会社の名古屋鉄道に移管した。しかしその後も新名古屋駅(現、名鉄名古屋駅)への延伸が果たせる1941年まで、郡部線の電車が名古屋市電に乗り入れ柳橋駅を発着駅としていた。 名古屋鉄道は関線として犬山から関までの延伸を計画したが、新鵜沼駅までの開業にとどまり、関までの延伸線の免許は1927年に失効した。 なお2000年までは、犬山遊園駅 - 新鵜沼駅間に存在する犬山橋が、鉄道に準拠する最後の鉄道道路併用橋として知られていた。現在では並行して道路橋が架けられたため、犬山橋は鉄道専用橋になっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "犬山線(いぬやません)は、愛知県清須市の枇杷島分岐点から岐阜県各務原市の新鵜沼駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍)。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "市内電車(後の名古屋市電)で創業した名古屋鉄道の前身・名古屋電気鉄道の初期の郡部線(郊外路線、インターアーバン)であり、名古屋市と愛知県北部のベッドタウン各都市とを結ぶ。収支においては名鉄でもトップクラスである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "名古屋本線と分岐する枇杷島分岐点には乗降設備が無く、同分岐点を通過する全列車が名鉄名古屋駅方面との直通であり、犬山線と名古屋本線枇杷島分岐点以西(津島線を含む)との乗り換えは東枇杷島駅、栄生駅、名鉄名古屋駅のいずれかの駅で行うことになるが、一般的には全列車停車の名鉄名古屋駅または急行停車駅の栄生駅(同じホームで乗換可能)が利用される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "犬山線沿線は清須市西枇杷島町・名古屋市西区(庄内川以北の平田・小田井地区)・北名古屋市・岩倉市・江南市・扶桑町・犬山市・各務原市、さらに当線からの直通列車の運行される広見線沿線の可児市など名古屋都市圏のベッドタウンが連続しており、付近に競合路線がなく、犬山線に乗客が集中するためラッシュ時の混雑が激しい。途中の上小田井駅から名古屋市営地下鉄鶴舞線および同線を経由して名鉄豊田線との相互直通運転も行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、可児市から犬山市までの沿線には、日本ライン(木曽川)や犬山城・犬山城下町通り、日本モンキーパーク、明治村、リトルワールドなどの観光施設が多数立地しており、犬山線は観光路線としての性格も有している。名鉄では「犬山キャンペーン」などで集客を図っている。JR鵜沼駅に隣接する新鵜沼駅でJR高山本線に接続して名古屋と高山本線沿線を短絡することから、2001年までは高山本線直通の特急「北アルプス」が1日1往復運転され、犬山線内では岩倉駅・江南駅・犬山駅・犬山遊園駅の各特急停車駅に停車していた。「北アルプス」廃止後、JR高山本線と名鉄犬山線をつないでいた線路も撤去された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2020年現在、西春駅南側の県道交差部(駅構内は平面)と、上小田井駅北側(新川堤防)- 中小田井駅南側、布袋駅付近のみが立体交差化されている。江南駅付近も立体交差構想があったが、予算の問題により立ち消えになった。2012年、北名古屋市は西春駅 - 徳重・名古屋芸大駅間の高架化を提案、計画推進している。犬山口駅付近の坂を除き比較的平坦な土地を行くので直通先の名鉄名古屋駅や地下鉄鶴舞線以外には当路線としてはトンネルは無く、大きな鉄橋も犬山遊園 - 新鵜沼間の木曽川に架かる犬山橋のみである。この犬山橋は、かつて道路上に線路を敷設した鉄道道路併用橋となっていたが、渋滞が激しくなり、2000年に道路専用の新しい橋ができて犬山橋は鉄道専用になった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2020年現在、バリアフリー化が終了(エレベーター設置)している駅は新鵜沼駅・犬山駅・扶桑駅・柏森駅・江南駅・布袋駅・岩倉駅・徳重・名古屋芸大駅・西春駅・上小田井駅・中小田井駅の10駅である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "最高速度は、1968年に当時の名古屋本線と同等の110km/hに引き上げられて以降そのまま推移している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "名鉄名古屋駅 - 江南駅は県道名古屋江南線(名草線)とほぼ並行したルートで、江南駅付近で大きくカーブして、江南駅 - 犬山駅は県道一宮犬山線とほぼ並行したルートになっている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "犬山方面に向かう列車は名鉄名古屋駅から4 - 6分ほど走り、名古屋市と清須市西枇杷島町との境界となっている庄内川に架かる鉄橋を渡ると枇杷島分岐点に差し掛かり、右側へカーブしながら勾配を下る。勾配を下り終えたところには名古屋本線西枇杷島駅ホーム西側へとつながるデルタ線が分岐する下砂杁(しもすいり)信号場があり、河和駅・内海駅 - 名鉄名古屋駅間の一部特別車特急に使われる車両などが同信号所の下り線側にある着発線まで回送されてきて折り返している。なお上り線の下砂杁信号場手前には、速度超過防止ATSの照査速度をそのまま表示した98km/hという速度制限標識が存在する。通常の書式で制限速度が5km/hの倍数ではない速度制限標識は珍しい。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "同信号所を過ぎると下小田井駅で、同駅の先では国道22号と名古屋高速6号清須線の下をくぐる。優等列車の速度はこのあたりで105km/hまで上がる。再び名古屋市西区に入り、高架に上がると、中小田井駅。同駅の先で上下線は離れ、上り線は名古屋市営地下鉄鶴舞線を乗り越すため、線路の位置がやや高くなり、左にカーブする。東海交通事業城北線をくぐりながら県道名古屋江南線を乗り越すと、右手から鶴舞線が上下線の間に割り込むような形で合流し、鶴舞線との乗り換え駅で快速急行停車駅の上小田井駅に到着。一部の鶴舞線列車はここから犬山線に直通する。同駅では上を名古屋第二環状自動車道、下を国道302号が交差している。直通列車の車両長が異なるため、この駅から犬山までの各駅に専用の停車位置表示が線路上に設置されている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "上小田井駅を出ると一度地上に降りるが、しばらくして県道62号と立体交差するために再び高架となり、北名古屋市に入る。県道を乗り越えると再び地上に降り、北名古屋市の玄関駅で快速急行停車駅の西春駅となる。同駅は東側から県営名古屋空港(通称・小牧空港)への連絡バスが30分間隔で出ている。また、同駅は島式ホーム2面4線で、名鉄名古屋方面と直通の普通列車の約半数はここでミュースカイ・快速特急・特急の通過待ちをする。中部国際空港(セントレア)の開港前は特急も一部列車停車していた。現在は特急は全て通過するが、犬山線には同空港行きの準急が運行されていて、西春駅にも停車する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "次の徳重・名古屋芸大駅は名古屋芸術大学や愛知県立西春高等学校への最寄り駅で、これらへの通学生の利用も多い。同駅の北側では五条川を渡る。川沿いには桜が植えられており、春先には美しい桜並木を見ることができる。川を渡ると岩倉市に入り、大山寺駅を経て左にカーブし、あとは直線で住宅地の中を進む。県道の陸橋をくぐるとまもなく、岩倉市の玄関駅でありミュースカイ停車駅の岩倉駅となる。同駅は、島式ホーム2面4線で北側に6両編成対応の引上線があり、名鉄名古屋方面と直通する普通の約半数とほとんどの地下鉄鶴舞線直通列車はここで折り返す。また、準急は同駅以北では各駅に停車する。同駅ではかつて、小牧駅までの岩倉支線と東一宮駅までの一宮線が分岐していたが、いずれも廃線となり、バスに転換されている。駅東口は2007年から2009年にかけて駅再開発工事が行われ、駅前広場とビル・マンションが建設された。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "岩倉駅を出るとS字にカーブして北上する。国道155号(旧道)の踏切を越え、名神高速道路をくぐる手前に石仏駅があり、さらに北上する。このあたりはもともと田園地帯で当線では最も線形が良好な区間であり、特急や急行(6000系を除く)は最高110km/hで快走する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "石仏駅の北方で一宮市を少し通ったのちに江南市に入り国道155号(バイパス)と立体交差した後にあるのが快速急行停車駅の布袋駅である。布袋駅は2020年(令和2年)に高架化され、布袋駅前(西口)からは江南駅前(西口)経由で江南厚生病院行きのバスが発着しており、また布袋駅は上下両方向に折り返し可能な構造のため、電車の運行見合わせの時の折り返し駅にもなっている。布袋駅北東の線路隣接地に愛知県立尾北高等学校があり、尾北高校の脇を抜けて北上すると西方にコンクリート製の大仏が見える。これは布袋の大仏で、個人が所有する大仏ではかなり大きい部類に入り東大寺のそれより背が2m高い。市街地に入り右にカーブするとミュースカイ停車駅の江南駅である。江南駅は江南市の中心駅で、駅勢圏が江南市の過半のほか一宮市東部や各務原市南部、大口町西部・中部に及ぶ犬山線では乗降客数が最も多い駅だが、市街地の中のカーブの途中の駅なので駅設備は小規模で待避線・折り返し線は無く、上下両線が同じホームを使っていて混雑が激しい。江南駅から徒歩圏内に愛知県立江南高等学校と愛知県立古知野高等学校、私立の中高一貫校滝中学校・高等学校(滝学園)があり、駅前(西口)から愛知江南短期大学のスクールバスや江南自動車学校の送迎バス、病院敷地内に看護学校を併設している江南厚生病院行きの名鉄バスが発着しており、高校生・短大生・看護学生などの利用が多い。このほかすいとぴあ江南(江南厚生病院経由)、布袋駅、江南団地、名鉄一宮駅バスターミナル行きのバスも江南駅前(西口)から発着している。 江南駅から右にカーブしたのちはしばらく直線が続き、江南自動車学校を過ぎてしばらくすると扶桑町に入り、快速特急停車駅の柏森駅である。最近までは地上駅であったが橋上駅舎に改築され、バリアフリー化された。柏森駅は扶桑町内に有るが、大口町の町境に近く、町内には駅の無い大口町の玄関口の役割ももっていて、大口町内のコミュニティバスが柏森駅南駅前から発着している。左にカーブしながら柏森駅を発車すると前方には各務原の山が見え、しばらくすると快速急行停車駅の扶桑駅、右にカーブして直線区間の木津用水駅となる。ここから犬山市に入り上り坂になる。カーブして坂を上りきったところに犬山口駅がある。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "犬山口駅から左へカーブして小牧線・広見線が合流すると犬山駅である。犬山駅は3面6線の構内で犬山検車区も広見線側に併設されていて、駅西口には名鉄の運転士・車掌の事務所も設置されている運転上の拠点であり、列車が頻繁に発着する。犬山線の普通列車は犬山駅を始発・終着とするものが多く、地下鉄鶴舞線直通列車も犬山駅以北には通常は運行されない。また、各務原線名鉄岐阜駅発着の列車も名古屋方面からの直通は少なく、犬山駅を始発・終着とするものが多く、小牧線平安通駅発着の全列車、広見線新可児駅発着の多くの普通列車も犬山駅を始発・終着としている。つまり犬山駅は4方向の列車の始発・終着駅としての機能を有している。犬山駅は犬山市の中心駅であるとともに観光の拠点駅となっており、駅東口から明治村、リトルワールド、日本モンキーパークへのバスも発着し、駅西口から犬山城への徒歩街道(犬山城下町通り)も整備された。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "犬山駅を出ると2分ほどでミュースカイ停車駅の犬山遊園駅に到着。元々は日本モンキーパークへのアクセス駅で2008年12月までモンキーパーク園内行きの犬山モノレールが発着していたが、老朽化のため廃止され、モンキーパークへのアクセスは犬山駅東口からバス利用となっている。成田山(名古屋別院)、犬山鵜飼乗船場、および名鉄犬山ホテル(現在改築中)へは犬山遊園駅から徒歩。犬山城へも同駅から木曽川沿いの桜並木道(犬山ホテル北側)などを通って徒歩で行ける。また、犬山遊園駅では必ず同じホームに同じ方向の列車が発着するので、新鵜沼駅 - 名鉄名古屋駅方面の列車と犬山駅 - 名鉄岐阜駅方面の列車との乗り換えにも用いられる。さらに進むと犬山橋で木曽川を渡る。この橋はかつては路面電車のように道路に線路が敷設されていて、しかもその道路は1975年3月の名濃バイパス(国道41号現道)の開通までは、名古屋市から高山市などを通って富山市とを結ぶ国道41号線であった。列車の通行が車の通行の妨げとなり、また車の渋滞で列車の通行の妨げとなることも多かったが、2000年3月道路専用橋「ツインブリッジ」の完成により、旧橋は鉄道専用の鉄橋になった。専用化後は大改装が行われ、道路上に線路が敷設されていた当時の面影はほとんど残っていない。犬山鵜飼船は両橋の下をくぐって運行されている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "犬山橋を渡り終えると岐阜県各務原市に入りまもなく新鵜沼駅に到着する。2010年までは駅手前からJR高山本線へと繋がる単線の連絡線が右に分岐していた。この線路は2001年に運行取りやめとなった名古屋 - JR高山駅間の直通特急「北アルプス」が1日1往復通っていた。連絡線は「北アルプス」廃止後もしばらく残されていたが、現在は線路やポイントなどが完全に撤去され、線路跡地はホーム増設用地および道路用地と建売住宅用地に転用され、当時の面影は残っていない。「犬山線」としては新鵜沼駅が終点で、名鉄名古屋駅方面から来たミュースカイ、特急や急行などの多くの列車がこの駅で折り返しているが、犬山駅発の急行や普通は早朝の一部を除いてそのまま各務原線へと直通していく。逆に各務原線から新鵜沼駅に到着した列車は、そのまま犬山駅方面に運行され、各務原線も犬山駅が運行上の起点・終点となっている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "名鉄名古屋駅方面との直通が基本で、上小田井駅から名古屋市営地下鉄鶴舞線に直通する列車もある。また名古屋方面と各務原線・広見線との直通運転も行っているが、名古屋方面と各務原線との直通運転は2008年12月27日のダイヤ改正以後は減少し、2023年3月18日のダイヤ改正以後は完全に消滅した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "岩倉駅・布袋駅・柏森駅・扶桑駅・犬山駅・新鵜沼駅では列車の折り返しが可能であるが、犬山駅、布袋駅の折り返し設備を除きほとんどが上小田井・名古屋方面向きのみである。線内で利用者最多の江南駅にはスペースの都合上折り返し設備・待避線が無い。2018年には下小田井駅に片渡り線が設置され、岩倉・犬山方面への折り返しが可能となったが、現状使用実績はない。上小田井駅は地下鉄鶴舞線からの列車のみが折り返し可能であり、名鉄名古屋方面へは折り返しができない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "列車種別はミュースカイ・快速特急・特急・快速急行・急行・準急・普通の7種類である。ミュースカイ・快速特急・特急については「名鉄特急」も参照のこと。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "全列車が2000系による運行で、大半の列車が新鵜沼駅 - 中部国際空港駅間で全日朝夕を中心に運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "朝上りには新可児駅発が平日3本、休日1本があったが、2019年3月16日のダイヤ改正で平日の1本が新鵜沼発の増結にまわされたため実質1本減便された。なお、いずれも犬山駅で新鵜沼駅発と新可児駅発を併結する。併結する列車の号車番号は新鵜沼駅発車時点であらかじめ5 - 8号車(新可児駅発の列車は1 - 4号車)に設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2021年5月22日のダイヤ改正で新可児行き、三柿野発、柏森駅停車のミュースカイは全て消滅した(平日朝の新可児発は存続)。また、新鵜沼駅発着の列車も朝と夜間のごく数本を除いてほとんど消滅した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一部特別車特急は2007年6月30日のダイヤ改正で本格導入され、2008年12月27日のダイヤ改正で全列車に改められた。名鉄名古屋駅 - 犬山駅間の標準所要時分は快速特急・特急とも25分で、表定速度は68km/hである。犬山駅 - 新鵜沼駅間は駅間が短く各駅に停車するため、終点まで通して見た場合は所要29分、表定速度62km/hとなる。実際のダイヤパターンでは所要時分がさらに1 - 2分長い。なおミュースカイは遅延余裕を加味し犬山 → 名古屋を29分かけて走る。名鉄が全社的にスピードアップを進めていた1997年からの数年間は、特急が新名古屋 - 犬山間を23分で走破していた(同区間がノンストップだった頃と同等)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一部を除いて新鵜沼駅での折り返し運転を行わず、新鵜沼駅到着後一旦犬山検車区まで回送運転を行う。また、平日の午後などに6両→8両に増結する場合は名鉄名古屋方面から6両で到着した列車が同駅での折り返しの際に名鉄岐阜方に2両増結する場合のほか、同駅で犬山検車場で8両に仕立てられた編成と名鉄名古屋方面から6両で到着した列車が車両交換される場合もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2008年12月のダイヤ改正までは1000系4両編成による全車特別車特急も存在していた(基本的な運転区間は新鵜沼駅 - 河和駅・内海駅。他に豊川稲荷駅や常滑駅などを発着する列車もごくわずかに存在)。このほか、1999年から空港線が開業した2005年までは1600系の定期運用が存在した。ほか、8800系(パノラマDX)(登場当時は内海駅または河和駅発着。後に西尾線吉良吉田駅発)もごく僅かではあったが乗り入れていた。2001年まではキハ8500系によるJR高山本線直通気動車特急「北アルプス」も犬山線を経由していた(時刻表上は高山駅発着の全車特別車特急の扱いで新鵜沼駅は通過)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日中は準急と急行が毎時2本ずつ運転されている。原則、運転系統は以下のようになる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "快速急行は平日朝ラッシュ時上りのみの種別で内海行きと中部国際空港行きの2本が5000系8両編成で運転され、いずれも名鉄名古屋駅で急行に種別変更する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "名鉄名古屋 - 岩倉間は前述の一部特別車の特急と合わせてほぼ10分間隔で運転される。かつて上りの一部列車(主に広見線直通列車)は2005年1月改正まで布袋駅・岩倉駅・西春駅のいずれかで新鵜沼駅から来る全車特別車特急に1度だけ追い越されていたが、現在はほとんど待避しない。ただし、平日朝ラッシュ時には下り列車の一部は岩倉駅などで待避することがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "準急は岩倉駅以北は各駅に停車する。準急が運転される時間帯は平日と休日で異なり、休日は6 - 23時台とほぼ終日であるのに対し、平日は7 - 23時台(上りは8時台から、下りは22時台まで)となっている。なお、犬山駅を越えて広見線方面へ運転される列車(新可児行き)はすべて犬山駅で普通に種別変更する(犬山止まりのほかに、2023年3月以降は新鵜沼駅発着の列車もある)ため、犬山駅以南の主要駅ホームの自動放送では犬山駅までの停車駅(全駅)を読み上げた後に「犬山から普通に変わります」と放送している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "最終の名鉄名古屋駅23:59発の中部国際空港駅発新鵜沼行き急行は東京駅22:03発の東海道新幹線最終「ひかり」から接続するダイヤとなっている。なお、上りの最終は岩倉駅以北の急行停車駅は新鵜沼駅発鳴海行き急行であるが、この列車は西春駅で先行する犬山駅発鳴海行き普通を追い越すため、西春駅と上小田井駅からの名鉄名古屋方面への最終は鳴海行き普通である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "平日朝には地下鉄鶴舞線からの急行が岩倉駅まで2本、犬山駅まで3本、いずれも下りにのみ設定されている(折り返しはすべて普通)。使用車両はすべて名古屋市交通局所有の3050形、またはN3000形電車で、名鉄所有の100系による運用は設定されていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2008年12月改正まで、急行・準急と犬山駅発着の普通(地下鉄直通含む)は岩倉駅で接続をとっていたが、現在では基本のダイヤパターンでは上小田井駅での同駅折り返しの鶴舞線電車との接続を除き、準急と岩倉駅折り返しの名鉄名古屋方面直通の普通が接続するのみ(休日のみ西春駅で地下鉄直通の普通とも接続する)となり、急行は途中駅で普通と接続しなくなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "犬山駅における各線との接続時分は、各務原線へは急行で8 - 9分ほど、準急で6 - 7分ほどで、小牧線へは急行・準急とも下りは11 - 12分ほど(上りは7分ほど)で、広見線へは急行で4 - 6分ほどとなっている。また、原則として広見線に直通する準急は犬山駅で後続の快速特急・特急に接続するために5分ほど停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2023年3月改正まで朝のみに設定されていた、各務原線に直通する列車は、金山駅・神宮前駅・名鉄名古屋駅・栄生駅で行う駅員や車掌による放送では「犬山方面行き」とのみ案内された。神宮前駅以東では普通に「名古屋方面の犬山経由岐阜行き」と放送されるほか、神宮前駅、金山駅の駅自動放送では「名古屋、犬山方面の犬山経由岐阜行き」と放送される。これは名古屋本線一宮経由の岐阜行きも頻繁に発着しており、誤乗を避けるためである。なお、2008年12月のダイヤ改正までは各務原線直通の準急・急行が終日設定されていた(誤乗が多いと苦情があり直通を中止)。2000年3月改正までは終日全区間通しで急行運転を行っていたが、同改正で全区間急行運転するのは朝と夕方以降のみとなり、昼は三柿野駅 - 岐阜駅間で普通として運転されるようになり、さらに翌年10月の改正以降は昼間は各務原線内全区間で普通として運転されていた。また、2008年12月改正前までは、昼間は上りは河和駅・内海駅 - 新可児駅(新可児駅で御嵩駅発の普通から接続)と中部国際空港駅 - 名鉄岐阜駅(各務原線経由)、下りは河和駅・内海駅 - 名鉄岐阜駅(各務原線経由)と中部国際空港駅 - 新可児駅(新可児駅で普通御嵩駅行きに接続)という折り返しパターンだった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "広見線直通系統は2008年6月29日改正までは平日の夕ラッシュ時には御嵩駅まで直通していたが、同改正をもって新可児駅 - 御嵩駅間が終日同区間内での折り返し運転(朝10時以降は全列車ワンマン運転)に変更されたため直通運用は廃止された。また、2003年3月27日改正までは全日ともほぼ終日御嵩駅までの直通列車が設定されていた(直通しない場合、終点の新可児駅または明智駅で御嵩行きに接続)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "広見線・各務原線に直通する急行または準急が犬山から普通になる場合、大抵犬山駅で切り離しを行う(8両の場合はすべて。6両の場合、岐阜行きは一部のみ)。その切り離した列車を各務原線の名鉄岐阜駅行きや広見線の新可児駅行きにすることもあるが、車内での案内はなく、基本的に「前(後)○両は犬山止まりです」という案内のみ行う。ただし、変わる場合は犬山駅到着直前に案内放送が流れる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "急行は平日の昼と夜および休日の一部列車を除き6両編成(平日の夕ラッシュ時はすべて6両で運転)、準急は平日朝の下りと夕ラッシュ時の列車と休日の一部の列車が6両となる。ほかは4両編成での運転が基本となっているが、一部の急行が4両で運転されている。4両での運転は昼間のほか、深夜の時間帯にも見られるが、特に深夜の下りは上小田井駅 - 岩倉駅間で混雑することが多い。なお、平日の急行は昼間帯が4両で運転されるのに対して前述のとおり夕ラッシュ時はすべて6両での運転となるため、新鵜沼駅・河和駅・内海駅で車両交換を行うことも多い。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "急行の使用車両は3ドアの通勤形各種が混用されているが、6両編成の列車には6000系列または3500系や3300系、9500系などが使用される。 2019年3月改正以前は、休日には5300系または5700系4両編成での運行が下り1本のみ設定されていた。準急は完全に3ドアの通勤形による運用で、平日の運用は6000系列5運用と3000系列(9000番台を含む)3運用で構成され、この中には6000系の蒲郡線・広見線ワンマン仕様車による間合い運用が存在する。休日は6000系列4運用と3000系列3運用と5000系1運用で構成される。なお、2011年3月改正以前は平日にも昼間帯に限り5000系による運用が2運用分設定されていたほか、3000系列主体で運用が構成されていた。また、急行・準急とも5000系が就役した2008年春まではパノラマカーの6両編成も多数使用されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "早朝には平日に豊川稲荷行きと河和行き(いずれも新鵜沼駅発)、休日に伊奈駅発新鵜沼行き(2023年3月までは犬山行き)で一部特別車特急用の車両による急行運用が存在する。河和行きは1200系、豊川稲荷行きは2200系の6両、新鵜沼行きは2200系の8両で運転され、いずれの場合も特別車2両は締切扱いとなっていたが、2021年3月15日から平日の豊川稲荷行きと河和行きに限り特別車が開放され、当該列車のミューチケットが発売されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "所要時分は名鉄名古屋駅 - 犬山駅間が急行で32分、準急で36分前後である。1990年代には28分まで短縮したこともあった(栄生駅と上小田井駅と扶桑駅を通過し、途中駅で待避をしない場合)が、現在は余裕のあるダイヤとなっている。また、名古屋本線に所属する栄生駅は快速急行は通過し、急行と準急は停車する。2005年までの急行は朝は(休日のみ)栄生駅と扶桑駅の両方を通過し、昼間は栄生駅に停車、夕方ラッシュ時は両方に停車、夜は扶桑駅に停車していた。他に、平日朝ラッシュ時には、普通列車を補完するために下小田井駅や中小田井駅に特別停車する急行もある(前述の1200系による河和行きも該当)。1993年までは徳重駅(現・徳重・名古屋芸大駅)に停車する準急(1990年10月改正からは急行の特別停車)もあったが、現在は同駅に優等列車は1本も停車しない。また、2001年9月30日までは上小田井駅は急行停車駅ではなかったために日中は基本的に通過し、主に朝夕ラッシュに特別停車していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "毎年8月10日に各務原市で行われる「日本ライン夏まつり」の時には新鵜沼駅発岩倉行き急行が臨時列車として運転される場合もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ミュースカイを除く全特急列車が一部特別車化される以前(特にほぼ全特急列車が全車特別車であった2007年6月改正以前)は平日の夕ラッシュ時の下りの急行は混雑率が高かったため、下りのみ1本増発(2005年1月改正まで。晩年は神宮前駅始発で新名古屋駅発で18時台にのみ、2003年3月改正までは東岡崎駅始発で新名古屋駅発で17、18時台に。行き先はいずれも新鵜沼行き)されたり、太田川駅(1994年3月改正から2000年3月改正までは豊橋駅)→犬山駅間で8両に増結(2008年12月改正まで)されたりしていた。このほか、2008年6月改正までは平日朝に犬山経由岐阜・新可児行き急行、同年12月改正までは平日の夕方に中部国際空港(空港線開業までは常滑行き)・内海行き準急(名鉄名古屋駅からは急行。2005年1月改正までは犬山線内も急行として運転)が設定され、いずれも8両での運転でそれぞれ犬山駅と太田川駅で分割していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2023年3月改正をもって犬山駅以南から各務原線への直通列車が完全に消滅したため、朝ラッシュに新鵜沼駅発着の列車が増加している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "名古屋方面の列車は1時間当たり、岩倉駅 - 東岡崎駅間が2往復、犬山駅 - 東岡崎駅間が2往復の設定である。深夜の列車は豊明駅や鳴海駅までの運転となる。犬山駅発着のものは西春駅で快速特急・特急の通過待ちを行うのを基本とし、岩倉駅折り返しのものは、岩倉駅で準急と接続し、時間帯によって半数は西春駅でミュースカイの通過待ちをするのが基本となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "深夜には、平日・休日とも犬山駅発新鵜沼行きという、わずか2区間のみの列車が片道1本のみ設定されている。この列車は犬山駅で中部国際空港駅発新可児行き準急と接続し、一部特別車編成の6両編成で運転されている。この1本のほか、休日の早朝には2200系による新鵜沼駅発河和行き普通(名鉄名古屋駅からは急行となり、知多半田駅で再度普通に種別変更)が1本設定されている。いずれの列車も特別車2両は締切扱いとなっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "早朝には、岩倉駅 - 下小田井駅の各駅から名古屋方面への始発列車でもある岩倉駅5:21発中部国際空港行きが設定されている。この列車は名鉄名古屋駅で準急に種別変更する(この列車は空港線が開業した2005年1月改正で設定され、当初は急行であった)。これ以外にも、平日の朝には名鉄名古屋駅で準急に種別変更する岩倉駅発中部国際空港行きがもう1本設定されているほか、名鉄名古屋駅から急行となる各務原線名鉄岐阜駅発豊橋行きと岩倉駅発豊明行きが各1本設定されている。特に豊橋行きのものは始発駅から急行に種別変更をした後の停車駅である新安城駅まで後続の列車に抜かされずに先着するダイヤが組まれている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "地下鉄鶴舞線直通列車は岩倉駅までの運転が基本であるが、平日の夕方は柏森駅まで、朝と夜は犬山駅まで区間延長される。また、平日朝には扶桑駅発着の列車が1往復設定されている(名古屋市交通局の車両を充当)。快速急行・急行・準急が上小田井駅に停車して鶴舞線と接続するので、犬山線内の鶴舞線直通の普通電車の利用者は余り多くはない。運転本数は平日の昼間は1時間に1本、休日と平日の夕方は毎時2本となる。また、平日朝は運転本数がこれより増加する。上り方は赤池駅または豊田市駅まで運転され、犬山駅から豊田市駅までの長距離各駅停車も運転されることがある。基本的に岩倉駅で快速特急・特急と接続するダイヤが組まれているが、平日夕方の柏森駅発着のものは布袋駅で快速特急・特急の通過待ちを行う。また、休日の列車はほとんどが西春駅で準急を待避する(平日は上小田井駅で準急と接続する)。1999年までは朝ラッシュ時、大山寺駅や徳重駅(現・徳重・名古屋芸大駅)を通過する列車があった。また、上小田井駅が急行停車駅となった2001年10月改正までは犬山駅発着と岩倉駅発着が毎時2往復ずつ設定され、上小田井駅 - 岩倉駅間では昼間でも新名古屋方面(当時)直通のものと合わせて普通が毎時8往復運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "地下鉄直通はすべて20m4扉車の6両であるが、名古屋方面の普通は3扉4両が基本ではあるが2両だったり6両だったりとバラバラである。近年は昼間や夕方・夜間など減車化が目立ち、昼間は3100系などによる2両編成での運用も多い。夕方(この時間帯の2両での運行は休日のみ)や夜間の時間帯でも2両編成で運行されることがある。そのため夜間帯などでは上小田井駅で6両の地下鉄車から2両の普通に乗り換えることになり、朝のラッシュ並みに混雑することがある。6両での運行は主に平日の朝のラッシュ時間帯のほか、昼過ぎの下り犬山行きで見られ、後者は6000系列や3000系列で運行され、犬山駅では1番線に入線し、到着後すぐに新鵜沼駅まで回送され、新鵜沼駅に到着後、折り返し急行河和行きか内海行きとなるパターンが多い(平日1597列車・犬山16時28分着など)。なお、岩倉駅以北の急行通過駅や大山寺駅以南の各駅における上り名鉄名古屋方面への最終である犬山駅発鳴海行き普通は1800系2両編成で運転されている。9500系導入前までは、SR車による運用が存在していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2008年12月改正までは鶴舞線直通も犬山駅までの直通が基本となっていて、岩倉駅 - 犬山駅間では、名鉄名古屋方面 - 犬山駅間の普通と合わせて毎時4本の設定で岩倉駅で急行・準急のいずれかと緩急接続するダイヤが基本だった。同改正以降、準急が岩倉以北各駅停車となっているため、岩倉 - 犬山間で普通が毎時4本運転される時間帯は少なくなっている。また、急行と普通の緩急接続も少なくなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "犬山駅 - 新鵜沼駅間は全列車が途中の犬山遊園駅にも停車するが、昼間の普通列車は岐阜行きと犬山行きの毎時各2本のみである。基本的には犬山駅または新鵜沼駅で特急・急行に相互接続が行われている。犬山駅・新鵜沼駅では一部の時間帯を除き、構内の階段の昇降を要するので、階段の昇降不要な犬山遊園駅での乗り換えが推奨されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本ライン夏まつりのときなどは通常犬山止まりの名古屋・小牧方面からの普通が新鵜沼まで臨時に延長運転される。2009年 - 2011年の8月の日本ライン夏まつりの時は岩倉駅 - 犬山駅間は臨時列車扱いで、岩倉発岐阜行きの普通が数本運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "愛知県の統計によれば、枇杷島分岐点 - 犬山遊園駅間における2010年度の輸送人員は56,503千人(うち定期37,664千人)、延人キロは692,915千人kmであった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "名古屋電気鉄道が一宮線押切町(廃止) - 西印田間、犬山線岩倉 - 犬山間を1912年までに開業したのが始まり。名古屋電気鉄道は市内線を名古屋市に譲渡することになり、郡部線を新会社の名古屋鉄道に移管した。しかしその後も新名古屋駅(現、名鉄名古屋駅)への延伸が果たせる1941年まで、郡部線の電車が名古屋市電に乗り入れ柳橋駅を発着駅としていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "名古屋鉄道は関線として犬山から関までの延伸を計画したが、新鵜沼駅までの開業にとどまり、関までの延伸線の免許は1927年に失効した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "なお2000年までは、犬山遊園駅 - 新鵜沼駅間に存在する犬山橋が、鉄道に準拠する最後の鉄道道路併用橋として知られていた。現在では並行して道路橋が架けられたため、犬山橋は鉄道専用橋になっている。", "title": "歴史" } ]
犬山線(いぬやません)は、愛知県清須市の枇杷島分岐点から岐阜県各務原市の新鵜沼駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。 運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍)。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。
{{pp-vandalism|small=yes}} <!--検証可能性を満たさない部分があれば、該当箇所にテンプレートを貼付した上でノートで具体的に指摘してください--> {{Infobox rail line | box_width = 300px | name = [[File:Meitetsu logomark 2.svg|20px|名古屋鉄道|link=名古屋鉄道]] 犬山線 | color = 018b44 | logo = NP-IY.svg | image = Nagoya-Railway-Inuyama-Line.jpg | image_width = 300px | image_alt = 犬山線を走行する2000系と6000系 | caption = 犬山線を走行する[[名鉄2000系電車|2000系]]と[[名鉄6000系電車|6000系]] <br>([[中小田井駅]] 2018年7月) | system = {{Color|#018b44|■}}犬山方面 | start = 起点:[[枇杷島分岐点]] | end = 終点:[[新鵜沼駅]] | stations = 17駅 | linenumber = {{名鉄駅番号|IY}} | event1label = 一宮線・犬山線開業 | event1 = {{Start date|1912|08|06|df=y}} | event2label = 関線編入 | event2 = {{Start date|1926|10|01|df=y}}(全通) | event3label = 一宮線一部編入 | event3 = {{Start date|1941|08|12|df=y}} | owner = [[名古屋電気鉄道]]→(旧)名古屋鉄道→名岐鉄道→[[名古屋鉄道]] | linelength_km = 26.8 | gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}} | el = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]], <br> [[架空電車線方式]] | speed = 最高110[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name=Data-TK/> | website = [https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line12/index.html 犬山線] | map = [[File:Linemap of Inuyama Line.svg|300px]] }} '''犬山線'''(いぬやません)は、[[愛知県]][[清須市]]の[[枇杷島分岐点]]から[[岐阜県]][[各務原市]]の[[新鵜沼駅]]までを結ぶ[[名古屋鉄道]](名鉄)の[[鉄道路線]]。 [[名古屋鉄道#運賃|運賃計算区分]]はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍)。すべての駅で[[manaca]]などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカード全国相互利用サービス対応カード]]が使用できる。 == 概要 == {{出典の明記|section=1|date=2014年10月4日 (土) 10:09 (UTC)}} [[市電|市内電車]](後の[[名古屋市電]])で創業した名古屋鉄道の前身・[[名古屋電気鉄道]]の初期の郡部線(郊外路線、[[インターアーバン]])であり、[[名古屋市]]と愛知県北部の[[ベッドタウン]]各都市とを結ぶ。収支においては名鉄でもトップクラスである。 名古屋本線と分岐する枇杷島分岐点には乗降設備が無く、同分岐点を通過する全列車が[[名鉄名古屋駅]]方面との直通であり、犬山線と[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]枇杷島分岐点以西([[名鉄津島線|津島線]]を含む)との乗り換えは[[東枇杷島駅]]、[[栄生駅]]、名鉄名古屋駅のいずれかの駅で行うことになるが、一般的には全列車停車の名鉄名古屋駅または急行停車駅の栄生駅(同じホームで乗換可能)が利用される。 犬山線沿線は[[清須市]][[西枇杷島町]]・名古屋市[[西区 (名古屋市)|西区]](庄内川以北の平田・小田井地区)・[[北名古屋市]]・[[岩倉市]]・[[江南市]]・[[扶桑町]]・[[犬山市]]・[[各務原市]]、さらに当線からの直通列車の運行される[[名鉄広見線|広見線]]沿線の[[可児市]]など[[名古屋都市圏]]のベッドタウンが連続しており、付近に競合路線がなく、犬山線に乗客が集中するためラッシュ時の混雑が激しい。途中の[[上小田井駅]]から[[名古屋市営地下鉄鶴舞線]]および同線を経由して[[名鉄豊田線]]との相互[[直通運転]]も行われている。 また、可児市から犬山市までの沿線には、[[日本ライン]]([[木曽川]])や[[犬山城]]・犬山城下町通り、[[日本モンキーパーク]]、[[博物館明治村|明治村]]、[[リトルワールド]]などの観光施設が多数立地しており、犬山線は観光路線としての性格も有している。名鉄では「犬山キャンペーン」などで集客を図っている。JR[[鵜沼駅]]に隣接する[[新鵜沼駅]]でJR[[高山本線]]に接続して名古屋と高山本線沿線を短絡することから、2001年までは高山本線直通の特急「[[名鉄特急#高山本線直通列車|北アルプス]]」が1日1往復運転され{{Efn|高山本線内では特急「[[ひだ (列車)|ひだ]]」と併結運転。}}、犬山線内では[[岩倉駅 (愛知県)|岩倉駅]]・[[江南駅 (愛知県)|江南駅]]・[[犬山駅]]・[[犬山遊園駅]]の各特急停車駅に停車していた。「北アルプス」廃止後、JR高山本線と名鉄犬山線をつないでいた線路も撤去された。 2020年現在、[[西春駅]]南側の県道交差部(駅構内は平面)と、上小田井駅北側([[新川 (庄内川水系)|新川]]堤防)- [[中小田井駅]]南側、[[布袋駅]]付近のみが立体交差化されている。江南駅付近も立体交差構想があったが、予算の問題により立ち消えになった。2012年、北名古屋市は西春駅 - 徳重・名古屋芸大駅間の高架化を提案<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kitanagoya.lg.jp/toshiseibi/0700011.php|title=北名古屋市鉄道周辺まちづくり構想策定委員会 第1回 開催結果|publisher=名古屋市|accessdate=2020-12-19}}</ref>、計画推進している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kitanagoya.lg.jp/toshiseibi/0700050.php|title=第2次北名古屋市都市計画マスタープラン|publisher=名古屋市|accessdate=2020-12-19}}</ref>。[[犬山口駅]]付近の坂を除き比較的平坦な土地を行くので直通先の名鉄名古屋駅や地下鉄鶴舞線以外には当路線としては[[トンネル]]は無く、大きな鉄橋も犬山遊園 - 新鵜沼間の木曽川に架かる[[犬山橋]]のみである。この犬山橋は、かつて道路上に線路を敷設した[[鉄道道路併用橋]]となっていたが、渋滞が激しくなり、2000年に道路専用の新しい橋ができて犬山橋は鉄道専用になった。 2020年現在、[[バリアフリー]]化が終了(エレベーター設置)している駅は新鵜沼駅・犬山駅・[[扶桑駅]]・[[柏森駅]]・江南駅・布袋駅・岩倉駅・[[徳重・名古屋芸大駅]]・西春駅・[[上小田井駅]]・中小田井駅の10駅である。 最高速度は、1968年に当時の名古屋本線と同等の110km/hに引き上げられて以降そのまま推移している。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):26.8[[キロメートル|km]] * [[軌間]]:1067[[ミリメートル|mm]] * 駅数:17駅(起終点駅含む) * [[複線]]区間:全線 * [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式<ref name=Data-TK/> * [[自動列車保安装置|保安装置]]:[[M式ATS]]<ref name=Data-TK/> * [[最高速度]]:110&nbsp;km/h<ref name=Data-TK>{{Cite book|和書|author=徳田耕一|title=名古屋鉄道 今昔<small>―不死鳥「パノラマカー」の功績</small>|date=2017-08 |series =交通新聞社新書 |publisher=交通新聞社 |isbn=978-4330819174|page=154}}</ref> * 最小曲線半径:170m(枇杷島分岐点北方) <gallery widths="170px"> Meitetsu Inuyama Line Kilometre Zero.jpg|枇杷島分岐点にある<br />犬山線0キロポスト </gallery> == 沿線風景 == {{出典の明記|section=1|date=2014年10月4日 (土) 10:09 (UTC)}} {|{{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線&nbsp;|#018b44}} {{BS-table}} {{BS5|||||STR|||[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]|}} {{BS5||||exHST|STR|||''[[押切町駅]]''|}} {{BS5||||exLSTR|HST|||NH38 [[東枇杷島駅]]|}} {{BS5||||xKRWg+l|KRWr||||}} {{BS3|||hKRZWae|||[[庄内川]]|}} {{BS3|||DST|0.0|[[枇杷島分岐点]](''[[枇杷島橋駅]]'' <small>-1949</small>)||}} {{BS5||||ABZgl+l|HSTq|||NH39 [[西枇杷島駅]] 名古屋本線→|}} {{BS3|||eDST|0.2||[[枇杷島分岐点|下砂杁信号場]]|}} {{BS3|||BHF|1.0|IY01 [[下小田井駅]]||}} {{BS3|||SKRZ-Au|||[[名古屋高速道路|名古屋高速]][[名古屋高速6号清須線|清須線]]|}} {{BS3|||BHF|2.4|IY02 [[中小田井駅]]||}} {{BS3||tSTR+4e|STR|||[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|地下鉄鶴舞線]]|}} {{BS3|BHFq|O1=HUBa|KRZu|KRZu|||{{BSsplit|←[[東海交通事業]]:[[東海交通事業城北線|城北線]]→|[[小田井駅]]}}|}} {{BS3||O1=HUB|KRWl|KRWg+r||||}} {{BS3||O1=HUB||SKRZ-Au|||[[名古屋第二環状自動車道]]|}} {{BS3||O1=HUBl||O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|3.5|IY03 [[上小田井駅]]|1991-|}} {{BS3|||hKRZWae|||[[新川 (庄内川水系)|新川]]|}} {{BS3|||eBHF|3.8|''[[上小田井駅|平田橋駅]]''|-1991|}} {{BS3|||eBHF|5.1|''[[九ノ坪駅]]''|<ref name="closed1944" group="*">1944年休止、1969年廃止</ref>|}} {{BS3|||BHF|5.9|IY04 [[西春駅]]||}} {{BS3|||BHF|7.3|IY05 [[徳重・名古屋芸大駅]]||}} {{BS3|||hKRZWae|||[[五条川]]|}} {{BS3|||BHF|8.1|IY06 [[大山寺駅 (愛知県)|大山寺駅]]||}} {{BS3|||eBHF|8.9|''[[稲荷前駅]]''|<ref name="closed1944" group="*" />|}} {{BS3|||BHF|9.7|IY07 [[岩倉駅 (愛知県)|岩倉駅]]|}} {{BS5||||eABZgnl|exnKBSTeq||''[[岩倉検車区]]''|-1960頃|}} {{BS5|||exSTRq|eABZglr|exSTRq|||←''[[名鉄岩倉支線|岩倉支線]]''/''[[名鉄一宮線|一宮線]]''→|}} {{BS3|||BHF|11.8|IY08 [[石仏駅]]||}} {{BS3|||SKRZ-Au|||[[名神高速道路]]|}} {{BS3|||eBHF|13.1|''[[小折口駅]]''|<ref name="closed1944" group="*" />|}} {{BS3|||BHF|{{BSkm|14.2|0.0*}}|IY09 [[布袋駅]]||}} {{BS3||exnKBSTaq|eABZgnr|0.1*||''福玉精麦'' -1970|}} {{BS5|||WASSER+l|WBRÜCKE1||||[[青木川 (庄内川水系)|青木川]]|}} {{BS5|||WASSER|BHF||16.2|IY10 [[江南駅 (愛知県)|江南駅]]||}} {{BS5|||WASSER|eBHF||17.5|''[[宮後駅]]''|<ref name="closed1944" group="*" />|}} {{BS5|||WASSERl|WBRÜCKE1|WASSER+r||||}} {{BS5||||BHF|WASSER|19.0|IY11 [[柏森駅]]||}} {{BS5|||WASSER+l|WBRÜCKE1|WASSERr||||}} {{BS5|||WASSER|BHF||21.2|IY12 [[扶桑駅]]||}} {{BS5|||WASSERl|WBRÜCKE1||||青木川|}} {{BS3|||BHF|{{BSkm|22.6|0.0*}}|IY13 [[木津用水駅]]||}} {{BS5||||eABZgnl|exnKBSTeq|4.0*||''[[東洋紡|東洋紡績]]'' -1968|}} {{BS3|||WBRÜCKE1|||[[合瀬川|木津用水]]|}} {{BS3|||BHF|24.0|IY14 [[犬山口駅]]||}} {{BS3|STR2+4|O1=POINTER+1|STRc3|O2=exSTRc2|eABZg3|||[[名鉄小牧線|小牧線]]|}} {{BS3|STRc1x2|STR2+4|O2=exHST3+1|eSTR+c4|O3=STRc3||{{BSsplit|''広見線旧線''|''[[東犬山駅]]'' -1946}}|}} {{BS5|STRq|exSTRr+1|O2=STRq|STRq|O3=STRc1|P3=exSTRc4|ABZg+4|O4=STR+r||||[[名鉄広見線|広見線]]}} {{BS3|||BHF|{{BSkm|24.9|0.0*}}|IY15 [[犬山駅]]||}} {{BS3||exnKBSTaq|eABZgnr|0.2*||''[[ユニチカ|ニチボー]]'' -1966|}} {{BS3|||hKRZWae|||[[新郷瀬川|郷瀬川]]|}} {{BS3||exSTR+r|STR|||''[[名鉄モンキーパークモノレール線|モンキーパークモノレール線]]''|}} {{BS3||exKBHFe|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|26.1|IY16 [[犬山遊園駅]]||}} {{BS3|||hKRZWae+GRZq||[[犬山橋]]|{{BSsplit|[[愛知県]]・[[岐阜県]]県境|[[木曽川]]}}|}} {{BS3|xABZq+r|exSTRq|eABZgr|||{{BSsplit|[[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[高山本線]]|''鵜沼連絡線''}}|}} {{BS3|STR|exKBHFaq|O2=HUBa|eABZgr||''新鵜沼駅''|(I) -1964|}} {{BS3|STR|O1=HUBrg|exKBHFa|O2=HUBtg|BHF|O3=HUBeq|26.8|IY17 [[新鵜沼駅]]|(I) -1964/(II)1964-|}} {{BS3|BHF|O1=HUBe|xKRWg+l|KRWr|||[[鵜沼駅]]|}} {{BS|STR|||[[名鉄各務原線|各務原線]]|}} {{BS-colspan}} ---- {{Reflist|group=*}} |} |} [[名鉄名古屋駅]] - 江南駅は[[愛知県道63号名古屋江南線|県道名古屋江南線]](名草線)とほぼ並行したルートで、江南駅付近で大きくカーブして、江南駅 - 犬山駅は[[愛知県道64号一宮犬山線|県道一宮犬山線]]とほぼ並行したルートになっている。 === 名鉄名古屋駅 - 岩倉駅 === [[ファイル:Kamiotai-2.3bansen.jpg|thumb|right|250px|上小田井駅に停車中の名鉄車両と名古屋市営地下鉄車両 (2009年8月)]] 犬山方面に向かう列車は名鉄名古屋駅から4 - 6分ほど走り、名古屋市と[[清須市]][[西枇杷島町]]との境界となっている[[庄内川]]に架かる鉄橋を渡ると[[枇杷島分岐点]]に差し掛かり、右側へカーブしながら勾配を下る。勾配を下り終えたところには名古屋本線[[西枇杷島駅]]ホーム西側へとつながる[[デルタ線]]が分岐する下砂杁(しもすいり)信号場があり、河和駅・内海駅 - 名鉄名古屋駅間の一部特別車特急に使われる車両などが同信号所の下り線側にある着発線まで回送されてきて折り返している。なお上り線の下砂杁信号場手前には、速度超過防止ATSの照査速度をそのまま表示した98km/hという[[鉄道標識|速度制限標識]]が存在する。通常の書式で制限速度が5km/hの倍数ではない速度制限標識は珍しい。 同信号所を過ぎると[[下小田井駅]]で、同駅の先では[[国道22号]]と[[名古屋高速6号清須線]]の下をくぐる。優等列車の速度はこのあたりで105km/hまで上がる。再び名古屋市西区に入り、高架に上がると、[[中小田井駅]]。同駅の先で上下線は離れ、上り線は[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]を乗り越すため、線路の位置がやや高くなり、左にカーブする。[[東海交通事業城北線]]をくぐりながら県道名古屋江南線を乗り越すと、右手から鶴舞線が上下線の間に割り込むような形で合流し、鶴舞線との乗り換え駅で快速急行停車駅の[[上小田井駅]]に到着。一部の鶴舞線列車はここから犬山線に直通する。同駅では上を[[名古屋第二環状自動車道]]、下を[[国道302号]]が交差している。直通列車の車両長が異なるため、この駅から犬山までの各駅に専用の停車位置表示が線路上に設置されている。 上小田井駅を出ると一度地上に降りるが、しばらくして[[愛知県道62号春日井稲沢線|県道62号]]と立体交差するために再び高架となり、[[北名古屋市]]に入る。県道を乗り越えると再び地上に降り、北名古屋市の玄関駅で快速急行停車駅の[[西春駅]]となる。同駅は東側から県営[[名古屋飛行場|名古屋空港]](通称・小牧空港)への連絡バスが30分間隔で出ている。また、同駅は島式ホーム2面4線で、名鉄名古屋方面と直通の普通列車の約半数はここで[[名鉄特急|ミュースカイ]]・快速特急・特急の通過待ちをする。[[中部国際空港]](セントレア)の開港前は特急も一部列車停車していた。現在は特急は全て通過するが、犬山線には同空港行きの準急が運行されていて、西春駅にも停車する。 次の[[徳重・名古屋芸大駅]]は[[名古屋芸術大学]]や[[愛知県立西春高等学校]]への最寄り駅で、これらへの通学生の利用も多い。同駅の北側では[[五条川]]を渡る。川沿いには[[サクラ|桜]]が植えられており、春先には美しい桜並木を見ることができる。川を渡ると岩倉市に入り、[[大山寺駅 (愛知県)|大山寺駅]]を経て左にカーブし、あとは直線で住宅地の中を進む。県道の陸橋をくぐるとまもなく、岩倉市の玄関駅でありミュースカイ停車駅の[[岩倉駅 (愛知県)|岩倉駅]]となる。同駅は、島式ホーム2面4線で北側に6両編成対応の引上線があり、名鉄名古屋方面と直通する普通の約半数とほとんどの地下鉄鶴舞線直通列車はここで折り返す。また、準急は同駅以北では各駅に停車する。同駅ではかつて、[[小牧駅]]までの[[名鉄岩倉支線|岩倉支線]]と[[東一宮駅]]までの[[名鉄一宮線|一宮線]]が分岐していたが、いずれも廃線となり、バスに転換されている。駅東口は2007年から2009年にかけて駅再開発工事が行われ、駅前広場とビル・マンションが建設された。 === 岩倉駅 - 新鵜沼駅 === [[ファイル:Meitetsu 1700 series EMU 023.JPG|thumb|right|250px|鉄道専用となった犬山橋 (2009年7月)]] 岩倉駅を出るとS字にカーブして北上する。[[国道155号]](旧道)の踏切を越え、[[名神高速道路]]をくぐる手前に[[石仏駅]]があり、さらに北上する。このあたりはもともと田園地帯で当線では最も線形が良好な区間であり、特急や急行(6000系を除く)は最高110km/hで快走する。 石仏駅の北方で[[一宮市]]を少し通ったのちに[[江南市]]に入り国道155号(バイパス)と立体交差した後にあるのが快速急行停車駅の[[布袋駅]]である。布袋駅は2020年(令和2年)に高架化され、布袋駅前(西口)からは江南駅前(西口)経由で[[江南厚生病院]]行きのバスが発着しており、また布袋駅は上下両方向に折り返し可能な構造のため、電車の運行見合わせの時の折り返し駅にもなっている。布袋駅北東の線路隣接地に[[愛知県立尾北高等学校]]があり、尾北高校の脇を抜けて北上すると西方に[[コンクリート]]製の[[大仏]]が見える。これは[[布袋の大仏]]で、個人が所有する大仏ではかなり大きい部類に入り[[東大寺]]のそれより背が2m高い。市街地に入り右にカーブするとミュースカイ停車駅の[[江南駅 (愛知県)|江南駅]]である。江南駅は江南市の中心駅で、[[駅勢圏]]が江南市の過半のほか一宮市東部や各務原市南部、大口町西部・中部に及ぶ犬山線では乗降客数が最も多い駅だが、市街地の中のカーブの途中の駅なので駅設備は小規模で待避線・折り返し線は無く、上下両線が同じホームを使っていて混雑が激しい。江南駅から徒歩圏内に[[愛知県立江南高等学校]]と[[愛知県立古知野高等学校]]、私立の中高一貫校[[滝中学校・高等学校]](滝学園)があり、駅前(西口)から[[愛知江南短期大学]]のスクールバスや江南自動車学校の送迎バス、病院敷地内に看護学校を併設している[[江南厚生病院]]行きの名鉄バスが発着しており、高校生・短大生・看護学生などの利用が多い。このほかすいとぴあ江南([[江南厚生病院]]経由)、布袋駅、江南団地、名鉄一宮駅バスターミナル行きのバスも江南駅前(西口)から発着している。 江南駅から右にカーブしたのちはしばらく直線が続き、江南自動車学校を過ぎてしばらくすると[[扶桑町]]に入り、快速特急停車駅の[[柏森駅]]である。最近までは地上駅であったが橋上駅舎に改築され、[[バリアフリー]]化された。柏森駅は扶桑町内に有るが、大口町の町境に近く、町内には駅の無い大口町の玄関口の役割ももっていて、大口町内のコミュニティバスが柏森駅南駅前から発着している。左にカーブしながら柏森駅を発車すると前方には各務原の山が見え、しばらくすると快速急行停車駅の[[扶桑駅]]、右にカーブして直線区間の[[木津用水駅]]となる。ここから[[犬山市]]に入り上り坂になる。カーブして坂を上りきったところに[[犬山口駅]]がある。 犬山口駅から左へカーブして[[名鉄小牧線|小牧線]]・[[名鉄広見線|広見線]]が合流すると[[犬山駅]]である。犬山駅は3面6線の構内で犬山検車区も広見線側に併設されていて、駅西口には名鉄の運転士・車掌の事務所も設置されている運転上の拠点であり、列車が頻繁に発着する。犬山線の普通列車は犬山駅を始発・終着とするものが多く、地下鉄鶴舞線直通列車も犬山駅以北には通常は運行されない。また、[[名鉄各務原線|各務原線]]名鉄岐阜駅発着の列車も名古屋方面からの直通は少なく、犬山駅を始発・終着とするものが多く、小牧線平安通駅発着の全列車、広見線新可児駅発着の多くの普通列車も犬山駅を始発・終着としている。つまり犬山駅は4方向の列車の始発・終着駅としての機能を有している。犬山駅は犬山市の中心駅であるとともに観光の拠点駅となっており、駅東口から[[博物館明治村|明治村]]、[[リトルワールド]]、[[日本モンキーパーク]]へのバスも発着し、駅西口から[[犬山城]]への徒歩街道(犬山城下町通り)も整備された。 犬山駅を出ると2分ほどでミュースカイ停車駅の[[犬山遊園駅]]に到着。元々は日本モンキーパークへのアクセス駅で2008年12月までモンキーパーク園内行きの[[名鉄モンキーパークモノレール線|犬山モノレール]]が発着していたが、老朽化のため廃止され、モンキーパークへのアクセスは犬山駅東口からバス利用となっている。[[成田山名古屋別院大聖寺|成田山(名古屋別院)]]、犬山鵜飼乗船場、および名鉄犬山ホテル(現在改築中)へは犬山遊園駅から徒歩。犬山城へも同駅から木曽川沿いの桜並木道(犬山ホテル北側)などを通って徒歩で行ける。また、犬山遊園駅では必ず同じホームに同じ方向の列車が発着するので、新鵜沼駅 - 名鉄名古屋駅方面の列車と犬山駅 - 名鉄岐阜駅方面の列車との乗り換えにも用いられる。さらに進むと[[犬山橋]]で[[木曽川]]を渡る。この橋はかつては路面電車のように道路に線路が敷設されていて、しかもその道路は[[1975年]]3月の[[名濃バイパス]]([[国道41号]]現道)の開通までは、名古屋市から[[高山市]]などを通って[[富山市]]とを結ぶ国道41号線であった。列車の通行が車の通行の妨げとなり、また車の渋滞で列車の通行の妨げとなることも多かったが、2000年3月道路専用橋「[[犬山橋|ツインブリッジ]]」の完成により、旧橋は鉄道専用の鉄橋になった。専用化後は大改装が行われ、道路上に線路が敷設されていた当時の面影はほとんど残っていない。犬山鵜飼船は両橋の下をくぐって運行されている。 犬山橋を渡り終えると[[岐阜県]][[各務原市]]に入りまもなく[[新鵜沼駅]]に到着する。2010年までは駅手前からJR高山本線へと繋がる[[単線]]の連絡線が右に分岐していた。この線路は2001年に運行取りやめとなった名古屋 - JR高山駅間の直通特急「北アルプス」が1日1往復通っていた。連絡線は「北アルプス」廃止後もしばらく残されていたが、現在は線路やポイントなどが完全に撤去され、線路跡地はホーム増設用地および道路用地と建売住宅用地に転用され、当時の面影は残っていない。「犬山線」としては新鵜沼駅が終点で、名鉄名古屋駅方面から来たミュースカイ、特急や急行などの多くの列車がこの駅で折り返しているが、犬山駅発の急行や普通は早朝の一部を除いてそのまま[[名鉄各務原線|各務原線]]へと直通していく。逆に各務原線から新鵜沼駅に到着した列車は、そのまま犬山駅方面に運行され、各務原線も犬山駅が運行上の起点・終点となっている。 == 運行形態 == {{出典の明記|section=1|date=2014年10月4日 (土) 10:09 (UTC)}} {{更新|date=2023年2月|section=1}} [[名鉄名古屋駅]]方面との直通が基本で、[[上小田井駅]]から[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]に直通する列車もある。また名古屋方面と[[名鉄各務原線|各務原線]]・[[名鉄広見線|広見線]]との直通運転も行っているが、名古屋方面と各務原線との直通運転は2008年12月27日のダイヤ改正以後は減少し、2023年3月18日のダイヤ改正以後は完全に消滅した。 岩倉駅・布袋駅・[[柏森駅]]・[[扶桑駅]]・[[犬山駅]]・[[新鵜沼駅]]では列車の折り返しが可能であるが、犬山駅、布袋駅の折り返し設備を除きほとんどが上小田井・名古屋方面向きのみである。線内で利用者最多の江南駅にはスペースの都合上折り返し設備・待避線が無い。2018年には[[下小田井駅]]に片渡り線が設置され、岩倉・犬山方面への折り返しが可能となったが、現状使用実績はない。上小田井駅は地下鉄鶴舞線からの列車のみが折り返し可能であり、名鉄名古屋方面へは折り返しができない。 列車種別は[[名鉄特急|ミュースカイ]]・[[快速特急]]・[[特別急行列車|特急]]・[[快速急行]]・[[急行列車|急行]]・[[準急列車|準急]]・[[普通列車|普通]]の7種類である。ミュースカイ・快速特急・特急については「[[名鉄特急]]」も参照のこと。 {| class="wikitable" style="font-size:85%;" |+日中の運行パターン |- !colspan="2" rowspan="2"|種別\駅名 !colspan="1" rowspan="2" style="width:8em;"|始発駅 !colspan="1" style="width:1em;"|神宮前 !colspan="2" style="width:1em;"|金山 !… !colspan="2" style="width:1em;"|名鉄名古屋 !… !colspan="2" style="width:1em;"|枇杷島分岐点 !… !colspan="2" style="width:1em;"|上小田井 !… !colspan="2" style="width:1em;"|岩倉 !… !colspan="2" style="width:1em;"|柏森 !… !colspan="2" style="width:1em;"|犬山 !colspan="1" style="width:1em;"|犬山遊園 !colspan="2" style="width:1em;"|新鵜沼 !… !colspan="2" style="width:1em;"|新那加 !… !colspan="2" style="width:1em;"|名鉄岐阜 !rowspan="2" style="width:4em;"|本数 |-style="text-align:center;" ! colspan="8"|名古屋本線 ! colspan="15"|犬山線 ! colspan="7"|各務原線 |-style="text-align:center;" ! rowspan="19" style="width:1em;"|運行範囲 |-style="text-align:center;" | style="background:#ff8080;"|快速特急 | rowspan="2" style="background:#fff;"|豊橋 | colspan="23" style="background:#ff8080;"|(犬山方面のみ運転&nbsp;→) | colspan="7"| &nbsp; | 片道2本 |-style="text-align:center;" | style="background:#f96;"|特急 | colspan="23" style="background:#f96;"|(←&nbsp;豊橋方面のみ運転) | colspan="7"| &nbsp; | 片道2本 |-style="text-align:center;" | rowspan="1" style="background:#cdf;"|急行 | style="background:#fff;"|河和 | colspan="23" style="background:#cdf;"| &nbsp; | colspan="7"| &nbsp; | 2本 |-style="text-align:center;" | style="background:#cf9;"|準急 | style="background:#fff;"|中部国際空港 | colspan="14" style="background:#cf9;"| &nbsp; | colspan="6" style="background:#dfa;"|(各駅停車区間) | colspan="10" style="text-align:left;"|→新可児 | 2本 |-style="text-align:center;" | rowspan="4" style="background:#ddd;"|普通 | rowspan="2" style="background:#fff;"|東岡崎 | colspan="20" style="background:#ddd;"| &nbsp; | colspan="10" style="background:#fff;"| &nbsp; |2本 |-style="text-align:center;" | colspan="14" style="background:#ddd;"| &nbsp; | colspan="16" style="background:#fff;"| &nbsp; | 2本 |-style="text-align:center;" | style="background:#fff;"|豊田市・赤池 | colspan="11" style="background:#fff;" style="text-align:right;"|地下鉄 鶴舞線 ← | colspan="3" style="background:#ddd;"| &nbsp; | colspan="3" style="background:#bbb;"|※ | colspan="13" style="background:#fff;"|※は平日夕方のみ | 平日1本<br/>休日2本 |-style="text-align:center;" | style="background:#fff;"|犬山 | colspan="20" style="background:#fff;"| &nbsp; | colspan="10" style="background:#ddd;"| &nbsp; | 2本 |} === ミュースカイ === {{See also|名鉄特急#常滑線・空港線(ミュースカイ)}} 全列車が[[名鉄2000系電車|2000系]]による運行で、大半の列車が新鵜沼駅 - [[中部国際空港駅]]間で全日朝夕を中心に運転される。 朝上りには新可児駅発が平日3本、休日1本があったが、2019年3月16日のダイヤ改正で平日の1本が新鵜沼発の増結にまわされたため実質1本減便された。なお、いずれも犬山駅で新鵜沼駅発と新可児駅発を併結する。併結する列車の号車番号は新鵜沼駅発車時点であらかじめ5 - 8号車(新可児駅発の列車は1 - 4号車)に設定されている。 2021年5月22日のダイヤ改正で新可児行き、三柿野発、柏森駅停車のミュースカイは全て消滅した(平日朝の新可児発は存続)。また、新鵜沼駅発着の列車も朝と夜間のごく数本を除いてほとんど消滅した。 === 特急・快速特急 === {{See also|名鉄特急#名古屋本線東部・犬山線(快速特急・特急)}} 一部特別車特急は[[2007年]][[6月30日]]のダイヤ改正で本格導入され、2008年12月27日のダイヤ改正で全列車に改められた。名鉄名古屋駅 - 犬山駅間の標準所要時分は快速特急・特急とも25分で、表定速度は68km/hである。犬山駅 - 新鵜沼駅間は駅間が短く各駅に停車するため、終点まで通して見た場合は所要29分、表定速度62km/hとなる。実際のダイヤパターンでは所要時分がさらに1 - 2分長い。なおミュースカイは遅延余裕を加味し犬山 → 名古屋を29分かけて走る。名鉄が全社的にスピードアップを進めていた1997年からの数年間は、特急が新名古屋 - 犬山間を23分で走破していた(同区間がノンストップだった頃と同等)。 一部を除いて新鵜沼駅での折り返し運転を行わず、新鵜沼駅到着後一旦犬山検車区まで回送運転を行う。また、平日の午後などに6両→8両に増結する場合は名鉄名古屋方面から6両で到着した列車が同駅での折り返しの際に名鉄岐阜方に2両増結する場合のほか、同駅で[[犬山検車場]]で8両に仕立てられた編成と名鉄名古屋方面から6両で到着した列車が車両交換される場合もある。 2008年12月のダイヤ改正までは1000系4両編成による全車特別車特急も存在していた(基本的な運転区間は新鵜沼駅 - 河和駅・内海駅。他に豊川稲荷駅や常滑駅などを発着する列車もごくわずかに存在)。このほか、1999年から空港線が開業した2005年までは[[名鉄1600系電車|1600系]]の定期運用が存在した{{Efn|空港線開業後も2005年度の多客時に2000系の代走で乗り入れたことはある。}}。ほか、[[名鉄8800系電車|8800系(パノラマDX)]](登場当時は内海駅または河和駅発着。後に西尾線吉良吉田駅発)もごく僅かではあったが乗り入れていた。2001年までは[[名鉄キハ8500系気動車|キハ8500系]]によるJR高山本線直通気動車特急「[[名鉄特急#高山本線直通列車|北アルプス]]」も犬山線を経由していた(時刻表上は高山駅発着の全車特別車特急の扱いで新鵜沼駅は通過)。 ; 快速特急(一部特別車) : 下りのみの運転である。平日朝が毎時1本でそれ以外の時間帯は毎時2本運転される。犬山線内の停車駅は特急と同じだが、この系統は国府駅と新安城駅を通過する関係で快速特急として運行している。全列車が新鵜沼駅 - 豊橋駅間で運行される。車両は[[名鉄1000系電車#1200系|1200系]]、[[名鉄2200系電車|2200系]]6両で運転される。ラッシュ時には[[名鉄1000系電車#1800系・1850系|1800系]]や[[名鉄3500系電車 (2代)|3100系]]・[[名鉄3300系電車 (3代)|3150系]]・[[名鉄9500系電車|9100系]]を増結した8両編成で運行される。 ; 特急(一部特別車) : 基本的には新鵜沼駅 - 豊橋駅間の上りで毎時2本運行される。(平日8時台・土休日6-9時台は1本)それ以外の列車として新鵜沼駅 - 中部国際空港駅が平日1往復、土休日下り1本、新鵜沼駅 - 河和駅が平日下り1本、新鵜沼駅 - 内海駅が平日下り2本、同上り1本、新鵜沼駅 - 伊奈駅が平日上り1本、新可児駅 - 豊橋駅が土休日上り3本、犬山駅 - 豊橋駅間が平日下り1本設定されている。車両は[[名鉄1000系電車#1200系|1200系]]、[[名鉄2200系電車|2200系]]6両で運転される。ラッシュ時には[[名鉄1000系電車#1800系・1850系|1800系]]や[[名鉄3500系電車 (2代)|3100系]]・[[名鉄3300系電車 (3代)|3150系]]・[[名鉄9500系電車|9100系]]を増結した8両編成で運行される。新可児駅発の特急は2023年3月のダイヤ改正で新鵜沼駅発に変更となり、消滅した。 === 快速急行・急行・準急 === 日中は準急と急行が毎時2本ずつ運転されている。原則、運転系統は以下のようになる。 : 新鵜沼駅 -(急行)- 知多半田駅 - (普通) - 河和駅 : 新可児駅 -(普通)- 犬山駅 -(準急)- [[中部国際空港駅]] 快速急行は平日朝ラッシュ時上りのみの種別で内海行きと中部国際空港行きの2本が[[名鉄5000系電車 (2代)|5000系]]8両編成で運転され、いずれも名鉄名古屋駅で急行に種別変更する。 名鉄名古屋 - 岩倉間は前述の一部特別車の特急と合わせてほぼ10分間隔で運転される。かつて上りの一部列車(主に広見線直通列車)は2005年1月改正まで布袋駅・岩倉駅・西春駅のいずれかで新鵜沼駅から来る'''全車特別車特急'''に1度だけ追い越されていたが、現在はほとんど待避しない。ただし、平日朝ラッシュ時には下り列車の一部は岩倉駅などで待避することがある。 準急は岩倉駅以北は各駅に停車する。準急が運転される時間帯は平日と休日で異なり、休日は6 - 23時台とほぼ終日であるのに対し、平日は7 - 23時台(上りは8時台から、下りは22時台まで)となっている。なお、犬山駅を越えて広見線方面へ運転される列車(新可児行き)はすべて犬山駅で普通に種別変更する(犬山止まりのほかに、2023年3月以降は新鵜沼駅発着の列車もある)ため、犬山駅以南の主要駅ホームの自動放送では犬山駅までの停車駅(全駅)を読み上げた後に「犬山から普通に変わります」と放送している。 最終の名鉄名古屋駅23:59発の中部国際空港駅発新鵜沼行き急行は[[東京駅]]22:03発の[[東海道新幹線]]最終「[[ひかり (列車)|ひかり]]」から接続するダイヤとなっている。なお、上りの最終は岩倉駅以北の急行停車駅は新鵜沼駅発鳴海行き急行であるが、この列車は西春駅で先行する犬山駅発鳴海行き普通を追い越すため、西春駅と上小田井駅からの名鉄名古屋方面への最終は鳴海行き普通である。 平日朝には[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|地下鉄鶴舞線]]からの急行が岩倉駅まで2本、犬山駅まで3本、いずれも下りにのみ設定されている(折り返しはすべて普通)。使用車両はすべて名古屋市交通局所有の[[名古屋市交通局3050形電車|3050形]]、または[[名古屋市交通局N3000形電車|N3000形]]電車で、名鉄所有の[[名鉄100系電車|100系]]による運用は設定されていない。 2008年12月改正まで、急行・準急と犬山駅発着の普通(地下鉄直通含む)は岩倉駅で接続をとっていたが、現在では基本のダイヤパターンでは上小田井駅での同駅折り返しの鶴舞線電車との接続を除き、準急と岩倉駅折り返しの名鉄名古屋方面直通の普通が接続するのみ(休日のみ西春駅で地下鉄直通の普通とも接続する)となり、急行は途中駅で普通と接続しなくなった。 犬山駅における各線との接続時分は、各務原線へは急行で8 - 9分ほど、準急で6 - 7分ほどで、[[名鉄小牧線|小牧線]]へは急行・準急とも下りは11 - 12分ほど(上りは7分ほど)で、広見線へは急行で4 - 6分ほどとなっている。また、原則として広見線に直通する準急は犬山駅で後続の快速特急・特急に接続するために5分ほど停車する。 2023年3月改正まで朝のみに設定されていた、各務原線に直通する列車は、金山駅・神宮前駅・名鉄名古屋駅・栄生駅で行う駅員や車掌による放送では「犬山方面行き」とのみ案内された。神宮前駅以東では普通に「名古屋方面の犬山経由岐阜行き」と放送されるほか、神宮前駅、金山駅の駅自動放送では「名古屋、犬山方面の犬山経由岐阜行き」と放送される。これは名古屋本線一宮経由の岐阜行きも頻繁に発着しており、誤乗を避けるためである。なお、2008年12月のダイヤ改正までは各務原線直通の準急・急行が終日設定されていた(誤乗が多いと苦情があり直通を中止)。2000年3月改正までは終日全区間通しで急行運転を行っていたが、同改正で全区間急行運転するのは朝と夕方以降のみとなり、昼は[[三柿野駅]] - 岐阜駅間で普通として運転されるようになり、さらに翌年10月の改正以降は昼間は各務原線内全区間で普通として運転されていた。また、2008年12月改正前までは、昼間は上りは河和駅・内海駅 - 新可児駅(新可児駅で御嵩駅発の普通から接続)と中部国際空港駅 - 名鉄岐阜駅(各務原線経由)、下りは河和駅・内海駅 - 名鉄岐阜駅(各務原線経由)と中部国際空港駅 - 新可児駅(新可児駅で普通御嵩駅行きに接続)という折り返しパターンだった。 広見線直通系統は2008年6月29日改正までは平日の夕ラッシュ時には御嵩駅まで直通していたが、同改正をもって新可児駅 - 御嵩駅間が終日同区間内での折り返し運転(朝10時以降は全列車ワンマン運転)に変更されたため直通運用は廃止された。また、2003年3月27日改正までは全日ともほぼ終日御嵩駅までの直通列車が設定されていた(直通しない場合、終点の新可児駅または明智駅で御嵩行きに接続)。 広見線・各務原線に直通する急行または準急が犬山から普通になる場合、大抵犬山駅で切り離しを行う(8両の場合はすべて。6両の場合、岐阜行きは一部のみ)。その切り離した列車を各務原線の名鉄岐阜駅行きや広見線の新可児駅行きにすることもあるが、車内での案内はなく、基本的に「前(後)○両は犬山止まりです」という案内のみ行う。ただし、変わる場合は犬山駅到着直前に案内放送が流れる。 急行は平日の昼と夜および休日の一部列車を除き6両編成(平日の夕ラッシュ時はすべて6両で運転)、準急は平日朝の下りと夕ラッシュ時の列車と休日の一部の列車が6両となる{{Efn|広見線内は4両で運転。ただし、平日に限り、6000系列の6両編成を使用し、犬山駅での切り離しを行わず、広見線も含めた全区間を6両で運転される列車が2往復半設定されている。}}。ほかは4両編成での運転が基本となっているが、一部の急行が4両で運転されている。4両での運転は昼間のほか、深夜の時間帯にも見られるが、特に深夜の下りは上小田井駅 - 岩倉駅間で混雑することが多い。なお、平日の急行は昼間帯が4両で運転されるのに対して前述のとおり夕ラッシュ時はすべて6両での運転となるため、新鵜沼駅・河和駅・内海駅で車両交換を行うことも多い。 急行の使用車両は3ドアの通勤形各種が混用されているが、6両編成の列車には[[名鉄6000系電車|6000系列]]または[[名鉄3500系電車 (2代)|3500系]]や[[名鉄3300系電車 (3代)|3300系]]、[[名鉄9500系電車|9500系]]などが使用される。 2019年3月改正以前は、休日には5300系または5700系4両編成での運行が下り1本のみ設定されていた。準急は完全に3ドアの通勤形による運用で、平日の運用は6000系列5運用と3000系列(9000番台を含む)3運用で構成され、この中には6000系の蒲郡線・広見線ワンマン仕様車による間合い運用が存在する。休日は6000系列4運用と3000系列3運用と5000系1運用で構成される。なお、2011年3月改正以前は平日にも昼間帯に限り[[名鉄5000系電車 (2代)|5000系]]による運用が2運用分設定されていたほか、3000系列主体で運用が構成されていた。また、急行・準急とも5000系が就役した2008年春までは[[名鉄7000系電車|パノラマカー]]の6両編成も多数使用されていた。 早朝には平日に豊川稲荷行きと河和行き(いずれも新鵜沼駅発)、休日に伊奈駅発新鵜沼行き(2023年3月までは犬山行き)で一部特別車特急用の車両による急行運用が存在する。河和行きは1200系、豊川稲荷行きは2200系の6両、新鵜沼行きは2200系の8両で運転され、いずれの場合も特別車2両は締切扱いとなっていたが、2021年3月15日から平日の豊川稲荷行きと河和行きに限り特別車が開放され、当該列車のミューチケットが発売されている<ref name="response20210306" />。 所要時分は名鉄名古屋駅 - 犬山駅間が急行で32分、準急で36分前後である。1990年代には28分まで短縮したこともあった(栄生駅と上小田井駅と扶桑駅を通過し、途中駅で待避をしない場合)が、現在は余裕のあるダイヤとなっている。また、[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]に所属する[[栄生駅]]は快速急行は通過し、急行と準急は停車する。2005年までの急行は朝は(休日のみ)栄生駅と[[扶桑駅]]の両方を通過し、昼間は栄生駅に停車、夕方ラッシュ時は両方に停車、夜は扶桑駅に停車していた。他に、平日朝ラッシュ時には、普通列車を補完するために[[下小田井駅]]や[[中小田井駅]]に特別停車する急行もある(前述の1200系による河和行きも該当)。1993年までは徳重駅(現・徳重・名古屋芸大駅)に停車する準急(1990年10月改正からは急行の特別停車)もあったが、現在は同駅に優等列車は1本も停車しない。また、2001年9月30日までは上小田井駅は急行停車駅ではなかったために日中は基本的に通過し、主に朝夕ラッシュに特別停車していた。 毎年8月10日に各務原市で行われる「日本ライン夏まつり」の時には新鵜沼駅発岩倉行き急行が臨時列車として運転される場合もある。 ミュースカイを除く全特急列車が一部特別車化される以前(特にほぼ全特急列車が全車特別車であった2007年6月改正以前)は平日の夕ラッシュ時の下りの急行は混雑率が高かったため、下りのみ1本増発(2005年1月改正まで。晩年は神宮前駅始発で新名古屋駅発で18時台にのみ、2003年3月改正までは東岡崎駅始発{{Efn|[[鳴海駅]]までは普通で、同駅で急行に種別変更後、[[本笠寺駅]]にも停車。}}で新名古屋駅発で17、18時台に。行き先はいずれも新鵜沼行き)されたり、太田川駅(1994年3月改正から2000年3月改正までは豊橋駅)→犬山駅間で8両に増結(2008年12月改正まで)されたりしていた。このほか、2008年6月改正までは平日朝に犬山経由岐阜・新可児行き急行、同年12月改正までは平日の夕方に中部国際空港(空港線開業までは常滑行き)・内海行き準急(名鉄名古屋駅からは急行。2005年1月改正までは犬山線内も急行として運転)が設定され、いずれも8両での運転でそれぞれ犬山駅と太田川駅で分割していた。 2023年3月改正をもって犬山駅以南から各務原線への直通列車が完全に消滅したため、朝ラッシュに新鵜沼駅発着の列車が増加している。 === 普通 === 名古屋方面の列車は1時間当たり、岩倉駅 - [[東岡崎駅]]間が2往復、犬山駅 - 東岡崎駅間が2往復の設定である。深夜の列車は[[豊明駅]]や[[鳴海駅]]までの運転となる。犬山駅発着のものは西春駅で快速特急・特急の通過待ちを行うのを基本とし、岩倉駅折り返しのものは、岩倉駅で準急と接続し、時間帯によって半数は西春駅でミュースカイの通過待ちをするのが基本となっている。 深夜には、平日・休日とも犬山駅発新鵜沼行きという、わずか2区間のみの列車が片道1本のみ設定されている。この列車は犬山駅で中部国際空港駅発新可児行き準急{{Efn|神宮前駅までは急行で、犬山駅からは普通となる。}}と接続し、一部特別車編成の6両編成{{Efn|平日は1200系、休日は2200系で運転される。}}で運転されている。この1本のほか、休日の早朝には2200系による新鵜沼駅発河和行き普通(名鉄名古屋駅からは急行となり、[[知多半田駅]]で再度普通に種別変更)が1本設定されている。いずれの列車も特別車2両は締切扱いとなっている。 早朝には、岩倉駅 - 下小田井駅の各駅から名古屋方面への始発列車でもある岩倉駅5:21発中部国際空港行きが設定されている。この列車は名鉄名古屋駅で準急に種別変更する(この列車は空港線が開業した2005年1月改正で設定され、当初は急行であった)。これ以外にも、平日の朝には名鉄名古屋駅で準急に種別変更する岩倉駅発中部国際空港行きがもう1本設定されているほか、名鉄名古屋駅から急行となる各務原線名鉄岐阜駅発豊橋行きと岩倉駅発豊明行きが各1本設定されている。特に豊橋行きのものは始発駅から急行に種別変更をした後の停車駅である[[新安城駅]]まで後続の列車に抜かされずに先着するダイヤが組まれている。 地下鉄鶴舞線直通列車は岩倉駅までの運転が基本であるが、平日の夕方は柏森駅まで、朝と夜は犬山駅まで区間延長される。また、平日朝には扶桑駅発着の列車が1往復設定されている(名古屋市交通局の車両を充当)。快速急行・急行・準急が上小田井駅に停車して鶴舞線と接続するので、犬山線内の鶴舞線直通の普通電車の利用者は余り多くはない。運転本数は平日の昼間は1時間に1本、休日と平日の夕方は毎時2本となる。また、平日朝は運転本数がこれより増加する。上り方は[[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]]または[[豊田市駅]]まで運転され、犬山駅から豊田市駅までの長距離各駅停車も運転されることがある。基本的に岩倉駅で快速特急・特急と接続するダイヤが組まれているが、平日夕方の柏森駅発着のものは布袋駅で快速特急・特急の通過待ちを行う。また、休日の列車はほとんどが西春駅で準急を待避する(平日は上小田井駅で準急と接続する)。1999年までは朝ラッシュ時、[[大山寺駅 (愛知県)|大山寺駅]]や徳重駅(現・[[徳重・名古屋芸大駅]])を通過する列車があった。また、上小田井駅が急行停車駅となった2001年10月改正までは犬山駅発着と岩倉駅発着が毎時2往復ずつ設定され、上小田井駅 - 岩倉駅間では昼間でも新名古屋方面(当時)直通のものと合わせて普通が毎時8往復運転されていた。 地下鉄直通はすべて20m4扉車の6両であるが、名古屋方面の普通は3扉4両が基本ではあるが2両だったり6両だったりとバラバラである。近年は昼間や夕方・夜間など減車化が目立ち、昼間は3100系などによる2両編成での運用も多い。夕方(この時間帯の2両での運行は休日のみ)や夜間の時間帯でも2両編成で運行されることがある。そのため夜間帯などでは上小田井駅で6両の地下鉄車から2両の普通に乗り換えることになり、朝のラッシュ並みに混雑することがある。6両での運行は主に平日の朝のラッシュ時間帯のほか、昼過ぎの下り犬山行きで見られ、後者は6000系列や3000系列で運行され、犬山駅では1番線に入線し、到着後すぐに新鵜沼駅まで回送され、新鵜沼駅に到着後、折り返し急行河和行きか内海行きとなるパターンが多い(平日1597列車・犬山16時28分着など)。なお、岩倉駅以北の急行通過駅や大山寺駅以南の各駅における上り名鉄名古屋方面への最終である犬山駅発鳴海行き普通は1800系2両編成で運転されている。9500系導入前までは、SR車による運用が存在していた。 2008年12月改正までは鶴舞線直通も犬山駅までの直通が基本となっていて、岩倉駅 - 犬山駅間では、名鉄名古屋方面 - 犬山駅間の普通と合わせて毎時4本の設定で岩倉駅で急行・準急のいずれかと緩急接続するダイヤが基本だった。同改正以降、準急が岩倉以北各駅停車となっているため、岩倉 - 犬山間で普通が毎時4本運転される時間帯は少なくなっている。また、急行と普通の緩急接続も少なくなった。 犬山駅 - 新鵜沼駅間は全列車が途中の犬山遊園駅にも停車するが、昼間の普通列車は岐阜行きと犬山行きの毎時各2本のみである。基本的には犬山駅または新鵜沼駅で特急・急行に相互接続が行われている。犬山駅・新鵜沼駅では一部の時間帯を除き、構内の階段の昇降を要するので、階段の昇降不要な犬山遊園駅での乗り換えが推奨されている。 日本ライン夏まつりのときなどは通常犬山止まりの名古屋・小牧方面からの普通が新鵜沼まで臨時に延長運転される。2009年 - 2011年の8月の日本ライン夏まつりの時は岩倉駅 - 犬山駅間は臨時列車扱いで、岩倉発岐阜行きの普通が数本運転されていた。 === 列車種別・停車駅の変遷 === ; 1936年8月改正 :* 高山本線直通運転を開始。下呂行き特急を1往復設定(1932年10月8日改正、高山本線との直通運転は戦時中に廃止)。 : [[File:Line map of Meitetsu Inuyama Line (1936).svg|720px|停車駅]] : ; 1953年6月28日改正 :* 新名古屋駅開業(1941年8月12日改正)。 :* 広見線の起点を犬山駅に変更(1946年3月1日)。 :* 高山本線連絡急行を設定(1950年9月17日改正)。 :* 御嵩口駅 - 御嵩駅間開通(1952年4月1日)。 : [[File:Line map of Meitetsu Inuyama Line (1953).svg|720px|停車駅]] : ; 1969年7月6日改正 :* 新鵜沼駅の配線変更により、犬山線と各務原線とで直通運転を開始(1964年3月15日改正)。 :* 犬山線に特急を設定(1965年3月21日改正)。 :* 一宮線廃止(1965年4月25日) :* 各務原線、広見線に特急を設定(1965年9月15日改正)。 :* 急行列車を廃止し、特急・準急・普通の3種別体制とする(1967年8月22日改正)。 : [[File:Line map of Meitetsu Inuyama Line (1969).svg|720px|停車駅]] : ; 1979年7月29日改正 :* 急行を復活(1970年12月25日改正)。 :* 座席指定でない特急を「高速」とし、特急・高速・急行・準急・普通の5種別体制とする(1977年3月20日改正)。 : [[File:Line map of Meitetsu Inuyama Line (1979).svg|720px|停車駅]] : ; 1985年3月14日改正 :* 高速を廃止(1982年3月21日改正)。 :* [[名鉄8800系電車|8800系]](パノラマDX)を使用した「デラックス特急」を設定(1984年12月15日改正)。 : [[File:Line map of Meitetsu Inuyama Line (1985).svg|720px|停車駅]] : ; 1997年4月5日改正 :* 準急を急行に統合し、デラックス特急・特急・急行・普通の4種別体制とする(1990年10月29日改正)。 :* デラックス特急を廃止(1992年11月24日改正)。 : [[File:Line map of Meitetsu Inuyama Line (1997).svg|720px|停車駅]] : ; 2005年1月29日改正 :* 八百津線廃止(2001年10月1日)。 :* 快速特急、快速急行を設定し、準急を復活。快速特急・特急・快速急行・急行・準急・普通の6種別体制とする(ただし各務原線、広見線の快速急行は案内上存在するのみで、実際には設定されていない)。 : [[File:Line map of Meitetsu Inuyama Line (2005).svg|720px|停車駅]] : ; 2008年12月27日改正 :* 広見線の快速急行を停車案内から削除(2007年6月30日改正)。 :* ミュースカイを設定。各務原線の快速急行を停車案内から削除。 : [[File:Line map of Meitetsu Inuyama Line (2008).svg|720px|停車駅]] : ; 2023年3月18日改正 (現行ダイヤ) :* 各務原線に快速急行を設定。広見線の急行、各務原線の準急を廃止(2011年12月17日改正)。 :* 各務原線のミュースカイを廃止(2021年5月22日改正)。 :* 広見線の特急、各務原線の快速急行・急行を廃止。 : [[File:Line map of Meitetsu Inuyama Line (2023).svg|720px|停車駅]] == 利用状況 == 愛知県の統計によれば、枇杷島分岐点 - 犬山遊園駅間における2010年度の輸送人員は56,503千人(うち定期37,664千人)、延人キロは692,915千人kmであった<ref>愛知県統計年鑑(平成24年度刊)10-6「鉄道輸送状況」より。翌年度から愛知県内合計のみの記載となっているため、路線別の情報としては最新となる。</ref>。 == 歴史 == {{出典の明記|date=2018年6月|section=1}} [[ファイル:Inuyamabashi-Bridge.jpg|thumb|right|250px|併用橋時代の犬山橋 (1996年11月)]] {{See also|名鉄一宮線#歴史}} [[名古屋電気鉄道]]が一宮線[[押切町駅|押切町]](廃止) - 西印田間、犬山線岩倉 - 犬山間を[[1912年]]までに開業したのが始まり。名古屋電気鉄道は市内線を[[名古屋市]]に譲渡することになり、郡部線を新会社の名古屋鉄道に移管した。しかしその後も新名古屋駅(現、名鉄名古屋駅)への延伸が果たせる[[1941年]]まで、郡部線の電車が[[名古屋市電]]に乗り入れ[[柳橋駅 (愛知県)|柳橋駅]]を発着駅としていた。 名古屋鉄道は関線として犬山から[[関市|関]]までの延伸を計画したが、新鵜沼駅までの開業にとどまり、関までの延伸線の免許は1927年に失効した<ref>1921年5月17日鉄道免許(名古屋電気鉄道)[{{NDLDC|2954752/8}} 『官報』1921年5月18日]、1927年8月9日免許失効[{{NDLDC|2956644/4}} 『官報』1927年8月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 なお[[2000年]]までは、犬山遊園駅 - 新鵜沼駅間に存在する[[犬山橋]]が、[[鉄道]]に準拠する最後の[[鉄道道路併用橋]]として知られていた。現在では並行して道路橋が架けられたため、犬山橋は鉄道専用橋になっている。 === 年表 === * 1907年([[明治]]40年)12月10日:名古屋電気鉄道に対し軌道特許状下付(菊井町-丹波郡犬山町間)<ref>[{{NDLDC|805361/41}} 『鉄道院年報. 明治42年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1910年]](明治43年)[[5月6日]]:名古屋電気鉄道が枇杷島線として押切町 - 枇杷島間を開業<ref>[{{NDLDC|805361/85}} 『鉄道院年報. 明治43年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1912年]](明治45年/大正元年) ** [[3月29日]]:押切町 - 枇杷島間を[[軌道条例]]による軌道から[[軽便鉄道法]]による鉄道に変更し<ref>[{{NDLDC|2951992/6}} 「軽便鉄道指定」『官報』1912年4月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、一宮線とする ** [[8月6日]]:一宮線 枇杷島 - 枇杷島橋(現、枇杷島分岐点) - 岩倉 - 西印田間、犬山線 岩倉 - 犬山間が開業<ref>[{{NDLDC|2952131/8}} 「軽便鉄道運輸開始並停車場名称、哩程変更」『官報』1912年9月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、一宮線と犬山線犬山口 - 犬山間は複線 * [[1913年]]([[大正]]2年) ** [[1月25日]]:一宮線 西印田 - 東一宮間が開業、西印田駅廃止<ref>[{{NDLDC|2952253/4}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1913年2月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** [[3月27日]]:稲荷駅を稲荷前駅に、小折駅を小折口駅に、高雄駅を下野駅に改称の旨届出<ref>[{{NDLDC|2952299/5}} 「軽便鉄道駅名改称」『官報』1913年4月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** [[10月1日]]:平田橋(現、上小田井) - 西春間に九ノ坪駅開業<ref>[{{NDLDC|2952462/7}} 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1913年10月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** [[11月20日]]:柳橋駅が開業、一宮線・犬山線の電車が発着 * [[1915年]](大正4年)[[2月5日]]:大山寺駅開業<ref>[{{NDLDC|2952863/6}} 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1915年2月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1921年]](大正10年) ** 5月17日:鉄道免許状下付(丹羽郡犬山町-武儀郡関町)<ref>[{{NDLDC|2954752/8}} 「鉄道免許状下付」『官報』1921年5月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** [[7月1日]]:名古屋電気鉄道が一宮線・犬山線を名古屋鉄道へ譲渡<ref>6月13日臨時株主総会可決[{{NDLDC|2954821/11}} 「鉄道譲渡」『官報』1921年8月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1922年]](大正11年)[[7月21日]]:岩倉 - 犬山口間が複線化 * [[1926年]](大正15年) ** [[5月2日]]:関線として犬山 - 犬山橋(現、犬山遊園)間が開業<ref>[{{NDLDC|2956260/8}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年5月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 10月1日:関線 犬山橋 - 新鵜沼間開業<ref>[{{NDLDC|2956387/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年10月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、関線を犬山線に編入し、岩倉 - 新鵜沼間が犬山線に * [[1927年]]([[昭和]]2年)11月20日:[[名古屋鉄道デセホ700形電車|デセホ700形]]の特別仕様車3両を使用し、押切町 - 犬山橋間でお召し列車を運行 * [[1941年]](昭和16年)[[8月12日]]:新名古屋駅(現、名鉄名古屋駅)の開業に伴い一宮線の押切町 - 枇杷島橋間が廃止、枇杷島橋 - 新鵜沼間が犬山線、岩倉 - 東一宮間が[[名鉄一宮線|一宮線]]となる * [[1944年]](昭和19年): 九ノ坪駅、徳重駅、稲荷前駅、小折口駅、宮後駅、木津用水駅、犬山橋駅休止 * [[1946年]](昭和21年)[[9月15日]]:徳重駅営業再開 * [[1947年]](昭和22年)[[4月5日]]:犬山橋駅営業再開 * [[1948年]](昭和23年) ** [[2月1日]]:下野駅を扶桑駅に改称 ** [[5月12日]]:犬山線・一宮線の架線電圧を600Vから1500Vに昇圧 * [[1949年]](昭和24年) ** [[8月1日]]:枇杷島橋駅を廃止して枇杷島分岐点とする(信号扱い上、同分岐点と下砂杁信号場を西枇杷島駅に統合)<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=982}}</ref>。 ** [[12月1日]]:犬山橋駅を犬山遊園駅に改称 * [[1952年]](昭和27年)[[11月18日]]:木津用水駅営業再開 * [[1965年]](昭和40年)[[4月25日]]:一宮線 岩倉 - 東一宮間が廃止(現在は同区間の名鉄バス運行) * [[1966年]](昭和41年)2月10日:犬山駅ニチボー専用線(0.2 km)廃止<ref name=KList>{{Cite book|和書|author1=清水武|author2=田中義人|author3=澤内一晃|year =2021|title = 名古屋鉄道の貨物輸送|publisher =フォト・パブリッシング|isbn=978-4802132701|page=268}}</ref>。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[5月12日]]:名古屋本線に次いで区間最高速度を110km/hに向上 ** 12月1日:木津用水駅東洋紡績専用線(4.0 km)廃止<ref name=KList/>。 * [[1969年]](昭和44年)4月5日:休止中の九ノ坪駅、稲荷前駅、小折口駅、宮後駅廃止 * [[1970年]](昭和45年)4月1日:布袋駅福玉精麦専用線(0.1km)廃止<ref name=KList/>。 * [[1981年]](昭和56年)[[11月10日]]:古知野駅を江南駅に改称 * [[1982年]](昭和57年)[[3月21日]]:新名古屋 - 犬山間の急行列車を毎時4本に増発(高速の格下げ)、新名古屋 - 岩倉間の普通列車を毎時4本に増発(準急の格下げ) * [[1986年]](昭和61年)[[7月6日]]:平田橋 - 西春間高架化 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[10月29日]]:準急を急行に統合の上で廃止、種別が特急・急行・普通の3種別となった * [[1991年]](平成3年)[[10月27日]]:中小田井 - 上小田井間高架化が完成し平田橋駅を330m南に移転し上小田井駅に改称 * [[1993年]](平成5年)8月12日:名古屋市営地下鉄鶴舞線と相互直通運転を開始、上小田井に一部の急行が停車するようになる * [[1996年]](平成8年)[[4月8日]]:平日朝の下り1本のみ豊橋発の一部特別車特急を新設 * [[2000年]](平成12年)[[3月28日]]:道路専用橋の犬山橋(ツインブリッジ)<!--新設道路橋も正式名称は「犬山橋」-->が完成し鉄道橋と分離、犬山橋含む犬山遊園 - 新鵜沼間の併用軌道を専用軌道化。 * [[2001年]](平成13年)[[10月1日]]:JR高山本線直通特急「北アルプス号」廃止、上小田井が急行停車駅に昇格 * [[2004年]](平成16年)[[2月15日]]:共通カードシステムの[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]導入(現在は廃止) * [[2005年]](平成17年)[[1月29日]]:徳重駅を徳重・名古屋芸大駅に改称、空港線開業に伴うダイヤ改正により、運行種別が快速特急・快速急行・準急を加え、6つとなった。また、扶桑駅が準急停車駅となった。 * [[2007年]](平成19年)[[6月30日]]:特急の大半を一部特別車化 * [[2008年]](平成20年) ** [[6月29日]]:最終の準急新鵜沼行き(現在は急行)の時刻を繰り下げ。 ** [[12月27日]]:快速特急・特急の全列車が一部特別車となり、全車特別車のものはミュースカイに改称されたため、運行種別は7つとなった。また、柏森駅は快速特急停車駅、扶桑駅は快速急行停車駅となり、石仏駅、木津用水駅、犬山口駅は準急停車駅となった(準急は岩倉以北全駅に停車となった)。 * [[2017年]](平成29年)[[6月10日]]:布袋駅付近でかねてから着手していた高架化事業の進捗により、上り線(岩倉方面)を高架化<ref>{{Cite web|和書|title=名鉄犬山線の布袋駅、上り線が高架に 6月10日から|publisher=Response.|url=https://response.jp/article/2017/05/22/295040.html|date=2017-05-22|accessdate=2017-05-22}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=犬山線 布袋駅付近鉄道高架事業に伴い 6月10日(土)から上り線を高架に切り替えて運行を開始します |url=http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2017/__icsFiles/afieldfile/2017/05/22/release170522_hotei.pdf |publisher=名古屋鉄道 |format=PDF |date=2017-05-22 |accessdate=2017-05-23}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[5月30日]]:布袋駅付近の下り線(犬山方面)が高架化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2020/__icsFiles/afieldfile/2020/05/15/release200515_hoteikoka.pdf|title=犬山線 布袋駅付近鉄道高架化事業に伴い5月30日(土)から下り線を高架に切り替えて運行を開始します|date=2020-05-15|accessdate=2020-05-15|publisher=名古屋鉄道株式会社|format=PDF}}</ref>。愛知県建設部方針2020によれば、布袋駅付近の下り線高架切り替えは2019年度の予定であったが<ref>{{Cite web|和書|title=愛知県建設部方針2020 |url=https://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/273194.pdf#page=46 |publisher=愛知県建設企画課 |format=PDF |page=46 |accessdate=2019-06-01}}</ref>、[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス流行]]の影響で若干遅れた。 * [[2021年]](令和3年)[[3月15日]]:平日朝の一部の急行で特別車の営業を開始<ref name="response20210306">{{Cite web|和書|title=名鉄が急行で初めて特別車を営業…新鵜沼発の平日急行2本で 3月15日から|url=https://response.jp/article/2021/03/06/343712.html|website=レスポンス(Response.jp)|date=2021-03-06|accessdate=2021-03-17|language=ja}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[2月1日]]:上小田井駅以南で名古屋市の[[敬老パス (名古屋市)|敬老パス]]の利用が可能になる(無料乗車ではなくチャージ残額から乗車運賃を立て替え払いしたあと後日口座に返金となる。下小田井駅は清須市にあるため対象外)。 == 駅一覧 == * 停車駅は2023年3月18日からのもの。 * 普通列車は枇杷島分岐点、下砂杁信号場を除くすべての駅に停車(表中省略)。 * 途中駅で種別が変わる列車あり。(例:[[準急列車|準急]]豊橋行き 扶桑から急行など) ; 凡例 : 停車駅 … ●:標準停車駅 △:特別停車駅 |・↑・↓:通過(↑・↓:矢印の方向のみ運転) : 待避 … |:待避不可 ◆:上下列車とも接続追越可能 {| class="wikitable" style="font-size:90%;" rules="all" |- !style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #018b44;"|駅番号 !style="width:9em; border-bottom:solid 3px #018b44;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #018b44;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #018b44;"|営業キロ !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #018b44; background:#cf9;"|{{縦書き|準急}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #018b44; background:#cdf;"|{{縦書き|急行}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #018b44; background:#9cf;"|{{縦書き|快速急行}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #018b44; background:#f96;"|{{縦書き|特急}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #018b44; background:#ff8080"|{{縦書き|快速特急}} !style="width:1em; line-height:1em; border-bottom:solid 3px #018b44; background:#fcc;"|{{縦書き|ミュースカイ}} !style="border-bottom:solid 3px #018b44;"|接続路線・備考 !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #018b44;"|{{縦書き|待避}} !colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #018b44;"|所在地 |- |colspan="14" style="text-align:center;"|枇杷島分岐点より… {{名鉄駅番号|NH}} [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]][[名鉄名古屋駅|名鉄名古屋]]方面に[[直通運転]]<br/>上小田井駅より… [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Tsurumai Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄鶴舞線|地下鉄鶴舞線]][[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]]・{{名鉄駅番号|TT}} [[名鉄豊田線|豊田線]]経由 {{名鉄駅番号|MY}} [[名鉄三河線|三河線]][[豊田市駅]]まで直通運転 |- !&nbsp; |[[枇杷島分岐点]]* |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|(0.0) |style="background:#cf9;"|| |style="background:#cdf;"|| |style="background:#9cf;"|↑ |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |[[名古屋鉄道]]:{{名鉄駅番号|NH}} 名古屋本線 |style="text-align:center;"|| |style="width:1em;text-align:center;" rowspan="17"|{{縦書き|[[愛知県]]|height=4em}} |rowspan="2"|[[清須市]] |- !IY01 |[[下小田井駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|1.0 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#cdf;"|△ |style="background:#9cf;"|↑ |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !IY02 |[[中小田井駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|2.4 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#cdf;"|△ |style="background:#9cf;"|↑ |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |rowspan="2"|[[名古屋市]]<br />[[西区 (名古屋市)|西区]] |- !IY03 |[[上小田井駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|3.5 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|● |style="background:#9cf;"|● |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |[[名古屋市営地下鉄]]:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Tsurumai Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]] (T01)(犬山方面から一部直通運転) |style="text-align:center;"|| |- !IY04 |[[西春駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|5.9 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|● |style="background:#9cf;"|● |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◆ |style="white-space:nowrap;" rowspan="2"|[[北名古屋市]] |- !IY05 |[[徳重・名古屋芸大駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|7.3 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#cdf;"|| |style="background:#9cf;"|↑ |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !IY06 |[[大山寺駅 (愛知県)|大山寺駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|8.1 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#cdf;"|| |style="background:#9cf;"|↑ |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |rowspan="3"|[[岩倉市]] |- !IY07 |[[岩倉駅 (愛知県)|岩倉駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|9.7 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|● |style="background:#9cf;"|● |style="background:#f96;"|● |style="background:#ff8080"|● |style="background:#fcc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|◆ |- !IY08 |[[石仏駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|11.8 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|| |style="background:#9cf;"|↑ |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !IY09 |[[布袋駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|14.2 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|● |style="background:#9cf;"|● |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◆ |rowspan="2"|[[江南市]] |- !IY10 |[[江南駅 (愛知県)|江南駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|16.2 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|● |style="background:#9cf;"|● |style="background:#f96;"|● |style="background:#ff8080"|● |style="background:#fcc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !IY11 |[[柏森駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|19.0 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|● |style="background:#9cf;"|● |style="background:#f96;"|● |style="background:#ff8080"|● |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |rowspan="3"|[[丹羽郡]]<br />[[扶桑町]] |- !IY12 |[[扶桑駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|21.2 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|● |style="background:#9cf;"|● |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◆ |- !IY13 |[[木津用水駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|22.6 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|| |style="background:#9cf;"|↑ |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !IY14 |[[犬山口駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|24.0 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|| |style="background:#9cf;"|↑ |style="background:#f96;"|| |style="background:#ff8080"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |rowspan="3"|[[犬山市]] |- !IY15 |[[犬山駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|24.9 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|● |style="background:#9cf;"|● |style="background:#f96;"|● |style="background:#ff8080"|● |style="background:#fcc;"|● |名古屋鉄道:{{名鉄駅番号|KM}} [[名鉄小牧線|小牧線]]・{{名鉄駅番号|HM}} [[名鉄広見線|広見線]]([[新可児駅]]まで一部直通運転) |style="text-align:center;"|◆ |- !IY16 |[[犬山遊園駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|26.1 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|● |style="background:#9cf;"|● |style="background:#f96;"|● |style="background:#ff8080"|● |style="background:#fcc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !IY17 |[[新鵜沼駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|26.8 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#cdf;"|● |style="background:#9cf;"|● |style="background:#f96;"|● |style="background:#ff8080"|● |style="background:#fcc;"|● |名古屋鉄道:{{名鉄駅番号|KG}} [[名鉄各務原線|各務原線]]([[名鉄岐阜駅]]まで直通運転) <br />[[東海旅客鉄道]]:{{JR海駅番号|CG}} [[高山本線]]([[鵜沼駅]]: CG05) |style="text-align:center;"|| |colspan="2"|[[岐阜県]]<br />[[各務原市]] |} * <nowiki>*</nowiki> 枇杷島分岐点は運転取扱い上[[西枇杷島駅]]の構内である。 * 石仏駅 - 布袋駅で[[一宮市]]を通るが、同市内に駅はない。 === 廃駅 === * [[九ノ坪駅]](上小田井 - 西春間) - 1944年休止、1969年4月5日廃止。 * [[稲荷前駅]](大山寺 - 岩倉間) - 1944年休止、1969年4月5日廃止。 * [[小折口駅]](石仏 - 布袋間) - 1944年休止、1969年4月5日廃止。 * [[宮後駅]](江南 - 柏森間) - 1944年休止、1969年4月5日廃止。 === 過去の接続路線 === * 岩倉駅: ** [[名鉄一宮線]] - 1965年4月25日廃止。 ** [[名鉄岩倉支線]] - 1964年4月26日廃止。 * 犬山口駅:[[名鉄広見線]] - 1946年3月1日廃止。同日より同線の接続駅が犬山駅に変更。 * 犬山遊園駅:[[名鉄モンキーパークモノレール線]] - 2008年12月28日廃止。 * 新鵜沼駅:鵜沼連絡線 - JR高山本線との直通用の連絡線。2001年10月1日のダイヤ改正でこの連絡線を使用していた「北アルプス」とともに廃止。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Meitetsu Inuyama Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[岩倉街道]] == 外部リンク == * [https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line12/index.html 犬山線] - 名古屋鉄道 {{名古屋鉄道路線}} {{DEFAULTSORT:めいてついぬやません}} [[Category:中部地方の鉄道路線|いぬやません]] [[Category:名古屋鉄道の鉄道路線|いぬやま]] [[Category:名古屋電気鉄道|路いぬやません]] [[Category:名古屋鉄道 (初代)|路いぬやません]] [[Category:名岐鉄道|路いぬやません]] [[Category:愛知県の交通]] [[Category:岐阜県の交通]]
2003-09-14T14:22:00Z
2023-12-06T20:38:19Z
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Direct Memory Access
Direct Memory Access(DMA)とは、プログラムされた機械語の命令群の実行によってアキュムレータなどを介する方法によらず、メモリとメモリまたはメモリとI/Oデバイスの間で直接データを転送することである。 専用回路のことを DMAC(DMA Controller)と言う。 現代でのDMAの重要性は、つまるところCPUの転送速度の枷を外したところにある。DMAの技術が発生する以前は、CPUはデータの転送時間のあいだ待たなくてはならず、その間は他の作業をこなすことはできなかった。外部入出力(I/O)の転送速度はRAMよりも遅かったことがこの原因である。DMAがあれば、CPUは転送時間を有意にタスクへと割くことができる。この利点は組み込み向けプロセッサにおいても同様に効果があった。ただし、転送バスは一部使用中となる。したがって、DMAによって転送時間を有効に使えるとしても、それはプログラムがまさに今DMA転送中のデータを使用しないときに限られてしまう。 DMA転送は、CPUによって行われるものではない。CPUはDMA転送命令を実行するが、これはつまるところ、マザーボードのチップセットに内蔵されたDMAコントローラに、転送開始を指示しているだけである。この形式は過去のISAバスによってみられた方式であるが、現代のPCIバスにはより優れた設計思想が組み込まれており、「Bus mastering DMA」、すなわち、I/O機器の側がPCIバスの制御を任され、DMA転送をすべて司る。一方組込デバイスでは、CPU内でバスに直結されたDMAエンジンがチップ内のバスを操作してDMAを実現する。 DMAの利点は、継続的な読み出しを必要とする、ネットワークのパケット送信や音楽再生やビデオ配信などの機能を、データ通信のためにリソースを割くことなく行うため、その専用の組み込みチップで使われている。また同様に、CPUの多コア化にもとても有効である。1チップ上での多コア化だけでなく、大規模なコンピュータでのクラスタ化にも有用である。この際、DMA通信の状態通知ピンとして、受信状態を示すHOLDピンと、送信状態を示すHLDAピンが存在する。 仮想記憶アドレス上で DMA を利用する場合、ページ境界をまたぐことがないようにする必要がある。境界をまたいだ場合、後続の論理アドレスページに対応する物理アドレスページが同様に連続した後続領域に確保されるとは限らないからである。 DMAはPDPシリーズにおいて採用されている。後年の数MHzで動作するマイクロプロセッサでは、CPUによるデータ転送でハードディスク等の10MB/秒程度の転送速度を発揮する事は困難であったため、専用のコントローラでデータ転送を行う必要があった。このコントローラは、データ転送を高速に行う機能に特化したCPUであったともいえる。例として、Z80にはZ80DMA、MC68000には、MC68450などのDMAコントローラ(DMAC)が存在した。そのほか、日立のH8マイコンにDMACが存在している。 Intelのi80286(APX286)などでは、当時通常のI/Oを制御するためには充分な動作速度だった事、主流のパーソナルコンピュータにおいて、i8249等の低速なDMACしか搭載されておらず、他に適当なDMACが存在しなかった事などから、DMAはあまり使用されなくなった。 CPUの世代がPentiumになり、充分に高速になると、今度は、低速なI/Oの管理がボトルネックとなったため、いわゆるチップセットにI/O専用の高速なDMACが搭載されたり、周辺機器制御LSIが簡単なDMA機能を持つようになり、再度DMAが活用されるようになった。Pentium以降主流となったPCIバスでは、バスマスタリングとしてDMAが実装されている。 初期のDMACは単純に指定されたアドレス範囲を指定されたメモリもしくはポートに入出力する機能のみを備えていた。しかしオペレーティングシステムが普及し、ハードディスクへのI/OにDMACを使う様になってから、DMACには「データブロックを分割する(スキャッタリング)」「データブロックを集約する(ギャザリング)」を行う機能を要求された。MC63450 DMAC等には、DMACがリンクリストを読み取って転送内容を分割したり集約する機能が搭載されている。PC/AT互換機向けのSCSIホストアダプタカード等では、コントローラチップに集積されているDMACがこの機能を担当していた。スキャッタリング・ギャザリング機能が無い場合CPUは最低でも1セクタ分ずつメモリ・メモリ間転送を行わなければならず、またDMACに読み取らせるメモリ領域が転送完了するまで使用できないため、I/O時のCPU負荷上昇とI/O待ち時間が発生しシステム性能に悪影響を与えた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Direct Memory Access(DMA)とは、プログラムされた機械語の命令群の実行によってアキュムレータなどを介する方法によらず、メモリとメモリまたはメモリとI/Oデバイスの間で直接データを転送することである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "専用回路のことを DMAC(DMA Controller)と言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現代でのDMAの重要性は、つまるところCPUの転送速度の枷を外したところにある。DMAの技術が発生する以前は、CPUはデータの転送時間のあいだ待たなくてはならず、その間は他の作業をこなすことはできなかった。外部入出力(I/O)の転送速度はRAMよりも遅かったことがこの原因である。DMAがあれば、CPUは転送時間を有意にタスクへと割くことができる。この利点は組み込み向けプロセッサにおいても同様に効果があった。ただし、転送バスは一部使用中となる。したがって、DMAによって転送時間を有効に使えるとしても、それはプログラムがまさに今DMA転送中のデータを使用しないときに限られてしまう。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "DMA転送は、CPUによって行われるものではない。CPUはDMA転送命令を実行するが、これはつまるところ、マザーボードのチップセットに内蔵されたDMAコントローラに、転送開始を指示しているだけである。この形式は過去のISAバスによってみられた方式であるが、現代のPCIバスにはより優れた設計思想が組み込まれており、「Bus mastering DMA」、すなわち、I/O機器の側がPCIバスの制御を任され、DMA転送をすべて司る。一方組込デバイスでは、CPU内でバスに直結されたDMAエンジンがチップ内のバスを操作してDMAを実現する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "DMAの利点は、継続的な読み出しを必要とする、ネットワークのパケット送信や音楽再生やビデオ配信などの機能を、データ通信のためにリソースを割くことなく行うため、その専用の組み込みチップで使われている。また同様に、CPUの多コア化にもとても有効である。1チップ上での多コア化だけでなく、大規模なコンピュータでのクラスタ化にも有用である。この際、DMA通信の状態通知ピンとして、受信状態を示すHOLDピンと、送信状態を示すHLDAピンが存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "仮想記憶アドレス上で DMA を利用する場合、ページ境界をまたぐことがないようにする必要がある。境界をまたいだ場合、後続の論理アドレスページに対応する物理アドレスページが同様に連続した後続領域に確保されるとは限らないからである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "DMAはPDPシリーズにおいて採用されている。後年の数MHzで動作するマイクロプロセッサでは、CPUによるデータ転送でハードディスク等の10MB/秒程度の転送速度を発揮する事は困難であったため、専用のコントローラでデータ転送を行う必要があった。このコントローラは、データ転送を高速に行う機能に特化したCPUであったともいえる。例として、Z80にはZ80DMA、MC68000には、MC68450などのDMAコントローラ(DMAC)が存在した。そのほか、日立のH8マイコンにDMACが存在している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "Intelのi80286(APX286)などでは、当時通常のI/Oを制御するためには充分な動作速度だった事、主流のパーソナルコンピュータにおいて、i8249等の低速なDMACしか搭載されておらず、他に適当なDMACが存在しなかった事などから、DMAはあまり使用されなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "CPUの世代がPentiumになり、充分に高速になると、今度は、低速なI/Oの管理がボトルネックとなったため、いわゆるチップセットにI/O専用の高速なDMACが搭載されたり、周辺機器制御LSIが簡単なDMA機能を持つようになり、再度DMAが活用されるようになった。Pentium以降主流となったPCIバスでは、バスマスタリングとしてDMAが実装されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "初期のDMACは単純に指定されたアドレス範囲を指定されたメモリもしくはポートに入出力する機能のみを備えていた。しかしオペレーティングシステムが普及し、ハードディスクへのI/OにDMACを使う様になってから、DMACには「データブロックを分割する(スキャッタリング)」「データブロックを集約する(ギャザリング)」を行う機能を要求された。MC63450 DMAC等には、DMACがリンクリストを読み取って転送内容を分割したり集約する機能が搭載されている。PC/AT互換機向けのSCSIホストアダプタカード等では、コントローラチップに集積されているDMACがこの機能を担当していた。スキャッタリング・ギャザリング機能が無い場合CPUは最低でも1セクタ分ずつメモリ・メモリ間転送を行わなければならず、またDMACに読み取らせるメモリ領域が転送完了するまで使用できないため、I/O時のCPU負荷上昇とI/O待ち時間が発生しシステム性能に悪影響を与えた。", "title": "高機能DMAC" } ]
Direct Memory Access(DMA)とは、プログラムされた機械語の命令群の実行によってアキュムレータなどを介する方法によらず、メモリとメモリまたはメモリとI/Oデバイスの間で直接データを転送することである。 専用回路のことを DMACと言う。
[[File:AMD DirectGMA.svg|thumb|upright=2.2|AMD DirectGMA はDMAの一形態である。]] '''Direct Memory Access'''(DMA)とは、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]された[[機械語]]の命令群の実行によって[[アキュムレータ (コンピュータ)|アキュムレータ]]などを介する方法によらず、[[メモリ]]とメモリまたはメモリと[[入出力|I/O]]デバイスの間で直接データを[[転送]]することである。 専用回路のことを '''DMAC'''(DMA Controller)と言う。 == 概要 == 現代でのDMAの重要性は、つまるところCPUの転送速度の枷を外したところにある。DMAの技術が発生する以前は、CPUはデータの転送時間のあいだ待たなくてはならず、その間は他の作業をこなすことはできなかった。外部入出力(I/O)の転送速度はRAMよりも遅かったことがこの原因である。DMAがあれば、CPUは転送時間を有意にタスクへと割くことができる。この利点は組み込み向けプロセッサにおいても同様に効果があった。ただし、転送バスは一部使用中となる。したがって、DMAによって転送時間を有効に使えるとしても、それはプログラムがまさに今DMA転送中のデータを使用しないときに限られてしまう。 DMA転送は、CPUによって行われるものではない。CPUはDMA転送命令を実行するが、これはつまるところ、[[マザーボード]]の[[チップセット]]に内蔵されたDMAコントローラに、転送開始を指示しているだけである。この形式は過去のISAバスによってみられた方式であるが、現代のPCIバスにはより優れた設計思想が組み込まれており、「Bus mastering DMA」、すなわち、I/O機器の側がPCIバスの制御を任され、DMA転送をすべて司る。一方組込デバイスでは、CPU内でバスに直結されたDMAエンジンがチップ内のバスを操作してDMAを実現する。 DMAの利点は、継続的な読み出しを必要とする、ネットワークのパケット送信や音楽再生やビデオ配信などの機能を、データ通信のためにリソースを割くことなく行うため、その専用の組み込みチップで使われている。また同様に、CPUの多コア化にもとても有効である。1チップ上での多コア化だけでなく、大規模なコンピュータでのクラスタ化にも有用である。この際、DMA通信の状態通知ピンとして、受信状態を示すHOLDピンと、送信状態を示すHLDAピンが存在する。 仮想記憶アドレス上で DMA を利用する場合、ページ境界をまたぐことがないようにする必要がある。境界をまたいだ場合、後続の論理アドレスページに対応する物理アドレスページが同様に連続した後続領域に確保されるとは限らないからである<ref>{{cite book |title=Computer Organization and Design: The Hardware/Software Interface |last1=L.Hennessy |first1=John |last2=A.Patterson |first2=David |isbn=1-55860-281-X |page=574 |year=1994 |date= |publisher=Morgan Kaufmann Publishers}}</ref>。 == 歴史 == DMAは[[PDPシリーズ]]において採用されている。後年の数MHzで動作する[[マイクロプロセッサ]]では、[[CPU]]による[[データ転送]]で[[ハードディスク]]等の10MB/秒程度の転送速度を発揮する事は困難であったため、専用のコントローラでデータ転送を行う必要があった。このコントローラは、データ転送を高速に行う機能に特化したCPUであったともいえる。例として、[[Z80]]にはZ80DMA、[[MC68000]]には、MC68450などのDMAコントローラ(DMAC)が存在した。そのほか、日立の[[H8]]マイコンにDMACが存在している。 Intelの[[Intel 80286|i80286]](APX286)などでは、当時通常のI/Oを制御するためには充分な動作速度だった事、主流の[[パーソナルコンピュータ]]において、i8249等の低速なDMACしか搭載されておらず、他に適当なDMACが存在しなかった事などから、DMAはあまり使用されなくなった。 CPUの世代が[[Pentium]]になり、充分に高速になると、今度は、低速なI/Oの管理が[[ボトルネック]]となったため、いわゆる[[チップセット]]にI/O専用の高速なDMACが搭載されたり、周辺機器制御LSIが簡単なDMA機能を持つようになり、再度DMAが活用されるようになった。Pentium以降主流となった[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]バスでは、[[バスマスタリング]]としてDMAが実装されている。 == 高機能DMAC == 初期のDMACは単純に指定されたアドレス範囲を指定されたメモリもしくはポートに入出力する機能のみを備えていた。しかし[[オペレーティングシステム]]が普及し、ハードディスクへのI/OにDMACを使う様になってから、DMACには「データブロックを分割する(スキャッタリング)」「データブロックを集約する(ギャザリング)」を行う機能が要求された。MC63450 DMAC等には、DMACがリンクリストを読み取って転送内容を分割したり集約する機能が搭載されている。[[PC/AT互換機]]向けの[[Small Computer System Interface|SCSI]][[ホストアダプタ]]カード等では、コントローラチップに集積されているDMACがこの機能を担当していた。スキャッタリング・ギャザリング機能が無い場合CPUは最低でも1セクタ分ずつメモリ・メモリ間転送を行わなければならず、またDMACに読み取らせるメモリ領域が転送完了するまで使用できないため、I/O時のCPU負荷上昇とI/O待ち時間が発生しシステム性能に悪影響を与えた。 == DMAの方式 == ;バーストモードDMA(ブロック転送と呼ぶ資料<ref name="com-arch-n-org">{{cite book |title=Computer Architecture and Organization |last1=P.HAYES |first1=JOHN |isbn=0-07-027363-4 |pages=426-427 |year=1978,1979 |date= |publisher=McGRAW-HILL INTERNATIONAL BOOK COMPANY}}</ref>もある) :CPUからメモリBUS制御を渡してもらい、データを一気に転送する方法<ref name="com-arch-n-org"/>。 ;サイクルスチールモードDMA :CPUからメモリBUS制御を渡してもらい、1~2ワードずつ転送する方法<ref name="com-arch-n-org"/>。CPUは隙間なくメモリBUSを利用するとは限らないので、CPUが処理を進めるのと並行したデータ転送が可能となり得る。 == 代表的なDMAC、DMA機能を持つLSI == *Z80DMA *μPD8237AC-5({{仮リンク|i8237|en|Intel 8237|label=i8237A}}-5互換)<ref>{{Cite book|和書 |author=川村 清 |title=PC-9801解析マニュアル[第0巻] |publisher=秀和システムトレーディング株式会社 | date=1983-6-30 | pages=199-236}} </ref> *MC68450 *i430など、PentiumCPU以降対応のチップセット == 関連項目 == * [[バスマスタリング]] * [[Remote Direct Memory Access]] * [[PIO病]] == 外部リンク == *[http://chc61.fgcu.edu/PDFs/DirectMemoryAccess.pdf Microcomputer Interfacing](英文)(PDFファイル) == 脚注 == {{Reflist|40em}} {{コンピュータバス}} {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:DMA}} [[Category:CPU]] [[Category:記憶装置]] [[Category:ハードウェア]] [[Category:マザーボード]] [[Category:入出力]]
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松平親氏
松平 親氏(まつだいら ちかうじ)は、室町時代初期の三河国松平郷の領主(あるいは国人)。江戸時代に作成された系譜において松平氏・徳川氏の始祖とされている人物。「松平氏由緒書」では名を信武と記している。 徳川家の始祖と崇められたことから江戸期の諸資料では父祖の系譜は、新田源氏世良田氏の末裔と記載される。即ち新田義重の四男義季が新田荘徳川に住して得川を称した。義季の二男を頼氏といい、世良田弥四郎と称し、三河守となった。その二男を次郎教氏、教氏の子が又二郎家時、家時の子が弥次郎満義である。満義のあとを政義、親季、有親と継いで有親の子が親氏という。 しかし、この系譜は徳川家康が永禄9年(1566年)に叙任奏請をする際、世良田氏の系譜と自らの系譜をつなげたことが、日本史学者渡辺世祐により論証されている。今日の学界では家康によって粉飾された系譜というのが通説になっている。もっとも家康の祖父清康が三河を掠取するにあたり、守護家である足利一門吉良氏への対抗上、新田系の世良田氏を称していて、家康はその影響を受けたものと考えられている。 親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある。しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは「武徳大成記」成立後の元禄期以降であることが、煎本増夫により明らかにされており、後世になってから作られたものと考えられる。 徳阿弥は同じく素浪人の石川孫三郎に同行し諸国を流浪、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、在原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の食客となった。信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたとされており、徳阿弥は還俗して松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったという。 「松平氏由緒書」では信重から先祖を尋ねられた親氏が、「わたくしと申しますのは東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じます」と自ら氏素性の知れない者と回答している。 松平郷の領主となった親氏は、郷敷城を築き、嫡子(兄弟説もある)とされる泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して戦国大名松平氏の基礎を築いたという。しかし、「松平氏由緒書」の記述から、実際には買得によって土地を獲得したと見る説もある。 親氏は武芸に通じ、教養があり、信仰と慈悲の心が深く、領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの神社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかったという。 しかし、以上のような親氏の出自と事歴については、後世の松平氏・徳川氏の主張に拠っており、傍証となる同時代史料が存在せず、定説の段階までには至っていない。このため、既述した論考の他、松平氏創業の二代、親氏と泰親が同時代の史料にその名を見出すことができない。事実、親氏の幼少期は全く不明であり、父得川有親についても、実在性が疑われている。このことから、非実在説(架空説)も存在する。 「松平氏由緒書」によれば、親氏は急逝したようである。親氏の生没年には諸説あり、定説は存在しない。地元の松平町(豊田市)の伝承では明徳4年(1393年)頃に没したとされており、平成5年(1993年)に親氏の没後600年を記念して、豊田市によって「親氏公600年祭」が行われた。また、その一環で全国城郭研究者セミナーが開催された。 親氏の没年月日の伝承は10通りある。 生年には永仁6年(1298年)説(「大樹寺記録」)、元弘2年/正慶元年(1332年)説(「高月院過去帳」)などがある。 また、後に松平氏の重臣となる酒井氏の系譜によると、同氏の始祖広親は、親氏が松平氏を継ぐ以前に三河国碧海郡酒井村の領主の婿となって生んだ子であるという。この説に従えば酒井氏は松平氏の同族ということになる。 ただし平野明夫の研究によると、松平信重の長女が坂井郷に嫁いだことによって生じたものであるとされる。いずれにしても松平、酒井両氏は縁戚にあたる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "松平 親氏(まつだいら ちかうじ)は、室町時代初期の三河国松平郷の領主(あるいは国人)。江戸時代に作成された系譜において松平氏・徳川氏の始祖とされている人物。「松平氏由緒書」では名を信武と記している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "徳川家の始祖と崇められたことから江戸期の諸資料では父祖の系譜は、新田源氏世良田氏の末裔と記載される。即ち新田義重の四男義季が新田荘徳川に住して得川を称した。義季の二男を頼氏といい、世良田弥四郎と称し、三河守となった。その二男を次郎教氏、教氏の子が又二郎家時、家時の子が弥次郎満義である。満義のあとを政義、親季、有親と継いで有親の子が親氏という。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "しかし、この系譜は徳川家康が永禄9年(1566年)に叙任奏請をする際、世良田氏の系譜と自らの系譜をつなげたことが、日本史学者渡辺世祐により論証されている。今日の学界では家康によって粉飾された系譜というのが通説になっている。もっとも家康の祖父清康が三河を掠取するにあたり、守護家である足利一門吉良氏への対抗上、新田系の世良田氏を称していて、家康はその影響を受けたものと考えられている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある。しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは「武徳大成記」成立後の元禄期以降であることが、煎本増夫により明らかにされており、後世になってから作られたものと考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "徳阿弥は同じく素浪人の石川孫三郎に同行し諸国を流浪、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、在原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の食客となった。信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたとされており、徳阿弥は還俗して松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「松平氏由緒書」では信重から先祖を尋ねられた親氏が、「わたくしと申しますのは東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じます」と自ら氏素性の知れない者と回答している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "松平郷の領主となった親氏は、郷敷城を築き、嫡子(兄弟説もある)とされる泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して戦国大名松平氏の基礎を築いたという。しかし、「松平氏由緒書」の記述から、実際には買得によって土地を獲得したと見る説もある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "親氏は武芸に通じ、教養があり、信仰と慈悲の心が深く、領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの神社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、以上のような親氏の出自と事歴については、後世の松平氏・徳川氏の主張に拠っており、傍証となる同時代史料が存在せず、定説の段階までには至っていない。このため、既述した論考の他、松平氏創業の二代、親氏と泰親が同時代の史料にその名を見出すことができない。事実、親氏の幼少期は全く不明であり、父得川有親についても、実在性が疑われている。このことから、非実在説(架空説)も存在する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「松平氏由緒書」によれば、親氏は急逝したようである。親氏の生没年には諸説あり、定説は存在しない。地元の松平町(豊田市)の伝承では明徳4年(1393年)頃に没したとされており、平成5年(1993年)に親氏の没後600年を記念して、豊田市によって「親氏公600年祭」が行われた。また、その一環で全国城郭研究者セミナーが開催された。", "title": "生没年について" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "親氏の没年月日の伝承は10通りある。", "title": "生没年について" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "生年には永仁6年(1298年)説(「大樹寺記録」)、元弘2年/正慶元年(1332年)説(「高月院過去帳」)などがある。", "title": "生没年について" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、後に松平氏の重臣となる酒井氏の系譜によると、同氏の始祖広親は、親氏が松平氏を継ぐ以前に三河国碧海郡酒井村の領主の婿となって生んだ子であるという。この説に従えば酒井氏は松平氏の同族ということになる。 ただし平野明夫の研究によると、松平信重の長女が坂井郷に嫁いだことによって生じたものであるとされる。いずれにしても松平、酒井両氏は縁戚にあたる。", "title": "酒井氏との関係" } ]
松平 親氏は、室町時代初期の三河国松平郷の領主(あるいは国人)。江戸時代に作成された系譜において松平氏・徳川氏の始祖とされている人物。「松平氏由緒書」では名を信武と記している。
{{出典の明記|date=2012年3月|ソートキー=人1400年前後頃}} {{基礎情報 武士 | 氏名=松平 親氏 | 画像= | 画像サイズ=250px | 画像説明=[[松平郷]]園地にある松平親氏銅像<br/>([[愛知県]][[豊田市]][[松平町 (豊田市)|松平町]]) | 時代=[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] - [[室町時代]]初期 | 生誕=不詳 | 死没=不詳 | 改名= | 別名=太郎左衛門(通称)、信武{{Sfn|平野|2002|p=21}}、徳翁斎 | 戒名=芳樹院殿俊山徳翁 | 墓所=[[愛知県]][[豊田市]][[松平町 (豊田市)|松平町]]の[[高月院]]<br>愛知県[[岡崎市]][[岩津町 (岡崎市)|岩津町]]の[[信光明寺]]<br>愛知県岡崎市[[鴨田町 (岡崎市)|鴨田町]]の[[大樹寺]] | 氏族=[[松平氏]] | 父母=父:[[得川有親]]? <br>養父:''[[松平信重 (松平郷)|松平信重]]'' | 兄弟= | 妻=正室:'''水女'''([[松平信重 (松平郷)|松平信重]]の五女)<br>[[酒井忠則]]の娘 | 子=[[酒井広親]]、'''[[松平泰親|泰親]]'''、[[松平信広 (松平郷松平家)|信広]]?(泰親の子の説あり)、[[松平信光|信光]]?(泰親の子の説あり) | 特記事項= }} '''松平 親氏'''(まつだいら ちかうじ)は、[[室町時代]]初期の[[三河国]][[松平郷]]の領主(あるいは[[国人]])。[[江戸時代]]に作成された[[系譜]]において[[松平氏]]・[[徳川氏]]の始祖とされている人物。「松平氏由緒書」では[[諱|名]]を'''信武'''と記している{{Sfn|平野|2002|p=21}}。 == 生涯 == 徳川家の始祖と崇められたことから江戸期の諸資料では父祖の系譜は、[[清和源氏|新田源氏]][[世良田氏]]の末裔と記載される{{Sfn|平野|2002|p=33}}。即ち[[源義重|新田義重]]の四男[[得川義季|義季]]が新田荘徳川に住して[[得川氏|得川]]を称した{{Sfn|平野|2002|p=33}}。義季の二男を[[世良田頼氏|頼氏]]といい、世良田弥四郎と称し、三河守となった{{Sfn|平野|2002|p=33}}。その二男を次郎[[世良田教氏|教氏]]、教氏の子が又二郎[[世良田家時|家時]]、家時の子が弥次郎[[世良田満義|満義]]である{{Sfn|平野|2002|p=33}}。満義のあとを[[世良田政義|政義]]、[[得川親季|親季]]、[[得川有親|有親]]と継いで有親の子が'''親氏'''という{{Sfn|平野|2002|p=33}}。 しかし、この系譜は[[徳川家康]]が[[永禄]]9年([[1566年]])に叙任奏請をする際、世良田氏の系譜と自らの系譜をつなげたことが、日本史学者[[渡辺世祐]]により論証されている{{Sfn|平野|2002|p=33}}。今日の学界では家康によって粉飾された系譜というのが通説になっている{{Sfn|平野|2002|p=33}}。もっとも家康の祖父[[松平清康|清康]]が三河を掠取するにあたり、守護家である足利一門[[吉良氏]]への対抗上、新田系の世良田氏を称していて、家康はその影響を受けたものと考えられている{{Sfn|平野|2002|p=33}}。 親氏は[[関東地方|関東]](あるいは[[信濃国]][[浪合村]])で[[鎌倉公方]](あるいは[[斯波氏]])の軍勢に敗れ、[[足利氏]]の追捕を避けるために父・有親とともに[[相模国]]の[[時宗]]総本山[[清浄光寺]]に入って出家し、'''徳阿弥'''(とくあみ)と称したとされる。「[[乞食]]僧」「一種の[[賤民]]」と表現される場合もある<ref>{{Cite book|和書|author=高山秀夫|authorlink=高山秀夫|title=江戸から東京へ 物語でつづる部落の歴史|publisher=文理閣|year=1977|page=5}}</ref>。しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは「武徳大成記」成立後の[[元禄]]期以降であることが、[[煎本増夫]]により明らかにされており、後世になってから作られたものと考えられる{{Sfn|平野|2002|p=21}}。 徳阿弥は同じく素浪人の[[石川孫三郎]]<ref>『称名寺略記』および『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』。同行者として石川孫三郎の名がみえる。</ref>に同行し諸国を流浪、三河国[[加茂郡 (三河国)|加茂郡]][[松平郷]]に流れ着き、[[在原氏]]あるいは[[賀茂氏]]の血筋を引く同地の領主[[松平信重 (松平郷)|松平信重]](太郎左衛門少尉)の食客となった。信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して[[婿養子]]としたとされており、徳阿弥は還俗して'''松平太郎左衛門尉親氏'''と名乗ったという。 「松平氏由緒書」では[[松平信重 (松平郷)|信重]]から先祖を尋ねられた親氏が、「わたくしと申しますのは東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じます」と自ら氏素性の知れない者と回答している{{Sfn|平野|2002|p=34}}。 松平郷の領主となった親氏は、[[郷敷城]]を築き、嫡子(兄弟説<ref>『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』において親氏が兄、泰親を弟としている。</ref>もある)とされる[[松平泰親|泰親]]と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して[[戦国大名]]松平氏の基礎を築いたという。しかし、「松平氏由緒書」の記述から、実際には買得によって土地を獲得したと見る説もある{{Sfn|平野|2002|pp=43-44}}。 親氏は武芸に通じ、教養があり、信仰と慈悲の心が深く、領内に菩提寺となる[[高月院]]を初めとして多くの神社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかったという。 しかし、以上のような親氏の出自と事歴については、後世の松平氏・徳川氏の主張に拠っており、傍証となる同時代史料が存在せず、[[定説]]の段階までには至っていない。このため、既述した論考の他、松平氏創業の二代、親氏と泰親が同時代の史料にその名を見出すことができない。事実、親氏の幼少期は全く不明であり、父[[得川有親]]についても、実在性が疑われている。このことから、非実在説(架空説)も存在する。 == 生没年について == 「松平氏由緒書」によれば、親氏は急逝したようである{{Sfn|平野|2002|p=30}}。親氏の生没年には諸説あり、[[定説]]は存在しない。地元の松平町([[豊田市]])の[[伝承]]では[[明徳]]4年([[1393年]])頃に没したとされており、[[平成]]5年([[1993年]])に親氏の没後600年を記念して、豊田市によって「親氏公600年祭」が行われた。また、その一環で[[全国城郭研究者セミナー]]が開催された<ref> {{Cite news |title=豊田で城郭研究者セミナー:全国から250人参加:研究発表後に山城見学 |newspaper=[[朝日新聞]] 愛知 |date=1993-8-3 |author= |page=|volume= |ref={{sfnref|朝日新聞 19930803}}|quote=[[中世城郭研究会]]と豊田市教育委員会が、'''松平親氏公六〇〇年祭記念事業'''の一環として、全国各地の城郭研究者約二百五十人を集め、最新の調査研究成果を発表してもらう「'''全国城郭研究者セミナー'''」を、先月三十一日から豊田市で開き、最終日の二日、市内の山城を見て回る現地見学会が行われた。}}</ref><ref>{{Cite news |title=松平城の堀、新たな発見:ぐるりと城を囲んでいた:研究発表後に山城見学 |newspaper=[[読売新聞]] 愛知 |date=1993-8-3 |author= |page=|volume= |ref={{sfnref|読売新聞 1993}}|quote=徳川家の始祖・'''松平親氏公の没後六百年を記念した同市の「600年祭」'''の一環として開かれた「'''全国城郭研究者セミナー'''」}}</ref>。 親氏の没年月日の伝承は10通りある{{Sfn|平野|2002|p=30}}。 :[[康安]]元年([[1361年]])[[4月20日]](「法蔵寺由緒」・「大樹寺記録」・「奥平家記録」{{Sfn|平野|2002|p=30}}) :[[応永]]元年([[1394年]])[[4月20日]](『三河海東記』{{Sfn|平野|2002|p=30}}) :応永元年([[1394年]])[[4月24日]](『高月院記』{{Sfn|平野|2002|p=30}}) :応永20年([[1413年]])(「信光明寺縁起」{{Sfn|平野|2002|p=30}}) :応永21年([[1414年]])(「松平総系譜」{{Sfn|平野|2002|p=30}}) :応永28年([[1421年]])(「参陽松平御伝記」{{Sfn|平野|2002|p=30}}) :応永35年([[1428年]])(『東栄鑑』{{Sfn|平野|2002|p=30}}) :[[永享]]9年([[1437年]])(「瀧村万松寺系図」「梁山妙昌寺位牌」{{Sfn|平野|2002|p=31}}) :[[康正]]2年([[1456年]])(『大三河志』{{Sfn|平野|2002|p=31}}) :[[応仁]]元年([[1467年]])4月20日(『[[徳川歴代記]]』{{Sfn|平野|2002|p=31}}) 生年には[[永仁]]6年([[1298年]])説(「大樹寺記録」)、[[元弘]]2年/[[正慶]]元年([[1332年]])説(「高月院過去帳」)などがある。 {{Gallery |title= |footer= |width=220 |height=150 |lines= |File:Matsudaira Chikauji's Tombs in Kogetsu-ji Temple, Matsudaira-cho Toyota 2019.jpg|[[高月院]]にある松平氏墓所。3基の宝篋印塔のうち中央が親氏の墓にあたる。向かって左は松平氏第2代松平泰親墓、向かって右は[[閑照院皎月尼]](松平氏第4代[[松平親忠]]夫人)墓<br />(2019年(令和元年)8月) |File:Gravesite of the Matsudairas in Shinkoumyou-ji Temple, Iwazu-cho Okazaki 2019.jpg|[[信光明寺]]にある松平三代の墓。3基の宝篋印塔のうち向かって左が親氏の墓にあたる。中央は松平氏第2代松平泰親墓、向かって右は松平氏第3代[[松平信光]]墓<br />(2019年(令和元年)11月) |File:Matsudaira Chikauji's Tomb in Daiju-ji Temple, Kamoda-cho Okazaki 2019.jpg|[[大樹寺]]にある松平親氏墓。<br />(2019年(令和元年)11月) }} == 酒井氏との関係 == また、後に松平氏の重臣となる[[酒井氏]]の系譜によると、同氏の始祖[[酒井広親|広親]]は、親氏が松平氏を継ぐ以前に三河国[[碧海郡]]酒井村の領主の婿となって生んだ子であるという。この説に従えば酒井氏は松平氏の同族ということになる。 ただし[[平野明夫]]の研究によると、松平信重の長女が坂井郷に嫁いだことによって生じたものであるとされる。いずれにしても松平、酒井両氏は縁戚にあたる。 == 脚注 == {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=[[平野明夫]]|title=三河松平一族|publisher=[[新人物往来社]]|year=2002|isbn=4-404-02961-6}}C0021 == 関連項目 == * [[松平郷松平家]] - 初代当主 * [[称名寺 (府中市)|称名寺]] - 「徳阿弥親氏」銘板碑が発見された。 {{DEFAULTSORT:まつたいら ちかうし}} {{松平宗家歴代当主||初代}} [[Category:時宗の僧]] [[Category:三河国人領主]] [[Category:松平氏|ちかうし]] [[Category:得川氏]] [[Category:世良田氏]] [[Category:豊田市の歴史]] [[Category:室町時代の人物]] [[Category:還俗した僧]] [[Category:14世紀生]] [[Category:1393年没]] {{Japanese-history-stub}}
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L
Lは、ラテン文字(アルファベット)の12番目の文字。小文字は l 。ギリシア文字のΛ(ラムダ)に由来し、キリル文字のЛに相当する。 大文字は、縦棒の下端から右に横棒が出た形である。フラクトゥールは L {\displaystyle {\mathfrak {L}}} である。 小文字では、横棒を欠く。従って大文字の I や数字の 1 と紛らわしい(ホモグリフ)。僅にセリフ(飾り)によって区別することが可能で、大文字の I は上端と下端で左右両方に飾りが出るのに対して、数字の 1 と L の小文字は、上端は右に飾りが出ない。数字の 1 の上の飾りは鋭角に下に曲がっているのに対し、Lの小文字 l は左に真っ直ぐである。 一方で、筆記体では l のようであり、それらと区別することが可能である。後述する単位のリットルは、日本国内において印刷書体でも筆記体で「 l 」の書体を使う例がある。ただし、これは e の筆記体と似ており、縦の長短でしか区別ができない。縦長が「L」の筆記体であり、縦短が「E」の筆記体である。フラクトゥールでは l {\displaystyle {\mathfrak {l}}} となる。 この文字が表す音素は、[l](歯茎側音)ないしその類似音である。 日本語はローマ字では使わないが、語頭と「ん」の後のら行がこの音に近い。
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Lは、ラテン文字(アルファベット)の12番目の文字。小文字は l。ギリシア文字のΛ(ラムダ)に由来し、キリル文字のЛに相当する。
{{A-Z}} '''L'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[12]]番目の文字。[[小文字]]は '''l''' 。[[ギリシア文字]]の[[Λ]](ラムダ)に由来し、[[キリル文字]]の[[Л]]に相当する。 == 字形 == [[File:L cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-L.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] [[大文字]]は、縦棒の下端から右に横棒が出た形である。[[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{L}</math>である。 小文字では、横棒を欠く。従って大文字の [[I]] や数字の [[1]] と紛らわしい([[ホモグリフ]])。僅に[[セリフ (文字)|セリフ(飾り)]]によって区別することが可能で、大文字の I は上端と下端で左右両方に飾りが出るのに対して、数字の 1 と L の小文字は、上端は右に飾りが出ない。数字の 1 の上の飾りは鋭角に下に曲がっているのに対し、Lの小文字 l は左に真っ直ぐである。 一方で、[[筆記体]]では {{JIS2004フォント|ℓ}} のようであり、それらと区別することが可能である。後述する単位の[[リットル]]は、日本国内において印刷書体でも筆記体で「 ℓ 」の書体を使う例がある<ref group="注釈">中学理科教科書では[[リットル]]の記号として「 ℓ 」を使わないという記載がある(「新版理科の世界1年」大日本図書、2020年2月5日発行<276ページ>)</ref><ref group="注釈">国税庁は、酒類の内容量の表示について「ℓ」、「mℓ」の表示を許容している([[リットル#酒類の表示]])。</ref>。ただし、これは [[e]] の筆記体と似ており、縦の長短でしか区別ができない。縦長が「L」の筆記体であり、縦短が「[[E]]」の筆記体である。[[フラクトゥール]]では <math>\mathfrak{l}</math> となる。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[フランス語|仏]]・[[英語|英]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[インドネシア語|イネ]]・[[日本語|日]]: エル * {{Lang-es-short|ele}}(エレ) * {{Lang-it-short|elle}}(エッレ) * [[エスペラント|エス]]: ロー == 音素 == この文字が表す音素は、[l]([[歯茎側音]])ないしその類似音である。 * イタリア語 "gli", スペイン語 "ll", [[ポルトガル語]] "lh" は、[[硬口蓋側音]]を表す。 ** スペイン語では方言により、さまざまに変化している。"y" と同じ音を表すことも多い。 * フランス語"-ill-"は、"ville", "mille", "tranquille" とその派生語を除き[[有声硬口蓋摩擦音|{{IPA|ʝ}}]] - [[硬口蓋接近音|{{IPA|j}}]]を表す。 * 音節末では英語やポルトガル語では、[[有声歯・歯茎・後部歯茎側面接近音|dark L]]と呼ばれる音(ウに近い音)に変化する。 * 朝鮮語のローマ字表記では終声の{{lang|ko|[[ㄹ]]}}に使用され、初声の場合 (r) とは区別される。 [[日本語]]はローマ字では使わないが、語頭と「[[ん]]」の後の[[ら行]]がこの音に近い。 == L の意味 == === 学術関連 === * [[ローマ数字]]の[[50]]。 * [[物理学]]などで[[長さ]]の量記号として用いられる([[イタリック体]]の[[小文字]])。また、[[角運動量]](イタリック体の[[大文字]])を表すのにも用いられる。 * [[体積]][[リットル]]の[[単位記号]]として用いられる。この場合、正式には[[立体活字|立体]]・小文字の「l」または立体・大文字の「L」と定められている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#91 計量単位規則 別表第2(第2条関係)] 体積・リットルの欄、「l又はL」となっている。</ref>。日本など一部の国では慣習的に小文字の筆記体またはイタリック体 ({{JIS2004フォント|ℓ}}) が用いられているが、多くの国では大文字が用いられる。日本でも[[教科用図書検定基準]]の改正により2012年以降は大文字「L」を使用するように教育されている。詳細は、[[リットル#記号のゆれ]]を参照。 * [[非SI接頭語]](ジム・ブロワーズ (Jim Blowers) の提案 ** ルマ (luma)(10<sup>63</sup>)(大文字) ** ルント (lunto)(10<sup>−63</sup>)(小文字) * [[21|二十一]]を意味する数字。[[三十六進法]]など、二十二進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において二十一([[十進法]]の'''21''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] が混同し易いために、アルファベットの I を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、L が[[20|二十]]を意味する。 * [[生物]]の[[学名]]を表記する際に、[[カール・フォン・リンネ]]の略称として使われる。 * [[ラグランジュ点]] ('''L'''agrangian point) の略号。 * [[L (計算複雑性理論)|L(計算複雑性理論)]] - [[計算複雑性理論]]において[[チューリングマシン|決定性チューリングマシン]]が[[対数]]領域で解くことができる[[決定問題]]の[[複雑性クラス]] * [[化学]]で、[[キラリティー]]のある分子を識別する記号 ('''l'''evo)。⇔[[D]] ** 分子全体が[[旋光性|左旋性]]であることを示す。(小文字) ** l-[[グリセルアルデヒド]]と同じ立体配置を持つものを示す(大文字)。→「[[DL表記法]]」を参照 * [[インダクタ]]や[[インダクタンス]]を表す記号。 * ''p'' と異なる素数([[l進コホモロジー]]など) * [[Lp空間|関数空間]] ''L{{sup|p}}'', [[数列空間]] ''l{{sup|p}}'' *[[左導来関手]] * [[マクロ経済学]]で、[[流動性選好]] (Liquidity Preference) * [[労働]] === 交通・通信関連 === * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[愛知高速交通]][[東部丘陵線]](リニモ)('''L'''inimo)、[[JR西日本|JR]][[舞鶴線]]、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[鈴鹿線]]、[[JR西日本|JR]][[宇野線]]の[[路線記号]]として用いられる。 *自動車の形式名 ** かつて[[日産自動車]] が製造していた自動車用エンジン。→「[[日産・L型エンジン]] 」を参照 ** トヨタ・[[トヨタ・ターセル|ターセル]] /[[トヨタ・コルサ|コルサ]] /[[トヨタ・カローラII|カローラII]] /[[トヨタ・スプリンターカリブ|スプリンターカリブ(初代)]] を指す車両識別記号。 * [[オートマチックトランスミッション]]にある低速走行位置。 * 自動車用[[国際識別記号]]で、[[ルクセンブルク]] ('''L'''uxembourg) を表す。 * [[シカゴ]]の高架鉄道の愛称。→「[[シカゴ・L]]」を参照 * [[近鉄8000系電車|近鉄8000系・8400系電車]]の4両編成を表す電算記号。 * [[エル特急]]の[[時刻表]]上での記号(大文字の図案化、「<math>\mathfrak{L}</math>」に似ている)。 * JR[[国分寺駅]]の[[駅ビル]]「[[国分寺エル]]」(シンボルマークは'''L'''の図案化) * [[日本電信電話|NTT]]グループの行っている固定電話を使ったインターネット接続サービス・[[Lモード]]。 * [[NTTドコモ]]の[[LGエレクトロニクス]]製端末用符号。 * 旧[[ロッキード]]社製航空機の形式で旅客機を表す記号。 * [[富士通]]製[[ソフトウェア]]に使用される、[[バージョン管理システム|バージョン]]より小さな製品改良を表す数値、レベル('''L'''evel)。例えば、[[ScanSnap]] Managerの2014年12月18日アップデート版は、「V6.3L24」である<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/update/driver/681105.html 【アップデート情報】パッケージ・ドライバー関連 12月19日]、[[窓の杜]]、2014年12月19日 12:15。</ref>。 === スポーツ・ゲーム関連 === * [[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団、[[埼玉西武ライオンズ]] ('''L'''ions) の略号。 * [[日本女子サッカーリーグ]]を、[[L・リーグ]]と書くことがある。 * [[リーグ戦|リーグ ('''L'''eague) 戦]]の略として、L戦と書くことがある。⇔T戦([[トーナメント方式|トーナメント戦]]) * [[競艇]]で、[[スタート事故|レイト]]('''L'''ate、出遅れ)の略として用いられる。 * [[競馬]]の[[リステッド競走]]('''L'''isted race)。JRAでは2019年からオープン競走の一部がリステッド競走に格付けされ、競走名の後ろに「(L)」が付される。 * [[ビリヤード]]のハウストーナメント会場などで、「B・C・L戦」などと書かれていた場合の"L"とは'''L'''adiesの略である。 * [[将棋]]の[[香車]]の略号で、そのニックネーム「槍」の英訳 ('''L'''ance) から。 * [[スーパーマリオブラザーズ]]シリーズにおける登場キャラクター[[ルイージ (ゲームキャラクター)|ルイージ]]のシンボルマーク。基本緑色で表される。 === その他 === * 日本における[[テレビジョン放送]]でいう[[L字型画面]]・逆L字型画面とは、[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]の一種である。 * [[洋服]]などのサイズのひとつ。大 (Large/Long)。さらに大きいものにLLなどがある。 * [[居間|リビングルーム]] (living room) の略。 * £は[[イギリス|英国]]等の[[通貨]]の[[単位]]、ポンドの記号。[[スターリング・ポンド|UKポンド]](スターリンポンド)等。 * [[左]] ('''l'''eft) を表す。 * 低 ('''l'''ow) を表す。例として [[天気図]]における[[低気圧]] (Low pressure area) の意。 * 英文[[タイプライター]]で、数字の "1" の代わりに、小文字の "l" を打つことがある。 * 古代ローマ人の個人名[[ルキウス]] ('''L'''ucius) の略。 * [[セム族 (民族集団)|セム系]]の神「[[エール (神)|エール、エル]]」、あるいは、光明神「[[ルシファー]]」を意味する隠語。 * [[漫画]]『[[DEATH NOTE]]』に登場する探偵。→「[[L (DEATH NOTE)]]」を参照 * 確認表示灯内蔵スイッチ。構内電気設備配線用図記号 ([[JIS]] C 0303:2000) で用いられる。スイッチの図記号に傍記。 * [[L-エル-]] - [[Acid Black Cherry]]のアルバム、およびそれを原作とした映画作品。 * [[FM NORTH WAVE]]で月曜から木曜9:00 - 11:55まで放送されていたラジオ番組。現在は「L 2nd(エル・セカンド)」に改称。 * [[L版 (印画紙)]]および[[2L版 (印画紙)]] - [[写真]]用[[印画紙]]の[[紙の寸法#写真|サイズ]] * [[l (大原櫻子のアルバム)]] == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|004C|76||1-3-44|006C|108||1-3-76|}} {{ULu|FF2C|65324||1-3-44|FF4C|65356||1-3-76|全角}} {{ULu|24C1|9409||‐|24DB|9435||1-12-37|丸囲み}} {{ULu|1F11B|127259||‐|24A7|9383||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D40B|119819||‐|1D425|119845||‐|[[太字]]}} {{ULu|2112|8466||‐|2113|8467||‐|筆記体}} {{ULu|1D543|120131||‐|1D55D|120157||‐|[[黒板太字]]}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Lima |Morse=・-・・ |Character=L |Braille=⠇ }} == 注釈·出典 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== <references group="注釈" /> ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} * [[エル]] * [[Ļ|{{Unicode|Ļ ļ}}]] - [[セディーユ]] * [[Ł|{{Unicode|Ł ł}}]] - [[ストローク符号]] * [[Ĺ|{{Unicode|Ĺ ĺ}}]] - [[アキュート・アクセント]] * [[Ľ|{{lang|en|Ľ ľ}}]] - [[ハーチェク]] * {{仮リンク|Ḷ|en|Ḷ|label={{Unicode|Ḷ ḷ}}}} * {{仮リンク|Ḹ|de|Ḹ|label={{Unicode|Ḹ ḹ}}}} * {{仮リンク|Ḻ|de|Ḻ|label={{Unicode|Ḻ ḻ}}}} * {{仮リンク|Ḽ|fr|Ḽ|label={{Unicode|Ḽ ḽ}}}} * [[Ƚ|{{Unicode|Ƚ ƚ}}]] * {{仮リンク|ɫ|en|ɫ|label={{Unicode|ɫ}}|redirect=1}} * [[Lh]] * [[Ll]] * [[Ly]] {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/L
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Q
Qは、ラテン文字(アルファベット)の 17 番目の文字。小文字は q 。古いギリシャ文字のコッパ(Ϙ、ϙ)に由来する。 様々な字形が知られるが、いずれも円の下に短い縦棒(ヒゲ)が付属した形、すなわちコッパ (Ϙ) の変形である。ヒゲの関係で、大文字ではふつう円の部分は下から時計回りに書かれ、そのあとでヒゲを書く。また、ヒゲは、ベースラインを越えて下に突き出すことも多い。 古いギリシャ文字のコッパ (Ϙ) は、[k] に似て、もっと喉の奥で発音する音だったようである。この理由により、[ku] における [k] の発音がコッパに近いとされ、[ku] の発音を表すために Q の字が残った。このため、現在でも qu の綴りで現れることが多い。英単語で qu にならないのは、カタールの綴り「Qatar」や、オーストラリアのカンタス航空の「Qantas」など、固有名詞にごく少数見られるだけである。また、グループの「Aqours」や、アパレル企業の「ユニクロ」(UNIQLO)は「qu」になっていない。現在Qが表す音価は、[k] ないしその類似音である。quの後に母音がついていることが多く、子音は少ない。 「Q」の文字は、「謎」や「疑問」、または「解決」のニュアンスを含む語として、グループ名や、フィクション作品のタイトル表記等に用いられる。
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Qは、ラテン文字(アルファベット)の 17 番目の文字。小文字は q。古いギリシャ文字のコッパ(Ϙ、ϙ)に由来する。
{{Otheruses|[[ラテン文字]]のQとq|[[グルジア文字]]のႭ|ო|グルジア文字のႳ|უ|[[アルメニア文字]]のզ|Զ|アルメニア文字のգ|Գ|その他}} {{特殊文字}} {{A-Z}} '''Q'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の [[17]] 番目の文字。小文字は '''q''' 。古い[[ギリシャ文字]]の[[コッパ]]({{Unicode|&#984;}}、{{Unicode|&#985;}})に由来する。 == 字形 == [[File:Q cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-Q.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] 様々な字形が知られるが、いずれも円の下に短い縦棒(ヒゲ)が付属した形、すなわちコッパ ({{Unicode|&#984;}}) の変形である。ヒゲの関係で、大文字ではふつう円の部分は下から時計回りに書かれ、そのあとでヒゲを書く。また、ヒゲは、[[書体#欧文書体|ベースライン]]を越えて下に突き出すことも多い。 # ヒゲを右に曲げる。 # ヒゲを円の真下でなく右に寄せる。[[フラクトゥール]]では、<math>\mathfrak{Q}</math>である。 ## さらにヒゲを円の中から円弧を突き抜ける形にする。 ## 円に続けてヒゲを書くために、円の下部から時計回りに小さい円を描き、そのまま右下に突き出す。 # ヒゲを水平に書く。このとき、円と少し離して書くことがある。また、水平線は波打たせることがある。 ## 円と水平線を続けて書くために、円から斜め下に接続線を書く。縦線が復活する形になる。 ## 筆記体では、円を真下から書き始めずに途中から書くことがある。この結果、数字の[[2]]のような形となる。 # 小文字は、縦棒が右に寄り、長くなって円の右に接する形となり、[[書体#欧文書体|ベースライン]]を越えて下に突き出す。数字の[[9]]と似た形となる(「[[p]]」を反転させた字形とも言える)。[[フラクトゥール]]では、<math>\mathfrak{q}</math>である。 ## 数字の9と区別するため、縦棒の下部や、縦棒のベースライン付近(円よりは下)に[[セリフ (文字)|セリフ]]を付けたり、縦棒の下部を右に曲げることがある。筆記体では、右に曲げて折り返し、左に曲がって棒に当たってから右上に跳ね返って次の文字に続ける。 == 呼称 == * [[ラテン語|羅]]:クウー {{ipa|kwuː}} * [[ドイツ語|独]]:クー {{ipa|kuː}}、クヴェー {{ipa|kveː}}{{refnest|[[オーストリアドイツ語]]<ref>[http://www.dokken.or.jp/column/column13.html Nr.13 ドイツ語圏(7) オーストリア(5) | コラム]、ドイツ語技能検定試験、2017年10月29日閲覧。</ref>。}} * [[イタリア語|伊]]・[[スペイン語|西]]:ク {{ipa|ku}} * [[フランス語|仏]]:キュ {{ipa|ky}} * [[オランダ語|蘭]]:キュー {{ipa|kyː}} * {{Lang-en-short|cue}}(キュー){{ipa|kjuː}} * {{Lang-pt-short|quê}}(ケー){{ipa|keː}} * [[インドネシア語|イネ]]:キー * [[エスペラント|エス]]:kuo (クーオ) == 音価 == 古いギリシャ文字の[[コッパ]] ({{Unicode|&#984;}}) は、{{IPA|k}} に似て、もっと喉の奥で発音する音だったようである。この理由により、{{IPA|ku}} における {{IPA|k}} の発音がコッパに近いとされ、{{IPA|ku}} の発音を表すために Q の字が残った。このため、現在でも qu の綴りで現れることが多い。英単語で qu にならないのは、[[カタール]]の綴り「{{Lang|en|Qatar}}」や、[[オーストラリア]]の[[カンタス航空]]の「{{Lang|en|Qantas}}」など、固有名詞にごく少数見られるだけである<ref group="注釈">カンタス航空の場合は、当初の正式名称であった「{{Lang|en|Queensland And Northern Territory Aerial Services}}」の略称であるため。実際の英語の発音は "qu" の2字の場合のように「クウォンタス」({{Lang|en|''Quantas''}}, {{IPA|ˈkwɒntəs}})。</ref>。また、グループの「[[Aqours]]」や、アパレル企業の「[[ユニクロ]]」(UNIQLO)は「qu」になっていない。現在Qが表す音価は、{{IPA|k}} ないしその類似音である。quの後に母音がついていることが多く、子音は少ない。 ; [[ラテン語]]と同様の {{IPA|k}}(qu の形でしか現れないものを含む) :* イタリア語、英語、オランダ語では qu の2字で kw の綴りと同じ {{IPA|kw}} の発音を表す。 :* ドイツ語では qu の2字で kw の綴りと同じ {{IPA|kv}} の発音を表す。 :* フランス語、スペイン語では qu の2字で {{IPA|k}} を表す。また、フランス語では cinq(5), coq(雄鶏)といった q の語尾の単語があり、これも同様に発音する。  :* [[ポルトガル語]]では qu の綴りで a, o, u の前では {{IPA|kw}}、e, i の前で {{IPA|k}} または語によって {{IPA|kw}}。ただしブラジルでは2012年まで e, i の前で {{IPA|kw}} と発音するには qü と綴っていた。 :* [[エスペラント]]では外来語のみに使う。読み方がわからない場合、単独の q は {{IPA|k}}、qu は {{IPA|kv}} と発音することが推奨されている。qu を含む西欧語の単語がエスペラントに取り入れられた時は kv になる。(quality → kvalito) ; 古ギリシア語 {{Unicode|{{lang|el|&#984;}}}} に連なる[[アラビア語]] {{lang|ar|[[ق]]}} やそれに由来する音 :* [[国際音声記号|IPA]]では {{IPA|q}} は[[無声口蓋垂破裂音]]を表す。 :* [[アラビア語]]や[[古代エジプト語]]のラテン文字化、また[[ウズベク語]]や[[ケチュア語]]、[[グリーンランド語]]など、{{IPA|q}} 音をもつ言語の多くで q を {{IPA|q}} 音に当てている。 :* [[マルタ語]]では[[声門破裂音]] {{IPA|ʔ}} ([[アラビア語]]の[[ハムザ]]の発音)を表す。マルタ語はアラビア語から分化した言語であり、この音は {{lang|ar|&#65238;}} {{IPA|q}} 音から転訛したものである。 ; その他の軟口蓋音 :* [[アゼルバイジャン語]]では[[有声軟口蓋破裂音]] {{IPA|ɡ}}。 :* [[フィジー語]]では[[前鼻音化]]を起こし {{IPA|ŋɡ}}。 :* [[カイオワ語]]では[[声門音]]化した {{IPA|kʼ}}。 ; 硬口蓋音 :* [[中国語]]の[[ピンイン]]では、[[無声歯茎硬口蓋破擦音]]の[[有気音]] {{IPA|t͡ɕʰ}} (日本語の「チ」を息を強く出した子音に近い)を表す。 :**[[李克強]]({{ピン音|Lǐ Kèqiáng}}, リー・クーチアン)。 :* [[アルバニア語]]では[[無声硬口蓋破裂音]] {{IPA|c}} を表す。 :* [[キルシェンバウム]]では、小文字が[[有声硬口蓋摩擦音]] {{IPA|ʝ}} を表す。 ; その他の音声 :* [[コサ語]]や[[ズールー語]]では[[後部歯茎吸着音]] {{IPA|kǃ}}。 :* 日本語の[[音素]]表記で、[[スモールキャップ]] ({{smallcaps|q}}) あるいはまれに大文字または小文字が「[[促音|っ]]」の音素を表す。 :* [[X-SAMPA]]では、大文字は[[円唇後舌広母音]] {{IPA|ɒ}}。 == Qの使用例 == {{see also|Q (曖昧さ回避)|{{prefix}}}} === 海外諸語の単語の略 === ; 疑問・質問 :* query - 不明である状況や疑念のニュアンスを含む。 :** [[Q熱]] :* question - 解決すべき課題や、提案のニュアンスを含む。 :** [[FAQ]](Q&A) ; 自然科学の概念 :* quality - 質 :** [[Q値]](品質係数) - 振動の状態を表す[[無次元量]]の値。 :** [[Q学習]] :* quantity - 量 :** Q - 物理量の[[熱量]]の略記号。 :* quotient - 商(除法の解) :** 大文字太字の '''Q''' あるいは黒板太字の <math>\mathbb{Q}</math> は、数学において[[有理数]]の全体を表す。 :** Q理論([[トービンのq理論]]) - [[ジェームズ・トービン]]が提唱した経済理論。 ; 特定の数量・割合 :* Q - 四[[重奏]]団としての[[カルテット]](quartet)の略表記。 :* quarter - [[クォーター]] :** Q - スポーツの試合時間等を4分割した単位「クォーター」の略表記。1Q-4Qのように略記。 :** Q - [[会計年度]]・[[会計期間]]の四半期(3ヶ月間)の略表記。1Q-4Qのように略記。 :** Q - [[写真植字]](写植)における文字の大きさの単位。一辺の長さ1歯 (4分の1[[ミリメートル]]) につき1Qである。同音の「[[写真植字機#Q数制|級]]」を当てることも多い。 :* Q - 五重奏団としての[[クインテット]](quintet)の略表記。 :* q - [[SI接頭語]]のひとつ、クエクト(quecto)。10<sup>−30</sup>。 :* Q - SI接頭語のひとつ、クエタ(quetta)。10<sup>30</sup>。 ; その他の単語 :* qualify - (資格などを)与える、選出、(予選などの)通過 :** Q・q - 競技[[スポーツ]]などにおける予選通過記録(クオリファイ)の略。スコア表記の場合、大文字「Q」で順位通過・または順位通過選手、小文字「q」で記録通過・または記録通過選手を表す。 :* queen - クイーン・女王 :** Q - [[トランプ]]でクイーン ([[12]]) を表す略記号。 :** Q - [[チェス]]の棋譜などで[[クイーン (チェス)|クイーン]]を表す略記号。 :* quelle - [[ラテン語]]で「源泉」、転じて「出典」の意。英語のquarryに相当。 :** [[Q資料]] :* Q - [[クルアーン]](Quran:[[イスラーム]]の[[聖典]])の略。 :* Q - 古代ローマ人の個人名[[クィントゥス]] (Quintus) の略。 === 日本語の「きゅう」の音 === [[File:Fuji Kyuko Q Logo.svg|thumb|120px|富士急行のロゴマーク]] * Q - [[九州]]の俗表記。九州の路線バス乗り放題乗車券「[[SUNQパス]]」、[[九州旅客鉄道|JR九州]]提携のクレジットカードである[[SUGOCA#JQ CARD|JQ CARD]]など。 * Q - 鉄道会社の社名略記における「急行」「急」の俗表記。 ** KQ - [[京浜急行電鉄]]の[[パスネット]]印字 ** TOQ - [[東急電鉄]]が一部のサービスに用いた名称。[[TOQビジョン]]など。 ** [[富士急行]]のロゴマークは、'''富士山のシルエットに白抜きのQ'''である。 * Q車 - [[旧車]]の俗表記。 * QQ車 - [[救急車]]の略表記。医師や看護師の業務記録にみられる。 * おQ・おQ層 - 日本の[[インターネットスラング]]。[[第45回衆議院議員総選挙]]に際して当時の最大野党・[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]に投票した有権者層を揶揄する語。当時の与党・[[自由民主党 (日本)|自民党]]・[[公明党]]に「お[[灸]]を据える意志を持って投票行動をとった」層の意。 === 団体・作品・商品等の名 === 「Q」の文字は、「謎」や「疑問」、または「解決」のニュアンスを含む語として、グループ名や、フィクション作品のタイトル表記等に用いられる。 * [[阿Q正伝]] * [[ウルトラQ]] - 日本のテレビ特撮ドラマ。[[円谷プロダクション|円谷プロ]]作品第一作。 ** のちに、円谷プロ作品においてQの文字はよく使用されるにいたった。『[[マイティジャック]]』に登場する敵組織「Q」、『[[ウルトラマンA]]』第14話の必殺光線「スペースQ」、同作第48話の「Q歯科医院」、『[[ウルトラマンレオ]]』第43話の小型吸血円盤「デモスQ」。同作第47話の「テリナQ」など。 * [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]] * [[オバケのQ太郎]] * [[Qシリーズ (小説)]] * Green Q - [[クイーンズ伊勢丹]]の[[プライベートブランド]]。 * [[シャ乱Q]] - 日本のロックバンド。6枚目のアルバムは『[[GOLDEN Q]]』、公式ファンクラブはCLUB QUE(クラブキュー)。 * [[チョロQ]] * [[バンデットQ]] - 1981年製作のイギリス映画「''Time Bandits''」の邦題。 * メロリンQ - 無名時代の[[山本太郎]](のちに俳優、政治家)がテレビ番組『[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]』内の企画イベント「高校生ダンス甲子園」において名乗った名前。 * クイズ番組等の名称 ** [[おサイフいっぱいクイズ! QQQのQ]] ** [[カルトQ]] ** [[クイズプレゼンバラエティー Qさま!!]] ** [[ゲーム数字でQ]] ** [[スーパーダイスQ]] ** [[チャレンジQ]] ** [[どっきりQ]] ** [[なんでもQ]] ** [[ベルトクイズQ&Q]] === その他の使用例 === * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[JR西日本|JR]][[大和路線]]の[[路線記号]]として用いられる。 *[[Q符号]] - [[無線通信]]の略記号の一種。 * [[MS-DOS]]や[[Microsoft Windows|Windows]]などで、[[CD-ROM]]ドライブの[[ドライブレター]]に「Q」がよく割り当てられる。 ** Q - フリーのPC[[エミュレータ]][[QEMU]]の[[macOS]]向けポート。 * [[Qアノン]] - [[アメリカ合衆国]]の[[インターネット・ミーム]]および[[陰謀論]]。 * 株式のシンボル表記で「倒産手続き中」を意味する。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" |- !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0051|81||1-3-49|0071|113||1-3-81|}} {{ULu|FF31|65329||1-3-49|FF51|65361||1-3-81|全角}} {{ULu|24C6|9414||‐|24E0|9440||1-12-42|丸囲み}} {{ULu|1F120|127264||‐|24AC|9388||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D410|119824||‐|1D42A|119850||‐|[[太字]]}} |} == 他の表現法 == {{Letter other reps |NATO=Quebec |Morse=--・- |Character=Q |Braille=⠟ }} == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[Qu以外の綴りでqを含む英単語の一覧]] * {{仮リンク|Ɋ|en|Q with hook tail|label={{Unicode|Ɋ}}}} - [[フックつき文字]] * [[Ƣ|{{Unicode|Ƣ}}]] {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Q
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アルファ波
アルファ波(アルファは、α波)はヒトをはじめとする動物の脳が発生する電気的信号(脳波)のうち、8~13Hz成分のことをさす。アルファ波という名称は、ヒトの脳波を初めて記録したハンス・ベルガーが命名し、彼にちなんでベルガー波、ベルガーリズムとも呼ばれる。 安静(リラックス)・閉眼時の脳波においては、他の周波数成分に比べてアルファ波の占める割合が高く、基礎律動の主成分をなす(これは通常、目視でも確認できる)。アルファ波の発生機序については様々な仮説が提案されているものの未だに不明である。しかし脳や意識の状態によって変化することが経験的に知られているため、意識障害、認知症、精神疾患、睡眠障害などの診断補助・状態把握に用いられることがある。その他に、生理学、心理学などの研究目的で用いられることもある。 頭皮上電極による脳波では、後頭部を中心として観察される。しかし後頭葉以外でもアルファ帯域(8~13Hz)の電気的振動が発生しており、中心溝周辺のものはミュー(μ)律動、側頭葉周辺のものはタウ(τ)律動、二次感覚皮質周辺のものはシグマ(σ)律動と呼ばれることがある。ミュー律動は体性感覚・運動などと、タウ律動は聴覚処理などと、シグマ律動は体性感覚処理などと関連があるといわれている。 正常者の脳波では、後頭部アルファ波の振幅や位相に左右差は少なく、1~数秒の周期で振幅が増加したり減少したりを繰り返している(この現象を漸増漸減あるいはwaxing and waningという)。極端に左右差がある場合や、漸増漸減がない場合などは何らかの脳の異常が示唆される。 アルファ波は閉眼、安静、覚醒した状態でより多く観察され、開眼や視覚刺激時、運動時、暗算などの精神活動時、緊張時、睡眠時には減少する。このように、様々な刺激や運動に伴ってある周波数帯域の振動が増えること(または減ること)をそれぞれ「事象関連同期」、「事象関連脱同期」と呼ぶ。事象関連同期/脱同期の例として、上述したミュー律動は、運動に先だってまず減少し、運動終了後に反動性に増加を示す。この現象を利用して脳波でロボットアームを動かす、ブレイン・コンピュータ・インターフェイスの研究もなされている。 橋障害では患者は深昏睡であってもアルファ波の見られることがあり、「α昏睡」と呼ばれる。
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アルファ波(アルファは、α波)はヒトをはじめとする動物の脳が発生する電気的信号(脳波)のうち、8~13Hz成分のことをさす。アルファ波という名称は、ヒトの脳波を初めて記録したハンス・ベルガーが命名し、彼にちなんでベルガー波、ベルガーリズムとも呼ばれる。 安静(リラックス)・閉眼時の脳波においては、他の周波数成分に比べてアルファ波の占める割合が高く、基礎律動の主成分をなす(これは通常、目視でも確認できる)。アルファ波の発生機序については様々な仮説が提案されているものの未だに不明である。しかし脳や意識の状態によって変化することが経験的に知られているため、意識障害、認知症、精神疾患、睡眠障害などの診断補助・状態把握に用いられることがある。その他に、生理学、心理学などの研究目的で用いられることもある。 頭皮上電極による脳波では、後頭部を中心として観察される。しかし後頭葉以外でもアルファ帯域(8~13Hz)の電気的振動が発生しており、中心溝周辺のものはミュー(μ)律動、側頭葉周辺のものはタウ(τ)律動、二次感覚皮質周辺のものはシグマ(σ)律動と呼ばれることがある。ミュー律動は体性感覚・運動などと、タウ律動は聴覚処理などと、シグマ律動は体性感覚処理などと関連があるといわれている。
[[ファイル:eeg_alpha.svg|thumb|アルファ波|400px|right]] '''アルファ波'''(アルファは、'''α波''')は[[ヒト]]をはじめとする動物の脳が発生する電気的信号([[脳波]])のうち、8~13[[ヘルツ (単位)|Hz]]成分のことをさす。アルファ波という名称は、ヒトの脳波を初めて記録した[[ハンス・ベルガー]]が命名し、彼にちなんで'''ベルガー波'''、'''ベルガーリズム'''とも呼ばれる。 安静(リラックス)・閉眼時の脳波においては、他の周波数成分に比べてアルファ波の占める割合が高く、基礎律動の主成分をなす(これは通常、目視でも確認できる)。アルファ波の発生機序については様々な仮説が提案されているものの未だに不明である。しかし脳や意識の状態によって変化することが経験的に知られているため、意識障害、認知症、精神疾患、睡眠障害などの診断補助・状態把握に用いられることがある。その他に、生理学、心理学などの研究目的で用いられることもある。 頭皮上電極による脳波では、後頭部を中心として観察される。しかし後頭葉以外でもアルファ帯域(8~13Hz)の電気的振動が発生しており、中心溝周辺のものはミュー(μ)律動、側頭葉周辺のものはタウ(τ)律動、二次感覚皮質周辺のものはシグマ(σ)律動と呼ばれることがある。ミュー律動は体性感覚・運動などと、タウ律動は聴覚処理などと、シグマ律動は体性感覚処理などと関連があるといわれている。 == 正常なアルファ波 == 正常者の脳波では、後頭部アルファ波の振幅や位相に左右差は少なく、1~数秒の周期で振幅が増加したり減少したりを繰り返している(この現象を漸増漸減あるいはwaxing and waningという)。極端に左右差がある場合や、漸増漸減がない場合などは何らかの脳の異常が示唆される。 ==さまざまな刺激や運動によるアルファ波の増減== アルファ波は閉眼、安静、覚醒した状態でより多く観察され、開眼や視覚刺激時、運動時、暗算などの精神活動時、緊張時、[[睡眠]]時には減少する。このように、様々な刺激や運動に伴ってある周波数帯域の振動が増えること(または減ること)をそれぞれ「事象関連同期」、「事象関連脱同期」と呼ぶ。事象関連同期/脱同期の例として、上述したミュー律動は、運動に先だってまず減少し、運動終了後に反動性に増加を示す。この現象を利用して脳波でロボットアームを動かす、ブレイン・コンピュータ・インターフェイスの研究もなされている。 == 脳の異常とアルファ波 == [[橋 (脳)|橋]]障害では患者は深昏睡であってもアルファ波の見られることがあり、「α昏睡」と呼ばれる。 <!--だいたい4歳以上では、--> == 関連項目 == * [[脳波]] * {{仮リンク|神経振動|en|Neural oscillation}} * [[てんかん]] * [[睡眠]] * {{仮リンク|ミュー波|en|Mu wave}} * [[ベータ波]] * [[ガンマ波]] * [[デルタ波]] * [[シータ波]] {{デフォルトソート:あるふあは}} {{Medical-stub}} [[Category:脳]] [[Category:振動と波動]] [[Category:瞑想]] [[de:Elektroenzephalografie#Alpha-Wellen]]
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W
Wは、ラテン文字(アルファベット)の 23 番目の文字。小文字は w 。 字形(Vを二重化したもの)はUとともにVに由来する。形の類似した文字にギリシャ文字のω(オメガ)があるが、全く異なる文字であり、Wは下が尖っているのに対してωは丸い。 英語名ダブリュー(double U)は「二重のU」の意味だが、ロマンス系の言語などでは「二重のV」の名で呼んでいる(下記参照)。 その名のとおり、古英語で使われはじめた二重音字「vv」または「uu」に由来する文字である。 Vを横に2つ連ねた形であり、大文字、小文字同形である。しばしば2つのVを重ねて(左のVの右斜線と右のVの左斜線を交差させて)書く。V同様、筆記体では下部を丸めて書き、右上で折り返す。フラクトゥールは W w {\displaystyle {\mathfrak {W\ w}}} 。 国際音声記号としては、小文字 [w] は有声両唇軟口蓋接近音。 各言語においてこの文字が表す音価は、 古代ローマ人の時代のラテン語では、W の文字は存在せず、/w/ の音素は V の文字を使って表記していた。しかし、V の文字は/w/と同時に母音の/u/を表しており、さらに英語などのゲルマン語には、元来のラテン語にない/v/の音素があったため、V は一文字で 3 音素を表すことになった。そこで、/w/の音素を表す場合は V を重ねてVVと表記する慣習が生まれ、やがて二つのVが繋がって一つの文字になり、Wとなった。一方で母音の/u/を表すにはVの字の底を丸くしたUを用いるようになり、これが各地域に定着した。さらにドイツ語では /w/ の音素が消滅したため、新しく作られたWの字は/v/の音素を示すようになった。 語頭に /w/ を含むゲルマン語の語彙がロマンス諸語に伝わると、werra→guerra のように /gw/ に変化した。
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Wは、ラテン文字(アルファベット)の 23 番目の文字。小文字は w。 字形(Vを二重化したもの)はUとともにVに由来する。形の類似した文字にギリシャ文字のω(オメガ)があるが、全く異なる文字であり、Wは下が尖っているのに対してωは丸い。 英語名ダブリューは「二重のU」の意味だが、ロマンス系の言語などでは「二重のV」の名で呼んでいる(下記参照)。 その名のとおり、古英語で使われはじめた二重音字「vv」または「uu」に由来する文字である。
{{Otheruses||その他}} {{出典の明記| date = 2020年9月}} {{A-Z}} '''W'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の [[23]] 番目の[[文字]]。小文字は '''w''' 。 字形([[V]]を二重化したもの)は[[U]]とともにVに由来する<ref group="注釈">さらに言えば、Vは[[Y]]とともに[[ギリシャ文字]]の{{Lang|el|[[Υ]]}}(ウプシロン)に由来し、[[キリル文字]]の{{Lang|ru|[[У]]}}は同系の文字である。{{Lang|el|[[Υ]]}}(ウプシロン)の別形に由来する[[F]]とも同系といえる。</ref>。形の類似した文字に[[ギリシャ文字]]の{{Lang|el|[[ω]]}}(オメガ)があるが、全く異なる文字であり、Wは下が尖っているのに対して{{Lang|el|ω}}は丸い。 [[英語]]名ダブリュー({{Lang|en|double U}})は「二重のU」の意味だが、[[ロマンス諸語|ロマンス系の言語]]などでは「二重のV」の名で呼んでいる(下記参照)。 その名のとおり、古英語で使われはじめた[[二重音字]]「vv」または「uu」に由来する文字である<ref group="注釈">当時 v と u の峻別は存在しなかったと言ってよく、したがって「vv」と「uu」のどちらであったと定めることも難しい。</ref>。 == 字形 == [[File:W cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-W.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] Vを横に2つ連ねた形であり、大文字、小文字同形である。しばしば2つのVを重ねて(左のVの右斜線と右のVの左斜線を交差させて)書く。V同様、筆記体では下部を丸めて書き、右上で折り返す。[[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{W\ w}</math>。 == 呼称 == *二重のV **{{Lang-it-short|doppia vu}}, {{Lang|it|doppio vu}}(ドッピャヴ/ドッピョヴ) **{{Lang-es-short|uve doble}}, {{Lang|es|ve doble}}(ウベドブレ/ベドブレ) **{{Lang-pt-short|vê dobrado}}, {{Lang|pt|vê duplo}}(ヴェードブラド/ヴェードゥプロ)<ref group="注釈">ポルトガル語では「{{Lang|pt|dâblio}}」(ダブリォ)と呼称されることもある。また、[[ブラジルポルトガル語]]での呼称は「{{Lang|pt-br|dáblio}}」(ダブリォ)である。</ref> **{{Lang-hu-short|dupla vé}}(ドゥプラヴェー) **{{Lang-ro-short|dublu ve}}(ドゥブルヴェ) **{{Lang-fi-short|kaksois vee}}(カクソイスヴェー) **{{Lang-fr-short|double vé}}(ドゥブルヴェ) **[[エスペラント|エス]]:{{Lang|eo|duobla vo}}, {{Lang|eo|ĝermana vo}} (ドゥオブラヴォ/ヂェルマーナヴォ(ゲルマン人のV)) *二重のU **{{Lang-en-short|double u}}(ダブリュー) ''{{Audio|W (letter name).ogg|聞く}}'' *音素名称 **[[ドイツ語|独]]:ヴェー **[[オランダ語|蘭]]・[[インドネシア語|尼]]:ウェー **[[ポーランド語|波]]:ヴ == 音素 == [[国際音声記号]]としては、小文字 {{IPA|w}} は[[有声両唇軟口蓋接近音]]。 各[[言語]]においてこの文字が表す音価は、 *[[イタリア語]]、[[エスペラント語]]、[[スペイン語]]、[[フランス語]]、[[ポルトガル語]]などでは外来語にのみ使い、起源によって {{IPA|w}} または {{IPA|v}} (スペイン語では {{IPA|β}})で発音する。またこれらの言語において {{IPA|w}} は一般に、母音音素 {{ipa|u}} の異音として解釈できるものである。 *[[インドネシア語]]、[[英語]]などでは [[有声両唇軟口蓋接近音]] {{IPA|w}}。 **英語では、音素 {{ipa|w}} は後続の短母音を変化させる。ただし、母音の後にさらに[[軟口蓋音]]({{ipa|k, ɡ, ŋ}})がつづく場合にはこの限りではない。 *[[ウェールズ語]]では{{ipa|w}}のほかに母音{{ipa|ʊ, uː}}をも表す。例:[[wikt:en:cwm|cwm]] {{ipa|kʊm}}「谷」。 *[[オランダ語]]では[[唇歯接近音]] {{IPA|ʋ}} (上の歯を下唇に接近させた {{IPA|w}})を表す。 *[[スラヴ語]]でもおおむね {{IPA|v}} で、v と同じ音素を持つ。スラヴ語において、v と w は外来語を除いて片方しか使われない。[[チェコ語]]・[[クロアチア語]]などでは v を、[[ポーランド語]]などでは w を使い、もう片方は外来語にのみ使われる。 *[[中国語]]の[[ピンイン]]では、[[介音]] {{ipa|u}} {{IPA|ŭ}} が[[頭子音]]をともなわない(音節頭に来る)場合に用いる。頭子音をともなう場合は u を用い、書き分けを行っている。なお、「五」「烏」など主母音,尾音無しで介音{{ipa|u}}のみの場合、あくまで発音は{{ipa|u}}であり半母音{{ipa|w}}が(たとえば英単語のwoodやwolfなどのようには)発音されるわけではないが、子音(半母音)があるかのようにwuと表記する。 *[[朝鮮語のローマ字表記法|朝鮮語のローマ字表記]]では、母音字母の内、発音に{{ipa|w}}を含む[[ㅘ]]、[[ㅙ]]、[[ㅝ]]、[[ㅞ]]、[[ㅟ]]はwa、wae、wo、we、wiとなりwを含む。なお、[[ㅚ]]も{{ipa|w}}を含む発音だがoeとなりwを含まない。 *[[ドイツ語]]では[[有声唇歯摩擦音]] {{IPA|v}}。 *[[日本語のローマ字表記|日本語のローマ字]]ではワ行の音写に用いる。ワ行の子音 {{ipa|w}} は {{IPA|w}} に似るが、母音の{{ipa|u}} と同様に円唇性が弱い。方言差や話者個人によっても変わるが、実際には後舌と軟口蓋を接近させない[[両唇接近音]]{{IPA|β̞}}として発音されることが多い。 {{ipa|u}} の標準的な音価を {{IPA|ɯ}} と記すような場合には、これを {{IPA|ɰ}} と記述することがある。なお、訓令式およびヘボン式では「ゐ」「ゑ」「を」は「い」「え」「お」と同じ発音のため、子音無しのi、e、oとなり、実際にwが使われるのは「わ」のwaのみである。日本式では「ゐ」「ゑ」「を」もwi、we、woと表す。IMEにおけるローマ字入力では「を」は通常woになるが、「ゐ」「ゑ」はwyi、wyeと入力する場合や、直接入力出来ないがwi、weと入力して表れる「うぃ」「うぇ」、もしくはi、eと入力して表れる「い」「え」を変換すると候補に出てくるなど、IMEによってまちまちである。 == 歴史 == 古代ローマ人の時代の[[ラテン語]]では、W の文字は存在せず、{{ipa|w}} の[[音素]]は [[V]] の文字を使って表記していた。しかし、V の文字は{{ipa|w}}と同時に[[母音]]の{{ipa|u}}を表しており、さらに[[英語]]などの[[ゲルマン語]]には、元来のラテン語にない/v/の音素があったため、V は一文字で 3 音素を表すことになった。そこで、{{ipa|w}}の音素を表す場合は V を重ねてVVと表記する慣習が生まれ、やがて二つのVが[[合字|繋がって一つの文字になり]]、Wとなった。一方で母音の{{ipa|u}}を表すにはVの字の底を丸くした[[U]]を用いるようになり、これが各地域に定着した。さらに[[ドイツ語]]では {{ipa|w}} の音素が消滅したため、新しく作られたWの字は{{ipa|v}}の音素を示すようになった。 語頭に {{ipa|w}} を含むゲルマン語の語彙がロマンス諸語に伝わると、werra→guerra のように {{ipa|gw}} に変化した。 == W の意味 == === 一般的な略語 === * 西 ('''w'''est)。 **[[ヒップホップ]]において[[アメリカ合衆国]]西海岸([[ウエスト・サイド]])。 ** [[西日本]]向け商品に示される記号([[日清食品]]「[[どん兵衛]]」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nissinfoods.co.jp/knowledge/madeby/donbee/soup.html|title=東西で違うどん兵衛の味|publisher=日清食品|accessdate=2012-09-17}}</ref>など)。 ** [[新幹線E7系・W7系電車|新幹線W7系電車]]([[新幹線E7系・W7系電車|E7系]]の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]仕様) * [[女性]]('''w'''oman)。 ** 『[[女芸人No.1決定戦 THE W]]』などのタイトルにも使われる。 * [[幅]] ('''w'''idth)。 * [[腰|ウエスト]] ('''w'''aist)。人体のサイズを表示するときに、B(バスト)やH(ヒップ)とともによく使われる。 * [[ウェイト]] ('''w'''eight)([[体重]])。医療略語。 * '''W'''eek(週間)の略。主に医学の分野ではよく使われる。例:3W(3週間という意味)。 * '''w'''orld([[世界]])。[[ワールドカップ]](スポーツの国際大会)を「W杯」とするなど。 * [[日本語]]では、「二倍の、二つの、二人の」などを意味する[[ダブル|ダブル(double)]]の意味で使われる([[当て字]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://salon.mainichi-kotoba.jp/archives/24632|title=「ダブル」は「W」と略せる?|website=毎日ことばplus|date=2019-01-25|accessdate=2023-12-12}}</ref>。これは英語名「ダブリュー」({{Lang|en|double U}})が「ダブル」と音が似ていること(また、俗に「ダブリュー」を「ダブル」と誤って発音されてしまうこともある)が起源である。この表現は日本語独自のもので、本来は誤用であり、[[日本人]]、もしくは、日本語に精通した[[外国人]]以外には当然ながら通じない。英語圏ではdoubleの略としては[[D]]を用いる。 * 日本における[[インターネット]]上の[[チャット]]や[[電子掲示板|掲示板]]では、笑いを文字表現する際、"'''w'''arai"の省略として「w」と表すことがある<ref>三省堂国語辞典第七版、項目「ダブリュー」</ref>(用例: 面白いねw)。基本的に[[全角]]で、「ワラ」と読むのが一般的。「www」と並べて書くこともあり、草が生えているように見えることから「草」「草生える」「大草原」などと表現されることもある<ref name="nlab-20171001">{{Cite web|和書|url= https://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/1710/01/news034.html|title= 「草生える」「大草原不可避」 あなたは「草」ちゃんと生やせてますか?|date=2017-10-01|accessdate=2020-03-03|publisher=[[ねとらぼ]]}}</ref>。「芝」という表現もある<ref name="nlab-20171001" />。 * 英語の疑問詞における、"Who, What, When, Where, Why"の総称。詳しくは記事「[[5W1H]]」を参照のこと。 * 一般用[[照明器具]]の取付のうち壁付。構内電気設備配線用図記号 ([[JIS]] C 0303:2000) で用いられる。 === 科学分野 === * [[タングステン]]の元素記号。 * [[物理学]]では[[仕事 (物理学)|仕事]]、[[仕事関数]]を表す記号として用いられる。 * [[仕事率]]([[電力]]など)の[[単位]]、[[ワット]]。 * [[熱力学]]では、まぎらわしさ回避のため速度を v ではなく w と表す。 * [[数学]]では、x, y, z に次ぐ第四の未知数に使われる。(小文字) * 第二のベクトル空間(大文字) * [[コクセター群]]や[[ワイル群]](大文字) * [[非SI接頭辞]] ** ウェカ ('''w'''eka) (10{{sup|30}})(大文字) ** ウェコ ('''w'''eko) (10{{sup|−30}})(小文字) ** ウェクト ('''w'''ekto) (10{{sup|−30}})(小文字) - ジム・ブロワーズ (Jim Blowers) の提案 * [[32|三十二]]を意味する数字。[[三十六進法]]など、三十三進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において三十二([[十進法]]の'''32''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] 、およびアルファベットの [[O]] と数字の [[0]] が混同し易いために、アルファベットの I と O を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、…、[[N]] が[[22|二十二]]、[[P]] が[[23|二十三]]、…、W が[[30|三十]]を意味する。 === 固有名詞 === * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[JR北海道|JR]][[宗谷線]] ('''W'''akkanai)、[[JR西日本|JR]][[紀勢線]](きのくに線、[[和歌山駅]]〜[[新宮駅]])、[[JR西日本|JR]][[山陽本線|山陽線]]([[岡山駅]]〜[[福山駅]])、[[広島電鉄]][[白島線]] ('''W'''hite) の[[路線記号]]として用いられる。 * [[W Window System]] - [[X Window System]] の元になった[[ウィンドウシステム]] * [[カワサキ・W]] - [[川崎重工業]]の[[オートバイ]]。[[排気量]]650ccと400ccの2車種が存在する。 * [[W (ハロー!プロジェクト)|W]](ダブルユー) - [[ハロー!プロジェクト]]のアイドルユニット。 * W(ダブル) - 男性2人の兄弟デュオ。[[1997年]]にグループ名を[[K.D earth]]に改名。 * 日本のプロ野球チーム[[横浜DeNAベイスターズ]]の前身球団である横浜大洋ホエールズ、大洋ホエールズのアルファベットでの略号('''W'''halesより)。 * [[Au (携帯電話)|au by KDDI]]では、[[CDMA 1X WIN]]端末の型番は[[2008年]]モデルまで(法人向け端末を除き)すべて「W」で始まっていた。 *「'''W'''aseda」から、また、[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]等の[[ゼッケン]]に「W」が刻まれることから[[早稲田大学]]のことを「W大学」ということがある。また、これに限らず、[[早稲田大学野球部|早大野球部]]や系列の[[早稲田実業学校|早実]]などでも略号として使われる。 * [[仮面ライダーW]] - 特撮テレビドラマ。この場合、必ず大文字表記。 * [[W (曲)|W]] - [[松岡充]]のソロシングル。 * [[W (アルバム)|W]] - [[ARB (バンド)|ARB]]のアルバム。 * [[W-君と僕の世界-]] - 2016年の[[韓国]]のテレビドラマ。 * [[マリオシリーズ]]及び[[ワリオシリーズ]]における登場キャラクター・[[ワリオ]]のシンボルマーク。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0057|87||1-3-55|0077|119||1-3-87|}} {{ULu|FF37|65335||1-3-55|FF57|65367||1-3-87|全角}} {{ULu|24CC|9420||‐|24E6|9446||1-12-55|丸囲み}} {{ULu|1F126|127270||‐|24B2|9394||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D416|119830||‐|1D430|119856||‐|[[太字]]}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Whiskey |Morse=・-- |Character=W |Braille=⠺ }} ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * {{Unicode|[[Ŵ]] ŵ}} - [[サーカムフレックス]] * {{仮リンク|Ẃ|pl|Ẃ|label={{Unicode|Ẃ}}}} - [[アキュート・アクセント]] * {{仮リンク|Ẁ|it|Ẁ|label={{Unicode|Ẁ}}}} - [[グレイヴ・アクセント]] * {{仮リンク|Ẅ|fr|Ẅ|label={{Unicode|Ẅ}}}} - [[トレマ]] * {{Unicode|[[Ƿ]] ƿ}} - [[ルーン文字]]由来 * [[カシオペア座]] - 星座の形がWの形をしている。 {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/W
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R
Rは、ラテン文字(アルファベット)の18番目の文字。小文字は r 。ギリシア文字のΡ(ロー)に由来し、キリル文字のР(エル)と同系の文字である。 この文字が表す音素は、歯茎ふるえ音(/r/)ないしその類似音である(R音)。言語によってさまざまであるが、舌を上歯茎にしっかり付けて発音するLと異なる音であるところで共通する。しばしばべらんめいのようないわゆる巻き舌(舌を数回硬口蓋にはじかせる)となる。軽い巻き舌で硬口蓋に1度だけはじかせると、日本語のら行の子音に似る。英語では、舌を硬口蓋に付けることなく接近させる。フランス語のパリ方言では、舌を硬口蓋に付けずに舌先を下げ、奥のほうで摩擦する。 多くの言語で、他の子音、特に破裂音に続いて現れたときは、一気に発音され、その間で音節を区切ることはしない。 ギリシャ文字のΡ(ロー)に由来する。ギリシア文字Π(ピー、パイ)が、右足を曲げ、P(ピー)のようになって、Ρ(ロー)に似てきたため、区別するために線を付加したものである。 大文字Rには、以下のような特徴があるため、上下逆・左右逆・反転の有無が容易に識別できる。このため、プリンターやコピー機などの給紙方法の例示としてよく使われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Rは、ラテン文字(アルファベット)の18番目の文字。小文字は r 。ギリシア文字のΡ(ロー)に由来し、キリル文字のР(エル)と同系の文字である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この文字が表す音素は、歯茎ふるえ音(/r/)ないしその類似音である(R音)。言語によってさまざまであるが、舌を上歯茎にしっかり付けて発音するLと異なる音であるところで共通する。しばしばべらんめいのようないわゆる巻き舌(舌を数回硬口蓋にはじかせる)となる。軽い巻き舌で硬口蓋に1度だけはじかせると、日本語のら行の子音に似る。英語では、舌を硬口蓋に付けることなく接近させる。フランス語のパリ方言では、舌を硬口蓋に付けずに舌先を下げ、奥のほうで摩擦する。", "title": "音価" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "多くの言語で、他の子音、特に破裂音に続いて現れたときは、一気に発音され、その間で音節を区切ることはしない。", "title": "音価" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ギリシャ文字のΡ(ロー)に由来する。ギリシア文字Π(ピー、パイ)が、右足を曲げ、P(ピー)のようになって、Ρ(ロー)に似てきたため、区別するために線を付加したものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大文字Rには、以下のような特徴があるため、上下逆・左右逆・反転の有無が容易に識別できる。このため、プリンターやコピー機などの給紙方法の例示としてよく使われている。", "title": "その他" } ]
Rは、ラテン文字(アルファベット)の18番目の文字。小文字は r。ギリシア文字のΡ(ロー)に由来し、キリル文字のР(エル)と同系の文字である。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses}} {{A-Z}} '''R'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[18]]番目の文字。小文字は '''r''' 。[[ギリシア文字]]の[[Ρ]](ロー)に由来し、[[キリル文字]]の[[Р]](エル)と同系の文字である。 == 字形 == [[File:R cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-R.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] #大文字は、縦棒の上部右に右半円を付け、線中央から右下に斜線を付加した形である。[[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{R}</math>。 #小文字は、縦棒と上部右に接する左上四半円ないし上半円である。[[ρ]](ロー)の円の下半分を略した形といえるかもしれない。または、大文字Rの下半分ないし左下部分と見ることもできる。[[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{r}</math>。手書き書体では、縦棒を先に書き、折り返して半円を書く。筆記体では、縦棒の上部に前の字からの接続線が左下から、次の字への接続線が半円の右端から右上に続く。 #このとき、前からの接続線が縦棒に緩やかに半円を描いて続いていれば、本来の半円は円弧を描かず、鋭く山形に曲がることがある。 #別の小文字筆記体では、左下から上がって、頂点で鋭く山形に右下に方向を変え(このとき逆時計回りに非常に小さな円を描くことがある)、右下に少し下がってから真下やや左向きに進路を変え、そのまま右に弧を描きながら[[書体#欧文書体|ベースライン]]に達し、右上に抜ける。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[フランス語|仏]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[ルーマニア語|羅]]・[[ポルトガル語|葡]]・[[ノルウェー語|諾]]・[[ポーランド語|波]]・[[インドネシア語|尼]]:エル(エール) * [[ドイツ語|独]]・[[デンマーク語|丁]]:エァ {{ipa|ɛɐ}} * {{Lang-es-short|erre}}(エレ) * {{Lang-it-short|erre}}(エッレ) * {{Lang-en-short|ar}}(アー){{ipa|ɑː}} ** {{Lang-en-us-short|ar}}(アール){{ipa|ɑːr}} {{Audio|R (letter name).ogg|聞く}} * [[トルコ語|土]]:レ {{ipa|ɾe}} * [[スウェーデン語|典]]・[[フィンランド語|芬]]:アェル * [[エスペラント|エス]]:ロー == 音価 == この文字が表す音素は、[[歯茎ふるえ音]]({{ipa|r}})ないしその類似音である([[R音]])。言語によってさまざまであるが、舌を上歯茎にしっかり付けて発音する[[L]]と異なる音であるところで共通する。しばしば[[べらんめえ口調|べらんめい]]のようないわゆる[[巻き舌]](舌を数回[[硬口蓋]]にはじかせる)となる。軽い巻き舌で硬口蓋に1度だけはじかせると、[[日本語]]の[[ら行]]の[[子音]]に似る。英語では、舌を硬口蓋に付けることなく接近させる。フランス語の[[パリ]]方言では、舌を硬口蓋に付けずに舌先を下げ、奥のほうで摩擦する。 *[[アメリカ英語]]では母音字の後ろにあるrを発音するが、[[イギリス英語]]では発音しないか[[黙字]](スコットランドやイングランドの3分の1くらいの地域では発音されている)となっている。 *ドイツ語の多くの無強勢音節末のr, 複[[音節]]語における語末の er は、ゆっくり発音するような特別な場合をのぞき {{IPA|ɐ}} となる。 *フランス語では語尾が -er で終わる単語の大半で語末の r を黙字とする。ただし、後続の単語が母音で始まっていれば、[[リエゾン]]が起こり発音する。 *[[中国語]]の[[ピンイン]]では、音節頭位では[[有声そり舌摩擦音]](声母"日")である。これは日本人には「リ」とも「ジ」とも聞こえるような音で、[[ウェード式]]では"j"と書かれる。また、"er"(韻母"児")と書かれたときはそり舌の曖昧母音で、声調によっては主母音はアに近くなる。また"児"が接尾辞として用いられたときは、[[児化]]を起こす。 *[[歯茎ふるえ音]] *イギリス英語:[[歯茎接近音]] *アメリカ英語、中国語:[[そり舌接近音]] *ドイツ語:[[口蓋垂ふるえ音]] *フランス語:[[有声口蓋垂摩擦音]] *日本語、[[朝鮮語]]:[[歯茎はじき音]] *スペイン語:語頭や n, l の後の"r"、語中の"rr"は[[歯茎ふるえ音]]、それ以外は[[歯茎はじき音]]という風に弁別する。 多くの言語で、他の子音、特に破裂音に続いて現れたときは、一気に発音され、その間で音節を区切ることはしない。 {| class="wikitable" |- | style="width:35%" | [[歯茎ふるえ音]] {{IPA|r}} | style="text-align:center" | [//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Alveolar_trill.ogg 聴く] | style="width:55%" | [[イギリス英語]]のいくつかの方言、強調されたスピーチ、標準的な[[オランダ語]]、[[フィンランド語]]、[[ガリシア語]]、[[ドイツ語]]、いくつかの方言で[[ハンガリー語]]、[[アイスランド語]]、[[イタリア語]]、[[チェコ語]]、[[リトアニア語]]、[[ラトビア語]]、[[ラテン語]]、[[ノルウェー語]]、[[ポーランド語]]、[[カタルーニャ語]]、[[ポルトガル語]](伝統的なもの)、[[ルーマニア語]]、[[スコットランド語]]、[[スペイン語]]、[[アーンミーヤ|アラビア語]]、そして[[アルバニア語]]“rr”、[[スウェーデン語]]、[[ウェールズ語]] |- | style="width:35%" | [[歯茎接近音]] {{IPA|ɹ}} | style="text-align:center" | [//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1f/Alveolar_approximant.ogg 聴く] | style="width:55%" | [[英語]] (最も多い種類)、いくつかの方言で[[オランダ語]](単語の特定の位置)、[[スウェーデン語]]、いくつかの方言で[[ポルトガル語]](単語の特定の位置)、[[フェロー語]]、[[シチリア語]] |- | style="width:35%" | [[歯茎はじき音]] {{IPA|ɾ}} | style="text-align:center" | [//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/60/Alveolar_flap.ogg 聴く] | style="width:55%" | [[ポルトガル語]]、[[カタルーニャ語]]、[[スペイン語]]、そして[[アルバニア語]]“r”、[[トルコ語]]、[[オランダ語]]、[[イタリア語]]、[[ヴェネツィア語]]、[[ガリシア語]]、[[レオン語]]、一部の[[アーンミーヤ|アラビア語方言]] |- | style="width:35%" | [[有声そり舌摩擦音]] {{IPA|ʐ}} | style="text-align:center" | [//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Voiced_retroflex_sibilant.ogg 聴く] | style="width:55%" | /r/ の異音としていくつかの南アメリカのアクセントで[[スペイン語]];[[普通話]]([[ピン音]]で);[[ベトナム語]](南部方言) |- | style="width:35%" | [[そり舌接近音]] {{IPA|ɻ}} | style="text-align:center" | [//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/Retroflex_approximant.ogg 聴く] | style="width:55%" | [[アメリカ英語]]のいくつかの種類;[[普通話]](ピン音で);そして[[ゴトランド語]] |- | style="width:35%" | [[そり舌はじき音]] {{IPA|ɽ}} | style="text-align:center" | [//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/Retroflex_flap.ogg 聴く] | style="width:55%" | 時折[[スコットランド英語]] |- | style="width:35%" | [[口蓋垂ふるえ音]] {{IPA|ʀ}} | style="text-align:center" | [//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cb/Uvular_trill.ogg 聴く] | style="width:55%" | 公式な場での[[ドイツ語]];いくつかの[[オランダ語]]方言 (ブラバント、そしてリンブルフなど、オランダのいくつかの都市)、南部スウェーデンでの[[スウェーデン語]]、西部及び南部地域での[[ノルウェー語]]、一部の[[アーンミーヤ|アラビア語方言]] |- | style="width:35%" | [[有声口蓋垂摩擦音]] {{IPA|ʁ}} | style="text-align:center" | [//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/Voiced_uvular_fricative.ogg 聴く] | style="width:55%" | [[ドイツ語]]、[[デンマーク語]]、[[フランス語]]、[[ヘブライ語]]、いくつかのヨーロッパ[[ポルトガル語]]“rr” |- | style="width:35%" | [[無声口蓋垂摩擦音]] {{IPA|χ}} | style="text-align:center" | [//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c8/Voiceless_uvular_fricative.ogg 聴く] | style="width:55%" | いくつかの[[ブラジルポルトガル語]]“rr” |- | style="width:35%" | [[無声声門摩擦音]] {{IPA|h}} | style="text-align:center" | [//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Voiceless_glottal_fricative.ogg 聴く] | style="width:55%" | いくつかの[[ブラジルポルトガル語]]“rr” |} == 歴史 == [[ギリシャ文字]]の[[Ρ]](ロー)に由来する。ギリシア文字[[Π]](ピー、パイ)が、右足を曲げ、[[P]](ピー)のようになって、Ρ(ロー)に似てきたため、区別するために線を付加したものである。 == R の意味 == === 主に大文字 === * [[右]] ('''R'''ight)。 *[[数学]]分野 ** ∠R または R は[[角度|直角]] ('''R'''ight angle) を表す。 ** '''R''' または ℝ は、[[実数]] ('''r'''eal number) 全体の成す[[集合]]を表す。 ** ℜ は、[[複素数]]の実部 (real part)。Re を使うことも多い。 ** [[右導来関手]] ** {{仮リンク|R行列|en|R-matrix}} ** [[計算複雑性理論]]における[[複雑性クラス]]のひとつ([[R (計算複雑性理論)]]) ** [[27|二十七]]を意味する数字。[[三十六進法]]など、二十八進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において二十七([[十進法]]の'''27''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] 、およびアルファベットの [[O]] と数字の [[0]] が混同し易いために、アルファベットの I と O を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、…、[[N]] が[[22|二十二]]、[[P]] が[[23|二十三]]、…、R が[[25|二十五]]を意味する。 *[[自然科学]]分野 ** [[アルキル基]]の略号 例:[[アルコール]]の[[構造式]] R-OH ** [[気体定数]]の略号 例:[[気体の状態方程式]] ''PV'' = ''n''R''T'' ** [[放射線量]]の単位、[[レントゲン (単位)|レントゲン]](単位) ** [[水素]]原子の線スペクトルに関する定数、[[リュードベリ定数]] ** 回路の[[電気抵抗]]や[[抵抗器]]を表す。(それぞれ'''R'''esistance、'''R'''esistor)例: ''E'' = ''IR'' **光の三原色 (RGB)、および色彩学での赤。('''R'''ed) ** [[温度]]表示方式の一種[[ランキン度]] {{en|°R}} ** [[非SI接頭辞]] リンタ (rinta)(10<sup>45</sup>)(ジム・ブロワーズ (Jim Blowers) の提案) * [[元号]]「[[令和]]('''R'''eiwa)」の略記。 * [[R言語]] * [[通貨]]単位 ** [[サウジアラビア]]、[[イラン]]、[[オマーン]]、[[カタール]]、[[イエメン]]の通貨単位 [[リヤル]] (Riyal) ** R$は、[[ブラジル]]の通貨単位 [[レアル]] (Real) ** Rは、[[インド]]、[[スリランカ]]、[[セーシェル]]、[[ネパール]]、[[パキスタン]]、[[モーリシャス]]の通貨単位 [[ルピー]] (rupee)、Reとも *[[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[東京臨海高速鉄道りんかい線]] ('''R'''inkai)、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[阪和線]]、[[神戸新交通六甲アイランド線]] ('''R'''okkō)、西日本旅客鉄道(JR西日本)[[山陽本線|山陽線]]([[広島駅]] - [[岩国駅]]間)('''R'''ed) の[[路線記号]]として用いられる。 * [[道路]]・[[鉄道]]用語で、軌道の[[曲率半径]]。 * [[自動車]]の[[トランスミッション]]の後退 ('''R'''everse) 位置。 * 自動車のグレード名で、レーシング ('''R'''acing) などを意味する語として用いられる。 ** 代表的なもので[[日産自動車]]の[[日産・GT-R|GT-R]]、[[本田技研工業]]の[[タイプR]]など * [[国道]]の略字。国道1号線ならば、 R1。('''R'''oute) * レギュラーサイズの略字。('''R'''egular) * [[映画のレイティングシステム]]のR指定。('''R'''estricted) * [[接眼レンズ]]の1種類で[[ラムスデン式接眼鏡]]。 * 建物の階数表示で、屋上 ('''R'''oof)。 * [[海図]]の記号で底質が[[岩]]。 * [[電子媒体]]のRecordable(追記可能)の略。[[CD-R]]、[[DVD-R]]など。 * [[標準数]]の'''R'''系列(R10、R20など。「R」の由来については不詳)。[[標準数#JIS Z 8601の標準数]]を参照。 * '''R'''ound ** [[スノーボード]]などで、[[ハーフパイプ]]やクォーターパイプなど、断面が円弧の形状になる滑走設備。 ** [[ボクシング]]や[[レスリング]]などで、競技の数を表す単位「ラウンド」('''R'''ound) の略。 * [[電子部品]]などの規格値の表示で、誤読を防ぐため[[小数点]]の代わりに用いる。「R」の由来については不詳。<!-- round(切りの良い)説、radix point説、Ω(オーム)代用としてのresistorのR説、どれも典拠なし。 --> * [[競馬]]で競走番号(レース番号)を表す記号。「東京11R」など。 ('''R'''ace) * [[フランツ・リスト]]の[[作品番号|作品目録番号]]のひとつ、[[ラーベ番号]]。 * 野球記録における[[得点 (野球)|得点]] ('''R'''un) * [[リレー走|リレー]]の略。「4×100mR」など。 * [[チェス]]の棋譜などで[[ルーク]] ('''R'''ook) を表す。 * [[メルセデス・ベンツ・Rクラス]]。 * 盤名 ** [[白石涼子]]のデビューミニアルバム『R』。 ** [[BAJI-R]]のアルバム『R』。 ** [[Roselia]]の楽曲『[[R (Roseliaの曲)|R]]』。 * [[NTTドコモ]]の携帯電話の型番で、[[日本無線]]製の端末を表す略号。(J'''R'''C) === 主に小文字 === * 数学、[[図面]]などで半径 ('''r'''adius) を表すのによく用いられる。 * 回転数 ('''r'''evolution) を表す。rpm は一分間あたりの回転数。 * r [[SI接頭語]] ロント (ronto)(10<sup>−27</sup>) * R SI接頭語ロナ (ronna)(10<sup>27</sup>) * [[地域通貨]][[アースデイマネー]]の単位 === Rをもとにした記号 === * {{larger|®}}は、[[登録商標マーク]] (Registered trademark)。 *℞は、[[レシピ]]([[処方箋]])(recipe) == 符号位置 == {|class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0052|82||1-3-50|0072|114||1-3-82|}} {{ULu|FF32|65330||1-3-50|FF52|65362||1-3-82|全角}} {{ULu|24C7|9415||‐|24E1|9441||1-12-43|丸囲み}} {{ULu|1F121|127265||‐|24AD|9389||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D411|119825||‐|1D42B|119851||‐|[[太字]]}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Romeo |Morse=・-・ |Character=R |Braille=⠗ }} ==その他== 大文字'''R'''には、以下のような特徴があるため、上下逆・左右逆・反転の有無が容易に識別できる。このため、[[プリンター]]や[[複写機|コピー機]]などの給紙方法の例示としてよく使われている<ref>{{Cite web|和書| url=https://faq.ricoh.jp/app/answers/detail/a_id/134/~/%E5%8E%9F%E7%A8%BF%E3%82%92%E3%83%A8%E3%82%B3%E6%96%B9%E5%90%91%E3%81%A7%E4%B8%A1%E9%9D%A2%E5%8D%B0%E5%88%B7%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E8%A3%8F%E9%9D%A2%E3%81%8C%E4%B8%8A%E4%B8%8B%E3%81%AB%E5%8F%8D%E8%BB%A2%E3%81%97%E5%8D%B0%E5%AD%97%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E5%A0%B4%E5%90%88%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%87%A6%E6%96%B9%E6%B3%95| title=よくあるご質問 -FAQ- Q.原稿をヨコ方向で両面印刷すると裏面が上下に反転し印字される場合の対処方法について知りたい。 | work=[[リコー]] | accessdate=2020-8-18}}</ref>。 * [[線対称]]ではない * [[点対称]]ではない * 四隅が空白ではない、かつ、すべて形が異なる == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[Ř]] ř - [[ハーチェク]] *[[Ŕ]] ŕ - [[アキュート・アクセント]] *{{仮リンク|Ṙ|de|Ṙ|label={{Unicode|Ṙ}}}} - [[ドット符号]] *{{仮リンク|Ŗ|zh|Ŗ|label={{Unicode|Ŗ}}}} - [[セディーユ]] *{{仮リンク|Ȑ|fr|Ȑ|label={{Unicode|Ȑ}}}} - [[ダブルグレイヴ]] *{{仮リンク|Ɍ|en|R with stroke|label={{Unicode|Ɍ}}}} - [[ストローク符号]] *{{仮リンク|Ȓ|fr|Ȓ|label={{Unicode|Ȓ}}}} - [[:en:Inverted breve|Inverted breve]] *{{仮リンク|Ṛ|en|Ṛ|label={{Unicode|Ṛ}}}} *{{仮リンク|Ṝ|de|Ṝ|label={{Unicode|Ṝ}}}} *{{仮リンク|Ṟ|de|Ṟ|label={{Unicode|Ṟ}}}} *[[英語の /r/ の発音]] *[[ロータシズム]](R音化現象) *[[昭和軽薄体]] {{ラテン文字}} {{DEFAULTSORT:R}} [[Category:ラテン文字]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/R
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T
Tは、ラテン文字(アルファベット)の20番目の文字。小文字はt。ギリシャ文字のΤ(タウ)に由来し、キリル文字のТに相当する。 大文字と小文字とで異なる。 この文字が表す音素は、無声歯茎破裂音 /t/ないしその類似音である。
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Tは、ラテン文字(アルファベット)の20番目の文字。小文字はt。ギリシャ文字のΤ(タウ)に由来し、キリル文字のТに相当する。
{{A-Z}} '''T'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[20]]番目の文字。小文字は'''t'''。[[ギリシャ文字]]の[[Τ]](タウ)に由来し、[[キリル文字]]の[[Т]]に相当する。 == 字形 == [[File:T cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-T.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] 大文字と小文字とで異なる。 # 大文字は、上に書かれた横線と、中央から下がる縦線で構成される。[[フラクトゥール]]の<math>\mathfrak{T}</math>のように、下にも短い横線が付くことがある。 # 小文字は、大文字に似るが、2線が上部で交差する。縦線の下部はしばしば右に曲がり、折り返すことがある。[[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{t}</math>。筆記体では、左下から縦線につながる。筆記体は横線をあとに書くが、縦線下部から左上に折り返して横線を続けて書く場合がある。 == 呼称 == * [[ラテン語|羅]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ドイツ語|独]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[インドネシア語|イネ]]:テー * [[フランス語|仏]]・[[スペイン語|西]]・[[トルコ語|土]]:テ * [[イタリア語|伊]]:ティ * [[英語|英]]・[[日本語|日]]:tee(ティー)([[国際音声記号|IPA]]: {{ipa|tiː}}) ''{{Audio|T (letter name).ogg|聞く}}'' * [[エスペラント|エス]]:トー == 音素 == この文字が表す音素は、[[無声歯茎破裂音]] {{ipa|t}}ないしその類似音である。 * tiに[[母音]]字が続く場合が多く、英語ではシの子音{{ipaxl|ʃ|S|}}に、フランス語では「スュィ」{{ipa|sj}}になる。またドイツ語では「ツィ」{{ipa|tsi}}になる。 * フランス語では語尾の t を黙字とする(ごく一部の単語を除く。例:Est(東), concept, district 等)。ただし、後続の単語が母音で始まっていれば、[[リエゾン]]して発音する。 * 英語の[[th]]は、[[th#二重音字|当該記事]]を参照のこと。 * ドイツ語の[[四重音字|tsch]]は/tʃ/である。<ref>[http://vu.flare.hiroshima-u.ac.jp/german/hatsuon/tsch_ts_check.htm] - [[広島大学]]の助教授(当時、現在は教授)[[岩崎克己]]による。なお経歴の根拠は[http://kaken.nii.ac.jp/d/r/70232650]</ref> * [[日本語]]のローマ字表記では[[タ行]]の子音に用いられる。ただし、[[ヘボン式]]では「[[ち]]」は別の子音(ch)となり、「[[つ]]」は[[破擦音]]であるためsを加えtsとなる。 * [[朝鮮語]]のローマ字表記である[[文化観光部2000年式]]では{{lang|ko|[[ㅌ]]}}および終声の{{lang|ko|[[ㄷ]]}}(母音が後続しない場合)に用いられる。[[マッキューン=ライシャワー式]]では語頭などの無声で発音される[[初声]]の{{lang|ko|ㄷ}}にもtを用いる。初声の{{lang|ko|[[ㄸ]]}}はどちらの方式も2つ重ねて tt となる。 *[[中国語]]の[[漢語拼音]]では有気歯茎破裂音に用いられる。 == T の意味 == * Tは、世界共通の[[郵便]]物の料金未納又は料金不足郵便物の記号として使用される。[[逓信省]]が郵便マークを一旦「丁」と発表したが、「丁」と形の似ている「T」が料金未納の意味であることが分かったので、後に「[[〒]]」の誤りと発表した、と言われている。 * [[大正]]の略記。 * [[LISP]]で、'''t''' は真を表す。偽は '''nil''' である。 * 古代ローマ人の個人名ティトゥス ('''T'''itus) の略。 * カルテ、処方箋等で錠剤 ('''t'''ablet) を表す。 * 人物のプロフィールで[[身長]]を示す。例えば T170 は身長 170cm の意味。 * [[証券業]]界で証券コードの後に&lt;xxxx.T&gt;のようにつけて[[東京証券取引所]]上場企業を表す。 * [[アメリカンフットボール]]の[[アメリカンフットボールのポジション|ポジション]]の一つであるタックル ('''T'''ackle) の略称。 * [[アメリカンフットボールのポジション#ランニングバックの配置による分類|Tフォーメーション]] - アメリカンフットボールにおける戦略の一つ。 * [[アメリカ合衆国|アメリカ]]のレーティング審査組織[[Entertainment Software Rating Board]]による13歳以上対象の表示('''T'''een の略)。 * 引掛形[[コンセント]]。構内電気設備配線用図記号 ([[JIS]] C 0303:2000) で用いられる。コンセントの図記号に傍記。 * タイマ付[[開閉器|スイッチ]]。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。スイッチの図記号に傍記。 === 科学・数学・単位 === * [[物理学]]などで時間 ('''t'''ime) を表す(変数である時間を表す場合は小文字を、定数である[[周期]]などを表す場合は大文字を用いる)。 * 物理学などで温度 ('''t'''emperature) を表す。一般に大文字だが、[[セルシウス度]]は小文字、[[ケルビン]]は大文字と使い分けることもある。 * 物理学などで張力 ('''t'''ension) を表す(一般に大文字を用いる)。 * [[数学]]で[[三角数]]を表す。('''T'''riangular number) * 数学では、[[行列 (数学)|行列]]に付いた[[上付き文字|上付き]]のTは[[転置行列]]を表す。 * [[論理学]]で真 ('''T'''rue)を意味する。対義語はFalse (偽, "F"と略記). * [[CPU]]の[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]('''T'''hread)のこと。 * [[トーラス]] * [[接空間]]、[[接束]] * [[テンソル代数]] * {{仮リンク|t-structure|en|t-structure}} * {{仮リンク|カジュダンの性質 (T)|en|Kazhdan's property (T)}} * [[統計学]]では、t統計量。[[t検定]]参照。 * [[水素]]の同位体[[トリチウム]](三重水素)を表す。 * [[磁束密度]]の[[SI組立単位]][[テスラ (単位)|テスラ]] * T([[テラ]])は10<sup>12</sup>(1兆)倍を示す[[国際単位系|SI接頭語]]。 * 重さを表す単位 '''t''' (小文字):[[トン]] (1 t = 1,000 kg) * [[29|二十九]]を意味する数字。[[三十六進法]]など、三十進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において二十九([[十進法]]の'''29''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] 、およびアルファベットの [[O]] と数字の [[0]] が混同し易いために、アルファベットの I と O を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、…、[[N]] が[[22|二十二]]、[[P]] が[[23|二十三]]、…、T が[[27|二十七]]を意味する。 === 乗り物・交通 === * T字路は[[丁字路]](ていじろ)のこと。 ==== 鉄道 ==== * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[根室線]]([[滝川駅]]〜[[新得駅]])('''T'''akikawa)、[[札幌市営地下鉄]][[札幌市営地下鉄東西線|東西線]] ('''T'''ōzai)、[[仙台市交通局]][[仙台市地下鉄東西線|東西線]] ('''T'''ōzai)、[[東京メトロ]][[東京メトロ東西線|東西線]] ('''T'''ōzai)、[[富山地方鉄道]][[富山地方鉄道本線|本線]]・[[立山線]]・[[不二越線]]・[[上滝線]] ('''T'''oyama)、[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]] ('''T'''surumai)、[[JR西日本|JR]][[和歌山線]]、[[京都市営地下鉄]][[京都市営地下鉄東西線|東西線]] ('''T'''ōzai)、[[京都丹後鉄道]][[京都丹後鉄道宮豊線|宮豊線]] (miya'''T'''oyo)、[[Osaka Metro]][[Osaka Metro谷町線|谷町線]] ('''T'''animachi)、[[JR西日本|JR]][[津山線]]、[[JR四国|JR]][[高徳線]] ('''T'''akamatsu'''T'''okushima)、[[西日本鉄道|西鉄]][[天神大牟田線]] ('''T'''enjin) の[[路線記号]]として用いられる。 * [[電車]]の車種を表す記号で'''[[付随車]]'''(トレーラー = 電動機も運転台もない車両)のこと。ちなみに運転台付きはTc。対義語は「[[M]]」(電動車、モーター付き車両) * [[エレクトロ・モーティブ・ディーゼル|EMC]]製の[[EMC製のウィントンエンジン搭載の入換機#T形|T形ディーゼル機関車]]の形式名 * 関西の[[東海道本線|東海道線]]の、[[高槻駅|高槻]]-[[西明石駅|西明石]]間の快速電車の列車番号の末尾がTである事から、現場の職員や鉄道ファンがT電と呼称している。 * [[Tカード]]は[[都営地下鉄]]・[[都営バス]]・[[東京都電車]](いずれも[[東京都交通局]]運営)向けに作られた[[乗車カード]]システムの総称及び呼称である。 * 都営地下鉄の路線で、他社線との相互直通がある場合に都営地下鉄車両の所定運用に付けられるアルファベット。[[京浜急行電鉄]]・[[京成電鉄]]・[[北総鉄道]]・[[京成成田空港線]]でも、自社線と都営地下鉄線を直通走行する列車での都営地下鉄車両が原則使用される場合の運行番号は「xxxxT」となる。(但し、都営地下鉄と直通している[[東急電鉄]]内では、6桁の数字のみ 例「xxxxxx」となり、[[京王電鉄]]内では4桁の数字のみ 例「xxxx」となる。) ==== 自動車 ==== * [[トヨタ自動車|トヨタ]]車の形式名に於いては、以下の意味がある。 ** 1.FF方式(またはFFベースの4WD)を採用した[[トヨタ・セリカ|セリカ]]・[[トヨタ・カリーナ|カリーナ]]・[[トヨタ・コロナ|コロナ]]、及びその派生・後継車種([[トヨタ・カレン|カレン]]・[[トヨタ・カリーナED|ED]]・[[トヨタ・コロナエクシヴ|EXiV]]・[[トヨタ・カルディナ|カルディナ]]・[[トヨタ・アベンシス|アベンシス]]・[[トヨタ・アリオン|アリオン]]・[[トヨタ・プレミオ|プレミオ]])を意味する車両識別記号。(例:S'''T'''182、A'''T'''210、ZZ'''T'''231) ** 2.[[トヨタ・T型エンジン]]、またはそれを搭載していることを意味する符号。(例:'''T'''E27、'''T'''A22) * トヨタ車、[[日産自動車|日産]]車のエンジンにおいて[[ターボ]]仕様を意味する符号。 ** トヨタの場合エンジン形式のハイフンの後につくと、ターボエンジンを意味する。(例:2E-'''T'''E、3S-G'''T'''E、2JZ-G'''T'''E) ** 日産の場合は後ろにつく(例:SR20DE'''T''')が、ツインターボの場合は"'''TT'''"(例:RB26DE'''TT''')、ディーゼルインタークーラーターボの場合は"'''Ti'''"(例:ZD30DD'''Ti''')となる。 === 企業・ブランド === * 電気業界で[[東芝]]を表す符丁 **[[携帯電話]]の業界では、[[NTTドコモ]]は[[mova]]のみ「TS」を用いた。[[FOMA]]([[T2101V]]、[[T-01A]]など)および他社([[Au (携帯電話)|au]]・[[ツーカー]]・[[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]])は「T」を使っている。 * [[アメリカ合衆国]]最大手の通信会社[[AT&T]]の[[ニューヨーク証券取引所]][[証券コード]]([[ティッカーシンボル]]) * [[ティーポイント|Tポイント]]及び[[ティーポイント|Tカード]]は、[[ファミリーマート]]や[[ENEOS]]や[[TSUTAYA]]で利用できる[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]]の提供するサービス。 * [[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団[[阪神タイガース]] ('''T'''igers)、[[富山GRNサンダーバーズ]] ('''T'''hunderbirds) の略号。 === 衣料品 === * [[Tシャツ]] * [[Tバック]](後ろから見た形がアルファベットのTの字に見える) === 人物・その他 === * T部長 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[プロデューサー]]を務めた[[土屋敏男]]('''T'''oshio'''T'''suchiya)を指す。『[[進ぬ!電波少年]]』などで用いられた。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0054|84||1-3-52|0074|116||1-3-84|}} {{ULu|FF34|65332||1-3-52|FF54|65364||1-3-84|全角}} {{ULu|24C9|9417||‐|24E3|9443||1-12-52|丸囲み}} {{ULu|1F123|127267||‐|24AF|9391||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D413|119827||‐|1D42D|119853||‐|[[太字]]}} |} == 他の表現法 == {{Letter other reps |NATO=Tango |Morse=- |Character=T |Braille=⠞ }} == 同名の作品 == * [[T (織田哲郎のアルバム)]] - [[織田哲郎]]のアルバム。 * [[T (東方神起のアルバム)]] - [[東方神起]]のアルバム。 * [[T (玉置浩二のアルバム)]] - [[玉置浩二]]のアルバム。 * [[YES/NO/T]] - [[川嶋あい]]の楽曲。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * {{font|font=Arial|[[Ţ]] ţ}} - [[セディーユ]] * {{font|font=Arial|[[Ț]] ț}} - [[コンマビロー]] * {{Unicode|[[Ť]]}} <span style="font-family:Arial,'DejaVu Sans',Gentium,'IPA Pゴシック','Komatuna P','Linux Biolinum','Linux Biolinum G','Linux Biolinum O','M+ 1c','Meguri P','Takao Pゴシック',Ubuntu,'UmePlus P Gothic','VL Pゴシック','梅Pゴシック';" lang="en" xml:lang="en">ť</span> - [[ハーチェク]] * {{Unicode|[[T̈]] ẗ}} - [[ウムラウト]]/[[トレマ]] * {{仮リンク|Ṫ|zh|Ṫ|label={{Unicode|Ṫ}}}} - [[ドット符号]] * {{仮リンク|Ŧ|en|T with stroke|label={{Unicode|Ŧ}}}} - [[ストローク符号]] * {{仮リンク|Ƭ|en|Ƭ|label={{Unicode|Ƭ}}}} - [[フックつき文字]] * {{仮リンク|Ⱦ|fr|Ⱦ|label={{Unicode|Ⱦ}}}} * {{Unicode|[[Þ]] þ}} - [[ルーン文字]]由来 {{ラテン文字}} {{Normdaten}} [[Category:ラテン文字]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/T
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U
Uは、ラテン文字(アルファベット)の 21 番目の文字。小文字は u 。V, W, Yとともにギリシャ文字のΥ(ウプシロン)に由来し、キリル文字のУに相当する。Υ(ウプシロン)の別形に由来するFとも同系といえる。元来のラテン語字母には存在しない文字であり、中世になって、それまで/u/と/w/の両方を表していたVから、/u/を表すために分離した文字である(V#歴史参照)。 Vの下部を丸めた形であり、下半円の両端から上にまっすぐ直線をのばした形である。小文字や大文字の筆記体では、右の直線を下にも延ばして、ベースラインに達する。その手前で右に曲がることがある。フラクトゥールは U u {\displaystyle {\mathfrak {U\ u}}} 。フラクトゥールの筆記体では、小文字の下部をとがらせるため、区別のためにŭのように上に下半円を書く。 この文字が表す音素は、おおむね円唇後舌狭母音/u/ないしその類似音である。しかしながら、稀に単独の子音を表す場合もある。
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Uは、ラテン文字(アルファベット)の 21 番目の文字。小文字は u。V, W, Yとともにギリシャ文字のΥ(ウプシロン)に由来し、キリル文字のУに相当する。Υ(ウプシロン)の別形に由来するFとも同系といえる。元来のラテン語字母には存在しない文字であり、中世になって、それまでとの両方を表していたVから、を表すために分離した文字である(V#歴史参照)。
{{Otheruses|[[ラテン文字]]のU|[[アルメニア文字]]のՍ|Ս|その他}} {{A-Z}} '''U'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の [[21]] 番目の文字。小文字は '''u''' 。[[V]], [[W]], [[Y]]とともに[[ギリシャ文字]]の[[Υ]](ウプシロン)に由来し、[[キリル文字]]の[[У]]に相当する。[[Υ]](ウプシロン)の別形に由来する[[F]]とも同系といえる。元来の[[ラテン語]][[字母]]には存在しない文字であり、[[中世]]になって、それまで{{ipa|u}}と{{ipa|w}}の両方を表していたVから、{{ipa|u}}を表すために分離した文字である([[V#歴史]]参照)。 == 字形 == [[File:U cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-U.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] Vの下部を丸めた形であり、下半円の両端から上にまっすぐ直線をのばした形である。小文字や大文字の筆記体では、右の直線を下にも延ばして、[[書体#欧文書体|ベースライン]]に達する。その手前で右に曲がることがある。[[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{U\ u}</math>。フラクトゥールの筆記体では、小文字の下部をとがらせるため、区別のためにŭのように上に下半円を書く。 == 呼称 == * [[スペイン語|西]]・[[ポルトガル語|葡]]・[[イタリア語|伊]]・[[インドネシア語|尼]]・[[ポーランド語|波]]・[[ベトナム語|越]]・[[エスペラント|エス]]:ウ {{IPA|u}}/{{IPA|u˧}} * [[ドイツ語|独]]・[[ハンガリー語|洪]]:ウー {{IPA|uː}} * [[フランス語|仏]]・[[オランダ語|蘭]]:ユ {{IPA|y}} * [[英語|英]]:ユー {{IPA|juː}} == 音素 == この文字が表す音素は、おおむね[[円唇後舌狭母音]]{{ipa|u}}ないしその類似音である。しかしながら、稀に単独の子音を表す場合もある。 *フランス語、オランダ語では唇を丸めてイと発音する音{{ipa|y}}([[円唇前舌狭母音]]、ドイツ語の[[ü]]とほぼ同じ)。フランス語は発音する母音の前ではその半母音{{ipaxl|ɥ|H}}である。{{ipa|u}}を表すには、フランス語は[[ou]], オランダ語は[[oe]]と表記する。フランス語の正書法に近づけた発音表記では、IPA の {{IPA|y}} をあらわすことがある。そのとき、IPA の {{IPA|u}} は {{ipa|ɯ}} であらわされる。 *フランス語・イタリア語・スペイン語では、{{IPA|w}}は{{ipa|u}}の異音である。 *英語では[[大母音推移]]の結果、強勢([[アクセント]])が置かれる場合、長母音では「ユー」、短母音では鋭い「ア」(やや前進した[[非円唇後舌広半母音]])となる。ただし後者は、読みにくさをさけるために[[o]]と書かれるようになったものがある。[[唇音]]の直後では[[円唇後舌広め狭母音]]で読まれることが多い。また、まれに「イ」と読まれる。語末には出現しない。 *[[日本語]]の[[ローマ字]]表記では、[[訓令式]]、[[ヘボン式]]共に[[ウ段]]の母音に使われる。 *[[朝鮮語]]のローマ字表記の[[文化観光部2000年式]]では、母音[[ㅜ]]を示す。また、[[ㅡ]]、[[ㅠ]]、[[ㅢ]]もe'''u''',y'''u''','''u'''iとuを含む綴りとなる。但し、人名や企業名等ではこの表記法に従わず[[ㅓ]]、[[ㅕ]]をu,yuで表していることもある。(例:[[サムスン電子|삼성]]→Samsung) *[[中国語]]の[[漢語拼音]]では、介音 /u/ を含む韻母の表記に使われる。ただし、声母(頭子音)が付かない場合は、wになる。「五」「烏」など主母音、尾音無しで介音 /u/ のみの場合、発音は /u/ であり、半母音 /w/ が発音されるわけではないが、wu と表記する。そのためuで始まることは無い。 *[[ドイツ語]]では[[q]]の後ろのuが[[w]]と同じ {{IPA|v}} ([[有声唇歯摩擦音]])を表す。 == U の意味 == === 大文字 === * [[ウラン]] ({{en|uranium}}) の元素記号。 * ジム・ブロワーズによる[[非SI接頭語]] ウダ ({{en|uda}})。10<sup>36</sup>。 * [[フォント]]ウェイト(線の太さ)が極太 ({{en|ultra bold}})。例 : [[ゴナ]]U、[[新ゴ]]U * [[UHF局|UHFテレビ局]]。(例:[[全国独立放送協議会|独立U局]]) * [[数学]]記号 **[[普遍集合]] ({{en|universal set}}) ** [[ユニタリー]] ({{en|unitary}}) - [[ユニタリ行列]]、[[ユニタリ群]] * [[マン・ホイットニーのU検定|U統計量]]。 * [[量記号]] ** [[内部エネルギー]] ** [[熱貫流係数]] * 人物 ** [[U (歌手)|U (女性歌手)]]。 ** [[MCU (ラッパー)|MCU]]の旧名。 ** [[城田優|U (男性歌手)]]。[[エイベックス]]より歌手としてメジャーデビュー。城田優の別名。 ** [[:zh:曾宇璦|U (グラビアアイドル)]]。[[台湾]]出身の[[グラビアアイドル]]で[[金城武]]の長兄の娘。 * 音楽作品 ** [[U (DOUBLEの曲)|U]] - [[DOUBLE (歌手)]]の曲。 ** [[U (SUPER JUNIORの曲)|U]] - [[SUPER JUNIOR]]の曲。 ** [[U (millennium parade × Belleの曲)|U]] - [[millennium parade]]とBelle([[中村佳穂]])の曲。アニメ映画『[[竜とそばかすの姫]]』のメインテーマ。 ** [[U (NiziUのアルバム)|U]] - [[NiziU]]のファーストアルバム。 *[[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]][[東京臨海新交通臨海線]] (y'''U'''rikamome)、[[JR西日本|JR]][[桜井線]]、[[JR西日本|JR]][[吉備線]]、[[広島電鉄]][[広島電鉄宇品線|宇品線]] ('''U'''jina)、[[JR四国|JR]][[予讃線]]・[[内子線]]([[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]〜[[内子駅]]〜[[宇和島駅]])('''U'''chiko'''U'''wajima) の[[路線記号]]として用いられる。 * [[30|三十]]を意味する数字。[[三十六進法]]など、三十一進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において三十([[十進法]]の'''30''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] 、およびアルファベットの [[O]] と数字の [[0]] が混同し易いために、アルファベットの I と O を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、…、[[N]] が[[22|二十二]]、[[P]] が[[23|二十三]]、…、U が[[28|二十八]]を意味する。 * [[自動車排出ガス規制]]コード(平成元年([[1989年]])規制) * [[京浜急行電鉄]]で、[[京急本線]]の終着[[浦賀駅]]方向を向く車両の副記号。 * [[19インチラック]]に収納されるように設計された機器の高さの単位。1U=1.75インチ (44.45mm) 。 * かつて[[ニコン]]から発売されていた35mm判[[一眼レフカメラ]]。 * [[米空軍]]、[[航空自衛隊]]などでの[[汎用機]](雑用機、多目的機とも)。連絡任務や捜索救難、飛行点検などに用いる機体が多い([[U-125A]]など)。例外的に[[U-2 (航空機)|U-2]]は偽装のための符号で実際は汎用機ではない。ヘリコプターの場合はUHとなる。 * [[以下]] ({{en|under}})。主に年齢を表す。U-17など。 * [[Unicode]]では、U+ 4-8桁(足りなければ[[0詰め]])、またはU-8桁の[[16進数]]でUnicode文字を示す。例:U+3042、U-00003042 * 未確認 ({{en|unidentified}})。[[未確認飛行物体|UFO]]、[[未確認動物|UMA]]等。 * [[三菱UFJ銀行]]の旧[[UFJ銀行|UFJ店]]。U店とも称される。 *[[東北新幹線]][[新幹線E5系・H5系電車|E5系]][[量産]][[編成 (鉄道)|編成]]を表す。試作車はS11編成。 *[U]は、英語の辞書などにおいて[[不可算名詞]]({{en|uncountable noun}})を表す記号。 * [[ミクロネシア連邦]][[ポンペイ州]]の行政区画の一つ、U(ウー)。[[ウー (ポンペイ州)]]を参照。 * 経済学で、[[効用|効用(utility)]]より、効用関数を表す。 * [[国際信号旗]]で、「貴船の進路に危険あり。(You are running into danger.)」。 === 小文字 === * 10<sup>−6</sup> 倍の[[SI接頭語]] μ([[マイクロ]])の代用字。 * ジム・ブロワーズによる[[非SI接頭語]] ウント ({{en|unto}})。10<sup>−36</sup>。 *[[冪単根基]] ({{en|unipotent radical}}) 。<math>u = \sqrt[3] 1</math> など。 * [[北海道旅客鉄道]]の[[uシート]]専用車両の副記号 * [[統一原子質量単位]] ({{en|unified atomic mass unit}})。質量の単位。 === 通用 === * 英語で、{{en|you}}(あなた(達))の意味で用いることがある。例:{{en|4u &#61; for you}} * [[C言語]]、[[Java]]、[[C♯|C#]]などでUnicode符号を表すための[[エスケープシーケンス]]。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0055|85||1-3-53|0075|117||1-3-85|}} {{ULu|FF35|65333||1-3-53|FF55|65365||1-3-85|全角}} {{ULu|24CA|9418||‐|24E4|9444||1-12-53|丸囲み}} {{ULu|1F124|127268||‐|24B0|9392||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D414|119828||‐|1D42E|119854||‐|[[太字]]}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Uniform |Morse=・・- |Character=U |Braille=⠥ }} == ダイアクリティカルマーク付き文字 == * {{Unicode|[[Ù]] ù}} - [[グレイヴ・アクセント]] * {{Unicode|[[Ú]] ú}} - [[アキュート・アクセント]] * {{Unicode|[[Û]] û}} - [[サーカムフレックス]] * {{Unicode|[[Ü]] ü}} - [[ウムラウト]] - [[トレマ]] * {{Unicode|[[Ū]] ū}} - [[マクロン]] * {{Unicode|[[Ŭ]] ŭ}} - [[ブレーヴェ]] * {{Unicode|[[Ů]] ů}} - [[リング符号]] * {{Unicode|[[Ű]] ű}} - [[ダブルアキュート]] * {{Unicode|[[Ų]] ų}} - [[オゴネク]] * {{Unicode|[[Ư]] ư}} - [[ホーン符号]] * {{Unicode|{{仮リンク|Ũ|de|Ũ}} ũ}} - [[ティルデ]] {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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Z
Zは、ラテン文字(ラテンアルファベット)の26番目で最後の文字。小文字は z 。 ギリシア文字のΖ(ゼータ)に由来し、キリル文字のЗと同系の文字である。当初ラテン語には不要なためラテンアルファベットに採用されず、Cから派生して新たに作られたGがΖの位置に代わりに置かれたが、後代ギリシア語のΖ(ゼータ)を音写する必要が生じてアルファベットの最後に加えられた。 英語では Z が現れる単語は最も少ない。 2本の横線と、それをつなぐ左下がりの斜線である。しばしば下の横線が右下がりに書かれ、ベースラインを越える。さらに左に曲げられてƷとなった文字をエッジュ (ezh) と言う。この右上の部分をさらに丸め、さらに終筆から自然に右上に伸ばして交差した形が筆記体で多く用いられる。 フラクトゥールは Z z {\displaystyle {\mathfrak {Z\ z}}} 。 数字の2と区別するために斜線に短い線を交わらせることもあり、ヨーロッパではしばしばこれで書かれる。 日本では「ズィー」、「ゼット」と呼ぶことが多い。 この文字が表す音素・音声は、
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Zは、ラテン文字(ラテンアルファベット)の26番目で最後の文字。小文字は z。 ギリシア文字のΖ(ゼータ)に由来し、キリル文字のЗと同系の文字である。当初ラテン語には不要なためラテンアルファベットに採用されず、Cから派生して新たに作られたGがΖの位置に代わりに置かれたが、後代ギリシア語のΖ(ゼータ)を音写する必要が生じてアルファベットの最後に加えられた。 英語では Z が現れる単語は最も少ない。
{{redirect|ゼッド|ドイツ出身のDJ|ゼッド (音楽家)}} {{A-Z}} '''Z'''は、[[ラテン文字]](ラテン[[アルファベット]])の[[26]]番目で最後の文字。小文字は '''z''' 。 [[ギリシア文字]]の[[Ζ]](ゼータ)に由来し、[[キリル文字]]の[[З]]と同系の文字である。当初[[ラテン語]]には不要なためラテンアルファベットに採用されず、[[C]]から派生して新たに作られた[[G]]がΖの位置に代わりに置かれたが、後代ギリシア語のΖ(ゼータ)を音写する必要が生じてアルファベットの最後に加えられた。 英語では Z が現れる単語は最も少ない。 == 字形 == {{記号文字|Zz Ʒʒ Ƶƶ}} [[File:Z cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[ファイル:Sütterlin-Z.png|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジュッターリーン体]]]] [[File:CHE Bad Zurzach COA.svg|thumb|100px|Zの字形として使われたƷ({{interlang|de|Zurzach}}の[[紋章]])]] 2本の横線と、それをつなぐ左下がりの斜線である。しばしば下の横線が右下がりに書かれ、[[書体#欧文書体|ベースライン]]を越える。さらに左に曲げられて{{unicode|Ʒ}}となった文字を[[エッジュ]] (ezh) と言う。この右上の部分をさらに丸め、さらに終筆から自然に右上に伸ばして交差した形が筆記体で多く用いられる。 [[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{Z\ z}</math>。 数字の[[2]]と区別するために斜線に短い線を交わらせることもあり、ヨーロッパではしばしばこれで書かれる。 == 呼称 == *{{Lang-la|zeta}}(ゼータ) *{{Lang-en|zed}}(ゼッド){{ipa|zɛd}} **{{Lang-en-us|zee}}(ズィー){{ipa|ziː}} *{{Lang-de|zett}}(ツェット){{ipa|tsɛt}} *[[オランダ語]]・[[ポーランド語]]・[[チェコ語]]・[[スロバキア語]]:ゼット {{ipa|zɛt}} *{{Lang-ro|ze}}, {{Lang|ro|zet}}(ゼ/ゼット) *{{Lang-fr|zède}}(ゼッド){{ipa|zɛd}} *{{Lang-es|zeta}}(セタ){{ipa|θeta}} *{{Lang-it|zeta}}(ヅェータ/ツェータ){{ipa|dzɛːta}}, {{ipa|tsɛːta}} *[[ポルトガル語]]・[[ハンガリー語]]:ゼー {{ipa|zeː}} *[[インドネシア語]]:ゼッ *[[エスペラント]]:ゾー [[日本]]では「'''ズィー'''」、「'''ゼット'''」と呼ぶことが多い<ref>『広辞苑 第六版』『大辞林 第三版』『大辞泉 第二版』『日本国語大辞典 精選版』などでの見出しは「ゼット」のみである。</ref>。 == 音素 == この文字が表す音素・音声は、 * [[国際音声字母|IPA]]では[[有声歯茎摩擦音]]を表す。また、{{IPA|dz}} で[[有声歯茎破擦音]]を表す。 * フランス語、エスペラントでは、音素は {{ipa|z}}・音声は [[有声歯茎摩擦音|{{IPA|z}}]] である。 * 英語では、基本的に {{IPA|z}} だが、azure(群青色) など極一部の単語では {{IPA|z[[硬口蓋接近音|j]]}} が[[融合同化]]し [[有声後部歯茎摩擦音|{{IPA|ʒ}}]] となる。 * ラテン語では、[[古典ラテン語|古典期]]には [[有声歯茎破擦音|{{IPA|dz}}]] を表した。[[俗ラテン語]]ではさまざまな音に変化し、現在の[[ロマンス語]]の音につながる。 * 日本語の[[ローマ字]]表記では、{{ipa|z}}([[さ行#濁音|ざ行]]子音)に用いられる(ただし[[ヘボン式]]では {{ipa|i/ /y}} の前以外)。音は、{{IPA|z}}(母音の後で {{ipa|a/ /e/ /o/ /u}} の前)・{{IPA|dz}}(母音の後以外で {{ipa|a/ /e/ /o/ /u}} の前)・[[有声歯茎硬口蓋摩擦音|{{IPA|ʑ}}]](母音の後で {{ipa|i/ /y}} の前)・[[有声歯茎硬口蓋破擦音|{{IPA|dʑ}}]](母音の後以外で {{ipa|i/ /y}} の前)という[[異音]]に変化する。 * 朝鮮語の[[ローマ字]]表記では、{{ipa|z}}は{{ipa|j}}と区別がつかない。音は{{IPA|dʑ}}。 * インドネシア語では、{{IPA|z}} のほかに {{ipax|ʒ|Z}} を表すことがある。 * フランス語では、zが動詞二人称複数の語尾部分"-ez"を中心に多く使用されている。(例:"vous aimez") 同部分を含めた語尾のzはほとんどの場合、黙字となる。ただし、そのあとに母音が続く場合はリエゾンして{{IPA|z}} を発音する。 * スペイン語では、原則として [[無声歯摩擦音|{{ipax|θ|T}}]] を表す (ceceo)。中南米では [[無声歯茎摩擦音|{{IPA|s}}]] である ([[セセオ|seseo]])。 * イタリア語では、語によって [[有声歯茎破擦音|{{IPA|dz}}]] または [[無声歯茎破擦音|{{IPA|ts}}]] である。 * ドイツ語、中国語の[[拼音]]では、[[無声歯茎破擦音|{{IPA|ts}}]] である。 * フィンランド語では、{{IPA|tts}} である。 == Z の意味 == === 大文字 === * アルファベットの最後であるので、これより上位のものは存在しない・最終・最高・究極、などの意味(具体例:[[日産・フェアレディZ]]、[[スバル・BRZ]])。また、Z級、Zクラスのようにこれよりひどいものはない最低最悪のという意味。 * 第3の[[座標軸]]Z軸。Z軸方向の位置はzで表す。上下方向、視線方向などに使う。 *[[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px]] [[東京メトロ半蔵門線]] (han'''Z'''ōmon)、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[西信貴鋼索線]]、[[JR西日本|JR]][[福塩線]]の[[路線記号]]として用いられる。 * [[Zゲージ]]。縮尺1/220、軌間6.5mmの[[鉄道模型]]。 * [[コンピュータエンターテインメントレーティング機構|CERO]]レーティングで[[CEROレーティング18才以上のみ対象ソフトの一覧|『18歳以上のみ』の対象]](2006年3月以降)。 * [[数学]](特に[[代数学]])において、[[整数]]の[[集合]]を太字の '''Z''' あるいは[[黒板太字]]の <math>\mathbb Z</math> で表す。 * 群や環などの[[群の中心|中心]] * (コ)サイクルのなす部分加群 * [[35|三十五]]を意味する数字。[[三十六進法]]以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において三十五([[十進法]]の'''35''')を一桁で表すために用いられる。ただし、アルファベットの [[I]] と数字の [[1]] 、およびアルファベットの [[O]] と数字の [[0]] が混同し易いために、アルファベットの I と O を用いないことがあり、この場合、[[J]] が[[18|十八]]、[[K]] が[[19|十九]]、…、[[N]] が[[22|二十二]]、[[P]] が[[23|二十三]]、…、Z が[[33|三十三]]を意味する。 * [[協定世界時]]。たとえば[[日本時間]] (+9) で15:00は 1500+9 と表すが、世界協定時で15:00は 1500Z と表す。{{lang|en|time zone}} の {{lang|en|'''z'''one}} の略とも、経度0度の {{lang|en|'''z'''ero}} の略とも言われる。 * [[将棋]]の終盤の局面や[[詰将棋]]で「どれだけ駒があっても絶対 ({{en|'''z'''ettai}}) に詰まない形」になっていること。普通は「[[ゼ (将棋)|ゼ]]」という。[[必至#Z(ゼット)]]参照。 * [[Zパラメータ]]、[[Z行列]]。[[二端子対回路]]([[電気回路]])における表現手法。 * [[分子構造]]では[[シス-トランス異性体]]の[[シス (化学)|シス]]体 ({{lang|de|'''z'''usammen}})。 * [[アミノ基]]の[[保護基]]である[[ベンジルオキシカルボニル基]]の略号。3文字では Cbz とも。 * [[国際信号旗]]の[[Z旗]] [[File:Zulu flag.svg|40x16px]] [[File:ICS Zulu.svg|40x16px]]。単にアルファベット各文字を表す旗の1つであるが、とりわけ日本では特別な意味が込められている場合がある。 * [[原子番号]]。より一般には、[[陽子]]数。 * [[Z粒子]]。[[ウィークボソン]]の中で唯一[[電荷]]が0 ({{en|'''z'''ero}}) であることから。 * [[Z項]]。 * Z縒りは[[ロープ]]のより方の一種。逆方向の種類のものはS縒りと称する。 * [[日本語]]で、かつて[[ジェット機]]は「ゼット機」と呼ばれ、「Z機」と書かれることがあった。 * [[COBOL]]式の[[データ型|型]]・[[書式]]表現では、[[空白文字|スペース]][[パディング|詰め]]の[[算用数字|数字]]1桁([[ゼロサプレス]])。たとえば「ZZ9」はスペース詰めの数字3桁で、10なら「[[空白記号|␣]]10」と整形される(「ZZZ」では[[0]]が「␣␣␣」になるので、通常は1の[[位取り記数法|位]]を「ゼロ詰めの数字1桁」を表す「[[9]]」にする)。 * [[ペントミノ]]の駒の1つ [[File:PentenomeZ.jpg|20x20px]]。 * 複素[[インピーダンス]]。 ;歴史 * [[ザイール]](現 コンゴ民主共和国)の通貨[[ザイール (通貨)|ザイール]] ({{lang|fr|'''Z'''aïre}})。 * [[Z飛行機]] - 日本の重爆撃機計画。 * [[Z計画]] - ドイツの建艦計画。 * [[ジェネレーションZ]] - [[ミレニアム世代]]と[[ジェネレーションα]]の間の世代。 ;地理 * [[津市|津]] (Tsu) のローマ字表記を Z に変更するという案がかつてあり、[[ギネスブック]]にもっとも短い地名として載っている。 * [[欧州連合のナンバープレート|ヨーロッパのナンバープレート]]で、[[スペイン]]の都市、[[サラゴサ]]({{lang|es|'''Z'''aragoza}}:スペインでのナンバー地域表記は2000年9月まで)。 * 自動車の[[国際識別記号]]で、[[ザンビア]]。 * 航空機の[[機体記号]]で、[[ジンバブエ]]。 ;団体 * [[Z会]]。通信教育出版社。旧 増進会出版社。 * [[Zホールディングス]] - [[ソフトバンクグループ]]の傘下で[[ヤフー (企業)]]などを持つ情報通信企業。 * [[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派]](革マル)を指す[[隠語]]。[[ヘルメット]]にZと書いてあることから。 * [[全日食チェーン]] - スーパーマーケットのチェーンの看板にZと書いてあることから。 * [[ももいろクローバーZ]]。当時サブリーダーだった[[早見あかり]]の脱退に直面し、心機一転「ももいろクローバー」から改名。 ;人物 * [[ゼッド (音楽家)]]。ロシア生まれ、ドイツ育ちのDJ、音楽プロデューサー。 * Z - [[富士急ハイランド]]のアトラクション「[[絶望要塞|絶望要塞 -IMPOSSIBLE GAMES-]]」に登場する架空の人物。 ;作品 * [[Z (映画)]]。[[1969年]]の[[フランス]]・[[アルジェリア]]合作の映画。 * [[Z (ZONEのアルバム)]]。[[2002年]]に発売された[[ZONE (バンド)|ZONE]]のアルバム。 * [[Z (Zweiのアルバム)]]。[[2005年]]に発売された[[Zwei]]のアルバム。「ゼータ」と読む。 * [[Z (ユニコーンのアルバム)]]。[[2011年]]に発売された[[ユニコーン (バンド)|ユニコーン]]のアルバム。 * [[Z 〜ゼット〜]]。[[相原コージ]]の漫画作品。 * [[マジンガーZ]] - [[永井豪]]の漫画作品。 ;製品 * [[ゲームゼータ]]。マルカ株式会社より発売されている様々なゲームが内蔵された携帯ゲーム機。 * [[ザイログ]]製の[[集積回路|IC]]の型番。[[Z80]]、[[Z8000]]など。 * [[川崎重工業]]の[[オートバイ]]のスポーツモデルに付けられる愛称。[[カワサキ・Z]]。 * [[本田技研工業|ホンダ]]の軽自動車、[[ホンダ・Z]]。 * BMWのスポーツカー、[[BMW・Z4]] * [[トヨタ・ソアラ|ソアラ]]/[[レクサス・SC]]を意味する車両識別記号(例:GZ20、UZZ40)。 * エンジン形式においては、[[スーパーチャージャー]]仕様であることを意味する(例:[[トヨタ・4A-GE|4A-GZE]])。→[[トヨタのエンジン型式命名規則]] * [[日産・フェアレディZ]]。[[日産・フェアレディ]]シリーズの第二弾であることも意味している。 * [[日産・Z型エンジン]]。[[点火プラグ|ツインプラグ]]と大量[[排気再循環|EGR]]の組み合わせで[[自動車排出ガス規制|昭和53年排出ガス規制]]をクリアし、[[NAPS|NAPS-Z]]の名称が与えられた。その構成の簡素さが[[社団法人]][[自動車技術会]]が選定する「[[日本の自動車技術330選|日本の自動車技術240選]]」でも評価されている。 * ZTE([[中興通訊]])製[[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]]携帯電話端末(一部[[Y!mobile]]向けも含む)を示す符号。 * [[ニコン]]の[[35mmフルサイズ|フルサイズ]][[ミラーレスカメラ]]である[[ニコン Zシリーズ]]及び[[ニコン Zシリーズ#ニコンZマウント|そのシリーズ用のマウント]]。 ;政治 * [[Z (軍隊符号)]] - 特に[[ロシア]]において「[[白色]]で描かれた”Z”」または「白色で描かれた”□で囲まれたZ”」は「[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|特別軍事作戦]]部隊の敵味方識別記号」として、転じて軍事作戦支持を示す[[アイコン]]として使用されている。 === 小文字 === * [[数学]]では第3の[[未知数]]に使われる。''[[x]]'' を最初に使ったことに由来する。 ** [[複素数]][[変数 (数学)|変数]]によく使われる。[[実数]]変数での ''[[x]]'' にあたる。 * [[物理学]]では[[赤方偏移]] ''z'' = Δ&lambda;/&lambda; に使われる。 * Unix系OSのシェル[[zsh]]({{lang|en|z shell}} の意味)。 * [[イオン]]の[[電荷]]を[[物理単位|単位]]に[[素電荷]] e を使って表した値。 * [[デジタル回路]]では、z{{sup|-''n''}} で ''n'' サンプルの遅延を表す。 === 大文字・小文字 === * [[SI接頭語]] ** [[ゼタ]] (zeta)。Z = 10<sup>21</sup>。 ** [[ゼプト]] (zepto)。z = 10<sup>−21</sup>。 * [[いびき]]の[[音喩]]。漫画の吹き出しの外にzzzなどと数文字続けて使うことが多い。 * [[Z変換]](z-変換)。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|005A|90||1-3-58|007A|122||1-3-90|}} {{ULu|01B5|437||‐|01B6|438||‐|{{JIS2004フォント|[[ストローク符号|ストローク]]つき}}}} {{ULu|01B7|439||‐|0292|658||1-10-73|{{JIS2004フォント|[[エッジュ]]}}}} {{ULu|FF3A|65338||1-3-58|FF5A|65370||1-3-90|全角|font=JIS2004フォント}} {{ULu|24CF|9423||‐|24E9|9449||1-12-58|丸囲み}} {{ULu|1F129|127273||‐|24B5|9397||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Zulu |Morse=--・・ |Character=Z |Braille=⠵ }} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[Ź]] ź - [[アキュート・アクセント]] * [[Ż]] ż - [[ドット符号]] * [[Ž]] ž - [[ハーチェク]] *[[Ẑ]] {{Unicode|&#7825;}} - [[サーカムフレックス]] *[[Ƶ|{{Unicode|Ƶ}}]] {{Unicode|&#438;}} - [[ストローク符号]] *{{仮リンク|Ȥ|en|Ȥ|label={{Unicode|Ȥ}}}} {{Unicode|&#549;}} - [[フックつき文字]] *{{仮リンク|Ⱬ|en|Ⱬ|label={{Unicode|Ⱬ}}}} {{Unicode|&#11372;}} * [[Ω]] - ギリシャ文字の最後であることからZ同様に最終・究極の意味で使われることがある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Z
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共産貴族
共産貴族(きょうさんきぞく)とは、共産党政権下において、かつての大ブルジョワジーや貴族同様の富と権力を握っている党幹部や官僚、ノーメンクラトゥーラと呼ばれる層を指した一般的呼称。赤い貴族とも呼ばれる(ただし、中華人民共和国では赤い貴族(红色贵族)とは改革開放路線に乗って富を得た富裕層を指すこともある)。北朝鮮では朝鮮労働党の高位幹部やその家族らが豊かさを謳歌しており赤い貴族と呼ばれる。 英語圏ではミロヴァン・ジラスの著書に由来する新しい階級という呼び方が一般的である。 その起源はロシア革命にまでさかのぼる。ボリシェヴィキの指導者たちは、貴族や資本家から没収した邸宅を所有し、別荘や専用列車なども所有していた。レーニンは、1921年5月19日のスターリン宛の書簡で以下を書いた。 5月19日 レーニン
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共産貴族(きょうさんきぞく)とは、共産党政権下において、かつての大ブルジョワジーや貴族同様の富と権力を握っている党幹部や官僚、ノーメンクラトゥーラと呼ばれる層を指した一般的呼称。赤い貴族とも呼ばれる(ただし、中華人民共和国では赤い貴族とは改革開放路線に乗って富を得た富裕層を指すこともある)。北朝鮮では朝鮮労働党の高位幹部やその家族らが豊かさを謳歌しており赤い貴族と呼ばれる。 英語圏ではミロヴァン・ジラスの著書に由来する新しい階級という呼び方が一般的である。
'''共産貴族'''(きょうさんきぞく)とは、[[共産党]][[政権]]下において、かつての大[[ブルジョワジー]]や[[貴族]]同様の富と権力を握っている党幹部や[[官僚]]、[[ノーメンクラトゥーラ]]と呼ばれる層を指した一般的呼称。'''赤い貴族'''とも呼ばれる(ただし、[[中華人民共和国]]では'''赤い貴族({{lang|zh|红色贵族}})'''とは[[改革開放]]路線に乗って富を得た[[富裕層]]を指すこともある)。北朝鮮では朝鮮労働党の高位幹部やその家族らが豊かさを謳歌しており赤い貴族と呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/5166/ |title=「赤い貴族たち」 チュ・ソンハ記者の平壌資本主義百科全書 その1 |accessdate=2020-05-02 |author=五味洋治 |authorlink=五味洋治 |coauthors= |date=2019年02月15日 |website=[[コリアワールドタイムズ]] |archiveurl=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/5166/ |archivedate=2020-05-02 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。 英語圏では[[ミロヴァン・ジラス]]の著書に由来する'''新しい階級'''という呼び方が一般的である<ref>Milovan Đilas. The New Class: An Analysis of the Communist System. Harcourt Brace Jovanovich, 1957.</ref>。 == 起源 == その起源は[[十月革命|ロシア革命]]にまでさかのぼる。[[ボリシェヴィキ]]の指導者たちは、貴族や[[資本家]]から没収した邸宅を所有し、別荘や専用列車なども所有していた。[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]は、[[1921年]][[5月19日]]の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]宛の書簡で以下を書いた。 {{quotation|同志スターリン。ところでそろそろ[[モスクワ]]から600[[ベルスタ|ヴェルスト]](注:約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? そのためには金を使うこと。また、やむをえない[[ドイツ]]行きにも、今後ずっとそれを使うこと。しかし模範的と認めるのは、おきまりの[[ソビエト連邦|ソビエト]]の粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。 5月19日 レーニン 追伸 マル秘。貴殿や[[レフ・カーメネフ|カーメネフ]]、[[フェリックス・ジェルジンスキー|ジェルジンスキー]]の別荘を設けた[[ズバローヴォ]](注:モスクワ郊外の都市)に、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。(中略)また、隣接して[[ソフホーズ]]を育成すること<ref name="iwakami">[http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm 中沢新一「レーニン礼賛」の驚くべき虚構 ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080711160652/http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm |date=2008年7月11日 }} 岩上安身公式サイト「WEB IWAKAMI」に掲載。「[[諸君!]]」 1997年1月号掲載</ref>{{信頼性要検証|date=2020-09}}}} == 関連項目 == * [[労働貴族]] * [[太子党]] * [[シャンパン社会主義者]] * [[グラスノスチ]] - 共産貴族の実態が暴かれた == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{共産主義}} {{DEFAULTSORT:きようさんきそく}} [[Category:共産主義]] [[Category:ソビエト連邦共産党]] [[Category:貴族|*きようさんきそく]]
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エンジン
エンジン(英:engine)は、以下の用法がある。 など。 語源はラテン語のインゲニウム (ingenium)で、「生まれながらの才能」「賢さ」を意味した。1300年頃のフランスではenginと表記し、「能力」や「賢さ」に加えて「戦争に使われる機械」の意味でも用いた。のちに「仕掛け(trick)」、「器具(device)」、「機械(machine:特に軍用のもの)」を指して用い、18世紀以降は「エネルギーを動力に変えるもの」として用いる。18世紀はエンジンの典型が「蒸気機関(steam engine)」であったことからengineはすなわちsteam engineに同意で、同様に現代もエンジンは「自動車で使用されるエンジン」を指すことが多い。fire engineはポンプを備えた消防車を表す。現代の自動車のエンジンは内燃機関である。
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エンジンは、以下の用法がある。
[[ファイル:D3876 LF MAN diesel engine for trucks.jpg|サムネイル|239x239ピクセル|[[MAN (企業)|MAN]]社のトラック用[[ディーゼルエンジン]]]] {{wikt}} '''エンジン'''(英:engine)は、以下の用法がある。 == 用法 == === 機械 === {{See|機関 (機械)}} * [[自動車エンジン|自動車用エンジン]]や[[航空用エンジン]]などを指す。日常で最も多用されるエンジンの用法である。{{main2|種類については[[内燃機関#内燃機関の種類]]を}} * [[動力]]を発生させる[[機械]]や[[機関 (機械)|機関]]である[[原動機]]を指す。 **特に[[電気]]で動力を得る原動機は[[電動機]]と呼ばれる。 * エンジンの種類 ** [[ガソリンエンジン]] ** [[ディーゼルエンジン]] ** [[ジェットエンジン]] ** [[ガスタービンエンジン]] ** [[ロケットエンジン]] など。 === 情報処理 === * [[コンピュータ]]を使用し、様々な[[情報処理]]を実行する機構。 ** [[検索エンジン]] ** [[メタ検索エンジン]] ** [[レンダリングエンジン]] ** [[ゲームエンジン]] * [[nginx]](エンジンエックス) - [[Webサーバ]]の一つ。 === コンピュータゲーム === * [[PCエンジン]] - [[日本電気ホームエレクトロニクス]] ([[NEC]]) が発売していたゲーム機。 === エンターテインメント === * [[エンジン (雑誌)|ENGINE]] - 新潮社が発行する自動車雑誌。 * [[IQエンジン]] - [[フジテレビ]]の深夜番組。 * [[エンジン (テレビドラマ)]] - 木村拓哉主演のテレビドラマのタイトル。 * 炎神 - 特撮テレビドラマ『[[炎神戦隊ゴーオンジャー]]』に登場する、架空の生命体。 * [[ENGINE (LOUDNESSのアルバム)]] - 1999年に発表された、日本のロックバンドLOUDNESSの17枚目のアルバム。 * [[エンジン (ジンのアルバム)]] - 2010年に発表された、日本のロックバンドジンの2枚目のミニ・アルバム。 * [[エンジンエンターテイメント]] - 俳優の[[唐渡亮]]が代表を務める芸能プロダクション。 * [[ENjiNE]] - 株式会社Relicが運営する[[クラウドファンディング]]の[[ウェブサイト]]。 * [[EnGene.]] - [[宮城県]]、[[山形県]]を中心に活動する、日本の3人組男性[[ボーカル]]・[[音楽ユニット|グループ]]。 * [[ENGIN]] - プロHIP-HOPダンサーであり俳優。また、デザイナーや映像クリエイターとしてマルチクリエイティブに活動する人物。 == 語源と用例 == {{main|機関 (機械)}} 語源は[[ラテン語]]のインゲニウム (ingenium)で、「生まれながらの才能」「賢さ」を意味した。[[1300年]]頃の[[フランス]]ではenginと表記し、「能力」や「賢さ」に加えて「戦争に使われる機械」の意味でも用いた。のちに「仕掛け([[トリック|trick]])」、「器具([[デバイス|device]])<ref>クリス・エヴァンス 著、橋本洋・上野滋 共訳『精密の歴史』、大河出版、2001年11月28日 再版、は78ページで19世紀の測定器用の刻線器を「ルーリングエンジン」と称している</ref>」、「機械([[マシーン|machine]]:特に軍用のもの)」を指して用い、18世紀以降は「[[エネルギー]]を動力に変えるもの」として用いる。18世紀はエンジンの典型が「[[蒸気機関]](steam engine)」であったことからengineはすなわちsteam engineに同意で、同様に現代もエンジンは「[[自動車]]で使用されるエンジン」を指すことが多い。fire engineは[[ポンプ]]を備えた[[消防車]]を表す。現代の自動車のエンジンは[[内燃機関]]である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Engine}} * {{prefix}} * {{intitle}} * [[モーター]] - 日本では[[電動機]]を指すことが多い * [[機関 (機械)]] * [[内燃機関]] * [[外燃機関]] {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:えんしん}} [[Category:英語の語句]] [[Category:ラテン語からの借用語]] [[Category:同名の作品]]
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音速
音速(おんそく、英: speed of sound)とは、音が物質(媒質)中を伝わる速さのこと。 物質自体が振動することで伝わるため、物質の種類により決まる物性値の1種(弾性波伝播速度)である。 音速は、特に物質の相変化による影響を大きく受け、同じ物質では、固体が最大(つまり固体中の音速が最も速く)、次いで液体、気体の順となる(つまり気体中の音速が最も遅い)。またその物質の状態(温度、密度、圧力)によっても変化し、温度は気体では正の影響を、固体では負の影響を与える。 気相中を音が伝わる場合、おおむね分子量が小さい物質ほど速い傾向を示す。たとえば、媒質が空気(平均分子量29)のときよりヘリウム(分子量4)のときの方が音速は約3倍大きく、吸入してしゃべるとかん高い声になる現象(ドナルドダック効果)が知られている(ただし、100%のヘリウムを吸入すると、窒息して危険なので、必ず空気と同等の酸素含有ヘリウム混合ガスを使用すること)。 なお、媒質中を伝わる振動の成分は、気体と液体では縦波(疎密波)だけであり進行方向と波が同じ方向になる。いっぽう固体中では横波(ねじれ波)が遅れて伝わる。これは地震波と同様であり、録音した自分の声が違って聞こえる、骨伝導による聴覚への影響の一因でもある。 21世紀の科学技術では音速を超える速度まで物体を加速することが容易になってきており、音速の壁問題などもあるため大きな基準とされる。かつてはさまざまな乗り物で音速を超える速度の最高記録へチャレンジされていたが、その過程ではさまざまな死亡事故が発生してきた。近年では記録のインフレと安全面への配慮から、同様の研究は少なくなってきた。 日常生活上での音速というのは空気中の音速であり、近似的に温度のみの一次式で表すことができ、1気圧の乾燥空気では次の式が常用されている。 つまり1気圧で0°Cのとき音速は毎秒331.5メートルであり、温度が1°C上がるごとに音速は0.61 m/s速くなる。 なお上の式は、気体中の音速の式の摂氏0度での接線をとった近似式である。 多くの分野で音速についていうとき、常温として15°Cを採用することが一般的であり、その場合 340.5(m/s)となる。それで一般に、音速を15°Cで秒速340mとしている。高校の物理の教科書や試験問題などでも「音速を340 m/sとする」という文章が添えられていることが一般的である。 空気中の音速を直感的にとらえやすい現象として、雷や打ち上げ花火の発光から爆音が届くまでの時間差や、山間部で山彦が発生し音が反響して聞こえるものがある。 音速の倍数がマッハ数である。 速度単位の「マッハ」は気圧や気温に影響される。このため、超音速機のスペックを表す場合などは、標準大気中の音速 1,225 km/h が便宜上使われている。 なお雑学だが、英語の sonic(ソニック)は「音の」「音波の」から転じて、音のように速い=「音速の」という意味を表すが、本来は音速そのものを指す言葉ではない。 海水中の音速の具体値は 1513 m/s といわれている。つまり、1秒でおよそ1.5km先に伝わる。 より正確には、海水中の音速は水温・圧力・塩分濃度により変化し、次式で近似される。 海面近くでは水温が高いため音速は高く、一方水深が深いと圧力が大きいためにやはり音速は高くなる。そのため中層で音速極小層(SOFAR層)が生じ、フェルマーの原理より海中の音波はSOFAR層の近くに束縛されて2次元的に伝播するという特性をもつ。 地殻における音速は5-7 km/sである。これは地震の初期微動速度と等値である。 音速には位相速度と群速度があるが、一般的に音速というときは位相速度のことをさす。 気体中では、音速は比熱比、平均分子量、温度に依存する。圧力はほとんど影響しない。ここで κ を気体の比熱比、R を気体定数、T を気体温度、M を気体の平均分子量とすると音速 c は と表される。なお、この関係から、音速測定によって気体定数を求めることもある。 もしくは、気圧 p [N/m] と密度 ρ [kg/m] を用いて とも表せる。 通常、空気中の音速は湿度を無視して乾燥空気に対する近似式で求められるが、湿度の影響を加える場合は以下による。まず、温度から乾燥空気中の音速を求め、c とする。ついで、気圧 H 、水蒸気圧 p 、水蒸気の定圧比熱と定積比熱との比 γw 、乾燥空気の比熱比 γより、その水蒸気圧における音速 c' は、 となる。 物質の違いにあまり影響されず、おおむね 1000-1500 m/s の範囲に集中している。多くは高温ほど遅いが、水は74°Cまでは上昇し最高速を示す。また、水銀では周波数による差が知られており、高いほど速い。 液体中では、体積弾性率を K として、 とされる。 小さな気泡を多数含む液体の音速は、両者の中間値にならず、より小さくなる。これは、質量の大きい液体が、体積弾性率の小さい気体をばねとして振動するためである。これはお湯に粉末を溶かしたときに発生する気泡によって容易に確かめることができる(ホットチョコレート効果)。 液体の密度をρw、体積弾性率を Kw、気体の密度を ρa、体積弾性率をKa、体積分率を α とすると、混合流体の音速は、 または Kw >> Ka 、ρw >> ρa と仮定し、α→0, 1 の場合を除く近似式として で表される。液体を水、気体を空気とすると、音速の最小値は α= 0.5 のとき c = 23.7 m/s まで小さくなる。 固体の場合、伝播される振動が複数あり、速度も異なる。また、物体の形状や構成(純物質では結晶構造、混合物では成分比など)によって影響される。このほか、結晶方向と伝播方向による差や、周波数による差も大きいなど、固体の音速は非常に複雑となっている。 基本式は、弾性率を M 、密度を ρ とすると、 となる。 気体や液体と同じ縦波(疎密波)は、固体の音速で最も速く、等方的で無限に広がっている十分に大きな物体で、剛性率 を G、体積弾性率を K とすると、次の通り。 かなり遅く、物質によっては縦波の半分以下となる。縦波同様に、次の通り。 縦波と横波の中間よりやや速く、物質によっては縦波とほぼ同じとなる。物体の形状が波長に対して十分に細いとき、ヤング率を E とすると、次の通り。 物体表面(境界)で観測され、レイリー波とラブ波が知られている。横波と同程度か、やや遅い。 物体が板状で、波長に対して十分に広いときに出現し、速度が振動数の平方根に比例する。ヤングの弾性率を E、振動数を f、厚さを t、ポアソン比を δ とすると、次の通り。 国立天文台が発行する理科年表から、種々の物質中の音速を例示する。原則として気体は 1気圧 0°Cでの値、その他は概ね常温。 古代および中世において、音速を実際に測定したという記録はない。しかし、音が光に比べて遅い速度で伝わるということは、古代から知られていた。たとえば紀元前1世紀に、ルクレティウスは、雷の光が目に届いてから雷鳴が聞こえることや、遠くで木こりが木を切ったのが見えてから木を切る音が聞こえることを指摘している。 また古代ギリシアでは、音の高さによって音速が異なるかについて議論になっている。たとえばアルキタスは、高い音は速く伝わり、低い音はゆっくり伝わると述べていた。なぜなら、棒で何かをゆっくり叩くと低い音が聞こえ、すばやく叩くと高い音が聞こえるからである。これに対してテオプラストスは、異なる高さの音によってつくられる協和音が同時に聞こえることから、高い音と低い音では音が伝わる速さには差がないと述べている。 1627年、フランシス・ベーコンは著書『森の森』の中で、音速を測定する方法について書いた。寺院の尖塔にろうそくを持った人を立たせ、ろうそくの前にヴェールを置く。そして、鐘を打つと同時にヴェールを取り除かせる。観測する人は尖塔から1マイル離れた野原にいて、ろうそくの光が見えた時間と鐘の音が聴こえた時間の差を、自分の脈拍を使って測る。 ただしベーコンは自分ではこの方法を試していない。音速を初めて測定した人物として名前が挙げられるのは、ピエール・ガッサンディあるいはマラン・メルセンヌである。 ガッサンディは1635年、大砲の音を利用して、音速を毎秒478メートルと計算した。またガッサンディは、古代から伝えられていた「高い音は速く伝わる」という説を否定し、音速は音の高低や強弱によらず一定であり、また風速にも影響されないと主張した(ただし音速が風に影響されないというのは現代から見ると誤り)。 メルセンヌは音響学に関する書『普遍的和声』(1636,1637)を著し、その中で、砲声を利用して音速を求める測定について記した。これはベーコンが提唱したのと同じ測定法である。メルセンヌはこの測定法によって、音は空気中を毎秒230トアズ(448メートル)の速さで伝わり、その速さは音の種類や風向きなどに依存しないという結果を得た。メルセンヌはこの結果から、音波が地球を一周するのにかかる時間を21時間5(2/3)分と計算して、最後の審判の日に天使が吹き鳴らすトランペットの音は「約10時間以内に地球上のいたるところで聞きとられるであろう」と記した。 メルセンヌはさらに、自らが音を発して、その音が壁に反射して返ってくるまでの時間を計るという方法も試みている。この測定では、音の速さは毎秒162トアズ(316メートル)という結果を得た。砲声での測定と異なる値となったが、メルセンヌは最終的に、砲声の実験で得た毎秒230トアズのほうを音速値として採用している。 1657年、ガリレオ・ガリレイの弟子たちによって、フィレンツェに最初の科学アカデミー「アカデミア・デル・チメント」が設立された。このアカデミーでは様々な実験がなされたが、その1つに音速の測定があった。 音速研究に取り組んだのはヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニとジョヴァンニ・ボレリで、実験自体はアカデミーが正式に設立される前の1656年におこなわれている。測定方法は銃声が聴こえるまでの時間を振り子を使って求めるというもので、測定により、振り子が15.5回振動する間に、音は1.2マイル(3600ブラッチア)進むという結果が残されている。振り子の長さや周期が書かれていないためこの数値だけでは音速は分からないが、別の実験で使われていた振り子の周期などから判断して、このとき得られた音速値は毎秒361メートルと推定されている。 デル・チメント設立後、パリの科学アカデミーやロンドンの王立協会が設立され、そこでも音速の値が測定された。パリ科学アカデミーの音速実験は、1677年にジョヴァンニ・カッシーニ、クリスティアーン・ホイヘンス、ジャン・ピカール、オーレ・レーマーらによって砲声を使っておこなわれ、毎秒1097パリフィート(356メートル)と測定された(王立協会の測定については後述)。 音速値を初めて理論的に導き出したのはアイザック・ニュートンである。ニュートンは、音は空気の細かな粒子が押しつぶされたり膨らんだり繰り返すことで伝わってゆくと考えた。その上で、1687年に出された著書『プリンキピア』第2篇第8章の中で、次のように記している。 ここでいう「弾性力」とは、現代でいう体積弾性率 K [N/m] を意味する。したがって、速度を v [m/s]、密度を ρ [kg/m] とおくと、上記のニュートンの定理は と表すことができる。 体積弾性率 K とは、圧力 P が dP だけ変化したときの、物体の体積 V の変化率 dV/V との関係式における比例定数のことであるため、 すなわち、 と定義される。これに加えて、ρV=一定(気体の質量は変化しない)の式を使うと、 と表せる。そして、ボイルの法則( PV = 一定)が成り立つとき、k は圧力 P に等しくなり、音速は と表すことができる。 ニュートンは、自らが導いた定理と、空気・雨水・水銀の比重、さらに振り子を振ったときの周期を利用して、実際に音速を計算した。そして、音は1秒間に968フィート(295メートル)進むという結果を得た。これはニュートン自身が測定した値である866~1272フィート(263~388メートル)の範囲内であった。 ところが、『プリンキピア』出版後の1698年にウォーカによって測定された音速値は、ニュートンの理論値と異なっていた。王立協会は理論値と測定値のずれを解消させるため、音速の再測定に取り掛かった。この測定はジョン・フラムスティードとエドモンド・ハレーの手でおこなわれ、1708年、ダーハムによって協会に報告された。その値は毎秒1071パリフィート(348メートル)で、ニュートンの理論値よりも大きい値であった。 その後ニュートンは1713年に出された『プリンキピア』第2版で、音速の理論値に修正を加えた。まず、初版では1:850としていた空気と雨水の比重を1:870と修正して、この計算で求められる音速値を毎秒979フィート(298メートル)とした。その上で、実際の音速はこの数値に加えて「空気の固体粒子の粗さ」を考慮に入れなければならないと述べた。 これは次のような理屈によるものだと考えられている。ニュートンの理論によれば、音は空間内にある空気の固体粒子の膨張・収縮が他の粒子に順々に伝わってゆくことで広がる。しかし仮に、一定の空間内に粒子がすき間なくぎっしり詰まっていたとすると、その空間の内部にある粒子は膨張・収縮の運動をすることができない。そのためこの場合は、端にある粒子が動いたとすると、空間内のすべての粒子が、膨張・収縮を経ることなく同時に動くことになるため、端にある粒子の運動がもう一端の粒子に瞬時に伝わることになる。そのように考えると、音速値は、先ほどの979フィートの他に、音が瞬時に伝わる分、すなわち固体粒子の直径分を加えなければならない。 ニュートンは固体粒子の直径:粒子間の距離を1:8ないし1:9と計算し、その結果として、音速は毎秒1088フィートになるとした。 そしてさらにニュートンは、大気中の蒸気についての補正も必要だと考えた。大気中には蒸気が含まれているが、これは音の伝達にはほとんど関与しない。そのため音の運動は、蒸気以外の「真の空気」のみを通って伝えられてゆくので、蒸気の分だけ音の伝達距離が延び、音速は速くなることになる。ニュートンはこの補正を加え、音速の理論値は毎秒1142フィート(348メートル)であると結論づけた。一方で実験値については、毎秒1070パリフィート(1142フィート)であることが確かめられていると記した。この実験値はフラムスティードとハレーによって測定された値を採用したと考えられている。 ニュートンは『プリンキピア』第2版で音速の理論値を補正することによって、理論値と実験値を一致させた。しかしこの補正をするにあたってニュートンが取りだした仮説は実際のところ根拠に乏しく、人々に受け入れられるものではなかった。 そのため、理論値と実験値とのずれは解消されたとはいえなかった。パリの科学アカデミーでは、セザール=フランソワ・カッシーニ(英語版)らの手により、1738年にふたたび音速が測定された。測定方法は大砲の音を利用したもので、今までにないほど周到に測定されている。この測定では測定地点の温度も記録されており、それによると摂氏0度での音速は毎秒332メートルである。この値は現在の測定値とほぼ一致した値である。 1738年の実験時には、音速が温度によって異なるという事実は知られていなかった。これが明らかになるのは1740年以降である。ビアンコーニ伯はボローニャで夏と冬に音速を測定し、空気中の音速は気温と共に上昇するという結論を出した。またコンダミンは、涼しいキトーと暖かいケイエンヌで音速を測定し、ビアンコーニと同じ結論を導き出した。 ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトは音速理論を考え直すことで測定値との差を埋めようとした。そしてベルリン会報1768年号に載せられた研究で、空気には水蒸気と「不均質な物質」が混じっていて、それらは音の伝播には無関係だから、音速を計算する時には取り除かなければならないと記した。しかし、空気中の水蒸気量を調べることは難しかった。そこでランベルトは逆の方法をとった。つまり、実際に測った音速の値と理論値とのずれの量から、空気中の水蒸気の量を求めようとしたのである。こうしてランベルトは、蒸気は大気の重さの3分の1以上を占めると結論付けたのであるが、この値は後になされた実験値と一致しない。 1762年、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは音速理論の問題を解決させる1つの方法を提案した。それは、ニュートンが『プリンキピア』で採用した、弾性力が密度に正比例するという仮定を取り去ることである。こうすることにより、音速の理論値は変わる。そしてラグランジュは、弾性力は密度のべき乗に比例すると直感して計算し、その結果、弾性力が密度の3分の4乗に比例する場合、音速の理論値は実験値と比例することを示した。しかしこの計算は物理的な根拠に乏しいため、ラグランジュはこの仮説を「はかない憶測」だとして捨ててしまった。 1802年、ジャン=バティスト・ビオは、空気は急激に圧縮させると温度が上がり、膨張させると温度が下がることにふれた上で、音の伝播について次のように述べた。 音は空気の膨張・収縮によって伝わるとすると、その際に空気の温度は変化することになる。ニュートンは音の伝播を等温変化(ボイルの法則が成り立つ)として計算したが、音速を正しく求めるならば、温度変化も考えなければならない。ビオはラグランジュの手法を使って、弾性力が密度の1+α乗に比例すると考え、このとき音速は、これまでの理論値の 1 + α {\displaystyle {\sqrt {1+\alpha }}} 倍になると計算した。 αの値は「実験により直接知る手だてはない」としながらも、ビオは、ギヨーム・アモントンによる空気の弾性力の実験、およびジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックによる気体の膨張実験から、α = 0.95と見積もった。しかしこのαから求めた音速値は、毎秒1227.73ピエ(399メートル)と、実験値よりもかなり大きくなってしまう。ビオは、このずれは仮説が正確でなかった等の理由によるものだとしたが、音速を計算するときに空気の圧縮による温度変化を考える必要性については最後まで強調した。 ピエール=シモン・ラプラスも、ビオと同じように空気の圧縮にともなう熱を考慮に入れるべきだと考え、そして、この空気の圧縮・膨張は、現在の用語でいう断熱変化であると考えた。 この理論によると、ビオが述べたように弾性力は密度の 1+α 乗に比例し、その 1+α の値は、空気の定積モル比熱 c V {\displaystyle c_{V}} と定圧モル比熱 c P {\displaystyle c_{P}} の比で表せる。 すなわち、1+α = γとおくと、 そしてこのγを使うと、音速vは、 と書くことができる。このラプラスの研究によって、音速の理論はほぼ完成された。 ラプラスの式におけるγの値は、およそ1.4であることは分かっていたが、正確な値は求められていなかった。そのため、ラプラス以後は音速を実験で正確に求めることでγの値を定めようとする動きが起こった。また、音速の測定方法についても変化が見られ、ガラス管の中に作った定常波から求める方法もあみだされた。 1827年、コラドンとステュルムは、ボートから水中に鐘を沈め、その鐘の音が聴こえるまでの時間を計ることで、水中の音速を測定した。 固体中の音速については、古くは1800年前後に、エルンスト・クラドニが、棒を手で擦ることにより測定していた。クラドニはその結果、固体中では空気中よりも音がはるかに速く伝わることを発見し、空気中の音速を1としたとき、錫は7.5、銅は12、ガラスは17の速さになることなどを導いた。その後ビオも、鋳鉄中の音速を測定し、毎秒約3500メートルという値を得た。1866年にはアウグスト・クントが、金属の棒をこすって定常波を起こすことで、固体中の音速を測定した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "音速(おんそく、英: speed of sound)とは、音が物質(媒質)中を伝わる速さのこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "物質自体が振動することで伝わるため、物質の種類により決まる物性値の1種(弾性波伝播速度)である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "音速は、特に物質の相変化による影響を大きく受け、同じ物質では、固体が最大(つまり固体中の音速が最も速く)、次いで液体、気体の順となる(つまり気体中の音速が最も遅い)。またその物質の状態(温度、密度、圧力)によっても変化し、温度は気体では正の影響を、固体では負の影響を与える。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "気相中を音が伝わる場合、おおむね分子量が小さい物質ほど速い傾向を示す。たとえば、媒質が空気(平均分子量29)のときよりヘリウム(分子量4)のときの方が音速は約3倍大きく、吸入してしゃべるとかん高い声になる現象(ドナルドダック効果)が知られている(ただし、100%のヘリウムを吸入すると、窒息して危険なので、必ず空気と同等の酸素含有ヘリウム混合ガスを使用すること)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、媒質中を伝わる振動の成分は、気体と液体では縦波(疎密波)だけであり進行方向と波が同じ方向になる。いっぽう固体中では横波(ねじれ波)が遅れて伝わる。これは地震波と同様であり、録音した自分の声が違って聞こえる、骨伝導による聴覚への影響の一因でもある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "21世紀の科学技術では音速を超える速度まで物体を加速することが容易になってきており、音速の壁問題などもあるため大きな基準とされる。かつてはさまざまな乗り物で音速を超える速度の最高記録へチャレンジされていたが、その過程ではさまざまな死亡事故が発生してきた。近年では記録のインフレと安全面への配慮から、同様の研究は少なくなってきた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日常生活上での音速というのは空気中の音速であり、近似的に温度のみの一次式で表すことができ、1気圧の乾燥空気では次の式が常用されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "つまり1気圧で0°Cのとき音速は毎秒331.5メートルであり、温度が1°C上がるごとに音速は0.61 m/s速くなる。 なお上の式は、気体中の音速の式の摂氏0度での接線をとった近似式である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "多くの分野で音速についていうとき、常温として15°Cを採用することが一般的であり、その場合 340.5(m/s)となる。それで一般に、音速を15°Cで秒速340mとしている。高校の物理の教科書や試験問題などでも「音速を340 m/sとする」という文章が添えられていることが一般的である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "空気中の音速を直感的にとらえやすい現象として、雷や打ち上げ花火の発光から爆音が届くまでの時間差や、山間部で山彦が発生し音が反響して聞こえるものがある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "音速の倍数がマッハ数である。 速度単位の「マッハ」は気圧や気温に影響される。このため、超音速機のスペックを表す場合などは、標準大気中の音速 1,225 km/h が便宜上使われている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお雑学だが、英語の sonic(ソニック)は「音の」「音波の」から転じて、音のように速い=「音速の」という意味を表すが、本来は音速そのものを指す言葉ではない。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "海水中の音速の具体値は 1513 m/s といわれている。つまり、1秒でおよそ1.5km先に伝わる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "より正確には、海水中の音速は水温・圧力・塩分濃度により変化し、次式で近似される。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "海面近くでは水温が高いため音速は高く、一方水深が深いと圧力が大きいためにやはり音速は高くなる。そのため中層で音速極小層(SOFAR層)が生じ、フェルマーの原理より海中の音波はSOFAR層の近くに束縛されて2次元的に伝播するという特性をもつ。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "地殻における音速は5-7 km/sである。これは地震の初期微動速度と等値である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "音速には位相速度と群速度があるが、一般的に音速というときは位相速度のことをさす。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "気体中では、音速は比熱比、平均分子量、温度に依存する。圧力はほとんど影響しない。ここで κ を気体の比熱比、R を気体定数、T を気体温度、M を気体の平均分子量とすると音速 c は", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "と表される。なお、この関係から、音速測定によって気体定数を求めることもある。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "もしくは、気圧 p [N/m] と密度 ρ [kg/m] を用いて", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "とも表せる。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "通常、空気中の音速は湿度を無視して乾燥空気に対する近似式で求められるが、湿度の影響を加える場合は以下による。まず、温度から乾燥空気中の音速を求め、c とする。ついで、気圧 H 、水蒸気圧 p 、水蒸気の定圧比熱と定積比熱との比 γw 、乾燥空気の比熱比 γより、その水蒸気圧における音速 c' は、", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "物質の違いにあまり影響されず、おおむね 1000-1500 m/s の範囲に集中している。多くは高温ほど遅いが、水は74°Cまでは上昇し最高速を示す。また、水銀では周波数による差が知られており、高いほど速い。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "液体中では、体積弾性率を K として、", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "とされる。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "小さな気泡を多数含む液体の音速は、両者の中間値にならず、より小さくなる。これは、質量の大きい液体が、体積弾性率の小さい気体をばねとして振動するためである。これはお湯に粉末を溶かしたときに発生する気泡によって容易に確かめることができる(ホットチョコレート効果)。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "液体の密度をρw、体積弾性率を Kw、気体の密度を ρa、体積弾性率をKa、体積分率を α とすると、混合流体の音速は、", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "または Kw >> Ka 、ρw >> ρa と仮定し、α→0, 1 の場合を除く近似式として", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "で表される。液体を水、気体を空気とすると、音速の最小値は α= 0.5 のとき c = 23.7 m/s まで小さくなる。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "固体の場合、伝播される振動が複数あり、速度も異なる。また、物体の形状や構成(純物質では結晶構造、混合物では成分比など)によって影響される。このほか、結晶方向と伝播方向による差や、周波数による差も大きいなど、固体の音速は非常に複雑となっている。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "基本式は、弾性率を M 、密度を ρ とすると、", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "気体や液体と同じ縦波(疎密波)は、固体の音速で最も速く、等方的で無限に広がっている十分に大きな物体で、剛性率 を G、体積弾性率を K とすると、次の通り。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "かなり遅く、物質によっては縦波の半分以下となる。縦波同様に、次の通り。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "縦波と横波の中間よりやや速く、物質によっては縦波とほぼ同じとなる。物体の形状が波長に対して十分に細いとき、ヤング率を E とすると、次の通り。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "物体表面(境界)で観測され、レイリー波とラブ波が知られている。横波と同程度か、やや遅い。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "物体が板状で、波長に対して十分に広いときに出現し、速度が振動数の平方根に比例する。ヤングの弾性率を E、振動数を f、厚さを t、ポアソン比を δ とすると、次の通り。", "title": "定義と公式" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "国立天文台が発行する理科年表から、種々の物質中の音速を例示する。原則として気体は 1気圧 0°Cでの値、その他は概ね常温。", "title": "物性値の例" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "", "title": "物性値の例" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "古代および中世において、音速を実際に測定したという記録はない。しかし、音が光に比べて遅い速度で伝わるということは、古代から知られていた。たとえば紀元前1世紀に、ルクレティウスは、雷の光が目に届いてから雷鳴が聞こえることや、遠くで木こりが木を切ったのが見えてから木を切る音が聞こえることを指摘している。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また古代ギリシアでは、音の高さによって音速が異なるかについて議論になっている。たとえばアルキタスは、高い音は速く伝わり、低い音はゆっくり伝わると述べていた。なぜなら、棒で何かをゆっくり叩くと低い音が聞こえ、すばやく叩くと高い音が聞こえるからである。これに対してテオプラストスは、異なる高さの音によってつくられる協和音が同時に聞こえることから、高い音と低い音では音が伝わる速さには差がないと述べている。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1627年、フランシス・ベーコンは著書『森の森』の中で、音速を測定する方法について書いた。寺院の尖塔にろうそくを持った人を立たせ、ろうそくの前にヴェールを置く。そして、鐘を打つと同時にヴェールを取り除かせる。観測する人は尖塔から1マイル離れた野原にいて、ろうそくの光が見えた時間と鐘の音が聴こえた時間の差を、自分の脈拍を使って測る。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ただしベーコンは自分ではこの方法を試していない。音速を初めて測定した人物として名前が挙げられるのは、ピエール・ガッサンディあるいはマラン・メルセンヌである。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ガッサンディは1635年、大砲の音を利用して、音速を毎秒478メートルと計算した。またガッサンディは、古代から伝えられていた「高い音は速く伝わる」という説を否定し、音速は音の高低や強弱によらず一定であり、また風速にも影響されないと主張した(ただし音速が風に影響されないというのは現代から見ると誤り)。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "メルセンヌは音響学に関する書『普遍的和声』(1636,1637)を著し、その中で、砲声を利用して音速を求める測定について記した。これはベーコンが提唱したのと同じ測定法である。メルセンヌはこの測定法によって、音は空気中を毎秒230トアズ(448メートル)の速さで伝わり、その速さは音の種類や風向きなどに依存しないという結果を得た。メルセンヌはこの結果から、音波が地球を一周するのにかかる時間を21時間5(2/3)分と計算して、最後の審判の日に天使が吹き鳴らすトランペットの音は「約10時間以内に地球上のいたるところで聞きとられるであろう」と記した。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "メルセンヌはさらに、自らが音を発して、その音が壁に反射して返ってくるまでの時間を計るという方法も試みている。この測定では、音の速さは毎秒162トアズ(316メートル)という結果を得た。砲声での測定と異なる値となったが、メルセンヌは最終的に、砲声の実験で得た毎秒230トアズのほうを音速値として採用している。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1657年、ガリレオ・ガリレイの弟子たちによって、フィレンツェに最初の科学アカデミー「アカデミア・デル・チメント」が設立された。このアカデミーでは様々な実験がなされたが、その1つに音速の測定があった。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "音速研究に取り組んだのはヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニとジョヴァンニ・ボレリで、実験自体はアカデミーが正式に設立される前の1656年におこなわれている。測定方法は銃声が聴こえるまでの時間を振り子を使って求めるというもので、測定により、振り子が15.5回振動する間に、音は1.2マイル(3600ブラッチア)進むという結果が残されている。振り子の長さや周期が書かれていないためこの数値だけでは音速は分からないが、別の実験で使われていた振り子の周期などから判断して、このとき得られた音速値は毎秒361メートルと推定されている。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "デル・チメント設立後、パリの科学アカデミーやロンドンの王立協会が設立され、そこでも音速の値が測定された。パリ科学アカデミーの音速実験は、1677年にジョヴァンニ・カッシーニ、クリスティアーン・ホイヘンス、ジャン・ピカール、オーレ・レーマーらによって砲声を使っておこなわれ、毎秒1097パリフィート(356メートル)と測定された(王立協会の測定については後述)。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "音速値を初めて理論的に導き出したのはアイザック・ニュートンである。ニュートンは、音は空気の細かな粒子が押しつぶされたり膨らんだり繰り返すことで伝わってゆくと考えた。その上で、1687年に出された著書『プリンキピア』第2篇第8章の中で、次のように記している。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ここでいう「弾性力」とは、現代でいう体積弾性率 K [N/m] を意味する。したがって、速度を v [m/s]、密度を ρ [kg/m] とおくと、上記のニュートンの定理は", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "と表すことができる。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "体積弾性率 K とは、圧力 P が dP だけ変化したときの、物体の体積 V の変化率 dV/V との関係式における比例定数のことであるため、", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "すなわち、", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "と定義される。これに加えて、ρV=一定(気体の質量は変化しない)の式を使うと、", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "と表せる。そして、ボイルの法則( PV = 一定)が成り立つとき、k は圧力 P に等しくなり、音速は", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "と表すことができる。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ニュートンは、自らが導いた定理と、空気・雨水・水銀の比重、さらに振り子を振ったときの周期を利用して、実際に音速を計算した。そして、音は1秒間に968フィート(295メートル)進むという結果を得た。これはニュートン自身が測定した値である866~1272フィート(263~388メートル)の範囲内であった。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ところが、『プリンキピア』出版後の1698年にウォーカによって測定された音速値は、ニュートンの理論値と異なっていた。王立協会は理論値と測定値のずれを解消させるため、音速の再測定に取り掛かった。この測定はジョン・フラムスティードとエドモンド・ハレーの手でおこなわれ、1708年、ダーハムによって協会に報告された。その値は毎秒1071パリフィート(348メートル)で、ニュートンの理論値よりも大きい値であった。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "その後ニュートンは1713年に出された『プリンキピア』第2版で、音速の理論値に修正を加えた。まず、初版では1:850としていた空気と雨水の比重を1:870と修正して、この計算で求められる音速値を毎秒979フィート(298メートル)とした。その上で、実際の音速はこの数値に加えて「空気の固体粒子の粗さ」を考慮に入れなければならないと述べた。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "これは次のような理屈によるものだと考えられている。ニュートンの理論によれば、音は空間内にある空気の固体粒子の膨張・収縮が他の粒子に順々に伝わってゆくことで広がる。しかし仮に、一定の空間内に粒子がすき間なくぎっしり詰まっていたとすると、その空間の内部にある粒子は膨張・収縮の運動をすることができない。そのためこの場合は、端にある粒子が動いたとすると、空間内のすべての粒子が、膨張・収縮を経ることなく同時に動くことになるため、端にある粒子の運動がもう一端の粒子に瞬時に伝わることになる。そのように考えると、音速値は、先ほどの979フィートの他に、音が瞬時に伝わる分、すなわち固体粒子の直径分を加えなければならない。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ニュートンは固体粒子の直径:粒子間の距離を1:8ないし1:9と計算し、その結果として、音速は毎秒1088フィートになるとした。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "そしてさらにニュートンは、大気中の蒸気についての補正も必要だと考えた。大気中には蒸気が含まれているが、これは音の伝達にはほとんど関与しない。そのため音の運動は、蒸気以外の「真の空気」のみを通って伝えられてゆくので、蒸気の分だけ音の伝達距離が延び、音速は速くなることになる。ニュートンはこの補正を加え、音速の理論値は毎秒1142フィート(348メートル)であると結論づけた。一方で実験値については、毎秒1070パリフィート(1142フィート)であることが確かめられていると記した。この実験値はフラムスティードとハレーによって測定された値を採用したと考えられている。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ニュートンは『プリンキピア』第2版で音速の理論値を補正することによって、理論値と実験値を一致させた。しかしこの補正をするにあたってニュートンが取りだした仮説は実際のところ根拠に乏しく、人々に受け入れられるものではなかった。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "そのため、理論値と実験値とのずれは解消されたとはいえなかった。パリの科学アカデミーでは、セザール=フランソワ・カッシーニ(英語版)らの手により、1738年にふたたび音速が測定された。測定方法は大砲の音を利用したもので、今までにないほど周到に測定されている。この測定では測定地点の温度も記録されており、それによると摂氏0度での音速は毎秒332メートルである。この値は現在の測定値とほぼ一致した値である。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1738年の実験時には、音速が温度によって異なるという事実は知られていなかった。これが明らかになるのは1740年以降である。ビアンコーニ伯はボローニャで夏と冬に音速を測定し、空気中の音速は気温と共に上昇するという結論を出した。またコンダミンは、涼しいキトーと暖かいケイエンヌで音速を測定し、ビアンコーニと同じ結論を導き出した。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトは音速理論を考え直すことで測定値との差を埋めようとした。そしてベルリン会報1768年号に載せられた研究で、空気には水蒸気と「不均質な物質」が混じっていて、それらは音の伝播には無関係だから、音速を計算する時には取り除かなければならないと記した。しかし、空気中の水蒸気量を調べることは難しかった。そこでランベルトは逆の方法をとった。つまり、実際に測った音速の値と理論値とのずれの量から、空気中の水蒸気の量を求めようとしたのである。こうしてランベルトは、蒸気は大気の重さの3分の1以上を占めると結論付けたのであるが、この値は後になされた実験値と一致しない。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1762年、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは音速理論の問題を解決させる1つの方法を提案した。それは、ニュートンが『プリンキピア』で採用した、弾性力が密度に正比例するという仮定を取り去ることである。こうすることにより、音速の理論値は変わる。そしてラグランジュは、弾性力は密度のべき乗に比例すると直感して計算し、その結果、弾性力が密度の3分の4乗に比例する場合、音速の理論値は実験値と比例することを示した。しかしこの計算は物理的な根拠に乏しいため、ラグランジュはこの仮説を「はかない憶測」だとして捨ててしまった。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1802年、ジャン=バティスト・ビオは、空気は急激に圧縮させると温度が上がり、膨張させると温度が下がることにふれた上で、音の伝播について次のように述べた。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "音は空気の膨張・収縮によって伝わるとすると、その際に空気の温度は変化することになる。ニュートンは音の伝播を等温変化(ボイルの法則が成り立つ)として計算したが、音速を正しく求めるならば、温度変化も考えなければならない。ビオはラグランジュの手法を使って、弾性力が密度の1+α乗に比例すると考え、このとき音速は、これまでの理論値の 1 + α {\\displaystyle {\\sqrt {1+\\alpha }}} 倍になると計算した。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "αの値は「実験により直接知る手だてはない」としながらも、ビオは、ギヨーム・アモントンによる空気の弾性力の実験、およびジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックによる気体の膨張実験から、α = 0.95と見積もった。しかしこのαから求めた音速値は、毎秒1227.73ピエ(399メートル)と、実験値よりもかなり大きくなってしまう。ビオは、このずれは仮説が正確でなかった等の理由によるものだとしたが、音速を計算するときに空気の圧縮による温度変化を考える必要性については最後まで強調した。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ピエール=シモン・ラプラスも、ビオと同じように空気の圧縮にともなう熱を考慮に入れるべきだと考え、そして、この空気の圧縮・膨張は、現在の用語でいう断熱変化であると考えた。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "この理論によると、ビオが述べたように弾性力は密度の 1+α 乗に比例し、その 1+α の値は、空気の定積モル比熱 c V {\\displaystyle c_{V}} と定圧モル比熱 c P {\\displaystyle c_{P}} の比で表せる。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "すなわち、1+α = γとおくと、", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "そしてこのγを使うと、音速vは、", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "と書くことができる。このラプラスの研究によって、音速の理論はほぼ完成された。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ラプラスの式におけるγの値は、およそ1.4であることは分かっていたが、正確な値は求められていなかった。そのため、ラプラス以後は音速を実験で正確に求めることでγの値を定めようとする動きが起こった。また、音速の測定方法についても変化が見られ、ガラス管の中に作った定常波から求める方法もあみだされた。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1827年、コラドンとステュルムは、ボートから水中に鐘を沈め、その鐘の音が聴こえるまでの時間を計ることで、水中の音速を測定した。", "title": "音速の研究史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "固体中の音速については、古くは1800年前後に、エルンスト・クラドニが、棒を手で擦ることにより測定していた。クラドニはその結果、固体中では空気中よりも音がはるかに速く伝わることを発見し、空気中の音速を1としたとき、錫は7.5、銅は12、ガラスは17の速さになることなどを導いた。その後ビオも、鋳鉄中の音速を測定し、毎秒約3500メートルという値を得た。1866年にはアウグスト・クントが、金属の棒をこすって定常波を起こすことで、固体中の音速を測定した。", "title": "音速の研究史" } ]
音速とは、音が物質(媒質)中を伝わる速さのこと。
'''音速'''(おんそく、{{lang-en-short|speed of sound}})とは、[[音]]が[[物質]](媒質)中を伝わる[[速さ]]のこと。 == 概説 == ;固体・液体・気体と音速 物質自体が[[振動]]することで伝わるため、物質の種類により決まる[[物性値]]の1種([[弾性波]]伝播速度)である。 音速は、特に物質の[[相]]変化による影響を大きく受け、同じ物質では、[[固体]]が最大(つまり固体中の音速が最も速く)、次いで[[液体]]、[[気体]]の順となる(つまり気体中の音速が最も遅い)。またその物質の状態([[温度]]、[[密度]]、[[圧力]])によっても変化し、温度は気体では正の影響を、固体では負の影響を与える。 気相中を音が伝わる場合、おおむね[[分子量]]が小さい物質ほど速い傾向を示す。たとえば、媒質が[[空気]](平均分子量29)のときより[[ヘリウム]](分子量4)のときの方が音速は約3倍大きく、吸入してしゃべるとかん高い[[声]]になる現象([[ドナルドダック#ドナルドダック効果|ドナルドダック効果]])が知られている(ただし、100%のヘリウムを吸入すると、[[窒息]]して危険なので、必ず空気と同等の[[酸素]]含有ヘリウム混合ガスを使用すること)。 <!-- (理想気体と固体とでは波動方程式の復元力のソースが根本的に違う。ベリリウムよりも原子間が共有結合で結ばれるダイヤモンド(原子量は12)の方が音速は大きい 18000 m/s  https://www.olympus-ims.com/ja/ndt-tutorials/thickness-gage/appendices-velocities/ ) --> なお、媒質中を伝わる振動の成分は、気体と液体では[[縦波]](疎密波)だけであり進行方向と波が同じ方向になる。いっぽう固体中では[[横波]](ねじれ波)が遅れて伝わる。これは[[地震波]]と同様であり、[[録音]]した自分の声が違って聞こえる、[[骨伝導]]による[[聴覚]]への影響の一因でもある。 21世紀の科学技術では音速を超える速度まで物体を加速することが容易になってきており、[[音速の壁]]問題などもあるため大きな基準とされる。かつてはさまざまな乗り物で音速を超える速度の最高記録へチャレンジされていたが、その過程ではさまざまな死亡事故が発生してきた。近年では記録のインフレと安全面への配慮から、同様の研究は少なくなってきた。 === 空気中の音速 === [[ファイル:C luft.svg|thumb|350x350 px|1気圧の空気の場合の、音速と温度の関係のグラフ。X軸:温度(℃)、Y軸:音速(m/s)。{{color|red|赤線}}は[[近似]]式(一次の[[テイラー展開]]:331.5 + 0.6''x'' )、{{color|green|緑線}}はより厳密な式(20.055 (''x'' + 273.15 )<sup>1/2</sup> )による。なお、331.5に替えて331.3を当てる場合もある。]] [[日常生活]]上での音速というのは空気中の音速であり、近似的に温度のみの[[一次式]]で表すことができ、1気圧の乾燥空気では次の式が常用されている。 :: '''331.5 + 0.61 ''t''''' (※) ([[m/s]]) (※ ''t'' は[[摂氏|摂氏温度]]) つまり'''1気圧で0℃のとき音速は毎秒331.5メートル'''であり、'''温度が1℃上がるごとに音速は0.61 m/s速くなる'''。 なお上の式は、気体中の音速の式の摂氏0度での[[接線]]をとった近似式である。 多くの分野で音速についていうとき、[[常温]]として15℃を採用することが一般的であり、その場合 340.5(m/s)となる。それで一般に、音速を'''15℃で秒速340m'''としている<ref>[https://keisan.casio.jp/exec/system/1231998943]</ref><ref>[[航空機]]や[[飛行]]などに関する解説本でも、15℃で340(m/s)として解説するのが最も一般的。</ref>。高校の物理の教科書や試験問題などでも「音速を340 m/sとする」という文章が添えられていることが一般的である<ref>物理の教科書でシェアが特に高い[[数研出版]]を含め、いずれの教科書でも一般的。また参考書類でも同様。</ref>。 空気中の音速を直感的にとらえやすい現象として、雷や打ち上げ花火の発光から[[爆音]]が届くまでの時間差や、山間部で[[山彦]]が発生し音が反響して聞こえるものがある。 ===マッハ、標準大気中の音速の「km/h」表示=== 音速の倍数が[[マッハ数]]である。 速度単位の「マッハ」は気圧や気温に影響される。このため、[[超音速機]]の[[スペック]]を表す場合などは、[[国際標準大気|標準大気]]中の音速 '''1,225 [[キロメートル毎時|km/h]]''' が便宜上使われている。 なお雑学だが、英語の [[:en:Sonic|sonic]]([[ソニック]])は「[[音]]の」「[[音波]]の」から転じて、音のように速い=「音速の」という意味を表すが、本来は音速そのものを指す言葉ではない。 === 海水中の音速 === [[海水]]中の音速の具体値は '''1513 m/s''' といわれている。つまり、1秒でおよそ1.5km先に伝わる。 より正確には、[[海水]]中の音速は水温・圧力・塩分濃度により変化し、次式で近似される<ref>{{cite|和書 |editor= |author=関根義彦 |title=海洋物理学概論 |edition= |publisher=成山堂書店 |year=2003 |isbn=4-425-53045-4 |page=8}}</ref>。 ::<math>c = 1499.22+ 4.623T-0.0546T^2 + 0.1605P + 1.391(S-35.0).</math> ::ここで{{math|''c''}} は音速 (m/s)、{{math|''T''}} は水温 ({{℃}})、{{math|''P''}} は圧力 (kg&nbsp;cm{{sup-|2}})、{{math|''S''}} は塩分 ([[塩分濃度|psu]]) である。 海面近くでは水温が高いため音速は高く、一方水深が深いと圧力が大きいためにやはり音速は高くなる。そのため中層で音速極小層(SOFAR層)が生じ、[[フェルマーの原理]]より海中の音波はSOFAR層の近くに束縛されて2次元的に伝播するという特性をもつ。 === 地殻中の音速 === 地殻における音速は'''5-7 km/s'''である。これは地震の初期微動速度と等値である。 ::その他、各物質中の音速については[[#物性値の例]]で説明 == 定義と公式 == 音速には[[位相速度]]と[[群速度]]があるが、一般的に音速というときは位相速度のことをさす。 === 気体 === 気体中では、音速は[[比熱比]]、平均分子量、温度に依存する。[[圧力]]はほとんど影響しない<ref name="nenpyou420">[[#理科年表 平成22年|理科年表 平成22年]] p.&nbsp;420。</ref>。ここで ''&kappa;'' を気体の比熱比、''R'' を気体定数、''T'' を気体温度、''M'' を気体の平均分子量とすると音速 ''c'' は :<math>c = \sqrt{\frac{\kappa RT}{M}}</math> と表される。なお、この関係から、音速測定によって気体定数を求めることもある<ref name="atkins">{{cite book|和書 | title=アトキンス物理化学| publisher=[[東京化学同人]] | author=Atkins, P. W. | year=2001 | isbn=4-8079-0529-5| edition=第6版|volume=上|others=千原秀昭・中村亘男訳|page=20}}</ref>。 もしくは、気圧 ''p'' [N/m<sup>2</sup>] と[[密度]] &rho; [kg/m<sup>3</sup>] を用いて :<math>c = \sqrt{\frac{\kappa p} {\rho}}</math> とも表せる。 ====湿り空気==== 通常、空気中の音速は[[湿度]]を無視して乾燥空気に対する近似式で求められるが、湿度の影響を加える場合は以下による<ref name="nenpyou420" />。まず、温度から乾燥空気中の音速を求め、''c'' とする。ついで、気圧 ''H'' 、[[水蒸気圧]] ''p'' 、水蒸気の[[定圧比熱]]と[[定積比熱]]との比 ''&gamma;''<sub>w</sub> 、乾燥空気の比熱比 ''&gamma;''より、その水蒸気圧における音速 ''c''' は、 :<math> c' = c \bigg / \sqrt{ 1-\frac{p}{H}\left(\frac{\gamma_w}{\gamma} - 0.622 \right)} </math> となる。 === 液体 === 物質の違いにあまり影響されず、おおむね 1000-1500 m/s の範囲に集中している<ref name="nenpyou421">[[#理科年表 平成22年|理科年表 平成22年]] p.&nbsp;421。</ref>。多くは高温ほど遅いが、水は74℃までは上昇し最高速を示す<ref name="nenpyou421" />。また、水銀では[[周波数]]による差が知られており、高いほど速い。 液体中では、[[体積弾性率]]を ''K'' として、 :<math> c = \sqrt{ {K \over {\rho}} } </math> とされる。 ====気泡を含む液体==== 小さな気泡を多数含む液体の音速は、両者の中間値にならず、より小さくなる。これは、質量の大きい液体が、体積弾性率の小さい気体をばねとして振動するためである<ref>{{cite|和書 |author=平尾雅彦 |title=音と波の力学 |publisher=岩波書店 |year=2013 |isbn=978-4-00-005129-3 |pages=77-78}}</ref>。これはお湯に粉末を溶かしたときに発生する気泡によって容易に確かめることができる([[ホットチョコレート効果]])<ref name=hotchocolate>Frank S. Crawford, May 1982, "The hot chocolate effect", ''American Journal of Physics'', Volume 50, Issue 5, pp. 398-404, [[doi:10.1119/1.13080]] (Abstract only)</ref>。 液体の密度を&rho;<sub>w</sub>、体積弾性率を ''K''<sub>w</sub>、気体の密度を ''&rho;''<sub>a</sub>、体積弾性率を''K''<sub>a</sub>、[[体積分率]]を ''&alpha;'' とすると、混合流体の音速は、 :<math>c=\left[\left(\frac{\alpha}{K_a}+\frac{1-\alpha}{K_w}\right)(\alpha\rho_a+(1-\alpha)\rho_w)\right]^{-\frac{1}{2}}</math> または ''K''<sub>w</sub> >> ''K''<sub>a</sub> 、''&rho;''<sub>w</sub> >> ''&rho;''<sub>a</sub> と仮定し、&alpha;&rarr;0, 1 の場合を除く近似式として :<math>c=\sqrt{\frac{K_a}{\alpha(1-\alpha)\rho_w}}</math> で表される。液体を水、気体を空気とすると、音速の最小値は ''&alpha;''= 0.5 のとき ''c'' = 23.7 m/s まで小さくなる。 === 固体 === 固体の場合、伝播される振動が複数あり、速度も異なる。また、物体の形状や構成(純物質では[[結晶構造]]、[[混合物]]では成分比など)によって影響される<ref>[[#理科年表 平成22年|理科年表 平成22年]] p.&nbsp;422。</ref>。このほか、結晶方向と伝播方向による差や、周波数による差も大きいなど、固体の音速は非常に複雑となっている。 基本式は、[[弾性率]]を ''M'' 、密度を ''&rho;'' とすると、 :<math> c = \sqrt{ {M \over {\rho}} } </math> となる。 ====縦波==== 気体や液体と同じ[[縦波]](疎密波)は、固体の音速で最も速く、等方的で無限に広がっている十分に大きな物体で、[[剛性率]] を ''G''、[[体積弾性率]]を ''K'' とすると、次の通り<ref name="nenpyou423">[[#理科年表 平成22年|理科年表 平成22年]] p.&nbsp;423。</ref>。 : <math> c_l = \sqrt{ \frac{K + \frac{4}{3} G } {\rho} } </math> ====横波==== かなり遅く、物質によっては縦波の半分以下となる。縦波同様に、次の通り<ref name="nenpyou423" />。 : <math> c_t = \sqrt{ {G \over {\rho}} } </math> ====棒の縦振動==== 縦波と横波の中間よりやや速く、物質によっては縦波とほぼ同じとなる。物体の形状が[[波長]]に対して十分に細いとき、[[ヤング率]]を ''E'' とすると、次の通り<ref name="nenpyou423" />。 : <math> c_3 = \sqrt{ {E \over {\rho}} } </math> ====表面波==== 物体[[表面]](境界)で観測され、[[レイリー波]]と[[ラブ波]]が知られている。横波と同程度か、やや遅い。 ====屈曲波==== 物体が板状で、波長に対して十分に広いときに出現し、速度が[[振動数]]の平方根に比例する。[[ヤング率|ヤングの弾性率]]を ''E''、振動数を ''f''、厚さを ''t''、[[ポアソン比]]を ''&delta;'' とすると、次の通り<ref>[http://www.ince-j.or.jp/index.html 社団法人日本騒音制御工学会] Dr.Noise 用語解説</ref>。 : <math> c_b = \left( { {\pi}^2 f^2 t^2 E \over 3 {\rho} (1- {\delta}^2) }\right)^\frac{1}{4}</math> == 物性値の例 == [[国立天文台]]が発行する[[理科年表]]から、種々の物質中の音速を例示する<ref>[[#理科年表 平成22年|理科年表 平成22年]] pp.420-423</ref>。原則として気体は 1気圧 0℃での値、その他は概ね常温。 {| class="sortable wikitable" |- ! 物質名 !! 縦波 [m/s] !! 横波 [m/s] |- | 乾燥空気 || 331.45 || |- | || || |- | [[水蒸気]](100℃) || 473 || |- | [[水]] || 1500 || |- | [[海水]] || 1513 || |- | [[氷]] || 3230 || 1600 |- | || || |- | [[水素]] || 1269.5 || |- | [[ヘリウム]] || 970 || |- | [[窒素]] || 337 || |- | [[酸素]] || 317.2 || |- | [[塩素]] || 205.3 || |- | [[アルゴン]] || 319 || |- | || || |- | [[水銀]] || 1450 || |- | [[グリセリン]]|| 1986 || |- | [[ベンゼン]]|| 1295 || |- | [[エタノール]]|| 1207 || |- | [[四塩化炭素]]|| 930 || |- | [[二酸化炭素]]|| 258 || |- | || || |- | [[ベリリウム]] || 12890 || 8880 |- | [[アルミニウム]] || 6420 || 3040 |- | [[鉄]] || 5950 || 3240 |- | [[金]] || 3240 || 1220 |- | [[鉛]] || 1960 || 690 |- | 溶融[[水晶]] || 5968 || 3764 |- | [[ポリスチレン]] || 2350 || 1120 |- | 軟質[[ポリエチレン]] || 1950 || 540 |- | 天然[[ゴム]] || 1500 || 120 |- |} == 音速の研究史 == === 古代 === 古代および中世において、音速を実際に測定したという記録はない<ref>[[#西條(2001)|西條(2001)]] p.85</ref>。しかし、音が光に比べて遅い速度で伝わるということは、古代から知られていた。たとえば紀元前1世紀に、[[ルクレティウス]]は、雷の光が目に届いてから雷鳴が聞こえることや、遠くで木こりが木を切ったのが見えてから木を切る音が聞こえることを指摘している<ref>[[#西條(2001)|西條(2001)]] p.84</ref><ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] p.45</ref>。 また[[古代ギリシア]]では、音の高さによって音速が異なるかについて議論になっている。たとえば[[アルキタス]]は、高い音は速く伝わり、低い音はゆっくり伝わると述べていた。なぜなら、棒で何かをゆっくり叩くと低い音が聞こえ、すばやく叩くと高い音が聞こえるからである<ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] pp.33-34</ref>。これに対して[[テオプラストス]]は、異なる高さの音によってつくられる協和音が同時に聞こえることから、高い音と低い音では音が伝わる速さには差がないと述べている<ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] pp.34-35</ref>。 === 初期の音速測定 === [[File:Marin mersenne.jpg|thumb|180px|マラン・メルセンヌ]] 1627年、[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]は著書『森の森』の中で、音速を測定する方法について書いた。寺院の尖塔にろうそくを持った人を立たせ、ろうそくの前にヴェールを置く。そして、鐘を打つと同時にヴェールを取り除かせる。観測する人は尖塔から1マイル離れた野原にいて、ろうそくの光が見えた時間と鐘の音が聴こえた時間の差を、自分の脈拍を使って測る<ref name="hunt134-135">[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] pp.134-135</ref><ref>[[#西條(2001)|西條(2001)]] pp.85-86</ref>。 ただしベーコンは自分ではこの方法を試していない<ref name="hunt134-135"/>。音速を初めて測定した人物として名前が挙げられるのは、[[ピエール・ガッサンディ]]あるいは[[マラン・メルセンヌ]]である。 ガッサンディは1635年、大砲の音を利用して、音速を毎秒478メートルと計算した。またガッサンディは、古代から伝えられていた「高い音は速く伝わる」という説を否定し、音速は音の高低や強弱によらず一定であり、また風速にも影響されないと主張した(ただし音速が風に影響されないというのは現代から見ると誤り)<ref>[[#早坂(1989)|早坂(1989)]] pp.14-15</ref><ref group="注釈">しかし、ガッサンディの音速に関する研究はすべてメルセンヌの引き写しだとする見解もある([[#ハント(1984)|ハント(1984)]] pp.&nbsp;153–154)。</ref>。 メルセンヌは[[音響学]]に関する書『普遍的和声』(1636,1637)を著し、その中で、砲声を利用して音速を求める測定について記した。これはベーコンが提唱したのと同じ測定法である。メルセンヌはこの測定法によって、音は空気中を毎秒230トアズ(448メートル)の速さで伝わり、その速さは音の種類や風向きなどに依存しないという結果を得た<ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] p.136</ref><ref>[[#西條(2001)|西條(2001)]] pp.85-87</ref>。メルセンヌはこの結果から、音波が地球を一周するのにかかる時間を21時間5(2/3)分と計算して、[[最後の審判]]の日に天使が吹き鳴らすトランペットの音は「約10時間以内に地球上のいたるところで聞きとられるであろう」と記した<ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] pp.136-137</ref>。 メルセンヌはさらに、自らが音を発して、その音が壁に反射して返ってくるまでの時間を計るという方法も試みている。この測定では、音の速さは毎秒162トアズ(316メートル)という結果を得た<ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] p.152</ref>。砲声での測定と異なる値となったが、メルセンヌは最終的に、砲声の実験で得た毎秒230トアズのほうを音速値として採用している<ref>[[#西條(2001)|西條(2001)]] p.87</ref>。 === 科学アカデミーにおける音速測定 === 1657年、[[ガリレオ・ガリレイ]]の弟子たちによって、[[フィレンツェ]]に最初の科学アカデミー「[[アカデミア・デル・チメント]]」が設立された<ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] p.155</ref>。このアカデミーでは様々な実験がなされたが、その1つに音速の測定があった。 音速研究に取り組んだのは[[ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ]]と[[ジョヴァンニ・ボレリ]]で、実験自体はアカデミーが正式に設立される前の1656年におこなわれている。測定方法は銃声が聴こえるまでの時間を振り子を使って求めるというもので、測定により、振り子が15.5回振動する間に、音は1.2マイル(3600ブラッチア)進むという結果が残されている。振り子の長さや周期が書かれていないためこの数値だけでは音速は分からないが、別の実験で使われていた振り子の周期などから判断して、このとき得られた音速値は毎秒361メートルと推定されている<ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] pp.156-160</ref><ref>[[#西條(2001)|西條(2001)]] pp.87-88</ref>。 デル・チメント設立後、パリの[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]やロンドンの[[王立協会]]が設立され、そこでも音速の値が測定された。パリ科学アカデミーの音速実験は、1677年に[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]、[[クリスティアーン・ホイヘンス]]、[[ジャン・ピカール]]、[[オーレ・レーマー]]らによって砲声を使っておこなわれ、毎秒1097パリフィート(356メートル)と測定された<ref name="saijo88">[[#西條(2001)|西條(2001)]] p.88</ref>(王立協会の測定については後述)。 === ニュートンによる理論化 === [[File:Sir Isaac Newton by Sir Godfrey Kneller, Bt.jpg|thumb|180px|アイザック・ニュートン]] 音速値を初めて理論的に導き出したのは[[アイザック・ニュートン]]である。ニュートンは、音は空気の細かな粒子が押しつぶされたり膨らんだり繰り返すことで伝わってゆくと考えた。その上で、[[1687年]]に出された著書『[[自然哲学の数学的諸原理|プリンキピア]]』第2篇第8章の中で、次のように記している。 {{Quotation|命題48・定理38 脈動が弾性的な流体中を伝えられてゆくそれぞれの速度は、流体の弾性力がそれの圧縮され方に比例すると仮定するかぎりにおいて、(流体の)弾性力の比の平方根と(流体の)密度の逆比の平方根との積の比にある。<ref>[[#ニュートン、河辺編(1971)|ニュートン、河辺編(1971)]] p.396</ref>}} ここでいう「弾性力」とは、現代でいう[[圧縮率|体積弾性率]] ''K'' [N/m<sup>2</sup>] を意味する。したがって、速度を ''v'' [m/s]、密度を &rho; [kg/m<sup>3</sup>] とおくと、上記のニュートンの定理は :<math>v=\sqrt{\frac{K}{\rho}}</math> と表すことができる<ref>[[#西條(2001)|西條(2001)]] p.89</ref>。 体積弾性率 ''K'' とは、圧力 ''P'' が ''dP'' だけ変化したときの、物体の体積 ''V'' の変化率 ''dV/V'' との関係式における比例定数のことであるため、 :<math> dP = -K\frac{dV}{V} </math> すなわち、 :<math> K = -V\frac{dP}{dV} </math> と定義される。これに加えて、&rho;V=一定(気体の質量は変化しない)の式を使うと、 :<math>v=\sqrt{\frac{dP}{d\rho}}</math> と表せる。そして、ボイルの法則( ''PV'' = 一定)が成り立つとき、''k'' は圧力 ''P'' に等しくなり、音速は :<math>v=\sqrt{\frac{P}{\rho}}</math> と表すことができる<ref>[[#西條(2001)|西條(2001)]] pp.89-90</ref><ref>[[#東山(2010)|東山(2010)]] p.55</ref>。 ニュートンは、自らが導いた定理と、空気・雨水・水銀の比重、さらに振り子を振ったときの周期を利用して、実際に音速を計算した<ref>[[#ニュートン、河辺編(1971)|ニュートン、河辺編(1971)]] p.399</ref>。そして、音は1秒間に968フィート(295メートル)進むという結果を得た。これはニュートン自身が測定した値である866~1272フィート(263~388メートル)の範囲内であった<ref name="saijo90">[[#西條(2001)|西條(2001)]] p.90</ref>。 ところが、『プリンキピア』出版後の1698年にウォーカによって測定された音速値は、ニュートンの理論値と異なっていた。王立協会は理論値と測定値のずれを解消させるため、音速の再測定に取り掛かった。この測定は[[ジョン・フラムスティード]]と[[エドモンド・ハレー]]の手でおこなわれ、1708年、ダーハムによって協会に報告された。その値は毎秒1071パリフィート(348メートル)で、ニュートンの理論値よりも大きい値であった<ref name="saijo88"/><ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] p.166</ref>。 その後ニュートンは1713年に出された『プリンキピア』第2版で、音速の理論値に修正を加えた。まず、初版では1:850としていた空気と雨水の比重を1:870と修正して、この計算で求められる音速値を毎秒979フィート(298メートル)とした<ref name="saijo90"/><ref>[[#ニュートン、河辺編(1971)|ニュートン、河辺編(1971)]] pp.399,401</ref>。その上で、実際の音速はこの数値に加えて「空気の固体粒子の粗さ」を考慮に入れなければならないと述べた<ref name="newton400">[[#ニュートン、河辺編(1971)|ニュートン、河辺編(1971)]] p.400</ref>。 これは次のような理屈によるものだと考えられている。ニュートンの理論によれば、音は空間内にある空気の固体粒子の膨張・収縮が他の粒子に順々に伝わってゆくことで広がる。しかし仮に、一定の空間内に粒子がすき間なくぎっしり詰まっていたとすると、その空間の内部にある粒子は膨張・収縮の運動をすることができない。そのためこの場合は、端にある粒子が動いたとすると、空間内のすべての粒子が、膨張・収縮を経ることなく同時に動くことになるため、端にある粒子の運動がもう一端の粒子に瞬時に伝わることになる。そのように考えると、音速値は、先ほどの979フィートの他に、音が瞬時に伝わる分、すなわち固体粒子の直径分を加えなければならない<ref name="newton400-401">[[#ニュートン、河辺編(1971)|ニュートン、河辺編(1971)]] pp.400-401</ref>。 ニュートンは固体粒子の直径:粒子間の距離を1:8ないし1:9と計算し、その結果として、音速は毎秒1088フィートになるとした<ref name="newton400-401"/>。 そしてさらにニュートンは、大気中の蒸気についての補正も必要だと考えた。大気中には蒸気が含まれているが、これは音の伝達にはほとんど関与しない。そのため音の運動は、蒸気以外の「真の空気」のみを通って伝えられてゆくので、蒸気の分だけ音の伝達距離が延び、音速は速くなることになる。ニュートンはこの補正を加え、音速の理論値は毎秒1142フィート(348メートル)であると結論づけた<ref name="newton400"/>。一方で実験値については、毎秒1070パリフィート(1142フィート)であることが確かめられていると記した。この実験値はフラムスティードとハレーによって測定された値を採用したと考えられている<ref>[[#ニュートン、河辺編(1971)|ニュートン、河辺編(1971)]] p.401</ref>。 === 『プリンキピア』以後の音速研究 === ニュートンは『プリンキピア』第2版で音速の理論値を補正することによって、理論値と実験値を一致させた。しかしこの補正をするにあたってニュートンが取りだした仮説は実際のところ根拠に乏しく、人々に受け入れられるものではなかった<ref>[[#ビオ(1988)|ビオ(1988)]] p.173</ref><ref>[[#山本(2008)|山本(2008)]] p.173</ref>。 そのため、理論値と実験値とのずれは解消されたとはいえなかった。パリの科学アカデミーでは、{{仮リンク|セザール=フランソワ・カッシーニ|en|César-François Cassini de Thury}}らの手により、1738年にふたたび音速が測定された。測定方法は大砲の音を利用したもので、今までにないほど周到に測定されている。この測定では測定地点の温度も記録されており、それによると摂氏0度での音速は毎秒332メートルである。この値は現在の測定値とほぼ一致した値である<ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] pp.167-168</ref>。 1738年の実験時には、音速が温度によって異なるという事実は知られていなかった。これが明らかになるのは1740年以降である。ビアンコーニ伯はボローニャで夏と冬に音速を測定し、空気中の音速は気温と共に上昇するという結論を出した。またコンダミンは、涼しいキトーと暖かいケイエンヌで音速を測定し、ビアンコーニと同じ結論を導き出した<ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] p.168</ref>。 [[ヨハン・ハインリッヒ・ランベルト]]は音速理論を考え直すことで測定値との差を埋めようとした。そしてベルリン会報1768年号に載せられた研究で、空気には水蒸気と「不均質な物質」が混じっていて、それらは音の伝播には無関係だから、音速を計算する時には取り除かなければならないと記した<ref>[[#ビオ(1988)|ビオ(1988)]] pp.174-175</ref>。しかし、空気中の水蒸気量を調べることは難しかった。そこでランベルトは逆の方法をとった。つまり、実際に測った音速の値と理論値とのずれの量から、空気中の水蒸気の量を求めようとしたのである。こうしてランベルトは、蒸気は大気の重さの3分の1以上を占めると結論付けたのであるが、この値は後になされた実験値と一致しない<ref>[[#ビオ(1988)|ビオ(1988)]] p.175</ref>。 === 音速理論の完成 === 1762年、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]は音速理論の問題を解決させる1つの方法を提案した。それは、ニュートンが『プリンキピア』で採用した、弾性力が密度に正比例するという仮定<ref group="注釈">命題48・定理38の「流体の弾性力がそれの圧縮され方に比例すると仮定するかぎりにおいて」の箇所</ref>を取り去ることである。こうすることにより、音速の理論値は変わる。そしてラグランジュは、弾性力は密度のべき乗に比例すると直感して計算し、その結果、弾性力が密度の3分の4乗に比例する場合、音速の理論値は実験値と比例することを示した。しかしこの計算は物理的な根拠に乏しいため、ラグランジュはこの仮説を「はかない憶測」だとして捨ててしまった<ref>[[#ハント(1984)|ハント(1984)]] pp.228-229</ref><ref name="saijo91">[[#西條(2001)|西條(2001)]] p.91</ref>。 [[File:Jean baptiste biot.jpg|thumb|180px|ジャン=バティスト・ビオ]] 1802年、[[ジャン=バティスト・ビオ]]は、空気は急激に圧縮させると温度が上がり、膨張させると温度が下がることにふれた上で、音の伝播について次のように述べた。 {{Quotation|音の伝播における空気の膨張と収縮の繰り返しは、それをこうむる粒子中に、我々が上でその存在を理解した温度変化と類似の同程度のごく小さな温度変化を必然的に引き起こす。そしてこの変化はその弾性に影響を及ぼす。その結果、空気の弾性がその密度に比例するという法則が成り立つのは、この流体が再び静止した上で体積変化をこうむる以前の温度を回復してからに限られる。濃縮と希薄化が短い間隔で繰り返される運動状態にあっては、相応する温度変化を考慮しなければならなくなる。<ref>[[#ビオ(1988)|ビオ(1988)]] p.176</ref>}} 音は空気の膨張・収縮によって伝わるとすると、その際に空気の温度は変化することになる。ニュートンは音の伝播を[[等温変化]]([[ボイルの法則]]が成り立つ)として計算したが、音速を正しく求めるならば、温度変化も考えなければならない。ビオはラグランジュの手法を使って、弾性力が密度の1+&alpha;乗に比例すると考え、このとき音速は、これまでの理論値の<math>\sqrt{1+\alpha}</math>倍になると計算した<ref name="saijo91"/>。 &alpha;の値は「実験により直接知る手だてはない<ref>[[#ビオ(1988)|ビオ(1988)]] p.179</ref>」としながらも、ビオは、[[ギヨーム・アモントン]]による空気の弾性力の実験、および[[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック]]による気体の膨張実験から、&alpha; = 0.95と見積もった。しかしこの&alpha;から求めた音速値は、毎秒1227.73ピエ(399メートル)と、実験値よりもかなり大きくなってしまう。ビオは、このずれは仮説が正確でなかった等の理由によるものだとしたが、音速を計算するときに空気の圧縮による温度変化を考える必要性については最後まで強調した<ref>[[#ビオ(1988)|ビオ(1988)]] pp.180-181</ref>。 [[File:Pierre-Simon Laplace.jpg|thumb|180px|ピエール=シモン・ラプラス]] [[ピエール=シモン・ラプラス]]も、ビオと同じように空気の圧縮にともなう熱を考慮に入れるべきだと考え、そして、この空気の圧縮・膨張は、現在の用語でいう[[断熱変化]]であると考えた<ref>[[#山本(2009)|山本(2009)]] p.87</ref>。 この理論によると、ビオが述べたように弾性力は密度の 1+&alpha; 乗に比例し、その 1+&alpha; の値は、空気の[[定積モル熱容量|定積モル比熱]]<math>c_V</math>と[[定圧モル熱容量|定圧モル比熱]]<math>c_P</math>の比で表せる<ref name="saijo92">[[#西條(2001)|西條(2001)]] p.92</ref>。 すなわち、1+&alpha; = &gamma;とおくと、 :<math> \gamma = \frac{c_P}{c_V} </math> そしてこの&gamma;を使うと、音速''v''は、 :<math> v = \sqrt{\gamma\frac{P}{\rho}} </math> と書くことができる。このラプラスの研究によって、音速の理論はほぼ完成された<ref name="saijo92"/>。 === ラプラス以後 === ラプラスの式における&gamma;の値は、およそ1.4であることは分かっていたが、正確な値は求められていなかった。そのため、ラプラス以後は音速を実験で正確に求めることで&gamma;の値を定めようとする動きが起こった<ref name="saijo92"/>。また、音速の測定方法についても変化が見られ、ガラス管の中に作った[[定常波]]から求める方法もあみだされた<ref name="saijo92"/>。 1827年、コラドンとステュルムは、ボートから水中に鐘を沈め、その鐘の音が聴こえるまでの時間を計ることで、水中の音速を測定した<ref name="saijo92"/>。 固体中の音速については、古くは1800年前後に、[[エルンスト・クラドニ]]が、棒を手で擦ることにより測定していた。クラドニはその結果、固体中では空気中よりも音がはるかに速く伝わることを発見し、空気中の音速を1としたとき、錫は7.5、銅は12、ガラスは17の速さになることなどを導いた<ref>[[#ダンネマン(1978)|ダンネマン(1978)]] pp.457-458</ref>。その後ビオも、鋳鉄中の音速を測定し、毎秒約3500メートルという値を得た<ref>[[#ダンネマン(1978)|ダンネマン(1978)]] p.458</ref>。1866年には[[アウグスト・クント]]が、金属の棒をこすって定常波を起こすことで、固体中の音速を測定した<ref>[[#西條(2001)|西條(2001)]] p.94</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |year=1988|month=4 |title=科学の名著 第2期 3 (近代熱学論集) |others=伊東俊太郎ほか編 |publisher=朝日出版社 |isbn=978-4255880105 |ref=}} ** {{Cite journal|和書 |author=ジャン・バプティスト・ビオ |title=音の理論について |pages=pp.171-181 |others=橋本毅彦訳 |ref=ビオ(1988)}} * {{Cite book|和書 |author=西條敏美 |year=2001|month=11 |title=物理学史断章―現代物理学への十二の小径 |publisher=恒星社厚生閣 |isbn=978-4769909453 |ref=西條(2001)}} * {{Cite book|和書 |year=1978|month=6 |title=新訳ダンネマン大自然科学史〈第5巻〉 |others=安田 徳太郎訳編 |publisher=三省堂 |ref=ダンネマン(1978)}} * {{Cite book|和書 |author=ニュートン |year=1971|month=10 |title=世界の名著〈26〉ニュートン |others=河辺六男編 |publisher=中央公論社 |ref=ニュートン、河辺編(1971)}} * {{Cite book|和書 |author=早坂寿雄 |year=1989|month=10 |title=音の歴史 |publisher=電子情報通信学会 |isbn=978-4885520846 |ref=早坂(1989)}} * {{Cite book|和書 |author=F.V.ハント |year=1984|month=1 |title=音の科学文化史―ピュタゴラスからニュートンまで |others=平松幸三訳 |publisher=海青社 |isbn=978-4906165063 |ref=ハント(1984)}} * {{Cite book|和書 |author=東山三樹夫 |date=|year=2010|month=2 |title=音の物理 |others= |publisher=コロナ社|series=音響入門シリーズ |isbn=978-4339013023 |ref=東山(2010)}} * {{Cite book|和書 |author=山本義隆 |year=2008 |title=熱学思想の史的展開1 |series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房 |isbn=978-4480091819 |ref=山本(2008)}} * {{Cite book|和書 |author=山本義隆 |year=2009 |title=熱学思想の史的展開2 |series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房 |isbn=978-4480091826 |ref=山本(2009)}} * {{Cite book|和書 |author=国立天文台 |year=2009 |title=理科年表 平成22年(机上版) |publisher=丸善出版 |isbn=978-4-621-08191-4 |ref=理科年表 平成22年}} == 関連項目 == {{Wiktionary|音速}} {{Wikidata property}} * [[表面弾性波]] * [[地震波]] * [[縦波と横波]] * [[反射 (物理学)|反射]] * [[超音速]] * [[遷音速]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おんそく}} [[Category:速度]] [[Category:音]] [[Category:超音速]]
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陰陽五行思想
陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)は、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽説と五行説、それぞれ無関係に生まれた考え方が後に結合した思想。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。 陰陽道などにおいては、占術などに用いられる事もあった。 陰陽五行説の基本は、木、火、土、金、水、(もく、か、ど、ごん、すい、金は「きん」でなく「ごん」と読ませる)の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配する。甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、は音読みでは、こう、おつ、へい、てい、ぼ、き、こう、しん、じん、き、と読む。音読みでは陰陽と五行にどう対応しているか分かりにくいが、訓読みにすると、きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、となり、五行が明解になる(かのえ、かのと、は金)。陰陽は語尾の「え」が陽、「と」が陰である。語源は「え」は兄、「と」は弟である。「えと」の呼び名はここに由来する。「えと」は本来、十干ないし干支の呼称だった。きのえ、は「木の陽」という意味。 十二支にも五行が配されている。その前提として、季節に対応する五行(五時または五季)は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水である。土はどこへ来るかというと、四季それぞれの最後の約18日(土用)である。有名な「土用の丑の日」は夏の最後の時期(土用)の丑の日(丑は土の五行)ということである。各季節に十二支を配すると、 となる(月は旧暦の暦月または節月)。 十二支の陰陽は、子から数えていき、奇数番目は陽、偶数番目は陰となる。十干と十二支が組み合わさるとき、陰と陽の組み合わせはなく、陽と陽、陰と陰の組み合わせのみとなる。そのため、10×12=120とはならず、半分の60通りになる。甲寅はあっても乙寅はない、乙卯はあっても甲卯はない。 陰陽五行説の暦、またそれをもとにした占いは、立春を一年の始まりとしている。また月の始まりも1日ではなく、二十四節気のうち月の前半に来る十二の節(年によって違うが概ね5〜8日)が月の始めとなる。このように節から次の節の前日までの間を1か月とする月の区切り方を節切り、その月を節月という。また月の節入り(せついり)という。 だから小寒(1月5日頃)から立春前日(2月3日頃)の「年の干支」は前年の干支となるし、「月の干支」は十二月の丑となる。 「陰陽五行説」とは前述の通り「陰陽説」と「五行説」を組み合わせたものである。 『管子』の四時篇の陰陽主運説から発展している。五行と陰陽の結合の発想は易の説卦傳に基づいている。説卦傳における「地」を四方の中央とし、これに陰陽と星辰を加えている。 「陰陽説」は古代中国神話に登場する帝王「伏羲」が作り出したものであり、全ての事象は、それだけが単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」という相反する形(例えば明暗、天地、男女、善悪、吉凶など。前者が陽、後者が陰である)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想である。陰陽は形に示すことができないもので、分析すれば千変万化となる。 陰陽は、(+)と(-)のように相対する両極のどちらに属性が高いかによって二分類する考え方である。固定的なものではなく、振り子が一方に振り切れると反対方向に戻るように、そのバランスは常に変化し増減している。 五行説は、治水に功績をあげて舜から禅譲された禹が、治政にあたって天帝から与えられた九種類の大原則(洪範九疇)の第一として、五行(火水木金土)が明記されている。「五」の起源については東西南北の四方に中央を加えたものという考え方(東‐木・南‐火・中央‐土・西‐金・北‐水)と、肉眼で観察が可能な五つの惑星、五星(水星・金星・火星・木星・土星)に淵源があるとする考え方がある。 五行説の特徴は、「相生」と「相剋」という、それぞれの要素同士がお互いに影響を与え合うという考え方である。相手の要素を補い、強める影響を与えるものを「相生」、相手の要素を抑え、弱める影響を与えるものを「相剋」という。注意しておきたいのは、「相生」は相手を強めるので常によい、「相剋」は相手を弱めるので常に悪い、という捉え方ではないことである。 仏教儒教と同じ5世紀から6世紀に日本には暦法などとともに伝わり、律令により陰陽寮という役所が設置された。その後、道教の道術を取り入れて、陰陽道へと日本独自の発展をした。 また、陰陽五行思想は年中行事にも強い影響を与えているとする説もある。それによれば、正月は寅、盆は申となっており、それぞれ春、秋の始めを示す。正月は木気、火気の始めでもあり、門松を飾ったり、とんど祭りをしたりする。対して盆は水祭りとして燈籠流しなどが行われる。また、陰陽のバランスをとるためにとんどは水辺で行われ、燈籠流しは火を灯した舟を水に流す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)は、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽説と五行説、それぞれ無関係に生まれた考え方が後に結合した思想。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。 陰陽道などにおいては、占術などに用いられる事もあった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "陰陽五行説の基本は、木、火、土、金、水、(もく、か、ど、ごん、すい、金は「きん」でなく「ごん」と読ませる)の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配する。甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、は音読みでは、こう、おつ、へい、てい、ぼ、き、こう、しん、じん、き、と読む。音読みでは陰陽と五行にどう対応しているか分かりにくいが、訓読みにすると、きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、となり、五行が明解になる(かのえ、かのと、は金)。陰陽は語尾の「え」が陽、「と」が陰である。語源は「え」は兄、「と」は弟である。「えと」の呼び名はここに由来する。「えと」は本来、十干ないし干支の呼称だった。きのえ、は「木の陽」という意味。", "title": "十干十二支" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "十二支にも五行が配されている。その前提として、季節に対応する五行(五時または五季)は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水である。土はどこへ来るかというと、四季それぞれの最後の約18日(土用)である。有名な「土用の丑の日」は夏の最後の時期(土用)の丑の日(丑は土の五行)ということである。各季節に十二支を配すると、", "title": "十干十二支" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "となる(月は旧暦の暦月または節月)。", "title": "十干十二支" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "十二支の陰陽は、子から数えていき、奇数番目は陽、偶数番目は陰となる。十干と十二支が組み合わさるとき、陰と陽の組み合わせはなく、陽と陽、陰と陰の組み合わせのみとなる。そのため、10×12=120とはならず、半分の60通りになる。甲寅はあっても乙寅はない、乙卯はあっても甲卯はない。", "title": "十干十二支" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "陰陽五行説の暦、またそれをもとにした占いは、立春を一年の始まりとしている。また月の始まりも1日ではなく、二十四節気のうち月の前半に来る十二の節(年によって違うが概ね5〜8日)が月の始めとなる。このように節から次の節の前日までの間を1か月とする月の区切り方を節切り、その月を節月という。また月の節入り(せついり)という。", "title": "暦" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "だから小寒(1月5日頃)から立春前日(2月3日頃)の「年の干支」は前年の干支となるし、「月の干支」は十二月の丑となる。", "title": "暦" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「陰陽五行説」とは前述の通り「陰陽説」と「五行説」を組み合わせたものである。 『管子』の四時篇の陰陽主運説から発展している。五行と陰陽の結合の発想は易の説卦傳に基づいている。説卦傳における「地」を四方の中央とし、これに陰陽と星辰を加えている。", "title": "陰陽五行説の論理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「陰陽説」は古代中国神話に登場する帝王「伏羲」が作り出したものであり、全ての事象は、それだけが単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」という相反する形(例えば明暗、天地、男女、善悪、吉凶など。前者が陽、後者が陰である)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想である。陰陽は形に示すことができないもので、分析すれば千変万化となる。", "title": "陰陽五行説の論理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "陰陽は、(+)と(-)のように相対する両極のどちらに属性が高いかによって二分類する考え方である。固定的なものではなく、振り子が一方に振り切れると反対方向に戻るように、そのバランスは常に変化し増減している。", "title": "陰陽五行説の論理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "五行説は、治水に功績をあげて舜から禅譲された禹が、治政にあたって天帝から与えられた九種類の大原則(洪範九疇)の第一として、五行(火水木金土)が明記されている。「五」の起源については東西南北の四方に中央を加えたものという考え方(東‐木・南‐火・中央‐土・西‐金・北‐水)と、肉眼で観察が可能な五つの惑星、五星(水星・金星・火星・木星・土星)に淵源があるとする考え方がある。", "title": "陰陽五行説の論理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "", "title": "陰陽五行説の論理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "五行説の特徴は、「相生」と「相剋」という、それぞれの要素同士がお互いに影響を与え合うという考え方である。相手の要素を補い、強める影響を与えるものを「相生」、相手の要素を抑え、弱める影響を与えるものを「相剋」という。注意しておきたいのは、「相生」は相手を強めるので常によい、「相剋」は相手を弱めるので常に悪い、という捉え方ではないことである。", "title": "陰陽五行説の論理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "仏教儒教と同じ5世紀から6世紀に日本には暦法などとともに伝わり、律令により陰陽寮という役所が設置された。その後、道教の道術を取り入れて、陰陽道へと日本独自の発展をした。 また、陰陽五行思想は年中行事にも強い影響を与えているとする説もある。それによれば、正月は寅、盆は申となっており、それぞれ春、秋の始めを示す。正月は木気、火気の始めでもあり、門松を飾ったり、とんど祭りをしたりする。対して盆は水祭りとして燈籠流しなどが行われる。また、陰陽のバランスをとるためにとんどは水辺で行われ、燈籠流しは火を灯した舟を水に流す。", "title": "日本における陰陽五行思想" } ]
陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)は、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽説と五行説、それぞれ無関係に生まれた考え方が後に結合した思想。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。 陰陽道などにおいては、占術などに用いられる事もあった。
[[ファイル:Heaven stem relation.png|250px|right]] '''陰陽五行思想'''(いんようごぎょう<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/陰陽五行/ 陰陽五行] - 三省堂 新明解四字熟語辞典</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/陰陽五行説-33303 陰陽五行説] - コトバンク</ref>しそう)は、[[中国]]の[[春秋戦国時代]]ごろに発生した陰陽説と五行説、それぞれ無関係に生まれた考え方が後に結合した思想。'''陰陽五行説'''(いんようごぎょうせつ)、'''陰陽五行論'''(いんようごぎょうろん)ともいう。[[陰陽|陰陽思想]]と[[五行思想]]との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。 陰陽道などにおいては、[[占い|占術]]などに用いられる事もあった。 == 十干十二支 == {{Main|干支}} 陰陽五行説の基本は、木、火、土、金、水、(もく、か、ど、ごん、すい、金は「きん」でなく「ごん」と読ませる)の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配する。'''甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、'''は音読みでは、'''こう、おつ、へい、てい、ぼ、き、こう、しん、じん、き、'''と読む。音読みでは陰陽と五行にどう対応しているか分かりにくいが、訓読みにすると、'''きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、'''となり、五行が明解になる(かのえ、かのと、は金)。陰陽は語尾の「え」が陽、「と」が陰である。語源は「え」は兄、「と」は弟である。「えと」の呼び名はここに由来する。「えと」は本来、十干ないし干支の呼称だった。きのえ、は「木の陽」という意味。 十二支にも五行が配されている。その前提として、季節に対応する[[五行]](五時または五季)は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水である。土はどこへ来るかというと、四季それぞれの最後の約18日(土用)である。有名な「'''土用の丑の日'''」は夏の最後の時期(土用)の丑の日(丑は土の五行)ということである。各季節に十二支を配すると、 *春は、一月'''寅'''、二月'''卯'''、三月'''辰'''(五行は木、木、土) *夏は、四月'''巳'''、五月'''午'''、六月'''未'''(五行は火、火、土) *秋は、七月'''申'''、八月'''酉'''、九月'''戌'''(五行は金、金、土) *冬は、十月'''亥'''、十一月'''子'''、十二月'''丑'''(五行は水、水、土) となる(月は旧暦の暦月または[[節月]])。 十二支の陰陽は、子から数えていき、奇数番目は陽、偶数番目は陰となる。十干と十二支が組み合わさるとき、陰と陽の組み合わせはなく、陽と陽、陰と陰の組み合わせのみとなる。そのため、10×12=120とはならず、半分の60通りになる。甲寅はあっても乙寅はない、乙卯はあっても甲卯はない。 == 暦 == 陰陽五行説の暦、またそれをもとにした占いは、立春を一年の始まりとしている。また月の始まりも1日ではなく、二十四節気のうち月の前半に来る十二の節(年によって違うが概ね5〜8日)が月の始めとなる。このように節から次の節の前日までの間を1か月とする月の区切り方を節切り、その月を節月という。また月の節入り(せついり)という。 *[[立春]](正月節)、新暦2月4日頃 *[[啓蟄]](二月節)、新暦3月6日頃 *[[清明]](三月節)、新暦4月5日頃 *[[立夏]](四月節)、新暦5月5日頃 *[[芒種]](五月節)、新暦6月6日頃 *[[小暑]](六月節)、新暦7月7日頃 *[[立秋]](七月節)、新暦8月7日頃 *[[白露]](八月節)、新暦9月8日頃 *[[寒露]](九月節)、新暦10月8日頃 *[[立冬]](十月節)、新暦11月7日頃 *[[大雪]](十一月節)、新暦12月7日頃 *[[小寒]](十二月節)、新暦1月5日頃 だから[[小寒]](1月5日頃)から[[立春]]前日(2月3日頃)の「年の干支」は前年の干支となるし、「月の干支」は十二月の丑となる。 == 陰陽五行説の論理 == 「陰陽五行説」とは前述の通り「陰陽説」と「五行説」を組み合わせたものである。 『管子』の四時篇の陰陽主運説から発展している。五行と陰陽の結合の発想は易の説卦傳に基づいている。説卦傳における「地」を四方の中央とし、これに陰陽と星辰を加えている<ref>{{Cite book|和書|author=島邦男|title=五行思想と禮記月令の研究|origdate=1972-3|publisher=汲古書院|pages=36.42}}</ref>。 「陰陽説」は古代中国神話に登場する帝王「[[伏羲]]」が作り出したものであり、全ての事象は、それだけが単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」という相反する形(例えば明暗、天地、男女、善悪、吉凶など。前者が陽、後者が陰である)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想である。陰陽は形に示すことができないもので、分析すれば千変万化となる<ref>{{Cite book|和書|author=小曽戸洋|title=新版 漢方の歴史――中国・日本の伝統医学――|origdate=2014-9-14|publisher=大修館書店|series=あじあブックス076|isbn=9784469233162|page=59}}</ref>。 '''陰陽'''は、(+)と(-)のように相対する両極のどちらに属性が高いかによって二分類する考え方である。固定的なものではなく、振り子が一方に振り切れると反対方向に戻るように、そのバランスは常に変化し増減している。 '''五行説'''は、治水に功績をあげて舜から禅譲された禹が、治政にあたって天帝から与えられた九種類の大原則(洪範九疇)の第一として、五行(火水木金土)が明記されている。「五」の起源については東西南北の四方に中央を加えたものという考え方(東‐木・南‐火・中央‐土・西‐金・北‐水)と、肉眼で観察が可能な五つの惑星、五星(水星・金星・火星・木星・土星)に淵源があるとする考え方がある。 === 五行相生・五行相剋 === {{Main|五行思想}} [[ファイル:Heaven stem affect.png|200px|right]] 五行説の特徴は、「相生」と「相剋」という、それぞれの要素同士がお互いに影響を与え合うという考え方である。相手の要素を補い、強める影響を与えるものを「相生」、相手の要素を抑え、弱める影響を与えるものを「相剋」という。注意しておきたいのは、「相生」は相手を強めるので常によい、「相剋」は相手を弱めるので常に悪い、という捉え方ではないことである。 ;五行相生 :「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず」という関係を『五行相生』という。 :木は燃えて火になり、火が燃えたあとには灰(=土)が生じ、土が集まって山となった場所からは鉱物(金)が産出し、金は[[腐食]]して水に帰り、水は木を生長させる、という具合に木→火→土→金→水→木の順に相手を強める影響をもたらすということが「五行相生」である。 ;五行相剋 :「水は火に勝(剋)ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つ」という関係を『五行相剋』という。 :水は火を消し、火は金を溶かし、金でできた刃物は木を切り倒し、木は土を押しのけて生長し、土は水の流れをせき止める、という具合に、水は火に、火は金に、金は木に、木は土に、土は水に影響を与え、弱めるということが「五行相剋」である。 == 日本における陰陽五行思想 == [[仏教]][[儒教]]と同じ[[5世紀]]から[[6世紀]]に[[日本]]には[[暦法]]などとともに伝わり、[[律令]]により[[陰陽寮]]という役所が設置された。その後、[[道教]]の[[道術]]を取り入れて、[[陰陽道]]へと日本独自の発展をした。  また、'''陰陽五行思想'''は年中行事にも強い影響を与えているとする説もある。それによれば、[[正月]]は[[寅]]、[[お盆|盆]]は[[申]]となっており、それぞれ[[春]]、[[秋]]の始めを示す。[[正月]]は木気、火気の始めでもあり、門松を飾ったり、[[とんど]]祭りをしたりする。対して盆は水祭りとして[[燈籠流し]]などが行われる。また、[[陰陽]]のバランスをとるためにとんどは水辺で行われ、[[燈籠流し]]は火を灯した舟を水に流す<ref>{{Cite book|和書|author=吉野裕子|title=陰陽五行と日本の民俗|origdate=1983-06-04|publisher=人文書院|pages=170.175}}</ref>。 == 出典・脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * 基となった思想 ** [[陰陽|陰陽思想]] ** [[五行思想]] * 陰陽五行思想からの発展 ** [[八卦]] ** [[四神相応]] ** [[十干]]・[[十二支]] * 陰陽五行思想の実践 ** [[四柱推命]] ** [[漢方]] ** [[鍼灸]] ** [[風水]] *** [[ヴァーストゥ・シャーストラ]] - [[インド]]の思想で、陰陽五行思想と類似しており、風水などの起源としての説もある。 ** [[形意拳]] ** [[道教]] * 陰陽五行思想を主題とした作品 **[[双界儀]] **[[MAO (漫画)|MAO]]([[高橋留美子]]) {{Chinese-history-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いんようこきようしそう}} [[Category:道教]] [[Category:陰陽道]] [[Category:宗教のコスモロジー]] [[Category:中国哲学の概念]] [[Category:中国の名数5|いんようきようしそう]]
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松平泰親
松平 泰親(まつだいら やすちか)は、室町時代初期(14世紀後半から15世紀初め頃)の三河国の松平氏の第2代当主とされる人物。 親氏が松平郷(愛知県豊田市松平町)に郷敷城を築き、近隣の諸領主の平定に乗り出すと、泰親は親氏を助けて活躍した。 親氏の死後、家督を継承して松平氏を近隣十数か村を領有する有力国人領主に成長させた。松平氏が額田郡岩津(現在の岡崎市北部地域岩津町。松平郷からは低い山を越えた南)を占領し、西三河の平野部に初めて進出したのは泰親(または信光)の時代とされる。 泰親の後を継いだ信光(実際は親氏の子とされる)が岩津松平家を継承し、岩津に居城を移して本格的に西三河平野部を平定していった。一方、松平郷は信光の兄・太郎左衛門信広(これも親氏の子とされる)が継承し、松平郷松平家の祖となった。 上述したような泰親の事歴については後世の徳川氏・松平氏の主張によるものに過ぎず、伝説の域を出るものではない。松平氏創業の二代、親氏と泰親は同時代の史料にその名を見出すことが出来ず、実在を疑われてもいる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "松平 泰親(まつだいら やすちか)は、室町時代初期(14世紀後半から15世紀初め頃)の三河国の松平氏の第2代当主とされる人物。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "親氏が松平郷(愛知県豊田市松平町)に郷敷城を築き、近隣の諸領主の平定に乗り出すと、泰親は親氏を助けて活躍した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "親氏の死後、家督を継承して松平氏を近隣十数か村を領有する有力国人領主に成長させた。松平氏が額田郡岩津(現在の岡崎市北部地域岩津町。松平郷からは低い山を越えた南)を占領し、西三河の平野部に初めて進出したのは泰親(または信光)の時代とされる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "泰親の後を継いだ信光(実際は親氏の子とされる)が岩津松平家を継承し、岩津に居城を移して本格的に西三河平野部を平定していった。一方、松平郷は信光の兄・太郎左衛門信広(これも親氏の子とされる)が継承し、松平郷松平家の祖となった。", "title": "以降の松平氏" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "上述したような泰親の事歴については後世の徳川氏・松平氏の主張によるものに過ぎず、伝説の域を出るものではない。松平氏創業の二代、親氏と泰親は同時代の史料にその名を見出すことが出来ず、実在を疑われてもいる。", "title": "異論・諸説" } ]
松平 泰親は、室町時代初期(14世紀後半から15世紀初め頃)の三河国の松平氏の第2代当主とされる人物。
{{基礎情報 武士 | 氏名=松平 泰親 | 画像= | 画像サイズ= | 画像説明= | 時代=[[室町時代]]初期 | 生誕=不詳 | 死没=不詳 | 改名= | 別名=太郎左衛門(通称)、用金(法名) | 諡号= | 神号= | 戒名=良祥院殿秀岸祐金 | 霊名= | 墓所=[[愛知県]][[豊田市]][[松平町]]の[[高月院]]<br>愛知県[[岡崎市]][[岩津町 (岡崎市)|岩津町]]の[[信光明寺]]<br>愛知県岡崎市[[本宿町 (岡崎市)|本宿町]]の[[法蔵寺 (岡崎市)|法蔵寺]]<br>愛知県岡崎市[[鴨田町 (岡崎市)|鴨田町]]の[[大樹寺]] | 官位= | 幕府= | 主君=不明 | 藩= | 氏族=[[松平氏]] | 父母=父:不詳、[[松平親氏]]? | 兄弟=[[酒井広親|広親]]?、[[松平親氏|親氏]]?、'''泰親''' | 妻= | 子=[[松平信広 (松平郷松平家)|信広]]、'''[[松平信光|信光]]'''、教念、[[松平益親|益親]] | 特記事項=松平泰親の生涯は不明である。 }} '''松平 泰親'''(まつだいら やすちか)は、[[室町時代]]初期([[14世紀]]後半から[[15世紀]]初め頃)の[[三河国]]の[[松平氏]]の第2代当主とされる人物<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=v7Wu2D-GDDYC&lpg=RA1-PA76&dq=%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B8%85%E5%BA%B7&hl=ja&pg=PA13#v=onepage&q=%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B3%B0%E8%A6%AA&f=false 『徳川諸家系譜 1』15]</ref>。 == 生涯 == [[File:Matsudaira Yasuchika's Tomb in Daiju-ji Temple, Kamoda-cho Okazaki 2019.jpg|thumb|愛知県岡崎市鴨田町の[[大樹寺]]内にある松平八代墓の松平泰親の墓<br />(2019年11月)]] 親氏が[[松平郷]]([[愛知県]][[豊田市]][[松平郷|松平町]])に[[郷敷城]]を築き、近隣の諸領主の平定に乗り出すと、泰親は親氏を助けて活躍した。 親氏の死後、家督を継承して松平氏を近隣十数か村を領有する有力[[国人]]領主に成長させた。松平氏が[[額田郡]]岩津(現在の[[岡崎市]]北部地域[[岩津町 (岡崎市)|岩津町]]。松平郷からは低い山を越えた南)を占領し、西三河の平野部に初めて進出したのは泰親(または信光)の時代とされる。 == 以降の松平氏 == 泰親の後を継いだ信光(実際は親氏の子とされる)が[[岩津松平家]]を継承し、岩津に居城を移して本格的に西三河平野部を平定していった。一方、松平郷は信光の兄・太郎左衛門信広(これも親氏の子とされる)が継承し、[[松平郷松平家]]の祖となった。 == 異論・諸説 == 上述したような泰親の事歴については後世の徳川氏・松平氏の主張によるものに過ぎず、伝説の域を出るものではない。松平氏創業の二代、親氏と泰親は同時代の史料にその名を見出すことが出来ず、実在を疑われてもいる。 <gallery> ファイル:松平泰親の墓(高月院).jpg|松平泰親の墓(豊田市[[高月院]]) ファイル:松平泰親の墓(信光明寺).jpg|松平泰親の墓(岡崎市[[信光明寺]]) </gallery> == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * [[平野明夫]]『三河松平一族』[[新人物往来社]]、2002年、ISBN 4-404-02961-6 C0021。 * [[堀田正敦]]等編『新訂 寛政重修諸家譜 第一 』[[続群書類従完成会]]、1964年。 {{Japanese-history-stub}} {{松平宗家歴代当主||第2代}} {{DEFAULTSORT:まつたいら やすちか}} [[Category:三河国人領主]] [[Category:松平氏|やすちか]] [[Category:室町時代の人物]] [[Category:生没年不詳]]
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黄道
黄道(こうどう、英: ecliptic)とは、天球上における太陽の見かけ上の通り道(大円)をいう。 地球から見た空を一つの球体とみなし(これを天球と呼ぶ)、諸々の星座を天球の地(じ)と考えると、太陽はこの天球を一年かけて一周するようにみえる。たとえば、1月20日には太陽は山羊座の中に位置して一緒に周っているが(実際には、太陽の光で山羊座は見えない)、1日に約1度ずつ移動し、2月20日には水瓶座の中に、3月20日にはさらに移動して魚座の中に位置して一緒に天を周っているように見える。この一年かけて太陽がゆっくりと星座間を移動する道を黄道という。また、このとき太陽がその中を通っていく12個の星座を黄道十二星座という。 黄道は天の赤道に対して約23度26分傾いている。この角度を黄道傾斜角といい、地球の公転面の垂線に対する地軸の傾きに由来するものである。白道(月の通り道)は、黄道よりさらに5度8分7秒傾いている。 黄道と天の赤道との二つの交点を分点という。このうち、黄道が南から北へ交わる方を春分点(しゅんぶんてん)といい、春分点を起点(0度)として黄道を360度に分けたものが黄経(こうけい)である。もう一つの交点を秋分点(しゅうぶんてん)といい、黄経180度に当たる。 現行の二十四節気は、黄道を15度毎の24分点に分割して定められている(定気法)。 「こうどう」(漢音)とも「おうどう」(呉音)とも読まれているが、文部科学省の学術用語集天文学編では「こうどう」と定められている。
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黄道とは、天球上における太陽の見かけ上の通り道(大円)をいう。
{{Otheruses|天文学的な側面|占星術的な側面|黄道帯}} [[File:Celestial Sphere - Eq Ecliptic.png|thumb|right|現代の技術で、3D風に[[天球]]、[[天の赤道]](=赤い線)、黄道(=緑の線)を、簡素に描いたもの。]] [[File:Celestial_Sphere_-_Full_with_borders.png|thumb|right|上図にさらに天球上の緯度線・経度線(=[[赤道座標]])や星座なども加えた上で 黄道を緑の線で描いたもの。]] [[File:Su_Song_Star_Map_1.JPG|thumb|right|中国の機械学者・天文学者の[[蘇頌]](1020年-1101年)が描いた平面図上の黄道]] [[File:Constellations, equirectangular plot, Menzel families.svg|thumb|right|現代における、平面図上の黄道のプロット(点描、点線)。]] [[File:The call of the stars; a popular introduction to a knowledge of the starry skies with their romance and legend (1919) (14781535094).jpg|thumb|right|星座図([[1919年]])の中での黄道。ECLIPTICと書いてある曲線。「APPARENT PATH OF SUN」(太陽の見かけ上の通り道)とも書いてあり、この時代には太陽中心説で理解した上で黄道を位置づけるようになっていたこともわかるもの。]] [[File:Ecliptic_path.jpg|thumb|right|(上図のような図を)現代のコンピュータ技術を用いて3D風に描画してみたもの。]] [[ファイル:Ecliptic with earth and sun animation.gif|thumb|upright=1.3|太陽中心説の模型を用いて黄道が現れるしくみを説明した、現代の[[gif]]動画。黄色が太陽、青色が地球。地球は太陽を中心としてその周りを[[公転]]しているから、結果として地球から見るとあたかも太陽が天球上を一周しているかのように見える、ということを説明している。]] '''黄道'''(こうどう{{R|gakujutsu|astro-dic|asakura}}、{{lang-en-short|ecliptic}})とは、[[天球]]上における[[太陽]]の見かけ上の通り道([[大円]])をいう。 == 概要 == 地球から見た空を一つの球体とみなし(これを天球と呼ぶ)、諸々の星座を天球の地(じ)と考えると、太陽はこの天球を一年かけて一周するようにみえる。たとえば、1月20日には太陽は[[やぎ座|山羊座]]の中に位置して一緒に周っているが{{efn2|西洋の占星術では、1月20日には太陽は[[宝瓶宮]](水瓶座)にあるとされるが、現代では実際には[[磨羯宮]](山羊座)にある。これは地球の[[歳差|歳差運動]]によって、春分点・秋分点が黄道上を西向きに移動するためである。}}(実際には、太陽の光で山羊座は見えない)、1日に約1度ずつ移動し、2月20日には[[みずがめ座|水瓶座]]の中に、3月20日にはさらに移動して[[うお座|魚座]]の中に位置して一緒に天を周っているように見える。この一年かけて太陽がゆっくりと星座間を移動する道を'''黄道'''という。また、このとき太陽がその中を通っていく12個の星座を[[黄道十二星座]]という。 黄道は[[天の赤道]]に対して約23[[度 (角度)|度]]26[[分 (角度)|分]]傾いている。この角度を[[黄道傾斜角]]といい、地球の公転面の垂線に対する[[地軸]]の傾きに由来するものである。[[白道]](月の通り道)は、黄道よりさらに5度8分7[[秒 (角度)|秒]]傾いている。 黄道と天の赤道との二つの交点を[[分点]]という。このうち、黄道が南から北へ交わる方を[[春分点]](しゅんぶんてん)といい、春分点を起点(0度)として黄道を360度に分けたものが'''黄経'''(こうけい)である。もう一つの交点を[[秋分点]](しゅうぶんてん)といい、黄経180度に当たる。 現行の[[二十四節気]]は、黄道を15度毎の24分点に分割して定められている([[定気法]])。 「こうどう」([[漢音]])とも「おうどう」([[呉音]])とも読まれているが、文部科学省の学術用語集天文学編では「こうどう」と定められている{{R|gakujutsu}}。 [[ファイル:Celestial sphere(in Japanese).png]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|refs= <ref name="gakujutsu">{{cite book|和書 |title=文部省学術用語集天文学編 |pages=191 |publisher=[[丸善]] |edition=増訂版 |date=1994-11-15 |editor=[[日本天文学会]] |isbn=4-8181-9404-2}}</ref> <ref name="astro-dic">{{Cite web|和書 |title=黄道 |url=https://astro-dic.jp/ecliptic/ |date=2019-01-07|accessdate=2019-09-25 |website=天文学辞典 |publisher=[[日本天文学会]]}}</ref> <ref name="asakura">{{cite book|和書 |title=天文の辞典 |editor=[[堀源一郎]]、日江井栄二郎、若生康二郎 |publisher=[[朝倉書店]] |isbn=978-4254150100 |date=1989-08-01 |page=71}}</ref> }} == 関連項目 == {{Wiktionary|黄道}} * [[黄道吉日]] * [[黄道光]](こうどうこう) * [[黄道座標系]] * [[黄道十二星座]] * [[サイン (占星術)]](黄道十二宮) * [[黄道帯]] * [[黄道面]] * [[白道]]‐地球に対する月の見かけ上の通り道 == 外部リンク == * [https://www2.nhk.or.jp/school/watch/bangumi/?das_id=D0005100008_00000 NHK for School 10min.ボックス 理科1 太陽をみる 太陽と星座] {{黄道十二星座}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうとう}} [[Category:天球座標系]] [[Category:黄道|*]] [[Category:天文学に関する記事]]
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春分点
春分点(しゅんぶんてん、英: vernal equinox)とは、黄道と天の赤道との2つの交点(分点)のうち、黄道が南から北へ交わる方の点(昇交点)のこと。この点が赤経0時かつ黄経0度であり、この点を太陽が通過する瞬間が春分となる。(公転している地球から見て、太陽が動いているということ) 春分点は黄道座標や赤道座標の原点である(後述のIAU2006歳差章動理論も参照)。天球上における春分点の位置は、地球の歳差によって西向きに移動する。その周期は25800年である。太陽太陰暦の二十四節気の定め方のひとつである定気法でも春分点を基準とする(平気法では冬至)。 春分点は別名を白羊宮の原点 (the first point of Aries) ともいう。この Aries は黄道十二宮の白羊宮(黄経0°~30°)であって星座の「おひつじ座」のことではないが、紀元前2世紀に黄道十二宮が整備されたとき、「おひつじ座」に春分点があったので、同名(欧米では星座名と十二宮名は全く同じ)の白羊宮が十二宮の起点となった。 キリスト教では、「うお座」を神聖な星座と考えていた。それは、'Ιησους Χριστος, Θεου ‘Υιος Σωτηρ (イエス・キリスト、神の御子、救世主)の頭文字 Ι-Χ-Θ-Υ-Σ- を繋ぐとギリシア語で「魚」を意味する 'ιχθυς (ichthys) となることと、キリストが生まれたときに春分点が「うお座」にあったためである。なお、春分点は現在も「うお座」にある(右上図参照)。 ニューエイジの間では、春分点の存する星座がその時代(1つの星座で約2千年)を象徴するとされる。春分点は紀元後1世紀から20世紀までは「うお座」にあったが、20世紀末ごろに「みずがめ座」に入ったとしている(現在移行中との説もある)。これを支持する論者の間で、現代は「水瓶座の時代 (the age of Aquarius)」と呼ばれている。「みずがめ座」は変革を象徴していると考えられており、何らかの世界的変革があると主張している。 「水瓶座の時代」 は一部の占星術師が持ち出したりすることもあるが、伝統的な西洋占星術とは関係がない。実際に春分点が「みずがめ座」に入り込むのはこの主張より500年以上後のことである。また、十二宮と違い星座の領域は不均等なので、「~座の時代」の期間は2千年とは限らないなど、十二宮と星座が混同されており、この主張は理論的に成り立たない。また、占星術における時代区分は春分点の移動とは関係がないとの主張もあるが、そうなると占星術における時代区分の根拠そのものを失ってしまう。 なお、アクエリアン・エイジ (Aquarian age) を直訳すると、「宝瓶宮生まれの人の時代」という意味になる。 従来は、赤経の基準は前述のとおり春分点、すなわち天の赤道と黄道が交わる点を赤経0hおよび黄経0°と定めていたが、これは赤道座標系は黄道を定めなければ自分自身では基準(赤経0h)が定められないことを意味する。 この問題に対し、国際天文学連合は「IAU2006歳差章動理論」により、ICRS(国際天文基準座標系、International Celestial Reference System)を導入して黄道がなくとも赤経を定められるようにした。ICRSは、はるか遠方の電波天体(主にクエーサー)によって定められる。この定義の変更は2009年1月1日より適用され、新理論による各天体の視黄経は旧理論より常に50ミリ秒角大きい(例えば二十四節気が時間にして1.2秒早まる)。
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春分点とは、黄道と天の赤道との2つの交点(分点)のうち、黄道が南から北へ交わる方の点(昇交点)のこと。この点が赤経0時かつ黄経0度であり、この点を太陽が通過する瞬間が春分となる。(公転している地球から見て、太陽が動いているということ) 春分点は黄道座標や赤道座標の原点である(後述のIAU2006歳差章動理論も参照)。天球上における春分点の位置は、地球の歳差によって西向きに移動する。その周期は25800年である。太陽太陰暦の二十四節気の定め方のひとつである定気法でも春分点を基準とする(平気法では冬至)。
[[画像:Pisces_constellation_map.png|thumb|うお座(水色の網目の交点と赤い破線との交点が春分点)]] [[画像:Celestial sphere(in Japanese).png|thumb|right|地球から見た[[天球]]上の太陽の動き|380px]] '''春分点'''(しゅんぶんてん、{{lang-en-short|vernal equinox}})とは、[[黄道]]と[[天の赤道]]との2つの交点([[分点]])のうち、黄道が南から北へ交わる方の点(昇交点)のこと。この点が[[赤経]]0時かつ[[黄経]]0度であり、この点を[[太陽]]が通過する瞬間が[[春分]]となる<ref>[https://www.nao.ac.jp/faq/a0301.html 質問3-1)何年後かの春分の日・秋分の日はわかるの?] 国立天文台、よくある質問</ref>。(公転している地球から見て、太陽が動いているということ) 春分点は[[黄道座標]]や[[赤道座標]]の原点である(後述のIAU2006歳差章動理論も参照)。[[天球]]上における春分点の位置は、地球の[[歳差]]によって西向きに移動する。その周期は25800年である。[[太陽太陰暦]]の[[二十四節気]]の定め方のひとつである[[定気法]]でも春分点を基準とする([[平気法]]では[[冬至]])。 == 春分点と星座 == 春分点は別名を'''白羊宮の原点''' (the first point of Aries) ともいう。この ''Aries'' は[[十二宮|黄道十二宮]]の[[白羊宮]](黄経0°~30°)であって[[星座]]の「[[おひつじ座]]」のことではないが、[[紀元前2世紀]]に黄道十二宮が整備されたとき、「おひつじ座」に春分点があったので、同名(欧米では星座名と十二宮名は全く同じ)の白羊宮が十二宮の起点となった。 [[キリスト教]]では、「[[うお座]]」を神聖な星座と考えていた。それは、'''Ιησους Χριστος, Θεου ‘Υιος Σωτηρ'' ([[キリスト|イエス・キリスト]]、神の御子、救世主)の頭文字 Ι-Χ-Θ-Υ-Σ- を繋ぐと[[ギリシア語]]で「魚」を意味する [[イクトゥス|'ιχθυς (ichthys)]] となることと、キリストが生まれたときに春分点が「うお座」にあったためである。なお、春分点は現在も「うお座」にある(右上図参照)。 === ニューエイジにおける主張 === ==== 水瓶座の時代 ==== <!--[[西洋占星術]]-->[[ニューエイジ]]の間では、春分点の存する星座<!--(ただし春分点ではなく[[赤経]]を基準に12等分したもの)-->がその時代(1つの星座で約2千年)を象徴するとされる。春分点は紀元後[[1世紀]]から[[20世紀]]までは「うお座」にあったが、20世紀末ごろに「[[みずがめ座]]」に入ったとしている(現在移行中との説もある)。これを支持する論者の間で、現代は「水瓶座の時代 (the age of Aquarius)」と呼ばれている。<!--占星術の世界では-->「みずがめ座」は変革を象徴していると考えられており、何らかの世界的変革があると主張している。 「水瓶座の時代」 は一部の[[占星術]]師が持ち出したりすることもあるが、伝統的な[[西洋占星術]]とは関係がない。実際に春分点が「みずがめ座」に入り込むのはこの主張より500年以上後のことである<ref>鈴木敬信 (1986) 『天文学辞典』、地人書館、225頁。</ref>。また、[[十二宮]]と違い[[星座]]の領域は不均等なので、「~座の時代」の期間は2千年とは限らないなど、十二宮と星座が混同されており、この主張は理論的に成り立たない。また、占星術における時代区分は春分点の移動とは関係がないとの主張もあるが<ref>ウド・ベッカー(編)『図説・占星術事典』、同学社。</ref>、そうなると占星術における時代区分の根拠そのものを失ってしまう。 なお、'''アクエリアン・エイジ''' (Aquarian age) を直訳すると、「[[宝瓶宮]]生まれの人の時代」<!--あるいは「水道局員の時代」-->という意味になる。 == IAU2006歳差章動理論 == 従来は、赤経の基準は前述のとおり'''春分点'''、すなわち天の赤道と黄道が交わる点を赤経0hおよび黄経0°と定めていたが、これは赤道座標系は黄道を定めなければ自分自身では基準(赤経0h)が定められないことを意味する。 この問題に対し、[[国際天文学連合]]は「IAU2006[[歳差]][[章動]]理論」により、ICRS(国際天文基準座標系、International Celestial Reference System)を導入して黄道がなくとも赤経を定められるようにした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nao.ac.jp/contents/about-naoj/reports/report-naoj/11-34-2.pdf|title=片山他『暦象年表の改訂について』国立天文台報第11巻, 57-67 (2008)|accessdate=2020/9/22|publisher=国立天文台}}</ref>。ICRSは、はるか遠方の電波天体(主に[[クエーサー]])によって定められる。この定義の変更は2009年1月1日より適用され、新理論による各天体の視黄経は旧理論より常に50ミリ秒角大きい(例えば[[二十四節気]]が時間にして1.2秒早まる)。 == 参考文献 == * 阿部秀典「訳者あとがき」ジャン・カレルズ (1996) 『占星術大全』、[[青土社]]、338~342頁。 == 注釈 == <references /> == 関連項目 == *[[春分の日]] *[[秋分点]]-[[秋分の日]] *[[夏至]] *[[冬至]] *[[歳差]] *[[恒星時]] *[[赤道]]-[[天の赤道]] *[[黄道]]-[[黄経]] {{DEFAULTSORT:しゆんふんてん}} [[Category:天球座標系]] [[Category:黄道]] [[Category:うお座]] [[Category:天文学における時間]] [[Category:天文学に関する記事]]
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秋分点
秋分点(しゅうぶんてん)とは、黄道と天の赤道との2つの交点(分点)のうち、黄道が北から南へ交わる方の点のこと。現在はおとめ座にある。地球が太陽の周りを回る軌道上のポイントを指す場合もある。黄経では180度となり、この点を太陽が通過する瞬間が秋分となる。 この時点で、太陽は地球の赤道から見た場合、丁度、赤道の真上を通過する様に見える。 また、地球の自転軸と太陽の方向が直角の角度になる瞬間でもある。 日本などはグレゴリオ暦を採用している為、閏年、歳差などの影響で毎年同じ日に惑星軌道上に於いて地球が秋分点を通過するとは限らない。この為、年により秋分点を通過する日が異なる。 また、時差の影響で、地球上に於ける秋分通過日は日付変更線を境に2日存在する事になる。
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秋分点(しゅうぶんてん)とは、黄道と天の赤道との2つの交点(分点)のうち、黄道が北から南へ交わる方の点のこと。現在はおとめ座にある。地球が太陽の周りを回る軌道上のポイントを指す場合もある。黄経では180度となり、この点を太陽が通過する瞬間が秋分となる。 この時点で、太陽は地球の赤道から見た場合、丁度、赤道の真上を通過する様に見える。 また、地球の自転軸と太陽の方向が直角の角度になる瞬間でもある。 日本などはグレゴリオ暦を採用している為、閏年、歳差などの影響で毎年同じ日に惑星軌道上に於いて地球が秋分点を通過するとは限らない。この為、年により秋分点を通過する日が異なる。 また、時差の影響で、地球上に於ける秋分通過日は日付変更線を境に2日存在する事になる。
[[画像:Virgo constellation map.svg|thumb|おとめ座(水色の網目の交点と赤い破線との交点が秋分点)|380px]] [[画像:Celestial sphere(in Japanese).png|thumb|地球から見た[[天球]]上の太陽の動きを描いた天体図。地球の赤道傾斜角が「23.4度」傾いている為、地球から見た太陽の動きは水平ではない。|380px]] ''' 秋分点'''(しゅうぶんてん)とは、[[黄道]]と[[天の赤道]]との2つの交点([[分点]])のうち、黄道が北から南へ交わる方の点のこと。現在は[[おとめ座]]にある。[[地球]]が[[太陽]]の周りを回る[[軌道 (力学)|軌道]]上のポイントを指す場合もある。[[黄経]]では180度となり、この点を[[太陽]]が通過する瞬間が[[秋分]]となる。 この時点で、太陽は地球の[[赤道]]から見た場合、丁度、赤道の真上を通過する様に見える。 また、地球の[[自転軸]]と太陽の方向が直角の角度になる瞬間でもある。 日本などは[[グレゴリオ暦]]を採用している為、閏年、歳差などの影響で毎年同じ日に惑星軌道上に於いて地球が秋分点を通過するとは限らない。この為、年により秋分点を通過する日が異なる。 また、時差の影響で、地球上に於ける秋分通過日は[[国際日付変更線|日付変更線]]を境に2日存在する事になる。 == 関連項目 == * [[秋分の日]] * [[春分点]] - [[春分の日]] * [[夏至]] * [[冬至]] * [[歳差]] * [[赤道]] - [[天の赤道]] * [[黄道]] - [[黄経]] {{DEFAULTSORT:しゆうふんてん}} [[Category:天球座標系]] [[Category:黄道]] [[Category:おとめ座]] [[Category:天文学における時間]] [[Category:天文学に関する記事]]
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第1族元素
第1族元素(だいいちぞくげんそ)とは、周期表において第1族に属する元素。水素・リチウム・ナトリウム・カリウム・ルビジウム・セシウム・フランシウムが属する。周期表の一番左側に位置する元素群で、価電子は最外殻のs軌道にある電子である。s軌道は1電子のみが占有する。 水素を除いた第1族元素はアルカリ金属と総称されており、常温で水と激しく反応する金属で、その水酸化物が強アルカリ性を示す、という共通特性がある。本項ではこのアルカリ金属を中心に記述し、水素に関しては個別記事にて詳しく述べる。 第1族元素に属する元素の多くは、歴史的に物質的性質に基づく古い分類名称である「アルカリ金属」と呼ばれている。 物質元素の単体を探索する過程で金属としての性質が共通に見出されたもののうち、その後の分類の着目点に化学的性質が加わり、他元素と結合しやすい化学的性質をもつものから「アルカリ金属」が分類された。さらに電子構造の違いによる族の分類で、第1族元素に分類する過程で水素にもアルカリ金属との共通性が見出された。一方で、典型元素の単体においては周期が小さいほど共有結合性が強く、周期が大きいほど金属結合性が強くなる傾向があるが、第1族元素では水素のみが共有結合を示すという顕著な違いがある。ただし、周期表の理解においてここまでの厳密な分類は必要ではなく、共通性の存在と歴史的背景から第1族元素とアルカリ金属が同列に扱われることがある。 400-500 GPa という非常な高圧下では水素も金属の性質を持つという理論があり、天文物理学の観測では土星や木星には重力による縮退で相転移を起こした金属水素が大量に存在する可能性が示唆されている。地球においても高圧実験によりその存在を確かめようとする努力が続けられているが、いまだ確認に至っていない。これまで研究では金属水素は電子のバンドギャップが非常に小さいものの完全にはゼロにならない可能性が報告され、伝導電子にはわずかな制約が生じ完全なアルカリ金属にはならないとされている。 ナトリウムの化合物は古代から知られていた。一般に塩と呼ばれる塩化ナトリウムは人間の活動において重要な物であり、給料すなわちサラリーの語源はラテン語の「サラリウム(salarium)」で「塩のお金」を意味し、ローマ帝国では兵士に給金として塩が支給されていたという。 カリウムも古代から使用されていたが、ナトリウム塩と根本的に別の物質だとは近世まで理解されていなかった。1702年にゲオルク・シュタールがナトリウム塩とカリウム塩の根本的な違いを示唆する実験的証拠を得て、1736年にアンリ=ルイ・デュアメル・デュ・モンソーがこの違いの証明に成功した。当時は、カリウム化合物とナトリウム化合物の正確な化学組成も、元素としてのカリウムとナトリウムの正確な場所も分からなかったため、アントワーヌ・ラヴォアジエはどちらも1789年の元素表に組み入れなかった。 単体のカリウムは、1807年にイギリスでハンフリー・デービーによって最初に単離されており、彼はボルタ電池による溶融塩の電気分解を活用して水酸化カリウム(KOH)から単離した。それ以前の塩類水溶液の電気分解はカリウムの極端な反応性のため失敗しており 、カリウムは電気分解で単離された最初の金属となった。同年後半、デービーは同じ技法で水酸化ナトリウム(NaOH)からのナトリウム抽出を報告し、これらの元素が異なることを証明した。 ペタライト(LiAlSi4O 10)は、1800年にブラジル人化学者ジョゼ・ボニファチオ・デ・アンドラダによってスウェーデンの鉱山で発見されたただし、ヨアン・オーガスト・アルフェドソンがペタライト鉱石の分析で新元素の存在を検出したのは1817年だった。この新元素がナトリウムやカリウムと同様の化合物を形成することに彼は注目し、その炭酸塩と水酸化物は他のアルカリ金属よりも水溶性が小さくアルカリ性が強かった。植物の灰から発見されたカリウムや、動物の血液中に豊富に含まれていることで知られていたナトリウムとは対照的に、固体で発見されたことを考慮して、イェンス・ベルセリウスは「石」という意味のギリシャ語λιθoςからこの未知の素材を「lithion/lithina」と命名、同素材の中にある金属を「リチウム」と名付けた。リチウム、ナトリウム、カリウムは、1850年にヨハン・デーベライナーが同様の特性を持つと同族元素の三組にあたると指摘、これが周期性の(部分的な)発見となった。 ロベルト・ブンゼンとグスタフ・キルヒホフが1859年に発明した分光器を使って、初めて発見された元素がルビジウムとセシウムである。彼らが翌1860年に、ドイツの鉱泉水からセシウムを発見した。その翌年には、ドイツのハイデルベルクで鉱物レピドライトの中からルビジウムが発見された。ルビジウムおよびセシウムという命名は、それぞれ放出スペクトルの最も顕著な線にちなんだもので、ルビジウムは鮮やかな赤の線(ラテン語rubidus、濃い赤または明るい赤の意)、そしてセシウムは空色の線(ラテン語caesius、空色の意)である。 1865年頃、ジョン・ニューランズは一連の論文を書き上げ、そこで彼は複数の元素を原子量増加順に並べ、8つ間隔で繰り返される同様の物理的・化学的特性を一覧にした。彼はその周期性を、8つ離れた音符が同様の音階機能を有する音楽のオクターヴに例えた。彼の表では、当時知られている全てのアルカリ金属(リチウムからセシウム)のほか、銅と銀とタリウムが1つの族にまとめらていれた。また彼の表では、水素をハロゲン(第17族元素)と一緒に置いていた。 1869年以降にドミトリ・メンデレーエフは、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウム、タリウムを含む族の一番上にリチウムを配置する周期表を提唱した。2年後に彼は自分の表を改訂し、水素をリチウムの上の第1族に配置し、タリウムをホウ素族に移した。この1871年版では、銅と銀と金が2か所に配置されており、1か所はIB族(現:第11族元素)に、もう1か所はVIII族(現:第8族元素から第11族までを含む)に配置されていた。18列からなる周期表の導入後、IB族元素は現在のDブロック元素の位置に移動し、アルカリ金属はIA族に残った。後の1988年に、この族の名が「第1族」に変更された。「アルカリ金属」という慣用名は、第1族元素の水酸化物が水に溶けたときに全て強アルカリ性であるという事実に由来している。 1939年にキュリー研究所 (パリ)のマルグリット・ペレーがアクチニウム227のサンプルを精製することでフランシウムを発見したが、その前に少なくとも4つの誤った発見や不完全な発見があった。彼女は80keV未満のエネルギー準位の崩壊素粒子に着目。この崩壊活動がまだ未特定な崩壊生成物によって引き起こされた可能性がある、とペレーは考察した。様々な試験により、その未知の元素がアルカリ金属の化学的性質(セシウム塩との共沈など)を示したことで、ペレーはそれをアクチニウム227のアルファ崩壊によって引き起こされた元素番号87の元素だと確信した。 周期表でフランシウムの下に存在する筈だとされている第1族元素が、元素番号119の仮名ウンウンエンニウム(Uue)である。ウンウンエンニウム合成の試みは、1985年に米カリフォルニア州の重イオン線形加速器(superHILAC)で標的のアインスタイニウム254にカルシウム48イオンを衝突させる実験が初めて行われたが、同原子は確認されなかった。 アインスタイニウム254(これは質量が大きく、半減期が270日と比較的長く、超重元素の製造に適している)を実験に充分なほど製造する作業も非常に困難であることを考えると、近い将来にこの反応がウンウンエンニウム元素を生じさせる可能性は極めて低い。アインスタイニウムは自然界で発見されておらず実験室で作られるのみであり、超重元素の効率的合成に必要な量よりも少ない量しか製造されていないためである。ただし、ウンウンエンニウムが拡張周期表で最初の第8周期元素に過ぎないことを考えると、近い将来に他の反応から発見される可能性があり、実際に日本で合成の試みが現在進行中である。 2022年現在、第8周期元素はまだ発見されていないが、中性子ドリップラインの不安定性から最大で元素番号128辺りまでの第8周期元素が物理的に生成できる可能性がある。これ以上に重い第1族元素合成の試みは行われておらず、その非常に大きな元素番号のため、生成するには現時点以上に強力かつ新たな技術手法が必要になる筈だとされている。 通常アルカリ金属に分類されるリチウム、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウムは性質が非常に似通っている。ただしリチウムは直接窒素と反応するなど、一部の物性において他のアルカリ金属元素とは異なった性質を有している。 また、還元性を持ち、水素を除いてその酸化数は常に+1となる。アルカリ金属においては原子番号が上がるほど化学反応性、密度は大きくなり、融点、沸点は下がるという性質を持つ。 第1族元素に分類されている水素は他のアルカリ金属元素とは性質が著しく異なる。この違いは電子配置の閉殻構造の有無に起因する。アルカリ金属元素の場合、一価の陽イオンが生成すると閉殻構造の寄与により非常に安定化する。一方、水素の陽イオンであるプロトンはむき出しの正電荷であるため、電子を核から引き離すためのイオン化エネルギーが非常に大きく、閉殻構造が無く安定化の寄与が存在しない。このようなs電子のふるまいの違いが、水素には共有結合性を与え、アルカリ金属元素には金属性を与えることになる。 リチウムとその他のアルカリ金属元素の違いは、リチウムのイオン半径に起因している。リチウムはイオン半径が小さいため、電荷/イオン半径比が他のアルカリ金属元素と比較して著しく大きい。そのため、反応性や化合物の性質において、1価のアルカリ金属イオンよりもむしろ、同様に電荷/イオン半径比の大きい2価のアルカリ土類金属元素であるマグネシウムイオンに類似した性質を示す。例えば、リチウムはマグネシウムと同様、窒素と直接反応して窒化物を形成するが、他のアルカリ金属元素は窒素に対して反応しない。また、リチウムの硫酸塩は、他のアルカリ金属の硫酸塩がミョウバンを形成するのと対照的に、ミョウバンを形成しない。 第1族元素は、仕事関数が小さく、原子半径が大きいという特徴がある。 アルカリ金属の単体は、すべて銀色の金属光沢を放つ金属である。電気伝導性および熱伝導性は、他の金属と同様極めて良好である。しかし、それ以外の性質は、他の金属と比べて特異的である。第一に、ほとんどの金属が高い融点を持つ中で、アルカリ金属は比較的融点が低く、かつ重い元素ほど低い。セシウムは常温より少しだけ高い29°Cで融解する。ナトリウムはその高い熱伝導性と低い融点(98°C)が故に、原子炉の冷却材としても用いられる。また、アルカリ金属は他の金属と比べて非常に柔らかい金属である。リチウムはナイフで切断でき、カリウムはバターのように押しつぶすことができる。さらに特異な性質として、その密度の低さがあげられる。リチウム、ナトリウム、カリウムは比重が1以下で水に浮く。特にリチウムの密度は水の半分程度で、もし反応性と柔らかさにさえ目をつぶれば、船を造るのに最適な金属であろう。 いずれも反応性は高く、周期表の周期が大きくなるほど、結晶エネルギー(解離エンタルピー)が低減するため、激しく反応する傾向が見られる。リチウムおよびナトリウムの単体金属を得るためには、これらの酸化還元電位がいずれも非常に低い(つまり非常に還元されにくい)が、溶融塩を電気分解することで生産することができる。(水溶液だとH2Oが分解され水素が発生する)カリウム、ルビジウム、セシウムは低融点かつ気化しやすいため単純な電気分解による生産には適しておらず、カリウムは溶融させた塩化カリウムをナトリウム蒸気と反応させることで作られ、ルビジウムおよびセシウムはそれぞれの水酸化物を金属マグネシウムや金属カルシウムによって還元させることで得られる。代表的な工業生産法には、溶融した塩化ナトリウムに融点降下剤として塩化カルシウムを加え、それを電気分解することで金属ナトリウムを得るダウンズ法がある。このアルカリ金属元素の強い還元性は他にも、有機化学の分野におけるバーチ還元 (Bürch reduction) などに利用される。 いずれのアルカリ金属元素単体も水、あるいは空気中の酸素と反応する為に、それらを避けるためにミネラルオイルの中に保存される。オイルを拭って放置すると自然発火することもあるので取り扱いは考慮する必要がある(危険物3類)。アルカリ金属の反応性の高さは原子量の大きいものほど高い傾向があるが、窒素との反応に関しては例外的にリチウムのみが直接的な反応によって窒化リチウム (Li3N)を生成する。水やアルコールなどプロトン溶媒とは水素ガスを発して反応し、生成する水酸化物や金属アルコキシドなどは強塩基として利用される。アルカリ金属イオンはハロゲンイオンなど種々のアニオンと水溶性の塩を作る。これは、アルカリ金属イオンが強く水和することの寄与が大きい。これらのアルカリ金属塩の溶解性はアルカリ金属イオンの挙動に強く影響される。例えば、クラウンエーテルやクリプタンドなどはアルカリ金属イオンと包摂化合物を形成し、塩は有機溶媒に可溶となることが知られている。 水とカリウムの反応は次の式であらわされる。 2 K ( s ) + 2 H 2 O ( l ) ⟶ 2 KOH ( aq ) + H 2 ( g ) {\displaystyle {\ce {2K(s) + 2H_2O(l) -> 2KOH(aq) + H_2(g)}}} アルカリ金属は一般的の金属に比べて異常に高い反応性を持つため、超金属とも呼ばれる。特に水との反応は劇的であり、重い元素ほど高い反応性を示す。 アルカリ金属元素は、いずれも炎色反応を示す。ナトリウムの発光はD線と呼ばれる波長589 nmの単色光であるため、単色光でないと測定ができない旋光度を測定するための光源に利用される。このD線は、実際は1本の輝線ではなく、波長589.592 nmのD1線と波長588.995 nmのD2線の2本に分かれた双子線である。これは、ナトリウムの最外殻電子のスピンが2方向あるためであり、同様の理由によりナトリウム以外のアルカリ金属元素のスペクトルも双子線となる。セシウムのみは励起に必要な高温を得るために、酸水素炎で観察する必要がある。 フランシウムは放射性元素で天然からは産出されないが、核反応により少量合成されアルカリ金属としての物性を持つことが確認されている。余談だが、フランスの科学者ペレーがこのアルカリ金属を単離した際に、母国にちなんでフランシウムと名付けた。またガリウムはフランスを表すラテン語のガリアにちなんで名づけられており、フランスは二つの元素の命名の由来となっている。 アルカリ金属の単体は低温においてはいずれも体心立方格子の等軸晶系の結晶であるが、常温においてはカリウム、ルビジウム、セシウムは正方晶系の結晶となる。 仕事関数が小さいという特長を活かして光電子増倍管の光電面材料にはアルカリ金属を主成分とした合金が利用され、スーパーカミオカンデで使用されたものではバイアルカリと呼ばれるSb-K-Cs合金が用いられている。 すでに述べたように、リチウムは全金属中で最も低い密度を持つ。この軽さは航空産業や宇宙産業で用いる材料の素材として極めて有用である。例えば合金の一種であるLA 141(リチウム14%、アルミニウム1%、マグネシウム85%)の密度は1.35 g/cm^3であり、現在最も広く用いられている低密度金属の一つである。 金属リチウムは銀色を呈するが、空気にさらすと速やかに酸素と反応して黒変する。窒素と反応する元素は周期表全体でみても元々少数であるが、リチウムはその中の唯一のアルカリ金属である。窒素分子の三重結合の結合エネルギーは945 kJ/molであり、これより安定な窒化物を与えるためには、生成物の格子エネルギーを十分に高める必要がある。アルカリ金属中では、最も高い電子密度を誇るリチウムのみがこの条件を満足することができる。 6 Li ( s ) + N 2 ( g ) ⟶ 2 Li 3 N ( s ) {\displaystyle {\ce {6Li(s) + N_2(g) -> 2Li_3N(s)}}} このように生成された窒化リチウムは決して安定ではなく、水を加えるとアンモニアと水酸化物を生じる。 Li 3 N ( s ) + 3 H 2 O ( l ) ⟶ 3 LiOH ( aq ) + NH 3 ( g ) {\displaystyle {\ce {Li_3N(s) + 3H_2O(l)-> 3LiOH(aq) + NH_3(g)}}} 液体リチウムは最も腐食性の高い物質と知られ、例えばリチウムをガラス容器の中で溶解させたときには、ガラスと反応して容器に穴をあけるほどである。さらに、リチウムはすべての元素のうち最も低い標準電極電位を示す。 ナトリウムは他のアルカリ金属と同様、非常に高い反応性を示すため、単体は天然には存在しない。しかしながら、金属ナトリウムは産業からの需要が最も大きい金属の一つである。金属ナトリウムは多くのナトリウム化合物の合成に用いられるが、最も有用な利用は他の希少金属の還元に使うことであろう。例えば金属チタンは四塩化チタンを金属ナトリウムで還元することで得られる。 TiCl 4 ( l ) + 4 Na ( s ) ⟶ Ti ( s ) + 4 NaCl ( s ) {\displaystyle {\ce {TiCl_4(l) + 4Na(s)->Ti(s) + 4NaCl(s)}}} 生成系を水で洗い流せば金属チタンが残る。 金属ナトリウムの別の使い方は、オクタン価を上げるためのガソリン添加剤の原料である。テトラエチル鉛(アンチノック剤)の製造に鉛-ナトリウム合金が使用される。 4 NaPb ( s ) + 4 C 2 H 5 Cl ( g ) ⟶ ( C 2 H 5 ) 4 Pb ( l ) + 3 Pb ( s ) + 4 NaCl ( s ) {\displaystyle {\ce {4NaPb(s) + 4C_2H_5Cl(g) -> (C_2H_5)_4Pb(l) + 3Pb(s) + 4NaCl(s)}}} テトラエチル鉛は毒性が強く、また使用後の廃棄物によって鉛汚染を引き起こすため、各国で規制の流れがあるが、今もなお多くの国で使用されている。 金属ナトリウムは塩化ナトリウムを適切に電気分解することで得られる(タウンズ法)。この方法では塩化カルシウムを添加して融点を引き下げた融解塩化ナトリウムを、陽極にグラファイト、陰極に鉄を用いて電気分解する。純粋な塩化ナトリウムの融点は800.4°Cであるが、67%を塩化カルシウムに置き換えることで融点を580°Cまで引き下げることができ、工業化の範疇となる。このようにして得られた液体金属ナトリウムは2%のカルシウムを含むが、110°Cまで冷却するとカルシウム(融点842°C)は固化して沈んでしまい、ナトリウム(融点98°C)を純粋な形で得ることができる。 天然のカリウムは放射性同位体であるカリウム40を0.012%含む。カリウム40にはβ壊変によってカルシウム40になる経路と電子捕獲によってアルゴン40になる経路の二つがある。カリウム40の約11%が後者の経路を通る。すでに固化したマグマの中でこの反応が起こると、発生したアルゴンは岩石に閉じ込められることとなる。これを用いた岩石の年代測定が広く行われている。 金属カリウムの製法は他と比べてエレガントで面白い。金属カリウムはあまりにも反応性が高いため、電解槽で生成して集めるのは現実的な方法ではない。化学的に還元してやれば良い。すなわち850°Cで液体金属ナトリウムと液体塩化カリウムを直接反応させる。 Na ( l ) + KCl ( l ) ⟶ NaCl ( l ) + K ( g ) {\displaystyle {\ce {Na(l) + KCl(l) -> NaCl(l) + K(g)}}} イオン化傾向系列でカリウムはナトリウムの左にくる為、通常この可逆反応はあまり右に進まない。しかしこの温度ではカリウムは気体となるので、反応で生じたカリウムガスを系外に吸い出し続ければ、ルシャトリエの原理により反応を無理やり右向きに進行させることができる。 乾燥条件下においてアルカリ金属を水素気流下で加熱することによって、アルカリ金属は一般式 MH で表されるような1価の水素化物を形成するが、これらは水素化リチウムを除き不安定であり、成分元素単体に乖離しやすい。また水の存在下では容易に加水分解を受けてアルカリ金属水酸化物と水素に分解する。これらの水素化物は塩化ナトリウム型構造を取るイオン型水素化物であり、ヒドリド供与体として、塩基や還元剤として利用される。また、水素化ホウ素ナトリウムや水素化アルミニウムリチウムなどの三元化合物も形成される。 アルカリ金属は、一般式 M2O で表される酸化物を形成する。空気中の酸素と直接反応するため、新鮮なアルカリ金属単体の切断面は金属光沢を示すものの、速やかに酸化物など(一部は水酸化物)に覆われて光沢を失う。 また、空気中で燃焼させるとリチウムでは主に酸化物を生成するが、ナトリウムでは主に一般式 M2O2 であらわされる金属過酸化物を形成し、カリウム以上の周期の元素の場合は一般式 MO2 で表される金属超酸化物も形成することが知られている。これはイオン半径の大きな陽イオンほど、格子エネルギー効果によって対となる大きな陰イオンを安定化させることができ、不安定な過酸化物イオンや超酸化物イオンとでも安定な化合物が形成できるためである。一方、過酸化リチウムを形成するためには金属リチウムを過酸化水素と反応させる必要があり、超酸化ナトリウムを形成するためには高温高圧の条件が必要となる。アルカリ金属元素の超酸化物は全て常磁性体であり、歪んだ塩化ナトリウム型構造を取る。また、アルカリ金属の水酸化物とオゾンとの反応によってオゾン化物が形成される。このオゾン化物の安定性もまた、対となる陽イオンのイオン半径の大きさに比例する。 アルカリ金属は電気陰性度が低く電気的に非常に陽性であるため、酸化物は発熱を伴い水と激しく反応して水酸化物を生成し、過酸化物は激しく加水分解して過酸化水素あるいは酸素を発生させ、超酸化物も水溶液中では次第に分解して酸素を発生する。 アルカリ金属に限定しない酸化物の一般的性質については、酸素・酸化物それぞれの項目を参照のこと。 アルカリ金属は、一般式MOHで表される水酸化物を形成する。低融点な無色の結晶であり、融点付近の350°Cから400°Cで昇華する。水酸化リチウムを除いて全て潮解性を有し、水やアルコールには発熱しながら容易に溶解する。アルカリ金属の水酸化物の水溶液では、アルカリ金属イオンと水酸化物イオンにほぼ完全に電離しているため非常に強い塩基性を示す。気体状態においては(MOH)2で表される二量体を形成し、気体状態における塩基性の強さはアルカリ金属の原子量が大きくなるほど塩基性が強くなるが、溶液中における塩基性の強さは溶媒効果などの影響を受けるためこの限りではない。また非常に強い腐食性を有し、溶融状態においては白金すらも侵食する。空気中の二酸化炭素を吸収して炭酸塩を形成しやすく、市販の水酸化物はわずかに炭酸塩を含んでいる。例えば、日本産業規格(JIS)において試薬の水酸化ナトリウムや水酸化カリウムでは炭酸塩の含量が1.0 %以下でなければならないと規定されている。 アルカリ金属の水酸化物は、工業的には対応するアルカリ金属の塩化物の電気分解や、アルカリ金属の炭酸塩または硫酸塩とアルカリ土類金属の水酸化物とを複分解させることによって得られる。ナトリウムおよびカリウムでは前者の電解法が、ルビジウムおよびセシウムでは後者の複分解法が主に用いられている。アルカリ金属の水酸化物の中でも水酸化ナトリウムは安価なアルカリ源他様々な用途に用いられる工業的に非常に重要な物質であり、日本において2010年度で年間902,178トンもの量が消費されている。 一般に、アルカリ金属のハロゲン化物は常温で固体であり、フッ化リチウム (LiF、溶解度は水100gに対して0.27g(18°C))やフッ化ナトリウム (NaF、溶解度は水100gに対して4g(0°C))などの例外はあるものの、ほぼ全て水溶性が高い塩である。上記で述べられているように、塩の水溶性に大きく関与する要因として、アルカリ金属イオンの水和で得られるエネルギーとイオン結晶格子の切断にともない失われるエネルギーとの収支の損得が挙げられる(記事 溶液・溶解 に詳しい)。フッ化リチウムの水溶性が低い(25 °C にて、0.13 g/100 mL)ことについては、フッ化物イオン (F) もリチウムイオン (Li) もイオン半径が同程度に小さいためにフッ化リチウムの結晶格子は小さく強い結合から成る一方、フッ化リチウムの結晶が溶解してイオンが水和を受ける際の水和エネルギーは大きいものの格子エネルギーを打ち消す程ではない事による。 アルカリ金属のハロゲン化物の水溶液の pH は中性に近いことが多いが、フッ化物やヨウ化物の中には微弱な塩基性を示すものがある(例:飽和 NaF 水溶液で、pH 7.4)。これはフッ化水素が弱酸でありフッ化物イオンが僅かに加水分解すること、またヨウ化水素は強酸であるものの、ヨウ化物イオンが酸化されやすく極一部が次亜ヨウ素酸塩などに変化していることによる。アルカリ金属のハロゲン化物の熱的な安定性は、アルカリ金属側の原子番号が大きいほど安定であり、またハロゲン側の原子番号が小さいほど安定である。 一連のハロゲン化物の中で、地球上に最も広く存在するものが塩化ナトリウム (NaCl) である。 アルカリ金属元素のハロゲン化物はいずれも単純な等軸晶系を取る。リチウム、ナトリウム、カリウムおよびルビジウムのハロゲン化物は通常6配位の「塩化ナトリウム型構造」と呼ばれる最密充填構造である面心立方格子を取り、フッ化セシウム以外のハロゲン化セシウムは8配位の「塩化セシウム型構造」と呼ばれる最密充填構造ではない体心立方格子を取る。しかし、塩化ルビジウムは低温では塩化セシウム型構造を優先的に形成することが知られており、また塩化セシウムは445°Cで塩化ナトリウム型構造へと相転移する。このようなハロゲン化物の構造の違いはアルカリ金属元素とハロゲン化物イオンのイオン半径比によるものであり、イオン半径比 (r/r)0.72を境に構造の変化が起こる。これは、イオン結晶が配位数の多さおよび陽イオンと陰イオン同士の充填率の高さによって安定化する性質に由来しており、剛体球近似による理論計算から、陽イオンと陰イオンのイオン半径比が小さい(陽イオンのイオン半径が小さい)と少ない配位数で密に詰まる方が安定であり、陽イオンと陰イオンのイオン半径比が大きい(陽イオンのイオン半径が大きい)と多い配位数で最密充填を取らない方が安定となるためである。 アルカリ金属は水銀と反応してアマルガムを形成する。ナトリウムのアマルガムは、高純度な水酸化ナトリウムを製造するための水銀法とよばれる手法において用いられる。また、ナトリウムアマルガム電極として、通常の電極を用いることができないアルカリ金属の電極反応などにも利用される。ナトリウムアマルガムは、ナトリウムの割合を増やせば固体、減らせば液体となる性質があり強力な還元剤としても用いられる。 リチウム以外のアルカリ金属元素は、溶融させることでそれぞれ任意の割合で混合して合金を与えるが、リチウムはナトリウムとは380°C以上の条件で合金を作ることができるものの、それ以外のアルカリ金属元素とは合金を作ることができない。アルカリ金属同士の合金で重要なものはナトリウムカリウム合金であり、カリウム含有率77.2 %のもので融点が-12.3°Cと常温で液体な低融点合金である。その高い比熱によって核反応における熱媒体としての利用が検討されていたが、より安全な溶融ナトリウムへと移りこの用途では現在用いられていない。また、モル濃度で41%のセシウム、47%のカリウム、12%のナトリウムからなる合金は、すべての合金の中で最低の融点 (−78 °C) を持つ
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という非常な高圧下では水素も金属の性質を持つという理論があり、天文物理学の観測では土星や木星には重力による縮退で相転移を起こした金属水素が大量に存在する可能性が示唆されている。地球においても高圧実験によりその存在を確かめようとする努力が続けられているが、いまだ確認に至っていない。これまで研究では金属水素は電子のバンドギャップが非常に小さいものの完全にはゼロにならない可能性が報告され、伝導電子にはわずかな制約が生じ完全なアルカリ金属にはならないとされている。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ナトリウムの化合物は古代から知られていた。一般に塩と呼ばれる塩化ナトリウムは人間の活動において重要な物であり、給料すなわちサラリーの語源はラテン語の「サラリウム(salarium)」で「塩のお金」を意味し、ローマ帝国では兵士に給金として塩が支給されていたという。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "カリウムも古代から使用されていたが、ナトリウム塩と根本的に別の物質だとは近世まで理解されていなかった。1702年にゲオルク・シュタールがナトリウム塩とカリウム塩の根本的な違いを示唆する実験的証拠を得て、1736年にアンリ=ルイ・デュアメル・デュ・モンソーがこの違いの証明に成功した。当時は、カリウム化合物とナトリウム化合物の正確な化学組成も、元素としてのカリウムとナトリウムの正確な場所も分からなかったため、アントワーヌ・ラヴォアジエはどちらも1789年の元素表に組み入れなかった。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "単体のカリウムは、1807年にイギリスでハンフリー・デービーによって最初に単離されており、彼はボルタ電池による溶融塩の電気分解を活用して水酸化カリウム(KOH)から単離した。それ以前の塩類水溶液の電気分解はカリウムの極端な反応性のため失敗しており 、カリウムは電気分解で単離された最初の金属となった。同年後半、デービーは同じ技法で水酸化ナトリウム(NaOH)からのナトリウム抽出を報告し、これらの元素が異なることを証明した。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ペタライト(LiAlSi4O 10)は、1800年にブラジル人化学者ジョゼ・ボニファチオ・デ・アンドラダによってスウェーデンの鉱山で発見されたただし、ヨアン・オーガスト・アルフェドソンがペタライト鉱石の分析で新元素の存在を検出したのは1817年だった。この新元素がナトリウムやカリウムと同様の化合物を形成することに彼は注目し、その炭酸塩と水酸化物は他のアルカリ金属よりも水溶性が小さくアルカリ性が強かった。植物の灰から発見されたカリウムや、動物の血液中に豊富に含まれていることで知られていたナトリウムとは対照的に、固体で発見されたことを考慮して、イェンス・ベルセリウスは「石」という意味のギリシャ語λιθoςからこの未知の素材を「lithion/lithina」と命名、同素材の中にある金属を「リチウム」と名付けた。リチウム、ナトリウム、カリウムは、1850年にヨハン・デーベライナーが同様の特性を持つと同族元素の三組にあたると指摘、これが周期性の(部分的な)発見となった。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ロベルト・ブンゼンとグスタフ・キルヒホフが1859年に発明した分光器を使って、初めて発見された元素がルビジウムとセシウムである。彼らが翌1860年に、ドイツの鉱泉水からセシウムを発見した。その翌年には、ドイツのハイデルベルクで鉱物レピドライトの中からルビジウムが発見された。ルビジウムおよびセシウムという命名は、それぞれ放出スペクトルの最も顕著な線にちなんだもので、ルビジウムは鮮やかな赤の線(ラテン語rubidus、濃い赤または明るい赤の意)、そしてセシウムは空色の線(ラテン語caesius、空色の意)である。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1865年頃、ジョン・ニューランズは一連の論文を書き上げ、そこで彼は複数の元素を原子量増加順に並べ、8つ間隔で繰り返される同様の物理的・化学的特性を一覧にした。彼はその周期性を、8つ離れた音符が同様の音階機能を有する音楽のオクターヴに例えた。彼の表では、当時知られている全てのアルカリ金属(リチウムからセシウム)のほか、銅と銀とタリウムが1つの族にまとめらていれた。また彼の表では、水素をハロゲン(第17族元素)と一緒に置いていた。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1869年以降にドミトリ・メンデレーエフは、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウム、タリウムを含む族の一番上にリチウムを配置する周期表を提唱した。2年後に彼は自分の表を改訂し、水素をリチウムの上の第1族に配置し、タリウムをホウ素族に移した。この1871年版では、銅と銀と金が2か所に配置されており、1か所はIB族(現:第11族元素)に、もう1か所はVIII族(現:第8族元素から第11族までを含む)に配置されていた。18列からなる周期表の導入後、IB族元素は現在のDブロック元素の位置に移動し、アルカリ金属はIA族に残った。後の1988年に、この族の名が「第1族」に変更された。「アルカリ金属」という慣用名は、第1族元素の水酸化物が水に溶けたときに全て強アルカリ性であるという事実に由来している。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1939年にキュリー研究所 (パリ)のマルグリット・ペレーがアクチニウム227のサンプルを精製することでフランシウムを発見したが、その前に少なくとも4つの誤った発見や不完全な発見があった。彼女は80keV未満のエネルギー準位の崩壊素粒子に着目。この崩壊活動がまだ未特定な崩壊生成物によって引き起こされた可能性がある、とペレーは考察した。様々な試験により、その未知の元素がアルカリ金属の化学的性質(セシウム塩との共沈など)を示したことで、ペレーはそれをアクチニウム227のアルファ崩壊によって引き起こされた元素番号87の元素だと確信した。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "周期表でフランシウムの下に存在する筈だとされている第1族元素が、元素番号119の仮名ウンウンエンニウム(Uue)である。ウンウンエンニウム合成の試みは、1985年に米カリフォルニア州の重イオン線形加速器(superHILAC)で標的のアインスタイニウム254にカルシウム48イオンを衝突させる実験が初めて行われたが、同原子は確認されなかった。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アインスタイニウム254(これは質量が大きく、半減期が270日と比較的長く、超重元素の製造に適している)を実験に充分なほど製造する作業も非常に困難であることを考えると、近い将来にこの反応がウンウンエンニウム元素を生じさせる可能性は極めて低い。アインスタイニウムは自然界で発見されておらず実験室で作られるのみであり、超重元素の効率的合成に必要な量よりも少ない量しか製造されていないためである。ただし、ウンウンエンニウムが拡張周期表で最初の第8周期元素に過ぎないことを考えると、近い将来に他の反応から発見される可能性があり、実際に日本で合成の試みが現在進行中である。 2022年現在、第8周期元素はまだ発見されていないが、中性子ドリップラインの不安定性から最大で元素番号128辺りまでの第8周期元素が物理的に生成できる可能性がある。これ以上に重い第1族元素合成の試みは行われておらず、その非常に大きな元素番号のため、生成するには現時点以上に強力かつ新たな技術手法が必要になる筈だとされている。", "title": "アルカリ金属" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "通常アルカリ金属に分類されるリチウム、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウムは性質が非常に似通っている。ただしリチウムは直接窒素と反応するなど、一部の物性において他のアルカリ金属元素とは異なった性質を有している。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、還元性を持ち、水素を除いてその酸化数は常に+1となる。アルカリ金属においては原子番号が上がるほど化学反応性、密度は大きくなり、融点、沸点は下がるという性質を持つ。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第1族元素に分類されている水素は他のアルカリ金属元素とは性質が著しく異なる。この違いは電子配置の閉殻構造の有無に起因する。アルカリ金属元素の場合、一価の陽イオンが生成すると閉殻構造の寄与により非常に安定化する。一方、水素の陽イオンであるプロトンはむき出しの正電荷であるため、電子を核から引き離すためのイオン化エネルギーが非常に大きく、閉殻構造が無く安定化の寄与が存在しない。このようなs電子のふるまいの違いが、水素には共有結合性を与え、アルカリ金属元素には金属性を与えることになる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "リチウムとその他のアルカリ金属元素の違いは、リチウムのイオン半径に起因している。リチウムはイオン半径が小さいため、電荷/イオン半径比が他のアルカリ金属元素と比較して著しく大きい。そのため、反応性や化合物の性質において、1価のアルカリ金属イオンよりもむしろ、同様に電荷/イオン半径比の大きい2価のアルカリ土類金属元素であるマグネシウムイオンに類似した性質を示す。例えば、リチウムはマグネシウムと同様、窒素と直接反応して窒化物を形成するが、他のアルカリ金属元素は窒素に対して反応しない。また、リチウムの硫酸塩は、他のアルカリ金属の硫酸塩がミョウバンを形成するのと対照的に、ミョウバンを形成しない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第1族元素は、仕事関数が小さく、原子半径が大きいという特徴がある。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アルカリ金属の単体は、すべて銀色の金属光沢を放つ金属である。電気伝導性および熱伝導性は、他の金属と同様極めて良好である。しかし、それ以外の性質は、他の金属と比べて特異的である。第一に、ほとんどの金属が高い融点を持つ中で、アルカリ金属は比較的融点が低く、かつ重い元素ほど低い。セシウムは常温より少しだけ高い29°Cで融解する。ナトリウムはその高い熱伝導性と低い融点(98°C)が故に、原子炉の冷却材としても用いられる。また、アルカリ金属は他の金属と比べて非常に柔らかい金属である。リチウムはナイフで切断でき、カリウムはバターのように押しつぶすことができる。さらに特異な性質として、その密度の低さがあげられる。リチウム、ナトリウム、カリウムは比重が1以下で水に浮く。特にリチウムの密度は水の半分程度で、もし反応性と柔らかさにさえ目をつぶれば、船を造るのに最適な金属であろう。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "いずれも反応性は高く、周期表の周期が大きくなるほど、結晶エネルギー(解離エンタルピー)が低減するため、激しく反応する傾向が見られる。リチウムおよびナトリウムの単体金属を得るためには、これらの酸化還元電位がいずれも非常に低い(つまり非常に還元されにくい)が、溶融塩を電気分解することで生産することができる。(水溶液だとH2Oが分解され水素が発生する)カリウム、ルビジウム、セシウムは低融点かつ気化しやすいため単純な電気分解による生産には適しておらず、カリウムは溶融させた塩化カリウムをナトリウム蒸気と反応させることで作られ、ルビジウムおよびセシウムはそれぞれの水酸化物を金属マグネシウムや金属カルシウムによって還元させることで得られる。代表的な工業生産法には、溶融した塩化ナトリウムに融点降下剤として塩化カルシウムを加え、それを電気分解することで金属ナトリウムを得るダウンズ法がある。このアルカリ金属元素の強い還元性は他にも、有機化学の分野におけるバーチ還元 (Bürch reduction) などに利用される。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "いずれのアルカリ金属元素単体も水、あるいは空気中の酸素と反応する為に、それらを避けるためにミネラルオイルの中に保存される。オイルを拭って放置すると自然発火することもあるので取り扱いは考慮する必要がある(危険物3類)。アルカリ金属の反応性の高さは原子量の大きいものほど高い傾向があるが、窒素との反応に関しては例外的にリチウムのみが直接的な反応によって窒化リチウム (Li3N)を生成する。水やアルコールなどプロトン溶媒とは水素ガスを発して反応し、生成する水酸化物や金属アルコキシドなどは強塩基として利用される。アルカリ金属イオンはハロゲンイオンなど種々のアニオンと水溶性の塩を作る。これは、アルカリ金属イオンが強く水和することの寄与が大きい。これらのアルカリ金属塩の溶解性はアルカリ金属イオンの挙動に強く影響される。例えば、クラウンエーテルやクリプタンドなどはアルカリ金属イオンと包摂化合物を形成し、塩は有機溶媒に可溶となることが知られている。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "水とカリウムの反応は次の式であらわされる。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2 K ( s ) + 2 H 2 O ( l ) ⟶ 2 KOH ( aq ) + H 2 ( g ) {\\displaystyle {\\ce {2K(s) + 2H_2O(l) -> 2KOH(aq) + H_2(g)}}}", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "アルカリ金属は一般的の金属に比べて異常に高い反応性を持つため、超金属とも呼ばれる。特に水との反応は劇的であり、重い元素ほど高い反応性を示す。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "アルカリ金属元素は、いずれも炎色反応を示す。ナトリウムの発光はD線と呼ばれる波長589 nmの単色光であるため、単色光でないと測定ができない旋光度を測定するための光源に利用される。このD線は、実際は1本の輝線ではなく、波長589.592 nmのD1線と波長588.995 nmのD2線の2本に分かれた双子線である。これは、ナトリウムの最外殻電子のスピンが2方向あるためであり、同様の理由によりナトリウム以外のアルカリ金属元素のスペクトルも双子線となる。セシウムのみは励起に必要な高温を得るために、酸水素炎で観察する必要がある。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "フランシウムは放射性元素で天然からは産出されないが、核反応により少量合成されアルカリ金属としての物性を持つことが確認されている。余談だが、フランスの科学者ペレーがこのアルカリ金属を単離した際に、母国にちなんでフランシウムと名付けた。またガリウムはフランスを表すラテン語のガリアにちなんで名づけられており、フランスは二つの元素の命名の由来となっている。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アルカリ金属の単体は低温においてはいずれも体心立方格子の等軸晶系の結晶であるが、常温においてはカリウム、ルビジウム、セシウムは正方晶系の結晶となる。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "仕事関数が小さいという特長を活かして光電子増倍管の光電面材料にはアルカリ金属を主成分とした合金が利用され、スーパーカミオカンデで使用されたものではバイアルカリと呼ばれるSb-K-Cs合金が用いられている。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "すでに述べたように、リチウムは全金属中で最も低い密度を持つ。この軽さは航空産業や宇宙産業で用いる材料の素材として極めて有用である。例えば合金の一種であるLA 141(リチウム14%、アルミニウム1%、マグネシウム85%)の密度は1.35 g/cm^3であり、現在最も広く用いられている低密度金属の一つである。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "金属リチウムは銀色を呈するが、空気にさらすと速やかに酸素と反応して黒変する。窒素と反応する元素は周期表全体でみても元々少数であるが、リチウムはその中の唯一のアルカリ金属である。窒素分子の三重結合の結合エネルギーは945 kJ/molであり、これより安定な窒化物を与えるためには、生成物の格子エネルギーを十分に高める必要がある。アルカリ金属中では、最も高い電子密度を誇るリチウムのみがこの条件を満足することができる。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "6 Li ( s ) + N 2 ( g ) ⟶ 2 Li 3 N ( s ) {\\displaystyle {\\ce {6Li(s) + N_2(g) -> 2Li_3N(s)}}}", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "このように生成された窒化リチウムは決して安定ではなく、水を加えるとアンモニアと水酸化物を生じる。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Li 3 N ( s ) + 3 H 2 O ( l ) ⟶ 3 LiOH ( aq ) + NH 3 ( g ) {\\displaystyle {\\ce {Li_3N(s) + 3H_2O(l)-> 3LiOH(aq) + NH_3(g)}}}", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "液体リチウムは最も腐食性の高い物質と知られ、例えばリチウムをガラス容器の中で溶解させたときには、ガラスと反応して容器に穴をあけるほどである。さらに、リチウムはすべての元素のうち最も低い標準電極電位を示す。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ナトリウムは他のアルカリ金属と同様、非常に高い反応性を示すため、単体は天然には存在しない。しかしながら、金属ナトリウムは産業からの需要が最も大きい金属の一つである。金属ナトリウムは多くのナトリウム化合物の合成に用いられるが、最も有用な利用は他の希少金属の還元に使うことであろう。例えば金属チタンは四塩化チタンを金属ナトリウムで還元することで得られる。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "TiCl 4 ( l ) + 4 Na ( s ) ⟶ Ti ( s ) + 4 NaCl ( s ) {\\displaystyle {\\ce {TiCl_4(l) + 4Na(s)->Ti(s) + 4NaCl(s)}}}", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "生成系を水で洗い流せば金属チタンが残る。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "金属ナトリウムの別の使い方は、オクタン価を上げるためのガソリン添加剤の原料である。テトラエチル鉛(アンチノック剤)の製造に鉛-ナトリウム合金が使用される。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "4 NaPb ( s ) + 4 C 2 H 5 Cl ( g ) ⟶ ( C 2 H 5 ) 4 Pb ( l ) + 3 Pb ( s ) + 4 NaCl ( s ) {\\displaystyle {\\ce {4NaPb(s) + 4C_2H_5Cl(g) -> (C_2H_5)_4Pb(l) + 3Pb(s) + 4NaCl(s)}}}", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "テトラエチル鉛は毒性が強く、また使用後の廃棄物によって鉛汚染を引き起こすため、各国で規制の流れがあるが、今もなお多くの国で使用されている。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "金属ナトリウムは塩化ナトリウムを適切に電気分解することで得られる(タウンズ法)。この方法では塩化カルシウムを添加して融点を引き下げた融解塩化ナトリウムを、陽極にグラファイト、陰極に鉄を用いて電気分解する。純粋な塩化ナトリウムの融点は800.4°Cであるが、67%を塩化カルシウムに置き換えることで融点を580°Cまで引き下げることができ、工業化の範疇となる。このようにして得られた液体金属ナトリウムは2%のカルシウムを含むが、110°Cまで冷却するとカルシウム(融点842°C)は固化して沈んでしまい、ナトリウム(融点98°C)を純粋な形で得ることができる。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "天然のカリウムは放射性同位体であるカリウム40を0.012%含む。カリウム40にはβ壊変によってカルシウム40になる経路と電子捕獲によってアルゴン40になる経路の二つがある。カリウム40の約11%が後者の経路を通る。すでに固化したマグマの中でこの反応が起こると、発生したアルゴンは岩石に閉じ込められることとなる。これを用いた岩石の年代測定が広く行われている。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "金属カリウムの製法は他と比べてエレガントで面白い。金属カリウムはあまりにも反応性が高いため、電解槽で生成して集めるのは現実的な方法ではない。化学的に還元してやれば良い。すなわち850°Cで液体金属ナトリウムと液体塩化カリウムを直接反応させる。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "Na ( l ) + KCl ( l ) ⟶ NaCl ( l ) + K ( g ) {\\displaystyle {\\ce {Na(l) + KCl(l) -> NaCl(l) + K(g)}}}", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "イオン化傾向系列でカリウムはナトリウムの左にくる為、通常この可逆反応はあまり右に進まない。しかしこの温度ではカリウムは気体となるので、反応で生じたカリウムガスを系外に吸い出し続ければ、ルシャトリエの原理により反応を無理やり右向きに進行させることができる。", "title": "単体金属" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "乾燥条件下においてアルカリ金属を水素気流下で加熱することによって、アルカリ金属は一般式 MH で表されるような1価の水素化物を形成するが、これらは水素化リチウムを除き不安定であり、成分元素単体に乖離しやすい。また水の存在下では容易に加水分解を受けてアルカリ金属水酸化物と水素に分解する。これらの水素化物は塩化ナトリウム型構造を取るイオン型水素化物であり、ヒドリド供与体として、塩基や還元剤として利用される。また、水素化ホウ素ナトリウムや水素化アルミニウムリチウムなどの三元化合物も形成される。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アルカリ金属は、一般式 M2O で表される酸化物を形成する。空気中の酸素と直接反応するため、新鮮なアルカリ金属単体の切断面は金属光沢を示すものの、速やかに酸化物など(一部は水酸化物)に覆われて光沢を失う。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、空気中で燃焼させるとリチウムでは主に酸化物を生成するが、ナトリウムでは主に一般式 M2O2 であらわされる金属過酸化物を形成し、カリウム以上の周期の元素の場合は一般式 MO2 で表される金属超酸化物も形成することが知られている。これはイオン半径の大きな陽イオンほど、格子エネルギー効果によって対となる大きな陰イオンを安定化させることができ、不安定な過酸化物イオンや超酸化物イオンとでも安定な化合物が形成できるためである。一方、過酸化リチウムを形成するためには金属リチウムを過酸化水素と反応させる必要があり、超酸化ナトリウムを形成するためには高温高圧の条件が必要となる。アルカリ金属元素の超酸化物は全て常磁性体であり、歪んだ塩化ナトリウム型構造を取る。また、アルカリ金属の水酸化物とオゾンとの反応によってオゾン化物が形成される。このオゾン化物の安定性もまた、対となる陽イオンのイオン半径の大きさに比例する。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アルカリ金属は電気陰性度が低く電気的に非常に陽性であるため、酸化物は発熱を伴い水と激しく反応して水酸化物を生成し、過酸化物は激しく加水分解して過酸化水素あるいは酸素を発生させ、超酸化物も水溶液中では次第に分解して酸素を発生する。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "アルカリ金属に限定しない酸化物の一般的性質については、酸素・酸化物それぞれの項目を参照のこと。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "アルカリ金属は、一般式MOHで表される水酸化物を形成する。低融点な無色の結晶であり、融点付近の350°Cから400°Cで昇華する。水酸化リチウムを除いて全て潮解性を有し、水やアルコールには発熱しながら容易に溶解する。アルカリ金属の水酸化物の水溶液では、アルカリ金属イオンと水酸化物イオンにほぼ完全に電離しているため非常に強い塩基性を示す。気体状態においては(MOH)2で表される二量体を形成し、気体状態における塩基性の強さはアルカリ金属の原子量が大きくなるほど塩基性が強くなるが、溶液中における塩基性の強さは溶媒効果などの影響を受けるためこの限りではない。また非常に強い腐食性を有し、溶融状態においては白金すらも侵食する。空気中の二酸化炭素を吸収して炭酸塩を形成しやすく、市販の水酸化物はわずかに炭酸塩を含んでいる。例えば、日本産業規格(JIS)において試薬の水酸化ナトリウムや水酸化カリウムでは炭酸塩の含量が1.0 %以下でなければならないと規定されている。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "アルカリ金属の水酸化物は、工業的には対応するアルカリ金属の塩化物の電気分解や、アルカリ金属の炭酸塩または硫酸塩とアルカリ土類金属の水酸化物とを複分解させることによって得られる。ナトリウムおよびカリウムでは前者の電解法が、ルビジウムおよびセシウムでは後者の複分解法が主に用いられている。アルカリ金属の水酸化物の中でも水酸化ナトリウムは安価なアルカリ源他様々な用途に用いられる工業的に非常に重要な物質であり、日本において2010年度で年間902,178トンもの量が消費されている。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "一般に、アルカリ金属のハロゲン化物は常温で固体であり、フッ化リチウム (LiF、溶解度は水100gに対して0.27g(18°C))やフッ化ナトリウム (NaF、溶解度は水100gに対して4g(0°C))などの例外はあるものの、ほぼ全て水溶性が高い塩である。上記で述べられているように、塩の水溶性に大きく関与する要因として、アルカリ金属イオンの水和で得られるエネルギーとイオン結晶格子の切断にともない失われるエネルギーとの収支の損得が挙げられる(記事 溶液・溶解 に詳しい)。フッ化リチウムの水溶性が低い(25 °C にて、0.13 g/100 mL)ことについては、フッ化物イオン (F) もリチウムイオン (Li) もイオン半径が同程度に小さいためにフッ化リチウムの結晶格子は小さく強い結合から成る一方、フッ化リチウムの結晶が溶解してイオンが水和を受ける際の水和エネルギーは大きいものの格子エネルギーを打ち消す程ではない事による。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "アルカリ金属のハロゲン化物の水溶液の pH は中性に近いことが多いが、フッ化物やヨウ化物の中には微弱な塩基性を示すものがある(例:飽和 NaF 水溶液で、pH 7.4)。これはフッ化水素が弱酸でありフッ化物イオンが僅かに加水分解すること、またヨウ化水素は強酸であるものの、ヨウ化物イオンが酸化されやすく極一部が次亜ヨウ素酸塩などに変化していることによる。アルカリ金属のハロゲン化物の熱的な安定性は、アルカリ金属側の原子番号が大きいほど安定であり、またハロゲン側の原子番号が小さいほど安定である。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "一連のハロゲン化物の中で、地球上に最も広く存在するものが塩化ナトリウム (NaCl) である。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アルカリ金属元素のハロゲン化物はいずれも単純な等軸晶系を取る。リチウム、ナトリウム、カリウムおよびルビジウムのハロゲン化物は通常6配位の「塩化ナトリウム型構造」と呼ばれる最密充填構造である面心立方格子を取り、フッ化セシウム以外のハロゲン化セシウムは8配位の「塩化セシウム型構造」と呼ばれる最密充填構造ではない体心立方格子を取る。しかし、塩化ルビジウムは低温では塩化セシウム型構造を優先的に形成することが知られており、また塩化セシウムは445°Cで塩化ナトリウム型構造へと相転移する。このようなハロゲン化物の構造の違いはアルカリ金属元素とハロゲン化物イオンのイオン半径比によるものであり、イオン半径比 (r/r)0.72を境に構造の変化が起こる。これは、イオン結晶が配位数の多さおよび陽イオンと陰イオン同士の充填率の高さによって安定化する性質に由来しており、剛体球近似による理論計算から、陽イオンと陰イオンのイオン半径比が小さい(陽イオンのイオン半径が小さい)と少ない配位数で密に詰まる方が安定であり、陽イオンと陰イオンのイオン半径比が大きい(陽イオンのイオン半径が大きい)と多い配位数で最密充填を取らない方が安定となるためである。", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "", "title": "化合物" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "アルカリ金属は水銀と反応してアマルガムを形成する。ナトリウムのアマルガムは、高純度な水酸化ナトリウムを製造するための水銀法とよばれる手法において用いられる。また、ナトリウムアマルガム電極として、通常の電極を用いることができないアルカリ金属の電極反応などにも利用される。ナトリウムアマルガムは、ナトリウムの割合を増やせば固体、減らせば液体となる性質があり強力な還元剤としても用いられる。", "title": "合金" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "リチウム以外のアルカリ金属元素は、溶融させることでそれぞれ任意の割合で混合して合金を与えるが、リチウムはナトリウムとは380°C以上の条件で合金を作ることができるものの、それ以外のアルカリ金属元素とは合金を作ることができない。アルカリ金属同士の合金で重要なものはナトリウムカリウム合金であり、カリウム含有率77.2 %のもので融点が-12.3°Cと常温で液体な低融点合金である。その高い比熱によって核反応における熱媒体としての利用が検討されていたが、より安全な溶融ナトリウムへと移りこの用途では現在用いられていない。また、モル濃度で41%のセシウム、47%のカリウム、12%のナトリウムからなる合金は、すべての合金の中で最低の融点 (−78 °C) を持つ", "title": "合金" } ]
第1族元素(だいいちぞくげんそ)とは、周期表において第1族に属する元素。水素・リチウム・ナトリウム・カリウム・ルビジウム・セシウム・フランシウムが属する。周期表の一番左側に位置する元素群で、価電子は最外殻のs軌道にある電子である。s軌道は1電子のみが占有する。 水素を除いた第1族元素はアルカリ金属と総称されており、常温で水と激しく反応する金属で、その水酸化物が強アルカリ性を示す、という共通特性がある。本項ではこのアルカリ金属を中心に記述し、水素に関しては個別記事にて詳しく述べる。
{| class="infobox" style="background-color:white; text-align:center" |- | colspan="2" | [[第18族元素|&larr;]] '''1'''[[元素の族|'''族''']] [[第2族元素|&rarr;]] |- | style="width:40%" | [[元素の周期|'''周期''']] | |- | [[第1周期元素|'''1''']] | style="background-color: #a0ffa0" | <small>1</small><br />[[水素|H]] |- | [[第2周期元素|'''2''']] | style="background-color: #f66" | <small>3</small><br />[[リチウム|Li]] |- | [[第3周期元素|'''3''']] | style="background-color: #f66" | <small>11</small><br />[[ナトリウム|Na]] |- | [[第4周期元素|'''4''']] | style="background-color: #f66" | <small>19</small><br />[[カリウム|K]] |- | [[第5周期元素|'''5''']] | style="background-color: #f66" | <small>37</small><br />[[ルビジウム|Rb]] |- | [[第6周期元素|'''6''']] | style="background-color: #f66" | <small>55</small><br />[[セシウム|Cs]] |- | [[第7周期元素|'''7''']] | style="background-color: #f66" | <span style="color: red; font-size: small">87</span><br />[[フランシウム|Fr]] |} '''第1族元素'''(だいいちぞくげんそ)とは、[[周期表]]において第1族に属する[[元素]]。[[水素]]・[[リチウム]]・[[ナトリウム]]・[[カリウム]]・[[ルビジウム]]・[[セシウム]]・[[フランシウム]]が属する。周期表の一番左側に位置する元素群で、[[価電子]]は[[最外殻]]のs軌道にある[[電子]]である。s軌道は1電子のみが占有する。 水素を除いた第1族元素は'''アルカリ金属'''と総称されており、[[常温]]で水と激しく反応する[[金属]]で、その水酸化物が[[強アルカリ]]性を示す、という共通特性がある<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%AA%E9%87%91%E5%B1%9E-28165 アルカリ金属]」の解説より</ref>。本項ではこのアルカリ金属を中心に記述し、水素に関しては[[水素|個別記事]]にて詳しく述べる。 ==アルカリ金属== 第1族元素に属する元素の多くは、歴史的に物質的性質に基づく古い分類名称である「アルカリ金属」と呼ばれている。 物質元素の[[単体]]を探索する過程で金属としての性質が共通に見出されたもののうち、その後の分類の着目点に化学的性質が加わり、他元素と結合しやすい化学的性質をもつものから「アルカリ金属」が分類された。さらに[[電子構造]]の違いによる族の分類で、第1族元素に分類する過程で水素にもアルカリ金属との共通性が見出された。一方で、[[典型元素]]の単体においては周期が小さいほど共有結合性が強く、周期が大きいほど金属結合性が強くなる傾向があるが、第1族元素では水素のみが共有結合を示すという顕著な違いがある。ただし、周期表の理解においてここまでの厳密な分類は必要ではなく、共通性の存在と歴史的背景から第1族元素とアルカリ金属が同列に扱われることがある。 400-500 [[パスカル (単位)#倍量・分量単位|GPa]] という非常な高圧下では水素も金属の性質を持つという理論があり、[[天文物理学]]の観測では[[土星]]や[[木星]]には[[重力]]による[[縮退]]で[[相転移]]を起こした[[金属水素]]が大量に存在する可能性が示唆されている。地球においても高圧実験によりその存在を確かめようとする努力が続けられているが、いまだ確認に至っていない。これまで研究では金属水素は電子の[[バンドギャップ]]が非常に小さいものの完全にはゼロにならない可能性が報告され、[[伝導電子]]にはわずかな制約が生じ完全なアルカリ金属にはならないとされている。 ===歴史=== [[File:Petalite.jpg|thumb|200px|alt=A sample of petalite|[[ペタライト]]、リチウムが最初に 単離されたリチウム鉱物]] ナトリウムの化合物は古代から知られていた。一般に塩と呼ばれる[[塩化ナトリウム]]は人間の活動において重要な物であり、給料すなわちサラリーの語源はラテン語の「サラリウム(salarium)」で「塩のお金」を意味し、ローマ帝国では兵士に給金として塩が支給されていたという<ref>MSNニュース「[https://www.msn.com/ja-jp/money/news/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%81%E4%B8%96%E3%81%AB%E3%82%82%E5%A5%87%E5%A6%99%E3%81%AA%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%80%9A%E8%B2%A8%E3%80%8D8%E9%81%B8/ar-AAluCLT#page=1 ホントに使われていた、世にも奇妙な世界の「通貨」8選]」2016年12月16日</ref>。 カリウムも古代から使用されていたが、ナトリウム塩と根本的に別の物質だとは近世まで理解されていなかった。1702年に[[ゲオルク・シュタール]]がナトリウム塩とカリウム塩の根本的な違いを示唆する実験的証拠を得て<ref name="1702Suspect">{{cite book|language = de |url= https://books.google.com/books?id=b-ATAAAAQAAJ&pg=PA167 |page= 167|title= Chymische Schriften|last1= Marggraf|first= Andreas Siegmund |year= 1761}}</ref>、1736年に[[アンリ=ルイ・デュアメル・デュ・モンソー]]がこの違いの証明に成功した<ref>{{cite journal |url= http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k3533j/f73.image.r=Memoires%20de%20l%27Academie%20royale%20des%20Sciences.langEN |journal= Mémoires de l'Académie Royale des Sciences |title= Sur la Base de Sel Marine |last= du Monceau|first= H. L. D. |pages= 65-68 |language= fr}}</ref>。当時は、カリウム化合物とナトリウム化合物の正確な化学組成も、元素としてのカリウムとナトリウムの正確な場所も分からなかったため、[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]はどちらも1789年の元素表に組み入れなかった<ref name="weeks">{{cite journal |doi= 10.1021/ed009p1035|title= The discovery of the elements. IX. Three alkali metals: Potassium, sodium, and lithium |year= 1932|last1= Weeks|first1= Mary Elvira|author-link1=Mary Elvira Weeks|journal= Journal of Chemical Education|volume= 9|issue= 6|page= 1035|bibcode= 1932JChEd...9.1035W}}</ref><ref name="disco">{{cite journal |jstor= 228541|pages= 247-258|last1= Siegfried|first1= R.|title= The Discovery of Potassium and Sodium, and the Problem of the Chemical Elements|volume= 54|issue= 2|journal= Isis|year= 1963|doi= 10.1086/349704|pmid= 14147904|s2cid= 38152048}}</ref>。 単体のカリウムは、1807年にイギリスで[[ハンフリー・デービー]]によって最初に単離されており、彼は[[ボルタ電池]]による溶融塩の電気分解を活用して[[水酸化カリウム]](KOH)から単離した。それ以前の塩類水溶液の電気分解はカリウムの極端な反応性のため失敗しており<!-- <ref name="Greenwood&Earnshaw" />{{rp|68}}--> 、カリウムは電気分解で単離された最初の金属となった<ref name=Enghag2004>{{cite book |last=Enghag|first=P.|year=2004|title=Encyclopedia of the elements|publisher=Wiley-VCH Weinheim|isbn=978-3-527-30666-4|chapter=11. Sodium and Potassium}}</ref>。同年後半、デービーは同じ技法で[[水酸化ナトリウム]](NaOH)からのナトリウム抽出を報告し、これらの元素が異なることを証明した<ref name="weeks" /><ref name="disco" /><ref name=Davy1807>{{cite journal |first=Humphry|last=Davy|title=On some new phenomena of chemical changes produced by electricity, in particular the decomposition of the fixed alkalies, and the exhibition of the new substances that constitute their bases; and on the general nature of alkaline bodies|pages=1-44|year=1808|volume=98|journal=Philosophical Transactions of the Royal Society of London|url=https://books.google.com/books?id=gpwEAAAAYAAJ&pg=PA57|doi=10.1098/rstl.1808.0001|doi-access=free}}</ref><ref name="200disco">{{cite journal |doi= 10.1134/S1061934807110160|title= History of the discovery of potassium and sodium (on the 200th anniversary of the discovery of potassium and sodium)|year= 2007|last1= Shaposhnik|first1= V. A.|journal= Journal of Analytical Chemistry|volume= 62|issue= 11|pages= 1100-1102|s2cid= 96141217}}</ref>。 [[File:Johann Wolfgang Döbereiner.jpg|thumb|upright|[[ヨハン・デーベライナー]]は、現在アルカリ金属と通称される物質間の類似点に最初に気付いた人物の1人]] [[ペタライト]](LiAlSi<sub>4</sub>O <sub>10</sub>)は、1800年にブラジル人化学者[[ジョゼ・ボニファチオ・デ・アンドラダ]]によってスウェーデンの鉱山で発見された<ref name=mindat>{{cite web |url=http://www.mindat.org/min-3171.html |title=Petalite: Petalite mineral information and data |last1=Ralph |first1=Jolyon |last2=Chau |first2=Ida |date=24 August 2011 |access-date=27 November 2011}}</ref><ref name=webelementshistory>{{cite web |url=http://www.webelements.com/lithium/history.html|title=WebElements Periodic Table of the Elements {{pipe}} Lithium {{pipe}} historical information |last=Winter |first=Mark |access-date=27 November 2011}}</ref><ref name=discovery>{{cite book |title=Discovery of the Elements |last=Weeks |first=Mary|year=2003 |page=124 |publisher=Kessinger Publishing |location=Whitefish, Montana, United States |isbn=978-0-7661-3872-8 |url=https://books.google.com/books?id=SJIk9BPdNWcC|access-date=10 August 2009}}</ref>ただし、[[ヨアン・オーガスト・アルフェドソン]]<!-- (当時は化学者[[イェンス・ベルセリウス]]の研究室で働いていた)-->がペタライト鉱石の分析で新元素の存在を検出したのは1817年だった<ref name=uwis>{{cite web |url=http://genchem.chem.wisc.edu/lab/PTL/PTL/BIOS/arfwdson.htm |archive-url=https://web.archive.org/web/20080605152857/http://genchem.chem.wisc.edu/lab/PTL/PTL/BIOS/arfwdson.htm |archive-date=5 June 2008 |title=Johan Arfwedson |access-date=10 August 2009}}</ref><ref name=vanderkrogt>{{cite web |publisher= Elementymology & Elements Multidict|title= Lithium |first= Peter|last= van der Krogt|url= http://elements.vanderkrogt.net/element.php?sym=Li|access-date= 5 October 2010}}</ref>。この新元素がナトリウムやカリウムと同様の化合物を形成することに彼は注目し、その[[炭酸塩]]と[[水酸化物]]は他のアルカリ金属よりも水溶性が小さくアルカリ性が強かった<ref name=compounds>{{cite web |url=http://www.chemguide.co.uk/inorganic/group1/compounds.html|title=Compounds of the Group 1 Elements |access-date=10 August 2009 |last=Clark |first=Jim |year=2005 |work=chemguide}}</ref>。植物の灰から発見されたカリウムや、動物の血液中に豊富に含まれていることで知られていたナトリウムとは対照的に、固体で発見されたことを考慮して、[[イェンス・ベルセリウス]]は「石」という意味のギリシャ語λιθoςからこの未知の素材を「lithion/lithina」と命名、同素材の中にある金属を「リチウム」と名付けた<ref name=krebs>{{cite book |last= Krebs|first= Robert E.|year= 2006|title= The History and Use of Our Earth's Chemical Elements: A Reference Guide|publisher= Greenwood Press|location= Westport, Conn.|isbn= 978-0-313-33438-2}}</ref><ref name=webelementshistory /><ref name=vanderkrogt />。リチウム、ナトリウム、カリウムは、1850年に[[ヨハン・デーベライナー]]が同様の特性を持つと同族元素の三組にあたると指摘、これが周期性の(部分的な)発見となった<ref name="meta-synthesis2">{{cite web |url=http://www.meta-synthesis.com/webbook/35_pt/pt_database.php?Button=pre-1900+Formulations |title=The Internet Database of Periodic Tables |last=Leach|first=Mark R. |date=1999–2012 |work=meta-synthesis.com |access-date=6 April 2012}}</ref>。 [[File:Lepidolite-76774.jpg|thumb|upright|alt=A sample of lepidolite|[[レピドライト]]、 ルビジウムが最初に単離されたルビジウム鉱物]] [[ロベルト・ブンゼン]]と[[グスタフ・キルヒホフ]]が1859年に発明した[[分光器]]を使って、初めて発見された元素がルビジウムとセシウムである<ref name="caesium">{{cite web |url=http://pubs.acs.org/cen/80th/print/cesium.html |title=C&EN: It's Elemental: The Periodic Table - Cesium |publisher=American Chemical Society|access-date=25 February 2010|last=Kaner|first=Richard|year= 2003}}</ref>。彼らが翌1860年に、ドイツの[[鉱泉水]]からセシウムを発見した。その翌年には、ドイツのハイデルベルクで鉱物[[レピドライト]]の中からルビジウムが発見された<ref name="BuKi1861">{{cite journal |title= Chemische Analyse durch Spectralbeobachtungen |pages= 337-381 |first1= G.|last1= Kirchhoff |first2= R.|last2= Bunsen|author-link1= Gustav Kirchhoff |author-link2 = Robert Bunsen|doi= 10.1002/andp.18611890702 |journal= Annalen der Physik und Chemie |volume= 189 |issue= 7|year= 1861 |bibcode=1861AnP...189..337K|url= http://archiv.ub.uni-heidelberg.de/volltextserver/15657/1/spektral.pdf |archive-url=https://ghostarchive.org/archive/20221009/http://archiv.ub.uni-heidelberg.de/volltextserver/15657/1/spektral.pdf |archive-date=2022-10-09 |url-status=live }}</ref>。ルビジウムおよびセシウムという命名は、それぞれ[[放出スペクトル]]の最も顕著な線にちなんだもので、ルビジウムは鮮やかな赤の線(ラテン語rubidus、濃い赤または明るい赤の意)、そしてセシウムは空色の線(ラテン語caesius、空色の意)である<ref name="Weeks">{{cite journal |title= The discovery of the elements. XIII. Some spectroscopic discoveries |pages= 1413?1434|last= Weeks|first= Mary Elvira |author-link=Mary Elvira Weeks|doi=10.1021/ed009p1413|journal= [[Journal of Chemical Education]] |volume= 9 |issue= 8 |year= 1932 |bibcode=1932JChEd...9.1413W}}</ref><ref>{{Cite OED|caesium|edition = 2nd}}</ref>。 1865年頃、[[ジョン・ニューランズ]]は一連の論文を書き上げ、そこで彼は複数の元素を原子量増加順に並べ、8つ間隔で繰り返される同様の物理的・化学的特性を一覧にした。彼はその周期性を、8つ離れた音符が同様の音階機能を有する音楽の[[オクターヴ]]に例えた<ref>{{cite journal |title= On Relations Among the Equivalents |last=Newlands|first=John A. R. |journal= Chemical News |volume= 10 |pages= 94?95 |date= 20 August 1864 |url=http://web.lemoyne.edu/~GIUNTA/EA/NEWLANDSann.HTML |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20110101073248/http://web.lemoyne.edu/~GIUNTA/EA/NEWLANDSann.HTML |archive-date=1 January 2011 |access-date=25 November 2013}}</ref><ref>{{cite journal |title= On the Law of Octaves |last=Newlands|first=John A. R. |journal= Chemical News |volume= 12 |page= 83 |date= 18 August 1865 |url=http://web.lemoyne.edu/~GIUNTA/EA/NEWLANDSann.HTML |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20110101073248/http://web.lemoyne.edu/~GIUNTA/EA/NEWLANDSann.HTML |archive-date=1 January 2011 |access-date=25 November 2013}}</ref>。彼の表では、当時知られている全てのアルカリ金属(リチウムからセシウム)のほか、[[銅]]と[[銀]]と[[タリウム]]が1つの族にまとめらていれた。また彼の表では、水素を[[ハロゲン]](第17族元素)と一緒に置いていた<ref name="meta-synthesis2" />。 [[File:Mendelejevs periodiska system 1871.png|thumb|upright=1|1871年に提唱された[[ドミトリ・メンデレーエフ]]の周期体系では、水素とアルカリ金属が第1族元素に置かれ、一緒に銅、銀、金も置かれていた。]] 1869年以降に[[ドミトリ・メンデレーエフ]]は、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウム、タリウムを含む族の一番上にリチウムを配置する周期表を提唱した<ref>{{cite journal |last=Mendelejew |first=Dimitri |year=1869 |title=Über die Beziehungen der Eigenschaften zu den Atomgewichten der Elemente |journal=Zeitschrift für Chemie |pages=405-406 |language=de}}</ref>。2年後に彼は自分の表を改訂し、水素をリチウムの上の第1族に配置し、タリウムを[[第13族元素|ホウ素族]]に移した。この1871年版では、銅と銀と金が2か所に配置されており、1か所はIB族(現:[[第11族元素]])に、もう1か所はVIII族(現:[[第8族元素]]から第11族までを含む)に配置されていた<ref name="Jensen">{{cite journal |last1=Jensen |first1=William B.|author1-link=William B. Jensen |year=2003 |title=The Place of Zinc, Cadmium, and Mercury in the Periodic Table |journal=Journal of Chemical Education |volume=80 |issue=8 |pages=952-961 |publisher=[[American Chemical Society]] |doi=10.1021/ed080p952 |bibcode=2003JChEd..80..952J |url=http://www.che.uc.edu/jensen/W.%20B.%20Jensen/Reprints/091.%20Zn-Cd-Hg.pdf |access-date=2012-05-06 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20100611152417/http://www.che.uc.edu/jensen/W.%20B.%20Jensen/Reprints/091.%20Zn-Cd-Hg.pdf |archive-date=11 June 2010}}</ref>。18列からなる周期表の導入後、IB族元素は現在の[[Dブロック元素]]の位置に移動し、アルカリ金属はIA族に残った。後の1988年に、この族の名が「第1族」に変更された。「アルカリ金属」という慣用名は、第1族元素の水酸化物が水に溶けたときに全て[[強アルカリ]]性であるという事実に由来している<ref name=rsc>{{cite web|url=http://www.rsc.org/chemsoc/visualelements/PAGES/data/intro_groupi_data.html |title=Visual Elements: Group 1 – The Alkali Metals |author=Royal Society of Chemistry |work=Visual Elements |publisher=Royal Society of Chemistry |access-date=13 January 2012 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120805145647/http://www.rsc.org/chemsoc/visualelements/PAGES/data/intro_groupi_data.html |archive-date=5 August 2012 |author-link=Royal Society of Chemistry }}</ref>。 1939年に[[キュリー研究所 (パリ)]]の[[マルグリット・ペレー]]が[[アクチニウム]]227<!-- (これが220keVの崩壊エネルギーを持つと報告された)-->のサンプルを精製することでフランシウムを発見したが、その前に少なくとも4つの誤った発見や不完全な発見があった<ref name="fontani">{{cite conference |first= Marco |last= Fontani |title= The Twilight of the Naturally-Occurring Elements: Moldavium (Ml), Sequanium (Sq) and Dor (Do) |book-title= International Conference on the History of Chemistry |pages= 18 |date= 10 September 2005 |location= Lisbon|url= http://5ichc-portugal.ulusofona.pt/uploads/PaperLong-MarcoFontani.doc |archive-url= https://web.archive.org/web/20060224090117/http://5ichc-portugal.ulusofona.pt/uploads/PaperLong-MarcoFontani.doc |archive-date=24 February 2006|access-date= 8 April 2007}}</ref><ref>{{cite news |title= Education: Alabamine & Virginium|magazine=[[Time (magazine)|Time]] |date= 15 February 1932|url= http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,743159,00.html |archive-url= https://web.archive.org/web/20070930015028/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,743159,00.html |url-status= dead |archive-date= 30 September 2007 |access-date= 1 April 2007|url-access=subscription }}</ref><ref>{{cite journal |last= MacPherson |first= H. G. |title= An Investigation of the Magneto-Optic Method of Chemical Analysis |journal= Physical Review |volume= 47 |issue= 4 |pages= 310-315 |publisher= American Physical Society|year=1934|doi= 10.1103/PhysRev.47.310|bibcode= 1935PhRv...47..310M}}</ref>。彼女は80keV未満のエネルギー準位の崩壊素粒子に着目。この崩壊活動がまだ未特定な崩壊生成物<!--(精製中に分離されたが、純粋なアクチニウム227から再び生じたもの)-->によって引き起こされた可能性がある、とペレーは考察した。様々な試験により、その未知の元素が<!--トリウム、ラジウム、鉛、ビスマス、またはタリウムである可能性が排除された。その新しい生成物は-->アルカリ金属の化学的性質(セシウム塩との共沈など)を示したことで、ペレーはそれをアクチニウム227の[[アルファ崩壊]]によって引き起こされた元素番号87の元素だと確信した<ref name="chemeducator">Adloff, Jean-Pierre; Kaufman, George B. (25 September 2005). [http://chemeducator.org/sbibs/s0010005/spapers/1050387gk.htm Francium (Atomic Number 87), the Last Discovered Natural Element] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20130604212956/http://chemeducator.org/sbibs/s0010005/spapers/1050387gk.htm |date=4 June 2013 }}. ''The Chemical Educator'' '''10''' (5). Retrieved 26 March 2007.</ref>。 :{{nuclide|actinium|227}} {{overunderset|→|α (1.38%)|21.77 y}} '''{{nuclide|francium|223}}''' {{overunderset|→|β<sup>-</sup>|22 min}} {{nuclide|radium|223}} {{overunderset|→|α|11.4 d}}{{nuclide|radon|219}} 周期表でフランシウムの下に存在する筈だとされている第1族元素が、元素番号119の仮名[[ウンウンエンニウム]](Uue)である<ref name="Uue">{{cite book |title= The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements |editor1-last= Morss|editor2-first= Norman M. |editor2-last= Edelstein |editor3-last= Fuger|editor3-first= Jean |last1= Hoffman|first1= Darleane C. |last2=Lee|first2=Diana M. |last3=Pershina|first3=Valeria |chapter= Transactinides and the future elements |publisher= Springer |year= 2006 |isbn= 978-1-4020-3555-5 |location= Dordrecht, The Netherlands |edition= 3rd }}</ref>{{rp|1729-1730}}。ウンウンエンニウム合成の試みは、1985年に米カリフォルニア州の重イオン線形加速器(superHILAC)で標的の[[アインスタイニウム]]254に[[カルシウム]]48イオンを衝突させる実験が初めて行われたが、同原子は確認されなかった<!-- leading to a limiting yield of 300 nb--><ref name="link">{{cite journal |title=Search for superheavy elements using <sup>48</sup>Ca + <sup>254</sup>Es<sup>g</sup> reaction|first1=R. W. |last1=Lougheed|first2=J. H.|last2=Landrum|first3=E. K.|last3=Hulet|first4=J. F.|last4=Wild|first5=R. J.|last5=Dougan|first6=A. D.|last6=Dougan|first7=H.|last7=Gäggeler|first8=M.|last8=Schädel|first9=K. J.|last9=Moody|first10=K. E.|last10=Gregorich|last11=Seaborg|journal=Physical Review C|year=1985|pages=1760-1763|volume=32|issue=5|bibcode= 1985PhRvC..32.1760L|doi=10.1103/PhysRevC.32.1760|pmid=9953034 |first11=G.}}</ref><ref name="vanderkrogt-uue">{{cite web |publisher= Elementymology & Elements Multidict|title= Ununennium |first= Peter|last= van der Krogt|url= http://elements.vanderkrogt.net/element.php?sym=Uue|access-date= 14 February 2011}}</ref>。 :{{nuclide|einsteinium|254|link=y}} + {{nuclide|calcium|48|link=y}} → {{overunderset||302|119}}Uue* → 原子できず<ref group="注">*(アスタリスク)は、[[励起状態]]を表す。</ref> アインスタイニウム254(これは質量が大きく、半減期が270日と比較的長く、超重元素の製造に適している)<ref>{{cite journal |last1=Schadel|first1=M.|last2=Brüchle|first2=W.|last3=Brügger|first3=M.|last4=Gäggeler|first4=H.|last5=Moody|first5=K.|last6=Schardt|first6=D.|last7=Sümmerer|first7=K.|last8=Hulet|first8=E.|last9=Dougan|first9=A.|last10=Dougan|title=Heavy isotope production by multinucleon transfer reactions with <sup>254</sup>Es|journal=Journal of the Less Common Metals|volume=122|pages=411-417|year=1986|doi=10.1016/0022-5088(86)90435-2|first10=R. J.|last11=Landrum|first11=J. H.|last12=Lougheed|first12=R. W.|last13=Wild|first13=J. F.|last14=O'Kelley|first14=G. D.|last15=Hahn|first15=R. L.|display-authors=9|url=https://zenodo.org/record/1253958}}</ref>を実験に充分なほど製造する作業も非常に困難であることを考えると、近い将来にこの反応がウンウンエンニウム元素を生じさせる可能性は極めて低い<ref name="link" />。アインスタイニウムは自然界で発見されておらず実験室で作られるのみであり、超重元素の効率的合成に必要な量よりも少ない量しか製造されていないためである。ただし、ウンウンエンニウムが拡張周期表で最初の[[第8周期元素]]に過ぎないことを考えると、近い将来に他の反応から発見される可能性があり、実際に[[日本]]で合成の試みが現在進行中である<ref name=Enyo>{{Cite news|url=https://www.chemistryworld.com/news/hunt-for-element-119-to-begin-this-year/3007977.article|title=Hunt for element 119 set to begin|newspaper=Chemistry World|date=12 September 2017|access-date=9 January 2018}}</ref><ref>マイナビニュース「[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20220217-2274865/ JAEAなど、原子番号119以降の元素合成のカギとなるパラメータの決定に成功]」2022年2月17日</ref>。 2022年現在、第8周期元素はまだ発見されていないが、[[中性子ドリップライン]]の不安定性から最大で元素番号128辺りまでの第8周期元素が物理的に生成できる可能性がある<ref name=EB>{{cite encyclopedia |last=Seaborg|first=G. T.|url=https://www.britannica.com/EBchecked/topic/603220/transuranium-element|title=transuranium element (chemical element)|encyclopedia=Encyclop?dia Britannica|date=c. 2006|access-date=16 March 2010}}</ref><ref name="emsley">{{cite book |last=Emsley|first=John|title=Nature's Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements|edition=New|year=2011|publisher=Oxford University Press|location=New York, NY|isbn=978-0-19-960563-7|page=593}}</ref>。これ以上に重い第1族元素合成の試みは行われておらず、その非常に大きな元素番号のため、生成するには現時点以上に強力かつ新たな技術手法が必要になる筈だとされている<ref name="Uue" />{{rp|1737-1739}}。 == 性質 == 通常アルカリ金属に分類されるリチウム、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウムは性質が非常に似通っている。ただしリチウムは直接窒素と反応するなど、一部の物性において他のアルカリ金属元素とは異なった性質を有している<ref name=CW250/>。 また、還元性を持ち、水素を除いてその酸化数は常に+1となる。アルカリ金属においては原子番号が上がるほど化学反応性、密度は大きくなり、融点、沸点は下がるという性質を持つ。 第1族元素に分類されている水素は他のアルカリ金属元素とは性質が著しく異なる。この違いは[[電子配置]]の閉殻構造の有無に起因する。アルカリ金属元素の場合、一価の陽イオンが生成すると閉殻構造の寄与により非常に安定化する。一方、水素の陽イオンであるプロトンはむき出しの正電荷であるため、電子を核から引き離すための[[イオン化エネルギー]]が非常に大きく、閉殻構造が無く安定化の寄与が存在しない。このようなs電子のふるまいの違いが、水素には共有結合性を与え、アルカリ金属元素には金属性を与えることになる。 リチウムとその他のアルカリ金属元素の違いは、リチウムのイオン半径に起因している。リチウムはイオン半径が小さいため、電荷/イオン半径比が他のアルカリ金属元素と比較して著しく大きい。そのため、反応性や化合物の性質において、1価のアルカリ金属イオンよりもむしろ、同様に電荷/イオン半径比の大きい2価のアルカリ土類金属元素である[[マグネシウム]]イオンに類似した性質を示す<ref name=CW250/>。例えば、リチウムはマグネシウムと同様、窒素と直接反応して窒化物を形成するが、他のアルカリ金属元素は窒素に対して反応しない。また、リチウムの硫酸塩は、他のアルカリ金属の硫酸塩が[[ミョウバン]]を形成するのと対照的に、ミョウバンを形成しない<ref>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 250-251頁。</ref>。 第1族元素は、[[仕事関数]]が小さく、[[原子半径]]が大きいという特徴がある。 {| class="wikitable" ! &nbsp; !! [[水素]]<br />'''<sub>1</sub>H''' !! [[リチウム]]<br />'''<sub>3</sub>Li''' !! [[ナトリウム]]<br />'''<sub>11</sub>Na''' !! [[カリウム]]<br />'''<sub>19</sub>K''' !! [[ルビジウム]]<br />'''<sub>37</sub>Rb''' !! [[セシウム]]<br />'''<sub>55</sub>Cs''' !! [[フランシウム]]<br />'''<sub>87</sub>Fr''' |- |[[電子配置]] || 1s<sup>1</sup> || <nowiki>[He]</nowiki>2s<sup>1</sup> || <nowiki>[Ne]</nowiki>3s<sup>1</sup> || <nowiki>[Ar]</nowiki>4s<sup>1</sup> || <nowiki>[Kr]</nowiki>5s<sup>1</sup> || <nowiki>[Xe]</nowiki>6s<sup>1</sup> || <nowiki>[Rn]</nowiki>7s<sup>1</sup> |- |第1イオン化エネルギー<br />(kJ·mol<sup>−1</sup>) || 1312 || 513.3 || 495.8 || 418.8 || 403.0 || 375.7 || 392.8 |- |電子付加エンタルピー<br />(kJ·mol<sup>−1</sup>) || − || − || − || − || 46.88 || 45.51 || − |- |電子親和力<br />(kJ·mol<sup>−1</sup>) || 72.77 || 59.63 || 52.87 || − || − || − || − |- |電気陰性度<br />(Allred−Rochow) || 2.20 || 0.97 || 1.01 || 0.91 || 0.89 || 0.86 || − |- |イオン半径<br />(pm, M<sup>+</sup>) || −4 (2配位) || 73 (4配位)<br /> 90 (6配位) || 113 (4配位)<br /> 116 (6配位) || 152 (6配位)<br /> 165 (8配位) || 166 (6配位)<br /> 175 (8配位) || 181 (6配位)<br /> 202 (12配位) || − |- |共有結合半径<br />(pm) || 37 || 134 || 154 || 196 || 211 || 225 || 260 |- |van der Waals半径<br />(pm) || 120 || 182 || 227 || 275 || 244 || 343 || 348 |- |融点<br />(K) || 14.025 || 453.69 || 370.87 || 336.53 || 312.46 || 301.59 || 300 |- |沸点<br />(K) || 20.268 || 1615 || 1156 || 1032 || 961 || 944 || 950 |- |還元電位 ''E''<sup>0</sup> (V, M<sup>+</sup>/M) || 0 || −3.040 || −2.713 || −2.929 || −2.924 || −2.923 || − |} == 単体金属 == [[Image:Alkalimetalle.jpg|thumb|320px|アルカリ金属単体のサンプル]] アルカリ金属の単体は、すべて銀色の金属光沢を放つ金属である。電気伝導性および熱伝導性は、他の金属と同様極めて良好である。しかし、それ以外の性質は、他の金属と比べて特異的である。第一に、ほとんどの金属が高い融点を持つ中で、アルカリ金属は比較的融点が低く、かつ重い元素ほど低い。セシウムは常温より少しだけ高い29℃で融解する。ナトリウムはその高い熱伝導性と低い融点(98℃)が故に、原子炉の冷却材としても用いられる。また、アルカリ金属は他の金属と比べて非常に柔らかい[[金属]]である。リチウムはナイフで切断でき、カリウムはバターのように押しつぶすことができる。さらに特異な性質として、その密度の低さがあげられる。リチウム、ナトリウム、カリウムは比重が1以下で水に浮く。特にリチウムの密度は水の半分程度で、もし反応性と柔らかさにさえ目をつぶれば、船を造るのに最適な金属であろう。 いずれも反応性は高く、周期表の周期が大きくなるほど、結晶エネルギー(解離エンタルピー)が低減するため、激しく反応する傾向が見られる。リチウムおよびナトリウムの単体金属を得るためには、これらの[[酸化還元電位]]がいずれも非常に低い(つまり非常に還元されにくい)が、溶融塩を電気分解することで生産することができる<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 73-75頁。</ref>。([[水溶液]]だとH<sub>2</sub>Oが分解され[[水素]]が発生する)カリウム、ルビジウム、セシウムは低融点かつ気化しやすいため単純な電気分解による生産には適しておらず、カリウムは溶融させた塩化カリウムをナトリウム蒸気と反応させることで作られ、ルビジウムおよびセシウムはそれぞれの水酸化物を金属マグネシウムや金属カルシウムによって還元させることで得られる<ref name="CW252" /><ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 74、75頁。</ref>。代表的な工業生産法には、溶融した[[塩化ナトリウム]]に[[融点降下]]剤として[[塩化カルシウム]]を加え、それを電気分解することで金属ナトリウムを得る[[ダウンズ法]]がある<ref>{{Citation| last = JAKES CLOYD DOWNS| title = ELECTROLYTIC PROCESS AND CELL, Patent 1501756| accessdate = 2011-6-2| date = 1924-07-15| url = http://www.freepatentsonline.com/1501756.pdf}}</ref>。このアルカリ金属元素の強い還元性は他にも、有機化学の分野における[[バーチ還元]] (B&uuml;rch reduction) などに利用される。 いずれのアルカリ金属元素単体も水、あるいは空気中の酸素と反応する為に、それらを避けるために[[鉱油|ミネラルオイル]]の中に保存される。オイルを拭って放置すると自然発火することもあるので取り扱いは考慮する必要がある([[危険物#第3類|危険物3類]])。アルカリ金属の反応性の高さは原子量の大きいものほど高い傾向があるが、窒素との反応に関しては例外的にリチウムのみが直接的な反応によって[[窒化リチウム]] (Li<sub>3</sub>N)を生成する<ref name="CW250" />。[[水]]やアルコールなど[[溶媒|プロトン溶媒]]とは水素ガスを発して反応し、生成する[[水酸化物]]や金属[[アルコキシド]]などは[[強塩基]]として利用される。アルカリ金属イオンは[[ハロゲン]]イオンなど種々の[[アニオン]]と水溶性の[[塩 (化学)|塩]]を作る。これは、アルカリ金属イオンが強く水和することの寄与が大きい。これらのアルカリ金属塩の溶解性はアルカリ金属イオンの挙動に強く影響される。例えば、[[クラウンエーテル]]や[[クリプタンド]]などはアルカリ金属イオンと包摂化合物を形成し、塩は有機溶媒に可溶となることが知られている。 水とカリウムの反応は次の式であらわされる。 <chem>2K(s) + 2H_2O(l) -> 2KOH(aq) + H_2(g)</chem> アルカリ金属は一般的の金属に比べて異常に高い反応性を持つため、超金属とも呼ばれる。特に水との反応は劇的であり、重い元素ほど高い反応性を示す。 アルカリ金属元素は、いずれも[[炎色反応]]を示す<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 82頁。</ref>。ナトリウムの発光はD線と呼ばれる波長589 nmの単色光であるため、単色光でないと測定ができない[[旋光度]]を測定するための光源に利用される<ref>[[#ブルース2009|ブルース (2009)]] 239頁。</ref>。このD線は、実際は1本の輝線ではなく、波長589.592 nmのD<sub>1</sub>線と波長588.995 nmのD<sub>2</sub>線の2本に分かれた双子線である。これは、ナトリウムの最外殻電子のスピンが2方向あるためであり、同様の理由によりナトリウム以外のアルカリ金属元素のスペクトルも双子線となる<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 83頁。</ref>。[[セシウム]]のみは励起に必要な高温を得るために、酸水素炎で観察する必要がある。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !リチウム!!ナトリウム!!カリウム!!ルビジウム!!セシウム!!フランシウム |- |深紅色||黄色||紫色||深赤色||青紫色||未確認 |} [[フランシウム]]は[[放射性同位体|放射性元素]]で天然からは産出されないが、核反応により少量合成されアルカリ金属としての物性を持つことが確認されている。余談だが、フランスの科学者ペレーがこのアルカリ金属を単離した際に、母国にちなんでフランシウムと名付けた。またガリウムはフランスを表すラテン語のガリアにちなんで名づけられており、フランスは二つの元素の命名の由来となっている。 アルカリ金属の単体は低温においてはいずれも[[体心立方格子]]の等軸晶系の結晶であるが、常温においてはカリウム、ルビジウム、セシウムは正方晶系の結晶となる<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 83、84頁。</ref>。 [[仕事関数]]が小さいという特長を活かして[[光電子増倍管]]の光電面材料にはアルカリ金属を主成分とした合金が利用され<ref>{{citation|title=光電子増倍管 構造・特性|url=http://www.kdenki.com/Datasheet/%95l%83z%83g/PMT_4-15.pdf|page=6|accessdate=2011-8-27}}</ref>、[[スーパーカミオカンデ]]で使用されたものではバイアルカリと呼ばれるSb-K-Cs合金が用いられている<ref>{{citation|title=光電子増倍管|url=http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/detector/pmt.html|accessdate=2011-8-27|publisher=Kamioka Observatory, ICRR, Univ. of Tokyo}}</ref>。 === リチウム<ref name=":0">{{Cite book|title=Muki kagaku.|url=https://www.worldcat.org/oclc/1022213386|publisher=東京化学同人|date=2009|isbn=978-4-8079-0684-0|oclc=1022213386|others=Rayner-Canham, Geoffrey., Overton, T. (Tina), Nishihara, hiroshi., Takagi, shigeru., Moriyama, hiroshi., 西原, 寛}}</ref> === すでに述べたように、リチウムは全金属中で最も低い密度を持つ。この軽さは航空産業や宇宙産業で用いる材料の素材として極めて有用である。例えば合金の一種であるLA 141(リチウム14%、アルミニウム1%、マグネシウム85%)の密度は1.35 g/㎝^3であり、現在最も広く用いられている低密度金属の一つである。 金属リチウムは銀色を呈するが、空気にさらすと速やかに酸素と反応して黒変する。窒素と反応する元素は周期表全体でみても元々少数であるが、リチウムはその中の唯一のアルカリ金属である。窒素分子の三重結合の結合エネルギーは945 kJ/molであり、これより安定な窒化物を与えるためには、生成物の格子エネルギーを十分に高める必要がある。アルカリ金属中では、最も高い電子密度を誇るリチウムのみがこの条件を満足することができる。 <chem>6Li(s) + N_2(g) -> 2Li_3N(s)</chem> このように生成された窒化リチウムは決して安定ではなく、水を加えるとアンモニアと水酸化物を生じる。 <chem>Li_3N(s) + 3H_2O(l)-> 3LiOH(aq) + NH_3(g)</chem> 液体リチウムは最も腐食性の高い物質と知られ、例えばリチウムをガラス容器の中で溶解させたときには、ガラスと反応して容器に穴をあけるほどである。さらに、リチウムはすべての元素のうち最も低い標準電極電位を示す。 === ナトリウム<ref name=":0" /> === ナトリウムは他のアルカリ金属と同様、非常に高い反応性を示すため、単体は天然には存在しない。しかしながら、金属ナトリウムは産業からの需要が最も大きい金属の一つである。金属ナトリウムは多くのナトリウム化合物の合成に用いられるが、最も有用な利用は他の希少金属の還元に使うことであろう。例えば金属チタンは四塩化チタンを金属ナトリウムで還元することで得られる。 <chem>TiCl_4(l) + 4Na(s)->Ti(s) + 4NaCl(s)</chem> 生成系を水で洗い流せば金属チタンが残る。 金属ナトリウムの別の使い方は、オクタン価を上げるためのガソリン添加剤の原料である。テトラエチル鉛(アンチノック剤)の製造に鉛-ナトリウム合金が使用される。 <chem>4NaPb(s) + 4C_2H_5Cl(g) -> (C_2H_5)_4Pb(l) + 3Pb(s) + 4NaCl(s)</chem> テトラエチル鉛は毒性が強く、また使用後の廃棄物によって鉛汚染を引き起こすため、各国で規制の流れがあるが、今もなお多くの国で使用されている。 金属ナトリウムは塩化ナトリウムを適切に電気分解することで得られる(タウンズ法)。この方法では塩化カルシウムを添加して融点を引き下げた融解塩化ナトリウムを、陽極にグラファイト、陰極に鉄を用いて電気分解する。純粋な塩化ナトリウムの融点は800.4℃であるが、67%を塩化カルシウムに置き換えることで融点を580℃まで引き下げることができ、工業化の範疇となる。このようにして得られた液体金属ナトリウムは2%のカルシウムを含むが、110℃まで冷却するとカルシウム(融点842℃)は固化して沈んでしまい、ナトリウム(融点98℃)を純粋な形で得ることができる。 === カリウム<ref name=":0" /> === 天然のカリウムは放射性同位体であるカリウム40を0.012%含む。カリウム40にはβ壊変によってカルシウム40になる経路と電子捕獲によってアルゴン40になる経路の二つがある。カリウム40の約11%が後者の経路を通る。すでに固化したマグマの中でこの反応が起こると、発生したアルゴンは岩石に閉じ込められることとなる。これを用いた岩石の年代測定が広く行われている。 金属カリウムの製法は他と比べてエレガントで面白い。金属カリウムはあまりにも反応性が高いため、電解槽で生成して集めるのは現実的な方法ではない。化学的に還元してやれば良い。すなわち850℃で液体金属ナトリウムと液体塩化カリウムを直接反応させる。 <chem>Na(l) + KCl(l) -> NaCl(l) + K(g)</chem> イオン化傾向系列でカリウムはナトリウムの左にくる為、通常この可逆反応はあまり右に進まない。しかしこの温度ではカリウムは気体となるので、反応で生じたカリウムガスを系外に吸い出し続ければ、ルシャトリエの原理により反応を無理やり右向きに進行させることができる。 == 化合物 == === 水素化物 === 乾燥条件下においてアルカリ金属を水素気流下で加熱することによって、アルカリ金属は一般式 MH で表されるような1価の[[水素化物]]を形成するが、これらは[[水素化リチウム]]を除き不安定であり<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 81、87頁。</ref>、成分元素単体に乖離しやすい。また水の存在下では容易に[[加水分解]]を受けてアルカリ金属水酸化物と水素に分解する。これらの水素化物は塩化ナトリウム型構造を取るイオン型水素化物であり<ref name="belllott290">[[第1族元素#ベルロット1968|ベル、ロット (1968)]] 290頁。</ref>、[[水素#ヒドリド|ヒドリド]]供与体として、[[塩基]]や[[還元剤]]として利用される。また、[[水素化ホウ素ナトリウム]]や[[水素化アルミニウムリチウム]]などの三元化合物も形成される<ref name=belllott290/>。 === 酸化物 === アルカリ金属は、一般式 M<sub>2</sub>O で表される[[酸化物]]を形成する。空気中の[[酸素]]と直接反応するため、新鮮なアルカリ金属単体の切断面は金属光沢を示すものの、速やかに酸化物など(一部は水酸化物)に覆われて光沢を失う。 また、空気中で燃焼させるとリチウムでは主に酸化物を生成するが、ナトリウムでは主に一般式 M<sub>2</sub>O<sub>2</sub> であらわされる[[無機過酸化物|金属過酸化物]]を形成し、カリウム以上の周期の元素の場合は一般式 MO<sub>2</sub> で表される[[超酸化物|金属超酸化物]]も形成することが知られている。これはイオン半径の大きな陽イオンほど、格子エネルギー効果によって対となる大きな陰イオンを安定化させることができ、不安定な過酸化物イオンや超酸化物イオンとでも安定な化合物が形成できるためである<ref name=CW255>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 255頁。</ref>。一方、[[過酸化リチウム]]を形成するためには金属リチウムを過酸化水素と反応させる必要があり<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 90頁。</ref>、[[超酸化ナトリウム]]を形成するためには高温高圧の条件が必要となる<ref name="belllott291">[[#ベルロット1968|ベル、ロット (1968)]] 291頁。</ref>。アルカリ金属元素の超酸化物は全て[[常磁性体]]であり、歪んだ塩化ナトリウム型構造を取る<ref name="belllott291" />。また、アルカリ金属の[[水酸化物]]と[[オゾン]]との反応によって[[オゾン化物]]が形成される<ref>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 496頁。</ref>。このオゾン化物の安定性もまた、対となる陽イオンのイオン半径の大きさに比例する<ref>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 497頁。</ref>。 アルカリ金属は[[電気陰性度]]が低く電気的に非常に陽性であるため、酸化物は発熱を伴い水と激しく反応して水酸化物を生成し、過酸化物は激しく加水分解して[[過酸化水素]]あるいは酸素を発生させ、超酸化物も水溶液中では次第に分解して酸素を発生する<ref name=CW255/>。 アルカリ金属に限定しない酸化物の一般的性質については、[[酸素]]・[[酸化物]]それぞれの項目を参照のこと。 === 水酸化物 === アルカリ金属は、一般式MOHで表される[[水酸化物]]を形成する。低融点な無色の結晶であり、融点付近の350{{℃}}から400{{℃}}で昇華する<ref name="名前なし-1">[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 256頁。</ref>。[[水酸化リチウム]]を除いて全て[[潮解性]]を有し、水やアルコールには発熱しながら容易に溶解する<ref name=chitani9394>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 93、94頁。</ref>。アルカリ金属の水酸化物の水溶液では、アルカリ金属イオンと水酸化物イオンにほぼ完全に電離しているため非常に強い塩基性を示す<ref name=chitani93>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 93頁。</ref>。気体状態においては(MOH)<sub>2</sub>で表される[[二量体]]を形成し、気体状態における塩基性の強さはアルカリ金属の原子量が大きくなるほど塩基性が強くなるが、溶液中における塩基性の強さは[[溶媒効果]]などの影響を受けるためこの限りではない<ref name="名前なし-1"/>。また非常に強い腐食性を有し、溶融状態においては[[白金]]すらも侵食する<ref name=chitani9394/>。空気中の[[二酸化炭素]]を吸収して[[炭酸塩]]を形成しやすく<ref>[[#櫻井鈴木中尾2003|櫻井、鈴木、中尾(2005)]] 25頁。</ref>、市販の水酸化物はわずかに炭酸塩を含んでいる。例えば、[[日本産業規格]](JIS)において[[試薬]]の水酸化ナトリウムや水酸化カリウムでは炭酸塩の含量が1.0 %以下でなければならないと規定されている<ref>日本産業規格 [https://www.jisc.go.jp/app/jis/general/GnrJISNumberNameSearchList?show&jisStdNo=K8576 JIS K 8576], [https://www.jisc.go.jp/app/jis/general/GnrJISNumberNameSearchList?show&jisStdNo=K8574 JIS K 8574]</ref>。 アルカリ金属の水酸化物は、工業的には対応するアルカリ金属の塩化物の[[電気分解]]や、アルカリ金属の炭酸塩または硫酸塩とアルカリ土類金属の水酸化物とを[[複分解]]させることによって得られる<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 93頁。</ref>。ナトリウムおよびカリウムでは前者の電解法が、ルビジウムおよびセシウムでは後者の複分解法が主に用いられている<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 94頁。</ref>。アルカリ金属の水酸化物の中でも[[水酸化ナトリウム]]は安価なアルカリ源他様々な用途に用いられる工業的に非常に重要な物質であり、日本において2010年度で年間902,178トンもの量が消費されている<ref>{{citation|url=http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/ichiran/02_kagaku.html|title=化学工業統計 2010年度年報|publisher=経済産業省|accessdate=2011-6-2}}</ref>。 === ハロゲン化物 === 一般に、アルカリ金属の[[ハロゲン]]化物は常温で固体であり、[[フッ化リチウム]] (LiF、溶解度は水100gに対して0.27g(18{{℃}}))<ref name=chitani102/>や[[フッ化ナトリウム]] (NaF、溶解度は水100gに対して4g(0{{℃}}))<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 103頁。</ref>などの例外はあるものの、ほぼ全て水溶性が高い塩である。上記で述べられているように、塩の水溶性に大きく関与する要因として、アルカリ金属イオンの水和で得られるエネルギーとイオン結晶格子の切断にともない失われるエネルギーとの収支の損得が挙げられる(記事 [[溶液]]・[[溶解]] に詳しい)。フッ化リチウムの水溶性が低い(25 ℃ にて、0.13 g/100 mL)ことについては、フッ化物イオン (F<sup>−</sup>) もリチウムイオン (Li<sup>+</sup>) も[[イオン半径]]が同程度に小さいためにフッ化リチウムの結晶格子は小さく強い結合から成る一方、フッ化リチウムの結晶が溶解してイオンが水和を受ける際の水和エネルギーは大きいものの[[格子エネルギー]]を打ち消す程ではない事による<ref>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 257頁。</ref>。 {| class="wikitable" style="float:left; text-align:center;" !style="width:7em;"|物質 !style="width:9em;"|格子エネルギー<br /><math>U</math> !style="width:12em;"|水和エンタルピー変化<br /><math>\Delta_{\mathrm{hyd}} H</math> !style="width:12em;"|溶解エンタルピー変化<br /><math>\Delta_{\mathrm{sol}} H</math> !style="width:12em;"|溶解エントロピー変化<br /><math>\Delta_{\mathrm{sol}} S</math> !style="width:16em;"|溶解ギブス自由エネルギー変化<br /><math>\Delta_{\mathrm{sol}} G</math> |- | [[フッ化リチウム]] | 1046.4 kJ mol<sup>−1</sup> || −1041.5 kJ mol<sup>−1</sup> || 4.8 kJ mol<sup>−1</sup> || −36.1 J mol<sup>−1</sup>K<sup>−1</sup> || 15.6 kJ mol<sup>−1</sup> |} {{-}} アルカリ金属のハロゲン化物の水溶液の [[水素イオン指数|pH]] は中性に近いことが多いが、フッ化物やヨウ化物の中には微弱な塩基性を示すものがある(例:飽和 NaF 水溶液で、pH 7.4)。これは[[フッ化水素]]が弱酸でありフッ化物イオンが僅かに[[加水分解]]すること、また[[ヨウ化水素]]は[[強酸]]であるものの、[[ヨウ化物]]イオンが酸化されやすく極一部が[[次亜ヨウ素酸]]塩などに変化していることによる。アルカリ金属のハロゲン化物の熱的な安定性は、アルカリ金属側の原子番号が大きいほど安定であり、またハロゲン側の原子番号が小さいほど安定である<ref>[[#ベルロット1968|ベル、ロット (1968)]] 292頁。</ref>。 一連のハロゲン化物の中で、地球上に最も広く存在するものが[[塩化ナトリウム]] (NaCl) である。 ==== 構造 ==== [[File:Action potential ion sizes.svg|thumb|right|200px|アルカリ金属イオンと塩素イオンのイオン半径]] アルカリ金属元素のハロゲン化物はいずれも単純な[[立方晶|等軸晶系]]を取る<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 100頁。</ref>。リチウム、ナトリウム、カリウムおよびルビジウムのハロゲン化物は通常6配位の「塩化ナトリウム型構造」と呼ばれる最密充填構造である[[面心立方格子]]を取り、フッ化セシウム以外のハロゲン化セシウムは8配位の「塩化セシウム型構造」と呼ばれる最密充填構造ではない[[体心立方格子]]を取る<ref>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 101-102頁。</ref>。しかし、[[塩化ルビジウム]]は低温では塩化セシウム型構造を優先的に形成することが知られており<ref name="Pyper">{{cite journal |author=Pyper, N.C.; Kirkland, A. I.; Harding, J. H. |title=Cohesion and polymorphism in solid rubidium chloride |journal=Journal of Physics: Condensed Matter |volume=18 |pages=683–702 |year=2006 |url=http://www.iop.org/EJ/abstract/0953-8984/18/2/023 |doi=10.1088/0953-8984/18/2/023 }}</ref>、また[[塩化セシウム]]は445{{℃}}で塩化ナトリウム型構造へと[[相転移]]する<ref name=chitani102>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 102頁。</ref>。このようなハロゲン化物の構造の違いはアルカリ金属元素とハロゲン化物イオンのイオン半径比によるものであり、イオン半径比 (r<sup>+</sup>/r<sup>-</sup>)0.72を境に構造の変化が起こる<ref name=basic132>[[#櫻井鈴木中尾2003|櫻井、鈴木、中尾(2005)]] 132頁。</ref>。これは、イオン結晶が配位数の多さおよび陽イオンと陰イオン同士の充填率の高さによって安定化する性質に由来しており、[[剛体|剛体球]]近似による理論計算から、陽イオンと陰イオンのイオン半径比が小さい(陽イオンのイオン半径が小さい)と少ない配位数で密に詰まる方が安定であり、陽イオンと陰イオンのイオン半径比が大きい(陽イオンのイオン半径が大きい)と多い配位数で最密充填を取らない方が安定となるためである<ref>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 14-15頁。</ref>。 == 合金 == アルカリ金属は[[水銀]]と反応して[[アマルガム]]を形成する<ref name=CW253>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 253頁。</ref>。ナトリウムのアマルガムは、高純度な水酸化ナトリウムを製造するための水銀法とよばれる手法において用いられる<ref>[[#足立岩倉馬場2004|足立、岩倉、馬場 (2004)]] 31頁。</ref>。また、ナトリウムアマルガム電極として、通常の電極を用いることができないアルカリ金属の電極反応などにも利用される<ref>[[#小出2003|小出 (2003)]] 136頁。</ref>。ナトリウムアマルガムは、ナトリウムの割合を増やせば固体、減らせば液体となる性質があり強力な還元剤としても用いられる<ref name=CW253/>。 リチウム以外のアルカリ金属元素は、溶融させることでそれぞれ任意の割合で混合して合金を与えるが、リチウムはナトリウムとは380{{℃}}以上の条件で合金を作ることができるものの、それ以外のアルカリ金属元素とは合金を作ることができない<ref name=CW250>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 250頁。</ref>。アルカリ金属同士の合金で重要なものは[[ナトリウムカリウム合金]]であり、カリウム含有率77.2 %のもので融点が-12.3{{℃}}と常温で液体な低融点合金である<ref name=CW252>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 252頁。</ref>。その高い比熱によって核反応における熱媒体としての利用が検討されていたが、より安全な溶融ナトリウムへと移りこの用途では現在用いられていない<ref name=CW252/>。また、[[モル濃度]]で41%のセシウム、47%のカリウム、12%のナトリウムからなる合金は、すべての合金の中で最低の融点 (−78 {{℃}}) を持つ<ref name="autogenerated1">{{cite web|url=http://pubs.acs.org/cen/80th/print/cesium.html |title=C&EN: It's Elemental: The Periodic Table – Cesium |publisher=American Chemical Society|accessdate=2010-02-25|author=Kaner, Richard|year = 2003}}</ref><ref>{{cite web|url=http://symp15.nist.gov/pdf/p564.pdf|format=PDF|title=Density of melts of alkali metals and their Na-K-Cs and Na-K-Rb ternary systems|author=Taova, T. M. ''et al.''|work=Fifteenth symposium on thermophysical properties, Boulder, CO, USA|date=June 22, 2003|accessdate=2010-09-26}}</ref> ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=F.A. コットン, G. ウィルキンソン|others=中原 勝儼|title=コットン・ウィルキンソン無機化学(上)|publisher=培風館|year=1987|edition=原書第4版|isbn=4563041920|ref=CW1987}} * {{Cite book|和書|author=足立吟也、岩倉千秋、馬場 章夫|year=2004|title=新しい工業化学-環境との調和をめざして|ref=足立岩倉馬場2004|isbn=4759809554}} * {{Cite book|和書|author=小出直之|year=2003|title=ビギナーズ化学|publisher=化学同人|ref=小出2003|isbn=4759808779}} * {{Cite book|和書|author=櫻井武、鈴木晋一郎、中尾安男|year=2003|title=ベーシック無機化学|publisher=化学同人|ref=櫻井鈴木中尾2003|isbn=4759809031}} * {{Cite book|和書|author=千谷利三|year=1959|title=新版 無機化学(上巻)|publisher=産業図書|ref=千谷1959}} * {{Cite book|和書|author=C.F.ベル、K.A.K.ロット|other=奥野久輝ほか|year=1968|edition=第2版|title=ベル・ロット無機化学-その現代的理解のために|publisher=東京化学同人|ref=ベルロット1968}} * {{Cite book|和書|author=P.Y.ブルース|others=大船泰史ほか|year=2009|edition=第5版|title=ブルース有機化学(上)|publisher=化学同人|ref=ブルース2009|isbn=4759811680}} == 関連項目 == *[[元素の族]] *[[周期表]] {{元素周期表}} [[Category:周期表の族|#01]]
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EMS
EMS
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EMS
'''EMS''' == 固有名称 == * [[国際スピード郵便]] ({{en|Express Mail Service}}) - 各国の郵便で行われている海外への配達サービスの1つで、追跡システムを持つ。 * [[Expanded Memory Specification]] - MS-DOS上でのメモリ拡張手法。 * [[ヨーロッパ通貨制度]] ({{en|European Monetary System}}) * [[エレクトロニック・ミュージック・スタジオ]] ({{en|Electronic Music Studios}}) - イギリスの電子楽器メーカー。 * [[エディンバラ数学会]] ({{en|Edinburgh Mathematical Society}}) - イギリス スコットランドの数学学会。 * [[ヨーロッパ数学会]] ({{en|European Mathematical Society}}) - ヨーロッパの学術団体。 * [[拡張メッセージサービス]] ({{interlang|en|Enhanced Messaging Service}}) - [[ショートメッセージサービス]]を拡張したサービス。 * [[ヨーロッパ震度階級]] ({{interlang|en|European Macroseismic Scale}}) - ヨーロッパ諸国などで使われている震度階級。 * [[E・M・S・ナンブーディリパド]] ({{interlang|en|E. M. S. Namboodiripad}}) - インドの政治家。 * [[エコドライブ管理システム]] ({{en|Eco-drive Management System}}) - トラックのデジタルタコメーターを用いた省エネルギーシステム。 *[[Essential Management School]] - Essential Management Schoolの略、あるいはその運営団体の一般社団法人EMS。 == 一般名称 == * [[EMS (製造業)|電子機器の受託生産]] ({{en|electronics manufacturing service}}) - 製品製造および開発工程のアウトソーシング。 * [[環境マネジメントシステム]] ({{en|environmental management system}}) - 企業などの活動を、環境にいかに負担をかけないものにするかを追求するシステム。 * [[救急隊]] ({{en|emergency medical service}}) - 消防本部の救急隊員が身につけている衣類や救急車などにマーキングされていることがある。各々の救急隊員はEMT ({{en|emergency medical technician}})。 * [[電磁スペクトル]] ({{en|electromagnetic spectrum}}) * [[電気的筋肉刺激]] ({{interlang|en|electrical muscle stimulation}}) - [[低周波#医療・トレーニング]]を参照。低周波以外も使われる。 * [[エネルギー管理システム]] ({{interlang|en|energy management system}}) - 電力供給や省エネのために電力の運用を管理するシステム。 * [[好酸球増加筋肉痛症候群]] ({{interlang|en|eosinophilia–myalgia syndrome}}) - [[トリプトファン事件]]で多発した疾病。 * [[早期死亡症候群]] ({{interlang|en|necrotising hepatopancreatitis|early mortality syndrome}}) - エビの病気。 * [[エチルメタンスルホン酸]] ({{interlang|en|ethyl methanesulfonate}}) - [[アルキル化剤]]の一種。 * [[電磁サスペンション]] ({{interlang|en|electromagnetic suspension}}) - 電磁力で浮上することによるサスペンション。 * [[電子マニフェストシステム]] ({{en|electronic manifest system}}) - 積荷目録(マニフェスト)を電子化したシステム。貿易などで使われる。日本で産廃処理追跡に使われている[[マニフェスト制度]]もその1つ。 *[[電磁感受性]]({{en|Electromagnetic Susceptibility}}) - [[電磁両立性|EMC]](electromagnetic compatibility), [[EMI]](electromagnetic interference)とともに電磁環境の指針の一つ。 {{Aimai}}
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酒井氏
酒井氏(さかいし)は、武家・華族だった日本の氏族。三河国の在地領主から、江戸時代には譜代大名となり、老中や大老が選任された。維新後、酒井氏からは9家が華族に列した(伯爵家3家、子爵家4家、男爵家2家)。 西三河の坂井郷から起こった土豪で松平氏の別流。 戦国期に松平氏とともに勢力を広げ、近世には井伊氏・本多氏・榊原氏とともに譜代大名中最高の家格の門閥譜代層を構成し、一族から多数の大老や老中を出している。雅楽頭酒井氏と左衛門尉酒井氏の2系統があるが、いずれも大名家、旗本家を分出。 明治維新後、現米5万石以上の中藩知事だった姫路酒井家、大泉(庄内)酒井家、小浜酒井家の3家が伯爵、現米5万石未満の小藩知事だった敦賀酒井家、鞠山(伊勢崎)酒井家、加知山(勝山)酒井家(明治32年爵位返上)、松嶺(松山)酒井家の4家は子爵に叙せられた。また姫路酒井伯爵家の分家の酒井忠惇、酒井忠績が男爵に叙せられた。 酒井氏は元来、大江忠成の子孫を称する海東氏で、三河国碧海郡酒井郷あるいは同国幡豆郡坂井郷の在地領主である。14世紀の末頃に酒井郷の領主であった酒井忠明の子が酒井忠時(酒井太郎左衛門少尉忠時)で、さらに忠時の子に当たる酒井忠則は、新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を娘婿に迎えたという。その間に生まれた子が酒井広親(庶長子)で、成長した広親は親氏系の酒井氏の始祖となったとされる。 もとよりこれらは、松平氏の出自に関するのと同類の仮冒であって、松平氏と同族の清和源氏新田氏流であることを主張するために、家康の時代以降に創作されたものとされる。その真意は不明だが、愛知県西尾市吉良町荻原字小野の酒井氏先祖の墓に長阿弥(新田有親)の墓も設けられた。 酒井広親は松平郷にて松平氏に仕え、譜代家臣となったとされる。その後の酒井氏は、広親の子から2家に分かれる(あるいは、広親の子の酒井五郎親時の子の時ともされる)。 酒井氏の家紋は新田氏以来の 片喰紋であり、一族や子孫は、それに装飾を加えた「丸に片喰」や「丸に剣片喰」などの家紋を用いた。 『柳営秘鑑』には、徳川家の三つ葉葵の家紋が、酒井氏より由来することが詳細に記載されている。 よって、これより松平氏は三ツ葉葵紋を我家の紋として、この吉例を子孫に伝遍したという。 左衛門尉家()は、酒井広親の長子氏忠の家系であると伝わっているが、左衛門尉系は徳川家康に仕えた酒井忠次の父から系譜が書かれており、その間の系譜は明確ではない。 1564年(永禄7年)に忠次は家康より三河吉田城主に取り立てられ、家康が三河を支配する過程で東三河は忠次が旗頭に任命されて支配した。忠次の子家次の代の天正18年(1590年)に家康は豊臣秀吉の命で関東に移封され、それに従って家次も関東へ移住して下総国臼井城主となり、3万石を領した。 関ヶ原の戦い後、家康が豊臣氏から権力を簒奪すると家次は慶長9年(1604年)に2万石加増されて上野国高崎藩5万石に移封された。さらに元和2年(1616年)に5万石加増されて越後国高田藩10万石に移封された。 家次の子酒井忠勝は元和8年(1622年)に3万石加増されて出羽国庄内藩(鶴岡藩)に移封された。さらに寛永9年(1632年)にも1万2000石が加増されて都合14万石余となった。 正保4年(1647年)には忠勝の子忠当が弟酒井忠恒に新田2万石を分与した(出羽松山藩)。安永8年(1779年)に5000石加増があり、都合2万5000石を領した。 幕末の庄内藩主忠篤は奥羽越列藩同盟の一翼を担って官軍に抗したことにより、反逆の責任により官位褫奪のうえ蟄居となり、明治元年(1868年)12月7日に庄内藩は改易となったが、同月15日にその弟忠宝に岩代国会津藩12万石が与えられることで家名存続が許された。翌年6月には磐城国平藩に転封となり、同地で版籍奉還を迎えて平藩知事に就任したが、その翌月には庄内藩に再移封となった。9月に藩名を大泉藩に改名し、その後1871年(明治4年)の廃藩置県まで大泉藩知事を務めた。 分家の松山藩主忠良も忠篤と共に官位褫奪・蟄居となったが、その息子忠匡に2500石減封の2万2500石の領地が与えられて家名存続が許された。明治2年(1869年)の版籍奉還の際に藩名を松山から松嶺に改名して松嶺藩知事に就任。明治4年の廃藩置県まで藩知事を務めた。 明治2年(1869年)の版籍奉還に際して華族制度が誕生し、大泉家も松嶺家も華族に列した。華族令施行後の明治17年(1884年)7月7日に大泉酒井家の当時の当主酒井忠篤が旧中藩知事として伯爵に叙された。また松嶺酒井家の忠匡は同年7月8日に旧小藩知事として子爵に叙せられた。 大泉酒井伯爵家の邸宅は山形県鶴岡市家中新町にあった。かなり富裕であり、忠宝の養子となって同家の伯爵位を継いだ酒井忠良伯爵(忠篤の子)は山形県の多額納税者になっている。松嶺酒井子爵家の邸宅は東京市本郷区駒込千駄木町にあった。 広親の次男とされる酒井家忠の家系は、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家()と呼ばれる。酒井雅楽助正親は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとりで、永禄4年(1561年)もしくは永禄5年(1562年)に家康の三河支配の過程で三河西尾城主に取り立てられた。 その子重忠は家康の関東移封で武蔵国川越城を与えられて1万石を領した。重忠の子忠世は家督前に自身に与えられた領地と合わせて家督後に前橋藩主8万5000石を領し、幕府の老中となり、加増されて12万石を領したが、家光の代になると疎まれて老中を解任された。 忠世の孫忠清は寛永14年(1637年)の家督の際に弟忠能に2万2500石を分与して(上野国伊勢崎藩、のち駿河国田中藩主)、10万石となったが、徳川家綱の代に老中首座(大老とも)として権勢をふるい「下馬将軍」と称され、加増により15万石を領した。忠清は家綱死去時に有栖川宮幸仁親王の宮将軍擁立を図ったとする説もあるが、定かではない。その後徳川綱吉に疎まれて失脚した。また駿河田中藩主4万石になっていた弟の酒井忠能は綱吉に改易された。 忠清の子忠挙は弟忠寛に2万石を分与し(上野国伊勢崎藩)、13万石となる。忠相の代の宝永4年(1707年)に新田2万石が本領に加えられて15万石に戻った。忠恭の代の寛永2年(1749年)に播磨国姫路藩へ移封した。 幕末の姫路藩主酒井忠績は江戸幕府の最後の大老となり、明治28年(1895年)に死去、墓地は染井霊園であるが、近年、無縁墓となり、撤去が予定されている。 慶応3年(1867年)に忠績から家督を継いだ弟酒井忠惇は老中となり、王政復古直後に徳川慶喜らが起こした鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に参加して大敗し慶喜とともに江戸に逃走。これにより姫路藩は官軍の備前藩軍から追討を受け、家臣が開城して謝罪。忠惇も直ちに老中を辞したが、朝廷により官位褫奪され、養子の忠邦に家督を譲って蟄居した。またこの際に官軍に軍資金15万両を献上した。減封はなく、忠邦は明治2年(1869年)の版籍奉還で姫路藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。 伊勢崎藩は本藩と違い、ただちに新政府に恭順している。最後の伊勢崎藩主酒井忠彰は明治2年(1869年)の版籍奉還で伊勢崎藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。 明治17年(1884年)の華族令施行により華族が五爵制になり、同年7月8日に伊勢崎酒井家の忠彰が旧小藩知事として子爵に叙された。姫路酒井家は当時女戸主の酒井文子だったため叙爵が遅れ、明治20年(1887年)6月23日に酒井忠興の代に伯爵に叙された。さらに1889年(明治22年)5月11日には隠居していた忠惇と忠績も姫路酒井伯爵家の分家華族として、それぞれ男爵に叙されている。 姫路酒井家の初代伯爵である忠興の後に爵位を継いだ酒井忠正伯爵は右翼運動に近づき、東洋人の自覚と文化の普及に努めるためとして亜細亜文化協会を結成し、後に黒維会となった。黒維会は1931年(昭和6年)の満州事変以降に親軍的反政党政治的「新官僚」運動の思想的な母体となった。1930年にドイツを訪問しナチス党の幹部ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書官と会談した忠正は機関紙『黒維』で「独逸国民社会党の真相」という論文を出すなど日本でも高まってきた国家社会主義運動を形式的模倣で終わらせないようナチス理解を広める役割も果たしていた。その後、黒維会は日本全国各地に勢力を伸ばし、当時日本領だった朝鮮半島にも勢力を広げた。戦後は一時公職追放になったが、日本相撲協会会長などを務めた。 姫路酒井伯爵家の邸宅は東京市小石川区原町にあった、伊勢崎酒井子爵家の邸宅は東京市小石川区高田老松町、酒井忠惇男爵家の邸宅は東京市世田谷区玉川奥沢町にあった。 重忠の弟の忠利は別家して取り立てられ、川越藩主、江戸城留守居・老中となる。忠利の子の酒井忠勝 (小浜藩主)は老中・大老になり、小浜藩12万3500石の藩主・官位も四位少将となった。 寛文8年(1668年)に2代小浜藩主忠直が甥忠国に1万石を分与(安房勝山藩)、また天和2年(1682年)にも3代小浜藩主酒井忠隆が弟酒井忠稠に1万石を分与した(越前国敦賀藩)。 最後の小浜藩主酒井忠禄は明治2年(1869年)の版籍奉還で小浜藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。 最後の敦賀藩主酒井忠経は明治2年(1869年)の版籍奉還で敦賀藩知事となったが、同時期に藩名を鞠山藩に改名した。明治3年(1870年)に本藩の小浜藩に吸収合併され、小浜藩権知事に就任した。 最後の勝山藩主酒井忠美は明治2年(1869年)の版籍奉還で加知山藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。 華族令施行後の1884年(明治17年)7月7日に小浜酒井家は旧中藩知事として伯爵に叙された、7月8日には加知山(勝山)酒井家、鞠山(敦賀)酒井家は旧小藩知事として子爵に列した。 加知山酒井家の酒井忠勇子爵は学習院在学中より素行の悪さで有名になり、1899年(明治32年)には偽造手形行使の廉で公訴が提起されたのに伴い爵位を返上している。その後東京地裁で有罪になったが、東京控訴院では無罪となり、それに伴って忠勇の弟酒井朗が復爵を申請しているが、不許可となり、華族に戻ることはできなかった。 小浜酒井伯爵家と鞠山酒井子爵家の邸宅は東京市牛込区矢来町にあった。 酒井氏の大名家は9家を数え、すべて譜代大名(扱いは親藩格)であるが、左沢、大山が改易されたため、明治維新まで残った大名の酒井家は7家だった。明治には7家すべて華族に列し、大泉(庄内)、姫路、小浜の3家は伯爵、敦賀、伊勢崎、加知山(勝山)、松嶺(松山)の4家は子爵を授けられた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "酒井氏(さかいし)は、武家・華族だった日本の氏族。三河国の在地領主から、江戸時代には譜代大名となり、老中や大老が選任された。維新後、酒井氏からは9家が華族に列した(伯爵家3家、子爵家4家、男爵家2家)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "西三河の坂井郷から起こった土豪で松平氏の別流。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "戦国期に松平氏とともに勢力を広げ、近世には井伊氏・本多氏・榊原氏とともに譜代大名中最高の家格の門閥譜代層を構成し、一族から多数の大老や老中を出している。雅楽頭酒井氏と左衛門尉酒井氏の2系統があるが、いずれも大名家、旗本家を分出。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "明治維新後、現米5万石以上の中藩知事だった姫路酒井家、大泉(庄内)酒井家、小浜酒井家の3家が伯爵、現米5万石未満の小藩知事だった敦賀酒井家、鞠山(伊勢崎)酒井家、加知山(勝山)酒井家(明治32年爵位返上)、松嶺(松山)酒井家の4家は子爵に叙せられた。また姫路酒井伯爵家の分家の酒井忠惇、酒井忠績が男爵に叙せられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "酒井氏は元来、大江忠成の子孫を称する海東氏で、三河国碧海郡酒井郷あるいは同国幡豆郡坂井郷の在地領主である。14世紀の末頃に酒井郷の領主であった酒井忠明の子が酒井忠時(酒井太郎左衛門少尉忠時)で、さらに忠時の子に当たる酒井忠則は、新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を娘婿に迎えたという。その間に生まれた子が酒井広親(庶長子)で、成長した広親は親氏系の酒井氏の始祖となったとされる。", "title": "出自" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "もとよりこれらは、松平氏の出自に関するのと同類の仮冒であって、松平氏と同族の清和源氏新田氏流であることを主張するために、家康の時代以降に創作されたものとされる。その真意は不明だが、愛知県西尾市吉良町荻原字小野の酒井氏先祖の墓に長阿弥(新田有親)の墓も設けられた。", "title": "出自" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "酒井広親は松平郷にて松平氏に仕え、譜代家臣となったとされる。その後の酒井氏は、広親の子から2家に分かれる(あるいは、広親の子の酒井五郎親時の子の時ともされる)。", "title": "出自" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "酒井氏の家紋は新田氏以来の 片喰紋であり、一族や子孫は、それに装飾を加えた「丸に片喰」や「丸に剣片喰」などの家紋を用いた。", "title": "出自" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『柳営秘鑑』には、徳川家の三つ葉葵の家紋が、酒井氏より由来することが詳細に記載されている。", "title": "出自" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "よって、これより松平氏は三ツ葉葵紋を我家の紋として、この吉例を子孫に伝遍したという。", "title": "出自" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "左衛門尉家()は、酒井広親の長子氏忠の家系であると伝わっているが、左衛門尉系は徳川家康に仕えた酒井忠次の父から系譜が書かれており、その間の系譜は明確ではない。", "title": "左衛門尉酒井家" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1564年(永禄7年)に忠次は家康より三河吉田城主に取り立てられ、家康が三河を支配する過程で東三河は忠次が旗頭に任命されて支配した。忠次の子家次の代の天正18年(1590年)に家康は豊臣秀吉の命で関東に移封され、それに従って家次も関東へ移住して下総国臼井城主となり、3万石を領した。", "title": "左衛門尉酒井家" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "関ヶ原の戦い後、家康が豊臣氏から権力を簒奪すると家次は慶長9年(1604年)に2万石加増されて上野国高崎藩5万石に移封された。さらに元和2年(1616年)に5万石加増されて越後国高田藩10万石に移封された。", "title": "左衛門尉酒井家" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "家次の子酒井忠勝は元和8年(1622年)に3万石加増されて出羽国庄内藩(鶴岡藩)に移封された。さらに寛永9年(1632年)にも1万2000石が加増されて都合14万石余となった。", "title": "左衛門尉酒井家" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "正保4年(1647年)には忠勝の子忠当が弟酒井忠恒に新田2万石を分与した(出羽松山藩)。安永8年(1779年)に5000石加増があり、都合2万5000石を領した。", "title": "左衛門尉酒井家" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "幕末の庄内藩主忠篤は奥羽越列藩同盟の一翼を担って官軍に抗したことにより、反逆の責任により官位褫奪のうえ蟄居となり、明治元年(1868年)12月7日に庄内藩は改易となったが、同月15日にその弟忠宝に岩代国会津藩12万石が与えられることで家名存続が許された。翌年6月には磐城国平藩に転封となり、同地で版籍奉還を迎えて平藩知事に就任したが、その翌月には庄内藩に再移封となった。9月に藩名を大泉藩に改名し、その後1871年(明治4年)の廃藩置県まで大泉藩知事を務めた。", "title": "左衛門尉酒井家" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "分家の松山藩主忠良も忠篤と共に官位褫奪・蟄居となったが、その息子忠匡に2500石減封の2万2500石の領地が与えられて家名存続が許された。明治2年(1869年)の版籍奉還の際に藩名を松山から松嶺に改名して松嶺藩知事に就任。明治4年の廃藩置県まで藩知事を務めた。", "title": "左衛門尉酒井家" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "明治2年(1869年)の版籍奉還に際して華族制度が誕生し、大泉家も松嶺家も華族に列した。華族令施行後の明治17年(1884年)7月7日に大泉酒井家の当時の当主酒井忠篤が旧中藩知事として伯爵に叙された。また松嶺酒井家の忠匡は同年7月8日に旧小藩知事として子爵に叙せられた。", "title": "左衛門尉酒井家" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "大泉酒井伯爵家の邸宅は山形県鶴岡市家中新町にあった。かなり富裕であり、忠宝の養子となって同家の伯爵位を継いだ酒井忠良伯爵(忠篤の子)は山形県の多額納税者になっている。松嶺酒井子爵家の邸宅は東京市本郷区駒込千駄木町にあった。", "title": "左衛門尉酒井家" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "広親の次男とされる酒井家忠の家系は、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家()と呼ばれる。酒井雅楽助正親は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとりで、永禄4年(1561年)もしくは永禄5年(1562年)に家康の三河支配の過程で三河西尾城主に取り立てられた。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その子重忠は家康の関東移封で武蔵国川越城を与えられて1万石を領した。重忠の子忠世は家督前に自身に与えられた領地と合わせて家督後に前橋藩主8万5000石を領し、幕府の老中となり、加増されて12万石を領したが、家光の代になると疎まれて老中を解任された。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "忠世の孫忠清は寛永14年(1637年)の家督の際に弟忠能に2万2500石を分与して(上野国伊勢崎藩、のち駿河国田中藩主)、10万石となったが、徳川家綱の代に老中首座(大老とも)として権勢をふるい「下馬将軍」と称され、加増により15万石を領した。忠清は家綱死去時に有栖川宮幸仁親王の宮将軍擁立を図ったとする説もあるが、定かではない。その後徳川綱吉に疎まれて失脚した。また駿河田中藩主4万石になっていた弟の酒井忠能は綱吉に改易された。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "忠清の子忠挙は弟忠寛に2万石を分与し(上野国伊勢崎藩)、13万石となる。忠相の代の宝永4年(1707年)に新田2万石が本領に加えられて15万石に戻った。忠恭の代の寛永2年(1749年)に播磨国姫路藩へ移封した。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "幕末の姫路藩主酒井忠績は江戸幕府の最後の大老となり、明治28年(1895年)に死去、墓地は染井霊園であるが、近年、無縁墓となり、撤去が予定されている。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "慶応3年(1867年)に忠績から家督を継いだ弟酒井忠惇は老中となり、王政復古直後に徳川慶喜らが起こした鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に参加して大敗し慶喜とともに江戸に逃走。これにより姫路藩は官軍の備前藩軍から追討を受け、家臣が開城して謝罪。忠惇も直ちに老中を辞したが、朝廷により官位褫奪され、養子の忠邦に家督を譲って蟄居した。またこの際に官軍に軍資金15万両を献上した。減封はなく、忠邦は明治2年(1869年)の版籍奉還で姫路藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "伊勢崎藩は本藩と違い、ただちに新政府に恭順している。最後の伊勢崎藩主酒井忠彰は明治2年(1869年)の版籍奉還で伊勢崎藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "明治17年(1884年)の華族令施行により華族が五爵制になり、同年7月8日に伊勢崎酒井家の忠彰が旧小藩知事として子爵に叙された。姫路酒井家は当時女戸主の酒井文子だったため叙爵が遅れ、明治20年(1887年)6月23日に酒井忠興の代に伯爵に叙された。さらに1889年(明治22年)5月11日には隠居していた忠惇と忠績も姫路酒井伯爵家の分家華族として、それぞれ男爵に叙されている。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "姫路酒井家の初代伯爵である忠興の後に爵位を継いだ酒井忠正伯爵は右翼運動に近づき、東洋人の自覚と文化の普及に努めるためとして亜細亜文化協会を結成し、後に黒維会となった。黒維会は1931年(昭和6年)の満州事変以降に親軍的反政党政治的「新官僚」運動の思想的な母体となった。1930年にドイツを訪問しナチス党の幹部ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書官と会談した忠正は機関紙『黒維』で「独逸国民社会党の真相」という論文を出すなど日本でも高まってきた国家社会主義運動を形式的模倣で終わらせないようナチス理解を広める役割も果たしていた。その後、黒維会は日本全国各地に勢力を伸ばし、当時日本領だった朝鮮半島にも勢力を広げた。戦後は一時公職追放になったが、日本相撲協会会長などを務めた。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "姫路酒井伯爵家の邸宅は東京市小石川区原町にあった、伊勢崎酒井子爵家の邸宅は東京市小石川区高田老松町、酒井忠惇男爵家の邸宅は東京市世田谷区玉川奥沢町にあった。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "重忠の弟の忠利は別家して取り立てられ、川越藩主、江戸城留守居・老中となる。忠利の子の酒井忠勝 (小浜藩主)は老中・大老になり、小浜藩12万3500石の藩主・官位も四位少将となった。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "寛文8年(1668年)に2代小浜藩主忠直が甥忠国に1万石を分与(安房勝山藩)、また天和2年(1682年)にも3代小浜藩主酒井忠隆が弟酒井忠稠に1万石を分与した(越前国敦賀藩)。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "最後の小浜藩主酒井忠禄は明治2年(1869年)の版籍奉還で小浜藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "最後の敦賀藩主酒井忠経は明治2年(1869年)の版籍奉還で敦賀藩知事となったが、同時期に藩名を鞠山藩に改名した。明治3年(1870年)に本藩の小浜藩に吸収合併され、小浜藩権知事に就任した。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "最後の勝山藩主酒井忠美は明治2年(1869年)の版籍奉還で加知山藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "華族令施行後の1884年(明治17年)7月7日に小浜酒井家は旧中藩知事として伯爵に叙された、7月8日には加知山(勝山)酒井家、鞠山(敦賀)酒井家は旧小藩知事として子爵に列した。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "加知山酒井家の酒井忠勇子爵は学習院在学中より素行の悪さで有名になり、1899年(明治32年)には偽造手形行使の廉で公訴が提起されたのに伴い爵位を返上している。その後東京地裁で有罪になったが、東京控訴院では無罪となり、それに伴って忠勇の弟酒井朗が復爵を申請しているが、不許可となり、華族に戻ることはできなかった。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "小浜酒井伯爵家と鞠山酒井子爵家の邸宅は東京市牛込区矢来町にあった。", "title": "雅楽頭酒井家" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "酒井氏の大名家は9家を数え、すべて譜代大名(扱いは親藩格)であるが、左沢、大山が改易されたため、明治維新まで残った大名の酒井家は7家だった。明治には7家すべて華族に列し、大泉(庄内)、姫路、小浜の3家は伯爵、敦賀、伊勢崎、加知山(勝山)、松嶺(松山)の4家は子爵を授けられた。", "title": "酒井氏の大名家・華族" } ]
酒井氏(さかいし)は、武家・華族だった日本の氏族。三河国の在地領主から、江戸時代には譜代大名となり、老中や大老が選任された。維新後、酒井氏からは9家が華族に列した(伯爵家3家、子爵家4家、男爵家2家)。
{{出典の明記|date=2017年6月}} {{Otheruseslist|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[三河国]]の[[土豪]]であった酒井氏と、その末裔である[[江戸時代]]の[[譜代大名]]である酒井氏|戦国時代に[[丹波国]][[多紀郡]]の[[国人領主]]であった酒井氏|丹波酒井氏|戦国時代に[[上総国]]北部の土豪であった酒井氏|上総酒井氏}} {{日本の氏族 |家名=酒井氏 |家紋=Japanese Crest Katabami.svg |家紋名称=片喰紋、<ruby>片喰<rt>かたばみ</rt></ruby> |本姓= [[大江氏]]流[[海東氏]]?{{Sfn|太田|1934|p=2486}}<br>'''称'''・[[清和源氏]][[新田氏]]流[[大舘氏]]{{Sfn|太田|1934|p=2486}} |家祖=酒井忠明 |種別=[[武家]]<br/>[[華族]]([[伯爵]]・[[子爵]]・[[男爵]]) |出身地=[[三河国]][[碧海郡]]酒井郷{{Sfn|太田|1934|p=2486}} |根拠地=三河国[[幡豆郡]]坂井郷<br/>[[出羽国]][[鶴岡市|鶴ヶ岡]]<br/>[[播磨国]][[姫路市|姫路]]<br/>[[若狭国]][[小浜市|小浜]]<br/>[[山形県]][[鶴岡市]]<br/>[[東京府]][[東京市]]など |人物=[[酒井忠次]]<br />[[酒井忠世]]<br />[[酒井忠清]]<br />[[酒井忠績]]<br/>[[酒井忠正]] |支流= }} '''酒井氏'''(さかいし)は、[[武家]]・[[華族]]だった[[日本]]の[[氏族]]。[[三河国]]の[[在地領主]]から、[[江戸時代]]には[[譜代大名]]となり、[[老中]]や[[大老]]が選任された。[[明治維新|維新]]後、酒井氏からは9家が華族に列した([[伯爵]]家3家、[[子爵]]家4家、[[男爵]]家2家){{sfn|小田部雄次|2006|p=324/331-332/345}}。 == 概要 == 西[[三河国|三河]]の坂井郷から起こった土豪で[[松平氏]]の別流<ref name="sekai">{{Kotobank|1=酒井氏|2=世界大百科事典 第2版}}</ref>。 [[戦国時代 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もとよりこれらは、松平氏の出自に関するのと同類の仮冒であって、松平氏と同族の[[清和源氏]][[新田氏]]流であることを主張するために、家康の時代以降に創作されたものとされる。その真意は不明だが、愛知県西尾市吉良町荻原字小野の酒井氏先祖の墓に長阿弥(新田有親)の墓も設けられた。 酒井広親は[[松平郷]]にて松平氏に仕え、譜代家臣となったとされる。その後の酒井氏は、広親の子から2家に分かれる(あるいは、広親の子の[[酒井親時|酒井五郎親時]]の子の時ともされる)。 === 家紋 === [[File:Japanese Crest Himeji ken katabami.svg|thumb|right|190px|片喰紋 姫路剣片喰]] 酒井氏の[[家紋]]は新田氏以来の [[カタバミ#家紋|片喰紋]]であり、一族や子孫は、それに装飾を加えた「丸に片喰」や「丸に剣片喰」などの家紋を用いた。 『柳営秘鑑』には、徳川家の[[三つ葉葵]]の家紋が、酒井氏より由来することが詳細に記載されている。 :「御当家に用させた満〔ま〕ふ所之物之内ニ三ッ葵ノ葉の御紋ハ 御当家御譲祖[[松平信光|徳川信光]]公の御時 [[文明 (日本)|文明]]十一己亥七月十五日参州[[安祥城]]攻之時 今の酒井等の祖酒井五郎親清、(中略)盃に葵の葉三ツ鼎のごとくならへ…信光公大ひ尓〔に〕御喜悦尓〔に〕て今度の敵を討事 掌を指がごとし。既尓〔に〕当家の吉瑞となる遍〔べ〕きな連〔れ〕ハ 只今の三葵の葉を以て自分ハ汝が家能〔の〕紋とせよ被傳出尓付て酒井親清畏て酒井能〔の〕家の紋とせり。必定、此軍尓御勝利なり。」 :「其後信光公の御孫[[松平長親|徳川次郎三郎長親]]公の御時 [[文亀]]元辛酉年九月 [[今川氏|今川家]]大将[[北条早雲|伊勢新九郎長氏入道早雲]]と岩付の城下に於て御合戦御勝利なり。此時の先陣ハ酒井左衛門尉氏忠入道浄賢舎 両酒井を御前に召連て、昨日汝等が働、抜群之。殊尓汝が葵の紋の籏風に翻ひて見事なりき。今是を家に返しくれよ。」 :<small>(引用部の〔 〕内は、直前の漢字のよみを表す。<!--引用符と用法は、Wikipedia:表記ガイドと記事「引用符#日本語」に基づいています。-->)</small> よって、これより松平氏は三ツ葉葵紋を我家の紋として、この吉例を子孫に伝遍したという。 == 左衛門尉酒井家 == [[Image:Sakaike_kamiyashiki_ato_mono.jpg|thumb|酒井家上屋敷跡<br/>[[千代田区]]、[[丸の内]]]] {{読み仮名|'''左衛門尉家'''|さえもんのじょうけ}}は、[[酒井広親]]の長子[[酒井氏忠|氏忠]]の家系であると伝わっているが<ref name="ブリタニカ">{{Kotobank|1=酒井氏|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>、左衛門尉系は[[徳川家康]]に仕えた[[酒井忠次]]の父から系譜が書かれており、その間の系譜は明確ではない<ref name="ニッポニカ"/>。 1564年(永禄7年)に忠次は家康より[[吉田城 (三河国)|三河吉田城]]主に取り立てられ{{sfn|新田完三|1984|p=135}}、家康が三河を支配する過程で東三河は忠次が旗頭に任命されて支配した<ref name="酒井忠次">{{Kotobank|1=酒井忠次|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。忠次の子[[酒井家次|家次]]の代の天正18年(1590年)に家康は[[豊臣秀吉]]の命で[[関東地方|関東]]に移封され、それに従って家次も関東へ移住して[[下総国]][[臼井城]]主となり、3万石を領した{{sfn|新田完三|1984|p=135}}。 [[関ヶ原の戦い]]後、家康が豊臣氏から権力を簒奪すると家次は慶長9年(1604年)に2万石加増されて[[上野国]][[高崎藩]]5万石に移封された{{sfn|新田完三|1984|p=135}}。さらに元和2年(1616年)に5万石加増されて[[越後国]][[高田藩]]10万石に移封された{{sfn|新田完三|1984|p=135}}。 家次の子[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]は元和8年(1622年)に3万石加増されて出羽国[[庄内藩|庄内藩(鶴岡藩)]]に移封された。さらに寛永9年(1632年)にも1万2000石が加増されて都合14万石余となった{{sfn|新田完三|1984|p=135}}。 正保4年(1647年)には忠勝の子[[酒井忠当|忠当]]が弟[[酒井忠恒 (出羽松山藩主)|酒井忠恒]]に新田2万石を分与した(出羽松山藩){{sfn|新田完三|1984|p=135}}。安永8年(1779年)に5000石加増があり、都合2万5000石を領した{{sfn|新田完三|1984|p=769}}。 幕末の庄内藩主[[酒井忠篤 (庄内藩主)|忠篤]]は[[奥羽越列藩同盟]]の一翼を担って官軍に抗したことにより、反逆の責任により官位褫奪のうえ[[蟄居]]となり、明治元年(1868年)12月7日に庄内藩は[[改易]]となったが、同月15日にその弟[[酒井忠宝 (庄内藩主)|忠宝]]に[[岩代国]][[会津藩]]12万石が与えられることで家名存続が許された。翌年6月には[[磐城国]][[平藩]]に転封となり、同地で[[版籍奉還]]を迎えて平藩知事に就任したが、その翌月には庄内藩に再移封となった。9月に藩名を大泉藩に改名し、その後1871年(明治4年)の[[廃藩置県]]まで大泉藩知事を務めた{{sfn|新田完三|1984|p=139}}。 分家の松山藩主[[酒井忠良 (出羽松山藩主)|忠良]]も忠篤と共に官位褫奪・蟄居となったが、その息子[[酒井忠匡|忠匡]]に2500石減封の2万2500石の領地が与えられて家名存続が許された。明治2年(1869年)の版籍奉還の際に藩名を松山から松嶺に改名して松嶺藩知事に就任。明治4年の廃藩置県まで藩知事を務めた{{sfn|新田完三|1984|p=770}}。 明治2年(1869年)の版籍奉還に際して[[華族]]制度が誕生し、大泉家も松嶺家も華族に列した。[[華族令]]施行後の明治17年(1884年)7月7日に大泉酒井家の当時の当主[[酒井忠篤]]が旧中藩知事{{efn|旧大泉藩は現米6万9370石(表高12万石)で現米5万石以上15万石未満の中藩に該当{{sfn|浅見雅男|1994|p=123}}}}として[[伯爵]]に叙された{{sfn|小田部雄次|2006|p=324}}。また松嶺酒井家の忠匡は同年7月8日に旧小藩知事{{efn|旧松嶺藩は現米1万2420石(表高2万2500石)で旧小藩に該当{{sfn|浅見雅男|1994|p=152}}}}として[[子爵]]に叙せられた{{sfn|小田部雄次|2006|p=332}}。 大泉酒井伯爵家の邸宅は[[山形県]][[鶴岡市]][[家中新町]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=102}}。かなり富裕であり、忠宝の養子となって同家の伯爵位を継いだ[[酒井忠良 (伯爵)|酒井忠良]]伯爵(忠篤の子)は山形県の多額納税者になっている{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=103}}。松嶺酒井子爵家の邸宅は[[東京市]][[本郷区]][[駒込千駄木町]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=400}}。 == 雅楽頭酒井家 == === 宗家 === [[File:Sakai Tadayo.jpg|thumb|[[酒井忠世]]]] 広親の次男とされる[[酒井家忠]]の家系は、代々[[雅楽寮|雅楽助]](のち[[雅楽寮|雅楽頭]])を名乗り、{{読み仮名|'''雅楽頭家'''|うたのかみけ}}と呼ばれる{{Sfn|太田|1934|p=2490}}。[[酒井正親|酒井雅楽助正親]]は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとりで、永禄4年(1561年)もしくは永禄5年(1562年)に家康の三河支配の過程で三河西尾城主に取り立てられた{{sfn|新田完三|1984|p=689}}。 その子[[酒井重忠|重忠]]は家康の関東移封で[[武蔵国]]川越城を与えられて1万石を領した{{sfn|新田完三|1984|p=689}}。重忠の子[[酒井忠世|忠世]]は家督前に自身に与えられた領地と合わせて家督後に[[前橋藩|前橋藩主]]8万5000石を領し、幕府の[[老中]]となり、加増されて12万石を領したが、[[徳川家光|家光]]の代になると疎まれて老中を解任された<ref name="酒井忠世">{{Kotobank|1=酒井忠世|2=朝日日本歴史人物事典}}</ref>{{sfn|新田完三|1984|p=690}}。 忠世の孫[[酒井忠清|忠清]]は寛永14年(1637年)の家督の際に弟[[酒井忠能|忠能]]に2万2500石を分与して([[上野国]][[伊勢崎藩]]、のち[[駿河国]][[田中藩]]主)、10万石となったが{{sfn|新田完三|1984|p=691}}、[[徳川家綱]]の代に老中首座(大老とも)として権勢をふるい「下馬将軍」と称され、加増により15万石を領した。忠清は家綱死去時に[[有栖川宮幸仁親王]]の宮将軍擁立を図ったとする説もあるが、定かではない。その後[[徳川綱吉]]に疎まれて失脚した<ref name="酒井忠清">{{Kotobank|1=酒井忠清|2=朝日日本歴史人物事典}}</ref>。また駿河田中藩主4万石になっていた弟の酒井忠能は綱吉に改易された<ref name="酒井忠能">{{Kotobank|1=酒井忠能|2=朝日日本歴史人物事典}}</ref>。 忠清の子[[酒井忠挙|忠挙]]は弟[[酒井忠寛 (伊勢崎藩主)|忠寛]]に2万石を分与し(上野国伊勢崎藩)、13万石となる{{sfn|新田完三|1984|p=691}}。[[酒井忠相|忠相]]の代の宝永4年(1707年)に新田2万石が本領に加えられて15万石に戻った{{sfn|新田完三|1984|p=692}}。[[酒井忠恭|忠恭]]の代の寛永2年(1749年)に[[播磨国]][[姫路藩]]へ移封した{{sfn|新田完三|1984|p=693}}。 幕末の姫路藩主[[酒井忠績]]は江戸幕府の最後の[[大老]]となり、[[明治]]28年([[1895年]])に死去、墓地は染井霊園であるが、近年、無縁墓となり、撤去が予定されている<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201902/0012096815.shtml 「江戸幕府最後の大老、姫路城主・酒井忠績の墓が撤去危機 理由は…墓地の管理料滞納」] 神戸新聞2019.2.25付(2020.1.23access)</ref>。 慶応3年(1867年)に忠績から家督を継いだ弟[[酒井忠惇]]は老中となり、[[王政復古]]直後に[[徳川慶喜]]らが起こした[[鳥羽・伏見の戦い]]で旧幕府軍に参加して大敗し慶喜とともに江戸に逃走。これにより姫路藩は官軍の[[備前藩]]軍から追討を受け、家臣が開城して謝罪。忠惇も直ちに老中を辞したが、朝廷により官位褫奪され、養子の[[酒井忠邦|忠邦]]に家督を譲って蟄居した。またこの際に官軍に軍資金15万両を献上した<ref name="酒井忠惇">{{Kotobank|1=酒井忠惇|2=朝日日本歴史人物事典}}</ref>。減封はなく、忠邦は明治2年(1869年)の[[版籍奉還]]で姫路藩知事に任じられるとともに[[華族]]に列し、明治4年(1871年)の[[廃藩置県]]まで藩知事を務めた{{sfn|新田完三|1984|p=695}}。 伊勢崎藩は本藩と違い、ただちに新政府に恭順している<ref>{{Kotobank|1=伊勢崎藩|2=藩名・旧国名がわかる事典}}</ref>。最後の伊勢崎藩主[[酒井忠彰]]は明治2年(1869年)の[[版籍奉還]]で伊勢崎藩知事に任じられるとともに[[華族]]に列し、明治4年(1871年)の[[廃藩置県]]まで藩知事を務めた{{sfn|新田完三|1984|p=80}}。 明治17年(1884年)の[[華族令]]施行により華族が五爵制になり、同年7月8日に伊勢崎酒井家の忠彰が旧小藩知事{{efn|旧伊勢崎藩は現米5510石(表高2万石)で現米5万石未満の小藩に該当{{sfn|浅見雅男|1994|p=151}}}}として[[子爵]]に叙された{{sfn|浅見雅男|1994|p=151}}。姫路酒井家は当時女戸主の[[酒井文子]]だったため叙爵が遅れ、明治20年(1887年)6月23日に[[酒井忠興]]の代に[[伯爵]]に叙された{{sfn|小田部雄次|2006|p=344}}。さらに1889年(明治22年)5月11日には隠居していた忠惇と忠績も姫路酒井伯爵家の分家華族として、それぞれ[[男爵]]に叙されている{{sfn|小田部雄次|2006|p=345}}。 [[File:Sakai Tadamasa.jpg|thumb|[[酒井忠正]]]] 姫路酒井家の初代伯爵である忠興の後に爵位を継いだ[[酒井忠正]]伯爵は右翼運動に近づき、東洋人の自覚と文化の普及に努めるためとして亜細亜文化協会を結成し、後に[[黒維会]]となった。黒維会は1931年(昭和6年)の満州事変以降に親軍的反政党政治的「新官僚」運動の思想的な母体となった{{sfn|小田部雄次|2006|p=236}}。1930年にドイツを訪問し[[ナチス党]]の幹部[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]の秘書官と会談した忠正は機関紙『黒維』で「[[国家社会主義ドイツ労働者党|独逸国民社会党]]の真相」という論文を出すなど日本でも高まってきた国家社会主義運動を形式的模倣で終わらせないようナチス理解を広める役割も果たしていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=236-238}}。その後、黒維会は日本全国各地に勢力を伸ばし、当時日本領だった朝鮮半島にも勢力を広げた{{sfn|小田部雄次|2006|p=238}}。戦後は一時公職追放になったが、[[日本相撲協会]]会長などを務めた{{sfn|小田部雄次|2006|p=237}}。 姫路酒井伯爵家の邸宅は[[東京市]][[小石川区]]原町にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=116}}、伊勢崎酒井子爵家の邸宅は[[東京市]][[小石川区]][[高田老松町]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=243}}、酒井忠惇男爵家の邸宅は東京市[[世田谷区]][[玉川奥沢町]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=462}}。 === 小浜酒井家 === 重忠の弟の[[酒井忠利|忠利]]は別家して取り立てられ、[[川越藩|川越藩主]]、[[江戸城]][[留守居]]・老中となる。忠利の子の[[酒井忠勝 (小浜藩主)]]は老中・大老になり、[[小浜藩]]12万3500石の藩主・官位も四位少将となった{{sfn|新田完三|1984|p=196}}。 寛文8年(1668年)に2代小浜藩主[[酒井忠直|忠直]]が甥[[酒井忠国|忠国]]に1万石を分与([[安房勝山藩]])、また天和2年(1682年)にも3代小浜藩主[[酒井忠隆]]が弟[[酒井忠稠]]に1万石を分与した([[越前国]][[敦賀藩]]){{sfn|新田完三|1984|p=196}}。 最後の小浜藩主[[酒井忠禄]]は明治2年(1869年)の[[版籍奉還]]で小浜藩知事に任じられるとともに[[華族]]に列し、明治4年(1871年)の[[廃藩置県]]まで藩知事を務めた{{sfn|新田完三|1984|p=199}}。 最後の敦賀藩主[[酒井忠経]]は明治2年(1869年)の[[版籍奉還]]で敦賀藩知事となったが、同時期に藩名を[[鞠山藩]]に改名した。明治3年(1870年)に本藩の小浜藩に吸収合併され、小浜藩権知事に就任した{{sfn|新田完三|1984|p=781}}。 最後の勝山藩主[[酒井忠美]]は明治2年(1869年)の[[版籍奉還]]で加知山藩知事に任じられるとともに[[華族]]に列し、明治4年(1871年)の[[廃藩置県]]まで藩知事を務めた{{sfn|新田完三|1984|p=199}}。 華族令施行後の1884年(明治17年)7月7日に小浜酒井家は旧中藩知事{{efn|旧小浜藩は現米5万5730石(表高10万3558石)で現米5万石以上15万石未満の中藩に該当{{sfn|浅見雅男|1994|p=123}}}}として[[伯爵]]に叙された{{sfn|小田部雄次|2006|p=324}}、7月8日には加知山(勝山)酒井家、鞠山(敦賀)酒井家は旧小藩知事{{efn|旧加知山藩は現米4280石(表高1万2000石)、旧鞠山藩は現米4950石(表高1万石)で現米5万石未満の小藩に該当{{sfn|浅見雅男|1994|p=151}}}}として[[子爵]]に列した{{sfn|小田部雄次|2006|p=331-332}}。 加知山酒井家の[[酒井忠勇]]子爵は学習院在学中より素行の悪さで有名になり、1899年(明治32年)には偽造手形行使の廉で公訴が提起されたのに伴い爵位を返上している。その後[[東京地裁]]で有罪になったが、[[東京控訴院]]では無罪となり、それに伴って忠勇の弟[[酒井朗]]が復爵を申請しているが、不許可となり、華族に戻ることはできなかった{{sfn|松田敬之|2015|p=315}}。 小浜酒井伯爵家と鞠山酒井子爵家の邸宅は[[東京市]][[牛込区]][[矢来町]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=101/329}}。 == 酒井氏の大名家・華族 == 酒井氏の大名家は9家を数え、すべて[[譜代大名]](扱いは[[親藩]]格)であるが、左沢、大山が改易されたため、明治維新まで残った大名の酒井家は7家だった。明治には7家すべて[[華族]]に列し、大泉(庄内)、姫路、小浜の3家は[[伯爵]]、敦賀、伊勢崎、加知山(勝山)、松嶺(松山)の4家は[[子爵]]を授けられた。 ;左衛門尉酒井家 * [[宗家]] - [[下総国]][[臼井藩]]3万石→[[上野国]][[高崎藩]]5万石→[[越後国]][[高田藩]]10万石→[[信濃国]][[松代藩]]10万石→[[出羽国]][[庄内藩]]14万石→出羽国大泉藩12万石→伯爵 ** 分家 - 出羽国[[庄内藩#左沢藩|左沢藩]]1万2千石 ** 分家 - 出羽国[[庄内藩#大山藩|大山藩]]1万石 ** 分家 - 出羽国[[庄内藩#出羽松山藩|松山藩]]2万5千石→出羽松嶺藩2万2500石→子爵 === 左衛門尉酒井家系譜 === ;太字は宗家(庄内藩主家)当主。実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。※は同一人物。<!--構成の都合で出生順より組み替え--> ==== 庄内藩主家・松山藩主家 ==== ;1=左衛門尉家宗家(庄内藩主家)歴代、①=松山藩主家歴代。 <div style="font-size:75%"> {{familytree/start|style="font-size:100%"}} {{familytree |border=0|01||||||||||||||||||| 01=[[大江広元]]}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|.|||||||||||||||}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|||||||||||| 01=[[[寒河江氏]]]<br>[[大江親広]]|02=[[[長井氏]]]<br>[[長井時広]]|03= [[[毛利氏]]]<br>[[毛利季光]]|04=[[[海東氏]]]<br/>[[大江忠成|海東忠成]]||}} {{familytree |border=0| ||||||||||!||||||}} {{familytree |border=0||||||||||01|||||||||| 01=忠茂}} {{familytree |border=0| ||||||||||!||||||}} {{familytree |border=0||||||||||01|||||||||| 01=広茂}} {{familytree |border=0| ||||||||||!||||||}} {{familytree |border=0||||||||||01|||||||||| 01=忠房}} {{familytree |border=0| ||||||||||!||||||}} {{familytree |border=0||||||||||01|||||||||| 01=忠賢}} {{familytree |border=0| ||||||||||!||||||}} {{familytree |border=0||||||||||01|||||||||| 01='''酒井忠明'''}} {{familytree |border=0| ||||||||||!||||||}} {{familytree |border=0||||||||||01|||||||||| 01='''忠時'''}} {{familytree |border=0| ||||||||||!||||||}} {{familytree |border=0||||||||||01|||||||||| 01='''忠則'''}} {{familytree |border=0| ||||||||||!||||||}} {{familytree |border=0||||||||||01|~|y|~|02|||||| 01=女|02=[[[松平氏]]]<br/>[[松平親氏]]}} {{familytree |border=0| |||||||||||||!|||)|-|-|.||}} {{familytree |border=0|||||||||||||01|02|03||||| 01='''酒井広親'''|02=[[[松平郷松平家]]]<br/>信広|03=[[松平泰親|泰親]]}} {{familytree |border=0| |||||||||||||)|-|-|.||}} {{familytree |border=0|||||||||||||01|02|||||| 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01=[庄内藩主家]<br/>'''[[酒井家次|家次]]'''<sub>6</sub>|02=[[本多康俊]]|03=[[小笠原信之]]|04=[[[福釜松平家|松平甚三郎家]]]<br/><small>[[福釜松平家|福釜]]</small>松平久恒|05=忠盈※<br/>[無嗣断絶]|06=[旗本]<br/>忠知}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|.||||||||||||)|-|-|.}} {{familytree |border=0|01|02|03|04||||||||||05|06| 01='''[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|忠勝]]'''<sub>7</sub>|02=[左沢藩主家]<br/>[[酒井直次|直次]]<br/>[無嗣断絶]|03=[旗本]<br/>[[酒井忠重|忠重]]<br/>[改易]|04=[吉之允家]<br/>[[酒井了次|了次]]|05=忠村|06=高木貞則}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|.|||!}} {{familytree |border=0|01|04|05|03|||||||02|06| 01='''[[酒井忠当|忠当]]'''<sub>8</sub>|02=[松山藩主家]<br/>[[酒井忠恒 (出羽松山藩主)|忠恒]]<sub>①</sub>|03=[奥之助家]<br/>[[酒井忠直 (庄内藩)|忠直]]|04=[大山藩主家]<br/>[[酒井忠解|忠解]]<br/>[無嗣断絶]|05=山名恒豊|06=忠隆}} {{familytree |border=0| |!||||||||||||||||||!|||!}} {{familytree |border=0|01||||||||||||||||02|03| 01='''[[酒井忠義 (出羽国庄内藩主)|忠義]]'''<sub>9</sub>|02=[[酒井忠予|忠予]]<sub>②</sub>|03=[[小笠原信成]]}} {{familytree |border=0| |!||||||||||||||||||)|-|-|v|~|~|7}} {{familytree 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|)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.|||)|-|-|.|||)|-|.}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06|07|08|09|010| 01='''[[酒井忠器|忠器]]'''<sub>14</sub>|02=[[水野忠実 (鶴牧藩主)|水野忠実]]|03=[[黒田直侯]]|04=[[市橋長富]]|05=[[内藤政民]]|06=[[小笠原長泰]]|07=[[酒井忠禮|忠禮]]※|08=忠質※|09=[[酒井忠良 (出羽松山藩主)|忠良]]<sub>⑦</sub>|010=[[森川俊方]]}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|*|-|-|v|-|-|v|-|-|.||||||!}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|07|05|06||||08| 01='''[[酒井忠発|忠発]]'''<sub>15</sub>|02=[[増山正修]]|03=[[酒井忠中|忠中]]|04=[[市橋長和]]|05=[[米津政易]]|06=[[米津政明]]※|07=[[酒井忠寛 (庄内藩主)|忠寛]]※|08=[子爵家]<br/>[[酒井忠匡|忠匡]]<sub>⑧</sub>}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|~|~|V|~|~|7|||:|||||||||!}} {{familytree |border=0|03|04|05|01|06|02|||||||07| 01='''[[酒井忠寛 (庄内藩主)|忠寛]]'''※<sub>16</sub>|02=[[米津政明|政明]]※|03=忠恕|04=[[酒井忠篤 (庄内藩主)|忠篤]]※|05=[[酒井忠宝 (庄内藩主)|忠宝]]※|06=[[酒井忠利 (海軍軍人)|忠利]]※|07=[[酒井忠晄|忠晄]]<sub>⑨</sub>}} {{familytree |border=0| ||||||||||:||||||!|||||||||!}} {{familytree |border=0||||||||||01||||02|||||||03| 01=[伯爵家]<br/>'''[[酒井忠篤 (庄内藩主)|忠篤]]'''※<sub>17/19</sub><br/><ref group="系佐">養嗣子・忠宝の隠居後に再相続。</ref>|02=[[酒井忠利 (海軍軍人)|酒井忠利]]※|03=[[酒井忠康 (子爵)|忠康]]<sub>⑩</sub>|}} {{familytree |border=0| ||||F|~|~|v|-|-|+|-|-|.||||||||||||!|}} {{familytree |border=0||||01|02|03|04||||||||||05| 01='''[[酒井忠宝 (庄内藩主)|忠宝]]'''※<sub>18</sub>|02=[[酒井忠良 (伯爵)|忠良]]※|03=[[酒井忠孝|忠孝]]|04=[分家]<br/>[[酒井忠悌|忠悌]]|05=忠暉<sub>⑪</sub>}} {{familytree |border=0| |,|-|-|{||||||!|||!}} {{familytree |border=0|02|01||||04|03|| 01='''[[酒井忠良 (伯爵)|忠良]]'''※<sub>20</sub>|02=[[酒井忠純|忠純]]|03=[[酒井忠一 (歴史家)|忠一]]|04=忠正}} {{familytree |border=0| |:|||)|-|-|.||||||!|}} {{familytree |border=0|03|01|02||||04| 01='''[[酒井忠明|忠明]]'''<sub>21</sub>|02=[分家]<br/>[[酒井忠治|忠治]]|03=忠惇<ref group="系佐">旧豊後杵築藩主家(子爵)・[[松平親信]]の2男。</ref>|04=英一}} {{familytree |border=0| ||||)|-|-|-|-|-|-|-|-|.|||||||}} {{familytree |border=0||||01|~|y|~|03|02|| 01='''[[酒井忠久|忠久]]'''<sub>22</sub>|02=忠人|03=[[酒井天美|天美]]}} {{familytree |border=0| |||||||)|-|-|.||||}} {{familytree |border=0|||||||01|02|| 01=[[酒井忠順 (実業家)|忠順]]|02=[[大沼賀世]]}} {{familytree/end}} </div> ==== 庄内藩主家一門 ==== <div style="font-size:75%"> ;1=酒井奥之助家歴代、①=酒井吉之允家歴代。 {{familytree/start|style="font-size:100%"}} {{familytree |border=0|01||||||| 01=[[酒井忠次]]|}} {{familytree |border=0| |)|-|-|.|||}} {{familytree |border=0|01|02| 01=[[酒井家次|家次]]|02=[[[福釜松平家|松平甚三郎家]]]<br/>松平久恒<ref group="系佐">[[福釜松平家]]・松平親俊の養子。</ref>|}} {{familytree |border=0| |)|-|-|-|-|-|-|-|-|.||}} {{familytree |border=0|01|||||||02||||| 01=[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|忠勝]]|02=[旗本]<br/>[[酒井了次|了次]]<sub>①</sub>}} {{familytree |border=0| |!|||||||||!}} {{familytree |border=0|01|||||||02| 01=[奥之助家]<br/>[[酒井忠直 (庄内藩)|忠直]]<sub>1</sub>|02=忠崇<sub>②</sub>}} {{familytree |border=0| |:|||||||||)|-|-|.}} {{familytree |border=0|01|||||||02|03| 01=[[酒井直隆|直隆]]※<sub>2</sub>|02=[吉之允家]<br/>[[酒井重盈|重盈]]<sub>③</sub>|03=重秋}} {{familytree |border=0| |)|-|-|.|||,|-|-|(|||)|-|-|v|-|-|v|-|.}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06|07|08| 01=直通<sub>3</sub>|02=[[酒井忠休|直豫(忠休)]]※|03=忠盈※|04=重栄<sub>④</sub>|05=[[酒井重喬|重喬]]※|06=[[酒井直隆|直隆]]※|07=[[酒井重頼|重頼]]※|08=重一}} {{familytree |border=0| |:|||||||||:|||||||||||!}} {{familytree |border=0|01|||||||02||||||||||03| 01=[[酒井忠休|直豫(忠休)]]※<sub>4</sub>|02=[[酒井重喬|重喬]]※<sub>⑤</sub>|03=[[酒井直恭|直恭]]※}} {{familytree |border=0| |:|||||||||:}} {{familytree |border=0|01|||||||02| 01=[[酒井直恭|直恭]]※<sub>5</sub>|02=[[酒井重頼|重頼]]※<sub>⑥</sub>}} {{familytree |border=0| |!|||||||||!}} {{familytree |border=0|01|||||||02| 01=[[酒井直豊|直豊]]<sub>6</sub>|02=[[酒井了知|了知]]<sub>⑦</sub>}} {{familytree |border=0| |:|||||||||)|-|-|v|-|-|v|-|-|.}} {{familytree |border=0|01|||||||02|03|04|05| 01=[[酒井直寛|直寛]]※<sub>7</sub>|02=了安<sub>⑧</sub>|03=松平久中|04=[[酒井直寛|直寛]]※|05=烟林}} {{familytree |border=0| |)|-|-|.|||,|-|-|(|}} {{familytree |border=0|01|02|03|04| 01=[[酒井直方|直方]]<sub>8</sub>|02=直鳳|03=[[酒井右京|了繁(右京)]]<sub>⑨</sub>|04=[[酒井了明|了明]]<sub>⑩</sub>}} {{familytree |border=0| |,|-|-|+|-|-|.|||)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|~|7}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06|07|08| 01=大山春治|02=直興|03=直温|04=[[酒井了恒|了恒]]<sub>⑪</sub>|05=[[酒井調良|調良]]<sub>⑬</sub>|06=[[白井久井]]|07=[[黒崎研堂]]|08=[[酒井駒太郎|駒太郎]]※}} {{familytree |border=0| ||||!|||!|||!|||!||||||||!}} {{familytree |border=0||||01|02|03|04|||||||05| 01=[[酒井はるき(陸軍軍人)|直次]]|02=[[酒井温理|温理]]|03=了敏<sub>⑫</sub>|04=[[酒井駒太郎|駒太郎]]※|05=駿次}} {{familytree |border=0| ||||!|||}} {{familytree |border=0||||01|| 01=[[酒井次武|次武]]|}} {{familytree/end}} <references group="系佐"/> </div> ;雅楽頭酒井家 * 宗家 - [[武蔵国]][[川越藩]]1万石→[[上野国]][[前橋藩]]3万3千石(後、最大時15万2千石)→[[播磨国]][[姫路藩]]15万石→伯爵 ** 分家 - [[上野国]][[伊勢崎藩]]2万石→子爵 * 別家 - [[駿河国]][[田中藩]]1万石→武蔵国川越藩2万石(後、最大時10万石)[[若狭国]][[小浜藩]]11万3千石(最大時12万3500石)→伯爵 ** 分家 - [[安房国]][[安房勝山藩|勝山藩(加知山藩)]]1万石→子爵 ** 分家 - [[越前国]][[敦賀藩]]1万石→子爵 === 雅楽頭酒井家系譜 === ;太字は雅楽頭家宗家(姫路藩主家)当主。実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。※は同一人物。<!--構成の都合で出生順より組み替え--> ==== 姫路藩主家 ==== ;1=雅楽頭家宗家歴代。 <div style="font-size:75%"> {{familytree/start|style="font-size:100%"}} {{familytree |border=0|01|||||| 01=酒井広親|}} {{familytree |border=0| |)|-|-|.||}} {{familytree |border=0|01|02|||||| 01=[左衛門尉家]<br/>[[酒井氏忠|氏忠]]|02=[雅楽頭家]<br/>'''家忠'''<sub>1</sub>|}} {{familytree |border=0| ||||!}} {{familytree |border=0||||01||||||| 01='''信親'''<sub>2</sub>|}} {{familytree |border=0| ||||!}} {{familytree |border=0||||01||||||| 01='''家次'''<sub>3</sub>|}} {{familytree |border=0| ||||!}} {{familytree |border=0||||01||||||| 01='''清秀'''<sub>4</sub>|}} {{familytree |border=0| ||||!}} {{familytree |border=0||||01||||||| 01='''[[酒井正親|正親]]'''<sub>5</sub>|}} {{familytree |border=0| ||||)|-|-|.}} {{familytree |border=0||||01|02||||| 01=[姫路藩主家]<br/>'''[[酒井重忠|重忠]]'''<sub>6</sub>|02=[小浜藩主家]<br/>[[酒井忠利|忠利]]}} {{familytree |border=0| |,|-|-|^|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|.}} {{familytree |border=0|02|||||||||||||||||||||||||01|03| 01=忠正|02='''[[酒井忠世|忠世]]'''<sub>7</sub>|03=[[西尾忠永]]}} {{familytree |border=0| |!|||||||||||||||||||||||||||!||!}} {{familytree |border=0|01|||||||||||||||||||||||||02|03| 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{{familytree |border=0|01||||||||||||||||||||||02||| 01='''[[酒井忠恭|忠恭]]'''※<sub>14</sub>|02=弥門}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|~|~|7||||||!}} {{familytree |border=0|01|02|05|03|04|06|07||||08| 01=[[酒井忠仰|忠仰]]|02=[[酒井忠得|忠得]]|03=[[酒井忠宜|忠宜]]|04=[[酒井忠温 (伊勢崎藩主)|忠温]]※|05=[旗本]<br/>忠啓|06=<small>[姫路新田藩主家]</small><br/>[[酒井忠交|忠交]]|07='''[[酒井忠以|忠以]]'''※<sub>15</sub>|08=忠誨}} {{familytree |border=0| |)|-|-|.|||!|||||||||!|||)|-|-|.|||)|-|-|v|-|.}} {{familytree |border=0|01|02|03|||||||04|05|06|07|08|09|| 01=[[酒井忠以|忠以]]※|02=[[酒井抱一|忠因(抱一)]]|03=忠求|04=[[酒井忠質|忠質]]|05='''[[酒井忠道|忠道]]'''<sub>16</sub>|06=[[酒井忠実|忠実]]※|07=[[酒井忠績|忠績]]※|08=[静岡藩士]<br/>忠恕|09=[[酒井忠惇|忠惇]]※}} {{familytree |border=0| |||||||!|||||||||!|||}|-|-|.}} {{familytree |border=0|||||||01|||||||02|03|04| 01=忠欽|02=[[酒井忠全|忠全]]<br/>[無嗣断絶]|03='''[[酒井忠実|忠実]]'''※<sub>17</sub>|04=[[酒井忠学|忠学]]※}} {{familytree |border=0| |||||||!|||||||||,|-|-|+|-|-|v|-|-|v|-|-|.}} {{familytree |border=0|||||||01|07|~|~|~|02|03|04|05|06| 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{{familytree |border=0|||||||||||||||||01| 01='''[[酒井忠輝|忠輝]]'''<sub>29</sub>|}} {{familytree/end}} </div> ==== 伊勢崎藩主家・小浜藩主家・安房勝山藩主家・敦賀藩主家 ==== ;1=伊勢崎藩主家歴代、①=小浜藩主家歴代、i=安房勝山藩主家歴代、I=敦賀藩主家歴代。 <div style="font-size:75%"> {{familytree/start|style="font-size:100%"}} {{familytree |border=0||||01||||||| 01=[[酒井正親]]}} {{familytree |border=0| ||||)|-|-|.}} {{familytree |border=0||||01|02||||| 01=[[酒井重忠|重忠]]|02=[小浜藩主家]<br/>[[酒井忠利|忠利]]<sub>①</sub>}} {{familytree |border=0| |,|-|-|(|||)|-|-|.}} {{familytree |border=0|01|02|04|03||||||||||||||||||||| 01=[[酒井忠世|忠世]]|02=[[西尾忠永]]|03=[[酒井忠勝 (小浜藩主)|忠勝]]<sub>②</sub>|04=[旗本寄合席]<br/>[[酒井忠吉|忠吉]]}} {{familytree |border=0| |!|||!|||!|||)|-|-|v|-|-|.||||||||||||}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06| 01=[[酒井忠行|忠行]]|02=[[西尾忠照|忠照]]|03=忠経|04=[[酒井忠朝|忠朝]]||05=[[青木可一]]|06=[[酒井忠直|忠直]]<sub>③</sub>}} {{familytree |border=0| |!|||!|||,|-|-|+|-|-|.|||)|-|-|v|-|-|v|-|-|-|-|-|.}} {{familytree |border=0|01|02|04|05|03|06|08|09||||07| 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徳川十六神将
徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう)は、徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を顕彰した呼称。江戸時代には家康と十六神将の姿を描いた図像が東照宮信仰において好まれた。 近世には仏教絵画の集合図像に模して、戦国大名家の供養や顕彰を目的とした集団肖像画が製作されている。16の数字が選ばれた理由は明らかではないが、16という名数は、(賢劫)十六尊、十六善神、十六羅漢、十六善神、十六社など宗教、特に仏教でよく用いられる。近世には筆頭の酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4名を特に「徳川四天王」と呼ぶ場合もあるから、東照大権現の神号を持つ家康を仏(権現)に見立て、仏教の四天王・十二神将の数字を合計して「十六神将」としたのであろう。更に12人の功臣を加えた呼称を徳川二十八神将と呼びこの28人は日光東照宮に配祀されている。人選の基準は不明だが、大部分は三河時代からの家臣で、領土拡張期に家康と共に戦場で活躍した武功派の武将たちである。このことから世が治まり吏僚派の家臣が台頭する中で、創業期の苦しみや活躍を後世に伝えるために選ばれたと考えられる。
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徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう)は、徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を顕彰した呼称。江戸時代には家康と十六神将の姿を描いた図像が東照宮信仰において好まれた。
'''徳川十六神将'''(とくがわじゅうろくしんしょう)は、[[徳川家康]]に仕えて[[江戸幕府]]の創業に功績を立てた16人の武将を[[顕彰]]した呼称。[[江戸時代]]には家康と十六神将の姿を描いた図像が[[東照宮]][[信仰]]において好まれた。 == 概要 == 近世には仏教絵画の集合図像に模して、戦国大名家の供養や顕彰を目的とした[[集団肖像画]]が製作されている。[[16]]の数字が選ばれた理由は明らかではないが、16という名数は、(賢劫)十六尊、[[十六善神]]、[[十六羅漢]]、十六善神、十六社など宗教、特に[[仏教]]でよく用いられる。近世には筆頭の[[酒井忠次]]・[[本多忠勝]]・[[榊原康政]]・[[井伊直政]]の4名を特に「[[徳川四天王]]」と呼ぶ場合もあるから、東照大権現の神号を持つ家康を[[仏]]([[権現]])に[[見立て]]、[[仏教]]の[[四天王]]・[[十二神将]]の数字を合計して「十六神将」としたのであろう。更に12人の功臣を加えた呼称を[[徳川二十八神将]]と呼びこの28人は[[日光東照宮]]に配祀されている。人選の基準は不明だが、大部分は[[三河国|三河]]時代からの家臣で、領土拡張期に家康と共に戦場で活躍した武功派の武将たちである。このことから世が治まり吏僚派の家臣が台頭する中で、創業期の苦しみや活躍を後世に伝えるために選ばれたと考えられる。 == 該当者 == *[[酒井忠次]]([[1527年]] - [[1596年]]) *[[本多忠勝]]([[1548年]] - [[1610年]]) *[[榊原康政]]([[1548年]] - [[1606年]]) *[[井伊直政]]([[1561年]] - [[1602年]]) :(以上を[[徳川四天王]]、本多・榊原・井伊の3人を三傑という) *[[米津常春]]([[1524年]] - [[1612年]]) *[[高木清秀]]([[1526年]] - [[1610年]]) *[[内藤正成]]([[1528年]] - [[1602年]]) *[[大久保忠世]]([[1532年]] - [[1594年]]) *[[大久保忠佐]]([[1537年]] - [[1613年]]) *[[蜂屋貞次]]([[1539年]] - [[1564年]])または[[植村家存]](家政)([[1541年]] - [[1577年]]) *[[鳥居元忠]]([[1539年]] - [[1600年]]) *[[鳥居忠広]](? - [[1573年]]) *[[渡辺守綱]]([[1542年]] - [[1620年]]) *[[平岩親吉]]([[1542年]] - [[1611年]]) *[[服部正成]]([[1542年]] - [[1596年]]) *[[松平康忠]]([[1545年]] - [[1618年]])または[[松平家忠]]([[1555年]] - [[1600年]]) == 徳川二十四将に入る武将 == *[[大須賀康高]]([[1527年]] - [[1589年]]) *[[板倉勝重]]([[1545年]] - [[1624年]]) *[[戸田忠次]]([[1531年]] - [[1597年]]) *[[水野忠重]]([[1541年]] - [[1600年]]) *[[渥美勝吉]]([[1557年]] - [[1616年]]) *[[安藤直次]]([[1555年]] - [[1635年]]) *[[酒井重忠]]([[1549年]] - [[1617年]]) *[[松平定勝]]([[1560年]] - [[1624年]]) *[[本多俊正 (戦国時代)|本多俊正]](生没年不詳) == 参考文献 == *奥出賢治 「徳川十六将図再考」『名古屋市博物館研究紀要』第25号、2002年3月31日、pp.1-21 == 関連項目 == *[[武田二十四将]] *[[徳川二十八神将]] *[[黒田二十四騎]] == 外部リンク == *[http://www.sengoku-shizuoka.com/stage/general/ 徳川十六神将・静岡武将列伝] - Shizuoka城と戦国浪漫 {{DEFAULTSORT:とくかわしゆうろくしんしよう}} [[Category:徳川家康]] [[Category:戦国武将の名数16|とくかわ]] [[Category:井伊直政]] [[Category:本多忠勝]]
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酒井忠次
酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。 徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。 大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。 竹千代(徳川家康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、竹千代に従う家臣の中では酒井正親に次ぐ最高齢者(23歳)として同行した。この後、松平元信(徳川家康)の配下として仕え、弘治年間の初期頃より福谷城に住んでいる。弘治2年(1556年)、柴田勝家に2,000騎で福谷城を攻められた忠次は城外に出て戦い、激しい攻防の末、勝家を敗走させている。この福谷城攻防については、屈従時代の輝かしい武勇譚として『東照軍艦』『武徳大成記』『家忠日記』『大久保忠勝譜』『阿部忠政譜』『御年譜』『徳川実紀』など徳川家の記録類の多くに記述されている。 永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、酒井忠尚を始め酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康に従った。永禄7年(1564年)には吉田城攻めで先鋒を務め、守将の小原鎮実を撤退させ、無血開城によって城を落とす戦功を立て、戦後、吉田城主となっている。これにより、忠次は東三河の旗頭として三河東部の諸松平家・国人を統制する役割を与えられる(西三河は石川家成)。 永禄12年(1569年)末に甲斐国の武田信玄は今川氏真の領国駿河への侵攻を行い(駿河侵攻)、徳川氏は当初武田氏と同盟し今川領国の割譲を協定していたが、忠次は武田方との交渉を担当している。 元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っている。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行。鳶巣山砦を陥落させ長篠城を救出した上に勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍も討つ大功を挙げている。 家康の厚い信任を受けていた忠次は天正7年(1579年)に家康の嫡子・松平信康の件で織田信長からの詰問を受けたとき、大久保忠世と共に弁解の使者に立てられて安土城に赴いている。この際、忠次は信康を十分に弁護できず、信康の切腹を防げなかったと言われる。もっとも、この信康切腹の通説に関しては不自然な点や疑問点も多く、『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や『当代記』にあるように信康の切腹は家康の意思であるという説が近年では有力である(松平信康#信康自刃事件について)。 それを裏付けるように以後も家康の重臣として仕え、天正10年(1582年)6月2日に起きた本能寺の変の後、家康は信長横死後に空白地帯となった武田遺領の甲斐・信濃の掌握をはかり(天正壬午の乱)、同年6月27日には忠次を信濃へ派遣して信濃国衆の懐柔を図る(『家忠日記』)。忠次は奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻するが、諏訪頼忠や小笠原貞慶らの離反により失敗する。 また天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは羽黒の戦いで森長可を敗走させるなど、家康の主な戦いには全て参加している。 天正13年(1585年)に同じく家康の宿老であった石川数正が出奔してからは家康第一の重臣とされ、天正14年(1586年)10月24日に家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されている。天正16年(1588年)10月、長男の家次に家督を譲って隠居する。隠居の要因は加齢もさることながら、眼病を患い、殆ど目が見えなかったからだともいわれる。京都におり、豊臣秀吉からは京都桜井の屋敷と世話係の女と在京料として1000石を与えられ、この頃、入道して「一智」と号したと一般的に伝わっている。 慶長元年(1596年)10月28日、京都桜井屋敷で死去した。享年70。墓所は知恩院の塔頭・先求院。墓は知恩院山腹の墓地内にある。 酒井氏は、その祖先を遡ると松平氏の祖の親氏と兄弟と言われ(婚姻関係での兄弟とも言われる)、更には安祥譜代と呼ばれる松平家中における最古参の宿老であり、忠次も松平氏とは深い血縁関係にある。忠次の正室は家康の祖父・松平清康と夫人・於富の方の間の娘・碓井姫である。於富の方は清康の正室となる前は水野忠政の正室であり、家康の母・於大の方の実母であるから、忠次は家康にとっては父母双方の妹の夫、義理の叔父ということになる。 この碓井姫との間に家次、本多康俊といった子が生まれており、特に家督を相続した家次は下総臼井藩3万石から越後高田藩10万石となり、子孫は最終的に出羽庄内藩17万石と譜代屈指の大身として重きを成した。また、この他に庶流が出羽において3藩を立藩している。また、伊奈本多氏を継いだ康俊の系譜も幕末まで続いている。
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酒井 忠次は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。 徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 酒井 忠次 | 画像 = Sakai Tadatsugu.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 酒井忠次像(先求院所蔵) | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]] | 生誕 = [[大永]]7年([[1527年]]) | 死没 = [[慶長]]元年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1596年]][[12月17日]]) | 改名 = | 別名 = 小平次(幼名)、小五郎、左衛門尉([[仮名 (通称)|通称]])、一智(号) | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = 先求院天誉高月縁心居士 | 霊名 = | 墓所 = [[知恩院]][[先求院]]([[京都市]][[東山区]]) | 官位 = [[従四位|従四位下]]・[[衛門府|左衛門督]] | 幕府 = | 主君 = [[松平広忠]]→[[徳川家康]] | 藩 = | 氏族 = [[酒井氏]](左衛門尉系) | 父母 = 父:[[酒井忠親 (戦国武将)|酒井忠親]]、母:不明 | 兄弟 = [[酒井忠善|忠善]]、'''忠次'''、[[西郷清員]]室、[[酒井恒城|恒城]] | 妻 = [[正室]]:'''[[碓井姫]]'''([[松平清康]]の娘)<br />[[側室]]:[[山県昌景]]の娘?、小山十兵衛の娘?、他 | 子 = '''[[酒井家次|家次]]'''、[[本多康俊]]、[[小笠原信之]]、[[松平久恒]]、[[酒井忠知|忠知]]、ふう([[松平伊昌]]室)、[[本郷頼泰]]室、[[曽我尚佑]]室<br />養女:''鳳樹院''([[牧野康成 (大胡藩主)|牧野康成]]室)、''[[山岡景佐]]の娘'' | 特記事項 = }} '''酒井 忠次'''(さかい ただつぐ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[三河国|三河]]の[[武将]]。[[徳川氏]]の[[家臣]]。 '''[[徳川四天王]]'''・'''[[徳川十六神将]]'''ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。 == 生涯 == {{出典の明記| section = 1| date = 2022-08}} [[File:Idajo.jpg|thumb|酒井忠次の生誕地である井田城址([[愛知県]][[岡崎市]][[井田町 (岡崎市)|井田町]])。]] [[File:Domaru of Sakai Tadatsugu.jpg|thumb|伝・酒井忠次所用の色々威胴丸(重要文化財、山形県鶴岡市・致道博物館所蔵)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|5702|色々威胴丸〈兜、頬当、大袖、籠手付/〉}}、2018年9月15日閲覧。</ref>。]] 大永7年(1527年)、徳川氏の前身である[[松平氏]]の[[譜代]]家臣・[[酒井忠親 (戦国武将)|酒井忠親]]の次男として三河[[額田郡]][[井田城 (三河国)|井田城]]([[愛知県]][[岡崎市]][[井田町 (岡崎市)|井田町]]城山公園)に生まれる。元服後、[[徳川家康]]の父・[[松平広忠]]に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。 竹千代(徳川家康)が[[今川義元]]への[[人質]]として[[駿府]]に赴く時、竹千代に従う家臣の中では[[酒井正親]]に次ぐ最高齢者(23歳)として同行した。この後、松平元信(徳川家康)の配下として仕え、[[弘治 (日本)|弘治]]年間の初期頃より[[福谷城]]に住んでいる。弘治2年(1556年)、[[柴田勝家]]に2,000騎で福谷城を攻められた忠次は城外に出て戦い、激しい攻防の末、勝家を敗走させている。この福谷城攻防については、屈従時代の輝かしい武勇譚として『東照軍艦』『武徳大成記』『家忠日記』『大久保忠勝譜』『阿部忠政譜』『御年譜』『徳川実紀』など徳川家の記録類の多くに記述されている。 [[永禄]]3年([[1560年]])5月の[[桶狭間の戦い]]の後、徳川家の[[家老]]となり、永禄6年([[1563年]])の[[三河一向一揆]]では、[[酒井忠尚]]を始め酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康に従った。永禄7年([[1564年]])には[[吉田城_(三河国)#戦国時代末期から|吉田城攻め]]で先鋒を務め、守将の[[小原鎮実]]を撤退させ、無血開城によって城を落とす戦功を立て、戦後、[[吉田城 (三河国)|吉田城]]主となっている。これにより、忠次は東三河の旗頭として三河東部の諸松平家・[[国人]]を統制する役割を与えられる(西三河は[[石川家成]])。 永禄12年([[1569年]])末に[[甲斐国]]の[[武田信玄]]は[[今川氏真]]の領国[[駿河国|駿河]]への侵攻を行い([[駿河侵攻]])、徳川氏は当初武田氏と同盟し今川領国の割譲を協定していたが、忠次は武田方との交渉を担当している。 [[元亀]]元年([[1570年]])の[[姉川の戦い]]では姉川沿いに陣取り、[[小笠原信興]]の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。元亀3年([[1573年]])の[[三方ヶ原の戦い]]では右翼を担い、敵軍の[[小山田信茂]]隊と激突し、打ち破っている。[[天正]]3年([[1575年]])の[[長篠の戦い]]では分遣隊を率いて[[武田勝頼]]の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行。鳶巣山砦を陥落させ長篠城を救出した上に勝頼の叔父・[[河窪信実]]等を討ち取り、有海村の武田支軍も討つ大功を挙げている。 家康の厚い信任を受けていた忠次は天正7年([[1579年]])に家康の嫡子・[[松平信康]]の件で[[織田信長]]からの詰問を受けたとき、[[大久保忠世]]と共に弁解の使者に立てられて[[安土城]]に赴いている。この際、忠次は信康を十分に弁護できず、信康の切腹を防げなかったと言われる。もっとも、この信康切腹の通説に関しては不自然な点や疑問点も多く、『安土日記』(『[[信長公記]]』諸本の中で最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や『[[当代記]]』にあるように信康の切腹は家康の意思であるという説が近年では有力である([[松平信康#信康自刃事件について]])。 それを裏付けるように以後も家康の重臣として仕え、天正10年([[1582年]])6月2日に起きた[[本能寺の変]]の後、家康は信長横死後に空白地帯となった武田遺領の甲斐・信濃の掌握をはかり([[天正壬午の乱]])、同年6月27日には忠次を信濃へ派遣して信濃国衆の懐柔を図る(『[[家忠日記]]』)。忠次は奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻するが、[[諏訪頼忠]]や[[小笠原貞慶]]らの離反により失敗する。 また[[天正]]12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]では[[小牧・長久手の戦い#羽黒の戦い|羽黒の戦い]]で[[森長可]]を敗走させるなど、家康の主な戦いには全て参加している。 天正13年([[1585年]])に同じく家康の宿老であった[[石川数正]]が出奔してからは家康第一の重臣とされ、天正14年([[1586年]])[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]に家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されている。天正16年([[1588年]])10月、長男の[[酒井家次|家次]]に[[家督]]を譲って[[隠居]]する。隠居の要因は加齢もさることながら、眼病を患い、殆ど目が見えなかったからだともいわれる。京都におり、[[豊臣秀吉]]からは京都桜井の屋敷と世話係の女と在京料として1000石を与えられ、この頃、入道して「一智」と号したと一般的に伝わっている。 慶長元年(1596年)10月28日、京都桜井屋敷で死去した。享年70。墓所は[[知恩院]]の塔頭・先求院。墓は知恩院山腹の墓地内にある。 == 人物・逸話 == [[ファイル:Sakai Tadatsugu's drum.jpg|thumb|right|250px|[[月岡芳年]]『酒井忠次時鼓打之図」』。三方ヶ原の戦いにて、酒井忠次(一番左)が浜松城の櫓上で太鼓を打つ様を描く。]]{{出典の明記| section = 1| date = 2022-08}} * 元亀4年(1573年)正月、武田家から「松枯れて竹たぐひなき明日かな(松平は枯れて武田は類ないようになる将来だ)」と詠んだ句が送られてきた。家康や徳川家臣団は激怒したが、忠次はその句の要所に濁点を入れ替えて「松枯れで竹だくびなき明日かな(松平は枯れず武田は首がない将来だ)」と読み返したという。このことから、正月には門松の竹を斜めに切り落とすのが習慣になったという。 * 忠次の愛槍は「甕通槍」といい、甕もろとも突き抜けて敵を倒したという逸話がある。 * 酒井忠次の愛刀で七男の[[松平甚三郎]]([[庄内藩]]首席家老)の家系に伝わる'''[[猪切]]'''(いのししぎり)は、[[村正]]の高弟である[[正真#伊勢千子正真|正真]]の作である(銘は「正真」の二字){{sfn|福永|1993|loc=1巻, pp. 107-108}}。若かりし頃の家康が伴を連れて狩りに出た時、忠次がこの千子正真で猪を斬ったので、茎に「猪切」の金象嵌を入れたのだという{{sfn|福永|1993|loc=1巻, pp. 107-108}}。 * 海老すくいという踊りが得意であり、重臣であるにもかかわらず諸将の前で踊りを見せ、大いに盛り上げたという。天正14年(1586年)、家康が[[北条氏政]]と同盟を結ぶために[[伊豆半島|伊豆]][[三島市|三島]]に赴いた際の酒宴でも披露している<ref>『江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか? 徳川四天王』([[英和出版社]]、2014年)</ref>。 * {{要出典範囲|三方ヶ原の戦いでは、家康が[[浜松城]]に逃げ帰った後、忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵のあることを疑わせて引き返させたとする「酒井の太鼓」の話は、[[河竹黙阿弥]]の『太鼓音知勇三略』(後に[[新歌舞伎十八番]]の一編となる)が明治6年([[1873年]])3月に[[市村座|村山座]]で初演されたのが人気を博したことで知られるようになったもので、『[[三河後風土記]]』が典拠とされる。|date=2022-08}} * 『[[名将言行録]]』巻49では他の家康譜代家臣とともに忠次の言動が紹介されている。末尾では「知勇絶倫」「開国の元老」「軍国の事は、悉く忠次に任せられけり」と称賛されている{{sfn|岡谷繁実|1944|p=203-204}}。 **長篠の戦いを前にした軍議では、忠次が鳶巣山の攻略を提案したが、信長に嘲笑された。しかし軍議が終わった後に信長は忠次を呼び戻し、鳶巣山の夜襲を命じた。これは信長が秘密の漏洩を恐れていたためであり、「流石徳川の片腕」と激賞している{{sfn|岡谷繁実|1944|p=198-199}}。 **[[武田氏]]滅亡後に家康は、[[井伊直政]]を取り立てるために大半の武田家臣を付そうとした。忠次は直政に甲州侍を付ければなおますます励むであろうと賛成した。しかし[[榊原康政]]は激怒し、直政と刺し違えるとまで言い出した。これを聞いた忠次は「直政に甲州侍を付したのは主君である。軽率な行動をすれば、その方の一門を串刺しにする」と康政を叱りつけた。康政はこの言葉に服したという{{sfn|岡谷繁実|1944|p=200-291}}。 * 『[[常山紀談]]』の記述では[[長篠の戦い]]における鳶ヶ巣山砦奇襲の作戦は、信長の本営の[[極楽寺山]]で行われた軍議で忠次が発案したものであったが、信長からは「そのような小細工は用いるにあらず」と頭ごなしに罵倒され、忠次の発案は問答無用で却下された。しかし、軍議が終わって諸将が退出した後、信長は忠次を密かに呼び出し、「先ほどは、作戦の情報が武田方に漏れる恐れがあったゆえ、わざとお前の発案を却下したが、お前の発案は理にかなった最善の作戦だ。作戦の指揮はお前に任せるから、直ちに作戦を実行せよ」と命じた。戦いが終わった後、信長は忠次の活躍を賞して「前に目あるのみにあらず、後にも目あり(忠次は前だけでなく後ろにも目があるかのような活躍ぶりだ)」と述べた。しかし忠次は「偖(さて)終に後ろを見たることは之なく候(私は後ろを見たことはありませんでした)」と返した。信長は笑い、前後のはかりごとが違わなかったと言おうとして言い過ぎたと弁明し、忠次は「仰せの旨、面目あり」と言って退出したという{{sfn|湯浅常山|1925|p=123-124}}。 *『常山紀談』では信康の切腹事件は信長に「信康が武田氏と通じて信長を殺そうとしている。この事は忠次がよく知っている」と告げられたことが発端であるとされている。信長は信康の妻[[徳姫]]から報告された信康の悪事について忠次に問いただしたが、忠次はこれを認めた。これについては、以前忠次が信康の侍女を側室としたことから、信康の恨みを買っていたとされている。信康の守役[[平岩親吉]]は、自分が切腹してなんとか信康の助命を願い出るよう述べたが、家康は忠次がここまで言ってはなかなか聞き入れられないだろうと止めている。後に忠次は目を患って引きこもっていたが、しばらくしてから家康に拝謁し、「年老候ひぬ子を不便にさせ給え(私は年老いました。子供をどうかかわいがってください)」と言上した。家康は「信康生きて有るなら斯許心を労すまじきに、汝も子の不便なることを知りたるが怪しき(信康が生きていればこのような心労もなかったであろうに、お前も子がかわいいということを知っているのは不思議なことだ)」と述べ、忠次は言葉もなく退出したという{{sfn|湯浅常山|1925|p=141-142}}。だが信康切腹の通説に関しては不自然な点や疑問点も多く、『安土日記』(『[[信長公記]]』諸本の中で最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や『[[当代記]]』にあるように信康の切腹は家康の意思であるという説が近年では有力である([[松平信康#信康自刃事件について]])。 == 系譜 == {{出典の明記| section = 1| date = 2022-08}} 酒井氏は、その祖先を遡ると松平氏の祖の[[松平親氏|親氏]]と兄弟と言われ(婚姻関係での兄弟とも言われる)、更には[[安祥譜代]]と呼ばれる松平家中における最古参の[[宿老]]であり、忠次も松平氏とは深い血縁関係にある。忠次の正室は家康の祖父・[[松平清康]]と夫人・[[華陽院|於富の方]]の間の娘・[[碓井姫]]である。於富の方は清康の正室となる前は[[水野忠政]]の正室であり、家康の母・[[於大の方]]の実母であるから、忠次は家康にとっては父母双方の妹の夫、義理の叔父ということになる。 この碓井姫との間に家次、[[本多康俊]]といった子が生まれており、特に家督を相続した家次は[[下総国|下総]][[臼井藩]]3万石から[[越後国|越後]][[高田藩]]10万石となり、子孫は最終的に[[出羽国|出羽]][[庄内藩]]17万石と譜代屈指の大身として重きを成した。また、この他に庶流が出羽において3藩を立藩している。また、[[本多氏|伊奈本多氏]]を継いだ康俊の系譜も幕末まで続いている。 == 酒井忠次が登場する主な作品== ; 小説 * [[川村真二]]『徳川四天王 家康に天下を取らせた男たち』([[PHP研究所]]) ;ドラマ * 『[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]』([[NHK大河ドラマ]]、[[1965年]] 演: [[明石健]]) * 『[[おんな太閤記]]』(NHK大河ドラマ、[[1981年]] 演: [[小松方正]]) * 『[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]』(NHK大河ドラマ、[[1983年]] 演: [[福田豊土]]) * 『[[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]』(NHK大河ドラマ、[[1988年]] 演: [[中丸新将]]) * 『[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]』(NHK大河ドラマ、[[1989年]] 演: [[加藤治]]) * 『[[暴れん坊将軍III]]』([[テレビ朝日]]、[[1990年]] 演: [[船越英二]]) * 『[[信長 KING OF ZIPANGU]]』(NHK大河ドラマ、[[1992年]] 演: [[林邦応]]) * 『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』(NHK大河ドラマ、[[1996年]] 演: [[真夏竜]]) * 『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』(NHK大河ドラマ、[[2006年]] 演: [[森田順平]]) * 『[[徳川家康と三人の女]]』([[テレビ朝日]]、[[2008年]] 演 [[山田明郷]]) * 『[[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]]』(NHK大河ドラマ、[[2009年]] 演: [[飯島大介]]) * 『[[江〜姫たちの戦国〜]]』(NHK大河ドラマ、[[2011年]] 演: [[桜木健一]]) *『[[おんな城主 直虎]]』(NHK大河ドラマ、[[2017年]] 演:[[みのすけ]]) *『[[どうする家康]]』 (NHK大河ドラマ、[[2023年]] 演:[[大森南朋]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == {{脚注の不足|section=1|date=2022-08}} * 『江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか? 徳川四天王』([[英和出版社]]、2014年) * {{Cite journal|和書|author=原史彦|title=徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎|date=2016-03-30|publisher=公益財団法人徳川黎明会|journal=金鯱叢書|volume=第43輯|issn=2188-7594|url=http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/bcd297314498ffc33ee5c1ce05ca0657a85cb7b9.pdf|format=pdf|pages=1-21|accessdate=2016-08-17|ref=harv}} * {{ Citation | 和書 | last=福永 | first=酔剣 | author-link=福永酔剣 | title=日本刀大百科事典 | publisher=[[雄山閣]] | year=1993 | isbn = 4-639-01202-0 |ref=harv }} * {{Cite book | 和書 | author=岡谷繁実 | authorlink=岡谷繁実 | title=名将言行録 | publisher=[[岩波書店]] |volume=6巻 |series =[[岩波文庫]] | date=1944 |ref=harv }} * {{Cite book | 和書 | author=湯浅常山 | authorlink=湯浅常山 | title=常山紀談 | publisher=[[有朋堂]] | date=1925 |ref=harv }} == 関連項目 == {{Commonscat|Sakai Tadatsugu}} * [[徳川四天王]] * [[徳川十六神将]] * [[荘内神社]] * [[豊橋 (橋)]] * [[円心寺 (本庄市)]] {{酒井左衛門尉家当主|[[酒井氏|酒井左衛門尉家宗家]]|第5代}} {{DEFAULTSORT:さかい たたつく}} [[Category:戦国武将]] [[Category:酒井左衛門尉家|たたつく]] [[Category:三河国の人物]] [[Category:1527年生]] [[Category:1596年没]]
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2023-07-25T03:07:31Z
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台湾民主国
台湾民主国(たいわんみんしゅこく)とは、日清戦争直後に大日本帝国による領有に反対する軍官民によって台湾に建てられた一時的政権の名称である。1895年の下関条約調印後に列強の干渉を拡大させて日本への台湾割譲を阻止しようとする、清国側の外交的動きの中で生まれた。 台湾民主国はフランスの支援を過大に期待して独立宣言したものであったが、ロシア・ドイツ・フランス・イギリスのいずれもが三国干渉での日本の譲歩に既に満足しており、諸外国からの承認を得られなかった。 そのまま台湾民主国軍は台湾に上陸してきた北白川宮能久親王が率いる日本の近衛師団を迎撃するも、台湾民主国首脳陣の逃亡が相次いだ。北洋大臣李鴻章も戦争の再発を恐れて早々に日本側の要求を受け入れ、6月2日に樺山資紀台湾総督との間に台湾授受手続きを終了させたため、台湾自立による割譲阻止策は失敗し、台湾民主国は約5カ月で崩壊した。ただしその崩壊時期については諸説ある(後述)。 11月18日の台湾総督府による全島平定宣言に至るまでの戦闘を、清国側は乙未戦争と呼ぶが、日本側は日清戦争後の掃討戦(日清戦争の一部)とみなして、台湾平定、台湾鎮定あるいは台湾征討と呼称する。 日清戦争に敗北した清国は、下関条約により台湾および澎湖諸島を日本に割譲した。これは台湾在住者に全く知らされずに締結され、下関条約によって台湾在住者は日本人となることが決定した。 しかし日本が台湾領有後さらに南清に侵攻することを恐れた清国湖広(ここう)総督張之洞らの策動もあり、その中で清国人であった当時の官僚と唐景崧や丘逢甲ら一部住民が協力し1895年5月23日に台湾民主国独立宣言を発表、24日には各国語に翻訳し駐台湾の各国領事館に通知している。そして25日独立式典を実施し台湾民主国の成立を宣言した。 独立式典では、唐景崧を総統(日本語では大統領)に選出するとともに、青地に黄虎の黄虎旗を国旗と定め、永清と改元。行政立法の機関を定め、紙幣、郵券を発行し、布告を島民に発し、国家体系を整えた。当時台湾第一の富豪であった林維源を国会議長に推戴するが、林はこれを拒否、100万両を新政府に献金したのち27日には廈門に逃亡した。 5月29日、日本軍が澳底(現在の新北市貢寮区)に上陸すると、傭兵を主体としていた民主国軍は総崩れとなり、6月3日には基隆を占拠されてしまう。これにより新政府は空中分解、翌4日には唐景崧は老婆に変装し、公金を持ってドイツ商船のアーター (Arthur) 号に乗船して廈門に逃亡してしまう。 唐景崧が逃亡したことで、台湾人は6月下旬に台南で大将軍劉永福を第二代台湾民主国総統に選任した。後世の史家はこれを台南共和 (Tainan Republic) や第二共和 (Second Republic) と称する事もある。 劉永福が総統に就任して3カ月間、民主国と日本軍の間で戦闘が繰り返されたが、日清戦争を勝ち抜いた日本軍と、傭兵主体で数にも劣る台湾民主国軍では実力が違っていた。劉永福は台湾島南部で抵抗を続けたが10月下旬には中国に逃亡し、日本軍は台南、安平を陥落させた。ここに台湾は日本によって平定され、この台湾民主国・台湾人と日本軍との戦いは台湾平定と呼ばれる。 ただし台湾民主国の滅亡日は、唐景崧の逃亡日(5月27日)とする説、劉永福の逃亡日とする説、台湾民主国の旗印による最後の戦闘(1896年2月)とする説など諸説ある。 台湾民主国は二つの参加者に区分することができる。一つは唐景崧以下の台湾省時代からの官吏で非台湾籍の者であり、もう一つは台湾出身で帰省中の非現役者からなる士紳である。後者は台湾人の「公議」を代表する役割を担った。 唐は台湾総統に就任すると、清国時代からの文武官に去就を明らかにさせたところ、文官では布政使・知県・知州・知府ことごとく本土帰還を表明した。武官では幇弁台湾防務に就いていた福建水師総督の楊岐珍と台湾鎮総兵萬国本らが部隊を引き連れ帰国した。このため下級官吏たちが大きく出世することとなった。 5月25日に発布された諭告によれば、「ただちにまず議院を設立し、議員を公挙して、律令章程を詳らかに定め」とされ、式典当日に公挙が行われた。議長には林維源が選ばれたが、林は辞退した。民主国内部の文献は存在しないが、状況証拠から丘逢甲が副総統とされる。 この短命政権に対し、歴史学者の間でも評価が分かれている。 まずは欧米で散見される「共和国」の人工性を強調する視点であり、これらは清国の官僚に主導され、国際的な支持を得ることで台湾に日本の権益浸透を阻止することに主眼を置き、清国に忠誠を尽くし、一般の台湾人の支持は得られていなかったとするものである。李筱峰の主張によれば台湾民主国は台湾独立運動の嚆矢とは言えず、清国の官吏が日清戦争敗北後に台湾を講和条件に提起したことに対する住民の反発を恐れたため、台湾における反日運動を計画、住民に対し日本軍の占領と、清国は台湾を放棄した訳でない事を印象付けるための行動と分析される。 次に中国の民族主義者に多く見られる傾向であるが、台湾民主国を中国人による抗日運動の一環と位置づけ、台湾の主権問題を中国に帰属させる視点である。黄秀政や頼建国らは台湾民主国を台湾独立を画策したものでなく、清国に帰属させるための過渡期であったと評価している。 この対極に位置する台湾独立派の歴史家の視点を紹介すると、その代表人物とされる史明は台湾民主国は独立自主を標榜したが、その代表の思想は台湾の大衆とは一致するものではなかった。全ての政治目標は清国の統治下の中国の枠組みを超えることはなかったと評価し、王育徳も台湾民主国の独立宣言に「恭奉正朔,遙作屏藩(清の暦を用い、藩屏すなわち衛星国となる)」という一文が含まれていることから、その独立の精神に懐疑的な意見を発表しており、統一派と類似した見解を述べている。
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台湾民主国(たいわんみんしゅこく)とは、日清戦争直後に大日本帝国による領有に反対する軍官民によって台湾に建てられた一時的政権の名称である。1895年の下関条約調印後に列強の干渉を拡大させて日本への台湾割譲を阻止しようとする、清国側の外交的動きの中で生まれた。
{{出典の明記|date=2016年9月}} {{基礎情報 過去の国 |略名 = 台湾 |日本語国名 = 台湾民主国 |公式国名 = {{native name|中国語|台灣民主國|italics=no}} |建国時期 = [[1895年]] |亡国時期 = [[1895年]] |先代1 = 清朝統治時代の台湾 |先旗1 = Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg |次代1 = 日本統治時代の台湾 |次旗1 = Merchant flag of Japan (1870).svg |国旗画像 = Flag of Formosa 1895.svg |国旗リンク = |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = Formosa Seal.svg |国章リンク = 国璽 |国章幅 = |標語 = |標語追記 = |国歌 = |国歌追記 = |位置画像 = Location Republic of Taiwan.png |位置画像説明 = 台湾民主国の位置 |位置画像幅 = |公用語 = <!-- [[官話]]、[[台湾語]]、[[客家語]]ほか[[台湾諸語]] --> |首都 = [[台北市|台北]]{{smaller|(1895年5月-6月)}}<br />[[台南市|台南]]{{smaller|(1895年6月-10月)}} |元首等肩書 = [[総統]] |元首等年代始1 = 1895年5月 |元首等年代終1 = 6月 |元首等氏名1 = [[唐景崧]] |元首等年代始2 = 1895年6月 |元首等年代終2 = 10月 |元首等氏名2 = [[劉永福]] |首相等肩書 = |首相等年代始1 = |首相等年代終1 = |首相等氏名1 = |面積測定時期1 = |面積値1 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |変遷1 = 宣言 |変遷年月日1 = 1895年5月24日 |変遷2 = 消滅 |変遷年月日2 = 1895年10月23日 |通貨 = 清国元 |通貨追記 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |注記 = }} {{台湾の歴史}} '''台湾民主国'''(たいわんみんしゅこく)とは、[[日清戦争]]直後に[[大日本帝国]]による領有に反対する軍官民によって台湾に建てられた一時的政権の名称である。[[1895年]]の[[下関条約]]調印後に列強の干渉を拡大させて[[大日本帝国|日本]]への[[清朝統治時代の台湾|台湾]]割譲を阻止しようとする、[[清]]国側の外交的動きの中で生まれた。 == 概要 == 台湾民主国はフランスの支援を過大に期待して独立宣言したものであったが<ref name=":0" />、[[ロシア帝国|ロシア]]・[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[フランス第三共和政|フランス]]・[[イギリス帝国|イギリス]]のいずれもが[[三国干渉]]での日本の譲歩に既に満足しており、[[国家の承認|諸外国からの承認]]を得られなかった。 そのまま台湾民主国軍は台湾に上陸してきた[[北白川宮能久親王]]が率いる<ref name=":1">{{Kotobank|台湾民主国}}</ref>日本の[[近衛師団]]を迎撃するも、台湾民主国首脳陣の逃亡が相次いだ。北洋大臣[[李鴻章]]も戦争の再発を恐れて早々に日本側の要求を受け入れ、[[6月2日]]に[[樺山資紀]][[台湾総督府|台湾総督]]との間に台湾授受手続きを終了させたため、台湾自立による割譲阻止策は失敗し、台湾民主国は約5カ月で崩壊した<ref name=":0">『国史大辞典 8』吉川弘文館</ref>。ただしその崩壊時期については諸説ある(後述)。 [[11月18日]]の台湾総督府による全島平定宣言に至るまでの戦闘を、清国側は'''[[乙未戦争]]'''と呼ぶが、日本側は日清戦争後の掃討戦(日清戦争の一部)とみなして、'''台湾平定'''、'''台湾鎮定'''<ref>[http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/06/post_505.html 日本最初の近代的植民地支配、台湾鎮定]</ref>あるいは'''台湾征討'''と呼称する。 == 略史 == [[日清戦争]]に敗北した[[清]]国は、[[下関条約]]により台湾および[[澎湖諸島]]を日本に割譲した。これは台湾在住者に全く知らされずに締結され、下関条約によって台湾在住者は日本人となることが決定した。 しかし日本が台湾領有後さらに南清に侵攻することを恐れた清国湖広(ここう)総督[[張之洞]]らの策動もあり、その中で清国人であった当時の官僚と[[唐景崧]]や[[丘逢甲]]ら一部住民が協力し[[1895年]][[5月23日]]に'''台湾民主国独立宣言'''を発表、24日には各国語に翻訳し駐台湾の各国領事館に通知している。そして25日独立式典を実施し'''台湾民主国'''の成立を宣言した。 独立式典では、[[唐景崧]]を[[総統]]([[日本語]]では[[大統領]])に選出するとともに、青地に黄虎の'''黄虎旗'''を[[国旗]]と定め、'''[[永清]]'''と[[改元]]<ref name=":1" />。行政立法の機関を定め、紙幣、郵券を発行し、布告を島民に発し、国家体系を整えた<ref>『近代の戦争 1 日清戦争』人物往来社</ref>。当時台湾第一の富豪であった[[林維源]]を国会議長に推戴するが、林はこれを拒否、100万両を新政府に献金したのち27日には廈門に逃亡した。 [[5月29日]]、日本軍が澳底(現在の[[新北市]][[貢寮区]])に上陸すると、傭兵を主体としていた民主国軍は総崩れとなり、[[6月3日]]には[[基隆市|基隆]]を占拠されてしまう。これにより新政府は空中分解、翌4日には唐景崧は老婆に変装し、公金を持ってドイツ商船のアーター (''Arthur'') 号に乗船して廈門に逃亡してしまう<ref group="注釈">これにより台湾民主国は滅亡すると主張する史家も存在している</ref>。 {{要出典|範囲=唐景崧が逃亡したことで、台湾人は6月下旬に[[台南]]で大将軍[[劉永福]]を第二代台湾民主国総統に選任した。後世の史家はこれを'''台南共和''' (''Tainan Republic'') や'''第二共和''' (''Second Republic'') と称する事もある。|date=2016年9月}} 劉永福が総統に就任して3カ月間、民主国と日本軍の間で戦闘が繰り返されたが、日清戦争を勝ち抜いた日本軍と、傭兵主体で数にも劣る台湾民主国軍では実力が違っていた。劉永福は台湾島南部で抵抗を続けたが10月下旬には中国に逃亡し<ref name=":1" />、日本軍は台南、安平を陥落させた。ここに台湾は日本によって平定され、この台湾民主国・台湾人と日本軍との戦いは'''[[台湾平定]]'''と呼ばれる。 ただし台湾民主国の滅亡日は、[[唐景崧]]の逃亡日([[5月27日]])とする説、[[劉永福]]の逃亡日とする説{{refnest|group=注釈|[[10月19日]]に劉永福は台湾を離れた。日本軍の台南入城は[[10月21日]]である。このうちどちらかをとるのが、劉永福の逃亡日とする説である。}}、台湾民主国の旗印による最後の戦闘([[1896年]]2月)とする説{{refnest|group=注釈|林大北・林季成らが主体となって宜蘭や瑞芳を包囲攻撃した。ただし、林らがそれまでの台湾民主国とどのような関係にあったかは不明瞭である。}}など諸説ある。 == 編成 == {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}} 台湾民主国は二つの参加者に区分することができる。一つは唐景崧以下の台湾省時代からの官吏で非台湾籍の者であり、もう一つは台湾出身で帰省中の非現役者からなる[[士紳]]である。後者は台湾人の「公議」を代表する役割を担った。 唐は台湾総統に就任すると、清国時代からの文武官に去就を明らかにさせたところ、文官では[[布政使]]・[[知県]]・[[知州]]・[[知府]]ことごとく本土帰還を表明した。武官では幇弁台湾防務に就いていた福建[[水師総督]]の[[楊岐珍]]と[[台湾鎮総兵]][[萬国本]]らが部隊を引き連れ帰国した。このため下級官吏たちが大きく出世することとなった。 5月25日に発布された諭告によれば、「ただちにまず議院を設立し、議員を公挙して、律令章程を詳らかに定め」とされ、式典当日に公挙が行われた。議長には[[林維源]]が選ばれたが、林は辞退した。民主国内部の文献は存在しないが、状況証拠から[[丘逢甲]]が副総統とされる。 == 台湾民主国年表 == * 5月23日:「台湾民主国自主宣言」発表 * 5月25日:台湾民主国総統に唐景崧就任、台湾民主国が正式に成立。'''永清'''と改元 * 5月29日:近衛師団が澳底より上陸 * 5月30日:唐景崧が令民主国部隊に対し瑞芳龍潭堵及び基隆獅球嶺砲台の防衛を命令 * 6月1日:清国代表[[李経芳]]と日本代表樺木により台湾割譲成立。民主国議長[[林維源]]廈門へ逃亡 * 6月3日:獅球嶺砲台と基隆が陥落、民主国軍崩壊 * 6月4日:唐景崧、丘逢甲が公金を横領し中国に逃亡。第一共和崩壊 * 6月6日:民主国軍により台北略奪。[[辜顕栄]]などの商人が日本統治を承認 * 6月11日:日本軍台北を占拠 * 6月17日:日本による施政開始 * 6月22日:日本軍新竹を占拠 * 6月26日:劉永福が台湾民主国総統に就任 * 7月9日:台湾民主国義勇軍新竹にて敗北。[[姜紹祖]]自殺 * 8月14日:日本軍苗栗を占拠 * 8月28日:彰化八卦山の闘い。[[呉湯興]]および[[呉彭年]]死亡 * 8月29日:台湾知府[[黎景嵩]]逃亡 * 8月29日:日本軍彰化を占拠 * 9月:廈門にて「台湾民主国股份票」発行 * 9月1日:日本軍雲林を占拠。[[羅汝沢]]中国へ逃亡 * 10月7日:日本軍斗六を占拠。[[簡義]]雲嘉山に逃れ[[鉄国山]]を名乗る * 10月10日:日本軍第四旅団嘉義布袋港より上陸 * 10月11日:日本軍第二師団枋寮より上陸 * 10月12日:民主国駐東港管帶[[呉光忠]]逃亡 * 10月15日:日本軍嘉義を占拠 * 10月16日:日本軍鳳山を占拠 * 10月18日:日本軍台南市を包囲 * 10月19日:台湾民主国総統劉永福中国へ逃亡<ref name=":1" /> * 10月20日:民主国首脳が逃亡したため台南市内混乱。台南商人が日本軍による治安維持を要請 * 10月21日:日本軍台南入城、「台湾民主国」崩壊 * 11月18日:台湾総督府による全島平定宣言が出される == 台湾民主国総統 == # [[唐景崧]]([[1895年]][[5月25日]] - [[1895年]][[6月5日]]) # [[劉永福]]([[1895年]][[6月5日]] - [[1895年]][[10月21日]]) == 台湾民主国主要官員 == * 軍務大臣:李秉瑞 * 内務大臣:[[兪明震]] * 外務大臣:陳季同 * 大将軍:[[劉永福]] * 団練史:[[丘逢甲]] * 義勇軍大統領:呉湯興 * 遊説史:姚文棟 * 議院議長:[[林維源]] * 議院議員:陳雲林、洪文光、白其祥 * 台北知府:[[兪鴻]]、黎景嵩 * 淡水知県:凌汝曽 * 新竹知県:王国瑞 * 埔里社庁通判:温培華 * 台湾知県:史湾道 * 代理安平知県兼護府道印:忠満 * 雲林知県:羅汝沢 * 鳳山知県:盧自鑠 * 基隆庁同知:方祖蔭 * 南雅庁通判:宋維釗 * 苗栗知県:{{lang|zh|李烇}} * 彰化知県:羅樹勲 * 嘉義知県:孫育満 * 台東州知州:胡伝 * 恒春知県:欧陽煊 == 台湾民主国に対する評価 == {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}} この短命政権に対し、歴史学者の間でも評価が分かれている。 まずは欧米で散見される「共和国」の人工性を強調する視点であり、これらは清国の官僚に主導され、国際的な支持を得ることで台湾に日本の権益浸透を阻止することに主眼を置き、清国に忠誠を尽くし、一般の台湾人の支持は得られていなかったとするものである。[[李筱峰]]の主張によれば台湾民主国は台湾独立運動の嚆矢とは言えず、清国の官吏が日清戦争敗北後に台湾を講和条件に提起したことに対する住民の反発を恐れたため、台湾における反日運動を計画、住民に対し日本軍の占領と、清国は台湾を放棄した訳でない事を印象付けるための行動と分析される。 次に中国の民族主義者に多く見られる傾向であるが、台湾民主国を中国人による[[台湾抗日運動|抗日運動]]の一環と位置づけ、台湾の主権問題を中国に帰属させる視点である。[[黄秀政]]や[[頼建国]]らは台湾民主国を台湾独立を画策したものでなく、清国に帰属させるための過渡期であったと評価している。 この対極に位置する台湾独立派の歴史家の視点を紹介すると、その代表人物とされる[[史明]]は台湾民主国は独立自主を標榜したが、その代表の思想は台湾の大衆とは一致するものではなかった。全ての政治目標は清国の統治下の中国の枠組みを超えることはなかったと評価し、[[王育徳]]も台湾民主国の独立宣言に「{{lang|zh|恭奉正朔,遙作屏藩}}(清の暦を用い、藩屏すなわち衛星国となる)」という一文が含まれていることから、その独立の精神に懐疑的な意見を発表しており、統一派と類似した見解を述べている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == == 関連項目 == {{commons|Republic of Formosa}} * [[台湾の歴史]] * [[乙未戦争]] * [[台湾抗日運動]] * [[兪鴻]] * [[台湾の名称の一覧]] {{DEFAULTSORT:たいわんみんしゆこく}} [[Category:台湾民主国|*]]
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ハウスドルフ空間
数学におけるハウスドルフ空間(ハウスドルフくうかん、英: Hausdorff space)とは、異なる点がそれらの近傍によって分離できるような位相空間のことである。これは分離空間(separated space)またはT2 空間とも呼ばれる。位相空間についてのさまざまな分離公理の中で、このハウスドルフ空間に関する条件はもっともよく仮定されるものの一つである。ハウスドルフ空間においては点列(あるいはより一般に、フィルターやネット)の極限の一意性が成り立つ。位相空間の理論の創始者の一人であるフェリックス・ハウスドルフにちなんでこの名前がついている。ハウスドルフによって与えられた位相空間の公理系にはこのハウスドルフ空間の公理も含まれていた。 X を位相空間とする。X 上の任意の相違なる2点 x, y に対して、U ∩ V = ∅ であるような x の開近傍 U および y の開近傍 V が必ず存在するとき、Xはハウスドルフ空間であるといわれる。 上の定義と同値な以下のような条件のいずれかによってもハウスドルフ空間の特徴付けられることが知られている: 実数の集合は、その上に通常定義される位相構造によってハウスドルフ空間になっている。さらに、幾何学などで扱われる位相多様体や距離空間、あるいは解析学などで扱われるノルム空間やその上で弱位相を考えた空間など様々な空間がハウスドルフ空間になる。離散位相空間もハウスドルフである。 一方で、代数学におけるザリスキ位相を考えた代数多様体や、可換環のスペクトルなどの位相空間はしばしばハウスドルフ空間にならない。 ハウスドルフ空間の部分空間や直積空間は、ハウスドルフ空間になる。他方、ハウスドルフ空間上で同値関係を考えたときに得られる商空間はハウスドルフになるとは限らない。実際のところ、任意の位相空間はハウスドルフ空間の商として実現できる。 ハウスドルフ空間はT1空間であり、その中で一点集合は閉集合になっている。さらに、ハウスドルフ空間のコンパクト部分集合は閉集合である。ハウスドルフ空間における2つの交わらないコンパクト部分集合はそれらの近傍によって分離できる。 すべてのパラコンパクトハウスドルフ空間は正規である。特にコンパクトハウスドルフ空間は正規である。 ハウスドルフ空間上で定義された、あるいはハウスドルフ空間を値域とするような連続写像に関して以下のような性質が知られている。
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数学におけるハウスドルフ空間とは、異なる点がそれらの近傍によって分離できるような位相空間のことである。これは分離空間(separated space)またはT2 空間とも呼ばれる。位相空間についてのさまざまな分離公理の中で、このハウスドルフ空間に関する条件はもっともよく仮定されるものの一つである。ハウスドルフ空間においては点列(あるいはより一般に、フィルターやネット)の極限の一意性が成り立つ。位相空間の理論の創始者の一人であるフェリックス・ハウスドルフにちなんでこの名前がついている。ハウスドルフによって与えられた位相空間の公理系にはこのハウスドルフ空間の公理も含まれていた。
{{分離公理}} [[数学]]における'''ハウスドルフ空間'''(ハウスドルフくうかん、{{lang-en-short|Hausdorff space}})とは、異なる点がそれらの[[近傍 (位相空間論)|近傍]]によって分離できるような[[位相空間]]のことである。これは'''分離空間'''(separated space)または'''''T''<sub>2</sub> 空間'''とも呼ばれる。位相空間についてのさまざまな[[分離公理]]の中で、このハウスドルフ空間に関する条件はもっともよく仮定されるものの一つである。ハウスドルフ空間においては点列(あるいはより一般に、[[フィルター (数学)|フィルター]]や[[有向点族|ネット]])の[[極限]]の一意性が成り立つ。位相空間の理論の創始者の一人である[[フェリックス・ハウスドルフ]]にちなんでこの名前がついている。ハウスドルフによって与えられた位相空間の公理系にはこのハウスドルフ空間の公理も含まれていた。 == 定義 == [[Image:Hausdorff_space.svg|thumb|right|相異なる2点を分離するそれぞれの開近傍]] ''X'' を位相空間とする。''X'' 上の任意の相違なる2点 ''x'', ''y'' に対して、''U'' &cap; ''V'' = &empty; であるような ''x'' の[[開近傍]] ''U'' および ''y'' の開近傍 ''V'' が必ず存在するとき、''X''はハウスドルフ空間であるといわれる。 上の定義と同値な以下のような条件のいずれかによってもハウスドルフ空間の特徴付けられることが知られている: * ''X'' における任意のフィルター(または有向点族)の収束先が高々一つである。 * ''X'' の任意の一点からなる[[単集合]]はその[[閉集合|閉]]近傍系の共通部分になっている。 * [[直積集合]] ''X'' × ''X'' の対角部分集合 Δ = { (''x'', ''x'') | ''x'' &isin; ''X'' } が[[直積位相]]に関して[[閉集合]]になっている。 == 例 == [[実数]]の集合は、その上に通常定義される位相構造によってハウスドルフ空間になっている。さらに、[[幾何学]]などで扱われる[[位相多様体]]や[[距離空間]]、あるいは[[解析学]]などで扱われる[[ノルム空間]]やその上で[[弱位相]]を考えた空間など様々な空間がハウスドルフ空間になる。[[離散位相空間]]もハウスドルフである。 一方で、[[代数学]]における[[ザリスキ位相]]を考えた[[代数多様体]]や、[[可換環]]の[[概型#環のスペクトル|スペクトル]]などの位相空間はしばしばハウスドルフ空間にならない。 ==性質== ハウスドルフ空間の[[部分空間]]や[[直積空間]]は、ハウスドルフ空間になる。他方、ハウスドルフ空間上で[[同値関係]]を考えたときに得られる[[商位相空間|商空間]]はハウスドルフになるとは限らない。実際のところ、任意の位相空間はハウスドルフ空間の商として実現できる。 ハウスドルフ空間は[[分離公理|T<sub>1</sub>空間]]であり、その中で一点集合は閉集合になっている。さらに、ハウスドルフ空間の[[コンパクト (数学)|コンパクト]][[部分集合]]は[[閉集合]]である。ハウスドルフ空間における2つの交わらないコンパクト部分集合はそれらの近傍によって分離できる。 すべての[[パラコンパクト空間|パラコンパクト]]ハウスドルフ空間は[[正規空間|正規]]である。特に[[コンパクト空間|コンパクト]]ハウスドルフ空間は[[正規空間|正規]]である。 ハウスドルフ空間上で定義された、あるいはハウスドルフ空間を値域とするような連続写像に関して以下のような性質が知られている。 * ''f'': ''X'' → ''Y''をハウスドルフ空間への連続写像とするとき、そのグラフ { (''x'', ''f''(''x'')) | ''x'' &isin; ''X''} は直積空間 ''X'' × ''Y'' の閉集合である。 * ''f'': ''X'' → ''Y'' を写像、''X'' × ''X'' の部分集合 ker(''f'') = {(''x'', ''x''′) | ''f''(''x'') = ''f''(''x''′) } をその核とするとき、 ** ''f'' が連続で ''Y'' がハウスドルフならば ker(''f'') は閉集合 ** ''f'' が全射開写像で ker(''f'') が閉集合ならば ''Y'' はハウスドルフ ** ''f'' が全射連続開写像のとき、''Y'' がハウスドルフであることと ker(''f'') が閉であることは同値になる * ''f'', ''g'': ''X'' → ''Y'' が連続写像で ''Y'' がハウスドルフ空間のとき、それらの[[等化子|等化域]] eq(''f'', ''g'') = { ''x'' |''f''(''x'') = ''g''(''x'') } は ''X'' の中で閉じている。とくに、''f'' と''g'' が[[稠密集合|稠密]]な集合上一致していたらそれらは全空間上で一致していることになる。 * ''f'': ''X'' → ''Y'' が全射閉写像でかつ任意の ''y'' &isin; ''Y'' について ''f''<sup>&minus;1</sup>(''y'') がコンパクトであるとする。このとき ''X'' がハウスドルフならば ''Y'' もハウスドルフになる * ''f'': ''X'' → ''Y'' が全射開連続写像で ''X''がコンパクトハウスドルフ空間のとき、以下は同値である ** ''Y'' はハウスドルフ ** ''f'' は閉写像 ** ker(''f'') は閉集合 ==関連事項== *[[位相空間]] *[[多様体]] <!-- == 脚注 == <references/>--> ==参考文献== {{参照方法|date=2016年2月|section=1}} * {{Cite book|和書|last=[[ブルバキ]]|first=ニコラ|translator=森毅、清水達雄|year=1968|title=位相|publisher=[[東京図書]]|location=東京|id=ISBN 4489001126}} * {{Cite book|last=Hausdorff|first=Felix|title=Grundzüge der Mengenlehre|year=1914|publisher=Veit|location=Leipzig|id=NCID BA08121126}} * {{Cite book|和書|last=コスニオフスキ|first=クゼ|translator=加藤十吉|title=トポロジー入門|publisher=[[東京大学出版会]]|year=1983|location=東京|id=ISBN 4-13-062059-2}} {{Topology}} {{DEFAULTSORT:はうすとるふくうかん}} [[Category:分離公理]] [[Category:位相空間論]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:数学のエポニム]]
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本多忠勝
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑として崇められた。 天文17年(1548年)、安祥松平家(徳川本家)の最古参の譜代である安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた。 天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育った。 幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。 永禄6年(1563年)の三河一向一揆に徳川方として参戦している。 忠勝が一次史料に現れるのは、永禄11年(1568年)の祝田新六に宛てて出された、家康の書状に対する副状である。忠勝は新六の働きを褒め、懸命に取り成すので褒美のことは自分に任せてほしいと伝えている。この時期から家康への他の国衆の取次役を担っていたことが分かる。 今川義元が敗死し、家康が今川家から独立し、織田信長との清洲同盟締結後、忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参戦した。永禄6年(1563年)9月の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。永禄9年(1566年)には19歳にして旗本先手役に抜擢されて、与力54騎を付属される。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した。 元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。この戦いにおいて忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せた。 元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いでは偵察隊として先行し、武田本軍と遭遇。報告するために撤退するが、武田軍に追撃され、大久保忠佐と共に殿軍を務め、坂下という不利な地形に陣取り、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させた。この時に忠勝が着ていたのが鹿角の兜に黒糸威の鎧であった。 同年12月の三方ヶ原の戦いでは左翼を担い、山県昌景隊と戦い、撃退している。天正元年(1573年)の長篠城攻めでは9月に堀越で榊原康政等と共に武田軍を破り、獲得した長篠城に入り、城を守っている。天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正8年(1580年)の高天神城奪還戦にも参戦している。これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞され、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳もある。 天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたという。この時、帰路の途中の木津川で船に乗った際、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、追手が使用するのを防いだという。 天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、当初忠勝は留守を任されたのだが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った。この豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛された。また、織田信雄にも賞され、法成寺という刀を賜った。徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると天正14年(1586年)11月9日(天正16年(1588年)4月とも)、従五位下・中務大輔に叙位・任官された。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直政の12万石)を与えられる。江戸から遠くなっているのは、「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」との、家康の配置方針による。康政は北の真田氏や上杉氏に対する備え、忠勝は安房国の里見氏に対する備えである。また川村優は里見氏に対する備えとみたうえで、上総国内の里見系・北条系国人層を分断、制圧する絶好の位置で、久留里・佐貫との連携プレーをする位置で上総国内の有力国人層の制圧が目的と分析している。ただし、近年の研究では大多喜城が居城に定められたのは、天正19年(1591年)初頭ごろで、それまでの半年ほどの間は家康ではなく、秀吉の承認を経て同じ夷隅郡の万喜城(現在のいすみ市)を居城にしていたとされている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初上田城攻略における対真田交渉を期待されていたが、途中東海道を進発することになり、東山道の徳川秀忠隊を離れ、対真田交渉は嫡男の忠政に引き継がれている。また忠勝自身も加藤貞泰との交渉において活躍をしている。前哨戦ともいえる竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦し、また石田三成重臣・島左近に敗れた中村一栄隊と有馬豊氏隊の撤退の手助け、吉川広家など諸大名に井伊直政と連署の書状を送って東軍方につける工作にも活躍した。本戦でも奮戦し、わずかな手勢で90にも及ぶ首級を挙げた。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた。これは一説に家康が忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、忠勝が固辞したために家康が次男に与えたとされている。一方で、関ヶ原合戦後に忠勝は一国が与えられることを望み、家臣へ与える知行の目録まで作成して待っていたが叶えられず、訪れた阿部正次にこの話をした後に目録を焼いたとされる。 忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれている。晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近として台頭し、忠勝自身も慶長9年(1604年)頃から病にかかるようになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかっている。 慶長9年に先述のように病にかかり隠居を申し出るも、この際は家康に慰留されている。その後、慶長12年には眼病を煩い、慶長14年(1609年)6月、嫡男・忠政に家督を譲って隠居する。慶長15年(1610年)閏2月には三河国田原で徳川秀忠が挙行した大規模な巻狩に同行した。同年10月18日に桑名で死去した。享年63。この際に重臣の中根忠実と梶勝忠両名が殉死し、忠勝の左右に埋葬された。忠勝は臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺している。 遺書の一節「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」と、辞世の歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」は、晩年は不遇であったとされながらも、主君・家康への変わらぬ忠誠心の大きさを物語っている。 水戸藩主徳川斉昭、15代将軍徳川慶喜らは忠政の末裔に当たり、経済学者の三木谷良一や、その次男である楽天グループ創業者の三木谷浩史も子孫にあたる(それぞれ本多忠明の曾孫、玄孫)。
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本多 忠勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑として崇められた。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 本多 忠勝 | 画像 = Portrait-Honda-Tadakatsu.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 本多忠勝像、[[良玄寺]]蔵 | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期 | 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]17年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]([[1548年]][[3月17日]]) | 死没 = [[慶長]]15年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]([[1610年]][[12月3日]]) | 改名 = 鍋之助([[幼名]])<ref name="ootaki479">『大多喜町史』(1991年) 479頁</ref>→忠勝 | 別名 = 平八郎([[仮名 (通称)|通称]])<ref name="ootaki479"/><br/>渾名:三河の鹿 | 戒名 = 西岸寺殿前中書長誉良信大居士 | 墓所 = 浄土寺([[三重県]][[桑名市]])<br />[[圓教寺 (姫路市)|圓教寺]]([[兵庫県]][[姫路市]])<br />[[良玄寺]]([[千葉県]][[夷隅郡]][[大多喜町]]) | 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[中務大輔]] | 幕府 = | 主君 = [[徳川家康]] | 藩 = [[上総国|上総]][[大多喜藩]]主→[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]主 | 氏族 = [[本多氏]] | 父母 = 父:[[本多忠高]]、母:小夜([[植村氏義]]娘) | 兄弟 = 妹:[[栄子姫]]([[長束正家]]室)<br />異父妹:女([[織田信照|中根忠実]]室) | 妻 = 正室:'''[[於久の方]]'''([[阿知和玄鉄]]娘・見星院)<br />側室:[[乙女の方]]([[松下弥一]]娘・月量院) | 子 = [[小松姫]]([[真田信之]]正室)、もり姫([[奥平家昌]]正室)、'''[[本多忠政|忠政]]'''、[[本多忠朝|忠朝]]、女([[本多信之]]室)、女([[松下重綱]]室)、女([[蒲生瀬兵衛]]室) | 特記事項 = }} '''本多 忠勝'''(ほんだ ただかつ)は、[[戦国時代 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book|title=祝田家文書|date=|year=|publisher=静岡県史料}}</ref>。忠勝は新六の働きを褒め、懸命に取り成すので褒美のことは自分に任せてほしいと伝えている。この時期から家康への他の国衆の取次役を担っていたことが分かる。 === 徳川四天王としての武勲 === [[今川義元]]が敗死し、家康が今川家から独立し、[[織田信長]]との[[清洲同盟]]締結後、忠勝は[[上ノ郷城]]攻めや[[牛久保城]]攻めなどに参戦した。永禄6年([[1563年]])9月の[[三河一向一揆]]では、多くの本多一族が敵となる中で、[[一向宗]](浄土真宗)から[[浄土宗]]に改宗して家康側に残り武功を挙げた。永禄9年([[1566年]])には19歳にして[[旗本先手役]]に抜擢されて、与力54騎を付属される<ref name="ozaki">尾崎晃「本多忠勝」(『千葉史学』54号、2009年)</ref>。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、[[旗本]]部隊の将として活躍した。 [[元亀]]元年([[1570年]])の[[姉川の戦い]]にも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。この戦いにおいて忠勝は朝倉軍の豪傑・[[真柄直隆|真柄十郎左衛門]]との[[一騎討ち]]で勇名を馳せた。 元亀3年([[1572年]])の[[二俣城の戦い]]の前哨戦たる[[一言坂の戦い]]では偵察隊として先行し、武田本軍と遭遇。報告するために撤退するが、武田軍に追撃され、[[大久保忠佐]]と共に殿軍を務め、坂下という不利な地形に陣取り、[[馬場信春]]の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させた。この時に忠勝が着ていたのが鹿角の兜に黒糸威の鎧であった<ref name="ozaki"/><ref group="注釈">『名将言行録』では「(忠勝は)黒糸の鎧に鹿角打たる冑を着、蜻蛉切りという鑓を、馬手の脇に抱込みて二反(約22メートル)計に押寄せたり。敵味方の真中に馬を静に歩行ませ入れ、味方に下知して引退き、見附の人家に火を掛て、浜松にこそ帰りけれ」とある。</ref>。 同年12月の[[三方ヶ原の戦い]]では左翼を担い、[[山県昌景]]隊と戦い、撃退している。天正元年(1573年)の[[長篠城]]攻めでは9月に堀越で[[榊原康政]]等と共に武田軍を破り、獲得した長篠城に入り、城を守っている。[[天正]]3年([[1575年]])の[[長篠の戦い]]<ref name="実紀"/>、天正8年([[1580年]])の[[高天神城]]奪還戦にも参戦している。これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞され、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳もある<ref name="桑名藩15">{{Harvnb|郡|p=15}}</ref>。 [[天正]]10年([[1582年]])、[[本能寺の変]]が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに[[堺市|堺]]に滞在していたが、家康が[[京都]]に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「[[伊賀越え#神君伊賀越え|伊賀越え]]」を行わせたという<ref name="名前なし-1">『[[藩翰譜]]』</ref>。この時、帰路の途中の[[木津川 (京都府)|木津川]]で船に乗った際、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、追手が使用するのを防いだという<ref name="英和">『江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか? 徳川四天王』([[英和出版社]]、2014年)</ref>。 天正12年([[1584年]])4月の[[小牧・長久手の戦い]]では、当初忠勝は留守を任されたのだが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに[[龍泉寺川]]で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った<ref name="桑名藩15"/>。この豪胆な振舞いや活躍などにより、[[豊臣秀吉]]からも東国一の勇士と賞賛された<ref name="300ki">家康忠勝両公三百年祭事務所編 『家康忠勝両公三百年祭紀要』家康忠勝両公三百年祭事務所、1915年。</ref>。また、[[織田信雄]]にも賞され、法成寺という刀を賜った。徳川氏が[[豊臣氏]]の傘下に入ると天正14年([[1586年]])11月9日(天正16年([[1588年]])4月とも<ref name="桑名藩16">{{Harvnb|郡|p=16}}</ref>)、従五位下・中務大輔に叙位・任官された<ref>「大久保家秘記」『[[寛政重修諸家譜]]』。村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。</ref>。天正18年([[1590年]])、家康が[[関東地方|関東]]に移封されると[[上総国]][[夷隅郡]][[大多喜藩|大多喜]]([[千葉県]][[夷隅郡]][[大多喜町]])に榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は[[井伊直政]]の12万石)を与えられる<ref name="ootaki479"/>。江戸から遠くなっているのは、「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」との、家康の配置方針による。康政は北の[[真田氏]]や[[上杉氏]]に対する備え、忠勝は[[安房国]]の[[里見氏]]に対する備えである<ref name="naka">{{Cite book|和書|author=中嶋次太郎|title=徳川家臣団の研究|year=1966|publisher=吉川弘文館}}</ref>。また[[川村優]]は里見氏に対する備えとみたうえで、上総国内の里見系・北条系国人層を分断、制圧する絶好の位置で、久留里・佐貫との連携プレーをする位置で上総国内の有力国人層の制圧が目的と分析している<ref>川村優「徳川家康の新領国に対する家臣団配置―小田原落城直後の上総の一動向―」(『歴史手帳』6巻2号)</ref><ref>『大多喜町史』(1991年)310頁-311頁</ref>。ただし、近年の研究では[[大多喜城]]が居城に定められたのは、天正19年(1591年)初頭ごろで、それまでの半年ほどの間は家康ではなく、秀吉の承認を経て同じ夷隅郡の[[万喜城]](現在の[[いすみ市]])を居城にしていたとされている<ref group="注釈">天正18年8月7日付で本多忠勝から[[滝川忠征]]に出された書状(名古屋大学文学部所蔵「滝川文書」本多忠勝書状)に、自分が万喜城を与えられたのは忠征の口添えのおかげとする趣旨の内容が書かれている。このことから、最初に忠勝に与えられたのは万喜城であったことが判明するとともに、その決定には忠征の主君である秀吉と家康の間の合意があったことがうかがえる(柴論文参照)。</ref><ref>川田貞夫「徳川家康の関東移封に関する諸問題」(『書陵部紀要』14号、1962年)</ref><ref>『大多喜町史』(1991年)306頁</ref><ref>柴裕之「豊臣政権の関東仕置と徳川領国―本多忠勝の上総万喜入城を通じて―」(佐藤博信編『中世房総と東国社会』岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-739-7</ref>。 === 関ヶ原から最期まで === [[File:Site of Honda Tadakatsu's Position.jpg|thumb|関ヶ原の戦いの本多忠勝陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)]] 慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、当初[[上田合戦|上田城攻略]]における対真田交渉を期待されていたが、途中[[東海道]]を進発することになり、[[東山道]]の[[徳川秀忠]]隊を離れ、対真田交渉は嫡男の忠政に引き継がれている{{Sfn|水野|2020}}。また忠勝自身も[[加藤貞泰]]との交渉において活躍をしている{{Sfn|水野|2020}}。前哨戦ともいえる[[竹ヶ鼻城]]攻めや[[岐阜城]]攻めに参戦し、また[[石田三成]]重臣・[[島左近]]に敗れた[[中村一栄]]隊と[[有馬豊氏]]隊の撤退の手助け、[[吉川広家]]など諸大名に[[井伊直政]]と連署の書状を送って東軍方につける工作にも活躍した。本戦でも奮戦し、わずかな手勢で90にも及ぶ首級を挙げた。この功績により、慶長6年([[1601年]])、伊勢国桑名([[三重県]][[桑名市]])10万石<ref name="chiba126">『千葉県の歴史 通史編 近世1』(2007年) 126頁</ref>に移されると、旧領・大多喜は次男・[[本多忠朝]]に別家5万石で与えられた<ref name="実紀"/><ref name="chiba126"/>。これは一説に家康が忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、忠勝が固辞したために家康が次男に与えたとされている<ref>『大多喜町史』(1991年) 482-483頁</ref>。一方で、関ヶ原合戦後に忠勝は一国が与えられることを望み、家臣へ与える知行の目録まで作成して待っていたが叶えられず、訪れた阿部正次にこの話をした後に目録を焼いたとされる。 忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、[[東海道]]宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれている。晩年は、戦乱の収束により[[本多正純]]などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・[[徳川秀忠|秀忠]]の側近として台頭し<ref name="naka"/>、忠勝自身も慶長9年([[1604年]])頃から病にかかるようになり、[[江戸幕府]]の中枢からは遠ざかっている。 慶長9年に先述のように病にかかり隠居を申し出るも、この際は家康に慰留されている。その後、慶長12年には眼病を煩い、慶長14年([[1609年]])6月、嫡男・忠政に[[家督]]を譲って[[隠居]]する{{Sfn|郡|p=18}}。慶長15年(1610年)閏2月には[[三河国]][[田原市|田原]]で徳川秀忠が挙行した大規模な巻狩に同行した。同年10月18日に桑名で死去した<ref name="ootaki483">『大多喜町史』(1991年) 483頁</ref>。享年63。この際に重臣の[[織田信照#異説|中根忠実]]と[[梶正道|梶勝忠]]両名が[[殉死]]し、忠勝の左右に埋葬された<ref name="桑名藩16"/>。忠勝は臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺している<ref name="桑名藩16"/><ref name="言行録">『[[名将言行録]]』</ref>。 == 人物 == === 装具 === [[File:Tombogiri.jpg|thumb|left|75px|大笹穂槍・銘「藤原正真作」(号・蜻蛉切、本多忠勝所用)、室町時代の作。個人蔵。]] [[File:Ieyasu-Tadakatsu-300th-Anniversary-6.jpg|thumb|200px|伝・本多忠勝所用の甲冑(黒糸威胴丸具足)、重要文化財、個人蔵(愛知県岡崎市・[[三河武士のやかた家康館]]寄託)<ref name=bunkazaidb>{{国指定文化財等データベース|201|7158|黒糸威胴丸具足〈鹿角脇立兜・小具足付/(本多忠勝所用)〉}}、2018年10月8日閲覧。</ref>。]] * 愛[[槍]]は「'''[[蜻蛉切]]'''」。 ** 刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。穂先に止まった[[トンボ|蜻蛉]](とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付いた「'''[[天下三名槍]]'''」の一つに数えられている名槍。茎には「[[村正#正真|藤原正真]]作」の銘がある。正真は三河文殊派の刀匠だが、[[村正]]の子または弟子との伝承もある。 ** 柄の長さは当時通常の長槍は一丈半(約4.5m)だったのに対し、蜻蛉切は二丈余(約6m)だったという。晩年にはやはり体力の衰えが出てきたと見え、「槍は自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を三尺余(約90㎝)ほど短く詰めた<ref name="名前なし-1"/>。現在は[[静岡県]][[沼津市]]の矢部家が所蔵しており<ref>{{Cite news |title=天下の名槍「蜻蛉切」、11年ぶり公開 本多忠勝が愛用 |newspaper=朝日新聞 |date=2015-01-09 |author=杉本崇 |url=http://www.asahi.com/articles/ASH172S5CH17UTPB001.html |accessdate=2015-05-11}}</ref>、[[岡崎公園 (岡崎市)|岡崎公園]]にある「[[三河武士のやかた家康館]]」でその[[レプリカ]]を見ることができる<ref>路蕪村悟道「蜻蛉切の作者はだれ」『刀剣と歴史』664-667号、日本刀剣保存会阪神支部、2005年。</ref>。 * [[兜]]は「'''鹿角脇立兜'''」。[[鹿]]の角をあしらった脇立は何枚もの[[和紙]]を貼り合わせて黒漆で塗り固めたもの。 * [[鎧]]は[[当世具足]]「黒糸威胴丸具足」<ref name=bunkazaidb/>。自らが葬った敵を弔うため、肩から大数珠をさげるのが常であったといわれる。又、動きやすさを重視し軽装を好んだという。 * 愛馬は「[[名馬一覧|三国黒]]」で、後の二代将軍・秀忠より贈られた。関ヶ原の戦いで島津勢の銃撃により死亡した。 === 武勇 === * 生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている<ref>朝日新聞社編 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。</ref><ref name="300ki"/><ref name="桑名藩15"/><ref name="英和" /><ref group="注釈">『藩翰譜』では「終に一所の手も負わず」とある</ref>。 * 忠勝の名采配ぶりを見た配下の将達は、「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称えた<ref name="英和" />。 * [[一言坂の戦い]]での殿軍での戦いぶりを武田軍の[[小杉左近]]から「'''家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八'''」との[[狂歌]]の落書をもって賞賛された<ref>村上直「徳川四天王」『江戸幕府:その実力者たち』上巻、北島正元編、新人物往来社、1964年。</ref><ref name="ozaki" />。(「唐の頭」は当時徳川家中で流行っていた兜などにつける[[ヤク]]の尾毛の飾り物を指す) * [[織田信長]]はその並はずれた武勇を[[武田征伐]]後、「'''花も実も兼ね備えた武将である'''」と侍臣に紹介した<ref name="ozaki"/>。 * [[豊臣秀吉]]には「'''日本第一、古今独歩の勇士'''」と称され、また、「'''東に本多忠勝という天下無双の大将がいる'''ように、西には[[立花宗茂]]という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された<ref name="300ki"/>。 *関ヶ原の戦い終了後、[[福島正則]]は忠勝の武勇を褒め称えた。忠勝は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。 * 戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で戦場での忠勝を知らぬ人が見ると意外と思ったという(『[[甲子夜話]]』)。 * 桑名へ移封後のある日、息子の忠政と小舟で巡視に出ている時に「櫂で[[葦]]を薙いでみろ」と言い、忠政が葦を薙ぎ倒したのに対し、忠勝は鎌で刈ったように切り取ってしまった。 === 逸話 === * [[榊原康政]]とは同年齢ということもあり、仲が良く親友同士だった。天正元年(1573年)の長篠城攻めでは康政と武功を競い合っている。 * [[本多正信]]のことを快く思わず「佐渡守(正信)の腰抜け」「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」とまで言い捨てている。 * 長篠の戦いの時、逃げる武田軍が投げ捨てた旗を拾い、「軍旗を捨てるとは何事か」と嘲ったという<ref name="英和" />。 * 小牧・長久手の戦いでは、わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、秀吉の家臣、[[加藤清正]]・[[福島正則]]らが忠勝を討ち取るべしと進言した。しかし、忠勝の姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝を討ち取ることを禁じた<ref name="mi">『三河後風土記正説大全』巻42「池田之助討死 付 本田忠勝勇猛 并 石川数正不義の事」。同書巻43「本田平八郎忠勝勇猛 付 神君御陣替 并 秀吉神君を罷感事」。</ref>。 * 秀吉・家康が和睦した後に秀吉に召しだされたとき、「秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとっては重いか」と質問されると、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えた<ref name="mi"/>。 * 関ヶ原の戦いの際、東軍の兵士達は背後に陣を構えた毛利・長宗我部軍の動向を気にしていた。その時、忠勝は「もし毛利軍に戦う意志があるのならば、山の上ではなく、山を下って陣を構えるはず。今山の上にいるのは、戦う意志がないからである」と言い、味方を安心させたという。 * 関ヶ原において西軍が敗戦した際、それに与した[[真田昌幸]]・[[真田信繁|真田信繁(幸村)]]親子の助命を娘婿の[[真田信之]]と共に嘆願したが、両名に散々煮え湯を飲まされている家康は強硬に拒否した。またそれ以上に昌幸により上田城に釘付けにされた挙句に関ヶ原遅参という失態を演じ、家康の勘気を被った秀忠は強硬に死罪を主張した。結局は忠勝らの嘆願に折れる形で真田親子は紀伊高野山山麓の九度山に蟄居という処分に止まり、[[信濃国|信濃]][[上田藩|上田]]領は信之に与えられることとなった。 *忠勝が死ぬ数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまった。忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな。」と呟き、その言葉通りになったという<ref>『戦国武将 群雄ビジュアル百科』([[ポプラ社]]、監修:[[二木謙一]])</ref>。 === 遺書・辞世 === 遺書の一節「'''侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という'''」と、辞世の歌「'''死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば''' 」は、晩年は不遇であったとされながらも、主君・家康への変わらぬ忠誠心の大きさを物語っている。 == 系譜 == * 父:[[本多忠高]] * 母:小夜 - [[植村氏義]]の娘 * 正室:[[於久の方]]、見星院 - [[阿知和玄鉄]]の娘 ** 女子:[[小松姫]] - [[真田信之]]正室 ** 女子:もり姫 - [[奥平家昌]]正室 ** 長男:[[本多忠政]](1575年 - 1631年) ** 次男:[[本多忠朝]](1582年 - 1615年) * 側室:乙女の方、月量院 - [[松下弥一]]の娘 ** 女子:[[本多信之]]室 ** 女子:[[松下重綱]]室 ** 女子:[[蒲生瀬兵衛]]室 === 子孫 === 水戸藩主徳川斉昭、15代将軍[[徳川慶喜]]らは忠政の末裔に当たり、経済学者の[[三木谷良一]]や、その次男である[[楽天グループ]]創業者の[[三木谷浩史]]も子孫にあたる(それぞれ[[本多忠明]]の曾孫、玄孫)<ref>[https://plus.tver.jp/news/58038/detail/ 「楽天社長・三木谷浩史、経営者としての原点は戦国武将!?『ファミリーヒストリー』」] テレビドガッチ2018.12.15 up</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20181222034214/https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/1396/1804154/index.html 「NHKドキュメンタリー - ファミリーヒストリー「三木谷浩史~経営者の原点」]日本放送協会</ref><ref>[https://hochi.news/articles/20181217-OHT1T50141.html 「楽天・三木谷会長の幼少期はやんちゃ坊主…母が明かす「怒られてもケロっとしていました」」]2018年12月17日21時53分 スポーツ報知</ref>。 == 家臣 == * [[織田信照|中根忠実]] *: 通称は平右衛門。[[織田信長]]の庶弟。[[徳川家康]]の関東移封後、[[天正]]19年([[1591年]])頃に[[大多喜藩|上総大多喜]]に任じられた本多忠勝に、家康の命により忠実は(忠勝の異父妹婿という縁により)[[付家老]]として配属された。故に本多家からとは別に[[江戸幕府|幕府]]からも1000石の扶持を受けていた(知行3000石)。後に大多喜城の留守居役などを務め、本多家の[[桑名藩|伊勢桑名]]に転封の後は町割りなどに活躍したが、忠勝死去に際して[[殉死]](追腹)した。忠実の子孫は後に1000石扶持を幕府に返還することで本多家の直臣化し、代々本多家の家老職を務める家として仕えた。 * [[都築秀綱]] *: 通称は惣左衛門。浜名湖北岸の都筑を所領する国人。元は今川家の家臣であったが、[[永禄]]11年([[1568年]])末から開始される徳川家康の遠州侵攻で臣従。翌[[1569年]]には本領安堵を約す書状が家康から与えられている。姉川の合戦では[[旗本先手役]]に組み入れられ武功を示す。忠勝の与力に加えられ、代々続く'''本多忠勝'''系の[[郡山藩]][[家老]][[都筑]]氏の祖となった。嫡子である都筑為政は二代将軍[[徳川秀忠]]の旗本となり幕府では槍奉行。孫の都筑云成は、「[[九・六騒動]]」で本多家宗家の郡山藩がお家騒動となった際、筆頭家老として嫡子存続で幕府裁定を引き出した。都筑惣左衛門云成の[[大和郡山市]]にある[[東明寺]]にある。 * [[梶正道|梶勝忠]] *: 通称は金平。その祖は松平家一族である[[能見松平家|能見松平]]光親の次男・親友とされ、勝忠は曾孫にあたる。元は家康の使番として仕えていたが、永禄9年([[1566年]])、忠勝が旗本先手役に任命されるとその与力となった。以降、忠勝隊として多くの合戦に従軍し、[[慶長]]5年([[1600年]])の関ヶ原の戦いにおいて、愛馬・三国黒を失いながらも徒立ちで奮戦する忠勝に自分の馬を差し出し窮地を救った逸話が残っている。また、慶長6年([[1601年]])、忠勝の桑名移封の際には先発隊として桑名城に入城している。都築氏と共に代々家老として本多家を支えた。 * [[河合政光]] *: 通称は又五郎。旗本先手役に抜擢された忠勝の与力50騎の1人。忠勝が大名になるとそのまま家老として支えている。知行5000石(内、与力給2500石を含む)を幕府だけから拝領。実弟・政一が又五郎の通称と家督を継いでいる。 == 墓所・霊廟・神社 == {{Gallery |title= |footer= |width=200 |height=150 |lines= |File:Mausoleum of Honda Tadakatsu.jpg|三重県桑名市浄土寺の本多忠勝本廟 |File:Tatsuki-Jinja-3.jpg|[[龍城神社]] |File:Okazaki-Park-Honda-Tadakatsu-1.jpg|[[岡崎公園 (岡崎市)|岡崎公園]]にある銅像 }} * 墓所は[[浄土寺 (桑名市)|浄土寺]]([[三重県]][[桑名市]])にある。また、後年、忠勝が開基した旧領大多喜の[[良玄寺]]([[千葉県]][[大多喜町]])に分骨された<ref name="ootaki483"/>。 * 兵庫県姫路市の[[圓教寺 (姫路市)|圓教寺]]に本多家廟屋があり、忠勝の廟所が寛永3年(1626年)に建立された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.himeji.lg.jp/kanko/0000001938.html |title=本多家廟屋 |publisher=[[姫路市]] |accessdate=2021-01-12}}</ref>。 * 1766年(明和3年)、[[岡崎城]]本丸に忠勝を祭神とする映世神社が創建される。映世神社は明治初頭に[[龍城神社]]に改称した。 * 愛知県岡崎市の岡崎城跡の[[岡崎公園 (岡崎市)|岡崎公園]]内と三重県[[桑名市]]の[[桑名城]]跡の[[九華公園]]内に忠勝の[[銅像]]がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mis.ne.jp/~iyeyasu/map/map.htm|title=園内マップ|publisher=岡崎公園|language=日本語 |accessdate=2010年1月27日 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kuwana.lg.jp/culture_sports_and_education_article_772.html|title=九華公園 - 本丸跡等|publisher=桑名市|language=日本語 |accessdate=2010年1月27日 }}</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|group="注釈"}} === 出典=== {{Reflist|2|refs= <ref name="桑名藩15">{{Harvnb|郡|p=15}}</ref> <ref name="300ki">家康忠勝両公三百年祭事務所編 『家康忠勝両公三百年祭紀要』家康忠勝両公三百年祭事務所、1915年。</ref> }} == 参考文献 == *『大多喜町史』(1991年) *『千葉県の歴史 通史編 近世1』(2007年) * {{Cite book|和書|editor=国史大辞典編集委員会|title=国史大辞典|year=1991|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4-6420-0512-9|volume=12}} * {{Cite book|和書|author=郡義武|authorlink=郡義武|title=桑名藩|date=2009-11|publisher=[[現代書館]]|series=シリーズ藩物語|isbn=978-4-7684-7117-3 |ref = {{SfnRef|郡}}}} == 参考論文 == *川田貞夫「徳川家康の関東移封に関する諸問題」(『書陵部紀要』14号、1962年) *川村優「徳川家康の新領国に対する家臣団配置―小田原落城直後の上総の一動向―」(『歴史手帳』6巻2号) *尾崎晃「本多忠勝(一五四八ー一六一〇)―徳川幕府創出の功労者―」(『千葉史学』54号、2009年) *柴裕之「豊臣政権の関東仕置と徳川領国―本多忠勝の上総万喜入城を通じて―」(佐藤博信編『中世房総と東国社会』岩田書院、2012年) *黒田智 「本多平八郎の兜」(『民衆史研究』89号、2015年) *水野伍貴「関ヶ原の役と本多忠勝」(『研究論集 歴史と文化』6号、2020年) == 登場する作品 == ;映画 *『[[首 (北野武)|首]]』([[2023年]]、[[東宝]]・[[KADOKAWA]])、演:[[矢島健一]] ;テレビドラマ *『[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]』([[1965年]]、[[NHK大河ドラマ]])、演:[[外山高士]] *『[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]』([[1981年]]、TBS、演:[[高松英郎]]) *『[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]』([[1983年]]、NHK大河ドラマ)、演:[[高岡健二]] *『[[真田太平記]]』([[1985年]]、[[NHK新大型時代劇]])、演:[[加藤武]]  *『[[徳川家康 (1988年のテレビドラマ)|徳川家康]]』([[1988年]]、[[TBS大型時代劇スペシャル]])、演:[[綿引勝彦]] *『[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局 ]]』([[1989年]]、NHK大河ドラマ)、演:[[平泉成]] * 『[[影武者徳川家康#テレビドラマ(1998年・テレビ朝日版)|影武者徳川家康]]』([[1998年]]、[[テレビ朝日]]テレビドラマ)、[[横内正]] *『[[葵 徳川三代]]』([[2000年]]、NHK大河ドラマ)、演:[[宍戸錠]] *『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』([[2006年]]、NHK大河ドラマ)、演:[[髙田延彦|高田延彦]] *『[[江〜姫たちの戦国〜]]』([[2011年]]、NHK大河ドラマ)、演:[[苅谷俊介]] *『[[影武者徳川家康#テレビドラマ(2014年・テレビ東京「新春ワイド時代劇」)|影武者徳川家康]]』([[2014年]]、[[テレビ東京]]「[[新春ワイド時代劇]]」)、演:[[柴俊夫]] *『[[軍師官兵衛]]』([[2014年]]、NHK大河ドラマ)、演:[[塩野谷正幸]] *『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』([[2016年]]、NHK大河ドラマ)、演:[[藤岡弘、]] *『[[おんな城主 直虎]]』([[2017年]]、NHK大河ドラマ)、演:[[髙嶋政宏]] *『[[家康、江戸を建てる]]』([[2019年]]、NHK)、演:[[勝野洋]] *『[[どうする家康]]』 ([[2023年]]、NHK大河ドラマ) 、演:[[山田裕貴]] *『[[光秀のスマホ#家康と三成のスマホ|家康と三成のスマホ]]』 ([[2023年]]、NHK) 、演:[[じゅんいちダビッドソン]] ; 楽曲 * [[さくらゆき]]『天下無双』(詞:[[小栗さくら]]、曲:[[真鍋貴之]]) ; 舞台 * 『GO!GO!BREEZE!』(Steel Punk、[[2018年]]、演:[[古賀真悟]]) ; 漫画 * 『[[影武者徳川家康#漫画版|影武者徳川家康]]』(原作:[[隆慶一郎]]、脚本:[[會川昇]]、作画:[[原哲夫]]) * 『[[SAKON(左近) -戦国風雲録-]]』(原作:隆慶一郎、脚本:[[二橋進吾]]、作画:原哲夫) * 『[[センゴク]]』([[宮下英樹]]) * 『戦国人物伝 本多忠勝』(企画・構成・監修:[[加来耕三]]、原作:[[井手窪剛]]、作画:[[かわのいちろう]]) * 『[[テンカイチ 日本最強武芸者決定戦]]』(原作:[[中丸洋介]]、作画:[[あずま京太郎]]) * 『[[何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?]]』(原作:[[井出圭亮]]、作画:[[藤本ケンシ]]) * 『風の槍』(原作:[[NUMBER8]]、作画:[[矢野日菜子]]) ; 書籍 * 『本多平八郎忠勝』著者加野厚志 * 『安城譜代三河植村氏の研究』著者宮崎仁良 本多忠勝の母小夜の実家を著した == 関連項目 == * [[徳川四天王]] * [[徳川十六神将]] * [[多度大社]] * [[鍾馗]] - 旗印として使用。 * [[蜻蛉切]] == 外部リンク == {{commonscat|Honda Tadakatsu}} *[http://kanko.city.kuwana.mie.jp/ 桑名市観光ガイド] (本多忠勝公菩提寺「浄土寺」、桑名城跡などへの交通案内) *[http://okazakipark.com/ 岡崎公園] (岡崎城跡、園内に本多忠勝公の銅像が据えられている他、関連展示品などがある) *[http://home1.catvmics.ne.jp/~tatuki/index.htm 龍城神社] (岡崎城本丸に鎮座する神社、本多忠勝公も祭神として祭られている) *[https://web.archive.org/web/20160313000719/http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=99 本多忠勝陣跡] 関ケ原観光Web {{大多喜藩主|本多家|初代|1590年 - 1601年}} {{桑名藩主|本多家|初代|1601年 - 1609年}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほんた たたかつ}} [[Category:本多忠勝|*]] [[Category:戦国武将]] [[Category:大多喜藩主]] [[Category:桑名藩主|101]] [[Category:日本の神 (人物神 戦国時代)]] [[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]] [[Category:本多平八郎家|たたかつ]] [[Category:三河国の人物]] [[Category:1548年生]] [[Category:1610年没]]
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豊前国
豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の福岡県東部及び大分県の北西部に属する。和名で平安時代までは「とよくにのみちのくち」と読んだ。 明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。 1876年(明治9年)、豊前一国を管轄した小倉県は、全体が福岡県に編入された後、山国川以東の2郡が大分県に編入された。しかし豊前国として共通の歴史を持つため、現在でも文化面、生活面での結び付きが強い。豊前国豊津(みやこ町)出身の堺利彦はその自伝の中で、「筑前、筑後、豊前の三国が福岡県を成しているのだが、私は福岡県人と呼ばれることがあまり嬉しくなかった。何だか筑前の附属になったような気持のするのが少し厭だった。福岡県というものは、私に取って、故郷でない。故郷はただ豊前ばかりである。私はどこまでも、豊前人でありたい。ただし豊前の中でも、北部の六郡の元小倉領だけに親しみがある。」と記している。 古墳時代の豊前国内は、北西部を中心とした地域に豊国造、宇佐郡を中心とした地域に宇佐国造が設置された。 7世紀末に、豊国(とよのくに)を分割して豊後国とともに設けられたとされる。 1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で豊前国内にあった豊津藩、千束藩、中津藩がそれぞれ県となり、同年11月14日の第1次府県統合によって3県および豊前国内の日田県管地(企救郡等)が統一されて小倉県となった。 1876年(明治9年)4月に小倉県は福岡県に編入されたが、同年8月、豊前国(延喜式8郡)のうち最南部の2郡(宇佐郡・下毛郡)は大分県に編入された。 国府は、仲津郡(現 福岡県。1896年(明治29年)2月26日 京都郡に編入)にあった。仲津郡は、景行天皇による豊国地名伝承発祥の地(『風土記』)である。なお、現在の福岡県京都郡みやこ町(旧豊津町)の国作~総社地区で遺跡が発見され、豊前国府跡公園として整備されている。 これらは宇佐神宮(大分県宇佐市)に関わる神社である。なお小社3社はいずれも現在の香春神社であり、6社とも渡来系の神であることが特色である。 二宮以下は存在しない。 主として彦山権現、宇佐八幡等の寺社勢力、および城井氏、麻生氏等の宇都宮氏一族を中心とした国人衆が割拠していた。ここに大内氏や大友氏等の隣接する戦国大名が守護代等として杉氏(大内系)や田原氏(大友系)を置いて、門司氏、貫氏、香月氏、豊前長野氏、豊前佐々木氏、時枝氏などの各勢力はその下で離合集散を繰り返していた。
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豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の福岡県東部及び大分県の北西部に属する。和名で平安時代までは「とよくにのみちのくち」と読んだ。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 豊前国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|豊前国}} |別称 = 豊州(ほうしゅう)<br>二豊(にほう){{efn|別称の「豊州」は、[[豊後国]]とあわせて、または単独での呼称。また、「二豊」は、豊後国とあわせての呼称。}} |所属 = [[西海道]] |領域 = [[福岡県]]東部、[[大分県]]北西部 |国力 = [[上国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 8郡43郷 |国府 = 1.福岡県[[京都郡]][[みやこ町]](豊前国府跡)<br/>2.(推定)福岡県[[行橋市]] |国分寺 = 福岡県京都郡みやこ町(豊前国分寺跡) |国分尼寺 = (推定)福岡県京都郡みやこ町 |一宮 = [[宇佐神宮]](大分県[[宇佐市]]) }} '''豊前国'''(ぶぜんのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に属し、現在の[[福岡県]]東部及び[[大分県]]の北西部に属する。和名で[[平安時代]]までは「'''とよくにのみちのくち'''」と読んだ。 == 領域 == [[明治維新]]直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。 * [[福岡県]] ** [[北九州市]][[門司区]]・[[小倉北区]]・[[小倉南区]] *** [[八幡東区]]の一部(川淵町・荒生田・祝町・中尾・猪倉町・小熊野より南東および田代・田代町) ** [[田川郡]][[香春町]]・[[福智町]]・[[糸田町]]・[[赤村]]・[[大任町]]・[[川崎町 (福岡県)|川崎町]]・[[添田町]] ** [[田川市]] ** [[嘉麻市]]の一部(猪国) ** [[京都郡]][[苅田町]]・[[みやこ町]] ** [[行橋市]] ** [[築上郡]][[築上町]]・[[吉富町]]・[[上毛町]] ** [[豊前市]] * [[大分県]] ** [[中津市]]の大部分(山国町長尾野を除く) ** [[宇佐市]]の大部分(安心院町南畑を除く) ** [[豊後高田市]]の一部(水崎) [[1876年]]([[明治]]9年)、豊前一国を管轄した[[小倉県]]は、全体が福岡県に編入された後、[[山国川]]以東の2郡が大分県に編入された。しかし豊前国として共通の歴史を持つため、現在でも文化面、生活面での結び付きが強い。豊前国[[豊津町|豊津]]([[みやこ町]])出身の[[堺利彦]]はその自伝の中で、「[[筑前国|筑前]]、[[筑後国|筑後]]、豊前の三国が福岡県を成しているのだが、私は'''福岡県人と呼ばれることがあまり嬉しくなかった'''。何だか'''筑前の附属になったような気持のするのが少し厭だった'''。福岡県というものは、私に取って、故郷でない。故郷はただ豊前ばかりである。私はどこまでも、豊前人でありたい。ただし豊前の中でも、北部の六郡の元[[小倉藩|小倉領]]だけに親しみがある。」と記している。 == 沿革 == [[古墳時代]]の豊前国内は、北西部を中心とした地域に[[豊国造]]、[[宇佐郡]]を中心とした地域に[[宇佐国造]]が設置された。 [[7世紀]]末に、[[豊国]](とよのくに)を分割して[[豊後国]]とともに設けられたとされる。 [[1871年]]([[明治]]4年)7月14日の[[廃藩置県]]で豊前国内にあった豊津藩、千束藩、中津藩がそれぞれ県となり、同年11月14日の第1次[[府県統合]]によって3県および豊前国内の[[日田県]]管地([[企救郡]]等)が統一されて[[小倉県]]となった。 [[1876年]]([[明治]]9年)[[4月]]に小倉県は福岡県に編入されたが、同年8月、豊前国(延喜式8郡)のうち最南部の2郡([[宇佐郡]]・[[下毛郡]])は大分県に編入された。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(776村・36万3940石余)。[[天領|幕府領]]は[[西国筋郡代]]が管轄。'''太字'''は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。 ** [[宇佐郡]](241村・7万7483石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、中津藩、[[肥前国|肥前]][[島原藩]]、[[宇佐神宮]]領 ** [[下毛郡]](98村・4万7593石余) - 幕府領、旗本領、'''[[中津藩]]''' ** [[企救郡]](110村・4万5797石余) - '''[[小倉藩]]''' ** [[田川郡]](64村・5万4752石余) - 小倉藩 ** [[京都郡]](71村・3万4617石5斗) - 小倉藩 ** [[仲津郡]](76村・4万2586石余) - 小倉藩 ** [[築城郡]](41村・2万3033石余) - 小倉藩 ** [[上毛郡]](75村・3万8074石余) - 小倉藩、'''[[小倉新田藩]]'''、中津藩 * [[慶応]]3年3月([[1867年]]4月) - [[長州征討|長州戦争]]により小倉藩が移転して'''[[香春藩]]'''となり、企救郡が[[周防国|周防]][[長州藩|山口藩]][[預地]]となる。 * 慶応4年([[1868年]])8月 - 旗本領が日田県の管轄となる。 * 明治2年 ** [[6月24日 (旧暦)|6月24日]]([[1869年]][[8月1日]]) - 小倉新田藩が改称して'''[[千束藩]]'''となる。 ** 7月 - 宇佐神宮領が日田県の管轄となる。 ** 8月 - 山口藩預地が日田県の管轄となる<ref>{{Cite journal|和書|author=末広利人 |url=http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=kc10502 |title=日田県管地化の実体 : 佐伯藩預所の場合 |journal=大分縣地方史 |publisher=大分県地方史研究会 |issue=105 |date=1982-03 |pages=20-37 |naid=120004878384}}</ref>。 ** [[12月24日 (旧暦)|12月24日]]([[1870年]][[1月25日]]) - 香春藩が移転して'''[[豊津藩]]'''となる。 * 明治3年(1870年)1月 - 下毛郡および宇佐郡の一部の幕府領が[[対馬国|対馬]]'''[[厳原藩]]'''領となる。 * 明治4年 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[豊津県]]'''、'''[[千束県]]'''、'''[[中津県]]'''および[[厳原県]]の飛地となる。 ** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''[[小倉県]]'''の管轄となる。 * 明治9年([[1876年]]) ** [[4月18日]] - 第2次府県統合により'''[[福岡県]]'''の管轄となる。 ** [[8月21日]] - 下毛郡・宇佐郡が'''[[大分県]]'''の管轄となる。 == 国内の施設 == === 国府 === [[国府]]は、[[仲津郡]](現 [[福岡県]]。[[1896年]]([[明治]]29年)[[2月26日]] 京都郡に編入)にあった。仲津郡は、[[景行天皇]]による[[豊国]]地名伝承発祥の地(『[[風土記]]』)である。なお、現在の福岡県[[京都郡]][[みやこ町]](旧[[豊津町]])の国作~総社地区で遺跡が発見され、豊前国府跡公園として整備されている。 === 国分寺 === ; [[豊前国分寺跡|豊前国分寺]] : 福岡県みやこ町(旧豊津町) === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社3座3社・小3座3社の計6座6社が記載されている(「[[豊前国の式内社一覧]]」参照)。大社3社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。 * [[宇佐郡]] 八幡大菩薩宇佐宮 * 宇佐郡 比売神社 * 宇佐郡 大帯姫廟神社 これらは[[宇佐神宮]](大分県宇佐市)に関わる神社である。なお小社3社はいずれも現在の[[香春神社]]であり、6社とも渡来系の神であることが特色である。 ; [[総社]]・[[一宮]] * 総社 惣社八幡神社 (福岡県京都郡みやこ町国作字総社) * 一宮 '''[[宇佐神宮]]''' 二宮以下は存在しない。 === 安国寺利生塔 === * 興国寺 - 福岡県福智町上野。 * 安国寺 - 福岡県北九州市小倉北区竪町。 == 地域 == === 郡 === *[[田川郡|田河郡]](たがわぐん) - 福岡県[[田川市]]・田川郡全域・[[嘉麻市]]の一部 **香春郷 **雉怡郷 **位登郷 **城田郷 *[[企救郡]](きくぐん) - 福岡県[[北九州市]][[小倉北区]]・[[小倉南区]]・[[門司区]]・[[八幡東区]]の一部 **長野郷 **蒲生郷 *[[京都郡]](みやこぐん) - 福岡県[[苅田町]]全域、[[行橋市]]、[[みやこ町]]の各一部 **諫山郷 **本山郷 **刈田郷 **高来郷 *[[仲津郡]](なかつぐん) - 福岡県行橋市、みやこ町の各一部 **呰見郷 **蒭見郷 **城井郷 **狭度郷 **高屋郷 **中臣郷 **仲津郷 **高家郷 *[[築城郡]](ついきぐん) - 福岡県[[築上町]]・[[豊前市]]の一部 **綾幡郷 **桑田郷 **樢木郷 **大野郷 *三毛郡(みけぐん)・・・上毛郡と下毛郡の前身。 *[[上毛郡]](かうげぐん) - 福岡県豊前市(一部を除く。)・[[上毛町]]・[[吉富町]] **山田郷 **炊江郷 **多市郷 **上身郷 *[[下毛郡]](しもげぐん) - 大分県[[中津市]] **山国郷 **大家郷 **麻生郷 **野仲郷 **諫山郷 **穴石郷 **小楠郷 *[[宇佐郡]](うさぐん) - 大分県[[宇佐市]]・[[豊後高田市]]の一部 **野麻郷 **酒井郷 **葛原郷 **封戸郷 **向野郷 **広山郷 **垣田郷 **高家郷 **深見郷 **辛島郷 === 江戸時代の藩 === * [[小倉藩]]、[[細川氏#肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)|細川家]](39.9万石)→[[小笠原氏#信濃小笠原氏|小笠原家]](15万石) * [[小倉新田藩]]、小笠原家(小倉藩支藩、1万石) * [[中津藩]]、小笠原家(8万石→4万石)→[[奥平氏|奥平家]](10万石) * [[竜王藩]]、[[能見松平家]](3.7万石) == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} *[[宇努首男人]]、[[養老]]年間 *[[大伴百世]]、[[天平]]18年([[746年]])任官 *[[中臣酒人虫麻呂]]、[[天平宝字]]6年([[762年]])任官(員外介) *[[佐味伊与麻呂]]、[[天平宝字]]8年([[764年]])任官 *[[海上清水]]、[[天平神護]]2年([[766年]])任官 *[[中臣習宜阿曽麻呂]]、[[神護景雲]]元年([[767年]])任官(介) *[[和気清麻呂]]、[[宝亀]]2年([[771年]])月日不詳任官 *[[阿倍御県|安倍御県]]、宝亀2年(771年)11月19日任官 *[[多治比豊浜]]、宝亀5年([[774年]])3月5日任官 *[[弓削塩麻呂]]、宝亀六年([[775年]])9月13日任官 *[[吉田古麻呂]]、宝亀9年([[778年]])任官(介) *[[小野滋野]]、宝亀11年([[780年]])任官 *[[陽侯人麻呂]]、宝亀11年([[780年]])任官(介) *[[秦長足]]、[[延暦]]4年([[785年]]) 任官(介) *[[日下部雄道]]、延暦4年([[785年]]) 任官 *[[阿倍草麻呂]]、延暦5年([[786年]])任官 *[[大中臣弟成]]、延暦10年(791)任官 *[[藤原河主]]、延暦18年([[799年]])任官 *[[伴枝嗣]]、[[天長]]5年([[828年]])任官 *[[文室益善]]、[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]])任官 *[[平康盛]]、[[保元]]2年([[1157年]])任官 *[[宇佐公通]]、[[治承]]4年([[1180年]])任官 *[[勢多章甫]]、[[嘉永]]4年([[1851年]])3月4日任官(『[[地下家伝]]』九) === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== *1200年 - 1225年 - [[武藤資頼]] *1230年 - ? - [[少弐資能]] *1279年 - ? - [[北条実政]] *1310年 - ? - [[北条政顕]] *1317年 - ? - [[糸田顕義]]? *1323年 - 1333年 - [[北条貞義|糸田貞義]] ==== 室町幕府 ==== *? - 1334年 - [[少弐貞経]] *1334年 - 1357年 - [[少弐頼尚]] *1351年 - 1352年 - [[大友氏泰]] *1352年 - 1354年 - [[大友氏時]] *1354年 - [[宇都宮冬綱]] *1361年 - 1365年 - [[少弐頼澄]] *1375年 - 1380年 - [[今川貞世]] *1380年 - 1399年 - [[大内義弘]] *1408年 - 1431年 - [[大内盛見]] *? - 1441年 - [[大内持世]] *1441年 - 1465年 - [[大内教弘]] *1465年 - 1495年 - [[大内政弘]] *1498年 - 1501年 - [[大友親治]] *1501年 - ? - [[大友義長|大友義親]](義長) *1509年 - 1528年 - [[大内義興]] *1528年 - 1551年 - [[大内義隆]] *1559年 - ? - [[大友義鎮]] === 戦国時代 === 主として[[英彦山神宮|彦山権現]]、[[宇佐神宮|宇佐八幡]]等の[[寺社勢力]]、および[[城井氏]]、[[麻生氏]]等の[[宇都宮氏]]一族を中心とした[[国人]]衆が割拠していた。ここに[[大内氏]]や[[大友氏]]等の隣接する戦国大名が守護代等として[[杉氏]](大内系)や[[田原親賢|田原氏]](大友系)を置いて、[[門司氏]]、[[貫氏]]、[[香月氏]]、[[豊前長野氏]]、[[豊前佐々木氏]]、[[時枝氏]]などの各勢力はその下で離合集散を繰り返していた。 ==== 豊臣政権の大名 ==== * [[黒田孝高]]・[[黒田長政|長政]]:[[中津城|中津]]18万1千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、[[福岡藩]]52万3千石に移封) * [[毛利勝信]]:[[小倉城|小倉]]6万石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後改易) * [[大友義統]]:豊後一国および豊前宇佐郡の一部37万石、1587年 - 1593年([[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]での失態により改易) === 武家官位としての豊前守 === ==== 江戸時代以前 ==== * [[大友政親]] * [[上原賢家]] * [[長尾景晴]] * [[長尾房景]] * [[飯尾連龍]] * [[間宮康俊]] * [[龍造寺胤栄]] * [[土屋貞綱]] * [[三好実休]] * [[鍋島信房]] * [[河田長親]] * [[下間頼旦]] * [[毛利勝永]] ==== 江戸時代 ==== * [[石見国|石見]][[津和野藩]][[亀井氏|亀井家]] ** [[亀井政矩]]、初代藩主 ** [[亀井茲政]]、第2代藩主 ** [[亀井茲延]]、第5代藩主 * [[上総国|上総]][[久留里藩]][[黒田氏|黒田家]] ** [[黒田直邦]]、初代藩主 ** [[黒田直亨]]、第2代藩主 ** [[黒田直方]]、第5代藩主 ** [[黒田直侯]]、第6代藩主 ** [[黒田直静]]、第7代藩主 ** [[黒田直和]]、第8代藩主 * [[越後国|越後]][[村上藩]][[内藤氏|内藤家]] ** [[内藤弌信]]、初代藩主 ** [[内藤信輝]]、第2代藩主 ** [[内藤信旭]]、第4代藩主 ** [[内藤信民]]、第8代藩主 ** [[内藤信美]]、第9代藩主 * [[駿河国|駿河]][[田中藩]][[本多氏|本多家]] ** [[本多正矩]]、初代藩主 ** [[本多正意]]、第5代藩主 ** [[本多正寛]]、第7代藩主 * [[下総国|下総]][[多古藩]][[久松氏|松平家]] ** [[松平勝忠]]、旗本・初代藩主の養父  ** [[松平勝以]]、初代藩主 ** [[松平勝尹]]、第3代藩主 ** [[松平勝全]]、第4代藩主 ** [[久松勝慈]]、第8代藩主 *その他 ** [[池田政周]]、[[播磨国|播磨]][[山崎藩]]主 ** [[織田長定]]、[[大和国|大和]][[戒重藩]]主 ** [[織田長教]]、大和[[芝村藩]]主 ** [[織田長易]]、[[芝村藩]]主 ** [[相馬樹胤]]、[[陸奥国|陸奥]][[相馬中村藩]]主 ** [[立花種善]]、[[筑後国|筑後]][[三池藩]]主 ** [[内藤信照]]、陸奥[[棚倉藩]]主 ** [[内藤信良]]、棚倉藩主 ** [[久松勝慈]]、[[下総国|下総]][[多古藩]]主 ** [[細川興隆]]、[[常陸国|常陸]][[谷田部藩]]主 ** [[堀田正休]]、[[近江国|近江]][[近江宮川藩|宮川藩]]主 ** [[堀田正養]] 宮川藩主 ** [[牧野明成]]、[[丹後国|丹後]][[丹後田辺藩|田辺藩]]主 ** [[牧野惟成]]、田辺藩主 ** [[松平信庸 (篠山藩主)|松平信庸]]、[[丹波国|丹波]][[篠山藩]]主 ** [[水野忠盈]]、[[三河国|三河]][[岡崎藩]]主 ** [[渡辺信綱]]、[[和泉国|和泉]][[伯太藩]]主 ** [[新見正興]]、[[万延元年遣米使節]]の正使 == 豊前国の合戦 == * [[869年]] - : [[新羅の入寇#貞観の韓寇|貞観の韓寇]] * [[1185年]] : [[壇ノ浦の戦い]]。源氏 x 平家 * [[1559年]] - [[1561年]] : [[門司城の戦い]]。大友 x 毛利 * [[1587年]] : [[豊前国人一揆]] * [[1866年]] : [[長州征討]] 小倉口の戦い。長州藩 x 江戸幕府九州諸藩 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 40 福岡県 * 角川日本地名大辞典 44 大分県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Buzen Province}} * [[令制国一覧]] * [[小倉県庁]] * [[豊前海]] * [[関門海峡]] * [[響灘]] * [[周防灘]] {{令制国一覧}} {{豊国二国の郡}} {{Japanese-history-stub}} {{デフォルトソート:ふせんのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:西海道|国ふせん]] [[Category:福岡県の歴史]] [[Category:大分県の歴史]] [[Category:豊前国|*]]
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榊原康政
榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、室町時代後期から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。 榊原氏は三河仁木氏の一族と自称し、後に伊勢国一志郡榊原に移って榊原を称した。後に伊勢に残った本家筋の系統と三河に戻った分家筋の系統があったと称するが、永正15年(1518年)頃の松平家の奉行人の1人には既に「榊原主計忠直」が存在していたことが確認できる。康政の系統は松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣の家柄であり、有力な存在とは言えなかった。 天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる。幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も大変上手かったという。13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。康政は兄・榊原清政を差し置き榊原家の家督を相続している。この理由として、清政が謀反の疑いで切腹した家康の長男・松平信康の傅役であったことから、後悔の念で自ら隠居したためとも、清政が病弱であったため、度々康政が名代を務めることが多く、それ故に康政が家督を継いだともいわれるが定かではない。家康が関東に移封された後、康政は度々清政を見舞っている。62年に父の長政が死去し、長政の弟の榊原一徳斎が康政を養子として後見した。 永禄9年(1566年)、19歳で元服。同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから浜松城に入ったという。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。天正9年(1581年)の高天神城の戦いでは先陣を務めた。翌天正10年(1582年)の本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行している。 天正12年(1584年)、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。この合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可、池田恒興を討ち死にさせた。また江戸時代に成立した『藩翰譜』によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書き、これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したという。この後、天下を掌握した秀吉とは和解している。詳しくは人物・逸話を参照。 家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられる。天正14年(1586年)11月、家康の上洛に随身し、家康は同月5日、正三位に昇叙し、康政は同月9日、従五位下・式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜された。 天正18年(1590年)、小田原征伐では徳川軍の先手を務める他、城の受け取り役や、北条氏政、北条氏照切腹の検死役を務めている。同年、家康が関東に移封されると関東総奉行として本多正信らを監督し、江戸城の修築に務める傍ら、上野国館林城(群馬県館林市)に入り、忠勝と並んで家臣中第2位の10万石を与えられる。館林では堤防工事(利根川東遷工事の一環)や、街道整備などに力を注いだ。 慶長4年(1599年)、宇喜多秀家の家中で家臣内での対立が起こった。宇喜多騒動と呼ばれるこの家中内紛を、越前国敦賀城主の大谷吉継と徳川家康の家臣である榊原康政が調停役として派遣された。康政が派遣された理由については、政務実務能力を買われたことは元より、康政の側室が宇喜多家臣の花房氏の縁戚であったことが考えられる。多くの処分者と離反者を出して騒動は終息したが、この時宇喜多家を離れた人材に戸川達安・岡貞綱・宇喜多詮家(坂崎直盛)および、花房氏の花房正成・花房職秀(職之)がいる。彼らは皆、徳川氏の家臣となっている。この大量離脱により、豊臣氏の有力大名であった宇喜多家は家中が混乱し、重臣らの離脱により大きく軍事力を減らし、翌年に起きた関ヶ原の戦いに影響を与えたとされている。康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続けた結果、国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰らされた。なお、花房職之の子の職直はのちに康政の養子となっているが、これも側室花房氏の縁および宇喜多騒動当時の知縁が推測されている。 慶長4年(1599年)頃、石田三成が伏見館の家康を襲って誅殺しようとしているという動きがあったといわれ、康政は情報を得てすぐに家康の元に馳せ参じ、守ったという。この時、すぐには伏見館に入らず、東国から押し寄せた家康を守る兵の数を少しでも多く見せようと考え、関所を設けて人々の往来を制限。それと共に兵を京、伏見、淀に送って、「今家康の兵十万が東国より来て陣を取っており、兵糧を買いつけたい」と言って、兵糧として赤飯、饅頭、餅、酒を一つ残らず買い取ると触れ回ったという。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、中山道を辿り美濃国を目指すが、荒天で家康からの進発命令を携えた使者が遅れ、信濃上田城(長野県上田市)の真田昌幸攻めを中止し、美濃に向かったもののやはり荒天で、秀忠とともに合戦に遅参する(上田合戦)。『藩翰譜』によれば、家康は秀忠の失態に激怒したが、康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許され、秀忠は康政に大変感謝したと言われる。また、康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも言われている。 関ヶ原の戦いの後に老中となるが、所領の加増は無かった。よく言われる「家康が古参家臣に冷淡であった」とする根拠の1つとして、武功派家臣で、大きな失態のなかった康政を躊躇なく遠ざけた史実が挙げられることもあり、その際には康政らはこれに憤慨していたという形で語られる。これとは別に、次の世代の大久保忠隣・本多正純が既に老中となっていたため、康政が「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い、自ら離れていったとする説もある。 一説には家康から水戸に加増転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断ったのだとも言われる。家康は康政の態度に感銘して、康政に借りがあることを神に誓い証文として与えた。慶長8年(1603年)には近江国に在京料として五千石が加増されている。 慶長11年(1606年)5月6日に毛嚢炎を煩い悪化、14日巳刻に館林にて死去。前記の関ヶ原の戦い後の対応で康政に恩ある秀忠は、病床にある康政を見舞うため医師や家臣を遣わせたが、その甲斐なく59歳で没した。 葬儀の際に側近の南直道が追腹を行った。後継の康勝の許可により、その墓は康政の隣に建てられている。 長男の忠政は母方の大須賀家を継ぎ、次男の忠長は夭折していたことから家督は三男の康勝が継いだ。大正4年(1915年)11月9日、贈正四位。
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榊原 康政は、室町時代後期から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。
{{別人|x1=政治家の|榊原康正}} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 榊原 康政 | 画像 = Sakakibara Yasumasa.jpg | 画像サイズ = 220px | 画像説明 = 榊原康政 | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]初期 | 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]]) | 死没 = [[慶長]]11年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]([[1606年]][[6月19日]]) | 改名 = 於亀(幼名。亀丸とも)、康政 | 別名 = 小平太([[仮名 (通称)|通称]]) | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = 養林院殿前大守職上誉見向大禅定門 | 霊名 = | 墓所 = [[群馬県]][[館林市]]の楠町[[善導寺 (館林市)|善導寺]]<br/>[[和歌山県]][[高野町]]の高野山奥の院<br/>[[新潟県]][[上越市]]の榊神社 | 官位 = [[従五位|従五位下]][[式部省|式部大輔]]、[[贈位|贈]][[正四位]] | 幕府 = [[江戸幕府]] [[老中]](幕府開設以前は[[関東総奉行]]) | 主君 = [[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]] | 藩 = [[上野国|上野]][[館林藩]]主 | 氏族 = [[榊原氏]] | 父母 = [[父]]:[[榊原長政]]、[[母]]:道家氏、養父:[[榊原一徳斎|一徳斎]] | 兄弟 = [[榊原清政|清政]]、'''康政'''、山内玄以某室、[[大竹六郎左衛門]]室、[[小笠原義信]]室 | 妻 = [[正室]]:'''[[大須賀康高]]の娘'''<br/>[[側室]]:[[周光院|花房氏]] | 子 = [[大須賀忠政]]、[[榊原忠長|忠長]]、'''[[榊原康勝|康勝]]'''、聖興院、[[福正院]]、<br/>[[養子]]:''松月院''、''[[榊原職直|職直]]'' | 特記事項 = }} '''榊原 康政'''(さかきばら やすまさ)は、[[室町時代]]後期から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[上野国]][[館林藩]]の初代[[藩主]]。[[徳川氏]]の家臣。康政流榊原家初代当主。'''[[徳川四天王]]'''・'''[[徳川十六神将]]'''・'''徳川三傑'''に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。 == 生涯 == === 出生から家督相続 === [[File:Sakakibarayasumasahi.jpg|thumb|榊原康政生誕之地碑([[愛知県]][[豊田市]])]] [[榊原氏]]は[[三河国|三河]][[仁木氏]]の一族と自称し、後に[[伊勢国]][[一志郡]]榊原に移って榊原を称した。後に伊勢に残った本家筋の系統と三河に戻った分家筋の系統があったと称するが、永正15年(1518年)頃の松平家の奉行人の1人には既に「榊原主計忠直」が存在していたことが確認できる。康政の系統は松平氏[[譜代]]家臣の[[酒井忠尚]]に仕える[[陪臣]]の家柄であり、有力な存在とは言えなかった<ref name="komiyama">小宮山敏和「榊原家家臣団の形成過程と幕藩体制」(初出:『学習院大学 人文科学論集』15号(2006年)/所収:小宮山『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5)</ref>。 天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の[[愛知県]][[豊田市]][[上郷町 (愛知県)|上郷町]])に生まれる。幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も大変上手かったという。13歳の時、松平元康(後の[[徳川家康]])に見出され、[[小姓]]となる。[[三河一向一揆]]鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。康政は兄・[[榊原清政]]を差し置き榊原家の[[家督]]を相続している。この理由として、清政が謀反の疑いで切腹した家康の長男・[[松平信康]]の傅役であったことから、後悔の念で自ら隠居したためとも、清政が病弱であったため、度々康政が名代を務めることが多く、それ故に康政が家督を継いだともいわれるが定かではない。家康が関東に移封された後、康政は度々清政を見舞っている。62年に父の長政が死去し、長政の弟の[[榊原一徳斎]]が康政を養子として後見した。 [[永禄]]9年([[1566年]])、19歳で[[元服]]。同年齢の[[本多忠勝]]と共に[[旗本先手役]]に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後も家康の側近にあって、[[旗本]]部隊の将として活躍。[[元亀]]元年(1570年)の[[姉川の戦い]]では朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。元亀3年(1572年)の[[三方ヶ原の戦い]]では家康撤退時に康政は[[浜松城]]に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから浜松城に入ったという。[[天正]]3年(1575年)の[[長篠の戦い]]では決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる[[内藤昌豊]]を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。天正9年([[1581年]])の[[高天神城の戦い]]では先陣を務めた。翌天正10年([[1582年]])の[[本能寺の変]]発生後の家康の[[伊賀越え]]にも同行している。 === 本能寺の変後 === [[File:Yōshū Chikanobu Mount Komaki.jpg|thumb|300px|小牧・長久手の戦いでの榊原康政([[楊洲周延]]画)]] [[天正]]12年([[1584年]])、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(後の[[豊臣秀吉]])と対立し、[[小牧・長久手の戦い]]に至る。この合戦で秀吉の甥・[[豊臣秀次|秀次]]の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、[[森長可]]、[[池田恒興]]を討ち死にさせた。また江戸時代に成立した『[[藩翰譜]]』によれば、康政は秀吉の[[織田氏|織田家]]の乗っ取りを非難する檄文を書き、これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したという。この後、天下を掌握した秀吉とは和解している。詳しくは[[榊原康政#その他|人物・逸話]]を参照。 家康と秀吉が和睦すると[[京都]]への使者に立てられる。天正14年([[1586年]])11月、家康の上洛に随身し、家康は同月5日、[[正三位]]に昇叙し、康政は同月9日、[[従五位|従五位下]]・[[式部省|式部大輔]]に叙任され、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜された<ref>村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号。</ref>。 天正18年([[1590年]])、[[小田原征伐]]では徳川軍の先手を務める他、城の受け取り役や、[[北条氏政]]、[[北条氏照]]切腹の検死役を務めている。同年、家康が[[関東]]に移封されると[[関東総奉行]]として[[本多正信]]らを監督し、[[江戸城]]の修築に務める傍ら、[[上野国]][[館林城]]([[群馬県]][[館林市]])に入り、忠勝と並んで家臣中第2位の10万石を与えられる。館林では堤防工事([[利根川東遷工事]]の一環)や、街道整備などに力を注いだ。 [[慶長]]4年([[1599年]])、[[宇喜多秀家]]の家中で家臣内での対立が起こった。[[宇喜多秀家#宇喜多騒動|宇喜多騒動]]と呼ばれるこの家中内紛を、越前国[[敦賀城]]主の[[大谷吉継]]と徳川家康の家臣である榊原康政が調停役として派遣された。康政が派遣された理由については、政務実務能力を買われたことは元より、康政の側室が宇喜多家臣の[[花房氏]]の縁戚であったことが考えられる。多くの処分者と離反者を出して騒動は終息したが、この時宇喜多家を離れた人材に[[戸川達安]]・[[岡越前守|岡貞綱]]・[[坂崎直盛|宇喜多詮家(坂崎直盛)]]および、花房氏の[[花房正成]]・[[花房職秀|花房職秀(職之)]]がいる。彼らは皆、徳川氏の家臣となっている。この大量離脱により、豊臣氏の有力大名であった宇喜多家は家中が混乱し、重臣らの離脱により大きく軍事力を減らし、翌年に起きた[[関ヶ原の戦い]]に影響を与えたとされている。康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続けた結果、国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰らされた。なお、花房職之の子の[[榊原職直|職直]]はのちに康政の養子となっているが、これも側室花房氏の縁および宇喜多騒動当時の知縁が推測されている。 === 江戸時代 === [[慶長]]4年(1599年)頃、[[石田三成]]が伏見館の家康を襲って誅殺しようとしているという動きがあったといわれ、康政は情報を得てすぐに家康の元に馳せ参じ、守ったという。この時、すぐには伏見館に入らず、東国から押し寄せた家康を守る兵の数を少しでも多く見せようと考え、関所を設けて人々の往来を制限。それと共に兵を京、伏見、淀に送って、「今家康の兵十万が東国より来て陣を取っており、兵糧を買いつけたい」と言って、兵糧として赤飯、饅頭、餅、酒を一つ残らず買い取ると触れ回ったという<ref name="英和">『江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか? 徳川四天王』([[英和出版社]]、2014年6月)</ref>。 慶長5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]においては、主力の[[徳川秀忠]]軍に軍監として従軍し、[[中山道]]を辿り[[美濃国]]を目指すが、荒天で家康からの進発命令を携えた使者が遅れ、[[信濃国|信濃]][[上田城]]([[長野県]][[上田市]])の[[真田昌幸]]攻めを中止し、美濃に向かったもののやはり荒天で、秀忠とともに合戦に遅参する([[上田合戦]])。『藩翰譜』によれば、家康は秀忠の失態に激怒したが、康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許され、秀忠は康政に大変感謝したと言われる。また、康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも言われている。 関ヶ原の戦いの後に[[老中]]となるが、所領の加増は無かった。よく言われる「家康が古参家臣に冷淡であった」とする根拠の1つとして、武功派家臣で、大きな失態のなかった康政を躊躇なく遠ざけた史実が挙げられることもあり、その際には康政らはこれに憤慨していたという形で語られる{{refnest|山鹿素行『武家事紀』第15、榊原康政の条<ref group="注釈">[[隆慶一郎]]ら、通俗的な時代小説でよく用いられる説。</ref>}}。これとは別に、次の世代の[[大久保忠隣]]・[[本多正純]]が既に[[老中]]となっていたため、康政が「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い、自ら離れていったとする説もある{{refnest|岡谷『名将言行録』<ref group="注釈">村山和夫『無を貫いた不退転の猛将 榊原康政』(学習研究社『歴史群像シリーズ 徳川四天王』所収論考)1991もこの説を取る。</ref>}}。 一説には家康から[[水戸藩|水戸]]に加増転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、館林が[[江戸城]]に参勤しやすいことを理由に断ったのだとも言われる。家康は康政の態度に感銘して、康政に借りがあることを神に誓い証文として与えた。慶長8年([[1603年]])には近江国に在京料として五千石が加増されている。 慶長11年(1606年)5月6日に[[毛嚢炎]]を煩い悪化、14日巳刻に館林にて死去。前記の関ヶ原の戦い後の対応で康政に恩ある秀忠は、病床にある康政を見舞うため医師や家臣を遣わせたが、その甲斐なく59歳で没した。 葬儀の際に側近の[[南直道]]が追腹を行った。後継の康勝の許可により、その墓は康政の隣に建てられている。 長男の忠政は母方の大須賀家を継ぎ、次男の忠長は夭折していたことから家督は三男の康勝が継いだ。[[大正]]4年([[1915年]])[[11月9日]]、贈正四位。 == 人物・逸話 == === 功績 === * 『[[武備神木抄]]』では、「康政は武勇では[[本多忠勝]]に劣るが、部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り、[[井伊直政]]に匹敵する」とされている。同書では「衆(部隊)をよく使い、軍慮見切り等は忠勝、両将(康政・直政)におよばず」と記されている。 * 姉川の戦いの時、第二陣に属し、この時、隊を真一文字に進ませ、登り難い岸を声を掛け合って押しあがれと指示。[[酒井忠次]]隊を追い抜かんばかりで、先鋒だった忠次隊も慌てて功を競ったという。この戦いで康政は家康に、「この手の戦い方は、この度の康政が手本なり」といわしめたとされる<ref name="英和" />。 * 秀吉の死後、家康の命令で徳川軍を率いて[[近江国]]の瀬田まで進軍した。これは示威行動であるが、実際の兵力は3,000人ほどだった。ところが康政は瀬田に関所を設けて人留めを行なうことで、諸大名に大軍を率いているように見せつけさせたとされている<ref>新井白石『藩翰譜』、岡谷繁実『[[名将言行録]]』、村山1991</ref>。 * 三河[[大樹寺]]で学んだ[[能筆家]]としても知られ、行政能力に長けており、家康の書状もよく代筆したとされる。小牧・長久手の戦いの際に前年に信長の三男・織田信孝を殺害したという秀吉非難の文言も、達筆な文字であちこちに記された{{refnest|岡谷『名将言行録』<ref group="注釈">通俗的な小説では秀吉非難の文言は別人の代作だとするが、特に根拠はない。</ref>}}。 === その他 === * [[井伊直政]]とは親友だったとされ、その交流の深さを知る上で、康政の次の様な言葉がある。「[[大御所]](家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」。常々「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政が先立てば、自分の死も遠くない」と語り、直政が従軍するとあれば、康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政は安堵したという<ref>『[[武備神木抄]]』『名将言行録』</ref>。直政が亡くなった後、まだ幼少だった井伊直孝に対して「何かあったら自分に申し付けるように」と家臣の木俣守勝らに書状で述べている(「京都井伊美術館所蔵文書」、「大阪城歴史博物館所蔵文書」)。 * 康政が家康に仕えた時、[[水野信元]]の家人に餞別としてもらった具足を着て戦に参加し、高名があったことから、以降康政は嘉例として出陣の時にはその具足を持ったという<ref name="英和" />。 [[ファイル:NanbanDo.jpg|thumb|180px|南蛮胴具足 (兜鉢のみ輸入品、東京国立博物館蔵、重要文化財)]] [[File:黒糸威二枚胴具足.jpg|thumb|180px|黒糸威二枚胴具足(東京国立博物館蔵、重要文化財)]] * 隊旗には「無」の一字を配した。「無」の文字の意味は不明。所用の「紺糸威南蛮胴具足」や「黒糸威二枚胴具足」などは、現在は[[重要文化財]]で[[東京国立博物館]]の所蔵。 * 家康の嫡男・[[松平信康]]は勇猛だが乱暴な一面もあった。このため康政は信康にたびたび諫言したため遂に信康は激怒して康政を弓で射殺しようとした。だが康政は少しも動じず泰然としていたため、逆に信康のほうがその態度に気圧されて諫言に従った<ref name="meisho">岡谷『名将言行録』</ref>。 * 家康と秀吉が和平した後、最初の使者として秀吉から康政が指名されたという。康政が上京して秀吉と対面した時、秀吉は「小牧にて立札を立てた私の首を一目見たかろうと思って呼んだが、和睦した今になってみればその方の志はあっぱれである。それを言うためにここに呼んだ。儂もお主を小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下・式部大輔の官位を贈ろう。」と言い、祝宴まで開いたという<ref name="英和" />。 * 康政の一族は元は陪臣の出で家臣も少なかった(記録上、唯一確認できる康政以前からの榊原氏譜代の家臣は竹尾氏のみで、しかも江戸時代を通じて重臣に列する事は無かった)。他に康政の兄・清政の息子や娘婿も康政に仕えているが、彼らの能力だけで10万石を運営することは不可能であった。このため、家康から御付人と称される家臣が派遣され、後に彼らは家康の命によって徳川家の直臣から榊原氏の家臣へと転属になった。特に[[中根長重]]・[[原田種政]]・[[村上勝重]]は「三家老」と称され、康政を補佐して領国の運営を行った。康政および家康が没すると三家老は榊原家を去って徳川家の旗本に戻ることを望んだが、徳川秀忠の説得で息子に家督を譲って榊原家に留まらせることを条件に旗本として1,000石が与えられた。「三家老」の子孫は代々家老職を継承したが、秀忠から与えられた1,000石の継承も認められて明治維新に至っている<ref name=komiyama/>。のち、[[慶応の改革]]に際し旗本の軍役が金納に代わった際、この1,000石分の軍役の扱いについて、幕府勘定所と榊原家(当時は[[高田藩|越後高田]])の間で論争になっている<ref>小宮山敏和『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5</ref>。 [[File:Sakaki-jinja, Joetsu.jpg|thumb|越後高田藩主・榊原家を祀る「榊神社(さかきじんじゃ)」[新潟県上越市]]] * 愛知県[[豊田市]]、群馬県[[館林市]]、兵庫県[[姫路市]]、新潟県[[上越市]]の4市は文化交流を目的として、[[昭和]]60年([[1985年]])から「榊原康政公ゆかり四市市長懇談会」を開催している。この懇談会は「榊原サミット」とも呼ばれ、豊田は康政の生誕地、館林は死没地、姫路と上越は榊原家が城主を務めたことがある地で、いずれも榊原家にゆかりの深い都市である。サミットは当時の豊田市長の発案によって発足し、歴史と文化を生かしたまちづくりを通して、各市間の友好の輪を広げることを目的としたもので、毎年4市が持ち回りで決定したテーマを基に市長懇談会が行われている。 == 系譜 == * 父:[[榊原長政]] * 母:道家氏 * 正室:[[大須賀康高]]の娘 ** 長男:[[大須賀忠政]](1581-1607) - [[大須賀康高]]の養子 ** 次男:[[榊原忠長]](1585-1604) ** 長女:聖興院 - [[酒井忠世]]正室(?-1652) * 側室:花房氏 ** 三男:[[榊原康勝]](1590-1615) * 生母不明の子女 ** 次女:[[福正院]](1594-1672) - 鶴姫、[[池田利隆]]正室 * 養子 ** 女子:松月院 - [[喜連川義親]]正室、花房氏の姪 ** 男子:[[榊原職直]](1586-1648) - [[花房職秀|花房職之]]の次男 * 康政の死後、長男は外戚の大須賀氏に養子入り、次男は早世していたため、家督は三男の康勝が継いだ。康勝もまた[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]後、26歳で継嗣無くして死去した。このため、榊原氏は断絶の危機に立たされたが、幕府は康政の功績を評価し、家康直々の裁定により、長男・大須賀忠政の長男で康政の孫にあたる[[榊原忠次|大須賀忠次(榊原忠次)]]に跡を継ぐことを許している。これにより大須賀氏は断絶となった。この、「徳川四天王の榊原康政の家」「家康直々の裁定により御家存続した家」という前例が後々までも影響し、大名榊原家は幾度かの不祥事や相続危機を迎えても、改易や断絶という処分がなされることはなかった。 * 上述の榊原忠次が跡を継いだ際、嗣子無しとされた康勝には実際は庶子・平十郎(後の[[榊原勝政]])が存在したが、家臣たちが「幼少の当主では勲功挙げ難し」「幼少の藩主では領地削減の可能性がある」「館林藩が潰れれば自分たちは幕府の直臣になれる」と考え、幕府に平十郎の存在を届けなかった。後に存在が発覚し、家臣は処罰された<ref>新井白石『藩翰譜』</ref>。しかしこれは俗伝である(詳細は[[榊原康勝]]・[[榊原勝政|勝政]]の項参照)。紆余曲折の後、本来の相続者である勝政の子孫は幕府により大身の旗本とされたが、彼の孫の代に、嗣子が絶えた榊原本家に養子を出しこれを相続した。その後、再度嗣子が絶えた際も、この旗本家から養子の[[榊原政岑|政岑]]を迎えており、いわば本家のバックアップとして機能することとなった。この旗本家はその後も養子を迎えるなどして存続し、[[江戸町奉行]]・[[榊原忠之]]を輩出する。 * 康政の兄・清政は1,800石の幕府の旗本となり、家康の[[隠居]]城である[[駿府城]]の[[後詰め]]の城である[[久能山城]]を守り、子孫は旗本として代々[[駿河国|駿河]][[久能山東照宮]]の責任者となった。本来はこの兄の家が榊原本家であるはずなのだが、清政自身が病弱であったために家康の命により康政が榊原の家督を相続したこと、榊原家の累進は康政一代の勲功に因るところが大きいため、現在では榊原氏の本流という場合、康政の系統を指すことが一般的である。なお清政の子の[[榊原照久|照久]]は家康廟所である久能山東照宮の責任者として、武家としては異例である[[従二位]]<ref>従二位は大臣任官者の位階であり、江戸期を通じて従二位以上に叙された武家の男性は、照久を除くと将軍および将軍家世子のほか、徳川家の中でも[[大納言|権大納言]]に任官できた者([[徳川忠長]]、[[御三家]]のうち[[尾張徳川家]]・[[紀州徳川家]]当主、[[御三卿]]のうち[[一橋徳川家]]・[[田安徳川家]]当主)のみである</ref>という高位となっている。 [[File:Keep tower of Takada Castle 20130320, 002.jpg|thumb|越後高田城三重櫓(新潟県上越市)]] * [[江戸時代]]中期の榊原家の当主・[[榊原政岑]]は、江戸城大手門の警備担当の際に奇抜な服装で現れたり、江戸の公認売春地区であった[[吉原 (東京都)|吉原]]に通い詰め、名妓を身請けするなどして、派手を好んでいた。この所業は当時、倹約令を出していた8代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川吉宗]]の政策に反するところであり、榊原家の危機となったが、家康が康政に下していた神誓証文を幕府に差し出し嘆願したところ、当人の隠居および[[表高]]は同じ15万石で、[[越後国|越後]][[高田藩]]に懲罰的移封処分という軽いお咎めで済んだとされる。 *最後の将軍[[徳川慶喜]]は[[福正院]]の女系子孫に当たる。 == 墓所・霊廟・神社 == [[画像:SakakibaraYasumasaTomb.JPG|thumb|250px|榊原康政の墓 善導寺(館林)]] * 群馬県館林市楠町の[[善導寺 (館林市)|善導寺]]。 * [[和歌山県]][[高野町]]の高野山奥の院。 * [[新潟県]][[上越市]]の榊神社は康政を祭神としており、康政着用と伝えられる具足や[[馬印]]などが所蔵されている。 == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} <references group="注釈" /> === 出典 === {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 参考文献 == * [[山鹿素行]]『武家事紀』 * [[新井白石]]、白石社校訂『藩翰譜』[[吉川弘文館]] * [[岡谷繁実]]『名将言行録』 * 村山和夫『無を貫いた不退転の猛将 榊原康政』([[学習研究社]]『歴史群像シリーズ 徳川四天王』所収論考)1991年 * 「榊原康政と榊原家一族(特集 徳川四天王) ― (徳川四天王の一族と系譜)」 『歴史読本:第52巻3号(通号811号)』[[新人物往来社]] 2007年3月 * 平野明夫「榊原康政の全生涯--多くの合戦で武功を立て家康・秀忠に信頼された硬骨の武将(特集 徳川四天王) ― (特集ワイド 徳川四天王の全生涯)」『歴史読本』第52巻3号(通号811号)』、[[新人物往来社]] 2007年3月 * 『江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか? 徳川四天王』英和出版社、2014年 == 登場する作品 == ; 小説 * 菊池道人「榊原康政:家康を支えた知勇兼備の武将」PHP研究所 2001年12月 ISBN 4569576621 * 川村真二「徳川四天王 家康に天下を取らせた男たち」PHP研究所 2014年 ; テレビドラマ * 『[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]』([[1973年]]、演:[[大久保正信]]) * 『[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]』([[1983年]]、演:[[荒木しげる]]→[[内田勝正]]) * 『[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]』([[1989年]]、演:[[中村方隆]]) * 『[[葵 徳川三代]]』([[2000年]]、演:[[清水綋治]]) * 『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』([[2006年]]、演:[[川野太郎]]) * 『[[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]]』([[2009年]]、演:川野太郎) * 『[[軍師官兵衛]]』([[2014年]]、演:[[中村育二]]) * 『[[おんな城主 直虎]]』([[2017年]]、演:[[尾美としのり]]) * 『[[家康、江戸を建てる]]』([[2019年]]、演:[[上杉祥三]]) * 『[[どうする家康]]』 ([[2023年]]、演:[[杉野遥亮]]) ; ゲーム * 『[[信長の野望シリーズ]]』([[コーエー]]) * 『[[戦国大戦]]』([[2011年]]-、演:[[野宮一範]](1.1UC榊原康政)、[[菅沼久義]](2.1SR榊原康政)) ; 舞台 * 戦国ミュージカル『覇王の道〜神君伊賀越え〜』([[2021年の野球|2021年]]、演:[[松井健斗]]) * 戦国ミュージカル『覇王の光〜三方ヶ原〜』([[2023年]]、演:[[松井健斗]]) * 『GO!GO!BREEZE!』(Steel Punk、[[2018年]]、演:[[しらさかしょーた]]) ; アニメ *『[[ねこねこ日本史]]』([[Eテレ]]、声:[[木内太郎]]) {{commonscat|Sakakibara Yasumasa}} {{-}} {{館林藩主|榊原氏|初代|1590年 - 1606年}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さかきはら やすまさ}} [[Category:榊原式部大輔家|やすまさ]] [[Category:戦国武将]] [[Category:譜代大名]] [[Category:館林藩主]] [[Category:江戸幕府老中]] [[Category:三河国の人物]] [[Category:1548年生]] [[Category:1606年没]]
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井伊直政
井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第20代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国彦根藩の初代藩主。 徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。 徳川二十八神将、徳川十六神将、徳川四天王、徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたことを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。 永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の嫡男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)近くの祝田(ほうだ・現在の浜松市北区細江町中川)で生まれる。母は奥山朝利の娘・ひよ。幼名は虎松。井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、当時の井伊家当主である井伊直盛(虎松の父・直親の従兄で養父)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。父・直親は、虎松の生まれた翌年の永禄5年(1562年)、謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺された。当時、虎松はわずか2歳であったため、直盛の娘に当たる次郎法師が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった。 虎松も今川氏に命を狙われたが、新野親矩が助命嘆願して、親矩のもとで生母・ひよとともに暮らす。しかし永禄7年(1564年)に親矩が討死し、そのまま親矩の妻のもとで育てられたとも、親矩の妹で直盛の未亡人・祐椿尼とひよが養育したともいうが、永禄11年(1568年)、甲斐国の武田氏が今川氏を攻めようとした際、井伊家家老の小野道好が今川氏からの命令として、虎松を亡き者にして小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、虎松を出家させることにして浄土寺、さらに三河国の鳳来寺に入れた。 天正2年(1574年)、虎松が父・直親の13回忌のために龍潭寺に来たとき、祐椿尼、直虎、ひよ、龍潭寺住職・南渓瑞聞が相談し、徳川家康に仕えさせようとする。まずは虎松を鳳来寺に帰さないために、ひよが徳川氏家臣の松下清景に再嫁し、虎松を松下氏の養子にしたという(『井伊家伝記』)。天正3年(1575年)、家康に見出され、井伊氏に復することを許された虎松は、名を井伊万千代と改めた。さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられた。 万千代は、高天神城の戦いの攻略をはじめとする武田氏との戦いで戦功を立てた。 天正10年(1582年)、22歳で元服し直政と名乗る。同年の本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、滞在先の堺から三河国に帰還する。天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数含めた一部隊を編成することとなり、旗本先手役の侍大将になった。これにより、徳川重臣の一翼を担うことになる。その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装であった。天正10年8月までに「兵部少輔」と改称する(「兵部大輔」とあるのは誤記)。 天正11年1月11日、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えをまとって兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。 同年2月27日付で修理大夫に任官された(ただし実際は天正14年5月から6月に任官されたものが日付をさかのぼって口宣案が発給された)。また、実際には修理大夫を称していないため、一旦任官された後、辞退した可能性が指摘されている。天正13年(1585年)、真田攻めの撤退を指揮するために上田に派遣される。 天正14年(1586年)10月、家康が上洛し、豊臣秀吉に臣従すると、直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価し、11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜したという。天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった酒井忠次をはじめ、古参の重臣達が諸大夫に留まるなか、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となった。このときに「井侍従藤原直政」という署名がみられ(『聚楽行幸記』)、豊臣姓ではなく藤原姓を称した。 直政は新参ながら数々の戦功を評価され、天正18年(1590年)の小田原征伐では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を知られる(『北条五代記』)。奥州仕置の九戸政実の乱でも仕置軍の先鋒を務めた。その後、北条氏に代わって家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪(群馬県高崎市)に徳川氏家臣団の中で最高の12万石で封ぜられる。慶長3年(1598年)には、箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎城と改称して新たな居城とした(地名の由来に関しては高崎市の項目を参照)。このとき、箕輪城下に住んでいた民衆達も高崎に移っている。 慶長3年(1598年)、直政が番役として京都にいる家康のもとにいたときに秀吉が死去し、こののちの政治抗争で直政は豊臣方の武将との交渉を引き受け、家康の味方に引き入れることに成功している。特に黒田如水・長政父子とは盟約を結ぶまでの関係を築き、黒田家を通じてその他の武将も親徳川に組み入れた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝とともに東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。関ヶ原本戦では先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、直政と松平忠吉の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされているが、実際は抜け駆けとされている行為は霧の中での偶発的な遭遇戦であり、戦闘開始はそれに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃に求めるべきとされている。 決戦終盤は島津義弘の甥である島津豊久を討ち取り、さらに退却する島津軍を百余騎率いて追撃する。ついに義弘の目前までせまり、義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤に足を狙撃され、落馬してしまう。あまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追いつけず、単騎駆けのような状態であったという。 関ヶ原の戦い後は、足に大怪我を負ったにもかかわらず、戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力した。西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉役を務め、輝元からは直政の取りなし、特に、周防・長門の2か国が安堵されたことを感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文を送られている。 また、小牧・長久手の戦いでは直政が同盟交渉にあたり、聚楽第行幸では同じ侍従以上の大名行列に供奉し、昇殿した縁もあり、長宗我部元親とは入魂の仲であったとされ、その息子で同じく親しい間柄にあり、意に反して西軍に与することとなった盛親の謝罪の取次を仲立ちをした。その後、盛親が家臣の讒言から兄を殺害してしまったことにより所領没収となった際には、家臣の鈴木平兵衛を浦戸城へ派遣したが長宗我部の家臣に抵抗されたため、攻撃して城を接収した。 そのほか、徳川氏と島津氏の和平交渉を仲立ちし、外交手腕を発揮している。 真田昌幸とその次男・信繁(幸村)の助命にも尽力した。これは、東軍に味方した昌幸の長男・真田信之の懇請を受け入れたもので、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だったという。 これらの功により、6万石を加増されて18万石となり、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)に転封となった。また、同時に従四位下に任官された(『井伊家譜』)。 家康は、西国の抑えと非常時に朝廷を守るため、京都に近い佐和山に井伊家を配したと伝えられる。 慶長7年(1602年)2月1日彦根城築城途中に佐和山城で直政は死去した。享年42。遺体は遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付され、その跡地に長松院が建立された。 家督は長男の直継(後の直勝)が継いだが病弱であったため、大坂冬の陣に出兵するに際し、家康の直命により、次男である井伊直孝が指名された。 その後、彦根城が築城されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となり、かわってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれた。それ以来、彦根藩は明治時代になるまで井伊氏の藩として栄えることとなった。 天正10年(1582年)の後北条氏との講和によって、武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の一部が配属されたことから始まる。このとき、家康により直政は兜や鎧をはじめとする戦で、使用する全ての装備品を赤色で統一させた。これはかつて武田の赤備えの将であった山県昌景の意志を継ぐという意味もあったが、ほかにも赤色だと目立ちやすく戦の最中にどこに自分の部下達がいるのかが一目で分かるという意味もあった。以後、井伊氏の軍装は幕末まで赤備えを基本とされた。 家督は長男の井伊直継(のちの直勝)は1604年(慶長9年)に同国彦根に築城した。この築城は幕府が諸大名に御手伝普請を命じたものであった。直勝は1615年(元和元年)幕命により弟の直孝に藩主の座を譲った。直孝の代に30万石の譜代大名となる。一方、直継は安中藩3万石の藩主となった。弟の井伊直孝が直政の家督を継ぐこととなり、以降は直孝の子孫が彦根藩主を継承することとなる(井伊掃部頭家)。直勝と改名した直継の子孫(井伊兵部少輔家)は安中藩主→三河西尾藩主→遠江掛川藩主→越後与板藩主として存続した。
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井伊 直政は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第20代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国彦根藩の初代藩主。 徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。 徳川二十八神将、徳川十六神将、徳川四天王、徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたことを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 井伊 直政 | 画像 = Ii Naomasa.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期から[[安土桃山時代]] | 生誕 = [[永禄]]4年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]([[1561年]][[3月4日]]) | 死没 = [[慶長]]7年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]([[1602年]][[3月24日]]) | 改名 = 井伊虎松 → 松下虎松 → 井伊万千代(幼名) → 直政 | 別名 = 井伊の赤鬼、人斬り兵部(渾名)<ref group="注釈>幼名は井伊虎松(とらまつ)</ref> | 戒名 = 祥壽院殿清凉泰安大居士 | 墓所 = [[滋賀県]][[彦根市]] 祥壽山[[清凉寺 (彦根市)|清凉寺]]<br/>滋賀県彦根市 [[長松院]]<br/>[[群馬県]][[高崎市]] [[竜広寺]]<br/>[[静岡県]][[浜松市]] [[龍潭寺 (浜松市)|龍潭寺]] | 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[従四位|従四位下]]、[[修理職|修理大夫]]、[[侍従]]{{Efn|天正16年([[1588年]])4月14日(旧暦)の[[後陽成天皇]]の[[聚楽第]][[行幸]]に先立ち、これに伺候する徳川家康の家臣・井伊直政、同・大沢基宥にも侍従職が任ぜられた<ref>『[[徳川実紀]] 巻三』67-68頁、「聚楽第行幸記」(『続群書類従 第三輯・巻第四十一』608頁)</ref>。}}、贈[[従三位]] | 主君 = [[徳川家康]] | 藩 = [[上野国|上野]][[高崎藩]]主 → [[近江国|近江]][[佐和山藩]]主 | 氏族 = [[井伊氏]](称・[[藤原氏]])→[[松下氏]]→[[井伊氏]] | 父母 = 父:[[井伊直親]]、母:[[奥山ひよ|ひよ]]([[奥山朝利]]娘)<br/>養母:''[[井伊直虎]]''([[井伊直盛]]娘)<ref group="注釈" name="youbo"/><br/>継父:''[[松下清景]]'' | 兄弟 = [[高瀬姫]]、[[井伊吉直|吉直]]?、'''直政''' | 妻 = [[正室]]:'''[[唐梅院|花]]'''([[松平康親]]娘・徳川家康[[養女]])<br/>[[側室]]:[[印具徳右衛門|印具道重]]娘 | 子 = '''[[井伊直勝|直勝]]'''、[[井伊直孝|直孝]]、[[清泉院|政子]]([[松平忠吉]]正室)、德興院([[伊達秀宗]]正室) | 特記事項 = }} [[File:Ii Naomasa's Monument.jpg|thumb|徳川四天王井伊直政公出世之地碑(静岡県浜松市北区引佐町 [[龍潭寺 (浜松市)|龍潭寺]])]] '''井伊 直政'''(いい なおまさ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[井伊氏]]第20代当主{{Efn|『寛永諸家系図伝』以来、江戸時代の[[井伊氏]]系図類では、初代・共保から17代目に直政をかぞえる。幕末に国学者・[[長野主膳|長野義言]]が作成した「訂正井家御系図案」で、南北朝期の人物ら7名を追加して、直政を24代とした。}}。 [[上野国]][[高崎藩]]の初代藩主。後に[[近江国]][[彦根藩]]の初代藩主。 [[徳川氏]]の家臣(家臣になった当時は[[外様]])。[[遠江国]]井伊谷の出身で、『[[柳営秘鑑]]』では[[榊原氏]]や[[鳥居氏]]と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に[[譜代大名]]の筆頭として、[[江戸幕府]]を支えた[[井伊氏]]の手本となり、現在の[[群馬県]][[高崎市]]と[[滋賀県]][[彦根市]]の発展の基礎を築いた人物でもある。 [[徳川二十八神将]]、[[徳川十六神将]]、[[徳川四天王]]、徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたことを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。 == 生涯 == === 家康の家臣になるまで === [[永禄]]4年(1561年)2月19日、[[今川氏]]の家臣である[[井伊直親]]の[[嫡男]]として<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 77頁。</ref>、[[遠江国]][[井伊谷]](現在の[[静岡県]][[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]][[引佐町]]井伊谷)近くの祝田(ほうだ・現在の[[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]][[細江町]]中川)で生まれる。母は[[奥山朝利]]の娘・[[奥山ひよ|ひよ]]{{Efn|奥山親朝の娘(朝利の妹)との説もある<ref>{{Harvnb|『寛政重修諸家譜 第4集』|p=1112}}</ref>。}}。幼名は'''虎松'''。井伊氏は先祖代々、井伊谷の[[国人領主]]であり、当時の井伊家当主である[[井伊直盛]](虎松の父・直親の従兄で養父)は[[今川義元]]に仕えて[[桶狭間の戦い]]で戦死した。父・直親は、虎松の生まれた翌年の永禄5年([[1562年]])、[[謀反]]の嫌疑を受けて[[今川氏真]]に誅殺された。当時、虎松はわずか2歳であったため、直盛の娘に当たる次郎法師が[[井伊直虎]]と名乗り、井伊氏の当主となった<ref group="注釈" name="youbo">江戸時代中期、[[享保]]15年([[1730年]])に著された『[[井伊家伝記]]』では、次郎法師(井伊直虎)を直政の「養母」と表現するが、江戸時代には実子でない家督相続は養子関係を結んだことから、「養母」とは直政の前代の当主という意味と理解できる。実際には、直虎と直政の間に実母に代わる母子関係があったわけではない。</ref>。 虎松も今川氏に命を狙われたが、[[新野親矩]]が助命嘆願して、親矩のもとで生母・ひよとともに暮らす。しかし永禄7年([[1564年]])に親矩が討死し、そのまま親矩の妻のもとで育てられたとも、親矩の妹で直盛の未亡人・[[祐椿尼]]{{Efn|虎松(直政)の養母・直虎の生母。}}とひよが養育したともいうが、永禄11年([[1568年]])、甲斐国の武田氏が今川氏を攻めようとした際、井伊家家老の[[小野道好]]が今川氏からの命令として、虎松を亡き者にして小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、虎松を出家させることにして浄土寺、さらに[[三河国]]の[[鳳来寺]]に入れた。 [[天正]]2年([[1574年]])、虎松が父・直親の13回忌のために[[龍潭寺 (浜松市)|龍潭寺]]に来たとき、祐椿尼、直虎、ひよ、龍潭寺住職・[[南渓瑞聞]]{{Efn|虎松の祖父・[[井伊直満]]とは兄弟(義兄弟とも)。虎松の大おじにあたる。}}が相談し、[[徳川家康]]に仕えさせようとする。まずは虎松を鳳来寺に帰さないために、ひよが[[徳川氏]]家臣の[[松下清景]]に再嫁し、虎松を松下氏の養子にしたという(『[[井伊家伝記]]』)。[[天正]]3年([[1575年]])、家康に見出され、井伊氏に復することを許された虎松は、名を'''井伊万千代'''と改めた<ref name=hikae>{{Cite |和書|others=[[山本博文]]監修|title=江戸時代人物控1000|date=2007|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-626607-6|page=23}}</ref>。さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の[[小姓]]として取り立てられた<ref name=hikae/>。 === 安土桃山時代 === 万千代は、[[高天神城の戦い#第二次高天神城の戦い|高天神城の戦い]]の攻略をはじめとする[[武田氏]]との戦いで戦功を立てた。 天正10年([[1582年]])、22歳で元服し'''直政'''と名乗る。同年の[[本能寺の変]]では家康の[[伊賀越え]]に従い、滞在先の[[堺]]から三河国に帰還する。[[天正壬午の乱]]で[[後北条氏|北条氏]]との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である[[信濃国]]・[[甲斐国]]を併呑すると、武田家の旧臣達を多数含めた一部隊を編成することとなり、[[旗本先手役]]の[[侍大将]]になった。これにより、徳川重臣の一翼を担うことになる。その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が[[山県昌景]]の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した'''[[赤備え|井伊の赤備え]]'''という軍装であった。天正10年8月までに「兵部少輔」と改称する(「兵部大輔」とあるのは誤記){{Efn|天正12年2月27日付の口宣案写(彦根城博物館所蔵、{{Harvnb|野田|2017|p=85}})では、「兵部太輔藤原直政」を修理大夫に任じると記すが、井伊の署名では「兵部大輔」としたものは見あたらず、実際は「兵部少輔」であった。}}。 天正11年1月11日、家康の養女で[[松平康親]]の娘である花(後の[[唐梅院]])と結婚する。 天正12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]で、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えをまとって兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「'''井伊の赤鬼'''」と称され、諸大名から恐れられた{{Efn|小牧・長久手の戦いののち、京の人々が直政を赤鬼と名付けたという<ref>『新編 藩翰譜 第一巻』458頁</ref>。}}。 同年2月27日付で修理大夫に任官された(ただし実際は天正14年5月から6月に任官されたものが日付をさかのぼって口宣案が発給された)<ref>{{Cite journal|和書|author=遠藤珠紀|title=徳川家康前半生の叙位任官|journal=日本歴史|issue=803号|year=2015}}</ref>。また、実際には修理大夫を称していないため、一旦任官された後、辞退した可能性が指摘されている{{Sfn|野田|2017}}。天正13年([[1585年]])、[[上田合戦|真田攻め]]の撤退を指揮するために上田に派遣される。 天正14年([[1586年]])10月、家康が上洛し、[[豊臣秀吉]]に臣従すると、直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価し、11月23日に[[従五位|従五位下]]に叙位させ、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜したという{{Efn|{{Harvnb|野田|2017|p=86}}に口宣案写(彦根城博物館所蔵)の写真掲載。ただし野田はこの日付は書面上のもので、系譜史料の記述などから実際の授与は聚楽行幸前と推定する。}}。天正16年([[1588年]])4月、[[聚楽第]][[行幸]]の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった[[酒井忠次]]をはじめ、古参の重臣達が[[諸大夫]]に留まるなか、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の[[公家成]]に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となった<ref>桐野作人「徳川四天王・井伊直政」『さくま人国誌』。</ref>{{Efn|直政が、豊臣政権の中の官位序列で徳川家臣筆頭の侍従を得た理由は、徳川家臣団の中で直政は親族・一門の扱いを受け、他の徳川家臣より上位の格式に位置づけられたためと考えられる。それは、もともと井伊は徳川と対等な家格で、[[築山殿]]を介して親族関係にあったためとされる。家康は、直政の交渉能力や出自を考えて、徳川家臣団の筆頭に位置づけた<ref>{{Cite journal|和書|author=野田浩子|title=徳川家康の家中序列構想―徳川一門衆としての井伊直政―|journal=彦根城博物館だより|issue=111号|year=2015|url=http://hikone-castle-museum.jp/cms/wp-content/uploads/2015/12/5860377a5ba765f603e42a59518640bd.pdf|format=PDF}}</ref>。}}。このときに「井侍従藤原直政」という署名がみられ(『聚楽行幸記』)、豊臣姓ではなく藤原姓を称した<ref name="村川">{{Harvnb|村川}}</ref>。 直政は新参ながら数々の戦功を評価され、天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて[[小田原城]]内にまで攻め込んだ武将としてその名を知られる(『北条五代記』)。[[奥州仕置]]の[[九戸政実の乱]]でも仕置軍の先鋒を務めた。その後、北条氏に代わって家康が[[江戸]]に入ると、直政は[[上野国]][[箕輪城|箕輪]]([[群馬県]]高崎市)に徳川氏家臣団の中で最高の12万石で封ぜられる。慶長3年([[1598年]])には、箕輪城を廃し、南の和田城を改築して[[高崎城]]と改称して新たな居城とした(地名の由来に関しては[[高崎市]]の項目を参照)。このとき、箕輪城下に住んでいた民衆達も高崎に移っている。 慶長3年([[1598年]])、直政が番役として京都にいる家康のもとにいたときに秀吉が死去し、こののちの政治抗争で直政は豊臣方の武将との交渉を引き受け、家康の味方に引き入れることに成功している。特に[[黒田孝高|黒田如水]]・[[黒田長政|長政]]父子とは盟約を結ぶまでの関係を築き、黒田家を通じてその他の武将も親徳川に組み入れた{{Sfn|野田|2007}}。 === 関ヶ原の戦いと戦後処理 === [[File:Site of Matsudaira Tadayoshi and Ii Naomasa's Positions.jpg|thumb|関ヶ原の戦いの松平忠吉・井伊直政陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)]] 慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では家康本軍に随行し、本多忠勝とともに東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、[[京極高次]]、[[竹中重門]]、[[加藤貞泰]]、[[稲葉貞通]]、[[関一政]]、[[相良頼房]]、[[犬童頼兄]]らを西軍から東軍に取り込んだ。関ヶ原本戦では先陣が[[福島正則]]と決まっていたにもかかわらず、直政と[[松平忠吉]]の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされているが、実際は抜け駆けとされている行為は霧の中での偶発的な遭遇戦であり、戦闘開始はそれに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃に求めるべきとされている{{Sfn|笠谷|2000|pp=69-73}}{{Efn|7月7日付で家康から諸将宛に出されている軍法の第4条で抜け駆けは厳禁されており、そもそも合戦開始時においても、合戦後においても正則側から家康に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、直政の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、正則の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されている{{Sfn|笠谷|2000|pp=69-73}}。}}。 決戦終盤は[[島津義弘]]の甥である[[島津豊久]]を討ち取り、さらに退却する島津軍を百余騎率いて追撃する。ついに義弘の目前までせまり、義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の[[柏木源藤]]に足を狙撃され、落馬してしまう。あまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追いつけず、単騎駆けのような状態であったという。 関ヶ原の戦い後は、足に大怪我を負ったにもかかわらず、戦後処理と[[江戸幕府]]の基礎固めに尽力した。西軍の総大将を務めた[[毛利輝元]]との講和交渉役を務め、輝元からは直政の取りなし、特に、[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]の2か国が安堵されたことを感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文を送られている。 また、小牧・長久手の戦いでは直政が同盟交渉にあたり、聚楽第行幸では同じ侍従以上の大名行列に供奉し、昇殿した縁もあり、[[長宗我部元親]]とは入魂の仲であったとされ、その息子で同じく親しい間柄にあり、意に反して西軍に与することとなった[[長宗我部盛親|盛親]]の謝罪の取次を仲立ちをした。その後、盛親が家臣の讒言から兄を殺害してしまったことにより所領没収となった際には、家臣の鈴木平兵衛を浦戸城へ派遣したが長宗我部の家臣に抵抗されたため、攻撃して城を接収した<ref>{{Harvnb|野田|2007}}。典拠史料は「井伊直政書状写」(『鈴木文書』(東京大学史料編纂所所蔵影写本))</ref>。 そのほか、徳川氏と[[島津氏]]の和平交渉を仲立ちし{{Efn|直政自身は和平交渉が完全に終了する前に没したため、その後の仲立ちは[[本多正信]]が引き継いだ。}}、外交手腕を発揮している。 [[真田昌幸]]とその次男・[[真田信繁|信繁]](幸村)の助命にも尽力した。これは、東軍に味方した昌幸の長男・[[真田信之]]の懇請を受け入れたもので、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だった<ref>{{Harvnb|野田|2007}}。典拠史料は「真田家武功口上之覚」(『真田家文書』中巻、1982年)</ref>という。 これらの功により、6万石を加増されて18万石となり、[[石田三成]]の旧領である[[近江国]]佐和山([[滋賀県]][[彦根市]])に転封となった。また、同時に従四位下に任官された(『井伊家譜』)<ref name="村川"/><ref name=hikae/>{{Efn|従四位下に叙されたのは天正16年(1588年)4月とする文化2年([[1805年]])に時の彦根藩京都留守居役が禁裡御所御役方より得た旧記(古文書)がある<ref>{{Cite book|和書|author=井伊達夫|title=井伊軍志|edition=新装版|publisher=宮帯出版社|year=2007|page=107}}</ref>。}}。 家康は、西国の抑えと非常時に朝廷を守るため、[[京都]]に近い佐和山に井伊家を配したと伝えられる。 慶長7年([[1602年]])2月1日彦根城築城途中に佐和山城で直政は死去した。享年42。[[死体|遺体]]は遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付され、その跡地に[[長松院 (彦根市)|長松院]]が建立された。 家督は長男の直継(後の直勝)が継いだが病弱であったため、[[大坂の陣|大坂冬の陣]]に出兵するに際し、家康の直命により、次男である[[井伊直孝]]が指名された。 その後、[[彦根城]]が築城されると同時に[[佐和山藩]](18万石)は廃藩となり、かわってこの地には新たに[[彦根藩]](30万石)が置かれた。それ以来、彦根藩は明治時代になるまで井伊氏の藩として栄えることとなった。 == 人物・逸話 == * 「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」との記録があるように、[[美男子]]として知られ(『[[甫庵太閤記]]』、『[[塩尻]]』、『徳川実紀』など)、家康が豊臣秀吉に従属する前に、家康に懐柔策のため人質として送られてきた秀吉の母・[[大政所]]やその侍女たちが、直政に惚れ込んだという。また、直政のもてなしがとても丁寧だったという理由もある。 * 直政は家康の[[衆道|寵童]]だったといわれている{{Efn|『[[甲陽軍鑑]]』には「万千代(直政)、近年家康の御座を直す」とあり、「御座を直す」は、主君の伽(とぎ)のお相手をする隠語である。}}。また、家康は自邸の庭近くに直政の家居を作らせて折々通っていた(『[[徳川実紀]]』、『天元実紀』)。 * 直政がまだ家康の小姓だったころ、[[大久保忠世]]の陣中に招かれて他の武将とともに芋汁をふるまわれた。戦場のことであり[[味噌]]は[[糠味噌]]、具は[[芋]]の葉や茎が混ざったものであった。ほかの武将は芋汁を食べているのに、直政の食は進まず、忠世がどうしたのかを尋ねると、直政は「[[醤油]]はありませんか」と応じた{{Efn|ここで伝えられる醤油は、味噌を作る際の「たまり」である。現在のような醤油が作られるようになったのは[[江戸時代]]になってからである。}}。このことを聞いたほかの武将たちは「ここは戦場だというのにそのようなものがあるわけがないだろう」と口々に直政を非難した。忠世は直政に「同僚の者たちは皆、同じものを食べている。兵士たちはこのようなものでも満足には食べられない。ましてや農民たちの中にはもっと苦しい生活をしている者たちもいる。一軍の将になりたいのであれば、このことを絶対に忘れてはならぬぞ。そのためにここへ呼んだのだ」と諭した。新参でありながらも若くして選抜され、部下にも厳しかった直政に対する周囲の目は厳しかった。これ以後、直政はよりいっそう自分にも部下にも厳しくなっていく(『名將言行録』卷之五十・大久保忠世の項)。 * 伊賀越えに直政は小姓組として従い、勇壮な働きを見せて家康を守ったという。このときの働きへの褒美として家康から[[孔雀]]の羽で織った[[陣羽織]]を授かった。この陣羽織は現在、新潟県[[長岡市]][[与板町]]の与板歴史民俗資料館に保管されている。 * 人質の大政所を豊臣に返す際に、大政所の懇願で警護を任された。直政の手厚い保護に秀吉は大変喜び、自ら茶を立てて直政の疲れを癒そうとした。そこには、かつては家康の家臣であったが、今は秀吉の下に寝返って家臣となった[[石川数正]]も同席していた。このことに我慢ができなくなった直政は数正に向かって、「先祖より仕えた主君に背いて殿下に従う臆病者と同席すること、固くお断り申す」と怒鳴った。なお、数正が秀吉の下に去ったのは天正13年(1585年)で、この事件が起こったのはその1年後の天正14年(1586年)である。この時期の内外における名声は、「ほまれ日本(ひのもと)に覆(はばか)る威光無疑(うたがいなし)」(『[[甲陽軍鑑抜書後集]]』)というものだった。 * 小田原征伐のとき、秀吉陣営の手薄なのをうかがいしり、家康に「いい機会ですから秀吉を討ち取りましょう」と進言したが、「そのときにあらず」と戒められたという(『[[常山紀談]]』<ref>湯浅常山 原著・湯浅元禎 編 『常山紀談』〈日本名著文庫〉、聚栄堂、1921年、国会図書館東京本館蔵、請求番号:YD5-H特103-89</ref>){{信頼性要検証|date=2011年8月}}。また、唯一城内に攻め入り、四百人の北条方を討ち取り「万事にぬきんで合戦し、天下に誉を得後代に名を残せり」(『[[北条五代記]]』)と称揚される働きをした。 * 直政は徳川家中のなかでは外様でありながら、徳川家臣随一の領国を与えられていた。このため、三河譜代からの家臣から嫉妬、反発されたが、直政はそれに対して常に家康に奉公することで退けたという{{信頼性要検証|date=2015年9月}}。ただし、そのあまりに厳しすぎる奉公ぶりは自分だけにとどまらず、周囲にも強要するほどのものであったという。そして直政自身は気性が激しく、家臣のわずかな失敗も許さずに手討ちにすることも少なくなかったため、「'''人斬り兵部'''」とも称されたという。また、家臣に気安く声をかけることもほとんどなかったという(元来、寡黙な性格ではある)。しかし、政治的手腕は非常に優れていたため、箕輪城主のころは、城下の民衆から慕われていた{{Sfn|なかむら|p=126}}。 * 大身になる前のころ、直政がどうしてもとねだるので家康が数ある愛馬の中から、特に栗毛の名馬を直政に与えた。これを聞いた[[本多重次]]がわざわざ直政のいるところで、「あのような名馬を万千代みたいな子倅にくれてやるとは、殿も目が暗くなったのではないか」といった意味のことを放言した。年が下って家康が関東に移ると直政は家中一の大身となったのに対し、豊臣秀吉の怒りにふれた重次は家康から3,000石しか与えられず、上総国古井戸(小糸)(現在の千葉県君津市)にて蟄居を命じられた。そして、大身になった直政は重次と顔を合わせたとき、「昔、殿が名馬を下さったときに子倅だの何だのと馬鹿になされましたが、このような大身になれたのは、名馬に違わぬ働きをしたからでございます。目が暗かったのは本多殿の方でありましたな」と言い放った(『井伊年譜』{{Sfn|なかむら|p=122}})。 * 毛利家の重臣である[[小早川隆景]]は直政の武勇・政治的手腕に関して「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と評価したことがある。これは直政がその気になれば、天下を取ることもできるということを意味している。また、隆景だけでなく、地方の武将たちも同じようなことを噂していた(『[[名将言行録]]』{{信頼性要検証|date=2011年8月}})。 * 関ヶ原の戦いが終結し、西軍に与した[[立花宗茂]]征討軍議が佐和山落城後に行われたときに、[[鍋島勝茂]]から直政の作法や容儀や勢いが言葉にも述べられないほど見事であったと賛辞を呈され「天下無双、英雄勇士、百世の鑑とすべき武夫なり」と評された(『[[葉隠]]』)。 * 井伊家の家臣の中には直政による厳しい軍律に耐えられなくなり、本多忠勝の下に去る者たちが多かったという。[[近藤秀用]]や[[庵原朝昌]]などのように出奔してしまった例もある。筆頭家老である[[木俣守勝]]ですら、直政の下にいるのが怖くなり、家康に旗本に戻してくれるように頼んだ。だが、家康は自分を支える軍団育成を直政に期待し(直政に武田氏の旧臣が付けられた背景でもある)、そのために初期の井伊家の重臣の人事や軍の編成には家康の意向が直接介入し、直政は家康の許可なく家中の人事が行えないなど主君としての権限は制約され、重臣たちは家康の許可なく勝手に直政の下を離れられなかったとされている{{Efn|近藤秀用は出奔後、家康からは10年間許されず、その旗本復帰も徳川秀忠や[[池田輝政]]のとりなしによる。}}{{refnest|{{Cite journal|和書|author=小宮山敏和|title=井伊直政家臣団の形成と徳川家中での地位|journal=学習院史学|issue=40号|year=2002}}/所収:{{Cite book|和書|author=小宮山敏和|title=譜代大名の創出と幕藩体制|publisher=吉川弘文館|year=2015|isbn=978-4-642-03468-5}}<ref group="注釈">なお、小宮山は別の論文で榊原氏庶流の出身であった榊原康政にも類似性を見出している。</ref>}}。 * 生涯に参加した57回の戦で軽装備であったにもかかわらず、一度も傷を負わなかった本多忠勝に対して、直政は重装備であったが、戦で常に傷を負っていたという。直政と忠勝はたびたび比較の対象となることがあり、2人はお互いにライバル同士であまり仲がよくなかったとされる(記述によっては忠勝だけが直政をライバル視していたとされることもある)。忠勝と同年齢の榊原康政とは、最初はあまり仲がよくなかったとされるが、家康が関東に入国してから共に行動をすることが多くなり、だんだんと仲がよくなっていったとされている。家康の筆頭家老である酒井忠次も家康と同じように直政に対して温かい目で見守っていた。ちなみに忠次は直政がまだ一軍の将になったばかりのころに康政がそのことを妬んだために叱ったことがある(『武功実録』{{信頼性要検証|date=2011年8月}})。 * 榊原康政は「[[大御所 (江戸時代)|大御所]](家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」と語り、常々「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政が先立てば、自分の死も遠くない」と語り、直政が従軍するとあれば、康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政は安堵したという(『[[武備神木抄]]』、『名将言行録』)。 * 他人を評価することが少ない家康が秀忠の夫人である[[崇源院|お江]]に宛てた戒めの手紙の中で、「井伊直政という男は日頃は冷静沈着で口数が少なく何事も人に言わせて黙って聞いているが、局面では的確に意見を述べる。特に自分が考え違いをしているときは余人がいない所で物柔らかに意見をしてくれる。ゆえに何事もまず彼に相談するようになった」と高く評価している(『[[庭訓状]]』{{信頼性要検証|date=2015年9月}})。 * 正室である唐梅院に対しては恐妻家で、誰よりも負けず嫌いであった直政も彼女だけには頭があがらなかったという。唐梅院は自身の侍女が直政の子(直孝)を孕んだと知ると彼女をその父・印具徳右衛門の元に帰してしまった。印具が[[松平康重]]の家臣であったため、関東移封のときにその城地・[[騎西藩|私市]](騎西)へと移る途上の藤枝宿で直孝は生まれた。その後、直孝は母の元で育った。直孝が6歳になると、母は[[箕輪城]]の直政の外出のときを待って彼を引き渡したが、直政はすぐに箕輪のとある庄屋に直孝を預けおき養育を託した。12歳でやっと直孝は秘密裏に直政に召し寄せられ、直政所用の采配を授けられたが、翌年に直政は他界した<ref>『藩翰譜 第一巻』466頁</ref>。 * 生前の直政の働きは、家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者であると江戸幕府編修の系譜集(『徳川実紀』『[[寛政重修諸家譜]]』)に記録されている。 == 井伊の赤備え == 天正10年([[1582年]])の[[後北条氏]]との講和によって、[[武田氏]]の旧臣達約120人と家康の[[旗本]]の一部が配属されたことから始まる<ref name=hikae/>。このとき、家康により直政は兜や鎧をはじめとする戦で、使用する全ての装備品を赤色で統一させた。これはかつて[[赤備え|武田の赤備え]]の将であった[[山県昌景]]の意志を継ぐという意味もあったが、ほかにも赤色だと目立ちやすく戦の最中にどこに自分の部下達がいるのかが一目で分かるという意味もあった。以後、[[井伊氏]]の軍装は幕末まで赤備えを基本とされた。 == 子孫 == 家督は[[長男]]の[[井伊直勝|井伊直継(のちの直勝)]]は1604年(慶長9年)に同国彦根に築城した。この築城は幕府が諸大名に御手伝普請を命じたものであった。直勝は1615年(元和元年)幕命により弟の直孝に藩主の座を譲った。直孝の代に30万石の譜代大名となる。一方、直継は安中藩3万石の藩主となった。弟の井伊直孝が直政の家督を継ぐこととなり、以降は直孝の子孫が[[彦根藩]]主を継承することとなる(井伊掃部頭家)。直勝と改名した直継の子孫(井伊兵部少輔家)は安中藩主→三河[[西尾藩]]主→遠江[[掛川藩]]主→越後[[与板藩]]主として存続した。 == 家臣 == * [[小野朝之]] * [[川手良則]] * [[木俣守勝]] * [[近藤康用]] * [[近藤秀用]] * [[西郷正友]] * [[菅沼忠久]] * [[鈴木重好]] * [[中野直之]] * [[奥山朝忠]] * [[土屋忠直]]の幼少時、配下の兵が預けられた * [[海老江里勝]] == 登場作品 == ; 小説 * [[川村真二]]『徳川四天王 家康に天下を取らせた男たち』([[PHP研究所]]、2014年) ; ゲーム * [[信長の野望シリーズ]](コーエーテクモゲームス) * [[戦国無双シリーズ]](コーエーテクモゲームス、声:[[小西克幸]] ) * [[戦国IXA]]([[ヤフージャパン|ヤフー]]・[[スクウェア・エニックス]]) * [[戦国コレクション]]([[コナミ]]) * [[戦国大戦]]([[セガ]]、声:[[櫻井孝宏]]、[[野宮一範]]、[[菅沼久義]]) ; テレビドラマ * [[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]](TBS、1981年、演:[[井上孝雄]]) * [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]([[NHK大河ドラマ]]、1983年、演:[[豊原功補]]→[[平泉成]]) * [[徳川家康 (1988年のテレビドラマ)|徳川家康]]([[TBS大型時代劇スペシャル]]、1988年、演:[[高岡健二]]) * [[葵 徳川三代]](NHK大河ドラマ、2000年、演:[[勝野洋]]) * [[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]](NHK大河ドラマ、2006年、演:[[篠井英介]]) * [[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]](NHK大河ドラマ、2009年、演:[[長森雅人]]) * [[軍師官兵衛]](NHK大河ドラマ、2014年、演:[[東幹久]]) * [[おんな城主 直虎]](NHK大河ドラマ、2017年、演:[[鈴木楽]]→[[寺田心]]→[[菅田将暉]]) * [[家康、江戸を建てる]](NHK、2019年、演:[[今井朋彦]]) * [[どうする家康]](NHK大河ドラマ、2023年、演:[[板垣李光人]]) ; 映画 * [[関ヶ原 (映画)|関ヶ原]](2017年、演:[[北村有起哉]]) ; 舞台 * GO!GO!BREEZE!(Steel Punk、2018年、演:[[Sö-TA]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 内藤耻叟 校訂 『徳川実紀』 徳川実紀出版事務、1897年([[国会図書館]]東京本館蔵、請求記号:YDM1958) * {{Citation |和書 |editor=三上参次 |editor-link=三上参次 |title=寛政重修諸家譜 第4集 |year=1923 |date= |publisher=国民図書 |pages=1112-1117 |ref={{SfnRef|『寛政重修諸家譜 第4集』}}}}{{オープンアクセス}}[{{NDLDC|1082713}} 国立国会図書館デジタルコレクション] * {{Cite book|和書|author1=中村元麻呂|author2=中村不能斎|title=井伊直政・直孝|publisher=彦根史談会|year=1951}} * {{Citation|和書|editor=徳沢邦雄|title=群書類従|publisher=続群書類従完成会|year=1960|month=5}}(国会図書館蔵、G95-H(t)) * {{Cite book|和書|author=新井白石|title=新編 藩翰譜|volume=第一巻|publisher=人物往来社|year=1967}} * {{Cite book|和書|author=井伊達夫|title=井伊軍志|publisher=彦根藩史料研究普及会|year=1988|month=6}} * {{Cite book|和書|author=井伊達夫|title=井伊家歴代甲冑と創業軍史|publisher=宮帯出版社|year=1997|month=8}} * {{Cite book|和書|author=井伊達夫|title=剣と鎧と歴史と|publisher=京都戦陣武具資料館|year=1999}} * {{Cite book|和書|author=井伊達夫|title=赤備え|publisher=宮帯出版社|year=2007|month=5}} * {{Cite book|和書|author=井伊達夫|title=井伊軍志|edition=新装版|publisher=宮帯出版社|year=2007|month=6}} * 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1561年
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1561年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1561}} {{year-definition|1561}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[永禄]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2221年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]40年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]16年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3894年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[光宝]]8年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正治 (黎朝)|正治]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2103年 - 2104年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 968年 - 969年 * [[ユダヤ暦]] : 5321年 - 5322年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1561|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[4月14日]] - [[1561年のニュルンベルク上空の天文現象]] * [[8月20日]] - [[スコットランド]]女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー(ステュアート)]]が[[フランス]]から帰国。 * [[スペイン]]の[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が[[トレド]]から[[マドリード]]に宮廷を移し、マドリードが首都として確定。 === 日本 === * [[4月30日]](永禄4年[[閏月|閏]][[3月16日 (旧暦)|3月16日]]) - [[上杉謙信|長尾景虎]]が[[鶴岡八幡宮]]で[[上杉憲政]]から[[上杉氏|上杉姓]]と[[関東管領]]を相続し、名を上杉政虎と改名する。 * [[5月25日]](永禄4年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]])頃 - [[徳川家康|松平元康]]が[[三河国]][[牛久保城]]を攻撃して、[[今川氏真]]からの自立を明らかにする。 * [[川中島の戦い]](4回目) == 誕生 == {{see also|Category:1561年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月22日]] - [[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]<ref>{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p12827.htm#i128270|title= Francis Bacon, 1st and last Viscount Saint Alban1 |accessdate= 2021-04-28 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>、[[神学者]]・[[哲学者]](+ [[1626年]]) * [[2月8日]](永禄4年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]])- [[藤原惺窩]]{{要出典|date=2021-03}}、[[儒学者]](+ [[1619年]]) * [[3月4日]](永禄4年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[井伊直政]]、[[徳川家康]]の家臣、'''[[徳川四天王]]'''の1人。[[近江国]][[彦根藩]]の初代藩主(+[[1602年]]) * [[12月7日]](永禄4年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[吉川広家]]、[[安土桃山時代]]の[[武将]]、[[毛利氏]]の一族(+[[1625年]]) * [[福島正則]]、[[武将]](+ [[1624年]]) == 死去 == {{see also|Category:1561年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]]([[永禄]]3年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[穴山信友]]、甲斐河内領主、穴山氏当主(* [[1506年]]?) * [[1月9日]](永禄3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[尼子晴久]]、出雲の[[戦国大名]]・[[守護大名]](* [[1514年]]) * [[6月23日]](永禄4年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[斎藤義龍]]、美濃の戦国大名、稲葉山城主(* [[1527年]]) * [[10月18日]](永禄4年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[山本勘助]]、[[武将]](* [[1493年]]?) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--'''注釈''' {{Reflist|group="注"}}--> '''出典''' {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1561}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1561ねん}} [[Category:1561年|*]]
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ジンギスカン (料理)
ジンギスカン(成吉思汗)は、主にマトン(成羊肉)やラム(仔羊肉)などの羊肉を用いた日本の焼肉料理(広義には鹿肉や豚肉などを用いたジンギスカンもあり、それらを「鹿ジンギスカン」「豚ジンギスカン」等と呼称することがある)。鍋料理に分類されることもあるが調理方法は鉄板料理の調理方法である。 一般的には北海道を代表する郷土料理とされる他、岩手県遠野市、山形県の蔵王温泉付近をはじめとする村山地方、長野県など一部地域でも盛んに食される。発祥は東京・高円寺の店という説もあり、現在では各地にジンギスカン料理を出す飲食店や、家庭調理用の肉・タレを販売する小売店がある。 中央部が凸型になっているジンギスカン鍋を熱して羊肉の薄切りと野菜を焼き、羊肉から出る肉汁を用いて野菜を調理しながら食す。北海道の地方によっては、中央が凹型のジンギスカン鍋(円板状)を使用する場合もある。 使用する肉には、調味液漬け込み肉の「味付け肉」、冷蔵(チルド)肉の「生肉」、冷凍肉の「ロール肉」があり、一般的に「生」とは1度も冷凍されていない肉を示し、調味液に漬けたかどうかは問わない。国産の生ラムなどは、近年高級肉として扱われる場合もある。 起源については、俗説で「かつてモンゴル帝国を率いたジンギスカン(チンギス・カン)が遠征の陣中で兵士のために作らせた」と説明される場合もあるが、実際にはモンゴルの料理とはかけ離れている。また羊肉を用いる中国料理としては清真料理の烤羊肉(こうようにく、kǎoyángròu)という羊肉料理があるが、これも日本で食べられているジンギスカンとは程遠い。ジンギスカン料理の起源自体は中国大陸にあると言われ、日本陸軍の旧満州(現中国東北部)への進出などを機に、前述の烤羊肉から着想を得たものが日本人向けにアレンジされ、現在のような形式となったものとみられる。 料理の命名には諸説あり、源義経が北海道を経由してモンゴルに渡ってジンギスカンとなったという都市伝説(義経=ジンギスカン説)から想起したものであるとも言われている。命名した人物として、東北帝国大学農科大学(北海道大学の前身)出身で、1932年の満州国建国に深くかかわった駒井徳三が、1912年(大正元年)から9年間の南満州鉄道社員時代に命名したものであるとする説がある。この説は全日本司厨士協会北海道本部相談役の日吉良一が北海道開拓経営課の塩谷正作の談話(冗談)を元に『L'art Culinaire Moderne』に1961年に投稿した「蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親」や、駒井徳三の娘の満洲野(ますの)が1963年(昭和38年)に発表したエッセイ「父とジンギスカン鍋」が根拠となっているが、いずれも後の伝聞によっている。なお、偉大な英雄であるチンギス・カンの名を料理名に使うことに対し、モンゴル人の中には嫌悪感を覚える人もいる。 日本では明治時代から北海道で肉用を含めた綿羊の飼育が行われており、1918年(大正7年)に軍隊、警察、鉄道員用制服の素材となる羊毛自給を目指す「緬羊百万頭計画」が立案され、滝川や札幌の月寒など全国5カ所に種羊場が開設された。このため北海道は1924年(大正14年)の時点で全国の42.7%が飼育される最大の飼育地となっていた。計画の早期実現のために羊毛のみならず羊肉をも消費させることで、農家の収入増加と、飼育頭数増加が企図され、その流れの中からジンギスカンが出現したものと考えられている。しかし、当時の日本人には羊肉を食べる習慣がほとんどなく、日本で受け入れられる羊肉料理を開発する必要に迫られ、農商務省は東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)に料理研究を委託している。 それらを裏付けるものとして、北海道の空知郡北村(現・岩見沢市北村)で1920年(大正9年)に北海道初の羊食会が北村飼羊組合員の間で実施されていた事、その後1924年(大正13年)に北村緬羊組合によって『羊肉料理法』のパンフレットが発行されていた事、その中に記載された「羊肉の網焼」のレシピが後の1928年(昭和2年)に糧友會の『羊肉料理講習会』で紹介される「鍋羊肉(成吉思汗鍋)」のレシピと類似していた事などが記録されている。 「成吉斯汗鍋」(じんぎすかんなべ)という言葉が初めて掲載されたのは1926年(大正15年)の『素人に出来る支那料理』で、支那(中国)在住の日本人が命名したもので「本当の名前は羊烤肉と云う回々料理」とあり、当時のものは屋外で箱火鉢や鍋に薪の火をおこし、上に金網や鉄の棒を渡して羊肉をあぶり、現地の醤油をつけて食べた「原始的な料理」としている。この説明通りであれば、当初、「鍋」は食品を加熱するためではなく、火鉢代わりに使われたことになる。1931年に満田百二が雑誌『糧友』に書いた「羊肉料理」という記事でも、羊肉網焼の別名の「成吉斯汗鍋」は、本名式には烤羊肉というと書かれていて、鍋料理ではなかったことがわかる。 かつて宮内庁下総御料牧場があり、皇室などに羊肉を出荷していた千葉県成田市三里塚が発祥地とする説もある。他にも、山形県蔵王温泉や岩手県遠野市等がそれぞれ、上記の東京や北海道のものとは発祥を異にする、独自のものとしてのジンギスカン鍋の起源を主張している。長野県長野市信州新町での普及は、綿羊の飼育が1930年(昭和5年)に始まった後の1937年(昭和11年)に開催された「料理講習会」から始まる。羊の臭みを減らして食べやすくするために、地元名産の信州リンゴを使用した特別なタレに羊肉を漬け込む。 ジンギスカン鍋が一般にまで普及したのは、第二次世界大戦後のことと言われている。最初のジンギスカン専門店は、1936年(昭和11年)に東京都杉並区に開かれた「成吉思(じんぎす)荘」とされる。北海道での営業としての最初の店は、1946年に札幌にできた精養軒である。 2004年10月22日には北海道遺産の一つに、2007年12月18日には農林水産省の主催で選定された農山漁村の郷土料理百選で北海道の郷土料理の一つに選出されている。2005年頃から2006年頃にはBSE問題による牛肉離れの影響に加え、牛肉と比べ脂肪分が少ないイメージからジンギスカンはブームとなった。しかし、ブームが下火となった2010年頃にはオーストラリアやニュージーランドからの羊肉の輸入も大きく減少し、牛肉や豚肉の価格が下がった。羊肉は相対的に割高になり、特に国産の羊肉を使ったものは高価となったことから、北海道でもジンギスカン離れが指摘されるようになった。また2020年代には中国など他国での需要増加による更なる羊肉価格の高騰や後継者不足もあり経営環境の悪化も指摘されている。 一方、中国の北京には1686年に開業した烤肉苑飯荘や1848年に開業した烤肉季飯荘などが、薄切りの羊肉と野菜を鉄鍋で焼いて作る、現在のジンギスカンに類似した満族料理、清真料理の「烤羊肉」を提供している。後にこの方式が日本に取り入れられるようになったのか、偶然似たのかは定かでない。 調理には専用の鍋であるジンギスカン鍋が用いられる。この鍋は、南部鉄器など、主に鋳鉄製で、中央部分が兜のように盛り上がった独特の形状をしており、その表面には溝が刻まれている。 これは盛り上がった中央部で羊肉を、低くなった外周部で野菜を焼くことによって、羊肉から染み出した肉汁が溝に沿って下へと滴り落ちて野菜の味付けとなることを意図した設計である。羊肉の臭いがある脂を熱して外周に流すことで焼いた肉を食べやすくする仕組みになっている。 1950年代当時は北海道でもジンギスカン料理そのものが一般に普及しておらず、精肉店がジンギスカン鍋を貸し出すなども行っていた。その後、北海道の花見や運動会、海水浴などで現在の形のジンギスカンパーティーが広まっていった(「ジンパ」と略称されることもある)。家庭やレジャーなどの場では必ずしもジンギスカン鍋が用いられるわけではなく、鉄板や焼き網、フライパン、ホットプレートなどで代用されることも多い。 専用鍋には主に2種類がある。鉄・アルミ製で穴なしのものと、スリット状に穴が開けられているものである。穴なしのものは、味付け肉でもたれが落ちない構造であり、穴あきのものは、主に七輪・炭火焼きで行われる生肉用で余分な脂を落とす役割を持っている。近年のジンギスカンブームにより、店舗オリジナルの鍋など様々なものが製造されている。 「専用鍋は鍋が焦げ付きやすく使用後に洗うのが面倒」「数を揃えやすく片付けも簡単」などの理由から、北海道では屋外での「ジンギスカンパーティー」等の場合を中心に、アルミ製の穴なし簡易鍋を使い捨てすることも多い。道内ではホームセンター等で、100円-500円程度の安価で販売されている。 北海道岩見沢市で2015年、過去に使われた各種の専用鍋を溝口雅明北星学園大学短期大学部教授が集めた「ジン鍋博物館」が仮オープン。私設博物館の形態で2016年11月には正式に開館した。 岩手県遠野市では、ジンギスカン鍋に専用の焼き台ジンギスカンバケツを用いて調理される。東北地方のジンギスカンの定番品である。メディアでの紹介もあり、現在は北海道でもアルミ製で鍋付きのものが販売されるようになった。 北海道苫小牧市で開催される、とまこまいスケートまつりでは、ドラム缶を焼き台にしたジンギスカン「しばれ焼き」が名物となっている。 前述のように、ジンギスカン鍋を用いる場合は凸状に盛り上がった中央部分で肉を焼き、低くなった外周部で野菜を焼く。 観光名所となっている店舗では、調理の際の油跳ね防止用のビニールもしくは紙製の専用エプロンが支給され、それを着用して食するのが一般的である。 ジンギスカンは、事前にタレ(調味液)に漬け込んだ「味付け」と、味付けではない肉を焼いてからタレにつける「後付け」に大別される。ラム肉は味付け、後付けの両方で好まれる。一般的な味付けジンギスカンは、肉をスライスし、タレに漬け込み、それを冷凍保存して販売される。また、味付けに使うたれも様々な調味料を組み合わせることで多種のものが作られている。 後付けジンギスカンには、輸送・保管時に一度も冷凍されていない「冷蔵(チルド)品」とラム肉を丸めて冷凍した「ロール肉」がある。区別するため、チルド品(1度も冷凍されていないもの)を「生ラム肉」「生マトン肉」と呼ぶ。ロール肉は、通常はマトン肉は扱われず、通常厚さ1.5-2ミリメートルほどにスライスされて販売されるため「ラムスライス肉」と呼ばれる。 ジンギスカン専門店や一部の焼肉店では生肉、ビール園では生肉と冷凍ロール肉の両方が使用され、客が選択する。なお、冷凍された肉を解凍すると繊維が壊れるため風味が落ちると言われる。 現在では様々なメーカーで製造されるほか、個人精肉店や焼肉店などでも独自に製造・提供される。調味液には、醤油ベースが主で、他に味噌ベース・塩ベースなどがある。様々な香味野菜・果物を扱って製造され、それに肉が漬け込まれる。 使用する肉は、ラム肉・マトン肉のどちらでも使用される。特にマトン肉は、強い匂いがあるが味にコクがあるため、臭み消しの方法として利用される。 また、一般家庭でも、市販のジンギスカンのタレを用いて肉を漬け込み、味付けジンギスカンとしても食される。 利点として冷凍販売の場合、タレが肉にしみて焼く時に硬くなりにくい点がある。 羊肉の臭みを抑えて、食味を向上させる技術は、明治時代から色々試みられており、牛鍋などと同様に味噌を使うことは大正時代までに知られていたが、改良が進んだのは昭和時代からである。 現在のタレは味付け、生ともに醤油ベースと味噌ベースのものがあり、主流は醤油ベースである。タレには醤油、味噌、砂糖、リンゴ果汁、ショウガ、ニンニク、ごま油などが配合される。 市販されるジンギスカンの付けダレも焼肉のたれと同様に多種多様存在する。北海道ではベル食品とソラチの醤油ベースの製品が代表的である。また、青森県のタレメーカー上北農産加工農業協同組合が当初ジンギスカンのタレとして開発した「スタミナ源たれ」は、醤油、野菜、リンゴ、ニンニクを材料としており、現在は焼肉・野菜炒めなど多用途に使用されている。 地域によって、使用する肉の種類や事前に味付けをするか否かなど、習慣、好みが分かれる。 北海道では、旭川市などの上川地域や滝川市などの空知地方といった道央内陸部では「味付け」、札幌市のほか小樽市や室蘭市などの道央海岸部、函館市を中心とした道南海岸部、釧路市などの道東海岸部では「生肉」が主流だった。この二つの食文化の境目にあたるのが、滝川市と札幌市の中間付近に位置する岩見沢市と考えられており、昭和50年代に同市で営業していた温泉宿の名前が刻印された、二つの食べ方を同時に行える「仕切り付きジンギスカン鍋」が発見されている。北見市は北海道としては例外的にジンギスカンよりも一般的な焼肉店が多く、市も焼肉の街としてPRするほどで、ジンギスカンは一般的ではない。 道内の観光地には、ジンギスカン料理を売りにしている所が多くある。多くの観光地で今も「ジンギスカン」の旗を立てているが郷土料理としての取り扱いであり地場産肉を売るということではない。しかし逆に地場生産を売りにする地域もあり、士別市や滝川市など道内各地でサフォーク種などの羊を飼養して地元に食肉提供している。 観光名所となっている各ビール園の主流も生ラムジンギスカンである。 名寄市ではジンギスカンを煮込むこともある。(煮込みジンギスカン) ただし、近年では双方の地域でどちらの食べ方も浸透が進んでおり、違和感なく受け入れられている。本州では地域別に分類することは難しい。関東地方では「生肉」が好まれる。地方には独自のブランドをもった味付けジンギスカンのメーカーが存在する。 北海道の他にも、局地的に常食されている地域が多数ある(後述の一覧を参照)。また、千葉県富津市のマザー牧場や栃木県那須塩原市の千本松牧場、兵庫県神戸市の六甲山ホテルなどでは、創業以来ジンギスカンが名物メニューとなっている。 これらの地域では、花見をはじめとした宴会や集会の打ち上げなどで食べられることが多い。また、「ジンギスカンパーティー」略して「ジンパ」の語句も生まれ、森崎博之出演のマツオの企業CMのキャッチコピーでも使用された。 2006年頃には全国的なジンギスカンブームがあり、関東地方などにも急速に広まった。これはBSE問題(狂牛病)が注目され牛肉の需要が減少し、羊肉に多く含まれる「L(エル)-カルニチン」という物質が注目されるなど、健康需要がその要因と言われている。2000年代後半になると外食でのジンギスカン専門店は減少したが、スーパーなどの小売店での羊肉の扱いは安定するようになった。北海道のジンギスカン店では羊肉しか提供していない場合が多いが、東京や、ブーム後の後発地域などのジンギスカン店ではたいてい、羊肉を食べなれない客のために牛肉なども提供していることが多い。そのほか店によるが豚、鶏、鴨、猪、畜肉加工品、海鮮物なども出される。近年では、北海道のビール園などでも、本州からの観光客を多く受け入れるために羊肉以外の牛肉・豚肉・鶏肉や海鮮物を提供する店が増えている。ただし「ジンギスカン専門店」を称する場合は、ほぼ羊肉のみである。 長野県では、国道19号の一部を「信州新町ジンギスカン街道」と呼んでいる。多くのジンギスカン料理店が並び、伝統的な漬け込んだ調味法の他にオリジナルな味付けの店など多様である。1982年(昭和57年)より、味の優れた「サフォーク種」も飼育されるようになった。 高知では、第二次世界大戦の終戦直後の時期に羊毛を刈るための羊を食肉にも用いることが推奨されていた時期があり、ジンギスカンの店が何軒も開店した時期もあったものの、一時的な流行に留まった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ジンギスカン(成吉思汗)は、主にマトン(成羊肉)やラム(仔羊肉)などの羊肉を用いた日本の焼肉料理(広義には鹿肉や豚肉などを用いたジンギスカンもあり、それらを「鹿ジンギスカン」「豚ジンギスカン」等と呼称することがある)。鍋料理に分類されることもあるが調理方法は鉄板料理の調理方法である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般的には北海道を代表する郷土料理とされる他、岩手県遠野市、山形県の蔵王温泉付近をはじめとする村山地方、長野県など一部地域でも盛んに食される。発祥は東京・高円寺の店という説もあり、現在では各地にジンギスカン料理を出す飲食店や、家庭調理用の肉・タレを販売する小売店がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "中央部が凸型になっているジンギスカン鍋を熱して羊肉の薄切りと野菜を焼き、羊肉から出る肉汁を用いて野菜を調理しながら食す。北海道の地方によっては、中央が凹型のジンギスカン鍋(円板状)を使用する場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "使用する肉には、調味液漬け込み肉の「味付け肉」、冷蔵(チルド)肉の「生肉」、冷凍肉の「ロール肉」があり、一般的に「生」とは1度も冷凍されていない肉を示し、調味液に漬けたかどうかは問わない。国産の生ラムなどは、近年高級肉として扱われる場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "起源については、俗説で「かつてモンゴル帝国を率いたジンギスカン(チンギス・カン)が遠征の陣中で兵士のために作らせた」と説明される場合もあるが、実際にはモンゴルの料理とはかけ離れている。また羊肉を用いる中国料理としては清真料理の烤羊肉(こうようにく、kǎoyángròu)という羊肉料理があるが、これも日本で食べられているジンギスカンとは程遠い。ジンギスカン料理の起源自体は中国大陸にあると言われ、日本陸軍の旧満州(現中国東北部)への進出などを機に、前述の烤羊肉から着想を得たものが日本人向けにアレンジされ、現在のような形式となったものとみられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "料理の命名には諸説あり、源義経が北海道を経由してモンゴルに渡ってジンギスカンとなったという都市伝説(義経=ジンギスカン説)から想起したものであるとも言われている。命名した人物として、東北帝国大学農科大学(北海道大学の前身)出身で、1932年の満州国建国に深くかかわった駒井徳三が、1912年(大正元年)から9年間の南満州鉄道社員時代に命名したものであるとする説がある。この説は全日本司厨士協会北海道本部相談役の日吉良一が北海道開拓経営課の塩谷正作の談話(冗談)を元に『L'art Culinaire Moderne』に1961年に投稿した「蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親」や、駒井徳三の娘の満洲野(ますの)が1963年(昭和38年)に発表したエッセイ「父とジンギスカン鍋」が根拠となっているが、いずれも後の伝聞によっている。なお、偉大な英雄であるチンギス・カンの名を料理名に使うことに対し、モンゴル人の中には嫌悪感を覚える人もいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": 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"title": "使用肉とたれ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "利点として冷凍販売の場合、タレが肉にしみて焼く時に硬くなりにくい点がある。", "title": "使用肉とたれ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "羊肉の臭みを抑えて、食味を向上させる技術は、明治時代から色々試みられており、牛鍋などと同様に味噌を使うことは大正時代までに知られていたが、改良が進んだのは昭和時代からである。", "title": "使用肉とたれ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "現在のタレは味付け、生ともに醤油ベースと味噌ベースのものがあり、主流は醤油ベースである。タレには醤油、味噌、砂糖、リンゴ果汁、ショウガ、ニンニク、ごま油などが配合される。", "title": "使用肉とたれ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "市販されるジンギスカンの付けダレも焼肉のたれと同様に多種多様存在する。北海道ではベル食品とソラチの醤油ベースの製品が代表的である。また、青森県のタレメーカー上北農産加工農業協同組合が当初ジンギスカンのタレとして開発した「スタミナ源たれ」は、醤油、野菜、リンゴ、ニンニクを材料としており、現在は焼肉・野菜炒めなど多用途に使用されている。", "title": "使用肉とたれ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "地域によって、使用する肉の種類や事前に味付けをするか否かなど、習慣、好みが分かれる。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "北海道では、旭川市などの上川地域や滝川市などの空知地方といった道央内陸部では「味付け」、札幌市のほか小樽市や室蘭市などの道央海岸部、函館市を中心とした道南海岸部、釧路市などの道東海岸部では「生肉」が主流だった。この二つの食文化の境目にあたるのが、滝川市と札幌市の中間付近に位置する岩見沢市と考えられており、昭和50年代に同市で営業していた温泉宿の名前が刻印された、二つの食べ方を同時に行える「仕切り付きジンギスカン鍋」が発見されている。北見市は北海道としては例外的にジンギスカンよりも一般的な焼肉店が多く、市も焼肉の街としてPRするほどで、ジンギスカンは一般的ではない。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "道内の観光地には、ジンギスカン料理を売りにしている所が多くある。多くの観光地で今も「ジンギスカン」の旗を立てているが郷土料理としての取り扱いであり地場産肉を売るということではない。しかし逆に地場生産を売りにする地域もあり、士別市や滝川市など道内各地でサフォーク種などの羊を飼養して地元に食肉提供している。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "観光名所となっている各ビール園の主流も生ラムジンギスカンである。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "名寄市ではジンギスカンを煮込むこともある。(煮込みジンギスカン)", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ただし、近年では双方の地域でどちらの食べ方も浸透が進んでおり、違和感なく受け入れられている。本州では地域別に分類することは難しい。関東地方では「生肉」が好まれる。地方には独自のブランドをもった味付けジンギスカンのメーカーが存在する。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "北海道の他にも、局地的に常食されている地域が多数ある(後述の一覧を参照)。また、千葉県富津市のマザー牧場や栃木県那須塩原市の千本松牧場、兵庫県神戸市の六甲山ホテルなどでは、創業以来ジンギスカンが名物メニューとなっている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "これらの地域では、花見をはじめとした宴会や集会の打ち上げなどで食べられることが多い。また、「ジンギスカンパーティー」略して「ジンパ」の語句も生まれ、森崎博之出演のマツオの企業CMのキャッチコピーでも使用された。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2006年頃には全国的なジンギスカンブームがあり、関東地方などにも急速に広まった。これはBSE問題(狂牛病)が注目され牛肉の需要が減少し、羊肉に多く含まれる「L(エル)-カルニチン」という物質が注目されるなど、健康需要がその要因と言われている。2000年代後半になると外食でのジンギスカン専門店は減少したが、スーパーなどの小売店での羊肉の扱いは安定するようになった。北海道のジンギスカン店では羊肉しか提供していない場合が多いが、東京や、ブーム後の後発地域などのジンギスカン店ではたいてい、羊肉を食べなれない客のために牛肉なども提供していることが多い。そのほか店によるが豚、鶏、鴨、猪、畜肉加工品、海鮮物なども出される。近年では、北海道のビール園などでも、本州からの観光客を多く受け入れるために羊肉以外の牛肉・豚肉・鶏肉や海鮮物を提供する店が増えている。ただし「ジンギスカン専門店」を称する場合は、ほぼ羊肉のみである。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "長野県では、国道19号の一部を「信州新町ジンギスカン街道」と呼んでいる。多くのジンギスカン料理店が並び、伝統的な漬け込んだ調味法の他にオリジナルな味付けの店など多様である。1982年(昭和57年)より、味の優れた「サフォーク種」も飼育されるようになった。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "高知では、第二次世界大戦の終戦直後の時期に羊毛を刈るための羊を食肉にも用いることが推奨されていた時期があり、ジンギスカンの店が何軒も開店した時期もあったものの、一時的な流行に留まった。", "title": "地域" } ]
ジンギスカン(成吉思汗)は、主にマトン(成羊肉)やラム(仔羊肉)などの羊肉を用いた日本の焼肉料理(広義には鹿肉や豚肉などを用いたジンギスカンもあり、それらを「鹿ジンギスカン」「豚ジンギスカン」等と呼称することがある)。鍋料理に分類されることもあるが調理方法は鉄板料理の調理方法である。 一般的には北海道を代表する郷土料理とされる他、岩手県遠野市、山形県の蔵王温泉付近をはじめとする村山地方、長野県など一部地域でも盛んに食される。発祥は東京・高円寺の店という説もあり、現在では各地にジンギスカン料理を出す飲食店や、家庭調理用の肉・タレを販売する小売店がある。 中央部が凸型になっているジンギスカン鍋を熱して羊肉の薄切りと野菜を焼き、羊肉から出る肉汁を用いて野菜を調理しながら食す。北海道の地方によっては、中央が凹型のジンギスカン鍋(円板状)を使用する場合もある。 使用する肉には、調味液漬け込み肉の「味付け肉」、冷蔵(チルド)肉の「生肉」、冷凍肉の「ロール肉」があり、一般的に「生」とは1度も冷凍されていない肉を示し、調味液に漬けたかどうかは問わない。国産の生ラムなどは、近年高級肉として扱われる場合もある。
{{未検証|date=2020年9月}} {{画像提供依頼|完成後のジンギスカン|date=2022年5月|cat=料理}} [[ファイル:zingisukannama.jpg|thumb|300px|加熱前のジンギスカン。野菜の上に羊肉を置くこともある。]] [[ファイル:zingusukanyake.jpg|thumb|300px|調理中のジンギスカン]] '''ジンギスカン'''(成吉思汗)は、主に[[マトン]](成羊肉)や[[ラム (子羊)|ラム]](仔羊肉)などの[[羊肉]]を用いた[[日本]]の[[焼肉]]料理(広義には[[鹿肉]]や[[豚肉]]などを用いたジンギスカンもあり、それらを「鹿ジンギスカン」「豚ジンギスカン」等と呼称することがある)。[[鍋料理]]に分類されることもあるが調理方法は[[鉄板焼き|鉄板料理]]の調理方法である。 一般的には[[北海道]]を代表する[[郷土料理]]とされる<ref name="kyoudoryouri100" /><ref name="mainichi20120131" />他、[[岩手県]][[遠野市]]<ref name="oh-sapporo_02" />、[[山形県]]の[[蔵王温泉]]付近をはじめとする[[村山地方]]、[[長野県]]<ref name="yomiuri2013">{{Cite news | title = [夏食探訪]ジンギスカン 音も匂いも 食欲刺激=長野 | newspaper = 『読売新聞』 | location = 東京 | pages = 29 | date = 2013-08-10 | accessdate = 2015-08-29}}</ref><ref name="羽賀朱音">{{Cite web|和書|author=[[羽賀朱音]]([[モーニング娘。|モーニング娘。'20]]) |date=2020-06-25 |url=https://ameblo.jp/mm-12ki/entry-12606839021.html|title=秘密のケンミンSHOW極! |work=モーニング娘。‘20 12期オフィシャルブログ |accessdate=2020-06-26}}</ref>など一部地域でも盛んに食される。発祥は[[東京]]・[[高円寺]]の店という説もあり<ref name="asahi20181001">[https://www.asahi.com/articles/DA3S13704438.html 【ぐるり逸品】ジンギスカン(北海道)屋外でもうめぇ~道産子の文化]『[[朝日新聞]]』夕刊2018年10月1日(4面)2019年1月10日閲覧。</ref>、現在では各地にジンギスカン料理を出す飲食店や、家庭調理用の肉・[[タレ]]を販売する小売店がある。 中央部が凸型になっている'''ジンギスカン鍋'''を熱して羊肉の薄切りと野菜を焼き、羊肉から出る肉汁を用いて野菜を調理しながら食す<ref name="kyoudoryouri100" />。北海道の地方によっては、中央が凹型のジンギスカン鍋(円板状)を使用する場合もある。 使用する肉には、調味液漬け込み肉の「味付け肉」、冷蔵(チルド)肉の「生肉」、冷凍肉の「ロール肉」があり、一般的に「生」とは1度も冷凍されていない肉を示し、調味液に漬けたかどうかは問わない。国産の生ラムなどは、近年高級肉として扱われる場合もある。 == 歴史 == [[ファイル:Barbecued lamb sticks.jpg|thumb|right|300px|ジンギスカンの元になったとされる烤羊肉串]] 起源については、俗説で「かつて[[モンゴル帝国]]を率いたジンギスカン([[チンギス・カン]])が遠征の陣中で兵士のために作らせた」と説明される場合もある<ref name="dic_jingisukanryori">{{Citation |contribution = ジンギスかん‐りょうり【ジンギス汗料理】 |url = https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E6%B1%97%E6%96%99%E7%90%86/ |title = [[大辞泉]]([[goo辞書]]) |publisher = [[小学館]] |accessdate = 2020-09-24 |isbn = 978-4095012124 }}.</ref>が、実際には[[モンゴル料理|モンゴルの料理]]とはかけ離れている<ref name="oh-sapporo_03" />。また羊肉を用いる[[中国料理]]としては[[清真料理]]の{{Lang|zh|烤羊肉}}(こうようにく、{{lang|zh|kǎoyángròu}})という羊肉料理があるが、これも日本で食べられているジンギスカンとは程遠い<ref name="oh-sapporo_03" />。ジンギスカン料理の起源自体は[[中国大陸]]にあると言われ、日本陸軍<!--当時-->の旧[[満州]](現中国東北部)への進出などを機に、前述の{{Lang|zh|烤羊肉}}から着想を得たものが日本人向けにアレンジされ、現在のような形式となったものとみられる<ref name="oh-sapporo_03" />。 料理の命名には諸説あり、[[源義経]]が北海道を経由してモンゴルに渡ってジンギスカンとなったという都市伝説([[義経=ジンギスカン説]])から想起したものであるとも言われている<ref name="oh-sapporo_03" />。命名した人物として、[[東北大学|東北帝国大学]]農科大学([[北海道大学]]の前身)出身で、[[1932年]]の[[満州国]]建国に深くかかわった[[駒井徳三]]が、[[1912年]](大正元年)から9年間の[[南満州鉄道]]社員時代に命名したものであるとする説がある。この説は全日本司厨士協会北海道本部相談役の日吉良一が北海道開拓経営課の塩谷正作の談話(冗談)を元に『L'art Culinaire Moderne』に[[1961年]]に投稿した「蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親」<ref>日吉良一、「蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親」『L'art Culinaire Moderne』昭和36年10月号、1961年、p29、東京、全日本司厨士協会</ref>や、駒井徳三の娘の満洲野(ますの)が[[1963年]]([[昭和]]38年)に発表した[[エッセイ]]「父とジンギスカン鍋」が根拠となっている<ref name="oh-sapporo_03" />が、いずれも後の伝聞によっている。なお、偉大な英雄であるチンギス・カンの名を料理名に使うことに対し、モンゴル人の中には嫌悪感を覚える人もいる<ref>{{Cite news|title=キム・カーダシアンの「キモノ」に怒った日本人よ、ジンギスカンの料理名を変えて|date=2019-07-16|url=https://www.newsweekjapan.jp/youkaiei/2019/07/post-43.php?t=1|newspaper=[[ニューズウィーク]]}}</ref><ref>{{Cite news|title=「ジンギスカンの料理名変えて」モンゴル出身教授の主張で物議「チンギス・ハンはモンゴル人にとっての天皇」|date=2019-08-21|url=https://times.abema.tv/articles/-/7015904}}</ref><ref>{{Cite news|title=朝青龍に教えられたモンゴル人にとってのチンギス・ハーンの偉大さ|date=2018-03-07|url=https://hochi.news/articles/20180307-OHT1T50114.html|newspaper=スポーツ報知}}</ref>。 日本では[[明治]]時代から北海道で肉用を含めた綿羊の飼育が行われており、[[1918年]]([[大正]]7年)に軍隊、[[警察]]、鉄道員用[[制服]]の素材となる[[ウール|羊毛]]自給を目指す「緬羊百万頭計画」が立案され、滝川や札幌の月寒など全国5カ所に種羊場が開設された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.takikawa.hokkaido.jp/230keizai/03kankourenkei/10menu/zingisukan_rekishi.html|title=ジンギスカンの歴史 - 滝川市役所 公式ホームページ|accessdate=2018-11-09|website=www.city.takikawa.hokkaido.jp|language=ja}}</ref>。このため北海道は[[1924年]](大正14年)の時点で全国の42.7%が飼育される最大の飼育地となっていた<ref>農林省畜産局、『本邦内地ニ於ケル緬羊の飼育』pp23-26、[[1926年]]、東京、農林省。[{{NDLDC|1192412}}/15]</ref>。計画の早期実現のために羊毛のみならず羊肉をも消費させることで、農家の収入増加と、飼育頭数増加が企図され、その流れの中からジンギスカンが出現したものと考えられている<ref name="oh-sapporo_03" />。しかし、当時の日本人には羊肉を食べる習慣がほとんどなく、日本で受け入れられる羊肉料理を開発する必要に迫られ、農商務省は東京女子高等師範学校([[お茶の水女子大学]]の前身)に料理研究を委託している<ref>山田喜平、『緬羊と其飼ひ方』、1935年、子安農園出版部。</ref>。 それらを裏付けるものとして、北海道の[[空知郡]][[北村 (北海道)|北村]](現・[[岩見沢市]]北村)で[[1920年]](大正9年)に北海道初の羊食会が北村飼羊組合員の間で実施されていた事、その後[[1924年]](大正13年)に北村緬羊組合によって『羊肉料理法』のパンフレットが発行されていた事、その中に記載された「羊肉の網焼」のレシピが後の[[1928年]](昭和2年)に糧友會の『羊肉料理講習会』で紹介される「鍋羊肉(成吉思汗鍋)」のレシピと類似していた事などが記録されている。<ref name="JinnabeMuseum">{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/jinnabeartmuseum/posts/500334033633881/|title=ジンギスカンと岩見沢 五つの物語|accessdate=2019-07-23|website=ジン鍋アートミュージアム/ジン鍋博物館/ジンギスカン鍋博物館 公式Facebook|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://hiranoyoshifumi.jp/2016/12/23/8226|title=岩見沢市北村郷土資料コーナー《北村の記憶》開設記念投稿|accessdate=2019-07-23|website=岩見沢市議会議員 平野義文 Official Web Site|language=ja}}</ref> 「成吉斯汗鍋」(じんぎすかんなべ)という言葉が初めて掲載されたのは[[1926年]](大正15年)の『素人に出来る支那料理』<ref>山田政平、『素人に出来る支那料理』p141、1926年、東京、婦人之友社 [{{NDLDC|1018885/78}}]</ref>で、[[支那]](中国)在住の日本人が命名したもので「本当の名前は{{Lang|zh|羊烤肉}}と云う[[清真料理|回々料理]]」とあり、当時のものは屋外で箱火鉢や鍋に薪の火をおこし、上に金網や鉄の棒を渡して羊肉をあぶり、現地の醤油をつけて食べた「原始的な料理」としている。この説明通りであれば、当初、「鍋」は食品を加熱するためではなく、火鉢代わりに使われたことになる。[[1931年]]に満田百二が雑誌『糧友』に書いた「羊肉料理」という記事でも、羊肉網焼の別名の「成吉斯汗鍋」は、本名式には{{Lang|zh|烤羊肉}}というと書かれていて<ref>満田百二、「羊肉料理」『糧友』昭和6年1月号(第6巻1号)p110、東京、糧友會</ref>、鍋料理ではなかったことがわかる。 かつて[[宮内庁下総御料牧場]]があり、[[皇室]]などに羊肉を出荷していた[[成田市|千葉県成田市]][[三里塚 (成田市)|三里塚]]が発祥地とする説もある<ref>【探訪・繁盛店】ひつじや(千葉県成田市)ジンギスカン「発祥」PR『[[日経MJ]]』街づくり面(2017年2月12日)</ref><ref>福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年、447頁。</ref>。他にも、[[山形県]][[蔵王温泉]]<ref>[http://www.aa.e-mansion.com/~kawada3/zao/page_98.htm 蔵王温泉名物 = 元祖ジンギスカン・シロー] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080309144335/http://www.aa.e-mansion.com/~kawada3/zao/page_98.htm|date=2008年3月9日}}(元祖ジンギスカン・シロー)</ref>や[[岩手県]][[遠野市]]<ref>[http://www.anbe.jp/sub12.htm なんで「遠野名物」なの?](昭和30年創業の店 ジンギスカンのあんべ)</ref>等がそれぞれ、上記の東京や北海道のものとは発祥を異にする、独自のものとしてのジンギスカン鍋の起源を主張している。[[長野県]][[長野市]][[信州新町]]での普及は、綿羊の飼育が[[1930年]]([[昭和]]5年)に始まった<ref name="yomiuri2013" />後の[[1937年]](昭和11年)に開催された「料理講習会」から始まる。羊の臭みを減らして食べやすくするために、地元名産の信州[[リンゴ]]を使用した特別なタレに羊肉を漬け込む<ref>[http://www.nagano-cvb.or.jp/aki/food/genghiskhan.html 信州新町観光協会]</ref>。 ジンギスカン鍋が一般にまで普及したのは、[[第二次世界大戦]]後のことと言われている<ref name="oh-sapporo_03" /><ref name="kyoudoryouri100" />。最初のジンギスカン専門店は、[[1936年]](昭和11年)に[[東京都]][[杉並区]]に開かれた「成吉思(じんぎす)荘」とされる<ref name="oh-sapporo_03" />。北海道での営業としての最初の店は、[[1946年]]に札幌にできた精養軒である<ref>日吉良一、「農村食事閑談 成吉思汗料理事始」『北海道農家の友』昭和36年12月号、1961年、札幌、北海道農業改良普及協会</ref>。 [[2004年]][[10月22日]]には[[北海道遺産]]の一つに<ref name="hokkaidoisan_052">{{Cite web|和書|url=http://www.hokkaidoisan.org/heritage/052.html|title=ジンギスカン(北海道各地)|accessdate=2010-05-26|work=[[北海道遺産]]|publisher=北海道遺産構想推進協議会}}</ref>、[[2007年]][[12月18日]]には[[農林水産省]]の主催で選定された[[農山漁村の郷土料理百選]]で北海道の[[郷土料理]]の一つに<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rdpc.or.jp/kyoudoryouri100/recipe/selection/1|title=北海道・東北の選定料理一覧|accessdate=2010-05-26|year=2007|work=[[農山漁村の郷土料理百選]]|publisher=財団法人農村開発企画委員会}}</ref>選出されている。[[2005年]]頃から[[2006年]]頃には[[BSE問題]]による牛肉離れの影響に加え、牛肉と比べ脂肪分が少ないイメージからジンギスカンはブームとなった<ref name="mainichi20120131" /><ref name="chiezo2006_p490" />。しかし、ブームが下火となった[[2010年]]頃には[[オーストラリア]]や[[ニュージーランド]]からの羊肉の輸入も大きく減少し、牛肉や豚肉の価格が下がった<ref name="mainichi20120131" />。羊肉は相対的に割高になり、特に国産の羊肉を使ったものは高価となったことから、北海道でもジンギスカン離れが指摘されるようになった<ref name="mainichi20120131" />。また2020年代には中国など他国での需要増加による更なる羊肉価格の高騰や後継者不足もあり経営環境の悪化も指摘されている<ref name="hs221206">発信地域から 滝川 ジンギスカン復活物語(上)若者タッグ 老舗を継承 - 北海道新聞2022年12月6日朝刊</ref>。 一方、[[中国]]の[[北京市|北京]]には[[1686年]]に開業した{{lang|zh|烤肉苑}}飯荘や[[1848年]]に開業した{{Lang|zh|烤肉季}}飯荘などが、薄切りの羊肉と野菜を鉄鍋で焼いて作る、現在のジンギスカンに類似した[[満州民族|満族]]料理、[[清真料理]]の「{{Lang|zh|烤羊肉}}」を提供している。後にこの方式が日本に取り入れられるようになったのか、偶然似たのかは定かでない。 == ジンギスカン鍋 == [[ファイル:Genghis Khan cooking pan.jpg|thumb|300px|ジンギスカン鍋(室内用、ガスこんろ使用)]] [[ファイル:Kanehiro Genghis Khan nabe.JPG|thumb|300px|穴なしタイプのジンギスカン鍋(左:生肉用 右:味付け肉用)]] 調理には専用の鍋であるジンギスカン鍋が用いられる<ref name="kyoudoryouri100" />。この鍋は、[[南部鉄器]]など、主に[[鋳鉄]]製で、中央部分が[[兜]]のように盛り上がった独特の形状をしており、その表面には溝が刻まれている<ref>{{Citation |contribution=ジンギスかん‐なべ【ジンギス汗鍋】 |url = https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E6%B1%97%E9%8D%8B/ |title = [[大辞泉]]([[goo辞書]]) |publisher = [[小学館]] |accessdate = 2020-09-24 |isbn = 978-4095012124 }}.</ref>。 これは盛り上がった中央部で羊肉を、低くなった外周部で野菜を焼くことによって、羊肉から染み出した肉汁が溝に沿って下へと滴り落ちて野菜の味付けとなることを意図した設計である<ref name="kyoudoryouri100" />。羊肉の臭いがある脂を熱して外周に流すことで焼いた肉を食べやすくする仕組みになっている。 1950年代当時は北海道でもジンギスカン料理そのものが一般に普及しておらず、精肉店がジンギスカン鍋を貸し出すなども行っていた。その後、北海道の花見や運動会、海水浴などで現在の形のジンギスカンパーティーが広まっていった<ref>[http://dokei.net/conts.php?nid=280 ベル食品(株)・50周年記念キャンペーンで50名に「電気式卓上ジンギスカン鍋」]北海道経済産業新聞 2006年6月14日</ref>(「ジンパ」と略称されることもある<ref name="asahi20181001"/>)。家庭やレジャーなどの場では必ずしもジンギスカン鍋が用いられるわけではなく、鉄板<ref name="dic_jingisukanryori" />や焼き網、[[フライパン]]、[[ホットプレート]]などで代用されることも多い。 === 種類 === 専用鍋には主に2種類がある。鉄・アルミ製で穴なしのものと、スリット状に穴が開けられているものである。穴なしのものは、味付け肉でもたれが落ちない構造であり、穴あきのものは、主に[[七輪]]・炭火焼きで行われる生肉用で余分な脂を落とす役割を持っている。近年のジンギスカンブームにより、店舗オリジナルの鍋など様々なものが製造されている。 「専用鍋は鍋が焦げ付きやすく使用後に洗うのが面倒」「数を揃えやすく片付けも簡単」などの理由から、北海道では屋外での「ジンギスカンパーティー」等の場合を中心に、アルミ製の穴なし簡易鍋を使い捨てすることも多い。道内では[[ホームセンター]]等で、100円-500円程度の安価で販売されている。 [[岩見沢市|北海道岩見沢市]]で2015年、過去に使われた各種の専用鍋を溝口雅明[[北星学園大学短期大学部]]教授が集めた「ジン鍋博物館」が仮オープン。私設博物館の形態で2016年11月には正式に開館した<ref>[http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/life-topic/life-topic/1-0337242-s.html ジンギスカン鍋151枚 岩見沢に博物館 五稜郭形も]北海道新聞(2016年11月12日)2016年11月13日閲覧</ref>。 === その他 === [[岩手県]][[遠野市]]では、ジンギスカン鍋に専用の焼き台[[ジンギスカンバケツ]]を用いて調理される。東北地方のジンギスカンの定番品である。メディアでの紹介もあり、現在は北海道でもアルミ製で鍋付きのものが販売されるようになった。 [[北海道]][[苫小牧市]]で開催される、[[とまこまいスケートまつり]]では、[[ドラム缶]]を焼き台にしたジンギスカン「しばれ焼き」が名物となっている<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://hokkaidos.net/tomakomai-skatematsuri/ |title=【苫小牧スケートまつり】豪快ドラム缶でジンギスカンしばれ焼きを堪能 |publisher=北海道ねっと |accessdate=2019-06-24}}</ref>。 == 調理 == ; 味付け肉以外の場合 : ジンギスカン鍋・[[フライパン]]などを炭火やガスなどで下から熱し、油を引いてから[[モヤシ]]、[[タマネギ]]、[[ピーマン]]、[[ニンジン]]、[[ハクサイ|白菜]]のほか、[[トウモロコシ]]、[[ギョウジャニンニク]]、[[アスパラガス|グリーンアスパラ]]などの季節の野菜などを(ジンギスカン鍋の場合は外周部周辺に)広げ、上方でスライスされた羊肉を焼き、専用のタレに付けて食する。野菜の上に羊肉を乗せて蒸すように焼いて食す場合もある。 ; 味付けの場合 : 凸状に盛り上がった中央部分で肉を焼き、低くなった外周部には漬け汁と水を入れて野菜を煮込む。下茹でした[[うどん]]玉や焼きそば用の中華麺、角[[餅]]が加えられる場合もある。 前述のように、ジンギスカン鍋を用いる場合は凸状に盛り上がった中央部分で肉を焼き、低くなった外周部で野菜を焼く<ref name="kyoudoryouri100" />。 観光名所となっている店舗では、調理の際の油跳ね防止用のビニールもしくは紙製の専用[[エプロン]]が支給され、それを着用して食するのが一般的である。 == 使用肉とたれ == ジンギスカンは、事前にタレ(調味液)に漬け込んだ「味付け」<ref name="羽賀朱音" />と、味付けではない肉を焼いてからタレにつける「後付け」に大別される<ref name="oh-sapporo_01" /><ref name="asahi20181001"/>。ラム肉は味付け、後付けの両方で好まれる。一般的な味付けジンギスカンは、肉をスライスし、タレに漬け込み、それを冷凍保存して販売される。また、味付けに使うたれも様々な[[調味料]]を組み合わせることで多種のものが作られている。 === 生ジンギスカン === [[ファイル:Thawed Lamb.JPG|thumb|300px|解凍済のラムスライス肉]] 後付けジンギスカンには、輸送・保管時に一度も冷凍されていない「冷蔵(チルド)品」とラム肉を丸めて冷凍した「ロール肉」がある。区別するため、チルド品(1度も冷凍されていないもの)を「生ラム肉」「生マトン肉」と呼ぶ。ロール肉は、通常はマトン肉は扱われず、通常厚さ1.5-2ミリメートルほどにスライスされて販売されるため「ラムスライス肉」と呼ばれる。 ジンギスカン専門店や一部の[[焼肉]]店では生肉、ビール園では生肉と冷凍ロール肉の両方が使用され、客が選択する。なお、冷凍された肉を解凍すると繊維が壊れるため風味が落ちると言われる。 {{clear}} === 味付けジンギスカン === [[ファイル:AjitukiMuttonJingisu.jpg|thumb|300px|味付マトン肉]] 現在では様々なメーカーで製造されるほか、個人精肉店や焼肉店などでも独自に製造・提供される。調味液には、[[醤油]]ベースが主で、他に[[味噌]]ベース・[[塩]]ベースなどがある。様々な香味野菜・果物を扱って製造され、それに肉が漬け込まれる。 使用する肉は、ラム肉・マトン肉のどちらでも使用される。特にマトン肉は、強い匂いがあるが味にコクがあるため、臭み消しの方法として利用される。 また、一般家庭でも、市販のジンギスカンのタレを用いて肉を漬け込み、味付けジンギスカンとしても食される。 利点として冷凍販売の場合、タレが肉にしみて焼く時に硬くなりにくい点がある。 === ジンギスカンのたれ === [[ファイル:Bell Shokuhin.jpg|thumb|300px|right|成吉思汗たれ(ベル食品)]] 羊肉の臭みを抑えて、食味を向上させる技術は、明治時代から色々試みられており、[[牛鍋]]などと同様に[[味噌]]を使うことは大正時代までに知られていた<ref>永峰春樹、『緬羊の飼方』p103、[[1917年]]、旭村、子安農園。[{{NDLDC|953351}}/59]</ref>が、改良が進んだのは昭和時代からである。 現在のタレは味付け、生ともに[[醤油]]ベースと味噌ベースのものがあり、主流は醤油ベースである。タレには醤油、味噌、[[砂糖]]、[[リンゴ]]果汁、[[ショウガ]]、[[ニンニク]]、[[ごま油]]などが配合される。 市販されるジンギスカンの付けダレも[[焼肉のたれ]]と同様に多種多様存在する。北海道では[[ベル食品]]と[[ソラチ]]の醤油ベースの製品が代表的である。また、青森県のタレメーカー[[上北農産加工農業協同組合]]が当初ジンギスカンのタレとして開発した「スタミナ源たれ」は、醤油、野菜、リンゴ、ニンニクを材料としており、現在は焼肉・[[野菜炒め]]など多用途に使用されている。 {{clear}} == 地域 == {{独自研究|section=1|date=2017-8}} [[ファイル:Sheep and cloud hill 2023-05-20(1) as.jpg|左|サムネイル|焼く前の味付けジンギスカン([[士別市]]にて)]] 地域によって、使用する肉の種類や事前に味付けをするか否かなど、習慣、好みが分かれる。 北海道では、[[旭川市]]などの上川地域や[[滝川市]]などの[[空知総合振興局|空知地方]]といった道央内陸部では「味付け」、[[札幌市]]のほか[[小樽市]]や[[室蘭市]]などの道央海岸部、[[函館市]]を中心とした道南海岸部、[[釧路市]]などの道東海岸部では「生肉」が主流だった。この二つの食文化の境目にあたるのが、滝川市と札幌市の中間付近に位置する岩見沢市と考えられており、昭和50年代に同市で営業していた温泉宿の名前が刻印された、二つの食べ方を同時に行える「仕切り付きジンギスカン鍋」が発見されている<ref name="JinnabeMuseum" />。[[北見市]]は北海道としては例外的にジンギスカンよりも一般的な焼肉店が多く、市も焼肉の街としてPRするほどで、ジンギスカンは一般的ではない。 道内の観光地には、ジンギスカン料理を売りにしている所が多くある。多くの観光地で今も「ジンギスカン」の旗を立てているが郷土料理としての取り扱いであり地場産肉を売るということではない。しかし逆に地場生産を売りにする地域もあり、[[士別市]]や滝川市など道内各地でサフォーク種などの羊を飼養して地元に食肉提供している。 観光名所となっている各[[ビール]]園の主流も生ラムジンギスカンである。 名寄市ではジンギスカンを煮込むこともある。([[煮込みジンギスカン]]) ただし、近年では双方の地域でどちらの食べ方も浸透が進んでおり、違和感なく受け入れられている。本州では地域別に分類することは難しい。[[関東地方]]では「生肉」が好まれる。地方には独自のブランドをもった味付けジンギスカンのメーカーが存在する。 北海道の他にも、局地的に常食されている地域が多数ある(後述の一覧を参照)。また、[[千葉県]][[富津市]]の[[マザー牧場]]や[[栃木県]][[那須塩原市]]の[[千本松牧場]]、[[兵庫県]][[神戸市]]の[[六甲山ホテル]]などでは、創業以来ジンギスカンが名物メニューとなっている。 これらの地域では、[[花見]]をはじめとした宴会や集会の打ち上げなどで食べられることが多い。また、「ジンギスカンパーティー」略して「ジンパ」の語句も生まれ、[[森崎博之]]出演の[[マツオ]]の[[コマーシャルメッセージ|企業CM]]の[[キャッチコピー]]でも使用された。 [[2006年]]頃には全国的なジンギスカンブームがあり<ref name="mainichi20120131" /><ref name="chiezo2006_p490" />、関東地方などにも急速に広まった。これは[[BSE問題]]([[牛海綿状脳症|狂牛病]])が注目され牛肉の需要が減少し<ref name="mainichi20120131" />、羊肉に多く含まれる「L(エル)-[[カルニチン]]」という物質が注目されるなど<ref>{{Cite news | title = 羊肉が人気 都内でジンギスカン料理店倍増、家庭でも 牛の王座ピンチ? | newspaper = 読売新聞 夕刊 | location = 東京 | pages = 23 | date = 2005-3-11 | accessdate = 2015-9-2}}</ref>、健康需要<ref name="mainichi20120131" /><ref name="chiezo2006_p490" />がその要因と言われている。[[2000年代]]後半になると外食でのジンギスカン専門店は減少したが、スーパーなどの小売店での羊肉の扱いは安定するようになった。北海道のジンギスカン店では羊肉しか提供していない場合が多いが、東京や、ブーム後の後発地域などのジンギスカン店ではたいてい、羊肉を食べなれない客のために牛肉なども提供していることが多い。そのほか店によるが豚、鶏、鴨、猪、畜肉加工品、海鮮物なども出される。近年では、北海道のビール園などでも、本州からの観光客を多く受け入れるために羊肉以外の牛肉・豚肉・鶏肉や海鮮物を提供する店が増えている。ただし「ジンギスカン専門店」を称する場合は、ほぼ羊肉のみである。 長野県では、[[国道19号]]の一部を「信州新町ジンギスカン街道」と呼んでいる。多くのジンギスカン料理店が並び、伝統的な漬け込んだ調味法<ref name="羽賀朱音" />の他にオリジナルな味付けの店など多様である。[[1982年]](昭和57年)より、味の優れた「[[サフォーク種]]」も飼育されるようになった。 高知では、[[第二次世界大戦]]の終戦直後の時期に羊毛を刈るための羊を食肉にも用いることが推奨されていた時期があり、ジンギスカンの店が何軒も開店した時期もあったものの、一時的な流行に留まった<ref name="oh-sapporo_02" />。 === ジンギスカンが名物の地域一覧 === * [[北海道]] * [[遠野市]]([[岩手県]]) * [[岩手県]]北部沿岸地域 * [[蔵王]]([[山形県]]) * [[米沢市]]([[山形県]]) * [[古殿町]]・[[平田村]]([[福島県]][[石川郡]]) * [[遠山郷]]([[長野県]]) * [[信州新町]](長野県[[長野市]]) * [[大山 (鳥取県)|大山]]([[鳥取県]][[西伯郡]][[大山町]]) * [[蒜山 (地名)|蒜山地方]]([[岡山県]][[真庭市]]) === ジンギスカンが名物の施設一覧 === * [[千本松牧場]]([[栃木県]][[那須塩原市]]) * [[マザー牧場]]([[千葉県]][[富津市]]) * [[六甲山ホテル]]([[兵庫県]][[神戸市]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="oh-sapporo_01">{{Cite web|和書 |date = 2003年1月7日 |url = http://www5.hokkaido-np.co.jp/sapporokenbu/oh-sapporo/jingisukan/01.html |title = 調査報告その1 味付きか?後付けか? |work = 探偵団がたどる ジンギスカン物語 |publisher = [[北海道新聞社]] |accessdate = 2010-04-19 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20100126112849/http://www5.hokkaido-np.co.jp/sapporokenbu/oh-sapporo/jingisukan/01.html |archivedate = 2010-01-26 |deadlinkdate = 2015年7月 }}</ref> <ref name="oh-sapporo_02">{{Cite web|和書 |date = 2003年1月8日 |url = http://www5.hokkaido-np.co.jp/sapporokenbu/oh-sapporo/jingisukan/02.html |title = 調査報告その2 岩手と高知 |work = 探偵団がたどる ジンギスカン物語 |publisher = [[北海道新聞社]] |accessdate = 2013-03-01 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120207105327/http://www5.hokkaido-np.co.jp/sapporokenbu/oh-sapporo/jingisukan/02.html |archivedate = 2012-02-07 |deadlinkdate = 2015年7月 }}</ref> <ref name="oh-sapporo_03">{{Cite web|和書 |date = 2003年1月9日 |url = http://www5.hokkaido-np.co.jp/sapporokenbu/oh-sapporo/jingisukan/03.html |title = 調査報告その3 ルーツを探る |work = 探偵団がたどる ジンギスカン物語 |publisher = [[北海道新聞社]] |accessdate = 2010-04-18 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20100121160441/http://www5.hokkaido-np.co.jp/sapporokenbu/oh-sapporo/jingisukan/03.html |archivedate = 2010-01-21 |deadlinkdate = 2015年7月 }}</ref> <ref name="chiezo2006_p490">{{Cite encyclopedia |author = [[稲増龍夫]] |encyclopedia = [[知恵蔵|朝日現代用語 知恵蔵2006]] |title = 2005年の若者・流行語 スープカレー |date = 2006年1月1日 |publisher = [[朝日新聞社]] |isbn = 4-02-390006-0 |page = 490 }}</ref> <ref name="kyoudoryouri100">{{Cite web|和書 |year = 2007 |title = ジンギスカン |url = http://www.rdpc.or.jp/kyoudoryouri100/recipe/recipe/010001 |work = [[農山漁村の郷土料理百選]] |publisher = 財団法人農村開発企画委員会 |accessdate = 2010-04-18 }}</ref> <ref name="mainichi20120131">{{Cite news |author=吉井理記 |date = 2012-01-31 |url = http://mainichi.jp/life/food/news/20120131mog00m040007000c.html |title = 北海道:ジンギスカン離れ?道内輸入15年で4割超減 |work = [[毎日新聞|毎日.jp]] |publisher = [[毎日新聞社]] |accessdate = 2012-01-31 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120203031354/http://mainichi.jp/life/food/news/20120131mog00m040007000c.html |archivedate = 2012-02-03 |deadlinkdate = 2012年12月 }}</ref> }} == 関連項目 == * [[焼肉]] * [[羊肉]] * [[煮込みジンギスカン]] * [[マツオ]] - [[松尾ジンギスカン]]を展開 * [[ベル食品]] / [[ソラチ]] - 北海道でのジンギスカンのたれの2大メーカー * [[ジンギスカンのジンくん]] - ジンギスカンPRキャラクターとして2013年にデビュー。 * [[義経鍋]] - 南部地方([[青森県]]東部と[[岩手県]]北部・中部)の郷土料理。 * [[義経焼き]] - [[山形県]][[米沢市]]の郷土料理。 == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{北海道遺産紹介ページ|id=hokkaido_jingisukan|name=ジンギスカン}} * [http://shin-machi.com/jingisukan.html ジンギスカン&サフォーク料理] - 信州新町観光協会 {{Food-stub}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect1=ジンギスカン料理|1-1=冬の季語}} {{DEFAULTSORT:しんきすかん}} [[Category:ジンギスカン料理|*]] [[Category:日本の肉料理]] [[Category:日本の鍋料理]] [[Category:岩手県の食文化]] [[Category:長野県の食文化]] [[Category:岡山県の食文化]] [[Category:北海道遺産]] [[Category:エポニム]] [[Category:100年フード]] [[Category:農山漁村の郷土料理百選]]
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社会民主連合
社会民主連合(しゃかいみんしゅれんごう、英: Socialist Democratic Federation, SDF)は、かつて存在した日本の政党。略称は社民連(しゃみんれん)。 1978年、日本社会党を離党した国会議員を中心とした社会市民連合(しゃかいしみんれんごう)と社会クラブ(しゃかいクラブ)が合流して結成された。1994年、日本新党、新党さきがけへの合流に伴い解散。 後の民主党の源流の一つとなり、菅直人内閣総理大臣、江田五月参議院議長 の2人の三権の長を輩出した。 自由民主党の一党支配を終わらせることを第一の目標に掲げ、社公民路線を推進した。議席数はごく少なかったが、反共の立場と、社会民主主義を軸に、自由民主党と日本共産党を除く(非自民・非共産)各党に対し連立のための歩み寄りを説得する活動で、党勢以上の影響力を行使した。その交渉で他党に妥協を説く必要もあって、自党の政策を推進することよりも、政権交代を最優先と強調した。党員を「会員」と呼ぶなど、政党というよりは緩い連合体を志向していた。 一、 われわれは、自由、平等、博愛という市民革命の理想を現代において実現する新しい自由な社会主義社会をめざす。 一、 われわれは、この社会を自由と民主主義にのっとり漸進的改革を積み重ねて実現する。 一、 われわれは、この社会を実現するため平和主義、民主主義、社会主義の理念の下に結集する。 ここでは、社民連の前身となる社市連と社会クラブも含めて解説する。 日本社会党の江田三郎は社会党書記長時代の1962年に、アメリカの生活水準、ソ連の社会保障、イギリスの議会制民主主義、日本の平和憲法を4つの柱とする 新しい社会主義像「江田ビジョン」を提唱し党内左派と対立。1976年2月に野党による超党派政策研究集団「新しい日本を考える会」を結成するが、12月の総選挙で落選し、社会主義協会との確執を深めていった。その後も江田三郎は社会主義協会や日本労働組合総評議会(総評)と対立を続ける一方で矢野絢也・佐々木良作らと社公民政権構想を打ち上げるなど独自の活動を続けた。 1977年2月8日、第40回社会党党大会で、共産党を排除した形での、野党協力(具体的には、社公民+新自由クラブ)による「革新・中道連合政権」構想を求める意見書を提出した。しかし、事前に「大会で江田意見書を潰す」と表明した社会主義協会などの激しい反対により否決された。大会は、江田糾弾大会の状況を呈していたという。ついに3月26日、江田は社会党を離党。市川房枝の下でボランティアとして働いた経験のある菅直人、構造改革派の安東仁兵衛らと社会市民連合を結成した。当時、落選中の身だった江田三郎は同年6月の参院選に出馬の構えを見せたが、公示直前に死去。息子の江田五月が代わりとなって全国区から立候補し当選した。一方で参院地方区から立候補した9候補、参院選と同日選挙となった都議選に擁立した9候補は全員が落選する結果となった。 1977年9月28日、9月26日に社会党を離脱した田英夫・秦豊・楢崎弥之助が結成。 前年に結成された社市連と社会クラブ、前年の12月に社会党を離党した阿部昭吾が参加し、1978年3月26日に結成された。なお党名については、「社会市民連合」のままとする案や、「新社会党」や「社会民主党」など複数の案が出たが、結局「社会民主連合」となった。 1981年9月21日に反自民共闘を念頭に新自由クラブと院内会派である新自由クラブ・民主連合(新自連)を結成したが、1982年11月30日に第13回参議院議員通常選挙に新自由クラブとの統一確認団体で臨むために新自由クラブと交渉を始めた田に反発し、秦が離党。 1983年の第13回参議院議員通常選挙では比例代表選挙に新自由クラブとの統一確認団体である新自由クラブ民主連合(自ク連)を結成、田英夫代表を名簿登載1位で擁立、当選させた。院内会派は後に解消したが、新自由クラブ解党後は田川誠一の進歩党と統一会派である進歩民主連合(進民連、会派代表は江田)を組んだ。 反自民・非共産共闘の理由から1986年の総選挙のあと、所属の衆議院議員4人が、日本社会党会派と民社党会派に2人ずつ分かれて属することで(江田、菅が社会党会派、阿部、楢崎が民社党会派)、民社党会派が日本共産党を上回り、国会運営から日本共産党の排除に成功したこともあった。選挙においても、社会、民社両党を中心に公明、新自クの候補まで幅広く推薦することで、野党共闘の足がかりになろうとした。 1992年のPKO法案では、法案推進で自公民路線への傾斜を強める公明・民社を止めることができず、社民連は連合参議院と共にPKO参加自体には賛成するも自衛隊と別組織によること(国連平和協力法案審議時における自公民合意内容)を訴えて反対し、結果的に社会党に接近する形になった。7月9日、社会党と院内会派「日本社会党・護憲民主連合」を結成。なおこの時、社会党本部に江田三郎の遺影が掲示された。1992年の第16回参議院議員通常選挙にはサラリーマン新党の青木茂を名簿1位として西風勲、西川美紀並びに渡辺文学を比例代表選挙に擁立し、選挙区では進歩党公認の円山雅也(神奈川県選挙区)を推薦したが獲得議席ゼロであった。 党の第一の目標であった政権交代は、1993年の細川連立内閣の成立で実現し、衆議院4議席ながら閣僚も出した。1994年1月、社会党との統一会派を解消、日本新党との統一会派になった(ただし楢崎弥之助は社民連党籍のまま社会党会派に残った)。 1994年5月22日に社会民主連合は解散した。江田五月と阿部昭吾は日本新党を経て新進党に参加。菅直人は新党さきがけを経て旧民主党に参加。楢崎弥之助は社会党会派無所属を経て同年12月に自由連合に参加。田英夫は同年1月に日本社会党脱党者との無所属会派護憲リベラルの会を経て同年9月に新党護憲リベラル(その後平和・市民に改称)に参加した。
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社会民主連合は、かつて存在した日本の政党。略称は社民連(しゃみんれん)。 1978年、日本社会党を離党した国会議員を中心とした社会市民連合(しゃかいしみんれんごう)と社会クラブ(しゃかいクラブ)が合流して結成された。1994年、日本新党、新党さきがけへの合流に伴い解散。 後の民主党の源流の一つとなり、菅直人内閣総理大臣、江田五月参議院議長 の2人の三権の長を輩出した。 自由民主党の一党支配を終わらせることを第一の目標に掲げ、社公民路線を推進した。議席数はごく少なかったが、反共の立場と、社会民主主義を軸に、自由民主党と日本共産党を除く(非自民・非共産)各党に対し連立のための歩み寄りを説得する活動で、党勢以上の影響力を行使した。その交渉で他党に妥協を説く必要もあって、自党の政策を推進することよりも、政権交代を最優先と強調した。党員を「会員」と呼ぶなど、政党というよりは緩い連合体を志向していた。
{{Redirect|社民連}} {{Distinguish|社会民主党|民主改革連合}} {{政党 |国名 = {{JPN}} |党名 = 社会民主連合 |公用語名 = |色相 = {{Socialist Democratic Federation (Japan)/meta/color}} |成立年月日 = [[1978年]][[3月26日]]<ref name="zenshi1160">[[宇野俊一]]ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 [[講談社]]、1991年、1160頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref><ref name="nipponica">藤井正, 五十嵐仁. [https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E9%80%A3%E5%90%88-75726#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) - 社会民主連合 しゃかいみんしゅれんごう]. [[コトバンク]]. 2018年4月21日閲覧。</ref> |前身政党 = [[#社会市民連合|社会市民連合]]<ref name="zenshi1160"/><ref name="nipponica"/><ref name="briak">[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E9%80%A3%E5%90%88-75726#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]. [[コトバンク]]. 2019年5月3日閲覧。</ref><br>[[日本社会党]]<small>(一部)</small><ref name="zenshi1160"/><ref name="briak"/> |解散年月日 = [[1994年]][[5月22日]]<ref name="nipponica"/> |解散理由 = [[日本新党]]や[[新党さきがけ]]などへの離散・合流 |後継政党 = [[日本新党]]<ref name="briak"/><ref name="digi">[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E9%80%A3%E5%90%88-75726#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉 - しゃかいみんしゅ‐れんごう〔シヤクワイミンシユレンガフ〕【社会民主連合】]. ([[小学館]]) [[コトバンク]]. 2019年5月3日閲覧。</ref><br>[[新党さきがけ]]<ref name="digi"/><br>[[日本社会党]]<ref name="digi"/> |郵便番号 = |本部所在地 = |政治的思想・立場 =[[中道左派]]<ref>{{cite book |last1=Bouissou |first1=Jean-Marie |author-link1=:fr:Jean-Marie Bouissou |translator-last1=Derrick |translator-first1=Jonathan |year=2002 |title=Japan: The Burden of Success |url=https://books.google.com/books?id=xuCEakYXebMC&pg=PA293 |series=CERI Series in Comparative Politics and International Studies |publisher=[[C. 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([[平凡社]]) [[コトバンク]]. 2019年5月3日閲覧。</ref><br>[[平和主義]]<ref name="briak"/><ref name="sodfeak"/><br>[[民主主義]]<ref name="briak"/><ref name="sodfeak"/><br>[[社会主義]]<ref name="briak"/><ref name="sodfeak"/> |機関紙 = |シンボル = |国際組織 = |その他 = }} {{社会民主主義}} {{社会主義}} '''社会民主連合'''(しゃかいみんしゅれんごう、{{lang-en-short|Socialist Democratic Federation, SDF}})は、かつて存在した[[日本]]の[[政党]]。略称は'''社民連'''(しゃみんれん)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E6%B0%91%E9%80%A3-174608#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉 - しゃみん‐れん【社民連】]. ([[小学館]]) [[コトバンク]]. 2019年5月3日閲覧。</ref>。 [[1978年]]、[[日本社会党]]を離党した[[国会議員]]を中心とした'''社会市民連合'''(しゃかいしみんれんごう)と'''社会クラブ'''(しゃかいクラブ)が合流して結成された。[[1994年]]、[[日本新党]]、[[新党さきがけ]]への合流に伴い解散。 後の[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の源流の一つとなり、[[菅直人]][[内閣総理大臣]]、[[江田五月]][[参議院議長]] の2人の[[三権の長]]を輩出した。 [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の一党支配を終わらせることを第一の目標に掲げ、[[社公民路線]]を推進した。議席数はごく少なかったが、[[反共主義|反共]]<ref group="注">日本共産党を「[[全体主義]]政党」と非難した。</ref>の立場と、[[社会民主主義]]を軸に、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]と[[日本共産党]]を除く(非自民・非共産)各党に対し連立のための歩み寄りを説得する活動で、党勢以上の影響力を行使した。その交渉で他党に妥協を説く必要もあって、自党の政策を推進することよりも、[[政権交代]]を最優先と強調した。党員を「会員」と呼ぶなど、政党というよりは緩い連合体を志向していた。 == 政策理念 == {{Quotation| 一、 われわれは、自由、平等、博愛という市民革命の理想を現代において実現する新しい自由な社会主義社会をめざす。<br> 一、 われわれは、この社会を自由と民主主義にのっとり[[構造改革|漸進的改革]]を積み重ねて実現する。<br> 一、 われわれは、この社会を実現するため[[平和主義]]、[[民主主義]]、[[社会主義]]の理念の下に結集する。 |[http://www.eda-jp.com/books/usdp/1-2.html われわれのめざすもの] (社会民主連合結成大会,一九七八年三月二十六日)}} == 党史 == ここでは、社民連の前身となる社市連と社会クラブも含めて解説する。 === 社会市民連合 === [[日本社会党]]の[[江田三郎]]は社会党書記長時代の[[1962年]]に、アメリカの生活水準、ソ連の社会保障、イギリスの議会制民主主義、日本の平和憲法を4つの柱とする<ref name="zenshi">[[宇野俊一]]ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 [[講談社]]、1991年、1159頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref> 新しい社会主義像<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%B8%82%E6%B0%91%E9%80%A3%E5%90%88-1334049 世界大百科事典内の社会市民連合の言及 【江田三郎】より]. ([[平凡社]]) [[コトバンク]]. 2018年8月9日閲覧。</ref>「'''[[江田ビジョン]]'''」を提唱し党内左派と対立。[[1976年]]2月に野党による超党派政策研究集団「新しい日本を考える会」を結成するが、[[第34回衆議院議員総選挙|12月の総選挙]]で落選し、[[社会主義協会]]との確執を深めていった<ref name="zenshi"/>。その後も江田三郎は社会主義協会や[[日本労働組合総評議会]](総評)と対立を続ける一方で[[矢野絢也]]・[[佐々木良作]]らと[[社公民]][[政権]]構想を打ち上げるなど独自の活動を続けた。 [[1977年]][[2月8日]]、第40回社会党党大会で、[[日本共産党|共産党]]を排除した形での、[[野党]]協力(具体的には、社公民+[[新自由クラブ]])による「[[革新政党|革新]]・[[中道政治|中道]]連合政権」構想を求める意見書を提出した。しかし、事前に「大会で江田意見書を潰す」と表明した社会主義協会などの激しい反対により否決された。大会は、江田糾弾大会の状況を呈していたという。ついに[[3月26日]]、江田は社会党を離党<ref name="zenshi"/>。[[市川房枝]]の下でボランティアとして働いた経験のある[[菅直人]]、構造改革派の[[安東仁兵衛]]らと'''社会市民連合'''を結成した。当時、落選中の身だった江田三郎は同年6月の参院選に出馬の構えを見せたが、公示直前に死去。息子の[[江田五月]]が代わりとなって全国区から立候補し当選した。一方で参院地方区から立候補した9候補、参院選と同日選挙となった[[1977年東京都議会議員選挙|都議選]]に擁立した9候補は全員が落選する結果となった。 === 社会クラブ === 1977年[[9月28日]]、[[9月26日]]に社会党を離脱した[[田英夫]]・[[秦豊]]・[[楢崎弥之助]]が結成。 === 社会民主連合 === 前年に結成された社市連と社会クラブ、前年の12月に社会党を離党した阿部昭吾が参加し、1978年3月26日に結成された。なお党名については、「社会市民連合」のままとする案や、「新社会党」や「社会民主党」など複数の案が出たが、結局「社会民主連合」となった。 [[1981年]]9月21日に反自民共闘を念頭に[[新自由クラブ]]と[[院内会派]]である新自由クラブ・民主連合(新自連)を結成したが、[[1982年]]11月30日に[[第13回参議院議員通常選挙]]に新自由クラブとの統一確認団体で臨むために新自由クラブと交渉を始めた田に反発し、秦が離党。 [[1983年]]の[[第13回参議院議員通常選挙]]では比例代表選挙に新自由クラブとの統一確認団体である[[新自由クラブ民主連合]](自ク連)を結成、[[田英夫]]代表を名簿登載1位で擁立、当選させた。院内会派は後に解消したが、新自由クラブ解党後は[[田川誠一]]の[[進歩党 (日本 1987-1993)|進歩党]]と統一会派である進歩民主連合(進民連、会派代表は江田)を組んだ。 反自民・非共産共闘の理由から[[第38回衆議院議員総選挙|1986年の総選挙]]のあと、所属の衆議院議員4人が、[[日本社会党]]会派と[[民社党]]会派に2人ずつ分かれて属することで(江田、菅が社会党会派、阿部、楢崎が民社党会派)、民社党会派が日本共産党を上回り、国会運営から日本共産党の排除に成功したこともあった。選挙においても、社会、民社両党を中心に公明、新自クの候補まで幅広く[[推薦#公職選挙法における推薦|推薦]]することで、野党共闘の足がかりになろうとした。 [[1992年]]の[[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律|PKO法案]]では、法案推進で[[自公民路線]]への傾斜を強める公明・民社を止めることができず、社民連は[[連合参議院]]と共にPKO参加自体には賛成するも[[自衛隊]]と別組織によること([[国連平和協力法案]]審議時における自公民合意内容)を訴えて反対し、結果的に社会党に接近する形になった。7月9日、社会党と院内会派「日本社会党・護憲民主連合」を結成。なおこの時、社会党本部に江田三郎の遺影が掲示された。1992年の[[第16回参議院議員通常選挙]]には[[サラリーマン新党]]の[[青木茂 (参議院議員)|青木茂]]を名簿1位として[[西風勲]]、[[西川美紀]]並びに[[渡辺文学]]を比例代表選挙に擁立し、選挙区では[[進歩党 (日本 1987-1993)|進歩党]]公認の[[円山雅也]]([[神奈川県選挙区]])を推薦したが獲得議席ゼロであった。 党の第一の目標であった[[政権交代]]は、[[1993年]]の[[細川内閣|細川連立内閣]]の成立で実現し、衆議院4議席ながら閣僚も出した。[[1994年]]1月、社会党との統一会派を解消、[[日本新党]]との統一会派になった(ただし楢崎弥之助は社民連党籍のまま社会党会派に残った)。 1994年[[5月22日]]に社会民主連合は解散した。江田五月と阿部昭吾は日本新党を経て[[新進党]]に参加。菅直人は新党さきがけを経て[[民主党 (日本 1996-1998)|旧民主党]]に参加。楢崎弥之助は社会党会派[[無所属]]を経て同年12月に[[自由連合 (日本)|自由連合]]に参加。田英夫は同年1月に日本社会党脱党者との無所属会派[[護憲]][[リベラル]]の会を経て同年9月に[[新党護憲リベラル]](その後[[平和・市民]]に改称)に参加した。 [[File:The History of Japan Socialist Party - ja.png|thumb|center|600px|日本社会党や社会民主連合などの歴史]] == 役職 == === 歴代の常任役員会代表(党首) === {| class="wikitable" ! colspan="4" | 社会市民連合代表 |- ! 代 !! colspan="2" | 代表 !! 在任期間 |- ! 1 | [[File:Saburo-Eda-1.png|60px]] || [[江田三郎]] || [[1977年]][[3月26日]] - 1977年[[5月22日]] |- ! rowspan="3" | 2 | [[File:Replace this image JA.svg|60px]] || [[大柴滋夫]] || rowspan="3" | 1977年5月 - [[1978年]][[3月26日]] |- | [[File:Satsuki Eda 1993 (cropped).jpg|60px]] || [[江田五月]] |- | [[File:Naoto Kan cropped KAN Naoto 2007.jpg|60px]] || [[菅直人]] |- ! colspan="4" | 社会クラブ代表 |- ! 1 | [[File:Fujin-Seikatsu-1966-April-1.png|60px]] || [[田英夫]] || 1977年[[9月28日]] - 1978年3月26日 |- ! colspan="4" | 社会民主連合常任役員会代表 |- ! 1 | [[File:Fujin-Seikatsu-1966-April-1.png|60px]] || [[田英夫]] || 1978年3月26日 - [[1985年]][[2月10日]] |- ! 2 | [[File:Satsuki Eda 1993 (cropped).jpg|60px]] || [[江田五月]] || 1985年2月10日 - [[1994年]][[5月22日]] |- |} === 歴代の常任役員会・執行部役員表 === {{節stub}} {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- ! colspan="6" | 社会市民連合常任役員会<br />(1977年 - 1978年) |- ! 代表<br />代表委員 ! 副代表委員 ! 事務局長 | colspan="3" rowspan="3" | |- |[[江田三郎]]||&mdash;||&mdash; |- |[[大柴滋夫]]<br />[[江田五月]]<br />[[菅直人]] |[[西風勲]]<br />[[安東仁兵衛]] |大柴滋夫<br />(兼) |- ! colspan="6" | 社会クラブ役員会<br />(1977年 - 1978年) |- !代表 | colspan="6" rowspan="2" | |- |[[田英夫]] |- ! colspan="6" | 社会民主連合常任役員会<br />(1978年 - 1994年) |- ! width="17.0%" | 常任役員会代表 ! width="17.0%" | 常任役員会副代表 ! width="17.0%" | 執行部書記長 ! width="17.0%" | 政策委員長 ! width="16.0%" | 国会対策委員長 ! width="16.0%" | 参議院議員会長 |- |田英夫 |江田五月 |[[楢崎弥之助]] |安東仁兵衛 |[[阿部昭吾]] |田英夫(兼) |- |田英夫 |大柴滋夫 |楢崎弥之助 |安東仁兵衛 |阿部昭吾 |田英夫(兼) |- |江田五月 |安東仁兵衛 |楢崎弥之助 |菅直人 |阿部昭吾 |田英夫 |- |江田五月 |楢崎弥之助 |阿部昭吾 |菅直人 |阿部昭吾(兼) |田英夫 |- |} === 閣僚経験者等 === :()内は、入閣直前の党役職 ; [[細川内閣]] * 国務大臣 :: [[科学技術庁長官]]・江田五月(常任役員会代表) == 党勢の推移 == === 衆議院 === {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- ! 選挙 !! 当選/候補者 !! 定数 !! 備考 |- | (結党時) || 0/- || 511 || 社会市民連合、第34回総選挙前には2 |- | [[第35回衆議院議員総選挙|第35回総選挙]] || 2/7 || 511 || |- | [[第36回衆議院議員総選挙|第36回総選挙]] || 3/5 || 511 || |- | [[第37回衆議院議員総選挙|第37回総選挙]] || 3/4 || 511 || |- | [[第38回衆議院議員総選挙|第38回総選挙]] || 4/5 || 512 || |- | [[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]] || 4/6 || 512 || |- | [[第40回衆議院議員総選挙|第40回総選挙]] || 4/4 || 511 || |} === 参議院 === {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- ! 選挙 !! 当選/候補者 !! 非改選 !! 定数 !! 備考 |- | (結党時) || 0/- || - || 252 || 社会市民連合 |- | [[第11回参議院議員通常選挙|第11回通常選挙]] || 1/10 || 0 || 252 || 社会市民連合 |- | [[第12回参議院議員通常選挙|第12回通常選挙]] || 0/1 || 1 || 252 || 繰上当選+1 |- | [[第13回参議院議員通常選挙|第13回通常選挙]] || 2/10 || 1 || 252 || [[新自由クラブ]]と合同名簿、[[追加公認]]+1 |- | [[第14回参議院議員通常選挙|第14回通常選挙]] || -/0 || 1 || 252 || |- | [[第15回参議院議員通常選挙|第15回通常選挙]] || -/0 || 0 || 252 || |- | [[第16回参議院議員通常選挙|第16回通常選挙]] || 0/10 || 1 || 252 || |} :(参考文献:[[石川真澄]](一部[[山口二郎]]による加筆)『戦後政治史』2004年8月、[[岩波書店]]・[[岩波新書]]、ISBN 4-00-430904-2) *当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ; 注 {{Reflist|group=注}} ; 出典 {{Reflist|}} == 関連項目 == *[[日本の政党一覧]] *[[生活者ネット]] *[[代理人運動]] *[[市民バンク]]:代表[[片岡勝]]は副書記長・東京都連書記長を務めた *[[国のかたち研究会]]([[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党内のグループ]]) == 外部リンク == *[http://www.eda-jp.com/books/usdp/ 社民連十年史 ――草の根のロマン――] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやかいみんしゆれんこう}} [[Category:かつて存在した日本の政党]] [[Category:日本の社会主義政党]] [[Category:日本社会党|分しやかいみんしゆれんこう]] [[Category:社会民主主義の政党]] [[Category:1978年設立の政党・政治団体]] [[Category:1994年廃止の政党・政治団体]]
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於大の方
於大の方(おだいのかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は出家して伝通院と称した。 実名は「大」、または「太」・「たい」。なお、嘉永3年(1850年)10月29日に従一位の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としている。 享禄元年(1528年)、尾張国知多郡の豪族・水野忠政と華陽院(於富)の間に、忠政の居城・緒川城(現・愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた(青山政信の娘で、忠政の養女であったという説あり)。 父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせた(於富の方所生とされる子達の出生年からこれを否定する説もある)。 忠政は、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年(1541年)、松平広忠に於大を嫁がせた。天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を岡崎城で出産した。 天文12年(1543年)2月3日、三河国妙心寺に薬師如来の銅像を奉納して竹千代の長生きを祈念した。 同年7月12日、父・忠政が死去。家督を継いだ兄・信元は、天文13年(1544年)に今川氏と絶縁して織田氏に属した。これにより、同年9月、今川氏との関係を慮った広忠により離縁された。於大は、実家・水野氏の三河国刈谷城(現・刈谷市)に返され、椎の木屋敷で暮らしたとされている。このとき、同様の事情で、松平家広に嫁いでいた、姉・於丈の方も離縁されている。 於大は天文16年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(坂部城、現・阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁した。これは、俊勝が元々水野氏の女性を妻に迎えていたが、妻の死後は水野氏と松平氏の間で帰趨が定まらなかったため、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間に3男4女を儲ける。また、この間にも家康と音信を絶やすことがなかった。 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。 永禄5年(1562年)、上ノ郷城合戦の功により、夫・俊勝が同城を与えられた。同城には、子・康元が入り、俊勝と於大は岡崎城に居住した。 天正3年12月(1576年1月)、兄・水野信元が、謀反を疑った織田信長の命令により、家康に殺され、水野家は一時滅亡した。この時、真相を知らずに家康の下へ信元を案内した久松俊勝は隠退してしまう。また家康の下へ行かずに、尾張国の久松家の所領を継いで織田家に仕えていた久松俊勝の子・久松信俊(俊勝の先妻の子で、於大の子ではない)も信長に謀反を疑われて大坂四天王寺で自害し、所領は没収された。 於大は俊勝の死後、俊勝菩提寺の安楽寺で剃髪して伝通院と号した。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い後、子の定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上したが、強く反対し、家康に断念させた。 慶長7年(1602年)6月、上洛。高台院や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川氏が豊臣氏に敵意がないことを示した。 同年8月29日、家康の滞在する伏見城(現・京都府京都市伏見区)で死去。75歳。 遺骨は、翌年、江戸小石川の傳通院に埋葬された。法名は伝通院殿光岳蓉誉智光(伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼、伝通院殿光岳蓉誉智香大禅定尼)。 なお、於大の出生地・東浦町は彼女を記念して緒川の地に「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。 近年では、天文13年当時まだ対立が本格化していない今川氏や織田氏との関係よりも、水野氏と松平氏の関係自体に離縁の理由が求められている。そもそも、於大と広忠の婚姻自体が、広忠の叔父で「名代」として実権を握っていた松平信孝が推進した外交政策に基づくもので、天文12年(1543年)頃に広忠や重臣たちと対立した信孝が追放されたことで、信孝と関係が深かった水野氏に対する広忠の外交政策が変化したと考えられている。また、信元の正室は広忠と家督を争った松平信定(広忠の大叔父)の娘であったため、信定と敵対関係にあった松平氏に対する信元の外交政策が変化したことも考えられる。 於大の方をモデルとして、2012年(平成24年)4月に誕生した。
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於大の方(おだいのかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は出家して伝通院と称した。 実名は「大」、または「太」・「たい」。なお、嘉永3年(1850年)10月29日に従一位の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としている。
{{脚注の不足|date=2017年8月}} {{Infobox 人物 |氏名= 於大の方 / 伝通院 |ふりがな= |画像= 伝通院.jpg |画像サイズ= |画像説明= 於大の方 |生年月日= [[享禄]]元年([[1528年]]) |没年月日= [[慶長]]7年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[1602年]][[10月13日]]) |墓地= [[伝通院]] |別名= [[法名]]:伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼 |時代= [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]〜[[安土桃山時代]] |配偶者= [[松平広忠]]、[[久松俊勝]] |子供= [[徳川家康]]<br>[[松平康元]]、[[松平康俊|康俊]]、[[松平定勝|定勝]] |親= 父:[[水野忠政]]、母:[[華陽院|於富の方(源応尼)]] |家族= 兄:[[水野信元]]、妹:[[妙春尼|妙春(妙西)尼]]、ほか }} '''於大の方'''(おだいのかた)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての女性。[[松平広忠]]の[[正室]]で、[[徳川家康]]の母。晩年は出家して'''伝通院'''と称した。 実名は「大」、または「太」・「たい」<ref group="注釈">実名は江戸初期編纂『寛永諸家系図伝』「[[水野氏]]」の忠政の女子に「御太方(たいはう)」とあり、同時期[[寛永]]18年([[1641年]])に幕府に提出された「水野勝成覚書」には甥の[[水野勝成|勝成]]が「たいほう」と冒頭系図に書き記している。朝廷から贈られた名前「大子」も読みは「たいこ」であろう。</ref>。なお、[[嘉永]]3年([[1850年]])10月29日に[[従一位]]の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としている。 == 生涯 == [[File:Aichi ogawa castle 02.jpg|thumb|緒川城址の傳通院於大出生地碑(愛知県知多郡東浦町)]] [[File:Zendoji2.JPG|thumb|於大の方が菩提寺に定めた[[善導寺 (愛知県東浦町)|善導寺]](東浦町)]] [[File:Shiinoki Residence Site.jpg|thumb|松平広忠との離縁後に住んだ[[椎の木屋敷]]にある於大の方由緒地の碑(愛知県刈谷市)]] [[File:Denzū-in_or_Denzuin_Temple_Bunkyo_City_Tokyo_Japan_08.jpg|thumb|東京・[[伝通院|傳通院]](伝通院)にある墓(2023)]] [[享禄]]元年([[1528年]])、[[尾張国]][[知多郡]]の豪族・[[水野忠政]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.denzuin.or.jp/all/odai.htm |title=於大の方 |access-date=2023-08-20 |publisher=無量山傳通院}}</ref>と[[華陽院]](於富)の間に、忠政の居城・[[緒川城]](現・[[愛知県]]知多郡[[東浦町]]緒川)で生まれた<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://higashiura-kanko.com/history/odainokata/ |title=於大の方 |access-date=2023-08-20 |publisher=東浦町観光協会}}</ref>([[青山政信]]の娘で、忠政の[[養女]]であったという説あり{{要出典|date=2023年8月}})。 <!--小石川伝通院は正誉上人が於大の墓所をつくっている。甲府徳川菩提寺尊体寺から来た家康である甘利信恒の子で出家僧侶の正誉である{{要出典|date=2023年8月}}。{{独自研究範囲|その甲府徳川宗家僧侶が伝通院を広げて於大の墓所をつくるには於大も春日局同様に甲府の深い関係があったと推測できる。|date=2023年8月}}--> 父・忠政は緒川からほど近い[[三河国]]にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた[[松平清康]]の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせた<ref name=":1" />(於富の方所生とされる子達の出生年からこれを否定する説もある{{要出典|date=2023年8月}})。 忠政は、[[松平氏]]とさらに友好関係を深めるため、[[天文 (元号)|天文]]10年(1541年)<ref name=":0" />、松平広忠に於大を嫁がせた。天文11年12月26日(西暦[[1543年]][[1月31日]])、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を[[岡崎城]]で出産した{{Sfn|中村|1965|p=55}}。 天文12年([[1543年]])2月3日、三河国妙心寺に[[薬師如来]]の銅像を奉納して竹千代の長生きを祈念した{{Sfn|中村|1965|p=58}}。 同年7月12日、父・忠政が死去{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=699}}。家督を継いだ兄・[[水野信元|信元]]は、天文13年([[1544年]])に[[今川氏]]と絶縁して[[織田氏]]に属した{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=699}}。これにより、同年9月、今川氏との関係を慮った広忠により離縁された{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=699}}。於大は、実家・水野氏の三河国[[刈谷城]](現・[[刈谷市]])に返され、[[椎の木屋敷]]で暮らしたとされている。このとき、同様の事情で、[[松平家広 (形原松平家)|松平家広]]に嫁いでいた、姉・[[於丈の方]]も離縁されている{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=699}}。 於大は天文16年([[1547年]])には信元の意向で知多郡[[坂部城跡|阿古居城]](坂部城、現・[[阿久比町]])の城主・[[久松俊勝]]に再嫁した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.denzuin.or.jp/all/nenpu.htm |title=於大の方年表 |access-date=2023-08-20 |publisher=無量山傳通院}}</ref>。これは、俊勝が元々水野氏の女性を妻に迎えていたが、妻の死後は水野氏と松平氏の間で帰趨が定まらなかったため、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間に3男4女を儲ける{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=700}}。また、この間にも家康と音信を絶やすことがなかった<ref name=":0" />。 [[永禄]]3年([[1560年]])の[[桶狭間の戦い]]後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。 永禄5年([[1562年]])、[[上ノ郷城]]合戦の功により、夫・俊勝が同城を与えられた{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=820}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/kaminogo-index.html |title=上ノ郷城跡について |access-date=2023-08-20 |publisher=[[蒲郡市]] |date=2021-03-23 |website=[[蒲郡市博物館]]}}</ref>。同城には、子・[[松平康元|康元]]が入り、俊勝と於大は岡崎城に居住した{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=820}}。 [[天正]]3年12月([[1576年]]1月)、兄・水野信元が、謀反を疑った[[織田信長]]の命令により、家康に殺され、水野家は一時滅亡した。この時、真相を知らずに家康の下へ信元を案内した久松俊勝は隠退してしまう。また家康の下へ行かずに、[[尾張国]]の久松家の所領を継いで織田家に仕えていた久松俊勝の子・[[久松信俊]](俊勝の先妻の子で、於大の子ではない)も信長に謀反を疑われて[[大坂]][[四天王寺]]で自害し、所領は没収された。 於大は俊勝の死後、俊勝菩提寺の[[安楽寺 (蒲郡市)|安楽寺]]で剃髪して伝通院と号した<ref name=":0" /><ref>[http://www.anrakuzi.net/enkaku_1.htm 「由緒・沿革」]浄土宗西山深草派 楠林山和合院 安楽寺{{リンク切れ|date=2023年2月}}</ref>。天正12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]後、子の[[松平定勝|定勝]]が[[羽柴秀吉]]の養子になるという話が浮上したが、強く反対し、家康に断念させた。 [[慶長]]7年([[1602年]])6月、[[上洛]]{{Sfn|東浦町誌編纂委員会|1968|p=67}}。[[高台院]]や[[後陽成天皇]]に拝謁し、[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]に詣でて[[徳川氏]]が[[豊臣氏]]に敵意がないことを示した。 同年8月29日、家康の滞在する[[伏見城]](現・[[京都府]][[京都市]][[伏見区]])で死去{{Sfn|中村|1965|p=341}}<ref name=":0" />。75歳{{Sfn|東浦町誌編纂委員会|1968|p=67}}。 遺骨は、翌年、[[江戸]][[小石川]]の[[伝通院|傳通院]]に埋葬された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/jisha/denzuin.html |title=傳通院(でんづういん) |access-date=2023-08-20 |publisher=文京区役所 |date=2023-07-20}}</ref>。[[法名 (曖昧さ回避)|法名]]は伝通院殿光岳蓉誉智光{{Sfn|中村|1965|p=343}}(伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼<ref name=":1" />、伝通院殿光岳蓉誉智香大禅定尼{{Sfn|東浦町誌編纂委員会|1968|p=67}})。 なお、於大の出生地・[[東浦町]]は彼女を記念して緒川の地に「[[於大公園]]」を整備し、毎年「於大まつり」を催している<ref name=":0" />。 == 松平家との離別について == 近年では、天文13年当時まだ対立が本格化していない今川氏や織田氏との関係よりも、水野氏と松平氏の関係自体に離縁の理由が求められている。そもそも、於大と広忠の婚姻自体が、広忠の叔父で「名代」として実権を握っていた[[松平信孝 (戦国時代)|松平信孝]]が推進した外交政策に基づくもので、天文12年(1543年)頃に広忠や重臣たちと対立した信孝が追放されたことで、信孝と関係が深かった水野氏に対する広忠の外交政策が変化したと考えられている<ref name=ogawa>{{Citation|和書|author=小川雄|chapter=今川氏の三河・尾張経略と水野一族|editor=戦国史研究会|title=論集 戦国大名今川氏|publisher=岩田書院|year=2020|pages=166-168|isbn=978-4-86602-098-3}}</ref>。また、信元の正室は広忠と家督を争った[[松平信定]](広忠の大叔父)の娘であったため<ref>新行紀一 「第3節 戦国領主 水野信元」、刈谷市史編さん編集委員会編 『刈谷市史 第2巻 本文(近世)』、1994年。/所収:{{Harvnb|大石|2019|pp=183-200}}</ref>、信定と敵対関係にあった松平氏に対する信元の外交政策が変化したことも考えられる<ref group="注釈">ただし、信定と広忠の対立を否定する新説(村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』岩田書院、2023年)もあり、今後の研究動向に注意を要する。</ref>。 == 逸話 == *『[[松平記]]』(巻5)によると、水野忠政は2人の娘のうち、姉・於丈を[[形原松平家]]の[[松平家広 (形原松平家)|松平家広]]に、妹・於大を松平宗家の松平広忠に嫁がせていたが、後を継いだ信元が今川方から織田方に転じた時に家広と広忠はこれに同調せずに信元と縁を切ってそれぞれの妻を実家に送り返すことにした。ところが、岡崎領と刈谷領の境界に来た時に、於大は付き添ってきた松平家の家臣にここから岡崎城に帰るように命じた。家臣たちはそれでは広忠の主命に背くことになると述べたが、於大は信元が送ってきた松平の家臣を辱める振舞いに出て両家に遺恨が生じるかもしれないから是非帰るように指示をすると、近くにいた水野家側の領民に於大を載せた輿を託して岡崎城に帰還していった(『松平記』の著者はその時の侍の中に自分の父がいたと述べている)。その後、於丈を送り届けた形原松平家の家臣たちは城内にて信元に討ち取られたと伝えている<ref>新行紀一 「第3節 戦国領主 水野信元」、刈谷市史編さん編集委員会編 『刈谷市史 第2巻 本文(近世)』、1994年。/所収:{{Harvnb|大石|2019|pp=185-186}}</ref>。ただし、形原松平家については、実際には松平家広は信元に同調して離縁せずに織田方に転じ、後に広忠や今川氏と戦ったと考えられている<ref>小川雄「戦国・豊臣大名徳川氏と形原松平氏」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』岩田書院、2017年、42-43頁。ISBN 978-4-86602-013-6。</ref>。 == 家族 == * 兄:[[水野信元]] * 妹:[[妙春尼|妙春(妙西)尼]]{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=961}}。[[石川清兼]]の後室、[[石川家成|家成]]の母{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=961}}。於大離別後、家康の養育に関わった{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=961}}。また、熱心な[[一向宗]]([[本願寺]])の[[門徒]]であり、三河国で20年来禁止されていた同宗の復活に尽力した{{Sfn|新編岡崎市史編集委員会|1989|p=961}}。 == 子女 == *松平広忠との間の子 **[[徳川家康]] *久松俊勝との間の子 **[[松平康元]] **[[松平康俊]] **[[松平定勝]] **[[多劫姫]]、[[松平忠正]]夫人(後に[[松平忠吉 (桜井松平家)|松平忠吉]](忠正実弟)・[[保科正直]]に再嫁) ** [[松姫 (久松俊勝の娘)|松姫]]、[[松平康長]]夫人 ** [[天桂院]]、[[松平家清]]夫人 == 登場する作品 == === テレビドラマ === * 『[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]』([[1983年]]、[[NHK大河ドラマ]]、 演:[[大竹しのぶ]]) * 『[[葵 徳川三代]]』 ([[2000年]]、NHK大河ドラマ、演:[[山田五十鈴]]) * 『[[おんな城主 直虎]]』([[2017年]]、NHK大河ドラマ、演:[[栗原小巻]]) * 『[[麒麟がくる]]』([[2020年]]、NHK大河ドラマ、演:[[松本若菜]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20200531dog00m200027000c.html |title=麒麟がくる:“於大の方”松本若菜 家康の母としての思い…「文を読むほどに、思いが爆発」 |access-date=2023-08-20 |website=[[MANTANWEB]](まんたんウェブ) |date=2020-05-31}}</ref> * 『[[どうする家康]]』([[2023年]]、NHK大河ドラマ、演:[[松嶋菜々子]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20221107031332/https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=36159 |title=【第5弾】2023年 大河ドラマ「どうする家康」“重要な登場人物” を発表! |access-date=2023-08-20 |publisher=NHK |date=2022-11-07 |website=NHK_PR}}</ref> == 東浦町観光マスコット「おだいちゃん」 == 於大の方をモデルとして、2012年(平成24年)4月に誕生した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.aichi-higashiura.lg.jp/higashiura_kurasu/higashiuratoieba/1455251692838.html |title=家康の母、於大の方(おだいのかた) |access-date=2023-08-20 |publisher=東浦町役場 |website=東浦で暮らす}}</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|last=中村|first=孝也|title=徳川家康公傳|publisher=東照宮社務所|year=1965}} * {{Citation|和書|date=1968-06|title=東浦町誌|editor=東浦町誌編纂委員会|publisher=東浦町教育委員会|id={{NDLJP|9569131}}|ref={{SfnRef|東浦町誌編纂委員会|1968}}}}{{要登録}} * {{Citation|和書|date=1989-03-31|title=岡崎市史|volume-title=中世 2|editor=新編岡崎市史編集委員会|edition=新編|publisher=新編岡崎市史編さん委員会|id={{NDLJP|9540743}}|ref={{SfnRef|新編岡崎市史編集委員会|1989}}}}{{要登録}} * {{Citation|和書|editor-last=大石|editor-first=泰史|title=今川義元|publisher=戎光祥出版|series=シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻|year=2019|isbn=978-4-86403-325-1}} == 関連項目 == {{commonscat|Odai no kata}} *[[久松氏]] *[[乾坤院]] *[[徳川家康の影武者説]] *[[長勝院]] - 『知立市史』によると外姪にあたる。 == 外部リンク == * [https://www.town.aichi-higashiura.lg.jp/higashiura_kurasu/higashiuratoieba/1455251692838.html 家康の母、於大の方(おだいのかた)] - 東浦で暮らす([[東浦町|東浦町役場]]) * [https://higashiura-kanko.com/history/odainokata/ 於大の方] - 東浦町[[観光協会]] * [https://www.town.agui.lg.jp/contents_detail.php?frmId=184 於大の方] - 阿久比町 * {{Kotobank}} * {{Kotobank|1=伝通院}} * [http://www.denzuin.or.jp/all/odai.htm 於大の方] - 無量山傳通院 {{徳川家康の系譜}} {{明正天皇の系譜}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おたいのかた}} [[Category:16世紀日本の女性]] [[Category:17世紀日本の女性]] [[Category:戦国時代の女性 (日本)]] [[Category:安土桃山時代の女性]] [[Category:江戸時代の女性]] [[Category:徳川家康]] [[Category:緒川水野家|たい]] [[Category:安祥松平氏|たい]] [[Category:久松氏|たい]] [[Category:三河国の人物]] [[Category:尾張国の人物]] [[Category:1528年生]] [[Category:1602年没]]
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16,806
小林ひとみ
小林 ひとみ(こばやし ひとみ、1963年9月2日 - )は、日本の元AV女優・元ストリッパー。 1986年3月、"松本かおり"の芸名で『ときめき・KAORI19歳』というタイトルの写真集、同年5月には同名のイメージビデオを発売し、芸能界デビューを果たす。 さらに同月、芸名を現在の"小林ひとみ"に変え、『禁じられた関係』でアダルトビデオにデビュー(ビデオデビュー直前の時期に、群馬テレビでのアダルト系番組に出演したこともあり、番組内では上半身のヌードも披露したこともある)。デビュー作は当時1本1万円以上する時代でありながら、5万本の販売を記録した。 アダルトビデオをサブカルチャーにおけるジャンルの一種として確立させた功労者であり、「AV女優」という呼称が一般化したのは小林ひとみが出てからであるとも言われている。 なおAVデビュー作は「ラブシーンのあるビデオ作品」としか知らされておらず、騙されたと思い、出る、出ないで4時間話し合いを行った。 1988年9月2日に所属事務所「ビー・プロジェクト」の社長・湯沢利文と結婚して休業宣言。1991年ストリップで復帰し、浅草ロック座を皮切りに全国公演を行うなどしていた。アダルトビデオにも断続的に出演を続けていたが、1998年には本格復帰、年齢からくる容色の衰えはさほど見られず、熟女女優として人気を博した。 2003年12月、『小林ひとみ FINAL』(上下巻)を最後にアダルトビデオから引退宣言した。同時期、『週刊ポスト』誌上で年齢を2つサバ読みしていて、1963年生まれと告白したが、公式プロフィールは変更されていない。また、あくまでアダルトビデオを引退しただけで、裸のイメージ作品を発売したり、ドラマ『特命係長 只野仁』で濃厚なベッドシーンを演ずるなどの活躍をした。 引退前から六本木のクラブでホステスをやっており、2008年から銀座のクラブ「さふぁいあ」の雇われママになり、2009年にはオーナーママとして「HITOMI.K」を開店する。「HITOMI.K」は2016年に閉店し、1年後に「エルプリンセス」の雇われママとなる。2019年にはオープン10年を迎え雑誌「アサヒ芸能」にインタビューを受けており、店には「週3で出ている」と答えている。 2010年7月、夫と協議離婚した。 アダルト出演の絶頂期作品として、本格的海外ロケ(ロンドン)で制作された「小林ひとみ イン ロンドン」の三部作がある。 1987〜1988年頃、静岡県清水市(現在の静岡市清水区)にあったレンタルビデオ店「フライデー」のテレビCM(放送は静岡ローカルで午前0時台以降の深夜帯に放送されていた)へも出演しており、同時に同店のイメージキャラクターも務めていた。 全盛期は撮影に追われていたため人気を実感することはなかったが、その後握手会を行い1000人が来た際に人気を実感した。またビデオの累計売り上げは約60億円と言われている。 趣味は編み物、読書。特技は日舞、読書。
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小林 ひとみは、日本の元AV女優・元ストリッパー。
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なおAVデビュー作は「ラブシーンのあるビデオ作品」としか知らされておらず、騙されたと思い、出る、出ないで4時間話し合いを行った<ref name=":1">徳間書店「週刊アサヒ芸能」2019年9月19日特大号46頁</ref>。 1988年9月2日に所属事務所「ビー・プロジェクト」の社長・[[湯沢利文]]と結婚して休業宣言。1991年[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]で復帰し<ref name="bubka"/>、[[浅草ロック座]]を皮切りに全国公演を行うなどしていた。アダルトビデオにも断続的に出演を続けていたが、1998年には本格復帰、年齢からくる容色の衰えはさほど見られず、熟女女優として人気を博した<ref name="bubka"/>。 2003年12月、『小林ひとみ FINAL』(上下巻)を最後にアダルトビデオから引退宣言した<ref name="bubka"/>。同時期、『[[週刊ポスト]]』誌上で年齢を2つサバ読みしていて、1963年生まれと告白したが、公式プロフィールは変更されていない。また、あくまでアダルトビデオを引退しただけで、裸のイメージ作品を発売したり、ドラマ『[[特命係長 只野仁 (テレビドラマ)|特命係長 只野仁]]』で濃厚なベッドシーンを演ずるなどの活躍をした。 引退前から[[六本木]]のクラブでホステスをやっており、2008年から[[銀座]]のクラブ「さふぁいあ」の雇われママになり、2009年にはオーナーママとして「HITOMI.K」を開店する。「HITOMI.K」は2016年に閉店し、1年後に「エルプリンセス」の雇われママとなる<ref>{{cite news|url=https://www.news-postseven.com/archives/20210910_1689442.html?DETAIL|title=伝説のセクシークイーン・小林ひとみ 銀座で過ごす「第2の人生」|date=2021-9-10|publisher=小学館|newspaper=Newsポストセブン|accessdate=2021-9-12}}</ref><ref>{{Cite web |title=“伝説のAV女優”小林ひとみさん 銀座高級クラブで雇われママ、コロナ休業中はゲーマー加速|あの人は今こうしている 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宮原麻由子 役 * 小林ひとみの令嬢物語(1987年12月19日、にっかつ) * 小林ひとみの獣愛(1988年4月16日、[[新東宝]]) * [[死霊の罠]](1988年5月14日、[[ジョイパックフィルム]])- 麗 役 * 彼女2(1990年2月10日、[[アスミック]]) * ラ・ヴァルス(1990年2月15日、[[エクセスフィルム]]) * 小林ひとみ 男狂い有閑マダム(1996年7月22日、[[大蔵映画]]) * 小林ひとみ 快楽熟女とろける(1997年7月14日、大蔵映画) * 女子高生物語 淫らな果実(1997年10月10日、[[東映ビデオ]]) * 愛染恭子VS小林ひとみ 発情くらべ(2001年2月2日、[[Xces Film]]) * 小林ひとみ 抱きたい女、抱かれたい女(2002年5月31日、Xces Film) ===オリジナルビデオ=== * [[団鬼六]] 夕顔夫人 淫舞地獄(1994年5月13日、[[ピンクパイナップル]])- 島原夢路 役 * モザイク崩し(1997年2月22日、[[ティーエムシー]]) * 美人課長二十八歳2 快楽通信Volume10(1997年4月25日、ピンクパイナップル) * 女教師 痴漢調教(1999年9月22日、[[ENGEL]]) * 蜜恥母(2001年1月21日、[[GPプラス]])- 由貴子 役 * 淫乱熟女(2001年1月26日、[[サブマリン・フィルムズ]]) * 団鬼六 幻想夫人(2006年2月24日、ピンクパイナップル)- 大河内緋沙子 役 === テレビドラマ === * [[OL三人旅シリーズ#OL 三人旅|OL 三人旅 北海道露天風呂連続殺人]]([[フジテレビ]]、1987年9月25日)- 奥野順子 役 * [[季節はずれの海岸物語 (第1作)|季節はずれの海岸物語]](フジテレビ、1988年1月1日)- 広美 役 * [[特命係長 只野仁 (テレビドラマ)|特命係長 只野仁(2ndシーズン)]] 第17話「女子アナスキャンダル」([[テレビ朝日]]、2005年2月18日)- 山岸郁代 役 === バラエティ === * [[CLUB紳助|紳助のMTV倶楽部]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]]、1987年11月14日) * [[じっくり聞いタロウ〜スター近況(秘)報告〜]]([[テレビ東京]]、2021年11月18日<ref>{{Citation|title=累計売上60億円!伝説のセクシー女優・小林ひとみ、今何してる?:じっくり聞いタロウ|テレ東プラス|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/entertainment/entry/2021/024891.html|accessdate=2021-12-18|language=ja|first=株式会社テレビ東京-TV TOKYO|last=Corporation}}</ref>) === 声優出演 === * [[ピンクのカーテン#OVA版|オリジナル・アダルト・アニメ ピンクのカーテン]]([[アトラスにじゅういち|VIP]]、1987年)- 奥村野理子 役 == 作品 == === 写真集 === * ときめき KAORI 19歳<ref group=注 name=松本かおり>松本かおり名義</ref> GIRLFRIEND Series2 快楽BOY3月15日増刊([[古川春彦]]撮影/[[協立出版]]、1986年3月) * 複合過去 [[S&Mスナイパー]]特別編集<ref group=注 name=松本かおり/>([[岡本丈二]]撮影/[[ミリオン出版]]、1986年7月) * 小林ひとみ マドンナメイト写真文庫([[武蔵野大門]]撮影/[[マドンナ社]]、1986年7月) * 茉莉花 ニューアイドル写真集([[神渡信平]]撮影/[[大陸書房]]、1986年11月) * 触れたら吐息([[斉木弘吉]]撮影/[[ワニブックス]]、1986年11月) * 小林ひとみ スコラスペシャル16([[鯨井康雄]]撮影/[[講談社]]、1987年1月) * こころのこり ピラミッド写真文庫 ニューアイドル写真集(神渡信平撮影/[[ピラミッド社]][大陸書房]、1987年3月) * 魔性([[平田友二]]撮影/[[辰巳出版]]、1987年6月) * PRIVATE ALBUM Hitomi Kobayashi in London([[会田我路]]撮影/[[勁文社]]、1987年8月) * 素肌感の女たち 競艶セクシィ・クイーン・ベスト7(ワニブックス、1987年9月) * 小林ひとみインロンドン グリーンドア文庫(会田我路撮影/[[グリーンドア社]][勁文社]、1987年9月) * TOUCH ME EICHI MOOKヒロインシリーズ([[前場輝夫]]撮影/[[英知出版]]、1987年12月) * 小林ひとみ写真集 別冊スコラ42(会田我路撮影/スコラ[講談社]、1988年2月) * ビデオクイーンアルバム ヒロインの肖像(斉木弘吉撮影/[[青人社]]、1988年5月) * HITOMI([[河合孝雄]]撮影/[[近代映画社]]、1988年8月) * 小林ひとみPARTⅡ マドンナメイト写真文庫([[中村誠作]]撮影/マドンナ社[二見書房]、1988年6月) * FINAL: ひとみより さ・よ・う・な・ら。(会田我路撮影/大陸書房、1988年11月) * イムモラル 甦るAVクイーン 愛奴写真館ジャジャスペリール ピラミッドムック(岡本丈二撮影/大陸書房、1991年6月) * 25人の置き手紙 別冊スコラ18([[平地勲]]撮影/スコラ、1991年12月) * 背徳の美学 PYRAMID BOOKS 愛奴写真文庫ジャジャ(岡本丈二撮影/ピラミッド社[大陸書房]、1992年1月) * 愛奴 SLAVE LOVER PaPala Books([[藪下修]]撮影/[[TIS]][ワニブックス]、1992年6月) * VENUS ヴィーナス [[藤田和宣]]写真集 タツミムック(藤田和宣撮影/辰巳出版、1992年11月) * 美縛の麗人 13人の被虐妖精 ミリオンムック(大木真澄撮影/ミリオン出版[大洋図書]、1993年4月) * 月刊ザ・テンメイ6号(1993年9月号)([[加納典明]]撮影/[[竹書房]]、1993年9月) * きクぜ! 月刊ザ・テンメイ総集編(加納典明撮影/竹書房、1994年2月) * [[ロマンポルノ]]・ロマン ロマンポルノ女優写真集〈PART2〉(河合孝雄撮影/竹書房、1995年5月) * LOVE-KILLS 愛奴 大木真澄大全集([[大木真澄]]撮影/[[海王社]]、1996年5月) * 艶姿女図鑑 第弐帖 甲斐路・夏([[佐藤健]]撮影/スープレックス、1999年9月) * 小林ひとみ写真集 女神シリーズ4(会田我路撮影 /[[ぶんか社]]、1999年10月) * 愁([[荒木経惟]]撮影/[[双葉社]]、2001年12月) * 生贄夫人(会田我路撮影/ぶんか社、2002年6月) * 女神伝説(会田我路撮影/[[双葉社]]、2002年7月) * Memories of Hitomi Kobayashi since 1987 小林ひとみ豪華写真集(会田我路撮影/ぶんか社、2002年11月) * よみがえる小林ひとみ 幻の花芯 本番深くうめて4 Rivival Collection3(鹿砦社、2003年3月) * 生贄夫人 Bunkasya Sexy Novels1([[華先亜輝]]小説・会田我路写真/ぶんか社、2003年3月) * LOVE 性 SAGA 2005(佐藤健撮影/stat-film、2005年)(限定1000部) * 美熟([[高橋生健]]撮影/竹書房、2007年3月) * 蜜 竹書房艶写文庫(佐藤健撮影/竹書房、2013年1月) === イメージビデオ === * ときめき・かおり19歳<ref group=注>松本かおり名義デビュー作品</ref> GIRL FRIEND VOL.1(1986年5月1日、ダックス) * 永久に・・・ 永遠に・・・(2005年4月22日、[[イーネットフロンティア]] SCS-04) * 生贄夫人(2006年3月24日、ぶんか社 BKDV-00166) * 美熟(2007年3月23日、竹書房 TSDV-41116) * again(2008年11月28日、[[Garo Impact]] GGGG-011) * Reunion vol,1 再会(2008年12月26日、Garo Impact GPPP-010) === アダルトビデオ === * 小林ひとみ 禁じられた関係(1986年5月15日、VIP) * 色情 小林ひとみ(1986年7月5日、VIP) * 小林ひとみ お口に誘って(1986年8月5日、[[新東宝]]) * 溺愛(1986年9月5日、VIP) * 見られたいの 小林ひとみ(1986年10月10日、[[現映社]]) * 小林ひとみ 天使の口脣(1986年10月15日、新東宝) * ミルキーデビル 邪夢猫(1986年10月15日、[[アリスジャパン]]) * 燃えつきるまで 小林ひとみ(1986年11月15日、VIP) * 夢で逢えたら アイドルクィーン(1986年11月15日、[[SHOWA]]) * ミステリークィーン 恋の異星人(1986年12月1日、[[シャリオ]]) * さよならの前に 小林ひとみ(1986年12月10日、[[ホップ]]) * ひとみ先生のクライマックスは御一緒に(1986年12月21日、新東宝) * みだらな瞳 小林ひとみ(1987年1月10日、フェニックス) * 性獣トライアングル〜暴かれたハネムーン〜(1987年2月10日、アリスジャパン)共演:[[高杉レイ]]、[[沢口久美]] * 夢犯恋人 小林ひとみ(1987年2月15日、[[JVD]]) * 小林ひとみ 悪女(1987年2月15日、新東宝) * 下半身の女 小林ひとみ(1987年3月1日、[[スリーパーツ]]) * セクシーバイオレンス 小林ひとみ(1987年3月10日、アリスジャパン) * 小林ひとみ 魔性(1987年4月25日、新東宝) * 小林ひとみ 桃色情交 ロックビートは危険なささやき(1987年5月15日、SHOWA) * 小林ひとみ ミッドナイトコールに乱れて(1987年4月25日、[[にっかつビデオフィルムズ]])共演:高杉レイ * 小林ひとみ 熱狂 イン ロンドン(1987年7月11日、VIP) * 小林ひとみ 失神 イン ロンドン2(1987年8月27日、VIP) * ズームアップスペシャル(1987年9月25日、アリスジャパン)共演:[[前原祐子]] * 小林ひとみ 喝采 イン ロンドン3(1987年10月22日、VIP) * ザ・バイブル 小林ひとみ(1987年11月15日、アリスジャパン) * 挑発 深くうめて2(1987年、[[Five Star]]) * マン開スケベ絵巻(1988年3月15日、JVD) * 小林ひとみの獣愛(1988年4月15日、イースト) * 性獣トライアングル2(1988年5月15日、アリスジャパン)共演:[[高樹陽子]]、[[朝吹麻耶]] * トパーズ(1993年7月21日、[[クキ]]) * ブラックパール(1993年8月31日、クキ) * もろなめ夫人(1993年10月15日、クキ) * いもしゃぶり夫人(1993年12月24日、クキ) * 背徳の絆(1998年11月26日、クキ) * 背徳の洗礼(1999年3月23日、クキ) * マダムスロート 奥の淫(1999年6月28日、クキ) * 極私性(1999年9月25日、クキ) * 女教師姦粘膜(1999年12月20日、クキ) * 刺激療法 女医 小林ひとみ(2000年3月22日、クキ) * ミセス弁護士 小林ひとみ 肉欲のローン地獄(2000年4月15日、[[ケイネットワーク]]) * ミセス弁護士 小林ひとみ 禁欲の医療ミス(2000年4月15日、ケイネットワーク) * ミセス弁護士 小林ひとみ 愛欲のせっ盗(2000年4月15日、ケイネットワーク) * パーフェクト・スナイパー(2000年6月29日、クキ) * 熟爛漫スペシャル(2000年8月20日、[[ソフトオンデマンド]]) * 監禁(2000年10月25日、ソフトオンデマンド) * 義母ひとみ(2000年10月25日、ソフトオンデマンド) * Clubシャネル 前編(2000年11月1日、[[MOODYZ]]) * Clubシャネル 後編(2000年12月1日、MOODYZ) * 禁断喪服妻 妻、母を捨てた女の情事(2001年2月28日、[[マジカルバナナ]]) * レズビアン女汁(2001年4月13日、アリスJAPAN)共演:[[清水ひとみ]] * TABOO 近親相姦 壊れていく女(2001年6月1日、QUEST (MOODYZ))共演:[[宮澤ゆうな]] * 巨乳喪服妻9(2001年6月18日、[[笠倉出版社]]) * 女教師歔く(2001年7月31日、[[マクスエー]]) * 義母・レズ第一章(2001年8月13日、笠倉出版社)共演:[[小嶋マリ]] * ロマン・サクセス(2001年9月14日、笠倉出版社) * 熟爛漫 淫欲の果て~シリーズ第4巻(2001年9月20日、ソフトオンデマンド)共演:[[立花優]] * 極妻レズ イヴの快感(2001年9月21日、アリスJAPAN)共演:[[愛染恭子]] * 憧れの温泉おかみさん(2002年3月1日、笠倉出版社) *女医奈緒美のゆうつ(2002年4月21日、[[V&Rプランニング]])共演:[[冴島奈緒]] [[川奈まり子]] *女医奈緒美 衝撃の初体験(2002年4月21日、V&Rプランニング)共演: 冴島奈緒 川奈まり子 *女医奈緒美 禁断の愛そして旅立ち(2002年4月21日、V&Rプランニング)共演: 冴島奈緒 川奈まり子 *奴隷秘書37 小林ひとみ(2002年6月14日、[[シネマジック]]) * 小林ひとみFINAL(2003年12月31日、クキ) === カセット === * マドンナメイトカセット 小林ひとみ 愛はスローテンポで(1987年4月1日、二見書房)<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/4576870475 マドンナメイトカセット] - amazon 2022年5月3日閲覧</ref> === シングル === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 |- ! ※ | 1987年12月16日 || '''ピンクのカーテン'''<ref group=注>同名のOVAのテーマ曲によるシングル盤。B面は同OVAのエンディングテーマ曲「ラストシーン-野理子のテーマ-」</ref> || |} == その他 == === ゲーム === *小林ひとみのホールドアップ([[ハッカーインターナショナル]]) *小林ひとみパズルインロンドン(インフォマーシャル、1988年)※プラットフォームは[[MSX|MSX2]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === <span style="color:red">(18歳未満閲覧禁止のサイトを含みます)</span> {{Reflist}} == 外部リンク == ※以下は、[[18禁]]サイト * [https://www.alicejapan.co.jp/actress.php?actress_id=0ec319fa734e75f96830aabc1638e584 アリスJAPAN 女優詳細 小林ひとみ] * [https://xcity.jp/idol/detail/837/ XCITY AVアイドル名鑑 小林ひとみ] * [https://fs.xcity.jp/aja/archives/free/alice/webfile/hitomi_k/index.html 小林ひとみ Web file] {{デフォルトソート:こはやし ひとみ}} {{Pornstar-stub}} [[Category:日本のAV女優]] [[Category:アリスJAPAN女優]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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豊後国
豊後国(ぶんごのくに、7世紀末 - 1872年)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の大分県に属する。 明治維新直前の領域は、現在の大分県から下記を除いた区域に相当する。 古墳時代には国東半島中心とした地域に国前国造、大分郡を中心とした地域に大分国造、日田郡を中心とした地域に比多国造が設置された。 飛鳥時代の大化の改新のあとの701年に律令制(大宝律令)が施行され、九州全体は西海道の一部になり、それまでの豊国(とよのくに)が分割され、豊後国と豊前国が設けられた。 また8世紀前半の編纂とされている『豊後国風土記』は、全国で5つだけのほぼ完全な形で残る風土記の1つである。 豊後国は、平安時代まで和名で「とよ くにの みちのしり」と読んだ。 平安時代末期の1185年、治承・寿永の乱(源平合戦)で平家が滅びた後、源頼朝は親平家方であった九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国御家人の大友氏を守護として九州に送り込んだ。豊後国では大友御紋衆の一萬田氏や大友の下り衆が次第に勢力を強め、国衆であった丹部氏、漆嶋氏、宇佐氏、大神氏、清原氏、藤原氏、阿南氏、稙田氏、大野氏、臼杵氏、緒方氏、賀来氏、佐伯氏、橋爪氏など在地武家を抑え込んだ。 鎌倉時代から室町時代も大友氏が守護であり、戦国時代から安土桃山時代にかけては争いごとも盛んに起きた。 21代目大友宗麟の時代には、ポルトガルやカンボジアとの交易も拡大した。 1803年に唐橋世済他が編纂した『豊後国志』に当時の豊後国に関する趨勢統計や史跡史実が纏められている。 国府は大分郡にあった。現在の大分市古国府と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。 二宮以下は不詳である。
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豊後国は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の大分県に属する。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 豊後国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|豊後国}} |別称 = 豊州(ほうしゅう)<br/>二豊(にほう)<ref group="注釈">別称の「豊州」は、[[豊前国]]とあわせて、または単独での呼称。また、「二豊」は、豊前国とあわせての呼称。</ref> |所属 = [[西海道]] |領域 = [[大分県]]大部分([[宇佐市]]・[[中津市]]除く) |国力 = [[上国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 8郡44郷 |国府 = 大分県[[大分市]] |国分寺 = 大分県大分市([[豊後国分寺|豊後国分寺跡]]) |国分尼寺 = (推定)大分県大分市 |一宮 = [[西寒多神社]](大分県大分市)<br/>[[柞原八幡宮]](大分県大分市) }} '''豊後国'''(ぶんごのくに、[[7世紀]]末 - [[1872年]])は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に属し、現在の[[大分県]]に属する。 == 領域 == [[明治維新]]直前の領域は、現在の[[大分県]]から下記を除いた区域に相当する。 * [[豊後高田市]]の一部(水崎) * [[宇佐市]]の大部分(安心院町南畑を除く) * [[中津市]]の大部分(山国町長尾野を除く) == 沿革 == === 古代 === [[古墳時代]]には[[国東半島]]中心とした地域に[[国前国造]]、[[大分郡]]を中心とした地域に[[大分国造]]、[[日田郡]]を中心とした地域に[[比多国造]]が設置された。 [[飛鳥時代]]の[[大化の改新]]のあとの701年に[[律令制]]([[大宝律令]])が施行され、九州全体は[[西海道]]の一部になり、それまでの[[豊国]](とよのくに)が分割され、豊後国と[[豊前国]]が設けられた<ref>[[続日本紀]]。</ref>。 また8世紀前半の編纂とされている『[[豊後国風土記]]』は、全国で5つだけのほぼ完全な形で残る[[風土記]]の1つである。 豊後国は、平安時代まで和名で「'''とよ くにの みちのしり'''」と読んだ。{{efn|豊(とよ)国(くにの)後(みちのしり)と、漢文の返り読みに似た読み方である。同様に、豊前国のほうは、「とよ くにの みちのくち」と読んだ。}} ===中世=== [[平安時代]]末期の1185年、[[治承・寿永の乱]](源平合戦)で[[平家]]が滅びた後、[[源頼朝]]は親平家方であった九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国御家人の[[大友氏]]を守護として九州に送り込んだ。豊後国では大友御紋衆の[[一萬田氏]]や大友の下り衆が次第に勢力を強め、国衆であった[[丹部氏]]、[[漆嶋氏]]、[[宇佐氏]]、[[大神氏 (豊後国)|大神氏]]、[[清原氏]]、[[藤原氏]]、[[阿南氏]]、[[稙田氏]]、[[大野氏 (豊後国)|大野氏]]、[[臼杵氏]]、[[緒方惟栄|緒方氏]]、[[賀来氏]]、[[佐伯氏 (豊後国)|佐伯氏]]、[[橋爪氏]]など在地武家を抑え込んだ。 [[鎌倉時代]]から[[室町時代]]も大友氏が守護であり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけては争いごとも盛んに起きた。 * 1530年([[享禄]]3年) [[賀来の騒動]] - 大友御紋衆[[清田氏]]と国衆との争い * 1534年([[天文 (元号)|天文]]3年) [[勢場ヶ原の戦い]] - [[大友義鑑]] x [[大内義隆]]([[陶興房]]) * 1570年([[元亀]]元年) [[今山の戦い]] * 1578年([[天正]]6年) [[耳川の戦い]] * 1586年([[天正]]14年) 天正の役([[豊薩合戦]])、[[九州平定]] * 1586年([[天正]]14年)[[戸次川の戦い]] - 豊臣 x 島津 * 1600年(慶長5年) [[石垣原の戦い]] - [[黒田孝高|黒田如水]] x [[大友義統]] 21代目[[大友義鎮|大友宗麟]]の時代には、[[ポルトガル]]や[[カンボジア]]との交易も拡大した。 === 江戸時代 === 1803年に[[唐橋世済]]他が編纂した『[[豊後国志]]』に当時の豊後国に関する趨勢統計や史跡史実が纏められている。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1812村・46万611石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。 ** [[国東郡]](207村・8万1399石余) - [[天領|幕府領]](熊本藩[[預地]])、[[地方知行|旗本領]]、杵築藩、[[肥前国|肥前]][[島原藩]]、[[日向国|日向]][[延岡藩]] ** [[速見郡]](123村・5万9230石余) - 幕府領(熊本藩預地)、旗本領、'''[[杵築藩]]'''、'''[[日出藩]]'''、森藩、日向延岡藩 ** [[大分郡]](269村・7万1302石余) - 幕府領(熊本藩預地)、旗本領、'''[[府内藩]]'''、臼杵藩、岡藩、[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]、日向延岡藩 ** [[海部郡 (豊後国)|海部郡]](317村・6万2275石余) - 幕府領(佐伯藩預地)、'''[[臼杵藩]]'''、'''[[佐伯藩]]'''、肥後熊本藩 ** [[大野郡 (大分県)|大野郡]](460村・7万2685石余) - 岡藩、臼杵藩 ** [[直入郡]](303村・4万9799石余) - 幕府領(熊本藩預地)、'''[[岡藩]]'''、肥後熊本藩 ** [[玖珠郡]](40村・3万841石余) - 幕府領([[西国筋郡代]])、'''[[森藩]]''' ** [[日田郡]](93村・3万3076石余) - 幕府領(西国筋郡代)、森藩 * [[慶応]]4年 ** [[閏]][[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[1868年]][[6月15日]]) - 西国筋郡代の管轄区域が'''[[日田県]]'''の管轄となる。 ** [[8月28日 (旧暦)|8月28日]](1868年[[10月13日]]) - 熊本藩預地が日田県の管轄となる<ref name="chihoshi">{{Cite journal|和書|author=末広利人 |url=http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=kc10502 |title=日田県管地化の実体 : 佐伯藩預所の場合 |journal=大分縣地方史 |publisher=大分県地方史研究会 |year=1982 |month=mar |issue=105 |pages=20-37 |naid=120004878384}}</ref>。 ** 8月 - 旗本領が日田県の管轄となる。 * 明治3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]([[1871年]][[2月13日]]) - 佐伯藩預地が日田県の管轄となる<ref name="chihoshi" />。 * 明治4年 ** [[2月22日 (旧暦)|2月22日]](1871年[[4月11日]]) - 領知替えにより延岡藩領が日田県の管轄となる。 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[森県]]'''、'''[[岡県]]'''、'''[[臼杵県]]'''、'''[[佐伯県]]'''、'''[[府内県]]'''、'''[[杵築県]]'''、'''[[日出県]]'''および[[熊本県]]、[[島原県]]の飛地となる。 ** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''[[大分県]]'''の管轄となる。 == 国内の施設 == === 国府 === [[国府]]は大分郡にあった。現在の[[大分市]]古国府と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。 === 国分寺・国分尼寺 === ; [[豊後国分寺]] : 現在の金光明寺(大分県大分市国分)。 === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社1座1社・小社5座4社の計6座5社が記載されている(「[[豊後国の式内社一覧]]」参照)。大社1社は、[[名神大社]]ではない。 * [[直入郡]] [[健男霜凝日子神社]] (竹田市) * [[大分郡]] [[西寒多神社]] (大分市寒田) - '''大社'''。 * [[速見郡]] [[宇奈岐日女神社]] (由布市) * 速見郡 [[火男火売神社]]二座 (別府市) * [[海部郡 (豊後国)|海部郡]] [[早吸日女神社]] (大分市佐賀関) ; [[総社]]・[[一宮]] * 総社 不詳 * 一宮 '''[[西寒多神社]]'''または'''[[柞原八幡宮]]''' (大分市上八幡) - 並立し、古くから論争が続いていた。また、中世以降は大伴氏により[[大分社]]が一宮に指定されたともいう。 二宮以下は不詳である。 === 安国寺利生塔 === * [[安国寺 (国東市)|豊後安国寺]] - 大分県国東市国東町安国寺。 == 地域 == [[file:1931_Map_of_Oita_Prefecture.jpg|thumb|300px|[[豊後国志]]復刻版より旧大分県の郡割り(1931年)。{{efn|[[豊前国]]の[[宇佐郡]]が併合された後。}}]] === 郡 === * [[日田郡]](日高郡<ref group="注釈">『[[和名類聚抄]]』での表記。</ref>) * [[玖珠郡|球珠郡]](玖珠郡<ref group="注釈" name="kinsei">近世の表記。</ref>) * [[直入郡]] * [[大野郡 (大分県)|大野郡]] * [[海部郡 (豊後国)|海部郡]] * [[大分郡]] * [[速見郡]] * [[国東郡|国埼郡]](国東郡<ref group="注釈" name="kinsei" />) : <small>特記した以外は『[[豊後国風土記]]』での表記による。</small> === 江戸時代の藩 === * [[杵築藩]]、[[小笠原氏#信濃小笠原氏|小笠原家]](4万石)→[[能見松平家]](3.2万石) * [[高田藩 (豊後国)|高田藩]]、能見松平家(3.7万石→3.2万石で杵築藩に移封) * [[日出藩]]、[[木下氏#足守木下家|木下家]](3万石→2.5万石) * [[日田藩]]、[[石川氏|石川家]](6万石) * [[森藩]]、[[村上水軍#来島村上氏|来島家]](久留島家)(1.4万石→1.25万石) * [[府内藩]]、[[竹中氏陣屋|竹中家]](2万石)→[[日根野吉明|日根野家]](2万石)→[[大給松平家]](2.1万石) * [[臼杵藩]]、[[稲葉氏|稲葉家]](5万石) * [[佐伯藩]]、[[毛利氏 (藤原氏)|毛利家]](2万石) * [[岡藩]]、中川家(7万石) * [[豊後高松藩]]、[[大給松平家]](2.22万石) * [[立石領]]([[交代寄合]])、木下家(5千石) == 人物 == === 国司(豊後守・豊後介) === {{節スタブ}} * [[陽侯真身|陽候史真身]]、[[天平]]7年([[735年]])任官 - 豊後守 * [[小治田諸人]]、天平10年([[738年]])任官 * [[榎井小祖|榎井子祖父]]、[[天平宝字]]元年([[757年]])任官 * [[池田足継]]、[[天平宝字]]5年([[761年]])任官 * [[笠不破麻呂]]、[[天平宝字]]7年([[763年]])任官 * [[佐伯久良麻呂]]、[[天平神護]]元年([[767年]])任官 * [[紀鯖麻呂]]、[[宝亀]]2年([[771年]])任官 * [[多治比継兄]]、[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])任官 * [[大神良臣]]、仁和2年(886年) - 豊後介 * [[藤原園人]] * [[藤原豊彦]] * [[難波頼経]]、1180年頃 * [[源光季]] === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== * 1206年 - ? - [[大友能直]] * 1242年 - 1285年 - [[大友頼泰]] * ? - ? - [[大友貞親]] * ? - 1333年 - [[大友貞宗]] ==== 室町幕府 ==== * 1333年 - 大友貞宗 * 1334年 - 1352年 - [[大友氏泰]] * 1352年 - 1364年 - [[大友氏時]] * 1364年 - 1367年 - [[大友氏継]] * 1371年 - 1416年 - [[大友親世]] * 1372年 - 1376年 - 大友氏継 * 1416年 - 1426年 - [[大友親著]] * 1427年 - 1429年 - [[大友持直]] * 1444年 - ? - [[大友親繁]] * 1453年 - 1458年 - [[大友親綱]] * 1469年 - 1482年 - 大友親繁 * 1482年 - 1484年 - [[大友政親]] * 1484年 - 1496年 - [[大友義右]] * 1496年 - 1501年 - [[大友親治]] * 1501年 - 1516年 - [[大友義長]](義親) * 1525年 - 1550年 - [[大友義鑑]] * 1550年 - 1576年 - [[大友義鎮]](宗麟) === 戦国時代 === ==== 戦国大名 ==== * [[大友氏]]:豊後・筑後二国の守護に任じられていたが、義鑑の代に肥後に進出し1543年には肥後守護に補任される。義鎮(宗麟)の治世に最盛期を迎え、肥前・豊前・筑前にも進出して1554年に肥前守護、1559年に豊前・筑前の守護に補任。九州6ヶ国の守護となり、[[龍造寺氏]]、[[島津氏]]と九州の覇を競った。徐々に衰退して[[豊薩合戦]]で島津氏に敗れ、豊臣氏の[[九州平定]]後には豊後1国のみを安堵される。 ==== 豊臣政権の大名 ==== * [[大友義統]]・[[大友義乗]]:豊後1国。1587年 - 1593年([[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]での義統の失態のため改易) * [[中川秀成]]:豊後[[岡城 (豊後国)|岡]]7万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、所領安堵。豊後[[岡藩]]初代藩主となる) * [[太田一吉]]:豊後[[臼杵城|臼杵]]6万5千石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易) * [[福原長堯]]:豊後[[府内城|府内]]12万石→6万石。1597年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、自刃) * [[早川長政]]:豊後府内→[[杵築城|杵築]]2万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易) * [[毛利高政]]:豊後日田・玖珠2万石。1595年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、豊後[[佐伯藩]]2万石に移封) * [[垣見一直]]:豊後富来2万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、[[大垣城]]にて殺害される) * [[熊谷直盛]]:豊後安岐1万5千石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、大垣城にて殺害される) * [[竹中重利]]:豊後[[高田城 (豊後国)|高田]]1万3千石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、豊後[[府内藩]]2万石に移封) * [[木村清久]]:豊後国内1万石。1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易) * [[細川忠興]]:豊後杵築6万石([[飛地|飛び領]]、[[城代]]:[[松井康之]]、[[有吉立行]])。1599年 - 1632年([[肥後国|肥後]][[熊本藩]]54万石に移封) === 武家官位としての豊後守 === ==== 江戸時代以前 ==== * [[朝倉将景]] * [[遊佐秀頼]] * [[姉小路秀綱]] * [[三木顕綱]] * [[室住虎光|諸角豊後守]] * [[毛利重政]] * [[本多広孝]] * [[薩摩国|薩摩]][[島津氏]]分家[[豊州家]] ** [[島津季久]] ** [[島津忠朝 (豊州家)|島津忠朝]] ** [[島津忠広 (豊州家)|島津忠広]] ** [[島津忠親]] ** [[島津久賀]] ==== 江戸時代 ==== * [[忍藩]][[阿部氏 (徳川譜代)|阿部家]] ** [[阿部忠秋]]、初代藩主 ** [[阿部正武]]、3代藩主 ** [[阿部正喬]]、4代藩主 ** [[阿部正允]]、5代藩主 ** [[阿部正識]]、7代藩主 ** [[阿部正由]]、8代藩主 * その他 ** [[稲葉雍通]]、豊後[[臼杵藩]]主 ** [[内田正道]]、[[下総国|下総]][[小見川藩]]主 ** [[織田成純]]、[[大和国|大和]][[柳本藩]]主 ** [[加藤明煕]]、[[近江国|近江]][[水口藩]]主 ** [[真田幸専]]、[[信濃国|信濃]][[松代藩]]主 ** [[真田幸貫]]、松代藩主、[[老中]] ** [[内藤正縄]]、信濃[[岩村田藩]]主 ** [[西尾光教]]、[[美濃国|美濃]][[揖斐藩]]主 ** [[久松勝行]]、下総[[多古藩]]主 ** [[別所吉治]]、[[但馬国|但馬]][[八木藩]]主 ** [[本多康紀]]、[[三河国|三河]][[岡崎藩]]第2代藩主 ** [[松倉重政]]、大和[[五条藩]]、[[肥前国|肥前]][[島原藩]]主 ** [[松平親純]]、豊後[[杵築藩]]主 ** [[水野忠友]]、三河[[大浜藩]]、[[駿河国|駿河]][[沼津藩]]主。[[老中]] ** [[小栗忠順]]、幕末三傑。一般に[[上野国|上野]]介として知られるが、豊後守も名乗っていた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{notelist}} ===出典=== <references/> == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=| translator=| title=[http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-034302&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD%E5%9B%B3%E7%94%B0%E5%B8%B3%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=2 {{anchors|豊後国図田帳}}豊後国図田帳]| page=| publisher=[[国文学研究資料館]]『諸国風土記及図田帳』(しょこくふどきおよびずでんちょう)、[[大和文華館]](奈良県)所蔵| location =| year=1285| isbn=| quote=|ref=harv}} * [[唐橋君山]](1803年){{国立国会図書館デジタルコレクション|1181222|豊後国志:附・箋釈豊後風土記|format=EXTERNAL}}(二豊文献刊行会版、1931年写本) * 『訓読 豊後国志』太田由佳訳/松田清注(思文閣出版、2018年)https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784219346/ * [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Bungo Province}} * [[令制国一覧]] * [[西国郡代]] {{令制国一覧}} {{豊国二国の郡}} {{japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:ふんこのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:西海道|国ふんこ]] [[Category:大分県の歴史]] [[Category:豊後国|*]]
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エルゴード理論
エルゴード理論(エルゴードりろん、英語: ergodic theory)は、ある力学系がエルゴード的(ある物理量に対して、長時間平均とある不変測度による位相平均が等しい)であることを示す、すなわちエルゴード仮説の立証を目的とする理論。この仮説は、SinaiらのDynamical billiardsの例などで正しいという証明が与えられているが、統計力学の基礎とは無関係である。また、物理学でのエルゴード性を抽象化した、数学における保測変換の理論をそう呼ぶこともある。 上記2つの平均が同じような値(あるいは関数)を得られるものについて、エルゴード的ということが出来る。 確率測度Pにおいて保測変換Tは任意の事象Aにおいて P ( T A ) = P ( A ) {\displaystyle P(TA)=P(A)} といった具合にAの起こりうる確率を変化させずに別又は同じ事象TAに変換するものをいう。即ち、確率測度という大きさの測り方を指定したときに、大きさを変えずに変化させる操作の総称をいう。ただし、 P ( T − 1 A ) = P ( A ) {\displaystyle P(T^{-1}A)=P(A)} であることはmeasure preserving(邦訳:測度保存)という名がついており、可逆性を満たせば保測変換になるという広いクラスとなる。 エルゴード仮説とは、長い時間尺度 (time scale) でみると、微小状態からなる位相空間内で同じエネルギーをもった領域に費やされる時間は位相空間でしめる体積に比例するというもの。すなわち、そのようなすべての実現可能な微小状態は長い目で見ると等しい確率で起こるということ。さらに言いかえれば、時間平均と、統計力学でいうアンサンブル(起こりうる微小状態の数だけある系のレプリカの集まり)内での平均は等しくなるということ。 証明されていないため仮説の域は出ないものの、この仮説を採用してシミュレーションを行うと現実を非常にうまく説明できることを疑うものはいない。その意味で特に工学分野において、証明を必要とするという意味のある「仮説」の字を避けエルゴード仮設と書くことがある。 「エルゴード仮説は統計力学の基礎としては的を外している」という主張も、専門家である田崎晴明によってなされている。 エルゴード理論は確率論にもとづいた力学系の一つの分野である。 物理のみならず数論など数学の他分野への応用も多い。 上記のエルゴード仮説との直接の関係は薄い。 エルゴード理論での基本的な事柄を説明する。 主に離散力学系を扱うが、連続力学系についても同様のことを考えることが出来る。 確率空間 ( X , B , μ ) {\displaystyle (X,{\mathcal {B}},\mu )} を考える。即ち、X をある集合、 B {\displaystyle {\mathcal {B}}} を X 上の完全加法族、そしてμを確率測度とする。 さらに T : X → X {\displaystyle T:X\rightarrow X} を B {\displaystyle {\mathcal {B}}} -可測な写像とする。 全ての A ∈ B {\displaystyle A\in {\mathcal {B}}} に対して μ ( T − 1 A ) = μ ( A ) {\displaystyle \mu (T^{-1}A)=\mu (A)} を満たすとき、μは(T-)不変測度であるという。 このとき、 ( X , B , μ , T ) {\displaystyle (X,{\mathcal {B}},\mu ,T)} を可測力学系と呼ぶ。 ここでの興味の対象は、任意の始点 x ∈ X {\displaystyle x\in X} からの軌道 { T n ( x ) } n ∈ N 0 {\displaystyle \{T^{n}(x)\}_{n\in \mathbb {N} _{0}}} の振舞いである。 T-不変な B {\displaystyle {\mathcal {B}}} の部分集合を I = { A ∈ B : T − 1 A = A } {\displaystyle {\mathcal {I}}=\{A\in {\mathcal {B}}:T^{-1}A=A\}} とする。 ある可測力学系 ( X , B , μ , T ) {\displaystyle (X,{\mathcal {B}},\mu ,T)} が以下の同値な条件の一つを満たすときエルゴード的であるという。 1.は、測度論の視点から見れば空間 X の自明でないT-不変な部分空間を持たないということを意味している。 3.で A = B {\displaystyle A=B} の場合はポアンカレの回帰定理である。 5.は混合性と呼ばれる性質の一つである。 このような力学系をエルゴード的と呼ぶ結縁は各種エルゴード定理にある。 エルゴード性は重要な概念であるが、エルゴード理論で扱う力学系はエルゴード的な物に限られるわけではない。 エルゴード性より強力な性質としては以下のものがある。 任意の A , B ∈ B {\displaystyle A,B\in {\mathcal {B}}} に対して lim n → ∞ 1 n ∑ k = 0 n − 1 | μ ( T − k A ∩ B ) − μ ( A ) μ ( B ) | = 0 {\displaystyle \lim _{n\rightarrow \infty }{\frac {1}{n}}\sum _{k=0}^{n-1}\left|\mu (T^{-k}A\cap B)-\mu (A)\mu (B)\right|=0} が成り立つとき、 ( X , B , μ , T ) {\displaystyle (X,{\mathcal {B}},\mu ,T)} は弱混合的であるという。 また、任意の A , B ∈ B {\displaystyle A,B\in {\mathcal {B}}} に対して lim n → ∞ μ ( T − n A ∩ B ) = μ ( A ) μ ( B ) {\displaystyle \lim _{n\rightarrow \infty }\mu (T^{-n}A\cap B)=\mu (A)\mu (B)} が成り立つとき、 ( X , B , μ , T ) {\displaystyle (X,{\mathcal {B}},\mu ,T)} は強混合的であるという。 最も代表的なのは以下の定理である。 バーコフのエルゴード定理: ( X , B , μ , T ) {\displaystyle (X,{\mathcal {B}},\mu ,T)} を可測力学系とする。 任意の f ∈ L μ 1 {\displaystyle f\in L_{\mu }^{1}} に対して、ある f ∗ ∘ T = f ∗ {\displaystyle f^{\ast }\circ T=f^{\ast }} を満たす f ∗ ∈ L μ 1 {\displaystyle f^{\ast }\in L_{\mu }^{1}} が存在し がμ-殆ど全ての x ∈ X {\displaystyle x\in X} で成り立つ。 さらに、μがエルゴード的なら右辺を f ∗ ( x ) = ∫ f d μ {\displaystyle f^{\ast }(x)=\int fd\mu } と定数関数にとれる。 以下に可測力学系の例を示す。 写像 T : ( 0 , 1 ) → ( 0 , 1 ) {\displaystyle T:(0,1)\rightarrow (0,1)} を x {\displaystyle x} を 1 / x {\displaystyle 1/x} の小数部分に写す写像とする。 つまり と定義する。この写像は連分数変換やGauss写像と呼ばれることがある。ここで ⌊ ⌋ {\displaystyle \lfloor \,\rfloor } は床関数である。 このとき a n ( x ) , n = 1 , 2 , ... {\displaystyle a_{n}(x),n=1,2,\ldots } を a n ( x ) = ⌊ 1 T n − 1 ( x ) ⌋ {\displaystyle a_{n}(x)=\left\lfloor {\frac {1}{T^{n-1}(x)}}\right\rfloor } と定めると、これは x = [ 0 ; a 1 ( x ) , a 2 ( x ) , ... ] {\displaystyle x=[0;a_{1}(x),a_{2}(x),\ldots ]} と x {\displaystyle x} の連分数表現を与える。 つまり任意の x ∈ [ 0 , 1 ] ∖ Q {\displaystyle x\in [0,1]\setminus \mathbb {Q} } は と表される。 さらに、 [ 0 , 1 ] {\displaystyle [0,1]} 上のボレル確率測度 μ {\displaystyle \mu } を と定義する。これはガウス測度と呼ばれることがある。 この μ {\displaystyle \mu } は T {\displaystyle T} -不変であるので ( [ 0 , 1 ] , B ( [ 0 , 1 ] ) , μ , T ) {\displaystyle ([0,1],{\mathcal {B}}([0,1]),\mu ,T)} は可測力学系となっている。 この力学系はエルゴード的であることも知られている。
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エルゴード理論は、ある力学系がエルゴード的(ある物理量に対して、長時間平均とある不変測度による位相平均が等しい)であることを示す、すなわちエルゴード仮説の立証を目的とする理論。この仮説は、SinaiらのDynamical billiardsの例などで正しいという証明が与えられているが、統計力学の基礎とは無関係である。また、物理学でのエルゴード性を抽象化した、数学における保測変換の理論をそう呼ぶこともある。 上記2つの平均が同じような値(あるいは関数)を得られるものについて、エルゴード的ということが出来る。
{{出典の明記|date=2011年12月}} '''エルゴード理論'''(エルゴードりろん、{{lang-en|ergodic theory}})は、ある[[力学系]]がエルゴード的(ある物理量に対して、長時間平均とある[[不変測度]]による位相平均が等しい)であることを示す、すなわち'''エルゴード仮説'''の立証を目的とする[[理論]]。この仮説は、SinaiらのDynamical billiardsの例などで正しいという証明が与えられているが、統計力学の基礎とは無関係である。また、物理学でのエルゴード性を抽象化した、[[数学]]における保測変換の理論をそう呼ぶこともある。 ;長時間平均 :統計的、事象的、観察結果 ;位相平均 :計算論的、収束するもの、あるいは一定のサイクルに収めることの出来るもの、全事象等確率的として推察できるもの 上記2つの平均が同じような値(あるいは関数)を得られるものについて、'''エルゴード的'''ということが出来る。<!--こんな感じ?--> == 保測変換 == [[確率測度]]Pにおいて保測変換Tは任意の[[事象 (確率論)|事象]]Aにおいて <math>P(TA)=P(A)</math> といった具合にAの起こりうる確率を変化させずに別又は同じ事象TAに[[変換 (数学)|変換]]するものをいう。即ち、[[確率測度]]という大きさの測り方を指定したときに、大きさを変えずに変化させる操作の総称をいう。ただし、 <math>P(T^{-1}A) =P(A)</math> であることは[[measure preserving]](邦訳:測度保存)という名がついており、[[可逆]]性を満たせば保測変換になるという広いクラスとなる。 == エルゴード仮説 == エルゴード仮説とは、長い時間尺度 (time scale) でみると、微小状態からなる[[位相空間 (物理学)|位相空間]]内で同じ[[エネルギー]]をもった領域に費やされる時間は位相空間でしめる体積に比例するというもの。すなわち、そのようなすべての実現可能な微小状態は長い目で見ると等しい確率で起こるということ。さらに言いかえれば、時間平均と、統計力学でいう[[統計集団|アンサンブル]](起こりうる微小状態の数だけある系のレプリカの集まり)内での平均は等しくなるということ。 証明されていないため仮説の域は出ないものの、この仮説を採用してシミュレーションを行うと現実を非常にうまく説明できることを疑うものはいない。その意味で特に工学分野において、証明を必要とするという意味のある「[[仮説]]」の字を避け'''エルゴード[[仮設 (数学)|仮設]]'''と書くことがある。 === 問題点 === 「エルゴード仮説は統計力学の基礎としては的を外している」という主張も、専門家である[[田崎晴明]]によってなされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gakushuin.ac.jp/~881791/statbook/ |title=統計力学 I, II(培風館、新物理学シリーズ) |access-date=2013年10月6日 |author=田崎晴明 |authorlink=田崎晴明 |date=2009 年 9 月 11 日 |website=www.gakushuin.ac.jp |publisher=学習院大学理学部物理学教室 |quote=「統計力学の基盤はマクロな経験事実である」という立場を貫き、できるかぎり見通しのよいストーリーを提示した(既習者や専門家のために、エルゴード仮説が統計力学の基礎としては的を外している理由も解説した)。}}</ref>。 ==数学におけるエルゴード理論== エルゴード理論は[[確率論]]にもとづいた[[力学系]]の一つの分野である。 物理のみならず[[数論]]など数学の他分野への応用も多い。 上記のエルゴード仮説との直接の関係は薄い。 ===重要な概念=== エルゴード理論での基本的な事柄を説明する。 主に離散力学系を扱うが、連続力学系についても同様のことを考えることが出来る。 ====可測力学系==== [[確率空間]] <math> (X, \mathcal{B}, \mu ) </math> を考える。即ち、''X'' をある集合、<math> \mathcal{B} </math> を ''X'' 上の[[完全加法族]]、そしてμを[[確率測度]]とする。 さらに <math>T : X \rightarrow X </math> を <math> \mathcal{B} </math>-可測な写像とする。 全ての <math> A \in \mathcal{B} </math> に対して <math> \mu ( T ^{-1} A ) = \mu ( A ) </math> を満たすとき、μは(''T''-)[[不変測度]]であるという。 このとき、 <math> (X, \mathcal{B}, \mu, T) </math> を''可測力学系''と呼ぶ。 ここでの興味の対象は、任意の始点 <math> x \in X </math> からの軌道 <math> \{ T ^n ( x ) \} _{n \in \mathbb{N} _0} </math> の振舞いである。 ==== エルゴード性 ==== {{main|エルゴード性}} ''T''-不変な <math> \mathcal{B} </math> の部分集合を <math> \mathcal{I} = \{ A \in \mathcal{B} : T ^{-1} A = A \} </math> とする。 ある可測力学系 <math> (X, \mathcal{B}, \mu, T) </math> が以下の同値な条件の一つを満たすとき''エルゴード的''であるという。 # 任意の <math> A \in \mathcal{I} </math> に対して、 <math> \mu ( A ) = 0 </math> または <math> \mu ( A ) = 1 </math> が成り立つ。 # 任意の <math> \mu ( A \triangle T ^{-1} A ) = 0 </math> を満たす <math> A \in \mathcal{B} </math> に対して、 <math> \mu ( A ) = 0 </math> または <math> \mu ( A ) = 1 </math> が成り立つ。 # 任意の <math> \mu ( A ) , \mu ( B ) > 0 </math> を満たす <math> A , B \in \mathcal{B} </math> に対して、ある <math> n \in \mathbb{N} </math> があり、 <math> \mu ( T ^{-n} A \cap B ) > 0 </math> が成り立つ。 # 任意の <math> f \in L ^2 _\mu </math> に対して、 <math> f \circ T = f </math> が成り立つならば、<math> f </math> は(<math> L ^2 _\mu </math>の意味で)定数関数である。 # 任意の <math> A , B \in \mathcal{B} </math> に対して <math> \lim _{n \rightarrow \infty} \frac{1}{n} \sum _{k=0} ^{n-1} \mu ( T ^{-k} A \cap B ) = \mu ( A ) \mu ( B ) </math> が成り立つ。 1.は、測度論の視点から見れば空間 ''X'' の自明でない''T''-不変な部分空間を持たないということを意味している。 3.で <math> A=B </math> の場合は[[ポアンカレの回帰定理]]である。 5.は混合性と呼ばれる性質の一つである。 このような力学系をエルゴード的と呼ぶ結縁は各種エルゴード定理にある。 エルゴード性は重要な概念であるが、エルゴード理論で扱う力学系はエルゴード的な物に限られるわけではない。 ====混合性==== エルゴード性より強力な性質としては以下のものがある。 任意の <math> A , B \in \mathcal{B} </math> に対して <math> \lim _{n \rightarrow \infty} \frac{1}{n} \sum _{k=0} ^{n-1} \left| \mu ( T ^{-k} A \cap B ) - \mu ( A ) \mu ( B ) \right| = 0 </math> が成り立つとき、 <math> ( X , \mathcal{B} , \mu , T ) </math> は''弱混合的''であるという。 また、任意の <math> A , B \in \mathcal{B} </math> に対して <math> \lim _{n \rightarrow \infty} \mu ( T ^{-n} A \cap B ) = \mu ( A ) \mu ( B ) </math> が成り立つとき、 <math> ( X , \mathcal{B} , \mu , T ) </math> は''強混合的''であるという。 ===エルゴード定理=== {{Main|エルゴード定理}} 最も代表的なのは以下の定理である。 '''バーコフのエルゴード定理''': <math> (X, \mathcal{B}, \mu, T) </math> を可測力学系とする。 任意の <math> f \in L ^1 _\mu </math> に対して、ある <math> f ^\ast \circ T = f ^\ast </math> を満たす <math> f ^\ast \in L ^1 _\mu </math> が存在し :<math> \lim _{n \rightarrow \infty} \frac{1}{n} \sum _{k=0} ^{n-1} f ( T ^k (x) ) = f ^\ast ( x ) </math> がμ-殆ど全ての <math> x \in X </math> で成り立つ。 さらに、μがエルゴード的なら右辺を <math> f ^\ast ( x ) = \int f d \mu </math> と定数関数にとれる。 ===例=== 以下に可測力学系の例を示す。 * <math> \mathcal{B} ([0,1)) </math> を <math> [0,1) </math> 上のボレル集合族、 <math> \lambda </math> を <math> [0,1) </math> 上の[[ルベーグ測度]]とする。さらに <math> \alpha \in \mathbb{R} </math> に対して、写像 <math> R _\alpha : [0,1) \rightarrow [0,1) </math> を <math> R _\alpha ( x ) = x + \alpha \mod 1 </math> と定義する。このとき可測力学系 <math> ([0,1), \mathcal{B}([0,1)), \lambda , R _\alpha) </math> は <math> \alpha \not \in \mathbb{Q} </math> のときに限ってエルゴード的である。 * <math> b \in \mathbb{N} </math> に対して写像 <math> T _b : [0,1) \rightarrow [0,1) </math> を <math> T _b ( x ) = b x \mod 1 </math> と定義する。このとき可測力学系 <math> ([0,1), \mathcal{B}([0,1)), \lambda , T _b) </math> はエルゴード的である。 * [[パイこね変換]](Baker's map) * [[アーノルドの猫写像|猫マップ]](Arnold's cat map) ===連分数への応用=== 写像 <math> T : (0,1) \rightarrow (0,1) </math> を <math> x </math> を <math> 1/x </math> の小数部分に写す写像とする。 つまり :<math> T ( x ) = \frac{1}{x} - \left\lfloor \frac{1}{x} \right\rfloor </math> と定義する。この写像は連分数変換やGauss写像と呼ばれることがある。ここで<math>\lfloor\,\rfloor</math>は[[床関数]]である。 このとき <math> a _n ( x ) , n = 1,2, \ldots </math> を <math> a _n ( x ) = \left\lfloor \frac{1}{T ^{n-1} ( x )} \right\rfloor </math> と定めると、これは <math> x = [0 ; a _1 (x) , a _2 (x) , \ldots ] </math> と <math> x </math> の[[連分数]]表現を与える。 つまり任意の <math> x \in [0,1] \setminus \mathbb{Q} </math> は :<math>\begin{align} x &= a _1 (x) +\cfrac{1}{a _2 (x) +\cfrac{1}{a _3 (x) +\cfrac{1}{\ddots }}} \end{align}</math> と表される。 さらに、 <math> [0,1] </math> 上のボレル確率測度 <math> \mu </math> を :<math> \mu (A) = \frac{1}{\log 2} \int _A \frac{1}{1+x} d x </math> と定義する。これはガウス測度と呼ばれることがある。 この <math> \mu </math> は <math> T </math>-不変であるので <math> ( [0,1] , \mathcal{B} ([0,1]) , \mu , T ) </math> は[[可測関数|可測]][[力学系]]となっている。 この[[力学系]]はエルゴード的であることも知られている。 == 関連項目 == * [[カオス理論]] * [[マルコフ連鎖]] == 引用 == <references/> == 関連書籍 == * 『エルゴード理論とフラクタル』 釜江哲郎・高橋智 共著 (1993, シュプリンガー・フェアラーク東京, ISBN 4-431-70645-3) * Probability : Theory and Examples (Richard Durrett, Thomson, ISBN 0-534-42441-4) * Peter Walters, An Introduction to Ergodic Theory {{Sci-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えるこおとりろん}} [[Category:統計力学]] [[Category:力学系]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:統計力学の哲学]] [[Category:仮説]] [[Category:エルゴード理論|*]] [[Category:物理学の未解決問題]] [[af:Ergodisiteit]] [[fi:Ergodinen hypoteesi]] [[pl:Hipoteza ergodyczna]] [[sv:Ergodicitet]]
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タラバガニ
タラバガニ(鱈場蟹、学名:Paralithodes camtschaticus、英語:Red king crab)は十脚目(エビ目) - 異尾下目(ヤドカリ下目) - タラバガニ科 - タラバガニ属(英語版)に分類される甲殻類の一種。タラバガニ属はタラバガニを含む5種からなる。 本種はカニではなく、ヤドカリの仲間である(生物分類学上はカニ下目ではなくヤドカリ下目に分類される)。ただし、見かけはカニによく似ている。カニの脚は10本だが、タラバガニでは目立つ脚は8本という違いがある(ただし実際には10本ある。後述)。 水産業・貿易統計等の分野ではカニの一種として取り扱われ、重要な水産資源の一種に位置づけられている。 種小名は camtschaticus。分布域内にあるカムチャツカ半島に由来する。種小名は女性形 camtschatica が用いられることもあるが、属名の Paralithodes は男性形なので、同じく男性形の camtschaticus を使用するのが望ましい。 和名は「たらばがに」、「鱈場蟹」「多羅波蟹」などの漢字表記がある。ほかに、方言として「たらがに」「いばらがに」などがみられる。俗に「カニの王様」とも呼ばれる。 名称の由来は、生息域がタラの漁場(鱈場[たらば])と重なることに因るという。異説として、かつては用途がなく漁村に山積みで放棄されていたことから「殻場」が語源だともいう。タラ漁師が誤って網を海底までおろしてしまい、網を引き上げてみると見たことのないカニが掛かっていたのがタラバガニ漁の起源である、との伝えもある。 標準和名「タラバガニ」は、和名「たらばがに」を生物学が、学術名として引き継いだものである。「カニ」の名称は学術的には問題があるが、広く普及している通俗名を重視する姿勢をもって、改められることなく採用された。 英語では「king crab」。または、「king crab 」という大グループのうちの一種との認識で、「red king crab 」(仮名転写:レッドキングクラブ)や、「alaska king crab」(仮名転写:アラスカキングクラブ)と呼ばれる。なお、カブトガニも同じ英名 King Crab と呼ばれる。こちらはカニではなく、クモに近い動物である。 ロシア語では「Камчатский краб」(仮名転写:カムチャツキイクラブ)。 北欧では「Stalin’s Crab」(スターリンズクラブ、ヨシフ・スターリンのカニの意)との俗称がある。もともとバレンツ海にはタラバガニは分布していなかったが、ロシアから人為的に導入されたものが外来種として増殖した。これは1960年代にロシア科学者が漁業資源を増やす目的だったと考えられているが、それより以前の第2次世界大戦前にスターリンが飢餓対策としてカムチャツカから導入したという俗伝もある。 外観上は明らかにカニに見え、呼称も「カニ」(crab)というが、生物分類学上はカニ(短尾類)ではなくヤドカリ(異尾類)の仲間に位置づけられており、「カニの形をしたヤドカリ」である。カニではなくヤドカリに分類される主な理由は、メスの腹部が左右非対称で腹肢が左側だけにしかない、第5脚(胸脚のうち最後のもの)が小さく鰓室内にさしこまれている(このため、ふつうのカニはハサミを含めて脚が5対(10本)なのに対し、タラバガニは脚が4対(8本)しかないように見える)ことなどによる。ほかにも、メスの生殖孔が第2歩脚の底節にある、オスに交尾器がない、はさみ脚の長節が腕節より短い、といった身体的特徴がヤドカリと合致する。 タラバガニ属とその下位分類5種(タラバガニとその近縁種) 近縁種として、北日本沿岸に分布するタラバガニ属(学名:genus Paralithodes)として、タラバガニ(学名:P. camtschaticus、英語名:red king crab)のほかに、アブラガニ(学名:P. platypus、英語名:blue king crab)と ハナサキガニ(学名:P. brevipes)、北太平洋東岸の P. californiensis (英語名:California king crab)、および、P. rathbuni の4種類がある。前3者はどれもタラバガニ同様重要な食用種となっている。 そのほか、チリ・アルゼンチン付近に分布する南タラバガニ(学名:Lithodes santolla、英語名:Southern king crab)、Lithodes Turkayi(英語名:South Atlantic king crab)や南極イバラガニ(学名:Paralomis spinosissima、英語名:Antarctic stone crab)も食用種として捕獲されている。 甲幅は25cmほどで、脚を広げると1mを超える大型甲殻類である。全身が短い棘状突起で覆われている。 食用として流通する際は茹でられて赤橙色になったもの(外骨格に含まれる成分であるアスタキサンチンが加熱によって可視化したもの)が多いが、生体は背中側が暗紫色、腹側が淡黄色をしている。 甲は丸みがあり、やや前方に尖った五角形をしている。両脇が盛りあがり、複眼の間に尖った額角、中央に"H"型の溝がある。なお、心域(H字の中央下の区画)に6つの突起があり、ここで近縁種のアブラガニ(突起が4つだけ)と区別できるが、稀に5本の個体(アブラガニ)も見つかる。 5対の歩脚のうち、第1歩脚は、鋏脚で、右の鋏が左より大きい。太くて長い歩脚の中では第3脚が特に長い。第5歩脚は小さくて鰓室(さいしつ)に差し込まれており、鰓(えら)の掃除をする役割がある。このため外見はほぼ「カニ」であるが、脚が3対しかないように見える。他にもメスの腹部の左右が異なり、腹肢が左側のみにあることなど、ヤドカリ類の特徴がある。また、横方向に移動するのが一般的であるカニに対して、タラバガニは縦方向にも移動ができる。顔立ちもよく見ると、カニ類よりは、ヤドカリ類に近い特徴を備えていることがわかる。 寒海性で、北太平洋(樺太沿岸・オホーツク海・ベーリング海・アラスカ沿岸)・日本海・北極海の冷水帯(水温10°C以下)に生息する。生息する深度は北へ行くほど浅く、漁獲域は主に、日本海南部では水深350メートル付近、北海道周辺では180メートルから200メートル、北極海などでは水深30メートル、となっている。ただし、季節や、性齢による違いもある。幼体は集団で沿岸部の浅い海域に住み、成長した個体は単独で深い沖合に住む。 分布の南限は、日本海では隠岐諸島(島根県)周辺(北緯36度付近)、太平洋西部では三陸海岸以北から襟裳岬(北海道)周辺(北緯42度付近)、太平洋東部ではカナダ沿岸(北緯50度付近)となっている。分布の北限はアラスカの北極海沿岸。日本の太平洋沿岸では、駿河湾や徳島県沖の水深約850- 約1,100mの海域での捕獲も記録されている。 このほか、本来の生息域ではないが、20世紀に人為的に導入されたことで、ノルウェー・ロシア沿岸のバレンツ海にも生息する。1960年代に旧・ソビエト連邦の科学者がバレンツ海に放流し、繁殖させることに成功した。1980年代後半からノルウェー沖でも生息が観察されるようになり、現在でも分布域を広げつつある。この個体群はロシア・ノルウェー両国で漁業資源として利用されているが、天敵がいない環境で爆発的繁殖を遂げ、外来種として既存の生態系を脅かす存在ともなっている。 通常期は、オスとメスとは分かれて集団で生息する。春(地域にもよるが、おおむね4月から6月)になると、繁殖のため、沿岸部などの水深30メートルから50メートルほどの浅い海底に集まる。さきにメスが集まり、つれてオスがやってくる。 まず、3日から7日ほどの間、オスがハサミでメスのハサミをつかむ。これを「ハンドシェーキング」と呼ぶ。このあとメスが脱皮し、続いて交尾が行われる。ただし、オスは交尾針を有さないので、メスの生殖孔の近くに精莢を押しつける。これに応じてメスが産卵し、ハサミをつかって卵と精子を撹拌し受精させる。 卵は楕円形で、長径0.8ミリメートルから1.0ミリメートル、短径0.7ミリメートルから0.9ミリメートル。色は青紫色。甲羅長が10センチメートルから15センチメートルのメスが、おおむね5万粒から18万粒の卵を産む。大きいメスほど産卵数も多く、甲羅長14センチメートルの個体で13万粒、甲羅長17センチメートルの個体で27万粒。 卵はメスの腹部に卵塊となって付着し、1年程度抱卵、翌年の3月半ばから5月頃に孵化する。 誕生したゾエア幼生は、はじめは中層を浮遊する。最初の脱皮以後は、水深15メートルから75メートルほどの海底付近を遊泳する。4回の脱皮を経てグラウコトエ幼生に変態、さらに1度の脱皮により甲長1.7ミリメートルほどの稚ガニになると、底生になる。ここまででおよそ2ヶ月を要する。 このあとも10回前後の脱皮を行いながら大きくなる。1年で10ミリメートル、2年で25ミリメートル、5年で40ミリメートルから85ミリメートル、6年で10センチメートルほどになる。成長は遅く、オス・メスとも10センチメートルほどで性成熟となるが、そこまでにおおむね10年を要する。 オスとメスでは寿命が異なり、オスは30年から31年程度、メスは25年ないし27年から34年程度と推定される。 食性は肉食で多毛類、貝類など様々な小動物を捕食する。一方、天敵としては、人間以外にもオオカミウオやミズダコなどがいる。 日本における主な漁場はオホーツク海で、沖合底引き網や刺し網で漁獲され、かつては蟹工船があり、漁獲したものを海上で缶詰にまで加工していた。かつては、マダラの延縄漁でも混獲されていたが、乱獲によって生息数の減少が危惧されている。 日本では「タラバ」蟹類採捕取締規則(昭和8年農林省令第9号)という命令により、メスの採捕が禁止されているが、販売についての規制は特になく、ロシアからの輸入品が「子持ちタラバ」として流通している。 海外におけるタラバガニの漁場はアメリカ合衆国アラスカ州のベーリング海のブリストル湾、同じくベーリング海のノートンサウンドという名の入り江やカムチャッカ半島近海などが有名である。 その中でもアメリカ産(アラスカ産)が非常に人気があり日本にも毎年輸入されている。 日本への輸入業者としてはアメリカ最大の水産会社であるトライデントシーフードやニッスイが代表的である。 塩茹でや蒸し蟹として流通することが多く、缶詰(身に含まれる硫黄が缶の鉄と化合して黒く変色するのを防ぐために身を硫酸紙で包む場合もある)にも加工される、いずれもそのまま食べる以外にも様々な料理の材料として、使われる。日本では半透明の生身を刺身で賞味することもあるが、加熱したものより繊維質が強靭で、旨みも薄い。ヤドカリの仲間であることから、ケガニやズワイガニとは違い、カニミソは油分・水分が多く生臭さがあり、通常は食用にされない。 アブラガニはタラバガニとよく似ており、しばしば混同されることもあるが、アブラガニを「タラバガニ」と表示して販売することは、日本では禁止されている。 2004年に「タラバガニ」の原材料偽装(実際はアブラガニ)が日本で問題となった。アブラガニは従来北海道ではタラバガニと明確に別の種類として扱われていたが、後に価格も上昇しタラバガニの代用魚として利用されるようになった。 2004年3月21日の毎日放送系ローカル『Voice』、同年4月25日のTBS系『報道特集』にて、偽装販売問題が放映され、北海道札幌市の二条市場への取材により、一部の店舗で偽装を認めたコメントが放映された。 2004年、公正取引委員会の調査により、4月27日付そごう広島店の「初夏の北海道物産展」の折り込みチラシに、アブラガニをタラバガニであるかのように表示していたが,実際にはアブラガニであった事実等が認められ、6月30日、景品表示法の規定に基づき、株式会社そごうほか3社に排除命令を行った。これらの一連の報道をきっかけに、アブラガニの存在が広く知られるところとなった。 また、アブラガニのほかにもイバラガニ(学名:Lithodes turritus)など多くの近縁種を抱えているので、こちらも偽装に使われるのではないかと指摘する関係者も存在する。 本来は、タラバガニの漁期は春から夏の間であるが、「タラバガニ」は冬の季語になっている。日本では小林多喜二の『蟹工船』でも知られる。
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"外観上は明らかにカニに見え、呼称も「カニ」(crab)というが、生物分類学上はカニ(短尾類)ではなくヤドカリ(異尾類)の仲間に位置づけられており、「カニの形をしたヤドカリ」である。カニではなくヤドカリに分類される主な理由は、メスの腹部が左右非対称で腹肢が左側だけにしかない、第5脚(胸脚のうち最後のもの)が小さく鰓室内にさしこまれている(このため、ふつうのカニはハサミを含めて脚が5対(10本)なのに対し、タラバガニは脚が4対(8本)しかないように見える)ことなどによる。ほかにも、メスの生殖孔が第2歩脚の底節にある、オスに交尾器がない、はさみ脚の長節が腕節より短い、といった身体的特徴がヤドカリと合致する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "タラバガニ属とその下位分類5種(タラバガニとその近縁種)", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "近縁種として、北日本沿岸に分布するタラバガニ属(学名:genus Paralithodes)として、タラバガニ(学名:P. camtschaticus、英語名:red king crab)のほかに、アブラガニ(学名:P. platypus、英語名:blue king crab)と ハナサキガニ(学名:P. brevipes)、北太平洋東岸の P. californiensis (英語名:California king crab)、および、P. rathbuni の4種類がある。前3者はどれもタラバガニ同様重要な食用種となっている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "そのほか、チリ・アルゼンチン付近に分布する南タラバガニ(学名:Lithodes santolla、英語名:Southern king crab)、Lithodes Turkayi(英語名:South Atlantic king crab)や南極イバラガニ(学名:Paralomis spinosissima、英語名:Antarctic stone crab)も食用種として捕獲されている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "甲幅は25cmほどで、脚を広げると1mを超える大型甲殻類である。全身が短い棘状突起で覆われている。 食用として流通する際は茹でられて赤橙色になったもの(外骨格に含まれる成分であるアスタキサンチンが加熱によって可視化したもの)が多いが、生体は背中側が暗紫色、腹側が淡黄色をしている。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "甲は丸みがあり、やや前方に尖った五角形をしている。両脇が盛りあがり、複眼の間に尖った額角、中央に\"H\"型の溝がある。なお、心域(H字の中央下の区画)に6つの突起があり、ここで近縁種のアブラガニ(突起が4つだけ)と区別できるが、稀に5本の個体(アブラガニ)も見つかる。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "5対の歩脚のうち、第1歩脚は、鋏脚で、右の鋏が左より大きい。太くて長い歩脚の中では第3脚が特に長い。第5歩脚は小さくて鰓室(さいしつ)に差し込まれており、鰓(えら)の掃除をする役割がある。このため外見はほぼ「カニ」であるが、脚が3対しかないように見える。他にもメスの腹部の左右が異なり、腹肢が左側のみにあることなど、ヤドカリ類の特徴がある。また、横方向に移動するのが一般的であるカニに対して、タラバガニは縦方向にも移動ができる。顔立ちもよく見ると、カニ類よりは、ヤドカリ類に近い特徴を備えていることがわかる。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "寒海性で、北太平洋(樺太沿岸・オホーツク海・ベーリング海・アラスカ沿岸)・日本海・北極海の冷水帯(水温10°C以下)に生息する。生息する深度は北へ行くほど浅く、漁獲域は主に、日本海南部では水深350メートル付近、北海道周辺では180メートルから200メートル、北極海などでは水深30メートル、となっている。ただし、季節や、性齢による違いもある。幼体は集団で沿岸部の浅い海域に住み、成長した個体は単独で深い沖合に住む。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "分布の南限は、日本海では隠岐諸島(島根県)周辺(北緯36度付近)、太平洋西部では三陸海岸以北から襟裳岬(北海道)周辺(北緯42度付近)、太平洋東部ではカナダ沿岸(北緯50度付近)となっている。分布の北限はアラスカの北極海沿岸。日本の太平洋沿岸では、駿河湾や徳島県沖の水深約850- 約1,100mの海域での捕獲も記録されている。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "このほか、本来の生息域ではないが、20世紀に人為的に導入されたことで、ノルウェー・ロシア沿岸のバレンツ海にも生息する。1960年代に旧・ソビエト連邦の科学者がバレンツ海に放流し、繁殖させることに成功した。1980年代後半からノルウェー沖でも生息が観察されるようになり、現在でも分布域を広げつつある。この個体群はロシア・ノルウェー両国で漁業資源として利用されているが、天敵がいない環境で爆発的繁殖を遂げ、外来種として既存の生態系を脅かす存在ともなっている。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "通常期は、オスとメスとは分かれて集団で生息する。春(地域にもよるが、おおむね4月から6月)になると、繁殖のため、沿岸部などの水深30メートルから50メートルほどの浅い海底に集まる。さきにメスが集まり、つれてオスがやってくる。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "まず、3日から7日ほどの間、オスがハサミでメスのハサミをつかむ。これを「ハンドシェーキング」と呼ぶ。このあとメスが脱皮し、続いて交尾が行われる。ただし、オスは交尾針を有さないので、メスの生殖孔の近くに精莢を押しつける。これに応じてメスが産卵し、ハサミをつかって卵と精子を撹拌し受精させる。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "卵は楕円形で、長径0.8ミリメートルから1.0ミリメートル、短径0.7ミリメートルから0.9ミリメートル。色は青紫色。甲羅長が10センチメートルから15センチメートルのメスが、おおむね5万粒から18万粒の卵を産む。大きいメスほど産卵数も多く、甲羅長14センチメートルの個体で13万粒、甲羅長17センチメートルの個体で27万粒。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "卵はメスの腹部に卵塊となって付着し、1年程度抱卵、翌年の3月半ばから5月頃に孵化する。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "誕生したゾエア幼生は、はじめは中層を浮遊する。最初の脱皮以後は、水深15メートルから75メートルほどの海底付近を遊泳する。4回の脱皮を経てグラウコトエ幼生に変態、さらに1度の脱皮により甲長1.7ミリメートルほどの稚ガニになると、底生になる。ここまででおよそ2ヶ月を要する。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "このあとも10回前後の脱皮を行いながら大きくなる。1年で10ミリメートル、2年で25ミリメートル、5年で40ミリメートルから85ミリメートル、6年で10センチメートルほどになる。成長は遅く、オス・メスとも10センチメートルほどで性成熟となるが、そこまでにおおむね10年を要する。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "オスとメスでは寿命が異なり、オスは30年から31年程度、メスは25年ないし27年から34年程度と推定される。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "食性は肉食で多毛類、貝類など様々な小動物を捕食する。一方、天敵としては、人間以外にもオオカミウオやミズダコなどがいる。", "title": "生物的特徴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本における主な漁場はオホーツク海で、沖合底引き網や刺し網で漁獲され、かつては蟹工船があり、漁獲したものを海上で缶詰にまで加工していた。かつては、マダラの延縄漁でも混獲されていたが、乱獲によって生息数の減少が危惧されている。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本では「タラバ」蟹類採捕取締規則(昭和8年農林省令第9号)という命令により、メスの採捕が禁止されているが、販売についての規制は特になく、ロシアからの輸入品が「子持ちタラバ」として流通している。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "海外におけるタラバガニの漁場はアメリカ合衆国アラスカ州のベーリング海のブリストル湾、同じくベーリング海のノートンサウンドという名の入り江やカムチャッカ半島近海などが有名である。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その中でもアメリカ産(アラスカ産)が非常に人気があり日本にも毎年輸入されている。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本への輸入業者としてはアメリカ最大の水産会社であるトライデントシーフードやニッスイが代表的である。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "塩茹でや蒸し蟹として流通することが多く、缶詰(身に含まれる硫黄が缶の鉄と化合して黒く変色するのを防ぐために身を硫酸紙で包む場合もある)にも加工される、いずれもそのまま食べる以外にも様々な料理の材料として、使われる。日本では半透明の生身を刺身で賞味することもあるが、加熱したものより繊維質が強靭で、旨みも薄い。ヤドカリの仲間であることから、ケガニやズワイガニとは違い、カニミソは油分・水分が多く生臭さがあり、通常は食用にされない。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アブラガニはタラバガニとよく似ており、しばしば混同されることもあるが、アブラガニを「タラバガニ」と表示して販売することは、日本では禁止されている。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2004年に「タラバガニ」の原材料偽装(実際はアブラガニ)が日本で問題となった。アブラガニは従来北海道ではタラバガニと明確に別の種類として扱われていたが、後に価格も上昇しタラバガニの代用魚として利用されるようになった。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2004年3月21日の毎日放送系ローカル『Voice』、同年4月25日のTBS系『報道特集』にて、偽装販売問題が放映され、北海道札幌市の二条市場への取材により、一部の店舗で偽装を認めたコメントが放映された。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2004年、公正取引委員会の調査により、4月27日付そごう広島店の「初夏の北海道物産展」の折り込みチラシに、アブラガニをタラバガニであるかのように表示していたが,実際にはアブラガニであった事実等が認められ、6月30日、景品表示法の規定に基づき、株式会社そごうほか3社に排除命令を行った。これらの一連の報道をきっかけに、アブラガニの存在が広く知られるところとなった。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、アブラガニのほかにもイバラガニ(学名:Lithodes turritus)など多くの近縁種を抱えているので、こちらも偽装に使われるのではないかと指摘する関係者も存在する。", "title": "日本人との関わり" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "本来は、タラバガニの漁期は春から夏の間であるが、「タラバガニ」は冬の季語になっている。日本では小林多喜二の『蟹工船』でも知られる。", "title": "日本人との関わり" } ]
タラバガニは十脚目(エビ目) - 異尾下目(ヤドカリ下目) - タラバガニ科 - タラバガニ属に分類される甲殻類の一種。タラバガニ属はタラバガニを含む5種からなる。 本種はカニではなく、ヤドカリの仲間である(生物分類学上はカニ下目ではなくヤドカリ下目に分類される)。ただし、見かけはカニによく似ている。カニの脚は10本だが、タラバガニでは目立つ脚は8本という違いがある(ただし実際には10本ある。後述)。 水産業・貿易統計等の分野ではカニの一種として取り扱われ、重要な水産資源の一種に位置づけられている。
{{生物分類表 |色 = 動物界 |名称 = タラバガニ |画像 = [[ファイル:KingCrab.jpg|250px|タラバガニ]] |画像キャプション = タラバガニ |界 = [[動物|動物界]] [[w:Animal|Animalia]] |門 = [[節足動物|節足動物門]] {{sname||Arthropoda}} |亜門 = [[甲殻類|甲殻亜門]] {{sname||Crustacea}} |綱 = [[軟甲綱]] {{sname||Malacostraca}} |亜綱 = [[真軟甲亜綱]] {{sname||Eumalacostraca}} |上目 = [[ホンエビ上目]] {{sname||Eucarida}} |目 = [[十脚目|十脚目(エビ目)]] {{sname||Decapoda}} |亜目 = [[エビ亜目|抱卵亜目(エビ亜目)]]<br />{{sname||Pleocyemata}} |下目 = [[ヤドカリ下目|異尾下目(ヤドカリ下目)]] <br />{{sname||Anomura}} |上科 = [[ヤドカリ|ヤドカリ上科]] {{sname||Paguroidea}} |科 = [[タラバガニ科]] [[w:King crab|Lithodidae]] |属 = [[タラバガニ属]] {{snamei||Paralithodes}}<br />{{AUY|Brandt|1849}} |種 = '''タラバガニ''' ''P. camtschaticus'' |学名 = '''''[[w:Paralithodes camtschaticus|Paralithodes camtschaticus]]'''''<br />{{AU|({{AUY|[[w:Wilhelm Gottlieb von Tilesius von Tilenau|Tilesius]]|1815}})}} |和名 = '''タラバガニ''' |英名 = [[w:red king crab|Red king crab]] }} <!--注記:タラバガニ属とタラバガニの混同が目立ちました(属レベルの記述をしたいなら、名前空間を属名にすべきです)Cyclops:2010-04-14--> {{栄養価 | name=タラバガニ(生)| water =79.57 g| kJ =351| protein =18.29 g| fat =0.6 g| carbs =0 g| fiber =0 g| calcium_mg =46| iron_mg =0.59| magnesium_mg =49| phosphorus_mg =219| potassium_mg =204| sodium_mg =836| zinc_mg =5.95| manganese_mg =0.035| selenium_μg =36.4| vitC_mg =7| thiamin_mg =0.043| riboflavin_mg =0.043| niacin_mg =1.1| pantothenic_mg =0.35| vitB6_mg=0.15| folate_ug =44| vitB12_ug =9| vitA_ug =7| satfat =0.09 g| monofat =0.08 g| polyfat =0.13 g| tryptophan =0.255 g| threonine =0.741 g| isoleucine =0.887 g| leucine =1.452 g| lysine =1.592 g| methionine =0.515 g| cystine =0.205 g| phenylalanine =0.773 g| tyrosine =0.609 g| valine =0.861 g| arginine =1.598 g| histidine =0.372 g| alanine =1.036 g| aspartic acid =1.891 g| glutamic acid =3.12 g| glycine =1.103 g| proline =0.603 g| serine =0.72 g| right=1 | source_usda=1 }} [[File:Paralithodes camtschaticus, 1.jpg|thumb|250px|Paralithodes camtschaticus]] [[File:KingCrab-reverse.JPG|thumb|235px|タラバガニの腹側(メス)。カニ類と違って、腹部に左右[[対称性]]は見られない。]] [[File:Redkingcrab.jpg|thumb|235px|タラバガニの大きさ]] '''タラバガニ'''(鱈場蟹、[[学名]]:{{lang|la|''[[w:Paralithodes camtschaticus|Paralithodes camtschaticus]]''}}、[[英語]]:{{lang|en|[[w:red king crab|Red king crab]]}})は[[十脚目|十脚目(エビ目)]] - [[ヤドカリ下目|異尾下目(ヤドカリ下目)]] - [[タラバガニ科]] - {{仮リンク|タラバガニ属|en|Paralithodes}}に分類される[[甲殻類]]の[[種 (分類学)|一種]]。タラバガニ属はタラバガニを含む5種からなる。 本種はカニではなく、ヤドカリの仲間である([[分類学|生物分類学]]上は[[カニ下目]]ではなく[[ヤドカリ下目]]に分類される)<ref name="小学館日本国語大辞典"/><ref name="jfrca"/>。ただし、見かけはカニによく似ている。カニの脚は10本だが、タラバガニでは目立つ脚は8本という違いがある(ただし実際には10本ある。後述)。 水産業・貿易統計等の分野では[[カニ]]の一種として取り扱われ<ref name="農水省-統計-R2-01" /><ref name="jfrca" />、重要な水産資源の一種に位置づけられている<ref name="jfrca" /><ref name="小学館日本国語大辞典" />。 == 呼称 == === 学名 === [[学名|種小名]]は {{lang|la|''camtschaticus''}}<ref name="小学館ニッポニカ"/>。分布域内にある[[カムチャツカ半島]]に由来する。種小名は女性形 {{lang|la|''camtschatica''}} が用いられることもあるが、[[学名|属名]]の {{lang|la|''Paralithodes''}} は男性形なので、同じく男性形の {{lang|la|''camtschaticus''}} を使用するのが望ましい。 === 和名 === [[和名]]は「たらばがに」、「鱈場蟹」「多羅波蟹」などの漢字表記がある<ref name="小学館日本国語大辞典"/>。ほかに、方言として「たらがに<ref name="小学館日本国語大辞典"/><ref name="倉上1925"/>」「いばらがに<ref name="倉上1925"/>」などがみられる。俗に「カニの王様」とも呼ばれる<ref name="jfrca"/>。 名称の由来は、生息域が[[タラ]]の[[漁場]](鱈場[たらば])と重なることに因るという<ref name="旺文社生物事典"/><ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="jfrca"/><ref name="FRA-200608"/>。異説として、かつては用途がなく漁村に山積みで放棄されていたことから「殻場」が語源だともいう<ref name="神港"/>。タラ漁師が誤って網を海底までおろしてしまい、網を引き上げてみると見たことのないカニが掛かっていたのがタラバガニ漁の起源である、との伝えもある<ref name="平凡社世界大百科"/>。 標準和名「タラバガニ」は、和名「たらばがに」を[[生物学]]が、学術名として引き継いだものである。「カニ」の名称は学術的には問題があるが、広く普及している通俗名を重視する姿勢をもって、改められることなく採用された。 === その他の言語 === [[英語]]では「{{lang|en|king crab}}<ref name="平凡社世界大百科"/><ref name="研究社新英和"/>」。または、「[[w:King crab|king crab]] 」という大グループのうちの一種との認識で、「{{lang|en|red king crab}}<ref name="神港"/><ref name="FRA-200608"/> 」([[仮名 (文字)|仮名]][[転写 (言語学)|転写]]:レッドキングクラブ)や、「{{lang|en|alaska king crab}}<ref name="神港"/>」(仮名転写:アラスカキングクラブ)と呼ばれる。なお、[[カブトガニ]]も同じ英名 King Crab と呼ばれる<ref name="研究社新英和"/>。こちらはカニではなく、[[クモ]]に近い動物である。 [[ロシア語]]では「{{lang|ru|Камчатский краб}}」(仮名転写:カムチャツキイクラブ)<ref name="露-discover"/>。 [[北欧]]では「Stalin’s Crab」(スターリンズクラブ、[[ヨシフ・スターリン]]のカニの意)との俗称がある<ref name="MS-20160825"/>。もともと[[バレンツ海]]にはタラバガニは分布していなかったが、ロシアから人為的に導入されたものが外来種として増殖した。これは1960年代にロシア科学者が漁業資源を増やす目的だったと考えられているが<ref name="NOR-seafood"/><ref name="MS-20160825"/>、それより以前の第2次世界大戦前にスターリンが飢餓対策としてカムチャツカから導入したという俗伝もある<ref name="NOR-seafood"/><ref name="MS-20160825"/>。 == 分類 == 外観上は明らかにカニに見え、呼称も「カニ」(crab)というが、生物分類学上はカニ([[短尾類]])ではなくヤドカリ([[異尾類]])の仲間に位置づけられており<ref name="平凡社世界大百科"/>、「カニの形をしたヤドカリ<ref name="神港"/>」である。カニではなくヤドカリに分類される主な理由は、メスの腹部が左右非対称で腹肢が左側だけにしかない<ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="平凡社世界大百科"/>、第5脚(胸脚のうち最後のもの)が小さく鰓室内にさしこまれている<ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="平凡社世界大百科"/><ref name="小学館日本国語大辞典"/>(このため、ふつうのカニはハサミを含めて脚が5対(10本)なのに対し、タラバガニは脚が4対(8本)しかないように見える<ref name="小学館日本国語大辞典"/><ref name="FRA-200608"/>)ことなどによる。ほかにも、メスの生殖孔が第2歩脚の底節にある<ref name="小学館ニッポニカ"/>、オスに交尾器がない<ref name="小学館ニッポニカ"/>、はさみ脚の長節が腕節より短い<ref name="小学館ニッポニカ"/>、といった身体的特徴がヤドカリと合致する。 *古典的な分類<ref name="倉上1925"/> {{tree list}} *[[十脚目]] **異尾(いび)亜目 ***寄居蟲(やどかり)族 ****たらばがに科 *****たらばがに属 ******たらばがに {{tree list/end}} *現代の分類 {{tree list}} *[[十脚目]] **[[エビ亜目]] ***[[ヤドカリ下目]] ****[[ヤドカリ上科]] *****[[タラバガニ科]] ******[[タラバガニ属]] *******タラバガニ {{tree list/end}} タラバガニ属とその下位分類5種(タラバガニとその近縁種) * '''[[タラバガニ属]] ''Paralithodes'' Brandt, 1848'''<ref name="ITIS-97934"/> ** [[ハナサキガニ]] ''Paralithodes brevipes'' (H. Milne Edwards and Lucas, 1841)<ref name="ITIS-97937"/> ** [[和名]]未定 ''Paralithodes californiensis'' (J. E. Benedict, 1895)<ref name="ITIS-97938"/> ** '''タラバガニ ''Paralithodes camtschaticus'' (Tilesius, 1815)''' <ref name="ITIS-97935"/> ** [[アブラガニ]] ''Paralithodes platypus'' Brandt, 1850 <ref name="ITIS-97936"/> ** 和名未定 ''Paralithodes rathbuni'' (J. E. Benedict, 1895) <ref name="ITIS-97939"/> 近縁種として、北日本沿岸に分布するタラバガニ属(学名:''genus Paralithodes'')として、タラバガニ(学名:''P. camtschaticus''、英語名:red king crab)のほかに、[[アブラガニ]](学名:''P. platypus''、英語名:blue king crab)と [[ハナサキガニ]](学名:''P. brevipes'')、北太平洋東岸の ''P. californiensis'' (英語名:California king crab)、および、''P. rathbuni'' の4種類がある。前3者はどれもタラバガニ同様重要な食用種となっている。 そのほか、チリ・アルゼンチン付近に分布する南タラバガニ(学名:''[[:en:Lithodes santolla|Lithodes santolla]]''、英語名:Southern king crab)、''Lithodes Turkayi''(英語名:South Atlantic king crab)や南極イバラガニ(学名:''Paralomis spinosissima''、英語名:Antarctic stone crab)も[[食用種]]として捕獲されている。 == 生物的特徴 == === 形態 === [[ファイル:The Childrens Museum of Indianapolis - Alaskan red king crab.jpg|left|thumb|インディアナポリス子供博物館のコレクションのタラバガニ。]] [[甲羅|甲]]幅は25[[センチメートル|cm]]ほどで、[[脚]]を広げると1[[メートル|m]]を超える大型甲殻類である。全身が短い[[棘]]状突起で覆われている。 食用として流通する際は[[茹でる|茹でられて]]赤橙色になったもの([[外骨格]]に含まれる成分である[[アスタキサンチン]]が加熱によって[[可視化]]したもの)が多いが、[[生体]]は背中側が暗[[紫|紫色]]、腹側が淡[[黄色]]をしている。 甲は丸みがあり、やや前方に尖った[[五角形]]をしている。両脇が盛りあがり、[[複眼と単眼#複眼|複眼]]の間に尖った額角、中央に"[[H]]"型の溝がある。なお、心域(H字の中央下の区画)に6つの突起があり、ここで近縁種の[[アブラガニ]](突起が4つだけ)と区別できるが、稀に5本の個体(アブラガニ)も見つかる<ref name="農水省-判別"/>。 5対の[[歩脚]]のうち、第1[[歩脚]]は、[[はさみ (動物)|鋏脚]]で、右の鋏が左より大きい。太くて長い[[歩脚]]の中では第3脚が特に長い。第5歩脚は小さくて[[えら|鰓室]](さいしつ)に差し込まれており、[[鰓]](えら)の掃除をする役割がある。このため外見はほぼ「カニ」であるが、脚が3対しかないように見える。他にもメスの腹部の左右が異なり、[[腹肢]]が左側のみにあることなど、[[ヤドカリ類]]の特徴がある。また、横方向に移動するのが一般的であるカニに対して、タラバガニは縦方向にも移動ができる。顔立ちもよく見ると、[[カニ類]]よりは、ヤドカリ類に近い特徴を備えていることがわかる。 === 分布 === 寒海性で<ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="平凡社世界大百科"/>、[[北太平洋]]([[樺太]]沿岸・[[オホーツク海]]・[[ベーリング海]]・[[アラスカ]]沿岸)・[[日本海]]・[[北極海]]の冷水帯(水温10℃以下)に生息する<ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="平凡社世界大百科"/><ref name="神港"/>。生息する深度は北へ行くほど浅く<ref name="小学館ニッポニカ"/>、漁獲域は主に、日本海南部では水深350メートル付近、北海道周辺では180メートルから200メートル、北極海などでは水深30メートル、となっている<ref name="小学館ニッポニカ"/>。ただし、季節や、性齢による違いもある<ref name="小学館ニッポニカ"/>。幼体は集団で沿岸部の浅い海域に住み、成長した個体は単独で深い沖合に住む<ref name="神港"/>。 分布の南限は、日本海では[[隠岐諸島]](島根県)周辺(北緯36度付近)、太平洋西部では[[三陸海岸]]以北から[[襟裳岬]](北海道)周辺(北緯42度付近)、太平洋東部ではカナダ沿岸(北緯50度付近)となっている<ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="神港"/>。分布の北限は[[アラスカ]]の北極海沿岸<ref name="小学館ニッポニカ"/>。日本の太平洋沿岸では、[[駿河湾]]や[[徳島県]]沖の[[水深]]約850- 約1,100mの海域での捕獲も記録されている。 このほか、本来の生息域ではないが、20世紀に人為的に導入されたことで、ノルウェー・ロシア沿岸の[[バレンツ海]]にも生息する<ref name="NOR-seafood"/><ref name="MS-20160825"/>。[[1960年代]]に旧・[[ソビエト連邦]]の科学者がバレンツ海に[[放流]]し、繁殖させることに成功した。[[1980年代]]後半から[[ノルウェー]]沖でも生息が観察されるようになり、現在{{いつ|date=2013年6月}}でも分布域を広げつつある。この[[個体群]]は[[ロシア]]・[[ノルウェー]]両国で[[漁業]][[資源]]として利用されているが、[[天敵]]がいない環境で爆発的繁殖を遂げ、[[外来種]]として既存の生態系を脅かす存在ともなっている<ref name="NHK-20141011"/>。 === 生殖 === 通常期は、オスとメスとは分かれて集団で生息する<ref name="神港"/>。春(地域にもよるが、おおむね4月から6月)になると、繁殖のため、沿岸部などの水深30メートルから50メートルほどの浅い海底に集まる<ref name="平凡社世界大百科"/><ref name="小学館ニッポニカ"/>。さきにメスが集まり、つれてオスがやってくる<ref name="神港"/>。 まず、3日から7日ほどの間、オスがハサミでメスのハサミをつかむ<ref name="平凡社世界大百科"/><ref name="小学館ニッポニカ"/>。これを「ハンドシェーキング」と呼ぶ<ref name="平凡社世界大百科"/><ref name="小学館ニッポニカ"/>。このあとメスが脱皮し、続いて交尾が行われる<ref name="神港"/><ref name="小学館ニッポニカ"/>。ただし、オスは交尾針を有さないので、メスの生殖孔の近くに[[精莢]]を押しつける<ref name="神港"/>。これに応じてメスが産卵し、ハサミをつかって卵と精子を撹拌し受精させる<ref name="神港"/>。 卵は楕円形で、長径0.8ミリメートルから1.0ミリメートル、短径0.7ミリメートルから0.9ミリメートル<ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="神港"/>。色は青紫色<ref name="神港"/>。甲羅長が10センチメートルから15センチメートルのメスが、おおむね5万粒から18万粒の卵を産む<ref name="神港"/>。大きいメスほど産卵数も多く、甲羅長14センチメートルの個体で13万粒、甲羅長17センチメートルの個体で27万粒<ref name="小学館ニッポニカ"/>。{{refnest|group="注"|メス1匹あたりの孵化数は、高齢個体ほど多いと考えられる。種苗稚ガニ生産用に育成した個体では、16,000粒から80,000粒程度を抱卵した。{{要出典|date=2020年11月}}}} 卵はメスの腹部に卵塊となって付着し<ref name="神港"/>、1年程度抱卵<ref name="小学館ニッポニカ"/>、翌年の3月半ばから5月頃に孵化する<ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="平凡社世界大百科"/>。 === 成長と寿命 === 誕生した[[ゾエア|ゾエア幼生]]は、はじめは中層を浮遊する<ref name="小学館ニッポニカ"/>。最初の脱皮以後は、水深15メートルから75メートルほどの海底付近を遊泳する<ref name="小学館ニッポニカ"/>。4回の脱皮を経て[[グラウコトエ|グラウコトエ幼生]]に変態、さらに1度の脱皮により甲長1.7ミリメートルほどの稚ガニになると、底生になる<ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="神港"/>。ここまででおよそ2ヶ月を要する<ref name="神港"/>。 このあとも10回前後の脱皮を行いながら大きくなる<ref name="神港"/>。1年で10ミリメートル、2年で25ミリメートル、5年で40ミリメートルから85ミリメートル、6年で10センチメートルほどになる<ref name="神港"/><ref name="小学館ニッポニカ"/>。成長は遅く、オス・メスとも10センチメートルほどで性成熟となるが、そこまでにおおむね10年を要する<ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="神港"/>。 オスとメスでは寿命が異なり、オスは30年から31年程度、メスは25年ないし27年から34年程度と推定される<ref name="小学館ニッポニカ"/><ref name="平凡社世界大百科"/><ref name="神港"/>。 === 食性 === [[食性]]は[[肉食]]で[[多毛類]]、[[貝類]]など様々な[[小動物]]を[[捕食]]する。一方、[[天敵]]としては、人間以外にも[[オオカミウオ]]や[[ミズダコ]]などがいる。 == 日本人との関わり == === 漁獲 === [[日本]]における主な[[漁場]]は[[オホーツク海]]で、沖合[[底引き網]]や[[刺し網]]で[[漁獲]]され、かつては[[蟹工船]]があり、[[漁獲]]したものを海上で[[缶詰]]にまで加工していた。かつては、[[マダラ]]の[[延縄漁]]でも混獲されていたが、乱獲によって生息数の減少が危惧されている。 日本では「タラバ」蟹類採捕取締規則(昭和8年農林省令第9号)という命令により、メスの採捕が禁止されているが、販売についての[[規制]]は特になく、[[ロシア]]からの[[輸入品]]が「子持ちタラバ」として流通している。 海外におけるタラバガニの漁場はアメリカ合衆国アラスカ州のベーリング海のブリストル湾、同じくベーリング海のノートンサウンドという名の入り江やカムチャッカ半島近海などが有名である。 その中でもアメリカ産(アラスカ産)が非常に人気があり日本にも毎年輸入されている。 日本への輸入業者としてはアメリカ最大の水産会社である[[トライデントシーフード]]や[[ニッスイ]]が代表的である。 === 流通・食用 === [[塩茹で]]や[[蒸す|蒸し蟹]]として流通することが多く、[[缶詰]](身に含まれる[[硫黄]]が缶の鉄と化合して黒く変色するのを防ぐために身を[[硫酸紙]]で包む場合もある)にも加工される、いずれもそのまま食べる以外にも様々な[[料理]]の材料として、使われる。日本では半透明の生身を[[刺身]]で賞味することもあるが、加熱したものより繊維質が強靭で、[[うま味|旨み]]も薄い。[[ヤドカリ]]の仲間であることから、[[ケガニ]]や[[ズワイガニ]]とは違い、[[カニミソ]]は油分・水分が多く生臭さがあり、通常は食用にされない。 ==== アブラガニとの混同 ==== {{see also|アブラガニ}} [[アブラガニ]]はタラバガニとよく似ており、しばしば混同されることもあるが、アブラガニを「タラバガニ」と表示して販売することは、日本では禁止されている。 2004年に「タラバガニ」の原材料偽装(実際は[[アブラガニ]]<ref name="朝日AERA20070817"/>)が日本で問題となった<ref name=sasaki/>。アブラガニは従来[[北海道]]ではタラバガニと明確に別の種類として扱われていたが、後に価格も上昇しタラバガニの[[代用魚]]として利用されるようになった<ref name="東卸組2006"/>。 [[2004年]]3月21日の[[毎日放送]]系ローカル『Voice』、同年4月25日の[[TBSテレビ|TBS]]系『報道特集』にて、[[偽装]]販売問題が放映され、[[北海道]][[札幌市]]の[[二条市場]]への取材により、一部の店舗で偽装を認めたコメントが放映された。 2004年、公正取引委員会の調査により、4月27日付[[そごう]]広島店の「初夏の北海道物産展」の折り込みチラシに、アブラガニをタラバガニであるかのように表示していたが,実際にはアブラガニであった事実等が認められ、6月30日、[[景品表示法]]の規定に基づき、株式会社そごうほか3社に排除命令を行った<ref name="公取20040630"/><ref name="通販新聞20170824"/>。{{要出典|date=2018-01|これらの一連の報道をきっかけに、アブラガニの存在が広く知られるところとなった。}} {{要出典|date=2018-01|また、アブラガニのほかにも[[イバラガニ]](学名:''Lithodes turritus''<!-- Ortmann, [[1892年|1892]]-->)など多くの近縁種を抱えているので、こちらも偽装に使われるのではないかと指摘する関係者も存在する。}} ===文学=== 本来は、タラバガニの漁期は春から夏の間であるが<ref name="神港"/>、「タラバガニ」は冬の季語になっている<ref name="小学館日本国語大辞典"/><ref name="神港"/>。日本では[[小林多喜二]]の『[[蟹工船]]』でも知られる<ref name="神港"/>。 ==脚注== ===注釈=== <references group="注"/> ===出典=== {{Reflist|colwidth=30em |refs= *<ref name="農水省-統計-R2-01">[[農林水産省]]、{{PDFlink|[https://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/kokusai/attach/pdf/index-52.pdf 農林水産物輸出入情報(令和2年1月分)]}}、2020年11月8日閲覧。</ref> *<ref name="jfrca">公益社団法人日本水産資源保護協会、『わが国の水産業 かに』、{{PDFlink|[http://www.fish-jfrca.jp/02/pdf/pamphlet/073.pdf 「種類と分布」および「代表種」]}}、2020年11月8日閲覧。</ref> *<ref name="小学館日本国語大辞典">[[小学館]]、『[[日本国語大辞典]]』「たらばがに」。[[JapanKnowledge]]にて確認(2020年11月8日)。</ref> *<ref name="小学館ニッポニカ">[[小学館]]、『[[日本大百科全書|日本大百科全書:ニッポニカ]]』、[[武田正倫]]・笹川康雄・三浦汀介、「タラバガニ」、[[JapanKnowledge]]にて確認(2020年11月8日)。</ref> *<ref name="平凡社世界大百科">[[平凡社]]、『[[世界大百科事典]]』、[[武田正倫]]、「タラバガニ」。[[JapanKnowledge]]にて確認(2020年11月8日)。</ref> *<ref name="旺文社生物事典">[[旺文社]]、『生物事典』、「タラバガニ」、[[JapanKnowledge]]にて確認(2020年11月8日)。</ref> *<ref name="倉上1925">倉上政幹・著、『水産動植物精義』、杉山書店、1925年。pp.293-299「たらばがに」。([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017968 国立国会図書館デジタルコレクション])コマ番号163-166</ref> *<ref name="研究社新英和">[[研究社]]、編者代表・[[竹林滋]]、『[[新英和大辞典]]』(第6版第10刷)、2015。ISBN 978-4-7674-1016-6</ref> *<ref name="神港">神港魚類株式会社([[マルハ|マルハ株式会社]]グループ)、「日本の旬・魚の話」、「[http://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/94-tarabagani.html 鱈場蟹(たらばがに)]」。2020年11月8日閲覧。</ref> *<ref name="FRA-200608">独立行政法人[[水産総合研究センター]]、NEWS LETTER、「おさかな瓦版」第12号(2006年8月)、シリーズ:北の海のさかなたち、{{PDFlink|[http://www.fra.affrc.go.jp/bulletin/letter/no12.pdf 「第4回 タラバガニ」]}}。2020年11月8日閲覧。</ref> *<ref name="露-discover">[[ディスカバリーチャンネル]]、[https://www.discoverychannel.ru/articles/kak-kamchatskiy-krab-okazalsya-v-barentsevom-more/ Как камчатский краб оказался в Баренцевом море?]。2020年11月8日閲覧。</ref> *<ref name="NOR-seafood">[[ノルウェー]](ノルウェー王国大使館)、「SEWFOOD FROM NORWAY」(ノルウェー産シーフード)[https://seafoodfromnorway.jp/seafood-from-norway/red-king-crab/ タラバガニ]。2020年11月8日閲覧。</ref> *<ref name="MS-20160825">[[:en:Morning Star (British newspaper)|Morning Star]]、2016年8月25日付、[https://morningstaronline.co.uk/a-2057-stalins-crab-all-set-to-take-over-the-northern-seas-1 Stalin’s crab all set to take over the northern seas]。2020年11月8日閲覧。</ref> <!--分類--> *<ref name="ITIS-97934">出典 : [http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=97934 ITIS (Integrated Taxonomic Information System)]</ref> *<ref name="ITIS-97937">出典 : [http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=97937 ITIS (Integrated Taxonomic Information System)]</ref> *<ref name="ITIS-97938">出典 : [http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=97938 ITIS (Integrated Taxonomic Information System)]</ref> *<ref name="ITIS-97935">出典 : [http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=97935 ITIS (Integrated Taxonomic Information System)]</ref> *<ref name="ITIS-97936">出典 : [http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=97936 ITIS (Integrated Taxonomic Information System)]</ref> *<ref name="ITIS-97939">出典 : [http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=97939 ITIS (Integrated Taxonomic Information System)]</ref> <!--形態--> *<ref name="農水省-判別">出典 : {{Cite web|和書|author=水産総合研究センター北海道区水産研究所 亜寒帯漁業資源部 底魚生態研究室 |date=2007年 |url=http://www.affrc.go.jp/ja/research/seika/data_suisan/h17/hnf/hnf001 |title=SSP-PCR法によるタラバガニ類の種判別方法の確立 |work=(公式ウェブサイト)|publisher=[[農林水産省]] 農林水産技術会議事務局 |accessdate=2010年4月14日}}</ref> <!--分布・生態--> *<ref name="NHK-20141011">出典 : NHK [[地球ドラマチック]] 「増殖中!タラバガニ 生態系を壊す!海底の王者」2014年10月11日放送分</ref> <!--アブラガニとの混同--> *<ref name="朝日AERA20070817">[[朝日新聞社]]<!--2007年当時-->、[[AERA]]、2007/08/17付、[http://www.asahi.com/food/special/TKY200708170203.html 「豚肉→牛肉」だけじゃない食品偽装のカラクリ]。2020年11月8日閲覧。</ref> *<ref name=sasaki>[[北海道立総合研究機構]] 佐々木潤[https://www.hro.or.jp/info_headquarters/event/lunch/45.html ランチタイムセミナー > 第45回 代用魚]</ref> *<ref name="東卸組2006">[[東京魚市場卸協同組合]][http://www.touoroshi.or.jp/fish2/fish2-32/fish2-32.html おさかな普及センター資料館 さかなの知識あれこれれ No.32] 2006年</ref> *<ref name="公取20040630">{{Cite news|url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040630-00000412-yom-soci |title=タラバガニはアブラガニ!?そごうなどに排除命令 |date= 2004-06-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040701192848/https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040630-00000412-yom-soci |archivedate=2004-07-01 |accessdate=2019-04-27}}</ref> *<ref name="通販新聞20170824">{{Cite news|url=https://www.tsuhanshimbun.com/products/article_detail.php?product_id=3833 |title=機能性表示「解禁」と「規制」 暗転する新市場② 大詰め迎えた調査 |date=2017-08-24 |accessdate=2019-04-27}}</ref> }} == 参考文献 == {{ページ番号|date=2014年10月}} * {{Cite book|和書 |date=1982年8月 |author=[[三宅貞祥]] |title=原色日本大型甲殻類図鑑 |volume=〈1〉|publisher=[[保育社]] |isbn=978-4-5863-0062-4}} * {{Cite book|和書 |date=1990年12月 |author=内田亨監修 |title=学生版 日本動物図鑑 |edition=学生版(第2版)|publisher=[[北隆館]] |isbn=978-4-8326-0042-3}} * {{Cite web|和書|date= |url=http://www.city.nemuro.hokkaido.jp/dcitynd.nsf/0/2C461FFB2DC23B8D492570C7000817A8?OpenDocument |title=タラバガニ類種苗生産技術の確立 - 水産研究所 |work=根室市役所(公式ウェブサイト)|publisher=[[根室市]] |accessdate=2010年4月14日}} == 関連項目 == {{Wikispecies|Paralithodes camtschaticus}} {{Commonscat|Paralithodes camtschaticus}} * [[ハナサキガニ]] * [[アブラガニ]] * [[ズワイガニ]] * [[ケガニ]] == 外部リンク == * {{PDF|[http://www.fra.affrc.go.jp/bulletin/letter/no12.pdf タラバガニ]}} - 水産総合研究センター * [http://www.city.abashiri.hokkaido.jp/380suisangyo/020suisanngakusyuu/030joukyuu/040zukann/110taraba.html 網走のおさかな図鑑 タラバガニ] - 網走市 * {{コトバンク}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たらはかに}} [[Category:ヤドカリ下目]] [[Category:食用甲殻類]] [[Category:北海道の食文化]] [[Category:東北地方の食文化]] [[Category:寿司種]]
2003-09-15T00:40:34Z
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ジンギスカン (曲)
ジンギスカン (独:Dschinghis Khan) は、ドイツ(当時は西ドイツ)の音楽グループであるジンギスカン (Dschinghis Khan, 日本では契約上「Genghis Khan」と英語表記される) のデビュー曲。作詞はベルント・マイヌンガーで、作曲はラルフ・ジーゲル、英訳はスティーヴ・ベンダー。 モンゴルの英雄であるチンギス・ハーン(ジンギス・カン:成吉思汗)をモチーフにしたこの曲は、1979年3月に西ドイツの出場曲として「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」で発表された。同大会での最終結果は4位であった。 ジュピターレコードからシングル(B面は「砂漠の国サハラ Sahara」)として発売されて西ドイツ国内では4週にわたりチャート1位、50万枚の大ヒットになった。さらに、ヨーロッパにのみならず世界的な大ヒットとなり、日本ではオリコン洋楽シングルチャートで1979年8月6日付から5週連続1位を獲得した。オリジナルのドイツ語だけでなく「ジンギスカン」自身による英語版(英詞はメンバーのスティーヴ・ベンダーが担当し、moskauの英詞も彼である。)や、中国語、日本語(3種類の歌詞)、ロシア語、韓国語でのカバーも出された。同年7月にリリースされたファーストアルバム「ジンギスカン」にも収録された。 1970年代末期のディスコミュージックではあるが、現在でも保育園・幼稚園および小学校でのお遊戯や運動会、キャンプファイヤーなどのレクリエーションにもよく用いられる。また、テレビ番組で料理のジンギスカンを紹介する際にBGMとして採用されることが多い。 2000年発表のモーニング娘。の「恋のダンスサイト」(作詞・作曲:つんく)のモチーフ元とされる。同年5月24日、オリジナルの「ジンギスカン」が日本でシングルCDとして再発される。 2003年にはドラマ『ウォーターボーイズ』の中で流されている。 2004年6月には、KinKi Kidsが出演しているサントリーのスーパーブルーのCMソングで使用された。 2004年12月16日には、サッカー国際親善試合「日本対ドイツ」戦で「ジンギスカン」を基にした応援歌が披露される。これは2006年のFIFAワールドカップの会場がドイツということもあり、アメリカ大会(1994年)へ向けて行われたアジア地区予選(1993年)で歌われたアメリカ民謡「リパブリック讃歌」の替え歌「アメリカへ行こう」、1998年のフランス大会本戦で披露されたフレンチポップ歌手ミッシェル・ポルナレフの大ヒット曲「シェリーに口づけ」の替え歌「アレー ジャポン」に続くケースとなった。 2005年2月9日の2006 FIFAワールドカップ・アジア最終予選の第1戦となる北朝鮮戦が行われたこの日には「成吉思汗(ジンギスカン)~ドイツへ行こう~」として「ウルトラスニッポン」によりインディーズレーベルによりCDも発売され、「みんなでドイツへ行こう」のフレーズとともに、このメロディが会場に鳴り響いた。この声援がテレビ中継などを通じて話題となり、3月2日にはメジャーレーベルから発売となった。 また、日本でいわゆる空耳ソングとして「もすかう」のタイトルで「めざせモスクワ」がブームになったことを受け、同曲のカップリング曲として発売された(ユニット名は「ボートでヘイコラホー」とされているが、実際はマルコポーロである)。 2007年にはDschinghis Khan自身によりセルフカバーが行われている(アルバム「7 Lebens」に収録)。 2008年にはBerryz工房が、5カラットや川崎麻世のカバーと同じ山本伊織の日本語詞でカバーした。このBerryz工房盤のヒットにより、Berryz工房のカバーとジンギスカンのオリジナルをリミックスした「ジンギスカン タルタルミックス」が発売された。続いて、Berryz工房盤やオリジナル盤を含む『ジンギスカン』の各バージョンを20曲集めたコンピレーション盤『ジンギスカンだらけ』が2008年11月26日に発売された。 また、2008年4月11日の金曜バラエティーの中で、芋洗坂係長が本作の替え歌である『人事課』を歌っている。 プロバスケットボールBリーグの仙台89ERSブースターによるジンギスカンダンスは名物になっている。 日本プロ野球の北海道日本ハムファイターズのチャンステーマおよび「ジンギスカンダンス」にも、この曲が使われている。2022年までは「勝利のジンギスカンダンス」として日本ハム勝利時に限り使用されていたが、本拠地をエスコンフィールドHOKKAIDOに移転した2023年には、勝敗問わずファイターズガール歌唱版(訳詞:山本伊織)が使用されている。 また中谷仁は、東北楽天ゴールデンイーグルスにこの曲を登場曲にしていた。 2011年初夏よりアサヒフードアンドヘルスケアのクリーム玄米ブランのテレビCMで替え歌が使用された。 2018年3月よりドミノ・ピザのテレビCM「踊るカン・シャーサイ」篇で替え歌が使用された。 この他に、日本の高校野球の応援歌(神村学園高等部や帯広大谷高等学校などが演奏)としても有名である。 2019年5月Y!mobile のCMでアレンジされた歌詞で使用されている。 2021年9月よりミクシィが運営するケイリンネットサービスコンテンツ「TIPSTAR」のCMソングに使用されている。 歌手(演奏者)名横に☆が付いている曲は、先述した『ジンギスカンだらけ』に収録されている。 「ジンギスカン」は、Berryz工房の楽曲で、16枚目のシングル。2008年3月12日発売。ドイツのアーティスト、ジンギスカンの楽曲「ジンギスカン」をカバーしたものである。また、日本語訳詞は、かつて発売されたいくつかのものの中から、1979年に5カラットというグループが歌ったものであるため、厳密にはカバー曲のカバーとなる。 初回生産限定盤と通常盤の2形態での発売。初回生産限定盤はCD+DVD、通常盤はCDのみ。初回生産限定盤と通常盤の初回仕様にはイベント抽選シリアルナンバーカードが封入されている。 ミュージック・ビデオでは、多数の幼稚園児をエキストラとして動員している。
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ジンギスカン は、ドイツ(当時は西ドイツ)の音楽グループであるジンギスカン のデビュー曲。作詞はベルント・マイヌンガーで、作曲はラルフ・ジーゲル、英訳はスティーヴ・ベンダー。
{{Infobox ESC entry | artist = {{ill2|ルイス・ヘンリック・ポンジェッター|de|Louis Hendrik Potgieter}}<br> {{ill2|ヴォルフガング・ハイヒェル|de|Wolfgang Heichel}}<br>[[ヘンリエッテ・シュトローベル]]<br>[[エディナ・ポップ]]<br>{{ill2|スティーヴ・ベンダー|de|Steve Bender}}<br>[[レスリー・マンドキ]] | song = {{flagicon|Germany}} "Dschinghis Khan" | country = 西ドイツ | year = 1979 | as = [[ジンギスカン (グループ)|ジンギスカン]] | with = | language = ドイツ語 | languages = | composer = {{ill2|ラルフ・ジーゲル|en|Ralph Siegel}} | lyricist = [[ベルント・マイヌンガー]] | conductor = {{ill2|ノルベルト・ダウム|en|Norbert Daum}} | place = 4 | points = 86 | place_semi = | points_semi = | lyrics = [http://www.diggiloo.net/?1979de from Diggiloo Thrush] | clip = | prev = Feuer | prev_link = :en:Feuer (song) | next = Theater | next_link = :en:Theater (song) }} {{External media|topic=試聴 |audio1='''[https://www.youtube.com/watch?v=jcr3C5mgGoo Dschinghis Khan]''' - Jupiter Records提供のYouTubeアートトラック}} '''ジンギスカン''' (独:'''Dschinghis Khan''') は、[[ドイツ]](当時は[[西ドイツ]])の音楽グループである[[ジンギスカン (グループ)|ジンギスカン]] (Dschinghis Khan, [[日本]]では契約上「[[:en:Genghis Khan|Genghis Khan]]」と[[英語]]表記される) のデビュー曲。作詞はベルント・マイヌンガーで、作曲はラルフ・ジーゲル、英訳はスティーヴ・ベンダー。 == 概要 == [[モンゴル]]の英雄である[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]](ジンギス・カン:成吉思汗)をモチーフにしたこの曲は、[[1979年]]3月に西ドイツの出場曲として「[[ユーロビジョン・ソング・コンテスト1979|ユーロビジョン・ソング・コンテスト]]」で発表された。同大会での最終結果は4位であった。 ジュピターレコードからシングル(B面は「砂漠の国サハラ ''Sahara''」)として発売されて西ドイツ国内では4週にわたりチャート1位、50万枚の大ヒットになった。さらに、[[ヨーロッパ]]にのみならず世界的な大ヒットとなり、日本では[[オリコンチャート|オリコン]]洋楽シングルチャートで1979年8月6日付から5週連続1位を獲得した<ref>[[コンピレーション・アルバム]]『ナンバーワン70s ORICON ヒッツ』の[[ディスクジャケット|裏ジャケット]]。[http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Special/no1oriconhits/ ナンバーワン 70s 80s 90s オリコン・ヒッツ]も参照。</ref>。オリジナルの[[ドイツ語]]だけでなく「ジンギスカン」自身による英語版<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=7i9ozy739c8 You Tube における実物]</ref>(英詞はメンバーのスティーヴ・ベンダーが担当し、moskauの英詞も彼である。)や、[[中国語]]、[[日本語]](3種類の歌詞)、[[ロシア語]]、[[韓国語]]でのカバーも出された。同年7月にリリースされたファーストアルバム「ジンギスカン」にも収録された。 [[1970年代]]末期の[[ディスコミュージック]]ではあるが、現在でも[[保育園]]・[[幼稚園]]および[[小学校]]での[[お遊戯]]や[[運動会]]、[[キャンプファイヤー]]などの[[レクリエーション]]にもよく用いられる。また、テレビ番組で[[料理]]の[[ジンギスカン (料理)|ジンギスカン]]を紹介する際に[[BGM]]として採用されることが多い。 [[2000年]]発表の[[モーニング娘。]]の「[[恋のダンスサイト]]」(作詞・作曲:[[つんく♂|つんく]])のモチーフ元とされる<ref name=cdjournal>[http://artist.cdjournal.com/d/dschinghis-khan---the-story-of-genghis-khan/3200040549 ジンギスカン]、CDJournal。 - 2017年10月10日閲覧。</ref>。同年[[5月24日]]、オリジナルの「ジンギスカン」が日本でシングルCDとして再発される<ref name=cdjournal />。 [[2003年]]には[[ドラマ]]『[[ウォーターボーイズ]]』の中で流されている。 [[2004年]][[6月]]には、[[KinKi Kids]]が出演している[[サントリー]]のスーパーブルーのCMソングで使用された。 [[2004年]][[12月16日]]には、[[サッカー]]国際親善試合「日本対ドイツ」戦で「ジンギスカン」を基にした応援歌が披露される。これは[[2006 FIFAワールドカップ|2006年のFIFAワールドカップ]]の会場がドイツということもあり、[[1994 FIFAワールドカップ|アメリカ大会]]([[1994年]])へ向けて行われた[[1994 FIFAワールドカップ・アジア地区予選|アジア地区予選]]([[1993年]])で歌われたアメリカ民謡「[[リパブリック讃歌]]」の替え歌「アメリカへ行こう」、[[1998年]]の[[1994 FIFAワールドカップ|フランス大会本戦]]で披露された[[フレンチポップ]]歌手[[ミッシェル・ポルナレフ]]の大ヒット曲「[[シェリーに口づけ]]」の替え歌「アレー ジャポン」に続くケースとなった。 [[2005年]][[2月9日]]の[[2006 FIFAワールドカップ・アジア予選|2006 FIFAワールドカップ・アジア最終予選]]の第1戦となる[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]戦が行われたこの日には「成吉思汗(ジンギスカン)~ドイツへ行こう~」として「ウルトラスニッポン」により[[インディーズ]]レーベルによりCDも発売され、「みんなでドイツへ行こう」のフレーズとともに、このメロディが会場に鳴り響いた。この声援がテレビ中継などを通じて話題となり、[[3月2日]]にはメジャーレーベルから発売となった。 また、日本でいわゆる[[空耳アワー|空耳ソング]]として「もすかう」のタイトルで「[[めざせモスクワ]]」がブームになったことを受け、同曲のカップリング曲として発売された(ユニット名は「ボートでヘイコラホー」とされているが、実際はマルコポーロである)。 [[2007年]]にはDschinghis Khan自身によりセルフカバーが行われている(アルバム「7 Lebens」に収録)。 [[2008年]]には[[Berryz工房]]が、5カラットや川崎麻世のカバーと同じ山本伊織の日本語詞でカバーした。このBerryz工房盤のヒットにより、Berryz工房のカバーとジンギスカンのオリジナルをリミックスした「[[ジンギスカン タルタルミックス]]」が発売された<ref name="rooftop">[https://rooftop1976.com/interview/081101110000.php ジンギスカンだらけ('08年11月号)]、Rooftop、2008年11月1日。</ref>。続いて、Berryz工房盤やオリジナル盤を含む『ジンギスカン』の各バージョンを20曲集めたコンピレーション盤『ジンギスカンだらけ』<ref name="rooftop" />が2008年[[11月26日]]に発売された<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000045227 「ジンギスカン」だけ20曲、濃厚コンピ『ジンギスカンだらけ』]、BARKS、2008年11月28日 15時28分。</ref>。 また、2008年[[4月11日]]の[[金曜バラエティー]]の中で、[[小浦一優|芋洗坂係長]]が本作の替え歌である『人事課』を歌っている。 プロ[[バスケットボール]][[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]の[[仙台89ERS]]ブースターによるジンギスカンダンスは名物になっている。 [[日本野球機構|日本プロ野球]]の[[北海道日本ハムファイターズ]]の[[チャンステーマ]]および「ジンギスカンダンス」にも、この曲が使われている。2022年までは「勝利のジンギスカンダンス」として日本ハム勝利時に限り使用されていたが、本拠地を[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]に移転した2023年には、勝敗問わず[[ファイターズガール]]歌唱版(訳詞:山本伊織)が使用されている。 また[[中谷仁]]は、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]にこの曲を登場曲にしていた。 元サッカー選手の[[船越優蔵|船越優造]]は、[[アルビレックス新潟]]所属時にこの曲が[[チャント]]で使われていた。 [[2011年]]初夏より[[アサヒフードアンドヘルスケア]]のクリーム玄米ブランのテレビCMで替え歌が使用された。 [[2018年]]3月より[[ドミノ・ピザ]]のテレビCM「踊るカン・シャーサイ」篇で替え歌が使用された。 この他に、[[日本の高校野球]]の[[応援歌]]([[神村学園初等部・中等部・高等部|神村学園高等部]]や[[帯広大谷高等学校]]などが演奏)としても有名である。 [[2019年]]5月[[Y!mobile]] のCMでアレンジされた歌詞で使用されている。 [[2021年]]9月より[[ミクシィ]]が運営する[[競輪|ケイリン]]ネットサービスコンテンツ「TIPSTAR」のCMソングに使用されている<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/335465 「EXILE」NAOTO&白濱亜嵐&関口メンディー&佐藤大樹が「FANTASTICS」と『TIPSTAR』CMでジンギスカンダンス] - [[東京中日スポーツ]](2021年9月24日)</ref>。 == カバー == 歌手(演奏者)名横に☆が付いている曲は、先述した『ジンギスカンだらけ』に収録されている<ref>[https://natalie.mu/music/news/10470 ボッサからメタルまで!ジンギスカン縛りコンピ]、音楽ナタリー、2008年10月24日 18時11分。</ref>。 === 日本 === * 5カラット(1979年) - 訳詞:山本伊織。シングル「ジンギスカン」収録。 * 原たかし&バットマンズ(1979年)☆ - 訳詞:カルメン。シングル「ジンギスカン」収録。 * ザ・モンゴルズ(1979年)☆ - 訳詞:浅川佐記子。シングル「ジンギスカン PART-I,II」収録。 * [[川崎麻世]](1979年)☆ - 訳詞:山本伊織。上記の5カラットの歌詞と同じ。LP『MAYO SELECTION』に収録。 * [[渋谷哲平]](1979年)☆ - 訳詞:浅川佐記子。上記のザ・モンゴルズの歌詞と同じ。LP『ヤング・セーラーマン(IN THE NAVY)』に収録。 * 少年探偵団(1979年) - 訳詞:カルメン。上記の原たかし&バットマンズの歌詞と同じ。シングル(EP)『恐怖の人間カラオケ』に収録。 * M's-QUEEN([[1990年]]) - アルバム『ゴールデン・エイジ・オブ・ディスコVol.1〜ルーツ・オブ・ユーロビート』に収録。 * [[米米CLUB]](1990年) - コンサートライブで * [[モダンチョキチョキズ]]([[1990年代]]) * [[女王様 (歌手)|女王様]]([[1996年]]) - 訳詞:S中野。メドレー曲「女王様物語第二章〜踊る女王様〜」(同名シングルに収録)内の1曲としてカバー * [[見良津健雄|おたっしゃクラブ]](1996年) - 「[[与作]]」との[[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]]。アルバム『エンカトレイン Vol.2』に収録 * イノウエ([[1999年]])☆ - 日本語詞:イノウエ。ミニアルバム『お茶』収録。 * [[SMAP]](1999年) - コンサートライブにで。VHS・DVD『[[LIVE BIRDMAN]]』収録。 * [[東京佼成ウインドオーケストラ]](2004年) - 吹奏楽バージョンとして[[ニュー・サウンズ・イン・ブラス#2000年代|ニュー・サウンズ・イン・ブラス]]で登場。編曲は[[天野正道]]。 * ウルトラスニッポン(2005年) - 曲名は「成吉思汗(ジンギスカン) 〜ドイツへ行こう」。同名のミニアルバムに収録。 * Moody★Rudy(2006年)☆ - 日本人と在日韓国人によるスカバンド。アルバム『くむるのり』収録。 * ULTRAS + [[ワッキー]](ペナルティ) + [[レイザーラモンHG]](2006年)☆ - アルバム『ULTRAS 2006』収録。 * [[Berryz工房]](2008年)☆ - 訳詞:山本伊織。上記の5カラットの歌詞と同じ。シングル「ジンギスカン」収録。 * [[ファイターズガール]](2023年) - 訳詞:山本伊織。上記の5カラットの歌詞と同じ。 === 日本国外 === * マルコポーロ(ドイツ、1979年)☆ - 本家[[ジンギスカン (グループ)|ジンギスカン]]と同じ西ドイツ出身。英語版とドイツ語版の二種類がある。日本盤はジンギスカンのオリジナルと同日発売された<ref name="rooftop" />。 * [[ジョージ・ラム|林子祥]](香港、1979年) - 広東語、曲名は「成吉思汗」。訳詞:鄭國江。 * 愛慧娜(シンガポール、1980年) - 標準中国語、曲名は「成吉思汗」。 * 沈文程(台湾、1981年) - 広東語、上記の林子祥の歌詞と同じ。 * 方正(台湾、1981年) - 標準中国語、曲名は「向前衛」。 * 張蝶(中国大陸、1986年) - 標準中国語、曲名は「成吉思汗」。 * 劉菁(中国大陸、1987年) - 標準中国語、曲名は「成吉思汗」。 * 張真(中国大陸、1993年) - 標準中国語、曲名は「少年先鋒」。 * [[メガ・エナジー・マン]](1994年) * D.K.2nd Generation([[1996年]]) * Tankwart(ドイツ、1996年)☆ * Donald Dark(ドイツ、[[1997年]])☆ * [[レニングラード・カウボーイズ]]([[フィンランド]]、1997年)☆ - 歌詞は日本語。アルバム『モンゴリアン・バーベキュー』に収録。 * [[ディー・アポカリプティシェン・ライター]](ドイツ、1998年) * Die Viel-Harmoniker(ドイツ、2000年)☆ * Zuckermund(2000年) * [[コヨーテ (音楽グループ)|コヨーテ]](韓国、2005年) - この曲と「[[めざせモスクワ]]」をアレンジした「アジャ!アジャ!」も作られた。 * Perle°(ドイツ、2006年)☆ * [[ロッキング・サン (グループ)|ロッキング・サン]](ドイツ、2006年)☆ * [[ウィグワム (ノルウェーのロックバンド)|ウィグワム]](ノルウェー、2006年)☆ * 慕容萱(中国大陸、2008年) - 標準中国語、曲名は「成吉思汗」。 * 羅百吉(台湾、2008年) - 標準中国語、曲名は「成吉思汗」。 * 青春美少女(中国大陸、2009年) - 標準中国語、曲名は「成吉思汗」。 * 格格(中国大陸、2010年) - 標準中国語、曲名は「成吉思汗」。 * [[:en:Amarkhuu_Borkhuu|Amarkhuu Borkhuu]](2010年) - ロシア語 * 孟文豪(中国大陸、2013年、標準中国語) - 曲名は「成吉思汗」。 == Berryz工房によるカバー == {{Infobox Single | Name = ジンギスカン | Artist = [[Berryz工房]] | Album = [[5(FIVE)|5 (FIVE)]] | A-side = | B-side = ダーリン I LOVE YOU(Berryz工房 Ver.) | Released = [[2008年]][[3月12日]] | Format = [[シングル|マキシシングル]] | Recorded = {{JPN}} | Genre = [[J-POP]] | Length = 10分35秒 | Label = [[アップフロントワークス|PICCOLO TOWN]] | Writer = | Producer = [[つんく♂]] | Chart position = *週間5位([[オリコンチャート|オリコン]])<ref>[https://www.oricon.co.jp/prof/334219/products/750437/1/ 「ジンギスカン」Berryz工房]([[オリコン|ORICON STYLE]])2013年12月12日閲覧。</ref> *2008年度年間195位(オリコン) | Last single = [[付き合ってるのに片思い]]<br/>([[2007年]]) | This single = '''ジンギスカン'''<br/>(2008年) | Next single = [[行け 行け モンキーダンス]]<br/>(2008年) | Misc = {{External music video|1=[http://www.youtube.com/watch?v=pL2WMSk_sEw 「ジンギスカン」]<br/>- YouTube}} }} 「'''ジンギスカン'''」は、Berryz工房の楽曲で、16枚目の[[シングル]]。[[2008年]][[3月12日]]発売。ドイツのアーティスト、ジンギスカンの楽曲「ジンギスカン」をカバーしたものである。また、日本語訳詞は、かつて発売されたいくつかのものの中から、[[1979年]]に5カラットというグループが歌ったものであるため、厳密にはカバー曲のカバーとなる。 === 概要 === 初回生産限定盤と通常盤の2形態での発売。初回生産限定盤は[[コンパクトディスク|CD]]+[[DVD]]、通常盤はCDのみ。初回生産限定盤と通常盤の初回仕様にはイベント抽選シリアルナンバーカードが封入されている。 ミュージック・ビデオでは、多数の幼稚園児をエキストラとして動員している。 === 収録曲 === # '''ジンギスカン''' [3:08] #: 作詞:Bernd Meinunger 訳詞:山本伊織 作曲:Ralph Siegal 編曲:[[ダンス☆マン]] # '''ダーリン I LOVE YOU(Berryz工房 ver.)''' [4:19] #: 作詞・作曲:[[つんく♂|つんく]] 編曲:[[酒井ミキオ]] #* [[℃-ute]]との競作(2番の歌詞が異なる)。℃-ute Ver.は、同グループ9枚目のシングル「[[涙の色]]」に収録。 # '''ジンギスカン ([[オフヴォーカル|Instrumental]])''' [3:08] ==== 初回生産限定盤付属DVD ==== # '''ジンギスカン (Dance Shot Ver.)''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == *{{Spotify track|0L5yDT2FsM8xPXfckmR9yE|Dschinghis Khan}} *[https://m.youtube.com/c/DschinghisKhanVEVO Dschinghis Khan チャンネル] - [[YouTube]] * [http://www.up-front-works.jp/release/detail/PKCP-5112/ UP-FRONT WORKS] * {{YouTube|pL2WMSk_sEw|Berryz工房「ジンギスカン」 (MV)}} * {{YouTube|uYEKnKopViI|Berryz工房「ジンギスカン」(Mongolian Dance Shot Ver.)}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect=ジンギスカン (Berryz工房の曲)|Berryz工房の楽曲|2008年のシングル}} {{DEFAULTSORT:しんきすかん}} [[Category:ドイツの歌]] [[Category:ポピュラーソング]] [[Category:1979年のデビュー・シングル]] [[Category:応援歌]] [[Category:サッカー音楽]] [[Category:仙台89ERS]] [[Category:チンギス・カンを題材とした作品]] [[Category:サントリーのビールのコマーシャルソング]] [[Category:携帯電話のコマーシャルソング]] [[Category:アサヒグループのコマーシャルソング]] [[Category:楽曲 し|んきすかん]] [[Category:ドイツ語の楽曲]] [[Category:ユーロビジョン・ソング・コンテスト歌唱楽曲]]
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複写機
複写機(ふくしゃき)は、原稿や本等を複写する装置である。一般には、コピー機とも呼ばれる。 初めて事務機として幅広く使われた複写機は、ジェームズ・ワットによって1779年に発明されたものである。ワットは、インクが裏まで染み込みやすい薄い紙を使い、それに別の紙を重ねて圧力を掛けることによって、紙から別の紙に内容を転写する手法を考案した。ワットの複写機は商業的成功を収め、20世紀まで利用されていた。 現在使われている複写機の種類には、大きく分けてジアゾ複写機(ジアゾ式複写機)とPPC複写機(plain paper copier、普通紙複写機)がある。現在ではほとんどがPPC複写機であるが、ジアゾ複写機も設計図面用(特にA2判以上の大判用紙)に根強い需要がある。 現在使われているPPC複写機には拡大や縮小機能を持つものも多く、用紙も様々なサイズのものを用いることができる。乾式と湿式があり、乾式がよく使われる。また、カラーコピーも可能な複写機も多い。用紙は一般には普通紙(コピー用紙)が用いられるが、OHPシートなど特殊な素材にも印刷できる機種もある。大量の用紙をストックする用紙カセットと、一時的に特別な用紙を挿入するための手差しトレイを備えているものが一般的である。また、複写機という名称からも解るように、少数の複写を作成することを意図しており、簡易に複写を作成することが出来る反面、コスト面、速度面から大量印刷には向かない。通常、大量印刷にはオフセット印刷機が用いられる。オフセット印刷機と複写機の中間に位置する機械として簡易印刷機があり、孔版印刷を用いた理想科学工業のリソグラフなどが学校・官公庁などで普及している。 2000年代に入り、ビジネス向け複写機は、ほとんどがデジタル式である。また、パーソナルコンピュータとLANの普及に伴って複写機・プリンター・ファクシミリ・イメージスキャナなどの各種機能が統合されたデジタル複合機が使用されるようになった。これらの複合機には、LAN経由で操作が行えるものも多い。 日本では、メーカーとしてはリコー、キヤノン、富士フイルムビジネスイノベーションなどが高いシェアを持つ。販売は、メーカー系、独立系あわせて多くのOA機器販社が行っている。そのほかに、いくつかのメーカーがデジタル式の複合機を作っている。 数は少ないが、家庭用の複写機も発売されていた。一般家庭においては、インクジェットプリンターにイメージスキャナを組み合わせた複合機やファクシミリを複写機として使用することが多い。イメージスキャナとプリンターを同一のパソコンに接続し、スキャナに付属のユーティリティソフトで複写機能を持たせることもある。 ドイツで開発され、1951年にコピア が、世界初の小型事務用湿式ジアゾ複写機「M型」の販売を開始した。 湿式、乾式、熱式の3種類があり、どの複写工程も、原稿と複写紙(感光紙)を密着させ、複写機内を通過させながら紫外線を照射する。この感光過程で、原稿の地肌部分に当たる複写紙上のジアゾ化合物を分解させる事により潜像を形成させる。次の現像工程で、ジアゾ化合物が残された「文字・線」部分で化学反応により色素が生じ、発色する。現像後の複写紙の発色には青色、黒色等があるが、青色が主流だったため、青焼と呼ばれた。また、ジアゾ複写機は青焼き複写機、青焼き機と呼ばれることがある。 複写機市場が確立した1960年代当時、米国を中心に世界的には「Thermofax」(3M)などの感熱複写機がもっとも普及していたが、日本では、「リコピー」(リコー)などのジアゾ複写機がシェアの大半を占めるという、独特の現象が見られた。 湿式は旧式の小型機に多く、液体の現像剤を塗布し発色させる。一方乾式は、業務用大型・高速・高価格なタイプで使われ、現像の工程でアンモニアガスを用いる(大判の紙を湿らせると、しわが生じ易いため)。現像後は紙が湿っているため乾かす必要があったが、それでも青写真よりは感光後の耐久性も高く、手間が掛からなかった。 後には現像液を必要としない感光紙を用いる熱式が普及し、さらに使いやすくなった。熱式では顕色剤を内包したマイクロカプセルに紫外線で露光して露光部のジアゾニウム塩を分解する。その後、熱で現像することによりマイクロカプセル内の顕色剤が放出される事で未露光部が発色する。 ジアゾ複写機は透過光を使うため、原稿は透過性の高い用紙が望ましく、トレーシングペーパーや第二原紙と呼ばれる半透明の専用用紙が製図分野で使われた。 PPC複写機(普通紙複写機)は、1938年にアメリカのチェスター・F・カールソンによって、後にゼログラフィと呼ばれる基本技術が発明された。その特許を米ハロイド社(現在のゼロックス)が買い取って製品の開発を進め、1959年に世界初の事務用PPC複写機が開発された。その後、リコー、キヤノンなどからも製品が開発され、現在に至っている。ジアゾ複写機のことを青焼き複写機と呼ぶのに対して、PPC複写機のことを白焼き複写機、白焼き機と呼ぶことがある。PPC複写機の一種であるカラーコピー機は、1970年にアメリカのスリーエム社が初めて発売。1972年には日立製作所が国産初の製品を発売した。 PPC複写機は、大きく分けて作像部・用紙搬送部・スキャナ部に分けられる。 デジタル式複写機の場合、コンピュータ用のスキャナと同様の仕組みで原稿をデジタルデータ化し、感光体を露光するレーザー光を生成する。 アナログ式複写機の場合、原稿に照射した光源の反射光を、ミラーで誘導し、レンズを通して倍率とピントを調整して直接感光体へ当てている。 アナログ方式で倍率変更を行う場合、主走査方向倍率はレンズによる倍率変更であるが、副走査方向は第一・第二ミラー台の移動速度を変更して行う。 スキャナ部のオプションとして、以下のようなものを接続することが可能な製品もある。 PPC複写機の一種である。 以前は、紙を中間転写ローラーに巻きつけ、各色毎にトナーを転写していたが最近の機種は、中間転写体に各色のトナーを転写し、そのトナーを紙に転写する構造になっている。これは、コピー速度を上げるためや、中間転写体を用いても色ぶれを起こさない制御が可能になったためである。 通常、モノクロ複写機と比較して定着温度及びニップ圧が高く設定されているため、違う機種の裏紙を使用した場合、裏紙に付いているトナーが溶融して加圧ローラや定着ローラに付着し、さらに用紙に付着してしまう「再転写」という現象が起こる場合がある。また、ラベル用紙やコート紙等の特殊な用紙は用紙の想定範囲外仕様になりやすく、専用紙や推奨紙以外の使用はトラブルの原因になる。 現在ではほとんど用いられていない方式について説明する。 一般に、著作物の一部または全部を複写して無断で配布または販売すること(複写すること自体ではない)は、一部の例外(学校での授業用に配布する必要最小限の資料など)を除いて、著作権(複製権・出版権)に抵触するので、それが禁じられている著作物である場合には、著作権法に抵触する。その場合には、著作権者の許諾を得ることが必要であるが、手続きを簡素化するために、日本複写権センターに権利業務が委託されている場合もある。 一般に紙幣(偽札)、小切手など有価証券を複写することは違法である。これらに関しては実際に公で使用しない目的(個人的なコレクション等)であったとしても本物と紛らわしくなるものを作成すること自体が違法とされている。行使についてはまた別に法があるが、司法行政機関が「悪質である」と認めた場合は、複写した行為自体を以って、刑事罰処分(ex.千円札裁判)を受けた例もある。 また、複写物に対して複写機を特定できるように、コピーの一部に機械番号が薄い黄色のドット(暗号ドット)で印字される方式がある。目視では確認しづらいが、コピーされた物をスキャナーで黄色抽出し黒色に変換すると機械番号が確認できる。「『万が一』違法な複写が行われた場合のため」のものだと説明されている。 紙幣については、それを認識して、「COPY」などの文字が入ったり、黒く印刷されたりするようになっているものもある。一般には単なる画像認識によるものが多いため、出来の良い「玩具の紙幣」などでも検出してしまうものなどもあるが、その一方「ユーリオン」と呼ばれている巧妙なものもある。
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"一般に紙幣(偽札)、小切手など有価証券を複写することは違法である。これらに関しては実際に公で使用しない目的(個人的なコレクション等)であったとしても本物と紛らわしくなるものを作成すること自体が違法とされている。行使についてはまた別に法があるが、司法行政機関が「悪質である」と認めた場合は、複写した行為自体を以って、刑事罰処分(ex.千円札裁判)を受けた例もある。", "title": "複写が違法となるもの" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、複写物に対して複写機を特定できるように、コピーの一部に機械番号が薄い黄色のドット(暗号ドット)で印字される方式がある。目視では確認しづらいが、コピーされた物をスキャナーで黄色抽出し黒色に変換すると機械番号が確認できる。「『万が一』違法な複写が行われた場合のため」のものだと説明されている。", "title": "複写が違法となるもの" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "紙幣については、それを認識して、「COPY」などの文字が入ったり、黒く印刷されたりするようになっているものもある。一般には単なる画像認識によるものが多いため、出来の良い「玩具の紙幣」などでも検出してしまうものなどもあるが、その一方「ユーリオン」と呼ばれている巧妙なものもある。", "title": "複写が違法となるもの" } ]
複写機(ふくしゃき)は、原稿や本等を複写する装置である。一般には、コピー機とも呼ばれる。
[[ファイル:Fuji Xerox Document Centre 505 and Taiwan Xerox Walk-In 120D at ROC National Central Library 20101211.jpg|right|thumb|upright|PPC複写機(富士フイルムビジネスイノベーションのDocuCentre 505]] '''複写機'''(ふくしゃき)は、[[原稿]]や[[本]]等を[[複写]]する装置である。一般には、'''コピー機'''とも呼ばれる。 == 概要 == [[ファイル:Thinktank Birmingham - object 1951S00088.00001(1).jpg|right|thumb|upright|ワットが発明した複写機(ジェームズ・ワット・アンド・カンパニー社製、1815年製造)]] 初めて事務機として幅広く使われた複写機は、[[ジェームズ・ワット]]によって[[1779年]]に発明されたものである。ワットは、インクが裏まで染み込みやすい薄い紙を使い、それに別の紙を重ねて圧力を掛けることによって、紙から別の紙に内容を転写する手法を考案した。[[ジェームズ・ワット#複写機|ワットの複写機]]は商業的成功を収め、20世紀まで利用されていた<ref>[http://www.bbc.co.uk/ahistoryoftheworld/objects/dgSFluPLSNCgPXnf0QnuDg BBC - A History of the World - Object Copying Press invented by James Watt]</ref><ref>[http://www.powerhousemuseum.com/collection/database/?irn=66003 86_457 Hectograph Copying Machine, James Watt Patent, Britain, 1780-1830 - Powerhouse Museum Collection]</ref>。 現在使われている複写機の種類には、大きく分けて'''ジアゾ複写機'''(ジアゾ式複写機)と'''PPC複写機'''(plain paper copier、普通紙複写機)がある。現在ではほとんどがPPC複写機であるが、ジアゾ複写機も設計図面用(特にA2判以上の大判用紙)に根強い需要がある。 現在使われているPPC複写機には拡大や縮小機能を持つものも多く、用紙も様々なサイズのものを用いることができる。乾式と湿式があり、乾式がよく使われる。また、カラーコピーも可能な複写機も多い。用紙は一般には普通紙(コピー用紙)が用いられるが、[[オーバーヘッドプロジェクタ|OHP]]シートなど特殊な素材にも[[印刷]]できる機種もある。大量の用紙をストックする用紙カセットと、一時的に特別な用紙を挿入するための手差しトレイを備えているものが一般的である。また、複写機という名称からも解るように、少数の複写を作成することを意図しており、簡易に複写を作成することが出来る反面、コスト面、速度面から大量印刷には向かない。通常、大量印刷には[[オフセット印刷]]機が用いられる。オフセット印刷機と複写機の中間に位置する機械として簡易印刷機があり、[[印刷#版式による分類|孔版印刷]]を用いた[[理想科学工業]]の[[理想科学工業#主な製品・サービス|リソグラフ]]などが学校・官公庁などで普及している。 [[2000年代]]に入り、ビジネス向け複写機は、ほとんどが[[デジタル]]式である。また、[[パーソナルコンピュータ]]と[[Local Area Network|LAN]]の普及に伴って複写機・[[プリンター]]・[[ファクシミリ]]・[[イメージスキャナ]]などの各種機能が統合されたデジタル[[複合機]]が使用されるようになった。これらの複合機には、[[Local Area Network|LAN]]経由で操作が行えるものも多い。 日本では、メーカーとしては[[リコー]]、[[キヤノン]]、[[富士フイルムビジネスイノベーション]]などが高いシェアを持つ。販売は、メーカー系、独立系あわせて多くの[[OA機器]]販社が行っている。そのほかに、いくつかのメーカーがデジタル式の複合機を作っている。 数は少ないが、家庭用の複写機も発売されていた<ref group="注">キヤノン「ファミリーコピア」など。</ref>。一般家庭においては、インクジェットプリンターにイメージスキャナを組み合わせた複合機やファクシミリを複写機として使用することが多い。イメージスキャナとプリンターを同一のパソコンに接続し、スキャナに付属のユーティリティソフトで複写機能を持たせることもある。 == ジアゾ複写機 == [[ドイツ]]で開発され、[[1951年]]にコピア<ref group="注">[[1979年]]に[[キヤノン]]が資本参加し、[[2000年]]にキヤノンアプテックスと合併して、キヤノンファインテックとなる。現・[[キヤノンファインテックニスカ]]。</ref> が、世界初の小型事務用湿式ジアゾ複写機「M型」の販売を開始した。 湿式、乾式、熱式の3種類があり<ref name="diazo">[https://www.ricoh.co.jp/diazo/what.html ジアゾ複写機とは] リコー</ref>、どの複写工程も、原稿と複写紙(感光紙)を密着させ、複写機内を通過させながら[[紫外線]]を照射する。この[[感光]]過程で、原稿の地肌部分に当たる複写紙上の[[ジアゾ化合物]]を分解させる事により潜像を形成させる。次の[[現像]]工程で、ジアゾ化合物が残された「文字・線」部分で化学反応により[[色素]]が生じ、発色する。現像後の複写紙の発色には青色、黒色等があるが、青色が主流だったため、'''[[青焼]]'''と呼ばれた。また、ジアゾ複写機は'''青焼き複写機'''、'''青焼き機'''と呼ばれることがある<ref name="diazo" />。 複写機市場が確立した[[1960年代]]当時、米国を中心に世界的には「Thermofax」(3M)などの感熱複写機がもっとも普及していたが、日本では、「リコピー」([[リコー]])などのジアゾ複写機がシェアの大半を占めるという、独特の現象が見られた<ref>[https://www.fujixerox.co.jp/company/technical/column/sixties.html 1960年代の日本の複写機市場] 「技術ヒストリー」、[[富士フイルムビジネスイノベーション|富士ゼロックス]]</ref>。 湿式は旧式の小型機に多く、液体の現像剤を塗布し発色させる。一方乾式は、業務用大型・高速・高価格なタイプで使われ、現像の工程で[[アンモニア]]ガスを用いる(大判の紙を湿らせると、しわが生じ易いため)。現像後は紙が湿っているため乾かす必要があったが、それでも[[青写真]]よりは感光後の耐久性も高く、手間が掛からなかった。 後には現像液を必要としない感光紙を用いる熱式が普及し、さらに使いやすくなった。熱式では顕色剤を内包した[[マイクロカプセル]]に[[紫外線]]で露光して露光部のジアゾニウム塩を分解する。その後、熱で現像することによりマイクロカプセル内の顕色剤が放出される事で未露光部が発色する。 ジアゾ複写機は透過光を使うため、原稿は透過性の高い用紙が望ましく、[[トレーシングペーパー]]や第二原紙と呼ばれる半透明の専用用紙が製図分野で使われた。 * メリット ** PPC複写機と異なり光学的プロセスを持たないため、原稿との相違(光学的な収差など)が極めて少ない。 ** 機械の構造的にも単純であり大判(A0、A1)の複写も容易である。 ** ランニングコストが、PPC複写機よりかなり低かった。 * デメリット ** 感光紙は、光線不透過(販売時に、袋詰めされている)の袋に入れて保管する必要がある。 ** 現像後の複写紙も光線下では退色が激しいので、保管には注意を払わなければならない。 ** 光透過性が低い本のような厚い物や、両面刷り原稿の複写はできない。 ** 乾燥前、あるいは乾燥後も長時間感熱紙と接触させると、感熱紙を黒変させてしまうことがある。 ** 原稿と感光紙を間違えると複写できないだけでなく、湿式では原稿を濡らしてしまうリスクを伴う。 ** 巻込みにより原稿を破損させる恐れがある。 == PPC複写機 == PPC複写機(普通紙複写機)は、[[1938年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[チェスター・F・カールソン]]によって、後に[[ゼログラフィ]]と呼ばれる基本技術が発明された。その[[特許]]を米ハロイド社(現在の[[ゼロックス]])が買い取って製品の開発を進め、[[1959年]]に世界初の事務用PPC複写機が開発された。その後、リコー、キヤノンなどからも製品が開発され、現在に至っている。ジアゾ複写機のことを'''青焼き複写機'''と呼ぶのに対して、PPC複写機のことを'''白焼き複写機'''、'''白焼き機'''と呼ぶことがある<ref name="diazo" />。PPC複写機の一種であるカラーコピー機は、1970年にアメリカの[[スリーエム]]社が初めて発売。1972年には[[日立製作所]]が国産初の製品を発売した<ref>「複写機もカラー時代へ 1枚が40円、90秒」『朝日新聞』昭和47年(1972年)5月17日朝刊、13版、8面</ref>。 * メリット ** 薬品を塗布していない、普通の紙を利用できる。 ** 複写物を長期保管しても劣化が少ない。 ** 厚い物や、両面刷り原稿の複写もできる。 ** 複写時の拡大、縮小ができる。 ** デジタル式の場合、大量コピーの時間が短い。 * デメリット ** 光学的な収差が出る場合がある(図面関係の読み取りで問題になる場合が出る)。 ** A2以上の大判用紙への複写が可能な機種は、大型かつ高価(数百~数千万円)となり、一般には導入されていない。 PPC複写機は、大きく分けて作像部・用紙搬送部・スキャナ部に分けられる。 === 作像部 === ; 現像剤(デベロッパー) : 感光体(後述)上の潜像を可視化するための材料。一般にはトナーとキャリアで構成される。トナーのみのものは1成分現像剤、キャリアと混成されたものを2成分現像剤と呼ぶ。用途に応じて湿式(液体)と乾式(粉体)とがあり、また1成分現像剤には磁性と非磁性とがある。 ; トナー : 帯電性を持ったプラスチック粒子に炭素等の色粒子を付着させた微粒子。マイナスかプラスの電気性質を持つ。トナーのみで使用する場合と、キャリア(搬送体)と混合して使用する場合とがある。製造法により、粉砕法(材料を混練・粉砕して製造)と重合法(液体中の化学作用により生成)とに分類される。 ; キャリア : 磁性体をエポキシ樹脂等でコーティングした微粒子でトナーと混合され使用される。トナーと撹拌する事でトナーに電荷を持たせ、静電効果を利用して感光体に付着させるための触媒及び搬送体。一般には感光体と同じ程度の寿命なのでセットで交換される事が多い。トナーの消費と同期して補充、回収され、現像剤の定期交換が必要ない方式が一般化している。 ; 感光体(感光ドラム・感光フィルム) : 半導体を用いており、暗中では絶縁体の性質を持ち、明るい場所では導体の性質を持つ為、暗中でプラスまたはマイナスに帯電させることで、トナーを付着させる電荷を持たせる事ができる。光が当たった部位は導体となり電荷を失う。 : 感光体上で行なわれるプロセスを以下に示す。 :; 一次帯電 :: 前露光による残留電荷が除去されて電荷を持たない感光体に対して、プラスまたはマイナスの電荷を持たせる。 帯電器の方式としてまず、非接触型放電方式のコロトロン型およびスコロトロン型がある。また、最近は接触方式の帯電ローラや帯電ブラシを用いる製品も多い。 :; 露光 :: 電荷を持った感光体表面に原稿からの反射光、もしくはレーザー光を照射する事で静電潜像を作像する。レーザー露光方式ではトナーを乗せる部分へ光を当てる。反射光(従来形式のアナログ機)方式では、トナーを乗せたくない部分に光を当てる(一部機種では逆)。尚、レーザー露光方式の物でもトナーを乗せたくない部分に光を当てるものもある。デジタル機の露光方式として、レーザを用いるものや、LEDとグラスファイバアレイの集合体などがある。 :; 現像 :: 露光によって電荷が失われなかった部分へ、感光体とは逆の電荷を持ったトナーを乗せる方式と、電荷が失われた部分へトナーを押し込む方式がある。ここで、感光体上にはトナーによる原稿の鏡像が作られる。 :; 転写 :: 感光体上のトナーによる鏡像を転写紙へ移す。転写紙の裏側からトナーと逆の電荷(転写バイアス)をかけ、感光体へ転写紙を吸着させる。 :; 分離 :: 吸着した転写紙を引きはがすため、転写と逆の電荷を含ませた交流放電をかける「電位分離」と、転写紙を曲げて分離する「曲率分離」がある。このとき、転写対象物の電荷を逃がす分離除電針や分離帯電器も用いて、感光ドラムからの分離を補助する機構がある。 :; 除電 :: 感光体上に残った電荷をできる限り0にするため、感光体表面へ均一に光を当てたり(前露光)、交流放電をかける。 :; クリーニング :: 感光体上のトナーは100%転写紙へ移るわけではないので、感光体上のトナーを荷電ブラシやゴムブレード等で回収する。 === 用紙搬送部 === ; 給紙部 : 用紙トレイから一枚ずつ転写紙を複写機内部へ送り込む。多重送りを防ぐ機構に、分離爪方式、分離ローラー方式、分離パッド方式がある。 ; レジスト部 : 用紙の先端と画像の先端をあわせるため、一度転写紙を止めてタイミングを合わせる。また、ループを形成し、給紙時に生じる斜め送りを是正する作用もある。また、レジストの制御により、用紙先端余白幅の調整も行われる。 ; 転写、分離部 : 作像部の転写、分離と同じ。 ; 搬送部 : 転写後の用紙を定着部へと搬送する。熱に弱い感光体と、高温部の定着部との距離を保つ役割も兼ねている。 ; 定着部 : 転写紙上のトナーは不安定なため、熱または熱と圧力(ニップ圧)を同時に加え、トナーの樹脂成分を溶着させる事で定着させる。方式として、ローラ定着(「ローラー」という表記もあるが工業用語では長音が略される)・フィルム定着・フラッシュ定着などがある。 :; ローラ定着 :: 筒状の金属を芯材としてシリコン等で薄くコーティングした「定着ローラ」と、棒状の金属を芯材としてシリコン等を厚くコーティングした「加圧ローラ」の組み合わせにより、トナーの定着を行う。ローラ自体が保温材を兼ねており、定着温度の安定性が比較的高いのと、ニップ圧を比較的管理しやすいため、高速機やカラー機に多く使われている。しかし、保温材であるローラが規定温度に達するまでに時間がかかるため、立ち上がり時間が長いというデメリットもある。発熱材としては、長い間[[ハロゲンランプ]]が使われていたが、近年ではIH方式([[誘導加熱]]による方式)が主流になりつつある。 :; フィルム定着 :: 定着ローラのかわりに、セラミックヒータと筒状フィルムを組み合わせた方式。多くの場合、加圧はローラ定着方式と同じく加圧ローラを使う。保温材が加圧ローラしか無いため、セラミックヒータが発する熱を直接定着に使う。そのため、立ち上がり時間は非常に短い。温度保持特性や耐久性においてローラ定着方式に劣るため、多くの場合は、普通紙による文書がメインのビジネス向けレーザ機に使われる。 :; フラッシュ定着 :: キセノン管を使用したフラッシュ光を凹面鏡等で集光し、その熱でトナーを溶解させて定着させる方式。装置が非常に大掛かりであり、それによって機器も非常に高価となるため、一般的なオフィス向け複写機には使われない。用紙に対して触れる物が無いため、用紙へのダメージ(シワ・再転写等)が無く、スピードも非常に高速である。また、光量や照射時間を細かくコントロールすることによって、定着性のコントロールがきめ細かくできる。 ; 排紙部 : 定着後の用紙が、溶解したトナーの粘性で、定着ローラーに巻き付く事を分離爪で防止させ、排紙トレイに導く。 === スキャナ部 === ==== デジタル式 ==== デジタル式複写機の場合、[[コンピュータ]]用の[[スキャナ]]と同様の仕組みで原稿をデジタルデータ化し、感光体を露光する[[レーザー]]光を生成する。 ; CCD方式 : 最も一般的な方法。第一・第二ミラー台が機器正面から見て左右に動き、第一ミラー台の原稿照明ランプにより発せられた光により原稿を第一~第三ミラーを経由して[[CCDイメージセンサ]]に導かれる。CCDは固定されている。各ミラーが汚れると、画像の一部に帯状の汚れが発生したり、若しくは画像全体が黒くなるなどのトラブルがあるため、定期的な清掃が必要。 ; CIS方式 : 機器正面から見て左右に動く読み取り部に、原稿照明ランプとCCD・グラスファイバアレイが組み合わされた読み取り部が集約されている。構造上、光路上に異物が混入するおそれが非常に少ないため、ほぼメンテナンスフリーといえる。また、簡単な構造のため、小型化しやすいというメリットも併せ持つ。デメリットとして、原稿のシワ・折れなどにより原稿台ガラスと原稿が離れてしまった場合、影やボケ・裏写りが発生する場合が多い。 ==== アナログ式 ==== アナログ式複写機の場合、原稿に照射した光源の反射光を、ミラーで誘導し、レンズを通して倍率とピントを調整して直接感光体へ当てている。 ; 第一ミラー台 : 原稿照明ランプと第一ミラーにより構成され、原稿読み取りの第一段階。 ; 第二ミラー台 : 第二・第三ミラーにより構成。移動速度は、第一ミラー台よりも遅い。 ; レンズ台部 : Xモータ・Yモータによって移動し、倍率及びピントの補正を行う。 ; 第四・第五・第六ミラー : レンズ台部を通過した光をドラムに導く。第一〜第三ミラーと違い、動かない。また、第六ミラー直後には防塵ガラスがあり、ドラムまわりから飛散したトナーが光路を汚さないようになっている。 アナログ方式で倍率変更を行う場合、主走査方向倍率はレンズによる倍率変更であるが、副走査方向は第一・第二ミラー台の移動速度を変更して行う。 ==== オプション ==== スキャナ部のオプションとして、以下のようなものを接続することが可能な製品もある。 ; 自動原稿送り装置(ADF, Automatic Document Feeder、フィーダとも) : 複数枚の原稿を自動的にスキャナに送り、連続して原稿を読み込ませる装置。オフィス向け製品に搭載されることが多い。 == カラーコピーの仕組み == PPC複写機の一種である。 # PPC複写式のように光を複製したい紙に当てるが、カラーコピーでは[[カラーフィルタ]]([[カラーCCD]])で[[色]]をRGB([[赤]]、[[緑]]、[[青]]それぞれの頭文字、光の[[原色|三原色]])に分解し、それを信号化する。 # 分解された色の信号はコンピュータによって処理され、コンピュータはYMC([[黄色|イエロー]]、[[マゼンタ]]、[[シアン (色)|シアン]]それぞれの頭文字、色の三原色)とBk([[黒]])に信号を変換する。 # PPC複写式のようにトナーを紙に写していくが、カラーコピーではコンピュータからの信号で場所によって違う色のトナーを載せていく(メーカーによって黒の載せる順番が違う)。 以前は、紙を中間転写ローラーに巻きつけ、各色毎にトナーを転写していたが最近の機種は、中間転写体に各色のトナーを転写し、そのトナーを紙に転写する構造になっている。これは、コピー速度を上げるためや、中間転写体を用いても色ぶれを起こさない制御が可能になったためである。 === カラーコピーの現像方式 === ; ロータリー現像方式 : 基本構造は使用するトナー色の数だけ現像部を使用して、感光体は一つですませてしまう方式。現像部から感光体に載せられたトナーは中間転写体上へ転写されそのまま保持される。この後現像部の位置を入れ替えて、トナー色の数だけ感光体→中間転写体へ転写し、最後に用紙上へトナーを再転写させる。現像部の入れ替え方式や納められている構造が[[回転式拳銃|リボルバー式拳銃]]の弾倉に似ているためにロータリー(回転体)現像方式と呼ばれるようになった。一部のメーカーではそのまま「リボルバー現像方式」と呼んでいる場合もある。1枚の複写に各色の工程が必要なため、動作は遅い。 ; タンデム現像方式 : ロータリー現像方式が感光体を1つしか使わないことに対して、タンデム現像方式はトナーの数だけ感光体を利用する。つまりPPC複写機の作像部全体が複数あることになる。現像部が入れ替わらないため、ロータリー現像方式に比べて中間転写体上でのトナー像作成時間が短くなる。これによって複写機の複写速度を上げることができる反面、機械本体や作像部が大きく作られてしまうなどのデメリットも存在する。 ; 銀塩写真方式 : 読み取った原稿画像を、写真の印画紙のようなものへ露光させる方式。大がかりな[[インスタントカメラ]]の様な方式のもの。または印画紙のようなものへ露光すると、印画紙内部で普通紙へ転写可能なインクの[[リバーサルフィルム|ポジ]]画像を作るものもある。この場合は印画紙と用紙を密着させ圧力などで転写させる事になる。感光体や現像部を持つ必要がないため機械の小型化が可能であるが、専用用紙のコストが高いなどの理由により現在ではあまり見ることのできない方式になった。 === カラー複写機の注意点 === 通常、モノクロ複写機と比較して定着温度及びニップ圧が高く設定されているため、違う機種の[[裏紙]]を使用した場合、裏紙に付いているトナーが溶融して加圧ローラや定着ローラに付着し、さらに用紙に付着してしまう「再転写」という現象が起こる場合がある。また、ラベル用紙やコート紙等の特殊な用紙は用紙の想定範囲外仕様になりやすく、専用紙や推奨紙以外の使用はトラブルの原因になる。 == その他の方式 == 現在ではほとんど用いられていない方式について説明する。 ; 直接静電複写方式 : 現在製造販売されているほとんどの複写機は、トナー像を感光体の上に作像してコピー用紙へ転写する方式をとっている。これを総称して'''乾式間接静電複写機'''という。それに対して、現在ではほとんど見られなくなったが、感光体に使われる物質を塗布した用紙上に、トナー像を作る方式のものを'''乾式直接静電複写機'''という。ここで言う「乾式」とは現像剤やトナーが粒子状のものを指しているため、液状のものを使用する方式をそれぞれ「湿式間接静電複写機」「湿式直接静電複写機」と呼ぶ。 : 直接静電複写機のメリットとしては、転写によるトナー像の劣化がなくなるため、非常に鮮明な画像が得られることである。このメリットを利用して[[オフセット印刷]]用製版機として使われていたことがある。また感光体や中間転写体を機械内部で持つ必要がないため、機械本体を小型化できるという面もある。 ; 湿式静電複写方式 : トナーや現像剤が液状のものを使う方式を指す。トナー粒子は細かければ細かいほど鮮明な画像が得られやすくなる。その反面細かい粒子として製造するには高度な技術が必要でもある。そのためトナーを液状現像剤の中に溶かしてしまうことによって、微細な粒子を簡単に得ることができた。これが湿式静電複写方式である。トナー粒子が細かくなることによって画像が鮮明になる反面、大きな面積にトナーを付着させようとするとどうしても不均一になりやすい、トナーが乾燥してしまうことを防ぐために定期的な撹拌作業が必要になる等のデメリットもある。 == 複写と著作権 == === 日本 === 一般に、著作物の一部または全部を複写して'''無断で配布または販売すること'''(複写すること自体ではない)は、一部の例外([[学校]]での[[授業]]用に配布する必要最小限の資料など)を除いて、[[著作権]](複製権・出版権)に抵触するので、それが禁じられている著作物である場合には、[[著作権法]]に抵触する。その場合には、著作権者の許諾を得ることが必要であるが、手続きを簡素化するために、[[日本複写権センター]]に権利業務が委託されている場合もある。 == 複写が違法となるもの == 一般に[[紙幣]]([[偽札]])、[[小切手]]など[[有価証券]]を複写することは違法である。これらに関しては実際に公で使用しない目的(個人的なコレクション等)であったとしても本物と紛らわしくなるものを作成すること自体が違法とされている。行使についてはまた別に法があるが、司法行政機関が「悪質である」と認めた場合は、複写した行為自体を以って、[[刑罰|刑事罰]]処分(ex.[[千円札裁判]])を受けた例もある。 また、複写物に対して複写機を特定できるように、コピーの一部に機械番号が薄い黄色のドット(暗号ドット)で印字される方式がある。目視では確認しづらいが、コピーされた物をスキャナーで黄色抽出し黒色に変換すると機械番号が確認できる。「『万が一』違法な複写が行われた場合のため」のものだと説明されている。 紙幣については、それを認識して、「COPY」などの文字が入ったり、黒く印刷されたりするようになっているものもある。一般には単なる画像認識によるものが多いため、出来の良い「玩具の紙幣」などでも検出してしまうものなどもあるが、その一方「[[ユーリオン]]」と呼ばれている巧妙なものもある。 == 主な複写機メーカー == * [[キヤノン]]<ref>[http://web.canon.jp/ir/individual/detail/03.html 投資家向け情報|Q3 キヤノン製品の世界シェアは?] キヤノン株式会社</ref> * [[リコー]] * [[セイコーエプソン]] * [[富士フイルムビジネスイノベーション]] * [[コニカミノルタ]] * [[京セラドキュメントソリューションズ]] * [[シャープ]] * [[沖データ]] * [[ブラザー工業]] * [[東芝テック]] * [[理想科学工業]] * [[ゼロックス]] * [[ヒューレット・パッカード]] * [[サムスン電子]]<ref>[http://www.idcjapan.co.jp/Press/Current/201603242Apr.html 2015年第4四半期および2015年 世界プリンター/複合機市場実績を発表] IDC Japan株式会社、2016年3月24日</ref> == 関連項目 == * [[情報機器]] * [[複合機]] * [[ファクシミリ]] * [[プリンター]] * [[スキャナー]] * [[偽札]] * [[紙づまり]] * [[コピー用紙]] * [[メンテナンス]] * [[リース契約]] * [[タダコピ]] * [[コピラス]] * [[リソグラフ]]・[[デュプロ|デュープリンター]]…複写機と同等の使用感を持つ[[シルクスクリーン印刷|スクリーン印刷機]]。複写物を大量に印刷する場合、複写機と比較しコストメリットがある。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Photocopiers}} * {{Kotobank|複写機}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふくしやき}} [[Category:情報機器]] [[Category:画像処理]] [[Category:複製]] [[Category:光技術]]
2003-09-15T00:49:41Z
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模型
模型(もけい)とは、模した型であり、「何か」を模倣し、具象化したもの。一般的には三次元の造形物を指すが、コンピュータを用いて作成した三次元データを指す場合もある。いずれにせよ、模型の方が都合がいい場合に造られるものである。 また、自然科学の分野では「原子模型」や「標準模型」等のように自然界の構造を模式化し、説明するための"model"の訳語として「模型」が使用される場合がある。これに関してはモデル (自然科学)を参照のこと。 模型を用いて具象化する(=形あるものにする)「何か」は具体的なものから抽象的なものまで非常に広範囲に亘る。ある事象の理解を導くために作られる模造品たる模型であるが、その「何か」の表現力が非常に優れていて他人の感情に訴えかけるものが出来た場合は芸術品に分類されることもある。芸術品の多くは大量生産されないことが前提であるが、ポップアートと呼ばれる近代芸術の発展にともないその境界は曖昧になりつつある。彫刻や彫塑が模型と呼ばれないのはその製作技法や製作過程の違いと伝統的な分類による面もあるが、最も大きい理由はこれらを作る目的が自らの芸術性の発露としてのオリジナルの作品を作ることにあり、現物の模倣たる模型と乖離しているからである。 模型をつくる目的は、まず現物を使用する場合と比較して都合がいいという点に負うが、更に大きく分けて3つある。第1は現物を解体するわけにはいかない場合に模型を作ることで模したものの存在や構造、あり方、概念などを理解しやすくするためである。この目的でつくられたものは内部構造や動作の再現も求められ、正確な複製が必要とされる。第2に現物を所有する事が困難(現物が実在しない場合も含む)な場合、模したものを所有することによって何かの代償とするためである。この目的でつくられたものには正確さと同時に外観の美しさや価格が重要となる。第3は現物が手元に置けない、或いはまだ存在しない場合、現実にあるものを模してその代用としたり、これから作ろうとするものの形状や機能などを事前に確認するため(試作品とも呼ばれる)である。 模するものを縮尺に基づいて忠実に縮小または拡大して作られた模型は、スケールモデル(縮尺模型)と呼ばれる。実物と同じ大きさで作られた模型は、レプリカ(複製、原寸模型)とも呼ばれる。また意図的に各部のバランスを変えたり、一部を誇張したりして作られた模型は、デフォルメモデルと呼ばれる。 主に理解のための模型であり、教育・研究の現場や、博物館の展示などで作成・使用される場合が多い。 研究に活用される場合は模することが目的であり完成した模型は本来は副産物と言える。コストも高く商業的な活用は難しいことが多い。しかし模した結果モデルそのものが商品価値を持った例もある。著名なものにはルービック・キューブが上げられる。また教材や研究用として近年3DCGを活用したものも多く見られる。 所有することで精神的に安心をもたらす場合、これらは形代とも呼ばれる。多くはその持ち主の希望や罪の償いなどの抽象的な意志を具現化するものであり、穢れや災厄から身を守ると信じられる。また人形にはもともとの目的が人間の代用であったものも少なくない。例えば古代の墳墓に副葬されている人形には、殉死者の身代わりに権力者の死出の供をさせる目的のものがある。雛人形も本来は祓い神事の人形であったと言われる。 多くは信仰用として必要とされる。抽象的なイメージよりも具体的な何かがあった方が理解しやすいためである。しかしそれは想像力の固定化を招くと同時に神聖なものを卑近なものに貶める行為として忌避する宗教も多い。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では偶像崇拝を禁止しており、特にイスラム圏では厳格に戒律が守られている。 これらは製品と同サイズで作られることが基本であるが、製品のサイズや用途によっては縮小したものや、拡大したものが作られる場合もある。 工作の容易な木材やケミカルウッド等で作られる場合が多いが、粘土や金属が使用される場合もある。 近年では、デジタルモックアップと称して3次元CADデーターでモックアップの機能の多くを代行させたり、CADデーターを光硬化樹脂等で3次元出力したものを木型として使用する場合もある。 原型の素材はさまざまであり、作成には高度な知識・技術・経験が要求される。雌型の製作時および製品の成型時の収縮等により、原型と製品のサイズが微妙に異なることも多く、原型製作時にはその点も考慮する必要がある。原型の素材および反転の方法によっては、雌型成作時に原型が失われる場合も有る。 所有することが目的となる模型に関しては多くは収集を趣味とするコレクターの存在により商業として成立している。 また「玩具」には実物の存在しないものが多い。著作権やオリジナリティの概念が発達した近年では「誰も見たことがないもの」を生み出すことがより商売上の問題を解決しやすいためである。 美術用語ではマケット(Maquette:フランス語で模型の意味)またはボッツェット(Bozzetto:イタリア語でスケッチの意味)などと呼ばれる。一部の彫刻コンクールではマケットによる一次審査の通過者のみが実作品による二次審査に進む。 趣味としての模型は大きく3つに分類できる。 これらの模型には、実在する物(飛行機、自動車等)を模したものと、想像上の物を模したものがある。実在するもの(あるいは実在しなくとも、大きさや形状が厳密に設定されているもの)を忠実に縮小して作られたものは特に、スケールモデルという。反対に実物が存在しないものは「キャラクターモデル」と呼ばれることがある。ただし、例えばガンプラのようにスケールが厳格に定められたキャラクターモデルは多数存在する。 趣味としての模型には、完成品の状態で販売されるものと、部品の状態で販売され、購入者が自ら組み立てや塗装を行うものとがある。1990年代後半以降、かつてはプラモデルやガレージキットなどの組み立て式模型が主だった分野でも、完成品模型や塗装済みキットの発売が増えている。
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模型(もけい)とは、模した型であり、「何か」を模倣し、具象化したもの。一般的には三次元の造形物を指すが、コンピュータを用いて作成した三次元データを指す場合もある。いずれにせよ、模型の方が都合がいい場合に造られるものである。 また、自然科学の分野では「原子模型」や「標準模型」等のように自然界の構造を模式化し、説明するための"model"の訳語として「模型」が使用される場合がある。これに関してはモデル (自然科学)を参照のこと。
{{出典の明記|date=2018年9月}} '''模型'''(もけい)とは、模した型であり、「何か」を模倣し、具象化したもの。一般的には三次元の造形物を指すが、[[コンピュータ]]を用いて作成した[[三次元]][[データ]]を指す場合もある。いずれにせよ、模型の方が都合がいい場合に造られるものである。 また、[[自然科学]]の分野では「[[原子模型]]」や「[[標準模型]]」等のように自然界の構造を模式化し、説明するための"model"の訳語として「模型」が使用される場合がある。これに関しては[[モデル (自然科学)]]を参照のこと。 == 概要 == 模型を用いて具象化する(=形あるものにする)「何か」は具体的なものから抽象的なものまで非常に広範囲に亘る。ある事象の理解を導くために作られる模造品たる模型であるが、その「何か」の表現力が非常に優れていて他人の感情に訴えかけるものが出来た場合は芸術品に分類されることもある。芸術品の多くは大量生産されないことが前提であるが、[[ポップアート]]と呼ばれる近代芸術の発展にともないその境界は曖昧になりつつある。[[彫刻]]や[[彫塑]]が模型と呼ばれないのはその製作技法や製作過程の違いと伝統的な分類による面もあるが、最も大きい理由はこれらを作る目的が自らの芸術性の発露としてのオリジナルの作品を作ることにあり、現物の模倣たる模型と乖離しているからである。 模型をつくる目的は、まず現物を使用する場合と比較して都合がいいという点に負うが、更に大きく分けて3つある。第1は現物を解体するわけにはいかない場合に模型を作ることで模したものの存在や構造、あり方、概念などを理解しやすくするためである。この目的でつくられたものは内部構造や動作の再現も求められ、正確な複製が必要とされる。第2に現物を所有する事が困難(現物が実在しない場合も含む)な場合、模したものを所有することによって何かの代償とするためである。この目的でつくられたものには正確さと同時に外観の美しさや価格が重要となる。第3は現物が手元に置けない、或いはまだ存在しない場合、現実にあるものを模してその代用としたり、これから作ろうとするものの形状や機能などを事前に確認するため(試作品とも呼ばれる)である。 模するものを[[縮尺]]に基づいて忠実に縮小または拡大して作られた模型は、[[スケールモデル]](縮尺模型)と呼ばれる。実物と同じ大きさで作られた模型は、[[レプリカ]](複製、原寸模型)とも呼ばれる。また意図的に各部のバランスを変えたり、一部を誇張したりして作られた模型は、[[デフォルメ]]モデルと呼ばれる。 == 用途別の模型 == === 学術的な模型 === 主に理解のための模型であり、教育・研究の現場や、博物館の展示などで作成・使用される場合が多い。 * 巨大なものを模することでその理解や把握を容易にするもの。「[[太陽系]]の模型」「[[地球儀]]」「[[ジオラマ]](=町並みや[[地形]]の模型)」 * 小さなものを模することでその理解や把握を容易にするもの。「[[デオキシリボ核酸|DNA]]模型」「[[分子模型]]」 * 抽象的な概念を立体化してその理解や把握を容易にするもの。「[[色立体]]」「重力平面のモデル」 * 現存していないものや目に見えないものを模することでその理解や研究等に活用するもの。「[[恐竜]]の復元模型」「医療用の[[人体模型]]」「過去の町並みや生活様式などの復元模型」 * 同じものを同じ素材、同じ技法で作ることでそのものの理解や技術研究に活用するもの。「[[土器]]・[[石器]]の復元模型」「ミニ[[蒸気機関車|SL]]([[ライブスチーム]])」 * [[ムラージュ]](moulage) - 傷病の記録や医療教育に使用された模型 研究に活用される場合は模することが目的であり完成した模型は本来は副産物と言える。コストも高く商業的な活用は難しいことが多い。しかし模した結果モデルそのものが商品価値を持った例もある。著名なものには[[ルービックキューブ|ルービック・キューブ]]が上げられる。また教材や研究用として近年[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]を活用したものも多く見られる。 === 宗教的な模型 === * 現存するものを模して所有することで精神的な支えとなるもの。人の形をした模型は[[人形]]と別称する。「[[こけし]]」「[[雛人形]]」「[[スカラベ]]のお守り」 所有することで精神的に安心をもたらす場合、これらは[[形代]]とも呼ばれる。多くはその持ち主の希望や罪の償いなどの抽象的な意志を具現化するものであり、穢れや災厄から身を守ると信じられる。また人形にはもともとの目的が人間の代用であったものも少なくない。例えば古代の墳墓に副葬されている人形には、殉死者の身代わりに権力者の死出の供をさせる目的のものがある。雛人形も本来は祓い神事の人形であったと言われる。 * 視認できない[[神]]などを模して信仰の対象とするもの。「[[仏像]]」「ミニチュア神像」「[[リンガ]]」 多くは信仰用として必要とされる。抽象的なイメージよりも具体的な何かがあった方が理解しやすいためである。しかしそれは想像力の固定化を招くと同時に神聖なものを卑近なものに貶める行為として忌避する宗教も多い。[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]では[[偶像崇拝]]を禁止しており、特にイスラム圏では厳格に戒律が守られている。 === 工業的な模型 === * 新製品を開発する際、事前にその形状や構造、機能等を確認するために作られるもの。「[[モックアップ]]」「[[木型]]」「[[クレイモデル]]」 これらは製品と同サイズで作られることが基本であるが、製品のサイズや用途によっては縮小したものや、拡大したものが作られる場合もある。 工作の容易な木材やケミカルウッド等で作られる場合が多いが、粘土や金属が使用される場合もある。 近年では、デジタルモックアップと称して3次元CADデーターでモックアップの機能の多くを代行させたり、[[CAD]]データーを[[光硬化樹脂]]等で3次元出力したものを[[木型]]として使用する場合もある。 * 建築物等で、完成時のイメージの把握を容易にするため、事前に作成され、[[プレゼンテーション]]等に使用される縮小模型。「[[建築模型]]」 * 反転して製品製造用の雌型([[鋳型]]、[[金型]]等)を作るための、製品と同じ形状をした雄型。「[[原型 (雄型)|原型]]」 原型の素材はさまざまであり、作成には高度な知識・技術・経験が要求される。雌型の製作時および製品の成型時の収縮等により、原型と製品のサイズが微妙に異なることも多く、原型製作時にはその点も考慮する必要がある。原型の素材および反転の方法によっては、雌型成作時に原型が失われる場合も有る。 === 商業用の模型 === * 店のシンボルや、イメージキャラクターの店頭ディスプレイ。「[[ペコちゃん]]人形」「[[くいだおれ]]太郎」「[[カーネル・サンダース]]人形」「[[かに道楽|かに料理店]]店頭の巨大カニ看板」「[[興和]]のマスコットのカエル」 * 販売促進用のグッズ、記念品、[[おまけ]]、雑誌の付録([[ペーパークラフト|ペーパーモデル]])。 * [[マネキン人形]] === 実物の代用としての模型 === * 映画の撮影などに使用するもの。「セット」「撮影用ミニチュア」 ** 小道具は[[プロップ]]とよばれ、銃器をもしたものは[[プロップガン]]、または[[ステージガン]]と呼ばれる。 * アミューズメントパーク内に再現された山や、水族館の水槽の中に再現された海底などの自然を模したもの。 * 商品のサンプルとして使用するもの。内部構造まで再現したもの、商品の外装のみを使用し内部を省略したもの、[[食品サンプル]]のように外観のみを再現したものなど様々なタイプのものがある。 * 軍隊で軍艦や航空機、車両などの識別訓練に使用したもの。これをプラスチックで作る技術からプラモデルが生まれたとされる。 * ニュース番組に登場する政治家の人形や、事故機、事故現場などの模型。 === 所有のための模型 === * 著名な人物や歴史上、文化的な価値を持つものの像や複製。一般に[[レプリカ]]と呼ばれる。「胸像」「博物館展示品(複製)」「レプリカの[[鎧]]や[[兜]]」 * 所有することで所有の代償、もしくは所有の喜びを味わうもの。「[[模造刀]]」「[[無可動実銃]]」「[[モデルガン]]」「[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]」「[[玩具]]」「[[観光地]][[土産]]」 * 自ら組み立てたり、動力で動かす喜びを味わうもの。「[[プラモデル]]」「[[自動車模型]]」「[[航空機模型]]」「[[鉄道模型]]」 所有することが目的となる模型に関しては多くは収集を趣味とするコレクターの存在により商業として成立している。 また「玩具」には実物の存在しないものが多い。[[著作権]]や[[オリジナリティ]]の概念が発達した近年では「誰も見たことがないもの」を生み出すことがより商売上の問題を解決しやすいためである。 === 創作のための模型 === * [[彫刻]]や[[モニュメント]]などを製作する際、イメージを具現化し、形状を立体として検討するために作られる小型の試作品、雛形。 美術用語ではマケット(Maquette:フランス語で模型の意味)またはボッツェット(Bozzetto:イタリア語で[[スケッチ]]の意味)などと呼ばれる。一部の彫刻コンクールではマケットによる一次審査の通過者のみが実作品による二次審査に進む。 == 趣味としての模型 == 趣味としての模型は大きく3つに分類できる。 * 主に製作する過程と完成時の達成感を楽しむもの。「[[プラモデル]]」「[[ソリッドモデル]]」「[[ガレージキット]]」「[[ペーパークラフト]]」 * 主にコレクションしたり鑑賞したりして楽しむもの。「[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]」「[[食玩]]」「[[フィギュア]]」 * 主にモーターやエンジンを用いて動かして楽しむもの。「[[鉄道模型]]」「[[ラジコン模型自動車|ラジコンカー]]」「[[模型航空機|模型飛行機]]」 [[File:Model B747-400 - BRITISH AIRWAYS - G-BNLO.jpg|thumb|模型飛行機]] これらの模型には、実在する物([[飛行機]]、[[自動車]]等)を模したものと、想像上の物を模したものがある。実在するもの(あるいは実在しなくとも、大きさや形状が厳密に設定されているもの)を忠実に縮小して作られたものは特に、[[スケールモデル]]という。反対に実物が存在しないものは「[[キャラクターモデル]]」と呼ばれることがある。ただし、例えば[[ガンプラ]]のようにスケールが厳格に定められたキャラクターモデルは多数存在する。 趣味としての模型には、完成品の状態で販売されるものと、部品の状態で販売され、購入者が自ら組み立てや塗装を行うものとがある。1990年代後半以降、かつてはプラモデルやガレージキットなどの組み立て式模型が主だった分野でも、完成品模型や塗装済みキットの発売が増えている。 <!-- == 脚注 == {{reflist}} --> == 参考文献 == {{Wiktionary}} * [https://art.bunmori.tokushima.jp/srch/srch_art_detail.php?pno=3&no=135 マケットについて](徳島県立近代美術館 美術用語詳細情報) {{Normdaten}} {{模型}} {{デフォルトソート:もけい}} [[Category:模型|*]] [[Category:複製]] [[Category:デザイン]] [[Category:工業]] [[en:Physical model]]
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徳川四天王
徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人を武田四天王等と同様に顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の取組みとして更に12人を加えた徳川十六神将がある。 本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川家康の名代として上洛した3名を上方の武将たちが「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。その後、本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3名は翌月、徳川家康上洛に随行していずれも叙位され、これに酒井を加えた4名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫は考えている。1894年にフレデリック・ヴィクター・ディキンズが書いた『パークス伝 第二巻』では、個人名は書かれていないものの、井伊、本多、榊原、酒井の4氏が俗に英語: the Four Heaven-Kings of Buddhism(仏教の四天王)と呼ばれていたことを述べており、明治中期には日本人だけではなく英国人も知るほどに人口に膾炙していた。 徳川四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて高崎藩を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の関東郡代兼勘定奉行)に任じられて館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられて大多喜藩10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の酒井家次が下総臼井藩を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。これについて國學院大學教授の根岸茂夫は、酒井は元々三河譜代筆頭であったが、家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく台頭してきた本多・榊原・井伊の3名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭として古い権力を持っていた酒井は低い禄高に甘んじたとしている。だが、その後になって本多・榊原・井伊の3名(研究者によっては鳥居元忠・大久保忠世を加えた5名)の所領の配置と石高を決定したのは豊臣秀吉(政権)であるという有力説が登場したことで、単純に家康による家臣団統制の観点のみでの議論が成り立たなくなってしまっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人を武田四天王等と同様に顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の取組みとして更に12人を加えた徳川十六神将がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川家康の名代として上洛した3名を上方の武将たちが「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。その後、本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3名は翌月、徳川家康上洛に随行していずれも叙位され、これに酒井を加えた4名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫は考えている。1894年にフレデリック・ヴィクター・ディキンズが書いた『パークス伝 第二巻』では、個人名は書かれていないものの、井伊、本多、榊原、酒井の4氏が俗に英語: the Four Heaven-Kings of Buddhism(仏教の四天王)と呼ばれていたことを述べており、明治中期には日本人だけではなく英国人も知るほどに人口に膾炙していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "徳川四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて高崎藩を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の関東郡代兼勘定奉行)に任じられて館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられて大多喜藩10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の酒井家次が下総臼井藩を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。これについて國學院大學教授の根岸茂夫は、酒井は元々三河譜代筆頭であったが、家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく台頭してきた本多・榊原・井伊の3名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭として古い権力を持っていた酒井は低い禄高に甘んじたとしている。だが、その後になって本多・榊原・井伊の3名(研究者によっては鳥居元忠・大久保忠世を加えた5名)の所領の配置と石高を決定したのは豊臣秀吉(政権)であるという有力説が登場したことで、単純に家康による家臣団統制の観点のみでの議論が成り立たなくなってしまっている。", "title": "概要" } ]
徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人を武田四天王等と同様に顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の取組みとして更に12人を加えた徳川十六神将がある。
'''徳川四天王'''(とくがわしてんのう)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期に、[[徳川家康]]の側近として仕えて[[江戸幕府]]の樹立に功績を立てた[[酒井忠次]]・[[本多忠勝]]・[[榊原康政]]・[[井伊直政]]の4人を[[武田四天王]]等と同様に顕彰した呼称。[[仏教]]の[[四天王]]に準えている。類似の取組みとして更に12人を加えた[[徳川十六神将]]がある。 == 概要 == 本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は[[1590年]]の[[徳川氏]]の[[関東地方|関東]]移封から[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]までの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して'''徳川三人衆'''もしくは'''徳川三傑'''と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として[[1586年]]9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川家康の名代として上洛した3名を上方の武将たちが「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという<ref>中村達夫「知勇兼備の戦国武将の典型 井伊直政」『歴史群像シリーズ』22号・徳川四天王、1991年、125頁。</ref>。その後、本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3名は翌月、徳川家康上洛に随行していずれも叙位され、これに酒井を加えた4名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫は考えている{{Refnest|村山和夫「無を貫いた不退転の猛将 榊原康政」『歴史群像シリーズ』22号・徳川四天王、1991年、111頁<ref group="注釈">ただし、村山当該論文では「徳川四天王」の命名開始としておらず、あくまで4名が有名になったことのみを述べている。</ref>。}}。[[1894年]]に[[フレデリック・ヴィクター・ディキンズ]]が書いた『パークス伝 第二巻』では、個人名は書かれていないものの、井伊、本多、榊原、酒井の4氏が俗に{{lang-en|the Four Heaven-Kings of Buddhism}}(仏教の四天王)と呼ばれていたことを述べており、明治中期には日本人だけではなく英国人も知るほどに人口に膾炙していた{{sfn|Dickins|1894}}。 徳川四天王はその後、1590年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて[[高崎藩]]を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の[[関東郡代]]兼[[勘定奉行]])に任じられて[[館林藩]]10万石を立藩、本多は年寄(後の[[老中]])に任ぜられて[[大多喜藩]]10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の[[酒井家次]]が下総[[臼井藩]]を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。これについて[[國學院大學]]教授の[[根岸茂夫]]は、酒井は元々三河譜代筆頭であったが、家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく台頭してきた本多・榊原・井伊の3名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭として古い権力を持っていた酒井は低い禄高に甘んじたとしている<ref>根岸「三河軍団の最高軍事司令官 酒井忠次」『歴史群像シリーズ』22号・徳川四天王、1991年、97-99頁。</ref>。だが、その後になって本多・榊原・井伊の3名(研究者によっては[[鳥居元忠]]・[[大久保忠世]]を加えた5名)の所領の配置と石高を決定したのは豊臣秀吉(政権)であるという有力説{{Efn|この説を最初に唱えた川田貞夫は本多・榊原・井伊・鳥居・大久保の5名を想定し、市村貞夫は川田説に同意しつつも対象になったのは本多・榊原・井伊の3名であるとする説を唱えた。川田・市村らの見解は、上杉家の会津移封の際に豊臣政権が直江兼続に対しても同様の措置が取っていることから有力な通説になっている<ref>平野明夫「関東領有期徳川氏家臣と豊臣政権」、佐藤博信 編『中世東国の政治構造 中世東国論:上』、岩田書院、2007年 ISBN 978-4-87294-472-3</ref>。川田・市村いずれの見解を採っても酒井忠次はこの対象とはされておらず、特に川田説を採用した場合には鳥居元忠や大久保忠世の方が酒井忠次よりも格上であったことになる。}}が登場したことで、単純に家康による家臣団統制の観点のみでの議論が成り立たなくなってしまっている。 == 該当者 == <gallery> 画像:Sakai Tadatsugu.jpg|[[酒井忠次]]<br>([[1527年]] - [[1596年]]) 画像:Portrait-Honda-Tadakatsu.jpg|[[本多忠勝]]<br>([[1548年]] - [[1610年]]) 画像:Sakakibara Yasumasa.jpg|[[榊原康政]]<br>([[1548年]] - [[1606年]]) 画像:Ii Naomasa.jpg|[[井伊直政]]<br>([[1561年]] - [[1602年]]) </gallery> == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 『歴史群像シリーズ』22号・「徳川四天王」、1991年 * 『江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか? 徳川四天王』([[英和出版社]]、2014年) * {{Citation | | last = Dickins | first = Frederick Victor | author-link = フレデリック・ヴィクター・ディキンズ | year = 1894 | title = The Life of Sir Harry Parkes, vol. 2: Minister Plenipotentiary to Japan | publisher = London, Macmillian and co. | url =https://books.google.co.jp/books?id=uq4JAAAAIAAJ&dq=The%20life%20of%20Sir%20Harry%20Parkes%20volume%202&hl=ja&pg=PA9#v=onepage&q&f=false | pages=9 }} == 関連作品 == ; 小説 * [[南原幹雄]]『徳川四天王』上・下([[新人物往来社]]、2003年 / [[角川文庫]]、2007年) * [[川村真二]]『徳川四天王 家康に天下を取らせた男たち』([[PHP研究所]]、2014年) {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=徳川三傑 |1-1=戦国武将の名数3 }} {{DEFAULTSORT:とくかわしてんのう}} [[Category:徳川家康]] [[Category:三河国]] [[Category:戦国武将の名数4|とくかわ]] [[Category:井伊直政]] [[Category:本多忠勝]]
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レイド
レイド スコットランド起源の英語圏の姓。リードと読むケースもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "レイド", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "スコットランド起源の英語圏の姓。リードと読むケースもある。", "title": "Reid" } ]
レイド
'''レイド''' == raid == * 英語で[[襲撃]]、[[急襲]]の意味。 * [[RAID]] - ディスク装置。'''R'''edundant '''A'''rrays of '''I'''nexpensive '''D'''isks、もしくは'''R'''edundant '''A'''rrays of '''I'''ndependent '''D'''isksの略称。 ** [[Xserve RAID]] - [[Apple]]が開発・販売していたハードウェア。 * [[フランス国家警察特別介入部隊]]('''R'''echerche, '''a'''ssistance, '''i'''ntervention, '''d'''issuasion)。 * [[ラリーレイド]](Rally Raid) - モータースポーツの一種 * [[パーマー・レイド]](Palmer Raids) - 20世紀初頭にアメリカ合衆国司法省によって行われた左翼狩り。 * [[レイド (コンピュータゲーム)]] - 多人数参加型ゲームなどにおいて複数のプレイヤーが共通の敵と戦う[[クエスト]]。 ; 作品名 *[[ザ・レイド]] - インドネシアの映画。 **[[ザ・レイド GOKUDO]] - 上記映画の続編。 == Reid == [[スコットランド]]起源の英語圏の姓。'''[[リード]]'''と読むケースもある。 *[[アンソニー・レイド]] - イギリスのレーシングドライバー。 *[[エイミー・レイド]] - ドイツ出身のポルノ女優。 *[[ケリー・レイド]] - オーストラリアのテニスプレーヤー。 == 関連項目 == * [[レーダー (曖昧さ回避)]](raider, rader) * [[レイダース]](Raiders) * {{prefix}} * {{intitle}} * {{intitle|レード}} {{aimai}} {{デフォルトソート:れいと}} [[Category:英語の語句]] [[Category:英語の姓]]
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諫早駅
諫早駅(いさはやえき)は、長崎県諫早市にある、九州旅客鉄道(JR九州)・島原鉄道の駅である。 諫早市の中心駅で、長崎県内で長崎駅に次いで2番目、長崎本線の駅では3番目に利用者が多い。全列車が停車する。島原鉄道の駅には「雲仙・島原口」の副駅名が設定されている。 JR九州の長崎本線と大村線と西九州新幹線、島原鉄道の島原鉄道線の計4路線が乗り入れている。大村線は当駅が終点、島原鉄道線は当駅が起点である。JR九州における当駅の所属線は長崎本線である。SUGOCAに対応するが、当駅がSUGOCA長崎エリアにおける長崎本線の東端駅であるため、長崎本線長崎方面(含む長与支線)と大村線の当駅から竹松までのみ利用可能であり、長崎本線鳥栖方面へは利用できない。西九州新幹線や島原鉄道でもSUGOCAは利用できない。 長崎本線の当駅と長崎駅の間は運転本数が多く設定されている。新線(市布経由)を通る列車は、普通列車が毎時上下各2本程度であり、ラッシュ時間帯以外で毎時上下各1本程度のピストン運転を行う。また、佐世保・大村線直通の快速列車も毎時上下各1本設定されており、当区間内の基本停車駅は喜々津駅・浦上駅のみだが、時間帯により諫早 - 長崎間は各駅に停車するものもある。旧線(長与経由)は普通列車のみの運転であるが、D&S列車「或る列車」と「ななつ星 in 九州」は長与経由のルートで運転する。 長崎本線上り湯江駅・江北駅方面は普通列車が毎時1本程度で、一部時間帯では3時間程度普通列車の運転間隔が空く。大村線に関しては前述の快速列車と普通列車がそれぞれ毎時各1本ずつの運転である。 当駅を通る列車は回送列車や試運転も含めて、ほぼ全列車が停車し、通過する列車はごくわずかに限られている。西九州新幹線も例外ではなく、定期営業列車は全て停車し回送列車などごく一部の列車のみが通過する。 JRにおいてワンマン運転の際は当駅で精算方法が変わり、当駅 - 長崎駅間は長与支線を含めて車内精算を行わない。当駅 - 長崎駅は新幹線と長崎本線が並行しており(西九州新幹線は新線ルートの線増扱い)、選択乗車が可能である。なお新大村駅 - 当駅も新幹線と大村線が並行する形になっているが、こちらは選択乗車ができず、運賃が異なる。 JR九州の駅名標には「のんのこ踊り」がデザインされている。 島原鉄道のりばから数100メートルJR線と並走した後、左右に分かれるが、その並走区間の途中には、国鉄時代に島原鉄道の列車が国鉄へ乗り入れていた名残としてJR線から島原鉄道に接続する渡り線がある。この渡り線を使用して急行列車が長崎駅・佐世保駅・小倉駅まで乗り入れていた。 JR新幹線は2面2線、JR在来線は2面4線(1 - 4番線)を有する。新幹線には待避線がないため可動式安全柵が設置されている。新幹線もホームがほぼ地平に設置されており、全国的にも数少ない。 (出典:JR九州駅情報一覧) 島原鉄道の駅は単式ホーム1面1線を有する。JR線と島原鉄道線との乗り継ぎには、改札口を出て自由通路を経由する必要がある。終日有人駅で自動券売機が設置されている。当駅は終着駅であるためワンマン列車でもホーム側の全てドアが開く。 JR線の駅舎3代目は、2018年8月より東口(永昌東町)と西口(永昌町)を結ぶ自由通路と接続した橋上駅舎となっている。駅舎にはJR線専用の改札口や待合室、みどりの窓口、自動券売機が設置され、JR線の各ホームとは階段とエレベーターとで接続されている。東口側は諌早市が駅周辺再開発整備の一環で整備した「再開発ビル1棟」と接続しており、島原鉄道線の駅舎(改札口・乗り場)の出入口が設けられている。島原鉄道は改札の分離に併せて駅員が配置されるようになり、自動券売機も1台設置されている。 先代の2代目駅舎は有明線が開通した1934年(昭和9年)竣工の木造2階建て(一部)で、外観は2か所の出入り口部のみ上った上屋軒先に、駅舎内も構成的な意匠が施された柱や梁、折り上げ天井の待合室など、洋館風のモダンなものであった。1990年代末期に外観の塗色が従来の緑色から茶色に塗り替えられたがそのほかの大きな変化はなかった。駅舎は駅の東側に位置しており、西側とは地下道で結ばれていたが、自由通路の供用開始により閉鎖された。 2022年9月17日からファミリーマート銘品蔵諫早駅店で販売される。ただし、JTB時刻表 2023年3月号には諫早駅の駅弁の掲載は無い。 販売される駅弁は下記の通り。 駅前にはバスターミナル・ビジネスホテルがあり、マンションも多い。諫早市役所など、市の中心部へは隣の島原鉄道本諫早駅の方が近い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "諫早駅(いさはやえき)は、長崎県諫早市にある、九州旅客鉄道(JR九州)・島原鉄道の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "諫早市の中心駅で、長崎県内で長崎駅に次いで2番目、長崎本線の駅では3番目に利用者が多い。全列車が停車する。島原鉄道の駅には「雲仙・島原口」の副駅名が設定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "JR九州の長崎本線と大村線と西九州新幹線、島原鉄道の島原鉄道線の計4路線が乗り入れている。大村線は当駅が終点、島原鉄道線は当駅が起点である。JR九州における当駅の所属線は長崎本線である。SUGOCAに対応するが、当駅がSUGOCA長崎エリアにおける長崎本線の東端駅であるため、長崎本線長崎方面(含む長与支線)と大村線の当駅から竹松までのみ利用可能であり、長崎本線鳥栖方面へは利用できない。西九州新幹線や島原鉄道でもSUGOCAは利用できない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "長崎本線の当駅と長崎駅の間は運転本数が多く設定されている。新線(市布経由)を通る列車は、普通列車が毎時上下各2本程度であり、ラッシュ時間帯以外で毎時上下各1本程度のピストン運転を行う。また、佐世保・大村線直通の快速列車も毎時上下各1本設定されており、当区間内の基本停車駅は喜々津駅・浦上駅のみだが、時間帯により諫早 - 長崎間は各駅に停車するものもある。旧線(長与経由)は普通列車のみの運転であるが、D&S列車「或る列車」と「ななつ星 in 九州」は長与経由のルートで運転する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "長崎本線上り湯江駅・江北駅方面は普通列車が毎時1本程度で、一部時間帯では3時間程度普通列車の運転間隔が空く。大村線に関しては前述の快速列車と普通列車がそれぞれ毎時各1本ずつの運転である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当駅を通る列車は回送列車や試運転も含めて、ほぼ全列車が停車し、通過する列車はごくわずかに限られている。西九州新幹線も例外ではなく、定期営業列車は全て停車し回送列車などごく一部の列車のみが通過する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "JRにおいてワンマン運転の際は当駅で精算方法が変わり、当駅 - 長崎駅間は長与支線を含めて車内精算を行わない。当駅 - 長崎駅は新幹線と長崎本線が並行しており(西九州新幹線は新線ルートの線増扱い)、選択乗車が可能である。なお新大村駅 - 当駅も新幹線と大村線が並行する形になっているが、こちらは選択乗車ができず、運賃が異なる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "JR九州の駅名標には「のんのこ踊り」がデザインされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "島原鉄道のりばから数100メートルJR線と並走した後、左右に分かれるが、その並走区間の途中には、国鉄時代に島原鉄道の列車が国鉄へ乗り入れていた名残としてJR線から島原鉄道に接続する渡り線がある。この渡り線を使用して急行列車が長崎駅・佐世保駅・小倉駅まで乗り入れていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "JR新幹線は2面2線、JR在来線は2面4線(1 - 4番線)を有する。新幹線には待避線がないため可動式安全柵が設置されている。新幹線もホームがほぼ地平に設置されており、全国的にも数少ない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "(出典:JR九州駅情報一覧)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "島原鉄道の駅は単式ホーム1面1線を有する。JR線と島原鉄道線との乗り継ぎには、改札口を出て自由通路を経由する必要がある。終日有人駅で自動券売機が設置されている。当駅は終着駅であるためワンマン列車でもホーム側の全てドアが開く。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "JR線の駅舎3代目は、2018年8月より東口(永昌東町)と西口(永昌町)を結ぶ自由通路と接続した橋上駅舎となっている。駅舎にはJR線専用の改札口や待合室、みどりの窓口、自動券売機が設置され、JR線の各ホームとは階段とエレベーターとで接続されている。東口側は諌早市が駅周辺再開発整備の一環で整備した「再開発ビル1棟」と接続しており、島原鉄道線の駅舎(改札口・乗り場)の出入口が設けられている。島原鉄道は改札の分離に併せて駅員が配置されるようになり、自動券売機も1台設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "先代の2代目駅舎は有明線が開通した1934年(昭和9年)竣工の木造2階建て(一部)で、外観は2か所の出入り口部のみ上った上屋軒先に、駅舎内も構成的な意匠が施された柱や梁、折り上げ天井の待合室など、洋館風のモダンなものであった。1990年代末期に外観の塗色が従来の緑色から茶色に塗り替えられたがそのほかの大きな変化はなかった。駅舎は駅の東側に位置しており、西側とは地下道で結ばれていたが、自由通路の供用開始により閉鎖された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2022年9月17日からファミリーマート銘品蔵諫早駅店で販売される。ただし、JTB時刻表 2023年3月号には諫早駅の駅弁の掲載は無い。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "販売される駅弁は下記の通り。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "駅前にはバスターミナル・ビジネスホテルがあり、マンションも多い。諫早市役所など、市の中心部へは隣の島原鉄道本諫早駅の方が近い。", "title": "駅周辺" } ]
諫早駅(いさはやえき)は、長崎県諫早市にある、九州旅客鉄道(JR九州)・島原鉄道の駅である。
{{出典の明記|date=2017年1月|ソートキー=鉄いさはや}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 諫早駅 |画像 = Isahaya-STA West.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 西口(2023年1月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = いさはや |ローマ字 = Isahaya |所属事業者 = [[九州旅客鉄道]](JR九州・[[#JR九州|駅詳細]])<br />[[島原鉄道]]([[#島原鉄道|駅詳細]]) |所在地 = [[長崎県]][[諫早市]] |乗換 = |備考 = |座標 = {{coord|32|51|6.62|N|130|2|29.30|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} }} [[ファイル:Isahaya-STA East.jpg|thumb|東口(2023年1月)]] '''諫早駅'''(いさはやえき)は、[[長崎県]][[諫早市]]にある、[[九州旅客鉄道]](JR九州)・[[島原鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == 諫早市の中心駅で、長崎県内で[[長崎駅]]に次いで2番目、[[長崎本線]]の駅では3番目に利用者が多い。全列車が停車する。島原鉄道の駅には「'''雲仙・島原口'''」の副駅名が設定されている。 JR九州の長崎本線と[[大村線]]と[[西九州新幹線]]、島原鉄道の[[島原鉄道線]]の計4路線が乗り入れている。大村線は当駅が終点、島原鉄道線は当駅が起点である。JR九州における当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]は長崎本線である{{sfn|石野|1998|p=716}}。[[SUGOCA]]に対応するが、当駅がSUGOCA長崎エリアにおける長崎本線の東端駅であるため、長崎本線長崎方面(含む長与支線)と大村線の当駅から[[竹松駅|竹松]]までのみ利用可能であり、長崎本線鳥栖方面へは利用できない。西九州新幹線や島原鉄道でもSUGOCAは利用できない。 長崎本線の当駅と長崎駅の間は運転本数が多く設定されている。新線([[市布駅|市布]]経由)を通る列車は、普通列車が毎時上下各2本程度であり、ラッシュ時間帯以外で毎時上下各1本程度のピストン運転を行う。また、佐世保・大村線直通の快速列車も毎時上下各1本設定されており、当区間内の基本停車駅は喜々津駅・浦上駅のみだが、時間帯により諫早 - 長崎間は各駅に停車するものもある。旧線(長与経由)は普通列車のみの運転であるが、D&S列車「[[或る列車]]」と「[[ななつ星 in 九州]]」は長与経由のルートで運転する。 長崎本線上り[[湯江駅]]・[[江北駅 (佐賀県)|江北駅]]方面は普通列車が毎時1本程度で、一部時間帯では3時間程度普通列車の運転間隔が空く。大村線に関しては前述の快速列車と普通列車がそれぞれ毎時各1本ずつの運転である。 当駅を通る列車は[[回送]]列車や[[試運転]]も含めて、ほぼ全列車が停車し、通過する列車はごくわずかに限られている。西九州新幹線も例外ではなく、定期営業列車は全て停車し回送列車などごく一部の列車のみが通過する。 JRにおいて[[ワンマン運転]]の際は当駅で精算方法が変わり、当駅 - 長崎駅間は長与支線を含めて[[信用乗車方式|車内精算]]を行わない。当駅 - 長崎駅は新幹線と長崎本線が並行しており(西九州新幹線は新線ルートの線増扱い)、選択乗車が可能である。なお新大村駅 - 当駅も新幹線と大村線が並行する形になっているが、こちらは選択乗車ができず、運賃が異なる。 JR九州の[[駅名標]]には「のんのこ踊り」がデザインされている。 == 歴史 == [[ファイル:IsahayaStation 19900830.jpg|thumb|2代目駅舎(1990年)]] [[ファイル:諫早駅 - panoramio.jpg|thumb|塗り替え後の2代目駅舎(2011年)]] * [[1898年]]([[明治]]31年)[[11月27日]]:九州鉄道長崎線の駅として開業{{Sfn|九州鉄道の記憶III|p=151}}。 * [[1907年]](明治40年)[[7月1日]]:九州鉄道が国有化される{{sfn|石野|1998|p=715}}。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:線路名称制定により、長崎本線の駅となる。 * [[1911年]](明治44年)[[8月21日]]:島原鉄道の諫早 - [[本諫早駅|本諫早]]間が開業。長崎本線と島原鉄道の駅となる。 * [[1934年]]([[昭和]]9年) **[[3月24日]]:有明西線の諫早 - [[湯江駅|湯江]]間が開業。長崎本線・有明西線と島原鉄道の駅となる。 ** 6月:2代目駅舎竣工{{Sfn|長崎県98|p=126}}。 ** [[12月1日]]:有明東線と有明西線が繋がったことにより、有明ルートが長崎本線となる。これに伴い、早岐 - 諫早間が大村線として分離され、長崎本線・大村線と島原鉄道の駅となる。 * [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:貨物および[[チッキ|荷物]]の取り扱いを廃止{{sfn|石野|1998|p=716}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、長崎本線・大村線は九州旅客鉄道に継承{{sfn|石野|1998|p=716}}。九州旅客鉄道と島原鉄道の駅となる。 * [[2010年]]([[平成]]22年)[[3月24日]]:[[自動改札機]]を設置。 * [[2012年]](平成24年)[[12月1日]]:同駅を含む長崎地区19駅にSUGOCAを導入<ref>{{Cite news |newspaper=[[交通新聞]]|publisher=[[交通新聞社]]|page=1|date=2012-12-04}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[6月18日]]:仮駅舎に移転。新駅舎・自由通路の建設工事着工<ref name="長崎新聞20180804-13"/>。 * [[2018年]](平成30年)[[8月4日]]:JR線の橋上駅舎、および東口と西口を結ぶ自由通路の供用開始<ref name="長崎新聞20180804-13">{{Cite news|url=https://this.kiji.is/398120143173190753|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201213035458/https://this.kiji.is/398120143173190753|title=諫早駅の東西結ぶ「自由通路」きょう供用開始 「まちづくりの核へ大きな一歩」|newspaper=長崎新聞|date=2018-08-04|accessdate=2020-12-13|archivedate=2020-12-13}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年) ** [[2月5日]]:新幹線駅舎の工事に着手<ref name="jrtt20190128">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/corporate/public_relations/pdf/pressh310128-1.pdf|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12848777/www.jrtt.go.jp/corporate/public_relations/pdf/pressh310128-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九州新幹線(西九州)諫早駅新築工事の安全祈願について|publisher=[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構|独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]|date=2019-01-28|accessdate=2020-12-13|archivedate=2020-01-15}}</ref>。 ** [[10月1日]]:島原鉄道の駅に「雲仙・島原口」の副駅名を設定<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.shimatetsu.co.jp/infos/detail/?id=131|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201213030658/https://www.shimatetsu.co.jp/infos/detail/?id=131|language=日本語|title=10月以降の鉄道・バスの各種変更について|publisher=島原鉄道|date=2019-09-30|accessdate=2020-12-13|archivedate=2020-12-13}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[9月23日]]:[[西九州新幹線]]が開業<ref name="press20220222">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2022/02/22/220222_nishikyushu_kaigyoubi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220222054752/https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2022/02/22/220222_nishikyushu_kaigyoubi.pdf|format=PDF|language=日本語|title=西九州新幹線の開業日について|publisher=九州旅客鉄道|date=2022-02-22|accessdate=2022-02-22|archivedate=2022-02-22}}</ref><ref name="yomiuri20220923">{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20220923-OYT1T50120/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220923003230/https://www.yomiuri.co.jp/national/20220923-OYT1T50120/|title=西九州新幹線が開業、「かもめ」が出発…博多―長崎間は最速1時間20分に|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2022-09-23|accessdate=2022-09-23|archivedate=2022-09-23}}</ref>。 === 島原鉄道とJRの渡り線について === 島原鉄道のりばから数100メートルJR線と並走した後、左右に分かれるが、その並走区間の途中には、[[日本国有鉄道|国鉄]]時代に島原鉄道の列車が国鉄へ乗り入れていた名残としてJR線から島原鉄道に接続する渡り線がある。この渡り線を使用して[[急行列車]]が長崎駅・[[佐世保駅]]・[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]まで乗り入れていた。 == 駅構造 == === JR九州 === {{駅情報 |社色 = #ff0000 |文字色 = |駅名 = JR 諫早駅 |画像 = |pxl = |画像説明 = |よみがな = いさはや |ローマ字 = Isahaya |電報略号 = イハ |駅番号 = |所属事業者 = [[九州旅客鉄道]](JR九州) |所在地 = [[長崎県]][[諫早市]]永昌町1番1号 |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面2線(新幹線)<br />2面4線(在来線) |開業年月日 = [[1898年]]([[明治]]31年)[[11月27日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 4,062 |統計年度 = 2021年 |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{Color|#ff0000|■}}[[西九州新幹線]] |前の駅1 = [[新大村駅|新大村]] |駅間A1 = 12.5 |駅間B1 = 24.9 |次の駅1 = [[長崎駅|長崎]] |キロ程1 = 44.7 |起点駅1 = [[武雄温泉駅|武雄温泉]] |所属路線2 = {{Color|#faaf18|■}}[[長崎本線]] |前の駅2 = [[東諫早駅|東諫早]] |駅間A2 = 2.6 |駅間B2 = 2.8 |次の駅2 = [[西諫早駅|西諫早]] |駅番号2 = |キロ程2 = 100.4 |起点駅2 = [[鳥栖駅|鳥栖]] |所属路線3 = {{color|#0095d9|■}}[[大村線]] |前の駅3 = [[岩松駅|岩松]] |駅間A3 = 7.6 |駅間B3 = |次の駅3 = |駅番号3 = |キロ程3 = 47.6 |起点駅3 = [[早岐駅|早岐]] |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]<ref>{{Cite book|和書|title=学研の大図鑑 JR全駅・全駅舎西日本編(JR東海・JR西日本・JR四国・JR九州)|date=2004-04-30|year=2004|publisher=学習研究社|page=235}}</ref><br />[[みどりの窓口]] 有<ref name="MADO">[http://www.jrkyushu.co.jp/railway/station/1191402_1601.html 駅情報] - JR九州.2021年12月6日閲覧</ref> }} JR新幹線は2面2線、JR在来線は2面4線(1 - 4番線)を有する{{Sfn|長崎新聞20180804-13}}<ref name="駅構内図" />。新幹線には待避線がないため可動式安全柵が設置されている。新幹線もホームがほぼ地平に設置されており、全国的にも数少ない。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !のりば<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1 | rowspan="2" |{{Color|#faaf18|■}}長崎本線 | rowspan="2" style="text-align:center" | 下り | rowspan="2" |[[長崎駅|長崎]]行き |&nbsp; |- !rowspan=2|2 |&nbsp; |- |{{color|#0095d9|■}}大村線 | style="text-align:center" | - |[[ハウステンボス駅|ハウステンボス]]・[[早岐駅|早岐]]・[[佐世保駅|佐世保]]方面 |&nbsp; |- !rowspan="3"|3 |rowspan="2"|{{Color|#faaf18|■}}長崎本線 |style="text-align:center" | 下り |長崎行き |&nbsp; |- |style="text-align:center" | 上り |[[湯江駅|湯江]]・[[肥前浜駅|肥前浜]]・[[江北駅 (佐賀県)|江北]]方面 |一部の列車 |- |{{color|#0095d9|■}}大村線 | style="text-align:center" | - |ハウステンボス・早岐・佐世保方面 |&nbsp; |- !rowspan="2"|4 |{{Color|#faaf18|■}}長崎本線 |style="text-align:center" | 上り |湯江・肥前浜・江北方面 |&nbsp; |- |{{color|#0095d9|■}}大村線 | style="text-align:center" | - |ハウステンボス・早岐・佐世保方面 |&nbsp; |- !11 | rowspan="2" |{{Color|#ff0000|■}}西九州新幹線 |上り |[[武雄温泉駅|武雄温泉]]・[[新鳥栖駅|新鳥栖]]・[[博多駅|博多]]方面 |かもめ号は武雄温泉駅で<br/>博多行き特急と接続。 |- !12 |下り |長崎行き |&nbsp; |} (出典:[https://www.jrkyushu.co.jp/railway/station/1191402_1601.html JR九州駅情報一覧])<!--※JR線の方面案内は出典内にある「駅別時刻表」を基にしております。--> <gallery widths="200"> Isahaya-STA Platform1-2.jpg|在来線1・2番のりば(2023年1月) Isahaya-STA Platform3-4.jpg|在来線3・4番のりば(2023年1月) Isahaya-STA Platform11.jpg|新幹線11番のりば(2023年1月) Isahaya-STA Platform12.jpg|新幹線12番のりば(2023年1月) JRKyushu-Nagasaki-main-line-Isahaya-station-platform-1-20091031.jpg|旧1番のりば(2009年10月) Platform No.2 of Isahaya Station.jpg|旧2番のりば(2017年1月) JRKyushu-Nagasaki-main-line-Isahaya-station-platform-3-4-20091031.jpg|旧3・4番のりば(2009年10月) </gallery> === 島原鉄道 === {{駅情報 |社色 = #ffff22 |文字色 = #000000 |駅名 = 島原鉄道 諫早駅 |画像 = |pxl = |画像説明 = |地図 = |よみがな = いさはや |ローマ字 = ISAHAYA |副駅名 = 雲仙・島原口 - Unzen・Shimabara Gate |駅間B = 1.5 |次の駅 = [[本諫早駅|本諫早]] |所属事業者 = [[島原鉄道]] |所属路線 = <span style="color:yellow">■</span>[[島原鉄道線]] |電報略号 = |キロ程 = 0.0 |起点駅 = 諫早 |所在地 = [[長崎県]][[諫早市]]永昌東町1-1 |座標 = |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面1線 |乗車人員 = 867 |乗降人員 = 1,646 |統計年度 = 2017年 |開業年月日 = [[1911年]]([[明治]]44年)[[6月20日]] |廃止年月日 = |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|社員配置駅]] |備考全幅 = }} {{節スタブ|date=2023年5月}} 島原鉄道の駅は単式ホーム1面1線を有する{{Sfn|長崎新聞20180804-13}}。JR線と島原鉄道線との乗り継ぎには、改札口を出て自由通路を経由する必要がある<ref name="島鉄新駅舎">{{Cite web|和書|title=「島原鉄道 諫早駅」 新駅舎のご案内|url=http://www.shimatetsu.co.jp/kiji/pub/detail.aspx?c_id=56&type=top&id=551|publisher=島原鉄道|date=2018-08-10|accessdate=2018-08-12}}</ref>。終日有人駅で自動券売機が設置されている。当駅は終着駅であるためワンマン列車でもホーム側の全てドアが開く。 <gallery widths="200"> Shimatetsu Isahaya-STA Entrance.jpg|島原鉄道のりば入口(2023年1月) Shimatetsu Isahaya-STA Gate.jpg|島原鉄道改札口(2023年1月) Shimatetsu Isahaya-STA Platform.jpg|島原鉄道ホーム(2023年1月) </gallery> {{-}} === 駅舎 === JR線の駅舎3代目は、2018年8月より東口(永昌東町)と西口(永昌町)を結ぶ自由通路と接続した[[橋上駅|橋上駅舎]]となっている<ref name="長崎新聞20180804-13"/>。駅舎にはJR線専用の改札口や待合室、[[みどりの窓口]]、自動券売機が設置され<ref name="MADO"/>、JR線の各ホームとは階段と[[エレベーター]]とで接続されている<ref name="駅構内図">{{Cite web|和書|title=諫早駅構内図|url=http://www.jrkyushu.co.jp/railway/station/__icsFiles/afieldfile/2018/08/03/sahaya..pdf|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|date=2018-08-03|accessdate=2018-08-12}}</ref>。東口側は諌早市が駅周辺再開発整備の一環で整備した「再開発ビル1棟」と接続しており、島原鉄道線の駅舎(改札口・乗り場)の出入口が設けられている<ref name="長崎新聞20180804-13"/><ref name="駅構内図" />。島原鉄道は改札の分離に併せて駅員が配置されるようになり、自動券売機も1台設置されている。 先代の2代目駅舎は有明線が開通した{{Sfn|九州鉄道の記憶III|p=151}}1934年(昭和9年)竣工の木造2階建て(一部)で、外観は2か所の出入り口部のみ上った[[上屋]][[軒先]]に、駅舎内も構成的な意匠が施された柱や梁、折り上げ天井の待合室など、[[洋館]]風のモダンなものであった{{Sfn|長崎県98|p=126}}。1990年代末期に外観の塗色が従来の緑色から茶色に塗り替えられたがそのほかの大きな変化はなかった。駅舎は駅の東側に位置しており、西側とは[[地下道]]で結ばれていたが、自由通路の供用開始により閉鎖された<ref name="長崎新聞20180804-13"/>。 <gallery widths="200"> Isahaya-STA JR-line-Gate.jpg|在来線改札口・みどりの窓口(2023年1月) Isahaya-STA Shinkansen-Gate.jpg|新幹線改札口(2023年1月) Isahaya-STA Transfer-Gate.jpg|のりかえ改札口(2023年1月) Isahaya-STA JR-line-Ticket.jpg|JR線切符券売機(2023年1月) </gallery> == 駅弁 == 2022年9月17日からファミリーマート銘品蔵諫早駅店で販売される。ただし、JTB時刻表 2023年3月号には諫早駅の駅弁の掲載は無い。 販売される駅弁は下記の通り<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/09/14/nagasaki_ekiben2_hp.pdf|title=\もうすぐ西九州新幹線開業!/長崎の駅弁、増えています!!|date=2022-09-09|accessdate=2022-09-17|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220917033959/https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/09/14/nagasaki_ekiben2_hp.pdf|archivedate=2022-09-17}}</ref>。 * 新幹線かもめ弁当 * 鉄道開業150周年記念九州巡り旅弁当 * [[ミッキーマウス]] GO!GO!ランチ BOX == 利用状況 == * '''JR九州''' - 2019年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''5,134人'''である<ref>[http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2019ekibetsu.pdf 駅別乗車人員(2019年度)]</ref><!--[[小数点]]以下は四捨五入する-->。<!--年間乗車人員/年間日数365or366(小数点以下は四捨五入)--><!-- 長崎県統計年鑑 -->長崎県内の駅では[[長崎駅]]に次いで、長崎本線では佐賀駅、長崎駅に次いで3番目に利用者が多い駅である。 * '''島原鉄道''' - 2017年度の1日平均'''乗車'''人員は'''867人'''である。<!--年間乗車人員/年間日数365or366(小数点以下は四捨五入)--><!--長崎県統計年鑑--> {| class="wikitable" style="text-align:right;" |- !rowspan="2"|年度 !style="text-align:center;" colspan="1"|JR九州 !style="text-align:center;" colspan="1"|島原鉄道 |- !style="text-align:center;" colspan="1"|1日平均<br/>乗車人員 !style="text-align:center;" colspan="1"|1日平均<br/>乗車人員 |- |2000年 |5,828 |683 |- |2001年 |5,791 |743 |- |2002年 |5,562 |771 |- |2003年<!--366で除する--> |5,629 |797 |- |2004年 |5,579 |771 |- |2005年 |5,604 |795 |- |2006年 |5,533 |790 |- |2007年<!--366で除する--> |5,561 |844 |- |2008年 |5,582 |863 |- |2009年 |5,495 |858 |- |2010年 |5,433 |892 |- |2011年<!--366で除する--> |5,365 |921 |- |2012年 |5,389 |951 |- |2013年 |5,510 |1,019 |- |2014年 |5,396 |977 |- |2015年<!--366で除する--> |5,403 |956 |- |2016年 |5,228 |911 |- |2017年 |5,188 |867 |- |2018年 |5,203 | |- |2019年 |5,134 | |} == 駅周辺 == 駅前には[[バスターミナル]]・[[ホテル|ビジネスホテル]]があり、[[マンション]]も多い。[[諫早市役所]]など、市の中心部へは隣の島原鉄道本諫早駅の方が近い。 * [[長崎県交通局|長崎県営バス]]・[[島原鉄道#バス事業|島鉄バス]]諫早ターミナル * [[ミスタードーナツ]]JR諫早ショップ * [[長崎県立諫早商業高等学校]] * [[鎮西学院大学]] * [[鎮西学院高等学校]] * [[長崎県立総合運動公園陸上競技場]](トランスコスモススタジアム長崎) * [[地域医療機能推進機構諫早総合病院|JCHO諫早総合病院(諫早病院)]] * [[まるたか生鮮市場]]諫早駅前店 == バス路線 == [[ファイル:Isahaya-STA Bus-terminal.jpg|thumb|諫早駅バスターミナル(東口)]] * [[長崎県交通局|長崎県営バス]] - 路線バス・[[長崎空港]]連絡バス・高速シャトルバス * [[島原鉄道#バス事業|島鉄バス]] - 路線バス・高速バス(福岡行き[[島原号]])・長崎空港連絡バス *: 両社とも東口駅前にある'''長崎県営バス諫早駅前ターミナル'''に発着する。かつては島鉄バスは県営バスターミナル向かいの諫早ターミナルホテルに併設された島鉄諫早バスターミナルに発着しており県営バスと島鉄バスで乗り場が異なっていたが、[[2007年]][[3月31日]]をもって島鉄諫早ターミナルが廃止され、県営バスターミナルに統合された。その後、諫早駅再開発に伴い、[[2022年]][[5月16日]]からは県営バスの諫早バスターミナルが新施設に移転し<ref name="2205isahaya">長崎県交通局「[https://www.keneibus.jp/news/1007.html 諫早バスターミナルが新しくなります。]」(2022年4月19日付長崎県交通局新着情報。2022年5月16日閲覧)</ref>、ターミナル(発券カウンター・待合室等)は諫早駅再開発ビル(イーサ)1階に設置され、その前面の諫早駅東公共交通広場内に乗降場7バースが設置される構成となった<ref name="2205isahaya"/>。 == 隣の駅 == ; 九州旅客鉄道(JR九州) : {{Color|#ff0000|■}}西九州新幹線 ::: [[新大村駅]] - '''諫早駅''' - [[長崎駅]] : {{Color|#faaf18|■}}長崎本線 ::* 特急「[[ふたつ星4047]]」停車駅 :: {{Color|#e78137|■}}区間快速「[[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]」 ::: (大村線) - '''諫早駅''' - [[喜々津駅]] :: {{Color|#216daf|■}}快速「シーサイドライナー」 ::: (大村線) - '''諫早駅''' - [[西諫早駅]] :: {{Color|#666568|■}}普通 ::: [[東諫早駅]] - '''諫早駅''' - 西諫早駅 : {{color|#0095d9|■}}大村線 ::* 特急「ふたつ星4047」停車駅([[武雄温泉駅|武雄温泉]]行きのみ) :: {{Color|#216daf|■}}快速「シーサイドライナー」・{{Color|#e78137|■}}区間快速「シーサイドライナー」 ::: [[大村駅 (長崎県)|大村駅]] - '''諫早駅''' - (長崎本線長崎方面) :: {{Color|#666568|■}}普通 ::: [[岩松駅]] - '''諫早駅''' - (長崎本線長崎方面) ; 島原鉄道 : {{color|yellow|■}}島原鉄道線 ::: '''諫早駅''' - [[本諫早駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=諫早市史編纂室|authorlink=|coauthors=|year=1955|title=諫早市史 第1巻|publisher=諫早市役所|page=|id=|isbn=|quote=|ref={{Harvid|諫早市55}}}} * {{Cite book|和書|author=長崎県教育委員会編|authorlink=|coauthors=|year=1998|title=長崎県の近代化遺産|publisher=長崎県教育委員会|page=|id=|isbn=|quote=|ref={{Harvid|長崎県98}}}} * {{Cite book|和書|author=宇都宮照信|authorlink=|coauthors=|year=2004|title=九州鉄道の記憶III|publisher=西日本新聞社|page=|id=|isbn=|quote=|ref={{Harvid|宇都宮04}}}} * {{Cite book|和書|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|author=石野哲(編)|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|ref = {{sfnref|石野|1998}} }} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR九州駅|filename=91120240|name=諫早}} * [https://www.shimatetsu.co.jp/area/detail/?id=24 諫早駅] - 島原鉄道 {{鉄道路線ヘッダー}} {{西九州新幹線}} {{長崎本線}} {{大村線}} {{島原鉄道線}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:いさはや}} [[Category:諫早市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 い|さはや]] [[Category:九州旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:長崎本線]] [[Category:西九州新幹線]] [[Category:九州鉄道(初代)の鉄道駅]] [[Category:島原鉄道の鉄道駅]] [[Category:1898年開業の鉄道駅]]
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ガレージキット
ガレージキットとは、レジンキャストなどで少数生産される組み立て式の模型を指す。「ガレキ」と略されることがある。 模型メーカーによって射出成形で大量生産されるプラモデルに対し、レジンキャストやバキュームフォームのような少数生産向きの方法で作られる組み立て模型を「ガレージキット」と呼ぶ。個人やグループ、小規模なメーカーなどで作られる場合が多い。大量生産を前提としないため、プラモデルでは採算性や成型技術上の制約で作ることが難しいマイナーなアイテムもモデル化することが出来るが、価格は一般のプラモデルに比べれば高くなる。また組み立てにはある程度の模型製作技術を必要とする場合がある。 モデル化される対象はプラモデル以上に様々であるが、大きくキャラクターモデル系とスケールモデル系に分けられる。キャラクターモデル系の主な対象はアニメに登場する少女を中心とした各種フィギュア、怪獣・怪人、特撮映画やTVに登場する兵器や宇宙船などのメカ、アニメに登場するロボット、恐竜や現生の動物などであるが、その他にも原型製作者の個性に基づく多くのオリジナルの造形物が存在する。スケールモデル系の対象はプラモデルとほぼ同じで、航空機、軍用車両、艦船、自動車、ミリタリーフィギュア、鉄道車両などであるが、既存のプラモデルや模型のないマイナーなアイテムが選ばれる場合が多い。 通常、元となる模型(原型)を製作後、分割してシリコーンゴムなどで型取りし複製を作るため、製品は原型の忠実なコピーとなる場合が多い。また少量生産のため製作者の個性を生かした造形が可能なので、原型を製作した人を「原型製作者」・「原型師」・「マスターモデラー」などと呼び、キットのパッケージなどに明示することが多い。 ガレージキットには、それのみで模型が完成する「フルキット」以外に、既存キットの形状を修正したり、別のタイプに改造するための「改造パーツ(コンバージョンキット)」や、より詳細なディーテールを加えるため「ディテールアップパーツ」などが存在する。キャラクター系のプラモデルでは、組み立てや製作時の安全面、金型の制約などからパーツ割りや造型で省略する部分が存在したり、設定に基づいて作られたプラモデルでは実際の作画と大きくイメージが異なる場合などがあり、それらを改善するための部品セットもある。また、近年のガンプラでは内部フレームが独立して作りこまれていることが多いため、内部フレームのみを流用して新たな外装パーツを組み込み、別のタイプを作成するためのキットも作られている。また、スケールモデル系でも、材質上成形するのが困難な部品については、既存のプラモデルなどからの流用を前提としている製品もある。 名称の由来について、欧米において自宅の裏庭などで専門業者顔負けの技術を用いて色々な物を作るバックヤードビルダーの作業場所が主に車庫(ガレージ)であった事、1960年代末にアメリカで流行したガレージロックであるという説が有るが、“ガレージキット”の語自体は日本で使われ始めた言葉であり、和製英語の一種である(ただし、英語としても通じる)。 特撮リボルテックを販売するケンエレファントは、初期のガレージキットの普及に大きな寄与をした雑誌『宇宙船』の編集者、聖咲奇が名付け親だとしている。ストリームベースの小田雅弘は大阪ホビーランドの店主川端泰三が名付け親だとしている。 日本におけるガレージキットは、趣味で作成した模型を自ら複製したものが原点であったため、個人や模型サークルなどの団体、きわめて小規模なメーカーによって、個人的に、または同じ趣味を有する人へ頒布・販売する目的で少量生産する模型キット、即ち同人誌の模型版とでも言うべきものを「狭義のガレージキット」とし、大規模なメーカーが生産・販売するものは生産手法を問わず含めない、とする考え方がある。 メーカー製のキットについては、生産手法に基づいて「レジンキャストキット」、「バキュームフォームキット」などと呼び分ける場合がある。一般向けの販売を目的としていない非商業的なものも、ガレージキットの範疇に含まれる。ただし、この分類では実質的に同じものでも生産者によって区別することになり、さらに近年では製作技法の進展と造形素材の入手し易さなどから個人においても生産数が増えてきており、企業さながらに工場に量産を依頼する個人も現れるなど、定義は曖昧なものとなっている。 また、日本の初期のガレージキットの殆どはキャラクターモデル系だったため、キャラクターモデル系の少数生産キットのみを「狭義のガレージキット」とする考えもある。特に欧米では、ガレージキットの名称で日本製のキャラクターモデル系キットが輸入される以前から、スケールモデル系の少数生産キットは作られていたため、こちらの定義の方が一般的である。 3Dプリンタが一般にも普及されていくにつれて、3DCADで設計して3Dプリンタで出力するラピッドプロトタイピングを導入する事例も増えつつある。 1960年代から1970年代にかけて、欧米においては大量生産では採算の取れないマイナーな物をバキュームフォームキットとして生産・販売するメーカーが存在した。高額な金型が必要となる射出成型と比較し、家庭用の掃除機でも製作が可能なバキュームフォームは少数生産に向いた製法であった。また、ペーパークラフトをプラスチック板に転写したものも一般的であった。模型市場が拡大してくると、大手模型メーカーによって生産・販売される製品に対して不満を感じはじめた愛好者により、個人で製作したガレージキットが生産されるようになってきた。 日本においては、射出成型技術がある程度普及・成熟してからプラモデルが登場したため、中小の模型メーカー製品であっても射出成型キットが一般的であった。日本におけるガレージキットは「キャラクターモデル」に端を発している。1970年代以前では、玩具メーカーによって子供向けに作られる「おもちゃ」しかキャラクター造形物が無かった。後年になり当時の映像作品を見て成長した世代の一部の愛好者・モデラーが、劇中のイメージを忠実に再現したいわゆる鑑賞に耐える模型を欲するようになったものの、市販品がない、という理想と現実の乖離を埋めようとして自主製作を始めた。当初は素材や製作ノウハウもなく、製作方法もバキュームフォームなど一部の方法に限られていたため、製品も大まかな形だけを成型したものが多く、精密さや再現度は組み立てるモデラーの技術に大きく依存していた。また細かな部品は「メタルキャスト」といった技術が使われており、異なる素材の接着など完成させるにはかなりの技術を要した。 1971年頃には、塩ビ板を加工してスロットカー用のクリヤーボディを個人レベルで自作し、専門店を介して委託販売するケースが見られた。 「ホビージャパン」誌1979年8月号において歯科用レジンを用いて製作された、FFG製1/35スケールの「ロビー・ザ・ロボット」が発表されたのが、日本における個人製作ガレージキットの走りとされる。 1970年代末、土筆レジンクラフト研究所の「レジン」やニッシリの「プラキャスト」などの、二液混合型の無発泡ウレタン樹脂が一般向けに発売され、これらを用いて油粘土やシリコーンゴムを使って型取りした既成の部品や絶版の模型キットなどを複製する事が一部のモデラーにより行われるようになった。その方法や技術が徐々に模型誌上で紹介され始め、この技術の延長として、既成の模型キットや満足の行く造形物が存在しないアイテム、特にSF作品などに登場するキャラクターやメカニックのアイテムを全自作 (スクラッチビルド) した者達が、同じような立体物を欲している人たちのために、自分たちの作ったモデルを複製して頒布するようになった。日本SF大会などのイベントにおいて、ディーラーズルームの片隅で同人誌などと並んで売られはじめた。 無発泡ウレタン樹脂は接着が難しいなどの難点はあったものの、表面のディテールや細かなモールドも再現可能であったため、完全な自作の原型を無発泡ウレタン樹脂で複製したガレージキットが登場するにいたった。 こうした動きの中で1980年代初頭には大阪の海洋堂やボークスなどの模型店が、怪獣や特撮メカニックの無発泡ウレタン樹脂製キットを自社商品として販売しはじめた。時期を同じくして大阪でゼネラルプロダクツ (現ガイナックス) が創業し、独自に製作したTシャツやマグカップなどのSF関連商品とともにレジンキャストやバキュームフォーム、ホワイトメタル製のガレージキットを数多く販売しはじめた。 こうして、限られた同好の士のためだけに分け与えるアマチュアの行為という形で誕生したガレージキットは次第に本来の意味を飛び出し、模型店や中小模型メーカーによって、大手模型メーカーの出さない市場性が低いとされるアイテムを自社商品として流通させる商業量産品としての性格も併せ持つようになって行く。さらにその流れと歩調を合わせるように、かつては扱いにくく、満足な複製品を作るのが難しかった素材もメーカーの努力により技術開発が急速に進化して行き、成型技術の発達とあいまってキット製作者は原型のままに近い質の高い成型品が提供できるようになって行った。 1985年には、ゼネラルプロダクツによってガレージキットの頒布会として「ワンダーフェスティバル」 (ワンフェス) が開催されるようになり、愛好者の間で自作ガレージキットの取引が盛んに行われるようになった。 その後は市場も拡大し、少量多品種のガレージキットを専門に製造するメーカーも登場した。また、大手模型メーカーが大量生産・大量販売をするほどの市場性がないと判断した場合に、ガレージキットと同様の生産手法で生産される事も始まった。従って、なにをもってガレージキットと呼ぶのかという定義はかなり曖昧なものとなりつつある。 「バキュームフォーム(真空成形)」で生産されるキット。底面に空気抜きの穴を設けた台座の上に原型を置き、熱したプラスチック板を被せて下方から吸引し、大気圧で原型に押し付けて成形する。細かい凹凸やシャープなエッジの再現は難しく、流線型のような滑らかな曲面の表現に向いている。雄型を使う場合を雄型成形(ドレープフォーミング)、雌型を使う場合を雌型成形(ストレートフォーミング)という。雄型、雌型のどちらでも可能であるが、雄型とした場合は板の厚さ分成形品が原型より大きくなり、成形品の表面に詳細なモールドを入れることも出来ない。雌型の場合には型に吸引用の孔をあける必要がある。雄型の場合にも細部の再現には減圧用の孔が必要になる。製品はもなかのように中空の貼り合わせになるため軽く、比較的大型のキットを製造することができるが、強度が低いため補強を行う必要がある。組み立て時には切り代を残して切り抜き、薄いプラ板を挟んで接着してからやすりで接合箇所を整形する。吸引は家庭用の掃除機でも可能であり、家庭用の小型バキュームフォーマーも市販されている。熱したプラスチック板を押し付けて成形するため原型は木で作られることが多く、雌型成形の場合は耐熱性の樹脂に反転して使用する。逆テーパー(オーバーハング)となる成形はできず、原型は底面に向けて面積が大きくなるように分割される。生産に手間がかかり細密な再現は難しいが、原型の破損は少なくある程度の量産が可能。 欧米では1960年代からプラモデルと同じポリスチレンの板を真空成形した航空機のキットが作られている。近年の製品は繊細な表面モールドが可能な雌型成形が主流であり、組み立ての精度も高いものが多い。塗装や接着も通常のプラモデルとほぼ同じに行うことが出来る。プロペラや脚柱、タイヤなどは真空成形するのが難しいため、ホワイトメタルやレジンキャスト、簡易インジェクションなどのパーツがセットされている場合もある。また、既存キットのディテールアップ用に、透明な板を真空成形した風防パーツも販売されている。日本でも1980年代初めには宇宙船などのキットが作られており、レジンキャストが一般化する前には、絶版プラモデルをバキュームフォームで複製した例もある。ラジコンカー用のポリカーボネート製クリアボディもバキュームフォームで作られている。 無発泡ウレタン樹脂などをシリコーン型に注型(レジンキャスト)し生産されるキット。キャストキットと略されることもあるが、「キャスト」とは本来メタルキャストなども含む流し込み成形(注型・鋳造)を指す言葉であり、正確ではない。金属・プラスチック・粘土・パテなど各種素材で製作した原型をシリコーンゴムで型取りし、主に無発泡ウレタン樹脂や不飽和ポリエステル樹脂などの二液混合型樹脂を注型し硬化させることで複製を作成する。化学反応(重合)により硬化するため、硬化には時間がかかる。金型と違ってシリコーンゴム型には柔軟性があるため、一組の型で型抜き方向以外への凹凸をもつ複雑な形状をも複製することが可能である。射出成形に較べて初期費用は格段に少ないが、シリコーンゴム製の型は注型する樹脂によって少しずつ侵されるため消耗が早く、一つの型から得られる忠実な複製は数個から数10個程度である。原型が破損しない限り新たに型を作る事が出来るため量産は可能だが、一個あたりの生産費は高めである。注型用樹脂は硬化に伴って発泡するものが多く、また複雑な型に樹脂が十分に行き渡るようにするのが難しく相応の技術を必要とするため、真空脱泡機などを使わないと成形品に欠損が生じたりして歩留まりが悪くなってしまう。またシリコーンゴムの使用量が生産費と直結するため、細かく分割し部品点数を増やすと値段が倍増する。また柔らかいシリコーンゴムは歪みやすく、精度を保つためにもノウハウがある。かつては業務用以外では、無発泡ウレタン樹脂やシリコーンゴムの入手は困難であったが、後にガレージキット販売店を中心に個人でも入手が容易となった。また、ガレージキット用キャスティング作業専門の業者も数多く存在する。 レジンキャストキットはガレージキットの最も一般的な形態であり、材料となるシリコーンゴムと注型用樹脂が入手可能となった1980年代以降、多くの製品が作られている。原型の忠実な複製が可能で、シャープなエッジも複雑な生物的表現も可能であるため、キャラクターモデル系とスケールモデル系のどちらにも対応している。塗装や接着も比較的容易である。スケールモデル系のフルキットを生産するメーカーも多いが、近年中国や旧共産圏のメーカーがそれまでレジンキャストキットしかなかったマイナーな戦車や航空機をインジェクションで製品化するケースが増加し、その影響を受けることも少なくない。 ホワイトメタルと呼ばれる、錫や鉛、アンチモン、ビスマスを主体とした低融点の合金を、耐熱性シリコーンゴム型などに注型(鋳造)して生産されるキット。硬化時間が短く、レジンキャストとは違い、鋳込みに失敗した材料を再利用できる。発泡は少なく、複雑な形状でも、単純な遠心成形で欠損のない成形品が得られ易い。レジンキャストと同様、ゴム型は熱により消耗し大量生産には向かない。金属を材料としているため、接着と塗装は多少難しい。金属の鋳造法には石膏型を用いるロストワックスや、金型を用いるダイカストなどもある。ロストワックスはホワイトメタルより強度の高い真鍮などによる精密鋳造が可能で、強度と精密さが必要な部品などに使用される。ダイカストは大量生産に向いた方法であり、ミニカーなどの玩具に用いられることが多い。 欧米では古い時代から、いわゆる「鉛の兵隊」としてホワイトメタル製の兵隊人形が作られていた。また、ウォーゲームのコマとして各種フィギュアのほか、1/1200ないし1/1250の艦船や1/285の軍用車両等の小型の模型が作られていた。より大型のホワイトメタル製フルモデルとして、1/43の自動車や1/76の軍用車両、1/700の艦船などのキットも作られている。ファンタジー系のゲーム用にドラゴンやロボット、宇宙船なども作られている。連結式のキャタピラなどのディテールアップ用パーツもある。メタルフィギュアは個人や家内工業的な小メーカーで作られるケースも多く、文字通りガレージで生産することが可能で、ガレージキットのルーツの一つと言える。日本ではダイカスト製の玩具は作られていたが、ホワイトメタル製のフィギュアなどはほとんど作られていなかったため、ホワイトメタル製のガレージキットも多くはない。ガレージキット黎明期にゼネラルプロダクツなどからキットが発売されていた後は、ツクダホビーから一時期出ていた『スター・ウォーズ』関連などのキットや、トキホビーなどの1/144航空機、ピットロードなどの1/700キットやパーツなどが主なものである。ただし、鉄道模型や船舶模型の分野では、ホワイトメタルや、ロストワックスによるアクセサリーパーツなどが、ガレージキットという言葉が生まれる以前から日本でも盛んに作られている。 ソフトビニールキットは、スラッシュ成型と呼ばれる方法で作られ、液状の塩化ビニルモノマーを金型に流し込んで加熱し重合して得られる、中空の軟質樹脂(ソフトビニール=ポリ塩化ビニル)製部品で構成される。ソフトビニールは中空の成形品を熱で柔らかいうちに脱型するため、型を分割しなくても型の入り口より大きくある程度逆勾配をもつ部品を成形できる。金型であるため大量生産にも向くが、成形には専門の技術者が必要。中空で成形されるので大型の商品に向いている。逆に薄いものや細いものは成形が難しい。脱型の際に一度変形することもあり幾何学形状などを正確に複製するには工夫がいる。また逆勾配でも成形できるといっても抜ける大きさや角度には限度があるため、原型製作および部品分割時にはそれを考慮する必要がある。素材の特質から通常のプラモデル用塗料の定着が悪く、年月の経過と共に素材から揮発する溶剤分で塗膜が溶出する。高い温度の環境に置くと変形し、直射日光の紫外線で変質するなど、経年変形が大きい。塩化ビニルの変質による健康への影響も懸念される。 ソフトビニールは1950年代以降人形などの玩具に広く使用されている。特に1960年代後半の第一次怪獣ブーム時にマルサン商店の発売したソフトビニール製の怪獣人形は大ヒットを記録した。しかしこれらの初期のソフビ怪獣は実際に画面で見た印象とかけ離れた造形のものが多かったため、ガレージキット黎明期にはソフトビニールはレジンキャスト製のリアルなガレージキットと対極の位置にあるものと考えられていた。その考えを180度改めさせたのがビリケン商会が1983年に発売したメタルーナ・ミュータントである。従来のソフビ人形とほぼ同じ手法で作られ、一部の勘着部が動くギミックまで持っていたのにも関わらず、ハママヤオの造形によるリアルなプロポーションと、詳細なモールドは、従来のソフビ人形とは完全に一線を画すものだった。また価格も先行して発売されたレジンキャスト版の1/3と非常に低く設定されていた。この製品はガレージキットファンからの高い評価を受け、以後ビリケン商会はハママヤオ原型によるソフトビニールキットを次々と発売した。程なくツクダホビーが追随し、その後海洋堂などの他のガレージキットメーカーもソフトビニールキットを手がけるようになった。また、初期のキットの多くがムービーモンスターを題材にしていたこともあり、アメリカに輸出されたビリケン商会製のキットは高い人気を得、アメリカでもホライゾン等の幾つかのメーカーがソフトビニールキットを手がけるようになった。 簡易インジェクションキットは、通常の射出成形で使用される金型の代わりに、樹脂または軽合金等の簡易金型を使用し、ポリスチレンを低圧で射出して作られる。樹脂型は、原型師の作成した原型を金属粉などを混入することにより耐熱性と強度を高めた樹脂で直接型取りして作られる。表面のモールド等は原型に施されたものがそのまま反映されるが、型取りの際に形状にゆがみが生じる場合もある。型の寿命も短い。簡易金型は、電鋳技術を用いて原型を型取りして作られる。表面のモールド等がそのまま反映される点は樹脂型と同じであるが、型取り時の変形は少なく、型の寿命も樹脂型より長い。反面、製造コストも高くなる。成形品には組み立て用のガイド等は設けられていない場合が多いが、材質はプラモデルと同じであるので、ほぼ同じ手順で組み立て、塗装を行うことが出来る。ただし、樹脂型では透明度の高い部品の成形や、細かいディールの再現が難しいため、航空機のキャノピー用に透明な塩ビ板やプラスチック板をバキュームフォーム成形した物が入っていたり、ディテールアップ用にレジンキャストやエッチング製の部品が入っている場合もある。 簡易インジェクションキットは、1980年代にアメリカやイギリスなどで樹脂型による航空機のキットが作られ始めた。プラモデル化されていない機体のフルキット以外に、既存キットを他のタイプに改造するためのキットも発売された。一部のキットにはプロペラや脚柱用にホワイトメタル製の部品がセットされていた。これらの初期のキットは、形状、細部の表現ともに大まかに作られており、ビニール袋または簡素なパッケージに入れて販売されていた。1990年代に入ると、チェコのMPMを始めとする旧ソビエト、東欧圏のメーカーが活動を開始する。これらの新しいメーカーの製品の多くは、表面に繊細なモールドが施され、樹脂型特有の組みにくさはあるものの、外形もほぼ正確に作られていた。また、パッケージなども通常のインジェクションキットと同等のものが使用されていた。さらに、1990年代後半以降に導入された軽合金型を使用した製品は、通常のインジェクションキットと遜色の無いものとなっている。日本ではインジェクションキット志向が強かったため、簡易インジェクションキットは少なく、スケールモデルではグリフォンが1990年前後に発売したSu-22がほぼ唯一の例である。キャラクターモデルでは1990年代半ばにバンダイが発売したLM(リミテッドモデル)シリーズが原型を直接型取りした簡易金型を使用していたほか、ガレージキットメーカーがプラモデルに参入する際に同様の簡易金型を使用することもあった。またツクダホビーが1980年代半ばに発売していたジャンボフィギュアは、商品の形態は簡易インジェクションキットに近いが、材質にポリスチレンではなくポリ塩化ビニルの一種を使用していた。 射出成形による通常のプラモデルであり、本来ガレージキットに含まれる性質のものではないが、開発の経緯がガレージキットに類似する、インジェクションガレージキットと呼ぶべきものも存在する。特に日本では金型の製造コストが比較的低かったこともあって例が多い。その代表的なものがマニアホビーが1970年頃に製作した1/72スケールの九七式戦闘機である。当時陸軍の一式戦闘機から五式戦闘機までは1/72のプラモデルが存在し、海軍機では九六式艦上戦闘機までモデル化されていたのに対し、日中戦争で活躍した九七式戦闘機は1/72のキットが存在しなかった。そこで、メーカーが作らないのであれば自分たちで作ろうと言う、ガレージキット的発想で模型マニア数名が立ち上げたのがマニアホビーである。作られたキットは当時の最新の考証を取り入れた上質のインジェクションキットで、表面にヒケを生じさせないためにあえて位置決め用のピンを設けないなど、マニアならでの工夫も取り入れられていた。さらに、初版の製品は一般の模型店のルートを通さず通信販売のみとし、ダンボール製の質素な箱に入れて販売すると言う、ガレージキット的方法がとられた。このキットは模型ファンの人気を呼びマニアホビーはその後模型メーカーとしての道を進むことになる。九七式戦闘機も再発売分からは通常のパッケージに入れられ、模型店ルートで販売された。マニアホビーは10年足らずの間に10点ほどのキットを発売した後解散し、プラモデルの金型はハセガワに売却された。このような、メーカーの作らないキットを自分で作ると言う発想で作られたキットには、他にも模型店のホビースポットUが開発したX-1やXF5U、モーブのP-40、スウィートのマッキ MC.200などがある。キャラクター系でも、実現はしなかったものの、ハセガワがマクロスのモデル化を行う以前に、個人レベルでCADを利用してVF-1 バルキリーのインジェクションキットを作る計画があった。 別のタイプとしては絶版キットの復刻がある。1980年代、日本ではマルサン製の怪獣キット、アメリカではオーロラ製のモンスターキットのレジンキャスト製の複製が作られ、一部が流通していたが、1990年代末にアメリカのポーラーライツはインジェクションキットでそれを行った。ポーラーライツは金型の現存する旧オーロラ製キットの再生産も行っているが、金型の現存しないものについては、オリジナルのキットを電鋳等で型取りして新たに簡易金型を作成し、販売を行った。これはマニアの行為とほぼ同じであるが、インジェクションキットのため安価な点と、版権所有者の正規の許諾を受けていた点が異なっている。ポーラーライツの活動が低調になった後、アメリカのメビウスも同様に旧オーロラ製キットの復刻を行っている。 既存キットの改造やディテールアップ用のパーツにはインジェクション成形されたものも多い。その代表的な例が1980年代半ばにモデルカステンが初めて発売した連結式キャタピラである。当時の1/35クラスの戦車のキャタピラは軟質樹脂のベルト状のものが普通で、形状的に正確なものは少なかった。そのため、一部のモデラーは予備キャタピラのインジェクション部品を集めてキャタピラを再現しており、それをヒントに本製品は開発された。キャタピラ1枚ずつの連結式と言う構成は、金型を小さくし製作コストを下げる意味合いもあった。発売当初は知名度も低く、戦車本体よりはるかに高価なキャタピラのみのキットというこれまでになかった商品はなかなか理解されなかったが、グンゼ産業(現・GSIクレオス)の発売したこれもガレージキット的な意味合いの強かった、マルチマテリアルキットの「ハイテックシリーズ」に同梱されて以降、知名度も上がり、次第に普及していった。現在では連結式キャタピラのみならず、ファインモールドのナノ・ドレッドシリーズなどインジェクション成形のディテールアップ用パーツは大小の多くのメーカーから発売されている。 また、近年の3D-CAD/CAM の低価格化により、イベントのアマチュアディーラーの中にも、架空機の1/144キットを販売している青空モデルのように、少数ではあるが自ら製作したオリジナルのインジェクションキットやパーツを供給する者がいる。 エッチングは、金属板を腐食性の液体で溶かし、板厚を薄くしたり穴をあけたりする金属加工である。元々は印刷の版を作成したりプリント基板やブラウン管のシャドーマスクを製造する技術だった。材料は、真鍮・洋銀 (洋白)・燐青銅などが用いられる。腐食させたくない部分に塗料を塗ったり、レーザープリンタやコピーのトナーをアイロンによる転写などの方法で自作も可能であるが、ある程度の量産をする場合や精度の要求によっては、写真技術を応用し、感光剤でマスキングする。金属板上に精緻な模様をつけたり、薄い金属板の場合には細かな抜き加工をすることも可能である。製品は薄板状のため、厚みのあるもの、面積(体積)の大きいものには向かない。生産費も高く、設備・技術にも専門性を求められる。製版フィルムが残っていれば製版は何度も繰り返すことができる。 エッチングのみで一つの完成品となるキットはエアロベースの一連の作品など極僅かであり、ディテールアップ用のエッチングパーツとして使われるケースが殆どである。1/700や1/350スケールの艦船モデルに使用したときの効果は大きいが、カタパルトのように立体的に組み立てる必要のある部材の加工には、非常に繊細な作業が要求される。 3D プリンターを用い、光硬化樹脂を硬化させて成形する。原型を作ったり、型取りをすることなく、3次元データさえあれば作成でき、型で成形する時は分割する必要のあるものでも一体で成形できるなどの特徴があるが、精度とコストの面であまり一般的ではない。CADで設計を行った場合も、プリンター出力したものに修正を加えて原型とし、レジンキャストで複製する方が一般的である。近年ではオンデマンドで3Dデータを主力するサービスが普及しつつある。 レーザーカッター・フライス盤・ワイヤーカッターなどのNC工作機械によって製造された製品。生産費は安いものではないが、安定して一定精度の部品を生産できる。機能部品などに用いられる。原型製作をNC加工で行うこともあるが、ガレージキットがもともと設備投資を抑えて作られてきた経緯からしても一般的ではない。データが残っていればいくらでも生産が可能だが、少数生産向きである。 1996年12月にローランド ディー. ジー.から3DプロッタMODELA model MDX-3が発売され、1997年に3DスキャナーのPICZA(ピクザ)model PIX-3が発売されたことにより、数値制御工作機械での加工、3Dデータの座標入力の敷居が大幅に下がった事で一部の愛好家の間で原型の製作に用いられ、モデルグラフィックスやモデル・カーズの誌面でも取り上げられた。 各パーツを毎回工作機械で削りだして製作するキットは、美術工芸品としての精密縮尺の装飾銃やライブスチームなどの限られた分野のメーカーによる製品がほとんどであるが、戦車や戦艦の砲身のディテールアップに用いられる真鍮挽物部品は、NC加工で作られている場合もある。また、近年はレーザーカッターで紙や薄い木板を加工した製品も作られている。これらはエッチングパーツとほぼ同等の加工が可能であり、エッチングパーツより遥かに厚くても切り抜くことが出来る。製品は木の質感や紙の柔軟性を生かした使い方が可能であり、特に艦船模型用の木製の甲板パーツは、塗装での再現の難しい木甲板をリアルに表現することが出来る。 プラスチック板に部品の展開図が印刷されており、ペーパークラフトのように切り出して組み立てるキット。一時期、主に戦車キットの改造用として販売されていたが、レジンキャストキットの普及とともに姿を消した。 紙に印刷された部品を切り抜いて組み立てるペーパークラフトは、日本でも古くからある独立したジャンルであり、ガレージキットとみなされることは少ないが、ガレージキットの黎明期にはゼネラルプロダクツのメーサー殺獣光線車のようにガレージキット色の強いものも作られていた。また近年は個人でもパソコンを用いて比較的容易にペーパークラフトを作れるようになったため、自作のペーパークラフトを模型イベントで販売したり、インターネット上で公開することも少なくない。 インジェクション、簡易インジェクション、レジンキャスト、メタルキャスト、バキュームフォーム、エッチング、NC加工などの複数の素材や製法で作られた部品を、その適性に応じて組み合わせたキット。複合素材キット、マルチメディアキットとも呼ばれる。 手作業の個人レベルで、原型を直接複製して生産されるため、モチーフに対する原型師の解釈や作家性が直接反映される点がガレージキットの魅力である。反面生産性が低く、マスプロ商品と比べると高価で販売数は少なく流通経路も限られている。 ある程度の数が生産・販売されるキットについては大型模型店などの流通ルートが徐々に整備されてきている。日本国外のメーカー製のレーシングカーやスーパーカーなど希少車のガレージキットが、日本国内でも比較的容易に入手できるようになってきた。 個人製作のキットについてはガレージキット展示即売会などで入手することができる。主な即売会としてはワンダーフェスティバル (主催: 海洋堂) ・キャラホビ C3×HOBBY・スワップミートなどがある。 近年ではインターネットを利用した通信販売で、ガレージキットメーカーが直接販売に乗り出しているところもある。また、ガレージキットメーカーが、特定の小売店などに販売委託をし、それらの店を軸として通信販売や小規模卸などが行われている場合もある。 模型はもともと「何かを模したもの」であり、ガレージキットの原点は、商業上の理由で生産されないマイナーな作品の立体化や、あまりに似ていない玩具的な商品に対する不満などであった。そのため元イメージに近づけることは大前提であった。しかしガレージキットの出来が良ければ良いほど版権 (商品化の権利および販売専有の権利) 所有者の権利を脅かすことは明白で、ガレージキット黎明期からこの問題は付きまとった。1980年代のガンプラブーム以降、ガレージキットと版権 (著作権や著作隣接権) は、アニメーション作品や映画などに基づくキャラクターフィギュアのケースで顕著となった。 アニメのファンジンや同人誌では絵が似ていない、ストーリーが違っている、などを理由に版権元は同人活動を半ば黙認、半ば無視していた。しかし方法論として似せることが大前提であるガレージキットでは版権元の許諾なしに販売活動を行なうことは難しかった。そのためボークスや海洋堂など初期のガレージキットメーカーは版権の許諾されやすい特撮作品の立体化を行なっていた。東映や円谷プロは小規模な企業にも版権を許諾したため、仮面ライダーの怪人や円谷の怪獣などが許諾のもとで販売されていた。 しかし元々個人の趣味の範囲からスタートしたため、黎明期には既存のキャラクターをキット化したものであっても、版権元 (著作権、商品化権等の所有者) の許諾を得ないで流通しているキットもあった。1985年から始まったワンダーフェスティバルでは、そうした無版権のガレージキットときちんと契約をして販売されているガレージキットとの差異がますます浮き彫りとなった。 そういった状況の中、ワンダーフェスティバル を主催するゼネラルプロダクツは、「当日版権制度」というシステムを導入した。これはイベント主催者が個々の版権元と事前に交渉することで、そのイベント当日にイベント会場内だけに限定してキットの展示・販売に関する許諾を取りつけるというものであり、危ういバランスを保ちながらも多くの版権元からある種の一定の理解を得て継続されている。 1990年代以降、ワンダーフェスティバルを中心としたガレージキット展示即売会の規模は拡大の一途をたどっていった。また造形素材の進歩、パソコン通信の発達といったガレージキットをめぐる環境の変化から、版権元も版権ビジネスを意識し始めるようになる。1997年頃から始まった塗装済みフィギュアのブームと生産拠点の国外移転によるガレージキットの低価格化もあり、版権の許諾はアマチュアに厳しくなりつつある。また、急速なインターネットの普及にともなってネットオークションで販売される会場限定キットや日本国外で複製され販売される無版権ガレージキットの増加により無版権 (海賊版) キットに対する風当たりは強くなり、版権意識の向上を促すキャンペーンが模型誌上で展開されるようになった。供給側であるディーラーだけではなく、消費側であるユーザーにも海賊版は買わないように呼びかけられている。 なお、建築物・自動車・船舶・鉄道車両・航空機などについては、「玩具としての意匠権」などの登録がない限り、模型化は原則として自由である。 主なメーカーとブランドを五十音順で記す。 上述のメーカーの他、フィギュア#メーカー・レーベルの項目に掲載されているメーカーの中にも、ガレージキットを取り扱っているものは多い。また、フィギュアと同様に、アマチュアメーカーや個人事業主のブランド、過去のものまで含めると、非常に数多く存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ガレージキットとは、レジンキャストなどで少数生産される組み立て式の模型を指す。「ガレキ」と略されることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "模型メーカーによって射出成形で大量生産されるプラモデルに対し、レジンキャストやバキュームフォームのような少数生産向きの方法で作られる組み立て模型を「ガレージキット」と呼ぶ。個人やグループ、小規模なメーカーなどで作られる場合が多い。大量生産を前提としないため、プラモデルでは採算性や成型技術上の制約で作ることが難しいマイナーなアイテムもモデル化することが出来るが、価格は一般のプラモデルに比べれば高くなる。また組み立てにはある程度の模型製作技術を必要とする場合がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "モデル化される対象はプラモデル以上に様々であるが、大きくキャラクターモデル系とスケールモデル系に分けられる。キャラクターモデル系の主な対象はアニメに登場する少女を中心とした各種フィギュア、怪獣・怪人、特撮映画やTVに登場する兵器や宇宙船などのメカ、アニメに登場するロボット、恐竜や現生の動物などであるが、その他にも原型製作者の個性に基づく多くのオリジナルの造形物が存在する。スケールモデル系の対象はプラモデルとほぼ同じで、航空機、軍用車両、艦船、自動車、ミリタリーフィギュア、鉄道車両などであるが、既存のプラモデルや模型のないマイナーなアイテムが選ばれる場合が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "通常、元となる模型(原型)を製作後、分割してシリコーンゴムなどで型取りし複製を作るため、製品は原型の忠実なコピーとなる場合が多い。また少量生産のため製作者の個性を生かした造形が可能なので、原型を製作した人を「原型製作者」・「原型師」・「マスターモデラー」などと呼び、キットのパッケージなどに明示することが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ガレージキットには、それのみで模型が完成する「フルキット」以外に、既存キットの形状を修正したり、別のタイプに改造するための「改造パーツ(コンバージョンキット)」や、より詳細なディーテールを加えるため「ディテールアップパーツ」などが存在する。キャラクター系のプラモデルでは、組み立てや製作時の安全面、金型の制約などからパーツ割りや造型で省略する部分が存在したり、設定に基づいて作られたプラモデルでは実際の作画と大きくイメージが異なる場合などがあり、それらを改善するための部品セットもある。また、近年のガンプラでは内部フレームが独立して作りこまれていることが多いため、内部フレームのみを流用して新たな外装パーツを組み込み、別のタイプを作成するためのキットも作られている。また、スケールモデル系でも、材質上成形するのが困難な部品については、既存のプラモデルなどからの流用を前提としている製品もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "名称の由来について、欧米において自宅の裏庭などで専門業者顔負けの技術を用いて色々な物を作るバックヤードビルダーの作業場所が主に車庫(ガレージ)であった事、1960年代末にアメリカで流行したガレージロックであるという説が有るが、“ガレージキット”の語自体は日本で使われ始めた言葉であり、和製英語の一種である(ただし、英語としても通じる)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "特撮リボルテックを販売するケンエレファントは、初期のガレージキットの普及に大きな寄与をした雑誌『宇宙船』の編集者、聖咲奇が名付け親だとしている。ストリームベースの小田雅弘は大阪ホビーランドの店主川端泰三が名付け親だとしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本におけるガレージキットは、趣味で作成した模型を自ら複製したものが原点であったため、個人や模型サークルなどの団体、きわめて小規模なメーカーによって、個人的に、または同じ趣味を有する人へ頒布・販売する目的で少量生産する模型キット、即ち同人誌の模型版とでも言うべきものを「狭義のガレージキット」とし、大規模なメーカーが生産・販売するものは生産手法を問わず含めない、とする考え方がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "メーカー製のキットについては、生産手法に基づいて「レジンキャストキット」、「バキュームフォームキット」などと呼び分ける場合がある。一般向けの販売を目的としていない非商業的なものも、ガレージキットの範疇に含まれる。ただし、この分類では実質的に同じものでも生産者によって区別することになり、さらに近年では製作技法の進展と造形素材の入手し易さなどから個人においても生産数が増えてきており、企業さながらに工場に量産を依頼する個人も現れるなど、定義は曖昧なものとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、日本の初期のガレージキットの殆どはキャラクターモデル系だったため、キャラクターモデル系の少数生産キットのみを「狭義のガレージキット」とする考えもある。特に欧米では、ガレージキットの名称で日本製のキャラクターモデル系キットが輸入される以前から、スケールモデル系の少数生産キットは作られていたため、こちらの定義の方が一般的である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "3Dプリンタが一般にも普及されていくにつれて、3DCADで設計して3Dプリンタで出力するラピッドプロトタイピングを導入する事例も増えつつある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1960年代から1970年代にかけて、欧米においては大量生産では採算の取れないマイナーな物をバキュームフォームキットとして生産・販売するメーカーが存在した。高額な金型が必要となる射出成型と比較し、家庭用の掃除機でも製作が可能なバキュームフォームは少数生産に向いた製法であった。また、ペーパークラフトをプラスチック板に転写したものも一般的であった。模型市場が拡大してくると、大手模型メーカーによって生産・販売される製品に対して不満を感じはじめた愛好者により、個人で製作したガレージキットが生産されるようになってきた。", "title": "歴史・沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本においては、射出成型技術がある程度普及・成熟してからプラモデルが登場したため、中小の模型メーカー製品であっても射出成型キットが一般的であった。日本におけるガレージキットは「キャラクターモデル」に端を発している。1970年代以前では、玩具メーカーによって子供向けに作られる「おもちゃ」しかキャラクター造形物が無かった。後年になり当時の映像作品を見て成長した世代の一部の愛好者・モデラーが、劇中のイメージを忠実に再現したいわゆる鑑賞に耐える模型を欲するようになったものの、市販品がない、という理想と現実の乖離を埋めようとして自主製作を始めた。当初は素材や製作ノウハウもなく、製作方法もバキュームフォームなど一部の方法に限られていたため、製品も大まかな形だけを成型したものが多く、精密さや再現度は組み立てるモデラーの技術に大きく依存していた。また細かな部品は「メタルキャスト」といった技術が使われており、異なる素材の接着など完成させるにはかなりの技術を要した。", "title": "歴史・沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1971年頃には、塩ビ板を加工してスロットカー用のクリヤーボディを個人レベルで自作し、専門店を介して委託販売するケースが見られた。", "title": "歴史・沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「ホビージャパン」誌1979年8月号において歯科用レジンを用いて製作された、FFG製1/35スケールの「ロビー・ザ・ロボット」が発表されたのが、日本における個人製作ガレージキットの走りとされる。", "title": "歴史・沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1970年代末、土筆レジンクラフト研究所の「レジン」やニッシリの「プラキャスト」などの、二液混合型の無発泡ウレタン樹脂が一般向けに発売され、これらを用いて油粘土やシリコーンゴムを使って型取りした既成の部品や絶版の模型キットなどを複製する事が一部のモデラーにより行われるようになった。その方法や技術が徐々に模型誌上で紹介され始め、この技術の延長として、既成の模型キットや満足の行く造形物が存在しないアイテム、特にSF作品などに登場するキャラクターやメカニックのアイテムを全自作 (スクラッチビルド) した者達が、同じような立体物を欲している人たちのために、自分たちの作ったモデルを複製して頒布するようになった。日本SF大会などのイベントにおいて、ディーラーズルームの片隅で同人誌などと並んで売られはじめた。", "title": "歴史・沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "無発泡ウレタン樹脂は接着が難しいなどの難点はあったものの、表面のディテールや細かなモールドも再現可能であったため、完全な自作の原型を無発泡ウレタン樹脂で複製したガレージキットが登場するにいたった。", "title": "歴史・沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "こうした動きの中で1980年代初頭には大阪の海洋堂やボークスなどの模型店が、怪獣や特撮メカニックの無発泡ウレタン樹脂製キットを自社商品として販売しはじめた。時期を同じくして大阪でゼネラルプロダクツ (現ガイナックス) が創業し、独自に製作したTシャツやマグカップなどのSF関連商品とともにレジンキャストやバキュームフォーム、ホワイトメタル製のガレージキットを数多く販売しはじめた。", "title": "歴史・沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "こうして、限られた同好の士のためだけに分け与えるアマチュアの行為という形で誕生したガレージキットは次第に本来の意味を飛び出し、模型店や中小模型メーカーによって、大手模型メーカーの出さない市場性が低いとされるアイテムを自社商品として流通させる商業量産品としての性格も併せ持つようになって行く。さらにその流れと歩調を合わせるように、かつては扱いにくく、満足な複製品を作るのが難しかった素材もメーカーの努力により技術開発が急速に進化して行き、成型技術の発達とあいまってキット製作者は原型のままに近い質の高い成型品が提供できるようになって行った。", "title": "歴史・沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1985年には、ゼネラルプロダクツによってガレージキットの頒布会として「ワンダーフェスティバル」 (ワンフェス) が開催されるようになり、愛好者の間で自作ガレージキットの取引が盛んに行われるようになった。 その後は市場も拡大し、少量多品種のガレージキットを専門に製造するメーカーも登場した。また、大手模型メーカーが大量生産・大量販売をするほどの市場性がないと判断した場合に、ガレージキットと同様の生産手法で生産される事も始まった。従って、なにをもってガレージキットと呼ぶのかという定義はかなり曖昧なものとなりつつある。", "title": "歴史・沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「バキュームフォーム(真空成形)」で生産されるキット。底面に空気抜きの穴を設けた台座の上に原型を置き、熱したプラスチック板を被せて下方から吸引し、大気圧で原型に押し付けて成形する。細かい凹凸やシャープなエッジの再現は難しく、流線型のような滑らかな曲面の表現に向いている。雄型を使う場合を雄型成形(ドレープフォーミング)、雌型を使う場合を雌型成形(ストレートフォーミング)という。雄型、雌型のどちらでも可能であるが、雄型とした場合は板の厚さ分成形品が原型より大きくなり、成形品の表面に詳細なモールドを入れることも出来ない。雌型の場合には型に吸引用の孔をあける必要がある。雄型の場合にも細部の再現には減圧用の孔が必要になる。製品はもなかのように中空の貼り合わせになるため軽く、比較的大型のキットを製造することができるが、強度が低いため補強を行う必要がある。組み立て時には切り代を残して切り抜き、薄いプラ板を挟んで接着してからやすりで接合箇所を整形する。吸引は家庭用の掃除機でも可能であり、家庭用の小型バキュームフォーマーも市販されている。熱したプラスチック板を押し付けて成形するため原型は木で作られることが多く、雌型成形の場合は耐熱性の樹脂に反転して使用する。逆テーパー(オーバーハング)となる成形はできず、原型は底面に向けて面積が大きくなるように分割される。生産に手間がかかり細密な再現は難しいが、原型の破損は少なくある程度の量産が可能。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "欧米では1960年代からプラモデルと同じポリスチレンの板を真空成形した航空機のキットが作られている。近年の製品は繊細な表面モールドが可能な雌型成形が主流であり、組み立ての精度も高いものが多い。塗装や接着も通常のプラモデルとほぼ同じに行うことが出来る。プロペラや脚柱、タイヤなどは真空成形するのが難しいため、ホワイトメタルやレジンキャスト、簡易インジェクションなどのパーツがセットされている場合もある。また、既存キットのディテールアップ用に、透明な板を真空成形した風防パーツも販売されている。日本でも1980年代初めには宇宙船などのキットが作られており、レジンキャストが一般化する前には、絶版プラモデルをバキュームフォームで複製した例もある。ラジコンカー用のポリカーボネート製クリアボディもバキュームフォームで作られている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "無発泡ウレタン樹脂などをシリコーン型に注型(レジンキャスト)し生産されるキット。キャストキットと略されることもあるが、「キャスト」とは本来メタルキャストなども含む流し込み成形(注型・鋳造)を指す言葉であり、正確ではない。金属・プラスチック・粘土・パテなど各種素材で製作した原型をシリコーンゴムで型取りし、主に無発泡ウレタン樹脂や不飽和ポリエステル樹脂などの二液混合型樹脂を注型し硬化させることで複製を作成する。化学反応(重合)により硬化するため、硬化には時間がかかる。金型と違ってシリコーンゴム型には柔軟性があるため、一組の型で型抜き方向以外への凹凸をもつ複雑な形状をも複製することが可能である。射出成形に較べて初期費用は格段に少ないが、シリコーンゴム製の型は注型する樹脂によって少しずつ侵されるため消耗が早く、一つの型から得られる忠実な複製は数個から数10個程度である。原型が破損しない限り新たに型を作る事が出来るため量産は可能だが、一個あたりの生産費は高めである。注型用樹脂は硬化に伴って発泡するものが多く、また複雑な型に樹脂が十分に行き渡るようにするのが難しく相応の技術を必要とするため、真空脱泡機などを使わないと成形品に欠損が生じたりして歩留まりが悪くなってしまう。またシリコーンゴムの使用量が生産費と直結するため、細かく分割し部品点数を増やすと値段が倍増する。また柔らかいシリコーンゴムは歪みやすく、精度を保つためにもノウハウがある。かつては業務用以外では、無発泡ウレタン樹脂やシリコーンゴムの入手は困難であったが、後にガレージキット販売店を中心に個人でも入手が容易となった。また、ガレージキット用キャスティング作業専門の業者も数多く存在する。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "レジンキャストキットはガレージキットの最も一般的な形態であり、材料となるシリコーンゴムと注型用樹脂が入手可能となった1980年代以降、多くの製品が作られている。原型の忠実な複製が可能で、シャープなエッジも複雑な生物的表現も可能であるため、キャラクターモデル系とスケールモデル系のどちらにも対応している。塗装や接着も比較的容易である。スケールモデル系のフルキットを生産するメーカーも多いが、近年中国や旧共産圏のメーカーがそれまでレジンキャストキットしかなかったマイナーな戦車や航空機をインジェクションで製品化するケースが増加し、その影響を受けることも少なくない。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ホワイトメタルと呼ばれる、錫や鉛、アンチモン、ビスマスを主体とした低融点の合金を、耐熱性シリコーンゴム型などに注型(鋳造)して生産されるキット。硬化時間が短く、レジンキャストとは違い、鋳込みに失敗した材料を再利用できる。発泡は少なく、複雑な形状でも、単純な遠心成形で欠損のない成形品が得られ易い。レジンキャストと同様、ゴム型は熱により消耗し大量生産には向かない。金属を材料としているため、接着と塗装は多少難しい。金属の鋳造法には石膏型を用いるロストワックスや、金型を用いるダイカストなどもある。ロストワックスはホワイトメタルより強度の高い真鍮などによる精密鋳造が可能で、強度と精密さが必要な部品などに使用される。ダイカストは大量生産に向いた方法であり、ミニカーなどの玩具に用いられることが多い。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "欧米では古い時代から、いわゆる「鉛の兵隊」としてホワイトメタル製の兵隊人形が作られていた。また、ウォーゲームのコマとして各種フィギュアのほか、1/1200ないし1/1250の艦船や1/285の軍用車両等の小型の模型が作られていた。より大型のホワイトメタル製フルモデルとして、1/43の自動車や1/76の軍用車両、1/700の艦船などのキットも作られている。ファンタジー系のゲーム用にドラゴンやロボット、宇宙船なども作られている。連結式のキャタピラなどのディテールアップ用パーツもある。メタルフィギュアは個人や家内工業的な小メーカーで作られるケースも多く、文字通りガレージで生産することが可能で、ガレージキットのルーツの一つと言える。日本ではダイカスト製の玩具は作られていたが、ホワイトメタル製のフィギュアなどはほとんど作られていなかったため、ホワイトメタル製のガレージキットも多くはない。ガレージキット黎明期にゼネラルプロダクツなどからキットが発売されていた後は、ツクダホビーから一時期出ていた『スター・ウォーズ』関連などのキットや、トキホビーなどの1/144航空機、ピットロードなどの1/700キットやパーツなどが主なものである。ただし、鉄道模型や船舶模型の分野では、ホワイトメタルや、ロストワックスによるアクセサリーパーツなどが、ガレージキットという言葉が生まれる以前から日本でも盛んに作られている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ソフトビニールキットは、スラッシュ成型と呼ばれる方法で作られ、液状の塩化ビニルモノマーを金型に流し込んで加熱し重合して得られる、中空の軟質樹脂(ソフトビニール=ポリ塩化ビニル)製部品で構成される。ソフトビニールは中空の成形品を熱で柔らかいうちに脱型するため、型を分割しなくても型の入り口より大きくある程度逆勾配をもつ部品を成形できる。金型であるため大量生産にも向くが、成形には専門の技術者が必要。中空で成形されるので大型の商品に向いている。逆に薄いものや細いものは成形が難しい。脱型の際に一度変形することもあり幾何学形状などを正確に複製するには工夫がいる。また逆勾配でも成形できるといっても抜ける大きさや角度には限度があるため、原型製作および部品分割時にはそれを考慮する必要がある。素材の特質から通常のプラモデル用塗料の定着が悪く、年月の経過と共に素材から揮発する溶剤分で塗膜が溶出する。高い温度の環境に置くと変形し、直射日光の紫外線で変質するなど、経年変形が大きい。塩化ビニルの変質による健康への影響も懸念される。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ソフトビニールは1950年代以降人形などの玩具に広く使用されている。特に1960年代後半の第一次怪獣ブーム時にマルサン商店の発売したソフトビニール製の怪獣人形は大ヒットを記録した。しかしこれらの初期のソフビ怪獣は実際に画面で見た印象とかけ離れた造形のものが多かったため、ガレージキット黎明期にはソフトビニールはレジンキャスト製のリアルなガレージキットと対極の位置にあるものと考えられていた。その考えを180度改めさせたのがビリケン商会が1983年に発売したメタルーナ・ミュータントである。従来のソフビ人形とほぼ同じ手法で作られ、一部の勘着部が動くギミックまで持っていたのにも関わらず、ハママヤオの造形によるリアルなプロポーションと、詳細なモールドは、従来のソフビ人形とは完全に一線を画すものだった。また価格も先行して発売されたレジンキャスト版の1/3と非常に低く設定されていた。この製品はガレージキットファンからの高い評価を受け、以後ビリケン商会はハママヤオ原型によるソフトビニールキットを次々と発売した。程なくツクダホビーが追随し、その後海洋堂などの他のガレージキットメーカーもソフトビニールキットを手がけるようになった。また、初期のキットの多くがムービーモンスターを題材にしていたこともあり、アメリカに輸出されたビリケン商会製のキットは高い人気を得、アメリカでもホライゾン等の幾つかのメーカーがソフトビニールキットを手がけるようになった。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "簡易インジェクションキットは、通常の射出成形で使用される金型の代わりに、樹脂または軽合金等の簡易金型を使用し、ポリスチレンを低圧で射出して作られる。樹脂型は、原型師の作成した原型を金属粉などを混入することにより耐熱性と強度を高めた樹脂で直接型取りして作られる。表面のモールド等は原型に施されたものがそのまま反映されるが、型取りの際に形状にゆがみが生じる場合もある。型の寿命も短い。簡易金型は、電鋳技術を用いて原型を型取りして作られる。表面のモールド等がそのまま反映される点は樹脂型と同じであるが、型取り時の変形は少なく、型の寿命も樹脂型より長い。反面、製造コストも高くなる。成形品には組み立て用のガイド等は設けられていない場合が多いが、材質はプラモデルと同じであるので、ほぼ同じ手順で組み立て、塗装を行うことが出来る。ただし、樹脂型では透明度の高い部品の成形や、細かいディールの再現が難しいため、航空機のキャノピー用に透明な塩ビ板やプラスチック板をバキュームフォーム成形した物が入っていたり、ディテールアップ用にレジンキャストやエッチング製の部品が入っている場合もある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "簡易インジェクションキットは、1980年代にアメリカやイギリスなどで樹脂型による航空機のキットが作られ始めた。プラモデル化されていない機体のフルキット以外に、既存キットを他のタイプに改造するためのキットも発売された。一部のキットにはプロペラや脚柱用にホワイトメタル製の部品がセットされていた。これらの初期のキットは、形状、細部の表現ともに大まかに作られており、ビニール袋または簡素なパッケージに入れて販売されていた。1990年代に入ると、チェコのMPMを始めとする旧ソビエト、東欧圏のメーカーが活動を開始する。これらの新しいメーカーの製品の多くは、表面に繊細なモールドが施され、樹脂型特有の組みにくさはあるものの、外形もほぼ正確に作られていた。また、パッケージなども通常のインジェクションキットと同等のものが使用されていた。さらに、1990年代後半以降に導入された軽合金型を使用した製品は、通常のインジェクションキットと遜色の無いものとなっている。日本ではインジェクションキット志向が強かったため、簡易インジェクションキットは少なく、スケールモデルではグリフォンが1990年前後に発売したSu-22がほぼ唯一の例である。キャラクターモデルでは1990年代半ばにバンダイが発売したLM(リミテッドモデル)シリーズが原型を直接型取りした簡易金型を使用していたほか、ガレージキットメーカーがプラモデルに参入する際に同様の簡易金型を使用することもあった。またツクダホビーが1980年代半ばに発売していたジャンボフィギュアは、商品の形態は簡易インジェクションキットに近いが、材質にポリスチレンではなくポリ塩化ビニルの一種を使用していた。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "射出成形による通常のプラモデルであり、本来ガレージキットに含まれる性質のものではないが、開発の経緯がガレージキットに類似する、インジェクションガレージキットと呼ぶべきものも存在する。特に日本では金型の製造コストが比較的低かったこともあって例が多い。その代表的なものがマニアホビーが1970年頃に製作した1/72スケールの九七式戦闘機である。当時陸軍の一式戦闘機から五式戦闘機までは1/72のプラモデルが存在し、海軍機では九六式艦上戦闘機までモデル化されていたのに対し、日中戦争で活躍した九七式戦闘機は1/72のキットが存在しなかった。そこで、メーカーが作らないのであれば自分たちで作ろうと言う、ガレージキット的発想で模型マニア数名が立ち上げたのがマニアホビーである。作られたキットは当時の最新の考証を取り入れた上質のインジェクションキットで、表面にヒケを生じさせないためにあえて位置決め用のピンを設けないなど、マニアならでの工夫も取り入れられていた。さらに、初版の製品は一般の模型店のルートを通さず通信販売のみとし、ダンボール製の質素な箱に入れて販売すると言う、ガレージキット的方法がとられた。このキットは模型ファンの人気を呼びマニアホビーはその後模型メーカーとしての道を進むことになる。九七式戦闘機も再発売分からは通常のパッケージに入れられ、模型店ルートで販売された。マニアホビーは10年足らずの間に10点ほどのキットを発売した後解散し、プラモデルの金型はハセガワに売却された。このような、メーカーの作らないキットを自分で作ると言う発想で作られたキットには、他にも模型店のホビースポットUが開発したX-1やXF5U、モーブのP-40、スウィートのマッキ MC.200などがある。キャラクター系でも、実現はしなかったものの、ハセガワがマクロスのモデル化を行う以前に、個人レベルでCADを利用してVF-1 バルキリーのインジェクションキットを作る計画があった。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "別のタイプとしては絶版キットの復刻がある。1980年代、日本ではマルサン製の怪獣キット、アメリカではオーロラ製のモンスターキットのレジンキャスト製の複製が作られ、一部が流通していたが、1990年代末にアメリカのポーラーライツはインジェクションキットでそれを行った。ポーラーライツは金型の現存する旧オーロラ製キットの再生産も行っているが、金型の現存しないものについては、オリジナルのキットを電鋳等で型取りして新たに簡易金型を作成し、販売を行った。これはマニアの行為とほぼ同じであるが、インジェクションキットのため安価な点と、版権所有者の正規の許諾を受けていた点が異なっている。ポーラーライツの活動が低調になった後、アメリカのメビウスも同様に旧オーロラ製キットの復刻を行っている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "既存キットの改造やディテールアップ用のパーツにはインジェクション成形されたものも多い。その代表的な例が1980年代半ばにモデルカステンが初めて発売した連結式キャタピラである。当時の1/35クラスの戦車のキャタピラは軟質樹脂のベルト状のものが普通で、形状的に正確なものは少なかった。そのため、一部のモデラーは予備キャタピラのインジェクション部品を集めてキャタピラを再現しており、それをヒントに本製品は開発された。キャタピラ1枚ずつの連結式と言う構成は、金型を小さくし製作コストを下げる意味合いもあった。発売当初は知名度も低く、戦車本体よりはるかに高価なキャタピラのみのキットというこれまでになかった商品はなかなか理解されなかったが、グンゼ産業(現・GSIクレオス)の発売したこれもガレージキット的な意味合いの強かった、マルチマテリアルキットの「ハイテックシリーズ」に同梱されて以降、知名度も上がり、次第に普及していった。現在では連結式キャタピラのみならず、ファインモールドのナノ・ドレッドシリーズなどインジェクション成形のディテールアップ用パーツは大小の多くのメーカーから発売されている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、近年の3D-CAD/CAM の低価格化により、イベントのアマチュアディーラーの中にも、架空機の1/144キットを販売している青空モデルのように、少数ではあるが自ら製作したオリジナルのインジェクションキットやパーツを供給する者がいる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "エッチングは、金属板を腐食性の液体で溶かし、板厚を薄くしたり穴をあけたりする金属加工である。元々は印刷の版を作成したりプリント基板やブラウン管のシャドーマスクを製造する技術だった。材料は、真鍮・洋銀 (洋白)・燐青銅などが用いられる。腐食させたくない部分に塗料を塗ったり、レーザープリンタやコピーのトナーをアイロンによる転写などの方法で自作も可能であるが、ある程度の量産をする場合や精度の要求によっては、写真技術を応用し、感光剤でマスキングする。金属板上に精緻な模様をつけたり、薄い金属板の場合には細かな抜き加工をすることも可能である。製品は薄板状のため、厚みのあるもの、面積(体積)の大きいものには向かない。生産費も高く、設備・技術にも専門性を求められる。製版フィルムが残っていれば製版は何度も繰り返すことができる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "エッチングのみで一つの完成品となるキットはエアロベースの一連の作品など極僅かであり、ディテールアップ用のエッチングパーツとして使われるケースが殆どである。1/700や1/350スケールの艦船モデルに使用したときの効果は大きいが、カタパルトのように立体的に組み立てる必要のある部材の加工には、非常に繊細な作業が要求される。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "3D プリンターを用い、光硬化樹脂を硬化させて成形する。原型を作ったり、型取りをすることなく、3次元データさえあれば作成でき、型で成形する時は分割する必要のあるものでも一体で成形できるなどの特徴があるが、精度とコストの面であまり一般的ではない。CADで設計を行った場合も、プリンター出力したものに修正を加えて原型とし、レジンキャストで複製する方が一般的である。近年ではオンデマンドで3Dデータを主力するサービスが普及しつつある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "レーザーカッター・フライス盤・ワイヤーカッターなどのNC工作機械によって製造された製品。生産費は安いものではないが、安定して一定精度の部品を生産できる。機能部品などに用いられる。原型製作をNC加工で行うこともあるが、ガレージキットがもともと設備投資を抑えて作られてきた経緯からしても一般的ではない。データが残っていればいくらでも生産が可能だが、少数生産向きである。 1996年12月にローランド ディー. ジー.から3DプロッタMODELA model MDX-3が発売され、1997年に3DスキャナーのPICZA(ピクザ)model PIX-3が発売されたことにより、数値制御工作機械での加工、3Dデータの座標入力の敷居が大幅に下がった事で一部の愛好家の間で原型の製作に用いられ、モデルグラフィックスやモデル・カーズの誌面でも取り上げられた。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "各パーツを毎回工作機械で削りだして製作するキットは、美術工芸品としての精密縮尺の装飾銃やライブスチームなどの限られた分野のメーカーによる製品がほとんどであるが、戦車や戦艦の砲身のディテールアップに用いられる真鍮挽物部品は、NC加工で作られている場合もある。また、近年はレーザーカッターで紙や薄い木板を加工した製品も作られている。これらはエッチングパーツとほぼ同等の加工が可能であり、エッチングパーツより遥かに厚くても切り抜くことが出来る。製品は木の質感や紙の柔軟性を生かした使い方が可能であり、特に艦船模型用の木製の甲板パーツは、塗装での再現の難しい木甲板をリアルに表現することが出来る。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "プラスチック板に部品の展開図が印刷されており、ペーパークラフトのように切り出して組み立てるキット。一時期、主に戦車キットの改造用として販売されていたが、レジンキャストキットの普及とともに姿を消した。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "紙に印刷された部品を切り抜いて組み立てるペーパークラフトは、日本でも古くからある独立したジャンルであり、ガレージキットとみなされることは少ないが、ガレージキットの黎明期にはゼネラルプロダクツのメーサー殺獣光線車のようにガレージキット色の強いものも作られていた。また近年は個人でもパソコンを用いて比較的容易にペーパークラフトを作れるようになったため、自作のペーパークラフトを模型イベントで販売したり、インターネット上で公開することも少なくない。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "インジェクション、簡易インジェクション、レジンキャスト、メタルキャスト、バキュームフォーム、エッチング、NC加工などの複数の素材や製法で作られた部品を、その適性に応じて組み合わせたキット。複合素材キット、マルチメディアキットとも呼ばれる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "手作業の個人レベルで、原型を直接複製して生産されるため、モチーフに対する原型師の解釈や作家性が直接反映される点がガレージキットの魅力である。反面生産性が低く、マスプロ商品と比べると高価で販売数は少なく流通経路も限られている。", "title": "ガレージキットの位置づけと流通" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ある程度の数が生産・販売されるキットについては大型模型店などの流通ルートが徐々に整備されてきている。日本国外のメーカー製のレーシングカーやスーパーカーなど希少車のガレージキットが、日本国内でも比較的容易に入手できるようになってきた。", "title": "ガレージキットの位置づけと流通" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "個人製作のキットについてはガレージキット展示即売会などで入手することができる。主な即売会としてはワンダーフェスティバル (主催: 海洋堂) ・キャラホビ C3×HOBBY・スワップミートなどがある。", "title": "ガレージキットの位置づけと流通" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "近年ではインターネットを利用した通信販売で、ガレージキットメーカーが直接販売に乗り出しているところもある。また、ガレージキットメーカーが、特定の小売店などに販売委託をし、それらの店を軸として通信販売や小規模卸などが行われている場合もある。", "title": "ガレージキットの位置づけと流通" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "模型はもともと「何かを模したもの」であり、ガレージキットの原点は、商業上の理由で生産されないマイナーな作品の立体化や、あまりに似ていない玩具的な商品に対する不満などであった。そのため元イメージに近づけることは大前提であった。しかしガレージキットの出来が良ければ良いほど版権 (商品化の権利および販売専有の権利) 所有者の権利を脅かすことは明白で、ガレージキット黎明期からこの問題は付きまとった。1980年代のガンプラブーム以降、ガレージキットと版権 (著作権や著作隣接権) は、アニメーション作品や映画などに基づくキャラクターフィギュアのケースで顕著となった。", "title": "ガレージキットと版権" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アニメのファンジンや同人誌では絵が似ていない、ストーリーが違っている、などを理由に版権元は同人活動を半ば黙認、半ば無視していた。しかし方法論として似せることが大前提であるガレージキットでは版権元の許諾なしに販売活動を行なうことは難しかった。そのためボークスや海洋堂など初期のガレージキットメーカーは版権の許諾されやすい特撮作品の立体化を行なっていた。東映や円谷プロは小規模な企業にも版権を許諾したため、仮面ライダーの怪人や円谷の怪獣などが許諾のもとで販売されていた。", "title": "ガレージキットと版権" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "しかし元々個人の趣味の範囲からスタートしたため、黎明期には既存のキャラクターをキット化したものであっても、版権元 (著作権、商品化権等の所有者) の許諾を得ないで流通しているキットもあった。1985年から始まったワンダーフェスティバルでは、そうした無版権のガレージキットときちんと契約をして販売されているガレージキットとの差異がますます浮き彫りとなった。 そういった状況の中、ワンダーフェスティバル を主催するゼネラルプロダクツは、「当日版権制度」というシステムを導入した。これはイベント主催者が個々の版権元と事前に交渉することで、そのイベント当日にイベント会場内だけに限定してキットの展示・販売に関する許諾を取りつけるというものであり、危ういバランスを保ちながらも多くの版権元からある種の一定の理解を得て継続されている。", "title": "ガレージキットと版権" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1990年代以降、ワンダーフェスティバルを中心としたガレージキット展示即売会の規模は拡大の一途をたどっていった。また造形素材の進歩、パソコン通信の発達といったガレージキットをめぐる環境の変化から、版権元も版権ビジネスを意識し始めるようになる。1997年頃から始まった塗装済みフィギュアのブームと生産拠点の国外移転によるガレージキットの低価格化もあり、版権の許諾はアマチュアに厳しくなりつつある。また、急速なインターネットの普及にともなってネットオークションで販売される会場限定キットや日本国外で複製され販売される無版権ガレージキットの増加により無版権 (海賊版) キットに対する風当たりは強くなり、版権意識の向上を促すキャンペーンが模型誌上で展開されるようになった。供給側であるディーラーだけではなく、消費側であるユーザーにも海賊版は買わないように呼びかけられている。", "title": "ガレージキットと版権" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "なお、建築物・自動車・船舶・鉄道車両・航空機などについては、「玩具としての意匠権」などの登録がない限り、模型化は原則として自由である。", "title": "ガレージキットと版権" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "主なメーカーとブランドを五十音順で記す。", "title": "主要なガレージキットメーカーとブランド" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "上述のメーカーの他、フィギュア#メーカー・レーベルの項目に掲載されているメーカーの中にも、ガレージキットを取り扱っているものは多い。また、フィギュアと同様に、アマチュアメーカーや個人事業主のブランド、過去のものまで含めると、非常に数多く存在する。", "title": "主要なガレージキットメーカーとブランド" } ]
ガレージキットとは、レジンキャストなどで少数生産される組み立て式の模型を指す。「ガレキ」と略されることがある。
{{Redirect|ガレキ|瓦礫|産業廃棄物}} '''ガレージキット'''とは、[[レジンキャスト]]などで少数生産される組み立て式の[[模型]]を指す。「ガレキ」と略されることがある。 == 概要 == 模型メーカーによって[[射出成形]]で[[大量生産]]される[[プラモデル]]に対し、レジンキャストや[[バキュームフォーム]]のような少数生産向きの方法で作られる組み立て模型を「ガレージキット」と呼ぶ。個人やグループ、小規模なメーカーなどで作られる場合が多い。大量生産を前提としないため、プラモデルでは採算性や成型技術上の制約で作ることが難しいマイナーなアイテムもモデル化することが出来るが、価格は一般のプラモデルに比べれば高くなる。また組み立てにはある程度の模型製作技術を必要とする場合がある。 モデル化される対象はプラモデル以上に様々であるが、大きく[[キャラクターモデル]]系と[[スケールモデル]]系に分けられる。キャラクターモデル系の主な対象は[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]に登場する少女を中心とした各種[[フィギュア]]、[[怪獣]]・[[怪人]]、[[特撮映画]]やTVに登場する兵器や[[宇宙船]]などの[[メカ]]、[[ロボットアニメ|アニメ]]に登場する[[ロボット]]、[[恐竜]]や現生の動物などであるが、その他にも原型製作者の個性に基づく多くのオリジナルの造形物が存在する。スケールモデル系の対象はプラモデルとほぼ同じで、[[航空機]]、[[軍用車両]]、[[艦船]]、[[自動車]]、ミリタリーフィギュア、[[鉄道車両]]などであるが、既存のプラモデルや模型のないマイナーなアイテムが選ばれる場合が多い。 通常、元となる模型([[原型 (雄型)|原型]])を製作後、分割して[[シリコーンゴム]]などで型取りし複製を作るため、製品は原型の忠実なコピーとなる場合が多い。また少量生産のため製作者の個性を生かした造形が可能なので、原型を製作した人を「原型製作者」・「[[原型師]]」・「マスターモデラー」などと呼び、キットのパッケージなどに明示することが多い。 ガレージキットには、それのみで模型が完成する「フルキット」以外に、既存キットの形状を修正したり、別のタイプに改造するための「改造パーツ(コンバージョンキット)」や、より詳細なディーテールを加えるため「ディテールアップパーツ」などが存在する。キャラクター系のプラモデルでは、組み立てや製作時の安全面、金型の制約などからパーツ割りや造型で省略する部分が存在したり、設定に基づいて作られたプラモデルでは実際の作画と大きくイメージが異なる場合などがあり、それらを改善するための部品セットもある。また、近年の[[ガンプラ]]では内部フレームが独立して作りこまれていることが多いため、内部フレームのみを流用して新たな外装パーツを組み込み、別のタイプを作成するためのキットも作られている。また、スケールモデル系でも、材質上成形するのが困難な部品については、既存のプラモデルなどからの流用を前提としている製品もある。 === 名称について === 名称の由来について、欧米において自宅の裏庭などで専門業者顔負けの技術を用いて色々な物を作るバックヤードビルダーの作業場所が主に[[車庫]](ガレージ)であった事、1960年代末に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で流行した[[ガレージロック]]であるという説が有るが、“ガレージキット”の語自体は日本で使われ始めた言葉であり、[[和製英語]]の一種である(ただし、[[英語]]としても通じる)。 特撮[[リボルテック]]を販売する[[ケンエレファント]]は、初期のガレージキットの普及に大きな寄与をした雑誌『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]』の編集者、[[聖咲奇]]が名付け親だとしている<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=6HABxcK_pL4 YouTube - 特撮リボルテック:聖 咲奇氏 コメント その1] ワンダーフェスティバル2010[冬]の特撮リボルテックブースに、「ガレージキットの名付け親」こと聖 咲奇氏にご来場いただきました!</ref>。[[ストリームベース]]の[[小田雅弘]]は大阪ホビーランドの店主川端泰三が名付け親だとしている<ref>[[MFLOG]]創刊号 小田雅弘「ガレージキット誕生物語」</ref>。 === 狭義のガレージキット === 日本におけるガレージキットは、趣味で作成した模型を自ら複製したものが原点であったため、個人や模型サークルなどの団体、きわめて小規模なメーカーによって、個人的に、または同じ趣味を有する人へ頒布・販売する目的で少量生産する模型キット、即ち[[同人誌]]の模型版とでも言うべきものを「'''狭義のガレージキット'''」とし、大規模なメーカーが生産・販売するものは生産手法を問わず含めない、とする考え方がある。 メーカー製のキットについては、生産手法に基づいて「レジンキャストキット」、「バキュームフォームキット」などと呼び分ける場合がある。一般向けの販売を目的としていない非商業的なものも、ガレージキットの範疇に含まれる。ただし、この分類では実質的に同じものでも生産者によって区別することになり、さらに近年では製作技法の進展と造形素材の入手し易さなどから個人においても生産数が増えてきており、企業さながらに工場に量産を依頼する個人も現れるなど、定義は曖昧なものとなっている。 また、日本の初期のガレージキットの殆どはキャラクターモデル系だったため、キャラクターモデル系の少数生産キットのみを「狭義のガレージキット」とする考えもある。特に欧米では、ガレージキットの名称で日本製のキャラクターモデル系キットが輸入される以前から、スケールモデル系の少数生産キットは作られていたため、こちらの定義の方が一般的である。 [[3Dプリンタ]]が一般にも普及されていくにつれて、[[3DCAD]]で設計して3Dプリンタで出力する[[ラピッドプロトタイピング]]を導入する事例も増えつつある。 == 歴史・沿革 == {{独自研究|section=1|date=2008年9月}} 1960年代から1970年代にかけて、欧米においては大量生産では採算の取れないマイナーな物を[[バキュームフォーム]]キットとして生産・販売するメーカーが存在した。高額な[[金型]]が必要となる射出成型と比較し、家庭用の掃除機でも製作が可能なバキュームフォームは少数生産に向いた製法であった。また、[[ペーパークラフト]]をプラスチック板に転写したものも一般的であった。模型市場が拡大してくると、大手模型メーカーによって生産・販売される製品に対して不満を感じはじめた愛好者により、個人で製作したガレージキットが生産されるようになってきた。 日本においては、射出成型技術がある程度普及・成熟してからプラモデルが登場したため、中小の模型メーカー製品であっても射出成型キットが一般的であった。日本におけるガレージキットは「キャラクターモデル」に端を発している。1970年代以前では、玩具メーカーによって子供向けに作られる「おもちゃ」しかキャラクター造形物が無かった。後年になり当時の映像作品を見て成長した世代の一部の愛好者・[[モデラー (模型)|モデラー]]が、劇中のイメージを忠実に再現したいわゆる鑑賞に耐える模型を欲するようになったものの、市販品がない、という理想と現実の乖離を埋めようとして自主製作を始めた。当初は素材や製作ノウハウもなく、製作方法もバキュームフォームなど一部の方法に限られていたため、製品も大まかな形だけを成型したものが多く、精密さや再現度は組み立てるモデラーの技術に大きく依存していた。また細かな部品は「[[鋳造|メタルキャスト]]」といった技術が使われており、異なる素材の接着など完成させるにはかなりの技術を要した。 1971年頃には、[[ポリ塩化ビニル|塩ビ]]板を加工して[[スロットレーシング|スロットカー]]用のクリヤーボディを個人レベルで自作し、専門店を介して委託販売するケースが見られた<ref>[https://www.ne.jp/asahi/60srace/models/ForeverSugamoCT.html 「永遠なれ!巣鴨サーキット」] - くるま村の少年たち(くるま村工房)、2023年11月21日閲覧。</ref><ref>[https://www.ne.jp/asahi/60srace/models/Models2.html THE ORIGINAL MODELS PART2 modeling by hirofumi makino] - くるま村の少年たち(くるま村工房)、2023年11月21日閲覧。</ref>。 「ホビージャパン」誌1979年8月号において歯科用[[合成樹脂|レジン]]を用いて製作された、FFG製1/35スケールの「ロビー・ザ・ロボット」が発表されたのが、日本における個人製作ガレージキットの走りとされる<ref>『日本プラモデル50年史』 P254</ref>。 1970年代末、土筆レジンクラフト研究所の「レジン」やニッシリの「プラキャスト」などの、二液混合型の無発泡ウレタン樹脂が一般向けに発売され、これらを用いて油粘土やシリコーンゴムを使って型取りした既成の部品や絶版の模型キットなどを複製する事が一部のモデラーにより行われるようになった。その方法や技術が徐々に模型誌上で紹介され始め、この技術の延長として、既成の模型キットや満足の行く造形物が存在しないアイテム、特にSF作品などに登場するキャラクターやメカニックのアイテムを全自作 (スクラッチビルド) した者達が、同じような立体物を欲している人たちのために、自分たちの作ったモデルを複製して頒布するようになった。[[日本SF大会]]などのイベントにおいて、ディーラーズルームの片隅で同人誌などと並んで売られはじめた。 無発泡ウレタン樹脂は接着が難しいなどの難点はあったものの、表面のディテールや細かなモールドも再現可能であったため、完全な自作の原型を無発泡ウレタン樹脂で複製したガレージキットが登場するにいたった。 こうした動きの中で1980年代初頭には大阪の海洋堂やボークスなどの模型店が、怪獣や特撮メカニックの無発泡ウレタン樹脂製キットを自社商品として販売しはじめた。時期を同じくして大阪で[[ゼネラルプロダクツ]] (現[[ガイナックス]]) が創業し、独自に製作したTシャツやマグカップなどのSF関連商品とともに[[レジンキャスト]]やバキュームフォーム、[[バビットメタル|ホワイトメタル]]製のガレージキットを数多く販売しはじめた。<!--その流れに同調して、「宇宙船」をはじめとするSF 映像専門誌などに自作の造形物を発表する読者が増え、特集号も組まれるなどムーブメントは次第に高まりを見せた。そして模型誌にオリジナル造形品が発表される機会が急増し、特に優れた造形品を作るモデラーの名を前面に出した記事が増えるとともに、そうしたプロモデラーの作品の複製を欲する動きが出始め、模型メーカーもプロモデラー・[[原型師]]の名を冠したキットを数多く送り出すようになった。そのため日本におけるガレージキットは著名な[[原型師]]の作品の複製であるという認識も根強くある。 これらは先述のように主にSF映画や[[特撮]]作品の[[怪獣]]やヒーローなどのキャラクター製作に用いられ、完成度の高さから急速に広まっていった。--> こうして、限られた同好の士のためだけに分け与えるアマチュアの行為という形で誕生したガレージキットは次第に本来の意味を飛び出し、模型店や中小模型メーカーによって、大手模型メーカーの出さない市場性が低いとされるアイテムを自社商品として流通させる商業量産品としての性格も併せ持つようになって行く。さらにその流れと歩調を合わせるように、かつては扱いにくく、満足な複製品を作るのが難しかった素材もメーカーの努力により技術開発が急速に進化して行き、成型技術の発達とあいまってキット製作者は原型のままに近い質の高い成型品が提供できるようになって行った。 <!--1980年代、特に[[ガンプラ]]においてはガンプラブームにより改造が一般化し、複製技術は渇望されるものとなった。[[バンダイ]]は「'''B-CLUB'''」ブランドを立ち上げ、改造パーツや映像媒体を持たないガンダムシリーズの立体作品を展開し始めた。同名の模型誌も創刊され、ガレージキットの知名度・認知度は高まっていった。--> 1985年には、ゼネラルプロダクツによってガレージキットの頒布会として「'''ワンダーフェスティバル'''」 (ワンフェス) が開催されるようになり、愛好者の間で自作ガレージキットの取引が盛んに行われるようになった。<!--また高価で歩留まりに劣るレジン製キットに対し、技術の進歩によって再現性が高まった上に量産できてコストダウンが可能になったソフトビニールによるメカやフィギュアのキットも多数発売されるようになり、ガレージキット界はマニアックな市場ながらも徐々に底辺を広げながら活況を呈して行く。 一部の愛好者の物であったガレージキットの市場を広げたのは、1990年代後半の『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』の社会的ブームにおいてであった。同作品は放送時に大手玩具・模型メーカーから製品化が行われず (後にエヴァンゲリオンの[[プラモデル]]を発売した[[バンダイ]]も放映前に持ち込まれた商品化の話を一度断っており、後年に「最大の失態」と評されている) 、また前述のゼネラルプロダクツを前身とするガイナックスの製作作品だったためにガレージキット化最大の障害である[[版権]]許諾が比較的容易であった事などから、ガレージキットを中心にキャラクター商品展開が行われる形となった。 本編の人気と共に、同作の立体物を作りたいという原型師・メーカー側と買いたいというユーザー側との欲求の一致によって、ガレージキットの歴史における一大ムーブメントと化していった。1990年代後半のワンフェスはエヴァンゲリオン一色と化し、その光景が当時の報道において取り上げられた事から一般におけるガレージキットやワンフェスの知名度を大きく押し上げる事となった。 またガレージキットでありながら大手模型メーカーの大量生産品に迫る販売数が出た事から、塗装済み完成品フィギュアなどのマスプロ指向の製品がガレージキットメーカーからも発売される契機となった。 メカ物のガレージキットの市場拡大と造型技術の向上を促した存在として[[ファイブスター物語]]の存在がある。作者である[[永野護]]自身がモデラーでもあり、当初から[[モーターヘッド (ファイブスター物語)|モーターヘッド]]などの立体に関してガレージキットでの展開を前提としており (これは諸事情から永野が大企業への版権許諾を行わないという姿勢から) 、永野の描く緻密なイラストやディテールはまさに「原型師への挑戦状」ともいえた。天才と評される原型師[[谷明]]も元々はアマチュアの原型師だったが、永野に見出されて今や業界を代表する原型師となっている。 --> その後は市場も拡大し、少量多品種のガレージキットを専門に製造するメーカーも登場した。また、大手模型メーカーが大量生産・大量販売をするほどの市場性がないと判断した場合に、ガレージキットと同様の生産手法で生産される事も始まった。従って、なにをもってガレージキットと呼ぶのかという定義はかなり曖昧なものとなりつつある。 == 種類 == === バキュームフォームキット === 「[[バキュームフォーム]](真空成形)」で生産されるキット。底面に空気抜きの穴を設けた台座の上に原型を置き、熱したプラスチック板を被せて下方から吸引し、大気圧で原型に押し付けて成形する。細かい凹凸やシャープなエッジの再現は難しく、流線型のような滑らかな曲面の表現に向いている。雄型を使う場合を雄型成形(ドレープフォーミング)、雌型を使う場合を雌型成形(ストレートフォーミング)という。雄型、雌型のどちらでも可能であるが、雄型とした場合は板の厚さ分成形品が原型より大きくなり、成形品の表面に詳細な[[モールディング|モールド]]を入れることも出来ない。雌型の場合には型に吸引用の孔をあける必要がある。雄型の場合にも細部の再現には減圧用の孔が必要になる。製品は[[最中|もなか]]のように中空の貼り合わせになるため軽く、比較的大型のキットを製造することができるが、強度が低いため補強を行う必要がある。組み立て時には切り代を残して切り抜き、薄いプラ板を挟んで接着してから[[やすり]]で接合箇所を整形する。吸引は家庭用の[[掃除機]]でも可能であり、家庭用の小型バキュームフォーマーも市販されている。熱したプラスチック板を押し付けて成形するため原型は木で作られることが多く、雌型成形の場合は耐熱性の樹脂に反転して使用する。逆テーパー(オーバーハング)となる成形はできず、原型は底面に向けて面積が大きくなるように分割される。生産に手間がかかり細密な再現は難しいが、原型の破損は少なくある程度の量産が可能。 欧米では1960年代からプラモデルと同じ[[ポリスチレン]]の板を真空成形した航空機のキットが作られている。近年の製品は繊細な表面モールドが可能な雌型成形が主流であり、組み立ての精度も高いものが多い。塗装や接着も通常のプラモデルとほぼ同じに行うことが出来る。プロペラや脚柱、タイヤなどは真空成形するのが難しいため、ホワイトメタルやレジンキャスト、簡易インジェクションなどのパーツがセットされている場合もある。また、既存キットのディテールアップ用に、透明な板を真空成形した風防パーツも販売されている。日本でも1980年代初めには宇宙船などのキットが作られており、レジンキャストが一般化する前には、絶版プラモデルをバキュームフォームで複製した例もある。[[ラジコン模型自動車|ラジコンカー]]用の[[ポリカーボネート]]製クリアボディもバキュームフォームで作られている。 === レジンキャストキット === 無発泡ウレタン樹脂などをシリコーン型に注型([[レジンキャスト]])し生産されるキット。キャストキットと略されることもあるが、「キャスト」とは本来メタルキャストなども含む流し込み成形(注型・[[鋳造]])を指す言葉であり、正確ではない。金属・プラスチック・粘土・パテなど各種素材で製作した原型を[[シリコーンゴム]]で型取りし、主に無発泡ウレタン樹脂や不飽和ポリエステル樹脂などの二液混合型樹脂を注型し硬化させることで複製を作成する。化学反応([[重合]])により硬化するため、硬化には時間がかかる。金型と違ってシリコーンゴム型には柔軟性があるため、一組の型で型抜き方向以外への凹凸をもつ複雑な形状をも複製することが可能である。射出成形に較べて初期費用は格段に少ないが、シリコーンゴム製の型は注型する樹脂によって少しずつ侵されるため消耗が早く、一つの型から得られる忠実な複製は数個から数10個程度である。原型が破損しない限り新たに型を作る事が出来るため量産は可能だが、一個あたりの生産費は高めである。注型用樹脂は硬化に伴って発泡するものが多く、また複雑な型に樹脂が十分に行き渡るようにするのが難しく相応の技術を必要とするため、真空脱泡機などを使わないと成形品に欠損が生じたりして歩留まりが悪くなってしまう。またシリコーンゴムの使用量が生産費と直結するため、細かく分割し部品点数を増やすと値段が倍増する。また柔らかいシリコーンゴムは歪みやすく、精度を保つためにもノウハウがある。かつては業務用以外では、無発泡ウレタン樹脂やシリコーンゴムの入手は困難であったが、後にガレージキット販売店を中心に個人でも入手が容易となった。また、ガレージキット用キャスティング作業専門の業者も数多く存在する。 レジンキャストキットはガレージキットの最も一般的な形態であり、材料となるシリコーンゴムと注型用樹脂が入手可能となった1980年代以降、多くの製品が作られている。原型の忠実な複製が可能で、シャープなエッジも複雑な生物的表現も可能であるため、キャラクターモデル系とスケールモデル系のどちらにも対応している。塗装や接着も比較的容易である。スケールモデル系のフルキットを生産するメーカーも多いが、近年中国や旧共産圏のメーカーがそれまでレジンキャストキットしかなかったマイナーな戦車や航空機を[[射出成形|インジェクション]]で製品化するケースが増加し、その影響を受けることも少なくない。 === メタルキャストキット === [[バビットメタル|ホワイトメタル]]と呼ばれる、[[錫]]や[[鉛]]、[[アンチモン]]、[[ビスマス]]を主体とした低融点の合金を、耐熱性シリコーンゴム型などに注型([[鋳造]])して生産されるキット。硬化時間が短く、レジンキャストとは違い、鋳込みに失敗した材料を再利用できる。発泡は少なく、複雑な形状でも、単純な遠心成形で欠損のない成形品が得られ易い。レジンキャストと同様、ゴム型は熱により消耗し大量生産には向かない。金属を材料としているため、接着と塗装は多少難しい。金属の鋳造法には[[石膏]]型を用いる[[ロストワックス]]や、金型を用いる[[ダイカスト]]などもある。ロストワックスはホワイトメタルより強度の高い[[真鍮]]などによる精密鋳造が可能で、強度と精密さが必要な部品などに使用される。ダイカストは大量生産に向いた方法であり、[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]などの玩具に用いられることが多い。 欧米では古い時代から、いわゆる「[[スズの兵隊|鉛の兵隊]]」としてホワイトメタル製の兵隊人形が作られていた。また、[[ウォー・シミュレーションゲーム|ウォーゲーム]]のコマとして各種フィギュアのほか、1/1200ないし1/1250の艦船や1/285の軍用車両等の小型の模型が作られていた。より大型のホワイトメタル製フルモデルとして、1/43の自動車や1/76の軍用車両、1/700の艦船などのキットも作られている。ファンタジー系のゲーム用に[[ドラゴン]]やロボット、宇宙船なども作られている。連結式のキャタピラなどのディテールアップ用パーツもある。メタルフィギュアは個人や家内工業的な小メーカーで作られるケースも多く、文字通りガレージで生産することが可能で、ガレージキットのルーツの一つと言える。日本ではダイカスト製の玩具は作られていたが、ホワイトメタル製のフィギュアなどはほとんど作られていなかったため、ホワイトメタル製のガレージキットも多くはない。ガレージキット黎明期に[[ゼネラルプロダクツ]]などからキットが発売されていた後は、[[ツクダホビー]]から一時期出ていた『[[スター・ウォーズ・シリーズ|スター・ウォーズ]]』関連などのキットや、トキホビーなどの1/144航空機、[[ピットロード]]などの1/700キットやパーツなどが主なものである。ただし、[[鉄道模型]]や[[船舶模型]]の分野では、ホワイトメタルや、ロストワックスによるアクセサリーパーツなどが、ガレージキットという言葉が生まれる以前から日本でも盛んに作られている。 === ソフトビニールキット === [[ソフトビニール]]キットは、スラッシュ成型と呼ばれる方法で作られ、液状の[[ポリ塩化ビニル|塩化ビニル]]モノマーを金型に流し込んで加熱し重合して得られる、中空の軟質樹脂(ソフトビニール=[[ポリ塩化ビニル]])製部品で構成される。ソフトビニールは中空の成形品を熱で柔らかいうちに脱型するため、型を分割しなくても型の入り口より大きくある程度逆勾配をもつ部品を成形できる。金型であるため大量生産にも向くが、成形には専門の技術者が必要。中空で成形されるので大型の商品に向いている。逆に薄いものや細いものは成形が難しい。脱型の際に一度変形することもあり幾何学形状などを正確に複製するには工夫がいる。また逆勾配でも成形できるといっても抜ける大きさや角度には限度があるため、原型製作および部品分割時にはそれを考慮する必要がある。素材の特質から通常のプラモデル用塗料の定着が悪く、年月の経過と共に素材から揮発する[[溶媒|溶剤]]分で塗膜が溶出する。高い温度の環境に置くと変形し、直射日光の紫外線で変質するなど、経年変形が大きい。塩化ビニルの変質による健康への影響も懸念される。 ソフトビニールは1950年代以降人形などの玩具に広く使用されている。特に[[1960年代]]後半の[[第一次怪獣ブーム]]時に[[マルサン商店]]の発売したソフトビニール製の[[怪獣]]人形は大ヒットを記録した。しかしこれらの初期のソフビ怪獣は実際に画面で見た印象とかけ離れた造形のものが多かったため、ガレージキット黎明期にはソフトビニールはレジンキャスト製のリアルなガレージキットと対極の位置にあるものと考えられていた。その考えを180度改めさせたのがビリケン商会が1983年に発売した[[宇宙水爆戦|メタルーナ・ミュータント]]である。従来のソフビ人形とほぼ同じ手法で作られ、一部の勘着部が動くギミックまで持っていたのにも関わらず、ハママヤオの造形によるリアルなプロポーションと、詳細なモールドは、従来のソフビ人形とは完全に一線を画すものだった。また価格も先行して発売されたレジンキャスト版の1/3と非常に低く設定されていた。この製品はガレージキットファンからの高い評価を受け、以後ビリケン商会はハママヤオ原型によるソフトビニールキットを次々と発売した。程なくツクダホビーが追随し、その後海洋堂などの他のガレージキットメーカーもソフトビニールキットを手がけるようになった。また、初期のキットの多くがムービーモンスターを題材にしていたこともあり、アメリカに輸出されたビリケン商会製のキットは高い人気を得、アメリカでもホライゾン等の幾つかのメーカーがソフトビニールキットを手がけるようになった。 === 簡易インジェクションキット === [[簡易インジェクション]]キットは、通常の射出成形で使用される金型の代わりに、樹脂または軽合金等の[[簡易金型]]を使用し、ポリスチレンを低圧で射出して作られる。樹脂型は、原型師の作成した原型を金属粉などを混入することにより耐熱性と強度を高めた樹脂で直接型取りして作られる。表面のモールド等は原型に施されたものがそのまま反映されるが、型取りの際に形状にゆがみが生じる場合もある。型の寿命も短い。簡易金型は、[[電鋳]]技術を用いて原型を型取りして作られる。表面のモールド等がそのまま反映される点は樹脂型と同じであるが、型取り時の変形は少なく、型の寿命も樹脂型より長い。反面、製造コストも高くなる。成形品には組み立て用のガイド等は設けられていない場合が多いが、材質はプラモデルと同じであるので、ほぼ同じ手順で組み立て、塗装を行うことが出来る。ただし、樹脂型では透明度の高い部品の成形や、細かいディールの再現が難しいため、航空機のキャノピー用に透明な塩ビ板やプラスチック板をバキュームフォーム成形した物が入っていたり、ディテールアップ用にレジンキャストやエッチング製の部品が入っている場合もある。 簡易インジェクションキットは、1980年代にアメリカやイギリスなどで樹脂型による航空機のキットが作られ始めた。プラモデル化されていない機体のフルキット以外に、既存キットを他のタイプに改造するためのキットも発売された。一部のキットにはプロペラや脚柱用にホワイトメタル製の部品がセットされていた。これらの初期のキットは、形状、細部の表現ともに大まかに作られており、ビニール袋または簡素なパッケージに入れて販売されていた。1990年代に入ると、チェコの[[MPM (模型メーカー)|MPM]]を始めとする旧ソビエト、東欧圏のメーカーが活動を開始する。これらの新しいメーカーの製品の多くは、表面に繊細なモールドが施され、樹脂型特有の組みにくさはあるものの、外形もほぼ正確に作られていた。また、パッケージなども通常のインジェクションキットと同等のものが使用されていた。さらに、1990年代後半以降に導入された軽合金型を使用した製品は、通常のインジェクションキットと遜色の無いものとなっている。日本ではインジェクションキット志向が強かったため、簡易インジェクションキットは少なく、スケールモデルではグリフォンが1990年前後に発売した[[Su-17 (航空機)|Su-22]]がほぼ唯一の例である。キャラクターモデルでは1990年代半ばに[[バンダイ]]が発売したLM(リミテッドモデル)シリーズが原型を直接型取りした簡易金型を使用していたほか、ガレージキットメーカーがプラモデルに参入する際に同様の簡易金型を使用することもあった。またツクダホビーが1980年代半ばに発売していた[[ジャンボフィギュア]]は、商品の形態は簡易インジェクションキットに近いが、材質にポリスチレンではなくポリ塩化ビニルの一種を使用していた。 === インジェクションキット === [[射出成形]]による通常の[[プラモデル]]であり、本来ガレージキットに含まれる性質のものではないが、開発の経緯がガレージキットに類似する、インジェクションガレージキットと呼ぶべきものも存在する。特に日本では金型の製造コストが比較的低かったこともあって例が多い。その代表的なものがマニアホビーが1970年頃に製作した1/72スケールの[[九七式戦闘機]]である。当時陸軍の[[一式戦闘機]]から[[五式戦闘機]]までは1/72のプラモデルが存在し、海軍機では[[九六式艦上戦闘機]]までモデル化されていたのに対し、[[日中戦争]]で活躍した九七式戦闘機は1/72のキットが存在しなかった。そこで、メーカーが作らないのであれば自分たちで作ろうと言う、ガレージキット的発想で模型マニア数名が立ち上げたのがマニアホビーである。作られたキットは当時の最新の考証を取り入れた上質のインジェクションキットで、表面にヒケを生じさせないためにあえて位置決め用のピンを設けないなど、マニアならでの工夫も取り入れられていた。さらに、初版の製品は一般の模型店のルートを通さず[[通信販売]]のみとし、ダンボール製の質素な箱に入れて販売すると言う、ガレージキット的方法がとられた。このキットは模型ファンの人気を呼びマニアホビーはその後模型メーカーとしての道を進むことになる。九七式戦闘機も再発売分からは通常のパッケージに入れられ、模型店ルートで販売された。マニアホビーは10年足らずの間に10点ほどのキットを発売した後解散し、プラモデルの金型は[[ハセガワ]]に売却された。このような、メーカーの作らないキットを自分で作ると言う発想で作られたキットには、他にも模型店のホビースポットUが開発した[[X-1 (航空機)|X-1]]や[[XF5U (航空機)|XF5U]]、モーブの[[P-40 (航空機)|P-40]]、スウィートのマッキ [[MC.200 (航空機)|MC.200]]などがある。キャラクター系でも、実現はしなかったものの、ハセガワが[[超時空要塞マクロス|マクロス]]のモデル化を行う以前に、個人レベルでCADを利用して[[VF-1 バルキリー]]のインジェクションキットを作る計画があった。 別のタイプとしては絶版キットの復刻がある。1980年代、日本ではマルサン製の怪獣キット、アメリカではオーロラ製のモンスターキットのレジンキャスト製の複製が作られ、一部が流通していたが、1990年代末にアメリカのポーラーライツはインジェクションキットでそれを行った。ポーラーライツは金型の現存する旧オーロラ製キットの再生産も行っているが、金型の現存しないものについては、オリジナルのキットを[[電鋳]]等で型取りして新たに[[簡易金型]]を作成し、販売を行った。これはマニアの行為とほぼ同じであるが、インジェクションキットのため安価な点と、版権所有者の正規の許諾を受けていた点が異なっている。ポーラーライツの活動が低調になった後、アメリカのメビウスも同様に旧オーロラ製キットの復刻を行っている。 既存キットの改造やディテールアップ用のパーツにはインジェクション成形されたものも多い。その代表的な例が1980年代半ばにモデルカステンが初めて発売した連結式キャタピラである。当時の1/35クラスの戦車のキャタピラは軟質樹脂のベルト状のものが普通で、形状的に正確なものは少なかった。そのため、一部のモデラーは予備キャタピラのインジェクション部品を集めてキャタピラを再現しており、それをヒントに本製品は開発された。キャタピラ1枚ずつの連結式と言う構成は、金型を小さくし製作コストを下げる意味合いもあった。発売当初は知名度も低く、戦車本体よりはるかに高価なキャタピラのみのキットというこれまでになかった商品はなかなか理解されなかったが、グンゼ産業(現・[[GSIクレオス]])の発売したこれもガレージキット的な意味合いの強かった、マルチマテリアルキットの「ハイテックシリーズ」に同梱されて以降、知名度も上がり、次第に普及していった。現在では連結式キャタピラのみならず、[[ファインモールド]]のナノ・ドレッドシリーズなどインジェクション成形のディテールアップ用パーツは大小の多くのメーカーから発売されている。 また、近年の3D-CAD/CAM の低価格化により、イベントのアマチュアディーラーの中にも、架空機の1/144キットを販売している青空モデルのように、少数ではあるが自ら製作したオリジナルのインジェクションキットやパーツを供給する者がいる。 === エッチングキット === [[エッチング]]は、金属板を腐食性の液体で溶かし、板厚を薄くしたり穴をあけたりする金属加工である。元々は印刷の版を作成したり[[プリント基板]]や[[ブラウン管]]の[[シャドーマスク]]を製造する技術だった。材料は、[[真鍮]]・洋銀 ([[洋白]])・燐青銅などが用いられる。腐食させたくない部分に塗料を塗ったり、[[レーザープリンタ]]やコピーのトナーをアイロンによる転写などの方法で自作も可能であるが<ref>[http://yamimoarch.shikisokuzekuu.net/e-etch/WL-new-etch1.html オリジナルエッチングパーツ製作法『F式』]</ref>、ある程度の量産をする場合や精度の要求によっては、写真技術を応用し、感光剤でマスキングする<ref>[http://www9.plala.or.jp/ochij/newpage109.html エッチングの基礎]</ref>。金属板上に精緻な模様をつけたり、薄い金属板の場合には細かな抜き加工をすることも可能である。製品は薄板状のため、厚みのあるもの、面積(体積)の大きいものには向かない。生産費も高く、設備・技術にも専門性を求められる。[[製版]][[写真フィルム|フィルム]]が残っていれば製版は何度も繰り返すことができる。 エッチングのみで一つの完成品となるキットは[[エアロベース]]の一連の作品など極僅かであり、ディテールアップ用の[[エッチングパーツ]]として使われるケースが殆どである。1/700や1/350スケールの艦船モデルに使用したときの効果は大きいが、[[カタパルト]]のように立体的に組み立てる必要のある部材の加工には、非常に繊細な作業が要求される。 === 光硬化樹脂キット === 3D プリンターを用い、[[光硬化樹脂]]を硬化させて成形する。原型を作ったり、型取りをすることなく、3次元データさえあれば作成でき、型で成形する時は分割する必要のあるものでも一体で成形できるなどの特徴があるが、精度とコストの面であまり一般的ではない。CADで設計を行った場合も、プリンター出力したものに修正を加えて原型とし、レジンキャストで複製する方が一般的である。近年では[[オンデマンド]]で3Dデータを主力するサービスが普及しつつある<ref>[http://www.shapeways.com/ 3D出力サービス]</ref>。 === NC 加工キット === [[レーザー切断|レーザーカッター]]・[[フライス盤]]・[[ワイヤーカット|ワイヤーカッター]]などの[[NC加工|NC]][[工作機械]]によって製造された製品。生産費は安いものではないが、安定して一定精度の部品を生産できる。機能部品などに用いられる。原型製作をNC加工で行うこともあるが、ガレージキットがもともと設備投資を抑えて作られてきた経緯からしても一般的ではない。データが残っていればいくらでも生産が可能だが、少数生産向きである。 1996年12月に[[ローランド ディー. ジー.]]から3DプロッタMODELA model MDX-3が発売され、1997年に[[3Dスキャナー]]のPICZA(ピクザ)model PIX-3が発売されたことにより、[[数値制御工作機械]]での加工、3Dデータの座標入力の敷居が大幅に下がった事で一部の愛好家の間で原型の製作に用いられ、[[モデルグラフィックス]]や[[モデル・カーズ]]の誌面でも取り上げられた。 各パーツを毎回工作機械で削りだして製作するキットは、美術工芸品としての精密縮尺の装飾銃や[[ライブスチーム]]などの限られた分野のメーカーによる製品がほとんどであるが、戦車や戦艦の砲身のディテールアップに用いられる真鍮挽物部品は、NC加工で作られている場合もある。また、近年はレーザーカッターで紙や薄い木板を加工した製品も作られている。これらはエッチングパーツとほぼ同等の加工が可能であり、エッチングパーツより遥かに厚くても切り抜くことが出来る。製品は木の質感や紙の柔軟性を生かした使い方が可能であり、特に艦船模型用の木製の甲板パーツは、塗装での再現の難しい木甲板をリアルに表現することが出来る。 === プラ板キット === プラスチック板に部品の展開図が印刷されており、ペーパークラフトのように切り出して組み立てるキット。一時期、主に戦車キットの改造用として販売されていたが、レジンキャストキットの普及とともに姿を消した。 === ペーパークラフト === 紙に印刷された部品を切り抜いて組み立てる[[ペーパークラフト]]は、日本でも古くからある独立したジャンルであり、ガレージキットとみなされることは少ないが、ガレージキットの黎明期にはゼネラルプロダクツの[[東宝特撮映画の登場兵器#メーサー殺獣光線車|メーサー殺獣光線車]]のようにガレージキット色の強いものも作られていた。また近年は個人でもパソコンを用いて比較的容易にペーパークラフトを作れるようになったため、自作のペーパークラフトを模型イベントで販売したり、インターネット上で公開することも少なくない。 === マルチマテリアルキット === インジェクション、簡易インジェクション、レジンキャスト、メタルキャスト、バキュームフォーム、エッチング、NC加工などの複数の素材や製法で作られた部品を、その適性に応じて組み合わせたキット。複合素材キット、マルチメディアキットとも呼ばれる。 == ガレージキットの位置づけと流通 == 手作業の個人レベルで、原型を直接複製して生産されるため、モチーフに対する原型師の解釈や作家性が直接反映される点がガレージキットの魅力である。反面生産性が低く、マスプロ商品と比べると高価で販売数は少なく流通経路も限られている。 ある程度の数が生産・販売されるキットについては大型模型店などの流通ルートが徐々に整備されてきている。日本国外のメーカー製の[[レーシングカー]]や[[スーパーカー]]など希少車のガレージキットが、日本国内でも比較的容易に入手できるようになってきた。 個人製作のキットについてはガレージキット展示即売会などで入手することができる。主な即売会としては[[ワンダーフェスティバル]] (主催: [[海洋堂]]) ・[[キャラホビ C3×HOBBY]]・[[スワップミート]]などがある。 近年では[[インターネット]]を利用した[[通信販売]]で、ガレージキットメーカーが直接販売に乗り出しているところもある。また、ガレージキットメーカーが、特定の小売店などに販売委託をし、それらの店を軸として通信販売や小規模卸などが行われている場合もある。 == ガレージキットと版権 == 模型はもともと「何かを模したもの」であり、ガレージキットの原点は、商業上の理由で生産されないマイナーな作品の立体化や、あまりに似ていない玩具的な商品に対する不満などであった。そのため元イメージに近づけることは大前提であった。しかしガレージキットの出来が良ければ良いほど版権 (商品化の権利および販売専有の権利) 所有者の権利を脅かすことは明白で、ガレージキット黎明期からこの問題は付きまとった。1980年代の[[ガンプラ]]ブーム以降、ガレージキットと版権 (著作権や著作隣接権) は、[[アニメーション]]作品や[[映画]]などに基づく[[キャラクター]][[フィギュア]]のケースで顕著となった。 アニメの[[ファンジン]]や[[同人誌]]では絵が似ていない、ストーリーが違っている、などを理由に版権元は同人活動を半ば黙認、半ば無視していた。しかし方法論として似せることが大前提であるガレージキットでは版権元の許諾なしに販売活動を行なうことは難しかった。そのため[[ボークス]]や[[海洋堂]]など初期のガレージキットメーカーは版権の許諾されやすい特撮作品の立体化を行なっていた。[[東映]]や[[円谷プロダクション|円谷プロ]]は小規模な企業にも版権を許諾したため、[[仮面ライダー]]の[[怪人]]や円谷の[[怪獣]]などが許諾のもとで販売されていた。 しかし元々個人の趣味の範囲からスタートしたため、黎明期には既存のキャラクターをキット化したものであっても、'''版権元''' (著作権、商品化権等の所有者) の許諾を得ないで流通しているキットもあった。1985年から始まった[[ワンダーフェスティバル]]では、そうした無版権のガレージキットときちんと契約をして販売されているガレージキットとの差異がますます浮き彫りとなった。<!--許諾を得たディーラー (イベント参加者・ガレージキット販売者) は売り上げから[[ロイヤリティー]]を支払い、また製品を許諾してもらうための審査も厳しい。しかしアマチュアとは言え無版権で販売しているディーラーが同じ会場内に存在していることも事実であった。 --> そういった状況の中、[[ワンダーフェスティバル]] を主催する[[ゼネラルプロダクツ]]は、「'''[[当日版権システム|当日版権制度]]'''」というシステムを導入した。これはイベント主催者が個々の版権元と事前に交渉することで、そのイベント当日にイベント会場内だけに限定してキットの展示・販売に関する許諾を取りつけるというものであり、危ういバランスを保ちながらも多くの版権元からある種の一定の理解を得て継続されている。 1990年代以降、<!--ガレージキットの認知度が高まり市場が拡大する中、-->ワンダーフェスティバルを中心としたガレージキット展示即売会の規模は拡大の一途をたどっていった。また造形素材の進歩、パソコン通信の発達といったガレージキットをめぐる環境の変化から、版権元も版権ビジネスを意識し始めるようになる。1997年頃から始まった塗装済みフィギュアのブームと生産拠点の国外移転によるガレージキットの低価格化もあり、版権の許諾はアマチュアに厳しくなりつつある。また、急速な[[インターネット]]の普及にともなって[[インターネットオークション|ネットオークション]]で販売される会場限定キットや日本国外で複製され販売される無版権ガレージキットの増加により無版権 (海賊版) キットに対する風当たりは強くなり、版権意識の向上を促すキャンペーンが模型誌上で展開されるようになった。供給側であるディーラーだけではなく、消費側であるユーザーにも海賊版は買わないように呼びかけられている。 なお、[[建築物]]・[[自動車]]・[[船舶]]・[[鉄道車両]]・[[航空機]]などについては、「[[玩具]]としての[[意匠権]]」などの登録がない限り、模型化は原則として自由である。<!--しかし、大手模型メーカーが「模型化許諾」という概念を持ちこみ、[[ナムコ]]や[[タイトー]]、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]と行った大手ゲームソフトメーカーがこれに追従した事や[[XB-70 (航空機)|XB-70]]の愛称が日本国内で[[バルキリー (超時空要塞マクロス)|アニメに登場するロボット兵器の名称]]として商標登録されていた事をめぐる騒動、無責任ないくつかの企業が販売権を手中におさめるために、市場自体を破壊するような契約を自動車メーカーや航空機メーカーと結んだ例や版権ビジネスの広告媒体としてのうまみを知った一部の輸送機器メーカー側が暴走するなど少なからぬ混乱が見られるようになった。その後はガレージキットメーカー側からもこれらの混乱やトラブルを忌避される形で敬遠され、ファンからの模型化希望が多いにも関わらず商品化の企画が出てこないものも見られる様になっている。--> == 主要なガレージキットメーカーとブランド == 主なメーカーとブランドを[[五十音順]]で記す。 ; [[青島文化教材社]] : 日本国外の映画である[[ターミネーターシリーズ|ターミネーター]]や[[ロボコップ]]、日本のアニメである[[スーパージェッター]]や[[キャッツ・アイ]]、東宝特撮映画の怪獣等をレジンキャスト製フルキットの製造・販売を行っている。 ; 安芸製作所 : [[1/72スケール]]の航空機や戦車、[[1/700]]スケールの艦船などの極めて高品質なレジンキャスト製フルキットの製造・販売を行っている。 ; [[アトリエ彩]] : [[BJPM]] (ブロックジョイントプラスチックモデル) や[[デュエルメイド]]シリーズなどを販売している。ゲームの開発やCG 製作も行う。八王子に直営店を擁していたが2008年11月に閉店した。他の業務は引き続き継続する。 ; [[エアロベース]] : エッチング製組み立てキットの製造・販売を行う。 ; [[MYK DESIGN]] : ミニスケール用のニス部分の剥がせる[[デカール]]、「アシタのデカール」を販売している。本業は紙媒体広告やPC 向けコンテンツの製作であって、デカール製造は[[シルクスクリーン|シルクスクリーン印刷]]の設備を有しているから進出したとしている。 ; [[海洋堂]] : ガレージキット黎明期から活動している老舗。1/35 スケールの[[レッド・ミラージュ]]や1m 高の[[ゴジラ]]などの大型商品を発売したり、[[ソフトビニール]]製[[パトレイバー]]シリーズで『ガレージキット = 高価格』という常識を覆す廉価設定の商品展開を行っていた。近年は[[チョコエッグ]]に代表される[[食玩]]や[[リボルテック]]シリーズといった[[アクションフィギュア]]などのマスプロ指向の製品が多い。ガイナックスから[[ワンダーフェスティバル]]の主催を引き継いでいる。 ; [[KitcheN]] : 真鍮エッチングによる[[Nゲージ]]鉄道模型の車両キットを、少量多品種にて生産している。鋳造・射出成型製品も扱う。 ; コトブキヤ ([[壽屋 (玩具店)|壽屋]]) : 元々は個人経営の模型店であったが、日本におけるガレージキット創成期から各種のガレージキットを手がける。各種美少女キャラのフィギュアとゲームやアニメのロボットのフルキットを発売していた。現在は[[スーパーロボット大戦シリーズ]]や[[アーマード・コア ヴァリアブルインフィニティ|アーマード・コアシリーズ]]、[[ゾイド|ゾイドシリーズ]]などのロボット/SF 兵器のインジェクションキットや、完成品の美少女フィギュアが商品の中心である。 ; [[StudioRECKLESS]] : プロモデラーである[[小松原博之]]率いるガレージキットディーラーで、イベントでの販売がメインである。小松原を始めとした造形チームの緻密かつ精度の高い造形で人気が高い。自社での販売はキャラホビなどでの当日版権物がメインではあるが、下記のB-CLUBからも販売されている。 ; [[ゼネラルプロダクツ]] : DAICON3のガレージキットの販売の成功で、日本発のSF専門店を開店させた会社。1992年2月に活動停止。 ; [[ダイナベクター]] : 世界最高レベルのバキュームフォーム製航空機キットの製造・販売を行う。当初はイギリスで活動していたが、後に拠点を日本に移した。 ; [[ツクダホビー]] : 株式会社ツクダの関連会社で、ゲームやプラモデルの販売を行っていたが、1980年代半ばに[[ジャンボフィギュア]]と称するPVC製の組み立てキットを数十点発売した。その後もソフトビニールやメタルキャスト製のフィギュアや怪獣、メカなどのキットを出していたが、次第に完成品のフィギュアや[[フルアクションドール|ドール]]が主力となり、2000年代初めに活動を停止した。 ; [[ディーステージ]] : 通信販売と秋葉原で店舗を運営している、いわゆる同人ショップ。近年、[[東方Project]]関連の[[フィギュア]]や'''ガレージキット'''の販売を行っている。 ; [[D-tech]] : 大阪のガレージキットディーラー。[[ゴジラ]]などの怪獣キットを主力とし、映画に忠実な精密造形から愛嬌たっぷりの[[デフォルメ]]モデルまで、創作範囲は広い。個人やメーカー各社のキット複製なども手がけ、ガレージキットの一般普及について一翼を担う。 ; [[B-CLUB (模型雑誌)#模型ブランドとしてのB-CLUB|B-CLUB]] : [[バンダイ]]のガレージキットブランドで、ガンダム関連のレジン製キットと、バリエーション展開を目的とした改造パーツ、美少女キャラクターの[[フィギュア]]がメイン商品である。唯一ガンダム関連の商品を販売している (C3での当日版権商品を除く) 。かつてはバンダイ出版課のブランドであったが、後にバンダイホビー事業部の一部となり、同事業部のプラモデルと連携した商品開発が行われている。 ; ビリケン商会 : 玩具に多用されていたソフトビニールを、ガレージキットの材質として初めて採用したメーカー。ハマハヤオの原型による怪獣や、日本国外のモンスターなどのキットを多数発売している。 ; [[ファインモールド]] : 自社もしくは他社が発売するスケールモデルに対応した[[エッチングパーツ]]や金属製ピトー管やアンテナなどを製造・販売している。また同社が開発する[[プラモデル|インジェクションキット]]は旧日本軍の航空機や戦車などのスケールモデルから、[[紅の豚]]や[[スター・ウォーズ・シリーズ]]、[[スカイ・クロラシリーズ|スカイ・クロラ]]に登場する架空の航空機まで多岐に渡る。 ; [[PLATZ]] : 無発泡ウレタン樹脂製[[Nゲージ]]鉄道模型用アクセサリ類及び[[旅客機]]と[[航空自衛隊]]が保有する軍用機の[[エッチングパーツ]] (一部は他の企業からの[[OEM]] ) と[[デカール]]を販売。 ; [[ボークス]] : 海洋堂と並びガレージキット黎明期からメーカーとして活動を続ける老舗の一つ。[[モーターヘッド (ファイブスター物語)|モーターヘッド]]などのロボットのフルキットや、各種美少女フィギュアを展開している。[[スーパードルフィー]]などの[[人形|ドール]]にも注力しており、そちらでも有力ブランドになっている。同社製品の原型製作を担当する「造形村」という専属の原型師集団を擁している。 ; [[マックスファクトリー]] : プロモデラーの[[MAX渡辺]]率いるメーカー。初期はメカ物や『[[強殖装甲ガイバー]]』関連商品が中心だったが、現在は美少女キャラの塗装済み完成品フィギュアのトップメーカーとして活動している。 ; [[モデルグラフィックス#関連ブランド|モデルカステン]] : 大日本絵画が発行する月刊模型誌[[モデルグラフィックス]]のガレージキットブランド。プラスチック製連結式可動キャタピラなどの1/35 AFV 用のディテールアップパーツや[[マシーネンクリーガー|Ma.K]] の関連商品を扱う。 ; AIRES (アイリス) : [[チェコ]]のメーカーで、軍用機とAFV 関連の[[レジンキャスト]]と[[エッチング]]製ディテールアップパーツを扱う。企業名を冠したレギュラーブランドと、梱包の簡素化や商品内容を見直した低価格ブランドのquickboost の二系統が有る。 ; [[CMK]] : チェコの模型メーカー[[MPM (模型メーカー)|MPM]] の子会社で、軍用車両の1/35 スケールレジン製キットと、軍用機とAFV 関連のレジン製ディテールアップパーツ全般を扱う。 ; Comet Miniatures : イギリスのガレージキットメーカー。[[ドクター・フー]]シリーズや、[[ジェリー・アンダーソン|ジェリー]]&[[シルヴィア・アンダーソン]]夫妻の作品を中心とした[[サイエンス・フィクション|SF]]作品に登場する[[メカ]]を、メタルキャスト、 レジンキャスト、バキュームフォームなどでモデル化している。 ; [[エデュアルド (模型メーカー)|エデュアルド]] ([[:en:Eduard|Eduard]]) : [[チェコ]]の模型メーカー。第一次、第二次両大戦期の航空機の射出成型キットを開発する一方で、他社のスケールモデルに対応するディテールアップパーツ全般を発売している。独自の商品としては、塗装済みエッチングパーツや必要とされる形状にカット済みのマスキングシートが存在する。軍用機のエッチングパーツやマスキングシートは、他の企業に[[OEM]] 供給されているアイテムも存在する。 ; Horizen : アメリカのガレージキットメーカー。ビリケン商会や海洋堂の製品に似た、モンスターやフィギュア、恐竜などのソフトビニール製キットを販売 していた。 ; [[バーリンデンプロダクツ]] (Verlinden Productions) : ベルギーのミリタリーモデラー、フランソワ=バーリンデンの立ち上げたミリタリーモデル専門ブランド。ミリタリーモデルのディテールアップパーツ全般と軍事物やヒストリカル (歴史物) フィギュアを開発、販売する老舗である。 上述のメーカーの他、[[フィギュア#メーカー・レーベル]]の項目に掲載されているメーカーの中にも、ガレージキットを取り扱っているものは多い。また、フィギュアと同様に、アマチュアメーカーや[[個人事業主]]のブランド、過去のものまで含めると、非常に数多く存在する。 == 脚注 == <references/> == 関連項目 == * [[シリコーンゴム]] * [[レジンキャスト]] * [[海洋堂]] * [[ゼネラルプロダクツ]] === ガレージキット関連の催事 === *[[ワンダーフェスティバル]] - ガレージキットの展示即売会<ref>[https://wonfes.jp/ ワンダーフェスティバル]</ref>。 *[[トレジャーフェスタ]] - ガレージキット、[[フィギュア]]、ドール、中古玩具の即売、コスプレの複合イベント<ref>[https://tfo.hobima.com/ トレジャーフェスタ・オンライン]</ref>。 == 参考文献 == * 日本プラモデル工業協同組合編 『日本プラモデル50年史』 文藝春秋企画出版部、2008年 ISBN 978-416008063-8 * 朝日ソノラマ 『宇宙船』 Vol.23 {{模型}} {{DEFAULTSORT:かれいしきつと}} [[Category:模型]] [[Category:フィギュア]]
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ソリッドモデル
ソリッドモデルとは、模型における、木材などを削って作られる展示・鑑賞用の模型のこと。 ソリッドモデルは趣味としての模型の一種で、航空機や艦船等を木材などを主材料として用いて製作する模型である。ソリッド(solid)とは、英語で固体または中実(中空でないこと)を指す言葉であり、フライングモデル(飛行可能な模型航空機)のように骨組みに紙や布などの外皮を貼った中空の模型に対するものである。木製の模型は古くから作られており、プラモデルが一般化する前には、スケールモデルはソリッドモデルが主流であった。日本においては、1950年代がソリッドモデルの最盛期であり、多くのメーカーから木製の航空機や艦船の組み立てキットが発売されていた。1960年代に入ると急速にプラモデルが普及し、メーカーからの木製キットの発売はほぼ途絶えたが、1950年代に各地に作られたソリッドモデルクラブは統廃合を行いながら活動を続け、2010年現在で6つのクラブに約200名のモデラーが所属して、作品展などが開かれている。 1980年代から1990年代にかけて盛んに作られたレジンキャスト製のいわゆるガレージキットや、1980年代の消しゴム人形に端を発し、2000年代始めの食玩ブームで大幅に品質を向上させて一般化した塩ビ製のフィギュアも中身の詰まった模型であるが、これらはソリッドモデルとは呼ばれていない。逆に、ソリッドモデルの発展形として、オールアルミモデルのような中空の模型も作られている。 1920年代には、木を材料にした航空機のスケールモデルが作られていた。また、模型用の木製パーツも販売されていた。 1933年に出版されたJames Hay Stevens著『Scale Model Aircraft』には、ソリッドモデルという名称はまだ使われていないが、ソリッドモデルの基本といえる製作方法が記載されている。縮尺は、1/36または1/72を採用しており、第一次大戦機の三面図も記載されている。1932年には、A. J. Holladayのプロデュース、James Hay Stevensのデザインによる、1/72スケールに統一された航空機の木とメタル製組立模型、"Skybirds"がイギリスで発売され、1945年までに80種類ほどのキットが生産された。 当時の雑誌の広告では、この製品を“solid non-flying aeronautical models”(中身の詰まった飛ばない航空機模型)と記述している。同時期に同様の木製模型は軍でも識別用に使用され、第二次世界大戦中にかけて大量に作られている。また、イギリスでは同種の識別用模型をプラスチック製の部品で作成する技術が開発され、1930年代半ばには組み立てキットの形で市販もされてプラモデルの嚆矢となった。プラスチック製の識別用模型も第二次大戦中にアメリカとイギリスで量産されている。第二次世界大戦が終結すると、趣味としてのソリッドモデルも復活したが、程なくアメリカで販売が始められたプラモデルが、再現度の高さと組み立ての容易さで次第に人気を集め、1950年代にはアメリカなどではソリッドモデルは衰退していった。 日本においては、第2次世界大戦前にもソリッドモデルが製作されていたが、開戦後は識別用模型としての用途が評価され、軍の主導による展示会も催された。当時は「實體(実体)模型」という名称も用いられている。 敗戦後模型飛行機は禁止されたが、昭和23年(1948年)頃には解禁されて、競技会などの活動も再開された。また、1951年創刊の「航空ファン」を始めとする航空雑誌には、ソリッドモデルの製作記事も盛んに掲載されて、ソリッドモデルが流行していった。1950年代には、各地にソリッドモデルの愛好者のクラブが15程度創設された。 1950年代には、静岡を中心とした多くの模型メーカーから飛行機、艦船、戦車などの木製の組み立てキットが多数発売されている。初期には部品としてブロック状や板状の木材が入っているだけのものも多かったが、次第に複雑な加工が施されるようになり、立体的な曲面加工を施したキットも作られた。1958年末には最初の国産プラモデルが発売されたが、当初は期待を下回る売り上げしか上げられなかった。しかし、テレビ番組の提供などの宣伝活動によりプラモデルの人気は上昇し、1960年代に入るとそれまで木製模型を作っていたメーカーの多くがプラモデルの生産に参入し、急速にプラモデルへの切り替えが進んだ。初期の日本製のプラモデルには、プラスチックソリッドモデルと称するものもあった。また、過渡期にはプラスキック製の部品と木製の部品を組み合わせた製品も発売されている。プラモデルへの切り替えで木製の組み立てキットがほとんど姿を消した結果、年少者の関心はプラモデルへと移ったが、各地のソリッドモデルクラブの多くは活動を継続した。以後日本のソリッドモデルはクラブ会員と一部の愛好家を中心に独自の発展を続け、オールアルミモデルやパネルごとに分割して寄木細工風に仕上げるモザイクモデルなどの技法も生み出している。 1950年代まで、ソリッドモデルには組み立てキットとして販売されているものもあったが、その中身は詳細な設計図(三面図)と大まかに切り揃えられた木材のみということが多かった。一部には、ホワイトメタル・真鍮などの金属製の主脚や、透明樹脂で成形したキャノピーが付属したり、主要部品が立体的に機械加工済みの製品もあったが、多くは図面を見ながらひたすら木材を削りだし、表面をヤスリで磨くという工程を繰り返す必要があった。アウトラインが実機に似るかどうかは完全に製作者の力量のみにかかっており、非常に高い工作技術と資料の読み取り能力が必要とされた。そのため、あらかじめ詳細なモールドが施され、誰が作っても正確なアウトラインを再現できるプラモデルの登場により、多くのモデラーはプラモデルに流れたが、高い技術を持っていた一部のモデラーは逆に物足りなさを覚え、ソリッドモデルに留まった。 ソリッドモデルの製作においては、模型全体を自作することが多い。その製作過程は、資料、材料の準備、加工、塗装、部品の製作、組み上げという手順を踏む。市販の図面の一部には断面形状まで描かれているものもあるが、信頼できる資料がない場合には、図面と写真から正しい断面形状を読み取り、再現するには高い能力と経験が必要である。また、航空機ではエンジンや爆弾などの外部に装備される武装を除き、複数の種類の機体で共通に使用される装備はほとんど無いため、小物の部品までほとんど全て自作する必要がある。 主材料として、切削性の良さから木を素材とすることが多い。日本ではおもに朴の木を材料としている。朴は柄杓の材料にも使われる耐水性・耐久性に優れた素材であるため、ヤスリがけ・塗装に向いていること、微細部品も削りだせることなどから用いられている。ただし、木材なので吸湿して反ったりゆがんだりするのを防ぐにはそれなりの加工をしなければならない。木材の代わりにケミカルウッドが使用される場合もある。部品製作のために、プラスチック、真鍮板、真鍮棒等も使用される。 航空機の透明風防は、初期には塗装のみで表現されることも多かったが、1950年代には既に熱した透明塩ビ板を木製の型に押し付けて成形する(絞る)方法も使用されていた。その後材料はアクリル板へと変化し、成形方法も手動からバキュームフォームへ変化している。 航空機の無塗装のジュラルミンの地肌を再現するのは塗装では難しいため、1950年代からアルミ箔を機体表面に貼り込む事が行われてきた。その後、大型の模型では厚さ0.01-0.02mm程度のアルミの薄板を貼り込み、実感を高める事も行われるようになった。更に進んでオールアルミ製の模型も作られているが、これは既にソリッド(中実)な模型ではなくなっている。 1930年代から1940年代にかけてイギリスやアメリカで作られていた航空機のソリッドモデルは、1/72スケールや1/48スケールのものが多く、これらの縮尺は後にプラモデルの標準スケールとして受け継がれている。 1950年代に日本で発売されていた木製の組み立てキットは、ほとんど縮尺が統一されていなかったが、キットによらずに自作していたモデラーの間では、図面の作成が容易で大きさも手頃な1/50 スケールが航空機模型の標準スケールとして定着した。その後も1/50は主要スケールとして使用されているが、次第に作る対象に応じて縮尺の多様化が進み、1/50の倍および半分である1/25と1/100、プラモデルと共通の1/32や1/144、更に大型の1/10や1/20などの模型も作られている。 展示用模型、博物館用模型、プロの製作者に依頼する個人用の模型などが存在する。製作方法がソリッドモデルに類似するものもある。 プラモデルメーカーが模型化する商品の検討や金型製作の原型は木型と呼ばれる模型である。その製作は、ソリッドモデルの製作過程と類似しているが、塗装は施されない。また、通常木型は形状のみでなく、分割方法も製品に準じて製作される。ただし、2012年現在ではプラモデルの設計はほとんど3次元CADを用いて行われるため、木製の木型は作られないことが多い。 戦争映画や特撮映画、特撮テレビ番組などにおける、撮影用の航空機や艦船などのミニチュア(プロップ)は、木材や板金、プラスチック、FRPなどで作られる。木製のミニチュアの製作方法はソリッドモデルとほとんど変わりはない。初期の撮影用ミニチュアは木材または板金加工で作られることが多かったが、プラモデルが普及すると、プラモデルをそのままや多少の改造で使用したり、キットバッシングで新たな形状のミニチュアを作ることも行われるようになった。模型製作技法の変化とともに、FRPやレジンキャストなどで成形した合成樹脂素材の模型も多用されるようになっている。
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J. Holladayのプロデュース、James Hay Stevensのデザインによる、1/72スケールに統一された航空機の木とメタル製組立模型、\"Skybirds\"がイギリスで発売され、1945年までに80種類ほどのキットが生産された。 当時の雑誌の広告では、この製品を“solid non-flying aeronautical models”(中身の詰まった飛ばない航空機模型)と記述している。同時期に同様の木製模型は軍でも識別用に使用され、第二次世界大戦中にかけて大量に作られている。また、イギリスでは同種の識別用模型をプラスチック製の部品で作成する技術が開発され、1930年代半ばには組み立てキットの形で市販もされてプラモデルの嚆矢となった。プラスチック製の識別用模型も第二次大戦中にアメリカとイギリスで量産されている。第二次世界大戦が終結すると、趣味としてのソリッドモデルも復活したが、程なくアメリカで販売が始められたプラモデルが、再現度の高さと組み立ての容易さで次第に人気を集め、1950年代にはアメリカなどではソリッドモデルは衰退していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本においては、第2次世界大戦前にもソリッドモデルが製作されていたが、開戦後は識別用模型としての用途が評価され、軍の主導による展示会も催された。当時は「實體(実体)模型」という名称も用いられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "敗戦後模型飛行機は禁止されたが、昭和23年(1948年)頃には解禁されて、競技会などの活動も再開された。また、1951年創刊の「航空ファン」を始めとする航空雑誌には、ソリッドモデルの製作記事も盛んに掲載されて、ソリッドモデルが流行していった。1950年代には、各地にソリッドモデルの愛好者のクラブが15程度創設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1950年代には、静岡を中心とした多くの模型メーカーから飛行機、艦船、戦車などの木製の組み立てキットが多数発売されている。初期には部品としてブロック状や板状の木材が入っているだけのものも多かったが、次第に複雑な加工が施されるようになり、立体的な曲面加工を施したキットも作られた。1958年末には最初の国産プラモデルが発売されたが、当初は期待を下回る売り上げしか上げられなかった。しかし、テレビ番組の提供などの宣伝活動によりプラモデルの人気は上昇し、1960年代に入るとそれまで木製模型を作っていたメーカーの多くがプラモデルの生産に参入し、急速にプラモデルへの切り替えが進んだ。初期の日本製のプラモデルには、プラスチックソリッドモデルと称するものもあった。また、過渡期にはプラスキック製の部品と木製の部品を組み合わせた製品も発売されている。プラモデルへの切り替えで木製の組み立てキットがほとんど姿を消した結果、年少者の関心はプラモデルへと移ったが、各地のソリッドモデルクラブの多くは活動を継続した。以後日本のソリッドモデルはクラブ会員と一部の愛好家を中心に独自の発展を続け、オールアルミモデルやパネルごとに分割して寄木細工風に仕上げるモザイクモデルなどの技法も生み出している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1950年代まで、ソリッドモデルには組み立てキットとして販売されているものもあったが、その中身は詳細な設計図(三面図)と大まかに切り揃えられた木材のみということが多かった。一部には、ホワイトメタル・真鍮などの金属製の主脚や、透明樹脂で成形したキャノピーが付属したり、主要部品が立体的に機械加工済みの製品もあったが、多くは図面を見ながらひたすら木材を削りだし、表面をヤスリで磨くという工程を繰り返す必要があった。アウトラインが実機に似るかどうかは完全に製作者の力量のみにかかっており、非常に高い工作技術と資料の読み取り能力が必要とされた。そのため、あらかじめ詳細なモールドが施され、誰が作っても正確なアウトラインを再現できるプラモデルの登場により、多くのモデラーはプラモデルに流れたが、高い技術を持っていた一部のモデラーは逆に物足りなさを覚え、ソリッドモデルに留まった。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ソリッドモデルの製作においては、模型全体を自作することが多い。その製作過程は、資料、材料の準備、加工、塗装、部品の製作、組み上げという手順を踏む。市販の図面の一部には断面形状まで描かれているものもあるが、信頼できる資料がない場合には、図面と写真から正しい断面形状を読み取り、再現するには高い能力と経験が必要である。また、航空機ではエンジンや爆弾などの外部に装備される武装を除き、複数の種類の機体で共通に使用される装備はほとんど無いため、小物の部品までほとんど全て自作する必要がある。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "主材料として、切削性の良さから木を素材とすることが多い。日本ではおもに朴の木を材料としている。朴は柄杓の材料にも使われる耐水性・耐久性に優れた素材であるため、ヤスリがけ・塗装に向いていること、微細部品も削りだせることなどから用いられている。ただし、木材なので吸湿して反ったりゆがんだりするのを防ぐにはそれなりの加工をしなければならない。木材の代わりにケミカルウッドが使用される場合もある。部品製作のために、プラスチック、真鍮板、真鍮棒等も使用される。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "航空機の透明風防は、初期には塗装のみで表現されることも多かったが、1950年代には既に熱した透明塩ビ板を木製の型に押し付けて成形する(絞る)方法も使用されていた。その後材料はアクリル板へと変化し、成形方法も手動からバキュームフォームへ変化している。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "航空機の無塗装のジュラルミンの地肌を再現するのは塗装では難しいため、1950年代からアルミ箔を機体表面に貼り込む事が行われてきた。その後、大型の模型では厚さ0.01-0.02mm程度のアルミの薄板を貼り込み、実感を高める事も行われるようになった。更に進んでオールアルミ製の模型も作られているが、これは既にソリッド(中実)な模型ではなくなっている。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1930年代から1940年代にかけてイギリスやアメリカで作られていた航空機のソリッドモデルは、1/72スケールや1/48スケールのものが多く、これらの縮尺は後にプラモデルの標準スケールとして受け継がれている。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1950年代に日本で発売されていた木製の組み立てキットは、ほとんど縮尺が統一されていなかったが、キットによらずに自作していたモデラーの間では、図面の作成が容易で大きさも手頃な1/50 スケールが航空機模型の標準スケールとして定着した。その後も1/50は主要スケールとして使用されているが、次第に作る対象に応じて縮尺の多様化が進み、1/50の倍および半分である1/25と1/100、プラモデルと共通の1/32や1/144、更に大型の1/10や1/20などの模型も作られている。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "展示用模型、博物館用模型、プロの製作者に依頼する個人用の模型などが存在する。製作方法がソリッドモデルに類似するものもある。", "title": "類似の模型" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "プラモデルメーカーが模型化する商品の検討や金型製作の原型は木型と呼ばれる模型である。その製作は、ソリッドモデルの製作過程と類似しているが、塗装は施されない。また、通常木型は形状のみでなく、分割方法も製品に準じて製作される。ただし、2012年現在ではプラモデルの設計はほとんど3次元CADを用いて行われるため、木製の木型は作られないことが多い。", "title": "類似の模型" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "戦争映画や特撮映画、特撮テレビ番組などにおける、撮影用の航空機や艦船などのミニチュア(プロップ)は、木材や板金、プラスチック、FRPなどで作られる。木製のミニチュアの製作方法はソリッドモデルとほとんど変わりはない。初期の撮影用ミニチュアは木材または板金加工で作られることが多かったが、プラモデルが普及すると、プラモデルをそのままや多少の改造で使用したり、キットバッシングで新たな形状のミニチュアを作ることも行われるようになった。模型製作技法の変化とともに、FRPやレジンキャストなどで成形した合成樹脂素材の模型も多用されるようになっている。", "title": "類似の模型" } ]
ソリッドモデルとは、模型における、木材などを削って作られる展示・鑑賞用の模型のこと。
{{otheruses|模型|[[CAD#CADの種類|3DCAD]]における、形状設計時の[[立体]]図形の取り扱い上の分類の一つ<!--中実図形='''ソリッドモデル'''、中空図形=[[サーフェスモデル]]の種別がある。-->|ソリッドモデリング}} '''ソリッドモデル'''とは、[[模型]]における、[[木材]]などを削って作られる展示・鑑賞用の模型のこと。 == 概要 == ソリッドモデルは[[模型#趣味としての模型|趣味としての模型]]の一種で、[[航空機]]や艦船等を木材などを主材料として用いて製作する模型である。ソリッド({{Lang|en|solid}})とは、[[英語]]で[[固体]]または中実(中空でないこと)を指す言葉であり、フライングモデル(飛行可能な[[模型航空機]])のように骨組みに紙や布などの外皮を貼った中空の模型に対するものである。木製の模型は古くから作られており、[[プラモデル]]が一般化する前には、[[スケールモデル]]はソリッドモデルが主流であった。日本においては、1950年代がソリッドモデルの最盛期であり、多くのメーカーから木製の航空機や艦船の組み立てキットが発売されていた。1960年代に入ると急速にプラモデルが普及し、メーカーからの木製キットの発売はほぼ途絶えたが、1950年代に各地に作られたソリッドモデルクラブは統廃合を行いながら活動を続け、2010年現在で6つのクラブに約200名のモデラーが所属して、作品展などが開かれている<ref>[http://solidmodel.net/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 日本のソリッドモデルクラブの歴史](SOLID MODEL NET)</ref>。 1980年代から1990年代にかけて盛んに作られた[[レジンキャスト]]製のいわゆる[[ガレージキット]]や、1980年代の消しゴム人形に端を発し、2000年代始めの[[食玩]]ブームで大幅に品質を向上させて一般化した[[ポリ塩化ビニル|塩ビ]]製の[[フィギュア]]も中身の詰まった模型であるが、これらはソリッドモデルとは呼ばれていない<ref>英語圏では、本来の「中身の詰まった模型」という意味で solid model と表現される例はある</ref>。逆に、ソリッドモデルの発展形として、オールアルミモデル<ref>[http://www.rojasbazan.com/rojas_bazan/HOME.html Rojas Bazan]</ref>のような中空の模型も作られている。 == 歴史 == ===ソリッドモデルの誕生と普及=== 1920年代には、木を材料にした航空機のスケールモデルが作られていた<ref>''FLIGHT'' 1920年7月号 p.787</ref>。また、模型用の木製パーツも販売されていた。<ref>''FLIGHT'' 1929年9月号 p.xxxiii</ref> 1933年に出版された[[:w:James Hay Stevens|James Hay Stevens]]著『Scale Model Aircraft』には、ソリッドモデルという名称はまだ使われていないが、ソリッドモデルの基本といえる製作方法が記載されている。縮尺は、1/36または1/72を採用しており、[[第一次世界大戦|第一次大戦]]機の三面図も記載されている。1932年には、A. J. Holladayのプロデュース、James Hay Stevensのデザインによる、[[1/72スケール]]に統一された航空機の木とメタル製組立模型、"[[:w:Skybirds|Skybirds]]"がイギリスで発売され、1945年までに80種類ほどのキットが生産された。 当時の雑誌の広告では、この製品を“solid non-flying aeronautical models”(中身の詰まった飛ばない航空機模型)と記述している。同時期に同様の木製模型は軍でも識別用に使用され、[[第二次世界大戦]]中にかけて大量に作られている。また、イギリスでは同種の識別用模型をプラスチック製の部品で作成する技術が開発され、1930年代半ばには組み立てキットの形で市販もされてプラモデルの嚆矢となった。プラスチック製の識別用模型も第二次大戦中にアメリカとイギリスで量産されている。第二次世界大戦が終結すると、趣味としてのソリッドモデルも復活したが、程なくアメリカで販売が始められたプラモデルが、再現度の高さと組み立ての容易さで次第に人気を集め、1950年代にはアメリカなどではソリッドモデルは衰退していった。 ===日本における歴史=== 日本においては、第2次世界大戦前にもソリッドモデルが製作されていたが、開戦後は識別用模型としての用途が評価され、軍の主導による展示会も催された<ref>「昭和十七年の第三回航空日に、海軍省軍務局第四課よりの下命で、吾が国最初の所謂ソリッド・モデルのみの展覧会を銀座の某百貨店で開催…(後略)」(『實體飛行機模型の製作敎書』より引用)</ref>。当時は「實體(実体)模型」という名称も用いられている。 敗戦後模型飛行機は禁止された<ref>実際に禁止されたのは実機製作のための模型で、趣味の模型は含まれていなかった。</ref>が、昭和23年(1948年)頃には解禁されて、競技会などの活動も再開された。また、1951年創刊の「[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]」を始めとする航空雑誌には、ソリッドモデルの製作記事<ref>『航空ファン』1965年5月-7月号に連載された高見保市の「F4B ファンタムIIの製作」は代表的な記事である。</ref>も盛んに掲載されて、ソリッドモデルが流行していった。1950年代には、各地にソリッドモデルの愛好者のクラブ<ref>2012年現在、全国に6つのアマチュアのクラブが存在している。 栃木:宇都宮ソリッドモデルクラブ、東京:東京ソリッドモデルクラブ、千葉:松戸迷才会、愛知:名古屋三点クラブ、大阪:大阪ソリッドモデルクラブ彩雲会、九州:福岡エアロレプリカクラブ </ref>が15程度創設された。 1950年代には、静岡を中心とした多くの模型メーカーから飛行機、艦船、戦車などの木製の組み立てキットが多数発売されている。初期には部品としてブロック状や板状の木材が入っているだけのものも多かったが、次第に複雑な加工が施されるようになり、立体的な曲面加工を施したキットも作られた。1958年末には最初の国産プラモデルが発売されたが、当初は期待を下回る売り上げしか上げられなかった。しかし、テレビ番組の提供などの宣伝活動によりプラモデルの人気は上昇し、1960年代に入るとそれまで木製模型を作っていたメーカーの多くがプラモデルの生産に参入し、急速にプラモデルへの切り替えが進んだ。初期の日本製のプラモデルには、プラスチックソリッドモデル<ref>1959年に三共製作所が発売した「零戦」や「F11F」のキットにはパッケージ表面に「Plastic Solid Model」、同じく1960年代初めに発売した「連山」には「オールプラスチックソリッドモデル」と記載されている。初の国産プラモデルの発売を報じた昭和33年12月15日付の『日本模型新聞』の記事でも、プラモデルを「プラスチック製ソリッドモデル」と称している。</ref>と称するものもあった。また、過渡期にはプラスキック製の部品と木製の部品を組み合わせた製品も発売されている<ref>1960年に田宮模型が発売した旧日本海軍重巡洋艦の1/500スケール「セミ・プラスチックモデル」など。</ref>。プラモデルへの切り替えで木製の組み立てキットがほとんど姿を消した結果、年少者の関心はプラモデルへと移ったが、各地のソリッドモデルクラブの多くは活動を継続した。以後日本のソリッドモデルはクラブ会員と一部の愛好家を中心に独自の発展を続け、オールアルミモデルやパネルごとに分割して寄木細工風に仕上げるモザイクモデル<ref>[http://www.doxaerie.com/guestgallery.htm DOXAERIE]</ref><ref>[http://saiunkai.s261.xrea.com/zk/ Mosaic Model 零式水上観測機(彩雲会)]</ref>などの技法も生み出している。 == 製作 == [[File:Solid Model Kit.JPG|thumb|ソリッドモデルの組み立てキットの例(JNMC製XF-92)]] === キット === 1950年代まで、ソリッドモデルには組み立てキットとして販売されているものもあったが、その中身は詳細な[[設計図]](三面図)と大まかに切り揃えられた木材のみということが多かった。一部には、[[ホワイトメタル]]・[[真鍮]]などの[[金属]]製の[[主脚]]や、透明樹脂で成形した[[キャノピー]]が付属したり、主要部品が立体的に機械加工済みの製品もあったが、多くは図面を見ながらひたすら木材を削りだし、表面を[[ヤスリ]]で磨くという工程を繰り返す必要があった。アウトラインが実機に似るかどうかは完全に製作者の力量のみにかかっており、非常に高い工作技術と資料の読み取り能力が必要とされた。そのため、あらかじめ詳細なモールドが施され、誰が作っても正確なアウトラインを再現できるプラモデルの登場により、多くのモデラーはプラモデルに流れたが、高い技術を持っていた一部のモデラーは逆に物足りなさを覚え、ソリッドモデルに留まった<ref>『日本プラモデル50年史』第1章参照</ref>。 === 自作 === ソリッドモデルの製作においては、模型全体を自作することが多い。その製作過程は、資料、材料の準備、加工、塗装、部品の製作、組み上げという手順を踏む。市販の図面の一部には断面形状まで描かれているものもあるが、信頼できる資料がない場合には、図面と写真から正しい断面形状を読み取り、再現するには高い能力と経験が必要である。また、航空機ではエンジンや爆弾などの外部に装備される武装を除き、複数の種類の機体で共通に使用される装備はほとんど無いため、小物の部品までほとんど全て自作する必要がある。 === 素材 === 主材料として、切削性の良さから木を素材とすることが多い。日本ではおもに[[ホオノキ|朴]]の木を材料としている。朴は[[柄杓]]の材料にも使われる耐水性・耐久性に優れた素材であるため、ヤスリがけ・[[塗装]]に向いていること、微細部品も削りだせることなどから用いられている。ただし、木材なので吸湿して反ったりゆがんだりするのを防ぐにはそれなりの[[加工]]をしなければならない。木材の代わりにケミカルウッドが使用される場合もある。部品製作のために、[[プラ素材|プラスチック]]、真鍮板、真鍮棒等も使用される。 航空機の透明風防は、初期には塗装のみで表現されることも多かったが、1950年代には既に熱した透明塩ビ板を木製の型に押し付けて成形する(絞る)方法も使用されていた。その後材料は[[アクリル樹脂|アクリル]]板へと変化し、成形方法も手動から[[バキュームフォーム]]へ変化している。 航空機の無塗装のジュラルミンの地肌を再現するのは塗装では難しいため、1950年代からアルミ箔を機体表面に貼り込む事が行われてきた。その後、大型の模型では厚さ0.01-0.02mm程度のアルミの薄板を貼り込み、実感を高める事も行われるようになった。更に進んでオールアルミ製の模型も作られているが、これは既にソリッド(中実)な模型ではなくなっている。 === 縮尺 === 1930年代から1940年代にかけてイギリスやアメリカで作られていた航空機のソリッドモデルは、[[1/72スケール]]や[[1/48スケール]]のものが多く<ref>1938年版のアメリカ Hawk 社のカタログには、1/48スケールで統一された木製航空機の組み立てキットが掲載されている。</ref>、これらの縮尺は後にプラモデルの標準スケールとして受け継がれている。 1950年代に日本で発売されていた木製の組み立てキットは、ほとんど縮尺が統一されていなかったが、キットによらずに自作していたモデラーの間では、図面の作成が容易で<ref>アメリカやイギリスでは、1[[フィート]]を1[[インチ]]で作図することで1/12となるため、その1/4の1/48スケールで作図することもそれ程困難ではない。</ref>大きさも手頃な[[1/50 スケール]]が航空機模型の標準スケールとして定着した。その後も1/50は主要スケールとして使用されているが、次第に作る対象に応じて縮尺の多様化が進み、1/50の倍および半分である1/25と1/100、プラモデルと共通の1/32や1/144、更に大型の1/10や1/20などの模型も作られている。 == 類似の模型 == === 商業模型 === 展示用模型、博物館用模型、プロの製作者に依頼する個人用の模型などが存在する。製作方法がソリッドモデルに類似するものもある。 === 商業原型 === プラモデルメーカーが模型化する商品の検討や[[金型]]製作の原型は[[木型]]と呼ばれる模型である。その製作は、ソリッドモデルの製作過程と類似しているが、塗装は施されない。また、通常木型は形状のみでなく、分割方法も製品に準じて製作される。ただし、2012年現在ではプラモデルの設計はほとんど3次元CADを用いて行われるため、木製の木型は作られないことが多い。 === 撮影用ミニチュア === [[戦争映画]]や[[特撮映画]]、特撮テレビ番組などにおける、撮影用の[[航空機]]や[[艦船]]などの[[ミニチュア]]([[プロップ]])は、木材や[[板金]]、プラスチック、[[繊維強化プラスチック|FRP]]などで作られる。木製のミニチュアの製作方法はソリッドモデルとほとんど変わりはない。初期の撮影用ミニチュアは木材または板金加工で作られることが多かったが、プラモデルが普及すると、プラモデルをそのままや多少の改造で使用したり、[[キットバッシング]]で新たな形状のミニチュアを作ることも行われるようになった。模型製作技法の変化とともに、FRPやレジンキャストなどで成形した合成樹脂素材の模型も多用されるようになっている。 == 脚注 == <references/> == 参考文献 == * James Hay Stevens, ''Scale Model Aircraft'', John Hamilton Ltd., 1933 * 白木克良 『實體飛行機模型の製作敎書』 高千穂書房、1944年 * 高見保市 「F4B ファンタムIIの製作」 月刊『[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]』5月号-7月号、(株)文林堂、1965年 * 日本プラモデル工業協同組合編 『日本プラモデル50年史』 文藝春秋企画出版部、2008年 ISBN 978-416008063-8 == 外部リンク == * {{Cite web |author = |date = 2012-08-08 |url = http://solidmodel.net/ |title = SOLID MODEL NET |work = |publisher = |accessdate = 2012-08-22 }} * {{Cite web |author = |date = |url = http://smm.solidmodelmemories.net/ |title = Solid Model Memories Home Page |work = |publisher = |language = 英語 |accessdate = 2012-08-22 }} * {{Cite web|和書 |url = http://saiunkai.osk-saiun.com/ |title = 彩雲会 |accessdate = 2012-09-25 |author = |date = |work = |publisher = }} * {{Cite web|和書 |author = |date = |url = https://www.ne.jp/asahi/tsmc/net/ |title = 東京ソリッドモデルクラブ |work = |publisher = |accessdate = 2012-09-25 }} * {{Cite web|和書 |author = |date = |url = http://a011w.broada.jp/3ten/ |title = 名古屋3点クラブ |work = |publisher = |accessdate = 2016-12-05 }} * {{Cite web|和書 |author = |date = |url = http://park12.wakwak.com/~dikiya/ |title = 福岡エアロレプリカクラブ |work = |publisher = |accessdate = 2016-12-05 }} {{模型}} {{デフォルトソート:そりつともてる}} [[Category:模型]]
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フィギュア
フィギュア(英語: figure)とは、図形や図案、製図すること。転じて図面から型起こしした立体物を指す。 本項では、派生した意味である人形や造形物としての用法を記載する。図形や製図、スケートで図を描く競技から発展したフィギュアスケートについては別項を参照。 英語のfigureの語源はラテン語の"形"を意味する語であり、図形や図案、特に人のすがたかたちをうつした絵や彫刻のことである。 日本においては小さな模型の類がフィギュアと呼ばれている。英語圏においてはアクションフィギュア(action figure)、モデルフィギュア(model figure)などと呼ばれるものにあたる。 日本では食玩ブーム以降、「ミニチュア」という用語の代わりとして「フィギュア」という用語が広まった。人物のミニチュアに限らず、乗り物、建物、食べ物、植物や動物、昆虫、過去の生き物や空想の世界の物も含まれることがある。鉄道模型やミリタリーモデルなどでも用いられる。素材が安価であること、可塑性の高さと着色の容易さからプラスチックなど合成樹脂製のものが多く、材質によりポリ塩化ビニル製のものは「PVCフィギュア」、アクリル樹脂製のものは「アクリルフィギュア」などと呼ばれる。フィギュアの原型(ひな形)を制作する職業は「原型師」と呼ばれる(原型師#フィギュアの原型師を参照)。 フィギュアの生産は大手企業や個人メーカーなどさまざまなところで行われている。日本では2000年代初頭に海洋堂がチョコエッグで大きなブームを巻き起こす以前は、小規模メーカー・レーベルが活発に活動していた歴史的な経緯もあり、零細メーカーやセミプロ的な活動実態のレーベル、過去に存在したものまで細かく挙げていくと際限がない。また、メーカー・レーベル間の競合の激しい業種でもある。 様々な製作手法(技法)が存在する。手法・技法は素材と密接に関わっている。多くの場合、複数の素材と技法が用いられている。例えば以下のような素材・手法である。 ほとんどの場合、完成したフィギュアはそのままでは長期の保存、展示には向かない。ポリエステルパテは硬化剤との化学反応が硬化後も続くため、経時変形により収縮する。石粉粘土などは強度が不足しているため、わずかな振動で破損する可能性がある。そのため完成したフィギュアを原型とし、シリコーンゴムと無発泡ポリウレタン樹脂を用いて複製を行ない、複製したものを完成品として仕上げることが多い。 こうしたフィギュアは、高価で組み立て・塗装に技術と労力を要する事から、購入層はもっぱら一部の愛好者・モデラーに限られていたが、近年では食玩フィギュアの製造ノウハウを応用して、中国などの工場で製造・塗装された精巧で安価な完成品フィギュアが流通するようになり、模型の範疇にとどまらずキャラクター商品のひとつとして、書籍・ゲームソフト・DVDソフトなどの付録や購入特典として付属するケースも多く見られる。 なお、例外として、欧米で古くから流通するフラットフィギュアがある。これは絵を元にして石板を直接彫って鋳型とするためフィギュアの原型は存在しない。
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フィギュアとは、図形や図案、製図すること。転じて図面から型起こしした立体物を指す。 本項では、派生した意味である人形や造形物としての用法を記載する。図形や製図、スケートで図を描く競技から発展したフィギュアスケートについては別項を参照。
{{Otheruseslist|造形物|アイススケートの競技|フィギュアスケート|木材の杢目|杢|[[深田恭子]]の楽曲|スイミング (深田恭子の曲)|[[GRAPEVINE]]の楽曲|Circulator|[[SixTONES]]の楽曲|マスカラ (SixTONESの曲)}} {{複数の問題 |出典の明記=2011年12月 |独自研究=2012年4月 }} [[File:Sénot figurine Jebulon.jpg|thumb|[[フランス]]の[[兵士]] [[:fr:Jean Nicolas Sénot|Jean Nicolas Sénot]]]] [[File:Akihabara August 2014 09.JPG|thumb|300px|right|[[秋葉原]]の店舗に並ぶフィギュア]] '''フィギュア'''({{Lang-en|figure}})とは、図形や図案、製図する<ref name="名前なし-1">[http://ejje.weblio.jp/content/figure figureの意味 - 英和辞典 Weblio辞書] "図,図解,さし絵, 図案,模様"</ref>こと。転じて図面から型起こしした立体物<ref>[http://www.weblio.jp/content/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%A2 フィギュアとは - 三省堂 大辞林 Weblio辞書] "(3) 人物や動物・アニメーションのキャラクターなどをかたどった人形"</ref><ref group="注釈">「かたどる」とは形をうつすこと。</ref>を指す。 本項では、派生した意味である[[人形]]や造形物としての用法を記載する。[[図形]]や[[製図]]、スケートで図を描く競技から発展した[[フィギュアスケート]]については別項を参照。 == 概要 == 英語のfigureの語源は[[ラテン語]]の"[[形]]"を意味する語であり<ref>[http://ejje.weblio.jp/content/figure figureの意味 - 英和辞典 Weblio辞書] "【語源】ラテン語「形」の意"</ref>、図形や図案<ref name="名前なし-1"/>、特に人のすがたかたちをうつした絵や彫刻<ref>[http://dictionary.reference.com/browse/figure Figure | Define Figure at Dictionary.com] "11. a representation, pictorial or sculptured, especially of the human form"</ref><ref>[http://www.thefreedictionary.com/figure figure - definition of figure by The Free Dictionary] "6. A pictorial or sculptural representation, especially of the human body"</ref>のことである。 日本においては小さな[[模型]]の類がフィギュアと呼ばれている<ref>[http://www.suruga-ya.jp/toreka/figure_menu.html フィギュア | ホビー] 通販ショップの駿河屋、[[エーツー|株式会社エーツー]]</ref>。[[英語圏]]においては'''[[アクションフィギュア]]'''(action figure)<ref>[http://dictionary.cambridge.org/dictionary/british/action-figure action figure definition, meaning - Cambridge Dictionaries Online]</ref>、'''モデルフィギュア'''(model figure)などと呼ばれるものにあたる。 日本では{{要出典範囲|[[食玩]][[流行|ブーム]]以降、|date=2022-03}}「[[ミニチュア]]」という用語の代わりとして「フィギュア」という用語が広まった。人物のミニチュアに限らず、乗り物、建物、食べ物、植物や動物、昆虫、過去の生き物や空想の世界の物も含まれることがある。[[鉄道模型]]やミリタリーモデルなどでも用いられる。素材が安価であること、[[可塑性]]の高さと着色の容易さから[[プラスチック]]など[[合成樹脂]]製のものが多く、材質により[[ポリ塩化ビニル]]製のものは「PVCフィギュア」、[[アクリル樹脂]]製のものは「アクリルフィギュア」などと呼ばれる。フィギュアの原型(ひな形)を制作する職業は「原型師」と呼ばれる([[原型師#フィギュアの原型師]]を参照)。 <!--※長らく無出典状態の要出典範囲をコメントアウト。 {{要出典範囲|商業上の理由からメーカーによって意図的に「フィギュア」と呼ばれる場合もある。|date=2015年2月}}{{要出典範囲|米国の大手玩具メーカーである[[ハズブロ]]社が、男児向けの人形[[G.I.ジョー]]を発売する際に、[[ドール]]=女児玩具という固定観念を避けるために「アクションフィギュア」と名づけた|date=2015年2月}}。 --> == 種類 == {{複数の問題 |出典の明記=2011年12月 |独自研究=2012年4月 |section=1}} [[ファイル:Wiki louis 8.jpg|thumb|300px|right|騎士のフィギュア]] ; メタルフィギュア : 金属製のフィギュアで、材質は[[ピューター]]、[[バビットメタル|ホワイトメタル]]などの加工しやすい柔らかな合金が用いられる。[[ミニチュアゲーム]]の駒として古くから使われ、[[TRPG]]にも用いられる。ミリタリーモデルの[[ジオラマ]]用、単体のヴィネット用も多い。欧米では広く普及しており、古い歴史と膨大な種類がある。メタルキャストによる複製が容易であるため、[[ガレージキット]]の黎明期にはホワイトメタル製キットが一般的であった。 ; 自販機フィギュア : 模型屋や[[駄菓子屋]]の店頭に設置された、[[カプセルトイ]]などの[[自動販売機]]で販売されるフィギュア。カプセルに単体で封入されている。かつての素材は「消しゴム」と称された単色のゴム製のもの([[怪獣]][[消しゴム]]、[[キン消し]]など)で、[[デフォルメ]]されたものが多かった。近年は彩色済みで硬質の合成樹脂を用いた細密成型のものが主流である。自動販売機以外にも[[コンビニエンスストア]]などの店頭で販売されることもある。 ; 食玩フィギュア : 食品付き玩具([[食玩]])の中で[[キャラクター]]フィギュアが付属しているもの。日本では[[海洋堂]]の食玩から始まったフィギュアブームにより、動物や家具、食器などのミニチュアや鉄道模型、あるいは戦車や戦闘機などミリタリーモデルのカテゴリーに含まれるものまでも、一括してフィギュアと呼ばれるようになった。<!--{{要出典範囲|しかし本来これらはフィギュアと呼ぶにはふさわしくない。|date=2022-04}}-->また一部の食玩では、背景や複数の登場人物を組み合わせた[[ジオラマ]]風のものも登場しているが、これは本来「ジオラマ」もしくは「ヴィネット」と呼ばれるものである。 ; プライズフィギュア : [[ゲームセンター]]の[[プライズゲーム]]([[クレーンゲーム]]が主流)や[[一番くじ]]などの景品。'''プライズ品'''とも呼ばれる。ここでは人形について記述する。主流は[[射出成形]]によるPVC製の[[ソリッドモデル|ムク]]で塗装済みの完成品もしくは半組立品である(これらの特徴は市販品も同じ)。1970年代末に端を発し1980年代に隆盛を極めた、組立てや塗装にある程度の技能を必要とし面倒な手間の掛かるウレタン樹脂製や[[ソフトビニール]]製フィギュアなどのガレージキットが衰退した後、1990年代後半から興隆し普及し始めた比較的新しい分野である。一般にノン[[スケールモデル|スケール]]でありスケールの表記はされていない。[[原型 (雄型)|原型]]は日本で作られ、主に[[中華人民共和国|中国]]で[[大量生産]]される。初期には「安かろう悪かろう」の代名詞的存在であったが、2000年代後期以降、その造形や塗装などの品質が急激に向上しており、市販品との差を縮めている。これには中国側の熟練や技術力の向上だけでなく、2000年代後半以降の[[円相場|円高]]による実質的な開発・製造予算の増額が関係している。2005年以来毎年、年4回(2月・5月・9月・11月)、プライズ品製造会社各社による[[見本市|見本展示会]]「プライズフェア」が開催されている。 ; アクションフィギュア : かつての人形玩具では、成形の都合上でのパーツ分割部分のみで可動が可能となるものが多かったが、1964年の[[G.I.ジョー]]の登場以降、人間に準じたより多くの関節をプレイバリューとして積極的に人形に再現する事が、主に男児向け玩具において定着した。この経過で、G.I.ジョーのスタッフによって考案された[[アクションフィギュア]]の呼称も一般化した。日本では、特に関節の自由度を強調したい製品の場合に、フルアクションフィギュアと呼称することもある。 ; ソフトビニール人形 : [[ソフトビニール]]人形とは[[ポリ塩化ビニル]](塩ビ、PVC)を型抜きして中空成型したパーツを組み立てた、完成品のフィギュア。軟質素材であるためソフトビニールと呼ばれ、さらに略して「ソフビ」とも呼ばれる。児童向けの玩具では女児向けの人形の素材として古くから存在していたが、[[マルサン商店]]が[[ゴジラ]]や[[ウルトラQ]]の[[怪獣]]を商品化してヒットしたことからキャラクターのソフトビニール人形が広く作られるようになった。パーツを組み合わせた部分は「間着(嵌着)」と呼ばれ、その接合面で可動するため、アクションフィギュアほどではないがある程度可動し、丈夫で水遊びにも使えるなど児童の玩具に適していた。一方で成型の都合上、細かいパーツの再現が難しい。 ; ドール : [[西ヨーロッパ]]圏、特に[[ヨーロッパ]]における愛玩用もしくは玩具としての[[人形]]が「[[ビスク・ドール|ドール]]」と呼称され、また、[[ドールハウス]]など実際に人形が存在しなくとも「ドール」という呼称が使用される場合もある。日本においても古くから存在する一般的な呼称である。 : 近年、高年齢層のフィギュアユーザーの増加にともない、従来のような男子玩具・女子玩具の区別による対象ユーザーの区分けが実態にそぐわなくなった結果、新たな区分けのための使用例が見られるようになった。具体的には、玩具業界において一世を風靡した「アクションフィギュア」と区別するための呼称としての「ドール」であり、日本では、主に頭髪が植毛されている、可動部分を持つ、衣装の着せ替えを行えるといった特徴を持つ、[[スーパードルフィー]]をはじめとするフィギュアや人形の総称として「ドール」が使用される。また、[[リカちゃん]]、[[ジェニー]]などの女児向け玩具も含めた[[着せ替え人形]]も含めて「ドール」とする例もある。 ; ガレージキット : アマチュアもしくはセミ・プロ[[モデラー (模型)|モデラー]]によって作られた、大量生産が難しい技法で生産されたキットを言う。フィギュアはその製作方法により容易にガレージキットへと転化できるため、複製品として流通することが多いが、複製をしない[[ワンオフ]]物も存在する。しかし昨今はガレージキットも製作技術の進歩、素材の改良、大手の参入などがあり、1,000個単位の流通も珍しくはなくなっている。詳細は[[ガレージキット]]の記事を参照。 ; アクリルフィギュア : 透明なアクリル樹脂製の板にキャラクターの[[イラスト]]や[[芸能人]]の[[写真]]を[[印刷]]したもの。立てて飾れるように成形された製品は「[[アクリルスタンド]]」と呼ばれ、同様の製品であるアクリル[[キーホルダー]]とともに「アクスタ」「アクキー」と略称される<ref>[https://joshi-spa.jp/871822 ジャニーズファンが夢中の「アクスタ」とは。売り切れ続出!] 女子[[SPA!]]、[[扶桑社]]、2018年8月21日</ref>。本来の「フィギュア」のような立体形状を再現したものではないが、「フィギュア」の用法が拡大されたものである。 == メーカー・レーベル == {{複数の問題 |出典の明記=2011年12月 |独自研究=2012年4月 |section=1}} フィギュアの生産は大手企業や個人メーカーなどさまざまなところで行われている。日本では[[2000年代]]初頭に[[海洋堂]]が[[チョコエッグ]]で大きなブームを巻き起こす以前は、小規模メーカー・レーベルが活発に活動していた歴史的な経緯もあり、零細メーカーやセミプロ的な活動実態のレーベル、過去に存在したものまで細かく挙げていくと際限がない。また、メーカー・レーベル間の競合の激しい業種でもある。<!--{{要出典範囲|そのため複数のメーカー・レーベルによって、特定の人気作品 (もしくはキャラクター) のフィギュアが長期にわたって過剰供給される傾向も見られる。|date=2022-03}}--> ; 主なメーカー(五十音順) :* [[アイズプロジェクト]] :* [[青島文化教材社]] :* [[アクアマリン (フィギュアメーカー)|アクアマリン]] :* [[アルター (企業)|アルター]] :* [[アルファマックス|alphamax]] :* [[B'full|Insight]] :* [[ウェーブ (模型メーカー)|WAVE]] :* ヴェルテクス([[トップス (玩具メーカー)|トップス]]) :* [[エンターブレイン]] :* [[オーキッドシード]] :* [[オルカトイズ]] :* [[回天堂]] :* [[海洋堂|KAIYODO]] :* [[キューズQ]] :* [[グッドスマイルカンパニー|Good Smile Company]]連合(Good Smile Company、[[マックスファクトリー|MAX FACTORY]]、[[FREEing]]、ネイティブ、Gift、[[ファット・カンパニー]]、[[ウイング (流山市の企業)|ウイング]]) :* [[グリフォンエンタープライズ]] :* [[クレイズ]] :* [[壽屋 (玩具店)|KOTOBUKIYA]] :* [[スカイチューブ]] :* [[セガゲームス|SEGA]] :* [[ダイキ工業]] :* [[タミヤ]] :*:1/35スケールのミリタリーモデル用のフィギュアを各種展開している。 :* [[トイズワークス]]([[キャラアニ]]) :* [[バンダイ]] :*:[[ウルトラ怪獣シリーズ]]など、金型成型したポリ塩化ビニル素材を併用した、シャープでリアルなソフトビニール人形を展開している。 :* [[バンプレスト]] :* ビート :* [[B'full]](びーふる) :* F:NEX([[フリュー]]) :* [[プライザー]] :*:[[鉄道模型]]用のフィギュアを各スケールで展開している。 :* PLUM([[ピーエムオフィスエー]]) :* [[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]] :* [[ボークス]] :* [[ムサシヤ]] :* [[メガハウス]] :* [[やまと (玩具)|YAMATO]] :* [[タカラトミーアーツ|ユージン]] :* [[レチェリー]] :* [[CAworks]]([[キャラアニ]]) == 製作方法 == {{複数の問題 |出典の明記=2011年12月 |独自研究=2012年4月 |section=1}} 様々な製作手法(技法)が存在する。手法・技法は[[素材]]と密接に関わっている。多くの場合、複数の素材と技法が用いられている。例えば以下のような素材・手法である。 * [[ポリエステル]][[パテ (材料)|パテ]] - おおまかな形を盛り付けてから、硬化後に細工を施す。 * 無発泡[[ポリウレタン]]樹脂 - おおまかなブロック状の成形物をつくってから、削り出す。 * [[石粉粘土]]- 乾燥により硬化する[[粘土]]を用い、おおまかな形を盛り付けてから、硬化後に細工を施す。 * [[焼成粘土]]- 加熱により硬化する粘土を用い、おおまかな形を盛り付けてから、硬化後に細工を施す。 * [[繊維強化プラスチック]] - [[ガラス繊維]]等(の[[布]])に[[合成樹脂]]を塗り付け、形を整え、硬化後に細工を施す。 ほとんどの場合、完成したフィギュアはそのままでは長期の保存、展示には向かない。ポリエステルパテは硬化剤との化学反応が硬化後も続くため、経時変形により収縮する。石粉粘土などは強度が不足しているため、わずかな振動で破損する可能性がある。そのため完成したフィギュアを原型とし、[[シリコーンゴム]]と無発泡ポリウレタン樹脂を用いて複製を行ない、複製したものを完成品として仕上げることが多い。 * ソフトビニール(PVC、[[ポリ塩化ビニル]])製品の製作方法は、粘土などで原型を作り、その後、[[シリコーン]]で型取りしてからワックスの原型を作る。そこで細部を修正してから表面を[[硝酸銀]]の[[還元]]による銀鏡反応によって導電化してから[[銅]]を[[電鋳]]によって積層する。その後、加熱しワックスを溶かして取り除いてから銅の金型の薄い部分を補強する。量産時には熱硬化性の[[クロロエチレン|塩化ビニルのモノマー]] (クロロエチレン) を入れた[[金型]]を高温の油が入った釜 ([[オイルヒーター]]) に湯煎のようにして加熱する。この時、温度管理と加熱時間に注意する。熱によりクロロエチレンが[[重合反応|重合]]してポリ塩化ビニルになったら金型をオイルヒーターから取り出し、未反応の[[モノマー]]を戻して冷却してから金型から取り出す。加熱時間が短い方が薄いソフトビニールが出来る。このプロセスを繰り返す。 こうしたフィギュアは、高価で組み立て・塗装に技術と労力を要する事から、購入層はもっぱら一部の愛好者・[[モデラー (模型)|モデラー]]に限られていたが、近年では食玩フィギュアの製造ノウハウを応用して、[[中国]]などの工場で製造・塗装された精巧で安価な完成品フィギュアが流通するようになり、模型の範疇にとどまらずキャラクター商品のひとつとして、書籍・ゲームソフト・DVDソフトなどの付録や購入特典として付属するケースも多く見られる。 なお、例外として、欧米で古くから流通するフラットフィギュアがある。これは絵を元にして石板を直接彫って鋳型とするためフィギュアの原型は存在しない。 == フィギュア関連の催事 == * [[ワンダーフェスティバル]] - [[ガレージキット]]の展示即売会<ref>[https://wonfes.jp/ ワンダーフェスティバル]</ref> * [[トレジャーフェスタ]] - [[ガレージキット]]、フィギュア、ドール、中古玩具の即売、コスプレの複合イベント<ref>[https://tfo.hobima.com/ トレジャーフェスタ・オンライン]</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2022年3月}} * いわた『かわいい女の子フィギュアを作ろう! ―フルスクラッチで作成するオリジナルフィギュア』[[秀和システム]]、2005年12月。ISBN 4798012130 == 関連項目 == {{Commons category|Figurines}} {{Wikt|figure}} * [[アクションフィギュア]] * [[万協フィギュア博物館]] * [[豆像]](フィギュリン) * [[オモ写]]([[玩具]]を撮影した写真) * [[人形]] / [[着せ替え人形]] / [[球体関節人形]] * [[模型]] / [[スケールモデル]] / [[プラモデル]] * [[萌え擬人化]] * [[ミニチュア]]([[曖昧さ回避]]) {{模型}} {{DEFAULTSORT:ふいきゆあ}} [[Category:フィギュア|*]] [[Category:おたく]] [[Category:玩具]] [[Category:英語の語句]] [[Category:ラテン語からの借用語]]
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食玩
食玩(しょくがん)は食品玩具の略。「おまけ」として玩具を添付した食品(もしくは飲料)の商品様態の総称である。業界用語では玩具菓子または玩菓とも言われる。玩具業界では「食玩」の語は「食べられる玩具」(玩具の形をした菓子。風船ガムもこれに分類される)という意味で使われていた経緯もあり「玩具菓子」の語が多く用いられる。 消費者のコレクション欲を喚起し大人買いを誘発するように作られている。 食玩購買層の高年齢化により、おまけとしてCDを添付した食玩CD、DVDを添付した食玩DVDも登場した。
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食玩(しょくがん)は食品玩具の略。「おまけ」として玩具を添付した食品(もしくは飲料)の商品様態の総称である。業界用語では玩具菓子または玩菓とも言われる。玩具業界では「食玩」の語は「食べられる玩具」(玩具の形をした菓子。風船ガムもこれに分類される)という意味で使われていた経緯もあり「玩具菓子」の語が多く用いられる。 消費者のコレクション欲を喚起し大人買いを誘発するように作られている。 食玩購買層の高年齢化により、おまけとしてCDを添付した食玩CD、DVDを添付した食玩DVDも登場した。
{{出典の明記|date=2020年1月}} [[File:Panther_tank_Model_(World_Tank_Museum).jpg|thumb|[[タカラトミー]]「[[ワールドタンクミュージアム]]」第三弾[[V号戦車パンター|パンター]]G後期型 3色迷彩・[[SDメモリーカード|SDカード]]とのサイズ比較の一例([[2007年]])]] '''食玩'''(しょくがん)は'''食品玩具'''の略。「[[おまけ]]」として[[玩具]]を添付した[[食品]](もしくは[[飲料]])の商品様態の総称である。業界用語では'''玩具菓子'''または'''玩菓'''とも言われる。玩具業界では「食玩」の語は「食べられる玩具」(玩具の形をした菓子。[[チューインガム|風船ガム]]もこれに分類される)という意味で使われていた経緯もあり「'''玩具菓子'''」の語が多く用いられる<ref>神永英司『マルサン物語 玩具黄金時代伝説』[[朝日新聞出版]]、2009年、241-242頁。ISBN 978-4-02-250550-7。</ref>。 消費者のコレクション欲を喚起し[[大人買い]]を誘発するように作られている<ref>{{Cite journal|和書|author=横川公子, 延藤久美子, 岡田春香, 北村薫子, 櫻谷かおり, 西田徹, 森田雅子, 山本泉 |url=https://doi.org/10.14993/00000158 |title=食玩に関する生活文化学的研究I : 食玩情報の所在および調査方法に関する覚書 |journal=武庫川女子大学紀要. 人文・社会科学編 |ISSN=0916-3115 |publisher=武庫川女子大学 |date=2006-03 |volume=53 |pages=109-117 |doi=10.14993/00000158 |CRID=1390853649889824512}}</ref>。 食玩購買層の高年齢化により、おまけとして[[CD]]を添付した[[食玩CD]]、[[DVD]]を添付した[[食玩DVD]]も登場した。 == 文化の中の食玩 == * [[ガレット・デ・ロワ]] - フェーヴ(陶器製の模型)を生地に入れておき、切り分けられたパイ、またはガレットにフェーヴが入っていた人は1年間幸せになれる、またはその日一日間、それを食べ合った人達の中で王様になれる(フランス・[[ブルターニュ]]地方) * [[ヨウルプーロ]] - 甘い米粥。皮を剥いたアーモンドを一粒だけ入れ、それを当てた人は来年幸せになれる。そのアーモンドは独身者には配偶者を、既婚の女には子供を授ける力を持っている(1800年代以降のクリスマス フィンランド) * [[ビュッシュ・ド・ノエル]] - 材料を掻き混ぜる際願い事をしながら硬貨や指輪を入れ、切り分けた時に自分のケーキにそれが入っていたら、その小物に合わせた願い事が叶う(クリスマス フランス) * [[スコーン]] - 複数のスコーンを作る際、生地の中に硬貨を含ませておき、硬貨の入ったスコーンを当てた人は幸せになれる(ハンガリー) * [[クラウディ]] - スープの中に指輪、コイン、おはじきが混ぜてあり、どれを掬うかで一年の運勢が分かる([[ハロウィン]] ケルト地方) * [[ウェディングケーキ]] - ケーキの中に一粒だけあるインゲン豆に当たった人は幸せになれる(イギリス)、未婚女性が中から指輪を当てると結婚出来る(ブラジル) * [[からから煎餅]] - 中に玩具が入った中空の三角形の煎餅(江戸時代 庄内・鶴岡地方) * [[辻占菓子]] - 中に占紙が入った団子、餅、煎餅(江戸時代の正月 北陸・中越地方) * [[フォーチュン・クッキー]] - 運勢、格言が書かれた紙の入ったクッキー。辻占煎餅をクッキーに変えたもの(1915年 アメリカ・パナマ万国博覧会) == 日本食玩史 == {{出典の明記|date=2020年1月|section=1}} {{節スタブ}} * [[江戸時代]] - 庶民の旅行が難しかった時代、[[富山の薬売り]]に代表される日本中を旅する薬売りは、顧客に各地の情報、名産品等を薬のおまけとして提供していた。特に江戸時代後期から明治時代にかけての売薬版画は有名。子供には紙風船などの玩具も提供していた。 * [[1899年]]([[明治]]32年) - [[村井兄弟商会]]の[[タバコ]]に[[シガレットカード|タバコカード]](トランプ花札、軍人の写真、西洋の女性画のカード)が付き始める。アメリカのタバコ販促を真似たもので、これが日本の商業食玩の実質的な始祖となる。子供がカード目当てにタバコを吸うことが問題視され、翌年、未成年者喫煙禁止法(現・[[二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律]])が成立。 * [[1923年]]([[大正]]12年) - [[江崎グリコ]]の[[グリコ (菓子)|グリコ]]にカードが付き始める。タバコカードを基にした販促手法で、本製品から近代商業食品玩具が始まる。1927年(昭和2年)にはメダルが付属し始める。 * [[1952年]](昭和27年) - [[カバヤ食品]]のカバヤキャラメルに点数カードが付き始める。点数カードを集めて応募すると小学生向け名作小説の単行本(カバヤ文庫)が貰えるというサービスで、1954年まで実施。 * [[1964年]](昭和39年)3月 - [[明治製菓]]の[[マーブルチョコレート]]に[[鉄腕アトム]]のシールが付き始める。キャラクターをおまけにした初めての食玩で、これ以降TVキャラクターの食玩化が激化する<ref>[[串間努]]「[http://www.maboroshi-ch.com/sun/pha_36.htm ノスタルジー商店「まぼろし食料品店」 第28回「アトムシールの誕生の謎を探る」の巻]」、2007年2月14日更新。</ref>。 * [[1967年]](昭和42年)2月 - [[森永製菓]]の[[チョコボール]]が発売される。ランダムに付属するマークを集めて応募すると「まんがのカンヅメ」なる景品が貰える。これまでの食玩は既存の菓子に販促として後からおまけを付けるという売り方であったが、本製品は初めからおまけを付属させる売り方をした初めての食玩である。 * [[1971年]](昭和46年)12月 - [[カルビー|カルビー製菓(現・カルビー)]]の[[仮面ライダースナック]]が発売される。[[仮面ライダー]]の特製名場面カードが付属する。子供達の間で大流行となり、おまけの特製名場面カード目当てに菓子を買いつつ菓子本体は捨てるという[[社会問題]]が発生した。 * [[1973年]](昭和48年) - カルビー製菓の[[プロ野球チップス#スナック|プロ野球スナック]]が発売される。仮面ライダースナックの人気を追ったもので、プロ野球選手のカードが付属する。 * [[1977年]](昭和52年) - [[ロッテ]]の「[[ビックリマン]] どっきりシール」が発売され「いたずらシール」が付属する。本製品自体は特に大きな人気も出ないまま終了するが、10回の改変を経て8年後に「ビックリマン 悪魔VS天使シール」が誕生する。 * [[1978年]](昭和53年)4月 - [[カバヤ食品]]の[[ビッグワンガム]]が発売される。付属するプラキットがパッケージの大部分を占めガムは1枚だけと「ガムの方がおまけ」とも言われ、後の高級化した食玩の祖とも言える。ブラインド式ではなく、組み立て説明書に書かれた番号が見える小窓(穴)が開いていて、パッケージ裏面のカタログと併せて中身を判別できる。カバヤ食品の食玩はこの小窓が開いた形式が主流となる。 * [[1980年代]]中期頃 - [[サンヨー食品]]のサッポロボーイおもしろカップが発売される。子供向けカップラーメンの容器の中にプラキットやアクセサリーが付属する。カップラーメン初の食玩。 * [[1985年]](昭和60年) - ロッテの「[[ビックリマン]] [[悪魔VS天使シール]]」が発売され、オリジナルキャラクターのシールが付属する。[[ロッチ (曖昧さ回避)|ロッチ]]に代表される類似商品の乱発、子供達の間でのシールの売買、公正取引委員会の介入など様々な問題を生んだ。また、今まで漫画やアニメをおまけの原作としてきた食玩が、逆に漫画やアニメの原作の立場になった初めての食玩でもある。本製品の成功を受けて駄洒落交じりのシールをおまけにした食玩が続々と誕生する。 * 1985年(昭和60年)[[2月2日]] - [[雪印食品]](現・[[日本アクセス]])の電撃戦隊チェンジマンソーセージが発売される。[[電撃戦隊チェンジマン]]の人形が付属する。本製品以降、[[スーパー戦隊シリーズ]]をおまけにしたソーセージ、カレー、ふりかけが発売され続けていく。2001年の『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』迄同商品を発売し続けてきたが、2002年の雪印食品廃業に伴い『[[忍風戦隊ハリケンジャー]]』以降スーパー戦隊シリーズの[[ソーセージ]]の権利は[[プリマハム]]に移管される。 * 1985年(昭和60年)[[3月15日]] - [[丸大食品]]の巨獣特捜ジャスピオンソーセージが発売される。『[[巨獣特捜ジャスピオン]]』のカードが付属する。これ以降、スーパー戦隊シリーズ以外の特撮をおまけにした食品が発売され続けていく。 * [[1992年]]([[平成]] 4年) - カルビーの[[Jリーグチップス]]が発売される。プロ野球スナックの[[サッカー]]版で、サッカー選手のカードが付属する。袋の外側に貼り付けられたカードが盗まれる事件が多発したため、一部店舗では予めカードを外し、会計時に店員が客に手渡すという対策が講じられた。 * [[1997年]](平成 9年) - [[カンロ]]から[[キンダーサプライズ]]が販売される。卵形チョコレートの中に玩具が入っている。イタリアのフェレロ社から日本フェレロ社が輸入した製品で、日本での販売は2度目。2年後に始まるチョコエッグの流行の先達となる。 * [[1998年]](平成10年) - [[サントリーフーズ]]の[[ペプシコーラ]]に[[ペプシマン]]の[[ボトルキャップ]]が付き始める。日本初のボトルキャップ食玩。 * [[1999年]](平成11年)1月 - [[不二家]]のミニミニ[[ペコちゃん]]が発売される。世界のペコポコ人形が付属する。出荷が追い付かず3月には販売を一時停止するほど大人の女性に人気を博し、これまで子供と大人のおたくが中心だと思われがちだった食玩の購買層を大きく広げた。本製品以後、食玩市場は大人に注目し始める<ref>『[[ダカーポ (雑誌)|ダカーポ]]』2001年1月3・17日合併号、68頁。</ref>。 * 1999年(平成11年)[[8月23日]] - サントリーフーズのペプシコーラに[[スター・ウォーズ・シリーズ]]のボトルキャップが付き始める。これ以降ボトルキャップの食玩が次々と流行し定番化していく。 * 1999年(平成11年)9月 - [[フルタ製菓]]の[[チョコエッグ]] 日本の動物シリーズが発売される。キンダーサプライズ同様、卵形チョコレートの中に玩具が入っている。企画段階から実力のある模型メーカー[[海洋堂]]が参加したことによる造形の質の高さだけでなく、テレビキャラクターのような流行り廃りがない点や、'''[[シークレットアイテム]]の混入'''が功を奏し、大人をも巻き込んだ社会現象を生んだ。業界の拡大、質の高水準化、主力購買層の高年齢化等、食玩・フィギュア業界に与えた影響は大きい。 * [[2002年]](平成14年) - [[ダイドードリンコ]]の[[缶コーヒー]]「ダイドーデミタスコーヒー」に自動車雑誌「[[NAVI]]」が監修した[[日本車|国産]][[旧車]]の[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]が付き始める。以後、同業他社も期間限定で追随する。 * [[2005年]](平成17年)[[3月14日]] - [[バンダイ]]の[[神羅万象チョコ]]が発売される。「ビックリマン 悪魔VS天使シール」同様、オリジナルキャラクターのカードが付属する。玩具会社の食玩としては、主に[[おたく]]層からの高い支持を得た。 * 2005年(平成17年)9月 - [[公正取引委員会]]がサントリーフーズのペプシコーラに付属する『[[機動戦士ガンダムSEED]]』の[[ボトルキャップ]]について、景品ではなく懸賞品に当たり、またボトルキャップは懸賞金の上限価格を超えると警告した。これを受けてサントリーはボトルキャップが入っている袋を透明な物に変更し、懸賞品ではなく景品扱いとなるよう改良した。また公正取引委員会は[[全国清涼飲料工業会]]に対しても同様の販売手法を取らないよう要請した。 * [[2009年]](平成21年)[[8月31日]] - [[日清食品]]の[[カップヌードルしょう油|カップヌードルしょうゆ味]]に『[[機動戦士ガンダム]]』30周年記念のコラボレーション商品として「いろプラガンダム」シリーズとしては史上最小 (1/380スケール) となる特製オリジナル[[ガンプラ]]をカップヌードルにパックした「カップヌードル miniガンプラパック」が数量限定で発売。 * [[2019年]]([[令和]]元年)- 食玩が同年10月の[[消費税率]]引き上げと同時に導入される[[軽減税率]]の適用対象となるかどうかをめぐり議論になった。食玩は一定の条件を満たせば、10%の消費税率ではなく、8%の軽減税率が適用される「飲食料品」とみなされるが、線引きが難しいためである。[[国税庁]]の指針によると、食玩は税抜き価格が1万[[円 (通貨)|円]]以下で、価格のうち食品の割合が3分の2以上なら軽減税率が適用されることになっているが、多くのメーカーは価格によらず、食品をメインとするものを8%、玩具をメインとするものを10%とする方針を示している<ref>{{Cite web|和書|title=食玩は軽減税率?=線引きに悩むメーカー-消費税 |url=https://www.nippon.com/ja/news/yjj2019090400526/ |website=nippon.com |date=2019-09-04 |access-date=2022-11-25 |language=ja}}</ref>。 == 代表的な食玩シリーズ == * [[グリコ (菓子)|グリコ]]([[江崎グリコ]]) ** [[グリコ (菓子)#タイムスリップグリコ]] - 大人向けグリコ * [[仮面ライダースナック]]、[[プロ野球チップス]]、[[Jリーグチップス]]([[カルビー]]) * [[ビッグワンガム]]([[カバヤ食品]]) * [[ビックリマン]]、[[ジョイントロボ]]([[ロッテ]]) * [[チョコエッグ]]([[フルタ製菓]]) * [[チョコQ]]([[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]) == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[カプセルトイ]] * [[ミニカー (玩具)]] * [[フィギュア]] / [[動物フィギュア]] * [[トレーディングカード]] / [[トレーディングカードゲーム]] * [[海洋堂]] * [[デアゴスティーニ]] * [[リーメント]] {{模型}} {{DEFAULTSORT:しよくかん}} [[Category:食玩|*]] [[Category:玩具]] [[Category:コレクション]] [[Category:フィギュア]]
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RAID
RAID(Redundant Arrays of Inexpensive Disks、または Redundant Arrays of Independent Disks、レイド)は、複数台のハードディスクを組み合わせることで仮想的な1台のハードディスクとして運用し冗長性を向上させる技術。ディスクアレイの代表的な実装形態で、主に信頼性・可用性の向上を目的として用いられるものである。バックアップと混同される場合もあるが、RAIDはあくまでも運用に対しての冗長性を確保するものでありバックアップとは異なる点に注意が必要。 本記事において、「装置」という語句を用いるが、これはRAIDが取り付けられる機器(サーバ・ワークステーション・パソコンなど)の総称を意味する。 1988年にカリフォルニア大学バークレー校のデイビッド・パターソン, Garth A. Gibson, Randy H. Katzによる論文「A Case for Redundant Arrays of Inexpensive Disks (RAID)」において提唱された。 この論文は、安価で低容量、価格相応の信頼性のハードディスクドライブ (Inexpensive Disk) を用い、大容量で信頼性の高いストレージ(補助記憶装置)をいかに構築すべきかを提案したものである。論文にはハードディスクの構成によって、RAID 1からRAID 5までの5種類を定義している。 また、論文では提案されていないが、ストライピングのみの場合も一般的にはRAIDの一種とみなされ、これは冗長性が確保されないことからRAID 0と呼ばれる。 はじめに定義された6種類のうち、RAID 2はほとんど利用されず、RAID 3,4もRAID全体の中では少数派である。今日ではRAID 0・RAID 1・RAID 5、およびこれら3方式の組み合わせが用いられている。後にRAID 5を拡張したRAID 6が定義され、RAID 5より耐障害性が必要な場面で利用されている。 導入を検討するユーザにとっては、信頼性 ・ 速度 ・ 予算(ハードディスクの利用効率も含む)の内どれを重視するかを考え、実情にあわせた導入方法を選択することができる。3つを完全に満たすのは難しいが、2つを満たす現実的な方法は充分にある。 RAIDの構成によっては、一部のハードディスクが故障してもディスクアレイは稼動を継続できる。その場合、ディスクを稼働させたまま故障したハードディスクを取り外して代わりのハードディスクに交換することにより装置を停止することなく運用を続けることができる。このように装置が稼働中に接続しなおして、即座に利用できる機能を「ホットスワップ(活線挿抜)」と呼ぶ。ホットスワップ機能を使用するには装置側でハードウェアとして対応していることが前提となる。サーバ用途など24時間連続稼働が求められる装置ではホットスワップ対応が望ましい。 RAIDは、大容量データの高速処理や耐障害性の向上を必須要件とする大規模な業務用サーバやワークステーション、特定目的に製造されたコンピュータ機器等に用いられていたが、近年、小規模サーバやパソコンにも普及しつつある。 RAIDは複数のHDDを用いて、ディスクアレイの可用性を高める技術である。そのため、ファイルの誤消去など人為的なもの、コンピュータウイルスによるファイルの破壊、ファイルシステムの不整合など、ソフトウェア的な障害には対応できない。またHDDが同時期に複数故障する、リビルド時に他のHDDが障害を起こす等、単体のHDDに比べれば非常に低いがディスクアレイも故障の可能性を持つ。 バックアップは、データを静的な状態で、一定期間、複数世代、保存するものであり、RAIDとは役割が異なる。データはRAIDとバックアップの両者を組みあわせて運用することにより、サービスの継続性を保証しつつ、高い安全性を持って保全することができる。 RAIDを実装する方法としては、ハードウェアで実現する方法(ハードウェア方式)とソフトウェアで実現する方法(ソフトウェア方式)がある。この2方式は明確に分類できるものではなく、中間的な方式がいくつか存在する。 この方式は、RAIDコントローラと呼ばれるカードを装置に取り付け、パリティ演算やディスクの管理などを任せるものである。ドライバさえ用意すればハードウェア側のマシンパワーに影響を与えず、カード自体に専用のキャッシュメモリを搭載している場合はアクセスの高速化が見込める。一部のマザーボードにはRAIDコントローラをあらかじめ実装している製品がある。 純粋なハードウェア方式では、ホストが僅かな指示を送るだけでRAIDコントローラが具体的な処理を全て行うため、CPUの負荷が低減される。しかし、コントローラ毎に制御方法が異なるため、OS側で各RAIDコントローラカードへの対応が必要であり、専用のデバイスドライバが必要となる。 一方、RAIDコントローラカードの中には、RAID機能の大部分をソフトウェアで実現しているものもある。この場合、OS起動前にある程度のRAID機能を使用可能であるがCPUの負荷はソフトウェア方式と大差が無く、ハードウェア方式に比べて対応OSが限定されたり信頼性に乏しい場合があり、ソフトウェア方式に分類される。 複数のディスクを搭載出来るケースにRAIDを搭載したハードウェア。コンピュータやOS側からは単なるSCSIやファイバーチャネルのドライブとして見えるため、特別なドライバが必要なく、CPUへの負荷が全くない。ディスクアレイユニットを接続したい装置に必要な外部接続インタフェースがすでにあれば装置の筐体を開けることもなく、ケーブルをつなぐだけで使えるようになる。 ソフトウェア方式は、OS自身が普通のドライブコントローラ(IDE、SCSI、FC など)を通して複数台のディスクを管理する。この方式はハードウェア方式と比較し、CPUへの負荷が高いが、特別なハードウェアを購入する必要がなく導入コストが低いという利点がある。しかしながらアクセスコントロールの大半をOSやCPUに依存するためマシンパワーを消費すること、物理的なキャッシュが存在しないためハード的な障害やソフトウェア側の障害発生に伴ってRAID情報に致命的な問題を引き起こす可能性がハードウェア方式に比べて高いという欠点が存在する。 Windowsは、RAID機能をサポートしている。Linuxは、カーネル2.4系以降にてRAID0/1/4/5/6をサポートしている。FreeBSDは、gmirrorというソフトウェアにてサポートしている。ファイルシステムのZFSはそれ自身にRAID機能をもち、RAID5またはRAID6相当の機能としてそれぞれRAID-Z、RAID-Z2が実装されている。インテルのチップセットでは、マトリックス・ストレージ・マネージャー機能によりRAID機能をサポートしている。これはソフトウェアというよりはファームウェアでのRAIDである。Adaptecの低価格RAIDボードでは、HostRAIDによりソフトウェアRAIDを行っている。 近年、サーバ向けチップセットだけでなくメインストリーム向けのチップセットでもRAIDコントローラ機能(0/1/0+1/5など)を集積したものが広く普及しつつある。マトリックス・ストレージ・マネージャー機能はMUX(マルチプレクサ)/DEMUX(デマルチプレクサ)で構成されており、CPUが発行したディスクI/O操作を複数のハードディスクへのディスクI/Oに分散・またディスクからの読み出しの多重化を行う(パリティ演算機能を持つものと持たないものがある)。信頼性はもとより、ディスクI/O速度を高速化する総合アクセラレータ的要素が強い。このため、ソフトウェア方式に分類される場合が多い。 ハードディスクの必要台数が増えるため、特にRAIDコントローラカードを用いて装置内部にハードディスクを取り付けている場合、電源がハードディスク台数分の負担に耐えられるか注意すべきである。 ハードディスクは突入電流等により起動時に最も電力を必要とするため、スタッガードスピンアップ(各ディスクに時間差を置いて起動する)機能を搭載しているRAIDコントローラもある。 RAID 5の問題として有名だが、複数のHDDを束ねて1つのグループと見なす、すべてのRAIDシステムで起こりうる。 RAID 2以外のRAIDは読み出し時のエラー検出をHDDのエラー検出に依存しているので、RAIDシステムではエラー検出が出来ない。 物理的な破損等でHDDから応答が無かった場合や読み出しエラーをHDDが返した場合に限り、RAIDシステムではエラーを検出できるが、正しく読み出せる場合はエラー検出が出来ない。 例えば、2台でのRAID 1の場合、RAIDコントローラからHDD AとHDD Bに同時に書き込みリクエストは発生するが、HDDには書き込み時の処理のタイムラグがあるため、HDD Aには書き込みが完了したがHDD Bには書き込みが発生していないと言うタイミングが存在する(逆もしかり)。 このタイミングで電源断等により処理が中断した場合、HDD Aには新しく書き込まれたデータ、HDD Bには上書きされる前の古いデータが記録されており、HDD AとHDD Bのミラーとして対になるセクタの値が同一ではなくなる。 ブロックサイズが大きい場合は、ブロック自体が複数のセクタで構成されているため、同一HDDの中でも、ブロックを構成する一部のセクタのみ書き込み完了しそれ以外は書き換えられていないということも発生する。 このようにRAIDを構成するグループのHDDのブロックすべてに書き込めずに、穴が開いたのように書き込まれるためライトホールと呼ばれる。 HDDレベルではどちらも正常なのでエラー無く読み出せるが、HDD毎に異なる値が読み出されるようになる。 これはRAIDレベルでは不整合を起こした状態となり、RAIDシステムではエラー検出機能を持っていないために、エラーが起きている事を検出することが出来ない。 結果として、RAID 1の場合は、読み込むHDDによって値が変わる。上記の例ではHDD Bの書き込みがされていないためにBから読み出された場合やHDD Aが破損し、HDD BからHDD A'にリビルドされた際にデータが壊れる。 RAID 3,4,5、6の場合は、誤ったパリティによりデータが破壊される。 これらを、サイレントクラッシュ(正確にはサイレントデータコラプション)と呼ぶ。 バッテリバックアップされたNVRAMやフラッシュメモリ等の不揮発メモリを持っているハードウェアRAIDでは、 HDDから書き込みの完了・未完了等のトランザクション管理をしているためこの問題は発生しないようになっているが、 ソフトウェアRAIDや、不揮発メモリを持たない安価なハードウェアRAIDでは、この問題が発生する。 RAID 2はそれ自体がハミングコードによるエラー検出機能を持っているので、この問題は発生しない。 RAID-Zもブロック単位での書き換えがCopyOnWriteにより保証される事とチェックサムがあるためにこの問題は発生しない。 RAID 0からRAID 6まで7種類のうち、よく利用されるのはRAID 0・RAID 1・RAID 5・RAID 6で、RAIDコントローラやソフトウェアによって使用できるレベルが限定されている場合が多い。 各RAIDレベルを組み合わせて信頼性と速度を両立させることができる。 サーバ用途としては、データの保全性を重視するためRAID 1またはRAID 5が主に利用されている。サーバ台数の限られた環境で、一台のサーバにかかる負担が高い場合はこれらにRAID 0を組み込んで高速化を狙うケースもある(もちろんサーバ自体を増設して、一台あたりの負担を軽減することも検討すべきであり、負荷の度合い・設置場所の都合・予算などを多角的に検討する必要がある。単にRAID 0をかぶせて高速化することだけに過度の期待を寄せるべきではない)。 RAIDの方式によらず、サーバ用途の場合はトラブル発生時に速やかなハードディスク交換を実施できる態勢を採るのが重要であり、ホットスペアやホットスワップ対応の製品を用いるのが望ましい。 また、ある種のアプリケーションは、制御情報はRAID 1またはRAID 5のファイルシステムに保存し、マルチメディアデータはRAID 0に保存するとともにテープや光メディアにバックアップしている。 RAID 0はデータを分割し、複数台のハードディスクに同時に分散して読み書きする。高速化が可能となる。ストライピングとも呼ぶ。冗長性がなく耐障害性もないが、実装要素(ハードウェアおよびソフトウェア)はRAIDのそれらを転用できるため、他のRAIDモードとともに実装しているコントローラが多い。冗長性を持たないことを明示する意味で、無を表現する数であるゼロが付される。最低2台のドライブが必要である。 1台のドライブが故障しただけでアレイ全体の故障となるため、その故障率は単体ドライブに比べ高い。例えば、単位時間あたりのドライブ故障率が1%の場合、2台でRAID 0を構成した場合のアレイの故障率は約2% (1-0.99*0.99=0.0199) と約2倍に上昇する。 単独のRAID 0では速度は向上するものの故障率が増加することから、後述のRAID 1や5と組み合わせて用いられることも多い。 RAID 1は複数台のハードディスクに、同時に同じ内容を書き込む。これをミラーリングと呼ぶ。最もシンプルな方式であり、RAIDの弱点であるコントローラの故障にも対応しやすい。最低2台のドライブが必要である。 全てのディスクが同時に故障する可能性は低いため、システムの安定性は高い。 例えば、単位時間当たりのドライブの故障率を1%として2台でRAID 1を構成する場合、アレイの故障率は0.01% (0.01*0.01=0.0001) と1/100となる。 ただし、利用可能な容量は単体のハードディスク容量を超えない。台数が増えるほど容量効率が悪くなる。効率重視ならばRAID 5の方がよい。 本来読み出しは、一つのドライブからのみでそれ以外はバックアップである。全てのディスクから読み出せば、理論上、高速に読み出せる。 初期のネットワークOSであるNetware 2.x、3.xは、上記を取り入れており、コントローラが複数個ある場合には、一方のディスクに書き込みながら他方のディスクから読み込みを行うなどの負荷分散を行っていた。従って、ディスク間で記録データに不一致が発生する時間があり、ディスクの同期を完了させてから終了する必要があった。 しかし、常に性能を重視した実装が行われている訳ではなく、Windows NTのソフトウェアRAID 1では、読み込みは常にひとつのディスクからのみ行われる。Windows Server 2003は低負荷時には片方から、高負荷時には負荷分散を行う。 RAID 0とRAID 1を組み合わせた構成を特別にRAID 0+1 (RAID 01) およびRAID 1+0 (RAID 10) と呼ぶ。高速化、大容量化を目指したRAID 0と高信頼性を求めたRAID 1を組み合わせることにより、速度、容量、耐障害性の向上を図ることができる。最低4ドライブ必要である。 RAID 0とRAID 1は相性がよく、 RAID 1の特性によりRAID 0の弱点であったランダムアクセスも高速化できる。RAID 1を使用しているためコントローラの2重化にも対応できるので、容量が必要でなおかつ強力な耐障害性を求める場合に採用されることが多い。 RAID 0とRAID 1、どちらを下層で行うかにより名前が変わる。0または1は、下層で行われる処理を先に表記する。一見どちらも同じように見えるが耐障害性の面で異なる。 ドライブ故障への耐性はRAID 1+0のほうが優れている。RAID 0+1ではRAID 1を構成するRAID 0領域のドライブそれぞれ1台ずつが故障した時点でデータが破壊されるが、RAID 1+0ではRAID 0を構成するRAID 1セットの構成ドライブ2台がどちらも故障しない限りデータは破壊されない。台数が増えれば増えるほどRAID 1+0のほうが耐障害性が上がる。コントローラ故障への耐性はRAID 0+1が上回る局面も存在しうるが、基本的にはRAID 1+0のほうが優れていると考えてよい。 RAID 2の冗長化機構はハミング符号で、ストライプ単位は1ビットである。ハミングコードによるビット単位のデータ修復が常に必要なほどHDDの信頼性は低くないので、RAID 2は実用性がなく、製品は市販されていない。 必要なドライブ数は、ハミングコードの訂正可能ビット数により異なるため一意に記述できないが、最低で5台のドライブを必要とする。 RAID 3はRAID 2の誤り訂正符号を排他的論理和によるパリティに変更し、演算コストを低減したものである。 最低3ドライブで構成され、1台を誤り訂正符号に割り当て、残りの複数台にデータを記録する。 ビデオ編集機器においてはアクセスの殆どがシーケンシャルアクセスであることから、現在でもRAID 3が用いられている場合があるが、パソコンやサーバでRAID 3を用いるメリットは存在しない。 RAID 4はRAID 3のI/O単位をブロックに拡大し、I/O効率の改善を図ったものである。最低3台で構成される。以下の短所からRAID5へ移行され、RAID4は実質的に消滅している。 RAID 5は水平パリティを使用して複数のハードディスクに誤り訂正符号データと共に分散させて記録することで、RAID 3、RAID 4のボトルネックを回避している。最低3ドライブが必要である。RAID1やRAID1+0に比べて使用効率に優れている。またRAID0のように複数のディスクに分散しているため読み出し性能が優れている。一方で書き込む場合にはパリティブロックを作成しなおすために、ディスクからの既存パリティ読み出しとパリティ演算が伴うが、I/Oプロセッサを搭載した高価格帯製品ではパリティを大容量キャッシュに保存しパリティ演算をI/Oプロセッサや専用演算機にて行う事で速度低下を回避している。 RAID 5においてパリティはパリティ用領域に使用されるディスク以外のXORで水平方向のパリティ (PH) をとる。水平パリティはそれぞれのディスクに格納され、1台のディスク障害に耐えることができる。ディスク障害時は障害の発生したディスクのXORによる再計算で復元が可能である。 データ書き込み時におけるパリティ計算方法の一例を下記に掲載する(An、BnはA1 B1 A2 B2 A3 B3の順に並んだデータブロック)。 A1/B1/PH1/ A2/PH2/B2/ PH3/A3/B3/ PH1=A1+B1 PH2=A2+B2 PH3=A3+B3 RAID 5に速度面、耐障害性などでの不満がある場合、RAID 0+1や1+0と同様に、他のRAIDと組み合わせることで弱点をカバーできる。 RAID 5の速度を向上させたい場合、使っている台数と同数のハードディスクを追加してRAID 0と組み合わせるか、サーバを増設し負荷を分散させるのが有効である。RAID 5+0およびRAID 0+5を構成する場合は、最低6ドライブが必要である。 RAID 1+0や0+1と同様、RAID 5とRAID 0のどちらを先に行うかで名前が変わる。RAID 5のセットによるストライピングを行うRAID 5+0のほうが、次の理由で優れているといえる。 RAID 6を上回る強力な耐障害性が要求される場合、この組み合わせが選択肢となる。RAID 5+0やRAID 0+5と同様、最低6ドライブを必要とする。 RAID 5+1、RAID 1+5とも3ドライブまでの同時故障に耐えられるが、RAID 1+5のほうがより強い耐障害性を持つ。 メンテナンス性にも優れる。何らかの理由によりすべてのドライブを交換する必要が生じた場合、ミラーの片方のディスクを一度に交換し、リビルド後に残りを交換して再リビルド、という簡便な手順で、装置を止めることなく交換を完了でき、またこの作業中もRAID 5の耐障害性が残っている。 RAID 5によってRAID 5を組む、RAID 5+5も考えられる。この構成には最低9ドライブを要する。 RAID 5+1や1+5と同様、同時に3ドライブまでの故障に耐えられ、またディスク利用効率でそれらを上回る。耐障害性ではRAID 5+1と1+5の中間程度になる。 同様に、3次元化したRAID 5+5+5、4次元化したRAID 5+5+5+5なども考えられる。RAID 5+5+5は7台、RAID 5+5+5+5は15台までの同時故障に耐えられるが、必要となるドライブ数およびディスク効率の面から実用的ではない。 RAID 6は任意の2つのハードディスクに障害が発生してもデータが復元できるRAIDである。冗長データを2種類作成し2つのディスクに記録することで、2重障害に対応でき、同時に2ドライブが故障しても復元できる。最低4ドライブを必要とする。1つの冗長データはRAID5と同じようにパリティ符号を用いる。もう1つの冗長データは、異なるアドレスのデータからパリティを生成する方式(対角線パリティ)や、異なる係数を乗算してから生成する方式(P+Qパリティ)など、複数の実装形態がある。RAID 1のミラーリングを3重化した場合も2つのハードディスク障害に対応できるが、これは通常RAID 6とは呼ばない。 EMC CLARiX/CLARiiON のRAID6では EVENODDアルゴリズムを使って、X86プロセッサのXOR命令でパリティの計算、データのリカバリをソフトウェアで行っている。 大規模なシステムでは、RAID 6を用いた多重RAIDも、RAID 5と同様に考えられる。 RAID 6ではRAID 5の水平パリティ (PH) に加え、対角線パリティ (PD) もパリティとして使用される。 水平パリティとは異なり対角線パリティは専用のディスクに格納される。ディスク4台でRAID6を構成しているとき、対角線パリティの配置と計算は以下の通り。 PH1/B1 /C1 /PD1 A2 /PH2/C2 /PD2 A3 /B3 /PH3/PD3 PD1=PH1+C2+B3 PD2=B1+A2+PH3 PD3=C1+PH2+A3 PパリティはRAID5と同じXORによるパリティであり、もう一つの冗長データであるQパリティは重みつきのガロア体GF(2) における剰余、つまり8ビットのCRCを用いる。8ビットCRCの制限により、この方式を用いる限りデータディスクは255台(+冗長ディスク2台)までしかサポートできない。 規格のようなものがないため、生成多項式や重みのつけかたが各社で異なる。また高速化やハードウェア的な最適化のためにあらかじめ定数をかけたテーブルが用意されているなど、単純なCRCには見えない場合もある。あるいは、これ以外の算出方法を採っている場合も有り得る。 具体的な算出方法は以下の通りである。 データディスクをA・B・C・Dとし、冗長ディスクをP・Qとする。現実には冗長ディスクは分散されているが、便宜上こうしておく。 ここで、AとはデータディスクAにある1バイトのデータであり、以下B・C・D・P・Qそれぞれ、対応する同じ位置にある1バイトのデータを示す。またCRC(x) は、値xをビット列とした時のCRC符号である。このCRCは、生成多項式が既約性を持つ(==原始多項式である)必要がある。また上記加算 (+) 及び乗算 (*) は、共にガロア体での加算乗算である。 また回復方法は以下の通りである。 例えばB・Dが破損したとする。 となるので、この連立方程式を解く。 これを代入して ここで、CRCの生成多項式は原始多項式であるので、10と互いに素である。ここから中国の剰余定理を利用してBを算出する。つまり左辺を10(二進法で1010)で割る。 それを に代入して D を求める。 RAID ZはRAID 5やRAID 6と似た機構を持ち、速度と耐障害性を向上させたもの。 Oracle社のSolarisやFreeBSDにおいて、ZFSとしてRAID Z1,Z2,Z3が実用化されている。 RAID 5やRAID 6ではパリティ更新時に何らかの障害が発生するとデータとパリティが一致しなくなり、システム上では正常に見えても内部ではデータ破壊が進んでいるという状態(サイレントクラッシュ)に陥るという致命的な欠点がある。またストライプ幅より小さいデータを書き込む際にも、全体のデータとパリティを読み込んで再計算をする必要があるため、パフォーマンスが著しく低下するという弱点も持っている。 RAID Zでは常にストライプ全体への書き込みを行い、コピーオンライトと組み合わせることでRAID 5やRAID 6が持つサイレントクラッシュの問題を完全に回避できる。 プログラムをコピーペーストして拡張子を(.vbs)して開くとRAID容量の計算ができます。 このプログラムではRAID0,1,1e,10,5,6が計算できます。 無効ディスクドライブ (DDD、Defunct Disk Drive) とは、RAIDを構成するディスクにおいて何らかの障害が発生し、RAIDの構成ディスクから外されたディスクないしその状態を示す。 予備ディスクドライブ (Spare Disk Drive) (予備ディスク)は、RAIDの構成で普段は使用されていないが、使用中のいずれかのディスクに障害が発生した時にそのディスクを置き換えることに備えて接続されているハードディスク装置である。ベンダーによって呼称は異なるが、ホットスペアに該当するものである。 たとえば、全部で4台のディスクのうち3台でRAID 5を構成するシステムを考える。RAID 5中のいずれか一台のディスクが故障すると、予備ディスクで故障ディスクを自動的に置き換えて元通りRAID 5を構成する。 これら4台のディスクでRAID 6を構成しても同じ実効ディスク容量が得られるが、それと比較して予備ディスクは以下の利点・欠点をもっている。 また、4台のディスクのうち3台でRAID 1を構成すると、上記のリシンク中の冗長性欠如のリスクは大幅に低減する。 RAID中に組み込まれたディスクはリアルタイム・オンラインで冗長性を作り出しているのに対して、予備ディスクは実際の故障発生時にオフラインバッチ処理でまとめて冗長性を作り出していると見ることもできる。 一般的に複数のディスクを構成する際にはRAIDが使用されるが、RAIDを使用しないディスク構成も存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "RAID(Redundant Arrays of Inexpensive Disks、または Redundant Arrays of Independent Disks、レイド)は、複数台のハードディスクを組み合わせることで仮想的な1台のハードディスクとして運用し冗長性を向上させる技術。ディスクアレイの代表的な実装形態で、主に信頼性・可用性の向上を目的として用いられるものである。バックアップと混同される場合もあるが、RAIDはあくまでも運用に対しての冗長性を確保するものでありバックアップとは異なる点に注意が必要。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本記事において、「装置」という語句を用いるが、これはRAIDが取り付けられる機器(サーバ・ワークステーション・パソコンなど)の総称を意味する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1988年にカリフォルニア大学バークレー校のデイビッド・パターソン, Garth A. Gibson, Randy H. Katzによる論文「A Case for Redundant Arrays of Inexpensive Disks (RAID)」において提唱された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この論文は、安価で低容量、価格相応の信頼性のハードディスクドライブ (Inexpensive Disk) を用い、大容量で信頼性の高いストレージ(補助記憶装置)をいかに構築すべきかを提案したものである。論文にはハードディスクの構成によって、RAID 1からRAID 5までの5種類を定義している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また、論文では提案されていないが、ストライピングのみの場合も一般的にはRAIDの一種とみなされ、これは冗長性が確保されないことからRAID 0と呼ばれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "はじめに定義された6種類のうち、RAID 2はほとんど利用されず、RAID 3,4もRAID全体の中では少数派である。今日ではRAID 0・RAID 1・RAID 5、およびこれら3方式の組み合わせが用いられている。後にRAID 5を拡張したRAID 6が定義され、RAID 5より耐障害性が必要な場面で利用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "導入を検討するユーザにとっては、信頼性 ・ 速度 ・ 予算(ハードディスクの利用効率も含む)の内どれを重視するかを考え、実情にあわせた導入方法を選択することができる。3つを完全に満たすのは難しいが、2つを満たす現実的な方法は充分にある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "RAIDの構成によっては、一部のハードディスクが故障してもディスクアレイは稼動を継続できる。その場合、ディスクを稼働させたまま故障したハードディスクを取り外して代わりのハードディスクに交換することにより装置を停止することなく運用を続けることができる。このように装置が稼働中に接続しなおして、即座に利用できる機能を「ホットスワップ(活線挿抜)」と呼ぶ。ホットスワップ機能を使用するには装置側でハードウェアとして対応していることが前提となる。サーバ用途など24時間連続稼働が求められる装置ではホットスワップ対応が望ましい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "RAIDは、大容量データの高速処理や耐障害性の向上を必須要件とする大規模な業務用サーバやワークステーション、特定目的に製造されたコンピュータ機器等に用いられていたが、近年、小規模サーバやパソコンにも普及しつつある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "RAIDは複数のHDDを用いて、ディスクアレイの可用性を高める技術である。そのため、ファイルの誤消去など人為的なもの、コンピュータウイルスによるファイルの破壊、ファイルシステムの不整合など、ソフトウェア的な障害には対応できない。またHDDが同時期に複数故障する、リビルド時に他のHDDが障害を起こす等、単体のHDDに比べれば非常に低いがディスクアレイも故障の可能性を持つ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "バックアップは、データを静的な状態で、一定期間、複数世代、保存するものであり、RAIDとは役割が異なる。データはRAIDとバックアップの両者を組みあわせて運用することにより、サービスの継続性を保証しつつ、高い安全性を持って保全することができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "RAIDを実装する方法としては、ハードウェアで実現する方法(ハードウェア方式)とソフトウェアで実現する方法(ソフトウェア方式)がある。この2方式は明確に分類できるものではなく、中間的な方式がいくつか存在する。", "title": "RAIDの方式" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この方式は、RAIDコントローラと呼ばれるカードを装置に取り付け、パリティ演算やディスクの管理などを任せるものである。ドライバさえ用意すればハードウェア側のマシンパワーに影響を与えず、カード自体に専用のキャッシュメモリを搭載している場合はアクセスの高速化が見込める。一部のマザーボードにはRAIDコントローラをあらかじめ実装している製品がある。", "title": "RAIDの方式" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "純粋なハードウェア方式では、ホストが僅かな指示を送るだけでRAIDコントローラが具体的な処理を全て行うため、CPUの負荷が低減される。しかし、コントローラ毎に制御方法が異なるため、OS側で各RAIDコントローラカードへの対応が必要であり、専用のデバイスドライバが必要となる。", "title": "RAIDの方式" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一方、RAIDコントローラカードの中には、RAID機能の大部分をソフトウェアで実現しているものもある。この場合、OS起動前にある程度のRAID機能を使用可能であるがCPUの負荷はソフトウェア方式と大差が無く、ハードウェア方式に比べて対応OSが限定されたり信頼性に乏しい場合があり、ソフトウェア方式に分類される。", "title": "RAIDの方式" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "複数のディスクを搭載出来るケースにRAIDを搭載したハードウェア。コンピュータやOS側からは単なるSCSIやファイバーチャネルのドライブとして見えるため、特別なドライバが必要なく、CPUへの負荷が全くない。ディスクアレイユニットを接続したい装置に必要な外部接続インタフェースがすでにあれば装置の筐体を開けることもなく、ケーブルをつなぐだけで使えるようになる。", "title": "RAIDの方式" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ソフトウェア方式は、OS自身が普通のドライブコントローラ(IDE、SCSI、FC など)を通して複数台のディスクを管理する。この方式はハードウェア方式と比較し、CPUへの負荷が高いが、特別なハードウェアを購入する必要がなく導入コストが低いという利点がある。しかしながらアクセスコントロールの大半をOSやCPUに依存するためマシンパワーを消費すること、物理的なキャッシュが存在しないためハード的な障害やソフトウェア側の障害発生に伴ってRAID情報に致命的な問題を引き起こす可能性がハードウェア方式に比べて高いという欠点が存在する。", "title": "RAIDの方式" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "Windowsは、RAID機能をサポートしている。Linuxは、カーネル2.4系以降にてRAID0/1/4/5/6をサポートしている。FreeBSDは、gmirrorというソフトウェアにてサポートしている。ファイルシステムのZFSはそれ自身にRAID機能をもち、RAID5またはRAID6相当の機能としてそれぞれRAID-Z、RAID-Z2が実装されている。インテルのチップセットでは、マトリックス・ストレージ・マネージャー機能によりRAID機能をサポートしている。これはソフトウェアというよりはファームウェアでのRAIDである。Adaptecの低価格RAIDボードでは、HostRAIDによりソフトウェアRAIDを行っている。", "title": "RAIDの方式" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "近年、サーバ向けチップセットだけでなくメインストリーム向けのチップセットでもRAIDコントローラ機能(0/1/0+1/5など)を集積したものが広く普及しつつある。マトリックス・ストレージ・マネージャー機能はMUX(マルチプレクサ)/DEMUX(デマルチプレクサ)で構成されており、CPUが発行したディスクI/O操作を複数のハードディスクへのディスクI/Oに分散・またディスクからの読み出しの多重化を行う(パリティ演算機能を持つものと持たないものがある)。信頼性はもとより、ディスクI/O速度を高速化する総合アクセラレータ的要素が強い。このため、ソフトウェア方式に分類される場合が多い。", "title": "RAIDの方式" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ハードディスクの必要台数が増えるため、特にRAIDコントローラカードを用いて装置内部にハードディスクを取り付けている場合、電源がハードディスク台数分の負担に耐えられるか注意すべきである。", "title": "電源問題" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ハードディスクは突入電流等により起動時に最も電力を必要とするため、スタッガードスピンアップ(各ディスクに時間差を置いて起動する)機能を搭載しているRAIDコントローラもある。", "title": "電源問題" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "RAID 5の問題として有名だが、複数のHDDを束ねて1つのグループと見なす、すべてのRAIDシステムで起こりうる。 RAID 2以外のRAIDは読み出し時のエラー検出をHDDのエラー検出に依存しているので、RAIDシステムではエラー検出が出来ない。 物理的な破損等でHDDから応答が無かった場合や読み出しエラーをHDDが返した場合に限り、RAIDシステムではエラーを検出できるが、正しく読み出せる場合はエラー検出が出来ない。", "title": "ライトホール問題" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "例えば、2台でのRAID 1の場合、RAIDコントローラからHDD AとHDD Bに同時に書き込みリクエストは発生するが、HDDには書き込み時の処理のタイムラグがあるため、HDD Aには書き込みが完了したがHDD Bには書き込みが発生していないと言うタイミングが存在する(逆もしかり)。 このタイミングで電源断等により処理が中断した場合、HDD Aには新しく書き込まれたデータ、HDD Bには上書きされる前の古いデータが記録されており、HDD AとHDD Bのミラーとして対になるセクタの値が同一ではなくなる。 ブロックサイズが大きい場合は、ブロック自体が複数のセクタで構成されているため、同一HDDの中でも、ブロックを構成する一部のセクタのみ書き込み完了しそれ以外は書き換えられていないということも発生する。 このようにRAIDを構成するグループのHDDのブロックすべてに書き込めずに、穴が開いたのように書き込まれるためライトホールと呼ばれる。", "title": "ライトホール問題" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "HDDレベルではどちらも正常なのでエラー無く読み出せるが、HDD毎に異なる値が読み出されるようになる。 これはRAIDレベルでは不整合を起こした状態となり、RAIDシステムではエラー検出機能を持っていないために、エラーが起きている事を検出することが出来ない。", "title": "ライトホール問題" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "結果として、RAID 1の場合は、読み込むHDDによって値が変わる。上記の例ではHDD Bの書き込みがされていないためにBから読み出された場合やHDD Aが破損し、HDD BからHDD A'にリビルドされた際にデータが壊れる。 RAID 3,4,5、6の場合は、誤ったパリティによりデータが破壊される。 これらを、サイレントクラッシュ(正確にはサイレントデータコラプション)と呼ぶ。", "title": "ライトホール問題" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "バッテリバックアップされたNVRAMやフラッシュメモリ等の不揮発メモリを持っているハードウェアRAIDでは、 HDDから書き込みの完了・未完了等のトランザクション管理をしているためこの問題は発生しないようになっているが、 ソフトウェアRAIDや、不揮発メモリを持たない安価なハードウェアRAIDでは、この問題が発生する。", "title": "ライトホール問題" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "RAID 2はそれ自体がハミングコードによるエラー検出機能を持っているので、この問題は発生しない。 RAID-Zもブロック単位での書き換えがCopyOnWriteにより保証される事とチェックサムがあるためにこの問題は発生しない。", "title": "ライトホール問題" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "RAID 0からRAID 6まで7種類のうち、よく利用されるのはRAID 0・RAID 1・RAID 5・RAID 6で、RAIDコントローラやソフトウェアによって使用できるレベルが限定されている場合が多い。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "各RAIDレベルを組み合わせて信頼性と速度を両立させることができる。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "サーバ用途としては、データの保全性を重視するためRAID 1またはRAID 5が主に利用されている。サーバ台数の限られた環境で、一台のサーバにかかる負担が高い場合はこれらにRAID 0を組み込んで高速化を狙うケースもある(もちろんサーバ自体を増設して、一台あたりの負担を軽減することも検討すべきであり、負荷の度合い・設置場所の都合・予算などを多角的に検討する必要がある。単にRAID 0をかぶせて高速化することだけに過度の期待を寄せるべきではない)。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "RAIDの方式によらず、サーバ用途の場合はトラブル発生時に速やかなハードディスク交換を実施できる態勢を採るのが重要であり、ホットスペアやホットスワップ対応の製品を用いるのが望ましい。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、ある種のアプリケーションは、制御情報はRAID 1またはRAID 5のファイルシステムに保存し、マルチメディアデータはRAID 0に保存するとともにテープや光メディアにバックアップしている。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "RAID 0はデータを分割し、複数台のハードディスクに同時に分散して読み書きする。高速化が可能となる。ストライピングとも呼ぶ。冗長性がなく耐障害性もないが、実装要素(ハードウェアおよびソフトウェア)はRAIDのそれらを転用できるため、他のRAIDモードとともに実装しているコントローラが多い。冗長性を持たないことを明示する意味で、無を表現する数であるゼロが付される。最低2台のドライブが必要である。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1台のドライブが故障しただけでアレイ全体の故障となるため、その故障率は単体ドライブに比べ高い。例えば、単位時間あたりのドライブ故障率が1%の場合、2台でRAID 0を構成した場合のアレイの故障率は約2% (1-0.99*0.99=0.0199) と約2倍に上昇する。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "単独のRAID 0では速度は向上するものの故障率が増加することから、後述のRAID 1や5と組み合わせて用いられることも多い。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "RAID 1は複数台のハードディスクに、同時に同じ内容を書き込む。これをミラーリングと呼ぶ。最もシンプルな方式であり、RAIDの弱点であるコントローラの故障にも対応しやすい。最低2台のドライブが必要である。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "全てのディスクが同時に故障する可能性は低いため、システムの安定性は高い。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "例えば、単位時間当たりのドライブの故障率を1%として2台でRAID 1を構成する場合、アレイの故障率は0.01% (0.01*0.01=0.0001) と1/100となる。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ただし、利用可能な容量は単体のハードディスク容量を超えない。台数が増えるほど容量効率が悪くなる。効率重視ならばRAID 5の方がよい。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "本来読み出しは、一つのドライブからのみでそれ以外はバックアップである。全てのディスクから読み出せば、理論上、高速に読み出せる。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "初期のネットワークOSであるNetware 2.x、3.xは、上記を取り入れており、コントローラが複数個ある場合には、一方のディスクに書き込みながら他方のディスクから読み込みを行うなどの負荷分散を行っていた。従って、ディスク間で記録データに不一致が発生する時間があり、ディスクの同期を完了させてから終了する必要があった。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "しかし、常に性能を重視した実装が行われている訳ではなく、Windows NTのソフトウェアRAID 1では、読み込みは常にひとつのディスクからのみ行われる。Windows Server 2003は低負荷時には片方から、高負荷時には負荷分散を行う。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "RAID 0とRAID 1を組み合わせた構成を特別にRAID 0+1 (RAID 01) およびRAID 1+0 (RAID 10) と呼ぶ。高速化、大容量化を目指したRAID 0と高信頼性を求めたRAID 1を組み合わせることにより、速度、容量、耐障害性の向上を図ることができる。最低4ドライブ必要である。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "RAID 0とRAID 1は相性がよく、 RAID 1の特性によりRAID 0の弱点であったランダムアクセスも高速化できる。RAID 1を使用しているためコントローラの2重化にも対応できるので、容量が必要でなおかつ強力な耐障害性を求める場合に採用されることが多い。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "RAID 0とRAID 1、どちらを下層で行うかにより名前が変わる。0または1は、下層で行われる処理を先に表記する。一見どちらも同じように見えるが耐障害性の面で異なる。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ドライブ故障への耐性はRAID 1+0のほうが優れている。RAID 0+1ではRAID 1を構成するRAID 0領域のドライブそれぞれ1台ずつが故障した時点でデータが破壊されるが、RAID 1+0ではRAID 0を構成するRAID 1セットの構成ドライブ2台がどちらも故障しない限りデータは破壊されない。台数が増えれば増えるほどRAID 1+0のほうが耐障害性が上がる。コントローラ故障への耐性はRAID 0+1が上回る局面も存在しうるが、基本的にはRAID 1+0のほうが優れていると考えてよい。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "RAID 2の冗長化機構はハミング符号で、ストライプ単位は1ビットである。ハミングコードによるビット単位のデータ修復が常に必要なほどHDDの信頼性は低くないので、RAID 2は実用性がなく、製品は市販されていない。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "必要なドライブ数は、ハミングコードの訂正可能ビット数により異なるため一意に記述できないが、最低で5台のドライブを必要とする。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "RAID 3はRAID 2の誤り訂正符号を排他的論理和によるパリティに変更し、演算コストを低減したものである。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "最低3ドライブで構成され、1台を誤り訂正符号に割り当て、残りの複数台にデータを記録する。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ビデオ編集機器においてはアクセスの殆どがシーケンシャルアクセスであることから、現在でもRAID 3が用いられている場合があるが、パソコンやサーバでRAID 3を用いるメリットは存在しない。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "RAID 4はRAID 3のI/O単位をブロックに拡大し、I/O効率の改善を図ったものである。最低3台で構成される。以下の短所からRAID5へ移行され、RAID4は実質的に消滅している。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "RAID 5は水平パリティを使用して複数のハードディスクに誤り訂正符号データと共に分散させて記録することで、RAID 3、RAID 4のボトルネックを回避している。最低3ドライブが必要である。RAID1やRAID1+0に比べて使用効率に優れている。またRAID0のように複数のディスクに分散しているため読み出し性能が優れている。一方で書き込む場合にはパリティブロックを作成しなおすために、ディスクからの既存パリティ読み出しとパリティ演算が伴うが、I/Oプロセッサを搭載した高価格帯製品ではパリティを大容量キャッシュに保存しパリティ演算をI/Oプロセッサや専用演算機にて行う事で速度低下を回避している。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "RAID 5においてパリティはパリティ用領域に使用されるディスク以外のXORで水平方向のパリティ (PH) をとる。水平パリティはそれぞれのディスクに格納され、1台のディスク障害に耐えることができる。ディスク障害時は障害の発生したディスクのXORによる再計算で復元が可能である。 データ書き込み時におけるパリティ計算方法の一例を下記に掲載する(An、BnはA1 B1 A2 B2 A3 B3の順に並んだデータブロック)。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "A1/B1/PH1/ A2/PH2/B2/ PH3/A3/B3/", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "PH1=A1+B1 PH2=A2+B2 PH3=A3+B3", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "RAID 5に速度面、耐障害性などでの不満がある場合、RAID 0+1や1+0と同様に、他のRAIDと組み合わせることで弱点をカバーできる。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "RAID 5の速度を向上させたい場合、使っている台数と同数のハードディスクを追加してRAID 0と組み合わせるか、サーバを増設し負荷を分散させるのが有効である。RAID 5+0およびRAID 0+5を構成する場合は、最低6ドライブが必要である。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "RAID 1+0や0+1と同様、RAID 5とRAID 0のどちらを先に行うかで名前が変わる。RAID 5のセットによるストライピングを行うRAID 5+0のほうが、次の理由で優れているといえる。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "RAID 6を上回る強力な耐障害性が要求される場合、この組み合わせが選択肢となる。RAID 5+0やRAID 0+5と同様、最低6ドライブを必要とする。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "RAID 5+1、RAID 1+5とも3ドライブまでの同時故障に耐えられるが、RAID 1+5のほうがより強い耐障害性を持つ。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "メンテナンス性にも優れる。何らかの理由によりすべてのドライブを交換する必要が生じた場合、ミラーの片方のディスクを一度に交換し、リビルド後に残りを交換して再リビルド、という簡便な手順で、装置を止めることなく交換を完了でき、またこの作業中もRAID 5の耐障害性が残っている。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "RAID 5によってRAID 5を組む、RAID 5+5も考えられる。この構成には最低9ドライブを要する。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "RAID 5+1や1+5と同様、同時に3ドライブまでの故障に耐えられ、またディスク利用効率でそれらを上回る。耐障害性ではRAID 5+1と1+5の中間程度になる。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "同様に、3次元化したRAID 5+5+5、4次元化したRAID 5+5+5+5なども考えられる。RAID 5+5+5は7台、RAID 5+5+5+5は15台までの同時故障に耐えられるが、必要となるドライブ数およびディスク効率の面から実用的ではない。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "RAID 6は任意の2つのハードディスクに障害が発生してもデータが復元できるRAIDである。冗長データを2種類作成し2つのディスクに記録することで、2重障害に対応でき、同時に2ドライブが故障しても復元できる。最低4ドライブを必要とする。1つの冗長データはRAID5と同じようにパリティ符号を用いる。もう1つの冗長データは、異なるアドレスのデータからパリティを生成する方式(対角線パリティ)や、異なる係数を乗算してから生成する方式(P+Qパリティ)など、複数の実装形態がある。RAID 1のミラーリングを3重化した場合も2つのハードディスク障害に対応できるが、これは通常RAID 6とは呼ばない。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "EMC CLARiX/CLARiiON のRAID6では EVENODDアルゴリズムを使って、X86プロセッサのXOR命令でパリティの計算、データのリカバリをソフトウェアで行っている。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "大規模なシステムでは、RAID 6を用いた多重RAIDも、RAID 5と同様に考えられる。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "RAID 6ではRAID 5の水平パリティ (PH) に加え、対角線パリティ (PD) もパリティとして使用される。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "水平パリティとは異なり対角線パリティは専用のディスクに格納される。ディスク4台でRAID6を構成しているとき、対角線パリティの配置と計算は以下の通り。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "PH1/B1 /C1 /PD1 A2 /PH2/C2 /PD2 A3 /B3 /PH3/PD3", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "PD1=PH1+C2+B3 PD2=B1+A2+PH3 PD3=C1+PH2+A3", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "PパリティはRAID5と同じXORによるパリティであり、もう一つの冗長データであるQパリティは重みつきのガロア体GF(2) における剰余、つまり8ビットのCRCを用いる。8ビットCRCの制限により、この方式を用いる限りデータディスクは255台(+冗長ディスク2台)までしかサポートできない。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "規格のようなものがないため、生成多項式や重みのつけかたが各社で異なる。また高速化やハードウェア的な最適化のためにあらかじめ定数をかけたテーブルが用意されているなど、単純なCRCには見えない場合もある。あるいは、これ以外の算出方法を採っている場合も有り得る。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "具体的な算出方法は以下の通りである。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "データディスクをA・B・C・Dとし、冗長ディスクをP・Qとする。現実には冗長ディスクは分散されているが、便宜上こうしておく。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ここで、AとはデータディスクAにある1バイトのデータであり、以下B・C・D・P・Qそれぞれ、対応する同じ位置にある1バイトのデータを示す。またCRC(x) は、値xをビット列とした時のCRC符号である。このCRCは、生成多項式が既約性を持つ(==原始多項式である)必要がある。また上記加算 (+) 及び乗算 (*) は、共にガロア体での加算乗算である。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "また回復方法は以下の通りである。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "例えばB・Dが破損したとする。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "となるので、この連立方程式を解く。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "これを代入して", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ここで、CRCの生成多項式は原始多項式であるので、10と互いに素である。ここから中国の剰余定理を利用してBを算出する。つまり左辺を10(二進法で1010)で割る。 それを", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "に代入して D を求める。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "RAID ZはRAID 5やRAID 6と似た機構を持ち、速度と耐障害性を向上させたもの。 Oracle社のSolarisやFreeBSDにおいて、ZFSとしてRAID Z1,Z2,Z3が実用化されている。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "RAID 5やRAID 6ではパリティ更新時に何らかの障害が発生するとデータとパリティが一致しなくなり、システム上では正常に見えても内部ではデータ破壊が進んでいるという状態(サイレントクラッシュ)に陥るという致命的な欠点がある。またストライプ幅より小さいデータを書き込む際にも、全体のデータとパリティを読み込んで再計算をする必要があるため、パフォーマンスが著しく低下するという弱点も持っている。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "RAID Zでは常にストライプ全体への書き込みを行い、コピーオンライトと組み合わせることでRAID 5やRAID 6が持つサイレントクラッシュの問題を完全に回避できる。", "title": "RAIDレベル" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "プログラムをコピーペーストして拡張子を(.vbs)して開くとRAID容量の計算ができます。", "title": "計算方法(RAID0, 1, 10, 5, 6)" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "このプログラムではRAID0,1,1e,10,5,6が計算できます。", "title": "計算方法(RAID0, 1, 10, 5, 6)" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "無効ディスクドライブ (DDD、Defunct Disk Drive) とは、RAIDを構成するディスクにおいて何らかの障害が発生し、RAIDの構成ディスクから外されたディスクないしその状態を示す。", "title": "Defunct Disk Drive" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "予備ディスクドライブ (Spare Disk Drive) (予備ディスク)は、RAIDの構成で普段は使用されていないが、使用中のいずれかのディスクに障害が発生した時にそのディスクを置き換えることに備えて接続されているハードディスク装置である。ベンダーによって呼称は異なるが、ホットスペアに該当するものである。", "title": "Spare Disk Drive" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "たとえば、全部で4台のディスクのうち3台でRAID 5を構成するシステムを考える。RAID 5中のいずれか一台のディスクが故障すると、予備ディスクで故障ディスクを自動的に置き換えて元通りRAID 5を構成する。", "title": "Spare Disk Drive" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "これら4台のディスクでRAID 6を構成しても同じ実効ディスク容量が得られるが、それと比較して予備ディスクは以下の利点・欠点をもっている。", "title": "Spare Disk Drive" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "また、4台のディスクのうち3台でRAID 1を構成すると、上記のリシンク中の冗長性欠如のリスクは大幅に低減する。", "title": "Spare Disk Drive" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "RAID中に組み込まれたディスクはリアルタイム・オンラインで冗長性を作り出しているのに対して、予備ディスクは実際の故障発生時にオフラインバッチ処理でまとめて冗長性を作り出していると見ることもできる。", "title": "Spare Disk Drive" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "一般的に複数のディスクを構成する際にはRAIDが使用されるが、RAIDを使用しないディスク構成も存在する。", "title": "非RAID設計" } ]
RAIDは、複数台のハードディスクを組み合わせることで仮想的な1台のハードディスクとして運用し冗長性を向上させる技術。ディスクアレイの代表的な実装形態で、主に信頼性・可用性の向上を目的として用いられるものである。バックアップと混同される場合もあるが、RAIDはあくまでも運用に対しての冗長性を確保するものでありバックアップとは異なる点に注意が必要。 本記事において、「装置」という語句を用いるが、これはRAIDが取り付けられる機器(サーバ・ワークステーション・パソコンなど)の総称を意味する。
{{未検証|date=2010年4月}} {{独自研究|date=2010年4月}} {{Otheruses|ディスク装置|その他の用法|レイド}} '''RAID'''(Redundant Arrays of Inexpensive Disks、または Redundant Arrays of Independent Disks、'''レイド''')<ref>略称でない名称に関しては諸説ある。後述のパターソンの論文ではRedundant Arrays of Inexpensive Disksであるが、用語辞典によってRedundant Array of Inexpensive Disksであったり、Redundant Arrays of Independent Disksであったりする。出典: カシオEX-word XD-SF6200収録の日経パソコン用語事典、NE最新略語小辞典</ref>は、複数台の[[ハードディスク]]を組み合わせることで仮想的な1台のハードディスクとして運用し冗長性を向上させる技術<ref>パターソン&ヘネシー (下)p.530</ref>。[[ディスクアレイ]]の代表的な実装形態で、主に信頼性・可用性の向上を目的として用いられるものである。[[バックアップ]]と混同される場合もあるが、RAIDはあくまでも運用に対しての[[冗長性 (情報理論)|冗長性]]を確保するものでありバックアップとは異なる点に注意が必要。 本記事において、「装置」という語句を用いるが、これはRAIDが取り付けられる機器(サーバ・ワークステーション・パソコンなど)の総称を意味する。 == 概要 == [[1988年]]に[[カリフォルニア大学バークレー校]]の[[デイビッド・パターソン (計算機科学者)|デイビッド・パターソン]], [[w:Garth A. Gibson|Garth A. Gibson]], [[w:Randy H. Katz|Randy H. Katz]]による論文「A Case for Redundant Arrays of Inexpensive Disks (RAID)」において提唱された<ref>Patterson(1988)</ref>。 この論文は、安価で低容量、価格相応の信頼性の[[ハードディスクドライブ]] (Inexpensive Disk) を用い、大容量で信頼性の高いストレージ([[補助記憶装置]])をいかに構築すべきかを提案したものである。論文にはハードディスクの構成によって、RAID 1からRAID 5までの5種類を定義している。 また、論文では提案されていないが、ストライピングのみの場合も一般的にはRAIDの一種とみなされ、これは冗長性が確保されないことからRAID 0と呼ばれる<ref>パターソン&ヘネシー (下) p.530</ref>。 はじめに定義された6種類のうち、RAID 2はほとんど利用されず、RAID 3,4もRAID全体の中では少数派である<ref name="RAID2">{{Cite web|和書|url=https://www.data-sos.com/raid/raid11.html|title=あまり使用されないRAIDレベル|accessdate=2018-1-7}}</ref>。今日ではRAID 0・RAID 1・RAID 5、およびこれら3方式の組み合わせが用いられている。後にRAID 5を拡張したRAID 6が定義され、RAID 5より耐障害性が必要な場面で利用されている。 導入を検討するユーザにとっては、'''信頼性''' ・ '''速度''' ・ '''予算'''(ハードディスクの利用効率も含む)の内どれを重視するかを考え、実情にあわせた導入方法を選択することができる。3つを完全に満たすのは難しいが、2つを満たす現実的な方法は充分にある。 <!-- 大企業の基幹サーバや停止することのできない重要な商用サーバ等ではRAID 0やRAID 5で構成された複数の領域を内蔵したディスクアレイ装置を更にもう1台のディスクアレイ装置と組み合わせてRAID 1により2重化するといった大規模な構成も珍しくないが、一般のパソコンユーザや小規模の事業所では、初期投資や設置条件の負担が小さいRAID 1方式をはじめに採用し、その後必要に応じてRAID 0を加えたり、RAID 5にアップグレードするのが一般的である。 業務用サーバの製品群の中にはあらかじめRAIDを構成している品が増えてきており、購入時点でRAIDがすぐに使えるため現場のシステム管理者にとっては労力の軽減につながっている。 --> <!-- 運用形態は様々でありRAID5にアップグレードというのもおかしな表現だと思いますよ --> RAIDの構成によっては、一部のハードディスクが故障してもディスクアレイは稼動を継続できる。その場合、ディスクを稼働させたまま故障したハードディスクを取り外して代わりのハードディスクに交換することにより装置を停止することなく運用を続けることができる。このように装置が稼働中に接続しなおして、即座に利用できる機能を「[[ホットスワップ]](活線挿抜)」と呼ぶ。ホットスワップ機能を使用するには装置側でハードウェアとして対応していることが前提となる。サーバ用途など24時間連続稼働が求められる装置ではホットスワップ対応が望ましい。 RAIDは、大容量データの高速処理や耐障害性の向上を必須要件とする大規模な業務用[[サーバ]]や[[ワークステーション]]、特定目的に製造されたコンピュータ機器等に用いられていたが、近年、小規模サーバや[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]にも普及しつつある{{要出典|date=2018年1月}}。 === 普及の要因 === * デジタルデータの重要性が高まっているため * HDD(ハードディスクドライブ)が大容量化し、一般ユーザにとっても故障時に失われるデータ量を無視できなくなったため * HDDやRAID関連製品も低価格化、RAID機能のチップセットへの内蔵(HDDさえあれば追加投資無しでRAIDが利用できる)が進んでいるため === 注意点 === RAIDは複数のHDDを用いて、ディスクアレイの[[可用性]]を高める技術である。そのため、ファイルの誤消去など人為的なもの、[[コンピュータウイルス]]によるファイルの破壊、[[ファイルシステム]]の不整合など、ソフトウェア的な障害には対応できない。またHDDが同時期に複数故障する、リビルド時に他のHDDが障害を起こす等、単体のHDDに比べれば非常に低いがディスクアレイも故障の可能性を持つ。 [[バックアップ]]は、データを静的な状態で、一定期間、複数世代、保存するものであり、RAIDとは役割が異なる。データはRAIDとバックアップの両者を組みあわせて運用することにより、サービスの継続性を保証しつつ、高い安全性を持って保全することができる。 == RAIDの方式 == RAIDを実装する方法としては、[[ハードウェア]]で実現する方法(ハードウェア方式)と[[ソフトウェア]]で実現する方法(ソフトウェア方式)がある。この2方式は明確に分類できるものではなく、中間的な方式がいくつか存在する。 === ハードウェア方式 === ==== コントローラカード ==== [[ファイル:Kurouto shikou SATARAID4P-PCI.jpg|thumb|シリアルATA RAIDカード]] この方式は、RAIDコントローラと呼ばれるカードを装置に取り付け、[[パリティビット|パリティ]]演算やディスクの管理などを任せるものである。ドライバさえ用意すればハードウェア側のマシンパワーに影響を与えず、カード自体に専用のキャッシュメモリを搭載している場合はアクセスの高速化が見込める。一部のマザーボードにはRAIDコントローラをあらかじめ実装している製品がある<ref>{{cite web|url=https://rog.asus.com/articles/maximus-motherboards/what-is-raid-setup-guide/|title=RAID – WHAT IS RAID? AND SETUP GUIDE FOR FIRST TIMERS|accessdate=2018-1-8}}</ref>。 純粋なハードウェア方式では、ホストが僅かな指示を送るだけでRAIDコントローラが具体的な処理を全て行うため、CPUの負荷が低減される<ref name="HW-SW">{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20060712/243118/|title=ソフトウエアRAIDとハードウエアRAIDの違いは?|accessdate=2018-1-7}}</ref>。しかし、コントローラ毎に制御方法が異なるため、OS側で各RAIDコントローラカードへの対応が必要であり、専用のデバイスドライバが必要となる。 一方、RAIDコントローラカードの中には、RAID機能の大部分をソフトウェアで実現しているものもある<ref>DELL製、PERC Sシリーズ等</ref>。この場合、OS起動前にある程度のRAID機能を使用可能であるがCPUの負荷はソフトウェア方式と大差が無く、ハードウェア方式に比べて対応OSが限定されたり信頼性に乏しい場合があり、ソフトウェア方式に分類される。 <!-- 製品や使用状況によって異なる内容なので削除します ある程度高級なRAIDコントローラカードであれば、[[ホットスペア]](ドライブが故障したとき直ちにあらかじめ用意されていた予備ドライブに切り替える機能)には対応しているが、[[ホットスワップ]]にはバックプレーンと呼ばれるHDD接続基盤等、さらに別のハードウェアが必要な場合が多い。 低価格製品も多く販売されているので、個人や小規模事業者にとって導入しやすい。また、CPUの処理能力が低い場合や、様々な作業が入れ替わり立ち替わり発生する個人用のパソコンには最適である。PCの筐体を開けることに慣れているユーザにとっては最もコストパフォーマンスに優れる方式といえる。しかし、低価格を売り物にしたRAIDコントローラカードや、マザーボードに備えられたRAIDコントローラの場合、RAIDの制御を装置のCPUと分担して行う仕様の製品がある。これは純粋なハードウェアRAIDとソフトウェアRAIDとの中間に位置する存在で、純粋なハードウェアRAIDと比べると性能が劣り、特定の[[オペレーティングシステム|OS]]への依存性がある。 難点は、筐体を開けてRAIDコントローラカードを取付け、ハードディスクの信号ケーブルをRAIDコントローラカードに接続し直す作業が発生することで、それが筐体を開けることに抵抗のあるユーザにとって障壁となっていることである。また、コンパクトなデスクトップ型PCではハードディスクを増設するスペースがない場合が多くこの方法は使えない。同じ理由で、ノート型パソコンでも使えない。 --> ==== ディスクアレイユニット ==== 複数のディスクを搭載出来るケースにRAIDを搭載したハードウェア。コンピュータやOS側からは単なる[[Small Computer System Interface|SCSI]]や[[ファイバーチャネル]]のドライブとして見えるため、特別なドライバが必要なく、CPUへの負荷が全くない。<!-- 製品や使用状況によって異なる個別の内容なので削除します。更に、ホットスワップやホットスペアに加えてオートリカバリ機能を備えている場合もあり、運用コストを低減することも出来る。[[ディスクアレイ]]ユニット内のハードディスクが故障した場合は、[[シリアルポート]]や[[イーサネット]]を通じて状態を監視ソフトに通知する機能が備わっている場合もある。また、ディスクアレイユニットの中にはデファレンシャルSCSIやファイバーチャネルを使い、2台のサーバで1台のディスクアレイユニットを共有出来るものもある。複数台のディスクアレイユニットを組み合わせて専用の制御用サーバがセットになったものもある。-->ディスクアレイユニットを接続したい装置に必要な外部接続インタフェースがすでにあれば装置の筐体を開けることもなく、ケーブルをつなぐだけで使えるようになる。<!--したがってスピーディな導入ができるほか、装置の電源を使わず独自に給電するため電力面での問題が発生しない。この点を活かし、多数のハードディスクを内蔵したディスクアレイユニットが人気を集めている。 多数のディスクを内蔵するからアレイなのですが。--> === ソフトウェア方式 === ソフトウェア方式は、OS自身が普通のドライブコントローラ([[Advanced Technology Attachment|IDE]]、[[Small Computer System Interface|SCSI]]、[[ファイバーチャネル|FC]] など)を通して複数台のディスクを管理する。この方式はハードウェア方式と比較し、CPUへの負荷が高いが、特別なハードウェアを購入する必要がなく導入コストが低いという利点がある<ref name="HW-SW" />。しかしながらアクセスコントロールの大半をOSやCPUに依存するためマシンパワーを消費すること、物理的なキャッシュが存在しないためハード的な障害やソフトウェア側の障害発生に伴ってRAID情報に致命的な問題を引き起こす可能性がハードウェア方式に比べて高いという欠点が存在する。 [[Microsoft Windows|Windows]]は、RAID機能をサポートしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.microsoft.com/ja-jp/help/303184|title=ストライプ ボリューム (RAID 0) の作成方法|accessdate=2018-1-7}}</ref>。[[Linux]]は、[[カーネル]]2.4系以降にてRAID0/1/4/5/6をサポートしている<ref>{{cite web|url=http://www.tldp.org/HOWTO/Software-RAID-HOWTO.html|title=The Software-RAID HOWTO|accessdate=2018-1-7}}</ref>。[[FreeBSD]]は、gmirrorというソフトウェアにてサポートしている<ref>{{cite web|url=https://www.freebsd.org/cgi/man.cgi?query=gmirror&sektion=8&manpath=freebsd-release-ports|title=FreeBSD Manual Pages|accessdate=2018-1-7}}</ref>。ファイルシステムの[[ZFS]]はそれ自身にRAID機能をもち、RAID5またはRAID6相当の機能としてそれぞれ[[RAID-Z]]、RAID-Z2が実装されている。[[インテル]]の[[チップセット]]では、マトリックス・ストレージ・マネージャー機能によりRAID機能をサポートしている<ref>{{cite web|url=https://www.intel.com/content/dam/support/us/en/documents/motherboards/server/s5500hv/sb/8_x_raid_ahci_users_manual.pdf|title=Intel Matrix Storage Manager 8.x User's Manual|accessdate=2018-1-7}}</ref>。これはソフトウェアというよりはファームウェアでのRAIDである。Adaptecの低価格RAIDボードでは、HostRAIDによりソフトウェアRAIDを行っている<ref>[http://ask.adaptec.co.jp/cgi-bin/adaptec_japan.cfg/php/enduser/std_adp.php?p_sid=Q_j7C17i&p_lva=&p_faqid=4817&p_created=1122533518&p_sp=cF9zcmNoPTEmcF9ncmlkc29ydD0mcF9yb3dfY250PTQ1NyZwX3NlYXJjaF90ZXh0PTM5MzIwIGhvc3RyYWlkJnBfc2VhcmNoX3R5cGU9MyZwX3Byb2RfbHZsMT1_YW55fiZwX3Byb2RfbHZsMj1_YW55fiZwX2NhdF9sdmwxPX5hbnl_JnBfc29ydF9ieT1kZmx0JnBfcGFnZT0x&p_li= ハードウェアRAIDとHostRAIDの違いは何ですか?(Adaptec Support Knowledgebase)]{{リンク切れ|date=2018年1月}}</ref>。 {{要出典|近年、サーバ向けチップセットだけでなくメインストリーム向けのチップセットでもRAIDコントローラ機能(0/1/0+1/5など)を集積したものが広く普及しつつある。マトリックス・ストレージ・マネージャー機能はMUX(マルチプレクサ)/DEMUX(デマルチプレクサ)で構成されており、CPUが発行したディスクI/O操作を複数のハードディスクへのディスクI/Oに分散・またディスクからの読み出しの多重化を行う(パリティ演算機能を持つものと持たないものがある)。信頼性はもとより、ディスクI/O速度を高速化する総合アクセラレータ的要素が強い。このため、ソフトウェア方式に分類される場合が多い。|date=2018年1月}} == 電源問題 == ハードディスクの必要台数が増えるため、特にRAIDコントローラカードを用いて装置内部にハードディスクを取り付けている場合、電源がハードディスク台数分の負担に耐えられるか注意すべきである。 ハードディスクは[[突入電流]]等により起動時に最も電力を必要とするため、スタッガードスピンアップ(各ディスクに時間差を置いて起動する)機能を搭載しているRAIDコントローラもある<ref>{{cite web|url=http://titan.physx.u-szeged.hu/opt/3ware/3DM2/help/en/Config_Controller.5.8.html|title=Enabling and Setting Up Staggered Spin-up|accessdate=2018-01-07}}</ref>。 == ライトホール問題 == RAID 5の問題として有名だが、複数のHDDを束ねて1つのグループと見なす、すべてのRAIDシステムで起こりうる。 RAID 2以外のRAIDは読み出し時のエラー検出をHDDのエラー検出に依存しているので、RAIDシステムではエラー検出が出来ない。 物理的な破損等でHDDから応答が無かった場合や読み出しエラーをHDDが返した場合に限り、RAIDシステムではエラーを検出できるが、正しく読み出せる場合はエラー検出が出来ない。 例えば、2台でのRAID 1の場合、RAIDコントローラからHDD AとHDD Bに同時に書き込みリクエストは発生するが、HDDには書き込み時の処理のタイムラグがあるため、HDD Aには書き込みが完了したがHDD Bには書き込みが発生していないと言うタイミングが存在する(逆もしかり)。 このタイミングで電源断等により処理が中断した場合、HDD Aには新しく書き込まれたデータ、HDD Bには上書きされる前の古いデータが記録されており、HDD AとHDD Bのミラーとして対になるセクタの値が同一ではなくなる。 ブロックサイズが大きい場合は、ブロック自体が複数のセクタで構成されているため、同一HDDの中でも、ブロックを構成する一部のセクタのみ書き込み完了しそれ以外は書き換えられていないということも発生する。 このようにRAIDを構成するグループのHDDのブロックすべてに書き込めずに、穴が開いたのように書き込まれるためライトホールと呼ばれる。 HDDレベルではどちらも正常なのでエラー無く読み出せるが、HDD毎に異なる値が読み出されるようになる。 これはRAIDレベルでは不整合を起こした状態となり、RAIDシステムではエラー検出機能を持っていないために、エラーが起きている事を検出することが出来ない。 結果として、RAID 1の場合は、読み込むHDDによって値が変わる。上記の例ではHDD Bの書き込みがされていないためにBから読み出された場合やHDD Aが破損し、HDD BからHDD A'にリビルドされた際にデータが壊れる。 RAID 3,4,5、6の場合は、誤ったパリティによりデータが破壊される。 これらを、サイレントクラッシュ(正確にはサイレントデータコラプション)と呼ぶ。 バッテリバックアップされたNVRAMやフラッシュメモリ等の不揮発メモリを持っているハードウェアRAIDでは、 HDDから書き込みの完了・未完了等のトランザクション管理をしているためこの問題は発生しないようになっているが、 ソフトウェアRAIDや、不揮発メモリを持たない安価なハードウェアRAIDでは、この問題が発生する。 RAID 2はそれ自体がハミングコードによるエラー検出機能を持っているので、この問題は発生しない。 RAID-Zもブロック単位での書き換えがCopyOnWriteにより保証される事とチェックサムがあるためにこの問題は発生しない。 == RAIDレベル == RAID 0からRAID 6まで7種類のうち、よく利用されるのはRAID 0・RAID 1・RAID 5・RAID 6で、RAIDコントローラやソフトウェアによって使用できるレベルが限定されている場合が多い。 各RAIDレベルを組み合わせて信頼性と速度を両立させることができる。 サーバ用途としては、データの保全性を重視するためRAID 1またはRAID 5が主に利用されている。サーバ台数の限られた環境で、一台のサーバにかかる負担が高い場合はこれらにRAID 0を組み込んで高速化を狙うケースもある(もちろんサーバ自体を増設して、一台あたりの負担を軽減することも検討すべきであり、負荷の度合い・設置場所の都合・予算などを多角的に検討する必要がある。単にRAID 0をかぶせて高速化することだけに過度の期待を寄せるべきではない)。 RAIDの方式によらず、サーバ用途の場合はトラブル発生時に速やかなハードディスク交換を実施できる態勢を採るのが重要であり、ホットスペアやホットスワップ対応の製品を用いるのが望ましい。 また、ある種のアプリケーションは、制御情報はRAID 1またはRAID 5のファイルシステムに保存し、マルチメディアデータはRAID 0に保存するとともにテープや光メディアにバックアップしている。 === RAID 0 === [[ファイル:RAID 0.png|thumb|RAID 0の概念図。一つのファイルをA1からA8に分割して、これを複数のディスクに同時に分散して書き込む。]] RAID 0はデータを分割し、複数台のハードディスクに同時に分散して読み書きする。高速化が可能となる。'''ストライピング'''とも呼ぶ。冗長性がなく耐障害性もないが、実装要素(ハードウェアおよびソフトウェア)はRAIDのそれらを転用できるため、他のRAIDモードとともに実装しているコントローラが多い。冗長性を持たないことを明示する意味で、無を表現する数である[[0|ゼロ]]が付される。最低2台のドライブが必要である。 1台のドライブが故障しただけでアレイ全体の故障となるため、その故障率は単体ドライブに比べ高い。例えば、単位時間あたりのドライブ故障率が1%の場合、2台でRAID 0を構成した場合のアレイの故障率は約2% (1-0.99*0.99=0.0199) と約2倍に上昇する。 単独のRAID 0では速度は向上するものの故障率が増加することから、後述のRAID 1や5と組み合わせて用いられることも多い。 * 長所 ** ドライブ数が増えるほどシーケンシャル及びランダムアクセス速度が上がる。但し後者の向上にはストライプサイズ(分割の粒度)、セクタサイズ、クラスタサイズ、ブロックサイズ、先読み深度などを適切に設定する事が必要である。 * 短所 ** 冗長性が全くない。 ** ドライブ数が増えるほどアレイの故障率が上がる。 <!-- ボトルネックはバスアーキに限定されないし、そもそも短所ではない ** 性能を100%引き出すには、I/O性能の向上に見合った帯域幅を持ったバスアーキテクチャが必要となる。--> ** 適切なストライプサイズやコマンドキューの調整が出来ない場合、ランダムアクセス速度はあまり向上しないかドライブ数の増加に伴い低下する可能性がある。 <!--これはRAIDに共通した短所のため削除 ** RAID 0の容量は、構成ドライブ中の最小容量×ドライブ数であり、異なる容量のドライブを組み合わせた不均等な構成においては容量差分が利用できない(とは言え、この制限は他のRAID構成でも同じであり、容量差分を全て使いきる為にはRAIDではなくJBOD構成にする)。--> === RAID 1 === [[ファイル:RAID 1.png|thumb|RAID 1の概念図。データをA1-4に分割して同じデータを同時に書き込む。]] RAID 1は複数台のハードディスクに、同時に同じ内容を書き込む。これを[[ミラーリング]]と呼ぶ。最もシンプルな方式であり、RAIDの弱点であるコントローラの故障にも対応しやすい。最低2台のドライブが必要である。 全てのディスクが同時に故障する可能性は低いため、システムの安定性は高い。 例えば、単位時間当たりのドライブの故障率を1%として2台でRAID 1を構成する場合、アレイの故障率は0.01% (0.01*0.01=0.0001) と1/100となる。 ただし、利用可能な容量は単体のハードディスク容量を超えない。台数が増えるほど容量効率が悪くなる。効率重視ならばRAID 5の方がよい。 <!--これはRAID1に限った話ではない。また、RAIDコントローラひとつで構成した場合、そのRAIDコントローラが故障してしまうと、ハードディスクが健在であってもドライブのアクセスが不能となる。特に信頼性を重視する場合には、ハードディスクひとつにRAIDコントローラひとつを割り当てて使用する。 --> 本来読み出しは、一つのドライブからのみでそれ以外はバックアップである。全てのディスクから読み出せば、理論上、高速に読み出せる。 初期のネットワークOSであるNetware 2.x、3.xは、上記を取り入れており、コントローラが複数個ある場合には、一方のディスクに書き込みながら他方のディスクから読み込みを行うなどの負荷分散を行っていた{{要出典|date=2018年1月}}。従って、ディスク間で記録データに不一致が発生する時間があり、ディスクの同期を完了させてから終了する必要があった。 しかし、常に性能を重視した実装が行われている訳ではなく、Windows NTのソフトウェアRAID 1では、読み込みは常にひとつのディスクからのみ行われる。Windows Server 2003は低負荷時には片方から、高負荷時には負荷分散を行う{{要出典|date=2018年1月}}。 * 長所 ** OSやマザーボードに標準装備されている場合、RAIDハード/ソフトウェアを別途用意せずとも使用できる。 <!--これらはRAID1に限った話ではない** 故障したハードディスクを交換すればバックグラウンドでディスクデータの復旧が行われるため、システムダウンからの復旧が速い。 ** 一方のハードディスクが故障しても、もう一方のハードディスクは正常動作しているので、性能が低下しない。 ** RAIDコントローラの故障に対応する冗長構成が可能。--> ** ドライブ数が増えるほど耐障害性が上がる。 * 短所 ** 容量の利用効率が悪い。N 台のドライブとした時、容量効率は1/Nとなる。 <!--これはRAID1に限らない** RAID 1の容量は、構成するドライブの中でもっとも小さな容量に決定され、余った他のドライブ部分は利用できない。--> ** 大容量化<!--、高速化 結果的に読み出し時のストライピングによる高速化が図れる-->を目的としていない。<!-- RAID1の応用として大容量化、高速化を可能にした実装はあるが、RAID1は大容量化、高速化を目的として提唱されたものではなく、大容量化、高速化が出来ない実装であってもRAID1の目的は果たされている --> ** 高速化は限定的である。 === RAID 01 (0+1) および RAID 10 (1+0) === [[ファイル:RAID_01.png|thumb|RAID 0+1 (RAID 01)]] [[ファイル:RAID_10.svg|thumb|RAID 1+0 (RAID 10)]] RAID 0とRAID 1を組み合わせた構成を特別にRAID 0+1 (RAID 01) およびRAID 1+0 (RAID 10) と呼ぶ。高速化、大容量化を目指したRAID 0と高信頼性を求めたRAID 1を組み合わせることにより、速度、容量、耐障害性の向上を図ることができる。最低4ドライブ必要である。 RAID 0とRAID 1は相性がよく、 <!-- 右記の理由によりコメントアウトします。(台数が増えた場合に)3重より大きな誤りが同時に起こった場合の平均的な耐障害性のことを指しているのではないかと思われますが、2重誤りが発生した場合の耐性はRAID6の方が高いため。少なくともRAID 6よりも耐障害性が高くなる条件を明記にする必要があると思われます。 組み合わせ次第ではRAID 6よりも耐障害性が高くなるうえ、障害発生時の復旧に要する時間も短い。また、 --> RAID 1の特性によりRAID 0の弱点であったランダムアクセスも高速化できる。RAID 1を使用しているためコントローラの2重化にも対応できるので、容量が必要でなおかつ強力な耐障害性を求める場合に採用されることが多い。 RAID 0とRAID 1、どちらを下層で行うかにより名前が変わる。0または1は、下層で行われる処理を先に表記する。一見どちらも同じように見えるが耐障害性の面で異なる。 * RAID 0+1 : ストライプされた領域をミラーリング * RAID 1+0 : ミラーセットをストライプ ドライブ故障への耐性はRAID 1+0のほうが優れている。RAID 0+1ではRAID 1を構成するRAID 0領域のドライブそれぞれ1台ずつが故障した時点でデータが破壊されるが、RAID 1+0ではRAID 0を構成するRAID 1セットの構成ドライブ2台がどちらも故障しない限りデータは破壊されない<ref>RAID 0+1とRAID 1+0をそれぞれ4台のドライブで構成し、ランダムに各2台のドライブが故障したと仮定すると、RAID 0+1が破壊される確率は2/3、RAID 1+0が破壊される確率は1/3である。</ref>。台数が増えれば増えるほどRAID 1+0のほうが耐障害性が上がる<ref>同様に16台(8ストライプ・2ミラー)でRAID 0+1と1+0を組み、各2台が故障した場合、RAID 0+1が破壊される確率は8/15、RAID 1+0が破壊される確率は1/15となる。</ref>。コントローラ故障への耐性はRAID 0+1が上回る局面も存在しうるが<ref>各ストライプ、各ミラーのコントローラがそれぞれ別となっている場合、RAID 1+0はコントローラが1つでも故障すると破壊されるが、RAID 0+1はRAID 0領域のコントローラ故障に対して、そのすべてが同時に故障しない限り耐えられる。</ref>、基本的にはRAID 1+0のほうが優れていると考えてよい。 === RAID 2 === RAID 2の冗長化機構は[[ハミング符号]]で、ストライプ単位は1ビットである<ref name="RAID2" />。ハミングコードによるビット単位のデータ修復が常に必要なほどHDDの信頼性は低くないので、RAID 2は実用性がなく、製品は市販されていない。 必要なドライブ数は、ハミングコードの訂正可能ビット数により異なるため一意に記述できないが、最低で5台のドライブを必要とする。 * 長所 ** 全RAIDレベルの中で最高の耐障害性を持つ。最小構成の5台の場合、3台のドライブの故障にも耐えられる<ref name="RAID2" />。 * 短所 ** ハミングコード計算コストが莫大である<ref name="RAID234_basic">{{Cite web|和書|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/fwin2k/tutor/raiddic/raiddic_02.html|title=2.RAID 2とRAID 3、RAID 4とは|accessdate=2018-1-8}}</ref>。 ** ディスクの使用効率が極めて悪い。最小構成の5台で利用可能な容量は2台分<ref name="RAID234_basic" />。7台の場合には4台分、15台の場合には11台分、31台の場合には26台分となる。但し最小構成時を除けばRAID 1よりも効率は良い。 === RAID 3: ビット/バイト単位での専用パリティドライブ === [[ファイル:RAID3.png|thumb|RAID 3]] RAID 3はRAID 2の[[誤り訂正符号]]を排他的論理和によるパリティに変更し、演算コストを低減したものである。 最低3ドライブで構成され、1台を誤り訂正符号に割り当て、残りの複数台にデータを記録する。 <!--RAID 3はRAID 5に取って代わられたため、RAID 3に対応した機器をこれから手に入れることはほぼ不可能。:Corega Drive 4BayシリーズはRAID3をサポートした現行製品-->ビデオ編集機器においてはアクセスの殆どがシーケンシャルアクセスであることから、現在でもRAID 3が用いられている場合があるが、パソコンやサーバでRAID 3を用いるメリットは存在しない。 * 長所 ** パリティを訂正符号として用いているためRAID 2に比較して計算コストが低い。 ** 構成ドライブ数-1個の容量が確保できるため、ディスク容量の無駄を最小限に押さえられる。 * 短所 ** ビット/バイト単位でアクセスを行うためI/Oの効率が悪い。 ** パリティドライブが書き込み処理時のボトルネックとなる。 === RAID 4: ブロック単位での専用パリティドライブ === [[ファイル:RAID4.png|thumb|RAID 4]] RAID 4はRAID 3のI/O単位をブロックに拡大し、I/O効率の改善を図ったものである。最低3台で構成される。以下の短所からRAID5へ移行され、RAID4は実質的に消滅している。 * 長所 ** アクセス単位がブロックになっているため、RAID 3より高速なI/Oが望める。 * 短所 ** パリティドライブは書き込み処理時に常時アクセスが行われるため負担が集中する。性能上の[[ボトルネック]]となるだけでなく、消耗が激しく寿命も低下する。(これに対する解がRAID5) === RAID 5: ブロック単位でのパリティ分散記録 === [[ファイル:RAID 5.png|thumb|RAID 5]] RAID 5は水平パリティを使用して複数のハードディスクに誤り訂正符号データと共に分散させて記録することで、RAID 3、RAID 4の[[ボトルネック]]を回避している。最低3ドライブが必要である。RAID1やRAID1+0に比べて使用効率に優れている。またRAID0のように複数のディスクに分散しているため読み出し性能が優れている。一方で書き込む場合には[[パリティビット#パリティブロック|パリティブロック]]を作成しなおすために、ディスクからの既存パリティ読み出しとパリティ演算が伴うが、I/Oプロセッサを搭載した高価格帯製品ではパリティを大容量キャッシュに保存しパリティ演算をI/Oプロセッサや専用演算機にて行う事で速度低下を回避している。 * 長所 ** ボトルネックとなる、RAID 3やRAID 4のような専用のパリティドライブが存在しない。 ** ドライブの台数が増えるほど高速化を見込める。 **1台までのドライブが故障してもデータを復旧できる <!-- 同一コントローラで比較した場合にRAID0よりランダム性能が上がるRAID5は理論的にありえません。ソフトRAID0と高性能ハードRAID5を比較すれば性能向上が見込みますが、その場合は高性能ハードRAID0の方がより高速です。 ** RAID 0と異なり、ランダムリードに対しても性能向上を見込める。--> * 短所 ** パリティ演算が必要なため、ソフトウェアRAIDに不向き。ただしI/Oプロセッサを搭載した高価格帯製品では大容量の[[キャッシュメモリ]]とI/Oプロセッサやパリティ演算機を搭載することでRAID0並みに読み書きともに高速化している製品もある。 <!-- NAS用に限った話ではない → ただし最近の[[System-on-a-chip|SoC(システムオンチップCPU)]]、特に[[ネットワークアタッチトストレージ|NAS(ネットワークアタッチトストレージ)]]用に開発されたものには専用のパリティ演算用ハードウェアを備えているものが多い。--> ** 停電やディスククラッシュにより部分的に書き込みが行われた状態での停止が発生した場合に検出困難な不整合が発生するタイミングがあり、RAID 5書き込みホールと呼ばれる。ハードウェアRAIDではバッテリを搭載するなどして電源異常時の問題を回避するように構成されている場合が多いが、ソフトウェアRAIDでは一般に対応は困難である(同様の問題は[[パリティビット|パリティ]]を用いるRAID 4・RAID 6等でも存在する)。RAID-Zはソフトウェアによるこの問題の解法の一つ。 ** 低価格品や低性能品では(障害発生後の)復元処理が遅い。 ** ドライブ1台故障時にパリティからデータを再生するため、性能が低下する。 ** 2つ以上のドライブが同時に故障すると回復できない(RAID6では3つ同時故障で回復不能)。 ** ドライブ1台故障時はRAID 0並みに信頼性が低い状態となる。特に構成台数が多い場合、復元作業中にもう1台が故障し、回復不可能となってしまうケースがある(これに対する解がRAID 6)。 === 水平パリティによる分散記録 === RAID 5において[[パリティビット|パリティ]]はパリティ用領域に使用されるディスク以外のXORで水平方向のパリティ (PH) をとる。水平パリティはそれぞれのディスクに格納され、1台のディスク障害に耐えることができる。ディスク障害時は障害の発生したディスクのXORによる再計算で復元が可能である。 データ書き込み時におけるパリティ計算方法の一例を下記に掲載する(An、BnはA1 B1 A2 B2 A3 B3の順に並んだデータブロック)。 A1/B1/PH1/<br /> A2/PH2/B2/<br /> PH3/A3/B3/<br /> PH1=A1+B1<br /> PH2=A2+B2<br /> PH3=A3+B3<br /> === RAID 5を用いた組み合わせ === RAID 5に速度面、耐障害性などでの不満がある場合、RAID 0+1や1+0と同様に、他のRAIDと組み合わせることで弱点をカバーできる。 ==== RAID 5+0とRAID 0+5 ==== RAID 5の速度を向上させたい場合、使っている台数と同数のハードディスクを追加してRAID 0と組み合わせるか、サーバを増設し負荷を分散させるのが有効である。RAID 5+0およびRAID 0+5を構成する場合は、最低6ドライブが必要である。 RAID 1+0や0+1と同様、RAID 5とRAID 0のどちらを先に行うかで名前が変わる。RAID 5のセットによるストライピングを行うRAID 5+0のほうが、次の理由で優れているといえる。 * ドライブ故障への耐性に優れる<ref>8台のドライブ(4台構成RAID 5×2台構成RAID 0)でRAID 0+5と5+0を組み、各2台が故障した場合、RAID 0+5が破壊される確率は6/7、RAID 5+0が破壊される確率は3/7。</ref>。 * 読み書きの高速性を利点とするRAID 0を外側にすることで、書き込み速度の向上効果がより強く期待できる。 ==== RAID 5+1とRAID 1+5 ==== RAID 6を上回る強力な耐障害性が要求される場合、この組み合わせが選択肢となる。RAID 5+0やRAID 0+5と同様、最低6ドライブを必要とする。 RAID 5+1、RAID 1+5とも3ドライブまでの同時故障に耐えられるが、RAID 1+5のほうがより強い耐障害性を持つ<ref>8台のドライブ(4台構成RAID 5×2台構成RAID 1)でRAID 1+5と5+1を組み、各4台が故障した場合、RAID 1+5が破壊される確率は3/35、RAID 5+1が破壊される確率は18/35。</ref>。 メンテナンス性にも優れる。何らかの理由によりすべてのドライブを交換する必要が生じた場合、ミラーの片方のディスクを一度に交換し、リビルド後に残りを交換して再リビルド、という簡便な手順で、装置を止めることなく交換を完了でき、またこの作業中もRAID 5の耐障害性が残っている。 ==== RAID 5+5 ==== RAID 5によってRAID 5を組む、RAID 5+5も考えられる。この構成には最低9ドライブを要する。 RAID 5+1や1+5と同様、同時に3ドライブまでの故障に耐えられ、またディスク利用効率でそれらを上回る。耐障害性ではRAID 5+1と1+5の中間程度になる<ref>16台のドライブでRAID 1+5、5+1(8台構成RAID 5×2台構成RAID 1)およびRAID 5+5(4台構成RAID 5×4台構成RAID 5)を組んだ場合、RAID 1+5と5+1は7台分、5+5は9台分の容量が利用可能であり、それぞれランダムに4台が故障した場合、RAID 5+1は196/455、RAID 1+5は7/455、RAID 5+5は57/455の確率で破壊される。</ref>。 同様に、3次元化したRAID 5+5+5、4次元化したRAID 5+5+5+5なども考えられる。RAID 5+5+5は7台、RAID 5+5+5+5は15台までの同時故障に耐えられるが、必要となるドライブ数およびディスク効率の面から実用的ではない<ref>RAID 6+6はRAID 5+5+5を上回る8台までの故障に耐えられ、また一般にディスク利用効率でも優れる。例えば64台のドライブを用いた、4台構成RAID 5×4台構成RAID 5×4台構成RAID 5によるRAID 5+5+5の利用可能容量は27台分となるのに対し、8台構成RAID 6×8台構成RAID 6によるRAID 6+6では36台分の容量が利用可能である。</ref>。 === RAID 6: ブロック単位・複数パリティ分散記録 === [[ファイル:RAID 6.png|thumb|RAID 6]] RAID 6は任意の2つのハードディスクに障害が発生してもデータが復元できるRAIDである。冗長データを2種類作成し2つのディスクに記録することで、2重障害に対応でき、同時に2ドライブが故障しても復元できる。最低4ドライブを必要とする。1つの冗長データはRAID5と同じようにパリティ符号を用いる。もう1つの冗長データは、異なるアドレスのデータからパリティを生成する方式(対角線パリティ)や、異なる係数を乗算してから生成する方式(P+Qパリティ)など、複数の実装形態がある。RAID 1のミラーリングを3重化した場合も2つのハードディスク障害に対応できるが、これは通常RAID 6とは呼ばない。 * 長所 ** RAID 5と同等の長所を持つ。 *** RAID 3やRAID 4のように、ボトルネックとなる、専用のパリティドライブが存在しない。 *** ドライブの台数が増えるほど高速化を見込める。 ** RAID 5よりさらに高い耐障害性がある。ドライブ1台故障時においてもRAID 5並みの信頼性を保っている。 * 短所 ** 初期投資が大きい(ただし、長期的な運用コストはRAID 5と大差ない)。 ** 二重にパリティを生成するため、RAID 5よりもさらに書き込み速度が低下する。 ** RAID 5と同様、ドライブ故障時に性能が低下する。 ** 3つ以上のドライブが同時に故障すると回復できない。 EMC CLARiX/CLARiiON のRAID6では EVENODDアルゴリズムを使って、X86プロセッサのXOR命令でパリティの計算、データのリカバリをソフトウェアで行っている。 大規模なシステムでは、RAID 6を用いた多重RAIDも、RAID 5と同様に考えられる。 ; RAID 6+0とRAID 0+6 : RAID 6単体と比較してアクセスが高速化される。最小8ドライブを要し、2ドライブまでの故障に耐えられる。 ; RAID 6+1とRAID 1+6 : RAID 6単体と比較して耐障害性が強化される。最小8ドライブを要し、5ドライブまでの故障に耐えられる。 ; RAID 6+5とRAID 5+6 : RAID 6単体と比較して耐障害性が強化され、高いディスク利用効率も兼ね備える。最小12ドライブを要し、5ドライブまでの故障に耐えられる。 ; RAID 6+6 : 階層化されたRAID 6であり、最強の耐障害性を持つ。最小16ドライブを要し、8ドライブまでの故障に耐えられる。堅牢さが最重要視される用途に向く。 ==== 対角線パリティの計算方法 ==== RAID 6ではRAID 5の水平パリティ (PH) に加え、対角線パリティ (PD) も[[パリティビット|パリティ]]として使用される。 水平パリティとは異なり対角線パリティは専用のディスクに格納される。ディスク4台でRAID6を構成しているとき、対角線パリティの配置と計算は以下の通り。 PH1/B1 /C1 /PD1<br /> A2 /PH2/C2 /PD2<br /> A3 /B3 /PH3/PD3<br /> PD1=PH1+C2+B3<br /> PD2=B1+A2+PH3<br /> PD3=C1+PH2+A3<br /> ==== P+Qパリティの計算方法 ==== PパリティはRAID5と同じ[[排他的論理和|XOR]]による[[パリティビット|パリティ]]であり、もう一つの冗長データであるQパリティは重みつきの[[有限体|ガロア体]]GF(2) における剰余、つまり8ビットの[[巡回冗長検査|CRC]]を用いる。8ビットCRCの制限により、この方式を用いる限りデータディスクは255台(+冗長ディスク2台)までしかサポートできない。 規格のようなものがないため、生成多項式や重みのつけかたが各社で異なる。また高速化やハードウェア的な最適化のためにあらかじめ定数をかけたテーブルが用意されているなど、単純なCRCには見えない場合もある。あるいは、これ以外の算出方法を採っている場合も有り得る。 具体的な算出方法は以下の通りである。 データディスクをA・B・C・Dとし、冗長ディスクをP・Qとする。現実には冗長ディスクは分散されているが、便宜上こうしておく。 : P=A+B+C+D (RAID5と同じ) : Q=CRC(A+B*2+C*4+D*8) ここで、AとはデータディスクAにある1バイトのデータであり、以下B・C・D・P・Qそれぞれ、対応する同じ位置にある1バイトのデータを示す。またCRC(x) は、値xをビット列とした時のCRC符号である。このCRCは、生成多項式が既約性を持つ(==原始多項式である)必要がある。また上記加算 (+) 及び乗算 (*) は、共にガロア体での加算乗算である。 また回復方法は以下の通りである。 * データディスクA・B・C・Dのいずれか一つが破損した場合は、RAID5と同じ。また冗長ディスクP・Qのいずれか一つ乃至は二つが破損した場合は、データディスクA・B・C・Dから再計算する。 * A・B・C・Dのいずれか一つとQが破損した場合は、Pと正常なデータディスクとで破損したデーターディスクを(RAID5と同様に)回復し、Qを再計算する。 * A・B・C・Dのいずれか一つとPが破損した場合は、Qから、破損したデータディスクの位置に8ビットのバースト誤りがあったものとして[[消失訂正]]することで回復する。 * A・B・C・Dのいずれか二つが破損した場合は、PとQに関する連立方程式を解いて回復する。 例えばB・Dが破損したとする。 : P=A+B+C+D : P-(A+C)=B+D : P+A+C=B+D (加算と減算は共にXORで同一なので) : Q=CRC(A+B*2+C*4+D*8) : Q=CRC(A+C*4)+CRC(B*2+D*8) (CRCは加算 (XOR) に関して分配法則が成り立つ) : Q-CRC(A+C*4)=CRC(B*2+D*8) : Q+CRC(A+C*4)=CRC(B*2+D*8) (加算と減算は共にXORで同一なので) となるので、この連立方程式を解く。 : P+A+C=B+D : P+A+C-B=D : P+A+C+B=D これを代入して : Q+CRC(A+C*4)=CRC(B*2+D*8) : Q+CRC(A+C*4)=CRC(B*2+(P+A+C+B)*8) : Q+CRC(A+C*4)=CRC(B*2+(P+A+C)*8+B*8) : Q+CRC(A+C*4)=CRC(B*2+B*8+(P+A+C)*8) : Q+CRC(A+C*4)=CRC(B*(2+8)+(P+A+C)*8) : Q+CRC(A+C*4)=CRC(B*10+(P+A+C)*8) : Q+CRC(A+C*4)=CRC(B*10+(P+A+C)*8) : Q+CRC(A+C*4)=CRC(B*10)+CRC((P+A+C)*8) : Q+CRC(A+C*4)-CRC((P+A+C)*8)=CRC(B*10) : Q+CRC(A+C*4)+CRC((P+A+C)*8)=CRC(B*10) ここで、CRCの生成多項式は原始多項式であるので、10と互いに素である。ここから[[中国の剰余定理]]を利用してBを算出する。つまり左辺を10(二進法で1010)で割る。 それを : P+A+C+B=D に代入して D を求める。 === RAID Z === RAID ZはRAID 5やRAID 6と似た機構を持ち、速度と耐障害性を向上させたもの。 [[オラクル (企業)|Oracle]]社の[[Solaris]]や[[FreeBSD]]において、[[ZFS]]としてRAID Z1,Z2,Z3が実用化されている。 RAID 5やRAID 6ではパリティ更新時に何らかの障害が発生するとデータとパリティが一致しなくなり、システム上では正常に見えても内部ではデータ破壊が進んでいるという状態(サイレントクラッシュ)に陥るという致命的な欠点がある。またストライプ幅より小さいデータを書き込む際にも、全体のデータとパリティを読み込んで再計算をする必要があるため、パフォーマンスが著しく低下するという弱点も持っている。 RAID Zでは常にストライプ全体への書き込みを行い、[[コピーオンライト]]と組み合わせることでRAID 5やRAID 6が持つサイレントクラッシュの問題を完全に回避できる。 == 計算方法(RAID0, 1, 10, 5, 6) == {| class="wikitable" |+RAID容量計算式 !RAIDの名前 !RAIDの計算式 !RAIDの最低必要台数 |- |RAID0 |HDDの台数xHDDの容量 |2台以上 |- |RAID1 |HDDの台数xHDDの容量/2 |2台 |- |RAID10 |HDDの台数xHDDの容量/2 |2台以上 |- |RAID5 |(HDDの台数-1)xHDDの容量 |3台以上 |- |RAID6 |(HDDの台数-2)xHDDの容量 |4台以上 |} Option Explicit Dim ans, m, p Dim raid0, raid1, raid1e, raid10, raid5, raid50, raid6, gb m = InputBox("HDD(SSD)の容量を入力してください。(GB)", "入力") p = InputBox("HDDの本数を入力してください。", "入力") MsgBox("RAIDの容量を計算できます。") raid0 = Round(m * p) raid1 = Round(m * p / 2) raid1e = Round(m * p / 2) raid10 = Round(m * p / 2) raid5 = Round(m * p - m) raid6 = Round(m * p - (m * 2)) gb = Round(m *p) ans = "raid0:" & raid0 & "GB 1本から" & vbCr _ & "raid1:" & raid1 & "GB 2本から2本まで" & vbCr _ & "raid1E:" & raid1e & "GB 3本から" & vbCr _ & "raid10:" & raid10 & "GB 2本から 偶数本"&vbCr _ & "raid5:" & raid5 & "GB 3本から"&vbCr _ & "raid6:" & raid6 & "GB 4本から"&vbCr _ & "最大容量:" & gb & "GB"&vbCr _ & "HDDの容量:" & m & "GB"&vbCr _ & "HDDの本数:" & p & "本" MsgBox ans, , "答え" プログラムをコピーペーストして拡張子を(.vbs)して開くとRAID容量の計算ができる。 このプログラムではRAID0,1,1e,10,5,6が計算できる。 == Defunct Disk Drive == '''無効ディスクドライブ''' ('''DDD'''、'''Defunct Disk Drive''') とは、RAIDを構成するディスクにおいて何らかの障害が発生し、RAIDの構成ディスクから外されたディスクないしその状態を示す<ref>{{cite web|url=http://ps-2.kev009.com/pcpartnerinfo/ctstips/86fa.htm|title=ServeRAID - Recovery Procedures for DDD Drives|accessdate=2018-1-7}}</ref>。 == Spare Disk Drive == '''予備ディスクドライブ''' ('''Spare Disk Drive''') (予備ディスク)は、RAIDの構成で普段は使用されていないが、使用中のいずれかのディスクに障害が発生した時にそのディスクを置き換えることに備えて接続されているハードディスク装置である。ベンダーによって呼称は異なるが、[[ホットスペア]]に該当するものである。 たとえば、全部で4台のディスクのうち3台でRAID 5を構成するシステムを考える。RAID 5中のいずれか一台のディスクが故障すると、予備ディスクで故障ディスクを自動的に置き換えて元通りRAID 5を構成する。 これら4台のディスクでRAID 6を構成しても同じ実効ディスク容量が得られるが、それと比較して予備ディスクは以下の利点・欠点をもっている。 * '''利点:''' RAID 5なのでRAID 6に比べて書込み速度が速い。予備ディスクは普段は動作していない(ただし通電は継続)ので寿命が長くなることが期待される。 * '''欠点:''' 予備ディスクで故障したディスクを置き換えてリシンク(resync、再同期)が終了するまでの間(2013年の技術で1TBあたり10分以上)はシステムは冗長性を持っていないので、さらにもう一台のディスクが故障するとシステム全体の情報が失われる。 また、4台のディスクのうち3台でRAID 1を構成すると、上記のリシンク中の冗長性欠如のリスクは大幅に低減する。 RAID中に組み込まれたディスクはリアルタイム・オンラインで冗長性を作り出しているのに対して、予備ディスクは実際の故障発生時にオフライン[[バッチ処理]]でまとめて冗長性を作り出していると見ることもできる。 == 非RAID設計 == {{main|JBOD}} 一般的に複数のディスクを構成する際にはRAIDが使用されるが、RAIDを使用しないディスク構成も存在する。 * JBOD (Just a Bunch Of Disks) は複数の物理ディスクを一つのディスクとして扱いアクセスする<ref>{{Cite web|和書|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/0102/27/news002_2.html|title=RAIDレベルを理解しよう (2/3)|accessdate=2018-1-7}}</ref>。冗長性はない。 * スパニング (SPANNING) とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://ascii.jp/elem/000/000/453/453971/index-2.html|title=ハードディスクとRAIDの基礎を学ぼう|accessdate=2018-1-7}}</ref>。 == 参考文献 == * {{cite book|author=David A. Patterson and John L. Hennessy|coauthor=成田光彰|title=コンピュータの構成と設計 第3版(上) ハードウエアとソフトウエアのインタフェース|id=ISBN 4-8222-8266-X|publisher=[[日経BP]]|year=2006}} * {{cite book|author=David A. Patterson and John L. Hennessy|coauthor=成田光彰|title=コンピュータの構成と設計 第3版(下) ハードウエアとソフトウエアのインタフェース|id=ISBN 4-8222-8267-8|publisher=[[日経BP]]|year=2006}} * {{Citation | last = Patterson | first = David | author-link = デイビッド・パターソン (計算機科学者) | coauthors = Garth A. Gibson, Randy H. Katz | year = 1988 | title = A Case for Redundant Arrays of Inexpensive Disks (RAID) | publisher = SIGMOD Conference | pages = 109-116 | url =http://www.cs.cmu.edu/~garth/RAIDpaper/Patterson88.pdf }} == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[バックアップ]] * [[ディスクアレイ]] * [[JBOD]] * [[ダイレクトアタッチトストレージ]] (DAS) * [[ストレージエリアネットワーク]] (SAN) * [[ネットワークアタッチトストレージ]] (NAS) * [[iSCSI]] * [[シリアルATA|SATA]] * [[Fibre Channel]] * [[Serial Attached SCSI|SAS (Serial Attached SCSI)]] * [[SNIA]] * [[ZFS]] * [[ファイルサーバ]] * [[ホットスペア]] * [[可用性]] == 外部リンク == {{Commons|Redundant array of independent disks}} * {{Cite web|和書|url=http://meta.wikimedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%90|title=ウィキメディアのサーバ|accessdate=2018-1-7}} * {{Cite web|和書|url=https://www.fujitsu.com/jp/products/computing/storage/eternus/glossary/raid/|title=RAIDとは|editor=富士通|accessdate=2018-01-07}} {{仮想化}} {{DEFAULTSORT:RAID}} [[Category:補助記憶装置]] [[Category:サーバ]] [[Category:ハードウェア]] [[Category:信頼性工学]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/RAID
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中国帝王一覧
ここでは中国帝王一覧(ちゅうごくていおういちらん)について述べる。 中国の上古時代の君主の号は「天皇」だった。中国で「皇帝」の号がはじめて用いられるのは、秦の始皇帝の時である。この一覧でも、基本的に秦の始皇帝以降は「皇帝」を名乗り、それ以前は、「天子」、「王」である。そして、前漢以降は、「皇帝」が皇族や功臣を「王」に封じるようになった。このような「皇帝」によって「封ぜられた王」(諸侯王)は基本的にこの一覧には掲載していないが、五胡十六国時代・十国については掲載している。 また、歴史上、例えば「太祖」といった名は、複数の人物によって使われている。しかし、「天皇」、「皇帝」、「天子」、「王」、「天王」の称号について、例外もある。 当節内の帝王は中国神話上の、伝説上の帝王である。 不明としてあるものは、部族名が記されていない、または一代限りで執政となったものである。 義帝は紀元前209年 - 紀元前207年は懐王、元日に帝に推戴される。 なお、劉嬰は正確には帝位には即かず、上記の在位期間も皇太子としての在位であったが、一般には「前漢最後の皇帝」として歴代に名を連ねている。 1. 太祖(朱全忠、在位907年 - 912年) 2. 郢王(朱友珪、在位912年 - 913年) 3. 末帝(朱友貞、在位913年 - 923年)
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ここでは中国帝王一覧(ちゅうごくていおういちらん)について述べる。 中国の上古時代の君主の号は「天皇」だった。中国で「皇帝」の号がはじめて用いられるのは、秦の始皇帝の時である。この一覧でも、基本的に秦の始皇帝以降は「皇帝」を名乗り、それ以前は、「天子」、「王」である。そして、前漢以降は、「皇帝」が皇族や功臣を「王」に封じるようになった。このような「皇帝」によって「封ぜられた王」(諸侯王)は基本的にこの一覧には掲載していないが、五胡十六国時代・十国については掲載している。 また、歴史上、例えば「太祖」といった名は、複数の人物によって使われている。しかし、「天皇」、「皇帝」、「天子」、「王」、「天王」の称号について、例外もある。 世本によると、伏羲は「天皇」と称した。 史記によると、五帝および夏は「帝」を名乗っている。殷にも「帝」を名乗っている者がいる。 春秋時代の周は、「天子」とも称した。 春秋時代の諸侯は、楚・呉・越以外は「王」とは名乗っていない。越王勾践は「覇王」と呼ばれたことがある。 戦国時代の七雄以外には、周・宋・中山は「王」と名乗っている。 戦国時代の斉・秦は、短期間であるがそれぞれ「東帝」「西帝」と名乗っている。 秦の始皇帝は、「王」の称号を「皇帝」に変更した。 秦の子嬰は「皇帝」でなく、「王」である。 秦が滅んだあと、楚は、「王」の称号を「帝」に変更した。 西楚の項羽は、史記によると、「覇王」を名乗っている。 五胡十六国時代には「単于」を称してから、後で「天王」や「皇帝」に昇格するものがいた。 五胡十六国時代には「天王」を称する国が多いが、後で「皇帝」に昇格するものもいる。 五胡十六国時代・十国の中には、「王」と名乗っているものがままある。 唐の高宗は、「皇帝」の称号を「天皇」に変更した。
{{Infobox former monarchy | royal_title = 皇帝 | border = 皇帝 | realm = [[中国]] | coatofarms = ファイル:Inscription on Imperial Seal of China "受命於天 既壽永昌".svg | coatofarmssize = 120 | coatofarmscaption = 中国皇帝の[[御璽]]-[[伝国璽]] | image = [[ファイル:QinShiHuang19century.jpg|250px]] | caption = | first_monarch = '''初代皇帝'''<br />'''[[始皇帝]]'''<br />[[紀元前221年]] – [[紀元前210年]] | last_monarch = [[愛新覚羅溥儀|宣統帝]] | style = [[陛下]]<br/>[[皇上]]<br/>[[聖上]]<br>[[天子]]<br/>[[大君]]<br>[[御駕]]<br>[[至尊]]<br>[[万乗]]<br/>[[万歳]] | residence = [[紫禁城]] | began = [[秦朝|紀元前221年]] | ended = [[中華帝国 (1915年-1916年)|1916年3月22日]] | appointer = [[清|皇位請求者]] }} {{Infobox Royal styles |royal name = 皇帝 |dipstyle = [[陛下]]<br />''His Majesty the Emperor'' <br />''His Imperial Majesty''(H.I.M.) |image = [[ファイル:Coat_of_Arms_of_Joseon_Korea.svg|100px]] |color = #C0A73F |background = #BE0026 }} {{TOCright|limit=2}} <!-- ※サブセクションは省略されている --> {{特殊文字|説明=[[補助漢字|JIS X 0212]]、[[JIS X 0213]]、[[簡体字]]、[[拡張漢字|CJK統合漢字拡張A]]}} {{出典の明記|date=2018年6月}} ここでは'''中国帝王一覧'''(ちゅうごくていおういちらん)について述べる。 中国の上古時代の君主の号は「'''[[天皇 (三皇)|天皇]]'''」だった。中国で「'''[[皇帝 (中国)|皇帝]]'''」の号がはじめて用いられるのは、秦の始皇帝の時である。この一覧でも、基本的に秦の始皇帝以降は「皇帝」を名乗り、それ以前は、「[[天子]]」、「[[王]]」である。そして、前漢以降は、「'''皇帝'''」が皇族や功臣を「'''王'''」に封じるようになった。このような「皇帝」によって「'''封ぜられた王'''」([[諸侯王]])は基本的にこの一覧には掲載していないが、[[五胡十六国時代]]・[[五代十国時代|十国]]については掲載している。 また、歴史上、例えば「[[太祖 (曖昧さ回避)|太祖]]」といった名は、複数の人物によって使われている。しかし、「'''天皇'''」、「'''皇帝'''」、「'''天子'''」、「'''王'''」、「'''天王'''」の称号について、例外もある。 * [[世本]]によると、[[伏羲]]は「'''天皇'''」と称した。 * [[史記]]によると、五帝および夏は「'''帝'''」を名乗っている。殷にも「'''帝'''」を名乗っている者がいる。 * 春秋時代の周は、「'''天子'''」とも称した。 * 春秋時代の諸侯は、楚・呉・越以外は「'''王'''」とは名乗っていない。越王勾践は「'''覇王'''」と呼ばれたことがある。 * 戦国時代の七雄以外には、周・宋・中山は「'''王'''」と名乗っている。 * 戦国時代の斉・秦は、短期間であるがそれぞれ「'''東帝'''」「'''西帝'''」と名乗っている。 * 秦の[[始皇帝]]は、「'''王'''」の称号を「'''皇帝'''」に変更した。 * 秦の子嬰は「'''皇帝'''」でなく、「'''王'''」である。 * 秦が滅んだあと、楚は、「'''王'''」の称号を「'''帝'''」に変更した。 * 西楚の[[項羽]]は、[[史記]]によると、「'''覇王'''」を名乗っている。 * [[五胡十六国時代]]には「'''単于'''」を称してから、後で「'''天王'''」や「'''皇帝'''」に昇格するものがいた。 * [[五胡十六国時代]]には「'''天王'''」を称する国が多いが、後で「'''皇帝'''」に昇格するものもいる。 * [[五胡十六国時代]]・[[五代十国時代|十国]]の中には、「'''王'''」と名乗っているものがままある。 * 唐の[[高宗 (唐)|高宗]]は、「'''皇帝'''」の称号を「'''天皇'''」に変更した。 [[ファイル:中國帝國時代君主家族樹簡圖.jpg|1489x1489ピクセル]] == 古国時代 == 当節内の帝王は中国神話上の、伝説上の帝王である<ref group="注">※は[[史記]](三皇本紀)のみの記述。[[帝王世紀]]にもあるものは"※"無し。また、この順序は[[:zh:中国传说时代君主列表|中国伝説時代君主列表]]に依った。</ref>。 === 太古(上古)時代 === #[[盤古]] 万物を作り出したとされる。 #[[渾沌氏]] 盤古(元始天王、元始天尊)と同一視される。 #[[三皇]] 有巣氏・燧人氏と同一視される<ref group="注">三皇については様々な説があるため、[[三皇]]を参照。</ref>。 ##'''[[天皇 (三皇)|天皇]]''' ##'''[[地皇]]''' ##'''[[人皇]]''' #[[五竜氏]] ##皇伯 ##皇仲 ##皇叔 ##皇季 ##皇少 #[[有巣氏]] #[[燧人氏|燧人氏允婼]] === 伏羲女媧時代 === 不明としてあるものは、部族名が記されていない、または一代限りで執政となったものである。 #[[太昊]] 紀元前8350年?。伏羲と同一とも。 #[[伏羲]] 風姓。[[女媧]]と同じく創造神。別名は天皇、宓羲、庖犧、包犧、犧皇、皇羲など。[[女媧]]、嬟移、師嬟、太昊、昊嬟、少昊、嬑節、伏泰、羲暤、印槍が後継となったとされる。 #[[大庭氏 (古国)|大庭氏]] ##新印 ##姯印 ##随象 #[[柏皇氏]] ##伏顕 ##可塑 ##郁莟 #[[伏羲氏]] ##象団 #[[中央氏]] ##象偉 ##伏案 ##曲秦 ##随秦 #[[巻須氏]]※ ##晁安 #[[栗陸氏]] ##伏安 ##起望 ##河圭 #[[伏羲氏]] ##圭嬜 #[[驪連氏]] ##泰望 ##施公 ##団良 ##冠象 ##団伏 #[[赫胥氏]] ##伏義 ##娍義 ##肆櫔 ##帰紋 ##伏秧 #[[伏羲氏]] ##団皞 #[[尊盧氏]] ##秦槍 ##革池 ##槍蘭 ##三那 ##革蘭 #[[祝融|祝融氏]] ##赤禅 ##洛槍 ##附前 ##洛前 #[[混沌氏]] ##伏紀 ##随嬄 ##鵬爍 ##茜河 #[[昊英氏]] ##規辛 ##金鳥 ##掮師 #[[伏羲氏]] ##雪河 #[[後有巣氏]] ##汝信 ##羅秦 #[[葛天氏]] ##風浩 ##峙龍 ##達河 #[[陰康氏]] ##荷曲 ##達耳 ##媒蘭 ##立路 #[[脩魚氏]] ##因康 #[[朱襄氏]] ##墻爍 ##澤治 #[[雷澤氏]] ##渭茂 #[[無懐氏]] ##蒼芒 ##蒼曲 #[[伏羲氏]] ##風和 ##節氏 ##太河 ##太耀 ##節芒 === 炎帝神農氏 === #[[神農]][[魁隗]]([[伊耆石年]])(紀元前3050年?〜紀元前2999年?) #[[臨魁|帝臨魁]](紀元前2999年?〜紀元前2939年?) #[[承 (古国)|帝承]](紀元前2939年?〜紀元前2936年?) #[[明 (古国)|帝明]](紀元前2936年?〜紀元前2882年?) #[[直 (古国)|帝直]](紀元前2882年?〜紀元前2859年?) #[[来|帝来]](紀元前2859年?〜紀元前2805年?) #[[哀|帝哀]](紀元前2805年?〜紀元前2799年?) #[[克|帝克]](紀元前2799年?〜紀元前2754年?) #[[楡罔|帝楡罔]](紀元前2754年?〜紀元前2699年?) === 黄帝有熊氏 === # 軒轅氏 [[黄帝]] 姫伯荼<ref>功臣“[[四士]]”</ref>([[紀元前2510年]]? - [[紀元前2498年]]?) # [[帝休]] 姫釐([[紀元前2498年]]? - [[紀元前2464年]]?) # [[帝魁]] 姫魁([[紀元前2464年]]? - [[紀元前2448年]]?) # 金天氏 [[少昊]] 姫玄囂([[紀元前2448年]]? - [[紀元前2403年]]?) # [[帝裏]] 姫倍伐([[紀元前2403年]]? - [[紀元前2364年]]?) # 高陽氏 帝[[顓頊]] 姫顓頊<ref>功臣“[[八愷]]”</ref>([[紀元前2364年]]? - [[紀元前2294年]]?) # [[帝孺]] 姫貫兪([[紀元前2294年]]? - [[紀元前2286年]]?) # 高辛氏 帝[[嚳]] 姫夋<ref>功臣“[[八元]]”</ref>([[紀元前2286年]]? - [[紀元前2216年]]?) # 青陽氏 帝[[摯]] 姫摯([[紀元前2216年]]? - [[紀元前2213年]]?) # 陶唐氏 帝[[堯]] 伊祁放勲([[紀元前2213年]]? - [[紀元前2115年]]?)→[[丹朱]] # 有虞氏 帝[[舜]] 姚重華([[紀元前2112年]]? - [[紀元前2073年]]?)→[[商均]] == 夏 == {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[禹]]||姒文命||前2029年?—前1993年前?<br />前1989年?—前1982年?|| |- |2|||||[[啓|姒啓]]||前1978年?—前1963年?|| |- |3|||||[[太康 (夏)|姒太康]]||前1958年?—前1955年?|| |- |4|||||[[中康|姒中康]]||前1952年?—前1946年?|| |- |5|||||[[相 (夏)|姒相]]||前1943年?—前1916年?|| |- |6|||||[[少康 (夏)|姒少康]]||前1875年?—前1855年?|| |- |7|||||[[予 (夏)|姒予]]||前1852年?—前1836年?|| |- |8|||||[[槐 (夏)|姒槐]]||前1833年?—前1790年?|| |- |9|||||[[芒 (夏)|姒芒]]||前1789年?—前1732年?|| |- |10|||||[[洩|姒洩]]||前1730年?—前1706年?|| |- |11|||||[[不降|姒不降]]||前1702年?—前1644年?|| |- |12|||||[[扃|姒扃]]||前1643年?—前1626年?|| |- |13|||||[[廑|姒廑]]||前1622年?—前1615年?|| |- |14|||||[[孔甲 (夏)|姒孔甲]]||前1612年?—前1604年?|| |- |15|||||[[皐 (夏)|姒皐]]||前1601年?—前1599年?|| |- |16|||||[[発|姒発]]||前1596年?—前1590年?|| |- |17||[[桀]]||姒履癸||前1589年?—前1559年?|| |} == 殷 == [[画像:In-syou-teishitu.PNG|thumb|right|180px|殷朝系図]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||style="white-space:nowrap;"|名(諡号含)||在位年||在位年数 |- | 1||| [[天乙]](成湯)||前1558年?- 前1546年?||12年/29年 |- | 2||| [[外丙]]||前1546年? - 前1544年?||2年? |- | 3||| [[仲壬]]||前1544年? - 前1540年?||4年? |- | 4||太宗[[太甲]]||前1540年? - 前1528年?||12年? |- | ||| [[伊尹]]|||| |- | 5||| [[沃丁]]||前1528年? - 前1509年?||19年? |- | 6||| [[太庚]]||前1509年? - 前1504年?||5年? |- | 7||| [[小甲]]||前1504年? - 前1487年?||17年? |- | 8|| 中宗[[太戊]]||前1487年? - 前1413年?||75年? |- | 9||| [[雍己]]||前1412年? - 前1401年?||12年? |- | 10||| [[中丁]](仲丁)||前1400年? - 前1391年?||9年? |- | 11||| [[外壬]]||前1391年? - 前1381年?||10年? |- | 12||| [[河亶甲]]||前1381年? - 前1372年?||9年? |- | 13||| [[祖乙]]||前1372年? - 前1353年?||19年? |- | 14||| [[祖辛]]||前1353年? - 前1339年?||14年 |- | 15||| [[沃甲]]||前1339年? - 前1334年?||5年 |- | 16||| [[祖丁]]||前1334年? - 前1325年?||9年? |- | 17||| [[南庚]]||前1325年? - 前1319年?||6年? |- | 18||| [[陽甲]]||前1319年? - 前1315年?||4年? |- | 19||| [[盤庚]]||前1315年? - 前1287年?||28年? |- | 20||| [[小辛]]||前1287年? - 前1284年?||3年? |- | 21||| [[小乙]]||前1284年? - 前1274年?||10年? |- | 22||高宗[[武丁]]||前1274年? - 前1215年?<br />前1190年? - 前1132年?||59年? |- | |||* [[祖己]]|||| |- | 23||| [[祖庚]]||前1215年? - 前1204年?||11年? |- | 24||| [[祖甲]]||前1204年? - 前1171年?||33年? |- | 25||| [[廩辛]]||前1171年? - 前1167年?||4年? |- | 26||| [[庚丁]]||前1167年? - 前1159年?|| |- | 27||| [[武乙]]||前1159年? - 前1124年?<br />[[1148年]]? - [[1113年]]?|| |- | 28||| [[文武丁|太丁]]||前1124年? - 前1111年?<br />[[1113年]]? - [[1102年]]?|| |- | 29||| [[帝乙]]||前1111年 ?- 前1102年?<br />[[1102年]]? - [[1076年]]?|| |- | 30||| [[帝辛]](子受)||前1102年? - 前1050年?<br />[[1076年]] - [[1046年]]?|| |} == 周 == [[画像:Zhou Dynasty Chart.jpg|thumb|right|250px|周朝系図]] * 姫昌は[[殷]]の「西伯」だった。 * 姫昌は、武王に「[[文王 (周)|文王]]」と追号された。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1|||[[武王 (周)|武王]]||姫発||[[紀元前1046年]]? - [[紀元前1043年]]?|| |- |2|||[[成王 (周)|成王]]||姫誦||[[紀元前1043年]]? - [[紀元前1021年]]?|| |- |3|||[[康王 (周)|康王]]||姫釗||[[紀元前1021年]]? - [[紀元前996年]]?|| |- |4|||[[昭王 (周)|昭王]]||姫瑕||[[紀元前996年]]? - [[紀元前977年]]?|| |- |5|||[[穆王 (周)|穆王]]||姫満||[[紀元前977年]]? - [[紀元前922年]]?|| |- |6|||[[共王 (周)|共王]]||姫繄扈||[[紀元前922年]]? - [[紀元前900年]]?|| |- |7|||[[懿王]]||姫囏||[[紀元前900年]]? - [[紀元前892年]]?|| |- |8|||[[孝王 (周)|孝王]]||姫辟方||[[紀元前892年]]? - [[紀元前886年]]?|| |- |9|||[[夷王]]||姫燮||[[紀元前886年]]? - [[紀元前878年]]?|| |- |10|||[[厲王]]||姫胡||[[紀元前878年]]? - [[紀元前842年]]|| |- ||||[[共和 (周)|共和]]||||紀元前841年 - 紀元前828年|| |- |11|||[[宣王 (周)|宣王]]||姫静||[[紀元前828年]] - [[紀元前782年]]|| |- |12|||[[幽王 (周)|幽王]]||姫宮涅||[[紀元前782年]] - [[紀元前771年]]|| |- |13|||[[平王 (周)|平王]]||姫宜臼||[[紀元前771年]] - [[紀元前720年]]|| |- ||||[[携王]]||姫余臣||[[紀元前770年]] - [[紀元前750年]]|| |- |14|||[[桓王]]||姫林||[[紀元前720年]] - [[紀元前697年]]|| |- |15|||[[荘王 (周)|荘王]]||姫佗||[[紀元前697年]] - [[紀元前682年]]|| |- |16|||[[釐王 (周)|釐王]]||姫胡斉||[[紀元前682年]] - [[紀元前677年]]|| |- |17|||[[恵王 (周)|恵王]]||姫閬||[[紀元前677年]] - [[紀元前652年]]|| |- ||||||[[姫頽]]||[[紀元前675年]] - [[紀元前673年]]|| |- |18|||[[襄王 (周)|襄王]]||姫鄭||[[紀元前652年]] - [[紀元前619年]]|| |- ||||||[[王子帯|姫帯]]||[[紀元前636年]] - [[紀元前635年]]|| |- |19|||[[頃王 (周)|頃王]]||姫壬臣||[[紀元前619年]] - [[紀元前613年]]|| |- |20|||[[匡王]]||姫班||[[紀元前613年]] - [[紀元前607年]]|| |- |21|||[[定王 (周)|定王]]||姫瑜||[[紀元前607年]] - [[紀元前586年]]|| |- |22|||[[簡王 (周)|簡王]]||姫夷||[[紀元前586年]] - [[紀元前572年]]|| |- |23|||[[霊王 (周)|霊王]]||姫泄心||[[紀元前572年]] - [[紀元前545年]]|| |- |24|||[[景王 (周)|景王]]||姫貴||[[紀元前545年]] - [[紀元前520年]]|| |- |25|||[[悼王 (周)|悼王]]||姫猛||[[紀元前520年]]|| |- |26|||[[敬王]]||姫匄||[[紀元前520年]] - [[紀元前476年]]|| |- |27|||[[元王]]||姫仁||[[紀元前476年]] - [[紀元前469年]]|| |- |28|||[[貞定王]]||姫介||[[紀元前469年]] - [[紀元前441年]]|| |- |29|||[[哀王 (周)|哀王]]||姫去疾||[[紀元前441年]] - [[紀元前440年]]|| |- |30|||[[思王]]||姫叔襲||[[紀元前440年]]|| |- |31|||[[考王]]||姫嵬||[[紀元前440年]] - [[紀元前426年]]|| |- |32|||[[威烈王]]||姫午||[[紀元前426年]] - [[紀元前402年]]|| |- |33|||[[安王 (周)|安王]]||姫驕||[[紀元前401年]] - [[紀元前376年]]|| |- |34|||[[烈王 (周)|烈王]]||姫喜||[[紀元前376年]] - [[紀元前369年]]|| |- |35|||[[顕王]]||姫扁||[[紀元前369年]] - [[紀元前321年]]|| |- |36|||[[慎靚王]]||姫定||[[紀元前321年]] - [[紀元前315年]]|| |- |37|||[[赧王]]||姫延||[[紀元前315年]] - [[紀元前256年]]|| |- |38|||[[昭文君]]||姫傑||[[紀元前256年]] - [[紀元前249年]]|| |} == 春秋戦国時代 == {{main|周朝諸侯国君主一覧}} === 魯 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||||[[姫伯禽]]||[[紀元前1043年]] - [[紀元前998年]]||45年 |- |2||[[考公 (魯)|考公]]||姫酋||[[紀元前997年]] - [[紀元前994年]]||3年 |- |3||[[煬公 (魯)|煬公]]||姫熙||[[紀元前993年]] - [[紀元前988年]]||5年 |- |4||[[幽公 (魯)|幽公]]||姫宰||[[紀元前987年]] - [[紀元前974年]]||13年 |- |5||[[魏公 (魯)|魏公]]||姫沸||[[紀元前973年]] - [[紀元前924年]]||49年 |- |6||[[厲公 (魯)|厲公]]||姫擢||[[紀元前923年]] - [[紀元前887年]]||36年 |- |7||[[献公 (魯)|献公]]||姫具||[[紀元前886年]] - [[紀元前855年]]||31年 |- |8||[[真公 (魯)|真公]]||姫濞||[[紀元前854年]] - [[紀元前826年]]||28年 |- |9||[[武公 (魯)|武公]]||姫敖||[[紀元前825年]] - [[紀元前816年]]||9年 |- |10||[[懿公 (魯)|懿公]]||姫戯||[[紀元前815年]] - [[紀元前807年]]||8年 |- |11||[[廃公 (魯)|廃公]]||姫伯御||[[紀元前806年]] - [[紀元前796年]]||10年 |- |12||[[孝公 (魯)|孝公]]||姫称||[[紀元前795年]] - [[紀元前769年]]||26年 |- |13||[[恵公 (魯)|恵公]]||姫弗湟||[[紀元前768年]] - [[紀元前723年]]||45年 |- |14||[[隠公 (魯)|隠公]]||姫息姑||[[紀元前722年]] - [[紀元前712年]]||10年 |- |15||[[桓公 (魯)|桓公]]||姫允||[[紀元前711年]] - [[紀元前694年]]||17年 |- |16||[[荘公 (魯)|荘公]]||姫同||[[紀元前693年]] - [[紀元前662年]]||31年 |- |17||[[閔公 (魯)|閔公]]||姫啓||[[紀元前661年]] - [[紀元前660年]]||1年 |- |18||[[僖公 (魯)|僖公]]||姫申||[[紀元前659年]] - [[紀元前627年]]||32年 |- |19||[[文公 (春秋魯)|文公]]||姫興||[[紀元前626年]] - [[紀元前609年]]||17年 |- |20||[[宣公 (魯)|宣公]]||姫俀||[[紀元前608年]] - [[紀元前591年]]||17年 |- |21||[[成公 (魯)|成公]]||姫黒肱||[[紀元前590年]] - [[紀元前573年]]||17年 |- |22||[[襄公 (魯)|襄公]]||姫午||[[紀元前572年]] - [[紀元前542年]]||30年 |- |23||魯公野||[[姫野]]||[[紀元前542年]]|| |- |24||[[昭公 (魯)|昭公]]||姫稠||[[紀元前541年]] - [[紀元前510年]]||31年 |- |25||[[定公 (魯)|定公]]||姫宋||[[紀元前509年]] - [[紀元前495年]]||14年 |- |26||[[哀公 (魯)|哀公]]||姫将||[[紀元前494年]] - [[紀元前468年]]||26年 |- |27||[[悼公 (魯)|悼公]]||姫寧||[[紀元前467年]] - [[紀元前437年]]||30年 |- |28||[[元公 (魯)|元公]]||姫嘉||[[紀元前436年]] - [[紀元前416年]]||20年 |- |29||[[穆公 (魯)|穆公]]||姫顕||[[紀元前415年]] - [[紀元前383年]]||33年 |- |30||[[共公 (魯)|共公]]||姫奮||[[紀元前382年]] - [[紀元前353年]]||29年 |- |31||[[康公 (魯)|康公]]||姫屯||[[紀元前352年]] - [[紀元前344年]]||8年 |- |32||[[景公 (魯)|景公]]||姫匽||[[紀元前343年]] - [[紀元前323年]]||20年 |- |33||[[平公 (魯)|平公]]||姫叔||[[紀元前322年]] - [[紀元前303年]]||19年 |- |34||[[文公 (戦国魯)|文公]]||姫賈||[[紀元前302年]] - [[紀元前280年]]||22年 |- |35||[[頃公 (魯)|頃公]]||姫讎||[[紀元前279年]] - [[紀元前256年]]||23年 |} === 斉 === ==== 姜斉 ==== {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位期間||在位年数 |- |1||[[太公望|太公]]||呂尚||?年 - [[紀元前1000年]]|| |- |2||[[丁公 (斉)|丁公]]||呂伋||[[紀元前999年]] - ?年|| |- |3||[[乙公]]||姜得|||| |- |4||[[癸公]]||姜慈母|||| |- |5||[[哀公 (斉)|哀公]]||姜不辰||?年 - [[紀元前863年]]|| |- |6||[[胡公 (斉)|胡公]]||姜静||[[紀元前862年]] - [[紀元前860年]]||3年 |- |7||[[献公 (斉)|献公]]||姜山||[[紀元前859年]] - [[紀元前851年]]||9年 |- |8||[[武公 (斉)|武公]]||姜寿||[[紀元前850年]] - [[紀元前825年]]||26年 |- |9||[[厲公 (斉)|厲公]]||姜無忌||[[紀元前824年]] - [[紀元前816年]]||9年 |- |10||[[文公 (斉)|文公]]||姜赤||[[紀元前815年]] - [[紀元前804年]]||12年 |- |11||[[成公 (斉)|成公]]||姜脱||[[紀元前803年]] - [[紀元前795年]]||9年 |- |12||[[荘公贖|荘公]](前荘公)||姜購||[[紀元前794年]] - [[紀元前731年]]||64年 |- |13||[[釐公 (斉)|釐公]]||姜禄甫||[[紀元前730年]] - [[紀元前698年]]||33年 |- |14||[[襄公 (斉)|襄公]]||姜諸児||[[紀元前697年]] - [[紀元前686年]]||12年 |- |15||[[公孫無知]]||姜無知||[[紀元前686年]]||2月 |- |16||[[桓公 (斉)|桓公]]||姜小白||[[紀元前685年]] - [[紀元前643年]]||43年 |- |17||[[斉侯無詭]]||姜無詭||[[紀元前643年]]||3月 |- |18||[[孝公 (斉)|孝公]]||姜昭||[[紀元前642年]] - [[紀元前633年]]||10年 |- |19||[[昭公 (斉)|昭公]]||姜潘||[[紀元前632年]] - [[紀元前613年]]||20年 |- |20||[[斉君舎]]||姜舎||[[紀元前613年]]||5月 |- |21||[[懿公 (斉)|懿公]]||姜商人||[[紀元前612年]] - [[紀元前609年]]||4年 |- |22||[[恵公 (斉)|恵公]]||姜元||[[紀元前608年]] - [[紀元前599年]]||10年 |- |23||[[頃公 (斉)|頃公]]||姜無野||[[紀元前598年]] - [[紀元前582年]]||17年 |- |24||[[霊公 (斉)|霊公]]||姜環||[[紀元前581年]] - [[紀元前554年]]||28年 |- |25||[[荘公光|荘公]](後荘公)||姜光||[[紀元前553年]] - [[紀元前548年]]||6年 |- |26||[[景公 (斉)|景公]]||姜杵臼||[[紀元前547年]] - [[紀元前490年]]||58年 |- |27||[[晏孺子荼]]||姜荼||[[紀元前489年]]||10月 |- |28||[[悼公 (斉)|悼公]]||姜陽生||[[紀元前488年]] - [[紀元前485年]]||4年 |- |29||[[簡公 (斉)|簡公]]||姜壬||[[紀元前484年]] - [[紀元前481年]]||4年 |- |30||[[平公 (斉)|平公]]||姜驁||[[紀元前480年]] - [[紀元前456年]]||25年 |- |31||[[宣公 (斉)|宣公]]||姜積||[[紀元前455年]] - [[紀元前405年]]||51年 |- |32||[[康公 (斉)|康公]]||姜貸||[[紀元前404年]] - [[紀元前379年]]||26年 |}  ==== 田斉 ==== {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[太公 (田斉)|太公]]||田和||[[紀元前404年]] - [[紀元前384年]]||21年 |- |2|| ||[[田剡]]||[[紀元前383年]] - [[紀元前375年]]||9年 |- |3||[[桓公 (田斉)|桓公]]||田午||[[紀元前374年]] - [[紀元前357年]]||18年 |- |4||[[威王 (斉)|威王]]||田因斉||[[紀元前356年]] - [[紀元前320年]]||37年 |- |5||[[宣王 (斉)|宣王]]||田辟彊||[[紀元前319年]] - [[紀元前301年]]||19年 |- |6||[[湣王]]||田地||[[紀元前300年]] - [[紀元前284年]]||17年 |- |7||[[襄王 (斉)|襄王]]||田法章||[[紀元前283年]] - [[紀元前265年]]||19年 |- |8|| ||[[田建]]||[[紀元前264年]] - [[紀元前221年]]||44年 |} === 晋 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位期間||年数 |- |1||[[唐叔虞]]||姫虞||[[紀元前1043年]] - [[紀元前998年]]||45年 |- |2||[[晋侯燮]]||姫燮父||||ー |- |3||[[武侯 (晋)|武侯]]||姫寧族||||ー |- |4||[[成侯 (晋)|成侯]]||姫服人||||ー |- |5||[[厲侯 (晋)|厲侯]]||姫僰馬||?‐[[859年]]||ー |- |6||[[靖侯]]||姫宜臼||[[紀元前859年]]‐[[841年]]||14年 |- |7||[[釐侯 (晋)|釐侯]]||姫司徒||[[紀元前841年]]‐[[823年]]||18年 |- |8||[[献侯]]||姫蘇||[[紀元前823年]]‐[[812年]]||11年 |- |9||[[穆侯 (晋)|穆侯]]||姫費生||[[紀元前812年]]‐[[785年]]||27年 |- |10||[[殤叔]]||||[[紀元前785年]]‐[[781年]]||4年 |- |11||[[文侯 (晋)|文侯]]||姫仇||[[紀元前781年]]‐[[746年]]||35年 |- ||分家||[[桓叔]]||姫成師|||| |- ||分家||[[荘伯]]||姫鱓|||| |- |12||[[昭侯 (晋)|昭侯]]||姫伯||[[紀元前746年]]‐[[739年]]||7年 |- |13||[[孝侯]]||姫平||[[紀元前739年]]‐[[724年]]||15年 |- |14||[[鄂侯]]||姫郄||[[紀元前724年]]‐[[718年]]||6年 |- |15||[[哀侯 (晋)|哀侯]]||姫光||[[紀元前718年]]‐[[709年]]||9年 |- |16||[[晋侯緡]]||姫緡||[[紀元前709年]]‐[[679年]]||30年 |- |17||[[武公 (晋)|武公]]||姫称||[[紀元前679年]]‐[[677年]]||2年 |- |18||[[献公 (晋)|献公]]||姫詭諸||[[紀元前676年]] - [[紀元前651年]]||24年 |- |19||[[恵公 (晋)|恵公]]||姫夷吾||[[紀元前650年]] - [[紀元前637年]]||13年 |- |20||[[懐公 (晋)|懐公]]||姫圉||[[紀元前637年]] - [[紀元前636年]]||1年 |- |21||[[文公 (晋)|文公]]||姫重耳||[[紀元前636年]] - [[紀元前628年]]||8年 |- |22||[[襄公 (晋)|襄公]]||姫驩||[[紀元前628年]] - [[紀元前621年]]||7年 |- |23||[[霊公 (晋)|霊公]]||姫夷皋||[[紀元前620年]] - [[紀元前607年]]||13年 |- |24||[[成公 (晋)|成公]]||姫黒臀||[[紀元前607年]] - [[紀元前600年]]||7年 |- |25||[[景公 (晋)|景公]]||姫拠||[[紀元前600年]] - [[紀元前581年]]||19年 |- |26||[[厲公 (晋)|厲公]]||姫寿曼||[[紀元前581年]] - [[紀元前573年]]||8年 |- |27||[[悼公 (晋)|悼公]]|||||| |- |28||[[平公 (晋)|平公]]||姫彪||[[紀元前559年]] - [[紀元前532年]]||27年 |- |29||[[昭公 (晋)|昭公]]||姫夷||[[紀元前532年]]‐[[526年]]||6年 |- |30||[[頃公 (晋)|頃公]]||姫去疾||[[紀元前526年]]‐[[512年]]||14年 |- |31||[[定公 (晋)|定公]]||姫午||[[紀元前512年]]‐[[475年]]||27年 |- |32||[[出公 (晋)|出公]]||姫鑿||[[紀元前475年]]‐[[452年]]||23年 |- |33||[[哀公 (晋)|哀公]]||姫驕||[[紀元前452年]]‐[[434年]]<br/>[[紀元前457年]]‐[[438年]]||18年<br/>19年 |- |34||[[幽公 (晋)|幽公]]||姫柳||[[紀元前434年]]‐[[416年]]<br/>[[紀元前438年]]‐[[420年]]||18年 |- |35||[[烈公 (晋)|烈公]]||姫止||[[紀元前416年]]‐[[389年]]<br/>[[紀元前420年]]‐[[393年]]||27年 |- |36||[[孝公 (晋)|孝公]]||姫頎||[[紀元前389年]]‐[[357年]]<br/>[[紀元前393年]]‐[[378年]]||32年<br/>15年 |- |37||[[静公 (晋)|静公]]||姫倶酒||[[紀元前357年]]‐[[349年]]<br/>[[紀元前378年]]‐[[376年]]||8年<br/>2年 |} === 楚 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位期間||年数 |- |||||[[熊繹]]|||| |- |||||[[熊只]]|||| |- |||||[[熊䵣]]|||| |- |||||[[熊樊]]|||| |- |||||[[熊鍚]]|||| |- |||||[[熊渠]]|||| |- |||||[[熊毋康]]|||| |- |||||[[熊摯紅]]|||| |- |||||[[熊執疵]]||在位? - [[紀元前848年]]頃||ー |- |10||||[[熊勇]]||[[紀元前847年]]頃 - [[紀元前838年]]頃||9年 |- |11||||[[熊厳]]||[[紀元前837年]]頃 - [[紀元前828年]]頃||9年 |- |12||||[[熊相]]||[[紀元前827年]]頃 - [[紀元前822年]]頃||5年 |- |13||||[[熊徇]]||[[紀元前821年]]頃 - [[紀元前800年]]頃||21年 |- |14||||[[熊咢]]||[[紀元前799年]]頃 - [[紀元前791年]]頃||8年 |- |15||[[若敖]]||熊儀||[[紀元前790年]]頃 - [[紀元前764年]]頃||26年 |- |16||[[霄敖]]||熊坎||[[紀元前763年]]頃 - [[紀元前758年]]頃||5年 |- |17||[[蚡冒]]||熊眴||[[紀元前757年]]頃 - [[紀元前741年]]||16年 |- |18||[[武王 (楚)|武王]]||熊徹||[[紀元前740年]] - [[紀元前690年]]||50年 |- |19||[[文王 (楚)|文王]]||熊貲||[[紀元前689年]] - [[紀元前675年]]||14年 |- |20||[[荘敖|堵敖]]||熊囏||[[紀元前674年]] - [[紀元前672年]]||2年 |- |21||[[成王 (楚)|成王]]||熊惲||[[紀元前671年]] - [[紀元前626年]]||45年 |- |22||[[穆王 (楚)|穆王]]||熊商臣||[[紀元前625年]] - [[紀元前614年]]||11年 |- |23||[[荘王 (楚)|荘王]]||熊侶||[[紀元前613年]] - [[紀元前591年]]||22年 |- |24||[[共王 (楚)|共王]]||熊審||[[紀元前590年]] - [[紀元前560年]]||30年 |- |25||[[康王 (楚)|康王]]||熊招||[[紀元前559年]] - [[紀元前545年]]||14年 |- |26||[[郟敖]]||熊員||[[紀元前544年]] - [[紀元前541年]]||3年 |- |27||[[霊王 (楚)|霊王]]||熊囲||[[紀元前540年]] - [[紀元前529年]]||11年 |- |28||[[訾敖]]||熊比||[[紀元前529年]]|| |- |29||[[平王 (楚)|平王]]||熊弃疾||[[紀元前528年]] - [[紀元前516年]]||12年 |- |30||[[昭王 (楚)|昭王]]||熊珍||[[紀元前515年]] - [[紀元前489年]]||26年 |- |31||[[恵王 (楚)|恵王]]||熊章||[[紀元前488年]] - [[紀元前432年]]||56年 |- |32||[[簡王 (楚)|簡王]]||熊中||[[紀元前431年]] - [[紀元前408年]]||23年 |- |33||[[声王]]||熊当||[[紀元前407年]] - [[紀元前402年]]||5年 |- |34||[[悼王 (楚)|悼王]]||熊疑||[[紀元前401年]] - [[紀元前381年]]||20年 |- |35||[[粛王]]||熊臧||[[紀元前380年]] - [[紀元前370年]]||10年 |- |36||[[宣王 (楚)|宣王]]||熊良夫||[[紀元前369年]] - [[紀元前340年]]||29年 |- |37||[[威王 (楚)|威王]]||熊商||[[紀元前339年]] - [[紀元前329年]]||10年 |- |38||[[懐王]]||熊槐||[[紀元前328年]] - [[紀元前299年]]||29年 |- |39||[[頃襄王]]||熊横||[[紀元前298年]] - [[紀元前263年]]||35年 |- |40||[[考烈王]]||熊完||[[紀元前262年]] - [[紀元前238年]]||26年 |- |41||[[幽王 (楚)|幽王]]||熊悍||[[紀元前237年]] - [[紀元前229年]]||8年 |- |42||[[哀王 (楚)|哀王]]||熊猶||[[紀元前228年]]||ー |- |43||[[負芻]]||熊負芻||[[紀元前227年]] - [[紀元前223年]]||4年 |} === 宋 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- ||1||[[微子啓]]||子啓|||| |- ||2||[[微仲衍]]||子衍|||| |- ||3||[[宋公稽]](無諡)||子稽|||| |- ||4||[[丁公 (宋)|丁公]]||子申|||| |- ||5||[[湣公共|湣公]]||子共|||| |- ||6||[[煬公 (宋)|煬公]]||子熙|||| |- ||7||[[厲公 (宋)|厲公]]||子鮒祀||||?年 - [[紀元前859年]] |- ||8||[[釐公 (宋)|釐公]]||子挙||28年||[[紀元前858年]] - [[紀元前831年]] |- ||9||[[恵公 (宋)|恵公]]||子覵||30年||[[紀元前830年]] - [[紀元前800年]] |- ||10||[[哀公 (宋)|哀公]]||||1年||[[紀元前800年]] |- ||11||[[戴公 (宋)|戴公]]||||34年||[[紀元前799年]] - [[紀元前766年]] |- ||12||[[武公 (宋)|武公]]||子司空||18年||[[紀元前765年]] - [[紀元前748年]] |- ||13||[[宣公 (宋)|宣公]]||子力||19年||[[紀元前747年]] - [[紀元前729年]] |- ||14||[[穆公 (宋)|穆公]]||子和||9年||[[紀元前728年]] - [[紀元前720年]] |- ||15||[[殤公 (宋)|殤公]]||子與夷||9年||[[紀元前719年]] - [[紀元前711年]] |- ||16||[[荘公 (宋)|荘公]]||子馮||19年||[[紀元前710年]] - [[紀元前692年]] |- ||17||[[湣公捷|湣公]]||子捷||10年||[[紀元前691年]] - [[紀元前682年]] |- ||18||[[宋子游|宋公游]](無諡)||子游||3月||[[紀元前682年]] |- ||19||[[桓公 (春秋宋)|桓公]]||子禦説||31年||[[紀元前681年]] - [[紀元前651年]] |- ||20||[[襄公 (宋)|襄公]]||子茲甫||14年||[[紀元前650年]] - [[紀元前637年]] |- ||21||[[成公 (宋)|成公]]||子王臣||17年||[[紀元前636年]] - [[紀元前620年]] |- ||22||[[宋君禦|宋公禦]](無諡)||子禦||1月||[[紀元前620年]] |- ||23||[[昭公 (春秋宋)|昭公]]||子杵臼||9年||[[紀元前619年]] - [[紀元前611年]] |- ||24||[[文公 (宋)|文公]]||子鮑革||22年||[[紀元前610年]] - [[紀元前589年]] |- ||25||[[共公 (宋)|共公]]||子瑕||13年||[[紀元前588年]] - [[紀元前576年]] |- ||26||[[平公 (宋)|平公]]||子成||44年||[[紀元前575年]] - [[紀元前532年]] |- ||27||[[元公 (宋)|元公]]||子佐||15年||[[紀元前531年]] - [[紀元前517年]] |- ||28||[[景公 (宋)|景公]]||子欒||48年||[[紀元前516年]] - [[紀元前469年]]</small><br />[[紀元前516年]] - [[紀元前451年]] |- ||||[[宋公啓]]||子啓||||[[紀元前469年]] |- ||29||[[昭公 (戦国宋)|昭公]]||子特||65年||[[紀元前468年]] - [[紀元前404年]]</small><br />[[紀元前450年]] - [[紀元前404年]] |- ||30||[[悼公 (宋)|悼公]]||子購由||19年||[[紀元前403年]] - [[紀元前385年]]</small><br />[[紀元前403年]] - [[紀元前396年]] |- ||31||[[休公]]||子田||23年||[[紀元前385年]] - [[紀元前363年]]</small><br />[[紀元前395年]] - [[紀元前373年]] |- ||32||[[桓公 (戦国宋)|桓公]]||子辟兵||約7年||[[紀元前362年]] - [[紀元前356年]]</small><br />[[紀元前372年]] - [[紀元前370年]] |- ||33||[[剔成君]]||子喜||約27年||[[紀元前355年]] - [[紀元前329年]]</small><br />[[紀元前369年]] - [[紀元前329年]] |- ||34||[[康王 (宋)|康王]]||子偃||43年||[[紀元前328年]] - [[紀元前286年]] |} === 衛 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- ||1||[[康叔|康叔封]]||[[武王 (周)|武王]]の八弟||紀元前?-?|| |- ||2||[[康伯 (衛)|康伯]]||康叔の子||紀元前?-?||- |- ||3||[[孝伯 (衛)|孝伯]]||康伯の子||紀元前?-?|| |- ||4||[[嗣伯]]||孝伯の子||紀元前?-?||- |- ||5||[[寁伯]]||嗣伯の子||紀元前?-?||- |- ||6||[[靖伯]]||寁伯の子||紀元前?-?|| |- ||7||[[貞伯]]||靖伯の子||紀元前?-[[紀元前867年]]|| |- ||8||[[頃侯 (衛)|頃侯]]||||[[紀元前866年]]-[[紀元前855年]]||- |- ||9||[[釐侯 (衛)|釐侯]]||||[[紀元前855年]]-[[紀元前813年]]|| |- ||10||[[共伯 (衛)|共伯]]||姫余||[[紀元前813年]]|| |- ||11||[[武公 (衛)|武公]]||姫和||[[紀元前812年]]-[[紀元前758年]]|| |- ||12||[[荘公揚|荘公]]||姫揚||[[紀元前757年]]-[[紀元前735年]]|| |- ||13||[[桓公 (衛)|桓公]]||姫完||[[紀元前734年]]-[[紀元前719年]]|| |- ||14||[[州吁]]||姫州吁||[[紀元前719年]]|| |- ||15||[[宣公 (衛)|宣公]]||姫晋||[[紀元前718年]]-[[紀元前700年]]|| |- ||16||[[恵公 (衛)|恵公]]||姫朔||[[紀元前699年]]-[[紀元前696年]]|| |- ||17||[[黔牟]]||姫黔牟||[[紀元前696年]]-[[紀元前688年]]|| |- ||18||[[恵公]]||姫朔||[[紀元前687年]]-[[紀元前669年]]||※復位 |- ||19||[[懿公 (衛)|懿公]]||姫赤||[[紀元前668年]]-[[紀元前660年]]|| |- ||20||[[戴公 (衛)|戴公]]||姫申||[[紀元前660年]]|| |- ||21||[[文公 (衛)|文公]]||姫燬||[[紀元前659年]]-[[紀元前635年]]|| |- ||22||[[成公 (衛)|成公]]||姫鄭||[[紀元前634年]]-[[紀元前600年]]|| |- ||||叔武||||[[紀元前632年]]|| |- ||||衛君瑕||姫瑕||[[紀元前632年]]-[[紀元前630年]]|| |- ||23||[[穆公 (衛)|穆公]]||姫遫||[[紀元前599年]]-[[紀元前589年]]|| |- ||24||[[定公 (衛)|定公]]||姫臧||[[紀元前588年]]-[[紀元前577年]]|| |- ||25||[[献公 (衛)|献公]]||姫衎||[[紀元前576年]]-[[紀元前559年]]|| |- ||26||[[殤公 (衛)|殤公]]||姫秋||[[紀元前558年]]-[[紀元前547年]]|| |- ||27||献公||姫衎||[[紀元前546年]]-[[紀元前544年]]||※復位 |- ||28||[[襄公 (衛)|襄公]]||姫悪||[[紀元前543年]]-[[紀元前535年]]|| |- ||29||[[霊公 (衛)|霊公]]||姫元||[[紀元前534年]]-[[紀元前493年]]|| |- ||30||[[出公 (衛)|出公]]||姫輒||[[紀元前492年]]-[[紀元前480年]]|| |- ||31||[[荘公蒯聵|荘公]]||姫蒯聵||[[紀元前479年]]-[[紀元前478年]]|| |- ||||公孫[[斑師]]||姫斑師||[[紀元前478年]]|| |- ||32||[[衛君起]]||姫起||[[紀元前477年]]|| |- ||33||出公||姫輒||[[紀元前476年]]-[[紀元前470年]]||※復位 |- ||34||[[悼公 (衛)|悼公]]||姫黔||[[紀元前455年]]-[[紀元前451年]]|| |- ||35||[[敬公 (衛)|敬公]]||姫弗||[[紀元前450年]]-[[紀元前432年]]|| |- ||36||[[昭公 (衛)|昭公]]||姫糾||[[紀元前431年]]-[[紀元前426年]]|| |- ||37||[[懐公 (衛)|懐公]]||姫亶||[[紀元前425年]]-[[紀元前415年]]|| |- ||38||[[慎公 (衛)|慎公]]||姫穨||[[紀元前414年]]-[[紀元前373年]]|| |- ||39||[[声公 (衛)|声公]]||姫訓||[[紀元前372年]]-[[紀元前362年]]|| |- ||40||[[成侯 (衛)|成侯]]||姫不逝||[[紀元前361年]]-[[紀元前333年]]|| |- ||41||[[平侯 (衛)|平侯]]||姫勁||[[紀元前332年]]-[[紀元前325年]]|| |- ||42||[[嗣君]]||||[[紀元前324年]]-[[紀元前283年]]|| |- ||43||[[懐君]]||||[[紀元前282年]]-[[紀元前253年]]|| |- ||44||[[元君 (衛)|元君]]||||[[紀元前252年]]-[[紀元前230年]]|| |- ||45||[[衛君角]]||姫角||[[紀元前229年]]-[[紀元前209年]]|| |} === 陳 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- || 1|| [[胡公 (陳)|胡公]]|| 嬀満|| || |- || 2|| [[申公 (陳)|申公]]|| 嬀犀侯|| || |- || 3|| [[相公 (陳)|相公]]|| 嬀皋羊|| || |- || 4|| [[孝公 (陳)|孝公]]|| 嬀突|| || |- || 5|| [[慎公 (陳)|慎公]]|| 嬀圉戎|| || |- || 6|| [[幽公 (陳)|幽公]]|| 嬀寧|| [[紀元前854年]] - [[紀元前832年]]|| |- || 7|| [[釐公 (陳)|釐公]]|| 嬀孝|| [[紀元前832年]] - [[紀元前796年]]|| |- || 8|| [[武公 (陳)|武公]]|| 嬀霊|| [[紀元前796年]] - [[紀元前781年]]|| |- || 9|| [[夷公 (陳)|夷公]]|| 嬀説|| [[紀元前781年]] - [[紀元前778年]]|| |- || 10|| [[平公 (陳)|平公]]|| 嬀燮|| [[紀元前778年]] - [[紀元前755年]]|| |- || 11|| [[文公 (陳)|文公]]|| 嬀圉|| [[紀元前755年]] - [[紀元前745年]]|| |- || 12|| [[桓公 (陳)|桓公]]|| 嬀鮑|| [[紀元前745年]] - [[紀元前707年]]|| |- || 13|| [[陳公他]]|| 嬀他|| [[紀元前707年]] - [[紀元前706年]]|| |- || 14|| [[利公 (陳)|利公]]|| 嬀躍|| [[紀元前706年]] - [[紀元前700年]]|| |- || 15|| [[荘公 (陳)|荘公]]|| 嬀林|| [[紀元前700年]] - [[紀元前693年]]|| |- || 16|| [[宣公 (陳)|宣公]]|| 嬀杵臼|| [[紀元前693年]] - [[紀元前648年]]|| |- || 17|| [[穆公 (陳)|穆公]]|| 嬀款|| [[紀元前647年]] - [[紀元前632年]]|| |- || 18|| [[共公 (陳)|共公]]|| 嬀朔|| [[紀元前632年]] - [[紀元前614年]]|| |- || 19|| [[霊公 (陳)|霊公]]|| 嬀平国|| [[紀元前614年]] - [[紀元前599年]]|| |- || 19|| || [[夏徴舒]] || [[紀元前599年]] - [[紀元前598年]]|| |- || 20|| [[成公 (陳)|成公]]|| 嬀午|| [[紀元前599年]] - [[紀元前569年]]|| |- || 21|| [[哀公 (陳)|哀公]]|| 嬀弱|| [[紀元前569年]] - [[紀元前534年]]|| |- || 22|| [[恵公 (陳)|恵公]]|| 嬀呉|| [[紀元前534年]] - [[紀元前506年]]|| |- || 23|| [[懐公 (陳)|懐公]]|| 嬀柳|| [[紀元前506年]] - [[紀元前502年]]|| |- || 24|| [[湣公 (陳)|湣公]]|| 嬀越|| [[紀元前502年]] - [[紀元前479年]]|| |}  ===蔡=== {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- ||1||[[蔡叔度]]||姫度|||| |- ||2||[[蔡仲]]||姫胡|||| |- ||3||[[蔡伯荒]]||姫荒|||| |- ||4||[[宮侯]]|||||| |- ||5||[[厲侯 (蔡)|厲侯]]|||||| |- ||6||[[武侯 (蔡)|武侯]]||||[[紀元前863年]]-[[紀元前837年]]|| |- ||7||[[夷侯]]||||[[紀元前837年]]-[[紀元前809年]]|| |- ||8||[[釐侯 (蔡)|釐侯]]||姫所事||[[紀元前809年]]-[[紀元前761年]]|| |- ||9||[[共侯 (蔡)|共侯]]||姫興||[[紀元前761年]]-[[紀元前760年]]|| |- ||10||[[戴侯]]||||[[紀元前759年]]-[[紀元前750年]]|| |- ||11||[[宣侯 (蔡)|宣侯]]||姫措父||[[紀元前749年]]-[[紀元前715年]]|| |- ||12||[[桓侯 (蔡)|桓侯]]||姫封人||[[紀元前714年]]-[[紀元前695年]]|| |- ||13||[[哀侯 (蔡)|哀侯]]||姫献舞||[[紀元前694年]]-[[紀元前675年]]|| |- ||14||[[穆侯 (蔡)|穆侯]]||姫肸||[[紀元前674年]]-[[紀元前646年]]|| |- ||15||[[荘侯]]||姫甲午||[[紀元前645年]]-[[紀元前612年]]|| |- ||16||[[文侯 (蔡)|文侯]]||姫申||[[紀元前611年]]-[[紀元前592年]]|| |- ||17||[[景侯 (蔡)|景侯]]||姫固||[[紀元前591年]]-[[紀元前543年]]|| |- ||18||[[霊侯]]||姫般||[[紀元前542年]]-[[紀元前531年]]|| |- ||19||[[平侯 (蔡)|平侯]]||姫廬||[[紀元前530年]]-[[紀元前522年]]|| |- ||20||[[悼侯]]||姫東国||[[紀元前521年]]-[[紀元前519年]]|| |- ||21||[[昭侯 (蔡)|昭侯]]||姫甲||[[紀元前518年]]-[[紀元前491年]]|| |- ||22||[[成侯 (蔡)|成侯]]||姫朔||[[紀元前490年]]-[[紀元前472年]]|| |- ||23||[[声侯]]||姫産||[[紀元前471年]]-[[紀元前457年]]|| |- ||24||[[元侯 (蔡)|元侯]]||||[[紀元前456年]]-[[紀元前451年]]|| |- ||25||[[蔡侯斉]]||姫斉||[[紀元前450年]]-[[紀元前447年]]|| |} ===曹=== {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- ||1||[[曹叔振鐸]]||姫振鐸|| || |- ||2||[[太伯 (曹)|太伯]]||姫脾|| || |- ||3||[[仲君]]||姫平|| || |- ||4||[[宮伯]]||姫侯|| ||  |- ||5||[[孝伯 (曹)|孝伯]]||姫雲|| || |- ||6||[[夷伯]]||姫喜||[[紀元前865年]]-[[紀元前835年]]|| |- ||7||[[幽伯 (曹)|幽伯]]||姫彊||[[紀元前835年]]-[[紀元前826年]]|| |- ||8||[[戴伯]]||姫蘇||[[紀元前826年]]-[[紀元前796年]]|| |- ||9||[[恵伯]]||姫雉||[[紀元前796年]]-[[紀元前760年]]|| |- ||10||[[曹君石甫]]||姫石甫||[[紀元前760年]]|| |- ||11||[[穆公 (曹)|穆公]]||姫武||[[紀元前760年]]-[[紀元前757年]]|| |- ||12||[[桓公 (曹)|桓公]]||姫終生||[[紀元前757年]]-[[紀元前702年]]|| |- ||13||[[荘公 (曹)|荘公]]||姫射姑||[[紀元前702年]]-[[紀元前671年]]|| |- ||14||[[釐公 (曹)|釐公]]||姫夷||[[紀元前670年]]-[[紀元前662年]]|| |- ||15||[[昭公 (曹)|昭公]]||姫班||[[紀元前662年]]-[[紀元前653年]]|| |- ||16||[[共公 (曹)|共公]]||姫襄||[[紀元前653年]]-[[紀元前618年]]|| |- ||17||[[文公 (曹)|文公]]||姫寿||[[紀元前618年]]-[[紀元前595年]]|| |- ||18||[[宣公 (曹)|宣公]]||姫疆||[[紀元前595年]]-[[紀元前578年]]|| |- ||19||[[成公 (曹)|成公]]||姫負芻||[[紀元前578年]]-[[紀元前555年]]|| |- ||20||[[武公 (曹)|武公]]||姫勝||[[紀元前555年]]-[[紀元前528年]]|| |- ||21||[[平公 (曹)|平公]]||姫須||[[紀元前528年]]-[[紀元前524年]]|| |- ||22||[[悼公 (曹)|悼公]]||姫午||[[紀元前524年]]-[[紀元前515年]]|| |- ||23||[[声公 (曹)|声公]]||姫野||[[紀元前515年]]-[[紀元前510年]]|| |- ||24||[[隠公 (曹)|隠公]]||姫通||[[紀元前510年]]-[[紀元前506年]]|| |- ||25||[[靖公 (曹)|靖公]]||姫露||[[紀元前506年]]-[[紀元前502年]]|| |- ||26||[[曹伯陽|廃公]]||姫陽||[[紀元前502年]]-[[紀元前487年]]|| |} ===鄭=== {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- ||1||[[桓公 (鄭)|桓公]]||姫友||[[紀元前806年]]-[[紀元前771年]]|| |- ||2||[[武公 (鄭)|武公]]||姫掘突||[[紀元前770年]]-[[紀元前744年]]|| |- ||3||[[荘公 (鄭)|荘公]]||姫寤生||[[紀元前743年]]-[[紀元前701年]]|| |- ||4||[[昭公 (鄭)|昭公]]||姫忽||[[紀元前700年]]|| |- ||5||[[厲公 (鄭)|厲公]]||姫突||[[紀元前700年]]-[[紀元前697年]]|| |- ||6||昭公(復位)||姫忽||[[紀元前696年]]-[[紀元前695年]]|| |- ||7||[[子亹|鄭子亹]]||姫亹||[[紀元前694年]]|| |- ||8||[[鄭子 (鄭)|鄭子]]||姫嬰||[[紀元前693年]]-[[紀元前680年]]|| |- ||9||厲公(復位)||姫突||[[紀元前679年]]-[[紀元前673年]]|| |- ||10||[[文公 (鄭)|文公]]||姫踕||[[紀元前672年]]-[[紀元前628年]]|| |- ||11||[[穆公 (鄭)|穆公]]||姫蘭||[[紀元前627年]]-[[紀元前606年]]|| |- ||12||[[霊公 (鄭)|霊公]]||姫夷||[[紀元前605年]]|| |- ||13||[[襄公 (鄭)|襄公]]||姫堅||[[紀元前604年]]-[[紀元前587年]]|| |- ||14||[[悼公 (鄭)|悼公]]||姫沸||[[紀元前586年]]-[[紀元前585年]]|| |- ||15||[[成公 (鄭)|成公]]||姫睔||[[紀元前584年]]-[[紀元前571年]]|| |- ||16||[[釐公 (鄭)|釐公]]||姫髠頑||[[紀元前570年]]-[[紀元前566年]]|| |- ||17||[[簡公 (鄭)|簡公]]||姫嘉||[[紀元前565年]]-[[紀元前530年]]|| |- ||18||[[定公 (鄭)|定公]]||姫寧||[[紀元前529年]]-[[紀元前514年]]|| |- ||19||[[献公 (鄭)|献公]]||姫躉||[[紀元前513年]]-[[紀元前501年]]|| |- ||20||[[声公 (鄭)|声公]]||姫勝||[[紀元前500年]]-[[紀元前463年]]|| |- ||21||[[哀公 (鄭)|哀公]]||姫易||[[紀元前462年]]-[[紀元前455年]]|| |- ||22||[[共公 (鄭)|共公]]||姫丑||[[紀元前454年]]-[[紀元前423年]]|| |- ||23||[[幽公 (鄭)|幽公]]||姫已||[[紀元前423年]]|| |- ||24||[[繻公]]||姫駘||[[紀元前422年]]-[[紀元前396年]]|| |- ||25||[[康公 (鄭)|康公]]||姫乙||[[紀元前395年]]-[[紀元前375年]] |} === 燕 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[召公奭|召公]]||姞奭||[[紀元前1122年]] - [[紀元前1053年]]|| |- |2||ー||[[燕侯克]]||ー|| |- |3||ー||[[燕侯旨]]||ー|| |- |4||ー||[[燕侯舞]]||ー|| |- |5||ー||[[燕侯憲]]||ー|| |- |6||ー||[[燕侯和]]||ー|| |- |7||ー||ー||ー||| |- |8||ー||ー||ー||| |- |9||ー||ー||ー||| |- |10||[[燕伯聖]]||ー|||| |- |11||[[燕侯坤]]||ー|||| |- |12||ー|||姞坤||? - [[紀元前865年]]|| |- |13||[[恵侯]]||ー||[[紀元前864年]] - [[紀元前827年]]|| |- |14||[[釐侯 (燕)|釐侯]]||姞荘||[[紀元前826年]] - [[紀元前791年]]|| |- |15||[[頃侯 (燕)|頃侯]]||ー||[[紀元前790年]] - [[紀元前767年]]|| |- |16||[[哀侯 (燕)|哀侯]]||ー||[[紀元前766年]] - [[紀元前765年]]|| |- |17||[[鄭侯]]||ー||[[紀元前764年]] - [[紀元前729年]]|| |- |18||[[繆侯]]||ー||[[紀元前728年]] - [[紀元前711年]]|| |- |19||[[宣侯 (燕)|宣侯]]||ー||[[紀元前710年]] - [[紀元前698年]]|| |- |20||[[桓侯 (燕)|桓侯]]||ー||[[紀元前697年]] - [[紀元前691年]]|| |- |21||[[荘公 (燕)|荘公]]||ー||[[紀元前690年]] - [[紀元前658年]]|| |- |22||[[襄公 (燕)|襄公]]||ー||[[紀元前657年]] - [[紀元前616年]]|| |- |23||[[桓公 (春秋燕)|桓公]]||ー||[[紀元前617年]] - [[紀元前602年]]|| |- |24||[[宣公 (燕)|宣公]]||ー||[[紀元前601年]] - [[紀元前587年]]|| |- |25||[[昭公 (燕)|昭公]]||ー||[[紀元前586年]] - [[紀元前574年]]|| |- |26||[[武公 (燕)|武公]]||ー||[[紀元前573年]] - [[紀元前555年]]|| |- |27||[[文公 (春秋燕)|文公]]||ー||[[紀元前554年]] - [[紀元前549年]]|| |- |28||[[懿公 (燕)|懿公]]||ー||[[紀元前548年]] - [[紀元前545年]]|| |- |29||[[恵公 (燕)|恵公]]||姞款||[[紀元前544年]] - [[紀元前536年]]|| |- |30||[[悼公 (燕)|悼公]]||ー||[[紀元前535年]] - [[紀元前529年]]|| |- |31||[[共公 (燕)|共公]]||ー||[[紀元前528年]] - [[紀元前524年]]|| |- |32||[[平公 (燕)|平公]]||ー||[[紀元前523年]] - [[紀元前505年]]|| |- |33||[[簡公 (春秋燕)|簡公]]||ー||[[紀元前504年]] - [[紀元前493年]]|| |- |34||[[孝公 (燕)|孝公]]||ー||[[紀元前492年]] - [[紀元前455年]]|| |- |35||[[成公 (燕)|成公]]||ー||[[紀元前454年]] - [[紀元前439年]]|| |- |36||[[閔公 (燕)|閔公]]||ー||[[紀元前438年]] - [[紀元前415年]]|| |- |37||[[簡公 (戦国燕)|簡公]]||姞載||[[紀元前414年]] - [[紀元前373年]]|| |- |38||[[桓公 (戦国燕)|桓公]]||ー||[[紀元前372年]] - [[紀元前362年]]|| |- |39||[[文公 (戦国燕)|文公]]||ー||[[紀元前361年]] - [[紀元前333年]]|| |- |40||[[易王]]||姞脮||[[紀元前332年]] - [[紀元前321年]]|| |- |41||[[燕王噲]]||姞噲||[[紀元前320年]] - [[紀元前318年]]|| |- |ー||ー||[[子之]]||[[紀元前317年]] - [[紀元前314年]]|| |- |42||[[昭王 (燕)|昭王]]||姞職||[[紀元前312年]] - [[紀元前279年]]|| |- |43||[[恵王 (燕)|恵王]]||姞戎人||[[紀元前278年]] - [[紀元前272年]]|| |- |44||[[武成王 (燕)|武成王]]||ー||[[紀元前271年]] - [[紀元前258年]]|| |- |45||[[孝王 (燕)|孝王]]||ー||[[紀元前257年]] - [[紀元前255年]]|| |- |46||[[燕王喜]]||姞喜||[[紀元前254年]] - [[紀元前222年]]|| |} === 呉 === {{節スタブ}} {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |||[[寿夢]]||姫乗||紀元前585年 - 紀元前561年|| |- |||[[諸樊]]||姫遏||紀元前560年 - 紀元前548年|| |- |||[[余祭]]||姫句戴||紀元前547年 - 紀元前544年|| |- |||[[余昧]]||姫夷眜||紀元前543年 - 紀元前527年|| |- |||[[僚]]||姫僚||紀元前526年 - 紀元前515年|| |- |||[[闔閭]]||姫光||紀元前514年 - 紀元前496年|| |- |||[[夫差]]||姫夫差||紀元前495年 - 紀元前473年|| |} === 越 === {{節スタブ}} {| class="wikitable" style="margin: right; margin: 0px" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||||無余||紀元前2032年始封諸侯、夏帝[[少康]]の庶子、建都秦余望南|| |- |2||||丕誠||紀元前|| |- |3||||宗元||無余の孫、按輩分是夏帝[[芒 (夏)|芒]]の弟|| |- |4||||紹聖||紀元前|| |- |5||||毅正||紀元前|| |- |6||||子誠||紀元前|| |- |7||||婁玉||紀元前|| |- |8||||俶||商朝時期、遷都埤中(諸曁店口)|| |- |9||||枋||紀元前|| |- |10||||菪||紀元前|| |- |11||||潜||紀元前|| |- |12||||戸||紀元前|| |- |13||||厲||紀元前|| |- |14||||皓||紀元前|| |- |15||||僮||紀元前|| |- |16||||渾淳||紀元前|| |- |17||||仲庚||紀元前|| |- |18||||太辛||紀元前|| |- |19||||咸亨||紀元前|| |- |20||||采||遷都大部(諸曁楓橋)|| |- |21||||浤||紀元前|| |- |22||||天表||紀元前|| |- |23||||訶||紀元前|| |- |24||||加佑||紀元前|| |- |25||||子升||紀元前|| |- |26||||綱||紀元前|| |- |27||||汝稷||紀元前|| |- |28||||洽||紀元前|| |- |29||||汜||紀元前|| |- |30||||少連||春秋時期、遷都山南(東陽六石)|| |- |31||||騮||紀元前|| |- |32||||逸||紀元前|| |- |33||||鯉||紀元前|| |- |34||||必高||紀元前|| |- |35||||無壬||紀元前621年 - 紀元前591年|| |- |36||||無瞫||紀元前591年 - 紀元前565年|| |- |37||||[[夫譚]]||紀元前565年 - 紀元前538年|| |- |38||||[[允常]]||紀元前538年 - 紀元前496年|| |- |39||||[[勾践]]||紀元前496年 - 紀元前494年|| |- |||||呉の支配による空位||紀元前494年 - 紀元前491年|| |- |||||勾践||紀元前491年 - 紀元前464年|| |- |4O||||[[鹿郢]](鼫与)||紀元前463年 - 紀元前458年|| |- |41||||[[不寿]]||紀元前457年 - 紀元前448年|| |- |42||||[[朱句]](州句、翁)||紀元前447年 - 紀元前411年|| |- |43||||[[翳]]||紀元前410年 - 紀元前375年|| |- |44||||[[諸咎]]||紀元前374年 - 紀元前373年|| |- |45||||[[錯枝]]||紀元前373年 - 紀元前371年|| |- |46||||[[無余之]](之侯)||紀元前371年 - 紀元前361年|| |- |47||||[[無顓]]||紀元前360年 - 紀元前343年|| |- |48||||[[無彊]]||紀元前342年 - 紀元前333年|| |- |49||||玉||紀元前333年 - 紀元前306年|| |- |50||||尊||紀元前306年 - 紀元前273年?|| |- |51||||親||紀元前273年? -?|| |- |52||||蹄||紀元前222年|| |- |53||||無諸||紀元前|| |- |54||||揺||紀元前191年 - 紀元前185年<br/>(前漢時代、東甌王)|| |- |55||||余善||遣返中原|| |- |} === 許 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[許文叔]]|| 呂丁||[[紀元前11世紀]]|| |- | 2||[[徳男 (許)|徳男]]||姜翽|||| |- | 3||[[許伯封]]||姜封|||| |- | 4||[[孝男 (許)|孝男]]||姜宏寛|||| |- | 5||[[靖男 (許)|靖男]]||姜標|||| |- | 6||[[康男 (許)|康男]]||姜昌|||| |- | 7||[[武公 (許)|武公]]||姜雄|||| |- | 8||[[文公 (許)|文公]]||姜興父|||| |- | 9||[[許男単]]/隠公||姜単|||| |- |10||[[許男悦]]/宣公||姜悦|||| |- |11||[[荘公 (許)|荘公]]||姜茀/姜苴人||[[紀元前731年]] - [[紀元前712年]]|| 20年 |- |12||[[桓公 (許)|桓公]]||姜鄭||[[紀元前711年]] - [[紀元前698年]]||14年 |- |13||[[穆公 (許)|穆公]]||姜新臣||[[紀元前697年]] - [[紀元前656年]]|| 42年 |- |14||[[僖公 (許)|僖公]]||姜業||[[紀元前655年]] - [[紀元前622年]]|| 34年 |- |15||[[昭公 (許)|昭公]]||姜錫我||[[紀元前621年]] - [[紀元前592年]]|| 30年 |- |16||[[霊公 (許)|霊公]]||姜寧||[[紀元前591年]] - [[紀元前547年]]|| 45年 |- |17||[[悼公 (許)|悼公]]||姜買||[[紀元前546年]] - [[紀元前523年]]|| 24年 |- |18||[[許男斯]]||姜斯||[[紀元前522年]] - [[紀元前504年]]||19年 |- |19||[[元公 (許)|元公]]||姜成||[[紀元前503年]] - [[紀元前482年]]|| 約22年 |- | 20||[[許男結]]||姜結||[[紀元前481年]]||| |- | colspan=7 align="center"|4代不明 |- |||[[許子妝]]||姜子妝|||| |- |||[[許子将師]]||姜子𤖙|||| |- |||[[許伯彪]]||姜彪|||| |} === 韓 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[景侯 (韓)|景侯]]||韓虔||[[紀元前408年]] - [[紀元前400年]]|| |- |2||[[烈侯 (韓)|烈侯]]||韓取||[[紀元前399年]] - [[紀元前387年]]|| |- |3||[[文侯 (韓)|文侯]]||韓猷||[[紀元前386年]] - [[紀元前377年]]|| |- |4||[[哀侯 (韓)|哀侯]]||韓屯蒙||[[紀元前376年]] - [[紀元前374年]]|| |- |5||[[共侯 (韓)|共侯]]<br/>懿侯/荘侯||韓若山||[[紀元前374年]] - [[紀元前363年]]|| |- |6||[[釐侯 (韓)|釐侯]]<br/>昭侯||韓武||[[紀元前362年]] - [[紀元前333年]]|| |- |7||[[宣恵王 (韓)|威侯]]<br/>[[宣恵王 (韓)|宣恵王]]/宣王||韓康||[[紀元前332年]] - [[紀元前323年]]<br/>[[紀元前323年]] - [[紀元前312年]]|| |- |8||[[襄王 (韓)|襄王]]<br/>襄哀王<br/>悼襄王||韓倉||[[紀元前311年]] - [[紀元前296年]]|| |- |9||[[釐王 (韓)|釐王]]||韓咎||[[紀元前295年]] - [[紀元前273年]]|| |- |10||[[桓恵王]]||韓然||[[紀元前272年]] - [[紀元前239年]]|| |- |11||[[韓王安]]<br/>/廃王||韓安||[[紀元前238年]] - [[紀元前230年]]|| |} === 魏 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |||[[文侯 (魏)|文侯]]||魏斯||[[紀元前445年]] - [[紀元前396年]]|| |- |||[[武侯 (魏)|武侯]]||魏撃||[[紀元前395年]] - [[紀元前370年]]|| |- |||[[恵王 (魏)|恵王]]||魏罃||[[紀元前369年]] - [[紀元前319年]]|| |- |||[[襄王 (魏)|襄王]]||魏嗣||[[紀元前318年]] - [[紀元前296年]]|| |- |||[[昭王 (魏)|昭王]]||魏遫||[[紀元前295年]] - [[紀元前277年]]|| |- |||[[安釐王]]||魏圉||[[紀元前276年]] - [[紀元前243年]]|| |- |||[[景湣王]]||魏増||[[紀元前242年]] - [[紀元前228年]]|| |- |||[[魏王假]]||魏假||[[紀元前227年]] - [[紀元前225年]]|| |} === 趙 === {| class="wikitable" style="margin: right; margin: 0px" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[献侯 (趙)|献侯]]||趙浣|||| |- |2||[[列侯 (趙)|列侯]]||趙籍||[[紀元前408年]] - [[紀元前400年]]|| |- |3||[[武公 (趙)|武公]]||||[[紀元前400年]] - [[紀元前387年]]|| |- |4||[[敬侯 (趙)|敬侯]]||趙章||[[紀元前387年]] - [[紀元前375年]]|| |- |5||[[成侯 (趙)|成侯]]||趙種||[[紀元前375年]] - [[紀元前350年]]|| |- |6||[[粛侯 (趙)|粛侯]]||趙語||[[紀元前350年]] - [[紀元前326年]]|| |- |7||[[武霊王]]||趙雍||[[紀元前326年]] - [[紀元前298年]]|| |- |8||[[恵文王 (趙)|恵文王]]||趙何||[[紀元前298年]] - [[紀元前266年]]|| |- |9||[[孝成王 (趙)|孝成王]]||趙丹||[[紀元前266年]] - [[紀元前245年]]|| |- |10||[[悼襄王 (趙)|悼襄王]]||趙偃||[[紀元前245年]] - [[紀元前236年]]|| |- |11||[[幽繆王]]||趙遷||[[紀元前236年]] - [[紀元前228年]]|| |- |12||[[代王嘉]]||趙嘉|||| |} === 中山国 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[中山文公]]||||[[紀元前432年]] - [[紀元前415年]]|| |- |2||[[中山武公]]||||[[紀元前414年]] - [[紀元前407年]]|| |- |3||[[中山桓公]]||||[[紀元前406年]]、[[紀元前380年]] - [[紀元前353年]]|| |- |4||[[中山成公]]||||[[紀元前352年]] - [[紀元前328年]]|| |- |5||[[中山王サク]]||姫(舋-且+昔)||[[紀元前327年]] - [[紀元前313年]]|| |- |6||[[中山王シシ|中山王𫲨𧊒]]||姫𫲨𧊒||[[紀元前312年]] - [[紀元前299年]]|| |- |7||[[中山王尚]]||姫尚||[[紀元前298年]] - [[紀元前296年]]|| |} === 秦(始皇帝以前) === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位期間||年数 |- |首位||[[荘公 (秦)|荘公]]||嬴祺||[[紀元前821年]] - [[紀元前777年]]||44年 |- |1||[[襄公 (秦)|襄公]]||嬴開||[[紀元前777年]] - [[紀元前766年]]||11年 |- |2||[[文公 (秦)|文公]]||嬴徳||[[紀元前765年]] - [[紀元前716年]]||49年 |- | ||[[静公 (秦)|静公]]||嬴鼎||追封|| |- |3||[[寧公|憲公]]||嬴立||[[紀元前715年]] - [[紀元前704年]]||9年 |- |4||[[出子]]||嬴曼||[[紀元前703年]] - [[紀元前698年]]||5年 |- |5||[[武公 (秦)|武公]]||嬴説||[[紀元前697年]] - [[紀元前678年]]||19年 |- |6||[[徳公 (秦)|徳公]]||嬴嘉||[[紀元前677年]] - [[紀元前676年]]||1年 |- |7||[[宣公 (秦)|宣公]]||嬴湉||[[紀元前675年]] - [[紀元前664年]]||11年 |- |8||[[成公 (秦)|成公]]||嬴載||[[紀元前663年]] - [[紀元前660年]]||3年 |- |9||[[穆公 (秦)|穆公]]||嬴任好||[[紀元前659年]] - [[紀元前621年]]||38年 |- |10||[[康公 (秦)|康公]]||嬴罃||[[紀元前620年]] - [[紀元前609年]]||11年 |- |11||[[共公 (秦)|共公]]||嬴稲||[[紀元前608年]] - [[紀元前604年]]||4年 |- |12||[[桓公 (秦)|桓公]]||嬴栄||[[紀元前603年]] - [[紀元前577年]]||25年 |- |13||[[景公 (秦)|景公]]||嬴石||[[紀元前576年]] - [[紀元前537年]]||39年 |- |14||[[哀公 (秦)|哀公]]||嬴籍||[[紀元前536年]] - [[紀元前501年]]||35年 |- | ||[[夷公 (秦)|夷公]]||嬴平||追封|| |- |15||[[恵公 (春秋秦)|恵公]]||嬴寧||[[紀元前500年]] - [[紀元前491年]]||9年 |- |16||[[悼公 (秦)|悼公]]||嬴盤||[[紀元前490年]] - [[紀元前477年]]||13年 |- |17||[[厲共公]]||嬴剌||[[紀元前476年]] - [[紀元前443年]]||33年 |- |18||[[躁公]]||嬴欣||[[紀元前442年]] - [[紀元前429年]]||13年 |- |19||[[懐公 (秦)|懐公]]||嬴封||[[紀元前428年]] - [[紀元前425年]]||3年 |- |20||[[霊公 (秦)|霊公]]||嬴粛||[[紀元前424年]] - [[紀元前415年]]||9年 |- |21||[[簡公 (秦)|簡公]]||嬴悼子||[[紀元前414年]] - [[紀元前400年]]||4年 |- |22||[[恵公 (戦国秦)|恵公]]||嬴敬||[[紀元前399年]] - [[紀元前387年]]||12年 |- |23||[[出公 (秦)|出公]]||嬴昌||[[紀元前386年]] - [[紀元前385年]]||1年 |- |24||[[献公 (秦)|献公]]||嬴師隰||[[紀元前384年]] - [[紀元前361年]]||23年 |- |25||[[孝公 (秦)|孝公]]||嬴渠梁||[[紀元前361年]] - [[紀元前338年]]||23年 |- |26||[[恵文王 (秦)|恵文王]]||嬴駟||[[紀元前337年]] - [[紀元前311年]]||26年 |- |27||[[武王 (秦)|武王]]||嬴蕩||[[紀元前310年]] - [[紀元前307年]]||3年 |- |28||[[昭襄王]]||嬴稷||[[紀元前306年]] - [[紀元前251年]]||55年 |- |29||[[孝文王]]||嬴柱||[[紀元前250年]]||3日 |- |30||[[荘襄王]]||嬴子楚||[[紀元前249年]] - [[紀元前247年]]||2年 |- |31||ー||嬴政||[[紀元前246年]] - [[紀元前222年]]||24年 |} == 秦(始皇帝以降)== {| class="wikitable" style="margin: right; margin: 0px" !代数 ![[諡号]]||[[称号]]|| style="white-space:nowrap;" |名||在位年||在位年数 !備考 |- |首位 |ー||[[始皇帝]]||嬴政||[[紀元前221年]] - [[紀元前210年]]||11年 |'''[[中国]]の初代[[皇帝 (中国)|皇帝]]''' |- |2 |ー||[[胡亥|二世皇帝]]||嬴胡亥||[[紀元前210年]] - [[紀元前207年]]||2年 | |- |3 |ー||ー||[[子嬰|嬴子嬰]]||[[紀元前207年]]||46日 | |} === 楚 === {| class="wikitable" style="margin: right; margin: 0px" ![[諡号]] ![[尊号]]|| style="white-space:nowrap;" |名||在位年||在位年数 |- |隠王 | ||[[陳勝]]||[[紀元前210年]]|| |- | | ||[[景駒]]||[[紀元前209年]]|| |- |[[義帝]] | ||羋心||[[紀元前209年]] - [[紀元前206年]]|| |- | |[[覇王]]||[[項羽]]||[[紀元前206年]] - [[紀元前202年]]|| |} 義帝は紀元前209年 - 紀元前207年は懐王、元日に帝に推戴される。 == 前漢 == [[画像:前漢帝国系図.PNG|thumb|right|250px|前漢朝系図]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数 ![[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1 |[[太祖]]||[[高帝]]||[[劉邦]]||[[紀元前206年]]/[[紀元前202年]] - [[紀元前195年]]||11年/7年 |- |2 | ||[[恵帝 (漢)|恵帝]]||劉盈||[[紀元前195年]] - [[紀元前188年]]||7年 |- |3 | ||[[前少帝 (前漢)|前少帝]]||不明||[[紀元前188年]] - [[紀元前184年]]||4年 |- |4 | ||[[少帝弘|後少帝]]||劉弘||[[紀元前184年]] - [[紀元前180年]]||4年 |- |5 |[[太宗]]||[[文帝 (漢)|文帝]]||劉恒||[[紀元前180年]] - [[紀元前154年]]||26年 |- |6 | ||[[景帝 (漢)|景帝]]||劉啓||[[紀元前157年]] - [[紀元前141年]]||16年 |- |7 |[[世宗]]||[[武帝 (漢)|武帝]]||劉徹||[[紀元前141年]] - [[紀元前87年]]||54年 |- |8 | ||[[昭帝 (漢)|昭帝]]||劉弗陵||[[紀元前87年]] - [[紀元前74年]]||13年 |- |9 | ||[[劉賀|昌邑王]]||劉賀||[[紀元前74年]] ||27日 |- |10 |中宗||[[宣帝 (漢)|宣帝]]||劉詢||[[紀元前74年]] - [[紀元前49年]]||25年 |- |11 |[[高宗]]||[[元帝 (漢)|元帝]]||劉奭||[[紀元前49年]] - [[紀元前33年]]||16年 |- |12 |統宗||[[成帝 (漢)|成帝]]||劉驁||[[紀元前33年]] - [[紀元前7年]]||26年 |- |13 | ||[[哀帝 (漢)|哀帝]]||劉欣||[[紀元前7年]] - [[紀元前1年]]||6年 |- |14 |元宗||[[平帝 (漢)|平帝]]||劉衎||[[紀元前1年]] - [[5年]]||7年 |- |15 | ||[[孺子嬰]]||[[劉嬰]]||[[6年]] - [[8年]]||2年 |- |} なお、劉嬰は正確には帝位には即かず、上記の在位期間も皇太子としての在位であったが、一般には「前漢最後の皇帝」として歴代に名を連ねている。 === 南越国 === * 武王 [[趙佗]](在位[[紀元前203年]] - [[紀元前137年]]) * 文王 [[趙眜]](在位[[紀元前137年]] - [[紀元前122年]]) * 明王 [[趙嬰斉]](在位[[紀元前122年]] - [[紀元前115年]]) * 哀王 [[趙興]](在位[[紀元前115年]] - [[紀元前112年]]) * 末王 [[趙建徳]](在位[[紀元前112年]] - [[紀元前111年]]) == 新 == # [[王莽]](在位[[9年]] - [[23年]]) === 漢 (緑林軍) === # [[更始帝|劉玄]](更始帝)(在位[[23年]] - [[25年]]) === 漢 (赤眉軍) === # [[劉盆子]](在位[[25年]] - [[27年]]) === 成家 === # [[公孫述]](在位[[25年]] - [[36年]]) === 梁 === # [[劉永 (新朝)|劉永]](在位[[25年]] - [[27年]]) # [[劉紆]](在位[[27年]] - [[29年]]) == 後漢 == [[画像:後漢帝室系図.JPG|thumb|right|250px|後漢朝系図]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||世祖||[[光武帝]]||劉秀||[[25年]] - [[57年]]||32年 |- |2||顕宗||[[明帝 (漢)|明帝]]||劉荘||[[57年]] - [[75年]]||18年 |- |3||粛宗||[[章帝 (漢)|章帝]]||劉炟||[[75年]] - [[88年]]||13年 |- |4||穆宗||[[和帝 (漢)|和帝]]||劉肇||[[88年]] - [[105年]]||17年 |- |5||||[[殤帝 (漢)|殤帝]]||劉隆||[[105年]] - [[106年]]||7ヶ月 |- |6||恭宗||[[安帝 (漢)|安帝]]||劉祜||[[106年]] - [[125年]]||19年 |- |7||||[[少帝懿]]||劉懿||[[125年]]||7ヶ月 |- |8||敬宗||[[順帝 (漢)|順帝]]||劉保||[[125年]] - [[144年]]||19年 |- |9||||[[沖帝]]||劉炳||[[144年]] - [[145年]]||6ヶ月 |- |10||||[[質帝]]||劉纘||[[145年]] - [[146年]]||4ヶ月 |- |11||威宗||[[桓帝 (漢)|桓帝]]||劉志||[[146年]] - [[167年]]||21年 |- |12||||[[霊帝 (漢)|霊帝]]||劉宏||[[167年]] - [[189年]]||22年 |- |13||||[[少帝弁|少帝辯]]||劉辯||[[189年]]||5ヶ月 |- |14||||[[献帝 (漢)|献帝]]||劉協||[[189年]] - [[220年]]||31年 |} === 仲家 === # [[袁術]](在位[[197年]] - [[199年]]) == 三国時代 == === 魏 === {| class="wikitable" style="margin: right; margin: 0px" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |||||高帝(追贈)||曹謄|||||| |- |||||太帝(追贈)||[[曹嵩]]|| |||| |- |||太祖(追贈)||武帝(追贈)||[[曹操]]|| ||||[[216年]] - [[220年]]、[[後漢]]に封ぜられた「魏王」だった。 |- |1||高祖||文帝||[[曹丕]]||[[220年]] - [[226年]]||7年|| |- |2||烈祖||明帝||[[曹叡]]||[[226年]] - [[239年]]||14年|| |- |3||-||-||[[曹芳]]||[[239年]] - [[254年]]||15年|| |- |4||-||-||[[曹髦]]||[[254年]] - [[260年]]||6年|| |- |5||-||元帝||[[曹奐]]||[[260年]] - [[265年]]||5年|| |} === 蜀漢 === * [[219年]] - [[221年]]、劉備は、[[後漢]]の「漢中王」を自称した。 *「先主」・「後主」は魏を正統とする『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』が蜀を正規の皇帝と認めない立場から付けた呼称である。 *「懐帝」は、漢を自称した[[劉淵]]が名づけた名称。晋においては「安楽思公」。 {| class="wikitable" style="margin: right; margin: 0px" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||烈祖||[[劉備|昭烈帝]]||劉備||[[221年]] - [[223年]]||2年 |- |2||-||[[劉禅|懐帝]]||劉禅||[[223年]] - [[263年]]||40年 |} === 呉 === {| class="wikitable" style="margin: right; margin: 0px" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 !備考 |- | |始祖(追贈) |武烈帝(追贈) |[[孫堅]] | | | |- | | |文帝(追贈) |[[孫和]] | | | |- | | |[[桓王]](追贈) |[[孫策]] | | |198年 - 200年、孫策は、[[後漢]]に封ぜられた「呉侯」だった。 |- |1||太祖||[[孫権|大帝]]||孫権||[[229年]] - [[252年]]||24年 |[[221年]] - [[222年]]、孫権は、[[魏 (三国)|魏]]に封ぜられた「呉王」だった。 |- |2||- | -||[[孫亮]]||[[252年]] - [[258年]]||6年 | |- |3||-||[[孫休|景帝]]||孫休||[[258年]] - [[264年]]||6年 | |- |4||-||[[末帝 (呉)|末帝]]||孫晧||[[264年]] - [[280年]]||16年 | |} === '''燕''' === *[[237年]] - [[238年]]、公孫淵は、[[公孫氏 (遼東)|遼東]]の「[[燕王]]」を自称した。 {| class="wikitable" style="margin: right; margin: 0px" !代数||[[廟号]]||[[諡号]] ![[称号]]|| style="white-space:nowrap;" |名||在位年||在位年数 !備考 |- |1||- | - |[[燕王]]||[[公孫淵]]||[[237年]] - [[238年]]||1年 |[[237年]]、[[遼東郡|遼東]]の地で自立し[[燕王]]を称した。 |} == 晋 == === 西晋 === * [[司馬懿]]は、[[司馬炎|武帝]]によって、高祖宣帝と追号された。 * [[司馬師]]は、[[司馬炎|武帝]]によって、世宗景帝と追号された。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 !備考 |- | |太祖(追贈) |文帝(追贈) |[[司馬昭]] | | |[[264年]] - [[265年]]、司馬昭は、[[魏 (三国)|魏]]に封ぜられた「晋王」だった。 |- | 1||世祖||[[司馬炎|武帝]]||司馬炎||[[265年]] - [[290年]]||24年 |[[司馬炎]]は、[[265年]]に[[魏 (三国)|魏]]の「晋王」だった。 |- | 2|| ||[[恵帝 (西晋)|恵帝]]||司馬衷||[[290年]] - [[301年]]||11年 | |- | 3|| ||-||[[司馬倫]]||[[301年]]||3ヶ月 | |- |4 | |[[恵帝 (西晋)|恵帝]](復位) |司馬衷 |[[301年]]- [[306年]] |5年 | |- | 5|| ||[[懐帝 (西晋)|懐帝]]||司馬熾||[[306年]] - [[311年]]||5年 | |- | 6|| ||[[愍帝 (西晋)|愍帝]]||司馬鄴||[[313年]] - [[316年]]||3年 | |} === 東晋 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||中宗||[[元帝 (東晋)|元帝]]||司馬睿||[[317年]] - [[322年]]|| |- |2||粛祖・粛宗||[[明帝 (東晋)|明帝]]||司馬紹||[[322年]] - [[325年]]|| |- |3||顕宗||[[成帝 (東晋)|成帝]]||司馬衍||[[325年]] - [[342年]]|| |- |4|| ||[[康帝 (東晋)|康帝]]||司馬岳||[[342年]] - [[344年]]|| |- |5||孝宗||[[穆帝 (東晋)|穆帝]]||司馬聃||[[344年]] - [[361年]]|| |- |6|| ||[[哀帝 (東晋)|哀帝]]||司馬丕||[[361年]] - [[365年]]|| |- |7|| ||[[廃帝 (東晋)|廃帝]]海西公||司馬奕||[[365年]] - [[371年]]|| |- |8||太宗||[[簡文帝 (東晋)|簡文帝]]||司馬昱||[[371年]] - [[372年]]|| |- |9||烈宗||[[孝武帝 (東晋)|孝武帝]]||司馬曜||[[372年]] - [[396年]]|| |- |10|| ||[[安帝 (東晋)|安帝]]||司馬徳宗||[[396年]] - [[418年]]|| |- |11|| ||[[恭帝 (東晋)|恭帝]]||司馬徳文||[[418年]] - [[420年]]|| |} === 楚 === # 武悼帝([[桓玄]]、在位[[403年]] - [[404年]]) # [[桓謙]](在位[[404年]]-[[405年]]) == 五胡十六国時代 == === 前涼 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 太祖||武公||[[張軌]]||[[301年]] - [[314年]]|||| [[西晋|晋]]の「西平公」 |- |2|| 高祖||昭公||[[張寔 (前涼)|張寔]]||[[314年]] - [[320年]]|||| [[西晋|晋]]の「西平公」 |- |3|| 太宗||成公||[[張茂]]||[[320年]] - [[324年]]|||| [[西晋|晋]]の「西平公」、[[323年]]から[[前趙]]の[[劉曜]]に降って[[前趙]]の「涼王」。 |- |4|| 世祖||文公||[[張駿]]||[[324年]] - [[346年]]|||| [[前趙]]の「涼王」、[[345年]]から[[東晋|晋]]の「西平公」・「仮涼王」を自称。 |- |5|| 闕祖||桓公||[[張重華]]||[[346年]] - [[353年]]|||| [[東晋|晋]]の「西平公」・「仮涼王」。また「涼王」を自称した。 |- |6||-||哀公||[[張耀霊]]||[[353年]]|||| [[東晋|晋]]の「西平公」・「仮涼王」 |- |7||-||威王||[[張祚]]||[[353年]] - [[355年]]|||| [東晋|晋の「涼王」を自称し[[353年]]から「皇帝」 |- |8||-||沖公||[[張玄靚]]||[[355年]] - [[363年]]|||| [[東晋|晋]]の「西平公」 |- |9||-||悼公||[[張天錫]]||[[363年]] - [[376年]]|||| [[東晋|晋]]の「西平公」 |} === 前趙 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 高祖||光文帝||[[劉淵]]||[[304年]] - [[310年]]||||当初は「漢王」を自称。[[308年]]途中から皇帝。 |- |2|| ||梁王||[[劉和]]||[[310年]]|||| |- |3|| 烈宗||昭武帝||[[劉聡]]||[[310年]] - [[318年]]|||| |- |4||||隠帝||[[劉粲]]||[[318年]]|||| |- |5||||||[[靳準]]||[[318年]]|||| |- |6||||||[[靳明]]||[[318年]]|||| |- |7||||趙主||[[劉曜]]||[[318年]] - [[328年]]|||| |- |8||||||[[劉煕]]||[[328年]] - [[329年]]|||| |} * 隠帝の時一旦滅んだが[[劉曜]]が再び建国し、国号を「漢」から「趙」に変えた。 === 前燕 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |||高祖||武宣帝||[[慕容廆]]||-||-||烈祖による追号。 |- |1||太祖||文明帝||[[慕容皝]]||[[337年]] - [[348年]]||-||烈祖による追号。「燕王」を自称。 |- |2|| 烈祖||景昭帝||[[慕容儁]]||[[348年]] - [[359年]]|||| [[352年]]まで「燕王」を自称。以後皇帝と称する。 |- |3||||幽帝||[[慕容暐]]||[[359年]] - [[370年]]|||| |} === 成漢 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1||||||[[李特]]||[[302年]] - [[303年]]|||| 武帝によって始祖景帝と追号。 |- |2||||秦文王||[[李流]]||[[303年]]|||| |- |3||||武帝||[[李雄 (成漢)|李雄]]||[[303年]] - [[334年]]|||| [[304年]]までは「成都王」を自称。以後は「成」の皇帝と称する。 |- |4||||哀帝||[[李班]]||[[334年]]|||| |- |5||||(廃帝)||[[李期]]||[[334年]] - [[338年]]|||| |- |6||中宗||昭文帝||[[李寿 (成漢)|李寿]]||[[338年]] - [[343年]]|||| [[338年]]に国号を「成」から「漢」に改号。 |- |7||||後主||[[李勢]]||[[343年]] - [[347年]]|||| |} === 後趙 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 高祖||明帝||[[石勒]]||[[319年]] - [[333年]]||||当初は「趙王」を自称。 [[329年]]から「天王」、[[330年]]から皇帝。 |- |2||(廃帝)||海陽王||[[石弘]]||[[333年]] - [[334年]]|||| |- |3||太祖||武帝||[[石虎]]||[[334年]] - [[349年]]|||| |- |4||(廃帝)||斉公||[[石世]]||[[349年]]|||| |- |5||(廃帝)||彭城王||[[石遵]]||[[349年]]|||| |- |6||(廃帝)||義陽王||[[石鑑]]||[[349年]] - [[350年]]|||| |- |7||||新興王||[[石祗]]||[[350年]] - [[351年]]|||| |} === 冉魏 === # 武悼天王([[冉閔]]、在位[[350年]] - [[352年]]) === 前秦 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1||太祖||恵武帝||[[苻洪]]||||||高祖によって追号。350年に三秦王を自称 |-。 |2||高祖||景明帝||[[苻健]]||[[352年]] - [[355年]]|||| [[325年]]まで「秦天王」を称する<br/>[[350年]]に三秦王を自称したが、同年[[東晋]]に降り王号を廃止。 |- |3||(廃帝)||厲王||[[苻生]]||[[355年]] - [[357年]]|||| |- |4||世祖||宣昭帝||[[苻堅]]||[[357年]] - [[385年]]|||| |- |5||||哀平帝||[[苻丕]]||[[385年]] - [[386年]]|||| |- |6||||高帝||[[苻登]]||[[386年]] - [[394年]]|||| |- |7||||末帝||[[苻崇]]||[[394年]]|||| |} === 西涼 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 太祖||武昭王||[[李暠]]||[[400年]] - [[417年]]|||| |- |2|| 後主||[[李歆 (西涼)|李歆]]||[[417年]] - [[420年]]|||| |- |3||||冠軍侯||[[李恂]]||[[420年]] - [[421年]]|||| |} === 北燕 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1||||恵懿帝||[[高雲]]||[[407年]] - [[409年]]|||| 天王と称する。 |- |2||太祖||文成帝||[[馮跋]]||[[409年]] - [[430年]]|||| 天王と称する。 |- |3||||昭成帝||[[馮弘]]||[[430年]] - [[436年]]|||| 皇帝と称する。[[435年]]以降[[宋 (南朝)|宋]]に封ぜられた燕王となる.。 |} === 北涼 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|||||| [[段業]]||[[397年]] - [[401年]]|||| [[397年]] - [[400年]]は建康公と称し、それ以降は涼王と称する。 |- |2|| 太祖||武宣王||[[沮渠蒙遜]]||[[401年]] - [[433年]]|||| |- |3|| ||哀王||[[沮渠牧犍]]||[[433年]] - [[439年]]|||| |} * 北涼が[[北魏]]に攻め滅ぼされた後、北涼の王族が自立し[[宋 (南朝)|宋]]に封ぜられた河西王二代を輩出。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|||||| [[沮渠無諱]]||[[443年]] - [[444年]]|||| |- |2|||||| [[沮渠安周]]||[[444年]] - [[460年]]|||| |} === 夏 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1||世祖||武烈帝||[[赫連勃勃]]||[[407年]] - [[425年]]|||| 418年までは天王と自称、以後は皇帝と称する。 |- |2||||廃主||[[赫連昌]]||[[425年]] - [[428年]]|||| |- |3||||後主||[[赫連定]]||[[428年]] - [[431年]]|||| |} === 後燕 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 世祖||成武帝||[[慕容垂]]||[[384年]] - [[396年]]|||| [[386年]]まで燕王を自称、以後は皇帝と称する。 |- |2|| 烈宗||恵愍帝||[[慕容宝]]||[[396年]] - [[398年]]|||| |- |3||||開封公||[[慕容詳]]||[[397年]]|||| 皇帝と称する。 |- |4||||趙王||[[慕容麟]]||[[397年]]|||| 皇帝と称する。 |- |5||||昌黎王||[[蘭汗]]||[[398年]]|||| |- |6|| 中宗||昭武帝||[[慕容盛]]||[[398年]] - [[400年]]|||| 当初は長楽王と称し、同年皇帝と称する。 |- |7||||庶民天王||[[慕容盛]]||[[400年]] - [[401年]]|||| |- |8||||昭文帝||[[慕容熙]]||[[401年]] - [[407年]]|||| |} === 西燕 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 済北王||[[慕容泓]]||[[384年]]|||| |- |2|| 威帝||[[慕容沖]]||[[384年]] - [[386年]]|||| |- |3|| 燕王||[[段随]]||[[386年]]|||| |- |4|| 燕王||[[慕容凱]]||[[386年]]|||| |- |5|| 燕帝||[[慕容瑤]]||[[386年]]|||| |- |6|| 燕帝||[[慕容忠]]||[[386年]]|||| |- |7|| 河東王||[[慕容永]]||[[386年]] - [[394年]]|||| |} === 冉魏 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||武悼天王||[[冉閔]]||[[350年]] - [[352年]] |} === 南涼 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 烈祖||||[[禿髪烏孤]]||[[397年]] - [[399年]]|||| 西平王と称する。 |- |2||||康王||[[禿髪利鹿孤]]||[[399年]] - [[402年]]|||| 河西王と称する。 |- |3||||景王||[[禿髪ジョク檀|禿髪傉檀]]||[[402年]] - [[414年]]|||| 涼王と称する。[[404年]] - [[408年]]の間[[後秦]]に服属。 |} === 南燕 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 世宗||献武帝||[[慕容徳]]||[[398年]] - [[405年]]|||| [[400年]]まで燕王、以後皇帝と称する。 |- |2||||北海王||[[慕容超]]||[[405年]] - [[410年]]|||| |} === 後涼 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 太祖||懿武帝||[[呂光]]||[[384年]] - [[399年]]|||| 天王と称する。 |- |2||||隠王||[[呂紹]]||[[399年]]|||| |- |3||||霊帝||[[呂纂]]||[[399年]] - [[401年]]|||| |- |4||||後主||[[呂隆]]||[[401年]] - [[403年]]|||| |} === 後秦 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 太祖||||[[姚萇]]||[[384年]] - [[393年]]|||| |- |2|| 高祖||||[[姚興]]||[[393年]] - [[415年]]|||| |- |3|| 後主||[[姚泓]]||[[415年]] - [[417年]]|||| |} === 翟魏 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| [[翟遼]] ||[[388年]] - [[391年]]|||| |- |2|| [[翟釗]] ||[[391年]] - [[392年]]|||| |} === 拓跋部 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1||ー||成帝||[[拓跋毛]]||[[紀元前207年]] - [[紀元前204年]]|||| |- |2||ー||節帝||[[拓跋貸]]||[[紀元前204年]] - [[紀元前175年]]|||| |- |3||ー||荘帝||[[拓跋観]]||[[紀元前175年]] - [[紀元前130年]]|||| |- |4||ー||明帝||[[拓跋楼]]||[[紀元前130年]] - [[紀元前81年]]|||| |- |5||ー||安帝||[[拓跋越]]||[[紀元前81年]] - [[紀元前41年]]|||| |- |6||ー||宣帝||[[拓跋推寅]]||[[紀元前41年]] - [[13年]]|||| |- |7||ー||景帝||[[拓跋利]]||[[13年]] - [[55年]]|||| |- |8||ー||元帝||[[拓跋俟]]||[[55年]] - [[105年]]|||| |- |9||ー||和帝||[[拓跋肆]]||[[105年]] - [[114年]]|||| |- |10||ー||定帝||[[拓跋機]]||[[114年]] - [[159年]]|||| |- |11||ー||僖帝||[[拓跋蓋]]||[[159年]] - [[180年]]|||| |- |12||ー||威帝||[[拓跋儈]]||[[180年]] - [[209年]]|||| |- |13||ー||献帝||[[拓跋鄰]]||[[209年]] - [[213年]]|||| |- |14||ー||聖武帝||[[拓跋詰汾]]||[[213年]] - [[218年]]|||| |- |15||始祖||神元帝||[[拓跋力微]]||[[220年]] - [[277年]]|||| |- |ー||ー||文帝||[[拓跋沙漠汗]]||||||太子 |- |16||ー||章帝||[[拓跋悉鹿]]||[[277年]] - [[286年]]|||| |- |17||ー||平帝||[[拓跋綽]]||[[286年]] - [[293年]]|||| |- |18||ー||思帝||[[拓跋弗]]||[[293年]] - [[294年]]|||| |- |19||ー||昭帝||[[拓跋禄官]]||[[294年]] - [[307年]]||||東部大人 |- |ー||ー|| 桓帝||[[拓跋猗イ|拓跋猗㐌]]||[[295年]] - [[305年]]||||中部大人 |- |ー||ー|| 文平帝||[[拓跋普根]]||[[305年]] - [[307年]]||||中部大人 |- |ー||ー|| 穆帝||[[拓跋猗盧]]||[[295年]] - [[307年]]||||西部大人 |- |20||ー||穆帝||[[拓跋猗盧]]||[[307年]] - [[315年]]|||| |} === 代 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位期間||年数||備考 |- |1||||穆帝||[[拓跋猗盧]]||[[315年]][[316年]]|||| |- |2||||文平帝||[[拓跋普根]]||[[316年]]|||| |- |3||||||[[代王 (拓跋普根の子)|(拓跋普根の子)]]||[[316年]]|||| |- |4|| 太祖||平文帝||[[拓跋鬱律]]||[[316年]][[321年]]|||| |- |5|||| 恵帝||[[拓跋賀ル|拓跋賀傉]]||[[321年]][[325年]]|||| |- |6|||| 煬帝||[[拓跋紇那]]||[[325年]][[329年]]<br/>[[335年]][[337年]]|||| |- |7|||| 烈帝||[[拓跋翳槐]]||[[329年]][[335年]]<br/>[[337年]][[338年]]|||| |- |8|| 高祖||昭成帝||[[拓跋什翼犍]]||[[338年]][[376年]]|||| |- |9||||献明帝||[[拓跋寔]]||(太子)|||| |} == 南朝 == {| class="wikitable" style="text-align:center" !国号||代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |rowspan="8"|'''宋'''||1||高祖||武帝||[[劉裕]]||[[420年]] - [[422年]]|| |- |2||||[[少帝 (南朝宋)|少帝]]||劉義符||[[422年]] - [[424年]]|| |- |3||太祖||[[文帝 (南朝宋)|文帝]]||劉義隆||[[424年]] - [[453年]]|| |- |4||世祖||[[孝武帝 (南朝宋)|孝武帝]]||劉駿||[[453年]] - [[464年]]|| |- |5||||[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]||劉子業||[[464年]] - [[465年]]|| |- |6||太宗||[[明帝 (南朝宋)|明帝]]||劉彧||[[465年]] - [[472年]]|| |- |7||||[[後廃帝 (南朝宋)|後廃帝]]・蒼梧王||劉昱||[[472年]] - [[476年]]|| |- |8||||[[順帝 (南朝宋)|順帝]]||劉準||[[476年]] - [[479年]]|| |- |rowspan="7"|'''斉'''||1||太祖||[[蕭道成|高帝]]||蕭道成||[[479年]] - [[482年]]|| |- |2||世祖||[[武帝 (南朝斉)|武帝]]||蕭賾||[[482年]] - [[493年]]|| |- |3||||[[蕭昭業|廃帝鬱林王]]||蕭昭業||[[493年]] - [[494年]]|| |- |4||||[[蕭昭文|廃帝海陵王]]||蕭昭文||[[494年]]|| |- |5||高祖||[[明帝 (南朝斉)|明帝]]||蕭鸞||[[494年]] - [[498年]]|| |- |6||||[[蕭宝巻|廃帝東昏侯]]||蕭宝巻||[[498年]] - [[501年]]|| |- |7||||[[和帝 (南朝斉)|和帝]]||蕭宝融||[[501年]] - [[502年]]|| |- |rowspan="5"|'''梁'''||1||高祖||[[蕭衍|武帝]]||蕭衍||[[502年]] - [[549年]]|| |- |2||太宗||[[簡文帝 (南朝梁)|簡文帝]]||蕭綱||[[549年]] - [[551年]]|| |- |3||||[[蕭棟|廃帝豫章王]]||蕭棟||[[551年]]|| |- |4||世祖||[[元帝 (南朝梁)|孝元帝]]||蕭繹||[[552年]] - [[554年]]|| |- |5||||[[敬帝 (南朝梁)|孝敬帝]]||蕭方智||[[554年]] - [[557年]]|| |- |'''漢'''||1||||||[[侯景]]||[[551年]] - [[552年]]|| |- |rowspan="3"|'''後梁'''||1||中宗||[[蕭詧|宣帝]]||蕭詧||[[554年]] - [[562年]]|| |- |2||世祖||[[蕭巋|明帝]]||蕭巋||[[562年]] - [[585年]]|| |- |3||||[[蕭琮|後主]]||蕭琮||[[585年]] - [[587年]]|| |- |rowspan="5"|'''陳'''||1||高祖||[[陳霸先|武帝]]||陳霸先||[[557年]] - [[559年]]|| |- |2||世祖||[[文帝 (陳)|文帝]]||陳蒨||[[559年]] - [[566年]]|| |- |3||||[[廃帝 (陳)|廃帝]]臨海王||陳伯宗||[[566年]] - [[568年]]|| |- |4||高宗||[[宣帝 (陳)|宣帝]]||陳頊||[[568年]] - [[582年]]|| |- |5||||[[後主 (陳)|後主]]||陳叔宝||[[582年]] - [[589年]]|| |} *宋 ** [[劉裕]]は、[[419年]] - [[420年]]に[[東晋]]の「宋王」だった。 ** [[劉劭 (南朝宋)|劉劭]]は、[[453年]]に皇帝を称した。 ** 晋安王[[劉子勛]]は、[[466年]]に皇帝を称した。 *斉 **[[蕭道成]]は、[[479年]]に[[宋 (南朝)|宋]]の「斉王」だった。 ** [[蕭長懋|文恵太子]]は、[[蕭昭業]]によって、世宗文帝と追号された。 *梁 ** [[蕭衍]]は、[[502年]]、[[斉 (南朝)|斉]]の「梁王」だった。 ** [[昭明太子]]は、[[簡文帝 (南朝梁)|簡文帝]]によって、高宗昭明帝と追号された。 ** 臨賀王[[蕭正徳]]は、[[548年]] - [[549年]]、皇帝と称していた。 ** [[551年]] - [[552年]]、帝位は[[侯景]]に奪われていた。 ** 武陵王[[蕭紀]]は、[[552年]] - [[553年]]、皇帝と称していた。 ** 貞陽侯[[蕭淵明]]は、[[555年]]は、帝位についていた。この間、[[敬帝 (南朝梁)|敬帝]]は[[皇太子]]だった。 ** 永嘉王[[蕭荘]]は、[[557年]] - [[560年]]、帝位についていた。 *後梁 ** [[554年]] - [[555年]]、[[蕭詧]]は皇帝ではなく、梁主を称していた。 ** [[555年]]から、宣帝蕭詧は皇帝と称した。 *陳 ** [[陳霸先]]は、[[557年]]、[[梁 (南朝)|梁]]の陳王だった。 ** 陳道譚は、[[文帝 (陳)|文帝]]によって、始興昭烈王と追号された。 == 北朝 == === 北魏 === * [[道武帝|拓跋珪]]は、[[386年]] - [[398年]]、代王を自称した。 * [[拓跋晃|景穆太子]]は、[[文成帝 (北魏)|文成帝]]によって恭宗景穆帝と追号された。 * [[元勰]]は、[[孝荘帝]]によって粛祖文穆帝と追号された。 * [[元劭]]は、孝荘帝によって孝宣帝と追号された。 * [[元懐]]は、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]によって孝宗武穆帝と追号された。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- ||||太祖||[[道武帝]]||拓跋珪||398年 - 409年|| |- ||||太宗||[[明元帝]]||拓跋嗣||409年 - 423年|| |- ||||世祖||[[太武帝]]||拓跋燾||423年 - 452年|| |- ||||||南安隠王||[[拓跋余]]||452年|| |- ||||高宗||[[文成帝 (北魏)|文成帝]]||拓跋濬||452年 - 465年|| |- ||||顕祖||[[献文帝]]||拓跋弘||465年 - 471年|| |- ||||高祖||[[孝文帝]]||元宏||471年 - 499年|| |- ||||世宗||[[宣武帝]]||元恪||499年 - 515年|| |- ||||粛宗||[[孝明帝]]||元詡||515年 - 528年|| |- ||||||||[[:zh:元氏(北魏孝明帝女)|皇女某]]||528年|| |- ||||||[[元釗|幼主]]||元釗||528年|| |- ||||敬宗||[[孝荘帝]]||元子攸||528年 - 530年|| |- ||||||東海王||[[元曄]]||530年 - 531年|| |- ||||||節閔帝/前廃帝||[[元恭]]||531年|| |- ||||[[元朗 (北魏)|安定王]]||後廃帝||[[元朗]]||531年 - 532年|| |- ||||[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]||出帝||[[元脩]]||532年 - 534年|| |} * 京兆王[[元愉]]は、[[508年]]に皇帝を称していた。 * [[元法僧]]は、[[525年]]に皇帝を称した。 * 北海王[[元顥]]は、[[529年]]に皇帝を称していた。 * 汝南王[[元悦]]は、[[530年]]-[[532年]]皇帝を称していた。 ==== 斉 ==== # [[葛栄]](在位[[526年]]-[[528年]]) ==== 斉 ==== # [[蕭宝寅]](在位[[527年]]-[[528年]]) === 東魏 === # [[孝静帝]](元善見、在位[[534年]] - [[550年]]) === 北斉 === * [[高澄]]は、[[549年]]、[[東魏]]の斉王だった。 * [[文宣帝|高洋]]は、[[549年]] - [[550年]]、[[東魏]]の斉王だった。 * [[高樹生]]は、[[文宣帝]]によって文穆帝と追号された。 * [[高歓]]は、文宣帝によって高祖神武帝と追号された。 * [[高澄]]は、文宣帝によって世宗文襄帝と追号された。 # 顕祖[[文宣帝]](高洋、在位[[550年]] - [[559年]]) # [[廃帝 (北斉)|廃帝]](高殷、在位[[559年]] - [[560年]]) # 粛宗[[孝昭帝]](高演、在位[[560年]] - [[561年]]) # 世祖[[武成帝]](高湛、在位[[561年]] - [[565年]]) # [[後主 (北斉)|後主]](高緯、在位[[565年]] - [[577年]]) #* [[高延宗|安徳王]](高延宗、在位[[576年]]) # [[幼主 (北斉)|幼主]](高恒、在位[[577年]]) #* [[高湝]] (在位[[577年]]) #* [[高紹義]] (在位[[578年]]) === 西魏・北周 === * [[元愉]]は、[[文帝 (西魏)|文帝]]によって顕宗文景帝と追号された。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !国号||代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |rowspan="3"|西魏||1||中宗||[[文帝 (西魏)|文帝]]||元宝炬||[[535年]] - [[551年]]|| |- |||||[[廃帝 (西魏)|廃帝]]||元欽||[[551年]] - [[554年]]|| |- |||||[[恭帝 (西魏)|恭帝]]||拓跋廓||[[554年]] - [[556年]]|| |- |rowspan="5"|北周||1||||[[孝閔帝]]||宇文覚||[[556年]] - [[557年]]|| |- |||世祖||[[明帝 (北周)|明帝]]||宇文毓||[[557年]] - [[560年]]|| |- |||高祖||[[武帝 (北周)|武帝]]||宇文邕||[[560年]] - [[578年]]|| |- |||||[[宣帝 (北周)|宣帝]]||宇文贇||[[578年]] - [[580年]]|| |- |||||[[静帝]]||宇文闡||[[580年]] - [[581年]]|| |} * [[宇文泰]]は、[[孝閔帝]]によって太祖文帝と追号された。 == 隋 == [[画像:Zuityoukeizu.gif|thumb|right|201px|隋の皇帝(楊家)の系図]] * [[楊忠]]は、楊堅によって'''太祖武元帝'''と追号された。 # [[楊堅|高祖文帝]](楊堅、在位[[581年]] - [[604年]]) # [[煬帝|世祖煬帝]](楊広、在位[[604年]] - [[618年]]) # [[恭帝侑]](楊侑、在位[[617年]] - [[618年]]) # [[恭帝侗]](楊侗、在位[[618年]] - [[619年]]) * 元徳太子[[楊昭]]は、[[恭帝侗]]によって'''世宗孝成帝'''と追号された。 * 秦王[[楊浩]]は、[[618年]]に[[宇文化及]]により帝位につけられた。 === 許 === # [[宇文化及]](在位[[618年]] - [[619年]]) === 鄭 === # [[王世充]](在位[[619年]] - [[621年]]) === 夏 === # [[竇建徳]](在位[[618年]] - [[621年]]) === 定楊 === # [[劉武周]](在位[[617年]] - [[622年]]) === 梁 === # [[梁師都]](在位[[617年]] - [[628年]]) === 秦 === # [[薛挙]](在位[[617年]] - [[618年]]) # [[薛仁杲]](在位[[618年]]) === 涼 === # [[李軌]](在位[[618年]] - [[619年]]) === 梁 === # [[蕭銑]](在位[[618年]] - [[621年]]) === 呉 === # [[李子通]](在位[[619年]] - [[621年]]) === 楚 === # [[林士弘]](在位[[617年]] - [[622年]]) === 宋 === # {{仮リンク|輔公祏|zh|辅公祏}}(在位[[623年]] - [[624年]]) === 楚 === # [[朱粲]](在位[[615年]] - [[619年]]) == 唐 == [[画像:Tourikekeizu.gif|thumb|right|300px|唐の皇帝(李家)の系図(武則天も含む)]] * [[李熙]]は、674年[[高宗 (唐)|高宗]]によって献祖宣帝と追号された。 * [[李天錫]]は、674年高宗によって懿祖光帝と追号された。 * [[李虎]]は、618年[[李淵|高祖]]によって太祖景帝と追号された。 * [[李昞 (北周)|李昞]]は、618年高祖によって世祖元帝と追号された。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[李淵|高祖]]||神堯大聖大光孝皇帝||李淵||[[618年]] - [[626年]]||8年 |- |2||[[太宗 (唐)|太宗]]||文武大聖大広孝皇帝||李世民||[[626年]] - [[649年]]||23年 |- |3||[[高宗 (唐)|高宗]]||天皇大聖大弘孝皇帝||李治||[[649年]] - [[683年]]||34年 |- |4||[[中宗 (唐)|中宗]]||大和大聖大昭孝皇帝||李顕||[[683年]] - [[684年]]||1年 |- |5||[[睿宗 (唐)|睿宗]]||玄真大聖大興孝皇帝||李旦||[[684年]] - [[690年]]||6年 |- |6||[[中宗 (唐)|中宗]](復位)||大和大聖大昭孝皇帝||李顕||[[705年]] - [[710年]]||5年 |- |7||なし||[[殤帝 (唐)|殤帝]]||李重茂||[[710年]]||2週間 |- |8||[[睿宗 (唐)|睿宗]](復位)||玄真大聖大興孝皇帝||李旦||[[710年]] - [[712年]] ||2年 |- |9||[[玄宗 (唐)|玄宗]]||至道大聖大明孝皇帝||李隆基||[[712年]] - [[756年]]||44年 |- |10||[[粛宗 (唐)|粛宗]]||文明武徳大聖大宣孝皇帝||李亨||[[756年]] - [[762年]]||6年 |- |11||[[代宗 (唐)|代宗]]||睿文孝武皇帝||李豫||[[762年]] - [[779年]]||17年 |- |12||[[徳宗 (唐)|徳宗]]||神武聖文皇帝||李适||[[779年]] - [[805年]]||26年 |- |13||[[順宗 (唐)|順宗]]||至徳弘道大聖大安孝皇帝||李誦||[[805年]]||6ヶ月 |- |14||[[憲宗 (唐)|憲宗]]||昭文章武大聖至神孝皇帝||李純||[[805年]] - [[820年]]||15年 |- |15||[[穆宗 (唐)|穆宗]]||睿聖文恵孝皇帝||李恒||[[820年]] - [[824年]]||4年 |- |16||[[敬宗 (唐)|敬宗]]||睿武昭愍孝皇帝||李湛||[[824年]] - [[826年]]||2年 |- |17||[[文宗 (唐)|文宗]]||元聖昭献孝皇帝||李昂||[[826年]] - [[840年]]||14年 |- |18||[[武宗 (唐)|武宗]]||至道昭粛孝皇帝||李瀍||[[840年]] - [[846年]]||6年 |- |19||[[宣宗 (唐)|宣宗]]||聖武献文孝皇帝||李忱||[[846年]] - [[859年]]||13年 |- |20||[[懿宗 (唐)|懿宗]]||昭聖恭恵孝皇帝||李漼||[[859年]] - [[873年]]||14年 |- |21||[[僖宗]]||恵聖恭定孝皇帝||李儇||[[873年]] - [[888年]]||15年 |- |22||[[昭宗 (唐)|昭宗]]||聖穆景文孝皇帝||李敏||[[888年]] - [[904年]]||16年 |- |23||[[哀帝 (唐)|哀帝]]||昭宣光烈孝皇帝||李柷||[[904年]] - [[907年]]||3年 |} * [[李弘 (唐)|李弘]]は、高宗によって義宗孝敬帝と追号された。 * [[690年]] - [[705年]]、[[武則天]]により国号を周とされる。 * 譙王[[李重福]]は、[[710年]]に皇帝を称した。 * [[李憲]]は、玄宗によって譲帝と追号された。 * [[李琮 (奉天皇帝)|李琮]]は、粛宗によって奉天帝と追号された。 * [[李承宏]]は、[[763年]]に長安を一時占領した[[吐蕃]]に帝位につけられた。 * [[李倓]]は、代宗によって承天帝と追号された。 * 襄王[[李熅]]は、[[886年]]に帝位につけられた。 * [[李裕]]は、[[900年]]-[[901年]]に帝位についていた。 === 周 === # [[武則天|則天大聖皇帝]](武曌、在位[[690年]] - [[705年]]) === 燕 === # 雄武皇帝[[安禄山]](在位[[756年]] - [[757年]]) # 晋王[[安慶緒]](在位[[757年]] - [[759年]]) # 応天皇帝[[史思明]](在位[[759年]] - [[761年]]) # 懐王[[史朝義]](在位[[761年]] - [[763年]]) === 秦(漢) === # [[朱泚]](在位[[783年]] - [[784年]]) === 楚 === # [[李希烈]](在位[[784年]] - [[786年]]) === 斉 === # 承天応運啓聖睿文宣武皇帝[[黄巣]](在位[[880年]] - [[884年]]) == 五代 == === 後梁 === 1. 太祖([[朱全忠]]、在位[[907年]] - [[912年]])<ref name="朱全忠">愛宕元「第1章五代 1.五代王朝の興亡」『中国史3:五代 - 元』松丸道雄、池田温、斯波義信、神田信夫、濱下武志編、[[山川出版社]] <世界歴史体系>、1997年、pp.9-11、ISBN 4-634-46170-6</ref> :907年に唐の哀帝に迫って譲位をさせ、帝位についた<ref name="朱全忠"/>。912年に領内の節度使の反乱を鎮定したが、これに介入した晋([[後唐]]の前身)軍に敗れ、病を得たため[[仮子|仮父子]]の関係にあった[[朱友文]]を後継者に指名しようとした<ref name="朱全忠"/>。これを不満とした実子朱友珪により朱友文とともに殺害された<ref name="朱全忠"/>。 2. 郢王([[朱友珪]]、在位[[912年]] - [[913年]])<ref name="朱友珪">愛宕元(1997年)、pp.11-13、では、912年6月に太祖朱全忠を殺害し即位したが、913年2月に朱友貞に殺害され、その朱友貞を2代目末帝としている。</ref> :912年6月に太祖朱全忠を殺害し即位したが、913年2月に弟の朱友貞により殺害された<ref name="愛宕pp11-13">愛宕元(1997年)、pp.11-13</ref>。 3. 末帝([[朱友貞]]、在位[[913年]] - [[923年]])<ref name="朱友珪"/> :913年に兄の朱友珪を殺害し、帝位についた<ref name="愛宕pp11-13"/>。923年10月[[後唐]]軍の攻撃を受け、開封府城内で自害した<ref name="愛宕pp11-13"/><ref>愛宕元「第1章五代 1.五代王朝の興亡」『中国史3:五代 - 元』松丸道雄、池田温、斯波義信、神田信夫、濱下武志編、[[山川出版社]] <世界歴史体系>、1997年、p.15、ISBN 4-634-46170-6</ref>。 === 後唐 === * [[895年]] - [[908年]]、[[李克用]]は、[[唐]]に封ぜられた晋王だった。ただし、[[907年]]に唐は滅亡している。 * [[908年]] - [[923年]]、[[李存勗]]は、唐の晋王を自称した。 * 李国昌は、[[李存勗]]によって、献祖文帝と追号された。 * [[李克用]]は、李存勗によって、太祖武帝と追号された。 # 荘宗([[李存勗]]、在位[[923年]] - [[926年]]) # 明宗([[李嗣源]]、在位[[926年]] - [[933年]]) # 閔帝([[李従厚]]、在位[[933年]] - [[934年]]) # 末帝([[李従珂]]、在位[[934年]] - [[936年]]) === 後晋 === # 高祖([[石敬瑭]]、在位[[936年]] - [[942年]])<ref name="後晋">愛宕元「第1章五代 1.五代王朝の興亡」『中国史3:五代 - 元』松丸道雄、池田温、斯波義信、神田信夫、濱下武志編、[[山川出版社]] <世界歴史体系>、1997年、p.17、ISBN 4-634-46170-6</ref> # 少帝([[石重貴]]、在位[[942年]] - [[946年]])<ref name="後晋"/>(出帝とも称する<ref name="後晋"/>。) === 後漢 === # 高祖([[劉知遠]]、在位[[947年]] - [[948年]]) # 隠帝([[劉承祐]]、在位[[948年]] - [[950年]]) * [[劉贇]]は、[[950年]]に[[郭威]]に皇帝に擁立されたが、正式即位前に廃された。 === 後周 === # 太祖([[郭威]]、在位[[951年]] - [[954年]]) # [[世宗 (後周)|世宗]](柴栄、在位[[954年]] - [[959年]]) # [[恭帝 (後周)|恭帝]](柴宗訓、在位[[959年]] - [[960年]]) == 十国 == === 呉 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1||||武忠王||[[楊行密]]||[[902年]] - [[905年]]|||| 宣王までは、[[唐]]の「呉王」を称す。<br/>睿帝により太祖武帝と追号 |- |2|| ||景王||[[楊渥]]||[[905年]] - [[908年]]|||| 睿帝により烈祖景帝と追号 |- |3|| ||宣王||[[楊隆演]]||[[908年]] - [[920年]]|||| [[919年]]に唐と違う年号を用い始め、称臣を停止。称号は「呉王」のまま。<br/> 睿帝により高祖宣帝と追号 |- |4|||| 睿帝||[[楊溥]]||[[920年]] - [[937年]]|||| [[927年]]「皇帝」と称す。 |} === 呉越 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 太祖||武粛王||[[銭鏐]]||[[907年]] - [[932年]]||||建国から[[932年]]まで、[[後梁]]に称臣。 |- |2|| 世宗||文穆王||[[銭元瓘]]||[[932年]] - [[941年]]||||[[932年]]から[[936年]]まで、[[後唐]]に称臣。<br/>[[936年]]以降、[[947年]]まで[[後晋]]に称臣。 |- |3|| 成宗||忠献王||[[銭弘佐]]||[[941年]] - [[947年]]|||| |- |4|| ||忠遜王||[[銭弘倧]]||[[947年]]|||| |- |5|| ||忠懿王||[[銭弘俶]]||[[947年]] - [[978年]]||||[[947年]]から[[951年]]まで、[[後漢 (五代)|後漢]]に称臣<br/>[[951年]]から[[960年]]まで、[[後周]]に称臣。<br/>[[960年]]から[[978年]]まで、[[北宋]]に称臣。 |} === 荊南 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||武信王||[[高季興]]||[[907年]] - [[928年]]|| |- |2||文献王||[[高従誨]]||[[928年]] - [[948年]]|| |- |3||貞懿王||[[高保融]]||[[948年]] - [[960年]]|| |- |4||||[[高保勗]]||[[960年]] - [[962年]]|| |- |5||||[[高継沖]]||[[962年]] - [[963年]]|| |} === 前蜀 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1|| 高祖||||[[王建 (前蜀)|王建]]||[[903年]] - [[918年]]|| |- |2|| ||後主||[[王衍 (前蜀)|王衍]]||[[918年]] - [[925年]]|| |} === 南漢 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1|| 烈祖||||[[劉隠]]||[[909年]] - [[911年]]|| |- |2|| 高祖||||[[劉龑]]||[[911年]] - [[942年]]|| |- |3|| ||殤帝||[[劉玢]]||[[942年]] - [[943年]]|| |- |4|| 中宗||||[[劉晟]]||[[943年]] - [[958年]]|| |- |5|| ||後主||[[劉鋹]]||[[958年]] - [[971年]]|| |} === 楚 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1|| 武穆王||[[馬殷]]||[[907年]] - [[930年]]|| |- |2|| 衡陽王||[[馬希声]]||[[930年]] - [[932年]]|| |- |3|| 文昭王||[[馬希範]]||[[932年]] - [[947年]]|| |- |4|| 廃王||[[馬希広]]||[[947年]] - [[950年]]|| |- |5|| 恭孝王||[[馬希萼]]||[[950年]] - [[951年]]||| |- |6|| 廃王||[[馬希崇]]||[[951年]]|| |} === 後蜀 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||高祖||||[[孟知祥]]||[[934年]]|| |- |2||||後主||[[孟昶]]||[[934年]] - [[965年]]|| |} === 南唐 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1|| 烈祖||||[[李昪]]||[[937年]] - [[943年]]|| |- |2|| 元宗||||[[李璟]]||[[943年]] - [[961年]]|| |- |3||||後主||[[李煜]]||[[961年]] - [[975年]]|| |} === 閩 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1||||||[[王潮]]||[[896年]] - [[897年]]|||| |- |2|| 太祖||||[[王審知]]||[[897年]] - [[925年]]|||| |- |3|| ||嗣王||[[王延翰]]||[[925年]] - [[926年]]|||| |- |4|| 恵宗||||[[王延鈞]]||[[926年]] - [[935年]]|||| |- |5|| 康宗||||[[王継鵬]]||[[935年]] - [[939年]]|||| |- |6|| 景宗||||[[王延羲]]||[[939年]] - [[944年]]|||| |- |7|| ||||[[朱文進]]||[[944年]] - [[945年]]|||| |- |8|| ||殷帝||[[王延政]]||[[943年]] - [[945年]]|||| |} === 北漢 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|| 世祖||神武帝||[[劉崇]]||[[951年]] - [[954年]]|||| |- |2|| 睿宗||孝和帝||[[劉鈞]]||[[954年]] - [[968年]]|||| |- |3|| ||少帝||[[劉継恩]]||[[968年]]|||| |- |4|| ||英武帝||[[劉継元]]||[[968年]] - [[979年]]|||| |} === 桀燕 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1|||||| [[劉守光]]||[[911年]] - [[913年]]|||| |} === 岐 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数||備考 |- |1||||||[[李茂貞]]||[[901年]] - [[924年]]|||| |} == 北宋 == [[画像:宋帝国系図.PNG|thumb|right|250px|宋朝系図]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||諡(初諡)||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[太祖 (宋)|太祖]]||英武聖文神德皇帝||趙匡胤||[[960年]] - [[976年]]||16年 |- |2||[[太宗 (宋)|太宗]]||神功聖徳文武皇帝||趙炅||[[976年]] - [[997年]]||21年 |- |3||[[真宗 (宋)|真宗]]||文明章聖元孝皇帝||趙恒||[[997年]] - [[1022年]]||25年 |- |4||[[仁宗 (宋)|仁宗]]||神文聖武明孝皇帝||趙禎||[[1022年]] - [[1063年]]||41年 |- |5||[[英宗 (宋)|英宗]]||憲文粛武宣孝皇帝||趙曙||[[1063年]] - [[1067年]]||4年 |- |6||[[神宗 (宋)|神宗]]||英文烈武聖孝皇帝||趙頊||[[1067年]] - [[1085年]]||18年 |- |7||[[哲宗 (宋)|哲宗]]||欽文睿武昭孝皇帝||趙煦||[[1085年]] - [[1100年]]||15年 |- |8||[[徽宗]]||聖文仁徳顕孝皇帝||趙佶||[[1100年]] - [[1125年]]||25年 |- |9||[[欽宗]]||恭文順徳仁孝皇帝||趙桓||[[1125年]] - [[1127年]]||2年 |} === 遼 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[耶律阿保機|太祖]]||大聖大明神烈天皇帝||耶律阿保機/劉億||[[907年]] - [[926年]]||19年 |- |2||[[耶律徳光|太宗]]||孝武恵文皇帝||耶律堯骨/劉徳光||[[926年]] - [[947年]]||21年 |- |3||[[世宗 (遼)|世宗]]||孝和荘憲皇帝||耶律兀欲/劉阮||[[947年]] - [[951年]]||4年 |- |4||[[穆宗 (遼)|穆宗]]||孝安敬正皇帝||耶律述律/劉璟||[[951年]] - [[969年]]||18年 |- |5||[[景宗 (遼)|景宗]]||孝成康靖皇帝||耶律明扆/劉賢||[[969年]] - [[982年]]||13年 |- |6||[[聖宗 (遼)|聖宗]]||文武大孝宣皇帝||耶律文殊奴/劉隆緒||[[982年]] - [[1031年]]||49年 |- |7||[[興宗 (遼)|興宗]]||神聖孝章皇帝||耶律只骨/劉宗真||[[1031年]] - [[1055年]]||24年 |- |8||[[道宗 (遼)|道宗]]||仁聖大孝文皇帝||耶律査剌/劉洪基||[[1055年]] - [[1101年]]||46年 |- |9||||[[天祚帝]]||耶律阿果/劉延禧||[[1101年]] - [[1125年]]||24年 |} === 西遼 === #徳宗天祐皇帝([[耶律大石]]、在位[[1124年]] - [[1143年]]) #感天蕭太后([[蕭塔不煙]]、在位1143年 - [[1150年]]) #仁宗正徳皇帝([[耶律夷列]]、在位1150年 - [[1163年]]) #承天太后([[プスワン|耶律普速完]]、在位1163年 - [[1177年]]) #天禧皇帝([[耶律直魯古]]、在位1177年 - [[1211年]]) #[[クチュルク|屈出律]](在位1211年 - [[1218年]]) === 西夏 === {{see|西夏の君主一覧}} == 南宋 == {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]](略称)||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||[[高宗 (宋)|高宗]]||憲孝皇帝||趙構||[[1127年]] - [[1162年]]||35年 |- |2||[[孝宗 (宋)|孝宗]]||成孝皇帝||趙眘||[[1162年]] - [[1189年]]||27年 |- |3||[[光宗 (宋)|光宗]]||慈孝皇帝||趙惇||[[1189年]] - [[1194年]]||5年 |- |4||[[寧宗 (宋)|寧宗]]||恭孝皇帝||趙拡||[[1194年]] - [[1224年]]||30年 |- |5||[[理宗]]||安孝皇帝||趙昀||[[1224年]] - [[1264年]]||40年 |- |6||[[度宗]]||景孝皇帝||趙禥||[[1264年]] - [[1274年]]||10年 |- |7||[[恭帝 (宋)|恭帝]]||孝恭懿聖皇帝||趙㬎||[[1274年]] - [[1276年]]||2年 |- |8||[[端宗 (宋)|端宗]]||愍孝皇帝||趙昰||[[1276年]] - [[1278年]]||2年 |- |9||[[祥興帝|衛王]]||なし||趙昺||[[1278年]] - [[1279年]]||1年 |} * [[1129年]]、[[高宗 (宋)|高宗]]は一旦退位して、元懿太子[[趙旉]]に帝位を譲ったが、同年、復位した。 == 金 == {{see|金朝の君主一覧}} === 楚 === # [[張邦昌]](在位[[1127年]]) === 斉 === # [[劉豫]](在位[[1130年]]-[[1137年]]) == 大元 == [[画像:元朝系図.png|thumb|300px|元朝系図(ボルジギン氏)]] * [[イェスゲイ]]は、[[クビライ|世祖]]によって、烈祖神元皇帝と追号された。 * [[チンギス・カン]]は、[[クビライ|世祖]]によって、太祖法天啓運聖武皇帝と追号された。 * [[オゴタイ]]は、[[クビライ|世祖]]によって、太宗英文皇帝と追号された。 * [[グユク]]は、[[クビライ|世祖]]によって、定宗簡平皇帝と追号された。 * [[モンケ]]は、[[クビライ|世祖]]によって、憲宗桓粛皇帝と追号された。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]]||別号(モンゴルのカガン位)|| style="white-space:nowrap;" |名||在位年||在位年数 |- |1||世祖||聖徳神功文武皇帝||セチェン・カアン||[[クビライ|忽必烈]](クビライ)||[[1271年]] - [[1294年]]||23年 |- |2||成宗||欽明広孝皇帝||オルジェイトゥ・カアン||[[テムル|鉄穆耳]](テムル)||[[1294年]] - [[1307年]]||13年 |- |3||武宗||仁恵宣孝皇帝||クルク・カアン||[[カイシャン|海山]](カイシャン)||[[1307年]] - [[1311年]]||4年 |- |4||仁宗||聖文欽孝皇帝||ブヤント・カアン||[[アユルバルワダ|愛育黎抜力八達]](アユルバルワダ)||[[1311年]] - [[1320年]]||9年 |- |5||英宗||睿聖文孝皇帝||ゲゲーン・カアン||[[シデバラ|碩徳八剌]](シデバラ)||[[1320年]] - [[1323年]]||3年 |- |6||なし||泰定帝(通称)||なし||[[イェスン・テムル|也孫鉄木児]](イェスン・テムル)||[[1323年]] - [[1328年]]||5年 |- |7||なし|||天順帝(通称)||なし|||[[アリギバ|阿剌吉八]](アリギバ)||[[1328年]]||1ヶ月 |- |8||文宗||聖明元孝皇帝||ジャヤガトゥ・カアン||[[トク・テムル|図帖睦爾]](トク・テムル)||[[1328年]] - [[1329年]]||1年 |- |9||明宗||翼献景孝皇帝||クトクト・カアン||[[コシラ|和世㻋]](コシラ)||[[1329年]]||6ヶ月 |- |10||文宗||聖明元孝皇帝||ジャヤガトゥ・カアン||[[トク・テムル|図帖睦爾]](トク・テムル)||[[1329年]] - [[1332年]]||3年 |- |11||寧宗||沖聖嗣孝皇帝||なし||[[イリンジバル|懿璘質班]](リンチンバル)||[[1332年]]||2ヶ月 |- |12||恵宗||宣仁普孝皇帝/順皇帝||ウカアト・カアン||[[トゴン・テムル|妥懽帖睦爾]](トゴン・テムル)||[[1333年]] - [[1368年]]||35年 |} *「順皇帝」は[[明]]により贈られた諡号 === 北元 === # 恵宗皇帝(順皇帝)([[トゴン・テムル|妥懽帖睦爾]]、在位[[1368年]] - [[1370年]]) # 昭宗皇帝([[アユルシリダラ|愛猷識理達臘]]、在位[[1370年]] - [[1378年]]) # 末主皇帝([[トグス・テムル|脱古思帖木児]]、在位[[1378年]] - [[1388年]]) #*「順皇帝」は[[明]]により贈られた諡号 === 宋 === # [[韓林児]](在位[[1355年]] - [[1366年]]) === 天完 === # [[徐寿輝]](在位[[1351年]] - [[1360年]]) === 陳漢 === # [[陳友諒]](在位[[1360年]] - [[1363年]]) # [[陳理]](在位[[1363年]] - [[1364年]]) === 張呉 === # [[張士誠]](周王・在位[[1354年]] - [[1357年]]、呉王・在位[[1363年]] - [[1367年]]) === 夏 === # [[明玉珍]](在位[[1360年]] - [[1366年]]) # [[明昇]](在位[[1366年]] - [[1371年]]) == 大明 == {{see|明朝の君主一覧}} {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]](略称)||通称(日本)||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||太祖||高皇帝||[[朱元璋|洪武帝]]||朱元璋||[[1368年]] - [[1398年]]||30年 |- |2||恵宗||譲皇帝||[[建文帝]]||朱允炆||[[1398年]] - [[1402年]]||4年 |- |3||太宗<br>成祖||文皇帝||[[永楽帝]]||朱棣||[[1402年]] - [[1424年]]||22年 |- |4||仁宗||昭皇帝||[[洪熙帝]]||朱高熾||[[1424年]] - [[1425年]]||1年 |- |5||宣宗|||章皇帝||[[宣徳帝]]||朱瞻基|||[[1425年]] - [[1435年]]||10年 |- |6||英宗||睿皇帝||[[英宗 (明)|正統帝]]||朱祁鎮||[[1435年]] - [[1449年]]||14年 |- |7||代宗||景皇帝||[[景泰帝]]||朱祁鈺||[[1449年]] - [[1457年]]||8年 |- |8||英宗(復位)||睿皇帝||[[英宗 (明)|天順帝]]||朱祁鎮||[[1457年]] - [[1464年]]||7年 |- |9||憲宗||純皇帝||[[成化帝]]||朱見深||[[1464年]] - [[1487年]]||23年 |- |10||孝宗||敬皇帝||[[弘治帝]]||朱祐樘||[[1487年]] - [[1505年]]||18年 |- |11||武宗||毅皇帝||[[正徳帝]]||朱厚㷖||[[1505年]] - [[1521年]]||16年 |- |12||世宗||粛皇帝||[[嘉靖帝]]||朱厚熜||[[1521年]] - [[1566年]]||45年 |- |13||穆宗||荘皇帝||[[隆慶帝]]||朱載坖||[[1566年]] - [[1572年]]||6年 |- |14||神宗||顕皇帝||[[万暦帝]]||朱翊鈞||[[1572年]] - [[1620年]]||48年 |- |15||光宗||貞皇帝||[[泰昌帝]]||朱常洛||[[1620年]]||1ヶ月 |- |16||熹宗||悊皇帝|||[[天啓帝]]||朱由校||[[1620年]] - [[1627年]]||7年 |- |17||毅宗||烈皇帝<br />荘烈愍皇帝||[[崇禎帝]]||朱由検||[[1627年]] - [[1644年]]||17年 |- |} === 南明 === {| class="wikitable" rules="all" |- !代数 !廟号 !諡号 !日本での呼称 !姓名 !年号 !在位期間 !陵墓 |- |style="margin-left:3em; text-align:center;"|1(18) |安宗 |奉天遵道寛和静穆修文布武温恭仁孝簡皇帝 |[[弘光帝]] |朱由崧 |弘光 |[[1644年]][[6月19日]] - [[1645年]][[6月]] |&nbsp; |- |style="margin-left:3em; text-align:center;"|2(19) |紹宗 |配天至道弘毅粛穆思文烈武敏仁広孝襄皇帝<ref name="eiryaku">永暦帝による追尊。</ref> |[[隆武帝]] |朱聿鍵 |[[隆武]] |[[1645年]][[8月6日]] - [[1646年]][[10月]] |&nbsp; |- |style="margin-left:3em; text-align:center;"|3(20) | | |[[紹武帝]] |朱聿𨮁 |[[紹武]] |[[1646年]][[12月12日]] - [[1647年]][[1月20日]] |&nbsp; |- |style="margin-left:3em; text-align:center;"|4(21) |昭宗<ref name="teisikou">[[鄭成功]]による追尊。</ref> |応天推道敏毅恭倹経文緯武体仁克孝匡皇帝<ref name="teisikou"/> |[[永暦帝]] |朱由榔 |[[永暦]] |[[1646年]][[12月24日]] - [[1661年]][[8月13日]] |&nbsp; |- |} === 順 === # 永昌帝 [[李自成]](在位[[1644年]] - [[1645年]]) === 西 === # 大順帝 [[張献忠]](在位[[1644年]] - [[1646年]]) == 後金 == [[画像:Sinaishinkakurake.gif|thumb|right|301px|清朝の系図(愛新覚羅家)]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]](略称) !別号(女真のハーン位)||通称(日本)||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||太祖||高皇帝 |クンドゥレン・ハーン||天命帝||[[ヌルハチ|愛新覚羅努爾哈赤]]||[[1616年]] - [[1626年]]||10年 |- |2 |太宗 |文皇帝 |セチェン・ハーン |崇徳帝 |[[ホンタイジ|愛新覚羅皇太極]] |[[1626年]] - [[1636年]] |9年 |} == 大清 == [[画像:Sinaishinkakurake.gif|thumb|right|301px|清朝の系図(愛新覚羅家)]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !代数||[[廟号]]||[[諡号]](略称)||通称(日本)||style="white-space:nowrap;"|名||在位年||在位年数 |- |1||太宗||文皇帝||崇徳帝||[[ホンタイジ|愛新覚羅皇太極]]||[[1636年]] - [[1643年]]||7年 |- |||成宗||義皇帝||||[[ドルゴン|愛新覚羅多爾袞]]|||| |- |2||世祖||章皇帝||[[順治帝]]||愛新覚羅福臨||在位[[1643年]] - [[1661年]]||18年 |- |3||聖祖||仁皇帝||[[康熙帝]]||愛新覚羅玄燁 ||在位[[1661年]] - [[1722年]]||61年 |- |4||世宗||憲皇帝||[[雍正帝]]||愛新覚羅胤禛||[[1722年]] - [[1735年]]||13年 |- |5||高宗||純皇帝||[[乾隆帝]]||愛新覚羅弘暦||[[1735年]] - [[1795年]]||60年 |- |6||仁宗||睿皇帝||[[嘉慶帝]]||愛新覚羅顒琰||[[1796年]] - [[1820年]]||24年 |- |7||宣宗||成皇帝||[[道光帝]]||愛新覚羅旻寧||[[1820年]] - [[1850年]]||30年 |- |8||文宗||顕皇帝||[[咸豊帝]]||愛新覚羅奕詝||[[1850年]] - [[1861年]]||11年 |- |9||穆宗||毅皇帝||[[同治帝]]||愛新覚羅載淳||[[1861年]] - [[1875年]]||14年 |- |10||徳宗||景皇帝||[[光緒帝]]||愛新覚羅載湉||[[1875年]] - [[1908年]]||33年 |- |11||恭宗||愍皇帝||宣統帝||[[愛新覚羅溥儀]]||[[1908年]] - [[1912年]]||4年 |- |} * 成宗[[ドルゴン]]、愛新覚羅多爾袞は1650年[[順治帝]]によって成宗義帝と追号された。 * [[保慶帝]]愛新覚羅溥儁は、[[1899年]]に帝位につけられた。 * [[愛新覚羅溥儀]]は、[[1917年]]7月1日-[[1917年]]7月12日、[[張勲復辟]]で一時復位した。 === 呉周 === # 太祖昭武帝([[呉三桂]]、在位[[1678年]][[3月]] - 1678年[[8月]]) # 洪化帝([[呉世璠]]、在位1678年8月 - [[1681年]][[10月]]) * [[呉応熊]]は、[[呉世璠]]によって太宗孝恭皇帝と追諡された。 === 太平天国 === # 天王([[洪秀全]]、在位[[1851年]]? - [[1864年]]) # 幼天王([[洪天貴福]]、在位[[1864年]]) == 満洲国 == # 康徳帝([[愛新覚羅溥儀]]、在位[[1934年]][[3月]] - [[1945年]][[8月]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 愛宕元「第1章五代 1.五代王朝の興亡」『中国史3:五代 - 元』松丸道雄、池田温、斯波義信、神田信夫、濱下武志編、[[山川出版社]] <世界歴史体系>、1997年、pp.&nbsp;3–27、ISBN 4-634-46170-6 == 関連項目 == * [[同諡号廟号一覧]] * [[前漢の諸侯王一覧]] * [[後漢の諸侯王一覧]] {{中国の王朝政府}} {{デフォルトソート:ちゆうこくていおういちらん}} [[Category:中国の君主|!]] [[Category:君主の一覧|ちゆうこく]] [[Category:中国史の人物一覧|ていおう]]
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海洋堂
株式会社海洋堂(かいようどう)は、大阪府門真市に本社を置き、鉄道・ミリタリー・フィギュア・食玩等の各種模型を製作する会社である。 模型業界では、高い造形技術と型破りな経営で有名な企業である。造形物の精巧さや造形センスは世界屈指の水準を誇る。 映画「ジュラシック・パーク」のスタッフは海洋堂の恐竜モデルをコンピュータグラフィックス製作の資料にした、と創業者の宮脇修は公言し、海洋堂が製作した、実際に映画で使われた恐竜の脚の部分等が「海洋堂ホビー館四万十」に展示してある。 自然史分野で世界最大規模を誇るアメリカ自然史博物館からも展示品の製作依頼が来る。ガメラなどの映画製作にも協力している。 日本国内では、チョコエッグをヒットさせて以来知名度が上がり、今や一つのブランドとなっている。 突出した知名度から「造形製作・海洋堂」の名前を冠すれば商品の売れ行きが上がる。販売されるフィギュアの原型制作者名が記された事は皆無といって良かったが、作家性をセールスポイントとして大きく謳っている商品が多数存在する(海洋堂では製作ではなく制作の文字を使用する)。 世界最大級の、ガレージキット展示即売を中心とした総合造形行事「ワンダーフェスティバル」の主催を手がけ、アマチュア造形の振興に寄与している。 2005年(平成17年)には株式会社龍遊館によって、フィギュアの美術館である「海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館」が滋賀県長浜市に設立された。 2011年(平成23年)7月9日、高知県高岡郡四万十町に、廃校舎を再利用したホビー博物館「海洋堂ホビー館四万十」が開館。 2012年(平成24年)7月7日、おなじく高知県高岡郡四万十町に「海洋堂かっぱ館」が開館。 2020年(令和2年)6月23日、投資ファンドのMSD企業投資と資本業務提携を締結したと発表。これにより、これまで通りの海洋堂の造形技術や信念を維持しつつ、MSDがもつ資本や知見、ネットワークを活かし、国内外でのさらなる事業展開や既存事業の進化が図れるとしている。 2022年(令和4年)12月12日、大阪府大阪市中央区ミライザ大阪城に「海洋堂フィギュアミュージアム ミライザ大阪城」が開館。 宮脇修(高知県幡多郡大方町(現:黒潮町)出身)が、長男の宮脇修一(現在の海洋堂専務取締役。愛称はセンム)の小学校入学を機に、大阪府守口市の土居駅前で経営していた貸本屋を改装して1964年(昭和39年)4月1日に始めた一坪半の模型店が始まりである。 宮脇の性格から常に変わった事をする店であり、近所の子供達がいつもたむろしていた。例えば、子供たちが「戦艦のプラモデルをお風呂に浮かべても狭くてすぐに風呂のフチにぶつかってしまう。でも川に浮かべると流れていって帰ってこない」と不満を言えば、店内の3分の2を使ってプールを作り、自由に遊ばせた。冬はプールにフタをして、その上にジオラマを作りリモコン戦車を走らせた。ただ模型を売るだけではなく、近所の集会所を借りて模型教室や展示会を開いた。 スロットレーシングが流行していた頃、廃業した工場を借りて大きなレース場を作った。レース場は夜遅くまで青年たちが集まり、収益は上々であった。 大手プラモデル会社・イマイ科学が経営危機に陥った際、社長自ら宮脇修に相談を持ちかけて来た(海洋堂は、イマイ科学が発売していたTVシリーズ『サンダーバード』プラモデルの突出した販売実績があった)。宮脇は「ローマの軍船」のプラモデルを提案し、販売にあたってのノウハウを伝えた。忠実に商品化された「ローマの軍船」はヒットしたが、その後海洋堂とイマイ科学は喧嘩別れしてしまう。結局、一銭のアイデア料も受け取らず、アイデアとノウハウだけ持っていかれる形になってしまった。 スロットレーシング場として借りていたボウリング場が改装されることになったため、代替に隣の200坪の倉庫(後に海洋堂ホビー館となる)を新たに借り、180mに及ぶ長大なレーシングコースを作った。しかし、新しいレーシングコースが完成した頃には、近隣に同様のレース場が数軒存在しており、客足が戻る事は無かった。そのうえ180mのレーシングコースは大きすぎた。そもそも15センチ足らずの大きさのスロットレーシングカーは遠くに走って行ってしまうと見えなくなり、勘で操作しなければならなかった。さらに学校やPTAが「スロットレーシングは不良の遊びであり、非行の元凶」と反対し始めたため、スロットレーシングそのものが衰退していった。200坪もの倉庫は賃貸料も高く、資金繰りは次第に悪化し、借金で借金を返すことを繰り返す様になった。さらに金策に駆けずり回っていた修夫人(宮脇里枝)が病に倒れてしまう。ほどなく夫人の病は治癒したものの、十分に養生する間もなく、再び金策に駆けずり回った。 スロットレーシングがすっかり下火となった頃、再び宮脇修の突飛な発想が顔を出した。「この倉庫を世界中の模型を集めたホビー館にしよう。日本一大きな模型屋にしてやろう」と言うのである。200坪もの面積を模型で埋め尽くすのは並大抵の事ではなく、店に並べる商品は徐々にしか増えなかった。売上のほとんどは在庫の仕入れに消えてしまい、相変わらずの借金地獄が続いた。そんな海洋堂を救ったのは模型ではなくアーケードゲームだった。ギャラクシアンなどのアーケードゲーム機を、空いた場所の埋め草に店内にいくつも並べてみたところ、子供達がゲーム目当てに大勢来るようになったのである。抱えていた大きな借金はみるみる減っていった。これには宮脇の息子であり、当時既に店のほとんどを任され「若だんな」「兄ちゃん」と呼ばれていた宮脇修一(現・代表取締役)も「こんな簡単に(借金が)何とかなるとは思わなかった」と述懐している。 当時の海洋堂は模型好きの溜まり場ともなっており、模型を買いもしないのにフラフラと毎日店に来る青年たちがいた。彼らの中には後に有名造形師(ボーメなど)となる人もいたが、当時は単なる常連たちであった。彼らを宮脇は快く店に招きいれ、食事をご馳走する事もあった。彼らもただ集っていただけではなく、店の手伝いを無償でやったりしていた。宮脇父子と彼らは不思議な関係を築いていた。この状況が海洋堂に高い技術を持った造形師たちが集まる礎となったと言えるだろう。 80年代初頭、アニメ・特撮ファン界が空前の盛り上がりを見せた。雑誌『宇宙船』(2005年に一時休刊した後、2008年に出版元を変えて再刊)の1コーナーが火種となり、「メーカーが商品化しないなら自分で作ろう」「メーカー製のものは元のキャラクターと全然似ていない。自分ならもっと出来のいいものが作れる」とマニアたちの間でメーカー製の模型をただ買って組み立てるのではなく、一から自分で作り起こしてしまう事が流行し始めた。大抵は自分で作り上げた時点で満足し、完結してしまうが、宮脇父子や海洋堂に集まるモデラーたちは何とかこれを複製する方法はないかと考えていた。当時でもバキュームフォームキットという、簡易な成形・複製技術で作られた模型は存在し、マニアの間で知られていたが、組立に相当な技量を要し、原型の再現度も低いものであった。ある日、常連モデラーの一人、川口哲也がモスラの幼虫のキットを持って海洋堂にやってきた。川口の本職は歯科技工士であり、入れ歯やインレーを作る技術を応用した方法で自作のモスラの幼虫を複製したものを持ってきたのである。宮脇たちは大いに驚いた。この方法を使えば、プラモデルの生産に用いられる金型による射出成型よりも大幅に安価な初期投資で、且つ緻密でリアルな表現が可能になるからである。様々な試行錯誤と各地のモデラーたちとの情報交換の末、「シリコーンゴムで型を採り、それに無発泡ポリウレタンを流し込んで複製する」手法が確立され、いつしか「ガレージキット」と呼ばれるようになった。 以降、海洋堂は自分達が欲しい、作りたい、と思っていたものを作っては、店の会員向けに販売するようになった。 そんな海洋堂に、当時同じくガレージキットを製作・販売していたゼネラルプロダクツ(後のガイナックス)代表、岡田斗司夫が現れる。「商売敵」の店に乗り込み、自信たっぷりに持論を語る岡田(本人は決して挑発に来たつもりでは無かった)に、負けん気強い宮脇父子や海洋堂のモデラーたちは対抗意識を燃やすようになった。これがゼネラルプロダクツとのライバル関係の始まりであった。 ゼネラルプロダクツは「版権を取って商品を売る」ことを始めていた。パッケージにも凝り、「商品」らしい体裁を整えていた。ゼネラルプロダクツのガレージキットを「きちんとした商品」「ビジネス」として世に問おうとする姿勢の現れであった。これは海洋堂にとって刺激となった。海洋堂にとってガレージキットの売上数など200売れたらヒットという程度の物であり、パッケージに凝るなど全くの無駄、煩雑な手続きを踏んで版権を取って売るなどという考えなどなかった。しかし、版権を取得する事は、ガレージキットに市民権を得させ、より多く販売する上で不可欠であると認識するようになり、海洋堂も版権を取ったうえで商品を売り始めたのである。ユーザーの間では、製品の質(=原型の出来)はゼネラルプロダクツより海洋堂の方が高いとされ(岡田自身も認めている)、後にゼネラルプロダクツはガレージキットから撤退、アニメ、ゲームソフト製作会社に転向した。ガレージキット勝負では海洋堂が勝った、と言えるかも知れない。 1992年にガレージキット最大の祭典である『ワンダーフェスティバル』の主催をゼネラルプロダクツから引継ぎ、業界の主導的役割を担っていく事になった。 90年代半ばを過ぎると、ガレージキット業界も会社が増え、「とりあえず売れそうなものを出す」といった状態が続き、マンネリ気味となって来た。海洋堂も株式会社となり、製品の質こそ保っていたものの、経営上、過去のように「作りたいものを好き勝手に作っていればいい」という訳にはいかなくなっていた。 その状況を打破するきっかけはアメリカの漫画作家であるトッド・マクファーレンが自ら玩具会社を興して製作した、自身の作品『スポーン』のアクションフィギュアであった。それまでのいかにも玩具然としたものとは一線を画する出来の良さであったため、海洋堂は新たな衝撃を受けた。 海洋堂としては、原型の段階でそのレベルのものを作る事はわけなかったが、問題はこのフィギュアがシリコーンゴム型による製法ではなく、マスプロ製品ではごくありきたりな金型による射出成型で作られたものであるということだった。金型を用いれば大量生産は可能となるが、どうしても再現度が落ちてしまう。それにも拘らず硬質、軟質の素材を巧みに使い分け、塗装にも模型の方法論を持ち込んだ『スポーン』のアクションフィギュアは出来が良かった。『スポーン』は日本でもヒットし、アクションフィギュアブームの立役者となった。これは海洋堂の闘志に火を点けた。 金型製作には巨額の初期投資(数百~数千万円)を要すため、海洋堂の企業規模では無理だろうと諦めかけていた。しかし、中国で生産すれば、日本国内で金型を起こし生産するのとは比べ物にならない低費用で出来ることが判明する。そしてこれがゴーサインになった。海洋堂は「こんなウチの水準をわざわざ下げたものを真面目に作るのは気が引ける、あくまでもシャレでやるんだ」というスタンスで動き始めた。商品化キャラクターは、『スポーン』と同じく暴力もの、しかもメジャー作品で、海洋堂ガレージキット全盛期のヒットシリーズでもあり、一種の「馬鹿馬鹿しさ」さえ持ち合わせている『北斗の拳』が選ばれた。 この海洋堂渾身のアクションフィギュアの流通を手掛けたのは誰あろう、当時『スポーン』の総代理店であったレッズであった。この為、海洋堂のアクションフィギュアはレッズの流通ルートに乗り『スポーン』同様、全国に瞬く間に展開してゆくことになる。また、2000年ごろにWEB制作会社のイットアップと共同で直販サイト「海洋堂公式オンラインショップ KMS」も立ち上げている。 海洋堂にとって海外生産は全く未経験の分野であったために大変な苦労を強いられた。中国での製造は最初の段階である金型製作から問題が発生した。工場では、海洋堂が持ち込んだ原型を見ながら大きさを2倍にした原型を別に作り起こし、それをもとに金型を作ってしまうなど考えられないことが度々起きた(作りやすいサイズで原型を作り、型製作の際に縮小するのは他の製造業では普通の事ではあったが)。何回も中国の工場に足を運び、ほとんど言い争いに近い指導と交渉や、徹底した金型のリテイクを行い、ようやくOKを出せるものが仕上がって来るようになった。その甲斐あって海洋堂初のアクションフィギュア『北斗の拳』シリーズは大ヒットする。そのヒットぶりに「やっとメーカーになれましたね」と業界関係者から言われる始末だった。しかし、海洋堂としては不満が残った。海洋堂にしかできない、海洋堂でないとできない、独自のものが欠けていたからである。 『北斗の拳』以外にもアクションフィギュアのラインナップを増やしつつあった頃、造形師の山口勝久が新たなコンセプトのアクションフィギュアを発案する。それはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する「エヴァンゲリオン初号機」のアクションフィギュアであったが、可動部分の角度や位置が作品中の印象的なポーズから逆算的に決められており、それとともに可動箇所も必要最小限に抑えられていた。 色々なポーズをとらせたいなら、可動部分、範囲を増やせば増やすほどいいではないかと思われがちだが、実際には無闇やたらと増やしてみても、「ポーズがキマる」位置、角度に腕や足が来る事はほとんどなく、アニメには絵的な嘘(構造上動かないはずの方向に曲がる、可動する限界を多少超えて描かれてしまうなど)が含まれる事もあるため、可動箇所が増えたところで、実際にそのようなポーズをとるのは不可能な場合も存在する。しかし山口は「ポーズのキモ」となる部分、範囲だけを見抜いて可動させ、それ以外はあえて切り捨てる、という手法により、ファンに受けるポーズを幾つもとれるという画期的なものを生み出した。「まずは触って、動かしてみてくれ」と、発売前に試作品を手当たり次第、小売店に配布した。すぐに大量の注文が舞い込み、商品は大ヒット。その後「山口式可動」と呼ばれ、同様の可動コンセプトを組み込んだ商品をいくつも発売することになった。 売上もそれなりのレベルを維持していた海洋堂だったが、ガレージキットが主力商品であった頃から、あるキャラクターが売れてくる、さらにいえば海洋堂が市場を作り出すと、版権を海洋堂が取得していたにもかかわらず、さらに大規模な商業展開をできる大手企業に奪われ独占されてしまう、という事態が幾度となく発生していた。その様な業界大手の横暴、理不尽さに何度も辛酸を舐めさせられてきた海洋堂は、既存キャラクターや版権による利益に依存しない方向性を模索する様になってゆく。 決定打といえる方策がなかなか打ち出せない日々を送っていた時、同じ大阪の菓子会社・フルタ製菓から仕事の依頼が来た。もともとはポケットモンスターのおまけの造形がうまくいかず、何とかならないかという話だったが、工場を見学した宮脇修一がなんとはなしにチョコエッグを試しに持ち帰って来た事により話は変わってきた。 宮脇修一はチョコエッグのおまけは今のところたいしたものではなく、これを海洋堂が作る事でもっと良い物ができると思いついたのである。アクションフィギュアでノウハウを蓄積した中国の工場も使える。その話をフルタ製菓に持ちかけたところ合意に達した。フルタ製菓は古い体質の会社だったが、チョコエッグという商品自体は、フルタ製菓の常務取締役(当時)・古田豊彦がほぼ全権を握っていたので話は円滑に進み、動物というノンキャラクターのおまけフィギュアをつけて売り出すことになった。造型担当は松村しのぶ。彼の造る恐竜はニューヨーク自然史博物館からも展示物の製作依頼が来るほどのものであり、自然史分野においては海洋堂一の腕を持つ造型師である。 結果は大成功した。他社の人気キャラクターのおまけつき商品を押さえ、圧倒的な売り上げを記録した。本来の狙いである子供はもとより、おまけの完成度の高さに感心した大人までがこぞって買い始めた。加えて第二弾途中からツチノコがシークレット(=ラインナップ表に載っていないもの)で入っているということが口コミで広がり、チョコエッグファンの収集欲を刺激し、人気に拍車がかかり、2001年には大流行商品となった。以降、食玩におけるシークレットアイテムの存在は一般的なものになっていった。 その一方で、フルタ製菓は、社員が発売前のフィギュアをインターネットオークションに流通させる不祥事を起こした。また、海洋堂に何ら相談する事なくチョコエッグのラインナップに既存のキャラクターものを加えたり、海洋堂を通して原型提供を受けていた造型師に直接接触をとるなどの背信行為を繰り返し、海洋堂との信頼関係を損ねた。その後フルタ製菓は経営陣が内紛状態となり、分裂してしまったため(この時、フルタ製菓を離れた古田豊彦は食玩会社・エフトイズを興し、独立している)、海洋堂はチョコエッグ、ひいてはフルタ製菓と縁を切る事となる。さらには後にフルタ製菓の生産数量虚偽報告が発覚し、訴訟に発展した。第一審では海洋堂のほぼ全面勝訴といえる判決が出たが、フルタ側は控訴。控訴審で判決は覆らずフルタ側の敗訴が確定した。チョコエッグとの決別は、海洋堂にとっても痛恨の極みといえる選択であったが、製品の質が維持できないならきっぱりやめてしまう海洋堂らしさが出た一面でもあった。その後は大手玩具企業・タカラトミーからチョコエッグの続きとしてチョコQを継続発売し、「おまけの元祖」・江崎グリコ、金沢の菓子会社・北陸製菓など数多くの企業から食玩を出し、ヒットさせている。 このチョコエッグの大ブームは、海洋堂自身にも大ブームを引き起こした。その結果、一時は食玩とガレージキットの業界における話題性において独占的な状態となり、「海洋堂デザイン」というだけでも大きなセールスポイントとなった為、この時期、菓子業界・玩具業界において、新製品はもとより、既存商品の新展開などであっても、デザインに海洋堂を起用し、また海洋堂デザインのものに切り換えるメーカーが相次いだ。結果として、食玩・ガレージキット産業の市場拡大の主役になると同時に、従来は多くの小規模企業や個人商店などが並び競っていたこの業界に、淘汰と変革の波さえ起こす事になった。 現在は食玩製作を主業として続けながらも、ブームの沈静化を受けて「食玩の次」を模索している状況である。他方、現在のガレージキット業界のメインストリームである「塗装済み完成品美少女フィギュア」には完全に乗り損ねた感があり、山口式可動をベースにした新機構「リボルバージョイント」を導入した低価格アクションフィギュア商品「リボルテック」シリーズに注力している。この過程で、仏像のアクションフィギュア化という珍しい参入も果たす。 海洋堂は、本拠を持つ大阪府のほか、創業者一家の故郷高知県や、滋賀・東京にグッズ販売や展示を行う博物館型の施設を置いている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "株式会社海洋堂(かいようどう)は、大阪府門真市に本社を置き、鉄道・ミリタリー・フィギュア・食玩等の各種模型を製作する会社である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "模型業界では、高い造形技術と型破りな経営で有名な企業である。造形物の精巧さや造形センスは世界屈指の水準を誇る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "映画「ジュラシック・パーク」のスタッフは海洋堂の恐竜モデルをコンピュータグラフィックス製作の資料にした、と創業者の宮脇修は公言し、海洋堂が製作した、実際に映画で使われた恐竜の脚の部分等が「海洋堂ホビー館四万十」に展示してある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "自然史分野で世界最大規模を誇るアメリカ自然史博物館からも展示品の製作依頼が来る。ガメラなどの映画製作にも協力している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本国内では、チョコエッグをヒットさせて以来知名度が上がり、今や一つのブランドとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "突出した知名度から「造形製作・海洋堂」の名前を冠すれば商品の売れ行きが上がる。販売されるフィギュアの原型制作者名が記された事は皆無といって良かったが、作家性をセールスポイントとして大きく謳っている商品が多数存在する(海洋堂では製作ではなく制作の文字を使用する)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "世界最大級の、ガレージキット展示即売を中心とした総合造形行事「ワンダーフェスティバル」の主催を手がけ、アマチュア造形の振興に寄与している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)には株式会社龍遊館によって、フィギュアの美術館である「海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館」が滋賀県長浜市に設立された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)7月9日、高知県高岡郡四万十町に、廃校舎を再利用したホビー博物館「海洋堂ホビー館四万十」が開館。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2012年(平成24年)7月7日、おなじく高知県高岡郡四万十町に「海洋堂かっぱ館」が開館。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)6月23日、投資ファンドのMSD企業投資と資本業務提携を締結したと発表。これにより、これまで通りの海洋堂の造形技術や信念を維持しつつ、MSDがもつ資本や知見、ネットワークを活かし、国内外でのさらなる事業展開や既存事業の進化が図れるとしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)12月12日、大阪府大阪市中央区ミライザ大阪城に「海洋堂フィギュアミュージアム ミライザ大阪城」が開館。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "宮脇修(高知県幡多郡大方町(現:黒潮町)出身)が、長男の宮脇修一(現在の海洋堂専務取締役。愛称はセンム)の小学校入学を機に、大阪府守口市の土居駅前で経営していた貸本屋を改装して1964年(昭和39年)4月1日に始めた一坪半の模型店が始まりである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "宮脇の性格から常に変わった事をする店であり、近所の子供達がいつもたむろしていた。例えば、子供たちが「戦艦のプラモデルをお風呂に浮かべても狭くてすぐに風呂のフチにぶつかってしまう。でも川に浮かべると流れていって帰ってこない」と不満を言えば、店内の3分の2を使ってプールを作り、自由に遊ばせた。冬はプールにフタをして、その上にジオラマを作りリモコン戦車を走らせた。ただ模型を売るだけではなく、近所の集会所を借りて模型教室や展示会を開いた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "スロットレーシングが流行していた頃、廃業した工場を借りて大きなレース場を作った。レース場は夜遅くまで青年たちが集まり、収益は上々であった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "大手プラモデル会社・イマイ科学が経営危機に陥った際、社長自ら宮脇修に相談を持ちかけて来た(海洋堂は、イマイ科学が発売していたTVシリーズ『サンダーバード』プラモデルの突出した販売実績があった)。宮脇は「ローマの軍船」のプラモデルを提案し、販売にあたってのノウハウを伝えた。忠実に商品化された「ローマの軍船」はヒットしたが、その後海洋堂とイマイ科学は喧嘩別れしてしまう。結局、一銭のアイデア料も受け取らず、アイデアとノウハウだけ持っていかれる形になってしまった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": 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株式会社海洋堂(かいようどう)は、大阪府門真市に本社を置き、鉄道・ミリタリー・フィギュア・食玩等の各種模型を製作する会社である。
{{参照方法|date=2019年1月}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社海洋堂 | 英文社名 = KAIYODO Co.,Ltd. | 画像 = [[ファイル:KAIYODO Co.,Ltd. headquarters.jpg|250px]] | 画像説明 = 本社 | ロゴ = | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 571-0041 | 本社所在地 = [[大阪府]][[門真市]]柳町19-3 | 設立 = [[1964年]](昭和39年)4月1日 | 業種 = 3800 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 模型の企画・製造・販売、食玩・カプセルトイの企画・開発、イベントの企画・運営 | 代表者 = 代表取締役社長 佐藤哲郎 | 資本金 = 8484万3240円 | 従業員数 = 49名 | 主要株主 = | 主要子会社 = 株式会社シードラゴン  | 関係する人物 = 取締役専務 [[宮脇修一]]<br />取締役(社外取締役)安田浩<br />取締役(社外取締役)渡邊経康<br />取締役(社外取締役)祖父江慧太 | 外部リンク = https://kaiyodo.co.jp/ | 特記事項 = }} {{maplink2|type=point|frame=yes|zoom=14|frame-align=right|frame-width=300|coord={{coord|34|44|06.2|N|135|35|19.9|E}}}} '''株式会社海洋堂'''(かいようどう)は、[[大阪府]][[門真市]]に本社を置き、[[鉄道]]・[[軍事|ミリタリー]]・[[フィギュア]]・[[食玩]]等の各種[[模型]]を製作する[[会社]]である。 ==概要== 模型業界では、高い造形技術と型破りな経営で有名な企業である。造形物の精巧さや造形センスは世界屈指の水準を誇る。 映画「[[ジュラシック・パーク]]」のスタッフは海洋堂の恐竜モデルを[[コンピュータグラフィックス]]製作の資料にした、と創業者の[[宮脇修]]は公言し<ref>『創るモノは夜空にきらめく星の数ほど無限にある 海洋堂物語』p285</ref>、海洋堂が製作した、実際に映画で使われた恐竜の脚の部分等が「[[海洋堂ホビー館四万十]]」に展示してある。 自然史分野で世界最大規模を誇る[[アメリカ自然史博物館]]からも展示品の製作依頼が来る。[[ガメラ]]などの映画製作にも協力している。 日本国内では、チョコエッグをヒットさせて以来知名度が上がり、今や一つのブランドとなっている。 突出した知名度から「造形製作・海洋堂」の名前を冠すれば商品の売れ行きが上がる。販売されるフィギュアの原型制作者名が記された事は皆無といって良かったが、作家性をセールスポイントとして大きく謳っている商品が多数存在する(海洋堂では製作ではなく制作の文字を使用する<ref>{{Cite web|和書|url=https://kaiyodo.co.jp/company/|title=海洋堂とは|website=海洋堂|work=株式会社海洋堂|accessdate=2023-05-17}}</ref>)。 世界最大級の、ガレージキット展示即売を中心とした総合造形行事「[[ワンダーフェスティバル]]」の主催を手がけ、アマチュア造形の振興に寄与している。 [[2005年]](平成17年)には株式会社龍遊館によって、フィギュアの[[美術館]]である「[[海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館]]」が[[滋賀県]][[長浜市]]に設立された。 [[2011年]](平成23年)[[7月9日]]、[[高知県]][[高岡郡]][[四万十町]]に、[[廃校|廃校舎]]を再利用したホビー[[博物館]]「[[海洋堂ホビー館四万十]]」が開館<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20110708-OYT8T01158.htm|title=ホビー館 きょうオープン|newspaper=読売新聞(高知版)|date=2011-07-09|accessdate=2011-07-10}} </ref>。 [[2012年]](平成24年)[[7月7日]]、おなじく[[高知県]][[高岡郡]][[四万十町]]に「[[海洋堂かっぱ館]]」が開館<ref name=館内案内>{{Cite web|和書|url=https://ksmv.jp/kappakan/floorguide|title=知ってるけれど見たことない…奇想天外なかっぱのミュージアム|website=海洋堂カッパ館|work=海洋堂シマントミュージアムビレッジ|date=2023-05-16|accessdate=2023-05-16}}</ref>。 [[2020年]](令和2年)[[6月23日]]、投資ファンドの[[MSD企業投資]]と資本業務提携を締結したと発表。これにより、これまで通りの海洋堂の造形技術や信念を維持しつつ、MSDがもつ資本や知見、ネットワークを活かし、国内外でのさらなる事業展開や既存事業の進化が図れるとしている<ref>[https://kai-you.net/article/75776 海洋堂が投資ファンド MSDと資本提携 さらなる飛躍に期待],KAI-YOU.net,2020年6月23日</ref>。 [[2022年]](令和4年)[[12月12日]]、[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]ミライザ大阪城に「海洋堂フィギュアミュージアム ミライザ大阪城」が開館<ref name=ミライザ>{{Cite web|和書|url=https://www.ryuyukan-miraiza.net/|title=海洋堂フィギュアミュージアム ミライザ大阪城|website=海洋堂フィギュアミュージアム ミライザ大阪城|work=龍遊館|accessdate=2023-05-17}}</ref>。 ==沿革== {{出典の明記|section=1|date=2009年4月}} ===創業=== '''[[宮脇修]]'''([[高知県]][[幡多郡]][[大方町]](現:[[黒潮町]])出身)が、長男の'''[[宮脇修一]]'''(現在の海洋堂専務取締役。愛称はセンム)の小学校入学を機に、[[大阪府]][[守口市]]の[[土居駅]]前で経営していた貸本屋を改装して[[1964年]](昭和39年)4月1日に始めた一坪半の模型店が始まりである<ref>{{Cite web|和書|url=https://ksmv.jp/room/profile|title=館長室|宮脇修館長プロフィール|website=株式会社奇想天外|work=海洋堂シマントミュージアムビレッジ|accessdate=2023-05-21}}</ref>。 宮脇の性格から常に変わった事をする店であり、近所の子供達がいつもたむろしていた。例えば、子供たちが「戦艦の[[プラモデル]]をお風呂に浮かべても狭くてすぐに風呂のフチにぶつかってしまう。でも川に浮かべると流れていって帰ってこない」と不満を言えば、店内の3分の2を使ってプールを作り、自由に遊ばせた。冬はプールにフタをして、その上に[[ジオラマ]]を作りリモコン戦車を走らせた。ただ模型を売るだけではなく、近所の集会所を借りて模型教室や展示会を開いた。 [[スロットレーシング]]が流行していた頃、廃業した工場を借りて大きなレース場を作った。レース場は夜遅くまで青年たちが集まり、収益は上々であった。 ===さまざまな失敗=== 大手プラモデル会社・[[イマイ科学]]が経営危機に陥った際、社長自ら宮脇修に相談を持ちかけて来た(海洋堂は、イマイ科学が発売していたTVシリーズ『[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]』プラモデルの突出した販売実績があった)。宮脇は「ローマの軍船」のプラモデルを提案し、販売にあたってのノウハウを伝えた。忠実に商品化された「ローマの軍船」はヒットしたが、その後海洋堂とイマイ科学は喧嘩別れしてしまう。結局、一銭のアイデア料も受け取らず、アイデアとノウハウだけ持っていかれる形になってしまった。 スロットレーシング場として借りていたボウリング場が改装されることになったため、代替に隣の200坪の倉庫(後に海洋堂ホビー館となる)を新たに借り、180mに及ぶ長大なレーシングコースを作った。しかし、新しいレーシングコースが完成した頃には、近隣に同様のレース場が数軒存在しており、客足が戻る事は無かった。そのうえ180mのレーシングコースは大きすぎた。そもそも15センチ足らずの大きさのスロットレーシングカーは遠くに走って行ってしまうと見えなくなり、勘で操作しなければならなかった。さらに学校やPTAが「スロットレーシングは不良の遊びであり、非行の元凶」と反対し始めたため、スロットレーシングそのものが衰退していった。200坪もの倉庫は賃貸料も高く、資金繰りは次第に悪化し、借金で借金を返すことを繰り返す様になった。さらに金策に駆けずり回っていた修夫人('''宮脇里枝''')が病に倒れてしまう。ほどなく夫人の病は治癒したものの、十分に養生する間もなく、再び金策に駆けずり回った。 ===アーケードゲーム=== スロットレーシングがすっかり下火となった頃、再び宮脇修の突飛な発想が顔を出した。「この倉庫を世界中の模型を集めたホビー館にしよう。日本一大きな模型屋にしてやろう」と言うのである。200坪もの面積を模型で埋め尽くすのは並大抵の事ではなく、店に並べる商品は徐々にしか増えなかった。売上のほとんどは在庫の仕入れに消えてしまい、相変わらずの借金地獄が続いた。そんな海洋堂を救ったのは模型ではなく[[アーケードゲーム]]だった。[[ギャラクシアン]]などのアーケードゲーム機を、空いた場所の埋め草に店内にいくつも並べてみたところ、子供達がゲーム目当てに大勢来るようになったのである。抱えていた大きな借金はみるみる減っていった。これには宮脇の息子であり、当時既に店のほとんどを任され「若だんな」「兄ちゃん」と呼ばれていた'''宮脇修一'''(現・代表取締役)も「こんな簡単に(借金が)何とかなるとは思わなかった」と述懐している。 当時の海洋堂は模型好きの溜まり場ともなっており、模型を買いもしないのにフラフラと毎日店に来る青年たちがいた。彼らの中には後に有名造形師([[BOME|ボーメ]]など)となる人もいたが、当時は単なる常連たちであった。彼らを宮脇は快く店に招きいれ、食事をご馳走する事もあった。彼らもただ集っていただけではなく、店の手伝いを無償でやったりしていた。宮脇父子と彼らは不思議な関係を築いていた。この状況が海洋堂に高い技術を持った造形師たちが集まる礎となったと言えるだろう。 ===新たな展開-ガレージキット=== 80年代初頭、アニメ・特撮ファン界が空前の盛り上がりを見せた。雑誌『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]』(2005年に一時休刊した後、2008年に出版元を変えて再刊)の1コーナーが火種となり、「メーカーが商品化しないなら自分で作ろう」「メーカー製のものは元のキャラクターと全然似ていない。自分ならもっと出来のいいものが作れる」とマニアたちの間でメーカー製の模型をただ買って組み立てるのではなく、一から自分で作り起こしてしまう事が流行し始めた。大抵は自分で作り上げた時点で満足し、完結してしまうが、宮脇父子や海洋堂に集まるモデラーたちは何とかこれを複製する方法はないかと考えていた。当時でも[[バキュームフォーム]]キットという、簡易な成形・複製技術で作られた模型は存在し、マニアの間で知られていたが、組立に相当な技量を要し、原型の再現度も低いものであった。ある日、常連モデラーの一人、[[川口哲也]]がモスラの幼虫のキットを持って海洋堂にやってきた。川口の本職は[[歯科技工士]]であり、入れ歯やインレーを作る技術を応用した方法で自作のモスラの幼虫を複製したものを持ってきたのである。宮脇たちは大いに驚いた。この方法を使えば、プラモデルの生産に用いられる[[金型]]による射出成型よりも大幅に安価な初期投資で、且つ緻密でリアルな表現が可能になるからである。様々な試行錯誤と各地のモデラーたちとの情報交換の末、「[[シリコーンゴム]]で型を採り、それに無発泡[[ポリウレタン]]を流し込んで複製する」手法が確立され、いつしか「[[ガレージキット]]」と呼ばれるようになった。 以降、海洋堂は自分達が欲しい、作りたい、と思っていたものを作っては、店の会員向けに販売するようになった。 そんな海洋堂に、当時同じくガレージキットを製作・販売していた[[ゼネラルプロダクツ]](後の[[ガイナックス]])代表、[[岡田斗司夫]]が現れる。「商売敵」の店に乗り込み、自信たっぷりに持論を語る岡田(本人は決して挑発に来たつもりでは無かった)に、負けん気強い宮脇父子や海洋堂のモデラーたちは対抗意識を燃やすようになった。これがゼネラルプロダクツとのライバル関係の始まりであった。 ゼネラルプロダクツは「[[版権]]を取って商品を売る」ことを始めていた。パッケージにも凝り、「商品」らしい体裁を整えていた。ゼネラルプロダクツのガレージキットを「きちんとした商品」「ビジネス」として世に問おうとする姿勢の現れであった。これは海洋堂にとって刺激となった。海洋堂にとってガレージキットの売上数など200売れたらヒットという程度の物であり、パッケージに凝るなど全くの無駄、煩雑な手続きを踏んで版権を取って売るなどという考えなどなかった。しかし、版権を取得する事は、ガレージキットに市民権を得させ、より多く販売する上で不可欠であると認識するようになり、海洋堂も版権を取ったうえで商品を売り始めたのである。ユーザーの間では、製品の質(=原型の出来)はゼネラルプロダクツより海洋堂の方が高いとされ(岡田自身も認めている)、後にゼネラルプロダクツはガレージキットから撤退、アニメ、ゲームソフト製作会社に転向した。ガレージキット勝負では海洋堂が勝った、と言えるかも知れない。 1992年にガレージキット最大の祭典である『[[ワンダーフェスティバル]]』の主催をゼネラルプロダクツから引継ぎ、業界の主導的役割を担っていく事になった。 ===脱・ガレージキット=== 90年代半ばを過ぎると、ガレージキット業界も会社が増え、「とりあえず売れそうなものを出す」といった状態が続き、マンネリ気味となって来た。海洋堂も株式会社となり、製品の質こそ保っていたものの、経営上、過去のように「作りたいものを好き勝手に作っていればいい」という訳にはいかなくなっていた。 その状況を打破するきっかけは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の漫画作家である[[トッド・マクファーレン]]が自ら玩具会社を興して製作した、自身の作品『[[スポーン]]』の[[アクションフィギュア]]であった。それまでのいかにも玩具然としたものとは一線を画する出来の良さであったため、海洋堂は新たな衝撃を受けた。 海洋堂としては、原型の段階でそのレベルのものを作る事はわけなかったが、問題はこのフィギュアがシリコーンゴム型による製法ではなく、マスプロ製品ではごくありきたりな金型による射出成型で作られたものであるということだった。金型を用いれば大量生産は可能となるが、どうしても再現度が落ちてしまう。それにも拘らず硬質、軟質の素材を巧みに使い分け、塗装にも模型の方法論を持ち込んだ『スポーン』のアクションフィギュアは出来が良かった。『スポーン』は日本でもヒットし、アクションフィギュアブームの立役者となった。これは海洋堂の闘志に火を点けた。 金型製作には巨額の初期投資(数百~数千万円)を要すため、海洋堂の企業規模では無理だろうと諦めかけていた。しかし、中国で生産すれば、日本国内で金型を起こし生産するのとは比べ物にならない低費用で出来ることが判明する。そしてこれがゴーサインになった。海洋堂は「こんなウチの水準をわざわざ下げたものを真面目に作るのは気が引ける、あくまでもシャレでやるんだ」というスタンスで動き始めた。商品化キャラクターは、『スポーン』と同じく暴力もの、しかもメジャー作品で、海洋堂ガレージキット全盛期のヒットシリーズでもあり、一種の「馬鹿馬鹿しさ」さえ持ち合わせている『[[北斗の拳]]』が選ばれた。 この海洋堂渾身のアクションフィギュアの流通を手掛けたのは誰あろう、当時『スポーン』の総代理店であった[[レッズ]]であった。この為、海洋堂のアクションフィギュアはレッズの流通ルートに乗り『スポーン』同様、全国に瞬く間に展開してゆくことになる。また、2000年ごろにWEB制作会社の[[イットアップ]]と共同で直販サイト「海洋堂公式オンラインショップ KMS」も立ち上げている。 ===中国での製造=== 海洋堂にとって海外生産は全く未経験の分野であったために大変な苦労を強いられた。中国での製造は最初の段階である金型製作から問題が発生した。工場では、海洋堂が持ち込んだ原型を見ながら大きさを2倍にした原型を別に作り起こし、それをもとに金型を作ってしまうなど考えられないことが度々起きた(作りやすいサイズで原型を作り、型製作の際に縮小するのは他の製造業では普通の事ではあったが)。何回も中国の工場に足を運び、ほとんど言い争いに近い指導と交渉や、徹底した金型のリテイクを行い、ようやくOKを出せるものが仕上がって来るようになった。その甲斐あって海洋堂初のアクションフィギュア『北斗の拳』シリーズは大ヒットする。そのヒットぶりに「やっとメーカーになれましたね」と業界関係者から言われる始末だった。しかし、海洋堂としては不満が残った。海洋堂にしかできない、海洋堂でないとできない、独自のものが欠けていたからである。 ===新世紀エヴァンゲリオン=== 『北斗の拳』以外にもアクションフィギュアのラインナップを増やしつつあった頃、造形師の[[山口勝久]]が新たなコンセプトのアクションフィギュアを発案する。それは[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に登場する「エヴァンゲリオン初号機」のアクションフィギュアであったが、可動部分の角度や位置が作品中の印象的なポーズから逆算的に決められており、それとともに可動箇所も必要最小限に抑えられていた。 色々なポーズをとらせたいなら、可動部分、範囲を増やせば増やすほどいいではないかと思われがちだが、実際には無闇やたらと増やしてみても、「ポーズがキマる」位置、角度に腕や足が来る事はほとんどなく、アニメには絵的な嘘(構造上動かないはずの方向に曲がる、可動する限界を多少超えて描かれてしまうなど)が含まれる事もあるため、可動箇所が増えたところで、実際にそのようなポーズをとるのは不可能な場合も存在する。しかし山口は「ポーズのキモ」となる部分、範囲だけを見抜いて可動させ、それ以外はあえて切り捨てる、という手法により、ファンに受けるポーズを幾つもとれるという画期的なものを生み出した。「まずは触って、動かしてみてくれ」と、発売前に試作品を手当たり次第、小売店に配布した。すぐに大量の注文が舞い込み、商品は大ヒット。その後「山口式可動」と呼ばれ、同様の可動コンセプトを組み込んだ商品をいくつも発売することになった。 ===ノンキャラクターの模索~チョコエッグの時代=== [[Image:Panther_tank_Model_(World_Tank_Museum).jpg|thumb|160px|right|[[タカラトミー]] [[ワールドタンクミュージアム|WTM]]約1/144スケール[[V号戦車パンター|パンター]]G後期型<br/>[[SDメモリーカード]]と大きさを比較している]] 売上もそれなりのレベルを維持していた海洋堂だったが、ガレージキットが主力商品であった頃から、あるキャラクターが売れてくる、さらにいえば海洋堂が市場を作り出すと、版権を海洋堂が取得していたにもかかわらず、さらに大規模な商業展開をできる大手企業に奪われ独占されてしまう、という事態が幾度となく発生していた。その様な業界大手の横暴、理不尽さに何度も辛酸を舐めさせられてきた海洋堂は、既存キャラクターや版権による利益に依存しない方向性を模索する様になってゆく。 決定打といえる方策がなかなか打ち出せない日々を送っていた時、同じ大阪の菓子会社・[[フルタ製菓]]から仕事の依頼が来た。もともとは[[ポケットモンスター]]のおまけの造形がうまくいかず、何とかならないかという話だったが、工場を見学した宮脇修一がなんとはなしに[[チョコエッグ]]を試しに持ち帰って来た事により話は変わってきた。 宮脇修一はチョコエッグのおまけは今のところたいしたものではなく、これを海洋堂が作る事でもっと良い物ができると思いついたのである。アクションフィギュアでノウハウを蓄積した中国の工場も使える。その話をフルタ製菓に持ちかけたところ合意に達した。フルタ製菓は古い体質の会社だったが、チョコエッグという商品自体は、フルタ製菓の常務取締役(当時)・古田豊彦がほぼ全権を握っていたので話は円滑に進み、動物というノンキャラクターのおまけフィギュアをつけて売り出すことになった。造型担当は[[松村しのぶ]]。彼の造る恐竜はニューヨーク自然史博物館からも展示物の製作依頼が来るほどのものであり、自然史分野においては海洋堂一の腕を持つ造型師である。 結果は大成功した。他社の人気キャラクターのおまけつき商品を押さえ、圧倒的な売り上げを記録した。本来の狙いである子供はもとより、おまけの完成度の高さに感心した大人までがこぞって買い始めた。加えて第二弾途中から[[ツチノコ]]が[[シークレットアイテム|シークレット]](=ラインナップ表に載っていないもの)で入っているということが[[口コミ]]で広がり、チョコエッグファンの収集欲を刺激し、人気に拍車がかかり、[[2001年]]には大流行商品となった。以降、[[食玩]]におけるシークレットアイテムの存在は一般的なものになっていった。 その一方で、フルタ製菓は、社員が発売前のフィギュアを[[インターネットオークション]]に流通させる不祥事を起こした。また、海洋堂に何ら相談する事なくチョコエッグのラインナップに既存のキャラクターものを加えたり、海洋堂を通して原型提供を受けていた造型師に直接接触をとるなどの背信行為を繰り返し、海洋堂との信頼関係を損ねた。その後フルタ製菓は経営陣が内紛状態となり、分裂してしまったため(この時、フルタ製菓を離れた古田豊彦は食玩会社・エフトイズを興し、独立している)、海洋堂はチョコエッグ、ひいてはフルタ製菓と縁を切る事となる。さらには後にフルタ製菓の生産数量虚偽報告が発覚し、訴訟に発展した。第一審では海洋堂のほぼ全面勝訴といえる判決が出たが、フルタ側は控訴。控訴審で判決は覆らずフルタ側の敗訴が確定した。チョコエッグとの決別は、海洋堂にとっても痛恨の極みといえる選択であったが、製品の質が維持できないならきっぱりやめてしまう海洋堂らしさが出た一面でもあった。その後は大手玩具企業・[[タカラトミー]]からチョコエッグの続きとしてチョコQを継続発売し、「おまけの元祖」・[[江崎グリコ]]、金沢の菓子会社・[[北陸製菓]]など数多くの企業から食玩を出し、ヒットさせている。 このチョコエッグの大ブームは、海洋堂自身にも大ブームを引き起こした。その結果、一時は食玩とガレージキットの業界における話題性において独占的な状態となり、「海洋堂デザイン」というだけでも大きなセールスポイントとなった為、この時期、菓子業界・玩具業界において、新製品はもとより、既存商品の新展開などであっても、デザインに海洋堂を起用し、また海洋堂デザインのものに切り換えるメーカーが相次いだ。結果として、食玩・ガレージキット産業の[[市場]]拡大の主役になると同時に、従来は多くの[[中小企業|小規模企業]]や[[個人事業主|個人商店]]などが並び競っていたこの業界に、淘汰と変革の波さえ起こす事になった。 現在は食玩製作を主業として続けながらも、ブームの沈静化を受けて「食玩の次」を模索している状況である。他方、現在のガレージキット業界のメインストリームである「塗装済み完成品美少女フィギュア」には完全に乗り損ねた感があり、山口式可動をベースにした新機構「リボルバージョイント」<ref>https://kaiyodo.co.jp/revoltech/omake.html</ref>を導入した低価格アクションフィギュア商品「[[リボルテック]]」シリーズに注力している。この過程で、[[仏像]]のアクションフィギュア化という珍しい参入も果たす。 ==販売・展示施設== 海洋堂は、本拠を持つ[[大阪府]]のほか、創業者一家の故郷[[高知県]]や、[[滋賀県|滋賀]]・[[東京]]にグッズ販売や展示を行う[[博物館]]型の施設を置いている。 ===フィギュアミュージアム=== *[[海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館]]([[滋賀県]][[長浜市]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ryuyukan.net/|title=海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館|website=海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館|work=龍遊館|accessdate=2023-05-17}}</ref> *海洋堂フィギュアミュージアム ミライザ大阪城([[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]] 大阪城)<ref name=ミライザ/> *海洋堂ホビーランド([[大阪府]][[門真市]]新橋町)<ref name=hobbyland>{{Cite web|和書|url=https://kaiyodohobbyland.jp/?top|title=海洋堂ホビーランド|website=海洋堂ホビーランド|work=海洋堂|accessdate=2023-05-17}}</ref> ===ホビーロビー=== *海洋堂ホビーロビー東京([[東京都]][[千代田区]]外神田)<ref>{{Cite web|和書|url=https://kaiyodo.co.jp/kaiyodo_HB/TK_topics/|title=海洋堂ホビーロビー東京|website=海洋堂ホビーロビー東京|work=海洋堂|accessdate=2023-05-17}}</ref> *海洋堂ホビーロビー門真(大阪府門真市新橋町)<ref name=hobbyland/> ===海洋堂シマントミュージアムビレッジ=== *[[海洋堂ホビー館四万十]]([[高知県]][[高岡郡]][[四万十町]]打井川)<ref name=Shimanto>{{Cite web|和書|url=https://ksmv.jp/|title=海洋堂シマントミュージアムビレッジ|website=海洋堂シマントミュージアムビレッジ|work=株式会社奇想天外|accessdate=2023-05-17}}</ref> *[[海洋堂かっぱ館]](高知県高岡郡四万十町打井川)<ref name=Shimanto/> *[[馬之助神社]](高知県高岡郡四万十町打井川)<ref name=Shimanto/> ===工場兼展示施設=== *[[海洋堂SpaceFactoryなんこく]](高知県[[南国市]]大埇)<ref>{{Cite web|和書|url=https://kaiyodo-sfn.jp/|title=海洋堂SpaceFactoryなんこく|website=海洋堂SpaceFactoryなんこく|work=株式会社海洋堂高知|accessdate=2023-05-17}}</ref> ==出典== {{脚注ヘルプ}} <references/> ==参考文献== *[[あさのまさひこ]]『海洋堂クロニクル』([[太田出版]]、2002年) ISBN 4872336917 *宮脇修一『造形集団海洋堂の発想』([[光文社新書]]、2002年) ISBN 4334031609 *宮脇修『創るモノは夜空にきらめく星の数ほど無限にある 海洋堂物語』(講談社、2003年) ISBN 4062118734 *あさのまさひこ『海洋堂マニアックス』([[竹書房]]、2007年) ISBN 4812430143 == 関連項目 == *[[ガレージキット]] *[[フィギュア]] *[[食玩]] *[[ゼネラルプロダクツ]] *[[リボルテック]] *[[ガイナックス]] *[[チョコエッグ]] *[[チョコQ]] *[[ボークス]] *[[ワンダーフェスティバル]] *[[予土線#ホビートレイン|予土線#海洋堂ホビートレイン]] *[[村上隆]] 造型師[[BOME]](ボーメ)とのコラボ「Project Ko2(プロジェクト・ココ)」など *[[はちきんガールズ]] 海洋堂イメージガール *[[8.8 cm FlaK 18/36/37]]日本国内では実物を海洋堂が保存している。 == 外部リンク == {{Commons|Category:Kaiyodo}} * [https://kaiyodo.co.jp/ 株式会社海洋堂] * [https://ksmv.jp/ 海洋堂シマントミュージアムビレッジ] * [https://www.kyd-store.jp/ 海洋堂オンラインストア] * {{Twitter|kaiyodo_PR}} * {{Facebook|KAIYODO1964}} * {{Instagram|kaiyodo_pr}} * {{YouTube|c=UCAWvhJLPjH5W40GRCU0hJQg}} {{Normdaten}} {{coord|35|42|35.3|N|139|39|10.1|E|region:JP-27|display=title}} {{DEFAULTSORT:かいようとう}} [[Category:日本の模型メーカー]] [[Category:門真市の企業]] [[Category:フィギュアメーカー]] [[Category:食玩]]
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性別 - 生物学的性別。 性行為 - 生物学的繁殖行為、性的欲求に基づく自慰行為または愛情行為、または性的関係。 ジェンダー - 社会学・心理学的性別。 性 (生物学) - 有性生殖生物の繁殖のメカニズム、および方法。 性 (文法) - 名詞の性別。 性 (仏教) - 仏教において本来具わっている性質、生まれつきの固有の性質本性。 性 (儒教) - 性善説と性悪説、性即理などにおける性。 性 (ツイストの曲) - ツイストの楽曲。サガ。 性質 - 質・傾向を持つことを表す接尾辞。「経済性」「アルカリ性」など。
{{wt}} * [[性別]](英: sex) - 生物学的性別。 * [[性行為]](英: sex、intercourse) - 生物学的[[繁殖]]行為、[[性的欲求]]に基づく[[自慰]]行為または[[愛情]]行為、または性的関係。 * [[ジェンダー]](英: gender) - 社会学・心理学的性別。 * [[性 (生物学)]] - 有性生殖生物の繁殖のメカニズム、および方法。<!--[[性別]]とほぼ内容が同じのため統合可能な可能性あり--> * [[性 (文法)]](英: gender) - [[名詞]]の性別。 * [[性 (仏教)]] - 仏教において本来具わっている性質、生まれつきの固有の性質本性。 * [[性 (儒教)]] - [[性善説と性悪説]]、[[性即理]]などにおける性。 * [[性 (ツイストの曲)]] - ツイストの楽曲。サガ。 * [[性質]](英: characteristic、trait) - 質・傾向を持つことを表す接尾辞。「経済性」「アルカリ性」など。 == 関連項目 == * {{前方一致ページ一覧|性}} * [[Sex (曖昧さ回避)]] * [[サガ (曖昧さ回避)]] * [[質 (曖昧さ回避)]] * [[セクシー]](=[[性的]]) {{Aimai}} {{デフォルトソート:せい}}
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イクラ
イクラ(ロシア語: икра, ラテン文字転写: ikra〈イクラー〉)とは、サケやマスなどの魚卵のうち、筋子の卵巣膜(卵を包む薄い膜)を取り除き、産卵前の熟した卵を1粒ずつに分けたものを指して呼ぶ。バラ子とも呼ばれる。アイヌ語ではチポロと呼ばれる。一般的には加熱加工せず、塩漬けや醤油漬けにして食べる。 「イクラ」の語源は、ロシア語の「魚卵」「小さくて粒々したもの」から。日本ではサケ科の卵をばらした物のみを指すが、ロシアでは魚卵すべてを含み、サケの卵は「赤いイクラ」(красная икра クラースナヤ・イクラー)と呼ばれる。一方で、「黒いイクラ」(чёрная икра チョールナヤ・イクラー)はキャビアのことである。 もともと日本では、魚の卵巣から取り出したもの(筋子)と粒状にばらしたもの(イクラ)を区別する名称がなかったが、あるとき、ロシア人が粒状にばらしたサケの卵を「イクラ」と呼んでいるのを見た日本人が、これをイクラと呼ぶものと思ったことに由来するとされている。実際、筋子と区別するのに都合がよかったため全国的に「イクラ」と呼ばれるようになった。 ロシア式のサケの卵の食べ方が日本に伝わったのは大正時代で、樺太庁水産試験場が、ロシアから伝えられた製法で、保存の利く塩漬けを試験的に製造したのが始まりであった。 イクラ丼やイクラの寿司(軍艦巻きなど)に使われている。 サケは、産卵のために北太平洋のカムチャツカ辺りから南へ下ってくる。北海道では、8月後半から9月初めにかけて秋鮭漁が解禁となる。11月になると、三陸や新潟でも漁が本格化する。解禁となった当初は未熟卵であり、粒が小さく皮も弱い。この時期の卵は、イクラに揉むことはもちろん、冷凍さえも難しい。粒の皮が弱いため、冷凍したときに皮が破れやすいからである。この時期のものは、主に筋子として流通される。 産地によって成熟時期に差異はあるが、平均的に10月くらいになると卵が成熟してきて、イクラに適した状態になる。11月頃になるとさらに卵は成熟し、粒がさらに大きくなる。なお、イクラの皮は消化されにくいため、アレルギー源となりやすい蛋白質である。 北海道では、秋の味覚として家庭で生筋子からイクラを作る。その際に、ぬるま湯につけて手で丁寧に皮を取り除き、ばらこにする。湯につけるため白く濁ってしまうが、その後の工程でまた色が戻る。製造の過程では、真水に触れてはならない。卵殻が硬化するので、海水かそれ以上の濃度の塩水を使う。 一般には、非加熱状態で食されるが、宮城県亘理町のはらこ飯など半加熱状態で食する料理もある。 世界でも、イクラをそのまま食用とする地域は限られている。日本にイクラの製法を伝えたとされるロシアでも、日本ほど日常食にはしていない。サケを捕獲してもイクラの食用を行わない地域では、収穫されたサケの卵のほとんどが日本への輸出用に加工される。 資源を無駄にしないと言われているイヌイットでも、イクラを食用とする習慣がなく、漁をしたその場でサケの卵は内臓と共に捨ててしまう。アメリカ合衆国、カナダでは食用にはならないが、砂糖漬けの瓶詰めイクラが釣り餌として売られている。内臓類やアラとともに家畜の飼料の材料にすることもある。 従来よりロシアとの交流が深く、キャビアも食されていた西欧では、寿司ブームとは関係なく、古くよりバターをつけたパンに乗せるなどして食べる習慣があった。普及については、1960年代には既に鮮魚店が珍味として販売しており、70年代後半にはスーパーでも見かけるようになった。80年代になると、スモークサーモンとともに一般化、大都市部スーパーが常備するようになり、今日では中型都市でも当たり前のように置いている。 一般に魚卵とワインは相性が悪く、同時に食すと鉄イオンが発生し生臭さを感じてしまう組み合わせであるが、これはワイン中に含有する鉄分が原因で含有量は魚介類料理との相性に大きく影響を及ぼす。生臭い臭いの強さは鉄分濃度に依存し1-オクテン-3-オン、(E,Z)-2,4-ヘプタジエナール等の物質により生臭味が増強されてしまうとされている。なお、ワイン中鉄分の起源は、土壌、製造工程中の鉄製品、コラージ(澱引き)に依存している。 イクラの原料は特に鮮度が重視され、漁獲後6時間以内ならイクラ、それ以上なら筋子にするともいわれる。イクラの製造には卵分離用網を用い、加工時には飽和食塩水や洗浄用食塩水を使用する。 イクラを醤油漬けに加工する場合は、上の工程の洗浄後、イクラ400グラムに対して醤油40ミリリットルとみりん(または日本酒)30ミリリットルを加えて一晩漬ける。 なお、日本ではイクラを抜いた後のサケは身が痩せているとして商品価値が低いが、これが国外では「日本製なのに安いサケ」として需要があり輸出されている。 人造イクラ(人工イクラ)とは、いわゆるコピー食品の一つである。世界で初めて、富山県魚津市の日本カーバイド工業が人造イクラの生産に成功した。収穫量の少ない天然物の代わりとして、サラダ油と海草エキスを主原料とした人造イクラも出回ったことがある。皮にはカラギーナンやアルギン酸ナトリウムなどが用いられる。 ヨーロッパでは人造イクラの技術を応用して、「カプセル」もしくは「スフェリカス」の名前で調理科学を使った新しい調理方法として、中にジュースや粉状の食材などを封入した新たな調理方法として発展し、現在、それらの手法が日本に逆輸入されている。ジュースやシロップなどの中に甘い飲み物を入れたものは「ボバボバ」・「コーティングジュース」の名前で販売されている。また、アルギン酸ナトリウム水溶液と塩化カルシウム水溶液を利用した人造イクラ(人工イクラ)づくりは、科学実験として広く行われている 。
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イクラとは、サケやマスなどの魚卵のうち、筋子の卵巣膜(卵を包む薄い膜)を取り除き、産卵前の熟した卵を1粒ずつに分けたものを指して呼ぶ。バラ子とも呼ばれる。アイヌ語ではチポロと呼ばれる。一般的には加熱加工せず、塩漬けや醤油漬けにして食べる。
{{Otheruses}} {{特殊文字|説明=икра〈ロシア語〉}} [[ファイル:Ikura.jpg|サムネイル|イクラの醤油漬け]] [[ファイル:Rhodurusっ子(魚卵)のしょうゆ漬.JPG|サムネイル|マス子([[ビワマス]]魚卵)の醤油漬け<!--色が濃いめに仕上がったが、OASのお手製-->]] {{栄養価 | name=しろさけ イクラ<ref name=mext7>[[文部科学省]] 「[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)]」</ref>| kJ =1138| water=48.4 g| protein=32.6 g| fat=15.6 g| satfat=2.42 g| monofat = 3.82 g| polyfat =4.97 g| opt1n=[[コレステロール]] | opt1v=480 mg| carbs=0.2 g| sodium_mg=910| potassium_mg=210| calcium_mg=94| magnesium_mg=95| phosphorus_mg=530| iron_mg=2.0| zinc_mg=2.1| copper_mg=0.76| Manganese_mg=0.06| vitA_ug =330| vitD_ug=44.0| vitE_mg =9.1| thiamin_mg=0.42| riboflavin_mg=0.55| niacin_mg=0.1| vitB6_mg=0.06| vitB12_ug=47.3| folate_ug=100| pantothenic_mg=2.36| vitC_mg=6| note =ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した<ref>[[厚生労働省]] 「[https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000114399.pdf 日本人の食事摂取基準(2015年版)]」</ref>。別名: さけ(標準和名)、あきさけ、あきあじ | right=1 }} {| class="wikitable floatright" style="clear:right" |+シロサケ(イクラ、100 g中)の<br>主な[[脂肪酸]]の種類<ref name=mext>[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031802.htm 五訂増補日本食品標準成分表]</ref><ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031801.htm 五訂増補日本食品標準成分表 脂肪酸成分表編]</ref> |- ! 項目 !! 分量 (g) |- | 脂肪総量 || 15.6 |- | [[脂肪酸]]総量 || 11 |- | [[飽和脂肪酸]] || {{0}}2.4 |- | [[一価不飽和脂肪酸]] || {{0}}3.8 |- | [[多価不飽和脂肪酸]] || {{0}}5 |- | 18:2 (n-6) [[リノール酸]] || {{0}}0.11 |- | 18:3 (n-3) [[α-リノレン酸]] || {{0}}0.078 |- | 20:4 (n-6) [[アラキドン酸]] || {{0}}0.11 |- | 20:5 (n-3) [[エイコサペンタエン酸]] (EPA) || {{0}}1.6 |- | 22:6 (n-3) [[ドコサヘキサエン酸]] (DHA) || {{0}}2 |} '''イクラ'''({{翻字併記|ru|икра|ikra}}{{smaller|〈イクラー〉}})とは、[[サケ]]や[[マス]]などの[[魚卵]]のうち、[[筋子]]の[[卵巣]]膜([[卵]]を包む薄い膜)を取り除き、[[産卵]]前の熟した卵を1粒ずつに分けたものを指して呼ぶ。'''バラ子'''とも呼ばれる。[[アイヌ語]]では'''チポロ'''と呼ばれる。一般的には加熱加工せず、[[塩漬け]]や[[醤油漬け]]にして食べる。 == 概要 == 「イクラ」の語源は、ロシア語の「魚卵」<ref name="yamagata">{{Cite web|和書|url=http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~aizawa/mat/mat_essay.html |title=マルチな時代の外国語教育|author= |accessdate=2023-7-7 |publisher=山形大学人文社会科学部}}</ref>「小さくて粒々したもの」から。日本では[[サケ類|サケ科]]の卵をばらした物のみを指すが、[[ロシア]]では魚卵すべてを含み、サケの卵は「赤いイクラ」({{lang|ru|красная икра}} {{smaller|クラースナヤ・イクラー}})と呼ばれる<ref name="yamagata" />。一方で、「黒いイクラ」({{ru|чёрная икра}} {{smaller|チョールナヤ・イクラー}})は[[キャビア]]のことである<ref name="yamagata" />。 もともと日本では、魚の卵巣から取り出したもの(筋子)と粒状にばらしたもの(イクラ)を区別する名称がなかったが、あるとき、ロシア人が粒状にばらしたサケの卵を「イクラ」と呼んでいるのを見た日本人が、これをイクラと呼ぶものと思ったことに由来するとされている。実際、筋子と区別するのに都合がよかったため全国的に「イクラ」と呼ばれるようになった<ref>{{Cite book|和書|author = 日本おさかな雑学研究会|title = 頭がよくなるおさかな雑学大事典|year = 2002|publisher = [[幻冬舎]]|series = 幻冬舎文庫|isbn = 4-344-40294-4|page = 70}}</ref>。 ロシア式のサケの卵の食べ方が日本に伝わったのは[[大正|大正時代]]で、[[樺太庁]][[水産試験場]]が、ロシアから伝えられた製法で、保存の利く[[塩漬け]]を試験的に製造したのが始まりであった<ref>{{Cite web|和書|title=「イクラ」の語源はロシアにある!?|url=https://www.santune.co.jp/blog/2019/12/09/2322/|website=鮭のさんつね|date=2019-12-09|accessdate=2021-12-05|language=ja}}</ref>。 イクラ丼やイクラの[[寿司]]([[軍艦巻き]]など)に使われている。 == イクラの利用法 == {{出典の明記|date=2023年7月|section=1}} === 日本での利用 === サケは、産卵のために北[[太平洋]]の[[カムチャツカ半島|カムチャツカ]]辺りから南へ下ってくる。[[北海道]]では、8月後半から9月初めにかけて秋鮭漁が解禁となる。11月になると、[[三陸海岸|三陸]]や[[新潟県|新潟]]でも漁が本格化する。解禁となった当初は未熟卵であり、粒が小さく皮も弱い。この時期の卵は、イクラに揉むことはもちろん、冷凍さえも難しい。粒の皮が弱いため、冷凍したときに皮が破れやすいからである。この時期のものは、主に筋子として流通される。 産地によって成熟時期に差異はあるが、平均的に10月くらいになると卵が成熟してきて、イクラに適した状態になる。11月頃になるとさらに卵は成熟し、粒がさらに大きくなる。なお、イクラの皮は消化されにくいため、[[食物アレルギー|アレルギー]]源となりやすい[[蛋白質]]である。 北海道では、秋の味覚として家庭で生筋子からイクラを作る。その際に、ぬるま湯につけて手で丁寧に皮を取り除き、ばらこにする。湯につけるため白く濁ってしまうが、その後の工程でまた色が戻る。製造の過程では、真水に触れてはならない。卵殻が硬化するので、海水かそれ以上の濃度の塩水を使う。 一般には、非加熱状態で食されるが、[[宮城県]][[亘理町]]の[[はらこ飯]]など半加熱状態で食する料理もある。 === 日本以外での利用 === 世界でも、イクラをそのまま食用とする地域は限られている。日本にイクラの製法を伝えたとされるロシアでも、日本ほど日常食にはしていない。サケを捕獲してもイクラの食用を行わない地域では、収穫されたサケの卵のほとんどが日本への輸出用に加工される。 資源を無駄にしないと言われている[[イヌイット]]でも、イクラを食用とする習慣がなく、漁をしたその場でサケの卵は内臓と共に捨ててしまう。[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]では食用にはならないが、砂糖漬けの[[瓶詰め]]イクラが[[釣り餌]]として売られている。内臓類や[[粗|アラ]]とともに家畜の飼料の材料にすることもある。 従来よりロシアとの交流が深く、キャビアも食されていた西欧では、寿司ブームとは関係なく、古くよりバターをつけたパンに乗せるなどして食べる習慣があった。普及については、1960年代には既に鮮魚店が珍味として販売しており、70年代後半にはスーパーでも見かけるようになった。80年代になると、スモークサーモンとともに一般化、大都市部スーパーが常備するようになり、今日では中型都市でも当たり前のように置いている。 === ワインとの相性 === 一般に魚卵と[[ワイン]]は相性が悪く、同時に食すと[[鉄]]イオンが発生し生臭さを感じてしまう組み合わせである<ref name=jbrewsocjapan.105.139>[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan.105.139/ 田村隆幸、ワイン中の鉄は,魚介類とワインの組み合わせにおける不快な生臭み発生の一因である] 日本醸造協会誌 Vol.105 (2010) No.3 P 139-147, {{DOI|10.6013/jbrewsocjapan.105.139}}</ref><ref>J Agric Food Chem. 2009 Sep 23;57(18):8550-6. {{doi|10.1021/jf901656k}}</ref>が、これはワイン中に含有する鉄分が原因で含有量は魚介類料理との相性に大きく影響を及ぼす。生臭い臭いの強さは鉄分濃度に依存し[[1-オクテン-3-オン]]、(E,Z)-2,4-ヘプタジエナール等の物質により生臭味が増強されてしまう<ref name=jbrewsocjapan.105.139 />とされている。なお、ワイン中鉄分の起源は、土壌、製造工程中の鉄製品、コラージ(澱引き)に依存している<ref name=jbrewsocjapan.105.139 />。 == イクラの製造法 == イクラの原料は特に鮮度が重視され、漁獲後6時間以内ならイクラ、それ以上なら筋子にするともいわれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hro.or.jp/list/fisheries/marine/att/DAYORI10.PDF |title=北水試だより10 加工シリーズ 魚卵加工品|author= |accessdate=2023-7-7 |publisher=地方独立行政法人北海道立総合研究機構 水産研究本部}}</ref>。イクラの製造には卵分離用網を用い、加工時には飽和食塩水や洗浄用食塩水を使用する<ref name="iwate">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/008/509/ikura.pdf |title=イクラのつくりかた|author= |accessdate=2023-7-7 |publisher=岩手県水産技術センター}}</ref>。 ; 裁割 : サケの腹をさばいて卵巣を取り出す<ref name="iwate" />。 ; 分離 : 筋子のうち膜のない卵巣の開口部を網にこすりつけて卵粒を網目から落として分離する<ref name="iwate" />。 ; 洗浄 : 洗浄用食塩水(飽和食塩水をさらに薄めたもの)で血や汚物を洗浄する<ref name="iwate" />。 ; 塩水漬け : 飽和食塩水で約7分間攪拌する(最初の5分間は攪拌を続け、残りの時間は汚物等を取り除きながら攪拌する)<ref name="iwate" />。 ; 水切り : 卵を手ですくいザルに取り、ポリ袋に入れて30分以上冷所に放置する<ref name="iwate" />。 ; 保存 : 1週間程度の短期保存の場合は冷蔵、それ以上の場合は冷凍する(冷凍する場合は油焼けを防ぐため空間ができないよう密封することが必要)<ref name="iwate" />。 イクラを醤油漬けに加工する場合は、上の工程の洗浄後、イクラ400グラムに対して醤油40ミリリットルとみりん(または日本酒)30ミリリットルを加えて一晩漬ける<ref name="iwate" />。 なお、日本ではイクラを抜いた後のサケは身が痩せているとして商品価値が低いが、これが国外では「日本製なのに安いサケ」として需要があり輸出されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daito.ac.jp/research/laboratory/cr_att/0015/27449_251624_010.pdf |title=危機に立つ日本の魚食|author= 山下 東子|accessdate=2023-7-7 |publisher=大東文化大学}}</ref>。 == 人造イクラ(人工イクラ) == 人造イクラ(人工イクラ)とは、いわゆる[[コピー食品]]の一つである。世界で初めて、[[富山県]][[魚津市]]の[[日本カーバイド工業]]が人造イクラの生産に成功した<ref>{{Cite journal|和書 |author = 紙尾康作 |year = 1984 |title = 何をどうしてつくるか--化学がつくるコピ-食品の精粋--人造イクラ |journal = 化学 |volume = 39 |issue = 1 |pages = 35-38 |publisher = [[化学同人]] |issn = 0451-1964 |naid = 40000389810}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author = 紙尾康作 |year = 1987 |title = 人造イクラ |journal = 化学と教育 |volume = 35 |issue = 4 |pages = 309-311 |publisher = [[日本化学会]] |issn = 0386-2151 |naid = 110001826562}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author = 紙尾康作 |year = 1998 |title = 海草から作った人工イクラ |journal = 高分子 |volume = 47 |issue = 1 |page = 33 |publisher = [[高分子学会]] |issn = 0454-1138 |doi = 10.1295/kobunshi.47.33 |naid = 10002561682 |url = https://doi.org/10.1295/kobunshi.47.33 |accessdate = 2013-07-17}}</ref>。収穫量の少ない天然物の代わりとして、[[サラダ油]]と[[海草]]エキスを主原料とした人造イクラも出回ったことがある。皮には[[カラギーナン]]や[[アルギン酸ナトリウム]]などが用いられる。 [[ヨーロッパ]]では人造イクラの技術を応用して、「カプセル」もしくは「スフェリカス」の名前で[[調理科学]]を使った新しい調理方法として、中に[[ジュース]]や粉状の食材などを封入した新たな調理方法として発展し、現在、それらの手法が日本に逆輸入されている。ジュースやシロップなどの中に甘い飲み物を入れたものは「ボバボバ」・「コーティングジュース」の名前で販売されている{{r|excite news}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.appbank.net/2019/08/11/iphone-application/1780838.php|title=タピオカの次!? イクラ食感の新スイーツ『ボバボバ』食べてみた!|accessdate=2019年10月31日|publisher=アップバンク}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.nicovideo.jp/watch/nw5042885|title=「かわいすぎるイクラ」 韓国発の「ポッピングボバ」、日本でもブーム目前?|accessdate=2019年10月31日|publisher=ニコニコ}}</ref>。また、アルギン酸ナトリウム水溶液と[[塩化カルシウム]]水溶液を利用した人造イクラ(人工イクラ)づくりは、科学実験として広く行われている<ref>{{Cite journal |author = Naoki Kanda |coauthors = ''et al.'' |year = 1995 |title = Preparing "Chameleon Balls" from Natural Plants: Simple Handmade pH Indicator and Teaching Material for Chemical Equilibrium |journal = [[Journal of Chemical Education]] |volume = 72 |issue = 12 |pages = 1131-1132 |publisher = [[American Chemical Society]] |issn = 0021-9584 |doi = 10.1021/ed072p1131 }}</ref> <ref>{{Cite book |和書 |editor = 宮田光男編著 |title = 作って楽しむ理科遊び |year = 1999 |publisher = [[裳華房]] |series = ポピュラー・サイエンス |isbn = 4-7853-8713-0 |page = 88-92 |chapter = 赤くなる粒・青くなる粒を作る}}</ref> <ref>{{Cite book |和書 |author = 十河信二 |editor = [[左巻健男]]・内村浩編著 |title = おもしろ実験・ものづくり事典 |year = 2002 |publisher = [[東京書籍]] |isbn = 4-487-79701-2 |page = 400-402 |chapter = 人工イクラづくりと色玉浮沈子}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|refs= <ref name="excite news">{{Cite web|和書 | author = {{読み仮名|OVO|オーヴォ}} | url = https://www.excite.co.jp/news/article/Ovo_1367562/ | archiveurl = https://web.archive.org/web/20191030183034/excite.co.jp/news/article/Ovo_1367562/ | title = クリスマスツリーのようなドリンク 3色のコーティングジュースをトッピングしたラテ | website = [[エキサイトニュース]] | date = 2019-10-28 | accessdate = 2019-10-31 | archivedate = 2019-10-30 | deadlinkdate = 2022年10月28日 }}</ref> }} == 関連項目 == {{Commonscat|Salmon eggs|サケの卵}} {{Wiktionary|イクラ|икра|ікра}} * [[魚卵]] * [[筋子]] == 外部リンク == * [https://www.rs.kagu.tus.ac.jp/~elegance/jikkensp10/jinkouikura.html 人工イクラをつくろう!] {{鮭}} {{DEFAULTSORT:いくら}} [[Category:サケ科]] [[Category:魚卵]] [[Category:寿司種]] [[Category:日本の水産加工品]] [[Category:ロシアの食文化]] [[Category:北海道の食文化]] [[Category:東北地方の食文化]] [[Category:ロシア語由来の外来語]] [[Category:釣り餌]] [[Category:プライドフィッシュ]] [[Category:ロシア語の語句]] [[de:Kaviar#Sonstige Bezeichnungen]]
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月名
月名(げつめい/つきめい)
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月名(げつめい/つきめい) 暦の各月に付けられた名称。日本語では1月、2月。英語ではJanuary,Februaryなど。月 (暦)を参照。 月の満ち欠け(月相)に付けられた名称。月#月齢と呼び名を参照。
'''月名'''(げつめい/つきめい) *[[暦]]の各月に付けられた名称。日本語では1月、2月。英語ではJanuary,Februaryなど。[[月 (暦)]]を参照。 *[[月]]の満ち欠け([[月相]])に付けられた名称。[[月#月齢と呼び名]]を参照。 {{aimai}}
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VI号戦車
VI号戦車(ろくごうせんしゃ、Panzerkampfwagen VI、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン ゼクス)は、ナチス・ドイツが第二次世界大戦時に使用した重戦車である。 VI号戦車と呼ばれる戦車には、I型とII型の2種類の戦車が存在し、それぞれティーガーI・ティーガーIIと呼ばれる。この2種は、当時の世界最強の戦車の1つとして評価されている。ティーゲル戦車と表記されることもある。英語読みでは、タイガー戦車と表記される。 開発当時、ドイツ国防軍は赤軍のT-34戦車に苦戦を強いられていた。ドイツ軍はそのことを受けて元々対空用として製造された8.8cm高射砲を対戦車砲として戦車に搭載し、VI号戦車が誕生した。 当時のドイツ軍戦車の中で最も巨大だった本車は、総統アドルフ・ヒトラーのお気に入りとなった。以後、終戦までVI号戦車は使用され続けた。しかし、重量が当時の水準からすると非常に重かったため、変速機や足回りなどのトラブルが多く稼働率は低い水準にとどまり、また、構造の弱い橋や道路の通行が困難だったり、複雑な設計が量産性を妨げた。しかし、その大火力・重装甲はそれらの欠点を補ってあまりあるもので、当時まともに対抗しうる他国製戦車は存在しなかった。 1937年に陸軍兵器局から開発指示のあった35t級戦車に由来する。ヘンシェル社はこれに基づきDW I・DW IIと呼ばれる戦車を試作した。さらに、1938年9月9日にVK3001として提示された仕様に基づきVK3001(H)が試作される。この車両がVK3601(H)・VK4501(H)と発展してVI号戦車となる。一方、ポルシェ社は1939年からVK3001(P)の開発を開始し、VK4501(P)(俗に言うポルシェティーガー)へと発展した。ちなみに、フェルディナント・ポルシェの設計したVK4501(P)はエンジンで発電して電動モーターを駆動する事で変速機を廃するという鉄道では実績のある方式(ガスエレクトリック式)だったが、如何せん信頼性に乏しい代物だった。 2社による設計が比較された結果、ヘンシェル社の製品が採用され、ポルシェ博士の設計した物は採用されなかった。ただし、製造は前倒しで始まっていたため、その車体はエレファント重駆逐戦車として利用された。また、エレファント大隊の指揮戦車として実戦参加したポルシェティーガーも存在する。 従来のドイツ戦車のデザインを踏襲しつつも、重厚な装甲とともに56口径8.8cm砲という高射砲を元にした強力な砲を採用し、対戦車・対陣地戦闘に威力を発揮した。また、I型の初期のものには、橋を渡らずに渡河する場合のために潜水装置が付いていた。 接地圧の低下のために設計された幅の広い履帯を装備したまま貨車に乗せるとトンネルを通過することができないため、鉄道での輸送時は一番外側の転輪と外側から2番目の転輪およびフェンダーを外し、輸送用のために設計・製造された幅の狭い履帯を装備することとなった。また、転輪は当初は外周にゴムタイヤが付いていたが、後期型(およびII型)ではソ連戦車のものを参考にしたゴム内蔵式の鋼鉄製転輪が使用された。これは、鉄の部分が直接履帯に当たるため音が煩くなるが、ゴム部品の消耗を抑えることができた。 アメリカ軍のM4 シャーマンの前面装甲を2,000m超の距離から貫通でき、逆にM4の75mm砲では接射でも打ち抜かれない前面装甲を持っていた。同様にイギリスやソ連の大半の戦車にも圧倒的な優位を誇っていた。そのため、連合軍では「タイガー戦車を相手にする時は必ず3両以上の戦車で迎撃する事」と言われていた程である。 英語での俗称の「キング・タイガー」(Kingtiger)がドイツ語に逆輸入され、ケーニヒス・ティーガー(Königstiger, 王虎。独語での原意は「ベンガルトラ」)とも呼ばれる。71口径8.8cm砲を搭載。垂直面で構成された車体を持つI型と異なり、パンターの車体同様にソ連戦車で実用化された傾斜装甲を採用している。ポルシェ型向けにクルップ社で設計され、先行して部品の製造が行われ、ヴェクマン社で組み立てられた砲塔を持つ初期生産型50両と、ヘンシェル型向けに同じくクルップ社で設計された砲塔を持つそれ以降の生産型がある。ポルシェ型向け砲塔は前面・側面が丸みを帯びており、砲塔前面においてショットトラップ(跳弾が車体上面を直撃する)を生じる危険性があった。 同時期に開発が進められ、この車体を延長して固定式戦闘室に12.8cm砲を搭載したヤークトティーガーが製造されている。
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VI号戦車は、ナチス・ドイツが第二次世界大戦時に使用した重戦車である。
'''VI号戦車'''(ろくごうせんしゃ、Panzerkampfwagen VI、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン ゼクス)は、[[ナチス・ドイツ]]が[[第二次世界大戦]]時に使用した[[重戦車]]である。 == 概要 == VI号戦車と呼ばれる[[戦車]]には、I型とII型の2種類の戦車が存在し、それぞれ'''[[ティーガーI]]'''・'''[[ティーガーII]]'''と呼ばれる。この2種は、当時の世界最強の戦車の1つとして評価されている。'''ティーゲル戦車'''と表記されることもある。[[英語]]読みでは、'''タイガー戦車'''と表記される。 開発当時、[[ドイツ国防軍]]は[[赤軍]]の[[T-34]]戦車に苦戦を強いられていた。ドイツ軍はそのことを受けて元々[[対空砲|対空]]用として製造された[[8.8 cm FlaK 18/36/37|8.8cm高射砲]]を[[対戦車砲]]として戦車に搭載し、VI号戦車が誕生した。 当時のドイツ軍戦車の中で最も巨大だった本車は、[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]のお気に入りとなった。以後、終戦までVI号戦車は使用され続けた。しかし、重量が当時の水準からすると非常に重かったため、[[トランスミッション|変速機]]や足回りなどのトラブルが多く稼働率は低い水準にとどまり、また、構造の弱い[[橋]]や[[道路]]の通行が困難だったり、複雑な設計が量産性を妨げた。しかし、その[[火力 (軍事)|大火力]]・[[装甲|重装甲]]はそれらの欠点を補ってあまりあるもので、当時まともに対抗しうる他国製戦車は存在しなかった。 == I型(Sd Kfz 181) == [[Image:TigerITankTunis.jpg|250px|right|thumb|[[1943年]]に[[チュニス]]近くでアメリカ軍に[[鹵獲]]されたティーガーI]] {{main|ティーガーI}} [[1937年]]に陸軍兵器局から開発指示のあった35t級戦車に由来する。[[ヘンシェル]]社はこれに基づきDW I・DW IIと呼ばれる[[戦車]]を[[プロトタイプ|試作]]した。さらに、[[1938年]][[9月9日]]にVK3001として提示された仕様に基づきVK3001(H)が試作される。この車両がVK3601(H)・VK4501(H)と発展して'''VI号戦車'''となる。一方、[[ポルシェ]]社は[[1939年]]からVK3001(P)の開発を開始し、[[VK4501(P)]](俗に言うポルシェティーガー)へと発展した。ちなみに、[[フェルディナント・ポルシェ]]の設計したVK4501(P)は[[エンジン]]で発電して電動モーターを駆動する事で[[トランスミッション|変速機]]を廃するという[[フリーゲンダー・ハンブルガー|鉄道では実績のある方式]]([[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式|ガスエレクトリック式]])だったが、如何せん信頼性に乏しい代物だった。 2社による設計が比較された結果、ヘンシェル社の製品が採用され、ポルシェ博士の設計した物は採用されなかった。ただし、製造は前倒しで始まっていたため、その車体は[[エレファント重駆逐戦車]]として利用された。また、エレファント[[大隊]]の[[指揮戦車]]として実戦参加したポルシェティーガーも存在する。 従来の[[ドイツ]]戦車のデザインを踏襲しつつも、重厚な[[装甲]]とともに[[8.8 cm FlaK 18/36/37|56口径8.8cm砲]]という[[高射砲]]を元にした強力な砲を採用し、対戦車・対[[陣地]][[戦闘]]に威力を発揮した。また、I型の初期のものには、[[橋]]を渡らずに渡河する場合のために潜水装置が付いていた。 接地圧の低下のために設計された幅の広い[[無限軌道|履帯]]を装備したまま[[貨車]]に乗せると[[トンネル]]を通過することができないため、[[鉄道]]での[[輸送]]時は一番外側の転輪と外側から2番目の転輪およびフェンダーを外し、輸送用のために設計・製造された幅の狭い履帯を装備することとなった。また、転輪は当初は外周に[[ゴム]][[タイヤ]]が付いていたが、後期型(およびII型)では[[ソビエト連邦|ソ連]]戦車のものを参考にしたゴム内蔵式の[[鋼鉄]]製転輪が使用された。これは、[[鉄]]の部分が直接履帯に当たるため音が煩くなるが、ゴム部品の消耗を抑えることができた。 [[アメリカ軍]]の[[M4中戦車|M4 シャーマン]]の前面装甲を2,000m超の距離から貫通でき、逆にM4の[[M1897 75mm野砲#M2/M3戦車砲|75mm砲]]では接射でも打ち抜かれない前面装甲を持っていた。同様に[[イギリス]]やソ連の大半の戦車にも圧倒的な優位を誇っていた。そのため、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]では「タイガー戦車を相手にする時は必ず3両以上の戦車で迎撃する事」と言われていた程である。 == II型(Sd Kfz 182) == [[Image:SdKfz182.jpg|250px|right|thumb|[[ドイツ]]のムンスター戦車博物館に展示されるティーガーII]] {{main|ティーガーII}} [[英語]]での俗称の「キング・タイガー」(Kingtiger)が[[ドイツ語]]に逆輸入され、ケーニヒス・ティーガー(Königstiger, 王虎。独語での原意は「[[ベンガルトラ]]」)とも呼ばれる。71口径8.8cm砲を搭載。垂直面で構成された車体を持つ[[ティーガーI|I型]]と異なり、[[V号戦車パンター|パンター]]の車体同様に[[ソビエト連邦|ソ連]][[戦車]]で実用化された[[装甲#傾斜装甲|傾斜装甲]]を採用している。ポルシェ型向けに[[クルップ]]社で設計され、先行して部品の製造が行われ、ヴェクマン社で組み立てられた[[砲塔]]を持つ初期生産型50両と、ヘンシェル型向けに同じくクルップ社で設計された砲塔を持つそれ以降の生産型がある。ポルシェ型向け砲塔は前面・側面が丸みを帯びており、砲塔前面においてショットトラップ(跳弾が車体上面を直撃する)を生じる危険性があった。 同時期に開発が進められ、この車体を延長して固定式戦闘室に[[12.8 cm PaK 44|12.8cm砲]]を搭載した[[ヤークトティーガー]]が製造されている。 == 登場作品 == {{main|VI号戦車ティーガーに関連する作品の一覧}} == 文献 == {{参照方法|date=2023年1月7日 (土) 07:31 (UTC)|section=1}} *[[エゴン・クライネ]]、[[フォルクマール・キューン]](共著)、富岡吉勝(訳)『ティーガー 無敵戦車の伝説 1942-1945』大日本絵画、[[1991年]]、ISBN 4-499-20563-8 *[[オットー・カリウス]](著)、菊池晟(訳)『ティーガー戦車隊 第502重戦車大隊 オットー・カリウス回顧録』大日本絵画、[[1995年]]、ISBN 4-499-22653-8 == 関連項目 == {{commons|Category:Panzerkampfwagen_VI}} *[[戦車]] *[[重戦車]] *[[ティーガーI]] *[[ティーガーII]] {{第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両}} {{デフォルトソート:6こうせんしや}} [[Category:VI号戦車 (ティーガー)|*6こうせんしや]] [[Category:ドイツ国防軍の戦車]] [[Category:重戦車]]
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ゴミ漁り
ゴミ漁り(ゴミあさり)とは、他人が出したゴミを当人に無断で漁ること。 英語ではDumpster diving(ダンプスター・ダイビング)というが、文脈により意味はさまざまである。 また、ごみを分析しそこから実態を解明する調査法をGarbology(ガーボロジー)という。 情報セキュリティ用語におけるダンプスター・ダイビング(Dumpster diving)とは、ソーシャル・エンジニアリングの一種で、廃棄物(ごみ)の中から機密情報等を入手する行為である。このような行為はスカベンジング(scavenging)とも呼ばれ、データサルベージなどとともに情報セキュリティの観点から問題となる。 趣味で行う者もいれば、探偵などの仕事で行う者もいる。ストーカー行為の一環である場合もある。要はそのゴミを捨てた者の私生活やそれに関連する情報を知ることが目的である。レシートや明細書、手紙など文字で得られる情報の他、ゴミの内容から、対象となった人の嗜好や生活ぶりを推量することもある。 情報を得た後、ただ他人の私生活を垣間見て楽しむ者もいれば、電話番号や公共料金、クレジットカード番号などを知ってその情報を売却したり、対象となる者に近づいたりする。ゴミ収集車が来る直前に出す・防犯カメラの設置・町内会などによる見回り等の対策がある。 コンピュータクラッキングなどの技術的な手段ではなく、不用意に捨てられた、パスワードが書かれた紙などを通して企業のセキュリティ情報を得る行為。機密情報の保護の観点からは適切な廃棄方法を徹底することが重要になる。 ホームレスや、ゴミ回収の委託業者以外の廃品回収業者が、古本その他商品価値のあるものをゴミ箱やゴミ集積所から持ち出すことが往々にして行われている。また、一般の者が自宅での使用目的や販売目的で漁る場合もある。(実際に拾った廃家電等を修理して販売し利益を上げた商店もある。)
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ゴミ漁り(ゴミあさり)とは、他人が出したゴミを当人に無断で漁ること。 英語ではDumpster diving(ダンプスター・ダイビング)というが、文脈により意味はさまざまである。 また、ごみを分析しそこから実態を解明する調査法をGarbology(ガーボロジー)という。
{{出典の明記|date=2013年12月}} '''ゴミ漁り'''(ゴミあさり)とは、他人が出したゴミを当人に無断で漁ること。 英語ではDumpster diving(ダンプスター・ダイビング)というが、文脈により意味はさまざまである。 また、[[ごみ]]を分析しそこから実態を解明する調査法をGarbology([[ガーボロジー]])という。 ==目的== ===機密情報などの取得=== [[情報セキュリティ]]用語におけるダンプスター・ダイビング(Dumpster diving)とは、[[ソーシャル・エンジニアリング]]の一種で、廃棄物(ごみ)の中から機密情報等を入手する行為である<ref name="security">{{Cite book |和書 |author=相戸浩志 |year=2010 |title=図解入門よくわかる最新情報セキュリティの基本と仕組み 第3版 |page=69 |publisher=秀和システム }}</ref>。このような行為はスカベンジング(scavenging)とも呼ばれ、データサルベージなどとともに情報セキュリティの観点から問題となる<ref name="security" />。 ====個人情報==== 趣味で行う者もいれば、[[探偵]]などの仕事で行う者もいる。[[ストーカー]]行為の一環である場合もある。要はそのゴミを捨てた者の私生活やそれに関連する情報を知ることが目的である。レシートや明細書、手紙など文字で得られる情報の他、ゴミの内容から、対象となった人の嗜好や生活ぶりを推量することもある。 情報を得た後、ただ他人の私生活を垣間見て楽しむ者もいれば、[[電話番号]]や[[公共料金]]、[[クレジットカード]]番号などを知ってその情報を売却したり、対象となる者に近づいたりする。ゴミ収集車が来る直前に出す・[[防犯カメラ]]の設置・[[町内会]]などによる見回り等の対策がある。 ====企業の機密情報==== コンピュータクラッキングなどの技術的な手段ではなく、不用意に捨てられた、パスワードが書かれた紙などを通して企業のセキュリティ情報を得る行為。機密情報の保護の観点からは適切な廃棄方法を徹底することが重要になる<ref>{{Cite book |和書 |author=相戸浩志 |year=2010 |title=図解入門よくわかる最新情報セキュリティの基本と仕組み 第3版 |page=168 |publisher=秀和システム }}</ref>。 ===再利用=== [[ホームレス]]や、ゴミ回収の委託業者以外の廃品回収業者が、[[古本]]その他商品価値のあるものをゴミ箱やゴミ集積所から持ち出すことが往々にして行われている。また、一般の者が自宅での使用目的や販売目的で漁る場合もある。(実際に拾った廃家電等を修理して販売し利益を上げた商店もある。) == 脚注 == <references /> ==関連項目== *[[廃品回収]] *[[ウェスト・ピッカー]] *[[村崎百郎]] - [[鬼畜系]]・[[電波系]][[著作家|ライター]]。ゴミを漁って他人の[[プライバシー]]を暴く「'''ダスト・ハンティング'''」を世に紹介した。 *[[Jam (自販機本)|Jam]] - [[1979年]]創刊の[[自販機本]]。[[山口百恵]]や[[かたせ梨乃]]の出したゴミを漁って誌面のグラビアで公開した。 *[[マルサの女]] - 処分場に運ばれたゴミの中から脱税の証拠を探し出す場面がある。 *[[オールナイトロング3 最終章]] - ゴミを漁って女性の[[個人情報]]を収集する異常犯罪にスポットを当てている。ゴミ漁り指導は[[村崎百郎]]。 {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こみあさり}} [[category:社会問題]] [[Category:廃棄物収集]] [[Category:サブカルチャー]] [[Category:風俗]] [[Category:鬼畜系]]
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横川駅
横川駅
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横川駅 横川駅 (群馬県)(よこかわえき) - 群馬県安中市にある東日本旅客鉄道(JR東日本)信越本線の駅。 横川駅 (広島県)(よこがわえき) - 広島県広島市西区にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線・可部線の駅。 横川駅停留場(よこがわえきでんてい) - 広島県広島市西区にある広島電鉄横川線の停留場。 横川駅 (慶尚南道)(フェンチョンえき) - 大韓民国慶尚南道河東郡にある韓国鉄道公社慶全線の駅。 大隅横川駅(おおすみよこがわえき) - 鹿児島県霧島市にある九州旅客鉄道(JR九州)肥薩線の駅。旧称「横川駅」。
'''横川駅''' * [[横川駅 (群馬県)]](よこかわえき) - [[群馬県]][[安中市]]にある[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[信越本線]]の駅。 * [[横川駅 (広島県)]](よこがわえき) - [[広島県]][[広島市]][[西区 (広島市)|西区]]にある[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[山陽本線]]・[[可部線]]の駅。 * [[横川駅停留場]](よこがわえきでんてい) - 広島県広島市西区にある[[広島電鉄横川線]]の停留場。 * [[横川駅 (慶尚南道)]](フェンチョンえき) - [[大韓民国]][[慶尚南道]][[河東郡]]にある[[韓国鉄道公社]][[慶全線]]の駅。 * [[大隅横川駅]](おおすみよこがわえき) - [[鹿児島県]][[霧島市]]にある[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[肥薩線]]の駅。旧称「横川駅」。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:よこかわえき}} [[Category:同名の鉄道駅]]
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民社党
民社党(みんしゃとう、略称:民社、英: Democratic Socialist Party、略称: DSP)は、かつて存在した日本の政党。民主社会主義、右派社会民主主義政党である。 西尾末広、片山哲、水谷長三郎ら日本社会党を離党した右派の国会議員によって、1960年1月24日に結成された。結成時の党名は民主社会党(みんしゅしゃかいとう)。反共産主義・反ソ連を掲げる。1969年11月に改称し、1994年12月、新進党の結成に伴い解散した。 1959年6月の参院選敗北の総括と60年安保闘争の運動方針をめぐって、同年10月に社会党右派の西尾末広派が日本社会党から脱党。さらに同じ右派の河上丈太郎派の一部も同調し離党。 1960年1月24日、民主社会党(みんしゅしゃかいとう)の結党大会が九段会館で開催された。西尾末広が中央執行委員長(党首)に、曽祢益が書記長に就任した。結党時の国会議員の参加者は衆議院38人、参議院16人。その後断続的に参加者があり、最終的に衆議院40人、参議院17人となった。1969年11月に民社党に名称を改称した。 民主社会主義に基づき、混合経済による福祉国家建設を掲げ、共産主義に対する強い敵意を特徴とした。自らを国民勤労者の党と規定し、「参加する福祉」、減量経営のための公務員削減、官公労のストライキ規制などを主張。 当初は駐留なき安保を唱え、のちには日米安全保障条約のより一層の強化、超法規発言で自民党政権に解任された栗栖弘臣元統合幕僚会議議長を支持して公認候補にするなど、有事立法制定を掲げて自民党以上に右翼的・タカ派的であったと評されるも、その一方で、憲法第9条改訂については反対して野党色の保持を図っていた。 アメリカ合衆国中央情報局 (CIA) が、自由民主党有力者や、社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に資金提供し、民社党結成を促していたことが2006年7月18日、アメリカ国務省の外交史料集で公開された。結党までに7万5000ドルの資金援助があり、その後も毎年同程度の援助があったが、1964年に打ち切られたという。他、財界の支援を受けており、経団連が献金していた。ただし、経団連は自民党の十分の一という枠を設けていたため、基本的には労働組合からの支援額が割合としては大きかった。 「左右の全体主義と対決」を主張し、福祉国家建設、中産階級国家を理念としていた。党が掲げる「民主社会主義」とは、革命を否定して代議制民主主義を通じて労働者の権利擁護、福祉増進を行い、合法的・民主的に社会主義の理想を実現していこうとする立場であり、西欧・北欧の社会民主主義政党の理念を手本に、自らを国民政党と規定した。国際面では各国の社会民主主義・民主社会主義政党が参加する社会主義インターナショナルに加盟した。結党時は5年以内の政権獲得を目標としていた。 「左右の全体主義との対決」とは、共産主義とファシズムに反対するという意味だが、特に反共を優先し、日本共産党を厳しく批判した。当時は日本社会党もマルクス・レーニン主義を色濃く残しながら「社会民主主義」を掲げ始めており、その違いを強調するために、「民社党の掲げる民主社会主義」と社会民主主義は違うと主張した。 外交においても同様であり、ソ連を糾弾する一方で韓国、朴正煕政権やスペイン、フランコ政権など反共反ソで一致すれば権威主義的な体制も支持した。ソ連と同じ共産党独裁国家でも中ソ対立から当時米国に接近していた中華人民共和国に訪中団を派遣して「民社党は日中関係の正常化をはばむ反動勢力と対決して闘う」として一つの中国を支持する共同声明で日中国交正常化に一役を担い、チリ・クーデター(リチャード・ニクソン米大統領とCIAの支援を受けた軍部によるクーデターで選挙を通じて民主的に誕生した社会主義政府が崩壊)による新自由主義的なピノチェト政権成立の際に民社党代表としてチリを視察した塚本三郎衆院議員が同クーデターを「天の声」と絶賛するなど設立経緯からCIAと繋がりを持つ民社党の親米姿勢は鮮明だった。なお日本社会党はソ連、中国、北朝鮮、ベトナム、キューバなど東側諸国の独裁国家に親和的だったが、社会主義インターナショナルや西欧、北欧の社民主義政党は反共であると同時に、これらの軍事政権や開発独裁政権などを「支持しない」姿勢を示していた。 また、容共でマルクス・レーニン主義の総評や統一労組懇に対し、反全体主義、反共の労働組合である全日本労働組合会議(全労会議)を支持母体とし、1964年に全労会議が全日本労働総同盟(同盟)と改組された後も支持、協力関係は続いた。国の重要な安全保障を担う防衛や電力業界との繋がりが密で、そのため民社党も防衛力維持や原発推進に熱心であった。 結党当初においては安保改定に反対するなど防衛問題では社会党右派に近い立場にあったが、日韓基本条約の批准では自民党に同調。さらに民社党ブレーンだった蠟山政道らがまとめた日米安保肯定論が発表された1968年以降は、自衛隊合憲・日米安保維持(ただし当初は「駐留なき安保」への転換、「事前協議」への拒否権付与を主張)・国会の常任委員会として防衛委員会の設置を主張するなどの方向に動いた。1970年代には自衛隊合憲確認の国会決議の必要性や有事法制の整備を唱えた。また、1986年に政府の国防会議を改組し、安全保障会議を設置する際には、その名称を「国家安全保障会議」とするよう唱えた。欧州社民主義政党と同じく、軍備を否定しない立場は、防衛関係労組との繋がりがあったことも要因となった。また政府の集団的自衛権解釈(保持しているが行使できない)を欺瞞的と言い切り、憲法上は行使が禁止されていないのだから、政策論として行使容認も含めた国民的議論を行うことを政府に呼びかけていた。 憲法への姿勢は、民社党系護憲団体「新護憲」(憲法擁護新国民会議)を設置するなど護憲の立場を取り、1960年代前半の内閣憲法調査会への参加も見送った。ただ、専守防衛に立つ自衛隊は合憲との立場をとり、社会党との違いを示した。1992年には論憲を前提に党内に「世界平和と憲法問題特別委員会」を設置し、翌年3月の同委員会の中間報告では憲法9条2項を改正し、自衛隊、文民統制の明文化や国際貢献の必要性を提言したが、支持労組の反発もあり、改憲が党の方針となることはなかったが、先述の通り集団的自衛権の行使は憲法上可能との立場をとっていた。一方、護憲団体だった「新護憲」は民社党解党後、「論憲会議」を経て、現在は改憲団体となり「創憲会議」に衣替えしている。 なお、「創憲会議」は2005年2月に「創憲」を考えるための提言書を発表。国旗・国歌の明文化、再軍備による積極的な国際貢献、徴兵制禁止、首相権限強化、改憲要件の緩和(国会の発議で三分の二以上の賛成を得れば国民投票は不要とするなど)などを提唱した。同年10月、この提言に基づき、「創憲会議 新憲法草案」を発表した。 党勢は、結党直後の1960年11月の衆院選で40から17議席と大きく落ち込んだ。その後、しばらくは20 - 30議席前後で推移。 1970年代以降、公明党・新自由クラブ・社会民主連合の中道政党が伸長すると共に、これら諸政党と協力する姿勢を取った。特に公明党との「公民協力」は広く行われたものの、成果を出すまでには至らなかった。そうした中でも多党化傾向が進展した1970年代後半から1980年代半ばに掛けて党勢回復に結実。1983年12月の第37回衆議院議員総選挙では、追加公認を含めると衆院で結党時の党勢に迫る39議席を獲得した。中道結集こそが、1976年12月、1979年9月、1983年12月の衆院総選挙で、自民党を過半数割れさせる原動力だったとも指摘されている。それに気づいた自民党は、1980年6月、1986年7月に衆参同日選挙に打って出て、いずれも大勝する。これは、同日選にすることで参院で選挙協力が成立しても、衆院の選挙区では議席を争うことになり、勢力結集が極めて困難になるためである。 社会党とは何度も和解の試みがなされ、選挙協力も行ったが、民社党は原発・日米安保容認を要求するのが常であった。社会党は民社党、公明党の要求に沿い、共産党と距離を置き、中道左派による野党連携を取ろうとした。これを「社公民路線」と呼ぶ。 しかし、民社党と公明党は1970年代から国対政治を始めた自民党の田中角栄らとの連携を築いたため、「自公民路線」と呼ばれた。 1987年の連合結成により、社公民3党は再び接近し、1989年7月の参院選、1990年2月の衆院選、1992年7月の参院選では社公民協力のため連合による「連合の会」統一候補が立てられたほか、社会党・民社党・社民連の歴史的和解と再統合も議論された。 しかし、各選挙で社会党が伸長、逆に民社党は惨敗し、「連合の会」統一候補も民社党系は軒並み落選した。このため、両者の関係悪化は決定的となった。 1989年参院選直後の内閣総理大臣指名選挙で、与野党逆転した参議院では社会党の土井たか子委員長が指名された(衆議院の優越により、自民党の海部俊樹が選出)。決選投票では、野党の多くは共産党も含め土井に投票したが、民社党は白票を投じた。 公明党との距離をめぐっては、党内に対立があった。西村栄一、佐々木良作、永末英一などは公明党との連携を主張し、中道新党構想を提唱したり、社公民路線を目指したのに対し、春日一幸、塚本三郎、大内啓伍などは公明党と距離を置き、自民党と連携しようとした。 公明党との連携派は衆議院中選挙区制のもとで、同じ選挙区に公明党候補がなく、公明党(創価学会)の全面支援で議席を得た議員が多いのに対し、公明党と距離を置いたグループは、同じ選挙区で公明党と議席を争った議員が多い。ただ、1970年代以降、民公両党間の一部で選挙協力を行い、中道勢力の連携を図った。 1993年7月の第40回衆議院議員総選挙で自民党が過半数を割り、同年8月、社会・新生・公明・日本新・民社・さきがけ・社民連・民改連の8党派による細川内閣が発足して民社党は初めて与党となった。民社党委員長の大内啓伍が厚生大臣に就任し、入閣した。 続く羽田内閣でも大内が厚相に留任したが、発足直後に社会党が連立政権から離脱し、羽田内閣は少数与党政権に転落。わずか2ヶ月で退陣に追い込まれ、自社さ連立政権の村山内閣発足により、民社党は10ヶ月で野党に転落した。 同年12月、新進党結党により解党し、約35年の歴史に幕を下ろした。35年間、遂に結党時の議席数を超えられないままであった。なお、新進党への公明党・創価学会の参加に反発した塚本三郎、大内啓伍ら(それぞれ霊友会、立正佼成会から支援を受けていた)は新進党に参加せず、自民党へ入党した。 旧民社党系勢力は、新進党への合流にあたり、新党に社会主義インターナショナルへの加盟を求めたものの却下された。 民社党解党と同時に政治団体「民社協会」が結成され、大半の議員が新進党に合流。新進党解党後は、多くが新党友愛、民主党、民進党を経て国民民主党に参加した。一部、自民党に移籍した者もいる。 民社党全国青年部は国際社会主義青年同盟 (IUSY) に加盟していたが、民社党の解党後は民社ゆーす2001(後に「民社ユース」)と改称した。2003年に解散し、IUSY加盟権のみを継承し民社ユースとは無関係という形で社会主義青年フォーラムが結成された。なお、社会主義青年フォーラムは、2005年7月から9月にかけて旧民社系の役員が辞任や脱退し他の役員に交代。その後、2006年1月のチリ大統領選に関する声明で、チリ社会党候補ミシェル・バチェレの当選を歓迎し、1973年9月11日のチリ社会党サルバドール・アジェンデ政権に対するアウグスト・ピノチェトのクーデターを民社党が擁護したことにつき誤りであった旨を公式に示したが、その後2008年3月の臨時総会をもって解散した。民社ユース末期から解散にかけて、構成員の大多数は民社人権会議に結集、以前から取り組んでいた北朝鮮による日本人拉致問題をバックアップする運動に参加した。 国会では2016年の第24回参議院議員通常選挙で直嶋正行が、2017年の第48回衆議院議員総選挙で川端達夫と高木義明が、2022年の第26回参議院議員通常選挙で柳田稔が引退したため、民社党での国会議員歴のある現職議員は国会から姿を消すこととなった。民社党での党員歴のある現職国会議員には国民民主党の川合孝典、自民党の山谷えり子、高木啓、立憲民主党の渡辺周、熊谷裕人がいる。 1985年4月、党委員長となった塚本三郎は、「民社党」の党名から社会主義を連想する「社」の部分を外し、「民主党」などに改称しようとしたが、春日一幸、佐々木良作らに猛反対されて実現されなかった。 永末英一が委員長になると、「われわれは、ソーシャリストの集団です」と言明し、原点回帰を目指したが、米沢隆らは「民社の『社』は社会ではなく会社の『社』」と反論した。大内啓伍委員長時代も党名から「社」を外し「民主党」などに変えようとしたが、古参幹部や学者、同盟系労組の反対で頓挫。それに替わって、大内は「民主社会主義」「社会主義」の文言を極力使わない手法を用い、“社会主義離れ”を図った。 社会主義を避けたがる勢力と、あくまで民主社会主義の正統派たらんとする勢力に二分されたことが、この党の性格を曖昧でわかりにくいものにした。このため、ブレーンの学者の中にも、「民主社会党ではなく、民間会社党になってしまう」との嘆きが聞かれたこともある。 その一方で、この曖昧さが共産主義にも資本主義にも与しない独自路線であるともいえ、また創価学会という後ろ盾を持つ公明党との差別化がなされていた。 最初に北朝鮮の拉致疑惑を国会で取り上げたのは、1988年1月の衆議院本会議における当時の民社党委員長塚本三郎の代表質問である(1980年の公明党参議院議員の和泉照雄が拉致問題に連なるアベック失踪事件に関して参議院決算委員会で質問をしたことがあるが、質疑応答において北朝鮮という国名は出なかった)。その後も、西村眞悟や荒木和博など旧民社党関係者が積極的に拉致被害者救出のための活動に取り組んでいる。また、民主党政権発足後は拉致問題担当大臣に中井洽、柳田稔、中野寛成、田中慶秋と旧民社党の出身者が就任した。 (以下、『民社党の光と影』を参照) 「その理念は、民主社会主義に基づき、資本主義をあらため、左右の全体主義に対決し、個人人格の自由な発展をもたらす社会の実現」である。 「そのための改革の目標は、政治の秩序、経済の秩序、社会生活の秩序、教育と文化、国際秩序にあり、この変革を通じて福祉国家を建設する。特に外交と安全保障については、自主独立の立場から、自国を守るためには最小限の自衛措置を必要」とする。 民社党は文化人が関わることが多かった。1962年4月には、『人生劇場』を描いた尾崎士郎、日本ミュージカルの草分けを担った菊田一夫、NHKの長寿番組『国会討論会』(現『日曜討論』)の司会を務めた唐島基智三、平林たい子文学賞でおなじみの平林たい子など文化人たちが「民社党を励ます会」を発起している。平林たい子は、民主社会協会の理事も務めている。また、民社党はキャンペーンガールを公募していた時期もあり、その中からは女優の市川翔子や、のちにブルーリボン賞主演女優賞に飾られた片岡礼子などを輩出した。 1980年代後半から1990年代になると党勢が行き詰まり、看板の政策理念だった「福祉国家」路線も、日常生活に密着した個別具体的な福祉施策としては公明党の福祉社会トータルプランに先を越され、かつて福祉国家を完全否定していた共産党・社会党左派や、別の角度から否定していた自民党と中央・地方官庁も、生活要求型の福祉スローガンを掲げたため次第に独自性を失っていった。 そこで民社党は「労働福祉」をメインとする観点から転換を模索した。「消費者」に的を絞り、宮澤内閣が打ち出した資産倍増論のベースだった「生活大国づくり」より数年前に、「生活先進国づくり」という概念を打ち出した。組織労働者もしくは未組織を含めた労働者を軸としながらも、そこには収まりきらない幅広い層の国民にアピールすることを狙った民主社会主義の新解釈とも言えた。経済力は世界第二位ながら、庶民の暮らしぶりはその水準に達しないのは、消費財を含む内外価格差のためであることに目をつけた。しかし自民党との連立志向が強い春日・塚本・大内派と、社公民連による政権交代を目指し社会党の現実路線転換の遅れに目をつぶる佐々木・永末・米沢派の抗争が激化し、十分に議論を深められなかった。 1987年の連合結成による労働運動の理念的統一で、それ以降、社会党、民社党、社民連、連合参議院(のちの民主改革連合)などと、社会民主主義=民主社会主義勢力結集の社会的基盤が整い、ようやく西欧的福祉国家路線の国づくりをする土台ができあがろうとした時期はあった。しかし社会党が、結果として与党・自民党の議席ではなく他の野党の議席を奪ったために、「社公民路線」の社会民主主義勢力を主体とした政権交代の可能性をさらに遠ざけてしまった。さらに近親憎悪もあり、民社党は「社公民路線」による非自民・非共産連立政権成立と政策転換を捨て、「自公民路線」プラスアルファの「政策転換なき政権交代(自民党勢力内の権力闘争)」に巻き込まれていった。1990年代前半の「政治改革」と称する流れの中で、社会党も委員長が、国対政治に肯定的な田邊誠、山花貞夫と変わり、連合会長の山岸章も加わって、小沢一郎グループとの連携を選択して、小選挙区制導入に邁進した。 ただし、社会民主主義=民主社会主義は、ヨーロッパ各国で1990年代以降も続々と社会民主主義=民主社会主義政党による中道左派政権が誕生するなど、新自由主義的経済政策による格差拡大などの市場の失敗が批判される中で、対立軸として価値が見直された。また敵対していた共産主義は、1980年代以降の冷戦の終結および東欧・ソ連共産圏の崩壊により衰退し、日本でも大きく力を失った。一方で、民社党に代表される中道勢力自体は衰退したものの、新進党解党後に発足した新党友愛が母体の一つとなった民主党は自民党に対抗する2大政党としての立場を確立。また、民主党が掲げる理念には民主中道など民社党の理念に近い部分もあり、さらに労働運動においても連合の方針はほぼ同盟のものを踏襲しており、結果として民主党・連合の中に民社党・同盟のスタンスが承継されたと捉えることもできる。 2016年に民主党から改称し結成された政党である民進党は、2017年の衆院選直前に小池百合子代表率いる希望の党と枝野幸男代表率いる立憲民主党に事実上分裂した。2018年5月7日には希望の党所属の衆議院議員の大半と参議院の民進党議員が中心となって国民民主党を設立した。その際参議院民進党に在籍していた旧総評系の組織内議員や一部のリベラル系議員は民進党を離党して立憲民主党に参加した。国民民主党に残留した連合の組織内議員は旧同盟系が大半となり民社党・同盟の流れは国民民主党に受け継がれることになった(その後、2020年に旧・国民民主党は新・国民民主党と新・立憲民主党に再度分割されたが、民社協会は新・国民民主党と協力・交流関係にある)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "民社党(みんしゃとう、略称:民社、英: Democratic Socialist Party、略称: DSP)は、かつて存在した日本の政党。民主社会主義、右派社会民主主義政党である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "西尾末広、片山哲、水谷長三郎ら日本社会党を離党した右派の国会議員によって、1960年1月24日に結成された。結成時の党名は民主社会党(みんしゅしゃかいとう)。反共産主義・反ソ連を掲げる。1969年11月に改称し、1994年12月、新進党の結成に伴い解散した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1959年6月の参院選敗北の総括と60年安保闘争の運動方針をめぐって、同年10月に社会党右派の西尾末広派が日本社会党から脱党。さらに同じ右派の河上丈太郎派の一部も同調し離党。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1960年1月24日、民主社会党(みんしゅしゃかいとう)の結党大会が九段会館で開催された。西尾末広が中央執行委員長(党首)に、曽祢益が書記長に就任した。結党時の国会議員の参加者は衆議院38人、参議院16人。その後断続的に参加者があり、最終的に衆議院40人、参議院17人となった。1969年11月に民社党に名称を改称した。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "民主社会主義に基づき、混合経済による福祉国家建設を掲げ、共産主義に対する強い敵意を特徴とした。自らを国民勤労者の党と規定し、「参加する福祉」、減量経営のための公務員削減、官公労のストライキ規制などを主張。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当初は駐留なき安保を唱え、のちには日米安全保障条約のより一層の強化、超法規発言で自民党政権に解任された栗栖弘臣元統合幕僚会議議長を支持して公認候補にするなど、有事立法制定を掲げて自民党以上に右翼的・タカ派的であったと評されるも、その一方で、憲法第9条改訂については反対して野党色の保持を図っていた。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国中央情報局 (CIA) が、自由民主党有力者や、社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に資金提供し、民社党結成を促していたことが2006年7月18日、アメリカ国務省の外交史料集で公開された。結党までに7万5000ドルの資金援助があり、その後も毎年同程度の援助があったが、1964年に打ち切られたという。他、財界の支援を受けており、経団連が献金していた。ただし、経団連は自民党の十分の一という枠を設けていたため、基本的には労働組合からの支援額が割合としては大きかった。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「左右の全体主義と対決」を主張し、福祉国家建設、中産階級国家を理念としていた。党が掲げる「民主社会主義」とは、革命を否定して代議制民主主義を通じて労働者の権利擁護、福祉増進を行い、合法的・民主的に社会主義の理想を実現していこうとする立場であり、西欧・北欧の社会民主主義政党の理念を手本に、自らを国民政党と規定した。国際面では各国の社会民主主義・民主社会主義政党が参加する社会主義インターナショナルに加盟した。結党時は5年以内の政権獲得を目標としていた。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「左右の全体主義との対決」とは、共産主義とファシズムに反対するという意味だが、特に反共を優先し、日本共産党を厳しく批判した。当時は日本社会党もマルクス・レーニン主義を色濃く残しながら「社会民主主義」を掲げ始めており、その違いを強調するために、「民社党の掲げる民主社会主義」と社会民主主義は違うと主張した。", "title": "沿革と概要" }, { 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"なお、「創憲会議」は2005年2月に「創憲」を考えるための提言書を発表。国旗・国歌の明文化、再軍備による積極的な国際貢献、徴兵制禁止、首相権限強化、改憲要件の緩和(国会の発議で三分の二以上の賛成を得れば国民投票は不要とするなど)などを提唱した。同年10月、この提言に基づき、「創憲会議 新憲法草案」を発表した。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "党勢は、結党直後の1960年11月の衆院選で40から17議席と大きく落ち込んだ。その後、しばらくは20 - 30議席前後で推移。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1970年代以降、公明党・新自由クラブ・社会民主連合の中道政党が伸長すると共に、これら諸政党と協力する姿勢を取った。特に公明党との「公民協力」は広く行われたものの、成果を出すまでには至らなかった。そうした中でも多党化傾向が進展した1970年代後半から1980年代半ばに掛けて党勢回復に結実。1983年12月の第37回衆議院議員総選挙では、追加公認を含めると衆院で結党時の党勢に迫る39議席を獲得した。中道結集こそが、1976年12月、1979年9月、1983年12月の衆院総選挙で、自民党を過半数割れさせる原動力だったとも指摘されている。それに気づいた自民党は、1980年6月、1986年7月に衆参同日選挙に打って出て、いずれも大勝する。これは、同日選にすることで参院で選挙協力が成立しても、衆院の選挙区では議席を争うことになり、勢力結集が極めて困難になるためである。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "社会党とは何度も和解の試みがなされ、選挙協力も行ったが、民社党は原発・日米安保容認を要求するのが常であった。社会党は民社党、公明党の要求に沿い、共産党と距離を置き、中道左派による野党連携を取ろうとした。これを「社公民路線」と呼ぶ。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "しかし、民社党と公明党は1970年代から国対政治を始めた自民党の田中角栄らとの連携を築いたため、「自公民路線」と呼ばれた。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1987年の連合結成により、社公民3党は再び接近し、1989年7月の参院選、1990年2月の衆院選、1992年7月の参院選では社公民協力のため連合による「連合の会」統一候補が立てられたほか、社会党・民社党・社民連の歴史的和解と再統合も議論された。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "しかし、各選挙で社会党が伸長、逆に民社党は惨敗し、「連合の会」統一候補も民社党系は軒並み落選した。このため、両者の関係悪化は決定的となった。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1989年参院選直後の内閣総理大臣指名選挙で、与野党逆転した参議院では社会党の土井たか子委員長が指名された(衆議院の優越により、自民党の海部俊樹が選出)。決選投票では、野党の多くは共産党も含め土井に投票したが、民社党は白票を投じた。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "公明党との距離をめぐっては、党内に対立があった。西村栄一、佐々木良作、永末英一などは公明党との連携を主張し、中道新党構想を提唱したり、社公民路線を目指したのに対し、春日一幸、塚本三郎、大内啓伍などは公明党と距離を置き、自民党と連携しようとした。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "公明党との連携派は衆議院中選挙区制のもとで、同じ選挙区に公明党候補がなく、公明党(創価学会)の全面支援で議席を得た議員が多いのに対し、公明党と距離を置いたグループは、同じ選挙区で公明党と議席を争った議員が多い。ただ、1970年代以降、民公両党間の一部で選挙協力を行い、中道勢力の連携を図った。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1993年7月の第40回衆議院議員総選挙で自民党が過半数を割り、同年8月、社会・新生・公明・日本新・民社・さきがけ・社民連・民改連の8党派による細川内閣が発足して民社党は初めて与党となった。民社党委員長の大内啓伍が厚生大臣に就任し、入閣した。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "続く羽田内閣でも大内が厚相に留任したが、発足直後に社会党が連立政権から離脱し、羽田内閣は少数与党政権に転落。わずか2ヶ月で退陣に追い込まれ、自社さ連立政権の村山内閣発足により、民社党は10ヶ月で野党に転落した。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "同年12月、新進党結党により解党し、約35年の歴史に幕を下ろした。35年間、遂に結党時の議席数を超えられないままであった。なお、新進党への公明党・創価学会の参加に反発した塚本三郎、大内啓伍ら(それぞれ霊友会、立正佼成会から支援を受けていた)は新進党に参加せず、自民党へ入党した。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "旧民社党系勢力は、新進党への合流にあたり、新党に社会主義インターナショナルへの加盟を求めたものの却下された。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "民社党解党と同時に政治団体「民社協会」が結成され、大半の議員が新進党に合流。新進党解党後は、多くが新党友愛、民主党、民進党を経て国民民主党に参加した。一部、自民党に移籍した者もいる。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "民社党全国青年部は国際社会主義青年同盟 (IUSY) に加盟していたが、民社党の解党後は民社ゆーす2001(後に「民社ユース」)と改称した。2003年に解散し、IUSY加盟権のみを継承し民社ユースとは無関係という形で社会主義青年フォーラムが結成された。なお、社会主義青年フォーラムは、2005年7月から9月にかけて旧民社系の役員が辞任や脱退し他の役員に交代。その後、2006年1月のチリ大統領選に関する声明で、チリ社会党候補ミシェル・バチェレの当選を歓迎し、1973年9月11日のチリ社会党サルバドール・アジェンデ政権に対するアウグスト・ピノチェトのクーデターを民社党が擁護したことにつき誤りであった旨を公式に示したが、その後2008年3月の臨時総会をもって解散した。民社ユース末期から解散にかけて、構成員の大多数は民社人権会議に結集、以前から取り組んでいた北朝鮮による日本人拉致問題をバックアップする運動に参加した。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "国会では2016年の第24回参議院議員通常選挙で直嶋正行が、2017年の第48回衆議院議員総選挙で川端達夫と高木義明が、2022年の第26回参議院議員通常選挙で柳田稔が引退したため、民社党での国会議員歴のある現職議員は国会から姿を消すこととなった。民社党での党員歴のある現職国会議員には国民民主党の川合孝典、自民党の山谷えり子、高木啓、立憲民主党の渡辺周、熊谷裕人がいる。", "title": "沿革と概要" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1985年4月、党委員長となった塚本三郎は、「民社党」の党名から社会主義を連想する「社」の部分を外し、「民主党」などに改称しようとしたが、春日一幸、佐々木良作らに猛反対されて実現されなかった。", "title": "党名改称問題" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "永末英一が委員長になると、「われわれは、ソーシャリストの集団です」と言明し、原点回帰を目指したが、米沢隆らは「民社の『社』は社会ではなく会社の『社』」と反論した。大内啓伍委員長時代も党名から「社」を外し「民主党」などに変えようとしたが、古参幹部や学者、同盟系労組の反対で頓挫。それに替わって、大内は「民主社会主義」「社会主義」の文言を極力使わない手法を用い、“社会主義離れ”を図った。", "title": "党名改称問題" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "社会主義を避けたがる勢力と、あくまで民主社会主義の正統派たらんとする勢力に二分されたことが、この党の性格を曖昧でわかりにくいものにした。このため、ブレーンの学者の中にも、「民主社会党ではなく、民間会社党になってしまう」との嘆きが聞かれたこともある。", "title": "党名改称問題" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "その一方で、この曖昧さが共産主義にも資本主義にも与しない独自路線であるともいえ、また創価学会という後ろ盾を持つ公明党との差別化がなされていた。", "title": "党名改称問題" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "最初に北朝鮮の拉致疑惑を国会で取り上げたのは、1988年1月の衆議院本会議における当時の民社党委員長塚本三郎の代表質問である(1980年の公明党参議院議員の和泉照雄が拉致問題に連なるアベック失踪事件に関して参議院決算委員会で質問をしたことがあるが、質疑応答において北朝鮮という国名は出なかった)。その後も、西村眞悟や荒木和博など旧民社党関係者が積極的に拉致被害者救出のための活動に取り組んでいる。また、民主党政権発足後は拉致問題担当大臣に中井洽、柳田稔、中野寛成、田中慶秋と旧民社党の出身者が就任した。", "title": "北朝鮮拉致問題での役割" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "(以下、『民社党の光と影』を参照)", "title": "政策の歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "「その理念は、民主社会主義に基づき、資本主義をあらため、左右の全体主義に対決し、個人人格の自由な発展をもたらす社会の実現」である。", "title": "政策の歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「そのための改革の目標は、政治の秩序、経済の秩序、社会生活の秩序、教育と文化、国際秩序にあり、この変革を通じて福祉国家を建設する。特に外交と安全保障については、自主独立の立場から、自国を守るためには最小限の自衛措置を必要」とする。", "title": "政策の歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "民社党は文化人が関わることが多かった。1962年4月には、『人生劇場』を描いた尾崎士郎、日本ミュージカルの草分けを担った菊田一夫、NHKの長寿番組『国会討論会』(現『日曜討論』)の司会を務めた唐島基智三、平林たい子文学賞でおなじみの平林たい子など文化人たちが「民社党を励ます会」を発起している。平林たい子は、民主社会協会の理事も務めている。また、民社党はキャンペーンガールを公募していた時期もあり、その中からは女優の市川翔子や、のちにブルーリボン賞主演女優賞に飾られた片岡礼子などを輩出した。", "title": "民社党と文化人" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1980年代後半から1990年代になると党勢が行き詰まり、看板の政策理念だった「福祉国家」路線も、日常生活に密着した個別具体的な福祉施策としては公明党の福祉社会トータルプランに先を越され、かつて福祉国家を完全否定していた共産党・社会党左派や、別の角度から否定していた自民党と中央・地方官庁も、生活要求型の福祉スローガンを掲げたため次第に独自性を失っていった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "そこで民社党は「労働福祉」をメインとする観点から転換を模索した。「消費者」に的を絞り、宮澤内閣が打ち出した資産倍増論のベースだった「生活大国づくり」より数年前に、「生活先進国づくり」という概念を打ち出した。組織労働者もしくは未組織を含めた労働者を軸としながらも、そこには収まりきらない幅広い層の国民にアピールすることを狙った民主社会主義の新解釈とも言えた。経済力は世界第二位ながら、庶民の暮らしぶりはその水準に達しないのは、消費財を含む内外価格差のためであることに目をつけた。しかし自民党との連立志向が強い春日・塚本・大内派と、社公民連による政権交代を目指し社会党の現実路線転換の遅れに目をつぶる佐々木・永末・米沢派の抗争が激化し、十分に議論を深められなかった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1987年の連合結成による労働運動の理念的統一で、それ以降、社会党、民社党、社民連、連合参議院(のちの民主改革連合)などと、社会民主主義=民主社会主義勢力結集の社会的基盤が整い、ようやく西欧的福祉国家路線の国づくりをする土台ができあがろうとした時期はあった。しかし社会党が、結果として与党・自民党の議席ではなく他の野党の議席を奪ったために、「社公民路線」の社会民主主義勢力を主体とした政権交代の可能性をさらに遠ざけてしまった。さらに近親憎悪もあり、民社党は「社公民路線」による非自民・非共産連立政権成立と政策転換を捨て、「自公民路線」プラスアルファの「政策転換なき政権交代(自民党勢力内の権力闘争)」に巻き込まれていった。1990年代前半の「政治改革」と称する流れの中で、社会党も委員長が、国対政治に肯定的な田邊誠、山花貞夫と変わり、連合会長の山岸章も加わって、小沢一郎グループとの連携を選択して、小選挙区制導入に邁進した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ただし、社会民主主義=民主社会主義は、ヨーロッパ各国で1990年代以降も続々と社会民主主義=民主社会主義政党による中道左派政権が誕生するなど、新自由主義的経済政策による格差拡大などの市場の失敗が批判される中で、対立軸として価値が見直された。また敵対していた共産主義は、1980年代以降の冷戦の終結および東欧・ソ連共産圏の崩壊により衰退し、日本でも大きく力を失った。一方で、民社党に代表される中道勢力自体は衰退したものの、新進党解党後に発足した新党友愛が母体の一つとなった民主党は自民党に対抗する2大政党としての立場を確立。また、民主党が掲げる理念には民主中道など民社党の理念に近い部分もあり、さらに労働運動においても連合の方針はほぼ同盟のものを踏襲しており、結果として民主党・連合の中に民社党・同盟のスタンスが承継されたと捉えることもできる。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2016年に民主党から改称し結成された政党である民進党は、2017年の衆院選直前に小池百合子代表率いる希望の党と枝野幸男代表率いる立憲民主党に事実上分裂した。2018年5月7日には希望の党所属の衆議院議員の大半と参議院の民進党議員が中心となって国民民主党を設立した。その際参議院民進党に在籍していた旧総評系の組織内議員や一部のリベラル系議員は民進党を離党して立憲民主党に参加した。国民民主党に残留した連合の組織内議員は旧同盟系が大半となり民社党・同盟の流れは国民民主党に受け継がれることになった(その後、2020年に旧・国民民主党は新・国民民主党と新・立憲民主党に再度分割されたが、民社協会は新・国民民主党と協力・交流関係にある)。", "title": "評価" } ]
民社党は、かつて存在した日本の政党。民主社会主義、右派社会民主主義政党である。 西尾末広、片山哲、水谷長三郎ら日本社会党を離党した右派の国会議員によって、1960年1月24日に結成された。結成時の党名は民主社会党(みんしゅしゃかいとう)。反共産主義・反ソ連を掲げる。1969年11月に改称し、1994年12月、新進党の結成に伴い解散した。
{{Otheruses||民社党と略されるその他の政党|民主社会党}} {{混同|社会民主党|社会民主党 (日本 1996-)}} {{政党 |国名 = {{JPN}} |党名 = 民社党<br/><div style="font-size:smaller"> Democratic Socialist Party</div> |ロゴ = [[File:Flag of DSPJ.svg|180px]] |色相 = {{Democratic Socialist Party (Japan)/meta/color}} |成立年月日 = [[1960年]]([[昭和]]35年)[[1月24日]]<ref name="zenshi1118">[[宇野俊一]]ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 [[講談社]]、1991年、1118頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref> |前身政党 = [[日本社会党]](一部)<ref name="nipponica"/> |解散年月日 = [[1994年]]([[平成]]6年)[[12月9日]] |解散理由 = [[新進党]]への合流<ref name="yougoshu">政治・経済教育研究会 編 『政治・経済用語集 第2版』 [[山川出版社]]、2019年、77頁。ISBN 978-4-634-05113-3</ref> |後継政党 = 新進党<ref name="yougoshu"/> |郵便番号 = 105 |本部所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[虎ノ門]]2丁目3番13号<br />第18森ビル6階<br />※[[1985年]](昭和60年)[[12月24日]]より |政治的思想・立場 = [[中道政治|中道]]<ref name="Centrist 1">{{cite book |editor1=James Brown |editor2=Guibourg Delamotte |editor3=Robert Dujarric |url=https://books.google.co.kr/books?id=bQNOEAAAQBAJ&pg=PA24&dq |title=The Abe Legacy: How Japan Has Been Shaped by Abe Shinzo |quote=A coalition of fragments of the old Japan Socialist Party, the former “centrist” Democratic Socialist Party, and disaffected refugees from the LDP, its mastermind was Ozawa Ichiro, the most formidable of Tanaka Kakuei's disciples. |date=2021 |page=24 |publisher=[[Rowman & Littlefield]] |isbn=9781793643315 }}</ref><ref name="Centrist 2">{{cite book |editor1=Michael J Hogan |editor2=Michael J. 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[https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E7%A4%BE%E5%85%9A-140042#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) - 民社党] [[コトバンク]]. 2018年8月31日閲覧。</ref><br />[[社会民主主義]]<ref name="nipponica"/><br />[[民主社会主義]]<ref name="nipponica2">[[田口富久治]]. [https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E7%A4%BE%E5%85%9A-140042#綱領・政策 日本大百科全書(ニッポニカ) - 民社党 #綱領・政策] [[コトバンク]]. 2018年8月31日閲覧。</ref><ref name="daijisen">[https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E7%A4%BE%E5%85%9A-140042#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞泉 第三版] [[コトバンク]]. 2018年8月31日閲覧。</ref><br/>[[社会自由主義]]<ref name="及川(2019)">{{Cite book|和書|author=及川智洋 |title=戦後革新勢力の対立と分裂 |chapter=第5章 第3節 民社党---社会党から分裂した社民主義政党が、反共の新自由主義政党へ |series=法政大学 博士論文(政治学) 32675甲第451号 |date=2019-03 |naid=500001352405 |url=https://doi.org/10.15002/00021756}}</ref><br/>[[福祉国家論|福祉国家]]<ref name="nipponica2"/><br />[[反共主義]]<ref name="nipponica">[[田口富久治]]. [https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E7%A4%BE%E5%85%9A-140042#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) - 民社党] [[コトバンク]]. 2018年8月31日閲覧。</ref> |機関紙 = 『週刊民社』<br />『革新』(月刊誌。後に『KAKUSHIN』に改称) |国際組織 = [[社会主義インターナショナル]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-75597#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) - 社会主義インターナショナル] [[コトバンク]]. 2018年8月31日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-75597#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 社会主義インターナショナル] [[コトバンク]]. 2018年8月31日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-75597#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版 - しゃかいしゅぎインターナショナル] [[コトバンク]]. 2018年8月31日閲覧。</ref> |その他 = }} {{社会民主主義}} '''民社党'''(みんしゃとう、略称:'''民社'''、{{lang-en-short|Democratic Socialist Party、略称: DSP}})は、かつて存在した[[日本の政党]]。[[民主社会主義]]<ref name="nipponica2" /><ref name="daijisen" />、[[社会党右派|右派]][[社会民主主義]][[政党]]である<ref name="nipponica" />。 [[西尾末広]]、[[片山哲]]、[[水谷長三郎]]ら[[日本社会党]]を離党した[[社会党右派|右派]]の[[日本の国会議員|国会議員]]によって、1960年1月24日に結成された。結成時の党名は'''民主社会党'''(みんしゅしゃかいとう)。[[反共主義|反共産主義]]・反ソ連を掲げる{{Sfn|『日本政治年鑑 1960年版』|pp=195-197}}。[[1969年]]11月に改称し、[[1994年]]12月、[[新進党]]の結成に伴い解散した。 == 沿革と概要 == === 結党 === [[File:Democratic-Socialist-Party-1.jpg|thumb|250px|1960年1月24日、民主社会党の結党大会が[[九段会館]]で開催された。]] [[1959年]]6月の[[第5回参議院議員通常選挙|参院選]]敗北の総括と[[60年安保闘争]]の運動方針をめぐって、同年10月に[[社会党右派]]の[[西尾末広]]派が[[日本社会党]]から脱党。さらに同じ右派の[[河上丈太郎]]派の一部も同調し離党。 1960年1月24日、'''民主社会党'''(みんしゅしゃかいとう)の結党大会が[[九段会館]]で開催された。[[西尾末広]]が[[党首|中央執行委員長(党首)]]に、[[曽祢益]]が[[書記長]]に就任した。結党時の国会議員の参加者は衆議院38人、参議院16人{{Sfn|『日本政治年鑑 1960年版』|pp=195-197}}。その後断続的に参加者があり、最終的に[[衆議院]]40人、[[参議院]]17人となった<ref name="brit">[https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A-140066#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典] [[コトバンク]]. 2018年8月31日閲覧。</ref>。[[1969年]]11月に'''民社党'''に名称を改称した。 [[民主社会主義]]に基づき、[[混合経済]]による[[福祉国家論|福祉国家]]建設を掲げ、[[共産主義]]に対する[[反共主義|強い敵意]]を特徴とした<ref name="nipponica2"/>。自らを[[国民政党|国民勤労者の党]]と規定し、「参加する福祉」、減量経営のための公務員削減、官公労の[[ストライキ]]規制などを主張<ref name="nipponica2"/>。 当初は駐留なき安保を唱え、のちには[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]のより一層の強化、超法規発言で[[自由民主党 (日本)|自民党]][[政権]]に解任された[[栗栖弘臣]]元[[統合幕僚会議議長]]を支持<ref>『国家と安全保障--栗栖弘臣元統幕議長に聞く』民社党本部教宣局「革新」60-72頁、1980年</ref>して公認候補<ref>「『軍縮問題資料』月刊誌消える」東京新聞2005年1月30日</ref>にするなど、[[有事立法]]制定を掲げて自民党以上に[[右翼]]的・[[タカ派]]的であったと評されるも、その一方で、[[日本国憲法第9条|憲法第9条]]改訂については反対して[[野党]]色の保持を図っていた<ref name="nipponica2"/>。 [[中央情報局|アメリカ合衆国中央情報局]] (CIA) が、自由民主党有力者や、社会党右派を指すとみられる「[[左翼|左派]]穏健勢力」に資金提供し、民社党結成を促していたことが[[2006年]][[7月18日]]、[[アメリカ合衆国国務省|アメリカ国務省]]の外交史料集で公開された。結党までに7万5000ドルの資金援助があり、その後も毎年同程度の援助があったが、[[1964年]]に打ち切られたという<ref>[https://web.archive.org/web/20090131050733/http://www.47news.jp/CN/200607/CN2006071901000837.html 左派弱体化へ秘密資金 米CIA、保革両勢力に] [[共同通信]]</ref><ref>[http://www.usfl.com/Daily/News/06/07/0719_017.asp?id=49581 左派弱体化狙い、秘密資金提供 - CIAが50年前、日本の保革両勢力に]U.S. FrontLine</ref>。他、財界の支援を受けており、経団連が献金していた。ただし、経団連は自民党の十分の一という枠を設けていたため、基本的には労働組合からの支援額が割合としては大きかった。 === 民主社会主義と反共主義 === 「左右の[[全体主義]]と対決」を主張し、[[福祉国家]]建設、[[中流階級|中産階級]]国家を理念としていた。党が掲げる「民主社会主義」とは、革命を否定して代議制[[民主主義]]を通じて労働者の権利擁護、福祉増進を行い、合法的・民主的に社会主義の理想を実現していこうとする立場であり、[[西ヨーロッパ|西欧]]・[[北ヨーロッパ|北欧]]の社会民主主義政党の理念を手本に、自らを国民政党と規定した。国際面では各国の社会民主主義・民主社会主義政党が参加する社会主義インターナショナルに加盟した。結党時は5年以内の政権獲得を目標としていた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=i_BiCQDhAD4 昭和35年3月 中日ニュース No.321_1「西尾さんの農村行脚」] 中日映画社</ref>。 「左右の全体主義との対決」とは、共産主義と[[ファシズム]]に反対するという意味だが、特に反共を優先し、[[日本共産党]]を厳しく批判した。当時は日本社会党も[[マルクス・レーニン主義]]を色濃く残しながら「社会民主主義」<ref group="注釈">もともと「社会民主主義」は共産主義の実践面を指し、修正を加えながらもマルクス主義の影響を色濃く残していた。しかし[[1951年]]社会主義インターナショナルが民主的[[社会主義]]を採択して[[マルクス主義]]の[[階級闘争]]的な考え方と絶縁した。こうして、西欧の社会民主主義政党は民主社会主義の路線を採り、社会民主主義と民主社会主義はほとんど同義となっていた。しかし、日本では社会民主主義にはいまだ共産主義的な考えを含意していたため違いを強調する必要があったのである。</ref>を掲げ始めており、その違いを強調するために、「民社党の掲げる民主社会主義」と社会民主主義は違うと主張した。 外交においても同様であり、[[ソビエト連邦|ソ連]]を糾弾する一方で[[大韓民国|韓国]]、[[朴正煕]]政権や[[スペイン]]、[[フランシスコ・フランコ |フランコ]]政権など反共反ソで一致すれば[[権威主義]]的な体制も支持した。ソ連と同じ[[共産党]][[独裁政治|独裁国家]]でも[[中ソ対立]]から当時米国に接近していた[[中華人民共和国]]に訪中団を派遣して「民社党は日中関係の正常化をはばむ反動勢力と対決して闘う」として[[一つの中国]]を支持する共同声明で[[日中国交正常化]]に一役を担い<ref>{{Cite web|和書|url=https://worldjpn.net/documents/texts/JPCH/19720413.D1J.html|title=民社党訪中代表団と中日友好協会代表団の共同声明|accessdate=2016-11-04|publisher=東京大学東洋文化研究所}}</ref><ref>民社党本部教宣局「日本民社党訪中団と中国中日友好協会代表団との共同声明」革新23号19~21頁、1972年</ref>、[[チリ・クーデター]]([[リチャード・ニクソン]]米大統領とCIAの支援を受けた軍部によるクーデター<ref>[http://democracynow.jp/dailynews/13/09/10/3 「チリ経済を逼迫させろ」: 極秘文書が明らかにする1973年のチリ・クーデターを支援したニクソンとキッシンジャーの役割] [[デモクラシー・ナウ!]]</ref>で選挙を通じて民主的に誕生した社会主義政府が崩壊)による[[新自由主義]]的な[[アウグスト・ピノチェト|ピノチェト]]政権成立の際に民社党代表としてチリを視察した[[塚本三郎]]衆院議員が同クーデターを「天の声」と絶賛するなど設立経緯からCIAと繋がりを持つ民社党の[[親米]]姿勢は鮮明だった。なお日本社会党はソ連、中国、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[ベトナム]]、[[キューバ]]など[[東側諸国]]の独裁国家に親和的だったが、社会主義インターナショナルや西欧、北欧の社民主義政党は反共であると同時に、これらの[[軍事政権]]や[[開発独裁]]政権などを「支持しない」姿勢を示していた。 また、容共でマルクス・レーニン主義の[[日本労働組合総評議会|総評]]や[[全国労働組合総連合|統一労組懇]]に対し、反全体主義、反共の[[労働組合]]である[[全日本労働組合会議]](全労会議)を支持母体とし、[[1964年]]に全労会議が[[全日本労働総同盟]](同盟)と改組された後も支持、協力関係は続いた。国の重要な安全保障を担う[[防衛]]や[[電力]]業界との繋がりが密で、そのため民社党も防衛力維持や[[原子力発電|原発]]推進に熱心であった。 === 国防と憲法認識 === 結党当初においては安保改定に反対するなど防衛問題では社会党右派に近い立場にあったが、[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]の批准では自民党に同調。さらに民社党ブレーンだった[[蠟山政道]]らがまとめた日米安保肯定論が発表された1968年以降は、[[自衛隊]]合憲・日米安保維持(ただし当初は「駐留なき安保」への転換、「事前協議」への拒否権付与を主張)・国会の常任委員会として防衛委員会の設置を主張するなどの方向に動いた。1970年代には自衛隊合憲確認の国会決議の必要性や[[有事法制]]の整備を唱えた。また、1986年に政府の[[国防会議]]を改組し、[[国家安全保障会議 (日本)|安全保障会議]]を設置する際には、その名称を「国家安全保障会議」とするよう唱えた。欧州社民主義政党と同じく、軍備を否定しない立場は、防衛関係労組との繋がりがあったことも要因となった。また政府の[[集団的自衛権]]解釈(保持しているが行使できない)を欺瞞的と言い切り、憲法上は行使が禁止されていないのだから、政策論として行使容認も含めた国民的議論を行うことを政府に呼びかけていた<ref>平成05年01月26日衆院本会議における[[大内啓伍]]の代表質問など</ref>。 憲法への姿勢は、民社党系護憲団体「新護憲」(憲法擁護新国民会議)を設置するなど護憲の立場を取り、1960年代前半の[[憲法調査会|内閣憲法調査会]]への参加も見送った。ただ、[[専守防衛]]に立つ自衛隊は合憲との立場をとり、社会党との違いを示した。[[1992年]]には論憲を前提に党内に「世界平和と憲法問題特別委員会」を設置し、翌年3月の同委員会の中間報告では憲法9条2項を改正し、自衛隊、[[文民統制]]の明文化や国際貢献の必要性を提言したが、支持労組の反発もあり、[[憲法改正論議|改憲]]が党の方針となることはなかったが、先述の通り集団的自衛権の行使は憲法上可能との立場をとっていた。一方、護憲団体だった「新護憲」は民社党解党後、「論憲会議」を経て、現在は改憲団体となり「創憲会議」に衣替えしている。 なお、「創憲会議」は[[2005年]]2月に[https://archive.is/Ds1E4 「創憲」を考えるための提言書]を発表。[[日本の国旗|国旗]]・[[君が代|国歌]]の明文化、再軍備による積極的な国際貢献、[[徴兵制]]禁止、[[内閣総理大臣|首相]]権限強化、改憲要件の緩和(国会の発議で三分の二以上の賛成を得れば国民投票は不要とするなど)などを提唱した。同年10月、この提言に基づき、「創憲会議 新憲法草案」を発表した<ref>(http://jpconstitution.blog129.fc2.com/blog-entry-25.html 創憲会議/編 「新憲法草案」:憲法改正社 管理ページ)<br> ([http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/issue/0537.pdf 創憲会議 新憲法草案] ※ 国会図書館 Pdf</ref>。 === 中道提携と自民党・社会党との関係 === 党勢は、結党直後の[[第29回衆議院議員総選挙|1960年11月の衆院選]]で40から17議席と大きく落ち込んだ。その後、しばらくは20 - 30議席前後で推移。 1970年代以降、[[公明党]]・[[新自由クラブ]]・[[社会民主連合]]の[[中道政治|中道]]政党が伸長すると共に、これら諸政党と協力する姿勢を取った。特に公明党との「公民協力」は広く行われたものの、成果を出すまでには至らなかった。そうした中でも多党化傾向が進展した[[1970年代]]後半から[[1980年代]]半ばに掛けて党勢回復に結実。1983年12月の[[第37回衆議院議員総選挙]]では、[[追加公認]]を含めると衆院で結党時の党勢に迫る39議席を獲得した。中道結集こそが、1976年12月、1979年9月、1983年12月の衆院総選挙で、自民党を過半数割れさせる原動力だったとも指摘されている。それに気づいた自民党は、1980年6月、1986年7月に[[衆参同日選挙]]に打って出て、いずれも大勝する。これは、同日選にすることで参院で選挙協力が成立しても、衆院の選挙区では議席を争うことになり、勢力結集が極めて困難になるためである。 社会党とは何度も和解の試みがなされ、選挙協力も行ったが、民社党は原発・日米安保容認を要求するのが常であった。社会党は民社党、公明党の要求に沿い、共産党と距離を置き、[[中道左派]]による野党連携を取ろうとした。これを「'''[[社公民路線]]'''」と呼ぶ。 しかし、民社党と公明党は1970年代から[[国対政治]]を始めた自民党の[[田中角栄]]らとの連携を築いたため、「'''[[自公民路線]]'''」と呼ばれた。 1987年の[[日本労働組合総連合会|連合]]結成により、社公民3党は再び接近し、[[第15回参議院議員通常選挙|1989年7月の参院選]]、[[第39回衆議院議員総選挙|1990年2月の衆院選]]、[[第16回参議院議員通常選挙|1992年7月の参院選]]では社公民協力のため連合による「[[民主改革連合|連合の会]]」統一候補が立てられたほか、社会党・民社党・社民連の歴史的和解と再統合も議論された。 しかし、各選挙で社会党が伸長、逆に民社党は惨敗し、「連合の会」統一候補も民社党系は軒並み落選した。このため、両者の関係悪化は決定的となった。 1989年参院選直後の[[内閣総理大臣指名選挙]]で、与野党逆転した参議院では社会党の[[土井たか子]]委員長が指名された([[衆議院の優越]]により、自民党の[[海部俊樹]]が選出)。決選投票では、野党の多くは共産党も含め土井に投票したが、民社党は白票を投じた<ref group="注釈">他に白票を投じたのは、民社党と統一会派を組んだ[[スポーツ平和党]]([[アントニオ猪木|猪木寛至]])、[[横山ノック|山田勇]]。それ以外では[[税金党]]([[野末陳平]]、[[秋山肇]]、[[横溝克己]])であった。</ref>。 === 公明党に対する認識の差異 === 公明党との距離をめぐっては、党内に対立があった。[[西村栄一]]、[[佐々木良作]]、[[永末英一]]などは公明党との連携を主張し、中道新党構想を提唱したり、社公民路線を目指したのに対し、[[春日一幸]]、[[塚本三郎]]、[[大内啓伍]]などは公明党と距離を置き、自民党と連携しようとした。 公明党との連携派は衆議院[[中選挙区制]]のもとで、同じ選挙区に公明党候補がなく、公明党(創価学会)の全面支援で議席を得た議員が多いのに対し、公明党と距離を置いたグループは、同じ選挙区で公明党と議席を争った議員が多い。ただ、1970年代以降、民公両党間の一部で選挙協力を行い、中道勢力の連携を図った。 === 非自民・非共産政権への連立参加、解党 === [[1993年]]7月の[[第40回衆議院議員総選挙]]で自民党が過半数を割り、同年8月、社会・[[新生党|新生]]・公明・[[日本新党|日本新]]・民社・[[新党さきがけ|さきがけ]]・社民連・[[民主改革連合|民改連]]の8党派による[[細川内閣]]が発足して民社党は初めて[[与党]]となった。民社党委員長の[[大内啓伍]]が[[厚生省|厚生大臣]]に就任し、入閣した。 続く[[羽田内閣]]でも大内が厚相に留任したが、発足直後に社会党が[[連立政権]]から離脱し、羽田内閣は少数与党政権に転落。わずか2ヶ月で退陣に追い込まれ、[[自社さ連立政権]]の[[村山内閣]]発足により、民社党は10ヶ月で野党に転落した。 同年12月、[[新進党]]結党により解党し、約35年の歴史に幕を下ろした。35年間、遂に結党時の議席数を超えられないままであった。なお、新進党への[[公明党]]・[[創価学会]]の参加に反発した[[塚本三郎]]、[[大内啓伍]]ら(それぞれ[[霊友会]]、[[立正佼成会]]から支援を受けていた)は新進党に参加せず、自民党へ入党した。 旧民社党系勢力は、新進党への合流にあたり、新党に社会主義インターナショナルへの加盟を求めたものの却下された<ref>『朝日新聞』1994年11月7日 第7面『インタ加盟、新・新党にも』</ref>。 === 解党後 === [[File:1990年代の政党の離合集散.jpg|thumb|right|1990年代の政党の離合集散]] {{Main|民社協会}} 民社党解党と同時に政治団体「[[民社協会]]」が結成され、大半の議員が[[新進党]]に合流。新進党解党後は、多くが[[新党友愛]]、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]、[[民進党]]を経て[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]に参加した。一部、自民党に移籍した者もいる。 民社党全国青年部は[[国際社会主義青年同盟]] (IUSY) に加盟していたが、民社党の解党後は[[民社ユース|民社ゆーす2001]](後に「民社ユース」)と改称した。[[2003年]]に解散し、IUSY加盟権のみを継承し民社ユースとは無関係という形で[[社会主義青年フォーラム]]が結成された。なお、社会主義青年フォーラムは、2005年7月から9月にかけて旧民社系の役員が辞任や脱退し他の役員に交代。その後、2006年1月のチリ大統領選に関する声明で、[[チリ社会党]]候補[[ミシェル・バチェレ]]の当選を歓迎し、1973年9月11日のチリ社会党[[サルバドール・アジェンデ]]政権に対する[[アウグスト・ピノチェト]]のクーデターを民社党が擁護したことにつき誤りであった旨を公式に示したが、その後2008年3月の臨時総会をもって解散した。民社ユース末期から解散にかけて、構成員の大多数は[[民社人権会議]]に結集、以前から取り組んでいた[[北朝鮮による日本人拉致問題]]をバックアップする運動に参加した。 国会では[[2016年]]の[[第24回参議院議員通常選挙]]で[[直嶋正行]]が、[[2017年]]の[[第48回衆議院議員総選挙]]で[[川端達夫]]と[[高木義明]]が、[[2022年]]の[[第26回参議院議員通常選挙]]で[[柳田稔]]が引退したため、民社党での国会議員歴のある現職議員は国会から姿を消すこととなった。民社党での党員歴のある現職国会議員には[[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]]の[[川合孝典]]、自民党の[[山谷えり子]]、[[高木啓]]、[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]の[[渡辺周]]、[[熊谷裕人]]がいる。 == 党名改称問題 == [[1985年]]4月、党委員長となった[[塚本三郎]]は、「民社党」の党名から社会主義を連想する「社」の部分を外し、「民主党」などに改称しようとしたが、[[春日一幸]]、[[佐々木良作]]らに猛反対されて実現されなかった。 [[永末英一]]が委員長になると、「われわれは、ソーシャリストの集団です」と言明し、原点回帰を目指したが、[[米沢隆]]らは「民社の『社』は社会ではなく会社の『社』」と反論した。[[大内啓伍]]委員長時代も党名から「社」を外し「民主党」などに変えようとしたが、古参幹部や学者、同盟系労組の反対で頓挫。それに替わって、大内は「民主社会主義」「社会主義」の文言を極力使わない手法を用い、“社会主義離れ”を図った。 社会主義を避けたがる勢力と、あくまで民主社会主義の正統派たらんとする勢力に二分されたことが、この党の性格を曖昧でわかりにくいものにした。このため、ブレーンの学者の中にも、「民主社会党ではなく、民間会社党になってしまう」との嘆きが聞かれたこともある。 その一方で、この曖昧さが共産主義にも資本主義にも与しない独自路線であるともいえ、また創価学会という後ろ盾を持つ[[公明党]]との差別化がなされていた。 == 北朝鮮拉致問題での役割 == 最初に北朝鮮の拉致疑惑を国会で取り上げたのは、1988年1月の衆議院本会議における当時の民社党委員長[[塚本三郎]]の代表質問である(1980年の公明党参議院議員の[[和泉照雄]]が拉致問題に連なる[[アベック失踪事件]]に関して参議院[[決算委員会]]で質問をしたことがあるが、質疑応答において北朝鮮という国名は出なかった)。その後も、[[西村眞悟]]や[[荒木和博]]など旧民社党関係者が積極的に拉致被害者救出のための活動に取り組んでいる。また、民主党政権発足後は拉致問題担当大臣に[[中井洽]]、[[柳田稔]]、[[中野寛成]]、[[田中慶秋]]と旧民社党の出身者が就任した。 == 政策の歴史 == === 1960年代 === (以下、『民社党の光と影』を参照) 「その理念は、[[民主社会主義]]に基づき、資本主義をあらため、左右の[[全体主義]]に対決し、'''個人人格の自由な発展をもたらす社会'''の実現」である<ref name=":0">{{Cite book|title=民社党の光と影|date=平成20年7月1日(初版)|year=平成20年|publisher=財団法人富士社会教育センター|last=伊藤郁男・黒沢博道}}</ref>。 「そのための改革の目標は、政治の秩序、経済の秩序、社会生活の秩序、教育と文化、国際秩序にあり、この変革を通じて福祉国家を建設する。特に外交と安全保障については、自主独立の立場から、自国を守るためには最小限の自衛措置を必要」とする<ref name=":0">{{Cite book|title=民社党の光と影|date=平成20年7月1日(初版)|year=平成20年|publisher=財団法人富士社会教育センター|last=伊藤郁男・黒沢博道}}</ref>。 # 「西欧の社会主義政党が参加している社会主義インターの'''反共産主義'''の立場」を採る<ref name=":0">{{Cite book|title=民社党の光と影|date=平成20年7月1日(初版)|year=平成20年|publisher=財団法人富士社会教育センター|last=伊藤郁男・黒沢博道}}</ref>。 #* 「自由で民主的な社会、公正な福祉社会をめざした民社党にとって許されざるものは左右の全体主義であった」<ref name=":0" />。 # 「議会制民主主義に立って暴力の連鎖になる革命論を否定」<ref name=":0" />。 #* 「審議拒否は原則として行わず、審議を尽くす。つまり反対の法案であっても社会党のように、暴力的な阻止活動はしない」<ref name=":0" />。 #*1967年10月8日、新左翼による暴力的街頭デモを批判し、「破壊と革命の学生運動から、'''創造と改革の学生運動へ'''」をスローガンとした<ref name=":0" />。 #* 「社会党のように対案を示さず'''『反対のための反対』をすることはしない'''、という方針」<ref name=":0" />。 # 「階級を超え、すべての国民に支えられる国民政党にならなければ政権党にはなれないと主張」<ref name=":0" />(「階級的大衆政党」論<ref>{{Cite book|title=『同盟』「民主社会主義の展開--その思想と歴史の理解のために」|date=1969年|year=|publisher=同盟|last=野田福雄}}</ref>)。 #* 階級革命論のような絶対主義を否定し、二者以上の相互に存在を認め共存することを前提とする相対主義を採用。 # 「国防に対する現実的な路線…自衛隊の存在の肯定」<ref name=":0" />。 # 「院外の大衆運動は議会政治の補完」<ref name=":0" />。 #* 「民社党は、他の野党との「院内共闘」はやっても、院外共闘は原則としてやらなかった。」<ref name=":0" />。 # 「政党と労組との関係に節度を保ち、相互の支配関係を否定」<ref name=":0" />。 # 「野党の国際活動に自制的態度をとり、いわゆる「超党派外交」を推進」<ref name=":0" />。 === 1970年代 === #'''責任野党路線'''を強調。1978年運動方針では「伯仲時代の野党に対する要請は、その決断と行動が、国民生活や政府の重要な政策決定に、より直接的な影響を及ぼす事態が増大し、したがって政党間の思想的、政策的相違の存在を前提としつつも、その相違を強調しあうことよりも、'''お互いの共通点を追求することによって、国家や国民の現実的利益を守ろうとする立場にたつ'''ことである」とされている<ref name=":0" />。国家と国民にとってプラスであれば、与党提案であったとしても、民社党は推進するのである<ref name=":0" />。これについて、[[梅澤昇平]]教授によれば、「与党自民党にとっては『単独採決』で押し切ったのかどうかが気になるところであった。世論を押し切って、1党だけで強行した、というのはまずい。少なくても外国との関係では最悪のパターンとなる。そこで、民社党が審議に応じてくれるかどうかに強い関心があったようだ。」と評論している。条約の締結においては、自民党だけでなく、野党のうち一つが賛成することが外務省の省益になることもあり、自民党外交部から重宝された時代でもあった。 # 牛歩戦術の否定<ref name=":0" />。 # あくまで政権交代をめざすことを維持。結党時に'''「政権をとらぬ政党はネズミをとらぬネコのようなものであり、ナンセンスである」'''と[[西尾末広]]委員長は演説したが、万年野党を批判し、政界再編を目指す<ref name=":0" />。ただし、共産党との共闘は排除する。 # [[公明党]]との本格的な選挙協力を展開。これは「公明党の協力なしでは当選できない議員ができた」ためである<ref name=":0" />。 #有事法制の整備。1978年、[[栗栖弘臣]]統幕僚長の発言を受けて、陸海空の3幕僚長を聴取し、有事法制の整備の先頭に立った。当時、自衛隊は有事でも交通信号を守らなければならないといった信じられない状況が続いていたのであり、そこで自衛隊員を守るための法整備に着手したのが民社党である。 === 1980年代 === #'''「勤労者の福祉国家建設構想」'''を維持<ref name=":0" />。 #消費税法案は条件闘争とし、法案成立を認める。その条件として'''サラリーマン'''への課税偏重を是正する税制案を引き出したことで知られる<ref name=":0" />。また弾力条項を導入したのも民社党である。 #昭和天皇崩御にともない、「民社党は日本の伝統の要である皇室に対して最大限の敬意を評した」<ref name=":0" />。 #マルクス主義のいう「国家悪」理論を否定するとともに、[[ルソー]]流の国家論を否定し、[[ハロルド・ラスキ|ラスキ]]の多元的国家論に接近<ref name=":0" />。「権力機構としての国家自体は、なんらの道徳的価値をもつものではない」ことを党の基本原理としており、マルクス主義に対抗している<ref name=":0" />。また、国民共同体である国家の存在を重視するので、安全保障政策も現実的路線を重視するようにと理論的に導き出していた<ref name=":0" />。非武装政策を否定し、現実的な平和論に依って立つ。そのため当初は日米安保体制に消極的であったが、しだいに積極的評価へ転換する<ref name=":0" />。 #産業政策を推進し、[[石油ショック]]という問題に対応して特別立法を制定<ref name=":0" />。自由市場優先の自民党、国有国管の社共と異なり、自由市場を基本としつつ、政府が[[外部不経済]]を補正するという路線を採る<ref name=":0" />。 #教育臨調を提唱し、中曽根内閣時に推進された<ref name=":0" />。 #大学基本法を提唱し、教育基本法を改正<ref name=":0" />。 #謝罪外交を批判。 #老人保健法制定に賛成。老人医療の安定化を目指したが、この点では社共から攻撃を受けていた<ref name=":0" />。 #大きな政府から'''効率的な政府'''への転換。小さな政府ではなく、行政改革による効率性を重視する。ただし、「党として新自由主義を肯定したことはない」<ref name=":0" />。 === 1990年代 === # 「民主社会主義の理念は、「'''自由、公正、友愛'''」の理念であると定義」<ref name=":0" />。社会主義インターが1989年に定めた「民主社会主義は'''自由、社会正義、連帯'''を求める国際的運動である」という定義に合致している。 #[[労働党 (イギリス)|英国労働党]]にならい、[[第三の道]]を模索する。これは多元的な政治思想の模索なのであり、「全てが一致することはない。むしろ、すべてが一致することは『おかしい』と認識するのが民主社会主義の思想的系譜の伝統である」と[[眞鍋貞樹]]教授が端的に民主社会主義の理念を記している<ref name=":0" />。 #'''タブーなしの憲法論議'''の推進<ref name=":0" />。ただし、「さすがの民社党も憲法改正については党内はまとまらず、改正論議はタブー視しないに留まっている」とある(p.169)<ref name=":0" />。なお民社党出身の[[川端達夫]]は2017年に「憲法を変えさせてはいけないということ。憲法を子や孫の代まで引き継いで手渡したい。」と述べているが<ref name=":1">{{Cite journal|author=朝日新聞|year=2017年10月12日|title=衆院選候補者に聞く 1区 /滋賀県|journal=朝日新聞|volume=滋賀全県・1地方|page=31}}</ref>、[[民社党と語る会]]の創憲主義との間に齟齬がある。 #非武装中立路線などの幻想的政策を排除して、'''現実的安全保障政策'''を推進。1992年、国連のカンボジアへのPKO派遣について、自由民主党、民社党、公明党の三党で二年近くかけて法案を成立させた<ref name=":0" />。対する社会党は憲法違反として牛歩戦術を採用した。しかし、民社党は「国際貢献のためには人的貢献が不可欠であること、その中心は自己完結できる自衛隊以外にはないこと、憲法条文にも、国際社会で名誉ある地位を占めたいと思う、とあり、憲法の精神に合致すること」を理由にして、PKOへの自衛隊の派遣を政府に要求したのである。 #民社党は「'''創憲'''」、公明党は「'''加憲'''」を党是としていた。政策研究フォーラム(旧民社研)の法律学者や民社党と語る会のメンバーが創憲会議をつくり、『新憲法草案』を平成18年に発表している<ref name=":0" />。 === 2000年代 === # 民主党の旧民社党議員によって構成される「創憲会議」により『新憲法草案』が公表されている(2005年)。これは『国を創る 憲法を創る―新憲法草案』という題が付され、市販されている。前文と序章、計 11 章 116 条で構成されている。序章、第1章天皇、第2章権利および義務、第3章立法権、第4章執政権、第5章司法権、第6章憲法裁判所、第7章財政、第8章地方自治、第9章改正、第10章最高法規となっている。『「日本型・第三の道」を求めて』という章では、自民党の憲法草案との比較がされている。 === 民社党の防衛政策 === #1965年、国会に常任の防衛委員会を設置するように働きかけ、26年をかけて、1991年に実現している<ref name=":0" />。シビリアン・コントロールを確立した。 #1968年、『自主防衛の五原則』を発表し、1970年に中曽根防衛長官が「専守防衛」という概念を採択した<ref name=":0" />。 #1978年、有事法制度の整備を要求し、25年をかけて、2003年の武力攻撃事態対処法として実現した<ref name=":0" />。 #1985年、防衛予算の「総額明示方式」を採用し、当時GNP1%枠内に押し込められていた防衛予算の拡大を達成<ref name=":0" />。 #政府解釈を変更して集団的自衛権を行使できるようにした方がよいのではないかという提言を「民社党と語る会」より受け、党の方針の一つとした<ref name=":0" />。 #憲法改正については「さすがの民社党も憲法改正については党内はまとまらず、改正論議はタブー視しないに留まっている」としている<ref name=":0" />。 == 役職 == === 歴代の中央執行委員長(党首) === {|class="wikitable" |- !代!!colspan="2"|委員長!!在任期間 |- !1 |[[File:NISHIO Suehiro.jpg|60px]]||[[西尾末広]]||1960年(昭和35年)1月 - 1967年(昭和42年)6月 |- !2 |[[File:Eiichi-Nishimura-1.png|60px]]||[[西村栄一]]||1967年(昭和42年)6月 - 1971年(昭和46年)4月 |- !3 |[[File:Kasuga-Ikko-1.jpg|60px]]||[[春日一幸]]||1971年(昭和46年)8月 - 1977年(昭和52年)11月 |- !4 |[[File:Ryosaku-Sasaki-1.png|60px]]||[[佐々木良作]]||1977年(昭和52年)11月 - 1985年(昭和60年)4月 |- !5 |[[File:Replace this image JA.svg|60px]]||[[塚本三郎]]||1985年(昭和60年)4月 - 1989年(平成元年)2月 |- !6 |[[File:Eiichi Nagasue 197102.jpg|60px]]||[[永末英一]]||1989年(平成元年)2月 - 1990年(平成2年)4月 |- !7 |[[File:Keigo Ōuchi Morihiro Hosokawa Cabinet 19930809 kaidan1.jpg|60px]]||[[大内啓伍]]<br />[[ファイル:Green-Up-Arrow.svg|15px]]||1990年(平成2年)4月 - 1994年(平成6年)6月 |- !8 |[[File:Replace this image JA.svg|60px]]||[[米沢隆]]<br />[[ファイル:RedDownArrow.svg|15px]]||1994年(平成6年)6月 - 1994年(平成6年)12月 |} *[[ファイル:Green-Up-Arrow.svg|15px]] は民社党が政権獲得した時点での代表。 *[[ファイル:RedDownArrow.svg|15px]] は民社党が政権を失った時点での代表。 === 歴代の中央執行委員会、執行部役員表 === {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- ! colspan="8" |民社党中央執行委員会 |- ! width="5.5%" | 大会 ! width="15.75%" | 中央執行委員長 ! width="15.75%" | 中央執行<br />副委員長 ! width="15.75%" | 執行部書記長 ! width="15.75%" | 政策審議会長 ! width="15.75%" | 国会対策委員長 ! width="15.75%" | 参議院議員会長 |- ! 1 |[[西尾末広]]||&mdash;||[[曾禰益]]||[[今澄勇]]||[[春日一幸]]||[[天田勝正]] |- ! 4 |西尾末広||[[伊藤卯四郎]]||[[西村栄一]]||[[竹本孫一]]||[[佐々木良作]]||天田勝正 |- ! 8 |西村栄一||&mdash;||春日一幸||竹本孫一||佐々木良作||天田勝正 |- ! 10 |西村栄一||&mdash;||佐々木良作||竹本孫一||[[池田禎治]]||[[向井長年]] |- ! - |(佐々木良作)||&mdash;||佐々木良作||竹本孫一||池田禎治||向井長年 |- ! 13 |春日一幸||&mdash;||佐々木良作||竹本孫一||池田禎治||向井長年 |- ! 15 |春日一幸||[[小平忠]]<br />[[中村正雄 (政治家)|中村正雄]]||佐々木良作||竹本孫一||池田禎治||向井長年 |- ! - |春日一幸||小平忠<br />中村正雄||([[塚本三郎]])||竹本孫一||池田禎治||向井長年 |- ! 16 |春日一幸||小平忠<br />中村正雄<br />佐々木良作||塚本三郎||竹本孫一||池田禎治||向井長年 |- ! 17 |春日一幸||小平忠<br />中村正雄<br />佐々木良作||塚本三郎||[[河村勝]]||佐々木良作||向井長年 |- ! 18 |佐々木良作||小平忠<br />中村正雄||塚本三郎||[[大内啓伍]]||[[玉置一徳]]||向井長年 |- ! - |佐々木良作||小平忠<br />中村正雄||塚本三郎||大内啓伍||永末英一||向井長年 |- ! 19 |佐々木良作||小平忠<br />中村正雄<br />向井長年||塚本三郎||大内啓伍||永末英一||[[三治重信]] |- ! 20 |佐々木良作||小平忠<br />中村正雄||塚本三郎||大内啓伍||永末英一||三治重信 |- ! 22 |塚本三郎||永末英一||大内啓伍||[[米沢隆]]||[[小沢貞孝]]||[[藤井恒男]] |- ! 24 |永末英一||河村勝<br />三治重信<br />[[抜山映子]]||米沢隆||[[中野寛成]]||[[吉田之久]]||藤井恒男 |- ! - |永末英一||河村勝<br />三治重信<br />抜山映子||米沢隆||中野寛成||[[神田厚]]||藤井恒男 |- ! 25 |大内啓伍||[[田渕哲也]]<br />[[西村章三]]<br />[[抜山映子]]||米沢隆||中野寛成||神田厚||吉田之久 |- ! - |大内啓伍||田渕哲也<br />西村章三<br />抜山映子||米沢隆||中野寛成||[[青山丘]]||吉田之久 |- ! 27 |米沢隆||吉田之久<br />[[安倍基雄]]<br />西村章三<br />抜山映子||中野寛成||[[伊藤英成]]||青山丘||吉田之久 |- |} === 閣僚経験者等 === :()内は入閣直前の党役職 ; [[細川内閣]] *国務大臣 :: 厚生大臣:大内啓伍(中央執行委員長) *政務次官 :: 文部政務次官:安倍基雄 :: 建設政務次官:伊藤英成 ; [[羽田内閣]] *国務大臣 :: 法務大臣:[[中井洽]] 1994年5月8日 - :: 厚生大臣:大内啓伍(中央執行委員長) :: 防衛庁長官:神田厚(国会対策委員長) *政務次官 :: 大蔵政務次官:[[北橋健治]] :: 文部政務次官:[[勝木健司]] == 党勢の推移 == === 衆議院 === {| class="wikitable" style="text-align:center;" !選挙!!当選/候補者!!定数!!備考 |- |(結党時)||21/-||467||入党+40 |- |[[第29回衆議院議員総選挙|第29回総選挙]]||17/105||467|| |- |[[第30回衆議院議員総選挙|第30回総選挙]]||23/59||467|| |- |[[第31回衆議院議員総選挙|第31回総選挙]]||30/60||486|| |- |[[第32回衆議院議員総選挙|第32回総選挙]]||31/68||486||[[追加公認]]+1 |- |[[第33回衆議院議員総選挙|第33回総選挙]]||19/65||491||[[沖縄社会大衆党]]より移籍+1 |- |[[第34回衆議院議員総選挙|第34回総選挙]]||29/51||511|| |- |[[第35回衆議院議員総選挙|第35回総選挙]]||35/53||511||追加公認+1 |- |[[第36回衆議院議員総選挙|第36回総選挙]]||32/50||511||追加公認+1 |- |[[第37回衆議院議員総選挙|第37回総選挙]]||38/54||511||追加公認+1 |- |[[第38回衆議院議員総選挙|第38回総選挙]]||26/56||512|| |- |[[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]]||14/44||512|| |- |[[第40回衆議院議員総選挙|第40回総選挙]]||15/28||511||追加公認+4 |- |} === 参議院 === {| class="wikitable" style="text-align:center;" !選挙!!当選/候補者!!非改選!!定数!!備考 |- |(結党時)||12/-||-||250||入党+17 |- |[[第6回参議院議員通常選挙|第6回通常選挙]]||5/24||7||250|| |- |[[第7回参議院議員通常選挙|第7回通常選挙]]||3/21||4||250|| |- |[[第8回参議院議員通常選挙|第8回通常選挙]]||7/16||3||250|| |- |[[第9回参議院議員通常選挙|第9回通常選挙]]||6/11||7||252|| |- |[[第10回参議院議員通常選挙|第10回通常選挙]]||5/14||5||252|| |- |[[第11回参議院議員通常選挙|第11回通常選挙]]||6/11||5||252|| |- |[[第12回参議院議員通常選挙|第12回通常選挙]]||6/11||6||252||死去-1、追加公認+1 |- |[[第13回参議院議員通常選挙|第13回通常選挙]]||6/32||6||252||追加公認+1 |- |[[第14回参議院議員通常選挙|第14回通常選挙]]||5/27||7||252|| |- |[[第15回参議院議員通常選挙|第15回通常選挙]]||3/25||5||252||追加公認+1 |- |[[第16回参議院議員通常選挙|第16回通常選挙]]||4/20||5||252||当選無効-1、追加公認+1 |- |} :(参考文献:[[石川真澄]](一部[[山口二郎]]による加筆)『戦後政治史』2004年8月、[[岩波書店]]・[[岩波新書]]、ISBN 4-00-430904-2) * 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。 == 民社党と文化人 == 民社党は文化人が関わることが多かった。1962年4月には、『[[人生劇場]]』を描いた[[尾崎士郎]]、日本ミュージカルの草分けを担った[[菊田一夫]]、NHKの長寿番組『国会討論会』(現『日曜討論』)の司会を務めた[[唐島基智三]]、[[平林たい子文学賞]]でおなじみの[[平林たい子]]など文化人たちが「民社党を励ます会」を発起している。平林たい子は、民主社会協会の理事も務めている。また、民社党はキャンペーンガールを公募していた時期もあり、その中からは女優の[[市川翔子]]や、のちに[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]主演女優賞に飾られた[[片岡礼子]]などを輩出した。 == 評価 == [[1980年代]]後半から[[1990年代]]になると党勢が行き詰まり、看板の政策理念だった「福祉国家」路線も、日常生活に密着した個別具体的な福祉施策としては公明党の福祉社会トータルプランに先を越され、かつて福祉国家を完全否定していた[[日本共産党|共産党]]・社会党左派や、別の角度から否定していた自民党と中央・地方官庁も、生活要求型の福祉スローガンを掲げたため次第に独自性を失っていった。 そこで民社党は「労働福祉」をメインとする観点から転換を模索した。「消費者」に的を絞り、宮澤内閣が打ち出した資産倍増論のベースだった「生活大国づくり」より数年前に、「生活先進国づくり」という概念を打ち出した。組織労働者もしくは未組織を含めた労働者を軸としながらも、そこには収まりきらない幅広い層の国民にアピールすることを狙った民主社会主義の新解釈とも言えた。経済力は世界第二位ながら、庶民の暮らしぶりはその水準に達しないのは、消費財を含む[[内外価格差]]のためであることに目をつけた。しかし自民党との連立志向が強い春日・塚本・大内派と、社公民連による政権交代を目指し社会党の現実路線転換の遅れに目をつぶる佐々木・永末・米沢派の抗争が激化し、十分に議論を深められなかった。 1987年の[[日本労働組合総連合会|連合]]結成による労働運動の理念的統一で、それ以降、社会党、民社党、社民連、連合参議院(のちの民主改革連合)などと、社会民主主義=民主社会主義勢力結集の社会的基盤が整い、ようやく西欧的福祉国家路線の国づくりをする土台ができあがろうとした時期はあった。しかし社会党が、結果として与党・自民党の議席ではなく他の野党の議席を奪ったために、「社公民路線」の社会民主主義勢力を主体とした政権交代の可能性をさらに遠ざけてしまった。さらに近親憎悪もあり、民社党は「社公民路線」による[[非自民・非共産連立政権]]成立と政策転換を捨て、「自公民路線」プラスアルファの「政策転換なき政権交代(自民党勢力内の権力闘争)」に巻き込まれていった。1990年代前半の「政治改革」と称する流れの中で、社会党も委員長が、国対政治に肯定的な[[田邊誠]]、[[山花貞夫]]と変わり、連合会長の[[山岸章]]も加わって、[[小沢一郎]]グループとの連携を選択して、小選挙区制導入に邁進した。 ただし、社会民主主義=民主社会主義は、ヨーロッパ各国で1990年代以降も続々と社会民主主義=民主社会主義政党による中道左派政権が誕生するなど、新自由主義的経済政策による格差拡大などの市場の失敗が批判される中で、対立軸として価値が見直された。また敵対していた共産主義は、1980年代以降の冷戦の終結および東欧・[[ソビエト連邦|ソ連]]共産圏の崩壊により衰退し、日本でも大きく力を失った。一方で、民社党に代表される[[中道主義|中道]]勢力自体は衰退したものの、[[新進党]]解党後に発足した[[新党友愛]]が母体の一つとなった[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]は自民党に対抗する2大政党としての立場を確立。また、民主党が掲げる理念には[[民主中道]]など民社党の理念に近い部分もあり、さらに[[労働運動]]においても連合の方針はほぼ同盟のものを踏襲しており、結果として民主党・連合の中に民社党・同盟のスタンスが承継されたと捉えることもできる。 2016年に民主党から改称し結成された政党である[[民進党]]は、2017年の衆院選直前に[[小池百合子]]代表率いる[[希望の党 (日本 2017)|希望の党]]と[[枝野幸男]]代表率いる[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]に事実上分裂した。2018年5月7日には希望の党所属の衆議院議員の大半と参議院の民進党議員が中心となって[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]を設立した。その際参議院民進党に在籍していた旧総評系の組織内議員や一部の[[自由主義|リベラル]]系議員は民進党を離党して立憲民主党に参加した。国民民主党に残留した連合の組織内議員は旧同盟系が大半となり民社党・同盟の流れは国民民主党に受け継がれることになった(その後、2020年に旧・国民民主党は[[国民民主党_(日本_2020)|新・国民民主党]]と[[立憲民主党_(日本_2020)|新・立憲民主党]]に再度分割されたが、民社協会は新・国民民主党と協力・交流関係にある)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author= |title=日本政治年鑑 1960年版 |publisher=世界書院 |date=1960年4月10日 |ref= {{SfnRef|『日本政治年鑑 1960年版』}} }} == 関連項目 == * [[全日本労働総同盟]] * [[核兵器禁止平和建設国民会議]](核禁会議) * [[田久保忠衛]] * [[社会主義インターナショナル]] * [[猪木正道]] * [[関嘉彦]] * [[松下正寿]] * [[社会大衆党]] - 戦前の無産政党で政策や理念、人脈といった面では民社党の源流のひとつ。 * [[新進党]] - [[新党友愛]] - [[民主党 (日本 1998-2016)]] - [[民進党]] - [[希望の党 (日本 2017)|希望の党]] - [[国民民主党 (日本 2018)]] * [[国民民主党 (日本 2020)]] == 外部リンク == {{commonscat|Democratic Socialist Party (Japan)}} * [http://www.kakkin.jp/ 核禁会議] * [http://www.e-fuji.or.jp/ 財団法人 富士社会教育センター] * [http://www.seiken-forum.jp/ 政策研究フォーラム] * [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/minnshatoukokusaikyoku.html 国立国会図書館 憲政資料室 民社党国際局旧蔵資料] * [https://ameblo.jp/shomuken/entry-12443787157.html 参院選選挙公報全国区・城戸かよこ(日本女性党・1977年)] - 元民社党福岡県連執行役員の[[城戸嘉世子]]が、[[教育党]]結党前に[[日本女性党]]から出馬したときの[[選挙公報]]。 * [https://ameblo.jp/shomuken/entry-12443789114.html 参院選選挙公報全国区・安里積千代(無所属・1965年)] - 無所属から[[沖縄社会大衆党]]を経て民社党に入党した安里の選挙公報。 {{authority control}} {{DEFAULTSORT:みんしやとう}} [[Category:民社党|*]] [[Category:かつて存在した日本の政党]] [[Category:日本の社会主義政党]] [[Category:新進党]] [[Category:日本社会党]] [[Category:1960年設立の政党・政治団体]] [[Category:1994年廃止の政党・政治団体]] [[Category:社会主義インターナショナル]]
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16,852
民主社会党
民主社会党(みんしゅしゃかいとう)は、民主社会主義ないしは社会主義を掲げる政党の名称。
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民主社会党(みんしゅしゃかいとう)は、民主社会主義ないしは社会主義を掲げる政党の名称。
'''民主社会党'''(みんしゅしゃかいとう)は、[[民主社会主義]]ないしは[[社会主義]]を掲げる[[政党]]の名称。 == 現存 == * {{Flagicon|ITA}} [[イタリア民主社会党]] (Partito Socialista Democratico Italiano 略称:PSDI) (1952&ndash;1998, 2004&ndash;) * {{Flagicon|ITA}} {{仮リンク|民主社会主義者 (イタリア)|en|Democratic Socialists (Italy)}} * {{Flagicon|NER}} [[ニジェール民主社会主義党]] * {{Flagicon|CZE}} {{仮リンク|民主社会党 (チェコ)|cs|Strana demokratického socialismu|en|Party of Democratic Socialism (Czech Republic)}} * {{Flagicon|MAR}} {{仮リンク|民主社会党 (モロッコ)|ar|الحزب الديمقراطي الاشتراكي المغربي|en|Democratic Socialist Party (Morocco)}} * {{Flagicon|PHI}} {{仮リンク|フィリピン民主社会党|en|Philippine Democratic Socialist Party}} == 過去 == * {{Flagicon|JPN}} [[民社党]]の旧称。1960/1/24&ndash;1994/12/9(1969/11改名)。 * {{Flagicon|ROC}} [[中国民主社会党]] - [[中華民国]]にかつて存在した、[[中国国民党]]の[[衛星政党]]。民主社会主義政党ではない。 * {{Flagicon|DEU}} [[民主社会党 (ドイツ)]] - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の政権政党[[ドイツ社会主義統一党]]の後身。現在は[[ドイツ社会民主党]]左派([[左翼党_(ドイツ)#WASG|労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ]]」(WASG)と合流し[[左翼党 (ドイツ)|左翼党]]に。 * {{Flagicon|BRA}} {{仮リンク|民主社会党 (ブラジル)|en|Democratic Social Party|pt|Partido Democrático Social}} - かつて存在したブラジルの政党。 * {{Flagicon|KOR}} [[民主社会党 (韓国)]]({{lang|ko|민주사회당}}) - [[第五共和国 (大韓民国)|第五共和国]]時代の韓国に存在した群小政党。 * {{Flagicon|ITA}} [[イタリア民主社会主義者]](Socialisti Democratici Italiani 略称:SDI) (1998&ndash;) - [[イタリア社会党]]の後裔の一つ。 * {{Flagicon|AUS}} {{仮リンク|民主社会主義展望|en|Democratic Socialist Perspective}} * {{Flagicon|GBS}} {{仮リンク|民主社会党 (ギニアビサウ)|en|Democratic Socialist Party (Guinea-Bissau)}} * {{Flagicon|TUR}} {{仮リンク|民主社会党 (トルコ)|tr|Demokratik Toplum Partisi|en|Democratic Society Party}} ({{lang|tr|Demokratik Toplum Partisi}}, DTP) - [[トルコ]]の[[クルド人]]政党 * {{Flagicon|BIH}} {{仮リンク|民主社会党 (ボスニアヘルツェゴビナ)|en|Democratic Socialist Party (Bosnia and Herzegovina)}} * {{Flagicon|ARG}} {{仮リンク|民主社会党 (アルゼンチン)|es|Partido Socialista Democrático (Argentina)|en|Democratic Socialist Party (Argentina)}} * {{Flagicon|FRA}} {{仮リンク|民主社会党 (フランス)|fr|Parti socialiste démocratique (France)|en|Democratic Socialist Party (France)}} * [[ファイル:Hellenic Royal Flag 1935.svg|27px]] {{仮リンク|ギリシャ民主社会党|el|Δημοκρατικό Σοσιαλιστικό Κόμμα|en|Democratic Socialist Party of Greece}} * {{Flagicon|IRE}} {{仮リンク|民主社会党 (アイルランド)|en|Democratic Socialist Party (Ireland)}} * {{Flagicon|SMR}} {{仮リンク|サンマリノ民主社会党|en|Sammarinese Democratic Socialist Party}} * {{Flagicon|VSO}} {{仮リンク|ベトナム民主社会党|vi|Việt Nam Dân chủ Xã hội Đảng|en|Vietnamese Democratic Socialist Party}} == 関連項目 == * [[民主社会主義]] * [[社会党]] * [[社会民主党]] *[[民主党]] {{aimai}} {{デフォルトソート:みんしゆしやかいとう}} [[Category:同名の政党]] [[Category:社会主義の組織・団体]] [[Category:社会民主主義]]
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16,853
納音
納音(なっちん)とは、六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水の五行に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの。中国やベトナムで使用される納音図は、地球から見た土星の見かけの公転軌道図(orbit of dance of planet Saturn, 約30太陽年)に酷似し、天体観測に基づく一種の占星術と推測されるが、観測時期や由来などは不明である。生れ年の納音によってその人の運命を判断する。 荻原井泉水、種田山頭火などはこの納音から俳号をつけた(井泉水は生年の納音に由来するが、山頭火は生年とは関係なく、単に音の響きなどから選んだものである)。
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納音(なっちん)とは、六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水の五行に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの。中国やベトナムで使用される納音図は、地球から見た土星の見かけの公転軌道図に酷似し、天体観測に基づく一種の占星術と推測されるが、観測時期や由来などは不明である。生れ年の納音によってその人の運命を判断する。 荻原井泉水、種田山頭火などはこの納音から俳号をつけた(井泉水は生年の納音に由来するが、山頭火は生年とは関係なく、単に音の響きなどから選んだものである)。
{{出典の明記|date=2015年8月25日 (火) 13:53 (UTC)}} '''納音'''(なっちん)とは、[[干支|六十干支]]を[[陰陽五行思想|陰陽五行説]]や中国古代の[[音韻]][[理論]]を応用して、木・火・土・金・水の[[五行思想|五行]]に分類し、さらに[[形容詞]]を付けて[[30]]に分類したもの。中国やベトナムで使用される納音図は、地球から見た土星の見かけの公転軌道図(orbit of dance of planet Saturn, 約30太陽年)に酷似し、天体観測に基づく一種の占星術と推測されるが、観測時期や由来などは不明である。生れ年の納音によってその人の[[運命]]を判断する。 [[荻原井泉水]]、[[種田山頭火]]などはこの納音から[[俳号]]をつけた(井泉水は生年の納音に由来するが、山頭火は生年とは関係なく、単に音の響きなどから選んだものである)。 {| border="1" class="wikitable" |- !用語!!用語の読み!!干支 |- |海中金||かいちゅうきん||[[甲子]]・[[乙丑]] |- |爐中火||ろちゅうか||[[丙寅]]・[[丁卯]] |- |大林木||たいりんぼく||[[戊辰]]・[[己巳]] |- |路傍土||ろぼうど||[[庚午]]・[[辛未]] |- |釼鋒金||じんぼうきん||[[壬申]]・[[癸酉]] |- |山頭火||さんとうか||[[甲戌]]・[[乙亥]] |- |澗下水||かんかすい||[[丙子]]・[[丁丑]] |- |城頭土||じょうとうど||[[戊寅]]・[[己卯]] |- |白鑞金||はくろうきん||[[庚辰]]・[[辛巳]] |- |楊柳木||ようりゅうぼく||[[壬午]]・[[癸未]] |- |井泉水||せいせんすい||[[甲申]]・[[乙酉]] |- |屋上土||おくじょうど||[[丙戌]]・[[丁亥]] |- |霹靂火||へきれきか||[[戊子]]・[[己丑]] |- |松柏木||しょうはくぼく||[[庚寅]]・[[辛卯]] |- |長流水||ちょうりゅうすい||[[壬辰]]・[[癸巳]] |- |沙中金||さちゅうきん||[[甲午]]・[[乙未]] |- |山下火||さんげか||[[丙申]]・[[丁酉]] |- |平地木||へいちぼく||[[戊戌]]・[[己亥]] |- |壁上土||へきじょうど||[[庚子]]・[[辛丑]] |- |金箔金||きんぱくきん||[[壬寅]]・[[癸卯]] |- |覆燈火||ふくとうか||[[甲辰]]・[[乙巳]] |- |天河水||てんがすい||[[丙午]]・[[丁未]] |- |大駅土||たいえきど||[[戊申]]・[[己酉]] |- |釵釧金||さいせんきん||[[庚戌]]・[[辛亥]] |- |桑柘木||そうしゃくもく||[[壬子]]・[[癸丑]] |- |大溪水||だいけいすい||[[甲寅]]・[[乙卯]] |- |沙中土||さちゅうど||[[丙辰]]・[[丁巳]] |- |天上火||てんじょうか||[[戊午]]・[[己未]] |- |柘榴木||ざくろぼく||[[庚申]]・[[辛酉]] |- |大海水||たいかいすい||[[壬戌]]・[[癸亥]] |} {{デフォルトソート:なつちん}} [[Category:干支]] [[Category:暦注]] [[Category:術数学]]
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16,854
二歩
二歩(にふ)とは、自分の歩兵が配置されている筋に、持ち駒の歩兵を打つ手のこと。将棋の禁じ手の一つである。 既に歩兵が配置されている筋に、持ち駒から歩兵を打つこと、つまり縦の列(筋)に2枚の歩兵を配置することを禁じるルールである。但し成った歩兵、すなわちと金のある筋に歩兵を打つことは、その筋に別の歩兵がなければ認められており禁じ手ではない。これは盤上のと金が、金将と同じ駒として扱われるためである。同様に、歩兵のある筋にと金を動かすことも認められている。 この二歩のルールによって合法な局面である限り、歩兵は先手・後手のそれぞれのプレイヤーについて同じ筋の中に1枚以下しか存在できない事になる。 初めて成文化したのは二代大橋宗古とされる。二歩が禁止になった理由としては、飛車先の歩の前に別の歩が打てると優劣がはっきりしすぎるために面白くなくなる事が指摘されている。他にも千日手が容易になる、と金攻めの破壊力が落ちるなど、その問題点は掘り起こそうと思えば限りを知らない。 従来は禁じ手を指しても、投了によって定まった勝敗が優先となっていた。しかし、2019年6月10日にルールが改正され既に終局していた場合であっても、当該棋戦の次の対局が始まる前にその二歩の指摘があれば、遡って二歩をした側の反則負けとなる。但し一部の大会等では、未だに投了優先のままな場合もある。 極めて初歩的な禁じ手の一つだが、将棋の反則の中では最も起こりやすいものの一つでもあり、プロ高段者の対局においてさえしばしば発生する。自陣で追いつめられ前の方の歩に気付かずに合駒してしまう、敵陣で相手を攻めるのに夢中になり暫く前に打っていた自陣深くの歩を見落とす、敵陣に打ち込んで不成のまま放置していた歩に気付かない、などの状況でうっかり打ってしまうことが多い。また、盤上の歩を見落とすだけではなく、駒台の他の駒と歩を持ち間違えて二歩を打つこともある。特に持ち時間の少ない早指し戦などでは、十分に注意する必要がある。森内俊之の説によれば、二歩については半数以上が底歩(一番下の段の歩)絡み、即ち底歩を打っているのに別の歩を打ってしまったか、別の歩があるのに底歩を打ってしまったケースであると述べている。 アマチュアの対局であっても、公式な大会では二歩を打った時点で即時負けとされることが多い。一方で将棋ソフトやネット将棋などでは、禁じ手であることを指摘されるだけで指せないようになっている。 詰将棋では二歩を主題とする問題がある。禁じ手であるため手順中に二歩が現れることはないが、将来の二歩を予防するために歩を捨てる、相手方に二歩の制約を与えるために取れる歩をわざと取らない、などが解答の鍵となっている問題である。 いわゆる「フェアリー」(通常や一般のルールセットとは異なるルールによる問題)としては、「禁じられているのは二歩を『打つ』ことであって、二歩が『存在する』ことは禁じられていない」という論理のもと、問題図が二歩の作品もある。 図1-Aは▲1四香、△2四玉、▲2五歩、△1五玉、▲2六金、△同飛、▲1六歩(図1-B)、△同飛、▲2七桂までの9手詰。1手目で▲1四歩とすると7手目の▲1六歩が二歩になるため、▲1四香の不利先打で解決する。 図2-Aは▲3五角、△2六桂、▲同角、△同玉、▲1八桂(図2-B)、△2五玉、▲2七龍、△1四玉、▲3二角、△1三玉、▲2三龍(角成)までの11手詰。2手目の合駒が歩ならば取られても詰まないが、その場合▲3九角(図2-C)とすれば2八に歩で合駒ができず(桂も行き所のない駒であるため合駒に使えず、金銀香のどれかを打つことになる)、△2八香▲同角△1八玉▲1九香で早く詰む。逆に2手目の合駒が歩でない場合に▲3九角と打つと△2八歩(図2-D)と合駒され、▲2八同角△1八玉で詰まない(▲1九歩は打ち歩詰め)。 二歩を主題とする詰将棋を初めて作ったのも二代大橋宗古であり、「象戯図式」(1636年 俗称「将棋智実」)第1番が1号局である。 図3-Aから進めて図3-Bのとき、▲2六歩、△2四玉、▲2五歩、△同玉として2七の歩を取り除き、将来の二歩を予防する。以下▲1七桂、△2四玉、▲1五馬、△同歩、▲2五歩(図3-C)となり、歩を取り除いた効果が現れる。 (図3-Aは▲2一金、△1三玉、▲2二銀、△2四玉、▲2五金、△同玉(図3-B)、▲2六歩、△2四玉、▲2五歩、△同玉、▲1七桂、△2四玉、▲1五馬、△同歩、▲2五歩(図3-C)、△1四玉、▲2六桂まで17手詰) なお、二歩禁の規則自体はこれ以前の詰将棋にも適用されており、例えば初代大橋宗桂の「象戯造物」(1602年 伝慶長版)の第45番は、玉方が二歩の合駒をすれば詰まない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "二歩(にふ)とは、自分の歩兵が配置されている筋に、持ち駒の歩兵を打つ手のこと。将棋の禁じ手の一つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "既に歩兵が配置されている筋に、持ち駒から歩兵を打つこと、つまり縦の列(筋)に2枚の歩兵を配置することを禁じるルールである。但し成った歩兵、すなわちと金のある筋に歩兵を打つことは、その筋に別の歩兵がなければ認められており禁じ手ではない。これは盤上のと金が、金将と同じ駒として扱われるためである。同様に、歩兵のある筋にと金を動かすことも認められている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この二歩のルールによって合法な局面である限り、歩兵は先手・後手のそれぞれのプレイヤーについて同じ筋の中に1枚以下しか存在できない事になる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "初めて成文化したのは二代大橋宗古とされる。二歩が禁止になった理由としては、飛車先の歩の前に別の歩が打てると優劣がはっきりしすぎるために面白くなくなる事が指摘されている。他にも千日手が容易になる、と金攻めの破壊力が落ちるなど、その問題点は掘り起こそうと思えば限りを知らない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "従来は禁じ手を指しても、投了によって定まった勝敗が優先となっていた。しかし、2019年6月10日にルールが改正され既に終局していた場合であっても、当該棋戦の次の対局が始まる前にその二歩の指摘があれば、遡って二歩をした側の反則負けとなる。但し一部の大会等では、未だに投了優先のままな場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "極めて初歩的な禁じ手の一つだが、将棋の反則の中では最も起こりやすいものの一つでもあり、プロ高段者の対局においてさえしばしば発生する。自陣で追いつめられ前の方の歩に気付かずに合駒してしまう、敵陣で相手を攻めるのに夢中になり暫く前に打っていた自陣深くの歩を見落とす、敵陣に打ち込んで不成のまま放置していた歩に気付かない、などの状況でうっかり打ってしまうことが多い。また、盤上の歩を見落とすだけではなく、駒台の他の駒と歩を持ち間違えて二歩を打つこともある。特に持ち時間の少ない早指し戦などでは、十分に注意する必要がある。森内俊之の説によれば、二歩については半数以上が底歩(一番下の段の歩)絡み、即ち底歩を打っているのに別の歩を打ってしまったか、別の歩があるのに底歩を打ってしまったケースであると述べている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アマチュアの対局であっても、公式な大会では二歩を打った時点で即時負けとされることが多い。一方で将棋ソフトやネット将棋などでは、禁じ手であることを指摘されるだけで指せないようになっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "詰将棋では二歩を主題とする問題がある。禁じ手であるため手順中に二歩が現れることはないが、将来の二歩を予防するために歩を捨てる、相手方に二歩の制約を与えるために取れる歩をわざと取らない、などが解答の鍵となっている問題である。", "title": "詰将棋における二歩" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "いわゆる「フェアリー」(通常や一般のルールセットとは異なるルールによる問題)としては、「禁じられているのは二歩を『打つ』ことであって、二歩が『存在する』ことは禁じられていない」という論理のもと、問題図が二歩の作品もある。", "title": "詰将棋における二歩" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "図1-Aは▲1四香、△2四玉、▲2五歩、△1五玉、▲2六金、△同飛、▲1六歩(図1-B)、△同飛、▲2七桂までの9手詰。1手目で▲1四歩とすると7手目の▲1六歩が二歩になるため、▲1四香の不利先打で解決する。", "title": "詰将棋における二歩" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "図2-Aは▲3五角、△2六桂、▲同角、△同玉、▲1八桂(図2-B)、△2五玉、▲2七龍、△1四玉、▲3二角、△1三玉、▲2三龍(角成)までの11手詰。2手目の合駒が歩ならば取られても詰まないが、その場合▲3九角(図2-C)とすれば2八に歩で合駒ができず(桂も行き所のない駒であるため合駒に使えず、金銀香のどれかを打つことになる)、△2八香▲同角△1八玉▲1九香で早く詰む。逆に2手目の合駒が歩でない場合に▲3九角と打つと△2八歩(図2-D)と合駒され、▲2八同角△1八玉で詰まない(▲1九歩は打ち歩詰め)。", "title": "詰将棋における二歩" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "二歩を主題とする詰将棋を初めて作ったのも二代大橋宗古であり、「象戯図式」(1636年 俗称「将棋智実」)第1番が1号局である。", "title": "詰将棋における二歩" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "図3-Aから進めて図3-Bのとき、▲2六歩、△2四玉、▲2五歩、△同玉として2七の歩を取り除き、将来の二歩を予防する。以下▲1七桂、△2四玉、▲1五馬、△同歩、▲2五歩(図3-C)となり、歩を取り除いた効果が現れる。", "title": "詰将棋における二歩" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "(図3-Aは▲2一金、△1三玉、▲2二銀、△2四玉、▲2五金、△同玉(図3-B)、▲2六歩、△2四玉、▲2五歩、△同玉、▲1七桂、△2四玉、▲1五馬、△同歩、▲2五歩(図3-C)、△1四玉、▲2六桂まで17手詰)", "title": "詰将棋における二歩" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、二歩禁の規則自体はこれ以前の詰将棋にも適用されており、例えば初代大橋宗桂の「象戯造物」(1602年 伝慶長版)の第45番は、玉方が二歩の合駒をすれば詰まない。", "title": "詰将棋における二歩" } ]
二歩(にふ)とは、自分の歩兵が配置されている筋に、持ち駒の歩兵を打つ手のこと。将棋の禁じ手の一つである。
{{Shogi diagram|tright |第64回NHK杯準決勝第2局<br />第92手 橋本崇載八段の二歩<br/>橋本崇載八段 △持ち駒:なし |lg|ng| |gg| | | | | | |kg|sg| |gg| | | |lg | |pg| |pgl|pg| |ng| | |pg| |pg|gs|sg| | |rg|pg | |ps| |ns| |pg|pg|pg| |ps| |ss|bs| |ps| | |ps | |ss| |pg| |bg|ps|ps| |ls|ks|gs| | | | | | | | | | |rs| | |ns|ls |▲行方尚史八段 持ち駒:歩歩 }} '''二歩'''(にふ)とは、自分の[[歩兵 (将棋)|歩兵]]が配置されている筋に、[[持ち駒]]の歩兵を打つ手のこと。[[将棋#反則行為|将棋の禁じ手]]の一つである。 == 概要 == 既に歩兵が配置されている筋に、持ち駒から歩兵を打つこと、つまり縦の列(筋)に2枚の歩兵を配置することを禁じるルールである。但し成った歩兵、すなわち[[と金]]のある筋に歩兵を打つことは、その筋に別の歩兵がなければ認められており禁じ手ではない。これは盤上のと金が、[[金将]]と同じ駒として扱われるためである。同様に、歩兵のある筋にと金を動かすことも認められている。 この二歩のルールによって合法な局面である限り、歩兵は先手・後手のそれぞれのプレイヤーについて同じ筋の中に1枚以下しか存在できない事になる。 初めて成文化したのは[[大橋宗古 (二代)|二代大橋宗古]]とされる。二歩が禁止になった理由としては、[[飛車]]先の歩の前に別の歩が打てると優劣がはっきりしすぎるために面白くなくなる事が指摘されている<ref>[[谷川浩司]]『将棋新理論』(河出書房新社)、1999年6月、ISBN 9784309721835、p.9</ref>。他にも[[千日手]]が容易になる、と金攻めの破壊力が落ちる{{efn|相手に渡した歩兵で守りを固められてしまう。}}など、その問題点は掘り起こそうと思えば限りを知らない。 従来は禁じ手を指しても、[[投了]]によって定まった勝敗が優先となっていた。しかし、2019年6月10日にルールが改正され既に終局していた場合であっても、当該棋戦の次の対局が始まる前にその二歩の指摘があれば、遡って二歩をした側の反則負けとなる<ref>[https://www.shogi.or.jp/faq/taikyoku-kitei.html 対局規定(抄録):日本将棋連盟]</ref>。但し一部の大会等では、未だに投了優先のままな場合もある。 極めて初歩的な禁じ手の一つだが、将棋の反則の中では最も起こりやすいものの一つでもあり、プロ高段者の対局においてさえしばしば発生する{{efn|2018年11月の時点で、二歩は公式戦の記録に残る限り88回起こっている。}}。自陣で追いつめられ前の方の歩に気付かずに[[合駒]]してしまう、敵陣で相手を攻めるのに夢中になり暫く前に打っていた自陣深くの歩を見落とす、敵陣に打ち込んで[[不成]]のまま放置していた歩に気付かない、などの状況でうっかり打ってしまうことが多い。また、盤上の歩を見落とすだけではなく、駒台の他の駒と歩を持ち間違えて二歩を打つこともある。特に[[持ち時間]]の少ない[[早指し]]戦などでは、十分に注意する必要がある。[[森内俊之]]の説によれば、二歩については半数以上が[[底歩]](一番下の段の歩)絡み、即ち底歩を打っているのに別の歩を打ってしまったか、別の歩があるのに底歩を打ってしまったケースであると述べている<ref>{{Cite book ja-jp | author = [[原田泰夫]] (監修)、荒木一郎 (プロデュース) | editor = [[森内俊之]]ら | year = 2004 | title = 日本将棋用語事典 | publisher = 東京堂出版 | isbn = 4-490-10660-2 | pages = p.59}}</ref>。 アマチュアの対局であっても、公式な大会では二歩を打った時点で即時負けとされることが多い。一方で将棋ソフトやネット将棋などでは、禁じ手であることを指摘されるだけで指せないようになっている。 == 二歩の例 == {| class="wikitable" style="font-size:small;" |+ style="text-align:left"|'''二歩の例''' |- !年||棋戦||二歩を指した<br/>棋士・女流棋士||対局相手||手番||備考 |- |[[1977年]]||||[[関屋喜代作]]||[[青野照市]]|||| |- |[[1980年]]|||||[[有吉道夫]]||[[森安秀光]]|||| |- | rowspan="2" |[[1982年]]||||[[米長邦雄]]||[[島朗]]|||| |- | ||[[山口千嶺]]||[[関根茂]]||||5七歩の上に5六歩を重ね打ち |- |[[1985年]]||||[[淡路仁茂]]||島朗|||| |- |[[1986年]]||[[順位戦]]||淡路仁茂||[[石田和雄]]||145手目 7二歩|| |- |[[1988年]]||||[[二上達也]]||[[西村一義]]|||| |- |[[1992年]]||順位戦||[[所司和晴]]||[[石川陽生]]||131手目 8二歩|| |- |[[1997年]]||||淡路仁茂||[[矢倉規広]]|||| |- |[[1998年]]||[[銀河戦]]||[[山崎隆之]]||[[佐伯昌優]]||{{0}}94手目 4一歩|| |- | rowspan="3" |[[2004年]]||[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]]||[[豊川孝弘]]||[[田村康介]]||109手目 2九歩||第54回1回戦第12局(6月20日) |- |順位戦||[[田中寅彦]]||[[中村修 (棋士)|中村修]]||142手目 5三歩|| |- |[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]||山崎隆之||[[小林裕士]]||{{0}}87手目 3三歩||先手83手目に3九歩<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sankei.co.jp/edit/shogi/kisei/076kisei_yosen010.kif |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050423054034/http://www.sankei.co.jp/edit/shogi/kisei/076kisei_yosen010.kif |title=076kisei_yosen010.kif(「第76期棋聖戦」1次予選特選局 山崎隆之五段×小林裕士五段(87手目▲3三歩で二歩反則負け) |website=www.sankei.co.jp |accessdate=2005-04-23 |archivedate=2005-04-23}}</ref> |- |[[2005年]]||NHK杯||[[松尾歩]]||[[先崎学]]||{{0}}98手目 3六歩||第55回1回戦第4局(4月24日) |- | rowspan="2" |[[2006年]]||棋聖戦||[[室岡克彦]]||[[瀬川晶司]]||{{0}}54手目 7一歩|| |- |順位戦||[[小林健二 (将棋棋士)|小林健二]]||[[小倉久史]]||149手目 9二歩|| |- |2007年||[[JT将棋日本シリーズ|JT将棋]]||[[郷田真隆]]||[[佐藤康光]]||117手目 9六歩<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CI/200709/CI-20070903-9965974.html|title=郷田、まさかの「二歩」 七尾でJT将棋 佐藤が準決勝進出|work=[[47NEWS]]|publisher=[[北國新聞]]|date=2007-09-03|archiveurl=https://archive.is/20150717050227/http://www.47news.jp/CI/200709/CI-20070903-9965974.html|archivedate=2015年7月17日|deadlinkdate=2017年9月|accessdate=2015-07-17}}</ref>|| |- | rowspan="2" |2015年||NHK杯||[[橋本崇載]]||[[行方尚史]]||{{0}}92手目 6三歩<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/03/08/kiji/K20150308009940190.html |title=将棋NHK杯まさかの二歩決着 橋本八段痛恨「あっ」頭抱える |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2015-03-08 |accessdate=2016-09-04}}</ref>||第64回準決勝第2局(3月8日) |- |銀河戦||[[高橋道雄]]||[[安用寺孝功]]||{{0}}95手目<ref name="hochi20150508">{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/topics/20150508-OHT1T50095.html |title=【将棋】また二歩で反則負け、今度は高橋道雄九段 |publisher=[[スポーツ報知]] |accessdate=2015-05-08 |archiveurl=https://archive.is/20150517050447/http://www.hochi.co.jp/topics/20150508-OHT1T50095.html |archivedate=2015年5月17日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> 3五歩<ref name="takahashi-blog-20050507">{{Cite web|和書|author=[[高橋道雄]]|url=http://ameblo.jp/t-mitch142/entry-12023873021.html |title=幻の13手 |work=みっち・ザ・わーるど |date=2015-05-07 |deadlinkdate=2016年12月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150707213337/http://ameblo.jp/t-mitch142/entry-12023873021.html |archivedate=2015-05-07 |accessdate=2018-12-01}}</ref>||第23期本戦Fブロック8回戦(2月13日収録、5月7日放送)<br>両対局者が二歩に気付かずさらに13手指し続けた<ref name="takahashi-blog-20050507" /><ref name="hochi20150508" /> |- |[[2016年]]||JT将棋||郷田真隆||[[佐藤天彦]]||105手目 6三歩<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20160904/k00/00m/040/107000c|publisher=[[毎日新聞]]|title=郷田王将「二歩」で反則負け JTプロ公式戦|accessdate=2016-09-04}}</ref>||二回戦第一局(9月3日) |- | rowspan="3" |[[2018年]] {{efn|なお2018年10月後半にはこの他に、[[菅井竜也]]が[[橋本崇載]]に対して別の反則(菅井の角が橋本のと金を飛び越す)を犯しており(10月18日の第77期順位戦B級1組7回戦)<ref name=":0" />、年が変わってから判明した銀河戦の事例も含めて、二歩も含めた反則負けが半月の間に4件集中する事態となった。}} |[[女流王位戦]] |[[武富礼衣]]<ref name=":0" /> |[[石本さくら]] | |第30期予選2回戦(10月19日) |- |順位戦||青野照市<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=将棋プロ反則負け、6日で3回 青野九段も 異例ペース |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201810/CK2018102402000270.html |publisher=[[東京新聞]] |date=2018-10-24 |accessdate=2018-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181024092250/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201810/CK2018102402000270.html|archivedate=2018-10-24}}</ref>||[[都成竜馬]]||{{0}}54手目 7七歩||[[第77期順位戦]]C級1組6回戦(10月23日) |- |銀河戦||[[長沼洋]]||木村孝太郎アマ||118手目 6六歩||第27期Gブロック4回戦(10月25日収録、2019年1月15日放送)<ref>{{Cite web|和書|title=銀河戦 {{!}} 将棋 {{!}} 囲碁・将棋チャンネル|url=https://www.igoshogi.net/shogi/ginga/index.html|website=www.igoshogi.net|accessdate=2019-03-16}}</ref><br> |- |2019年 |[[叡王戦]] |先崎学 |島朗 |184手目 5三歩 |第5期九段予選Cブロック1回戦(2019年8月12日)<ref>{{Cite web|和書|title=8/12(月) 島朗九段 vs.先崎学九段の対局は184手までで、'''先崎九段の二歩'''により、島九段が勝利しました。|url=https://twitter.com/nico2shogi/status/1160830496235900930|website=@nico2shogi|date=2019-08-12|accessdate=2019-08-12|language=ja|last=ニコ生公式_将棋|publisher=}}</ref> |- |2020年 |銀河戦 |[[増田康宏]] |[[野月浩貴]] |{{0}}69手目 2二歩 |第28期Gブロック8回戦(2月21日収録、6月9日放送) |- | rowspan="2" |2021年 |[[ABEMAトーナメント|女流ABEMA]] |[[内山あや]] |[[香川愛生]] |133手目 7六歩 |(非公式戦)第2回予選Bリーグ第1試合第4局(10月30日放送)<ref>{{Cite web|和書|title=本人は「ごめんなさいっ!」仲間は「あー!」と絶叫 まさかの二歩で大騒ぎ/将棋・女流ABEMAトーナメント|url=https://times.abema.tv/articles/-/10004678|website=ABEMA TIMES|date=2021-11-02|accessdate=2021-11-02|language=ja|last=|publisher=}}</ref> |- |[[白玲戦|女流順位戦]] |[[大島綾華]] |[[貞升南]] |{{0}}65手目 7二歩 |[[第2期女流順位戦]]D級2回戦(11月8日)<ref>[https://twitter.com/mynavi_shogi/status/1457608574171947008 マイナビ出版 将棋情報局編集部]</ref> |- | rowspan="2" |2022年 |[[マイナビ女子オープン|マイナビ]] |[[長沢千和子]] |[[加藤結李愛]] | |第16期マイナビ女子オープン予備予選(5月28日)<ref>{{Cite web|和書|title=将棋情報局 |url=https://book.mynavi.jp/shogi/mynavi-open/blog/detail/id=130363 |website=book.mynavi.jp |access-date=2022-05-28 |language=ja}}</ref> |- |[[ABEMAトーナメント|ABEMA]] |[[木村一基]] |[[黒沢怜生]] |117手目 6九歩 |(非公式戦)第5回本戦2回戦第3試合第1局(8月27日放送) |- | rowspan="3" |2023年 |順位戦 |[[中村修 (棋士)|中村修]] |[[村山慈明]] |137手目 1二歩 |[[第81期順位戦]]B級2組8回戦(2023年1月11日) |- |女流ABEMA |[[山根ことみ]] |[[上田初美]] |103手目 5八歩 |(非公式戦)2023年度1回戦第一試合第5局(3月11日放送)<ref>{{Cite web|和書|title=まさかの二歩に敵も味方も本人も「あっ!」超早指しだから起こるハプニングに解説棋士・先輩女流も「こういうこともある」「大丈夫」/将棋・女流ABEMAトーナメント|url=https://times.abema.tv/articles/-/10071042|website=ABEMA TIMES|date=2023-03-13|accessdate=2023-04-23|language=ja|last=|publisher=}}</ref> |- |[[銀河戦]] |[[森下卓]] |[[野月浩貴]] |{{0}}77手目 4八歩 |[[第31期銀河戦]]Hブロック5回戦(2023年2月15日対局)<ref>[https://www.igoshogi.net/shogi/ginga/kifu.html?kifu=g31H0005 第31期本戦トーナメント Hブロック 5回戦]</ref> |} == 詰将棋における二歩 == [[詰将棋]]では二歩を主題とする問題がある。禁じ手であるため手順中に二歩が現れることはないが、将来の二歩を予防するために歩を捨てる、相手方に二歩の制約を与えるために取れる歩をわざと取らない、などが解答の鍵となっている問題である。 いわゆる「[[詰将棋#フェアリー詰将棋|フェアリー]]」(通常や一般のルールセットとは異なるルールによる問題)としては、「禁じられているのは二歩を『打つ』ことであって、二歩が『存在する』ことは禁じられていない」という論理のもと、問題図が二歩の作品もある<ref>[http://pylons.style.coocan.jp/tume/dendo/002.htm 初形に「二歩」がある作品]([http://pylons.style.coocan.jp/tume.htm 詰将棋マニアックス])</ref>。 === 例題 === {| |- | {{Shogi diagram|tleft | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |ss|akg | | | | | | |ss| | | | | | | | | | |ns | | | | | |rg|gs|tg| | | | | | | | | |ss | | | | | | | | | | | | | | | | | |ns |▲持ち駒 香歩<br/>図1-A}} | {{Shogi diagram|tleft | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |ss| | | | | | | |ss| |ls | | | | | | | |ps|akg | | | | | | | |rg|psl | | | | | | | | |ss | | | | | | | | | | | | | | | | | |ns |▲持ち駒 なし<br/>図1-B}} |} 図1-Aは▲1四香、△2四玉、▲2五歩、△1五玉、▲2六金、△同飛、▲1六歩(図1-B)、△同飛、▲2七桂までの9手詰。1手目で▲1四歩とすると7手目の▲1六歩が二歩になるため、▲1四香の[[不利先打]]で解決する。 {| |- | {{Shogi diagram|tleft | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |lg | | | | | | | | |pg | | | | | | |ls| |akg | | | | | |rg|ds| | | | | | | | | | | |▲持ち駒 角角<br/>図2-A}} | {{Shogi diagram|tleft | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |lg | | | | | | | |akg|pg | | | | | | |ls| | | | | | | |rg|ds| |nsl | | | | | | | | | |▲持ち駒 角<br/>図2-B}} |- | {{Shogi diagram|tleft | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |bs| |lg | | | | | | | |pg|pg | | | | | | |ls| |akg | | | | | |rg|ds| | | | | | | | |bsl| | |▲持ち駒 なし<br/>図2-C}} | {{Shogi diagram|tleft | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |bs| |lg | | | | | | | |ng|pg | | | | | | |ls| |akg | | | | | |rg|ds|pgl| | | | | | | |bs| | |▲持ち駒 なし<br/>図2-D}} |} 図2-Aは▲3五角、△2六桂、▲同角、△同玉、▲1八桂(図2-B)、△2五玉、▲2七龍、△1四玉、▲3二角、△1三玉、▲2三龍(角成)までの11手詰。2手目の合駒が歩ならば取られても詰まないが、その場合▲3九角(図2-C)とすれば2八に歩で合駒ができず(桂も[[行き所のない駒]]であるため合駒に使えず、金銀香のどれかを打つことになる)、△2八香▲同角△1八玉▲1九香で早く詰む。逆に2手目の合駒が歩でない場合に▲3九角と打つと△2八歩(図2-D)と合駒され、▲2八同角△1八玉で詰まない(▲1九歩は[[打ち歩詰め]])。 === 歴史 === 二歩を主題とする詰将棋を初めて作ったのも二代大橋宗古であり、「象戯図式」([[1636年]] 俗称「将棋智実」)第1番が1号局である。 {| |- | {{Shogi diagram|tleft | | | | |rs| | | | |lg | | | | | |gg| |akg| | | | | |hg|sg| |pg| | | | | | |pg|pg| |pg | | | | | | | | | | | | | | | |ps| |ps | | | | | | |hs|ps| | | | | | | | | | | | | | | | | |ns|ls |▲持ち駒 金金銀桂歩<br/>図3-A 象戯図式 第1番}} | {{Shogi diagram|tleft | | | | |rs| | | |gs|lg | | | | | |gg| |ss| | | | | |hg|sg| |pg| | | | | | |pg|pg| |pg | | | | | | | |akgl| | | | | | | |ps| |ps | | | | | | |hs|ps| | | | | | | | | | | | | | | | | |ns|ls |▲持ち駒 桂歩<br/>図3-B}} | {{Shogi diagram|tleft | | | | |rs| | | |gs|lg | | | | | |gg| |ss| | | | | |hg|sg| |pg| | | | | | |pg|pg|akg| | | | | | | | |psl|pg | | | | | | |ps| |ps | | | | | | | | |ns | | | | | | | | | | | | | | | | | |ls |▲持ち駒 桂<br/>図3-C}} |} 図3-Aから進めて図3-Bのとき、▲2六歩、△2四玉、▲2五歩、△同玉として2七の歩を取り除き、将来の二歩を予防する。以下▲1七桂、△2四玉、▲1五馬、△同歩、▲2五歩(図3-C)となり、歩を取り除いた効果が現れる。 (図3-Aは▲2一金、△1三玉、▲2二銀、△2四玉、▲2五金、△同玉(図3-B)、▲2六歩、△2四玉、▲2五歩、△同玉、▲1七桂、△2四玉、▲1五馬、△同歩、▲2五歩(図3-C)、△1四玉、▲2六桂まで17手詰) なお、二歩禁の規則自体はこれ以前の詰将棋にも適用されており、例えば[[大橋宗桂 (初代)|初代大橋宗桂]]の「象戯造物」([[1602年]] 伝慶長版)の第45番<!--伝慶長版の番数-->は、玉方が二歩の合駒をすれば詰まない。<!--ただし、二歩の合に対して攻め方が打ち歩詰めで詰めることはできる。--> == 類似のゲームにおける事例 == * [[チェス]]では将棋の歩兵に相当する[[ポーン]]が、敵の駒を取るときのみ正面ではなく斜め前方に進むため、必然的に二歩のような形になる場合がある(ダブルポーン)。ルール上は問題ないが、縦に並んでいると正面のポーンが守りにくくなるので通常は不利な形とされている。 * [[マークルック]]のビアもポーンと同じく駒を取るときに斜め前方へ進むため、縦に二つ並んだ形になる場合がある。こちらもルール上は問題ない。 * [[どうぶつしょうぎ]]では、将棋の歩兵に相当する「ひよこ」を同じ縦の列に打つこと(二ひよこ)が許されている。但し二ひよこが好手になる場面は少なく、主に敗勢時の手数稼ぎに用いられる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[持ち駒]] * [[打ち歩詰め]] * [[行き所のない駒]] {{将棋}} {{詰将棋}} {{shogi-stub}} {{デフォルトソート:にふ}} [[Category:将棋用語]] [[Category:詰将棋]]
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遷都
遷都(せんと)は、都 (みやこ)を他所へうつす(遷す)こと、都を替えることを意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り/都移り(みやこうつり)とも言った。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い(cf. #還都の一覧)、日本語では古くは都還り(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、還都は遷都と同義で用いられることもある。現代では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して首都機能移転という語も用いられる(後述)。 新しい都は新都(しんと)、過去の都(一代前の都やそれ以前の都)は旧都(きゅうと)と言う。旧都は「古い都」を意味する古都/故都(こと)と類義ではあるが、強調点はそれぞれに異なり、前者は「過去」を、後者は「時の積み重ね」を含意する。廃された都(廃される都も同じく)、および、廃墟と化した都は、廃都(はいと)と言う。 都をさだめる(奠める、定める)こと、都を建設することは、初であるか以前がどうであったかとは別義に、奠都(てんと)と言う。都を定めることは定都(ていと)とも言う(用例:北京定都)が、鴨長明が『方丈記』のなかで「嵯峨の御時 都定まりける(解釈:〈平安京に遷都した桓武天皇より2代後の〉嵯峨天皇治世下のこの時〈すなわち、平城還都派最後の抵抗を制圧した薬子の変の事後〉になって都は定まった。cf. #平城還都の詔)」と述べているように、法的に都が決められたり遷されたりした後も都づくりは続けられ、都として政治的に安定を見たときにようやく「都が定まる」という概念でもってこの語が用いられることもある。都を建設する、そのこと自体は建都(けんと)と言うが、「時と人が都を育んでゆく」などといった抽象的な意味を含めて「都を形づくってゆくこと」を指す場合もある(用例:平安建都1200年)。 遷都や首都移転の例としては、主として以下のパターンがある。 長距離の首都移転としては、ポルトガル王国が行政首都(宮廷)をリスボンから大西洋を渡ったブラジルのリオデジャネイロへ移転させた1808年の例と、その後、リオデジャネイロからリスボンに帰還した1821年の例がある(cf. #ポルトガル王国)。 紀元前11世紀以前に興った著名な国家における首都の変遷。 紀元前10世紀からキリスト紀元までに興った著名な国家における首都の変遷。 キリスト紀元から5世紀の終わりまでに興った著名な国家における首都の変遷。以下同様。 現代の日本では、「遷都」は、「首都の移転」や「政府の場所をうつす」や「国会が開催される場所を移す」などの意味で使われることがある。ただし、日本の歴史上の「都」がそのまま、現代の「首都」と同義であるかについては議論もある。 古墳時代以後、『日本書紀』によれば大化元年(645年)6月、中大兄皇子らが政変を起こし、新たな政治体制が構築された(乙巳の変)。新政府は同年12月9日に難波長柄豊碕宮に遷都を行い、翌大化2年(646年)元日、孝徳天皇は改新の詔を発しその第2条で「初修京師」と初めて首都を定め、難波長柄豊碕宮を日本初の首都とした。 斉明天皇元年(655年)1月、斉明天皇は難波長柄豊碕宮遷都以前の宮である板蓋宮で即位、都は飛鳥に戻った。その後、同年冬には川原宮に、翌斉明天皇2年(656年)には後飛鳥岡本宮と飛鳥の中で首都が営まれた。天智天皇は白村江の戦い敗北後の天智天皇6年(667年)、内陸部の近江大津宮に遷都を行ったが、壬申の乱の後の天武天皇元年(672年)、飛鳥浄御原宮に遷都。都は再び飛鳥に戻った。 天武天皇12年(683年)12月17日、天武天皇は「複都制の詔」を発した。まず難波長柄豊碕宮廃絶後も外交拠点として存続していた難波宮を副都とし、更に畿内と信濃国に副都を設けるために使節を派遣した。しかし畿内と信濃への副都設置は実施されることなく終わった。 藤原京遷都は難産だった。『日本書紀』の藤原京遷都に関する最初の記述は天武天皇5年(676年)の「新城」建設に関するものである。その後、遷都計画は中断と再開を重ねた後、持統天皇8年(694年)12月に藤原京への遷都が行われた。 藤原京は日本で初めて条坊を整備した画期的な都であったが、その地勢の悪さから破棄され、和銅3年(710年)3月10日、元明天皇は平城京に遷都を行った。平城遷都に関しては「大宝律令」の制定を契機に、中央集権国家にふさわしい首都を建設しようとしたともされている。平城京は藤原京に続いて条坊を備えた本格的な都城として造営された。 天平12年(740年)、聖武天皇は伊勢国、美濃国と関東を行幸後、平城京へ帰途の途中の同年12月15日、恭仁京に遷都を行った。その後、天平16年(744年)2月26日に難波京 、更に天平17年(745年)1月には紫香楽宮へと目まぐるしく都を移転させた後、同年中に平城京へ帰還した。 延暦3年(783年)11月11日、桓武天皇は長岡京遷都を行った。しかし延暦13年(794年)に6、8月と続けて水害に見舞われ同年中に平安京に都を移した。 延暦13年(794年)10月22日、桓武天皇は新たに平安京を都に定めた。 それから約四百年後の治承4年(1180年)6月2日、平清盛は福原京遷都した。しかし福原京は短命に終わり、同年11月25日には平安京に再遷都された。その後京都は千年以上日本国の首都であり続けたが、維新政府は明治時代になって江戸を東京と改め、ここを首都とした。
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遷都(せんと)は、都 (みやこ)を他所へうつす(遷す)こと、都を替えることを意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り/都移り(みやこうつり)とも言った。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い、日本語では古くは都還り(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、還都は遷都と同義で用いられることもある。現代では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して首都機能移転という語も用いられる(後述)。
{{出典の明記|date=2012年12月}} {{Wiktionary|en:遷都}} '''遷都'''(せんと)は、[[首都|都]] <ref group="注釈">字義としての「都」は[[天子]]の宮城のある首府をあらわす。[[周]]代の行政上の区画では君主の[[宗廟]]のある場所を都(ト・ツ)といい、無い場所を[[邑]](ユウ)と呼んだ。「都」は寄せ合わせ残らず集める意。[[曹丕]]文「頃撰二遺文、一都爲二一集」。</ref>(みやこ)を他所へうつす([[wikt:遷|遷]]す)こと<ref name="広辞苑">[[広辞苑]] 第五版。</ref>、都を替えること<ref name="広辞苑" />を意味する[[漢字文化圏]]の語。[[日本語]]では古くは'''都遷り'''<ref name="大辞林">[[大辞林]] 第三版。</ref>/'''都移り'''<ref name="大辞林" />(みやこうつり)とも言った<ref name="広辞苑" />。反対に、{{anchors|還都}}かつて都であった場所に都を戻す([[wikt:還|還]]す)ことは'''還都'''(かんと)と言い<ref name="大辞林" />(''cf.'' [[#還都の一覧]])、日本語では古くは'''都還り'''(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、'''還都'''は'''遷都'''と[[同義語|同義]]で用いられる<ref name="大辞林" />こともある。[[現代 (時代区分)|現代]]では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して'''[[首都機能移転]]'''という語も用いられる([[#首都機能移転|後述]])。 == 関連語 == {{anchors|新都|旧都|古都|廃都}}新しい都は'''新都'''(しんと)<ref name="大辞林" /><ref name="大辞泉" />、過去の都(一代前の都やそれ以前の都)は'''旧都'''(きゅうと)と言う<ref name="大辞林" /><ref name="大辞泉" />。'''旧都'''は「古い都」を意味する'''[[古都]]'''/'''故都'''(こと)と類義ではあるが<ref name="大辞林" /><ref name="大辞泉" />、強調点はそれぞれに異なり、前者は「過去」を、後者は「時の積み重ね」を含意する。廃された都(廃される都も同じく)、および、[[廃墟]]と化した都は、'''廃都'''(はいと)と言う<ref name="Y.U. 2011">{{Cite web|和書|editor=山形大学歴史・地理・人類学研究会編 |date=2011-03 |title=山形大学歴史・地理・人類学論集 第12号 抜刷 |url=http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/elib/serials/hgca/012/hgca-12-00390046.pdf |format=PDF |work=(公式ウェブサイト)|publisher=[[山形大学]] |accessdate=2012-12-19}}</ref>。 {{anchors|奠都|定都|建都}}[[都]]をさだめる([[wikt:奠|奠]]める、定める)こと<ref name="大辞林" /><ref name="大辞泉">[[大辞泉]]。</ref>、都を建設すること<ref name="大辞林" />は、初であるか以前がどうであったかとは別義に、'''[[奠都]]'''(てんと)と言う<ref name="大辞林" /><ref name="大辞泉" /><!--※大和言葉は未確認。-->。都を定めることは'''定都'''(ていと)とも言う<ref name="Ueda 1997">{{Cite web|和書|author=[[上田正昭]] |date=1997 |title=都市の記憶と宗際のこだま - 会報62 (平成9年) |url=http://www.kbo.gr.jp/kaihou/62-1.htm |work=(公式ウェブサイト)|publisher=京都仏教会 |accessdate=2012-12-29}}</ref>(用例:[[北京市|北京]]定都<ref name="Y.U. 2011" />)が、[[鴨長明]]が『[[方丈記]]』のなかで「嵯峨の御時 都定まりける(解釈:〈[[平安京]]に遷都した[[桓武天皇]]より2代後の〉[[嵯峨天皇]]治世下のこの時〈すなわち、[[平城京|平城]]還都派最後の抵抗を制圧した[[薬子の変]]の事後〉になって都は定まった。''cf.'' [[#平城還都の詔]])」と述べているように、法的に都が決められたり遷されたりした後も都づくりは続けられ、都として[[政治]]的に安定を見たときにようやく「都が定まる」という[[概念]]でもってこの語が用いられることもある<ref name="Ueda 1997" />。都を建設する、そのこと自体は'''建都'''(けんと)と言う<ref name="大辞林" /><ref name="Y.U. 2011" />が、「時と人が都を育んでゆく」などといった[[抽象]]的な意味を含めて「都を形づくってゆくこと」を指す場合もある(用例:[[平安京|平安]]建都1200年)<ref name="Ueda 1997" />。 == 遷都の類型 == {{節スタブ}} {{独自研究|section=1|date=2015年9月5日 (土) 07:37 (UTC)}} 遷都や首都移転の例としては、主として以下のパターンがある。 * [[政権]]の交代に伴い、新政権が最適地と判じる他所へ移転する。 ** [[宮廷]]・[[wikt:宮城]]の移転に伴う、事実上の首都移転。 *:: 実例 :歴代の[[皇居]]所在地が都と見なされる[[#日本|日本]]の遷都史(''cf.'' [[皇宮#歴代の皇居|歴代の皇宮]])。 ** 旧来の都にあっては影響を受けざるを得ない抵抗勢力や敵性勢力から遠ざかり、権勢的白紙状態にある新都の運営を図る。 *:: 実例 :[[#エジプト新王国|エジプト新王国]]において、[[アメンホテプ4世]]による[[アメンホテプ4世#アマルナ改革|アマルナ改革]]の一環として断行された旧都ネウト([[テーベ]])の廃棄と新都アケトアテン([[アマルナ]])への遷都。[[#日本|日本]]において、既存[[仏教]]勢力や[[貴族]]勢力と距離を置きたい[[桓武天皇]]による[[平城京]]から[[長岡京]]への遷都。 ** 実権を持つ政権が[[傀儡政権]]の都を廃して他所へ移転させる。 *:: 実例 :[[#漢|後漢]]末における、[[董卓]]による[[洛陽市|洛陽]]から[[長安]]への強制的遷都。 * 政治情勢や経済状況の変化によって最適地が他所に移った場合、移転する、あるいは、移転を余儀なくされる。 ** 領土の縮小や移動に伴う遷都もその典型例と言える。[[戦線]]の移動による[[占領]]地域の変化によって移転する場合、その多くは敗戦によって強いられたものである。 *:: 実例 :[[金 (王朝)|金王朝]]にいったん滅ぼされた後、翌年に再興した[[#宋|宋王朝]]における、占領されてしまった旧都・[[開封市|東京開封府]](開封)から[[臨安市|臨安]]への遷都([[南宋#建国|南遷]])。[[#中華民国|中華民国]](現在の[[台湾]])の遷都史。 ** 国家の分裂による、他所での[[#奠都|奠都]]。 *:: 実例 :[[395年]]以降に[[#ローマ帝国|ローマ帝国]]が東西分裂することで興った[[東ローマ帝国]](ローマ帝国東方領土)における、ローマから[[コンスタンティノポリス]]への遷都。 ** [[計画都市]]を造成して遷都する。 *:: 実例 :[[#アッバース朝|アッバース朝]]における、[[クーファ]]から[[計画都市]][[バグダード]]への遷都。[[#日本|日本]]における、[[平城京]]や[[平安京]]等への遷都。[[#アメリカ合衆国|アメリカ合衆国]]における、[[フィラデルフィア]]から計画都市[[ワシントンD.C.]]への遷都。[[#ブラジル|ブラジル]](ブラジル連邦共和国)における、[[リオデジャネイロ]]から[[計画都市]][[ブラジリア]]への遷都。 ** 諸事情によって都の機能が低下したことによる遷都もある。 *:: 実例 :[[#日本|日本]]における、[[長岡京]]から[[平安京]]への遷都(''cf.'' [[#怨霊に潰された都]])。 * 前政権の業績を、廃都という形で強く否定する、あるいは、[[歴史]]から抹消しようと図る。 *:: 実例 :[[アメンホテプ4世]]没後の[[#エジプト新王国|エジプト新王国]]における、アケトアテン([[アマルナ]])の廃都とメン・ネフェル([[メンフィス (エジプト)|メンフィス]])への遷都。[[董卓]]没後の[[#漢|後漢]]における、[[長安]]から[[洛陽市|洛陽]]への[[#還都|還都]]。 * 戦局の変化が著しい場合や、[[亡命政府|亡命政権]]が[[内戦]]の敗北を認めようとしない場合、[[臨時首都]]あるいは[[軍都]]のような体裁をとり、正式な首都移転を行わない場合がある。 *:: 実例 :[[#中華民国|中華民国]](現在の[[台湾]])における、臨時首都である[[台北市|台北]]と、現在も正式な首都とされる[[南京市|南京]]。 * [[複都制]]の採用や廃止に伴う部分的首都機能移転。 *:: 実例 :<!--ローマ帝国における複都制について。※未筆。-->[[1153年]]の[[セルジューク朝]]における複都制の廃止と、それに伴う[[ハマダーン]]への首都機能の集約。 == 還都の一覧 == ; 本節における記載上の規則 : ※各国の記載位置は建国年を基準にしている <ref group="注釈">同時期の場合は、早く遷都したほうを先に記載する。</ref>。ただし例外として、[[日本]]は[[記紀]]に著された[[神話]]的な[[紀元前660年]]ではなく、実在が確かめられている[[雄略天皇]]の即位年([[456年]])とする。 : ※[[#ローマ帝国|ローマ帝国]]のように、国によっては前身となった国家の首都も記載するが、その場合は、[[括弧#隅付き括弧【】|隅付き括弧【 】]]と矢印 → 、および、直前もしくは直後の1角空けによって明示する。 : ※現存する国家は現在使われている[[国旗]]を表示する。 : ※[[20世紀]]以降に行われた遷都や[[首都機能移転]]は、移転先の都市名を'''太字'''で強調する。 : ※時期を示す表現として「(人物名)即位期」などとあるが、これは「その人物の即位時、もしくは、さほど間を空けないその後のいつか」という含意がある。 : ※首都は常に途切れなく存在するわけではなく、いったん滅亡した国家や首都を失った国家が数カ月後・数年後に復興するなど、首都の存在が中断している場合もある(実例:5年間滅亡状態にあった[[#漢|漢王朝]]。年が変わるまで滅亡していた[[#晋|晋王朝]]。翌年の6月まで滅亡状態にあった[[#宋|宋王朝]])。つまり、「A市(1000-1100年) → B市(1101-1200年)」などというケースもあるので、遷都された時期に途切れがなくても「A市(1000-1100年) → B市( -1200年)」などと省略はせず、「A市(1000-1100年) → B市(1100-1200年)」と表記している。 : ※同等の首都が同時に複数存在する時代がある場合、その状態にあった期間を「A市・B市両都(1000–1100年)」という形で表す(実例:[[#セルジューク朝|セルジューク朝]]、[[#ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド・リトアニア共和国]])。 * [[#エジプト新王国|エジプト新王国]] :時期不詳ながら、メン・ネフェル([[メンフィス (エジプト)|メンフィス]])からネウト([[テーベ]])へ還都。 * [[#アッシリア|アッシリア]] :[[紀元前14世紀|紀元前1365年]]、[[アッシリア#中アッシリア時代|中アッシリア王国]]初代国王[[アッシュール・ウバリト1世]]が[[テル・レイラン#アッシリアの王都シュバト・エンリル|シュバト・エンリル]](現・テル・レイラン)から[[アッシュール]]へ還都する。 * [[#漢|漢王朝]] :[[22年]]10月、[[新]]を倒した[[更始帝]]による[[長安]]から[[洛陽市|洛陽]]への還都。 ** [[24年]]2月、更始帝による洛陽から長安への還都。[[25年]]6月、[[新末後漢初#光武帝の争覇戦|争覇戦]]を勝ち抜いた[[光武帝]]による長安から洛陽への還都。 ** [[189年]]もしくは[[190年]]、[[董卓]]による洛陽から長安への還都。 * [[#孫呉|孫呉王朝]] :[[265年]]、[[建業]]から[[鄂州市|武昌]]へ還都。 ** [[266年]]には武昌から建業へ還都。 * [[#日本における遷都|日本]] ([[#5世紀]]から):[[斉明天皇]]元年([[655年]])冬、[[難波京]]([[難波長柄豊碕宮]])から飛鳥[[川原宮]])へ遷都。 ** 斉明天皇2年([[656年]])、飛鳥川原宮から[[岡本宮]](後飛鳥岡本宮)へ遷都。 ** 斉明天皇7年([[661年]])、後飛鳥岡本宮)から[[朝倉橘広庭宮]]へ遷都。 ** [[天智天皇]]6年([[667年]])、朝倉橘広庭宮から[[近江大津宮]]へ遷都。 ** [[天武天皇]]元年([[672年]])、[[近江宮]]から[[飛鳥浄御原宮]]へ遷都。 ** [[持統天皇]]8年([[694年]])、飛鳥浄御原宮から[[藤原宮]]へ遷都。 ** [[和銅]]3年([[710年]])、[[藤原京]]から[[平城京]]へ遷都。 ** [[天平]]12年([[740年]])、平城京から[[恭仁京]]へ遷都。 ** [[天平]]15年([[743年]])、恭仁京から[[紫香楽宮]]へ遷都。 ** [[天平]]17年([[745年]])、[[紫香楽宮]]から[[平城京]]へ還都。 ** [[延暦]]3年([[784年]])、平城京から[[長岡京]]へ遷都。 ** [[延暦]]13年([[794年]])、長岡京から[[平安京]]([[京都]])へ遷都。 ** [[慶應]]4年([[1868年]])、京都から[[東京]]([[江戸]]を改称)へ奠都。 * [[#クメール王朝|クメール王朝]] :[[944年]]、[[コー・ケー|チョック・ガルギャー]]から{{仮リンク|ヤショダラプラ|en|Yasodharapura}}へ還都。 * [[#ローマ帝国|東ローマ帝国]] :[[1261年]]、[[亡命政府|亡命政権]]の一つであった[[ニカイア帝国]]が旧都[[コンスタンティノポリス]](現・[[イスタンブール]])を奪還し、首都[[ニカイア]]から還都する。 * [[#ムガル帝国|ムガル帝国]] :[[アクバル]]の即位からそう遠くない時期([[1556年]])にシャージャハナバード(現・[[デリー#オールドデリー|オールドデリー]]〈[[:en:Old Delhi|en]]〉)から[[アーグラ]]へ還都。 ** [[1598年]]に[[ラホール]]からアーグラへ還都。 ** [[1648年]]にはアーグラからシャージャハナバードへ還都。 * [[#スペイン帝国|スペイン帝国]] :[[1606年]]、[[バリャドリッド|バリャドリード]]から[[マドリード]]へ還都。 * [[#ロシア帝国|ロシア帝国]] :[[1730年]]、[[アンナ (ロシア皇帝)|皇帝アンナ]]が[[モスクワ]]から[[サンクトペテルブルク]]へ還都する。 * [[#ハンガリー王国|ハンガリー王国]] :[[1784年]]、亡命政権があったポジョニ(現・[[ブラチスラヴァ]])から[[ブダ]]へ還都。 * [[#ポルトガル王国|ポルトガル王国]] :[[1821年]]、亡命政権があった[[ブラジル]]の[[リオデジャネイロ]]から[[リスボン]]へ還都。 * [[#ハワイ王国|ハワイ王国]] :[[1845年]]、[[ラハイナ]]から[[ホノルル]]へ還都。 * [[#イタリア王国|イタリア王国]] :[[1944年]]、[[サレルノ]]から[[ローマ]]へ還都。 {{節スタブ}} 長距離の首都移転としては、[[ポルトガル王国]]が行政首都(宮廷)を[[リスボン]]から[[大西洋]]を渡った[[ブラジル]]の[[リオデジャネイロ]]へ移転させた[[1808年]]の例と、その後、リオデジャネイロからリスボンに帰還した[[1821年]]の例がある(''cf.'' [[#ポルトガル王国]])。 === 紀元前11世紀以前 === [[紀元前11世紀]]以前に興った著名な国家における首都の変遷。 ; [[紀元前31世紀]] * {{anchors|エジプト初期王朝時代}}[[エジプト初期王朝時代|エジプト初期王朝]]([[エジプト第1王朝|第1]]・[[エジプト第2王朝|第2王朝]]) :イネブ・ヘジ([[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]。[[紀元前31世紀|紀元前3100年頃]]か- [[紀元前30世紀|紀元前2890年頃]]か) → ティエヌ({{仮リンク|ティニス|en|Thinis}}。紀元前2890年頃か- [[紀元前27世紀|紀元前2686年]]か) ; [[紀元前21世紀]] * {{anchors|エジプト中王国}}[[エジプト中王国]]([[エジプト第11王朝|第11]]・[[エジプト第12王朝|第12王朝]]) :ネウト([[テーベ]]、現・[[ルクソール]]。[[紀元前21世紀|紀元前2040年頃]]-[[紀元前20世紀|紀元前1991年頃]]) → [[イチ・タウィ]](紀元前1991年頃-[[紀元前17世紀|紀元前1650年頃]]) ; [[紀元前2千年紀|紀元前20世紀]] * {{anchors|アッシリア}}[[アッシリア]]([[アッシリア#古アッシリア時代|古アッシリア時代]]〜[[アッシリア#新アッシリア時代|新アッシリア時代]]) :[[アッシュール]]([[紀元前2千年紀|紀元前1950年頃]]-[[紀元前19世紀|紀元前1813年頃]]) → [[テル・レイラン#アッシリアの王都シュバト・エンリル|シュバト・エンリル]](現・テル・レイラン。紀元前1813年頃-[[紀元前14世紀|紀元前1365年]]) → アッシュール(紀元前1365年-[[紀元前9世紀|紀元前883年]]) → カルフ([[ニムルド]]。紀元前883年-[[紀元前8世紀|紀元前707年]]) → [[ドゥル・シャルキン]](紀元前707年-紀元前705年) → [[ニネヴェ]](紀元前705年-[[紀元前7世紀|紀元前632年]]) → ハラン([[ハッラーン]]。紀元前632年-[[紀元前7世紀|紀元前609年]]) ; [[紀元前16世紀]] * {{anchors|エジプト新王国}}[[エジプト新王国]]([[エジプト第18王朝|第18]]〜[[エジプト第20王朝|第20王朝]]) :ネウト([[テーベ]]。[[紀元前16世紀|紀元前1570年頃]]-[[紀元前14世紀|紀元前1343年]]) → アケトアテン([[アマルナ]]。紀元前1343年-[[紀元前14世紀|紀元前1333年頃]]) → メン・ネフェル([[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]。紀元前1333年頃- ?) → ネウト(テーベ。? -[[紀元前11世紀|紀元前1070年頃]]) ; [[紀元前11世紀]] * {{anchors|周}}[[中国]]・[[周]]王朝 :酆(酆邑、酆京。後世の[[長安]]。[[紀元前1046年]]頃- ?) → 鎬(鎬京。? -[[紀元前771年]]) → 洛(洛邑。後世の[[洛陽市|洛陽]]。紀元前771年-[[紀元前256年]]) * {{anchors|イスラエル王国}}[[イスラエル王国]] :[[エルサレム]]([[紀元前11世紀|紀元前1021年頃]]-[[紀元前10世紀|紀元前930年頃]]) → [[シェケム]](紀元前930年頃) → [[ペヌエル]](紀元前930年頃-[[紀元前10世紀|紀元前909年]]) → {{仮リンク|ティルツァ (古代都市)|label=ティルツァ|en|Tirzah (ancient city)}}(紀元前909年-[[紀元前9世紀|紀元前880年]]) → [[サマリア]](紀元前880年-[[紀元前8世紀|紀元前722年]]) {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = 古代ローマの歴代首都 | header_align = center | header_background = #D2B48C | footer = | image1 = Forum Romanum Rom.jpg | width1 = 200 | caption1 = [[ローマ]]の[[遺跡]] | image2 = Bizansist touchup.jpg | width2 = 200 | caption2 = [[コンスタンティノポリス]]/[[東ローマ帝国]]時代の繁栄を描いた想像画。 | image3 = Nuremberg chronicles f 194v 1.jpg | width3 = 200 | caption3 = [[ニカイア]]/[[ニカイア帝国]]の都であった頃より2世紀半後に編まれた『[[ニュルンベルク年代記]]』の[[木版画]][[挿絵]]。 | image4 = Nuremberg chronicles f 72r 1.png | width4 = 200 | caption4 = メディオラヌム(現・[[ミラノ]])/ただし、[[西ローマ帝国]]の都であった頃より11世紀後に編まれた『ニュルンベルク年代記』の木版画挿絵。 | image5 = PiazzaDelPopolo01.jpg | width5 = 200 | caption5 = [[ラヴェンナ]]/ただし、写真の建物は[[15世紀]]頃に建造された旧ヴェネツィアーノ宮殿。 }} === 紀元前10世紀〜紀元 === [[紀元前10世紀]]から[[キリスト教|キリスト]][[紀元]]までに興った著名な国家における首都の変遷。 ; [[紀元前8世紀]] * {{anchors|秦}}中国・[[秦]]王朝 :[[秦邑]](現・[[張家川回族自治県]]。[[紀元前900年]]頃-[[紀元前762年]]) → [[犬丘]](現・[[礼県]]。紀元前762年- ?) → 西垂(現・[[眉県]]。? -[[紀元前714年]]) → 平陽(現・[[宝鶏市]][[陳倉区]]。紀元前714年-[[紀元前677年]]) → 雍城(現・宝鶏市[[鳳翔区]]南東。紀元前677年- ?) → [[涇陽県|涇陽]](? -[[紀元前383年]]) → {{仮リンク|櫟陽|zh|櫟陽}}(紀元前383年-[[紀元前350年]]) → [[咸陽市|咸陽]](紀元前350年-[[紀元前207年]]) ; [[紀元前3世紀]] * {{anchors|漢}}中国・[[漢|漢王朝]]([[前漢]]・[[後漢]]) :[[長安]]([[紀元前206年]]- [[8年]]) → ([[新]]によって中断されている間、都長安は常安に改称) → [[洛陽市|雒陽]]([[22年]]10月〈[[更始帝]]による〉-[[24年]]2月) → 長安(24年2月〈更始帝による〉- [[25年]]6月) → 雒陽(25年6月〈[[光武帝]]による〉-[[189年]]か[[190年]]) → 長安(189年か190年〈[[董卓]]による〉- [[196年]]9月) → 許(後世の[[許昌市|許昌]]。196年9月〈[[曹操]]による〉- [[220年]]) ; [[紀元前1世紀]] * {{anchors|高句麗}}[[高句麗]] :{{仮リンク|卒本扶余|en|Jolbon}}([[紀元前37年]]- [[3年]]) → [[国内城]](現・[[集安市]]内。3-[[427年]]) → [[平壌直轄市|平壌城]](427-[[668年]]) * {{anchors|ローマ帝国}}[[ローマ帝国]] :【[[王政ローマ]]首都[[ローマ]]([[伝承|伝]]・[[紀元前753年]][[4月21日]]-[[紀元前6世紀|紀元前509年]]) → [[共和政ローマ]]首都ローマ(紀元前509年-[[紀元前27年]])】 → ローマ(紀元前27年-) →(その後、帝国が東西に分裂) ** [[東ローマ帝国]](ローマ帝国東方領土) :(※分裂前の帝国から継承) → コンスタンティノポリス([[395年|395]]-[[1204年]]) → [[ニカイア帝国]]首都[[ニカイア]](現・[[イズニク]]。1204-[[1261年]]) → コンスタンティノポリス(1261年- [[1453年]][[5月29日]]) ** [[西ローマ帝国]](ローマ帝国西方領土) :(※分裂前の帝国から継承) → ローマ([[395年|395]]-)/ メディオラヌム(現・[[ミラノ]]。395-[[402年]]) → [[ラヴェンナ]](402-[[476年]]) * {{anchors|百済}}[[百済]] :[[慰礼城]]([[紀元前18年]]- [[475年]]) → [[熊津]](475-[[538年]]) → [[泗沘]](538-[[660年]]) === 1〜4世紀 === [[キリスト教|キリスト]][[紀元]]から[[5世紀]]の終わりまでに興った著名な国家における首都の変遷。以下同様。 ; [[3世紀]] * {{anchors|孫呉}}中国・[[呉 (三国)|孫呉王朝]] :[[鄂州市|武昌]]([[222年|222]]-[[229年]]) → [[建業]](229-[[265年]]) → 武昌(265-[[266年]]) → 建業(266-[[280年]]) * {{anchors|ガリア帝国}}[[ガリア帝国]] :コロニア・アグリッピナ(現・[[ケルン]]。[[260年|260]]-[[273年]]) → アウグスタ・トレウェロルム(現・[[トリーア]]。273-[[274年]]) * {{anchors|晋}}中国・[[晋 (王朝)|晋王朝]] :[[洛陽市|洛陽]]([[265年]]12月- [[316年]]) → [[長安]](316年) → [[建康 (都城)|建康]]([[317年|317]]<!--※316年の誤記ではない。-->-[[420年]]) ; [[4世紀]] * {{anchors|北魏}}[[北魏]] :【盛楽([[386年|386]]-[[398年]])】 → 平城(現・[[大同市]]。398-[[494年]]) → [[洛陽市|洛陽]](494年。その後、[[534年]]に東西分裂) ** [[東魏]] :(※分裂前の政権から継承) → 洛陽(494-[[534年]]) → [[鄴]](534-[[550年]]) ** [[西魏]] :(※分裂前の政権から継承) → 洛陽(494-[[535年]]) → [[長安]](535-[[556年]]) === 5世紀 === ; [[5世紀]] * {{anchors|日本}}{{JPN}} :【[[畝傍橿原宮]](伝承地は[[橿原神宮]]。[[伝承|伝]]・[[辛酉]]年〈[[神武天皇]]元年〉[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]〈[[紀元前660年]][[2月18日]]〉- 伝・[[綏靖天皇]]元年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]〈[[紀元前581年]][[2月23日]]〉の前日) → [中略。※「[[皇宮#歴代の皇居]]」を参照]】 → [[泊瀬朝倉宮]]([[安康天皇]]3年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]〈[[456年]][[12月25日]]〉- [[清寧天皇]]元年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]〈[[480年]][[2月11日]]〉の前日) → [解説を参照] ::: [解説] [[安康天皇]]3年([[456年]])に即位した[[雄略天皇]]の宮城である[[泊瀬朝倉宮]]を最初の首都と見なし、その後の宮城の変遷史については「[[日本の首都#宮城の変遷]]」で示す。 ::: 歴代の宮城の中で歴史的にとりわけ重要なものは[[飛鳥京]](表にある[[板蓋宮]]・[[川原宮]]・[[飛鳥浄御原宮]]等を含むこの時代の[[首都圏]]区域を指す)・[[平城京]]・[[平安京]]・[[東京]]であり、係る変遷史は以下のとおりである。本項の「[[#日本における遷都]]」も併せて参照のこと。 :* [[持統天皇]]8年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]](<small>[[ユリウス暦]]</small>[[694年]][[12月27日]]) :[[飛鳥京]]から[[藤原京]]へ遷都。 :* [[和銅]]3年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]](<small>ユリウス暦</small>[[710年]][[4月13日]]) :藤原京から[[平城京]]へ遷都。 :* [[延暦]]3年5月(<small>ユリウス暦</small>[[784年]]の5月か6月) :平城京から[[長岡京]]へ遷都。 :* 延暦13年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]](<small>ユリウス暦</small>[[794年]][[12月4日]]) :長岡京から[[平安京]]へ遷都。 :* [[慶応]]4年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]](<small>[[グレゴリオ暦]]</small>[[1868年]][[11月26日]]) :[[天皇]](天皇居住地)と[[政府]]が[[京都]](平安京)から[[東京]]へ移転し、[[#奠都|奠都]](もしくは遷都)が成される(''cf.'' [[東京奠都]])。 * {{anchors|西ゴート王国}}[[西ゴート王国]] :トロザ(後世の[[トゥールーズ]]。[[415年|415]]-[[549年]]) → エメリタ・アウグスタ(後世の[[メリダ (スペイン)|メリダ]]。549-[[560年]]) → トレトゥム(後世の[[トレド]]。560-[[711年]]) === 6〜10世紀 === ; [[7世紀]] * {{anchors|ノーサンブリア王国}}[[ノーサンブリア]]王国 :Bebbanburg (後世の{{仮リンク|バンボロー|en|Bamburgh}}。[[653年]]- {{仮リンク|エドウィン (ノーサンブリア)|label=エドウィン|en|Edwin of Northumbria}}時代) → {{仮リンク|エボラクム|en|Eboracum}}([[866年]]以降の[[ヨルヴィーク]]、後世の[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]。エドウィン時代 -[[954年]]) * {{anchors|第一次ブルガリア帝国}}[[第一次ブルガリア帝国]] :[[プリスカ (ブルガリア)|プリスカ]]([[681年|681]]-[[893年]]) → {{仮リンク|プレスラフ|en|Preslav}}(893–[[968年]]か[[972年]]) → [[スコピエ]](972–[[992年]]) → [[オフリド]](992–[[1018年]]) ; [[8世紀]] * {{anchors|アッバース朝}}[[アッバース朝]][[イスラム帝国]] :[[クーファ]]([[750年|750]]-[[762年]]) → [[バグダード]](762-[[836年]]) → [[サーマッラー]](836-[[1258年]]) ; [[9世紀]] * {{anchors|クメール王朝}}[[クメール王朝|クメール朝]][[カンボジア]] :{{仮リンク|ハリハラーラヤ|en|Hariharalaya}}([[802年|802]]-[[889年]]) → {{仮リンク|ヤショーダラプラ|en|Yaśodharapura}}(889-[[928年]]) → [[コー・ケー|チョック・ガルギャー]](928-[[944年]]) → ヤショーダラプラ(944-[[1190年]]) → [[アンコール・トム]](1190-[[1431年]]) * {{anchors|カラハン朝|カラ・ハン国}}[[カラハン朝|カラ・ハン国]] :[[カシュガル市|カシュガル]]([[840年|840]]-[[1041年]]。1041年に東西分裂) ** 東カラ・ハン国 : → カシュガル(1041-[[1211年]]) ** 西カラ・ハン国 : → [[サマルカンド]](1041-[[1212年]]) * {{anchors|スコットランド王国}}[[スコットランド王国]] :[[スターリング (スコットランド)|スターリング]]([[843年|843]]- ?) → [[パース (スコットランド)|パース]](? -[[1492年]]) → [[エディンバラ]](1492-[[1707年]]) * {{anchors|プロヴァンス王国}}[[プロヴァンス王国]] :[[ヴィエンヌ (イゼール県)|ヴィエンヌ]]([[855年|855]]-[[911年]]) → [[アルル]](911年-[[933年]]) ; [[10世紀]] * {{anchors|ファーティマ朝}}[[ファーティマ朝]] :[[マーディア|マフディーヤ]]([[921年|921]]-[[969年]]) → カーヒラ([[カイロ]]。969-[[1169年]]) * {{anchors|南唐}}中国・[[南唐]] :江都府([[揚州市|揚州]]。[[937年|937]]-[[961年]]) → [[南昌市|南昌府]](961-[[975年]]) * {{anchors|宋}}中国・[[宋 (王朝)|宋王朝]] :[[開封市|東京開封府]](開封。[[960年|960]]-[[1126年]]) → [[臨安市|臨安]]([[1127年|1127]]<!--※1126年の誤記にあらず。-->-[[1276年]]) * {{anchors|ポーランド王国}}[[ポーランド王国]] :【[[グニェズノ]]([[963年]]- ?)】 → [[ポズナン]]([[966年]]- ?) → [[クラクフ]](? -[[1795年]]) * {{anchors|ガズナ朝}}[[ガズナ朝]] :ガズナ(現・[[ガズニー]]。[[963年|963]]–[[1163年]]) → [[ラホール]]([[1163年|1163]]–[[1186年]]) === 11〜15世紀 === ; [[11世紀]] * {{anchors|セルジューク朝}}[[セルジューク朝]] :[[ニーシャプール]]([[1037年|1037]]–[[1043年]]) → [[レイ (イラン)|レイ]](1043–[[1051年]]) → [[エスファハーン]](1051–[[1118年]]) → [[ハマダーン]]・[[メルブ遺跡|メルブ]]両都(1118–[[1153年]]) → ハマダーン(1153–[[1194年]]) * {{anchors|金]}}中国・[[金 (王朝)|金王朝]] :会寧州(のち、会寧府、[[上京会寧府]]、会寧府、上京会寧府と改名が繰り返される。現在の[[黒竜江省]]内。[[1122年|1122]]–[[1153年]][[4月21日]]) → {{仮リンク|中都 (金)|label=中都|zh|金中都}}(中都大興府、燕京。現在の[[北京市|北京]]内。1153年4月21日-[[1214年]][[6月27日]]) → 南京開封府([[開封市|開封]]。1214年6月27日–[[1233年]]) → [[臨時首都]]・[[蔡州 (河南省)|蔡州]](現在の[[汝南県]]内。1233年〈開封陥落後〉–[[1234年]]) * {{anchors|ハールィチ・ヴォルィーニ大公国}}[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]] :[[ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー|ヴォロディームィル]]([[1199年|1199]]-[[1238年]]) → [[ハールィチ]](1238-[[1272年]]) → [[リヴィウ]]([[1272年|1272]]-[[1349年]]) * {{anchors|ハンガリー王国}}[[ハンガリー王国]] :[[ペシュト]](? - [[1361年]]) → [[ブダ]](1361-[[1541年]]) → ポジョニ(現・[[ブラチスラヴァ]]。1541–[[1784年]]) → ブダ(1784-[[1873年]]) → [[ブダペスト|ブダペシュト]](1873年- ) → 《未編集》<!--※加筆求む。--> ** 1541年から1784年までは、[[バルカン半島]]に侵入してきた[[オスマン帝国]]の圧力から逃れた[[亡命政府|亡命政権]]がポジョニ(現在の[[スロヴァキア]]の首都ブラチスラヴァ)に都を置いた。 * {{anchors|ムラービト朝}}[[ムラービト朝]] :{{仮リンク|アグマ|en|Aghmat}}([[1040年|1040]]–[[1062年]]) → [[マラケシュ]](1062–[[1147年]]) ; [[12世紀]] * {{anchors|ムワッヒド朝}}[[ムワッヒド朝]] :{{仮リンク|ティンメル|en|Tinmel}}([[1130年|1130]]-[[1147年]]) → [[マラケシュ]](1147–[[1269年]])) * {{anchors|ポルトガル王国}}[[ポルトガル王国]] :[[コインブラ]]([[1139年|1139]]-[[1255年]]) → [[リスボン]](1255年- [[1807年]]11月) → [[リオデジャネイロ]]([[1808年]]3月〈[[ブラガンサ王朝#ナポレオン戦争とリオデジャネイロ遷都|''cf.'']] 〉-[[1821年]]) → リスボン(1821年- [[1910年]][[10月5日]]〈[[ブラガンサ王朝#ブラジル独立とポルトガル内戦、王朝の終焉|''cf.'']] 〉) ** [[1808年]] :[[ジャン=アンドシュ・ジュノー]]率いる[[フランス革命]]軍の[[ポルトガル]]侵攻([[ナポレオン戦争]]の局地戦)を受けて、この年、ポルトガル王国宮廷が[[リスボン]]から[[植民地]][[ブラジル]]へ脱出し、翌年になって[[リオデジャネイロ]]への遷都を宣言する。 ** [[1821年]] :ポルトガル王国([[ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国]])宮廷がリオデジャネイロからリスボンに帰還し、[[#還都|還都]]を果たす。ただし、リオデジャネイロへの宮廷の移転を遷都とは見なさず、首都はあくまでリスボンにあったと捉える見解もある。 * {{anchors|エチオピア帝国}}[[エチオピア帝国]] :【[[ザグウェ朝]]首都[[ラリベラ]]([[1137年|1137]]-[[1270年]])】 → ラリベラ?(1270-[[1632年]]) → [[ゴンダール]](1632-[[1769年]]) → [[アディスアベバ]]([[1886年]]- [[1975年]][[3月12日]]) ; [[13世紀]] * {{anchors|オスマン帝国}}[[オスマン帝国]] :【[[ソユット|ソウト]]〈[[1231年|1231]]-[[1299年]]〉】 → [[イェニシェヒル (ブルサ県)|イェニシェヒル]](1299-[[1326年]]) → プロウサ(現・[[ブルサ]]。1326-[[1365年]]) → [[エディルネ]](1365-[[1453年]]) → [[イスタンブール]](1453年- [[1922年]][[11月17日]]) * {{anchors|リトアニア大公国}}[[リトアニア大公国]] :[[:en:Voruta|ヴォルタ]]([[13世紀]]) → [[ケルナヴェ]]([[1279年]][[初出]]- [[1321年]]) → {{仮リンク|セニエイェ・トラカイ|en|Senieji Trakai}}(1321-[[1323年]]) → [[ヴィリニュス]](1323-[[1569年]]) ; [[14世紀]] * {{anchors|ドイツ騎士団国}}[[ドイツ騎士団国]] :マリーエンブルク(現・[[マルボルク]]。[[1308年|1308]]–[[1454年]]) → [[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]](1454–[[1525年]]) * {{anchors|明}}中国・[[明]]王朝 :応天府([[南京市|南京]]。[[1368年]][[正月]]- [[1421年]]) → [[北京市|北京]](旧・[[大都]]。当初の名は「北平府」で、[[1403年]]に「北京」へ改称。1421年- [[1644年]][[2月12日]]) ; [[15世紀]] * {{anchors|サヴォイア公国}}[[サヴォイア公国]] :[[シャンベリ]]([[1416年|1416]]-[[1562年]]) → [[トリノ]](1562-[[1714年]]) → 【[[#サルデーニャ王国|サルデーニャ王国]]が継承】 * {{anchors|ブハラ・ハン国}}[[ブハラ・ハン国]]([[シャイバーニー朝]]、[[ジャーン朝]]、[[マンギト朝]]〈[[:en:Manghit#Manghit Dynasty|en]]〉) :[[サマルカンド]]([[1428年|1428]]-[[1557年]]) → [[ブハラ]](1557-[[1599年]]) * {{anchors|シビル・ハン国}}[[シビル・ハン国]] :チムギ=トゥラ(現・[[チュメニ]]。[[1490年|1490]]-[[1493年]]) → シビル(現・[[カシリク]]。1493-[[1598年]]) * {{anchors|スペイン帝国}}[[スペイン帝国]] :[[トレド]]([[1492年|1492]]-[[1561年]]) → [[マドリード]](1561-[[1601年]]) → [[バリャドリッド|バリャドリード]](1601-[[1606年]]) → マドリード(1606-[[1898年]]) === 16〜20世紀 === ; [[16世紀]] * {{anchors|サファヴィー朝}}[[サファヴィー朝]] :[[タブリーズ]]([[1501年|1501]]–[[1555年]]) → [[カズヴィーン]](1555–[[1598年]]) → [[イスファハーン]](1598–[[1722年]]) * {{anchors|ムガル帝国}}[[ムガル帝国]] :【[[カーブル]](? -[[1526年]])】 → [[アーグラ]](1526年- [[フマーユーン]]即位期) → シャージャハナバード(現・[[デリー#オールドデリー|オールドデリー]]〈[[:en:Old Delhi|en]]〉。フマーユーン即位期- [[アクバル]]即位期) → アーグラ(アクバル即位期- [[1574年]]) → [[ファテープル・シークリー]](1574-[[1585年]]) → [[ラホール]](1585-[[1598年]]) → アーグラ(1598-[[1648年]]) → シャージャハナバード(1648-[[1857年]]) * {{anchors|ポーランド・リトアニア共和国}}[[ポーランド・リトアニア共和国]] :[[クラクフ]]・[[ヴィリニュス]]両都([[1569年|1569]]–[[1596年]]) → [[ワルシャワ]](1596–[[1673年]]) → ワルシャワ・[[フロドナ]]両都(1673-[[1795年]]) ; [[17世紀]] * {{anchors|後金}}[[後金]]王朝(アイシン国) :[[ヘトゥアラ]](赫図阿拉、興京。[[1616年|1616]]-[[1620年]]) → [[界藩]](1620-[[1621年]]) → [[東京城 (後金)|東京]](1621-[[1625年]]) → [[遼陽市|遼陽]](1625-[[1634年]]) → [[瀋陽市|瀋陽]](遷都と同時に「盛京」へ改称。1634年- [[1636年]][[5月15日]]) → 【中国・清王朝に変わる】 * {{anchors|清}}中国・[[清]]王朝 :【アイシン国を前身とする】 → 金陵応天府([[瀋陽市|盛京]]。[[1636年]][[5月15日]]- [[1644年]]) → [[北京市|北京]](初期は「順天府」。1644年- [[1912年]][[2月12日]]) * {{anchors|マラーター王国}}[[マラーター同盟|マラーター王国]] :[[ラーイガド城|ラーイガル]]([[1674年]][[4月21日]]- ?) → [[プネー]](? -[[1818年]][[9月21日]]) ; [[18世紀]] * {{anchors|ロシア帝国}}[[ロシア帝国]] :[[サンクトペテルブルク]]([[1713年|1713]]-[[1728年]]) → [[モスクワ]](1728-[[1730年]]) → サンクトペテルブルク(1730年- [[1917年]][[9月14日]]。※[[1914年]]、ペトログラードに改称) * {{anchors|アメリカ合衆国}}{{USA}} :[[ニューヨーク]]([[1776年]][[7月4日]]-[[1790年]]) → [[フィラデルフィア]](1790-[[1801年]]) → [[ワシントンD.C.]](1801年- 現在) * {{anchors|ハワイ王国}}[[ハワイ王国]] :[[ワイキキ]]([[1795年|1795]]–[[1796年]]) → [[ヒロ (ハワイ島)|ヒロ]](1796–[[1803年]]) → [[ホノルル]](1803–[[1812年]]) → [[カイルア・コナ]](1812–[[1820年]]) → [[ラハイナ]](1820–[[1845年]]) → ホノルル(1845年– [[1893年]][[1月17日]]〈王政の廃止とハワイ臨時政府の成立〉) ; [[19世紀]] * {{anchors|中央アメリカ連邦共和国|中米連邦}}[[中米連邦|中央アメリカ連邦共和国]] :[[グアテマラシティ]]([[1823年|1823]]-[[1834年]]) → [[サンサルバドル]](1834-[[1840年]]) * {{anchors|ギリシャ王国}}[[ギリシャ王国]] :[[ナフプリオ]]([[1832年]][[8月30日]]- [[1834年]]) → [[アテネ]](1834年- 現在) * {{anchors|テキサス共和国}}[[テキサス共和国]] :[[臨時首都|暫定首都]][[ワシントン・オン・ザ・ブラゾス (テキサス州)|ワシントン・オン・ザ・ブラゾス]]([[1836年]][[3月2日]]- [[1836年]]) → 暫定首都[[ハリスバーグ (テキサス州)|ハリスバーグ]](1836-[[1836年]]) → 暫定首都[[ガルベストン (テキサス州)|ガルベストン]](1836年- [[1836年]]4月〈[[サンジャシントの戦い]]の後〉) → 暫定首都[[ヴェラスコ (テキサス州)|ヴェラスコ]](1836年4月- 同年) → 首都[[ウエストコロンビア (テキサス州)|ウエストコロンビア]](1836-[[1837年]]) → 首都[[ヒューストン]](1837-[[1839年]]) → 首都[[オースティン (テキサス州)|オースティン]](1839年- [[1846年]][[2月19日]]〈[[アメリカ合衆国]]へ政権転移〉) * {{anchors|イギリス領インド帝国}}[[イギリス領インド帝国]] :カルカッタ(現・[[コルカタ]]。[[1858年|1858]]-[[1912年]]) → [[ニューデリー]](1912年- [[1947年]][[8月13日]]) * {{anchors|アメリカ連合国}}[[アメリカ連合国]] :[[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]([[1861年]][[2月4日]]-[[1861年]][[5月29日]]) → [[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]](1861年5月29日-[[1865年]][[4月3日]]) → [[ダンビル (バージニア州)|ダンビル]](1865年4月3日-同年[[4月10日]]) * {{anchors|サルデーニャ王国|イタリア王国}}[[サルデーニャ王国]]([[1861年]][[3月17日]]以降は[[イタリア王国]]) :【[[#サヴォイア公国|サヴォイア公国]]】 → [[トリノ]]([[1861年]][[3月17日]]- [[1865年]]) → [[フィレンツェ]](1865年- [[1870年]][[10月6日]]) → [[ローマ]](1870年10月6日- [[1943年]]) → '''[[ブリンディジ]]'''(1943-[[1944年]]) → '''[[サレルノ]]'''(1944年) → '''ローマ'''(1944年- [[1946年]][[6月2日]]) ** [[1865年]] :サルデーニャ王国が、トリノからフィレンツェへ遷都。 ** [[1871年]] :[[教皇領]]から[[フランス]]軍が撤退した[[1871年]]、これを受けて[[イタリア王国]]が教皇領を[[占領]]し、翌年、フィレンツェからローマへ遷都した。 * {{anchors|ブラジル}}{{BRA}}(ブラジル連邦共和国) :【[[ポルトガル王国]]首都[[リオデジャネイロ]]〈[[1808年]]3月[[[ブラガンサ王朝#ナポレオン戦争とリオデジャネイロ遷都|''cf.'']] ]-[[1809年]]〉 → [[ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国]]首都リオデジャネイロ〈1809年- [[1822年]][[10月12日]]〉 → [[ブラジル帝国]]首都リオデジャネイロ〈1822年10月12日-[[1889年]][[11月15日]]〉】 → リオデジャネイロ(1889年11月15日-[[1960年]][[4月12日]]) → '''[[ブラジリア]]'''(1960年4月12日- 現在) * ''cf.'' [[東京奠都]]もあり(⇒[[#日本]])。 ; [[20世紀]] * {{anchors|オーストラリア}}{{AUS}} :[[臨時首都|暫定首都]][[メルボルン]]([[1901年]][[1月1日]]-[[1927年]][[5月9日]]) → 首都'''[[キャンベラ]]'''(1927年5月9日- 現在) * {{anchors|中華民国}}{{Flagicon|TWN}} [[中華民国]] :[[南京市|南京]]([[1912年]][[1月1日]]-同年[[4月2日]]) → '''[[北京市|北京]]'''(1912年4月2日-[[1928年]][[6月3日]]) → '''南京'''(1928年6月3日-[[1937年]][[7月7日]]) → '''[[重慶市|重慶]]'''(1937年7月7日- [[1946年]]) → '''南京'''(1946年-1949年[[12月7日]]) → '''[[台北市|台北]]'''(1949年12月7日- 現在) * {{anchors|インド}}{{IND}} :【[[イギリス領インド帝国]](※[[#イギリス領インド帝国|参照]])】 → [[デリー]](オールドデリー。[[1947年]][[8月14日]]- [[1960年]]) → '''[[ニューデリー]]'''(1960年- 現在) * {{anchors|パキスタン}}{{PAK}} :[[カラチ]]([[1947年]][[8月14日]]- [[1960年]]) → [[ラーワルピンディー]](1960-[[1969年]]) → '''[[イスラマバード]]'''(1969年- 現在) * {{anchors|ミャンマー}}{{MMR}} :[[ヤンゴン]]([[1948年]][[1月4日]]-[[2006年]]10月) → '''[[ネピドー]]'''(2006年10月〈[[2005年]]11月に行政首都の機能移転が開始され、遷都は2006年10月に完了〉- 現在) * {{anchors|スリランカ}}[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]](現・{{LKA}}) :[[コロンボ]]([[1948年]][[2月4日]]- [[1985年]]) → '''[[スリジャヤワルダナプラコッテ]]'''(1985年- 現在。※ただし、[[首都機能]]の大半は今も旧都にある) * {{anchors|ドイツ}}{{Flagicon|DEU}} [[ドイツ|ドイツ連邦共和国]](ドイツ) :[[ベルリン]]([[1949年]][[5月23日]]-[[1949年]][[5月23日]]) → [[臨時首都|暫定首都]]'''[[ボン]]'''(1949年5月23日〈[[首都機能移転]]〉-[[1990年]]〈首都機能移転〉) → '''ベルリン'''(1990年〈完了するのは[[2001年]]〉- 現在) ** [[1949年]][[5月23日]] :[[連合軍軍政期 (ドイツ)#2つのドイツの誕生|2つのドイツの誕生]]により、[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]([[西ドイツ]])がベルリンからボンへ首都機能を移転し、暫定首都とする。 ** [[1990年]]、[[ドイツ再統一|再統一後のドイツ]]において、ボンからベルリンへの首都機能移転が実現する。ただし、完了するのは[[2001年]]。 * {{anchors|コートジボワール}}{{CIV}} :[[アビジャン]]([[1960年]][[8月7日]]- [[1983年]]) → '''[[ヤムスクロ]]'''(1983年- 現在) * {{anchors|ナイジェリア}}{{NGA}} :[[ラゴス]]([[1960年]][[10月1日]]- [[1976年]]) → '''[[アブジャ]]'''(1976年に名目上の遷都。[[1991年]]に実質的遷都〈首都機能移転〉) * {{anchors|タンザニア}}{{TZA}} :[[ダルエスサラーム]]([[1961年]][[12月9日]]-[[1996年]]3月) → '''[[ドドマ]]'''(1996年3月〈[[1973年]]に法改正し、1996年3月に[[立法府]]を移転〉- 現在) * {{anchors|マラウイ}}{{MWI}} :[[ゾンバ]]([[1964年]][[7月6日]]- [[1975年]]) → '''[[リロングウェ]]'''(1975- 現在) * {{anchors|ベリーズ}}{{BLZ}} :[[ベリーズシティ]]([[1981年]][[9月21日]]- [[1972年]]) → '''[[ベルモパン]]'''(1972年- 現在) * {{anchors|パラオ}}{{PLW}} :[[コロール (都市)|コロール]]([[1994年]][[10月1日]]-[[2006年]]10月1日) → '''[[マルキョク]]'''(2006年10月1日〈[[建国記念日|独立記念日]]に遷都を宣言し、同月7日に完了〉- 現在) * {{anchors|カザフスタン}}{{KAZ}} :[[アルマトイ]]([[1991年]][[12月16日]]- [[1998年]]) → '''[[アスタナ]]'''(1998年- 現在) *{{anchors|マレーシア}}{{MAL}}:首都機能の一部を[[クアラルンプール]]近郊の[[プトラジャヤ]]に移転。 === 21世紀 === *{{anchors|ミャンマー}}{{MYA}}:[[ヤンゴン]] → '''[[ネピドー]]'''、2006年<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44345680Z20C19A4EA4000/ インドネシア、首都移転へ ジャワ島外が候補]</ref>。 *{{anchors|ブルンジ}}{{BDI}}:[[ブジュンブラ]] → '''[[ギテガ]]'''、2018年<ref>[https://www.bbc.com/news/topics/ce1qrvlel07t/burundi Burundi to change its capital city]BBC World News・2019年3月29日観覧</ref>。 {{-}} == 日本における遷都 == <!--歴史的な語義、意味については、概説で説明した。--> 現代の日本では、「遷都」は、「[[首都]]の移転」や「[[政府]]の場所をうつす」や「[[国会]]が開催される場所を移す」などの意味で使われることがある。ただし、日本の歴史上の「都」がそのまま、現代の「首都」と同義であるかについては議論もある。 === 日本遷都史 === *'''飛鳥時代''' [[古墳時代]]以後、『[[日本書紀]]』によれば大化元年(645年)6月、[[天智天皇|中大兄皇子]]らが政変を起こし、新たな政治体制が構築された([[乙巳の変]])。新政府は同年12月9日に[[難波長柄豊碕宮]]に遷都を行い、翌大化2年(646年)元日、[[孝徳天皇]]は[[改新の詔]]を発しその第2条で「初修[[京|京師]]」と初めて首都を定め、難波長柄豊碕宮を日本初の首都とした。 斉明天皇元年(655年)1月、斉明天皇は難波長柄豊碕宮遷都以前の宮である[[板蓋宮]]で即位、都は[[飛鳥]]に戻った<ref>舘野和己 「[https://hdl.handle.net/10935/3508 宮都の廃絶とその後]」『 都城制研究』(6) 奈良女子大学古代学学術研究センター、2012年、4頁。</ref>。その後、同年冬には[[川原宮]]に、翌斉明天皇2年(656年)には[[後飛鳥岡本宮]]と飛鳥の中で首都が営まれた<ref name="tateno">舘野、2012年、5頁。</ref>。天智天皇は[[白村江の戦い]]敗北後の天智天皇6年(667年)、内陸部の[[近江大津宮]]に遷都を行ったが、[[壬申の乱]]の後の天武天皇元年(672年)、[[飛鳥浄御原宮]]に遷都。都は再び飛鳥に戻った<ref>吉水眞彦 「[https://doi.org/10.15024/00002072 近江大津宮をめぐる諸問題]」『国立歴史民俗博物館研究報告』179 国立歴史民俗博物館、2013年、200頁。</ref>。 天武天皇12年(683年)12月17日、[[天武天皇]]は「[[複都制]]の詔」を発した。まず難波長柄豊碕宮廃絶後も外交拠点として存続していた難波宮を副都とし、更に[[畿内]]と[[信濃国]]に副都を設けるために使節を派遣した<ref name="tateno2">舘野和己 「[https://hdl.handle.net/10935/3539 日本古代の複都制]」『都城制研究』(4) 奈良女子大学古代学学術研究センター、2010年、120-121頁。</ref>。しかし畿内と信濃への副都設置は実施されることなく終わった。 [[藤原京]]遷都は難産だった。『日本書紀』の藤原京遷都に関する最初の記述は天武天皇5年(676年)の「新城」建設に関するものである<ref>林部均 「[https://doi.org/10.15024/00001830 藤原京の条坊施工年代再論]」『国立歴史民俗博物館研究報告』160巻 国立歴史民俗博物館、2010年12月、14頁。</ref>。その後、遷都計画は中断と再開を重ねた後<ref name="hayashibe">林部、2010年、16-17頁。</ref>、持統天皇8年(694年)12月に藤原京への遷都が行われた<ref name="tamura">「[http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/metadata/434 藤原京条坊考]」『梅光女学院大学紀要』6巻 梅光女学院大学、1971年3月、23頁。</ref>。 *'''奈良時代''' 藤原京は日本で初めて[[条坊制|条坊]]を整備した画期的な都であったが、その地勢の悪さから破棄され<ref>舘野和己 「[https://hdl.handle.net/10935/4121 日本都城の環境と思想]」『都城制研究』9 奈良女子大学古代学学術研究センター、2015年、1-3頁。</ref>、和銅3年(710年)3月10日、[[元明天皇]]は[[平城京]]に遷都を行った。平城遷都に関しては「[[大宝律令]]」の制定を契機に、中央集権国家にふさわしい首都を建設しようとしたともされている<ref>鍋田一 「[https://hdl.handle.net/10291/10446 平城遷都の理由に関して]」『明治大学社会科学研究所紀要』27(2)、1989年、101頁。</ref>。平城京は藤原京に続いて条坊を備えた本格的な都城として造営された。 天平12年(740年)、[[聖武天皇]]は[[伊勢国]]、[[美濃国]]と関東を[[行幸]]後、平城京へ帰途の途中の同年12月15日、[[恭仁京]]に遷都を行った<ref name="adachi">足立健次郎 「万葉集鹿背山際考 : 恭仁京の所在について」『大阪城南女子短期大学研究紀要』11 大阪城南女子短期大学、1976年、25頁。</ref>。その後、天平16年(744年)2月26日に[[難波京]] <ref name="sekiyama">積山洋、2010年、71頁。</ref>、更に天平17年(745年)1月には[[紫香楽宮]]へと目まぐるしく都を移転させた後、同年中に平城京へ帰還した<ref name="eguchi">江口洌 「[http://id.nii.ac.jp/1381/00002264/ 聖武天皇の流離五年の意義 : 「続日本紀」と聖教(2)]」『千葉商大紀要』46 千葉商科大学商経学部、2010年、71頁。</ref>。 延暦3年(783年)11月11日、[[桓武天皇]]は[[長岡京]]遷都を行った<ref name="suzuki">鈴木亘 「[https://doi.org/10.3130/aijsaxx.337.0_124 古代宮殿建築における前殿と朝堂 : その 6 長岡宮および平安宮]」『日本建築学会論文報告集』 337(0) 日本建築学会、1984年、124頁。</ref>。しかし延暦13年(794年)に6、8月と続けて水害に見舞われ同年中に平安京に都を移した<ref>松浦茂樹 「[https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010530247 古代の宮都の移転と河川--長岡京,平安京への遷都を中心に]」『水利科学』211号 水利科学研究所、2011年、50-52頁。</ref>。 *'''平安時代以降''' 延暦13年(794年)10月22日、桓武天皇は新たに[[平安京]]を都に定めた<ref name="sano">佐野真人他 「[https://doi.org/10.20778/00000026 桓武天皇とその時代(平成二十七年度皇學館大学研究開発推進センター神道研究所公開学術シンポジウム)]」『皇學館大学研究開発推進センター紀要』3号 皇學館大学研究開発推進センター、2017年3月、34頁。</ref>。 それから約四百年後の治承4年(1180年)6月2日、[[平清盛]]は[[福原京]]遷都した<ref name="takahashi">高橋昌明 『平清盛 福原の夢』 講談社、2007年、222頁。</ref>。しかし福原京は短命に終わり、同年11月25日には平安京に再遷都された<ref name="takahashi2">高橋、2007年、260頁。</ref>。その後京都は千年以上日本国の首都であり続けたが、維新政府は明治時代になって江戸を東京と改め、ここを首都とした。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+日本の遷都一覧 |- ! 遷都先 !! 施行日 !! 備考 |- ! [[板蓋宮]] | 斉明天皇元年(655年)1月 | |- ! [[川原宮]] | 斉明天皇元年(655年)冬<ref name="tateno"/> | |- ! [[岡本宮|後飛鳥岡本宮]] | 斉明天皇2年(656年)<ref name="tateno"/> | |- ! [[近江大津宮]] | 天智天皇6年(667年)3月19日<ref>『日本書紀』天智天皇6年(667年)3月条。</ref> | |- ! [[飛鳥浄御原宮]] | 天武天皇元年(672年)冬<ref>鈴木亘 「[https://doi.org/10.3130/aijsaxx.312.0_152 古代宮殿建築における前殿と朝堂 : その 1 飛鳥浄御原宮および藤原宮]」『日本建築学会論文報告集』312巻 日本建築学会、1982年、153頁。</ref> | 天武天皇12年(683年)12月17日、詔により難波宮を副都とする<ref name="tateno2"/>。 |- ! [[藤原京]] | 持統天皇8年(694年)12月6日<ref name="tamura"/><ref name="hayashibe"/> | |- ! [[平城京]] | 和銅3年(710年)3月10日<ref>大橋一章 「[https://hdl.handle.net/2065/32263 平城遷都と国家官寺の移転]」『早稲田大学大学院文学研究科紀要 : 第3分冊 日本語日本文学・演劇映像学・美術史学・日本語日本文化』54巻3号 早稲田大学大学院文学研究科、2009年2月、105頁。</ref> | |- ! [[恭仁京]] | 天平12年(740年)12月15日<ref name="adachi"/> | 聖武天皇「彷徨5年」の始まり。 |- ! [[難波京]] | 天平16年(744年)2月26日<ref name="sekiyama"/> | |- ! [[紫香楽宮]] | 天平17年(745年)1月<ref name="eguchi"/> | |- ! [[平城京]] | 天平17年(745年)9月11日<ref name="eguchi"/> | |- ! [[長岡京]] | 延暦3年(784年)11月11日<ref name="suzuki"/> | 複都制終了。 |- ! [[平安京]] | 延暦13年(794年)10月28日<ref name="sano"/> | |- ! [[福原京]] | 治承4年(1180年)6月2日<ref name="takahashi"/> | |- ! [[平安京]] | 治承4年(1180年)11月25日<ref name="takahashi2"/> | |- ! 東京 | 慶応4年/明治元年(1868年)? |施行日不明。 |- |} ; その他 {{Main2| [[戦後#第二次世界大戦後|第二次世界大戦後]]の首都機能移転の議論|首都機能移転}} {{Main2|複都制|複都制#日本の複都制}} == 頓挫した遷都 == * {{anchors|頓挫した遷都 (日本)}}'''{{JPN}}''' : :*{{anchors|怨霊に潰された都|長岡京と怨霊}}'''怨霊に潰された都''' :: [[奈良時代]]末にあたる[[延暦]]3年([[784年]])、[[桓武天皇]]の[[勅]]に従って[[平城京]]より遷都された[[長岡京]]は、全うに準備・造営された都であったが、政変に加えて[[氾濫]]や[[疫病]]等の変事までもが相次いだことにより、当時の[[世界観]]では重大な政治懸案の一つであった「[[怨霊]]」から逃れるため、より実務的には「[[祟り]]の原因は天皇に[[徳]]が無く[[天子]]の資格が無いことにある」との評価が民衆に広まって世の乱れる元となることを怖れて、わずか9年で廃都を余儀なくされ、[[平安京]]への遷都の運びとなった。9年という期間は十分に長いとも言えるが、政治的意図は頓挫しており、変事と[[悪霊]]への[[恐怖|怖れ]]によって挫折に追い込まれた[[都市計画]]の代表的一例である。もっとも、[[天武天皇]]系の政権を支えてきた[[貴族]]や[[寺院]]の勢力が集まる[[大和国]]から脱して未開同然の[[山城国]]に自らが属する[[天智天皇]]系の都を造るという意図は、長岡京が平安京に置き換わろうとも問題ではなく、[[易学]]的および政治的の意図から外れたとも言えないため、桓武天皇の志という意味では頓挫していない。 :* {{anchors|平城還都の詔|薬子の変}}'''平城還都の[[詔]]''' :: [[平安時代]]前期に当たる[[大同 (日本)|大同]]4年([[810年]])、時の為政者・[[嵯峨天皇]]は、[[藤原薬子]]らの介入によって[[平城京|平城宮]]に移った[[平城天皇|平城]][[太上天皇|上皇]]と対立し、二所朝廷という憂いべき事態(最高国家権威が並立する政治情勢)に陥ったが、上皇が平城[[#還都|還都]]を[[詔|勅令]]するに及んで、その動きをいち早く押さえ込んだ。これが[[薬子の変]]の始まりであり、「[[平安京]]より遷都すべからず」との[[桓武天皇]]の勅を破って平城京への還都を画策する勢力にとっては最後の抵抗となった。 :* {{anchors|受け容れられなかった都|福原京の挫折}}'''受け容れられなかった都''' :: 平安時代末期に当たる[[治承]]4年([[1180年]])、[[日宋貿易]]に重きを置く[[平氏政権]]が権勢を振るうなか、内陸に位置して[[海運]]を活かせない[[平安京]]から[[瀬戸内海]]に開けた[[福原京]]への遷都が[[平清盛]]によって断行されたが、[[院政]]を敷いていた[[高倉天皇|高倉]][[太上天皇|上皇]]は平安京の放棄ばかりは頑なに認めようとせず、[[行幸]]の拒絶等をもって在京の貴族と共に抵抗した。そうこうしているうちに間もなくして[[源氏]]の挙兵([[反乱]])があると、これを鎮めることの重要性に鑑みて清盛自らが旧都に立ち戻る。時の安徳帝内裏は須磨離宮のある神戸市須磨区に、神戸市教育委員会調べで存在するものの、強引な断行を押し進めていた清盛が病死した事によって一年を迎えず平安京へ還都。半ば頓挫という結果に終わった。 * {{anchors|頓挫した遷都 (韓国)}}{{Flagicon|KOR}} '''[[大韓民国]]'''(韓国) :: [[ソウル特別市|ソウル]]は[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]に近すぎるため、過去に何度か首都移転構想があったが、いずれも頓挫している。[[2000年代]]には[[盧武鉉]]大統領が[[忠清南道]][[燕岐郡]]への移転を目指したものの、[[2004年]][[10月21日]]に[[憲法裁判所]]が「[[大韓民国憲法|憲法]]には首都に関する規定はないが、ソウルが600年以上にわたって首都であり、移転は[[改憲]]同様の手続きを要する」との見解を出したため、これを断念している。首都移転を当て込んだ[[不動産会社]]による[[土地]][[買い占め]]も失敗に終わった。しかし[[2004年]][[7月5日]]、[[忠清南道]]の[[燕岐郡]]と[[公州市]]に跨る地域に一部の行政機関のみ移転することが内定した。紆余曲折を経て、最終的にはいくつかの周辺自治体を集約して、ニュータウンである[[世宗特別自治市]]が[[2012年]][[7月1日]]に発足した。また、[[1970年代]]には、[[朴正煕]]大統領が[[大田広域市|大田]]への首都移転を計画していた。 : {{Main|世宗特別自治市}} {{節スタブ}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em}} <!-- == 参考文献 == ※記述あるが望ましい節--> == 関連項目 == ; 都の種類 * [[都城|京]] / [[首都|都]] / [[首都]] - [[首都の一覧]] ** [[かつての首都の一覧]] * [[複都制]] - [[陪都]] ** [[東京 (曖昧さ回避)|東京]] / [[西京]] / [[南京 (曖昧さ回避)|南京]] / [[北京 (曖昧さ回避)|北京]] ** [[東都 (曖昧さ回避)|東都]] / [[西都 (曖昧さ回避)|西都]] / [[南都 (曖昧さ回避)|南都]] / [[北都 (曖昧さ回避)|北都]] * [[臨時首都]] ; 都と歴史 * '''遷都''' / '''還都''' / '''[[奠都]]''' * [[古都]] == 外部リンク == * {{Anchors|Oishi 1999}}{{Cite web|和書|author=[[大石慎三郎]] |date=1999-10 |title=日本の遷都の系譜 - 『学習院大学 経済論集』 第28巻 |url=https://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/2803/2803-11oishi.pdf |format=PDF |work=学習院大学 経済論集(公式ウェブサイト)|publisher=[[学習院大学]] |accessdate=2012-12-19}} * {{Anchors|Tonuma 2010}}{{Cite web|和書|author=[[戸沼幸市]] |date=2010-07-23 |title=21世紀の日本のかたち (31) 随想 ― 平城京遷都1300年 ― |url=http://www.ued.or.jp/media/5/20100723-rijichou-031-100715.pdf |format=PDF |work=(公式ウェブサイト)|publisher=一般財団法人 [[日本開発構想研究所]] |accessdate=2012-12-19}} * {{Anchors|大津京, MLIT}}{{Cite web|和書|date= |title=大津市における歴史的事象について |url=https://www.mlit.go.jp/singikai/infra/city_history/historic_climate/4/images/shiryou7.pdf |format=PDF |work=(公式ウェブサイト)|publisher=[[国土交通省]] |accessdate=2012-12-19}} * {{Cite web|和書|title=首都機能移転を考える会 ホームページ |url=http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2069/ |work=(公式ウェブサイト)|publisher=首都機能移転を考える会 |accessdate=2012-12-19}} * {{Cite web|和書|title=国会等の移転ホームページ |url=https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/index.html |work=(公式ウェブサイト)|publisher=[[国土交通省]] |accessdate=2012-12-19}} * [http://www.1300.jp/ 奈良市 平城遷都千三百周年記念事業協会]{{リンク切れ|date=2012年12月}} * {{Kotobank}} {{History-stub}} {{Poli-stub}} {{デフォルトソート:せんと}} [[Category:首都]] [[Category:政治史]] [[Category:脱中央集権]]
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道ノ尾駅
道ノ尾駅(みちのおえき)は、長崎県長崎市葉山一丁目と西彼杵郡長与町高田郷にまたがる、九州旅客鉄道(JR九州)長崎本線(長与支線)の駅である。 1945年8月9日の原爆投下時には、浦上駅から当駅まで臨時の救護列車が運転され当駅付近で救護活動が行われていた。 駅舎と単式ホーム1面1線を有する地上駅である。開業から1972年(昭和47年)の新線(市布経由)開通までは、当駅の属する長与経由が長崎駅に至る唯一のルートで優等列車も通過していた関係上、列車交換設備を備えた相対式ホーム2面2線であった。新線開通後2番線(東側)の線路は撤去されたものの、ホームはそのまま存置されており、駅付近の線路の線形からもかつての線形がうかがえる。 駅舎は1925年(大正14年)、あるいはその翌年の1926年(大正15年)に建てられたといわれる木造平屋造りで、長崎市と長与町に南北方向でまたがっている。駅南側の事務所は長崎市、北側の待合室は長与町の町域に立地する。 1945年(昭和20年)の原爆投下により被災した被爆遺構である。 SUGOCAの利用が可能。 2021年6月3日、待合室部分を改装してパン屋がテナントとして入居したが、翌年7月をもって閉店した。 駅は西友道の尾店をはじめとするショッピング施設が集積する国道206号から一歩裏に入ったところにある。周辺は以前は静かな住宅地であったが、1990年頃からマンション建設が相次いでいる。また長与町高田地区、長崎市道ノ尾地区の再開発計画により、区画整理が進んでいる。なお、国道と県道沿いにある長崎バス・長崎県営バスのバス停の表記は「道の尾」となっている。
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道ノ尾駅(みちのおえき)は、長崎県長崎市葉山一丁目と西彼杵郡長与町高田郷にまたがる、九州旅客鉄道(JR九州)長崎本線(長与支線)の駅である。
{{駅情報 |社色 = #ff0000 |文字色 = |駅名 = 道ノ尾駅 |画像 = Michinoo station 2009A.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅舎(2010年12月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = みちのお |ローマ字 = Michinoo |前の駅 = [[高田駅 (長崎県)|高田]] |駅間A = 2.5 |駅間B = 1.7 |次の駅 = [[西浦上駅|西浦上]] |所属事業者 = [[九州旅客鉄道]](JR九州) |所属路線 = {{Color|#faaf18|■}}[[長崎本線]](長与支線) |電報略号 = ミチ |駅番号 = |キロ程 = 18.9{{Sfn|九州720駅1983|p=133}} |起点駅 = [[喜々津駅|喜々津]] |所在地 = [[長崎県]][[長崎市]]葉山一丁目372{{Sfn|九州720駅1983|p=133}} |座標 = {{coord|32|48|15.83|N|129|51|10.24|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面1線<ref name="zeneki27">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =27号 長崎駅・佐世保駅・大村駅ほか75駅 |date =2013-02-17 |page =23 }}</ref> |開業年月日 = [[1897年]]([[明治]]30年)[[7月22日]]{{Sfn|九州720駅1983|p=133}} |廃止年月日 = |乗車人員 = 984 |乗降人員 = |統計年度 = 2021年 |備考 = [[日本の鉄道駅#無人駅|無人駅]] |備考全幅 = * 正式な所在地。一部は[[西彼杵郡]][[長与町]]高田郷にまたがる。 }} '''道ノ尾駅'''(みちのおえき)は、[[長崎県]][[長崎市]]葉山一丁目と[[西彼杵郡]][[長与町]]高田郷にまたがる、[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[長崎本線]](長与支線)の[[鉄道駅|駅]]である。 == 歴史 == * [[1897年]]([[明治]]30年)[[7月22日]]:開業{{Sfn|九州720駅1983|p=133}}。 * [[1925年]]([[大正]]14年) - [[1926年]](大正15年)頃:現駅舎完成{{Sfn|長崎近代遺産|p=126}}{{Sfn|宮川2015|p=36}}。 * [[1972年]]([[昭和]]47年)頃:新線(市布経由)開通に伴い[[列車交換|交換設備]]を撤去{{Sfn|宮川2015|p=36}}。 * [[1974年]](昭和49年)[[6月11日]]:貨物取扱廃止<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=717}}</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により[[九州旅客鉄道]]が継承{{R|停車場}}。 * [[2012年]]([[平成]]24年)[[12月1日]]:同駅を含む長崎地区19駅に[[SUGOCA]]を導入<ref>{{Cite news |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=[[交通新聞社]] |page=1 |date=2012.12.4 }}</ref>。 * [[2022年]]([[令和]]4年) ** [[3月11日]]:切符売り場の営業を終了<ref name="press20211223" />。 ** [[3月12日]]:無人化<ref name="press20211223">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2021/12/23/211223_ekitaisei_minaoshi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211223064144/https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2021/12/23/211223_ekitaisei_minaoshi.pdf|format=PDF|language=日本語|title=駅体制の見直しについて|publisher=九州旅客鉄道|date=2021-12-23|accessdate=2021-12-24|archivedate=2021-12-23}}</ref>。 [[1945年]][[8月9日]]の[[長崎市への原子爆弾投下|原爆投下時]]には、[[浦上駅]]から当駅まで臨時の救護列車が運転され当駅付近で救護活動が行われていた{{Sfn|宮川2015|p=37}}。 == 駅構造 == [[ファイル:Michinoo-kyuhome.JPG|thumb|奥に見えるホームが交換駅であった名残である]] 駅舎と[[単式ホーム]]1面1線を有する[[地上駅]]である{{Sfn|九州720駅1983|p=133}}。開業から1972年(昭和47年)の新線([[市布駅|市布経由]])開通までは、当駅の属する長与経由が[[長崎駅]]に至る唯一のルートで優等列車も通過していた関係上、[[列車交換]]設備を備えた[[相対式ホーム]]2面2線であった{{Sfn|宮川2015|p=36}}。新線開通後2番線(東側)の線路は撤去されたものの、ホームはそのまま存置されており{{Sfn|宮川2015|p=36}}、駅付近の線路の線形からもかつての線形がうかがえる。 駅舎は1925年(大正14年){{Sfn|宮川2015|p=36}}、あるいはその翌年の1926年(大正15年){{Sfn|長崎近代遺産|p=126}}に建てられたといわれる木造平屋造りで、長崎市と長与町に南北方向でまたがっている。駅南側の事務所は長崎市、北側の待合室は長与町の町域に立地する{{Sfn|九州720駅1983|p=133}}。 1945年(昭和20年)の[[長崎市への原子爆弾投下|原爆投下]]により被災した{{Sfn|宮川2015|p=37}}[[被爆建造物|被爆遺構]]である。 <!--[[JR九州サービスサポート]]が駅業務を行う[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]で<ref name="JRK"/>、きっぷうりばが設置されている<ref name="MADO">[https://www.jrkyushu.co.jp/railway/station/1191883_1601.html 駅情報] - JR九州.2021年12月6日閲覧</ref>。--> [[SUGOCA]]の利用が可能。 2021年6月3日、待合室部分を改装してパン屋がテナントとして入居したが、翌年7月をもって閉店した。 <gallery widths="180px" heights="135px"> Michinoo station 2009B.jpg|駅構内 Michinoo-ekimei.JPG|絵入り駅名標 Michinoo-ekimei2.JPG|駅名標 </gallery> == 利用状況 == * 2019年度の1日平均乗車人員は'''1,132人'''である<ref>{{Cite web|和書|title=駅別乗車人員上位300駅(2019年度)|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2019ekibetsu.pdf |publisher=九州旅客鉄道 |format=PDF |accessdate=2020-09-05}}</ref>。 {| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 80%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|乗車人員推移<ref>[https://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/750000/754000/p034368.html 令和元年版長崎市統計年鑑 ] 、2020年9月5日閲覧</ref><ref>[https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/kenseijoho/toukeijoho/kankoubutsu/nenkan/ 長崎県統計年鑑 ] 、2020年9月5日閲覧</ref> |- !年度 !1日平均人数 !1日乗降人数 |- |2000 |804 | |- |2001 |773 | |- |2002 |810 | |- |2003 |843 | |- |2004 |810 | |- |2005 |796 | |- |2006 |756 | |- |2007 |749 |1,492 |- |2008 |731 |1,465 |- |2009 |738 |1,482 |- |2010 |725 |1,462 |- |2011 |735 |1,479 |- |2012 |800 |1,600 |- |2013 |888 |1,746 |- |2014 |920 |1,816 |- |2015 |966 |1,901 |- |2016 |987 |1,938 |- |2017 |1,052 | |- |2018 |1,095 |2,148 |- |2019 |1,132 | |} == 駅周辺 == 駅は[[西友]]道の尾店をはじめとするショッピング施設が集積する[[国道206号]]から一歩裏に入ったところにある。周辺は以前は静かな住宅地であったが、1990年頃からマンション建設が相次いでいる。また長与町高田地区、長崎市道ノ尾地区の再開発計画により、区画整理が進んでいる。なお、国道と県道沿いにある[[長崎自動車|長崎バス]]・[[長崎県交通局|長崎県営バス]]のバス停の表記は'''「道の尾」'''となっている。 * 道の尾温泉 * [[長崎市立岩屋中学校]] * [[長崎外国語大学]] * [[長崎市立長崎商業高等学校]] * [[長崎県立長崎工業高等学校]] * 長崎岩屋郵便局 * [[長崎ロイヤルチェスターホテル]] * [[長崎遊覧バス]]車庫 == 隣の駅 == ; 九州旅客鉄道(JR九州) : {{Color|#faaf18|■}}長崎本線(長与支線) :: [[高田駅 (長崎県)|高田駅]] - '''道ノ尾駅''' - [[西浦上駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 ===--> {{Reflist|2|refs= <!-- <ref name="JRK">[http://www.jrksp.co.jp/guide/branch_nagasaki.html 長崎駅事業所] - JR九州サービスサポート.2021年11月29日閲覧</ref> --> }} == 参考文献・資料 == * {{Cite book |和書 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |year=1983 |title=国鉄全線各駅停車10 九州720駅|publisher=小学館|page= |id= |isbn=4093951101 |quote= |ref = {{Harvid|九州720駅1983}} }} * {{Cite book |和書 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |year=1998 |title=長崎県の近代化遺産|publisher=長崎県教育委員会|page= |id= |isbn=|quote= |ref = {{Harvid|長崎近代遺産}} }} * 『鉄道ピクトリアル』2015年9月号(通巻907号)、電気車研究会、2015年。 ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=宮川浩一|month= |title=南風崎駅,道ノ尾駅をめぐって|journal= |issue= |pages= 32-39|publisher= |ref ={{Harvid|宮川2015}} }} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR九州駅|filename=91120300|name=道ノ尾}} {{長崎本線}} {{eki-stub}} {{DEFAULTSORT:みちのお}} [[Category:長崎市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 み|ちのお]] [[Category:九州旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:長崎本線]] [[Category:九州鉄道(初代)の鉄道駅]] [[Category:1897年開業の鉄道駅]]
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