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近鉄奈良線
奈良線(ならせん)は、大阪府東大阪市の布施駅と奈良県奈良市の近鉄奈良駅とを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。 運転系統上は難波線(大阪難波駅 - 大阪上本町駅間)・大阪線(大阪上本町駅 - 布施駅間)間を含めた大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間が「奈良線」として扱われている。以下、特記のない限り運転系統としての奈良線(大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間)について記述する。 駅ナンバリング等で使われる路線記号はA。番号部分は、大阪上本町駅 - 菖蒲池駅間は直通運転している難波線と一体(大阪難波駅を01とする)、大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間は京都線からの通し番号(京都駅を01とみなす)になっている。 1914年に開業した近鉄の直系母体である大阪電気軌道(大軌)の創業路線であり、元々は大阪上本町駅が起点であった。 大阪市と奈良市を結ぶ鉄道路線としては、当路線以外にも西日本旅客鉄道(JR西日本)の関西本線(大和路線)や片町線(学研都市線)があるが、大和路線は生駒山地の南、学研都市線は北に迂回する一方、当路線は生駒山地の中腹を新生駒トンネル (3,494 m) で貫き、大阪市と奈良市を一直線で結んでいる。近鉄のドル箱路線であり、2009年(平成21年)時点で近鉄全294駅の乗降人数ベスト15に入る駅のうち、9駅が当路線(大阪難波 - 近鉄奈良間)にある。大阪への通勤・通学路線であると同時に、奈良へ向かう観光路線でもある。 開業当時の生駒トンネルは日本初の標準軌複線トンネルであり、その建設はトンネル技術が未熟で難工事であったことや資金難から、工事を請け負った大林組が倒産の危機に瀕するほど困難であった(詳細は「歴史」節を参照)が、この生駒トンネルのおかげで生駒山地を南に迂回する関西本線に対して大阪 - 奈良間を直線的に結ぶことが可能になり、所要時間の短縮につながった。1964年に新生駒トンネルが完成し車両の大型化などの輸送力増強が図られている。開業以来、大阪上本町駅(旧・上本町駅)を始発駅としてきたが、近鉄難波線が1970年に開業してからは、奈良線の実質的な起点は大阪難波駅(旧・近鉄難波駅)に移った。大阪線の大阪上本町駅 - 布施駅間は方向別複々線となっており、奈良線・大阪線の列車が並走する。 大阪府を起点とする関西大手私鉄の幹線・本線としては、大阪線とともに地下鉄御堂筋線との接続駅がないが、難波方面へは自社の難波線と直通しており、梅田・天王寺方面へは大阪難波駅で地下鉄御堂筋線に乗り換えのほか、大阪上本町駅で地下鉄谷町線や鶴橋駅でJR西日本の大阪環状線に乗り換えて行くことができる。 阪神電気鉄道(阪神)の西大阪線が大阪難波駅まで延伸され、阪神なんば線として開業した2009年3月20日から、大阪難波駅を介して神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で相互直通運転を行っており、快速急行が両駅間を最短70分台で結んでいる。 JR難波駅・天王寺駅 - 奈良駅間を結ぶJR西日本の関西本線(大和路線)と一部競合関係にあるが、前述の通り当路線の方は大阪市 - 奈良市間を直線的なルートで結んでいるのに対し、関西本線は生駒山地を迂回するルートであること、近鉄奈良駅が奈良市の中心市街地や主要な観光地にアクセスしやすいのに対しJRの奈良駅は市の中心部からやや離れていることから、当路線の方がJRに対して優位になっている。 1977年に大阪難波駅から八戸ノ里駅東方の府道大阪中央環状線付近までの立体交差化が完成しているが、2003年から八戸ノ里駅 - 瓢箪山駅間の連続立体交差事業が着手され、2010年5月30日に下り線が完成し、2014年9月21日に上り線も完成した。これにより新たに若江岩田駅・河内花園駅・東花園駅が高架駅となった。 全線で、PiTaPa・ICOCAなどのICカードが全国相互利用サービスにより利用可能である。また、以前はスルッとKANSAI対応カードおよびJスルーカードにも対応していた。 路線名称上の奈良線 全線が大阪統括部の管轄である。 旅客案内および運転系統上の奈良線は、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間32.8 km、24駅(起終点駅含む)である。 難波線・大阪線区間も含めて全長30km少しという近鉄の幹線の中では短い方の路線にあたるが、車窓はバラエティに富んでいる。本節では大阪難波駅から奈良方面に向かって記述する。 大阪難波駅を発車すると千日前通(大阪府道702号大阪枚岡奈良線)の地下を東へ走り、近鉄日本橋駅・大阪上本町駅を地下で進み、その後一気に高架に上がり、大阪環状線のガードを潜ると鶴橋駅に着く。鶴橋駅周辺は焼肉店やコリアタウンなどが立ち並ぶ繁華街となっており、昼や夜ともなれば電車の中にまで焼肉の香ばしい香りがたち込める。なお、この駅の焼肉の香りは環境省選定のかおり風景100選にも選ばれている。 その後は住宅・工場・ビル群が混在する地域を高架で進むと3面4線を有する今里駅。国道479号(大阪内環状線)を跨ぎ、高度を上げて進むと奈良線の起点である布施駅で大阪線と別れる。布施駅周辺は東大阪市の商業の中心地である。そしておおさか東線との乗換駅でもあり、東大阪市の公共施設が多い河内永和駅。次第に辺りは東大阪市の古くからの住宅や工場が多くなってくる。ハウス食品の本社所在地で準急停車駅の河内小阪駅、2面4線を有する八戸ノ里駅と進み、大阪中央環状線の中央を高架で走る近畿自動車道の下をくぐると左手にニトリモール東大阪が見える。この場所は近鉄の玉川工場の跡地で、近鉄ハーツが2010年3月まで営業していた。 この辺りからは次第に進行方向に生駒山が迫ってくる。若江岩田駅・河内花園駅を過ぎ、ラグビーの聖地である東大阪市花園ラグビー場の最寄駅で準急停車駅の東花園駅を通り過ぎると高架区間が終了し、恩智川と国道170号(大阪外環状線)を渡り、2面4線で中央に通過線を持つ新幹線型の待避駅である瓢箪山駅。瓢箪山を出ると、いよいよ30‰超の連続急勾配が続く生駒山越えの区間に入る。列車は左に大きくカーブし枚岡駅・額田駅を通り過ぎると今度は右にカーブする。両駅間の勾配は35.7‰で、普通鉄道構造規則(2002年廃止)第十七条の2が定める上限35‰を超えていた。 なお、この間にも列車は大きく標高を上げていっており、その間左手には大阪のオフィス街や阪神高速13号東大阪線、けいはんな線を見下ろすことができ、遠くにはあべのハルカスなどの大阪市内の高層ビルや淡路島も望める日がある。この区間は全国でも珍しく列車から夜景を見下ろすことができ、その美しさゆえ夜景の専門サイトでも紹介されている程である。この区間は阪奈道路や、日本の道100選である暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう、国道308号)など鉄道・道路問わず急勾配路線が多いことでも知られている。逆にあまり知られていないが、この石切界隈は昭和初期に開発された当時の新興住宅地であり、阪神間同様歴史のある高級住宅地である。 石切神社への参道が続く石切駅を過ぎるとすぐに新生駒トンネルに入り、3分ほどひた走って抜けると、奈良県生駒市に入り3面6線の生駒駅である。この駅では、けいはんな線や生駒線の電車と顔を合わせ、また生駒駅南西側の鳥居前駅からは生駒ケーブルも発着している。この先の東生駒駅で国道168号を渡り、けいはんな線が左手にわかれると新向谷トンネルを抜けて新興住宅街の中を進む。奈良市に入ると富雄川と奈良県道7号枚方大和郡山線を渡り、近畿大学(農学部)の最寄り駅である富雄駅を出てから邸宅街に差し掛かると学園前駅である。駅前には駅名・地域名の由来となった帝塚山学園があるほか、近鉄が運営している博物館 大和文華館がある。この生駒駅から学園前駅に至る客圏はけいはんな沿線も含めて、学園前住宅地、東生駒住宅地、真弓・北大和住宅地といった高級住宅街に代表される閑静な新興住宅街が広がり、教育機関も多く利用者数が非常に多い。 そして、菖蒲池駅前の近鉄あやめ池遊園地の跡地を左手に眺め、少し行くと左から京都線が合流し、大和西大寺駅に到着する。大和西大寺駅は京都線と橿原線の列車が交錯するジャンクションで、橿原線沿いに西大寺検車区がある。ホームは3面5線の構造で、4番線と5番線はホームに挟まれており、橿原線から大阪難波方面への連絡がホーム上でできるようになっている。近鉄奈良方には引き上げ線がある。駅周辺は近鉄百貨店やショッピングセンターなどの商業施設が立ち並ぶ。 大和西大寺駅を出るとすぐに平城宮跡に入り、右手には朱雀門、左手奥には復原された大極殿があり、正面には若草山と東大寺を眺めることができる。国道24号奈良バイパスをくぐると、奈良市役所をはじめとするオフィス街などが立ち並ぶ新大宮駅で、新大宮駅を出るとすぐに、国道369号の地下区間に入り、4面4線の近鉄奈良駅に到着する。近鉄奈良駅はJR奈良駅に並ぶ奈良市のターミナル駅であり、ここから奈良交通バスが多数発着している。奈良県庁にも近く、また駅から東には東大寺大仏殿や春日大社がある奈良公園がある。 奈良県では2010年が平城京に遷都されてから1300年目にあたり、これを記念した平城遷都1300年祭のメイン会場として平城宮跡が選ばれたが、平城宮跡は奈良線が横断しており、利便性向上のために会場中心付近に歩行者専用の踏切が新設された。原則として踏切の新設は認められておらず、警備員の配置を条件として例外として踏切が新設された。近鉄の踏切名は「起点側の直近の駅名+踏切の数を示す番号+道」であるが、この踏切は「朱雀門踏切道」の名称が付けられている。 当初、平城宮跡会場でのイベント開催中のみ設置される予定であったが、引き続き存続することが決まり、現在でも設置されている。ただし、警備員が配置されている8時 - 17時の間のみ渡ることができ、それ以外の時間帯は門が閉められ渡ることができない。 特急・快速急行・急行・準急・区間準急・普通が運転されている。布施駅を始発・終着駅とする列車はなく、同駅を経由するすべての列車が同駅から大阪線・難波線に直通し大阪難波方面に発着する。特急および急行以外は、さらに大阪難波駅から阪神なんば線に直通し尼崎駅まで、快速急行はさらに阪神本線の神戸三宮駅まで乗り入れる列車もある。天理教祭典日には天理線天理駅に直通する臨時急行も運転されている。大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間には京都線の列車のほか、京都線を介して直通運転する京都市営地下鉄烏丸線の車両も乗り入れる。 1980年3月に関西私鉄では初めて10両編成で運転を開始した路線で、朝夕ラッシュ時に8・10両編成が多数運転される。土休日ダイヤにも10両編成列車が設定されている。昼間時間帯も快速急行・急行で8両編成の運用がある。 ただし日中や夜間の上りは6両編成での運転も多く、曜日や時間帯により輸送力の落差が激しい。沿線地域の特性上、平日は奈良県内から大阪へ勤める通勤客、大阪や反対に奈良方面へ通う学生が、土曜・休日は奈良や反対に大阪方面へ向かう行楽客が多い。日中に走る急行は平日よりも土・休日の方が増結運転が行われるため編成が長くなっているのも特徴で、平日は6両編成であるが、休日は8両編成で運転される運用がある。 以下に種別ごとの詳細を示す。尼崎・三宮方面と相互直通運転を行う阪神なんば線とダイヤがほぼ一体化しているために阪神電鉄線との直通運転に関してもここで記述する。ただし特急については「近鉄特急」の項を、大和西大寺 - 近鉄奈良間に乗り入れる京都線系統の列車については「近鉄京都線」を参照。停車駅は、便宜上、大阪難波駅を起点に難波線・大阪線の区間も含めた近鉄線内について記載する。 奈良線の主力速達種別で、終日運転されている。かつてはほぼ大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間での運転であったが、2009年3月の阪神なんば線開業後は尼崎駅または神戸三宮駅までの直通が主体となり、日中は神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で1時間あたり平日2本、土曜・休日3本が運転されている。このほか、現在でも大阪難波駅 - 近鉄奈良駅や、僅かだが阪神なんば線方面または大阪難波駅 - 大和西大寺駅間も設定されている。2016年3月19日のダイヤ変更より設定された平日朝の下り大和西大寺行き(大和西大寺駅で京都発近鉄奈良行き急行に接続)は、天理教祭典日(毎月26日)には大和西大寺駅到着後に天理線天理駅行き臨時急行(いわゆる「天理臨」)として延長運転していたが、2021年7月3日のダイヤ変更後は大和西大寺駅到着後に天理行き急行に変更しそのまま毎日運行している。また、2021年7月3日のダイヤ変更で設定された平日の大和西大寺行き2本は大和西大寺駅到着後に橿原神宮前行き急行または普通天理行きに変更して運転する。2022年12月17日のダイヤ変更では朝に生駒発近鉄奈良行きの快速急行が新たに設定された。この列車の運転区間の停車駅は急行と同一であるが、平日は10両編成での運転のため、快速急行として運転されている。 近鉄線内の停車駅は、大阪難波駅・近鉄日本橋駅・大阪上本町駅・鶴橋駅・生駒駅・学園前駅・大和西大寺駅・新大宮駅・近鉄奈良駅である。特急の停車駅に近鉄日本橋駅(ただし前身の奈良線の無料特急は停車していた)と新大宮駅(2000年3月より)が追加されたのみで、大阪上本町駅 - 大和西大寺駅間では特急と同等の停車駅で運転されることになる。朝夕の時間帯には特急と平行するダイヤで運転される列車があり、このうち下りの神戸三宮駅・尼崎駅発の一部には大阪難波駅で大阪難波発の特急と接続し特急を先行させる列車や、大和西大寺駅で京都発近鉄奈良行き特急の待ち合わせを行う列車もある。 1972年11月のダイヤ変更で、それまで走っていた奈良線無料特急の停車駅に生駒駅と学園前駅を追加する形で設定され、無料特急は廃止された。ただし、1976年まで平日朝ラッシュ時の大和西大寺発近鉄難波行きは学園前駅・生駒駅は通過し、特急よりも少ない停車駅であった。 2010年3月19日のダイヤ変更から、近畿大学附属小学校・幼稚園に通う児童のために平日下り1本が菖蒲池駅に臨時停車しており(ただし休校日は通過)、臨時停車する日は主要な駅に掲示されている。なお、2004年6月以前は、菖蒲池駅前にあった近鉄あやめ池遊園地への行楽客への利便を図って、土・休日の一部の快速急行・急行が菖蒲池駅に臨時停車していた。ほかにも、東大阪市花園ラグビー場でのイベント開催日には、最寄駅である東花園駅に一部が臨時停車する。 編成両数は最大10両編成で運転されている。平日の日中は6両編成、朝ラッシュ時は10両編成、夕ラッシュ時は8両編成である。平日上りの午前9時30分までに大阪難波駅に到着するすべての快速急行は最後尾(前から10両目)が大阪難波駅まで女性専用車両となっている。一部の8両・10両編成の列車は大和西大寺駅にて連結・解放を行う。2020年3月14日のダイヤ改正からは土曜・休日はほぼ全時間帯で8両編成で運転している。土曜・休日の近鉄奈良15:21発神戸三宮行きのみ、近鉄奈良駅 - 大和西大寺駅間は4両(2両編成2本)で運転し、大和西大寺駅で後から到着する4両(天理発大和西大寺行き急行で、2両編成2本。大和西大寺駅で快速急行に変更)を併結する運用となっている。阪神直通列車には乗り入れ先の阪神車や近鉄の阪神乗り入れ対応車が使われるが、大阪難波駅発着の列車については阪神乗り入れに対応しない車両が使われることがある。 2000年代中盤以降は夕刻時間帯や夜間を中心に一部の列車が急行へ格下げされており、設定当初と比べると本数は減少している。 2012年3月20日のダイヤ変更で土休日の朝に阪神神戸高速線内の新開地発となる快速急行が設定された。 2022年12月17日のダイヤ変更で、平日の日中の神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間の列車が1時間に2本に減便された影響で、新たに大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間の列車が1時間に2本に増便された。また、平日夕ラッシュ時の列車が8両編成に減車された。また前述の土休日朝の新開地発の設定が終了している。 なお、快速急行の前身の無料特急は、上本町駅 - 布施駅間複々線化工事完成に伴う1956年12月のダイヤ変更で運転を開始したが、難波線開通前の停車駅は鶴橋・大和西大寺の2駅だけだった(休日の菖蒲池駅の臨時停車は無料特急時代も行われていた)。 布施駅3層化改造工事完成に伴う1978年3月のダイヤ変更で設定。日中以降に設定されており、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間での運転が主体だが、2022年12月17日のダイヤ変更では大和西大寺駅発着の列車も数本設定された。停車駅は、大阪難波駅・近鉄日本橋駅・大阪上本町駅・鶴橋駅・布施駅・石切駅・生駒駅・学園前駅・大和西大寺駅・新大宮駅・近鉄奈良駅で、快速急行との違いは鶴橋駅 - 生駒駅間で布施駅と石切駅(1986年3月より)にも停車することである。東大阪市花園ラグビー場でのイベント開催日には、最寄駅である東花園駅に一部が臨時停車する。 日中は、1時間あたり、平日は快速急行(4本)の合間に30分間隔で2本、土曜・休日は快速急行との交互で20分間隔で3本の運転である。定期列車は原則として快速急行に抜かれることがないため、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間で先着するが、一部の列車は布施駅で特急に追い抜かれる。石切駅では大和西大寺駅発着の各駅停車もしくは準急と緩急接続を行う。2004年3月のダイヤ変更までは日中のみの設定であったが、以後は夕ラッシュ以降にも快速急行の運行本数の半数を置き換え、準急と統合する形で設定が追加された。2022年のダイヤ変更で、平日の日中は快速急行が増便されたため1時間あたり2本に減便された。 奈良線の料金不要種別では唯一、定期列車で阪神なんば線への直通は設定されていない。ただし、阪神車両との走行距離調整のため、土休日ダイヤの一部は阪神車両で運転されている。 編成両数は平日の日中は6両編成、平日の夕方以降は8両編成(上りの一部で6両あり)。土休日は近鉄車及び阪神車8両または6両編成で運行されている。阪神なんば線開通後も8両での運転が継続されていて、運用上の大きな変化はない。急行の10両運転がないのは布施駅の信号機の都合と石切駅のホーム有効長が8両分しかないためである。 なお、現在の急行は2代目であり、初代の急行は1946年3月15日のダイヤ変更で設定され、1976年の白紙ダイヤ変更まで運転されていた。初代急行の停車駅は鶴橋駅 - 石切駅間ノンストップで、これ以外の区間は各駅に停車していた(新生駒トンネルが開通するまであった孔舎衛坂駅は通過していた)。当時東花園駅を通過していた準急とは布施駅(当時は奈良線・大阪線ともに準急・普通しか停車しなかった)と河内小阪駅(一時期設定されていた行楽期の臨時急行は停車していた)を通過するだけの違いで、現在の急行よりもむしろ準急に近い停車駅パターンであった。しかし、1972年のダイヤ変更で前述の学園前・生駒通過の快速急行を補完する形で平日朝の難波行きのみの設定となり、1976年のダイヤ変更で準急と統合された。 大阪難波駅 - 大和西大寺駅間での運転が基本で、一部列車は近鉄奈良駅まで運転しているほか、上りのみ東花園駅始発の列車もある。停車駅は、大阪難波駅・近鉄日本橋駅・大阪上本町駅・鶴橋駅・布施駅・河内小阪駅・東花園駅と石切駅から近鉄奈良駅までの各駅。2006年3月21日実施のダイヤ変更で、従来イベント開催日に限り一部が臨時停車していた東花園駅が新たに追加された。また、それと同時に日中の列車が区間準急に立て替えられた。東花園駅に停車開始後は、準急は東大阪市内における速達種別、石切以東での普通の補完という役割が強くなっているほか、難波方面と瓢箪山駅・枚岡駅・額田駅間、奈良方面と河内花園駅・若江岩田駅・八戸ノ里駅間のアクセスが大きく向上する結果となった。 2006年3月21日のダイヤ変更で日中は区間準急(後述)に置き替えられたため、現状は日中と深夜の近鉄奈良方面行き以外で運転されており、運転本数も時間帯により前後する。2021年7月3日のダイヤ変更では日中から夕方にかけ一部の大阪難波行きで東花園駅始発の準急が設定されている。 2009年3月20日の阪神なんば線の延伸開業後も大阪難波駅発着が殆どで、阪神電鉄線内に乗り入れて尼崎駅まで直通するのは僅かである。大阪近郊の短距離速達種別という位置づけで、編成両数は6両編成が基本だが、ラッシュ時を中心に大阪難波駅発着の一部で8両編成もある。ほとんどが石切駅・布施駅(一部は東花園駅)で快速急行を、夕方以降の一部列車には石切駅で特急・急行を待避する。早朝・深夜帯や夜間の大阪難波行きを中心に、全区間先着となる列車も存在する。一方、奈良県内・阪神なんば線では各駅に停車し、普通列車の代替としての役割も担う。 かつては大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間での運転が大半で大和西大寺駅発着のものは1日数本程度だったが、2000年3月15日のダイヤ変更で新大宮駅が快速急行停車駅となったことにより、大半が大和西大寺駅発着に変更された。2020年3月14日のダイヤ変更では東花園駅始発の準急が初めて設定された。また、1972年までは天理線天理駅まで直通する準急が定期列車として運行されていた。 2006年3月21日のダイヤ変更で新たに追加された列車種別で、午前と日中、深夜に運転されており、1時間あたり2本(土休日は3本)を基本に運転されているが、時間帯により前後する。大阪難波駅 - 大和西大寺駅間での運転が基本で、一部近鉄奈良駅発着も設定されているほか、平日の午前中・夜中と土休日の深夜の一部は尼崎行きが設定されている。停車駅は、大阪難波駅 - 東花園駅間は準急と同じだが、東花園駅 - 近鉄奈良駅間では各駅停車となる。 この種別の登場により、日中の東生駒駅折り返しの普通(後述する、1992年まで瓢箪山駅で折り返していた普通)が東花園駅折り返しとなり、瓢箪山駅・枚岡駅・額田駅では普通6本から区間準急3本・普通3本に変更された。ただし、これらの駅のホーム有効長の都合で、6両編成で運行している。また阪神なんば線の開業後は一部列車が尼崎駅まで直通している。朝ラッシュ時や夕方から夜間にかけてと大阪難波ゆきの深夜は従来どおり準急を運転している。 日中は、下りは基本的に布施駅で近鉄奈良行き快速急行を待避した後に石切駅で近鉄奈良行き急行と連絡し、上りは基本的に瓢箪山駅で快速急行を待避する。ただし、一部の列車は、これらの駅以外で特急などを待避するものもある。また、平日・土休日ともにすべての列車が東花園駅発着の普通と接続を行う。 2012年3月20日のダイヤ変更以前は平日の日中、大阪難波駅折り返しで運行されていたが、前述のように快速急行が平日日中も阪神なんば線内で通過運転を行うことになったことに伴い、千鳥橋・伝法・福・出来島・大物の各駅におけるその代替として大阪難波駅発着の区間準急が尼崎駅発着に変更された。なお、2012年3月20日のダイヤ変更では大阪線にも区間準急が新設されている。 2016年3月19日のダイヤ変更で、平日日中の上り列車は尼崎駅に乗り入れず、大阪難波駅で折り返すようになり、その時間帯の阪神電鉄線に乗り入れる上り列車は普通と快速急行だけになっている。 2022年12月17日のダイヤ変更で、平日日中の列車が1時間2本に減便され、土休日の準急のほとんどが区間準急に格下げされたほか、平日も朝や夜間も一部準急が区間準急に格下げされたことで終日運行されるようになった。 近鉄の駅掲出時刻表では、旧型式では時刻の上に「(区)」マークをつけて表記されていた(南大阪線の区間急行やかつて大阪線で運行されていた区間快速急行とは異なり時刻の数字は斜字ではなかった)。2022年12月17日のダイヤ変更からの新形式では準急が四角の緑地に白抜きで時刻の数字に対し、区間準急は緑で下線つきの時刻の数字で表示して区別している。かつて駅で配布していた紙製の時刻表では区間準急をオリーブ色で表記して区別していた。 大阪難波駅 - 東花園駅・東生駒駅・大和西大寺駅間の運転が基本で、一部列車は近鉄奈良駅まで運転している。また阪神なんば線の開業後はほとんどが尼崎駅まで直通する。 日中は東花園駅折り返しと大和西大寺駅(一部列車は近鉄奈良駅)折り返しの系統が交互に1時間に3本ずつ、計6本が運転されている。ラッシュ時間帯には東生駒駅または瓢箪山駅を、早朝・深夜には石切駅を、それぞれ始発・終着とする列車があるほか、早朝・深夜を中心に東花園車庫、西大寺車庫からの入出庫を兼ねた東花園駅・大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間の運用もある。また、運用上、大和西大寺行きの準急・普通が大和西大寺駅到着後に天理または橿原神宮前行きの急行に変わったり、またその逆のパターンもあり、その場合は到着前にその旨がアナウンスされている。 現在、日中に運転されている東花園駅折り返し系統は、かつては瓢箪山駅折り返しであった。これは枚岡駅・額田駅のホーム有効長が4両分しかなく、また当時の東生駒駅の折り返し線が短く6両編成が入れなかったためであったが、ホーム延伸工事などの完成により1992年3月19日のダイヤ変更で東生駒駅まで延長された。だが、2006年3月21日のダイヤ変更で区間準急の運転が開始されたことに伴い、現在のように改められた。 編成両数は原則として6両。ただし、早朝の石切発近鉄奈良行きや入出庫を兼ねた大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間のみの列車に8両または10両があるほか、早朝の東花園発近鉄奈良行きと深夜の生駒発大和西大寺行きは4両である。阪神車両との走行距離調整のため、一部に阪神車両での運用もある。 かつては最終列車の設定で、近鉄奈良方面からの生駒止まりの6両または8両編成での列車運用が数本存在したほか、逆方面では石切発近鉄奈良方面行きの6両編成での列車運用が少ないながらも存在した。また、1992年のダイヤ変更以前では東花園駅にて2両を連結・切り離しを行う列車もあった。 天理教祭典の開催日(原則として毎月26日と、1月上旬と4月中旬の特定日)には、大阪難波駅 - 天理線天理駅間の臨時急行が2往復運転されている(大阪難波発は午前のみ、天理発は午後のみ。なお、平日と土休日では時刻が異なる)。奈良線内の停車駅は、急行と同一。一部に布施駅で快速急行を待避する列車もある。 2011年4月18日には初めて三宮(現・神戸三宮)始発の臨時急行(但し阪神電鉄線内は「臨時快速急行」)が運行され、2012年1月26日にも運行された後、同年3月26日以降も平日の祭典日に限り運行した。なお、この列車は2016年3月19日のダイヤ変更以降、先述した大和西大寺行き快速急行として定期列車化され、さらに2021年7月3日のダイヤ変更以降は(公式には案内されていないが)大和西大寺駅で種別変更して急行天理行きとなり天理駅まで直通している(さらに祭典日に限り、正面に「天理 月次祭」と書かれた方向板が掲げられる)。 長年にわたり臨時列車は独立した列車として運転していたが、2022年12月17日のダイヤ変更からは一部の列車が大和西大寺駅発着の定期急行の延長運転という形で設定されることになった。また、平日の大阪難波駅発天理行き急行は1本に削減されたが、かわりに朝の尼崎駅発近鉄奈良行き快速急行1本が大和西大寺駅で後ろ4両を切り離して天理行き急行として運転する。 以下の表においては、大阪線や難波線については奈良線直通列車のみ記載している。 2022年12月17日のダイヤ変更時点の日中の1時間あたりの運転本数をまとめると、以下のとおりになる。奈良線は線内全駅で日中でも1時間最低6本の乗車機会が確保されている。線区内全駅で1時間6本以上の列車が停車するのは近鉄では奈良線系統のみである。 なお、2009年3月20日ダイヤ変更時点における阪神なんば線直通列車の本数は以下のとおり。 ※2012年3月20日のダイヤ変更にて、西九条駅 - 尼崎駅間各駅停車の快速急行は廃止され、その代替として大阪難波駅発着の区間準急が尼崎駅発着に変更となったため、上表は現況と異なる。 この路線においても毎年大晦日 - 元旦の終夜運転が行われる。2018年度は大阪難波駅 - 東花園駅・大和西大寺駅・近鉄奈良駅間において約15 - 30分間隔で普通・区間準急が合わせて35本設定された。2020年度は阪神電鉄と共に終夜運転を実施しない。2021年度は普通の運転に加えて20000系「楽」を使用した臨時快速急行が2往復運転された。 奈良線沿線には春日大社や東大寺を始め枚岡神社や石切神社、生駒ケーブル乗り換えで宝山寺などの大規模・著名な寺社が多いことなどから終夜運転の本数も多く設定されている。また、例年近鉄の主要路線の終夜運転では特急が数多く設定される中、総距離が短い奈良線系統には全く設定されないのも特徴である。ただし1997年(の大晦日)までは毎時1本の特急が設定されていたほか、2023年度は特急が2往復運転予定である 花園ラグビー場で大きな試合が行われる場合、利便性を考慮し、最寄り駅の東花園駅に一部の快速急行と急行が臨時停車することがある。 2010年以降12月に奈良マラソンの開催による観客の利便性を図るため、早朝に近鉄奈良行き特急および急行が数本設定されるほか、大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間に臨時普通列車が運行される。なお、2022年は急行が大和西大寺行きになり大和西大寺駅到着後に高の原行き急行に変更して運転した。 過去には2008年まで若草山山焼きの日に近鉄難波行きの臨時特急が夜間に1本設定されていた、現在はこの特急は定期列車になっている。 優先座席の設定位置は運転区間に関係なく阪神車両が各車両の神戸三宮側、近鉄車両が各車両の奈良側に設定されており現在のところ統一は図られていない。ただし、主要駅を中心に一部の駅では優先座席の案内板が設置されている。 乗務員は、東花園列車区と西大寺列車区、新田辺列車区(大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間)が担当しており、おおむね東花園駅ないし大和西大寺駅で乗務員交代が行われる。また、阪神電気鉄道との相互直通列車では、阪神乗務員との交代は境界駅の大阪難波駅ではなく阪神なんば線の桜川駅で行われることになっている。 奈良線は4扉の近鉄車と3扉の阪神車が混在して運用されているため、ホームに設置されている発車標のうち、LCD式とLED式のものには乗車位置が表示されている。 停車駅の案内では、鶴橋駅以西は阪神なんば線の西九条駅まで各駅に停車するが、大阪上本町駅以東での阪神直通列車の自動放送では、大阪難波駅 - 鶴橋駅間の停車駅は略されることなく放送され、西九条駅(尼崎駅) - 大阪難波駅間の途中駅のみ省略されている。これは布施駅以東における準急、区間準急も同様である。 2016年3月27日から車掌のタブレット端末(パナソニック製TOUGHPAD FZ-B2)の操作による車内自動放送が開始された。 奈良・京都線系統の通勤車両は東花園・西大寺の各車庫に所属している。阪神乗り入れ対応車両には、先頭車両の車体前面および車体側面に直通対応車両であることを示すステッカーが貼りつけられている。なお、阪神乗り入れに対応していない車両も折り返しの関係で回送列車として阪神なんば線の桜川駅まで乗り入れる。 一部車両を除いて、新旧関係なく2両編成・4両編成・6両編成を組合わせて運用されているが、阪神乗入対応車両は2両編成と6両編成の組合せのみである。地下鉄烏丸線乗入対応車両は6両編成固定となっている。3両編成は2本を連結して6両編成として運用する場合もある。なお、2両編成を5本連結した10両編成も運転されることがある。 瓢箪山駅 - 生駒駅間などの連続急勾配区間に備え、奈良・京都線系統の通勤車両各形式(および後述の阪神1000系・阪神9000系)にも勾配抑速ブレーキが装備されている。抑速ブレーキの設定は72 km/h、60 km/h、53 km/hの3段階あり、車両数や乗客数、天候を考慮して切り替えて、速度を一定に保っている。 近鉄線以外にも大阪梅田駅や山陽姫路駅方面にも運用しているため、3扉19m車を用いている。車両走行距離調整のため阪神なんば線へ直通しない近鉄線内完結列車にも使用されることがある。阪神車両の夜間滞泊は東花園車庫内と西大寺車庫内で行われている。 前述したように、近畿日本鉄道の直系母体会社である大阪電気軌道(大軌)初の路線として建設された。 本線の開通前には生駒山系の北側を迂回するルートで片町線(学研都市線)が、南側を迂回するルートで関西本線(大和路線)が既に開通していた。いずれも生駒山系を避け長大トンネルの建設から逃れる形であり、所要時間の点で不利であった。これらルート沿いの集落は当時まだ発展しておらず、競合路線を敷設しても十分な収益が上がる目処も立たなかった。そこで、大軌は生駒山を一直線に貫き、大阪と奈良を最短で直結するルートに賭けることとなった。当初はトンネル掘削の技術的困難さからケーブルカーの使用まで検討されたとされるが、同社の設立に尽力した岩下清周の主張と大林組の技術によって、長さ3,338mの生駒トンネルを開削し、生駒山の登坂区間にできる急勾配を高出力の電車(デボ1形)で越えるという案が採択された。生駒トンネル開削には多額の資金を使い、最後は社長の岩下が私財をなげうって建設を続行させたという逸話も残っている。この日本初の標準軌複線トンネルは難工事を極め、それに伴う資金難から工事を請け負った大林組は存続の危機に瀕した。 大阪と奈良の間をできるだけ直線ルートで結ぶことにしたため、開業当初は沿線人口が少なく、生駒山の宝山寺や奈良へ向かう観光客が主要な乗客であった。よって収入は天候に左右され、同社の社員は常に天気に気を使っていたといわれる。そのため、「大阪電気軌道」でなく「大阪天気軌道」だと揶揄されたこともあった。 旅客は1961年(昭和36年)当時、年間1億人を突破し、1日約30万人を輸送していた。沿線の開発や将来の難波延長によりますます旅客が増加することは明らかであった。当時奈良線では、朝夕のラッシュ時において、毎時特急、急行、準急列車各4本のほか、普通列車を合わせ計30本を運転していたが、各列車とも超満員で、最多客区間の乗車率は定員の230%に達していた。 輸送力増強の方策としては、15m級小型車両や18m級中型車両の編成長増強と、21m級大型車両の運行の2つの方法が検討された。1968年(昭和43年)度における輸送量を前提として、あらゆる経費を計算した結果、総建設費が大型車両案の方が増加するが、金利および償却費を含めた経費は大型車両案の方が有利であり、また生駒トンネルの補修費を考慮すると大型車両の方がはるかに有利であることが判明した。また、小・中型車両では輸送量の限度が1970年(昭和45年)ごろと早く到来すると予測されたのに対して、大型車両では1976 - 1977年(昭和51 - 52年)ごろと予測され、大阪近郊における複々線(現けいはんな線)の建設時期を将来に繰り延べできる利点も有することが明らかとなった。そのほか、難波延長線(現難波線)の建設時までに既設路線を改良しておけば、延長線の停車場の有効長を短縮でき余剰建設費の支出を避け得ること、将来電車線の電圧を600Vから1,500Vに昇圧すれば、大阪線や名古屋線の車両との流用が可能となり、車両検修設備の統合ができることなど、合理化の面においても有利であった。 このため、開業時から使用していた小・中型車から車体規格を大きくすることにした。それに際して建築限界を拡大する必要から、新生駒トンネル(長さ3,494m)を新たに開削している。 2025年に夢洲で開催が予定されている2025年大阪・関西万博にあわせて、架空電車線方式と第三軌条方式の両方の集電方式に対応した車両を開発し、近鉄奈良駅から当線、生駒駅手前よりけいはんな線に入り、Osaka Metro中央線経由で夢洲までの直通特急を走らせることを検討している。しかし、夢洲での統合型リゾート (IR) 施設の開業が遅れていることから、万博前の運行開始は見送る方向としている。 国土交通省による平城宮跡の整備事業計画に、宮跡内を横断している奈良県道104号谷田奈良線および近鉄奈良線の移設が盛り込まれている。これについて、近鉄と奈良県・奈良市は2020年7月16日、大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間4.4 kmについて、開かずの踏切除却と平城宮跡の迂回を主たる目的とした連続立体交差事業に向けた協議に入ることで合意し、2021年3月25日、近鉄奈良線の高架化、地下化を含めた移設で合意した。 具体的には、大和西大寺駅を高架化した上で、そこから平城宮跡を避けるようにして大宮通りに線路を移設するというもので、宮跡南側は地上に線路を敷設、宮跡東側は地下化する。2041年度着工、2060年度完成の予定で、総事業費は2000億円を見込み、うち高架区間の建設費の7%を近鉄が負担することが決定している。県は近鉄側に、既存の新大宮駅の移設とは別に、大和西大寺駅 - 新大宮駅間に「朱雀大路駅(仮称)」、新大宮駅 - 近鉄奈良駅間に「油阪駅(仮称)」の新設を提案しているが、駅の新設については別途協議されることとなっていた。 しかし、2023年4月9日に行われた奈良県知事選挙で当選した山下真知事は、「事業の必要性や費用対効果の検討が十分なされていない」として地下化、移設事業を凍結する方針を表明した。これにより一連の議論は白紙に戻る事になる。 2029年に予定されている大阪モノレール本線の門真市駅以南から近鉄奈良線交差地点までの延伸に合わせ、近鉄奈良線にも「瓜生堂駅(仮称)」が設置される予定である。 2010年に平城宮跡で開催される平城遷都1300年記念事業のイベント期間中に大和西大寺駅 - 新大宮駅間に臨時駅を設置することが検討されていたが、イベント規模縮小化への方針などにより臨時駅設置は行なわれなかった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "奈良線(ならせん)は、大阪府東大阪市の布施駅と奈良県奈良市の近鉄奈良駅とを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "運転系統上は難波線(大阪難波駅 - 大阪上本町駅間)・大阪線(大阪上本町駅 - 布施駅間)間を含めた大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間が「奈良線」として扱われている。以下、特記のない限り運転系統としての奈良線(大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間)について記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "駅ナンバリング等で使われる路線記号はA。番号部分は、大阪上本町駅 - 菖蒲池駅間は直通運転している難波線と一体(大阪難波駅を01とする)、大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間は京都線からの通し番号(京都駅を01とみなす)になっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1914年に開業した近鉄の直系母体である大阪電気軌道(大軌)の創業路線であり、元々は大阪上本町駅が起点であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大阪市と奈良市を結ぶ鉄道路線としては、当路線以外にも西日本旅客鉄道(JR西日本)の関西本線(大和路線)や片町線(学研都市線)があるが、大和路線は生駒山地の南、学研都市線は北に迂回する一方、当路線は生駒山地の中腹を新生駒トンネル (3,494 m) で貫き、大阪市と奈良市を一直線で結んでいる。近鉄のドル箱路線であり、2009年(平成21年)時点で近鉄全294駅の乗降人数ベスト15に入る駅のうち、9駅が当路線(大阪難波 - 近鉄奈良間)にある。大阪への通勤・通学路線であると同時に、奈良へ向かう観光路線でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "開業当時の生駒トンネルは日本初の標準軌複線トンネルであり、その建設はトンネル技術が未熟で難工事であったことや資金難から、工事を請け負った大林組が倒産の危機に瀕するほど困難であった(詳細は「歴史」節を参照)が、この生駒トンネルのおかげで生駒山地を南に迂回する関西本線に対して大阪 - 奈良間を直線的に結ぶことが可能になり、所要時間の短縮につながった。1964年に新生駒トンネルが完成し車両の大型化などの輸送力増強が図られている。開業以来、大阪上本町駅(旧・上本町駅)を始発駅としてきたが、近鉄難波線が1970年に開業してからは、奈良線の実質的な起点は大阪難波駅(旧・近鉄難波駅)に移った。大阪線の大阪上本町駅 - 布施駅間は方向別複々線となっており、奈良線・大阪線の列車が並走する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大阪府を起点とする関西大手私鉄の幹線・本線としては、大阪線とともに地下鉄御堂筋線との接続駅がないが、難波方面へは自社の難波線と直通しており、梅田・天王寺方面へは大阪難波駅で地下鉄御堂筋線に乗り換えのほか、大阪上本町駅で地下鉄谷町線や鶴橋駅でJR西日本の大阪環状線に乗り換えて行くことができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "阪神電気鉄道(阪神)の西大阪線が大阪難波駅まで延伸され、阪神なんば線として開業した2009年3月20日から、大阪難波駅を介して神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で相互直通運転を行っており、快速急行が両駅間を最短70分台で結んでいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "JR難波駅・天王寺駅 - 奈良駅間を結ぶJR西日本の関西本線(大和路線)と一部競合関係にあるが、前述の通り当路線の方は大阪市 - 奈良市間を直線的なルートで結んでいるのに対し、関西本線は生駒山地を迂回するルートであること、近鉄奈良駅が奈良市の中心市街地や主要な観光地にアクセスしやすいのに対しJRの奈良駅は市の中心部からやや離れていることから、当路線の方がJRに対して優位になっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1977年に大阪難波駅から八戸ノ里駅東方の府道大阪中央環状線付近までの立体交差化が完成しているが、2003年から八戸ノ里駅 - 瓢箪山駅間の連続立体交差事業が着手され、2010年5月30日に下り線が完成し、2014年9月21日に上り線も完成した。これにより新たに若江岩田駅・河内花園駅・東花園駅が高架駅となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "全線で、PiTaPa・ICOCAなどのICカードが全国相互利用サービスにより利用可能である。また、以前はスルッとKANSAI対応カードおよびJスルーカードにも対応していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "路線名称上の奈良線", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "全線が大阪統括部の管轄である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "旅客案内および運転系統上の奈良線は、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間32.8 km、24駅(起終点駅含む)である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "難波線・大阪線区間も含めて全長30km少しという近鉄の幹線の中では短い方の路線にあたるが、車窓はバラエティに富んでいる。本節では大阪難波駅から奈良方面に向かって記述する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "大阪難波駅を発車すると千日前通(大阪府道702号大阪枚岡奈良線)の地下を東へ走り、近鉄日本橋駅・大阪上本町駅を地下で進み、その後一気に高架に上がり、大阪環状線のガードを潜ると鶴橋駅に着く。鶴橋駅周辺は焼肉店やコリアタウンなどが立ち並ぶ繁華街となっており、昼や夜ともなれば電車の中にまで焼肉の香ばしい香りがたち込める。なお、この駅の焼肉の香りは環境省選定のかおり風景100選にも選ばれている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後は住宅・工場・ビル群が混在する地域を高架で進むと3面4線を有する今里駅。国道479号(大阪内環状線)を跨ぎ、高度を上げて進むと奈良線の起点である布施駅で大阪線と別れる。布施駅周辺は東大阪市の商業の中心地である。そしておおさか東線との乗換駅でもあり、東大阪市の公共施設が多い河内永和駅。次第に辺りは東大阪市の古くからの住宅や工場が多くなってくる。ハウス食品の本社所在地で準急停車駅の河内小阪駅、2面4線を有する八戸ノ里駅と進み、大阪中央環状線の中央を高架で走る近畿自動車道の下をくぐると左手にニトリモール東大阪が見える。この場所は近鉄の玉川工場の跡地で、近鉄ハーツが2010年3月まで営業していた。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この辺りからは次第に進行方向に生駒山が迫ってくる。若江岩田駅・河内花園駅を過ぎ、ラグビーの聖地である東大阪市花園ラグビー場の最寄駅で準急停車駅の東花園駅を通り過ぎると高架区間が終了し、恩智川と国道170号(大阪外環状線)を渡り、2面4線で中央に通過線を持つ新幹線型の待避駅である瓢箪山駅。瓢箪山を出ると、いよいよ30‰超の連続急勾配が続く生駒山越えの区間に入る。列車は左に大きくカーブし枚岡駅・額田駅を通り過ぎると今度は右にカーブする。両駅間の勾配は35.7‰で、普通鉄道構造規則(2002年廃止)第十七条の2が定める上限35‰を超えていた。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、この間にも列車は大きく標高を上げていっており、その間左手には大阪のオフィス街や阪神高速13号東大阪線、けいはんな線を見下ろすことができ、遠くにはあべのハルカスなどの大阪市内の高層ビルや淡路島も望める日がある。この区間は全国でも珍しく列車から夜景を見下ろすことができ、その美しさゆえ夜景の専門サイトでも紹介されている程である。この区間は阪奈道路や、日本の道100選である暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう、国道308号)など鉄道・道路問わず急勾配路線が多いことでも知られている。逆にあまり知られていないが、この石切界隈は昭和初期に開発された当時の新興住宅地であり、阪神間同様歴史のある高級住宅地である。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "石切神社への参道が続く石切駅を過ぎるとすぐに新生駒トンネルに入り、3分ほどひた走って抜けると、奈良県生駒市に入り3面6線の生駒駅である。この駅では、けいはんな線や生駒線の電車と顔を合わせ、また生駒駅南西側の鳥居前駅からは生駒ケーブルも発着している。この先の東生駒駅で国道168号を渡り、けいはんな線が左手にわかれると新向谷トンネルを抜けて新興住宅街の中を進む。奈良市に入ると富雄川と奈良県道7号枚方大和郡山線を渡り、近畿大学(農学部)の最寄り駅である富雄駅を出てから邸宅街に差し掛かると学園前駅である。駅前には駅名・地域名の由来となった帝塚山学園があるほか、近鉄が運営している博物館 大和文華館がある。この生駒駅から学園前駅に至る客圏はけいはんな沿線も含めて、学園前住宅地、東生駒住宅地、真弓・北大和住宅地といった高級住宅街に代表される閑静な新興住宅街が広がり、教育機関も多く利用者数が非常に多い。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "そして、菖蒲池駅前の近鉄あやめ池遊園地の跡地を左手に眺め、少し行くと左から京都線が合流し、大和西大寺駅に到着する。大和西大寺駅は京都線と橿原線の列車が交錯するジャンクションで、橿原線沿いに西大寺検車区がある。ホームは3面5線の構造で、4番線と5番線はホームに挟まれており、橿原線から大阪難波方面への連絡がホーム上でできるようになっている。近鉄奈良方には引き上げ線がある。駅周辺は近鉄百貨店やショッピングセンターなどの商業施設が立ち並ぶ。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "大和西大寺駅を出るとすぐに平城宮跡に入り、右手には朱雀門、左手奥には復原された大極殿があり、正面には若草山と東大寺を眺めることができる。国道24号奈良バイパスをくぐると、奈良市役所をはじめとするオフィス街などが立ち並ぶ新大宮駅で、新大宮駅を出るとすぐに、国道369号の地下区間に入り、4面4線の近鉄奈良駅に到着する。近鉄奈良駅はJR奈良駅に並ぶ奈良市のターミナル駅であり、ここから奈良交通バスが多数発着している。奈良県庁にも近く、また駅から東には東大寺大仏殿や春日大社がある奈良公園がある。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "奈良県では2010年が平城京に遷都されてから1300年目にあたり、これを記念した平城遷都1300年祭のメイン会場として平城宮跡が選ばれたが、平城宮跡は奈良線が横断しており、利便性向上のために会場中心付近に歩行者専用の踏切が新設された。原則として踏切の新設は認められておらず、警備員の配置を条件として例外として踏切が新設された。近鉄の踏切名は「起点側の直近の駅名+踏切の数を示す番号+道」であるが、この踏切は「朱雀門踏切道」の名称が付けられている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "当初、平城宮跡会場でのイベント開催中のみ設置される予定であったが、引き続き存続することが決まり、現在でも設置されている。ただし、警備員が配置されている8時 - 17時の間のみ渡ることができ、それ以外の時間帯は門が閉められ渡ることができない。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "特急・快速急行・急行・準急・区間準急・普通が運転されている。布施駅を始発・終着駅とする列車はなく、同駅を経由するすべての列車が同駅から大阪線・難波線に直通し大阪難波方面に発着する。特急および急行以外は、さらに大阪難波駅から阪神なんば線に直通し尼崎駅まで、快速急行はさらに阪神本線の神戸三宮駅まで乗り入れる列車もある。天理教祭典日には天理線天理駅に直通する臨時急行も運転されている。大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間には京都線の列車のほか、京都線を介して直通運転する京都市営地下鉄烏丸線の車両も乗り入れる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1980年3月に関西私鉄では初めて10両編成で運転を開始した路線で、朝夕ラッシュ時に8・10両編成が多数運転される。土休日ダイヤにも10両編成列車が設定されている。昼間時間帯も快速急行・急行で8両編成の運用がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ただし日中や夜間の上りは6両編成での運転も多く、曜日や時間帯により輸送力の落差が激しい。沿線地域の特性上、平日は奈良県内から大阪へ勤める通勤客、大阪や反対に奈良方面へ通う学生が、土曜・休日は奈良や反対に大阪方面へ向かう行楽客が多い。日中に走る急行は平日よりも土・休日の方が増結運転が行われるため編成が長くなっているのも特徴で、平日は6両編成であるが、休日は8両編成で運転される運用がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下に種別ごとの詳細を示す。尼崎・三宮方面と相互直通運転を行う阪神なんば線とダイヤがほぼ一体化しているために阪神電鉄線との直通運転に関してもここで記述する。ただし特急については「近鉄特急」の項を、大和西大寺 - 近鉄奈良間に乗り入れる京都線系統の列車については「近鉄京都線」を参照。停車駅は、便宜上、大阪難波駅を起点に難波線・大阪線の区間も含めた近鉄線内について記載する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "奈良線の主力速達種別で、終日運転されている。かつてはほぼ大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間での運転であったが、2009年3月の阪神なんば線開業後は尼崎駅または神戸三宮駅までの直通が主体となり、日中は神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で1時間あたり平日2本、土曜・休日3本が運転されている。このほか、現在でも大阪難波駅 - 近鉄奈良駅や、僅かだが阪神なんば線方面または大阪難波駅 - 大和西大寺駅間も設定されている。2016年3月19日のダイヤ変更より設定された平日朝の下り大和西大寺行き(大和西大寺駅で京都発近鉄奈良行き急行に接続)は、天理教祭典日(毎月26日)には大和西大寺駅到着後に天理線天理駅行き臨時急行(いわゆる「天理臨」)として延長運転していたが、2021年7月3日のダイヤ変更後は大和西大寺駅到着後に天理行き急行に変更しそのまま毎日運行している。また、2021年7月3日のダイヤ変更で設定された平日の大和西大寺行き2本は大和西大寺駅到着後に橿原神宮前行き急行または普通天理行きに変更して運転する。2022年12月17日のダイヤ変更では朝に生駒発近鉄奈良行きの快速急行が新たに設定された。この列車の運転区間の停車駅は急行と同一であるが、平日は10両編成での運転のため、快速急行として運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "近鉄線内の停車駅は、大阪難波駅・近鉄日本橋駅・大阪上本町駅・鶴橋駅・生駒駅・学園前駅・大和西大寺駅・新大宮駅・近鉄奈良駅である。特急の停車駅に近鉄日本橋駅(ただし前身の奈良線の無料特急は停車していた)と新大宮駅(2000年3月より)が追加されたのみで、大阪上本町駅 - 大和西大寺駅間では特急と同等の停車駅で運転されることになる。朝夕の時間帯には特急と平行するダイヤで運転される列車があり、このうち下りの神戸三宮駅・尼崎駅発の一部には大阪難波駅で大阪難波発の特急と接続し特急を先行させる列車や、大和西大寺駅で京都発近鉄奈良行き特急の待ち合わせを行う列車もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1972年11月のダイヤ変更で、それまで走っていた奈良線無料特急の停車駅に生駒駅と学園前駅を追加する形で設定され、無料特急は廃止された。ただし、1976年まで平日朝ラッシュ時の大和西大寺発近鉄難波行きは学園前駅・生駒駅は通過し、特急よりも少ない停車駅であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2010年3月19日のダイヤ変更から、近畿大学附属小学校・幼稚園に通う児童のために平日下り1本が菖蒲池駅に臨時停車しており(ただし休校日は通過)、臨時停車する日は主要な駅に掲示されている。なお、2004年6月以前は、菖蒲池駅前にあった近鉄あやめ池遊園地への行楽客への利便を図って、土・休日の一部の快速急行・急行が菖蒲池駅に臨時停車していた。ほかにも、東大阪市花園ラグビー場でのイベント開催日には、最寄駅である東花園駅に一部が臨時停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "編成両数は最大10両編成で運転されている。平日の日中は6両編成、朝ラッシュ時は10両編成、夕ラッシュ時は8両編成である。平日上りの午前9時30分までに大阪難波駅に到着するすべての快速急行は最後尾(前から10両目)が大阪難波駅まで女性専用車両となっている。一部の8両・10両編成の列車は大和西大寺駅にて連結・解放を行う。2020年3月14日のダイヤ改正からは土曜・休日はほぼ全時間帯で8両編成で運転している。土曜・休日の近鉄奈良15:21発神戸三宮行きのみ、近鉄奈良駅 - 大和西大寺駅間は4両(2両編成2本)で運転し、大和西大寺駅で後から到着する4両(天理発大和西大寺行き急行で、2両編成2本。大和西大寺駅で快速急行に変更)を併結する運用となっている。阪神直通列車には乗り入れ先の阪神車や近鉄の阪神乗り入れ対応車が使われるが、大阪難波駅発着の列車については阪神乗り入れに対応しない車両が使われることがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2000年代中盤以降は夕刻時間帯や夜間を中心に一部の列車が急行へ格下げされており、設定当初と比べると本数は減少している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2012年3月20日のダイヤ変更で土休日の朝に阪神神戸高速線内の新開地発となる快速急行が設定された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2022年12月17日のダイヤ変更で、平日の日中の神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間の列車が1時間に2本に減便された影響で、新たに大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間の列車が1時間に2本に増便された。また、平日夕ラッシュ時の列車が8両編成に減車された。また前述の土休日朝の新開地発の設定が終了している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお、快速急行の前身の無料特急は、上本町駅 - 布施駅間複々線化工事完成に伴う1956年12月のダイヤ変更で運転を開始したが、難波線開通前の停車駅は鶴橋・大和西大寺の2駅だけだった(休日の菖蒲池駅の臨時停車は無料特急時代も行われていた)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "布施駅3層化改造工事完成に伴う1978年3月のダイヤ変更で設定。日中以降に設定されており、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間での運転が主体だが、2022年12月17日のダイヤ変更では大和西大寺駅発着の列車も数本設定された。停車駅は、大阪難波駅・近鉄日本橋駅・大阪上本町駅・鶴橋駅・布施駅・石切駅・生駒駅・学園前駅・大和西大寺駅・新大宮駅・近鉄奈良駅で、快速急行との違いは鶴橋駅 - 生駒駅間で布施駅と石切駅(1986年3月より)にも停車することである。東大阪市花園ラグビー場でのイベント開催日には、最寄駅である東花園駅に一部が臨時停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日中は、1時間あたり、平日は快速急行(4本)の合間に30分間隔で2本、土曜・休日は快速急行との交互で20分間隔で3本の運転である。定期列車は原則として快速急行に抜かれることがないため、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間で先着するが、一部の列車は布施駅で特急に追い抜かれる。石切駅では大和西大寺駅発着の各駅停車もしくは準急と緩急接続を行う。2004年3月のダイヤ変更までは日中のみの設定であったが、以後は夕ラッシュ以降にも快速急行の運行本数の半数を置き換え、準急と統合する形で設定が追加された。2022年のダイヤ変更で、平日の日中は快速急行が増便されたため1時間あたり2本に減便された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "奈良線の料金不要種別では唯一、定期列車で阪神なんば線への直通は設定されていない。ただし、阪神車両との走行距離調整のため、土休日ダイヤの一部は阪神車両で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "編成両数は平日の日中は6両編成、平日の夕方以降は8両編成(上りの一部で6両あり)。土休日は近鉄車及び阪神車8両または6両編成で運行されている。阪神なんば線開通後も8両での運転が継続されていて、運用上の大きな変化はない。急行の10両運転がないのは布施駅の信号機の都合と石切駅のホーム有効長が8両分しかないためである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、現在の急行は2代目であり、初代の急行は1946年3月15日のダイヤ変更で設定され、1976年の白紙ダイヤ変更まで運転されていた。初代急行の停車駅は鶴橋駅 - 石切駅間ノンストップで、これ以外の区間は各駅に停車していた(新生駒トンネルが開通するまであった孔舎衛坂駅は通過していた)。当時東花園駅を通過していた準急とは布施駅(当時は奈良線・大阪線ともに準急・普通しか停車しなかった)と河内小阪駅(一時期設定されていた行楽期の臨時急行は停車していた)を通過するだけの違いで、現在の急行よりもむしろ準急に近い停車駅パターンであった。しかし、1972年のダイヤ変更で前述の学園前・生駒通過の快速急行を補完する形で平日朝の難波行きのみの設定となり、1976年のダイヤ変更で準急と統合された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "大阪難波駅 - 大和西大寺駅間での運転が基本で、一部列車は近鉄奈良駅まで運転しているほか、上りのみ東花園駅始発の列車もある。停車駅は、大阪難波駅・近鉄日本橋駅・大阪上本町駅・鶴橋駅・布施駅・河内小阪駅・東花園駅と石切駅から近鉄奈良駅までの各駅。2006年3月21日実施のダイヤ変更で、従来イベント開催日に限り一部が臨時停車していた東花園駅が新たに追加された。また、それと同時に日中の列車が区間準急に立て替えられた。東花園駅に停車開始後は、準急は東大阪市内における速達種別、石切以東での普通の補完という役割が強くなっているほか、難波方面と瓢箪山駅・枚岡駅・額田駅間、奈良方面と河内花園駅・若江岩田駅・八戸ノ里駅間のアクセスが大きく向上する結果となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2006年3月21日のダイヤ変更で日中は区間準急(後述)に置き替えられたため、現状は日中と深夜の近鉄奈良方面行き以外で運転されており、運転本数も時間帯により前後する。2021年7月3日のダイヤ変更では日中から夕方にかけ一部の大阪難波行きで東花園駅始発の準急が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2009年3月20日の阪神なんば線の延伸開業後も大阪難波駅発着が殆どで、阪神電鉄線内に乗り入れて尼崎駅まで直通するのは僅かである。大阪近郊の短距離速達種別という位置づけで、編成両数は6両編成が基本だが、ラッシュ時を中心に大阪難波駅発着の一部で8両編成もある。ほとんどが石切駅・布施駅(一部は東花園駅)で快速急行を、夕方以降の一部列車には石切駅で特急・急行を待避する。早朝・深夜帯や夜間の大阪難波行きを中心に、全区間先着となる列車も存在する。一方、奈良県内・阪神なんば線では各駅に停車し、普通列車の代替としての役割も担う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "かつては大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間での運転が大半で大和西大寺駅発着のものは1日数本程度だったが、2000年3月15日のダイヤ変更で新大宮駅が快速急行停車駅となったことにより、大半が大和西大寺駅発着に変更された。2020年3月14日のダイヤ変更では東花園駅始発の準急が初めて設定された。また、1972年までは天理線天理駅まで直通する準急が定期列車として運行されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2006年3月21日のダイヤ変更で新たに追加された列車種別で、午前と日中、深夜に運転されており、1時間あたり2本(土休日は3本)を基本に運転されているが、時間帯により前後する。大阪難波駅 - 大和西大寺駅間での運転が基本で、一部近鉄奈良駅発着も設定されているほか、平日の午前中・夜中と土休日の深夜の一部は尼崎行きが設定されている。停車駅は、大阪難波駅 - 東花園駅間は準急と同じだが、東花園駅 - 近鉄奈良駅間では各駅停車となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この種別の登場により、日中の東生駒駅折り返しの普通(後述する、1992年まで瓢箪山駅で折り返していた普通)が東花園駅折り返しとなり、瓢箪山駅・枚岡駅・額田駅では普通6本から区間準急3本・普通3本に変更された。ただし、これらの駅のホーム有効長の都合で、6両編成で運行している。また阪神なんば線の開業後は一部列車が尼崎駅まで直通している。朝ラッシュ時や夕方から夜間にかけてと大阪難波ゆきの深夜は従来どおり準急を運転している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日中は、下りは基本的に布施駅で近鉄奈良行き快速急行を待避した後に石切駅で近鉄奈良行き急行と連絡し、上りは基本的に瓢箪山駅で快速急行を待避する。ただし、一部の列車は、これらの駅以外で特急などを待避するものもある。また、平日・土休日ともにすべての列車が東花園駅発着の普通と接続を行う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2012年3月20日のダイヤ変更以前は平日の日中、大阪難波駅折り返しで運行されていたが、前述のように快速急行が平日日中も阪神なんば線内で通過運転を行うことになったことに伴い、千鳥橋・伝法・福・出来島・大物の各駅におけるその代替として大阪難波駅発着の区間準急が尼崎駅発着に変更された。なお、2012年3月20日のダイヤ変更では大阪線にも区間準急が新設されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2016年3月19日のダイヤ変更で、平日日中の上り列車は尼崎駅に乗り入れず、大阪難波駅で折り返すようになり、その時間帯の阪神電鉄線に乗り入れる上り列車は普通と快速急行だけになっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2022年12月17日のダイヤ変更で、平日日中の列車が1時間2本に減便され、土休日の準急のほとんどが区間準急に格下げされたほか、平日も朝や夜間も一部準急が区間準急に格下げされたことで終日運行されるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "近鉄の駅掲出時刻表では、旧型式では時刻の上に「(区)」マークをつけて表記されていた(南大阪線の区間急行やかつて大阪線で運行されていた区間快速急行とは異なり時刻の数字は斜字ではなかった)。2022年12月17日のダイヤ変更からの新形式では準急が四角の緑地に白抜きで時刻の数字に対し、区間準急は緑で下線つきの時刻の数字で表示して区別している。かつて駅で配布していた紙製の時刻表では区間準急をオリーブ色で表記して区別していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "大阪難波駅 - 東花園駅・東生駒駅・大和西大寺駅間の運転が基本で、一部列車は近鉄奈良駅まで運転している。また阪神なんば線の開業後はほとんどが尼崎駅まで直通する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日中は東花園駅折り返しと大和西大寺駅(一部列車は近鉄奈良駅)折り返しの系統が交互に1時間に3本ずつ、計6本が運転されている。ラッシュ時間帯には東生駒駅または瓢箪山駅を、早朝・深夜には石切駅を、それぞれ始発・終着とする列車があるほか、早朝・深夜を中心に東花園車庫、西大寺車庫からの入出庫を兼ねた東花園駅・大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間の運用もある。また、運用上、大和西大寺行きの準急・普通が大和西大寺駅到着後に天理または橿原神宮前行きの急行に変わったり、またその逆のパターンもあり、その場合は到着前にその旨がアナウンスされている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "現在、日中に運転されている東花園駅折り返し系統は、かつては瓢箪山駅折り返しであった。これは枚岡駅・額田駅のホーム有効長が4両分しかなく、また当時の東生駒駅の折り返し線が短く6両編成が入れなかったためであったが、ホーム延伸工事などの完成により1992年3月19日のダイヤ変更で東生駒駅まで延長された。だが、2006年3月21日のダイヤ変更で区間準急の運転が開始されたことに伴い、現在のように改められた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "編成両数は原則として6両。ただし、早朝の石切発近鉄奈良行きや入出庫を兼ねた大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間のみの列車に8両または10両があるほか、早朝の東花園発近鉄奈良行きと深夜の生駒発大和西大寺行きは4両である。阪神車両との走行距離調整のため、一部に阪神車両での運用もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "かつては最終列車の設定で、近鉄奈良方面からの生駒止まりの6両または8両編成での列車運用が数本存在したほか、逆方面では石切発近鉄奈良方面行きの6両編成での列車運用が少ないながらも存在した。また、1992年のダイヤ変更以前では東花園駅にて2両を連結・切り離しを行う列車もあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "天理教祭典の開催日(原則として毎月26日と、1月上旬と4月中旬の特定日)には、大阪難波駅 - 天理線天理駅間の臨時急行が2往復運転されている(大阪難波発は午前のみ、天理発は午後のみ。なお、平日と土休日では時刻が異なる)。奈良線内の停車駅は、急行と同一。一部に布施駅で快速急行を待避する列車もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2011年4月18日には初めて三宮(現・神戸三宮)始発の臨時急行(但し阪神電鉄線内は「臨時快速急行」)が運行され、2012年1月26日にも運行された後、同年3月26日以降も平日の祭典日に限り運行した。なお、この列車は2016年3月19日のダイヤ変更以降、先述した大和西大寺行き快速急行として定期列車化され、さらに2021年7月3日のダイヤ変更以降は(公式には案内されていないが)大和西大寺駅で種別変更して急行天理行きとなり天理駅まで直通している(さらに祭典日に限り、正面に「天理 月次祭」と書かれた方向板が掲げられる)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "長年にわたり臨時列車は独立した列車として運転していたが、2022年12月17日のダイヤ変更からは一部の列車が大和西大寺駅発着の定期急行の延長運転という形で設定されることになった。また、平日の大阪難波駅発天理行き急行は1本に削減されたが、かわりに朝の尼崎駅発近鉄奈良行き快速急行1本が大和西大寺駅で後ろ4両を切り離して天理行き急行として運転する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "以下の表においては、大阪線や難波線については奈良線直通列車のみ記載している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2022年12月17日のダイヤ変更時点の日中の1時間あたりの運転本数をまとめると、以下のとおりになる。奈良線は線内全駅で日中でも1時間最低6本の乗車機会が確保されている。線区内全駅で1時間6本以上の列車が停車するのは近鉄では奈良線系統のみである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "なお、2009年3月20日ダイヤ変更時点における阪神なんば線直通列車の本数は以下のとおり。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "※2012年3月20日のダイヤ変更にて、西九条駅 - 尼崎駅間各駅停車の快速急行は廃止され、その代替として大阪難波駅発着の区間準急が尼崎駅発着に変更となったため、上表は現況と異なる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "この路線においても毎年大晦日 - 元旦の終夜運転が行われる。2018年度は大阪難波駅 - 東花園駅・大和西大寺駅・近鉄奈良駅間において約15 - 30分間隔で普通・区間準急が合わせて35本設定された。2020年度は阪神電鉄と共に終夜運転を実施しない。2021年度は普通の運転に加えて20000系「楽」を使用した臨時快速急行が2往復運転された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "奈良線沿線には春日大社や東大寺を始め枚岡神社や石切神社、生駒ケーブル乗り換えで宝山寺などの大規模・著名な寺社が多いことなどから終夜運転の本数も多く設定されている。また、例年近鉄の主要路線の終夜運転では特急が数多く設定される中、総距離が短い奈良線系統には全く設定されないのも特徴である。ただし1997年(の大晦日)までは毎時1本の特急が設定されていたほか、2023年度は特急が2往復運転予定である", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "花園ラグビー場で大きな試合が行われる場合、利便性を考慮し、最寄り駅の東花園駅に一部の快速急行と急行が臨時停車することがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2010年以降12月に奈良マラソンの開催による観客の利便性を図るため、早朝に近鉄奈良行き特急および急行が数本設定されるほか、大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間に臨時普通列車が運行される。なお、2022年は急行が大和西大寺行きになり大和西大寺駅到着後に高の原行き急行に変更して運転した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "過去には2008年まで若草山山焼きの日に近鉄難波行きの臨時特急が夜間に1本設定されていた、現在はこの特急は定期列車になっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "優先座席の設定位置は運転区間に関係なく阪神車両が各車両の神戸三宮側、近鉄車両が各車両の奈良側に設定されており現在のところ統一は図られていない。ただし、主要駅を中心に一部の駅では優先座席の案内板が設置されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "乗務員は、東花園列車区と西大寺列車区、新田辺列車区(大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間)が担当しており、おおむね東花園駅ないし大和西大寺駅で乗務員交代が行われる。また、阪神電気鉄道との相互直通列車では、阪神乗務員との交代は境界駅の大阪難波駅ではなく阪神なんば線の桜川駅で行われることになっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "奈良線は4扉の近鉄車と3扉の阪神車が混在して運用されているため、ホームに設置されている発車標のうち、LCD式とLED式のものには乗車位置が表示されている。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "停車駅の案内では、鶴橋駅以西は阪神なんば線の西九条駅まで各駅に停車するが、大阪上本町駅以東での阪神直通列車の自動放送では、大阪難波駅 - 鶴橋駅間の停車駅は略されることなく放送され、西九条駅(尼崎駅) - 大阪難波駅間の途中駅のみ省略されている。これは布施駅以東における準急、区間準急も同様である。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2016年3月27日から車掌のタブレット端末(パナソニック製TOUGHPAD FZ-B2)の操作による車内自動放送が開始された。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "奈良・京都線系統の通勤車両は東花園・西大寺の各車庫に所属している。阪神乗り入れ対応車両には、先頭車両の車体前面および車体側面に直通対応車両であることを示すステッカーが貼りつけられている。なお、阪神乗り入れに対応していない車両も折り返しの関係で回送列車として阪神なんば線の桜川駅まで乗り入れる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "一部車両を除いて、新旧関係なく2両編成・4両編成・6両編成を組合わせて運用されているが、阪神乗入対応車両は2両編成と6両編成の組合せのみである。地下鉄烏丸線乗入対応車両は6両編成固定となっている。3両編成は2本を連結して6両編成として運用する場合もある。なお、2両編成を5本連結した10両編成も運転されることがある。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "瓢箪山駅 - 生駒駅間などの連続急勾配区間に備え、奈良・京都線系統の通勤車両各形式(および後述の阪神1000系・阪神9000系)にも勾配抑速ブレーキが装備されている。抑速ブレーキの設定は72 km/h、60 km/h、53 km/hの3段階あり、車両数や乗客数、天候を考慮して切り替えて、速度を一定に保っている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "近鉄線以外にも大阪梅田駅や山陽姫路駅方面にも運用しているため、3扉19m車を用いている。車両走行距離調整のため阪神なんば線へ直通しない近鉄線内完結列車にも使用されることがある。阪神車両の夜間滞泊は東花園車庫内と西大寺車庫内で行われている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "前述したように、近畿日本鉄道の直系母体会社である大阪電気軌道(大軌)初の路線として建設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "本線の開通前には生駒山系の北側を迂回するルートで片町線(学研都市線)が、南側を迂回するルートで関西本線(大和路線)が既に開通していた。いずれも生駒山系を避け長大トンネルの建設から逃れる形であり、所要時間の点で不利であった。これらルート沿いの集落は当時まだ発展しておらず、競合路線を敷設しても十分な収益が上がる目処も立たなかった。そこで、大軌は生駒山を一直線に貫き、大阪と奈良を最短で直結するルートに賭けることとなった。当初はトンネル掘削の技術的困難さからケーブルカーの使用まで検討されたとされるが、同社の設立に尽力した岩下清周の主張と大林組の技術によって、長さ3,338mの生駒トンネルを開削し、生駒山の登坂区間にできる急勾配を高出力の電車(デボ1形)で越えるという案が採択された。生駒トンネル開削には多額の資金を使い、最後は社長の岩下が私財をなげうって建設を続行させたという逸話も残っている。この日本初の標準軌複線トンネルは難工事を極め、それに伴う資金難から工事を請け負った大林組は存続の危機に瀕した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "大阪と奈良の間をできるだけ直線ルートで結ぶことにしたため、開業当初は沿線人口が少なく、生駒山の宝山寺や奈良へ向かう観光客が主要な乗客であった。よって収入は天候に左右され、同社の社員は常に天気に気を使っていたといわれる。そのため、「大阪電気軌道」でなく「大阪天気軌道」だと揶揄されたこともあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "旅客は1961年(昭和36年)当時、年間1億人を突破し、1日約30万人を輸送していた。沿線の開発や将来の難波延長によりますます旅客が増加することは明らかであった。当時奈良線では、朝夕のラッシュ時において、毎時特急、急行、準急列車各4本のほか、普通列車を合わせ計30本を運転していたが、各列車とも超満員で、最多客区間の乗車率は定員の230%に達していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "輸送力増強の方策としては、15m級小型車両や18m級中型車両の編成長増強と、21m級大型車両の運行の2つの方法が検討された。1968年(昭和43年)度における輸送量を前提として、あらゆる経費を計算した結果、総建設費が大型車両案の方が増加するが、金利および償却費を含めた経費は大型車両案の方が有利であり、また生駒トンネルの補修費を考慮すると大型車両の方がはるかに有利であることが判明した。また、小・中型車両では輸送量の限度が1970年(昭和45年)ごろと早く到来すると予測されたのに対して、大型車両では1976 - 1977年(昭和51 - 52年)ごろと予測され、大阪近郊における複々線(現けいはんな線)の建設時期を将来に繰り延べできる利点も有することが明らかとなった。そのほか、難波延長線(現難波線)の建設時までに既設路線を改良しておけば、延長線の停車場の有効長を短縮でき余剰建設費の支出を避け得ること、将来電車線の電圧を600Vから1,500Vに昇圧すれば、大阪線や名古屋線の車両との流用が可能となり、車両検修設備の統合ができることなど、合理化の面においても有利であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "このため、開業時から使用していた小・中型車から車体規格を大きくすることにした。それに際して建築限界を拡大する必要から、新生駒トンネル(長さ3,494m)を新たに開削している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2025年に夢洲で開催が予定されている2025年大阪・関西万博にあわせて、架空電車線方式と第三軌条方式の両方の集電方式に対応した車両を開発し、近鉄奈良駅から当線、生駒駅手前よりけいはんな線に入り、Osaka Metro中央線経由で夢洲までの直通特急を走らせることを検討している。しかし、夢洲での統合型リゾート (IR) 施設の開業が遅れていることから、万博前の運行開始は見送る方向としている。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "国土交通省による平城宮跡の整備事業計画に、宮跡内を横断している奈良県道104号谷田奈良線および近鉄奈良線の移設が盛り込まれている。これについて、近鉄と奈良県・奈良市は2020年7月16日、大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間4.4 kmについて、開かずの踏切除却と平城宮跡の迂回を主たる目的とした連続立体交差事業に向けた協議に入ることで合意し、2021年3月25日、近鉄奈良線の高架化、地下化を含めた移設で合意した。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "具体的には、大和西大寺駅を高架化した上で、そこから平城宮跡を避けるようにして大宮通りに線路を移設するというもので、宮跡南側は地上に線路を敷設、宮跡東側は地下化する。2041年度着工、2060年度完成の予定で、総事業費は2000億円を見込み、うち高架区間の建設費の7%を近鉄が負担することが決定している。県は近鉄側に、既存の新大宮駅の移設とは別に、大和西大寺駅 - 新大宮駅間に「朱雀大路駅(仮称)」、新大宮駅 - 近鉄奈良駅間に「油阪駅(仮称)」の新設を提案しているが、駅の新設については別途協議されることとなっていた。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "しかし、2023年4月9日に行われた奈良県知事選挙で当選した山下真知事は、「事業の必要性や費用対効果の検討が十分なされていない」として地下化、移設事業を凍結する方針を表明した。これにより一連の議論は白紙に戻る事になる。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2029年に予定されている大阪モノレール本線の門真市駅以南から近鉄奈良線交差地点までの延伸に合わせ、近鉄奈良線にも「瓜生堂駅(仮称)」が設置される予定である。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2010年に平城宮跡で開催される平城遷都1300年記念事業のイベント期間中に大和西大寺駅 - 新大宮駅間に臨時駅を設置することが検討されていたが、イベント規模縮小化への方針などにより臨時駅設置は行なわれなかった。", "title": "駅一覧" } ]
奈良線(ならせん)は、大阪府東大阪市の布施駅と奈良県奈良市の近鉄奈良駅とを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。 運転系統上は難波線・大阪線間を含めた大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間が「奈良線」として扱われている。以下、特記のない限り運転系統としての奈良線について記述する。 駅ナンバリング等で使われる路線記号はA。番号部分は、大阪上本町駅 - 菖蒲池駅間は直通運転している難波線と一体(大阪難波駅を01とする)、大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間は京都線からの通し番号(京都駅を01とみなす)になっている。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 奈良線 |路線色 = #d21644 |ロゴ = [[File:KT number-A.svg|40px|A]] |画像 = {{Image array | perrow = 1 | width = 300 | height = 250 | border-width = 0 | image1 = Kintetsu Series 30000 Nara.jpg }} {{Image array | perrow = 3 | width = 100 | border-width = 0 | image3 = Ikoma tunnel 1914.jpg | image6 = 19200系.jpg | image1 = Platform of Fuse Station (Nara Line).jpg | image4 = KintetsuNaraStation0294.jpg | image2 = Hanshin-1000.jpg | image5 = 京都市営地下鉄20系KS31編成 急行 国際会館行.jpg }}<!-- どなたか、奈良線らしさあふれる特徴ある画像を組み合わせた1枚の画像に置換してはいただけないでしょうか? また、代表画像は特急ではなく通勤電車が奈良線らしくていいと思いますが、コモンズの画像は電車のアップ写真ばっかりで、奈良線の雰囲気・風景のわかる画像を見つけられませんでした ... 。 --> |画像説明 = 上:[[若草山]]を背に[[平城宮跡]]を走行する[[近鉄30000系電車]]<br />下:左から近鉄奈良線の起終点、他社乗入車、歴史(クリックで拡大) |国 = {{JPN}} |所在地 = [[大阪府]]、[[奈良県]] |起点 = [[布施駅]]<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.148</ref><ref name="kintetsusiryou">[https://www.kintetsu.jp/kouhou/Rireki/A40001.html 路線の履歴書・奈良線] - 近鉄資料館(近畿日本鉄道ウェブサイト)</ref> |終点 = [[近鉄奈良駅]] |路線記号 = [[File:KT number-A.svg|20px|A]] |駅数 = 19駅 |開業 = [[1914年]][[4月30日]] |廃止 = |所有者 = <!-- [[大阪電気軌道|大阪電気軌道→関西急行鉄道]]→ -->[[近畿日本鉄道]] |運営者 = 近畿日本鉄道 |車両基地 = [[東花園検車区]]、[[西大寺検車区]] |使用車両 = [[#車両|車両]]の節を参照 |路線距離 = 26.7 [[キロメートル|km]] |軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]]) |線路数 = [[複線]] |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式 = 自動閉塞式 |最大勾配 = 35.7 [[パーミル|‰]] |保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS|近鉄型ATS]]<!--、[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]--> |最高速度 = 105 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref> |路線図 = }} <!-- 煩雑になるため高架・市電・直通先省略、高速・駅構造表現なし --> <!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします --> <!-- 簡略のため距離は布施起点のみにします --> {{BS-map |title=停車場・施設・接続路線 |title-bg=#d21644 |title-color=white |collapse=yes |map= {{BS2|tSTR||||阪神:{{rint|osaka|hsn}} [[阪神なんば線]]|}} {{BS4|tKBHFeq|O1=HUBa|tSTR|||||[[JR難波駅]] [[西日本旅客鉄道|JR西]]:[[関西本線]]({{rint|ja|wkq}} [[大和路線]])|}} {{BS4|HUBtl|tBHF+GRZq|O2=HUBeq|||6.1|A01 [[大阪難波駅]]|{{rint|osaka|m}} {{rint|osaka|y}} {{rint|osaka|s}}([[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]])|}} {{BS4|KBHFeq|O1=HUBe|tSTR|||||[[難波駅 (南海)|難波駅]] [[南海電気鉄道|南海]]:{{rint|osaka|nm}} [[南海本線]]・{{rint|osaka|ko}} [[南海高野線|高野線]]|}} {{BS2|tSTR|||{{rint|osaka|ktam}} '''[[近鉄難波線|難波線]]'''||}} {{BS2|tBHF||5.3|A02 [[近鉄日本橋駅]]|{{rint|osaka|s}} {{rint|osaka|k}}([[日本橋駅 (大阪府)|日本橋駅]])|}} {{BS4|KBHFa|O1=HUBaq|tBHF+GRZq|O2=HUBeq|||4.1|A03 [[大阪上本町駅]]||}} {{BS4|STR|tSTRe|||||[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=大阪市電]] {{rint|osaka|t}} {{rint|osaka|s}}([[谷町九丁目駅]])|}} {{BS4|STR|STR||||↓{{rint|osaka|ktd}} '''[[近鉄大阪線|大阪線]]'''||}} {{BS4|KRZu|KRZu|BHFq|O3=HUBa||||JR西:{{rint|ja|wko}} [[大阪環状線]]|}} {{BS4|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq||O3=HUBrf||3.0|A04 [[鶴橋駅]]|[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=大阪市電]] {{rint|osaka|s}}|}} {{BS4|KRWgl+l|KRWgr+r||||||}} {{BS4|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|||1.3|A05 [[今里駅 (近鉄)|今里駅]]||}} {{BS4|BHF|O1=HUBaq|BHF+GRZq|O2=HUBeq|||0.0|A06 [[布施駅]]||}} {{BS4|STRr|STR||||↓'''奈良線'''||}} {{BS2|KRZo|BHFq|O2=HUBa|||[[JR河内永和駅]] JR西:{{rint|ja|wkf}} [[おおさか東線]]|}} {{BS2|BHF|O1=HUBaq||O2=HUBrf|0.8|A07 [[河内永和駅]]||}} {{BS2|BHF||1.6|A08 [[河内小阪駅]]||}} {{BS2|BHF||2.4|A09 [[八戸ノ里駅]]||}} {{BS2|eABZgl|exSTR+r||||}} {{BS2|STR|exKDSTe||''八戸ノ里車庫''|-1967|}} {{BS2|eABZgl|exSTR+r||||}} {{BS2|STR|exKDSTe||''玉川工場''|-1982|}} {{BS2|BHF||4.1|A10 [[若江岩田駅]]||}} {{BS2|BHF||5.0|A11 [[河内花園駅]]||}} {{BS2|BHF||5.8|A12 [[東花園駅]]||}} {{BS2|ABZgl|KDSTeq||[[東花園検車区]]||}} {{BS2|BHF||7.0|A13 [[瓢箪山駅 (大阪府)|瓢箪山駅]]||}} {{BS2|BHF||8.3|A14 [[枚岡駅]]||}} {{BS2|BHF||9.0|A15 [[額田駅 (大阪府)|額田駅]]||}} {{BS4|tSTR+l|KRZt|tSTReq||||{{rint|osaka|ktc}} [[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]|}} {{BS4|tSTR|BHF|||10.1|A16 [[石切駅]]||}} {{BS4|tSTR|eABZgl|exSTR+r|||||}} {{BS4|tSTR|tSTRa|exBHF||10.6|''[[孔舎衛坂駅]]''|-1964|}} {{BS4|tSTR|tSTR|O2=POINTERg@fq|extSTRa|||[[生駒トンネル|新生駒トンネル]]|3,494m|}} {{BS4|tSTRl|tKRZt|xtABZg+r|O3=POINTERg@fq|||''[[生駒トンネル]]''||}} {{BS2|tSTR+GRZq|tSTR+GRZq|||↑[[大阪府]]/[[奈良県]]↓|}} {{BS4|FUNI|tSTRe|tSTRe|||||}} {{BS4|KBHFeq|O1=HUBa|eABZg+l|eABZgr||||[[鳥居前駅]] {{rint|osaka|kty}} [[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]]|}}<!-- 生駒トンネルが本線であったことを表すためで、渡り線ではない --> {{BS4|HUBlf|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq||14.2|A17 [[生駒駅]]||}} {{BS2|ABZgr|STR|||{{rint|osaka|ktg}} [[近鉄生駒線|生駒線]]|}} {{BS2|BHF|BST|15.4|A18 [[東生駒駅]]|・[[東生駒信号場]]|}} {{BS4||KRWgl|KRWg+r|O3=ABZgl|tSTRaq|||{{rint|osaka|ktc}} けいはんな線|}} {{BS2|STR|KBSTe|||東花園検車区東生駒車庫|}} {{BS2|TUNNEL1|||[[新向谷トンネル]]||}} {{BS2|BHF||17.7|A19 [[富雄駅]]||}} {{BS2|BHF||19.1|A20 [[学園前駅 (奈良県)|学園前駅]]||}} {{BS2|BHF||20.1|A21 [[菖蒲池駅]]||}} {{BS2|ABZg+l|STRq|||{{rint|osaka|ktby}} [[近鉄京都線|京都線]]|}} {{BS2|BHF||22.3|A26 [[大和西大寺駅]]||}} {{BS4|ABZq+l|ABZgr|||||{{rint|osaka|ktba}} [[近鉄橿原線|橿原線]]|}} {{BS4|KDSTe|STR||||[[西大寺検車区]]||}} {{BS2|eHST|||''(臨)[[キャンプ・カー駅]]''| 1947-1951|}} {{BS2|BHF||25.0|A27 [[新大宮駅]]||}} {{BS4|exSTR+l|eABZgr||||||}} {{BS4|exSTR|tSTRa||||||}} {{BS4|exSTR|tKRZ|||||JR西:関西本線({{rint|ja|wkq}} 大和路線)|}}<!-- 旧線は関西本線高架と同時に存在したことが無いので交差させないでください。 --> {{BS4|exKRZo|etKRZ|||||JR西:''関西本線旧線''|}}<!-- 旧線時代は近鉄が関西本線を乗り越え。 --> {{BS4|exBHF|tSTR|||25.9|''[[油阪駅]]''|-1969|}} {{BS4|exKBHFe|tKBHFe|||26.7|A28 [[近鉄奈良駅]]||}} }} '''奈良線'''(ならせん)は、[[大阪府]][[東大阪市]]の[[布施駅]]<ref name="youran" /><ref name="kintetsusiryou" />と[[奈良県]][[奈良市]]の[[近鉄奈良駅]]とを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]である。 [[運転系統]]上は[[近鉄難波線|難波線]]([[大阪難波駅]] - [[大阪上本町駅]]間)・[[近鉄大阪線|大阪線]](大阪上本町駅 - 布施駅間)間を含めた大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間が「奈良線」として扱われている。以下、特記のない限り運転系統としての奈良線(大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間)について記述する。 [[駅ナンバリング]]等で使われる路線記号は'''A'''。番号部分は、大阪上本町駅 - [[菖蒲池駅]]間は[[直通運転]]している難波線と一体(大阪難波駅を01とする)、[[大和西大寺駅]] - 近鉄奈良駅間は[[近鉄京都線|京都線]]からの通し番号([[京都駅]]を01とみなす)になっている<ref name="kintetsu20150819">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hpyouu.pdf 駅ナンバリングを全線で実施します]}} - 近畿日本鉄道、2015年8月19日</ref>。 == 概要 == [[1914年]]に開業した近鉄の直系母体である[[大阪電気軌道]](大軌)の創業路線であり、元々は大阪上本町駅が起点であった。 [[大阪市]]と[[奈良市]]を結ぶ鉄道路線としては、当路線以外にも[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[関西本線]]([[大和路線]])や[[片町線]](学研都市線)があるが、大和路線は[[生駒山地]]の南、学研都市線は北に迂回する一方、当路線は生駒山地の中腹を[[生駒トンネル|新生駒トンネル]] (3,494 m) で貫き、大阪市と奈良市を一直線で結んでいる<ref name="朝日新聞2009-09-05">『[[朝日新聞]]』2009年9月5日大阪夕刊第一総合面1頁「(ぷらっと沿線紀行:105)近鉄奈良線 その道、千金の輝き」([[朝日新聞大阪本社]] 文・長崎緑子)</ref>。近鉄の[[ドル箱]]路線であり<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[エコノミスト (日本の雑誌)|エコノミスト]]|title=企業の目 近畿日本鉄道--多角化経営の転換期|volume=53|date=1975-11-11|issue=50|pages=98-99|publisher=[[毎日新聞社]]|quote=近鉄のドル箱路線である奈良線は……}} - 通巻:第2114号(1975年11月11日号)。</ref><ref>{{Cite book|和書|title=私鉄業界|publisher=[[キョーイクソフト|教育社]]|date=1977-05|page=215|author=増井健一(編著)|authorlink=増井健一|edition=|series=教育社新書 産業界シリーズ 30|NCID=BN05602775|quote=かつては放蕩息子と呼ばれた大軌奈良線や[[大阪電気軌道#伊勢進出(参宮急行電鉄設立)|参宮急行線]]をドル箱路線に育てあげたのは……|id={{国立国会図書館書誌ID|000001345324}}・{{全国書誌番号|77025335}}}}</ref><ref>『[[読売新聞]]』2004年4月30日大阪朝刊大阪版第二地方面26頁「近鉄奈良線が90周年 きょう沿線13駅で多彩なイベント」([[読売新聞大阪本社]])</ref><ref name="朝日新聞2009-09-05"/>、2009年(平成21年)時点で近鉄全294駅の乗降人数ベスト15に入る駅のうち、9駅が当路線(大阪難波 - 近鉄奈良間)にある<ref name="朝日新聞2009-09-05"/>。大阪への通勤・通学路線であると同時に、奈良へ向かう観光路線でもある。 開業当時の[[生駒トンネル]]は日本初の[[標準軌]][[複線]]トンネルであり、その建設はトンネル技術が未熟で難工事であったことや資金難から、工事を請け負った[[大林組]]が倒産の危機に瀕するほど困難であった<ref name="obayashi80yrs" />(詳細は「[[#歴史|歴史]]」節を参照)が、この生駒トンネルのおかげで生駒山地を南に迂回する関西本線に対して大阪 - 奈良間を直線的に結ぶことが可能になり、所要時間の短縮につながった。[[1964年]]に新生駒トンネルが完成し車両の大型化などの輸送力増強が図られている。開業以来、[[大阪上本町駅]](旧・上本町駅)を始発駅としてきたが、[[近鉄難波線]]が[[1970年]]に開業してからは、奈良線の実質的な起点は[[大阪難波駅]](旧・近鉄難波駅)に移った。[[近鉄大阪線|大阪線]]の大阪上本町駅 - 布施駅間は[[複々線|方向別複々線]]となっており、奈良線・大阪線の列車が並走する。 大阪府を起点とする関西大手私鉄の幹線・本線としては、大阪線とともに[[Osaka Metro御堂筋線|地下鉄御堂筋線]]との接続駅がないが、難波方面へは自社の難波線と直通しており、梅田・天王寺方面へは大阪難波駅で地下鉄御堂筋線に乗り換えのほか、大阪上本町駅で[[Osaka Metro谷町線|地下鉄谷町線]]や鶴橋駅でJR西日本の[[大阪環状線]]に乗り換えて行くことができる。 [[阪神電気鉄道]](阪神)の西大阪線が大阪難波駅まで延伸され、[[阪神なんば線]]として開業した[[2009年]][[3月20日]]から、大阪難波駅を介して[[三宮駅|神戸三宮駅]] - 近鉄奈良駅間で相互直通運転を行っており、快速急行が両駅間を最短70分台で結んでいる<ref name="Hanshin20080829-1">{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20080829-1.pdf 阪神なんば線の運賃認可と実施運賃について]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2008年8月29日</ref><ref name="090116-02" />。 [[JR難波駅]]・[[天王寺駅]] - [[奈良駅]]間を結ぶJR西日本の関西本線(大和路線)と一部競合関係にあるが、前述の通り当路線の方は大阪市 - 奈良市間を直線的なルートで結んでいるのに対し、関西本線は生駒山地を迂回するルートであること、[[近鉄奈良駅]]が奈良市の[[中心市街地]]や主要な観光地にアクセスしやすいのに対しJRの奈良駅は市の中心部からやや離れていることから、当路線の方がJRに対して優位になっている。 1977年に大阪難波駅から[[八戸ノ里駅]]東方の[[大阪府道2号大阪中央環状線|府道大阪中央環状線]]付近までの立体交差化が完成しているが、2003年から八戸ノ里駅 - [[瓢箪山駅 (大阪府)|瓢箪山駅]]間の[[連続立体交差事業]]が着手され、2010年5月30日に下り線が完成し<ref name="higashiosaka20140517" /><ref name="kn100422" />、2014年9月21日に上り線も完成した<ref name="higashiosaka20140517">[http://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000002084.html 近鉄奈良線連続立体交差事業] - 東大阪市、2014年5月17日閲覧</ref><ref name="kn140516">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/140516yaehiyokoka.pdf 近鉄奈良線連続立体交差事業(八戸ノ里〜瓢箪山間)9月21日(日)、大阪難波方面(上り線)を高架化します。]}} - 近畿日本鉄道、2014年5月16日</ref>。これにより新たに[[若江岩田駅]]・[[河内花園駅]]・[[東花園駅]]が高架駅となった。 全線で、[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]などの[[ICカード]]が[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]により利用可能である。また、以前は[[スルッとKANSAI]]対応カードおよび[[Jスルーカード]]にも対応していた。 === 路線データ === 路線名称上の奈良線 * 路線距離([[営業キロ]]):布施駅 - 近鉄奈良駅間26.7&nbsp;km * [[軌間]]:1435mm * 駅数:19駅(起終点駅含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線電化(直流1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最急勾配:35.7[[パーミル|‰]](枚岡駅 - 石切駅、東生駒駅 - 富雄駅) * 最高速度:105&nbsp;km/h<ref name="terada" /> * [[運転指令所]]:大阪総合指令室・奈良線担当(近鉄奈良指令) * 2022年度の混雑率:114%(河内小阪→河内永和 7:41-8:41)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdff |archiveurl= |title=最混雑区間における混雑率(2022) |date=2023-07-14 |accessdate=2023-07-27 |publisher=国土交通省 |page=4 |format=PDF}}</ref> 全線が大阪統括部の管轄である。 旅客案内および運転系統上の奈良線は、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間32.8&nbsp;km、24駅(起終点駅含む)である。 == 沿線風景 == 難波線・大阪線区間も含めて全長30km少しという近鉄の幹線の中では短い方の路線にあたるが、車窓はバラエティに富んでいる。本節では大阪難波駅から奈良方面に向かって記述する。 大阪難波駅を発車すると[[千日前通]]([[大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線|大阪府道702号大阪枚岡奈良線]])の地下を東へ走り、[[近鉄日本橋駅]]・大阪上本町駅を地下で進み、その後一気に高架に上がり、[[大阪環状線]]のガードを潜ると[[鶴橋駅]]に着く。鶴橋駅周辺は[[焼肉]]店や[[コリアタウン]]などが立ち並ぶ[[繁華街]]となっており、昼や夜ともなれば電車の中にまで焼肉の香ばしい香りがたち込める。なお、この駅の焼肉の香りは[[環境省]]選定の[[かおり風景100選]]<ref group="注釈">「鶴橋駅周辺のにぎわい」</ref>にも選ばれている。 その後は住宅・工場・ビル群が混在する地域を高架で進むと3面4線を有する[[今里駅 (近鉄)|今里駅]]。[[国道479号]](大阪内環状線)を跨ぎ、高度を上げて進むと奈良線の起点である布施駅で大阪線と別れる。布施駅周辺は[[東大阪市]]の商業の中心地である。そして[[おおさか東線]]との乗換駅でもあり、東大阪市の公共施設が多い[[河内永和駅]]。次第に辺りは東大阪市の古くからの住宅や工場が多くなってくる。[[ハウス食品]]の本社所在地で準急停車駅の[[河内小阪駅]]、2面4線を有する八戸ノ里駅と進み、[[大阪府道2号大阪中央環状線|大阪中央環状線]]の中央を高架で走る[[近畿自動車道]]の下をくぐると左手に[[ニトリ|ニトリモール東大阪]]が見える。この場所は近鉄の玉川工場の跡地で、[[近鉄ハーツ]]が2010年3月まで営業していた。 この辺りからは次第に進行方向に[[生駒山]]が迫ってくる。[[若江岩田駅]]・[[河内花園駅]]を過ぎ、[[ラグビーユニオン|ラグビー]]の聖地である[[東大阪市花園ラグビー場]]の最寄駅で準急停車駅の東花園駅を通り過ぎると高架区間が終了し、[[恩智川]]と[[国道170号]](大阪外環状線)を渡り、2面4線で中央に通過線を持つ新幹線型の待避駅である[[瓢箪山駅 (大阪府)|瓢箪山駅]]。瓢箪山を出ると、いよいよ30[[パーミル|‰]]超の連続急勾配が続く生駒山越えの区間に入る。列車は左に大きくカーブし[[枚岡駅]]・[[額田駅 (大阪府)|額田駅]]を通り過ぎると今度は右にカーブする。両駅間の勾配は35.7‰で、[https://web.archive.org/web/20170924034034/http://law.e-gov.go.jp/haishi/S62F03901000014.html 普通鉄道構造規則](2002年廃止)第十七条の2が定める上限35‰を超えていた。 なお、この間にも列車は大きく標高を上げていっており、その間左手には大阪のオフィス街や[[阪神高速13号東大阪線]]、[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]を見下ろすことができ、遠くには[[あべのハルカス]]などの大阪市内の高層ビルや[[淡路島]]も望める日がある。この区間は全国でも珍しく列車から[[夜景]]を見下ろすことができ、その美しさゆえ夜景の専門サイトでも紹介されている程である。この区間は[[阪奈道路]]や、[[日本の道100選]]である[[暗越奈良街道]](くらがりごえならかいどう、[[国道308号]])など鉄道・道路問わず急勾配路線が多いことでも知られている。逆にあまり知られていないが、この石切界隈は昭和初期に開発された当時の新興住宅地であり、[[阪神間]]同様歴史のある[[高級住宅地]]である。 [[石切剣箭神社|石切神社]]への参道が続く[[石切駅]]を過ぎるとすぐに新生駒トンネルに入り、3分ほどひた走って抜けると、[[奈良県]][[生駒市]]に入り3面6線の[[生駒駅]]である。この駅では、けいはんな線や[[近鉄生駒線|生駒線]]の電車と顔を合わせ、また生駒駅南西側の[[鳥居前駅]]からは[[近鉄生駒鋼索線|生駒ケーブル]]も発着している。この先の[[東生駒駅]]で[[国道168号]]を渡り、けいはんな線が左手にわかれると[[新向谷トンネル]]を抜けて新興住宅街の中を進む。[[奈良市]]に入ると[[富雄川]]と[[大阪府道・奈良県道7号枚方大和郡山線|奈良県道7号枚方大和郡山線]]を渡り、[[近畿大学]](農学部)の最寄り駅である[[富雄駅]]を出てから邸宅街に差し掛かると[[学園前駅 (奈良県)|学園前駅]]である。駅前には駅名・地域名の由来となった[[帝塚山学園]]があるほか、近鉄が運営している[[博物館]] [[大和文華館]]がある。この生駒駅から学園前駅に至る客圏はけいはんな沿線も含めて、[[学園前 (奈良市)|学園前]]住宅地、[[東生駒]]住宅地、[[真弓 (生駒市)|真弓]]・[[北大和]]住宅地といった[[高級住宅街]]に代表される閑静な新興住宅街が広がり、教育機関も多く利用者数が非常に多い。 そして、[[菖蒲池駅]]前の[[近鉄あやめ池遊園地]]の跡地を左手に眺め、少し行くと左から[[近鉄京都線|京都線]]が合流し、[[大和西大寺駅]]に到着する。大和西大寺駅は京都線と[[近鉄橿原線|橿原線]]の列車が交錯するジャンクションで、橿原線沿いに[[西大寺検車区]]がある。ホームは3面5線の構造で、4番線と5番線はホームに挟まれており、橿原線から大阪難波方面への連絡がホーム上でできるようになっている。近鉄奈良方には引き上げ線がある。駅周辺は[[近鉄百貨店]]やショッピングセンターなどの商業施設が立ち並ぶ。 大和西大寺駅を出るとすぐに[[平城宮]]跡に入り、右手には[[朱雀門]]、左手奥には復原<!-- 復元ではない -->された[[大極殿]]があり、正面には[[若草山]]と[[東大寺]]を眺めることができる。[[国道24号]][[奈良バイパス]]をくぐると、奈良市役所をはじめとするオフィス街などが立ち並ぶ[[新大宮駅]]で、新大宮駅を出るとすぐに、[[国道369号]]の地下区間に入り、4面4線の近鉄奈良駅に到着する。近鉄奈良駅はJR[[奈良駅]]に並ぶ奈良市の[[ターミナル駅]]であり、ここから奈良交通バスが多数発着している。[[奈良県庁]]にも近く、また駅から東には東大寺[[大仏殿]]や[[春日大社]]がある[[奈良公園]]がある。 <gallery> ファイル:Kintetsu Series 5820 Nara-01.jpg|後方に大阪平野が見える(2009年5月 額田駅 - 石切駅間)。 ファイル:Kintetsu Series 30000 Nara.jpg|大和西大寺駅 - 新大宮駅間は平城宮跡を横断する。後方に東大寺がある(2009年5月)。 </gallery> === 新向谷トンネル === {{See also|1987年までの近畿日本鉄道ダイヤ変更#1964年10月1日変更}} {{節スタブ|date=2023年9月}} === 朱雀門踏切道 === 奈良県では2010年が[[平城京]]に遷都されてから1300年目にあたり、これを記念した[[平城遷都1300年記念事業|平城遷都1300年祭]]のメイン会場として[[平城宮]]跡が選ばれたが、平城宮跡は奈良線が横断しており、利便性向上のために会場中心付近に歩行者専用の[[踏切]]が新設された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/080818/nar0808180218001-n1.htm 平城宮跡の近鉄線、踏切新設決定 遷都1300年祭に向け] - [[産経新聞]] 2008年8月18日{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。原則として踏切の新設は認められておらず<ref>[http://www.renritsukyo.jp/fumikiri/21_grounding.html 踏切すいすい大作戦|踏切の基礎知識] - 全国連続立体交差事業促進協議会</ref>、警備員の配置を条件として例外として踏切が新設された。近鉄の踏切名は「起点側の直近の駅名+踏切の数を示す番号+道」であるが、この踏切は「朱雀門踏切道」の名称が付けられている。 当初、平城宮跡会場でのイベント開催中のみ設置される予定であったが、引き続き存続することが決まり、現在でも設置されている<ref>[http://www.1300.jp/about/news/press/2010/pres101104-2.html 平城遷都1300年祭平城宮跡会場 会期終了後の諸施設について] - 平城遷都1300年記念事業協会事務局 2010年11月4日</ref>。ただし、警備員が配置されている8時 - 17時の間のみ渡ることができ、それ以外の時間帯は門が閉められ渡ることができない。 <gallery> ファイル:Kintetsu Heijo-Palace-Site LTDEXP.jpg|「朱雀門踏切道」により、南北に分断された平城宮跡会場を結んでいた。(2010年4月) </gallery> == 運行形態 == [[近鉄特急|特急]]・[[快速急行]]・[[急行列車|急行]]・[[準急列車|準急]]・[[準急列車|区間準急]]・[[普通列車|普通]]が運転されている。布施駅を始発・終着駅とする列車はなく、同駅を経由するすべての列車が同駅から大阪線・難波線に直通し大阪難波方面に発着する。特急および急行以外は、さらに大阪難波駅から阪神なんば線に直通し[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]まで、快速急行はさらに[[阪神本線]]の[[三宮駅|神戸三宮駅]]まで乗り入れる列車もある。[[天理教]]祭典日には[[近鉄天理線|天理線]][[天理駅]]に直通する[[急行列車|臨時急行]]も運転されている。[[大和西大寺駅]] - [[近鉄奈良駅]]間には京都線の列車のほか、京都線を介して[[直通運転]]する[[京都市営地下鉄烏丸線]]の車両も乗り入れる。 1980年3月に関西私鉄では初めて10両編成で運転を開始した路線で、朝夕[[ラッシュ時]]に8・10両編成が多数運転される。土休日ダイヤにも10両編成列車が設定されている。昼間時間帯も快速急行・急行で8両編成の運用がある。 ただし日中や夜間の上りは6両編成での運転も多く、曜日や時間帯により輸送力の落差が激しい。沿線地域の特性上、平日は奈良県内から大阪へ勤める通勤客、大阪や反対に奈良方面へ通う学生が、土曜・休日は奈良や反対に大阪方面へ向かう行楽客が多い。日中に走る急行は平日よりも土・休日の方が増結運転が行われるため編成が長くなっているのも特徴で、平日は6両編成であるが、休日は8両編成で運転される運用がある。 === 列車種別 === 以下に種別ごとの詳細を示す。尼崎・三宮方面と相互直通運転を行う阪神なんば線とダイヤがほぼ一体化しているために阪神電鉄線との直通運転に関してもここで記述する。ただし特急については「[[近鉄特急]]」の項を、大和西大寺 - 近鉄奈良間に乗り入れる京都線系統の列車については「[[近鉄京都線]]」を参照。停車駅は、便宜上、大阪難波駅を起点に難波線・大阪線の区間も含めた近鉄線内について記載する。 ==== 快速急行 ==== [[ファイル:Kintetsu8000Series03.jpg|thumb|200px|枚岡駅を通過中の[[近鉄8000系電車|8000系]]による快速急行]] 奈良線の主力速達種別で、終日運転されている。かつてはほぼ大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間での運転であったが、2009年3月の阪神なんば線開業後は尼崎駅または神戸三宮駅までの直通が主体となり、日中は神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で1時間あたり平日2本、土曜・休日3本が運転されている。このほか、現在でも大阪難波駅 - 近鉄奈良駅や、僅かだが阪神なんば線方面または大阪難波駅 - 大和西大寺駅間も設定されている。2016年3月19日のダイヤ変更より設定された平日朝の下り大和西大寺行き(大和西大寺駅で京都発近鉄奈良行き急行に接続)は、[[天理教]]祭典日(毎月26日)には大和西大寺駅到着後に天理線[[天理駅]]行き臨時急行(いわゆる「天理臨」)として延長運転していた<ref name="tenri">{{Cite web|和書|title=天理教祭典日の延長運転について |date=2017-10-01 |accessdate=2018-01-22 |url=http://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/a5d41adfa967e3599ee647b679bdf16d8bce61d4.pdf }}</ref>が、2021年7月3日のダイヤ変更後は大和西大寺駅到着後に天理行き急行に変更しそのまま毎日運行している。また、2021年7月3日のダイヤ変更で設定された平日の大和西大寺行き2本は大和西大寺駅到着後に橿原神宮前行き急行または普通天理行きに変更して運転する。2022年12月17日のダイヤ変更では朝に生駒発近鉄奈良行きの快速急行が新たに設定された。この列車の運転区間の停車駅は急行と同一であるが、平日は10両編成での運転のため、快速急行として運転されている。 近鉄線内の停車駅は、大阪難波駅・近鉄日本橋駅・大阪上本町駅・鶴橋駅・生駒駅・学園前駅・大和西大寺駅・新大宮駅・近鉄奈良駅である。特急の停車駅に近鉄日本橋駅(ただし前身の奈良線の無料特急は停車していた)と新大宮駅(2000年3月より)が追加されたのみで、大阪上本町駅 - 大和西大寺駅間では特急と同等の停車駅で運転されることになる。朝夕の時間帯には特急と平行するダイヤで運転される列車があり、このうち下りの神戸三宮駅・尼崎駅発の一部には大阪難波駅で大阪難波発の特急と接続し特急を先行させる列車や、大和西大寺駅で京都発近鉄奈良行き特急の待ち合わせを行う列車もある。 1972年11月のダイヤ変更で、それまで走っていた奈良線無料特急の停車駅に生駒駅と学園前駅を追加する形で設定され、無料特急は廃止された。ただし、[[1976年]]まで平日朝[[ラッシュ時]]の大和西大寺発近鉄難波行きは学園前駅・生駒駅は通過し、特急よりも少ない停車駅であった。 2010年3月19日のダイヤ変更から、[[近畿大学附属小学校|近畿大学附属小学校・幼稚園]]に通う児童のために平日下り1本が菖蒲池駅に臨時停車しており(ただし休校日は通過)、臨時停車する日は主要な駅に掲示されている。なお、2004年6月以前は、菖蒲池駅前にあった[[近鉄あやめ池遊園地]]への行楽客への利便を図って、土・休日の一部の快速急行・急行が菖蒲池駅に臨時停車していた。ほかにも、[[東大阪市花園ラグビー場]]でのイベント開催日には、最寄駅である東花園駅に一部が臨時停車する。  編成両数は最大10両編成で運転されている。平日の日中は6両編成、朝ラッシュ時は10両編成、夕ラッシュ時は8両編成である。平日上りの午前9時30分までに大阪難波駅に到着するすべての快速急行は最後尾(前から10両目)が大阪難波駅まで[[女性専用車両]]となっている。一部の8両・10両編成の列車は大和西大寺駅にて[[増解結|連結・解放]]を行う。2020年3月14日のダイヤ改正からは土曜・休日はほぼ全時間帯で8両編成で運転している<ref>{{PDFlink|[https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20191220-daiya.pdf 3月14日にダイヤ改正を行います。~快速急行がますます便利になります~]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2019年12月20日</ref>。土曜・休日の近鉄奈良15:21発神戸三宮行きのみ、近鉄奈良駅 - 大和西大寺駅間は4両(2両編成2本)で運転し、大和西大寺駅で後から到着する4両(天理発大和西大寺行き急行で、2両編成2本。大和西大寺駅で快速急行に変更)を併結する運用{{efn|近鉄、阪神ともに乗り入れ対応車に4両編成はないため、この列車は2両編成が4本連なる。}}となっている。阪神直通列車には乗り入れ先の阪神車や近鉄の阪神乗り入れ対応車が使われるが、大阪難波駅発着の列車については阪神乗り入れに対応しない車両が使われることがある。 2000年代中盤以降は夕刻時間帯や夜間を中心に一部の列車が急行へ格下げされており、設定当初と比べると本数は減少している。 [[2012年]][[3月20日]]のダイヤ変更で土休日の朝に[[阪神神戸高速線]]内の[[新開地駅|新開地]]発となる快速急行が設定された<ref name="kndaiyahenkoH24">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/daiyahenkoH24.pdf 平成24年のダイヤ変更について]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2012年1月20日</ref><ref name="hanshin2012012011">{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20120120-11.pdf 3月20日(火・祝)全線のダイヤ改正を実施!]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2012年1月20日</ref>。 [[2022年]][[12月17日]]のダイヤ変更で、平日の日中の神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間の列車が1時間に2本に減便された影響で、新たに大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間の列車が1時間に2本に増便された。また、平日夕ラッシュ時の列車が8両編成に減車された。また前述の土休日朝の新開地発の設定が終了している。 なお、快速急行の前身の無料特急は、上本町駅 - 布施駅間複々線化工事完成に伴う1956年12月のダイヤ変更で運転を開始したが、難波線開通前の停車駅は鶴橋・大和西大寺の2駅だけだった(休日の菖蒲池駅の臨時停車は無料特急時代も行われていた)。 ==== 急行 ==== 布施駅3層化改造工事完成に伴う1978年3月のダイヤ変更で設定。日中以降に設定されており、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間での運転が主体だが、2022年12月17日のダイヤ変更では大和西大寺駅発着の列車も数本設定された。停車駅は、大阪難波駅・近鉄日本橋駅・大阪上本町駅・鶴橋駅・布施駅・石切駅・生駒駅・学園前駅・大和西大寺駅・新大宮駅・近鉄奈良駅で、快速急行との違いは鶴橋駅 - 生駒駅間で布施駅と石切駅(1986年3月より)にも停車することである。東大阪市花園ラグビー場でのイベント開催日には、最寄駅である東花園駅に一部が臨時停車する。 日中は、1時間あたり、平日は快速急行(4本)の合間に30分間隔で2本、土曜・休日は快速急行との交互で20分間隔で3本の運転である。定期列車は原則として快速急行に抜かれることがないため、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間で先着するが、一部の列車は布施駅で特急に追い抜かれる。石切駅では大和西大寺駅発着の各駅停車もしくは準急と緩急接続を行う。2004年3月のダイヤ変更までは日中のみの設定であったが、以後は夕ラッシュ以降にも快速急行の運行本数の半数を置き換え、準急と統合する形で設定が追加された。2022年のダイヤ変更で、平日の日中は快速急行が増便されたため1時間あたり2本に減便された。 奈良線の料金不要種別では唯一、定期列車で阪神なんば線への直通は設定されていない。ただし、阪神車両との走行距離調整のため、土休日ダイヤの一部は阪神車両で運転されている。 編成両数は平日の日中は6両編成、平日の夕方以降は8両編成(上りの一部で6両あり)。土休日は近鉄車及び阪神車8両または6両編成で運行されている。阪神なんば線開通後も8両での運転が継続されていて、運用上の大きな変化はない。急行の10両運転がないのは布施駅の信号機の都合と石切駅のホーム有効長が8両分しかないためである。 なお、現在の急行は2代目であり、初代の急行は1946年3月15日のダイヤ変更で設定され、1976年の白紙ダイヤ変更まで運転されていた。初代急行の停車駅は鶴橋駅 - 石切駅間ノンストップで、これ以外の区間は各駅に停車していた(新生駒トンネルが開通するまであった[[孔舎衛坂駅]]は通過していた)。当時東花園駅を通過していた準急とは布施駅(当時は奈良線・大阪線ともに準急・普通しか停車しなかった)と河内小阪駅(一時期設定されていた行楽期の臨時急行は停車していた)を通過するだけの違いで、現在の急行よりもむしろ準急に近い停車駅パターンであった。しかし、1972年のダイヤ変更で前述の学園前・生駒通過の快速急行を補完する形で平日朝の難波行きのみの設定となり、1976年のダイヤ変更で準急と統合された。 ==== 準急 ==== 大阪難波駅 - 大和西大寺駅間での運転が基本で、一部列車は近鉄奈良駅まで運転しているほか、上りのみ東花園駅始発の列車もある。停車駅は、大阪難波駅・近鉄日本橋駅・大阪上本町駅・鶴橋駅・布施駅・河内小阪駅・東花園駅と石切駅から近鉄奈良駅までの各駅。2006年3月21日実施のダイヤ変更で、従来イベント開催日に限り一部が臨時停車していた東花園駅が新たに追加された。また、それと同時に日中の列車が区間準急に立て替えられた。東花園駅に停車開始後は、準急は東大阪市内における速達種別、石切以東での普通の補完という役割が強くなっているほか、難波方面と瓢箪山駅・枚岡駅・額田駅間、奈良方面と河内花園駅・若江岩田駅・八戸ノ里駅間のアクセスが大きく向上する結果となった。 2006年3月21日のダイヤ変更で日中は区間準急(後述)に置き替えられたため、現状は日中と深夜の近鉄奈良方面行き以外で運転されており、運転本数も時間帯により前後する。2021年7月3日のダイヤ変更では日中から夕方にかけ一部の大阪難波行きで東花園駅始発の準急が設定されている。 2009年3月20日の阪神なんば線の延伸開業後も大阪難波駅発着が殆どで、阪神電鉄線内に乗り入れて尼崎駅まで直通するのは僅かである。大阪近郊の短距離速達種別という位置づけで、編成両数は6両編成が基本だが、ラッシュ時を中心に大阪難波駅発着の一部で8両編成もある。ほとんどが石切駅・布施駅(一部は東花園駅)で快速急行を、夕方以降の一部列車には石切駅で特急・急行を待避する。早朝・深夜帯や夜間の大阪難波行きを中心に、全区間先着となる列車も存在する。一方、奈良県内・阪神なんば線では各駅に停車し、普通列車の代替としての役割も担う。 かつては大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間での運転が大半で大和西大寺駅発着のものは1日数本程度だったが、2000年3月15日のダイヤ変更で新大宮駅が快速急行停車駅となったことにより、大半が大和西大寺駅発着に変更された。2020年3月14日のダイヤ変更では東花園駅始発の準急が初めて設定された。また、1972年までは天理線天理駅まで直通する準急が定期列車として運行されていた。 ==== 区間準急 ==== [[2006年]][[3月21日]]のダイヤ変更で新たに追加された列車種別で、午前と日中、深夜に運転されており、1時間あたり2本(土休日は3本)を基本に運転されているが、時間帯により前後する。大阪難波駅 - 大和西大寺駅間での運転が基本で、一部近鉄奈良駅発着も設定されているほか、平日の午前中・夜中と土休日の深夜の一部は尼崎行きが設定されている。停車駅は、大阪難波駅 - 東花園駅間は準急と同じだが、東花園駅 - 近鉄奈良駅間では各駅停車となる。 この種別の登場により、日中の東生駒駅折り返しの普通(後述する、[[1992年]]まで瓢箪山駅で折り返していた普通)が東花園駅折り返しとなり、瓢箪山駅・枚岡駅・額田駅では普通6本から区間準急3本・普通3本に変更された。ただし、これらの駅のホーム[[有効長]]の都合で、6両編成で運行している。また阪神なんば線の開業後は一部列車が尼崎駅まで直通している。朝ラッシュ時や夕方から夜間にかけてと大阪難波ゆきの深夜は従来どおり準急を運転している。 日中は、下りは基本的に布施駅で近鉄奈良行き快速急行を待避した後に石切駅で近鉄奈良行き急行と連絡し、上りは基本的に瓢箪山駅で快速急行を待避する。ただし、一部の列車は、これらの駅以外で特急などを待避するものもある。また、平日・土休日ともにすべての列車が東花園駅発着の普通と接続を行う。 2012年3月20日のダイヤ変更以前は平日の日中、大阪難波駅折り返しで運行されていたが、前述のように快速急行が平日日中も阪神なんば線内で通過運転を行うことになったことに伴い、千鳥橋・伝法・福・出来島・大物の各駅におけるその代替として大阪難波駅発着の区間準急が尼崎駅発着に変更された<ref name="kndaiyahenkoH24" /><ref name="hanshin2012012011" />。なお、2012年3月20日のダイヤ変更では[[近鉄大阪線|大阪線]]にも区間準急が新設されている<ref name="kndaiyahenkoH24" />。 2016年3月19日のダイヤ変更で、平日日中の上り列車は尼崎駅に乗り入れず、大阪難波駅で折り返すようになり、その時間帯の阪神電鉄線に乗り入れる上り列車は普通と快速急行だけになっている<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20150922041731/http://www.kintetsu.co.jp:80/railway/Dia/pdf/140921/301601.pdf 2014年9月21日変更時の生駒駅時刻表]}} → {{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20160327064233/http://www.kintetsu.co.jp:80/railway/Dia/pdf/160319/301601.pdf 2016年3月19日変更時の生駒駅時刻表]}}</ref>。 2022年12月17日のダイヤ変更で、平日日中の列車が1時間2本に減便され、土休日の準急のほとんどが区間準急に格下げされたほか、平日も朝や夜間も一部準急が区間準急に格下げされたことで終日運行されるようになった。 近鉄の駅掲出時刻表では、旧型式では時刻の上に「(区)」マークをつけて表記されていた([[近鉄南大阪線|南大阪線]]の区間急行やかつて大阪線で運行されていた区間快速急行とは異なり時刻の数字は斜字ではなかった)。2022年12月17日のダイヤ変更からの新形式では準急が四角の緑地に白抜きで時刻の数字に対し、区間準急は緑で下線つきの時刻の数字で表示して区別している{{efn|新形式での新ダイヤ発表当初は準急が緑で下線つきの時刻の数字で区間準急はそれを斜字にしたものだったが、区別がつきにくい事もあり変更された。}}。かつて駅で配布していた紙製の時刻表では区間準急をオリーブ色で表記して区別していた。 ==== 普通 ==== 大阪難波駅 - 東花園駅・東生駒駅・大和西大寺駅間の運転が基本で、一部列車は近鉄奈良駅まで運転している。また阪神なんば線の開業後はほとんどが尼崎駅まで直通する。 日中は東花園駅折り返しと大和西大寺駅(一部列車は近鉄奈良駅)折り返しの系統が交互に1時間に3本ずつ、計6本が運転されている。ラッシュ時間帯には東生駒駅または瓢箪山駅を、早朝・深夜には石切駅を、それぞれ始発・終着とする列車があるほか、早朝・深夜を中心に東花園車庫、西大寺車庫からの入出庫を兼ねた東花園駅・大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間の運用もある。また、運用上、大和西大寺行きの準急・普通が大和西大寺駅到着後に天理または[[橿原神宮前駅|橿原神宮前]]行きの急行に変わったり、またその逆のパターンもあり、その場合は到着前にその旨がアナウンスされている。 現在、日中に運転されている東花園駅折り返し系統は、かつては瓢箪山駅折り返しであった。これは枚岡駅・額田駅のホーム[[有効長]]が4両分しかなく、また当時の東生駒駅の折り返し線が短く6両編成が入れなかったためであったが、ホーム延伸工事などの完成により1992年3月19日のダイヤ変更で東生駒駅まで延長された。だが、2006年3月21日のダイヤ変更で区間準急の運転が開始されたことに伴い、現在のように改められた。 編成両数は原則として6両。ただし、早朝の石切発近鉄奈良行きや入出庫を兼ねた大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間のみの列車に8両または10両があるほか、早朝の東花園発近鉄奈良行きと深夜の生駒発大和西大寺行き{{efn|元々は生駒線での運用終了後に西大寺車庫へ回送させていた列車を2008年3月17日のダイヤ変更で営業列車化したもので、生駒線用ワンマン運転対応の1021系または1031系による限定運用。生駒駅では近鉄奈良行きの最終特急から接続を受けている。なお、奈良線で生駒始発の列車が設けられたのは十数年ぶりであった。}}は4両である。阪神車両との走行距離調整のため、一部に阪神車両での運用もある。 かつては最終列車の設定で、近鉄奈良方面からの生駒止まりの6両または8両編成での列車運用が数本存在したほか、逆方面では石切発近鉄奈良方面行きの6両編成での列車運用が少ないながらも存在した。また、1992年のダイヤ変更以前では東花園駅にて2両を連結・切り離しを行う列車もあった。 ==== 臨時急行 ==== 天理教祭典の開催日(原則として毎月26日と、1月上旬と4月中旬の特定日)には、大阪難波駅 - 天理線天理駅間の臨時急行が2往復運転されている(大阪難波発は午前のみ、天理発は午後のみ。なお、平日と土休日では時刻が異なる)。奈良線内の停車駅は、急行と同一。一部に布施駅で快速急行を待避する列車もある。 2011年4月18日には初めて三宮(現・神戸三宮)始発の臨時急行(但し阪神電鉄線内は「臨時快速急行」)が運行され、2012年1月26日にも運行された後、同年3月26日以降も平日の祭典日に限り運行した。なお、この列車は2016年3月19日のダイヤ変更以降、先述した大和西大寺行き快速急行として定期列車化され、さらに2021年7月3日のダイヤ変更以降は(公式には案内されていないが)大和西大寺駅で種別変更して急行天理行きとなり天理駅まで直通している(さらに祭典日に限り、正面に「天理 <small>月次祭</small>」と書かれた方向板が掲げられる)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/wp-content/uploads/2021-------------------------HP------.pdf |title=神戸三宮 - 近鉄天理間の直通列車運転について|format=PDF |publisher=天理教輸送部 |date=2021-07-17 |accessdate=2021-07-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210718011607/https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/wp-content/uploads/2021-------------------------HP------.pdf |archivedate=2021-07-18 }}</ref>。 長年にわたり臨時列車は独立した列車として運転していたが、2022年12月17日のダイヤ変更からは一部の列車が大和西大寺駅発着の定期急行の延長運転という形で設定されることになった。また、平日の大阪難波駅発天理行き急行は1本に削減されたが、かわりに朝の尼崎駅発近鉄奈良行き快速急行1本が大和西大寺駅で後ろ4両を切り離して天理行き急行として運転する<ref>{{PDFlink|[https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/5a0cc54e0a800f4c7742461e311fde188d087734.pdf 【平日ダイヤ】天理教祭典日の運転について]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2022年12月16日</ref>。 === 運転本数 === 以下の表においては、大阪線や難波線については奈良線直通列車のみ記載している。 2022年12月17日のダイヤ変更時点の日中の1時間あたりの運転本数をまとめると、以下のとおりになる。奈良線は線内全駅で日中でも1時間最低6本の乗車機会が確保されている。線区内全駅で1時間6本以上の列車が停車するのは近鉄では奈良線系統のみである。 {{Columns-start}} {| class="wikitable" style="font-size:75%" |+平日 |- !colspan="2"|路線 !rowspan="2"|直通先 !colspan="4"|難波線 !colspan="3"|大阪線 !colspan="9"|奈良線 |- !colspan="2"|駅名<br />\<br />種別 !colspan="2" style="width:1em;"|大阪難波 !… !colspan="2" style="width:1em;"|大阪上本町 !… !colspan="2" style="width:1em;"|布施 !… !colspan="2" style="width:1em;"|東花園 !… !colspan="2" style="width:1em;"|大和西大寺 !… !style="width:1em;"|近鉄奈良 |- style="text-align:center;" !rowspan="11" style="width:1em;"|{{縦書き|運行本数}} |style="background:#fcc;"|特急 |colspan="14" style="text-align:right"|←京都駅(京都線) |colspan="3" style="background:#fcc;"|0-2本 |- style="text-align:center;" |style="background:#f96; white-space:nowrap;" rowspan="2"|快速急行 |style="text-align:right; white-space:nowrap;"|←[[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]]([[阪神電気鉄道|阪神電鉄]]) |colspan="16" style="background:#f96;"|2本 |- style="text-align:center;" |colspan="2"| |colspan="15" style="background:#f96;"|2本 |- style="text-align:center;" |style="background:#fc9;" rowspan="3"|急行 |colspan="2"| |colspan="15" style="background:#fc9;"|2本 |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"|←京都駅(京都線) |colspan="3" style="background:#fc9;"|0-1本 |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"|←[[国際会館駅]]([[京都市営地下鉄]]) |colspan="3" style="background:#fc9;"|0-1本 |- style="text-align:center;" |style="background:#cfc;" rowspan="2"|区間準急 |colspan="2" style="text-align:right"| |colspan="12" style="background:#cfc;"|2本→ |colspan="3" style="background:#cfc;"|0-1本→ |- style="text-align:center;" |colspan="2" style="text-align:right"| |colspan="12" style="background:#cfc;"|←2本 |colspan="3" style="background:#cfc;"|←0-1本 |- style="text-align:center;" |style="background:#ccc;" rowspan="3"|普通 |style="text-align:right"|←[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]](阪神電鉄) |colspan="13" style="background:#ccc;"|4本→ |colspan="3" style="background:#ccc;"|0-1本→ |- style="text-align:center;" |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="13" style="background:#ccc"|←4本 |colspan="3" style="background:#ccc"|←0-1本 |- style="text-align:center;" |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="10" style="background:#ccc;"|2本 |colspan="6"| |} {{Column}} {| class="wikitable" style="font-size:75%" |+土休日 |- !colspan="2"|路線 !rowspan="2"|直通先 !colspan="4"|難波線 !colspan="3"|大阪線 !colspan="9"|奈良線 |- !colspan="2"|駅名<br />\<br />種別 !colspan="2" style="width:1em;"|大阪難波 !… !colspan="2" style="width:1em;"|大阪上本町 !… !colspan="2" style="width:1em;"|布施 !… !colspan="2" style="width:1em;"|東花園 !… !colspan="2" style="width:1em;"|大和西大寺 !… !style="width:1em;"|近鉄奈良 |- style="text-align:center;" !rowspan="11" style="width:1em;"|{{縦書き|運行本数}} |style="background:#fcc;" rowspan="2"|特急 |colspan="2" style="text-align:right"| |colspan="15" style="background:#fcc;"|0-1本 |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"|←京都駅(京都線) |colspan="3" style="background:#fcc;"|1-2本 |- style="text-align:center;" |style="background:#f96; white-space:nowrap;"|快速急行 |style="text-align:right; white-space:nowrap;"|←神戸三宮駅(阪神電鉄) |colspan="16" style="background:#f96;"|3本 |- style="text-align:center;" |style="background:#fc9;" rowspan="3"|急行 |colspan="2"| |colspan="15" style="background:#fc9;"|3本 |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"|←京都駅(京都線) |colspan="3" style="background:#fc9;"|0-1本 |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"|←国際会館駅(京都市営地下鉄) |colspan="3" style="background:#fc9;"|1本 |- style="text-align:center;" |style="background:#cfc;" rowspan="2"|区間準急 |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="13" style="background:#cfc;"|3本→ |colspan="3" style="background:#cfc;"|0-2本→ |- style="text-align:center;" |colspan="2" style="text-align:right"| |colspan="12" style="background:#cfc;"|←3本 |colspan="3" style="background:#cfc;"|←0-1本 |- style="text-align:center;" |style="background:#ccc;" rowspan="3"|普通 |colspan="2" style="text-align:right"| |colspan="12" style="background:#ccc;"|3本→ |colspan="3" style="background:#ccc;"|0-1本→ |- style="text-align:center;" |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="13" style="background:#ccc"|←3本 |colspan="3" style="background:#ccc"|←0-1本 |- style="text-align:center;" |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="10" style="background:#ccc;"|3本 |colspan="6"| |} {{Columns-end}} <!--2020年3月14日のダイヤ変更時点の日中の1時間あたりの運転本数をまとめると、以下のとおりになる。 {{Columns-start}} {| class="wikitable" style="font-size:75%" |+平日 |- !colspan="2"|路線 !rowspan="2"|直通先 !colspan="4"|難波線 !colspan="3"|大阪線 !colspan="9"|奈良線 |- !colspan="2"|駅名<br />\<br />種別 !colspan="2" style="width:1em;"|大阪難波 !… !colspan="2" style="width:1em;"|大阪上本町 !… !colspan="2" style="width:1em;"|布施 !… !colspan="2" style="width:1em;"|東花園 !… !colspan="2" style="width:1em;"|大和西大寺 !… !style="width:1em;"|近鉄奈良 |- style="text-align:center;" !rowspan="11" style="width:1em;"|{{縦書き|運行本数}} |style="background:#fcc;"|特急 |colspan="14" style="text-align:right"|←京都駅(京都線) |colspan="3" style="background:#fcc;"|2本 |- style="text-align:center;" |style="background:#f96; white-space:nowrap;"|快速急行 |style="text-align:right; white-space:nowrap;"|←神戸三宮駅(阪神電鉄) |colspan="16" style="background:#f96;"|3本 |- style="text-align:center;" |style="background:#fc9;" rowspan="3"|急行 |colspan="2"| |colspan="15" style="background:#fc9;"|3本 |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"|←京都駅(京都線) |colspan="3" style="background:#fc9;"|1本 |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"|←国際会館駅(京都市営地下鉄) |colspan="3" style="background:#fc9;"|1本 |- style="text-align:center;" |style="background:#cfc;" rowspan="2"|区間準急 |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="13" style="background:#cfc;"|3本→ |colspan="3" style="background:#cfc;"|0-2本→ |- style="text-align:center;" |colspan="2" style="text-align:right"| |colspan="12" style="background:#cfc;"|←3本 |colspan="3" style="background:#cfc;"|←0-1本 |- style="text-align:center;" |style="background:#ccc;" rowspan="4"|普通 |colspan="2" style="text-align:right"| |colspan="12" style="background:#ccc;"|3本→ |colspan="3" style="background:#ccc;"|0-1本→ |- style="text-align:center;" |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="13" style="background:#ccc"|←3本 |colspan="3"| |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"| |colspan="3" style="background:#ccc"|←0-1本 |- style="text-align:center;" |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="10" style="background:#ccc;"|3本 |colspan="6"| |} {{Column}} {| class="wikitable" style="font-size:75%" |+土休日 |- !colspan="2"|路線 !rowspan="2"|直通先 !colspan="4"|難波線 !colspan="3"|大阪線 !colspan="9"|奈良線 |- !colspan="2"|駅名<br />\<br />種別 !colspan="2" style="width:1em;"|大阪難波 !… !colspan="2" style="width:1em;"|大阪上本町 !… !colspan="2" style="width:1em;"|布施 !… !colspan="2" style="width:1em;"|東花園 !… !colspan="2" style="width:1em;"|大和西大寺 !… !style="width:1em;"|近鉄奈良 |- style="text-align:center;" !rowspan="12" style="width:1em;"|{{縦書き|運行本数}} |style="background:#fcc;" rowspan="2"|特急 |colspan="2" style="text-align:right"| |colspan="15" style="background:#fcc;"|0-1本 |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"|←京都駅(京都線) |colspan="3" style="background:#fcc;"|2本 |- style="text-align:center;" |style="background:#f96; white-space:nowrap;"|快速急行 |style="text-align:right; white-space:nowrap;"|←神戸三宮駅(阪神電鉄) |colspan="16" style="background:#f96;"|3本 |- style="text-align:center;" |style="background:#fc9;" rowspan="3"|急行 |colspan="2"| |colspan="15" style="background:#fc9;"|3本 |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"|←京都駅(京都線) |colspan="3" style="background:#fc9;"|1本 |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"|←国際会館駅(京都市営地下鉄) |colspan="3" style="background:#fc9;"|1本 |- style="text-align:center;" |style="background:#cfc;" rowspan="2"|区間準急 |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="13" style="background:#cfc;"|3本→ |colspan="3" style="background:#cfc;"|0-2本→ |- style="text-align:center;" |colspan="2" style="text-align:right"| |colspan="12" style="background:#cfc;"|←3本 |colspan="3" style="background:#cfc;"|←0-1本 |- style="text-align:center;" |style="background:#ccc;" rowspan="4"|普通 |colspan="2" style="text-align:right"| |colspan="12" style="background:#ccc;"|3本→ |colspan="3" style="background:#ccc;"|0-1本→ |- style="text-align:center;" |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="13" style="background:#ccc"|←3本 |colspan="3"| |- style="text-align:center;" |colspan="14" style="text-align:right"| |colspan="3" style="background:#ccc"|←0-1本 |- style="text-align:center;" |style="text-align:right"|←尼崎駅(阪神電鉄) |colspan="10" style="background:#ccc;"|3本 |colspan="6"| |} {{Columns-end}} --> なお、2009年3月20日ダイヤ変更時点における阪神なんば線直通列車の本数は以下のとおり。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center" |- |||colspan="2"|平日||colspan="2"|土休日 |- |||阪神電鉄線内発||近鉄線内発||阪神電鉄線内発||近鉄線内発 |- |快速急行<br /><small>( ) は尼崎駅発着</small> |31 (8)||28 (7)||41 (5)||41 (5) |- |快速急行<br /><small>(西九条駅 - 尼崎駅間各駅停車)</small> |20||21||0||0 |- |準急 |5||1||9||3 |- |区間準急 |2||3||25||23 |- |普通 |79||81<ref group="#">うち1本は、尼崎駅まで普通、尼崎駅から神戸三宮行快速急行</ref>||74||81 |} <references group="#" /> ※2012年3月20日のダイヤ変更にて、西九条駅 - 尼崎駅間各駅停車の快速急行は廃止され、その代替として大阪難波駅発着の区間準急が尼崎駅発着に変更となったため、上表は現況と異なる<ref name="kndaiyahenkoH24" /><ref name="hanshin2012012011" />。 === 備考 === この路線においても毎年[[大晦日]] - [[元日|元旦]]の[[終夜運転]]が行われる。2018年度は大阪難波駅 - 東花園駅・大和西大寺駅・近鉄奈良駅間において約15 - 30分間隔で普通・区間準急が合わせて35本設定された<ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/nennmatunenshi31.pdf 年末から年始にかけて、臨時列車および運転区間延長列車を運転します]}} - 近畿日本鉄道、2018年11月8日</ref>。2020年度は阪神電鉄と共に終夜運転を実施しない。2021年度は普通の運転に加えて[[近鉄20000系電車|20000系「楽」]]を使用した臨時快速急行が2往復運転された<ref>{{Cite press release|和書|title=終夜運転の大阪難波・近鉄奈良間に臨時快速急行「楽」を追加します|publisher=近畿日本鉄道|date=2021-12-27|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/rakutuikaunntenn.pdf|format=PDF|accessdate=2022-01-02}}</ref>。 奈良線沿線には[[春日大社]]や[[東大寺]]を始め[[枚岡神社]]や[[石切剣箭神社|石切神社]]、[[近鉄生駒鋼索線|生駒ケーブル]]乗り換えで[[宝山寺]]などの大規模・著名な寺社が多いことなどから終夜運転の本数も多く設定されている。また、例年近鉄の主要路線の終夜運転では特急が数多く設定される中、総距離が短い奈良線系統には全く設定されないのも特徴である。ただし[[1997年]](の大晦日)までは毎時1本の特急が設定されていたほか、2023年度は特急が2往復運転予定である<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/nenmatunansiyusou.pdf |title=年末から年始にかけて、臨時列車および運転区間延長列車を運転します |publisher=近畿日本鉄道 |format=PDF |date=2023-11-08 |accessdate=2023-11-08}}</ref> [[東大阪市花園ラグビー場|花園ラグビー場]]で大きな試合が行われる場合、利便性を考慮し、最寄り駅の東花園駅に一部の快速急行と急行が臨時停車することがある。 2010年以降12月に[[奈良マラソン]]の開催による観客の利便性を図るため、早朝に近鉄奈良行き特急および急行が数本設定されるほか、大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間に臨時普通列車が運行される。なお、2022年は急行が大和西大寺行きになり大和西大寺駅到着後に高の原行き急行に変更して運転した<ref>[https://www.kintetsu.co.jp/railway/Dia/dia_nara_marathon_202212.html 臨時列車の運転について(奈良マラソン2022)] - 近畿日本鉄道、2022年11月10日閲覧</ref>。 過去には2008年まで[[若草山]]山焼きの日に近鉄難波行きの臨時特急が夜間に1本設定されていた、現在はこの特急は定期列車になっている。 優先座席の設定位置は運転区間に関係なく阪神車両が各車両の神戸三宮側、近鉄車両が各車両の奈良側に設定されており現在のところ統一は図られていない。ただし、主要駅を中心に一部の駅では優先座席の案内板が設置されている。 === 乗務員 === 乗務員は、東花園列車区と西大寺列車区、新田辺列車区(大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間)が担当しており、おおむね東花園駅ないし大和西大寺駅で乗務員交代が行われる。また、阪神電気鉄道との相互直通列車では、阪神乗務員との交代は境界駅の大阪難波駅ではなく阪神なんば線の[[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]で行われることになっている。 == 旅客案内 == [[ファイル:Hanshin Kintetsu Rapid Express.jpg|thumb|200px|right|[[近鉄1220系電車#1020系|近鉄1026系]]の快速急行の側面方向幕。上が阪神電鉄線内での表示、下が近鉄線内での表示。]] 奈良線は4扉の近鉄車と3扉の阪神車が混在して運用されているため、ホームに設置されている発車標のうち、[[液晶ディスプレイ|LCD]]式と[[発光ダイオード|LED]]式のものには乗車位置が表示されている。 停車駅の案内では、鶴橋駅以西は阪神なんば線の[[西九条駅]]まで各駅に停車するが、大阪上本町駅以東での阪神直通列車の自動放送では、大阪難波駅 - 鶴橋駅間の停車駅は略されることなく放送され、西九条駅(尼崎駅) - 大阪難波駅間の途中駅のみ省略されている。これは布施駅以東における準急、区間準急も同様である。 === 車内自動放送 === 2016年3月27日から車掌の[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]端末([[パナソニック]]製TOUGHPAD FZ-B2<ref>[https://biz.panasonic.com/jp-ja/case-studies/kintetsu 近畿日本鉄道株式会社様 - 事例] - パナソニック、2022年1月27日閲覧</ref>)の操作による[[車内放送|車内自動放送]]が開始された<ref name="kintetsu20150819" />。 == 車両 == {{Main2|特急車両|近鉄特急}} === 現用車両 === * [[近鉄1220系電車|1021系・1026系・1031系]]:1021系・1031系は[[近鉄生駒線|生駒線]]ワンマン対応。6両編成は阪神乗り入れ対応。 * [[近鉄1220系電車|1233系・1249系・1252系]]:1271F - 1277Fは阪神乗り入れ対応 * [[近鉄3200系電車|3200系]]:[[京都市営地下鉄烏丸線|地下鉄烏丸線]]乗り入れ対応 * [[近鉄3220系電車|3220系]]([[シリーズ21]]):地下鉄烏丸線乗り入れ対応。 * [[近鉄5800系電車|5800系]]:阪神乗り入れ対応、[[L/Cカー]]。 * [[近鉄5820系電車|5820系]](シリーズ21):阪神乗り入れ対応、L/Cカー。 * [[近鉄8000系電車|8000系]] * [[近鉄8000系電車#8400系|8400系]]:3両編成は[[近鉄田原本線|田原本線]]ワンマン対応。 * [[近鉄8000系電車#8600系|8600系]]:8619Fのみ6両編成 * [[近鉄8000系電車#8800系|8800系]] * [[近鉄8810系電車|8810系]]:奈良線用は8814F - 8826Fが在籍 * [[近鉄9020系電車|9020系]](シリーズ21):阪神乗り入れ対応。 * [[近鉄8810系電車#9200系|9200系]]:奈良線用は9208Fが在籍 * [[近鉄9020系電車#9820系|9820系]](シリーズ21):阪神乗り入れ対応。 奈良・京都線系統の通勤車両は東花園・西大寺の各車庫に所属している。阪神乗り入れ対応車両には、先頭車両の車体前面および車体側面に直通対応車両であることを示すステッカーが貼りつけられている。なお、阪神乗り入れに対応していない車両も折り返しの関係で回送列車として阪神なんば線の桜川駅まで乗り入れる。 一部車両を除いて、新旧関係なく2両編成・4両編成・6両編成を組合わせて運用されているが、阪神乗入対応車両は2両編成と6両編成の組合せのみである。地下鉄烏丸線乗入対応車両は6両編成固定となっている。3両編成は2本を連結して6両編成として運用する場合もある。なお、2両編成を5本連結した10両編成も運転されることがある。 瓢箪山駅 - 生駒駅間などの連続急勾配区間に備え、奈良・京都線系統の通勤車両各形式(および後述の阪神1000系・阪神9000系)にも勾配抑速ブレーキが装備されている。抑速ブレーキの設定は72 km/h、60 km/h、53 km/hの3段階あり、車両数や乗客数、天候を考慮して切り替えて、速度を一定に保っている<ref>{{Cite web|和書|date=2009-09-05|url=http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200909050033.html|title=その道 千金の輝き 近鉄奈良線|publisher=[[朝日新聞]]|accessdate=2012-06-19}}</ref>。 <gallery> ファイル:Kintetsu Series 1020 Ikoma.jpg|1021系 ファイル:Kintetsu1026 hanshin.JPG|1026系 ファイル:Kintetsu1233Series01.jpg|1233系 ファイル:Kintetsu 1249F.jpg|1249系 ファイル:Kintetsu-Series1374.jpg|1252系 ファイル:Kintetsu 3200 series 3201F Nara Line local 2014-01-25.jpg|3200系 ファイル:Kintetsu-3220 001 JPN.JPG|3220系 ファイル:Kintetsu Series5800.jpg|5800系 ファイル:Kintetsu 5820 series at Tsuruhashi Station 2019-11-17 (49925087698).jpg|5820系 ファイル:Kintetsu 8000 Series - Flickr - Kentaro [email protected]|8000系 ファイル:Kintetsu 8400.jpg|8400系 ファイル:Kintetsu 8600 series 8618F Nara Line local 2014-01-25.jpg|8600系 ファイル:Series8800 FL02.jpg|8800系(右側) ファイル:近鉄9020系.jpg|9020系 ファイル:Kintetsu-9200 001 JPN.JPG|9200系 ファイル:Kintetsu 9820 series Nara Line rapid express 2014-01-25 (12365241974).jpg|9820系 </gallery> ==== 事業用車両 ==== [[ファイル:Kintetsu Moto75 Nara JPN 001.JPG|代替文=モト75|サムネイル|モト75]] * 電動貨車[[近鉄モト51形電車|モト75形]](モト77・78):集電方式が異なる[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]の車両([[近鉄7000系電車|7000系]]・[[近鉄7020系電車|7020系]])を要部検査・全般検査で[[五位堂検修車庫]]へ回送する際の牽引車両として使用。 === 導入予定車両 === * 形式未定:2022年5月14日に2024年秋の導入が発表された新型一般車両<ref>{{Cite press release|和書|title=2024年秋 新型一般車両を導入します|publisher=近畿日本鉄道|date=2022-05-17|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/sinngatasyaryou.pdf|format=PDF|access-date=2022-05-26}}</ref>。L/Cカー。これによって昭和40年代に製造した車両450両<!--(おそらく[[近鉄8000系電車|8000系]]及び[[近鉄8000系電車#8400系|8400系]])-->の置き換えが計画されている。 === 過去の車両 === * [[大阪電気軌道デボ1形電車|200系(初代、旧デボ1形)]]:開業時の車両 * [[近鉄400系電車|400系]] * [[近鉄600系電車 (初代)|600系(初代)]]:戦後の奈良線区用小型車両 * [[近鉄800系電車|800系]]:座席指定料金不要特急車 * [[近鉄820系電車|820系]]:田原本線などで運行後、狭軌化され[[伊賀鉄道伊賀線]](2007年9月30日までは近鉄伊賀線)にて860系として2012年まで運行 * [[近鉄900系電車|900系]]:奈良線区初の20m級・広幅大型車両 * [[近鉄1010系電車|920系]]:600系(初代)の機器流用車で、近鉄奈良駅 - 大和西大寺駅で使用された。現在は改造の上1010系として[[近鉄名古屋線|名古屋線]]所属 * [[大阪電気軌道デボ1000形電車|1000系(初代)]]:大阪線所属だが昭和20年代まで上本町駅 - 小阪駅での運用があった * [[近鉄1600系電車|1600系]]:モ1650形・近鉄奈良駅 - 大和西大寺駅で使用された * [[近鉄3000系電車|3000系]]:ステンレス車。大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅のみで使用。大和西大寺駅以西には滅多に乗り入れなかった * [[近鉄8810系電車#9000系|9000系]]:現在はすべて名古屋線所属 * 電動貨車モワ10形(モワ11・12):大阪線特急車[[近鉄2250系電車|2250系]]を改造。東大阪線(現在のけいはんな線)車両を要部検査・全般検査で五位堂検修車庫へ回送する際の牽引車両として使用していたが、1998年に廃車。西大寺車庫に常駐していたが、書類上は大阪線の所属となっていた。 <gallery> ファイル:Ikoma tunnel 1914.jpg|デボ1形 ファイル:Kintetsu 309 409 at Oji Sta.jpg|400系 ファイル:Kintetsu-801F.JPG|800系 ファイル:Kintetsu820.jpg|820系 ファイル:近鉄900系復刻塗装.JPG|900系 ファイル:近鉄1601.JPG|1600系 ファイル:Kintetsu-3000 001 JPN.JPG|3000系 </gallery> === 乗り入れ車両 === ==== 京都市営地下鉄 ==== *[[京都市交通局10系電車|10系]]:奈良線内においては、大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間の地下鉄烏丸線直通の急行運用のみ。 *[[京都市交通局20系電車|20系]]:2022年3月26日から運行開始、奈良線内においては、大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅間の地下鉄烏丸線直通の急行運用のみ。 <gallery> ファイル:Kyoto City 10.jpg|10系 ファイル:京都市営地下鉄20系KS31編成 急行 国際会館行.jpg|20系 </gallery> ==== 阪神電気鉄道 ==== 近鉄線以外にも[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]や[[山陽姫路駅]]方面にも運用しているため、3扉19m車を用いている。車両走行距離調整のため阪神なんば線へ直通しない近鉄線内完結列車にも使用されることがある<ref>岡田久雄『阪神電車』 JTBパブリッシング、2013年、p.190</ref>。阪神車両の夜間滞泊は東花園車庫内と西大寺車庫内で行われている。 * [[阪神9000系電車|9000系]] * [[阪神1000系電車|1000系]]<gallery> ファイル:Hanshin-Series1000-1606.jpg|1000系 ファイル:Hanshin-Series9000-9201.jpg|9000系 </gallery> == 歴史 == 前述したように、近畿日本鉄道の直系母体会社である'''[[大阪電気軌道]]'''(大軌)初の路線として建設された。 本線の開通前には生駒山系の北側を迂回するルートで[[片町線]](学研都市線)が、南側を迂回するルートで[[関西本線]]([[大和路線]])が既に開通していた。いずれも生駒山系を避け長大トンネルの建設から逃れる形であり、所要時間の点で不利であった。これらルート沿いの集落は当時まだ発展しておらず、競合路線を敷設しても十分な収益が上がる目処も立たなかった。そこで、大軌は生駒山を一直線に貫き、大阪と奈良を最短で直結するルートに賭けることとなった。当初はトンネル掘削の技術的困難さから[[ケーブルカー]]の使用まで検討されたとされるが、同社の設立に尽力した[[岩下清周]]の主張と[[大林組]]の技術によって、長さ3,338mの[[生駒トンネル]]を開削し、生駒山の登坂区間にできる急勾配を高出力の電車([[大阪電気軌道デボ1形電車|デボ1形]])で越えるという案が採択された。生駒トンネル開削には多額の資金を使い、最後は社長の岩下が私財をなげうって建設を続行させたという逸話も残っている。この日本初の標準軌複線トンネルは難工事を極め、それに伴う資金難から工事を請け負った大林組は存続の危機に瀕した<ref name="obayashi80yrs">{{Cite web|和書|title=第一節 生駒隧道工事 {{!}} 第五章 きびしい試練 {{!}} 第一編 創業と成長の時代 {{!}} 大林組八十年史|url=https://www.obayashi.co.jp/chronicle/80yrs/t1c5s1.html|website=www.obayashi.co.jp|accessdate=2021-02-07}}</ref>。 [[大阪市|大阪]]と[[奈良市|奈良]]の間をできるだけ直線ルートで結ぶことにしたため、開業当初は沿線人口が少なく、生駒山の[[宝山寺]]や奈良へ向かう観光客が主要な乗客であった。よって収入は天候に左右され、同社の社員は常に天気に気を使っていたといわれる。そのため、「大阪電気軌道」でなく「''大阪天気軌道''」だと揶揄されたこともあった。 === 輸送力増強の方策 === 旅客は1961年(昭和36年)当時、年間1億人を突破し、1日約30万人を輸送していた。沿線の開発や将来の難波延長によりますます旅客が増加することは明らかであった。当時奈良線では、朝夕のラッシュ時において、毎時特急、急行、準急列車各4本のほか、普通列車を合わせ計30本を運転していたが、各列車とも超満員で、最多客区間の乗車率は定員の230%に達していた。 輸送力増強の方策としては、15m級小型車両や18m級中型車両の編成長増強と、21m級大型車両の運行の2つの方法が検討された。1968年(昭和43年)度における輸送量を前提として、あらゆる経費を計算した結果、総建設費が大型車両案の方が増加するが、金利および償却費を含めた経費は大型車両案の方が有利であり、また生駒トンネルの補修費を考慮すると大型車両の方がはるかに有利であることが判明した。また、小・中型車両では輸送量の限度が1970年(昭和45年)ごろと早く到来すると予測されたのに対して、大型車両では1976 - 1977年(昭和51 - 52年)ごろと予測され、大阪近郊における複々線(現[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]])の建設時期を将来に繰り延べできる利点も有することが明らかとなった。そのほか、難波延長線(現[[近鉄難波線|難波線]])の建設時までに既設路線を改良しておけば、延長線の停車場の有効長を短縮でき余剰建設費の支出を避け得ること、将来電車線の電圧を600Vから1,500Vに昇圧すれば、[[近鉄大阪線|大阪線]]や[[近鉄名古屋線|名古屋線]]の車両との流用が可能となり、車両検修設備の統合ができることなど、合理化の面においても有利であった。 このため、開業時から使用していた小・中型車から車体規格を大きくすることにした。それに際して[[建築限界]]を拡大する必要から、[[生駒トンネル|新生駒トンネル]](長さ3,494m)を新たに開削している。 *当節の参考文献:{{Cite book | 和書 | title = 新生駒トンネル建設工事記録 付 奈良線改良工事概要 | year = 1966 | month = 9 | publisher = 近畿日本鉄道 }} === 年表 === * [[1914年]]([[大正]]3年) ** [[4月30日]]:大阪電気軌道により上本町駅 - 奈良駅(高天町の仮駅)間が開業<ref name="100ayumi_p60-61">『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、pp.60-61</ref>。途中に鶴橋駅・片江駅・深江駅・小阪駅・若江駅・瓢簞山駅・枚岡駅・石切駅・生駒駅・富雄駅・西大寺駅が開業。 ** [[7月8日]]:終点を高天町から東向中町の奈良駅まで延伸。奈良駅前駅開業<ref name="100ayumi_p60-61" />。 ** [[7月17日]]:日下駅開業。 * [[1915年]](大正4年)[[6月15日]]:花園駅開業。 * [[1920年]](大正9年)[[7月13日]]:額田駅開業。 * [[1921年]](大正10年)10月 - 1922年3月ごろ:日下駅を鷲尾駅に改称。 * [[1922年]](大正11年) ** 片江駅を今里片江駅に、奈良駅前駅を油阪駅に改称。 ** 3月:深江駅を足代駅に改称。 ** [[5月5日]]:奈良駅 - 上本町駅間を[[イギリス]]の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード王太子]]が乗車。 * [[1923年]](大正12年)[[9月9日]]:菖蒲池駅開業。 * [[1925年]](大正14年) ** 若江駅を若江岩田駅に改称。 ** 9月:足代駅を布施駅に改称。 * [[1928年]]([[昭和]]3年)8月:小阪駅を大軌小阪駅、生駒駅を大軌生駒駅、奈良駅を大軌奈良駅に改称<ref name="100ayumi_p680-681">『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、pp.680-681</ref>。 * [[1929年]](昭和4年) ** 今里片江駅を今里駅に改称。 ** [[11月22日]]:(臨)ラグビー運動場前駅開業。 * [[1932年]](昭和7年)12月:花園駅を大軌花園駅に、西大寺駅を大軌西大寺駅に改称<ref name="100ayumi_p680-681" />。 * [[1936年]](昭和11年) ** [[8月1日]]:(臨)人ノ道駅開業。 ** [[11月19日]]:八戸ノ里駅開業。 * [[1937年]](昭和12年)[[4月22日]]:(臨)人ノ道駅休止。 * [[1938年]](昭和13年)[[2月1日]]:大軌永和駅開業<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2363897/94}} 地方鉄道、軌道事業の現況並に異動]」『電気協会雑誌』第198号、日本電気協会、1938年6月、附録3頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(人ノ道駅の通年営業化)。 * [[1940年]](昭和15年)[[6月1日]]:鷲尾駅を孔舎衛坂駅に改称。 * [[1941年]](昭和16年) ** [[3月15日]]:大軌永和駅を河内永和駅に、大軌小阪駅を河内小阪駅に、大軌花園駅を河内花園駅に、大軌生駒駅を関急生駒駅に、大軌西大寺駅を大和西大寺駅に、大軌奈良駅を関急奈良駅に改称。 ** 9月:富雄駅を鵄邑駅に改称。 * [[1942年]](昭和17年) ** [[3月6日]]:学園前駅開業。 ** [[10月1日]]:全線を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に変更。 * [[1944年]](昭和19年) ** (臨)ラグビー運動場前駅休止。 ** 6月1日:関急生駒駅を近畿日本生駒駅に、関急奈良駅を近畿日本奈良駅に改称。 * [[1947年]](昭和22年)[[3月27日]]:大和西大寺駅 - 油阪駅間に(臨)キャンプ・カー駅開業。 * [[1948年]](昭和23年)[[3月31日]]:生駒トンネル内下り坂でブレーキ故障のため列車が暴走。河内花園駅で先行列車に追突。死者49人の大惨事となる([[近鉄奈良線列車暴走追突事故]]を参照)。 * [[1950年]](昭和25年)[[12月10日]]:(臨)ラグビー運動場前駅をラグビー場前駅として営業再開。 * [[1951年]](昭和26年)[[7月1日]]:(臨)キャンプ・カー駅廃止。 * [[1953年]](昭和28年)[[4月1日]]:鵄邑駅を富雄駅に改称。 * [[1956年]](昭和31年) ** [[12月8日]]:上本町駅 - 布施駅間が複々線化され、大阪線と分離される。 ** [[12月21日]]:特急(料金無料)運転開始、所要時間30分。停車駅:上本町・鶴橋・大和西大寺・近畿日本奈良 * [[1961年]](昭和36年)[[9月21日]]:上本町駅 - 瓢箪山駅間で大型車両運転開始。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[7月23日]]:生駒トンネルが新トンネルに切り替えられ、上本町駅 - 近畿日本生駒駅間で大型車両運転開始。石切駅 - 近畿日本生駒駅間の孔舎衛坂駅廃止。 ** 10月1日:新向谷トンネル完成により全線で大型車両運転開始。[[信貴生駒電鉄]]の近畿日本鉄道への合併により、近畿日本生駒駅を生駒駅に改称。 * [[1967年]](昭和42年) ** [[7月10日]]:ラグビー場前駅東方 - 瓢箪山駅西方間が高架化<ref name="100ayumi_p307">『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.307</ref>。 ** [[9月1日]]:ラグビー場前駅を東花園駅に改称。 ** [[9月29日]]:八戸ノ里車庫が東花園車庫へ移転。 ** [[12月3日]]:[[自動列車停止装置]] (ATS)使用開始<ref>{{Cite news |和書|title=関西五私鉄 保安度向上へ急ピッチ 各社がATS設置へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-02-21 |page=2 }}</ref>。 ** [[12月20日]]:東花園駅を常設駅に変更<ref name="100ayumi_p308">『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.308, p.681</ref>。 * [[1968年]](昭和43年)[[3月20日]]:東生駒駅開業。 * [[1969年]](昭和44年) ** 9月21日:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。 ** [[9月26日]]:八戸ノ里駅東方 - 若江岩田駅西方間の高架化完成<ref name="100ayumi_p307" />。 ** [[12月9日]]:[[併用軌道]]であった油阪駅 - 近畿日本奈良駅間が地下化。新大宮駅開業。油阪駅廃止。 * [[1970年]](昭和45年) ** [[3月1日]]: 近畿日本奈良駅を近鉄奈良駅に改称。 ** 3月15日:難波線開通により近鉄難波駅乗り入れ開始。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[8月2日]]:[[菖蒲池駅]]付近で難波行き普通電車の車内に置かれた時限式の爆破装置が爆発し、21人が重軽傷を負う事件が発生([[近鉄奈良線爆破事件]])。 ** [[11月7日]]:料金無料の特急を廃止し[[快速急行]]運転開始。 * [[1973年]](昭和48年)9月21日:近鉄難波駅 - 近鉄奈良駅間に有料特急運転開始。 * [[1977年]](昭和52年)[[6月26日]]:布施駅西方 - 八戸ノ里駅東方間の高架化完成。これにより、近鉄難波駅から八戸ノ里駅東方(大阪中央環状線)まで完全立体交差となる。 * [[1980年]](昭和55年)[[3月17日]]:大和西大寺駅 - 近鉄難波駅間で快速急行の一部と特急1本で関西私鉄初の10両編成運転を開始。 * [[1982年]](昭和57年)[[3月18日]]:近鉄奈良駅発の快速急行で10両運転を開始。ただし同駅ではホーム延長未実施のため、2両分[[ドアカット]]していた。 * [[1986年]](昭和61年)3月18日:急行の停車駅に石切駅を追加。<!-- [[生駒トンネル]]では1985年3月の陥没事故の補償のためとありますが。 ノートも参照。--> * [[1988年]](昭和63年)3月18日:近鉄奈良駅のホーム延長工事完成により、10両編成運転を本格実施。 * [[1992年]]([[平成]]4年)12月20日:[[列車運行管理システム]] (KOSMOS) 稼動開始。 * [[1997年]](平成9年) ** 3月18日:同日のダイヤ変更にて、平日深夜に近鉄難波発近鉄奈良行き特急2本(近鉄難波発22:20・23:20)を増発。その増発列車には阪奈特急としては初めて[[近鉄21000系電車|21000系]](アーバンライナー)を充当(名阪甲特急の折り返しを充当)。阪奈特急に限りデラックスシートはレギュラーシートと同じ取り扱い(特別車両料金は不要)とする。 ** 8月1日:L/Cカー([[近鉄5800系電車|5800系]])の営業運転開始。 * [[1998年]](平成10年)4月1日:ご乗降確認システム「フェアシステムK」稼働開始。 * [[1999年]](平成11年)[[3月16日]]:同日のダイヤ変更にて、平日日中の阪奈特急(上下12本)を廃止。 * [[2000年]](平成12年)3月15日:シリーズ21([[近鉄3220系電車|3220系]])営業運転開始。新大宮駅のホーム延伸工事(8両分→10両分)が完成し快速急行の停車駅に新大宮駅を追加。同時に準急の大半を大和西大寺駅発着に変更。 * [[2001年]](平成13年) ** 2月1日:各駅で[[スルッとKANSAI]]対応カードの取り扱い開始。これに伴い、上本町駅・布施駅・生駒駅・大和西大寺駅における「[[途中下車]]指定駅」の制度が廃止。 ** [[10月14日]]:各駅で[[Jスルーカード]]の取り扱い開始。 * [[2002年]](平成14年)3月20日:同日のダイヤ変更にて、平日夕方に近鉄難波発近鉄奈良行き特急2本(近鉄難波発17:35・18:35)を増発。 * [[2003年]](平成15年) ** [[2月23日]]:八戸ノ里駅 - 瓢箪山駅間連続立体交差化事業起工。 ** 3月6日:ダイヤ変更により、[[近鉄23000系電車|23000系]](伊勢志摩ライナー)を阪奈特急にも運用開始。 ** [[3月19日]]:平日朝方の近鉄難波駅行き快速急行に「女性専用車」を設定。 * [[2004年]](平成16年) ** 3月18日:夕方以降の運行体系の見直し(快速急行の約半数を急行に格下げ、準急の一部を削減、近鉄難波駅 - 東生駒駅間普通の一部を大和西大寺駅・近鉄奈良駅へ延長)。 ** [[6月6日]]:[[近鉄あやめ池遊園地|あやめ池遊園地]]が同日限りで営業終了。これに伴って土曜・休日ダイヤ施行日(冬季を除く)の日中に行われていた快速急行・急行の菖蒲池駅臨時停車も同日限りで(一旦)終了。 * [[2006年]](平成18年)[[3月21日]]:ダイヤ変更で、準急の停車駅に東花園駅を追加。また、日中に区間準急を新設。 * [[2007年]](平成19年)4月1日:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。 * [[2008年]](平成20年) ** 3月17日:ダイヤ変更で、阪奈特急を夜間に増発(平日:下り1本・上り3本、土休日:上り2本)。平日下りの増発列車は近鉄難波発23:35→近鉄奈良着0:10で、大晦日終夜運転を除いての「日またぎ運転の特急列車」が登場する。 ** [[5月20日]]:阪神なんば線開業を前に阪神電鉄の電車([[阪神1000系電車|1000系]])が東花園駅 - 大和西大寺駅間を試験走行。 ** [[6月14日]]:近鉄難波駅 - 布施駅間で車上速度パターン照査式ATS(ATS-SP)の運用開始。 ** 10月30・31日:[[上皇明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]の奈良視察に伴い、近鉄としては2002年5月以来となる[[お召し列車]]を京都駅 - 近鉄奈良駅間に運転(往路は30日、復路は31日)。往復ともに[[近鉄21020系電車|21020系]](アーバンライナーnext)が2003年3月の営業運転開始以来、お召し列車として初めて充当される。 * [[2009年]](平成21年) ** 3月1日:Jスルーカードの自動改札機・のりこし精算機での取り扱いを終了<ref name="kn081202">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/jcard20081202.pdf Jスルーカードの利用終了について]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2008年12月2日</ref>。 ** 3月20日:阪神なんば線が開業し同線と直通運転開始。近鉄難波駅を大阪難波駅、上本町駅を大阪上本町駅に改称。ダイヤ改正を実施し、平日夜間に近鉄奈良発大阪難波行特急1本を増発<ref name="090116-01">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/daiyakaisei20090116.pdf ダイヤ改正についてのお知らせ]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2009年1月16日</ref><ref name="090116-02">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/hanshinsotyoku20090116.pdf 3月20日(金・祝)、阪神なんば線の開通に伴い、阪神線と近鉄線との間で、相互直通運転を開始します]}} - 近畿日本鉄道・阪神電気鉄道プレスリリース 2009年1月16日</ref>。23000系(伊勢志摩ライナー)の阪奈特急運用を取りやめ一般特急車両に変更。 * [[2010年]](平成22年) ** [[4月6日]]:あやめ池遊園地跡地に移設した近畿大学の付属幼稚園・小学校への通園・通学を目的として、平日朝時間帯の下り快速急行1本が菖蒲池駅への臨時停車を開始(再開)する(ただし休校日は通過となる)。 ** [[5月30日]]:八戸ノ里駅 - 瓢箪山駅間下り線が高架化<ref name="kn100422">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/100422rennritunarasen.pdf 近鉄奈良線連続立体交差事業(八戸ノ里〜瓢箪山間)奈良行き(下り線)が、いよいよ5月30日初列車より高架に切り替え]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2010年4月22日</ref>。 * [[2011年]](平成23年)3月16日:ダイヤ変更で、平日夜間に大阪難波発近鉄奈良行特急1本を増発。その増発列車には阪奈特急としては初めて21020系(アーバンライナーnext)を充当(名阪甲特急の折り返しを充当)。また、この日よりデラックスシート料金(200円)の徴収を開始。 * [[2012年]](平成24年)3月21日:ダイヤ変更で、平日朝に大和西大寺発大阪難波行特急1本を増発。 * [[2013年]](平成25年)3月17日:ダイヤ変更で、23000系(伊勢志摩ライナー)の阪奈特急運用を再開。 * [[2014年]](平成26年) ** 4月30日:前身の大阪電気軌道の上本町 - 奈良間から開業100周年を迎える。これを記念して前日[[4月29日]]より5800系によるデボ1型復刻電車の運行など各種記念行事を実施<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hphyaku.pdf 平成26年4月30日、近鉄奈良線は開業100周年を迎えます]}} - 近畿日本鉄道、2014年3月17日</ref> ** 9月21日:八戸ノ里駅 - 瓢箪山駅間上り線の高架化が完成<ref name="kn140516" />。これに伴い東花園駅の営業キロが瓢箪山方に0.2km移動<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/teisei.pdf 近鉄奈良線連続立体交差事業(八戸ノ里〜瓢箪山間)の高架化に伴い9月21日(日)から一部区間で旅客運賃を変更します。]}} - 近畿日本鉄道、2014年5月16日</ref>。また、これにより大阪難波駅 - 瓢箪山駅間が完全立体交差化された。 ** 11月17日:天皇・皇后の奈良訪問([[全国豊かな海づくり大会]]臨席など)に伴うお召し列車を、近鉄奈良駅から京都駅へ運転(片道のみ。11月15日には京都駅から橿原神宮前駅へも運転)<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.nara.jp/secure/128732/h26houdousiryou.pdf 行幸啓について]}} - 奈良県ホームページ(2014年11月22日閲覧)。</ref>。 * [[2016年]](平成28年)3月19日:ダイヤ変更で、平日夜間帯に上り快速急行を1本増発。下り最終区間準急列車を大阪難波23:55発に繰り下げて行き先を近鉄奈良行きに変更し、大阪難波駅 - 鶴橋駅間から枚岡駅以東の終電を6分延長。 * [[2020年]]([[令和]]2年)3月14日:阪奈特急で[[近鉄80000系電車|80000系]](ひのとり)が営業運転を開始<ref>[https://railf.jp/news/2020/03/14/203500.html 近鉄80000系「ひのとり」が営業運転を開始] - 鉄道ファン(交友社)「railf.jp」鉄道ニュース、2020年3月14日</ref>。 * [[2029年]](令和11年):[[大阪モノレール]][[大阪モノレール本線|本線]]の延伸に合わせ、八戸ノ里駅 - 若江岩田駅間に瓜生堂駅(仮称)を設置予定<ref name="OMenshin">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/26207/00208638/2-1.pdf 大阪モノレールの延伸について]}} - 大阪府ホームページ、2016年1月、2016年10月3日閲覧</ref>。 == 今後の予定 == {{Main2|新駅計画については「[[#新駅設置計画]]」の節も}} === 夢洲直通特急構想 === {{Main|近鉄特急#Osaka Metro中央線への乗り入れ}} [[2025年]]に[[夢洲]]で開催が予定されている[[2025年日本国際博覧会|2025年大阪・関西万博]]にあわせて、[[架空電車線方式]]と[[第三軌条方式]]の両方の集電方式に対応した車両を開発し、近鉄奈良駅から当線、[[生駒駅]]手前より[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]に入り、[[Osaka Metro中央線]]経由で夢洲までの直通特急を走らせることを検討している<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20190119-V6F4J3INN5ISBDBG3QEPQPC5PA/|title=近鉄が「奈良-夢洲」 直通特急で 万博・IR見据え|accessdate=2019-01-21|newspaper=産経ニュース|publisher=産経新聞社|date=2019-01-19}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20190121175201/https://this.kiji.is/459181193936815201|title=大阪・夢洲―奈良の直通特急検討 近鉄、万博やカジノ見据え|newspaper=This Kiji |agency=共同通信 |publisher=ノアドット |accessdate=2019-01-21|date=2019-01-19}}</ref>。しかし、夢洲での[[統合型リゾート]] (IR) 施設の開業が遅れていることから、万博前の運行開始は見送る方向としている<ref>{{Cite news|title=近鉄 夢洲への直通列車 大阪万博前の開業見送り検討|newspaper=産経新聞|date=2021-03-22|url=https://www.sankei.com/article/20210322-SEOJFGQOF5LT3PWSB6FZYWNRRA/|accessdate=2021-03-28|publisher=産経新聞社}}</ref>。 === 平城宮跡付近の連続立体交差化 === [[国土交通省]]による[[平城宮|平城宮跡]]の整備事業計画に、宮跡内を横断している[[奈良県道104号谷田奈良線]]および近鉄奈良線の移設が盛り込まれている。これについて、近鉄と奈良県・奈良市は2020年7月16日、[[大和西大寺駅]] - [[近鉄奈良駅]]間4.4&nbsp;kmについて、[[開かずの踏切]]除却と平城宮跡の迂回を主たる目的とした[[連続立体交差事業]]に向けた協議に入ることで合意し<ref name="nikkei20200716">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61604630W0A710C2LKA000/|title=平城宮跡横断の近鉄奈良線、県・市と移設協議へ|newspaper=日本経済新聞|date=2020-07-16|accessdate=2020-07-17}}</ref>、2021年3月25日、近鉄奈良線の高架化、地下化を含めた移設で合意した<ref name="press20210325" />。 具体的には、大和西大寺駅を高架化した上で、そこから平城宮跡を避けるようにして[[大宮通り]]に線路を移設するというもので、宮跡南側は地上に線路を敷設、宮跡東側は地下化する<ref name="press20210325" />。2041年度着工、2060年度完成の予定で、総事業費は2000億円を見込み、うち高架区間の建設費の7%を近鉄が負担することが決定している。県は近鉄側に、既存の新大宮駅の移設とは別に、大和西大寺駅 - 新大宮駅間に「朱雀大路駅(仮称)」、新大宮駅 - 近鉄奈良駅間に「[[油阪駅]](仮称)」の新設を提案しているが、駅の新設については別途協議されることとなっていた<ref name="press20210325">{{Cite press release|和書|url=http://www.pref.nara.jp/secure/244372/hodouhappyou.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210325122624/http://www.pref.nara.jp/secure/244372/hodouhappyou.pdf|format=PDF|language=日本語|title=大和西大寺駅高架化・近鉄奈良線移設事業を記載した踏切道改良計画を策定しました|publisher=奈良県県土マネジメント部まちづくりプロジェクト推進課|date=2021-03-25|accessdate=2021-03-25|archivedate=2021-03-25}}</ref><ref name="nikkei20210325">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJB243HF0U1A320C2000000/|title= 平城宮跡貫く近鉄奈良線移設へ 2060年度完成目指す|newspaper=日本経済新聞|date=2021-03-25|accessdate=2021-03-25}}</ref>。 しかし、[[2023年]][[4月9日]]に行われた[[2023年奈良県知事選挙|奈良県知事選挙]]で当選した[[山下真]]知事は、「事業の必要性や費用対効果の検討が十分なされていない」として地下化、移設事業を凍結する方針を表明した<ref name="nara20230510">{{Cite news|url=https://www.nara-np.co.jp/news/20230510214432.html|title=奈良県予算一部執行停止 市町村、対話求める声|newspaper=奈良新聞|date=2023-05-10|accessdate=2023-05-29}}</ref><ref name="kyodo20230510">{{Cite news|url=https://www.47news.jp/9277709.html|title=荒井県政の事業凍結表明 維新・山下奈良新知事|newspaper=47NEWS|publisher=共同通信社|date=2023-05-03|accessdate=2023-05-29}}</ref>。これにより一連の議論は白紙に戻る事になる。 == 駅一覧 == <!-- 運行形態(運転区間・時間帯)などの詳細は「運行形態」節に記述してください --> ; 凡例 : ●:停車、|:通過、▲:高校ラグビー開催時臨時停車、※:[[近畿大学附属小学校|近畿大学附属小学校・幼稚園]]平日の開校日に下りのみ臨時停車 : 普通列車は各駅に停車するため省略。 : 特急列車については[[近鉄特急|特急列車記事]]を参照のこと。 : <nowiki>#</nowiki>印の駅は[[待避駅|列車待避]]可能駅 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|{{縦書き|路線名|height=5em}} !style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|駅番号 !style="width:8em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|駅間<br />キロ !style="width:3em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|布施<br /><small>からの</small><br />営業<br />キロ !style="width:1em; background:#cfc; border-bottom:solid 3px #d21644;"|{{縦書き|区間準急|height=5em}} !style="width:1em; background:#cf9; border-bottom:solid 3px #d21644;"|{{縦書き|準急|height=5em}} !style="width:1em; background:#fc9; border-bottom:solid 3px #d21644;"|{{縦書き|急行|height=5em}} !style="width:1em; background:#f96; border-bottom:solid 3px #d21644;"|{{縦書き|快速急行|height=5em}} !style="border-bottom:solid 3px #d21644;"|接続路線 !colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #d21644;"|所在地 |- |rowspan="3" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[近鉄難波線|難波線]]|height=5em}} !A01 |[[大阪難波駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|6.1 |style="text-align:center; background:#cfc"|● |style="text-align:center; background:#cf9"|● |style="text-align:center; background:#fc9"|● |style="text-align:center; background:#f96"|● |[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神なんば線]](HS41[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神本線]][[三宮駅|神戸三宮駅]]まで直通運転)<br>[[大阪市高速電気軌道]]:[[ファイル:Osaka Metro Midosuji line symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] (M20)・[[ファイル:Osaka Metro Yotsubashi line symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]] (Y15)・[[ファイル:Osaka Metro Sennichimae line symbol.svg|15px|S]] [[Osaka Metro千日前線|千日前線]] (S16)…[[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]]<br>[[南海電気鉄道]]:[[ファイル:Nankai mainline simbole.svg|15px|■]] [[南海本線]]・[[ファイル:Nankai koya line simbole.svg|15px|■]] [[南海高野線|高野線]] (NK01)…[[難波駅 (南海)|難波駅]]<br>[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|Q}} [[関西本線]]([[大和路線]])(JR-Q17)…[[JR難波駅]] |rowspan="18" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪府]]|height=6em}} |rowspan="6" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[大阪市]]}} |rowspan="2"|[[中央区 (大阪市)|中央区]] |- !A02 |[[近鉄日本橋駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|5.3 |style="text-align:center; background:#cfc"|● |style="text-align:center; background:#cf9"|● |style="text-align:center; background:#fc9"|● |style="text-align:center; background:#f96"|● |大阪市高速電気軌道:[[ファイル:Osaka Metro Sakaisuji line symbol.svg|15px|K]] [[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]] (K17)・[[ファイル:Osaka Metro Sennichimae line symbol.svg|15px|S]] 千日前線 (S17)…[[日本橋駅 (大阪府)|日本橋駅]] |-style="height:2em;" !rowspan="2"|A03 |rowspan="2"|[[大阪上本町駅]]<br /><small>(近鉄百貨店前)</small> |rowspan="2" style="text-align:right;"|1.2 |rowspan="2" style="text-align:right;"|4.1 |rowspan="2" style="text-align:center; background:#cfc"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:#cf9"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:#fc9"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:#f96"|● |rowspan="2"|大阪市高速電気軌道:[[ファイル:Osaka Metro Tanimachi line symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]] (T25)・[[ファイル:Osaka Metro Sennichimae line symbol.svg|15px|S]] 千日前線 (S18)…谷町九丁目駅 |rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[天王寺区]] |- |rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|大阪線|height=4em}} |- !A04 |[[鶴橋駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:center; background:#cfc"|● |style="text-align:center; background:#cf9"|● |style="text-align:center; background:#fc9"|● |style="text-align:center; background:#f96"|● |西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]](JR-O04)<br />大阪市高速電気軌道:[[ファイル:Osaka Metro Sennichimae line symbol.svg|15px|S]] 千日前線 (S19) |rowspan="2"|[[生野区]] |- !A05 |[[今里駅 (近鉄)|今里駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |-style="height:1em;" !rowspan="2"|A06 |rowspan="2"|[[布施駅]]# |rowspan="2" style="text-align:right;"|1.3 |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2" style="text-align:center; background:#cfc;"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:#cf9;"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:#fc9;"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:#f96;"|| |rowspan="2"|[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]] (D06) |rowspan="12" colspan="2"|[[東大阪市]] |- |rowspan="19" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|'''奈良線'''|height=6em}} |- !A07 |[[河内永和駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|F}} [[おおさか東線]](JR-F10)…[[JR河内永和駅]]{{Refnest|group="注釈"|name="transfer"|連絡運輸は行っていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/guide/assets/pdf/stipulation/2021/covenant_unyu.pdf |title=旅客連絡運輸規則 |format=PDF |pages=14-16 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2021 |accessdate=2021-11-02}}</ref>。}} |- !A08 |[[河内小阪駅]]<br /><small>(大阪商業大学・<br />大阪樟蔭女子大学前)</small> |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !A09 |[[八戸ノ里駅]]# |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !A10 |[[若江岩田駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !A11 |[[河内花園駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|5.0 |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !A12 |[[東花園駅]]#<br /><small>(花園ラグビー場前)</small> |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|5.8 |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|▲ |style="text-align:center; background:#f96;"|▲ |&nbsp; |- !A13 |[[瓢箪山駅 (大阪府)|瓢箪山駅]]# |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|7.0 |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !A14 |[[枚岡駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|8.3 |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !A15 |[[額田駅 (大阪府)|額田駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|9.0 |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !A16 |[[石切駅]]# |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|10.1 |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !A17 |[[生駒駅]] |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|14.2 |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|C}} [[近鉄けいはんな線|けいはんな線]] (C27)・{{近鉄駅番号|G}} [[近鉄生駒線|生駒線]] (G17)・{{近鉄駅番号|Y}} [[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]] (Y17)…[[鳥居前駅]] |rowspan="8" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[奈良県]]|height=6em}} |rowspan="2" colspan="2"|[[生駒市]] |- !A18 |[[東生駒駅]]#<br /><small>(帝塚山大学前)</small> |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|15.4 |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !A19 |[[富雄駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|17.7 |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |rowspan="6" colspan="2"|[[奈良市]] |- !A20 |[[学園前駅 (奈良県)|学園前駅]]<br /><small>(帝塚山学園前)</small> |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|19.1 |style="text-align:center;background:#cfc"|● |style="text-align:center;background:#cf9"|● |style="text-align:center;background:#fc9"|● |style="text-align:center;background:#f96"|● |&nbsp; |- !A21 |[[菖蒲池駅]]<br /><small>(近畿大学付属小学校・幼稚園前)</small> |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|20.1 |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|※ |&nbsp; |- !A26 |[[大和西大寺駅]]# |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|22.3 |style="text-align:center; background:#cfc"|● |style="text-align:center; background:#cf9"|● |style="text-align:center; background:#fc9"|● |style="text-align:center; background:#f96"|● |近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]](近鉄奈良方面から[[京都駅]]及び [[ファイル:Subway KyotoKarasuma.svg|15px|K]] [[京都市営地下鉄]][[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]][[国際会館駅]]まで直通運転)・{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄橿原線|橿原線]] (B26)(天理教祭事時に大阪難波方面から臨時急行が{{近鉄駅番号|H}} [[近鉄天理線|天理線]][[天理駅]]まで直通運転) |- !A27 |[[新大宮駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|25.0 |style="text-align:center; background:#cfc"|● |style="text-align:center; background:#cf9"|● |style="text-align:center; background:#fc9"|● |style="text-align:center; background:#f96"|● |&nbsp; |- !A28 |[[近鉄奈良駅]]<br /><small>(奈良公園前)</small> |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|26.7 |style="text-align:center; background:#cfc"|● |style="text-align:center; background:#cf9"|● |style="text-align:center; background:#fc9"|● |style="text-align:center; background:#f96"|● |&nbsp; |- |} === 新駅設置計画 === {{See also|#平城宮跡付近の連続立体交差化}} 2029年に予定されている[[大阪モノレール]][[大阪モノレール本線|本線]]の[[門真市駅]]以南から近鉄奈良線交差地点までの延伸に合わせ、近鉄奈良線にも「[[瓜生堂駅]](仮称)」が設置される予定である<ref name="OMenshin"/>。 2010年に[[平城宮|平城宮跡]]で開催される[[平城遷都1300年記念事業]]のイベント期間中に大和西大寺駅 - 新大宮駅間に臨時駅を設置することが検討されていたが、イベント規模縮小化への方針などにより臨時駅設置は行なわれなかった。 === 経路変更区間 === ; 生駒トンネル前後区間 :石切駅 - [[孔舎衛坂駅]] - 近畿日本生駒駅(1964年7月23日に新生駒トンネル開削で廃線) ::近鉄奈良線の車両大型化工事の一環として実施されたもの。孔舎衛坂駅は(旧)生駒トンネルの大阪側坑口に隣接して存在し、現在もホームが残されている。また、同線の石切駅はもともと200m大阪よりにあったが、新トンネル開削に伴い孔舎衛坂駅の代替も兼ね、現在地へ移転した。 : ; 向谷トンネル前後区間 :近畿日本生駒駅 - 富雄駅(1964年10月1日、新向谷トンネル開削で廃線) ::同上。なお現在同区間に存在する東生駒駅は、車両大型化に伴い生駒駅での区間列車折り返しが容量不足で不可能になってきたため、代わりの駅として1968年に開設されたものである。 : ; 奈良市内併用軌道区間 :大和西大寺駅 - [[キャンプ・カー駅]](終戦直後の一時期に設置された臨時駅) - (新大宮駅) - [[油阪駅]] - 近畿日本奈良駅(1969年12月9日に地下化) ::新大宮駅は近畿日本奈良駅地下化時に新設。大和西大寺駅 - 新大宮駅間は現存。 == 乗降客数 == * 出典:<ref>[http://www.kintetsu.jp/kouhou/corporation/koutsu/a.html 駅別乗降人員 難波線 大阪線] - 近畿日本鉄道</ref><ref>[http://www.kintetsu.jp/kouhou/corporation/koutsu/c.html 駅別乗降人員 奈良線] - 近畿日本鉄道</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/koutsu.html |title=近畿日本鉄道|駅別乗降人員 |accessdate=2013-11-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/koutsu.html |title=近畿日本鉄道|駅別乗降人員 |accessdate=2023-07-28}}</ref> {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 2px #d21644;"|{{縦書き|路線名}} !rowspan="2" style="width:10em; border-bottom:solid 2px #d21644;"|駅名 !colspan="4" style="width:15em;"|乗降客数(人) !rowspan="2" style="width:12em; border-bottom:solid 2px #d21644;"|備考 |- !style="width:5em; border-bottom:solid 2px #d21644;"|[[2022年]]<br />[[11月8日]] !style="width:5em; border-bottom:solid 2px #d21644;"|[[2012年]]<br />[[11月13日]] !style="width:5em; border-bottom:solid 2px #d21644;"|[[2010年]]<br />[[11月9日]] !style="width:5em; border-bottom:solid 2px #d21644;"|[[2008年]]<br />[[11月18日]] |- |rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[近鉄難波線|難波線]]|height=4em}} |大阪難波駅 |style="text-align:right;"|108,368 |style="text-align:right;"|133,858 |style="text-align:right;"|140,328 |style="text-align:right;"|152,937 |&nbsp; |- |近鉄日本橋駅 |style="text-align:right;"|40,775 |style="text-align:right;"|45,920 |style="text-align:right;"|48,843 |style="text-align:right;"|50,900 |&nbsp; |-style="height:1em;" |rowspan="2"|大阪上本町駅 |rowspan="2" style="text-align:right;"|63,121 |rowspan="2" style="text-align:right;"|76,230 |rowspan="2" style="text-align:right;"|80,613 |rowspan="2" style="text-align:right;"|78,267 |rowspan="2"|[[近鉄大阪線|大阪線]]含む |- |rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|大阪線|height=4em}} |- |鶴橋駅 |style="text-align:right;"|135,330 |style="text-align:right;"|153,580 |style="text-align:right;"|155,242 |style="text-align:right;"|173,523 |大阪線含む |- |今里駅 |style="text-align:right;"|10,007 |style="text-align:right;"|10,047 |style="text-align:right;"|10,405 |&nbsp; |大阪線含む |-style="height:1em;" |rowspan="2"|布施駅 |rowspan="2" style="text-align:right;"|34,546 |rowspan="2" style="text-align:right;"|38,072 |rowspan="2" style="text-align:right;"|39,448 |rowspan="2" style="text-align:right;"|41,876 |rowspan="2"|大阪線含む |- |rowspan="19" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|'''奈良線'''|height=6em}} |- |河内永和駅 |style="text-align:right;"|12,540 |style="text-align:right;"|10,667 |style="text-align:right;"|10,468 |&nbsp; |&nbsp; |- |河内小阪駅 |style="text-align:right;"|22,164 |style="text-align:right;"|27,357 |style="text-align:right;"|28,693 |style="text-align:right;"|30,584 |&nbsp; |- |八戸ノ里駅 |style="text-align:right;"|25,064 |style="text-align:right;"|24,708 |style="text-align:right;"|23,837 |&nbsp; |&nbsp; |- |若江岩田駅 |style="text-align:right;"|14,093 |style="text-align:right;"|15,084 |style="text-align:right;"|15,089 |&nbsp; |&nbsp; |- |河内花園駅 |style="text-align:right;"|10,328 |style="text-align:right;"|11,553 |style="text-align:right;"|12,088 |&nbsp; |&nbsp; |- |東花園駅 |style="text-align:right;"|17,520 |style="text-align:right;"|16,588 |style="text-align:right;"|16,057 |style="text-align:right;"|16,084 |&nbsp; |- |瓢箪山駅 |style="text-align:right;"|18,398 |style="text-align:right;"|22,725 |style="text-align:right;"|24,137 |&nbsp; |&nbsp; |- |枚岡駅 |style="text-align:right;"|4,149 |style="text-align:right;"|5,071 |style="text-align:right;"|5,029 |&nbsp; |&nbsp; |- |額田駅 |style="text-align:right;"|3,112 |style="text-align:right;"|3,612 |style="text-align:right;"|3,701 |&nbsp; |&nbsp; |- |石切駅 |style="text-align:right;"|7,609 |style="text-align:right;"|9,066 |style="text-align:right;"|9,385 |style="text-align:right;"|10,942 |&nbsp; |- |生駒駅 |style="text-align:right;"|42,661 |style="text-align:right;"|47,700 |style="text-align:right;"|48,220 |style="text-align:right;"|49,856 |[[近鉄生駒線|生駒線]]・[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]含む |- |東生駒駅 |style="text-align:right;"|15,381 |style="text-align:right;"|18,135 |style="text-align:right;"|18,948 |&nbsp; |&nbsp; |- |富雄駅 |style="text-align:right;"|24,863 |style="text-align:right;"|28,456 |style="text-align:right;"|29,120 |&nbsp; |&nbsp; |- |学園前駅 |style="text-align:right;"|44,017 |style="text-align:right;"|56,257 |style="text-align:right;"|57,064 |style="text-align:right;"|58,424 |&nbsp; |- |菖蒲池駅 |style="text-align:right;"|10,997 |style="text-align:right;"|12,150 |style="text-align:right;"|11,860 |&nbsp; |&nbsp; |- |大和西大寺駅 |style="text-align:right;"|42,850 |style="text-align:right;"|46,345 |style="text-align:right;"|48,660 |style="text-align:right;"|49,450 |京都線・橿原線含む |- |新大宮駅 |style="text-align:right;"|25,098 |style="text-align:right;"|28,670 |style="text-align:right;"|29,322 |style="text-align:right;"|28,866 |&nbsp; |- |近鉄奈良駅 |style="text-align:right;"|49,225 |style="text-align:right;"|51,147 |style="text-align:right;"|67,761 |style="text-align:right;"|57,549 |&nbsp; |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book | 和書 | title = まるごと近鉄ぶらり沿線の旅 | author=徳田耕一(編著)|authorlink=徳田耕一| publisher = [[河出書房新社]] | year = 2005 | isbn = 4-309-22439-3 }} *{{Cite book | 和書 | series = [[カラーブックス]] | title = 日本の私鉄 近鉄1 | author = 諸河久・杉谷広規(編著) | publisher = [[保育社]] | year = 1998 | isbn = 4-586-50904-X }} *{{Cite book | 和書 | series = カラーブックス | title = 日本の私鉄 近鉄2 | author = 諸河久・山辺誠(編著) | publisher = 保育社 | year = 1998 | isbn = 4-586-50905-8 }} *{{cite journal | 和書 | journal = 近鉄時刻表 | volume = 各号 | author = [[近畿日本鉄道]](編著) | publisher = 近畿日本鉄道 }} *{{cite journal | 和書 | journal = [[鉄道ピクトリアル]] | year = 2003 | month = 1 | volume = 増刊 | title = 特集:近畿日本鉄道 | editor = [[電気車研究会]] }} *{{cite journal | 和書 | journal = [[鉄道ダイヤ情報]] | year = 2009 | month = 4 }} *{{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 8 関西1 | year = 2008 | isbn = 978-4-10-790026-5 | ref = imao }} == 関連項目 == {{Commonscat}} *[[近畿日本鉄道]] *[[日本の鉄道路線一覧]] *[[近鉄特急史]] *[[東大阪電気鉄道]](森ノ宮 - 逢坂 - 奈良間の[[未成線]]) *[[大阪電気軌道四条畷線]](桜ノ宮 - 蒲生 - 住道 - 額田間の未成線) *[[Train Drive ATS]](本路線を再現したiOSの運転シミュレーションゲーム) {{近畿日本鉄道の路線}} {{DEFAULTSORT:きんてつならせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|ならせん]] [[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|なら]] [[Category:関西急行鉄道|路]] [[Category:大阪電気軌道|路]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:奈良県の交通]]
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近鉄南大阪線
南大阪線(みなみおおさかせん)は、大阪府大阪市阿倍野区の大阪阿部野橋駅から奈良県橿原市の橿原神宮前駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。 駅ナンバリング等に使われる路線記号はF。ラインカラーは緑である。 キタ・ミナミに次ぐ大阪第3の繁華街である天王寺・阿倍野から大阪府南東部(南河内地域)の通勤通学および橿原・飛鳥・吉野方面への観光の足となっている。起点の大阪阿部野橋駅は超高層ビル「あべのハルカス」と直結しており、隣接する天王寺駅と乗り換えが可能である。藤井寺駅 - 古市駅間は数多くの古墳を避けながら通る。終点の橿原神宮前駅からは特急等が吉野線に乗り入れ吉野駅まで直通運転を行っている。 近鉄の前身大阪電気軌道(大軌)が敷設した近鉄線の大部分(1,435 mmの標準軌)とは異なり、南大阪線系(南大阪線、道明寺線、長野線、御所線、吉野線)では1,067 mmの狭軌が採用されている。道明寺線・長野線を敷設したのは河陽鉄道、南大阪線を敷設したのは河陽鉄道を継承した大阪鉄道(大鉄、もとは河南鉄道)であり、その当初の目的は道明寺線柏原駅において接続する同じく1,067 mm軌間の関西本線と連携して貨物輸送を行うことであったためである。 また、当線は前述のように古墳や山岳地帯を避ける形で敷設されたためカーブが多く、また建設費の都合で規格が低く抑えられたため、最高速度は大阪線の130 km/hよりも低い110 km/hに抑えられている。 大阪市内の大阪阿部野橋駅 - 河内天美駅間は高架となっているが、このうち河堀口駅 - 矢田駅間に関しては、高架化の際に仮線を設けず地上にある在来線の真上にそのまま高架線を建設する「直上高架方式」で施工された。阪神高速6号大和川線の建設時に以前は盛り土区間だった区画を立体交差化した(大和川線の道路はその区画が掘割構造になっている)。 ICカードPiTaPa・ICOCA・Suicaなど全国相互利用の乗車カードが使用できる。また、以前はスルッとKANSAI対応カードおよびJスルーカードにも対応していた。 全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。 大阪阿部野橋駅から藤井寺駅付近までは住宅街や学校など多くの建物が立ち並ぶ間を抜けるように走る。道明寺駅あたりから畑が目立ち始め、古市駅から先は一気にのどかな田園風景へと変わる。 高見ノ里駅以東は竹内街道や長尾街道と並行しているために沿線には史跡や古墳等の歴史的建造物が多い。また奈良県内では二上山や葛城山の山なみと並行するため、季節によって美しく様変わりする山肌を楽しむこともでき、花や紅葉の見ごろになると急行の臨時停車を実施する駅も少なくない。上ノ太子駅周辺ではブドウやミカンの栽培が盛んで、車窓から果樹園が見られる。 以下に示す記述はすべて大阪阿部野橋→橿原神宮前方向における記述であり、逆方向に関しては順序が逆で、その風景が見える方向も左右逆となる。 起点である大阪阿部野橋駅は、キタ、ミナミに並ぶ大阪有数の繁華街、阿倍野に置かれている阿部野橋ターミナルビル(あべのハルカス)に内包されている。大阪阿部野橋を出てすぐ、線路は高架に上がる。右へカーブしつつJR阪和線を跨ぐと間もなく河堀口駅。河堀口から線路はさらに右へカーブし、東住吉区へ移って北田辺駅、今川駅へと続く。今川を出てしばらくすると阪神高速14号松原線の高々架をくぐるが、その高々架の直下には地下鉄谷町線の駒川中野駅がある。南大阪線はさらに東住吉区内の住宅街を高架で進んで針中野駅、右手に長居公園や大阪芸術大学短期大学部大阪キャンパスを見ながら矢田駅と進む。矢田を出ると次第に密集していた住宅は間が開き始め、線路は大和川を渡る。大和川の手前に見える堤防沿いの細長い工事中の土地は、JRの阪和貨物線の廃線跡である。 大和川より南は松原市となり、左手に阪南大学のキャンパスを眺めつつ、線路は高架から下りて地上に移り、古市検車区天美車庫を設置している河内天美駅に至る。線路は次の布忍駅を出てすぐ左へ急カーブを曲がる。そこからは右手に大阪府道12号堺大和高田線を眺めて走り、府道12号は次第に迫ってきて高見ノ里駅。さらに進むと松原市街地へ入っていき、河内松原駅に至る。河内松原駅は大阪阿部野橋から最初の準急停車駅であり、最初の緩急接続可能駅でもある。さらに美原、堺方面へのバスも発着しており、終日賑わいを見せる。 河内松原を出ると線路は阪和自動車道をくぐって羽曳野市に入り、府道12号をくぐって住宅地を走り恵我ノ荘駅に至り、その後ゆるやかに左へカーブし高鷲駅に達する。高鷲を出てまもなく線路は藤井寺市に入り、右手に四天王寺大学のキャンパスが見えれば間もなく藤井寺駅である。四天王寺学園小学校が建っている所には2005年1月まで藤井寺球場があり、現在はオリックスと合併した近鉄バファローズの本拠地として栄えていた。 藤井寺駅にはここから旧中央環状線を通って近鉄八尾駅方面に向かう便と、羽曳ヶ丘方面へ向かう便の、大まかに2種のバスが発着しており、交通の要衝となっている。また、藤井寺駅では大阪阿部野橋からの普通列車の大半が折り返すため、1本の引き上げ線があるものの、駅の東方が線路のぎりぎりまで建物がせり出している事情から引き上げ線は大阪阿部野橋方にある。そのため当駅折り返しの普通列車は到着後3回も折り返し作業をしなければならず、入出庫のつど藤井寺駅すぐ西側の踏切を通らねばならないために、この踏切は日中でも遮断機が長い時間にわたり開かない「開かずの踏切」となっている。 藤井寺を出てしばらくは藤井寺市内の住宅街を走るが、西名阪自動車道をくぐると前方にある仲ツ山古墳を回り込むために左へ大きくカーブを切る。右へ曲がり旧国道170号をくぐるあたりで土師ノ里駅に着く。土師ノ里を出るとほどなく南大阪線最大の急カーブに至り、特急などの優等列車もここでは45km/hに速度を落として走行する。左手より道明寺線が合流して道明寺駅に至る。もともとは道明寺線の方が先に完成し南北に走る線路として開通していたため、後付けとなった南大阪線の方が急カーブを描く格好になっている。 道明寺を出ると線路は再び羽曳野市に入り、西名阪自動車道をもう一度くぐる。西名阪のガードを抜けると風景は住宅地から一変して無花果などの畑が広がる。畑地帯を抜けると次第に羽曳野の市街地に移り、古市検車区を構える古市駅に至る。この駅では長野線と分かれるほか、この駅より先は長野線の富田林駅までと特急停車駅を除いて8両編成の電車は停車できなくなるため、車両の連結や切り離しが頻繁に行われる。 本線と支線の分岐駅では、本線がまっすぐに進み、支線が分かれていくのが通例だが、古市駅においては支線の長野線がまっすぐ南下して、南大阪線の方が左へカーブする。これは先述した道明寺駅の場合と事情は全く同じで、先に柏原駅 - 道明寺駅 - 古市駅 - 河内長野駅間のルートが開通し、後から南大阪線の線路が開通していったためである。 長野線と分かれると左手には古市の住宅地が、右手には台地の崖が連なる。ほどなく線路は石川を渡るが、石川を境に風景は一気に変わる。田園が広がる中に工業団地と住宅が点在するのが見え、線路はゆるやかに右へカーブし、駒ヶ谷駅に至る。この駅の左手には梅酒メーカーのチョーヤ梅酒本社がある。駒ヶ谷の住宅地を抜けると周辺は広大なブドウ畑や水田などが広がり、左手を国道166号(竹内街道)が並行する。右手に南阪奈道路が近づいてくると上ノ太子駅である。この駅は鉄道駅が存在しない太子町の玄関口の役割をなし、当駅から太子町の市街地、住宅地へ向かうバスが発着している。 上ノ太子を出てほどなく線路は国道166号(竹内街道)と踏切で交差し、山裾を縫うように蛇行して走り、4km以上に亘る33.3‰の連続上り勾配にかかる。蛇行のために南阪奈道路を2度アンダーパスし、線路は羽曳野市から太子町に入る(しかし先述した通り太子町内には駅がなく、あくまでも南大阪線は太子町を通過するのみである)。そこからしばらくは右手を奈良県道・大阪府道703号香芝太子線が並行する状況が続くが、この道路は途中で線路を跨いで左手側に移る。この線路を跨ぐ場所が穴虫峠であり、大阪府と奈良県の府県境にあたる。山岳を貫くトンネルを通らずに大阪府と奈良県の府県境を越えるのも、この路線の特徴の一つである。 奈良県香芝市に入ると左手に見える県道703号は国道165号と合流し、大和高田バイパス(国道165号バイパス)と側道(従来の国道165号)に分かれ、南大阪線はバイパスを潜り、国道165号と並行する。ここから先はしばらく二上山の裾を沿うように走るため、右手方向には二上山のフタコブラクダ状の稜線が美しく見える。この間に二上山駅、二上神社口駅、当麻寺駅を通り、線路は葛城市に移る。この区間の山以外の風景においては、駅の前後に住宅が密集しているほかは、広大な田畑が広がりのどかである。 なお、二上山のふもとは當麻寺(当麻寺)をはじめ牡丹の名所となっている地が多くあり、二上神社口と当麻寺の両駅は牡丹の見ごろになると一部の急行が臨時停車する。 当麻寺駅から磐城駅にかけてはほぼ直線に進み、磐城駅を過ぎると再び国道166号と踏切で交差して、ゆるやかに左へカーブする。このあたりから住宅の数が増えてきて、ほどなく尺土駅に至る。尺土駅は御所線との分岐駅であるとともに緩急接続可能駅であり、さらに大阪阿部野橋から最初の特急全列車停車駅でもあるため、終日にわたり準急(この区間は各駅停車)・普通と急行・特急との接続が行われている。 尺土駅を出て御所線が右へ分かれると、再び田園風景が広がり大和高田市に入る。田園風景はつかの間で急速に建物の数が増え、高田の市街地に移っていく。次第に線路は高架を上り、高田市駅に至る。高田市駅は南大阪線における大和高田市の中心駅であるが、大阪線の大和高田駅、JRの高田駅には広大な駅前広場があるのに対し、高田市駅前は2車線(片側1車線)の国道166号(バイパス)にバス乗り場を兼ねたロータリーが申し訳程度に設置されているのみで、線路、道路のぎりぎりまで所狭しと建物が密集している。 高田市を出ると線路はゆるやかに右へカーブを切り、JR和歌山線を跨いでほどなく高架から地上区間に下りる。しばらくは住宅地を進むが、徐々に住宅の間隔が空き畑が目立つようになると今度はゆるやかに左へカーブし、浮孔駅に至る。そこから少し進むと国道24号大和高田バイパスを潜り、橿原市に入る。そして、京奈和自動車道橿原高田インターチェンジ高架下を潜り通り、水田地帯を抜け住宅地が迫ると坊城駅となり、さらに線路は南東へ直進する。坊城の住宅地を抜けると再び広い田園地帯に入り、左手には大和三山の一つ畝傍山と橿原神宮を包む森林が見えてきて、畝傍山の裾に入ると橿原神宮西口駅に至る。線路は左手に橿原神宮の森林、右手に奈良芸術短期大学などの学校群や住宅街を眺め、大きく右へカーブして橿原線との接続駅である橿原神宮前駅に達する。南大阪線としてはこの駅が終点であり、この駅で折り返す列車も多くあるが、線路はこの先も続いて吉野線となっており、急行・特急は大半が吉野線に直通して吉野駅まで運転される。 大阪阿部野橋駅から長野線・吉野線と直通運転を行っている。御所線とも古市駅折り返しおよび大阪阿部野橋行きのみだが直通運転がある。大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間には急行などのほか、「さくらライナー」や観光特急「青の交響曲」などの特急が運転されている。ダイヤは基本的に大阪阿部野橋発時刻はわかりやすく、できるだけ等間隔にそろえられている。 日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。1時間当たり特急1本が吉野線に、準急4本が長野線に乗り入れる。 2021年7月3日変更の現行ダイヤでは日中を除く時間帯を中心に運転されている。基本的には吉野線に直通し、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で1時間に2本運転されている。南大阪線内は古市駅を含む特急停車駅に停車し、吉野線内は各駅に停車する。したがって南大阪線における長距離の料金不要速達種別であるうえ、事実上の吉野線の各駅停車でもある。春の土休日には当麻寺駅・二上神社口駅に、秋の土休日には上ノ太子駅に臨時停車する列車がある。 長野線直通は(長野線内は各駅に停車)平日の朝ラッシュ時には河内長野発大阪阿部野橋行きと大阪阿部野橋発富田林行きが、夕ラッシュ時には富田林発大阪阿部野橋行きと大阪阿部野橋発河内長野行きの列車が運転されている(2011年3月16日のダイヤ変更から平日夕ラッシュ時にも富田林発大阪阿部野橋行きが運転されるようになった)。また平日の早朝には下り古市発橿原神宮前行きが運転されている。かつては深夜にも運転されており、大阪阿部野橋発古市行き準急が終点の古市駅で種別変更されたものとして運転していた。この列車は2012年3月20日のダイヤ変更以前、平日の夕方ラッシュにも運転されていた。 平日朝8時台には下りに大阪阿部野橋発古市行き急行も運転されていたが、2011年3月16日のダイヤ変更で廃止された。これは古市検車区への入庫を兼ねた列車だった。しかしこのダイヤ変更で上り平日深夜22時台に古市発大阪阿部野橋行き急行が運転を開始した。これらは急行停車駅1駅間のみの運行となっていたが、現在は廃止されている。 2021年7月3日のダイヤ変更では平日・土休日共に10 - 14時台の列車が区間急行に格下げとなり、日中の運行が無くなった。 毎年5月上旬から中旬の土休日には御所線近鉄御所駅まで直通する臨時急行「葛城高原号」も運転されている。 定期列車は途中駅での特急待避を行わず(1990年以降)、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間の急行の所要時間は90分強で、特急と急行の所要時間差は約15分強である。このため下りについては、急行が大阪阿部野橋駅を発車してから20分後に発車する特急より2 - 3分早く吉野駅へ到着し、上りは特急の3分後に急行が発車して特急より約20分後に大阪阿部野橋駅へ到着するダイヤが基本パターンとなっている。 編成両数は、南大阪線内及び長野線富田林以北では最長8両編成で、吉野線では最長4両編成、長野線富田林以南では最長5両編成。ラッシュ時間帯以外は4両編成を基本に運用されている。当麻寺駅・二上神社口駅・上ノ太子駅に臨時停車する列車はホーム有効長の関係上、4両編成で運転される。 2021年7月3日変更の現行ダイヤでは日中時間帯を中心に、朝や夜間にも数本が運転されている。日中時間帯では毎時2本が運転され、それ以外の時間帯では上りは平日の朝に1本、土休日の夜に3本、下りは土休日19時台に2本、深夜に平日・土休日1本が運転されている。全列車が大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間の運行であるが、橿原神宮前駅から先、普通に種別変更の上そのまま吉野線に直通する列車もある(種別変更運転の理由は吉野線の項を参照のこと)。停車駅は急行の停車駅に浮孔駅・坊城駅・橿原神宮西口駅が追加され、尺土駅 - 橿原神宮前駅間は各駅に停車する。かつては下りの深夜の一部列車に古市駅で後ろの車両を切り離し、橿原神宮前行きの普通に変更して運転、前の車両は橿原神宮前駅から吉野行きの普通として運転するという列車もあった。編成両数は4両編成が大半で平日朝の上り1本は6両で運転される。かつては8両編成の列車もあった。 1972年以前の急行は当線の尺土駅 - 橿原神宮前駅間および吉野線の各駅に停車し、現在の区間急行と同じ停車駅であった。翌1973年に、従来の停車駅の列車を朝ラッシュ時の橿原神宮前発大阪阿部野橋行きに設定し区間急行が運転開始した。1980年代前半までは朝の大阪阿部野橋行きのみの設定であったが、現行ダイヤへの過渡期である1989年から1990年にかけては、昼間にも1時間1本運転されていたことがあった。また2011年3月13日までは、土休日のみであったが吉野線吉野発も運転していた。2010年3月19日のダイヤ変更で平日朝の大阪阿部野橋行は廃止されたが、2011年3月16日のダイヤ変更で1本のみ復活している。2021年7月3日のダイヤ変更では10 - 14時台の大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で運転されていた急行を格下げする形で日中の設定が復活した(平日の一部列車を除いて橿原神宮前駅 - 吉野駅間は普通に種別変更の上そのまま直通運転する)。 2021年現在、近鉄全体ではこの区間のみに設定されている列車種別であり、英文表記は Suburban Express (方向幕における表示は「 SUB. EXP. 」)である。 終日、大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅・長野線河内長野駅間で運転されている。大阪近郊における短距離の速達種別という位置づけで、昼間時は1時間に古市駅(一部橿原神宮前駅)発着が2本、長野線直通河内長野駅発着が4本の合計6本が運転される。大阪阿部野橋駅には急行か区間急行の3倍の数の準急が発着することになり、大阪阿部野橋駅 - 古市駅間では準急が主力速達種別となっている。 普通が激減する藤井寺駅 - 橿原神宮前駅・長野線河内長野駅間での各駅停車としての役割を担っており、長野線直通準急の約半数が古市駅で橿原神宮前駅方面の急行または区間急行と、橿原神宮前駅発着の大半の列車が尺土駅で特急とそれぞれ緩急接続を行っている。また古市駅発着の列車は古市駅 - 橿原神宮前駅の普通と接続している。基本的に大阪阿部野橋駅 - 古市駅間では最先着列車となるが、平日朝ラッシュ時下りに河内松原駅で、平日夕ラッシュ時上りに藤井寺駅で後続の特急や急行に追い抜かれる列車が存在する。かつては朝ラッシュ時上りにも藤井寺駅や、次の停車駅が終着駅であるにもかかわらず河内松原駅で後続の特急や急行に追い抜かれる準急が存在した。またラッシュ時間帯の一部列車は尺土駅で急行と古市駅で特急と緩急接続を行っている。 朝ラッシュ時には御所線近鉄御所発大阪阿部野橋行きが、吉野線直通としては上りが平日1本、下りが平日2本土休日に1本の吉野駅発着列車が運転されているほか、平日日中の一部の列車は橿原神宮前駅から先、普通に種別変更の上そのまま吉野線に直通する列車もある。また、朝ラッシュ終わり・夕ラッシュ・深夜時間帯には古市駅で河内長野行きと橿原神宮前行きまたは御所行き普通列車に分割される列車もある。朝夕ラッシュ時や早朝・深夜には富田林駅発着列車もある。 2018年3月のダイヤ変更後、平日深夜下りに古市行き準急として運転し、古市駅から橿原神宮前行き急行に種別・行先変更する列車が運転されている。この列車は2012年3月のダイヤ変更までは平日夕ラッシュ時にも運転されていたが、ダイヤ変更後は橿原神宮前行き準急として運転している。 2013年3月のダイヤ変更までは同じくラッシュ時に橿原神宮前行きと富田林行きに古市駅で分割される列車が存在した(案内上は橿原神宮前・富田林行き準急で、前部車両が橿原神宮前行き、後部車両が富田林行き)。ダイヤ変更後、富田林行き準急として運転されている。夕ラッシュ時の富田林行きは古市駅で分割後、後部車両が橿原神宮前行き普通列車に種別・行先変更を行っているが、2014年9月のダイヤ変更以降、一部の列車では分割作業を行わず、古市駅から別の車両を橿原神宮前行き普通列車に充当している。なお、2018年現在、橿原神宮前行き準急の後部車両が古市から富田林行きとなる場合も、種別・行先変更での案内を行っており、「橿原神宮前・富田林行き準急」の案内は行っていない。なお、上り列車では2018年現在でもラッシュ時に吉野・橿原神宮前・御所始発と富田林・河内長野始発とする列車が古市駅で連結作業を行っているが、上り列車は両列車とも始発駅から大阪阿部野橋行き準急として運転している。 1965年のダイヤ変更までは土師ノ里駅は通過していた。現在は普通の大半が藤井寺までの運転となったこともあり停車している。また、1970年代までは大阪阿部野橋駅 - 河内天美駅間運転の準急が朝ラッシュ時に設定されており、この準急に限り他の準急が停車しない矢田駅と河内天美駅に停車(河内天美駅は大阪阿部野橋駅方面発着のみ)していたほか、1990年までは日中にも吉野線・御所線直通の列車がそれぞれ片道1時間1本の割合で運転されていた。 2018年3月のダイヤ変更で終電時間帯の時刻が見直され、大阪阿部野橋駅発23時台の準急を増発し、河内長野行き、富田林行きのそれぞれの最終列車の発車時刻が繰り下げられた。 2022年4月23日のダイヤ変更で日中の橿原神宮前発着の大半の列車が古市駅発着の準急と古市駅 - 橿原神宮前駅の普通に分断された。 編成両数は、大阪阿部野橋駅 - 古市駅間と長野線直通列車は平日と土休日で輸送力の格差が大きく、平日はラッシュ時に7 - 8両の長編成での運転が多いのに対し平日日中と土休日は基本的に終日4 - 5両編成である。古市駅 - 橿原神宮前駅間と御所線直通列車は2両 - 4両編成で運転されている。 終日運転されているが、全線を通しで運転するのは早朝・深夜のごくわずかで、事実上古市駅を境に運転系統が分かれている。 大阪側では大阪阿部野橋駅 - 藤井寺駅・古市駅間での運転が基本で、昼間時は大阪阿部野橋駅 - 藤井寺駅間で1時間に6本運転され、そのうち1時間に0 - 3本は大阪阿部野橋駅 - 古市駅で運転される。また河内天美駅に隣接して古市検車区天美車庫がある関係で、早朝に河内天美発大阪阿部野橋行きがある。1980年頃までは針中野駅の乗降客が非常に多かったことからラッシュ時を中心に河内天美駅折り返しの普通列車も多く運転されていたが、同年11月27日の地下鉄谷町線八尾南駅延伸に伴う駒川中野駅の開業により針中野駅の利用客が激減したため削減され、現在は早朝に上り1本が残るのみとなっている。 朝および深夜を除く大阪阿部野橋駅 - 藤井寺駅間の運用においては、通常今川駅で準急(上りの一部列車を除く)、河内天美駅で特急または急行(一部列車を除く)を通過待避し、河内松原駅で、下りはさらにもう1本後、上りはさらにもう1本前の準急と緩急接続する。河内松原駅で緩急接続する列車は、下りは大阪阿部野橋駅を2本後(13分後)に出発、上りは大阪阿部野橋駅に13分前に到着する準急となり、優等列車と普通列車の所要時間差が大きいダイヤが組まれている。 藤井寺駅 - 古市駅間は早朝・日中・深夜の運転が中心で、それ以外の時間にはほとんど運転されない。 長野線への直通列車は上りは深夜に河内長野発大阪阿部野橋行き、平日の朝ラッシュ終了時に富田林発大阪阿部野橋行き、下りは平日の早朝に河内天美発、全日の早朝に大阪阿部野橋発で河内長野行きが運転されている。 編成両数は大阪阿部野橋駅 - 古市駅間は最大6両編成、長野線直通列車は4両または5両編成である。 この区間は古市駅 - 橿原神宮前駅間での運転が基本(早朝上下線・深夜上りには吉野線直通もあり)である。この区間では準急も各駅に停車するものの、10 - 15時台では同区間で準急がほとんど運転されないため、各駅に停車する唯一の種別となる。それ以外の時間帯でも準急の多くが長野線直通であるため、普通を運転することで運転本数を確保している。 10 - 15時台の列車は2022年4月23日のダイヤ変更で橿原神宮前駅発着の準急を代替したものであり、古市駅発着の準急と同駅で接続し、尺土駅で特急と接続する。それ以外の時間帯の列車は古市駅で河内長野駅発着の準急と接続を行い、尺土駅で吉野駅発着の急行と緩急接続を行っている(但し接続ではなく古市行き普通として運行したのち、その車両がそのまま大阪阿部野橋行き準急に変わる、逆に古市行き準急として運転したのち尺土方面行き普通に変わることもある。この場合、古市より尺土側ではワンマン列車として運行される。)。また上り列車の一部は古市駅で古市駅発大阪阿部野橋行き普通とも接続を行う(乗り継ぐことにより、後続の河内長野駅発準急より河内松原駅までの各駅へ先着する)。 また平日の上りは朝は古市駅 - 御所線近鉄御所駅間の直通列車が運転主体となるため、尺土駅 - 橿原神宮前駅間の区間運転列車が運転される。夕ラッシュには終点の橿原神宮前駅にて、吉野線橿原神宮前駅 - 吉野口駅間の普通に系統変更して引き続き運転されたり、古市行の普通が御所行きに行き先変更をして実質大阪阿部野橋発御所行きとして運転されている列車もある。2012年3月20日のダイヤ変更では夕方ラッシュ時の古市駅で急行に種別変更を行う準急が全区間準急として運転される(藤井寺駅以東は各駅に停車)ために同時間帯は古市 - 橿原神宮前駅間は全列車準急として運転されるようになった。これにより御所線への直通運転や尺土駅 - 橿原神宮前駅間の区間運転列車はなくなった。しかし2015年時点で朝と夕方に古市駅発着で御所線への直通列車が設定されている。 編成両数は2両 - 4両編成(一部列車は2両編成のワンマン運転を実施)である。 2021年7月3日のダイヤ変更以前は日中に河内長野駅発着の準急と接続する列車が毎時2本運転されていた。同変更で昼間10 - 14時台の列車が廃止され、古市駅 - 尺土駅は準急のみ毎時2本に減便、尺土駅 - 橿原神宮前駅は急行から区間変更への種別変更で代替された。しかし、2022年4月23日のダイヤ変更で橿原神宮前発着の大半の準急が古市駅発着の準急と古市駅 - 橿原神宮前駅の普通に分断され、同区間での日中の運転が再開された。 行楽シーズンに臨時列車として運転されている。快速を前身とする。停車駅は古市駅停車の特急と同一である。編成両数は南大阪線内では最長8両編成、吉野線内は最長4両編成で運転されている。 急行は特急待避をしないが、快速急行については橿原神宮前駅で特急待避および大阪阿部野橋駅方の10分間隔運転に合わせるための時刻調整を行うため、橿原神宮前駅で最長12分停車する。このため大阪阿部野橋駅 - 吉野間の所要時間は1時間45分前後と同時間帯の急行より10分程度所要時間が長くかかっている。吉野線区間においても52 - 53分と、同区間を各駅に停車する急行とほぼ同じ所要時間である。 かつては快速も運転されていた。 古市駅を境に利用状況が大きく異なることによる車両数の適正化、停車駅ホーム有効長の違い、分岐各線(長野・御所・吉野線)と合わせた車両運用の能率化により終日車両の増解結を行い、切り離した車両を即時別系統の列車にしたり、建前上の終着駅に到着後種別・行先を変更し引き続き営業運転させる(いわゆる「化け」)等の柔軟な車両運用を行っている。近鉄では他に奈良・京都・橿原線と名古屋線の一部の列車で表示上の終着駅到着後に種別・行先を変更して引き続き運転している。旅客の利便性目的ではない点が一般的な多層建て列車等との違いである。 時間帯別においては次の通り。 3 - 4両⇔5 - 8両 2・3両⇔4・5両 3 - 4両⇔5 - 8両 南大阪線では現在でも愛称付きの列車を運行している。愛称列車には小型の愛称板が掲出される。また、LCD式に更新される前の大阪阿部野橋駅の発車標にはこれらの愛称付きの列車に対応するコマが存在し、LCD式となった発車標にもこれを踏襲して愛称が表示される。近年、愛称列車は減少傾向にあり、「青の交響曲」16200系等を使用した臨時列車(貸切列車)の運転や、主に春や秋の観光シーズンを中心に定期急行の臨時停車が実施されている。 毎年、8月1日に富田林市で行われるPL花火芸術の観覧客輸送のため、年によって変動するがおおよそ当日15時以降に長野線直通列車が大幅増便される特別ダイヤで運転されている。以前は一般列車に愛称板を掲出していた時期もあったが、現在は掲出されなくなった。 大晦日から元日にかけての終夜運転は、橿原神宮への初詣客などに利用されており、2022年度は大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間で特急が1往復、普通が午前3時台まで約30分間隔で運行している。 1990年代後半までは特急も普通も15分間隔で運転されていた。2008年度までは特急も普通も20分間隔で運行されていた。2009年度は30分間隔に減便された。2010年度から2019年度は特急が3往復、普通が約30分間隔で運行されており、一部列車は吉野駅まで運転されていた。2020年度は新型コロナウイルス感染拡大の影響で終夜運転は行われなかった。2021年度は吉野線内の運転が取りやめられ、特急が2往復となった。さらに2022年度は午前3時台以降の運転が打ち切られ、特急が1往復となった。 吉野線沿線には飛鳥や吉野などの観光地があり、春や秋のシーズンにはラジオ番組や新聞社主催のハイキングが開催されている。それに合わせた臨時列車も多く運転されている。また、ラジオウォークなど沿線で行われるイベントにあわせて取り付けられるヘッドマークも多い。 行先はこれらの他に臨時急行、区間急行、快速急行の藤井寺行きがあるが、現在はほとんど使われていない。 乗務員は特急のみ通し乗務で、それ以外は古市駅で交替する。ただし、長野線直通列車(準急)及び一部の吉野線直通列車(急行)、橿原神宮前発着の準急は古市駅で乗務交代を行わずそのまま終点まで乗務する場合もある。 南大阪線系統各車両は全車が古市検車区の所属となっており、列車検査(JRでいう仕業検査)、状態・機能検査(同じく交番検査)は同所で行われるものの(列車検査は同所のほか天美車庫・六田車庫でも行われる)、重要部検査・全般検査は五位堂検修車庫で行われることになっている。入場の際には橿原神宮前駅の東側にある台車振替場で標準軌用の輸送台車に交換され、電動貨車モト90形(モト97・98)に牽引されて八木西口駅から大阪線への短絡線を経由して五位堂検修車庫へ輸送されることになっている。台車振替場で外された当該車両の本台車は輸送時にモト97・98の荷台に積まれる。 当線は府県境の上ノ太子駅 - 二上山駅間(穴虫峠)に33.3‰の連続勾配が存在するが、大阪線と異なり曲線を伴う勾配で通過速度が75km/h程度のため、勾配抑速ブレーキを使用するのは特急形車両のみで(その分通過速度が10km/h高い)、通勤形車両は(抑速ブレーキ付きの6422系以降も含め)通常のブレーキを用いて勾配を下る。 なお1960年代に高性能車・新性能車が製造開始された際、車体は高性能車・新性能車とほぼ同じだが走行機器は旧性能車のものを流用した、いわゆる機器流用車が一部の鉄道で製造されたが、近鉄では名古屋線や奈良線には存在したものの、南大阪線には製造されなかった。 南大阪線の現存する全車両の制御器は日立製作所製で統一されている(標準軌線区は日立と三菱電機が混在する。南大阪線でも6800系のみ三菱だった)。 名古屋線が狭軌だった頃は、南大阪線と名古屋線でも車両の転属がある程度行われていた。また同様に狭軌である養老線(今の養老鉄道)へ車両自体・または台車のみでも転用されたケースが多い。 道明寺駅以西は、柏原駅 - 河内長野駅間(現在の道明寺線・長野線)を営業していた河南鉄道が、大阪鉄道と名を改め、自社路線で大阪に直通するべく建設したものである。河南鉄道創立当初は、柏原駅から関西本線へ乗り入れる計画であった。1923年には大阪天王寺駅(同年に大阪阿部野橋駅と改称)まで開通し大阪に進出した。次いで南大阪電気鉄道を合併、同社の所有していた免許を活用し大和延長線を計画、古市駅 - 久米寺駅(現在の橿原神宮前駅)間を1929年に全通させ、吉野鉄道線(後に大阪電気軌道吉野線となる)と直通運転を始めた。 なお大阪電気軌道(大軌)は、1925年までに現在の近鉄大阪線・橿原線に当たる路線の大阪上本町駅 - 八木西口駅 - 橿原神宮前駅(旧駅、後に現在の橿原神宮前駅に統合されて廃止)間の路線を開業させており、大阪鉄道のこの路線とは競合することになった。それでも吉野鉄道を買収した大軌が、自社線となった吉野線と大阪鉄道線の直通運転を開始したのは、大軌本来の路線の軌間は1,435 mm、大軌吉野線と大阪鉄道のそれは1,067 mmと、吉野線が大軌本来の路線とは軌間が合わず、大阪鉄道線とは合っていたからだとされる。 大阪鉄道は、社名変更から僅か10年で近代的な鉄道会社に変貌するものの、昭和恐慌に巻き込まれ乗客が伸び悩み、度重なる路線延長の建設費が大きな負担となって経営難に陥り、久米寺駅開業の年には大軌の社長である金森又一郎が取締役に就任するなど、大軌の傘下に置かれることになった。その後1943年に、大阪鉄道は大軌を改めた関西急行鉄道(関急)に統合され、1944年には再編で近畿日本鉄道となった。 上ノ太子駅 - 二上山駅間で大阪府太子町を通るが、駅は設置されていない。 阿部野橋ターミナルビル整備計画に伴い、大阪阿部野橋駅のホームが一部を除き約28m延伸されており、2009年3月20日に大阪阿部野橋駅西改札口が東側(ホーム側)に約35m移設され、同時に大阪阿部野橋駅からの営業キロの変更が行われた。 2018年11月13日調査による主要駅の乗降者数は次の通り。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "南大阪線(みなみおおさかせん)は、大阪府大阪市阿倍野区の大阪阿部野橋駅から奈良県橿原市の橿原神宮前駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。 駅ナンバリング等に使われる路線記号はF。ラインカラーは緑である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "キタ・ミナミに次ぐ大阪第3の繁華街である天王寺・阿倍野から大阪府南東部(南河内地域)の通勤通学および橿原・飛鳥・吉野方面への観光の足となっている。起点の大阪阿部野橋駅は超高層ビル「あべのハルカス」と直結しており、隣接する天王寺駅と乗り換えが可能である。藤井寺駅 - 古市駅間は数多くの古墳を避けながら通る。終点の橿原神宮前駅からは特急等が吉野線に乗り入れ吉野駅まで直通運転を行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "近鉄の前身大阪電気軌道(大軌)が敷設した近鉄線の大部分(1,435 mmの標準軌)とは異なり、南大阪線系(南大阪線、道明寺線、長野線、御所線、吉野線)では1,067 mmの狭軌が採用されている。道明寺線・長野線を敷設したのは河陽鉄道、南大阪線を敷設したのは河陽鉄道を継承した大阪鉄道(大鉄、もとは河南鉄道)であり、その当初の目的は道明寺線柏原駅において接続する同じく1,067 mm軌間の関西本線と連携して貨物輸送を行うことであったためである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、当線は前述のように古墳や山岳地帯を避ける形で敷設されたためカーブが多く、また建設費の都合で規格が低く抑えられたため、最高速度は大阪線の130 km/hよりも低い110 km/hに抑えられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "大阪市内の大阪阿部野橋駅 - 河内天美駅間は高架となっているが、このうち河堀口駅 - 矢田駅間に関しては、高架化の際に仮線を設けず地上にある在来線の真上にそのまま高架線を建設する「直上高架方式」で施工された。阪神高速6号大和川線の建設時に以前は盛り土区間だった区画を立体交差化した(大和川線の道路はその区画が掘割構造になっている)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ICカードPiTaPa・ICOCA・Suicaなど全国相互利用の乗車カードが使用できる。また、以前はスルッとKANSAI対応カードおよびJスルーカードにも対応していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大阪阿部野橋駅から藤井寺駅付近までは住宅街や学校など多くの建物が立ち並ぶ間を抜けるように走る。道明寺駅あたりから畑が目立ち始め、古市駅から先は一気にのどかな田園風景へと変わる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "高見ノ里駅以東は竹内街道や長尾街道と並行しているために沿線には史跡や古墳等の歴史的建造物が多い。また奈良県内では二上山や葛城山の山なみと並行するため、季節によって美しく様変わりする山肌を楽しむこともでき、花や紅葉の見ごろになると急行の臨時停車を実施する駅も少なくない。上ノ太子駅周辺ではブドウやミカンの栽培が盛んで、車窓から果樹園が見られる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "以下に示す記述はすべて大阪阿部野橋→橿原神宮前方向における記述であり、逆方向に関しては順序が逆で、その風景が見える方向も左右逆となる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "起点である大阪阿部野橋駅は、キタ、ミナミに並ぶ大阪有数の繁華街、阿倍野に置かれている阿部野橋ターミナルビル(あべのハルカス)に内包されている。大阪阿部野橋を出てすぐ、線路は高架に上がる。右へカーブしつつJR阪和線を跨ぐと間もなく河堀口駅。河堀口から線路はさらに右へカーブし、東住吉区へ移って北田辺駅、今川駅へと続く。今川を出てしばらくすると阪神高速14号松原線の高々架をくぐるが、その高々架の直下には地下鉄谷町線の駒川中野駅がある。南大阪線はさらに東住吉区内の住宅街を高架で進んで針中野駅、右手に長居公園や大阪芸術大学短期大学部大阪キャンパスを見ながら矢田駅と進む。矢田を出ると次第に密集していた住宅は間が開き始め、線路は大和川を渡る。大和川の手前に見える堤防沿いの細長い工事中の土地は、JRの阪和貨物線の廃線跡である。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "大和川より南は松原市となり、左手に阪南大学のキャンパスを眺めつつ、線路は高架から下りて地上に移り、古市検車区天美車庫を設置している河内天美駅に至る。線路は次の布忍駅を出てすぐ左へ急カーブを曲がる。そこからは右手に大阪府道12号堺大和高田線を眺めて走り、府道12号は次第に迫ってきて高見ノ里駅。さらに進むと松原市街地へ入っていき、河内松原駅に至る。河内松原駅は大阪阿部野橋から最初の準急停車駅であり、最初の緩急接続可能駅でもある。さらに美原、堺方面へのバスも発着しており、終日賑わいを見せる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "河内松原を出ると線路は阪和自動車道をくぐって羽曳野市に入り、府道12号をくぐって住宅地を走り恵我ノ荘駅に至り、その後ゆるやかに左へカーブし高鷲駅に達する。高鷲を出てまもなく線路は藤井寺市に入り、右手に四天王寺大学のキャンパスが見えれば間もなく藤井寺駅である。四天王寺学園小学校が建っている所には2005年1月まで藤井寺球場があり、現在はオリックスと合併した近鉄バファローズの本拠地として栄えていた。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "藤井寺駅にはここから旧中央環状線を通って近鉄八尾駅方面に向かう便と、羽曳ヶ丘方面へ向かう便の、大まかに2種のバスが発着しており、交通の要衝となっている。また、藤井寺駅では大阪阿部野橋からの普通列車の大半が折り返すため、1本の引き上げ線があるものの、駅の東方が線路のぎりぎりまで建物がせり出している事情から引き上げ線は大阪阿部野橋方にある。そのため当駅折り返しの普通列車は到着後3回も折り返し作業をしなければならず、入出庫のつど藤井寺駅すぐ西側の踏切を通らねばならないために、この踏切は日中でも遮断機が長い時間にわたり開かない「開かずの踏切」となっている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "藤井寺を出てしばらくは藤井寺市内の住宅街を走るが、西名阪自動車道をくぐると前方にある仲ツ山古墳を回り込むために左へ大きくカーブを切る。右へ曲がり旧国道170号をくぐるあたりで土師ノ里駅に着く。土師ノ里を出るとほどなく南大阪線最大の急カーブに至り、特急などの優等列車もここでは45km/hに速度を落として走行する。左手より道明寺線が合流して道明寺駅に至る。もともとは道明寺線の方が先に完成し南北に走る線路として開通していたため、後付けとなった南大阪線の方が急カーブを描く格好になっている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "道明寺を出ると線路は再び羽曳野市に入り、西名阪自動車道をもう一度くぐる。西名阪のガードを抜けると風景は住宅地から一変して無花果などの畑が広がる。畑地帯を抜けると次第に羽曳野の市街地に移り、古市検車区を構える古市駅に至る。この駅では長野線と分かれるほか、この駅より先は長野線の富田林駅までと特急停車駅を除いて8両編成の電車は停車できなくなるため、車両の連結や切り離しが頻繁に行われる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "本線と支線の分岐駅では、本線がまっすぐに進み、支線が分かれていくのが通例だが、古市駅においては支線の長野線がまっすぐ南下して、南大阪線の方が左へカーブする。これは先述した道明寺駅の場合と事情は全く同じで、先に柏原駅 - 道明寺駅 - 古市駅 - 河内長野駅間のルートが開通し、後から南大阪線の線路が開通していったためである。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "長野線と分かれると左手には古市の住宅地が、右手には台地の崖が連なる。ほどなく線路は石川を渡るが、石川を境に風景は一気に変わる。田園が広がる中に工業団地と住宅が点在するのが見え、線路はゆるやかに右へカーブし、駒ヶ谷駅に至る。この駅の左手には梅酒メーカーのチョーヤ梅酒本社がある。駒ヶ谷の住宅地を抜けると周辺は広大なブドウ畑や水田などが広がり、左手を国道166号(竹内街道)が並行する。右手に南阪奈道路が近づいてくると上ノ太子駅である。この駅は鉄道駅が存在しない太子町の玄関口の役割をなし、当駅から太子町の市街地、住宅地へ向かうバスが発着している。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "上ノ太子を出てほどなく線路は国道166号(竹内街道)と踏切で交差し、山裾を縫うように蛇行して走り、4km以上に亘る33.3‰の連続上り勾配にかかる。蛇行のために南阪奈道路を2度アンダーパスし、線路は羽曳野市から太子町に入る(しかし先述した通り太子町内には駅がなく、あくまでも南大阪線は太子町を通過するのみである)。そこからしばらくは右手を奈良県道・大阪府道703号香芝太子線が並行する状況が続くが、この道路は途中で線路を跨いで左手側に移る。この線路を跨ぐ場所が穴虫峠であり、大阪府と奈良県の府県境にあたる。山岳を貫くトンネルを通らずに大阪府と奈良県の府県境を越えるのも、この路線の特徴の一つである。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "奈良県香芝市に入ると左手に見える県道703号は国道165号と合流し、大和高田バイパス(国道165号バイパス)と側道(従来の国道165号)に分かれ、南大阪線はバイパスを潜り、国道165号と並行する。ここから先はしばらく二上山の裾を沿うように走るため、右手方向には二上山のフタコブラクダ状の稜線が美しく見える。この間に二上山駅、二上神社口駅、当麻寺駅を通り、線路は葛城市に移る。この区間の山以外の風景においては、駅の前後に住宅が密集しているほかは、広大な田畑が広がりのどかである。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、二上山のふもとは當麻寺(当麻寺)をはじめ牡丹の名所となっている地が多くあり、二上神社口と当麻寺の両駅は牡丹の見ごろになると一部の急行が臨時停車する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "当麻寺駅から磐城駅にかけてはほぼ直線に進み、磐城駅を過ぎると再び国道166号と踏切で交差して、ゆるやかに左へカーブする。このあたりから住宅の数が増えてきて、ほどなく尺土駅に至る。尺土駅は御所線との分岐駅であるとともに緩急接続可能駅であり、さらに大阪阿部野橋から最初の特急全列車停車駅でもあるため、終日にわたり準急(この区間は各駅停車)・普通と急行・特急との接続が行われている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "尺土駅を出て御所線が右へ分かれると、再び田園風景が広がり大和高田市に入る。田園風景はつかの間で急速に建物の数が増え、高田の市街地に移っていく。次第に線路は高架を上り、高田市駅に至る。高田市駅は南大阪線における大和高田市の中心駅であるが、大阪線の大和高田駅、JRの高田駅には広大な駅前広場があるのに対し、高田市駅前は2車線(片側1車線)の国道166号(バイパス)にバス乗り場を兼ねたロータリーが申し訳程度に設置されているのみで、線路、道路のぎりぎりまで所狭しと建物が密集している。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "高田市を出ると線路はゆるやかに右へカーブを切り、JR和歌山線を跨いでほどなく高架から地上区間に下りる。しばらくは住宅地を進むが、徐々に住宅の間隔が空き畑が目立つようになると今度はゆるやかに左へカーブし、浮孔駅に至る。そこから少し進むと国道24号大和高田バイパスを潜り、橿原市に入る。そして、京奈和自動車道橿原高田インターチェンジ高架下を潜り通り、水田地帯を抜け住宅地が迫ると坊城駅となり、さらに線路は南東へ直進する。坊城の住宅地を抜けると再び広い田園地帯に入り、左手には大和三山の一つ畝傍山と橿原神宮を包む森林が見えてきて、畝傍山の裾に入ると橿原神宮西口駅に至る。線路は左手に橿原神宮の森林、右手に奈良芸術短期大学などの学校群や住宅街を眺め、大きく右へカーブして橿原線との接続駅である橿原神宮前駅に達する。南大阪線としてはこの駅が終点であり、この駅で折り返す列車も多くあるが、線路はこの先も続いて吉野線となっており、急行・特急は大半が吉野線に直通して吉野駅まで運転される。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "大阪阿部野橋駅から長野線・吉野線と直通運転を行っている。御所線とも古市駅折り返しおよび大阪阿部野橋行きのみだが直通運転がある。大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間には急行などのほか、「さくらライナー」や観光特急「青の交響曲」などの特急が運転されている。ダイヤは基本的に大阪阿部野橋発時刻はわかりやすく、できるだけ等間隔にそろえられている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。1時間当たり特急1本が吉野線に、準急4本が長野線に乗り入れる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2021年7月3日変更の現行ダイヤでは日中を除く時間帯を中心に運転されている。基本的には吉野線に直通し、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で1時間に2本運転されている。南大阪線内は古市駅を含む特急停車駅に停車し、吉野線内は各駅に停車する。したがって南大阪線における長距離の料金不要速達種別であるうえ、事実上の吉野線の各駅停車でもある。春の土休日には当麻寺駅・二上神社口駅に、秋の土休日には上ノ太子駅に臨時停車する列車がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "長野線直通は(長野線内は各駅に停車)平日の朝ラッシュ時には河内長野発大阪阿部野橋行きと大阪阿部野橋発富田林行きが、夕ラッシュ時には富田林発大阪阿部野橋行きと大阪阿部野橋発河内長野行きの列車が運転されている(2011年3月16日のダイヤ変更から平日夕ラッシュ時にも富田林発大阪阿部野橋行きが運転されるようになった)。また平日の早朝には下り古市発橿原神宮前行きが運転されている。かつては深夜にも運転されており、大阪阿部野橋発古市行き準急が終点の古市駅で種別変更されたものとして運転していた。この列車は2012年3月20日のダイヤ変更以前、平日の夕方ラッシュにも運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "平日朝8時台には下りに大阪阿部野橋発古市行き急行も運転されていたが、2011年3月16日のダイヤ変更で廃止された。これは古市検車区への入庫を兼ねた列車だった。しかしこのダイヤ変更で上り平日深夜22時台に古市発大阪阿部野橋行き急行が運転を開始した。これらは急行停車駅1駅間のみの運行となっていたが、現在は廃止されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2021年7月3日のダイヤ変更では平日・土休日共に10 - 14時台の列車が区間急行に格下げとなり、日中の運行が無くなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "毎年5月上旬から中旬の土休日には御所線近鉄御所駅まで直通する臨時急行「葛城高原号」も運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "定期列車は途中駅での特急待避を行わず(1990年以降)、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間の急行の所要時間は90分強で、特急と急行の所要時間差は約15分強である。このため下りについては、急行が大阪阿部野橋駅を発車してから20分後に発車する特急より2 - 3分早く吉野駅へ到着し、上りは特急の3分後に急行が発車して特急より約20分後に大阪阿部野橋駅へ到着するダイヤが基本パターンとなっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "編成両数は、南大阪線内及び長野線富田林以北では最長8両編成で、吉野線では最長4両編成、長野線富田林以南では最長5両編成。ラッシュ時間帯以外は4両編成を基本に運用されている。当麻寺駅・二上神社口駅・上ノ太子駅に臨時停車する列車はホーム有効長の関係上、4両編成で運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2021年7月3日変更の現行ダイヤでは日中時間帯を中心に、朝や夜間にも数本が運転されている。日中時間帯では毎時2本が運転され、それ以外の時間帯では上りは平日の朝に1本、土休日の夜に3本、下りは土休日19時台に2本、深夜に平日・土休日1本が運転されている。全列車が大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間の運行であるが、橿原神宮前駅から先、普通に種別変更の上そのまま吉野線に直通する列車もある(種別変更運転の理由は吉野線の項を参照のこと)。停車駅は急行の停車駅に浮孔駅・坊城駅・橿原神宮西口駅が追加され、尺土駅 - 橿原神宮前駅間は各駅に停車する。かつては下りの深夜の一部列車に古市駅で後ろの車両を切り離し、橿原神宮前行きの普通に変更して運転、前の車両は橿原神宮前駅から吉野行きの普通として運転するという列車もあった。編成両数は4両編成が大半で平日朝の上り1本は6両で運転される。かつては8両編成の列車もあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1972年以前の急行は当線の尺土駅 - 橿原神宮前駅間および吉野線の各駅に停車し、現在の区間急行と同じ停車駅であった。翌1973年に、従来の停車駅の列車を朝ラッシュ時の橿原神宮前発大阪阿部野橋行きに設定し区間急行が運転開始した。1980年代前半までは朝の大阪阿部野橋行きのみの設定であったが、現行ダイヤへの過渡期である1989年から1990年にかけては、昼間にも1時間1本運転されていたことがあった。また2011年3月13日までは、土休日のみであったが吉野線吉野発も運転していた。2010年3月19日のダイヤ変更で平日朝の大阪阿部野橋行は廃止されたが、2011年3月16日のダイヤ変更で1本のみ復活している。2021年7月3日のダイヤ変更では10 - 14時台の大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で運転されていた急行を格下げする形で日中の設定が復活した(平日の一部列車を除いて橿原神宮前駅 - 吉野駅間は普通に種別変更の上そのまま直通運転する)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2021年現在、近鉄全体ではこの区間のみに設定されている列車種別であり、英文表記は Suburban Express (方向幕における表示は「 SUB. EXP. 」)である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "終日、大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅・長野線河内長野駅間で運転されている。大阪近郊における短距離の速達種別という位置づけで、昼間時は1時間に古市駅(一部橿原神宮前駅)発着が2本、長野線直通河内長野駅発着が4本の合計6本が運転される。大阪阿部野橋駅には急行か区間急行の3倍の数の準急が発着することになり、大阪阿部野橋駅 - 古市駅間では準急が主力速達種別となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "普通が激減する藤井寺駅 - 橿原神宮前駅・長野線河内長野駅間での各駅停車としての役割を担っており、長野線直通準急の約半数が古市駅で橿原神宮前駅方面の急行または区間急行と、橿原神宮前駅発着の大半の列車が尺土駅で特急とそれぞれ緩急接続を行っている。また古市駅発着の列車は古市駅 - 橿原神宮前駅の普通と接続している。基本的に大阪阿部野橋駅 - 古市駅間では最先着列車となるが、平日朝ラッシュ時下りに河内松原駅で、平日夕ラッシュ時上りに藤井寺駅で後続の特急や急行に追い抜かれる列車が存在する。かつては朝ラッシュ時上りにも藤井寺駅や、次の停車駅が終着駅であるにもかかわらず河内松原駅で後続の特急や急行に追い抜かれる準急が存在した。またラッシュ時間帯の一部列車は尺土駅で急行と古市駅で特急と緩急接続を行っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "朝ラッシュ時には御所線近鉄御所発大阪阿部野橋行きが、吉野線直通としては上りが平日1本、下りが平日2本土休日に1本の吉野駅発着列車が運転されているほか、平日日中の一部の列車は橿原神宮前駅から先、普通に種別変更の上そのまま吉野線に直通する列車もある。また、朝ラッシュ終わり・夕ラッシュ・深夜時間帯には古市駅で河内長野行きと橿原神宮前行きまたは御所行き普通列車に分割される列車もある。朝夕ラッシュ時や早朝・深夜には富田林駅発着列車もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2018年3月のダイヤ変更後、平日深夜下りに古市行き準急として運転し、古市駅から橿原神宮前行き急行に種別・行先変更する列車が運転されている。この列車は2012年3月のダイヤ変更までは平日夕ラッシュ時にも運転されていたが、ダイヤ変更後は橿原神宮前行き準急として運転している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2013年3月のダイヤ変更までは同じくラッシュ時に橿原神宮前行きと富田林行きに古市駅で分割される列車が存在した(案内上は橿原神宮前・富田林行き準急で、前部車両が橿原神宮前行き、後部車両が富田林行き)。ダイヤ変更後、富田林行き準急として運転されている。夕ラッシュ時の富田林行きは古市駅で分割後、後部車両が橿原神宮前行き普通列車に種別・行先変更を行っているが、2014年9月のダイヤ変更以降、一部の列車では分割作業を行わず、古市駅から別の車両を橿原神宮前行き普通列車に充当している。なお、2018年現在、橿原神宮前行き準急の後部車両が古市から富田林行きとなる場合も、種別・行先変更での案内を行っており、「橿原神宮前・富田林行き準急」の案内は行っていない。なお、上り列車では2018年現在でもラッシュ時に吉野・橿原神宮前・御所始発と富田林・河内長野始発とする列車が古市駅で連結作業を行っているが、上り列車は両列車とも始発駅から大阪阿部野橋行き準急として運転している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1965年のダイヤ変更までは土師ノ里駅は通過していた。現在は普通の大半が藤井寺までの運転となったこともあり停車している。また、1970年代までは大阪阿部野橋駅 - 河内天美駅間運転の準急が朝ラッシュ時に設定されており、この準急に限り他の準急が停車しない矢田駅と河内天美駅に停車(河内天美駅は大阪阿部野橋駅方面発着のみ)していたほか、1990年までは日中にも吉野線・御所線直通の列車がそれぞれ片道1時間1本の割合で運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2018年3月のダイヤ変更で終電時間帯の時刻が見直され、大阪阿部野橋駅発23時台の準急を増発し、河内長野行き、富田林行きのそれぞれの最終列車の発車時刻が繰り下げられた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2022年4月23日のダイヤ変更で日中の橿原神宮前発着の大半の列車が古市駅発着の準急と古市駅 - 橿原神宮前駅の普通に分断された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "編成両数は、大阪阿部野橋駅 - 古市駅間と長野線直通列車は平日と土休日で輸送力の格差が大きく、平日はラッシュ時に7 - 8両の長編成での運転が多いのに対し平日日中と土休日は基本的に終日4 - 5両編成である。古市駅 - 橿原神宮前駅間と御所線直通列車は2両 - 4両編成で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "終日運転されているが、全線を通しで運転するのは早朝・深夜のごくわずかで、事実上古市駅を境に運転系統が分かれている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "大阪側では大阪阿部野橋駅 - 藤井寺駅・古市駅間での運転が基本で、昼間時は大阪阿部野橋駅 - 藤井寺駅間で1時間に6本運転され、そのうち1時間に0 - 3本は大阪阿部野橋駅 - 古市駅で運転される。また河内天美駅に隣接して古市検車区天美車庫がある関係で、早朝に河内天美発大阪阿部野橋行きがある。1980年頃までは針中野駅の乗降客が非常に多かったことからラッシュ時を中心に河内天美駅折り返しの普通列車も多く運転されていたが、同年11月27日の地下鉄谷町線八尾南駅延伸に伴う駒川中野駅の開業により針中野駅の利用客が激減したため削減され、現在は早朝に上り1本が残るのみとなっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "朝および深夜を除く大阪阿部野橋駅 - 藤井寺駅間の運用においては、通常今川駅で準急(上りの一部列車を除く)、河内天美駅で特急または急行(一部列車を除く)を通過待避し、河内松原駅で、下りはさらにもう1本後、上りはさらにもう1本前の準急と緩急接続する。河内松原駅で緩急接続する列車は、下りは大阪阿部野橋駅を2本後(13分後)に出発、上りは大阪阿部野橋駅に13分前に到着する準急となり、優等列車と普通列車の所要時間差が大きいダイヤが組まれている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "藤井寺駅 - 古市駅間は早朝・日中・深夜の運転が中心で、それ以外の時間にはほとんど運転されない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "長野線への直通列車は上りは深夜に河内長野発大阪阿部野橋行き、平日の朝ラッシュ終了時に富田林発大阪阿部野橋行き、下りは平日の早朝に河内天美発、全日の早朝に大阪阿部野橋発で河内長野行きが運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "編成両数は大阪阿部野橋駅 - 古市駅間は最大6両編成、長野線直通列車は4両または5両編成である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この区間は古市駅 - 橿原神宮前駅間での運転が基本(早朝上下線・深夜上りには吉野線直通もあり)である。この区間では準急も各駅に停車するものの、10 - 15時台では同区間で準急がほとんど運転されないため、各駅に停車する唯一の種別となる。それ以外の時間帯でも準急の多くが長野線直通であるため、普通を運転することで運転本数を確保している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "10 - 15時台の列車は2022年4月23日のダイヤ変更で橿原神宮前駅発着の準急を代替したものであり、古市駅発着の準急と同駅で接続し、尺土駅で特急と接続する。それ以外の時間帯の列車は古市駅で河内長野駅発着の準急と接続を行い、尺土駅で吉野駅発着の急行と緩急接続を行っている(但し接続ではなく古市行き普通として運行したのち、その車両がそのまま大阪阿部野橋行き準急に変わる、逆に古市行き準急として運転したのち尺土方面行き普通に変わることもある。この場合、古市より尺土側ではワンマン列車として運行される。)。また上り列車の一部は古市駅で古市駅発大阪阿部野橋行き普通とも接続を行う(乗り継ぐことにより、後続の河内長野駅発準急より河内松原駅までの各駅へ先着する)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また平日の上りは朝は古市駅 - 御所線近鉄御所駅間の直通列車が運転主体となるため、尺土駅 - 橿原神宮前駅間の区間運転列車が運転される。夕ラッシュには終点の橿原神宮前駅にて、吉野線橿原神宮前駅 - 吉野口駅間の普通に系統変更して引き続き運転されたり、古市行の普通が御所行きに行き先変更をして実質大阪阿部野橋発御所行きとして運転されている列車もある。2012年3月20日のダイヤ変更では夕方ラッシュ時の古市駅で急行に種別変更を行う準急が全区間準急として運転される(藤井寺駅以東は各駅に停車)ために同時間帯は古市 - 橿原神宮前駅間は全列車準急として運転されるようになった。これにより御所線への直通運転や尺土駅 - 橿原神宮前駅間の区間運転列車はなくなった。しかし2015年時点で朝と夕方に古市駅発着で御所線への直通列車が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "編成両数は2両 - 4両編成(一部列車は2両編成のワンマン運転を実施)である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2021年7月3日のダイヤ変更以前は日中に河内長野駅発着の準急と接続する列車が毎時2本運転されていた。同変更で昼間10 - 14時台の列車が廃止され、古市駅 - 尺土駅は準急のみ毎時2本に減便、尺土駅 - 橿原神宮前駅は急行から区間変更への種別変更で代替された。しかし、2022年4月23日のダイヤ変更で橿原神宮前発着の大半の準急が古市駅発着の準急と古市駅 - 橿原神宮前駅の普通に分断され、同区間での日中の運転が再開された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "行楽シーズンに臨時列車として運転されている。快速を前身とする。停車駅は古市駅停車の特急と同一である。編成両数は南大阪線内では最長8両編成、吉野線内は最長4両編成で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "急行は特急待避をしないが、快速急行については橿原神宮前駅で特急待避および大阪阿部野橋駅方の10分間隔運転に合わせるための時刻調整を行うため、橿原神宮前駅で最長12分停車する。このため大阪阿部野橋駅 - 吉野間の所要時間は1時間45分前後と同時間帯の急行より10分程度所要時間が長くかかっている。吉野線区間においても52 - 53分と、同区間を各駅に停車する急行とほぼ同じ所要時間である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "かつては快速も運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "古市駅を境に利用状況が大きく異なることによる車両数の適正化、停車駅ホーム有効長の違い、分岐各線(長野・御所・吉野線)と合わせた車両運用の能率化により終日車両の増解結を行い、切り離した車両を即時別系統の列車にしたり、建前上の終着駅に到着後種別・行先を変更し引き続き営業運転させる(いわゆる「化け」)等の柔軟な車両運用を行っている。近鉄では他に奈良・京都・橿原線と名古屋線の一部の列車で表示上の終着駅到着後に種別・行先を変更して引き続き運転している。旅客の利便性目的ではない点が一般的な多層建て列車等との違いである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "時間帯別においては次の通り。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "3 - 4両⇔5 - 8両", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2・3両⇔4・5両", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "3 - 4両⇔5 - 8両", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "南大阪線では現在でも愛称付きの列車を運行している。愛称列車には小型の愛称板が掲出される。また、LCD式に更新される前の大阪阿部野橋駅の発車標にはこれらの愛称付きの列車に対応するコマが存在し、LCD式となった発車標にもこれを踏襲して愛称が表示される。近年、愛称列車は減少傾向にあり、「青の交響曲」16200系等を使用した臨時列車(貸切列車)の運転や、主に春や秋の観光シーズンを中心に定期急行の臨時停車が実施されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "毎年、8月1日に富田林市で行われるPL花火芸術の観覧客輸送のため、年によって変動するがおおよそ当日15時以降に長野線直通列車が大幅増便される特別ダイヤで運転されている。以前は一般列車に愛称板を掲出していた時期もあったが、現在は掲出されなくなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "大晦日から元日にかけての終夜運転は、橿原神宮への初詣客などに利用されており、2022年度は大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間で特急が1往復、普通が午前3時台まで約30分間隔で運行している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1990年代後半までは特急も普通も15分間隔で運転されていた。2008年度までは特急も普通も20分間隔で運行されていた。2009年度は30分間隔に減便された。2010年度から2019年度は特急が3往復、普通が約30分間隔で運行されており、一部列車は吉野駅まで運転されていた。2020年度は新型コロナウイルス感染拡大の影響で終夜運転は行われなかった。2021年度は吉野線内の運転が取りやめられ、特急が2往復となった。さらに2022年度は午前3時台以降の運転が打ち切られ、特急が1往復となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "吉野線沿線には飛鳥や吉野などの観光地があり、春や秋のシーズンにはラジオ番組や新聞社主催のハイキングが開催されている。それに合わせた臨時列車も多く運転されている。また、ラジオウォークなど沿線で行われるイベントにあわせて取り付けられるヘッドマークも多い。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "行先はこれらの他に臨時急行、区間急行、快速急行の藤井寺行きがあるが、現在はほとんど使われていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "乗務員は特急のみ通し乗務で、それ以外は古市駅で交替する。ただし、長野線直通列車(準急)及び一部の吉野線直通列車(急行)、橿原神宮前発着の準急は古市駅で乗務交代を行わずそのまま終点まで乗務する場合もある。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "南大阪線系統各車両は全車が古市検車区の所属となっており、列車検査(JRでいう仕業検査)、状態・機能検査(同じく交番検査)は同所で行われるものの(列車検査は同所のほか天美車庫・六田車庫でも行われる)、重要部検査・全般検査は五位堂検修車庫で行われることになっている。入場の際には橿原神宮前駅の東側にある台車振替場で標準軌用の輸送台車に交換され、電動貨車モト90形(モト97・98)に牽引されて八木西口駅から大阪線への短絡線を経由して五位堂検修車庫へ輸送されることになっている。台車振替場で外された当該車両の本台車は輸送時にモト97・98の荷台に積まれる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "当線は府県境の上ノ太子駅 - 二上山駅間(穴虫峠)に33.3‰の連続勾配が存在するが、大阪線と異なり曲線を伴う勾配で通過速度が75km/h程度のため、勾配抑速ブレーキを使用するのは特急形車両のみで(その分通過速度が10km/h高い)、通勤形車両は(抑速ブレーキ付きの6422系以降も含め)通常のブレーキを用いて勾配を下る。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "なお1960年代に高性能車・新性能車が製造開始された際、車体は高性能車・新性能車とほぼ同じだが走行機器は旧性能車のものを流用した、いわゆる機器流用車が一部の鉄道で製造されたが、近鉄では名古屋線や奈良線には存在したものの、南大阪線には製造されなかった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "南大阪線の現存する全車両の制御器は日立製作所製で統一されている(標準軌線区は日立と三菱電機が混在する。南大阪線でも6800系のみ三菱だった)。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "名古屋線が狭軌だった頃は、南大阪線と名古屋線でも車両の転属がある程度行われていた。また同様に狭軌である養老線(今の養老鉄道)へ車両自体・または台車のみでも転用されたケースが多い。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "道明寺駅以西は、柏原駅 - 河内長野駅間(現在の道明寺線・長野線)を営業していた河南鉄道が、大阪鉄道と名を改め、自社路線で大阪に直通するべく建設したものである。河南鉄道創立当初は、柏原駅から関西本線へ乗り入れる計画であった。1923年には大阪天王寺駅(同年に大阪阿部野橋駅と改称)まで開通し大阪に進出した。次いで南大阪電気鉄道を合併、同社の所有していた免許を活用し大和延長線を計画、古市駅 - 久米寺駅(現在の橿原神宮前駅)間を1929年に全通させ、吉野鉄道線(後に大阪電気軌道吉野線となる)と直通運転を始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "なお大阪電気軌道(大軌)は、1925年までに現在の近鉄大阪線・橿原線に当たる路線の大阪上本町駅 - 八木西口駅 - 橿原神宮前駅(旧駅、後に現在の橿原神宮前駅に統合されて廃止)間の路線を開業させており、大阪鉄道のこの路線とは競合することになった。それでも吉野鉄道を買収した大軌が、自社線となった吉野線と大阪鉄道線の直通運転を開始したのは、大軌本来の路線の軌間は1,435 mm、大軌吉野線と大阪鉄道のそれは1,067 mmと、吉野線が大軌本来の路線とは軌間が合わず、大阪鉄道線とは合っていたからだとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "大阪鉄道は、社名変更から僅か10年で近代的な鉄道会社に変貌するものの、昭和恐慌に巻き込まれ乗客が伸び悩み、度重なる路線延長の建設費が大きな負担となって経営難に陥り、久米寺駅開業の年には大軌の社長である金森又一郎が取締役に就任するなど、大軌の傘下に置かれることになった。その後1943年に、大阪鉄道は大軌を改めた関西急行鉄道(関急)に統合され、1944年には再編で近畿日本鉄道となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "上ノ太子駅 - 二上山駅間で大阪府太子町を通るが、駅は設置されていない。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "阿部野橋ターミナルビル整備計画に伴い、大阪阿部野橋駅のホームが一部を除き約28m延伸されており、2009年3月20日に大阪阿部野橋駅西改札口が東側(ホーム側)に約35m移設され、同時に大阪阿部野橋駅からの営業キロの変更が行われた。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2018年11月13日調査による主要駅の乗降者数は次の通り。", "title": "主要駅の乗降客数" } ]
南大阪線(みなみおおさかせん)は、大阪府大阪市阿倍野区の大阪阿部野橋駅から奈良県橿原市の橿原神宮前駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。 駅ナンバリング等に使われる路線記号はF。ラインカラーは緑である。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 南大阪線 |路線色 = #028E46 |ロゴ = KT number-F.svg |ロゴサイズ = 40px |画像 = Kintetsu series26000 Minami-Osaka.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = [[近鉄26000系電車|26000系]]特急「さくらライナー」<br />([[尺土駅]] - [[高田市駅]]間) |国 = {{JPN}} |所在地 = [[大阪府]]、[[奈良県]] |起点 = [[大阪阿部野橋駅]] |終点 = [[橿原神宮前駅]] |路線記号 = {{rint|osaka|ktfm|size=20}} |駅数 = 28駅 |開業 = [[1898年]][[3月24日]] |全通 = [[1929年]][[3月29日]] |廃止 = |所有者 = <!-- [[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]]→[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]]→ -->[[近畿日本鉄道]] |運営者 = 近畿日本鉄道 |車両基地 = [[古市検車区]]、同区天美車庫 |使用車両 = [[#車両|車両]]の節を参照 |路線距離 = 39.7 [[キロメートル|km]] |軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]]) |線路数 = [[複線]] |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式 = 自動閉塞式 |保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS|近鉄型ATS]]、[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]] |最高速度 = 110 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="kansai">『関西圏の鉄道のすべて』 - PHP研究所</ref> |路線図 = }} '''南大阪線'''(みなみおおさかせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[阿倍野区]]の[[大阪阿部野橋駅]]から[[奈良県]][[橿原市]]の[[橿原神宮前駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]。 [[駅ナンバリング]]等に使われる路線記号は'''F'''<ref name="kintetsu20150819">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hpyouu.pdf 駅ナンバリングを全線で実施します]}} - [[近畿日本鉄道]]、2015年8月19日</ref>。ラインカラーは[[緑]]である。 == 概要 == [[キタ]]・[[ミナミ]]に次ぐ大阪第3の繁華街である[[天王寺|天王寺・阿倍野]]から大阪府南東部([[南河内 (大阪府)|南河内]]地域)の通勤通学および[[橿原市|橿原]]・[[飛鳥]]・[[吉野]]方面への観光の足となっている。起点の大阪阿部野橋駅は[[超高層建築物|超高層ビル]]「[[あべのハルカス]]」と直結しており、隣接する[[天王寺駅]]と乗り換えが可能である。[[藤井寺駅]] - [[古市駅 (大阪府)|古市駅]]間は数多くの[[古墳]]を避けながら通る。終点の[[橿原神宮前駅]]からは[[近鉄特急|特急]]等が[[近鉄吉野線|吉野線]]に乗り入れ[[吉野駅 (奈良県)|吉野駅]]まで[[直通運転]]を行っている。 近鉄の前身[[大阪電気軌道]](大軌)が敷設した近鉄線の大部分(1,435 mmの[[標準軌]])とは異なり、南大阪線系(南大阪線、[[近鉄道明寺線|道明寺線]]、[[近鉄長野線|長野線]]、[[近鉄御所線|御所線]]、[[近鉄吉野線|吉野線]])では[[3フィート6インチ軌間|1,067 mm]]の[[狭軌]]が採用されている。道明寺線・長野線を敷設したのは河陽鉄道、南大阪線を敷設したのは河陽鉄道を継承した[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]](大鉄、もとは河南鉄道)であり、その当初の目的は道明寺線[[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]]において接続する同じく1,067 mm[[軌間]]の[[関西本線]]と連携して[[鉄道貨物輸送|貨物輸送]]を行うことであったためである<ref group="注釈">残る2路線のうち、御所線は大鉄の傍系会社の南和電気鉄道が敷設した。また吉野線は[[吉野鉄道]]によって敷設されたが、やはり[[吉野口駅]]で接続する[[和歌山線]]と[[木材]]貨物の連絡運輸を行う関係で狭軌とされた。南大阪線・吉野線は橿原神宮前駅で標準軌の[[近鉄橿原線|橿原線]]と接続しているが、軌間が異なるため[[大和西大寺駅|大和西大寺]]・[[京都駅]]方面との直通運転は出来ない。</ref>。 また、当線は前述のように古墳や山岳地帯を避ける形で敷設されたためカーブが多く、また建設費の都合で規格が低く抑えられたため、最高速度は[[近鉄大阪線|大阪線]]の130 km/hよりも低い110 km/hに抑えられている。 大阪市内の大阪阿部野橋駅 - [[河内天美駅]]間は[[高架橋|高架]]となっているが、このうち[[河堀口駅]] - [[矢田駅 (大阪府)|矢田駅]]間に関しては、高架化の際に[[仮線]]を設けず地上にある在来線の真上にそのまま高架線を建設する「直上高架方式」で施工された。[[阪神高速6号大和川線]]の建設時に以前は[[盛り土]]区間だった区画を立体交差化した(大和川線の道路はその区画が掘割構造になっている)。 ICカード[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]・[[Suica]]など全国相互利用の乗車カードが使用できる。また、以前は[[スルッとKANSAI]]対応カードおよび[[Jスルーカード]]にも対応していた。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):39.7 km * [[軌間]]:1,067 mm * 駅数:28駅(起終点駅含む) * [[複線]]区間:全線 * [[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化([[直流電化|直流]]1,500 V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:110 km/h<ref name="kansai" /><!--車両の最高速度は車両記事で--> * [[運転指令所]]:大阪総合指令室・南大阪線担当(近鉄天王寺指令) 全線、大阪統括部(旧天王寺営業局)の管轄である。 == 沿線概況 == {{BS-map |title=停車場・施設・接続路線 |title-bg=#028e46 |title-color=white |collapse=yes |map= {{BS||||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:{{rint|ja|wko}} [[大阪環状線]]・|}} {{BS3|||STR|||  [[関西本線]]({{rint|ja|wkq}} [[大和路線]])|}} {{BS3|exSTRq|exSTR+r|STR|||[[南海電気鉄道|南海]]:''[[南海天王寺支線|天王寺支線]]''|}}<!--国鉄との渡り線省略--> {{BS3|uKBHFeq|O1=HUBa|exSTR|STR|||[[天王寺駅#阪堺電気軌道|天王寺駅前停留場]] [[阪堺電気軌道|阪堺]]:[[File:Number prefix Hankai Tramway line.png|14px|link=阪堺電気軌道上町線]] [[阪堺電気軌道上町線|上町線]]|}} {{BS3|KBHFa|O1=HUB|exSTR|STR|0.0|F01 [[大阪阿部野橋駅]]||}} {{BS3|STR|O1=HUBlf|exKBHFe|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|||[[天王寺駅]]{{rint|osaka|m}} {{rint|osaka|t}}|}} {{BS3|KRZq2u|STRq+c3|ABZglr|||←JR西:{{rint|ja|wkr}} [[阪和線]]/{{rint|ja|wko}} 大阪環状線→|}} {{BS3|STRc1|STR+4|STR2|||JR西:関西本線({{rint|ja|wkq}} 大和路線)|}} {{BS|BHF|1.0|F02 [[河堀口駅]]||}} {{BS|BHF|2.1|F03 [[北田辺駅]]||}} {{BS|BHF|2.7|F04 [[今川駅 (大阪府)|今川駅]]||}} {{BS|emKRZo|||南海:''[[南海平野線|平野線]]''|}} {{BS|SKRZ-Au|||[[阪神高速14号松原線]]|}} {{BS|BHF|3.8|F05 [[針中野駅]]||}} {{BS|BHF|5.1|F06 [[矢田駅 (大阪府)|矢田駅]]||}} {{BS|eKRZo|||JR西:''[[阪和貨物線]]''|}} {{BS|hKRZWae|||[[大和川]]|}} {{BS3||BHF|KDSTa|7.3|F07 [[河内天美駅]]||}} {{BS3||KRWgl|KRWg+r||[[古市検車区]]天美車庫||}} {{BS3||STR|ENDEe||||}} {{BS|BHF|8.3|F08 [[布忍駅]]||}} {{BS|BHF|9.1|F09 [[高見ノ里駅]]||}} {{BS|BHF|10.0|F10 [[河内松原駅]]||}} {{BS|SKRZ-Au|||[[阪和自動車道]]|}} {{BS|BHF|11.6|F11 [[恵我ノ荘駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||[[東除川]]|}} {{BS|BHF|12.6|F12 [[高鷲駅]]||}} {{BS|BHF|13.7|F13 [[藤井寺駅]]||}} {{BS|SKRZ-Au|||[[西名阪自動車道]]|}} {{BS|eBHF|14.8|''[[応神御陵前駅]]''|-1974|}}<!-- 日本鉄道旅行地図帳記載の14.9-2009年の大阪阿部野橋駅移転短縮分0.1。以下の廃駅のキロ程も同じ--> {{BS|BHF|15.6|F14 [[土師ノ里駅]]||}} {{BS|ABZg+l|||{{rint|osaka|ktn}} [[近鉄道明寺線|道明寺線]]|}} {{BS|BHF|16.3|F15 [[道明寺駅]]||}} {{BS|SKRZ-Au|||西名阪自動車道|}} {{BS|eBHF|17.8|''[[誉田八幡駅]]''|-1974|}} {{BS|BHF|18.3|F16 [[古市駅 (大阪府)|古市駅]]||}} {{BS3|KDSTaq|ABZgr|||古市検車区||}} {{BS|ABZgr|||{{rint|osaka|kto}} [[近鉄長野線|長野線]]|}} {{BS|hKRZWae|||[[石川 (大阪府)|石川]]|}} {{BS|BHF|20.0|F17 [[駒ヶ谷駅]]||}} {{BS|BHF|22.0|F18 [[上ノ太子駅]]||}} {{BS3||SKRZ-Au|RA+r|||[[南阪奈道路]]|}} {{BS3||SKRZ-Au|RAr||||}} {{BS|TUNNEL1+GRZq|||↑[[大阪府]]/[[奈良県]]↓|}} {{BS|eBHF|24.9|''[[屯鶴峰駅]]''|-1974|}} {{BS|BHF|27.3|F19 [[二上山駅]]||}} {{BS|BHF|28.4|F20 [[二上神社口駅]]||}} {{BS|BHF|30.4|F21 [[当麻寺駅]]||}} {{BS|BHF|31.1|F22 [[磐城駅]]||}} {{BS|BHF|32.3|F23 [[尺土駅]]||}} {{BS|ABZgr|||{{rint|osaka|ktp}} [[近鉄御所線|御所線]]|}} {{BS|BHF|34.2|F24 [[高田市駅]]||}} {{BS|KRZo|||JR西:{{rint|ja|wkt}} [[和歌山線]]|}} {{BS|hKRZWae|||[[葛城川]]|}} {{BS|BHF|35.6|F25 [[浮孔駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||[[曽我川]]|}} {{BS|BHF|36.8|F26 [[坊城駅]]||}} {{BS|BHF|38.5|F27 [[橿原神宮西口駅]]||}} {{BS|eBHF|39.2|''橿原神宮駅''|-1939|}} {{BS3||eABZg+l|exSTRq|||''[[近鉄吉野線|吉野線]]・[[近鉄橿原線|畝傍線]]''|}} {{BS3||BHF|O2=HUBaq|KBHFaq|O3=HUBlg|39.7|F42 [[橿原神宮前駅]]|{{rint|osaka|ktbk}} [[近鉄橿原線|橿原線]]|}} {{BS3||ABZg+l|KBHFxeq|O3=HUBe|||''吉野線旧線''|}} {{BS|STR|||{{rint|osaka|ktfy}} 吉野線|}} }} <!-- 経路図について:道路は高速道路以外は省略(高速道路さえ省略している路線もある)・煩雑になるため高架解消、乗り入れ線区省略(乗り入れ廃止もあるため)しています。凡例に則りHUBを接続範囲とします --> 大阪阿部野橋駅から藤井寺駅付近までは住宅街や学校など多くの建物が立ち並ぶ間を抜けるように走る。道明寺駅あたりから畑が目立ち始め、古市駅から先は一気にのどかな田園風景へと変わる。 高見ノ里駅以東は[[竹内街道]]や[[長尾街道]]と並行しているために沿線には史跡や古墳等の歴史的建造物が多い。また奈良県内では[[二上山 (奈良県・大阪府)|二上山]]や[[大和葛城山|葛城山]]の山なみと並行するため、季節によって美しく様変わりする山肌を楽しむこともでき、花や紅葉の見ごろになると急行の臨時停車を実施する駅も少なくない。上ノ太子駅周辺では[[ブドウ]]や[[ウンシュウミカン|ミカン]]の栽培が盛んで、車窓から果樹園が見られる。 以下に示す記述はすべて大阪阿部野橋→橿原神宮前方向における記述であり、逆方向に関しては順序が逆で、その風景が見える方向も左右逆となる。 === 大阪阿部野橋駅 - 古市駅間 === 起点である[[大阪阿部野橋駅]]は、[[キタ]]、[[ミナミ]]に並ぶ大阪有数の繁華街、[[天王寺|阿倍野]]に置かれている[[阿部野橋ターミナルビル]]([[あべのハルカス]])に内包されている。大阪阿部野橋を出てすぐ、線路は高架に上がる。右へカーブしつつ[[阪和線|JR阪和線]]を跨ぐと間もなく[[河堀口駅]]。河堀口から線路はさらに右へカーブし、[[東住吉区]]へ移って[[北田辺駅]]、[[今川駅 (大阪府)|今川駅]]へと続く。今川を出てしばらくすると[[阪神高速14号松原線]]の高々架をくぐるが、その高々架の直下には[[Osaka Metro谷町線|地下鉄谷町線]]の[[駒川中野駅]]がある。南大阪線はさらに東住吉区内の住宅街を高架で進んで[[針中野駅]]、右手に[[長居公園]]や[[大阪芸術大学短期大学部]]大阪キャンパスを見ながら[[矢田駅 (大阪府)|矢田駅]]と進む。矢田を出ると次第に密集していた住宅は間が開き始め、線路は[[大和川]]を渡る。大和川の手前に見える堤防沿いの細長い工事中の土地は、JRの[[阪和貨物線]]の廃線跡である。 大和川より南は[[松原市]]となり、左手に[[阪南大学]]のキャンパスを眺めつつ、線路は高架から下りて地上に移り、古市検車区天美車庫を設置している[[河内天美駅]]に至る。線路は次の[[布忍駅]]を出てすぐ左へ急カーブを曲がる。そこからは右手に[[大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線|大阪府道12号堺大和高田線]]を眺めて走り、府道12号は次第に迫ってきて[[高見ノ里駅]]。さらに進むと松原市街地へ入っていき、[[河内松原駅]]に至る。河内松原駅は大阪阿部野橋から最初の準急停車駅であり、最初の緩急接続可能駅でもある。さらに[[美原区|美原]]、[[堺区|堺]]方面へのバスも発着しており、終日賑わいを見せる。 河内松原を出ると線路は[[阪和自動車道]]をくぐって[[羽曳野市]]に入り、府道12号をくぐって住宅地を走り[[恵我ノ荘駅]]に至り、その後ゆるやかに左へカーブし[[高鷲駅]]に達する。高鷲を出てまもなく線路は[[藤井寺市]]に入り、右手に[[四天王寺大学]]のキャンパスが見えれば間もなく[[藤井寺駅]]である。[[四天王寺学園小学校]]が建っている所には2005年1月まで[[藤井寺球場]]があり、現在は[[オリックス・バファローズ|オリックス]]と合併した[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]の本拠地として栄えていた。 藤井寺駅にはここから[[大阪府道2号大阪中央環状線#(旧)大阪中央環状線|旧中央環状線]]を通って[[近鉄八尾駅]]方面に向かう便と、[[羽曳が丘|羽曳ヶ丘]]方面へ向かう便の、大まかに2種のバスが発着しており、交通の要衝となっている。また、藤井寺駅では大阪阿部野橋からの普通列車の大半が折り返すため、1本の引き上げ線があるものの、駅の東方が線路のぎりぎりまで建物がせり出している事情から引き上げ線は大阪阿部野橋方にある。そのため当駅折り返しの普通列車は到着後3回も折り返し作業をしなければならず、入出庫のつど藤井寺駅すぐ西側の踏切を通らねばならないために、この踏切は日中でも遮断機が長い時間にわたり開かない「[[開かずの踏切]]」となっている。 藤井寺を出てしばらくは藤井寺市内の住宅街を走るが、[[西名阪自動車道]]をくぐると前方にある[[仲ツ山古墳]]を回り込むために左へ大きくカーブを切る。右へ曲がり旧[[国道170号]]をくぐるあたりで[[土師ノ里駅]]に着く。土師ノ里を出るとほどなく南大阪線最大の急カーブに至り、特急などの優等列車もここでは45km/hに速度を落として走行する。左手より[[近鉄道明寺線|道明寺線]]が合流して[[道明寺駅]]に至る。もともとは道明寺線の方が先に完成し南北に走る線路として開通していたため、後付けとなった南大阪線の方が急カーブを描く格好になっている。 道明寺を出ると線路は再び羽曳野市に入り、西名阪自動車道をもう一度くぐる。西名阪のガードを抜けると風景は住宅地から一変して[[イチジク|無花果]]などの畑が広がる。畑地帯を抜けると次第に羽曳野の市街地に移り、古市検車区を構える[[古市駅 (大阪府)|古市駅]]に至る。この駅では[[近鉄長野線|長野線]]と分かれるほか、この駅より先は長野線の[[富田林駅]]までと特急停車駅を除いて8両編成の電車は停車できなくなるため、車両の連結や切り離しが頻繁に行われる。 === 古市駅 - 橿原神宮前駅間 === 本線と支線の分岐駅では、本線がまっすぐに進み、支線が分かれていくのが通例だが、古市駅においては支線の長野線がまっすぐ南下して、南大阪線の方が左へカーブする。これは先述した道明寺駅の場合と事情は全く同じで、先に[[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]] - 道明寺駅 - 古市駅 - [[河内長野駅]]間のルートが開通し、後から南大阪線の線路が開通していったためである。 長野線と分かれると左手には古市の住宅地が、右手には台地の崖が連なる。ほどなく線路は[[石川 (大阪府)|石川]]を渡るが、石川を境に風景は一気に変わる。田園が広がる中に工業団地と住宅が点在するのが見え、線路はゆるやかに右へカーブし、[[駒ヶ谷駅]]に至る。この駅の左手には[[梅酒]]メーカーの[[チョーヤ梅酒]]本社がある。駒ヶ谷の住宅地を抜けると周辺は広大なブドウ畑や水田などが広がり、左手を[[国道166号]](竹内街道)が並行する。右手に[[南阪奈道路]]が近づいてくると[[上ノ太子駅]]である。この駅は鉄道駅が存在しない[[太子町 (大阪府)|太子町]]の玄関口の役割をなし、当駅から太子町の市街地、住宅地へ向かうバスが発着している。 上ノ太子を出てほどなく線路は国道166号(竹内街道)と踏切で交差し、山裾を縫うように蛇行して走り、4km以上に亘る33.3‰の連続上り勾配にかかる。蛇行のために南阪奈道路を2度アンダーパスし、線路は羽曳野市から太子町に入る(しかし先述した通り太子町内には駅がなく、あくまでも南大阪線は太子町を通過するのみである)。そこからしばらくは右手を[[奈良県道・大阪府道703号香芝太子線]]が並行する状況が続くが、この道路は途中で線路を跨いで左手側に移る。この線路を跨ぐ場所が[[穴虫峠]]であり、[[大阪府]]と[[奈良県]]の府県境にあたる。山岳を貫くトンネルを通らずに大阪府と奈良県の府県境を越えるのも、この路線の特徴の一つである。 奈良県[[香芝市]]に入ると左手に見える県道703号は[[国道165号]]と合流し、[[大和高田バイパス]](国道165号バイパス)と側道(従来の国道165号)に分かれ、南大阪線はバイパスを潜り、国道165号と並行する。ここから先はしばらく二上山の裾を沿うように走るため、右手方向には二上山の[[フタコブラクダ]]状の稜線が美しく見える。この間に[[二上山駅]]、[[二上神社口駅]]、[[当麻寺駅]]を通り、線路は[[葛城市]]に移る。この区間の山以外の風景においては、駅の前後に住宅が密集しているほかは、広大な田畑が広がりのどかである。 なお、二上山のふもとは[[當麻寺]](当麻寺)をはじめ[[ボタン (植物)|牡丹]]の名所となっている地が多くあり、二上神社口と当麻寺の両駅は牡丹の見ごろになると一部の急行が臨時停車する。 当麻寺駅から[[磐城駅]]にかけてはほぼ直線に進み、磐城駅を過ぎると再び国道166号と踏切で交差して、ゆるやかに左へカーブする。このあたりから住宅の数が増えてきて、ほどなく[[尺土駅]]に至る。尺土駅は[[近鉄御所線|御所線]]との分岐駅であるとともに緩急接続可能駅であり、さらに大阪阿部野橋から最初の特急全列車停車駅<ref group="注釈">朝ラッシュ時の大阪阿部野橋行き特急と夕ラッシュ後の夜間時間帯の吉野行き特急は古市駅にも停車する。</ref>でもあるため、終日にわたり準急(この区間は各駅停車)・普通と急行・特急との接続が行われている。 尺土駅を出て御所線が右へ分かれると、再び田園風景が広がり[[大和高田市]]に入る。田園風景はつかの間で急速に建物の数が増え、高田の市街地に移っていく。次第に線路は高架を上り、[[高田市駅]]に至る。高田市駅は南大阪線における大和高田市の中心駅であるが、大阪線の[[大和高田駅]]、JRの[[高田駅 (奈良県)|高田駅]]には広大な駅前広場があるのに対し、高田市駅前は2車線(片側1車線)の国道166号(バイパス)にバス乗り場を兼ねたロータリーが申し訳程度に設置されているのみで、線路、道路のぎりぎりまで所狭しと建物が密集している。 高田市を出ると線路はゆるやかに右へカーブを切り、JR[[和歌山線]]を跨いでほどなく高架から地上区間に下りる。しばらくは住宅地を進むが、徐々に住宅の間隔が空き畑が目立つようになると今度はゆるやかに左へカーブし、[[浮孔駅]]に至る。そこから少し進むと[[国道24号]]大和高田バイパスを潜り、[[橿原市]]に入る。そして、[[京奈和自動車道]][[橿原高田インターチェンジ]]高架下を潜り通り、水田地帯を抜け住宅地が迫ると[[坊城駅]]となり、さらに線路は南東へ直進する。坊城の住宅地を抜けると再び広い田園地帯に入り、左手には[[大和三山]]の一つ[[畝傍山]]と[[橿原神宮]]を包む森林が見えてきて、畝傍山の裾に入ると[[橿原神宮西口駅]]に至る。線路は左手に橿原神宮の森林、右手に[[奈良芸術短期大学]]などの学校群や住宅街を眺め、大きく右へカーブして[[近鉄橿原線|橿原線]]との接続駅である[[橿原神宮前駅]]に達する。南大阪線としてはこの駅が終点であり、この駅で折り返す列車も多くあるが、線路はこの先も続いて[[近鉄吉野線|吉野線]]となっており、急行・特急は大半が吉野線に直通して[[吉野駅 (奈良県)|吉野駅]]まで運転される。 == 運行形態 == {{Main2|特急列車|近鉄特急}} 大阪阿部野橋駅から[[近鉄長野線|長野線]]・[[近鉄吉野線|吉野線]]と直通運転を行っている。[[近鉄御所線|御所線]]とも古市駅折り返しおよび大阪阿部野橋行きのみだが直通運転がある。大阪阿部野橋駅 - [[吉野駅 (奈良県)|吉野駅]]間には急行などのほか、「[[近鉄26000系電車|さくらライナー]]」や観光特急「[[近鉄特急#観光特急「青の交響曲(シンフォニー)」(大阪 - 吉野間)|青の交響曲]]」などの[[近鉄特急|特急]]が運転されている。ダイヤは基本的に大阪阿部野橋発時刻はわかりやすく、できるだけ等間隔にそろえられている。 === 運転本数 === 日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。1時間当たり特急1本が吉野線に、準急4本が長野線に乗り入れる。 {| class="wikitable" style="font-size:85%;" |- |+日中の運行パターン !駅名<br /> \<br />種別 ! style="width:1em;"|{{縦書き|大阪阿部野橋|height=6em}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|藤井寺|height=6em}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|古市|height=6em}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|橿原神宮前|height=6em}} ! style="width:1em;"|{{縦書き|[[近鉄吉野線|吉野線]]直通|height=6em}} |- style="text-align:center;" |style="background:#fcc;"|特急 ||colspan="11" style="background:#fcc;"|1本 |- style="text-align:center;" |style="background:#fc9;"|区間急行<ref group="*">尺土 - 橿原神宮前は各駅に停車</ref> ||colspan="9" style="background:#fc9;"|2本 ||colspan="2"|&nbsp; |- style="text-align:center;" |style="background:#cf9;" rowspan="2"|準急<ref group="*">大阪阿部野橋 - 藤井寺を除き各駅に停車</ref> ||colspan="6" style="background:#cf9;"|2本 ||colspan="5"|&nbsp; |- style="text-align:center;" |colspan="7" style="background:#cf9;"|4本||colspan="4" style="text-align:left"|[[近鉄長野線|長野線]]→ |- style="text-align:center;" |style="background:#ccc;" rowspan="2"|普通 ||colspan="3" style="background:#ccc;"|6本 ||colspan="3" style="background:#ccc;"|0-3本 || colspan="5" |&nbsp; |- style="text-align:center;" |colspan="6" |&nbsp; ||colspan="3" style="background:#ccc;"|2本 ||colspan="2" |&nbsp; |} === 列車種別 === ==== 急行 ==== 2021年7月3日変更の現行ダイヤでは日中を除く時間帯を中心に運転されている。基本的には吉野線に直通し、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で1時間に2本運転されている。南大阪線内は古市駅を含む特急停車駅に停車し、吉野線内は各駅に停車する。したがって南大阪線における長距離の料金不要速達種別であるうえ、事実上の吉野線の各駅停車でもある。春の土休日には[[当麻寺駅]]・[[二上神社口駅]]に、秋の土休日には[[上ノ太子駅]]に臨時停車する列車がある。 長野線直通は(長野線内は各駅に停車)平日の朝ラッシュ時には[[河内長野駅|河内長野]]発大阪阿部野橋行きと大阪阿部野橋発[[富田林駅|富田林]]行きが、夕ラッシュ時には富田林発大阪阿部野橋行きと大阪阿部野橋発河内長野行きの列車が運転されている(2011年3月16日のダイヤ変更から平日夕ラッシュ時にも富田林発大阪阿部野橋行きが運転されるようになった)。また平日の早朝には下り古市発橿原神宮前行きが運転されている。かつては深夜にも運転されており、大阪阿部野橋発古市行き準急が終点の古市駅で種別変更されたものとして運転していた。この列車は2012年3月20日のダイヤ変更以前、平日の夕方ラッシュにも運転されていた。 平日朝8時台には下りに大阪阿部野橋発古市行き急行も運転されていたが、2011年3月16日のダイヤ変更で廃止された。これは[[古市検車区]]への入庫を兼ねた列車だった。しかしこのダイヤ変更で上り平日深夜22時台に古市発大阪阿部野橋行き急行が運転を開始した。これらは急行停車駅1駅間のみの運行となっていたが、現在は廃止されている。 2021年7月3日のダイヤ変更では平日・土休日共に10 - 14時台の列車が区間急行に格下げとなり、日中の運行が無くなった。 毎年5月上旬から中旬の土休日には御所線[[近鉄御所駅]]まで直通する臨時急行「[[#愛称列車|葛城高原号]]」も運転されている。 定期列車は途中駅での特急待避を行わず([[1990年]]以降)、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間の急行の所要時間は90分強で、特急と急行の所要時間差は約15分強である。このため下りについては、急行が大阪阿部野橋駅を発車してから20分後に発車する特急より2 - 3分早く吉野駅へ到着し、上りは特急の3分後に急行が発車して特急より約20分後に大阪阿部野橋駅へ到着するダイヤが基本パターンとなっている。 編成両数は、南大阪線内及び長野線富田林以北では最長8両編成で、吉野線では最長4両編成、長野線富田林以南では最長5両編成。ラッシュ時間帯以外は4両編成を基本に運用されている。当麻寺駅・二上神社口駅・上ノ太子駅に臨時停車する列車はホーム[[有効長]]の関係上、4両編成で運転される。 ==== 区間急行 ==== 2021年7月3日変更の現行ダイヤでは日中時間帯を中心に、朝や夜間にも数本が運転されている。日中時間帯では毎時2本が運転され、それ以外の時間帯では上りは平日の朝に1本、土休日の夜に3本、下りは土休日19時台に2本、深夜に平日・土休日1本が運転されている。全列車が大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間の運行であるが、橿原神宮前駅から先、普通に種別変更の上そのまま吉野線に直通する列車もある(種別変更運転の理由は[[近鉄吉野線|吉野線]]の項を参照のこと)。停車駅は急行の停車駅に[[浮孔駅]]・[[坊城駅]]・[[橿原神宮西口駅]]が追加され、[[尺土駅]] - 橿原神宮前駅間は各駅に停車する。かつては下りの深夜の一部列車に古市駅で後ろの車両を切り離し、橿原神宮前行きの普通に変更して運転、前の車両は橿原神宮前駅から吉野行きの普通として運転するという列車もあった。編成両数は4両編成が大半で平日朝の上り1本は6両で運転される。かつては8両編成の列車もあった。 [[1972年]]以前の急行は当線の尺土駅 - 橿原神宮前駅間および吉野線の各駅に停車し、現在の区間急行と同じ停車駅であった。翌[[1973年]]に、従来の停車駅の列車を朝ラッシュ時の橿原神宮前発大阪阿部野橋行きに設定し区間急行が運転開始した。[[1980年代]]前半までは朝の大阪阿部野橋行きのみの設定であったが、現行ダイヤへの過渡期である[[1989年]]から[[1990年]]にかけては、昼間にも1時間1本運転されていたことがあった。また2011年3月13日までは、土休日のみであったが吉野線吉野発も運転していた。2010年3月19日のダイヤ変更で平日朝の大阪阿部野橋行は廃止されたが、2011年3月16日のダイヤ変更で1本のみ復活している。2021年7月3日のダイヤ変更では10 - 14時台の大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で運転されていた急行を格下げする形で日中の設定が復活した(平日の一部列車を除いて橿原神宮前駅 - 吉野駅間は普通に種別変更の上そのまま直通運転する)。 2021年現在、近鉄全体ではこの区間のみに設定されている列車種別であり、英文表記は Suburban Express ([[方向幕]]における表示は「 SUB. EXP. 」)である。 ==== 準急 ==== [[ファイル:橿原神宮前・富田林行き準急.jpg|thumb|2013年3月のダイヤ変更前まで運行されていた橿原神宮前・富田林行き準急]] 終日、大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅・長野線河内長野駅間で運転されている。大阪近郊における短距離の速達種別という位置づけで、昼間時は1時間に古市駅(一部橿原神宮前駅)発着が2本、長野線直通河内長野駅発着が4本の合計6本が運転される。大阪阿部野橋駅には急行か区間急行の3倍の数の準急が発着することになり、大阪阿部野橋駅 - 古市駅間では準急が主力速達種別となっている<ref>[http://eki.kintetsu.co.jp/norikae/T5?USR=PC&slCode=349-0&d=1&dw=0 大阪阿部野橋駅 時刻表] - 近畿日本鉄道、2018年3月17日変更時点</ref>。 普通が激減する藤井寺駅 - 橿原神宮前駅・長野線河内長野駅間での各駅停車としての役割を担っており、長野線直通準急の約半数が古市駅で橿原神宮前駅方面の急行または区間急行と、橿原神宮前駅発着の大半の列車が尺土駅で特急とそれぞれ緩急接続を行っている。また古市駅発着の列車は古市駅 - 橿原神宮前駅の普通と接続している。基本的に大阪阿部野橋駅 - 古市駅間では最先着列車となるが、平日朝ラッシュ時下りに河内松原駅で、平日夕ラッシュ時上りに藤井寺駅で後続の特急や急行に追い抜かれる列車が存在する。かつては朝ラッシュ時上りにも藤井寺駅や、次の停車駅が終着駅であるにもかかわらず河内松原駅で後続の特急や急行に追い抜かれる準急が存在した。またラッシュ時間帯の一部列車は尺土駅で急行と古市駅で特急と緩急接続を行っている。 朝ラッシュ時には御所線近鉄御所発大阪阿部野橋行きが、吉野線直通としては上りが平日1本、下りが平日2本土休日に1本の吉野駅発着列車が運転されているほか、平日日中の一部の列車は橿原神宮前駅から先、普通に種別変更の上そのまま吉野線に直通する列車もある。また、朝ラッシュ終わり・夕ラッシュ・深夜時間帯には古市駅で河内長野行きと橿原神宮前行きまたは御所行き普通列車に分割される列車もある。朝夕ラッシュ時や早朝・深夜には富田林駅発着列車もある。 2018年3月のダイヤ変更後、平日深夜下りに古市行き準急として運転し、古市駅から橿原神宮前行き急行に種別・行先変更する列車が運転されている。この列車は2012年3月のダイヤ変更までは平日夕ラッシュ時にも運転されていたが、ダイヤ変更後は橿原神宮前行き準急として運転している。 2013年3月のダイヤ変更までは同じくラッシュ時に橿原神宮前行きと富田林行きに古市駅で分割される列車が存在した(案内上は橿原神宮前・富田林行き準急で、前部車両が橿原神宮前行き、後部車両が富田林行き)。ダイヤ変更後、富田林行き準急として運転されている。夕ラッシュ時の富田林行きは古市駅で分割後、後部車両が橿原神宮前行き普通列車に種別・行先変更を行っているが、2014年9月のダイヤ変更以降、一部の列車では分割作業を行わず、古市駅から別の車両を橿原神宮前行き普通列車に充当している。なお、2018年現在、橿原神宮前行き準急の後部車両が古市から富田林行きとなる場合も、種別・行先変更での案内を行っており、「橿原神宮前・富田林行き準急」の案内は行っていない。なお、上り列車では2018年現在でもラッシュ時に吉野・橿原神宮前・御所始発と富田林・河内長野始発とする列車が古市駅で連結作業を行っているが、上り列車は両列車とも始発駅から大阪阿部野橋行き準急として運転している。 [[1965年]]のダイヤ変更までは[[土師ノ里駅]]は通過していた。現在は普通の大半が藤井寺までの運転となったこともあり停車している。また、[[1970年代]]までは大阪阿部野橋駅 - [[河内天美駅]]間運転の準急が朝ラッシュ時に設定されており、この準急に限り他の準急が停車しない[[矢田駅 (大阪府)|矢田駅]]と河内天美駅に停車(河内天美駅は大阪阿部野橋駅方面発着のみ)していたほか、[[1990年]]までは日中にも吉野線・御所線直通の列車がそれぞれ片道1時間1本の割合で運転されていた。 2018年3月のダイヤ変更で終電時間帯の時刻が見直され、大阪阿部野橋駅発23時台の準急を増発し、河内長野行き、富田林行きのそれぞれの最終列車の発車時刻が繰り下げられた<ref name="kintetsu201508192">[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/2018daiyahenkouv3.pdf 2018年のダイヤ変更について] - 近畿日本鉄道、2018年1月18日</ref>。 2022年4月23日のダイヤ変更で日中の橿原神宮前発着の大半の列車が古市駅発着の準急と古市駅 - 橿原神宮前駅の普通に分断された<ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/2022daiyahenkou.pdf 2022年4月23日(土)ダイヤ変更について]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2022年2月24日</ref>。 編成両数は、大阪阿部野橋駅 - 古市駅間と長野線直通列車は平日と土休日で輸送力の格差が大きく、平日はラッシュ時に7 - 8両の長編成での運転が多いのに対し平日日中と土休日は基本的に終日4 - 5両編成である。古市駅 - 橿原神宮前駅間と御所線直通列車は2両 - 4両編成で運転されている。 ==== 普通 ==== 終日運転されているが、全線を通しで運転するのは早朝・深夜のごくわずかで、事実上古市駅を境に運転系統が分かれている。 ===== 大阪阿部野橋 - 古市・河内長野間 ===== <!-- 2021年7月3日のダイヤ変更では日中の古市行きは大阪阿部野橋発が毎時01分・31分発から21分・51分発になっただけです。皆無にはなっていません--> 大阪側では大阪阿部野橋駅 - 藤井寺駅・古市駅間での運転が基本で、昼間時は大阪阿部野橋駅 - 藤井寺駅間で1時間に6本運転され、そのうち1時間に0 - 3本は大阪阿部野橋駅 - 古市駅で運転される。また[[河内天美駅]]に隣接して古市検車区天美車庫がある関係で、早朝に河内天美発大阪阿部野橋行きがある。[[1980年]]頃までは[[針中野駅]]の乗降客が非常に多かったことからラッシュ時を中心に河内天美駅折り返しの普通列車も多く運転されていたが、同年[[11月27日]]の[[Osaka Metro谷町線|地下鉄谷町線]][[八尾南駅]]延伸に伴う[[駒川中野駅]]の開業により針中野駅の利用客が激減したため削減され、現在は早朝に上り1本が残るのみとなっている。 朝および深夜を除く大阪阿部野橋駅 - 藤井寺駅間の運用においては、通常[[今川駅 (大阪府)|今川駅]]で準急(上りの一部列車を除く)、河内天美駅で特急または急行(一部列車を除く)を通過待避し、河内松原駅で、下りはさらにもう1本後、上りはさらにもう1本前の準急と緩急接続する。河内松原駅で緩急接続する列車は、下りは大阪阿部野橋駅を2本後(13分後)に出発、上りは大阪阿部野橋駅に13分前に到着する準急となり、優等列車と普通列車の所要時間差が大きいダイヤが組まれている。 藤井寺駅 - 古市駅間は早朝・日中・深夜の運転が中心で、それ以外の時間にはほとんど運転されない。 長野線への直通列車は上りは深夜に河内長野発大阪阿部野橋行き、平日の朝ラッシュ終了時に富田林発大阪阿部野橋行き、下りは平日の早朝に河内天美発、全日の早朝に大阪阿部野橋発で河内長野行きが運転されている。 編成両数は大阪阿部野橋駅 - 古市駅間は最大6両編成、長野線直通列車は4両または5両編成である。 ===== 古市 - 橿原神宮前・吉野・御所間 ===== この区間は古市駅 - 橿原神宮前駅間での運転が基本(早朝上下線・深夜上りには吉野線直通もあり)である。この区間では準急も各駅に停車するものの、10 - 15時台では同区間で準急がほとんど運転されないため、各駅に停車する唯一の種別となる。それ以外の時間帯でも準急の多くが長野線直通であるため、普通を運転することで運転本数を確保している。 10 - 15時台の列車は2022年4月23日のダイヤ変更で橿原神宮前駅発着の準急を代替したものであり、古市駅発着の準急と同駅で接続し、尺土駅で特急と接続する。それ以外の時間帯の列車は古市駅で河内長野駅発着の準急と接続を行い、尺土駅で吉野駅発着の急行と緩急接続を行っている(但し接続ではなく古市行き普通として運行したのち、その車両がそのまま大阪阿部野橋行き準急に変わる、逆に古市行き準急として運転したのち尺土方面行き普通に変わることもある。この場合、古市より尺土側ではワンマン列車として運行される。)。また上り列車の一部は古市駅で古市駅発大阪阿部野橋行き普通とも接続を行う(乗り継ぐことにより、後続の河内長野駅発準急より河内松原駅までの各駅へ先着する)。 また平日の上りは朝は古市駅 - 御所線近鉄御所駅間の直通列車が運転主体となるため、尺土駅 - 橿原神宮前駅間の区間運転列車が運転される。夕ラッシュには終点の橿原神宮前駅にて、吉野線橿原神宮前駅 - [[吉野口駅]]間の普通に系統変更して引き続き運転されたり、古市行の普通が御所行きに行き先変更をして実質大阪阿部野橋発御所行きとして運転されている列車もある。2012年3月20日のダイヤ変更では夕方ラッシュ時の古市駅で急行に種別変更を行う準急が全区間準急として運転される(藤井寺駅以東は各駅に停車)ために同時間帯は古市 - 橿原神宮前駅間は全列車準急として運転されるようになった。これにより御所線への直通運転や尺土駅 - 橿原神宮前駅間の区間運転列車はなくなった。しかし2015年時点で朝と夕方に古市駅発着で御所線への直通列車が設定されている。 編成両数は2両 - 4両編成(一部列車は2両編成の[[ワンマン運転]]を実施)である。 2021年7月3日のダイヤ変更以前は日中に河内長野駅発着の準急と接続する列車が毎時2本運転されていた。同変更で昼間10 - 14時台の列車が廃止され、古市駅 - 尺土駅は準急のみ毎時2本に減便、尺土駅 - 橿原神宮前駅は急行から区間変更への種別変更で代替された。しかし、2022年4月23日のダイヤ変更で橿原神宮前発着の大半の準急が古市駅発着の準急と古市駅 - 橿原神宮前駅の普通に分断され、同区間での日中の運転が再開された。 ==== 快速急行 ==== 行楽シーズンに[[臨時列車]]として運転されている。快速を前身とする。停車駅は古市駅停車の特急と同一である。編成両数は南大阪線内では最長8両編成、吉野線内は最長4両編成で運転されている。 急行は特急待避をしないが、快速急行については橿原神宮前駅で特急待避および大阪阿部野橋駅方の10分間隔運転に合わせるための時刻調整を行うため、橿原神宮前駅で最長12分停車する。このため大阪阿部野橋駅 - 吉野間の所要時間は1時間45分前後と同時間帯の急行より10分程度所要時間が長くかかっている。吉野線区間においても52 - 53分と、同区間を各駅に停車する急行とほぼ同じ所要時間である。 ==== その他 ==== かつては快速も運転されていた。 === 車両の増解結と種別・行先変更 === 古市駅を境に利用状況が大きく異なることによる車両数の適正化、停車駅ホーム[[有効長]]の違い、分岐各線(長野・御所・吉野線)と合わせた車両運用の能率化により終日車両の増解結を行い、切り離した車両を即時別系統の列車にしたり、建前上の終着駅に到着後種別・行先を変更し引き続き営業運転させる(いわゆる「化け」)等の柔軟な車両運用を行っている。近鉄では他に[[近鉄奈良線|奈良]]・[[近鉄京都線|京都]]・[[近鉄橿原線|橿原線]]と[[近鉄名古屋線|名古屋線]]の一部の列車で表示上の終着駅到着後に種別・行先を変更して引き続き運転している。旅客の利便性目的ではない点が一般的な[[多層建て列車]]等との違いである。 時間帯別においては次の通り。 ==== 朝ラッシュ時 ==== 3 - 4両⇔5 - 8両 *急行・区間急行 - 橿原神宮前駅・古市駅・尺土駅で増解結を行う。朝ラッシュ時には4両編成で吉野駅を発車し橿原神宮前駅で増結を行い6両編成とし、さらに古市駅で増結して8両編成で[[大阪阿部野橋駅]]に向かうという2回増結を行う列車もある。また切り離した車両を橿原神宮前行や御所線御所行普通に種別変更して運転される列車もある。土休日においては終日4両編成での運転を基本としているが一部に吉野駅-橿原神宮前駅又は古市駅間2両編成で運転する列車がありこれらは増解結を行い古市駅以北で4両編成としている。 *準急 - 古市駅で増解結を行う。古市駅で切り離した後一部の車両を橿原神宮前行や同急行に変更して運転される列車、及び後部車両を御所線御所行き普通に種別変更するものもある。 ==== 日中・夕ラッシュ時 ==== 2・3両⇔4・5両 *急行・区間急行 - 日中は基本的に全線4両編成で運転するため、増解結は行わない。これ以外の列車においては朝は7 - 8両、夕方以降は6両で運転するため、途中駅で切り離しを行う(いずれも平日限定)。夕ラッシュ時には、橿原神宮前駅 → 古市駅間を2両編成で運転する急行もある。土休日は基本的に終日4両編成のため吉野線内2両編成で運転する一部の便を除き増解結は行わない。 *準急 - 日中においても、大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間運転の準急において一部の列車が古市駅で増解結を行う。これは大阪阿部野橋駅 - 古市駅間の準急・普通の日中の基本編成が4 - 5両であるのに対し、[[駒ヶ谷駅]] - [[磐城駅]]間の各駅のホームの有効長が4両編成までしか対応していないためである。この準急は日中は基本的に4両編成で運転されるが一部の列車は古市駅で切り離しを行い同駅以南2両編成で運転している。また阿部野橋駅で普通と準急の入れ替えや河内長野準急と橿原準急の入れ替えなど車両運用の関係で橿原準急にもごく一部の列車に5両編成が当たる場合があり、このときも切り離しが行われる。上りも同様に2 - 3両編成で橿原神宮前駅を発車する列車があり古市駅で増結して4 - 5両編成としている。長野線富田林以南の駅は5両編成まで対応でき、また河内長野準急は2・3両編成で運転する列車はないため、大阪阿部野橋駅 - 河内長野駅間で運転される準急の増解結は行わない。 ==== 深夜 ==== 3 - 4両⇔5 - 8両 *準急 - 一部の列車が8両編成で運転しており、古市駅で前5両が長野線河内長野行、後3両が橿原神宮前行普通にそれぞれ分割される。 ==== その他 ==== *特急にも、朝夕のラッシュ時に橿原神宮前で増解結を行う列車がある(2・4両⇔4・6・8両)。 *一部の橿原神宮前行の普通列車も橿原神宮前駅で吉野線吉野口行の普通列車(この逆もあり)に行先を変更して運転されることもある。 *以前は長野線富田林駅でも増解結を行ったが、2013年3月17日の変更ダイヤより6両以上で長野線を走る列車は富田林駅終着・始発の列車のみとされ、増解結はすべて古市駅で行われるようになった。 *土休日ダイヤでは終日4・5両の短い編成での運転を基本としているため増解結を行なうのは大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間の準急に5両編成が当たった場合に限られる(4両編成の列車も一部の列車が古市駅で増解結を行ない古市駅以南を2両編成で運転している)。また2021年7月3日のダイヤ変更以前は大阪阿部野橋18時20分発吉野行き急行が唯一8両編成で運転されていて橿原神宮前駅(上りは古市駅)で増解結を行なっていたが、ダイヤ変更後は4両編成となり土休日ダイヤは普通の一部に6両編成がある他はすべて5両編成以下となった。 === 愛称列車 === 南大阪線では現在でも愛称付きの列車を運行している。愛称列車には小型の愛称板が掲出される。また、LCD式に更新される前の大阪阿部野橋駅の[[発車標]]にはこれらの愛称付きの列車に対応するコマが存在し、LCD式となった発車標にもこれを踏襲して愛称が表示される。近年、愛称列車は減少傾向にあり、[[近鉄6000系電車#16200系|「青の交響曲」16200系]]等を使用した臨時列車(貸切列車)の運転や、主に春や秋の観光シーズンを中心に定期急行の臨時停車が実施されている。 ==== 現存する愛称列車 ==== [[ファイル:Kintetsu Series 6200 Minami-Osaka.jpg|thumb|さくら号]] ; さくら号 : [[吉野山]]の[[サクラ|桜]]の開花に合わせ、臨時快速急行が大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で毎日運転され、愛称板を掲出して最大8往復設定されている。桜の見頃が平年よりも早い時期には愛称板を掲出せず運転されていたこともあった。 : ; 葛城高原号 : [[大和葛城山]]は[[ツツジ]]が群生しており、見頃のシーズンとなる5月上旬から中旬の土休日に大阪阿部野橋駅 - 近鉄御所駅間で臨時急行として2往復、愛称板を掲出して運転されている<ref name="rail fan2003-07">{{Cite journal|和書 |author = 杉浦始 |date = 2003-07-01 |title = モハユニ ■近鉄 臨時急行「葛城高原号」運転 |journal = RAIL FAN |issue = 7 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 21 }}</ref>。 : 大阪阿部野橋駅 - 近鉄御所駅間では「つつじ号」として愛称板を取り付けて運転されていたが、これがなくなり、2001年から再び運転されるようになった。 ; 開運号 : 橿原神宮へ参拝する旅客の利便性向上のため、大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間で臨時急行が11往復運転されている。愛称板も掲出し、基本的に[[正月三が日]]の運転であるが、曜日配列によっては4日にも運転されている。 : 臨時急行により三が日の日中は、大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間は急行が毎時4本となる。[[1990年代]]前半頃までは急行とは異なる「臨時急行 EXP.(EXTRA)」という種別の列車であり、河内松原駅・藤井寺駅・土師ノ里駅・[[道明寺駅]]にも停車していたが、現在ではこの4駅を通過している。特に1990年頃までは、正月三が日は定期列車も含めて大幅なダイヤ変更が行われていた<!--当時の初詣パンフより-->。この名残で、方向幕に「臨時急行」の表示が用意されている(車両の[[列車選別装置]]設定機にも開運号が使用する「K急」が残されている)。 <gallery> ファイル:Kintetsu Series 6020 Minami-Osaka.jpg|開運号 ファイル:Kintetsu6820AY21-AY22.jpg|6820系の開運号 </gallery> ==== 過去の愛称列車 ==== ; バファローズ号 : [[大阪ドーム]]で[[大阪近鉄バファローズ]]主催試合が行われていた際、試合開始時間に合わせて河内長野駅・橿原神宮前駅→大阪阿部野橋駅間の準急および吉野駅→大阪阿部野橋駅間の急行に愛称板が取り付けられていた。 : 本拠地を[[藤井寺球場]]としていた時には、臨時列車なども運転されており、定期の急行・区間急行などが藤井寺駅に臨時停車していた。また大阪阿部野橋駅発着の臨時準急(河内松原のみ停車)と臨時急行(無停車)、大阪阿部野橋駅・藤井寺駅 - 吉野駅間の臨時快速急行(快速急行停車駅の他藤井寺に臨時停車)と大阪阿部野橋駅・藤井寺駅 - 橿原神宮前駅間の臨時区間急行(区間急行停車駅の他藤井寺に臨時停車)も試合開始前と試合終了後に設定されていた。 : ; ぼたん号 : 「さくら号」の運転終了後から[[ゴールデンウィーク]]までの土休日に大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅で運転されていた。定期の急行2往復に愛称板が取り付けられ、[[ボタン (植物)|ボタン]]で有名な石光寺・[[當麻寺]]への参拝者のため二上神社口駅・当麻寺駅に臨時停車していた。 : ; あすか・みよしの号 : 「さくら号」の運転終了後からゴールデンウィークまでの土休日に大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で運転され、定期急行の2往復に愛称板を取り付けていた。1989年頃までは快速急行として運転し、二上神社口駅・当麻寺駅に臨時停車していた。 : 秋にも大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間の定期急行2往復に愛称が付けられ、10月から11月中旬の土休日に愛称板を掲出して運転されていた。 : ; 新緑号 : 「あすか・みよしの号」の掲出終了後から6月前半までの土休日に、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で運転され、定期急行の2往復に愛称板を取り付けていた。 : ; あじさい号 : 大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間の定期急行2往復のうち、大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間に愛称板が取り付けられ、「新緑号」の掲出終了後から6月中旬までの土休日まで運転されていた。大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間で定期急行が設定されていた時期には、その列車に愛称板が掲出されていた。 : ; ぶどう号 : [[1958年]]9月に臨時準急として大阪阿部野橋駅 - [[駒ヶ谷駅]]([[回送]]で[[二上山駅]])間で運転され、[[1962年]]からは8月・9月の休日に2往復が運転されていたが、[[1969年]]以後は3 - 4往復運転されていた。[[1980年代]]頃まで、7月下旬から9月上旬の期間、朝夕の急行の一部が駒ヶ谷駅に臨時停車していた。 : ; なし狩号 : 9月の土休日に、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間の定期急行1往復に愛称が名付けられ、[[ナシ|梨]]の形をあしらった愛称板を掲出して運転していた。定期特急に愛称を名付けていたり、快速急行を運転して、[[大阿太駅]]に臨時停車していた時期もあった。[[福神駅]]・大阿太駅周辺は、奈良県内で梨の産地で有名である。 : なし狩号は、その前身となる「20世紀号」という名称で、快速急行として[[1970年]]から運転を開始し、その後[[1979年]]からは大阪阿部野橋駅 - 下市口駅間で特急列車としても運転し、大阿太駅に臨時停車していた。 : 特急列車に愛称板を掲出する場合の車種ごとの取り扱いは以下の通り。 :* [[近鉄16000系電車|16000系]]:通常使用している行先方向板の代わりに愛称板を掲出。 :* [[近鉄16000系電車#16010系|16010系]]:貫通扉の行先方向幕に加え、サボ受けに愛称板を掲出。 :* [[近鉄22000系電車#16400系|16400系]]:車外に愛称板を掲出するサボ受けがないため、愛称板は未掲出の状態で運転。 : ; 大台号 : 大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間の定期特急1往復に名付けられていた愛称で、10月から11月中旬に運転されていた。[[大台ヶ原山]]をイメージした愛称板が取り付けられていた。愛称板の掲出については、なし狩号と同様の取り扱いであった。 : ; 越年号 : [[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけての[[終夜運転]]実施時に、古市駅に停車する特急に名付けられる愛称であった。 : ; 建国号 : 2月11日([[建国記念の日]])に橿原神宮で行われる[[紀元節|紀元祭]]にあわせて、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間の定期急行2本のうち、橿原神宮前までの区間に愛称が名付けられ、愛称板も掲出していた。 === PL花火臨時ダイヤ === [[ファイル:Kintetsu Series6620.jpg|thumb|臨時列車の富田林行準急]] [[ファイル:Kintetsu6221.jpg|thumb|2005年まで運転されていた富田林行急行]] 毎年、8月1日に[[富田林市]]で行われる[[教祖祭PL花火芸術|PL花火芸術]]の観覧客輸送のため、年によって変動するがおおよそ当日15時以降に長野線直通列車が大幅増便される特別ダイヤで運転されている。以前は一般列車に愛称板を掲出していた時期もあったが、現在は掲出されなくなった。 ; 特急 : もともと、長野線発着となる特急列車の設定がなく、PL花火臨時においても特急列車の設定は皆無であったが、2010年は従来の臨時列車のほか、[[近鉄26000系電車|26000系]]「さくらライナー」を2本連結した8両編成で大阪阿部野橋発富田林行きの臨時特急(往路のみ)が運転された<ref>[http://railf.jp/news/2010/08/02/143000.html 近鉄26000系が臨時特急として近鉄長野線に初入線] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2010年8月2日</ref>。 : 2012年のダイヤ変更以降、一部の特急が古市駅に停車するようになり、PL花火芸術実施日においても、通常より多くの特急を古市駅に停車させている。2014年は下りは16時台以降、上りは17時台以降の全ての特急が古市駅に停車する。2012年からのPL花火芸術実施日には、古市駅に臨時停車する特急に「花火号」と命名して、同駅で富田林方面行きとの接続が行われた<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/20120720plhanabirinzi.pdf 8 月1 日(水)、「PL花火芸術」開催に伴い臨時列車を運転します。]}} - 近畿日本鉄道ニュースリリース 2012年7月20日</ref>。 : ; 急行 : 大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅・吉野駅間の急行は通常通り運転される。ただし、大阪阿部野橋駅 - 富田林駅間の輸送力を確保するため、通常6 - 8両編成のところを4両編成に減車される列車もある。これに加え、以下の列車が運転された。 :* 2005年まで:当時定期列車に無かった大阪阿部野橋発富田林行き急行を運転(通常の河内長野行きを富田林行きに変更)。 :* 2006年:河内長野発大阪阿部野橋行きのみ。5両編成で運転。 :* 2007年:設定無し。 :* 2008年:古市発大阪阿部野橋行きを運転。 :* 2009年:河内長野発大阪阿部野橋行きと富田林発大阪阿部野橋行きを運転。 :* 2010年:送り込みを兼ねた古市発大阪阿部野橋行きを運転。 :* 2011年:送り込みを兼ねた富田林発大阪阿部野橋行きを運転。 :* 2012年:送り込みを兼ねた富田林発大阪阿部野橋行きを運転。 :* 2013年:設定無し。 :* 2014年:花火臨での設定は無かったが9月21日のダイヤ変更より通常ダイヤで平日朝に大阪阿部野橋発富田林行き急行が1本だけ運転されるようになる。 : ; 準急 : 大阪阿部野橋駅 - 富田林駅間(夜間の下り列車は大阪阿部野橋駅 - 古市駅間)で最多で5分おきに頻発される、近鉄の臨時列車の中で最も本数の多い列車で花火観客輸送の主役を担う。土休日にもほとんどの編成が8両とラッシュ時以上の運行となる。また2008年は大阪阿部野橋発藤井寺行きが数本運転された。 : 大半の列車が富田林駅まで8両編成で運転されるために通常の橿原神宮前駅・河内長野駅・近鉄御所駅発着の列車は運転されない。橿原神宮前駅発着列車は古市駅 - 橿原神宮前駅間の普通、河内長野駅発着列車は大半が大阪阿部野橋駅発着の普通、近鉄御所駅発着列車は尺土駅 - 近鉄御所駅間の御所線内折り返し運転となる。2009年からは20時以降河内長野発大阪阿部野橋行き準急も運転されている。また2010年以降は深夜に大阪阿部野橋発河内長野行きも運転されている。近年は富田林駅発着となる列車が8両、河内長野駅発着となる列車は折り返し普通列車となる場合もあることから、古市駅での連結作業を行わず5両で運転される(一部、富田林駅発着となる運用に回る場合は古市で連結作業を行う)。また大阪阿部野橋駅発19時半ごろから22時半ごろまでの全ての準急が古市行きになる。2013年、2014年は深夜1往復のみ大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間の運転もある。 : ; 普通 : [[ファイル:2010年運転の普通列車.JPG|thumb|2010年、PL花火芸術開催日に運転された大阪阿部野橋発河内長野行普通と富田林行普通]] : 終日、大阪阿部野橋駅から発車する普通列車は基本的に藤井寺駅・古市駅までの運転となる。大阪阿部野橋駅 - 藤井寺駅間は通常時と同じ10分おきで運行されるが、前述の急行と同様、準急への輸送力確保のため夕ラッシュ時においても通常より短い4両編成に減車される列車が多くなる。また、前述の通り、大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間の準急の大半が古市駅 - 橿原神宮前駅間の普通に変更されるため、通常よりも本数が増加するほか、通常夕方以降運転される古市駅 - 近鉄御所駅間の普通列車は大阪阿部野橋駅 - 富田林駅間の輸送力を確保するため、こちらは通常よりも本数が少なくなる。これに加え、年次により以下のような列車が設定された。 :* 2005年まで:古市駅 - 富田林駅・河内長野駅間の区間列車を運転(これに加え、2004年には大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間直通の普通列車も運転)。 :* 2006年以降:大阪阿部野橋駅 - 河内長野駅間直通の普通列車を運転(これに加え、2006年は一部古市駅 - 河内長野駅間の区間列車を運転)。 :* 2010年:大阪阿部野橋駅 - 河内長野駅間直通列車のほか、深夜時間帯に大阪阿部野橋発富田林行き直通列車を運転(当日の富田林行き最終列車)。 :* 2014年:大阪阿部野橋駅 - 河内長野駅間直通列車のほか、夕方に富田林発古市行きを1本運転。 : このほか、大阪阿部野橋駅から橿原神宮前行き・古市行き準急として運転し、古市駅で種別・行先変更して運転されることもあった(橿原神宮前行きは古市駅で切り離した車両をそのまま長野線普通として運転)。 === 終夜運転 === [[大晦日]]から[[元日]]にかけての[[終夜運転]]は、[[橿原神宮]]への初詣客などに利用されており、2022年度は大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間で特急が1往復、普通が午前3時台まで約30分間隔で運行している。 [[1990年代]]後半までは特急も普通も15分間隔で運転されていた。2008年度までは特急も普通も20分間隔で運行されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.jp/news/files/20081110nennmatunennshioosaka.pdf |title=年末から年始にかけて列車の増発および延長運転を実施します(大阪地区)(PDF190KB) |access-date=2023-3-23 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>。2009年度は30分間隔に減便された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.jp/news/files/091110syuyaosaka.pdf |title=年末から年始にかけて列車の増発および延長運転を実施します。(大阪地区) |access-date=2023-3-23 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>。2010年度<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.jp/news/files/nenmatunenshiosaka20101109.pdf |title=年末から年始にかけて列車の増発及び延長運転を実施します(大阪地区) |access-date=2023-3-23 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>から2019年度<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/2019nenmatunensi.pdf |title=年末から年始にかけて、臨時列車および運転区間延長列車を運転します |access-date=2023-3-23 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>は特急が3往復、普通が約30分間隔で運行されており、一部列車は吉野駅まで運転されていた。2020年度は[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]の影響で終夜運転は行われなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/syuuyaunntenn.pdf |title=大晦日から元旦にかけての終夜運転について |access-date=2023-3-23 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>。2021年度は吉野線内の運転が取りやめられ、特急が2往復となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/nenmatgunennshiyoso.pdf |title=年末から年始にかけて、臨時列車および運転区間延長列車を運転します ~大阪・名古屋から伊勢方面に「ひのとり」の臨時列車が走ります~ |access-date=2023-3-23 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>。さらに2022年度は午前3時台以降の運転が打ち切られ、特急が1往復となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/nenmatunensiyusou.pdf |title=年末から年始にかけて、臨時列車および運転区間延長列車を運転します ~大阪・名古屋から伊勢方面に「ひのとり」の臨時列車が走ります~ |access-date=2023-3-23 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>。 === その他 === 吉野線沿線には飛鳥や吉野などの観光地があり、春や秋のシーズンにはラジオ番組や新聞社主催のハイキングが開催されている。それに合わせた臨時列車も多く運転されている。また、ラジオウォークなど沿線で行われるイベントにあわせて取り付けられるヘッドマークも多い。 行先はこれらの他に臨時急行、区間急行、快速急行の藤井寺行きがあるが、現在はほとんど使われていない。 == 乗務員 == 乗務員は特急のみ通し乗務で、それ以外は古市駅で交替する。ただし、長野線直通列車(準急)及び一部の吉野線直通列車(急行)、橿原神宮前発着の準急は古市駅で乗務交代を行わずそのまま終点まで乗務する場合もある。 == 車両 == {{See also|近畿日本鉄道の車両形式}} 南大阪線系統各車両は全車が古市検車区の所属となっており、列車検査(JRでいう仕業検査)、状態・機能検査(同じく交番検査)は同所で行われるものの(列車検査は同所のほか天美車庫<!-- ←天美車庫が正式 -->・六田車庫でも行われる)、重要部検査・全般検査は[[五位堂検修車庫]]で行われることになっている。入場の際には橿原神宮前駅の東側にある台車振替場で標準軌用の輸送台車に交換され、[[近鉄モト2720形電車|電動貨車モト90形(モト97・98)]]に牽引されて[[八木西口駅]]から大阪線への短絡線を経由して[[五位堂検修車庫]]へ輸送されることになっている。台車振替場で外された当該車両の本台車は輸送時にモト97・98の荷台に積まれる。 当線は府県境の上ノ太子駅 - 二上山駅間([[穴虫峠]])に33.3‰の連続勾配が存在するが、大阪線と異なり曲線を伴う勾配で通過速度が75km/h程度のため、勾配抑速ブレーキを使用するのは特急形車両のみで(その分通過速度が10km/h高い)、通勤形車両は(抑速ブレーキ付きの6422系以降も含め)通常のブレーキを用いて勾配を下る。 なお1960年代に高性能車・新性能車が製造開始された際、車体は高性能車・新性能車とほぼ同じだが走行機器は旧性能車のものを流用した、いわゆる機器流用車が一部の鉄道で製造されたが、近鉄では名古屋線や奈良線には存在したものの、南大阪線には製造されなかった。 南大阪線の現存する全車両の制御器は[[日立製作所]]製で統一されている(標準軌線区は日立と[[三菱電機]]が混在する。南大阪線でも6800系のみ三菱だった)。 === 現用車両 === [[ファイル:Kintetsu6400Series01.jpg|thumb|200px|[[近鉄6400系電車|6400系]]による普通(河内天美)]] * 特急車両 ** [[近鉄16000系電車#16000系|16000系]] ** [[近鉄16000系電車#16010系|16010系]](サニーカー) ** [[近鉄22000系電車#16400系|16400系]](ACE) ** [[近鉄22600系電車#16600系|16600系]](Ace) ** [[近鉄26000系電車|26000系]](さくらライナー) ** [[近鉄6000系電車#16200系|16200系]](青の交響曲) * 一般車両 ** [[近鉄6000系電車#6020系|6020系]] ** [[近鉄6000系電車#6200系|6200系]] ** [[近鉄1400系電車#6600系|6600系]] ** [[近鉄6400系電車|6400系・6407系・6413系・6419系・6422系・6432系]] ※6419系と6432系はワンマン対応 ** [[近鉄6400系電車#6620系|6620系]] ** [[近鉄9820系電車#6820系|6820系]]([[シリーズ21]]) === 過去の車両 === [[近鉄名古屋線|名古屋線]]が狭軌だった頃は、南大阪線と名古屋線でも車両の転属がある程度行われていた。また同様に狭軌である養老線(今の[[養老鉄道養老線|養老鉄道]])へ車両自体・または台車のみでも転用されたケースが多い。 * 通勤形車両 ** [[近鉄6000系電車|6000系]](新ラビットカー) ** [[近鉄6800系電車|6800系]](ラビットカー) ** [[信貴山電鉄デ5形電車|モ5251形]] ** [[大阪鉄道デイ1形電車|モ5800形]] ** [[大阪鉄道デニ500形電車|モ6601形]] == 歴史 == 道明寺駅以西は、柏原駅 - 河内長野駅間(現在の道明寺線・長野線)を営業していた河南鉄道が、'''[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]]'''と名を改め、自社路線で大阪に直通するべく建設したものである。河南鉄道創立当初は、柏原駅から関西本線へ乗り入れる計画であった。1923年には大阪天王寺駅(同年に大阪阿部野橋駅と改称)まで開通し大阪に進出した。次いで[[南大阪電気鉄道]]を合併、同社の所有していた免許を活用し大和延長線を計画、古市駅 - 久米寺駅(現在の橿原神宮前駅)間を1929年に全通させ、[[吉野鉄道|吉野鉄道線]](後に[[大阪電気軌道]]吉野線となる)と直通運転を始めた。 なお大阪電気軌道(大軌)は、1925年までに現在の近鉄大阪線・[[近鉄橿原線|橿原線]]に当たる路線の[[大阪上本町駅]] - [[八木西口駅]] - 橿原神宮前駅(旧駅、後に現在の橿原神宮前駅に統合されて廃止)間の路線を開業させており、大阪鉄道のこの路線とは競合することになった。それでも吉野鉄道を買収した大軌が、自社線となった吉野線と大阪鉄道線の直通運転を開始したのは、大軌本来の路線の[[軌間]]は1,435 mm、大軌吉野線と大阪鉄道のそれは1,067 mmと、吉野線が大軌本来の路線とは軌間が合わず、大阪鉄道線とは合っていたからだとされる。 大阪鉄道は、社名変更から僅か10年で近代的な鉄道会社に変貌するものの、[[昭和恐慌]]に巻き込まれ乗客が伸び悩み、度重なる路線延長の建設費が大きな負担となって経営難に陥り、久米寺駅開業の年には大軌の社長である[[金森又一郎]]が取締役に就任するなど、大軌の傘下に置かれることになった。その後1943年に、大阪鉄道は大軌を改めた関西急行鉄道(関急)に統合され、1944年には再編で近畿日本鉄道となった。 === 年表 === [[File:Kaminotaishi Station accident.jpg|thumb|240px|大阪鉄道上ノ太子駅で開業直後の1929年4月14日に発生した[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#大鉄電車三重衝突事故|三重衝突事故]]。]] *[[1898年]](明治31年)[[3月24日]]:[[大阪鉄道 (2代目)|河陽鉄道]]が道明寺駅 - 古市駅間を開業。 *[[1899年]](明治32年)[[5月11日]]:河南鉄道が河陽鉄道の路線を継承し、河陽鉄道は解散。 *[[1911年]](明治44年)[[8月15日]]:誉田駅(後の誉田八幡駅)開業<ref name="teishajou-ichiran">鉄道省『[{{NDLDC|1020981/200}} 鉄道停車場一覧]』鉄道教育会、1926年、p.286(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 *[[1919年]](大正8年)[[3月8日]]:河南鉄道が大阪鉄道に社名変更。 *[[1922年]](大正11年)[[4月18日]]:[[布忍駅]] - 道明寺駅間が開業。 *[[1923年]](大正12年) **[[4月13日]]:大阪天王寺駅(現在の大阪阿部野橋駅) - 布忍駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2955335/8}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年4月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。大阪天王寺駅 - 道明寺駅間が1500V電化。 **5月10日:大阪天王寺駅を大阪阿部野橋駅に改称<ref>[{{NDLDC|2955357/8}} 「地方鉄道停車場名称変更」『官報』1923年5月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 **[[10月16日]]:道明寺駅 - 古市駅間が電化。河堀口駅開業。 **[[12月28日]]:北田辺駅開業。 *[[1924年]](大正13年)[[6月1日]]:恵我ノ荘駅・御陵前駅・土師ノ里駅開業。 *[[1929年]](昭和4年) **[[3月29日]]:古市駅 - 久米寺駅(現在の橿原神宮前駅)間が開業し全通。吉野鉄道(現在の近鉄吉野線)と直通運転開始。 **[[4月14日]]:[[上ノ太子駅]]で三重衝突事故発生。運転士と乗客の計2名が死亡。[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#大鉄電車三重衝突事故|大鉄電車三重衝突事故]]参照。 *[[1931年]](昭和6年)[[6月1日]]:駒川駅(現在の今川駅)開業。 *[[1932年]](昭和7年)[[9月1日]]:高見ノ里駅開業。 *[[1933年]](昭和8年)[[4月1日]]:駒川駅を今川駅に、天美車庫前駅を河内天美駅に、御陵前駅を応神御陵前駅に、誉田駅を誉田八幡駅に改称。 *[[1936年]](昭和11年)8月:大阪阿部野橋駅が移転し大阪阿部野橋駅 - 河堀口駅間0.1km延長。 *[[1937年]](昭和12年)頃:(臨)屯鶴峰駅開業。 *[[1939年]](昭和14年)[[8月15日]]:大和池尻駅(現在の橿原神宮西口駅) - 久米寺駅間の橿原神宮駅廃止。 *[[1940年]](昭和15年)4月1日:久米寺駅を橿原神宮駅駅と改称し大軌の橿原神宮駅駅と統合。大和池尻駅を橿原神宮西口駅に改称。<!-- 駅駅で正当 --> *[[1943年]](昭和18年)[[2月1日]]:関西急行鉄道が大阪鉄道を合併。同社の天王寺線となる。 *[[1944年]](昭和19年)6月1日:関西急行鉄道と南海鉄道の合併により発足した近畿日本鉄道の路線となる。同時に南大阪線と改称。 *[[1945年]](昭和20年) **[[2月11日]]:尺土駅 - 橿原神宮駅駅間単線化。 **6月1日:河堀口駅・応神御陵前駅・誉田八幡駅・橿原神宮西口駅休止。 *年月日不明 電車のドア開閉が手動から自動に。大阪市内へ乗り入れている路線では最も遅かった(路面電車を除く)。 *[[1946年]](昭和21年) **[[2月8日]]:尺土駅 - 高田町駅(現在の高田市駅)間再複線化。 **6月1日:河堀口駅営業再開。 **[[12月25日]]:橿原神宮西口駅営業再開。 *[[1948年]](昭和23年)[[1月1日]]:高田町駅を高田市駅に改称。 *[[1957年]](昭和32年)[[10月18日]]:[[ラビットカー]](6800系)営業運転開始。 *[[1965年]](昭和40年)[[3月18日]]:大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間に定期特急の運転開始。 *[[1967年]](昭和42年)[[2月25日]]:高田市駅 - 橿原神宮駅駅間再複線化<ref>{{Cite news |和書|title=南大阪線が全線複線に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1967-02-23 |page=1 }}</ref>。 *[[1968年]](昭和43年)[[9月26日]]:[[自動列車停止装置|ATS]]使用開始。 *[[1970年]](昭和45年) **[[3月1日]]:橿原神宮駅駅を橿原神宮前駅に改称。<!-- 駅駅で正当 --> **[[3月21日]]:一部の特急の停車駅に高田市駅を追加。 *[[1974年]](昭和49年)[[7月20日]]:応神御陵前駅・誉田八幡駅・(臨)屯鶴峰駅廃止。 *[[1975年]](昭和50年)[[7月1日]]:針中野駅 - (大和川橋梁)間下り線立体交差化。 *[[1976年]](昭和51年)[[2月21日]]:針中野駅 - (大和川橋梁)間上り線立体交差化。 *[[1980年]](昭和55年)3月18日:全列車が高田市駅に停車を開始。 *[[1983年]](昭和58年)[[6月7日]]:大阪阿部野橋駅 - 針中野駅間立体交差化工事 起工式<ref>『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.398</ref>。 *[[1986年]](昭和61年) **[[6月1日]]:南大阪線初のVVVFインバータ制御車6400系営業運転開始。 **[[8月10日]]:大阪阿部野橋駅 - ([[あびこ筋]]東側)間の一部が立体交差化。 *[[1987年]](昭和62年)[[12月6日]]:(あびこ筋東側) - 針中野駅間立体交差化。大阪市内全区間の連続立体交差完成。 *[[1990年]](平成2年)[[3月15日]]:[[近鉄26000系電車|26000系]](さくらライナー)の営業運転開始。吉野特急の30分間隔運転開始。昼間の区間急行を急行に格上げして毎時2本とし、準急・普通を増発して毎時各6本とするなど、2021年7月2日まで続くダイヤの原型ができあがる(この時までは、1時間周期のダイヤが組まれており、日中の準急は上りがほぼ12分間隔であるのに対し下りは15分間隔で途中に1本増発があり7 - 8分間隔となる箇所があるなど不均衡が目立つダイヤであった)。昼間時においても、平日と休日では行先などが多少異なるダイヤを使用していた)。 *[[1993年]](平成5年):6400系の4両編成版である6620系が製造される。 *[[1996年]](平成8年) **3月15日:尺土・高田市・橿原神宮前の各駅でホームの8両対応工事が完了、特急・急行が大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間で最大8両運転となり、平日朝の上りに26000系2本併結の特急も運転開始(近鉄では珍しい非貫通編成の重連となる)。 **6月1日:特急車両[[近鉄16400系電車|16400系]] (ACE) の営業運転開始<ref>{{Cite news |title=南大阪、吉野線に新型特急「ACE」 近鉄、来月1日デビュー |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1996-05-20 |page=1 }}</ref>。 *[[1997年]](平成9年) **[[3月18日]]:大阪阿部野橋駅 - 古市駅間で多層立て列車(朝夕の準急が大阪阿部野橋駅 - 古市駅間で橿原神宮前行と富田林行を併結など)の運転開始。 **[[10月1日]]:大阪阿部野橋駅 - 古市駅間にご乗降確認システム「フェアシステムK」導入。 *[[1999年]](平成11年) **3月:6620系6623Fが「YOSHINO Foresta」として塗装変更される(2002年12月まで)。 **[[3月16日]]:特急の停車駅に尺土駅を追加。 *[[2000年]](平成12年)[[3月21日]]:古市駅 - 橿原神宮前駅間に「フェアシステムK」導入。 *[[2001年]](平成13年) **2月1日:各駅で[[スルッとKANSAI]]対応カードの取り扱い開始。これに伴い、橿原神宮前駅における「[[途中下車]]指定駅」の制度が廃止。 **[[10月14日]]:各駅で[[Jスルーカード]]の取り扱い開始。 *[[2002年]](平成14年) **[[3月20日]]:古市駅 - 橿原神宮前駅間一部普通列車ワンマン化。 **[[9月8日]]:6000系6009Fのさよなら運転を実施。シリーズ21(6820系)の営業運転開始<ref group="注釈">6820系の試乗会と6000系のさよなら運転を同時に行ったもので、一部区間6000系と6820系を連結して運転した。なお、6820系の一般営業運転は2002年10月より開始。</ref>。 **[[12月1日]]:列車運行管理システムKOSMOS稼働開始。 *[[2006年]](平成18年)11月:6200系6215Fに「近鉄百貨店スマイルトレイン」のラッピングが施される(2007年5月まで)。 *[[2007年]](平成19年) **4月1日:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。 **5月:6620系6625Fに「不思議の国のアリス」のハーフラッピングが施される(2008年4月まで)。 *[[2008年]](平成20年) **[[3月23日]]:河陽鉄道(柏原駅 - 道明寺駅 - 古市駅 - 富田林駅間)開業110周年を記念して、大阪阿部野橋駅で記念イベントを開催。大阪阿部野橋駅 - 河内長野駅間の準急2往復に記念ヘッドマークを掲出する。 **[[6月14日]]:大阪阿部野橋駅 - 今川駅間で車上速度パターン照査式ATS (ATS-SP) 使用開始。 *[[2009年]](平成21年) **3月1日:Jスルーカードの自動改札機・のりこし精算機での取り扱いを終了<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/jcard20081202.pdf Jスルーカードの利用終了について]}} - 近畿日本鉄道ほか 2008年12月2日</ref>。 **3月20日:大阪阿部野橋駅の西口改札移設により、大阪阿部野橋駅 - 河堀口駅間0.1km短縮。 *[[2010年]](平成22年)[[6月19日]]:特急車両16600系 (Ace) が営業運転を開始<ref name="fan_221500">[http://railf.jp/news/2010/06/20/221500.html 近鉄16600系が営業運転を開始] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』 [[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2010年6月20日</ref>。 *[[2011年]](平成23年)[[4月2日]]:26000系(さくらライナー)のリニューアル車が営業運転開始<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/110215sakura.pdf 「さくらライナー」を21年ぶりにリニューアル 4月2日(土)運行開始!]}} - 近畿日本鉄道ニュースリリース 2011年2月15日</ref><ref>[http://railf.jp/news/2011/04/03/192600.html 近鉄26000系リニューアル車が営業運転を開始] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2011年4月3日</ref><ref group="注釈">前日の4月1日には試乗会を実施している。</ref>。 *[[2012年]](平成24年) **[[3月20日]]:一部の特急の停車駅に古市駅を追加。 **9月8日:吉野線開業100周年を記念して、6020系6051Fがラビットカー塗装に変更され、営業運転を開始<ref name="fan_072400">[http://railf.jp/news/2012/09/09/072400.html 近鉄6020系復刻「ラビットカー」塗装編成による団臨運転] - 『鉄道ファン』 [[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2012年9月9日</ref>。 **10月1日:吉野線開業100周年を記念して、6620系6626Fに「吉野線ラッピング列車」のラッピングが施され、営業運転を開始<ref name="fan_153000">[http://railf.jp/news/2012/10/02/153000.html 近鉄6620系に吉野線開業100周年ラッピング] - 『鉄道ファン』 [[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2012年10月2日</ref>。 *[[2016年]](平成28年)[[9月10日]]:吉野特急で[[近鉄6000系電車|16200系]]による観光特急「青の交響曲」が運転を開始<ref>[http://railf.jp/news/2016/09/11/201000.html 近鉄 16200系「青の交響曲(シンフォニー)」の営業運転開始] - 『鉄道ファン』 [[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2016年9月11日</ref>。 *[[2017年]](平成29年)[[10月22日]]:[[平成29年台風第21号|台風21号]]の影響により橿原神宮西口駅 - 橿原神宮前駅間で土砂流入が発生する。 *[[2018年]](平成30年)[[4月25日]]:低気圧・前線による降雨により、矢田駅 - 河内天美駅間の大和川橋梁の橋脚が傾いて線路が歪み、大阪阿部野橋駅 - 河内天美駅間で運転見合わせ<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180425/k00/00e/040/300000c 近鉄:橋梁上の線路ゆがむ 再開めど立たず 南大阪線] - 毎日新聞、2018年4月25日</ref>。翌26日15時50分に復旧し運転再開<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180426/k00/00e/040/325000c#cxrecs_s 近鉄:南大阪線が再開 ゆがんだ線路、安全確認] - 毎日新聞、2018年4月26日</ref>。26日朝ラッシュ時は大阪方面への通勤・通学客により道明寺線がパンク状態に陥り全線で大幅なダイヤ乱れが発生した。 == 駅一覧 == *停車駅 **普通:各駅に停車(表中省略) **準急・区間急行・急行…●:停車、|:通過 **特急は「[[近鉄特急]]」を参照 *<nowiki>#</nowiki>印の駅は[[待避駅|列車待避]]可能駅 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅番号 !style="width:9em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|駅間<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #028e46;"|営業<br />キロ !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #028e46; background:#cf9; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|準急|height=5em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #028e46; background:#feb;"|{{縦書き|区間急行|height=5em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #028e46; background:#fc9; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|急行|height=5em}} !style="border-bottom:solid 3px #028e46;"|接続路線 !colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #028e46;"|所在地 |- !F01 |style="text-align:left;"|[[大阪阿部野橋駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#fc9;"|● |style="text-align:left;"|[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]] (JR-O01)・{{JR西路線記号|K|Q}} [[関西本線]]([[大和路線]])(JR-Q20)・{{JR西路線記号|K|R}} [[阪和線]] (JR-R20)…[[天王寺駅]]<br />[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] (M23)・[[File:Osaka_Metro_Tanimachi_line_symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]] (T27)…天王寺駅<br />[[阪堺電気軌道]]:[[ファイル:Number_prefix_Hankai_Tramway_line.png|15px|HN]]{{Color|orange|■}} [[阪堺電気軌道上町線|上町線]]…[[天王寺駅|天王寺駅前駅]] (HN01) |rowspan="18" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;" |{{縦書き|[[大阪府]]|height=6em}} |rowspan="6" style="width:1em; text-align:center;" |{{縦書き|[[大阪市]]|height=4em}} |rowspan="2" style="text-align:left; white-space:nowrap;"|[[阿倍野区]] |- !F02 |style="text-align:left;"|[[河堀口駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|1.0 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F03 |style="text-align:left;"|[[北田辺駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|2.1 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |rowspan="4" style="text-align:left;"|[[東住吉区]] |- !F04 |style="text-align:left;"|[[今川駅 (大阪府)|今川駅]]# |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|2.7 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F05 |style="text-align:left;"|[[針中野駅]]<br /><small>([[長居公園]] [[大阪市立長居植物園|植物園]]前)</small> |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|3.8 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F06 |style="text-align:left;"|[[矢田駅 (大阪府)|矢田駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|5.1 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F07 |style="text-align:left;"|[[河内天美駅]]#<br /><small>([[阪南大学]]前)</small> |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|7.3 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |rowspan="4" colspan="2" style="text-align:left;"|[[松原市]] |- !F08 |style="text-align:left;"|[[布忍駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|8.3 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F09 |style="text-align:left;"|[[高見ノ里駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|9.1 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F10 |style="text-align:left;"|[[河内松原駅]]# |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|10.0 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F11 |style="text-align:left;"|[[恵我ノ荘駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|11.6 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |rowspan="2" colspan="2" style="text-align:left;"|[[羽曳野市]] |- !F12 |style="text-align:left;"|[[高鷲駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|12.6 |style="background:#cf9;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F13 |style="text-align:left;"|[[藤井寺駅]]# |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|13.7 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |rowspan="3" colspan="2" style="text-align:left;"|[[藤井寺市]] |- !F14 |style="text-align:left;"|[[土師ノ里駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|15.6 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F15 |style="text-align:left;"|[[道明寺駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|16.3 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |style="text-align:left;"|[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|N}} [[近鉄道明寺線|道明寺線]] (N15) |- !F16 |style="text-align:left;"|[[古市駅 (大阪府)|古市駅]]# |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|18.3 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#fc9;"|● |style="text-align:left;"|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|O}} [[近鉄長野線|長野線]] (O16) |rowspan="3" colspan="2" style="text-align:left;"|羽曳野市 |- !F17 |style="text-align:left;"|[[駒ヶ谷駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|20.0 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F18 |style="text-align:left;"|[[上ノ太子駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|22.0 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F19 |style="text-align:left;"|[[二上山駅]] |style="text-align:right;"|5.3 |style="text-align:right;"|27.3 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |rowspan="10" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;" |{{縦書き|[[奈良県]]|height=6em}} |colspan="2"style="text-align:left;"|[[香芝市]] |- !F20 |style="text-align:left;"|[[二上神社口駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|28.4 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |rowspan="4" colspan="2" style="text-align:left;"|[[葛城市]] |- !F21 |style="text-align:left;"|[[当麻寺駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|30.4 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F22 |style="text-align:left;"|[[磐城駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|31.1 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F23 |style="text-align:left;"|[[尺土駅]]# |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|32.3 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#fc9;"|● |style="text-align:left;"|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|P}} [[近鉄御所線|御所線]] (P23) |- !F24 |style="text-align:left;"|[[高田市駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|34.2 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#fc9;"|● |&nbsp; |rowspan="2" colspan="2" style="text-align:left;"|[[大和高田市]] |- !F25 |style="text-align:left;"|[[浮孔駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|35.6 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F26 |style="text-align:left;"|[[坊城駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|36.8 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |rowspan="3" colspan="2" style="text-align:left;"|[[橿原市]] |- !F27 |style="text-align:left;"|[[橿原神宮西口駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|38.5 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#fc9;"|| |&nbsp; |- !F42<ref name="kintetsu20150819" /><!--F42で正当(出典参照)--> |style="text-align:left;"|[[橿原神宮前駅]]# |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|39.7 |style="background:#cf9;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#fc9;"|● |style="text-align:left;"|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|F}} [[近鉄吉野線|吉野線]]・{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄橿原線|橿原線]] (B42) |} {{Reflist|group="*"}} 上ノ太子駅 - 二上山駅間で大阪府[[太子町 (大阪府)|太子町]]を通るが、駅は設置されていない。 [[阿部野橋ターミナルビル]]整備計画に伴い、大阪阿部野橋駅のホームが一部を除き約28m延伸されており、2009年3月20日に大阪阿部野橋駅西改札口が東側(ホーム側)に約35m移設され、同時に大阪阿部野橋駅からの営業キロの変更が行われた<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/090119abenonishi.pdf 3月20日から大阪阿部野橋駅西改札口が移設オープンします]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース、2009年1月19日</ref>。 === かつて存在した駅 === *[[応神御陵前駅]](藤井寺駅 - 土師ノ里駅間、1924年6月1日開業、1945年6月1日休止、1974年7月20日廃止) *[[誉田八幡駅]](道明寺駅 - 古市駅間、1911年8月15日開業<ref name="teishajou-ichiran" />、1945年6月1日休止、1974年7月20日廃止) *(臨)[[屯鶴峰駅]](上ノ太子駅 - 二上山駅間、1937年頃開業、1952年-1962年頃休止、1974年7月20日廃止) *[[橿原神宮駅]](橿原神宮西口駅 - 橿原神宮前駅間、1929年3月29日開業、1939年8月15日廃止) == 主要駅の乗降客数 == [[2018年]][[11月13日]]調査による主要駅の乗降者数は次の通り<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/e.html 駅別乗降人員 南大阪線 吉野線] - 近畿日本鉄道</ref>。 *大阪阿部野橋 162,589人 *河内天美 16,958人 *河内松原 29,976人 *藤井寺 35,802人 *道明寺 6,643人 *古市 20,937人 *尺土 4,348人 *高田市 7,407人 *橿原神宮前 17,815人 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book | 和書 | title = まるごと近鉄ぶらり沿線の旅 | author = 徳田耕一(編著) | publisher = [[河出書房新社]] | year = 2005 | id = ISBN 4309224393 }} *{{Cite book | 和書 | series = カラーブックス | title = 日本の私鉄 近鉄1 | author = [[諸河久]]・杉谷広規(編著) | publisher = [[保育社]] | year = 1998 | id = ISBN 458650904X }} *{{Cite book | 和書 | series = カラーブックス | title = 日本の私鉄 近鉄2 | author = 諸河久・山辺誠(編著) | publisher = 保育社 | year = 1998 | id = ISBN 4586509058 }} *{{Cite journal | 和書 | journal = 近鉄時刻表 | volume = 各号 | author = [[近畿日本鉄道]](編著) | publisher = 近畿日本鉄道 }} *{{Cite journal | 和書 | journal = 鉄道ピクトリアル | date = 2003-01 | volume = 増刊号 | title = 特集:近畿日本鉄道 | author = 電気車研究会(編著)}} *{{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 8 関西1 | year = 2008 | id = ISBN 978-4-10-790026-5 | ref = imao }} == 関連項目 == *[[日本の鉄道路線一覧]] *[[近鉄特急史]] {{近畿日本鉄道の路線}} {{DEFAULTSORT:きんてつみなみおおさかせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|みなみおおさかせん]] [[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|みなみおおさか]] [[Category:関西急行鉄道|路]] [[Category:大阪鉄道(2代)|路]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:奈良県の交通]]
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串田嘉男
串田 嘉男(くしだ よしお、1957年9月19日 - )は、日本のアマチュア天文家。東京都八王子市出身。東京都立神代高等学校卒業。 FM電波を用いた流星エコーの観測中に流星によるものとは別の電波の変動があることを発見し、地震活動との関連が考えられるとして観測・研究を独自に行っている。 夫人の串田麗樹も著名なアマチュア天文家である。 八ヶ岳南麓天文台から2005年までに以下の天体を発見している。 (4875) インガルス、(5405) ネバーランド、(5473) 山梨、(6612) 八王子、(6868) 上田誠也、(10566) ZABADAK、(11528) 美絵、(26829) 境保育園を含めた56個の小惑星を発見した。 また、彼の名前にちなんで命名された小惑星 (5605) 串田も存在する(発見者は大友哲)。 FM電波を用いた流星エコーによる地震予知研究いわゆる串田法により地震予知を行っている。上空電離層の異常によりFM電波が異常伝播することが地震の前兆現象として地震予知に利用できる可能性を示唆したことは最大の発見であり功績であるが、実際の地震予知的中率は低かった。 気象庁が調べた2001年から2003年のM6以上の地震では、52件中3件の的中であり、防災情報としては役に立つレベルではないとされた。これは使用する機器がFM受信機という正規の測定機器ではなかったことが最大の原因と考えられ、そのために観測結果が定量的な測定記録として利用できないことが問題であった。 現在では電界強度計などを用いたダイナミックレンジの広い測定方法により上空電離層異常と地震との相関が研究されており、早川正士電通大名誉教授をはじめとして複数の有力な地震予知研究が行われている。
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串田 嘉男は、日本のアマチュア天文家。東京都八王子市出身。東京都立神代高等学校卒業。 FM電波を用いた流星エコーの観測中に流星によるものとは別の電波の変動があることを発見し、地震活動との関連が考えられるとして観測・研究を独自に行っている。 夫人の串田麗樹も著名なアマチュア天文家である。
{{存命人物の出典皆無|date=2013年9月6日 (金) 01:25 (UTC)}}{{特筆性|人物|date=2014-10}} {{Infobox scientist |name = 串田 嘉男 |image = |image_size = 200px |caption = |birth_date = [[1957年]][[9月19日]] |birth_place = [[東京都]][[八王子市]] |death_date = |nationality = {{JPN}} |field = [[天文学]] |known_for = [[アマチュア天文学|アマチュア天文家]] |alma_mater = [[東京都立神代高等学校]] |workplaces = |notable_students = |prizes = }} '''串田 嘉男'''(くしだ よしお、[[1957年]][[9月19日]] - )は、[[日本]]の[[アマチュア天文学|アマチュア天文家]]。[[東京都]][[八王子市]]出身。[[東京都立神代高等学校]]卒業。 FM電波を用いた[[流星]]エコーの観測中に流星によるものとは別の電波の変動があることを発見し、地震活動との関連が考えられるとして観測・研究を独自に行っている。 夫人の[[串田麗樹]]も著名なアマチュア天文家である。 == 新天体の発見 == {{出典の明記|date=2013年9月6日 (金) 01:25 (UTC)|section=1}} [[八ヶ岳南麓天文台]]から[[2005年]]までに以下の[[天体]]を発見している。 === 彗星 === * [[串田彗星]] (144P/Kushida) * [[串田・村松彗星]] (147P/Kushida-Muramatsu) === 小惑星 === (4875) [[インガルス (小惑星)|インガルス]]、(5405) [[ネバーランド (小惑星)|ネバーランド]]、(5473) [[山梨 (小惑星)|山梨]]、(6612) [[八王子 (小惑星)|八王子]]、(6868) [[上田誠也 (小惑星)|上田誠也]]、(10566) [[ZABADAK (小惑星)|ZABADAK]]、(11528) [[美絵 (小惑星)|美絵]]、(26829) [[境保育園 (小惑星)|境保育園]]を含めた56個の小惑星を発見した。 また、彼の名前にちなんで命名された小惑星 (5605) [[串田 (小惑星)|串田]]も存在する(発見者は[[大友哲]])<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=5605|title=(5605) Kushida = 1942 EX = 1983 EF2 = 1991 RQ10 = 1993 DB|publisher=MPC|accessdate=2021-07-10}}</ref>。 == 地震予知研究 == [[超短波放送|FM電波]]を用いた[[スポラディックE層|流星エコー]]による[[地震予知]]研究いわゆる串田法により地震予知を行っている。上空[[電離層]]の異常によりFM電波が異常伝播することが地震の前兆現象として地震予知に利用できる可能性を示唆したことは最大の発見であり功績であるが、実際の地震予知的中率は低かった。 気象庁が調べた2001年から2003年のM6以上の地震では、52件中3件の的中であり、防災情報としては役に立つレベルではないとされた<ref> [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/kenshin/vol68p129.pdf 八ヶ岳南麓天文台の地震前兆検知実験の地震予測評価] 近藤さや:地震火山部地震予知情報課 気象庁 験震時報第68巻 pp.129-134</ref>。これは使用する機器がFM受信機という正規の測定機器ではなかったことが最大の原因と考えられ、そのために観測結果が定量的な測定記録として利用できないことが問題であった。 現在では[[試験電波|電界強度計]]などを用いたダイナミックレンジの広い測定方法により上空電離層異常と地震との相関が研究されており、[[早川正士]]<ref>早川正士 『最新・地震予知学 電磁波異常でわかる、その前兆』([[祥伝社]])1996年</ref>電通大名誉教授をはじめとして複数の有力な地震予知研究が行われている。 {{Asteroids discovered begin}} {{Asteroids discovered|4458|[[大泉 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*[2][[井上傑]]と共同発見 *[3][[串田麗樹]]と共同発見 {{Asteroids discovered end}} == 著書 == *『みつけたぞ!ボクらの星 - 天文台にかけた夢』(『ポプラ・ノンフィクション』41)、[[ポプラ社]]、1989年8月。ISBN 4-591-02988-3 *『地震予報に挑む』(『[[PHP新書]]』124)、[[PHP研究所]]、2000年9月。ISBN 4-569-61258-X *『地震予報』(『PHP新書』833)、PHP研究所、2012年11月。ISBN 4-569-79806-3 == 論文 == * 串田嘉男. "地震予知は可能か (特集 現代の科学論争)." [[日経サイエンス]] 31.11 (2001): 40-46. * 串田嘉男. "VHF 電波観測による地震予知." [[パリティ (雑誌)|パリティ]] (1995). * 串田嘉男. "9 月 20 日 関東で M5. 7 の地震発生!! FM 電波がとらえた地震 「前兆現象」(地震列島ニッポン)." [[週刊朝日]] 108.47 (2003): 26-28. * 串田嘉男, 芳野滋. "時代のカタリスト (25) 電離層が囁くとき--串田嘉男氏." JMA マネジメントレビュ- 11.1 (2005): 28-32. == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://epio.jpinfo.ne.jp 八ヶ岳南麓天文台地震前兆観測研究センター公開実験参加者「EPIO応援班」] * [http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/bosai/fm/report.html 「2003年9月南関東地震予報の学際的評価」初版](群馬大学教育学部・早川由紀夫研究室) * [http://www.jishin-yohou.com/ 八ヶ岳南麓天文台FM(VHF帯域)電波伝搬モニター観測(串田法)によるPHP新書「地震予報」フォローページ] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くした よしお}} [[Category:天文家]] [[Category:小惑星発見者]] [[Category:彗星発見者]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:天文学に関する記事]]
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16,526
1170年
1170年(1170 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1170年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1170}} {{year-definition|1170}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[嘉応]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1830年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[乾道 (宋)|乾道]]6年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[大定 (金)|大定]]10年 * 中国周辺 ** [[西遼]] : [[崇福]]7年? ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[乾祐 (西夏)|乾祐]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[毅宗 (高麗王)|毅宗]]24年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3503年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[政隆宝応]]8年 * [[仏滅紀元]] : 1712年 - 1713年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 565年 - 566年 * [[ユダヤ暦]] : 4930年 - 4931年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1170|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[File:Royal flag of Goryeo (Bong-gi).svg|border|25x20px]][[高麗]]で[[庚寅の乱]]が発生。以後、100年にわたる[[武臣政権]]が行われる。 * [[藤原秀衡]]、[[鎮守府将軍]]となる。 * [[日本]]で[[殿下乗合事件]]が発生する。 * [[File:Unidentified West African flag.svg|border|25x20px]][[ベニン王国]]が建国される。 * カンタベリー大司教トマス・ベケットがイングランド王ヘンリー2世の部下により暗殺。 == 誕生 == {{see also|Category:1170年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月5日]] - [[イザベル・ド・エノー]]、[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]の最初の王妃(+ [[1190年]]) * [[飛鳥井雅経]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](+ [[1221年]]) * [[ヴァルデマー2世 (デンマーク王)|ヴァルデマー2世]]、[[デンマーク]]王(+ [[1241年]]) * [[襄宗 (西夏)|襄宗]]、[[西夏]]の第7代[[皇帝]](+ [[1211年]]) * [[平清宗]]、[[平安時代]]の[[武将]](+ [[1185年]]) * [[ドミニコ]]、[[カトリック教会]]の[[修道士]]、[[聖人]]、[[ドミニコ会]]の創設者(+ [[1221年]]) * [[レオナルド・フィボナッチ]]、[[イタリア]]の[[数学者]](+ [[1250年]]?) * [[ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ]]、[[ドイツ]]の[[中高ドイツ語]]叙情詩の[[詩人]](+ [[1230年]]?) * [[源家長]]、鎌倉時代の[[公家]]、歌人、[[新三十六歌仙]]の一人(+ [[1234年]]) * [[ムカリ]]、[[モンゴル帝国]]の武将(+ [[1223年]]) * [[李道伝]]、[[南宋]]の[[儒学者]](+ [[1217年]]) == 死去 == {{see also|Category:1170年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月23日]](嘉応2年[[4月6日 (旧暦)|4月6日]])? - [[源為朝]]、[[平安時代]]の[[武将]](* [[1139年]]) * [[11月18日]] - [[アルブレヒト1世 (ブランデンブルク辺境伯)|アルブレヒト1世]]、[[ブランデンブルク辺境伯]](* [[1100年]]?) * [[11月28日]] - [[オーウェン・グウィネズ]]、[[ウェールズ]]の[[グウィネズ (ウェールズ)|グウィネズ]]の君主(* [[1100年]]以前) * [[王重陽]]、[[中国]]の[[道士]]、[[全真教]]の開祖(* [[1112年]]) * [[ムスチスラフ2世]]、[[キエフ大公国|キエフ大公]](* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1170}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1170ねん}} [[Category:1170年|*]]
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1137年
1137年(1137 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1137年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1137}} {{year-definition|1137}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[丁巳]] * [[日本]] ** [[保延]]3年 ** [[皇紀]]1797年 * 中国 ** [[南宋]] : [[紹興 (宋)|紹興]]7年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[天会 (金)|天会]]15年 ** [[西夏]] : [[大徳 (西夏)|大徳]]3年 ** [[西遼]] : [[康国]]4年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天彰宝嗣]]5年 * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1137|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[アラゴン王国]]と[[カタルーニャ君主国|バルセロナ伯国]]の連合による[[アラゴン連合王国]]の成立。 == 誕生 == {{see also|Category:1137年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月29日]](保延3年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - [[暲子内親王]]、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけての[[皇族]](+ [[1211年]]) * [[西行の娘]]、平安時代、鎌倉時代の[[尼|尼僧]](+ [[1199年]]) * [[寒河尼]]、平安時代、鎌倉時代の尼僧(+ [[1228年]]) * [[山内首藤経俊]]、平安時代、鎌倉時代の[[武将]](+ [[1225年]]) * [[呂祖謙]]、[[南宋]]の[[儒学者]](+ [[1181年]]) == 死去 == {{see also|Category:1137年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月4日]](保延3年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[聖恵法親王]]、[[平安時代]]後期の[[真言宗]]の[[僧]]、[[白河天皇]]の第五皇子(* [[1094年]]) * [[8月1日]] - [[ルイ6世 (フランス王)|ルイ6世]]、[[フランス王国|フランス]]・[[カペー朝]]の第5代[[フランス君主一覧|国王]](* [[1081年]]) * [[12月3日]] - [[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール3世]]、[[ローマ王]]、[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]](* [[1075年]]) * [[粘没喝]]、[[金 (王朝)|金]]の[[皇族]](* [[1079年]]) * [[ラーマーヌジャ]]、[[インド]]の[[哲学者]]、[[神学者]](* [[1017年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1137}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1137ねん}} [[Category:1137年|*]]
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16,528
1132年
1132年(1132 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1132年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1132}} {{year-definition|1132}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[壬子]] * [[日本]] ** [[天承]]2年、[[長承]]元年 ** [[皇紀]]1792年 * [[中国]] ** [[南宋]] : [[紹興 (宋)|紹興]]2年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[天会 (金)|天会]]10年 ** [[西夏]] : [[正徳 (西夏)|正徳]]6年 ** [[西遼]] : [[延慶 (西遼)|延慶]]元年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天順 (李朝)|天順]]5年 * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1132|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[遼]]の皇族[[耶律大石]]が[[西遼]]を建国。[[カラハン朝]]を滅ぼす。 * [[平忠盛]]が昇殿を許される。 == 誕生 == {{see also|Category:1132年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ウラジーミル・ムスチスラヴィチ (キエフ大公)|ウラジーミル・ムスチスラヴィチ]]、[[キエフ大公]](+ [[1173年]]) * [[吉川経義]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、[[御家人]](+ [[1193年]]) * [[持明院基家]]、平安時代、鎌倉時代の[[公卿]](+ [[1214年]]) * [[藤原光能]]、平安時代の公卿(+ [[1183年]]) == 死去 == {{see also|Category:1132年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月19日]](天承2年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[良忍]]、[[平安時代]]の[[天台宗]]の[[僧]]、[[融通念仏宗]]の開祖(* [[1073年]]?) * [[4月14日]] - [[ムスチスラフ1世]]、[[キエフ大公]](* [[1076年]]) * [[11月25日]](長承元年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]) - [[恂子内親王]]、平安時代の[[皇族]]、[[斎宮|伊勢斎宮]](* [[1093年]]) * [[源義綱]]、平安時代の[[武将]](* [[1042年]]?) * [[耶律余睹]]、[[遼]]の[[宗室]]、武将(* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1132}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1132ねん}} [[Category:1132年|*]]
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1143年
1143年(1143 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1143年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1143}} {{year-definition|1143}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[癸亥]] * [[日本]] ** [[康治]]2年 (康治元年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]] - 康治2年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) ** [[皇紀]]1803年 * [[中国]] ** [[南宋]] : [[紹興 (宋)|紹興]]13年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[皇統 (金)|皇統]]3年 ** [[西夏]] : [[大慶 (夏仁宗)|大慶]]4年 ** [[西遼]] : [[康国]]10年 * [[朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]3476年 * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[大定 (李朝)|大定]]4年 * [[仏滅紀元]] : 1685年 - 1686年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 538年 - 539年 * [[ユダヤ暦]] : 4903年 - 4904年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1143|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[4月8日]] - [[マヌエル1世コムネノス]]が[[東ローマ帝国の皇帝一覧|ビザンツ皇帝]]に即位。 * アフォンソ・エンリケス、[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]として即位、[[ポルトガル王国]]成立。 * [[ドイツ]]にて[[リューベック]]建設される。 == 誕生 == {{see also|Category:1143年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月31日]](康治2年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[二条天皇]]、第78代天皇(+ [[1165年]]) * [[ウィリアム1世 (スコットランド王)|ウィリアム1世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(+ [[1214年]]) * [[覚阿]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[天台宗]]の[[僧]](+ 没年未詳) * [[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]、第178代ローマ教皇(+ [[1241年]]) * [[近衛基実|近衞基実]]、平安時代の[[公卿]]、[[正二位]][[摂政]](+ [[1166年]]) * [[俊寛]]、平安時代の[[真言宗]]の僧(+ [[1179年]]) * [[中原親能]]、平安時代、鎌倉時代の[[御家人]]、[[文官]](+ [[1209年]]) * [[平賀義信]]、平安時代、鎌倉時代の[[武将]](+ 没年未詳) * [[藤原家通 (権中納言)|藤原家通]]、平安時代の公卿、正二位[[権中納言]](+ [[1187年]]) * [[源朝長]]、平安時代の武将、[[源義朝]]の次男(+ [[1160年]]) == 死去 == {{see also|Category:1143年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月6日]]頃 - [[ユーグ2世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ2世]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](* [[1084年]]) * [[4月8日]] - [[ヨハネス2世コムネノス]]、[[東ローマ帝国]][[コムネノス王朝]]の第2代[[皇帝]](* [[1087年]]) * [[9月24日]] - [[アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン]]、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の娘、[[オーストリア辺境伯]][[レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト3世]]の王妃(* [[1072年]]) * [[11月13日]] - [[フルク5世]]、[[アンジュー伯]]、[[エルサレム王国|エルサレム王]](* [[1089年]]/[[1092年]]) * [[12月15日]](康治2年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) - [[源雅兼]]、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[従三位]][[権中納言]](* [[1079年]]) * [[マームズベリのウィリアム]]、[[中世]][[イングランド]]の[[歴史家]]、[[ベネディクト会]][[修道士]](* [[1095年]]?) * [[劉予|劉豫]]、[[北宋]]の[[官僚]](* [[1078年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1143}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1143ねん}} [[Category:1143年|*]]
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1163年
1163年(1163 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1163年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1163}} {{year-definition|1163}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[応保]]3年、[[長寛]]元年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]] - (応保2年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]] - 長寛元年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1823年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[隆興]]元年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[大定 (金)|大定]]3年 * 中国周辺 ** [[西遼]] : [[紹興 (西遼)|紹興]]13年? ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[天盛]]15年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[毅宗 (高麗王)|毅宗]]17年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3496年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[政隆宝応]]元年 * [[仏滅紀元]] : 1705年 - 1706年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 558年 - 559年 * [[ユダヤ暦]] : 4923年 - 4924年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1163|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[トゥール教会会議]]が開かれる。[[カタリ派]]の禁止が正式に決定される。 * [[パリ]]の[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]着工。 == 誕生 == {{see also|Category:1163年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[一条能成]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](+ [[1238年]]) * [[幸西]]、平安時代、鎌倉時代の[[浄土宗]]の[[僧]](+ [[1247年]]) * [[神宗 (西夏)|神宗]]、[[西夏]]の第8代[[皇帝]](+ [[1226年]]) * [[宣宗 (金)|宣宗]]、[[金 (王朝)|金]]の第8代皇帝(+ [[1224年]]) * [[退耕行勇]]、鎌倉時代の[[臨済宗]]の僧(+ [[1241年]]) * [[平清経]]、平安時代の[[武将]](+ [[1183年]]) * [[中山兼宗]]、平安時代、鎌倉時代の公卿、[[歌人]](+ [[1242年]]) * [[天童如浄]]、[[宋 (王朝)|宋]]の[[曹洞宗]]の僧(+ [[1228年]]) * [[藤原隆忠]]、平安時代、鎌倉時代の公卿(+ [[1245年]]) * [[ヘンリク1世]]、[[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]](+ [[1238年]]) * [[北条義時]]、平安時代、鎌倉時代の武将、[[鎌倉幕府]]第2代[[執権]](+ [[1224年]]) * [[源光行]]、平安時代、鎌倉時代の[[公家]]、[[文学者]]、歌人(+ [[1244年]]) == 死去 == {{see also|Category:1163年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月14日]] - [[ラースロー2世 (ハンガリー王)|ラースロー2世]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]]、[[クロアチア王国|クロアチア王]](* [[1131年]]) * [[コンスタンス (アンティオキア女公)|コンスタンス]]、[[アンティオキア公国]]の支配者(* [[1127年]]) * [[耶律夷列]]、[[西遼]]の第2代[[皇帝]](* 生年未詳) * [[李侗 (南宋)|李侗]]、[[南宋]]の[[儒学者]](* [[1093年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1163}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1163ねん}} [[Category:1163年|*]]
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1165年(1165 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1165年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1165}} {{year-definition|1165}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[長寛]]3年、[[永万]]元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]] - (長寛2年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]] - 永万元年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1825年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[隆興]]2年[[11月17日 (旧暦)|閏11月17日]] - [[12月30日 (旧暦)|12月30日]]、[[乾道 (宋)|乾道]]元年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[大定 (金)|大定]]5年 * 中国周辺 ** [[西遼]] : [[崇福]]2年? ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[天盛]]17年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[毅宗 (高麗王)|毅宗]]19年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3498年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[政隆宝応]]3年 * [[仏滅紀元]] : 1707年 - 1708年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 560年 - 561年 * [[ユダヤ暦]] : 4925年 - 4926年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1165|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[1月30日]]([[長寛]]2年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[平清盛]]が[[後白河天皇|後白河上皇]]の[[蓮華王院]]を造営した功績により、子[[平重盛]]が正三位となる。 * [[7月14日]](長寛3年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[永万]]と改元する{{要出典|date=2021-05}}。 * [[8月3日]](永万元年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]) - [[二条天皇]]が順仁親王に譲位する([[六条天皇]]、第79代[[天皇]])。[[藤原基実]]が摂政となる。 * [[9月4日]](永万元年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - 六条天皇が即位する。 * [[9月5日]](永万元年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]) - 二条上皇が崩御する。 * [[9月13日]](永万元年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]) - 二条天皇の葬儀で[[延暦寺]]と[[興福寺]]の僧たちが争い、以降闘争が続く。 * [[9月15日]](永万元年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) - 延暦寺の僧たちが興福寺の末寺[[清水寺]]を焼き払う。 == 誕生 == {{see also|Category:1165年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月28日]] - [[イブン・アラビー]]、[[スーフィズム|イスラム神秘主義]]の[[思想家]](+ [[1240年]]<ref>{{cite web |url = http://www.wdl.org/en/item/7437/ |title = The Meccan Revelations |website = [[World Digital Library]] |date = 1900-1999 |accessdate = 2021-03-16 }}</ref>) * [[8月21日]] - [[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]、[[フランス王国]][[カペー朝]]第7代国王(+ [[1223年]]) * 10月 - [[ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)|ジョーン・オブ・イングランド]]、[[シチリア王国|シチリア]]王[[グリエルモ2世]]の王妃(+ [[1199年]]) * 11月 - [[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]、[[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1197年]]) * [[千手の前]]、[[平安時代]]の女性、[[源頼朝]]の官女(+ [[1188年]]) * [[北陸宮]]、平安時代、[[鎌倉時代]]の[[皇族]](+ [[1230年]]) == 死去 == {{see also|Category:1165年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月14日]](長寛3年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[藤原季成]]、平安時代の[[公卿]](* [[1102年]]) * [[3月28日]](長寛3年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[藤原伊通]]、平安時代の公卿(* [[1093年]]) * [[4月11日]] - [[イシュトヴァーン4世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン4世]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]](* [[1133年]]) * [[8月24日]](永万元年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[行慶]]、平安時代の[[天台宗]]の僧(* 生年未詳) * [[9月5日]](永万元年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]) - [[二条天皇]]、第78代天皇(* [[1143年]]) * [[12月9日]] - [[マルカム4世 (スコットランド王)|マルカム4世]]、[[スコットランド君主一覧|スコットランド王]](* [[1142年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1165}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1165ねん}} [[Category:1165年|*]]
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16,532
マルキ・ド・サド
マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族、小説家。マルキはフランス語で侯爵の意であり、正式な名は、ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド (Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。 サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1か月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄(英語版)に1年、そしてシャラントン精神病院(英語版)に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。 マルキ・ド・サドは、パリのオテル・ド・コンデ(フランス語版)、かつてのコンデ公の邸宅。現在のパリ6区コンデ通り(フランス語版)とヴォージラール通り(フランス語版)付近)にて、サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフと、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人の女官。宰相リシュリューの親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後にイエズス会のリセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。 1763年に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた。 1766年、サドはプロヴァンスのラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は1767年1月に亡くなった。 サド家は伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。 サドは「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」などの犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている。1778年にシャトー・ド・ヴァンセンヌ(英語版)に収監され、1784年にはバスティーユ牢獄にうつされた。 獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論、キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。 サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。間もなくシャラントン精神病院にうつされたが、1790年に解放された。当初共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間は投獄されている。1801年、ナポレオン・ボナパルトは、匿名で出版されていた『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を書いた人物を投獄するよう命じた。サドは裁判無しに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。 サドの作品は、作者の精神状態を反映してか特に暴力的な描写において文法的に破綻を来してしまっているようなところが数多いが、20世紀に入ってから、そういった点がシュルレアリストたちによって再評価され、全集の出版が行われることになる。日本には木々高太郎や式場隆三郎、田辺貞之助、「丸木砂土」こと秦豊吉、遠藤周作、澁澤龍彦、片山正樹たちによって紹介された。澁澤による『悪徳の栄え』の翻訳出版を巡って引き起こされた悪徳の栄え事件は、澁澤側の有罪(罰金刑)を以て終わった。 河出文庫などから出版されている澁澤の翻訳は、全訳ではなく抄訳のものが多い。水声社からサド全集が刊行中であるほか、全訳をうたった抄訳も出版されている。異常心理学の研究者である佐藤晴夫が全訳を試みたものが未知谷や青土社から出版されている。 オーストリアの精神医学者リヒャルト・フォン・クラフト=エビングは、「異常性欲」について、「フェティシズム」「同性愛」「サディズム」「マゾヒズム」の4つに分類している。このうちの「サディズム」は、相手に対して、精神的で身体的な屈辱と苦痛を与えることによって性的な快楽や満足を得ることを意味し、サドの名前に因んで名付けられた。
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マルキ・ド・サドは、フランス革命期の貴族、小説家。マルキはフランス語で侯爵の意であり、正式な名は、ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド。 サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1か月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、そしてシャラントン精神病院に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。
{{ActorActress | 芸名 = マルキ・ド・サド<br />Marquis de Sade | ふりがな = | 画像ファイル = Marquis de sade.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像コメント = | 本名 = ドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド(Donatien Alphonse François de Sade) | 別名義 = | 出生地 = {{FRA987}}、[[パリ]] | 死没地 = {{FRA1814}}、[[パリ]] | 国籍 = [[フランス]] | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1740 | 生月 = 6 | 生日 = 2 | 没年 = 1814 | 没月 = 12 | 没日 = 2 | 職業 = 作家 | ジャンル = | 活動期間 = | 活動内容 = | 配偶者 = ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユ | 著名な家族 = ジャン・バティスト・フランソワ・ジョゼフ・ド・サド<br> マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = 『[[美徳の不幸|ジュスティーヌあるいは美徳の不幸]]』<br>『[[ソドム百二十日あるいは淫蕩学校]]』<br>『[[ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え]]』 | 備考 = }} {{Portal|文学}} '''マルキ・ド・サド'''(Marquis de Sade, [[1740年]][[6月2日]] - [[1814年]][[12月2日]])は、[[フランス革命]]期の[[貴族]]、[[小説家]]。マルキは[[フランス語]]で[[侯爵]]の意であり、正式な名は、'''ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド''' (Donatien Alphonse François de Sade {{IPA|dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad}})。 サドの作品は暴力的な[[ポルノグラフィー]]を含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、[[パリ]]の[[刑務所]]と[[精神病院]]に入れられた。[[バスティーユ牢獄]]に11年、[[コンシェルジュリー]]に1か月、[[ビセートル病院]](刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、{{仮リンク|サン・ラザール監獄|en|Saint-Lazare Prison}}に1年、そして{{仮リンク|シャラントン精神病院|en|Charenton_(asylum)}}に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在は高い評価を受けている。[[サディズム]]という言葉は、彼の名に由来する。 == 生涯 == === 生い立ちと教育 === [[File:Jean-Baptiste François Joseph de Sade.jpg|thumb|right|父のサド伯爵、1750年ごろ。]] [[File:Marie-Éléonore de Maillé.jpg|thumb|right|母マリー=エレオノール。]] マルキ・ド・サドは、パリの{{仮リンク|オテル・ド・コンデ|fr|Hôtel de Condé}}、かつての[[コンデ公]]の邸宅。現在の[[6区 (パリ)|パリ6区]]{{仮リンク|コンデ通り|fr|Rue de Condé}}と{{仮リンク|ヴォージラール通り|fr|Rue de Vaugirard}}付近)にて、{{仮リンク|ジャン=バティスト・ド・サド|fr|Jean-Baptiste de Sade|label=サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフ}}と、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン([[カロリーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルク|コンデ公爵夫人]]の女官。宰相[[リシュリュー]]の親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後に[[イエズス会]]の[[リセ]]に学んだが、軍人を志して[[七年戦争]]に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。 [[1763年]]に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた<ref>{{cite book |last=Love |first=Brenda |title=The Encyclopedia of Unusual Sex Practices |year=2002 |publisher=Abacus |location=UK |page=145 |isbn=0-349-11535-4 }}</ref>。 [[1766年]]、サドは[[プロヴァンス]]のラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は[[1767年]][[1月]]に亡くなった。 === 牢獄と病院 === サド家は伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった<ref name=lely>''Vie du Marquis de Sade'' by Gilbert Lêly, 1961</ref>。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。 サドは「[[復活祭]]の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」などの犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と[[肛門性交]]の罪」で死刑判決が出ている。1778年に{{仮リンク|シャトー・ド・ヴァンセンヌ|en|Château de Vincennes}}に収監され、1784年には[[バスティーユ牢獄]]にうつされた。 獄中にて精力的に長大な[[小説]]をいくつか執筆した。それらは、[[自由主義|リベラル]]思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、[[エロティシズム]]、徹底した[[無神論]]、[[キリスト教]]の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『[[ソドム百二十日あるいは淫蕩学校]]』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、[[19世紀]]には[[禁書]]扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。 サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。間もなくシャラントン精神病院にうつされたが、[[1790年]]に解放された。当初共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間は投獄されている。1801年、[[ナポレオン・ボナパルト]]は、匿名で出版されていた『[[美徳の不幸|ジュスティーヌあるいは美徳の不幸]]』と『[[ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え]]』を書いた人物を投獄するよう命じた。サドは裁判無しに投獄され、[[1803年]]にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。 == 評価 == サドの作品は、作者の精神状態を反映してか特に暴力的な描写において文法的に破綻を来してしまっているようなところが数多いが、[[20世紀]]に入ってから、そういった点が[[シュルレアリスム|シュルレアリスト]]たちによって再評価され、全集の出版が行われることになる。日本には[[木々高太郎]]や[[式場隆三郎]]、[[田辺貞之助]]、「丸木砂土」こと[[秦豊吉]]、[[遠藤周作]]、[[澁澤龍彦]]、[[片山正樹]]たちによって紹介された。澁澤による『悪徳の栄え』の翻訳出版を巡って引き起こされた[[悪徳の栄え事件]]は、澁澤側の有罪(罰金刑)を以て終わった。 [[河出文庫]]などから出版されている澁澤の翻訳は、全訳ではなく抄訳のものが多い。水声社からサド全集が刊行中であるほか、全訳をうたった抄訳も出版されている<ref>秋吉良人 『哲学の現代を読む6 サド - 切断と衝突の哲学』白水社、2007年、272頁。</ref>。[[異常心理学]]の研究者である[[佐藤晴夫]]が全訳を試みたものが[[未知谷]]や[[青土社]]から出版されている。 == 影響 == [[オーストリア]]の[[精神医学]]者[[リヒャルト・フォン・クラフト=エビング]]は、「[[異常性欲]]」について、「[[フェティシズム]]」「[[同性愛]]」「サディズム」「[[マゾヒズム]]」の4つに分類している。このうちの「サディズム」は、相手に対して、精神的で身体的な屈辱と苦痛を与えることによって性的な快楽や満足を得ることを意味し、サドの名前に因んで名付けられた。 == 主な作品 == * [[ソドム百二十日あるいは淫蕩学校]] * アリーヌとヴァルクールあるいは哲学小説 * [[美徳の不幸|ジュスティーヌあるいは美徳の不幸]] * 新ジュスティーヌあるいは美徳の不幸 * [[ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え]] * [[閨房哲学]] * ジェローム神父の物語 * ブリザ・テスタの物語 * 恋の罪 * 悲惨物語 ユージェニー・ド・フランヴァル * 司祭と臨終の男との対話 === 日本語訳 === *『ソドムの百二十日』 **[[大場正史]]訳、新流社、[[世界セクシー文学全集]] 1962年 **[[澁澤龍彦]]訳、[[桃源社]]、1965年([[角川文庫]]、1976年、[[富士見書房|富士見ロマン文庫]]、1983年/[[河出文庫]]、1991年) **[[佐藤晴夫]]訳、[[青土社]]、1990年 *『ジュスチーヌあるいは美徳の不幸』 **『ジュスチイヌ』澁澤龍彦訳、河出書房、1956年(「美徳の不幸」角川文庫、富士見ロマン文庫)<br/> 「新ジュスティーヌ」河出文庫、1987年、「美徳の不幸」河出文庫、1992年 ※抄訳 **佐藤晴夫訳『ジュスチーヌ物語又は美徳の不幸』、[[未知谷]]、1991年 **『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』[[植田祐次]]訳、[[岩波文庫]]、2001年  *『悪徳の栄え』 **澁澤龍彦訳、[[現代思潮新社|現代思潮社]] 正・続、1959年ほか、のち新版(角川文庫、1975年)<br/>「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」富士見ロマン文庫、1985年/河出文庫、1990年)各・上下 ※抄訳 **佐藤晴夫訳、未知谷、1992年 *『閨房哲学』 **澁澤龍彦訳([[桃源社]]、1966年)、角川文庫、1976年、復刊1989年/河出文庫、1992年 **『閨房の哲学』 佐藤晴夫訳、[[未知谷]]、1992年 **[[小西茂也]]訳、一穂社(新版)、2007年 **[[関谷一彦]]訳、[[人文書院]]、2014年 **『閨房の哲学』 秋吉良人訳、[[講談社学術文庫]]、2019年 *『アリーヌとヴァルクール又は哲学小説』 **佐藤晴夫訳、未知谷、1994年  *『食人国旅行記』(澁澤龍彦訳、桃源社、1963年)河出文庫、1987年 *『恋の罪』(澁澤龍彦訳、桃源社、1963年)角川文庫、河出文庫、1988年 *『短篇集 恋の罪』 植田祐次訳、岩波文庫、1996年 *『サド全集』([[水声社]]、1995年-)、※下記の巻が刊行 **「6 恋の罪、壮烈悲惨物語」[[私市保彦]]・橋本到訳、2011年 **「7 こぼれ話、物語、笑い話 他」[[橋本到]]・太原孝英訳、2021年 **「8・9 アリーヌとヴァルクールあるいは哲学的物語」上下、[[原好男]]訳、1998年 **「10 ガンジュ侯爵夫人」橋本到訳、1995年 **「11 フランス王妃イザベル・ド・バヴィエール秘史 他」原好男・中川誠一訳、2014年 == 映像化作品 == * [[ソドムの市]] - [[ピエル・パオロ・パゾリーニ]]監督(Salò o le 120 Giornate di Sodoma - Pier Paolo Pasolini) * 銀河 - [[ルイス・ブニュエル]]監督(La Voie lactée - Luis Buñuel) * 悪徳の栄え - [[ロジェ・ヴァディム]]監督(La Vice et la Vertu - Roger Vadim) * 悪徳の栄え - [[実相寺昭雄]]監督 * 悦楽禁書(Marquis de Sade - Gwyneth Gibby) * ジュスティーヌあるいは美徳の不幸 - [[ジェス・フランコ]]監督(Justine - ess Franco) * マルキ・ド・サドのジュスティーヌ - [[クロード・ピアソン]]監督(Justine de Sade) * 女地獄 森は濡れた - [[神代辰巳]]監督(Nouvelle Justine) == 漫画化作品 == * 恋の罪 -エルネスティナ- (2017年 - 2019年 全3巻 講談社 [[如月芳規]]) == 伝記 == * [[式場隆三郎]]『愛の異教徒 マルキ・ド・サドの生涯と芸術』綜合出版社 1947 * 式場隆三郎『サド侯爵夫人』鱒書房 1956 * 澁澤龍彦『サド侯爵の生涯 牢獄文学者はいかにして誕生したか』桃源社 1965<br> 『サド侯爵の生涯』 [[中公文庫]](改訂版)1983、新版2020 ** 訳・解説『サド侯爵の手紙』筑摩書房 1980。[[ちくま文庫]] 1988 ** 澁澤龍彦『サド侯爵あるいは城と牢獄』河出文庫 2004。文庫新編 * ジェフリー・ゴーラ『マルキ・ド・サド その生涯と思想』[[大竹勝]]訳 荒地出版社 1966 * ジルベール・レリー『サド侯爵 その生涯と作品の研究』澁澤龍彦訳 筑摩叢書 1970。[[ちくま学芸文庫]] 1998 * ヴァルター・レニッヒ『サド侯爵』[[飯塚信雄]]訳 理想社 1972 * ジャン=ジャック・ブロシエ『サド』[[山辺雅彦]]訳 審美社 1975 * ジャン=ジャック・ポーヴェール『サド侯爵の生涯』全3巻、長谷泰訳 河出書房新社 1998、新版2012 * [[フィリップ・ソレルス]]『サド侯爵の幻の手紙 至高存在に抗するサド』[[鈴木創士]]訳 せりか書房 1999 * シャンタル・トマ『サド侯爵 新たなる肖像』田中雅志訳 三交社 2006 == サドを扱った作品 == === 書籍 === * サド裁判/[[石井恭二]]、澁澤龍彦 ほか。現代思潮社 * サドは有罪か/[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]。[[白井健三郎]]訳 現代思潮新社 * 我が隣人サド/[[ピエール・クロソウスキー]]。[[豊崎光一]]訳、晶文社 * Donatien Alphonse Francois, marquis de Sade/モーリス・ルヴェル (Maurice Lever) * サド侯爵とその時代/[[イヴァン・ブロッホ (皮膚科医)|イワン・ブロッホ]] * エロスの彼方の世界─サド侯爵/[[オクタビオ・パス]]。西村英一郎訳 土曜美術社出版販売 * ロートレアモンとサド/ モーリス・ブランショ。小浜俊郎訳 国文社 === 演小説 === * マルキ/アンリ・グゾヌー監督 (MARQUIS) * [[マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺]] - [[ピーター・ブルック]]の戯曲で1967年には映画化されている。 * [[藤本ひとみ]] - 『侯爵サド夫人』『侯爵サド』。各・文藝春秋のち文春文庫。 == 関連項目 == * [[サディズム]] * [[クイルズ]] - 彼の晩年を描いた伝記的映画 * [[三島由紀夫]] - 戯曲・澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』を元に『[[サド侯爵夫人]]』を執筆。 * [[マゾッホ]] * [[マゾヒズム]] * [[曽我部恵一]] - ペンネームの一つに丸木戸貞夫を持つ。 * [[がい骨]] - 1965年のホラー映画。サド侯爵の伝記本と頭蓋骨が劇中に登場する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == {{Commons&cat}} {{Wikisourcelang|fr|Donatien Alphonse François de Sade|マルキ・ド・サド}} * [http://www.sademania.com/ サドマニア] (日本初のマルキ・ド・サド情報サイト) * [http://www.sade-ecrivain.com/ Marquis de Sade] (フランス語) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とさと まるき}} [[Category:マルキ・ド・サド|*]] [[Category:18世紀フランスの哲学者]] [[Category:19世紀フランスの哲学者]] [[Category:18世紀フランスの著作家]] [[Category:19世紀フランスの著作家]] [[Category:18世紀フランスの小説家]] [[Category:19世紀フランスの小説家]] [[Category:18世紀の無神論者]] [[Category:19世紀の無神論者]] [[Category:セクシュアリティの哲学者]] [[Category:無神論の哲学者]] [[Category:フランスの無神論者]] [[Category:フランスの革命家]] [[Category:フランスの無神論活動家]] [[Category:ニヒリズムの哲学者]] [[Category:ブルボン朝の人物]] [[Category:フランス革命関連人物]] [[Category:フランスの死刑廃止論者]] [[Category:フランスの侯爵|さと]] [[Category:フランス出身のLGBTの著作家]] [[Category:バイセクシュアルの男性]] [[Category:パリ出身の人物]] [[Category:1740年生]] [[Category:1814年没]] {{writer-stub}} {{france-stub}}
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ハーシム家
ハーシム家(アラビア語: الهاشميون、al-Hāshimīyūn、アル・ハーシミーユーン)は、イスラムの王家、または王朝の名前である。 イスラム教の預言者ムハンマドの曽祖父ハーシム(西暦500年頃没)の一門。クライシュ族に属する。アッバース朝もこの一門から出た。 ハーシムの息子アブドゥルムッタリブにはアブドゥッラーフ、アブー=ターリブ、アッバースら息子たちがいた。この内、アブドゥッラーフの息子ムハンマドは男児に恵まれぬまま末娘ファーティマとその夫でアブー・ターリブの息子のアリーとの間にのみ血統が残ったため、実質、ハーシム家はアリー家を含むアブー・ターリブ家とアッバース家に大きく分けることができる。 アブー・ターリブ家にはアリーの他にジャアファル、アキールの家系があり、アリー家にはファーティマとの間に儲けた二人の息子、ハサン、フサインがおり、特にこれをファーティマ家と呼ぶ場合もある。アリー家には他にムハンマド(・ブン・アリー)、アッバース(・ブン・アリー)、ウマル(・ブン・アリー)の家系がある。 ハーシム家をはじめ、預言者ムハンマドやアリーの一族は歴史的にムスリム社会で敬意を受け、さまざまな尊称で呼ばれて来たが、特に預言者の血筋を引くファーティマ、アリー家の人々の場合、おおよそフサイン家の成員をサイイド(シーア派のイマームはこの系統)、ハサン家の成員をシャリーフという尊称が用いられて来た。地域によってはシャリーフのみや、ミール、ハビーブなども使われている。 イスラム教の預言者ムハンマドの孫で、第4代正統カリフ・アリーとムハンマドの末娘ファーティマとの息子、ハサンの末裔(イスラームの伝統的系譜学上の区分では特に「ファーティマ家」にあたる)であると主張するアラブの王朝。10世紀の967年のタイモン以来、マッカのシャリーフ(宗教的指導者)およびアミール(地方総督)を務めていた。 1921年から現在に至るまで、ヨルダン・ハーシム王国の国王はハーシム家である。イラク革命以降は旧ヒジャーズ・イラク王族が合流。 また、同じハサン家末裔を自称する現存王朝にモロッコ王国王家のアラウィー朝があり、1918年から1962年に存在したイエメン王国王家は、ハサンの弟フサインの孫のザイド・イブン・アリーの子孫を名乗っていた。
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ハーシム家は、イスラムの王家、または王朝の名前である。
{{Royal house |家名 = ハーシム家<br>الهاشميون |紋章= [[Image:Coat of Arms of Jordan.svg|125px]] [[Image:Coat of arms of the Kingdom of Iraq.svg|125px]] [[Image:Coat of arms of Kingdom of Hejaz.svg|125px]]<br>[[ヨルダンの国章|ヨルダン]]、[[イラクの国章|イラク]]、ヒジャーズの[[国章]] |画像サイズ = |キャプション = |種類 = [[貴族]]<br>[[王家]] |国 = [[File:Flag of Hejaz 1920.svg|border|25px]] [[ヒジャーズ王国]]<br>[[File:Flag of Iraq (1924–1959).svg|border|25px]] [[イラク王国]]<br>[[File:Flag of Kingdom of Syria (1920-03-08 to 1920-07-24).svg|border|25px]] [[シリア・アラブ王国]]<br>{{JOR}} |民族 = [[アラブ人]] |主家 = [[クライシュ族]] |当主称号 = [[シャリーフ]]<br>[[カリフ]]<br>[[マリク]](国王)<br>・アラブの王<br>・[[シリア王国|シリア]]国王<br>・[[ヒジャーズ王国|ヒジャーズ]]国王<br>・[[イラク王国|イラク]]国王<br>・[[ヨルダン王の一覧|ヨルダン国王]] |当主敬称 = [[陛下]] |領地 = |創設 = [[6世紀]]<br>[[1916年]][[6月10日]] (近代) |断絶 = |滅亡 = [[1920年]][[7月25日]](シリア:[[w:Franco-Syrian War|フランス・シリア戦争]])<br>[[1925年]][[12月19日]](ヒジャーズ:[[w:Saudi conquest of Hejaz|サウジ征服]])<br>[[1958年]][[7月14日]](イラク:[[7月14日革命]]) |家祖 = ハーシム<br>[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]] |最後の当主 = 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また、同じハサン家末裔を自称する現存王朝に[[モロッコ王国]]王家の[[アラウィー朝]]があり、1918年から1962年に存在した[[イエメン王国]]王家は、[[ハサン・イブン・アリー|ハサン]]の弟[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]の孫の[[ザイド・イブン・アリー]]の子孫を名乗っていた。 == ヨルダン・ハーシム家の歴代国王 == {{main|ヨルダン王の一覧}} #[[アブドゥッラー1世]](在位:1923年~1951年) #[[タラール1世]](在位:1951年~1953年) #[[フセイン1世]](在位:1953年~1999年) #[[アブドゥッラー2世]](在位:1999年~現在) == イラク・ハーシム家の歴代国王 == {{main|イラク国王一覧}} #[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]](在位:1921年~1933年) #[[ガージー (イラク王)|ガージー]](在位:1933年~1939年) #[[ファイサル2世 (イラク王)|ファイサル2世]](在位:1939年~1958年) == 系図 == === 祖家、シーア派イマーム === {{familytree/start|style=font-size:80%;}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | QUR | | | | |QUR=[[クライシュ族#系図|クライシュ族]]}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |:| | | | | |}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | |HAS | | | | |HAS=ハーシム}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | |}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | |ADA | | | | |ADA=アブド・アルムッタリブ}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |)|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| | | |}} 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南海和歌山港線
和歌山港線(わかやまこうせん)は、和歌山県和歌山市の和歌山市駅から和歌山港駅までを結ぶ、南海電気鉄道の鉄道路線である。和歌山港駅で南海フェリーの四国航路「南海四国ライン」に連絡しており、大阪方面から徳島への連絡線の役目を果たしている。 かつては沿線利用も考慮され、途中駅として久保町駅、築地橋駅、築港町駅があったが、いずれも一日の平均乗降客数が100人以下だったため2005年(平成17年)11月27日に廃止された。また終着駅だった水軒駅は、それより前の2002年(平成14年)5月26日に廃止された。 県社分界点(久保町駅) - 和歌山港間は、南海電気鉄道の敷設免許を譲り受けて港湾管理者である和歌山県が臨港鉄道として整備したもので、南海電気鉄道が第二種鉄道事業者、和歌山県が第三種鉄道事業者となっているが、臨港地区内に含まれない県社分界点(久保町駅) - 和歌山市駅間は南海が建設した。なお、和歌山県との境界点であった久保町駅は先述の通り2005年11月27日に廃止されたため、境界点の名称は県社分界点となった。 キロポストの距離表示は南海本線からの通算となっている。 南海本線直通の特急「サザン」並びに急行及び線内運転の普通列車が運転されている。線内運転の普通列車は2005年11月27日のダイヤ改正で途中駅が廃止されたためいったん消滅し、南海本線と直通する特急と急行のみの運転となっていたが、その後2012年4月1日のダイヤ改正ですべて南海四国ラインとの接続に特化したダイヤになるとともに、特急「サザン」と急行の一部が線内運転の普通列車に置き換えられた。同年10月1日には、平日ダイヤの急行上り2本が和歌山港発和歌山市行きの普通列車に変更された(従来の列車は和歌山市発として運行)。 なお、普通列車に使用される電車は加太線と共通運用されている。 2002年5月26日の水軒駅廃止以前から特急と急行は難波方面から和歌山港駅までの運転で、2005年11月27日廃止の途中駅はすべて通過していた。また、水軒駅発着の線内折り返し普通列車は1日2往復(午前・午後にそれぞれ1往復)のみであった。 毎年7月20日には和歌山市内で「港まつり花火大会」が開催されるため、この日のみ大幅に和歌山市駅 - 和歌山港駅間の急行が増発される。また、この日の臨時列車が運転される時間帯の特急「サザン」はすべて和歌山市駅 - 難波駅間での運転となり、和歌山港線へは乗り入れない。 沿線には企業の工場や官公庁の施設が多い。かつては朝夕を中心に、日中も1時間に1本程度が設定されていたが、現在は南海四国ラインとの接続に特化したダイヤとなっているため、通勤客よりもフェリー乗船客の利用が中心となっている。 和歌山市・和歌山港以外の駅はすべて無人化されていたため、無人駅(久保町・築地橋・築港町・水軒)が存在していた頃における運賃・乗車券の取り扱いは次の通りとなっていた(ここはあくまで「スルッとKANSAI」導入以降、すなわちワンマン化後について述べることにする。)。なお、途中の無人駅で下車せずに和歌山市駅 - 和歌山港駅間を乗車する場合は、磁気カードがそのまま使用できた。ちなみに、2012年4月以降は和歌山港駅も無人駅化されたが、自動改札は引き続き設置されている。 南海四国航路が開設された1956年(昭和31年)に和歌山市駅 - 和歌山港駅(初代、後の築港町駅)間が開業し、1971年(昭和46年)には和歌山港の移転と和歌山県が計画した木材輸送のため築港町駅 - 水軒駅間が延長された。しかし、延伸開業時にはすでに木材輸送がトラック輸送に切り替わっており、一度も木材輸送のための貨物列車が運行されることがなかった。 延長区間のうち、和歌山港駅 - 水軒駅間には、前述の通り和歌山市駅からの旅客列車が一日わずか2往復だけ運転されていたが、「同区間にある踏切が交差道路拡張の障害になっている」との理由で、2002年(平成14年)に廃止された。水軒駅廃止直前の同年4月28日には臨時で特急「サザン」が難波駅から水軒駅まで運転された。また、同駅最終営業日の5月25日には、和歌山市駅から水軒駅まで2往復の定期列車に加えて5往復の臨時列車も運転された(「水軒駅」も参照)。 なお、開業当初から難波発着の南海四国航路連絡列車が運転されている。当初は1551系を使用した急行「あわ」が運行された。のちに特急「四国」が運行開始され、1985年(昭和60年)からは「サザン」となっている。 2005年11月には途中の3駅(前述)が廃止され、和歌山バスの160系統などが事実上途中3駅周辺の代行輸送を担っている。 全駅和歌山県和歌山市内に所在。 和歌山港駅 - 水軒駅
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和歌山港線(わかやまこうせん)は、和歌山県和歌山市の和歌山市駅から和歌山港駅までを結ぶ、南海電気鉄道の鉄道路線である。和歌山港駅で南海フェリーの四国航路「南海四国ライン」に連絡しており、大阪方面から徳島への連絡線の役目を果たしている。 かつては沿線利用も考慮され、途中駅として久保町駅、築地橋駅、築港町駅があったが、いずれも一日の平均乗降客数が100人以下だったため2005年(平成17年)11月27日に廃止された。また終着駅だった水軒駅は、それより前の2002年(平成14年)5月26日に廃止された。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[File:Nankai group logo.svg|24px|link=南海電気鉄道]] 和歌山港線 |路線色 = #0065AF |ロゴ = Nankai mainline simbole.svg |ロゴサイズ = 48px |画像 = Arriving-wakayamakou.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = 和歌山港駅に到着する[[南海7000系電車|7100系]]普通列車 |国 = {{JPN}} |所在地 = [[和歌山県]] |起点 = [[和歌山市駅]] |終点 = [[和歌山港駅]] |路線記号 = [[File:Number prefix Nankai Railway line.svg|25px|NK]] NK |駅数 = 2駅 |開業 = [[1956年]][[5月6日]] |項目1 = 全通 |日付1 = [[1971年]][[3月6日]] |項目2 = 部分廃止 |日付2 = [[2002年]][[5月26日]] |項目3 = 途中駅廃止 |日付3 = [[2005年]][[11月27日]] |廃止 = |所有者 = [[南海電気鉄道]] <br />(和歌山市 - 県社分界点間 第1種鉄道事業者)<br />[[和歌山県]]<br />(県社分界点 - 和歌山港間 第3種鉄道事業者) |運営者 = [[南海電気鉄道]] <br />(和歌山市 - 県社分界点間 第1種鉄道事業者、県社分界点 - 和歌山港間 第2種鉄道事業者) |車両基地 = [[住ノ江検車区]]、同区[[羽倉崎検車区|羽倉崎検車支区]]、<br />同区和歌山出張場 |使用車両 = [[南海12000系電車|12000系]]、[[南海8300系電車|8300系]]、[[南海8000系電車 (2代)|8000系]]、[[南海1000系電車 (2代)|1000系]]、[[南海9000系電車|9000系]]、[[南海10000系電車|10000系]]、[[南海7000系電車|7100系]]、[[大阪府都市開発3000系電車|3000系]]、[[南海22000系電車|2200系、2230系]] |路線距離 = 2.8 [[キロメートル|km]] |軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]]) |線路数 = [[単線]] |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式 = 自動閉塞式 |最小曲線半径 = |最大勾配 = |最高速度 = |路線図 = Nankai_Electric_Railway_Linemap.svg }} '''和歌山港線'''(わかやまこうせん)は、[[和歌山県]][[和歌山市]]の[[和歌山市駅]]から[[和歌山港駅]]までを結ぶ、[[南海電気鉄道]]の[[鉄道路線]]である。和歌山港駅で[[南海フェリー]]の[[四国]]航路「[[南海フェリー#就航中の航路|南海四国ライン]]」に連絡しており、大阪方面から[[徳島県|徳島]]への連絡線の役目を果たしている。 かつては<!--貨物輸送や-->沿線利用も考慮され、途中駅として[[久保町駅]]、[[築地橋駅]]、[[築港町駅]]があったが、いずれも一日の平均乗降客数が100人以下だったため[[2005年]]([[平成]]17年)[[11月27日]]に廃止された<ref>{{Cite web|和書|title=和歌山港線中間3駅(久保町・築地橋・築港町)の廃止日決定について|publisher=南海電気鉄道|url=http://www.nankai.co.jp/company/news/pdf/050516.pdf|date=2005-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061008235835/http://www.nankai.co.jp/company/news/pdf/050516.pdf|archivedate=2006-10-08|accessdate=2023-03-06}}</ref>。また終着駅だった[[水軒駅]]は、それより前の[[2002年]](平成14年)[[5月26日]]に廃止された。 == 路線データ == * 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長2.8km ** 南海電気鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]): *** 和歌山市 - 県社分界点(旧・久保町)間 0.8km ** 南海電気鉄道([[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]])・[[和歌山県]]([[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]): *** 県社分界点(旧・久保町) - 和歌山港間 2.0km * [[軌間]]:1067mm * 駅数:2駅(起終点駅含む) * 複線区間:なし(全線単線) * 電化区間:全線電化(直流1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 県社分界点(久保町駅) - 和歌山港間は、南海電気鉄道の敷設免許を譲り受けて港湾管理者である[[和歌山県]]が臨港鉄道<ref>[[港湾法]]第四十三条二項に、港湾管理者のする「重要港湾における臨港交通施設の建設又は改良の港湾工事」の費用に対する国からの補助について定められている。</ref>として整備したもので、南海電気鉄道が第二種鉄道事業者、和歌山県が第三種鉄道事業者となっているが、臨港地区<ref>昭和40年7月31日建設省告示第2103号で指定された和歌山下津臨港地区。[http://www.city.wakayama.wakayama.jp/kurashi/douro_kouen_machi/1009501/1012103/1013632.html 地域地区とは](和歌山市)の「臨港地区」節、および[http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/080500/rinkouchiku/rinkoubunku.html 臨港地区及び分区について](和歌山県)を参照。</ref>内に含まれない県社分界点(久保町駅) - 和歌山市駅間は南海が建設した。なお、和歌山県との境界点であった久保町駅は先述の通り2005年11月27日に廃止されたため、境界点の名称は県社分界点となった。 [[距離標|キロポスト]]の距離表示は南海本線からの通算となっている。 == 運行形態 == {{BS-map |title=停車場・施設・接続路線 |title-bg=#0065af |title-color=white |map= {{BS2||KHSTa|||NK01 [[難波駅 (南海)|難波駅]]|}} {{BS2||LSTR|||[[ファイル:Nankai mainline simbole.svg|14px|link=南海本線]] [[南海本線]]|}} {{BS4|||ABZg+l|ABZq+l|||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:[[紀勢本線]]|}} {{BS4|exSTR+l|xABZq+l|ABZgr|STR|||[[住ノ江検車区]]和歌山出張場||}} {{BS4|exBHF|O1=HUBaq|DST|O2=HUBq|BHF|O3=HUBq|KBHFe|O4=HUBlg|0.0|NK45 [[和歌山市駅]]||}} {{BS4|exSTR|STRl|ABZg+r|uexKBHFaq|O4=HUBe|||''[[南海和歌山軌道線|和歌山軌道線(海南線)]]''|}} {{BS4|exSTRr||STR||||''[[南海北島支線|北島支線]]''|}} {{BS2||hKRZWae|||市堀川|}} {{BS2||STR|||↑南海:第一種事業||}} {{BS2|GRZq|GRZq|O2=eBHF|0.8|県社分界点|(旧''[[久保町駅]]'')|}} {{BS2||STR|||↓南海:第二種事業||}} {{BS2||STR|||↓[[和歌山県]]:第三種事業||}} {{BS4|||hKRZWae|WASSER+r|||築地川|}} {{BS4|||eBHF|WASSER|1.5|''[[築地橋駅]]''|-2005|}} {{BS4||exSTR+l|eABZgr|WASSER|||||}} {{BS4||exSTR|eBHF|WASSER|2.3|''[[築港町駅]]''|-2005|}} {{BS4||exKBHFe|STR|WASSER||''和歌山港駅''|(I) -1971|}} {{BS4|||hKRZWae|WASSERr||||}} {{BS2|BOOT|KBHFxe|2.8|NK45-1 [[和歌山港駅]]|(II) 1971-|}} {{BS2||exKBHFe|5.4|''[[水軒駅]]''|-2002|}} }} [[南海本線]]直通の特急「[[サザン (列車)|サザン]]」並びに急行及び線内運転の普通列車が運転されている。線内運転の普通列車は2005年11月27日のダイヤ改正で途中駅が廃止されたためいったん消滅し、南海本線と直通する特急と急行のみの運転となっていたが、その後2012年4月1日のダイヤ改正ですべて南海四国ラインとの接続に特化したダイヤになるとともに、特急「サザン」と急行の一部が線内運転の普通列車に置き換えられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nankai.co.jp/company/news/pdf/120125.pdf|title=4月1日(日)から「南海線」のダイヤを変更します|date=2012-01-24|publisher=南海電気鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120131143412/http://www.nankai.co.jp/company/news/pdf/120125.pdf|archivedate=2012-01-31|accessdate=2023-03-06}}</ref>。同年[[10月1日]]には、平日ダイヤの急行上り2本が和歌山港発和歌山市行きの普通列車に変更された(従来の列車は和歌山市発として運行)<ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/info/wakayamakodia/index.html 和歌山港駅発の一部列車の変更について]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }} - 南海電気鉄道、2012年9月29日閲覧</ref>。 なお、普通列車に使用される電車は[[南海加太線|加太線]]と共通運用されている。 2002年5月26日の水軒駅廃止以前から特急<!--自由席特急や過去には四国号などがあったのでサザンに限定しない。-->と急行は難波方面から和歌山港駅までの運転で、2005年11月27日廃止の途中駅はすべて通過していた。また、水軒駅発着の線内折り返し普通列車は1日2往復(午前・午後にそれぞれ1往復)のみであった。 毎年[[7月20日]]には和歌山市内で「港まつり花火大会」が開催されるため、この日のみ大幅に和歌山市駅 - 和歌山港駅間の急行が増発される。また、この日の臨時列車が運転される時間帯の特急「サザン」はすべて和歌山市駅 - [[難波駅 (南海)|難波駅]]間での運転となり、和歌山港線へは乗り入れない。 沿線には企業の工場や官公庁の施設が多い。かつては朝夕を中心に、日中も1時間に1本程度が設定されていたが、現在は南海四国ラインとの接続に特化したダイヤとなっているため、通勤客よりもフェリー乗船客の利用が中心となっている。 == 廃止された無人駅での運賃・乗車券の取り扱い == 和歌山市・和歌山港以外の駅はすべて無人化されていたため、無人駅(久保町・築地橋・築港町・水軒)が存在していた頃における運賃・乗車券の取り扱いは次の通りとなっていた(ここはあくまで「スルッとKANSAI」導入以降、すなわち[[ワンマン運転|ワンマン]]化後について述べることにする。)。なお、途中の無人駅で下車せずに和歌山市駅 - 和歌山港駅間を乗車する場合は、磁気カードがそのまま使用できた。ちなみに、2012年4月以降は和歌山港駅も無人駅化されたが、自動改札は引き続き設置されている。 ; 無人駅相互間だけで完結する場合 : 無人駅に[[自動改札機]]が設置されていなかったため、無人駅相互間だけの利用に限り磁気カード類は使用できず、そのまま乗車し、降車時に車内備え付けの料金箱に現金を直接入れる方法を取っていた(ワンマン化以降)。和歌山市駅・和歌山港駅から無人駅へ、または和歌山市以北の南海線各駅から和歌山市駅を跨いで無人駅へ向かう場合も、車内備え付けの運賃箱に乗車券を入れる方法を取っていた。 : [[ファイル:南海7101系に取り付けられた料金箱.JPG|thumb|none|実際に取り付けられていた運賃箱]] : {{-}} ; 無人駅から和歌山市駅または和歌山港駅で下車する場合 : 和歌山市駅で降車する場合、同駅到着後オレンジ色の[[乗車駅証明書]]発行機から各駅ごとに示された乗車駅証明書を取り出し、中間改札を通り抜けた後、コンコース内の[[自動精算機|のりこし精算機]]で運賃を支払い、発券された出場証を自動改札機に投入し、出場。 : 和歌山港駅で降車する場合、同駅に乗車駅証明書発行機がないため、車内備え付けの運賃箱に現金を直接入れるか、または同駅の改札窓口で運賃を支払って出場(「スルッとKANSAI」共通カードでも有効)。 : [[ファイル:和歌山市駅の乗車駅証明書発行機.JPG|thumb|none|和歌山市駅の乗車駅証明書発行機]] ; 無人駅から和歌山市駅を跨いで同駅以北の南海線および[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]線各駅に乗り継ぐ場合 : 無人駅からそのまま乗車し、和歌山市駅到着後オレンジ色の乗車駅証明書発行機から各駅ごとに示された乗車駅証明書を取り出し、それで中間改札を通り抜け、南海本線または加太線に乗り換える場合はそのまま乗り換えの列車に乗車し、最終的に降車駅に設置されているのりこし精算機で運賃を支払い(「スルッとKANSAI」共通カードでも有効)、発券された出場証を自動改札機に投入し、出場。JR線に乗り換える場合も同様にのりこし精算機で運賃を支払い、発券された出場証を2番ホームにある中間改札に投入。 : {{-}} == 歴史 == [[ファイル:Nankai Suiken Station01.jpg|thumbnail|250px|水軒駅に停車中の[[南海22000系電車|2200系]]電車]] 南海四国航路が開設された[[1956年]](昭和31年)に和歌山市駅 - 和歌山港駅(初代、後の築港町駅)間が開業し、[[1971年]](昭和46年)には和歌山港の移転と和歌山県が計画した木材輸送のため築港町駅 - 水軒駅間が延長された。しかし、延伸開業時にはすでに木材輸送がトラック輸送に切り替わっており、一度も木材輸送のための貨物列車が運行されることがなかった。 延長区間のうち、和歌山港駅 - 水軒駅間には、前述の通り和歌山市駅からの旅客列車が一日わずか2往復だけ運転されていたが、「同区間にある踏切が交差道路拡張の障害になっている」との理由で、2002年(平成14年)に廃止された。水軒駅廃止直前の同年[[4月28日]]には臨時で特急「サザン」が[[難波駅 (南海)|難波駅]]から水軒駅まで運転された。また、同駅最終営業日の[[5月25日]]には、和歌山市駅から水軒駅まで2往復の定期列車に加えて5往復の臨時列車も運転された(「[[水軒駅]]」も参照)。 なお、開業当初から難波発着の南海四国航路連絡列車が運転されている。当初は[[南海1201形電車|1551系]]を使用した急行「あわ」が運行された。のちに特急「四国」が運行開始され、1985年(昭和60年)からは「サザン」となっている。 2005年11月には途中の3駅(前述)が廃止され、[[和歌山バス]]の160系統などが事実上途中3駅周辺の代行輸送を担っている。 === 年表 === * [[1956年]]([[昭和]]31年)[[5月6日]]:和歌山市駅 - 和歌山港駅(初代、後の築港町駅)間が開業。 * [[1971年]](昭和46年)[[3月6日]]:築港町駅 - 水軒駅間が開業。和歌山港駅(初代)を移設の上、築港町駅に改称。 * [[2001年]]([[平成]]13年)[[3月24日]]:普通列車のワンマン運転開始。 * [[2002年]](平成14年)[[5月26日]]:和歌山港駅 - 水軒駅間 (2.6km) が廃止<ref name="RP720_118">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=5月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2002-08-01|volume=52|issue=第8号(通巻720号)|page=118|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[11月27日]]:久保町駅、築地橋駅、築港町駅廃止。線内運転の普通列車を廃止。 * [[2012年]](平成24年)[[4月1日]]:南海フェリーとの接続に特化したダイヤとなり、運行本数を削減。特急「サザン」と急行の一部の置き換えで線内運転の普通列車が復活。土曜・休日の急行が廃止に。和歌山港駅[[無人駅|無人化]]ならびに特急サザン座席指定券の取り扱いが終了。 * 2023年度:鉄道信号メーカー[[京三製作所]]と共同で自動運転の実証試験を実施予定<ref>{{Cite press release|和書|title=和歌山港線における『自動運転実証試験』に向けて事前準備を2022年7月から順次進めてまいります(PDF:290KB)|publisher=南海電気鉄道|date=2022-06-16|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/220616.pdf|format=PDF|access-date=2023-01-21}}</ref>。 == 駅一覧 == 全駅[[和歌山県]][[和歌山市]]内に所在。 === 営業中の区間 === * 特急「[[サザン (列車)|サザン]]」・急行(平日のみ)は[[南海本線]][[難波駅 (南海)|難波駅]]まで直通運転。 * 全区間単線。両駅ともに[[列車交換]]可能。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:5em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|駅番号 !style="width:7em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|営業キロ !style="border-bottom:solid 3px #0065af;"|接続路線 |- !NK45 |[[和歌山市駅]] |style="text-align:right;"|0.0 |[[南海電気鉄道]]:[[ファイル:Nankai mainline simbole.svg|15px|■]] [[南海本線]](一部直通)<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{Color|#0072bc|■}}[[紀勢本線]] |- !style="text-align:center;"| |県社分界点 |style="text-align:right;"|(0.8) |&nbsp; |- !NK45-1 |[[和歌山港駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |航路([[南海フェリー]]:南海四国ライン) |} === 廃止区間 === 和歌山港駅 - [[水軒駅]] === 廃駅 === * [[久保町駅]](和歌山市 - 和歌山港間、2005年11月27日廃止) ※現在は県社分界点となっている。 * [[築地橋駅]](同上) * [[築港町駅]](同上) === 過去の接続路線 === * 和歌山市駅:[[南海和歌山軌道線]] - 1971年3月31日まで == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[南海フェリー]] * [[鉄道連絡船]] * [[小松島線]] <!--* [[南海本線]] →他の南海電鉄の鉄道路線は下の「南海電鉄の鉄道路線」テンプレートを開くと各路線の項目へのリンクがあります。--> * [[サザン (列車)|サザン]] - 現行の特急「サザン」のほか、南海の過去の四国連絡列車について == 外部リンク == *[http://www.nankai.co.jp/traffic/railmap/nankai.html 南海線(空港線)] {{南海電鉄の鉄道路線}} {{デフォルトソート:わかやまこうせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|わかやまこうせん]] [[Category:南海電気鉄道の鉄道路線|わかやまこう]] [[Category:和歌山県の交通]] [[Category:部分廃止路線]]
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ドカベン (曖昧さ回避)
ドカベン、どかべん
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ドカベン、どかべん ドカベン - 水島新司の野球漫画。 『ドカベン』の主人公・山田太郎のあだ名。どかべんがトレードマークであることから。 『ドカベン』の登場人物で、前述の山田太郎のライバル・土門剛介のあだ名。 元プロ野球選手・香川伸行の愛称。『ドカベン』の山田太郎にちなんだイメージから。なおかつ同じ捕手でもある。生前はプロ野球マスターズリーグでの登録名にもなっていた。 高校野球に於いて、長打力のある太ったキャッチャーは○○のドカベンと呼ばれる。(四国のドカベン=今井康剛、福岡のドカベン=山之内健一、瀬戸内のドカベン=森田和也、土佐のドカベン=中田亮二 どかべん - 土方が常用した金属製の大きな蓋付きの弁当箱または弁当のこと。
'''ドカベン'''、'''どかべん''' * [[ドカベン]] - [[水島新司]]の[[野球漫画]]。 ** 『ドカベン』の主人公・[[山田太郎 (ドカベン)|山田太郎]]のあだ名。[[どかべん]]がトレードマークであることから。 ** 『ドカベン』の登場人物で、前述の山田太郎のライバル・[[土門剛介]]のあだ名。 ** 元[[プロ野球選手]]・[[香川伸行]]の[[愛称]]。『ドカベン』の山田太郎にちなんだイメージから。なおかつ同じ[[捕手]]でもある。生前は[[プロ野球マスターズリーグ]]での登録名にもなっていた。 ** [[高校野球]]に於いて、長打力のある太ったキャッチャーは○○のドカベンと呼ばれる。(四国のドカベン=[[今井康剛]](1996年)、福岡のドカベン=[[山之内健一]](1989年)、瀬戸内のドカベン=[[森田和也]](1999年)、土佐のドカベン=[[中田亮二]] * [[どかべん]] - [[土工|土方]]が常用した金属製の大きな蓋付きの弁当箱または弁当のこと。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:とかへん}} [[Category:人物の愛称]]
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船橋法典駅
船橋法典駅(ふなばしほうてんえき)は、千葉県船橋市藤原一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)武蔵野線の駅である。駅番号はJM 11。 島式ホーム1面2線をもつ地上駅で、橋上駅舎を有している。台地に位置するため、掘割の上にホームがある。なお、ホームの一部はトンネル(第1藤原トンネル、第2藤原トンネル)となっており、地下にある。 船橋営業統括センター(西船橋駅)管理の直営駅。2018年3月24日より、始発から午前6時30分までの間は遠隔対応(インターホン対応は新八柱駅が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみ稼働している。 駅カラーは薄い黄緑色。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は16,244人である。武蔵野線内26駅中吉川駅に次いで17位。 中山競馬場の最寄り駅であり、競馬開催日は非常に混雑する。なお、当駅が開業するまで、中山競馬場は京成本線東中山駅が最寄り駅であり、当時は「中山競馬場前駅」と名乗っていた。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 当駅は中山競馬場の最寄り駅で、開催日もしくは場外発売日には専用改札口から専用の地下通路(ナッキーモール)を通って直接行けるようになっている。なお、駅名標も開業時から数年間「中山競馬場前」の副名称が表記されていた。駅周辺は宅地開発が盛んで、商業施設も徐々に増えている。 京成バス市川営業所が運行する路線バスが発着する。 ちばレインボーバス白井車庫が運行する路線バスが発着する。 駅から少し離れた場所に設置されている。京成バスシステムが運行する路線バス、市川市が運営し京成バスが運行受託しているコミュニティバスが発着する。
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船橋法典駅(ふなばしほうてんえき)は、千葉県船橋市藤原一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)武蔵野線の駅である。駅番号はJM 11。
{{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 船橋法典駅 |画像 = Funabashi-Hōten Station 20220502.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 駅舎(2022年5月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|43|51.06|N|139|57|59.65|E}}}} |よみがな = ふなばしほうてん |ローマ字 = Funabashih&#333;ten |前の駅 = JM 12 [[市川大野駅|市川大野]] |駅間A = 3.0 |駅間B = 2.9 |次の駅 = [[西船橋駅|西船橋]] JM 10 |電報略号 = フホ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#f15a22|■}}[[武蔵野線]] |駅番号 = {{駅番号r|JM|11|#f15a22|1}} |キロ程 = 97.7&nbsp;km([[鶴見駅|鶴見]]起点)<br />[[府中本町駅|府中本町]]から68.9 |起点駅 = |所在地 = [[千葉県]][[船橋市]][[藤原 (船橋市)|藤原]]一丁目<ref name="eki"/>27-1 |座標 = {{coord|35|43|51.06|N|139|57|59.65|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1978年]]([[昭和]]53年)[[10月2日]]<ref name="eki"/> |廃止年月日 = |乗車人員 = 16,244 |統計年度 = 2022年 |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]] }} '''船橋法典駅'''(ふなばしほうてんえき)は、[[千葉県]][[船橋市]][[藤原 (船橋市)|藤原]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[武蔵野線]]の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="eki">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1383 |title=JR東日本:各駅情報(船橋法典駅) |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2016-03-07}}</ref>。駅番号は'''JM 11'''。 == 歴史 == [[ファイル:Funabashi-Hoten Station 2006.jpg|thumb|2006年頃の駅舎、[[中山競馬場]]前の表記がある。]] * [[1978年]]([[昭和]]53年)[[10月2日]]:[[日本国有鉄道|国鉄]]の駅として開業。工事中の仮称は「'''北船橋駅'''」であった<ref>地図で解明! 東京の鉄道発達史([[今尾恵介]]・著 [[JTBパブリッシング]] 2016年)p.148 - 149</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる。 * [[1993年]]([[平成]]5年)[[3月]]:[[みどりの窓口]]の営業を開始<!--JR時刻表1993年2・3月号-->。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-28|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[3月7日]]:みどりの窓口の営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%e3%80%8c%e3%81%bf%e3%81%a9%e3%82%8a%e3%81%ae%e7%aa%93%e5%8f%a3%e3%80%8d%ef%bc%96%e9%a7%85%e3%81%a7%e5%bb%83%e6%ad%a2%e6%8f%90%e6%a1%882%e3%83%bb24%e5%87%ba%e5%90%91%e7%84%a1%e5%8a%b9%e8%a3%81/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200508223921/https://doro-chiba.org/nikkan/%e3%80%8c%e3%81%bf%e3%81%a9%e3%82%8a%e3%81%ae%e7%aa%93%e5%8f%a3%e3%80%8d%ef%bc%96%e9%a7%85%e3%81%a7%e5%bb%83%e6%ad%a2%e6%8f%90%e6%a1%882%e3%83%bb24%e5%87%ba%e5%90%91%e7%84%a1%e5%8a%b9%e8%a3%81/|title=「みどりの窓口」6駅で廃止提案/2・24出向無効裁判へ結集を|language=日本語|archivedate=2020-05-08|accessdate=2020-05-08|publisher=国鉄千葉動力車労働組合|date=2016-02-10}}</ref>。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]1面2線をもつ[[地上駅]]で<ref name="jtb"/>、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している<ref name="jtb">[[#jtb|武蔵野線まるごと探見]]、pp.90-91。</ref>。[[台地]]に位置するため、[[切土|掘割]]の上に[[プラットホーム|ホーム]]がある。なお、ホームの一部は[[トンネル]](第1藤原トンネル、第2藤原トンネル)となっており、[[地下]]にある<ref name="jtb"/>。 船橋営業統括センター([[西船橋駅]])管理の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]<ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5d78dd06f113d77b495103b5.pdf|title=営業施策について提案を受ける!①|format=PDF|publisher=JR東労組千葉地方本部|date=2019-09-11|accessdate=2020-04-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191128183342/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5d78dd06f113d77b495103b5.pdf|archivedate=2019-11-28}}</ref>。[[2018年]][[3月24日]]より、始発から午前6時30分までの間は遠隔対応(インターホン対応は[[新八柱駅]]が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみ稼働している<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%ef%bd%8a%ef%bd%92%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%97%e9%a7%85%e3%81%ae%e9%81%a0%e9%9a%94%e6%93%8d%e4%bd%9c%e7%84%a1%e4%ba%ba%e5%8c%96%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%81%a8%e9%8c%a6%e7%b3%b8%e7%94%ba/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190525173137/https://doro-chiba.org/nikkan/%ef%bd%8a%ef%bd%92%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%97%e9%a7%85%e3%81%ae%e9%81%a0%e9%9a%94%e6%93%8d%e4%bd%9c%e7%84%a1%e4%ba%ba%e5%8c%96%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%81%a8%e9%8c%a6%e7%b3%b8%e7%94%ba/|title=JR千葉支社-7駅の遠隔操作=無人化導入と錦糸町駅の旅行業務委託を提案|archivedate=2019-05-25|date=2018-02-20|accessdate=2020-08-02|publisher=国鉄千葉動力車労働組合|language=日本語}}</ref>。 駅カラーは薄い黄緑色。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線 |style="text-align:center;"|上り |[[新松戸駅|新松戸]]・[[府中本町駅|府中本町]]方面 |- !2 |style="text-align:center;"|下り |[[西船橋駅|西船橋]]・[[東京駅|東京]]方面 |} (出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1383.html JR東日本:駅構内図]) <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JR Musashino Line Funabashihōten Station Gate.jpg|改札口(2022年7月) JR Musashino Line Funabashihōten Station Extra Entrance (Nakayama Racecourse Entrance) Gate.jpg|臨時口(中山競馬場口)改札口(2022年7月) JR Musashino Line Funabashihōten Station Vending Machine.jpg|自動券売機(2022年7月) JR Musashino Line Funabashihōten Station Extra Entrance (Nakayama Racecourse Entrance) Vending Machine.jpg|臨時口(中山競馬場口)にある自動券売機(2022年7月) JR Musashino Line Funabashihōten Station Platform.jpg|ホーム(2022年7月) </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''16,244人'''である。武蔵野線内26駅中[[吉川駅]]に次いで17位。 [[京成本線]][[東中山駅]]と並んで[[中山競馬場]]の最寄り駅であり、競馬開催日は非常に混雑する<ref name="jtb"/>。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.funabashi.lg.jp/shisei/toukei/002/p012851.html 船橋市統計書] - 船橋市</ref> |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |10,534 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |11,520 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |12,530 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |14,073 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |14,720 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |14,963 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |16,420 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |15,418 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |15,446 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref> |- |1999年(平成11年) |15,367 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>15,719 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>15,309 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>15,642 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>15,274 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>15,255 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>15,427 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>15,983 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>16,463 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>17,084 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>17,042 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>16,736 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>16,860 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>17,367 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>17,706 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>17,561 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>18,222 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>18,541 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>19,012 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>19,159 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 千葉県統計年鑑(令和元年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>18,815 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 千葉県統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>13,576 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>14,599 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>16,244 | |} == 駅周辺 == [[ファイル:中山競馬場.jpg|thumb|[[中山競馬場]]]] 当駅は中山競馬場の最寄り駅で、開催日もしくは場外発売日には専用[[改札]]口から専用の地下通路(ナッキーモール)を通って直接行けるようになっている<ref name="jtb"/>。なお、[[駅名標]]も開業時から数年間「中山競馬場前」の副名称が表記されていた<ref name="jtb"/>。駅周辺は宅地開発が盛んで、商業施設も徐々に増えている。 * [[東武ストア]] 船橋法典店 * [[ワイズマート]] 船橋法典店 * [[中山競馬場]]<ref name="jtb"/> * [[千葉県立市川東高等学校]] * [[千葉県立船橋法典高等学校]] * [[楽天地天然温泉法典の湯]]<ref name="jtb"/> - [[市川市]]柏井にある。 * [[放駒部屋]] * 船橋法典[[郵便局]] * [[姥山貝塚]] == バス路線 == {{出典の明記|date=2015-01-03|section=1}} <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> ; 船橋法典駅 [[京成バス市川営業所]]が運行する路線バスが発着する。 * [[京成バス市川営業所#ファイターズタウン線|Fs11]]:[[ファイターズ鎌ケ谷スタジアム]] * Fs12:市川営業所 ; 法典 [[ちばレインボーバス#白井車庫担当|ちばレインボーバス白井車庫]]が運行する路線バスが発着する。 * [[ちばレインボーバス#白井線|白井線]]:白井車庫 / [[西船橋駅]] ; 船橋法典駅入口 駅から少し離れた場所に設置されている。[[京成バスシステム]]が運行する路線バス、市川市が運営し[[京成バス]]が運行受託している[[市川市コミュニティバス|コミュニティバス]]が発着する。 * 京成バスシステム ** [[京成バスシステム#柏井線|中山01]]:保健医療福祉センター / [[市川市霊園|市営霊園]] / [[下総中山駅]] / 西船橋駅 * 市川市コミュニティバス ** [[市川市コミュニティバス#北東部ルート|北東部ルート]]:保健医療福祉センター(循環右回り、循環左回り) == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線 :: [[西船橋駅]] (JM 10) - '''船橋法典駅 (JM 11)''' - [[市川大野駅]] (JM 12) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ===== {{Reflist|group="広報"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 千葉県統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=三好好三 |author2=垣本泰宏 |title=武蔵野線まるごと探見 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |date=2010-02-01 |ref=jtb}} == 関連項目 == {{commonscat|Funabashi-Hōten Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[法典 (船橋市)]] - 読みは「ほうでん」 * [[馬込沢駅]]([[東武野田線]]) - [[大正時代]]に'''法典駅'''と称していた。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1383|name=船橋法典}} {{武蔵野線・京葉線}} {{DEFAULTSORT:ふなはしほうてん}} [[Category:船橋市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 ふ|なはしほうてん]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:武蔵野線]] [[Category:1978年開業の鉄道駅]]
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16,539
大宮市
大宮市(おおみやし)は、埼玉県南部に存在していた市。東京都特別区部への通勤率は26.7%、浦和市への通勤率は5.5%(いずれも2010年国勢調査)。市制施行前は北足立郡に所属していた。 2001年に旧県庁所在地の浦和市、与野市と合併し、新しい県庁所在地としてさいたま市が誕生し当市は廃止された。2003年、同市の政令指定都市移行・区制施行に伴い、概ね旧市域にあたる部分に西区、北区、大宮区、見沼区の4区が設置された。中心市街地は巨大ターミナル駅である大宮駅周辺で現在でも首都圏有数の繁華街である。旧大宮市域を総称して「大宮地区」という。 古代に武蔵国一宮である氷川神社の鳥居前町として、また江戸時代以後は中山道の宿場町である大宮宿として発達した。大宮宿は当初、本村、北原、甚之丞新田、右衛門八分、新宿中町、新宿下町、吉敷新田の7村からなっていたが、後年は宮町、大門町、仲町、下町、吉敷町で構成された。江戸から近い割には大きな宿場であり、天保14年(1843年)時点で人口は1,508人で、県内の中山道の宿場町の中では本庄宿、熊谷宿、鴻巣宿、蕨宿、深谷宿に次ぐ規模であったが、脇本陣は9軒と一番多かった。紀州藩の鷹場本陣も置かれていた。 明治維新の1869年(明治2年)1月28日、廃藩置県によって大宮県が設置されたが、県庁は暫定的に東京府馬喰町四丁目に置かれた。8カ月後の同年9月には浦和県(その後埼玉県)に改称し、県庁は浦和へ置かれ現在に至っており、結局大宮に県庁が設置されることはなかった。1883年には日本鉄道の第一期線(上野駅 - 熊谷駅、現在の高崎線)が開業したが、浦和駅と上尾駅の間に大宮駅は設置されなかった。明治維新以後、街道の役割が低下し、周囲に田畑が広がるのみであった大宮宿の戸数は243戸まで落ち込んでいたことが原因であった。白井助七らが町の衰退を阻止するため駅の誘致を進め、第二期線(大宮駅 - 青森駅、現在の東北本線)の分岐点に1885年、大宮駅が置かれた。のちに駅北側には国鉄大宮工場や大宮鉄道病院、南側には大宮操車場などが所在し、旧国鉄も全国12か所の鉄道の町の一つとして公認し、一転「鉄道の街」として労働者が集い人口が増加していった。その後さいたま市発足後の平成時代の2007年には、東京都千代田区に存在した交通博物館が移転し、現在の大宮区大成町に鉄道博物館が開業した。 1940年に県内5番目に市制施行。東京都心から30 km圏内に位置し、郊外住宅地として戦後も隣接する浦和市同様、高度成長期の東京都市圏の拡大の中で大幅に人口が拡大し、宅地化が進んだ。また大宮駅は1982年には東北新幹線・上越新幹線が開業した他、1983年にはニューシャトル、1985年には埼京線の開業並びに川越線の電化が実現し、鉄道交通網が発達し、大宮駅は県内最大かつ首都圏でと有数の規模のターミナル駅へと発展した。大宮駅周辺はもともと氷川神社がある東口が発展していたが、西口(特に桜木町など)の再開発も進み、新幹線開業の1982年に大宮駅西口DOMショッピングセンターが、1987年には大宮そごうが、1988年には大宮ソニックシティが開業した。埼玉県の県政、文化の中心都市となった浦和市に対して、大宮市は埼玉県の交通、商業の中心都市として発展した。特に商業においては新幹線開業以前から大宮駅東口の顔である百貨店の高島屋大宮店と県内2位の売上となっている大宮駅西口のそごう大宮店などを擁し、さいたま市発足前の時点で大宮市は県内第1位の商品販売額を誇っていた。 1990年代には40万人都市となり、1996年には大宮駅西口に大宮アルシェが開業した他、1999年からはプロサッカークラブ・大宮アルディージャの本拠地となっている。 2001年5月1日に南側に隣接する県庁所在地であった浦和市、浦和市と大宮市に挟まれる形で存在していた与野市と合併し「さいたま市」となって消滅した。 さいたま市発足後には旧市内の南部である現在の大宮区吉敷町(さいたま新都心付近)にコクーンシティが、北部では現在の北区宮原町にもステラタウンがそれぞれ2004年に開業した。そして2022年には大宮駅東口の再開発により、大宮区大門町に大宮門街が開業し、さいたま市民会館おおみや(旧・大宮市民会館)が移転した。 市制以前の歴史については、前身の一つである「大宮町 (埼玉県)」も参照。 2018年時点で、概ね旧市域にあたる4区の総人口は約51万人となっており、川口市(約60万人、旧鳩ヶ谷市分含む)、旧浦和市(約57万人)に次ぐ3番目を維持している。 住民基本台帳人口による合併後の概ね旧大宮市域にあたる4区の人口変動。すべて4月1日現在(台帳法改正前の2012年以前は台帳人口+外国人登録人口の数値)。 なお、さいたま市発足後における概ね旧大宮市域にあたる4区の国勢調査での人口は2005年(平成17年)では472,515人、2010年(平成22年)では487,332人、2015年(平成27年)では505,543人、2020年(令和2年)では524,655人であった。 JR大宮駅などがあり、詳しくは上記を参照。
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大宮市(おおみやし)は、埼玉県南部に存在していた市。東京都特別区部への通勤率は26.7%、浦和市への通勤率は5.5%(いずれも2010年国勢調査)。市制施行前は北足立郡に所属していた。 2001年に旧県庁所在地の浦和市、与野市と合併し、新しい県庁所在地としてさいたま市が誕生し当市は廃止された。2003年、同市の政令指定都市移行・区制施行に伴い、概ね旧市域にあたる部分に西区、北区、大宮区、見沼区の4区が設置された。中心市街地は巨大ターミナル駅である大宮駅周辺で現在でも首都圏有数の繁華街である。旧大宮市域を総称して「大宮地区」という。
{{混同|常陸大宮市}} {{日本の市 (廃止) | よみがな = おおみやし | 廃止日 = [[2001年]][[5月1日]] | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''大宮市'''、[[浦和市]]、[[与野市]] → [[さいたま市]] | 現在の自治体 = [[さいたま市]] | 画像 = Front_shrine_of_the_Hikawa_shrine.jpg | 画像の説明 = [[氷川神社]] | 市旗 = [[File:Flag of Omiya city.svg|120px|border|大宮市章]] | 市旗の説明 = 大宮[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[File:Emblem of Omiya, Saitama.svg|80px|center|大宮市章]] | 市章の説明 = 大宮[[市町村章|市章]] | 自治体名 = 大宮市 | 都道府県 = 埼玉県 | コード = 11205-4 | 面積 = 89.37 | 境界未定 = なし | 人口 = 457298 | 人口の時点 = 2001年4月1日 | 人口の出典 = [[推計人口]] | 隣接自治体 = [[上尾市]]、[[岩槻市]]、[[浦和市]]、<br />[[川越市]]、[[蓮田市]]、[[富士見市]]、<br />[[与野市]] | 木 = [[ケヤキ]] | 花 = [[サクラ]] | シンボル名 = 市民の日 | 鳥など = [[11月3日]] | 郵便番号 = 330-8501 | 所在地 = 大宮市[[大門町 (さいたま市)|大門町]]三丁目1番地 | 外部リンク = [https://web.archive.org/web/20001205040500/http://www.city.omiya.saitama.jp/index_j.htm 大宮市](閉鎖) |座標 = {{Coord|format=dms|type:city(457298)_region:JP-11|display=inline,title}} | 位置画像 = [[ファイル:omiya-city.png|大宮市の位置]] | 特記事項 = }} '''大宮市'''(おおみやし)は、[[埼玉県]]南部に存在していた[[市]]。[[東京都]]特別区部への通勤率は26.7%、[[浦和市]]への通勤率は5.5%(いずれも[[2010年]][[国勢調査 (日本)|国勢調査]])。市制施行前は[[北足立郡]]に所属していた。 [[2001年]]に旧県庁所在地の[[浦和市]]、[[与野市]]と[[日本の市町村の廃置分合|合併]]し、新しい県庁所在地として[[さいたま市]]が誕生し当市は廃止された。[[2003年]]、同市の[[政令指定都市]]移行・区制施行に伴い、概ね旧市域にあたる部分に[[西区 (さいたま市)|西区]]、[[北区 (さいたま市)|北区]]、[[大宮区]]、[[見沼区]]の4区が設置された<ref>{{Cite web|和書|title=さいたま市/さいたまWeb/将来の行政区の区割りに関する方針について|url=https://www.city.saitama.jp/006/012/001/010/004/p023041.html|website=www.city.saitama.jp|accessdate=2020-01-08}}</ref>。[[中心市街地]]は巨大[[ターミナル駅]]である[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]周辺で現在でも[[首都圏]]有数の繁華街である。旧大宮市域を総称して「[[大宮地区]]」という。 == 歴史 == {{See also|[[大宮町 (埼玉県)]]}} 古代に[[武蔵一宮|武蔵国一宮]]である[[氷川神社]]の[[門前町|鳥居前町]]として、また[[江戸時代]]以後は[[中山道]]の[[宿場町]]である[[大宮宿]]として発達した。大宮宿は当初、本村、北原、甚之丞新田、右衛門八分、新宿中町、新宿下町、吉敷新田の7村からなっていたが、後年は宮町、大門町、仲町、下町、吉敷町で構成された。[[江戸]]から近い割には大きな宿場であり、[[天保]]14年([[1843年]])時点で人口は1,508人で、県内の中山道の宿場町の中では[[本庄宿]]、[[熊谷宿]]、[[鴻巣宿]]、[[蕨宿]]、[[深谷宿]]に次ぐ規模であったが、[[脇本陣]]は9軒と一番多かった。[[紀州藩]]の[[鷹場]]本陣も置かれていた。 [[明治維新]]の[[1869年]](明治2年)[[1月28日]]、[[廃藩置県]]によって大宮県が設置されたが、県庁は暫定的に東京府[[日本橋馬喰町|馬喰町]]四丁目に置かれた。8カ月後の同年9月には[[浦和県]](その後[[埼玉県]])に改称し、県庁は[[浦和市|浦和]]へ置かれ現在に至っており、結局大宮に県庁が設置されることはなかった。[[1883年]]には日本鉄道の第一期線([[上野駅]] - [[熊谷駅]]、現在の[[高崎線]])が開業したが、浦和駅と上尾駅の間に大宮駅は設置されなかった。明治維新以後、街道の役割が低下し、周囲に田畑が広がるのみであった大宮宿の戸数は243戸まで落ち込んでいたことが原因であった。白井助七らが町の衰退を阻止するため駅の誘致を進め、第二期線([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[青森駅]]、現在の[[東北本線]])の分岐点に[[1885年]]、大宮駅が置かれた。のちに駅北側には[[日本国有鉄道|国鉄]][[大宮総合車両センター|大宮工場]]や大宮鉄道病院、南側には[[大宮操車場]]などが所在し、旧[[国鉄]]も全国12か所の[[鉄道の町]]の一つとして公認し、一転「鉄道の街」として労働者が集い人口が増加していった。その後さいたま市発足後の[[平成時代]]の[[2007年]]には、[[東京都]][[千代田区]]に存在した[[交通博物館]]が移転し、現在の[[大宮区]][[大成町 (さいたま市)|大成町]]に[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]が開業した。 [[1940年]]に県内5番目に市制施行。東京都心から30&nbsp;[[キロメートル|㎞]]圏内に位置し、郊外住宅地として戦後も隣接する浦和市同様、[[高度経済成長期|高度成長期]]の東京都市圏の拡大の中で大幅に人口が拡大し、宅地化が進んだ。また大宮駅は[[1982年]]には[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]が開業した他、[[1983年]]には[[埼玉新都市交通伊奈線|ニューシャトル]]、[[1985年]]には[[埼京線]]の開業並びに[[川越線]]の電化が実現し、鉄道交通網が発達し、大宮駅は県内最大かつ首都圏でと有数の規模のターミナル駅へと発展した。大宮駅周辺はもともと氷川神社がある東口が発展していたが、西口(特に[[桜木町 (さいたま市)|桜木町]]など)の再開発も進み、新幹線開業の1982年に[[大宮駅西口DOMショッピングセンター]]が、[[1987年]]には[[そごう大宮店|大宮そごう]]が、[[1988年]]には[[大宮ソニックシティ]]が開業した。埼玉県の県政、文化の中心都市となった浦和市に対して、大宮市は埼玉県の交通、商業の中心都市として発展した。特に商業においては新幹線開業以前から大宮駅東口の顔である百貨店の[[高島屋]]大宮店と県内2位の売上となっている大宮駅西口のそごう大宮店などを擁し、さいたま市発足前の時点で大宮市は県内第1位の商品販売額を誇っていた。 [[1990年代]]には40万人都市となり、[[1996年]]には大宮駅西口に[[アルシェ|大宮アルシェ]]が開業した他、[[1999年]]からはプロサッカークラブ・[[大宮アルディージャ]]の本拠地となっている。 [[2001年]][[5月1日]]に南側に隣接する県庁所在地であった[[浦和市]]、浦和市と大宮市に挟まれる形で存在していた[[与野市]]と合併し「さいたま市」となって消滅した。 さいたま市発足後には旧市内の南部である現在の[[大宮区]][[吉敷町]]([[さいたま新都心]]付近)に[[コクーンシティ]]が、北部では現在の[[北区 (さいたま市)|北区]][[宮原町 (さいたま市)|宮原町]]にも[[ステラタウン]]がそれぞれ[[2004年]]に開業した。そして[[2022年]]には大宮駅東口の再開発により、大宮区[[大門町 (さいたま市)|大門町]]に[[大宮門街]]が開業し、[[さいたま市民会館おおみや]](旧・大宮市民会館)が移転した。 === 年表 === 市制以前の歴史については、前身の一つである「[[大宮町 (埼玉県)]]」も参照。 * [[1591年]]([[天正]]19年) - [[浦和宿]]と[[上尾宿]]の間の馬継場であった場所に大宮宿が設けられる。 * [[1869年]]([[明治]]2年) ** [[1月28日]] - 大宮県が設置されたが、県庁は東京府[[日本橋馬喰町]]に置かれる<ref name="mukashiimaS2">[[#mukashiima|『大宮のむかしといま』]]資料-2-11頁。</ref>。 ** [[9月29日]] - 県庁が[[浦和区|浦和]]に設置され、[[浦和県]]に改称。 * [[1871年]](明治4年)[[11月14日]] - 浦和県が[[忍県]]・[[岩槻県]]と合併し、埼玉県となる。 * [[1883年]](明治16年)[[7月28日]] - 日本鉄道第一区線 上野駅 - [[熊谷駅]]間が開業する。大宮に駅は設けられなかった。 * [[1885年]](明治18年) ** [[3月16日]] - 日本鉄道[[浦和駅]] - [[上尾駅]]間に[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]が開業。 ** [[7月16日]] - 日本鉄道第二区線 大宮駅 - [[栗橋駅]]間が開業。 * [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]施行に伴い<ref name="mukashiimaS2" />、[[北足立郡]]大宮宿・土手宿村・上天沼村・下天沼村・高鼻村が新設合併し'''[[大宮町 (埼玉県)|大宮町]]'''となる。 * [[1898年]](明治31年)[[7月15日]] - [[大宮商業銀行]]が設立。 * [[1906年]](明治39年)[[4月16日]] - [[西武大宮線|川越電気鉄道]]が開業([[1941年]]廃止)。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]] - 線路名称制定により、[[秋葉原駅]] - [[青森駅]]間が[[東北本線]]、大宮駅 - [[高崎駅]]間が[[高崎線]]と命名される。 * [[1929年]]([[昭和]]4年)[[11月17日]] - [[総武鉄道 (2代)|総武鉄道]](現在の[[東武野田線]])[[春日部駅|粕壁駅]] - 大宮駅(仮駅。現在地とは異なる)間が開業。同線に大宮駅・[[大宮公園駅]]・[[大和田駅 (埼玉県)|大和田駅]]・[[七里駅]]が開業。 * [[1930年]](昭和5年)[[4月12日]] - 総武鉄道に[[北大宮駅]]が開業。 * [[1932年]](昭和7年) ** 4月1日 - [[木崎村 (埼玉県)|木崎村]]大字[[北袋町 (さいたま市)|北袋]]が大宮町に編入される<ref name="mukashiimaS2" />。 ** [[9月1日]] - 省線電車([[京浜東北線]])の[[赤羽駅]] - 大宮駅間が延伸開業<ref name="mukashiimaS2" />。 * [[1940年]](昭和15年) ** [[7月22日]] - [[川越線]]が開業。同線に[[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]・[[指扇駅]]が開業。 ** [[11月3日]] - 大宮町・[[三橋村 (埼玉県)|三橋村]]・[[日進村]]・[[宮原村 (埼玉県)|宮原村]]・[[大砂土村]]が新設合併し、'''大宮市'''が発足<ref name="mukashiimaS2" />。県内では[[川越市|川越]]、[[熊谷市|熊谷]]、[[川口市|川口]]、[[浦和市|浦和]]に次ぐ5番目の市制施行であった。 * [[1945年]](昭和20年)[[4月13日]] - [[太平洋戦争]]末期に小規模な空襲を受ける(宮町・大門町付近)<ref name="mukashiimaS2" />。 * [[1948年]](昭和23年)[[7月15日]] - 高崎線に[[宮原駅]]が開業。 * [[1955年]](昭和30年)[[1月1日]] - [[指扇村]]・[[馬宮村]]・[[植水村]]・[[片柳村]]・[[七里村]]・[[春岡村]]を編入合併する。 * [[1962年]](昭和37年)[[5月1日]] - 国道17号[[大宮バイパス]]が開通する<ref name="mukashiimaS2" />。 * [[1964年]](昭和39年)[[3月20日]] - 東北線に[[東大宮駅]]が開業。 * [[1965年]](昭和40年)[[10月1日]] - 埼玉県内の国鉄の駅としては初めて大宮駅に特急電車の停車が開始<ref name="mukashiimaS2" />。 * [[1966年]](昭和41年)[[9月29日]] - 盆栽町に大宮市立漫画会館(現・[[さいたま市立漫画会館]])が落成する<ref name="mukashiimaS2" />。 * [[1969年]](昭和44年)[[12月27日]] - 大宮市内の国道17号[[新大宮バイパス]]が供用開始<ref name="mukashiimaS2" />。 * [[1974年]](昭和49年) ** [[9月1日]] - 上尾市と大宮市との境界変更を実施、大字西宮下の一部を大宮市[[別所町 (さいたま市)|別所町]]へ編入し、大宮市の一部を上尾市側へ編入する<ref>{{Cite book|和書|author=上尾市教育委員会・編|year=1997-03-31|title=上尾市史 第八巻 別編1、地誌|publisher=上尾市|pages=117-123}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-05-30|url=https://www.city.ageo.lg.jp/uploaded/attachment/55884.pdf|title=統計あげお 平成30年版 第1章 土地・気象|website=上尾市|format=PDF|page=4|accessdate=2019-10-11}}</ref>。これにより該当区域に居住する2世帯4人が大宮市へ移る。 ** この年 - 市役所で4週に1度の週休二日制度が始まる。県下の自治体として初<ref>高まる週休二日制熱 ためらう国よそ目に『朝日新聞』昭和49年(1974年)10月3日朝刊、21面</ref>。 * [[1980年]](昭和55年)[[11月1日]] - 1975年に市制施行35周年記念事業として計画された大宮市立博物館(現・[[さいたま市立博物館]])が開業。 * [[1981年]](昭和56年) ** [[4月4日]] - [[大宮母娘殺害事件]]が発生。死刑判決事件として知られる。 ** [[4月16日]] - 国道16号[[東大宮バイパス]]が開通する。 * [[1982年]](昭和57年) ** [[6月23日]] - [[東北新幹線]]大宮駅 - [[盛岡駅]]が開業。[[1985年]]の[[上野駅]] - 大宮駅間開業まで、大宮駅は新幹線の暫定始発駅だった。 ** [[11月15日]] - [[上越新幹線]]大宮駅 - [[新潟駅]]間が開業。 ** 11月1日 - 上尾市と境界変更、上尾市大字[[平方領領家]]の一部が大宮市に編入される。 * [[1983年]](昭和58年) ** [[10月1日]] - 東北線に[[土呂駅]]が開業。 ** [[12月22日]] - [[埼玉新都市交通]][[埼玉新都市交通伊奈線|ニューシャトル(伊奈線)]]大宮駅 - [[羽貫駅]]が開業。同線に大宮駅・大成駅(現・[[鉄道博物館駅]])・[[加茂宮駅]]・[[東宮原駅]]・[[今羽駅]]・[[吉野原駅]]が開業。 * [[1985年]](昭和60年)[[9月30日]] - [[埼京線]]が開業。 * [[1988年]](昭和63年)[[1月30日]] - [[岩槻市]]と境界変更。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[3月10日]] - 東北線 上野駅 - 黒磯駅間に「[[宇都宮線]]」の愛称が制定される。 * [[1996年]](平成8年)[[4月]] - インターネットホームページを開設する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.omiya.saitama.jp/sihou-om/9604/10.htm|title=市報「おおみや」平成8年4月号 ホットライン その6|website=大宮市|accessdate=2019-10-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/19970626093734/http://www.city.omiya.saitama.jp/sihou-om/9604/10.htm|archivedate=1997-06-26}}</ref>。 * [[1997年]](平成9年) ** 4月1日 - 上尾市と境界変更。 ** [[9月]] - [[贈収賄]]で市議2人が逮捕、関与した市議3人も12月の改選に不出馬。合併協議中の浦和市・与野市の関係者から激しく批判される。 * [[1998年]](平成10年) ** 3月 - 当時浦和市にあった[[NTT関東サッカー部]]が、[[大宮アルディージャ]]に改名。大宮市がホームタウンとなる。同年12月にプロクラブ化され、1999年の[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]加盟を果たす。 ** 9月 - [[平成10年台風第5号|台風5号]]によって[[鴻沼川]]が氾濫し、大宮駅西口周辺が床上浸水。[[激甚災害]]に指定され、[[桜木調節池]]が整備されるきっかけとなった。 ** [[10月12日]] - 国道16号[[西大宮バイパス]]が開通する。 * [[1999年]](平成11年)[[3月]] - [[三菱マテリアル]](旧三菱金属)[[三菱マテリアル総合研究所|中央研究所]]の原子炉跡地における[[三菱マテリアル総合研究所#原子炉と訴訟|放射性廃棄物による放射能汚染]]が発覚。 * [[2000年]](平成12年) ** 4月1日 - 京浜東北線・宇都宮線に[[さいたま新都心駅]]が開業。 ** 4月17日 - 大宮市内に[[首都高速埼玉新都心線|首都高速道路]][[新都心西出入口]]が開設される。 ** [[11月3日]] - [[市制]]施行60周年。 * [[2001年]](平成13年)[[5月1日]] - [[浦和市]]・大宮市・[[与野市]]が合併し、'''さいたま市'''が発足。旧大宮市役所はさいたま市大宮総合行政センターとなる。 * [[2003年]](平成15年)4月1日 - さいたま市が[[政令指定都市]]に移行。概ね旧大宮市域にあたる区域に[[西区 (さいたま市)|西区]]、[[北区 (さいたま市)|北区]]、[[大宮区]]、[[見沼区]]が設置される。旧大宮市役所庁舎は初代[[大宮区役所]]庁舎となり、[[2019年]]([[令和]]元年)[[5月7日]]に[[吉敷町]]一丁目に移転するまで利用された。 * [[2014年]](平成26年)4月1日 - 概ね旧大宮市域である西区、北区、大宮区、見沼区の推計人口の合計が50万人を超える(西区:85,995人、北区:142,436人、大宮区:111,883人、見沼区:159,799人で合計500,113人)。 == 人口 == 2018年時点で、概ね旧市域にあたる4[[行政区|区]]の総人口は約51万人となっており、[[川口市]](約60万人、旧鳩ヶ谷市分含む)、旧浦和市(約57万人)に次ぐ3番目を維持している。 [[住民基本台帳]]人口による合併後の概ね旧大宮市域にあたる4区の人口変動。すべて4月1日現在(台帳法改正前の2012年以前は台帳人口+外国人登録人口の数値)<ref>http://www.city.saitama.jp/006/013/005/001/jikeiretsu.html さいたま市の人口・世帯(時系列結果)</ref>。 {|style="font-size:smaller" |- |colspan="2" style="text-align:center;"| {|class="wikitable" style="margin:auto" {{人口統計/fluctuation/item|2005|473952|490348}} {{人口統計/fluctuation/item|2010|490318|490348}} {{人口統計/fluctuation/item|2015|506745|490348}} |} |- |colspan="2" style="text-align:right"| |} なお、さいたま市発足後における概ね旧大宮市域にあたる4区の国勢調査での人口は[[2005年]](平成17年)では'''472,515'''人、[[2010年]](平成22年)では'''487,332'''人、[[2015年]](平成27年)では'''505,543'''人、[[2020年]](令和2年)では'''524,655'''人であった。 == 行政 == === 歴代市長 === {| class="wikitable" |- !代!!氏名!!就任!!退任!!期・備考!!出典 |- |&mdash;||笠原眞作||[[1940年]][[11月3日]]||[[1941年]][[1月20日]]||市長職務管掌者<br />埼玉県地方課長として埼玉県より派遣|| |- |初||[[今井五六]]||1941年1月20日||[[1944年]][[5月2日]]||1期||<ref name="mukashiimaS22">[[#mukashiima|『大宮のむかしといま』]]資料-22頁。</ref> |- |2||[[戸田由美]]||1944年[[5月30日]]||[[1945年]][[3月17日]]||1期||<ref name="mukashiimaS22" /> |- |3||[[加藤睦之介]]||1945年[[5月26日]]||[[1946年]][[3月12日]]||1期||<ref name="mukashiimaS22" /> |- |4||今井五六||1946年[[6月14日]]||1946年[[11月12日]]||1期(2期目)||<ref name="mukashiimaS22" /> |- |5||rowspan="2"|津川辰政||[[1947年]][[4月8日]]||[[1951年]][[4月7日]]||1期・当代以降は公選制により選出||rowspan="2"|<ref name="mukashiimaS22" /> |- |6||1951年4月8日||[[1955年]][[5月1日]]||2期 |- |7||[[清水虎尾]]||1955年[[5月2日]]||[[1959年]]5月1日||1期||<ref name="mukashiimaS22" /> |- |8||rowspan="5"|[[秦明友]]||1959年5月2日||[[1963年]]5月1日||1期||rowspan="5"|<ref name="mukashiimaS22" /> |- |9||1963年5月2日||[[1967年]]5月1日||2期 |- |10||1967年5月2日<br />1969年[[12月21日]]||[[1969年]][[11月23日]]<br />[[1971年]]5月1日||3期 |- |11||1971年5月2日||[[1975年]]5月1日||4期 |- |12||1975年5月2日||[[1978年]][[6月24日]]||5期 |- |13||rowspan="3"|[[馬橋隆二]]||1978年[[8月6日]]||[[1982年]][[8月5日]]||1期||rowspan="3"| |- |14||1982年8月6日||[[1986年]]8月5日||2期 |- |15||1986年8月6日||[[1990年]]8月5日||3期 |- |16||rowspan="3"|[[新藤享弘]]||1990年8月6日||[[1994年]]8月5日||1期||rowspan="2"| |- |17||1994年8月6日||[[1998年]]8月5日||2期 |- |18||1998年8月6日||[[2001年]][[4月30日]]||3期、合併によるさいたま市の設置に伴い失職|| |} === 歴代助役 === {| class="wikitable" |- !代!!氏名!!就任!!退任!!期・備考!!出典 |- |初||清水虎尾||1941年1月20日||[[1943年]][[9月17日]]||1期||<ref name="mukashiimaS22" /> |- |2||戸田由美||1943年[[9月27日]]||1944年[[5月30日]]||1期||<ref name="mukashiimaS22" /> |- |3||清水東洋雄||1944年[[7月9日]]||1945年[[6月11日]]||1期||<ref name="mukashiimaS22" /> |- |4||rowspan="3"|藤倉育太郎||1945年[[10月10日]]||1947年[[5月22日]]||1期||rowspan="3"|<ref name="mukashiimaS22" /> |- |5||1947年[[5月23日]]||1951年5月22日||2期 |- |6||1951年5月23日||1955年[[4月7日]]||3期 |- |7||木村伍郎平||1956年[[1月23日]]||[[1959年]][[8月31日]]||1期||<ref name="mukashiimaS22" /> |- |8||rowspan="2"|柴田賢治郎||1959年[[12月23日]]||1963年[[12月22日]]||1期||rowspan="2"|<ref name="mukashiimaS22" /> |- |9||1963年12月23日||1967年12月22日||2期 |- |10||rowspan="2"|大野俊雄||1968年4月1日||1972年[[3月31日]]||1期||rowspan="2"|<ref name="mukashiimaS22" /> |- |11||1972年4月1日||1975年8月31日||2期 |- |12||倉持進||1975年10月3日||1978年[[9月25日]]||1期||<ref name="mukashiimaS22" /> |- |13||前原正雄||1978年10月5日|||&mdash;||1期||<ref name="mukashiimaS22" /> |} {{節stub}} == 本社を置いた主な企業 == * [[さいたま市#経済]]を参照 == 姉妹都市・提携都市 == * [[福島県]][[南会津郡]][[舘岩村]](現・[[南会津町]]) ** [[1982年]][[10月23日]]、姉妹都市関係提携 * {{Flagicon|USA}} [[ピッツバーグ]]市([[アメリカ合衆国]] [[ペンシルベニア州]]) ** [[1998年]][[5月5日]]、友好都市関係提携 == 教育 == * [[西区 (さいたま市)#教育]]、[[北区 (さいたま市)#教育施設]]、[[大宮区#学校]]、[[見沼区#学校]]を参照。 == 交通 == {{See|西区 (さいたま市)#交通|北区 (さいたま市)#交通|大宮区#交通|見沼区#交通}} [[大宮駅 (埼玉県)|JR大宮駅]]などがあり、詳しくは上記を参照。 == 施設 == * [[西区 (さいたま市)|西区]]、[[北区 (さいたま市)|北区]]、[[大宮区]]、[[見沼区]]を参照。 == 名誉市民 == {{See also|さいたま市#名誉市民}} == 出身著名人 == {{See also|さいたま市出身の人物一覧#旧大宮市域の出身著名人}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1980-07-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 11 埼玉県|publisher=角川書店|isbn=4040011104|ref=chimeiDic}} * {{Cite book|和書|date=1980-11-03|year=1980|title=大宮のむかしといま|id={{全国書誌番号|81007009}}、{{NCID|BN03449939}}|publisher=大宮市|ref=mukashiima}} == 関連項目 == * [[大宮 (曖昧さ回避)]] * [[大宮宿]] * [[大宮地区]] * [[大宮区]] * [[鉄道の町]] * [[大宮アルディージャ]] * [[埼玉県の廃止市町村一覧]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20001205040500/http://www.city.omiya.saitama.jp/index_j.htm 大宮市ホームページ](2000年12月5日時点のインターネットアーカイブキャッシュ) {{Japan-area-stub}} {{Japanese-history-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おおみやし}} [[Category:さいたま市域の廃止市町村]] [[Category:大宮市|*]] [[Category:1940年設置の日本の市町村]] [[Category:2001年廃止の日本の市町村]]
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2000年シドニーオリンピック
2000年シドニーオリンピック(2000ねんシドニーオリンピック)は、2000年9月15日から10月1日までの17日間、オーストラリアのシドニーで開催されたオリンピック競技大会。一般的にシドニーオリンピックと呼称され、シドニー五輪と略称される。 2000年代最初かつ20世紀最後の夏季オリンピックにあたり、南半球での開催は1956年メルボルン大会以来44年ぶりとなった。また標準時子午線で開催される夏季オリンピックは、1980年モスクワ大会以来20年ぶりとなった。 シドニーオリンピックの開催は1993年9月23日に決定された。決選投票では、3回連続1位で優勢だった中国の北京を僅差の45対43で破り、2000年代最初のオリンピックの開催地に選ばれた。これはアメリカ合衆国の人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチの呼びかけが影響を与えたとされ、当時の中国世論の反米感情を刺激した。 開会式は9月15日午後7時(日本時間・同5時)から行われた。 ストックホース (英語版) の騎馬隊によるパフォーマンスがオープニングを飾った後、当時13歳のニッキー・ウェブスター (英語版) 主演によるオーストラリアの歴史を描いたエンターテイメントショーが展開された。選手入場では、日本選手団は「虹色の鮮やかなマント」を着用して登場した。また、第1回南北首脳会談が実施されたばかりの韓国と北朝鮮が統一旗を掲げて合同入場行進を行ったほか、インドネシアから解放されたばかりの東ティモールの選手たちが五輪旗を掲げて入場した。 聖火リレーの最終点火者は先住民アボリジニ出身のキャシー・フリーマンが務め、民族融和を表現した。 この大会から、正式競技として加わったのが、トライアスロン競技だった。 柔道で田村亮子が悲願の金メダルを獲得。他にも柔道では2大会連続金メダルの野村忠宏をはじめ、井上康生や瀧本誠らが金メダルを獲得した。一方、篠原信一が決勝で審判の誤審により銀メダルになるというトラブルも起こった。 マラソンでは、高橋尚子が日本の女子陸上競技として初の金メダルを獲得(オリンピック新記録)。女子マラソン中継の平均視聴率が40%を超えるなど日本中で話題になり、国民栄誉賞が授与されることとなった。 野球においてプロの参加が認められ、アメリカ、韓国、オーストラリアなどがプロ主体のメンバーで参加した。日本はプロ側の足並みが揃わず、8球団が1名ずつ派遣するプロアマ混成チームであった。日本は1次リーグを勝ちあがったものの、準決勝でキューバに、3位決定戦で韓国にも敗れて4位となり、メダルを逃した。 サッカーはフィリップ・トルシエがA代表監督を兼任する形で率い、メンバーの大半がA代表でプレーしていた上に各年代の大会で好成績を収めていたこともあって前評判も高く、南アフリカ・スロバキア・ブラジルと同組になったグループリーグで2勝1敗の2位で勝ち上がり、銅メダルを獲得した1968年メキシコシティーオリンピック以来32年ぶりの決勝トーナメント進出を果たした。アメリカとの準々決勝ではPK戦までもつれ、4人目の中田英寿が外してベスト8で敗退となった。なお、この試合の中継がすべての競技を通じて最高の視聴率(42.3%)を獲得した。 男子レスリングのグレコローマンスタイル130kg級では、ルーロン・ガードナーが決勝でアレクサンドル・カレリンを破って金メダルを獲得した。カレリンは1987年から続いた国際大会無敗の記録が途絶え、オリンピック4連覇はならなかった。 1956年のメルボルンオリンピックでは馬術が検疫期間の関係でスウェーデンのストックホルムで開催されたため、全競技がオーストラリアで開催されたわけではなかった(参照)。しかし、シドニー大会では検疫技術の進歩等もあり2週間での検疫が可能になったことから、全ての競技がオーストラリア国内で開催された。全競技がオーストラリア(そして南半球)で開催されたのは、この大会が初めてとなった。 IOCのサマランチ会長の任期中最後のオリンピックの閉会式では、五輪旗がアテネ市長に引き継がれ、最後に同会長が出身地の言語のスペイン語で「さようなら」と別れを告げた。地元のソプラノ歌手のイヴォンヌ・ケニーがオリンピック賛歌を独唱する中、オリンピック旗を降納し、開会式のショーで主演を務めたニッキー・ウェブスターが「We'll Be One」を歌い、聖火は少しずつ火を弱めていって、最後に、聖火の上空を低空通過したジェット機(F-111戦闘爆撃機)が後方投棄した燃料に点火して聖火が空に飛んでいくように見せる演出で納火した。ジェイソン・ギルキソンの振り付けでダンサーが社交ダンスを披露した。 なお、この大会は25000人にも及ぶボランティアが成功させた大会とも言われ、その活動は閉会式でサマランチ会長からも絶賛され、後日、ボランティアが主役となるパレードも行われた。その際、ボランティアにはシドニーの名誉市民の称号が与えられた。
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2000年シドニーオリンピック(2000ねんシドニーオリンピック)は、2000年9月15日から10月1日までの17日間、オーストラリアのシドニーで開催されたオリンピック競技大会。一般的にシドニーオリンピックと呼称され、シドニー五輪と略称される。 2000年代最初かつ20世紀最後の夏季オリンピックにあたり、南半球での開催は1956年メルボルン大会以来44年ぶりとなった。また標準時子午線で開催される夏季オリンピックは、1980年モスクワ大会以来20年ぶりとなった。
{{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 2000年シドニーオリンピック |英称・別称 = 第27回オリンピック競技大会<br />Jeux de la XXVII<sup>e</sup> olympiade<br />Games of the XXVII Olympiad |画像 = Sunset before 2000 Summer Olympics closing ceremony.JPEG |ロゴ = [[File:2000 Summer Olympics textlogo.svg | 220px]] |開催都市 = {{AUS}} [[シドニー]] |参加国・地域数 = 199+[[オリンピック個人参加選手団|個人参加]]([[オリンピックの東ティモール選手団|東ティモール]]) |参加人数 = 10,651人(男子6,582人、女子4,069人) |競技種目数 = 28競技300種目 |開会式 = [[2000年]][[9月15日]] |閉会式 = [[2000年]][[10月1日]] |開会宣言 = [[ウィリアム・パトリック・ディーン|ウィリアム・ディーン]][[オーストラリアの総督|総督]] |選手宣誓 = [[リシェル・ホークス]] |審判宣誓 = [[ピーター・カー]] |最終聖火ランナー = [[キャシー・フリーマン]] |主競技場 = [[スタジアム・オーストラリア]] |夏用前夏 = {{flagicon|USA}}[[1996年アトランタオリンピック|1996年アトランタ]] |夏用次夏 = {{flagicon|GRE}}[[2004年アテネオリンピック|2004年アテネ]] |夏用前冬 = {{flagicon|JPN}}[[1998年長野オリンピック|1998年長野]] |夏用次冬 = {{flagicon|USA}}[[2002年ソルトレークシティオリンピック|2002年ソルトレークシティ]] }} '''2000年シドニーオリンピック'''(2000ねんシドニーオリンピック)は、[[2000年]]([[平成]]12年)[[9月15日]]から[[10月1日]]までの17日間、[[オーストラリア]]の[[シドニー]]で開催された[[夏季オリンピック|オリンピック競技大会]]。一般的に'''シドニーオリンピック'''と呼称され、'''シドニー五輪'''と略称される。 [[2000年代]]最初かつ[[20世紀]]最後の[[夏季オリンピック]]にあたり、[[南半球]]での開催は[[1956年メルボルンオリンピック|1956年メルボルン大会]]以来44年ぶりとなった。また標準時子午線で開催される夏季オリンピックは、[[1980年モスクワオリンピック|1980年モスクワ大会]]以来20年ぶりとなった。 == 大会開催までの経緯 == シドニーオリンピックの開催は[[1993年]][[9月23日]]に決定された。決選投票では、3回連続1位で優勢だった[[中華人民共和国|中国]]の[[北京市|北京]]を僅差の45対43で破り、2000年代最初のオリンピックの開催地に選ばれた。これは[[アメリカ合衆国]]の人権団体[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]の呼びかけが影響を与えたとされ、当時の中国世論の[[反米]]感情を刺激した<ref>Keys, Barbara (2018). "Harnessing Human Rights to the Olympic Games: Human Rights Watch and the 1993 'Stop Beijing' Campaign". Journal of Contemporary History. 53 (2): 415–438. doi:10.1177/0022009416667791.</ref>。 {| class="wikitable mw-collapsible" |- ! colspan="7" | 2000年夏季オリンピック 開催地投票結果<ref>[https://web.archive.org/web/20200813114042/https://www.webcitation.org/5xFvf0ufx?url=http%3A%2F%2Fwww.gamesbids.com%2Feng%2Fpast.html GamesBids.com Past Olympic Host Cities List]</ref> |- ! 都市 ! 国 | style="background:silver;"|'''1回目''' | style="background:silver;"|'''2回目''' | style="background:silver;"|'''3回目''' | style="background:silver;"|'''4回目''' |- |[[シドニー]] || {{flag|Australia}} || style="text-align:center;"|30 || style="text-align:center;"|30 || style="text-align:center;"|37 || style="text-align:center;"|'''45''' |- |[[北京市]]||{{flag|China|}} || style="text-align:center;"|'''32''' || style="text-align:center;"|'''37'''|| style="text-align:center;"|'''40''' || style="text-align:center;"|43 |- |[[マンチェスター]] || {{flag|GBR}} || style="text-align:center;"|11 || style="text-align:center;"|13 || style="text-align:center;"|11 || style="text-align:center;"|— |- |[[ベルリン]] || {{flag|Germany}} || style="text-align:center;"|9 || style="text-align:center;"|9 || style="text-align:center;"|— || style="text-align:center;"|— |- |[[イスタンブール]] || {{flag|Turkey}} || style="text-align:center;"|7 || style="text-align:center;"|—|| style="text-align:center;"|— || style="text-align:center;"|— |} == 大会マスコット == * オリー(''Olly'', ♂) - [[ワライカワセミ]]がモチーフ。空を象徴。彼の社交的で正直、熱心で従順な性格は、オリンピックの国境を越えた友情精神を反映している。情報収集及やコミュニケーションが得意。名前の由来は[[近代オリンピック|オリンピック]]。 * シド(''Syd'', ♂) - [[カモノハシ]]がモチーフ。エネルギー溢れ活気があり、リーダー的存在。水泳をこよなく愛す。自然保護に燃えるナチュラリストである。名前の由来は[[シドニー]]。 * ミリー(''Millie'', ♀) - [[ハリモグラ]]がモチーフ。陸を象徴。彼女は、シドニーの希望と楽観主義の化身で、新テクノロジーの天才である。スポーツを通して、より平和な世界を築くのが夢。名前の由来は[[ミレニアム]]。 == ハイライト == === 開会式 === {{main|2000年シドニーオリンピックの開会式}} 開会式は[[9月15日]]午後7時(日本時間・同5時)から行われた<ref group="注">本来、シドニーのある[[ニューサウスウェールズ州]]では、10月最終日曜から[[夏時間]](DST)に入るが、[[2000年|この年]]、同州、開催国首都[[キャンベラ]]を含む[[オーストラリア首都特別地域]]と、隣接する[[ビクトリア州]]、および通常10月第1日曜から夏時間に入る[[タスマニア州]]の3州は、オリンピックに合わせて特別に8月最終日曜から夏時間に入っていた。通常、この時期のシドニーと日本の時差は1時間であるが、このとき2時間差となっていたのはそのためである。なお、サッカーの一部試合が行われた[[アデレード]]のある[[南オーストラリア州]]ではこの措置を取らず、通常通り10月最終日曜に夏時間に切り替えたため、期間中はシドニーとの時差が1時間半になっていた。</ref>。 [[ストックホース]]{{enlink|Stock horse|英語版}}の[[騎馬隊]]によるパフォーマンスがオープニングを飾った後、当時13歳の[[ニッキー・ウェブスター]]{{enlink|Nikki Webster|英語版}}主演による[[オーストラリアの歴史]]を描いたエンターテイメントショーが展開された。選手入場では、[[2000年シドニーオリンピックの日本選手団|日本選手団]]は「[[虹|虹色]]の鮮やかなマント」を着用して登場した。また、[[南北首脳会談#第1回南北首脳会談(2000年6月)|第1回南北首脳会談]]が実施されたばかりの[[大韓民国|韓国]]と[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[統一旗]]を掲げて合同入場行進を行ったほか、[[インドネシア]]から解放されたばかりの[[東ティモール]]の選手たちが[[オリンピックシンボル|五輪旗]]を掲げて入場した。 [[聖火リレー]]の最終点火者は先住民[[アボリジニ]]出身の[[キャシー・フリーマン]]が務め、民族融和を表現した<ref name="mainichi20210319">{{Cite newspaper|url=https://mainichi.jp/articles/20210319/k00/00m/050/004000c|title=口パク、ハト焼死… 物議や話題呼んだ五輪開会式の演出あれこれ|newspaper=毎日新聞|date=2021-3-19|accessdate=2021-3-19}}</ref>。 === 大会ハイライト === この大会から、正式競技として加わったのが、トライアスロン競技だった。 [[柔道]]で[[谷亮子|田村亮子]]が悲願の金メダルを獲得。他にも柔道では2大会連続金メダルの[[野村忠宏]]をはじめ、[[井上康生]]や[[瀧本誠]]らが金メダルを獲得した。一方、[[篠原信一]]が決勝で審判の誤審により銀メダルになるというトラブルも起こった。 [[マラソン]]では、[[高橋尚子]]が日本の女子陸上競技として初の金メダルを獲得(オリンピック新記録)。女子マラソン中継の平均視聴率が40%を超えるなど日本中で話題になり、[[国民栄誉賞]]が授与されることとなった。 [[野球]]においてプロの参加が認められ、アメリカ、韓国、オーストラリアなどがプロ主体のメンバーで参加した。日本はプロ側の足並みが揃わず、8球団が1名ずつ派遣するプロアマ混成チームであった。日本は1次リーグを勝ちあがったものの、準決勝でキューバに、3位決定戦で韓国にも敗れて4位となり、メダルを逃した。 [[サッカー]]は[[フィリップ・トルシエ]]がA代表監督を兼任する形で率い、メンバーの大半がA代表でプレーしていた上に各年代の大会で好成績を収めていたこともあって前評判も高く、南アフリカ・スロバキア・ブラジルと同組になったグループリーグで2勝1敗の2位で勝ち上がり、銅メダルを獲得した[[1968年メキシコシティーオリンピック]]以来32年ぶりの決勝トーナメント進出を果たした。アメリカとの準々決勝ではPK戦までもつれ、4人目の[[中田英寿]]が外してベスト8で敗退となった。なお、この試合の中継がすべての競技を通じて最高の視聴率(42.3%)を獲得した。 男子[[アマチュアレスリング|レスリング]]の[[グレコローマン]]スタイル130kg級では、[[ルーロン・ガードナー]]が決勝で[[アレクサンドル・カレリン]]を破って金メダルを獲得した。カレリンは1987年から続いた国際大会無敗の記録が途絶え、オリンピック4連覇はならなかった。 1956年のメルボルンオリンピックでは[[馬術]]が検疫期間の関係で[[スウェーデン]]の[[ストックホルム]]で開催されたため、全競技がオーストラリアで開催されたわけではなかった([[1956年メルボルンオリンピックの馬術競技|参照]])。しかし、シドニー大会では検疫技術の進歩等もあり2週間での検疫が可能になったことから、全ての競技がオーストラリア国内で開催された。全競技がオーストラリア(そして南半球)で開催されたのは、この大会が初めてとなった。 === 閉会式 === IOCの[[フアン・アントニオ・サマランチ|サマランチ]]会長の任期中最後のオリンピックの閉会式では、五輪旗が[[アテネ]]市長に引き継がれ、最後に同会長が出身地の言語の[[スペイン語]]で「さようなら」と別れを告げた。地元のソプラノ歌手のイヴォンヌ・ケニーが[[オリンピック賛歌]]を独唱する中、[[オリンピックシンボル|オリンピック旗]]を降納し、[[2000年シドニーオリンピックの開会式|開会式]]のショーで主演を務めたニッキー・ウェブスターが「We'll Be One」を歌い、聖火は少しずつ火を弱めていって、最後に、聖火の上空を低空通過したジェット機([[F-111 (航空機)|F-111戦闘爆撃機]])が後方投棄した燃料に点火して聖火が空に飛んでいくように見せる演出で納火した。[[ジェイソン・ギルキソン]]の振り付けでダンサーが[[社交ダンス]]を披露した。 なお、この大会は25000人にも及ぶボランティアが成功させた大会とも言われ、その活動は閉会式でサマランチ会長からも絶賛され、後日、ボランティアが主役となるパレードも行われた。その際、ボランティアにはシドニーの名誉市民の称号が与えられた。 ==== 閉会式で使われた楽曲 ==== * [[サヴェージ・ガーデン]]([[Savage Garden]]) - Affirmation * [[自由への賛歌|ギリシャ国歌]] * [[オーストラリア国歌]] * Yvonne Kenny - [[オリンピック賛歌]] * Nikki Webster - We'll Be One * Vanessa Amorosi - Absolutely Everybody * John Paul Young - Love Is In The Air * Tommy Emmanuel & Phil Emmanuel - Back On Terra Firma * [[INXS]] - What You Need * Jimmy Barnes - Working Class Man * [[ミッドナイト・オイル|Midnight Oil]] - Beds Are Burning * Yothu Yindi - Treaty * [[カイリー・ミノーグ|Kylie Minogue]] - Dancing Queen * Ce Ce Peniston – Finally * [[Kylie Minogue]] – On a Night Like This * [[メン・アット・ワーク|Men At Work]] - Down Under * Slim Dusty - Waltzing Matilda == 実施競技と日程表 == {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small" |- !競技名 / 日付!!style="width:1.5em"|13!!style="width:1.5em"|14!!style="width:1.5em"|15!!style="width:1.5em"|16!!style="width:1.5em"|17!!style="width:1.5em"|18!!style="width:1.5em"|19!!style="width:1.5em"|20!!style="width:1.5em"|21!!style="width:1.5em"|22!!style="width:1.5em"|23!!style="width:1.5em"|24!!style="width:1.5em"|25!!style="width:1.5em"|26!!style="width:1.5em"|27!!style="width:1.5em"|28!!style="width:1.5em"|29!!style="width:1.5em"|30!!style="width:1.5em"|1 |- |style="text-align:left"|開閉会式|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| 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||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのバスケットボール競技|バスケットボール]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのレスリング競技|レスリング]]|| || || || || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのセーリング競技|セーリング]]|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのウエイトリフティング競技|ウエイトリフティング]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのハンドボール競技|ハンドボール]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックの自転車競技|自転車競技]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックの卓球競技|卓球]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックの馬術競技|馬術]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのフェンシング競技|フェンシング]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックの柔道競技|柔道]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのソフトボール競技|ソフトボール]]|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのバドミントン競技|バドミントン]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックの射撃競技|射撃]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックの近代五種競技|近代五種]]|| || || || || || || || || || || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのカヌー競技|カヌー]]|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのアーチェリー競技|アーチェリー]]|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックの野球競技|野球]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/olympics/2020/game/baseball/|title=東京オリンピック2020|野球|競技紹介|publisher=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-12-31}}</ref>|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのテコンドー競技|テコンドー]]|| || || || || || || || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[2000年シドニーオリンピックのトライアスロン競技|トライアスロン]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || || || || || || |} == 各国・地域の獲得メダル数 == <!--現在はマリオン・ジョーンズの金メダル2個(100m、200m)と銅メダル1個(走り幅跳び)の分も含まれているが、もし正式に剥奪された場合は繰り上がる可能性が高い。その場合、この上位10カ国のリストではアメリカ金2個、銅1個減、ロシアに銅1個増--> {{main|2000年シドニーオリンピックのメダル受賞数一覧}} {|{{RankedMedalTable}} |- | 1|| style="text-align:left" | {{flagIOC|USA|2000夏季}} ||38||24||32||94 |- | 2|| style="text-align:left" | {{flagIOC|RUS|2000夏季}} ||32||28||28||88 |- | 3|| style="text-align:left" | {{flagIOC|CHN|2000夏季}} ||28||16||15||59 |- style="background-color:#ccccff" | 4|| style="text-align:left" | {{flagIOC|AUS|2000夏季}}(開催国) ||16||25||17||58 |- | 5|| style="text-align:left" | {{flagIOC|GER|2000夏季}} ||13||17||26||56 |- | 6|| style="text-align:left" | {{flagIOC|FRA|2000夏季}} ||13||14||11||38 |- | 7|| style="text-align:left" | {{flagIOC|ITA|2000夏季}} ||13||8||13||34 |- | 8|| style="text-align:left" | {{flagIOC|NED|2000夏季}} ||12||9||4||25 |- | 9|| style="text-align:left" | {{flagIOC|CUB|2000夏季}} ||11||11||7||29 |- |10|| style="text-align:left" | {{flagIOC|GBR|2000夏季}} ||11||10||7||28 |} == 主なメダリスト == * {{Gold medal}} **[[野村忠宏]](日本、柔道男子60kg級) **[[瀧本誠]](日本、柔道男子81kg級) **[[井上康生]](日本、柔道男子100kg級) **[[谷亮子|田村亮子]](日本、柔道女子48kg級) **[[高橋尚子]](日本、陸上女子マラソン)オリンピック新記録 **[[コンスタンティノス・ケンテリス]](ギリシャ、陸上男子200m) **[[モーリス・グリーン (陸上選手)|モーリス・グリーン]](アメリカ、陸上男子100m、4x100mリレー) **[[マイケル・ジョンソン]](アメリカ、陸上男子400m、4x400mリレー) **[[ロベルト・コジェニョフスキ]](ポーランド、陸上男子20km競歩、50km競歩) **[[ジョナサン・エドワーズ (陸上選手)|ジョナサン・エドワーズ]](イギリス、陸上男子三段跳び) **[[ハイケ・ドレクスラー]](ドイツ、陸上女子走り幅跳び) **[[キャシー・フリーマン]](オーストラリア、陸上女子400m) **[[イアン・ソープ]](オーストラリア、競泳男子400m自由形、4×100mリレー、4×200mリレー) **[[インヘ・デブルーイン]](オランダ、競泳女子50m自由形、100m自由形、100mバタフライ) **[[ダビド・ドゥイエ]](フランス、柔道男子100kg超級) **カメルーン(サッカー男子) **[[ルーロン・ガードナー]](フランス、レスリンググレコローマンスタイル130kg級) * {{silver2}} 銀メダル **[[永田克彦]](日本、レスリンググレコローマンスタイル男子69kg級) **[[篠原信一]](日本、柔道男子100kg超級) **[[楢崎教子]](日本、柔道女子52kg級) **[[中村真衣]](日本、競泳女子100m背泳ぎ) **[[田島寧子]](日本、競泳女子400m個人メドレー) **[[立花美哉]]・[[武田美保]](日本、シンクロナイズドスイミングデュエット) **[[立花美哉]]・[[武田美保]]・[[藤井来夏]]・[[神保れい]]・[[米田祐子]]・[[磯田陽子]]・[[江上綾乃]]・[[米田容子]]・[[巽樹理]](日本、シンクロナイズドスイミングチーム) **[[石川多映子]]・[[田本博子]]・[[斎藤春香]]・[[増淵まり子]]・[[藤井由宮子]]・[[山田美葉]]・[[伊藤良恵]]・[[松本直美]]・[[宇津木麗華]]・[[小林良美]]・[[小関しおり]]・[[高山樹里]]・[[内藤恵美]]・[[安藤美佐子]]・[[山路典子]](日本、ソフトボール女子) **[[アレクサンドル・カレリン]](ロシア、レスリンググレコローマンスタイル130kg級) **[[マット・リンドランド]](アメリカ、レスリンググレコローマンスタイル76kg級) **[[ヨエル・ロメロ]](キューバ、レスリングフリースタイル85kg級) **[[スルタン・イブラギモフ]](ロシア、ボクシングヘビー級) **オーストラリア(バスケットボール男子) **[[ステファン・ブコビッチ]](ドイツ、トライアスロン男子) * {{bronze3}} 銅メダル **[[日下部基栄]](日本、柔道女子57kg級) **[[山下まゆみ]](日本、柔道女子78kg超級) **[[岡本依子]](日本、テコンドー女子67kg以下級) **[[中尾美樹]](日本、競泳女子200m背泳ぎ) **[[中村真衣]]・[[田中雅美]]・[[大西順子 (競泳選手)|大西順子]]・[[源純夏]](日本、競泳女子400mメドレーリレー) **[[ヴィルジニー・デデュー]](フランス、シンクロナイズドスイミングデュエット) **[[ケー・スンヒ]](北朝鮮、柔道女子52kg級) **[[イエンス・フィードラー]](ドイツ、自転車競技男子スプリント、ケイリン) **[[ランス・アームストロング]](アメリカ、自転車競技男子個人タイムトライアル)- 後に発覚した[[ランス・アームストロングのドーピング問題|ドーピング]]による成績抹消に伴い剥奪 **[[エルダリ・クルタニーゼ]](グルジア、レスリンググレコローマンスタイル97kg級) == 競技会場 == *[[シドニー・オリンピック公園|オリンピックパーク]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.joc.or.jp/games/olympic/sydney/map/park.html |title=シドニーオリンピック2000 競技会場 オリンピックパーク - JOC |publisher=[[日本オリンピック委員会]] |accessdate=2021-10-17}}</ref> **[[スタジアム・オーストラリア|オリンピックスタジアム]]:開会式・閉会式、陸上、サッカー(男子決勝) **{{仮リンク|シドニーオリンピック公園水泳センター|en|Sydney Olympic Park Aquatic Centre|label=シドニー国際アクアティックセンター}}:水泳(競泳、飛込、シンクロナイズドスイミング、水球)、近代五種(水泳) **{{仮リンク|ザ・ドーム (シドニー)|en|The Dome (Sydney)|label=ザ・ドーム}}:バスケットボール、ハンドボール ***パビリオン2:ハンドボール、近代五種(射撃、フェンシング) ***パビリオン3:バドミントン、体操(新体操) ***パビリオン4:バレーボール **[[シドニー・スーパードーム|シドニースーパードーム]]:体操(体操競技、トランポリン)、バスケットボール **{{仮リンク|シドニー・ショーグラウンド・スタジアム|en|Sydney Showground Stadium|label=オリンピックパーク野球場}}:野球、近代五種(馬術、陸上) **{{仮リンク|シドニー・オリンピック公園ホッケー・センター|en|Sydney Olympic Park Hockey Centre|label=州立ホッケーセンター}}:ホッケー **[[NSWテニスセンター]]:テニス **{{仮リンク|州立スポーツ・センター|en|State Sports Centre}}:卓球、テコンドー **{{仮リンク|シドニー国際アーチェリーパーク|en|Sydney International Archery Park}}:アーチェリー *ダーリングハーバー&イースト<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.joc.or.jp/games/olympic/sydney/map/harbour.html |title=シドニーオリンピック2000 競技会場 ダーリングハーバー&イースト - JOC |publisher=日本オリンピック委員会 |accessdate=2021-10-17}}</ref> **{{仮リンク|シドニー・コンベンション・アンド・エキシビション・センター|en|Sydney Convention and Exhibition Centre}} ***エキジビションホール:柔道、レスリング、ボクシング、フェンシング ***シドニーコンベンションセンター:ウエイトリフティング **[[シドニー・エンターテイメント・センター|シドニーエンターテインメントセンター]]:バレーボール **[[シドニー・オペラハウス|シドニーオペラハウス]](シティーセンター):トライアスロン **セーリングマリーナ({{仮リンク|ラシュカッターズ・ベイ (ニューサウスウェールズ州)|en|Rushcutters Bay, New South Wales|label=ラシュカッターズベイ}}):セーリング **[[シドニー・フットボール・スタジアム|シドニーフットボールスタジアム]](センテニアルパークランド):サッカー(女子決勝) **[[ボンダイビーチ]]:バレーボール(ビーチバレー) **{{仮リンク|センテニアル・パークランズ|en|Centennial Parklands}}:自転車(ロード) **{{仮リンク|ノース・シドニー・オーバル|en|North Sydney Oval}}:陸上(マラソンスタート地点) **{{仮リンク|ライド・アクアティック・レジャー・センター|en|Ryde Aquatic Leisure Centre}}:水泳(水球) *シドニーウエスト<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.joc.or.jp/games/olympic/sydney/map/west.html |title=シドニーオリンピック2000 競技会場 シドニーウエスト - JOC |publisher=日本オリンピック委員会 |accessdate=2021-10-17}}</ref> **{{仮リンク|ダンク・グレイ・ダンク・グレイ・ヴェロドローム|en|Dunc Gray Velodrome|label=ベロドローム}}([[シティ・オブ・バンクスタウン|バンクスタウン]]):自転車(トラック) **{{仮リンク|シドニー国際馬術センター|en|Sydney International Equestrian Centre|label=馬術センター}}([[シティ・オブ・フェアフィールド|フェアフィールド]]):馬術 **{{仮リンク|シドニー国際射撃センター|en|Sydney International Shooting Centre}}({{仮リンク|セシル・パーク (ニューサウスウェールズ州)|en|Cecil Park, New South Wales|label=セシルパーク}}):射撃 **[[ブラックタウン・ベースボールスタジアム|ベースボールセンター]]([[シティ・オブ・ブラックタウン|ブラックタウン]]):野球、ソフトボール **{{仮リンク|シドニー国際レガッタ・センター|en|Sydney International Regatta Centre|label=シドニー国際レガッタセンター}}([[ペンリス (ニューサウスウェールズ州)|ペンリス]]レイク):ボート、カヌー(スプリント) **{{仮リンク|ペンリス・ホワイトウォーター・スタジアム|en|Penrith Whitewater Stadium|label=ホワイトウォータースタジアム}}(ペンリスレイク):カヌー(スラローム) **{{仮リンク|ウエスタン・シドニー・パークランズ|en|Western Sydney Parklands}}:自転車(マウンテンバイク) *その他 **[[キャンベラ・スタジアム]]([[キャンベラ]]):サッカー **[[ハインドマーシュ・スタジアム]]([[アデレード]]):サッカー **[[メルボルン・クリケット・グラウンド]]([[メルボルン]]):サッカー **[[ブリスベン・クリケット・グラウンド]]([[ブリスベン]]):サッカー == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group="注"}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[2000年シドニーオリンピックの日本選手団]] * [[シドニーパラリンピック]] * [[プロジェクト:オリンピック]] * [[シドニー・オリンピック公園]] * [[シドニー!]] - [[村上春樹]]のエッセイ。 * Dare To Dream - シドニーオリンピックの公式テーマソング。[[ジョン・ファーナム]]と[[オリビア・ニュートン=ジョン]]とのデュエット。 == 外部リンク == * [https://www.olympic.org/sydney-2000 IOC シドニーオリンピック2000] {{en icon}} * [https://www.joc.or.jp/games/olympic/sydney/ JOC シドニーオリンピック特集] * [https://web.archive.org/web/20000823060245/http://village.infoweb.ne.jp/~olympic/sydney/ 私設サイト] {{オリンピック}} {{2000年シドニーオリンピックの実施競技}} {{Normdaten}} [[Category:2000年シドニーオリンピック|*]] [[Category:夏季オリンピックの歴代大会|2000]]
2003-09-13T09:01:09Z
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1992年バルセロナオリンピック
1992年バルセロナオリンピック(1992ねんバルセロナオリンピック)は、1992年7月25日から8月9日までの16日間、スペインのカタルーニャ自治州バルセロナで開催されたオリンピック競技大会。一般的にバルセロナオリンピックと呼称される。 国際オリンピック委員会 (IOC) 会長 のフアン・アントニオ・サマランチの出身地であるスペインカタルーニャ自治州バルセロナでのオリンピック開催実現に向けて、1986年のIOC総会で開催が決まった。冷戦終結後初の夏季オリンピックとなった。 これはかつて1936年の開催予定地にバルセロナが一度立候補しながらもベルリンに敗れ、その後にスペインが1936年ベルリンオリンピックをボイコットする一方で、ベルリンオリンピックに対抗する形で同時期に人民オリンピックが計画されながらもスペイン内戦の前にそれさえも挫かれた経緯を踏まえての開催であり、当時のスタジアムをそのまま用いて開催された。なお「人民オリンピック」は、ナチス政権下のドイツで準備が進められていた1936年ベルリンオリンピックを「人種差別に満ち、五輪の理念に不適」として、バルセロナが対抗してドイツからの亡命者を含む22カ国・6000人の参加が予定されていたスポーツ大会だったが、開催が目前に迫った1936年7月にスペイン内乱が勃発したために開催されることはなかった。 バルセロナ市内のオリンピック体育館を磯崎新が設計したほか、開会式では坂本龍一がマスゲームの音楽を作曲、指揮をするなど、日本人が競技以外でも活躍した大会となった。 また、このバルセロナオリンピックよりプロ選手の出場が拡大し、競技のレベルが劇的に上がった。 バルセロナオリンピックの開催は1986年10月17日にスイスのローザンヌで開かれた第91回国際オリンピック委員会総会で決定された。 大会マスコットは「コビー」。ピレネー犬をモチーフにデザインされた。作者はバレンシア出身のハビエル・マリスカル。作者によると「空想の動物」。テレビアニメ『コビーの冒険』も製作され、日本のNHKテレビでも放送されている。 開催にあたり大会の公用語として、カタルーニャ州の公用語であるカタルーニャ語がスペイン語と並んで採用された。開会式・閉会式の入場順はフランス語が用いられている。 文化的特徴に富み、美術、芸術面で著名な人物を輩出し続けるスペインらしく、開会式、閉会式ともに音楽監督でカタルーニャ生まれで世界的に人気の高いテノール歌手のホセ・カレーラスや、モンセラート・カバリェをはじめとする多くのスペイン人歌手の他にも多くのアーティストが参画し、近年でもまれに見る芸術性の高い開会式、閉会式であると絶賛された。
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1992年バルセロナオリンピック(1992ねんバルセロナオリンピック)は、1992年7月25日から8月9日までの16日間、スペインのカタルーニャ自治州バルセロナで開催されたオリンピック競技大会。一般的にバルセロナオリンピックと呼称される。
{{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1992年バルセロナオリンピック |英称・別称 = 第25回オリンピック競技大会<br />Jeux de la XXV<sup>e</sup> olympiade<br />Games of the XXV Olympiad<br />Juegos de la XXV Olimpiada<br />Jocs de la XXV Olimpíada |画像 = Barcelona AUGUST 1992 the Olympic Games (Juegos Olímpicos de Barcelona 1992) - panoramio.jpg |画像サイズ = 188px |画像の説明 = 聖火台(1992年当時) |ロゴ = Barcelona-92-logo-horizontal.jpg |ロゴサイズ = 160px |開催都市 = {{ESP}} [[バルセロナ]] |参加国・地域数 = 169 |参加人数 = 9,356人(男子6,652人、女子2,704人) |競技種目数 = 25競技257種目 |開会式 = [[1992年]][[7月25日]] |閉会式 = [[1992年]][[8月9日]] |開会宣言 = [[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]][[スペイン国王|国王]] |選手宣誓 = [[ルイ・ドレステ・ブランコ]] |審判宣誓 = [[オーゲニ・アセンシオ]] |最終聖火ランナー = [[アントニオ・レボジョ]] |主競技場 = [[エスタディ・オリンピック・リュイス・コンパニス|エスタディ・オリンピコ]] |夏用前夏 = {{flagicon|KOR}}[[1988年ソウルオリンピック|1988年ソウル]] |夏用次夏 = {{flagicon|USA}}[[1996年アトランタオリンピック|1996年アトランタ]] |夏用前冬 = {{flagicon|FRA}}[[1992年アルベールビルオリンピック|1992年アルベールビル]] |夏用次冬 = {{flagicon|NOR}}[[1994年リレハンメルオリンピック|1994年リレハンメル]] }} '''1992年バルセロナオリンピック'''(1992ねんバルセロナオリンピック)は、[[1992年]]([[平成]]4年)[[7月25日]]から[[8月9日]]までの16日間、[[スペイン]]の[[カタルーニャ州|カタルーニャ自治州]][[バルセロナ]]で開催された[[夏季オリンピック|オリンピック競技大会]]。一般的に'''バルセロナオリンピック'''と呼称される。 == 概要 == [[国際オリンピック委員会]] (IOC) 会長 の[[フアン・アントニオ・サマランチ]]の出身地である[[スペイン]][[カタルーニャ州|カタルーニャ自治州]][[バルセロナ]]でのオリンピック開催実現に向けて、[[1986年]]のIOC総会で開催が決まった。[[冷戦]]終結後初の夏季オリンピックとなった。 これはかつて[[1936年]]の開催予定地にバルセロナが一度立候補しながらも[[ベルリン]]に敗れ、その後にスペインが[[1936年ベルリンオリンピック]]をボイコットする一方で、ベルリンオリンピックに対抗する形で同時期に[[人民オリンピック]]が計画されながらも[[スペイン内戦]]の前にそれさえも挫かれた経緯を踏まえての開催であり、当時のスタジアムをそのまま用いて開催された。なお「人民オリンピック」は、[[ナチス]]政権下の[[ドイツ]]で準備が進められていた1936年ベルリンオリンピックを「人種差別に満ち、五輪の理念に不適」として、バルセロナが対抗してドイツからの亡命者を含む22カ国・6000人の参加が予定されていたスポーツ大会だったが、開催が目前に迫った1936年7月にスペイン内乱が勃発したために開催されることはなかった。 バルセロナ市内のオリンピック体育館を[[磯崎新]]が設計したほか、開会式では[[坂本龍一]]が[[マスゲーム]]の音楽を作曲、[[指揮 (音楽)|指揮]]をするなど、[[日本人]]が競技以外でも活躍した大会となった。 また、このバルセロナオリンピックより[[プロフェッショナルスポーツ|プロ選手]]の出場が拡大し、競技のレベルが劇的に上がった<ref>{{cite news |title=リオ、日本最多メダル 五輪「国策」で躍進 予算最高324億円/「ゴールドプラン」|newspaper=[[毎日新聞]] |date=2016-8-22 |url=http://mainichi.jp/sportsspecial/articles/20160822/ddm/003/050/067000c }}</ref>。 == 大会開催までの経緯 == バルセロナオリンピックの開催は[[1986年]][[10月17日]]にスイスの[[ローザンヌ]]で開かれた第91回[[国際オリンピック委員会総会]]で決定された。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small" |-bgcolor="#efefef" |+1992年夏季オリンピック 開催地投票 |- !都市 !国 !style="background-color:silver;"|1回目 !style="background-color:silver;"|2回目 !style="background-color:silver;"|3回目 |- |[[バルセロナ]]||{{ESP}} |'''29'''||'''37'''||'''47''' |- |[[パリ]]||{{FRA}} |19||20||23 |- |[[ブリスベン]]||{{AUS}} |11||9||10 |- |[[ベオグラード]]||{{YUG45}} |13||11||5 |- |[[バーミンガム]]||{{UK}} |8||8||- |- |[[アムステルダム]]||{{NED}} |5||-||- |- |} == 大会マスコット == 大会マスコットは「[[コビー (マスコットキャラクター)|コビー]]」。[[グレート・ピレニーズ|ピレネー犬]]をモチーフにデザインされた。作者はバレンシア出身の[[ハビエル・マリスカル]]。作者によると「空想の動物」。[[テレビアニメ]]『[[コビーの冒険]]』も製作され、[[日本]]の[[日本放送協会|NHK]][[テレビ]]でも放送されている。 == 公用語 == 開催にあたり大会の公用語として、カタルーニャ州の公用語である[[カタルーニャ語]]が[[スペイン語]]と並んで採用された<ref group="注釈">このため、スペイン語・カタルーニャ語・フランス語・英語の4カ国語で場内アナウンスが行われた。</ref>。開会式・閉会式の入場順は[[フランス語]]が用いられている。 == 式典 == [[ファイル:Wfm barcelona olympic stadium.jpg|thumb|right|220px|[[エスタディ・オリンピック・リュイス・コンパニス|エスタディ・オリンピコ]](オリンピック・スタジアム)]] [[ファイル:Jose Carreras Royal Albert Hall 2001.jpg|thumb|right|220px|ホセ・カレーラス]] 文化的特徴に富み、美術、芸術面で著名な人物を輩出し続けるスペインらしく、開会式、閉会式ともに音楽監督でカタルーニャ生まれで世界的に人気の高い[[テノール]]歌手の[[ホセ・カレーラス]]や、[[モンセラート・カバリェ]]をはじめとする多くのスペイン人歌手の他にも多くのアーティストが参画し、近年でもまれに見る芸術性の高い開会式、閉会式であると絶賛された。 === 開会式 === * [[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]によって開会が宣言された。 * 「[[三大テノール]]」の1人として世界的に著名なホセ・カレーラスが音楽監督を務めた。このこともあってか、数多くのオペラ歌手が出演した。[[プラシド・ドミンゴ]]、[[アグネス・バルツァ]]、モンセラート・カバリェ、[[テレサ・ベルガンサ]]・[[アルフレード・クラウス]]、[[ファン・ポンス]]・[[ジャコモ・アラガル]]の7人が開会式のフィナーレを飾った。 * モンセラート・カバリェと「[[バルセロナ (フレディ・マーキュリーとモンセラート・カバリエの曲)|バルセロナ]]」をデュエットしていた[[クイーン (バンド)|クイーン]]の[[フレディ・マーキュリー]]が登場する予定だったが、前年[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]で死去したため、開会式で歌われることはなかった<ref>{{cite web|url=http://hemeroteca.elmundodeportivo.es/preview/1992/07/20/pagina-16/1266027/pdf.html|title=La ceremonia de inauguración|accessdate=2017-12-26|date=1992-07-20|publisher={{仮リンク|El Mundo Deportivo (newspaper)|en|El Mundo Deportivo}}(newspaper library)}}</ref>。また公式CDアルバムではマーキュリーと、マーキュリーが敬愛するカバリェがデュエットした「バルセロナ」が、急遽[[ボーナストラック]]として追加された。 * ソプラノ歌手[[ジェシー・ノーマン]]が「[[アメイジング・グレイス]]」を歌った。 * 後半では[[坂本龍一]]が[[地中海]]の神話をモチーフにした[[マスゲーム]]の音楽「El Mar Mediterrani」を作曲、指揮した。 * 聖火台への[[オリンピック聖火|聖火]]の点火には弓矢が用いられた。担当したのは[[パラリンピック]]の[[アーチェリー]]選手の[[アントニオ・レボージョ]]であった。この演出については五輪史上最も劇的で美しいとの呼び声高い演出だった<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.yomiuri.co.jp/athe2004/special/seika/se2004012801.htm | archiveurl = https://web.archive.org/web/20100331002959/http://www.yomiuri.co.jp/athe2004/special/seika/se2004012801.htm | archivedate = 2010年03月31日 | title = (4)1992年バルセロナ大会 火の矢 心つなぐ懸け橋 : 聖火は燃える アテネへの道 : アテネ五輪 | work = Yomiuri On-Line (読売新聞) | date = 2004年1月28日 | accessdate = 2013-12-12 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 * [[キューバ]]の首相でありスペイン出身の[[フィデル・カストロ]]、フランスの大統領である[[フランソワ・ミッテラン]]、日本の[[皇太子]]である[[徳仁]]らが列席した<ref name=opyt/>。 * [[オリンピックのEUN選手団|旧ソ連統一チーム]] (EUN) の入場ではチーム名の "Équipe Unifiée", "Unified Team" が記載されたプレートと五輪旗のみならず構成国の国名プレートと国旗も先導した。チーム名と構成国の国名の場内アナウンスもされた<ref name=opyt/>。 ;映像 :{{YouTube|IzGCXdX6gig|Barcelona 1992 Opening Ceremony - Full Length - Barcelona 1992 Replays}}<ref name=opyt>{{Cite video| people =| title =Barcelona 1992 Opening Ceremony - Full Length - Barcelona 1992 Replays | medium =[[YouTube]]| publisher =IOC Olympicチャンネル| location =スイス | date =2020年5月5日 | url=https://www.youtube.com/watch?v=IzGCXdX6gig|accessdate=2020-05-05}}</ref> === 閉会式 === * ホセ・カレーラスと[[イギリス]]人歌手の[[サラ・ブライトマン]]がテーマ曲「AMIGOS PARA SIEMPRE」を歌い、大きな盛り上がりを見せた。 * プラシド・ドミンゴがオリンピック旗降下の際、[[オリンピック賛歌]]を歌い、絶賛された。 * [[クリスティーナ・オヨス]]が「恋は魔術師」第8曲:火祭りの踊りを踊った。 * 当地出身のソプラノ歌手[[ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス|ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス]]がカタルーニャ語で感動的な「鳥の歌」を歌い、曲が終わるところで聖火が静かに消えた。 == ハイライト == * 柔道男子78 kg級で、後に[[総合格闘家]]としても活躍する日本の[[吉田秀彦]]が金メダルを獲得した。吉田は大会直前に同71 kg級の[[古賀稔彦]]と練習(乱取り)を行ったが、その最中に古賀が左膝を負傷するという事故が発生した。しかし古賀はその負傷をおして出場し、吉田とともに金メダルを獲得している。 * この大会から柔道女子が正式種目となり、当時高校生であった[[谷亮子|田村亮子]]などが出場し、7階級で銀3個、銅2個を獲得したが、金メダルを獲得することはできなかった。 * 男子陸上400mで、日本の[[高野進]]が決勝進出し、8位に入賞した。日本のオリンピック短距離選手として1932年[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス五輪]]の[[吉岡隆徳]]以来となる60年ぶりのファイナリストであった。 * 当時中学2年生で14歳になったばかりの[[岩崎恭子]]が、200 m平泳ぎで当時のオリンピックレコードを塗りかえ、金メダルを獲得した。 * 男子陸上マラソンでは、[[森下広一]]が[[1968年メキシコシティーオリンピック]]の[[君原健二]]以来24年ぶりの銀メダルを獲得した。 * 女子陸上では、マラソンの[[有森裕子]]が[[1928年アムステルダムオリンピック]]の800 mの[[人見絹枝]]以来64年ぶりの銀メダルを獲得した。 * 男子バスケットボールでは、アメリカが[[NBA]]プレイヤーで固めた「'''[[ドリームチーム (バスケットボール)|ドリームチーム]]'''」を結成し、他チームを圧倒して金メダルを獲得した。 * この大会から野球が初の正式競技となり、アマチュア大会で無敗記録を続けていた[[1992年バルセロナオリンピックの野球競技・キューバ代表|キューバ]]が金メダルを獲得した。また[[1992年バルセロナオリンピックの野球競技・日本代表|バルセロナオリンピック野球日本代表]]は予選リーグでキューバ、台湾に完敗し5勝2敗の2位で予選を通過。準決勝では台湾と再戦したが、[[郭李建夫]]の好投を許し敗戦。3位決定戦では3大会連続でアメリカと対戦し、8-3で勝利。3大会連続のメダルを確保し、[[野球の背番号|背番号]]'''18'''を背負った[[伊藤智仁]]が1大会27奪三振の[[ギネス世界記録]]。 *この大会からサッカーに年齢制限が導入された(前年の12月31日時点で23歳未満)。[[オーバーエイジ]]枠は無かった(導入は[[1996年アトランタオリンピック|次大会]]から)。 *この大会からボクシングが、国家代表のみならず大陸代表でなければ出場不可能となった。[[ライト級]]2回戦で日本及びアジア代表の法大4年[[土橋茂之]]がフランス及びヨーロッパ代表の[[ジュリアン・ロルシー]]に2RRSC負け。 *この大会から[[アパルトヘイト]]の緩和を受け、[[オリンピックの南アフリカ選手団|南アフリカ]]の参加が承認された。[[1960年]]の[[1960年ローマオリンピック|ローマオリンピック]]以来、32年ぶり(8大会ぶり)の参加となった。 == 競技会場 == *アネラ・オリンピカ **[[エスタディ・オリンピック・リュイス・コンパニス]]([[エスタディ・デ・モンジュイック]])(開・閉会式、陸上競技) **[[パラウ・サン・ジョルディ]](バスケットボール、ハンドボール、バレーボール) **Piscines Bernat Picornell(競泳、水球) **ピシーナ・ムニシパル・デ・モンジュイック(飛込、水球) **カタルーニャ国立体育研究所(レスリング) **マタロ(マラソンスタート) **バルセロナ・スポーツパレス **パラウ・デ・ラ・メタル=イルギア **Pavelló de l'Espanya Industrial *ディアゴナル大通り **[[カンプ・ノウ|エスタディ・デル・FCバルセロナ]] **[[パラウ・ブラウグラナ]] **レアル・クラブ・デ・ポロ・デ・バルセロナ **[[エスタディ・デ・サリア]] *ヴァル・デ・ヘブロン地区 **アーチェリー場 **Pavelló de la Vall d'Hebron **Tennis de la Vall d'Hebron **Velòdrom d'Horta *パルク・デ・マル地区 **Estació Nord Sports Hall **Olympic Harbour **Pavelló de la Mar Bella *その他 **バニョーレス湖 **[[エスタディ・オリンピック・デ・タラサ]] **エスタディ・デ・ラ・ノバ・クレウ・アルタ **[[エスタディオ・デ・メスタージャ]] **[[エスタディオ・デ・ラ・ロマレーダ]] == 実施競技 == {{col| * {{GamesSport|陸上|Format=o}} * [[水泳]] ** {{GamesSport|競泳|Format=o}} ** {{GamesSport|飛込|Format=o}} ** {{GamesSport|水球|Format=o}} ** {{GamesSport|シンクロナイズドスイミング|Format=o}} * {{GamesSport|サッカー|Format=o}} * {{GamesSport|テニス|Format=o}} * {{GamesSport|ボート|Format=o}}([[:en:Rowing at the 1992 Summer Olympics|en]]) * {{GamesSport|ホッケー|Format=o}} * {{GamesSport|ボクシング|Format=o}} * {{GamesSport|バレーボール|Format=o}} | * {{GamesSport|体操|Format=o}} * {{GamesSport|バスケットボール|Format=o}} * {{GamesSport|レスリング|Format=o}} * {{GamesSport|セーリング|Format=o}}([[:en:Sailing at the 1992 Summer Olympics – Tornado|en]]) * {{GamesSport|ウエイトリフティング|Format=o}} * {{GamesSport|ハンドボール|Format=o}} * {{GamesSport|自転車|Format=o}} * {{GamesSport|卓球|Format=o}} * {{GamesSport|馬術|Format=o}} * {{GamesSport|フェンシング|Format=o}}([[:en:Fencing at the 1992 Summer Olympics – Men's épée|en]]) | * {{GamesSport|柔道|Format=o}} * {{GamesSport|バドミントン|Format=o}} * {{GamesSport|射撃|Format=o}}([[:en:Shooting at the 1992 Summer Olympics – Trap|en]]) * {{GamesSport|近代五種|Format=o}}([[:en:Modern 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16 || 22 || 16 || 54 |- | 5 || style="text-align:left" | {{FlagIOC|CUB|1992夏季}} || 14 || 6 || 11 || 31 |- style="background-color:#ccccff" | 6 || style="text-align:left" | {{FlagIOC|ESP|1992夏季}}(開催国) || 13 || 7 || 2 || 22 |- | 7 || style="text-align:left" | {{FlagIOC|KOR|1992夏季}} || 12 || 5 || 12 || 29 |- | 8 || style="text-align:left" | {{FlagIOC|HUN|1992夏季}} || 11 || 12 || 7 || 30 |- | 9 || style="text-align:left" | {{FlagIOC|FRA|1992夏季}} || 8 || 5 || 16 || 29 |- | 10 || style="text-align:left" | {{FlagIOC|AUS|1992夏季}} || 7 || 9 || 11 || 27 |} == 主なメダリスト == * {{Gold1}}金メダル ** [[岩崎恭子]](日本、競泳女子200m平泳ぎ) ** [[古賀稔彦]](日本、柔道男子71kg以下級) ** [[吉田秀彦]](日本、柔道男子78kg以下級) ** [[リンフォード・クリスティ]]([[イギリス]]、[[陸上競技]]男子[[100メートル競走|100m]]) ** [[黄永祚]]([[大韓民国|韓国]]、陸上競技男子[[マラソン]]) ** [[アメリカ合衆国|アメリカ]]([[陸上競技]]男子4×100m[[リレー走|リレー]]) ** アメリカ(陸上競技男子4×400mリレー) ** [[カール・ルイス]](アメリカ、陸上競技男子[[走幅跳]]) ** [[ヤン・ゼレズニー]]([[チェコスロバキア]]、陸上競技男子[[やり投]]) ** [[マーク・マッコイ]]([[カナダ]]、[[110メートルハードル|110mハードル]]) ** [[マリー・ジョゼ・ペレク]]([[フランス]]、陸上競技女子[[400メートル競走|400m]]) ** [[ワレンティナ・エゴロワ]]([[#EUN|EUN]] [[ロシア]]、陸上競技女子マラソン) ** [[ジャッキー・ジョイナー・カーシー]](アメリカ、陸上競技女子[[七種競技]]) ** [[アレクサンドル・ポポフ (競泳選手)|アレクサンドル・ポポフ]](EUN ロシア、[[競泳]]男子50m[[自由形]]) ** アレクサンドル・ポポフ(EUN ロシア、競泳男子100m自由形) ** [[タマス・ダルニュイ]]([[ハンガリー]]、[[競泳]]男子200m[[個人メドレー]]) ** タマス・ダルニュイ(ハンガリー、競泳男子400m個人メドレー) ** アメリカ(競泳男子4×100mリレー) ** アメリカ(競泳男子4×100m[[メドレーリレー]]) ** [[ジャネット・エバンス]](アメリカ、競泳女子800m[[自由形]]) ** [[クリスティーナ・エゲルセギ]]([[ハンガリー]]、競泳女子100m[[背泳ぎ]]) ** クリスティーナ・エゲルセギ(ハンガリー、競泳女子200m背泳ぎ) ** クリスティーナ・エゲルセギ(ハンガリー、競泳女子400m個人メドレー) ** [[伏明霞]]([[中華人民共和国]]、[[飛込競技|飛び込み]]女子10m[[高飛び込み]]) ** [[マシュー・ピンセント]]、[[スティーブン・レッドグレーブ]](イギリス、[[ボート競技]]男子かじなしペア) ** [[バレーボールブラジル男子代表|ブラジル]]([[バレーボール]]男子) ** [[バレーボールキューバ女子代表|キューバ]](バレーボール女子) ** [[ビタリー・シェルボ]]([[#EUN|EUN]] [[ベラルーシ]]、[[体操]]男子個人総合) ** ビタリー・シェルボ(EUN ベラルーシ、体操男子種目別[[平行棒]]) ** ビタリー・シェルボ(EUN ベラルーシ、体操男子種目別[[あん馬]]) ** ビタリー・シェルボ(EUN ベラルーシ、体操男子種目別[[つり輪]]) ** ビタリー・シェルボ(EUN ベラルーシ、体操男子種目別[[跳馬]]) ** EUN(体操男子団体) ** アメリカ([[バスケットボール]]男子) - 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*2010年1月13日にバルセロナのエレウ市長が[[2022年北京オリンピック|2022年冬季オリンピック]]開催地に立候補する意向を示したが、準備不足を理由に見送り、[[2026年冬季オリンピック|2026年]]の開催を目指していた。しかし、2015年6月にヘラルド・ピサレジョ副市長が立候補取り下げを表明した。同時期に活発化した[[カタルーニャ独立運動]]が関連している。その後も冬季オリンピックを招致するビジョンは存在するが、具体的な計画などは不明確である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[国際オリンピック委員会]] * [[夏季オリンピック]] * [[バルセロナパラリンピック]] * [[プロジェクト:オリンピック]] {{Commonscat|1992 Summer Olympics|1992年バルセロナオリンピック|position=right}} == 外部リンク == * [https://www.olympic.org/barcelona-1992 IOCバルセロナオリンピック1992年]{{en icon}} * [https://www.joc.or.jp/column/olympic/history/ JOCオリンピックの歴史] {{オリンピック}} {{1992年バルセロナオリンピックの実施競技}} {{authority control}} {{デフォルトソート:1992ねんはるせろなおりんひつく}} [[Category:1992年バルセロナオリンピック|*]] [[Category:夏季オリンピックの歴代大会|1992]]
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1988年ソウルオリンピック
1988年ソウルオリンピック(1988ねんソウルオリンピック)は、1988年9月17日から10月2日までの16日間にわたって韓国の首都・ソウルで開催されたオリンピック競技大会。一般的にソウルオリンピックと呼称されることもある。初めて選手宣誓を男女が行った大会でもあった。 第二次世界大戦後に建国された新興国では初めて開催されたオリンピックであり、1964年東京オリンピックに続きアジアにおける2度目の夏季オリンピックでもある。朝鮮戦争で荒廃し、北朝鮮との分裂国家となった韓国が経済的に復興した象徴的な出来事として捉えられた。韓国では、開催年にちなんで88(パルパル)オリンピックとも呼ばれた。開催国韓国にとっては、同年2月に16年ぶりとなる直接選挙で選ばれた盧泰愚大統領の下、韓国憲政史上最も民主的な第六共和国体制が発足したばかりであった他、オリンピック開催が民主化への大きなきっかけ(6.29民主化宣言を参照)となった。 前回のロス五輪では社会主義諸国(東側諸国)が、前々回のモスクワ五輪では自由主義諸国(西側諸国)がボイコットしたので、ソウルオリンピックは12年ぶりにアメリカとソ連の二大国が揃った白熱した試合となった。この後の東欧革命やドイツ再統一等による冷戦終結と、ソ連崩壊によってこの大会はソ連とほとんどの東側諸国にとって最後の参加となった。 モスクワ・ロサンゼルス両方をボイコットしたイランも12年ぶりに参加し、1976年のモントリオール五輪では南アフリカの参加を巡って多くのアフリカ諸国や中国も中華民国(台湾)の参加を巡ってボイコットしていたため、ほぼ全世界の国と地域が参加したオリンピックとしては、1972年ミュンヘンオリンピック以来16年ぶりとなった。 一時、分断国家である朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が共催を積極的に働きかけ、社会主義の国々もこれを支持していたが、最終的に合意に至らず、このことが大韓航空機爆破事件の遠因となった(後述)。 なお、ソウルオリンピックに参加しなかったのは、北朝鮮に加え、キューバ、アルバニア、セーシェル、エチオピア、ニカラグア、マダガスカルの7ヶ国のみである。 ソウルオリンピックの2年前には、ソウルアジア競技大会がプレ大会として開催された。 ソウルオリンピックの開催は1981年9月30日、西ドイツ(当時)のバーデン=バーデンで開かれた第84次国際オリンピック委員会総会で決定された。日本の名古屋市も開催を求めて立候補し、当初は名古屋優勢との見方が強かったが27対52でソウルに敗れた。名古屋市の招致活動については名古屋オリンピック構想も参考のこと。 開催地がソウルに決定した2か月後の1981年11月27日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、ニューデリーで開催されたアジア競技連盟評議会にに出席した北朝鮮代表が『個人的見解』としつつも「現時点での参加は無理だ」と、不参加の方向性を表明した。 翌1982年初頭、韓国の全斗煥大統領は南北の平和攻勢を打ち出し、その一つが「南北体育会談」であり、具体的には北の同胞の五輪参観招待などであった。同年4月、国際オリンピック委員会(IOC)のフアン・アントニオ・サマランチ会長が韓国側に「北朝鮮が参加準備をしている」と発言し、11月には(韓国の)ソウル五輪組織委員長が北朝鮮を含むIOC加盟国の招請と南北統一チーム結成を呼び掛けていることを明らかにした。 1984年3月30日、北朝鮮オリンピック委員会から大韓オリンピック委員会に対し、同年夏に開催予定のロサンゼルス五輪以降「南北統一チーム」を結成・参加する提案があった。韓国側は、過去の経緯から即答を回避した。4月2日、韓国側は前1983年10月のラングーン事件を非難しつつも、北朝鮮側の提案を検討するための「南北体育会談」開催を提案した。 1984年4月9日、板門店の中立国監視委員会会議室において、南北それぞれのオリンピック委員会の幹部が参加した。しかし、韓国側がラングーン事件に加え、女優崔銀姫と元夫で映画監督の申相玉の拉致事件に言及したことで、南北代表間での非難応酬により次回日程も未定なまま決裂した。 韓国側の提案は次の通りだった。 両者の協議により、第2回会談が開催されたが、前回同様に北朝鮮側のテロ行為や韓国人拉致問題で対立し、具体的な協議は進まなかった。 その後、北朝鮮側から韓国側提案に対する対案が次の通り示された。 韓国外務部は、体育会談の前提としてラングーン事件への措置が必要であるという見解を表明。北朝鮮側は「挑発」に応じられないとし、6月に予定されていた会談は中止となった。さらに8月に至り、北朝鮮側は再開を拒否するが、10月及び11月に韓国側から再開を呼び掛けている。この間、北朝鮮は6月2日に、ロス五輪ボイコットを表明し、これを受けて韓国も単独参加を決定している。同年夏に、ロス五輪は社会主義国のボイコットを受けつつ、開催された。 10月29日、韓国側は統一チーム結成を前提に、ソウル五輪の北朝鮮での一部共催について協議する旨を明らかにした。11月18日には英『オブザーバー』紙で北朝鮮側から南北共催を非公式に打診していると報じられたが、韓国側はこれを否定した。同月27日、韓国側は共催や統一チーム結成の難易度が高いことを示し、仮にIOCが共催を認めても、北朝鮮での競技実施を承認する国際競技連盟を探す必要があることから、現実的に困難であることから消極的な姿勢を示した。12月10日、平壌放送(国営放送)は、北朝鮮首相(内閣総理)の談話として、ソウル五輪及び朝鮮半島での五輪開催に反対を伝えた。 12月14日、韓国側は、分散解散の検討意思があることを表明した。しかし12月16日、北朝鮮オリンピック委員会は、在韓米軍の駐留や国家保安法により共産圏からの参加選手・役員の安全が保障されないことを理由に、サマランチIOC会長にソウル五輪反対の書簡を送った。 自由主義陣営に属したために社会主義諸国との国交が無かった韓国で開催されるソウル五輪でも、社会主義諸国がボイコットする可能性が懸念された。そのため、韓国と北朝鮮がオリンピックを共催すれば、社会主義諸国が参加しやすくなるとの発想が生まれた。この他、金正日の後継者体制強化のため経済を立て直す必要があり、南北の緊張緩和による軍事費削減や、イメージアップによる西側諸国からの経済援助を期待する等の国内事情が背景にあった。 1985年7月30日、北朝鮮副首相の新聞声明として、ボイコットを切り札に「ソウル五輪開催が「強行」されれば、社会主義国・非同盟諸国・第三世界諸国が不参加になることを理由に共催が賢明である」と表明した。その上で次のような提案をした。 韓国側は、二つの国内オリンピック委員会にまたがる開催ができないことから、直ちに拒否の姿勢を示した。李永鎬(朝鮮語版)体育相は、北朝鮮側の五輪の政治利用を目的とした態度の豹変を非難し、8月2日と22日に共催を拒否している。しかし、韓国オリンピック委員会や李源京外相は共催に含みを持たせ、北朝鮮側も競技数を減らすことに水面下で同意しつつあった。 1985年10月、IOCの仲裁により、ローザンヌで「第1回南北スポーツ会談」が開催されたが、南北それぞれの代表者がIOC幹部と個別会談し、最終日に三者合同討議が行われた。討議では北朝鮮側が共催を主張したのに対し、韓国側は主催権を譲らず、決裂した。翌1986年1月に、再度「第2回南北スポーツ会談」が開催されたが、進展は無かった。 1986年4月24日、IOC幹部は北朝鮮側が開催競技数を減らすことを容認していることを明らかにすると、同年5月31日に朴世直(英語版)体育相が、ソウル五輪やアジア競技大会への参加を条件に、共催を認めると発言した。同年6月に、再度「第3回南北スポーツ会談」が開催され、次のような提案が行われた。 IOCは双方に政治決断を迫ったが、北朝鮮側は受け入れなかった。これ以降、翌夏までの南北間の交渉は、北朝鮮側の要求する競技数、種目、場所などが二転三転し、ついに合意に至ることは無かった。また、北朝鮮は1986年9~10月のソウルアジア競技大会に不参加だった。 1987年7月に、「第4回南北スポーツ会談」が行われたが、競技数・種目で合意を見ず、また北朝鮮側が「朝鮮オリンピック」の名称や、開閉会式のソウル・平壌双方での開催の主張をついに譲らなかった。そもそも、開催権を得たのはソウルであり、北朝鮮側の要求は不当そのものだったが、国際的認知度を高めたい韓国、及び、2回連続多数のボイコット国を出したIOCにとって、社会主義国を含む円滑な開催が必要であることから、北朝鮮側が最後の手段として「社会主義国のボイコット」を使えば応じざるを得なかった。 同年9月17日、IOCは開催地を「ソウル」、すなわち単独開催として加盟国各国に招請状を送り、ここに「南北共催」は否定された。ただし、サマランチ会長名の付属文書で、「分散開催」には余地を残した。 前述の共催協議に際し、ソビエト連邦、ドイツ民主共和国(東独)、中華人民共和国が南北共催を支持し、中でもキューバ共和国は「韓国単独開催なら南北分断が促進される」と単独開催の場合は不参加とすることを明言していた。共催支持は、1985年11月時点で、13か国に及んだ。日本の板橋区議会(東京都)も、南北共催(及び南北の競技観覧と離散家族再会を含む)の請願を採択した。しかし、1987年11月時点では、全政権での全方位外交が功を奏しており、中国、ソ連、東欧諸国は参加するか否か明確に表明していなかった。 ところが1987年10月7日に金正日が自ら下した指令により、同年11月29日に大韓航空機爆破事件が発生し、115名が犠牲となった。北朝鮮はこの事件への国家的関与を否定しているものの、社会主義国を含む国際的な批判を受けることとなった。また、旗色を鮮明にしていなかった各国が相次いでオリンピック参加を表明した。 最終的には共催交渉は決裂し、北朝鮮側の拒絶によって、交渉自体が打ち切られた。ボイコットをしたのは、最終的に、先述の通り7か国のみに留まった。 2019年3月31日、当時の機密扱いだった外交文書が公開され、当時のフアン・アントニオ・サマランチIOC会長が、北朝鮮が受け入れないと予想した上で東側諸国に大会参加の口実を与えるために、北朝鮮に南北分散開催について提案したことが改めて確認された。 ちなみに、こぐまのミーシャやイーグルサムと同様、ホドリにも『走れホドリ』というテレビアニメが存在し韓国で製作され、文化放送(MBC)の系列で放送された。ただし前述の2番組とは異なり、平日の10分枠であった。 英語版と朝鮮語版 を、男女混成コーラスグループ「コリアナ」(日本盤での表記はコリアーナ)が歌唱した。 テニスと卓球が正式競技として採用され、特にテニスは1924年のパリ五輪以来64年ぶりの復活となった。女子柔道、野球、テコンドーが公開競技としてオリンピックで開催された。女子柔道とテコンドーは初開催、野球は1984年のロス五輪に続いて2度目の開催。また女子柔道、野球は1992年のバルセロナ五輪、テコンドーは2000年のシドニー五輪から正式種目となった。 その後の政治変動のため、ソ連および東ドイツが参加した最後のオリンピックとなった 陸上競技男子100mではベン・ジョンソンのドーピングによる金メダル剥奪が発生し、本大会ではドーピング問題に本格的に注目の集まった初の大会ともいえる。また陸上競技で女子短距離三冠を成し遂げたフローレンス・グリフィス=ジョイナーは、当時画期的な、鮮やかなメイクやマニキュアで話題となった。 陸上競技の男子100m決勝は9月24日の午後1時30分に設定された。1987~88年の韓国ではサマータイムが採用されていたため、実質的には午後0時30分である。これは、視聴率が見込めるアメリカのプライムタイムに決勝を合わせるための措置であり、この大会からアメリカ国内における夏季オリンピックの独占放映権を獲得したアメリカのテレビ局・NBCが多額の放映権料を支払う見返りだった。その後のオリンピックでも、アメリカとの時差を考慮した競技時間の設定は、たびたび起きている。 現在、ソウルオリンピック主競技場が残るほかソウル交通公社4号線東大門歴史文化公園駅のプラットホームでは当時の壁画を見ることができる。なお、松坡区の選手村のあった地区は大会翌年の1989年に「五輪洞(オリュンドン、오륜동)」という地名が制定された。 ソウル地下鉄やその周辺で付けられている駅番号も、同時期から行われたものである。 開会式では、飛ばした鳩のうち何羽かが聖火台の上に止まったままで点火の時まで飛ばずにいたので、「焼け死んだのではないか」との指摘が相次いだ。これについて、ソウルオリンピック組織委員長を務めた朴世直(朝鮮語版)(パク・セジク)が「幾人かに確認してみた。すると大方の見方は、点火の直前に飛び去ったということであった。ある実務者は、点火の直前に聖火用の高圧ガスが強く噴出するため、鳩はとても止まっていられないと説明してくれた」と説明した。一部報道では、鳩が聖火台の炎で焼け死んだことは事実とされ、「動物愛護団体が抗議した」と報じられている。アメリカのタイム誌は2012年7月の時点において、本大会の開会式を全世界の目の前で多くの鳥が焼かれたことを理由に「史上最悪の開会式〔複数ある〕」と評してその筆頭に挙げている。 1994年のリレハンメルオリンピックからは、本物の鳩ではなく映像、風船、着ぐるみ、人文字、切り紙等で鳩を表現することが恒例となった。 陸上競技男子100mで、カナダのベン・ジョンソンが前年の世界陸上ローマ大会で自ら出した当時の世界最高記録9秒83を100分の0.04秒短縮する9秒79の新記録で9秒92だった2位のアメリカのカール・ルイスを数m引き離し優勝した。だが、レース後のドーピング検査でステロイド系の筋肉増強剤であるスタノゾロールの陽性反応が出たことにより、ジョンソンは金メダルを剥奪され、ルイスが繰り上げで金メダルを獲得した。なお、ジョンソンの記録についてはこの大会のもののみにとどまらず、前年記録した9秒83も1989年に取り消された。 ボクシング競技のライトミドル級決勝で、アメリカのロイ・ジョーンズ・ジュニアが地元・韓国の朴時憲から2度のダウンを奪うなど相手を圧倒しながら2-3の不可解な判定で敗れた。記者会見でジョーンズ・ジュニアは「盗まれた金メダルを返してくれ!」と涙ながらに訴えたことから、「盗まれた金メダル事件」として知られるようになった。なお、この事件はアマチュアボクシングの採点システムが変更されるきっかけとなった。 ジョーンズ・ジュニアには、ヴァル・バーカー・トロフィーが与えられた。 この他、韓国の辺丁一とブルガリアのアレクサンダー・クリストフのバンタム級2回戦では4-1の判定でクリストフが勝利したが、この判定を不服とした韓国側が猛抗議を行い、照明の消された真っ暗なリング上では辺が1時間以上にも渡る抗議の座り込みを行った。
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4, "tag": "p", "text": "一時、分断国家である朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が共催を積極的に働きかけ、社会主義の国々もこれを支持していたが、最終的に合意に至らず、このことが大韓航空機爆破事件の遠因となった(後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、ソウルオリンピックに参加しなかったのは、北朝鮮に加え、キューバ、アルバニア、セーシェル、エチオピア、ニカラグア、マダガスカルの7ヶ国のみである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ソウルオリンピックの2年前には、ソウルアジア競技大会がプレ大会として開催された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ソウルオリンピックの開催は1981年9月30日、西ドイツ(当時)のバーデン=バーデンで開かれた第84次国際オリンピック委員会総会で決定された。日本の名古屋市も開催を求めて立候補し、当初は名古屋優勢との見方が強かったが27対52でソウルに敗れた。名古屋市の招致活動については名古屋オリンピック構想も参考のこと。", "title": "開催地選考" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "開催地がソウルに決定した2か月後の1981年11月27日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、ニューデリーで開催されたアジア競技連盟評議会にに出席した北朝鮮代表が『個人的見解』としつつも「現時点での参加は無理だ」と、不参加の方向性を表明した。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "翌1982年初頭、韓国の全斗煥大統領は南北の平和攻勢を打ち出し、その一つが「南北体育会談」であり、具体的には北の同胞の五輪参観招待などであった。同年4月、国際オリンピック委員会(IOC)のフアン・アントニオ・サマランチ会長が韓国側に「北朝鮮が参加準備をしている」と発言し、11月には(韓国の)ソウル五輪組織委員長が北朝鮮を含むIOC加盟国の招請と南北統一チーム結成を呼び掛けていることを明らかにした。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1984年3月30日、北朝鮮オリンピック委員会から大韓オリンピック委員会に対し、同年夏に開催予定のロサンゼルス五輪以降「南北統一チーム」を結成・参加する提案があった。韓国側は、過去の経緯から即答を回避した。4月2日、韓国側は前1983年10月のラングーン事件を非難しつつも、北朝鮮側の提案を検討するための「南北体育会談」開催を提案した。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1984年4月9日、板門店の中立国監視委員会会議室において、南北それぞれのオリンピック委員会の幹部が参加した。しかし、韓国側がラングーン事件に加え、女優崔銀姫と元夫で映画監督の申相玉の拉致事件に言及したことで、南北代表間での非難応酬により次回日程も未定なまま決裂した。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "韓国側の提案は次の通りだった。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "両者の協議により、第2回会談が開催されたが、前回同様に北朝鮮側のテロ行為や韓国人拉致問題で対立し、具体的な協議は進まなかった。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後、北朝鮮側から韓国側提案に対する対案が次の通り示された。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "韓国外務部は、体育会談の前提としてラングーン事件への措置が必要であるという見解を表明。北朝鮮側は「挑発」に応じられないとし、6月に予定されていた会談は中止となった。さらに8月に至り、北朝鮮側は再開を拒否するが、10月及び11月に韓国側から再開を呼び掛けている。この間、北朝鮮は6月2日に、ロス五輪ボイコットを表明し、これを受けて韓国も単独参加を決定している。同年夏に、ロス五輪は社会主義国のボイコットを受けつつ、開催された。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "10月29日、韓国側は統一チーム結成を前提に、ソウル五輪の北朝鮮での一部共催について協議する旨を明らかにした。11月18日には英『オブザーバー』紙で北朝鮮側から南北共催を非公式に打診していると報じられたが、韓国側はこれを否定した。同月27日、韓国側は共催や統一チーム結成の難易度が高いことを示し、仮にIOCが共催を認めても、北朝鮮での競技実施を承認する国際競技連盟を探す必要があることから、現実的に困難であることから消極的な姿勢を示した。12月10日、平壌放送(国営放送)は、北朝鮮首相(内閣総理)の談話として、ソウル五輪及び朝鮮半島での五輪開催に反対を伝えた。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "12月14日、韓国側は、分散解散の検討意思があることを表明した。しかし12月16日、北朝鮮オリンピック委員会は、在韓米軍の駐留や国家保安法により共産圏からの参加選手・役員の安全が保障されないことを理由に、サマランチIOC会長にソウル五輪反対の書簡を送った。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "自由主義陣営に属したために社会主義諸国との国交が無かった韓国で開催されるソウル五輪でも、社会主義諸国がボイコットする可能性が懸念された。そのため、韓国と北朝鮮がオリンピックを共催すれば、社会主義諸国が参加しやすくなるとの発想が生まれた。この他、金正日の後継者体制強化のため経済を立て直す必要があり、南北の緊張緩和による軍事費削減や、イメージアップによる西側諸国からの経済援助を期待する等の国内事情が背景にあった。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1985年7月30日、北朝鮮副首相の新聞声明として、ボイコットを切り札に「ソウル五輪開催が「強行」されれば、社会主義国・非同盟諸国・第三世界諸国が不参加になることを理由に共催が賢明である」と表明した。その上で次のような提案をした。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "韓国側は、二つの国内オリンピック委員会にまたがる開催ができないことから、直ちに拒否の姿勢を示した。李永鎬(朝鮮語版)体育相は、北朝鮮側の五輪の政治利用を目的とした態度の豹変を非難し、8月2日と22日に共催を拒否している。しかし、韓国オリンピック委員会や李源京外相は共催に含みを持たせ、北朝鮮側も競技数を減らすことに水面下で同意しつつあった。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1985年10月、IOCの仲裁により、ローザンヌで「第1回南北スポーツ会談」が開催されたが、南北それぞれの代表者がIOC幹部と個別会談し、最終日に三者合同討議が行われた。討議では北朝鮮側が共催を主張したのに対し、韓国側は主催権を譲らず、決裂した。翌1986年1月に、再度「第2回南北スポーツ会談」が開催されたが、進展は無かった。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1986年4月24日、IOC幹部は北朝鮮側が開催競技数を減らすことを容認していることを明らかにすると、同年5月31日に朴世直(英語版)体育相が、ソウル五輪やアジア競技大会への参加を条件に、共催を認めると発言した。同年6月に、再度「第3回南北スポーツ会談」が開催され、次のような提案が行われた。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "IOCは双方に政治決断を迫ったが、北朝鮮側は受け入れなかった。これ以降、翌夏までの南北間の交渉は、北朝鮮側の要求する競技数、種目、場所などが二転三転し、ついに合意に至ることは無かった。また、北朝鮮は1986年9~10月のソウルアジア競技大会に不参加だった。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1987年7月に、「第4回南北スポーツ会談」が行われたが、競技数・種目で合意を見ず、また北朝鮮側が「朝鮮オリンピック」の名称や、開閉会式のソウル・平壌双方での開催の主張をついに譲らなかった。そもそも、開催権を得たのはソウルであり、北朝鮮側の要求は不当そのものだったが、国際的認知度を高めたい韓国、及び、2回連続多数のボイコット国を出したIOCにとって、社会主義国を含む円滑な開催が必要であることから、北朝鮮側が最後の手段として「社会主義国のボイコット」を使えば応じざるを得なかった。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "同年9月17日、IOCは開催地を「ソウル」、すなわち単独開催として加盟国各国に招請状を送り、ここに「南北共催」は否定された。ただし、サマランチ会長名の付属文書で、「分散開催」には余地を残した。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "前述の共催協議に際し、ソビエト連邦、ドイツ民主共和国(東独)、中華人民共和国が南北共催を支持し、中でもキューバ共和国は「韓国単独開催なら南北分断が促進される」と単独開催の場合は不参加とすることを明言していた。共催支持は、1985年11月時点で、13か国に及んだ。日本の板橋区議会(東京都)も、南北共催(及び南北の競技観覧と離散家族再会を含む)の請願を採択した。しかし、1987年11月時点では、全政権での全方位外交が功を奏しており、中国、ソ連、東欧諸国は参加するか否か明確に表明していなかった。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ところが1987年10月7日に金正日が自ら下した指令により、同年11月29日に大韓航空機爆破事件が発生し、115名が犠牲となった。北朝鮮はこの事件への国家的関与を否定しているものの、社会主義国を含む国際的な批判を受けることとなった。また、旗色を鮮明にしていなかった各国が相次いでオリンピック参加を表明した。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "最終的には共催交渉は決裂し、北朝鮮側の拒絶によって、交渉自体が打ち切られた。ボイコットをしたのは、最終的に、先述の通り7か国のみに留まった。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2019年3月31日、当時の機密扱いだった外交文書が公開され、当時のフアン・アントニオ・サマランチIOC会長が、北朝鮮が受け入れないと予想した上で東側諸国に大会参加の口実を与えるために、北朝鮮に南北分散開催について提案したことが改めて確認された。", "title": "北朝鮮との共同開催案" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ちなみに、こぐまのミーシャやイーグルサムと同様、ホドリにも『走れホドリ』というテレビアニメが存在し韓国で製作され、文化放送(MBC)の系列で放送された。ただし前述の2番組とは異なり、平日の10分枠であった。", "title": "大会マスコット" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "英語版と朝鮮語版 を、男女混成コーラスグループ「コリアナ」(日本盤での表記はコリアーナ)が歌唱した。", "title": "公式主題歌(テーマソング)" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "テニスと卓球が正式競技として採用され、特にテニスは1924年のパリ五輪以来64年ぶりの復活となった。女子柔道、野球、テコンドーが公開競技としてオリンピックで開催された。女子柔道とテコンドーは初開催、野球は1984年のロス五輪に続いて2度目の開催。また女子柔道、野球は1992年のバルセロナ五輪、テコンドーは2000年のシドニー五輪から正式種目となった。", "title": "ハイライト" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "その後の政治変動のため、ソ連および東ドイツが参加した最後のオリンピックとなった", "title": "ハイライト" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "陸上競技男子100mではベン・ジョンソンのドーピングによる金メダル剥奪が発生し、本大会ではドーピング問題に本格的に注目の集まった初の大会ともいえる。また陸上競技で女子短距離三冠を成し遂げたフローレンス・グリフィス=ジョイナーは、当時画期的な、鮮やかなメイクやマニキュアで話題となった。", "title": "ハイライト" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "陸上競技の男子100m決勝は9月24日の午後1時30分に設定された。1987~88年の韓国ではサマータイムが採用されていたため、実質的には午後0時30分である。これは、視聴率が見込めるアメリカのプライムタイムに決勝を合わせるための措置であり、この大会からアメリカ国内における夏季オリンピックの独占放映権を獲得したアメリカのテレビ局・NBCが多額の放映権料を支払う見返りだった。その後のオリンピックでも、アメリカとの時差を考慮した競技時間の設定は、たびたび起きている。", "title": "テレビ放映権の影響" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "現在、ソウルオリンピック主競技場が残るほかソウル交通公社4号線東大門歴史文化公園駅のプラットホームでは当時の壁画を見ることができる。なお、松坡区の選手村のあった地区は大会翌年の1989年に「五輪洞(オリュンドン、오륜동)」という地名が制定された。", "title": "名残" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ソウル地下鉄やその周辺で付けられている駅番号も、同時期から行われたものである。", "title": "名残" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "開会式では、飛ばした鳩のうち何羽かが聖火台の上に止まったままで点火の時まで飛ばずにいたので、「焼け死んだのではないか」との指摘が相次いだ。これについて、ソウルオリンピック組織委員長を務めた朴世直(朝鮮語版)(パク・セジク)が「幾人かに確認してみた。すると大方の見方は、点火の直前に飛び去ったということであった。ある実務者は、点火の直前に聖火用の高圧ガスが強く噴出するため、鳩はとても止まっていられないと説明してくれた」と説明した。一部報道では、鳩が聖火台の炎で焼け死んだことは事実とされ、「動物愛護団体が抗議した」と報じられている。アメリカのタイム誌は2012年7月の時点において、本大会の開会式を全世界の目の前で多くの鳥が焼かれたことを理由に「史上最悪の開会式〔複数ある〕」と評してその筆頭に挙げている。", "title": "大会に関する問題・トラブル" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1994年のリレハンメルオリンピックからは、本物の鳩ではなく映像、風船、着ぐるみ、人文字、切り紙等で鳩を表現することが恒例となった。", "title": "大会に関する問題・トラブル" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "陸上競技男子100mで、カナダのベン・ジョンソンが前年の世界陸上ローマ大会で自ら出した当時の世界最高記録9秒83を100分の0.04秒短縮する9秒79の新記録で9秒92だった2位のアメリカのカール・ルイスを数m引き離し優勝した。だが、レース後のドーピング検査でステロイド系の筋肉増強剤であるスタノゾロールの陽性反応が出たことにより、ジョンソンは金メダルを剥奪され、ルイスが繰り上げで金メダルを獲得した。なお、ジョンソンの記録についてはこの大会のもののみにとどまらず、前年記録した9秒83も1989年に取り消された。", "title": "大会に関する問題・トラブル" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ボクシング競技のライトミドル級決勝で、アメリカのロイ・ジョーンズ・ジュニアが地元・韓国の朴時憲から2度のダウンを奪うなど相手を圧倒しながら2-3の不可解な判定で敗れた。記者会見でジョーンズ・ジュニアは「盗まれた金メダルを返してくれ!」と涙ながらに訴えたことから、「盗まれた金メダル事件」として知られるようになった。なお、この事件はアマチュアボクシングの採点システムが変更されるきっかけとなった。", "title": "大会に関する問題・トラブル" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ジョーンズ・ジュニアには、ヴァル・バーカー・トロフィーが与えられた。", "title": "大会に関する問題・トラブル" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この他、韓国の辺丁一とブルガリアのアレクサンダー・クリストフのバンタム級2回戦では4-1の判定でクリストフが勝利したが、この判定を不服とした韓国側が猛抗議を行い、照明の消された真っ暗なリング上では辺が1時間以上にも渡る抗議の座り込みを行った。", "title": "大会に関する問題・トラブル" } ]
1988年ソウルオリンピック(1988ねんソウルオリンピック)は、1988年9月17日から10月2日までの16日間にわたって韓国の首都・ソウルで開催されたオリンピック競技大会。一般的にソウルオリンピックと呼称されることもある。初めて選手宣誓を男女が行った大会でもあった。
{{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1988年ソウルオリンピック |英称・別称 = 第24回オリンピック競技大会<br/>Jeux de la XXIV<sup>e</sup> olympiade<br/>Games of the XXIV Olympiad<br/>제24회 하계 올림픽 경기 대회 |画像 = Fireworks at the closing ceremonies of the 1988 Summer Games.JPEG |ロゴ = |開催都市 = {{KOR}} [[ソウル特別市|ソウル]] |参加国・地域数 = 159 |参加人数 = 8,391人(男子6,197人、女子2,194人) |競技種目数 = 23競技237種目 |開会式 = [[1988年]][[9月17日]] |閉会式 = 1988年[[10月2日]] |開会宣言 = [[盧泰愚]] [[大統領 (大韓民国)|大統領]] |選手宣誓 = [[許載]]、[[孫米娜]] |審判宣誓 = [[李学来]] |最終聖火ランナー = [[林春愛]]、[[鄭善萬]]、[[金元卓]]、[[孫美廷]]、[[孫基禎]] |主競技場 = [[ソウル総合運動場|蚕室総合運動場]] |夏用前夏 = [[1984年ロサンゼルスオリンピック|1984年ロサンゼルス]] |夏用次夏 = [[1992年バルセロナオリンピック|1992年バルセロナ]] |夏用前冬 = [[1988年カルガリーオリンピック|1988年カルガリー]] |夏用次冬 = [[1992年アルベールビルオリンピック|1992年アルベールビル]] }} '''1988年ソウルオリンピック'''(1988ねんソウルオリンピック)は、[[1988年]]([[昭和]]63年)[[9月17日]]から[[10月2日]]までの16日間にわたって[[大韓民国|韓国]]の[[首都]]・[[ソウル特別市|ソウル]]で開催された[[夏季オリンピック|オリンピック競技大会]]。一般的に'''ソウルオリンピック'''と呼称されることもある。初めて選手宣誓を男女が行った大会でもあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202105250000762.html|title=東京五輪選手宣誓「ジェンダー平等の推進」男女2人で 主将&副主将担当か|publisher=日刊スポーツ|date=2021-05-26|accessdate=2021-05-26}}</ref>。 == 概要 == [[第二次世界大戦]]後に建国された[[新興国]]では初めて開催されたオリンピックであり、[[1964年東京オリンピック]]に続き[[アジア]]における2度目の夏季オリンピックでもある。[[朝鮮戦争]]で荒廃し、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]との分裂国家となった韓国が経済的に復興した象徴的な出来事として捉えられた。韓国では、開催年にちなんで'''88(パルパル)オリンピック'''とも呼ばれた。開催国韓国にとっては、同年2月に[[1987年大韓民国大統領選挙|16年ぶりとなる直接選挙]]で選ばれた[[盧泰愚]]大統領の下、韓国憲政史上最も民主的な[[第六共和国 (大韓民国)|第六共和国]]体制が発足したばかりであった他、オリンピック開催が民主化への大きなきっかけ([[民主化宣言|6.29民主化宣言]]を参照)となった。 前回の[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロス五輪]]では社会主義諸国([[東側諸国]])が、前々回の[[モスクワオリンピック|モスクワ五輪]]では自由主義諸国([[西側諸国]])がボイコットしたので、ソウルオリンピックは12年ぶりに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]の二大国が揃った白熱した試合となった。この後の[[東欧革命]]や[[ドイツ再統一]]等による[[冷戦]]終結と、[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連崩壊]]によってこの大会はソ連とほとんどの東側諸国にとって最後の参加となった。 モスクワ・ロサンゼルス両方をボイコットした[[イラン]]も12年ぶりに参加し、1976年の[[1976年モントリオールオリンピック|モントリオール五輪]]では[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の参加を巡って多くのアフリカ諸国や[[中華人民共和国|中国]]も[[中華民国]]([[台湾]])の参加を巡ってボイコットしていたため、ほぼ全世界の国と地域が参加したオリンピックとしては、[[1972年ミュンヘンオリンピック]]以来16年ぶりとなった。 一時、[[分断国家]]である[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)が共催を積極的に働きかけ、社会主義の国々もこれを支持していたが、最終的に合意に至らず、このことが[[大韓航空機爆破事件]]の遠因となった(後述)。 なお、ソウルオリンピックに参加しなかったのは、北朝鮮に加え、[[キューバ]]、[[アルバニア]]、[[セーシェル]]、[[エチオピア]]、[[ニカラグア]]、[[マダガスカル]]の7ヶ国のみである<ref>朴世直『ドキュメント ソウル五輪(上)』潮出版社、1991年、p96</ref>。 ソウルオリンピックの2年前には、[[1986年アジア競技大会|ソウルアジア競技大会]]がプレ大会として開催された。 == 開催地選考 == ソウルオリンピックの開催は[[1981年]][[9月30日]]、[[西ドイツ]](当時)の[[バーデン=バーデン]]で開かれた第84次[[国際オリンピック委員会総会]]で決定された。日本の[[名古屋市]]も開催を求めて立候補し、当初は名古屋優勢との見方が強かったが27対52でソウルに敗れた。名古屋市の招致活動については[[名古屋オリンピック構想]]も参考のこと。 {|class=wikitable |+1988年夏季五輪開催地投票 |- !都市 !国 | style="background:silver;"|'''第1ラウンド''' |- |[[ソウル特別市|ソウル]]||{{KOR}} |'''52''' |- |[[名古屋市|名古屋]]||{{JPN}} |27 |- |} == 北朝鮮との共同開催案 == === 協議まで === 開催地がソウルに決定した2か月後の1981年[[11月27日]]、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)は、[[ニューデリー]]で開催された[[アジア競技連盟]]評議会にに出席した北朝鮮代表が『個人的見解』としつつも「現時点での参加は無理だ」と、不参加の方向性を表明した<ref name="fujiwara1988-34">{{Harv|藤原|1988|p=34}}</ref>。 翌[[1982年]]初頭、韓国の[[全斗煥]]大統領は南北の[[平和攻勢]]を打ち出し、その一つが「南北体育会談」であり、具体的には北の同胞の五輪参観招待などであった<ref name="fujiwara1988-34"/>。同年4月、[[国際オリンピック委員会]](IOC)の[[フアン・アントニオ・サマランチ]]会長が韓国側に「北朝鮮が参加準備をしている」と発言し、11月には(韓国の)ソウル五輪組織委員長が北朝鮮を含むIOC加盟国の招請と南北統一チーム結成を呼び掛けていることを明らかにした<ref name="fujiwara1988-34"/>。 1984年3月30日、[[朝鮮民主主義人民共和国オリンピック委員会|北朝鮮オリンピック委員会]]から[[大韓体育会|大韓オリンピック委員会]]に対し、同年夏に開催予定の[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス五輪]]以降「南北統一チーム」を結成・参加する提案があった<ref name="fujiwara1988-34"/>。韓国側は、過去の経緯{{efn|1964年の[[1964年東京オリンピック|東京五輪]]時にも統一チーム構想があったが様々な面で折り合いがつかず実現に至らなかった<ref name="fujiwara1988-34"/>。1980年[[1980年モスクワオリンピック|モスクワ五輪]]時には北朝鮮側から、今次ロス五輪時には1981年時点で韓国側からそれぞれ提案したが、いずれも決裂した<ref name="fujiwara1988-34"/>。}}から即答を回避した<ref name="fujiwara1988-34"/>。[[4月2日]]、韓国側は前1983年10月の[[ラングーン事件]]を非難しつつも、北朝鮮側の提案を検討するための「南北体育会談」開催を提案した<ref>{{Harv|藤原|1988|pp=34-35}}</ref>。 === 第1回南北体育会談(1984年4月9日) === 1984年4月9日、[[板門店]]の[[中立国監視委員会]]会議室において、南北それぞれのオリンピック委員会の幹部が参加した<ref name="fujiwara1988-35">{{Harv|藤原|1988|p=35}}</ref>。しかし、韓国側がラングーン事件に加え、女優[[崔銀姫]]と元夫で映画監督の[[申相玉]]の拉致事件{{efn|1978年発生。この後、両名とも[[1986年]]に自力で米国に亡命し、1999年に韓国に帰国。それぞれ本人の項目及び[[北朝鮮による韓国人拉致問題]]等を参照。}}に言及したことで、南北代表間での非難応酬により次回日程も未定なまま決裂した<ref name="fujiwara1988-35"/>。 韓国側の提案は次の通りだった<ref name="fujiwara1988-35"/>。 #代表選抜試合を、ソウル・平壌で相互に開催する #選手・役員団は、IOC憲章に準じて協議し決定する #選手の訓練は南北の既存施設を活用し、必要があれば[[軍事境界線 (朝鮮半島)|非武装地帯]]に施設を建設する #経費は南北共同負担 #統一チーム団旗は、五輪表彰の下に英語で「KOREA」 #国歌に代わり、『[[アリラン]]』 #選手団の呼称は「KOREA」及び「大韓」 === 第2回南北体育会談(1984年4月30日) === 両者の協議により、第2回会談が開催されたが、前回同様に北朝鮮側の[[テロ行為]]や[[北朝鮮による韓国人拉致問題|韓国人拉致問題]]で対立し、具体的な協議は進まなかった<ref name="fujiwara1988-35"/>。 その後、北朝鮮側から韓国側提案に対する対案が次の通り示された<ref name="fujiwara1988-35"/>。 #統一チーム設置に先立ち、共同事務局を板門店に設置する #5月20日までに選手選抜を終える #国名の代替は[[ハングル]]表記の「高麗({{ko|고려}})」{{efn|1980年に北朝鮮最高指導者[[金日成]]主席が、朝鮮半島の赤化統一構想として[[高麗民主連邦共和国]]を韓国に提唱している。}}、国旗の代替は朝鮮半島の地図、国歌の代替は『アリラン』 #5月3日から{{仮リンク|板門店ホットライン|en|Seoul–Pyongyang hotline}}の再開 #体育会談は7~10日ごとに開催する === 南北の対立、体育会談中止 === 韓国[[外務部 (大韓民国)|外務部]]は、体育会談の前提としてラングーン事件への措置が必要であるという見解を表明<ref name="fujiwara1988-35"/>。北朝鮮側は「挑発」に応じられないとし、6月に予定されていた会談は中止となった<ref name="fujiwara1988-35"/>。さらに8月に至り、北朝鮮側は再開を拒否するが、10月及び11月に韓国側から再開を呼び掛けている<ref name="fujiwara1988-36">{{Harv|藤原|1988|p=36}}</ref>。この間、北朝鮮は6月2日に、ロス五輪ボイコットを表明し、これを受けて韓国も単独参加を決定している<ref name="fujiwara1988-36"/>。同年夏に、ロス五輪は社会主義国のボイコットを受けつつ、開催された。 10月29日、韓国側は統一チーム結成を前提に、ソウル五輪の北朝鮮での一部共催について協議する旨を明らかにした<ref name="fujiwara1988-36"/>。11月18日には英『[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]』紙で北朝鮮側から南北共催を非公式に打診していると報じられたが、韓国側はこれを否定した<ref name="fujiwara1988-36"/>。同月27日、韓国側は共催や統一チーム結成の難易度が高いことを示し、仮にIOCが共催を認めても、北朝鮮での競技実施を承認する国際競技連盟を探す必要があることから、現実的に困難であることから消極的な姿勢を示した<ref name="fujiwara1988-36"/>。12月10日、[[平壌放送]](国営放送)は、[[朝鮮民主主義人民共和国の首相|北朝鮮首相(内閣総理)]]の談話として、ソウル五輪及び朝鮮半島での五輪開催に反対を伝えた<ref name="fujiwara1988-36"/>。 12月14日、韓国側は、分散解散の検討意思があることを表明した<ref name="fujiwara1988-36"/>。しかし12月16日、北朝鮮オリンピック委員会は、[[在韓米軍]]の駐留や[[国家保安法 (大韓民国)|国家保安法]]{{efn|1980年に[[反共法]]と統合。}}により共産圏からの参加選手・役員の安全が保障されないことを理由に、サマランチIOC会長にソウル五輪反対の書簡を送った<ref>{{Harv|藤原|1988|pp=36-37}}</ref>。 === 一転、北朝鮮からの共催提案 === 自由主義陣営に属したために社会主義諸国との国交が無かった韓国で開催されるソウル五輪でも、社会主義諸国がボイコットする可能性が懸念された。そのため、韓国と北朝鮮がオリンピックを共催すれば、社会主義諸国が参加しやすくなるとの発想が生まれた。この他、[[金正日]]の後継者体制強化のため経済を立て直す必要があり、南北の緊張緩和による軍事費削減や、イメージアップによる西側諸国からの経済援助を期待する等の国内事情が背景にあった<ref name="fujiwara1988-44">{{Harv|藤原|1988|p=44}}</ref>。 1985年7月30日、北朝鮮副首相の新聞声明として、ボイコットを切り札に「ソウル五輪開催が「強行」されれば、[[社会主義国]]・[[非同盟運動|非同盟諸国]]・[[第三世界]]諸国が不参加になることを理由に共催が賢明である」と表明した<ref name="fujiwara1988-37">{{Harv|藤原|1988|p=37}}</ref>。その上で次のような提案をした<ref name="fujiwara1988-37"/>。 #第24回オリンピックを南北共催とし、南北統一チームとして出場 #「朝鮮オリンピック大会」「朝鮮・平壌―ソウルオリンピック大会」等の名称 #競技を半数ずつ開催(23競技中、12競技を韓国、11競技を北朝鮮) #開閉会式は、割り当てられた種目ごと、平壌・ソウルでそれぞれ開催 韓国側は、二つの国内オリンピック委員会にまたがる開催ができないことから、直ちに拒否の姿勢を示した<ref name="fujiwara1988-37"/>。{{仮リンク|李永鎬 (韓国の政治家)|label=李永鎬|ko|이영호 (1935년)}}体育相は、北朝鮮側の五輪の政治利用を目的とした態度の豹変を非難し、8月2日と22日に共催を拒否している<ref name="fujiwara1988-37"/>。しかし、韓国オリンピック委員会や[[李源京]]外相は共催に含みを持たせ、北朝鮮側も競技数を減らすことに水面下で同意しつつあった<ref name="fujiwara1988-37"/>。 === 共催協議の空転、決裂 === 1985年10月、IOCの仲裁により、[[ローザンヌ]]で「第1回南北スポーツ会談」が開催されたが、南北それぞれの代表者がIOC幹部と個別会談し、最終日に三者合同討議が行われた<ref>{{Harv|藤原|1988|pp=38-39}}</ref>。討議では北朝鮮側が共催を主張したのに対し、韓国側は主催権を譲らず、決裂した<ref name="fujiwara1988-38">{{Harv|藤原|1988|p=38}}</ref>。翌1986年1月に、再度「第2回南北スポーツ会談」が開催されたが、進展は無かった<ref name="fujiwara1988-39">{{Harv|藤原|1988|p=39}}</ref>。 1986年4月24日、IOC幹部は北朝鮮側が開催競技数を減らすことを容認していることを明らかにすると、同年5月31日に{{仮リンク|朴世直|en|Park Seh-jik}}体育相が、ソウル五輪やアジア競技大会への参加を条件に、共催を認めると発言した<ref name="fujiwara1988-37"/>。同年6月に、再度「第3回南北スポーツ会談」が開催され、次のような提案が行われた<ref name="fujiwara1988-40">{{Harv|藤原|1988|p=40}}</ref>。 #卓球・アーチェリーの2種目の運営を北朝鮮が行う #一部の予選(ロードレース、サッカー)を北朝鮮で行う IOCは双方に政治決断を迫ったが、北朝鮮側は受け入れなかった<ref name="fujiwara1988-39"/>。これ以降、翌夏までの南北間の交渉は、北朝鮮側の要求する競技数、種目、場所などが二転三転し、ついに合意に至ることは無かった<ref name="fujiwara1988-38"/>。また、北朝鮮は1986年9~10月の[[1986年アジア競技大会|ソウルアジア競技大会]]に不参加だった。 1987年7月に、「第4回南北スポーツ会談」が行われたが、競技数・種目で合意を見ず、また北朝鮮側が「朝鮮オリンピック」の名称や、開閉会式のソウル・平壌双方での開催の主張をついに譲らなかった<ref name="fujiwara1988-40"/>。'''そもそも、開催権を得たのはソウルであり、北朝鮮側の要求は不当そのものだった'''が、国際的認知度を高めたい韓国、及び、2回連続多数のボイコット国を出したIOCにとって、社会主義国を含む円滑な開催が必要であることから、北朝鮮側が最後の手段として「社会主義国のボイコット」を使えば応じざるを得なかった<ref name="fujiwara1988-40"/>。 同年9月17日、IOCは開催地を「ソウル」、すなわち単独開催として加盟国各国に招請状を送り、ここに「南北共催」は否定された<ref name="fujiwara1988-40"/>。ただし、サマランチ会長名の付属文書で、「分散開催」には余地を残した<ref name="fujiwara1988-40"/>。 === 大韓航空機爆破事件とボイコット === {{seealso|大韓航空機爆破事件}} 前述の共催協議に際し、[[ソビエト連邦]]、[[ドイツ民主共和国]](東独)、[[中華人民共和国]]が南北共催を支持し、中でも[[キューバ共和国]]は「韓国単独開催なら南北分断が促進される」と単独開催の場合は不参加とすることを明言していた<ref name="fujiwara1988-41">{{Harv|藤原|1988|p=41}}</ref>。共催支持は、1985年11月時点で、13か国に及んだ<ref name="fujiwara1988-41"/>。日本の[[板橋区議会]]([[東京都]])も、南北共催(及び南北の競技観覧と[[離散家族]]再会を含む)の請願を採択した<ref name="fujiwara1988-41"/>。しかし、1987年11月時点では、全政権での全方位外交が功を奏しており、中国、ソ連、東欧諸国は参加するか否か明確に表明していなかった<ref name="fujiwara1988-43">{{Harv|藤原|1988|p=43}}</ref>。 ところが1987年10月7日に[[金正日]]が自ら下した指令により、同年11月29日に[[大韓航空機爆破事件]]が発生し、115名が犠牲となった。北朝鮮はこの事件への国家的関与を否定しているものの、社会主義国を含む国際的な批判を受けることとなった。また、旗色を鮮明にしていなかった各国が相次いでオリンピック参加を表明した。 最終的には共催交渉は決裂し、北朝鮮側の拒絶によって、交渉自体が打ち切られた<ref>前掲『ドキュメント ソウル五輪(上)』p68~80</ref><ref>金雲龍『偉大なるオリンピック』ベースボールマガジン社、1989年、p70~85</ref>。ボイコットをしたのは、最終的に、先述の通り7か国のみに留まった。 2019年3月31日、当時の機密扱いだった外交文書が公開され、当時の[[フアン・アントニオ・サマランチ]]IOC会長が、北朝鮮が受け入れないと予想した上で東側諸国に大会参加の口実を与えるために、北朝鮮に南北分散開催について提案したことが改めて確認された<ref>{{citenews |url = https://www.sankei.com/article/20190331-NK633WEDARLTLEGVHKILIV76CY/|title = ソウル五輪でIOC会長は南北開催提案…外交文書|publisher = 産経新聞|date = 2019-03-31|accessdate = 2020-10-06}}</ref>。 == 大会マスコット == [[File:XX1088 - Seoul Paralympic Games Seoul City Shots - 4 of 12 - Scan.jpg|thumb|200px|1988年10月撮影、ホドリのモニュメント]] * ホドリ(虎の子がモチーフ:男の子) * ホスニ(同:女の子) ちなみに、[[こぐまのミーシャ]]や[[イーグルサム]]と同様、ホドリにも『'''走れホドリ'''』という[[テレビアニメ]]が存在し韓国で製作され、[[文化放送 (韓国)|文化放送(MBC)]]の系列で放送された。ただし前述の2番組とは異なり、平日の10分枠であった。 == 公式主題歌(テーマソング) == *「[[ハンド・イン・ハンド|Hand in Hand]]」 英語版<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=prIYT4x4H0k 손에 손잡고] YouTube、2018年12月6日閲覧</ref>と{{ISO639言語名|ko}}版<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=9tRtueWf68c Koreana - Hand In Hand (Korean version "Son-e Son Japgo) - Official Olympic Song, Seoul, 1988.] YouTube、2018年12月10日閲覧</ref> を、男女混成コーラスグループ「[[コリアナ]]」(日本盤での表記はコリアーナ)が歌唱した。 == ハイライト == [[テニス]]と[[卓球]]が正式競技として採用され、特にテニスは1924年の[[1924年パリオリンピック|パリ五輪]]以来64年ぶりの復活となった。女子[[柔道]]、[[野球]]、[[テコンドー]]が[[オリンピック公開競技|公開競技]]として[[近代オリンピック|オリンピック]]で開催された。女子柔道とテコンドーは初開催、野球は1984年の[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロス五輪]]に続いて2度目の開催。また女子柔道、野球は1992年の[[1992年バルセロナオリンピック|バルセロナ五輪]]、テコンドーは2000年の[[2000年シドニーオリンピック|シドニー五輪]]から正式種目となった。 その後の政治変動のため、ソ連および[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]が参加した最後のオリンピックとなった{{efn|東独は[[ドイツ再統一|西独との再統一]]を果たし、ソ連は1992年の[[1992年アルベールビルオリンピック|アルベールビル五輪(冬季)]]およびバルセロナ五輪(夏季)では、[[バルト三国]]を除く12国が[[独立国家共同体|独立国家共同体(CISもしくはEUN)]]として参加することとなる。}} 陸上競技男子100mでは[[ベン・ジョンソン (陸上選手)|ベン・ジョンソン]]のドーピングによる金メダル剥奪が発生し、本大会では[[#ドーピング問題|ドーピング問題]]に本格的に注目の集まった初の大会ともいえる。また陸上競技で女子短距離三冠を成し遂げた[[フローレンス・グリフィス=ジョイナー]]は、当時画期的な、鮮やかなメイクやマニキュアで話題となった。 == テレビ放映権の影響 == 陸上競技の男子100m決勝は9月24日の午後1時30分に設定された。1987~88年の韓国ではサマータイムが採用されていたため、実質的には午後0時30分である。これは、視聴率が見込めるアメリカの[[プライムタイム]]に決勝を合わせるための措置であり、この大会からアメリカ国内における夏季オリンピックの独占放映権を獲得したアメリカのテレビ局・[[NBC]]が多額の放映権料を支払う見返りだった<ref>小川勝『オリンピックと商業主義』集英社新書、2012年、p146~153</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://jp.wsj.com/news/articles/sb10001424052702304155604579549012624584136|title=NBCユニバーサル、32年までの五輪放映権を獲得|accessdate=2021-02-11|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160823001046/https://jp.wsj.com/news/articles/sb10001424052702304155604579549012624584136|archivedate=2016-08-23|date=2014-05-08|website=ウォール・ストリート・ジャーナル}}</ref>。その後のオリンピックでも、アメリカとの時差を考慮した競技時間の設定は、たびたび起きている。 == 名残 == 現在、[[ソウルオリンピック主競技場]]が残るほか[[ソウル交通公社4号線]][[東大門歴史文化公園駅]]のプラットホームでは当時の壁画を見ることができる。なお、[[松坡区]]の選手村のあった地区は大会翌年の[[1989年]]に「五輪洞(オリュンドン、{{lang|ko|오륜동}})」という地名が制定された。 [[ソウル地下鉄]]やその周辺で付けられている[[駅ナンバリング|駅番号]]も、同時期から行われたものである。 == 競技会場 == *[[ソウル総合運動場|蚕室総合運動場]] **ソウルオリンピック主競技場(開・閉会式、陸上競技、馬術、サッカー決勝) **蚕室第1水泳場(飛込、水球、競泳、近代五種(水泳)) **[[蚕室体育館]](バスケットボール、バレーボール) **[[蚕室学生体育館]](ボクシング) **[[蚕室野球場]](野球) *[[オリンピック公園 (ソウル特別市)|オリンピック公園]] **[[蚕室競輪場]](自転車競技トラックレース) **体操競技場 **レスリング競技場 **フェンシング競技場 **オリンピックテニスセンター **オリンピックホール **夢村土城(近代五種ランニング) *[[ソウル競馬場]](馬術、近代五種馬術) *[[渼沙里漕艇競技場]](カヌー、ボート) *セマウルスポーツホール *[[漢陽大学校]]体育館 *[[奨忠体育館]] *[[ソウル大学校]]体育館 *ロイヤルボウリングセンター *[[東大門運動場]] *花郎アーチェリー場 *テソン国際射撃場 *[[尚武体育館]] *[[大田ハンバッ運動場野球場]] *[[大邱市民運動場]] *釜山[[九德運動場]] *[[光州無等総合競技場]] *[[水原総合運動場]]体育館 *[[城南総合運動場]] *[[釜山ヨットセンター]] == 実施競技 == {{col| *{{GamesSport|陸上|Format=o}} *[[水泳]] **{{GamesSport|競泳|Format=o}} **{{GamesSport|飛込|Format=o}} **{{GamesSport|水球|Format=o}} **{{GamesSport|シンクロナイズドスイミング|Format=o}} *{{GamesSport|サッカー|Format=o}} *{{GamesSport|テニス|Format=o}} *{{GamesSport|ボート|Format=o}} *{{GamesSport|ホッケー|Format=o}} *{{GamesSport|ボクシング|Format=o}} | *{{GamesSport|バレーボール|Format=o}} *{{GamesSport|体操|Format=o}} *{{GamesSport|バスケットボール|Format=o}} *{{GamesSport|レスリング|Format=o}} *{{GamesSport|セーリング|Format=o}} *{{GamesSport|ウエイトリフティング|Format=o}} *{{GamesSport|ハンドボール|Format=o}} *{{GamesSport|自転車|Format=o}} *{{GamesSport|卓球|Format=o}} *{{GamesSport|馬術|Format=o}} | *{{GamesSport|フェンシング|Format=o}} *{{GamesSport|柔道|Format=o}} *{{GamesSport|射撃|Format=o}} *{{GamesSport|近代五種|Format=o}} *{{GamesSport|カヌー|Format=o}} *{{GamesSport|アーチェリー|Format=o}} *{{GamesSport|野球|Format=o}}(公開競技)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/olympics/2020/game/baseball/|title=東京オリンピック2020|野球|競技紹介|publisher=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-12-31}}</ref> *{{GamesSport|テコンドー|Format=o}}(公開競技) *{{GamesSport|ボウリング|Format=o}}(公開競技) *{{GamesSport|バドミントン|Format=o}}(公開競技) }} == 各国・地域の獲得メダル数 == [[ファイル:1988 Summer Olympic games countries.png|right|250px|thumb|参加国一覧]] {{main|1988年ソウルオリンピックのメダル受賞数一覧}} {| {{RankedMedalTable}} |- | 1 || style="text-align:left" | {{flagIOC|URS|1988夏季}} || 55 || 31 || 46 || 132 |- | 2 || style="text-align:left" | {{flagIOC|GDR|1988夏季}} || 37 || 35 || 30 || 102 |- | 3 || style="text-align:left" | {{flagIOC|USA|1988夏季}} || 36 || 31 || 27 || 94 |- style="background-color:#ccccff" | 4 || style="text-align:left" | {{flagIOC|KOR|1988夏季}}(開催国) || 12 || 10 || 11 || 33 |- | 5 || style="text-align:left" | {{flagIOC|FRG|1988夏季}} || 11 || 14 || 15 || 40 |- | 6 || style="text-align:left" | {{flagIOC|HUN|1988夏季}} || 11 || 6 || 6 || 23 |- | 7 || style="text-align:left" | {{flagIOC|BUL|1988夏季}} || 10 || 12 || 13 || 35 |- | 8 || style="text-align:left" | {{flagIOC|ROU|1988夏季}} || 7 || 11 || 6 || 24 |- | 9 || style="text-align:left" | {{flagIOC|FRA|1988夏季}} || 6 || 4 || 6 || 16 |- | 10 || style="text-align:left" | {{flagIOC|ITA|1988夏季}} || 6 || 4 || 4 || 14 |} == 主なメダリスト == * {{Gold medal}} **[[小林孝至]](日本、レスリングフリースタイル48kg級) **[[佐藤満 (レスリング選手)|佐藤満]](日本、レスリングフリースタイル52kg級) **[[斉藤仁]](日本、柔道男子95kg超級) **[[鈴木大地]](日本、競泳男子100m背泳ぎ) **[[カール・ルイス]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[陸上競技]]男子[[100メートル競走|100m]]) **[[ジェリンド・ボルディン]]([[イタリア]]、陸上競技男子[[マラソン]]) ** カール・ルイス(アメリカ、陸上競技男子[[走幅跳]]) **[[セルゲイ・ブブカ]]([[ソビエト連邦]]、陸上競技男子[[棒高跳]]) **[[フローレンス・ジョイナー]](アメリカ、陸上競技女子100m) ** フローレンス・ジョイナー(アメリカ、陸上競技女子[[200メートル競走|200m]]) **[[ロサ・モタ]]([[ポルトガル]]、陸上競技女子マラソン) ** アメリカ(陸上競技女子4×100m[[リレー走|リレー]]) **[[ジャッキー・ジョイナー・カーシー]](アメリカ、陸上競技女子走幅跳) ** ジャッキー・ジョイナー・カーシー(アメリカ、陸上競技女子[[七種競技]]) **[[アンソニー・ネスティ]]([[スリナム]]、[[競泳]]男子100m[[バタフライ]]) **[[マット・ビオンディ]](アメリカ、[[競泳]]男子50m[[自由形]]) ** マット・ビオンディ(アメリカ、競泳男子100m自由形) **[[ウラジミール・サルニコフ]](ソビエト連邦、競泳男子1500m自由形) **[[ミヒャエル・グロス]]([[西ドイツ]]、競泳男子200m[[バタフライ]]) **[[タマス・ダルニュイ]]([[ハンガリー]]、競泳男子200m[[個人メドレー]]) ** タマス・ダルニュイ(ハンガリー、競泳男子400m個人メドレー) ** アメリカ(競泳男子4×100mリレー) ** アメリカ(競泳男子4×200mリレー) ** アメリカ(競泳男子4×100m[[メドレーリレー]]) **[[クリスティン・オットー]]([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、競泳女子50m自由形) ** クリスティン・オットー(東ドイツ、競泳女子100m自由形) **[[ジャネット・エバンス]](アメリカ、競泳女子400m自由形) ** ジャネット・エバンス(アメリカ、競泳女子800m自由形) ** ジャネット・エバンス(アメリカ、競泳女子400m個人メドレー) ** クリスティン・オットー(東ドイツ、競泳女子100m[[バタフライ]]) ** クリスティン・オットー(東ドイツ、競泳女子100m[[背泳ぎ]]) **[[クリスティーナ・エゲルセギ]](ハンガリー、競泳女子200m背泳ぎ) ** 東ドイツ(競泳女子4×100mリレー) ** 東ドイツ(競泳女子4×100mメドレーリレー) **[[グレゴリー・ローガニス]](アメリカ、[[飛込競技|飛び込み]]男子3m[[飛板飛び込み]]) ** グレゴリー・ローガニス(アメリカ、飛び込み男子10m[[高飛び込み]]) **[[シュテフィ・グラフ]](西ドイツ、[[テニス]]女子シングルス) **[[アンドリュー・ホームズ]]、[[スティーブン・レッドグレーブ]]([[イギリス]]、[[ボート競技]]男子かじなしペア) **[[オーストラリア]]([[ホッケー]]女子) ** アメリカ([[バレーボール]]男子) **[[アレクサンドル・カレリン]](ソビエト連邦、[[アマチュアレスリング|レスリング]][[グレコローマンスタイル]]男子130kg級) **[[ナイム・スレイマノグル]]([[トルコ]]、[[ウエイトリフティング]]男子60kg級) **[[アレクサンドル・クルロビッチ]](ソビエト連邦、ウエイトリフティング男子110kg超級) ** 西ドイツ([[馬術]][[馬場馬術]]団体) **[[ビルギット・フィッシャー]]、[[アンケ・ノトナゲル]]([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、[[カヌー]]女子[[カヤック]]ダブル500m) ** 東ドイツ(カヌー女子カヤックフォア500m) **[[ウラジミール・アルチョーモフ]]([[ソビエト連邦]]、男子体操[[個人総合]]) **[[ドミトリイ・ビロゼロチェフ]]([[ソビエト連邦]]、男子体操[[つり輪]]) **[[ドミトリイ・ビロゼロチェフ]]([[ソビエト連邦]]、男子体操[[あん馬]]) **[[楼雲]]([[中国]]、男子[[体操]][[跳馬]]) **[[エレーナ・シュシュノワ]]([[ソビエト連邦]]、女子体操[[個人総合]]) **[[レノックス・ルイス]](カナダ、ボクシング男子スーパーヘビー級) * {{Silver medal}} ** [[福島實智子|長谷川智子]](日本、ライフル射撃女子スポーツピストル) ** [[宮原厚次]](日本、レスリンググレコローマン52kg級) ** [[太田章]](日本、レスリングフリースタイル90kg級) ** カール・ルイス(アメリカ、陸上競技男子200m) ** [[ピーター・コエチ]](ケニア、陸上競技男子[[3000メートル障害|3000m障害]]) ** [[ヤン・ゼレズニー]]([[チェコスロバキア]]、陸上競技男子[[やり投]]) ** [[ロディオン・ガタウリン]](ソビエト連邦、陸上競技男子[[棒高跳]]) ** [[ダグラス・ワキウリ]]([[ケニア]]、[[男子マラソン]]) ** アメリカ(陸上競技女子4×400mリレー) ** マット・ビオンディ(アメリカ、競泳男子100mバタフライ) ** クリスティーナ・エゲルセギ(ハンガリー、競泳女子100m背泳ぎ) ** [[リディック・ボウ]](アメリカ、ボクシング男子スーパーヘビー級) ** [[ロイ・ジョーンズ・ジュニア]](アメリカ、ボクシング男子ライトミドル級) ** [[ジョージ・スコット (ボクサー)|ジョージ・スコット]](スウェーデン、ボクシング男子ライト級) ** ビルギット・フィッシャー(東ドイツ、カヌー女子カヤックシングル500m) * {{Bronze medal}} ** [[細川伸二]](日本、柔道男子60kg以下級) ** [[山本洋祐]](日本、柔道男子65kg以下級) ** [[大迫明伸]](日本、柔道男子86kg以下級) ** [[小谷実可子]](日本、水泳シンクロナイズドスイミングソロ) ** [[小谷実可子]]・[[田中ウルヴェ京|田中京]](日本、水泳シンクロナイズドスイミングデュエット) ** [[池谷幸雄]](日本、体操男子床運動) ** [[池谷幸雄]]・[[小西裕之]]・[[佐藤寿治]]・[[西川大輔]]・[[水島宏一]]・[[山田隆弘]](日本、体操男子団体総合) ** [[エドウィン・モーゼス]](アメリカ、陸上競技男子400m[[ハードル]]) ** [[マーク・ローランド]](イギリス、陸上競技男子3000m障害) ** [[ルドルフ・ポバルニツィン]]([[ソビエト連邦]]、陸上競技男子[[走高跳]]) ** [[ロルフ・ダンネベルク]](西ドイツ、陸上競技男子[[円盤投]]) ** マット・ビオンディ(アメリカ、競泳男子200m自由形) ** 西ドイツ(競泳男子4×200mリレー) ** [[メアリー・マーハー]](アメリカ、競泳女子200mバタフライ) ** シュテフィ・グラフ、[[クラウディア・コーデ=キルシュ]](西ドイツ、テニス女子ダブルス) ** スティーブン・レッドグレーブ、[[パトリック・スウィーニー]](イギリス、ボート男子かじつきペア) **[[ドミトリイ・ビロゼロチェフ]](ソビエト連邦、男子体操[[個人総合]]) == 大会に関する問題・トラブル == === 聖火台での鳩焼き疑惑 === [[ファイル:Seoul Olympic torch.jpg|right|thumb|開会式の聖火点灯。]] 開会式では、飛ばした[[鳩]]のうち何羽かが[[オリンピック聖火|聖火]]台の上に止まったままで点火の時まで飛ばずにいたので、「焼け死んだのではないか」との指摘が相次いだ。これについて、ソウルオリンピック組織委員長を務めた{{仮リンク|朴世直|ko|박세직}}(パク・セジク)が「幾人かに確認してみた。すると大方の見方は、点火の直前に飛び去ったということであった。ある実務者は、点火の直前に聖火用の高圧ガスが強く噴出するため、鳩はとても止まっていられないと説明してくれた」と説明した<ref>前掲『ドキュメント ソウル五輪(上)』p211~214</ref>。一部報道では、鳩が聖火台の炎で焼け死んだことは事実とされ、「[[動物愛護団体]]が抗議した」と報じられている<ref name="mainichi20210319">{{Cite newspaper|url=https://mainichi.jp/articles/20210319/k00/00m/050/004000c|title=口パク、ハト焼死… 物議や話題呼んだ五輪開会式の演出あれこれ|newspaper=毎日新聞|date=2021-3-19|accessdate=2021-3-19}}</ref>。アメリカの[[タイム (雑誌)|タイム]]誌は2012年7月の時点において、本大会の開会式を全世界の目の前で多くの鳥が焼かれたことを理由に「史上最悪の開会式〔複数ある〕」と評してその筆頭に挙げている<ref name="time20120727">{{Cite magazine|url=https://olympics.time.com/2012/07/27/the-worst-ever-opening-ceremonies/slide/all/|title=The Worst Ever Opening Ceremonies|publisher=Time|date=2012-7-27|accessdate=2021-3-19}}</ref>。 1994年の[[1994年リレハンメルオリンピック|リレハンメルオリンピック]]からは、本物の鳩ではなく映像、風船、着ぐるみ、人文字、切り紙等で鳩を表現することが恒例となった。 === ドーピング問題 === {{Main|ベン・ジョンソン (陸上選手)}} 陸上競技男子100mで、[[カナダ]]の[[ベン・ジョンソン (陸上選手)|ベン・ジョンソン]]が[[1987年世界陸上競技選手権大会|前年の世界陸上ローマ大会]]で自ら出した当時の世界最高記録9秒83を100分の0.04秒短縮する9秒79の新記録で9秒92だった2位のアメリカの[[カール・ルイス]]を数m引き離し優勝した。だが、レース後の[[ドーピング]]検査で[[アナボリックステロイド|ステロイド]]系の筋肉増強剤である[[スタノゾロール]]の陽性反応が出たことにより、ジョンソンは金メダルを剥奪され、ルイスが繰り上げで金メダルを獲得した。なお、ジョンソンの記録についてはこの大会のもののみにとどまらず、前年記録した9秒83も1989年に取り消された。 === ボクシング問題 === [[ボクシング]]競技の[[ライトミドル級]]決勝で、アメリカの[[ロイ・ジョーンズ・ジュニア]]が地元・韓国の[[朴時憲]]から2度のダウンを奪うなど相手を圧倒しながら2-3の不可解な判定で敗れた<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1988/10/07/opinion/in-losing-a-boxer-won.html |title=In Losing, a Boxer Won |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |author=David Mamet |date=1988-10-07 |accessdate=2013-12-16 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1997/09/26/sports/sports-of-the-times-nice-gesture-substitutes-for-justice.html |title=Sports of The Times; Nice Gesture Substitutes For Justice |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |author=GEORGE VECSEY |date=1997-09-26 |accessdate=2013-12-16 }}</ref>。記者会見でジョーンズ・ジュニアは「盗まれた[[金メダル]]を返してくれ!」と涙ながらに訴えたことから、「盗まれた金メダル事件」として知られるようになった。なお、この事件はアマチュアボクシングの採点システムが変更されるきっかけとなった。 ジョーンズ・ジュニアには、[[ヴァル・バーカー・トロフィー]]が与えられた。 この他、韓国の[[辺丁一]]と[[ブルガリア]]のアレクサンダー・クリストフの[[バンタム級]]2回戦では4-1の判定でクリストフが勝利したが、この判定を不服とした韓国側が猛抗議を行い、照明の消された真っ暗なリング上では辺が1時間以上にも渡る抗議の座り込みを行った<ref>{{cite web|url=http://keepingscore.blogs.time.com/2010/02/24/a-brief-history-of-olympic-sore-losers/#slide/byun-jong-il-south-korea/?&_suid=138723362432805141496339756877 |title=A Brief History of Olympic Sore Losers |publisher=タイムズ |date=2012-03-09 |accessdate=2013-12-16 }}</ref>。 == 登場する作品 == * [[恋のスケッチ〜応答せよ1988〜]] ** 2015年~2016年に放送された[[tvN]]の[[テレビドラマ]]。時代背景を再現するためだけにIOCの利用了承を獲ているので、[[フィクション]]でありながら劇中にソウルオリンピックそのものや大会マスコットのホドリまで反映されている。 == 参考文献 == *{{Cite journal|author=藤原健固|last=藤原|first=健固 |title=ソウル五輪の "かたち" : 南北共催問題 |journal=中京大学体育学論叢|volume = 39|issue = 25 |pages=31-46|doi=|issn=02887339 |url=http://id.nii.ac.jp/1217/00009174/|date=1988-03-15|publisher=[[中京大学]]|language=ja|ref= 藤原 1988}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{commonscat|1988 Summer Olympics}} * [[1988年ソウルオリンピックの日本選手団]] * [[ソウルパラリンピック]] * [[名古屋オリンピック構想]](誘致に失敗した「NAGOYA 1988」の事例) * [[プロジェクト:オリンピック]] * [[1986年アジア競技大会]](リハーサル大会) * [[88オリンピック高速道路]] * [[オリンピック大路]](ソウル特別市道88号線) * [[オリンピック大橋]] * [[ヒュンダイ・グレンジャー]]/[[三菱・デボネア]](ソウルオリンピックに伴うVIP送迎用の国産高級車として初代グレンジャーが誕生、及びそれによりデボネアのフルチェンジが実現した経緯がある) * [[近代オリンピック#式典]](同大会での鳩問題について) * [[第13回世界青年学生祭典]] (ソウルオリンピックに対抗して、1989年に北朝鮮が平壌で開催した) * {{仮リンク|ワン・モーメント・イン・タイム (曲)|en|One Moment in Time}}-[[ホイットニー・ヒューストン]]の楽曲。ソウルオリンピックの[[サウンドトラック]]の[[シングル]]としてリリースされた。 == 外部リンク == * [https://www.olympic.org/seoul-1988 IOCソウル大会1988年]{{en icon}} * [https://www.joc.or.jp/column/olympic/history/ JOCオリンピックの歴史]{{ja icon}} * {{コトバンク|ソウル・オリンピック競技大会}} ;ニュース報道 * [https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#19880917 KBS9時ニュース](1988年9月17日){{ko icon|kr=1}} * [https://imnews.imbc.com/replay/1988/nwdesk/2213242_29512.html MBCニュースデスク](1988年9月17日){{ko icon|kr=1}} * [https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#19881002 KBS9時ニュース](1988年10月2日){{ko icon|kr=1}} * [https://imnews.imbc.com/replay/1988/nwdesk/2219641_29512.html MBCニュースデスク](1988年10月2日){{ko icon|kr=1}} {{オリンピック}} {{1988年ソウルオリンピックの実施競技}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1988ねんそうるおりんひつく}} [[Category:1988年ソウルオリンピック|*]] [[Category:夏季オリンピックの歴代大会|1988]] [[Category:朝鮮半島の南北関係]]
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LabVIEW
LabVIEWはグラフィック型言語によってプログラミングすることのできる開発環境であり、主に計測用に用いられる。Laboratory Virtual Instrumentation Engineering Workbenchを略したもの。 LabVIEW では、通常の言語でいう関数にあたるVI(Virtual Instruments)を表すアイコンをウィンドウ平面上に配置し、VIとVIの間を配線することによってデータフローを表す。for文やif文などのプログラム構造は長方形の枠を描画して構成する。このように作成されたプログラムは、単独で実行させることも、新たなVIとして他のプログラム上で再利用することも可能である。 各 VI の実行順序はデータフローによって決定される。すなわち、各 VI を実行するために必要な入力データがそろった時点で実行される。互いに依存しないデータフローがあり、かつ、それが適切である場合、LabVIEW 実行システムは、それらのデータフローを個別のスレッドで実行しようとする。たとえば、データを共有しない 2 つの While ループがある場合、それらのループは別個のスレッドで実行される。マルチコア CPU 上で動作する Windows XP や Vista は複数スレッドが渡された際に、各スレッドを別々のコアで実行しようとするので、各 While ループが別個のコアで実行されることが期待できる。 LabVIEW は、機能や入出力関係、データフローが直感的に把握できる点でテキスト型言語に対し優れている。また、データフローによって自動的に並列処理が実行されることも、大きな違いである。一方、静的型付けする言語であるため、実行時に型が決定するようなコードを記述することは難しい。また、開発環境と実行システムが分離できないため、C 言語などのようなマクロ定義ができない。
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LabVIEWはグラフィック型言語によってプログラミングすることのできる開発環境であり、主に計測用に用いられる。Laboratory Virtual Instrumentation Engineering Workbenchを略したもの。 LabVIEW では、通常の言語でいう関数にあたるVIを表すアイコンをウィンドウ平面上に配置し、VIとVIの間を配線することによってデータフローを表す。for文やif文などのプログラム構造は長方形の枠を描画して構成する。このように作成されたプログラムは、単独で実行させることも、新たなVIとして他のプログラム上で再利用することも可能である。 各 VI の実行順序はデータフローによって決定される。すなわち、各 VI を実行するために必要な入力データがそろった時点で実行される。互いに依存しないデータフローがあり、かつ、それが適切である場合、LabVIEW 実行システムは、それらのデータフローを個別のスレッドで実行しようとする。たとえば、データを共有しない 2 つの While ループがある場合、それらのループは別個のスレッドで実行される。マルチコア CPU 上で動作する Windows XP や Vista は複数スレッドが渡された際に、各スレッドを別々のコアで実行しようとするので、各 While ループが別個のコアで実行されることが期待できる。 LabVIEW は、機能や入出力関係、データフローが直感的に把握できる点でテキスト型言語に対し優れている。また、データフローによって自動的に並列処理が実行されることも、大きな違いである。一方、静的型付けする言語であるため、実行時に型が決定するようなコードを記述することは難しい。また、開発環境と実行システムが分離できないため、C 言語などのようなマクロ定義ができない。
{{Infobox Software | 名称 = LabVIEW | ロゴ = | スクリーンショット = | 説明文 = | 開発元 = [[ナショナルインスツルメンツ]] | 最新版 = LabVIEW 2023 Q3 | 最新版発表日 = {{release_date|2023|07|18}} | 最新評価版 = LabVIEW 2023 Q3 Beta | 最新評価版発表日 = {{release_date|2023|04|14}} | 対応OS = [[Microsoft Windows|Windows]] / [[macOS]] / [[Linux]] | 対応プラットフォーム = [[クロスプラットフォーム]] | 種別 = [[ビジュアルプログラミング言語]] [[データフロー言語]] | ライセンス = [[プロプライエタリ]] | 公式サイト = [http://www.ni.com/labview/ja/ LabVIEW 製品ページ] }} {{Infobox Software | 名称 = LabVIEW NXG | ロゴ = | スクリーンショット = | 説明文 = | 開発元 = [[ナショナルインスツルメンツ]] | 最新版 = LabVIEW NXG 5.1 | 最新版発表日 = {{release_date|2021|01|08}} | 最新評価版 = | 最新評価版発表日 = | 対応OS = [[Microsoft Windows|Windows]] / [[macOS]] / [[Linux]] | 対応プラットフォーム = [[クロスプラットフォーム]] | 種別 = [[ビジュアルプログラミング言語]] [[データフロー言語]] | ライセンス = [[プロプライエタリ]] | 公式サイト = [http://www.ni.com/labview/ja/ LabVIEW 製品ページ] }} '''LabVIEW'''は[[グラフィック型言語]]によってプログラミングすることのできる開発環境であり、主に計測用に用いられる。'''Lab'''oratory '''V'''irtual '''I'''nstrumentation '''E'''ngineering '''W'''orkbenchを略したもの。 LabVIEW では、通常の言語でいう関数にあたるVI(Virtual Instruments)を表す[[アイコン]]をウィンドウ平面上に配置し、VIとVIの間を配線することによってデータフローを表す。[[for文]]や[[if文]]などのプログラム構造は長方形の枠を描画して構成する。このように作成されたプログラムは、単独で実行させることも、新たなVIとして他のプログラム上で再利用することも可能である。 各 VI の実行順序はデータフローによって決定される。すなわち、各 VI を実行するために必要な入力データがそろった時点で実行される。互いに依存しないデータフローがあり、かつ、それが適切である場合、LabVIEW 実行システムは、それらのデータフローを個別のスレッドで実行しようとする。たとえば、データを共有しない 2 つの While ループがある場合、それらのループは別個のスレッドで実行される。マルチコア CPU 上で動作する Windows XP や Vista は複数スレッドが渡された際に、各スレッドを別々のコアで実行しようとするので、各 While ループが別個のコアで実行されることが期待できる。 LabVIEW は、機能や入出力関係、データフローが直感的に把握できる点でテキスト型言語に対し優れている。また、データフローによって自動的に並列処理が実行されることも、大きな違いである。一方、静的型付けする言語であるため、実行時に型が決定するようなコードを記述することは難しい。また、開発環境と実行システムが分離できないため、C 言語などのようなマクロ定義ができない。 == 関連項目 == * [[データフロー言語]] * [[ビジュアルプログラミング言語]] * [[NAG数値計算ライブラリ]] * [[LLVM]] - 内部で使用されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ni.com/ja/support/documentation/supplemental/10/ni-labview-compiler--under-the-hood.html |title=NI LabVIEWコンパイラの内部 |trans-title= |accessdate=2023-08-21 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date=2020-03-10 |year= |month= |format= |website= |work= |publisher= |page= |pages= |quote= |language= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |url-status= |doi= |hdl= |ref=}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * {{Official website|name=LabVIEWとは - NI}} 公式ウェブサイト * [http://www.ni.com/labview/ja/ LabVIEWグラフィカル開発環境] * [http://www.nag-j.co.jp/naglib/usingDLL/usingDLLfromLabview.htm LabVIEW™からNAG数値計算ライブラリを利用する方法] {{Numerical analysis software}} [[Category:プログラミング言語|LABVIEW]] [[Category:ビジュアルプログラミング言語]] [[Category:Linux向け数値解析ソフトウェア]]
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I号戦車
I号戦車(いちごうせんしゃ、Panzerkampfwagen I、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ)、特殊車輌番号 Sd.Kfz.101)は、ドイツが第一次世界大戦後、初めて量産した豆戦車(5トン級)である。 訓練および生産技術の習得のための軽量・簡易な豆戦車として開発されたが、本来の実戦用戦車であるIII号、IV号の数が揃わず、第二次世界大戦開戦直後のポーランド侵攻作戦など、II号と共に実戦に投入された。 後に、全く別設計の「新型(neuer Art、n.A.、ノイアー・アーチ)」(C型)や「強化型」(F型)も、少数生産された。 重量的に、本車を軽戦車に分類するのも可。当のドイツ自身は、I号戦車を基にした輸出用戦車を、「ライヒター・カンプ(フ)ヴァグン」(「軽戦車」の意)と呼称しているので、I号戦車のことも「軽戦車」と認識していたと考えられる。 ヴェルサイユ条約によって戦車の開発を禁じられていたドイツだが、戦間期、秘密裏に「WD シュレッパー」「重トラクター」「軽トラクター」などの名称で、自走砲や戦車の試作が行われ、ソビエト連邦・カザンの実験場でテストが行われた。しかし、これらはどれも試作の域を出るものではなかった。 一方、軽トラクターの開発とは別に、1927年10月、クルップ社は、後に「L.S.K.」(leichte Selbstfahrkanone、ライヒト・ゼルプストファール・カノーネ、「軽自走砲」の意)と呼ばれる、自走砲のシャーシ(車台)の開発を開始した。リアエンジン・リアドライブ方式、操縦席は前部右側にあった。シャーシ中央に37 mm砲もしくは75 mm砲が置かれ、武装と装甲を含む重量は7.9 tになる予定であった。 1年半に及ぶL.S.K.のコンセプトの議論の後、クルップ社は2輌のL.S.K.の試作車の開発製造契約を結んだ。この計画は、軽トラクターの約6ヶ月前に開始されたが、両車(L.S.K.と軽トラクター)はほぼ同時に試験に達した。 L.S.K.の設計は、軽トラクターと同じく、サスペンションの問題に悩まされた。L.S.K.は失敗作に終わったが、リアエンジン方式の自走シャーシの概念は、次の「小型トラクター」(Kleinetraktor、クライネトラクトーア)~I号戦車の基礎となった。 1928年、イギリスでカーデン・ロイド Mk.VI 豆戦車(機銃運搬車、牽引車)が開発され、各国に豆戦車ブームを起こした。各国は、従来の軽戦車の下位となる、それまでの兵器体系には無かった新たなカテゴリーである「豆戦車」の、購入・開発・整備に乗り出した。原型のMk.VI自体は1.5 t程度だが、実戦に耐えうるよう、改良を施すと、各国の豆戦車のように3 t程度になった。ドイツもこのブームを無視することはできなかった。 さらに、翌1929年には、「カーデン・ロイド Mk.VIII 試作軽戦車」=「ヴィッカース Mk.I 軽戦車」(実質は豆戦車。乗員2名、全長4.01 m、戦闘重量4.8 t、59馬力のメドウスエンジンを搭載し、路上最高速度48 km/h、武装は旋回銃塔に.303インチ(7.7 mm)重機関銃 1挺)が開発された。実際に完成したI号戦車はこちらに近いと言える。 軽量な車体に(重量に対し相対的に)高出力エンジンを搭載した(出力重量比が小さい)カーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車は、クリスティー快速戦車と並んで、1930年代の戦車の高速化に大きな役割を果たしたと言える。 I号戦車の原型である小型トラクターは、そもそも3トン級の豆戦車相当として開発が始まったのであって、ここは重要な点である。I号戦車を軽戦車として捉えると、I号戦車の本質を見誤ってしまう。小型トラクターは豆戦車相当であるがゆえに、軽戦車である軽トラクター(9 t程度)と並行開発がされたのであって、両車はそもそもカテゴリーが異なる(棲み分けがなされている)のである。(フロントエンジン・リアドライブ方式の)小型トラクターは、軽トラクターを補完する、軽トラクターの小型化版として開発されていたと考えるべきであろう。故に、(フロントエンジン・リアドライブ方式の)小型トラクターは、豆戦車ではあるが、カーデン・ロイド系ではない。 また、I号戦車を軽戦車と捉えると、軽戦車であるII号戦車とカテゴリーが重複してしまうが、I号戦車の本質を豆戦車(+α)と捉え、II号戦車は開発中止となった軽トラクターの代替(そのポジション・ニッチを埋めるもの)だと考えれば、この両車もカテゴリーが異なる(棲み分けがなされている)わけである。 I号戦車は豆戦車(小型トラクター、クライネトラクトーア)から発展した、3トン級豆戦車と6トン級軽戦車の中間的存在である。そもそも、I号戦車が直接参考としたイギリスの軽トラクターの、その基となったヴィッカース Mk.I 軽戦車自体が、カーデン・ロイド豆戦車から発展したものである。I号戦車の位置付けを不等号で表すと以下のようになる。 1930年2月14日、装甲車両の開発を担当する陸軍兵器局第6課は、軽トラクターより小型で製造コストの安い豆戦車を、「小型トラクター」(Kleinetraktor、クライネトラクトーア)の秘匿呼称で開発することを決定し、エッセンのクルップ社に対し開発を命じ、クルップ社ではエーリヒ・ヴォエルフェルト(Erich Wolfert)工学博士を中心に小型トラクターの設計を開始した。 1930年は小型トラクターの仕様の議論に費やされた。当初の仕様では、重量は3 t、60馬力のエンジンを搭載、2 cm機関砲(当時のドイツでは主武装の口径をmmではなくcmで表した)で武装する計画であった。 クルップ社は、1931年4月30日に砲塔の基本仕様書を、5月22日に車体の基本仕様書を、7月28日に戦闘室の基本仕様書を、陸軍兵器局第6課に提出した。 1931年6月24日に完成した小型トラクターのモックアップは、後のI号戦車とは著しく異なっていた。フロントエンジン・リアドライブ方式で(トランスミッションも前方配置)、全長は3460 mm、幅は1820 mm、重量は3.5 t(仕様書)、車体の装甲厚(仕様書)は、前/側面が13 mm、後面が10 mm、上/下面が6 mm、60馬力のクルップ社製水平対向4気筒空冷ガソリンエンジンで45 km/h(仕様書)、路上航続距離200 km(仕様書)。左右30度ずつの射角の2 cm機関砲はケースメイト前面右側に装備された。乗員は、車体後部の戦闘室に、左側前方に操縦手、右側後方に車長兼砲手の、2名であった。足回りは軽トラクターに似ていた。前後に長いことを除けば、後のポーランドのTKS 20 mm機関砲搭載型に似ていたと想像される。 ※蛇足だが、この小型トラクターのスペックは、後のヴィーゼル1 兵器運搬車(20 mm機関砲搭載型)と近似である。 しかし、L.S.K.と軽トラクターの試験により、フロントエンジン・リアドライブ方式の欠陥が実証され、1931年9月18日、陸軍兵器局第6課のハインリヒ・エルンスト・クニープカンプにより、フロントエンジン・リアドライブ方式での小型トラクターの開発は中止された。同日、リアエンジン・フロントドライブ方式での新しい小型トラクターの仕様が承認された。 この頃に、軽トラクターの発注が取り消されたのも、同様の理由だと考えられる。また、駆動方式の問題だけでなく、あたかも、戦艦ドレッドノートの登場のごとく、革新的なカーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車の登場により、軽トラクターの設計(特に足回り。路上最高速度もわずか30 km/hと、1930年代の軽戦車としては、もはや遅過ぎる)が瞬く間に、そして既に、時代遅れになってしまっていたことも大きな原因であろう。 ドイツは、もちろんカーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車のことは知っていたが、自国技術のみで、L.S.K.=軽自走砲や、軽トラクター=軽戦車や、小型トラクター=豆戦車を開発しようとしたものの、足回りの開発が巧くいかず、自国技術を疑っていたクニープカンプは、イギリスからの技術導入を早くから提案していた。数年間に及ぶ自国技術のみでの開発の試みが挫折して、ようやく開発方針が変更されたわけである。 1931年、交通兵監部総監のオズヴァルト・ルッツ(ドイツ語版、英語版)や、同兵監部主席参謀のハインツ・グデーリアンらによって将来の陸軍機械化構想がまとめられた。この構想では15トン級の主力戦車や、20トン級の支援戦車の2種が戦力の柱と位置づけられていたが、その開発にはなお長い時間が必要になると予想されたため、それまでの「繋ぎ」として、訓練用、生産技術習得を兼ね、軽戦車の開発が行われることとなった。そこで、クルップ社で開発中であった、小型トラクターに白羽の矢が立った。 クニープカンプのかねてよりの提案により、開発の参考用として、イギリスのヴィッカース・アームストロング社に、同社製軽戦車(ホルストマン・サスペンション導入前の、ヴィッカース Mk.I 軽戦車)と類似の足回りを持つ、3輌の軽トラクターが、1輌目は1931年11月10日、2輌目は1932年9月12日、3輌目は同年10月11日に発注され、シリアルナンバー VAE 393・406・407 の各車が輸入された。1932年1月、VAE 393はクンマースドルフ試験場に到着した。 1932年5月5日、クルップ社は陸軍兵器局第6課に、新しい小型トラクターの基本仕様書を提出し、試作車1輌の製造契約が結ばれた。 試作1号車のシャーシが完成する前の1932年6月22日、3トン級クライネトラクトーアの物と類似の、ケースメイト(砲郭、固定戦闘室)の前面右側に2 cm機関砲を限定旋回式に備えた、上部構造物のアイディアが提示された。 (上)ペーパープランのみに終わった、2 cm機関砲搭載ケースメイト方式5トン級クライネトラクトーア しかし、ルッツが、ケースメイト方式よりも砲塔方式を望んだので、1932年6月28日に、2挺の機関銃を備えた旋回砲塔のアイディアが新たに提示され、それが採用された。 1932年7月29日にクルップ社が完成させた、新しい小型トラクターの試作車台(試作1号車)は、イギリス製車両の設計(特にリーフスプリング・サスペンション)の影響を色濃く受け継いだものとなった。それは、イギリスの技術が混在した、小さなL.S.K.のような外見であった。 ヴィッカース軽戦車系の足回りを模倣した新しい小型トラクターは、必然的にシャーシ(車台)も、足回りに適合したサイズとなった。 足回りに規定されることで、新しい小型トラクターの車体サイズは、それまでの豆戦車サイズから、軽戦車サイズへと、サイズアップすることになった。 具体例で示すと、ヴィッカース Mk.I 軽戦車の全長は4.01 m、I号戦車A型の全長は4.02 mである。この近似は偶然ではなく、Mk.Iの足回り(片側)の配置は、前方から、起動輪-転輪2個-転輪2個-誘導輪、の計6個(上部支持輪除く)なのに対し、I号戦車A型は、起動輪-独立制衝転輪1個-転輪2個-転輪1個-接地誘導輪、の計6個(同)と、(配置型式は異なれど)同数である。故に、各車輪の大きさや間隔が両車で同じくらいだとすると、シャーシの全長も同じくらいになるのは、当然のことであろう。 この車体サイズの拡大は、自走砲車台としての改造の余地を生み出し、I号戦車の兵器としての後々の延命を可能とした。 1932年8月15日から、クンマースドルフ試験場にて、小型トラクターの試作1号車の走行試験が開始された。 同年9月28日、小型トラクターの試作1号車と輸入軽トラクターとの比較走行試験が実施され、小型トラクターは路上最高速度40 km/hを発揮し、「カーデン・ロイドよりも機動性が優れている」という評価を受けた。 当初、小型トラクター(クライネトラクトーア)は、多目的車両として計画され、同じシャーシを流用して、前線観測車、砲兵トラクター、貨物運搬車などのバリエーションが開発される予定であった。しかし、1932年10月12日、ルッツは、少なくとも5両の武装を備えたクライネトラクトーアをすぐに用意することを要求し、主目的である戦車以外のバリエーションは、(当面)計画中止となった。 試験の結果を基に、陸軍兵器局第6課は、1932年9月~1933年2月の間に、クルップ社に様々な改良を要求した。 1933年3月20日、陸軍兵器局第6課は、軟鋼製の増加試作車として、クルップ社に試作第2号車の、続いて同年5月10日、試作第3~6号車の、製造を発注した。 1933年7月1日、陸軍兵器局第6課から、主にクルップ社の他、技術習得のために、グルゾン製作所(クルップ社の子会社)、ヘンシェル社、MAN社、ラインメタル社、ダイムラー・ベンツ社の5社を含む、計6社に対し、小型トラクター150輌(1ゼーリエ)(Serie=英語でのシリーズ(series)にあたる)の生産が発注され、クルップ社が135両、他の5社が各3両ずつ、担当することになった。 小型トラクターの砲塔と戦闘室の設計は、クルップ社とダイムラー・ベンツ社の競作となり、ダイムラー・ベンツ社の設計案が採用され、2ゼーリエから搭載されることになった。 1933年12月から、車体上部構造物が無い車台のみの訓練用車輌(Fahrschulwagen、ファールシュルヴァグン)(1ゼーリエ)の生産が始まり、続いて1934年7月から、戦闘室・砲塔を持つ戦車型(2ゼーリエ)の生産が開始された。なお、「1ゼーリエ」は「I号戦車A型」には含まれない。また、「2ゼーリエ」=「I号戦車A型」の生産は、上記5社によって行われ、開発メーカーであるクルップ社は加わっていなかった。 ヴェルサイユ条約によってドイツは戦車の生産を禁じられていたため、連合国に戦車であることを察知されないように、秘匿のため、「農業用トラクター」(Landwirtschaftlicher Schlepper、ラントヴィルトシャフトリッヒャー シュレッパー、略号:La.S.)の偽装名称が、生産期間中は使用され続けた。 当初は、「機関銃装甲車」(Maschinengewehr Panzerwagen、マシーネンゲヴェーア パンツァーヴァグン)と呼ばれたが、1936年4月の再軍備宣言後に、Sd.Kfz.101の特殊車輌番号とともに、「I号戦車A型」(Panzerkampfwagen I Ausf. A、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク アー)の制式名称が与えられた。 ※ドイツ語の「Punkt」(プンクト)は「.」(点、ドット)を意味するが、繋げて読むと、前後の「p、プ」と「t、ト」をほとんど発音しないので、「ウンク」と聞こえる。 1936年6月までに、818輌のI号戦車A型が生産された。 I号戦車A型は、開発メーカーであるクルップ社製トラック用の改良型である空冷水平対向エンジン(57馬力)を搭載。 車体構造は当時の主流であったリベット接合ではなく、溶接で組み上げられていた。 MG13k機関銃(I号戦車の初期生産型は銃身長が短縮されていないMG13機関銃を装備)を左右並列に連装で装備する回転砲塔(砲は搭載されてないので、正確には銃塔である)は戦闘室の右寄りに搭載され、戦闘室左側に乗員乗降用の水平二分割式のハッチを設けていた。砲塔(銃塔)前面には左右並列に上開き式のバイザーがあった。 砲塔(銃塔)内部には、砲塔後部下端から吊り下げられた車長兼機銃手用の座席が設けられていた。右側に砲塔(銃塔)旋回ハンドル、左側に機関銃の俯仰ハンドルがあった。右手で操作する旋回ハンドルの水平回転円盤の下面には、通常の棒状ハンドルの代わりに、ピストルグリップが付いており、トリガーガードとトリガーからなる、人差し指で引く方式の右側機関銃の撃発装置が付いていた。左手で操作する俯仰ハンドルの垂直回転円盤には、通常の棒状ハンドルの代わりに、左拳で握るT字型ハンドルが付いており、左側機関銃の撃発装置が付いていた。これらにより、旋回・俯仰操作をしながらの、左右機関銃の、同時もしくは別々の射撃が可能であった。左右のMG13kは前後にずらされていた。左右のMG13kの間には望遠鏡式照準器があった。MG13kは、ベルト給弾方式ではなく、25発入りバナナ型マガジンによる給弾方式なので、継続射撃能力は劣っていた。各MG13kの左側面にはマガジンが、右側面には薬莢入れが付いていた。各MG13k自体にも通常のMG13と同じく、ピストルグリップが付いており、トリガーガードとトリガーからなる、人差し指で引く方式の撃発装置が付いていた。 弾薬は、7.92x57mmモーゼル弾で、通常弾が25発入りマガジン61個分の1,525発、SmK弾(鋼芯徹甲弾)が25発入りマガジン25個分の625発の、計2,150発を車内各部のマガジンラックに収納していた。他に機関銃に取り付けてある分など即応弾が100発、計2,250発を積載していた。 足回りは参考としたヴィッカース社製軽トラクターのリーフスプリングを用いたボギーを踏襲していたが、4つの転輪を持つヴィッカース・トラクター(最後尾転輪が誘導輪を兼ねる)に対し、負荷の掛かる最前部にコイル・スプリングで独立懸架した転輪を追加、最後尾の誘導輪を兼ねる転輪は大径化し、さらに2組のボギー外側に補強用のガーダービームを追加した。履帯は高マンガン鋼製、シングル・ドライピン式スケルトン・タイプで、形状はヴィッカース社製ほぼそのままのコピーだった。 I号戦車は、容積の問題から砲塔内に収容できなかったので、車体内戦闘室右前部(操縦手の斜め右前方、車長の足元前方)に、電撃戦の要である無線機(Fu.2受信機もしくはFu.5送受信機、通常はFu.2受信機)を、標準装備として備えていた。受信機は操縦手が無線手を兼任して操作した。各車は、戦闘指揮を専門とする「I号指揮戦車」の指示に従って、部隊全体で統一行動を行った。戦闘室の右前方に、起倒式の無線アンテナがあった。 車長と操縦手は車内では伝声管を通じてやり取りをした。 生産されたI号戦車A型は早速部隊配備され、再軍備宣言をしたナチス・ドイツの軍事力をアピールする役を果たしたが、運用上では、エンジンの出力不足や過熱問題、走行安定不良などの問題点が浮上した。これらを解決するため、小型指揮戦車用に開発された、マイバッハ製エンジンを搭載した延長車体が戦車型にも採用されることとなった。 クルップ社とダイムラー・ベンツ社によって開発された、延長車体のI号戦車は、当初、従来型の「クルップ型 1A 農業用トラクター(1A La.S. Krupp)」に対し、「マイバッハ型 1B 農業用トラクター(1B La.S. May)」の秘匿名称が与えられていたが、後に「I号戦車B型」(Panzerkampfwagen I Ausf. B、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク ベー)の制式名称となった。 I号戦車B型は、A型では接地していた誘導輪を独立させて持ち上げ、転輪を1つ追加、同型の転輪2つずつをボギーで支える形式となった。これに伴い、上部転輪も1つ追加された。マイバッハ製水冷エンジンNL38TR(100馬力)への変更に伴い、機関室は前後に延長され形状も変化したが、車体前部、戦闘室、砲塔はごく細部の仕様変更を除き、基本的にそのままとされた。I号戦車B型は、A型の最終シリーズと並行して、「5aゼーリエ」「6aゼーリエ」として生産に入り、1935年8月から1937年6月にかけて675輌が生産された。「I号戦車B型」の生産は、上記6社からクルップ社とラインメタル社を除いた、グルゾン製作所、ヘンシェル社、MAN社、ダイムラー・ベンツ社の4社によって行われた。 I号戦車は本来、訓練と戦車生産技術の習得を目的としたものだったが、その目的のためでさえ小型軽量に過ぎ、時をおかず II号戦車の開発が行われることとなった。 再軍備宣言後の軍事パレードや1938年のオーストリア合邦で大々的に使用された。 スペイン内戦では、1936年から1939年にかけて、実戦評価テストを兼ねて計132輌(I号戦車A型96輌、B型21輌、I号指揮戦車B型4輌、砲塔の無い訓練戦車1輌、残り10輌は不明)がドイツからスペインのナショナリスト側に供給された。 初期に送られた車両は、ヴィルヘルム・ヨーゼフ・リッター・フォン・トーマ(Wilhelm Josef Ritter von Thoma)中佐指揮下の「トーマ集団(Gruppe Thoma)」(「ドーネ装甲集団(Panzergruppe Drohne)」としても知られる)に置かれた。その主な任務は、戦車、対戦車砲、戦車運搬車、火炎放射器、などの使用/運用法や、損傷車両の修理などの、スペイン人への指導であった。ドイツ人は戦闘で戦車に搭乗しないように指示されていた。 追加車両や交換部品は、内戦開始直後にドイツ・イタリア・ソ連を含む各国の間で結ばれた不介入協定を回避するために、ドイツが兵器をスペインに送るために作ったダミー会社である「Sociedad Hispano-Marroquí de Transportes」(HISMA)を通じて送られた。 この時の輸出により、スペインは、ドイツに次ぐ、I号戦車の保有国となった。 1936年10月末頃、スペイン内戦で初めての戦車戦が記録された。モロトフ・カクテルが初めて使用され、注目されたのも、この戦いである。 I号戦車の交戦相手は、45 mm戦車砲(I号戦車を500メートルの距離から撃破可能)を搭載した、人民戦線側のBA-6やT-26であった。ナショナリスト側は火力の不利を相殺するために、人民戦線側のT-26を鹵獲し、自軍に配備した。 I号戦車は当初、7.92 mm鋼芯徹甲弾を使用して近距離(150メートル以下)でT-26を撃破することができたが、人民戦線側の戦車はI号戦車の機関銃の影響を受けない距離で交戦し始めた。これに対し、1937年8月以降、ナショナリスト側は、イタリアのブレダ M35 20 mm機関砲(構造がドイツの2 cm Flak 30機関砲よりシンプルであることから選ばれ、距離250メートルで40 mm厚の装甲を貫徹可能であった)をI号戦車の嵩上げした砲塔に搭載することを計画し、何両(少なくとも4両の存在が確認されている)かが改造されたものの、人民戦線側から十分な数のT-26が鹵獲されたため、20 mm機関砲搭載型へのI号戦車のさらなる改造は中止された。 1938年後半には、ソ連戦車(T-26またはBT-5)から取り外した45 mm戦車砲を搭載するために、さらに、その少し後には、マクレーン(McClean)37 mm対戦車砲を搭載するために、I号戦車がセビリアの兵器工廠に送られた。その後、どうなったのかは不明である。 また、より本格的な戦車の数量不足から、第二次世界大戦においても特に緒戦時に多用された。開戦時にはドイツ陸軍の装備する戦車のおよそ半数が、I号戦車によって占められていた。 その脆弱さはスペイン内戦ですでに露呈しており、緒戦時の戦場であれ本格的な戦闘は無理だったが、ポーランド、デンマーク・ノルウェー侵攻、フランス、バルカン戦線 (第二次世界大戦)、バルバロッサ作戦、北アフリカ戦線など、ドイツ軍の主だった戦場すべてで使用された。砲を持つ敵戦車や対戦車砲に対抗できず大きな損害を出したが、III号戦車やIV号戦車が充足されるまで前線で使われ続けた。後には後方警備や本来の訓練用途、弾薬運搬車などの改造車両のベースとなった。改造の際に撤去された銃塔は要塞(大西洋の壁など)のトーチカに流用されている。 中華民国に輸出されたA型(1937年6月に15輌が到着)は、訓練不十分なまま、一か月後に始まった日中戦争に投入され、南京防衛戦に使われた。この際、日本軍によって、4輌が鹵獲された。鹵獲された車体は、クルップ軽戦車または独国一号戦車の名称で陸軍技術本部に送られ、溶接車体や駆動部、機関銃の装備状態が調査された後、昭和14年頃に靖国神社で展示された。ただし、ドイツとの国交を考慮して、「ソビエト製の鹵獲戦車」として展示された。その後、37 mm砲(形式不明)に対する抗堪性射撃試験の標的に用いられた。 - 東京にて展示中のI号戦車A型。1939年(昭和14年)1月8日~15日。 - 同じく鹵獲された、国民党軍のルノーFTやT-26(武装無し)やヴィッカース6トン戦車Mk.E B型とともに、西宮の阪神甲子園球場にて展示中の2両のI号戦車A型。1939年2月。 - 陸軍技術本部でテスト中のI号戦車A型。操縦窓横の車体前面に陸軍の徽章である星章が追加されている。 - 陸軍技術本部でテスト中のI号戦車A型。車体後面左側にナンバープレートが追加されている。 中国国民党軍のI号戦車A型には、三色迷彩が施され、車体前面と背面に3桁の識別番号が、車体側面に中国国民党のシンボルマークが、描かれた。内には、主武装をソ連のDT-29に換装した車両も存在した。 - 南京で放棄された、DP機関銃装備型I号戦車A型。1937年12月。 スペイン陸軍では、1954年にM47パットンに置き換えられるまで、I号戦車が軍務に就いていた。 I号戦車の開発に成功したことで、クルップ社は、1930年代後半に、外国への販売を目的とした一連の軽戦車と中戦車を開発することが可能となった。1936年5月、L.K.A.-「外国向け軽戦車」-を開発するというアイディアが初めて表明された。 以下全て(m.K.A.とs.K.Aは除く)、クルップ M311 空冷V8ガソリンエンジン(85 hp/2,500 rpm)を搭載。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "I号戦車(いちごうせんしゃ、Panzerkampfwagen I、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ)、特殊車輌番号 Sd.Kfz.101)は、ドイツが第一次世界大戦後、初めて量産した豆戦車(5トン級)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "訓練および生産技術の習得のための軽量・簡易な豆戦車として開発されたが、本来の実戦用戦車であるIII号、IV号の数が揃わず、第二次世界大戦開戦直後のポーランド侵攻作戦など、II号と共に実戦に投入された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "後に、全く別設計の「新型(neuer Art、n.A.、ノイアー・アーチ)」(C型)や「強化型」(F型)も、少数生産された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "重量的に、本車を軽戦車に分類するのも可。当のドイツ自身は、I号戦車を基にした輸出用戦車を、「ライヒター・カンプ(フ)ヴァグン」(「軽戦車」の意)と呼称しているので、I号戦車のことも「軽戦車」と認識していたと考えられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ヴェルサイユ条約によって戦車の開発を禁じられていたドイツだが、戦間期、秘密裏に「WD シュレッパー」「重トラクター」「軽トラクター」などの名称で、自走砲や戦車の試作が行われ、ソビエト連邦・カザンの実験場でテストが行われた。しかし、これらはどれも試作の域を出るものではなかった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一方、軽トラクターの開発とは別に、1927年10月、クルップ社は、後に「L.S.K.」(leichte Selbstfahrkanone、ライヒト・ゼルプストファール・カノーネ、「軽自走砲」の意)と呼ばれる、自走砲のシャーシ(車台)の開発を開始した。リアエンジン・リアドライブ方式、操縦席は前部右側にあった。シャーシ中央に37 mm砲もしくは75 mm砲が置かれ、武装と装甲を含む重量は7.9 tになる予定であった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1年半に及ぶL.S.K.のコンセプトの議論の後、クルップ社は2輌のL.S.K.の試作車の開発製造契約を結んだ。この計画は、軽トラクターの約6ヶ月前に開始されたが、両車(L.S.K.と軽トラクター)はほぼ同時に試験に達した。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "L.S.K.の設計は、軽トラクターと同じく、サスペンションの問題に悩まされた。L.S.K.は失敗作に終わったが、リアエンジン方式の自走シャーシの概念は、次の「小型トラクター」(Kleinetraktor、クライネトラクトーア)~I号戦車の基礎となった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1928年、イギリスでカーデン・ロイド Mk.VI 豆戦車(機銃運搬車、牽引車)が開発され、各国に豆戦車ブームを起こした。各国は、従来の軽戦車の下位となる、それまでの兵器体系には無かった新たなカテゴリーである「豆戦車」の、購入・開発・整備に乗り出した。原型のMk.VI自体は1.5 t程度だが、実戦に耐えうるよう、改良を施すと、各国の豆戦車のように3 t程度になった。ドイツもこのブームを無視することはできなかった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "さらに、翌1929年には、「カーデン・ロイド Mk.VIII 試作軽戦車」=「ヴィッカース Mk.I 軽戦車」(実質は豆戦車。乗員2名、全長4.01 m、戦闘重量4.8 t、59馬力のメドウスエンジンを搭載し、路上最高速度48 km/h、武装は旋回銃塔に.303インチ(7.7 mm)重機関銃 1挺)が開発された。実際に完成したI号戦車はこちらに近いと言える。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "軽量な車体に(重量に対し相対的に)高出力エンジンを搭載した(出力重量比が小さい)カーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車は、クリスティー快速戦車と並んで、1930年代の戦車の高速化に大きな役割を果たしたと言える。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "I号戦車の原型である小型トラクターは、そもそも3トン級の豆戦車相当として開発が始まったのであって、ここは重要な点である。I号戦車を軽戦車として捉えると、I号戦車の本質を見誤ってしまう。小型トラクターは豆戦車相当であるがゆえに、軽戦車である軽トラクター(9 t程度)と並行開発がされたのであって、両車はそもそもカテゴリーが異なる(棲み分けがなされている)のである。(フロントエンジン・リアドライブ方式の)小型トラクターは、軽トラクターを補完する、軽トラクターの小型化版として開発されていたと考えるべきであろう。故に、(フロントエンジン・リアドライブ方式の)小型トラクターは、豆戦車ではあるが、カーデン・ロイド系ではない。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、I号戦車を軽戦車と捉えると、軽戦車であるII号戦車とカテゴリーが重複してしまうが、I号戦車の本質を豆戦車(+α)と捉え、II号戦車は開発中止となった軽トラクターの代替(そのポジション・ニッチを埋めるもの)だと考えれば、この両車もカテゴリーが異なる(棲み分けがなされている)わけである。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "I号戦車は豆戦車(小型トラクター、クライネトラクトーア)から発展した、3トン級豆戦車と6トン級軽戦車の中間的存在である。そもそも、I号戦車が直接参考としたイギリスの軽トラクターの、その基となったヴィッカース Mk.I 軽戦車自体が、カーデン・ロイド豆戦車から発展したものである。I号戦車の位置付けを不等号で表すと以下のようになる。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1930年2月14日、装甲車両の開発を担当する陸軍兵器局第6課は、軽トラクターより小型で製造コストの安い豆戦車を、「小型トラクター」(Kleinetraktor、クライネトラクトーア)の秘匿呼称で開発することを決定し、エッセンのクルップ社に対し開発を命じ、クルップ社ではエーリヒ・ヴォエルフェルト(Erich Wolfert)工学博士を中心に小型トラクターの設計を開始した。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1930年は小型トラクターの仕様の議論に費やされた。当初の仕様では、重量は3 t、60馬力のエンジンを搭載、2 cm機関砲(当時のドイツでは主武装の口径をmmではなくcmで表した)で武装する計画であった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "クルップ社は、1931年4月30日に砲塔の基本仕様書を、5月22日に車体の基本仕様書を、7月28日に戦闘室の基本仕様書を、陸軍兵器局第6課に提出した。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1931年6月24日に完成した小型トラクターのモックアップは、後のI号戦車とは著しく異なっていた。フロントエンジン・リアドライブ方式で(トランスミッションも前方配置)、全長は3460 mm、幅は1820 mm、重量は3.5 t(仕様書)、車体の装甲厚(仕様書)は、前/側面が13 mm、後面が10 mm、上/下面が6 mm、60馬力のクルップ社製水平対向4気筒空冷ガソリンエンジンで45 km/h(仕様書)、路上航続距離200 km(仕様書)。左右30度ずつの射角の2 cm機関砲はケースメイト前面右側に装備された。乗員は、車体後部の戦闘室に、左側前方に操縦手、右側後方に車長兼砲手の、2名であった。足回りは軽トラクターに似ていた。前後に長いことを除けば、後のポーランドのTKS 20 mm機関砲搭載型に似ていたと想像される。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "※蛇足だが、この小型トラクターのスペックは、後のヴィーゼル1 兵器運搬車(20 mm機関砲搭載型)と近似である。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "しかし、L.S.K.と軽トラクターの試験により、フロントエンジン・リアドライブ方式の欠陥が実証され、1931年9月18日、陸軍兵器局第6課のハインリヒ・エルンスト・クニープカンプにより、フロントエンジン・リアドライブ方式での小型トラクターの開発は中止された。同日、リアエンジン・フロントドライブ方式での新しい小型トラクターの仕様が承認された。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この頃に、軽トラクターの発注が取り消されたのも、同様の理由だと考えられる。また、駆動方式の問題だけでなく、あたかも、戦艦ドレッドノートの登場のごとく、革新的なカーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車の登場により、軽トラクターの設計(特に足回り。路上最高速度もわずか30 km/hと、1930年代の軽戦車としては、もはや遅過ぎる)が瞬く間に、そして既に、時代遅れになってしまっていたことも大きな原因であろう。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ドイツは、もちろんカーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車のことは知っていたが、自国技術のみで、L.S.K.=軽自走砲や、軽トラクター=軽戦車や、小型トラクター=豆戦車を開発しようとしたものの、足回りの開発が巧くいかず、自国技術を疑っていたクニープカンプは、イギリスからの技術導入を早くから提案していた。数年間に及ぶ自国技術のみでの開発の試みが挫折して、ようやく開発方針が変更されたわけである。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1931年、交通兵監部総監のオズヴァルト・ルッツ(ドイツ語版、英語版)や、同兵監部主席参謀のハインツ・グデーリアンらによって将来の陸軍機械化構想がまとめられた。この構想では15トン級の主力戦車や、20トン級の支援戦車の2種が戦力の柱と位置づけられていたが、その開発にはなお長い時間が必要になると予想されたため、それまでの「繋ぎ」として、訓練用、生産技術習得を兼ね、軽戦車の開発が行われることとなった。そこで、クルップ社で開発中であった、小型トラクターに白羽の矢が立った。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "クニープカンプのかねてよりの提案により、開発の参考用として、イギリスのヴィッカース・アームストロング社に、同社製軽戦車(ホルストマン・サスペンション導入前の、ヴィッカース Mk.I 軽戦車)と類似の足回りを持つ、3輌の軽トラクターが、1輌目は1931年11月10日、2輌目は1932年9月12日、3輌目は同年10月11日に発注され、シリアルナンバー VAE 393・406・407 の各車が輸入された。1932年1月、VAE 393はクンマースドルフ試験場に到着した。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1932年5月5日、クルップ社は陸軍兵器局第6課に、新しい小型トラクターの基本仕様書を提出し、試作車1輌の製造契約が結ばれた。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "試作1号車のシャーシが完成する前の1932年6月22日、3トン級クライネトラクトーアの物と類似の、ケースメイト(砲郭、固定戦闘室)の前面右側に2 cm機関砲を限定旋回式に備えた、上部構造物のアイディアが提示された。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "(上)ペーパープランのみに終わった、2 cm機関砲搭載ケースメイト方式5トン級クライネトラクトーア", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "しかし、ルッツが、ケースメイト方式よりも砲塔方式を望んだので、1932年6月28日に、2挺の機関銃を備えた旋回砲塔のアイディアが新たに提示され、それが採用された。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1932年7月29日にクルップ社が完成させた、新しい小型トラクターの試作車台(試作1号車)は、イギリス製車両の設計(特にリーフスプリング・サスペンション)の影響を色濃く受け継いだものとなった。それは、イギリスの技術が混在した、小さなL.S.K.のような外見であった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ヴィッカース軽戦車系の足回りを模倣した新しい小型トラクターは、必然的にシャーシ(車台)も、足回りに適合したサイズとなった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "足回りに規定されることで、新しい小型トラクターの車体サイズは、それまでの豆戦車サイズから、軽戦車サイズへと、サイズアップすることになった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "具体例で示すと、ヴィッカース Mk.I 軽戦車の全長は4.01 m、I号戦車A型の全長は4.02 mである。この近似は偶然ではなく、Mk.Iの足回り(片側)の配置は、前方から、起動輪-転輪2個-転輪2個-誘導輪、の計6個(上部支持輪除く)なのに対し、I号戦車A型は、起動輪-独立制衝転輪1個-転輪2個-転輪1個-接地誘導輪、の計6個(同)と、(配置型式は異なれど)同数である。故に、各車輪の大きさや間隔が両車で同じくらいだとすると、シャーシの全長も同じくらいになるのは、当然のことであろう。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この車体サイズの拡大は、自走砲車台としての改造の余地を生み出し、I号戦車の兵器としての後々の延命を可能とした。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1932年8月15日から、クンマースドルフ試験場にて、小型トラクターの試作1号車の走行試験が開始された。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "同年9月28日、小型トラクターの試作1号車と輸入軽トラクターとの比較走行試験が実施され、小型トラクターは路上最高速度40 km/hを発揮し、「カーデン・ロイドよりも機動性が優れている」という評価を受けた。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "当初、小型トラクター(クライネトラクトーア)は、多目的車両として計画され、同じシャーシを流用して、前線観測車、砲兵トラクター、貨物運搬車などのバリエーションが開発される予定であった。しかし、1932年10月12日、ルッツは、少なくとも5両の武装を備えたクライネトラクトーアをすぐに用意することを要求し、主目的である戦車以外のバリエーションは、(当面)計画中止となった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "試験の結果を基に、陸軍兵器局第6課は、1932年9月~1933年2月の間に、クルップ社に様々な改良を要求した。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1933年3月20日、陸軍兵器局第6課は、軟鋼製の増加試作車として、クルップ社に試作第2号車の、続いて同年5月10日、試作第3~6号車の、製造を発注した。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1933年7月1日、陸軍兵器局第6課から、主にクルップ社の他、技術習得のために、グルゾン製作所(クルップ社の子会社)、ヘンシェル社、MAN社、ラインメタル社、ダイムラー・ベンツ社の5社を含む、計6社に対し、小型トラクター150輌(1ゼーリエ)(Serie=英語でのシリーズ(series)にあたる)の生産が発注され、クルップ社が135両、他の5社が各3両ずつ、担当することになった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "小型トラクターの砲塔と戦闘室の設計は、クルップ社とダイムラー・ベンツ社の競作となり、ダイムラー・ベンツ社の設計案が採用され、2ゼーリエから搭載されることになった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1933年12月から、車体上部構造物が無い車台のみの訓練用車輌(Fahrschulwagen、ファールシュルヴァグン)(1ゼーリエ)の生産が始まり、続いて1934年7月から、戦闘室・砲塔を持つ戦車型(2ゼーリエ)の生産が開始された。なお、「1ゼーリエ」は「I号戦車A型」には含まれない。また、「2ゼーリエ」=「I号戦車A型」の生産は、上記5社によって行われ、開発メーカーであるクルップ社は加わっていなかった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ヴェルサイユ条約によってドイツは戦車の生産を禁じられていたため、連合国に戦車であることを察知されないように、秘匿のため、「農業用トラクター」(Landwirtschaftlicher Schlepper、ラントヴィルトシャフトリッヒャー シュレッパー、略号:La.S.)の偽装名称が、生産期間中は使用され続けた。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "当初は、「機関銃装甲車」(Maschinengewehr Panzerwagen、マシーネンゲヴェーア パンツァーヴァグン)と呼ばれたが、1936年4月の再軍備宣言後に、Sd.Kfz.101の特殊車輌番号とともに、「I号戦車A型」(Panzerkampfwagen I Ausf. A、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク アー)の制式名称が与えられた。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "※ドイツ語の「Punkt」(プンクト)は「.」(点、ドット)を意味するが、繋げて読むと、前後の「p、プ」と「t、ト」をほとんど発音しないので、「ウンク」と聞こえる。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1936年6月までに、818輌のI号戦車A型が生産された。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "I号戦車A型は、開発メーカーであるクルップ社製トラック用の改良型である空冷水平対向エンジン(57馬力)を搭載。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "車体構造は当時の主流であったリベット接合ではなく、溶接で組み上げられていた。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "MG13k機関銃(I号戦車の初期生産型は銃身長が短縮されていないMG13機関銃を装備)を左右並列に連装で装備する回転砲塔(砲は搭載されてないので、正確には銃塔である)は戦闘室の右寄りに搭載され、戦闘室左側に乗員乗降用の水平二分割式のハッチを設けていた。砲塔(銃塔)前面には左右並列に上開き式のバイザーがあった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "砲塔(銃塔)内部には、砲塔後部下端から吊り下げられた車長兼機銃手用の座席が設けられていた。右側に砲塔(銃塔)旋回ハンドル、左側に機関銃の俯仰ハンドルがあった。右手で操作する旋回ハンドルの水平回転円盤の下面には、通常の棒状ハンドルの代わりに、ピストルグリップが付いており、トリガーガードとトリガーからなる、人差し指で引く方式の右側機関銃の撃発装置が付いていた。左手で操作する俯仰ハンドルの垂直回転円盤には、通常の棒状ハンドルの代わりに、左拳で握るT字型ハンドルが付いており、左側機関銃の撃発装置が付いていた。これらにより、旋回・俯仰操作をしながらの、左右機関銃の、同時もしくは別々の射撃が可能であった。左右のMG13kは前後にずらされていた。左右のMG13kの間には望遠鏡式照準器があった。MG13kは、ベルト給弾方式ではなく、25発入りバナナ型マガジンによる給弾方式なので、継続射撃能力は劣っていた。各MG13kの左側面にはマガジンが、右側面には薬莢入れが付いていた。各MG13k自体にも通常のMG13と同じく、ピストルグリップが付いており、トリガーガードとトリガーからなる、人差し指で引く方式の撃発装置が付いていた。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "弾薬は、7.92x57mmモーゼル弾で、通常弾が25発入りマガジン61個分の1,525発、SmK弾(鋼芯徹甲弾)が25発入りマガジン25個分の625発の、計2,150発を車内各部のマガジンラックに収納していた。他に機関銃に取り付けてある分など即応弾が100発、計2,250発を積載していた。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "足回りは参考としたヴィッカース社製軽トラクターのリーフスプリングを用いたボギーを踏襲していたが、4つの転輪を持つヴィッカース・トラクター(最後尾転輪が誘導輪を兼ねる)に対し、負荷の掛かる最前部にコイル・スプリングで独立懸架した転輪を追加、最後尾の誘導輪を兼ねる転輪は大径化し、さらに2組のボギー外側に補強用のガーダービームを追加した。履帯は高マンガン鋼製、シングル・ドライピン式スケルトン・タイプで、形状はヴィッカース社製ほぼそのままのコピーだった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "I号戦車は、容積の問題から砲塔内に収容できなかったので、車体内戦闘室右前部(操縦手の斜め右前方、車長の足元前方)に、電撃戦の要である無線機(Fu.2受信機もしくはFu.5送受信機、通常はFu.2受信機)を、標準装備として備えていた。受信機は操縦手が無線手を兼任して操作した。各車は、戦闘指揮を専門とする「I号指揮戦車」の指示に従って、部隊全体で統一行動を行った。戦闘室の右前方に、起倒式の無線アンテナがあった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "車長と操縦手は車内では伝声管を通じてやり取りをした。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "生産されたI号戦車A型は早速部隊配備され、再軍備宣言をしたナチス・ドイツの軍事力をアピールする役を果たしたが、運用上では、エンジンの出力不足や過熱問題、走行安定不良などの問題点が浮上した。これらを解決するため、小型指揮戦車用に開発された、マイバッハ製エンジンを搭載した延長車体が戦車型にも採用されることとなった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "クルップ社とダイムラー・ベンツ社によって開発された、延長車体のI号戦車は、当初、従来型の「クルップ型 1A 農業用トラクター(1A La.S. Krupp)」に対し、「マイバッハ型 1B 農業用トラクター(1B La.S. May)」の秘匿名称が与えられていたが、後に「I号戦車B型」(Panzerkampfwagen I Ausf. B、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク ベー)の制式名称となった。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "I号戦車B型は、A型では接地していた誘導輪を独立させて持ち上げ、転輪を1つ追加、同型の転輪2つずつをボギーで支える形式となった。これに伴い、上部転輪も1つ追加された。マイバッハ製水冷エンジンNL38TR(100馬力)への変更に伴い、機関室は前後に延長され形状も変化したが、車体前部、戦闘室、砲塔はごく細部の仕様変更を除き、基本的にそのままとされた。I号戦車B型は、A型の最終シリーズと並行して、「5aゼーリエ」「6aゼーリエ」として生産に入り、1935年8月から1937年6月にかけて675輌が生産された。「I号戦車B型」の生産は、上記6社からクルップ社とラインメタル社を除いた、グルゾン製作所、ヘンシェル社、MAN社、ダイムラー・ベンツ社の4社によって行われた。", "title": "開発と生産" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "I号戦車は本来、訓練と戦車生産技術の習得を目的としたものだったが、その目的のためでさえ小型軽量に過ぎ、時をおかず II号戦車の開発が行われることとなった。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "再軍備宣言後の軍事パレードや1938年のオーストリア合邦で大々的に使用された。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "スペイン内戦では、1936年から1939年にかけて、実戦評価テストを兼ねて計132輌(I号戦車A型96輌、B型21輌、I号指揮戦車B型4輌、砲塔の無い訓練戦車1輌、残り10輌は不明)がドイツからスペインのナショナリスト側に供給された。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "初期に送られた車両は、ヴィルヘルム・ヨーゼフ・リッター・フォン・トーマ(Wilhelm Josef Ritter von Thoma)中佐指揮下の「トーマ集団(Gruppe Thoma)」(「ドーネ装甲集団(Panzergruppe Drohne)」としても知られる)に置かれた。その主な任務は、戦車、対戦車砲、戦車運搬車、火炎放射器、などの使用/運用法や、損傷車両の修理などの、スペイン人への指導であった。ドイツ人は戦闘で戦車に搭乗しないように指示されていた。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "追加車両や交換部品は、内戦開始直後にドイツ・イタリア・ソ連を含む各国の間で結ばれた不介入協定を回避するために、ドイツが兵器をスペインに送るために作ったダミー会社である「Sociedad Hispano-Marroquí de Transportes」(HISMA)を通じて送られた。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "この時の輸出により、スペインは、ドイツに次ぐ、I号戦車の保有国となった。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1936年10月末頃、スペイン内戦で初めての戦車戦が記録された。モロトフ・カクテルが初めて使用され、注目されたのも、この戦いである。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "I号戦車の交戦相手は、45 mm戦車砲(I号戦車を500メートルの距離から撃破可能)を搭載した、人民戦線側のBA-6やT-26であった。ナショナリスト側は火力の不利を相殺するために、人民戦線側のT-26を鹵獲し、自軍に配備した。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "I号戦車は当初、7.92 mm鋼芯徹甲弾を使用して近距離(150メートル以下)でT-26を撃破することができたが、人民戦線側の戦車はI号戦車の機関銃の影響を受けない距離で交戦し始めた。これに対し、1937年8月以降、ナショナリスト側は、イタリアのブレダ M35 20 mm機関砲(構造がドイツの2 cm Flak 30機関砲よりシンプルであることから選ばれ、距離250メートルで40 mm厚の装甲を貫徹可能であった)をI号戦車の嵩上げした砲塔に搭載することを計画し、何両(少なくとも4両の存在が確認されている)かが改造されたものの、人民戦線側から十分な数のT-26が鹵獲されたため、20 mm機関砲搭載型へのI号戦車のさらなる改造は中止された。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1938年後半には、ソ連戦車(T-26またはBT-5)から取り外した45 mm戦車砲を搭載するために、さらに、その少し後には、マクレーン(McClean)37 mm対戦車砲を搭載するために、I号戦車がセビリアの兵器工廠に送られた。その後、どうなったのかは不明である。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "また、より本格的な戦車の数量不足から、第二次世界大戦においても特に緒戦時に多用された。開戦時にはドイツ陸軍の装備する戦車のおよそ半数が、I号戦車によって占められていた。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "その脆弱さはスペイン内戦ですでに露呈しており、緒戦時の戦場であれ本格的な戦闘は無理だったが、ポーランド、デンマーク・ノルウェー侵攻、フランス、バルカン戦線 (第二次世界大戦)、バルバロッサ作戦、北アフリカ戦線など、ドイツ軍の主だった戦場すべてで使用された。砲を持つ敵戦車や対戦車砲に対抗できず大きな損害を出したが、III号戦車やIV号戦車が充足されるまで前線で使われ続けた。後には後方警備や本来の訓練用途、弾薬運搬車などの改造車両のベースとなった。改造の際に撤去された銃塔は要塞(大西洋の壁など)のトーチカに流用されている。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "中華民国に輸出されたA型(1937年6月に15輌が到着)は、訓練不十分なまま、一か月後に始まった日中戦争に投入され、南京防衛戦に使われた。この際、日本軍によって、4輌が鹵獲された。鹵獲された車体は、クルップ軽戦車または独国一号戦車の名称で陸軍技術本部に送られ、溶接車体や駆動部、機関銃の装備状態が調査された後、昭和14年頃に靖国神社で展示された。ただし、ドイツとの国交を考慮して、「ソビエト製の鹵獲戦車」として展示された。その後、37 mm砲(形式不明)に対する抗堪性射撃試験の標的に用いられた。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "- 東京にて展示中のI号戦車A型。1939年(昭和14年)1月8日~15日。 - 同じく鹵獲された、国民党軍のルノーFTやT-26(武装無し)やヴィッカース6トン戦車Mk.E B型とともに、西宮の阪神甲子園球場にて展示中の2両のI号戦車A型。1939年2月。 - 陸軍技術本部でテスト中のI号戦車A型。操縦窓横の車体前面に陸軍の徽章である星章が追加されている。 - 陸軍技術本部でテスト中のI号戦車A型。車体後面左側にナンバープレートが追加されている。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "中国国民党軍のI号戦車A型には、三色迷彩が施され、車体前面と背面に3桁の識別番号が、車体側面に中国国民党のシンボルマークが、描かれた。内には、主武装をソ連のDT-29に換装した車両も存在した。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "- 南京で放棄された、DP機関銃装備型I号戦車A型。1937年12月。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "スペイン陸軍では、1954年にM47パットンに置き換えられるまで、I号戦車が軍務に就いていた。", "title": "戦史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "I号戦車の開発に成功したことで、クルップ社は、1930年代後半に、外国への販売を目的とした一連の軽戦車と中戦車を開発することが可能となった。1936年5月、L.K.A.-「外国向け軽戦車」-を開発するというアイディアが初めて表明された。", "title": "輸出戦車計画" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "以下全て(m.K.A.とs.K.Aは除く)、クルップ M311 空冷V8ガソリンエンジン(85 hp/2,500 rpm)を搭載。", "title": "輸出戦車計画" } ]
I号戦車は、ドイツが第一次世界大戦後、初めて量産した豆戦車(5トン級)である。 訓練および生産技術の習得のための軽量・簡易な豆戦車として開発されたが、本来の実戦用戦車であるIII号、IV号の数が揃わず、第二次世界大戦開戦直後のポーランド侵攻作戦など、II号と共に実戦に投入された。 後に、全く別設計の「新型」(C型)や「強化型」(F型)も、少数生産された。 重量的に、本車を軽戦車に分類するのも可。当のドイツ自身は、I号戦車を基にした輸出用戦車を、「ライヒター・カンプ(フ)ヴァグン」(「軽戦車」の意)と呼称しているので、I号戦車のことも「軽戦車」と認識していたと考えられる。
{{脚注の不足|date=2023年1月7日 (土) 07:31 (UTC)}} {{戦車 |名称=I号戦車 |画像=[[File:SdKfz101.jpg|300px]] |説明=I号戦車A型<br />[[ムンスター戦車博物館]]所蔵 |全長=4.02 [[メートル|m]] |車体長= |全幅=2.06 m |全高=1.72 m |重量=5.4 t |懸架方式=[[リーフ式サスペンション|リーフスプリング方式]] |速度=37 [[キロメートル毎時|km/h]] |整地時速度= |不整地時速度= |行動距離=145 [[キロメートル|km]] |主砲=7.92 mm [[ドライゼMG13機関銃|MG13k]] 機関銃×2(通常弾1,525 発+SmK弾625 発+即応弾100 発) |副武装= |装甲=13 mm |エンジン名=[[クルップ]] M305<br />[[水平対向4気筒]][[空冷エンジン|空冷]][[ガソリンエンジン|ガソリン]] |出力=57 HP/2500 [[rpm (単位)|rpm]] |乗員= 2 名(車長兼機銃手、操縦手兼無線手) |備考= }} '''I号戦車'''(いちごうせんしゃ、Panzerkampfwagen I、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ)、[[特殊車輌番号]] Sd.Kfz.101)は、[[ドイツ]]が[[第一次世界大戦]]後、初めて量産した[[豆戦車]](5トン級)である。 訓練および生産技術の習得のための軽量・簡易な[[豆戦車]]として開発されたが、本来の実戦用戦車である[[III号戦車|III号]]、[[IV号戦車|IV号]]の数が揃わず、[[第二次世界大戦]]開戦直後の[[ポーランド侵攻]]作戦など、[[II号戦車|II号]]と共に実戦に投入された。 後に、全く別設計の「新型(neuer Art、n.A.、ノイアー・アーチ)」(C型)や「強化型」(F型)も、少数生産された。 重量的に、本車を[[軽戦車]]に分類するのも可。当のドイツ自身は、I号戦車を基にした輸出用戦車を、「ライヒター・カンプ(フ)ヴァグン」(「軽戦車」の意)と呼称しているので、I号戦車のことも「軽戦車」と認識していたと考えられる。 == 開発と生産 == === L.S.K.の開発 === [[ヴェルサイユ条約]]によって[[戦車]]の開発を禁じられていたドイツだが、[[戦間期]]、秘密裏に「[[WD シュレッパー]]」「[[グローストラクトーア|重トラクター]]」「[[ライヒトトラクトーア|軽トラクター]]」などの名称で、自走砲や戦車の[[プロトタイプ|試作]]が行われ、[[ソビエト連邦]]・[[カザン]]の実験場でテストが行われた。しかし、これらはどれも試作の域を出るものではなかった。 一方、[[ライヒトトラクトーア|軽トラクター]]の開発とは別に、[[1927年]]10月、クルップ社は、後に「'''L.S.K.'''」(leichte Selbstfahrkanone、'''ライヒト・ゼルプストファール・カノーネ'''、「軽自走砲」の意)と呼ばれる、自走砲のシャーシ(車台)の開発を開始した。リアエンジン・リアドライブ方式、操縦席は前部右側にあった。シャーシ中央に37 mm砲もしくは75 mm砲が置かれ、武装と装甲を含む重量は7.9 tになる予定であった。 1年半に及ぶL.S.K.のコンセプトの議論の後、[[クルップ]]社は2輌のL.S.K.の試作車の開発製造契約を結んだ。この計画は、[[ライヒトトラクトーア|軽トラクター]]の約6ヶ月前に開始されたが、両車(L.S.K.と軽トラクター)はほぼ同時に試験に達した。 L.S.K.の設計は、[[ライヒトトラクトーア|軽トラクター]]と同じく、サスペンションの問題に悩まされた。L.S.K.は失敗作に終わったが、リアエンジン方式の自走シャーシの概念は、次の「'''小型トラクター'''」(Kleinetraktor、'''クライネトラクトーア''')~I号戦車の基礎となった。 === カーデン・ロイド豆戦車の登場 === [[1928年]]、イギリスで[[カーデン・ロイド豆戦車|カーデン・ロイド Mk.VI 豆戦車]](機銃運搬車、牽引車)が開発され、各国に豆戦車ブームを起こした。各国は、従来の軽戦車の下位となる、それまでの兵器体系には無かった新たなカテゴリーである「豆戦車」の、購入・開発・整備に乗り出した。原型のMk.VI自体は1.5 t程度だが、実戦に耐えうるよう、改良を施すと、各国の豆戦車のように3 t程度になった。ドイツもこのブームを無視することはできなかった。 さらに、翌[[1929年]]には、「[[カーデン・ロイド豆戦車|カーデン・ロイド Mk.VIII 試作軽戦車]]」=「[[ヴィッカース軽戦車|ヴィッカース Mk.I 軽戦車]]」(実質は豆戦車。乗員2名、全長4.01 m、戦闘重量4.8 t、59馬力のメドウスエンジンを搭載し、路上最高速度48 km/h、武装は旋回銃塔に.303インチ(7.7 mm)重機関銃 1挺)が開発された。実際に完成したI号戦車はこちらに近いと言える。 軽量な車体に(重量に対し相対的に)高出力エンジンを搭載した(出力重量比が小さい)カーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車は、クリスティー快速戦車と並んで、1930年代の戦車の高速化に大きな役割を果たしたと言える。 I号戦車の原型である小型トラクターは、そもそも3トン級の豆戦車相当として開発が始まったのであって、ここは重要な点である。I号戦車を軽戦車として捉えると、I号戦車の本質を見誤ってしまう。小型トラクターは豆戦車相当であるがゆえに、軽戦車である[[ライヒトトラクトーア|軽トラクター]](9 t程度)と並行開発がされたのであって、両車はそもそもカテゴリーが異なる(棲み分けがなされている)のである。(フロントエンジン・リアドライブ方式の)小型トラクターは、軽トラクターを補完する、軽トラクターの小型化版として開発されていたと考えるべきであろう。故に、(フロントエンジン・リアドライブ方式の)小型トラクターは、豆戦車ではあるが、カーデン・ロイド系ではない。 また、I号戦車を軽戦車と捉えると、軽戦車である[[II号戦車]]とカテゴリーが重複してしまうが、I号戦車の本質を豆戦車(+α)と捉え、II号戦車は開発中止となった[[ライヒトトラクトーア|軽トラクター]]の代替(そのポジション・ニッチを埋めるもの)だと考えれば、この両車もカテゴリーが異なる(棲み分けがなされている)わけである。 I号戦車は豆戦車(小型トラクター、クライネトラクトーア)から発展した、3トン級豆戦車と6トン級軽戦車の中間的存在である。そもそも、I号戦車が直接参考としたイギリスの[[ヴィッカース・ドラゴン|軽トラクター]]の、その基となったヴィッカース Mk.I 軽戦車自体が、カーデン・ロイド豆戦車から発展したものである。I号戦車の位置付けを不等号で表すと以下のようになる。 {{quotation|II号戦車≧ヨーロッパ各国の6トン戦車系の軽戦車>6トン戦車双砲塔機銃装備型≧I号戦車≧ヴィッカース Mk.I 軽戦車>ヨーロッパ各国のカーデン・ロイド系の3トン級豆戦車}} === ドイツ版3トン級豆戦車「クライネトラクトーア」の開発 === [[1930年]]2月14日、装甲車両の開発を担当する[[陸軍兵器局|陸軍兵器局第6課]]は、[[ライヒトトラクトーア|軽トラクター]]より小型で製造コストの安い豆戦車を、「小型トラクター」(Kleinetraktor、クライネトラクトーア)の秘匿呼称で開発することを決定し、[[エッセン]]のクルップ社に対し開発を命じ、クルップ社ではエーリヒ・ヴォエルフェルト(Erich Wolfert)工学博士を中心に小型トラクターの設計を開始した。 1930年は小型トラクターの仕様の議論に費やされた。当初の仕様では、重量は3 t、60馬力のエンジンを搭載、2 cm機関砲(当時のドイツでは主武装の口径をmmではなくcmで表した)で武装する計画であった。 クルップ社は、[[1931年]]4月30日に砲塔の基本仕様書を、5月22日に車体の基本仕様書を、7月28日に戦闘室の基本仕様書を、陸軍兵器局第6課に提出した。 1931年6月24日に完成した小型トラクターのモックアップは、後のI号戦車とは著しく異なっていた。フロントエンジン・リアドライブ方式で(トランスミッションも前方配置)、全長は3460 mm、幅は1820 mm、重量は3.5 t(仕様書)、車体の装甲厚(仕様書)は、前/側面が13 mm、後面が10 mm、上/下面が6 mm、60馬力のクルップ社製水平対向4気筒空冷ガソリンエンジンで45 km/h(仕様書)、路上航続距離200 km(仕様書)。左右30度ずつの射角の2 cm機関砲はケースメイト前面右側に装備された。乗員は、車体後部の戦闘室に、左側前方に操縦手、右側後方に車長兼砲手の、2名であった。足回りは軽トラクターに似ていた。前後に長いことを除けば、後の[[ポーランド]]の[[TK (戦車)|TKS 20 mm機関砲搭載型]]に似ていたと想像される。 ※蛇足だが、この小型トラクターのスペックは、後の[[ヴィーゼル (空挺戦闘車)|ヴィーゼル1 兵器運搬車(20 mm機関砲搭載型)]]と近似である。 しかし、L.S.K.と軽トラクターの試験により、フロントエンジン・リアドライブ方式の欠陥が実証され、1931年9月18日、陸軍兵器局第6課の[[ハインリヒ・エルンスト・クニープカンプ]]により、フロントエンジン・リアドライブ方式での小型トラクターの開発は中止された。同日、リアエンジン・フロントドライブ方式での新しい小型トラクターの仕様が承認された。 [[File:Heinrich Ernst Kniepkamp.jpg|thumb|right|250px|ハインリヒ・エルンスト・クニープカンプ(Heinrich Ernst Kniepkamp、1895年3月5日-1977年7月30日)]] この頃に、[[ライヒトトラクトーア|軽トラクター]]の発注が取り消されたのも、同様の理由だと考えられる。また、駆動方式の問題だけでなく、あたかも、[[ドレッドノート (戦艦)|戦艦ドレッドノート]]の登場のごとく、革新的なカーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車の登場により、軽トラクターの設計(特に足回り。路上最高速度もわずか30 km/hと、1930年代の軽戦車としては、もはや遅過ぎる)が瞬く間に、そして既に、時代遅れになってしまっていたことも大きな原因であろう。 ドイツは、もちろんカーデン・ロイド豆戦車/ヴィッカース軽戦車のことは知っていたが、自国技術のみで、L.S.K.=軽自走砲や、[[ライヒトトラクトーア|軽トラクター]]=軽戦車や、小型トラクター=豆戦車を開発しようとしたものの、足回りの開発が巧くいかず、自国技術を疑っていたクニープカンプは、イギリスからの技術導入を早くから提案していた。数年間に及ぶ自国技術のみでの開発の試みが挫折して、ようやく開発方針が変更されたわけである。 === 5トン級「クライネトラクトーア~I号戦車A型」の開発 === [[1931年]]、[[交通兵監部]]総監の[[オズヴァルト・ルッツ]]([[:de:Oswald Lutz|ドイツ語版]]、[[:en:Oswald Lutz|英語版]])や、同兵監部主席参謀の[[ハインツ・グデーリアン]]らによって将来の陸軍機械化構想がまとめられた。この構想では[[III号戦車|15トン級の主力戦車]]や、[[IV号戦車|20トン級の支援戦車]]の2種が戦力の柱と位置づけられていたが、その開発にはなお長い時間が必要になると予想されたため、それまでの「繋ぎ」として、訓練用、生産技術習得を兼ね、軽戦車の開発が行われることとなった。そこで、クルップ社で開発中であった、小型トラクターに白羽の矢が立った。 クニープカンプのかねてよりの提案により、開発の参考用として、[[イギリス]]の[[ヴィッカース・アームストロング]]社に、同社製軽戦車(ホルストマン・サスペンション導入前の、ヴィッカース Mk.I 軽戦車)と類似の足回りを持つ、3輌の[[ヴィッカース・ドラゴン|軽トラクター]]が、1輌目は1931年11月10日、2輌目は1932年9月12日、3輌目は同年10月11日に発注され、シリアルナンバー VAE 393・406・407 の各車が輸入された。[[1932年]]1月、VAE 393はクンマースドルフ試験場に到着した。 1932年5月5日、クルップ社は陸軍兵器局第6課に、新しい小型トラクターの基本仕様書を提出し、試作車1輌の製造契約が結ばれた。 試作1号車のシャーシが完成する前の1932年6月22日、3トン級クライネトラクトーアの物と類似の、ケースメイト(砲郭、固定戦闘室)の前面右側に2 cm機関砲を限定旋回式に備えた、上部構造物のアイディアが提示された。 * [https://2.bp.blogspot.com/-51p1NHIuUfo/V60rj6bjQbI/AAAAAAAALJ4/R5-gy78tURkdnVZV6HSTV0k7ru5BjQgTgCLcB/s1600/pz1-7.jpg] (上)ペーパープランのみに終わった、2 cm機関砲搭載ケースメイト方式5トン級クライネトラクトーア しかし、ルッツが、ケースメイト方式よりも砲塔方式を望んだので、1932年6月28日に、2挺の機関銃を備えた旋回砲塔のアイディアが新たに提示され、それが採用された。 1932年7月29日にクルップ社が完成させた、新しい小型トラクターの試作車台(試作1号車)は、イギリス製車両の設計(特にリーフスプリング・サスペンション)の影響を色濃く受け継いだものとなった。それは、イギリスの技術が混在した、小さなL.S.K.のような外見であった。 [[File:Kleinstraktor-Fahrgestell.jpg|thumb|right|250px|新しい小型トラクター(クライネトラクトーア)の最初の試作車台。上部支持輪が片側2個]] ヴィッカース軽戦車系の足回りを模倣した新しい小型トラクターは、必然的にシャーシ(車台)も、足回りに適合したサイズとなった。 足回りに規定されることで、新しい小型トラクターの車体サイズは、それまでの豆戦車サイズから、軽戦車サイズへと、サイズアップすることになった。 具体例で示すと、ヴィッカース Mk.I 軽戦車の全長は4.01 m、I号戦車A型の全長は4.02 mである。この近似は偶然ではなく、Mk.Iの足回り(片側)の配置は、前方から、起動輪-転輪2個-転輪2個-誘導輪、の計6個(上部支持輪除く)なのに対し、I号戦車A型は、起動輪-独立制衝転輪1個-転輪2個-転輪1個-接地誘導輪、の計6個(同)と、(配置型式は異なれど)同数である。故に、各車輪の大きさや間隔が両車で同じくらいだとすると、シャーシの全長も同じくらいになるのは、当然のことであろう。 この車体サイズの拡大は、自走砲車台としての改造の余地を生み出し、I号戦車の兵器としての後々の延命を可能とした。 1932年8月15日から、クンマースドルフ試験場にて、小型トラクターの試作1号車の走行試験が開始された。 同年9月28日、小型トラクターの試作1号車と[[ヴィッカース・ドラゴン|輸入軽トラクター]]との比較走行試験が実施され、小型トラクターは路上最高速度40 km/hを発揮し、「カーデン・ロイドよりも機動性が優れている」という評価を受けた。 当初、小型トラクター(クライネトラクトーア)は、多目的車両として計画され、同じシャーシを流用して、前線観測車、砲兵トラクター、貨物運搬車などのバリエーションが開発される予定であった。しかし、1932年10月12日、ルッツは、少なくとも5両の武装を備えたクライネトラクトーアをすぐに用意することを要求し、主目的である戦車以外のバリエーションは、(当面)計画中止となった。 試験の結果を基に、陸軍兵器局第6課は、1932年9月~1933年2月の間に、クルップ社に様々な改良を要求した。 [[1933年]]3月20日、陸軍兵器局第6課は、軟鋼製の増加試作車として、クルップ社に試作第2号車の、続いて同年5月10日、試作第3~6号車の、製造を発注した。 1933年7月1日、陸軍兵器局第6課から、主にクルップ社の他、技術習得のために、グルゾン製作所(クルップ社の子会社)、[[ヘンシェル]]社、[[MAN (企業)|MAN]]社、[[ラインメタル]]社、[[ダイムラー・ベンツ]]社の5社を含む、計6社に対し、小型トラクター150輌(1ゼーリエ)(Serie=英語でのシリーズ(series)にあたる)の生産が発注され、クルップ社が135両、他の5社が各3両ずつ、担当することになった。 小型トラクターの砲塔と戦闘室の設計は、クルップ社とダイムラー・ベンツ社の競作となり、ダイムラー・ベンツ社の設計案が採用され、2ゼーリエから搭載されることになった。 1933年12月から、車体上部構造物が無い車台のみの訓練用車輌(Fahrschulwagen、'''ファールシュルヴァグン''')(1ゼーリエ)の生産が始まり、続いて[[1934年]]7月から、戦闘室・砲塔を持つ戦車型(2ゼーリエ)の生産が開始された。なお、「1ゼーリエ」は「I号戦車A型」には含まれない。また、「2ゼーリエ」=「I号戦車A型」の生産は、上記5社によって行われ、開発メーカーであるクルップ社は加わっていなかった。 ヴェルサイユ条約によってドイツは戦車の生産を禁じられていたため、連合国に戦車であることを察知されないように、秘匿のため、「'''農業用[[トラクター]]'''」(Landwirtschaftlicher Schlepper、'''ラントヴィルトシャフトリッヒャー シュレッパー'''、略号:'''La.S.''')の偽装名称が、生産期間中は使用され続けた。 当初は、「'''機関銃装甲車'''」(Maschinengewehr Panzerwagen、'''マシーネンゲヴェーア パンツァーヴァグン''')と呼ばれたが、[[1936年]]4月の[[ドイツ再軍備宣言|再軍備宣言]]後に、Sd.Kfz.101の[[特殊車輌番号]]とともに、「'''I号戦車A型'''」(Panzerkampfwagen I Ausf. A、'''パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク アー''')の制式名称が与えられた。 ※ドイツ語の「Punkt」(プンクト)は「.」(点、ドット)を意味するが、繋げて読むと、前後の「p、プ」と「t、ト」をほとんど発音しないので、「ウンク」と聞こえる。 [[1936年]]6月までに、818輌のI号戦車A型が生産された。 === I号戦車A型の構成 === [[File:Armor PzKpfw1A.svg|thumb|right|250px|I号戦車A型の各面装甲厚]] I号戦車A型は、開発メーカーであるクルップ社製トラック用の改良型である空冷水平対向エンジン(57馬力)を搭載。 車体構造は当時の主流であったリベット接合ではなく、溶接で組み上げられていた。 [[ドライゼMG13機関銃|MG13k]]機関銃(I号戦車の初期生産型は銃身長が短縮されていないMG13機関銃を装備)を左右並列に連装で装備する[[砲塔|回転砲塔]](砲は搭載されてないので、正確には'''銃塔'''である)は戦闘室の右寄りに搭載され、戦闘室左側に乗員乗降用の水平二分割式のハッチを設けていた。砲塔(銃塔)前面には左右並列に上開き式のバイザーがあった。 砲塔(銃塔)内部には、砲塔後部下端から吊り下げられた車長兼機銃手用の座席が設けられていた。右側に砲塔(銃塔)旋回ハンドル、左側に機関銃の俯仰ハンドルがあった。右手で操作する旋回ハンドルの水平回転円盤の下面には、通常の棒状ハンドルの代わりに、ピストルグリップが付いており、トリガーガードとトリガーからなる、人差し指で引く方式の右側機関銃の撃発装置が付いていた。左手で操作する俯仰ハンドルの垂直回転円盤には、通常の棒状ハンドルの代わりに、左拳で握るT字型ハンドルが付いており、左側機関銃の撃発装置が付いていた。これらにより、旋回・俯仰操作をしながらの、左右機関銃の、同時もしくは別々の射撃が可能であった。左右のMG13kは前後にずらされていた。左右のMG13kの間には望遠鏡式照準器があった。MG13kは、ベルト給弾方式ではなく、25発入りバナナ型マガジンによる給弾方式なので、継続射撃能力は劣っていた。各MG13kの左側面にはマガジンが、右側面には薬莢入れが付いていた。各MG13k自体にも通常のMG13と同じく、ピストルグリップが付いており、トリガーガードとトリガーからなる、人差し指で引く方式の撃発装置が付いていた。 弾薬は、[[7.92x57mmモーゼル弾]]で、通常弾が25発入りマガジン61個分の1,525発、[[K弾|SmK弾]](鋼芯徹甲弾)が25発入りマガジン25個分の625発の、計2,150発を車内各部のマガジンラックに収納していた。他に機関銃に取り付けてある分など即応弾が100発、計2,250発を積載していた。 足回りは参考としたヴィッカース社製[[ヴィッカース・ドラゴン|軽トラクター]]のリーフスプリングを用いたボギーを踏襲していたが、4つの転輪を持つヴィッカース・トラクター(最後尾転輪が誘導輪を兼ねる)に対し、負荷の掛かる最前部にコイル・スプリングで独立懸架した転輪を追加、最後尾の誘導輪を兼ねる転輪は大径化し、さらに2組のボギー外側に補強用のガーダービームを追加した。履帯は高マンガン鋼製、シングル・ドライピン式スケルトン・タイプで、形状はヴィッカース社製ほぼそのままのコピーだった。 I号戦車は、容積の問題から砲塔内に収容できなかったので、車体内戦闘室右前部(操縦手の斜め右前方、車長の足元前方)に、[[電撃戦]]の要である無線機(Fu.2受信機もしくはFu.5送受信機、通常はFu.2受信機)を、標準装備として備えていた。受信機は操縦手が無線手を兼任して操作した。各車は、戦闘指揮を専門とする「I号指揮戦車」の指示に従って、部隊全体で統一行動を行った。戦闘室の右前方に、起倒式の無線アンテナがあった。 車長と操縦手は車内では伝声管を通じてやり取りをした。 === I号戦車B型の開発 === [[File:Bundesarchiv Bild 101I-256-1234-06, Paris, Wehrmachtsparade.jpg|thumb|right|250px|I号戦車B型。[[パリ]]でのパレードに参加した武装親衛隊の車両]] 生産されたI号戦車A型は早速部隊配備され、再軍備宣言をした[[ナチス・ドイツ]]の軍事力をアピールする役を果たしたが、運用上では、エンジンの出力不足や過熱問題、走行安定不良などの問題点が浮上した。これらを解決するため、小型指揮戦車用に開発された、[[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]]製エンジンを搭載した延長車体が戦車型にも採用されることとなった。 クルップ社とダイムラー・ベンツ社によって開発された、延長車体のI号戦車は、当初、従来型の「'''クルップ型 1A 農業用トラクター'''(1A La.S. Krupp)」に対し、「'''マイバッハ型 1B 農業用トラクター'''(1B La.S. May)」の秘匿名称が与えられていたが、後に「'''I号戦車B型'''」(Panzerkampfwagen I Ausf. B、'''パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク ベー''')の制式名称となった。 I号戦車B型は、A型では接地していた誘導輪を独立させて持ち上げ、転輪を1つ追加、同型の転輪2つずつをボギーで支える形式となった。これに伴い、上部転輪も1つ追加された。マイバッハ製水冷エンジンNL38TR(100馬力)への変更に伴い、機関室は前後に延長され形状も変化したが、車体前部、戦闘室、砲塔はごく細部の仕様変更を除き、基本的にそのままとされた。I号戦車B型は、A型の最終シリーズと並行して、「5aゼーリエ」「6aゼーリエ」として生産に入り、[[1935年]]8月から[[1937年]]6月にかけて675輌が生産された。「I号戦車B型」の生産は、上記6社からクルップ社とラインメタル社を除いた、グルゾン製作所、ヘンシェル社、MAN社、ダイムラー・ベンツ社の4社によって行われた。 == 戦史 == [[File:Panzer I Ausf. A at El Golos.jpg|thumb|right|250px|スペインのエル・ゴラッソ(El Goloso)装甲車両博物館に展示されている、I号戦車A型。スプロケットと履帯がM113装甲兵員輸送車の物に換装されている。]] I号戦車は本来、訓練と戦車生産技術の習得を目的としたものだったが、その目的のためでさえ小型軽量に過ぎ、時をおかず [[II号戦車]]の開発が行われることとなった。 再軍備宣言後の軍事パレードや[[1938年]]の[[アンシュルス|オーストリア合邦]]で大々的に使用された。 [[スペイン内戦]]では、[[1936年]]から1939年にかけて、実戦評価テストを兼ねて計132輌(I号戦車A型96輌、B型21輌、I号指揮戦車B型4輌、砲塔の無い訓練戦車1輌、残り10輌は不明)がドイツからスペインのナショナリスト側に供給された。 初期に送られた車両は、[[ヴィルヘルム・フォン・トーマ|ヴィルヘルム・ヨーゼフ・リッター・フォン・トーマ]](Wilhelm Josef Ritter von Thoma)中佐指揮下の「トーマ集団(Gruppe Thoma)」(「ドーネ装甲集団(Panzergruppe Drohne)」としても知られる)に置かれた。その主な任務は、戦車、対戦車砲、戦車運搬車、火炎放射器、などの使用/運用法や、損傷車両の修理などの、スペイン人への指導であった。ドイツ人は戦闘で戦車に搭乗しないように指示されていた。 追加車両や交換部品は、内戦開始直後にドイツ・イタリア・ソ連を含む各国の間で結ばれた不介入協定を回避するために、ドイツが兵器をスペインに送るために作ったダミー会社である「Sociedad Hispano-Marroquí de Transportes」(HISMA)を通じて送られた。 この時の輸出により、スペインは、ドイツに次ぐ、I号戦車の保有国となった。 {| class="wikitable" style="margin: auto; text-align: center;" summary="Summary of Panzer Is sent to Spain between 1936 and 1939" |+ I号戦車のスペインへの納入数(1936–1939)<ref>{{cite book |last= García |first= José María |author2=Lucas Molina Franco |title= Las Armas de la Guerra Civil Española |year= 2006 |publisher= La Esfera de los Libros |location= Madrid |language= es |page= 613 |isbn = 84-9734-475-8}}</ref> |- ! 日付 ! 車両台数 ! 追加情報 |- | 1936年10月 | 41 | コンドル軍団の一部を形成した |- | 1936年12月 | 21 | &nbsp; |- | 1937年8月 | 30 | &nbsp; |- | 1937年末 | 10 | &nbsp; |- | 1939年1月 | 30 | &nbsp; |- | '''総計:''' | 132 | &nbsp; |} 1936年10月末頃、スペイン内戦で初めての戦車戦が記録された。[[火炎瓶|モロトフ・カクテル]]が初めて使用され、注目されたのも、この戦いである。 I号戦車の交戦相手は、45 mm戦車砲(I号戦車を500メートルの距離から撃破可能)を搭載した、人民戦線側の[[BA-6]]や[[T-26]]であった。ナショナリスト側は火力の不利を相殺するために、人民戦線側のT-26を鹵獲し、自軍に配備した。 I号戦車は当初、7.92 mm鋼芯徹甲弾を使用して近距離(150メートル以下)でT-26を撃破することができたが、人民戦線側の戦車はI号戦車の機関銃の影響を受けない距離で交戦し始めた。これに対し、[[1937年]]8月以降、ナショナリスト側は、イタリアの[[ブレダM35 20mm機関砲|ブレダ M35 20 mm機関砲]](構造がドイツの[[2 cm Flak 30|2 cm Flak 30機関砲]]よりシンプルであることから選ばれ、距離250メートルで40 mm厚の装甲を貫徹可能であった)をI号戦車の嵩上げした砲塔に搭載することを計画し、何両(少なくとも4両の存在が確認されている)かが改造されたものの、人民戦線側から十分な数のT-26が鹵獲されたため、20 mm機関砲搭載型へのI号戦車のさらなる改造は中止された。 1938年後半には、ソ連戦車(T-26またはBT-5)から取り外した45 mm戦車砲を搭載するために、さらに、その少し後には、マクレーン(McClean)37 mm対戦車砲を搭載するために、I号戦車が[[セビリア]]の兵器工廠に送られた。その後、どうなったのかは不明である。 また、より本格的な戦車の数量不足から、第二次世界大戦においても特に緒戦時に多用された。開戦時には[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]の装備する戦車のおよそ半数が、I号戦車によって占められていた。 その脆弱さはスペイン内戦ですでに露呈しており、緒戦時の戦場であれ本格的な戦闘は無理だったが、[[ポーランド侵攻|ポーランド]]、[[北欧侵攻|デンマーク・ノルウェー侵攻]]、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス]]、[[バルカン戦線 (第二次世界大戦)]]、[[バルバロッサ作戦]]、[[北アフリカ戦線]]など、ドイツ軍の主だった戦場すべてで使用された。砲を持つ敵戦車や[[対戦車砲]]に対抗できず大きな損害を出したが、III号戦車やIV号戦車が充足されるまで前線で使われ続けた。後には後方警備や本来の訓練用途、弾薬運搬車などの改造車両のベースとなった。改造の際に撤去された銃塔は要塞([[大西洋の壁]]など)のトーチカに流用されている。 [[中華民国]]に輸出されたA型(1937年6月に15輌が到着)は、訓練不十分なまま、一か月後に始まった[[日中戦争]]に投入され、[[南京攻略戦|南京防衛戦]]に使われた。この際、[[大日本帝国陸軍|日本軍]]によって、4輌が[[鹵獲]]された。鹵獲された車体は、'''クルップ軽戦車'''または'''独国一号戦車'''の名称で[[陸軍技術本部]]に送られ、溶接車体や駆動部、機関銃の装備状態が調査された後、昭和14年頃に[[靖国神社]]で展示された。ただし、ドイツとの国交を考慮して、「[[ソビエト連邦|ソビエト]]製の鹵獲戦車」として展示された<ref>[[藤田昌雄]]『もう一つの陸軍兵器史 知られざる鹵獲兵器と同盟軍の実態』 [[光人社]] [[2004年]] ISBN 4-7698-1168-3</ref>。その後、37 mm砲(形式不明)に対する抗堪性射撃試験の標的に用いられた。 [https://i.imgur.com/1CHUPTU.jpeg] - 東京にて展示中のI号戦車A型。1939年(昭和14年)1月8日~15日。<br> [https://tanks-encyclopedia.com/wp-content/uploads/2017/03/IMG_0821-640x414.jpg] - 同じく鹵獲された、国民党軍のルノーFTやT-26(武装無し)やヴィッカース6トン戦車Mk.E B型とともに、[[西宮市|西宮]]の[[阪神甲子園球場]]にて展示中の2両のI号戦車A型。1939年2月。<br> [https://i.imgur.com/Wu2FIIO.jpeg] - [[陸軍技術本部]]でテスト中のI号戦車A型。操縦窓横の車体前面に陸軍の徽章である星章が追加されている。<br> [https://i.imgur.com/EeisZWT.jpeg] - 陸軍技術本部でテスト中のI号戦車A型。車体後面左側にナンバープレートが追加されている。<br> [[国民革命軍|中国国民党軍]]のI号戦車A型には、三色迷彩が施され、車体前面と背面に3桁の識別番号が、車体側面に[[中国国民党]]の[[青天白日旗|シンボルマーク]]が、描かれた。内には、主武装をソ連の[[DP28軽機関銃|DT-29]]に換装した車両も存在した。 [https://i.imgur.com/4ZHqYhV.jpeg] - [[南京]]で放棄された、DP機関銃装備型I号戦車A型。1937年12月。<br> [[スペイン陸軍]]では、[[1954年]]に[[M47パットン]]に置き換えられるまで、I号戦車が軍務に就いていた。 == バリエーション == {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- style="vertical-align:top; background-color:#996; font-weight:bold; color:#fff" | colspan="5" | Technische Daten der Versionen des Panzer I |- style="vertical-align:top; background-color:#ddb;" | | A型 | B型 | C型 (VK.6.01) | F型 (VK.18.01) |- style="vertical-align:top; background-color:#ddb;" | colspan="5" | <span style="color:#ddb;"> 0</span>主な特徴 |- | 重量 | 5,4 t | 6,0 t | 8,0 t | 20 t |- | 全長 | 4,02&nbsp;m | 4,42&nbsp;m | 4,19&nbsp;m | 4,38&nbsp;m |- | 全幅 | colspan="2"|2,06&nbsp;m | 1,92&nbsp;m | 2,64&nbsp;m |- | 全高 | colspan="2"|1,72&nbsp;m | 1,94&nbsp;m | 2,05&nbsp;m |- | 乗員数 | colspan="4"|2 |- | 生産期間 | 1934-1936 | 1935-1937 | 07-12/1942 | 06-12/1942 |- | 生産数 | 818 | 675 | 40 | 30 |- | 武装 | colspan="2"|2 x MG 13k (7,92&nbsp;mm) | 1 x [[Maschinenkanone|MK]] EW 141 (7,92&nbsp;mm)<br />1 x MG 34 (7,92&nbsp;mm) | 2 x MG 34/3 (7,92&nbsp;mm) |- | 搭載弾薬 | colspan="2"|1,525発 | | |- style="vertical-align:top; text-align:center; background-color:#ddb;" | colspan="5" | 装甲 |- | 前面 | colspan="2"|13&nbsp;mm / 27-63° | 30&nbsp;mm / 20-80° | 80&nbsp;mm / 20-80° |- | 側面 | colspan="2"|13&nbsp;mm / 70-90° | 20&nbsp;mm / 82-90° | 50&nbsp;mm / ~ 90° |- | 後面 | colspan="2"|13&nbsp;mm / 50-75° | 20&nbsp;mm / 30-75° | 50&nbsp;mm / 14-75° |- | 上面 | colspan="2"|6&nbsp;mm / 0-50° | 10 / 0° | 25&nbsp;mm / 0° |- | 底面 | colspan="2"|6&nbsp;mm / 0° | 10&nbsp;mm / 0° | 25&nbsp;mm / 0° |- | 砲塔前面 | colspan="2"|13&nbsp;mm / 80° | 30&nbsp;mm / 80-90° | 80&nbsp;mm / ~ 90° |- | 砲塔防盾 | colspan="2"|13&nbsp;mm / 曲面 | 30&nbsp;mm / 曲面 | 80&nbsp;mm / 曲面 |- | 砲塔側面 | colspan="2"|13&nbsp;mm / 68° | 20&nbsp;mm / ~ 70° | 50&nbsp;mm / ~ 70° |- | 砲塔後面 | colspan="2"|13&nbsp;mm / 68° | 20&nbsp;mm / ~ 70° | 50&nbsp;mm |- | 砲塔上面 | colspan="2"|8&nbsp;mm / 0° | 10&nbsp;mm / 0° | 25&nbsp;mm / 0° |- style="vertical-align:top; text-align:center; background-color:#ddb;" | colspan="5" | 諸性能 |- | エンジン | クルップ M 305<br />[[水平対向4気筒]]<br />空冷 | マイバッハ NL 38 TR<br />[[直列6気筒]]<br />[[水冷]] | colspan="2"|マイバッハ HL 45 P<br />直列6気筒<br />水冷 |- | 出力/回転数 | 57 PS / 2,500 | 100 PS / 3,000 | 150 PS / 3,800 | 150 PS / 3,800 |- | 排気量 | 3,460&nbsp;cm{{sup|3}} | 3,790&nbsp;cm{{sup|3}} | 4,678&nbsp;cm{{sup|3}} | 4,678&nbsp;cm{{sup|3}} |- | 変速機 (前進/後進) | colspan="2"|5 / 1 | 6 / 1 | 4 / 1 |- | 出力重量比 | 10,6 PS/t | 16,7 PS/t | 18,8 PS/t | 7,1 PS/t |- | 最高速度 | 37&nbsp;km/h | 40&nbsp;km/h | 65&nbsp;km/h | 25&nbsp;km/h |- | 燃料搭載量 | 144 l | 146 l | | |- | 航続距離 | 145&nbsp;km (整地)<br />100 (不整地) | 140&nbsp;km (整地)<br />115 (不整地) | 300&nbsp;km (整地) | 150&nbsp;km (整地) |- | キャタピラ幅 | 28&nbsp;cm | 28&nbsp;cm | 39&nbsp;cm | 54&nbsp;cm |- | 接地圧 | 0,40 kg/cm{{sup|2}} | 0,42 kg/cm{{sup|2}} | 0,84 kg/cm{{sup|2}} | 0,46 kg/cm{{sup|2}} |- | クリアランス | colspan="2"|29&nbsp;cm | | |} ; I号戦車A型 : Panzerkampfwagen I (MG) Ausf. A, (Sd.Kfz.101) : 初期型。エンジンは[[クルップ]]社製のM305(空冷水平対向4気筒57馬力)を搭載。 ; I号戦車A型 ブレダ20 mm機関砲搭載型 : Panzer I Breda : I号戦車A型は、[[スペイン内戦]]で実戦参加するが、人民戦線側の装備する[[T-26 (戦車)|T-26]]軽戦車や[[BT-5]]に歯が立たたず、4輌が[[イタリア]]製の[[ブレダM35 20mm機関砲|ブレダM35 20 mm対空機関砲]]を搭載するように、砲塔を嵩上げして、改造された。改装は1937年夏、[[セビリア]]のFábrica de Armas(兵器工廠)で行われた。 ; I号戦車B型 : Panzerkampfwagen I (MG) Ausf. B, (Sd.Kfz.101) : 出力不足であったクルップ社製空冷エンジンから[[マイバッハ]]製のMaybach NL38 TR(水冷直列6気筒100馬力)に換装、変速機も変更した型。これに伴い機関室が40 cm延長され、転輪もA型の4組から5組に増やされた。接地していた後方誘導輪の位置もこれ以降の戦車と同様に上方に移された。 ; I号戦車C型 : [[File:Pz.IC.jpg|thumb|250px|I号戦車C型]] : Panzerkampfwagen I (MG) Ausf. C, VK.6.01 : A・B型とは全く別設計の偵察型。開発はクラウス・マッファイ社。上部構造物はダイムラー・ベンツ社、砲塔はヴェクマン社が製造した。元々は3 tの車体に100馬力のエンジンを搭載した路上最高速度80 km/hの高速豆戦車(I号戦車の原型である小型トラクターへの先祖返りとも言える)として、[[1937年]]に開発が始まったが、最終的に8 tになってしまった。偵察の他、空挺戦車としての用途が考えられたが、時機を逸し(また、重量が増えすぎたからか)、空挺作戦に用いられる事は無かった。強力なエンジン、クロスドライブ式変速装置、トーションバー・サスペンション、オーバーラップ転輪、を持ち、増加試作車では路上最大速度65 km/hの高速を発揮した。一見、II号戦車同様の20mm機関砲を装備しているように見えるが、本車特有の7.92mm EW141半自動対戦車銃である。使用弾薬7.92x94 mm、銃身長1,085 mm、銃口初速1,170 m/sのEW141は、距離300 mで30 mm厚の均質圧延鋼板を貫徹可能であった。1941年7月に「I号戦車新型」(Panzerkampfwagen I n.A.、'''パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) ノイアー・アーチ''')の公式呼称が与えられ、後に「I号戦車C型」(Panzerkampfwagen I Ausf. C、'''パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク ツェー''')の制式呼称が与えられた。[[1939年]]9月には既に開発は完了していたが、生産は後回しにされ、[[1942年]]7月~12月に40輌が生産され、[[1943年]]に部隊配備、実戦を経験した後、訓練用に回された。 : {{-}} ; I号戦車F型 : [[File:Pz II Neu 001.jpg|thumb|250px|セルビアのベオグラード軍事博物館のI号戦車F型]] : Panzerkampfwagen I Ausf. F、'''パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク エフ''', VK.18.01 : 前面80mmの重装甲歩兵支援型。これもA・B・C型とは全くの別設計で、[[フランス]]の[[マジノ線]]を攻略する際の、砲撃をひきつける囮役として開発された。開発は、C型と同じく、クラウス・マッファイ社。上部構造物と砲塔はダイムラー・ベンツ社が製造した。1939年11月に開発が始まり、1940年6月に試作車が完成。[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス戦]]には間に合わなかったが、1942年4~12月に30輌が生産され、半数はII号戦車J型(同時期に同目的で開発されたI号F型とII号J型は、部品を共用している)と共に、東部戦線で使用された。現在も[[セルビア]]の[[ベオグラード]]軍事博物館に実車が残っている。「'''Minenknacker、ミーネンクナカー'''」(「地雷破砕車」の意。意訳すれば「地雷処理車」)のニックネームがある。 : {{-}} == 派生型 == ; I号戦車A型弾薬運搬車(ゲレート35) : [[ファイル:Munitionsschlepper I A.jpeg|thumb|right|250px|I号戦車A型弾薬運搬車(ゲレート35)]] : Munitionsschlepper auf Panzerkampfwagen I Ausf. A (Sd.Kfz.111) , Gerät 35 : 戦車連隊の装備で、同じ部隊の戦車への弾薬補給を目的とする車両。[[砲塔]]の無いA型の開口部に大型のハッチが取り付けられており、後の改造型弾薬運搬車とは異なる補給専用に作られた新造車両である。開戦時から大戦中期まで用いられた。 ; I号a型/b型弾薬運搬車 : Munitionsschlepper Ia , Ib、'''ムニッチオーンツシュレッパー''' : 1942年春、部隊配備から外されたI号戦車の砲塔を撤去し、代わりに鋼製の箱型上部構造物を載せ、キャンバス製カバーで上面を覆った改造型装甲弾薬運搬車。翌年には残存するI号戦車全てをこのように改造する命令が出されたが、砲塔を外しただけで新造した構造物の無い物もあった。このような改造はその後、旧式化した戦車や[[鹵獲]]した軽戦車でも行われるようになり、余った砲塔は[[要塞]]陣地の[[トーチカ]]に流用された。同様にA型から砲塔を撤去しタンカを載せた野戦救急車型もあった。 ; I号戦車A型架橋車 : Brückenleger、'''ブルックンリーガー''' : A型ベースだが、サスペンションが貧弱なため実用性に劣り、後にII号戦車ベースのものに発展。 : {{-}} ; I号戦車B型爆薬設置車 : Ladungsleger、'''ラドンツリーガー''' : 車体後部にスロープを付けて後方に爆薬を落としていくタイプと、後方に突き出した車内からワイヤーで操作できるアームの先の箱から爆薬50 kgを投下できるものがあった。 ; I号整備作業車 : Instandsetzungskraftwagen、'''インシュタントゼッツォンツクラフトヴァグン''' : 上部構造物を撤去したI号戦車B型で、整備中隊用。 : [[File:Bundesarchiv Bild 101I-265-0006-31, Russland, Befehlspanzer 1.jpg|thumb|right|250px|I号指揮戦車B型、フレームアンテナ付きに改修されたタイプ]] : [[File:Bovington 108 Panzer I 1.jpg|thumb|right|250px|ボービントン戦車博物館所蔵のI号指揮戦車B型]] ; I号指揮戦車 : Kleiner Panzerbefehlswagen (Sd.Kfz.265)、'''クライナー パンツァーベフィルツヴァグン''' : 戦車隊の指揮用装甲車両。1935年から1940年にかけて、ドイツ軍の標準的な指揮戦車であった。内部に余裕のないI号戦車A型の砲塔を撤去して小型の上部構造物を載せ、無線送信設備を追加した物が6両作られ、次いで車体上部全体を大型構造物に変更したB型が184両生産され、専任の無線手1名を搭乗させる内部空間ができたことで、乗員も計3名(指揮官・操縦手・無線手)に増やされた。後にフレームアンテナ(Rahmenantenne、ラハメンアンテーナ)を増設した物もある。戦車型のB型の延長型車台は、元々本車用に新規に開発されたものである。 : 砲塔を撤去したために武装がなくなったが、代わりに前面にボールマウント銃架を設けて自衛用の機銃を1挺装備している。車体には900発の機関銃弾薬が搭載可能であり、MG34または旧式のMG13が搭載された例もあったが、実戦では内部スペースを確保するために、機関銃と弾薬庫が取り外されるのが一般的であった。内部には、地図板、書類、その他、作戦指揮や無線操作に必要なキットを収納するスペースが存在した。 : 無線機はFu.6送受信機もしくはFu.8送受信機を装備。 : 本車は、ポーランド戦、低地諸国・フランス戦、北アフリカ戦、バルカン半島作戦、で活躍した。 : ポーランド戦の戦訓から、上部構造の表面に15 mm厚の増加装甲(元の装甲と合計すると28 mm厚)が急遽、施された。 : 生産された190両の内96両は、1940年5月の低地諸国とフランスへの侵攻開始時に、まだ使用されていた。 : ポーランド戦の後、多くが'''I号装甲救急車'''(Sanitätskraftwagen I (Sd.Kfz.265)、'''ザニテーツクラフトヴァグン アイン(ツ)''')に改造され、フランス戦で活躍した。 : 1941年のバルカン半島作戦以後、主力が「[[III号戦車]]」に移ると、指揮戦車も、より大型の「[[III号戦車|III号指揮戦車]]」にとって代わられた。 : 中隊レベルでは置き換えられたものの、1942年まで上級指揮官レベルで活躍し続けた。 : 不要となったI号指揮戦車は、砲兵観測車両や連絡車両などに転用された。一部は、無線操縦式の地雷除去車(Minenräumwagen BI/BII (Sd.Kfz.300)、'''ミーネンロイムヴァグン BI/BII'''に改造され、使用された。 : 少数のI号指揮戦車がハンガリーに輸出された。 : 大戦末期にも、わずかながらI号指揮戦車がドイツ軍に配備されていたが、ほとんどが訓練用であった。 : {{-}} ; [[I号自走重歩兵砲]] : [[File:Bundesarchiv Bild 101I-163-0328-15, Griechenland, Panzer I B mit I.G. 33.jpg|thumb|right|250px|I号自走重歩兵砲]] : 15 cm sIG 33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf. B : B型に15 cm sIG 33重歩兵砲を搭載したもの。 : {{-}} ; I号3.7 cm対戦車自走砲(PaK 35/36) : 3,7 cm PaK 35/36 L/45 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf. A : 砲塔を撤去したA型車台に、[[3.7 cm PaK 36|PaK 35/36 45口径 37 mm対戦車砲]]を、車輪と砲脚を除いて、シールドごと搭載したもの。ポーランド戦などで対戦車・対人攻撃に活躍。 ; [[I号対戦車自走砲|I号4.7 cm対戦車自走砲]] : [[File:Bundesarchiv Bild 101I-782-0041-31, Nordafrika, Panzerjäger 1.jpg|thumb|right|250px|I号4.7 cm対戦車自走砲]] : 4,7 cm PaK(t) (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf. B : 砲塔を撤去したB型車台に、[[47mm P.U.V. vz. 36砲|チェコのシュコダ社製43.4口径 1936年型 47 mm対戦車砲(47 mm K.P.U.V. vz.36)]]を、車輪と砲脚を除いて車載型に改造した物を、シールドごと搭載したもの。42口径50 mm戦車砲搭載のIII号戦車G型が登場するまでの繋ぎとして貴重な対戦車戦力として活躍。{{-}} ; I号5 cm対戦車自走砲(PaK 38) : 5 cm PaK 38 L/60 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf. B もしくは Panzerjäger IB mit PaK 38 L/60 : 砲塔を撤去したB型車台に、[[5 cm PaK 38|PaK 38 60口径 50 mm対戦車砲]]を、車輪と砲脚を除いて、シールドごと搭載したもの。現地改造車両。 ; I号7.5 cm対戦車自走砲(PaK 40) : 7,5 cm PAK 40 L/46 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf. B もしくは Panzerjäger IB mit PaK 40 L/46 : 砲塔を撤去したB型車台に、[[7.5 cm PaK 40|PaK 40 46口径 75 mm対戦車砲]]を、車輪と砲脚を除いて、シールドごと搭載したもの。現地改造車両。ベルリン戦に参加。 ; I号7.5 cm対戦車自走砲(StuK 40) : 7,5 cm StuK 40 L/48 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf. B もしくは Panzerjäger IB mit StuK 40 L/48 : 砲塔を撤去したB型車台に、[[III号突撃砲]]用のStuK 40 48口径 75 mm突撃砲を剥き出しで搭載したもの。現地改造車両。ベルリン戦に参加。その外見は、I号戦車の原点であるL.S.K.を彷彿とさせる。重量は最大2トン増加したと推測される。乗員は、車内前部左側の操縦手、砲左側の車長兼砲手、砲右側の装填手、の3名と推測される。砲弾はエンジンルーム上面に置いたと推測される。車体前方に砲身固定用のトラベリング・ロックが追加されている。写真の車両はなぜか履帯を履いていない。 ; I号対空戦車 : 2 cm Flak38 auf Panzerkampfwagen I Ausf. A : アルケット社でA型の砲塔と車体上部を撤去し、操縦席を前進させるなど改造。開口部にH鋼で作った台座を置き、そこに[[2 cm Flak 38]]対空機関砲を搭載したもので、乗員は5名(または装填手2名と測的手を加え8名)。24両が生産され、やはりI号戦車A型から改造された同数の弾薬運搬車型(「ラウベ」と呼ばれた)、中隊本部のI号戦車と共に、3個中隊からなる第614対空大隊(自動車化)を編成した。 : 1941年9月から実戦配備されたが、当時の[[独ソ戦|東部戦線]]では[[制空権]]がドイツ側にあったため、むしろ水平射撃による[[歩兵]]支援に活躍した。しかし1942年冬、[[スターリングラード攻防戦|スターリングラード方面]]で装備を全て失い、解隊された。 ; III号戦車砲塔並びに木材ガス発生装置搭載 I号戦車 : Panzer I Ausf. A(もしくはAusf. B) mit Panzer III Türm und Holzgasgenerator : A型の車体にIII号戦車の車体上部と砲塔と燃料節約のための木材ガス発生装置を搭載した教育用戦車。B型ベースの車両も存在。1942~43年頃。 ; 木材ガス発生装置搭載 I号火炎放射戦車 : Pz.kpfw I Ausf. A Holzgas Flammenwerfer、'''(略)ホルツガース フラマンヴェアファー''' : A型の車体に火炎放射器と木材ガス発生装置を搭載した火炎放射戦車。木材ガスは、火炎放射器の燃料ではなく、エンジンの燃料である。ベルリン戦(1945年4月16日~5月2日)で、ドイツ軍が即興の車両を投入。武装は Flammenwerfer klein verbessert 40 (または 41) (最大12回放射可能)。車体側面に木板の簡易装甲が貼ってある。 == 輸出戦車計画 == I号戦車の開発に成功したことで、クルップ社は、1930年代後半に、外国への販売を目的とした一連の軽戦車と中戦車を開発することが可能となった。1936年5月、L.K.A.-「外国向け軽戦車」-を開発するというアイディアが初めて表明された。 以下全て(m.K.A.とs.K.Aは除く)、クルップ M311 空冷V8ガソリンエンジン(85 hp/2,500 rpm)を搭載。 ; L.K.A. 1(L.K.A.) : I号戦車を基にした輸出用戦車。L.K.A.は、「Leichter Kampfwagen (für) Ausland」(ライヒター・カンプ(フ)ヴァグン・アウスラン(ト)、外国向け軽戦車)の略。1938年2月に最初の試験車両「L.K.A. 1 Versuchsfahrzeug」(フェアズーフス・ファールツォイク、試作車両)が完成。I号戦車の原型・試作車(プロトタイプ)だと誤解されることがある。 : I号戦車との大きな違いは足回りで、片側が、前方起動輪、中型転輪4個、上部支持輪2個、後方誘導輪からなっていた。転輪は、I号戦車の物よりわずかに大きく、2個ずつが一組となってリーフスプリングで繋がっていた。I号戦車にはあった転輪最前部の衝撃吸収用の独立した転輪は無かった。I号戦車にはあった転輪側面のガーダービームは、L.K.A.には無かった。後方誘導輪は、I号戦車と異なり、地面スレスレの低い位置に付いていたが、ギリギリ地面と接してはいなかった。これにより後方誘導輪付近では履帯下面が斜め上に持ち上がっていた。これは平坦な路上(良道)では地面と接することなく、履帯の接地面積を減らすことで、摩擦抵抗を小さくし、旋回性能や速度を上げる効果があった。起伏の大きい路外(悪路)では自然に地面と接することになり、履帯の接地面積が増えるので、機動力が向上した。 ; L.K.A. 2(2 cm L.K.A.) : L.K.A.に、砲塔を改修して、KwK30 2 cm機関砲を搭載したタイプ。1938年5月、唯一のプロトタイプが完成。II号戦車の原型・試作車(プロトタイプ)だと誤解されることがある。 ; 2 cm K.A.v. : 2 cm L.K.A.の装甲増厚タイプ。重量は最大7 t、正面装甲は最大30 mmまで増加可能。計画のみで放棄。 ; L.K.B. 1(L.K.B.) : I号戦車を基にしたブルガリア向け輸出用戦車。L.K.B.は、「Leichter Kampfwagen (für) Bulgarien」(ライヒター・カンプ(フ)ヴァグン・ブルガーリアン、ブルガリア向け軽戦車)の略。 ; L.K.B. 2 : I号戦車を基にした輸出用戦車。1938年2月までにL.K.B.1を改造して製作。足回りを改良、後方誘導輪が少し持ち上がっている(路上では接地しない)。 ; L.K.B. 3 : I号戦車B型を改造したスウェーデン向け訓練用戦車。1937年9月までに1両改造。上部構造の代わりにバラストが設置された。スウェーデンは取引を拒否。 ; 2 cm L.K.B. : L.K.B.に、KwK30 2 cm機関砲を搭載したタイプ。砲塔は2 cm L.K.A.の物と同じ。計画のみ。 ; m.K.A.(4,5 cm K.A.v.) : Mittlerer Kampfwagen (für) Ausland(ミットラハー・カンプ(フ)ヴァグン・アウスラン(ト)、外国向け中戦車)の略。L.K.A.やL.K.B.と同じく、クルップ社が開発した輸出用中戦車。[[III号戦車]]あるいは[[IV号戦車]]の原型・試作車だと誤解されることがある。 : 1937年6月時点の仕様では、重量 12トン、エンジン出力 180~200馬力、最高速度 40 km/h、装甲厚 最大25 mm、武装 45 mm砲1門と機関銃2挺、乗員 4名。 : 1937年10月9日、[[陸軍兵器局]]は自軍の[[IV号戦車|最新戦車]]と同じ技術が使われていることから本車を輸出しないことを決定したが、1938年2月、クルップ社は独断で開発を続行。1939年以前に、車体・砲塔・砲の、基本構成要素は完成し、1940年10月までに組み立てられて1輌が完成。試験において良好な結果を得た。第二次世界大戦が始まると、輸出用戦車を生産する余裕も無く、III号戦車にも劣る本車に、自軍からの需要も無く、試作車は最終的にスクラップにされた。 : クルップ社が開発した50口径45 mm半自動戦車砲を搭載。初速750 m/s。距離1,000 mで、90度の角度の40 mm厚の装甲板を貫徹する。車体装甲厚は正面25 mm、側面18 mm、砲塔装甲厚は正面25 mm、側面16 mm。230馬力のマイバッハHL 98エンジンを搭載。車体前方機関銃と同機銃手は無い。 ; s.K.A. (7,5 cm K.A.) : Schwerer Kampfwagen (für) Ausland(シュヴェラー・カンプ(フ)ヴァグン・アウスラン(ト)、外国向け重戦車)の略。m.K.A.に7.5 cm砲を搭載する14 t級重戦車。早い段階で計画中止。 == 登場作品 == {{Main|I号戦車に関連する作品の一覧}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考資料 == * 佐藤光一、「特集:ドイツI号軽戦車」、『月刊グランドパワー2000/4号』、ガリレオ出版 * 尾藤満ほか、『アハトゥンク・パンツァー第7集 I号戦車・II号戦車と派生型編』、大日本絵画、2003 * Peter Chamberlain, Hilary Doyle, 『''ENCYCLOPEDIA OF GERMAN TANKS OF WORLD WAR TWO'' - 月刊モデルグラフィックス別冊・ジャーマンタンクス』、大日本絵画、1986 == 関連項目 == {{Commonscat|Panzerkampfwagen I}} * [[軽戦車]] == 外部リンク == {{外部リンクの注意|section=1}} L.S.K.(ライヒト・ゼルプストファール・カノーネ)の完成想像図 * [http://www.wardrawings.be/WW2/Files/1-Vehicles/Axis/1-Germany/04-Panzerjaegers/Others/37mmPak-LSK.htm] I号戦車の開発の参考となった、VAE 393 軽トラクター。足回り(片側)の配置は、前方から、起動輪-転輪2個-転輪1個-接地誘導輪、の計5個。新しい小型トラクター(I号戦車A型)の足回りは、これに独立制衝転輪を1個足したものと言える。 * [https://firearmcentral.fandom.com/wiki/Carden-Loyd_Serial_No._VAE_393?file=Kleintraktor+Carden-Loyd+VAE+393+img1.jpg] * [https://firearmcentral.fandom.com/wiki/Carden-Loyd_Serial_No._VAE_393?file=Kleintraktor+Carden-Loyd+VAE+393+img2.jpg] I号戦車A型 ブレダ20 mm機関砲搭載型 * [https://www.imgmsplus.com/item/92000/92263_2.jpg] * [https://www.imgmsplus.com/item/92000/92263_3.jpg] * [https://www.imgmsplus.com/item/92000/92263_4.jpg] 増加装甲を施されたI号指揮戦車B型 * [https://www.italeri.com/uploads/products/7072_ILL-LR.jpg] I号指揮戦車改造 I号装甲救急車 * [http://www.wardrawings.be/WW2/Files/1-Vehicles/Axis/1-Germany/07-Others/Panzer1/Sanitatskraftwagen1A.htm] - I号装甲救急車 A型 * [http://www.wardrawings.be/WW2/Files/1-Vehicles/Axis/1-Germany/07-Others/Panzer1/Sanitatskraftwagen1B.htm] - I号装甲救急車 B型 I号7.5 cm対戦車自走砲(StuK40) * [https://www.flickr.com/photos/kruegerrossi/12634901003/] * [https://m.media-amazon.com/images/I/71E-QOG48dL._AC_SL1500_.jpg] III号戦車砲塔並びに木材ガス発生装置搭載 I号戦車 * [https://i.redd.it/3rihwhb5ld211.jpg] * [http://www.wardrawings.be/WW2/Files/1-Vehicles/Axis/1-Germany/01-lePanzers/PzKpfw1/PzKpfw1-Ausf.B_Pz3Turret.htm] 木材ガス発生装置搭載 I号火炎放射戦車 * [http://www.wardrawings.be/WW2/Files/1-Vehicles/Axis/1-Germany/01-lePanzers/PzKpfw1/Pz1A-Holzgas-FlWerfer.htm] * [https://i.imgur.com/jxHzPxu.png] 訓練の標的としてM4A1 シャーマン中戦車に偽装したI号戦車A型(1945年 ベルリン) * [https://i.imgur.com/rcNmmib.png] 上部構造物の無いI号訓練戦車(Fahrschulwagen I、ファールシュルヴァグン アイン(ツ))に、連装機銃架(ツヴィリンク ソッケル)を据え付け、[[MG34]]または[[MG42]]を連装で搭載した、訓練用対空自走砲 * [https://i.imgur.com/XSOdVjM_d.webp?maxwidth=760&fidelity=grand] * [https://i.imgur.com/fatilEA.png] L.K.A. 1(L.K.A.) * [https://aces.gg/uploads/posts/2014-02/1393402974_lka1-1.png] * [https://aces.gg/uploads/posts/2014-02/1393403031_lka1-2.png] L.K.A. 2(2 cm L.K.A.) * [https://aces.gg/uploads/posts/2014-02/1393403310_lka2.png] L.K.B. 1(L.K.B.) * [https://aces.gg/uploads/posts/2014-02/1393403537_lkb1.png] L.K.B. 2 * [https://aces.gg/uploads/posts/2014-02/1393403727_lkb2.png] L.K.B. 3 * [https://aces.gg/uploads/posts/2014-02/1393403756_lkb3.png] M.K.A.(4.5 cm K.A.v.) * [https://aces.gg/uploads/posts/2014-02/1393403375_mka-1.png] * [https://aces.gg/uploads/posts/2014-02/1393403372_mka-2.png] I号戦車の砲塔内部 * [https://i.imgur.com/TU17xr0.png] * [https://i.imgur.com/fce46U3.jpg] * [https://i.imgur.com/1EdtzBH.jpg] * [https://i.imgur.com/ZwJnWcD.jpg] {{戦間期の戦車}} {{第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1こうせんしや}} [[Category:I号戦車|*]] [[Category:ドイツ国防軍の戦車]] [[Category:軽戦車]] [[Category:豆戦車]]
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II号戦車
II号戦車(にごうせんしゃ、Panzerkampfwagen II、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン ツヴァイ、特殊車輌番号 Sd.Kfz.121)は、ナチス・ドイツで作られた軽戦車(10トン級)である。 a~c型、A~C型、F型に至る標準型と、砲塔は共通だが車体は全く別設計のD、E型、さらに(コンセプト上の)発展型で、これも別設計のG型以降の各タイプがある。 標準型II号戦車は、I号戦車ではできない砲を扱うための訓練および戦車生産技術の習得用に開発された軽戦車であり、MAN社およびダイムラー・ベンツ社、ヘンシェル社、ヴェクマン社、アルケット社、FAMO社、MIAG社によって生産された。主力戦車であるIII号、IV号の数が揃うまでの繋ぎとして、非力なI号に代わって、ある程度の実戦能力を付与されたものである。試作型は1935年に完成し、1936年から増加試作型が数十輌作られ、翌年からA型が本格的に量産に入った。本車もI号戦車同様に農業用トラクター(独:Landwirtschaftlicher Schlepper, 略号:La.S.) の名目で開発されている。 I号戦車の武装が7.92 mm機関銃 MG 13kであるのに対し、II号戦車は2 cm機関砲 KwK 30に強化されている。a、b型では小転輪を2輪ずつリーフ式サスペンションボギーで支え、さらにそのボギー軸をガーダービームで繋いだ形式であったが、c型では転輪一つごとに独立してリーフスプリング付きアームで支える形式となり、これが以降の型の標準となった。後にはこのシャーシを用いて様々な自走砲が造られた。 再軍備に向けた最初の量産型戦車として1934年に生産が開始されたI号戦車だったが、これは本格的戦車開発のための習作的意味合いが強く、訓練用として使うにも小型過ぎた。また、これに続くべき本格的戦車であるIII号戦車、IV号戦車は、なお開発に手間取ることが予測されたため、その間をつなぐ、I号戦車よりも若干大きく武装も強力な軽戦車の開発が計画された。 開発命令は、I号の生産が始まって間もなく、1934年7月にクルップ、MAN、ヘンシェルの3社に下されたが、その仕様は、戦闘重量は当初La.S.(I号戦車の開発名称)に出されたものの倍の10トン、武装は全周回転砲塔に2 cm機関砲と7.92 mm機銃を同軸に搭載するというものであった。主武装として選ばれたのは、この年に生産が開始された新鋭の2 cm Flak 30機関砲の車載型であった。 3社案の比較検討の結果、MAN社のものが採用され、La.S. 100(農業用トラクター100型)の秘匿名称のもとで、25輌の先行量産型の製作が命じられた。シャーシの生産と最終組立は開発会社のMANが行う一方、上部構造物はI号同様、ダイムラー・ベンツが担当した。 1935年10月に軟鋼製の試作車が完成、続いて当初発注分の25輌の a/1型、続いて同数の a/2型、50輌の a/3型が作られた。実用化を急いだ引き換えに、これら初期の型は、小刻みな改修を重ねながらの生産となった。1937年2月からは、装甲を強化したb型が25輌生産された。 続くc型(25輌生産)は、車体形状は以前の型を引き継いでいるものの、足回りが一新された。これは、ガーダービームを廃し、比較的大直径の転輪をそれぞれリーフスプリングで独立懸架するもので、これが以降の型の標準となった。a各型とb型にはマイバッハ HL57TR(130馬力)エンジンが搭載されていたが、c型では重量増に対応し、マイバッハ HL62TR(140馬力)に強化された。 このc型を経て、II号戦車はようやく本格的量産に入り、略同形のA、B、C型が、1937年7月から、1940年4月にかけて、計1088輌生産された。この生産途中である1938年10月25日、「II号戦車(2 cm)(特殊車両番号121)」(Panzerkampfwagen II(2 cm)(Sd.Kfz.121))の制式名称が与えられた。 乗員配置は、1名用砲塔に車長兼砲手、車体前部左側に操縦手、その後方に無線手兼装填手の、計3名である。無線手は床に座っており、その左側に無線機と2 cm機関砲の弾薬箱があった。無線機はFu.2受信機もしくはFu.5送受信機を装備。砲塔上面に車長用の、車体前部上面左側(操縦席手前)に操縦手用の、車体後部上面左側に無線手用の、乗降用ハッチがある。戦闘室左側後面にはバイザーがあり、無線手が後方を視察できた。エンジンは車台後部右側にある。エンジンから前方に延びたドライブシャフトと、ドライブシャフトと繋がっている車台前部の変速機も、車台右側にある。 II号戦車はまずスペイン内戦で、I号戦車とともにテスト運用された。本格的な主力戦車であるIII号戦車、IV号戦車の生産が間に合わず、第二次世界大戦開始時のポーランド侵攻から主力として実戦投入された。初期の電撃戦ではその軽快性と機動力が大いに発揮され、その戦闘能力も当時においては有効だった。 電撃戦の生みの親とも云われているハインツ・グデーリアンは後に「まさかこれら訓練用戦車で大戦に突入するとは思ってもみなかった。」と語っているが、一方では榴弾も使用できる2 cm機関砲は歩兵の最大の敵である重機関銃手を攻撃するのに最適であり、被弾面積の小ささと単価の安さもあって参謀本部の中にはこの戦車を主力とするよう献言したものもいた。また主砲はもともと重対戦車ライフルから発展した高射機関砲であるために初速が高く、その徹甲弾は相手が軽装甲であれば十分な威力を発揮できた。しかし、対戦車攻撃力を重視するルートヴィヒ・ベックの反対もあり、結局当初の予定通りIII号戦車を主力とする方針が貫かれた。実際にポーランド戦後、III号、IV号の生産がある程度軌道に乗り始めると、II号戦車は偵察・連絡を主任務にするよう格下げされた。しかし、その後もしばらくは、数量的にはなおドイツ軍戦車部隊の主力車両であった。 また、b型以降若干強化されたとはいえ装甲はなお薄く、ポーランド戦では対戦車火器によって大きな損害を蒙り、うち少なくとも78両が修理不能の全損となった。そのため1940年5月以降、c、A~C型の車体前面、砲塔前面に15 mmまたは20 mmの増加装甲を取り付ける改修が行われた。また、フランス戦後の1940年10月には、砲塔上面の大きな角形ハッチに替えて、全周にペリスコープを備えたコマンダー・キューポラが導入され、その改修キットが配布された。 その後も、バルカン戦線、北アフリカ戦線、独ソ戦と、II号は既に非力となりながらも戦い続けた。1941年3月からは、標準型II号戦車の最終型となるF型の生産が開始された。F型はC型までと比べ、基本装甲が全体的に増厚されており、車体前端は平面の組み合わせとなり、戦闘室前面も車体幅一杯の一枚板となった。また、砲塔には最初からキューポラが装着されていた。本来はC型に引き続き生産されるべきものだったが、これら改設計に手間取ったため、生産開始までに約1年の遅れが生じることになった。この頃にはすでに戦車としての価値はほぼ失われつつあったが、一方で、ドイツは装甲師団の大幅な拡張を始めており、その充足用に生産されたのである。生産はFAMO社1社のみで行われ、1942年12月までに524輌が作られた。標準型II号戦車の生産はこれをもって終了したが、車台はその後も派生型である自走砲用に引き続き生産された。 1938年初め、兵器局は新編の軽師団向けに、偵察用高速戦車(Schnellkampfwagen)、秘匿名称La.S. 138(農業用トラクター138型)の開発をダイムラー・ベンツ社に命じた。これは従来騎兵部隊が担ってきた強行偵察・追撃の任にあたるための快速の軽戦車で、標準型のII号戦車の40 km/hの最高速度では不足と考えられたためである。 この新型軽戦車は、砲塔とエンジンは標準型II号戦車と共通だったが、車体は新設計で、そのレイアウトは、同じくダイムラー・ベンツが開発したIII号戦車に似ていた。足回りは大型の複列式転輪が片側4つで上部転輪はなく、ドイツ戦車としては初めてトーションバー・サスペンションとマイバッハ VG102128 プリセレクト式変速機を採用、F&S PF220K 乾式多板クラッチと組み合わせていた。車体前面装甲は同時期の標準型II号戦車より厚く、30 mmとなっていた。そのため車重も10 tと若干重かったが、高速走行に適した駆動系・足回りで、最高速度は55 km/hに達した。 生産はMAN社で行われ、1938年5月から1939年8月にかけ、全43輌が作られた。その後、この戦車には(標準型とは別設計であるにもかかわらず)、II号戦車D、E型(特殊車両番号121)(Panzerkampfwagen II Ausf. D, E (Sd.Kfz.121))の制式名称が与えられた。D型は一般的なシングルピン型乾式履帯を履いていたが、後期に生産されたE型はドイツのハーフトラック系列に似た形状の湿式履帯で(ただし試作車両を除き接地面にゴムパッドは付かない)、これに伴い起動輪、誘導輪の(資料により転輪も)形状が変化していた。D、E型は生産数も残された資料も少ないが、特に湿式履帯を持つE型の写真等は少ない。その後、火炎放射戦車、自走砲用に車台が追加生産されたが、これらはほぼD型仕様の足回りを持っていた。 高速の偵察用車両として開発されたD、E型だったが、確かに路上最高速度は標準型を上回ったものの、不整地走行性能が期待を裏切り、少数のみで生産は打ち切られた。生産車は一個大隊を充足する数で、計画通り軽師団に配属されて1939年のポーランド戦に投入されたが、1940年には部隊から引き上げられ、火炎放射戦車に改装された。 1939年9月15日、ドイツ陸軍兵器局は、30 mmの前部装甲(これは当時の主力中戦車であるIII号戦車E型やIV号戦車D型と同じ厚さである)、2 cmまたは3.7 cm主砲、最高速度50 km/hを備えた、高速・重装甲の偵察戦車の新しい仕様を発表した。これは元はドイツのMAN社に送られたが、1940年7月31日にシュコダ社とBMM(元ČKD)社にも送られ、三社の競作となった。MAN社の物が「II号偵察戦車L型」として採用され、シュコダ社の物が「シュコダ T-15、あるいは、II号偵察戦車シュコダ型」、BMM(元ČKD)社の物が「新型38(t)戦車」である。
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D, E (Sd.Kfz.121))の制式名称が与えられた。D型は一般的なシングルピン型乾式履帯を履いていたが、後期に生産されたE型はドイツのハーフトラック系列に似た形状の湿式履帯で(ただし試作車両を除き接地面にゴムパッドは付かない)、これに伴い起動輪、誘導輪の(資料により転輪も)形状が変化していた。D、E型は生産数も残された資料も少ないが、特に湿式履帯を持つE型の写真等は少ない。その後、火炎放射戦車、自走砲用に車台が追加生産されたが、これらはほぼD型仕様の足回りを持っていた。", "title": "\"騎兵戦車\"D、E型" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "高速の偵察用車両として開発されたD、E型だったが、確かに路上最高速度は標準型を上回ったものの、不整地走行性能が期待を裏切り、少数のみで生産は打ち切られた。生産車は一個大隊を充足する数で、計画通り軽師団に配属されて1939年のポーランド戦に投入されたが、1940年には部隊から引き上げられ、火炎放射戦車に改装された。", "title": "\"騎兵戦車\"D、E型" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1939年9月15日、ドイツ陸軍兵器局は、30 mmの前部装甲(これは当時の主力中戦車であるIII号戦車E型やIV号戦車D型と同じ厚さである)、2 cmまたは3.7 cm主砲、最高速度50 km/hを備えた、高速・重装甲の偵察戦車の新しい仕様を発表した。これは元はドイツのMAN社に送られたが、1940年7月31日にシュコダ社とBMM(元ČKD)社にも送られ、三社の競作となった。MAN社の物が「II号偵察戦車L型」として採用され、シュコダ社の物が「シュコダ T-15、あるいは、II号偵察戦車シュコダ型」、BMM(元ČKD)社の物が「新型38(t)戦車」である。", "title": "II号偵察戦車L型(ルクス)" } ]
II号戦車は、ナチス・ドイツで作られた軽戦車(10トン級)である。
{{戦車 |名称=II号戦車A/B/C型 |画像=[[ファイル:Panzer II Tank.jpg|300px]] |説明=ボービントン戦車博物館で撮影されたII号戦車F型 |全長=4.81 [[メートル|m]] |車体長= |全幅=2.22 m |全高=1.99 m |重量=8.9 t |懸架方式=[[リーフ式サスペンション|リーフスプリング方式]] |速度=40 [[キロメートル毎時|km/h]] |整地時速度= |不整地時速度= |行動距離=200 [[キロメートル|km]] |主砲=55口径20 mm機関砲([[:en:2 cm KwK 30|2 cm KwK 30 L/55]]) |副武装=[[ラインメタル/マウザー・ヴェルケMG34機関銃|7.92 mm機関銃 MG34]] |装甲= ;砲塔 *前面15(+15) mm、 *側・後面15 mm *上面10 mm ;車体 *前面15(+20) mm *側・後面15 mm *底面5 mm |エンジン名=マイバッハ HL62TR<br />[[直列6気筒]][[液冷]][[ガソリンエンジン|ガソリン]] |出力=140 馬力 |乗員=3 名<br />(車長兼砲手、操縦手、無線手兼装填手) |備考= }} '''II号戦車'''(にごうせんしゃ、Panzerkampfwagen II、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン ツヴァイ、[[特殊車輌番号]] Sd.Kfz.121)は、[[ナチス・ドイツ]]で作られた[[軽戦車]](10トン級)である。 == 概要 == a~c型、A~C型、F型に至る標準型と、砲塔は共通だが車体は全く別設計のD、E型、さらに(コンセプト上の)発展型で、これも別設計のG型以降の各タイプがある。 標準型II号戦車は、[[I号戦車]]ではできない砲を扱うための訓練および戦車生産技術の習得用に開発された軽戦車であり、[[MAN (企業)|MAN]]社および[[ダイムラー・ベンツ]]社、[[ヘンシェル]]社、ヴェクマン社、アルケット社、FAMO社、MIAG社によって生産された。[[主力戦車]]である[[III号戦車|III号]]、[[IV号戦車|IV号]]の数が揃うまでの繋ぎとして、非力な[[I号戦車|I号]]に代わって、ある程度の実戦能力を付与されたものである。試作型は[[1935年]]に完成し、[[1936年]]から増加試作型が数十輌作られ、翌年からA型が本格的に量産に入った。本車もI号戦車同様に農業用トラクター(独:Landwirtschaftlicher Schlepper, 略号:La.S.) の名目で開発されている。 I号戦車の武装が[[ドライゼMG13機関銃|7.92 mm機関銃 MG 13k]]であるのに対し、II号戦車は[[:en:2 cm KwK 30|2 cm機関砲 KwK 30]]に強化されている。a、b型では小転輪を2輪ずつ[[リーフ式サスペンション]]ボギーで支え、さらにそのボギー軸をガーダービームで繋いだ形式であったが、c型では転輪一つごとに独立してリーフスプリング付きアームで支える形式となり、これが以降の型の標準となった。後にはこの[[シャーシ]]を用いて様々な[[自走砲]]が造られた。 == 開発 == 再軍備に向けた最初の量産型戦車として[[1934年]]に生産が開始されたI号戦車だったが、これは本格的戦車開発のための習作的意味合いが強く、訓練用として使うにも小型過ぎた。また、これに続くべき本格的戦車であるIII号戦車、IV号戦車は、なお開発に手間取ることが予測されたため、その間をつなぐ、I号戦車よりも若干大きく武装も強力な軽戦車の開発が計画された。 開発命令は、I号の生産が始まって間もなく、1934年7月に[[クルップ]]、MAN、ヘンシェルの3社に下されたが、その仕様は、戦闘重量は当初La.S.(I号戦車の開発名称)に出されたものの倍の10トン、武装は全周回転砲塔に2 cm機関砲と7.92 mm機銃を同軸に搭載するというものであった。主武装として選ばれたのは、この年に生産が開始された新鋭の[[2 cm Flak 30]]機関砲の車載型であった。 3社案の比較検討の結果、MAN社のものが採用され、La.S. 100(農業用トラクター100型)の秘匿名称のもとで、25輌の先行量産型の製作が命じられた。シャーシの生産と最終組立は開発会社のMANが行う一方、上部構造物はI号同様、ダイムラー・ベンツが担当した。 [[1935年]]10月に軟鋼製の試作車が完成、続いて当初発注分の25輌の a/1型、続いて同数の a/2型、50輌の a/3型が作られた。実用化を急いだ引き換えに、これら初期の型は、小刻みな改修を重ねながらの生産となった。[[1937年]]2月からは、装甲を強化したb型が25輌生産された。 続くc型(25輌生産)は、車体形状は以前の型を引き継いでいるものの、足回りが一新された。これは、ガーダービームを廃し、比較的大直径の転輪をそれぞれリーフスプリングで独立懸架するもので、これが以降の型の標準となった。a各型とb型には[[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]] HL57TR(130馬力)エンジンが搭載されていたが、c型では重量増に対応し、マイバッハ HL62TR(140馬力)に強化された。 このc型を経て、II号戦車はようやく本格的量産に入り、略同形のA、B、C型が、1937年7月から、[[1940年]]4月にかけて、計1088輌生産された。この生産途中である[[1938年]]10月25日、「II号戦車(2 cm)(特殊車両番号121)」(Panzerkampfwagen II(2 cm)(Sd.Kfz.121))の制式名称が与えられた。 乗員配置は、1名用砲塔に車長兼砲手、車体前部左側に操縦手、その後方に無線手兼装填手の、計3名である。無線手は床に座っており、その左側に無線機と2 cm機関砲の弾薬箱があった。無線機はFu.2受信機もしくはFu.5送受信機を装備。砲塔上面に車長用の、車体前部上面左側(操縦席手前)に操縦手用の、車体後部上面左側に無線手用の、乗降用ハッチがある。戦闘室左側後面にはバイザーがあり、無線手が後方を視察できた。エンジンは車台後部右側にある。エンジンから前方に延びたドライブシャフトと、ドライブシャフトと繋がっている車台前部の変速機も、車台右側にある。 == 実戦投入と改修 == II号戦車はまず[[スペイン内戦]]で、I号戦車とともにテスト運用された。本格的な[[主力戦車]]である[[III号戦車]]、[[IV号戦車]]の生産が間に合わず、[[第二次世界大戦]]開始時の[[ポーランド侵攻]]から主力として実戦投入された。初期の電撃戦ではその軽快性と機動力が大いに発揮され<ref>しかしポーランド戦では故障によって行動不能となったI号及びII号戦車も多く、それは全体の25%にも達していた。</ref>、その戦闘能力も当時においては有効だった。 電撃戦の生みの親とも云われている[[ハインツ・グデーリアン]]は後に「まさかこれら訓練用戦車で大戦に突入するとは思ってもみなかった。」と語っているが、一方では榴弾も使用できる2 cm機関砲は[[歩兵]]の最大の敵である[[重機関銃]]手を攻撃するのに最適であり、被弾面積の小ささと単価の安さもあって参謀本部の中にはこの戦車を主力とするよう献言したものもいた。また主砲はもともと[[ゾロターン S-18/1100|重対戦車ライフル]]から発展した[[2 cm Flak 30|高射機関砲]]であるために初速が高く、その徹甲弾は相手が軽装甲であれば十分な威力を発揮できた。しかし、対戦車攻撃力を重視する[[ルートヴィヒ・ベック]]の反対もあり、結局当初の予定通り[[III号戦車]]を主力とする方針が貫かれた。実際にポーランド戦後、III号、IV号の生産がある程度軌道に乗り始めると、II号戦車は偵察・連絡を主任務にするよう格下げされた。しかし、その後もしばらくは、数量的にはなおドイツ軍戦車部隊の主力車両であった。 また、b型以降若干強化されたとはいえ装甲はなお薄く、ポーランド戦では対戦車火器によって大きな損害を蒙り、うち少なくとも78両が修理不能の全損となった。そのため[[1940年]]5月以降、c、A~C型の車体前面、砲塔前面に15 mmまたは20 mmの増加装甲を取り付ける改修が行われた。また、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス戦]]後の1940年10月には、砲塔上面の大きな角形ハッチに替えて、全周にペリスコープを備えたコマンダー・キューポラが導入され、その改修キットが配布された。 その後も、[[ユーゴスラビア侵攻|バルカン戦線]]、[[北アフリカ戦線]]、[[独ソ戦]]と、II号は既に非力となりながらも戦い続けた。[[1941年]]3月からは、標準型II号戦車の最終型となるF型の生産が開始された。F型はC型までと比べ、基本装甲が全体的に増厚されており、車体前端は平面の組み合わせとなり、戦闘室前面も車体幅一杯の一枚板となった。また、砲塔には最初からキューポラが装着されていた。本来はC型に引き続き生産されるべきものだったが、これら改設計に手間取ったため、生産開始までに約1年の遅れが生じることになった。この頃にはすでに戦車としての価値はほぼ失われつつあったが、一方で、ドイツは装甲師団の大幅な拡張を始めており、その充足用に生産されたのである。生産はFAMO社1社のみで行われ、[[1942年]]12月までに524輌が作られた。標準型II号戦車の生産はこれをもって終了したが、車台はその後も派生型である自走砲用に引き続き生産された。 == "騎兵戦車"D、E型 == 1938年初め、兵器局は新編の軽師団向けに、偵察用高速戦車(Schnellkampfwagen)、秘匿名称La.S. 138(農業用トラクター138型)の開発をダイムラー・ベンツ社に命じた。これは従来騎兵部隊が担ってきた強行偵察・追撃の任にあたるための快速の軽戦車で、標準型のII号戦車の40 km/hの最高速度では不足と考えられたためである。 この新型軽戦車は、砲塔とエンジンは標準型II号戦車と共通だったが、車体は新設計で、そのレイアウトは、同じくダイムラー・ベンツが開発したIII号戦車に似ていた。足回りは大型の複列式転輪が片側4つで上部転輪はなく、ドイツ戦車としては初めて[[トーションバー・スプリング|トーションバー]]・サスペンションとマイバッハ VG102128 プリセレクト式変速機を採用、F&S PF220K 乾式多板クラッチと組み合わせていた。車体前面装甲は同時期の標準型II号戦車より厚く、30 mmとなっていた。そのため車重も10 tと若干重かったが、高速走行に適した駆動系・足回りで、最高速度は55 km/hに達した。 生産はMAN社で行われ、1938年5月から1939年8月にかけ、全43輌が作られた。その後、この戦車には(標準型とは別設計であるにもかかわらず)、II号戦車D、E型(特殊車両番号121)(Panzerkampfwagen II Ausf. D, E (Sd.Kfz.121))の制式名称が与えられた。D型は一般的なシングルピン型乾式履帯を履いていたが、後期に生産されたE型はドイツのハーフトラック系列に似た形状の湿式履帯で(ただし試作車両を除き接地面にゴムパッドは付かない)、これに伴い起動輪、誘導輪の(資料により転輪も)形状が変化していた。D、E型は生産数も残された資料も少ないが、特に湿式履帯を持つE型の写真等は少ない。その後、火炎放射戦車、自走砲用に車台が追加生産されたが、これらはほぼD型仕様の足回りを持っていた。 高速の偵察用車両として開発されたD、E型だったが、確かに路上最高速度は標準型を上回ったものの、不整地走行性能が期待を裏切り、少数のみで生産は打ち切られた。生産車は一個大隊を充足する数で、計画通り軽師団に配属されて1939年のポーランド戦に投入されたが、1940年には部隊から引き上げられ、火炎放射戦車に改装された。 == II号偵察戦車L型(ルクス) == 1939年9月15日、ドイツ陸軍兵器局は、30 mmの前部装甲(これは当時の主力中戦車であるIII号戦車E型やIV号戦車D型と同じ厚さである)、2 cmまたは3.7 cm主砲、最高速度50 km/hを備えた、高速・重装甲の偵察戦車の新しい仕様を発表した。これは元はドイツのMAN社に送られたが、1940年7月31日にシュコダ社とBMM(元ČKD)社にも送られ、三社の競作となった。MAN社の物が「II号偵察戦車L型」として採用され、シュコダ社の物が「シュコダ T-15、あるいは、II号偵察戦車シュコダ型」、BMM(元ČKD)社の物が「[[LT-38|新型38(t)戦車]]」である。 == バリエーション == ;II号戦車a型、b型、c型 :Panzerkampfwagen II (2 cm) Ausf. a, b, c, (Sd.Kfz.121), La.S. 100 :試作型および増加試作型。初期の実戦にも参加している。基本装甲厚は13 mm。 :a型には、a/1、a/2、a/3のサブタイプがある。a/1型は標準型。a/2型は、a1型の改良型で、戦闘室と機関室の間の隔壁をボルトで取り外しができるようにして、戦闘室から機関室へのアクセスを可能にした。a/3型は、a2型の改良型で、前期型と後期型がある。前期型では燃料ポンプや点検ハッチの追加が行われ、後期型ではラジエーターの追加とサスペンションの強化が行われた。 :b型は装甲厚を14.5 mmに増厚。装甲の鋼からニッケルを取り除いた。溶接部が強化された。車体が延長された。車台前部(フロントハル)を再設計した。 :c型から各転綸独立型のリーフスプリング式サスペンションとなった。 ;II号戦車A型 :Panzerkampfwagen II (2 cm) Ausf. A, (Sd.Kfz.121), La.S. 100 :c型をもとにした最初の量産型で、基本装甲厚が14.5 mmになった。1940年5月以降に車体に15~20 mm厚の増加装甲を溶接、砲塔前面に20 mm厚の増加装甲がボルト留めされ、10月から[[戦車#装備と構造|キューポラ]]の増設が行われた。 ;II号戦車B型、C型 :Panzerkampfwagen II (2 cm) Ausf. B, C, (Sd.Kfz.121), La.S. 100 :A型とは生産時期と細部が若干異なるだけの型。後にA型同様に装甲の強化とキューポラの増設が行われた。 ;II号戦車D型、E型 :Panzerkampfwagen II (2 cm) Ausf. D, E, (Sd.Kfz.121), La.S. 138 :速度に特化した騎兵部隊向け。ダイムラーベンツ社が農業用トラクター138型の秘匿名称で開発したものだが、生産はそれ以前の型同様にMAN社が1938年から行っている。砲塔は同じだが車体はa〜C型とは別設計で、足回りも大型転輪とトーションバー式サスペンションに変更された。1939年に生産されたE型では、ハーフトラックのような湿式履帯に変更されている。ポーランド戦に実戦参加したが、従来型より路外機動性が低下していたといわれ、1940年5月までには部隊編成から外されている。後に火焔放射戦車に改造され、さらに対戦車自走砲マルダーII(7.62 cm Pak 36(r)搭載型)に改造された。 [[ファイル:Panzerkampfwagen II Ausf. A-C.jpg|250px|thumb|[[ムンスター戦車博物館]]のF型。車体前面左側のバイザーは操縦手用だが、右はダミー]] ;II号戦車F型 :Panzerkampfwagen II (2 cm) Ausf. F, (Sd.Kfz.121), La.S. 100 :A~C型系を装甲強化し、生産性の向上を図った型<ref name="2GOUF">http://combat1.sakura.ne.jp/2GOUF.htm</ref>。標準型II号戦車としては最終生産型。1941年3月から1942年12月にかけて524輌が生産された<ref name="2GOUF"/>。これ以降、車台を使用して[[マルダーII]]の生産に切り替えられた。 {{-}} ;II号戦車G型 :Panzerkampfwagen II Ausf. G, VK.9.01 :速力向上に主眼を置いた発展型。150 hp/3,800 rpmのマイバッハ HL45P 液冷直列6気筒ガソリンエンジンを搭載し、路上最高速度65 km/h。主砲が新型の[[2 cm Flak 38|2 cm KwK 38]]に変更。これ以降の型は、オーバーラップ(挟み込み式・千鳥足式とも)転輪とトーションバー・サスペンションという、ティーガーやパンターに似た足回りを持つ。量産計画は中止され、結局12輌のみ作られたが、部隊配備された記録はない。本車用に作られた砲塔で余った物は、要塞陣地のトーチカに転用された。 ;II号戦車H型 :Panzerkampfwagen II Ausf. H, VK.9.03 :速力向上に主眼を置いたG型の改良発展型。180 hp/3,200 rpmのマイバッハ HL66P 液冷直列6気筒ガソリンエンジンと、新型38(t)戦車(後にルクスとの競作に破れる)に採用されたトランスミッションを搭載した。1942年1月に最初の試作車が完成。1942年8月から量産の計画もあったが、VK.13.03の開発が進行したため、それに置き換えられ、結局生産型は1輌も生産されず、試作どまり。 :1941年9月11日、「ゲレート8202」(口径漸減砲「2.8 cm KwK 42」)を、VK.9.03に搭載することが決定された。この砲は、タングステン弾芯の「[[2.8cm sPzB41|2.8 cm Pz.Gr.41弾薬]]」を使用し、小口径だが近距離では装甲貫徹力が高く、射距離100 mで30度傾斜した60 mm厚の均質圧延装甲板を貫徹でき、ガス圧による自動装填式なので、発射速度は15~20発/分を達成できた。 :1942年9月末には、H型の車体を使用して、1303b砲塔を搭載した試験車両が製作された。この砲塔は、L型の生産型第101号車から導入されるはずだった、60口径5 cm戦車砲 KwK 39/1 搭載型砲塔を流用したもので、砲塔上面はオープン・トップ(開放式天蓋)で、キャンバス・カバーがかけられていた。この砲塔はH型のものより大型だったため、これに合わせてH型の上部構造の幅も拡げられていた。この砲塔に[[5 cm PaK 38|60口径 5 cm PaK 38 対戦車砲]]([[III号戦車]] J/L/M型と同等)を搭載した試作車が2輌製造された。 ;II号戦車J型 :Panzerkampfwagen II Ausf. J, VK.16.01 :I号戦車F型同様の重装甲歩兵支援型で、正面装甲は80 mmに達する。1939年12月に開発が始まり、22輌が作られ、1943年に第12戦車師団に配備され、東部戦線で実戦参加した。 [[ファイル:PzIIL.Saumur.000a4p5p.jpg|250px|thumb|[[ソミュール戦車博物館]]のルクス。車体前面左右のバイザーは本物だが、中央はダミー]] ;II号偵察戦車シュコダ型(シュコダ T-15) :Panzerspähwagen II Ausführung Škoda、'''パンツァーシュペーヴァーゲン ツヴァイ アウスフュールンク シュコダ''' :シュコダ社の試作軽戦車。5輌の試作車製造契約を結んだが、L型が生産されたので、試作車4輌製造のみで1944年初頭に開発中止。1945年1月に作業を再開し、1945年5月に5輌目を製造。主砲塔にA-19 37 mm戦車砲1門とMG34 7.92 mm機関銃1挺装備。最大装甲厚30 mm。戦闘重量10.8 t。220馬力 8気筒ガソリンエンジン搭載。路上最高速度50 km/h。足回り(片側)は、前から、前方誘導輪-大型転輪2個-上部支持輪3個-大型転輪2個-後方起動輪、の後輪駆動方式。半楕円型リーフスプリング・サスペンション方式。乗員4名(車長・砲手・無線手・操縦手)。 ;II号偵察戦車L型 :Panzerspähwagen II Ausf. L, (Sd.Kfz.123), VK.13.03、'''パンツァーシュペーヴァーゲン ツヴァイ アウスフュールンク エル''' :パンツァーシュペーヴァーゲンは、直訳すれば「装甲偵察車両」、意訳すれば「偵察戦車」。通称 ルクス (Luchs, 山猫)。[[1943年]]9月~[[1944年]]1月に100両が限定生産された。従来のII号戦車とは設計段階から別物であり、武装は20 mm砲一門のみ、最大装甲厚30 mmと薄い代わりに、180馬力の大出力エンジンを搭載し、路上最高速度60 km/hを誇った。足回りはオーバーラップ大型転輪とトーションバー・サスペンション。 :5 cm L/60砲搭載型の通称「レオパルト」の生産も予定されていたが、中止され、パーツは8輪大型装甲車 [[Sd Kfz 234]] プーマに流用された。 {{-}} ;II号戦車M型 :Panzerkampfwagen II Ausf. M, VK.13.01 :武装と速力向上に主眼を置いた発展型。H型と同時に開発され、5 cm L/60砲を搭載し、同じ車体に2 cm砲を搭載したものはL型の原型となったが、4輌のみの試作で終わった。 == 派生型 == ;[[VK 1602 レオパルト]] :Leopard, VK16.02 :II号戦車系列偵察戦車の最終発展型。試作車が完成前に計画は中止され、砲塔のみ [[Sd Kfz 234|Sd.Kfz.234/2]] に流用された。 ;II号火焔放射戦車 :Panzerkampfwagen II Flamm, (Sd.Kfz.122) :通称 フラミンゴ (Flamingo)。D型およびE型の車台を利用した[[火炎放射戦車|火焔放射戦車]]。 ;[[II号自走重歩兵砲]] :15 cm sIG33 auf Fahrgestell Panzerkampfwagen II(Sf) :II号戦車の車体を延長し、15 cm歩兵砲 sIG33を搭載したもの。 ;II号5 cm対戦車自走砲 :5 cm Pak 38 L/60 auf Fgst.Pz.Kpfw.II (Sf) :砲塔を撤去したII号戦車の車台に、[[5 cm PaK 38|60口径 5 cm対戦車砲 PaK 38]]を搭載した、対戦車自走砲。 ;[[マルダーII|II号7.62 cm対戦車自走砲]] :Panzer Selbstfahrlafette 1 für 7.62 cm PaK 36(r) auf Fahrgestell, (Sd.Kfz.132) :II号火焔放射戦車の車台に、ソ連軍から大量に[[鹵獲]]したF-22野砲を改造した[[7.62 cm PaK 36(r)|7.62 cm対戦車砲 PaK 36(r)]]を搭載した、対戦車自走砲。 ;[[マルダーII|II号7.5 cm対戦車自走砲]] :7.5 cm PaK 40/2 auf Fahrgestell Panzerkampfwagen II (Sf), (Sd.Kfz.131) :通称 [[マルダーII]](Marder II)。砲塔を撤去したII号戦車c、A、B、C、F型の車台に、[[7.5 cm PaK 40|7.5 cm対戦車砲 Pak 40/2]]を搭載した、対戦車自走砲。 ;[[ヴェスペ]] :Wespe, (Sd.Kfz.124) :II号戦車を元にした自走砲用車台に[[10.5cm leFH 18|10.5 cm榴弾砲 leFH18M]]を搭載した型で[[1943年]]2月に生産が開始された。有効な戦果をあげたため、全てのII号戦車のシャーシが割り当てられ、[[1944年]]夏頃まで生産された。 == 登場作品 == {{Main|II号戦車に関連する作品の一覧}} == 脚注・出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2014-08-31|section=1}} * 大村晴、「ドイツII号戦車」、『月刊グランドパワー2005/11号』、ガリレオ出版 * 尾藤満ほか、『アハトゥンク・パンツァー第7集 I号戦車・II号戦車と派生型編』、大日本絵画、2003 * Peter Chamberlain, Hilary Doyle, 『''ENCYCLOPEDIA OF GERMAN TANKS OF WORLD WAR TWO'' - 月刊モデルグラフィックス別冊・ジャーマンタンクス』、大日本絵画、1986 == 関連項目 == {{Commons|Panzerkampfwagen II}} *[[軽戦車]] == 外部リンク == *[https://i.imgur.com/Nac6hCm.png] - II号偵察戦車シュコダ型 前方 *[https://i.imgur.com/rHaoVhy.jpeg] - II号偵察戦車シュコダ型 後方 {{戦間期の戦車}} {{第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:2こうせんしや}} [[Category:II号戦車|*]] [[Category:ドイツ国防軍の戦車]] [[Category:軽戦車]]
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受電設備
受電設備(じゅでんせつび)は、電力会社から受電した電力を負荷設備に適した電圧に変換する(単相3線式200/100V受電では変換しない)とともに、配電線の事故時の負荷設備の保護をし、内部事故が波及事故につながることを防止する需要家の電気工作物である。 責任分界点とは、電力会社と需要家の財産または保安の責任が区分される点である。 財産分界点と保安責任分界点は同じであることが望ましいが、設備の都合で違う場合がある。
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受電設備(じゅでんせつび)は、電力会社から受電した電力を負荷設備に適した電圧に変換する(単相3線式200/100V受電では変換しない)とともに、配電線の事故時の負荷設備の保護をし、内部事故が波及事故につながることを防止する需要家の電気工作物である。
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III号戦車
III号戦車(さんごうせんしゃ、Panzerkampfwagen III、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン ドライ)は、第二次世界大戦期におけるドイツの20トン級中戦車である。当初は生産数が非常に少なかったが徐々に数を増やし、大戦中盤(1941 - 1942年頃)までドイツ戦車隊の主力であった。制式番号は Sd.Kfz.141、Sd.Kfz.141/1、Sd.Kfz.141/2。 ドイツ国防軍の開発した戦車であり、来るべき戦車戦術に合致する主力戦車を目指した中戦車である。訓練用のI号戦車等による演習・運用ノウハウや、スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)によってもたらされた戦訓により、現代戦車の基礎を形作るさまざまな新基軸と、当時の先進技術が投入された戦車となっている。 運用構想としては、新機軸を採用して設計されたIII号が主力を務め、既に確立された技術のみで手堅く設計されたIV号戦車がIII号などの主力の支援を務めるという計画であった。1934年、陸軍はこの構想に基づき、有力メーカー各社にいくつかの条件を示し、戦車を発注した。 15トン程度というのは当時の欧州における輸送の限界を考慮したものであり、陸軍としては最大でも20トン未満の中戦車を目指していたが、最終的には20トンを超え、20トン前半の中戦車として完成した。当時の20トン級中戦車のなかではバランスがとれた戦車であり、総合性能ではトップクラスであった。 ところが、敵戦車に30トン級中戦車(ソビエトのT-34、アメリカのM4中戦車)が登場すると火力不足に悩まされ、対峙する戦車によっては苦戦を強いられた。さらに重戦車に対しては完全に歯が立たなかった。 また、全期間において防御力が不十分であった。このような不利な状況下で、互角かそれ以上の戦闘が行えたのは、連携・指揮を下支えするさまざまな装備や、計算された車内設計、またドイツ軍の高練度乗員による戦術の功績が大きい。 30トン級中戦車であるソ連赤軍のT-34や米軍のM4と比較して開発時期が数年早く、その時点では有効かつ革新的な設計であったものの、新機軸をふんだんに盛り込んだことで開発・生産が遅れ、初期の電撃戦には間に合わなかった。これが連合軍側に戦術・技術研究の題材を提供しつつ対抗戦車を開発する隙を与える結果となったため、本格的に運用を開始するころには新機軸のアドバンテージも覆されてしまい、主力戦車として運用できた期間は短かった。 大戦中期には敵戦車の発展がさらに進んだ結果、改良も限界に達し、ほぼ完全に任務を果たせなくなり、結果、ドイツはT-34やシャーマンに対抗できるV号戦車を製造し、それに取って代わられたため、生産終了となった。 1935年、ドイツ陸軍兵器局第6課は、MAN(アウクスブルク=ニュルンベルク機械工場)、ダイムラー・ベンツ社、ラインメタル社、クルップ社、ヘンシェル社に対し、新型主力戦車「Z.W.」の設計仕様書を提示、5社は設計案を提出したが、ほぼ同時期に、新型火力支援戦車「B.W.」の開発計画もスタートしたため、ラインメタル社はそちらに専念することになり、残る4社で競争試作を行うことになった。試作車として完成したのはダイムラー・ベンツ社と、クルップ社の2社の設計案のみであった。ダイムラー・ベンツ社の試作車は、1935年末に完成した。 1936年に行われた、ダイムラー・ベンツ社とクルップ社の、試作車の性能比較試験の結果、最終的にダイムラー・ベンツ社が、「Z.W.」の開発・生産を担当することになった。ただし、ダイムラー・ベンツ社が製作するのは「Z.W.」の車体だけで、砲塔の製作についてはクルップ社が担当することになった。 なお、この時敗れたクルップ社の試作車は、拡大再設計されて、試作車「B.W.I(K)」(後のIV号戦車の原型)となった。 採用決定後、ダイムラー・ベンツ社では、他社が開発した試作車の長所も採り入れて、「Z.W.」の最初の生産型である「1/ZW」を設計し、1939年9月27日、「1/ZW」は「III号戦車A型」の制式呼称を与えられた。 III号戦車は当時の先進技術や新機軸を盛り込んで設計されていた。 本車の最大の特徴は、乗員を5名とし、かつそれぞれの乗員をほぼ専業制(通信・前方機銃手を除く)にしたことで、単砲塔の通常型戦車としては世界初であった。 砲塔を持つ戦車の基礎となったルノー FT-17 軽戦車(1917年・フランス)は車体が小型であったうえに小型砲塔を採用しているため、乗員が2名となっており、車長が複数の役割を担っていた。その後の戦車の基礎となったヴィッカース 6トン戦車(1928年・イギリス)の乗員は3名であったが、いずれにしても複業する乗員が存在し、少人数の乗員は戦闘に悪影響かつ不利な要因となっていた(多砲塔戦車のような大型戦車を除く)。その後、戦車の乗員は3名もしくは4名が一般的になり、ドイツ戦車も例に漏れずI号戦車の乗員は2名、II号戦車は3名で、5名乗員を明確に指向した戦車は、本車登場まで世界的にも存在しなかった。 ※実はイギリスの1920~30年代の制式戦車である、ヴィッカース中戦車 Mk.I/IIが、乗員5名で、車長専任の、3人乗り(車長・砲手・装填手)砲塔を採用しているので、これは誤りである。ただ、3人乗り砲塔が(当時はまだ)一般的ではなかったのも間違いない。 乗員配置については、進行方向に対し前方左側車体内に操縦手、その右側に通信兼前方機銃手をそれぞれ置き、砲塔には戦車長、砲手、装填手を置いた。乗員を従来より増やせたのは、1人乗りか2人乗りの小型砲塔が主流だった時代において3人乗りの大型砲塔を採用し、車幅・砲塔リングの拡大化を含めて車内体積が増えたからで、このような設計としたのは専業制を実現するためである。これにより役割が明確化・細分化され乗員の負担が少なくなり、仕事効率及びチームとしての戦闘力が向上した。特に戦車長は指揮と周辺警戒に専念できるようになったので、戦車同士の対決に際して有利になった。ただし、砲塔バスケットは採用されておらず、装填手は砲塔の回転に合わせて自分で動かなくてはならなかった。また、III号戦車の砲塔は、手動機構(旋回ハンドル)による人力旋回方式であった。 また当時、送信可能な無線装置は指揮戦車のみに搭載することが多く、それ以外の戦車はお互い目視による連携を取っており、この際ハッチを解放しない場合、外部を視察するためのスリット、クラッペ、バイザー等の開口部が防御上の弱点となるため小さく、視野は極めて限られたものとなるため、戦闘において支障を来たした。これを解決すべく送受信可能な無線装置が本車から標準化され、前方機銃手に通信手を兼ねさせた。無線機での相互連絡により効率的な連携を取ることができるようになり、それを持たない相手に対して圧倒的優位に立つ事を可能とした。 さらに、戦車長が指揮に専念できることは極めて重要だが、コマンダーズ・キューポラによる360°視界の確保、タコホーン(咽頭マイク式車内電話)による乗員間意思疎通の明確化、無線装置による指揮通信系統の確立等、そのための装備が充実していたことは特筆すべきであろう。これにより個々の戦車のみならず部隊としても統率がなされていた。戦車長による円滑な指揮を実現するという設計思想は戦車史上初であり、本車が特に対戦車戦闘を重視していたことがうかがえる。 これこそが電撃戦を支え、機甲師団という新基軸を有効なものとし、ドイツ快進撃の秘訣となり、火力装甲ともに優れるT-34などの戦車と遭遇しても対抗することが可能な下地となったのである。 サスペンションについては、A型は縦置きコイルスプリング・サスペンション、B~D型はリーフスプリング・サスペンション、量産型のE型からトーションバー・サスペンションを採用した。これはのちの重量級戦車でも採用される優秀なもので、これもまた戦車による機動戦闘、特に不整地における機動を高い水準で実現するための設計である。 トーションバーとは日本語で「ねじり棒」という意味であり、文字通り金属棒(製造時特殊加工を施す)の復元力を利用したものである。車幅が拡大したことによりトーションバー有効長を確保できたことから、剛性も向上したうえに転輪のストロークも大きく取ることが可能となり、比較的大型の転輪が採用できた。ただし、D型以前の型式では他の懸架方式で設計するなど試行錯誤していた。 なお同方式にも欠点はあり、トーションバーは車台を貫通する大型のものであるため、加工においては精度・技術が要求され、工程・コスト的にも厳しく生産性が低かった。また、車体底面にトーションバーがあるため、脱出ハッチを作ることが事実上不可能であった。(それ故、本車の脱出ハッチは車体側面に設けられたが、側面に開口部を設けるのは防御上不利であり、脱出時に狙い撃ちされる可能性も高まる) このことから、ポルシェ博士は外装式のボギー型トーションバー・サスペンションを開発し、後期の重戦車・駆逐戦車に採用されている。 マイバッハ社製4ストロークV型12気筒ガソリンを採用した。機関型式は初期型がHL108TR、出力250hp/3,000rpmで、量産型(E型以降)がHL120TRM、出力300hp/3,000rpmである。 機関配置としては、戦闘室後方(車体最後部)に機関室を設け、ドライブシャフトを車体中央に貫通させ駆動輪を前方に置いた。このことにより機関を良好に防護でき、なおかつ機関による陽炎で照準を妨害することがない利点があった。また操縦手を前方寄りに配置できるため、操縦性の向上にも一役買っている。 ただし欠点もあり、先述の通りドライブシャフトが存在することにより車内容積や設計に影響するほか、整備性に悪影響を及ぼした。 この欠点にもかかわらずあえてこの方式を採用したのは、履帯外れ時に有利と考えられていたためであり、前方に駆動輪があることで、前線における履帯外れ修理で駆動輪をウインチ代わりにする際効率が良かった。 つまり力があり低速の前進1速で一連の作業ができたのである。これが後輪駆動であると後進を使用もしくは併用せねばならず、その工程にも時間がかかる。 III号戦車の主砲は形式・時期により異なり、以下のようになる。 ただ、37mm砲搭載については批判されることがあるが、捉え方によって評価も変わってくる。 まず、当時のドイツ軍所有の戦車で考えた場合、37mm砲搭載型でもII号戦車と比べれば対戦車能力は向上しているため、一概に火力不足とは言い切れず、大戦初期に主力扱いされていたチェコスロバキア製のLT-35とLT-38の主砲は37mm砲であり、保有する戦車に比べ火力が不足していたわけではなく、実際、37mm砲搭載型のE型でも、配備時点では充分な対戦車能力を持っていたと言える。 しかしながら、これら(II号戦車、LT-35、LT-38)はジャンル的には10トン級の軽戦車であり、(20トン級)中戦車である本車を同等に比較することには無理があるとも言える。スペイン内戦で使用されたT-26軽戦車の45mm砲は例外だが、ポーランドの7TP軽戦車(T-26、7TP共にヴィッカース 6トン戦車のライセンス生産の10トン級)や日本の九五式軽戦車(7トン)も37mm砲を有している。この時点において軽戦車は明らかに火力が防御力を上回っていた状態であり、防御においては小火器を辛うじて防御する状態であった。このことが、軽戦車が火力の強化によって戦場から駆逐された理由でもあった。むしろ、II号戦車は軽戦車のジャンルにおいて攻撃力が低い戦車だったと言える。 結論として、37mm砲の搭載は、II号戦車と比べれば火力強化という結果になったが、中戦車のジャンルとして見た場合、低火力であった。 ただし、37mm砲搭載にも理由がある。 もともと、戦車部隊の関係者は将来の戦闘や(設計時から見て)対戦車能力が高い50mm砲を初期型から搭載することを主張していたが、補給部門は共通化の観点から歩兵が装備していた37mm対戦車砲を搭載することを主張しており、妥協案として初期型では37mm砲を搭載するが後から50mm砲が搭載できるように設計することで決着がついた。 この時50mm砲を搭載しなかったことへの批判も少なからず存在するが、その時点では50mm砲はそのものが開発完了していなかったため、物理的に50mm砲が装備できず、さらに完成を待つだけの時間がなかったことや37mm対戦車砲が(設計時点では)ドイツ軍としては最新の対戦車砲であり、本車が設計ないし完成した時点では、充分な威力があると考えている者も多く、実際、当時想定される敵に対しては有効な対戦車能力を持っていたとも言え、補給部門の主張も根拠がないわけではなかった。 その後、T-34が登場するとドイツ軍は「T-34ショック」に見舞われ、最新だった37mm対戦車砲は敵をして「ドア・ノッカー」(装甲を貫徹できず、ノック音を響かせるのみであるため)とあだ名されるまでに陥った。もちろんこれは本車にとっても例外ではなく、満を持して50mm砲が搭載されることとなった。だが、戦争中盤には50mm砲であったとしても、敵戦車に対して不利な場面が多かった。3人乗り砲塔により主砲の発射速度が高いため、火力の不利を補っていた(例えばT-34の76.2mm砲が1発撃つ間に、III号戦車の50mm砲は3発撃つことができた)が、効果は限定的で、特に短砲身(42口径)型は敵戦車と戦闘する場合、苦戦することとなった。 ただし、50mm 60口径砲(5 cm KwK 39)は50mm対戦車砲(5 cm PaK 38)と共通の弾薬を使用しており、ソ連戦車に対しては荷が重かったが、イギリス戦車に対しては有効であり、ここに至ってやっと戦車らしい働きをすることが出来た。しかし世界的な趨勢からみれば、主力戦車としての役目を終えつつあった。 そのため、75mm 48口径砲の搭載が可能なIV号戦車へと主力の座を譲り、それに伴って余剰となった75mm 24口径砲を搭載することで火力支援任務への転用が可能ではないかと言われるようになった。これを受けて同砲の搭載が検討され試験を受け、結果、搭載は可能であるとされたため、最終型として主砲以外はL型やM型と変わらない75mm 24口径砲搭載のN型が製造され、火力支援へと回されていくことになった。 その頃には75mm 24口径砲は初速の遅さゆえに徹甲弾を用いての対戦車戦闘で通用するものではなくなっていたが、成形炸薬弾を用いれば50mm 60口径砲よりも優れた貫徹能力があり、一応対戦車戦闘は可能であった。ただし24口径という性質上、初速の遅さによる捕捉率は当然問題となっているし、そもそもN型は積極的に対戦車運用を行う設計思想ではない。 戦車の性能について火力の重要性は当然であるが、装甲についても無視することはできない。そして装甲は車重と関係し車重は発動機(エンジン)出力と関係する。発動機の出力不足はナチス・ドイツ軍の重戦車の弱点となったがそれは急激な重装甲化が原因であった。その遍歴はこの戦車でも見ることができる。 当戦車も当時のドイツ戦車と同じように入念な試作が行われたが、開戦当時、ナチス・ドイツ軍は戦車の数量が少ない状態であり本車の試作品も作戦に投入されたが、曲がりなりにも当時最新型であるにもかかわらず、試作戦車の多くが失われた。構造的に中戦車としての性能が求められていたにもかかわらずE型の量産に至るまでの試作戦車は軽戦車レベルの装甲しか施されていなかったことが原因である。 E型で正式採用されると、その後の量産の過程において様々な装甲の増加が試みられた。 1943年頃から、砲塔周囲と車体側面に、対戦車銃対策として、シュルツェンという5~8 mm厚の薄い軟鋼板が追加され、これは装甲厚の薄い車体下部側面を覆ったことから、サイドスカートの役割も果たした。第一次世界大戦~戦間期の戦車における、履帯側面の転輪やサスペンションを覆い防護する装甲板(懸架框、けんかきょう)の復活と言えないこともない。 車体前面の装甲厚の変遷 ドイツ装甲師団の中核戦力として構想された戦車であったが、結果的に見れば、第二次世界大戦初期から苦難の日々を歩むこととなった。軍の要求する速度を実現するため様々なサスペンション方式を検討することとなり、初期には生産が遅々として進まず、第二次世界大戦の開戦時は必要数が揃わなかった。それでも、III号戦車は開戦時におけるドイツ軍戦車部隊の主力として扱われていたが、事実上の主力はII号戦車やチェコスロバキア製のLT-35とLT-38であった。 対フランス戦が始まるころには数も増え、北アフリカ戦、独ソ戦の頃には名実ともに戦車部隊の主力戦車となった。しかし、フランス戦での戦闘にて重装甲のイギリス軍歩兵戦車(マチルダII歩兵戦車は30トン級の装甲)を撃破することができず、敵の対戦車砲で容易に破壊されるなどの問題を指摘されていた。 独ソ戦が始まると、37mm砲搭載型のIII号はソ連赤軍のT-34(30トン級)やKV-1(40トン級)に対してまったく無力であることが明らかになった。そのため、50mm砲搭載型が戦場に投入されたが、対ソ戦には50mm砲搭載型でも非力な面が目立った。 北アフリカ戦線ではクルセーダー巡航戦車のような装甲の薄い戦車が多数をしめているイギリス戦車側の事情から有利な撃破が可能であり、特にJ型以降の型であれば充分な対戦車能力を発揮していた。だが、北アフリカにアメリカのレンドリース・参戦によってM3グラント(25トン級)、M4シャーマン(30トン級)が登場すると厳しい戦いを強いられるようになった。 本車の戦闘能力が、戦況が要求する水準に達した時期が短かったため、対戦車能力は不十分とされることが多かった。また、長砲身の75mm砲を載せるには砲塔ターレットリングの直径が小さく不可能だったため、改良も限界に達した。大戦中期には、IV号戦車に主力戦車の座を譲り、続くV号戦車パンターの実用化と共に生産は終了した。III号戦車はのちのナチス・ドイツの重戦車・主力戦車の基礎になったことからも、後の戦車開発技術に与えた影響は大きかったが、一方で基本設計時点での軽さ(基礎は15トン級)による発展性の制限により、生産と改良が実戦で要求された水準におよばなかったことから、主力戦車としては短命であった。 時間的に余裕のある時期に入念に作られたサスペンションは、後に用いられるような複雑な物ではなく、重量とのバランスが優れており、車台はアルケット社で生産される突撃砲(後にIII号突撃砲と呼称)に転用され、敗戦直前まで生産が続けられた。その結果、突撃砲は製造数においてナチス・ドイツの装甲戦闘車両としては最多となっている。
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"また当時、送信可能な無線装置は指揮戦車のみに搭載することが多く、それ以外の戦車はお互い目視による連携を取っており、この際ハッチを解放しない場合、外部を視察するためのスリット、クラッペ、バイザー等の開口部が防御上の弱点となるため小さく、視野は極めて限られたものとなるため、戦闘において支障を来たした。これを解決すべく送受信可能な無線装置が本車から標準化され、前方機銃手に通信手を兼ねさせた。無線機での相互連絡により効率的な連携を取ることができるようになり、それを持たない相手に対して圧倒的優位に立つ事を可能とした。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "さらに、戦車長が指揮に専念できることは極めて重要だが、コマンダーズ・キューポラによる360°視界の確保、タコホーン(咽頭マイク式車内電話)による乗員間意思疎通の明確化、無線装置による指揮通信系統の確立等、そのための装備が充実していたことは特筆すべきであろう。これにより個々の戦車のみならず部隊としても統率がなされていた。戦車長による円滑な指揮を実現するという設計思想は戦車史上初であり、本車が特に対戦車戦闘を重視していたことがうかがえる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "これこそが電撃戦を支え、機甲師団という新基軸を有効なものとし、ドイツ快進撃の秘訣となり、火力装甲ともに優れるT-34などの戦車と遭遇しても対抗することが可能な下地となったのである。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "サスペンションについては、A型は縦置きコイルスプリング・サスペンション、B~D型はリーフスプリング・サスペンション、量産型のE型からトーションバー・サスペンションを採用した。これはのちの重量級戦車でも採用される優秀なもので、これもまた戦車による機動戦闘、特に不整地における機動を高い水準で実現するための設計である。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": 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"ただし欠点もあり、先述の通りドライブシャフトが存在することにより車内容積や設計に影響するほか、整備性に悪影響を及ぼした。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この欠点にもかかわらずあえてこの方式を採用したのは、履帯外れ時に有利と考えられていたためであり、前方に駆動輪があることで、前線における履帯外れ修理で駆動輪をウインチ代わりにする際効率が良かった。 つまり力があり低速の前進1速で一連の作業ができたのである。これが後輪駆動であると後進を使用もしくは併用せねばならず、その工程にも時間がかかる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "III号戦車の主砲は形式・時期により異なり、以下のようになる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ただ、37mm砲搭載については批判されることがあるが、捉え方によって評価も変わってくる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "まず、当時のドイツ軍所有の戦車で考えた場合、37mm砲搭載型でもII号戦車と比べれば対戦車能力は向上しているため、一概に火力不足とは言い切れず、大戦初期に主力扱いされていたチェコスロバキア製のLT-35とLT-38の主砲は37mm砲であり、保有する戦車に比べ火力が不足していたわけではなく、実際、37mm砲搭載型のE型でも、配備時点では充分な対戦車能力を持っていたと言える。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "しかしながら、これら(II号戦車、LT-35、LT-38)はジャンル的には10トン級の軽戦車であり、(20トン級)中戦車である本車を同等に比較することには無理があるとも言える。スペイン内戦で使用されたT-26軽戦車の45mm砲は例外だが、ポーランドの7TP軽戦車(T-26、7TP共にヴィッカース 6トン戦車のライセンス生産の10トン級)や日本の九五式軽戦車(7トン)も37mm砲を有している。この時点において軽戦車は明らかに火力が防御力を上回っていた状態であり、防御においては小火器を辛うじて防御する状態であった。このことが、軽戦車が火力の強化によって戦場から駆逐された理由でもあった。むしろ、II号戦車は軽戦車のジャンルにおいて攻撃力が低い戦車だったと言える。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "結論として、37mm砲の搭載は、II号戦車と比べれば火力強化という結果になったが、中戦車のジャンルとして見た場合、低火力であった。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ただし、37mm砲搭載にも理由がある。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "もともと、戦車部隊の関係者は将来の戦闘や(設計時から見て)対戦車能力が高い50mm砲を初期型から搭載することを主張していたが、補給部門は共通化の観点から歩兵が装備していた37mm対戦車砲を搭載することを主張しており、妥協案として初期型では37mm砲を搭載するが後から50mm砲が搭載できるように設計することで決着がついた。 この時50mm砲を搭載しなかったことへの批判も少なからず存在するが、その時点では50mm砲はそのものが開発完了していなかったため、物理的に50mm砲が装備できず、さらに完成を待つだけの時間がなかったことや37mm対戦車砲が(設計時点では)ドイツ軍としては最新の対戦車砲であり、本車が設計ないし完成した時点では、充分な威力があると考えている者も多く、実際、当時想定される敵に対しては有効な対戦車能力を持っていたとも言え、補給部門の主張も根拠がないわけではなかった。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その後、T-34が登場するとドイツ軍は「T-34ショック」に見舞われ、最新だった37mm対戦車砲は敵をして「ドア・ノッカー」(装甲を貫徹できず、ノック音を響かせるのみであるため)とあだ名されるまでに陥った。もちろんこれは本車にとっても例外ではなく、満を持して50mm砲が搭載されることとなった。だが、戦争中盤には50mm砲であったとしても、敵戦車に対して不利な場面が多かった。3人乗り砲塔により主砲の発射速度が高いため、火力の不利を補っていた(例えばT-34の76.2mm砲が1発撃つ間に、III号戦車の50mm砲は3発撃つことができた)が、効果は限定的で、特に短砲身(42口径)型は敵戦車と戦闘する場合、苦戦することとなった。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ただし、50mm 60口径砲(5 cm KwK 39)は50mm対戦車砲(5 cm PaK 38)と共通の弾薬を使用しており、ソ連戦車に対しては荷が重かったが、イギリス戦車に対しては有効であり、ここに至ってやっと戦車らしい働きをすることが出来た。しかし世界的な趨勢からみれば、主力戦車としての役目を終えつつあった。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "そのため、75mm 48口径砲の搭載が可能なIV号戦車へと主力の座を譲り、それに伴って余剰となった75mm 24口径砲を搭載することで火力支援任務への転用が可能ではないかと言われるようになった。これを受けて同砲の搭載が検討され試験を受け、結果、搭載は可能であるとされたため、最終型として主砲以外はL型やM型と変わらない75mm 24口径砲搭載のN型が製造され、火力支援へと回されていくことになった。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "その頃には75mm 24口径砲は初速の遅さゆえに徹甲弾を用いての対戦車戦闘で通用するものではなくなっていたが、成形炸薬弾を用いれば50mm 60口径砲よりも優れた貫徹能力があり、一応対戦車戦闘は可能であった。ただし24口径という性質上、初速の遅さによる捕捉率は当然問題となっているし、そもそもN型は積極的に対戦車運用を行う設計思想ではない。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "戦車の性能について火力の重要性は当然であるが、装甲についても無視することはできない。そして装甲は車重と関係し車重は発動機(エンジン)出力と関係する。発動機の出力不足はナチス・ドイツ軍の重戦車の弱点となったがそれは急激な重装甲化が原因であった。その遍歴はこの戦車でも見ることができる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "当戦車も当時のドイツ戦車と同じように入念な試作が行われたが、開戦当時、ナチス・ドイツ軍は戦車の数量が少ない状態であり本車の試作品も作戦に投入されたが、曲がりなりにも当時最新型であるにもかかわらず、試作戦車の多くが失われた。構造的に中戦車としての性能が求められていたにもかかわらずE型の量産に至るまでの試作戦車は軽戦車レベルの装甲しか施されていなかったことが原因である。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "E型で正式採用されると、その後の量産の過程において様々な装甲の増加が試みられた。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1943年頃から、砲塔周囲と車体側面に、対戦車銃対策として、シュルツェンという5~8 mm厚の薄い軟鋼板が追加され、これは装甲厚の薄い車体下部側面を覆ったことから、サイドスカートの役割も果たした。第一次世界大戦~戦間期の戦車における、履帯側面の転輪やサスペンションを覆い防護する装甲板(懸架框、けんかきょう)の復活と言えないこともない。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "車体前面の装甲厚の変遷", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ドイツ装甲師団の中核戦力として構想された戦車であったが、結果的に見れば、第二次世界大戦初期から苦難の日々を歩むこととなった。軍の要求する速度を実現するため様々なサスペンション方式を検討することとなり、初期には生産が遅々として進まず、第二次世界大戦の開戦時は必要数が揃わなかった。それでも、III号戦車は開戦時におけるドイツ軍戦車部隊の主力として扱われていたが、事実上の主力はII号戦車やチェコスロバキア製のLT-35とLT-38であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "対フランス戦が始まるころには数も増え、北アフリカ戦、独ソ戦の頃には名実ともに戦車部隊の主力戦車となった。しかし、フランス戦での戦闘にて重装甲のイギリス軍歩兵戦車(マチルダII歩兵戦車は30トン級の装甲)を撃破することができず、敵の対戦車砲で容易に破壊されるなどの問題を指摘されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "独ソ戦が始まると、37mm砲搭載型のIII号はソ連赤軍のT-34(30トン級)やKV-1(40トン級)に対してまったく無力であることが明らかになった。そのため、50mm砲搭載型が戦場に投入されたが、対ソ戦には50mm砲搭載型でも非力な面が目立った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "北アフリカ戦線ではクルセーダー巡航戦車のような装甲の薄い戦車が多数をしめているイギリス戦車側の事情から有利な撃破が可能であり、特にJ型以降の型であれば充分な対戦車能力を発揮していた。だが、北アフリカにアメリカのレンドリース・参戦によってM3グラント(25トン級)、M4シャーマン(30トン級)が登場すると厳しい戦いを強いられるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "本車の戦闘能力が、戦況が要求する水準に達した時期が短かったため、対戦車能力は不十分とされることが多かった。また、長砲身の75mm砲を載せるには砲塔ターレットリングの直径が小さく不可能だったため、改良も限界に達した。大戦中期には、IV号戦車に主力戦車の座を譲り、続くV号戦車パンターの実用化と共に生産は終了した。III号戦車はのちのナチス・ドイツの重戦車・主力戦車の基礎になったことからも、後の戦車開発技術に与えた影響は大きかったが、一方で基本設計時点での軽さ(基礎は15トン級)による発展性の制限により、生産と改良が実戦で要求された水準におよばなかったことから、主力戦車としては短命であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "時間的に余裕のある時期に入念に作られたサスペンションは、後に用いられるような複雑な物ではなく、重量とのバランスが優れており、車台はアルケット社で生産される突撃砲(後にIII号突撃砲と呼称)に転用され、敗戦直前まで生産が続けられた。その結果、突撃砲は製造数においてナチス・ドイツの装甲戦闘車両としては最多となっている。", "title": "歴史" } ]
III号戦車は、第二次世界大戦期におけるドイツの20トン級中戦車である。当初は生産数が非常に少なかったが徐々に数を増やし、大戦中盤までドイツ戦車隊の主力であった。制式番号は Sd.Kfz.141、Sd.Kfz.141/1、Sd.Kfz.141/2。
{{出典の明記|date=2016-09-07}} {{戦車 |名称=III号戦車 |画像=[[File:PzKpfwIIIH.Saumur.000a1y8q.jpeg|300px]] |説明= |全長=6.41 [[メートル|m]] |車体長=5.56 m |全幅=2.95 m |全高=2.51 m |重量=22.7 t |懸架方式=トーションバー方式(D/Bではリーフスプリング) |整地時速度=40 km/h |不整地時速度=19 km/h |行動距離=155 [[キロメートル|km]] |主砲=A-F:46.5口径3.7 cm KwK 36(120発)<br />G-J:42口径5 cm KwK 38(99発)<br />L-M:[[5 cm KwK 39|60口径5 cm KwK 39]](84発)<br />N:[[7.5 cm KwK 37|24口径7.5 cm KwK 37]](56~64発) |副武装=[[ラインメタル/マウザー・ヴェルケMG34機関銃|7.92mm機関銃MG34]] ×2<br />(3,750~4,400発) |装甲=;砲塔 *前面57 mm *側・後面30 mm ;車体 *前面50+20 mm *側面30 mm *後面50 mm |エンジン名=[[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]]<br />HL108TR(初期型)<br />HL 120 TRM(量産型)<br />[[4ストローク機関|4ストローク]][[V型12気筒]][[ガソリンエンジン|ガソリン]] |出力=初期型 250 馬力<br />量産型 300 馬力 (221kW) |乗員=5 名<br />(車長、砲手、装填手、操縦手、機銃手兼通信手) |備考= }} '''III号戦車'''(さんごうせんしゃ、Panzerkampfwagen III、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン ドライ)は、[[第二次世界大戦]]期における[[ドイツ]]の20トン級[[中戦車]]である。当初は生産数が非常に少なかったが徐々に数を増やし、大戦中盤(1941 - 1942年頃)までドイツ戦車隊の主力であった。[[特殊車輌番号|制式番号]]は Sd.Kfz.141、Sd.Kfz.141/1、Sd.Kfz.141/2。 == 概要 == [[ドイツ国防軍]]の開発した戦車であり、来るべき[[戦車]]戦術に合致する[[主力戦車]]を目指した中戦車である。訓練用の[[I号戦車]]等による演習・運用ノウハウや、[[スペイン内戦]](1936年7月 - 1939年3月)によってもたらされた戦訓により、現代戦車の基礎を形作るさまざまな新基軸と、当時の先進技術が投入された戦車となっている。 運用構想としては、新機軸を採用して設計されたIII号が主力を務め、既に確立された技術のみで手堅く設計された[[IV号戦車]]がIII号などの主力の支援を務めるという計画であった。1934年、陸軍はこの構想に基づき、有力メーカー各社にいくつかの条件を示し、戦車を発注した。 15トン程度というのは当時の欧州における輸送の限界を考慮したものであり、陸軍としては最大でも20トン未満の中戦車を目指していたが、最終的には20トンを超え、20トン前半の中戦車として完成した。当時の20トン級中戦車のなかではバランスがとれた戦車であり、総合性能ではトップクラスであった。 ところが、敵戦車に30トン級中戦車([[ソビエト連邦|ソビエト]]の[[T-34]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[M4中戦車]])が登場すると火力不足に悩まされ、対峙する戦車によっては苦戦を強いられた。さらに重戦車に対しては完全に歯が立たなかった。 また、全期間において防御力が不十分であった。このような不利な状況下で、互角かそれ以上の戦闘が行えたのは、連携・指揮を下支えするさまざまな装備や、計算された車内設計、またドイツ軍の高練度乗員による戦術の功績が大きい。 30トン級中戦車である[[ソ連]][[赤軍]]の[[T-34]]や米軍の[[M4中戦車|M4]]と比較して開発時期が数年早く、その時点では有効かつ革新的な設計であったものの、新機軸をふんだんに盛り込んだことで開発・生産が遅れ、初期の[[電撃戦]]には間に合わなかった。これが連合軍側に戦術・技術研究の題材を提供しつつ対抗戦車を開発する隙を与える結果となったため、本格的に運用を開始するころには新機軸のアドバンテージも覆されてしまい、主力戦車として運用できた期間は短かった。 大戦中期には敵戦車の発展がさらに進んだ結果、改良も限界に達し、ほぼ完全に任務を果たせなくなり、結果、ドイツはT-34やシャーマンに対抗できる[[パンター戦車|V号戦車]]を製造し、それに取って代わられたため、生産終了となった。 == 設計 == [[1935年]]、[[陸軍兵器局|ドイツ陸軍兵器局第6課]]は、[[MAN (企業)|MAN(アウクスブルク=ニュルンベルク機械工場)]]、[[ダイムラー・ベンツ]]社、[[ラインメタル]]社、[[クルップ]]社、[[ヘンシェル]]社に対し、新型主力戦車「Z.W.」の設計仕様書を提示、5社は設計案を提出したが、ほぼ同時期に、新型火力支援戦車「B.W.」の開発計画もスタートしたため、ラインメタル社はそちらに専念することになり、残る4社で競争試作を行うことになった。試作車として完成したのはダイムラー・ベンツ社と、クルップ社の2社の設計案のみであった。ダイムラー・ベンツ社の試作車は、1935年末に完成した。 [[1936年]]に行われた、ダイムラー・ベンツ社とクルップ社の、試作車の性能比較試験の結果、最終的にダイムラー・ベンツ社が、「Z.W.」の開発・生産を担当することになった。ただし、ダイムラー・ベンツ社が製作するのは「Z.W.」の車体だけで、砲塔の製作についてはクルップ社が担当することになった。 なお、この時敗れたクルップ社の試作車は、拡大再設計されて、試作車「B.W.I(K)」(後の[[IV号戦車]]の原型)となった。 採用決定後、ダイムラー・ベンツ社では、他社が開発した試作車の長所も採り入れて、「Z.W.」の最初の生産型である「1/ZW」を設計し、[[1939年]]9月27日、「1/ZW」は「III号戦車A型」の制式呼称を与えられた。 III号戦車は当時の先進技術や新機軸を盛り込んで設計されていた。 === 車体構造 === ====乗員配置・車体設計==== 本車の最大の特徴は、乗員を5名とし、かつそれぞれの[[乗組員|乗員]]をほぼ専業制(通信・前方[[機銃手・航空機関士章|機銃手]]を除く)にしたことで、単砲塔の通常型戦車としては世界初であった。 砲塔を持つ戦車の基礎となった[[ルノー FT-17 軽戦車]](1917年・フランス)は車体が小型であったうえに小型砲塔を採用しているため、乗員が2名となっており、車長が複数の役割を担っていた。その後の戦車の基礎となった[[ヴィッカース 6トン戦車]](1928年・イギリス)の乗員は3名であったが、いずれにしても複業する乗員が存在し、少人数の乗員は戦闘に悪影響かつ不利な要因となっていた(多砲塔戦車のような大型戦車を除く)。その後、戦車の乗員は3名もしくは4名が一般的になり、ドイツ戦車も例に漏れず[[I号戦車]]の乗員は2名、[[II号戦車]]は3名で、5名乗員を明確に指向した戦車は、本車登場まで世界的にも存在しなかった。 ※実はイギリスの1920~30年代の制式戦車である、[[ヴィッカース中戦車 Mk.I|ヴィッカース中戦車 Mk.I/II]]が、乗員5名で、車長専任の、3人乗り(車長・砲手・装填手)砲塔を採用しているので、これは誤りである。ただ、3人乗り砲塔が(当時はまだ)一般的ではなかったのも間違いない。 乗員配置については、進行方向に対し前方左側車体内に操縦手、その右側に通信兼前方機銃手をそれぞれ置き、砲塔には戦車長、砲手、装填手を置いた。乗員を従来より増やせたのは、1人乗りか2人乗りの小型砲塔が主流だった時代において3人乗りの大型砲塔を採用し、車幅・砲塔リングの拡大化を含めて車内体積が増えたからで、このような設計としたのは専業制を実現するためである。これにより役割が明確化・細分化され乗員の負担が少なくなり、仕事効率及びチームとしての戦闘力が向上した。特に戦車長は指揮と周辺警戒に専念できるようになったので、戦車同士の対決に際して有利になった。ただし、砲塔バスケットは採用されておらず、装填手は砲塔の回転に合わせて自分で動かなくてはならなかった。また、III号戦車の砲塔は、手動機構(旋回ハンドル)による人力旋回方式であった。 また当時、送信可能な無線装置は指揮戦車のみに搭載することが多く、それ以外の戦車はお互い目視による連携を取っており、この際ハッチを解放しない場合、外部を視察するためのスリット、クラッペ、バイザー等の開口部が防御上の弱点となるため小さく、視野は極めて限られたものとなるため、戦闘において支障を来たした。これを解決すべく送受信可能な無線装置が本車から標準化され、前方機銃手に通信手を兼ねさせた。無線機での相互連絡により効率的な連携を取ることができるようになり、それを持たない相手に対して圧倒的優位に立つ事を可能とした。 さらに、戦車長が指揮に専念できることは極めて重要だが、コマンダーズ・キューポラによる360°視界の確保、タコホーン(咽頭マイク{{efn|咽頭マイクとは、喉の声帯付近に装着し、その振動をそのまま拾い送信するマイクであり、多くは首に巻き付けて装着する方式を採用している。騒音が大きい環境においてもクリアに声を送話できるため、現在も各国軍や自衛隊で採用されている。2020年2月現在拡大公開中の映画「T-34 レジェンド・オブ・ウォー」では、この咽頭マイクが忠実に描かれている。}}式車内電話)による乗員間意思疎通の明確化、無線装置による指揮通信系統の確立等、そのための装備が充実していたことは特筆すべきであろう。これにより個々の戦車のみならず部隊としても統率がなされていた。戦車長による円滑な指揮を実現するという設計思想は戦車史上初であり、本車が特に対戦車戦闘を重視していたことがうかがえる。 これこそが[[電撃戦]]を支え、機甲師団という新基軸を有効なものとし、ドイツ快進撃の秘訣となり、火力装甲ともに優れる[[T-34]]などの戦車と遭遇しても対抗することが可能な下地となったのである。 ====サスペンション==== サスペンションについては、A型は縦置きコイルスプリング・サスペンション、B~D型はリーフスプリング・サスペンション、量産型のE型から[[トーションバー]]・サスペンションを採用した。これはのちの重量級戦車でも採用される優秀なもので、これもまた戦車による機動戦闘、特に不整地における機動を高い水準で実現するための設計である。 トーションバーとは日本語で「ねじり棒」という意味であり、文字通り金属棒(製造時特殊加工を施す)の復元力を利用したものである。車幅が拡大したことによりトーションバー有効長を確保できたことから、剛性も向上したうえに転輪のストロークも大きく取ることが可能となり、比較的大型の転輪が採用できた。ただし、D型以前の型式では他の懸架方式で設計するなど試行錯誤していた。 なお同方式にも欠点はあり、トーションバーは車台を貫通する大型のものであるため、加工においては精度・技術が要求され、工程・コスト的にも厳しく生産性が低かった。また、車体底面にトーションバーがあるため、脱出ハッチを作ることが事実上不可能であった。(それ故、本車の脱出ハッチは車体側面に設けられたが、側面に開口部を設けるのは防御上不利であり、脱出時に狙い撃ちされる可能性も高まる) このことから、[[フェルディナント・ポルシェ|ポルシェ博士]]は外装式のボギー型トーションバー・サスペンションを開発し、後期の重戦車・駆逐戦車に採用されている。 === 機関 === [[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]]社製[[4ストローク機関|4ストローク]][[V型12気筒]][[ガソリンエンジン|ガソリン]]を採用した。機関型式は初期型がHL108TR、出力250hp/3,000rpmで、量産型(E型以降)がHL120TRM、出力300hp/3,000rpmである。 機関配置としては、戦闘室後方(車体最後部)に機関室を設け、ドライブシャフトを車体中央に貫通させ駆動輪を前方に置いた。このことにより機関を良好に防護でき、なおかつ機関による陽炎で照準を妨害することがない利点があった。また操縦手を前方寄りに配置できるため、操縦性の向上にも一役買っている。 ただし欠点もあり、先述の通りドライブシャフトが存在することにより車内容積や設計に影響するほか、整備性に悪影響を及ぼした。 この欠点にもかかわらずあえてこの方式を採用したのは、履帯外れ時に有利と考えられていたためであり、前方に駆動輪があることで、前線における履帯外れ修理で駆動輪をウインチ代わりにする際効率が良かった。 つまり力があり低速の前進1速で一連の作業ができたのである。これが後輪駆動であると後進を使用もしくは併用せねばならず、その工程にも時間がかかる。 === 火力 === III号戦車の[[主砲]]は形式・時期により異なり、以下のようになる。 *A型からG前期型(1938年12月〜):[[3.7 cm PaK 36|37mm 46口径砲]] *G後期型からJ前期型(1940年7月〜):50mm 42口径砲 *J後期型からM型(1941年12月〜):[[5 cm KwK 39|50mm 60口径砲]] *N型(1942年6月〜):[[7.5 cm KwK 37|75mm 24口径砲]] ただ、37mm砲搭載については批判されることがあるが、捉え方によって評価も変わってくる。 まず、当時のドイツ軍所有の戦車で考えた場合、37mm砲搭載型でも[[II号戦車]]と比べれば対戦車能力は向上しているため、一概に火力不足とは言い切れず、大戦初期に主力扱いされていた[[チェコスロバキア]]製の[[LT-35]]と[[LT-38]]の主砲は37mm砲であり、保有する戦車に比べ火力が不足していたわけではなく、実際、37mm砲搭載型のE型でも、配備時点では充分な対戦車能力を持っていたと言える。 しかしながら、これら(II号戦車、LT-35、LT-38)はジャンル的には10トン級の軽戦車であり、(20トン級)中戦車である本車を同等に比較することには無理があるとも言える。スペイン内戦で使用された[[T-26 (戦車)|T-26]]軽戦車の45mm砲は例外だが、ポーランドの[[7TP]]軽戦車(T-26、7TP共に[[ヴィッカース 6トン戦車]]のライセンス生産の10トン級)や日本の[[九五式軽戦車]](7トン)も37mm砲を有している。この時点において軽戦車は明らかに火力が防御力を上回っていた状態であり、防御においては小火器を辛うじて防御する状態であった。このことが、軽戦車が火力の強化によって戦場から駆逐された理由でもあった。むしろ、II号戦車は軽戦車のジャンルにおいて攻撃力が低い戦車だったと言える。 結論として、37mm砲の搭載は、II号戦車と比べれば火力強化という結果になったが、中戦車のジャンルとして見た場合、低火力であった。 ただし、37mm砲搭載にも理由がある。 もともと、戦車部隊の関係者は将来の戦闘や(設計時から見て)対戦車能力が高い50mm砲を初期型から搭載することを主張していたが、補給部門は共通化の観点から歩兵が装備していた[[3.7 cm PaK 36|37mm対戦車砲]]を搭載することを主張しており、妥協案として初期型では37mm砲を搭載するが後から50mm砲が搭載できるように設計することで決着がついた<ref name="p70-72">ドイツ戦車発達史 P.70-72</ref>。 この時50mm砲を搭載しなかったことへの批判も少なからず存在するが、その時点では50mm砲はそのものが開発完了していなかったため、物理的に50mm砲が装備できず、さらに完成を待つだけの時間がなかったことや37mm対戦車砲が(設計時点では)ドイツ軍としては最新の対戦車砲であり、本車が設計ないし完成した時点では、充分な威力があると考えている者も多く、実際、当時想定される敵に対しては有効な対戦車能力を持っていたとも言え、補給部門の主張も根拠がないわけではなかった<ref name="p70-72">ドイツ戦車発達史 P.70-72</ref>。 その後、T-34が登場するとドイツ軍は「T-34ショック」に見舞われ、最新だった37mm対戦車砲は敵をして「ドア・ノッカー」(装甲を貫徹できず、ノック音を響かせるのみであるため)とあだ名されるまでに陥った。もちろんこれは本車にとっても例外ではなく、満を持して50mm砲が搭載されることとなった。{{efn|戦車砲の元になったのは60口径の50mm対戦車砲PaK38だが、地面の凹凸に砲身を突っ込んで傷めないよう、砲口が車体前端より前に出ないように指示があり、42口径に短縮された。このため砲弾も弾頭は共通だが薬莢が短く、60口径砲との互換性はない。}}だが、戦争中盤には50mm砲であったとしても、敵戦車に対して不利な場面が多かった。3人乗り砲塔により主砲の発射速度が高いため、火力の不利を補っていた(例えばT-34の76.2mm砲が1発撃つ間に、III号戦車の50mm砲は3発撃つことができた)が、効果は限定的で、特に短砲身(42口径)型は敵戦車と戦闘する場合、苦戦することとなった。 ただし、50mm 60口径砲([[5 cm KwK 39]])は50mm対戦車砲([[5 cm PaK 38]])と共通の弾薬を使用しており、ソ連戦車に対しては荷が重かったが、イギリス戦車に対しては有効であり、ここに至ってやっと戦車らしい働きをすることが出来た。しかし世界的な趨勢からみれば、主力戦車としての役目を終えつつあった。 そのため、[[7.5 cm KwK 40|75mm 48口径砲]]の搭載が可能なIV号戦車へと主力の座を譲り、それに伴って余剰となった75mm 24口径砲を搭載することで火力支援任務への転用が可能ではないかと言われるようになった。これを受けて同砲の搭載が検討され試験を受け、結果、搭載は可能であるとされたため、最終型として主砲以外はL型やM型と変わらない75mm 24口径砲搭載のN型が製造され、火力支援へと回されていくことになった。 その頃には75mm 24口径砲は初速の遅さゆえに[[徹甲弾]]を用いての対戦車戦闘で通用するものではなくなっていたが、[[成形炸薬弾]]を用いれば50mm 60口径砲よりも優れた貫徹能力があり、一応対戦車戦闘は可能であった。ただし24口径という性質上、初速の遅さによる捕捉率は当然問題となっているし、そもそもN型は積極的に対戦車運用を行う設計思想ではない。 === 防御力 === 戦車の性能について火力の重要性は当然であるが、装甲についても無視することはできない。そして装甲は車重と関係し車重は発動機(エンジン)出力と関係する。発動機の出力不足はナチス・ドイツ軍の重戦車の弱点となったがそれは急激な重装甲化が原因であった。その遍歴はこの戦車でも見ることができる。 当戦車も当時のドイツ戦車と同じように入念な試作が行われたが、開戦当時、ナチス・ドイツ軍は戦車の数量が少ない状態であり本車の試作品も作戦に投入されたが、曲がりなりにも当時最新型であるにもかかわらず、試作戦車の多くが失われた。構造的に中戦車としての性能が求められていたにもかかわらずE型の量産に至るまでの試作戦車は軽戦車レベルの装甲しか施されていなかったことが原因である。 E型で正式採用されると、その後の量産の過程において様々な装甲の増加が試みられた。 [[1943年]]頃から、砲塔周囲と車体側面に、[[対戦車ライフル|対戦車銃]]対策として、[[シュルツェン]]という5~8 mm厚の薄い軟鋼板が追加され、これは装甲厚の薄い車体下部側面を覆ったことから、サイドスカートの役割も果たした。第一次世界大戦~戦間期の戦車における、履帯側面の転輪や[[サスペンション]]を覆い防護する装甲板(懸架框、けんかきょう)の復活と言えないこともない。 車体前面の装甲厚の変遷 *A/B/C/D型 - 14.5 mm(1枚板) *E/F/G型 - 30 mm(1枚板) *H型 - 60 mm(30 mm + 増加装甲30 mmの2枚重ね) *J型 - 50 mm(1枚板。厚さは減ったが、1枚板の方が2枚重ねより、強度が高い) *L/M/N型 - 70 mm(50 mm + 増加装甲20 mmの2枚重ね) == 歴史 == [[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-318-0083-30, Polen, Panzer III mit Panzersoldaten.jpg|thumb|250px|[[1939年]]、[[ポーランド侵攻]]でのIII号戦車。8つの転輪が見られる]] [[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-219-0595-23, Russland-Mitte-Süd, Panzer III.jpg|thumb|250px|[[独ソ戦|東部戦線]]でのIII号戦車(1943):追加装甲(シェルツェン)や予備履帯で防御力不足を補っている]] ドイツ[[機甲師団|装甲師団]]の中核戦力として構想された戦車であったが、結果的に見れば、第二次世界大戦初期から苦難の日々を歩むこととなった。軍の要求する速度を実現するため様々なサスペンション方式を検討することとなり、初期には生産が遅々として進まず、[[第二次世界大戦]]の開戦時は必要数が揃わなかった<ref>ドイツ戦車発達史 P.85</ref>。それでも、III号戦車は開戦時におけるドイツ軍戦車部隊の主力として扱われていたが、事実上の主力は[[II号戦車]]や[[チェコスロバキア]]製の[[LT-35]]と[[LT-38]]であった。 [[ナチス・ドイツのフランス侵攻|対フランス戦]]が始まるころには数も増え、[[北アフリカ戦線|北アフリカ戦]]、[[独ソ戦]]の頃には名実ともに戦車部隊の主力戦車となった。しかし、フランス戦での戦闘にて重装甲の[[イギリス軍]][[歩兵戦車]]([[マチルダII歩兵戦車]]は30トン級の装甲)を撃破することができず、敵の[[対戦車砲]]で容易に破壊されるなどの問題を指摘されていた。 独ソ戦が始まると、37mm砲搭載型のIII号は[[赤軍|ソ連赤軍]]の[[T-34]](30トン級)や[[KV-1]](40トン級)に対してまったく無力であることが明らかになった。そのため、50mm砲搭載型が戦場に投入されたが、対ソ戦には50mm砲搭載型でも非力な面が目立った。 北アフリカ戦線では[[クルセーダー巡航戦車]]のような装甲の薄い戦車が多数をしめているイギリス戦車側の事情から有利な撃破が可能であり、特にJ型以降の型であれば充分な対戦車能力を発揮していた。だが、北アフリカにアメリカのレンドリース・参戦によって[[M3中戦車|M3グラント]](25トン級)、[[M4中戦車|M4シャーマン]](30トン級)が登場すると厳しい戦いを強いられるようになった。 本車の戦闘能力が、戦況が要求する水準に達した時期が短かったため、対戦車能力は不十分とされることが多かった。また、長砲身の75mm砲を載せるには砲塔ターレットリングの直径が小さく不可能だったため、改良も限界に達した。大戦中期には、[[IV号戦車]]に主力戦車の座を譲り、続く[[V号戦車パンター]]の実用化と共に生産は終了した。III号戦車はのちのナチス・ドイツの重戦車・主力戦車の基礎になったことからも、後の戦車開発技術に与えた影響は大きかったが、一方で基本設計時点での軽さ(基礎は15トン級)による発展性の制限により、生産と改良が実戦で要求された水準におよばなかったことから、主力戦車としては短命であった。 時間的に余裕のある時期に入念に作られたサスペンションは、後に用いられるような複雑な物ではなく、重量とのバランスが優れており、車台はアルケット社で生産される[[III号突撃砲|突撃砲]](後にIII号突撃砲と呼称)に転用され、敗戦直前まで生産が続けられた。その結果、突撃砲は製造数においてナチス・ドイツの装甲戦闘車両としては最多となっている。 {{-}} == 形式 == ;III号戦車A型 :Panzerkampfwagen III Ausf A, Sd.Kfz.141 :A型のサスペンションは、以後の型に比べ大型な片側5つの転輪を、コイルスプリングで独立懸架するクリスティー式に近い独自の構造を持つ。しかし車台高のあるクリスティー戦車やBT系、コイルスプリングを斜めに配置しサスペンションのストローク長を稼いでいたT-34や英国製[[巡航戦車]]と異なり、低めの車台に垂直に配置されたスプリングのストローク長が短くすぐに底突きした他、そもそも乗り心地が悪かった。また最高速度40km/hを目指していながら、実際は32km/hに留まっている(B型以降は同型機関にもかかわらず35km/h)。装甲厚は小銃弾や弾片防御レベルで、最大でも14.5mmにすぎなかった。III号戦車最初の生産型とはいえ、まだ増加試作型の域を出ず、1937年に10両が生産されたに過ぎない。 :A型は[[ポーランド侵攻|対ポーランド戦]]には使われたものの、能力不足を理由に1940年2月には実戦部隊から引き上げられた。 :車体前部右側のMG34 7.92 mm機関銃1挺(全型)とは別に、砲塔の正面右側に、主砲とは独立した、連装のMG34 7.92 mm機関銃(A型~F型まで。G型以降は同軸機銃1挺になる)を装備。 ;III号戦車B型、C型、D型 :Panzerkampfwagen III Ausf B, C, D, Sd.Kfz.141 [[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-318-0083-32, Polen, Panzer III mit Panzersoldaten.jpg|thumb|250px|ポーランド戦時のIII号D型。後の型とは全く異なり、8個の小転輪を前後2および中央部用の4に分割し、前後ボギー、中央ダブル・ボギーと3つのリーフスプリングが確認できる]] :初期生産型。1937年 - 38年にかけ、B、C型が各15両、D型が30両生産された。A型で用いられたサスペンションはストロークが不足しており実用に耐えないと判断され、B型からは片側8個の小型の転輪をリーフスプリングで懸架する方式に改められた。ただしこれも能力的には不満足で、B型からD型にかけ、リーフスプリングの配置、向きなど、小刻みに改良が行われた。また、D型では変速機、起動輪、誘導輪、キューポラも新型のものに改められた。 :B~D型もA型同様、ポーランド戦後実戦部隊の装備から外されたが、実際には戦車不足のため少数のD型はなお数ヶ月間使用された。 :側面はサスペンションのための構造で埋められており、操縦手・無線手の脱出用扉は設けられていない。 {{-}} ;III号戦車E型、F型 :Panzerkampfwagen III Ausf E, F, Sd.Kfz.141 :1938年12月 - 1940年7月に作られた量産型。15トン級の戦車に十分な機動性を持たせるための適切な足回りが得られず試行錯誤続きであったIII号戦車だが、E型に至って、スウェーデンの[[ランズベルク L-60|ランツヴェルク軽戦車]]に倣った[[トーションバー・スプリング|トーションバー]]・サスペンションを採用、これで片側6個の転輪を懸架する方式に改められた。また車体側面に操縦手・通信手用の脱出ハッチが設けられた。 :性能は十分と評価され、これが以後のIII号戦車共通のスタイルになった。主砲はそれまでの型と同様、歩兵の対戦車砲と共通の3.7cm砲を装備し、開発中の5cm砲への換装も考慮されていた。また、基本装甲はD型までの14.5mmから、30mmへと倍増、これによって重量は19.5トンに増加した。E型が96両、ほぼ同型のF型が435両生産された。 :III号戦車E/F/G型は、元々、高速戦車として開発され、高速仕様の10速変速機「マイバッハ社製 SGR 328 145 Variorex」を搭載しており、ソ連が不可侵条約中に購入したIII号戦車が、試験で最高速度69.7 km/hを記録してしまい、「III号戦車は快速戦車」だと誤解されてしまったという逸話があるという。ただし、こうした高速を出すと、変速機が壊れるので、実用性は無く、上限40 km/hでの運転制限がされていたとされる。H型からは、信頼性の高い6速変速機「ZF社製 SSG 77」に変更されており、こうした高速は機構的に出せなくなっている。 {{-}} ;III号戦車G型 :Panzerkampfwagen III Ausf G, Sd.Kfz.141 :E型、F型同様、当初は3.7 cm砲搭載型として生産が開始されたが、ポーランドおよびフランス戦での戦訓から火力強化が求められ、1940年7月以降は5 cm KwK 38 L/42を装備したものが生産された。1940年4月 - 1941年2月に600両が生産された。 ;[[ファイル:PzKpfwIIIH.Saumur.000a1y8q.jpeg|サムネイル|[[ソミュール戦車博物館]]のIII号H型。]]III号戦車H型 :Panzerkampfwagen III Ausf H, Sd.Kfz.141 :当初から5cm砲を搭載した最初の型で、後面が一枚板となった新型砲塔を採用、装甲も強化した。ただし、基本装甲そのものの増厚は生産ラインの変更が間に合わず、30mmの基本装甲に30mmの増加装甲を装着する形となった。装甲強化は、G型以前の生産型にも遡って行われた。 :H型は1940年10月 - 1941年4月の間に308両が生産された。 ;III号戦車J型 [[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-748-0089-10, Russland, Soldat auf Panzer III J.jpg|thumb|250px|III号戦車J型(1942年)]] :Panzerkampfwagen III Ausf J, Sd.Kfz.141, Sd.Kfz.141/1 :基本装甲厚が車体前面で50mmまで強化された新型車体を持つ。もともとIII号戦車の5cm砲には60口径の長砲身のものが考えられていたが、先に実用化の目処が立った42口径砲が採用・搭載されてきた。しかし、1941年4月の誕生祝賀パレードでIII号戦車を見たヒトラーは、長砲身砲の搭載を強く要求、これにより、J型は1941年12月以降の生産分は、主砲をより強力な5 cm KwK 39 L/60に換装した。そのため、同じJ型でも、厳密に言えば前期型と後期型で分かれるのだが、通称としてJ型は長砲身型と解釈されていることが多い。 :J型は1941年3月 - 1942年7月に 2,616両が作られたが、その内訳は短砲身型1,549両、長砲身型1,067両である。 {{-}} ;III号戦車K型 :Panzerkampfwagen III Ausf K :計画車輛。III号戦車J型の車体に43口径7.5㎝戦車砲KwK40を搭載するIV号戦車F2型の砲塔を搭載しようとしたもの。しかし、車体やサスペンションや履帯などが、大型の砲塔に対応できるだけの強度を確保できない問題が発生、1941年12月には図面が完成していたものの、1942年3月に計画中止が決定された。その後、K型の型式名は、III号戦車M型の車体をベースに、60口径5cm戦車砲KwK39を搭載したIV号戦車G型の砲塔を搭載し、通信機を装備した、指揮戦車に使用された。 {{-}} ;III号戦車L型 [[ファイル:Panzerkampfwagen III 4.jpg|thumb|250px|[[アメリカ陸軍兵器博物館]]のIII号戦車L型]] :Panzerkampfwagen III Ausf L, Sd.Kfz.141/1 :砲塔前面装甲を強化したもの。J型後期からの操縦室前面と防盾の中空装甲が標準装備となる。なお後に、5 cm KwK 39 L/60搭載のJ型(L/42砲からの改修型含む)もL型に呼称を変更する通達が出されている。 :1942年6月から12月に653両が生産された。 {{-}} ;III号戦車M型 [[ファイル:SdKz141-1-1.jpg|thumb|250px|[[ムンスター戦車博物館]]のIII号戦車M型]] :Panzerkampfwagen III Ausf M, Sd.Kfz.141/1 :L型をベースに徒渉能力を高めたもの。エンジンルーム左右の吸気口、後部オーバーハング下の排気口にそれぞれ水密ハッチが付き、エンジンマフラーは防水弁付きの新型が高い位置に設けられた。突き出たエンジンマフラーのぶん、L型とは車体全長が異なる。またシュルツェンを装着すると使えなくなる車体下部側面の操縦手・無線手の脱出用扉は廃止されている。 :当初1,000両が発注されたが、すでに戦車としての威力不足は明らかになっており、[[V号戦車パンター]]の生産に集中するなどの方針転換などから、発注数の削減、既生産車体の自走砲・火焔放射戦車・N型への転用が行われ、その結果、M型として完成したのは1942年10月 - 1943年2月間、250両にとどまった。 :M型は前線部隊の補充用に用いられた。 {{-}} ;III号戦車N型 :Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2 :L型、M型をベースに[[7.5 cm KwK 37|7.5 cm KwK 37 L/24]]を装備したもの。1942年6月 - 1943年8月に生産された。IV号戦車が長砲身75mm砲を装備したため余剰となった短砲身の75mm砲を搭載し、これに代わって火力支援用戦車となったものである。[[成形炸薬弾]]を用いても対戦車戦闘能力は限られたものであったが、前線部隊には好評であった。戦闘室前面の中空装甲は装備されているが、砲塔防盾の中空装甲は未装備、またはその取り付け架のみ装備の車両が多い。 :[[ティーガーI]]を装備する初期の独立[[重戦車大隊]]にも、重戦車の不足を補うために軽小隊に配備された。これらの大隊はティーガーI20両とIII号N型25両で編成されていた。 :生産はJ、L、M型と併行して行われたため、これに合わせ車台は3種類ある。新造されたものは663両で、J型車体3両、L型車体447両、M型車台213両であった。このほか1944年までに修理のため後送されてきた37両がN型に改修された。 == 派生型 == [[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-185-0137-14A, Jugoslawien, Panzer III in Fahrt.jpg|thumb|250px|指揮戦車H型]] ;指揮戦車D1~H型 :Panzerbefehlswagen, Sd.Kfz.266-268 :戦車部隊の戦術統制指揮に用いるため、大型の無線機を搭載する車輛としてIII号戦車がベース車体として選ばれ、[[1938年]]6月から[[1939年]]3月にかけ、まずD型をベースとした指揮戦車D1型が30輛生産された。 :欺瞞のため、指揮戦車は極力、通常の戦車型と似せてあったが、主砲はダミーで、砲塔は戦車型よりわずかに前寄りに固定されており、車体後部機関室上にはフレームアンテナを備えていた。砲塔上面の小ハッチを通し大型のアンテナマストを立てることも可能であった。さらに[[1939年]]7月から[[1940年]]2月にかけてE型ベースの指揮戦車E型が45輛、1940年11月から[[1942年]]1月にかけてH型(最後期はJ型)ベースの指揮戦車H型175輛が生産された。これら指揮戦車は、戦車部隊の大隊以上の本部車輛として用いられた。 ;指揮戦車K型 :Panzerbefehlswagen mit 5 cm KwK 39/2 L/60(Panzerbefehlswagen Ausf K) :指揮戦車D1~H型に続く指揮戦車第4シリーズのK型は、それまでの指揮戦車と違い、戦車型同様の主砲(60口径5㎝戦車砲KwK39/2。KwK39/2はKwK39の改良型で、60口径5cm対戦車砲PaK38の弾薬も使用可能になった)を中央よりやや左寄りに備えていた。基本車体にはM型が用いられたが、指揮戦車としての車内容積を稼ぎつつ主砲を装備するため、砲塔は一回り大きいIV号戦車と略同形のものが用いられていた。 :当初、200輛の生産が予定されていたが、指揮戦車H型の追加発注や、通常の戦車型から改装した簡易型指揮戦車の登場で、結局、1942年12月から1943年2月にかけて50輛が生産されたに留まった。 ;42口径5cm戦車砲付き指揮戦車 :Panzerbefehlswagen mit 5 cm KwK 39 L/42, Sd.Kfz.141 :機銃までの武装しか持たない指揮戦車D1~H型に対して、前線部隊はより強力な武装を要求しており、これに応え、通常の戦車型に長距離無線機を増設した、いわば簡易型の指揮戦車が開発された。大掛かりな改造を施した専用指揮戦車に比べ生産も容易であったために、1943年以降、指揮車両はすべて通常型からの改装で賄うこととなった。無線機の増設のため、車体銃は廃止されるとともに搭載弾薬は削減された。 :42口径5cm戦車砲付き指揮戦車は、III号戦車J型をベースとして、1942年8月から1943年9月までに185輛が作られた。 ;III号潜水戦車 [[ファイル:Bundesarchiv Bild 101II-MW-5674-33, Kanalküste, Verladen von Tauchpanzer III.jpg|thumb|250px|III号潜水戦車]] :Panzerkampfwagen III als Tauchpanzer :F型、G型、H型を元に潜水可能に改修された戦車。もともとはイギリス侵攻「[[アシカ作戦]]」用に開発されたもので、車体各部に水密処理を施し、水面上の無線アンテナ付きブイとの間をパイプで結び、水深15メートルまでの水底で行動可能であった。 :アシカ作戦の中止により、これら潜水戦車は、シュノーケルを固定式のパイプに改めるなど河川用に再改装され、バルバロッサ作戦初期に用いられた。 {{-}} ;III号火焔放射戦車(III号戦車(火焔型)) [[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-732-0114-16, Russland - Mitte, Flammenwerfer-Panzer.jpg|thumb|250px|戦場での火炎放射戦車]] :Panzerkampfwagen III (Fl), Sd.Kfz.141/3 :M型をベースに作られた[[火炎放射戦車]]。普通の戦車に見せかけた砲身は鉄パイプ製ダミーで、火炎はこれを通して放出される。 :[[スターリングラード攻防戦|スターリングラード戦]]での戦訓から近距離戦闘での支援用に企画されたが、スターリングラード戦には間に合わず、実戦投入はその後からとなった。搭載された火焔放射器は、55~60m(資料によっては100m)の飛距離を持っていた。 :ヴェグマン社において、MIAG社製III号戦車M型を元に1943年2月から4月にかけて100輛が生産された。 {{-}} ;III号観測戦車(砲兵用観測戦車(III号戦車)) [[File:PzBeobWg III.jpg|thumb|250px|III号砲兵観測戦車]] :Artillerie-Panzerbeobachtungswagen (Panzerkampfwagen III), Sd.Kfz.143 :自走榴弾砲、[[フンメル (自走砲)|フンメル]]、[[ヴェスペ]]部隊に随伴する装甲観測用車輛として、1943年2月から1944年4月にかけ、262輛が作られた。 :ベースには、すでに旧式化していたIII号戦車E型~H型が利用された。主砲は除かれ、砲塔前面中央には自衛用の機銃架が装着され、防盾右側に、欺瞞用のダミー主砲が取り付けられた。砲塔上面には、観測用の引込式大型ペリスコープが取り付けられ、また車体各部には30mmの増加装甲が施された。 {{-}} ;III号回収戦車 :Bergepanzer III :修理のため後送されたIII号戦車をもとに、1944年3月から12月にかけ、150輛が改装された。 :開発・試作段階では、大型大重量の車輌の回収作業には移動時には1軸2輪のトレーラーとして牽引する大型の[[錨]]({{lang|de|Panzerbergeanker als Anhänger (1 achs.) (Sd.Ah.40)}}<ref>[http://www.kfzderwehrmacht.de/Homepage_english/Trailers/Special_trailers/Sd__Ah__40/sd__ah__40.html Kfz der Wehrmacht>{{lang|de|Panzerbergeanker als Anhänger (1 achs.) (Sd.Ah.40)}}] ※2019年8月3日閲覧</ref>を使用する方式(これを地面に喰い込ませて牽引力を増加させる)としていたが、Sd.Ah.40は実戦配備数が限られていたため、量産車ではほとんど装備されなかった。 ;[[III号突撃砲]] :75mm砲を装備した自走砲。当初の制式名称は単に「突撃砲」だが、後に[[IV号戦車]]ベースの同種の車両が作られたことにより、III号突撃砲と呼ばれるようになった。元々歩兵支援用に作られ、初期は24口径7.5cm砲を搭載したが、後期には長砲身(43口径および48口径)化され、対戦車戦闘に主用されるようになった。 :終戦までに派生型などを含め、大戦中のドイツ製装甲戦闘車両中で最多の約10,500両が生産された。 ;[[10.5cm突撃榴弾砲42]] :III号突撃砲と同一の車体に、[[10.5cm leFH 18]]の車載型、10.5cm StuH 42を搭載したもの。量産型は当初F/8型シャーシ、後にG型シャーシを用いて製作され、終戦まで1,212両が完成した。 ;[[33B突撃歩兵砲]] :III号突撃砲の車台に密閉式の箱型戦闘室を搭載し[[15cm sIG33]]を搭載したもの。既存のIII号突撃砲E型{{efn|すべてIII号突撃砲E型からの改修である説と、III号突撃砲B/C/D/E型が用いられた説がある。いずれの場合にも車台はIII号戦車H型相当である}}車体(III号戦車H型相当)を改修し24両が生産された。 ;[[2cm Flakvierling38]]搭載III号対空戦車 :Flakpanzer III :III号戦車の車体に[[ヴィルベルヴィント]]の砲塔を搭載した[[対空戦車]]。ヴィルベルヴィントの20mm機関砲を30mm機関砲に換えた火力強化型である45式対空駆逐車が量産されれば製造される予定であった。実際には45式対空駆逐車は試作1両のみにとどまりヴィルベルヴィントの生産が続行されたためIII号戦車を対空戦車に流用する案は実現せず1両も製造されていない。 :なお、この車両の名称については資料が無く当時いかなる呼び方をしていたのかは不明であり、III号対空戦車という名称はヴィルベルヴィントや[[オストヴィント]](いずれも正式にIV号対空戦車である)から類推し便宜的に用いる仮称である。 ;[[3.7 cm Flak 43]]搭載III号対空戦車 :Flakpanzer III(3.7cm Flak43 auf Fahrgestell Pz.Kpfw.III Ausf.M Versuchsaufbau) :III号戦車の車体(正確には、III号戦車の生産が終了していたため、それぞれ前線から戻ってきた、III号突撃砲の車体下部と、III号戦車の砲塔リングを含む車体上部を、組み合わせた再生車体)に[[オストヴィント]]の砲塔を搭載した対空戦車。1944年11月に突撃砲旅団用の対空車両開発の要求により計90両の生産が計画され、翌1945年3月に、18基のオストヴィント砲塔が工場に引き渡され、III号戦車の車体に搭載されたが、完成数は不明。 :完成車両は、第244突撃砲旅団に2両、第341突撃砲旅団に3両、第667突撃砲旅団に4両が配備され、内数両が実戦に参加した。 ;III号戦車 鋼製転輪仕様 :中期~末期(1943年以降)のIII号戦車の中には、下部転輪の全てが[[IV号駆逐戦車]]や[[ブルムベア]]の鋼製転輪と同じ物に変更された車両が存在する。 === ソビエト連邦での派生型 === [[File:Military equipment in the UMMC museum - 8.jpeg|thumb|250px|SG-122]] ;SG-122 :ソ連軍が鹵獲したIII号戦車の車体に固定戦闘室を搭載し、[[M-30 122mm榴弾砲]]を搭載した自走砲。1942年に少数生産された。 ;[[SU-76i (自走砲)|SU-76i]] :ソ連軍が鹵獲したIII号戦車の車体に固定戦闘室を搭載し、[[F-34 76mm戦車砲|76.2mm S-1戦車砲]]を搭載した自走砲。1943年に200両程度生産された。 {{-}} == 登場作品 == {{Main|III号戦車に関連する作品の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons | ページ名 = Category:Panzerkampfwagen III | 追加1 = Category:Panzerkampfwagen III variants | タイトル1 = III号戦車の派生型 }} * [[中戦車]] {{第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:3こうせんしや}} [[Category:III号戦車|*]] [[Category:ドイツ国防軍の戦車]] [[Category:中戦車]]
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ゴース星人
ゴース星人(ゴースせいじん)は、特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』をはじめとするウルトラシリーズに登場する架空の宇宙人。別名は幽霊怪人。 『ウルトラセブン』第48話「史上最大の侵略(前編)」、第49話「史上最大の侵略(後編)」に登場。 きわめて高度な文明を誇り、普通の方法では観測できない「幽霊惑星」ことゴース星から地球を侵略しに訪れた異星人。熊が岳の地底に侵略基地を建造し、パンドンを操る。地上では淡い光で全身を包み、幽霊を思わせる半透明の状態で活動するほか、右手から放つ光線で作るゴースバルーンで敵を包み込み、身動きを封じる。地球人の言語は理解しているが、話せるのは甲高い独特の言語だけであるため、地球防衛軍に降伏を勧告する際には人質として拉致したウルトラ警備隊のアマギ隊員の自我をマインドコントロールする特殊なカプセルで洗脳し、メッセンジャーとして使う。 地球人の海や空からの攻撃に対する守備は堅いものの地底からの攻撃に対する守備は脆いことを利用し、超強力な地底ミサイル150発で全世界の首都を破壊する人類抹殺計画「30億全人類皆殺し作戦」の手始めとして、ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワなどへ壊滅的な被害を与え、人類に降伏と火星への移住を要求する。 基地には円盤消火セクション、円盤基地、パンドンを改造するモンスター改造室、地底ミサイル格納庫などの施設があり、司令官、側近4人、部下たち多数が潜伏していたが、最終的にはウルトラ警備隊に発見されたうえ、自動操縦で送り込まれた時限爆弾搭載のマグマライザーに急襲されて破壊される。その結果、爆発直前にウルトラセブンによって救出されるアマギ以外の全員が死亡する。 『ウルトラマンボーイのウルころ』の新撮に登場。 『ウルトラマンタイガ』第18話「新しき世界のために」に登場。 バット星人小森セイジの同志だったが、地球での革命を放棄し、ひょっとこの面を被って地球人に紛れて生活しながら宇宙に帰ろうとしていた。地球の言語は喋れないため、E.G.I.S.の宗谷ホマレの体を借りて人間と会話する。霧崎の策略で宇宙人を憎んでいた田崎修に襲われるが、それを助けるために現れたパンドンがウルトラマントレギアに惨殺されると、宇宙人に理解を示した修から謝罪された後、パンドンに花を手向けた。 『セブンガーファイト』第7話「帰ってきた赤いアイツ」に登場。 怪獣惑星に生息する個体が登場。ガラモン、ガンダー、改造パンドン、イカルスを操っていた黒幕。駆けつけたジャグラーの新月斬波によって一刀両断にされる。 映画『ウルトラマンデッカー最終章 旅立ちの彼方へ...』に登場。 舞台作品『ウルトラマンライブステージ2・宇宙恐竜最強進化!』に登場。 『ウルトラセブン』最終回にて基地の爆発に巻き込まれて死亡したゴース星人の1人。ゾフィーからとある卵を与えられ、「その卵から孵った子供を育てる」という条件で生き返らせてもらうが、卵から孵ったゼットン星人の子供を巡り、大事件が起きることになる。
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ゴース星人(ゴースせいじん)は、特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』をはじめとするウルトラシリーズに登場する架空の宇宙人。別名は幽霊怪人。
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207|loc=「エピソードガイド第48話・第49話」}}{{efn|書籍『ウルトラセブン研究読本』において、池島本人はどのゴース星人を演じたかは記憶が定かでないとコメントしている{{Sfn|ウルトラセブン研究読本|2012|p=303|loc=「ウルトラセブンコメント集」}}。}} * 声は「親分、殴り込みです」「何!?殴り込みだと!」などの日本語のセリフを早送り再生して加工したもの{{Sfn|シリーズ大図鑑|2015|p=89}}。 * 名前の由来は英語で幽霊を意味する「ghost」から{{Sfn|ウルトラ怪獣列伝|2008|pp=198-199|loc=「コラム ヒネったパターンが続出!『ウルトラセブン』の宇宙人のネーミング」}}。 * 第48話の決定稿脚本ではモロボシ・ダンが体育館で[[バスケットボール]]や[[鉄棒]]を行う様子をゴース星人の偵察隊が覗いており、これは地球侵略の障害となるセブンを監視している描写だったということで、完成作品ではアンヌに変更された{{Sfn|ウルトラセブン研究読本|2012|pp=204 - 207|loc=「エピソードガイド第48話・第49話」}}。 * 劇中に登場したヒューマノイド形態以外にも、総統が巨大化した異形の姿を描いた池谷仙克によるデザイン画が残されている。 * 着ぐるみは[[高山良策]]によって頭部のみが数体造られ、胴体は既存のタイツを使用している<ref>{{Cite book|和書 |date = 1982-12-31 |title = 不滅のヒーローウルトラマン白書 |series = ファンタスティック・コレクション・スペシャル |publisher = [[朝日ソノラマ]] |edition = 初版 |id = 雑誌コード:67897-80 |page = 107}}</ref>。 * 『[[マイティジャック#『戦え! マイティジャック』|戦え! マイティジャック]]』の第16話「来訪者を守りぬけ」に登場するモノロン星人のスーツは、ゴース星人の顔を赤く染め直したものである。このマスクは、『ウルトラファイト』第196話「怪獣死体置場」で円谷プロの着ぐるみ倉庫に置かれているのが確認できる。 * 地底ミサイルのミニチュアは、『[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]』のジェットモグラのプラモデルを改造したものである{{Sfn|ウルトラセブン研究読本|2012|p=156|loc=「ウルトラセブンメイキング集part2」}}。 * 地底ミサイルで各国の都市が破壊されるシーンは、1961年の映画『[[世界大戦争]]』からの流用。その後、『[[ウルトラマン80]]』に登場する[[バルタン星人#六代目|バルタン星人(六代目)]]の地球破壊のイメージシーンとして流用された。 <section end=SEVEN /> == 『ウルトラマンボーイのウルころ』に登場するゴース星人 == 『[[ウルトラマンボーイのウルころ]]』の新撮に登場。 * 第152話「熱血指導だ! エイティ先生の巻」、第153話「これがウルトラスピリッツだ! の巻」に登場。ヒロシという名の[[ウルトラマン80#ウルトラマン80|ウルトラマン80]]の生徒で、番長または兄貴と呼ばれる[[ウルトラマンガイアの登場怪獣#巨大異形獣 サタンビゾー|サタンビゾー]]の子分。 * 第225話「開幕! ウルトラオリンピックの巻」では[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]と[[ウルトラマンレオの登場怪獣#怪異宇宙人 ケットル星人|ケットル星人]]の乱闘を実況するが、ケットル星人の不真面目さに怒って彼をプロレス技で制裁し、「よっしゃあ」とガッツポーズを決める。 * 第259話「発表! 夢のバトル・ベスト3の巻」ではナレーターを演じる。 == 『ウルトラマンタイガ』に登場するゴース星人 == {{キャラスペック |名称=ゴース星人 |英字表記=ALIEN GHOSE{{R|taiga_kaiju}} |別名=幽霊怪人 |身長=2{{nbsp}}m{{R|taiga_kaiju|タイガ超全集2}} |体重=70{{nbsp}}kg{{R|taiga_kaiju|タイガ超全集2}} }} 『[[ウルトラマンタイガ]]』第18話「新しき世界のために」に登場。 [[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#バット星人小森セイジ|バット星人小森セイジ]]の同志だったが、地球での革命を放棄し、[[ひょっとこ]]の面を被って地球人に紛れて生活しながら宇宙に帰ろうとしていた。地球の言語は喋れないため、E.G.I.S.の宗谷ホマレの体を借りて人間と会話する。霧崎の策略で宇宙人を憎んでいた田崎修に襲われるが、それを助けるために現れた[[パンドン#『ウルトラマンタイガ』に登場するパンドン|パンドン]]が[[ウルトラマントレギア]]に惨殺されると、宇宙人に理解を示した修から謝罪された後、パンドンに花を手向けた{{Sfn|UPM vol.24|2021|p=26|loc=「トレギア使役怪獣、ヴィラン・ギルド、宇宙人、怪獣兵器」}}。 * 声:[[諒太郎]]{{R|タイガBDII}}{{efn|声はデジタル加工によって初代の雰囲気を再現している{{R|タイガBDII}}。}} * スーツアクター:[[岡部暁]] * スーツは新期に造形された{{R|タイガBDII}}。 * 言葉が通じない宇宙人が、宇宙人は悪いものだと決め付けている少年と最終的に分かり合える話にするため、地球の言葉を喋らないゴース星人が選ばれた{{R|タイガBDII|タイガ超全集88}}。また、パンドンの登場が決定したことも理由の一つであった{{R|タイガBDII}}。 == 『セブンガーファイト』に登場するゴース == 『[[ウルトラマンZ#セブンガーファイト|セブンガーファイト]]』第7話「帰ってきた赤いアイツ」に登場。 怪獣惑星に生息する個体が登場。[[ガラモン (ウルトラ怪獣)#『セブンガーファイト』に登場するガラモン|ガラモン]]、[[ウルトラセブンの登場怪獣#『セブンガーファイト』に登場するガンダー|ガンダー]]、[[パンドン#『セブンガーファイト』に登場する改造パンドン|改造パンドン]]、[[イカルス星人#『セブンガーファイト』に登場するイカルス|イカルス]]を操っていた黒幕{{Sfn|セブンガーファイト超全集|2021|p=29}}。駆けつけた[[ウルトラマンオーブ#本作品の新怪獣・宇宙人|ジャグラー]]の新月斬波によって一刀両断にされる{{Sfn|セブンガーファイト超全集|2021|p=29}}。 == 『ウルトラマンデッカー最終章 旅立ちの彼方へ…』に登場するゴース星人 == 映画『[[ウルトラマンデッカー#映画|ウルトラマンデッカー最終章 旅立ちの彼方へ…]]』に登場。 * スーツアクター:橋本拓 == 『ウルトラマンライブステージ2・宇宙恐竜最強進化!』に登場するゴース星人 == {{出典の明記|section=1|date=2022年6月}} 舞台作品『ウルトラマンライブステージ2・宇宙恐竜最強進化!』に登場。 『[[ウルトラセブン]]』最終回にて基地の爆発に巻き込まれて死亡したゴース星人の1人。[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]からとある卵を与えられ、「その卵から孵った子供を育てる」という条件で生き返らせてもらうが、卵から孵った[[ゼットン星人]]の子供を巡り、大事件が起きることになる。 == その他の作品に登場するゴース星人 == * 映画『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』では、[[ウルトラマンキング]]の誕生日を怪獣たちと共に祝福する。 * 『[[ウルトラマンM730 ウルトラマンランド]]』では、モノロンの母で働き者のゴースが登場。これは、前述したようにモノロン星人のスーツがゴース星人の改造であることにちなむ。 * [[てれびくん]]版『[[ウルトラマンメビウス#ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦|ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦]]』では、L・P372星雲にてパンドンを操り、[[ウルトラマンタロウ#ウルトラマンタロウ|ウルトラマンタロウ]]や[[ウルトラマンA#ウルトラマンA|ウルトラマンA]]と対決する。 * 『[[ウルトラマンギンガ]]』第3話で[[パンドン#『ウルトラマンギンガ』に登場するキングパンドン(SD)|キングパンドン]]にダークライブした{{読み仮名|菅生ユウカ|すごうユウカ}}の名前は、ゴース星人に由来している<ref>Blu-ray『ウルトラマンギンガ 1』([[バンダイビジュアル]] BCXS-0787)封入 作品解説書 SPARK NOTES Vol.1。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref 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|和書 |editor=ブレインナビ| date = 2008-08-18 | title = ウルトラ怪獣列伝 ウルトラマン・ウルトラセブン編 | publisher = [[PHP研究所]] |series=[[PHP文庫]]| isbn = 978-4-569-67071-3 | ref={{SfnRef|ウルトラ怪獣列伝|2008}} }} * {{Cite book | 和書 | editor = 講談社| title = キャラクター大全 ウルトラセブン | publisher = [[講談社]] | date = 2012-07-20 | isbn = 978-4-06-217833-4 |ref={{SfnRef|キャラクター大全ウルトラセブン|2012}} }} * {{Cite book | 和書 | title = 別冊[[映画秘宝]]ウルトラセブン研究読本 | series = 洋泉社MOOK | publisher = [[洋泉社]] | date = 2012-11-29 | isbn = 978-4-8003-0027-0 |ref={{SfnRef|ウルトラセブン研究読本|2012}} }} * {{Cite book|和書|author = 大石真司 |coauthors = 江口水基・島崎淳・間宮尚彦 |date = 2013-03-11 |title = 円谷プロ全怪獣図鑑 |publisher = 小学館 |isbn = 978-4-09-682074-2 |ref = {{SfnRef|円谷プロ全怪獣図鑑|2013}} }} * {{Cite book|和書|date = 2015-10-25|title = 大人のウルトラマンシリーズ大図鑑|series = MAGAZINE HOUSE MOOK |publisher = [[マガジンハウス]] |isbn = 978-4-8387-5051-1|ref = {{SfnRef|シリーズ大図鑑|2015}}}} * {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2021-06-24|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.24|volume-title=ウルトラマンタイガ|publisher = 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生駒駅
生駒駅(いこまえき)は、奈良県生駒市元町一丁目にある、近畿日本鉄道(近鉄)の駅である。生駒鋼索線の鳥居前駅(Y17)と相互連絡駅。駅長配置駅である。第4回近畿の駅百選認定駅。 2009年に阪神なんば線が開業して以降、奈良線とけいはんな線のどちらを利用しても九条駅(大阪府大阪市)へ行くことができるようになった。 島式ホーム3面6線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。けいはんな線、奈良線、生駒線にホームが1面ずつ割り当てられている。橋上駅舎は東西双方に設けられているが、西駅舎は生駒線ホームに直接つながっていない。駅東端に改札内地下連絡通路が設けられている。近年の改修により各ホームおよび駅南北側それぞれにエレベーターが整備され、バリアフリー化が図られている。けいはんな線と奈良線・生駒線の間には中間改札がある。 生駒線ホームの5番線のみ奈良線と線路が繋がっており、奈良線の新生駒トンネル出入り口付近には渡り線が設置してあるため、生駒線の列車はこの渡り線を使って車両回送が行われている。 構内には市内鬼取町にある「鬼工房」による、”駅構内に良い気が巡るよう、大地のエネルギーをこめたデザイン”の目玉形の陶製のオブジェがある。 近年における特定日の当駅乗降人員は以下の通り。 近年の1日平均の乗車人員は以下の通りである。(1964年までは現近鉄奈良線と信貴生駒電鉄生駒駅(1916年は仮生駒駅)) 南口は古くから宝山寺参道の門前町であり、特に鉄道開業後は門前町としての賑わい・風格が増し、交通、商業の中心地として発達した。しかし、近年北口の再開発などを受け小売店数は減少し、代わってマンションの建設が相次いでいる。そこで関西でいち早く「100円商店街」を取り入れるなど、ぴっくり通りを中心に商店街の活性化が図られている。飲食店のほか、(北口も含め)幅広い層を対象とした学習塾、予備校が集中する文教地区の面も持つ。特に奈良県を中心に教室を持つKECゼミナールの、創業地、本部がある。 北口は駅前に木造低層住宅が密集する地域であったが、まず平成9年に生駒市の新たな玄関口として再開発し、近鉄百貨店などが入店するアントレいこまが開業した。次にその周辺地区の再開発も行われ、平成26年「ベルテラスいこま」などが開業した。第二期の再開発は、“時宜を得た連鎖型再開発事業”として、日本都市計画学会の関西まち賞に選ばれた。一方で、山側では三勝園など戦前からのからの邸宅街が広がっている他、駅を中心に土地の起伏を生かして住宅地が広がる。 生駒市の中心駅であるため、市役所やメディカルセンター、 たけまるホール(旧中央公民館)など公共施設も付近多い。 周辺は商業施設の他に閑静な住宅街が広がる。寺社も多い。 周辺は商店の他に閑静な住宅街が広がる。 奈良交通および生駒交通により運行されており、北口、南口それぞれに乗り場がある。
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生駒駅(いこまえき)は、奈良県生駒市元町一丁目にある、近畿日本鉄道(近鉄)の駅である。生駒鋼索線の鳥居前駅(Y17)と相互連絡駅。駅長配置駅である。第4回近畿の駅百選認定駅。
{{駅情報 |社色 = #c03 |文字色 = |駅名 = 生駒駅 |画像 = 生駒駅_駅舎外観(2021年).jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅舎外観(2021年12月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point |marker=rail|marker2=rail |coord={{coord|34|41|35.45|N|135|41|52.86|E}}|marker-color=c03|title=生駒駅 |coord2={{coord|34|41|32.52|N|135|41|46.14|E}}|marker-color2=c03|title2=鳥居前駅 }}左下は鳥居前駅 |よみがな = いこま |ローマ字 = Ikoma |電報略号 = イコ |所属事業者 = [[近畿日本鉄道]](近鉄) |所在地 = [[奈良県]][[生駒市]][[元町 (生駒市)|元町]]一丁目1-1 | 緯度度 = 34 | 緯度分 = 41 | 緯度秒 = 35.45 | 経度度 = 135 |経度分 = 41 | 経度秒 = 52.86 |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 3面6線 |開業年月日 = [[1914年]]([[大正]]3年)[[4月30日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = (全日)22,591 |乗降人員 = |統計年度 = 2019年 |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{近鉄駅番号|A}} [[近鉄奈良線|奈良線]] |駅番号1 = {{近鉄駅番号|A|17}} |前の駅1 = A16 [[石切駅|石切]] |駅間A1 = 4.1 |駅間B1 = 1.2 |次の駅1 = [[東生駒駅|東生駒]] A18 |キロ程1 = 14.2km([[布施駅|布施]]起点)<br/>[[大阪難波駅|大阪難波]]から20.3 |起点駅1 = |所属路線2 = {{近鉄駅番号|G}} [[近鉄生駒線|生駒線]]* |駅番号2 = {{近鉄駅番号|G|17}} |駅間B2 = 1.2 |次の駅2 = [[菜畑駅|菜畑]] G18 |キロ程2 = 12.4 |起点駅2 = [[王寺駅|王寺]] |所属路線3 = {{近鉄駅番号|C}} [[近鉄けいはんな線|けいはんな線]] |駅番号3 = {{近鉄駅番号|C|27}} |前の駅3 = C26 [[新石切駅|新石切]] |駅間A3 = 5.7 |駅間B3 = 5.1 |次の駅3 = [[白庭台駅|白庭台]] C28 |キロ程3 = 10.2km([[長田駅 (大阪府)|長田]]起点)<br/>[[コスモスクエア駅|コスモスクエア]]から28.1 |起点駅3 = |乗換 = [[近鉄生駒鋼索線]](宝山寺線) - [[鳥居前駅]] |備考 = |備考全幅 = * 奈良線生駒駅の改称経歴<br/>- [[1928年]] 生駒駅→大軌生駒駅<br/>- [[1941年]] 大軌生駒駅→関急生駒駅<br/>- [[1944年]] 関急生駒駅→近畿日本生駒駅<br/>- [[1964年]] 近畿日本生駒駅→生駒駅 }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|配線図|#c03}} {{BS-table|配線}} {{BS-colspan}} 1, 2: [[新石切駅]]<br/> 3, 4: [[石切駅]]<br/> ↑ {{BS6text|6|5|4|3|2|1|||}} {{BS6|||tSTRg|tSTRf|utSTRg|utSTRf|||}} {{BS6|||tSTRe|tSTRe|utSTR|utSTR|||}} {{BS6||ENDEa|KRWgl|KRWg+r|utSTR|utSTR|||}} {{BS6||KRWg+l|KRWgr|STR|utSTRe|utSTRe|||}} {{BS6||STR|STR|O3=STR+BSl|STR+BSr|uKRWgl+l|uKRWgr+r|||}} {{BS6||STR|STR+BSl|STR+BSr|uSTR+BSl|uSTR+BSr||}} {{BS6|ENDEa+BSl|STR+BSr|STR+BSl|STR+BSr|uSTR+BSl|uSTR+BSr||}} {{BS6|STR+BSl|STR+BSr|STR+BSl|STR+BSr|uSTR+BSl|uSTR+BSr||}} 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name=sone03-2>{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 大手私鉄 |date=2010-08-29 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=3号 近畿日本鉄道 2 |isbn=978-4-02-340133-4 |pages=18-19}}</ref>。 * [[1927年]](昭和2年)[[4月1日]]:信貴生駒電鉄の仮新生駒駅から延伸し'''生駒駅'''<ref>和久田康雄『私鉄史ハンドブック』(電気車研究会、1993年)では「新生駒」となっていたが、[http://www.tetsupic.com/seigohyo/index.html 正誤表]では「生駒」と訂正。</ref>が開業、仮新生駒駅廃止<ref name=sone03-2/><ref name=chizu25>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介 |title=[[日本鉄道旅行地図帳]] |publisher=[[新潮社]] |volume=8 関西1 |year=2008 |isbn=978-4-10-790026-5 |page=25}}</ref>。 * [[1928年]](昭和3年)8月:大阪電気軌道の生駒駅が'''大軌生駒駅'''に改称<ref name=kintetsu682>{{Cite book|和書|author=近畿日本鉄道株式会社 |title=近畿日本鉄道 100年のあゆみ |date=2010-12 |publisher=近畿日本鉄道 |id={{全国書誌番号|21906373}} |page=682}}</ref>。 * [[1941年]](昭和16年)[[3月15日]]:大阪電気軌道が参宮急行電鉄と合併し、関西急行鉄道発足<ref name=sone03/>。大軌生駒駅が'''関急生駒駅'''に改称<ref name=chizu25/>。 * [[1944年]](昭和19年)[[6月1日]]:関西急行鉄道が戦時統合により近畿日本鉄道に改組<ref name=sone03/>。関急生駒駅が'''近畿日本生駒駅'''に改称<ref name=chizu25/>。 * [[1956年]](昭和31年)[[12月13日]]:生駒線の駅を奈良線の駅に統合<ref name=chizu25/>。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[7月23日]]:[[生駒トンネル|新生駒トンネル]]完成に伴い[[石切駅|石切]] - 当駅間を新線に切り替え。 ** [[10月1日]] - 近畿日本鉄道が信貴生駒電鉄を合併し、生駒線とする<ref name=sone03-2/>。これにより近鉄単独駅となる。同月奈良線の駅は近畿日本生駒駅から'''生駒駅'''に改称<ref name=kintetsu682/>。 * [[1971年]](昭和46年)4月1日:定期券専用[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite news |和書|title=きょう19駅で使用開始 近鉄定期券自動改札機 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1971-04-01 |page=2 }}</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)[[11月7日]]:この日より、従前より通過していた無料特急を改称の上新設された「快速急行」の停車駅となる。 * [[1976年]](昭和51年)のダイヤ改正までは平日朝ラッシュ上りのみ快速急行は通過、ダイヤ改正以降終日停車駅となる。 * [[1973年]](昭和48年)9月:ダイヤ改正により新設された有料特急の停車駅となる。 * [[1986年]](昭和61年)10月1日:東大阪線(現在のけいはんな線)[[長田駅 (大阪府)|長田]] - 当駅間開業<ref name=sone03-2/>。 * [[2001年]]([[平成]]13年)[[2月1日]]:SF(ストアードフェア)システムの導入および「[[スルッとKANSAI]]」対応カードの取り扱い開始に伴い、当駅における「途中下車指定駅」の制度が廃止される。 * [[2006年]](平成18年) ** [[3月21日]]:けいはんな線開業に先立ち、東大阪線ホームに接近・発車メロディ導入。 ** [[3月27日]]:けいはんな線当駅 - [[学研奈良登美ヶ丘駅|学研奈良登美ヶ丘]]間開業。同時に旧東大阪線区間もけいはんな線に改称<ref name=sone03-2/>。 * [[2007年]](平成19年)4月1日:[[PiTaPa]]利用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成19年4月1日から、近鉄主要路線でICカードの利用が可能になります |publisher=近畿日本鉄道 |date=2007-01-30 |url=http://www.kintetsu.jp/news/files/iccard20070130.pdf |format=pdf |accessdate=2016-03-02}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[2月26日]]:3番線と5番線の接近・発車の案内放送が更新。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]3面6線を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。けいはんな線、奈良線、生駒線にホームが1面ずつ割り当てられている。橋上駅舎は東西双方に設けられているが、西駅舎は生駒線ホームに直接つながっていない。駅東端に改札内地下連絡通路が設けられている。近年の改修により各ホームおよび駅南北側それぞれに[[エレベーター]]が整備され、[[バリアフリー]]化が図られている。けいはんな線と奈良線・生駒線の間には中間改札がある。 生駒線ホームの5番線のみ奈良線と線路が繋がっており、奈良線の[[新生駒トンネル]]出入り口付近には渡り線が設置してあるため、生駒線の列車はこの渡り線を使って車両回送が行われている。 構内には市内[[鬼取町]]にある「鬼工房」による、”駅構内に良い気が巡るよう、大地のエネルギーをこめたデザイン”の目玉形の陶製の[[オブジェ]]がある<ref>{{Cite web|和書|title=生駒駅|沿線さんぽ|日本のまほろば奥大和総合情報サイト「まほなび」 |url=http://mahonavi.narakko.jp/ensen_sanpo/2015/09/post-100.html |website=mahonavi.narakko.jp |access-date=2023-10-29}}</ref>。 === のりば === {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" style="" class="wikitable" !のりば!!路線!!方向!!行先 |- | colspan="4" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999" | '''けいはんな線のりば''' |- ! 1 |rowspan="2"|{{近鉄駅番号|C}} けいはんな線 | style="text-align:center" | 下り | [[学研奈良登美ヶ丘駅|学研奈良登美ヶ丘]]方面<ref name="station_info">{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/station/station_info/station03016.html|title=駅の情報|生駒|accessdate=2021-04-08|publisher=近畿日本鉄道}}</ref> |- ! 2 | style="text-align:center" | 上り | [[コスモスクエア駅|コスモスクエア]]方面<ref name="station_info" /> |- | colspan="4" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999" | '''奈良線・生駒線のりば''' |- ! 3 | rowspan="2"| {{近鉄駅番号|A}} 奈良線 | style="text-align:center" | 下り | [[近鉄奈良駅|近鉄奈良]]方面<ref name="station_info" /> |- ! 4 | style="text-align:center" | 上り | [[大阪難波駅|大阪難波]]・[[三宮駅|神戸三宮]]方面<ref name="station_info" /> |- ! 5・6 | {{近鉄駅番号|G}} 生駒線 | style="text-align:center" | 下り | [[王寺駅|王寺]]方面<ref name="station_info" /> |} * 東大阪線(現・けいはんな線)ホームが設置される前は奈良線は相対式ホームだった。生駒線は、[[信貴生駒電鉄]]時代から引き継いだ大きな屋根付きホームが残っていた。<!--参照:国土交通省・国土情報ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/79/ckk-79-3/c11/ckk-79-3_c11_22.jpg--><!--以前は待避線もあったが、1968年に[[東生駒駅]]に待避線が設置されたことにより廃止された。←1964年の[[石切駅]]移設時か?確証がないのでコメントとしておきます。--> <gallery> Ikoma Station Main Gate.jpg|中央改札口 Ikoma Station patform.JPG|ホーム Ikoma-station checkratch.jpg|けいはんな線と奈良線・生駒線の乗り換え改札 </gallery> == 特徴 == ; ダイヤ面 :* 奈良線・けいはんな線・生駒線とも全ての定期旅客列車が停車する<ref name="近鉄時刻表_20180317_奈良">近鉄時刻表2018年3月17日ダイヤ変更号、p.206 - p.215・p.220 - p.229・p.364 - p.373・p.376 - p.385</ref>。 :* [[大阪難波駅]]方面への[[近鉄特急|特急]]および[[快速急行]]は当駅を発車すると[[鶴橋駅]]まで停車しないため、当駅にて[[準急列車|準急]]以下の列車との接続が考慮されている<ref name="近鉄時刻表_20180317_奈良" />。 :* 朝に1本のみ、6:01発の当駅始発[[近鉄奈良駅|奈良]]行き快速急行の設定がある。この列車は東花園からの10両編成の回送列車を営業運転するものである。 :* 夜間に1本、当駅始発の[[大和西大寺駅|大和西大寺]]行き普通電車が設定されている。これは生駒線で運転していた車両が西大寺研修車庫に回送として営業運転するものである。 : ; 営業面 :* 特急券は専用の自動発売機、駅窓口で即時購入が可能。なお、奈良線ホームには直前に発車する列車の特急券のみ対応する特急券自動発売機が設置されている<ref name="近鉄時刻表_20180317_営業案内">近鉄時刻表2018年3月17日ダイヤ変更号、p.70 - p.87</ref>。定期券は黒の券売機で購入が可能で窓口による定期券サポートにも対応する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/gyoumu/teiki/teiki_yosou.html|title=定期券・IC業務取扱駅一覧 | 近畿日本鉄道|accessdate=2023-07-16|publisher=近畿日本鉄道}}</ref>。 :* 駅長が置かれ、奈良線は当駅と[[東生駒駅]]、生駒線は[[菜畑駅]]から[[東山駅 (奈良県)|東山駅]]間、けいはんな線は当駅含む[[荒本駅]]から[[学研奈良登美ヶ丘駅]]間、生駒鋼索線は[[鳥居前駅]]から[[生駒山上駅]]間を管理している<ref>『HAND BOOK 2010』、近畿日本鉄道総合企画部編、2010年9月</ref>。 :* [[近鉄リテーリング]]が運営する有人売店設置駅([[ファミリーマート]]近鉄生駒駅改札内橋上店、同改札外橋上店)に指定されている<ref name="近鉄時刻表_20180317_営業案内" />。 :* 上記のコンビニ以外に、駅構内・改札外に[[マネケン]](ワッフル専門店)が構内にクックハウス(パン屋)が営業し、また[[近鉄ケーブルネットワーク|KCN]]マルチビジョンがある<ref name="station_info" />。 : == 当駅乗降人員 == 近年における'''特定日'''の当駅乗降人員は以下の通り<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/c.html 駅別乗降人員 奈良線] - 近畿日本鉄道</ref>。 * [[2005年]]11月8日:52,048人 * [[2008年]]11月18日:49,856人 * [[2010年]]11月9日:48,220人 * [[2012年]]11月13日:47,700人 * [[2015年]]11月10日:49,283人 * [[2018年]]11月13日:47,254人 * [[2021年]]11月9日:40,466人 * [[2022年]]11月8日:42,661人 == 利用状況 == 近年の1日'''平均'''の'''乗車'''人員は以下の通りである。(1964年までは現近鉄奈良線と信貴生駒電鉄生駒駅(1916年は仮生駒駅)) <!--奈良県統計年鑑、生駒市統計年鑑を出典にしている数値については、/365(or366)で計算してあります--> {| class="wikitable" style="text-align:right;" |+年度別一日平均乗車人員<ref>{{Cite web|和書|title=大正15年(1926年度)第一編/奈良県公式ホームページ |url=https://www.pref.nara.jp/dd.aspx?menuid=27295 |website=www.pref.nara.jp |access-date=2023-08-22}}</ref><ref>[http://www.pref.nara.jp/dd.aspx?menuid=6437 奈良県統計年鑑]</ref><ref>[http://www.city.ikoma.lg.jp/0000002030.html 統計情報] - 生駒市</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 |- |1916年(大正5年) |1,462 |- |1926年(大正15年) |8,426 |- |1930年(昭和5年) |5,040 |- |1950年(昭和25年) |7,518 |- |1965年(昭和40年) |12,198 |- |1980年(昭和55年) |17,902 |- |1985年(昭和60年) |19,767 |- |1986年(昭和61年) |20,707 |- |1987年(昭和62年) |21,059 |- |1988年(昭和63年) |21,796 |- |1989年(平成元年) |22,061 |- |1990年(平成{{0}}2年) |22,822 |- |1991年(平成{{0}}3年) |23,516 |- |1992年(平成{{0}}4年) |23,617 |- |1993年(平成{{0}}5年) |23,607 |- |1994年(平成{{0}}6年) |23,618 |- |1995年(平成{{0}}7年) |24,052 |- |1996年(平成{{0}}8年) |24,652 |- |1997年(平成{{0}}9年) |25,696 |- |1998年(平成10年) |25,380 |- |1999年(平成11年) |25,337 |- |2000年(平成12年) |25,192 |- |2001年(平成13年) |25,444 |- |2002年(平成14年) |24,751 |- |2003年(平成15年) |24,425 |- |2004年(平成16年) |24,034 |- |2005年(平成17年) |23,746 |- |2006年(平成18年) |23,722 |- |2007年(平成19年) |23,189 |- |2008年(平成20年) |22,989 |- |2009年(平成21年) |22,380 |- |2010年(平成22年) |22,150 |- |2011年(平成23年) |21,887 |- |2012年(平成24年) |21,918 |- |2013年(平成25年) |22,368 |- |2014年(平成26年) |22,232 |- |2015年(平成27年) |22,579 |- |2016年(平成28年) |22,602 |- |2017年(平成29年) |22,808 |- |2018年(平成30年) |22,505 |- |2019年(令和元年) |22,591 |} == 駅周辺 == 南口は古くから[[宝山寺]]参道の[[門前町]]であり、特に鉄道開業後は門前町としての賑わい・風格が増し、交通、商業の中心地として発達した。しかし、近年北口の再開発などを受け小売店数は減少し、代わってマンションの建設が相次いでいる。そこで関西でいち早く「100円商店街」を取り入れるなど、ぴっくり通りを中心に[[商店街]]の活性化が図られている<ref>{{Cite journal|和書|author=依藤光代, 松村暢彦 |year=2013 |url=https://doi.org/10.2208/jscejipm.69.i_363 |title=生駒駅前商店街における中心市街地活性化の運営の変遷と継承の要因に関する研究 |journal=土木学会論文集D3(土木計画学) |ISSN=2185-6540 |publisher=土木学会 |volume=69 |issue=5 |pages=I_363-I_372 |doi=10.2208/jscejipm.69.i_363 |CRID=1390001205354953600}}</ref>。飲食店のほか、(北口も含め)幅広い層を対象とした[[学習塾]]、[[予備校]]が集中する[[文教地区]]の面も持つ<ref>{{Cite web|和書|title=生駒駅南口周辺都市空間再編事業のページ |url=https://www.city.ikoma.lg.jp/0000030926.html |website=生駒市公式ホームページ |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>。特に奈良県を中心に教室を持つ[[KECゼミナール]]の、創業地、本部がある<ref>{{Cite web|和書|title=沿革 {{!}} 株式会社ケーイーシー |url=https://www.kec.gr.jp/corp/company/history.html |website=奈良県の進学塾・学習塾のケーイーシー |access-date=2023-10-29 |language=ja}}</ref>。 北口は駅前に木造低層住宅が密集する地域であったが、まず平成9年に生駒市の新たな玄関口として再開発し、[[近鉄百貨店]]などが入店する[[アントレいこま]]が開業した。次にその周辺地区の再開発も行われ、平成26年「ベルテラスいこま」などが開業した<ref>{{Cite web|和書|title=生駒駅前北口第一地区第一種市街地再開発事業 |url=https://www.city.ikoma.lg.jp/0000001823.html |website=生駒市公式ホームページ |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>。第二期の再開発は、“時宜を得た連鎖型再開発事業”として、[[日本都市計画学会]]の関西まち賞に選ばれた<ref>{{Cite web |title=関西まちづくり賞 受賞実績一覧 {{!}} 公益社団法人 日本都市計画学会 関西支部 |url=https://www.cpij-kansai.org/page-kansai-community/%e9%96%a2%e8%a5%bf%e3%81%be%e3%81%a1%e3%81%a5%e3%81%8f%e3%82%8a%e8%b3%9e-%e5%8f%97%e8%b3%9e%e5%ae%9f%e7%b8%be%e4%b8%80%e8%a6%a7 |website=www.cpij-kansai.org |access-date=2023-12-04 |language=ja |first=公益社団法人 日本都市計画学会 |last=関西支部}}</ref>。一方で、山側では三勝園など戦前からのからの[[邸宅|邸宅街]]が広がっている他、駅を中心に土地の起伏を生かして住宅地が広がる。 生駒市の中心駅であるため、市役所やメディカルセンター、 たけまるホール(旧中央公民館)など[[公共施設]]も付近多い。 === 北口近辺 === [[ファイル:アントレいこま(近鉄百貨店生駒店).jpg|thumb|240px|アントレいこま(近鉄百貨店生駒店)]] <!-- 特筆性のない施設(店舗やチェーン店など)は、際限がないため記載しないこと --> 周辺は商業施設の他に閑静な住宅街が広がる。寺社も多い。 * たけまるホール(旧生駒市中央公民館) * 生駒市芸術会館美楽来 * [[アントレいこま]]① ** [[近鉄百貨店]]生駒店 * アントレいこま② ** [[みずほ銀行]]生駒支店 * ベルテラスいこま ** 生駒駅前図書室〜木田文庫〜 ** 生駒市アンテナショップ「おちやせん」 * [[生駒郵便局]] ** [[ゆうちょ銀行]]生駒店 * [[南都銀行]]生駒支店・生駒南支店 === 南口近辺 === 周辺は商店の他に閑静な住宅街が広がる。<!-- 特筆性のない施設(店舗やチェーン店など)は、際限がないため記載しないこと --> * [[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]][[鳥居前駅]](地上部は[[生駒警察署]]近鉄生駒駅前交番) * 生駒市役所 * 生駒市コミュニティーセンター(セイセイビル) * グリーンヒルいこま * ぴっくり通り商店街 * 生駒本町郵便局 * [[三井住友銀行]]生駒支店 * [[宝山寺]]表参道 * 緑ヶ丘美術館 * 生駒健民運動場 === バス路線 === [[奈良交通]]および[[生駒交通]]により運行されており、北口、南口それぞれに乗り場がある。 ; 北口 : 奈良交通 :* 降車専用 :** [77](生駒台循環外回り)生駒駅北口 行き(俵口経由) :** [82] 生駒駅北口 行き([[南田原町 (生駒市)|南田原]]・北条経由) :** [188] 生駒駅北口行き([[白庭台]]住宅・生駒台・俵口経由) :** [189] 生駒駅北口行き(白庭台住宅・松美台・俵口経由) :*1番のりば :** [77] (生駒台循環外回り)生駒駅北口 行き(北条先回り) :** [82] [[北田原町|北田原]] 行き(北条経由) :** [84] 生駒台 行き(北条・新生駒台北口経由)([[深夜バス]]のみ運行) :** [189] [[学研北生駒駅]] 行き(北条・新生駒台北口・白庭台住宅経由) :* 2番のりば :** [78] (生駒台循環内回り)生駒駅北口 行き(生駒台先回り) :** [80] 新生駒台北口 行き(生駒台経由) :** 「[[たけまる号]]」光陽台線 松ヶ丘・[[光陽台 (生駒市)|光陽台]] 方面行き :** 「たけまる号」光陽台線 生駒市役所・[[生駒市立病院]] 行き(生駒駅南口経由) : 生駒交通 :* 2番のりば :** 「たけまる号」北新町線 薬師台 方面行き :** 「たけまる号」北新町線 生駒市役所・生駒市立病院 行き(生駒駅南口経由)  : ; 南口 : 奈良交通 :* 1番のりば :** [63] 小瀬保健福祉ゾーン 行き([[東生駒駅]]・さつき台住宅経由) :** [64] あすか野センター 行き(東生駒駅・稲倉経由) :** [65] あすか野センター 行き(東生駒駅・稲倉経由 あすか野南循環) :** [90] [[中菜畑]]二丁目 行き(湯船・緑ヶ丘経由) :** [165] [[白庭台駅]] 行き(東生駒駅・稲倉・あすか野センター経由) :** [168] [[ひかりが丘 (生駒市)|ひかりが丘]] 行き(東生駒駅・稲倉・あすか野センター・白庭台駅経由) :** [[生駒山麓公園]]ふれあいセンター 行き(乗車のみで途中の停留所での降車は出来ない) :** 「たけまる号」光陽台線 光陽台中央公園 方面行き(生駒駅北口経由) :** 「たけまる号」光陽台線 生駒市役所・生駒市立病院 行き :* 2番のりば :** [79] [[田原台]]一丁目 行き(北谷公園経由) :** [85] 田原台九丁目西 行き(田原台八丁目経由) :** [86] 田原台一丁目 行き(田原台八丁目経由)(深夜バスも運行) :** [96] 田原台一丁目 行き(田原台八丁目・田原台九丁目西経由) : 生駒交通 :* 生駒市コミュニティバスのりば :** 「たけまる号」門前線 門前町 方面行き :** 「たけまる号」北新町線 薬師台 方面行き(生駒駅北口経由) :** 「たけまる号」北新町線 生駒市役所・生駒市立病院 行き : == 隣の駅 == ;近畿日本鉄道 :{{近鉄駅番号|A}} 奈良線 :*{{Color|#f04|'''□'''}}[[近鉄特急|特急停車駅]] ::{{Color|#f00|■}}快速急行 :::[[鶴橋駅]] (A04) - '''生駒駅 (A17)''' - [[学園前駅 (奈良県)|学園前駅]] (A20) ::{{Color|#f80|■}}急行 :::[[石切駅]] (A16) - '''生駒駅 (A17)''' - 学園前駅 (A20) ::{{Color|#093|■}}準急・{{Color|#093|■}}区間準急・{{Color|#03c|■}}普通 :::石切駅 (A16) - '''生駒駅 (A17)''' - [[東生駒駅]] (A18) ::*[[東大阪市花園ラグビー場]]で大きな試合がある際に、快速急行の一部が[[東花園駅]] (A12)に臨時停車することがある<ref group="注">臨時停車例として、[[全国高等学校ラグビーフットボール大会]]、ラグビー国際試合、[[ジャパンラグビートップリーグ]]開催時が挙げられる。</ref>。 ::*[[1964年]]の[[生駒トンネル]]切り替え以前は、石切駅と当駅の間に[[孔舎衛坂駅]]が存在した。 :{{近鉄駅番号|G}} 生駒線(全列車各駅に停車) :::'''生駒駅 (G17)''' - [[菜畑駅]] (G18) :{{近鉄駅番号|C}} けいはんな線(全列車各駅に停車) :::[[新石切駅]] (C26) - '''生駒駅 (C27)''' - [[白庭台駅]] (C28) :*括弧内は駅番号を示す。 : == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == {{commonscat}} * [https://www.kintetsu.co.jp/station/station_info/station03016.html 駅の情報|生駒] - 近畿日本鉄道 {{近鉄奈良線}} {{近鉄生駒線}} {{大阪市高速電気軌道中央線・近鉄けいはんな線|mode=2}} {{近畿の駅百選}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect1=大軌生駒駅|1-1=日本の鉄道駅 た|1-2=大阪電気軌道の鉄道駅|redirect2=関急生駒駅|2-1=日本の鉄道駅 か|2-2=関西急行鉄道の鉄道駅}} {{DEFAULTSORT:いこま}} [[Category:生駒市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 い|こま]] [[Category:近畿日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:1914年開業の鉄道駅]] [[Category:信貴生駒電鉄の鉄道駅]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E9%A7%85
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突撃砲
突撃砲(とつげきほう、独: Sturmgeschütz)は、第二次世界大戦時にドイツ国防軍によって歩兵支援用に生み出された自走砲(自走歩兵砲)の一種であるが、主に砲を備えた密閉式固定戦闘室が搭載されているものが突撃砲と言われている。 なお、アメリカ軍においても“Assault Gun(アサルトガン)”の名で呼ばれる兵器が存在し、これを日本語に直訳すると「突撃砲」となるが、これは特定の兵器の種別名ではなく、機甲部隊や機械化歩兵部隊において、榴弾による直射火力支援を主任務とした戦車や自走砲の運用法に拠る部隊編制上の呼称である。 突撃砲は、ドイツ国防軍において敵陣地を直接攻撃するために強力な砲と低姿勢を兼ね備えており、対戦車任務にも大いに活躍した、自走砲に分類される車両である。基本的には歩兵支援用であるが、対戦車戦闘向けに長砲身化されて実質、駆逐戦車任務をこなすようになったものもある。 突撃砲は黎明期の巡洋艦のような所属部隊や役務に応じた籍名ではなく、独自の車両種名である。仮に歩兵部隊の突撃砲が機甲部隊に配属されても、名前が「突撃砲」でなくなるわけではなく、駆逐戦車が歩兵部隊に配属されても、名前が突撃砲になるわけではない。後述のミハエル・ヴィットマンが車長を務めた時のIII号突撃砲も、機甲部隊である装甲軍(Panzergruppe)所属である。 突撃砲を運用する突撃砲兵(Sturmartillerie)は、1935年に戦車とは異なる歩兵支援として提案された概念であり、当時から突撃砲は砲兵に属するものとされた。次男の手になる死後の選集でエーリッヒ・フォン・マンシュタインは次のように評している。 当初は開発時のコンセプト通りに運用・配備されていたが、1943年になって事態が変化した。装甲部隊の再建をスピードアップするため、ハインツ・グデーリアン戦車兵総監の要求により4月にPanzer-Sturmgeschütz-Abteilungという新たな種類の大隊が定義され、再建中の3つの装甲連隊が第III大隊として突撃砲45両を受け取ることになったのである。6月には、戦車大隊を持たないことが多かった装甲擲弾兵師団にも戦車大隊に代えて突撃砲大隊が配属できることになった。「駆逐戦車」やブルムベアなどの「突撃戦車」は戦車兵科所属となることを前提とした呼称であるが、いくつかの車両ではこの名称が決まるまでに「Panzer」「Sturmgeschütz」をそれぞれ含む名称が混用されている。 なお、突撃砲はアルケット社により生産されていたが、1943年には工場が連合軍の空襲により大損害を受けて操業停止に追い込まれたため、かねてより計画されていた「 IV号戦車の車台を用いて(III号)突撃砲と同様だがより前面装甲の厚い戦闘室を搭載した車両」の構想を転用する形で、クルップ社により IV号突撃砲(Sturmgeschütz IV)が製造された。IV号突撃砲の生産開始に伴い、それまで単に「突撃砲」と呼ばれていた車輌は III号突撃砲(Sturmgeschütz III)と呼ばれるようになった。 ドイツ国防軍の装備した装甲戦闘車両として、回転砲塔を持たず、固定式の戦闘室に比較的大口径の長砲身砲を装備する、突撃砲に類似した形態を有する車両があるが、これは「駆逐戦車」と呼ばれるものである。駆逐戦車とは、当初は「戦車駆逐車」の名称であったことからも判るように、歩兵の支援を第1目的とせず、戦車を遠距離から攻撃することを主任務とした車両であり、言うなれば「対戦車戦闘のみに特化した戦車」ということである。一方で、後述のようにIII号突撃砲自体が第二次世界大戦の開戦前に対戦車威力を強化した長砲身砲搭載の計画が立ち上がっていたことからもわかるように、開発当初から突撃砲の任務の一つとして対戦車戦闘が考慮されていた。また、駆逐戦車そのものが実戦において「突撃砲は包囲されない限り通常の戦車より高い対戦車戦闘能力を持つ」と分析されたことから開発されているように、突撃砲と駆逐戦車との差は明確ではない。 突撃砲と駆逐戦車との区別については多分に兵科間の縄張り争いの一面を持ち、実態として両者の相違は曖昧なもので、事実エレファントやヤークトパンターなどの重駆逐戦車は、当初は重突撃砲に分類されていた。これら駆逐戦車の照準器は接眼鏡内の目盛こそ直射を前提とした移動目標に対する狙いが付けやすい物となっているものの、突撃砲と同じく野戦砲に準じた潜望鏡式の物のみで、回転砲塔式の戦車のような、主砲と同軸に装備される直接照準器を持たない。 同様の理由(所属兵科や運用される部隊の主任務に応じて呼称を対応させる)で、砲兵と対戦車砲兵を区分することには突撃砲以外にも例がある。ドイツ国防軍においては、大戦後半になると、砲の半分の数しか牽引車両を持たない部隊が編成され「Artillerie-Pak-Abteilung(bo.)=砲兵科対戦車砲大隊(半固定)」と呼称されている。ドイツ以外でも、日本軍は歩兵大隊に配属された迫撃砲のことを「曲射歩兵砲」と呼び、戦車兵科に属する自走砲を「砲戦車」と呼んでおり、アメリカ軍においては機甲部隊や機械化歩兵部隊において、榴弾砲を主砲とし直射火力支援を主任務とした戦車や自走砲を部隊編成表などでは“Assault Gun(アサルトガン)”と呼称していた。 第一次世界大戦における塹壕戦では、歩兵が携行できるような兵器で敵の機関銃陣地やトーチカを破壊することは困難で、何よりも攻撃が可能な距離まで容易には近づけない、という問題があった。長距離砲による破壊は弾道精度、測距精度の問題で非効率的であり、大砲自体の前線進出が望まれていた。しかし大砲の前線進出には砲の重量、機動性の問題があった。このために、歩兵支援のための機動性を持ち近接支援を行うことができる砲として、「自走して砲弾孔や鉄条網、塹壕を踏破・突破し、敵陣に肉薄して敵弾に耐えられる「動く大砲」の研究が行われることとなった。これが結実したものが「戦車」である。 世界初の戦車であるイギリスのMK.Iを始め、最初期の戦車はいずれも回転砲塔を装備しておらず、近距離で目標を直接射撃するための砲を直接車体に搭載しており、その点では突撃砲に類似していた。フランスの開発したサン・シャモンは「突撃戦車/襲撃砲戦車」("char de rupture")と呼ばれ、旋回砲塔を持たず車体前面に直接75mm野砲を搭載した形式で、歩兵の陣地突破への直接火力支援を行うというコンセプトはのちの突撃砲と同じである。 ドイツ帝国陸軍は、西部戦線での最後の攻勢である1918年春季攻勢で、敵戦線を突破し64kmも進出した。この時ドイツ軍は初めて自国開発の戦車であるA7Vも使用したが、突進する歩兵部隊に追随して火力支援にあたったのは、重装甲重武装だが鈍足のA7Vよりも、砲兵部隊により馬や人力で牽引されていた7.7cm FK 96 nAや7.7cm FK 16などの軽野砲であった。 敗戦後、ヴァイマル共和政ドイツはこうした経験から1927年に突撃砲の原点と呼べる自走砲を創りだす。これは1918年春季攻勢で活躍した27口径7.7cm野砲(7.7cm FK 96 nA)を、ハノマーグ社製の民生用の装軌式トラクター、WD Z 50(WD 50 とも)にオープントップ式に搭載したものである。この車両は“WD シュレッパー”(WD Schlepper)と通称された。 WD シュレッパーはトラクターに単純に砲を搭載しただけのもので、簡単な防盾はあったものの、砲兵を守る装甲板には囲まれておらず、銃砲弾飛び交う前線で扱うのに適しているとは言い難かった。そのため、実用試験の過程で次第に防盾が大型化され、更に側面や天面に装甲が追加され、ついには完全な密閉戦闘室を持つ設計とされるに至った。これがドイツにおいて開発された“突撃砲”の祖である。このような開発経緯から、運用兵科は戦車部隊ではなく砲兵部隊となっている。 1936年ドイツ参謀本部が突撃砲の概念を決定する。戦車とは異なる突撃砲という兵器の概念には、参謀本部作戦課長であったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン大佐(当時)が頭の中に描いていた考えを基に固められていた。 戦車のように移動中に火砲の照準を変えつつ状況に応じて射撃しながら敵戦線を突破するという役割は期待されていなかったため、大口径砲の搭載に制約を受ける回転砲塔の採用は必要なかった。そして同年に出された開発命令によりIII号戦車をベースとした無砲塔構造の車両に短砲身75mm砲(7.5cm StuK37 L/24)を用いた歩兵支援用の自走砲が開発された。 無砲塔構造は、ベースのIII号戦車より大口径砲が搭載可能になった事以外に、車両高が低くなったので敵から発見されにくく、かつ攻撃されても被弾しにくくなった。その技術的細目を直接指導したのは参謀本部技術課にいたヴァルター・モーデル大佐(当時)だった。これが突撃砲(III号突撃砲)として採用された。 なお1930年代後半、ドイツ以外の列強では、このような歩兵支援目的では回転砲塔構造の歩兵戦車を開発していた。 機動力、火力、防御力のいずれかに重点を置くかは各国の用兵思想により違っていたが、砲塔を廃した自走砲形式ではない、という点では共通している。 第二次世界大戦での実戦で、突撃砲は開発コンセプト通りの活躍を見せた。電撃戦の各場面において、主に歩兵戦闘の支援を行い、敵勢力の重火器制圧に効果を挙げた。一方、初期の突撃砲の指揮車が防御力に劣る装甲ハーフトラックであったため指揮官の損害が多く、後に指揮官も突撃砲に搭乗するように編成が変えられた。 1941年、バルバロッサ作戦(ソ連侵攻作戦)を発動し、ソ連に侵攻したドイツ軍は、圧倒的にすぐれた敵戦車T-34に直面し、すべての装甲戦闘車両は威力不足となった。ソ連赤軍の膨大な戦力に対し長距離行軍を強いられたことから、ドイツ軍の戦車戦力は急激に消耗していった。 東部戦線では、ドイツ歩兵の最大の脅威は敵のトーチカではなく敵戦車であり、突撃砲に求められるのは、敵戦車を破壊できる対戦車能力となった。もともと突撃砲は、対戦車戦闘も想定しており、徹甲弾を発射することができたが、これに加えてベトントーチカ用に配備されていた成形炸薬弾を用いて対戦車戦闘に従事した。のちにドイツ軍の戦車エースとなったミヒャエル・ヴィットマンも独ソ戦初期にIII号突撃砲A型単独で16輌(諸説あり)のソ連赤軍軽戦車T-26を迎撃、うち6-7台を撃破したというエピソードを持つ。 ドイツ軍は、突撃砲の歩兵支援向きの短砲身砲を対戦車戦闘にも有利な長砲身に変更する計画を大戦前から進めており、1940年にはクルップ社にて試作砲が完成して試験が始まっていた。しかし開発中だった新型7.5cm砲ではT-34に対して威力不足と考えられたため、ラインメタル社が新たに提示したより強力な長砲身砲(7.5cm StuK40 L/43及びL/48)を開発搭載することになった。ここに至って突撃砲の任務は、対戦車戦闘の比率が大きくなったといえる。また歩兵支援任務向けの突撃砲として、対トーチカ攻撃用としてより口径の大きな榴弾砲を装備した、10.5cm Sturmhaubitze 42(42式突撃榴弾砲または突撃榴弾砲42型)が並行して量産され、通常の突撃砲と同じ大隊に配備された。この時点で、突撃砲は「歩兵を直接支援するために重装甲にした自走砲」から「回転砲塔を持たず、その重量を装甲防御と火力に振り向けた戦車」へと性格を変えた。 戦車不足に悩むドイツ軍にとって、突撃砲はなくてはならない戦力となった。前述の通り突撃砲は同じ重量の戦車より装甲と火力に勝り、その上、高い工作精度が要求されるボールベアリングの必要な回転砲塔を持たないため、生産工程は戦車よりも少なく済み、大量生産が可能であった。ただし、回転砲塔とそれに付随した機関銃を持たなかったため、敵味方が入り乱れるような状況や、全周対応性の求められる任務には適しておらず、バズーカなどの携行対戦車兵器を装備した歩兵に背後や側面に回られると戦車よりも脆い点が弱点であった。それであっても、ドイツの突撃砲は終戦まで連合国軍相手に歩兵支援や対戦車戦闘で活躍し、ドイツ軍の対戦車戦力の根幹であった。ドイツ軍歩兵をして「戦車5台より突撃砲1台を」と言わしめることとなったのである。 しかし、砲兵科と機甲科のセクト争いにより、似たような性格の戦闘車両である突撃砲と駆逐戦車を両方生産してしまったという側面もある。駆逐戦車的な性格を強めた突撃砲は、大戦中期以降は戦車部隊にも配備され、これは本来の突撃砲運営部隊との間に少なからぬ摩擦をもたらした。配備される突撃砲の取り合いになっただけでなく、砲兵科からは「砲兵が騎士十字章を得る手段が無くなってしまう」(突撃砲兵以外の砲兵は間接砲撃による支援任務主体であり、また直接交戦の機会が多い対戦車砲は歩兵師団の戦車猟兵の装備であるため)などと反発の声が上がった。 なお、武装親衛隊の突撃砲は従来から戦車隊に配備されていたため、国防軍のような問題や軋轢は発生していない。 ドイツの突撃砲に類似した兵器はソ連でも開発・運用された。ただしソ連軍にはドイツの駆逐戦車や突撃砲に相当する分類はなく、"旋回する砲塔を持たない戦闘車輌"は、主任務が対戦車戦闘であれ、歩兵近接支援であれ単に"SU"(Samokhodnaya Ustanovka:自走砲の意)として自走砲部隊に配属された。 ソ連は1930年代前半には既に突撃砲に類する兵器を研究しており、T-26軽戦車をベースとするSU-1(1931年)やAT-1(1935年)を試作した。しかしこの系統の自走砲は試作の域を出ることはなく、代わりに大型の旋回砲塔に大口径砲を搭載したBT-7AやKV-2などの火力支援用戦車が配備された。 1941年の独ソ戦開戦以降は、ドイツ軍の突撃砲の影響を受けて突撃砲に類似した自走砲が再びソ連で開発されるようになり、T-34中戦車をベースとしたSU-122/SU-85/SU-100自走砲や、KV-1重戦車をベースとしたSU-152自走砲、IS-2重戦車をベースとしたISU-152/ISU-122自走砲などが実用化された。これらはドイツ軍の兵器との類似性から「突撃砲」や「駆逐戦車」と呼ばれることもあるが、前述のようにいずれもソ連軍の公式な分類では自走砲だった。 イタリアではドイツ軍のIII号突撃砲にならって固定式戦闘室に限定的な射界を持つ歩兵支援用装甲戦闘車両を計画し、戦車と共通の車体を持つ自走砲を開発・生産した。これらのうち、フィアット L6/40の車体にDa 47/32 M35 47mm歩兵砲を搭載したセモヴェンテ da 47/32、M13/40中戦車の車体にDa 75/18 75mm榴弾砲を搭載したセモヴェンテ da 75/18(M40/M41)が実戦で用いられたものとして著名である。これらの車両は、III号突撃砲が参考にされたこともあり、歩兵への火力支援と対戦車戦闘時の直接射撃というドイツのものと同様の任務に投入されたが、ドイツの突撃砲と異なる点は、純粋な突撃砲(前線支援車両)としてだけでなく、師団砲兵としても作戦に従事した点である。 1942年初頭以来、これらの車輛は北アフリカ戦線からシチリア島に連合国が侵攻するまで広く投入され、共に投入された回転砲塔式戦車の支援戦力として、陣地攻撃用の突撃砲と、対戦車戦闘用の駆逐戦車の役割を果たし、自走砲として間接支援射撃を実施した。イタリア軍突撃砲の主力であったda75/18の75mm砲は榴弾と徹甲弾および対戦車榴弾を使用でき、これはM4シャーマンを始めとする連合国側の戦車を破壊するには十分だった。実際、1942~43年の間になされたイタリア軍機甲部隊の成功の多くは、これらの車輛の活躍の賜物である。 ドイツと同様、より長砲身で高威力の砲の必要性から、セモヴェンテ da 75/34、セモヴェンテ da 75/46およびセモヴェンテ da 105/25といった長砲身型の開発が行われ、これらは1943年よりのイタリア本土の戦闘でより対戦車任務を重視した運用が行われた。これらの長砲身型のうち、da 75/34とda 105/25はイタリア降伏後にドイツ軍に接収、またドイツ軍の指令下で追加生産されてドイツ軍突撃砲として使用されており、da 105/25には StuG M43 mit 105/25 853 (i)の形式番号が与えられている。これらの他にも、イタリア軍の突撃砲はドイツ軍によっても使用された。 突撃砲はイタリア軍砲兵において使用されたものとしては非常に革新的な装備であり、これは突撃砲が師団単位で使用される最初の自走砲であったことによる。しかし、この他のイタリア陸軍の砲兵部隊は深刻に機動力が欠如しており、1942年からようやく実戦投入された少数の突撃砲では、全体的な状況を変えることはできなかった。また、上述のようにイタリア軍において突撃砲は間接射撃を行う自走砲としても使用されたが、発射速度が遅く、弾薬搭載量も充分ではないため、そのような任務に使用するには限界があった。 なお、イタリアでは自走砲全般をSemovente(セモヴェンテ)と呼称していたが、自走砲として開発されて実戦投入されたものの大半は突撃砲の形式の車両であったため、“セモヴェンテ”は一般的には突撃砲の愛称として定着している。 フィンランドでは、1942年から1943年にかけて、敵軍であるソ連から鹵獲したBT-7快速戦車を改造してイギリス製のQF 4.5インチ榴弾砲を搭載した車両を18輌製造し、「BT-42 (クリスティ突撃砲)」として突撃砲部隊で運用した。BT-42は、ドイツの突撃砲とは異なり戦車に類似した密閉式の旋回砲塔を有するが、当時のフィンランド軍の分類では突撃砲とされた。この車両の開発は旧式化した兵器の廃品利用的色合いが濃く、性能的に満足のいくものではなかった。 またフィンランドは、1943年9月にドイツからIII号突撃砲の供給を受けており、車載機銃を自国製のものに変更するなどの仕様変更を加えて使用した。この他、「継続戦争」(第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争)のうち、1944年6月25日に赤軍からISU-152を2両鹵獲し、自国車両として使用している。このうち、1両は鹵獲から3日後に赤軍のT-34-85に撃破されてごく短期間の運用に終わったが、もう1両は鹵獲時に損傷していたために戦線後方に下げられ、砲と砲架、防盾を取り外してJSU-152V(車両番号 Ps.745-1)の名称で重装甲回収車として使用された。JSU-152Vは戦後も使用され、1964年に退役した後に主砲を取り付け直してJSU-152として復元され、博物館の展示用車両として現存している。 ドイツ国 ソビエト連邦 イタリア王国 フィンランド ハンガリー王国 スウェーデン 第二次世界大戦後、突撃砲は歩兵支援の場からも、対戦車狙撃任務の場からも、急速に姿を消していった。理由は以下のようなものが挙げられている。 その移行期には、装甲偵察/兵員輸送車から発展した車体に90mmカノン砲を搭載したカノーネンヤークトパンツァー(ドイツ)、ドイツ占領下のチェコスロバキアで生産されていたヘッツァー駆逐戦車に独自の改設計を施して自国仕様としたものを戦後に発注したG-13(スイス)なども造られている。 前節で述べた通り、突撃砲は本来はドイツ国防軍により歩兵支援用の重装甲自走砲として開発されたものだが、攻撃と防御の変化、戦闘車両の不足というドイツ軍の事情により兵器としての性格を変化させざるを得なかった。そのような事情がない場合、まずもって通常の回転砲塔を搭載した戦車が充分に生産・配備できれば必要性そのものが薄く、歩兵支援兵器としては、戦後は前述の歩兵戦闘車の誕生と、中戦車の主砲が大口径化し、装甲も重装甲化するに従ってわざわざ専用の車種を開発・製造する必要性が低下しており、「砲塔を廃止している分より大口径大威力の火砲を搭載できる」駆逐戦車としても、無誘導のロケット弾から誘導可能なミサイルが発展して誕生した後となっては、大口径の火砲を搭載する必要性は薄くなった。 ソ連のSU-100は第2次世界大戦後も生産が継続されており(後述)、戦後生産型が度重なる中東戦争で用いられた他、1991年から1999年まで続いたユーゴスラビア紛争(ユーゴ内戦)の初期においても、T-34-85と共に使用されている車両が記録され、21世紀に入っても2015年にはイエメン内戦で使用されているものが撮影されている。しかし、SU-100に関してはいずれも「旧式の車両が必要に応じて使われている」とするべきもので、「突撃砲は戦後も長らく一線装備として用いられている」とは位置づけ難い。戦後のドイツでも“駆逐戦車(ヤークトパンツァー)”の呼称が用いられる車種についてはカノーネンヤークトパンツァー以後も開発・生産が継続されたが、武装は対戦車砲から対戦車ミサイルへと変更される事になる。 ソ連軍においては、SU-100が戦後の1947年まで生産が継続され、ソ連の同盟国となったチェコスロバキアにおいては改良型のSU-100Mとして1950年代を通して生産されたが、ソ連軍では1967年に、他のワルシャワ条約機構加盟国においても1970年代初頭には現役から外されている。新規設計の車両としても、戦後第1世代の中戦車(主力戦車)である、T-54戦車の車体をベースに固定式戦闘室を設け、M-49(D-49)122mm戦車砲を搭載したSU-122-54(ロシア語: СУ-122-54)、ソ連の開発・量産配備した重戦車としては最後のものとなったT-10の車体に固定式戦闘室を設けてM-64 152mmカノン砲を搭載したオブイェークト268(obiekt268.Объект 268)が開発されているが、オブイェークト268は試作のみ、SU-122-54は少数生産・限定配備に終わり、後継車両はT-62の車体に対戦車ミサイルを搭載したIT-1となっている。また、SU-122-54同様に、T-62の車体に固定式戦闘室を設けて52口径130mmカノン砲を搭載した駆逐戦車型、IT-130(ИТ-130)が存在するとされていたが、この車両については開発に関する記録も生産・部隊配備された記録も発見されておらず、情報の誤認の可能性が高い。 スウェーデン陸軍では、1960年代に"主力戦車"として、砲塔を持たないStrv.103を生産したが、これは同国の国是である「武装中立」に則った防衛戦における待ち伏せ戦闘に特化したためである。Strv.103には旋回砲塔はないが、砲塔の無い分を駆動システムや機動性、操縦システムで補い、独自の汎用戦闘方法を確立しているため、突撃砲のような、いわゆる自走砲の範疇とはまったく別物であり、あくまでも“戦車”であることに注意が必要である。そしてやはり、無砲塔形式ゆえの問題点もあり、後継となる戦車は普通の砲塔形式のものが採用された。 中華人民共和国の現用装備である02式突撃砲は、装輪式で回転式砲塔を有しており、対戦車自走砲もしくは装輪戦車に分類される装備であるが、中国人民解放軍陸軍においては砲兵科に配備され、「突撃砲」と呼称されている。
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"ドイツ国防軍の装備した装甲戦闘車両として、回転砲塔を持たず、固定式の戦闘室に比較的大口径の長砲身砲を装備する、突撃砲に類似した形態を有する車両があるが、これは「駆逐戦車」と呼ばれるものである。駆逐戦車とは、当初は「戦車駆逐車」の名称であったことからも判るように、歩兵の支援を第1目的とせず、戦車を遠距離から攻撃することを主任務とした車両であり、言うなれば「対戦車戦闘のみに特化した戦車」ということである。一方で、後述のようにIII号突撃砲自体が第二次世界大戦の開戦前に対戦車威力を強化した長砲身砲搭載の計画が立ち上がっていたことからもわかるように、開発当初から突撃砲の任務の一つとして対戦車戦闘が考慮されていた。また、駆逐戦車そのものが実戦において「突撃砲は包囲されない限り通常の戦車より高い対戦車戦闘能力を持つ」と分析されたことから開発されているように、突撃砲と駆逐戦車との差は明確ではない。", "title": "駆逐戦車との違い" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "突撃砲と駆逐戦車との区別については多分に兵科間の縄張り争いの一面を持ち、実態として両者の相違は曖昧なもので、事実エレファントやヤークトパンターなどの重駆逐戦車は、当初は重突撃砲に分類されていた。これら駆逐戦車の照準器は接眼鏡内の目盛こそ直射を前提とした移動目標に対する狙いが付けやすい物となっているものの、突撃砲と同じく野戦砲に準じた潜望鏡式の物のみで、回転砲塔式の戦車のような、主砲と同軸に装備される直接照準器を持たない。", "title": "駆逐戦車との違い" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "同様の理由(所属兵科や運用される部隊の主任務に応じて呼称を対応させる)で、砲兵と対戦車砲兵を区分することには突撃砲以外にも例がある。ドイツ国防軍においては、大戦後半になると、砲の半分の数しか牽引車両を持たない部隊が編成され「Artillerie-Pak-Abteilung(bo.)=砲兵科対戦車砲大隊(半固定)」と呼称されている。ドイツ以外でも、日本軍は歩兵大隊に配属された迫撃砲のことを「曲射歩兵砲」と呼び、戦車兵科に属する自走砲を「砲戦車」と呼んでおり、アメリカ軍においては機甲部隊や機械化歩兵部隊において、榴弾砲を主砲とし直射火力支援を主任務とした戦車や自走砲を部隊編成表などでは“Assault Gun(アサルトガン)”と呼称していた。", "title": "駆逐戦車との違い" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦における塹壕戦では、歩兵が携行できるような兵器で敵の機関銃陣地やトーチカを破壊することは困難で、何よりも攻撃が可能な距離まで容易には近づけない、という問題があった。長距離砲による破壊は弾道精度、測距精度の問題で非効率的であり、大砲自体の前線進出が望まれていた。しかし大砲の前線進出には砲の重量、機動性の問題があった。このために、歩兵支援のための機動性を持ち近接支援を行うことができる砲として、「自走して砲弾孔や鉄条網、塹壕を踏破・突破し、敵陣に肉薄して敵弾に耐えられる「動く大砲」の研究が行われることとなった。これが結実したものが「戦車」である。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "世界初の戦車であるイギリスのMK.Iを始め、最初期の戦車はいずれも回転砲塔を装備しておらず、近距離で目標を直接射撃するための砲を直接車体に搭載しており、その点では突撃砲に類似していた。フランスの開発したサン・シャモンは「突撃戦車/襲撃砲戦車」(\"char de rupture\")と呼ばれ、旋回砲塔を持たず車体前面に直接75mm野砲を搭載した形式で、歩兵の陣地突破への直接火力支援を行うというコンセプトはのちの突撃砲と同じである。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ドイツ帝国陸軍は、西部戦線での最後の攻勢である1918年春季攻勢で、敵戦線を突破し64kmも進出した。この時ドイツ軍は初めて自国開発の戦車であるA7Vも使用したが、突進する歩兵部隊に追随して火力支援にあたったのは、重装甲重武装だが鈍足のA7Vよりも、砲兵部隊により馬や人力で牽引されていた7.7cm FK 96 nAや7.7cm FK 16などの軽野砲であった。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "敗戦後、ヴァイマル共和政ドイツはこうした経験から1927年に突撃砲の原点と呼べる自走砲を創りだす。これは1918年春季攻勢で活躍した27口径7.7cm野砲(7.7cm FK 96 nA)を、ハノマーグ社製の民生用の装軌式トラクター、WD Z 50(WD 50 とも)にオープントップ式に搭載したものである。この車両は“WD シュレッパー”(WD Schlepper)と通称された。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "WD シュレッパーはトラクターに単純に砲を搭載しただけのもので、簡単な防盾はあったものの、砲兵を守る装甲板には囲まれておらず、銃砲弾飛び交う前線で扱うのに適しているとは言い難かった。そのため、実用試験の過程で次第に防盾が大型化され、更に側面や天面に装甲が追加され、ついには完全な密閉戦闘室を持つ設計とされるに至った。これがドイツにおいて開発された“突撃砲”の祖である。このような開発経緯から、運用兵科は戦車部隊ではなく砲兵部隊となっている。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1936年ドイツ参謀本部が突撃砲の概念を決定する。戦車とは異なる突撃砲という兵器の概念には、参謀本部作戦課長であったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン大佐(当時)が頭の中に描いていた考えを基に固められていた。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "戦車のように移動中に火砲の照準を変えつつ状況に応じて射撃しながら敵戦線を突破するという役割は期待されていなかったため、大口径砲の搭載に制約を受ける回転砲塔の採用は必要なかった。そして同年に出された開発命令によりIII号戦車をベースとした無砲塔構造の車両に短砲身75mm砲(7.5cm StuK37 L/24)を用いた歩兵支援用の自走砲が開発された。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "無砲塔構造は、ベースのIII号戦車より大口径砲が搭載可能になった事以外に、車両高が低くなったので敵から発見されにくく、かつ攻撃されても被弾しにくくなった。その技術的細目を直接指導したのは参謀本部技術課にいたヴァルター・モーデル大佐(当時)だった。これが突撃砲(III号突撃砲)として採用された。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "なお1930年代後半、ドイツ以外の列強では、このような歩兵支援目的では回転砲塔構造の歩兵戦車を開発していた。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "機動力、火力、防御力のいずれかに重点を置くかは各国の用兵思想により違っていたが、砲塔を廃した自走砲形式ではない、という点では共通している。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦での実戦で、突撃砲は開発コンセプト通りの活躍を見せた。電撃戦の各場面において、主に歩兵戦闘の支援を行い、敵勢力の重火器制圧に効果を挙げた。一方、初期の突撃砲の指揮車が防御力に劣る装甲ハーフトラックであったため指揮官の損害が多く、後に指揮官も突撃砲に搭乗するように編成が変えられた。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1941年、バルバロッサ作戦(ソ連侵攻作戦)を発動し、ソ連に侵攻したドイツ軍は、圧倒的にすぐれた敵戦車T-34に直面し、すべての装甲戦闘車両は威力不足となった。ソ連赤軍の膨大な戦力に対し長距離行軍を強いられたことから、ドイツ軍の戦車戦力は急激に消耗していった。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "東部戦線では、ドイツ歩兵の最大の脅威は敵のトーチカではなく敵戦車であり、突撃砲に求められるのは、敵戦車を破壊できる対戦車能力となった。もともと突撃砲は、対戦車戦闘も想定しており、徹甲弾を発射することができたが、これに加えてベトントーチカ用に配備されていた成形炸薬弾を用いて対戦車戦闘に従事した。のちにドイツ軍の戦車エースとなったミヒャエル・ヴィットマンも独ソ戦初期にIII号突撃砲A型単独で16輌(諸説あり)のソ連赤軍軽戦車T-26を迎撃、うち6-7台を撃破したというエピソードを持つ。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ドイツ軍は、突撃砲の歩兵支援向きの短砲身砲を対戦車戦闘にも有利な長砲身に変更する計画を大戦前から進めており、1940年にはクルップ社にて試作砲が完成して試験が始まっていた。しかし開発中だった新型7.5cm砲ではT-34に対して威力不足と考えられたため、ラインメタル社が新たに提示したより強力な長砲身砲(7.5cm StuK40 L/43及びL/48)を開発搭載することになった。ここに至って突撃砲の任務は、対戦車戦闘の比率が大きくなったといえる。また歩兵支援任務向けの突撃砲として、対トーチカ攻撃用としてより口径の大きな榴弾砲を装備した、10.5cm Sturmhaubitze 42(42式突撃榴弾砲または突撃榴弾砲42型)が並行して量産され、通常の突撃砲と同じ大隊に配備された。この時点で、突撃砲は「歩兵を直接支援するために重装甲にした自走砲」から「回転砲塔を持たず、その重量を装甲防御と火力に振り向けた戦車」へと性格を変えた。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "戦車不足に悩むドイツ軍にとって、突撃砲はなくてはならない戦力となった。前述の通り突撃砲は同じ重量の戦車より装甲と火力に勝り、その上、高い工作精度が要求されるボールベアリングの必要な回転砲塔を持たないため、生産工程は戦車よりも少なく済み、大量生産が可能であった。ただし、回転砲塔とそれに付随した機関銃を持たなかったため、敵味方が入り乱れるような状況や、全周対応性の求められる任務には適しておらず、バズーカなどの携行対戦車兵器を装備した歩兵に背後や側面に回られると戦車よりも脆い点が弱点であった。それであっても、ドイツの突撃砲は終戦まで連合国軍相手に歩兵支援や対戦車戦闘で活躍し、ドイツ軍の対戦車戦力の根幹であった。ドイツ軍歩兵をして「戦車5台より突撃砲1台を」と言わしめることとなったのである。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "しかし、砲兵科と機甲科のセクト争いにより、似たような性格の戦闘車両である突撃砲と駆逐戦車を両方生産してしまったという側面もある。駆逐戦車的な性格を強めた突撃砲は、大戦中期以降は戦車部隊にも配備され、これは本来の突撃砲運営部隊との間に少なからぬ摩擦をもたらした。配備される突撃砲の取り合いになっただけでなく、砲兵科からは「砲兵が騎士十字章を得る手段が無くなってしまう」(突撃砲兵以外の砲兵は間接砲撃による支援任務主体であり、また直接交戦の機会が多い対戦車砲は歩兵師団の戦車猟兵の装備であるため)などと反発の声が上がった。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお、武装親衛隊の突撃砲は従来から戦車隊に配備されていたため、国防軍のような問題や軋轢は発生していない。", "title": "開発と運用" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ドイツの突撃砲に類似した兵器はソ連でも開発・運用された。ただしソ連軍にはドイツの駆逐戦車や突撃砲に相当する分類はなく、\"旋回する砲塔を持たない戦闘車輌\"は、主任務が対戦車戦闘であれ、歩兵近接支援であれ単に\"SU\"(Samokhodnaya Ustanovka:自走砲の意)として自走砲部隊に配属された。", "title": "ドイツ以外の突撃砲" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ソ連は1930年代前半には既に突撃砲に類する兵器を研究しており、T-26軽戦車をベースとするSU-1(1931年)やAT-1(1935年)を試作した。しかしこの系統の自走砲は試作の域を出ることはなく、代わりに大型の旋回砲塔に大口径砲を搭載したBT-7AやKV-2などの火力支援用戦車が配備された。", "title": "ドイツ以外の突撃砲" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1941年の独ソ戦開戦以降は、ドイツ軍の突撃砲の影響を受けて突撃砲に類似した自走砲が再びソ連で開発されるようになり、T-34中戦車をベースとしたSU-122/SU-85/SU-100自走砲や、KV-1重戦車をベースとしたSU-152自走砲、IS-2重戦車をベースとしたISU-152/ISU-122自走砲などが実用化された。これらはドイツ軍の兵器との類似性から「突撃砲」や「駆逐戦車」と呼ばれることもあるが、前述のようにいずれもソ連軍の公式な分類では自走砲だった。", "title": "ドイツ以外の突撃砲" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イタリアではドイツ軍のIII号突撃砲にならって固定式戦闘室に限定的な射界を持つ歩兵支援用装甲戦闘車両を計画し、戦車と共通の車体を持つ自走砲を開発・生産した。これらのうち、フィアット L6/40の車体にDa 47/32 M35 47mm歩兵砲を搭載したセモヴェンテ da 47/32、M13/40中戦車の車体にDa 75/18 75mm榴弾砲を搭載したセモヴェンテ da 75/18(M40/M41)が実戦で用いられたものとして著名である。これらの車両は、III号突撃砲が参考にされたこともあり、歩兵への火力支援と対戦車戦闘時の直接射撃というドイツのものと同様の任務に投入されたが、ドイツの突撃砲と異なる点は、純粋な突撃砲(前線支援車両)としてだけでなく、師団砲兵としても作戦に従事した点である。", "title": "ドイツ以外の突撃砲" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1942年初頭以来、これらの車輛は北アフリカ戦線からシチリア島に連合国が侵攻するまで広く投入され、共に投入された回転砲塔式戦車の支援戦力として、陣地攻撃用の突撃砲と、対戦車戦闘用の駆逐戦車の役割を果たし、自走砲として間接支援射撃を実施した。イタリア軍突撃砲の主力であったda75/18の75mm砲は榴弾と徹甲弾および対戦車榴弾を使用でき、これはM4シャーマンを始めとする連合国側の戦車を破壊するには十分だった。実際、1942~43年の間になされたイタリア軍機甲部隊の成功の多くは、これらの車輛の活躍の賜物である。", "title": "ドイツ以外の突撃砲" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ドイツと同様、より長砲身で高威力の砲の必要性から、セモヴェンテ da 75/34、セモヴェンテ da 75/46およびセモヴェンテ da 105/25といった長砲身型の開発が行われ、これらは1943年よりのイタリア本土の戦闘でより対戦車任務を重視した運用が行われた。これらの長砲身型のうち、da 75/34とda 105/25はイタリア降伏後にドイツ軍に接収、またドイツ軍の指令下で追加生産されてドイツ軍突撃砲として使用されており、da 105/25には StuG M43 mit 105/25 853 (i)の形式番号が与えられている。これらの他にも、イタリア軍の突撃砲はドイツ軍によっても使用された。", "title": "ドイツ以外の突撃砲" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "突撃砲はイタリア軍砲兵において使用されたものとしては非常に革新的な装備であり、これは突撃砲が師団単位で使用される最初の自走砲であったことによる。しかし、この他のイタリア陸軍の砲兵部隊は深刻に機動力が欠如しており、1942年からようやく実戦投入された少数の突撃砲では、全体的な状況を変えることはできなかった。また、上述のようにイタリア軍において突撃砲は間接射撃を行う自走砲としても使用されたが、発射速度が遅く、弾薬搭載量も充分ではないため、そのような任務に使用するには限界があった。", "title": "ドイツ以外の突撃砲" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお、イタリアでは自走砲全般をSemovente(セモヴェンテ)と呼称していたが、自走砲として開発されて実戦投入されたものの大半は突撃砲の形式の車両であったため、“セモヴェンテ”は一般的には突撃砲の愛称として定着している。", "title": "ドイツ以外の突撃砲" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "フィンランドでは、1942年から1943年にかけて、敵軍であるソ連から鹵獲したBT-7快速戦車を改造してイギリス製のQF 4.5インチ榴弾砲を搭載した車両を18輌製造し、「BT-42 (クリスティ突撃砲)」として突撃砲部隊で運用した。BT-42は、ドイツの突撃砲とは異なり戦車に類似した密閉式の旋回砲塔を有するが、当時のフィンランド軍の分類では突撃砲とされた。この車両の開発は旧式化した兵器の廃品利用的色合いが濃く、性能的に満足のいくものではなかった。", "title": "ドイツ以外の突撃砲" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "またフィンランドは、1943年9月にドイツからIII号突撃砲の供給を受けており、車載機銃を自国製のものに変更するなどの仕様変更を加えて使用した。この他、「継続戦争」(第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争)のうち、1944年6月25日に赤軍からISU-152を2両鹵獲し、自国車両として使用している。このうち、1両は鹵獲から3日後に赤軍のT-34-85に撃破されてごく短期間の運用に終わったが、もう1両は鹵獲時に損傷していたために戦線後方に下げられ、砲と砲架、防盾を取り外してJSU-152V(車両番号 Ps.745-1)の名称で重装甲回収車として使用された。JSU-152Vは戦後も使用され、1964年に退役した後に主砲を取り付け直してJSU-152として復元され、博物館の展示用車両として現存している。", "title": "ドイツ以外の突撃砲" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ドイツ国", "title": "第二次世界大戦における各国の突撃砲" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦", "title": "第二次世界大戦における各国の突撃砲" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "イタリア王国", "title": "第二次世界大戦における各国の突撃砲" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "フィンランド", "title": "第二次世界大戦における各国の突撃砲" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ハンガリー王国", "title": "第二次世界大戦における各国の突撃砲" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "スウェーデン", "title": "第二次世界大戦における各国の突撃砲" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、突撃砲は歩兵支援の場からも、対戦車狙撃任務の場からも、急速に姿を消していった。理由は以下のようなものが挙げられている。", "title": "第二次大戦後" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "その移行期には、装甲偵察/兵員輸送車から発展した車体に90mmカノン砲を搭載したカノーネンヤークトパンツァー(ドイツ)、ドイツ占領下のチェコスロバキアで生産されていたヘッツァー駆逐戦車に独自の改設計を施して自国仕様としたものを戦後に発注したG-13(スイス)なども造られている。", "title": "第二次大戦後" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "前節で述べた通り、突撃砲は本来はドイツ国防軍により歩兵支援用の重装甲自走砲として開発されたものだが、攻撃と防御の変化、戦闘車両の不足というドイツ軍の事情により兵器としての性格を変化させざるを得なかった。そのような事情がない場合、まずもって通常の回転砲塔を搭載した戦車が充分に生産・配備できれば必要性そのものが薄く、歩兵支援兵器としては、戦後は前述の歩兵戦闘車の誕生と、中戦車の主砲が大口径化し、装甲も重装甲化するに従ってわざわざ専用の車種を開発・製造する必要性が低下しており、「砲塔を廃止している分より大口径大威力の火砲を搭載できる」駆逐戦車としても、無誘導のロケット弾から誘導可能なミサイルが発展して誕生した後となっては、大口径の火砲を搭載する必要性は薄くなった。", "title": "第二次大戦後" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ソ連のSU-100は第2次世界大戦後も生産が継続されており(後述)、戦後生産型が度重なる中東戦争で用いられた他、1991年から1999年まで続いたユーゴスラビア紛争(ユーゴ内戦)の初期においても、T-34-85と共に使用されている車両が記録され、21世紀に入っても2015年にはイエメン内戦で使用されているものが撮影されている。しかし、SU-100に関してはいずれも「旧式の車両が必要に応じて使われている」とするべきもので、「突撃砲は戦後も長らく一線装備として用いられている」とは位置づけ難い。戦後のドイツでも“駆逐戦車(ヤークトパンツァー)”の呼称が用いられる車種についてはカノーネンヤークトパンツァー以後も開発・生産が継続されたが、武装は対戦車砲から対戦車ミサイルへと変更される事になる。", "title": "第二次大戦後" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ソ連軍においては、SU-100が戦後の1947年まで生産が継続され、ソ連の同盟国となったチェコスロバキアにおいては改良型のSU-100Mとして1950年代を通して生産されたが、ソ連軍では1967年に、他のワルシャワ条約機構加盟国においても1970年代初頭には現役から外されている。新規設計の車両としても、戦後第1世代の中戦車(主力戦車)である、T-54戦車の車体をベースに固定式戦闘室を設け、M-49(D-49)122mm戦車砲を搭載したSU-122-54(ロシア語: СУ-122-54)、ソ連の開発・量産配備した重戦車としては最後のものとなったT-10の車体に固定式戦闘室を設けてM-64 152mmカノン砲を搭載したオブイェークト268(obiekt268.Объект 268)が開発されているが、オブイェークト268は試作のみ、SU-122-54は少数生産・限定配備に終わり、後継車両はT-62の車体に対戦車ミサイルを搭載したIT-1となっている。また、SU-122-54同様に、T-62の車体に固定式戦闘室を設けて52口径130mmカノン砲を搭載した駆逐戦車型、IT-130(ИТ-130)が存在するとされていたが、この車両については開発に関する記録も生産・部隊配備された記録も発見されておらず、情報の誤認の可能性が高い。", "title": "第二次大戦後" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "スウェーデン陸軍では、1960年代に\"主力戦車\"として、砲塔を持たないStrv.103を生産したが、これは同国の国是である「武装中立」に則った防衛戦における待ち伏せ戦闘に特化したためである。Strv.103には旋回砲塔はないが、砲塔の無い分を駆動システムや機動性、操縦システムで補い、独自の汎用戦闘方法を確立しているため、突撃砲のような、いわゆる自走砲の範疇とはまったく別物であり、あくまでも“戦車”であることに注意が必要である。そしてやはり、無砲塔形式ゆえの問題点もあり、後継となる戦車は普通の砲塔形式のものが採用された。", "title": "第二次大戦後" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "中華人民共和国の現用装備である02式突撃砲は、装輪式で回転式砲塔を有しており、対戦車自走砲もしくは装輪戦車に分類される装備であるが、中国人民解放軍陸軍においては砲兵科に配備され、「突撃砲」と呼称されている。", "title": "第二次大戦後" } ]
突撃砲は、第二次世界大戦時にドイツ国防軍によって歩兵支援用に生み出された自走砲(自走歩兵砲)の一種であるが、主に砲を備えた密閉式固定戦闘室が搭載されているものが突撃砲と言われている。 なお、アメリカ軍においても“Assault Gun(アサルトガン)”の名で呼ばれる兵器が存在し、これを日本語に直訳すると「突撃砲」となるが、これは特定の兵器の種別名ではなく、機甲部隊や機械化歩兵部隊において、榴弾による直射火力支援を主任務とした戦車や自走砲の運用法に拠る部隊編制上の呼称である。 当項目では主にドイツ軍のものについて記述する。
{{出典の明記|date=2010年4月}}{{Multiple image|total_width=410|perrow=2|header={{big|Assault gun}}|image1=StuG III Ausf. G.jpg|image2=Sherman Tank WW2.jpg|image3=Soviet tank ISU-152, "35 years - Victory Park", Kineshma.JPG|image4=Semovente M42.Saumur.0008fefh.jpg |footer=(時計回りに)[[アメリカ軍]]の[[M4中戦車|M4 105mm 突撃戦車]]。[[イタリア王国]]軍の[[セモヴェンテ da 75/18]]。[[赤軍]]の[[ISU-152 (自走砲)|ISU-152]] 。[[フィンランド軍]]の[[III号突撃砲]]。}} '''突撃砲'''(とつげきほう、{{lang-de-short|Sturmgeschütz}})は、[[第二次世界大戦]]時に[[ドイツ国防軍]]によって[[歩兵]]支援用に生み出された[[自走砲]](自走[[歩兵砲]])の一種であるが、主に'''砲を備えた密閉式固定戦闘室'''が搭載されているものが突撃砲と言われている<ref>{{Cite book|和書|title=歴群図解マスター 戦車|publisher=学研パブリッシング|page=22}}</ref>。 なお、アメリカ軍においても“Assault Gun(アサルトガン)”の名で呼ばれる兵器が存在し{{Efn2|歩兵用の小火器である「[[突撃銃]]([[アサルトライフル]](Assault Rifle)」とは異なるので注意が必要である。}}、これを日本語に直訳すると「突撃砲」となるが、これは特定の兵器の種別名ではなく、機甲部隊や機械化歩兵部隊において、榴弾による直射火力支援を主任務とした戦車や自走砲の運用法に拠る部隊編制上の呼称である。 *当項目では主にドイツ軍のものについて記述する。 == 概要 == 突撃砲は、ドイツ国防軍において敵陣地を直接攻撃するために強力な砲と低姿勢を兼ね備えており、対戦車任務にも大いに活躍した、[[自走砲]]に分類される車両である。基本的には[[歩兵]]支援用であるが、対戦車戦闘向けに長砲身化されて実質、[[駆逐戦車]]任務をこなすようになったものもある。<!--[[日本軍]]の[[砲戦車]]がこれに類似する。--> 突撃砲は黎明期の[[巡洋艦]]のような所属部隊や役務に応じた籍名ではなく、独自の車両種名である。仮に歩兵部隊の突撃砲が機甲部隊に配属されても、名前が「突撃砲」でなくなるわけではなく、駆逐戦車が歩兵部隊に配属されても、名前が突撃砲になるわけではない。後述の[[ミハエル・ヴィットマン]]が[[指揮官|車長]]を務めた時のIII号突撃砲も、機甲部隊である装甲軍(Panzergruppe)所属である。 突撃砲を運用する突撃砲兵(Sturmartillerie)は、[[1935年]]に[[戦車]]とは異なる[[火力支援|歩兵支援]]として提案された概念であり、当時から突撃砲は[[砲兵]]に属するものとされた。次男の手になる死後の選集で[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]は次のように評している。 {{Quotation|''その兵器(=突撃砲)により砲兵本来の任務で十分な貢献が約束されるという私の提案を、彼ら(=砲兵科)が感激を持って受け入れることは、疑いもなく予想できた。その反面、戦車戦の推進者たちは、突撃砲兵をライバルとして見た。''<br/> (Rudiger von Manstein (編) 88-89頁)}} 当初は開発時のコンセプト通りに運用・配備されていたが、[[1943年]]になって事態が変化した。装甲部隊の再建をスピードアップするため、[[ハインツ・グデーリアン]]戦車兵総監の要求により4月にPanzer-Sturmgeschütz-Abteilungという新たな種類の[[大隊]]が定義され、再建中の3つの装甲[[連隊]]が第III大隊として突撃砲45両を受け取ることになったのである<ref name="Jentz">Jentz、第2巻68頁</ref>。6月には、戦車大隊を持たないことが多かった装甲擲弾兵[[師団]]にも戦車大隊に代えて突撃砲大隊が配属できることになった<ref name="Jentz"/>。「駆逐戦車」や[[ブルムベア]]などの「突撃戦車」は戦車兵科所属となることを前提とした呼称であるが、いくつかの車両ではこの名称が決まるまでに「Panzer」「Sturmgeschütz」をそれぞれ含む名称が混用されている<ref>例えば『軽駆逐戦車』95-101頁には、IV号駆逐戦車が開発中に呼ばれた34種類の呼称記録(同一のものを含む)があり、「新型突撃砲」といった呼称が次第に姿を消してゆく過程が見える。</ref>。 なお、突撃砲はアルケット社により生産されていたが、[[1943年]]には工場が連合軍の空襲により大損害を受けて操業停止に追い込まれたため、かねてより計画されていた「 [[IV号戦車]]の車台を用いて(III号)突撃砲と同様だがより前面装甲の厚い戦闘室を搭載した車両{{Efn2|これは後には「IV号戦車の車台を用いて長砲身7.5cm戦車砲を搭載した駆逐戦車」を生産する計画に発展的に変更された。}}」の構想を転用する形で、クルップ社により [[IV号突撃砲]](Sturmgeschütz IV)が製造された。IV号突撃砲の生産開始に伴い、それまで単に「突撃砲」と呼ばれていた車輌は [[III号突撃砲]](Sturmgeschütz III)と呼ばれるようになった。 == 駆逐戦車との違い == ドイツ国防軍の装備した装甲戦闘車両として、回転砲塔を持たず、固定式の戦闘室に比較的大口径の長砲身砲を装備する、突撃砲に類似した形態を有する車両があるが、これは「[[駆逐戦車]]」と呼ばれるものである。駆逐戦車とは、当初は「戦車駆逐車」の名称であったことからも判るように、歩兵の支援を第1目的とせず、戦車を遠距離から攻撃することを主任務とした車両であり、言うなれば「対戦車戦闘のみに特化した戦車」ということである。一方で、後述のようにIII号突撃砲自体が[[第二次世界大戦]]の開戦前に対戦車威力を強化した長砲身砲搭載の計画が立ち上がっていたことからもわかるように、開発当初から突撃砲の任務の一つとして対戦車戦闘が考慮されていた。また、駆逐戦車そのものが実戦において「突撃砲は包囲されない限り通常の戦車より高い対戦車戦闘能力を持つ」と分析されたことから開発されているように、突撃砲と駆逐戦車との差は明確ではない。 突撃砲と駆逐戦車との区別については多分に[[兵科]]間の縄張り争いの一面を持ち、実態として両者の相違は曖昧なもので、事実[[エレファント重駆逐戦車|エレファント]]や[[ヤークトパンター]]などの重駆逐戦車は、当初は重突撃砲に分類されていた。これら駆逐戦車の[[照準器]]は接眼鏡内の目盛こそ直射を前提とした移動目標に対する狙いが付けやすい物となっているものの、突撃砲と同じく[[野戦砲]]に準じた潜望鏡式の物のみで、回転砲塔式の戦車のような、主砲と同軸に装備される直接照準器を持たない。 同様の理由(所属兵科や運用される部隊の主任務に応じて呼称を対応させる)で、砲兵と対戦車砲兵を区分することには突撃砲以外にも例がある。ドイツ国防軍においては、大戦後半になると、砲の半分の数しか牽引車両を持たない部隊が編成され「Artillerie-Pak-Abteilung(bo.)=砲兵科対戦車砲大隊(半固定)」と呼称されている。ドイツ以外でも、日本軍は歩兵大隊に配属された迫撃砲のことを「曲射歩兵砲」と呼び、戦車兵科に属する自走砲を「砲戦車」と呼んでおり、アメリカ軍においては機甲部隊や機械化歩兵部隊において、榴弾砲を主砲とし直射火力支援を主任務とした戦車や自走砲を部隊編成表などでは“Assault Gun(アサルトガン)”と呼称していた。 == 開発と運用 == === 前史 === [[第一次世界大戦]]における[[塹壕|塹壕戦]]では、[[歩兵]]が携行できるような兵器で敵の機関銃陣地や[[トーチカ]]を破壊することは困難で、何よりも攻撃が可能な距離まで容易には近づけない、という問題があった。[[長距離砲]]による破壊は弾道精度、測距精度の問題で非効率的であり、[[大砲]]自体の前線進出が望まれていた。しかし大砲の前線進出には砲の重量、機動性の問題があった。このために、[[歩兵]]支援のための機動性を持ち近接支援を行うことができる砲として、「自走して砲弾孔や鉄条網、塹壕を踏破・突破し、敵陣に肉薄して敵弾に耐えられる「動く大砲」の研究が行われることとなった。これが結実したものが「[[戦車]]」である。 世界初の戦車であるイギリスの[[マーク_I_戦車|MK.I]]を始め、最初期の戦車はいずれも回転砲塔を装備しておらず、近距離で目標を直接射撃するための砲を直接車体に搭載しており、その点では突撃砲に類似していた。[[フランス]]の開発した[[サン・シャモン突撃戦車|サン・シャモン]]は「'''突撃戦車'''/'''襲撃砲戦車'''{{Efn2|日本では「襲撃砲戦車」という呼称は[[田宮模型]]から発売されたSU-122のプラモデルに使われているが、これは田宮模型による独自の商品名である。<br />サン・シャモンの場合は軍による公式の車種呼称で、模型会社等による造語ではない。}}」("char de rupture")と呼ばれ、旋回[[砲塔]]を持たず車体前面に直接75mm野砲を搭載した形式で、歩兵の陣地突破への直接[[火力支援]]を行うというコンセプトはのちの突撃砲と同じである。 === 突撃砲の開発 === [[ドイツ帝国]]陸軍は、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]での最後の攻勢である[[1918年春季攻勢]]で、敵戦線を突破し64kmも進出した。この時ドイツ軍は初めて自国開発の戦車である[[A7V]]も使用したが、突進する歩兵部隊に追随して[[火力支援]]にあたったのは、重装甲重武装だが鈍足のA7Vよりも、[[砲兵]]部隊により馬や人力で牽引されていた[[7.7cm FK 96 nA]]や[[7.7cm FK 16]]などの軽[[野砲]]であった<ref name="突撃砲大研究">『歴史群像』1999年春夏号 突撃砲大研究 樋口隆晴(学研パブリッシング)</ref>。 [[File:Wd_77mm_50ps_s1.jpg|thumb|240px|7.7 cm WD シュレッパー 50馬力型(7,7 cm WD Schlepper 50pk)]] 敗戦後、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和政ドイツ]]はこうした経験から[[1927年]]に突撃砲の原点と呼べる[[自走砲]]を創りだす。これは[[1918年]]春季攻勢で活躍した27口径7.7cm野砲([[7.7cm FK 96 nA]])を、[[ハノマーグ]]社製の民生用の装軌式[[トラクター]]、WD Z 50(WD 50 とも)にオープントップ式に搭載したものである<ref>[http://catainium.blogspot.com/2016/06/wd-50-gun-carrier.html Catainium's Tanks|Sunday, June 5, 2016|Catainium|WD-50 Gun Carrier] ※2022年5月29日閲覧</ref>。この車両は“[[WD シュレッパー]]”(WD Schlepper)と通称された。 WD シュレッパーはトラクターに単純に砲を搭載しただけのもので、簡単な防盾はあったものの、[[砲兵]]を守る[[装甲]]板には囲まれておらず、[[弾丸|銃]][[砲弾]]飛び交う前線で扱うのに適しているとは言い難かった。そのため、実用試験の過程で次第に防盾が大型化され、更に側面や天面に装甲が追加され、ついには完全な密閉戦闘室を持つ設計とされるに至った。これがドイツにおいて開発された“突撃砲”の祖である。このような開発経緯から、運用兵科は[[戦車]]部隊ではなく砲兵部隊となっている。 [[1936年]]ドイツ[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]が突撃砲の概念を決定する。戦車とは異なる突撃砲という兵器の概念には、参謀本部作戦課長であった[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]][[大佐]](当時)が頭の中に描いていた考えを基に固められていた。 *戦車部隊の戦果は[[歩兵]]部隊の戦力強化により拡大され、それには後方に展開する重砲群とは異なる、従来の歩兵随伴砲を発展させた兵器が求められている。 *歩兵の装備では攻撃に困難を伴う、敵の陣地や戦車など危険で強固な障害物を迅速に排除して、歩兵の攻撃を前進させる。 *歩兵の求める次元で戦闘するには装甲化されていなければならない。 *敵砲兵の目標になる前に迅速に退避できる機動力が必要である。 戦車のように移動中に火砲の照準を変えつつ状況に応じて射撃しながら敵戦線を突破するという役割は期待されていなかったため、[[口径|大口径]]砲の搭載に制約を受ける回転砲塔の採用は必要なかった。そして同年に出された開発命令により[[III号戦車]]をベースとした無砲塔構造の車両に短砲身75mm砲(7.5cm StuK37 L/24)を用いた歩兵支援用の自走砲が開発された。 無砲塔構造は、ベースのIII号戦車より大口径砲が搭載可能になった事以外に、車両高が低くなったので敵から発見されにくく、かつ攻撃されても被弾しにくくなった。その技術的細目を直接指導したのは参謀本部技術課にいた[[ヴァルター・モーデル]][[大佐]](当時)だった<ref name="突撃砲大研究"/>。これが[[III号突撃砲|突撃砲(III号突撃砲)]]として採用された。 なお[[1930年代]]後半、ドイツ以外の列強では、このような歩兵支援目的では回転砲塔構造の[[歩兵戦車]]を開発していた。 *[[日本]]の[[九七式中戦車]]や[[ソビエト連邦]]の[[T-26 (戦車)|T-26]]は、薄い装甲により機動力を確保し、当時の戦車としては比較的大口径の搭載砲で火力を重視した。 *[[イギリス]]の[[マチルダI歩兵戦車]]は、防御力を重視して厚い装甲を施したため、機動力が犠牲になっており、武装も[[重機関銃]]のみだった。 *[[フランス]]の[[ルノー R35]]は、機動力、火力、防御力の中庸を取った<ref>『歴史群像』2007年6月号 九七式中戦車大研究 田村尚也(学研パブリッシング)</ref>。 機動力、[[火力 (軍事)|火力]]、防御力のいずれかに重点を置くかは各国の用兵思想により違っていたが、砲塔を廃した自走砲形式ではない、という点では共通している。 === 実戦での活躍と役割の変化 === [[第二次世界大戦]]での実戦で、突撃砲は開発コンセプト通りの活躍を見せた。[[電撃戦]]の各場面において、主に[[歩兵]]戦闘の支援を行い、敵勢力の[[重火器]]制圧に効果を挙げた。一方、初期の突撃砲の指揮車が防御力に劣る[[Sd Kfz 253|装甲ハーフトラック]]であったため指揮官の損害が多く、後に指揮官も突撃砲に搭乗するように編成が変えられた。 [[1941年]]、[[バルバロッサ作戦]](ソ連侵攻作戦)を発動し、[[ソビエト連邦|ソ連]]に侵攻した[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]は、圧倒的にすぐれた敵[[戦車]][[T-34]]に直面し、すべての[[装甲戦闘車両]]は威力不足となった。[[赤軍|ソ連赤軍]]の膨大な戦力に対し長距離行軍を強いられたことから、ドイツ軍の戦車戦力は急激に消耗していった。 [[独ソ戦|東部戦線]]では、ドイツ歩兵の最大の脅威は敵の[[トーチカ]]ではなく敵戦車であり、突撃砲に求められるのは、敵戦車を破壊できる対戦車能力となった。もともと突撃砲は、対戦車戦闘も想定しており、[[徹甲弾]]を発射することができたが、これに加えて[[ベトン]]トーチカ用に配備されていた[[成形炸薬弾]]を用いて対戦車戦闘に従事した。のちにドイツ軍の戦車エースとなった[[ミハエル・ヴィットマン|ミヒャエル・ヴィットマン]]も[[独ソ戦]]初期にIII号突撃砲A型単独で16輌(諸説あり)の[[赤軍|ソ連赤軍]][[軽戦車]][[T-26 (戦車)|T-26]]を迎撃、うち6-7台を撃破したというエピソードを持つ。 ドイツ軍は、突撃砲の歩兵支援向きの短砲身砲を対戦車戦闘にも有利な長砲身に変更する計画を大戦前から進めており、[[1940年]]にはクルップ社にて試作砲が完成して試験が始まっていた。しかし開発中だった新型7.5cm砲ではT-34に対して威力不足と考えられたため、[[ラインメタル]]社が新たに提示したより強力な長砲身砲(7.5cm StuK40 L/43及びL/48)を開発搭載することになった。ここに至って突撃砲の任務は、対戦車戦闘の比率が大きくなったといえる。また歩兵支援任務向けの突撃砲として、対トーチカ攻撃用としてより[[口径]]の大きな[[榴弾砲]]を装備した、[[10.5cm突撃榴弾砲42|10.5cm Sturmhaubitze 42(42式突撃榴弾砲または突撃榴弾砲42型)]]が並行して量産され、通常の突撃砲と同じ大隊に配備された。この時点で、突撃砲は「歩兵を直接支援するために重装甲にした自走砲」から「回転[[砲塔]]を持たず、その重量を装甲防御と[[火力 (軍事)|火力]]に振り向けた戦車」へと性格を変えた。 戦車不足に悩むドイツ軍にとって、突撃砲はなくてはならない戦力となった。前述の通り突撃砲は同じ重量の戦車より装甲と火力に勝り、その上、高い工作精度が要求される[[ボールベアリング]]の必要な回転砲塔を持たないため、生産工程は戦車よりも少なく済み、大量生産が可能であった。ただし、回転砲塔とそれに付随した[[機関銃]]を持たなかったため、敵味方が入り乱れるような状況や、全周対応性の求められる任務には適しておらず、[[バズーカ]]などの携行対戦車兵器を装備した歩兵に背後や側面に回られると戦車よりも脆い点が弱点であった。それであっても、ドイツの突撃砲は終戦まで[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]相手に歩兵支援や対戦車戦闘で活躍し、ドイツ軍の対戦車戦力の根幹であった。ドイツ軍歩兵をして「戦車5台より突撃砲1台を」と言わしめることとなったのである。{{要出典|date=2022年7月}} しかし、[[砲兵]]科と機甲科のセクト争いにより、似たような性格の戦闘車両である突撃砲と[[駆逐戦車]]を両方生産してしまったという側面もある{{要出典|date=2010年4月}}。[[駆逐戦車]]的な性格を強めた突撃砲は、大戦中期以降は戦車部隊にも配備され、これは本来の突撃砲運営部隊との間に少なからぬ摩擦をもたらした。配備される突撃砲の取り合いになっただけでなく、[[砲兵]]科からは「砲兵が騎士十字章を得る手段が無くなってしまう」(突撃砲兵以外の砲兵は間接砲撃による支援任務主体であり、また直接交戦の機会が多い対戦車砲は歩兵師団の戦車猟兵の装備であるため)などと反発の声が上がった。 なお、[[武装親衛隊]]の突撃砲は従来から戦車隊に配備されていたため、国防軍のような問題や軋轢は発生していない。 == ドイツ以外の突撃砲 == === ソ連 === [[ファイル:Artillery_tank_AT-1.jpg|thumb|240px|AT-1の試作車両]] ドイツの突撃砲に類似した兵器はソ連でも開発・運用された。ただしソ連軍にはドイツの駆逐戦車や突撃砲に相当する分類はなく、"旋回する砲塔を持たない戦闘車輌"は、主任務が対戦車戦闘であれ、歩兵近接支援であれ単に"SU"(Samokhodnaya Ustanovka:自走砲の意)として自走砲部隊に配属された。 ソ連は1930年代前半には既に突撃砲に類する兵器を研究しており、[[T-26 (戦車)|T-26軽戦車]]をベースとするSU-1(1931年)やAT-1(1935年)を試作した。しかしこの系統の自走砲は試作の域を出ることはなく、代わりに大型の旋回砲塔に大口径砲を搭載した[[BT-7#バリエーション|BT-7A]]や[[KV-2]]などの火力支援用戦車が配備された。 1941年の独ソ戦開戦以降は、ドイツ軍の突撃砲の影響を受けて突撃砲に類似した自走砲が再びソ連で開発されるようになり、T-34中戦車をベースとした[[SU-122]]/[[SU-85]]/[[SU-100]]自走砲や、KV-1重戦車をベースとした[[SU-152]]自走砲、[[IS-2]]重戦車をベースとした[[ISU-152_(自走砲)|ISU-152]]/[[ISU-122_(自走砲)|ISU-122]]自走砲などが実用化された。これらはドイツ軍の兵器との類似性から「突撃砲」や「駆逐戦車」と呼ばれることもあるが、前述のようにいずれもソ連軍の公式な分類では自走砲だった。 === イタリア === [[ファイル:Bundesarchiv_Bild_101I-784-0208-17A,_Nordafrika,_italienische_Panzer.2.jpg|thumb|240px|北アフリカにおけるイタリア軍機甲部隊所属のda_75/18(M40/M41)<br />奥の軍用4輪車には視察に訪れた[[エルヴィン・ロンメル]]が乗っている]] イタリアでは[[ドイツ]]軍の[[III号突撃砲]]にならって固定式戦闘室に限定的な射界を持つ歩兵支援用装甲戦闘車両を計画し、戦車と共通の車体を持つ[[自走砲]]を開発・生産した。これらのうち、[[フィアット L6/40]]の車体に[[Da 47/32|Da 47/32 M35 47mm歩兵砲]]を搭載した[[セモヴェンテ da 47/32]]、[[M13/40]]中戦車の車体に[[Da 75/18]] 75mm[[榴弾砲]]を搭載した[[セモヴェンテ da 75/18]](M40/M41)が実戦で用いられたものとして著名である。これらの車両は、III号突撃砲が参考にされたこともあり、歩兵への火力支援と対戦車戦闘時の直接射撃というドイツのものと同様の任務に投入されたが、ドイツの突撃砲と異なる点は、純粋な突撃砲(前線支援車両)としてだけでなく、[[師団]][[砲兵]]としても作戦に従事した点である。 [[1942年]]初頭以来、これらの車輛は[[北アフリカ戦線]]から[[ハスキー作戦|シチリア島に連合国が侵攻する]]まで広く投入され、共に投入された回転砲塔式戦車の支援戦力として、陣地攻撃用の突撃砲と、対戦車戦闘用の駆逐戦車の役割を果たし、自走砲として間接支援射撃を実施した。イタリア軍突撃砲の主力であったda75/18の75mm砲は榴弾と徹甲弾および対戦車榴弾を使用でき、これは[[M4中戦車|M4シャーマン]]を始めとする[[連合国_(第二次世界大戦)|連合国]]側の戦車を破壊するには十分だった。実際、1942~43年の間になされたイタリア軍機甲部隊の成功の多くは、これらの車輛の活躍の賜物である。 [[File:The_British_Army_in_Italy_1945_NA22006.jpg|thumb|240px|ドイツ軍によって使用され、ドイツのマーキングが記入されたda_75/18(M40/M41)<br />1945年1月、連合国によって捕獲されたものが展示された際の撮影で、車両に乗っているのは[[英印軍|イギリス領インド軍]]の将兵達である。]] ドイツと同様、より長砲身で高威力の砲の必要性から、[[セモヴェンテ da 75/34]]、[[セモヴェンテ da 75/46]]および[[セモヴェンテ da 105/25]]といった長砲身型の開発が行われ、これらは1943年よりのイタリア本土の戦闘でより対戦車任務を重視した運用が行われた。これらの長砲身型のうち、da 75/34とda 105/25はイタリア降伏後にドイツ軍に接収、またドイツ軍の指令下で追加生産されてドイツ軍突撃砲として使用されており、da 105/25には StuG M43 mit 105/25 853 (i)の形式番号が与えられている。これらの他にも、イタリア軍の突撃砲はドイツ軍によっても使用された。 突撃砲はイタリア軍砲兵において使用されたものとしては非常に革新的な装備であり、これは突撃砲が師団単位で使用される最初の自走砲であったことによる。しかし、この他のイタリア陸軍の砲兵部隊は深刻に機動力が欠如しており、[[1942年]]からようやく実戦投入された少数の突撃砲では、全体的な状況を変えることはできなかった。また、上述のようにイタリア軍において突撃砲は間接射撃を行う自走砲としても使用されたが、発射速度が遅く、弾薬搭載量も充分ではないため、そのような任務に使用するには限界があった。 なお、イタリアでは[[自走砲]]全般を'''Semovente(セモヴェンテ)'''と呼称していたが、自走砲として開発されて実戦投入されたものの大半は突撃砲の形式の車両であったため、“セモヴェンテ”は一般的には突撃砲の愛称として定着している。 [[ファイル:Bt42 parola 2.jpg|サムネイル|[[フィンランド国防軍|フィンランド軍]]の[[BT-42]]]] === フィンランド === [[フィンランド]]では、1942年から1943年にかけて、敵軍であるソ連から鹵獲した[[BT-7]][[BT戦車|快速戦車]]を改造して[[イギリス]]製の[[QF 4.5インチ榴弾砲]]を搭載した車両を18輌製造し、「[[BT-42]] (クリスティ突撃砲)」として突撃砲部隊で運用した。BT-42は、ドイツの突撃砲とは異なり戦車に類似した密閉式の旋回砲塔を有するが、当時のフィンランド軍の分類では突撃砲とされた。この車両の開発は旧式化した兵器の廃品利用的色合いが濃く、性能的に満足のいくものではなかった。 またフィンランドは、1943年9月にドイツからIII号突撃砲の供給を受けており、車載機銃を自国製のものに変更するなどの仕様変更を加えて使用した。この他、「[[継続戦争]]」(第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争)のうち、1944年6月25日に[[赤軍]]から[[ISU-152]]を2両鹵獲し、自国車両として使用している。このうち、1両は鹵獲から3日後に赤軍の[[T-34|T-34-85]]に撃破されてごく短期間の運用に終わったが、もう1両は鹵獲時に損傷していたために戦線後方に下げられ、砲と砲架、防盾を取り外してJSU-152V(車両番号 Ps.745-1)の名称で重装甲回収車として使用された。JSU-152Vは戦後も使用され、1964年に退役した後に主砲を取り付け直してJSU-152として復元され、博物館の展示用車両として現存している[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ISU-152_Parola_tank_museum.jpg]。 == 第二次世界大戦における各国の突撃砲 == {{col|{{DEU1935}} * [[III号突撃砲]] * [[IV号突撃砲]] * [[10.5cm突撃榴弾砲42]] * [[33B突撃歩兵砲]] * [[ブルムベア|IV号突撃戦車“ブルムベア”]] * [[シュトルムティーガー|38cm突撃(戦車)臼砲ティーガー(シュトルムティーガー)]] | {{SSR}} * [[SU-85 (自走砲)|SU-85]] * [[SU-122 (自走砲)|SU-122]] * [[SU-152 (自走砲)|SU-152]] * [[ISU-122 (自走砲)|ISU-122]] * [[ISU-152 (自走砲)|ISU-152]] | {{ITA1861}} * [[セモヴェンテ da 47/32]] * [[セモヴェンテ da 75/18]](M40/M41) * [[セモヴェンテ da 75/34]] * [[セモヴェンテ da 75/46]] * [[セモヴェンテ da 105/25]] | {{FIN}} * [[BT-42]] | {{HUN1920}} * [[ズリーニィ|40/43M ズリーニィII (ズリーニィ105)]] * [[ズリーニィ#バリエーション|44M ズリーニィI (ズリーニィ75)]] | {{SWE}} * [[Sav m/43]] }} ;ドイツ <gallery widths="200px" heights="180px"> file:StuG III Ausf A.jpg|III号突撃砲A型 File:Sturmgeschütz_III_Ausfuhrung_G_pic05.JPG|III号突撃砲G型 File:StuG_40_Ausführung_G_in_the_Kubinka_Museum.jpg|III号突撃砲G型<br />“ザウコップ”(Saukopf:「猪の頭」「豚鼻」の意)と呼ばれるタイプの防盾に変更された後期の生産型 File:Sturmhaubitze-42.jpg|10.5cm Sturmhaubitze 42 File:Sturmgeschutz_iv_Muzeum_Broni_Pancernej_CSWL_2.JPG|IV号突撃砲 File:StuG IV Skarżysko.jpg|ポーランドの博物館に展示されているIV号突撃砲<br />ザウコップ型防盾(手前側の地面に置かれている部品)が取り外され、砲身基部や駐退復座機が露出している。 File:Sturminfanteriegeschütz_33B_‘G-2’_-_Patriot_Museum,_Kubinka_(38346470826).jpg|33B突撃歩兵砲 File:Sturmpanzer.Saumur.0008gkp7.jpg|IV号突撃戦車“ブルムベア”(後期型) File:Sturmtiger_’19_red’_(s-n_205543)_–_Patriot_Museum,_Kubinka_(38240137396).jpg|38cm突撃(戦車)臼砲ティーガー </gallery> ;ソビエト連邦 <gallery widths="200px" heights="180px"> File:SU-122_Kubinka_3.jpg|SU-122 File:Czerniaków_SU-85.JPG|SU-85 File:Self-propelled_artillery_in_Brest_Fortress.jpg|SU-100 File:11-Heavy_self_propelled_gun_su_152-LMW.jpg|[[SU-152]] File:ISU-152_Kiev_2018_G2.jpg|ISU-152 File:ISU-122_skos_RB.jpg|ISU-122 </gallery> ; イタリア <gallery widths="200px" heights="180px"> File:Semovente_47-32_in_Aberdeen.jpg|da 47/32 File:Semovente_M42.Saumur.0008fefh.jpg|da 75/18(M40/M41) File:Semovente_75_34.jpg|da 75/37 File:Semovente_75_46.jpg|da 75/46 File:Semovente_105_25.jpg|da 105/25 </gallery> ;フィンランド <gallery widths="200px" heights="180px"> ファイル:BT-42_Parola_tank_museum.jpg|フィンランドで製造された[[BT-42]](クリスティ突撃砲)<br /> ファイル:Taistelunäytös_Lippujuhlan_päivä_2014_12_StuG_IIIG.JPG|フィンランド軍の使用したIII号突撃砲G型 Ps 531-18号車<br />この車両は戦後にレストアされた動態保存車である。<br />(2014年7月の撮影) </gallery> ; ハンガリー <gallery widths="200px" heights="180px"> File:Zrinyi_in_the_Kubinka_Museum.jpg|40/43M ズリーニィII (ズリーニィ105) |44M ズリーニィI (ズリーニィ75) </gallery> ; スウェーデン <gallery widths="200px" heights="180px"> File:Stormartillerivagn_m43_Strängnäs_12.08.11.JPG|Sav m/43 </gallery> == 第二次大戦後 == [[第二次世界大戦後]]、突撃砲は歩兵支援の場からも、対戦車狙撃任務の場からも、急速に姿を消していった。理由は以下のようなものが挙げられている。 *歩兵支援任務は[[歩兵戦闘車]]や、より発達した[[装甲兵員輸送車]]に引き継がれた<ref name="戦車マニア基礎知識">三野正洋『戦車マニアの基礎知識』([[イカロス出版]]1997)</ref>。 *高価な主力戦闘車以外による低姿勢待ち伏せ型対戦車攻撃任務は、駆逐戦車や長砲身型突撃砲から、自走[[対戦車ミサイル]]発射機と携帯式[[対戦車兵器]]に引き継がれた<ref name="戦車マニア基礎知識"/>。 その移行期には、装甲偵察/兵員輸送車から発展した車体に90mmカノン砲を搭載した[[カノーネンヤークトパンツァー]](ドイツ)、ドイツ占領下の[[チェコスロバキア]]で生産されていた[[軽駆逐戦車ヘッツァー|ヘッツァー]]駆逐戦車に独自の改設計を施して自国仕様としたものを戦後に発注したG-13(スイス)なども造られている。 <gallery widths="200px" heights="180px"> ファイル:Aberdeen_proving_grounds_026.JPG|カノーネンヤークトパンツァー ファイル:Panzerjäger_G_13.jpg|G-13 </gallery> 前節で述べた通り、突撃砲は本来は[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ国防軍]]により歩兵支援用の重装甲自走砲として開発されたものだが、攻撃と防御の変化、戦闘車両の不足というドイツ軍の事情により兵器としての性格を変化させざるを得なかった。そのような事情がない場合、まずもって通常の回転[[砲塔]]を搭載した戦車が充分に生産・配備できれば必要性そのものが薄く、歩兵支援兵器としては、戦後は前述の歩兵戦闘車の誕生と、中戦車の主砲が大口径化し、装甲も重装甲化するに従ってわざわざ専用の車種を開発・製造する必要性が低下しており{{Efn2|更に、これによって「重戦車」というものの存在意義も薄れることになった。}}、「砲塔を廃止している分より大口径大威力の火砲を搭載できる」駆逐戦車としても、無誘導の[[ロケット弾]]から誘導可能な[[ミサイル]]が発展して誕生した後となっては、大口径の火砲を搭載する必要性は薄くなった。 ソ連の[[SU-100]]は第2次世界大戦後も生産が継続されており(後述)、戦後生産型が度重なる[[中東戦争]]で用いられた他、[[1991年]]から[[1999年]]まで続いた[[ユーゴスラビア紛争]](ユーゴ内戦)の初期においても、[[T-34|T-34-85]]と共に使用されている車両が記録され、21世紀に入っても[[2015年]]には[[イエメン内戦 (2015年-)|イエメン内戦]]で使用されているものが撮影されている<ref>http://www.uskowioniran.com/2015/04/wwii-era-soviet-armor-engaged-in-yemen.html "WWII era Soviet armor engaged in Yemen conflict"</ref>。しかし、SU-100に関してはいずれも「旧式の車両が必要に応じて使われている」とするべきもので、「突撃砲は戦後も長らく一線装備として用いられている」とは位置づけ難い。戦後のドイツでも“駆逐戦車(ヤークトパンツァー)”の呼称が用いられる車種についてはカノーネンヤークトパンツァー以後も開発・生産が継続されたが、武装は[[対戦車砲]]から[[対戦車ミサイル]]へと変更される事になる。 ソ連軍においては、SU-100が戦後の[[1947年]]まで生産が継続され、ソ連の同盟国となった[[チェコスロバキア]]においては改良型のSU-100Mとして[[1950年代]]を通して生産されたが、ソ連軍では[[1967年]]に、他の[[ワルシャワ条約機構]]加盟国においても1970年代初頭には現役から外されている{{Efn2|ただし、予備装備としてはソ連軍を始めその後も保管が続けられていた。}}。新規設計の車両としても、戦後第1世代の中戦車(主力戦車)である、[[T-54]]戦車の車体をベースに固定式戦闘室を設け、M-49(D-49)122mm戦車砲を搭載した[[SU-122-54_(自走砲)|SU-122-54]]({{lang-ru|СУ-122-54}})、ソ連の開発・量産配備した重戦車としては最後のものとなった[[T-10_(戦車)|T-10]]の車体に固定式戦闘室を設けてM-64 152mmカノン砲を搭載したオブイェークト268(obiekt268.{{lang|ru|Объект 268}})が開発されているが、オブイェークト268は試作のみ、SU-122-54は少数生産・限定配備に終わり、後継車両は[[T-62]]の車体に[[対戦車ミサイル]]を搭載した[[IT-1]]{{Efn2|IT-1の"IT({{lang-ru|ИТ}})"とはロシア語で{{lang|ru|Истребитель Танков}},[[アルファベット]]転化:Istrjebitjel Tankov.「駆逐戦車」の意味で、自走砲(突撃砲)とはされていない。}}となっている。また、SU-122-54同様に、[[T-62]]の車体に固定式戦闘室を設けて52口径130mmカノン砲を搭載した駆逐戦車型、[[IT-130_(自走砲)|IT-130]]({{lang|ru|ИТ-130}})が存在するとされていたが、この車両については開発に関する記録も生産・部隊配備された記録も発見されておらず、情報の誤認の可能性が高い。 <gallery widths="200px" heights="180px"> File:Музей_военной_техники_Оружие_Победы,_Краснодар_(61).jpg|SU-122-54 File:Object_268_in_the_Kubinka_Museum.jpg|オブイェークト268 </gallery> [[スウェーデン陸軍]]では、1960年代に"[[主力戦車]]"として、砲塔を持たない[[Strv.103]]を生産したが、これは同国の国是である「武装中立」に則った防衛戦における待ち伏せ戦闘に特化したためである。Strv.103には旋回砲塔はないが、砲塔の無い分を駆動システムや機動性、操縦システムで補い、独自の汎用戦闘方法を確立しているため、突撃砲のような、いわゆる[[自走砲]]の範疇とはまったく別物であり、あくまでも“戦車”であることに注意が必要である。そしてやはり、無砲塔形式ゆえの問題点もあり、後継となる戦車は普通の砲塔形式のものが採用された。 [[中華人民共和国]]の現用装備である[[02式突撃砲]]は、装輪式で回転式砲塔を有しており、対戦車自走砲もしくは[[装輪戦車]]に分類される装備であるが、[[中国人民解放軍陸軍]]においては砲兵科に配備され、「突撃砲」と呼称されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * フランツ・クロヴスキー、ゴットフリート・トルナウ 『突撃砲兵』上下、高橋慶史訳、大日本絵画。 * ヴァルター・J・シュピールベルガー『突撃砲』、高橋慶史訳、大日本絵画(1997)。 * ヴァルター・J・シュピールベルガー『軽駆逐戦車』、高橋慶史訳、大日本絵画(1996)。 * Thomas L.Jentz(ed.), ''Panzer Truppen vol.2'', Schiffer (1996) * Rudiger von Manstein(ed.),''Manstein, Soldat im 20. Jahrhundert: Militarisch-politische Nachlese'',Bernard & Graefe Verlag(1981) == 関連項目 == *[[駆逐戦車]] {{装甲戦闘車両の分類}} {{Mil-vehicle-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とつけきほう}} [[Category:ドイツ国防軍の自走砲]] [[Category:エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]
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V号戦車パンター
V号戦車(ごごうせんしゃ、独:Panzerkampfwagen V、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン フュンフ、制式番号:Sd.Kfz.171)は、第二次世界大戦中のドイツの中戦車(45トン級)である。 後に「V号戦車パンター(独:Pz.Kpfw.V Panther)」という中間的表記の時期を経て、最終的に「V号戦車」の名称は廃止され、「パンター戦車(独:Pz.Kpfw. Panther)」が制式名称となる。 書籍における日本語表記は「五号中戦車」「豹号戦車」「豹戦車」に始まり、英語読みの「パンサー」やドイツ語での発音の1つ(舞台ドイツ語)である「パンテル」が多く見られたが、1970年代後半頃から、現代ドイツ語の音に近い「パンター」が見られるようになり、現代ではこの読みで記されることが多い。 1938年、ドイツ陸軍は戦車隊中核を担う主力中戦車として、III号戦車とIV号戦車を統合した新戦車開発計画を立ち上げた。当初の計画では重量20トン級、5cm級戦車砲装備の中戦車として計画名称「VK20.00」が与えられ、1939年10月、ダイムラー・ベンツ社が開発主体に選定される。後にクルップ社が加わり、更に1940年にはMAN社が参加、各社に設計案提出が求められ、それぞれVK20.01(D)、VK20.01(K)、VK20.01(M)の計画名称が与えられた。 各社設計案より最終選定された車両は「Pz.Kpfw.V(V号戦車)」の名称とすることも内定、設計作業が進められたが、1941年に独ソ戦が開始されると、T-34戦車を始めとしたソ連戦車に対しIII号/IV号戦車は苦戦する。この事態に衝撃を受けたハインツ・グデーリアン将軍は、後に「戦車委員会(Panzerkommission)」と呼ばれることになる調査団を東部戦線に派遣、T-34の評価を行った。詳細な調査の後、T-34の最大の長所は 以上3点が重要な特徴であると結論した。 この調査結果を受け、T-34には従来の設計思想の車両では対抗できないと考えられ、VK20.00計画は30トン級中戦車開発計画として拡大され、計画名称も「VK30.02」と改称、VK20.00の制式名称として予定されていた「V号戦車」の制式番号は、当車の開発が開発・生産中の戦車のうちで最優先することと、T-34に対抗する新型車両開発を秘匿するため引き続き使用され、開発・設計がVI号戦車(ティーガーI)の後に開始されたが、番号はそれよりも古い。 1941年11月末、ダイムラー・ベンツ社とMAN社に30-35t級新型中戦車、VK3002の1942年4月までの期限での設計が発注された。 ダイムラー・ベンツによるVK3002(DB)はT-34の影響を大きく受けたスタイルではあるが、足回りは大型転綸とリーフスプリング式サスペンションの組み合わせであり、このためターレットリングの小型化、車体小型化などが実現された。 MANの初期案、VK3002(MAN)、秘匿名称“トラディショナルなドイツ戦車”と共に両者の案は42年1月から3月までフリッツ・トート、後にアルベルト・シュペーアによるレビューを受け、両者ともDB案をヒトラーへ提案する事を支持していた。しかし最終案提出に際しMAN社はDB社の提案を参考にデザイン変更し最終的に採用となったのは、よりドイツ戦車的構造であるVK3002(MAN)の方であった。この決定の決め手の一つに、MAN社のデザインは既存のラインメタル―ボルジッヒの砲塔を利用できた、と言う事もあった。 この新型中戦車は1942年5月15日に「V号戦車パンターA型(Sd.Kfz.171)」と命名された。しかしこれは1943年1月に「パンターD型」に変更され、A型の名はより後の型につけられている。 「パンター(Panther:豹)」の名称は、先行して開発されていた重戦車が非公式ながらヒトラーにより「ティーガー(Tiger:虎)」の愛称を与えられていた(後に正式名称となる)ため、より快速で軽量な機動力の高い俊敏な車両として完成することを印象づけるために命名された。しかし、VK3002は当初35tクラスの予定から設計段階で重量が大幅増加した上、設計がほぼ完了した時点でヒトラー総統の要求で車体前面装甲を60mmから80mm、砲塔前面を80mmから100mmへと強化したため、当時の重戦車クラス約45tの重量の「中戦車」として完成した。そのため、当初予定の最高速度は60km/hから55km/hに低下し、重量増加はほかにも様々な問題を引き起こしている。 本車はそれまでのドイツ戦車と違い傾斜装甲で、70口径 7.5 cm KwK 42という強力な(対戦車兵器として56口径8.8 cm KwK 36よりも近距離であれば高い装甲貫徹力を持つ)戦車砲を搭載していた。また、ティーガー同様に幅の広い履帯、挟み込み式配置の大きな転輪で車重を分散し接地圧を下げる工夫が行われ、これは車台側面を守る補助装甲の役わりもする。 パンターの車体上部は前面、側面及び後面の全面に渡って傾斜がつけられており、避弾経始を追求したデザインとなっている。ただし、強力な前面装甲に対し側面装甲は半分の厚みで、特にD・A型は燃料タンクのある車体後部を容易く射貫され炎上することがあった(側背面装甲が薄いのは本戦車に限らない)。 主装甲板は初期型のみニッケルを一切使用しない装甲板を使用、Oh式という特殊な焼き入れで表面硬化を行い、さらに高周波表面硬化を施して強度を保っていたが、のちにこの処理を止めており、特にG型からは全車が表面硬化処理を廃止している。ただし装甲厚の薄い側面装甲には表面硬化処理が施されている(イギリスが鹵獲したパンターD・A型を調査した結果、主装甲には表面硬化処理が施されていなかった。またドイツ軍の火焔焼き入れ鋼板規格においてパンターの主装甲厚である80mm規格は1943年末には廃止されている)。 転輪の上に露出している車台側部は、射撃試験の結果ソ連軍の14.5mm対戦車ライフルに射貫される恐れがあったため、量産型ではこの部分を被う補助装甲、シュルツェンが装着された。 サスペンションは、トレーリングアームとトーションバースプリングの組合わせを採用しており、1アームあたり2本のトーションバーを用いた折り返し式(通常の形式に比べてトーションバーが2倍の長さを持ち、アームの可動量が大きい)として高い地形追随能力を持っていた。これにより当時の戦車としては強力なエンジンと合わせ、機動力も高かった。しかしトランスミッションは改良したとはいえ重量に対し適正ではなく、放棄されたパンターの故障原因に最終減速ギアの損傷によるものが多い事が記録されている。故障の少ない試作品もあったものの、作るための工作機械が足りなくやむを得ず改設計し、そのため故障が続出したともいわれる。この箇所は改設計がくり返されたが、最後まで完全にはならなかった。 異説としては、「生産効率向上のため、徹底して従来からある共通部品を使用するために専用部品の製造を避け、やむを得ず不適切な部品を無理やり組み込んだ」というものがある。このため従来戦車よりも重く負荷が大きいにもかかわらず、ヘリカルギアではなく旧来の平歯車を組み合わせたため、乱暴なギアチェンジで歯が欠けて故障多発の原因となった、ということである。 初期生産型パンターD型の第250号車まではマイバッハV12型HL210 P30エンジン(650PS/3000rpm)が搭載されたが、第251号車以降はマイバッハV12型HL230 P30エンジン(700PS/3000rpm)が搭載された。このHL230 P30エンジンは通常のV型エンジンと異なり、両シリンダーバンク位置が長手方向にオフセットされておらず、コンパクトだが故障を促進した。またシリンダーガスケットも問題があったが1943年9月までにシール材改良により解決された。 1943年11月以降生産のHL230 P30エンジンは信頼性向上のため大きく改修された。たびたび故障原因となったベアリングは1943年11月に改良型が導入された。またエンジンガバナーも1943年11月から導入され、エンジン最大回転数は2500rpmまでに押さえられた。 このため1943年11月以降生産のHL230 P30エンジンは、700PSから588PS(580hp)~600PS(592hp)へとエンジン出力が低下、パンターの最高速度は45km/h程度に低下した。 しかし、この各種改良やエンジン回転数・出力のデチューンによりHL230 P30の故障やエンジン寿命は以前よりも改善された。 当初クランクシャフトのベアリングは7つであったが1944年1月より8個に増やされた。 最初の量産型(D型)は、ツィタデレ(城塞)作戦に間に合わせるためにさまざまな問題が未解決のまま戦場に投入された。 重量増のため転輪や起動輪、変速機など駆動系に問題が多発。また機関部の加熱問題に対応し新たに開発、装備された自動消火装置の不具合により、燃料漏れによる火災事故も発生し、2両が戦わずして全焼全損するなど、稼働率は低かった。また最初にパンターを装備し実戦投入された第51・52戦車大隊は、それぞれ既存の戦車大隊を基に再編成されたものであったが、一握りのベテランを除く乗員は、東部戦線での実戦経験の無い新兵が多く、また訓練期間も不足していた。さらに同隊の作戦将校にも実戦経験者が少なく、指揮にも問題があり、クルスク戦では十分な活躍はできなかった。 後に問題点は改良され、装甲師団の中核戦車となる。それまでの中核のIII号戦車生産は打ち切り、突撃砲を除き全て本車生産ラインに切り替えられた。 1943年頃のパンターの価格は125,000ライヒスマルクで、対しIII号戦車は96,200ライヒスマルク、IV号戦車が103,500ライヒスマルク、ティーガーIが300,000ライヒスマルクと、高性能でありながら導入コストパフォーマンスが高かった。しかしパンターのみでは戦車隊の損失を埋め部隊配備を充足できる程の生産が間に合わないため、長砲身(48口径)7.5センチ砲に換装されたIV号戦車(戦車連隊の第二大隊装備)は生産を続行、最後までパンター(第一大隊装備)と併行生産された。 戦場に大挙出現したパンターへのソ連軍の反応は素早く、クルスクの戦いで損傷し、戦場に放棄された31両のパンターは徹底調査された。結果、砲撃で撃破されたものはこのうちの22両で、傾斜前面装甲を撃ち抜けた砲弾は一発も無く、一方機関部付近に被弾すると容易に炎上するなどの弱点も発見している。またこの中でT-34によって撃破されたのはたった1両であった。しかし1943年後半でも赤軍戦車部隊は、1941年と同様76.2mm砲装備のT-34が主力のままだった。この砲はパンター前面装甲には力不足で、撃破するには側面に廻りこまねばならなかったが、パンターの主砲はどの方向からでも遠距離からT-34を撃破できた。そこで85mm砲と三人乗り大型砲塔装備のT-34-85が開発された。T-34車台を使用したSU-85、SU-100など新型自走砲も投入された。1944年半ばまでには赤軍はパンターよりはるかに多くのT-34-85を前線投入していた。 1944年3月23日のドイツ軍によるドイツ戦車とソ連T-34-85およびIS-2(122mm砲装備)の比較では、パンターは正面戦闘ではT-34-85よりはるかに優れ(パンターG型は2000mでT-34-85の前面装甲を貫くが、T-34-85はようやく500mでパンターG型の砲塔前面装甲を貫通する)、側面と背面ではほぼ互角で、IS-2に対しては正面では互角だが、側面と背面では劣るとされた。1943年と44年にはパンターはIS-2を除くあらゆる連合軍戦車を2000m遠方から撃破でき、ベテラン乗員のパンターは1000m以内で90%以上の命中率を達成した。 パンターは1944年初めのアンツィオの戦闘でようやく初めてアメリカ軍、イギリス軍の前に姿を現したが、その時は少数だった。その時にはアメリカ軍は既にソ連軍からパンターの詳細な情報を入手しており、アメリカ陸軍情報部が発行していたアメリカ兵向けの戦訓広報誌『Intelligence Bulletin』において、詳細なスペックと簡単な分析を記述している。そこでは「装甲は厚いが高速で、ドイツ軍が高く評価してきたM4シャーマン戦車と同じ速度である」「ティーガーより軽量で速度と操縦性に優れる」としながらも、ソ連軍からの情報として「覗き穴、ペリスコープ、砲塔と砲盾の基部は小銃や機関銃の射撃でも有効である」「54mm以上の口径の砲であれば、約800mの距離でも砲塔には有効である」「大口径砲や自走砲は、通常の距離であればパンターを効果的な射撃で戦力外にできる」「側面と後面装甲は口径45mm以上の徹甲弾で貫通できる」「焼夷弾はガソリンタンクだけでなく、運転席すぐ後ろの弾薬庫に対しても有効」と記述されている。しかし、まとめとして「パンターは手ごわい兵器であり、ドイツ軍の紛れもない強みとなる」と警戒を呼び掛けている。 パンターのライバルは、連合軍で配備が進んでいたM4シャーマン戦車となった。アメリカ軍はパンターの詳細な情報を持っていたものの、イタリア戦線などで交戦頻度が稀であったことから、ティーガー同様、部隊に少数配備される重戦車と誤った認識をしており、既に決定していた76.2mm砲型の製造以外には対策をとらなかった。これは、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲搭載のシャーマン ファイアフライの開発を行っていたイギリス軍とは対照的であった。そのためノルマンディー上陸作戦からのフランスでの戦いで、想定以上の数のパンターやティーガーと交戦したM4の75mm砲の非力さが明らかになった。また、東部戦線で経験を積んだドイツの戦車エースたちの活躍は目覚ましく、本車に搭乗したエースとしては、第2SS装甲師団のエルンスト・バルクマンSS曹長が有名である。特に有名な活躍は、1944年7月27日にフランスのサン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる。のちにこの曲がり角は『バルクマンコーナー』と呼ばれ有名になる。その翌日も多数のM4を撃破し、2日間で15両にもなったといい、7月30日には乗車を撃破されるも脱出成功している。同年12月、古いD型で「バルジの戦い」に参加したバルクマンは夜間、敵戦車の列に紛れこみハッチから漏れる車内灯の色で識別し攻撃、M4戦車数両を撃破している。 このようなパンターの活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが、そのような事実はなく、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作があるスティーヴン・ザロガ(英語版)の調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍のプロパガンダではないかとの指摘もある。 個別の攻撃性能で優位性を比較した場合、パンターの戦車砲は500mの距離で垂直鋼板に168mmの貫通力があり、M4シャーマン正面装甲を貫通可能であった。一方M4シャーマンの M1 76mm戦車砲は口径こそパンターの戦車砲と変わらなかったが、同じ距離で116mmの貫通力しかなく、パンター正面装甲貫通は不可能でパンターに優位性があった。しかし正面でも砲塔の防盾は貫通でき、また側面装甲であれば1,800mの距離からでも十分貫通できた。またアメリカ軍は、パンターやティーガー対策として、新型高速徹甲弾の生産を強化していた。M4シャーマンの71発の砲弾積載量のうち、高速徹甲弾は1~2発しか割り当てられず充分な砲弾数ではなかったが、500mで208mmの垂直鋼板貫通力を示し、パンターの戦車砲の貫通力を上回る。ドイツ軍は自軍戦車の特徴である、強力な戦車砲と厚い装甲を活かした長距離での戦闘を望み、戦車兵に1,800mから2,000mでの戦闘を指示したが、想定通りの距離での戦闘とはならず、実際にはアメリカ軍がドイツ軍の戦車を撃破した平均距離は893mに対し、ドイツ軍がアメリカ軍の戦車を撃破した距離は946mと、大差はなかった。これはパンターが関係した戦闘でも同じであり、パンターが直面した平均交戦距離は850mと、1,400mから1,750mのドイツ軍が望んだ長距離での戦闘はわずか5%、それより長い距離の戦闘は殆どなかった。 実際に戦われた戦闘距離であればパンターのM4シャーマンに対する優位性は殆どなく、印象とは異なり、パンターが一方的に撃破される例も存在した。ノルマンディの戦いにおけるサン マンヴュー ノレの攻防戦では、進撃してきた第12SS装甲師団のパンター12輛を、第2カナダ機甲旅団の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している。 アラクールの戦い(英語版)においては、アメリカ軍第4機甲師団(英語版)がドイツ軍第5装甲軍に大損害を与えて勝利したが、なかでもクレイトン・エイブラムス中佐率いる第37戦車大隊は多数のパンターを撃破しており、1944年9月19日の戦闘では、巧みに地形を利用したM4シャーマンによって、待ち伏せ攻撃や追撃で11輌ものパンターを撃破、また戦闘指揮所を攻撃してきた14輌のパンターをM18ヘルキャットの小隊が迎え撃ち、一方的に8輌を撃破し撃退している。アラクールの戦いで第37戦車大隊は合計55輌のティーガーとパンターを撃破している。 バルジの戦いにおいて、1944年12月24日に、フレヌー(フランス語版)に接近してきた第2装甲師団第2戦車連隊第2戦車中隊のアルフレッドハーゲシェイマー親衛隊大尉とフリッツ・ランガンケ親衛隊少尉が率いる11輌のパンターG型を、第3機甲師団(英語版)第32機甲旅団D中隊のM4シャーマン2輌が迎えうって、遠距離砲撃で6輌撃破し、2輌を損傷させて一旦撃退している。その後、ハーゲシェイマー隊は残った3輌のパンターで再度フレヌーを目指し、途中で接触したM5軽戦車1輌を撃破したものの、またM4シャーマンからの砲撃で1輌を撃破され、ハーゲシェイマー車も命中弾を受けて損傷している。一旦退却したドイツの戦車エースの1人でもあったランガンケは、命中弾を受けて自身のパンターが損傷していたため、フレヌー付近の森の中のくぼ地に身を潜めていたが、その後、監視任務からフレヌーに無警戒で帰還してきた第9機甲師団(英語版)M4シャーマン4輌を待ち伏せ攻撃により撃破して一矢報いている。なお、攻撃に失敗したドイツ軍は、フレヌー攻略を断念、この夜に3個パンター中隊でマンエーを攻撃したが、このときパンターに乗ったバルクマンが負傷している。翌12月25日のノヴィルを巡る戦いにおいても、M4シャーマンがわずか45分間の間に、一方的にパンターG型を6輌撃破しドイツ軍を撃退している。 車両単体のスペックならM4シャーマンを凌駕したパンターだが、高価で構造が複雑過ぎのうえ、ドイツ国内の工業能力低下による品質低下で、戦場でカタログスペック通りの働きができなかった。バルジの戦いで多数投入されたパンターG型の中には、砲塔の正面装甲にM4シャーマンの2発の砲弾が命中して、砲弾は貫通はしなかったが、装甲が裂けて撃破された車両もあった。また低い稼働率も致命的で、バルジの戦いでは415輌のパンターが投入されたが、2週間で180輌が撃破され、残り235輌もまともに稼働していたのは45%の約100輌だった。一方でM4シャーマンは同時期にあらゆる原因で320輌喪失したが、1,085輌が前線にあり、うち980輌が稼働し、パンターとの差は歴然であった。結局は、正面からの撃ち合いではパンターに分があったが、生産性、整備性、耐久力などすべてを比較すると、M4シャーマンの方が優れていたという評価もある。1944年8月から1944年12月のバルジの戦いまでの間の、アメリカ軍の第3機甲師団と第4機甲師団の統計によれば、全98回の戦車戦のなかでパンターとM4シャーマンが直接戦った戦闘は29回であったが、その結果は下記の通りであった。 29回を平均して、M4シャーマンの数的優勢は1.2倍に過ぎなかったにもかかわらず、M4シャーマンの有用性はパンターの3.6倍で、特にM4シャーマンが防御に回ったときにはパンターの8.4倍の有用性があったとの評価もあるが、データ数が不十分で両戦車の性能差が戦闘にどのような影響を及ぼしたのかは証明されていない。 ソ連軍ではパンターを優秀な戦車と認識、前線部隊ではパンターがしばしば優れた戦功に対する褒章として与えられ、鹵獲車両による臨時部隊も編成された。戦車兵たちにはパンターは大変好評であり「鹵獲されたティーガーとパンターは修理してはならず、故障したら破壊して放棄せよ」との規則があったにもかかわらず、できるだけ長く使用するため努力が払われた。ドイツ乗員のための運用マニュアルもロシア語に翻訳されて、鹵獲したパンターの乗員に支給された。 これはパンターに限らないが、鹵獲敵戦車を使用すると友軍からの誤認射撃を受けるケースが頻発したため、それを恐れ一部ソ連軍戦車兵の中には鹵獲パンターに乗ることを避ける者もいた。 ソ連軍に鹵獲されたパンターは、ソ連軍の他に親ソ派ルーマニア人の義勇部隊、第1ルーマニア義勇師団“トゥドル・ウラジミレスク”に他の鹵獲ドイツ軍装甲車両と共に与えられ、同師団の機甲戦力として戦闘投入された。戦後1947年にルーマニア人民共和国が成立し、同部隊が義勇師団からルーマニア陸軍の正規部隊となって機甲師団に改変された後も装備され、1950年代に入りソ連より戦車供与が始まるまで使用された。 ブルガリアは戦後社会主義体制となり1946年にブルガリア人民共和国発足の後、ソ連から鹵獲品のパンターを15両程度供与され、同じく鹵獲品のIV号駆逐戦車や枢軸国時代にナチスドイツより提供されたIV号戦車などと共に、ソ連製戦車を供与されるまでの間の装甲戦力としていた。これらの車両は1948年頃まで現役として使用され、ブルガリア軍にソ連より戦車が供与された後も、トルコとの国境地帯に固定砲台(トーチカ)として配置され、1980年代まで用いられた。 ソ連軍に鹵獲されたパンターは、ソ連軍の他、親ソ派ルーマニア人の義勇部隊、第1ルーマニア義勇師団“トゥドル・ウラジミレスク”に他の鹵獲ドイツ軍装甲車両と共に与えられ、同師団の機甲戦力として戦闘に投入された。戦後、1947年にルーマニア人民共和国が成立し、同部隊が義勇師団からルーマニア陸軍の正規部隊となって機甲師団に改変された後も装備され、1950年代に入りソ連より戦車の供与が始まるまで使用された。 また、フランスは第二次世界大戦後、ドイツ軍の残存車両を再生したものに加えて占領時代の工場で生産したパンターで戦車部隊を編成している。これらフランス製パンターは1951年頃まで現役で運用され、退役後も1961年頃までパリ近郊で予備保管されていた。後に少数が武装を撤去して民間に払い下げられており、重量物トラクターやクレーン車に改造されて使用されている。 2015年7月初旬、ドイツ北部の民家から8.8cm FlaK 18/36/37と共に1両のパンターがドイツ連邦軍に押収された。 大量生産されたため、動態車両6両を含む多くの車両が現存している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "V号戦車(ごごうせんしゃ、独:Panzerkampfwagen V、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン フュンフ、制式番号:Sd.Kfz.171)は、第二次世界大戦中のドイツの中戦車(45トン級)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "後に「V号戦車パンター(独:Pz.Kpfw.V Panther)」という中間的表記の時期を経て、最終的に「V号戦車」の名称は廃止され、「パンター戦車(独:Pz.Kpfw. Panther)」が制式名称となる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "書籍における日本語表記は「五号中戦車」「豹号戦車」「豹戦車」に始まり、英語読みの「パンサー」やドイツ語での発音の1つ(舞台ドイツ語)である「パンテル」が多く見られたが、1970年代後半頃から、現代ドイツ語の音に近い「パンター」が見られるようになり、現代ではこの読みで記されることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1938年、ドイツ陸軍は戦車隊中核を担う主力中戦車として、III号戦車とIV号戦車を統合した新戦車開発計画を立ち上げた。当初の計画では重量20トン級、5cm級戦車砲装備の中戦車として計画名称「VK20.00」が与えられ、1939年10月、ダイムラー・ベンツ社が開発主体に選定される。後にクルップ社が加わり、更に1940年にはMAN社が参加、各社に設計案提出が求められ、それぞれVK20.01(D)、VK20.01(K)、VK20.01(M)の計画名称が与えられた。", "title": "開発までの経緯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "各社設計案より最終選定された車両は「Pz.Kpfw.V(V号戦車)」の名称とすることも内定、設計作業が進められたが、1941年に独ソ戦が開始されると、T-34戦車を始めとしたソ連戦車に対しIII号/IV号戦車は苦戦する。この事態に衝撃を受けたハインツ・グデーリアン将軍は、後に「戦車委員会(Panzerkommission)」と呼ばれることになる調査団を東部戦線に派遣、T-34の評価を行った。詳細な調査の後、T-34の最大の長所は", "title": "開発までの経緯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "以上3点が重要な特徴であると結論した。", "title": "開発までの経緯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この調査結果を受け、T-34には従来の設計思想の車両では対抗できないと考えられ、VK20.00計画は30トン級中戦車開発計画として拡大され、計画名称も「VK30.02」と改称、VK20.00の制式名称として予定されていた「V号戦車」の制式番号は、当車の開発が開発・生産中の戦車のうちで最優先することと、T-34に対抗する新型車両開発を秘匿するため引き続き使用され、開発・設計がVI号戦車(ティーガーI)の後に開始されたが、番号はそれよりも古い。", "title": "開発までの経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1941年11月末、ダイムラー・ベンツ社とMAN社に30-35t級新型中戦車、VK3002の1942年4月までの期限での設計が発注された。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ダイムラー・ベンツによるVK3002(DB)はT-34の影響を大きく受けたスタイルではあるが、足回りは大型転綸とリーフスプリング式サスペンションの組み合わせであり、このためターレットリングの小型化、車体小型化などが実現された。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "MANの初期案、VK3002(MAN)、秘匿名称“トラディショナルなドイツ戦車”と共に両者の案は42年1月から3月までフリッツ・トート、後にアルベルト・シュペーアによるレビューを受け、両者ともDB案をヒトラーへ提案する事を支持していた。しかし最終案提出に際しMAN社はDB社の提案を参考にデザイン変更し最終的に採用となったのは、よりドイツ戦車的構造であるVK3002(MAN)の方であった。この決定の決め手の一つに、MAN社のデザインは既存のラインメタル―ボルジッヒの砲塔を利用できた、と言う事もあった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この新型中戦車は1942年5月15日に「V号戦車パンターA型(Sd.Kfz.171)」と命名された。しかしこれは1943年1月に「パンターD型」に変更され、A型の名はより後の型につけられている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「パンター(Panther:豹)」の名称は、先行して開発されていた重戦車が非公式ながらヒトラーにより「ティーガー(Tiger:虎)」の愛称を与えられていた(後に正式名称となる)ため、より快速で軽量な機動力の高い俊敏な車両として完成することを印象づけるために命名された。しかし、VK3002は当初35tクラスの予定から設計段階で重量が大幅増加した上、設計がほぼ完了した時点でヒトラー総統の要求で車体前面装甲を60mmから80mm、砲塔前面を80mmから100mmへと強化したため、当時の重戦車クラス約45tの重量の「中戦車」として完成した。そのため、当初予定の最高速度は60km/hから55km/hに低下し、重量増加はほかにも様々な問題を引き起こしている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "本車はそれまでのドイツ戦車と違い傾斜装甲で、70口径 7.5 cm KwK 42という強力な(対戦車兵器として56口径8.8 cm KwK 36よりも近距離であれば高い装甲貫徹力を持つ)戦車砲を搭載していた。また、ティーガー同様に幅の広い履帯、挟み込み式配置の大きな転輪で車重を分散し接地圧を下げる工夫が行われ、これは車台側面を守る補助装甲の役わりもする。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "パンターの車体上部は前面、側面及び後面の全面に渡って傾斜がつけられており、避弾経始を追求したデザインとなっている。ただし、強力な前面装甲に対し側面装甲は半分の厚みで、特にD・A型は燃料タンクのある車体後部を容易く射貫され炎上することがあった(側背面装甲が薄いのは本戦車に限らない)。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "主装甲板は初期型のみニッケルを一切使用しない装甲板を使用、Oh式という特殊な焼き入れで表面硬化を行い、さらに高周波表面硬化を施して強度を保っていたが、のちにこの処理を止めており、特にG型からは全車が表面硬化処理を廃止している。ただし装甲厚の薄い側面装甲には表面硬化処理が施されている(イギリスが鹵獲したパンターD・A型を調査した結果、主装甲には表面硬化処理が施されていなかった。またドイツ軍の火焔焼き入れ鋼板規格においてパンターの主装甲厚である80mm規格は1943年末には廃止されている)。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "転輪の上に露出している車台側部は、射撃試験の結果ソ連軍の14.5mm対戦車ライフルに射貫される恐れがあったため、量産型ではこの部分を被う補助装甲、シュルツェンが装着された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "サスペンションは、トレーリングアームとトーションバースプリングの組合わせを採用しており、1アームあたり2本のトーションバーを用いた折り返し式(通常の形式に比べてトーションバーが2倍の長さを持ち、アームの可動量が大きい)として高い地形追随能力を持っていた。これにより当時の戦車としては強力なエンジンと合わせ、機動力も高かった。しかしトランスミッションは改良したとはいえ重量に対し適正ではなく、放棄されたパンターの故障原因に最終減速ギアの損傷によるものが多い事が記録されている。故障の少ない試作品もあったものの、作るための工作機械が足りなくやむを得ず改設計し、そのため故障が続出したともいわれる。この箇所は改設計がくり返されたが、最後まで完全にはならなかった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "異説としては、「生産効率向上のため、徹底して従来からある共通部品を使用するために専用部品の製造を避け、やむを得ず不適切な部品を無理やり組み込んだ」というものがある。このため従来戦車よりも重く負荷が大きいにもかかわらず、ヘリカルギアではなく旧来の平歯車を組み合わせたため、乱暴なギアチェンジで歯が欠けて故障多発の原因となった、ということである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "初期生産型パンターD型の第250号車まではマイバッハV12型HL210 P30エンジン(650PS/3000rpm)が搭載されたが、第251号車以降はマイバッハV12型HL230 P30エンジン(700PS/3000rpm)が搭載された。このHL230 P30エンジンは通常のV型エンジンと異なり、両シリンダーバンク位置が長手方向にオフセットされておらず、コンパクトだが故障を促進した。またシリンダーガスケットも問題があったが1943年9月までにシール材改良により解決された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1943年11月以降生産のHL230 P30エンジンは信頼性向上のため大きく改修された。たびたび故障原因となったベアリングは1943年11月に改良型が導入された。またエンジンガバナーも1943年11月から導入され、エンジン最大回転数は2500rpmまでに押さえられた。 このため1943年11月以降生産のHL230 P30エンジンは、700PSから588PS(580hp)~600PS(592hp)へとエンジン出力が低下、パンターの最高速度は45km/h程度に低下した。 しかし、この各種改良やエンジン回転数・出力のデチューンによりHL230 P30の故障やエンジン寿命は以前よりも改善された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "当初クランクシャフトのベアリングは7つであったが1944年1月より8個に増やされた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "最初の量産型(D型)は、ツィタデレ(城塞)作戦に間に合わせるためにさまざまな問題が未解決のまま戦場に投入された。", "title": "実戦投入後" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "重量増のため転輪や起動輪、変速機など駆動系に問題が多発。また機関部の加熱問題に対応し新たに開発、装備された自動消火装置の不具合により、燃料漏れによる火災事故も発生し、2両が戦わずして全焼全損するなど、稼働率は低かった。また最初にパンターを装備し実戦投入された第51・52戦車大隊は、それぞれ既存の戦車大隊を基に再編成されたものであったが、一握りのベテランを除く乗員は、東部戦線での実戦経験の無い新兵が多く、また訓練期間も不足していた。さらに同隊の作戦将校にも実戦経験者が少なく、指揮にも問題があり、クルスク戦では十分な活躍はできなかった。", "title": "実戦投入後" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "後に問題点は改良され、装甲師団の中核戦車となる。それまでの中核のIII号戦車生産は打ち切り、突撃砲を除き全て本車生産ラインに切り替えられた。", "title": "実戦投入後" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1943年頃のパンターの価格は125,000ライヒスマルクで、対しIII号戦車は96,200ライヒスマルク、IV号戦車が103,500ライヒスマルク、ティーガーIが300,000ライヒスマルクと、高性能でありながら導入コストパフォーマンスが高かった。しかしパンターのみでは戦車隊の損失を埋め部隊配備を充足できる程の生産が間に合わないため、長砲身(48口径)7.5センチ砲に換装されたIV号戦車(戦車連隊の第二大隊装備)は生産を続行、最後までパンター(第一大隊装備)と併行生産された。", "title": "実戦投入後" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "戦場に大挙出現したパンターへのソ連軍の反応は素早く、クルスクの戦いで損傷し、戦場に放棄された31両のパンターは徹底調査された。結果、砲撃で撃破されたものはこのうちの22両で、傾斜前面装甲を撃ち抜けた砲弾は一発も無く、一方機関部付近に被弾すると容易に炎上するなどの弱点も発見している。またこの中でT-34によって撃破されたのはたった1両であった。しかし1943年後半でも赤軍戦車部隊は、1941年と同様76.2mm砲装備のT-34が主力のままだった。この砲はパンター前面装甲には力不足で、撃破するには側面に廻りこまねばならなかったが、パンターの主砲はどの方向からでも遠距離からT-34を撃破できた。そこで85mm砲と三人乗り大型砲塔装備のT-34-85が開発された。T-34車台を使用したSU-85、SU-100など新型自走砲も投入された。1944年半ばまでには赤軍はパンターよりはるかに多くのT-34-85を前線投入していた。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1944年3月23日のドイツ軍によるドイツ戦車とソ連T-34-85およびIS-2(122mm砲装備)の比較では、パンターは正面戦闘ではT-34-85よりはるかに優れ(パンターG型は2000mでT-34-85の前面装甲を貫くが、T-34-85はようやく500mでパンターG型の砲塔前面装甲を貫通する)、側面と背面ではほぼ互角で、IS-2に対しては正面では互角だが、側面と背面では劣るとされた。1943年と44年にはパンターはIS-2を除くあらゆる連合軍戦車を2000m遠方から撃破でき、ベテラン乗員のパンターは1000m以内で90%以上の命中率を達成した。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "パンターは1944年初めのアンツィオの戦闘でようやく初めてアメリカ軍、イギリス軍の前に姿を現したが、その時は少数だった。その時にはアメリカ軍は既にソ連軍からパンターの詳細な情報を入手しており、アメリカ陸軍情報部が発行していたアメリカ兵向けの戦訓広報誌『Intelligence Bulletin』において、詳細なスペックと簡単な分析を記述している。そこでは「装甲は厚いが高速で、ドイツ軍が高く評価してきたM4シャーマン戦車と同じ速度である」「ティーガーより軽量で速度と操縦性に優れる」としながらも、ソ連軍からの情報として「覗き穴、ペリスコープ、砲塔と砲盾の基部は小銃や機関銃の射撃でも有効である」「54mm以上の口径の砲であれば、約800mの距離でも砲塔には有効である」「大口径砲や自走砲は、通常の距離であればパンターを効果的な射撃で戦力外にできる」「側面と後面装甲は口径45mm以上の徹甲弾で貫通できる」「焼夷弾はガソリンタンクだけでなく、運転席すぐ後ろの弾薬庫に対しても有効」と記述されている。しかし、まとめとして「パンターは手ごわい兵器であり、ドイツ軍の紛れもない強みとなる」と警戒を呼び掛けている。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "パンターのライバルは、連合軍で配備が進んでいたM4シャーマン戦車となった。アメリカ軍はパンターの詳細な情報を持っていたものの、イタリア戦線などで交戦頻度が稀であったことから、ティーガー同様、部隊に少数配備される重戦車と誤った認識をしており、既に決定していた76.2mm砲型の製造以外には対策をとらなかった。これは、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲搭載のシャーマン ファイアフライの開発を行っていたイギリス軍とは対照的であった。そのためノルマンディー上陸作戦からのフランスでの戦いで、想定以上の数のパンターやティーガーと交戦したM4の75mm砲の非力さが明らかになった。また、東部戦線で経験を積んだドイツの戦車エースたちの活躍は目覚ましく、本車に搭乗したエースとしては、第2SS装甲師団のエルンスト・バルクマンSS曹長が有名である。特に有名な活躍は、1944年7月27日にフランスのサン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる。のちにこの曲がり角は『バルクマンコーナー』と呼ばれ有名になる。その翌日も多数のM4を撃破し、2日間で15両にもなったといい、7月30日には乗車を撃破されるも脱出成功している。同年12月、古いD型で「バルジの戦い」に参加したバルクマンは夜間、敵戦車の列に紛れこみハッチから漏れる車内灯の色で識別し攻撃、M4戦車数両を撃破している。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "このようなパンターの活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが、そのような事実はなく、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作があるスティーヴン・ザロガ(英語版)の調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍のプロパガンダではないかとの指摘もある。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "個別の攻撃性能で優位性を比較した場合、パンターの戦車砲は500mの距離で垂直鋼板に168mmの貫通力があり、M4シャーマン正面装甲を貫通可能であった。一方M4シャーマンの M1 76mm戦車砲は口径こそパンターの戦車砲と変わらなかったが、同じ距離で116mmの貫通力しかなく、パンター正面装甲貫通は不可能でパンターに優位性があった。しかし正面でも砲塔の防盾は貫通でき、また側面装甲であれば1,800mの距離からでも十分貫通できた。またアメリカ軍は、パンターやティーガー対策として、新型高速徹甲弾の生産を強化していた。M4シャーマンの71発の砲弾積載量のうち、高速徹甲弾は1~2発しか割り当てられず充分な砲弾数ではなかったが、500mで208mmの垂直鋼板貫通力を示し、パンターの戦車砲の貫通力を上回る。ドイツ軍は自軍戦車の特徴である、強力な戦車砲と厚い装甲を活かした長距離での戦闘を望み、戦車兵に1,800mから2,000mでの戦闘を指示したが、想定通りの距離での戦闘とはならず、実際にはアメリカ軍がドイツ軍の戦車を撃破した平均距離は893mに対し、ドイツ軍がアメリカ軍の戦車を撃破した距離は946mと、大差はなかった。これはパンターが関係した戦闘でも同じであり、パンターが直面した平均交戦距離は850mと、1,400mから1,750mのドイツ軍が望んだ長距離での戦闘はわずか5%、それより長い距離の戦闘は殆どなかった。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "実際に戦われた戦闘距離であればパンターのM4シャーマンに対する優位性は殆どなく、印象とは異なり、パンターが一方的に撃破される例も存在した。ノルマンディの戦いにおけるサン マンヴュー ノレの攻防戦では、進撃してきた第12SS装甲師団のパンター12輛を、第2カナダ機甲旅団の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アラクールの戦い(英語版)においては、アメリカ軍第4機甲師団(英語版)がドイツ軍第5装甲軍に大損害を与えて勝利したが、なかでもクレイトン・エイブラムス中佐率いる第37戦車大隊は多数のパンターを撃破しており、1944年9月19日の戦闘では、巧みに地形を利用したM4シャーマンによって、待ち伏せ攻撃や追撃で11輌ものパンターを撃破、また戦闘指揮所を攻撃してきた14輌のパンターをM18ヘルキャットの小隊が迎え撃ち、一方的に8輌を撃破し撃退している。アラクールの戦いで第37戦車大隊は合計55輌のティーガーとパンターを撃破している。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "バルジの戦いにおいて、1944年12月24日に、フレヌー(フランス語版)に接近してきた第2装甲師団第2戦車連隊第2戦車中隊のアルフレッドハーゲシェイマー親衛隊大尉とフリッツ・ランガンケ親衛隊少尉が率いる11輌のパンターG型を、第3機甲師団(英語版)第32機甲旅団D中隊のM4シャーマン2輌が迎えうって、遠距離砲撃で6輌撃破し、2輌を損傷させて一旦撃退している。その後、ハーゲシェイマー隊は残った3輌のパンターで再度フレヌーを目指し、途中で接触したM5軽戦車1輌を撃破したものの、またM4シャーマンからの砲撃で1輌を撃破され、ハーゲシェイマー車も命中弾を受けて損傷している。一旦退却したドイツの戦車エースの1人でもあったランガンケは、命中弾を受けて自身のパンターが損傷していたため、フレヌー付近の森の中のくぼ地に身を潜めていたが、その後、監視任務からフレヌーに無警戒で帰還してきた第9機甲師団(英語版)M4シャーマン4輌を待ち伏せ攻撃により撃破して一矢報いている。なお、攻撃に失敗したドイツ軍は、フレヌー攻略を断念、この夜に3個パンター中隊でマンエーを攻撃したが、このときパンターに乗ったバルクマンが負傷している。翌12月25日のノヴィルを巡る戦いにおいても、M4シャーマンがわずか45分間の間に、一方的にパンターG型を6輌撃破しドイツ軍を撃退している。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "車両単体のスペックならM4シャーマンを凌駕したパンターだが、高価で構造が複雑過ぎのうえ、ドイツ国内の工業能力低下による品質低下で、戦場でカタログスペック通りの働きができなかった。バルジの戦いで多数投入されたパンターG型の中には、砲塔の正面装甲にM4シャーマンの2発の砲弾が命中して、砲弾は貫通はしなかったが、装甲が裂けて撃破された車両もあった。また低い稼働率も致命的で、バルジの戦いでは415輌のパンターが投入されたが、2週間で180輌が撃破され、残り235輌もまともに稼働していたのは45%の約100輌だった。一方でM4シャーマンは同時期にあらゆる原因で320輌喪失したが、1,085輌が前線にあり、うち980輌が稼働し、パンターとの差は歴然であった。結局は、正面からの撃ち合いではパンターに分があったが、生産性、整備性、耐久力などすべてを比較すると、M4シャーマンの方が優れていたという評価もある。1944年8月から1944年12月のバルジの戦いまでの間の、アメリカ軍の第3機甲師団と第4機甲師団の統計によれば、全98回の戦車戦のなかでパンターとM4シャーマンが直接戦った戦闘は29回であったが、その結果は下記の通りであった。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "29回を平均して、M4シャーマンの数的優勢は1.2倍に過ぎなかったにもかかわらず、M4シャーマンの有用性はパンターの3.6倍で、特にM4シャーマンが防御に回ったときにはパンターの8.4倍の有用性があったとの評価もあるが、データ数が不十分で両戦車の性能差が戦闘にどのような影響を及ぼしたのかは証明されていない。", "title": "連合軍の反応" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ソ連軍ではパンターを優秀な戦車と認識、前線部隊ではパンターがしばしば優れた戦功に対する褒章として与えられ、鹵獲車両による臨時部隊も編成された。戦車兵たちにはパンターは大変好評であり「鹵獲されたティーガーとパンターは修理してはならず、故障したら破壊して放棄せよ」との規則があったにもかかわらず、できるだけ長く使用するため努力が払われた。ドイツ乗員のための運用マニュアルもロシア語に翻訳されて、鹵獲したパンターの乗員に支給された。", "title": "他国軍での使用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "これはパンターに限らないが、鹵獲敵戦車を使用すると友軍からの誤認射撃を受けるケースが頻発したため、それを恐れ一部ソ連軍戦車兵の中には鹵獲パンターに乗ることを避ける者もいた。", "title": "他国軍での使用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ソ連軍に鹵獲されたパンターは、ソ連軍の他に親ソ派ルーマニア人の義勇部隊、第1ルーマニア義勇師団“トゥドル・ウラジミレスク”に他の鹵獲ドイツ軍装甲車両と共に与えられ、同師団の機甲戦力として戦闘投入された。戦後1947年にルーマニア人民共和国が成立し、同部隊が義勇師団からルーマニア陸軍の正規部隊となって機甲師団に改変された後も装備され、1950年代に入りソ連より戦車供与が始まるまで使用された。", "title": "他国軍での使用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ブルガリアは戦後社会主義体制となり1946年にブルガリア人民共和国発足の後、ソ連から鹵獲品のパンターを15両程度供与され、同じく鹵獲品のIV号駆逐戦車や枢軸国時代にナチスドイツより提供されたIV号戦車などと共に、ソ連製戦車を供与されるまでの間の装甲戦力としていた。これらの車両は1948年頃まで現役として使用され、ブルガリア軍にソ連より戦車が供与された後も、トルコとの国境地帯に固定砲台(トーチカ)として配置され、1980年代まで用いられた。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ソ連軍に鹵獲されたパンターは、ソ連軍の他、親ソ派ルーマニア人の義勇部隊、第1ルーマニア義勇師団“トゥドル・ウラジミレスク”に他の鹵獲ドイツ軍装甲車両と共に与えられ、同師団の機甲戦力として戦闘に投入された。戦後、1947年にルーマニア人民共和国が成立し、同部隊が義勇師団からルーマニア陸軍の正規部隊となって機甲師団に改変された後も装備され、1950年代に入りソ連より戦車の供与が始まるまで使用された。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、フランスは第二次世界大戦後、ドイツ軍の残存車両を再生したものに加えて占領時代の工場で生産したパンターで戦車部隊を編成している。これらフランス製パンターは1951年頃まで現役で運用され、退役後も1961年頃までパリ近郊で予備保管されていた。後に少数が武装を撤去して民間に払い下げられており、重量物トラクターやクレーン車に改造されて使用されている。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2015年7月初旬、ドイツ北部の民家から8.8cm FlaK 18/36/37と共に1両のパンターがドイツ連邦軍に押収された。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "大量生産されたため、動態車両6両を含む多くの車両が現存している。", "title": "現存車両" } ]
V号戦車は、第二次世界大戦中のドイツの中戦車(45トン級)である。 後に「V号戦車パンター」という中間的表記の時期を経て、最終的に「V号戦車」の名称は廃止され、「パンター戦車」が制式名称となる。 書籍における日本語表記は「五号中戦車」「豹号戦車」「豹戦車」に始まり、英語読みの「パンサー」やドイツ語での発音の1つ(舞台ドイツ語)である「パンテル」が多く見られたが、1970年代後半頃から、現代ドイツ語の音に近い「パンター」が見られるようになり、現代ではこの読みで記されることが多い。
{{出典の明記|date=2010年9月}} {{参照方法|date=2016年9月}} {{戦車 |名称=V号戦車 / パンター戦車 |画像=[[ファイル:Aberdeen proving grounds 038.JPG|300px]] |説明=パンターG型後期型 |全長=8.66 m |車体長=6.87 m |全幅=3.27 m |全高=2.85 m |重量=44.8 t |懸架方式=ダブル[[トーションバー]]方式 |速度= |整地時速度=45 - 55 km/h |不整地時速度=27 - 33 km/h |行動距離=170 - 250 km |主砲=[[7.5 cm KwK 42|70口径75mm KwK 42 L/70]](79発) |副武装=[[ラインメタル/マウザー・ヴェルケMG34機関銃|7.92mm機関銃MG34]]×2(4,200発) |装甲= *砲塔前面110mm 傾斜11° *側・後面45mm 傾斜25° *車体前面80mm 傾斜55° *側面40mm 傾斜40° *後面40mm 傾斜30° |エンジン名=Maybach HL230P30<br />[[水冷]][[4ストローク機関|4ストローク]][[V型12気筒]][[ガソリンエンジン|ガソリン]] |出力=700 hp (520 kW) |乗員=5 名 |備考= }} '''V号戦車'''(ごごうせんしゃ、独:Panzerkampfwagen V、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン フュンフ、[[特殊車輌番号|制式番号]]:Sd.Kfz.171)は、[[第二次世界大戦]]中の[[ドイツ]]の[[中戦車]](45トン級)である。 後に「'''V号戦車パンター'''(独:Pz.Kpfw.V Panther)」という中間的表記の時期を経て、最終的に「V号戦車」の名称は廃止され、「'''パンター戦車'''(独:Pz.Kpfw. Panther)」が制式名称となる。 書籍における日本語表記は「五号中戦車」「豹号戦車」「豹戦車」に始まり、英語読みの「パンサー」やドイツ語での発音の1つ(舞台ドイツ語)である「パンテル」が多く見られたが、1970年代後半頃から、現代ドイツ語の音に近い「パンター」が見られるようになり、現代ではこの読みで記されることが多い。 == 開発までの経緯 == [[1938年]]、ドイツ陸軍は戦車隊中核を担う主力中戦車として、[[III号戦車]]と[[IV号戦車]]を統合した新戦車開発計画を立ち上げた。当初の計画では重量20トン級、5cm級戦車砲装備の中戦車として計画名称「VK20.00」が与えられ、1939年10月、[[ダイムラー・ベンツ]]社が開発主体に選定される。後に[[クルップ]]社が加わり、更に1940年には[[MAN (企業)|MAN]]社が参加、各社に設計案提出が求められ、それぞれVK20.01(D)、VK20.01(K)、VK20.01(M)の計画名称が与えられた。 各社設計案より最終選定された車両は「Pz.Kpfw.V(V号戦車)」の名称とすることも内定、設計作業が進められたが、1941年に[[独ソ戦]]が開始されると、[[T-34|T-34戦車]]を始めとした[[ソビエト連邦|ソ連]]戦車に対しIII号/IV号戦車は苦戦する。この事態に衝撃を受けた[[ハインツ・グデーリアン]]将軍は、後に「戦車委員会(Panzerkommission)」と呼ばれることになる調査団を[[独ソ戦|東部戦線]]に派遣、T-34の評価を行った。詳細な調査の後、T-34の最大の長所は #[[避弾経始]]を取り入れた傾斜装甲を採用している #幅広の履帯を有し、柔らかい土の上での機動性を向上させている #装備する76.2mm砲は、同世代戦車と比較し大口径で威力に優れる 以上3点が重要な特徴であると結論した。 この調査結果を受け、T-34には従来の設計思想の車両では対抗できないと考えられ、VK20.00計画は30トン級中戦車開発計画として拡大され、計画名称も「VK30.02」と改称{{efn|VK30.01の計画名称が与えられた戦車の開発計画はこの以前に別個に存在しており、これは後にVI号重戦車に発展している。}}、VK20.00の制式名称として予定されていた「V号戦車」の制式番号は、当車の開発が開発・生産中の戦車のうちで最優先することと、T-34に対抗する新型車両開発を秘匿するため引き続き使用され、開発・設計が[[VI号戦車]]([[ティーガーI]])の後に開始されたが、番号はそれよりも古い。 == 開発 == [[ファイル:Comparison_of_VK_3002_proposals.jpg|thumb|250px|VK3002<br/>上:MAN案、下:ダイムラー・ベンツ案]] 1941年11月末、ダイムラー・ベンツ社とMAN社に30-35t級新型中戦車、VK3002の1942年4月までの期限での設計が発注された。 ダイムラー・ベンツによる[[VK3002(DB)]]はT-34の影響を大きく受けたスタイルではあるが、足回りは大型転綸とリーフスプリング式サスペンションの組み合わせであり、このためターレットリングの小型化、車体小型化などが実現された。 MANの初期案、VK3002(MAN)、秘匿名称“トラディショナルなドイツ戦車”と共に両者の案は42年1月から3月まで[[フリッツ・トート]]、後に[[アルベルト・シュペーア]]によるレビューを受け、両者ともDB案をヒトラーへ提案する事を支持していた。しかし最終案提出に際しMAN社はDB社の提案を参考にデザイン変更し最終的に採用となったのは、よりドイツ戦車的構造であるVK3002(MAN)の方であった。この決定の決め手の一つに、MAN社のデザインは既存の[[ラインメタル]]―[[ボルジッヒ]]の砲塔を利用できた、と言う事もあった。 この新型中戦車は1942年5月15日に「V号戦車パンターA型(Sd.Kfz.171)」と命名された。しかしこれは1943年1月に「パンターD型」に変更され、A型の名はより後の型につけられている。 「パンター(Panther:豹)」の名称は、先行して開発されていた重戦車が非公式ながらヒトラーにより「ティーガー(Tiger:虎)」の愛称を与えられていた(後に正式名称となる)ため、より快速で軽量な機動力の高い俊敏な車両として完成することを印象づけるために命名された。しかし、VK3002は当初35tクラスの予定から設計段階で重量が大幅増加した上、設計がほぼ完了した時点でヒトラー総統の要求で車体前面装甲を60mmから80mm、砲塔前面を80mmから100mmへと強化したため、当時の[[重戦車]]クラス約45tの重量の「中戦車」として完成した。そのため、当初予定の最高速度は60km/hから55km/hに低下し、重量増加はほかにも様々な問題を引き起こしている。 == 構造 == 本車はそれまでのドイツ戦車と違い傾斜[[装甲]]で、[[7.5 cm KwK 42|70口径 7.5 cm KwK 42]]という強力な(対戦車兵器として56口径8.8 cm KwK 36よりも近距離であれば高い装甲貫徹力を持つ)[[戦車砲]]を搭載していた。また、ティーガー同様に幅の広い[[無限軌道|履帯]]、挟み込み式配置の大きな転輪で車重を分散し接地圧を下げる工夫が行われ、これは車台側面を守る補助装甲の役わりもする。 === 装甲 === [[ファイル:Panzer V, Panther pic-008.JPG|thumb|250px|left|車体正面・側面を傾斜装甲とし、履帯上はスポンソン構造にしている。ナチス・ドイツ主力戦車の後期に見られる特徴である]] [[ファイル:Houffalize 0019.JPG|thumb|250px|車体右斜め後ろから見た砲塔側面(右側に砲塔が旋回している状態)と車体側面、傾斜装甲のため、角度がついているのが分かる]] パンターの車体上部は前面、側面及び後面の全面に渡って傾斜がつけられており、[[避弾経始]]を追求したデザインとなっている。ただし、強力な前面装甲に対し側面装甲は半分の厚みで、特にD・A型は燃料タンクのある車体後部を容易く射貫され炎上することがあった(側背面装甲が薄いのは本戦車に限らない)。 主装甲板は初期型のみ[[ニッケル]]を一切使用しない装甲板を使用、Oh式という特殊な[[焼き入れ]]で表面硬化を行い、さらに高周波表面硬化を施して強度を保っていたが、のちにこの処理を止めており、特にG型からは全車が表面硬化処理を廃止している。ただし装甲厚の薄い側面装甲には表面硬化処理が施されている(イギリスが[[鹵獲]]したパンターD・A型を調査した結果、主装甲には表面硬化処理が施されていなかった。またドイツ軍の火焔焼き入れ鋼板規格においてパンターの主装甲厚である80mm規格は1943年末には廃止されている)。 転輪の上に露出している車台側部は、射撃試験の結果ソ連軍の14.5mm対戦車ライフルに射貫される恐れがあったため、量産型ではこの部分を被う補助装甲、シュルツェンが装着された。 === 懸架装置 === [[ファイル:Panther hinten.JPG|thumb|250px|left|パンターの転輪]] [[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-296-1652-35, Nordfrankreich, Montage am Pantherlaufwerk.jpg|thumb|250px|転輪を組み立てる整備兵]] [[サスペンション]]は、[[トレーリングアーム]]と[[トーションバー]][[ばね|スプリング]]の組合わせを採用しており、1アームあたり2本のトーションバーを用いた折り返し式(通常の形式に比べてトーションバーが2倍の長さを持ち、アームの可動量が大きい)として高い地形追随能力を持っていた。これにより当時の戦車としては強力なエンジンと合わせ、機動力も高かった。しかし[[トランスミッション]]は改良したとはいえ重量に対し適正ではなく、放棄されたパンターの故障原因に最終減速ギアの損傷によるものが多い事が記録されている{{要出典|date=2010年9月}}。故障の少ない試作品もあったものの、作るための工作機械が足りなくやむを得ず改設計し、そのため故障が続出したともいわれる{{要出典|date=2010年9月}}。この箇所は改設計がくり返されたが、最後まで完全にはならなかった。 異説としては、「生産効率向上のため、徹底して従来からある共通部品を使用するために専用部品の製造を避け、やむを得ず不適切な部品を無理やり組み込んだ」というものがある。このため従来戦車よりも重く負荷が大きいにもかかわらず、[[歯車#はすば歯車|ヘリカルギア]]ではなく旧来の[[歯車#平歯車|平歯車]]を組み合わせたため、乱暴なギアチェンジで歯が欠けて故障多発の原因となった、ということである{{要出典|date=2010年9月}}。 === エンジン === 初期生産型パンターD型の第250号車までは[[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]]V12型HL210 P30エンジン(650PS/3000rpm)が搭載されたが、第251号車以降はマイバッハV12型HL230 P30エンジン(700PS/3000rpm)が搭載された。このHL230 P30エンジンは通常のV型エンジンと異なり、両シリンダーバンク位置が長手方向にオフセットされておらず、コンパクトだが故障を促進した。またシリンダーガスケットも問題があったが1943年9月までにシール材改良により解決された。 1943年11月以降生産のHL230 P30エンジンは信頼性向上のため大きく改修された。たびたび故障原因となったベアリングは1943年11月に改良型が導入された。またエンジンガバナーも1943年11月から導入され、エンジン最大回転数は2500rpmまでに押さえられた。 このため1943年11月以降生産のHL230 P30エンジンは、700PSから588PS(580hp)~600PS(592hp)へとエンジン出力が低下、パンターの最高速度は45km/h程度に低下した<ref>「Panther: Germany's Quest for Combat Dominance」 p.203</ref>。 しかし、この各種改良やエンジン回転数・出力のデチューンによりHL230 P30の故障やエンジン寿命は以前よりも改善された。 当初クランクシャフトのベアリングは7つであったが1944年1月より8個に増やされた。 <gallery widths="180px" heights="150px"> ファイル:Maybach HL 210 P45 front-top2 2017 Bovington.jpg|マイバッハV12型HL210 P30エンジン ファイル:Maybach HL 230 Technikmuseum Sinsheim (cropped).jpg|マイバッハV12型HL230 P30エンジン ファイル:The Tank Museum (2070).jpg|パンターに搭載された[[トランスミッション]] ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-280-1096-33, Russland, Reparatur eines Panzer V (Panther).jpg|修理のためトランスミッションを取り外しているところ </gallery> == 実戦投入後 == 最初の量産型(D型)は、[[クルスクの戦い|ツィタデレ(城塞)作戦]]に間に合わせるためにさまざまな問題が未解決のまま戦場に投入された。 重量増のため転輪や起動輪、変速機など駆動系に問題が多発。また機関部の加熱問題に対応し新たに開発、装備された自動消火装置の不具合により、燃料漏れによる火災事故も発生し、2両が戦わずして全焼全損するなど、稼働率は低かった。また最初にパンターを装備し実戦投入された第51・52戦車大隊は、それぞれ既存の戦車大隊を基に再編成されたものであったが、一握りのベテランを除く乗員は、東部戦線での実戦経験の無い新兵が多く、また訓練期間も不足していた。さらに同隊の作戦将校にも実戦経験者が少なく、指揮にも問題があり、クルスク戦では十分な活躍はできなかった<ref>大日本絵画「独ソ戦車戦シリーズ1 クルスクのパンター」(マクシム・コロミーエツ著)、デルタ出版「グランドパワーNo.079 2000年12月号 クルスク戦のパンター」他</ref>。 後に問題点は改良され、[[機甲師団|装甲師団]]の中核戦車となる。それまでの中核の[[III号戦車]]生産は打ち切り、[[突撃砲]]を除き全て本車生産ラインに切り替えられた。 [[1943年]]頃のパンターの価格は125,000[[ライヒスマルク]]で、対し[[III号戦車]]は96,200ライヒスマルク、[[IV号戦車]]が103,500ライヒスマルク、[[ティーガーI]]が300,000ライヒスマルクと、高性能でありながら導入[[コストパフォーマンス]]が高かった<ref>アルゴノート社 月刊パンツァー99年9月号40頁「ドイツ・パンター戦車その開発とバリエーション」</ref>。しかしパンターのみでは戦車隊の損失を埋め部隊配備を充足できる程の生産が間に合わないため、長砲身(48口径)7.5センチ砲に換装されたIV号戦車(戦車[[連隊]]の第二[[大隊]]装備)は生産を続行、最後までパンター(第一大隊装備)と併行生産された。 == 連合軍の反応 == === 東部戦線 === 戦場に大挙出現したパンターへのソ連軍の反応は素早く、[[クルスクの戦い]]で損傷し、戦場に放棄された31両のパンターは徹底調査された。結果、砲撃で撃破されたものはこのうちの22両で、傾斜前面装甲を撃ち抜けた砲弾は一発も無く、一方機関部付近に被弾すると容易に炎上するなどの弱点も発見している。またこの中でT-34によって撃破されたのはたった1両であった。しかし1943年後半でも赤軍戦車部隊は、[[1941年]]と同様76.2mm砲装備のT-34が主力のままだった。この砲はパンター前面装甲には力不足で、撃破するには側面に廻りこまねばならなかったが、パンターの主砲はどの方向からでも遠距離からT-34を撃破できた。そこで85mm砲と三人乗り大型砲塔装備の[[T-34|T-34-85]]が開発された。T-34車台を使用した[[SU-85 (自走砲)|SU-85]]、[[SU-100 (自走砲)|SU-100]]など新型[[自走砲]]も投入された。1944年半ばまでには赤軍はパンターよりはるかに多くのT-34-85を前線投入していた。 1944年[[3月23日]]のドイツ軍によるドイツ戦車とソ連T-34-85および[[IS-2]](122mm砲装備)の比較では、パンターは正面戦闘ではT-34-85よりはるかに優れ(パンターG型は2000mでT-34-85の前面装甲を貫くが、T-34-85はようやく500mでパンターG型の砲塔前面装甲を貫通する)、側面と背面ではほぼ互角で、IS-2に対しては正面では互角だが、側面と背面では劣るとされた。1943年と44年にはパンターはIS-2を除くあらゆる連合軍戦車を2000m遠方から撃破でき、ベテラン乗員のパンターは1000m以内で90%以上の命中率を達成した。 === 西部戦線 === [[File:Krinkelt Belgium 17 December 1944.jpg|thumb|250px|バルジの戦いでアメリカ軍に撃破されたパンター]] パンターは1944年初めの[[アンツィオ]]の戦闘でようやく初めて[[アメリカ軍]]、[[イギリス軍]]の前に姿を現したが、その時は少数だった。その時にはアメリカ軍は既にソ連軍からパンターの詳細な情報を入手しており、[[アメリカ陸軍情報部]]が発行していたアメリカ兵向けの戦訓広報誌『[[Intelligence Bulletin]]』において、詳細な[[スペック]]と簡単な分析を記述している。そこでは「装甲は厚いが高速で、ドイツ軍が高く評価してきた[[M4中戦車|M4シャーマン]]戦車と同じ速度である」「ティーガーより軽量で速度と操縦性に優れる」としながらも、ソ連軍からの情報として「覗き穴、[[潜望鏡|ペリスコープ]]、砲塔と砲盾の基部は小銃や機関銃の射撃でも有効である」「54mm以上の口径の砲であれば、約800mの距離でも砲塔には有効である」「大口径砲や自走砲は、通常の距離であればパンターを効果的な射撃で戦力外にできる」「側面と後面装甲は口径45mm以上の徹甲弾で貫通できる」「焼夷弾はガソリンタンクだけでなく、運転席すぐ後ろの弾薬庫に対しても有効」と記述されている。しかし、まとめとして「パンターは手ごわい兵器であり、ドイツ軍の紛れもない強みとなる」と警戒を呼び掛けている<ref>{{Harvnb|Military Intelligence Service|1944|p=NEW HEAVY TANK: THE Pz. Kw. 5 (PANTHER)}}</ref>。 パンターのライバルは、連合軍で配備が進んでいた[[M4中戦車|M4シャーマン]]戦車となった。アメリカ軍はパンターの詳細な情報を持っていたものの、[[イタリア戦線]]などで交戦頻度が稀であったことから、ティーガー同様、部隊に少数配備される重戦車と誤った認識をしており、既に決定していた76.2㎜砲型の製造以外には対策をとらなかった<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=18}}</ref>。これは、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な[[オードナンス QF 17ポンド砲|17ポンド(76.2mm)対戦車砲]]搭載の[[シャーマン ファイアフライ]]の開発を行っていたイギリス軍とは対照的であった<ref>{{Harvnb|ケネス・マクセイ|1973|p=181}}</ref>。そのため[[ノルマンディー上陸作戦]]からのフランスでの戦いで、想定以上の数のパンターやティーガーと交戦したM4の75㎜砲の非力さが明らかになった<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|ザロガ|2010|p=23}}</ref>。また、東部戦線で経験を積んだ[[ドイツの戦車エース一覧|ドイツの戦車エース]]たちの活躍は目覚ましく、本車に搭乗したエースとしては、[[第2SS装甲師団]]の[[エルンスト・バルクマン]][[武装親衛隊|SS]][[親衛隊曹長|曹長]]が有名である。特に有名な活躍は、1944年7月27日に[[フランス]]の[[サン=ロー]]から[[クータンセ]]へ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=38}}</ref>。のちにこの曲がり角は『バルクマンコーナー』と呼ばれ有名になる<ref>{{Harvnb|PANZER №690|2019|pp=88-91}}</ref>。その翌日も多数のM4を撃破し、2日間で15両にもなったといい、7月30日には乗車を撃破されるも脱出成功している。同年12月、古いD型で「[[バルジの戦い]]」に参加したバルクマンは夜間、敵戦車の列に紛れこみハッチから漏れる車内灯の色で識別し攻撃、M4戦車数両を撃破している<ref>大日本絵画「世界の戦車イラストレイテッド パンター中戦車1942-1945」(スティーヴン・ハート著)、文林堂「グラフィックアクション No.46 ドイツ軍 戦車撃破王列伝」他</ref>。 このようなパンターの活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが<ref>『戦車メカニズム図鑑』[[上田信 (イラストレーター)|上田信]]著、[[グランプリ出版]]、p44。</ref>、そのような事実はなく、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作がある{{仮リンク|スティーヴン・ザロガ|en|Steven Zaloga}}の調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍の[[プロパガンダ]]ではないかとの指摘もある<ref>{{Harvnb|Steven Zaloga|2015|pp=312-313}}</ref>。 個別の攻撃性能で優位性を比較した場合、パンターの戦車砲は500mの距離で垂直鋼板に168㎜の貫通力があり、M4シャーマン正面装甲を貫通可能であった。一方M4シャーマンの [[M1 76mm戦車砲]]は口径こそパンターの戦車砲と変わらなかったが、同じ距離で116mmの貫通力しかなく、パンター正面装甲貫通は不可能でパンターに優位性があった。しかし正面でも砲塔の[[防盾]]は貫通でき、また側面装甲であれば1,800mの距離からでも十分貫通できた。またアメリカ軍は、パンターやティーガー対策として、新型[[高速徹甲弾]]の生産を強化していた。M4シャーマンの71発の砲弾積載量のうち、高速徹甲弾は1~2発しか割り当てられず充分な砲弾数ではなかったが、500mで208㎜の垂直鋼板貫通力を示し、パンターの戦車砲の貫通力を上回る<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=22}}</ref>。ドイツ軍は自軍戦車の特徴である、強力な戦車砲と厚い装甲を活かした長距離での戦闘を望み、戦車兵に1,800mから2,000mでの戦闘を指示したが、想定通りの距離での戦闘とはならず<ref name="名前なし-2">{{Harvnb|Military Intelligence Service|1945|p=THE HEAVY MOBILE PUNCH}}</ref>、実際にはアメリカ軍がドイツ軍の戦車を撃破した平均距離は893mに対し、ドイツ軍がアメリカ軍の戦車を撃破した距離は946mと、大差はなかった<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=67}}</ref>。これはパンターが関係した戦闘でも同じであり、パンターが直面した平均交戦距離は850mと、1,400mから1,750mのドイツ軍が望んだ長距離での戦闘はわずか5%、それより長い距離の戦闘は殆どなかった<ref name="名前なし-1"/>。 実際に戦われた戦闘距離であればパンターのM4シャーマンに対する優位性は殆どなく、印象とは異なり、パンターが一方的に撃破される例も存在した。[[オーヴァーロード作戦|ノルマンディの戦い]]における[[サン マンヴュー ノレ]]の攻防戦では、進撃してきた[[第12SS装甲師団]]のパンター12輛を、[[第2カナダ機甲旅団]]の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している<ref>{{Cite web|title=Norrey-en-Bessin (Calvados)Les villes de Normandie pendant les combats de 1944|url=https://www.dday-overlord.com/bataille-normandie/communes/calvados/norrey-en-bessin|website=Encyclopédie du débarquement et de la bataille de Normandie|accessdate=2021-01-28|language=en}}</ref>。 {{仮リンク|アラクールの戦い|en|Battle of Arracourt}}においては、アメリカ軍{{仮リンク|第4機甲師団|en|4th Armored Division (United States)}}がドイツ軍[[第5装甲軍]]に大損害を与えて勝利したが、なかでも[[クレイトン・エイブラムス]]中佐率いる第37戦車大隊は多数のパンターを撃破しており、1944年9月19日の戦闘では、巧みに地形を利用したM4シャーマンによって、待ち伏せ攻撃や追撃で11輌ものパンターを撃破、また戦闘指揮所を攻撃してきた14輌のパンターを[[M18 (駆逐戦車)|M18ヘルキャット]]の小隊が迎え撃ち、一方的に8輌を撃破し撃退している<ref>{{Cite web|title=Armored in Lorraine: Battle of Arracourt|url=https://warfarehistorynetwork.com/2019/01/23/battle-of-arracourt/|website=warfare history network|accessdate=2021-01-28|language=en}}</ref>。アラクールの戦いで第37戦車大隊は合計55輌のティーガーとパンターを撃破している<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=46}}</ref>。 [[バルジの戦い]]において、1944年12月24日に、{{仮リンク|フレヌー|fr|Freyneux}}に接近してきた[[第2装甲師団 (ドイツ国防軍)|第2装甲師団]]第2戦車連隊第2戦車中隊のアルフレッドハーゲシェイマー親衛隊大尉とフリッツ・ランガンケ親衛隊少尉が率いる11輌のパンターG型を、{{仮リンク|第3機甲師団|en|3rd Armored Division (United States)|}}第32機甲旅団D中隊のM4シャーマン2輌が迎えうって、遠距離砲撃で6輌撃破し、2輌を損傷させて一旦撃退している。その後、ハーゲシェイマー隊は残った3輌のパンターで再度フレヌーを目指し、途中で接触した[[M5軽戦車]]1輌を撃破したものの、またM4シャーマンからの砲撃で1輌を撃破され、ハーゲシェイマー車も命中弾を受けて損傷している。一旦退却した[[ドイツの戦車エース一覧|ドイツの戦車エース]]の1人でもあったランガンケは、命中弾を受けて自身のパンターが損傷していたため、フレヌー付近の森の中のくぼ地に身を潜めていたが、その後、監視任務からフレヌーに無警戒で帰還してきた{{仮リンク|第9機甲師団 (アメリカ軍)|label=第9機甲師団|en|U.S. 9th Armored Division|}}M4シャーマン4輌を待ち伏せ攻撃により撃破して一矢報いている<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=61}}</ref>。なお、攻撃に失敗したドイツ軍は、フレヌー攻略を断念、この夜に3個パンター中隊でマンエーを攻撃したが、このときパンターに乗ったバルクマンが負傷している<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=60}}</ref>。翌12月25日のノヴィルを巡る戦いにおいても、M4シャーマンがわずか45分間の間に、一方的にパンターG型を6輌撃破しドイツ軍を撃退している<ref name="名前なし-2"/>。 車両単体のスペックならM4シャーマンを凌駕したパンターだが、高価で構造が複雑過ぎのうえ、ドイツ国内の工業能力低下による品質低下で、戦場でカタログスペック通りの働きができなかった。バルジの戦いで多数投入されたパンターG型の中には、砲塔の正面装甲にM4シャーマンの2発の砲弾が命中して、砲弾は貫通はしなかったが、装甲が裂けて撃破された車両もあった。また低い稼働率も致命的で、バルジの戦いでは415輌のパンターが投入されたが、2週間で180輌が撃破され、残り235輌もまともに稼働していたのは45%の約100輌だった。一方でM4シャーマンは同時期にあらゆる原因で320輌喪失したが、1,085輌が前線にあり、うち980輌が稼働し、パンターとの差は歴然であった<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=72}}</ref>。結局は、正面からの撃ち合いではパンターに分があったが、生産性、整備性、耐久力などすべてを比較すると、M4シャーマンの方が優れていたという評価もある<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=69}}</ref>。1944年8月から1944年12月の[[バルジの戦い]]までの間の、アメリカ軍の第3機甲師団と第4機甲師団の統計によれば、全98回の戦車戦のなかでパンターとM4シャーマンが直接戦った戦闘は29回であったが、その結果は下記の通りであった<ref>{{Harvnb|David C. Hardison|2012|p=19}}</ref>。 {| class="wikitable" align="none" cellpadding="5" style="background:#fff; text-align:center" |+ パンターとM4との直接交戦による撃破数 ! 攻守 !! 交戦数!! 交戦したパンターの数  !! 撃破されたパンターの数 !!交戦したM4の数 !! 撃破したM4の数 |- ! 攻撃 | 20回 ||98輌||59輌||115輌 ||6輌 |- ! 防御 | 9回 ||47輌||13輌 ||68輌 ||10輌 |- ! 合計 | 29回 ||145輌||72輌||183輌 ||16輌 |- |} 29回を平均して、M4シャーマンの数的優勢は1.2倍に過ぎなかったにもかかわらず、M4シャーマンの有用性はパンターの3.6倍で、特にM4シャーマンが防御に回ったときにはパンターの8.4倍の有用性があったとの評価もあるが、データ数が不十分で両戦車の性能差が戦闘にどのような影響を及ぼしたのかは証明されていない<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=68}}</ref>。 == 他国軍での使用 == ソ連軍ではパンターを優秀な戦車と認識、前線部隊ではパンターがしばしば優れた戦功に対する褒章として与えられ、[[鹵獲]]車両による臨時部隊も編成された。戦車兵たちにはパンターは大変好評であり「鹵獲されたティーガーとパンターは修理してはならず、故障したら破壊して放棄せよ」との規則があったにもかかわらず、できるだけ長く使用するため努力が払われた。ドイツ乗員のための運用マニュアルも[[ロシア語]]に翻訳されて、鹵獲したパンターの乗員に支給された。 これはパンターに限らないが、鹵獲敵戦車を使用すると友軍からの誤認射撃を受けるケースが頻発したため、それを恐れ一部ソ連軍戦車兵の中には鹵獲パンターに乗ることを避ける者もいた。 ソ連軍に鹵獲されたパンターは、ソ連軍の他に親ソ派ルーマニア人の[[義勇軍|義勇部隊]]、第1ルーマニア義勇師団“[[トゥドル・ウラジミレスク]]”に他の鹵獲ドイツ軍装甲車両と共に与えられ、同師団の機甲戦力として戦闘投入された。戦後[[1947年]]に[[ルーマニア人民共和国]]が成立し、同部隊が義勇師団からルーマニア陸軍の正規部隊となって機甲師団に改変された後も装備され、[[1950年代]]に入りソ連より戦車供与が始まるまで使用された。 <gallery widths="180px" heights="150px"> ファイル:Captured Axis Vehicles PzV.jpg|ソ連軍に鹵獲されたパンター 1944年8月 ファイル:The British Army in Italy 1944 NA15771.jpg|イタリアで鹵獲されたパンターを研究するイギリス軍将校 1944年6月2日 ファイル:Warsaw Uprising by Deczkowki - Wacek Platoon - 15911.jpg|[[ワルシャワ蜂起]]で[[国内軍 (ポーランド)|国内軍]]に鹵獲されたパンター 1944年8月2日 ファイル:Romanian Panther Ausf D.JPG|戦後ルーマニア軍で運用されるパンターD型 1946年 </gallery> == 戦後 == [[ブルガリア]]は戦後社会主義体制となり[[1946年]]に[[ブルガリア人民共和国]]発足の後、ソ連から[[鹵獲]]品のパンターを15両程度供与され、同じく鹵獲品の[[IV号駆逐戦車]]や枢軸国時代にナチスドイツより提供された[[IV号戦車]]などと共に、ソ連製戦車を供与されるまでの間の装甲戦力としていた。これらの車両は[[1948年]]頃まで現役として使用され、ブルガリア軍にソ連より戦車が供与された後も、[[トルコ]]との国境地帯に固定砲台([[トーチカ]])として配置され、[[1980年代]]まで用いられた。 ソ連軍に鹵獲されたパンターは、ソ連軍の他、親ソ派ルーマニア人の[[義勇軍|義勇部隊]]、第1ルーマニア義勇師団“[[トゥドル・ウラジミレスク]]”に他の鹵獲ドイツ軍装甲車両と共に与えられ、同師団の機甲戦力として戦闘に投入された。戦後、[[1947年]]に[[ルーマニア人民共和国]]が成立し、同部隊が義勇師団からルーマニア陸軍の正規部隊となって機甲師団に改変された後も装備され、[[1950年代]]に入りソ連より戦車の供与が始まるまで使用された。 また、[[フランス]]は第二次世界大戦後、ドイツ軍の残存車両を再生したものに加えて占領時代の工場で生産したパンターで戦車部隊を編成している<ref>[[第501=第503戦車連隊 (フランス軍)|第503戦車連隊]]、定数50両</ref>。これらフランス製パンターは[[1951年]]頃まで現役で運用され、退役後も[[1961年]]頃まで[[パリ]]近郊で予備保管されていた。後に少数が武装を撤去して民間に払い下げられており、重量物トラクターやクレーン車に改造されて使用されている。 2015年7月初旬、ドイツ北部の民家から'''[[8.8 cm FlaK 18/36/37|8.8cm FlaK 18/36/37]]'''と共に1両のパンターが[[ドイツ連邦軍]]に押収された<ref>{{Cite web|和書|title=本物のパンター戦車と88㎜高射砲をドイツの年金生活者が保管して家宅捜索|url=https://bushoojapan.com/world/german/2019/08/05/54026|website=BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)|accessdate=2020-05-08|language=ja|last=author}}</ref>。 == バリエーション == [[ファイル:Panther_Ausf_D_with_Ausf_A_turret_pic01.JPG|thumb|250px|パンターD型<br/>この車両はA型の初期タイプの砲塔を搭載している{{efn|A型初期型の可能性もあるがここでは原文のキャプションに従いD型とした}}]] ;パンターD型 : 1943年1月-9月にかけて[[MAN (企業)|MAN]]、[[ダイムラー・ベンツ]]、[[ヘンシェル]]、MNH各社によって842両が生産された最初の型。このうちヘンシェル社では車体のみが製造され、砲塔の製造はヴェクマン社が担当している。 : D型の原型である試作2号車「フェアズーフス・パンターV2(Versuchspanther V2)」では砲塔左側に車長[[キューポラ]]用の張り出しがあったが、量産型では無くなっている。この60mm厚の装甲を持つ、6つの視察口を持つドラム型(ダストビン型ともいう)キューポラは、防弾ガラスを通して直接視認するタイプであった。また主砲の照準装置は双眼式のTZF12を装備している。車体前方にMGクラッペ(車内に搭載された機関銃を発砲するための蓋付きの開口部)が設置されているのは、この時点では80mm厚の装甲に対応したボールマウント式銃架の開発が間に合っていなかったためである。 : 予定されていた[[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]]V12型HL230 P30エンジン(700PS/3000rpm)も間に合わず、第250号車まではV12型HL210 P30(650PS/3000rpm)が搭載されている。 :当初砲塔の左側に連絡用ハッチが設置されていたが、防御力向上のために1943年8月以降の生産車から廃止された。また砲塔の左右に煙幕弾発射器が装備されていたが、被弾によって損傷し、不必要なときに発煙し視界を妨げるため撤去された。 : 製造後にも、脱落しやすい転綸のゴム製リムを固定する[[リベット]]の数を増やすなど改修が加えられている。こういった初期故障への対応が完了しない状態のまま、第10戦車旅団の(実数)192両のD型がクルスク南部戦区に投入された。エンジンコンパートメントは気密性を確保し、浅い川などを渡河する能力をパンターに付与したものの、逆にエンジン区画の換気性能の低下を招き、加えてエンジンがオーバーヒートし易くなる原因となった。また初期型においては燃料系の漏れ対策が不十分であり、エンジン区画への燃料漏れ、火災など数々のトラブルが発生し、実戦デビューは大失敗に終わる。この前後に、実に40を超える細かい改修が製造済みの車両や生産ライン上の工程に加えられていったものの、最終型に至っても克服できなかった問題点も残っていた。 : 最初の量産型なのに形式名がD型である理由については、A~C型は試作車両として存在する、敵方への情報撹乱のため、単に書類上の誤りなどの諸説があった。実際には前述のように当初はA型と命名されているのだが、なぜD型に変更されたのかは不明である。 : 車体番号は210001~210254および211001~214000。 ;パンターA型 :[[ファイル:Panzer_V,_Panther_pic-006.JPG|thumb|250px|パンターA型]] : 1943年9月-1944年7月にかけて、851号車以降、MAN、ダイムラー・ベンツ、MNH、デマーク各社により約2,200両が生産された。 : 車体そのものにはD型から大きな変更は無かったが、問題が多かった変速機を変更するなど機械的信頼性を高めた。また1943年11月の生産車から車体前面のMGクラッペが新型ボールマウント式機銃架・クーゲルブレンデ80に改められた。 : 砲塔は新設計で、D型の直視式から、装甲が強化され[[潜望鏡|ペリスコープ]]による間接視認式となった鋳造製の新型キューポラに、主砲用照準器は途中から単眼式のTZF12aに変更されている。また砲塔旋回速度の変更ができるようになり、標的の捕捉が容易になった。途中から砲塔上面に擲弾を発射できる[[近接防御兵器]]の搭載が予定されたが、生産が間に合わず取り付け部に蓋がされているものが多い。 : D型の次の型式名がE型ではなくA型となった理由は不明である。防諜のためという説があるが、裏付けとなるような公式の記録はない。 : 車体番号は151000~160000および210255~211000。 ;パンターG型 :[[ファイル:PanzerV Ausf.G 1 sk.jpg|thumb|250px|left|パンターG型]] :[[ファイル:PantheraScheme.jpg|thumb|250px|G型の装甲厚]] : 1944年3月からMAN、ダイムラー・ベンツ、MNH各社により3,100両ほど(2,953両説もあり)が、1945年4月に工場が占領されるまで生産され続けた。 : 開発中止になったパンターII での改良点を加えた事実上のパンターの完成型。弱点だった車体側面装甲が若干強化されている反面、被弾率の低い車体下部前面などは逆に削られた。また、生産途中からD・A型で問題になった主砲前面防循のショットトラップ(防循で跳弾した敵弾が装甲の弱い車体上面を直撃してしまう現象)対策で防循下部に“あご”状の張り出しを設けた物も使用された。 : 操縦手と無線手用のハッチは、それまでの持ち上げてから横旋回で開くタイプから、ヒンジ付きで普通に上に開くタイプに変更された。当時の多くの戦車の弱点である操縦手のクラッペ(視察窓)は廃止され、それまでの固定式から変更された旋回式ペリスコープから外部を視認した。しかしこれにより行軍中に直接外を見ることができず不便になったので、後に座席の高さを変えてハッチ穴から頭を出せるように、またそれに合わせ操縦ペダルも高さの違う二組に改良された。一部の車輛は赤外線暗視装置を搭載し、実戦使用された。また、排気管も生産途中で消炎型の物に改められた。 : A型の次の型式名がB型ではなくG型となった理由は不明である。 : 車体番号は120301~130000(途中欠番あり)。 ;パンターF型 :[[ファイル:Munster Panther Ausf F Schmalturm (dark1).jpg|thumb|250px|left|パンターF型の模型]] :[[ファイル:Schmalturm_Turret_(4535935449).jpg|thumb|250px|ボービントン戦車博物館に現存するシュマールトゥルム]] : ラインメタル社が基本設計、ダイムラー・ベンツ社が製作した小型砲塔(シュマールトゥルム)が搭載され、重量を軽減すると共に防御力が高められていた。この小型砲塔ではキューポラのハッチの開き方がヒンジ式に変更され、SZF1潜望鏡式照準器が装備されていた。また車体にも改良が行なわれ、車体上面・下部装甲の増厚、操縦手、装填手用ハッチのスライド式への変更、車体前面機銃を[[MG34]]から[[MG42]]へ変更、乗員自衛用の[[MP43]]装備などが行なわれている。 : 主砲は[[チェコスロバキア|チェコ]]の[[シュコダ]]社の開発したKwK44/1に変更され、ステレオ式測距器が装備された{{efn|これは彼我の正確な距離を測れるなど特に遠距離での砲撃に威力を発揮するものであるが、衝撃に弱く、戦後同様のものを装備したアメリカ戦車([[M47パットン]]など)にトラブルが続発していることから、実用性があったかどうかには疑問が残る}}。 : 1944年に最初のシュマールトゥルムが試作され、8月に通常のG型車台に搭載された。1945年1月には2番目の試作砲塔が別のG型(車台番号120413)に搭載された。1944年10月に策定された量産計画によれば、F型は各社で1945年3月から5月中に製造が開始され、1945年6月に全てのパンターはシュマールトゥルムを装備して完成されるものとされたが、1945年1月30日時点では最初の完成予定が6月または8月まで延ばされており、そのまま終戦を迎えた。試作砲塔は戦後アメリカ軍とイギリス軍に押収され、評価のためそれぞれの国へ送られた。後者は砲撃訓練の目標物として使用された後、現在は[[ボービントン戦車博物館]]に展示されている。 : G型の次の型式名がH型ではなくF型とされた理由は不明である。 : 本車の計画は後述のパンターIIと共に各種戦車の共通化を目指した「E計画」のうちE-50に繋がっている。 :{{-}} ;パンターII [[ファイル:Munster Panther Ausf F Schmalturm 1(dark1).jpg|thumb|250px|left|パンターIIの模型]] [[ファイル:Panther_II.Fort_Knox.jpg|thumb|250px|[[パットン戦車博物館|パットン・ミュージアム]]のパンターII試作車台(展示用にG型砲塔が搭載されている)]] : 試作型に対するヒトラーの改良要求のうち、D型には間に合わなかった点を取り入れ改設計された、A型以前に計画開始された型。1943年初頭から設計が始められたこの型は、全体に強化された装甲と、パンターI(従来型のパンター)の三重構造の挟み込み型配置よりもシンプルな、二重構造の千鳥足型配置で鋼製転輪、2枚一組のシングルピン式660mm履帯の足回りを持ち、当時ティーガー3の名称で構想されていた[[ティーガーII]]の開発計画との部品共通化が図られ、例えば履帯はティーガーIIが鉄道輸送時に用いる幅の狭い物を流用していた。砲塔はF型の小型砲塔に類似した数種の設計案が検討された<ref>古い文献には8.8cm71口径戦車砲の装備が予定されていたかのような記述がしばしば見られるが、パンターIIの計画内には確認されていない</ref>。 : 1943年1月後半に開発が始められた当初は、1943年9月からの生産開始が見込まれていたが、既に各工場ともパンターIの生産に手一杯であり、パンターIIの開発に労力を費やすよりも従来型に足回り以外の改良点を反映させた方が現実的である(これは後にG型として結実する)との判断から計画は進展せず、1943年8月に[[MAN (企業)|MAN]]社で試作車1輛が完成しただけで、砲塔部分は開発自体完了しないまま、1944年初頭にパンターIIの量産化は断念された。 : 終戦時、試作車は未完成であった砲塔の代用としてリング状の[[重し|ウェイト]]を載せた状態でアメリカ軍によって鹵獲され、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アバディーン性能試験場]]へ送られた。試作車台は[[デトロイト]]での試験後にアバディーンへ戻された後、G型(車台番号121447)の砲塔を流用して整備された。現在の[[パットン戦車博物館|パットン・ミュージアム]]での保存展示に際して、別のG型(車台番号121455)の砲塔に交換されたが、いずれにせよパンターII本来の計画とは無関係である。 : 本車の計画は各種戦車の共通化を目指した「E計画」のうちE-50に繋がっている。 {{Main|E-50 (戦車)}} == 派生型 == ;パンター指揮戦車(Sd.Kfz.267) :[[ファイル:SdKfz267.jpg|thumb|250px|パンター指揮戦車(A型ベースの車両)砲塔上面後部に星形アンテナが見える<br/>[[ムンスター戦車博物館]]の展示車両]] : 中隊指揮官・副官以上用に350輛(D型75両、A型200両、G型75両)が生産された他、改修キットにより既存のパンターから改造された。 : 標準的なFu5無線機に加え、上級司令部などとの連絡用にFug8長距離用無線機と星形アンテナ(独:シュテルン・アンテネ)を搭載した。無線と発電機の増設のため、搭載弾薬が79発から64発に減らされ、主砲同軸機銃が撤去されている。 :{{-}} ;戦車回収用器材(パンターI)(Panzer-Bergegerät (Panther I). Sd.kfz.179 :[[ファイル:IWM_Bergepanther_front.jpg|thumb|250px|ベルゲパンターA型<br/>車体機銃を持たないA初期型車体を使用、D型では砲塔を撤去した跡に蓋を付けただけで、A型のような木製の囲いはない]] :[[ファイル:SdKfz 179 Bergepanther, Musée des Blindés, France, pic-2.JPG|thumb|250px|ベルゲパンターG型<br/>復元車両のため、A型までの機関砲と取り付け架が付いている]] : または'''ベルゲパンター'''(Bergepanther)、'''パンター戦車回収車'''(Pz.Berge.Wg.Panther)とも呼ばれる。ドイツ軍では18t ハーフトラック[[Sd Kfz 9]]を[[戦車回収車]]として使用していたが、パンターやティーガーなどの50t前後の戦車には3両以上の重連牽引が必要で、回収車の車体フレームにダメージを与えかねないため、新たに本車が開発された。 : 1943年3月29日のグデーリアン機甲部隊総監より、生産中のパンターの一部に砲塔を搭載せず、暫定的な[[装甲回収車]]として完成させよとの命令が出された。これを受けたMAN社は、D型の砲塔用開口部に開閉可能な木製の蓋を付け、簡易クレーンを装備した暫定型を12両製造、6月にはラウヘルト戦車旅団に送られ配備された。 : ヘンシェル社へはA型の第二期生産分70両を、ウィンチを装備したより本格的な仕様の回収車として完成させるよう命令が出されたが、戦車型パンター車台の改修やMAN社による設計の遅れもあり、ルールシュタール社により改修された専用車体が戦車型とは別のラインで生産されることとなった。このボールマウント式銃架を持たないA初期型車体(古い資料ではD型と誤認されている)を用い、ウィンチと大型の駐鋤を装備したベルゲパンターA型はダイムラーベンツ社によって製造され、1944年3月の第二期生産分からデマーク社に引き継がれた。追加武装として車体前方に2cm機関砲Kwk38が設置できるようになっていたが、実戦で使われている写真は見られず、A型の途中より取り付け架が廃止されている。 : 更に後、車体前面にMG34機銃のボールマウント式銃架を装備したパンターG型車体に、操縦手・無線手用それぞれのペリスコープカバー上に対空銃架用台座を追加し、A型で用いられた回収器材を搭載したベルゲパンターG型が生産された。これら回収型は可能な限り、パンターおよびティーガー大隊の回収分隊に2両ずつ配備することとなっており、他に各司令部直属の独立修理・回収部隊でも用いられた。 : [[エレファント重駆逐戦車|エレファント]]を主力とする[[第653重戦車駆逐大隊]]では、ウィンチのないD型車体ベースの車両にIV号戦車H型の砲塔を固定装備した現地改造車(指揮戦車ともされるが詳細は不明)や、同タイプの車体に[[2cm Flakvierling38]] 4連装対空機関砲を搭載した対空車両が配備されている。また別の部隊により、同タイプの車体に[[3.7 cm FlaK 36/37|3.7cm FlaK37]]対空機関砲を載せて自走対空砲にした、現地改造型の存在も確認されている。 :{{-}} ;装甲砲兵観測車 パンター(Panzerbeobachtungswagen Panther) [[ファイル:BeobachtungspanzerPanther.jpg|thumb|250px|装甲砲兵観測車 パンター(模型)<br/>D初期型タイプ]] : 戦闘型パンターから主砲を撤去して木製のダミー砲身と防盾を付け、ダミー砲身の横にボールマウント式の[[MG34]]機関銃を増設、距離計など砲兵用の観測機材と無線機を装備した、前線での着弾観測を行う車両。 : III号装甲砲兵観測車の後継車輛として1944年末から1945年にかけ41両が改造されたとされる。この手の任務に貴重なパンターを使うのは贅沢であるとの批判もあり、その後一部または全ての車両が戦車型に再改造された。 :{{-}} ;M10偽装車(Ersatz M10) : 西部戦線における最後の大反攻「クリストローゼ作戦」([[バルジの戦い|アルデンヌの戦い]])の一端でアメリカ軍部隊に変装して潜入を図る「[[グライフ作戦]]」用に少なくとも5両(ナンバーからの推測で10両とも)のパンターG型がアメリカ軍の[[M10 (駆逐戦車)|M10 GMC]]を模した偽装を施され、[[オットー・スコルツェニー]][[親衛隊中佐]]に指揮される第150装甲旅団に配備された。 : キューポラを取り外し、砲塔・車体の前・側面に厚さ18~19mmの軟鉄製偽装車体を被せた作りで、これを調査したアメリカ軍の情報士官も完成度の高さを評価している。塗装もアメリカ軍の全面オリーブドラブに、アメリカ軍を示す白星の[[国籍マーク]]、第5機甲師団第10機甲連隊風の車体ナンバーが書き込まれていた。しかし行軍中の大渋滞に巻き込まれ先行することができず、結局はマルメディ市街地への強襲攻撃に使われ、地雷やバズーカ、砲撃によって4両が失われてしまった。 <gallery widths="180px" heights="150px"> ファイル:PantherM10.jpg|民家に放棄されたM10偽装車。 ファイル:M10パンター.jpg|M10偽装車(模型)<br />([[ワールドタンクミュージアム|WTM]]第8弾「M10パンター」) ファイル:GERMAN TANK DISGUISED AS AN AMERICAN TANK.jpg|M10に偽装されたパンターB4号車。地雷によって破壊され、偽装用の薄い砲塔外板がひしゃげている。 </gallery> :{{-}} ;[[ヤークトパンター]](Jagdpanther (Sd.Kfz.173) : パンターの車体を元に、71口径8.8cm[[対戦車砲]] (8.8 cm PaK 43/3 L/71)を搭載した[[駆逐戦車]]。 {{Main|ヤークトパンター}} ;3.7cm連装高射砲搭載パンター戦車([[ケーリアン]])(Flakpanzer Coelian) : 試作のみの[[対空戦車]]型で、パンターのシャーシの上に[[3.7 cm Flak 43]]高射機関砲を連装で搭載した密閉型砲塔を持つ予定だった。実物大モックアップが作られ、計画は1945年1月の時点まである程度進んでいたものの、[[陸軍兵器局]]試験部第6課から「車体サイズに比べ火力が貧弱」との指摘があり、この砲塔を拡大したような形で連装5.5cm高射機関砲を備えた車両に計画が移行した。「Coelian」とは、ラテン語の「coeli」(「天」という意味)に、接尾辞である「~an」(「~人」「~の性質を持つ者」「~に属する者」「~の住人」「~を信奉する人々」といった意味)が付いたものである。 ; 星型空冷エンジン搭載車 : MAN社が独自に試作を行った[[BMW 132]]空冷星型エンジンをパンターG型に組み込んだタイプ。冷却能力は十分であり、エンジンの製造時間の短さから増加試作をMAN社は望んだが、下側シリンダーの点火プラグとバルブの交換のためだけにエンジンを丸々取り出す必要があり、整備面の問題から計画は中止された。 ;ガスタービン試験車 : ドイツ軍では小型かつ発揮馬力の高い戦車の動力としてガスタービンに着目し、当初、VI号戦車に[[GT 101]] ガスタービンユニットを搭載する予定だったが、機関室の容積に収まらないため、V号戦車に搭載することになり、1944年、9月25日試作車が完成した。 : 最初に開発された戦車用[[ガスタービンエンジン]]は[[アニュラー型燃焼器]]、圧縮機は5段軸流式で2段のタービンで圧縮機を駆動して1段のタービンで出力を取り出す型式だった。後に圧縮が4段、出力側タービンが圧縮機駆動兼用3段式に改良された。原理的には現在の[[M1エイブラムス|M1A1]]や[[T-80]]に搭載されているものと同じである。低速での発進が難しく、ガスタービンの寿命も短かった。低速時でも燃料消費が多かった。 : GT101は14,000回転で1150hpの出力、重量450kg、圧縮比4.5:1、タービン入口温度800℃だった。更に、9段軸流圧縮、3段タービンに改良されたGT102が開発されている。 ;オストヴァルトゥルム(Ostwallturm:「東方の壁砲塔」の意) [[ファイル:Bundesarchiv_Bild_101I-587-2267-24,_Italien,_befestigte_Stellung,_Inspektion.jpg|thumb|250px|D型の砲塔を改造・流用したオストヴァルトゥルム]] : パンターの砲塔だけを地上に置いた固定砲台。「東方の壁」とは[[東部戦線]]の要塞や陣地を意味するが、[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]や[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]で使われた数の方が多い。野砲の榴弾に耐えられるように上面装甲が40mmに強化され、姿勢の高いキューポラを撤去し平板なハッチに変更した物も多い。 : 鋼鉄の装甲箱に載せられたI型(砲塔手動旋回)と、[[コンクリート]]製の地中[[トーチカ]]に載せられたIII型(砲塔旋回モーター用発電機と居住施設・ストーブを装備)が実際に使われた。これを、III型ではなくII型だとする説もある。 :末期には、コンクリートですら資材不足から、木製台座のオストヴァルトゥルムも作られている。 :オストヴァルトゥルムと対戦したイギリス軍の報告によると、通常の対戦車砲よりも強力でやっかいな存在であると評価されている。 : なお大戦末期の[[ベルリンの戦い]]に先立ち、パンターを使った代用トーチカ10基が設置されているが、これはオストヴァルトゥルムではなく、修理に戻されていたパンターの足周りやエンジンを撤去して埋めたものであった。 {{-}} == ギャラリー == <gallery widths="180px" heights="150px"> ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-635-3966-27, Panzerfabrik in Deutschland.jpg|パンターの製造ライン<br/>(車体前面の形状とペリスコープの数からD型であることがわかる) ファイル:Bundesarchiv Bild 183-H26258, Panzer V "Panther".jpg|戦線へ送るため貨車に積載される新車のパンターD型 1943年 ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-244-2321-34, Ostfront-Süd, Panzer V (Panther).jpg|東部戦線でのパンターA型 1943年 ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-301-1954-06, Nordfrankreich, Panzer V (Panther) in Ortschaft.jpg|ノルマンディー(フランス)でのパンターG型<br/>車体に草木を装着して[[カモフラージュ]]している ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1976-124-12A, Russland, Infanterie und Panzer im Kampf.jpg|戦闘中のパンターD型 ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-711-0427-04, Oberst Karl Lorenz vor Panzer V "Panther".jpg|[[グロースドイッチュラント師団]]のパンターA型。[[1944年]][[ウクライナ]] ファイル:Romanian_Panther_tanks.jpg|[[1946年]][[5月10日]]、ルーマニアの首都ブカレストでの軍事パレードに参加した、第1ルーマニア義勇師団“トゥドル・ウラジミレスク”所属のパンター。先頭はD型、後続の2両はG型 </gallery> == 現存車両 == 大量生産されたため、動態車両6両を含む多くの車両が現存している<ref name="survivors">{{cite web|url=http://the.shadock.free.fr/Surviving_Panzers.html |title=Surviving Panthers |publisher=Surviving Panzers website|accessdate=2017-9-1}}</ref>。 [[ファイル:Panther Tank at the Saumur Tank Museum.ogv|thumb|250px|ソミュール戦車博物館で動態保存されているパンター 2012年]] <gallery widths="180px" heights="150px"> ファイル:Panzer V mg 7819.jpg|[[ソミュール戦車博物館]](A型、動態車両) ファイル:Panzermuseum Munster 2010 0176.JPG|[[ムンスター戦車博物館]](A型) ファイル:Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg Panzerkampfwagen V Panther 1942 LSideFront SATM 05June2013 (14600688105).jpg|[[ジンスハイム自動車・技術博物館]](A型) ファイル:Panzerkampfwagen V A 2.jpg|[[アメリカ陸軍兵器博物館]](A型) ファイル:Panther Ausf D with Ausf A turret pic02.JPG|[[トゥーン戦車博物館]](D型車体+A型砲塔) ファイル:120810 Breda 006.JPG|[[ブレダ (オランダ)|ブレダ]](D型) ファイル:Panther Ausf.G (22750387779).jpg|[[ソミュール戦車博物館]](G型) ファイル:Flickr - davehighbury - Bovington Tank Museum 100 panther.jpg|[[ボービントン戦車博物館]](G型) ファイル:PanzerV Ausf G.jpg|[[クビンカ戦車博物館]](G型、動態車両) ファイル:Aberdeen proving grounds 038.JPG|[[アメリカ陸軍兵器博物館]](G型) </gallery> == 登場作品 == {{Main|V号戦車パンターに関連する作品の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 『グラフィックアクション No.46 ドイツ軍 戦車撃破王列伝』文林堂 1998年 * 『月刊パンツァー 99年9月号「ドイツ・パンター戦車 その開発とバリエーション」』アルゴノート社 1999年 * 『グランドパワー No.079 2000年12月号 クルスク戦のパンター』デルタ出版 2000年 * [[上田信 (イラストレーター)| 上田信]]:著 『戦車メカニズム図鑑』(ISBN 4-87687-179-5) [[グランプリ出版]] 1997年 * ヒラリー・ドイル/トム・イェンツ/マイク・バドロック:著 菊川 由美:訳『<small>世界の戦車イラストレイテッド 30</small> パンター中戦車と派生型 1942-1945』(ISBN 978-4499227582) 大日本絵画 2001年 * マクシム・コロミーエツ:著 小松 徳仁:訳 斎木 伸生 :監修『<small>独ソ戦車戦シリーズ1</small> クルスクのパンター <small>新型戦車の初陣、その隠された記録</small>』(ISBN 978-4499228138) 大日本絵画 2003年 * スティーヴン・ハート/ジム・ローリアー:著 山野 治夫:訳『<small>世界の戦車イラストレイテッド 11</small> パンター中戦車 1942-1945』(ISBN 978-4499228572) 大日本絵画 2004年 * Mike Green著 『Panther: Germany's Quest for Combat Dominance』、Osprey Publishing、2012. * {{Cite book |和書 |author=スティーヴン・J. ザロガ |year=2010 |title=パンターvsシャーマン バルジの戦い1944 |publisher=[[大日本絵画]] |isbn=978-4499230162 |ref={{SfnRef|ザロガ|2010}} }} *{{Citation|和書|author1=ケネス・マクセイ|author2=[[加登川幸太郎]] 訳|title=ロンメル戦車軍団―砂漠の狐 |year=1971|publisher=サンケイ新聞社出版局|ref={{SfnRef|ケネス・マクセイ|1971}}|series=第二次世界大戦ブックス|asin=B000J9HLCM}} *{{Citation|和書|author1=ケネス・マクセイ|author2=[[菊地晟]] 訳|title=米英機甲部隊―全戦車,発進せよ! |year=1973|publisher=サンケイ新聞社出版局|ref={{SfnRef|ケネス・マクセイ|1973}}|series=第二次世界大戦ブックス|asin=B000J9GKSS}} *{{Citation|和書|author1=アルゴノート編集部|title=PANZER(パンツァー) 2020年01月号 |year=2019|publisher=[[アルゴノート]]|ref={{SfnRef|PANZER №690|2019}}|series=PANZER|asin=B07ZLJXKBQ}} * {{Cite book |last1=Jentz |first1=Thomas L. |last2=Doyle |first2=Hilary L. |coauthors= |year=2006 |title=Panzerkampfwagen Panther II and Panther Ausfuehrung F |publisher=Panzer Tracts |volume=PANZER TRACTS No.5-4 |isbn=0-9771643-2-2 |quote= }} * {{Cite book |author=Military Intelligence Service |year=1945 |title=Intelligence Bulletin, January 1944|publisher=Military Intelligence Service |volume=Intelligence Bulletin, January 1944 ||ref={{SfnRef|Military Intelligence Service|1944 }} }} * {{Cite book |author=Military Intelligence Service |year=1945 |title=Intelligence Bulletin, May 1945|publisher=Military Intelligence Service |volume=Intelligence Bulletin, May 1945 ||ref={{SfnRef|Military Intelligence Service|1945}} }} * {{Cite book |洋書 |author=David C. Hardison |year=2012 |title=Data on World War II Tank Engagements: Involving the U.S. Third and Fourth Armored Divisions |publisher=Createspace Independent Pub |isbn=978-1470079062|ref={{SfnRef|David C. Hardison|2012}} }} * {{cite book |last =Zaloga|first= Steven |year=2015|title=Armored Champion: The Top Tanks of World War II |location=Mechanicsburg, PA |publisher=Stackpole Books|isbn=978-0-8117-1437-2|ref={{SfnRef|Steven Zaloga|2015}} }} == 関連項目 == {{Commons|Category:Panzerkampfwagen V}} * [[中戦車]] * [[KF51 (戦車)|KF51 パンター]] - [[ラインメタル]]社が、2022年6月13日、「[[ユーロサトリ]]2022」で発表した、130 mm戦車砲搭載で50 t級の新型戦車。KF41 [[リンクス歩兵戦闘車]]をベースに開発された、120 mm滑腔砲搭載で40 t級の火力支援型「リンクス120」の、発展型。 {{第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:5こうせんしや}} [[Category:V号戦車 (パンター)|*]] [[Category:ドイツ国防軍の戦車]] [[Category:中戦車]]
2003-09-13T12:36:51Z
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長門国
長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。 長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。『日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上した。天智4年(665年)には長門国が初見される。この間に改められた。 穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。古墳時代に成立した穴門国造の領域と阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置された。7世紀後半に長門国に改称した。 明治維新の直前の領域は、下関市、萩市、長門市、美祢市、山陽小野田市、阿武郡および山口市の一部(旧阿東町)、宇部市の大部分(あすとぴあ・今村北・今村南・亀浦三丁目・亀浦四丁目・床波・西岐波・東岐波を除く)にあたる。 海を隔てて朝鮮半島と向かい合う位置に在るので、古代には北部九州に準じて外交・防衛上重視された。 665年(天智天皇3年)には、筑紫国の大野城や基肄城と並んで、長門国に名称不明の城が築かれた。675年(天武天皇4年)には、畿内と陸奥国と長門国を除いて、国司は大山位以下を任じることが定められた。陸奥国と長門国が特別扱いされたのは、辺境の要地にあるためで、同じく辺要の九州は、筑紫大宰を上に持っていた。こうして、一時は他国より格上とされた長門国ではあるが、後に周防総領が置かれるとその管轄下に入ったと考えられる。 この時代の重要な遺跡としては次のようなものがある。 一説によると、下関市豊田湖湖畔に日女尊(ヒメコ・ヒミコ)の冬の居城があり、更に安徳天皇西市陵墓参考地が日女尊の墓とされる(安徳天皇の陵墓は下関市赤間神宮横にある。明治期に正式に認定されたが、安徳天皇が葬られた場所という伝承があるため陵墓参考地に指定されている土地は当該土地を含め10か所以上あるという)。 奈良時代の長門国は、銅を多量に産した。国司直営の銅山から採掘された銅は、都に送られて東大寺の大仏の原料になった。 また貨幣の原料としても重宝され、818年(弘仁9年)3月7日に国司が廃止されて鋳銭使と改められ、長門の行政・貨幣鋳造を司った。その後836年(承和3年)4月に清峯門嗣に長門守任官の記録があり、その頃には国司が復活していたものとみられる。鋳銭所の所在地は下関市長府逢坂・安養寺に比定されている。 源氏と平氏が権力争いを展開した時代の末期、平氏の知行国であった中で厚東氏、豊田氏の両氏が勢力を伸ばし、1185年(元暦2年)には壇ノ浦の戦いの舞台ともなった。 1276年(建治2年)、鎌倉幕府が元寇に対処するため長門探題が置かれた。 周防国山口を本拠地とする大内氏が守護職となり守護代として鷲頭氏や内藤氏が務めた。この大内氏は九州のうち豊前国、筑前国までを勢力圏としていたが、後に安芸国の毛利氏に取って代わられる。 萩に藩庁を置き長州藩の所領であった。寛永年間には馬関が北前船が寄港地として繁栄し、幕末には明治維新への拠点となった。 国府は豊浦郡にあった。現在の下関市長府宮ノ内町の忌宮神社の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。 長府(長門国府)と呼ばれる前は、穴門の豊浦宮(古事記、日本書紀に記載)と呼ばれていた。 合計40郷(『和名抄』)
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長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 長門国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|長門国}} |別称 = 長州(ちょうしゅう) |所属 = [[山陽道]] |領域 = [[山口県]]西半分 |国力 = [[中国 (令制国)|中国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 5郡40郷 |国府 = 山口県[[下関市]] |国分寺 = 山口県下関市 |国分尼寺 = (推定)山口県下関市 |一宮 = [[住吉神社 (下関市)|住吉神社]](山口県下関市) }} '''長門国'''(ながとのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陽道]]に属する。 == 「長門」の名称と由来 == 長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。『[[日本書紀]]』によれば、[[大化]]6年([[650年]])穴戸の[[国司]]([[草壁醜経]])が白雉を献上した。[[天智天皇|天智]]4年([[665年]])には長門国が初見される。この間に改められた。 穴門とは海峡([[関門海峡]])を指しており、[[日本神話]]にも「穴戸神」の名が見える。[[古墳時代]]に成立した[[穴門国造]]の領域と[[阿武国造]]の領域をあわせて、[[7世紀]]に穴戸国が設置された。7世紀後半に長門国に改称した。 == 領域 == [[明治維新]]の直前の領域は、[[下関市]]、[[萩市]]、[[長門市]]、[[美祢市]]、[[山陽小野田市]]、[[阿武郡]]および[[山口市]]の一部(旧[[阿東町]])、[[宇部市]]の大部分(あすとぴあ・今村北・今村南・亀浦三丁目・亀浦四丁目・床波・西岐波・東岐波を除く)にあたる。 == 沿革 == {{multiple image | direction = vertical | image1 = Keichō Kuniezu - Nagato Province (Ube Bunka Kaikan).jpg | image2 = Shōhō Kuniezu - Nagato Province (Yamaguchi Prefectural Archives).jpg | image3 = Genroku Kuniezu - Nagato Province (Yamaguchi Prefectural Archives).jpg | image4 = Tenpō Kuniezu - Nagato Province (National Archives of Japan).jpg | caption4 = [[国絵図]] 慶長・正保・元禄・天保 }} ===古代=== 海を隔てて[[朝鮮半島]]と向かい合う位置に在るので、古代には[[北部九州]]に準じて外交・防衛上重視された。 [[665年]]([[天智天皇]]3年)には、[[筑紫国]]の[[大野城 (筑前国)|大野城]]や[[基肄城]]と並んで、長門国に名称不明の城が築かれた{{要出典|date=2021年12月}}。[[675年]]([[天武天皇]]4年)には、[[畿内]]と[[陸奥国]]と長門国を除いて、[[国司]]は[[大山]]{{要曖昧さ回避|date=2021年4月}}位以下を任じることが定められた{{要出典|date=2021年12月}}。陸奥国と長門国が特別扱いされたのは、辺境の要地にあるためで、同じく辺要の[[九州]]は、[[筑紫大宰]]を上に持っていた。こうして、一時は他国より格上とされた長門国ではあるが、後に[[周防総領]]が置かれるとその管轄下に入ったと考えられる{{要出典|date=2021年12月}}。 この時代の重要な遺跡としては次のようなものがある。 # 須恵器窯跡 (日置(へき)町峠山) - 古墳時代後期から[[奈良時代]] # [[嘉万中村遺跡]] - 弥生時代の遺跡。鉄滓(てっさい)が発掘される # [[仙崎半島]]の糘(すくも)塚古墳群 - 馬具・武器・壺鐙(あぶみ)4個 # 西ノ木横穴墓 # 森ケ岨(もりがすわ)横穴墓 # 向津具(むかつく)半島の玉屋敷山林・油谷(ゆや) - 大陸伝来の[[有柄細型銅剣]] # [[本油谷古墳]] - 壺鐙1個 # [[湯免遺跡]] - 弥生時代の高地性集落遺跡。1979年発掘調査 # [[宮の馬場遺跡]] (北長門) - 卑弥呼の時代の村落遺跡 # [[西久田遺跡]] - 鼓(つつみ)型器台2個 # [[土井ヶ浜遺跡]] (下関市豊北町) - 弥生人骨大量出土。「英雄」(石の鏃11本、鮫の歯の鏃2本が突き刺さっている)や「鵜を抱く女」など # [[綾羅木郷遺跡|綾羅木(あやらぎ)郷遺跡]] - 綾羅木川周辺 # [[仁馬山古墳]] - 古墳時代前期 # 下関郊外の丘陵 - 箱式石棺、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、管玉(くだたま)、蓋弓帽(がいきゅうぼう)、1968年発掘 一説によると、下関市豊田湖湖畔に日女尊(ヒメコ・ヒミコ)の冬の居城があり、更に[[安徳天皇]]西市陵墓参考地が日女尊の墓とされる{{要出典|date=2021年12月}}(安徳天皇の陵墓は下関市赤間神宮横にある。明治期に正式に認定されたが、安徳天皇が葬られた場所という伝承があるため陵墓参考地に指定されている土地は当該土地を含め10か所以上あるという)。 奈良時代の長門国は、銅を多量に産した。国司直営の銅山から採掘された銅は、都に送られて東大寺の大仏の原料になった{{要出典|date=2021年12月}}。 ===平安時代=== また貨幣の原料としても重宝され、[[818年]]([[弘仁]]9年)3月7日に国司が廃止されて'''鋳銭使'''と改められ、長門の行政・貨幣鋳造を司った{{要出典|date=2021年12月}}。その後836年(承和3年)4月に[[清峯門継|清峯門嗣]]に長門守任官の記録があり、その頃には国司が復活していたものとみられる。鋳銭所の所在地は下関市長府逢坂・安養寺に比定されている{{要出典|date=2021年12月}}。 [[源氏]]と[[平氏]]が権力争いを展開した時代の末期、平氏の[[知行国]]であった中で[[厚東氏]]、[[豊田氏]]の両氏が勢力を伸ばし、[[1185年]]([[元暦]]2年)には[[壇ノ浦の戦い]]の舞台ともなった。 ===鎌倉時代=== [[1276年]]([[建治]]2年)、[[鎌倉幕府]]が[[元寇]]に対処するため[[長門探題]]が置かれた。 === 室町・戦国時代 === [[周防国]][[山口市|山口]]を本拠地とする[[大内氏]]が[[守護職]]となり[[守護代]]として[[鷲頭氏]]や[[内藤氏]]が務めた。この大内氏は九州のうち[[豊前国]]、[[筑前国]]までを勢力圏としていたが、後に[[安芸国]]の[[毛利氏]]に取って代わられる。 ===江戸時代=== [[萩]]に[[藩庁]]を置き[[長州藩]]の所領であった。[[寛永]]年間には[[馬関]]が[[北前船]]が寄港地として繁栄し、幕末には[[明治維新]]への拠点となった。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(294村・454,364石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは他国に藩庁が存在。 ** [[阿武郡]](57村・103,978石余) - [[周防国|周防]][[長州藩|山口藩]]、周防[[徳山藩]] ** [[見島 #歴史|見島郡]](2村・1,308石余) - 周防山口藩 ** [[大津郡]](20村・47,722石余) - 周防山口藩 ** [[美祢郡]](23村・67,292石余) - 周防山口藩 ** [[厚狭郡]](40村・95,928石余) - 府中藩、周防山口藩 ** [[豊浦郡]](152村・138,134石余) - '''[[長府藩|府中藩]]'''、'''[[清末藩]]'''、周防山口藩 * 明治2年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]([[1869年]][[9月12日]]) - 任知藩事にともない府中藩が改称して'''[[豊浦藩]]'''となる。 * 明治4年 ** [[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1871年]][[8月5日]]) - 徳山藩が廃藩。領地が山口藩の管轄となる。 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、'''[[山口県]]'''、'''[[豊浦県]]'''、'''[[清末県]]'''の管轄となる。 ** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''山口県'''の管轄となる。 == 国内の施設 == === 国府 === [[国府]]は[[豊浦郡]]にあった。現在の[[下関市]][[長府]]宮ノ内町の忌宮神社の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。 長府(長門国府)と呼ばれる前は、穴門の豊浦宮(古事記、日本書紀に記載)と呼ばれていた。<!--(ここでいう豊浦郡は明治以前のもの)--> === 国分寺・国分尼寺 === ; 長門国分寺跡 : 下関市南部町。 === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社3座1社・小社2座2社の計5座3社が記載されている。大社1社は[[名神大社]]である。[[長門国の式内社一覧]]を参照。 * [[豊浦郡]] 住吉坐荒御魂神社三座(現 [[住吉神社 (下関市)|住吉神社]]) (下関市一の宮) - 名神大社。 * 豊浦郡 [[忌宮神社]] (下関市長府宮ノ内町) * 豊浦郡 [[杜屋神社 (下関市)|杜屋神社]] (下関市豊浦町) ; [[総社]]・[[一宮]]以下 * 総社 惣社宮 - 忌宮神社境外摂社・守宮司神社(下関市長府惣社町)の境内にある。 * 一宮 '''[[住吉神社 (下関市)|住吉神社]]''' * 二宮 [[忌宮神社]] * 三宮 [[龍王神社 (下関市)|龍王神社]](乳母屋神社、下関市大字吉見下) == 地域 == === 郡 === <div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> *[[厚狭郡]](9郷) *[[豊浦郡]](8郷) </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> *[[美祢郡]](6郷) *[[大津郡]](9郷) </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> *[[阿武郡]](8郷) *[[見島郡]](『和名抄』も長門国の郡数合計5としながらこの郡を加えたままにしている。) </div>{{clear|left}} 合計40郷(『[[和名抄]]』) === 江戸時代の藩 === * [[長州藩]](萩藩、毛利藩)、[[毛利氏|毛利家]](36.9万石) * [[長府藩]](長州藩支藩、6万石→5万石→3.8万石→4.7万石→5万石) * [[清末藩]](長府藩支藩、1万石) == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} *[[三輪高市麻呂]]:[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])任官 *[[槻本奈弖麻呂]]:[[延暦]]18年([[799年]])任官 *[[藤原豊彦]]:[[弘仁]]6年([[815年]])任官 *[[清峯門継]]:[[承和 (日本)|承和]]3年([[836年]])任官 *[[藤原宗善]]:承和4年([[837年]])任官 *[[広宗王]]:承和8年([[841年]])任官 *[[高橋清野]]:承和12年([[845年]])任官 *[[紀真岡]]:[[嘉祥]]2年([[849年]])任官 *[[真貞王]]:[[仁寿]]3年([[853年]])任官 *[[善世豊水]]:[[天安 (日本)|天安]]3年([[857年]])任官 *[[橘高成]]:天安3年(857年)任官 *[[橘高成]]:天安3年(857年)任官 *[[紀春常]]:[[貞観 (日本)|貞観]]3年([[861年]])任官 *[[藤原安嶺]]:貞観9年([[867年]])任官 *[[紀真丘]]:貞観11年([[869年]]) *[[宗岳木村]]:[[元慶]]3年([[879年]])離任 *[[橘子善]]:元慶6年([[882年]])任官 *[[菅原宗岳]]:[[仁和]]4年([[888年]])任官 *[[藤原為経]] === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== *[[1186年]]([[文治]]2年)~? - [[佐々木高綱]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} *[[1193年]]([[建久]]4年)~? - [[佐々木定綱]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} *?~[[1221年]]([[承久]]3年) - [[佐々木広綱]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} *1221年(承久3年)[[7月 (旧暦)|7月]]~1221年(承久3年)[[9月 (旧暦)|9月]] - [[小鹿島公業]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} *[[1222年]]([[貞応]]元年)~? - [[天野政景]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} ([[守護代]] [[小田村光兼]]) *[[1242年]]([[仁治]]3年)~? - [[天野義景]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} (守護代 [[大塚康親]]) *[[1252年]]([[建長]]4年){{Efn|または[[1256年]]([[康元]]元年)以前から{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}}。}}~[[1276年]]([[建治]]2年) - [[二階堂行忠]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} (守護代 [[三井資平]]) *1276年([[建治]]2年)~[[1279年]]([[弘安]]2年) - [[北条宗頼]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} (守護代 [[長井頼茂]]、岡田入道浄蓮) *1279年~[[1280年]](弘安3年){{Efn|{{Harvnb|今井尭他|1984|}}では[[1280年]](弘安3年)〜?。}} - [[北条兼時]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} *[[1281年]](弘安4年)~? - [[北条師時]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} (守護代 駿河三郎、平内左衛門尉) *[[1282年]](弘安5年)~? - [[北条忠時]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} *[[1284年]](弘安7年)~[[1296年]]([[永仁]]4年) - [[北条実政]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} (守護代 [[平岡為時]]) **[[1296年]]~[[1298年]] 守護代 [[長門長義]] *[[1298年]](永仁6年)~[[1299年]]([[正安]]元年) - [[北条時仲]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} *[[1300年]](正安2年)~[[1305年]]([[嘉元]]3年) - [[北条時村 (政村流)|北条時村]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} *1305年(嘉元3年)~? - [[北条熙時]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} *?〜[[1307年]]([[徳治]]2年)~[[1319年]]([[元応]]元年)〜? - 北条時仲{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} *?〜[[1323年]]([[元亨]]3年)~[[1333年]]([[元弘]]3年) - [[北条時直]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}} ==== 建武政権 ==== *1333年? - 「長門国守護職次第」によれば「輔大納言」なる人物が守護となったという。[[二条師基]]とする説と[[万里小路宣房]]とする説とがある。 ==== 室町幕府 ==== *1334年~1348年 - [[厚東武実]] (守護代 富永弥六入道) *1348年~1349年 - [[厚東武村]] *1349年~1351年 - [[長井高広]] *1351年~1353年 - [[厚東武直]] *1354年~1358年 - [[厚東義武]] *1358年~1374年 - [[大内弘世]] (守護代 森入道良恵、宮川入道良覚、杉又次郎入道智静、黒川貞信、[[陶弘綱]]) *1375年~1399年 - [[大内義弘]] (守護代 [[杉重貞|杉重貞/重直]]、[[杉儀安|儀安]]、[[杉範安|範安]]、) *1400年~1401年 - [[大内弘茂]] (守護代 [[陶高長]]) *1401年~1431年 - [[大内盛見]] (守護代 [[陶弘長]]、[[陶盛長|盛長]]、[[陶盛政|盛政]]、[[内藤盛貞]]) *1431年~? - [[大内持盛]] (守護代 陶盛政) *1432年~1441年 - [[大内持世]] (守護代 [[鷲頭弘忠|鷲頭盛範]]) *1441年~1465年 - [[大内教弘]] (守護代 鷲頭盛範、[[内藤有貞]]、[[内藤盛世|盛世]]) *1465年~1495年 - [[大内政弘]] (守護代 内藤盛世、[[内藤武盛|武盛]]、[[内藤弘矩|弘矩]]) *1495年~1528年 - [[大内義興]] (守護代 内藤弘矩、[[内藤弘春|弘春]]、[[内藤興盛|興盛]]) *1528年~1551年 - [[大内義隆]] (守護代 内藤興盛) *1562年~1563年 - [[毛利隆元]] === 戦国大名 === *[[大内氏]] **[[陶氏]] *[[毛利氏]] === 武家官位としての長門守 === *江戸時代以前 **[[伊集院忠国]] **[[伊藤盛正]] **[[色部光長]] **[[小笠原成助]] **[[笠間時朝]] **[[村井貞勝]] *江戸時代[[日向国|日向]][[高鍋藩]]主 **[[秋月種長]]:初代藩主 **[[秋月種春]]:第2代藩主 **[[秋月種政]]:第4代藩主 **[[秋月種弘]]:第5代藩主 **[[秋月種美]]:第6代藩主 **[[秋月種殷]]:第10代藩主 *江戸時代[[山城国|山城]][[淀藩]]主 **[[稲葉正知]]:初代藩主 **[[稲葉正備]]:第8代藩主 **[[稲葉正邦]]:第12代藩主 *江戸時代[[陸奥国|陸奥]][[相馬中村藩]]主 **[[相馬義胤 (十六代当主)|相馬義胤]]:初代藩主の父 **[[相馬義胤 (相馬中村藩主)|相馬義胤 ]]:第2代藩主 **[[相馬忠胤]]:第3代藩主 **[[相馬叙胤]]:第6代藩主 **[[相馬恕胤]]:第8代藩主 **[[相馬益胤]]:第11代藩主 *江戸時代[[下野国|下野]][[足利藩]]主 **[[戸田忠時]]:初代藩主 **[[戸田忠言]]:第4代藩主 **[[戸田忠禄]]:第7代藩主 **[[戸田忠行]]:第8代代藩主 *江戸時代[[播磨国|播磨]][[三草藩]]主 **[[丹羽氏栄]]:第2代藩主 **[[丹羽氏福]]:第3代藩主 **[[丹羽氏中]]:第6代藩主 *江戸時代[[常陸国|常陸]][[谷田部藩]]主 **[[細川興栄]]:第4代藩主 **[[細川興虎]]:第5代藩主 **[[細川興徳]]:第7代藩主 **[[細川興建]]:第8代藩主 *江戸時代[[信濃国|信濃]][[須坂藩]]主 **[[堀直佑]]:第4代藩主 **[[堀直寛]]:第6代藩主 **[[堀直郷]]:第8代藩主 **[[堀直虎]]:第13代藩主 **[[堀直明]]:第14代藩主 *江戸時代[[飛騨高山藩]]主 **[[金森重頼]] : 第3代藩主 **[[金森頼直]] : 第4代藩主 *江戸時代[[長州藩]]主 **[[毛利秀就]]:初代藩主 **[[毛利吉就]]:第3代藩主 **[[毛利元徳]]:第14代藩主 *江戸時代その他 **[[安藤信正]]:陸奥[[磐城平藩]]主・老中 **[[石川康通]]:[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]・[[伊勢国|伊勢]][[伊勢亀山藩|亀山藩]]主 **[[板倉重郷]]:[[下総国|下総]][[関宿藩]]主 **[[稲垣重房]]:[[近江国|近江]][[山上藩]]主 **[[植村恒朝]]:[[上総国|上総]][[勝浦藩]]主 **[[木村重成]]:[[豊臣秀頼]]の側近 **[[京極高朗]]:[[讃岐国|讃岐]][[丸亀藩]]主 **[[九鬼隆義]]:[[摂津国|摂津]][[三田藩]]藩主 **[[九鬼守隆]]:[[志摩国|志摩]][[鳥羽藩]]主 **[[久世広運]]:下総[[関宿藩]]主 **[[関一政]]:美濃[[多良藩]]・[[伯耆国|伯耆]][[黒坂藩]]主 **[[本多忠利 (挙母藩主)|本多忠利]]:陸奥[[石川藩]]・[[三河国|三河]][[挙母藩]]主 **[[本多忠央]]:挙母藩・[[遠江国|遠江]][[相良藩]]主 **[[松倉勝家]]:[[肥前国|肥前]][[島原藩]]主 **[[松平近儔]]:[[豊後国|豊後]][[府内藩]]主 **[[米倉昌賢]]:[[武蔵国|武蔵]][[六浦藩]]主 == 長門国の主な合戦 == * [[1185年]] : [[壇ノ浦の戦い]]、源氏([[源義経]]、[[源範頼]]) x 平家([[平宗盛]]、[[平知盛]]) * [[1551年]] : [[大寧寺の変]]、陶([[陶晴賢]]、[[内藤興盛]]、[[杉重矩]]) x 大内([[大内義隆]]、[[大内義尊]]、[[冷泉隆豊]]) * [[1555年]] - [[1557年]] : [[防長経略]]、毛利([[毛利元就]]、[[毛利隆元]]、[[吉川元春]]、[[小早川隆景]]) x 大内([[大内義長]]、[[内藤隆世]]、[[杉隆泰]]、[[山崎興盛]]) * [[1864年]] : [[下関戦争]]、英・仏・蘭・米連合軍 x 長州藩 * [[1864年]] - [[1866年]] : [[長州征討]]、長州藩 x 江戸幕府 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|1}} ==参考文献== *{{Cite book|和書|author=今井尭他|authorlink=今井尭|year=1984|title=日本史総覧|publisher=[[新人物往来社]]|volume=2(古代2/中世 1)|isbn=440401175X|ncid=BN00172373|id={{全国書誌番号|84015835}}|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=「角川日本地名大辞典」編纂委員会編|date=1988.12|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=[[角川書店]]|volume=35 (山口県) |isbn=4040013506|ncid=BN00094881|id={{全国書誌番号|89005550}}|ref=harv}} *{{Cite web|和書|url=https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param|title=旧高旧領取調帳データベースの検索|publisher = [[国立歴史民俗博物館|大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館]]|accessdate = 2017-01-28 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Nagato Province}} * [[長府]] * [[長門市]] * [[長門型戦艦]] * [[令制国一覧]] * [[長門 (戦艦)|長門(戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]。[[長門型戦艦]]の1番艦。艦名は長門国に因む。 {{令制国一覧}} {{長門国の郡}} {{デフォルトソート:なかとのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:山陽道|国なかと]] [[Category:山口県の歴史]] [[Category:長門国|*]]
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アイシティ
アイシティ
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アイシティ コンタクトのアイシティ (eyecity) - HOYA株式会社アイケアカンパニー事業部直営のコンタクトレンズ専門店。2009年まではHOYAヘルスケアが運営していた。→ HOYA#事業所、HOYAヘルスケアを参照。 アイシティ21 - 長野県にあるショッピングセンター。 アイ・シティ - 板橋しゅうほうの漫画。
'''アイシティ''' * コンタクトのアイシティ (eyecity) - [[HOYA|HOYA株式会社]]アイケアカンパニー事業部直営の[[コンタクトレンズ]]専門店。2009年までは[[HOYAヘルスケア]]が運営していた。→ [[HOYA#事業所]]、[[HOYAヘルスケア]]を参照。 * [[アイシティ21]] - 長野県にある[[ショッピングセンター]]。 * [[アイ・シティ]] - [[SYUFO|板橋しゅうほう]]の漫画。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:あいしてい}}
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滝沢乃南
滝沢 乃南(たきざわ のなみ、1985年12月14日 - )は、日本の元女優、元歌手、元グラビアアイドル。 群馬県出身。 芸能スカウトサークル「タレたん(原宿タレント探偵団)」にスカウトされる。中学生時代は桃香、MOMOKA、MONMOなどの名前でタレたんの中で原宿竹下通りの占い事務所塔里木を拠点に活動(占いはやっていない)。ネット写真集を販売することが主な活動であった。その時のメインカメラマンは塚田和徳。その後、タレたんのスタッフが株式会社いちにのさんを設立して活動。この当時、「ASCII24 Club 会員No.40―MONMOさんが紹介するヤマハ(株)“光るギター”『EZ-EG』」でギターを紹介するモデルにてその容姿で脚光を浴びた。その後、滝沢乃南に改名した。 2002年の暮れ、高校2年生16歳のときに1st写真集発表。 2003年、高校2年生17歳の時に1st DVD発表。清純なお嬢様ルックスとバスト95センチのIカップボディーを売りに活動を展開し、人気を博す。 2005年、フジテレビ系ドラマ『ウォーターボーイズ 2005夏』で女優デビュー。 2007年、まくびーに移籍。 2008年8月、ユニバーサルミュージックより『PEACH』でメジャーデビュー。 2010年6月、芸能生活10周年のメモリアル写真集を発売。同年11月、週刊誌『FLASH』にて年内をもって水着グラビアからの卒業を宣言。 2011年から芸能活動を休止。 2013年5月より芸能活動を再開して以降、舞台を中心とする女優活動をしていた。 2015年12月、グラビア卒業を宣言したが「奇跡の復活にして、滝沢乃南の記念碑的ラストDVD!」と銘打ち『ありがとね』を発表。 2016年3月31日、まくびーを退所し、2016年4月1日からイリスに所属することになった。また、同年4月に発生した熊本地震を見て心を痛め、チャリティー撮影会を開催するなど、ある程度のグラビア活動に復帰した。 2016年7月1日、DVD『ありがとね』に全裸の男性カメラマンが映り込んでいることが発覚し、騒動になる。滝沢は自身のブログで、映り込んだカメラマンと入籍していることと、責任をとって引退することを発表した。 2020年9月13日、第一子を出産した事をSNSで報告した。 2022年11月10日、自身のTwitterを更新し、埼玉県出身ではなく群馬県出身であることを公表した。 趣味は散歩、半身浴。特技は歌、水泳、バスケットボール、バドミントン、デジカメで自分を撮ること。
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滝沢 乃南は、日本の元女優、元歌手、元グラビアアイドル。 群馬県出身。
{{存命人物の出典明記|date=2019年10月13日 (日) 07:13 (UTC)}} {{女性アイドル | アイドル名 = 滝沢 乃南 | ふりがな = たきざわ のなみ | 画像ファイル = | 画像コメント = | 別名義 = | 愛称 = のなみん | 生年 = 1985 | 生月 = 12 | 生日 = 14 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 出身地 = {{JPN}}・[[群馬県]] | 死没地 = | 血液型 = [[ABO式血液型|A型]] | 瞳の色 = | 毛髪の色 = | 時点 = 2009年<ref name="sponichi">{{Cite news |date=2009-01-13 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/01/13/kiji/K20090113Z00000020.html |title=Iカップ滝沢乃南「限界までやらされた」 |newspaper=スポーツニッポン |publisher=株式会社スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2022-12-29 }}</ref> | 身長 = 155 | 体重 = | バスト = 95 | ウエスト = 59 | ヒップ = 85 | カップ = I<ref name="sponichi"/> | 身体備考 = | デビュー = [[2002年]] | ジャンル = [[グラビアアイドル]] | 所属グループ = | 活動期間 = 2002年 - 2016年 | 著名な家族 = | 活動備考 = | 他の活動 = [[俳優|女優]]、[[タレント]] | 事務所 = | 音楽レーベル = | 公式サイト = | 主な出演作 = <!-- 主演映画・主演テレビドラマなど。脇役の場合、大ヒットした作品で重要な役割であった、またはその出演功績を認められたもの。例えば、日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞したような役の作品を3作程度まで記載。多い場合は出演欄にリンクするなど羅列にならないように注意。 --> | 主な楽曲 = <!-- 複数の二次情報源によってこの人物の代表的な曲として認められる楽曲を、出典を明記した上で3曲程度まで記載可能 --> | 受賞歴 = }} '''滝沢 乃南'''(たきざわ のなみ、[[1985年]][[12月14日]] - )は、[[日本]]の元[[俳優|女優]]、元[[歌手]]、元[[グラビアアイドル]]。 [[群馬県]]出身<ref name="takizawa01" />{{efn2|芸能活動時は、埼玉県出身だった<ref name="takizawa02" />。}}。 == 略歴 == 芸能スカウトサークル「タレたん(原宿タレント探偵団)」にスカウトされる。中学生時代は桃香、MOMOKA、MONMOなどの名前でタレたんの中で[[原宿]][[竹下通り]]の占い事務所塔里木を拠点に活動(占いはやっていない)。ネット写真集を販売することが主な活動であった。その時のメインカメラマンは塚田和徳。その後、タレたんのスタッフが株式会社[[いちにのさん]]を設立して活動。この当時、「ASCII24 Club 会員No.40―MONMOさんが紹介するヤマハ(株)“光るギター”『EZ-EG』」でギターを紹介するモデルにてその容姿で脚光を浴びた<ref>{{Cite news|url=http://ascii24.com/news/specials/newpupil/2002/05/27/636042-000.html|title=ASCII24 Club 会員No.40―MONMOさんが紹介するヤマハ(株)“光るギター”『EZ-EG』|newspaper=ASCII24|publisher=アスキー・メディアワークス|date=2002-05-27|accessdate=2022-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090331210414/http://ascii24.com/news/specials/newpupil/2002/05/27/636042-000.html|archivedate=2009-03-31}}</ref>。その後、滝沢乃南に改名した。 [[2002年]]の暮れ、高校2年生16歳のときに1st写真集発表。 2003年、高校2年生17歳の時に1st DVD発表。清純なお嬢様ルックスとバスト95センチのIカップボディーを売りに活動を展開し、人気を博す。 2005年、フジテレビ系ドラマ『[[WATER BOYS 2005夏|ウォーターボーイズ 2005夏]]』で女優デビュー。 2007年、[[まくびー]]に移籍。 2008年8月、[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]より『PEACH』でメジャーデビュー。 2010年6月、芸能生活10周年のメモリアル写真集を発売<ref>{{Cite news|url=https://thetv.jp/news/detail/15088/|title=水に溶ける衣装で撮影! Iカップアイドル・滝沢乃南が芸能生活10周年のメモリアル写真集を発売!|newspaper=WEBザテレビジョン|publisher=KADOKAWA|date=2010-06-08|accessdate=2021-02-18}}</ref>。同年11月、週刊誌『FLASH』にて年内をもって水着グラビアからの卒業を宣言<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/music/news/41089|title=グラドル引退滝沢乃南、MEANING高田ら従えワンマンライブ|newspaper=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2010-11-25|accessdate=2021-02-18}}</ref>。 2011年から芸能活動を休止。 2013年5月より芸能活動を再開して以降、舞台を中心とする女優活動をしていた。 2015年12月、グラビア卒業を宣言したが「奇跡の復活にして、滝沢乃南の記念碑的ラストDVD!」と銘打ち『ありがとね』を発表。 2016年3月31日、まくびーを退所し、2016年4月1日からイリスに所属することになった。また、同年4月に発生した[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]を見て心を痛め、チャリティー撮影会を開催するなど、ある程度のグラビア活動に復帰した。 2016年7月1日、DVD『ありがとね』に全裸の男性カメラマンが映り込んでいることが発覚し、騒動になる。滝沢は自身のブログで、映り込んだカメラマンと入籍していることと、責任をとって引退することを発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2016-07-01 |url=https://ameblo.jp/nonami-takizawa/entry-12176336249.html |title=皆様へ {{!}} 滝沢乃南 オフィシャルブログ「不器用で身勝手なdiary」by Ameba |work= |publisher= |accessdate=2019-07-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160702030746if_/https://ameblo.jp/nonami-takizawa/entry-12176336249.html |archivedate=2016-07-02 |deadlinkdate= }}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2074458/full/|title=グラドル滝沢乃南、引退を発表 DVDに全裸男性騒動で「責任をとる」|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2016-07-02|accessdate=2022-10-13}}</ref>。 2020年9月13日、第一子を出産した事をSNSで報告した<ref>{{Cite tweet|author=滝沢乃南 |user=nonami_takizawa |number=1305129150760378372 |title=いつもお世話になっている皆様に大切なご報告があります。 |date=2020-09-13 |accessdate=2022-11-14}}</ref>。 2022年11月10日、自身のTwitterを更新し、埼玉県出身ではなく群馬県出身であることを公表した<ref name="takizawa01">{{Cite tweet|author=滝沢乃南 |user=nonami_takizawa |number=1590624782986665984 |title=皆さん、今更ですが皆さんに隠していた事があります。 |date=2022-11-10 |accessdate=2022-11-14}}</ref>{{efn2|埼玉県出身だった理由をTwitterにて、「母子家庭で、当時所属していた事務所とマネージャーと話し合い、何かあった時に守れないからという事で埼玉県になった」と述べている<ref name="takizawa02">{{Cite tweet|author=滝沢乃南 |user=nonami_takizawa |number=1590624874405728257 |title=私の家は母子家庭で… |date=2022-11-10 |accessdate=2022-11-14}}</ref>。}}。 == 人物 == 趣味は散歩、半身浴。特技は歌、水泳、バスケットボール、バドミントン、デジカメで自分を撮ること。 == 作品 == === イメージビデオ === # Pure Smile(2003年2月20日、[[竹書房]]) # カバーガールズ 滝沢乃南&[[山本彩乃]](2003年7月23日、[[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント]]) # 滝沢乃南 in The Six Senses(2003年9月18日、[[ポニーキャニオン]]) # ピュア(2004年4月23日、[[パンド]]) # ヴィーナス(2004年4月23日、パンド) # Se-女!滝沢乃南(2004年9月25日、[[GPミュージアムソフト]]) # 見つめて…(2004年11月20日、[[ラインコミュニケーションズ]]) # MAJEUR(2005年7月25日、パンド) - 2枚組限定盤も同日発売 # 白桃郷(2006年5月12日、竹書房) # MADE in AKIBA(2006年8月25日、竹書房) - 主演映画『AKIBA』のメイキング # あなたと…(2006年12月15日、ラインコミュニケーションズ) # 和〜nagomi(2007年5月11日、竹書房) # 楽園〜セクシーのなみん王道篇〜(2007年8月20日、ラインコミュニケーションズ) # 逃亡〜ボクの恋人のなみん篇〜(2007年8月20日、ラインコミュニケーションズ) # Dear…(2007年12月19日、[[フォーサイド・ドット・コム]]) # My Darling(2008年3月21日、フォーサイド・ドット・コム) # 悪戯な視線(2008年7月25日、[[イーネット・フロンティア]]) # Special DVD-BOX(2008年10月20日、ラインコミュニケーションズ) - 7、11の作品と未公開映像が収録されたDVD1枚のBOXセット # KURA-KURA〜のなみんinハワイ(2008年12月15日、ラインコミュニケーションズ) # YURA-YURA〜のなみんinジャパン(2008年12月15日、ラインコミュニケーションズ) # 柔肌(2009年7月24日、イーネット・フロンティア) # 好きだから…(2009年7月24日、イーネット・フロンティア) # 3D×衝撃 触れてみて…(2010年1月7日、[[ソフト・オン・デマンド|グラマラスキャンディ]]) # 白肌天使(2010年6月25日、竹書房) # ヒミツ遊戯(2010年6月25日、竹書房) # フィナーレ1/2〜相思(2010年12月15日、ラインコミュニケーションズ) # フィナーレ2/2〜相愛(2010年12月15日、ラインコミュニケーションズ) # PARADISE BOX(2010年12月15日、ラインコミュニケーションズ) - 13、14の作品と未公開映像が収録されたDVD1枚のBOXセット # WAKU-WAKU BOX(2011年6月20日、ラインコミュニケーションズ) - 19、20の作品と未公開映像が収録されたDVD1枚のBOXセット # ありがとね(2015年12月24日、ギルド) == 出演 == === テレビドラマ === *[[WATER BOYS 2005夏]](2005年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 鰤谷ミチル 役 *[[アキハバラ@DEEP]] 第9話(2006年、[[TBSテレビ|TBS]]) - 美希子 役 *[[娼婦と淑女]](2010年、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]) - アケミ 役 === テレビバラエティー === *[[マチコ先生]](2007年11月12日 - 15日、[[テレビ神奈川]]) *[[Goro's Bar]](2008年2月21日、28日、[[TBSテレビ|TBS]]) *BAR80's (2009年4月4日、[[テレビ朝日]]) - レギュラー *[[太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。]] (2009年5月29日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) === 映画 === *[[AKIBA (映画)|AKIBA]](2006年12月、監督:[[小沼雄一]])- 主演・ミナノ 役 *[[大奥 百花繚乱]](2008年11月 監督:[[山本清史]])- お珠 役 *{{仮リンク|JAWS IN JAPAN|en|Jaws in Japan}}(2009年、監督:[[ジョン・ヒジリ]]) - 主演・ミキ 役 === オリジナルビデオ === *遺物 アクトレス「病棟の隣人」(2010年) === CD === ;シングル *のなみん天使〜〜愛と正義のために〜(2007年7月4日・[[ガールズレコード|GIRLS RECORD]]) - 「[[残酷な天使のテーゼ]]」「檄!帝国歌劇団」をカヴァー *[[B・BLUE]] (2007年11月14日・GIRLS RECORD) - ロックバンド[[BOØWY]]のカヴァー曲、[[高橋まこと]]がドラムで参加 ;アルバム *GLORY STORY(2008年04月23日・GIRLS RECORD) *PEACH (2008年8月20日・ユニバーサルミュージック) *Wonderful Discovery (2009年6月24日・[[GEORIDE]]) === 舞台 === * 劇団ROUTE30 第1回公演「SAKANA」(2006年06月9日 - 11日、於・笹塚ファクトリー) * [[劇団たいしゅう小説家]]「無敵な男達」(2006年12月1日 - 10日、於・東京芸術劇場小ホール2) * 劇団たいしゅう小説家 Present's「春遠からず」(2009年2月19日 - 25日、於・MAKOTOシアター銀座) * IOH PRODUCE/landrope PROJECT vol1「お彼岸HOLIDAY」(2009年10月7日 - 12日、於・下北沢・シアター711) * NAOTO KINE+IOH Project「天使の涙…〜竜眼堂物語VOL.1〜」(2009年12月3日 - 16日、於・下北沢・シアター711) * NAOTO KINE+IOH Project「天使の涙…〜竜眼堂物語VOL.1〜」[再演](2010年2月3日 - 14日、於・下北沢・シアター711) * カラフル企画Vol.4「めぐりあうとき」(2013年9月18日 - 22日、於・笹塚ファクトリー) 紀野川咲 役 * 劇団たいしゅう小説家 Present's バリスタ物語劇場版「歳末ハードコアセール」(2013年12月26日 - 29日、於・萬劇場) * SDプロジェクト公演「あなたと住むなら」〜東京タワー編/スカイツリー編〜(2014年2月4日 - 9日、於・築地本願寺ブティストホール) * ユーキース・エンタテインメント 第14回プロデュース公演 第2回園田英樹演劇祭「髪飾りのかたち」(2014年5月20日 - 6月1日【5月24日 13:00、5月27日 19:30、5月29日 19:30、6月1日 15:00】、於・シアター風姿花伝) * 戦後70周年記念特別企画 靖国神社奉納野外劇「俺は、君のためにこそ死ににいく」(2015年7月30日 - 8月2日【月組:7月31日、8月2日】、於・靖国神社境内遊就館前特設舞台) 安田梅子 役 === インターネット === * [[週刊Music EX]](2008年4月 - 9月、[[BIGLOBEストリーム]]) === 携帯サイト === * [[アイドルがイッパイ]] === PCソフトウェア === *Viemo(ヴィーモ)デスクトップキャラクター (2008年10月06日) == 書籍 == === 写真集 === * はじめましてのなみです(2002年12月9日、[[シンコー・ミュージック]]) ISBN 978-4-401-62248-1 * みなさま☆こんにちは(*^○^*)(2003年7月19日、シンコー・ミュージック) ISBN 978-4-401-62253-5 * Naked Peach(2008年8月25日、[[ワニブックス]]) ISBN 978-4-8470-4113-6 * Grand Finale (2010年6月3日、[[小学館]]) ISBN 978-4-09-103085-6 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|nonami_takizawa}} * {{Ameba ブログ|nonami-takizawa|滝沢乃南 オフィシャルブログ}}(2008年2月5日 - ) * {{Wayback|url=http://gree.jp/takizawa_nonami/ |title=滝沢乃南 公式ブログ - GREE |date=20210618090717}}(更新停止) {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たきさわ のなみ}} [[Category:日本の女優]] [[Category:日本の女性アイドル]] [[Category:日本の女性歌手]] [[Category:グラビアアイドル]] [[Category:群馬県出身の人物]] [[Category:1985年生]] [[Category:存命人物]]
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エレクトロルミネセンス
エレクトロルミネセンス(Electroluminescence:EL)、あるいは電界発光(でんかいはっこう)とは主に半導体中において、電界を印加することによって得られるルミネセンスを指す。注入型と真性に区別される。 注入型ELは電界によって電子と正孔を注入し、再結合によって発光をさせるものである。真性ELは電界によって加速した電子が何らかの発光中心に衝突し、発光中心が励起されて発光するものである。 発光物が有機物か無機物かで区別され、前者は有機EL、後者は無機ELと呼ばれる。 バックライト - 赤外域に感度の波長域のある光有機導電性薄膜と組み合わせて赤外光を可視光に変換。
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{{出典の明記|date=2016年10月}} [[Image:Casio W-86 digital watch electroluminescent backlight (ii).jpg|thumb|[[液晶ディスプレイ]]の[[バックライト]]([[カシオ計算機|カシオ]]の[[腕時計]])。右側がバックライト点灯時のようす。]] [[ファイル:66ChargerDash2.jpg|サムネイル|ELにより計器が発光する[[ダッジ・チャージャー]]の[[ダッシュボード (自動車)|ダッシュボード]]]] '''エレクトロルミネセンス'''(Electroluminescence:'''EL''')、あるいは'''電界発光'''(でんかいはっこう)とは{{要出典範囲|主に[[半導体]]中において|date=2021年7月}}、[[電場|電界]]を[[印加]]することによって得られる[[ルミネセンス]]を指す。注入型と真性に区別される。 注入型ELは電界によって[[電子]]と[[正孔]]を注入し、再結合によって[[発光]]をさせるものである。真性ELは電界によって加速した電子が何らかの発光中心に[[衝突]]し、発光中心が[[励起状態|励起]]されて発光するものである。 発光物が[[有機化合物|有機物]]か[[無機化合物|無機物]]かで区別され、前者は[[有機エレクトロルミネッセンス|有機EL]]、後者は[[無機エレクトロルミネッセンス|無機EL]]と呼ばれる。 == 注入型EL == * [[発光ダイオード]] (LED) * [[有機エレクトロルミネッセンス|有機EL]] (OLED) など == 真性EL == [[Image:ELCable.jpg|thumb|right|250px|ELの例:ELケーブル<br />電流を入力することで発光する[[ワイヤ]]状の素材。曲げ加工にも柔軟に対応する]] * [[無機エレクトロルミネッセンス|無機EL]]など == 用途 == [[バックライト]] - 赤外域に感度の[[波長]]域のある光有機導電性薄膜と組み合わせて[[赤外線|赤外光]]を[[可視光線|可視光]]に変換。 ==関連項目== * [[ルミネセンス]] * [[発光]] * [[物性物理学]] * [[有機エレクトロルミネッセンス]](有機EL) * [[無機エレクトロルミネッセンス]](無機EL) {{映像出力機器}} {{tech-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:えれくとろるみねせんす}} [[category:半導体]] [[Category:光学]] [[Category:発光]] [[Category:ディスプレイ技術]] [[Category:エネルギー変換]]
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EL
EL
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EL
'''EL'''__FORCETOC__ ==電子・電産関連== * [[エレクトロルミネセンス]] (Electro Luminescence) ** [[有機エレクトロルミネッセンス]](有機EL) ** [[無機エレクトロルミネッセンス]](無機EL) * [[ニコンの銀塩一眼レフカメラ製品一覧#ニコマートELシリーズ|ニコンのカメラ]]の型名の一つ。 * [[ヤマハ]]の[[エレクトーン]]の型名の一つ。 * [[エランテック]]製の[[集積回路|IC]]の型番 * [[エレクトロニック・ライブラリー]] (Electronic Library)の略称。 * 漏電遮断器付[[コンセント]]。構内電気設備配線用図記号([[JIS]] C 0303:2000)で用いられる。 * [[電気機関車]] (Electric Locomotive) ==自動車関連== * 富士重工業(現・[[SUBARU]])が生産した自動車用エンジンの型式([[スバル・EL15]])。 * 5代目,6代目[[ホンダ・シビック|シビック]]および初代,2代目[[ホンダ・シビックフェリオ|シビックフェリオ]]の1,300ccの最廉価グレード名。 * [[トランスミッション]]に関連しては、1速よりもさらにトルク指向のギアレンジのこと。主に悪路での走行に使われる[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]や[[軽トラック]]などに装備されることがある。 ==その他== * [[UEFAヨーロッパリーグ]](旧UEFAカップ)の略称。 * [[セム語派]]における[[神]]をあらわす言葉。[[エール (神)|エール]]。 * [[エアーニッポン]]の[[国際航空運送協会|IATA]][[航空会社コード]] * [[ギリシャ語]]の[[ISO 639|ISO 639-1言語コード]] * [[京成電鉄]]の[[スカイライナー|イブニングライナー]]の略称。 * [[気象学]]における[[平衡高度]]の略称。 * [[JavaServer Pages#EL式|'''E'''xpression '''L'''anguage]]の略称。[[Java]]の仕様の一つ。 * [[エンティティリスト]] (Entity List) * el - [[スペイン語]]の[[限定詞]]。 * El - [[エール (神)]]。 * [[el]] - 日本のロックバンド。 {{曖昧さ回避}}
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大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー交響楽団(おおさかフィルハーモニーこうきょうがくだん、Osaka Philharmonic Orchestra)は、大阪市西成区岸里に本拠地を置く、日本を代表するオーケストラのひとつ。日本オーケストラ連盟正会員。公益社団法人大阪フィルハーモニー協会が編成し、事業を行っている。 年間10回の定期演奏会のほか、レコーディングも活発に行う。西成区岸里に専用練習場「大阪フィルハーモニー会館」を持ち、長年にわたり「大フィル(だいフィル)」の愛称で親しまれている。公式サイトの「プロフィール」に掲載されていた記事によれば、「日本で一番多くレコード、CDを発表しているオーケストラ」。 創立者(現・創立名誉指揮者)朝比奈隆の時代に、ブルックナーやベートーヴェンなどの交響曲の演奏で全国的に知られるようになった。1975年10月12日リンツ郊外の聖フローリアン教会でのブルックナーの交響曲第7番や、1994年7月24日サントリーホールでの交響曲第8番などの演奏の多くは、今日でもCDで聴くことができる。 2003年、大植英次が音楽監督に就任し、同年5月9日および10日のザ・シンフォニーホールでの音楽監督就任披露演奏会でマーラー交響曲第2番「復活」、2005年3月20日サントリーホールでの就任後初の東京定期演奏会でマーラー第6番「悲劇的」を取り上げ、いずれも大成功を収めた。大植の指揮で、定期演奏会では演奏会形式のオペラ(『サムソンとデリラ』(2004年)、『トスカ』(2005年))も披露したほか、近代曲などもとりあげた。 朝比奈隆の時代から、ヨーロッパ(とりわけドイツ、オーストリア)のオーケストラの音に連なるいわゆる「大フィルサウンド」で知られる。なお、朝比奈隆時代の最後はコンサートマスターに岡田英治と梅沢和人、第2ヴァイオリンの首席に藤井允人を擁していた。2004年9月から、梅沢に加え、首席コンサートマスターロバート・ダヴィドヴィチ(Robert Davidovich)、首席客演コンサートマスター長原幸太が就任。2006年4月から、首席コンサートマスター長原、コンサートマスター梅沢の体制になり、加えて2009年11月から崔文洙が入団、客演コンサートマスターに就任。梅沢は2010年2月をもって退団。 2012年3月、大植が音楽監督を退任、同時に長原も退団した。大植は、音楽監督は退任したものの、「桂冠指揮者」として引き続き大フィルとの関係を保つこととなった。同年9月、田野倉雅秋が特別客演コンサートマスターに、渡辺美穂がコンサートマスターに、それぞれ就任。 2014年4月、井上道義が首席指揮者に、田野倉雅秋が首席コンサートマスターに、それぞれ就任。同年12月、コンサートマスター渡辺美穂が退団。 2016年4月、角田鋼亮が指揮者に就任。 2017年3月、井上道義が首席指揮者を退任、同年4月、尾高忠明がミュージック・アドヴァイザーに就任。 2018年4月、尾高忠明が第3代音楽監督に就任。 また、大フィルメンバーで結成された「ブルーメンクァルテット」、「Quartetto RoSSo」、「Quartet 雅」、「アンサンブル「弐」」や、大フィルメンバー以外の奏者も参加している「ベルリントリオ」、「ザ・シンフォニーホール弦楽合奏団ストリングクインテット」など、多くの室内合奏団が結成されて、中には東京公演を行う合奏団もあるなど、活発な演奏活動を続けている。 この他、秋山和慶、宇宿允人、外山雄三、若杉弘、尾高忠明などが、常任指揮者やミュージック・アドヴァイザーなどとして在任した。
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大阪フィルハーモニー交響楽団は、大阪市西成区岸里に本拠地を置く、日本を代表するオーケストラのひとつ。日本オーケストラ連盟正会員。公益社団法人大阪フィルハーモニー協会が編成し、事業を行っている。
{{複数の問題 | 一次資料 = 2012年12月24日 (月) 06:35 (UTC) | 独自研究 = 2012年4月27日 (金) 13:21 (UTC) }} {{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | Name = 大阪フィルハーモニー交響楽団 | Img = Osaka Philharmonic Kaikan.jpg|thumb|200px|right| | Img_capt = 専用練習場の大阪フィルハーモニー会館 | Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = orchestra | Alias = | Origin = {{JPN}}<br>[[大阪府]][[大阪市]][[西成区]][[岸里]] | Genre = [[クラシック音楽]] | Years_active = [[1947年]] - | Label = | Production = | Associated_acts = | Influences = | URL = [http://www.osaka-phil.com/ 大阪フィルハーモニー交響楽団] | Current_members = '''音楽監督'''<br>[[尾高忠明]]<br>'''桂冠指揮者'''<br>[[大植英次]]<br>'''ソロ・コンサートマスター'''<br>[[崔文洙]]<br>'''コンサートマスター'''<br>[[須山暢大]] | Past_members = '''創立名誉指揮者'''<br>[[朝比奈隆]] | Notable_instruments = }} {{Portal クラシック音楽}} '''大阪フィルハーモニー交響楽団'''(おおさかフィルハーモニーこうきょうがくだん、''Osaka Philharmonic Orchestra'')は、[[大阪市]][[西成区]][[岸里]]に本拠地を置く、日本を代表する[[オーケストラ]]のひとつ。[[日本オーケストラ連盟]]正会員。'''公益社団法人大阪フィルハーモニー協会'''が編成し、事業を行っている<ref>[http://www.osaka-phil.com/disclose/H24_teikan.pdf 大阪フィルハーモニー協会定款]</ref>。 == 概要 == 年間10回の定期演奏会のほか、レコーディングも活発に行う。西成区岸里に専用練習場「大阪フィルハーモニー会館」を持ち、長年にわたり「大フィル(だいフィル)」の愛称で親しまれている。公式サイトの「プロフィール」に掲載されていた記事によれば、「日本で一番多くレコード、CDを発表しているオーケストラ」。 創立者(現・創立名誉指揮者)[[朝比奈隆]]の時代に、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]などの[[交響曲]]の演奏で全国的に知られるようになった。[[1975年]][[10月12日]][[リンツ]]郊外の[[ザンクト・フローリアン修道院|聖フローリアン教会]]でのブルックナーの[[交響曲第7番 (ブルックナー)|交響曲第7番]]や、[[1994年]][[7月24日]]サントリーホールでの[[交響曲第8番 (ブルックナー)|交響曲第8番]]などの演奏の多くは、今日でもCDで聴くことができる。 [[2003年]]、[[大植英次]]が音楽監督に就任し、同年[[5月9日]]および10日の[[ザ・シンフォニーホール]]での音楽監督就任披露演奏会で[[グスタフ・マーラー|マーラー]][[交響曲第2番 (マーラー)|交響曲第2番]]「復活」、[[2005年]][[3月20日]]サントリーホールでの就任後初の東京定期演奏会でマーラー[[交響曲第6番 (マーラー)|第6番]]「悲劇的」を取り上げ、いずれも大成功を収めた。大植の指揮で、定期演奏会では演奏会形式のオペラ(『[[サムソンとデリラ (オペラ)|サムソンとデリラ]]』([[2004年]])、『[[トスカ]]』([[2005年]]))も披露したほか、近代曲などもとりあげた。 朝比奈隆の時代から、ヨーロッパ(とりわけ[[ドイツ]]、[[オーストリア]])のオーケストラの音に連なるいわゆる「大フィルサウンド<ref group="注釈">「大フィルサウンド」は、2018年度および2019年度の京都特別演奏会(それぞれ2018年10月6日、角田鋼亮の指揮、2019年10月6日、尾高忠明の指揮により、京都コンサートホールにて開催)の公式フライヤーに「都に響く! 縦横無尽の大フィルサウンド」と謳われているとおり、大フィルとしても公認の表現となっている。</ref>」で知られる。なお、朝比奈隆時代の最後は[[コンサートマスター]]に[[岡田英治]]と[[梅沢和人]]、第2ヴァイオリンの首席に[[藤井允人]]を擁していた。[[2004年]]9月から、梅沢に加え、首席コンサートマスター[[ロバート・ダヴィドヴィチ]](Robert Davidovich)、首席客演コンサートマスター[[長原幸太]]が就任。[[2006年]]4月から、首席コンサートマスター長原、コンサートマスター梅沢の体制になり、加えて[[2009年]]11月から[[崔文洙]]が入団、客演コンサートマスターに就任。梅沢は[[2010年]]2月をもって退団。 [[2012年]]3月、大植が音楽監督を退任、同時に長原も退団した。大植は、音楽監督は退任したものの、「[[名誉指揮者|桂冠指揮者]]」として引き続き大フィルとの関係を保つこととなった。同年9月、[[田野倉雅秋]]が特別客演コンサートマスターに、[[渡辺美穂 (ヴァイオリニスト)|渡辺美穂]]がコンサートマスター<ref group="注釈">コンサートマスターを女性が務めるときはコンサートミストレスといわれることがあるが、大フィルでは男女とも同じである。</ref>に、それぞれ就任。 [[2014年]]4月、[[井上道義]]が首席指揮者に、田野倉雅秋が首席コンサートマスターに、それぞれ就任。同年12月、コンサートマスター渡辺美穂が退団。 [[2016年]]4月、[[角田鋼亮]]が指揮者に就任。 [[2017年]]3月、井上道義が首席指揮者を退任、同年4月、[[尾高忠明]]がミュージック・アドヴァイザーに就任。 [[2018年]]4月、尾高忠明が第3代音楽監督に就任。 また、大フィルメンバーで結成された「ブルーメンクァルテット<ref group="注釈">「ブルーメン(Blumen)」は、ドイツ語で「花々」という意味である。なお、公演プログラムによっては「ブルーメンカルテット」という表記も見られる。メンバーは、第1ヴァイオリン田中美奈、第2ヴァイオリン力武千幸、ヴィオラ松本浩子、チェロ松隈千代恵。</ref>」、「Quartetto RoSSo<ref group="注釈">メンバーは、第1ヴァイオリン宮田英恵、第2ヴァイオリン黒瀬奈々子、ヴィオラ岩井英樹、チェロ石田聖子。2019年10月20日にはメセナひらかた会館においてベルリントリオ(注釈7を参照)との合同公演を行い、フィナーレには両室内合奏団のメンバー全員でシューマンのピアノ五重奏曲を演奏した。</ref>」、「Quartet 雅<ref group="注釈">メンバーは、第1ヴァイオリン田野倉雅秋、第2ヴァイオリン高木美恵子、ヴィオラ佐藤まり子、チェロ石田聖子。</ref>」、「アンサンブル「弐」<ref group="注釈">メンバーは、フルート井上登紀、オーボエ大島弥州夫、クラリネット船隈慶、ホルン蒲生絢子、ファゴット日比野希美。</ref>」や、大フィルメンバー以外の奏者も参加している「ベルリントリオ<ref group="注釈">メンバーは、ピアノ宮本聖子、ヴァイオリン宮田英恵、チェロ石田聖子。2019年10月20日にはメセナひらかた会館においてQuartetto RoSSo(注釈4を参照)との合同公演を行い、フィナーレには両室内合奏団のメンバー全員でシューマンのピアノ五重奏曲を演奏した。同年11月29日にはムラマツリサイタルホール新大阪において結成5周年記念リサイタルを行い、スメタナのピアノ三重奏曲他を演奏した。</ref>」、「ザ・シンフォニーホール弦楽合奏団ストリングクインテット<ref group="注釈">大フィルからは、ヴァイオリン田野倉雅秋、ヴィオラ木下雄介が参加。</ref>」など、多くの室内合奏団が結成されて、中には東京公演を行う合奏団もあるなど、活発な演奏活動を続けている。 == 年譜 == {{大言壮語|date=2019年12月|section=1}}{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2019年12月}} *[[1947年]] 朝比奈隆と[[鈴木剛 (経営者)|鈴木剛]]ら関西経済人の尽力により、関西交響楽団として設立。 **1月17日 前年の10月に[[満州]]から[[引き揚げ]]てきたばかりの朝比奈隆を中心に、[[大阪放送管弦楽団]](大阪中央放送局(現在の[[NHK大阪放送局]])所属のオーケストラ)、[[宝塚歌劇団]]、[[京都大学]]の各オーケストラの主要メンバー約70名が大阪中央放送局に結集し、新しいオーケストラ結成の意思表明を行う。いわば大フィル「旗揚げ」の日である。 **3月中旬 新しく結成されたオーケストラを「関西交響楽団」と命名。 **4月26日 関西交響楽団第1回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により戦災に焼け残っていた[[朝日会館]]にて行う。関響では[[1953年]]1月の第57回定期まで定演は原則として2日公演で行われ([[1950年]]のみ一部に1日のみ公演、1日2回公演あり)、第1回も翌27日との2日公演であった。ソロ・ピアニストに[[伊達純]]、ソプラノ[[笹田和子]]を迎え、演奏曲目は[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]の[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|「新世界より」]]、[[フランツ・リスト|リスト]]の「[[ハンガリー幻想曲]]」、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の「[[ローエングリン]]」より「エルザの夢」、「[[タンホイザー]]」より「エリザベートの祈り」、「[[リエンツィ]]」序曲であった<ref group="注釈">演奏曲目の記載順序は、当演奏会のポスターに番号付きで掲載されているものに従う。</ref>。関響の初代コンサートマスターは長谷川孝一であった<ref group="注釈">1950年3月まで在任。後に大阪音楽大学教授を務めた。</ref>。 *[[1950年]] **4月 社団法人関西交響楽協会設立。専任指揮者朝比奈隆、理事長[[鈴木剛 (経営者)|鈴木剛]]、専務理事兼事務局長[[原善一郎]]。関響のコンサートマスターが長谷川孝一から宮本政雄に交代。 *[[1951年]] **1月20日 この日の初日(2回公演)から5月5、6日(6日のみ2回公演)の最終回(「[[フィデリオ]]」序曲と[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第9番「合唱付き」]]を演奏)まで5回に分けて、朝比奈隆の指揮により第1回目のベートーヴェン・チクルスを行う。会場はすべて[[毎日会館]]であった。以来、[[2007年]]の[[大植英次]]の指揮による楽団創立60周年記念のものまで、関響・大フィルを通じてベートーヴェン・チクルスは11回を数えた。11回目の大植指揮のもの以外は圧倒的多数が朝比奈指揮による公演であるが、中には[[ズデニェク・コシュラー|コシュラー]]指揮による[[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|4番]]、[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|5番]]([[1969年]]1月17日)といった公演もあった。[[1977年]]の楽団創立30周年記念のチクルス以後は、すべて朝比奈隆の指揮による公演であった。その後、[[2018年]]には音楽監督[[尾高忠明]]の指揮による12回目のベートーヴェン・チクルスが行われた。 **9月 コンサートマスター宮本政雄が常任指揮者に就任。これに伴って、コンサートマスターは小杉博英に交代。 *[[1953年]] 関西交響楽団として初の東京公演。 *[[1960年]] **4月2日 関西交響楽団として最後となった第125回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により毎日ホールにて行う。ソロ・ピアニストに[[賀集裕子]]を迎え、演奏曲目は[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の幻想序曲「[[ロメオとジュリエット (チャイコフスキー)|ロメオとジュリエット]]」、[[ピアノ協奏曲第1番 (チャイコフスキー)|ピアノ協奏曲第1番]]、[[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|交響曲第5番]]という、当時の朝比奈隆が最も得意としていたオール・チャイコフスキー・プロで臨み、関西交響楽団としての13年間にわたった演奏活動の掉尾を飾った。 **大阪フィルハーモニー交響楽団に改称。定期公演の回数は、改称とともに改めて1から勘定している。 **5月14日 大阪フィルハーモニー交響楽団第1回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により毎日ホールにて行う。ソロ・ヴァイオリニストに[[辻久子]]を迎え、演奏曲目は、[[ドミトリー・カバレフスキー|カバレフスキー]]組曲「[[道化師 (カバレフスキー)|道化師]]」よりプロローグ、ギャロップ、ワルツ、パントマイム、スケルツォ、エピローグの6曲、[[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (ハチャトゥリアン)|ヴァイオリン協奏曲]]、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]の[[交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第5番]]であった。この当時のコンサートマスターは小杉博英([[1951年]]9月就任)。この演奏会は、大手紙の関西文化欄等において、「練習不足が目立つ」([[朝日新聞|朝日]])、「前途多難」([[毎日新聞|毎日]])、「演奏に熱気が感じられた」([[読売新聞|読売]])、「再建の気迫欠く」([[産経新聞|産経]])と報じられた。 *[[1961年]] **6月 [[安田英郎]]がコンサートマスターに復帰。以後、[[1980年]]1月に交通事故で急逝するまで、19年間の長きにわたってコンサートマスターを務めた。 **9月 初の外国人コンサートマスターとして、[[ブレーメン交響楽団]]より[[マルチン・バウエルト]]を招聘。 *[[1962年]] **3月17日 大阪フィルハーモニー交響楽団第1回東京定期演奏会を専任指揮者[[遠山信二]]の指揮により[[東京文化会館]]にて行う。ソロ・ピアニストに[[小川京子]]を迎え、演奏曲目は、[[フィンガルの洞窟 (メンデルスゾーン)|「フィンガルの洞窟」序曲]]、「[[大阪俗謡による幻想曲]]」、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[ピアノ協奏曲第26番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲ニ長調 K.537「戴冠式」]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[交響曲第4番 (ブラームス)|交響曲第4番]]であった。 *[[1968年]] **4月17日 第67回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。ソロ・ピアニストに[[園田高弘]]を迎え、演奏曲目は[[リヒャルト・シュトラウス|R・シュトラウス]]の「[[メタモルフォーゼン|23弦楽器のための変容]]」、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番「皇帝」]]、ブラームスの[[交響曲第3番 (ブラームス)|交響曲第3番]]であった。この回より定期演奏会の会場を[[フェスティバルホール]]から[[大阪厚生年金会館]]大ホールに移す。 *[[1969年]] **[[宇宿允人]]を専任指揮者として迎える。以後4年間のうち定期演奏会でのベートーヴェンの「[[ミサ・ソレムニス]]」により、指揮者としてはじめての[[大阪文化祭賞]]を受賞した。 *[[1970年]] **9月21日 第85回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。ソロ・ピアニストに[[荒憲一]]を迎え、演奏曲目は[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の[[交響曲第2番 (シューベルト)|交響曲第2番]]、ベートーヴェンの[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番「皇帝」]]、[[リヒャルト・シュトラウス|R・シュトラウス]]の交響詩「[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]]」であった。この回より定期演奏会の会場をフェスティバルホールに戻す。 *[[1971年]] **11月4、5日 初の海外公演となる[[大韓民国]][[ソウル特別市|ソウル]]特別演奏会をソウル市民会館にて行う。1日目の4日は朝比奈隆の指揮、2日目の5日は[[林元植]]の指揮であった。 *[[1972年]] **6月5、6日 第100回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。演奏曲目は[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の[[交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番「千人の交響曲」]]で、[[関西歌劇団]]、[[大阪音楽大学]]学生の合唱団など実際に1000人の出演者で演奏した。終演後、マーラーの高弟[[クラウス・プリングスハイム|プリングスハイム]]教授は「私は[[1910年]]、[[ミュンヘン]]でこの曲の初演を聴いたが、それ以来の感激だ」と挨拶した。 **11月14日 第104回定期演奏会を[[近衛秀麿]]の指揮により行う。演奏曲目は[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の「[[エグモント (劇音楽)|エグモント]]」序曲、[[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番]]、[[リヒャルト・シュトラウス|R・シュトラウス]]の組曲「[[町人貴族]]」、「[[サロメ (オペラ)|サロメ]]」から「[[7つのヴェールの踊り]]」であった。これが近衛の生涯最後の演奏会となった(近衛は[[1973年]][[6月2日]]没)。 *[[1973年]] **7月24日 第12回東京定期演奏会(上野・東京文化会館)を朝比奈隆の指揮により行う。演奏曲目は、R・シュトラウスのクラリネットとファゴットのための二重小協奏曲と、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の[[交響曲第5番 (ブルックナー)|交響曲第5番]]であった。終了後の聴衆の熱狂は凄まじく、交響曲は後日、当時のFM東京でも放送され、「朝比奈 / 大フィルのブルックナー」を広く印象づけた。朝比奈隆自身も、「自分がブルックナーをやって行けると確信したのは、この東京での『5番』がきっかけだった」と回想している。その後1976年から1978年にかけて、劇場「[[渋谷ジァン・ジァン]]」支配人の高嶋進の資金提供を得て、[[吉野金次]]による録音のもと、ブルックナー交響曲全集を収録。 *[[1975年]] **8月18日 「大フィルをヨーロッパへ送る演奏会」を大阪・中之島のフェスティバルホールで開催。落語家の[[桂米朝 (3代目)|桂米朝]]が演奏会を指揮した<ref>『桂米朝 私の履歴書』163ページ、日本経済新聞社、2002年。</ref>。 **10月 第1回ヨーロッパ演奏旅行。[[スイス]]、[[オーストリア]]、[[西ドイツ]]、[[オランダ]]にて20回の演奏会を行う。本文に記載の聖フローリアン教会でのブルックナーの[[交響曲第7番 (ブルックナー)|交響曲第7番]]の演奏はこの時のこと{{efn|この時のことを、セカンドヴァイオリン奏者近藤緑は「第2楽章と第3楽章の間に(中略)朝比奈先生がちょうど手を胸のあたりまで上げたところで鐘が鳴り始めたため、静かに手をおろしました。私たちも目を閉じ、鐘の音に聞き入りました。演奏中私は教会に響き渡る音色に全身が震え、ほとばしる感動を覚えました。私の人生の中で最も幸せなひと時でした。」と述懐している<ref>第493回定期演奏会プログラム、「私のお気に入りのCD」に掲載。</ref>。}}。 *[[1977年]] **8月25日 大阪フィルハーモニー交響楽団第1回岐阜定期演奏会を[[手塚幸紀]]の指揮により[[岐阜市民会館]]にて行う。岐阜定期演奏会はこの後、翌[[1978年]]のみを例外として毎年行われている([[1987年]]のみ2回開催)。 *[[1978年]] **6月30日 [[貴志康一]]の母校である甲南高等学校の新講堂の竣工記念に、朝比奈隆の指揮により同講堂にて演奏会を行う。ソプラノ樋本栄、ソロ・ヴァイオリニストに[[辻久子]]を迎え、演奏曲目は貴志康一の歌曲、ヴァイオリン協奏曲、交響組曲「[[日本スケッチ]]」であった。この演奏会は、「朝比奈、友情のタクト振る」と新聞、テレビ、ラジオで大きく報じられ、ライブ盤のレコードもリリースされて、貴志康一復活の大きな原動力となった(本項目は、[[2009年]]3月31日に[[ザ・シンフォニーホール]]にて行われた「貴志康一生誕100年記念コンサート」のプログラムに甲南高等学校元教諭の日下徳一(『貴志康一─よみがえる夭折の天才』([[音楽之友社]]、2001年)の著者)寄稿のコラム記事「朝比奈隆と貴志康一」に全面的に依拠している)。 *[[1980年]] **4月 北米演奏旅行。[[カナダ]]、[[アメリカ合衆国]]にて17回の演奏会を行う。 *[[1984年]] **4月24日 第200回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。演奏曲目は日本初演となる[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]の[[交響曲第2番 (フルトヴェングラー)|交響曲第2番]]であった。 *[[1985年]] **9月6 - 10日 [[台湾]]演奏旅行。[[台中市|台中]]、[[台南市|台南]]、[[高雄市|高雄]]、[[基隆市|基隆]]、[[台北市|台北]](日程順)の5都市において1公演ずつ行う。最後の台北公演(会場は国父記念会館)のみ朝比奈隆が指揮台に上り、台北以外での指揮は[[朝比奈千足]]が務めた。 *[[1986年]] **10月 第2回ヨーロッパ演奏旅行。[[スイス]]、[[ユーゴスラヴィア]]、[[チェコスロヴァキア]]、[[オーストリア]]、[[西ドイツ]]、[[オランダ]]にて14回の演奏会を行う。 *[[1987年]] **4月26日 楽団創立40周年記念演奏会を朝比奈隆の指揮により、ザ・シンフォニーホールにて行う。[[ソプラノ]]に[[豊田喜代美]]、[[メゾソプラノ|メッゾ・ソプラノ]]に[[伊原直子]]を迎え、演奏曲目は[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の[[交響曲第2番 (マーラー)|交響曲第2番「復活」]]であった。 *[[1991年]] **7月29日 大阪市西成区岸里の[[南海電気鉄道|南海電鉄]]天下茶屋工場跡地に地上3階建ての「大阪フィルハーモニー会館」が完成<ref>{{Cite|和書|author=南海電気鉄道|title=南海二世紀に入って十年の歩み|year=1995|pages=68,108}}</ref>。交響楽団、協会がともに移転。これにより、交響楽団がかねてから念願の自前の練習場を確保するとともに、楽団と協会の同居を実現した。 *[[1992年]] **10月 第3回ヨーロッパ演奏旅行。[[ドイツ]]、[[イギリス]]、[[ギリシア]]にて18回の演奏会を行う。 *[[1995年]] [[大植英次]]初めて大阪フィルを客演指揮、[[1996年]]に再度客演指揮。 **1月17日 第285回定期演奏会が[[阪神淡路大震災]]のため中止となる(関響、大フィルを通じて、定期演奏会が中止となったのはこの回のみである)が、大フィル団員およびその家族に震災による犠牲者はなかった<ref>第286回定期演奏会プログラムの冒頭に掲載された「謹告」による。</ref>。この後、1月30日より演奏活動を再開した。 *[[1996年]] **7月5日 第300回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。演奏曲目は[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の[[交響曲第8番 (ブルックナー)|交響曲第8番]]であった。 *[[2001年]] **10月24日 大阪フィルハーモニー交響楽団[[2001年]]秋名古屋演奏会を、朝比奈隆の指揮により[[愛知県芸術劇場]]コンサートホールにて行う。ソロ・ピアニストに[[小山実稚恵]]を迎え、演奏曲目は[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の[[ピアノ協奏曲第1番 (チャイコフスキー)|ピアノ協奏曲第1番]]、[[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|交響曲第5番]]であった{{efn|この時のことを、ヴィオラトップ奏者小野眞優美は「「何もしなくていい!やりたい事は全部判っているので、最後までそこにいてくれるだけでいい!」と弾きながら祈るような気持ちでした」と述懐している<ref>第464回定期演奏会プログラム、「大阪フィルの間」に掲載。</ref>。}}。終演後拍手は鳴り止まなかったが、朝比奈隆は極度の疲労のため[[カーテンコール]]に応えることができなかった。この公演の直後、体調不良により入院。病床から願い続けた復帰は遂に叶えられることがなかったため、この名古屋演奏会でのチャイコフスキーが朝比奈隆の指揮台での最後の姿となった。最後の舞台のプログラムは朝比奈がその長かった指揮者人生で一貫して得意中の得意としてきたチャイコフスキーであり、しかも、[[1960年]]4月2日における関西交響楽団最後の定期演奏会のプログラムとほぼ同じであった。なお、チャイコフスキーの交響曲第5番は朝比奈最後の演奏会から5年後の同月、[[2006年]]10月の第402回定期演奏会において、音楽監督大植英次の指揮で演奏された。 **12月29日 音楽総監督・朝比奈隆逝去。享年93。 *[[2003年]] 定期演奏会の会場を[[フェスティバルホール]]から[[ザ・シンフォニーホール]]に移転し、2日間公演とする。 **5月9、10日 [[大植英次]]音楽監督就任披露定期演奏会(本文参照)。 *[[2005年]] **3月20日 大植英次音楽監督就任後初となる第42回東京定期演奏会(本文参照)。 *[[2006年]] **4月29日 [[大阪城公園|大阪城西の丸庭園]]において、大植英次の指揮により楽団史上初の野外コンサートを開催。9,300人以上を動員する一大イベントとなり、成功を収める。演奏曲目は、「[[キャンディード]]」序曲、「[[惑星 (組曲)|惑星]]」より"木星"、[[1812年 (序曲)|序曲「1812年」]]、[[ローマの松|交響詩「ローマの松」]]より"アッピア街道の松"他。 **7月6、7日 第400回定期演奏会を、正式の演奏会では初の客演となる[[大野和士]]の指揮により行う。ソロ打楽器奏者に[[中村功]]を迎え、演奏曲目は[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[交響曲第33番 (モーツァルト)|交響曲第33番]](定期初演)、[[細川俊夫 (作曲家)|細川俊夫]]の打楽器協奏曲「旅人」、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]の[[交響曲第15番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第15番]]であった。 **9月3 - 9日 大植英次のプロデュースにより、大阪フィルハーモニー協会と[[大阪市]]の主催で、「[[大阪クラシック]] -御堂筋にあふれる音楽-」の企画公演を展開。期間中、大阪市のメインストリートである[[御堂筋]]沿いの18の会場において、大阪フィルハーモニーの団員による室内楽など計50公演(ごく一部の団員が出演しない公演をも含んだ数)を行う。大植によれば、1つのオーケストラの団員が1週間にわたって「街に出て」公演を行うというのは「僕の知る限りおそらく世界の都市で初めての試み」。主催者側の当初予想を2倍以上上回る入場者数延べ約22,000人を達成、成功を収める。 *[[2008年]] **7月23日 大阪府議会本会議にて2008年度補正予算が可決成立、これにより翌年度の大阪府から大フィルへの助成金の廃止が正式決定した。 *[[2009年]] **11月1日 客演コンサートマスターとして[[崔文洙]]を迎える。 *[[2010年]] **2月28日 コンサートマスター梅沢和人が退団。 *[[2011年]] **4月1日 客演コンサートマスター崔文洙が首席客演コンサートマスターに就任。 *[[2012年]] **3月31日 「大植英次スペシャルコンサート」を[[大植英次]]の指揮により行う。演奏曲目は[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の[[交響曲第8番 (ブルックナー)|交響曲第8番]]であった。このコンサートを最後に大植は音楽監督を退任。また、首席コンサートマスター[[長原幸太]]、セカンドヴァイオリントップ奏者[[佐久間聡一]]もこのコンサートを最後に退団した。さらに、ホルントップ奏者[[池田重一]]、打楽器トップ奏者[[坂上弘志]]もこの日をもって退団した。これにより、「桂冠指揮者」と首席客演コンサートマスターのみで常任の指揮者もコンサートマスターも欠くという、プロオーケストラとしては異例の状態となった。 **4月1日 大植英次が「桂冠指揮者」に就任。社団法人大阪フィルハーモニー協会が公益社団法人大阪フィルハーモニー協会に移行。 **4月5日 大阪市の改革プロジェクトチームが取りまとめた「施策・事業の見直し(試案)」が公表され、大阪フィルハーモニー協会への運営補助金は2012年度以降、対2011年度比で25パーセント削減されることが示された<ref group="注釈">2011年度に大阪フィルハーモニー協会が1億1000万円、文楽協会が5200万円であったものが、2012年度から2014年度までは両者合計で1億2200万円。両協会それぞれ単独での内訳は資料に明記されていないが、25パーセント削減を当てはめると大阪フィルハーモニー協会の削減幅は2750万円となり、両協会合計での資料上の数字とも合致する。</ref>。 **9月1日 [[田野倉雅秋]]が特別客演コンサートマスターに、渡辺美穂がコンサートマスターに、それぞれ就任した。これにより、上記の「プロオーケストラとしては極めて異例の状態」のうちコンサートマスターについては解消された。 *[[2013年]] **9月25日 2014年度シーズンより、[[井上道義]]を首席指揮者として招くこと{{efn|大フィルは当初、音楽監督への就任を依頼したが、井上がすでに音楽監督を務めていたオーケストラ・アンサンブル金沢に「気を使って多少遠慮して大フィルには首席指揮者という名義で就任した」という経緯があった<ref>井上道義公式サイトのブログ「道義より」の記事による(「 」内の部分は井上本人による記述である)。</ref>。}}、および定期演奏会の会場を2日間開催は維持したうえで新生[[フェスティバルホール]]に戻すことが発表された。これにより、上記の「プロオーケストラとしては極めて異例の状態」が全面的に解消されることとなった。 *[[2014年]] **4月1日 井上道義が首席指揮者に、特別客演コンサートマスター田野倉雅秋が首席コンサートマスターに、それぞれ就任。 **12月31日 コンサートマスター渡辺美穂が退団。 *[[2016年]] **4月1日 [[角田鋼亮]]が指揮者に就任。 **7月21、22日 第500回定期演奏会を井上道義の指揮により行う。メゾ・ソプラノ サンドラ・フェランデス、バリトン ガスパール・コロン、ソロバンドネオン奏者に[[三浦一馬]]を迎え、演奏曲目はバカロフの「ミサ・タンゴ」および[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番「英雄」]]であった。定期演奏会500回を記念して、関西交響楽団、大フィルのすべての定期演奏会の会場、指揮者、ソリスト、演奏曲目を記録した小冊子『定期演奏会全記録』が聴衆全員に無償配布された。 **11月28日 首席指揮者井上道義が[[2017年]]3月31日をもって3年の任期の終了に伴い退任すること、[[尾高忠明]]が同年4月よりミュージック・アドヴァイザーに、[[2018年]]4月より、[[朝比奈隆]](音楽総監督)、[[大植英次]]に続く大フィルの第3代音楽監督に就任することが公式発表された。 *[[2017年]] **2月22日 楽団創立70周年記念第50回東京定期演奏会を井上道義の指揮により、チケット完売で満席となった[[東京芸術劇場]]にて行う。演奏曲目は、第505回定期演奏会と同じ、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]の[[交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第11番「1905年」]]および[[交響曲第12番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第12番「1917年」]]であった。 **3月31日 [[井上道義]]が首席指揮者を退任。 **4月1日 尾高忠明がミュージック・アドヴァイザーに就任。 **12月27日 第512回定期演奏会の成果により、[[芸術祭 (文化庁)|文化庁芸術祭賞]]音楽部門優秀賞を受賞。 *[[2018年]] **1月16日 第505回定期演奏会および[[2017年]]7月14、15日の[[レナード・バーンスタイン|バーンスタイン]]の「ミサ」上演の成果により、井上道義とともに2017年度音楽クリティック・クラブ賞本賞を受賞。 **4月1日 尾高忠明が第3代音楽監督に就任。[[須山暢大]]がコンサートマスターに就任。 **4月7、8日 尾高忠明音楽監督就任披露第517回定期演奏会を尾高忠明の指揮により行う。演奏曲目は[[三善晃]]の「オーケストラのための「ノエシス」と[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の[[交響曲第8番 (ブルックナー)|交響曲第8番]]であった。 **4月26日 大フィルの公式twitterアカウントが「本日大阪フィルは71歳の誕生日を迎えました。」とツイート。4月26日は、[[1947年]]に戦災に焼け残った朝日会館にて関西交響楽団の第1回定期演奏会が行われた日であり(本年譜該当項目を参照)、この日を大フィルが公式に誕生日と位置づけていることが明らかとなった。 *[[2019年]] **3月7日 音楽監督[[尾高忠明]]が第70回[[NHK放送文化賞|日本放送協会放送文化賞(NHK放送文化賞)]]を受賞。 **3月8日 大フィルと音楽監督尾高忠明が、[[2018年]]のベートーヴェン交響曲全曲演奏会(本年譜該当各項目を参照)の成果により大阪文化祭賞を受賞。 **7月31日 首席[[コンサートマスター]][[田野倉雅秋]]が退団。 **9月1日 [[崔文洙]]がソロ・[[コンサートマスター]]に就任。 == 歴代常任指揮者・音楽監督等 == * [[1947年]] - [[2001年]] [[朝比奈隆]](常任指揮者 / のち音楽総監督、没後は創立名誉指揮者) * [[2003年]] - [[2012年]] [[大植英次]](音楽監督 / 2012年4月より桂冠指揮者) * [[2014年]] - [[2017年]] [[井上道義]](首席指揮者) * [[2018年]] - [[尾高忠明]](音楽監督) この他、[[秋山和慶]]、[[宇宿允人]]、[[外山雄三]]、[[若杉弘]]、尾高忠明などが、常任指揮者やミュージック・アドヴァイザーなどとして在任した。 == 演奏会 == *定期演奏会 **[[フェスティバルホール]](年間10プログラム、演奏会回数20回) *東京定期演奏会 **[[サントリーホール]]、[[東京文化会館]]など(年間1プログラム、演奏会回数1回。開催されなかった年もある。) *岐阜定期演奏会 **[[サラマンカホール]](年間1プログラム、演奏会回数1回) *マチネ・シンフォニー **[[ザ・シンフォニーホール]](年間2プログラム、演奏会回数2回) *ソワレ・シンフォニー **ザ・シンフォニーホール(年間2プログラム、演奏会回数2回) *京都特別演奏会 **[[京都コンサートホール]](年間1プログラム、演奏会回数1回) *神戸特別演奏会 **[[神戸国際会館]]こくさいホール(年間1プログラム、演奏会回数1回) *新春名曲コンサート **フェスティバルホール(年間1プログラム、演奏会回数1回) *3大交響曲の夕べ **フェスティバルホール(年間1プログラム、演奏会回数1回) *南海コンサート **[[大阪狭山市文化会館]]([[SAYAKAホール]])、浪切ホール、[[河内長野市立文化会館]]([[ラブリーホール]])など、[[南海電気鉄道|南海電鉄]]沿線のホール(年間1プログラム、演奏会回数1回) *八尾演奏会 **[[八尾市文化会館]](プリズムホール)(年間1プログラム、演奏会回数1回) *にしなりクラシック **大阪フィルハーモニー会館(年間2プログラム、演奏会回数2回) *三木「第九」演奏会 **[[三木市文化会館]](年間1プログラム、演奏会回数1回) *KEIBUN第九演奏会 **[[滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール]](年間1プログラム、演奏会回数1回) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[オーケストラの一覧]] * [[クラシック音楽の指揮者一覧]] * [[コンサートマスター]] * [[在阪オーケストラ]] * [[大阪クラシック]] <!--*[[橋下徹]]←関連項目に置くよりも本文内で言及してリンクすべき。現状では関連性が読み取れないためコメントアウト--> * [[南海電気鉄道]](沿線自治体のホールで大阪フィルと「南海コンサート」を開催) <!--*[[宇野功芳]](音楽評論家、朝比奈の演奏を絶賛し「日本で一番多くレコード、CDを発表しているオーケストラ」に大きく貢献した)←[[宇野功芳]]で説明すべきことであるためコメントアウト--> <!--*[[大栗裕]] (作曲家、朝比奈の招きで[[1950年]]から[[1966年]]までホルン奏者として在籍。自身の曲の多くを大阪フィルで初演した)←在籍者を書いていたらきりがないためコメントアウト--> <!--*山田晴通([[東京経済大学の人物一覧|東京経済大学教授]]。実父が地方大学卒業後に大阪に住み<ref group="注釈">[https://megalodon.jp/2010-0906-1815-かん39/camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-P/rem/n2008.html [年記]:2008年を振り返る]の「山田研究室の「十大」ニュース」の「6(位)」を参照。</ref>在籍、一音楽家としての側面のあった父の教育方針もありクラシック音楽を幼少期より聞いて育ち<ref group="注釈">[http://www.lib.kunitachi.ac.jp/pub/parlando.htm ぱるらんど]([[国立音楽大学]]付属[[図書館]]広報誌))』の218号掲載の[[高野紀子]]との対談を参照(なお紙面では「高野紀子先生 vs 山田晴通先生」という題名で掲載されている)。</ref>、取得学位は教養ないし地理学に関するものであるが音楽の関心も高く研究上の守備範囲としており、音楽に関する講義もする一方でポピュラー音楽に関する学術論文も執筆している<ref group="注釈">例えば[http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/fulltext/99gl.html 山田晴通(1999):『globe:小室哲哉の歌詞が描き出す世界』]</ref>)←直接の関係がないためコメントアウト--> == 外部リンク == * {{Official website}}<!-- * {{Official blog|http://osakaphil1947.blog66.fc2.com/|公式ブログ}} --> * {{Twitter|Osaka_phil}} {{日本オーケストラ連盟}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おおさかふいるはあもにいこうきようかくたん}} [[Category:日本のオーケストラ]] [[Category:公益社団法人 (内閣総理大臣認定)]] [[Category:大阪市の音楽]] [[Category:西成区]] [[Category:大阪府の公益法人]] [[Category:日本オーケストラ連盟正会員]] [[Category:1947年に結成した音楽グループ]]
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マジック
マジック(magicもしくはmagick)。形容詞はマジカル(magical)。
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マジック(magicもしくはmagick)。形容詞はマジカル(magical)。 魔術(魔法) 奇術(手品) マジックドア - 自動ドアを参照。
{{wiktionarypar|マジック}} [[File:RWS Tarot 01 Magician.jpg|thumb|[[タロットカード]]に描かれた[[魔術師]]]] '''マジック'''(magicもしくはmagick)。[[形容詞]]は[[マジカル]](magical)。 * [[魔術]](魔法) * [[奇術]](手品) * マジックドア - [[自動ドア]]を参照。 == 商品名・製品名 == === 類似の製品もマジックーと呼ばれるもの === * [[マジックインキ]] - [[フェルトペン]]の商標名。 === 同ブランドとしてマジックと呼ばれるもの === * [[マジック:ザ・ギャザリング]] - トレーディングカードゲーム。 * [[R.550 (ミサイル)|R.550]]空対空ミサイルの愛称。 * [[日本航空]]の国際線機内エンターテイメントシステムの名称。I〜VI がある。 * Magic - 高速アプリケーション開発ソフト。旧 [[dbMagic]]。 * [[ImageMagick]] == 団体名等 == * [[オーランド・マジック]] - [[NBA]]に所属し、アメリカ合衆国・[[フロリダ州]][[オーランド]]を本拠地とする[[バスケットボール]]チーム。 * [[島根スサノオマジック]] - [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]のバスケットボールチーム。 * [[日本製鉄かずさマジック]] - 社会人野球のチーム。 * [[マジック (バンド)]] - 上澤津孝率いるロカビリーバンド。 * [[Magic!]] - カナダのレゲエファッションバンド。 == 人名 == * [[マジック・ジョンソン]] (1959 - ) - アメリカの[[バスケットボール]]選手、[[バスケットボール殿堂]]、通算17707得点・10141アシスト(歴代5位)。 * [[マジック (声優)]] - 日本の男性声優。主にアダルトゲームに出演している。 * {{仮リンク|マジック (マーベル・コミック)|en|Magik (comics)}} - [[マーベル・コミック]]刊行の[[アメリカン・コミック]]に登場する架空のキャラクター == 音楽作品 == === アルバム === * [[MAGIC (THE SQUAREのアルバム)]] - THE SQUARE([[T-SQUARE]])のアルバム * [[マジック (ギランのアルバム)]] - [[ギラン]]のアルバム * [[MAGIC (MAGICのアルバム)]] - 上記のロカビリーバンド、マジックのアルバム * [[MAGIC (DREAMS COME TRUEのアルバム)]] - [[DREAMS COME TRUE]]のアルバム * {{仮リンク|マジック (ブルース・スプリングスティーンのアルバム)|en|Magic (Bruce Springsteen album)}} - [[ブルース・スプリングスティーン]]のスタジオ・アルバム * [[MAGIC (B'zのアルバム)]] - [[B'z]]のアルバム、および表題曲 * [[MAGIC (EXO-CBXのアルバム)]] - [[EXO-CBX]]の日本アルバム * [[MAGIC (back numberのアルバム)]] - [[back number]]のアルバム === 楽曲 === * [[マジック (オリビア・ニュートン=ジョンの曲)]] - [[オリビア・ニュートン=ジョン]]の楽曲 * [[マジック (カーズの曲)]] - [[ザ・カーズ]]のアルバム『[[ハートビート・シティ]]』に収録 * [[MAGIC (MAXの曲)]] - [[MAX (音楽グループ)|MAX]]のシングル曲。[[Nikon]]『[[COOLPIX]]』CMソング。 * [[M☆A☆G☆I☆C]] - [[久保田利伸 meets KREVA]]のシングル曲。[[日本テレビ]]系『[[ぐるぐるナインティナイン]]』EDテーマ。 * [[MAGIC (MEGの曲)]] - 日本の女性歌手・[[MEG (歌手・ファッションデザイナー)|MEG]]のシングル曲。[[テレビ東京]]系ドラマ『[[正しい王子のつくり方]]』OPテーマ。 * [[MAGIC (愛内里菜の曲)]] - [[愛内里菜]]のシングル曲。[[よみうりテレビ]]・日本テレビ系アニメ『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』OPテーマ。 * [[Magic (小室哲哉の曲)]] - [[小室哲哉]]のシングル曲 * [[magic (Salyuの曲)]] - [[Salyu]]のシングル『[[青空/magic]]』に収録。[[フジテレビ]]系『[[めざにゅ〜]]』テーマソング。 * [[MAGIC (SHOWの曲)]] - SHOW([[羅志祥]])のシングル曲 * M@GIC☆ - [[アイドルマスター シンデレラガールズ|CINDERELLA PROJECT]]の楽曲 → [[THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS ANIMATION PROJECT#2nd Season 07 M@GIC☆]]を参照 * [[MAGIC (AAAの曲)]] - [[AAA (音楽グループ)|AAA]]のシングル曲。[[テレビ朝日]]系 [[金曜ナイトドラマ]]『[[奪い愛、冬]]』主題歌。 * [[マジック (カイリー・ミノーグの曲)]] - [[カイリー・ミノーグ]]のアルバム『[[ディスコ (カイリー・ミノーグのアルバム)|ディスコ]]』に収録 * [[magic! (Little Glee Monsterの曲)]] - [[Little Glee Monster]]のシングル『[[magic!/生きなくちゃ]]』に収録。映画『[[はい、泳げません#映画|はい、泳げません]]』主題歌。 * [[Magic (flumpoolの曲)]] - [[flumpool]]の配信シングル曲。テレビ朝日系スペシャルドラマ『[[私小説 -発達障がいのボクが純愛小説家になれた理由-]]』主題歌。 * [[Magic (Mrs. GREEN APPLEの曲)]] - [[Mrs. GREEN APPLE]]の配信シングル曲。「[[コカ・コーラ]]」CMソング。 == タイトル名 == * [[マジック (小説)]] - [[ウィリアム・ゴールドマン]]の長編小説。 ** [[マジック (映画)]] - 上記小説を原作とした、[[リチャード・アッテンボロー]]監督、[[アンソニー・ホプキンス]]主演のアメリカ映画。 * [[マジック (テレビドラマ)]] - [[カン・ドンウォン]]主演の韓国ドラマ。 * MAGIC - [[エフエム山形]]で平日夕方に放送されるワイド番組。 == その他 == * [[MAGIC (望遠鏡)]] - ラ・パルマ島にある望遠鏡。 * [[マジックナンバー (野球)|マジックナンバー]]の略称。何勝すれば優勝が決定すると言える勝ち数を意味する。米国では野球以外でも使われる。 * [[太平洋戦争]]開戦前後に[[アメリカ合衆国]]が解読した日本の外交暗号電報([[パープル暗号]])の情報に対して付けたコードネーム([[:en:Magic (cryptography)|英語版]])。 == 関連項目 == * [[マジックナンバー (曖昧さ回避)]] * [[マギア]]([[ラテン語]]:magia) * [[マギ]] * [[マジシャン (奇術)]] * {{prefix}} * {{prefix|MAGIC}} * {{prefix|Magic}} * [[:en:Special:PrefixIndex/Magic]] * {{intitle}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:ましつく}} [[Category:呪術]] [[Category:同名の作品]]
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金山駅 (愛知県)
金山駅(かなやまえき)は、愛知県名古屋市熱田区・中区にある、名古屋鉄道・東海旅客鉄道(JR東海)・名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の駅である。 名鉄の名古屋本線、JR東海の中央本線と東海道本線、名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の名城線および名港線の合計3社局5路線が乗り入れており、名古屋駅に次ぐターミナル駅として機能している。駅の北口から南口のビル・広場と中央のコンコースは名古屋市が建設・保有し、全体を金山総合駅(かなやまそうごうえき)と称している。当駅は、総合駅として一括した形で第1回中部の駅百選に認定されている。中央本線の運行形態の詳細は「中央線 (名古屋地区)」を、東海道本線の運行形態の詳細は「東海道線 (名古屋地区)」を、それぞれ参照。 地上1階に線路を南北にまたぐ公共通路があり、通路を挟んで西側にJRの駅舎、東側に名鉄の駅舎が配されている。名鉄とJRのホームは掘割にあり、北側からJR中央本線、名鉄名古屋本線豊橋方面、名鉄名古屋本線岐阜方面、JR東海道本線の順に4本の島式ホームがあり、JR2路線の駅の間に名鉄の駅が挟まれる独特な構造となっている。駅舎およびコンコースは、線路上に設けられた人工地盤の上に設置されている。地下鉄金山駅はこれらの北側地下に位置し、公共通路とエスカレーターで結ばれている。 当駅は東海道本線と中央本線が枝分かれする位置に存在するが、両線には長らく駅がなく、最初に付近へ鉄道駅を設置したのは名古屋鉄道であった。 1944年(昭和19年)に名古屋鉄道の豊橋線と名岐線とを結ぶ東西連絡線が開通し、その中間駅として現・金山駅から南東へ約300 mの位置に金山駅(初代)が開業した。 開業当初は、当駅を境に架線電圧が異なり折り返し運転となっていて、名鉄線同士の乗り換え駅であった。1945年(昭和20年)には駅名が金山橋へと改称され、1948年(昭和23年)からは西部線が1,500 Vに昇圧されたことで東西直通運転が開始された。完全な一中間駅となって当駅折り返し列車は無くなったが、基本的に全ての営業列車が停車する駅となった。駅舎は北側のみにあり、ホームとの間は踏切で結ばれていた。 当時からホーム2面4線を有する待避可能駅だったが、高密度運行区間のため待避に用いられることは少なく、ホームの左右を使った交互発着で停車時分を確保する目的で使われることもあった。 名古屋市は戦災復興計画において金山を副都心と位置付け、国鉄・地下鉄の新駅および金山橋駅の移転による総合駅構想が提示された。1947年(昭和22年)3月に開催された「鉄道復興計画委員会」では以下4点が決議されている。 この決議に従って、中央線では付近の複線化・高架化に合わせて金山駅の配線計画が1958年(昭和33年)8月に決定し、1962年(昭和37年)に開業した。名古屋市交通局も1967年(昭和42年)に地下鉄2号線(現・名城線)を金山駅まで延伸した。 名鉄金山橋駅は移転計画のため、大規模な改修は施されず、旧態依然とした設備で営業を続けていた。中央線と地下鉄の金山駅から離れているため、利用客は金山橋と大津通を渡って乗り換えていた。 国鉄は1970年(昭和45年)頃から東海道線の駅用地確保に乗り出したが、当初予定された2面4線分の用地が確保できなかった。協議の結果、1972年(昭和47年)3月には東海道線を1面2線(将来的に2面3線化される可能性を含む)、名鉄を2面4線とすることが最終決定された。しかし、建設費用などが問題となり計画は停滞した。 その後、1989年(平成元年)に開催が決定された世界デザイン博覧会が転機となって総合駅構想が再び具体化し、名古屋市、JR東海(国鉄線を継承)、名鉄の3者で協定が結ばれた。1987年11月18日に起工式が行われ、南北連絡通路の整備や地下鉄との一体整備(エスカレーター等出口の新設)、JR東海道線ホームの新設、名鉄金山橋駅の移転といった工事が進められ、デザイン博開催を控えた1989年(平成元年)7月9日に駅の一体化が完成し金山総合駅となった。 なお、名鉄はこの改良と同時期に神宮前 - 金山間の複々線化工事にも着手しており、総合駅完成後の同年10月12日に着工、翌1990年(平成2年)4月1日に複々線化した。内側の線路は常滑線の延長として使用されている。 1999年(平成11年)6月に設置された「中部国際空港アクセス利便性向上対策協議会」では金山駅を「名古屋都市圏アクセス拠点」と位置付け、空港開業に向けた整備に取り組むことになった。また同時期に万博(愛・地球博)が開催されることも決定しており、交通拠点の改良は急務であった。 名鉄では2004年(平成16年)に東口、西口およびJR・名鉄乗換口を新設し、乗換利用の利便性向上を図った。また、2005年(平成17年)1月には神宮前方面の渡り線を配線変更し、豊橋 - 空港間の特急運行に備えた。 JRの特急「しなの」は1989年の世界デザイン博覧会開催期間中を除き当駅を通過していたが、中部国際空港の開港にあわせて長野方面と同空港のアクセスを図るため、2005年3月1日のダイヤ改正から名古屋方面(上り)・長野方面(下り)とも各1本が停車するようになった。2007年3月18日からは加えて夕方の長野方面行き3本(しなの21・23・25号)も停車しているが、名古屋方面行きは1日1本(しなの2号)のみ停車する。 東海道本線と中央本線でそれぞれ島式ホームを1面2線ずつ、計2面4線を有する地上駅。直営駅(駅長・駅員配置駅)で、管理駅でもあり熱田駅および鶴舞駅を管理する。駅番号は中央本線がCF01、東海道本線がCA66。特定都区市内制度における「名古屋市内」エリアに属している。東海道本線のホームは名鉄のホームより南側に設置されており、熱田区になる。両線とも名鉄のホームより西側にずれており、中央本線のホームは鶴舞駅側を向いて左にカーブしている。 根室本線にある同名の駅と区別するため、当駅発着のきっぷには「(中)金山」と印字される(特定都区市内制度が適用されるきっぷは除く)。 JR全線きっぷうりばとJR東海ツアーズ金山支店が隣接している。JR改札口付近、ならびに東海道線ホーム、中央線ホームの3箇所にそれぞれ自動体外式除細動器(AED)が設置されている。また、バリアフリー用エレベーター・エスカレーターが整備されている。 JRとしての金山駅は中央本線の信号場(古渡信号場)を移設・格上げしたものである。東海道本線のホームは1989年に設置されたが、それまで東海道本線熱田駅 - 名古屋駅の間には駅がなかった。このことから所属線区は中央本線となっている。東海道本線にホームが設置されるまでは中央本線の快速も通過していた。現在では東海道本線は特別快速以下の列車、中央本線は「ホームライナー」・快速・普通と一部の特急「しなの」が停車する。東海道本線は平日夕方のラッシュ時には大垣方面へ、当駅始発の快速列車の設定が数本存在する。当駅には引き上げ線や渡り線がないため、車両は留置先の熱田駅などから回送される。 東海道本線の駅設置に伴い、中央本線との乗換駅は名古屋駅から金山駅に変更された。その結果、東海道新幹線の三河安城駅以東(東京駅)方面と中央本線の列車を名古屋駅で乗り継ぐ場合、東海道本線(在来線)の熱田駅以東と中央本線の各駅を金山駅を通過する列車を利用して名古屋駅で乗り継ぐ場合には、金山駅 - 名古屋駅の間が区間外乗車の適用対象となり、同区間を除外して運賃を計算する。ただし、名古屋駅では途中下車ができず、改札を出場する場合には同区間の往復運賃が必要となる(東海道本線列車のみが停車する尾頭橋駅でも同様)。JR東海ではこの区間外乗車の実例として、東海道新幹線と中央本線を利用した東京駅 - 多治見駅での運賃計算を図例で紹介している。東海道本線と中央本線の乗り換えには、名鉄名古屋本線をまたぐ通路を通る必要がある。改札口は名鉄とは異なり西棟にのみあり、中央本線ホーム側と、通路中央の名鉄乗換改札口の2か所である。 階段付近は非常に狭い(階段の壁と電車の乗車位置までが国の最低基準である1.5 mほどしかない)ため、2012年10月24日より1番線及び3番線の階段付近8 - 14 mを降車優先エリアとしている。特段大きな事故は発生していなかったが、2012年7月に電車との接触事故があったため、予てから危険性を認識していた当時のJR東海社長山田佳臣により設置が決められた。設置当初は警備員が配備され、そのルールが徹底された。なお、降車優先エリア部分など非常に狭い部分には転落検知マットも設置されている。 (出典:JR東海:駅構内図) 島式ホーム2面4線(有効長は19m車10両分)を有する地上駅である。駅番号はNH34。 名鉄の駅のみ熱田区に位置している。駅舎は公共通路を挟んで東棟と西棟に分かれており、改札口は東棟に東改札口(金山橋側。この改札口のみ終日無人)と中央改札口、西棟に西改札口とJR乗換改札口の計4つが設置されている。 駅ナカ商業施設「μPLAT(ミュープラット) 金山」が2014年9月3日に、それまでの「金山プラザ」をリニューアルする形で開業した。 西棟コンコースにはホームと連絡するエレベーターがある。このコンコースには全日本空輸 (ANA) の自動チェックイン機が、中部国際空港開港の2005年より設置されていたが、2008年に撤去された。また、ミューチケット券売機は設置後わずか数箇月で同駅に移設されたが、2005年9月にJR乗換口から移設され改めて設置されたほか、同時に東棟コンコースにも設置された。 2022年度の設備投資計画より駅設備の大規模改良に着手しており、東棟エレベーターの増設やトイレの多機能化といった設備のバリアフリー化をはじめ、自動券売機や発車案内表示器の更新、ウォークイン型自動改札機の新設、商業施設のリニューアルなどが進められた。発車案内表示器はLED式からディスプレイ式に変更され、新たに空港行き専用の表示器が新設されたほか、列車運行情報などを表示する「エムビジョン」が併設された。このほか、ホームドア導入に向けた実証実験の準備も進められている。 設備投資計画にある西改札口の商業展開の一環として、2023年(令和5年)9月20日にファミリーマート エスタシオ名鉄金山駅西口店が開店した。同店は改札外に有人店舗、改札内に無人店舗を設けた全国初のハイブリット型店舗で、名鉄グループとしては無人店舗自体が初の導入となる。また改札外の有人店舗内には名鉄沿線の物産品を扱うアンテナショップ「IKO→MaI」を併設している。 改札口にある発車標は、岐阜・津島方面、犬山・可児方面、中部国際空港・河和方面、豊橋・西尾方面の4つに分かれて表示される。 (出典:名鉄:駅構内図) ホームは方向別に完全に分離されている神宮前駅と同様、名古屋本線豊橋方面発着の列車が1・4番線、常滑線発着の列車が2・3番線を使用することがほとんどである。また上下それぞれ2線ずつ設けられた線形となっているが、当駅で待避(追い越し)を行う列車は土休日の朝1本(793レ)、深夜1本(2395レ)の計2本しかない。また、中部国際空港の開港にともない豊橋駅発着の中部国際空港駅への乗り入れ列車の折り返しを行うために神宮前方に複々線に跨る渡り線を増設したが、この渡り線を使用する営業列車は2011年3月のダイヤ改正以降は存在しない。当駅を出ると下りは名古屋本線二ツ杁駅(急行は新清洲駅)または犬山線西春駅、上りは名古屋本線堀田駅(急行・準急の待避は本笠寺駅)または常滑線大江駅まで列車待避ができない。 金山 - 枇杷島分岐点間に待避線がなく列車の増発が難しいため、平日朝に限り3番線から当駅で分割し常滑線、名古屋本線に向かう普通列車が存在する。 常滑線からの普通列車はほとんど当駅で折り返しとなるため、2・3番線から留置線が名鉄名古屋駅側に2本延びている。 名古屋市営地下鉄の駅では唯一の同一場所に島式ホーム2面4線を有する地下駅となっており、名城線・名港線とも可動式ホーム柵が設置されている。外側2線が名城線、内側2線が名港線となっている。名港線の各駅と名城線の新瑞橋・八事方面を最短時間で行き来する場合、当駅で乗り換えとなる。駅番号は名城線がM01、名港線がE01。アクセントカラーは水色。地下鉄のホームはJRや名鉄の直下にはなく、やや北側に位置する。 東別院方には、早朝・夜間の名古屋港方面行き折り返し運転用の引上線が1本ある。新瑞橋・名古屋港側は4本の単線シールドトンネルによる立体交差となっている。 改札口は南、中、北の3つ。出入口は、公共通路へのエスカレータ・エレベーター、6か所の地上との出入口、 名古屋市民会館(愛称 : 日本特殊陶業市民会館)への地下連絡通路がある。南改札口の外はLoop金山の地下2階となっており、店舗が数軒ある。また、中改札口と北改札口の間には金山地下街がある。 名城線南部駅務区金山管区駅が管轄する駅であり、本山駅 - 八事日赤駅、総合リハビリセンター駅、妙音通駅 - 金山駅と名港線の全駅(名古屋港駅を除く)を管理している。 当駅を通る計画中の路線として金山線があるが、事業化の目処は立っていない。 右回り方面への線路は名港線からの線路が分岐器なしで接続しており、当駅を発車後に引き上げ線を分けた後、新瑞橋方面からの線路が合流する形になっている(逆は新瑞橋方面への線路から名港線の線路が分岐し引き上げ線に合流)。使用されることはない(名港線開通までは使用していた)が2番ホームから右回り方面へ発車することも可能である。 (出典:名古屋市営地下鉄:駅構内図) 金山駅の総合駅化によって利便性が向上したため、1989年(平成元年)から1993年(平成5年)にかけてJR、名鉄、地下鉄ともに利用者が急増した。以降はほぼ横ばいで推移したが、名鉄は1993年(平成5年)以降一時的に減少に転じた。これは同年に実現した上小田井駅経由の犬山線・鶴舞線相互乗入れによる交通流動の変化が影響したと考えられる。 名鉄交通広告の公式サイトによると、JR・名鉄・地下鉄を含めた金山総合駅全体の利用者数は、2010年現在1日平均396,038人である。 『名古屋市統計年鑑』によると、JR・名鉄・地下鉄を含めた金山総合駅全体の乗降客数は、2013年現在1日平均430,298人である。 (以下、出典の関係から「乗降人員」と「乗車人員」が混在しているため、比較の際は注意を要する) 名鉄の駅では名鉄名古屋駅に次いで2番目に多い。改札を通る利用のほか、同一方向の乗り継ぎを行う客も多いため、改札を通らない客を含めると利用客は名鉄名古屋駅よりかなり多くなる。 2020年度の1日の平均乗車人員は52,408人である。これはJR東海の駅では名古屋駅に次いで第2位であり、同社の在来線のみの駅としては最多、在来線に限れば名古屋駅に次いで第二位の数字である。 『交通局事業概要(令和元年度)』によると2019年度当時の1日平均乗車人員は82,211人であり、この値は名城線では栄駅に次いで2位、名港線では1位、地下鉄全駅では名古屋駅(1位)が加わるため3位である。 「名古屋市統計年鑑」によると、近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り推移している。 金山総合駅として整備されたことにより、駅周辺の事業用地、商業地としての価値が上昇し、施設の立地や集積に伴う建物の高層化が進行している。国土交通省による調査では当駅周辺を「中高層の店舗兼事務所が林立する商業地区」と評している。主要都市の高度利用地地価動向報告~平成27年第1四半期~ 土地総合情報ライブラリー 国土交通省 北口側には金山バスターミナル、複合商業施設「アスナル金山」があり、新設された南口側には駅前再開発事業で1999年4月に開業した金山南ビルがある。金山南ビルにはANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋などが入居する。南口は広場になっており、土日祝日などには、ストリートミュージシャンなどによるライブやバザー等のイベントが頻繁に行われている。manaca導入後は、金山駅構内も含め多くの飲食店などでmanacaが使用できるようになっている。 一方、名鉄金山橋駅が廃止されたことで波寄町(旧・金山橋駅前付近)の商店街は衰退し、地価が比較的安価なこともあって、現在は商業地から住宅地へと土地利用が変化しつつある。 駅北・アスナル金山側にバスターミナルがあり、昭和区・中川区・瑞穂区・港区方面などへのバスが多数発着している。名古屋駅や栄とは異なり、金山を経由または発着する幹線系統は存在しない(かつては金山25が幹金山1という名称であった)。なお、金山総合駅の完成前は名鉄の駅名と同じ「金山橋」という名称だった。路線は名古屋市営バスが中心で、一部他社の路線も設定されている。降車所は金山総合駅北口より少し東へ歩いた場所(金山駅前交番前)にある。1番乗り場は存在しない。 金山総合駅の南口前にある。イオンモール熱田への無料シャトルバスも金山行き市バス乗り場よりやや後ろから乗車できる。 JR高速バスについては、停留所名は「金山駅(南口)」となっている。2022年10月1日から「ANAクラウンプラザ ホテルグランコート名古屋」向かいのドコモショップ前に乗り場を移設した。 (三菱UFJ銀行 金山支店前(大津通側)) (セブンイレブン 名古屋金山駅西店前) (市バス4番乗り場先)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "金山駅(かなやまえき)は、愛知県名古屋市熱田区・中区にある、名古屋鉄道・東海旅客鉄道(JR東海)・名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "名鉄の名古屋本線、JR東海の中央本線と東海道本線、名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の名城線および名港線の合計3社局5路線が乗り入れており、名古屋駅に次ぐターミナル駅として機能している。駅の北口から南口のビル・広場と中央のコンコースは名古屋市が建設・保有し、全体を金山総合駅(かなやまそうごうえき)と称している。当駅は、総合駅として一括した形で第1回中部の駅百選に認定されている。中央本線の運行形態の詳細は「中央線 (名古屋地区)」を、東海道本線の運行形態の詳細は「東海道線 (名古屋地区)」を、それぞれ参照。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "地上1階に線路を南北にまたぐ公共通路があり、通路を挟んで西側にJRの駅舎、東側に名鉄の駅舎が配されている。名鉄とJRのホームは掘割にあり、北側からJR中央本線、名鉄名古屋本線豊橋方面、名鉄名古屋本線岐阜方面、JR東海道本線の順に4本の島式ホームがあり、JR2路線の駅の間に名鉄の駅が挟まれる独特な構造となっている。駅舎およびコンコースは、線路上に設けられた人工地盤の上に設置されている。地下鉄金山駅はこれらの北側地下に位置し、公共通路とエスカレーターで結ばれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当駅は東海道本線と中央本線が枝分かれする位置に存在するが、両線には長らく駅がなく、最初に付近へ鉄道駅を設置したのは名古屋鉄道であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1944年(昭和19年)に名古屋鉄道の豊橋線と名岐線とを結ぶ東西連絡線が開通し、その中間駅として現・金山駅から南東へ約300 mの位置に金山駅(初代)が開業した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "開業当初は、当駅を境に架線電圧が異なり折り返し運転となっていて、名鉄線同士の乗り換え駅であった。1945年(昭和20年)には駅名が金山橋へと改称され、1948年(昭和23年)からは西部線が1,500 Vに昇圧されたことで東西直通運転が開始された。完全な一中間駅となって当駅折り返し列車は無くなったが、基本的に全ての営業列車が停車する駅となった。駅舎は北側のみにあり、ホームとの間は踏切で結ばれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当時からホーム2面4線を有する待避可能駅だったが、高密度運行区間のため待避に用いられることは少なく、ホームの左右を使った交互発着で停車時分を確保する目的で使われることもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "名古屋市は戦災復興計画において金山を副都心と位置付け、国鉄・地下鉄の新駅および金山橋駅の移転による総合駅構想が提示された。1947年(昭和22年)3月に開催された「鉄道復興計画委員会」では以下4点が決議されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この決議に従って、中央線では付近の複線化・高架化に合わせて金山駅の配線計画が1958年(昭和33年)8月に決定し、1962年(昭和37年)に開業した。名古屋市交通局も1967年(昭和42年)に地下鉄2号線(現・名城線)を金山駅まで延伸した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "名鉄金山橋駅は移転計画のため、大規模な改修は施されず、旧態依然とした設備で営業を続けていた。中央線と地下鉄の金山駅から離れているため、利用客は金山橋と大津通を渡って乗り換えていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "国鉄は1970年(昭和45年)頃から東海道線の駅用地確保に乗り出したが、当初予定された2面4線分の用地が確保できなかった。協議の結果、1972年(昭和47年)3月には東海道線を1面2線(将来的に2面3線化される可能性を含む)、名鉄を2面4線とすることが最終決定された。しかし、建設費用などが問題となり計画は停滞した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その後、1989年(平成元年)に開催が決定された世界デザイン博覧会が転機となって総合駅構想が再び具体化し、名古屋市、JR東海(国鉄線を継承)、名鉄の3者で協定が結ばれた。1987年11月18日に起工式が行われ、南北連絡通路の整備や地下鉄との一体整備(エスカレーター等出口の新設)、JR東海道線ホームの新設、名鉄金山橋駅の移転といった工事が進められ、デザイン博開催を控えた1989年(平成元年)7月9日に駅の一体化が完成し金山総合駅となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、名鉄はこの改良と同時期に神宮前 - 金山間の複々線化工事にも着手しており、総合駅完成後の同年10月12日に着工、翌1990年(平成2年)4月1日に複々線化した。内側の線路は常滑線の延長として使用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)6月に設置された「中部国際空港アクセス利便性向上対策協議会」では金山駅を「名古屋都市圏アクセス拠点」と位置付け、空港開業に向けた整備に取り組むことになった。また同時期に万博(愛・地球博)が開催されることも決定しており、交通拠点の改良は急務であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "名鉄では2004年(平成16年)に東口、西口およびJR・名鉄乗換口を新設し、乗換利用の利便性向上を図った。また、2005年(平成17年)1月には神宮前方面の渡り線を配線変更し、豊橋 - 空港間の特急運行に備えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "JRの特急「しなの」は1989年の世界デザイン博覧会開催期間中を除き当駅を通過していたが、中部国際空港の開港にあわせて長野方面と同空港のアクセスを図るため、2005年3月1日のダイヤ改正から名古屋方面(上り)・長野方面(下り)とも各1本が停車するようになった。2007年3月18日からは加えて夕方の長野方面行き3本(しなの21・23・25号)も停車しているが、名古屋方面行きは1日1本(しなの2号)のみ停車する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "東海道本線と中央本線でそれぞれ島式ホームを1面2線ずつ、計2面4線を有する地上駅。直営駅(駅長・駅員配置駅)で、管理駅でもあり熱田駅および鶴舞駅を管理する。駅番号は中央本線がCF01、東海道本線がCA66。特定都区市内制度における「名古屋市内」エリアに属している。東海道本線のホームは名鉄のホームより南側に設置されており、熱田区になる。両線とも名鉄のホームより西側にずれており、中央本線のホームは鶴舞駅側を向いて左にカーブしている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "根室本線にある同名の駅と区別するため、当駅発着のきっぷには「(中)金山」と印字される(特定都区市内制度が適用されるきっぷは除く)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "JR全線きっぷうりばとJR東海ツアーズ金山支店が隣接している。JR改札口付近、ならびに東海道線ホーム、中央線ホームの3箇所にそれぞれ自動体外式除細動器(AED)が設置されている。また、バリアフリー用エレベーター・エスカレーターが整備されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "JRとしての金山駅は中央本線の信号場(古渡信号場)を移設・格上げしたものである。東海道本線のホームは1989年に設置されたが、それまで東海道本線熱田駅 - 名古屋駅の間には駅がなかった。このことから所属線区は中央本線となっている。東海道本線にホームが設置されるまでは中央本線の快速も通過していた。現在では東海道本線は特別快速以下の列車、中央本線は「ホームライナー」・快速・普通と一部の特急「しなの」が停車する。東海道本線は平日夕方のラッシュ時には大垣方面へ、当駅始発の快速列車の設定が数本存在する。当駅には引き上げ線や渡り線がないため、車両は留置先の熱田駅などから回送される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "東海道本線の駅設置に伴い、中央本線との乗換駅は名古屋駅から金山駅に変更された。その結果、東海道新幹線の三河安城駅以東(東京駅)方面と中央本線の列車を名古屋駅で乗り継ぐ場合、東海道本線(在来線)の熱田駅以東と中央本線の各駅を金山駅を通過する列車を利用して名古屋駅で乗り継ぐ場合には、金山駅 - 名古屋駅の間が区間外乗車の適用対象となり、同区間を除外して運賃を計算する。ただし、名古屋駅では途中下車ができず、改札を出場する場合には同区間の往復運賃が必要となる(東海道本線列車のみが停車する尾頭橋駅でも同様)。JR東海ではこの区間外乗車の実例として、東海道新幹線と中央本線を利用した東京駅 - 多治見駅での運賃計算を図例で紹介している。東海道本線と中央本線の乗り換えには、名鉄名古屋本線をまたぐ通路を通る必要がある。改札口は名鉄とは異なり西棟にのみあり、中央本線ホーム側と、通路中央の名鉄乗換改札口の2か所である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "階段付近は非常に狭い(階段の壁と電車の乗車位置までが国の最低基準である1.5 mほどしかない)ため、2012年10月24日より1番線及び3番線の階段付近8 - 14 mを降車優先エリアとしている。特段大きな事故は発生していなかったが、2012年7月に電車との接触事故があったため、予てから危険性を認識していた当時のJR東海社長山田佳臣により設置が決められた。設置当初は警備員が配備され、そのルールが徹底された。なお、降車優先エリア部分など非常に狭い部分には転落検知マットも設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "(出典:JR東海:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面4線(有効長は19m車10両分)を有する地上駅である。駅番号はNH34。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "名鉄の駅のみ熱田区に位置している。駅舎は公共通路を挟んで東棟と西棟に分かれており、改札口は東棟に東改札口(金山橋側。この改札口のみ終日無人)と中央改札口、西棟に西改札口とJR乗換改札口の計4つが設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "駅ナカ商業施設「μPLAT(ミュープラット) 金山」が2014年9月3日に、それまでの「金山プラザ」をリニューアルする形で開業した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "西棟コンコースにはホームと連絡するエレベーターがある。このコンコースには全日本空輸 (ANA) の自動チェックイン機が、中部国際空港開港の2005年より設置されていたが、2008年に撤去された。また、ミューチケット券売機は設置後わずか数箇月で同駅に移設されたが、2005年9月にJR乗換口から移設され改めて設置されたほか、同時に東棟コンコースにも設置された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2022年度の設備投資計画より駅設備の大規模改良に着手しており、東棟エレベーターの増設やトイレの多機能化といった設備のバリアフリー化をはじめ、自動券売機や発車案内表示器の更新、ウォークイン型自動改札機の新設、商業施設のリニューアルなどが進められた。発車案内表示器はLED式からディスプレイ式に変更され、新たに空港行き専用の表示器が新設されたほか、列車運行情報などを表示する「エムビジョン」が併設された。このほか、ホームドア導入に向けた実証実験の準備も進められている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "設備投資計画にある西改札口の商業展開の一環として、2023年(令和5年)9月20日にファミリーマート エスタシオ名鉄金山駅西口店が開店した。同店は改札外に有人店舗、改札内に無人店舗を設けた全国初のハイブリット型店舗で、名鉄グループとしては無人店舗自体が初の導入となる。また改札外の有人店舗内には名鉄沿線の物産品を扱うアンテナショップ「IKO→MaI」を併設している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "改札口にある発車標は、岐阜・津島方面、犬山・可児方面、中部国際空港・河和方面、豊橋・西尾方面の4つに分かれて表示される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "(出典:名鉄:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ホームは方向別に完全に分離されている神宮前駅と同様、名古屋本線豊橋方面発着の列車が1・4番線、常滑線発着の列車が2・3番線を使用することがほとんどである。また上下それぞれ2線ずつ設けられた線形となっているが、当駅で待避(追い越し)を行う列車は土休日の朝1本(793レ)、深夜1本(2395レ)の計2本しかない。また、中部国際空港の開港にともない豊橋駅発着の中部国際空港駅への乗り入れ列車の折り返しを行うために神宮前方に複々線に跨る渡り線を増設したが、この渡り線を使用する営業列車は2011年3月のダイヤ改正以降は存在しない。当駅を出ると下りは名古屋本線二ツ杁駅(急行は新清洲駅)または犬山線西春駅、上りは名古屋本線堀田駅(急行・準急の待避は本笠寺駅)または常滑線大江駅まで列車待避ができない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "金山 - 枇杷島分岐点間に待避線がなく列車の増発が難しいため、平日朝に限り3番線から当駅で分割し常滑線、名古屋本線に向かう普通列車が存在する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "常滑線からの普通列車はほとんど当駅で折り返しとなるため、2・3番線から留置線が名鉄名古屋駅側に2本延びている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "名古屋市営地下鉄の駅では唯一の同一場所に島式ホーム2面4線を有する地下駅となっており、名城線・名港線とも可動式ホーム柵が設置されている。外側2線が名城線、内側2線が名港線となっている。名港線の各駅と名城線の新瑞橋・八事方面を最短時間で行き来する場合、当駅で乗り換えとなる。駅番号は名城線がM01、名港線がE01。アクセントカラーは水色。地下鉄のホームはJRや名鉄の直下にはなく、やや北側に位置する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "東別院方には、早朝・夜間の名古屋港方面行き折り返し運転用の引上線が1本ある。新瑞橋・名古屋港側は4本の単線シールドトンネルによる立体交差となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "改札口は南、中、北の3つ。出入口は、公共通路へのエスカレータ・エレベーター、6か所の地上との出入口、 名古屋市民会館(愛称 : 日本特殊陶業市民会館)への地下連絡通路がある。南改札口の外はLoop金山の地下2階となっており、店舗が数軒ある。また、中改札口と北改札口の間には金山地下街がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "名城線南部駅務区金山管区駅が管轄する駅であり、本山駅 - 八事日赤駅、総合リハビリセンター駅、妙音通駅 - 金山駅と名港線の全駅(名古屋港駅を除く)を管理している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "当駅を通る計画中の路線として金山線があるが、事業化の目処は立っていない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "右回り方面への線路は名港線からの線路が分岐器なしで接続しており、当駅を発車後に引き上げ線を分けた後、新瑞橋方面からの線路が合流する形になっている(逆は新瑞橋方面への線路から名港線の線路が分岐し引き上げ線に合流)。使用されることはない(名港線開通までは使用していた)が2番ホームから右回り方面へ発車することも可能である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "(出典:名古屋市営地下鉄:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "金山駅の総合駅化によって利便性が向上したため、1989年(平成元年)から1993年(平成5年)にかけてJR、名鉄、地下鉄ともに利用者が急増した。以降はほぼ横ばいで推移したが、名鉄は1993年(平成5年)以降一時的に減少に転じた。これは同年に実現した上小田井駅経由の犬山線・鶴舞線相互乗入れによる交通流動の変化が影響したと考えられる。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "名鉄交通広告の公式サイトによると、JR・名鉄・地下鉄を含めた金山総合駅全体の利用者数は、2010年現在1日平均396,038人である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "『名古屋市統計年鑑』によると、JR・名鉄・地下鉄を含めた金山総合駅全体の乗降客数は、2013年現在1日平均430,298人である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "(以下、出典の関係から「乗降人員」と「乗車人員」が混在しているため、比較の際は注意を要する)", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "名鉄の駅では名鉄名古屋駅に次いで2番目に多い。改札を通る利用のほか、同一方向の乗り継ぎを行う客も多いため、改札を通らない客を含めると利用客は名鉄名古屋駅よりかなり多くなる。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2020年度の1日の平均乗車人員は52,408人である。これはJR東海の駅では名古屋駅に次いで第2位であり、同社の在来線のみの駅としては最多、在来線に限れば名古屋駅に次いで第二位の数字である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "『交通局事業概要(令和元年度)』によると2019年度当時の1日平均乗車人員は82,211人であり、この値は名城線では栄駅に次いで2位、名港線では1位、地下鉄全駅では名古屋駅(1位)が加わるため3位である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "「名古屋市統計年鑑」によると、近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り推移している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "金山総合駅として整備されたことにより、駅周辺の事業用地、商業地としての価値が上昇し、施設の立地や集積に伴う建物の高層化が進行している。国土交通省による調査では当駅周辺を「中高層の店舗兼事務所が林立する商業地区」と評している。主要都市の高度利用地地価動向報告~平成27年第1四半期~ 土地総合情報ライブラリー 国土交通省", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "北口側には金山バスターミナル、複合商業施設「アスナル金山」があり、新設された南口側には駅前再開発事業で1999年4月に開業した金山南ビルがある。金山南ビルにはANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋などが入居する。南口は広場になっており、土日祝日などには、ストリートミュージシャンなどによるライブやバザー等のイベントが頻繁に行われている。manaca導入後は、金山駅構内も含め多くの飲食店などでmanacaが使用できるようになっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "一方、名鉄金山橋駅が廃止されたことで波寄町(旧・金山橋駅前付近)の商店街は衰退し、地価が比較的安価なこともあって、現在は商業地から住宅地へと土地利用が変化しつつある。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "駅北・アスナル金山側にバスターミナルがあり、昭和区・中川区・瑞穂区・港区方面などへのバスが多数発着している。名古屋駅や栄とは異なり、金山を経由または発着する幹線系統は存在しない(かつては金山25が幹金山1という名称であった)。なお、金山総合駅の完成前は名鉄の駅名と同じ「金山橋」という名称だった。路線は名古屋市営バスが中心で、一部他社の路線も設定されている。降車所は金山総合駅北口より少し東へ歩いた場所(金山駅前交番前)にある。1番乗り場は存在しない。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "金山総合駅の南口前にある。イオンモール熱田への無料シャトルバスも金山行き市バス乗り場よりやや後ろから乗車できる。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "JR高速バスについては、停留所名は「金山駅(南口)」となっている。2022年10月1日から「ANAクラウンプラザ ホテルグランコート名古屋」向かいのドコモショップ前に乗り場を移設した。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "(三菱UFJ銀行 金山支店前(大津通側))", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "(セブンイレブン 名古屋金山駅西店前)", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "(市バス4番乗り場先)", "title": "バス路線" } ]
金山駅(かなやまえき)は、愛知県名古屋市熱田区・中区にある、名古屋鉄道・東海旅客鉄道(JR東海)・名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の駅である。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{複数の問題 |独自研究=2011年8月 |未検証=2011年8月 }} {{駅情報 |駅名 = 金山駅 |画像 = Kanayama-station-building-002.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 金山総合駅北口(2022年5月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=16|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail-metro|coord={{coord|35|8|35|N|136|54|3|E}}|title=名鉄 金山駅|coord2={{coord|35|8|35.725|N|136|54|3.409|E}}|title2=JR東海 金山駅|coord3={{coord|35|8|38|N|136|54|6.5|E}}|title3=名古屋市交通局 金山駅|marker-color=f33|marker-color2=f77321|marker-color3=B074D6}} |よみがな = かなやま |ローマ字 = Kanayama |副駅名 = 金山総合駅 |所属事業者 = [[名古屋鉄道]](名鉄・[[#名古屋鉄道|駅詳細]])<br/>[[東海旅客鉄道]](JR東海・[[#JR東海|駅詳細]])<br/>[[名古屋市交通局]]([[#名古屋市営地下鉄|駅詳細]]) |所在地 = [[名古屋市]][[熱田区]]・[[中区 (名古屋市)|中区]] }}{{座標一覧}} [[ファイル:Kanayama Station south entrance 2020-10 ac (2).jpg|thumb|金山総合駅南口(2020年10月)]] '''金山駅'''(かなやまえき)は、[[愛知県]][[名古屋市]][[熱田区]]・[[中区 (名古屋市)|中区]]にある、[[名古屋鉄道]]・[[東海旅客鉄道]](JR東海)・[[名古屋市交通局]]([[名古屋市営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == 名鉄の[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]、JR東海の[[中央本線]]と[[東海道本線]]、名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の[[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]および[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]]の合計3社局5路線が乗り入れており、[[名古屋駅]]に次ぐ[[ターミナル駅]]として機能している。駅の北口から南口のビル・広場と中央のコンコースは名古屋市が建設・保有し、全体を'''金山総合駅'''(かなやまそうごうえき)と称している。当駅は、総合駅として一括した形で第1回[[中部の駅百選]]に認定されている。中央本線の運行形態の詳細は「[[中央線 (名古屋地区)]]」を、東海道本線の運行形態の詳細は「[[東海道線 (名古屋地区)]]」を、それぞれ参照。 地上1階に線路を南北にまたぐ公共通路があり、通路を挟んで西側にJRの駅舎、東側に名鉄の駅舎が配されている。名鉄とJRのホームは[[切土|掘割]]にあり、北側からJR中央本線、名鉄名古屋本線豊橋方面、名鉄名古屋本線岐阜方面、JR東海道本線の順に4本の[[島式ホーム]]があり、JR2路線の駅の間に名鉄の駅が挟まれる独特な構造となっている。駅舎およびコンコースは、線路上に設けられた人工地盤の上に設置されている。地下鉄金山駅はこれらの北側地下に位置し、公共通路と[[エスカレーター]]で結ばれている。 == 歴史 == {{節スタブ|1=未明記の出典と加筆(JR、市サイドの記述)|date=2013年10月}} === 金山駅(初代)開業 === 当駅は東海道本線と中央本線が枝分かれする位置に存在するが、両線には長らく駅がなく、最初に付近へ鉄道駅を設置したのは名古屋鉄道であった。 [[1944年]]([[昭和]]19年)に名古屋鉄道の豊橋線と名岐線とを結ぶ東西連絡線が開通し、その中間駅として現・金山駅から南東へ約300&nbsp;mの位置<ref group="注釈">金山橋・高座橋(金山総合駅の東側に位置する大津通の跨線橋、JR東海道本線・名鉄名古屋本線を跨ぐ橋は高座橋(たかくらばし)、JR中央本線を跨ぐ橋は金山橋と称する)と[[八熊通|沢上跨線橋]]の間に存在した。</ref>に金山駅(初代)が開業した<ref name="W140">澤田 2009, p. 140</ref>。 <!--典拠見つけるまで保留 概ね、現在の名鉄金山駅の渡り線から下り第1場内信号機にかけての辺りにホームがあった<ref group="注釈">狭隘な空間でホーム幅もさほど広くなかったが、最終的にはキハ8000系や1000系の8両編成(約160&nbsp;m)が一杯に停車できる程度の有効長を有していた。上下ホームは車両1両分ほどずれており、下り(名古屋方面行き)ホームの方が僅かに現在駅の方へ寄っていた。</ref>。-->開業当初は、当駅を境に架線電圧が異なり折り返し運転となっていて、名鉄線同士の乗り換え駅であった。1945年(昭和20年)には駅名が金山橋へと改称され、1948年(昭和23年)からは西部線が1,500&nbsp;Vに昇圧されたことで東西直通運転が開始された<ref name="W140"/>。完全な一中間駅となって当駅折り返し列車は無くなった<ref group="注釈">神宮前駅方のみ非常時用に渡り線が残された。</ref>が、基本的に全ての営業列車が停車<ref group="注釈">但し「北アルプス」の特急昇格当初など通過する列車も僅かに存在した。旧駅は本線(2・3番線)にカントの低い曲線があり、通過列車でも50&nbsp;km/hの速度制限がかかった。</ref>する駅となった。駅舎は北側のみにあり<!--(現在の住所では熱田区波寄町25-15)-->、ホームとの間は踏切で結ばれていた<ref name="W140"/>。 当時からホーム2面4線を有する待避可能駅だったが、高密度運行区間のため待避に用いられることは少なく<ref>{{Cite journal |和書|author = 白井良和|title = 名古屋本線 852レ|date = 1986-12|publisher = 電気車研究会|journal = 鉄道ピクトリアル|volume = 473|page = 108}}</ref>、ホームの左右を使った[[相互発着|交互発着]]で停車時分を確保する目的で使われることもあった。 <!--典拠見つけるまで保留 特に下り線は1番線が2番線に合流する分岐器までの距離が長く、その手前に両線とも僅か50&nbsp;m間隔で第1出発信号機と第2出発信号機を備えていた(これにより交互発着の場合でも後続列車は場内信号機が注意現示で進入できる)ほか、付近の平均閉塞長さも非常に短く取られ、頻繁運転に十分対応できる機能を備えていた。 --> === 金山総合駅構想 === [[名古屋市]]は[[戦災復興計画]]において金山を副都心と位置付け、国鉄・地下鉄の新駅および金山橋駅の移転による総合駅構想が提示された<ref name="M58">森川 1996, p. 58</ref>。[[1947年]](昭和22年)3月に開催された「鉄道復興計画委員会」では以下4点が決議されている<ref name="N669">新修名古屋市史編集委員会 1998, p. 669</ref><ref group="注釈">会議には愛知県、名古屋市、商工会議所、国鉄名古屋鉄道管理局、岐阜工事局、名古屋鉄道のほか近畿日本鉄道も参加していた。付近に路線がないにもかかわらず近鉄の事項が含まれているのはそのためである。</ref>。 * 北口に23,000&nbsp;m<sup>2</sup>、南口に10,400&nbsp;m<sup>2</sup>分の用地を確保し駅前広場とする。 * 東海道本線は2面4線、中央本線は1面2線、名鉄は2面2または4線、地下鉄は3面4線とする。 * 乗降用に跨線橋3、地下鉄連絡に地下道1を整備。 * [[近畿日本鉄道]](近鉄)は乗り入れない<ref group="注釈">ただし、当駅付近を通るように計画されていた[[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について#市交金山線の新設|名古屋市営地下鉄5号線(金山線)]]と[[近鉄名古屋線]]との相互直通運転が検討されていたことはあった。</ref>。 この決議に従って、中央線では付近の複線化・高架化に合わせて金山駅の配線計画が[[1958年]](昭和33年)8月に決定し、[[1962年]](昭和37年)に開業した<ref name="N669"/>。名古屋市交通局も[[1967年]](昭和42年)に地下鉄2号線(現・名城線)を金山駅まで延伸した<ref group="注釈">地下鉄駅は決議と異なり2面4線となった。</ref>。 名鉄金山橋駅は移転計画のため、大規模な改修は施されず、旧態依然とした設備で営業を続けていた<ref group="注釈">地上駅時代の堀田駅跨線橋を流用して構内踏切が1970年に解消されたが、それ以外は特に移転まで大きな変化はなかった。</ref>。中央線と地下鉄の金山駅から離れているため、利用客は金山橋と[[大津通]]を渡って乗り換えていた。 国鉄は[[1970年]](昭和45年)頃から東海道線の駅用地確保に乗り出したが、当初予定された2面4線分の用地が確保できなかった<ref>{{Cite book|和書|author = 徳田耕一|title = 名古屋近郊 電車のある風景 今昔|date = 2003-01|publisher = JTB|isbn=978-4533045981|page=26}}</ref>。協議の結果、[[1972年]](昭和47年)3月には東海道線を1面2線(将来的に2面3線化される可能性を含む)、名鉄を2面4線とすることが最終決定された<ref name="N669"/>。しかし、建設費用などが問題となり計画は停滞した<ref>新修名古屋市史編集委員会 1998, p. 670</ref>。 <gallery widths="480px" heights="334px"> Kanayama Station-Aerial photography-2.jpg|高座橋東側に名鉄金山橋駅、金山橋西側に中央本線金山駅がある。東海道本線に駅はないが、ホーム分の用地が確保されている。<br /><small>帰属:国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」<br />配布元:[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]</small> </gallery> その後、[[1989年]](平成元年)に開催が決定された[[世界デザイン博覧会]]が転機となって総合駅構想が再び具体化し、名古屋市、JR東海(国鉄線を継承)、名鉄の3者で協定が結ばれた<ref name="M58"/>。[[1987年]][[11月18日]]に起工式が行われ、南北連絡通路の整備や地下鉄との一体整備(エスカレーター等出口の新設)、JR東海道線ホームの新設、名鉄金山橋駅の移転<ref group="注釈">現在駅に移転した当初は、旧ホームや跨線橋が完全に撤去されるまでほんの暫くの間だが旧駅の神宮前駅方分岐器を残し、そこから新駅へ旧駅の4本の線路をそのまま繋いで営業運行していた。現在、旧線路敷は名鉄の複々線に転用され、[[東芝テック]]中部支社が進出している駅舎跡地も含めて、旧駅の遺構は全く残っていない。</ref>といった工事が進められ<ref name="M58-59">森川 1996, pp. 58-59</ref>、デザイン博開催を控えた1989年([[平成]]元年)[[7月9日]]に駅の一体化が完成し'''金山総合駅'''となった<ref name="W140"/>。 なお、名鉄はこの改良と同時期に[[神宮前駅|神宮前]] - 金山間の複々線化工事にも着手しており、総合駅完成後の同年10月12日に着工、翌[[1990年]](平成2年)4月1日に複々線化した<ref>{{Cite news |title=名古屋本線 神宮前-金山間 複々線化工事が完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-04-07 |page=1 }}</ref>。内側の線路は常滑線の延長として使用されている。 {{駅配線図|image=Rail Tracks map Meitetsu Jingū-mae and Kanayamabashi (Kanayama) Station.svg |title=金山橋(金山)―神宮前間 配線変更・移設と複線化の推移 |width=401px |source=<ref>名古屋鉄道広報宣伝部(編) 『名古屋鉄道百年史』 名古屋鉄道、1994年</ref> |note=図中の赤が本線系統、青が常滑系統を示す。<br />金山駅神宮前方の渡り線は後に変更されている<ref name="W141"/>。}} === 空港開業・万博開催 === [[1999年]](平成11年)[[6月]]に設置された「[[中部国際空港]]アクセス利便性向上対策協議会」では金山駅を「[[名古屋都市圏]]アクセス拠点」と位置付け、空港開業に向けた整備に取り組むことになった<ref>髙木 2006, p. 44</ref>。また同時期に[[2005年日本国際博覧会|万博]](愛・地球博)が開催されることも決定しており、交通拠点の改良は急務であった。 名鉄では[[2004年]](平成16年)に東口、西口およびJR・名鉄乗換口を新設し、乗換利用の利便性向上を図った。<!--3月に名鉄の東口が、12月に名鉄の西口とJR・名鉄乗換口が新設された。-->また、[[2005年]](平成17年)1月には神宮前方面の渡り線を配線変更し、[[名鉄特急#豊橋方面へ直通した空港特急|豊橋 - 空港]]間の特急運行に備えた<ref name="W141">澤田 2009, p. 141</ref>。 JRの特急「[[しなの (列車)|しなの]]」は1989年の世界デザイン博覧会開催期間中を除き当駅を通過していたが、中部国際空港の開港にあわせて長野方面と同空港のアクセスを図るため、[[2005年]][[3月1日]]のダイヤ改正から名古屋方面(上り)・長野方面(下り)とも各1本が停車するようになった。[[2007年]][[3月18日]]からは加えて夕方の長野方面行き3本(しなの21・23・25号)も停車しているが、名古屋方面行きは1日1本(しなの2号)のみ停車する。 === 年表 === ==== 国鉄・JR東海 ==== * [[1947年]]([[昭和]]22年)3月:鉄道復興計画委員会の決議で金山駅の設置を決定する。 * [[1962年]](昭和37年) ** [[1月25日]]:[[中央本線]]の[[鶴舞駅]] - [[名古屋駅]]間に'''金山駅'''が新設開業<ref group="注釈">書類上は[[古渡信号場]]を移設した上で駅に格上げしたとされている。</ref>。 ** [[9月27日]]:千種駅 - 金山駅間を複線高架化。 * [[1964年]](昭和39年)[[3月2日]]:金山駅 - [[山王信号場]]間を複線化。 * [[1966年]](昭和41年)[[5月14日]]:名古屋駅 - 当駅 - [[多治見駅]]間を電化。 * [[1972年]](昭和47年)3月:[[東海道本線]]の金山駅の計画を2面4線から1面2線に変更。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により[[東海旅客鉄道]](JR東海)の駅となる<ref>{{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |page=27 }}</ref>。 ==== 名古屋鉄道(金山橋) ==== [[ファイル:Meitetsu3502太田川準急.jpg|thumb|金山橋に停車する[[名鉄3500系電車 (初代)|3500系(初代)]]。(1980年)]] * [[1944年]]([[昭和]]19年) ** [[9月1日]]:東西連絡線([[神宮前駅]] - [[名鉄名古屋駅|新名古屋駅]](現・名鉄名古屋駅)間)開通により'''金山駅'''開業。 ** [[12月21日]]:当駅を境に神宮前側は'''豊橋線'''、新名古屋側は'''名岐線'''に編入。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[3月12日]]:[[名古屋大空襲]]で駅舎被災<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=972}}</ref>。 ** [[7月1日]]:'''金山橋駅'''に改称。 * [[1947年]](昭和22年)[[3月]]:鉄道復興計画委員会の決議で金山橋駅の移転が決定。 * [[1948年]](昭和23年)[[5月16日]]:豊橋線と名岐線が[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]に統一される。 * [[1970年]](昭和45年)[[6月]]:跨線橋設置<ref>{{Cite journal|和書|author = 清水武|title = 名古屋鉄道の輸送・運転業務に携わって|date = 2006-01 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 771|page=131}}</ref>。 ==== 名古屋市交通局(市電・地下鉄) ==== * [[1908年]]([[明治]]41年)5月3日:[[名古屋電気鉄道]](のちの[[名古屋市電]])[[名古屋市電熱田線|熱田線]]の栄町 - 熱田駅前間開業。 ** '''金山橋電停'''は1922年(大正11年)8月1日の市営化時点で既に存在した。 * [[1967年]]([[昭和]]42年)[[3月30日]]:名古屋市営地下鉄2号線金山駅 - [[栄駅 (愛知県)|栄駅]]間延伸により、地下鉄の'''金山駅'''開業<ref name="new-nagoya-history-7-1998-3-31">新修名古屋市史編集委員会 『新修名古屋市史 第7巻』 [[名古屋市]]、1998年3月31日。</ref>。当初は終着駅であった<ref name="new-nagoya-history-7-1998-3-31" />。 * [[1969年]](昭和44年)[[4月25日]]:名古屋市営地下鉄2号線に「[[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]」の愛称を導入。 * [[1971年]](昭和46年)[[3月29日]]:名城線が[[名古屋港駅 (名古屋市営地下鉄)|名古屋港駅]]まで延伸(現在の[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]]に当たる区間)、途中駅となる<ref name="new-nagoya-history-7-1998-3-31" />。 * [[1974年]](昭和49年) ** [[3月30日]]:名古屋市営地下鉄4号線(現在の名城線の一部)が[[新瑞橋駅]] - 金山駅間で開業<ref name="new-nagoya-history-7-1998-3-31" />。名古屋港方面と新瑞橋方面の接続駅となる。 ** [[3月31日]]:名古屋市電金山橋電停廃止。 ==== 金山総合駅完成後 ==== * [[1989年]]([[平成]]元年)[[7月9日]]:'''金山総合駅'''として一新。 ** 名鉄の金山橋駅を現在地に移転、'''金山駅'''に改称。 ** JR東海道本線の[[熱田駅]] - 名古屋駅間に'''金山駅'''が新設開業。東海道本線および中央本線の[[特別急行列車|特急]]・[[急行列車|急行]]を除く全てのライナー・快速系統・普通列車が停車するようになる。 *** ただし、直後の[[7月15日]] - [[11月26日]]に[[世界デザイン博覧会]]が開催された時には、一部の特急「[[しなの_(列車)|しなの]]」の臨時停車が行われたほか、名古屋駅発着の一部の特急「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」・「[[ひだ_(列車)|ひだ]]」が当駅まで延長された<ref>『JR時刻表』(編集・発行 弘済出版社)1989年7月号</ref>。 * [[1992年]](平成4年)[[2月15日]]:JR改札口に[[自動改札機]]を導入<ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年) ** [[3月20日]]:名鉄東口改札(無人)新設。駅内の商業施設 金山プラザがリニューアルオープン。 ** [[6月1日]]:ループ金山オープン。地下鉄駅がバリアフリー化され、エレベーター使用開始。 ** [[10月6日]]:[[名古屋市営地下鉄]]が環状運転を開始、環状部の愛称を「[[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]」、金山駅 - [[名古屋港駅 (名古屋市営地下鉄)|名古屋港駅]]間の愛称を「[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]]」とする。 ** [[12月21日]]:名鉄西口改札新設。 ** [[12月22日]]:JR・名鉄連絡改札新設。この時名鉄線駅とJR線駅にエレベーターが設置された。 * [[2005年]](平成17年)[[3月1日]]:[[中央本線]]の特急「[[しなの (列車)|しなの]]」の一部が停車するようになる。 * [[2006年]](平成18年)[[11月25日]]:JR東海で[[ICカード]]「[[TOICA]]」の利用が可能となる。 * [[2011年]](平成23年) ** [[1月17日]]:JR中央線の在来線運行管理システムの更新に伴い、JR東海が中央線ホームの新型案内放送を[[千種駅]]とともに先行導入。<!--当日は大雪によるダイヤの乱れが発生し、さらにシステムの案内装置まで故障したため、簡易放送での案内となった。--> ** [[2月11日]]:名鉄・名古屋市交通局でICカード「[[manaca]]」の利用が可能となる。 * [[2012年]](平成24年) ** [[2月29日]]:[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]の使用を終了。 ** [[4月21日]]:TOICA・manaca相互利用開始。当駅のJR - 名鉄連絡改札口では、いずれかのIC乗車カード1枚での乗り継ぎが可能になった。 * [[2014年]](平成26年)[[11月16日]]:東海道線の在来線運行管理システムの更新に伴い、JR東海が東海道線ホームの新型案内放送を[[岡崎駅]]とともに先行導入。 * [[2018年]](平成30年)1月31日:東海道線のホームである3番線最後尾に[[ホームドア|可動式ホーム柵]]が設置。実証実験開始<ref name="Platform_door">{{Cite web|和書|title=在来線ホーム可動柵開発等について|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000032443.pdf|publisher=東海旅客鉄道|format=PDF|date=2016-12-14|accessdate=2016-12-14|archiveurl =https://web.archive.org/web/20190212162804/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000032443.pdf |archivedate =2019-02-13 }}</ref>。[[2021年]]3月1日より使用開始<ref name="automatic platform gate" /><ref name="JRC-3番柵(20210224)" />。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[7月5日]]:市営地下鉄の1・4番線で可動式ホーム柵使用開始<ref name="TRP0003985">{{Cite web|和書| url = https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/SUBWAY/TRP0003985.htm|title=総合リハビリセンター駅2番線及び瑞穂運動場東駅2番線の可動式ホーム柵稼働のお知らせ|publisher = 名古屋市交通局|date=2021-01-25|accessdate=2021-01-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210126071516/https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/SUBWAY/TRP0003985.htm|archivedate=2021-01-26}}</ref>。 ** [[7月12日]]:市営地下鉄の2・3番線で可動式ホーム柵使用開始<ref name="TRP0003985" />。 ** [[11月28日]]:JR東海が[[QRコード]]式[[ホームドア]]開閉システム<ref group="注釈">システム自体は[[都営地下鉄]]・[[京浜急行電鉄]]等と同じ。</ref>実証実験を開始<ref>[https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040855.pdf 在来線におけるQRコードを利用したホーム可動柵開閉システムの実証試験について] - JR東海 2020年11月18日</ref>。 * [[2021年]](令和3年)3月1日:東海道本線上り(3番線)で[[ホームドア]]使用開始<ref name="automatic platform gate">[https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000038511.pdf 東海道本線上りホーム(3番線)は2021年3月、下りホーム(4番線)は同年12月に使用開始]</ref><ref name="JRC-3番柵(20210224)">{{Cite press release|和書|title=金山駅3番線ホーム(東海道本線上り)におけるホーム可動柵の使用開始について|publisher=東海旅客鉄道|date=2021-2-24|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040969.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-2-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210224073522/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040969.pdf|archivedate=2021-2-24}}</ref>。なお、東海道本線下り(4番線)は同年12月4日使用開始した<ref name="JRC-3番柵(20210224)" />。 == 駅構造 == === JR東海 === {{駅情報 |社色 = #f77321 |文字色 = |駅名 = JR 金山駅 |画像 = Central Japan Railway - Kanayama Station - Ticket Gate - 01.JPG |pxl = 300 |画像説明 = JR改札口への通路(2009年12月) |よみがな = かなやま |ローマ字 = Kanayama |電報略号 = ナヤ |所属事業者= [[東海旅客鉄道]](JR東海) |所在地 = [[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[金山 (名古屋市)|金山]]一丁目17-18 |座標 = {{coord|35|8|35.725|N|136|54|3.409|E|region:JP_type:railwaystation|name=JR 金山駅}} |開業年月日= [[1962年]]([[昭和]]37年)[[1月25日]] |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面4線<ref name="zeneki04">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =04号 名古屋駅・古虎渓駅・美濃赤坂駅ほか77駅 |date =2012-09-02 |page =23 }}</ref> |乗車人員 = 52,408 |乗降人員 = |統計年度 = 2020年<!-- データで見るJR西日本より --> |乗入路線数= 2 |所属路線1 = {{JR海駅番号|CA}} [[東海道本線]]([[東海道線 (名古屋地区)|名古屋地区]]) |前の駅1 = CA65 [[熱田駅|熱田]] |駅間A1 = 1.9 |駅間B1 = 0.9 |次の駅1 = [[尾頭橋駅|尾頭橋]] CA67 |駅番号1 = {{JR海駅番号|CA|66}} |キロ程1 = 362.7 |起点駅1 = 東京 |所属路線2 = {{JR海駅番号|CF}} [[中央本線]]([[中央線 (名古屋地区)|名古屋地区]]) |前の駅2 = CF02 [[鶴舞駅|鶴舞]] |駅間A2 = 2.3 |駅間B2 = 3.3 |次の駅2 = [[名古屋駅|名古屋]] CF00* |駅番号2 = {{JR海駅番号|CF|01}} |キロ程2 = 393.6&nbsp;km([[東京駅|東京]]起点)<br/>[[名古屋駅|名古屋]]から3.3 |起点駅2 = |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|駅長配置駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<!--←JR東海の表記--><br/>[[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]] 有<br/>[[File:JR area MEI.png|15px|名]] [[特定都区市内|名古屋市内]]駅 |備考全幅 = * この間に[[山王信号場]]有り(当駅から1.5&nbsp;km先)。 }} [[東海道本線]]と[[中央本線]]でそれぞれ島式ホームを1面2線ずつ、計2面4線を有する地上駅{{R|zeneki04}}。[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]・[[駅員]]配置駅)で、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]でもあり[[熱田駅]]および[[鶴舞駅]]を管理する。[[駅ナンバリング#JR東海|駅番号]]は中央本線が'''CF01、'''東海道本線が'''CA66'''。[[特定都区市内]]制度における「名古屋市内」エリアに属している。東海道本線のホームは[[名古屋鉄道|名鉄]]のホームより南側に設置されており、熱田区になる。両線とも名鉄のホームより西側にずれており、中央本線のホームは鶴舞駅側を向いて左にカーブしている。 [[根室本線]]にある[[金山駅 (北海道)|同名の駅]]<ref group="注釈">同線の金山駅は[[2024年]](令和6年)4月1日に廃止される予定である。</ref>と区別するため、当駅発着のきっぷには「'''(中)金山'''」と印字される(特定都区市内制度が適用されるきっぷは除く)<ref group="注釈">他には[[福岡市営地下鉄七隈線]]にも同じく[[金山駅 (福岡県)|金山駅]]が存在するものの、[[筑肥線]]との[[連絡運輸|連絡]]乗車券では単に「'''金山'''」表記となる。</ref>。 [[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]]と[[JR東海ツアーズ]]金山支店が隣接している。JR改札口付近、ならびに東海道線ホーム、中央線ホームの3箇所にそれぞれ[[自動体外式除細動器]](AED)が設置されている。また、[[バリアフリー]]用エレベーター・エスカレーターが整備されている。 JRとしての金山駅は中央本線の[[信号場]]([[古渡信号場]])を移設・格上げしたものである。東海道本線のホームは[[1989年]]に設置されたが、それまで東海道本線[[熱田駅]] - [[名古屋駅]]の間には駅がなかった<ref group="注釈">[[尾頭橋駅]]は当駅より後の1995年の開設である。</ref>。このことから所属線区は中央本線となっている。東海道本線にホームが設置されるまでは中央本線の快速も通過していた。現在では東海道本線は[[特別快速]]以下の列車、中央本線は「[[ホームライナー]]」・快速・普通と一部の特急「[[しなの (列車)|しなの]]」が停車する。東海道本線は平日夕方のラッシュ時には大垣方面へ、当駅始発の快速列車の設定が数本存在する。当駅には引き上げ線や渡り線がないため、車両は留置先の熱田駅などから回送される。 東海道本線の駅設置に伴い、中央本線との乗換駅は名古屋駅から金山駅に変更された。その結果、[[東海道新幹線]]の[[三河安城駅]]以東([[東京駅]])方面と中央本線の列車を名古屋駅で乗り継ぐ場合、東海道本線(在来線)の熱田駅以東と中央本線の各駅を金山駅を通過する列車<ref group="注釈">金山駅を通過する特急「しなの」への名古屋駅での発着利用などが想定される。</ref>を利用して名古屋駅で乗り継ぐ場合には、金山駅 - 名古屋駅の間が[[区間外乗車]]の適用対象となり、同区間を除外して運賃を計算する。ただし、名古屋駅では途中下車ができず、改札を出場する場合には同区間の往復運賃が必要となる(東海道本線列車のみが停車する尾頭橋駅でも同様)。JR東海ではこの区間外乗車の実例として、東海道新幹線と中央本線を利用した東京駅 - [[多治見駅]]での運賃計算を図例で紹介している<ref>{{Cite web|和書|url=http://railway.jr-central.co.jp/ticket-rule/rule23.html|title=JR東海ホームページ、「運賃計算の特例」(平成30年4月1日現在)|accessdate=2018年5月29日|publisher=東海旅客鉄道}}</ref>。東海道本線と中央本線の乗り換えには、名鉄[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]をまたぐ通路を通る必要がある。改札口は名鉄とは異なり西棟にのみあり、中央本線ホーム側と、通路中央の名鉄乗換改札口の2か所である。 階段付近は非常に狭い(階段の壁と電車の乗車位置までが国の最低基準である1.5&nbsp;mほどしかない)ため、2012年10月24日より1番線及び3番線の階段付近8 - 14&nbsp;mを降車優先エリアとしている<ref>[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000016505.pdf 在来線駅ホームにおける安全対策について] 2012年10月18日付「ニュースリリース - JR東海 Central Japan Railway Company」の[http://jr-central.co.jp/news/release/nws001075.html 【社長会見】在来線駅ホームにおける安全対策について]からpdfファイルより。</ref>。特段大きな事故は発生していなかったが、2012年7月に電車との接触事故があったため、予てから危険性を認識していた当時のJR東海社長[[山田佳臣]]により設置が決められた<ref>[http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/121025_5.htm JR金山駅に「降車優先エリア」] 2012年10月25日付[[読売新聞]]([[YOMIURI ONLINE]])より。</ref>。設置当初は警備員が配備され、そのルールが徹底された。なお、降車優先エリア部分など非常に狭い部分には転落検知マットも設置されている。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR Central Kanayama Station Gate.jpg|改札口(2022年11月) JR Tokai Tours Kanayama.JPG|JR東海ツアーズ金山支店(2012年12月) JR-Kanayama-Aichi-ticket-sold-at-counter.jpg|(中)金山と印字された切符(2019年2月) </gallery> ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東海の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !|番線<!-- 事業者側による呼称。JR東海は「○番線」と表現 --->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1 |rowspan="2"|{{JR海駅番号|CF}} 中央本線 |style="text-align:center;"|下り |[[多治見駅|多治見]]方面 |&nbsp; |- !2 |rowspan="2" style="text-align:center;"|上り |[[名古屋駅|名古屋]]方面 |尾頭橋駅は通過、旅客列車は全て名古屋駅が終点となる |- !3 |rowspan="2"|{{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 |[[豊橋駅|豊橋]]方面 |&nbsp; |- !4 |style="text-align:center;"|下り |名古屋方面 |&nbsp; |} (出典:[https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/kanayama/map.html JR東海:駅構内図]) ;中央本線 :ホームの有効長は21&nbsp;m車12両対応であるが、普通・快速列車は8両編成に統一され、特急しなの号も最長は10両編成である。 :1番ホーム(多治見・中津川方面)に10両編成(特急しなの)の列車が来た場合、1両目は列車とホームとの隙間がかなり開くため、足元に注意するよう喚起ステッカーが貼られている。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR-Kanayama-platform-chuo-line-001.jpg|1・2番線ホーム(2023年4月) JR-Kanayama-station-board-chuo-line.jpg|駅名標(2018年12月) </gallery> ; 東海道本線 : ホームの有効長は20&nbsp;m車11両対応(同線ホーム設置当時に停車した最長編成である「[[ムーンライトながら|大垣夜行]]」の編成長と同じ)。かつて[[武豊線]]直通列車が乗降口にステップを設置していた[[気動車]]で運行されていたため、ホームの高さは920&nbsp;mmとされていたが、同列車がステップを廃した[[JR東海キハ75形気動車|キハ75形]]に統一された[[1999年]]に1,100mmへ嵩上げされている。 : 2018年1月31日より東海道本線3番ホーム最後尾(8両目)部分に[[ホームドア|可動式ホーム柵]](以下ホームドア)の試作機1台が設置され、実証実験が開始された。同年秋<ref group="注釈">うち3月下旬までは終電後、その後は営業時間中に実施予定。</ref>まで実施される。実証実験は、近い将来{{Refnest|group="注釈"|金山駅は3番線が2021年3月に、4番線が2021年12月に実施予定<ref>{{Cite news |title=東海道線金山駅ホーム可動柵本格導入 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2018-10-12 |page=1 }}</ref>。なお、刈谷駅は改修工事実施時(実施年度未定)。}}同駅と[[刈谷駅]]に設置するために行われている。ホームドアはJR東海と[[三菱電機]]との共同開発で、高さ1.3m、全体で幅約9.2&nbsp;m(うち開口幅は最大4m強)ある。車両の形式・種類ごとの違いにも対応できるようになっており、当初は車両入車時にはセンサーでドアが自動で開き、発車時には車掌がボタン操作でドアを閉める仕組みになっていた。開発費は7000万円で、設置に伴うホームの補強に5000万円が併せて投じられている<ref name="Platform_door"/><ref>[https://mainichi.jp/articles/20171214/k00/00m/040/141000c 金山駅ホームドア、来年1月に実証実験] - 2017年12月13日付[[毎日新聞]]より。</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20180131/k00/00e/040/260000c ホームドア試作機、金山駅に 名古屋] - 2018年1月31日付[[毎日新聞]]より。</ref>。 : 2021年3月1日より東海道本線3番ホームにホームドアが設置され、使用を開始した<ref name="JRC-3番柵(20210224)" />。その後2021年12月1日より4番ホームにもホームドアが設置され、使用を開始した。<ref name="JRC-3番柵(20210224)" />。両ホームとも、ホームドア開閉時には[[東海道新幹線]]と同様の[[乙女の祈り (バダジェフスカの曲)|乙女の祈り]]が流れる。東海道本線の列車は最大で8両であり、ホームドア設置後は停車しない部分には柵が設置され、立ち入りできなくなっている。また[[ホームドア#QRコードの利用|開閉方式]]も改良され、[[都営地下鉄浅草線]]・[[京浜急行電鉄]]・[[京成電鉄]]等で導入されている[[QRコード]]読み取り式に変更された。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR-Kanayama-platform-tokaido-line-010.jpg|3・4番線ホーム(2023年4月) Kanayama Station-No.3 Platform screen doors 2.jpg|3番線ホームドア(2021年4月) JR-Kanayama-station-name-board-tokaido-line-002.jpg|駅名標(2020年3月) </gallery> === 名古屋鉄道 === {{駅情報 |社色 = #f33 |文字色 = |駅名 = 名鉄 金山駅* |画像 = MT-Kanayama Station-CentralTicketGate 2023.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 中央改札口(2023年11月) |よみがな = かなやま |ローマ字 = KANAYAMA |前の駅 = NH33 [[神宮前駅|神宮前]] |駅間A = 2.2 |駅間B = 1.6 |次の駅 = [[山王駅 (愛知県)|山王]] NH35 |駅番号 = {{名鉄駅番号|NH|34}} |所在地 = [[名古屋市]][[熱田区]][[金山 (名古屋市)|金山町]]一丁目1-18 |座標 = {{coord|35|8|35|N|136|54|3|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=名鉄 金山駅}} |所属事業者 = [[名古屋鉄道]](名鉄) |所属路線 = [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]] |キロ程 = 64.4 |起点駅 = [[豊橋駅|豊橋]] |開業年月日= [[1944年]]([[昭和]]19年)[[9月1日]] |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面4線 |廃止年月日= |乗車人員 = 85,894 |乗降人員 = 139,941 |統計年度 = 2019年<!-- 名古屋市統計年鑑より --> |備考 = * [[1945年]]から[[1989年]]まで金山橋駅。<br />[[有人駅]] |備考全幅 = }} [[島式ホーム]]2面4線([[有効長]]は19m車10両分)を有する[[地上駅]]である。駅番号は'''NH34'''。 名鉄の駅のみ熱田区に位置している。駅舎は公共通路を挟んで東棟と西棟に分かれており、[[改札]]口は東棟に東改札口(金山橋側。この改札口のみ終日無人)と中央改札口、西棟に西改札口とJR乗換改札口の計4つが設置されている。 駅ナカ商業施設「[[μPLAT]](ミュープラット) 金山」が2014年9月3日に、それまでの「金山プラザ」をリニューアルする形で開業した。 西棟[[コンコース]]にはホームと連絡する[[エレベーター]]がある。このコンコースには[[全日本空輸]] (ANA) の自動チェックイン機が、中部国際空港開港の2005年より設置されていたが、2008年に撤去された。また、[[ミューチケット]][[自動券売機|券売機]]は設置後わずか数箇月で同駅に移設されたが、[[2005年]]9月にJR乗換口から移設され改めて設置されたほか、同時に東棟コンコースにも設置された。 2022年度の設備投資計画より駅設備の大規模改良に着手しており、東棟エレベーターの増設やトイレの多機能化といった設備のバリアフリー化をはじめ、[[自動券売機]]や[[発車標|発車案内表示器]]の更新、ウォークイン型[[自動改札機]]の新設、商業施設のリニューアルなどが進められた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meitetsu.co.jp/ir/reference/investment_plan/__icsFiles/afieldfile/2022/03/28/220329setsubi_1.pdf|title=2022年度 名古屋鉄道 設備投資計画|date=2022-03-29|accessdate=2023-11-12|publisher=名古屋鉄道}}</ref><ref name=計画23>{{Cite web|和書|url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2022/__icsFiles/afieldfile/2023/03/27/23-03-272023setsubitoushi.pdf|title=2023年度 名古屋鉄道 設備投資計画|date=2023-03-27|accessdate=2023-11-12|publisher=名古屋鉄道}}</ref>。発車案内表示器は[[発光ダイオード|LED]]式からディスプレイ式に変更され、新たに空港行き専用の表示器が新設されたほか、列車運行情報などを表示する「エムビジョン」が併設された<ref name=計画23/>。このほか、[[ホームドア]]導入に向けた実証実験の準備も進められている<ref name=計画23/>。 設備投資計画にある西改札口の商業展開の一環として、[[2023年]](令和5年)9月20日に[[ファミリーマート]] [[名鉄生活創研#コンビニエンスストア・駅売店|エスタシオ名鉄金山駅西口店]]が開店した。同店は改札外に有人店舗、改札内に[[無人店舗]]を設けた全国初のハイブリット型店舗で、名鉄グループとしては無人店舗自体が初の導入となる<ref name=西口駅ナカ>{{Cite web|和書|url=https://shokuhin.net/84037/2023/10/02/ryutu/kouri/|title=ファミリーマート 改札の内外で無人・有人決済を併設 名鉄金山駅に初のハイブリッド店舗|date=2023-10-02|accessdate=2023-11-12|publisher=食品新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231112165754/https://shokuhin.net/84037/2023/10/02/ryutu/kouri/ |archivedate=2023-11-12}}</ref>。また改札外の有人店舗内には名鉄沿線の物産品を扱うアンテナショップ「IKO→MaI」を併設している<ref name=西口駅ナカ/>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> MT-Kanayama Station-WestTicketGate 2023.jpg|西改札口(2023年11月) MT-Kanayama Station-TransferTicketGate.jpg|JR乗換改札口(2018年7月) MT-Kanayama Station-FME Unmanned store.jpg|無人店舗(2023年11月) </gallery> 改札口にある発車標は、岐阜・津島方面、犬山・可児方面、中部国際空港・河和方面、豊橋・西尾方面の4つに分かれて表示される。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称。名鉄は「○番線」と表現 --->!!路線!!方向!!行先 |- !rowspan="3"| 1・2 |rowspan="5"| {{名鉄駅番号|NH}} 名古屋本線 |rowspan="3" style="text-align:center;"|下り |{{Color|#d12027|■}} [[名鉄一宮駅|名鉄一宮]]・[[名鉄岐阜駅|名鉄岐阜]]方面<ref name="方面">{{Cite web|和書|url=https://trainbus.meitetsu.co.jp/meitetsu-transfer/pc/diagram/TrainRailRoadSearch?nodeId=00001879|title=金山(NH34)(かなやま) 路線一覧|accessdate=2021-10-03|publisher=名古屋鉄道}}</ref> |- |{{Color|#e85624|■}} [[津島駅|津島]]方面<ref name="方面" /> |- |{{Color|#018b44|■}} [[岩倉駅 (愛知県)|岩倉]]・[[犬山駅|犬山]]方面<ref name="方面" /> |- !rowspan="2"|3・4 |rowspan="2" style="text-align:center;"|上り |{{Color|#1065ab|■}} [[中部国際空港駅|中部国際空港]]・[[河和駅|河和]]・[[内海駅 (愛知県)|内海]]方面<ref name="方面" /> |- |{{Color|#d12027|■}} [[東岡崎駅|東岡崎]]・[[豊橋駅|豊橋]]方面<ref name="方面" /> |} (出典:[https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line01/station/1171.html#StaitonMap 名鉄:駅構内図]) ホームは方向別に完全に分離されている神宮前駅と同様、名古屋本線豊橋方面発着の列車が1・4番線、常滑線発着の列車が2・3番線を使用することがほとんどである。また上下それぞれ2線ずつ設けられた線形となっているが、当駅で待避(追い越し)を行う列車は土休日の朝1本(793レ)、深夜1本(2395レ)の計2本しかない。また、中部国際空港の開港にともない[[豊橋駅]]発着の[[中部国際空港駅]]への乗り入れ列車の折り返しを行うために神宮前方に複々線に跨る[[分岐器#形状による分類|渡り線]]を増設した<ref group="注釈">空港線開業前は現在と逆向きの渡り線があり、2番線から神宮前駅方向へ発車することができた。</ref>が、この渡り線を使用する営業列車は[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2011年3月26日改正|2011年3月のダイヤ改正]]以降は存在しない。当駅を出ると下りは名古屋本線二ツ杁駅(急行は新清洲駅)または犬山線西春駅、上りは名古屋本線堀田駅(急行・準急の待避は本笠寺駅)または常滑線大江駅まで列車待避ができない。 金山 - 枇杷島分岐点間に待避線がなく列車の増発が難しいため、平日朝に限り3番線から当駅で分割し常滑線、名古屋本線に向かう普通列車が存在する<ref group="注釈">(佐屋7:28発普通常滑行き(須ケ口 - 名鉄名古屋間は準急)、先頭の4両が常滑行き、後方の4両が東岡崎行き)</ref>。 常滑線からの普通列車はほとんど当駅で折り返しとなるため、2・3番線から留置線が名鉄名古屋駅側に2本延びている。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> MT-Kanayama-station-platform-Gifu-002.jpg|1・2番線ホーム(2023年4月) MT-Kanayama-station-platform-Toyohashi-001.jpg|3・4番線ホーム(2023年4月) MT-Kanayama-station-name-board-004.jpg|駅名標(2023年5月) </gallery> {{-}} === 名古屋市営地下鉄 === {{駅情報 |社色 = #B074D6 |文字色 = |駅名 = 名古屋市営地下鉄 金山駅 |画像 = NS-Kanayama-station-entrance1.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 1番出入口(2023年4月) |よみがな = かなやま |ローマ字 = Kanayama |電報略号 = |所属事業者= [[名古屋市交通局]]<br />([[名古屋市営地下鉄]]) |所在地 = [[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[金山 (名古屋市)|金山]]一丁目13-11 |座標 = {{coord|35|8|38|N|136|54|6.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=名古屋市営地下鉄 金山駅}} |開業年月日= [[1967年]]([[昭和]]42年)[[3月30日]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面4線 |乗車人員 = 82,211 |乗降人員 = 160,751<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/ABOUT/TRP0000522/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%892021.pdf|title=交通広告メディアガイド2021年版|accessdate=2021-04-04|format=PDF|publisher=名古屋市交通局}}</ref> |統計年度 = 2019年<!-- 名古屋市交通局HP「交通局事業」より --> |乗入路線数= 2 |所属路線1 = [[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]] |前の駅1 = M28 [[西高蔵駅|西高蔵]] |駅間A1 = 1.1 |駅間B1 = 0.7 |次の駅1 = [[東別院駅|東別院]] M02 |駅番号1 = {{駅番号r|M|01|#B074D6|4}} |キロ程1 = [[栄駅 (愛知県)|栄]]経由:8.9&nbsp;km<br />[[新瑞橋駅|新瑞橋]]経由:17.5 |起点駅1 = [[大曽根駅|大曽根]] |所属路線2 =[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]] |前の駅2 = (東別院)* |駅間A2 = - |駅間B2 = 1.5 |次の駅2 = [[日比野駅 (名古屋市)|日比野]] E02 |駅番号2 = {{駅番号r|E|01|#B074D6|4}} |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 金山 |備考 = * 名城線・名港線は直通運転実施。 }} 名古屋市営地下鉄の駅では唯一の同一場所に島式ホーム2面4線を有する[[地下駅]]となっており、名城線・名港線とも可動式ホーム柵が設置されている。外側2線が名城線、内側2線が名港線となっている。名港線の各駅と名城線の新瑞橋・八事方面を最短時間で行き来する場合、当駅で乗り換えとなる。駅番号は名城線が'''M01'''、名港線が'''E01'''。アクセントカラーは[[水色]]。地下鉄のホームはJRや名鉄の直下にはなく、やや北側に位置する。 東別院方には、早朝・夜間の名古屋港方面行き折り返し運転用の引上線が1本ある。新瑞橋・名古屋港側は4本の単線シールドトンネルによる立体交差となっている。 改札口は南、中、北の3つ。出入口は、公共通路へのエスカレータ・エレベーター、6か所の地上との出入口、 [[名古屋市民会館]](愛称 : 日本特殊陶業市民会館)への地下連絡通路がある。南改札口の外はLoop金山の地下2階となっており、店舗が数軒ある。また、中改札口と北改札口の間には[[金山地下街]]がある。 名城線南部駅務区金山管区駅が管轄する駅であり、本山駅 - 八事日赤駅、総合リハビリセンター駅、妙音通駅 - 金山駅と名港線の全駅(名古屋港駅を除く)を管理している<ref>名古屋市公報第197号(本号)[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000116/116280/05hongou197.pdf]633頁 </ref>。 当駅を通る計画中の路線として[[名古屋市営地下鉄金山線|金山線]]があるが、事業化の目処は立っていない。 右回り方面への線路は名港線からの線路が分岐器なしで接続しており、当駅を発車後に引き上げ線を分けた後、新瑞橋方面からの線路が合流する形になっている(逆は新瑞橋方面への線路から名港線の線路が分岐し引き上げ線に合流)。使用されることはない(名港線開通までは使用していた)が2番ホームから右回り方面へ発車することも可能である。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、名古屋市営地下鉄の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !ホーム<!-- 事業者側による呼称。名古屋市交通局は「○番ホーム」と表現 --->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1 |[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|18px]] 名城線 |style="text-align:center;"|左回り |[[新瑞橋駅|新瑞橋]]方面 |&nbsp; |- !2 |[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meiko Line).svg|18px]] 名港線 |style="text-align:center;"|- |[[名古屋港駅 (名古屋市営地下鉄)|名古屋港]]方面 |&nbsp; |- !3 |rowspan="2"|[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|18px]] 名城線 |rowspan="2" style="text-align:center;"|右回り |rowspan="2"|[[栄駅 (愛知県)|栄]]・[[大曽根駅|大曽根]]方面 |名古屋港方面からの列車 |- !4 |新瑞橋方面からの列車 |} (出典:[https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/SUBWAY/station_campus.html?name=金山 名古屋市営地下鉄:駅構内図]) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Kanayama Station 20191201-10.jpg|改札口(2019年12月) BN-Kanayama Station Platform.jpg|ホーム(2021年4月) </gallery> {{-}} === 配線図 === ==== 地上 ==== {{駅配線図|image=Rail Tracks map M-J Kanayama Station.svg |title=金山駅 構内配線略図(JR東海・名鉄) |width=300px |up=|up-align= |left=[[熱田駅]]<br /><br /><br />←<br />[[神宮前駅]]|left-valign=top |right=[[尾頭橋駅]]<br /><br /><br />→<br />[[山王駅 (愛知県)|山王駅]]<br /><br /><br />→<br />[[名古屋駅]]|right-valign=top |down=[[鶴舞駅]]|down-align=left |source=<ref>[[電気車研究会]]、『[[鉄道ピクトリアル]]』通巻第816号 2009年3月 臨時増刊号 「特集 - 名古屋鉄道」、巻末折込「名古屋鉄道 配線略図」</ref><ref>[[川島令三]]、『東海道ライン 全線・全駅・全配線 第4巻 豊橋駅 - 名古屋エリア』、p.16、 [[講談社]]、2009年6月、ISBN 978-4062700146</ref> |note=橙線がJR東海、赤線が名鉄}} ==== 地下 ==== {{駅配線図|image=Rail_Tracks_map_Nagoya_Municipal_Subway_Kanayama_Station.svg |title=金山駅 構内配線略図(市営地下鉄) |width=300px |up=|up-align= |left=[[日比野駅 (名古屋市)|日比野駅]]|left-valign=top |right=[[東別院駅]]|right-valign=middle |down=[[西高蔵駅]]|down-align=left |source=<ref>[[川島令三]]、『[[全国鉄道事情大研究]] - 名古屋都心部・三重篇』、ISBN 978-4-7942-0700-5、40p、[[草思社]]、1996</ref> |note=}} == 利用状況 == 金山駅の総合駅化によって利便性が向上したため、1989年(平成元年)から1993年(平成5年)にかけてJR、名鉄、地下鉄ともに利用者が急増した。以降はほぼ横ばいで推移したが、名鉄は1993年(平成5年)以降一時的に減少に転じた。これは同年に実現した[[上小田井駅]]経由の[[名鉄犬山線|犬山線]]・[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]相互乗入れによる交通流動の変化が影響したと考えられる<ref>名古屋都市センター 2003, p. 69</ref>。 名鉄交通広告の公式サイトによると、JR・名鉄・地下鉄を含めた金山総合駅全体の利用者数は、2010年現在1日平均'''396,038人'''である<ref>オリコムサーキュレーションデータ2010</ref>。 『名古屋市統計年鑑』によると、JR・名鉄・地下鉄を含めた金山総合駅全体の乗降客数は、2013年現在1日平均'''430,298人'''である。 === 各駅ごとの利用状況 === (以下、出典の関係から「乗降人員」と「乗車人員」が混在しているため、比較の際は注意を要する) ==== 名古屋鉄道 ==== 名鉄の駅では名鉄名古屋駅に次いで2番目に多い。改札を通る利用のほか、同一方向の乗り継ぎを行う客も多いため、改札を通らない客を含めると利用客は名鉄名古屋駅よりかなり多くなる。 *「移動等円滑化取組報告書」によると、[[2019年]]度の1日平均乗降人員は172,387人である<ref name="円滑">{{Cite web|和書|url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/barrier-free/__icsFiles/afieldfile/2021/06/14/torikumihokoku_eki.pdf |title=令和元年度 移動等円滑化取組報告書(鉄道駅)|accessdate=2021-10-03|format=PDF|publisher=名古屋鉄道}}</ref>。 *『名鉄120年:近20年のあゆみ』によると[[2013年]]度当時の1日平均乗降人員は156,516人であり、この値は名鉄全駅(275駅)中2位、名古屋本線(60駅)中2位であった<ref name="Meitetsu2014_p160">{{Cite book|和書|author=名鉄120年史編纂委員会事務局(編)|year=2014|title=名鉄120年:近20年のあゆみ|publisher=名古屋鉄道|pages=160-162}}</ref>。 *『名古屋鉄道百年史』によると[[1992年]]度当時の1日平均乗降人員は139,989人であり、この値は岐阜市内線均一運賃区間内各駅(岐阜市内線・田神線・美濃町線徹明町駅 - 琴塚駅間)を除く名鉄全駅(342駅)中2位、 名古屋本線(61駅)中2位であった<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|pages=651-653}}</ref>。 *『名鉄時刻表 1990 Vol.7』によると、[[1989年|1989年度]]下半期の1日平均乗降人員は105,947人であり、この値は名鉄全駅中2位であった<ref>名古屋鉄道広報宣伝部(編)『名鉄時刻表 1990 Vol.7』名古屋鉄道、1990年、363頁。</ref>。 *『名鉄 1983』によると、[[1981年]]度当時の金山橋駅の1日平均乗降人員は85,311人であり、この値は名鉄全駅中2位であった<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道(編集)|year=1983|title=名鉄 1983|publisher=名古屋鉄道|page=36}}</ref>。 *『創立70周年記念 今日と明日の名鉄』によると、[[1960年]]度当時の金山橋駅の1日平均乗降人員は46,631人であり、[[1963年]]度の値は60,175人であった<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道PRセンター(編集)|year=1964|title=創立70周年記念 今日と明日の名鉄|publisher=名古屋鉄道|page=5}}</ref>。 *『岡崎市戦災復興誌』掲載の統計資料によると、[[1948年]](昭和23年)11月1日 - 1949年(昭和24年)4月30日間の半期における一日平均乗降人員は14,451人であり、この値は名鉄全駅中4位であった<ref>{{Cite book|和書|author=東海新聞社(編)|year=1954|title=岡崎市戦災復興誌|publisher=岡崎市|page=1121}}</ref>。 ==== JR東海 ==== 2020年度の1日の平均乗車人員は52,408人である。これはJR東海の駅では[[名古屋駅]]に次いで第2位であり、同社の在来線のみの駅としては最多、在来線に限れば名古屋駅に次いで第二位の数字である<ref name="JRW2020">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_11.pdf |title=データで見るJR西日本2020|format=PDF |page=87|publisher=[[西日本旅客鉄道]] |accessdate=2021-04-04}}</ref>。 ==== 名古屋市交通局 ==== 『交通局事業概要(令和元年度)』によると2019年度当時の1日平均乗車人員は82,211人であり、この値は名城線では栄駅に次いで2位、名港線では1位、地下鉄全駅では名古屋駅(1位)が加わるため3位である<ref name="TBN2019">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/ABOUT/TRP0004025/13-%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84.pdf|title=交通局事業概要(令和2年度)|format=PDF |page=40|publisher=[[名古屋市交通局]] |accessdate=2021-04-04}}</ref>。 ==== 1日平均乗車人員 ==== 「名古屋市統計年鑑」によると、近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り推移している。 {| class="wikitable" style="text-align:right;" |+年度別乗車人員 !年度!!名鉄乗車人員(人/日)!!JR乗車人員(人/日)!!地下鉄乗車人員(人/日) |- !1999年(平成11年) |62,372 |45,725 |56,283 |- !2000年(平成12年) |59,785 |44,897 |53,948 |- !2001年(平成13年) |58,463 |45,343 |56,505 |- !2002年(平成14年) |56,947 |45,670 |54,331 |- !2003年(平成15年) |56,267 |46,336 |54,881 |- !2004年(平成16年) |63,988 |47,292 |61,581 |- !2005年(平成17年) |70,049 |51,285 |67,629 |- !2006年(平成18年) |70,947 |53,081 |69,074 |- !2007年(平成19年) |72,077 |55,382<!--2007年度20,270,058人を366で除する--> |70,501 |- !2008年(平成20年) |73,167 |56,759 |71,313 |- !2009年(平成21年) |71,893 |56,244 |70,125 |- !2010年(平成22年) |72,178 |56,291 |70,807 |- !2011年(平成23年) |73,371 |56,364 |72,536 |- !2012年(平成24年) |74,674 |58,377 |74,295 |- !2013年(平成25年) |77,351 |61,704 |76,094 |- !2014年(平成26年) |77,939 |63,319 |77,041 |- !2015年(平成27年) |81,039 |66,078 |79,350 |- !2016年(平成28年) |82,648 |68,057 |80,769 |- !2017年(平成29年) |83,446 |69,010 |80,728 |- !2018年(平成30年) |85,408 |70,421 |82,964 |- !2019年(令和元年) |85,894 |70,874 |82,211 |- !2020年(令和2年) | |52,408 | |} == 駅周辺 == <!-- 特筆性のない施設(チェーン店・コンビニ・娯楽施設・個人商店など)と解説および所在地の住所や所要時間は記載しないこと --> [[ファイル:View of Kanayama Station east side 2.png|thumb|金山駅より東方の景観]] [[ファイル:Kanayama-minami-building-001.jpg|thumb|金山南ビル]] [[ファイル:Daijokyo-sohonzan-001-Atsuta-ku-Nagoya.jpg|thumb|車窓から見える[[大乗教]]総本山]] {{See also|金山 (名古屋市)}} 金山総合駅として整備されたことにより、駅周辺の事業用地、商業地としての価値が上昇し、施設の立地や集積に伴う建物の高層化が進行している<ref name="T79">名古屋都市センター 2003, p. 79</ref>。[[国土交通省]]による調査では当駅周辺を「中高層の店舗兼事務所が林立する商業地区」と評している<ref>{{Cite web|和書|url=http://tochi.mlit.go.jp/wp-content/uploads/2015/06/189e641cf813f5a00a2e789c884385411.pdf |title=主要都市の高度利用地地価動向報告(H27.1.1{{~}}H27.4.1) |access-date=2023-08-27 |publisher=国土交通省 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160305180044/http://tochi.mlit.go.jp/wp-content/uploads/2015/06/189e641cf813f5a00a2e789c884385411.pdf |archive-date=2016-03-05 |format=PDF |work=主要都市の高度利用地地価動向報告{{~}}平成27年第1四半期{{~}} 土地総合情報ライブラリー |editor=国土交通省土地・建設産業局 |year=2015 |month=6 |url-status=unfit |deadlinkdate=2023-08-27}}</ref>。主要都市の高度利用地地価動向報告~平成27年第1四半期~ 土地総合情報ライブラリー 国土交通省 北口側には金山[[バスターミナル]]、[[複合商業施設]]「[[アスナル金山]]」があり、新設された南口側には駅前[[都市再開発|再開発事業]]で[[1999年]]4月に開業した[[金山南ビル]]がある。金山南ビルには[[ANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋]]などが入居する。南口は広場になっており、土日祝日などには、[[ストリートミュージシャン]]などによる[[路上ライブ|ライブ]]やバザー等のイベントが頻繁に行われている。manaca導入後は、金山駅構内も含め多くの飲食店などでmanacaが使用できるようになっている。 一方、名鉄金山橋駅が廃止されたことで[[波寄町 (名古屋市)|波寄町]](旧・金山橋駅前付近)の商店街は衰退し、地価が比較的安価なこともあって、現在は商業地から住宅地へと土地利用が変化しつつある<ref name="T79">名古屋都市センター 2003, p. 79</ref>。 === 公共施設 === {{columns-list|1| * [[名古屋市民会館]] - [[命名権|ネーミングライツ]]による愛称として「日本特殊陶業市民会館」と呼称されている。 * [[名古屋市音楽プラザ]] * [[中川税務署]] * 名古屋市金山市税事務所 }} === 商業施設 === {{columns-list|1| * [[アスナル金山]] * LOOP金山 ** 金山地下街 * [[イオンモール熱田]] - [[無料送迎バス|シャトルバス]]も利用可能。 * [[イオン金山店]](旧・[[ダイエー]]金山店) - 2014年(平成26年)7月3日に再オープン<ref>[http://www.daiei.co.jp/corporate/index.php/release/lists/detail/1048 『ダイエー金山店』のオープンについて] ダイエー・ニュースリリース(2014年6月30日)</ref>。 }} === 金融機関 === {{columns-list|2| * ループ金山[[郵便局]] * 名古屋流町郵便局 * 名古屋平和郵便局 * 名古屋正木郵便局 * 名古屋沢上郵便局 * [[三井住友信託銀行]]金山橋支店 * [[三菱UFJ銀行]]金山支店・熱田支店・六番町支店(いずれも金山支店と同一所在地のブランチインブランチ) * [[十六銀行]]熱田支店 * [[北陸銀行]]金山橋支店 * [[愛知銀行]]金山支店 * [[岡三証券]]金山支店 * [[愛知信用金庫]]金山支店 * [[瀬戸信用金庫]]熱田支店 }} === 宿泊施設 === {{columns-list|2| * [[ANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋]](金山南ビル) * コンフォートホテル 名古屋金山 * サイプレスガーデンホテル * [[名古屋金山ホテル]] * 名古屋金山プラザホテル * [[名鉄イン]]名古屋金山 * [[東横INN]]名古屋金山 * [[リブ・マックス]]名古屋金山 }} === その他 === {{columns-list|2| * [[金山神社 (名古屋市熱田区)|金山神社]] * [[あいちビジネス専門学校]] * [[あいち福祉医療専門学校]] * [[東海工業専門学校金山校]] * [[名古屋美容専門学校]] * [[伏見通]]([[国道19号]]) * [[大津通]] * [[佐屋街道]]([[愛知県道115号津島七宝名古屋線]]) * [[八熊通]] }} == バス路線 == [[ファイル:Kanayama Bus Terminal - 01.JPG|thumb|金山バスターミナル]] === 金山 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {{Anchors|金山バスターミナル}}駅北・アスナル金山側にバスターミナルがあり、昭和区・中川区・瑞穂区・港区方面などへのバスが多数発着している。名古屋駅や栄とは異なり、金山を経由または発着する幹線系統は存在しない(かつては金山25が幹金山1という名称であった)。なお、金山総合駅の完成前は名鉄の駅名と同じ「金山橋」という名称だった。路線は名古屋市営バスが中心で、一部他社の路線も設定されている。降車所は金山総合駅北口より少し東へ歩いた場所(金山駅前交番前)にある。1番乗り場は存在しない。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !乗り場!!発着場所!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !2 |style="text-align:center;"|三菱UFJ銀行金山支店前(大津通側) |rowspan="7" style="text-align:center;"|[[名古屋市営バス]] |[[名古屋市営バス鳴尾営業所#栄21号系統|'''栄21''']]:[[栄駅 (愛知県)|栄]] |&nbsp; |- !3 |style="text-align:center;"|地下鉄3番出口前 |[[名古屋市営バス中川営業所#金山21号系統|'''金山21''']]:[[名古屋市営バス中川営業所|中川車庫]]前・[[高畑駅|地下鉄高畑]]<br />[[名古屋市営バス稲西営業所#金山23号系統|'''金山23''']]:岩塚本通四丁目・戸田荘 |&nbsp; |- !4 |style="text-align:center;"|金山駅北口信号前 |'''栄21'''・[[名古屋市営バス鳴尾営業所#金山19号系統|'''金山19''']]:泉楽通四丁目<br />[[名古屋市営バス鳴尾営業所#金山18号系統|'''金山18''']]:要町<br />'''金山19''':[[名古屋港ワイルドフラワーガーデン ブルーボネット|ワイルドフラワーガーデン]]<br />[[名古屋市営バス鳴尾営業所#熱田巡回系統|'''熱田巡回''']]:金山 |&nbsp; |- !5 |rowspan="2" style="text-align:center;"|三菱UFJ銀行金山支店前(アスナル金山側) |[[名古屋市営バス中川営業所#金山20号系統|'''金山20''']]:[[一色新町|権野]]<br />[[名古屋市営バス稲西営業所#金山22号系統|'''金山22''']]:地下鉄高畑・[[戸田 (名古屋市)|戸田]]<br />中川車庫前 |&nbsp; |- !6 |[[名古屋市営バス御器所営業所#金山26号系統|'''金山26''']]:[[東別院駅|東別院]]・[[御器所駅|御器所通]]・東郊通三丁目方面循環<br />[[名古屋市営バス御器所営業所#中巡回系統|'''中巡回''']]:栄<br />[[名古屋市営バス御器所営業所#昭和巡回系統|'''昭和巡回''']]:[[名古屋大学]] / 御器所通 |&nbsp; |- !7 |rowspan="2" style="text-align:center;"|アスナル金山1F |[[名古屋市営バス御器所営業所#金山11号系統|'''金山11''']]:[[池下駅|池下]]<br />[[名古屋市営バス御器所営業所#金山12号系統|'''金山12''']]:[[妙見町 (名古屋市)|妙見町]] / 金山<br />[[名古屋市営バス野並営業所#金山16号系統|'''金山16''']]:[[瑞穂運動場東駅|瑞穂運動場東]]<br />[[名古屋市営バス御器所営業所#出入庫系統|'''御.金''']]:御器所通 |&nbsp; |- !8 |[[名古屋市営バス野並営業所#金山14号系統|'''金山14''']]・[[名古屋市営バス野並営業所#金山15号系統|'''金山15''']]:瑞穂運動場東<br />[[名古屋市営バス御器所営業所#金山25号系統|'''金山25''']]:[[野跡駅]] / 港区役所 |&nbsp; |} === 金山南口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 金山総合駅の南口前にある。イオンモール熱田への無料シャトルバスも金山行き市バス乗り場よりやや後ろから乗車できる。 JR高速バスについては、停留所名は「金山駅(南口)」となっている。2022年10月1日から「ANAクラウンプラザ ホテルグランコート名古屋」向かいのドコモショップ前に乗り場を移設した<ref>[https://www.jrtbinm.co.jp/topics/e/post_600.html 【金山駅(南口)】乗降場所変更のお知らせ] ジェイアール東海バス(2022年8月30日)(2022年10月1日閲覧。)</ref><ref>[https://www.jrtbinm.co.jp/highway/busstop/map/230073/ 金山駅(南口) |バスのりば] ジェイアール東海バス(2022年10月1日閲覧。)</ref>。 * '''金山21・金山23・中巡回''':金山行 * '''中巡回''':栄行 * [[日本中央バス#シルクライナー|高速バス]] 「シルクライナー」[[さいたま新都心駅|さいたま新都心駅東口]]・[[館林市|館林]]・[[太田市|太田]]・[[桐生市|桐生]]・[[伊勢崎市|伊勢崎]]・[[高崎バスセンター|高崎]]・[[前橋市|前橋]]行(乗車のみ)[[大阪シティエアターミナル|大阪]]行(降車のみ) * [[ドリームなごや号]] [[バスタ新宿]]・[[東京駅]]行、[[新木場駅]]行([[JR東海バス]]) * [[知多シーガル号|ドリーム知多号]] 東京駅・[[東京ディズニーランド]]行(JR東海バス・[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]])(2022年10月1日乗り入れ開始) === 高速金山 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> (三菱UFJ銀行 金山支店前(大津通側)) * [[広島駅]]・[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]・博多行 『ロイヤルエクスプレス』([[ハーツエージェントプロモーション|ロイヤルバス]]) * [[東京駅]]行、[[新宿]]行 『杉崎高速バス』([[杉崎観光バス]]) * [[池袋駅]]行、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]行 『キラキラ号』・『散策バス』([[桜交通]]) * [[長野駅]]・[[須坂長野東インターチェンジ|須坂]]行、[[難波駅 (南海)|なんば]]・[[三宮駅バスのりば|神戸(三宮)]]行『どっとこむライナー』([[昌栄高速運輸]]) === 金山駅北口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> ([[セブン-イレブン|セブンイレブン]] 名古屋金山駅西店前) * [[横浜駅]]・[[東京駅]]・[[東京ディズニーランド]]・[[千葉駅]]行 『VIPライナー』([[平成エンタープライズ]]) * [[バスタ新宿]]・[[川越駅]]行 『VIPライナー』(平成エンタープライズ) * [[秋葉原駅]]・東京駅・[[さいたま新都心駅]]・[[志木駅]]行 『VIPライナー』(平成エンタープライズ) * [[城下町プラザ|郡上八幡(城下町プラザ)]]・[[高山市|高山]]行 『VIPライナー』(平成エンタープライズ) (市バス4番乗り場先) * WILLERバスターミナル大阪梅田行、[[横浜シティ・エア・ターミナル]]行、バスタ新宿・[[東京ディズニーランド]]および[[東京ディズニーシー]]行 『WILLER EXPRESS』([[WILLER EXPRESS]]) === 無料シャトルバス(無料送迎バス) === ; 金山総合駅北口付近 * Canal Resort行([[デニーズ (日本)|デニーズ]]金山駅前店前停車) * GLASTONIA行([[スギ薬局]]金山駅前店・[[三井住友銀行]]金山支店前停車) * 名古屋スパリゾート 湯{{~}}とぴあ宝行([[名古屋金山ワシントンホテルプラザ|名古屋金山ホテル]]前停車) * [[重工記念病院]]行(セブンイレブン金山駅西店前停車) * 天然温泉アーバンクア行(スギ薬局金山駅前店前停車) ; 金山総合駅南口付近 * [[イオンモール熱田]]行(名古屋市営バス 金山南口バス停付近停車) == 隣の駅 == <!-- リンクは1ヶ所に集約させてください。JR線は路線名・種別へのリンク設置は行いません。 --> ; 東海旅客鉄道(JR東海) : {{JR海駅番号|CF}} 中央本線 :* {{Color|orangered|■}}特急「[[しなの (列車)|しなの]]」一部停車駅、[[中央線 (名古屋地区)#駅一覧|「ホームライナー瑞浪」]]停車駅<!--ホームライナーは列車の性質上、優等列車と同等扱いとする---> :: {{Color|#06f|■}}快速・{{Color|gray|■}}普通 ::: [[鶴舞駅]] (CF02) - '''金山駅 (CF01)''' - ([[山王信号場]]) - [[名古屋駅]] (CF00) : {{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 :: {{Color|#ffdf00|■}}特別快速 ::: [[刈谷駅]] (CA58) - '''金山駅 (CA66)''' - 名古屋駅 (CA68) :: {{Color|orangered|■}}新快速 ::: [[大府駅]] (CA60) - '''金山駅 (CA66)''' - 名古屋駅 (CA68) :: {{Color|#06f|■}}快速・{{Color|limegreen|■}}区間快速 ::: [[共和駅]] (CA61) - '''金山駅 (CA66)''' - 名古屋駅 (CA68) :: {{Color|gray|■}}普通 ::: [[熱田駅]] (CA65) - '''金山駅 (CA66)''' - [[尾頭橋駅]] (CA67) ; 名古屋鉄道 : {{名鉄駅番号|NH}} 名古屋本線 :: {{Color|red|'''□'''}}[[名鉄特急|ミュースカイ]]・{{Color|red|□}}[[名鉄特急|快速特急]]・{{Color|red|■}}[[名鉄特急|特急]]・{{Color|blue|□}}[[快速急行]]・{{Color|blue|■}}[[急行列車|急行]]・{{Color|green|■}}[[準急]] ::: [[神宮前駅]] (NH33) - '''金山駅 (NH34)''' - (平日朝の急行内海行き1本は[[山王駅 (愛知県)|山王駅]]) - [[名鉄名古屋駅]] (NH36) :: ■[[普通列車|普通]] ::: 神宮前駅 (NH33) - '''金山駅 (NH34)''' - 山王駅 (NH35) ; 名古屋市営地下鉄 : [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]] ::: [[西高蔵駅]](M28) - '''金山駅(M01)''' - [[東別院駅]](M02) : [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meiko Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]] ::: [[日比野駅 (名古屋市)|日比野駅]](E02) - '''金山駅(E01)''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite journal |和書|author = 澤田幸雄|title = 名鉄の駅,構内設備の思い出|date = 2009-03|publisher = 電気車研究会 |journal 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イエティ
イエティ(英語など:yeti / 雪男 / 雪人)は、ヒマラヤ山脈に住むといわれているUMA(未確認動物)である。全身が毛に覆われ、直立歩行するとされる。イエティのほか、体の大きな順にテューティ(大)、ミティ(中)、テルマー(小)など種類がいるとされ、イエティとこれらの種は家族だとも言われている。 イエティは、シェルパ族の言葉で岩を意味する"Yah"と動物を意味する"Teh"が語源である。現地では伝承としてその存在が伝えられていたが、1887年、イギリスのウォーデル大佐が足跡を発見したことで世界に知られるようになった。 シェルパ族以外の言葉では、おおむね、チベット仏教圏と一致する地域に同一種の物語が広まっており、ブータンやシッキムではメギュ、チベットのラサやチャンタンではテモ、東チベット及びネパールのムスタンやトルボではメテ、と国や地域ごとに呼称が異なる。 ブータンではミゲやグレットムの名でも知られる他、体長1m程で物まねに長ける二足歩行のミルゴンと呼ばれる生物ともしばしば混同される。 その後、実物を目撃したとの報告もあり、1954年のイギリスのデイリー・メール紙のものを皮切りに各国より何度となく探査隊が派遣されている。日本では1959年に東京大学医学部で小川鼎三教授を代表とする「日本雪男研究グループ」が結成され、毎日新聞社をスポンサーとして、6名の学術探検隊がエベレスト山麓に派遣された。 現地では巨大でヤクを襲うズーティ(「ゾ程の熊」が語源)、2メートルほどの大きさでナキウサギを捕食するミィティ(「人程の熊」が語源)など数種類の呼び名がある。このうちズーティについては、ヒグマのことを指しているのではないかといわれる。 クンブ地方のシェルパによれば、ミティは人を食べ、チュティは動物を食べ、イエティは悪さだけをすると概ね説明されるが、この特徴は曖昧で説明する人によっても入れ替わる。 シェルパのセン テンシンがチャンボチェで目撃したイエティの体つきはずんぐりして類人猿に似ており、背の高さは150~165cmほど。赤褐色または灰褐色(黒っぽい色)の短くてかたい毛に覆われ、肩のあたりの毛はやや長い。頭は大きく、頭頂部は尖り、耳は小さく、顔には毛はない。口は大きく、歯は大きいが尖った牙はない。二足歩行をしているが、急ぐ時や岩を登るときには四足歩行も行う。足は大きく、尾はない。 クムジュン村在住でイエティに襲われたハクパ・ドマによると、からだの大きさは3歳のヤクほどで手足の爪は長い。雌雄の判別はできなかったが、全身が褐色の毛で覆われている。頭髪は桃割れのように左右に分かれ、前額が突き出て、眼窟が落ちくぼんでいる。口を開けて吠えたてたとき見えた前歯は、人間の人さし頻と中指を並べたぐらいの大きさ。尻尾はなかったようだ。足は逆むきについている。 よく、汚れた雪男(アボミナブル・スノーマン)と誤称され(ミテー・カンミの誤訳)、背の高い白い毛皮の動物とされてしまう。 登山家のラインホルト・メスナーによると「イエティ」はシェルパが用いた名称イェーテー(岩場の動物)またはメーテー(人熊(チベットではズーテー(牛熊)という))(これらは後ろ足で立って歩くこともあるヒマラヤヒグマと同じ名前)に由来するとされる。 1921年9月22日ハワード・バリー大佐とその登山隊はエベレストの標高7700メートル地点で大きな足跡を発見した。バリーはそれをオオカミのものだと考えたがチベット人たちは雪男のものだと考えた。なお、ハイイロオオカミは大型であり、跳ねるように走り、二重に足跡がつくことがあるという。 1951年11月8日登山家のエリック・シプトンらはエベレスト山のメンルング・ツエ南西斜面にて人間の物によく似た足跡を発見した。その足跡は1.5キロ先のモレーン氷河まで続いていたが、そこで足跡は途切れていたので取り敢えずその足跡の画像を撮影した。この写真はのちにイエティの足跡を写したものだとして人々の注目を集めた。 1958年、ノーマン・ディーレンファース(英語版)率いる雪男探検隊の参加者が、人間を小型にしたような黒毛で覆われ、手足は人間そっくりの動物が、森の中の川岸の石の上でカエルを食べていたのを目撃した。現在も目撃されている。 30年前、ハクパ・ドマがイエティに襲われる直前には、頭が痛くなるような強烈な悪臭が立ち込め、背後から一撃をくらい失神したハクパ・ドマが我に返って死んだふりをしていると、イエティはハクパ・ドマが放牧していたヤクの2本のツノを両手でつかんで引き裂くようにしてへし折り、腹部を手でえぐって殺し、さらに騒ぎ立てた他のヤクを次々と2頭殺したあと、仔ヤクを岩にたたきつけ、殺した3頭のヤクの腹部の裂傷に顔を埋めて血を飲んでいたという。ヤクの生血で空腹を満して奥山に姿を消したイエティの足の運びは非常に速く、足指を内側にすぼめて歩いていたという。 伝承では、イエティは風のようなもので音はしても姿かたちは見えず、イエティを見ると病気になると言われている。 ほかにも、反踵といって足が逆向きについている、だとか、メスは気根のように垂れ下がった大きな乳房をつけているので、下り坂を走るときは邪魔になって早くは走れない。だから、襲われそうになって逃げるとしたら斜面を駆け下ればいい、といった中国の野人伝説と類似した話がある。目に見えないのに姿がわかっていることについて、あるラマ (チベット)に根深誠が質問すると、「目に見えなくても心に映る」と答えたという。 人語を解さず甲高い声を上げるが、高徳の僧ならば会話できるという。 イエティ伝説発祥のタルガ村では、「イエティが毎年ジャガイモの畑を掘り起こすので、物まねをする習性を利用して皆殺しにしたが、それに加わらなかった妊婦のイエティがひとりだけ生き延びて行方を晦ましたので、現在いるイエティは、すべてその妊婦の子孫である」と言い伝えられている。 クーンブ地方にチベット仏教を布教したラマ・サンガドルジェという高僧の召使がイエティ夫妻だったとしてとして神格化され、その頭皮がパンボチェ僧院にかつて保存されていたとされており、 ラマ・サンガ・ドルヂェの法要祭ドゥムヂェに参加するギャマカカという道化役は、ナムチェ村のゴンパに安置されているイエティの頭皮を被って観客に悪ふざけをする。 また、「チベットでもっとも有名な医者ユトック・ユンテン・ゴンブがイエティ(メテ)を助け、お礼に貰った袋を開けるとトルコ石が屋根を覆った」という報恩譚も言い伝えられている。 イエティが窓から入ってくると家の者が病気になったり死んだりすると恐れられ、真っすぐに立って歩く習性があるので家の窓を小さくしておくというシェルパの伝統があったが、現在は廃れている。 現在見つからない理由としては、観光客もしくは村の人間が増えたために大きな山や森に逃げて行ったとも、両地区の力持ちもしくは土地神の力比べに勝った地区が負けた地区にイエティとミルゴンを連れて行ったとも、グル・リンポチェが調伏し、仏教の守護者となったためとも言われている。 イエティの正体については、ヒグマ説、ラングール説、未知の巨大類人猿(或いは新生代第三期の大型類人猿ギガントピテクス或いはその祖先、ネアンデルタール人)説、ヒンドゥー教の修行僧の見間違え説など様々である。 1937年大英博物館のガイ・ドルマンはアメリカの雑誌ザ・タイムスにてイエティの正体はヒマラヤラングールとししっ鼻ラングールではないかという説を発表した。しかしイエティの足跡とされるものが発見されている地域にラングールは生息していない。 1952年動物学者のベルナール・ユーヴェルマンスはフランスのシアンス・エ・アブニール誌にイエティの正体はギガントピテクスの近種だとする説を投稿した。その説は他の科学者達によって突拍子もない話だとして切り捨てられた。一方ロシアの動物学者ウラジミール・チェルネツキーは『忌まわしき雪男探検隊・1955年』にてユーヴェルマンスの理論と類似した説を展開している。 1960年に探検家のエドモンド・ヒラリーら18名参加の国際学術探査隊がエベレスト山麓を調査し、以下のような結果を発表した。 最近では、シェルパにヒグマの姿を見せたところ、彼らが「イエティ」と認識したことが判明している。 ブータンで「雪男」を指すとされた「メギュ」、チベットでの「テモ」もヒグマを指す名称だった。 1959年、地元住民が日本の登山隊に差し出した「イエティの毛皮」もヒグマのものだった。 2003年にチベットで調査をおこなった登山家の根深誠も、チベットで「雪男」を指す「メテ」、「ミティ」は人を意味する"mi"とチベットヒグマを意味する"dred"が語源だったと、イエティはヒグマであったとの結論を出している。 。 ラインホルト・メスナーの著書『My Quest for the Yeti』には、そもそもイギリスのエベレスト登山隊がイエティを未確認動物にして資金を集めていた事実が1930年代にドイツの探検家・動物学者E・シェーファー(英語版)によって証されていたことが記載されている。多くの登山家達が資金繰りに悩んだあげく、故意かどうかは別にして、地元でイエティと呼ばれていたヒグマを未確認生物に仕立て上げ、資金源にしていた、と根深誠は述べている。 2017年12月、アメリカの研究チームが、イギリス王立協会紀要「フィロソフィカル・トランザクションズ」に「正体はクマの可能性大」と発表した。 ブータンの地元民はゴリラの姿として認識しているという2020年の報告もある。
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イエティは、ヒマラヤ山脈に住むといわれているUMA(未確認動物)である。全身が毛に覆われ、直立歩行するとされる。イエティのほか、体の大きな順にテューティ(大)、ミティ(中)、テルマー(小)など種類がいるとされ、イエティとこれらの種は家族だとも言われている。
{{Otheruses|[[未確認動物]]}} {{TVWATCH}} '''イエティ'''([[英語]]など:''yeti'' / [[雪男]] / [[雪人]])は、[[ヒマラヤ山脈]]に住むといわれているUMA([[未確認動物]])である。全身が[[毛 (動物)|毛]]に覆われ、[[直立歩行]]するとされる。イエティのほか、体の大きな順にテューティ(大)、ミティ(中)、テルマー(小)など種類がいるとされ、イエティとこれらの種は家族だとも言われている。 [[Image:Yeti colorisé.jpg|thumb|イエティの[[イラスト]](想像図)]] == 概要 == イエティは、[[シェルパ|シェルパ族]]の[[言葉]]で[[岩]]を意味する"Yah"と[[動物]]を意味する"Teh"が[[語源]]である。現地では[[伝承]]としてその存在が伝えられていたが、[[1887年]]、[[イギリス]]の[[ウォーデル大佐]]が足跡を発見したことで世界に知られるようになった。 シェルパ族以外の言葉では、おおむね、[[チベット仏教]]圏と一致する地域に同一種の物語が広まっており、[[ブータン]]や[[シッキム]]ではメギュ、[[チベット]]の[[ラサ]]や[[チャンタン]]ではテモ、東チベット及び[[ネパール]]のムスタンやトルボではメテ、と国や地域ごとに呼称が異なる<ref name=note3>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note3.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(3) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092127/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note3.html |archivedate=2007-3-18}}</ref>。 ブータンではミゲやグレットムの名でも知られる他{{sfn|石内良季|2020| p=182}}、体長1m程で物まねに長ける二足歩行のミルゴンと呼ばれる生物ともしばしば混同される{{sfn|石内良季|2020| p=183}}。 その後、実物を目撃したとの報告もあり、[[1954年]]のイギリスの[[デイリー・メール]]紙のものを皮切りに各国より何度となく探査隊が派遣されている。[[日本]]では[[1959年]]に[[東京大学]][[医学部]]で[[小川鼎三]]教授を代表とする「日本雪男研究グループ」が結成され、[[毎日新聞社]]を[[スポンサー]]として、6名の学術探検隊が[[エベレスト]]山麓に派遣された。 現地では巨大で[[ヤク]]を襲うズーティ(「[[ゾ]]程の熊」が語源)、2メートルほどの大きさで[[ナキウサギ]]を捕食するミィティ(「人程の熊」が語源)など数種類の呼び名がある。このうちズーティについては、[[ヒグマ]]のことを指しているのではないかといわれる。 クンブ地方のシェルパによれば、ミティは人を食べ、チュティは動物を食べ、イエティは悪さだけをすると概ね説明されるが、この特徴は曖昧で説明する人によっても入れ替わる{{sfn|古川不可知|2019| p=15}}。 シェルパのセン テンシンがチャンボチェで目撃したイエティの体つきはずんぐりして類人猿に似ており、背の高さは150~165cmほど。赤褐色または灰褐色(黒っぽい色)の短くてかたい毛に覆われ、肩のあたりの毛はやや長い。頭は大きく、頭頂部は尖り、耳は小さく、顔には毛はない。口は大きく、歯は大きいが尖った牙はない。[[二足歩行]]をしているが、急ぐ時や岩を登るときには四足歩行も行う。足は大きく、尾はない<ref>{{Cite book |和書 |author=今泉吉典|authorlink=今泉吉典|year=1973|title=アニマルライフ 動物の大世界百科 第21巻 追補 |page=4167 |publisher=日本メール・オーダー社}}</ref>。 クムジュン村在住でイエティに襲われたハクパ・ドマ<ref name=note6>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note6.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(6) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092127/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note6.html |archivedate=2021-12-12}}</ref>によると、からだの大きさは3歳のヤクほどで手足の爪は長い。雌雄の判別はできなかったが、全身が褐色の毛で覆われている。[[頭髪]]は[[桃割れ]]のように左右に分かれ、前額が突き出て、眼窟が落ちくぼんでいる。口を開けて吠えたてたとき見えた[[前歯]]は、人間の人さし頻と[[中指]]を並べたぐらいの大きさ。[[尻尾]]はなかったようだ。足は逆むきについている<ref name=note8>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note8.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(8) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092127/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note8.html |archivedate=2021-12-12}}</ref>。 よく、汚れた雪男(アボミナブル・スノーマン)と誤称され(ミテー・カンミの誤訳)、背の高い白い毛皮の動物とされてしまう<ref name=note15>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note15.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(15) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092312/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note15.html |archivedate=2007-3-18}}</ref>。 登山家のラインホルト・メスナーによると「イエティ」はシェルパが用いた名称イェーテー(岩場の動物)またはメーテー(人熊(チベットではズーテー(牛熊)という))(これらは後ろ足で立って歩くこともあるヒマラヤヒグマと同じ名前)に由来するとされる。 ==歴史== [[1921年]]9月22日ハワード・バリー大佐とその登山隊はエベレストの標高7700メートル地点で大きな足跡を発見した。バリーはそれを[[オオカミ]]のものだと考えたがチベット人たちは雪男のものだと考えた<ref>ベルナール・ユーヴェルマンス(1981)、p.115</ref>。なお、ハイイロオオカミは大型であり、跳ねるように走り、二重に足跡がつくことがあるという。 [[1951年]]11月8日登山家の[[エリック・シプトン]]らはエベレスト山のメンルング・ツエ南西斜面にて人間の物によく似た足跡を発見した<ref>ベルナール・ユーヴェルマンス(1981)、p.114</ref>。その足跡は1.5キロ先のモレーン氷河まで続いていたが、そこで足跡は途切れていたので取り敢えずその足跡の画像を撮影した。この写真はのちにイエティの足跡を写したものだとして人々の注目を集めた。 [[1958年]]、{{仮リンク|ノーマン・ディーレンファース|en|Norman Dyhrenfurth}}率いる雪男探検隊の参加者が、人間を小型にしたような黒毛で覆われ、手足は人間そっくりの動物が、森の中の川岸の石の上でカエルを食べていたのを目撃した<ref name=note5/>。現在{{いつ|date=2020年7月3日 (金) 07:36 (UTC)}}も目撃されている。 30年前<ref name=note6/>、ハクパ・ドマがイエティに襲われる直前には、頭が痛くなるような強烈な悪臭が立ち込め、背後から一撃をくらい失神したハクパ・ドマが我に返って死んだふりをしていると、イエティはハクパ・ドマが放牧していたヤクの2本のツノを両手でつかんで引き裂くようにしてへし折り、腹部を手でえぐって殺し、さらに騒ぎ立てた他のヤクを次々と2頭殺したあと、仔ヤクを岩にたたきつけ、殺した3頭のヤクの腹部の裂傷に顔を埋めて血を飲んでいたという。ヤクの生血で空腹を満して奥山に姿を消したイエティの足の運びは非常に速く、足指を内側にすぼめて歩いていたという<ref name=note7>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note7.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(7) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092127/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note7.html |archivedate=2021-12-12}}</ref>。 === 神話・信仰 === 伝承では、イエティは風のようなもので音はしても姿かたちは見えず、イエティを見ると病気になると言われている<ref name=note5>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note5.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(5) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092149/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note5.html |archivedate=2007-3-18}}</ref>。 ほかにも、反踵といって足が逆向きについている、だとか、メスは[[気根]]のように垂れ下がった大きな[[乳房]]をつけているので、下り坂を走るときは邪魔になって早くは走れない。だから、襲われそうになって逃げるとしたら斜面を駆け下ればいい、といった[[野人 (未確認動物)|中国の野人伝説]]と類似した話がある。目に見えないのに姿がわかっていることについて、ある[[ラマ (チベット)]]に根深誠が質問すると、「目に見えなくても心に映る」と答えたという<ref name=note8/>。 人語を解さず甲高い声を上げるが、高徳の僧ならば会話できるという{{sfn|古川不可知|2019| p=15}}。 イエティ伝説発祥のタルガ村では、「イエティが毎年[[ジャガイモ]]の畑を掘り起こすので、物まねをする習性を利用して皆殺しにしたが、それに加わらなかった妊婦のイエティがひとりだけ生き延びて行方を晦ましたので、現在いるイエティは、すべてその妊婦の子孫である」と言い伝えられている<ref name=note2>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note2.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(2) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092127/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note2.html |archivedate=2007-3-18}}</ref>。 クーンブ地方にチベット仏教を布教したラマ・サンガドルジェという高僧の召使がイエティ夫妻だったとしてとして神格化され、その頭皮がパンボチェ僧院にかつて保存されていたとされており<ref name=note9>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note9.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(9) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092127/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note9.html |archivedate=2007-3-18}}</ref>、 ラマ・サンガ・ドルヂェの法要祭ドゥムヂェに参加するギャマカカという[[道化]]役は、ナムチェ村のゴンパに安置されているイエティの頭皮を被って観客に悪ふざけをする<ref name=note11>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note11.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(11) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092127/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note11.html |archivedate=2007-3-18}}</ref>。 また、「チベットでもっとも有名な[[医者]]ユトック・ユンテン・ゴンブがイエティ(メテ)を助け、お礼に貰った袋を開けると[[トルコ石]]が屋根を覆った」という報恩譚も言い伝えられている<ref name=note10>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note10.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(10) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092127/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note10.html |archivedate=2007-3-18}}</ref>。 イエティが窓から入ってくると家の者が病気になったり死んだりすると恐れられ、真っすぐに立って歩く習性があるので家の窓を小さくしておくというシェルパの伝統があったが{{sfn|高橋貴|栗田和明|渡邉道斉|1993| p=352}}、現在は廃れている{{sfn|高橋貴|栗田和明|渡邉道斉|1993| p=354}}。 現在見つからない理由としては、観光客{{sfn|古川不可知|2019| p=15}}もしくは村の人間が増えたために大きな山や森に逃げて行ったとも、両地区の力持ちもしくは土地神の力比べに勝った地区が負けた地区にイエティとミルゴンを連れて行ったとも、グル・リンポチェが調伏し{{sfn|石内良季|2020| p=184}}、仏教の守護者となったためとも言われている{{sfn|石内良季|2020| p=183}}。 == 正体 == イエティの正体については、ヒグマ説、[[ラングール]]説、未知の巨大[[類人猿]](或いは新生代第三期の大型類人猿[[ギガントピテクス]]或いはその祖先<ref name="VyZWDwAAQBAJ">{{Cite book |author1=こざきゆう |year=2018 |title=ムー公式実践・超不思議生物捕獲マニュアル |page=13 |publisher=[[学研プラス]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=VyZWDwAAQBAJ&pg=PT13#v=onepage&q&f=false|isbn=9784059168744}}</ref>、[[ネアンデルタール人]]<ref>{{Cite news|url=http://gigazine.net/news/20140703-dna-analysis-yeti-bigfoot/|title=ついに伝説の雪男イエティやビッグフットの正体がDNA鑑定で判明|newspaper=[[Gigazine]]|publisher=株式会社OSA|date=2014-07-03|accessdate=2019-08-16}}</ref>)説、ヒンドゥー教の修行僧の見間違え説など様々である。 [[1937年]][[大英博物館]]のガイ・ドルマンはアメリカの雑誌[[タイムズ|ザ・タイムス]]にてイエティの正体はヒマラヤラングールとししっ鼻ラングールではないかという説を発表した。しかしイエティの足跡とされるものが発見されている地域にラングールは生息していない<ref>ベルナール・ユーヴェルマンス(1981)、p.132</ref>。 [[1952年]]動物学者のベルナール・ユーヴェルマンスはフランスのシアンス・エ・アブニール誌にイエティの正体は[[ギガントピテクス]]の近種だとする説を投稿した。その説は他の科学者達によって突拍子もない話だとして切り捨てられた。一方[[ロシア]]の動物学者ウラジミール・チェルネツキーは『忌まわしき雪男探検隊・1955年』にてユーヴェルマンスの理論と類似した説を展開している<ref>ベルナール・ユーヴェルマンス(1981)、p.153</ref>。 [[1960年]]に[[探検家]]の[[エドモンド・ヒラリー]]ら18名参加の国際学術探査隊がエベレスト山麓を調査し、以下のような結果を発表した。 * 「イエティの足跡」は[[キツネ]]のもの。 * [[ネパール]]の[[チベット仏教|ラマ教]]寺院に保存されている「イエティの頭皮」は[[カモシカ]]の一種のもの。 * 「イエティの鳴き声」は[[ユキヒョウ]]のもの。 * 大きなイエティ「チュッテー」の毛や糞は[[ヒグマ]]のもの。 * 中くらいのイエティ「ミッテー」の毛と糞はカモシカのもの。 * 小さなイエティ「テルマー」の毛と糞は[[アカゲザル]]のもの。 [[File:Yetiscalp.JPG|thumb|イエティのものだと称されている頭部(ネパール、[[クムジュン]]の僧院)]] 最近では、シェルパにヒグマの姿を見せたところ、彼らが「イエティ」と認識したことが判明している。 [[ブータン]]で「[[雪男]]」を指すとされた「メギュ」、[[チベット]]での「テモ」もヒグマを指す名称だった。 [[1959年]]、地元住民が[[日本]]の登山隊に差し出した「イエティの毛皮」もヒグマのものだった<ref name=note12/>。 [[2003年]]にチベットで調査をおこなった[[登山家]]の[[根深誠]]も、チベットで「雪男」を指す「メテ」、「ミティ」は人を意味する"mi"と[[ウマグマ (動物)|チベットヒグマ]]を意味する"dred"が語源だったと、イエティはヒグマであったとの結論を出している<ref name=note16>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note16.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(16) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070318092127/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note16.html |archivedate=2007-3-18}}</ref>。 。 [[ラインホルト・メスナー]]の著書『My Quest for the Yeti』には、そもそもイギリスのエベレスト登山隊がイエティを未確認動物にして資金を集めていた事実が[[1930年代]]に[[ドイツ]]の探検家・動物学者{{仮リンク|E・シェーファー|en|Ernst Schäfer}}によって証されていたことが記載されている。多くの登山家達が資金繰り{{Efn2|エベレスト登山の場合、現在登山料は団体割引を使っても一人最低10,000米ドル。}}に悩んだあげく、故意かどうかは別にして、地元でイエティと呼ばれていたヒグマを未確認生物に仕立て上げ、資金源にしていた、と根深誠は述べている<ref name=note12>{{Cite news |url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note12.html |title=Web東奥・特集/ヒマラヤの雪男の謎を解明する/根深誠さんの手記(12) |newspaper=www.toonippo.co.jp |publisher=東奥日報 |date=2004-5-5 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20041205160711/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/higuma/nebukanote/note12.html |archivedate=2004-12-5}}</ref>。 [[2017年]]12月、アメリカの研究チームが、イギリス[[王立協会]][[紀要]]「[[フィロソフィカル・トランザクションズ]]」に「正体はクマの可能性大」と発表した<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASKD555KHKD5ULBJ013.html|title=雪男「イエティ」の正体、「骨」のDNA調べた結果は…|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|author=小堀龍之|date=2017-12-06|accessdate=2019-08-16}}</ref>。 ブータンの地元民はゴリラの姿として認識しているという[[2020年]]の報告もある{{sfn|石内良季|2020| p=185}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} ==参考文献== * {{Cite book|和書|first=ベルナール|last=ユーヴェルマンス|authorlink=ベルナール・ユーヴェルマンス|others=今井幸彦 訳|date=1981-03-03|title=未知の動物を求めて|publisher=講談社}} *ダニエル・ロクストン、ドナルド・R・プロセロ『未確認動物UMAを科学する』松浦俊輔 訳、化学同人、2016年5月20日 == 関連項目 == * [[未確認動物]] * [[雪男]] * [[ビッグフット]] * [[鬼熊]] - 日本の伝承に出てくる二足歩行する熊の妖怪。 * [[エクスペディション・エベレスト]] - [[ディズニー・アニマル・キングダム]]に存在するイエティをテーマにした[[ローラーコースター]]。 == 外部リンク == * {{kotobank|2=デジタル[[大辞泉]]}} * {{kotobank|雪男}} * {{Cite journal |和書|author1=高橋貴 |author2=栗田和明 |author3=渡邉道斉 |title=インド・ネパールにおける伝統建築の技法と伝承 |journal=住宅総合研究財団研究年報 |volume=19 |publisher=一般財団法人 住総研 |url=https://doi.org/10.20803/jusokennen.19.0_347 |year=1993 |page=6<!--347-358--> |ISSN=0916-1864 |doi=10.20803/jusokennen.19.0_347 |id={{CRID|1051693803406006272}} |naid=130007938089 |accessdate=2022-08-17 | ref = harv }} * {{Cite journal |和書|author1=古川不可知 |title=ヒマラヤの雪男イエティ |journal=月刊みんぱく |volume=43 |issue=1 |publisher=[[国立民族学博物館]] |url=https://older.minpaku.ac.jp/sites/default/files/museum/showcase/bookbite/gekkan/MP1901_14-15.pdf |year=2019 |pages=14-15 |id={{国立国会図書館書誌ID|000000030378}} |ISSN=0386-2283 |ISBN=9784309227818 |accessdate=2022-08-17 | ref = harv }} * {{Cite journal |和書|author1=石内良季 |title= <フィールドワーク便り>イエティをめぐる複数の語り |journal=アジア・アフリカ地域研究 |volume=20 |issue=1 |publisher=[[京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科]] |url=https://hdl.handle.net/2433/255918 |year=2020 |page=9<!--182-185--> |ISSN=13462466 |doi=10.14956/asafas.20.174 |id={{CRID|1051693803406006272}} |naid=130007938089 |accessdate=2022-08-17 | ref = harv }} {{Normdaten}} {{animal-stub}} {{DEFAULTSORT:いえてい}} [[Category:人型未確認動物]] [[Category:ヒマラヤ山脈]]
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膣 または腟(ちつ、英: vagina、独: Vagina)とは、動物における雌性の生殖器のうち、体内にあって体外の開口部に連なる末端部の名称である。この項目では便宜上、雌・女性という語を使用し性別に言及する。 一般的に雌性生殖器のうち、体表面と内部の子宮等の生殖器をつなぐ管状構造のこと。交尾・出産に使われる。無脊椎動物を含め、体内受精を行う動物ではこの構造を持つ例は少なくなく、下等な方では無腸動物にもその例がある。鳥類や幾つかの爬虫類、および単孔類など一部の哺乳類における膣は総排出腔(=総排泄腔)であり、昆虫や無脊椎動物においては卵管(=輸卵管)の末端部である。 哺乳類においては雌の子宮から体外に通じる管状の器官であり、交接器と産道を兼ねている。また、膣の開口部(膣口)は外陰部に位置する。 膣の役割は以下のものがある。 処女膜(Hymen)は、哺乳動物ではモルモット・ゾウ・鼠・ハクジラ・アザラシ・ジュゴン・キツネザルなどに存在する。多くの場合は膣口を完全に覆うものではなく、処女膜は膣口周囲を縁取る、もしくは部分的に覆う構造をしている。帯下(おりもの)や月経期間中の経血は、処女膜に空いた穴を通り排出される。処女膜の役目は「未成熟な内性器を細菌などから守るものだ」など諸説あるがはっきりしていない。ヒトにおいての処女膜はやや薄く、性交の経験がなくとも破れることはある。また、破れる際にも必ずしも出血や痛みを伴うものではない。 子宮頸部およびその周りを取り囲む膣円蓋が膣の行き止まりを形成する。子宮頸部のほぼ中央部に子宮口(外子宮口)が開口しており、子宮頸管・子宮へとつながる。ヒトにおいて子宮頸部は約2〜3cm程度膣内に突出しており、周産期以外は子宮口のサイズは数ミリ以下である。膣の真上ではなく斜め前方についていることが多い。これは子宮が通常は前傾している事による。ただし、子宮が後屈している場合などはこの限りではない。 ヒトにおいては、子宮頸部の周りを囲む膣円蓋部から体表面をつなぐ筋肉でできた伸縮性のある管状構造をしている。膣内は分泌液によって酸性に保たれ、細菌などの有害な異物の侵入を防いでいるが、いわゆる無菌状態ではない(代表的な菌として、デーデルライン桿菌がある)。この膣の自浄作用により、精子も大半が死滅するほどである(もちろん、妊娠を望まない性交を行う際には避妊対策が必須である)。膣の長さは約7〜9cm程度とされてはいるが、個人差も大きく膣自体に伸展性もあるため必ずしも平均に当てはまるものではない。月経周期や年齢によって子宮・膣を支える骨盤底筋の強さに変化が現れ、膣の長さが変化することもある。 女性の外性器は、よく「膣」であると言われるが、厳密には外陰部(=Vulva (ウルウァ:ラテン語の「子宮」に由来する)または、Pudendum(プデンドゥム:ラテン語で「恥るべき」を意味する pudendlus プデンドゥスから派生))のことである。外陰部を構成する小陰唇に挟まれた膣前庭部に膣口が開口している。膣は、厳密には体内の部分を指す医学用語である。 膣内壁は皺襞(ひだ)状になっており、挿入された陰茎や亀頭を刺激し射精を促す。 一部医師によって膣内壁の皺襞、疣贅(いぼ)の形状が尖圭コンジローマによるものと誤診されることがある。 一般的には「膣(ちつ)」と表記されるが、「腟(しつ)」が使われる場合もある。いずれも常用漢字外である。小川鼎三の「医学用語の起こり」によると、「腟」は『重訂解体新書』(『解体新書』の改訂版)を訳出する際に作成した新字であり「しつ」と読ませようとしたが、既存の似た文字である「膣」に取って代わられ、読みも「ちつ」になったとされている。しかし、いずれの字も『康熙字典』に存在するため、この説には疑問が残る。ちなみに、中国語における「膣」は「肉が出来る」といった意味を表し、この字が女性器を表すのは日本語の用法である。Vagina のことを中国語では「陰道」と言う。 益田赤十字病院 第一産婦人科部長 水田 正能の「産婦人科医が“膣”を使ってはならない」からすると“腟”という漢字は,文政9年(1826年)『重訂解体新書』の中で,大槻玄沢が初めて使用している。 『重訂解体新書』は,『解体新書』の原典であるクルムスの『解剖圖譜』を翻訳,重訂したハギナものである。その中で大槻玄沢は,“腟”を女性生殖器に用いた理由として,「腟,法技納〔羅〕, シケイデ 悉乙牒,〔蘭〕」とあり,さらに「按ズルニシケイデハ室ナリ.則チ男茎容受ノ室ナリ,且ツ胎産 及ビ月経通利ノ道ナリ,イマ新ニ字ヲ製シテ訳シテシカ云ウ.室ノ辺傍肉ニ从ウ,音ヲ叱トナス, 則チ会意ナリ.中略,肉生ズルナリノ腟ニハ非ズ」と書いている.これは,“腟”は以前より中国 に存在していた漢字で,『玉篇』に「腟チツ,音扶,肉生也」とある. 大槻玄沢は,中国製漢字の 「肉が生ずる」という意味の“腟”の存在は知りつつも,臓器の特徴を著すために,「月(にくづき) 部」に「室」を会意した漢字“腟”を使用したのである.大槻玄沢の記載は,小生の出身地であ る岡山県津山市にある洋学資料館で『重訂解体新書』を拝見させていただき,確認した. どうして“膣”が誤用されているのか.一般に,“腟”は“膣”の略字であり,“膣”の方が古い 字体で正式だと誤解されているようである。 昭和22年初版の小川政修氏の『西洋醫學史』で探 してみると,「妊娠診斷,受胎,陣痛促進(坐藥),乳分泌増加(膏藥貼用),通經(煎劑の腟内注入)」 と,“醫學”“斷”“經”などの旧字体の中でも,“腟”が正確に使用されている.さらに断定的な証拠 として,大槻文彦氏は『大言海』に,“腟”と“膣”は異義の字であると書いているが,「膣ハ篇海 「音窒,肉生也」ト.今ハ腟ト同ジク用ヰル」と続く.この『篇海』は,前出の『玉篇』より後 代の著であるので,強いて言えば「腟」の方が旧字体なのである. Vagina はラテン語で剣の鞘や植物の葉鞘、子房といった鞘状の構造一般を意味する vāgīna(ワーギーナ)に由来し、解剖学では膣を含めた鞘(さや)(包膜、包被としての役目を担っている構造)を意味する。膣粘膜は、vagina mucosaと呼ぶ。
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膣 または腟とは、動物における雌性の生殖器のうち、体内にあって体外の開口部に連なる末端部の名称である。この項目では便宜上、雌・女性という語を使用し性別に言及する。
{{性的}} {{Infobox 解剖学 | name=膣 | 画像1=[[ファイル:Illu repdt female-nihongoban.png|300px]] | 画像説明1=女性器の模式図 | 画像2=Vaginal Canal Normal vs. Menopause.png | 画像説明2=膣管(左が正常、右が閉経) | 英語=Vagina(ヴァジャイナ) | ラテン語=vagina(ワギナ) | 器官=[[女性器]] | 動脈=腸腰動脈<br/>膣動脈<br/>中直腸動脈 | 静脈= | 神経= }} '''膣''' または'''腟'''(ちつ、{{lang-en-short|vagina}}、{{lang-de-short|Vagina}})とは、[[動物]]における雌性の[[生殖器]]のうち、体内にあって体外の[[開口部 (人体)|開口部]]に連なる末端部の名称である。この項目では便宜上、[[雌]]・[[女性]]という語を使用し性別に言及する。 == 動物一般 == 一般的に[[女性器|雌性生殖器]]のうち、体表面と内部の[[子宮]]等の生殖器をつなぐ管状構造のこと。[[交尾]]・[[出産]]に使われる。[[無脊椎動物]]を含め、体内受精を行う動物ではこの構造を持つ例は少なくなく、下等な方では[[無腸動物]]にもその例がある。[[鳥類]]や幾つかの[[爬虫類]]、および[[単孔類]]など一部の[[哺乳類]]における膣は[[総排出腔]](=総排泄腔)であり、[[昆虫]]や[[無脊椎動物]]においては[[卵管]](=輸卵管)の末端部である。 === 哺乳類の場合 === 哺乳類においては雌の子宮から体外に通じる管状の[[器官]]であり、[[交接器]]と産道を兼ねている。また、膣の開口部([[膣口]])は[[外陰部]]に位置する。 ==== 役割 ==== 膣の役割は以下のものがある。 * 膣壁や子宮、[[卵管]]などの[[内性器]]からの[[分泌物]]や、[[月経]]による[[血液]]と剥がれた内膜などを、体外に排出する道を提供する。 * 出産時に[[胎児]]を子宮から母体外へと運んでいくための経路、すなわち産道を提供する。 * 交尾([[性交]])によって雄の[[陰茎]]を受け入れ、[[生殖細胞]]([[精子]])を[[卵細胞]]([[卵子]])へ届けるための通り道となり[[受精]]を実現させる。 ==== 処女膜 ==== {{main|処女膜}} [[処女膜]](''Hymen'')は、哺乳動物では[[モルモット]]・[[ゾウ]]・[[ネズミ|鼠]]・[[ハクジラ]]・[[アザラシ]]・[[ジュゴン]]・[[キツネザル]]などに存在する。多くの場合は膣口を完全に覆うものではなく、処女膜は膣口周囲を縁取る、もしくは部分的に覆う構造をしている。帯下(おりもの)や[[月経]]期間中の経血は、処女膜に空いた穴を通り排出される。処女膜の役目は「未成熟な内性器を細菌などから守るものだ」など諸説あるがはっきりしていない。ヒトにおいての処女膜はやや薄く、性交の経験がなくとも破れることはある<ref>{{Cite web|和書|title=処女&処女膜についての意外な事実8つ! 初体験で出血しないのはノーマル!?|url=https://voguegirl.jp/love/body/20160313/8facts-about-hymen-and-virginity/|website=VOGUE GIRL|accessdate=2021-07-10|language=ja|first=CondeNast|last=Japan}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=9処女膜 {{!}} 女性の医学BOOK|url=http://www.toho-clinic.or.jp/l/9処女膜/|accessdate=2021-07-10|language=ja}}</ref>。また、破れる際にも必ずしも出血や痛みを伴うものではない<ref>{{Cite web|和書|title=タンポンで処女膜は破れない? - 教えて!性の神さま|url=https://www.nhk.or.jp/heart-net/oshiete-kamisama/category02/|website=NHK福祉ポータル ハートネット|accessdate=2021-07-10|language=ja|last=日本放送協会}}</ref>。 ==== 子宮頸部 ==== [[子宮頸部]]およびその周りを取り囲む膣円蓋が膣の行き止まりを形成する。子宮頸部のほぼ中央部に子宮口([[外子宮口]])が開口しており、子宮頸管・子宮へとつながる。ヒトにおいて子宮頸部は約2〜3cm程度膣内に突出しており、周産期以外は子宮口のサイズは数ミリ以下である。膣の真上ではなく斜め前方についていることが多い。これは子宮が通常は前傾している事による。ただし、子宮が後屈している場合などはこの限りではない。 == ヒトにおける膣 == [[ヒト]]においては、子宮頸部の周りを囲む膣円蓋部から体表面をつなぐ筋肉でできた伸縮性のある管状構造をしている。膣内は分泌液によって[[酸性]]に保たれ<ref>{{Cite web|和書|title=膣トラブルについて、まず知っておくべきは「pHバランス」。|url=https://voguegirl.jp/love/body/20160302/vagina_ph/|website=VOGUE GIRL|accessdate=2021-07-10|language=ja|first=CondeNast|last=Japan}}</ref>、細菌などの有害な異物の侵入を防いでいるが、いわゆる無菌状態ではない(代表的な菌として、'''デーデルライン桿菌'''がある)。この膣の自浄作用により、[[精子]]も大半が死滅するほどである<ref>{{Cite web|和書|title=子供ができる"危険日"をめぐるデマと真実 学校で教わらない妊活のキホンQ&A (2ページ目)|url=https://president.jp/articles/-/29246|website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2019-07-09|accessdate=2021-07-10|language=ja}}</ref>(もちろん、妊娠を望まない性交を行う際には[[避妊]]対策が必須である)。膣の長さは約7〜9cm程度とされてはいるが<ref>{{Cite book|title=DC Dutta's Textbook of Gynecology|url=https://books.google.co.jp/books?id=40yVAwAAQBAJ&pg=PA2&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false|publisher=JP Medical Ltd|date=2014-04-30|isbn=978-93-5152-068-9|language=en|first=Hiralal|last=Konar|first2=D. C.|last2=Dutta}}</ref>、個人差も大きく膣自体に伸展性もあるため必ずしも平均に当てはまるものではない。月経周期<ref>{{Cite web|和書|title=妊娠初期の症状の概要 いつから?自覚できる?子宮口でわかる?生理前とどう違う?|url=https://www.askdoctors.jp/articles/200553|website=アスクドクターズトピックス|date=2016-10-14|accessdate=2021-07-10}}</ref>や年齢によって子宮・膣を支える骨盤底筋の強さに変化が現れ、膣の長さが変化することもある。 {{Hidden|[[性器]]を含んだ[[画像]]があります。<br />表示する場合は右側の「表示」をクリック<br />(モバイル版の場合はタップして表示)。|[[File:Rugae vaginales.jpg|サムネイル|膣のひだ(Rugae)]]}} === 女性の外性器の解剖学 === 女性の[[外性器]]は、よく「膣」であると言われるが、厳密には[[外陰部]](=Vulva (ウルウァ:ラテン語の「子宮」に由来する)または、Pudendum(プデンドゥム:ラテン語で「恥るべき」を意味する pudendlus プデンドゥスから派生))のことである。外陰部を構成する小陰唇に挟まれた膣前庭部に膣口が開口している<ref>{{Cite book|和書|title=ネッター解剖学アトラス原書第6版|date=2016年9月|publisher=南江堂}}</ref>。膣は、厳密には体内の部分を指す医学用語である。 膣内壁は皺襞(ひだ)状になっており、挿入された[[陰茎]]や[[亀頭]]を刺激し[[射精]]を促す。 一部医師によって膣内壁の皺襞、疣贅(いぼ)の形状が[[尖圭コンジローマ]]によるものと[[誤診]]されることがある<ref>http://hinyoukika.cocolog-nifty.com/std/2005/09/post_d765.html<!--リンク切れ--></ref><ref>https://web.archive.org/web/20051127032508/http://hinyoukika.cocolog-nifty.com/std/2005/09/post_d765.html</ref>。 == 語源 == 一般的には「'''膣'''(ちつ)」と表記されるが、「'''腟'''(しつ)」が使われる場合もある。いずれも[[常用漢字]]外である。小川鼎三の「医学用語の起こり」によると、「腟」は『[[重訂解体新書]]』(『[[解体新書]]』の改訂版)を訳出する際に作成した新字であり「しつ」と読ませようとしたが、既存の似た文字である「膣」に取って代わられ、読みも「ちつ」になったとされている<ref>小川鼎三『医学用語の起こり』([[東京書籍]]、[[1990年]])ISBN 978-4487722181 </ref><ref>[http://www1.linkclub.or.jp/~yosihide/kuu-1 徳島大学吉田秀夫のホームページ]</ref><ref>[http://www.y-yy.com/newpage3.htm 96「腟と膣」を参照]</ref>。しかし、いずれの字も『[[康熙字典]]』に存在するため、この説には疑問が残る。ちなみに、中国語における「膣」は「肉が出来る」といった意味を表し、この字が女性器を表すのは日本語の用法である{{疑問点|date=2009年12月}}。''Vagina'' のことを中国語では「陰道」と言う。 益田赤十字病院 第一産婦人科部長 水田 正能の「[http://fa.kyorin.co.jp/jsog/readPDF.php?file=to63/59/10/KJ00005050092.pdf 産婦人科医が“膣”を使ってはならない]」からすると“腟”という漢字は,文政9年(1826年)『[[重訂解体新書]]』の中で,大槻玄沢が初めて使用している。 『[[重訂解体新書]]』は,『解体新書』の原典であるクルムスの『解剖圖譜』を翻訳,重訂したハギナものである。その中で大槻玄沢は,“腟”を女性生殖器に用いた理由として,「腟,法技納〔羅〕, シケイデ 悉乙牒,〔蘭〕」とあり,さらに「按ズルニシケイデハ室ナリ.則チ男茎容受ノ室ナリ,且ツ胎産 及ビ月経通利ノ道ナリ,イマ新ニ字ヲ製シテ訳シテシカ云ウ.室ノ辺傍肉ニ从ウ,音ヲ叱トナス, 則チ会意ナリ.中略,肉生ズルナリノ腟ニハ非ズ」と書いている.これは,“腟”は以前より中国 に存在していた漢字で,『玉篇』に「腟チツ,音扶,肉生也」とある. 大槻玄沢は,中国製漢字の 「肉が生ずる」という意味の“腟”の存在は知りつつも,臓器の特徴を著すために,「月(にくづき) 部」に「室」を会意した漢字“腟”を使用したのである.大槻玄沢の記載は,小生の出身地であ る岡山県津山市にある洋学資料館で『重訂解体新書』を拝見させていただき,確認した. どうして“膣”が誤用されているのか.一般に,“腟”は“膣”の略字であり,“膣”の方が古い 字体で正式だと誤解されているようである。 昭和22年初版の小川政修氏の『西洋醫學史』で探 してみると,「妊娠診斷,受胎,陣痛促進(坐藥),乳分泌増加(膏藥貼用),通經(煎劑の腟内注入)」 と,“醫學”“斷”“經”などの旧字体の中でも,“腟”が正確に使用されている.さらに断定的な証拠 として,大槻文彦氏は『大言海』に,“腟”と“膣”は異義の字であると書いているが,「膣ハ篇海 「音窒,肉生也」ト.今ハ腟ト同ジク用ヰル」と続く.この『篇海』は,前出の『玉篇』より後 代の著であるので,強いて言えば「腟」の方が旧字体なのである. ''Vagina'' は[[ラテン語]]で[[剣]]の[[鞘]]や植物の[[葉鞘]]、[[子房]]といった鞘状の構造一般を意味する vāgīna(ワーギーナ)に由来し、[[解剖学]]では膣を含めた'''鞘'''([[さや]])(包膜、包被としての役目を担っている構造)を意味する。膣粘膜は、''vagina mucosa''と呼ぶ。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参考文献 == * [[笠井寛司]] 『日本女性の外性器 ― [[統計学]]的形態論』 (フリープレス、増補改訂版 [[2004年]]) ISBN 4-434-04575-X * [[イェルト・ドレント]] , [[塩崎香織]](訳) 『ヴァギナの[[文化史]]』 ([[作品社]]、[[2005年]]) ISBN 4-87893-689-4 * [[キャサリン・ブラックリッジ]] , [[藤田真利子]](訳) 『ヴァギナ 女性器の文化史』 ([[河出書房新社]]、[[2005年]]) ISBN 4-309-20453-8 * [https://chitsu.media/ 腟ペディア]([https://honmono.world/ 株式会社HONMONO],2019年) == 関連項目 == {{Commons|Vagina}} * [[膣口]] * [[スキーン腺]] * [[外陰部]] * [[ヴァギナ・モノローグス]] * [[ヴァギナ・デンタタ]] * [[膣鏡]] {{Medical-stub}} {{性}} {{生殖器系}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちつ}} [[Category:膣|*]]
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紀元前207年
紀元前207年(きげんぜん207ねん)
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紀元前207年(きげんぜん207ねん)
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 世紀= {{紀元前/世紀|3}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|2}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|220}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|210}} | 10年紀= {{紀元前/年代|200}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|190}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|180}} | 3年前= {{紀元前/年|210}} | 2年前= {{紀元前/年|209}} | 1年前= {{紀元前/年|208}} | 1年後= {{紀元前/年|206}} | 2年後= {{紀元前/年|205}} | 3年後= {{紀元前/年|204}} |}} [[紀元前]]'''207年'''(きげんぜん207ねん) == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[甲午]] * [[日本]] ** [[皇紀]]454年 ** [[孝元天皇]]8年 * [[中国]] : [[秦朝|秦]] - [[胡亥|二世皇帝]]3年 * [[朝鮮]] : * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 338年 * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == できごと == === 中国 === * [[望夷宮の変]] - [[秦朝|秦]]の二世皇帝[[胡亥]]が、[[丞相]]の[[趙高]]らの企てによって、自害を強いられた。 == 誕生 == {{see also|Category:紀元前207年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:紀元前207年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[胡亥]]、[[秦朝|秦王朝]]の第2代皇帝 * [[趙高]]、秦王朝の政治家、[[宦官]] * [[宋義]]、[[楚 (春秋)|楚]]の総大将 * [[蜀泮]]、現在のベトナム北部に[[甌雒|甌雒国]]を建国、安陽王を名乗る * [[クリュシッポス]]、ギリシアの哲学者。[[ストア派]]の学頭 * [[マカニダス]]、[[スパルタ]]の[[僭主]] * [[ハスドルバル|ハスドルバル・バルカ]]、[[カルタゴ]]の将軍(* [[紀元前245年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|207 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=3|年代=200|BC=1}} {{デフォルトソート:きけんせん207ねん}} [[Category:紀元前207年|*]]
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紀元前221年
紀元前221年(きげんぜん221ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「アシナとルフス/レピドゥスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元535年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前221年と表記されるのが一般的となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "紀元前221年(きげんぜん221ねん)は、ローマ暦の年である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "当時は、「アシナとルフス/レピドゥスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元535年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前221年と表記されるのが一般的となった。", "title": null } ]
紀元前221年(きげんぜん221ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「アシナとルフス/レピドゥスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元535年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前221年と表記されるのが一般的となった。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 世紀= {{紀元前/世紀|3}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|2}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|240}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|230}} | 10年紀= {{紀元前/年代|220}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|210}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|200}} | 3年前= {{紀元前/年|224}} | 2年前= {{紀元前/年|223}} | 1年前= {{紀元前/年|222}} | 1年後= {{紀元前/年|220}} | 2年後= {{紀元前/年|219}} | 3年後= {{紀元前/年|218}} |}} '''紀元前221年'''(きげんぜん221ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。 当時は、「アシナとルフス/レピドゥスが[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]535年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前221年と表記されるのが一般的となった。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[庚辰]] * [[日本]] ** [[皇紀]]440年 ** [[孝霊天皇]]70年 * [[中国]] ** [[秦朝|秦]] - [[始皇帝|始皇]]26年 ** [[田斉|斉]] - [[田建|斉王建]]44年 * [[朝鮮]] : * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 326年 * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == できごと == === カルタゴ === * [[カルタゴ]]の将軍[[ハスドルバル (ハミルカルの娘婿)|ハスドルバル]]が、[[ヒスパニア]]の[[植民地]]を増やすための遠征中に、ケルト人によって暗殺される。ハスドルバルの暗殺の後、カルタゴの将軍[[ハミルカル・バルカ]]の息子[[ハンニバル]]は、司令官として軍に推挙され、カルタゴ政府から承認を受ける。 * ハンニバルはカルタゴのヒスパニアの支配を強固にするため、直ちに動き始める。彼はヒスパニアの王女Imilceと結婚すると、ヒスパニアの様々な部族の征服を始める。{{仮リンク|オルカデス族|en|Olcades}}と戦い、その首都[[アルテア|アルタイア]]を占領する。北西の{{仮リンク|ウァカエイ族|en|Vaccaei}}を平定し、基地である[[カルタゴ・ノウァ]](カルタゴのヒスパニア植民地の首都、現在の[[カルタヘナ (スペイン)|カルタヘナ]])に港を築く。[[タホ川|タグス川]]一帯の{{仮リンク|カルペタニ|en|Carpetani}}族に赫々たる勝利を収める。 === エジプト === * [[古代エジプト|エジプト]]・[[プトレマイオス朝]]では、[[プトレマイオス3世]]が死に、[[プトレマイオス4世]]が即位する。{{仮リンク|ソシビオス|en|Sosibius}}がプトレマイオス4世によって大宰相となり、全ての国務を指示して、瞬く間に若き王に大きな影響を持つようになった。 * ソシビオスの讒言により、 プトレマイオス4世は次々におじのリュシマコスや弟の{{仮リンク|マガス (エジプト)|label=マガス|en|Magas of Egypt}}や母の[[ベレニケ2世]]を殺害する。 * [[スパルタ王]][[クレオメネス3世]]は、エジプトに亡命していたが、プトレマイオス4世は[[陰謀]]を疑い彼を軟禁する。 === セレウコス朝 === * [[メディア王国|メディア]]総督([[サトラップ]])の{{仮リンク|モロン (メディア)|label=モロン|en|Molon}}と兄弟で[[ペルシス]]総督の{{仮リンク|アレクサンドロス (ペルシス)|label=アレクサンドロス|en|Alexander (satrap)}}は、主に宰相{{仮リンク|ヘルメイアス|en|Hermeias}}への憎しみを理由に、[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]に反乱を起こす。モロンは[[チグリス川]]東部にある[[セレウキア]]の領地の支配者になることが可能になる。アンティオコス3世の軍は、彼が川を越えようとする試みを防ぐ。 アンティオコスの将軍である{{仮リンク|クセノエテス|en|Xenoetas}}がモロンに対し大軍とともに派遣されるが、モロン軍の奇襲にあって、全軍が崩壊し、クセノエテスは殺される。モロンはチグリス川を渡り、自らをチグリス川沿岸のセレウキアと全[[バビロニア]]と[[メソポタミア]]の支配者とする。 === ギリシア === * [[アンティゴノス3世]]が[[イリュリア]]の諸都市との戦闘中に死に、若き従兄弟の[[ピリッポス5世]]が[[マケドニア]]王位を継ぐ。 === 共和政ローマ === * [[ガイウス・フラミニウス]]が、ローマの2番目の[[競馬場]]である{{仮リンク|フラミニウス競技場|en|Circus Flaminius}}を建設する。 === 中国 === * [[秦朝|秦]]の将軍[[王賁]]は[[李信]]・[[蒙恬]]と共に[[田斉|斉]]を攻め、斉都の[[臨淄]]を包囲する。[[田建|斉王建]]は[[后勝]]の言に従い無抵抗なまま降服する。[[秦]]は[[田斉|斉]]を滅ぼし秦王政は中国統一を果たす。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]が終焉する。{{仮リンク|秦魏の戦い|zh|秦滅魏之戰}} * 政が中国史上初めて[[皇帝]]を名乗り、約2000年続く中国の[[絶対君主制]]を開始する。政は後世に[[始皇帝]]と称される。 * 始皇帝は[[中央集権]]を採用して[[郡県制]]を全国に施行する。天下を三十六の[[郡]]に分け、郡に守、尉、監を置く。 * 秦は天下の武器を[[咸陽市|咸陽]]に集め、溶かして鐘と{{仮リンク|十二金人|zh|十二金人}}を作る。重さはそれぞれ千石あり、宮廷の中に置く。[[度量衡]]を統一する。天下の富豪十二万戸を咸陽に移住させる。 * 中国の[[青銅器時代]]が終わる(おおよその年代)。 == 誕生 == {{see also|Category:紀元前221年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:紀元前221年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[プトレマイオス3世]]、[[プトレマイオス朝]]第3代国王 * [[ベレニケ2世]]、プトレマイオス3世の后 * [[アンティゴノス3世]]、[[アンティゴノス朝]]マケドニアの王(* [[紀元前263年]]) * [[ハスドルバル (ハミルカルの娘婿)|ハスドルバル]]、カルタゴの将軍 * [[ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前251年の執政官)|ルキウス・カエキリウス・メテッルス]]、共和政ローマの執政官(* [[紀元前290年]]) == フィクションのできごと == * 時空が安定していない[[1938年]]に向かうため、着陸のための目印を11代目ドクターが秦の壺に書き込む。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|221 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=3|年代=200|BC=1}} {{デフォルトソート:きけんせん221ねん}} [[Category:紀元前221年|*]]
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紀元前256年
紀元前256年(きげんぜん256ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスとクィントゥス・カエディキウスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元498年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前256年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前256年(きげんぜん256ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスとクィントゥス・カエディキウスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元498年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前256年と表記されるのが一般的となった。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 世紀= {{紀元前/世紀|3}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|2}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|270}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|260}} | 10年紀= {{紀元前/年代|250}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|240}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|230}} | 3年前= {{紀元前/年|259}} | 2年前= {{紀元前/年|258}} | 1年前= {{紀元前/年|257}} | 1年後= {{紀元前/年|255}} | 2年後= {{紀元前/年|254}} | 3年後= {{紀元前/年|253}} |}} '''紀元前256年'''(きげんぜん256ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。 当時は、「[[ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングス]]と[[クィントゥス・カエディキウス]]が[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]498年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前256年と表記されるのが一般的となった。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[乙巳]] * [[日本]] ** [[皇紀]]405年 ** [[孝霊天皇]]35年 * [[中国]] ** [[周]] - [[赧王]]59年 ** [[秦]] - [[昭襄王 (秦)|昭襄王]]51年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[考烈王]]7年 ** [[田斉|斉]] - [[田建|斉王建]]9年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[孝王 (燕)|孝王]]2年 ** [[趙 (戦国)|趙]] - [[孝成王 (趙)|孝成王]]10年 ** [[魏 (戦国)|魏]] - [[安釐王]]21年 ** [[韓 (戦国)|韓]] - [[桓恵王]]17年 * [[朝鮮]] : * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 291年 * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == できごと == === 共和政ローマ === * [[ローマ]]軍は、[[第一次ポエニ戦争]]を早期に終結させるため、[[北アフリカ]]の[[カルタゴ]]の植民地を侵攻することを決めた。[[ハミルカル]]に率いられたカルタゴ軍はこれを阻止しようとしたが、[[執政官]][[マルクス・アティリウス・レグルス]]と[[ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングス]]に率いられたローマ軍は、[[シチリア]]南岸の[[エクノモス岬の戦い]]でカルタゴ軍を破った。 * エクノモス岬の戦いの後、ローマ軍はカルタゴの領土に上陸し、破壊行為を始めた。ローマ軍はすぐにカルタゴから東に40マイルの[[ケリビア]]を占領した。ローマ軍を町の守りに就かせた後、2人の執政官は、本国から、ウルソは多くの兵を連れてローマに戻り、レグルスは歩兵と騎兵を率いてその地に留まり、戦争を終結させるようにとの指令を受けた。 * カルタゴの南東64㎞の[[アディス]]近郊で、カルタゴ軍とレグルスに率いられたローマ軍との間で、[[アディスの戦い]]が行われた。ローマ軍は大勝し、カルタゴ軍は和平を求めた。交渉の過程で、レグルスはカルタゴに無条件降伏と[[シチリア]]、[[コルシカ]]、[[サルディニア]]のローマへの譲渡、海軍の放棄、保障金の支払い、ローマに隷属する条約の締結を求めた。これらの条件は厳しいものであり、カルタゴの市民は戦争の継続を求めた。 === 中国 === * [[秦]]の将軍[[楊摎]]が[[韓 (戦国)|韓]]を攻撃し、陽城・負黍を陥落させた。さらに[[趙 (戦国)|趙]]を攻撃し、20県あまりを奪った。 * 西周の[[文公 (西周)|文公]]は諸侯の軍を結集し、伊闕を出て秦を攻撃して、陽城との連絡路を遮断しようとした。秦の[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]は将軍楊摎に西周を攻撃させた。西周の文公は秦に降伏し、その領土を献上した。[[赧王]]も秦の庇護下に入ったが、まもなく死去した。[[周]]はここに事実上滅亡したが、[[東周公|東周君]]の[[昭文君]]の国が7年間存続した。 * [[楚 (春秋)|楚]]が[[魯]]を滅ぼし、魯の[[頃公 (魯)|頃公]]は莒に移された。 * 秦の[[蜀郡]][[郡守]]の李冰が[[成都平原]]を灌漑するために[[岷江]]に[[都江堰]]を築いた。 == 誕生 == {{see also|Category:紀元前256年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[劉邦]] - [[漢]]王朝の建国者([[紀元前195年]]没) == 死去 == {{see also|Category:紀元前256年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[赧王]] - 周王朝最後の王 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|256 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=3|年代=200|BC=1}} {{デフォルトソート:きけんせん256ねん}} [[Category:紀元前256年|*]]
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鹿児島市
鹿児島市(かごしまし)は、鹿児島県の中部に位置する市。鹿児島県の県庁所在地及び人口が最多の市で、中核市に指定されている。 鹿児島湾西岸の市街地から桜島を望む景観がイタリアのナポリからヴェスヴィオ火山を望む風景に似ていることから、「東洋のナポリ」と称される。 南九州地域の主要拠点都市の代表格にあたる都市で、政治・経済・文化・交通の中心地でもある。鹿児島県本土中西部に位置し、古くから島津家による薩摩藩、90万石の城下町として栄えてきた。幕末期には山口県の長州藩とともに薩長同盟を組み、明治維新に大きく貢献するととも西郷隆盛などの政府要人の生誕の地でもある。1889年4月1日に日本で最初に市制を施行した31市の一つで、現在は福岡市、北九州市、熊本市に次ぐ九州第4位の人口を擁する。 1996年に第一期の中核市(1996年度の自治省(現在の総務省)が定めた地方自治法の政令によって)に指定された。2021年4月現在、人口は中核市では船橋市(千葉県)川口市(埼玉県)に次いで第3位である。 又、国際会議観光都市にも指定されている。本市は、県人口の約三分の一(約35 %)が集中している首位都市でもあり、周辺の自治体と鹿児島都市圏を構成する。中心市街地である天文館地区は南九州最大の繁華街である。アミュプラザ鹿児島開業以降、鹿児島中央駅周辺も商業地として発展している。 2011年の九州新幹線(博多駅 - 鹿児島中央駅)の完全開業により更なる発展が期待されるが、元々鹿児島市は地理的要因により地域ブロックの拠点として発展してきた側面もあり、福岡都市圏と短時間で結ばれるようになることで、ストロー効果などのマイナス面も懸念されている。 2007年に鹿児島市が定めた"かごしま都市マスタープラン"では以下のような区分により地域・地区を定義している。面積は2011年1月1日現在、人口は2020年4月1日現在である。所管支所は2020年(令和2年)の「鹿児島市役所支所設置条例」改正後のとおりである。 鹿児島市には2023年(令和5年)現在、町のみが設置されており、「○○町」又は「○○△丁目」と表記される。大字は1911年(明治44年)までは大字として西田、荒田、塩屋が設置されていたが、西田の大半が常盤町、荒田の大半は上荒田町、塩屋は塩屋町(後の甲突町)となり、それ以降は設置されていない。 周辺の町村を編入した際にも合併時に既存の大字の区域を町に置き換えており、2004年(平成16年)の鹿児島郡吉田町・桜島町・日置郡郡山町・松元町・揖宿郡喜入町の編入の際にも既に町として設置されていた牟礼岡一丁目から牟礼岡三丁目を除いた大字は編入時に大字の区域を廃止し、新規に町の区域が設定されている。 2015年(平成27年)発刊の『鹿児島市史第5巻』によると2014年(平成26年)現在、鹿児島市で最も人口が多い町丁は3万2691人の吉野町であり、次いで1万人台が上福元町、6千人台が下福元町及び中山町(ちゅうざんちょう)、5千人台が鴨池新町、川上町、春山町となっている。 九州の南端部近く、福岡市から南へ約280km、熊本市から南へ約180kmの場所に位置し、鹿児島県内の薩摩半島の北東部および桜島全域を市域とする。鹿児島湾(錦江湾)を望み、桜島などに年間約900万人の観光客が訪れる観光都市でもある。 平野部の大部分が商業地域、住宅地域、工業地域に占められ耕作地域はほとんどない。市街地に近い傾斜地や山間部の多くも宅地開発され団地やニュータウンが数多い。しかし、都市の発展に道路開発が追いついておらず、朝夕はいずれの幹線も渋滞が激しい。市街地が南北に細長いこともあって、とくに谷山地区や吉野方面からの通勤渋滞がひどく、大きな課題となっている。 国道10号線の吉野 - 姶良間沿岸部での総雨量が200mm以上になると通行制限がされる(制限経緯:集中豪雨災害「平成5年8月豪雨」いわゆる「8.6豪雨(8.6水害)」を参照)。そのため、同じく平行して通るJR九州の日豊本線も独自の規定雨量近くに達した場合、運転を見合わせる時がある。 市域中心部の対岸(直線距離約4km)に位置する桜島は、1980 - 90年代に比べればかなり沈静化しているが、2000年以降もなお活発な火山活動を続けており、市中心部にもしばしば降灰する。活火山を抱えながら、これだけの人口規模を有する都市は世界的にも稀である。 火山に近く泉源数が多いため、市内の入浴施設のほとんどが温泉である。詳細については「鹿児島市街地の温泉」を参照。 桜島(活火山)、城山、多賀山、八重山、花尾山、上宮岳、三重岳、三方塚山、雄岳 甲突川、稲荷川、脇田川、新川、清滝川、永田川、神之川、川田川、思川 鹿児島市の東西南北それぞれの端は以下の位置となっている。 温暖で多雨の太平洋側気候を呈する。年平均気温は19°C前後で、真夏日が年間80日前後、夏日は年間160日前後あるのに対して、冬日は年間数日程度であるが、郊外の丘陵地や山間部では明け方に0度を下回る事も少なくない。強い冬型の気圧配置となり西回りで寒気が流れ込む時には東シナ海からの雪雲が入りやすく、雪が降る。積雪は無い年が多いが、2011年1月1日には過去2番目となる積雪25cmを記録するなど、九州の県庁所在地の中で最南端ながら一度に積もる量は多い。しかし、南岸低気圧による降雪はまず無く、暖かい雨となる。大陸からの寒気の影響を受けやすいために、一時的に平年を5度以上も下回る寒さとなることもある。年間降水量は概ね2000 - 2500mm前後と多雨。年間日照時間は約1800 - 2100時間である。 なお、鹿児島地方気象台は1993年に上荒田町から東郡元町へ移転している。近年は温暖化に加え、都市化によるヒートアイランド現象の影響を強く受け、最低気温が急速に上がっている。平年値の上昇率は全国官署地点のなかでもトップクラスである。 「鹿児島」という名の由来は、野生の鹿の子(鹿児)が多く生息していたからとか、多くの水夫(かこ)が住んでいたから、火山を意味するカグという言葉から由来したなど諸説ある。さらに、神話から来たという説もあり現在でもどれが正しいか確定していない。しかし、「カゴ」は崖という意味の古語であり、桜島の四方が崖になっていたので島名を鹿児島(麑嶋)と称する様になり、それが対岸の神社名(鹿児島神宮)として定着し、更には鹿児島郡として郡名に拡大したという説が有力である。 都市としての始まりは、島津家第6代当主島津氏久が東福寺城(鹿児島市清水町)を居城にしたとき(1340年ごろ)とみられる。1549年(天文18年)、フランシスコ・ザビエルが現在の市域に当たる場所(祇園之洲町付近)に上陸し、日本初のキリスト教伝来の地となる。 19世紀の中ごろにはヨーロッパの機械文明を取り入れた研究が進み、第28代当主島津斉彬のもと集成館(現・尚古集成館)事業として反射炉や溶鉱炉が造られ、日本における近代工業化の発祥の地となり、近代日本の黎明期、明治維新において政治家、官僚、軍人など数多くの人物を輩出し、近代日本建設の礎となる。 中心市街地は、薩英戦争による砲撃、西南戦争による戦火、第二次世界大戦の鹿児島大空襲と三度も壊滅的打撃を蒙ったため、城下町としての面影は殆ど残っていない。 表中の■は鹿児島市、■は鹿児島市を除く市、■は町を示す。その他の色は村である。 この節では1889年(明治22年)の市制施行以後の鹿児島市の歴代市長を列記する。鹿児島市と対等合併又は編入合併した市町村の市町村長については当該市町村の記事を参照。 2019年4月7日に行われた、鹿児島県議会議員選挙の鹿児島市の開票所で、投票総数が投票者数を10票上回った持ち込み事件が発覚した。 2004年頃まで、鹿児島市やその周辺で「街」と言えば「天文館」と通じる程、市内中心部の天文館地区が絶対的な繁華街であった。これは、鹿児島市がその時間距離のために北部九州の影響を受けにくかったこと、また平地が極端に少なく、地価も同規模の都市と比較して割高で中央資本や大型ロードサイド店舗の進出が遅かったことなどの理由による。 しかし、九州新幹線の一部開業を契機とした鹿児島中央駅周辺地区の一体的大規模開発や都市計画用途指定の緩和に伴う郊外型大型店舗の増加によって、天文館地区以外の商業地も発展してきた。九州新幹線開業による北部九州へのストロー効果は限定的であるが、商圏内における鹿児島中央駅周辺地区や郊外大型店舗とのエリア間競争は激化している。 近年開発が進んでいる。 4の都市と姉妹都市・友好都市の関係がある。 38校 79校 70局 32局 鹿児島市は本州方面から続く鉄道・道路が終結、奄美・沖縄航路へ始発する九州南端の総合交通ターミナルとなっており、近代においては県内最大の交通の要衝として発展してきた。これらの背景から、本州北端の青森市と比較されることも多い。特に鹿児島港は古くから対岸の桜島・大隅半島・県内離島及び沖縄航路の要で、これらが都市の拠点性を高め、発展させた要因でもある。 鹿児島市と他地域を結ぶ高速バスとして、以下の路線が運行されている。主なターミナルとして鹿児島中央駅、同駅前鹿児島中央ターミナル、天文館、鹿児島本港高速船ターミナルなどがある(路線により発着地は異なる)。 かつては本州方面とを結ぶ夜行高速バスも数多く運行されていたが2016年までにすべて休廃止され、九州島内運行の鹿児島発着の夜行高速バスも2020年までにすべて休廃止されたため、現在は九州島内主要都市や鹿児島県内他都市への昼行路線のみとなっている。 鹿児島市内の通りも参照 鹿児島市を通る高規格幹線道路のうち、高速自動車国道は、九州縦貫自動車道鹿児島線(営業路線名:九州自動車道)及び、東九州自動車道があり、いずれも高速自動車国道の路線を指定する政令において鹿児島市が終点に指定されており、国土開発幹線自動車道の終点としては鹿児島市は最南端となる。東九州自動車道は姶良市の加治木JCTから鹿児島ICまでの区間は九州自動車道に重複する。 国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)は南九州西回り自動車道(鹿児島道路)がある。 鹿児島県の県道一覧を参照 (※ 太字は故人)
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鹿児島市(かごしまし)は、鹿児島県の中部に位置する市。鹿児島県の県庁所在地及び人口が最多の市で、中核市に指定されている。 鹿児島湾西岸の市街地から桜島を望む景観がイタリアのナポリからヴェスヴィオ火山を望む風景に似ていることから、「東洋のナポリ」と称される。
{{日本の市 | 自治体名 = 鹿児島市 | 画像 = Kagoshima Montage.jpg | 画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td colspan="2">[[仙巌園]]から[[桜島]]を望む</tr> <tr><td rowspan="2" style="vertical-align:middle">[[西郷隆盛像]]<td>[[いおワールドかごしま水族館]]</tr> <tr><td>[[おはら祭]]</tr> <tr><td>[[天文館]]<td>[[平川動物公園]]</tr></table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Kagoshima, Kagoshima.svg|100px|border|鹿児島市旗]] | 市旗の説明 = 鹿児島市旗<div style="font-size:smaller">[[1971年]][[9月1日]]制定<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/reiki_int/reiki_honbun/aq70200061.html 鹿児島市旗] - 鹿児島市例規集 2012年1月22日閲覧。</ref> | 市章 = [[ファイル:Symbol of Kagoshima, Kagoshima.svg|75px|鹿児島市章]] | 市章の説明 = 鹿児島市章<div style="font-size:smaller">[[1926年]][[11月24日]]制定<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/7siseijouhou/7-1aramasi/0003204.html 鹿児島市の花・木、鹿児島市の紋章] - 鹿児島市 2012年1月22日閲覧。{{リンク切れ|date=2021年9月}}</ref> | 都道府県 = 鹿児島県 | コード = 46201-2 | 隣接自治体 = [[薩摩川内市]]、[[南さつま市]]、[[南九州市]]、[[姶良市]]、[[垂水市]]、[[日置市]]、[[指宿市]] | 木 = [[クスノキ]]<br />([[1968年]][[11月1日]]制定) | 花 = [[キョウチクトウ]]<br />(1968年11月1日制定) | 郵便番号 = 892-8677 | 所在地 = 鹿児島市[[山下町 (鹿児島市)|山下町]]11番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-46|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Kagoshima_City_Hall_1.jpg|240px]]<br />{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=200|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=31.50|frame-longitude=130.52|text=市庁舎位置}} | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|46|201|image=Location of Kagoshima city Kagoshima prefecture Japan.svg|村の色分け=no}} | 特記事項 = }} [[ファイル:Kagoshima Public Access Center.jpg|thumb|300px|[[かごしま県民交流センター]]]] '''鹿児島市'''(かごしまし)は、[[鹿児島県]]の中部に位置する[[市]]。鹿児島県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]及び人口が最多の市で、[[中核市]]に指定されている<ref>{{cite wikisource|和書|title=地方自治法第二百五十二条の二十二第一項の中核市の指定に関する政令|author=[[日本国政府]]|publisher=[[日本国政府]]|date=1995-12-8|series=官報}}</ref>。 [[鹿児島湾]]西岸の市街地から[[桜島]]を望む[[景観]]が[[イタリア]]の[[ナポリ]]から[[ヴェスヴィオ|ヴェスヴィオ火山]]を望む風景に似ていることから、「'''東洋のナポリ'''」と称される<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/soumu/shichoshitu/kokusai/shise/kokusaikoryu/kyodai/naples.html 姉妹都市盟約等 - 市町村 - 鹿児島市(イタリア・ナポリ市)] 鹿児島市.2021年6月1日閲覧。</ref>。 == 概要 == [[南九州]]地域の主要[[拠点都市]]の代表格にあたる都市で、[[政治]]・[[経済]]・[[文化 (代表的なトピック)|文化]]・[[交通]]の中心地でもある<ref>谷岡武雄・山口恵一郎監修「コンサイス日本地名事典 第4版」 三省堂、1998年、ISBN 4-385-15327-2</ref><ref>浮田典良・中村和郎・[[高橋伸夫 (地理学者)|高橋伸夫]]監修「日本地名地図館 初版」 小学館、2002年、ISBN 4-09-526064-5</ref><ref>「世界大百科事典5 初版」 平凡社、1988年、ISBN 4-582-02200-6</ref><ref>「日本大百科全書5 2版」 小学館、1994年、ISBN 4-09-526105-6</ref>。鹿児島県本土中西部に位置し、古くから[[島津氏|島津家]]による[[薩摩藩]]、90万石の[[城下町]]として栄えてきた。[[幕末]]期には[[山口県]]の[[長州藩]]とともに[[薩長同盟]]を組み、[[明治維新]]に大きく貢献するととも[[西郷隆盛]]などの政府要人の生誕の地でもある。[[1889年]][[4月1日]]に[[日本]]で最初に[[市制]]を[[施行]]した31市の一つで、現在は[[福岡市]]、[[北九州市]]、[[熊本市]]に次ぐ九州第4位の[[人口]]を擁する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kagoshima.lg.jp/var/rev0/0034/9483/201144152030.pdf|title=第3章地域コミュニティの現状と課題|publisher=鹿児島市|accessdate=2012-1-19}}</ref>。 [[1996年]]に第一期の[[中核市]](1996年度の[[自治省]](現在の[[総務省]])が定めた[[地方自治法]]の[[政令]]によって)に指定された<ref name="鹿児島市の生い立ち">{{Cite web|和書|url=http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/7siseijouhou/7-1aramasi/0003203.html|title=鹿児島市の生い立ち|publisher=鹿児島市|accessdate=2012-01-19}}</ref>。2021年4月現在、人口は中核市では[[船橋市]]([[千葉県]])[[川口市]]([[埼玉県]])に次いで第3位である。 又、[[国際会議観光都市]]にも指定されている。本市は、県人口の約三分の一(約35 [[パーセント記号|%]])が集中している[[プライメイトシティ|首位都市]]でもあり、周辺の[[市町村|自治体]]と[[鹿児島都市圏]]を構成する。[[中心市街地]]である[[天文館]]地区は[[南九州]]最大の[[繁華街]]である。[[アミュプラザ鹿児島]]開業以降、[[鹿児島中央駅]]周辺も商業地として発展している。 [[2011年]]の[[九州新幹線]]([[博多駅]] - [[鹿児島中央駅]])の完全開業により更なる発展が期待されるが、元々鹿児島市は[[日本の地理|地理]]的要因により[[地域]]ブロックの拠点として発展してきた側面もあり、[[福岡都市圏]]と短時間で結ばれるようになることで、[[ストロー効果]]などのマイナス面も懸念されている。 == 市勢 == [[ファイル:Kagocity001.jpg|thumb|城山から望む市街地]] [[File:Kagoshima city center area Aerial photograph.2010.jpg|thumb|280px|鹿児島市中心部周辺の空中写真。<br/>2010年1月22日撮影の120枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] * 人口:594,258人(2021年10月現在) ** 自然動態率-0.23% 社会動態率-0.13% 出生率1.4 * 世帯:296,688世帯 * 登録外国人数:3,193人 * 面積:547.58km<sup>2</sup> ** [[人口集中地区|DID]]面積:74.59km<sup>2</sup> ** 可住地面積:249.30km<sup>2</sup> ** 本土側可住地面積:214.64km<sup>2</sup> * 人口密度:1085人/km<sup>2</sup> ** DID面積内人口密度:6469人/km<sup>2</sup> ** 可住地面積人口密度:2384人/km<sup>2</sup> === 人口 === {{人口統計|code=46201|name=鹿児島市|image=Demography46201.svg}} === 地域区分 === 2007年に鹿児島市が定めた"かごしま都市マスタープラン"では以下のような区分により地域・地区を定義している<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/library/shimin/3machidukuri/3-3toshikeikaku/a468a849dc8f3b2e066c08c1bd9d5b7d.pdf かごしま都市マスタープラン 3章 かごしま都市マスタープラン地域別構想] - 鹿児島市 2012年10月25日閲覧。</ref>。面積は2011年1月1日現在、人口は2020年4月1日現在である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kagoshima.lg.jp/soumu/soumu/soumu/shise/toke-02/jinko/h2704age5.html|title=年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成27~令和2年度)|date=2020-04-01|accessdate=2020-05-08|publisher=鹿児島市}}</ref>。所管支所は[[2020年]](令和2年)の「鹿児島市役所支所設置条例」改正後のとおりである<ref>{{Cite web|和書|url=http://g-reiki.city.kagoshima.lg.jp/kagoshima2/reiki_honbun/q702RG00000055.html|title=鹿児島市役所支所設置条例|publisher=鹿児島市|accessdate=2022-04-23}}</ref>。 {| class="wikitable" !colspan="2"|地域・地区 !所管本庁・支所 !人口(人) !面積(km<small><sup>2</sup></small>) !人口密度(人/km<small><sup>2</sup></small>) ![[市制]][[町村制]]施行時 !備考 |- !rowspan="5"|中央地域 !中央地区 |rowspan="5"|市役所本庁 |style="text-align:right" rowspan="5"|287,222 |style="text-align:right" rowspan="5"|48.2 |style="text-align:right" rowspan="5"|5,959 |鹿児島市 |style="font-size:x-small"| |- !上町地区 |鹿児島市、吉野村(一部) |style="font-size:x-small"|竜ヶ水地区は[[吉野 (鹿児島市)|吉野町]]の一部 |- !鴨池地区 |[[中郡宇村]] |style="font-size:x-small"|1934年、中郡宇村が鹿児島市に編入 |- !城西地区 |鹿児島市、[[伊敷村]](一部) |style="font-size:x-small"| * 1911年、伊敷村下伊敷(草牟田)が鹿児島市に編入 * 1920年、伊敷村永吉(原良)、伊敷村下伊敷(玉里)が鹿児島市に編入 |- !武・田上地区 |[[西武田村]] |style="font-size:x-small"| * 1911年、西武田村武(天保山)が鹿児島市に編入 * 1934年、西武田村が鹿児島市に編入 |- !rowspan="2"|谷山地域 !谷山北部地区 |rowspan="2"|谷山支所 |style="text-align:right" rowspan="2"|161,140 |style="text-align:right" rowspan="2"|106.8 |style="text-align:right" rowspan="2"|1,509 |rowspan="2"|[[谷山市|谷山村]] |rowspan="2" style="font-size:x-small"| * 1924年、町制施行、1958年に市制施行 * 1967年、鹿児島市と新設合併し鹿児島市となる |- !谷山地区 |- !colspan="2"|伊敷地域 |伊敷支所 |style="text-align:right"|50,055 |style="text-align:right"|57.1 |style="text-align:right"|877 |伊敷村(一部) |style="font-size:x-small"|1950年、伊敷村が鹿児島市に編入 |- !colspan="2"|吉野地域 |吉野支所 |style="text-align:right"|50,015 |style="text-align:right"|33.2 |style="text-align:right"|1,506 |[[吉野村 (鹿児島県)|吉野村]] |style="font-size:x-small"|1934年、吉野村が鹿児島市に編入 |- !rowspan="2"|桜島地域 !東桜島地区 |rowspan="2"|桜島支所 |style="text-align:right" rowspan="2"|4,021 |style="text-align:right" rowspan="2"|76.8 |style="text-align:right" rowspan="2"|52 |[[東桜島村]] |style="font-size:x-small"|1950年、東桜島村が鹿児島市に編入 |- !桜島地区 |[[桜島町|西桜島村]] |style="font-size:x-small"| *1973年、町制施行・即日改称 *2004年、桜島町が鹿児島市に編入 |- !colspan="2"|吉田地域 |吉田支所 |style="text-align:right"|10,095 |style="text-align:right"|54.8 |style="text-align:right"|184 |[[吉田町 (鹿児島県)|吉田村]] |style="font-size:x-small"| * 1972年、町制施行 * 2004年、吉田町が鹿児島市に編入 |- !colspan="2"|喜入地域 |喜入支所 |style="text-align:right"|10,990 |style="text-align:right"|61.2 |style="text-align:right"|180 |[[喜入町|喜入村]] |style="font-size:x-small"| * 1956年、町制施行 * 2004年、喜入町が鹿児島市に編入 |- !colspan="2"|松元地域 |松元支所 |style="text-align:right"|16,938 |style="text-align:right"|51.1 |style="text-align:right"|331 |[[松元町|上伊集院村]] |style="font-size:x-small"| * 1960年、町制施行・即日改称 * 2004年、松元町が鹿児島市に編入 |- !colspan="2"|郡山地域 |郡山支所 |style="text-align:right"|7,068 |style="text-align:right"|57.8 |style="text-align:right"|122 |[[郡山町 (鹿児島県)|郡山村]]、[[下伊集院村]](一部) |style="font-size:x-small"| * 1956年、下伊集院村の一部と郡山村が合併し町制施行 * 2004年、郡山町が鹿児島市に編入 |} === 町丁 === 鹿児島市には[[2023年]](令和5年)現在、[[町丁|町]]のみが設置されており、「○○町」又は「○○△丁目」と表記される。[[大字]]は[[1911年]]([[明治]]44年)までは大字として西田、荒田、塩屋が設置されていたが、西田の大半が[[常盤 (鹿児島市)|常盤町]]、荒田の大半は[[上荒田町]]、塩屋は塩屋町(後の[[甲突町]])となり、それ以降は設置されていない。 周辺の町村を編入した際にも合併時に既存の大字の区域を町に置き換えており、[[2004年]](平成16年)の[[鹿児島郡]][[吉田町 (鹿児島県)|吉田町]]・[[桜島町]]・[[日置郡]][[郡山町 (鹿児島県)|郡山町]]・[[松元町]]・[[揖宿郡]][[喜入町]]の編入の際にも既に町として設置されていた[[牟礼岡]]一丁目から牟礼岡三丁目を除いた大字は編入時に大字の区域を廃止し、新規に町の区域が設定されている<ref>{{cite wikisource|和書|title=町の区域の設定及び字の廃止|wslink=町の区域の設定及び字の廃止 (平成16年鹿児島県告示第1775号)|author=[[鹿児島県]]|publisher=[[鹿児島県]]|date=2004-10-26|series=鹿児島県公報}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kagoshima.lg.jp/library/shimin/7siseijouhou/7-18gappei/865b9784a7118583dc2060f696d26c50.pdf|title=町名・字名の取り扱いについて|publisher=鹿児島地区合併協議会|accessdate=2011-11-22}}</ref>。 [[2015年]](平成27年)発刊の『鹿児島市史第5巻』によると[[2014年]](平成26年)現在、鹿児島市で最も人口が多い町丁は3万2691人の[[吉野 (鹿児島市)|吉野町]]であり、次いで1万人台が[[上福元町]]、6千人台が[[下福元町]]及び[[中山 (鹿児島市)|中山町]](ちゅうざんちょう)、5千人台が[[鴨池新町]]、[[川上町 (鹿児島市)|川上町]]、[[春山町 (鹿児島市)|春山町]]となっている{{sfn|南日本新聞|2015|p=899}}。 {{Main|鹿児島市の町丁}} {{鹿児島市の町丁|state = uncollapsed}} == 地理 == [[ファイル:鹿児島市「克灰袋」集積場 (25580020434).jpg|thumb|各家庭に配布された「[[克灰袋]]」に入れられた[[火山灰]]は宅地内降灰指定置場に集積され、鹿児島市によって回収される。]] [[ファイル:Sakurajima 20091003.jpg|thumb|爆発的噴火する桜島]] 九州の南端部近く、[[福岡市]]から南へ約280[[キロメートル|km]]、[[熊本市]]から南へ約180kmの場所に位置し、鹿児島県内の[[薩摩半島]]の北東部および桜島全域を市域とする。[[鹿児島湾]](錦江湾)を望み、桜島などに年間約900万人の観光客が訪れる観光都市でもある。 平野部の大部分が商業地域、住宅地域、工業地域に占められ耕作地域はほとんどない。市街地に近い傾斜地や山間部の多くも宅地開発され団地や[[日本のニュータウン|ニュータウン]]が数多い。しかし、都市の発展に道路開発が追いついておらず、朝夕はいずれの[[幹線]]も渋滞が激しい。市街地が南北に細長いこともあって、とくに谷山地区や吉野方面からの通勤渋滞がひどく、大きな課題となっている。 [[国道10号]]線の吉野 - 姶良間沿岸部での総雨量が200mm以上になると通行制限がされる(制限経緯:集中豪雨災害「[[平成5年8月豪雨]]」いわゆる「8.6豪雨(8.6水害)」を参照)。そのため、同じく平行して通る[[九州旅客鉄道|JR九州]]の[[日豊本線]]も独自の規定雨量近くに達した場合、運転を見合わせる時がある。 市域中心部の対岸(直線距離約4km)に位置する桜島は、1980 - 90年代に比べればかなり沈静化しているが、2000年以降もなお活発な[[火山]]活動を続けており、市中心部にもしばしば[[火山灰|降灰]]する。[[活火山]]を抱えながら、これだけの人口規模を有する都市は世界的にも稀である。 火山に近く泉源数が多いため、市内の入浴施設のほとんどが[[温泉]]である。詳細については「[[鹿児島市街地の温泉]]」を参照。 === 山岳 === [[桜島]]([[活火山]])、[[城山 (鹿児島市城山町)|城山]]、[[多賀山]]、[[八重山 (鹿児島県)|八重山]]、[[花尾山]]、[[上宮岳]]、[[三重岳]]、[[三方塚山]]、[[雄岳 (鹿児島県)|雄岳]] === 河川 === [[甲突川]]、[[稲荷川 (鹿児島県)|稲荷川]]、[[脇田川]]、[[新川 (鹿児島県)|新川]]、[[清滝川 (鹿児島県)|清滝川]]、[[永田川 (鹿児島市)|永田川]]、[[神之川]]、[[川田川 (鹿児島県)|川田川]]、[[思川 (鹿児島県)|思川]] === 島嶼 === * [[新島 (鹿児島県)|新島]] *: 桜島の北東部約1.5kmにあり、2004年11月1日に[[鹿児島郡]][[桜島町]]が鹿児島市へ編入されて以来、市内で唯一の有人離島であったが、2013年8月までに全住民が島外へ移住したことにより、新島の定住者は一時ゼロとなった<ref name="minami20140813">「新島の定住者ゼロ 鹿児島湾内で唯一の『有人島』でしたが‥」『南日本新聞』2014年8月13日25面。</ref>(※住民基本台帳人口がゼロとなったのは2014年12月以降<ref>外部リンク(鹿児島市公式サイト)の回答を参照。</ref>である)。その後、2019年に移住者が出たことにより再び有人島となった<ref>[https://kagoshima.life/3442/ 無人島となった故郷にUターン・新島に、新たな夢を描く(前編)] - MBC南日本放送 2020年4月29日閲覧。</ref>。島へのアクセスとして鹿児島市高免町の浦之前港からの行政連絡船があり、2019年現在でも運航されている<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/3machidukuri/3-7koutuu/_30698.html 桜島(浦之前港)〜新島(新島港)間の行政連絡船] - 鹿児島市 2019年7月5日閲覧。</ref>。 *: 面積:0.13km<sup>2</sup> 周囲約2km 人口:0人 住所:鹿児島市新島町 ===緯度・経度=== 鹿児島市の東西南北それぞれの端は以下の位置となっている<ref>[https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/center.htm 日本の東西南北端点の経度緯度] - 国土地理院</ref>。 {| border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="0" style="font-size:small; text-align:center;" |- | &nbsp; || 北端<br />{{Coord|31|45|09|N|130|32|12|E|type:landmark_region:JP-46|name=鹿児島市北端}}<br />↑ || &nbsp; |- | 西端<br />{{Coord|31|34|48|N|130|23|12|E|type:landmark_region:JP-46|name=鹿児島市西端}}← || 市役所<br />{{Coord|31|35|49|N|130|33|26|E|type:landmark_region:JP-46|name=鹿児島市役所}} || 東端<br />→{{Coord|31|38|00|N|130|43|47|E|type:landmark_region:JP-46|name=鹿児島市東端}} |- | &nbsp; || ↓<br />南端<br />{{Coord|31|17|36|N|130|32|44|E|type:landmark_region:JP-46|name=鹿児島市南端}} || &nbsp; |- |} === 隣接自治体 === * 北:[[薩摩川内市]] - [[姶良市]] * 東:[[垂水市]] * 西:[[日置市]] * 南:[[指宿市]] - [[南さつま市]] - [[南九州市]] === 気候 === 温暖で多雨の[[太平洋側気候]]を呈する。年平均[[気温]]は19℃前後で、[[真夏日]]が年間80日前後、夏日は年間160日前後あるのに対して、[[冬日]]は年間数日程度であるが、郊外の丘陵地や山間部では明け方に0度を下回る事も少なくない。強い冬型の気圧配置となり西回りで寒気が流れ込む時には東シナ海からの雪雲が入りやすく、雪が降る。積雪は無い年が多いが、[[2011年]]1月1日には過去2番目となる積雪25cmを記録するなど、九州の県庁所在地の中で最南端ながら一度に積もる量は多い。しかし、[[南岸低気圧]]による降雪はまず無く、暖かい雨となる。大陸からの寒気の影響を受けやすいために、一時的に平年を5度以上も下回る寒さとなることもある。年間降水量は概ね2000 - 2500mm前後と多雨。年間日照時間は約1800 - 2100時間である<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/6keizai/6-5ritti/6-5-2a/0003112.html 南の交流拠点〜中核市「鹿児島」] - 鹿児島市 2012年1月20日閲覧。</ref>。 なお、鹿児島地方気象台は1993年に上荒田町から東郡元町へ移転している。近年は温暖化に加え、都市化による[[ヒートアイランド]]現象の影響を強く受け、最低気温が急速に上がっている。平年値の上昇率は全国官署地点のなかでもトップクラスである。 * 気温 - 最高37.4℃([[2016年]](平成28年)[[8月22日]])、最低-6.7℃([[1923年]](大正12年)[[2月28日]]) * 最大日降水量 - 375.0ミリ([[1995年|2019年]](令和元年)[[7月3日]]) * 最大瞬間風速 - 58.5[[メートル毎秒|m/s]]([[1996年]](平成8年)[[8月14日]]) * 最深積雪 - 29[[センチメーター|cm]]([[1959年]](昭和34年)[[1月17日]]) * 夏日最多日数 - 178日([[2019年]](令和元年)) * 真夏日最多日数 - 98日([[2013年]](平成25年)) * 猛暑日最多日数 - 28日(2013年(平成25年)) * 熱帯夜最多日数 - 72日([[1998年]](平成10年)、[[2006年]](平成18年)、[[2022年]](令和4年)) * 冬日最多日数 - 62日([[1918年]](大正7年)) {{Weather box |location = 鹿児島地方気象台(鹿児島市東郡元町、標高4m) |metric first = yes |single line = yes |Jan record high C = 23.9 |Feb record high C = 24.1 |Mar record high C = 27.6 |Apr record high C = 30.2 |May record high C = 31.7 |Jun record high C = 34.5 |Jul record high C = 36.6 |Aug record high C = 37.4 |Sep record high C = 35.7 |Oct record high C = 33.5 |Nov record high C = 29.5 |Dec record high C = 24.7 |year record high C = 37.4 |Jan high C = 13.1 |Feb high C = 14.6 |Mar high C = 17.5 |Apr high C = 21.8 |May high C = 25.5 |Jun high C = 27.5 |Jul high C = 31.9 |Aug high C = 32.7 |Sep high C = 30.2 |Oct high C = 25.8 |Nov high C = 20.6 |Dec high C = 15.3 |year high C = 23.1 |Jan mean C = 8.7 |Feb mean C = 9.9 |Mar mean C = 12.8 |Apr mean C = 17.1 |May mean C = 21.0 |Jun mean C = 24.0 |Jul mean C = 28.1 |Aug mean C = 28.8 |Sep mean C = 26.3 |Oct mean C = 21.6 |Nov mean C = 16.2 |Dec mean C = 10.9 |year mean C = 18.8 |Jan low C = 4.9 |Feb low C = 5.8 |Mar low C = 8.7 |Apr low C = 12.9 |May low C = 17.3 |Jun low C = 21.3 |Jul low C = 25.3 |Aug low C = 26.0 |Sep low C = 23.2 |Oct low C = 18.0 |Nov low C = 12.2 |Dec low C = 6.9 |year low C = 15.2 |Jan record low C = -5.7 |Feb record low C = -6.7 |Mar record low C = -3.9 |Apr record low C = -1.0 |May record low C = 3.9 |Jun record low C = 9.0 |Jul record low C = 15.9 |Aug record low C = 16.5 |Sep record low C = 9.3 |Oct record low C = 2.6 |Nov record low C = -1.5 |Dec record low C = -5.5 |year record low C = -6.7 |Jan precipitation mm = 78.3 |Feb precipitation mm = 112.7 |Mar precipitation mm = 161.0 |Apr precipitation mm = 194.9 |May precipitation mm = 205.2 |Jun precipitation mm = 570.0 |Jul precipitation mm = 365.1 |Aug precipitation mm = 224.3 |Sep precipitation mm = 222.9 |Oct precipitation mm = 104.6 |Nov precipitation mm = 102.5 |Dec precipitation mm = 93.2 |year precipitation mm = 2434.7 |Jan snow cm = 1 |Feb snow cm = 0 |Mar snow cm = 0 |Apr snow cm = 0 |May snow cm = 0 |Jun snow cm = 0 |Jul snow cm = 0 |Aug snow cm = 0 |Sep snow cm = 0 |Oct snow cm = 0 |Nov snow cm = 0 |Dec snow cm = 1 |year snow cm = 2 |Jan humidity = 66 |Feb humidity = 65 |Mar humidity = 66 |Apr humidity = 68 |May humidity = 71 |Jun humidity = 78 |Jul humidity = 76 |Aug humidity = 74 |Sep humidity = 72 |Oct humidity = 67 |Nov humidity = 68 |Dec humidity = 67 |year humidity = 70 |unit precipitation days = 0.5 mm |Jan precipitation days = 10.2 |Feb precipitation days = 10.2 |Mar precipitation days = 13.2 |Apr precipitation days = 11.1 |May precipitation days = 10.7 |Jun precipitation days = 16.9 |Jul precipitation days = 12.8 |Aug precipitation days = 12.2 |Sep precipitation days = 11.3 |Oct precipitation days = 8.0 |Nov precipitation days = 8.9 |Dec precipitation days = 9.9 |year precipitation days = 135.4 |Jan snow days = 2.1 |Feb snow days = 1.6 |Mar snow days = 0.4 |Apr snow days = 0.0 |May snow days = 0.0 |Jun snow days = 0.0 |Jul snow days = 0.0 |Aug snow days = 0.0 |Sep snow days = 0.0 |Oct snow days = 0.0 |Nov snow days = 0.0 |Dec snow days = 0.8 |year snow days = 4.9 |Jan sun = 132.6 |Feb sun = 139.3 |Mar sun = 163.2 |Apr sun = 175.6 |May sun = 178.2 |Jun sun = 109.3 |Jul sun = 185.5 |Aug sun = 206.9 |Sep sun = 176.4 |Oct sun = 184.0 |Nov sun = 157.7 |Dec sun = 143.2 |year sun = 1942.1 |source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1883年-現在)<ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=88&block_no=47827&year=&month=&day=&view= | title = 平年値ダウンロード | accessdate = 2021-06 | publisher = 気象庁}} </ref><ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=88&block_no=47827&year=&month=&day=&view= | title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値) | accessdate = 2021-06 | publisher = 気象庁}} </ref> }} {{Weather box |location = 旧鹿児島地方気象台(上荒田)・1961 - 1990年平均 |collapsed=yes |metric first = Yes |single line = Yes |Jan high C = 12.2 |Feb high C = 13.1 |Mar high C = 16.5 |Apr high C = 21.3 |May high C = 24.7 |Jun high C = 27.3 |Jul high C = 31.4 |Aug high C = 32.2 |Sep high C = 29.5 |Oct high C = 25.1 |Nov high C = 19.8 |Dec high C = 14.6 |year high C = 22.3 |Jan mean C = 7.2 |Feb mean C = 8.3 |Mar mean C = 11.4 |Apr mean C = 16.4 |May mean C = 20.1 |Jun mean C = 23.4 |Jul mean C = 27.4 |Aug mean C = 27.9 |Sep mean C = 25.1 |Oct mean C = 20.0 |Nov mean C = 14.5 |Dec mean C = 9.2 |year mean C = 17.6 |Jan low C = 2.6 |Feb low C = 3.7 |Mar low C = 6.5 |Apr low C = 11.8 |May low C = 15.9 |Jun low C = 20.0 |Jul low C = 24.2 |Aug low C = 24.5 |Sep low C = 21.4 |Oct low C = 15.3 |Nov low C = 9.6 |Dec low C = 4.4 |year low C = 13.3 |source 1 = 理科年表 |date=March 2013 }}{{Weather box|location=喜入(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=23.6|Feb record high C=23.7|Mar record high C=26.7|Apr record high C=29.2|May record high C=32.9|Jun record high C=34.5|Jul record high C=36.4|Aug record high C=37.4|Sep record high C=36.5|Oct record high 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precipitation mm=136.8|Mar precipitation mm=193.2|Apr precipitation mm=229.9|May precipitation mm=231.2|Jun precipitation mm=634.5|Jul precipitation mm=385.2|Aug precipitation mm=228.2|Sep precipitation mm=249.8|Oct precipitation mm=115.0|Nov precipitation mm=126.4|Dec precipitation mm=107.5|year precipitation mm=2765.7|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=10.2|Feb precipitation days=10.2|Mar precipitation days=12.9|Apr precipitation days=10.7|May precipitation days=10.5|Jun precipitation days=16.8|Jul precipitation days=12.6|Aug precipitation days=11.6|Sep precipitation days=11.0|Oct precipitation days=7.9|Nov precipitation days=8.5|Dec precipitation days=9.5|year precipitation days=133.0|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=88&block_no=0890&year=&month=&day=&view= |title=喜入 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-09-01 |publisher=気象庁}}</ref>|Dec sun=132.7|Nov sun=151.8|Oct sun=181.1|Aug sun=220.1|Sep sun=173.9|Jun sun=107.3|Jul sun=192.4|Apr sun=183.1|May sun=182.1|Jan sun=123.8|Feb sun=133.1|Mar sun=161.7|year sun=1938.2}} == 歴史 == [[ファイル:Bombing of Kagoshima Map - 1863.PNG|thumb|1863年に勃発した[[薩英戦争]]の当時の新聞による戦況図]] [[ファイル:Shuseikan.JPG|thumb|1872年ごろの吉野村磯地区([[内田九一]]撮影)。集成館事業に関連する建物が多く見える]] [[ファイル:ShiroyamaBattle.jpg|thumb|[[西南戦争]]における[[城山 (鹿児島市城山町)|城山]]の戦い]] [[ファイル:Kagoshima 1914.jpg|thumb|桜島の大正大噴火で火山灰に覆われた鹿児島市街]] [[ファイル:Kagoshima after the 1945 air raid.JPG|thumb|鹿児島大空襲後の鹿児島市街地]] 「鹿児島」という名の由来は、野生の[[シカ|鹿]]の子(鹿児)が多く生息していたからとか、多くの水夫(かこ)が住んでいたから、火山を意味するカグという言葉から由来したなど諸説ある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/bunka/yurai.html|title=地名の由来|publisher=鹿児島県|date=2012-05-23|accessdate=2015-01-21}}</ref>。さらに、神話から来たという説もあり現在でもどれが正しいか確定していない。しかし、「カゴ」は崖という意味の古語であり、桜島の四方が崖になっていたので島名を鹿児島(麑嶋)と称する様になり、それが対岸の[[神社]]名([[鹿児島神宮]])として定着し、更には[[鹿児島郡]]として[[郡]]名に拡大したという説が有力である。 都市としての始まりは、[[島津家]]第6代当主[[島津氏久]]が[[東福寺城]](鹿児島市[[清水町 (鹿児島市)|清水町]])を居城にしたとき([[1340年]]ごろ)とみられる。[[1549年]]([[天文 (元号)|天文]]18年)、[[フランシスコ・ザビエル]]が現在の市域に当たる場所([[祇園之洲町]]付近)に上陸し、日本初の[[キリスト教]]伝来の地となる。 [[19世紀]]の中ごろには[[ヨーロッパ]]の[[機械]]文明を取り入れた[[研究]]が進み、第28代当主[[島津斉彬]]のもと集成館(現・[[尚古集成館]])事業として[[反射炉]]や[[高炉|溶鉱炉]]が造られ、日本における近代工業化の発祥の地となり、近代日本の黎明期、[[明治維新]]において[[政治家]]、[[官僚]]、[[軍人]]など数多くの人物を輩出し、近代日本建設の礎となる。 [[中心市街地]]は、[[薩英戦争]]による[[砲撃]]、[[西南戦争]]による戦火、[[第二次世界大戦]]の[[鹿児島大空襲]]と三度も壊滅的打撃を蒙ったため、城下町としての面影は殆ど残っていない。 === 発祥 === * [[1549年]]([[天文 (元号)|天文]]18年) - [[キリスト教]]日本初伝来の地([[フランシスコ・ザビエル]]の上陸により)。 * [[1853年]]([[嘉永]]6年) - [[日本の国旗|日の丸]]発祥の地(第28代当主[[島津斉彬]]の幕府への提案により)。 * [[1854年]]([[安政]]元年) - 国産第1号軍艦[[昇平丸]]竣工。 * [[1857年]](安政4年) - 島津家の磯別邸(現・[[仙巌園]])にて日本初のガス灯が灯る。 * [[1865年]]([[慶応]]元年) - 日本初の活版印刷による英和辞書を著す。 === 中近世 === * [[1341年]]([[暦応]]4年) - [[島津貞久]]が[[東福寺城]]を奪取し、鹿児島に拠点を獲得する。 * [[1387年]]([[嘉慶 (日本)|嘉慶]]元年) - [[島津氏久]]が[[清水城 (薩摩国)|清水城]]を築城し、守護所とする(城下町としての鹿児島開府)。 * [[1394年]]([[応永]]元年) - [[島津元久]]が[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]を建立し、同氏の菩提寺とする。 * [[1549年]]([[天文 (元号)|天文]]18年) - フランシスコ・ザビエルによりキリスト教が伝えられる。 * [[1550年]](天文19年) - [[島津貴久]]が御内館([[内城]])を築城し、清水城より守護所を移転する。 * [[1601年]]([[慶長]]6年) - [[島津忠恒|島津家久]]が[[鹿児島城]]を築城し、鹿児島藩庁を置く。 * [[1658年]]([[万治]]元年) - [[島津光久]]が[[仙厳園]]を造園する。 === 近現代 === * [[1871年]]([[明治]]4年)[[8月29日]] - [[廃藩置県]]により鹿児島府下山下町(現在の鹿児島市[[山下町 (鹿児島市)|山下町]])に[[県庁]]が設置される。 * [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[市制]]が施行されたのに伴い、旧[[鹿児島城]]下46町及び旧近在の内1町3村の区域を以て'''鹿児島市'''が成立{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1983|p=678}}。当時は九州一の人口だった<ref>[[市制#1889年(明治22年)の都市人口]]</ref>。 * [[1901年]](明治34年)[[6月10日]] - 市内初の鉄道路線となる鹿児島本線(現・[[日豊本線]])国分-鹿児島間が開業。 * [[1913年]]([[大正]]2年)[[10月11日]] - 川内線(現・[[鹿児島本線]])が開業。 * [[1914年]](大正3年)[[1月12日]] - 桜島が大噴火し、同時にマグニチュード7級の[[桜島地震]]が発生<ref>[https://www.jishin.go.jp/main/pamphlet/eq_mech/eq_mecha2.pdf 2.日本で起こる地震] p.17 - [[地震調査研究推進本部]] 2012年1月20日閲覧。</ref>。死者58名。これにより桜島は[[大隅半島]]と地続きになった([[桜島の大正大噴火]])。 * [[1916年]](大正5年)[[10月14日]] - 鹿児島電気軌道により日本で四番目である鴨池動物園(現・[[鹿児島市平川動物公園|平川動物公園]])が現在の[[イオン鹿児島鴨池店]](旧ダイエー鹿児島店)敷地に開園<ref name="zoo">[http://hirakawazoo.jp/shisetsu/gaiyou#page04 概要#平川動物公園のあらまし] - 鹿児島市平川動物公園 2012年1月22日閲覧。</ref>。 * [[1926年]](大正15年)[[11月24日]] - [[市町村章|市章]]を制定。 * [[1928年]]([[昭和]]3年)[[7月1日]] - 市内の路面電車路線を市営に移管し、鹿児島市電気局(現・[[鹿児島市交通局]])が発足。 * [[1934年]](昭和10年)[[11月3日]] - 全国で七番目、九州で最初に青果・水産を併せ持った鹿児島[[中央卸売市場]]が住吉町に完成。 * [[1945年]](昭和20年)[[6月17日]] - 鹿児島大空襲。死者約2,300名<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_11.html 鹿児島市における戦災の状況(鹿児島県):一般戦災ホームページ] - 総務省 2012年1月20日閲覧。</ref>。 * [[1950年]](昭和25年)[[12月3日]] - 小川町から出火して延焼。死傷者はないもののバラックなど約300戸が全焼<ref>「鹿児島市で大火 三百余戸焼く」『朝日新聞』昭和26年12月4日4面</ref>。 * [[1955年]](昭和30年) - [[山之口町 (鹿児島市)|山之口町]]などで公共下水道の供用開始。終末処理場を持つ公共下水道としては大阪市以西では最初で、同時に全国でも戦後最も早く工事に着手・完工し、戦中・戦後を含めて全国で7番目の公共下水道となる。 * [[1967年]](昭和42年)[[4月29日]] - 南側に隣接する[[谷山市]]と新設合併し新制の鹿児島市となる。 * [[1972年]](昭和47年)[[6月15日]] - [[第27回国民体育大会|第27回太陽国体]]開催を記念し「[[鹿児島市民歌]]」を制定。 * [[1980年]](昭和55年)[[7月10日]] - 人口50万人を突破{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1983|p=679}}。 * [[1989年]]([[平成]]元年) - '''市制施行100周年'''。 * [[1993年]](平成5年)[[6月12日]]より長期的な異常多雨。8月6日、甲突川が氾濫。死者・行方不明者81名。[[平成5年8月豪雨|平成5年鹿児島大水害]](いわゆる'''8.6水害''')と呼ばれる。甲突川に架かる[[甲突川五石橋|五石橋]]のうち、新上橋と武之橋が流出する。この年、鹿児島市では年降水量4,022mmを記録。 * [[1996年]](平成8年) ** [[4月1日]] - '''第一期の中核市'''に指定される。 ** [[11月]] - それまで[[山下町 (鹿児島市)|山下町]]にあった[[鹿児島県庁]]が[[鴨池新町]]に移転。 * [[2003年]](平成15年)[[1月24日]] - 鹿児島郡[[吉田町 (鹿児島県)|吉田町]]、[[桜島町]]、日置郡[[松元町]]、[[郡山町 (鹿児島県)|郡山町]]、揖宿郡[[喜入町]]とともに鹿児島地区合併協議会を設置。 * [[2004年]](平成16年)[[3月13日]] - 九州新幹線が部分開業 * [[2004年]](平成16年)[[11月1日]] - 上記合併協議会の各町を編入。人口60万人を突破。 === 沿革 === {{see also|鹿児島市の地名の変遷}} ==== 行政区域の変遷 ==== {{日本の市 (廃止)|よみがな=かごしまし|自治体名=鹿児島市|廃止理由=新設合併|現在の自治体=鹿児島市|都道府県=鹿児島県|コード=なし(導入前に廃止)|廃止日=1967年4月29日|隣接自治体=[[谷山市]]、[[垂水市]]、[[日置郡]][[松元町]]、[[伊集院町]]、[[郡山町 (鹿児島県)|郡山町]]、[[鹿児島郡]][[吉田町]]、[[桜島町]]、[[姶良郡]][[姶良町]]|所在地=鹿児島市山下町11-1|位置画像= |廃止詳細=鹿児島市(旧)、[[谷山市]]→鹿児島市(新)}}{{Wikisourcehas|鹿児島市に関連のある法令の原文があります| * [[:s:市制施行地|市制施行地]] * [[:s:市村の境界変更 (明治44年鹿児島県告示第400号)|鹿児島市荒田村を鹿児島郡西武田村に編入し、鹿児島郡西武田村大字武の一部及び鹿児島郡伊敷村大字下伊敷の一部を鹿児島市に編入する件]] * [[:s:市村の境界変更 (大正9年鹿児島県告示第470号)|鹿児島郡伊敷村大字永吉の全部及び同村大字下伊敷の一部を鹿児島市に編入する件]] * [[:s:市村の廃置分合 (昭和25年総理府告示第301号)|伊敷村・東桜島村を廃し鹿児島市に編入する件]] * [[:s:市の廃置分合 (昭和41年自治省告示第155号)|鹿児島市・谷山市を廃し鹿児島市を置く件]] * [[:s:市町の廃置分合 (平成16年総務省告示第591号)|吉田町・桜島町・喜入町・松元町・郡山町を廃し鹿児島市に編入する件]] }} * [[1889年]][[4月1日]] [[市制]][[町村制]]施行に伴い、旧鹿児島城下46町及び鹿児島近在1町3村の区域より'''鹿児島市'''が発足。 ** 同時に、現在の市域に相当する以下の各村が発足。カッコ内は[[郡制]]施行に伴う郡統廃合後の所属郡。 *** [[鹿児島郡]]:[[吉野村 (鹿児島県)|吉野村]]・[[中郡宇村]]・[[西武田村]]・[[伊敷村]]・[[吉田町 (鹿児島県)|吉田村]] *** [[北大隅郡]](鹿児島郡):[[桜島町|西桜島村]]・[[東桜島村]] *** [[谿山郡]](鹿児島郡):[[谷山市|谷山村]] *** [[日置郡]]:[[松元町|上伊集院村]]・[[下伊集院村]]・[[郡山町 (鹿児島県)|郡山村]] *** [[給黎郡]](揖宿郡):喜入村 * [[1897年]]{{0}}4月{{0}}1日【郡区画改正】郡の統廃合が行われる。 * [[1911年]]{{0}}[[9月30日]] 【編入】伊敷村大字下伊敷字草牟田(草牟田)および西武田村大字武の一部(武、天保山)⇒鹿児島市{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1983|p=93}} * [[1920年]][[10月1日|10月{{0}}1日]] 【編入】伊敷村大字下伊敷字紙屋谷(玉里)および伊敷村大字永吉(永吉、原良)⇒鹿児島市{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1983|p=93}} * [[1924年]][[9月1日|{{0}}9月{{0}}1日]] 【町制施行】谷山村⇒谷山町 * [[1934年]][[8月1日|{{0}}8月{{0}}1日]] 【編入】[[吉野村 (鹿児島県)|吉野村]]・[[中郡宇村]]・[[西武田村]]⇒鹿児島市 * [[1950年]]10月{{0}}1日 【編入】[[伊敷村]]・[[東桜島村]]⇒鹿児島市 * [[1956年]]{{0}}9月30日 【分割編入・町制施行】郡山村・[[下伊集院村]]大字有屋田および大字嶽⇒[[郡山町 (鹿児島県)|郡山町]](下伊集院村の残りの区域は[[伊集院町]]・[[東市来町]]および[[日吉町 (鹿児島県)|日吉町]]に編入) * 1956年[[10月15日]] 【町制施行】喜入村⇒[[喜入町]] * [[1958年]]10月{{0}}1日 【市制施行】谷山町⇒[[谷山市]] * [[1960年]]{{0}}4月{{0}}1日 【町制施行・改称】上伊集院村⇒[[松元町]] * [[1967年]]{{0}}4月29日 【新設合併】鹿児島市・谷山市⇒鹿児島市 * [[1972年]][[11月1日|11月{{0}}1日]] 【町制施行】吉田村⇒[[吉田町 (鹿児島県)|吉田町]] * [[1973年]][[5月1日|{{0}}5月{{0}}1日]] 【町制施行・改称】西桜島村⇒[[桜島町]] * [[2004年]]11月{{0}}1日 【編入】吉田町・桜島町・松元町・郡山町・喜入町⇒鹿児島市 ;変遷表 表中の{{color|#9cf|■}}は鹿児島市、{{color|#CC99FF|■}}は鹿児島市を除く[[市]]、{{color|#66FFFF|■}}は[[町]]を示す。その他の色は[[村]]である。 {| class="wikitable" style="font-size:x-small" ! 1889年4月1日 ! 1889年-1910年 ! 1910年-1930年 ! 1930年-1950年 ! 1950年-1970年 ! 1970年-1990年 ! 1990年-現在 !現在 |- | colspan=4 style="background-color:#9cf;" | 鹿児島市 | rowspan=4 style="background-color:#9cf;" | 鹿児島市 | colspan=2 rowspan=7 style="background-color:#9cf;" | 1967年4月29日<br />鹿児島市(新設) | rowspan=13 style="background-color:#9cf;" | 鹿児島市 |- | colspan=3 | [[鹿児島郡]][[中郡宇村]] | rowspan=3 style="background-color:#9cf;" | 1934年8月1日<br />鹿児島市 |- | colspan=3 | 鹿児島郡[[西武田村]] |- | colspan=3 | 鹿児島郡[[吉野村 (鹿児島県)|吉野村]] |- | colspan=4 | 鹿児島郡[[伊敷村]] | colspan=1 rowspan=2 style="background-color:#9cf;"| 1950年10月1日<br />鹿児島市 |- | [[北大隅郡]][[東桜島村]] | colspan=3 | 1897年4月1日<br />鹿児島郡東桜島村 |- |[[谿山郡]]谷山村 |1897年4月1日<br />鹿児島郡谷山村 | colspan=2 style="background-color:#66FFFF;"| 1924年9月1日<br />鹿児島郡谷山町 | style="background-color:#CC99FF;"|1958年10月1日<br />[[谷山市]] |- | colspan=5 | 鹿児島郡吉田村 | style="background-color:#66FFFF;"|1972年11月1日<br />鹿児島郡[[吉田町 (鹿児島県)|吉田町]] | rowspan=6 style="background-color:#9cf;"| 2004年11月1日<br />鹿児島市 |- |[[北大隅郡]]西桜島村 | colspan=4 | 1897年4月1日<br />鹿児島郡西桜島村 | style="background-color:#66FFFF;" | 1973年5月1日<br />鹿児島郡[[桜島町]] |- | colspan=5 | [[日置郡]]上伊集院村 | style="background-color:#66FFFF;" | 1960年4月1日<br />日置郡[[松元町]] |- | colspan=4 | 日置郡郡山村 | style="background-color:#66FFFF;" colspan=2 rowspan=2 | 1956年9月30日<br />[[郡山町 (鹿児島県)|郡山町]] |- | colspan=4 | 日置郡[[下伊集院村]](一部) |- | [[給黎郡]]喜入村 | colspan=3 |1897年4月1日<br />[[揖宿郡]]喜入村 | colspan=2 style="background-color:#66FFFF;" | 1956年10月15日<br />揖宿郡[[喜入町]] |} ;現在の市域における自治体の変遷図(鹿児島市は紫色) <gallery> Kagoshima city map 1889.svg|市制町村制施行時(1889年) Kagoshima city 1934.svg|吉野村・中郡宇村・西武田村編入後(1934年時点) Kagoshima city 1950.svg|伊敷村・東桜島村編入後(1950年時点) ファイル:Kagoshima city 2004.svg|谷山市新設合併後(2003年時点) </gallery> ==== 市域面積及び人口の変遷 ==== {|class="wikitable" !年月日||区分||面積(km<sup>2</sup>)||人口(人)||町数 |- |1889年(明治22年){{0}}4月{{0}}1日||市制施行||14.03||57,822||47町3大字 |- |1911年(明治44年){{0}}9月30日||第一次編入||15.91||73,085||53町 |- |1920年(大正{{0}}9年)10月{{0}}1日||第二次編入||16.73||103,180||56町 |- |1934年(昭和{{0}}9年){{0}}8月{{0}}1日||第三次編入||78.25||176,900||68町 |- |1950年(昭和25年)10月{{0}}1日||第四次編入||181.54||229,462||81町 |- |1967年(昭和42年){{0}}4月29日||新設合併||279.15||385,866||91町 |- |1970年(昭和45年)10月{{0}}1日||第一次埋立||280.72||403,340||101町 |- |1975年(昭和50年)10月{{0}}1日||第二次埋立||284.04||456,827||130町 |- |1980年(昭和55年)10月{{0}}1日||第三次埋立||288.29||503,360||185町 |- |1985年(昭和60年)10月{{0}}1日||第四次埋立||289.07||530,502||195町 |- |1990年(平成{{0}}2年)10月{{0}}1日||第五次埋立||289.44||536,752||229町 |- |1995年(平成{{0}}7年)10月{{0}}1日||第六次埋立||289.60||546,282||248町 |- |2000年(平成12年)10月{{0}}1日||第七次埋立||289.79||552,098||263町 |- |2004年(平成16年)11月{{0}}1日||第五次編入||546.80||605,308||322町 |} == 行政 == === 二役 === * [[市町村長|市長]]:[[下鶴隆央]](2020年12月23日就任、1期目) <!-- * [[副市町村長|副市長]] --> === 歴代市長 === この節では[[1889年]]([[明治]]22年)の[[市制]]施行以後の鹿児島市の歴代市長を列記する<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/7siseijouhou/7-15tokei/7-15-3/7-15-3-1/7-15-3-1-6/0004221.html 歴代市長] - 鹿児島市 2012年9月9日閲覧。</ref>。鹿児島市と対等合併又は編入合併した市町村の[[市町村長]]については当該市町村の記事を参照。 {| class="wikitable" |- !colspan="5"|旧・鹿児島市(1889年-1967年) |- !代 ! !氏名 !就任期間 !備考 |- !1 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[上村行徴]] |[[1889年]]([[明治]]22年)5月31日 - [[1891年]](明治24年)3月31日 | |- !2 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[上村慶吉]] |1891年(明治24年)4月13日 - [[1907年]](明治40年)6月30日 | |- !3 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[有川貞寿|有川貞壽]] |1907年(明治40年)8月16日 - [[1913年]]([[大正]]2年)11月12日 |死去 |- !4 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[児玉利実|兒玉利實]] |[[1914年]](大正3年)4月4日 - 1914年(大正3年)4月30日 | |- !5 |[[ファイル:Yamamoto tokujiro.jpg|100px]] |[[山本徳次郎|山本德次郎]] |1914年(大正3年)7月21日 - [[1922年]](大正11年)8月15日 | |- !6 |[[ファイル:Ijuin Toshi.jpg|100px]] |[[伊集院俊 (海軍軍人)|伊集院俊]] |[[1923年]](大正12年)4月27日 - [[1925年]](大正14年)2月3日 | 死去 |- !7 |[[ファイル:Ueno Atsushi.jpg|100px]] |[[上野篤]] |1925年(大正14年)5月28日 - [[1926年]](大正15年)9月23日 | [[山陽本線特急列車脱線事故]]で死去 |- !8 |[[ファイル:Shirookawa Josuke.jpg|100px]] |[[白男川譲介|白男川讓介]] |1926年(大正15年)10月30日 - [[1928年]]([[昭和]]3年)11月24日 | |- !9 |[[ファイル:Kabayama Kanari.jpg|100px]] |[[樺山可也]] |[[1929年]](昭和4年)6月17日 - [[1932年]](昭和7年)10月27日 | |- !10 |[[ファイル:Iwamoto Ki.jpg|100px]] |[[岩元禧]] |[[1933年]](昭和8年)6月13日 - [[1936年]](昭和11年)1月27日 | |- !11 |[[ファイル:Ijichi Shiro.jpg|100px]] |[[伊地知四郎]] |1936年(昭和11年)7月12日 - [[1940年]](昭和15年)7月11日 | |- !12 |[[ファイル:Kume Nario.jpg|100px]] |[[久米成夫]] |1940年(昭和15年)7月19日 - [[1944年]](昭和19年)7月18日 | |- !13 |[[ファイル:Shigeo iwakiri.jpg|100px]] |[[岩切重雄]] |1944年(昭和19年)8月17日 - [[1945年]](昭和20年)12月15日 | |- !14 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[勝目清]] |[[1946年]](昭和21年)6月21日 - [[1959年]](昭和34年)4月29日 | 初の公選市長 |- !15 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[平瀬實武|平瀨實武]] |1959年(昭和34年)5月1日 - [[1963年]](昭和38年)4月29日 | |- !16 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[三ッ井卯三男]] |1963年(昭和38年)5月1日 - [[1967年]](昭和42年)4月28日 | |- !colspan="5"|新・鹿児島市(新設合併後、1967年- ) |- !代 ! !氏名 !就任期間 !備考 |- !17 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[末吉利雄]] |1967年(昭和42年)5月21日 - [[1975年]](昭和50年)5月20日 | |- !18 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[山之口安秀]] |1975年(昭和50年)5月21日 - [[1984年]](昭和59年)12月3日 | |- !19 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[赤崎義則]] |1984年(昭和59年)12月24日 - [[2004年]]([[平成]]16年)12月22日 | |- !20 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[森博幸 (政治家)|森博幸]] |2004年(平成16年)12月23日 - [[2020年]]([[令和]]2年)12月22日 | |- !21 |[[ファイル:Replace_this_image_JA.svg|100px]] |[[下鶴隆央]] |2020年(令和2年)12月23日 - | |} === 市の行政機関 === [[ファイル:Kagoshima City Hall 1.jpg|thumb|鹿児島市役所 本館]] [[ファイル:Kagoshima City Hall 3.jpg|thumb|鹿児島市役所 みなと大通り別館]] {{main|鹿児島市役所}} ; 地域区分と市役所支所 * 北部 ** 吉田支所:〒891-1392 鹿児島市[[本城町 (鹿児島市)|本城町]]1696番地 ** 郡山支所:〒891-1192 鹿児島市[[郡山町 (鹿児島市)|郡山町]]141番地 ** 伊敷支所:〒890-0008 鹿児島市[[伊敷 (鹿児島市)|伊敷五丁目]]15番1号 ** 吉野支所:〒892-0871 鹿児島市[[吉野 (鹿児島市)|吉野町]]3256番地3 * 東部 ** 桜島支所:〒891-1415 鹿児島市[[桜島藤野町]]1439番地 ** 東桜島合同庁舎:〒891-1543 鹿児島市[[東桜島町]]863番地1 * 中部 ** [[鹿児島市役所|本庁]](本館・別館・東別館・みなと大通り別館):〒892-8677 鹿児島市[[山下町 (鹿児島市)|山下町]]11番1号 *** 鹿児島中央駅市民サービスステーション:〒890-0053 鹿児島市[[中央町 (鹿児島市)|中央町]]1番1号鹿児島中央駅西口1階(出逢い杉前) *** 鴨池市民サービスステーション:〒890-0063 鹿児島市[[鴨池 (鹿児島市)|鴨池二丁目]]26番30号 [[イオン鹿児島鴨池店]]2階 ** 鹿児島市教育総合センター(鹿児島市[[教育委員会]]本庁舎):〒892-0816 鹿児島市山下町6番1号 * 西部 ** 松元支所:〒899-2792 鹿児島市[[上谷口町]]2883番地 * 南部 ** 谷山支所:〒891-0194 鹿児島市[[谷山中央|谷山中央四丁目]]4927番地 ** 喜入支所:〒891-0203 鹿児島市[[喜入町 (鹿児島市)|喜入町]]7000番地 ; 消防 * [[鹿児島市消防局]]:〒892-0816 鹿児島市山下町15番1号 * 鹿児島市消防団 (本部):〒892-0816 鹿児島市山下町15番1号 ※事務所管は鹿児島市消防局 ** 第一方面隊 *** 川内地区:川上分団・吉野分団・吉野東分団・坂元分団・竜水分団・清水分団・大竜分団・名山分団・中央分団・山下分団・城南分団・草牟田分団 *** 吉田地区:佐多浦分団・本城分団・本名分団・宮分団・牟礼岡分団 ** 第二方面隊 *** 川外地区:城西分団・武分団・荒田分団・八幡分団・中郡分団・真砂分団・南分団・紫原分団・宇宿分団・田上分団・西別府分団 *** 松元地区:松元分団・石谷分団・東昌分団・春山分団 ** 第三方面隊 *** 伊敷地区:伊敷分団・西伊敷分団・下伊敷分団・小野分団・武岡分団・犬迫分団・小山田分団・比志島分団・皆房分団 *** 郡山地区:郡山中央分団・南方分団・花尾分団・八重分団・西有里分団・郡山岳町分団 ** 第四方面隊 *** 桜島東地区:湯之分団・桜塚分団・改新分団・黒神分団・高免分団 *** 桜島西地区:桜洲分団・桜島中央分団・桜峰分団・赤生原分団・二俣分団 ** 第五方面隊 *** 谷山地区:谷山分団・宮川分団・山田分団・中山分団・和田分団・平川分団・福平分団・錫山分団 *** 喜入地区:瀬々串分団・中名分団・喜入分団・一倉分団・前之浜分団・生見分団 ; 病院 * [[鹿児島市立病院]]:〒892-8580 鹿児島市[[上荒田町]]37番1号 ; 水道 * 鹿児島市水道局(本局):〒890-0064 鹿児島市[[鴨池新町]]1番10号 ; 交通(市電・市バス) * [[鹿児島市交通局]](本局):〒890-0051 鹿児島市上荒田町37番20号 ; 交通(フェリー) * [[桜島フェリー|鹿児島市船舶局]](本局):〒891-1419 鹿児島市[[桜島横山町]]61-4 ==== 財政 ==== * 当初予算規模(2009年度<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/7siseijouhou/7-7zaisei/_32813/_32814.html 鹿児島市平成21年度当初予算] - 鹿児島市 2012年1月20日閲覧。</ref>) *: 2045億0600万円(一般会計) *: 1008億0200万円(特別会計) === 県の行政機関 === ; 行政 * [[鹿児島県議会]] * [[鹿児島県庁]] ** [[鹿児島地域振興局]] ** [[かごしま県民交流センター]] * [[鹿児島県教育委員会]] ; 警察 * [[鹿児島県警察]] ** [[鹿児島中央警察署]](中央本庁、桜島支所、吉野支所、吉田支所(一部)、伊敷支所(一部)管内) ** [[鹿児島西警察署]](伊敷支所、吉田支所、郡山支所、松元支所管内) ** [[鹿児島南警察署]](谷山支所、喜入支所管内) ** [[南九州警察署]](谷山支所(一部)管内) === 国の行政機関 === [[ファイル:Kagoshima-Ntnl-Govt-Bldg.JPG|thumb|鹿児島地方検察庁]] [[ファイル:Kagoshima District Court.jpg|thumb|鹿児島地方裁判所・家庭裁判所・簡易裁判所]] * [[総務省]] ** [[鹿児島行政評価事務所]] * [[法務省]] ** [[鹿児島地方検察庁]] ** 鹿児島[[地方法務局]] ** [[福岡出入国在留管理局]] 鹿児島出張所 * [[財務省]] ** [[九州財務局]] 鹿児島財務事務所 ** [[熊本国税局]] 鹿児島税務署 * [[厚生労働省]] ** [[鹿児島労働局]] <!-- :[[日本年金機構]] 鹿児島南年金事務所、鹿児島北年金事務所 国の機関ではない --> * [[農林水産省]] ** [[九州農政局]] [[鹿児島農政事務所]] ** [[九州森林管理局]] 鹿児島森林管理署 * [[国土交通省]] ** [[九州地方整備局]] 鹿児島国道事務所、鹿児島営繕事務所、鹿児島港湾・空港整備事務所 ** [[九州運輸局]] 鹿児島運輸支局 ** [[海上保安庁]] [[第十管区海上保安本部]]:鹿児島、宮崎、熊本の南九州3県を管轄 * [[防衛省]] ** [[九州防衛局]] 熊本防衛支局 鹿児島防衛事務所 ** [[自衛隊鹿児島地方協力本部]] ==== 裁判所 ==== * [[鹿児島地方裁判所]] * [[鹿児島家庭裁判所]] * [[鹿児島簡易裁判所]] === 独立行政法人 === *[[国立研究開発法人]][[農業・食品産業技術総合研究機構]]動物衛生研究部門九州研究拠点 === 市内に本庁を設置する他の地方公共団体 === * [[十島村役場]] * [[三島村役場]] == 議会 == [[ファイル:Kagoshima City Hall 2.jpg|thumb|鹿児島市役所東別館(左前)及び別館(右奥)、別館には市議会議場が所在している]] === 鹿児島市議会 === {{Main|鹿児島市議会}} * 定数:45人 * 任期:2024年4月28日満了 {| class="wikitable" |- ! 会派名 ! width="45" |人数 |- | align="center"|自民党市議団 !20 |- | align="center"|[[社会民主党 (日本 1996-)|社民]]立憲 !7 |- | align="center"|[[公明党]] !5 |- | align="center"|市民連合 !4 |- | align="center"|[[日本共産党]] !3 |- | align="center"|にじとみどり !2 |- | align="center"|[[無所属]] !1 |- !計!!43 |} === 鹿児島県議会 === * 選挙区:鹿児島市・鹿児島郡選挙区 * 定数:17人 * 任期:2023年4月30日 - 2027年4月29日 * 投票日:2023年4月9日 * 当日有権者数:488,084 人 * 投票率:37.31% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 柳誠子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 62 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 元 || 13,960票 |- | 藤崎剛 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 49 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 12,007票 |- | 宇都恵子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 40 || 立憲民主党 || style="text-align:center" | 新 || 11,259票 |- | 柴立鉄平 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 43 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 11,129票 |- | 岩重礼 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 44 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 9,780票 |- | 長田康秀 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 45 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 9,604票 |- | 松田浩孝 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 58 || 公明党 || style="text-align:center" | 現 || 8,165票 |- | 福司山宣介 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 64 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:center" | 7,978票 |- | 寺田洋一 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 69 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:center" | 7,731票 |- | 宝来良治 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 54 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:center" | 7,666票 |- | 森昭男 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || 公明党 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:center" | 7,657票 |- | 村野俊作 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 46 || 公明党 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:center" | 7,278票 |- | 本田静 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 41 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:center" | 6,879票 |- | 小川美沙子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 70 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:center" | 6,871票 |- | 上山貞茂 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 60 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:center" | 6,849票 |- | 平良行雄 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 63 || 日本共産党 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:center" | 6,819票 |- | 岩重仁子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 49 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:center" | 6,627票 |- | 森山博行 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 58 || [[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]] || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:center" | 4,915票 |- | 田代芳樹 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 49 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:center" | 4,875票 |- | 吉田浩司 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 40 || [[参政党]] || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:center" | 4,739票 |- | 外城戸昭一 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 61 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:center" | 4,389票 |- | 有川博幸 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 64 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:center" | 3,988票 |- | 安楽英美 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 53 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:center" | 3,867票 |- | 山崎太郎 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 53 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:center" | 2,433票 |- | 原口武義 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 47 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:center" | 1,766票 |- | 大門五郎 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 70 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:center" | 826票 |} ==== 不祥事 ==== ; 投票用紙持ち込み事件 2019年4月7日に行われた、鹿児島県議会議員選挙の鹿児島市の開票所で、投票総数が投票者数を10票上回った持ち込み事件が発覚した<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/election/local/20190408-OYT1T50272/ 「投票者数上回る票見つかる、投票用紙持ち込みか」] ― 【読売新聞】2019年4月08日付</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20190408020524/http://www3.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/20190408/5050006095.html 「開票したら投票数より10票多い」] ― 【NHK】2019年4月08日付</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20190408055613/https://www.mbc.co.jp/news/mbc_news.php?ibocd=2019040800035312 「鹿児島県議選・鹿児島市郡区 投票総数と投票者総数が10票異なる」] ― 【南日本放送】2019年4月08日付</ref>。 === 衆議院 === ;鹿児島県第1区 * 選挙区:[[鹿児島県第1区|鹿児島1区]](鹿児島市(本庁管内、[[伊敷村|伊敷]]・[[吉野村 (鹿児島県)|吉野]]・[[吉田町 (鹿児島県)|吉田]]・[[桜島]]・[[松元町|松元]]・[[郡山町 (鹿児島県)|郡山]]の各支所管内)、[[鹿児島郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:358,070人 * 投票率:54.10% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[宮路拓馬]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 41 || style="background-color:#ffc0cb;" | 自由民主党 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 101,251票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | || [[川内博史]] || style="text-align:center;" | 59 || 立憲民主党 || style="text-align:center;" | 前 || style="text-align:right;" | 89,232票 || style="text-align:center;" | ○ |} ;鹿児島県第2区 * 選挙区:[[鹿児島県第2区|鹿児島2区]](鹿児島市([[谷山市|谷山]]・[[喜入町|喜入]]の各支所管内)、[[枕崎市]]、[[指宿市]]、[[南さつま市]]、[[奄美市]]、[[南九州市]]、[[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:337,186人 * 投票率:58.58% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[三反園訓]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 63 || style="background-color:#ffc0cb;" | 無所属 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 新 || style="background-color:#ffc0cb;" | 92,614票 || style="background-color:#ffc0cb;" | |- | || [[金子万寿夫]] || style="text-align:center;" | 74 || 自由民主党 || style="text-align:center;" | 前 || 80,469票 || |- | || 松崎真琴 || style="text-align:center;" | 63 || 日本共産党 || style="text-align:center;" | 新 || 21,084票 || style="text-align:center;" | ○ |} == 経済 == {{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年12月 | 言葉を濁さない = 2021年12月 | section = 1 }} {{Clearleft}} === 繁華街・商業地区 === 2004年頃まで、鹿児島市やその周辺で「街」と言えば「[[天文館]]」と通じる程、市内中心部の天文館地区が絶対的な繁華街であった。これは、鹿児島市がその時間距離のために[[北部九州]]の影響を受けにくかったこと、また平地が極端に少なく、[[地価]]も同規模の都市と比較して割高で中央資本や大型[[ロードサイド店舗]]の進出が遅かったことなどの理由による。 しかし、九州新幹線の一部開業を契機とした[[鹿児島中央駅]]周辺地区の一体的大規模開発や都市計画用途指定の緩和に伴う郊外型大型店舗の増加によって、天文館地区以外の商業地も発展してきた。九州新幹線開業による北部九州への[[ストロー効果]]は限定的であるが、商圏内における鹿児島中央駅周辺地区や郊外大型店舗とのエリア間競争は激化している。 ==== 天文館地区 ==== [[ファイル:Tenmonkan street 2007 0502.jpg|thumb|天文館本通アーケード]] [[ファイル:050806kagoshima.jpg|thumb|天文館 照国表参道通り]] : 鹿児島県下最大の繁華街。天文館地域(その周辺も含む)には南九州地域を管轄する支社を各企業が設置しており、南九州地域の中心地的機能も有する<ref>経済地理学会西南支部編 『西南日本の経済地域』 [[ミネルヴァ書房]]、1995年 ISBN 4623025845</ref><ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/kankou/0005999.html 天文館] 鹿児島市公式ウェブサイト内、2010年3月4日閲覧。</ref>。特に飲食エリアの[[千日町 (鹿児島市)|千日町]]・[[山之口町 (鹿児島市)|山之口町]]は同規模の人口の街では最大級であり、全国でも屈指の夜の街である。 : 「天文館」という地名はエリア全体を指す通称で、[[島津家]]25代当主[[島津重豪]]がこの地に建てた天体観測所「明時館」の別名に由来する。 : まちの輪郭と特長は、片屋根式[[アーケード (建築物)|アーケード]]が設置されているメインストリートの「天文館電車通り」を中心に、比較的道幅の狭い全冠式アーケードが迷路のように交わり、細い路地に至るまでカラー舗装され、エリア内は間口の狭い中小規模の[[雑居ビル]]がひしめきあい、散策には適した繁華街である。課題としては、同規模の都市に比べ大型複合商業施設が少なく、テナントビルの時代対応も遅れがちであるため、高級ブランド正規直営店などの進出もやや遅れがちであることや、電車通りなどのメインストリートは電線地中化・街灯敷設などの街路整備がほぼ完了しているが、これらに接する[[文化通り]]などの街路や路地では整備途上であることが挙げられる。今後これらの課題を着実に改善すれば、繁華街としての魅力が更に高まる{{独自研究範囲|ことが期待できる|date=2021年12月}}。 :近況としては、前述の商圏内におけるエリア間競争の激化の影響を受け、天文館・いづろ地区の歩行者通行量が1998年から2006年の8年間でマイナス45.1%という大幅な減少となり、2006年末には映画の灯が消え(2010年4月に復活)、街の中核となっていた老舗ホテル(いわさきホテルザビエル450)の解体[[宅地#更地|更地]]化や、核店舗の一つであった[[三越鹿児島店]]が撤退するという事態となった。三越鹿児島店の後継店舗として2010年4月に複合商業施設[[マルヤガーデンズ]]が、[[タカプラ]]跡には2022年4月に[[センテラス天文館]]が開業するなど天文館復活に向けた取り組みも進められている。なお空き店舗率は、2011年に9.9%に上ったが、2012年には6.6%に改善している。 :なお、国土交通省の都市・地域整備局が2005年(平成17年)にまとめた報告書、中心市街地再生のためのまちづくりのあり方に関する研究<ref>[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/04/040810_.html 中心市街地再生のためのまちづくりのあり方に関する研究] 国土交通省,平成17年8月10日</ref>では、鹿児島市と旧静岡市が良い例として掲載されている。 :*'''主な商業施設''' :*:[[山形屋]]・[[マルヤガーデンズ]]・[[タカプラ]](2018年閉館)→[[センテラス天文館]]・[[カリーノファシリティーズ|カリーノ]]天文館・[[よかど鹿児島]]・さつま屋・キャパルボホール・NCサンプラザ・ヴィストラルビル([[丸善]]天文館店)・LAZO表参道(核テナント:[[天文館シネマパラダイス]])・城山VIPプラザ :* '''アーケードおよび通りの総称''' :** '''アーケード'''<br />いづろ通り・照国表参道通り・天文館通り・天文館本通り・天文館電車通・天文館G3(千日通り)・にぎわい通り・はいから通り・中町コアモール・中町本通り・中町ベルク・ぴらもーる(天神おつきや商店街)・金生通り・納屋通り :** '''モール'''<br />テンパーク通り・ゴンザ通り・七味小路通り・セピア通り・グルメ通り・おつきや東通り・天文館一丁目商店街・[[呉服町 (鹿児島市)|呉服町]]通り :** '''歓楽街'''<br />文化通り・中町別院通り・中町中通り・中町御堂筋通・銀座通り・プリンス松山通り・船津町通り・松原本通り・天文館文化通り・萩原通り・二本松馬場通り・山之口町中通り(別名・猫のくそ小路<ref>[https://backnumber.dailyportalz.jp/2008/11/28/b/ 「猫の糞小路」に行ってみた] デイリーポータル、2008</ref>)・山之口本通り・二官橋通り・樋之口本通り・山之口電車通り・高見馬場通り・山之口本通り・二官通り ==== 鹿児島中央駅地区 ==== [[ファイル:Kagoshima-Chuo-Station-building20201004.jpg|thumb|鹿児島中央駅及びアミュプラザ鹿児島(2020年)]] [[ファイル:Kagoshima-chuou-wide.jpg|thumb|夜のアミュプラザ鹿児島(2006年)]] : [[鹿児島中央駅]]を中心に、放射状に広がる商業地区。その多くは駅前の青空マーケットや神社の参道の商店街から発展したもので、庶民的な商品や衣料品に強い商店が多い。しかし[[九州新幹線]]の開業を契機とした駅施設や県内最大級の大規模商業施設を含めたインフラ・アクセスなどの一体整備により大きく変貌を遂げ、周辺地域の各種再開発構想に大きな影響を与えつつある。以下の商店街や施設および通りから成る。 :* '''主な商店街''' :*: 中央駅一番街アーケード(IっDO)・ベル通り・文化通り・都通り・宮田通り・西田一丁目黄金通り・黄金通り・西銀座通り・一條通り・中央駅前本通り・西田通り・中央町本通り・あけぼの通り・甲南本通り・ゾウさんのはな通り・中央駅前朝市通り :* '''主な商業施設''' - 鹿児島中央駅を軸として、全て連絡の公共地下通路(つばめロード)で連結されている。 :*: [[アミュプラザ鹿児島]](核店舗:[[SHIBUYA109]]、[[ティ・ジョイ|鹿児島ミッテ10]])・[[アミュプラザ鹿児島]]プレミアム館(各テナント:[[ハンズ (小売業)|ハンズ]])・AMUWE(核テナント:[[山形屋ストア]])・[[えきマチ1丁目|えきマチ1丁目鹿児島]](核店舗:[[ビックカメラ]])・キャンセビル([[イオン鹿児島中央店]])・アエールプラザ・[[鹿児島中央ターミナル|鹿児島中央ターミナルビル]](2012年4月開業)・かごっまふるさと屋台村(2012年4月開業)・[[鹿児島中央タワー]](2021年4月開業) ==== 上町地区 ==== : JR[[鹿児島駅]]の北東方向周辺などを、地元では'''上町'''(かんまち)と呼ぶ。500年以上の歴史を誇る古くからの商業地である竪馬場(たてばば)、離島や大隅半島への卸問屋街から派生した[[小川町 (鹿児島市)|小川町]]・[[易居町]](やすいちょう)などの商店街から成る。大型商業施設では、再開発により1990年代前半に完成したアーバンポート21がある。近隣にある通称「名山堀」といった市役所周辺の飲食店街も同エリアに含まれると解釈される場合もある。鹿児島本港の臨港再開発エリアに[[ドルフィンポート]](2005年竣工)や[[NHK鹿児島放送局]]の新会館(2006年12月竣工)が完成し賑わいを形成していたが、ドルフィンポートが2020年3月に閉業したため跡地開発について市や県で議論が続いている。 :* '''主な商業施設・商店街''' :*: [[ドルフィンポート]]、竪馬場通り商店街・小川町商店街・易居町商店街・滑川朝市・名山堀飲食街 ==== 鴨池地区 ==== [[ファイル:Kamoike kyougijyou 1.jpg|thumb|鹿児島県立鴨池運動公園陸上競技場]] [[ファイル:Kagoshima Prefectural Government Office.jpg|thumb|[[鹿児島県庁舎]]]] * 与次郎ヶ浜エリア *: [[与次郎]]1・2丁目と[[天保山町 (鹿児島市)|天保山町]]などを含む臨海部のエリアを指し、もともとは塩田に利用されていた干潟であったが、天保山町は、1930年代に[[NHK鹿児島放送局]]の開局、[[鹿児島水産専門学校 (旧制)|鹿児島水産専門学校]](現・[[鹿児島大学]][[水産学部]])の開校により街が開かれる。与次郎ヶ浜地区は1972年の太陽国体([[第27回国民体育大会]])の競技施設建設のために埋立られたエリアであったが、観光地区条例が制定されていたため、2005年頃まで居住人口がゼロに近かった。しかし条例解除後は[[九州電力]]鹿児島ビル、[[南日本新聞]]会館も高層ビルを新築移転、県外資本を中心に大規模分譲マンションも増えてその姿を変えつつある。2006年10月に[[フレスポジャングルパーク|フレスポジャングルパークSC]]([[TOHOシネマズ]]、[[半田屋]]などが入居)が開業したのを皮切りに、米盛病院の開院や[[アクロスプラザ与次郎]]の開業など郊外化が進んでいる。 * 騎射場(きしゃば)エリア *: [[荒田 (鹿児島市)|荒田]]1・2丁目、[[下荒田]]1 - 4丁目、[[上荒田町]]付近の商店群の通称。もともとは鹿児島大学周辺の学生街から発展、2023年現在は学生向けの飲食店街を中心にダイニングレストラン、趣味の専門店、ディスカウント店、大型食品スーパー、パチンコ店、高層マンションなどが混在している。若者を客層に狙う業種は必ずこのエリアに出店し、[[モスバーガー]]や[[リンガーハット]]なども1980年代初頭にこのエリアに鹿児島1号店をオープンしている。 * 郡元(こおりもと)・宇宿(うすき)エリア *: [[郡元 (鹿児島市)|郡元]]2丁目、[[鴨池 (鹿児島市)|鴨池]]1・2丁目、[[鴨池新町]]、[[真砂町 (鹿児島市)|真砂町]]、[[真砂本町]]、[[東郡元町]]、[[宇宿 (鹿児島市)|宇宿]]1・2丁目の周辺を指す。鴨池新町は旧鹿児島空港跡地であり、1970年代中頃に[[日本住宅公団]]により鴨池ニュータウンが開設された。同時期に郡元には鹿児島ショッパーズプラザ(ダイエー鹿児島店を経て2023年現在は[[イオン鹿児島鴨池店]])が開設され、商業地化が進行した。隣接する騎射場エリアや与次郎エリアとは相互に影響しあっている。歴史の浅い新興エリアながら1983年には鹿児島東急ホテルが開業、1985年にはJA鹿児島県経済連が新築移転、1992年には第十管区海上保安本部・鹿児島地方気象台などが入居する鹿児島第二合同庁舎ビルが完成、1990年代後半には[[鹿児島県庁]]・[[鹿児島県警察]]本部・[[鹿児島県議会]]議事堂が移転と年を追うごとに発展し続けている。同エリアには垂水フェリーの乗場・市電の[[郡元停留場|郡元]]電停・[[指宿枕崎線]]と市電の相互乗換えが可能なJR[[南鹿児島駅]]など、公共交通の要衝も多数存在する。ただ幹線道路は、南北を縦貫する幹線を中心に先述の交通渋滞が激しい場所の一つである([[国道225号]]と[[鹿児島県道217号郡元鹿児島港線|産業道路]]の分岐点が存在するため)。 ==== 谷山地区(鹿児島市南部) ==== [[ファイル:ÆON Kagoshima shopping center.JPG|thumb|イオンモール鹿児島]] * 中山(ちゅうざん)エリア *: [[東谷山 (鹿児島市)|東谷山]]1 - 7丁目、自由ヶ丘1・2丁目、[[中山 (鹿児島市)|中山]]1・2丁目、[[山田町 (鹿児島市)|山田町]]などを指す。市南部の市道中山バイパスと笹貫バイパスの沿道は、市内では産業道路や[[吉野 (鹿児島市)|吉野町]]に次いでロードサイド専門店が集積する数少ないエリア。周辺の丘陵部には[[桜ケ丘 (鹿児島市)|桜ケ丘]]、[[皇徳寺台|皇徳寺(こうとくじ)]]、[[星ヶ峯]](ほしがみね)などの大型新興住宅地がひかえ、産業道路や[[九州自動車道]]に接続する[[指宿スカイライン]]へのアクセスも便利。中山バイパスは、[[歩道]]も幅広で[[中央分離帯]]、水銀街灯も完全完備のゆったりした四車線道路のため、2010年代頃から県外大手チェーンもここに出店するようになった。 * 新たな商業施設 *: [[ラウンドワン]]鹿児島店・[[ニトリ]]鹿児島南栄店・[[スクエアモール鹿児島宇宿]]・[[タイヨー (鹿児島県)|サンキュー]]新栄店・[[ニシムタ|N's CITYニシムタ]]谷山店・[[イオン鹿児島谷山店]](2017年閉店)・[[イオンモール鹿児島]](旧:イオン鹿児島SC)・[[オプシアミスミ]]・ホームセンターきたやま東開店・ホームセンターハンズマン宇宿店・ホームプラザナフコ鹿児島東開店 ==== 吉野地区(鹿児島市北部) ==== 近年開発が進んでいる。 <!--* 主な産業 * 産業人口--> === 本社を置く企業 === {{Div col|cols=5}} * [[健康家族 (通信販売)|健康家族]] * [[しか屋]] * [[薩摩酒造]] * [[本坊酒造]] * [[小正醸造]] * [[山元酒造]] * [[ミドリ薬品]] * [[西日本シロアリ]] * [[日本ガス]] * [[コーアガス日本]] * [[アクシーズ]] * [[てまひま堂]] * [[サンケイ化学]] * [[セイカ食品]] * [[康正産業]] * [[寿福産業]] * [[焼肉なべしま]] * [[Misumi]] * [[川商ハウス]] * [[新日本科学]] * [[ニシムタ]] * [[正一電気]] * [[タイヨー (鹿児島県)|タイヨー]] * [[カコイエレクトロ]] * [[山形屋]] * [[山形屋ストア]] * [[アミュプラザ鹿児島|鹿児島ターミナルビル]] * [[生活協同組合|コープかごしま]] * [[迫田 (家具店)|迫田]] * [[オールジャパンメガネチェーン|眼鏡の光学堂]] * [[南国殖産]] * [[南九州ファミリーマート]] * [[南九州サンクス]] * [[島津興業]] * [[岩崎産業]] * [[昴 (企業)|昴]] * [[マリックスライン]] * [[鹿児島商船]] * [[コスモライン (鹿児島県)|コスモライン]] * [[折田汽船]] * [[南国交通]] * [[鹿児島交通]] * [[いわさきバスネットワーク]] * [[鹿児島銀行]] * [[南日本銀行]] * [[鹿児島相互信用金庫]] * [[鹿児島信用金庫]] * [[鹿児島興業信用組合]] * [[エスライン九州]] * [[南日本新聞|南日本新聞社]] * [[奄美海運]] * [[ソフトマックス (医療)|ソフトマックス]] * [[コーアツ工業]] * [[高橋商事]] * [[鹿児島プロスポーツプロジェクト]] {{Div col end}} === 漁業 === * 谷山漁港 == スポーツ・文化 == === スポーツチーム === * [[鹿児島ユナイテッドFC]](サッカー[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]) * [[鹿児島レブナイズ]](バスケットボール[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]) * [[ジュ ブリーレ 鹿児島]]([[女子サッカー]]・[[九州女子サッカーリーグ]]) * [[鹿児島ドリームウェーブ]]([[社会人野球]]・[[クラブチーム (社会人野球)|クラブチーム]]) * [[甲南クラブ]](社会人ラグビークラブチーム) === 名物 === * [[あくまき]]、[[春駒]]、[[かるかん]]、[[両棒餅]]、[[かすたどん]]、[[金生饅頭]]、[[げたんは]]などの菓子全般、[[鹿児島ラーメン]]、[[カツオ#食材・料理|鰹料理]]、[[キビナゴ|キビナゴ刺身]]、[[酒寿司]]、[[薩摩揚げ]]、[[鶏刺し]]、[[薩摩地鶏]]の炭火焼、[[焼酎]]、[[白くま]]、[[そうめん流し]]、[[豚骨料理|豚骨煮]]、[[味噌おでん (鹿児島風)]]、[[黒豚わっぜえか丼]]、鹿児島[[茶]]、[[ツルレイシ]]、[[タケノコ]]、[[サツマイモ]]、[[桜島大根]]、[[桜島小蜜柑]]など * 県庁所在地における泉源数、温泉を用いた公衆浴場の数が日本一<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/imadoki/_38524/_38578.html かごしま温泉] - 鹿児島市 2012年1月20日閲覧。</ref>。 == 姉妹都市・友好都市 == === 国内 === ; 提携都市 * {{Flagicon|山形県}}[[鶴岡市]]([[山形県]])- [[1969年]][[11月7日]]兄弟都市盟約締結。 *: [[戊辰戦争]]で敗れた[[庄内藩]]に対し、[[西郷隆盛]]の意向により会津藩に比べ寛大な処分で済んだとされており、これを縁として締結後から親善使節団の相互訪問が行われている他に<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/7siseijouhou/7-8kouryu/7-8-1simaitosi/0003586.html 鶴岡市] - 鹿児島市 2012年1月20日閲覧。</ref>、[[鹿児島市立武中学校]]と[[鶴岡市立鶴岡第二中学校]]が[[1975年]]([[昭和]]50年)に兄弟校盟約を締結し、交流を行っている<ref>[http://keinet.com/takec/brother.html 兄弟校交流] - 鹿児島市立武中学校 2012年9月17日閲覧。</ref>。 * {{Flagicon|岐阜県}}[[大垣市]]([[岐阜県]])- [[1963年]]フレンドリーシティ提携 *: [[江戸時代]]に幕府の命により薩摩藩が行った[[木曽三川]]の治水工事([[宝暦治水事件|宝暦治水]])の縁により、1963年以降大垣市との交換交流が行われている<ref>[http://www.city.ogaki.lg.jp/0000001791.html 鹿児島市(日本)] - 大垣市 2012年9月17日閲覧。</ref>。2011年11月4日には災害時相互応援協定を締結している<ref>[http://www.city.ogaki.lg.jp/0000012453.html 鹿児島市と災害協定を締結] - 大垣市 2012年9月17日閲覧。</ref>。 * {{Flagicon|長野県}}[[松本市]]([[長野県]])- [[2012年]]文化・観光交流都市提携 * {{Flagicon|北海道}}[[札幌市]]([[北海道]])- [[2013年]]観光・文化交流協定 * {{Flagicon|山口県}}[[萩市]]([[山口県]])- [[2016年]][[1月21日]]友好交流に関する盟約締結。 *: [[薩長同盟]]締結150周年を迎えたのを記念して締結<ref>{{Cite news|url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/kagoshima/article/223893|title=「現代の薩長同盟」記念 萩市長らが鹿児島市でツバキ植樹|newspaper =[[西日本新聞]]|date=2016-02-10|accessdate=2016-02-12}}</ref>。 ; その他 * [[ファイル:Sakamoto_Ryoma.jpg|32x32ピクセル]][[坂本龍馬|龍馬の絆都市間交流]] *: [[2014年]]([[平成]]26年)[[11月15日]] 龍馬の絆で結ぶ都市間交流宣言締結<ref>{{Cite news |title=都市間交流宣言:龍馬の絆で結ぶ協定 全国8市区、観光・防災で交流へ |url=http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20141116ddlk26040311000c.html |date=2014-11-16 |newspaper=毎日新聞}}</ref>。 === 海外 === [[ファイル:Kyougetsu-Tei Kagoshima Japan.jpg|thumb|長沙市と友好都市盟約を締結したのを記念し設置された[[共月亭]]]] 4の都市と姉妹都市・友好都市の関係がある<ref>[http://www.pref.kagoshima.jp/kyoiku-bunka/kokusai/shimaitoshi/shityoson/index.html 姉妹都市盟約等 - 市町村] - 鹿児島県公式サイト。</ref>。 ; 姉妹都市 * {{Flagicon|ITA}} [[ナポリ]]([[イタリア|イタリア共和国]][[カンパニア州]][[ナポリ県]]) - [[1960年]][[5月3日]]姉妹都市盟約締結<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/7siseijouhou/7-8kouryu/7-8-1simaitosi/0003582.html ナポリ市(イタリア)] - 鹿児島市 2012年1月20日閲覧。</ref>。 *: ナポリから眺める[[ヴェスヴィオ]]の風景が鹿児島から眺める桜島と似ているため。鹿児島市内に「ナポリ通り」、ナポリ市に「鹿児島通り」がある。[[2010年]](平成22年)に姉妹都市提携50周年を記念してナポリ市の新副都心の広場が「鹿児島広場」と命名された<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/local/pdfs/naples_1008.pdf 鹿児島市とナポリ市の姉妹都市提携50周年記念] - {{仮リンク|在イタリア日本国大使館|it|Ambasciata del Giappone in Italia}}、2014年8月6日閲覧。</ref>。また、日本・イタリア間の姉妹都市協定としては最も古い<ref name="emb_ita_shimaitoshi">{{Cite web|和書|url=https://www.it.emb-japan.go.jp/nihongo/nikokukankankei/shimaitoshi.htm|title=日本・イタリア間で提携された姉妹都市(リスト)|publisher=在イタリア日本国大使館|accessdate=2013-10-01}}</ref>。 * {{Flagicon|AUS}} [[パース (西オーストラリア州)|パース市]]([[オーストラリア|オーストラリア連邦]][[西オーストラリア州]]) - [[1974年]][[4月23日]]姉妹都市盟約締結<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/7siseijouhou/7-8kouryu/7-8-1simaitosi/0003583.html パース市(オーストラリア)] - 鹿児島市 2012年1月20日閲覧。</ref>。 *: 気候が似通っており、ともに[[緯度]]が32度(鹿児島市は北緯、パースは南緯)であるため。鹿児島市内に「パース通り」が、パースに「鹿児島公園」がある。 * {{Flagicon|USA}} [[マイアミ|マイアミ市]]([[アメリカ合衆国]][[フロリダ州]][[マイアミ・デイド郡 (フロリダ州)|マイアミ・デイド郡]]) - [[1990年]][[11月1日]]姉妹都市盟約締結<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/7siseijouhou/7-8kouryu/7-8-1simaitosi/0003585.html マイアミ市(アメリカ)] - 鹿児島市 2012年1月20日閲覧。</ref>。 *: ともに本土最南端の都市であり、気候が似通っているなど共通点が多くみられるため。鹿児島市内に「マイアミ通り」、マイアミに「鹿児島通り」がある。 ; 友好都市 * {{Flagicon|CHN}} [[長沙市]]([[中華人民共和国]][[湖南省]]) - [[1982年]][[10月30日]]友好都市協定締結<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/7siseijouhou/7-8kouryu/7-8-1simaitosi/0003584.html 長沙市(中国)] - 鹿児島市 2012年1月20日閲覧。</ref>。 *: 中国に近く歴史的関連が深いため。鹿児島市[[天保山町 (鹿児島市)|天保山町]]の天保山公園に[[共月亭]]が、長沙に友好和平の像がある。 * {{Flagicon|VIE}} [[ダナン]] ([[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]][[ダナン]]) ; パートナーシップ協定 * {{Flagicon|FRA}} [[ストラスブール|ストラスブール市]] ([[フランス|フランス共和国]][[バ=ラン県]]) ; 姉妹都市の名称が付く通り <gallery> Napoli Street in Kagoshima.JPG|ナポリ通り Perth_Street_in_Kagoshima_20201128.jpg|パース通り Miami Street in Kagoshima.JPG|マイアミ通り </gallery> == 地域 == === 教育 === {{Commonscat|Schools in Kagoshima|鹿児島市に所在する学校}} [[ファイル:KagoshimaUniversity-01-001.jpg|thumb|鹿児島大学]] ==== 大学(設置者) ==== ; 国立大学 * [[鹿児島大学]]([[国立大学法人]]鹿児島大学) ; 私立大学 * [[鹿児島国際大学]]([[学校法人津曲学園]]) * [[志學館大学]]([[学校法人志學館学園]]、2011年4月に[[霧島市]]から移転) ; 放送大学 * [[放送大学]] 鹿児島学習センター (放送大学学園 = [[放送大学学園法]](平成14年法律第156号)第3条に定める[[学校法人]]) ==== 短期大学 ==== ; 県立 * [[鹿児島県立短期大学]] ; 私立 * [[鹿児島国際大学短期大学部]] * [[鹿児島純心女子短期大学]] * [[鹿児島女子短期大学]] * [[鹿児島工業短期大学]](廃止) ==== 公立高等学校 ==== ; 県立 * [[鹿児島県立鶴丸高等学校]] * [[鹿児島県立甲南高等学校]] * [[鹿児島県立鹿児島中央高等学校]] * [[鹿児島県立武岡台高等学校]] * [[鹿児島県立錦江湾高等学校]] * [[鹿児島県立鹿児島工業高等学校]] * [[鹿児島県立鹿児島東高等学校]] * [[鹿児島県立鹿児島南高等学校]] * [[鹿児島県立松陽高等学校]] * [[鹿児島県立開陽高等学校]]([[高等学校#全日制の課程|全日制]]・[[高等学校#定時制の課程|定時制]]・[[高等学校#高等学校(通信制)|通信制]]) * [[鹿児島県立明桜館高等学校]](2010年4月開校) ** [[鹿児島県立甲陵高等学校]](2010年に[[鹿児島県立明桜館高等学校]]に統廃合) ** [[鹿児島県立鹿児島西高等学校]](2010年に[[鹿児島県立明桜館高等学校]]に統廃合) ; 市立 * [[鹿児島市立鹿児島商業高等学校]] * [[鹿児島市立鹿児島女子高等学校]] ==== 私立学校(初等中等) ==== * 学校法人池田学園[[池田学園池田中学・高等学校|池田高等学校・中学校]] * [[学校法人鹿児島純心女子学園]][[鹿児島純心女子中学校・高等学校|鹿児島純心女子高等学校・中学校]] * [[学校法人川島学園 (鹿児島県)|学校法人川島学園]][[鹿児島実業高等学校]] * [[学校法人志學館学園]][[志學館中等部・高等部 (鹿児島県)|志學館高等部・中等部]] * [[学校法人津曲学園]][[鹿児島高等学校]] * 学校法人津曲学園[[鹿児島修学館中学校・高等学校|鹿児島修学館高等学校・中学校]] * 学校法人時任学園[[樟南高等学校]] * [[学校法人原田学園 (鹿児島県)|学校法人原田学園]][[鹿児島情報高等学校]] * 学校法人ラ・サール学園[[ラ・サール中学校・高等学校]] * 学校法人池田学園[[池田学園池田小学校|池田小学校]] * [[学校法人三育学院]][[鹿児島三育小学校・幼稚園|鹿児島三育小学校]] * [[クラーク記念国際高等学校]]鹿児島キャンパス * [[ヒューマンキャンパス高等学校]]鹿児島学習センター * [[鹿島学園高等学校]]鹿児島校 ==== 公立中・高等学校 ==== * [[鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校]]([[中高一貫校]]) ==== 国立小・中学校 ==== * [[鹿児島大学教育学部附属小学校]]・[[鹿児島大学教育学部附属中学校|中学校]] ==== 公立中学校 ==== 38校 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[鹿児島市立伊敷中学校]] * [[鹿児島市立伊敷台中学校]] * [[鹿児島市立鴨池中学校]] * [[鹿児島市立黒神中学校]] * [[鹿児島市立甲東中学校]] * [[鹿児島市立皇徳寺中学校]] * [[鹿児島市立甲南中学校]] * [[鹿児島市立郡山中学校]] * [[鹿児島市立河頭中学校]] * [[鹿児島市立坂元中学校]] {{Col-break}} * [[鹿児島市立桜丘中学校]] * [[鹿児島市立喜入中学校]] * [[鹿児島市立桜島中学校]] * [[鹿児島市立清水中学校]] * [[鹿児島市立城西中学校]] * [[鹿児島市立錫山中学校]] * [[鹿児島市立西陵中学校]] * [[鹿児島市立武中学校]] * [[鹿児島市立武岡中学校]] * [[鹿児島市立谷山中学校]] {{Col-break}} * [[鹿児島市立谷山北中学校]] * [[鹿児島市立天保山中学校]] * [[鹿児島市立長田中学校]] * [[鹿児島市立西紫原中学校]] * [[鹿児島市立東桜島中学校]] * [[鹿児島市立東谷山中学校]] * [[鹿児島市立福平中学校]] * [[鹿児島市立星峯中学校]] * [[鹿児島市立松元中学校]] * [[鹿児島市立緑丘中学校]] {{Col-break}} * [[鹿児島市立南中学校]] * [[鹿児島市立紫原中学校]] * [[鹿児島市立明和中学校]] * [[鹿児島市立吉田北中学校]] * [[鹿児島市立吉田南中学校]] * [[鹿児島市立吉野中学校]] * [[鹿児島市立吉野東中学校]] * [[鹿児島市立和田中学校]] {{Col-end}} ==== 公立小学校 ==== 79校 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[鹿児島市立荒田小学校]] * [[鹿児島市立伊敷小学校]] * [[鹿児島市立伊敷台小学校]] * [[鹿児島市立石谷小学校]] * [[鹿児島市立犬迫小学校]] * [[鹿児島市立宇宿小学校]] * [[鹿児島市立桜洲小学校]] * [[鹿児島市立鴨池小学校]] * [[鹿児島市立川上小学校]] * [[鹿児島市立錦江台小学校]] * [[鹿児島市立黒神小学校]] * [[鹿児島市立花野小学校]] * [[鹿児島市立皇徳寺小学校]] * 鹿児島市立高免小学校(休校) * [[鹿児島市立向陽小学校]] * [[鹿児島市立郡山小学校]] * [[鹿児島市立小山田小学校]] * [[鹿児島市立喜入小学校]] * [[鹿児島市立坂元小学校]] * [[鹿児島市立坂元台小学校]] {{Col-break}} * [[鹿児島市立桜丘西小学校]] * [[鹿児島市立桜丘東小学校]] * [[鹿児島市立桜峰小学校]] * [[鹿児島市立清水小学校]] * [[鹿児島市立城南小学校]] * [[鹿児島市立錫山小学校]] * [[鹿児島市立西陵小学校]] * [[鹿児島市立清和小学校]] * [[鹿児島市立瀬々串小学校]] * [[鹿児島市立草牟田小学校]] * [[鹿児島市立田上小学校]] * [[鹿児島市立武小学校]] * [[鹿児島市立武岡小学校]] * [[鹿児島市立武岡台小学校]] * [[鹿児島市立谷山小学校]] * [[鹿児島市立玉江小学校]] * [[鹿児島市立大明丘小学校]] * [[鹿児島市立大龍小学校]] * [[鹿児島市立東昌小学校]] * [[鹿児島市立中山小学校]] {{Col-break}} * [[鹿児島市立中郡小学校]] * [[鹿児島市立中洲小学校]] * [[鹿児島市立中名小学校]] * [[鹿児島市立西伊敷小学校]] * [[鹿児島市立西谷山小学校]] * [[鹿児島市立西田小学校]] * [[鹿児島市立西紫原小学校]] * [[鹿児島市立生見小学校]] * [[鹿児島市立花尾小学校]] * [[鹿児島市立春山小学校]] * [[鹿児島市立原良小学校]] * [[鹿児島市立東桜島小学校]] * [[鹿児島市立東谷山小学校]] * [[鹿児島市立一倉小学校]] * [[鹿児島市立平川小学校]] * [[鹿児島市立広木小学校]] * [[鹿児島市立福平小学校]] * [[鹿児島市立星峯西小学校]] * [[鹿児島市立星峯東小学校]] * [[鹿児島市立本城小学校]] {{Col-break}} * [[鹿児島市立本名小学校]] * [[鹿児島市立前之浜小学校]] * [[鹿児島市立松原小学校]] * [[鹿児島市立松元小学校]] * [[鹿児島市立南小学校]] * [[鹿児島市立南方小学校]] * [[鹿児島市立宮小学校]] * [[鹿児島市立牟礼岡小学校]] * [[鹿児島市立皆与志小学校]] * [[鹿児島市立宮川小学校]] * [[鹿児島市立紫原小学校]] * [[鹿児島市立名山小学校]] * [[鹿児島市立明和小学校]] * [[鹿児島市立八幡小学校]] * [[鹿児島市立山下小学校]] * [[鹿児島市立吉田小学校]] * [[鹿児島市立吉野小学校]] * [[鹿児島市立吉野東小学校]] * [[鹿児島市立和田小学校]] {{Col-end}} ==== 特別支援学校 ==== * 鹿児島県立鹿児島特別支援学校 * 鹿児島県立鹿児島南特別支援学校 * [[鹿児島県立武岡台特別支援学校]] * 鹿児島県立皆与志特別支援学校 * [[鹿児島大学教育学部附属特別支援学校]] * 鹿児島県立鹿児島盲学校 * [[鹿児島県立鹿児島聾学校]] ==== 学校教育以外の施設==== ; 職業訓練施設 * [[鹿児島造園技術専門校]] * [[鹿児島ホテル短期大学校]] * [[鹿児島高等技術専門校]] * [[鹿児島美容技術専門校]] === 郵便局 === [[ファイル:Kagoshima Central Post Office 01.jpg|thumb|鹿児島中央郵便局]] ==== [[集配郵便局]] ==== * [[鹿児島中央郵便局]] * [[鹿児島南郵便局]] * [[鹿児島東郵便局]]([[ゆうちょ銀行]]鹿児島店を併設) * [[鹿児島西郵便局]] * 上伊集院郵便局 * 西桜島郵便局 * 東桜島郵便局 * 吉田郵便局 * 郡山郵便局 * 喜入郵便局 ==== 無集配郵便局 ==== 70局 {| |style="vertical-align: top;"| * 伊敷郵便局 * 鹿児島大平田郵便局 * 鹿児島伊敷台郵便局 * 鹿児島宇宿三郵便局 * 鹿児島永吉郵便局 * 鹿児島下伊敷郵便局 * 鹿児島日当平郵便局 * 鹿児島下荒田一郵便局 * 鹿児島下荒田四郵便局 * 鹿児島下田郵便局 * 坂之上郵便局 * 鹿児島下福元郵便局 * 鹿児島加治屋町郵便局 * 鹿児島鴨池郵便局 * 鹿児島県庁内郵便局 * 瀬々串郵便局 * 生見郵便局 * 前之浜郵便局 |style="vertical-align: top;"| * 鹿児島吉野郵便局 * 鹿児島菖蒲谷郵便局 * 鹿児島玉里団地郵便局 * 鹿児島原良郵便局 * 鹿児島甲突郵便局 * 鹿児島皇徳寺郵便局 * 鹿児島荒田一郵便局 * 鹿児島荒田二郵便局 * 鹿児島坂元郵便局 * 鹿児島桜ヶ丘郵便局 * 二俣郵便局 * 鹿児島三和郵便局 * 鹿児島山之口郵便局 * 鹿児島紫原一郵便局 * 鹿児島紫原五郵便局 * 鹿児島春日郵便局 * 鹿児島笹貫郵便局 * 鹿児島緑ヶ丘団地郵便局 |style="vertical-align: top;"| * 鹿児島清見郵便局 * 鹿児島小川郵便局 * 鹿児島松原郵便局 * 松元駅前郵便局 * 鹿児島上之園郵便局 * 谷山上福元郵便局 * 鹿児島城西郵便局 * 鹿児島真砂本町郵便局 * 鹿児島星ヶ峯郵便局 * 鹿児島西伊敷三郵便局 * 吉田麓郵便局 * 鹿児島西田郵便局 * 鹿児島西陵郵便局 * 鹿児島西郷団地郵便局 * 鹿児島川上郵便局 * 鹿児島草牟田郵便局 * 平川郵便局 * 鹿児島明和郵便局 |style="vertical-align: top;"| * 鹿児島大黒郵便局 * 鹿児島大明丘郵便局 * 鹿児島大竜郵便局 * 鹿児島慈眼寺郵便局 * 鹿児島池之上郵便局 * 鹿児島中州郵便局 * 鹿児島山田郵便局 * 鹿児島田上郵便局 * 鹿児島唐湊郵便局 * 鹿児島東千石郵便局 * 東俣郵便局 * 鹿児島南郡元郵便局 * 鹿児島南林寺郵便局 * 鹿児島武郵便局 * 鹿児島武岡団地郵便局 * 武岡ハイランド郵便局 |} ==== [[簡易郵便局]] ==== 32局 {| |style="vertical-align: top;"| * 卸本町簡易郵便局 * 錫山簡易郵便局 * 向原簡易郵便局 * 花尾簡易郵便局 * 鹿児島花野簡易郵便局 * 一倉簡易郵便局 * 中名簡易郵便局 * 鹿児島七社簡易郵便局 * 鹿児島錦江台簡易郵便局 * 里岳簡易郵便局 * 犬迫簡易郵便局 |style="vertical-align: top;"| * 五ケ別府簡易郵便局 * [[鹿児島大学病院#一般施設|鹿児島大学医学部内簡易郵便局]] * 四元簡易郵便局 * 鹿児島自由ケ丘簡易郵便局 * 鹿児島小山田簡易郵便局 * 小野簡易郵便局 * 城山簡易郵便局 * 岡之原簡易郵便局 * 石谷簡易郵便局 * 千年団地簡易郵便局 * 鹿児島谷山港簡易郵便局 |style="vertical-align: top;"| * 大園簡易郵便局 * 直木簡易郵便局 * 大峰橋簡易郵便局 * 広木簡易郵便局 * 東開町簡易郵便局 * 新入簡易郵便局 * 浜平川簡易郵便局 * 大原簡易郵便局 * 吉田牟礼岡簡易郵便局 * 和田簡易郵便局 |} === 金融機関 === ==== 銀行 ==== * [[日本銀行]] * [[日本政策投資銀行]] * [[鹿児島銀行]](本店:鹿児島市・[[地方銀行]]) * [[南日本銀行]](本店:鹿児島市・[[第二地方銀行]]) * [[宮崎銀行]]([[地方銀行]]) * [[宮崎太陽銀行]]([[第二地方銀行]]) * [[福岡銀行]]([[地方銀行]]) * [[西日本シティ銀行]]([[地方銀行]]) * [[肥後銀行]]([[地方銀行]]) * [[熊本銀行]]([[第二地方銀行]]) * [[みずほ銀行]]([[都市銀行]]) * [[三井住友銀行]]([[都市銀行]]) * [[三菱UFJ信託銀行]]([[信託銀行]]) * [[みずほ信託銀行]]([[信託銀行]]) * [[三井住友信託銀行]]([[信託銀行]]) ==== 金庫 ==== * [[鹿児島信用金庫]](本店:鹿児島市) * [[鹿児島相互信用金庫]](本店:鹿児島市) * [[奄美大島信用金庫]](本店:[[奄美市]]) * [[九州労働金庫]] * [[農林中央金庫]] * [[商工組合中央金庫]] ==== 組合 ==== * [[鹿児島興業信用組合]](本店:鹿児島市) * [[鹿児島県信用農業協同組合連合会]](本所:鹿児島市) * [[鹿児島みらい農業協同組合]](本店:鹿児島市) * [[いぶすき農業協同組合]](本所:[[指宿市]]) * [[さつま日置農業協同組合]](本所:[[日置市]]) * [[あまみ農業協同組合]](本所:鹿児島市) * [[鹿児島県医師信用組合]](本店:鹿児島市) * [[九州信用漁業協同組合連合会]] == 交通 == [[ファイル:Kagoshim-Chuo Station 04.jpg|thumb|鹿児島中央駅]] [[ファイル:JR-Kagoshima-Station-building2020-10.jpg|thumb|鹿児島駅]] [[ファイル:KagoshimaLRT7003.jpg|thumb|鹿児島市電]] 鹿児島市は本州方面から続く鉄道・道路が終結、奄美・沖縄航路へ始発する九州南端の総合交通[[ターミナル]]となっており、近代においては県内最大の交通の要衝として発展してきた。これらの背景から、[[本州]]北端の[[青森市]]と比較されることも多い。特に[[鹿児島港]]は古くから対岸の桜島・大隅半島・県内離島及び[[沖縄諸島|沖縄]]航路の要で、これらが都市の拠点性を高め、発展させた要因でもある。 === 空港 === * 最寄りの[[鹿児島空港]]は[[霧島市]]溝辺町にあり、[[鹿児島中央駅]]から直行バス([[九州自動車道]]経由)で約40分(普通料金1,400円)。 === 鉄道路線 === * 中心駅:'''鹿児島中央駅''' * 県庁所在地代表駅:'''鹿児島駅''' ; [[九州旅客鉄道]](JR九州) * [[九州新幹線]] ** [[鹿児島中央駅]] * [[鹿児島本線]] ** [[鹿児島駅]] - 鹿児島中央駅 - [[広木駅]] - [[上伊集院駅]] - [[薩摩松元駅]] * [[日豊本線]] ** 鹿児島駅 - [[竜ヶ水駅]] * [[指宿枕崎線]] ** 鹿児島中央駅 - [[郡元駅]] - [[南鹿児島駅]] - [[宇宿駅]] - [[谷山駅 (鹿児島県)|谷山駅]] - [[慈眼寺駅]] - [[坂之上駅]] - [[五位野駅]] - [[平川駅]] - [[瀬々串駅]] - [[中名駅]] - [[喜入駅]] - [[前之浜駅]] - [[生見駅]] ; [[日本貨物鉄道]](JR貨物) * [[鹿児島貨物ターミナル駅]](旅客の利用は不可) ; [[鹿児島市交通局]](鹿児島市電) * [[鹿児島市電第一期線]] * [[鹿児島市電第二期線]] * [[鹿児島市電谷山線]] * [[鹿児島市電唐湊線]] === バス === * [[鹿児島市交通局]](鹿児島市営バス) - 2004年11月以前からの鹿児島市域および桜島で運行する。桜島町の編入合併と同時に旧桜島町営バスのバス事業を継承している。 * [[鹿児島交通]] - 鹿児島県内全域 * [[南国交通]] - 鹿児島市内・北薩地域 * [[JR九州バス]]:[[北薩線]](薩摩郡山駅はバス駅) ==== コミュニティバス ==== [[ファイル:Kagoshima City Aibus01.JPG|thumb|谷山北部路線のあいバス(広木駅前にて撮影)]] * [[鹿児島市コミュニティバス]] ** あいばす - 2008年10月21日から吉野地域・谷山地域・喜入地域の3地域7路線で運行開始し、その後2010年10月1日にこれまで運行されていた郡山元気バス、松元ひゃくえんバス、吉田地域巡回バス、谷山さんぽバスを廃止しそれらの路線のあいばすへの置き換え及び伊敷地域への路線新設などを行い、2011年現在は吉野地域(2路線)、谷山地域(1路線)、喜入地域(4路線)、伊敷東部地域(3路線)、伊敷西部地域(4路線)、谷山北部地域(4路線)、谷山南部地域(3路線)、吉田地域(2路線)、松元地域(3路線)、郡山地域(2路線)の10地域28路線が運行されている。(運行委託:吉野地域・伊敷東部地域・吉田地域・松元地域=[[南国交通]]/谷山地域・喜入地域・谷山北部地域・谷山南部地域=[[鹿児島交通]]/伊敷西部地域=[[いわさきバスネットワーク]]/郡山地域=[[JR九州バス]])。 ** 廃止路線代替バス - 鹿児島交通・林田バス(現・いわさきバスネットワーク)が廃止した路線の一部を引き継ぐ。 ==== 高速バス ==== 鹿児島市と他地域を結ぶ高速バスとして、以下の路線が運行されている。主なターミナルとして鹿児島中央駅、同駅前[[鹿児島中央ターミナル]]、天文館、鹿児島本港高速船ターミナルなどがある(路線により発着地は異なる)。 かつては本州方面とを結ぶ夜行高速バスも数多く運行されていたが2016年までにすべて休廃止され、九州島内運行の鹿児島発着の夜行高速バスも2020年までにすべて休廃止されたため、現在は九州島内主要都市や鹿児島県内他都市への昼行路線のみとなっている。 {| class="wikitable" style="font-size:90%; clear:both" !愛称名 !運行会社 !運行区間 |- |[[桜島号]] |[[鹿児島交通]]<br />[[鹿児島交通観光バス]]<br />[[南国交通]]<br />[[JR九州バス]]<br />[[西日本鉄道]] |[[福岡市]]([[西鉄天神高速バスターミナル|天神高速BT]]・[[博多バスターミナル|博多BT]])・[[筑紫野バスストップ|筑紫野]]・[[基山パーキングエリア|高速基山]]・[[久留米インターチェンジ|久留米IC]]・[[八女インターチェンジ|八女IC]] - '''[[鹿児島北インターチェンジ#伊敷バスストップ|高速伊敷]] - [[鹿児島中央駅]]前[[鹿児島中央ターミナル|南国BT]] - [[天文館]] - [[鹿児島港|鹿児島本港高速船T]]''' |- |南九号 |[[南九州観光バス]] |福岡市([[キャナルシティ博多]]) - '''[[下伊敷]] - 鹿児島中央駅東口''' |- |[[きりしま号]] |鹿児島交通<br />南国交通<br />[[九州産交バス]] |[[熊本市]]([[熊本駅]]・[[熊本桜町バスターミナル|桜町BT]]ほか)・[[益城バスストップ|高速益城]]・[[八代インターチェンジ|八代IC]]・[[人吉インターチェンジ|人吉IC]] - '''下伊敷 - 鹿児島中央駅前南国BT - 天文館 - 鹿児島本港高速船T''' |- |せんだい号 |鹿児島交通 |'''鹿児島市([[鹿児島駅]]・[[金生町 (鹿児島市)|金生町]]・天文館・鹿児島中央駅)''' - [[伊集院バスストップ|高速伊集院]] - [[東市来バスストップ|高速東市来]] - [[薩摩川内市]](向田・[[鹿児島純心女子大学|純心女子大学]]ほか) |- |こしきじま号 |鹿児島交通 |'''鹿児島市(鹿児島駅・金生町・天文館・鹿児島中央駅)''' - 高速伊集院 - 高速東市来 - [[いちき串木野市]](本町・[[串木野新港]]ほか) |} === 道路 === [[ファイル:Ibusuki_Skyline_Ends.JPG|thumb|鹿児島市の高速交通網の拠点となる[[鹿児島インターチェンジ|鹿児島IC]]]] [[ファイル:Shin-takeoka_Tunnel_confluence.JPG|thumb|日本一の掘削断面積を有する[[武岡トンネル#新武岡トンネル|新武岡トンネル]]]] ''[[鹿児島市内の通り]]も参照'' ==== 高規格幹線道路 ==== 鹿児島市を通る[[高規格幹線道路]]のうち、[[高速自動車国道]]は、[[九州縦貫自動車道|九州縦貫自動車道鹿児島線]](営業路線名:[[九州自動車道]])及び、[[東九州自動車道]]があり、いずれも[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]において鹿児島市が終点に指定されており、[[国土開発幹線自動車道]]の終点としては鹿児島市は最南端となる。[[東九州自動車道]]は[[姶良市]]の[[加治木ジャンクション|加治木JCT]]から鹿児島ICまでの区間は九州自動車道に重複する。 [[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)]]は[[南九州西回り自動車道]]([[南九州西回り自動車道#鹿児島道路|鹿児島道路]])がある。 * {{Ja Exp Route Sign|E3}} [[九州自動車道]]([[高速自動車国道]]) *: [[薩摩吉田インターチェンジ|薩摩吉田IC]] - [[鹿児島本線料金所|鹿児島TB]] - [[鹿児島北インターチェンジ|鹿児島北IC]] - [[鹿児島インターチェンジ|鹿児島IC]] * {{Ja Exp Route Sign|E3A}} [[南九州西回り自動車道|南九州自動車道]]([[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)|一般国道自動車専用道路(B)]]) *: [[松元インターチェンジ|松元IC / 松元TB]] - [[鹿児島西インターチェンジ|鹿児島西IC]] - 鹿児島IC ==== 地域高規格道路 ==== * [[南薩縦貫道]] *: 鹿児島IC - [[山田インターチェンジ (鹿児島県)|山田IC]](空港方面のみ) - [[中山インターチェンジ (鹿児島県)|中山IC]] - [[谷山インターチェンジ|谷山IC]] - (現道活用区間) * [[鹿児島東西幹線道路]] *: 鹿児島IC - [[田上インターチェンジ|田上IC]] -([[武岡トンネル#新武岡トンネル|新武岡トンネル]])- [[建部インターチェンジ|建部IC]] - [[甲南インターチェンジ (鹿児島県)|甲南IC]](仮称) *:: 田上IC〜建部IC間に[[武岡トンネル]]に並行して新武岡トンネルが建設され、2013年9月29日に田上IC-建部IC間の供用が開始された。 * [[鹿児島南北幹線道路]](計画中) ==== 有料道路 ==== * [[指宿スカイライン]] *: 鹿児島IC - [[山田インターチェンジ (鹿児島県)|山田IC]](空港方面のみ) - [[中山インターチェンジ (鹿児島県)|中山IC]] - [[谷山インターチェンジ|谷山IC]] - [[錫山インターチェンジ|錫山IC]] *:: ※鹿児島ICにて九州自動車道・南九州西回り自動車道と接続。鹿児島IC〜谷山IC間は[[南薩縦貫道]]と重複する<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.kagoshima.jp/ah04/infra/kotu/seibi/documents/h231001tikoumouzuura.pdf 地域高規格道路の指定状況]}} - 鹿児島県 2012年1月22日閲覧。</ref>。 ==== 一般国道 ==== [[ファイル:Milestone R3 10 225 Japan.jpg|thumb|照国神社前交差点にある終点標柱]] * [[国道3号]] ** [[鹿児島バイパス]] * [[国道10号]] ** [[鹿児島北バイパス]](一部開通) * [[国道58号]] * [[国道224号]] * [[国道225号]] * [[国道226号]] * [[国道328号]] ==== 県道 ==== ''[[鹿児島県の県道一覧]]を参照'' ==== 道の駅 ==== <gallery> Kiire, michinoeki in Kagoshima.jpg|[[道の駅喜入]] Michinoeki sakurajima.jpg|[[道の駅桜島]] </gallery> === 港湾 === * [[鹿児島港]]:開港約650年の歴史を誇り、南北約20kmの範囲に7つの港区から構成される。都市機能と港湾設備が一体化した南日本一の港湾地帯である。 * [[桜島港]] * 喜入港:[[ENEOS喜入基地]]がある。 ==== 旅客を扱う定期航路 ==== [[ファイル:SakurajimaFerry.jpg|thumb|桜島フェリー]] [[ファイル:Tarumizu Ferry - 6th Osumi.JPG|thumb|鴨池・垂水フェリー]] ; 鹿児島港本港区 * 北埠頭(桜島桟橋) ** [[桜島フェリー]](24時間運航されている。) *** 鹿児島港(桜島桟橋) - [[桜島]]フェリーターミナル(桜島港、別名:袴腰港) * 北埠頭 ** [[奄美海運]]:「フェリーきかい」「フェリーあまみ」 *** 鹿児島港 - [[喜界島]](湾) - [[奄美大島]](名瀬・古仁屋) - [[徳之島]](平土野) - [[沖永良部島]](知名) * 南埠頭 ** コスモライン:「プリンセスわかさ」 *** 鹿児島港 - [[種子島]](西之表) ** [[折田汽船]]:「フェリー屋久島2」 *** 鹿児島港 - [[屋久島]](宮之浦) ** [[三島村]]営:「フェリーみしま」 *** 鹿児島港 - [[竹島 (鹿児島県)|竹島]] - [[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]] - [[黒島 (鹿児島県)|黒島]] ** [[十島村]]営:「[[フェリーとしま]]」 *** 鹿児島港 - [[口之島]] - [[平島 (鹿児島県)|平島]] - [[諏訪瀬島]] - [[悪石島]] - [[小宝島]] - [[宝島 (鹿児島県)|宝島]] - [[奄美大島]](名瀬) * 南埠頭(高速船旅客ターミナル) * 種子屋久高速船([[2012年]][[1月20日]]に[[鹿児島商船]]と[[コスモライン (鹿児島県)|コスモライン]]が共同で設立。):「高速船トッピー & ロケット」 ** 鹿児島港 - 指宿港 - [[種子島]](西之表) ※指宿港に寄港しない便もある。 ** 鹿児島港 - 指宿港 - [[屋久島]](宮之浦) ※指宿港に寄港しない便もある。 ** 鹿児島港 - 種子島(西之表) - 屋久島(宮之浦・安房) ※種子島・屋久島の寄港順序は便によって異なる。 ; 鹿児島港新港区(新港第二待合所) : 本港区への移転が検討されている。 :* [[マルエーフェリー]]:「フェリーあかつき」「フェリーなみのうえ」 :** 鹿児島港 - [[奄美大島]](名瀬) - [[徳之島]](亀徳) - [[沖永良部島]](和泊) - [[与論島]] - [[本部港]] - [[那覇港]] :* [[マリックスライン]]:「クイーンコーラル」「クイーンコーラル8」 :** 鹿児島港 - 奄美大島(名瀬) - 徳之島(亀徳) - 沖永良部島(和泊) - 与論島 - 本部港 - 那覇港 ; 鹿児島港鴨池港区(通称「鴨池フェリーターミナル」) :* 大隅交通ネットワーク:「[[鴨池・垂水フェリー]]」 :** 鹿児島港 - [[垂水港]] ; 鹿児島港谷山港二区(七ッ島地区) :* 鹿児島商船:「はいびすかす」 :** 鹿児島港 - [[種子島]](西之表)- [[屋久島]](宮之浦) == 観光 == === 名所・旧跡 === [[File:鹿児島県歴史・美術センター黎明館.jpg|thumb|鹿児島城]] [[ファイル:Senganen6747.JPG|thumb|仙巌園正門]] [[ファイル:Kagoshima Syuseikan.jpg|thumb|尚古集成館]] [[ファイル:Terukuni-shrine Kagoshima.jpg|thumb|照国神社]] [[ファイル:Shiroyama_Transmitting_Station_Kagoshima.jpg|thumb|城山遠景]] [[ファイル:Statue of Godai Tomoatsu in Izumi Park.JPG|thumb|五代友厚像]] ; [[鹿児島城]] : [[島津氏]]77万石の居城、別名「鶴丸城」。館造りで[[天守]]はなかった。現在は石垣と堀の一部が残る<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/database/category/shiseki/area_central/nagata/_34813.html 鶴丸城跡] - 鹿児島市 2012年1月22日閲覧。</ref>。 : 日本最大の城門である[[御楼門]]も鎮座している。 ; [[仙巌園]](磯庭園) : 明治時代は島津家の本邸となっており、[[桜島]]を庭園の一部に取り入れた「借景庭園」となっている。[[1958年]](昭和33年)に国の[[名勝]]に指定された<ref>[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2998 仙巌園 附 花倉御仮屋庭園] - 文化庁国指定文化財等データベース 2012年1月22日閲覧。</ref>。 ; [[尚古集成館]] : [[薩英戦争]]後に[[集成館事業]]で建てられた日本初の洋式石造建築物。現在は当時の[[殖産興業]]の数々と島津氏800年の展示資料がある。[[明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業]]の構成資産の一部である。 ; [[異人館]](旧鹿児島紡績所技師館) : 薩摩藩時代に外国人技師の宿泊所として造られた。[[1959年]](昭和34年)2月25日に国の[[史跡]]に指定され、1962年には建造物として国の[[重要文化財]]に指定された<ref>[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/3000 鹿児島紡績所技師館(異人館)] - 国指定文化財等データベース 2012年1月22日閲覧。</ref>。 ; [[照国神社]] : 薩摩藩の名君[[島津斉彬]]が祀られている<ref>[http://www.kagojinjacho.or.jp/search/kagoshima/kagoshima/post-690.html 照国神社] - 鹿児島県神社庁 2012年1月22日閲覧。</ref>。 ; [[南洲神社]] : [[下竜尾町]]。[[西郷隆盛]]他、[[西南戦争]]の戦死者が祀られている<ref>[http://www.kagojinjacho.or.jp/search/kagoshima/kagoshima/post-734.html 南洲神社] - 鹿児島県神社庁 2012年1月22日閲覧。</ref>。 ; [[花尾神社]] : [[花尾町 (鹿児島市)|花尾町]]。丹後局が祀られている<ref>[http://www.kagojinjacho.or.jp/search/kagoshima/kagoshima/post-800.html 花尾神社] - 鹿児島県神社庁 2012年1月22日閲覧。</ref>。 ; [[城山 (鹿児島市城山町)|城山公園]] : 頂上は展望台、途中の道筋には西郷隆盛が西南戦争終結前の最期を過ごした「西郷洞窟」などの史跡がある。城山は永年、地元では神聖なる場とされ、一部を除き人の手が加わる事がなかったため、鹿児島市で唯一の[[原生林]]や手付かずの自然が多く残っている。 ; [[私学校]]跡 : 現存している石積の外塀には[[西南戦争]]の城山総攻撃時に出来た生々しい弾痕が多数見られる。敷地は[[国立病院機構鹿児島医療センター]]として利用されている。 ; 若き薩摩の群像 : 幕末に英国に密航した青年薩摩藩士たちの勇気と功績を称える銅像。JR[[鹿児島中央駅]]前の広場に建つ。 ; [[西郷隆盛]]銅像 : [[鹿児島市立美術館|市立美術館]]の近く、[[国道10号]]沿い。[[陸軍大将]]の正装姿。 ; [[大久保利通]]銅像 : 甲突川沿いの[[甲突川五石橋|高見橋]](鹿児島中央駅近く)のたもとにある。 ; [[五代友厚]]銅像 : 幕末の薩摩藩士で[[大阪]][[商工会議所]]初代[[会頭]]。朝日通り、[[国道58号]]沿いの泉公園の一角建つ。 ; [[小松清廉]]像 : [[鹿児島県文化センター]](宝山ホール)前に立つ。幕末の薩摩藩士で薩摩人には珍しく理知的かつ現実主義で非常に冷静な人物だったといわれる。像の姿は二条城内で[[徳川慶喜]]に対して[[大政奉還]]の書面に署名するように迫っている様とのことである。 ; [[道路開鑿記念碑]] : 「県内の道路網建設の苦闘を後世の人々に申し伝える記念碑」国道225、3、10号基点近くの鹿児島市山下町の中央公園(テンパーク)近くにある。 ; [[平田靱負]]銅像 : 薩摩藩の悲劇の家老、江戸幕府の命により難航を極めた[[木曽川]]治水工事(堤の造営、[[宝暦治水事件]])を指揮を執る。国道3号沿いの[[平之町]]の平田公園に建つ。なお岩崎谷(城山町)には'''薩摩義士碑文'''があり平田靫負を含む犠牲になった多く薩摩藩士が奉られている。同所の常夜灯の碑文には[[東郷平八郎]]により「義烈泣鬼神(ぎれつきしんもなく)」と書かれている。 ; [[向田邦子]]住居跡 : 平之町。幼少期に[[東邦生命]]鹿児島支社長として赴任した父の転勤に従って数年過ごした場所で当時の社宅跡、小説『父への詫び状』などで描かれ、ここでの生活はその後の人生に終生影響を与える。 ; 坂本竜馬、おりょうの新婚旅行の碑 : [[与次郎]]の天保山公園の近くにあり碑文の袂に竜馬と[[楢崎龍|おりょう]]の旅姿の小さなレリーフ。[[新撰組]]に追われ、小松清廉の支援で薩摩へ逃避行し怪我が癒えるまで滞在。その際、竜馬と恋女房のおりょうは、有名な霧島温泉への湯治以外にも薩摩藩の領内を何ヶ所か物見遊山した。これが「日本初の[[ハネムーン]]」だといわれる。ちなみに[[開聞岳]]の異名「薩摩富士」も遊山の折に竜馬が命名したと伝えられている。 === レジャースポット === [[ファイル:Kagoshima City Hirakawa Zoological Park.JPG|thumb|鹿児島市平川動物公園]] [[ファイル:Kagoshima Suizokukan.jpg|thumb|いおワールドかごしま水族館]] [[ファイル:Dolphin port.jpg|thumb|ドルフィンポート]] [[ファイル:Koutsuki River - Cherry trees are in full bloom.jpg|thumb|市内を流れる[[甲突川]]]] [[ファイル:Kagoshima Municipal Museum of Art.jpg|thumb|鹿児島市立美術館]] [[ファイル:Reimeikan.jpg|thumb|鹿児島県歴史資料センター黎明館]] [[ファイル:Museum of Meiji Restoration.jpg|thumb|維新ふるさと館]] ; [[桜島]] : 24時間運航の[[桜島フェリー]]で行き来できる。以前は大正溶岩の跡と展望台ぐらいしかスポットが無かったが、近年は桜島港の横の「桜島レインボービーチ(人工海岸)」や「恐竜公園」ができ、家族連れでも楽しめるようになった。また2006年3月には赤水採石場跡地(長渕桜島コンサート跡地)に'''『叫びの肖像』'''も完成、[[長渕剛]]のファンを含め、音楽を愛する若者達の来訪も増えている。[[国立公園]]内のため周辺の景観に配慮した桜島限定の[[溶岩]]色をした[[ローソン]]や[[ファミリーマート]]もあり、観光に訪れた人たちがよく写真に納める姿が見られる。 ; 磯海岸 : 鹿児島市内で唯一の天然の海岸。海と山に囲まれ潮騒や汽笛が聞こえる。夏季は海水浴客、それ以外はウインドサーフィンで賑わう。季節の風物としては「桜島遠泳」のゴール地点になっており、冬場は武道の寒稽古の場などにも利用されている。 ; [[鹿児島市平川動物公園|平川動物公園]] : 前身の鴨池動物園は[[1916年]]に開園。[[1973年]]に鹿児島市[[平川町 (鹿児島市)|平川町]]に移転した。園内から眺める桜島と鹿児島市街地は美しい。[[コアラ]]の家族数は日本一で、何度も出産に成功している。また園内で栽培されているユーカリの木は飼育の餌となり他の動物園にもお裾分けされている。 ; [[いおワールドかごしま水族館]] : 鹿児島本港北埠頭にある、港のシンボル的な建築物。建物は豪州・[[シドニー]]の[[シドニー・オペラハウス|オペラハウス]]をイメージしたといわれている。テーマは黒潮の恵みを受けた鹿児島周辺の近海魚。[[ジンベイザメ]]の飼育には実績がある。 ; [[ドルフィンポート]] : [[本港新町]]。2005年4月オープン、総木造二階建で日本唯一の第一種大型商業施設。現在は更地になっているが、桜島を見るにはうってつけのスポットであり近隣の緑地でピクニックをする家族も多く見受けられる。 ; [[NHK鹿児島放送局]] : 鹿児島港の新放送会館の階上には展望ロビーが設置されている。アンテナタワーは[[薩摩切子]]をイメージしている。 ; [[鹿児島港]] : [[港町]]でもある鹿児島の[[ランドマーク]]。特に本港区は1990年代後半に再開発により美しく整備された。 ; 海づり公園 : [[鴨池新町]]にある。割安な料金で釣堀感覚の海つりが楽しめる。鹿児島湾は深いため近海魚の宝庫であり、季節により様々な魚を釣り上げることが可能。 ; [[鹿児島市立美術館]] : [[山下町 (鹿児島市)|山下町]]の国道10号沿いの西郷銅像並びにある。公営の美術館としては地方都市では古い部類に属する。[[黒田清輝]]などの郷土出身の画家の常設展示以外に[[二科展]]などの会場にもなる。 ; [[アミュプラザ鹿児島]] : 本館とプレミアム館、AMUWEからなるJR鹿児島中央駅ビルの複合商業施設。店舗数は251店舗。シネコンや観覧車「アミュラン」など、みる、買う、味わう、あそぶ、愉しむ、かごしまの今が凝縮されたスポット。 ; 天文館むじゃき : '''天文館G3アーケード内の本店'''は名物のフルーツ入りかき氷である元祖[[白くま|しろくま]]発祥の店で、年中テイクアウトも可能。入口の白熊の張りぼては、観光客に人気。 ; [[鹿児島市交通局|鹿児島市電]]と芝生軌道 : 動く観光スポット。今では少なくなった路面電車を見ることができる。新型車両から古い車両まで色や形、役割が多種多様である。全区間一律170円でVISAタッチに対応しているが、未だに全国で相互利用できる交通系ICカードには対応していない。2006年以降、軌道敷を芝生で緑化する作業が行われている。 ; [[鹿児島県歴史資料センター黎明館|黎明館]] : 鹿児島城の本丸跡地に在る。古代から現代までの鹿児島県の自然や歴史の流れや文化風俗に到るまで分かりやすく展示している。 ; [[甲突川|甲突川岸]] : [[甲突川五石橋|平田橋]]から天保山大橋まで川岸は緑地帯になっており、[[西郷隆盛]]や[[大久保利通]]など数多くの[[明治維新]]の立役者の生家が集中するエリア。 ; [[維新ふるさと館]] : '''[[鹿児島中央駅]]'''から徒歩圏の[[甲突川|甲突川岸]]にあり、郷土から出た明治維新の立役者の業績や生涯などを中心とした博物館である。 ; [[マングローブ]]の林 : '''[[指宿枕崎線]]・[[生見駅]]'''で下車。同所が自生する北限であろうと推測されている。地元民もあまり知らないので、事前に位置を確認した上で訪れるた方が良い(詳細は[[鹿児島湾]]を参照)。 ; [[かごしま環境未来館]] : 県民・市民への環境保全活動のPRを図る公共施設。 === 歴史的・学術的建造物 === [[ファイル:Sinhato6485.JPG|thumb|新波止場砲台跡]] [[ファイル:Kagoshima Prefectural Museum Main Building 1.jpg|thumb|鹿児島県立博物館]] [[ファイル:Kagoshima-city central community hall 1.jpg|thumb|鹿児島市中央公民館]] [[ファイル:Konan-high-school-honkan.jpg|thumb|鹿児島県立甲南高等学校(国の登録有形文化財)]] [[ファイル:Kagoshima Chuo High School 01.jpg|thumb|鹿児島県立鹿児島中央高等学校(国の登録有形文化財)]] [[ファイル:Dai-entotsu-kagoshima-kougyo.jpg|thumb|鹿児島工業高等学校の大煙突]] [[ファイル:Korai_Bridge.JPG|thumb|石橋記念公園]] ; [[山形屋]]鹿児島本店<ref name="ヤマカタヤ">[http://www.yamakataya.co.jp/sakurajima/index.htm 山形屋から見た桜島]</ref> : 大正時代に[[神戸市|神戸]]以西ではじめて竣工した鉄筋コンクリート造りの近代的[[百貨店]]。 ; 重富荘 : 清水町。個人所有だが、元は'''島津家'''の別邸の一つであった。日本庭園や池も美しく望む借景の鹿児島湾、桜島は素晴らしい。建物・庭園が一体として歴史的・民俗学な価値がある。明治維新後は華族となった島津家の資産の一つであったが、戦後はお狩場焼きで有名な料理旅館「重富荘」として県内外に知られ、著名人の会食の場にも度々活用されてきた。 ; 祇園之洲 : [[祇園之洲町]]。[[薩英戦争]]時の砲台設置の為に埋立てられた[[台場]]。 ; [[石橋記念公園]] : [[浜町 (鹿児島市)|浜町]]。甲突川にかつて架かっていた[[甲突川五石橋|五石橋]]のうち、西田橋を含めた3つが移設保存されている。 ; 新波止 : 薩摩藩政時代の末期に築造された石組造の防波堤、[[桜島フェリー]]ターミナル近くの路上に一部現存する。 ; [[鹿児島港]]の倉庫群 : 本港区北埠頭の背後地域に多くみられる。20世紀初頭の[[1906年]]-[[1925年]]ごろにかけて造られた灰色の[[花崗岩]]の石組造でこのような様式は鹿児島以外ではあまりみられない、現在は店舗などに活用されるが、うち一部は現役として活躍中。 ; 豊産業本社屋 : [[泉町 (鹿児島市)|泉町]]の本港区北埠頭近くの海運問屋の社屋で現在でも実際に社屋として使用されている。大正時代末から昭和初年で寄棟の瓦屋根に石目の化粧が施されたコンクリート折衷のモダンで味わい深い建築物である。 ; [[鹿児島県立博物館|考古資料館]] : [[照国神社]]近く、19世紀末([[1883年]])建造の建築史学的にも貴重な建物。2008年1月現在、建物内部に入ることは出来ない。 ; [[鹿児島銀行]]別館 : 山形屋の真向かいにある現在の本店の裏側にある。[[鉄筋コンクリート]]造、昭和初年の1918年に竣工。現在では解体されている。 ; [[南日本銀行]]本店 : 山下町の電車通沿い、[[1935年]](昭和10年)竣工の鹿児島県内初の近代的な鉄筋コンクリートオフィスビルであるが、国の[[登録有形文化財]]に登録されている。外観デザインは当時流行した曲線と流線型が全体的に多用され女性的な美しいフォルムが特徴。上層階の一部が後年増築されているが、それを除いても銀行の本店社屋としては当時は九州でも屈指の規模だったようだ。 ; 鹿児島市役所本館 : 昭和初期の[[1937年]]竣工の鉄筋コンクリート建築で、設計監理は[[国会議事堂]]を担当した[[大蔵省]]営繕管財局工務部。建築様式は、[[日比谷公会堂]]、陸上自衛隊市ヶ谷講堂(現存せず)、東京大学[[安田講堂]]などと共通点が多い。特徴は建物の背部(山側)にまで丁寧な化粧仕上げが前面同様に施されていえることであり、これは当時の建築物では極めて異例なことである。 ; [[照国神社]]の大鳥居 : 昭和時代初頭に当時としては大規模な鉄筋コンクリート造りの建造物で貴重な史料である。 ; [[鹿児島県立博物館|県立博物館]] : 照国神社近く、[[1927年]](昭和2年)に九州で初めて鉄筋コンクリート造の[[中央図書館]]として建てられた。流線型の女性的な外観もなることながら、コンクリート内壁に施されたスタッコ仕上げの紋様も印象的である。 ; 県政記念館 : [[長田町 (鹿児島市)|長田町]]の旧鹿児島県庁跡地、県民交流センターの入口付近に建つ。[[明治|明治時代]]末に建築された旧鹿児島県庁本館の一部を移築保存した建物。 ; [[鹿児島市中央公民館|中央公民館]] : 山下町の西郷銅像の近く。竣工当時は鹿児島市公会堂だった。設計者は明治時代の有名な建築家[[辰野金吾]]で、[[1927年]]に建築された。現在でも現役のホールとして活躍中。 ; 県教育会館 : 山下町の中央公園(通称テンパーク)の一角に建つ。昭和初頭の鉄筋コンクリートの建造物で建築デザインや内装仕上げは修作といわれている。 ; [[鹿児島県立甲南高等学校]]校舎 : 鹿児島中央駅近く、鉄筋コンクリート造。当時流行したスマートな流線型を多用しており現在でも新鮮なデザインである。現在も内装を改修して使われている。[[2007年]]7月に国の[[登録有形文化財]]に登録された。 ; [[鹿児島県立鹿児島中央高等学校]]校舎 : 市電[[加治屋町停留場]]近く、[[鹿児島県立鶴丸高等学校|旧制鹿児島一高女]]校舎として甲南高校校舎と同時代に竣工。アーチ式の開口部を多用したエントランスの仕上げは芸術的で美しい。甲南高校と共に2007年7月に国の[[登録有形文化財]]に登録された。 ; [[鹿児島県立鹿児島工業高等学校]]の「大煙突」 : 鹿児島市[[草牟田|草牟田町]]の同校敷地内にある。[[1920年]]に竣工された煙突部分と台座部分はいずれも耐火煉瓦詰。 ; 日本ガス本社 : [[1931年]]竣工の鉄筋コンクリート造。鹿児島中央駅前のナポリ通り沿いにある鹿児島の都市ガス供給者の本社社屋。道路から少し引込んでいるため見え辛い。 ; 信号塔 : 高見馬場交差点の一角に建鉄筋コンクリート造りの奇妙な見張り台は鹿児島市電専用の手動式信号所で昭和20年代につくられた。レールのポイント切替等も手動で可能。完成後、およそ10数年程は人が配置されていたようだ。現在は非常用設備。 ; 西郷屋敷 : 磯海岸の近くにある。[[西郷隆盛]]が狩りの際に使用したと伝えられる[[藁葺]]屋根の木造日本家屋。中に入る事は出来ないが[[幕末]]から明治時代にかけての南九州の平均的な民家の特徴がよく出ており、建築に加えて[[民俗学]]的資料としても評価に値する。 ; 鹿児島ザビエル教会 : [[東千石町]]。歴史的建造物には該当しないがカトリック教会には珍しくコンクリート打ちっぱなしの現代建築の様式をとっている。[[1999年]]に新築された。デザインが斬新で機能美に優れているため、建築専門誌『[[新建築]]』のグラビア特集で紹介された。 === グルメスポット === ; [[天文館]] : 南九州最大の繁華街、歓楽街。歓楽街の色合いの強い「文化通り」、山之口町の界隈のほか、東千石町の「七味小路」や「グルメ通り」には、薩摩の伝統料理の老舗などの名店が軒を連ねる。 : アーケード内にも[[むじゃき]]や[[うなぎの末吉]]などの有名店が存在する。 ; 『鹿児島味の小径』 : 鹿児島中央駅のアミュプラザ鹿児島の地下1階にある郷土の名物料理を中心にした飲食街。[[鹿児島ラーメン]]や元祖氷[[白くま|白熊]]などが味わえる。 ; [[山形屋]]の大食堂<ref name="ヤマカタヤ"/> : 最上階の七階にあり[[桜島]]を窓越しに眺めながらいろんなものをお値ごろに楽しく食事できる。長崎[[皿うどん]]風のかた[[やきそば]]は、来店者の大半が注文する程で50数年来不変の人気メニュー。夏季の夜は臨時で涼しい[[ビアホール]]営業もされており、こちらも人気が高い。 ; 名山堀飲食街 : 市役所近くの下町の長屋風の懐かしい飲み屋街だが、本格的な味の店も多く来鹿する芸能人・著名人のお忍び来店がある。 ; 騎射場 : [[鹿児島大学]]近くの飲食街。ディープだが美味しい店が多い。 ; [[朝市]] : 南国の新鮮食材が一堂に揃い市場内の食堂や露天では格安で美味しいB級の郷土料理が味わえる穴場スポット。[[鹿児島中央駅]]前の西駅朝市と鹿児島港の北埠頭、鹿児島駅近くの[[小川町 (鹿児島市)|小川町]]の滑川朝市がある。 ; じゃんぼ餅屋 : [[仙巌園]]内の茶店や国道10号磯街道沿いにあり熱々の[[両棒餅]]とお茶が味わえる。「中川家」は有名な老舗で映画『[[男はつらいよ]]』でも登場した。[[渥美清]]は役を離れても好んだらしい。また「平田家」は[[長渕剛]]のお気に入りの店でもある。 === 温泉スポット === ; [[古里温泉]] : 古里町。桜島に在り、[[1779年]]の安永大噴火で湧出。 ; [[公衆浴場]] : 市内の各所に点在する観光向きではないが疲れを癒す手軽なスポット。ほぼすべて温泉が引かれており入湯料は格安で、大抵の温泉は360円(2009年現在)。分かりにくい場所も多いが、詳細を鹿児島中央駅の観光案内所で案内している。 === 展望・ドライブ・散策スポット === [[ファイル:Minato-Odori Park at Kagoshima.JPG|thumb|みなと大通り公園]] [[ファイル:Route10 Ends 200712.jpg|thumb|歴史と文化の道([[国道10号]])]] [[ファイル:Kagoshima Prefectural Road Route 218 Kencho-mae intersection.jpg|thumb|鴨池新町付近]] [[ファイル:Taniyama-rinkai-ohashi.JPG|thumb|谷山臨海大橋]] [[ファイル:Reimei - minato - ohashi.JPG|thumb|黎明みなと大橋]] [[ファイル:Yoshino_Park_and_sakurajima.jpg|thumb|県立吉野公園]] ; 城山公園 : [[城山 (鹿児島市城山町)|城山町]]。鹿児島市で定番の展望台。 ; みなと大通り公園 : 鹿児島市役所前から鹿児島港まで大通りの中央のグリーンベルトは散策路のようになっており、ムーアの抽象彫刻がランドマークになっている。夜間のライトアップは非常に美しく日本の道100選などに選定されている。デートスポットでもあり近隣の名山堀飲食街の酔い醒ましの路でもある。 ; 多賀山公園 : [[清水町 (鹿児島市)|清水町]]。[[鹿児島駅]]裏手の山で頂上からの眺めがよい。[[東郷平八郎]]元帥の銅像がある。 ; 長島美術館 : [[武 (鹿児島市)|武三丁目]]。鹿児島中央駅の西口より車で5分。美術館の庭園は最近は市街地を見下ろす展望台としても有名。なお庭園内は[[亜熱帯]]植物が自生する北限でもある。 ; 鹿児島県庁の展望台 : 鴨池新町。桜島・鹿児島湾・大隅半島が一望できる。冬場の快晴で空気が澄んでいる日には遠く[[霧島山]]系や[[開聞岳]]も望める。 ; アミュラン : 中央町のJR[[鹿児島中央駅]]駅ビル・[[アミュプラザ鹿児島]]の屋上に設置されている大[[観覧車]]。一周は約15分で頂上付近の高さはおよそ90m。全てが透明なゴンドラが2基あるので地上とは一味違う動く展望台としても楽しめる。 ; 唐湊墓地 : 隠れた展望スポット。高層ビルが林立する鴨池新町方面を中心とした景色が愉しめる。このポイントからの桜島の見え方は魅力的であり、夜景も美しい。 ; 歴史と文化の道 : [[鹿児島城]]前から照国神社の大鳥居前までの歩道の愛称。こぢんまりとしているが、沿道には西郷銅像、[[鹿児島市立美術館|市立美術館]]、[[鹿児島県歴史資料センター黎明館|黎明館]]などの観光スポットと鉄筋造りの歴史的建築物が多い。歩道は石畳で美しく舗装され[[ガス灯]]が等間隔で設置されている。ガス灯の総延長は現段階で[[仙台駅]]前の五番街を抜き日本一となった。また市立美術館から[[鹿児島県立図書館]]までの歩道脇には小さな堀端風の用水池がつくられ多くの錦鯉が放流されており、黎明館横の鹿児島城跡の堀には多くの蓮が自生しており、自然と四季の移ろいも感じることも出来る。 ; ナポリ通り・パース通り・工学部前通り : 街路樹が美しく、幅広の中心市街地を代表する大通り。 ; 天保山シーサイドブリッジ : [[天保山町 (鹿児島市)|天保山町]]。市街地の展望や桜島が美しい。 ; 与次郎・鴨池新町 : 沿道のヤシの木や幅広い道路、潮風が心地よい南国の臨港地区のドライブスポット。 ; 谷山臨港大橋 : [[東開町 (鹿児島市)|東開町]]。鹿児島湾と城山を背景に市街地中心部が望める。来るなら夕方から夜がお勧め。 ; 木材港の埠頭 : 東開町。広々として眺めもよく気持ちよいスポット。夜になると釣り人達が車で集まるポイントでもある。 ; [[国道226号]] : [[指宿温泉]]へ向う幹線道路、ヤシの木の街路樹、潮風が心地よい。ただし迂回路がないため、週末や朝夕や雨天時には渋滞箇所が多く発生する。 ; 八重山公園 : [[郡山町 (鹿児島市)|郡山町]]。薩摩川内市との境である[[入来峠]]の頂上付近にある[[キャンプ]]場。かなり標高が高く天上から遠い市街地を眺める様で、一味違う展望を愉しめる。市内を流れる[[甲突川]]の水源にも近い。 ; [[鹿児島県立吉野公園|県立吉野公園]] : [[吉野 (鹿児島市)|吉野町]]。美しい緑地帯とここからの桜島の雄大な眺めが魅力。春には花見客でにぎわう。 ; [[牟礼ヶ岡ウインドファーム]] : 市北部の丘陵地帯に建つ、国内では珍しく市街地に近いウインドファームである。 === 祭事 === [[ファイル:Ohara_festival_in_Kagoshima.jpg|thumb|おはら祭]] [[ファイル:Kagoshima-shi-japan- hanabi-002.jpg|thumb|かごしま錦江湾サマーナイト大花火大会]] * 錦江湾公園花まつり * 春の動物公園まつり * 春の木市 * 錦江湾横断遠泳大会 * [[かごしま錦江湾サマーナイト大花火大会]](8月下旬) * [[曽我どんの傘焼き]] * [[六月灯]] * 鹿児島カップ火山めぐりヨットレース * MBC夏まつり(8月上旬) * ウォーターフロントフェスティバル * [[おぎおんさあ]]・かごしま夏まつり * [[おはら祭]]([[11月3日]]) * [[妙円寺詣り]] * [[薩摩焼]]フェスタ * 秋の木市 * 菊まつり * KKBこども博(3月下旬) === 宿泊施設 === * [[SHIROYAMA HOTEL kagoshima]] * [[シェラトン]]鹿児島 * 鹿児島サンロイヤルホテル * [[ダイワロイネットホテルズ|ダイワロイネットホテル]]鹿児島天文館 PREMIER * [[マイステイズ・ホテル・マネジメント|アートホテル]]鹿児島 * [[西鉄ホテルズ|ソラリア西鉄ホテル]]鹿児島 * [[リッチモンドホテル]]鹿児島[[金生町 (鹿児島市)|金生町]]<ref group="注釈">[[三井住友銀行]]の [http://www.smbc.co.jp/kojin/tenpo/tougou/index.html 統廃合の結果]、[[さくら銀行]]→三井住友銀行「鹿児島南」支店が廃業した跡地にて開業。</ref> == 著名な出身者 == {{Commonscat|People from Kagoshima|鹿児島市出身の人物}} (※ '''太字'''は故人) === 近現代以前の人物 === * '''[[ゴンザとソウザ]]'''([[1738年]]に世界で初めての露日辞典を編纂) * '''[[広大院]]'''(江戸幕府11代将軍・[[徳川家斉]]御台所) * '''[[天璋院]]'''(江戸幕府13代将軍・[[徳川家定]]御台所) * '''[[島津久光]]'''(薩摩藩国父、[[左大臣]]) * '''[[平田靱負]]'''(薩摩藩家老) * '''[[調所広郷]]'''(薩摩藩家老) * '''[[毛利正直]]'''(武士、華道家、大石兵六夢物語作者) * '''[[東郷実猗]]'''(武士) * '''[[東郷実武]]'''(武士) * '''[[西郷吉二郎]]'''(武士) * '''[[西郷小兵衛]]'''(武士) === 近現代 === ==== 政治 ==== * '''[[西郷隆盛]]'''([[維新の三傑]]の一人、[[参議]]) * '''[[大久保利通]]'''(維新の三傑の一人、初代[[内務大臣 (日本)|内務卿]]) * '''[[内田政風]]'''([[石川県知事一覧|石川県令]]) * '''[[大迫貞清]]'''([[元老院議官]]) * '''[[大山綱良]]'''([[鹿児島県|鹿児島]][[県令]]) * '''[[伊地知貞馨]]'''([[琉球]]駐在官) * '''[[岩下方平]]'''([[麝香間祗候]]) * '''[[税所篤]]'''([[宮中顧問官]]) * '''[[折田彦市]]'''([[第三高等学校]]校長) * '''[[伊地知正治]]'''([[左院]][[議長]]) * '''[[吉井友実]]'''([[宮内省|宮内]][[次官]]) * '''[[海江田信義]]'''([[貴族院 (日本)|貴族院]]議員) * '''[[奈良原繁]]'''([[沖縄県]][[都道府県知事|知事]]) * '''[[松方正義]]'''(第4代・第6代[[内閣総理大臣]]) * '''[[三島通庸]]'''([[山形県|山形]][[県令]]) * '''[[小松清廉]]'''([[参与]]) * '''[[高崎五六]]'''([[東京都知事一覧|東京府知事]]) * '''[[高崎正風]]'''([[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]) * '''[[中井弘]]'''([[京都府知事]]) * '''[[調所広丈]]'''([[高知県知事一覧|高知県知事]]) * '''[[黒田清隆]]'''(第2代内閣総理大臣) * '''[[時任為基]]'''([[宮崎県知事一覧|宮崎県知事]]) * '''[[吉田清成]]'''([[農商務省 (日本)|農商務次官]]) * '''[[鮫島尚信]]'''([[特命全権公使]]) * '''[[森有礼]]'''(初代[[文部大臣]]) * '''[[折田平内]]'''([[錦鶏間祗候]]) * '''[[鮫島武之助]]'''([[内閣書記官長]]) * '''[[野村政明]]'''([[南日本新聞|鹿児島新聞社]]社長) * '''[[牧野伸顕]]'''([[内大臣府|内大臣]]) * '''[[伊集院彦吉]]'''([[外務大臣 (日本)|外務大臣]]) * '''[[大久保利武]]'''([[大阪府知事一覧|大阪府知事]]) * '''[[山之内一次]]'''([[鉄道省|鉄道大臣]]) * '''[[床次竹二郎]]'''([[逓信省|逓信大臣]]) * '''[[市来乙彦]]'''([[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]) * '''[[寺園勝志]]'''([[鹿児島県知事一覧|鹿児島県知事]]) * '''[[迫水久常]]'''([[郵政大臣]]) * '''[[宮崎茂一]]'''([[科学技術庁長官]]) * '''[[小倉基]]'''(東京都[[渋谷区]]長) * [[加治屋義人]]([[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[国会議員|参議院議員]]) * [[森博幸 (政治家)|森博幸]](鹿児島市長) * [[大田弘子]]([[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済財政政策担当大臣]]) * '''[[築地憲治]]'''([[宜蘭市]]長) * [[前川燿男]](東京都[[練馬区]]長) * '''[[藤安辰次郎]]'''(貴族院多額納税者議員) * [[尾辻秀久]]([[参議院議長]]) ==== 軍事 ==== {|style="width: 90%;" |style="vertical-align: top;"| ===== 陸軍軍人 ===== * '''[[野津鎮雄]]'''([[東京]][[鎮台]][[司令長官]]) * '''[[篠原国幹]]'''([[近衛 (日本軍)|近衛]][[長官]]) * '''[[村田新八]]'''(宮内[[大丞]]) * '''[[種田政明]]'''(熊本鎮台司令長官) * '''[[永山弥一郎]]'''([[中佐|陸軍中佐]]) * '''[[桐野利秋]]'''([[大日本帝国陸軍|陸軍]][[裁判所]]所長) * '''[[川路利良]]'''([[警視庁]]創設者、初代[[警視総監|大警視]]) * '''[[永山武四郎]]'''([[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁長官]]) * '''[[村田経芳]]'''([[村田銃]]開発者) * '''[[淵辺群平|淵辺高照]]'''([[北条県]][[参事]]) * '''[[野津道貫]]'''(陸軍[[元帥 (日本)|元帥]]) * '''[[池上四郎 (薩摩藩士)|池上四郎]]'''(陸軍少佐) * '''[[大山巌]]'''([[満州軍 (日本軍)|満州軍]][[総司令官]]) * '''[[黒木為楨]]'''([[陸軍大将]]) * '''[[高島鞆之助]]'''([[陸軍大臣]]) * '''[[大迫尚敏]]'''([[第7師団 (日本軍)|第7師団]]長) * '''[[山沢静吾]]'''([[中将|陸軍中将]]) * '''[[西寛二郎]]'''([[教育総監]]) * '''[[別府晋介]]'''(近衛[[少佐|陸軍少佐]]) * '''[[辺見十郎太]]'''(近衛[[大尉|陸軍大尉]]) * '''[[川上操六]]'''([[陸軍参謀総長]]) * '''[[川村景明]]'''([[軍事参議官]]) * '''[[伊地知幸介]]'''([[第11師団 (日本軍)|第11師団]]長) * '''[[大迫尚道]]'''([[第4師団 (日本軍)|第4師団]]長) * '''[[西郷寅太郎]]'''([[習志野俘虜収容所]]長) * '''[[牛島満]]'''([[第32軍 (日本軍)|第32軍]]司令官) |style="vertical-align: top;"| ===== 海軍軍人 ===== * '''[[仁礼景範]]'''([[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[校長]]) * '''[[川村純義]]'''([[昭和天皇]]の養育主任) * '''[[樺山資紀]]'''(初代[[台湾総督]]) * '''[[伊集院兼寛]]'''([[海軍少将]]) * '''[[松村淳蔵]]'''([[常備艦隊|中艦隊]]司令官) * '''[[西郷従道]]'''([[海軍大臣]]) * '''[[伊東祐亨]]'''([[海軍軍令部長]]) * '''[[井上良馨]]'''([[軍事参議院|軍事参議官]]) * '''[[日高壮之丞]]'''([[舞鶴鎮守府]]司令長官) * '''[[東郷平八郎]]'''([[連合艦隊司令長官]]) * '''[[上村彦之丞]]'''([[海軍大将]]) * '''[[伊集院五郎]]'''([[大日本帝国海軍|海軍]]元帥) * '''[[山本権兵衛]]'''(第16代・第24代内閣総理大臣) * '''[[片岡七郎]]'''([[第一艦隊 (日本海軍)|第1艦隊]]司令長官) * '''[[山本英輔]]'''(初代[[海軍航空本部]]長) |} ==== 経済 ==== * '''[[五代友厚]]'''([[実業家]]) * '''[[川崎正蔵]]'''([[川崎重工業]][[企業家|創業者]]) * '''[[村橋久成]]'''([[サッポロビール]]創製者) * '''[[有村国彦]]'''([[第五銀行]][[頭取]]) * '''[[三島彌太郎]]'''([[日本銀行]][[総裁]]) * '''[[長澤鼎]]'''([[カリフォルニア州]]の[[ブドウ]][[王]]) * '''[[樺山愛輔]]'''([[国際文化会館]][[理事|理事長]]) * '''[[山口武彦]]'''([[アズビル]]創業者、[[日本酸素ホールディングス]]創業者、[[日本精工]]創業者) * [[有馬利男]](元富士ゼロックス(現:[[富士フイルムビジネスイノベーション]])社長) * '''[[稲盛和夫]]'''([[京セラ]]創業者、[[KDDI]]創業者) * 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[[YANAGIMAN]]([[音楽プロデューサー]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[ベーシスト]]) * [[森田まゆみ]](元歌手・女優) * [[白石優生]]([[国家公務員]]、[[YouTuber]])<ref>「タガヤセ!日本 『農水省の白石さん』が農業の魅力教えます」17頁 河出書房新社、2022年7月、ISBN 978-4-3096-1740-4</ref> ==== マスコミ ==== * [[有村かおり]](元[[TBSテレビ|TBS]][[アナウンサー]]) * [[近藤久美子]]([[鹿児島讀賣テレビ]]アナウンサー) * [[小澤良太]]([[テレビ北海道]]アナウンサー) * [[坂口果津奈]](元[[鹿児島テレビ放送]]アナウンサー) * [[大平みな]]([[熊本県民テレビ]]アナウンサー) * [[岡田祐介]]([[南日本放送]]アナウンサー) * [[戸越亜希子]](元鹿児島テレビ放送アナウンサー) * [[豊平有香]](南日本放送アナウンサー) * '''[[黒木奈々]]'''(TBSニュースバード) * [[汾陽麻衣]](TBSニュースバード) * [[川添佳穂]](元[[朝日放送テレビ]]アナウンサー) * [[生野陽子]](フジテレビアナウンサー) ※福岡県福岡市出身だが、中学高校時代、両親の仕事の関係で居住していた。 ==== その他 ==== <!--追加する場合は著名な功績などを記載すること--> * '''[[白浜ワカ]]'''(長寿日本一) ※旧西桜島村(後の桜島町)出身 ===名誉市民=== *勝目清 *浜平勇吉 *赤崎義則 *中村晉也 == 鹿児島市を舞台とする作品 == === 小説・エッセイ === * [[海軍 (小説)|海軍]]([[獅子文六|岩田豊雄]]) * 桜島([[梅崎春生]]) * 鹿児島感傷旅行『眠る杯』([[向田邦子]]) * 一話一言補遺([[大田南畝]]) * ひえもんとり([[里見弴]]) === 劇画・コミック === * [[行け!!南国アイスホッケー部]]([[久米田康治]]) * [[ぼっけもん]]([[岩重孝]]) * [[海猿]] === ドラマ・映画 === * [[海軍 (映画)|海軍]] - 1943年(松竹)、1963年(東映) * [[だいこんの花]] - 1975年 NETテレビ系(現テレビ朝日系) * [[嫁だいこん]] - 1976年 フジテレビ系:[[竹脇無我]]扮する中園久太郎商店の若夫婦の設定のドラマ * [[トラック野郎・男一匹桃次郎]] - 1977年 * [[西部警察 PART-III]] - 第17話 1983年8月28日O.A.「吠えろ!! 桜島-鹿児島篇-」(西部警察・[[日本全国縦断ロケ]]第6弾) * リボルバー - 1988年 * [[ゴジラvsスペースゴジラ]] - 1994年 * [[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]] - 2001年 * [[海猿#映画2作目|LIMIT OF LOVE 海猿]]([[ロケーション撮影|ロケ地]]) - 2006年 * たくさんの愛をありがとう - 2006年5月[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]・[[DRAMA COMPLEX|ドラマ・コンプレックス]] * [[北辰斜にさすところ]] - 2007年公開 * [[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]] - 2008年 NHK[[大河ドラマ]] * [[チェスト! (映画)|チェスト!]] - 2008年、架空の小学校を舞台とする。ロケ地の大半は鹿屋市。 * [[奇跡 (2011年の映画)|奇跡]] - 2011年公開 * [[六月燈の三姉妹]] - 2013年公開 === 楽曲 === * [[照國神社の熊手]]([[キング・クリームソーダ]]) - 2016年 テレビ東京系『[[妖怪ウォッチ (アニメ)|妖怪ウォッチ]]』オープニングテーマ == 関連文献 == * [[鹿児島市史]] - 鹿児島市の[[自治体史]]。大正時代に2巻{{sfn|鹿児島市史編さん委員会|1971|p=1005}}、昭和から平成にかけて5巻が刊行されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.library.pref.kagoshima.jp/honkan/files/2020/05/No.7%E3%80%80%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82%E5%8F%B2.pdf|title=調べもの支援ツール No.7 「鹿児島市史」について(刊行情報)|publisher=[[鹿児島県立図書館]]|accessdate=2022-03-27}}</ref> == 関連項目 == <!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{Multimedia|鹿児島市の画像}} * [[南日本]] * [[支店経済都市]] * [[十島村]] - 鹿児島市内に村役場を設置。 * [[三島村]] - 鹿児島市内に村役場を設置。 * [[鹿児島市の行政区域の変遷]] - 鹿児島市の合併・編入などによる町名の変遷。 * [[鹿児島 (小惑星)]] - 発見者2名がともに本市出身であることから、本市にちなんで命名された小惑星<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=4703|title=(4703) Kagoshima = 1961 CQ = 1961 EH = 1978 EB6 = 1980 XB1 = 1988 BL|publisher=MPC|accessdate=2021-10-22}}</ref> * [[天文館]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) --> * {{Cite Q|Q111372808}}<!--鹿児島市史3--> * {{Cite Q|Q111291392}}<!--角川日本地名大辞典--> * {{Cite Q|Q111372912}}<!--鹿児島市史5--> == 外部リンク == {{Sisterlinks|s=カテゴリ:鹿児島市|commons=鹿児島市|commonscat=Kagoshima|voy=ja:鹿児島市|d=Q15674}} ; 行政 * {{Official website|name=鹿児島市}} * {{LINE公式アカウント|kagoshimacity}} * {{Facebook|kagoshimacity.kouhou|鹿児島市広報課}} * {{Twitter|kagoshimacityPR|鹿児島市公式ツイッター}} * [http://g-reiki.city.kagoshima.lg.jp/kagoshima2/reiki_menu.html 鹿児島市例規集] ; 観光 * [https://www.kagoshima-yokanavi.jp/cvb/ 鹿児島観光コンベンション協会] * [https://www.kagoshima-kankou.com/ 鹿児島県総合観光サイト:ゆっくり・悠・遊 観光かごしま] * [http://kankonogyo-park.jp/ 鹿児島市観光農業公園] * {{ウィキトラベル インライン|鹿児島市|鹿児島市}} ; その他 * {{Googlemap|鹿児島市}} * {{OSM relation|3962762}} * {{WikiMapia|31.5900513|130.5599999|12|鹿児島市}} * {{Twitter|PRkagoshimacity|鹿児島市シティプロモーション}} {{日本の都道府県庁所在地}} {{日本の中核市}} {{日本50大都市}} {{鹿児島県の自治体}} {{鹿児島市の町丁}} {{Portal bar|鹿児島県|日本の地理}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かこしまし}} [[Category:都道府県庁所在地]] [[Category:鹿児島県の市町村]] [[Category:鹿児島市|*]] [[Category:城下町]] [[Category:日本の港町]] [[Category:中核市]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1967年設置の日本の市町村]]
2003-09-13T21:09:06Z
2023-12-12T05:23:50Z
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茅ヶ崎市
茅ヶ崎市(ちがさきし)は、神奈川県の湘南地域中部に位置する市。施行時特例市に指定されている。人口は約24.5万人。市名は中世以来の郷名による。 相模川下流域の沖積平野に位置し、高座郡のうち、旧茅ヶ崎村、鶴嶺村、松林村が合併し現茅ヶ崎市の原型である茅ヶ崎町ができた。1955年(昭和30年)の小出村の合併を加えほぼ現況に至る。高座郡の郡衙が茅ヶ崎北陵高校の地域にあったと推測されるが、発掘は近年であり現在に至る歴史の流れは掴めていない。 人口は2022年(令和4年)度現在で243,921人と県内第7位で施行時特例市の一つである。気候は温暖で太平洋に面しているため、夏は高温になりにくく、冬は暖かい。そのため東京、横浜のベッドタウンとしても人気があり市制施行以来人口は一貫して増え続けて来たが、少子化の影響で2020年(令和2年)をピークに減少に転ずると予測されていた。しかし、近年の湘南人気の影響で現在も人口が増加している。繁華街は茅ケ崎駅南北周辺が主で、昼夜問わず人の往来は多く活気がある。またマリンスポーツの盛んな地域のため、海沿いにかけてサーフショップが多い。いわゆる湘南らしさを求める住民が多いことから、輸入物などの個人経営の雑貨屋も南側に多く見られる。夏季には市役所や銀行、ショッピングモールの職員を始めとし、アロハシャツを着用した人が多いことも特徴である。 また観光都市の側面も持っており湘南海岸の一翼を担い、夏には海水浴場としてサザンビーチちがさきがオープンし多くの海水浴客が訪れる。サーフィンやマリンスポーツをする人も一年を通して多く存在する。市内の海岸線にはサイクリングロードが設けられ、多くの市民が烏帽子岩、江ノ島や富士山、伊豆半島、伊豆大島を眺めながらサイクリングやジョギング、散歩を楽しむ。また茅ヶ崎漁港付近には釣り船もあり、投げ釣り以外にも釣り客は多い。海の日に関東三大奇祭である浜降祭が行われ、茅ヶ崎の夏の訪れとなる。 近年砂浜の侵食が激しいため、ヘッドランド(通称「Tバー」)と呼ばれる養浜施設が設けられている。なお、Tバーはサーフィン、釣りの好スポットとなっている。海のレジャー以外にもゴルフ場が丘陵に2か所、海沿いに2か所ある。アウトドアでは2013年(平成25年)に柳島キャンプ場がリニューアルオープンし、「茅産茅消」を謳ういわゆる地産地消型の食材があり、また海沿いの好立地を活かし活況である。北部は相模原台地の丘陵地帯であり特別緑地保全地区の清水谷や市民の憩いの場である神奈川県立茅ケ崎里山公園を中心に里山の豊かな自然を残そうと努力している。その他市内に2か所の温泉施設がある。 住宅地の人口増加に伴い第一次産業従事者は減り続けている。特に平野部の田園地帯はほぼ姿を消した。また隣接する藤沢市や平塚市に比べ工場の数も少ないため、市内において製造業に従事する者は多くない。 市内の鉄道駅にJR東日本東海道線茅ケ崎駅がある。茅ケ崎駅はJR東日本相模線の始発駅であり、同線北茅ケ崎駅、香川駅とあわせ市内に三駅が存在する。核となる地域は茅ケ崎駅周辺であり、行政、商業の中心地となっている。市内東部の住民は隣接する藤沢市の辻堂駅を利用する者も多い。辻堂駅再開発事業湘南C-Xには同駅西口を中心に茅ヶ崎市も一部財源を負担している。また湘南ライフタウン付近の住民は辻堂駅以外に小田急江ノ島線湘南台駅の利用が便利で直通のバスも出ている。 市内の道路は幹線道路を除くと道が狭く、かつ東海道線南北の移動は踏切が多いことも拍車をかけ国道134号線、新湘南バイパス、湘南新道、産業道路を除き事情は良くない。特に行政・商業の中心となる茅ケ崎駅北側を通る国道1号線を筆頭に市内各所にて渋滞が多いため、自動車での移動に手間がかかる。一方で鉄砲道の全面開通を初め少しずつ改善の方向に向けているが、遅々として進まない。そのため自転車利用者が多い。 相模原台地の丘陵地帯と相模川の河口に形成された砂州地帯で、市内には小出川(こいでがわ)と千ノ川が南西に流れ相模川に注いでいる。小出川流域の西久保は民話・河童徳利の舞台である。 江戸時代は東海道五十三次藤沢宿と平塚宿の間の農村地帯で、東海道中に2か所しかない左富士(道中ではいつも右に見える富士山が左手に見える)の場所として浮世絵の題材としても知られた。現在、国道1号鳥井戸橋で「南湖の左富士」のレリーフを見ることができる。 かつて柳島湊が存在したが、現在は消滅している。また藤間温泉も柳島に存在した。 概ねJR東日本東海道線によって南北に分けられる。北部は更に旧小出村部分と分けられる。市役所及び主な商工業地域は北部茅ケ崎駅周辺に集中している。また南部は湘南海岸に面し、いわゆる湘南らしい高層施設の少ない街並みとなっている。旧小出村地区には神奈川県立茅ケ崎里山公園があり長閑で自然環境豊かな地域である。又、東部は鎌倉時代に藤沢市辻堂と共に八的が原と呼ばれていた。 佐藤光(2018年11月18日、2期目) 茅ヶ崎市では、市の計画などの策定過程における公正の確保と透明性の向上を図ることで市民の意見や要望を積極的に市政に反映させるために、パブリックコメント制度を設けている。2003年(平成15年)11月1日から施行され、現在に至る。もちろん、過去の記録も残っている。 茅ヶ崎市は、南部の旧茅ヶ崎村・旧小和田村周辺が、後世の開発によって区分が細分化しており、また現在は市内の諸地区が自治会基準で13の地区に再区分されている。そこで以下、自治会基準の区分を【】で示す。 公立 私立 公立 私立 茅ヶ崎市は「みちの愛称検討委員会」を職員と公募した市民で開き、道路愛称を街頭インタビューや公募などで決定し発表している。 2000年(平成12年)度には国道1号の南側14路線、2001年(平成13年)度には国道1号と新湘南バイパスの間10路線、2002年(平成14年)には新湘南バイパス北側の7路線の愛称が発表された。 市内東から かつての西浜を除き、概ねビギナーから始められるポイントが多いが、ビッグウェーブが来ている際は上級者が幅を効かせるので自分のレベルにあった波乗りを心掛けたい。
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茅ヶ崎市(ちがさきし)は、神奈川県の湘南地域中部に位置する市。施行時特例市に指定されている。人口は約24.5万人。市名は中世以来の郷名による。
{{Redirectlist|茅ヶ崎'''」と「'''茅ケ崎'''」と「'''茅ヶ崎町|茅ヶ崎市内の地名「茅ヶ崎」|茅ヶ崎 (茅ヶ崎市)|[[神奈川県]][[横浜市]][[都筑区]]にある地域「茅ケ崎」及び同地域内の「茅ケ崎町」|茅ケ崎 (横浜市)|その他の「茅ヶ崎」|茅ヶ崎 (曖昧さ回避)}} {{日本の市 | 画像 = A0127342 13175141.jpg | 画像の説明 = [[湘南海岸]]・[[浜降祭]]と[[富士山]] | 市旗 = [[ファイル:Flag of Chigasaki, Kanagawa.svg|100px|border|茅ヶ崎市旗]] | 市旗の説明 = 茅ヶ崎[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:神奈川県茅ヶ崎市市章.svg|75px|茅ヶ崎市章]] | 市章の説明 = 茅ヶ崎[[市町村章|市章]]<br />[[1957年]][[10月1日]]制定 | 自治体名 = 茅ヶ崎市 | 都道府県 = 神奈川県 | コード = 14207-7 | 隣接自治体 = [[藤沢市]]、[[平塚市]]、[[高座郡]][[寒川町]] | 木 = [[アカシア]] | 花 = [[ツツジ]] | シンボル名 = 市の鳥 | 鳥など = [[シジュウカラ]] | 郵便番号 = 253-8686 | 所在地 = 茅ヶ崎市茅ヶ崎一丁目1番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-14|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Chigasaki City Hall 20170721.JPG|250px|茅ヶ崎役所新庁舎]]<br />茅ヶ崎市役所新庁舎{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=230|frame-height=200|frame-latitude=35.333861|frame-longitude=139.404722|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}} | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|14|207|image=Chigasaki in Kanagawa Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}} | 特記事項 =[[市外局番]]:0467(市内全域) }} {{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|35.333861|139.404722}}|caption=茅ヶ崎市|width=256}} '''茅ヶ崎市'''(ちがさきし)は、[[神奈川県]]の[[湘南地域]]中部に位置する[[市]]。[[特例市|施行時特例市]]に指定されている。人口は約24.5万人<!--2023/11/1現在-->。市名は中世以来の郷名による。 == 概要 == [[相模川]]下流域の[[沖積平野]]に位置し、[[高座郡]]のうち、旧[[茅ヶ崎村]]、[[鶴嶺村]]、[[松林村]]が合併し現茅ヶ崎市の原型である茅ヶ崎町ができた。1955年([[昭和]]30年)の[[小出村 (神奈川県)|小出村]]の合併を加えほぼ現況に至る。高座郡の[[郡衙]]が[[神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校|茅ヶ崎北陵高校]]の地域にあったと推測されるが、発掘は近年であり現在に至る[[歴史]]の流れは掴めていない。 人口は2022年([[令和]]4年)度現在で243,921人と県内第7位で施行時特例市の一つである。気候は温暖で[[太平洋]]に面しているため、[[夏]]は高温になりにくく、[[冬]]は暖かい。そのため[[東京]]、[[横浜市|横浜]]の[[ベッドタウン]]としても人気があり市制施行以来人口は一貫して増え続けて来たが、少子化の影響で2020年([[令和]]2年)をピークに減少に転ずると予測されていた。しかし、近年の湘南人気の影響で現在も人口が増加している。[[繁華街]]は茅ケ崎駅南北周辺が主で、昼夜問わず人の往来は多く活気がある。またマリンスポーツの盛んな地域のため、海沿いにかけてサーフショップが多い。いわゆる湘南らしさを求める住民が多いことから、輸入物などの個人経営の雑貨屋も南側に多く見られる。夏季には市役所や銀行、ショッピングモールの職員を始めとし、[[アロハシャツ]]を着用した人が多いことも特徴である。 また[[観光都市]]の側面も持っており[[湘南海岸]]の一翼を担い、夏には[[海水浴場]]として[[サザンビーチちがさき]]がオープンし多くの海水浴客が訪れる。[[サーフィン]]や[[マリンスポーツ]]をする人も一年を通して多く存在する。市内の海岸線には[[湘南海岸・砂浜のみち|サイクリングロード]]が設けられ、多くの市民が[[烏帽子岩]]、[[江ノ島]]や[[富士山]]、[[伊豆半島]]、[[伊豆大島]]を眺めながら[[サイクリング]]や[[ジョギング]]、[[散歩]]を楽しむ。また[[茅ヶ崎漁港]]付近には[[釣り船]]もあり、[[投げ釣り]]以外にも釣り客は多い。[[海の日]]に[[関東]]三大奇祭である[[浜降祭]]が行われ、茅ヶ崎の夏の訪れとなる。 近年[[砂浜]]の[[侵食]]が激しいため、ヘッドランド(通称「Tバー」)と呼ばれる[[養浜]]施設が設けられている。なお、Tバーはサーフィン、釣りの好スポットとなっている。[[海]]のレジャー以外にも[[ゴルフ場]]が[[丘陵]]に2か所、海沿いに2か所ある。[[アウトドア]]では2013年(平成25年)に柳島キャンプ場がリニューアルオープンし、「茅産茅消」を謳ういわゆる[[地産地消]]型の食材があり、また海沿いの好立地を活かし活況である。北部は[[相模原台地]]の丘陵地帯であり特別緑地保全地区の清水谷や市民の憩いの場である[[神奈川県立茅ケ崎里山公園]]を中心に[[里山]]の豊かな自然を残そうと努力している。その他市内に2か所の[[温泉]]施設がある。 [[住宅地]]の人口増加に伴い[[第一次産業]]従事者は減り続けている。特に平野部の田園地帯はほぼ姿を消した。また隣接する[[藤沢市]]や[[平塚市]]に比べ[[工場]]の数も少ないため、市内において製造業に従事する者は多くない。 市内の鉄道駅に[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[東海道線 (JR東日本)|東海道線]][[茅ケ崎駅]]がある。茅ケ崎駅はJR東日本[[相模線]]の始発駅であり、同線[[北茅ケ崎駅]]、[[香川駅]]とあわせ市内に三駅が存在する<ref group="注釈">茅ケ崎駅・北茅ケ崎駅とも大きい「ケ」であるが、市名は小さい'''「ヶ」'''である。</ref>。核となる地域は茅ケ崎駅周辺であり、行政、商業の中心地となっている。市内東部の住民は隣接する藤沢市の[[辻堂駅]]を利用する者も多い。辻堂駅再開発事業[[湘南C-X]]には同駅西口を中心に茅ヶ崎市も一部財源を負担している。また[[湘南ライフタウン]]付近の住民は辻堂駅以外に[[小田急江ノ島線]][[湘南台駅]]の利用が便利で直通の[[バス (交通機関)|バス]]も出ている。 市内の道路は幹線道路を除くと道が狭く、かつ東海道線南北の移動は踏切が多いことも拍車をかけ[[国道134号|国道134号線]]、[[新湘南バイパス]]、[[神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線|湘南新道]]、[[神奈川県道46号相模原茅ヶ崎線|産業道路]]を除き事情は良くない。特に行政・商業の中心となる茅ケ崎駅北側を通る[[国道1号|国道1号線]]を筆頭に市内各所にて渋滞が多いため、[[自動車]]での移動に手間がかかる。一方で鉄砲道の全面開通を初め少しずつ改善の方向に向けているが、遅々として進まない。そのため[[自転車]]利用者が多い。 == 地理 == 相模原台地の丘陵地帯と相模川の[[河口]]に形成された[[砂州]]地帯で、市内には[[小出川]](こいでがわ)と千ノ川が南西に流れ相模川に注いでいる。小出川流域の西久保は民話・河童徳利の舞台である。 [[江戸時代]]は[[東海道五十三次]][[藤沢宿]]と[[平塚宿]]の間の農村地帯で、[[東海道]]中に2か所しかない左富士(道中ではいつも右に見える[[富士山]]が左手に見える)の場所として[[浮世絵]]の題材としても知られた。現在、[[国道1号]]鳥井戸橋で「南湖の左富士」のレリーフを見ることができる。 かつて柳島湊が存在したが、現在は消滅している。また藤間温泉も柳島に存在した。 {{Wide image|Chigasaki city center area Aerial photograph.1988.jpg|600px|1988年(昭和63年)撮影の茅ヶ崎市中心部周辺の空中写真。1988年撮影の5枚を合成作成。<br/>{{国土航空写真}}。}} === 河川 === * [[相模川]] * [[小出川]] * [[千ノ川]] * [[駒寄川]] * [[松尾川(神奈川県)|松尾川]] == 地域 == 概ね[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]によって南北に分けられる。北部は更に旧[[小出村 (神奈川県)|小出村]]部分と分けられる。[[市役所]]及び主な商工業地域は北部[[茅ケ崎駅]]周辺に集中している。また南部は[[湘南海岸]]に面し、いわゆる湘南らしい高層施設の少ない街並みとなっている。旧小出村地区には[[神奈川県立茅ケ崎里山公園]]があり長閑で自然環境豊かな地域である。又、東部は[[鎌倉時代]]に藤沢市[[辻堂地区 (藤沢市)|辻堂]]と共に八的が原と呼ばれていた。 === 隣接している自治体 === * [[藤沢市]] * [[平塚市]] * [[高座郡]][[寒川町]] == 人口 == {{人口統計|code=14207|name=茅ヶ崎市|image=Population distribution of Chigasaki, Kanagawa, Japan.svg}} == 歴史 == * [[縄文時代]] - 北部堤に県内有数の規模を誇る堤[[貝塚]]がある。縄文時代後期(紀元前4000年から3500年)の集落址とされる。 * [[飛鳥時代]] - 北部の下寺尾には出土品その他から[[相模国]]最古の[[寺院|寺]]および高座郡の[[郡衙]]があり、[[高座郡]]の行政の中心であったと推定されている。 * [[長元]]3年([[1030年]]) - 関東最古の[[源氏]]の[[氏社]]である[[鶴嶺八幡宮]]を創建。 * [[長治]]元年([[1104年]])- - [[鎌倉景正]]により藤沢市と共に[[大庭御厨]]成立。 * [[平安時代]] - 末期に関東[[武士団]]の[[大庭氏]]、懐島氏により[[新田]]開発が進む。 * [[鎌倉時代]] - [[辻堂地区 (藤沢市)|辻堂]]および茅ヶ崎東部沿岸を含む広域の地名で「八的ヶ原」(やまとがはら){{efn|古代より平坦な砂地で、鎌倉時代に弓の練習場として八つの的が置かれたことから。}} 後に、「八松ヶ原」(やつまつがはら){{efn|低い丘や芝原に松が多く、「八的」が後に「八松」と書かれるようになったといわれる。}}と呼ばれる。 * [[建久]]9年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]] - [[鎌倉幕府]][[征夷大将軍]][[源頼朝]]が相模川に懸けた橋の竣工式で[[落馬]]し、その怪我が元で翌年薨去したという伝説がある。 * [[弘安]]4年([[1281年]]) - 鎌倉幕府が[[元寇]]に対し、蒙古退散の祈祷を鶴嶺八幡宮にて行う。 * [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] [[後北条氏]]の支配地となり、[[玉縄城]]の管理下に置かれる。市内では代表的に小田原衆筆頭[[北条幻庵]]配下の新田(しんでん)氏が菱沼に172[[貫文]]、小机衆市野氏が赤羽根に20貫文等の知行を得ていた。 * [[江戸時代]] - [[西大平藩]]や[[旗本]]領などモザイクであった旧小出村を除き、ほぼ市内全域[[天領]]となる。 * [[享保]]13年([[1728年]]) - [[享保の改革]]の一環で、[[相州炮術調練場]]を設置する。 * [[1889年]][[4月1日]] - [[町村制]]施行により、高座郡[[茅ヶ崎村]]・[[鶴嶺村]]・[[松林村]]が発足。 * [[1896年]]([[明治]]29年) - 市内南湖に「東洋一」と謳われた[[サナトリウム]][[南湖院]]が開院。[[国木田独歩]]等多くの著名人が入院した。([[1945年]]閉鎖) * [[1898年]]([[明治]]31年)[[6月15日]] - [[鉄道省]][[東海道本線|東海道線]]<!--名称が東海道本線となるのは1909年-->の駅として[[茅ケ崎駅]]が開業。 {{Wikisource|高座郡茅ヶ崎村鶴嶺村及松林村ヲ廢止茅ヶ崎町ヲ置ク (明治41年神奈川県告示第129号)|高座郡茅ヶ崎村鶴嶺村及松林村ヲ廢止茅ヶ崎町ヲ置ク|神奈川県告示文}} {{Wikisource|明治四十一年神奈川縣告示第百二十九號中改正 (明治41年神奈川県告示第157号)|明治四十一年神奈川縣告示第百二十九號中改正|神奈川県告示文}} * [[1908年]](明治41年)[[10月1日]] - 高座郡[[茅ヶ崎村]]、[[鶴嶺村]]および[[松林村]]と合併し、'''茅ヶ崎町'''となる。 *: 駅名として広く知られているという理由から、新町名は茅ヶ崎町とした。町役場は南湖の金剛院に置く。人口は16,860人。 * [[1911年]](明治44年)8月 - 町役場が字梅田(元の茅ヶ崎村役場所在地。現在は茅ヶ崎商工会議所が所在)へ移転。 * [[1921年]]([[大正]]10年)[[9月28日]] - [[相模鉄道]][[相模線]]が開業。 {{Wikisource|茅ヶ崎市設置|茅ヶ崎市設置|内務省告示文}} * [[1923年]]([[大正]]12年)[[9月1日]] - [[関東大震災]]発生。茅ケ崎[[駅舎]]、馬入橋の崩壊を筆頭に多くの建物が全壊し多大な被害が出る。 * [[1940年]]([[昭和]]15年)[[2月1日]] - 市内に日東駅(現在の[[北茅ケ崎駅]])が開業。 * [[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月16日]]、[[7月17日|17日]] - 空襲。 * [[1947年]]([[昭和]]22年)10月1日 - [[市制]]を施行し'''茅ヶ崎市'''となる。人口は43,315人。 {{Wikisource|市村の廃置分合 (昭和30年総理府告示第910号)|小出村大字堤、下寺尾、行谷及び芹沢を茅ケ崎市に編入する件|総理府告示文}} * [[1955年]](昭和30年)[[4月5日]] - 高座郡[[小出村 (神奈川県)|小出村]]の一部を編入。 * [[1963年]](昭和38年)[[7月25日]] - [[寒川町]]との境界を変更する<ref>[[s:市町の境界変更 (昭和38年自治省告示第109号)|同日、自治省告示第109号]]</ref>。 * [[1967年]](昭和42年)10月1日 - 市民憲章制定<ref name="kensyo">{{Cite web|和書|url=https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/profile/1007333.html |title=茅ヶ崎市の沿革 |publisher =茅ヶ崎市公式ホームページ |date=2023-3-31 |accessdate=2023-12-10}}</ref>{{refnest|group="注釈"| ;茅ヶ崎市民憲章 :美しい海 :きれいな空気 :おだやかな四季 :私たちは、このめぐまれた自然に感謝しながら、未来へ力強くはばたくための愛市憲章をここに定めます。 :1. 美しい自然は、私たちみんなの誇りです。 :1. 私たちは、元気で仲良く、きょうも働きます。 :1. 私たちは、きまりを守り、安全で住みよいまちづくりにはげみます。 :1. 私たちは、文化の花咲く、明るい平和なまちをきずきます。 :1. 老いも若きも手を取りあって、輝かしい明日へむかって前進しましょう。 出典:{{R|kensyo}} }}。 * [[1968年]](昭和43年)[[11月1日]] - 寒川町との境界を変更する<ref>[[s:市町の境界変更 (昭和43年自治省告示第200号)|同年10月26日、自治省告示第200号]]</ref>。 * [[1974年]](昭和49年)[[7月22日]] - 市役所が現在地へ移転<ref>昭和47年条例第25号、茅ヶ崎市役所の位置を定める条例</ref>。 * [[1982年]](昭和57年)[[4月30日]] - [[防災行政無線]]運用開始(当時の夕方のチャイムは「[[ウェストミンスターの鐘]](TOA音源)」)。 * [[1988年]](昭和63年)[[3月30日]] - [[新湘南バイパス]]が開通する。 * [[1989年]]([[平成]]元年) - 人口が20万人を突破。 * [[1999年]](平成11年)- 茅ヶ崎海水浴場を[[サザンビーチちがさき]]に改称。 * [[2002年]](平成14年) ** [[3月3日]] - 茅ヶ崎サザンCが竣工。 ** [[5月25日]] - コミュニティバス[[えぼし号]]が運行開始。 * [[2003年]](平成15年)[[4月1日]] - [[特例市]]となる<ref>平成14年[[12月13日]]、[[政令]]第372号</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[10月1日]] - 防災行政無線の夕方のチャイム「[[赤とんぼ]](新音源)」放送開始。 * [[2013年]](平成25年)[[4月14日]] - [[さがみ縦貫道路]]が開通する。 * [[2014年]](平成26年)[[10月25日]] - [[アメリカ合衆国]][[ハワイ州]][[ホノルル]]市域と姉妹都市提携。 * [[2016年]](平成28年)[[1月4日]] - 市役所新庁舎が供用開始。 * [[2017年]](平成29年)4月1日 - [[地域保健法]]に基づく[[保健所政令市]]に指定される。 == 行政 == === 市長 === ;現職市長 [[佐藤光 (政治家)|佐藤光]](2018年11月18日、2期目) ; 歴代市長<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/profile/1007341.html |title=歴代市長・副市長・収入役 |publisher =茅ヶ崎市公式ホームページ |date=2023-3-31 |accessdate=2023-12-10}}</ref> {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考 |- |初代||[[添田良信]]||1947年10月1日||1948年12月24日|| |- |2代||[[内田俊一 (政治家)|内田俊一]]||1949年2月24日||1953年2月9日|| |- |3代||[[出口肇]]||1953年2月20日||1957年2月17日|| |- |4代||内田俊一||1957年2月18日||1961年2月17日|| |- |5-6代||[[野村宣]]||1961年2月18日||1967年4月5日|| |- |7-10代||[[柾木一策]]||1967年4月28日||1983年4月27日||[[北海道]]出身。 |- |11-14代||[[根本康明]]|||1983年4月28日||1999年4月27日|| |- |15代||[[添田高明]]||1999年4月28日||2003年4月27日|| |- |16-19代||[[服部信明]]||2003年4月28日||2018年10月4日||任期中死去 |- | ||職務代理者||2018年10月4日||2018年11月18日||副市長・夜光広純 |- |20-21代||[[佐藤光 (政治家)|佐藤光]]||2018年11月18日||現職||| |} === 警察 === * [[茅ケ崎警察署]] ** 茅ケ崎駅前交番 ** 中海岸交番 ** 茅ケ崎駅南口交番 ** 平和町交番 ** 今宿交番 ** 浜見平交番 ** 小和田交番 ** 鶴が台交番 ** 浜竹交番 ** 東海岸駐在所 ** 西久保駐在所 ** 南湖駐在所 ** 小出駐在所 === 消防 === * [[茅ヶ崎市消防本部]] ** 茅ヶ崎市消防署 *** 小和田分署 *** 小出出張所 *** 鶴嶺出張所 *** 松林出張所 *** 海岸出張所 === 医療 === * [[茅ヶ崎市立病院]] === 放送 === * [[茅ヶ崎エフエム]](エボラジ) * [[J:COM 湘南・鎌倉]] === 指定金融機関 === * [[横浜銀行]]、[[スルガ銀行]]の2行による輪番制。 === パブリックコメント制度 === 茅ヶ崎市では、市の計画などの策定過程における公正の確保と透明性の向上を図ることで市民の意見や要望を積極的に市政に反映させるために、[[パブリックコメント]]制度を設けている。2003年(平成15年)11月1日から施行され、現在に至る。もちろん、過去の記録も残っている。 == 地区 == 茅ヶ崎市は、南部の旧茅ヶ崎村・旧小和田村周辺が、後世の開発によって区分が細分化しており、また現在は市内の諸地区が自治会基準で13の地区に再区分されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/1027972/1027975/1028215/1028216.html |title=茅ヶ崎村の由来 |publisher =茅ヶ崎市公式ホームページ |date=2023-3-31 |accessdate=2023-12-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://minchizu.jp/kanagawa/chigasaki.html |title=茅ヶ崎市(神奈川県) |publisher =みんなの行政地図 |accessdate=2023-12-10}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/shiminsanka/jichikai/1007849.html |title=地区単位別自治会の一覧 |publisher =茅ヶ崎市公式ホームページ |date=2023-3-31 |accessdate=2023-12-10}}</ref>。そこで以下、自治会基準の区分を【】で示す。 * '''小出'''(こいで) - 旧[[小出村 (神奈川県)|小出村]] ** 【小出】 *** 芹沢(せりざわ) - 旧芹沢村 *** 行谷(なめがや) - 旧行谷村 *** 下寺尾(しもてらお) - 旧下寺尾村 *** 堤(つつみ) - 旧堤村 * '''松林'''(しょうりん) - 旧[[松林村]] ** 【湘北】 *** [[香川 (茅ヶ崎市)|香川]](かがわ) - 旧香川村 **** [[みずき (茅ヶ崎市)|みずき]] **** 松風台(まつかぜだい) *** 甘沼(あまぬま) - 旧甘沼村 ** 【松林】 *** [[赤羽根 (茅ヶ崎市)|赤羽根]](あかばね) - 旧赤羽根村 *** 高田(たかだ) - 旧高田村 *** 室田(むろた) - 旧室田村 **** [[松林 (茅ヶ崎市)|松林]](しょうりん) *** 菱沼(ひしぬま) - 旧菱沼村 **** 小和田(こわだ) ** 旧小和田村 *** 【小和田】 **** [[赤松町 (茅ヶ崎市)|赤松町]](あかまつちょう) **** 本宿町(ほんじゅくちょう) **** 代官町(だいかんちょう) **** 小桜町(こざくらちょう) *** 【松浪】 **** [[浜竹]](はまたけ) **** 出口町(でぐちちょう) **** ひばりが丘(ひばりがおか) **** 美住町(みすみちょう) **** 松浪(まつなみ) **** 富士見町(ふじみちょう) **** 常盤町(ときわちょう) **** 緑が浜(みどりがはま) **** [[汐見台 (茅ヶ崎市)|汐見台]](しおみだい) *** 【浜須賀】 **** 旭が丘(あさひがおか) **** 松が丘(まつがおか) **** 平和町(へいわちょう) **** 浜須賀(はますか) **** 白浜町(しらはまちょう) **** 菱沼海岸(ひしぬまかいがん) * '''鶴嶺'''(つるみね) - 旧[[鶴嶺村]] ** 【鶴嶺東】 *** 西久保(にしくぼ) - 旧西久保村 *** 円蔵(えんぞう) - 旧円蔵村 *** 浜之郷(はまのごう) - 旧浜之郷村 *** 矢畑(やばた) - 旧矢畑村 *** 下町屋(しもまちや) - 旧下町屋村 ** 【鶴嶺西】 *** 萩園(はぎその) - 旧萩園村 *** 平太夫新田(へいだゆうしんでん) *** 今宿(いまじゅく) - 旧今宿村 ** 【湘南】 *** 中島(なかじま) - 旧中島村 *** 松尾(まつお) - 旧松尾村 *** 柳島(やなぎしま) - 旧柳島村 **** [[浜見平]](はまみだいら) **** 柳島海岸(やなぎしまかいがん) * '''茅ヶ崎(狭義)''' - 旧[[茅ヶ崎村]] ** 【茅ヶ崎】 *** [[茅ヶ崎 (茅ヶ崎市)|茅ヶ崎]](ちがさき) *** [[本村 (茅ヶ崎市)|本村]](ほんそん) *** [[元町 (茅ヶ崎市)|元町]](もとまち) *** [[新栄町 (茅ヶ崎市)|新栄町]](しんえいちょう) *** [[十間坂]](じゅっけんざか) ** 【茅ヶ崎南】 *** [[若松町 (茅ヶ崎市)|若松町]](わかまつちょう) *** [[幸町 (茅ヶ崎市)|幸町]](さいわいちょう) *** [[共恵]](ともえ) *** 中海岸(なかかいがん) ** 【海岸】 *** [[東海岸北]](ひがしかいがんきた) *** [[東海岸南]](ひがしかいがんみなみ) ** 【南湖】 *** 南湖(なんご) == 議会 == === 市議会 === {{Main|茅ヶ崎市議会}} === 神奈川県議会 === {{Main|2023年神奈川県議会議員選挙}} * 選挙区:茅ヶ崎市選挙区 * 定数:3人 * 任期:2023年(令和5年)4月30日 - 2027年(令和9年)4月29日 {| class="wikitable" |- !氏名!!会派名 |- | 永田輝樹 || 自由民主党神奈川県議会議員団 |- | 平野みぎわ || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]神奈川県議会議員団 |- | 桝晴太郎 || 自由民主党神奈川県議会議員団 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[神奈川県第15区|神奈川15区]]([[平塚市]]、茅ヶ崎市、[[中郡]]) * 任期:2021年(令和3年)10月31日 - 2025年(令和7年)10月30日 * 当日有権者数:473,497人 * 投票率:57.32% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[河野太郎]] || align="center" | 58 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 210,515票 || align="center" | ○ |- | || 佐々木克己 || align="center" | 66 || [[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]] || align="center" | 新 || align="right" | 46,312票 || align="center" | ○ |- | || 渡辺麻里子 || align="center" | 45 || <small>[[政治家女子48党|NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で]]</small> || align="center" | 新 || align="right" | 8,565票 || |} == 姉妹都市・提携都市 == === 国内 === * 提携都市 ** {{flagicon|JPN}} - [[岡崎市]]([[愛知県]]) - [[1983年]](昭和58年)7月1日「ゆかりのまち」提携。[[江戸時代]]の名[[町奉行]]として知られる[[大岡忠相]]を藩祖とする[[西大平藩]]が岡崎市内にあり、また茅ヶ崎市は[[大岡氏]]の本拠地であることから。 === 海外 === * 姉妹都市 ** {{flagicon|USA}} - [[ホノルル]]([[ハワイ州]]) [[2014年]](平成26年)10月25日提携。「ビーチ」「サーフィン」「アロハ」といった共通した文化的な背景から。同日にはハワイ商工会議所と茅ヶ崎商工会議所との姉妹会議所の調印も行われている。締結出張の中で茅ヶ崎側とホノルル側でサーフィンを行ったが、その際に[[木村竹彦]]副市長(当時)が溺死した。 == 文化施設 == * [[茅ヶ崎市立図書館]] * [[茅ヶ崎市美術館]] * [[茅ヶ崎市博物館]] * 茅ヶ崎市民文化会館 == 教育 == === 小学校 === 公立 {{col-begin}} {{col-2}} * 茅ヶ崎市立今宿小学校 * 茅ヶ崎市立梅田小学校 * [[茅ヶ崎市立円蔵小学校]] * [[茅ヶ崎市立香川小学校]] * [[茅ヶ崎市立小出小学校]] * [[茅ヶ崎市立小和田小学校]] * [[茅ヶ崎市立汐見台小学校]] * [[茅ヶ崎市立松林小学校]] * [[茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校]](市内最初の小学校) * 茅ヶ崎市立鶴が台小学校 {{col-2}} * [[茅ヶ崎市立鶴嶺小学校]] * 茅ヶ崎市立西浜小学校 * [[茅ヶ崎市立浜須賀小学校]] * [[茅ヶ崎市立浜之郷小学校]] * [[茅ヶ崎市立東海岸小学校]] * 茅ヶ崎市立松浪小学校 * 茅ヶ崎市立緑が浜小学校 * [[茅ヶ崎市立室田小学校]] * 茅ヶ崎市立柳島小学校 {{col-end}} 私立 * [[学校法人平和学園|平和学園小学校]] === 中学校 === 公立 {{col-begin}} {{col-2}} * [[茅ヶ崎市立赤羽根中学校]] * [[茅ヶ崎市立梅田中学校]] * 茅ヶ崎市立円蔵中学校 * [[茅ヶ崎市立松林中学校]] * [[茅ヶ崎市立第一中学校]] * 茅ヶ崎市立鶴が台中学校 * 茅ヶ崎市立鶴嶺中学校 {{col-2}} * [[茅ヶ崎市立中島中学校]] * 茅ヶ崎市立西浜中学校 * [[茅ヶ崎市立萩園中学校]] * [[茅ヶ崎市立浜須賀中学校]] * [[茅ヶ崎市立北陽中学校]] * [[茅ヶ崎市立松浪中学校]] {{col-end}} 私立 * [[アレセイア湘南中学校・高等学校|アレセイア湘南中学校]] === 高等学校 === ; '''神奈川県立''' * [[神奈川県立茅ケ崎高等学校]] * [[神奈川県立茅ケ崎西浜高等学校]] * [[神奈川県立茅ケ崎北陵高等学校]] * [[神奈川県立鶴嶺高等学校]] ; '''私立''' * [[アレセイア湘南中学校・高等学校|アレセイア湘南高等学校]] === 特別支援学校 === * 神奈川県立茅ヶ崎養護学校 === 大学 === * [[文教大学]] 湘南キャンパス === 専門学校 === * [[茅ヶ崎看護専門学校]] * [[茅ヶ崎リハビリテーション専門学校]] === その他 === * [[京急自動車学校]]茅ヶ崎校 * [[松下政経塾]] * [[一般社団法人]][[湘南サドベリースクール]](日本における[[サドベリー・スクール]]の学校) == 経済 == === 産業 === * [[漁業]] : [[茅ヶ崎漁港]] * [[製造業]] : [[東邦チタニウム|東邦チタニウム株式会社]]・茅ヶ崎工場(金属[[チタン]]などを製造する企業) : [[アルバック|株式会社アルバック]]・茅ヶ崎本社工場([[真空]]装置を製造する企業) : [[モリタ宮田工業|モリタ宮田工業株式会社]]・本店([[消火器]]などを製造する企業) : [[旭硝子|AGCセイミケミカル株式会社]]・本社および工場(AGCグループのファインケミカルメーカー) : AGCプライブリコ株式会社・本社および工場(AGCグループの耐火建築部材メーカー) : [[パナソニック エナジー社|パナソニック株式会社エナジー社]]・茅ヶ崎・辻堂工場 : パナソニックCCグラフィックス株式会社 : [[オーテックジャパン|株式会社オーテックジャパン]]・本社([[日産自動車|日産グループ]]。特装車の企画開発・製造。初代社長は[[桜井眞一郎]]。) : [[BASFジャパン|BASFポゾリス株式会社]]・茅ヶ崎工場([[コンクリート]]の[[混和剤]]などを製造する企業) : [[TOTO (企業)|TOTO株式会社]]・茅ヶ崎工場 : [[電源開発]](J-POWER)・茅ヶ崎研究所 : 第一カッター興業・本社 : [[東海カーボン]]・茅ヶ崎工場 : [[明治 (企業)|明治]]・神奈川工場 : 大村紙業株式会社・本社 *かつてあった企業 : [[相模鉄道]]本社 == 交通 == === 鉄道 === ; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) * [[ファイル:JR JT line symbol.svg|17ピクセル]][[東海道本線]] [[東海道線 (JR東日本)]] ** [[茅ケ崎駅]] * {{Color|#009793|■}}[[相模線]] ** [[茅ケ崎駅]] - [[北茅ケ崎駅]] - [[香川駅]] === 路線バス === * [[神奈川中央交通]]・[[神奈川中央交通|神奈川中央交通西]]・[[神奈川中央交通|神奈川中央交通東]] ** [[神奈川中央交通茅ヶ崎営業所]] ** [[神奈川中央交通西・平塚営業所]] ** [[神奈川中央交通綾瀬営業所]] ** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所]] * [[江ノ電バス]] * 茅ヶ崎市コミュニティバス「[[えぼし号]]」(神奈川中央交通が運行) === 道路 === [[File:Mt. Fuji from Chigasaki.jpg|thumb|250px|国道134号]] * [[高速道路]] ** [[新湘南バイパス]]:- [[茅ヶ崎中央インターチェンジ|茅ヶ崎中央IC]]-[[茅ヶ崎西インターチェンジ|茅ヶ崎西IC]]-[[茅ヶ崎海岸インターチェンジ|茅ヶ崎海岸IC]] ** [[さがみ縦貫道路]]:- 起点:新湘南バイパス[[茅ヶ崎ジャンクション|茅ヶ崎JCT]]- * [[一般国道]] ** [[国道1号]] ** [[国道134号]] ** [[国道468号]](圏央道の一部) * [[主要地方道]] ** [[神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線]] ** [[神奈川県道44号伊勢原藤沢線]] ** [[神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線]] ** [[神奈川県道46号相模原茅ヶ崎線]] ** [[神奈川県道47号藤沢平塚線]] * [[都道府県道|一般県道]] ** [[神奈川県道309号茅ヶ崎停車場線]] ** [[神奈川県道310号茅ヶ崎停車場茅ヶ崎線]] ** [[神奈川県道404号遠藤茅ヶ崎線]] * [[太平洋岸自転車道]] ** [[湘南海岸・砂浜のみち]] - [[関東ふれあいの道]]の一部で通称「サイクリングロード」と呼ばれる。[[自転車]][[歩行者]]専用道路。 === みちの愛称事業 === 茅ヶ崎市は「みちの愛称検討委員会」を職員と公募した市民で開き、道路愛称を街頭インタビューや公募などで決定し発表している。 2000年(平成12年)度には[[国道1号]]の南側14路線、2001年(平成13年)度には国道1号と新湘南バイパスの間10路線、2002年(平成14年)には新湘南バイパス北側の7路線の愛称が発表された。 ==== みちの愛称 ==== * 茅ヶ崎中央通り(茅ヶ崎駅北口から茅ヶ崎中央インターに至る南北の道。) * 雄三通り(駅南口の東側から、サザン通りに平行して南北に走る。以前は[[加山雄三]]邸が海岸付近にあった。旧くは加山雄三の父親の名から[[上原謙]]通りとも呼ばれた。) * サザン通り(駅南口の西側から、小さい丘を越えてサザンビーチに至る南北の尾根道) * [[ラチエン通り]]([[姥島|烏帽子岩]]が美しく見える。[[ルドルフ・ラチエン]](ユダヤ系[[ドイツ人]])の邸宅があったことによる。) * 一中通り(市立第一中学の東側を通る南北の道) * 高砂通り(高砂緑地の西側を通る南北の道。) * 香川駅前通り([[香川駅]]付近を通る南北の道。) * 香川小学校通り(市立香川小学校の北側を通る東西の道。) * 学園通り(平和学園小学校、[[アレセイア湘南中学校・高等学校]]西側を通る南北の道。) * [[大岡忠相|大岡越前]]通り(大岡越前守忠相の墓のある[[浄見寺 (茅ヶ崎市)|浄見寺]]の北側を東西に走る) * 一里塚通り([[茅ケ崎駅]]北口から東海道一里塚に至る南北の道。) * 一里塚北通り([[北茅ケ崎駅]]付近を通る南北の道。) * 赤松通り([[辻堂駅]]西口北側から東小和田交差点に至る南北の道。) * 小和田通り(小和田を通る南北の道。) * 赤羽根通り(市立赤羽根中学校西側を通る南北の道。) * 松林通り(室田通りから小和田通りに至る東西の道。) * 室田通り(市立松林中学校東側を通る南北の道。) * 梅田通り(十間坂交差点から円蔵交差点に至る南北の道。) * 鶴嶺通り(矢畑から萩園に至る東西の道。) * 萩園通り(市立萩園中学校の東側を通る南北の道。) * 柳島通り(市立柳島小学校の東側を通る南北の道。) * 南湖通り(南湖院跡付近を通る南北の道。) * 石神古墳通り(国道1号線の南側の下道。駅北口から相模線の踏切を通り、東に抜ける。駅構内にあった古墳による命名。) * 鉄砲道([[1728年]]に[[江戸幕府]]が[[腰越|腰越村]](現:[[鎌倉市]]内)から[[柳島|柳島村]](現:茅ヶ崎市内南西部)にかけて設置した[[相州炮術調練場]]にちなむ)'''てっぽうみち'''と読む。 * 浜竹通り([[辻堂駅]]西口から[[神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線|湘南新道]]を通じ、[[湘南海岸]]に至る) * 桜道([[茅ケ崎駅]]南口から浜竹通りに至る。かつて桜の多い道路ではあったが、近年はラチエン通りとの交差点に残る程度である。) * 小出県道(本村交差点から小出交差点に至る南北の道。) * 小出中央通り(旧[[小出村]]の中心部を通る東西の道。) * 産業道路(神奈川県道46号相模原茅ヶ崎線の市内で使われてきた愛称) * 左富士通り(国道134号線・浜見平入口交差点から北上し[[鶴嶺八幡宮]]大鳥居のある国道1号・鳥居戸橋交差点までの道) * 大谷通り(芹沢を通る南北の道。) * 精麦通り(一里塚通りから一中通りへ抜ける道。日本精麦の工場があったことが由来) == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == * [[姥島|烏帽子岩(姥島)]] * [[平島 (神奈川県)|平島]] * [[旧相模川橋脚]] - 国の[[史跡]]に指定。大正12年([[1923年]])[[関東大震災]]と大正13年の地震によって地表に現れ、沼田賴輔(歴史学者)により旧相模川橋脚であるとされた。最近の調査では[[相模川]]本流ではないと推測されている。史跡整備事業が行われ、[[2008年]](平成20年)[[3月29日]]にオープンした。 * [[堤貝塚]] - 県指定史跡。 * [[下寺尾官衙遺跡群]] - [[神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校|茅ヶ崎北陵高校]]校舎建て替えの際に発見された高座郡の[[郡衙]]跡。2015年(平成27年)3月国の史跡に指定。官舎、祭祀場、船着場、下記七堂伽藍等がまとまっている。 * [[七堂伽藍跡]] - [[神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校|茅ヶ崎北陵高校]]のある高台の南側、一段低くなった畑地の広がる一郭の下寺尾、「[[七堂伽藍跡]](しちどうがらん)」と刻まれた高さ3メートル余りの石碑が建っている。[[伽藍|七堂伽藍]]とは、寺院を構成する主要建物を指す(古代寺院の場合は塔、金堂、講堂、経蔵、鐘楼、食堂(じきどう)、僧坊)。昔からこの辺りに大きな寺があったという言い伝えがあり、試掘調査の結果、古瓦片をはじめ、灯明皿など寺の存在を裏付ける遺物が数多く出土している。 * [[国木田独歩]]の碑 * [[平塚らいてう]]の碑 * [[仮名垣魯文]]の碑 - 父親の実家が萩園にあり、魯文も一時期いた。 * [[佐々木卯之助]]の碑 - 現在の鉄砲道と旧道との分岐点(東海岸五丁目)にある。役人だが幕府に内緒で困窮の農民に鉄砲場内での耕作を許して[[流罪|島流し]]となった。 <!--::'''それぞれの委細は[http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/newsection/shougaku/shiryoukan/jiten/jiten.html 茅ヶ崎市文化資料館の「ちがさき事典」]を参照。'''……現在一部のみ試験運用中--> * 鉄砲道 - [[相州炮術調練場]](幕府の鉄砲場)に至る道であったという説がある。近年、東西に開通したので俗に「鉄砲通り」ともいう。かつては行き止まりであったので「道」と称した。 * [[市川團十郎 (9代目)|團十郎]]山の碑 - [[市川團十郎 (9代目)|九世市川團十郎]]の別荘跡地(茅ヶ崎市平和町)に建立された。<ref name="rekisi_chigasaki">{{Cite web|和書|url=https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/kankou_list/rekishi/1006934.html |title=歴史と人物で見る観光スポット |publisher =茅ヶ崎市公式ホームページ |date=2023-3-31 |accessdate=2023-12-10}}</ref> * [[藤間家住宅主屋]] - 国の[[登録有形文化財]]。昭和初期の和洋折衷住宅の先駆け。一般住宅なので要注意。 * [[サザンストリート]] * [[ラチエン通り]] - 通り名とは無関係だが[[寛文]]3年([[1663年]])、旧茅ヶ崎村と旧小和田村で漁場争いが起きた時、ラチエン通りから見る烏帽子岩を裁定ラインに設定した事がある。同道を題材にした[[サザンオールスターズ]]の楽曲がある。 === 神社仏閣など === * [[鶴嶺八幡宮]] - 一説に[[源氏]]が創建した関東最初の[[氏社]]といわれる。 * [[腰掛神社]] - [[日本武尊]]にゆかりのある神社。 * [[高田熊野神社 (茅ヶ崎市)|高田熊野神社]] - 大岡忠相の実父が建立した神社。 * [[諏訪神社 (茅ヶ崎市)|諏訪神社]] - 富士山が真正面に見える神社。 * [[第六天神社 (茅ヶ崎市)|第六天神社]] - [[神奈川県の神社一覧#神奈川県神社庁指定神社|神奈川県神社庁指定神社]]。元々は[[天魔|第六天魔王]]([[他化自在天]])が祀られていた。 * [[浄見寺 (茅ヶ崎市)|浄見寺]]([[大岡忠相]]の墓所) - 大岡氏の本領は茅ヶ崎・寒川近辺にあった。 * [[宝生寺 (茅ヶ崎市)|宝生寺]]阿弥陀三尊像 - 国の[[重要文化財]]。 * 龍前院[[五輪塔]] === レジャー === * "湘南"のイメージとして人気があり、夏には海水浴客、また一年通してマリンスポーツを楽しむサーファーや釣客たちが訪れている。一説には日本の、[[サーフィン]]発祥の地であると言う(隣接する辻堂の米軍兵士が茅ヶ崎や鵠沼で波乗りをしていた)。 * [[サザンビーチちがさき|サザンビーチちがさき (旧・茅ヶ崎海水浴場)]] * [[湘南海岸]] * [[柳島スポーツ公園]] サッカーピッチ一面と陸上競技場、テニスコートを含めたスポーツ公園。 * 柳島キャンプ場 * [[神奈川県立茅ケ崎里山公園|神奈川県立茅ヶ崎里山公園]] * [[茅ヶ崎公園野球場]] * [[茅ヶ崎市総合体育館]] * [[湘南汐見台公園]] * [[茅ヶ崎漁港]] === 観光 === * [[茅ヶ崎館]] - 映画監督・[[小津安二郎]]縁の旅館。『[[東京物語]]』等、小津三部作の執筆が行われた。 * [[茅ヶ崎市美術館]] - 洋画家の[[小山敬三]]や[[萬鉄五郎]]などの作品が多数展示されている。 * 開高健記念館 - 作家・[[開高健]]の旧私邸。[[大正天皇]]の保養所趾(未使用)。 * [[茅ヶ崎市博物館]] - 茅ヶ崎市の民俗・歴史・考古・自然に関する資料を収集・保存、展示している[[歴史博物館]]。前身の茅ヶ崎市文化資料館の業務を引き継ぎ2022年(令和4年)7月30日に開館。 * [[茅ヶ崎市民俗資料館]] - 茅ヶ崎市の民俗に関する歴史博物館で、市内に分散立地する旧和田家住宅・旧三橋家住宅・旧藤間家住宅の3軒の[[古民家]]が資料館建物兼展示物となっている。 * [[神奈川県立茅ケ崎里山公園]] === 温泉 === * [[竜泉寺の湯]] 湘南茅ヶ崎店([[スーパー銭湯]]) * 野天湯元 [[湯快爽快]] ちがさき(スーパー銭湯) === 祭り === * [[浜降祭]] - 関東三大奇祭。[[1978年]](昭和53年)[[6月23日]]に[[神奈川県指定文化財一覧#無形民俗文化財|神奈川県の無形民俗文化財]]に指定。 * [[大岡越前祭]] * [[湘南祭]] * [[サザンビーチちがさき花火大会]] * [[茅ヶ崎サザン芸術花火]] * サザンビーチフェスタ === サーフスポット === 市内東から * クソ下 藤沢市境(汐見台地域。同市の下水処理場が近い事から) * チサン 学園通り前([[チサンホテル]]がかつて営業していた為) * チーパー ゴルフ場前(チサンとパシフィックホテルの間) * パーク 第一中学前(かつてあった[[パシフィックホテル]]の前。Tバー東側。[[離岸流]]が非常に強いので要注意) * 裏パーク Tバー西側(ヘッドランド西側の為、グーフィー中心) * 白樺 中海岸前(同名の屋号を持つ食堂があった事から) * 西浜 茅ヶ崎漁港の西側(かつて市内でも有数のビッグウェーブが来るポイントであったが、近年砂浜の侵食が激しくスポットとして後退している) かつての西浜を除き、概ねビギナーから始められるポイントが多いが、ビッグウェーブが来ている際は上級者が幅を効かせるので自分のレベルにあった波乗りを心掛けたい。 == ゆかりの有名人(五十音順) == === 茅ヶ崎市出身の有名人 === ==== 芸能・音楽関係者 ==== * [[阿部龍二郎]]([[TBS]]) * [[亜蓮冬馬]](元[[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]男役) * [[石黒ケイ]]([[歌手]]) * [[岩本えり子]]([[作詞家]]) * [[えみりぃ]](女優) * [[岡田淳一]](演歌歌手・[[社交ダンス]]インストラクター) * [[小栗香織]](女優) * [[尾崎紀世彦]](歌手) * [[河西洋介]] ([[Suchmos]][[ボーカル]]) * [[片山誠史]](歌手) * [[神田恭兵]]([[舞台俳優]]) * [[喜多嶋舞]]([[俳優|女優]]) * [[桑田佳祐]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://southernallstars.jp/feature/profile |title=PROFILE |publisher =サザンオールスターズ Official Site |accessdate=2023-12-10}}</ref>([[ロック (音楽)|ロック]][[音楽家|ミュージシャン]]・[[サザンオールスターズ]][[代表|リーダー]]、市民栄誉賞受賞) * cotton([[ピストルバルブ|pistolvalve]] ボーカル、アルトサックス) * [[小桜舞子]]([[演歌歌手]]) * [[THE CRAZY SKB]](ロックミュージシャン・[[プロレスラー]]) * [[杉本哲太]](俳優) * [[杉本美樹]](女優) * [[Tani Yuuki]](シンガーソングライター、ミュージシャン) * [[徳光正行]](タレント) * [[鳥海浩輔]]([[声優]]) * [[西原久美子]](声優) * [[萩原聖人]](俳優) * [[鈴木真仁]] (声優) * [[囲碁将棋 (お笑いコンビ)|囲碁将棋・文田大介]](お笑い芸人) * [[ブレッド&バター]](歌手) * [[松坂桃李]](モデル、俳優) * [[宮治淳一]](音楽評論家) * [[MOOMIN]]([[レゲエ]]ミュージシャン) * [[yoheyOKAMOTO]](ミュージシャン) * [[井上雄貴]](声優) * SOTA (ダンス・ボーカルグループ[[BE:FIRST]]メンバー) * 天中軒すみれ(浪曲師) ==== 映画・映像作品プロデューサー ==== * [[すずきじゅんいち]](映画監督、映画プロデューサー、脚本家) * [[渋谷浩康]]([[円谷プロダクション]]・「[[ウルトラマンコスモス]]」「[[ウルトラマンネクサス]]」「[[ウルトラマンメビウス]]」プロデューサー) * [[竹林紀雄]](文教大教授、日本映画監督協会理事) ==== アナウンサー・ナレーター ==== * [[村雨美紀]] ([[札幌テレビ放送]]) * [[井手麻実]]([[湘南ケーブルネットワーク]]所属のアナウンサー。かつて[[青森テレビ]]及び[[四国放送]]にアナウンサーとして在職。元[[テレビ神奈川|tvk]]「[[みんなが出るテレビ]]」女子大生レポーター) * [[竹内明]]([[TBSテレビ]]報道記者、ニュースキャスター) * [[徳田章]]([[日本放送協会|NHK]]) * [[秀島史香]]([[J-WAVE]]他のラジオのディスクジョッキー、ナレーター) * 別府始([[J SPORTS]][[J SPORTS cycle road race|サイクルロードレース]]解説者。別府三兄弟の長男。次男[[別府匠|匠]]、三男[[別府史之|史之]]は共に[[自転車]]プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手。下述) * [[山本直]]([[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]アナウンサー。現在も在住) * [[佐藤賢治 (ナレーター)|佐藤賢治]] (ナレーター) ==== スポーツ選手 ==== * 井坂啓己:[[ドジ井坂]](日本人男子初の元プロ[[サーファー]]。ドジ井坂は愛称。) * [[石川拳大]](サーファー。[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]強化選手) * [[石坂有紀子]]([[ビーチバレー]]選手。オリンピック代表) * [[伊藤峻祐]]([[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手) * [[扇谷健司]]([[サッカー審判員]]) * [[小田島隆幸]](元[[Jリーガー]]) * [[小俣夏乃]]([[アーティスティックスイミング]]選手。[[リオデジャネイロオリンピック]]銅メダリスト。市民栄誉賞受賞) * [[鎌田翔雅]](Jリーガー) * [[倉本寿彦]](プロ野球選手) * 高橋賢次(セーリング選手、ロンドン五輪・リオデジャネイロ五輪代表) * [[茶谷健太]](プロ野球選手) * [[出口彩香]](元女子プロ野球選手。[[第5回IBAF女子ワールドカップ]]金メダリスト・ベストナイン。市民栄誉賞受賞) * [[勝南桜聡太]](元大相撲力士) * [[根本凌]](Jリーガー) * [[別府匠]]([[自転車]]プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手) * [[別府史之]](自転車プロロードレース選手。[[日本人]]初の[[ツール・ド・フランス]]完走者の一人) * [[松田詩野]](プロ[[サーファー]]) * [[三科真澄]]([[ソフトボール]]選手。[[2008年北京オリンピックのソフトボール競技|北京オリンピック]]金メダリスト。市民栄誉賞受賞) * [[山宮恵一郎]](プロレスラー) * [[山本昌]](本名:昌広。元[[プロ野球選手]]。200勝達成投手。市民栄誉賞受賞)東京都大田区生まれ。 * [[若林弘泰]] (元プロ野球選手、高校野球指導者) * [[柳田美幸]](女子[[サッカー選手]]。[[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン]]) ==== 作家 ==== * [[真鍋昌平]](漫画家) ==== その他 ==== * [[上杉謙太郎]]([[政治家]]、[[衆議院議員]]) * [[濱野健]] ([[政治家]]、前[[品川区]]長) * [[岸本喜久雄]]([[工学者]]、[[東京工業大学]]名誉教授、[[日本工学会]]会長) * [[塚本由晴]]([[建築家]]、東京工業大学教授、[[アトリエ・ワン]]共同主宰) * [[土田慎]]([[政治家]]、[[衆議院議員]]) * [[三浦瑠麗]]([[国際政治学者]]) * [[森澤恭子]]([[政治家]]、[[品川区]]長) === 茅ヶ崎市に関係のある有名人 === ==== 歴史上の人物 ==== * [[荒畑寒村]](労働運動家・作家・小説家) * [[大島浩]]([[昭和]]期の[[陸軍]][[軍人]]・[[外交官]]。[[第二次世界大戦]]当時の駐[[ドイツ]][[日本]][[大使]]) * [[大岡忠相|大岡越前守忠相]]([[江戸町奉行]]) {{See also|大岡越前祭}} * [[鎌倉景正]](平安時代に藤沢市と共に大庭御厨を設置) * [[木越安綱]]([[陸軍大臣]]。[[森鴎外]]の友人。[[軍部大臣現役武官制]]を廃し、退役軍人の大臣を認めたために軍部からは冷遇された。) * [[添田唖蝉坊]](演歌師) * [[添田知道]](演歌師・作家) * [[川上音二郎]]と[[川上貞奴]] (演劇人。別邸が高砂緑地になっている) * [[源頼朝]]([[征夷大将軍]]。相模川の橋の竣工式に落馬して薨去した。その為相模川は馬入川と呼ばれる) * [[箕作麟祥]](法学者、[[茅ヶ崎の別荘族]]の一人、一族から博士を400名輩出) * [[箕作元八]](歴史学者) * [[岡崎久次郎]](大正期の衆議院議員、実業家〈相模鉄道初代社長、[[FUJI BIKES|FUJI BIKES【日米富士自転車】]]創業者〉、篤志家) ==== 画家 ==== * [[青山義雄]] * [[小山敬三]](茅ヶ崎名誉市民) * [[西野久子]] * [[萬鉄五郎]] * [[入江観]] ==== 芸能人 ==== ===== 俳優 ===== * [[市川團十郎 (9代目)|九世市川團十郎]](現在の茅ヶ崎市平和町に別荘を所有) * [[上原謙]](俳優。加山雄三の父。現在の茅ヶ崎市東海岸南に私邸を構えた) * [[加山雄三]]([[俳優]]、歌手、市民栄誉賞受賞および市民名誉賞受賞。[[茅ヶ崎市立東海岸小学校|市立東海岸小学校]]の校歌も制作)。生まれは[[横浜市]]。 * [[鈴木保奈美]](女優。市内の小中学校に通学。生まれは[[東京都]]) ==== フリーアナウンサー ==== * [[梶原しげる]](フリーアナウンサー、[[タレント]]、[[ナレーター]]。一時期は[[神奈川県]][[横須賀市]]に在住) * [[関谷亜矢子]](元[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー、フリーアナウンサー、[[司会者]]、タレント。生まれは[[東京都]][[渋谷区]]) * [[徳光和夫]](現在市内在住のフリーアナウンサー、タレント、司会者。生まれは東京都[[目黒区]]) ==== 作家 ==== * [[池田忠雄 (脚本家)|池田忠雄]](映画の[[脚本家]]・監督) * [[石山透]](脚本家。『[[続 タイムトラベラー]]』、『[[新八犬伝]]』、『[[プリンプリン物語]]』([[日本放送協会|NHK]])など) * [[大手拓次]]([[詩人]]、[[南湖院]]にて死去) * [[開高健]](小説家。[[大正天皇]]の保養所の跡地に居住。現在は[[開高健記念館]]となっている。) * [[牧羊子]](詩人。開高健の妻) * [[開高道子]](エッセイスト、翻訳家。開高健の娘) * [[仮名垣魯文]](『[[西洋道中膝栗毛]]』を書いた幕末から明治の[[戯作]]者) * [[国木田独歩]]([[前期自然主義]]の小説家、南湖院にて死去) * [[拳骨拓史]] (作家、コンサルタント。東洋兵法・東洋史、経営学の研究家。) * [[小生夢坊]](大正・昭和期の[[漫画家]]、[[随筆家]]、社会評論家) * [[斉藤昌三]](書誌学者。『現代筆禍文献大年表』などを作る。門弟4,000人と言われる。市立図書館名誉館長。) * [[島尾敏雄]](東海岸に住んでいたことがある。『[[死の棘]]』は[[小栗康平]]監督によって映画化され[[松坂慶子]]と[[岸部一徳]]が演じ、[[カンヌ国際映画祭]]で「[[カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ#審査員グランプリ (Grand Prix du Jury)|審査員グランプリ]]」「国際批評家連盟賞」をダブル受賞した。) * [[城山三郎]]([[経済]][[小説家]]) * [[高橋治]](『秘伝』で第90回[[直木三十五賞|直木賞]]受賞) * [[津路嘉郎]](脚本家) * [[寺田ヒロオ]](漫画家。引退後に茅ヶ崎にて隠棲生活を送る。代表作『[[スポーツマン金太郎]]』など) * [[鳴神響一]](小説家。市内在住、 [[神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校|茅ヶ崎北陵高校]]卒業、作品中で茅ヶ崎を舞台にすることも多い) * [[二階堂ヒカル]](漫画家。市内在住歴が有り、茅ヶ崎を舞台にした漫画を描く。) * [[広瀬正]]([[SF作家]]、[[推理作家]]、[[ジャズ・サックス]]奏者、[[クラシックカーモデル]]製作者、茅ヶ崎市在住時に死去) * [[平塚らいてう]]([[女性解放運動]]家。姉の[[南湖院]]入院により茅ヶ崎を訪れる。雑誌「[[青鞜]]」の編集も茅ヶ崎で行う。) * [[前川佐美雄]]([[竹柏会]]系の歌人) * [[真樹日佐夫]](漫画原作者。市内在住。) * [[真山青果]](脚本家。独歩の闘病生活と死を「[[読売新聞]]」に報じて有名になる。) * [[棟田博]](小説家。『[[拝啓天皇陛下様]]』が映画化され、[[渥美清]]が演じた。) * [[八木重吉]](詩人。茅ヶ崎小学校の南側に住んでいた。) * [[柳田國男]](民俗学者、小説家。義父の別荘が茅ヶ崎にあり、[[姥島|烏帽子岩]]や六本松についても言及) * [[吉田一穂]](詩人・童話作家) * [[吉田聡]](漫画家。[[神奈川県立茅ヶ崎高等学校]]卒。同校をモデルにした作品を描く。) ==== 音楽関係者 ==== * [[永六輔]](作詞家、放送作家。東海岸南に母の実家があったため、本人も長じてから母の実家を別荘代わりに使用していた)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chigasaki-kankou.org/kirameki/period/s16/ |title=永 六輔(えいろくすけ)(本名 永孝雄) |website= まち・ひと・茅ヶ崎の煌き |publisher= 茅ヶ崎市観光協会 |accessdate=2019-02-25}}</ref> * [[平尾昌晃]]([[音楽家]]、茅ヶ崎市に1960年代後半に在住) * [[加瀬邦彦]](作曲家、[[ザ・ワイルド・ワンズ]]リーダー。茅ヶ崎在住時に音楽の世界を志す) * [[喜多嶋修]](ミュージシャン、作曲家。[[加山雄三]]の[[いとこ|従兄弟]]であり、[[ザ・ランチャーズ]]に参加する) * [[喜多嶋舞]](喜多嶋修の長女。茅ヶ崎市を本籍地とする) * [[レオニード・クロイツァー]](ピアニスト、指揮者) * [[鈴木カツ]](音楽評論家) * [[テミヤン]]([[日本のフォークシンガー|フォークシンガー]]) * [[松浦亜弥]](歌手、タレント、[[茅ヶ崎市立松浪中学校]]に転校し卒業) * [[山田耕筰]](作曲家、茅ヶ崎在住時に『[[赤とんぼ (童謡)|赤とんぼ]]』を作曲) ==== 映画監督 ==== * [[大場秀雄]] * [[小津安二郎]]([[茅ヶ崎館]]を定宿とし、多くの作品を撮る) * [[佐々木啓祐]] * [[森田芳光]](1978年、「ライブイン茅ヶ崎」で[[ぴあフィルムフェスティバル]]PFFアワード入選) ==== スポーツ選手 ==== * [[小川直也]]([[プロレスラー]]。元柔道選手〈五輪メダリスト〉。東海岸北に柔道場を開く。) * [[佐々木貴]](プロレスラー) * [[杉山愛]]([[プロ]][[テニス]][[アスリート|選手]]。実家が茅ヶ崎市に在る。市民栄誉賞受賞) * [[田代富雄]](元[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]選手。プロ野球コーチ。[[ラーメン]]店を茅ヶ崎市で一時期営業) * [[鶴見五郎]](プロレスラー。茅ヶ崎市でフィットネス道場を経営) * [[三浦雄一郎]](スキーヤー。一時茅ヶ崎市に居を構えた。) * [[ピストン堀口]]([[プロボクサー]]。茅ヶ崎市にて[[ボクシング|拳闘]]道場(現在の[[ピストン堀口ジム]])を開設。) * [[渕正信]](プロレスラー。全日本プロレス入門前後に居住していたことを語っている。) ==== 宇宙飛行士 ==== * [[土井隆雄]](市民栄誉賞受賞) * [[野口聡一]](市民栄誉賞受賞) ==== デザイナー ==== * [[おーくん・あきら]]([[デザイナー]]。[[大学教員]]) * [[坂本鐵司]]([[工業デザイン]]。[[ユニバーサルデザイン]]。) * [[イサム・ノグチ]]([[彫刻家]]。[[インテリアデザイナー]]。) ==== その他 ==== * [[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]]、第14世永世名人。棋士引退後に茅ヶ崎にて隠棲生活を送る) == 表彰および褒章 == === 歴代名誉茅ヶ崎市民 === * [[牧野英一]]([[1966年]](昭和41年)[[3月11日]]議決)[[刑法学者]] * [[磯崎貞序]]([[1976年]](昭和51年)[[3月26日]]議決)[[国会議員#衆議院議員|衆議院議員]] * [[小山敬三]](1976年(昭和51年)3月26日議決)[[画家]] * 添田良信(1976年(昭和51年)3月26日議決)初代茅ヶ崎市長 * [[加山雄三]](本名:池端直亮)(2023年(令和5年)9月1日議決<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/profile/1054594/1054597.html |title=47年ぶり5人目の名誉市民 加山雄三氏に決定 |publisher =茅ヶ崎市公式ホームページ |date=2023-9-19 |accessdate=2023-12-10}}</ref>)[[俳優]]、[[歌手]] === 茅ヶ崎市民栄誉賞歴代受賞者 === {{Anchors|茅ヶ崎市民栄誉賞歴代受賞者}} # [[野口聡一]]([[宇宙飛行士]]) # [[土井隆雄]](宇宙飛行士) # [[山本昌]](本名:昌広。[[中日ドラゴンズ]]投手) # [[三科真澄]]([[ソフトボール]][[日本代表]]内野手([[ルネサスエレクトロニクス高崎 女子ソフトボール部]]所属)/[[2008年北京オリンピックのソフトボール競技|北京オリンピック]]金メダリスト) # [[杉山愛]](プロ[[テニス]]プレーヤー) # 加山雄三(俳優、歌手) # [[出口彩香]]([[女子プロ野球]]選手) # [[桑田佳祐]]([[歌手]]) # [[小俣夏乃]]([[シンクロナイズドスイミング]]日本代表/[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロオリンピック]]銅メダリスト) == 茅ヶ崎を舞台とした作品(年代順) == * [[シーサイド・バウンド]]-[[ザ・タイガース]]2枚目のシングル曲で1967年5月5日発売。茅ヶ崎海岸でレコードのジャケット撮影された。 * [[ガメラ対宇宙怪獣バイラス]] - [[浅憲明]]監督。1968年3月20日公開。茅ヶ崎海岸が舞台、パシフィックホテルが登場する。 * [[まんが日本昔ばなし]] 340話 河童徳利 - [[毎日放送]]制作。[[1979年]]12月1日放映。 * [[湘南爆走族]] - [[吉田聡]]著。『[[少年KING]]』誌上に[[1982年]]から[[1988年]]まで連載。 * [[湘南グラフィティ]] - 吉田聡著。『[[ヤングキング]]』誌上に1988年から[[1989年]]まで連載。 * [[SURF SIDE HIGH-SCHOOL]] - [[澤井健]]著。『[[週刊ヤングサンデー]]』誌上に[[1995年]]から[[1997年]]まで連載。 * [[GOLDEN★AGE]] - [[寒川一之]]著。『[[週刊少年サンデー]]』誌上に[[2006年]]から[[2009年]]まで連載。 * [[ヘブンズランナーアキラ]] - [[二階堂ヒカル]]著。『週刊少年サンデー』誌上に[[2014年]]から[[2015年]]まで連載。 * [[サンシャイン デイズ]] - [[喜多一郎]]監督。[[テレビ神奈川]]で[[2007年]]に放映。舞台は1978年の茅ヶ崎。[[2008年]]に劇場版公開。 * [[海の上の君は、いつも笑顔。]] - [[喜多一郎]]監督/脚本、2009年5月公開<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/kankou_list/satsuei/1018081/1006982.html |title=「海の上の君は、いつも笑顔。」 |publisher =茅ヶ崎市公式ホームページ |date=2023-3-31 |accessdate=2023-12-10}}</ref>。 * [[茅ケ崎海岸の野良うさぎゴマ]] - [[内藤雅光]]著。[[2012年ロンドンオリンピックのサッカー競技・男子|2012年]]。[[宝島社]]刊。 * [[茅ヶ崎物語 〜MY LITTLE HOMETOWN〜]] - [[熊坂出]]監督、2017年9月16日 * しろときいろ〜ハワイと私のパンケーキ物語〜 - [[前田弘二]]監督、2018年2月24日<ref>{{Cite web|和書|url=https://shonanjin.com/news/shonan-kawaguchiharuna-shirotokiiro-drama-dvd-onsale/ |title=湘南からハワイへ 川口春奈主演のドラマ「しろときいろ ~ハワイと私のパンケーキ物語~」のDVD-BOXが発売 |publisher =湘南人 |date=2021-5-21 |accessdate=2023-12-10}}</ref> == 茅ヶ崎に関係する詞(コトバ)が歌詞中にある主な歌 == * 「[[勝手にシンドバッド]]」([[サザンオールスターズ]]) * 「[[チャコの海岸物語]]」(サザンオールスターズ) * 「ホテルパシフィック」([[ブレッド&バター]]) * 「[[HOTEL PACIFIC]]」(サザンオールスターズ) * 「[[夏をあきらめて]]」(サザンオールスターズ、[[研ナオコ]]) * 「[[希望の轍]]」(サザンオールスターズ) * 「ラチエン通りのシスター」(サザンオールスターズ) * 「[[涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜#収録曲|雨上がりにもう一度キスをして]]」(サザンオールスターズ) * 「茅ヶ崎に背を向けて」(サザンオールスターズ) * 「八月の詩(セレナード)」(サザンオールスターズ) * 「夜風のオン・ザ・ビーチ」(サザンオールスターズ) * 「天気雨」([[松任谷由実|荒井由実]]/歌詞中に茅ヶ崎、ゴッデス、[[相模線]]が出てくる) * 「Merry X'mas In Summer」([[KUWATA BAND]]) * 「茅ヶ崎Pipeline」([[TUBE]]) * 「こんな気持ちのまま」([[浜田省吾]]) * 「Route 134」([[杉山清貴]]&[[オメガトライブ]]) * 「茅ヶ崎サンライズ」(Lady-O(ラジオっ娘)) * 「MY LITTLE HOME TOWN」([[桑田佳祐]]/歌詞中に茅ヶ崎に存在していたCDショップ「CHIYAMA」などが出るなど、桑田の茅ヶ崎での思い出を歌っている) * 「湘南の男たち」([[アン・ルイス]]) * 「恋のハーフムーン」([[太田裕美]]、肌寒い茅ヶ崎という部分) * 「潮風の少女」([[堀ちえみ]]) * 「茅ヶ崎メモリー」([[堀江美都子]]) * 「茅ヶ崎の風に吹かれて」([[つじむらゆみこ]]) * 「GAGA」([[suchmos]]) == その他 == * [[市外局番]]:市内全域で0467(藤沢市0466とは同一[[単位料金区域|MA]]のため市内料金で通話できる。同じ市外局番の[[鎌倉市]]も同様) * [[2004年]]、市立[[中学校]]で[[創価学会]]歌演奏強要事件が起きた。 * 市の一部地域が[[低地]]となっているため、大雨が降ったときにしばしば道路が[[冠水]]したり住宅が[[水害|浸水]]することがある。 * [[河童|カッパ]]伝説が残されている(河童徳利伝説)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <!-- 文献参照ページ --> {{Reflist|2}} <!-- == 参考文献 == --> <!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) --> == 関連項目 == <!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{Sisterlinks|wikt=no|b=no|q=no|s=|commons=|commonscat=Chigasaki, Kanagawa|n=no|v=no|voy=no|d=Q633911|species=Chigasaki, Kanagawa}} * [[:Category:茅ヶ崎市]] * [[日本の地方公共団体一覧]] * [[日本の市町村の廃置分合]] * [[キャンプ茅ヶ崎]] * [[茅ヶ崎 (曖昧さ回避)]] == 外部リンク == * {{osmrelation|2689441}} * {{ウィキトラベル インライン|茅ヶ崎市|茅ヶ崎市}} * {{Official website}} * {{Twitter|Chigasaki_city|神奈川県茅ヶ崎市}} * {{Facebook|ChigasakiCity|いとしのちがさき〈茅ヶ崎市〉}} * {{YouTube|channel=UCgt3y9hEcVbd9gwFJSzd2gg|【茅ヶ崎市公式】ハーモニアスちがさき放送局}} * {{LINE公式アカウント|chigasakicity}} * [http://www.chigasaki-kankou.org/ 茅ヶ崎市観光協会] {{神奈川県の自治体}} {{日本の特例市}} {{日本100大都市}} {{茅ヶ崎市の町・字}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちかさきし}} [[Category:神奈川県の市町村]] [[Category:高座郡]]<!--茅ヶ崎町のカテゴリ--> [[Category:茅ヶ崎市|*]] [[Category:特例市]] [[Category:1908年設置の日本の市町村]]
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丹沢山地
丹沢山地(たんざわ さんち)は、神奈川県北西部に広がる山地。東西約40キロメートル、南北約20キロメートルに及び、神奈川県の面積の約6分の1を占める。秩父山地等と合わせて関東山地とも呼ばれる。丹沢山地の大部分は山岳公園として丹沢大山国定公園と神奈川県立丹沢大山自然公園に指定されている。 最高峰の蛭ヶ岳でも標高1,673mと標高では中級山岳程度であるが、尾根と谷沢が成す地形は複雑である。登山口からの標高差が大きい山が多く(最も一般的な大倉尾根は標高差1200m)、地形が複雑なことと、東京都心部から行きやすく登山者から人気があることから、遭難事故も度々起きている。 壮年期の山であるが、関東大震災により大量のガレが発生した結果、玄倉川(くろくらがわ)の上流は不相応に立派な河原を持つ。尾根の内、津久井青野原から焼山、黍殻山、姫次、蛭ヶ岳、丹沢山を経て塔ノ岳 (1491m) に至る尾根を主脈(丹沢主脈)、蛭ヶ岳から西に向かい、臼ヶ岳、檜洞丸、犬越路を経て大室山 (1588m) に至る尾根を主稜(丹沢主稜)と称する。大室山は山梨・神奈川県境上に位置する。この甲相国境尾根は、東は山梨県道志村の月夜野地区、西は三国山までのことを言い、その尾根は籠坂峠で富士山と接続する。 塔ノ岳から南東に向かってヤビツ峠に至る尾根を表尾根と言い、南下する大倉尾根と共に、小田急小田原線が開通して以来、手軽な登山コースとして親しまれている。また、神奈川県相模原市緑区青野原から主脈を登り、袖平山から神ノ川(かんのがわ)に下り、犬越路を越え、中川を下り、大滝沢から畦ヶ丸に登り、甲相国境尾根を下って山中湖畔に至る経路が東海自然歩道として整備されている。 一般的に中央部の蛭ヶ岳を境に、交通アクセスが便利で開けている東丹沢と、山深く交通アクセスのやや不便な西丹沢の2つに区分される。また、塔ノ岳以南を表丹沢や南丹沢、丹沢主稜以北を北丹沢や裏丹沢と呼ぶこともある。 丹沢山地の北東部に宮ヶ瀬湖(宮ヶ瀬ダム)、南西部に丹沢湖(三保ダム)がある。 丹沢山地を構成する岩体の多くは、南の海で1700〜1200万年前に活発だった海底火山の噴出物からできている。1000万年前にはこの岩体の中心に上昇してきたマグマが貫入し、少しずつ冷えて固まり、西丹沢山地の多くを構成する石英閃緑岩体などとなった。また、このマグマの貫入により岩体が大きく盛り上がり、太平洋に浮かぶ火山島(火山島といっても海上に少し頭を出すくらいの島)となった。この火山島が載っていたフィリピン海プレートが徐々に北上し、500万年前には日本列島と衝突して本州と一体化した。その後、追うように北上してきた伊豆半島の岩体が100〜70万年前にかけて本州と衝突、この圧力によって丹沢山地の岩体が隆起し、山地が形成された。 現在でも徐々に隆起を続けている。1923年の関東地震(関東大震災)やその余震の丹沢地震 (M 7.3) では1m前後の隆起や沈降が起き、山肌も崩壊し荒廃した。 丹沢山地は太平洋側の低い山であるが、標高800m以上ではブナやミズナラを中心にした落葉広葉樹林が多く見られる。5月中旬から6月上旬にかけてはシロヤシオやトウゴクミツバツツジの見頃となり、特に檜洞丸は登山者で賑わう。8月下旬から9月上旬にかけて、ごく一部の地域に丹沢山地固有種のサガミジョウロウホトトギスが咲くが、盗掘によって個体数が少なくなっている。 哺乳類は主にニホンジカ、ニホンザル、イノシシ、タヌキ、ホンドギツネ、ニホンカモシカ、ツキノワグマなどが生息している。特にニホンジカの数が増加(#環境問題を参照)しており駆除が必要とされているが、一方でツキノワグマは丹沢山地全域で30頭前後しか生息しておらず、絶滅の恐れもある。 現在深刻化となっているのは尾根筋の森林の立ち枯れで、丹沢山から蛭ヶ岳にかけての稜線上や竜ヶ馬場付近では顕著に見られる。この原因は定かではないが、丹沢山地が都心に近い事から、自動車の排気ガスから来る光化学オキシダント等の原因が考えられている。 その他にシカの食害問題がある。昭和20年代後半には、狩猟の解禁により丹沢山地のシカは絶滅寸前となったため、 神奈川県は1960年から15年間、シカを禁猟とした。その後、シカが増えだしたため神奈川県が1968年から調査を開始、年間10%前後の勢いで増えていることが確認されてため、1970年から苗木や若木の食害の大きい地区に猟区を設定して保護一辺倒の政策を転換した。 一方でシカの捕獲に胸を痛めた小学生の作文を横浜の合唱団が劇化するなど、様々な反対運動も行われた。 丹沢山地の稜線上では、シカの食害防止柵をいたるところに設置して植生保護がされているほか、草の少ない時期には木の皮までも食べるため、幹にネットを張り保護されている木まである。またヤマビルがシカに付着して生息範囲を広め、現在問題となっている丹沢のヒル増加の一因となった(詳しくは#ヒル問題を参照)。 丹沢山地は古来より信仰の山として知られ、山伏など修験者の修行の場でもあった。山岳や地名には仏果山、経ヶ岳、華厳山、行者ヶ岳、尊仏山(塔ノ岳)、薬師岳(蛭ヶ岳)、菩提、法輪堂(おろんど)など、信仰にちなんだ名前が数多くある。 丹沢山地のシンボル的存在である大山(おおやま)は奈良時代、僧良弁により開山されたと伝わり、古くは「阿部利山」(「大福山」「如意山」)とも言ったが、大山詣り が盛んになった江戸時代後期には中世から使用されていた「雨降」という表記と信仰を強調し「雨降山」という山号を掲げ雨乞いの霊場としての信仰を集めた。現在は、山頂に大山阿夫利神社(おおやまあふり じんじゃ)、中腹に雨降山大山寺(大山不動)、東麓に日向薬師(ひなたやくし)がある。江戸時代には信仰の対象としての 大山詣り が盛んとなった。記録によると大山詣りのための大山講が江戸をはじめ関東一円・中部地方東部・東北地方南部にまで組織され、登山ができたのは夏場の短期間であったにもかかわらず、一夏に10万人近くもの参拝客があったという。大山は山頂からの眺望が良く、比較的手軽に登れるため現在も人気があり、登山口である表参道には多くの宿坊と土産物屋が軒を連ねている。 丹沢山地のうち清川村西部と秦野市丹沢寺山のエリアは幕府直轄領(「丹沢山御林」)、西丹沢の一部が小田原藩領であった。江戸幕府は、山麓の一部に設定された入会林以外の丹沢山地ほぼ全体を御留山とし、山中にあった炭焼き小屋などを接収・廃止の上、伐採・入山を厳しく規制した。そのため、丹沢山中に入れるのは見回りの役人や修験者など一部の者に限られ、盗伐に対して非常に厳しい罰則を与え管理していた。 明治維新後、丹沢山地は皇室財産(御料林)に編入されたため手つかずの自然が多く残っていたが、明治の終わり頃から御料局による開発や御料林の一部民間への払い下げによって伐採・植林が行われるようになった。残っていた御料林も東丹沢が昭和6年に神奈川県に下賜され、また西丹沢が国有林になったことにより本格的に開発されることになる。戦前、戦中、丹沢山地の豊かな木材が乱伐され一部の山が荒廃することになるが、当時の神奈川県職員の保護活動の結果、丹沢山地にはモミ、ツガ、スギの巨木が多数残ることになった。 現在、丹沢山地は首都圏近郊の山として、年間30万人以上の登山者、100万人以上の観光客が訪れる。登山、ハイキング、沢登り、渓流釣り、キャンプ、温泉(飯山温泉・鶴巻温泉等)等、レジャーや保養レクリエーションのエリアとして賑っている。 丹沢山地の山名には、○○岳、○○山、○○ノ峰のように日本語の山名として一般的なもの以外に、○○丸、○○ノ頭と称するものがあり、以上の分類に当てはまらない山名もある。○○丸には、檜洞丸、畦ヶ丸、大丸、小丸(鍋割山の東方)などの例がある。○○ノ頭は、一般的に沢源頭の固有の名称を持たない峰を沢の名を借りて呼ぶ(本間ノ頭→本間沢からなど)が、例外もあるようである。 以上の分類に当てはまらない山名としては、表尾根の岳ノ台、二ノ塔、三ノ塔、新大日、木ノ又大日、大倉尾根の花立、塔ノ岳から北に日高(ひったか)、竜ヶ馬場(りゅうがばんば)、檜洞丸の北西に大笄(おおこうげ)、小笄(ここうげ)、姫次(ひめつぐ)から西に袖平(そでひら)、風巻(かざまき)、大山三峰山の北に鍋嵐(なべわらし)、鍋割山の南に栗ノ木洞(くりのきどう)、雨山山稜の檜岳(ひのきだっか)がある。なお、檜洞丸(ひのきぼらまる)については、由来の異なる別名、檜洞(ひのきどう)と法螺丸(ほらまる)とが混合した結果だという説がある。 一般的には、新宿駅より約1時間で着く小田急小田原線の本厚木駅・伊勢原駅・秦野駅・渋沢駅・新松田駅(JR東海御殿場線松田駅)などが起点となる。本厚木駅からは1時間に1・2本の割合で宮ヶ瀬へのバス便が出ており、途中の煤ヶ谷(すすがや)・仏果山登山口・三叉路バス停などが主な登山口となっているほか、本厚木駅・伊勢原駅から七沢方面へ向かい、そこから入山することも出来る。大山へは伊勢原駅北口から毎時3本運行されており、大山を起点に七沢温泉やヤビツ峠方面への登山が可能である。秦野駅からはヤビツ峠へのバスが出ているが、便数が1日2〜5往復と少ないため、途中の蓑毛バス停から徒歩で柏木林道を登る人も多い。渋沢駅からは大倉へのバスが、新松田駅からは西丹沢へのバスが出ている。山中湖へは、静岡県側はJR御殿場線御殿場駅、山梨県側は富士山麓電気鉄道富士急行線富士山駅からそれぞれバスが出ている。焼山方面へはJR横浜線・相模線・京王相模原線の橋本駅や中央本線相模湖駅からバスに乗車し、一旦三ケ木で東野行・月夜野行のバスに乗り継ぐか、藤野駅からバスに乗車しやまなみ温泉で東野行に乗り継ぐことになるが、どちらも本数が非常に少ない。2021年9月11日からJRバス関東が丹沢登山向けに東京駅~秦野丹沢登山口大山間で高速バス「秦野丹沢登山号」を土曜、日曜に運行している。 自家用車は、宮ヶ瀬水の郷やヤビツ峠へは普通に通行可能で、その先の富士見橋で左折すると広い駐車場がある菩提峠まで入れる。ヤビツ峠に登る途中で分岐する表丹沢林道にはゲートがある。富士見橋を直進すると札掛を経て宮ヶ瀬に至るが、途中で分岐する唐沢林道と本谷林道にはゲートがある。この本谷林道のゲートから400m程進むと塩水林道が分岐する。水無川左岸の市道52号(通称戸川林道)は戸沢出合まで車で入れる。戸沢出合から天神尾根か政次郎尾根を登るのが塔ノ岳への最短コースとなる。 西山林道(四十八瀬川左岸)は二俣まで車で入れるが、未舗装である。源蔵畑林道(四十八瀬川右岸)は舗装されていて、表丹沢県民の森まで車で入れる。寄(やどりぎ)方面は秦野峠林道の分岐まで入れる。秦野峠林道は両端にゲートがある。三保ダムから中川白石谷方面は用木沢出合まで車で入れるが、東の玄倉林道は小川谷出合の先、西の世附林道は大又沢の手前にゲートがある。 なお神奈川県自然環境保全センター(厚木市)では、烏尾山からの眺望をバーチャルリアリティ(VR)で疑似体験できる機器を利用できる。 登山者や周辺住民に問題視されているのが、ヒル(ヤマビル)の分布拡大と血を吸われる被害である。特に東丹沢と表丹沢で夏季に猛威をふるっており、入山すると必ずヒルが付くような地域もある。最近では、以前までほとんどヒルが見られなかった西丹沢山域でも少しずつ被害が出始めており、今後はさらに被害域が広がると予想されている。登山道入口には熊の出没に注意を促す立て札とともに、ヒルに対する注意や対処なども多く見られる。タッパなどにヒル除けの塩を入れて常備してある場所もある。 本来の生息域は山間部のみであったが、既に愛甲郡清川村全域及び秦野市や相模原市など周辺市町村にまで拡大を続けており、農作業中に吸血される被害も多数報告されている。主に、野生動物がヒルを媒介する事が知られている。丹沢では、シカの個体数1500頭が目安とされている面積に対し、現在4000頭余が棲息していると推計されており、ヒルの生息地域拡大をもたらしていると考えられる。 現在とられている対策の一つに、草刈りによってヒルが嫌う乾燥地帯を作り、生息域拡大の防波堤とするものがある。これは減少に一定の効果が上げられているが、根絶するまでには至らず、有効な決め手は見つかっていない。森林の食害を減らすことを主目的にシカの個体数調整が行われており、これも将来は副次的に平地に近いエリアでヒルを減らす効果が期待できる。 個人で出来る対策は新たな媒介主にならないことである。更に遠くへ運ばないためにも、ハイキングに限らず草むらなどに分け入った時は、丹念に靴下や脚などにヒルがついていないか確認することが望ましい。注意していてもヤマビルは靴の履き口やズボンの裾から容易に内側へ入り込み、また吸血されても痛みをほとんど感じないため、発見が遅れがちである。吸血されると小さな傷口に見合わないほど出血するので、服に出血痕がないかも併せて見ておく。吸血後の治療薬は特になく、感染症防止のため出血が自然に止まるまで患部を清潔に保つ程度である。ヤマビルの防護策や処置はヒルの項と同じでよい。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "丹沢山地(たんざわ さんち)は、神奈川県北西部に広がる山地。東西約40キロメートル、南北約20キロメートルに及び、神奈川県の面積の約6分の1を占める。秩父山地等と合わせて関東山地とも呼ばれる。丹沢山地の大部分は山岳公園として丹沢大山国定公園と神奈川県立丹沢大山自然公園に指定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "最高峰の蛭ヶ岳でも標高1,673mと標高では中級山岳程度であるが、尾根と谷沢が成す地形は複雑である。登山口からの標高差が大きい山が多く(最も一般的な大倉尾根は標高差1200m)、地形が複雑なことと、東京都心部から行きやすく登山者から人気があることから、遭難事故も度々起きている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "壮年期の山であるが、関東大震災により大量のガレが発生した結果、玄倉川(くろくらがわ)の上流は不相応に立派な河原を持つ。尾根の内、津久井青野原から焼山、黍殻山、姫次、蛭ヶ岳、丹沢山を経て塔ノ岳 (1491m) に至る尾根を主脈(丹沢主脈)、蛭ヶ岳から西に向かい、臼ヶ岳、檜洞丸、犬越路を経て大室山 (1588m) に至る尾根を主稜(丹沢主稜)と称する。大室山は山梨・神奈川県境上に位置する。この甲相国境尾根は、東は山梨県道志村の月夜野地区、西は三国山までのことを言い、その尾根は籠坂峠で富士山と接続する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "塔ノ岳から南東に向かってヤビツ峠に至る尾根を表尾根と言い、南下する大倉尾根と共に、小田急小田原線が開通して以来、手軽な登山コースとして親しまれている。また、神奈川県相模原市緑区青野原から主脈を登り、袖平山から神ノ川(かんのがわ)に下り、犬越路を越え、中川を下り、大滝沢から畦ヶ丸に登り、甲相国境尾根を下って山中湖畔に至る経路が東海自然歩道として整備されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一般的に中央部の蛭ヶ岳を境に、交通アクセスが便利で開けている東丹沢と、山深く交通アクセスのやや不便な西丹沢の2つに区分される。また、塔ノ岳以南を表丹沢や南丹沢、丹沢主稜以北を北丹沢や裏丹沢と呼ぶこともある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "丹沢山地の北東部に宮ヶ瀬湖(宮ヶ瀬ダム)、南西部に丹沢湖(三保ダム)がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "丹沢山地を構成する岩体の多くは、南の海で1700〜1200万年前に活発だった海底火山の噴出物からできている。1000万年前にはこの岩体の中心に上昇してきたマグマが貫入し、少しずつ冷えて固まり、西丹沢山地の多くを構成する石英閃緑岩体などとなった。また、このマグマの貫入により岩体が大きく盛り上がり、太平洋に浮かぶ火山島(火山島といっても海上に少し頭を出すくらいの島)となった。この火山島が載っていたフィリピン海プレートが徐々に北上し、500万年前には日本列島と衝突して本州と一体化した。その後、追うように北上してきた伊豆半島の岩体が100〜70万年前にかけて本州と衝突、この圧力によって丹沢山地の岩体が隆起し、山地が形成された。", "title": "丹沢山地の生い立ち" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現在でも徐々に隆起を続けている。1923年の関東地震(関東大震災)やその余震の丹沢地震 (M 7.3) では1m前後の隆起や沈降が起き、山肌も崩壊し荒廃した。", "title": "丹沢山地の生い立ち" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "丹沢山地は太平洋側の低い山であるが、標高800m以上ではブナやミズナラを中心にした落葉広葉樹林が多く見られる。5月中旬から6月上旬にかけてはシロヤシオやトウゴクミツバツツジの見頃となり、特に檜洞丸は登山者で賑わう。8月下旬から9月上旬にかけて、ごく一部の地域に丹沢山地固有種のサガミジョウロウホトトギスが咲くが、盗掘によって個体数が少なくなっている。", "title": "自然" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "哺乳類は主にニホンジカ、ニホンザル、イノシシ、タヌキ、ホンドギツネ、ニホンカモシカ、ツキノワグマなどが生息している。特にニホンジカの数が増加(#環境問題を参照)しており駆除が必要とされているが、一方でツキノワグマは丹沢山地全域で30頭前後しか生息しておらず、絶滅の恐れもある。", "title": "自然" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現在深刻化となっているのは尾根筋の森林の立ち枯れで、丹沢山から蛭ヶ岳にかけての稜線上や竜ヶ馬場付近では顕著に見られる。この原因は定かではないが、丹沢山地が都心に近い事から、自動車の排気ガスから来る光化学オキシダント等の原因が考えられている。", "title": "自然" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その他にシカの食害問題がある。昭和20年代後半には、狩猟の解禁により丹沢山地のシカは絶滅寸前となったため、 神奈川県は1960年から15年間、シカを禁猟とした。その後、シカが増えだしたため神奈川県が1968年から調査を開始、年間10%前後の勢いで増えていることが確認されてため、1970年から苗木や若木の食害の大きい地区に猟区を設定して保護一辺倒の政策を転換した。 一方でシカの捕獲に胸を痛めた小学生の作文を横浜の合唱団が劇化するなど、様々な反対運動も行われた。", "title": "自然" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "丹沢山地の稜線上では、シカの食害防止柵をいたるところに設置して植生保護がされているほか、草の少ない時期には木の皮までも食べるため、幹にネットを張り保護されている木まである。またヤマビルがシカに付着して生息範囲を広め、現在問題となっている丹沢のヒル増加の一因となった(詳しくは#ヒル問題を参照)。", "title": "自然" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "丹沢山地は古来より信仰の山として知られ、山伏など修験者の修行の場でもあった。山岳や地名には仏果山、経ヶ岳、華厳山、行者ヶ岳、尊仏山(塔ノ岳)、薬師岳(蛭ヶ岳)、菩提、法輪堂(おろんど)など、信仰にちなんだ名前が数多くある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "丹沢山地のシンボル的存在である大山(おおやま)は奈良時代、僧良弁により開山されたと伝わり、古くは「阿部利山」(「大福山」「如意山」)とも言ったが、大山詣り が盛んになった江戸時代後期には中世から使用されていた「雨降」という表記と信仰を強調し「雨降山」という山号を掲げ雨乞いの霊場としての信仰を集めた。現在は、山頂に大山阿夫利神社(おおやまあふり じんじゃ)、中腹に雨降山大山寺(大山不動)、東麓に日向薬師(ひなたやくし)がある。江戸時代には信仰の対象としての 大山詣り が盛んとなった。記録によると大山詣りのための大山講が江戸をはじめ関東一円・中部地方東部・東北地方南部にまで組織され、登山ができたのは夏場の短期間であったにもかかわらず、一夏に10万人近くもの参拝客があったという。大山は山頂からの眺望が良く、比較的手軽に登れるため現在も人気があり、登山口である表参道には多くの宿坊と土産物屋が軒を連ねている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "丹沢山地のうち清川村西部と秦野市丹沢寺山のエリアは幕府直轄領(「丹沢山御林」)、西丹沢の一部が小田原藩領であった。江戸幕府は、山麓の一部に設定された入会林以外の丹沢山地ほぼ全体を御留山とし、山中にあった炭焼き小屋などを接収・廃止の上、伐採・入山を厳しく規制した。そのため、丹沢山中に入れるのは見回りの役人や修験者など一部の者に限られ、盗伐に対して非常に厳しい罰則を与え管理していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "明治維新後、丹沢山地は皇室財産(御料林)に編入されたため手つかずの自然が多く残っていたが、明治の終わり頃から御料局による開発や御料林の一部民間への払い下げによって伐採・植林が行われるようになった。残っていた御料林も東丹沢が昭和6年に神奈川県に下賜され、また西丹沢が国有林になったことにより本格的に開発されることになる。戦前、戦中、丹沢山地の豊かな木材が乱伐され一部の山が荒廃することになるが、当時の神奈川県職員の保護活動の結果、丹沢山地にはモミ、ツガ、スギの巨木が多数残ることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "現在、丹沢山地は首都圏近郊の山として、年間30万人以上の登山者、100万人以上の観光客が訪れる。登山、ハイキング、沢登り、渓流釣り、キャンプ、温泉(飯山温泉・鶴巻温泉等)等、レジャーや保養レクリエーションのエリアとして賑っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "丹沢山地の山名には、○○岳、○○山、○○ノ峰のように日本語の山名として一般的なもの以外に、○○丸、○○ノ頭と称するものがあり、以上の分類に当てはまらない山名もある。○○丸には、檜洞丸、畦ヶ丸、大丸、小丸(鍋割山の東方)などの例がある。○○ノ頭は、一般的に沢源頭の固有の名称を持たない峰を沢の名を借りて呼ぶ(本間ノ頭→本間沢からなど)が、例外もあるようである。", "title": "特徴的な山名" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "以上の分類に当てはまらない山名としては、表尾根の岳ノ台、二ノ塔、三ノ塔、新大日、木ノ又大日、大倉尾根の花立、塔ノ岳から北に日高(ひったか)、竜ヶ馬場(りゅうがばんば)、檜洞丸の北西に大笄(おおこうげ)、小笄(ここうげ)、姫次(ひめつぐ)から西に袖平(そでひら)、風巻(かざまき)、大山三峰山の北に鍋嵐(なべわらし)、鍋割山の南に栗ノ木洞(くりのきどう)、雨山山稜の檜岳(ひのきだっか)がある。なお、檜洞丸(ひのきぼらまる)については、由来の異なる別名、檜洞(ひのきどう)と法螺丸(ほらまる)とが混合した結果だという説がある。", "title": "特徴的な山名" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一般的には、新宿駅より約1時間で着く小田急小田原線の本厚木駅・伊勢原駅・秦野駅・渋沢駅・新松田駅(JR東海御殿場線松田駅)などが起点となる。本厚木駅からは1時間に1・2本の割合で宮ヶ瀬へのバス便が出ており、途中の煤ヶ谷(すすがや)・仏果山登山口・三叉路バス停などが主な登山口となっているほか、本厚木駅・伊勢原駅から七沢方面へ向かい、そこから入山することも出来る。大山へは伊勢原駅北口から毎時3本運行されており、大山を起点に七沢温泉やヤビツ峠方面への登山が可能である。秦野駅からはヤビツ峠へのバスが出ているが、便数が1日2〜5往復と少ないため、途中の蓑毛バス停から徒歩で柏木林道を登る人も多い。渋沢駅からは大倉へのバスが、新松田駅からは西丹沢へのバスが出ている。山中湖へは、静岡県側はJR御殿場線御殿場駅、山梨県側は富士山麓電気鉄道富士急行線富士山駅からそれぞれバスが出ている。焼山方面へはJR横浜線・相模線・京王相模原線の橋本駅や中央本線相模湖駅からバスに乗車し、一旦三ケ木で東野行・月夜野行のバスに乗り継ぐか、藤野駅からバスに乗車しやまなみ温泉で東野行に乗り継ぐことになるが、どちらも本数が非常に少ない。2021年9月11日からJRバス関東が丹沢登山向けに東京駅~秦野丹沢登山口大山間で高速バス「秦野丹沢登山号」を土曜、日曜に運行している。", "title": "交通と登山" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "自家用車は、宮ヶ瀬水の郷やヤビツ峠へは普通に通行可能で、その先の富士見橋で左折すると広い駐車場がある菩提峠まで入れる。ヤビツ峠に登る途中で分岐する表丹沢林道にはゲートがある。富士見橋を直進すると札掛を経て宮ヶ瀬に至るが、途中で分岐する唐沢林道と本谷林道にはゲートがある。この本谷林道のゲートから400m程進むと塩水林道が分岐する。水無川左岸の市道52号(通称戸川林道)は戸沢出合まで車で入れる。戸沢出合から天神尾根か政次郎尾根を登るのが塔ノ岳への最短コースとなる。", "title": "交通と登山" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": 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丹沢山地は、神奈川県北西部に広がる山地。東西約40キロメートル、南北約20キロメートルに及び、神奈川県の面積の約6分の1を占める。秩父山地等と合わせて関東山地とも呼ばれる。丹沢山地の大部分は山岳公園として丹沢大山国定公園と神奈川県立丹沢大山自然公園に指定されている。
{{出典の明記|date=2014年1月}} {{山系 |名称=丹沢山地 |画像=[[ファイル:Tanzawa mountains from yokohama.JPG|300px]] |画像キャプション = 横浜市から望む丹沢山地 (2007年1月撮影) |所在地=[[神奈川県]]・[[山梨県]] | 緯度度 = 35|緯度分 = 29|緯度秒 = 11 | 経度度 = 139|経度分 = 8|経度秒 = 20 |上位山系 = [[関東山地]] |最高峰=[[蛭ヶ岳]] |標高=1,673 }} '''丹沢山地'''(たんざわ さんち)は、[[神奈川県]]北西部に広がる[[山地]]。東西約40キロメートル、南北約20キロメートルに及び、神奈川県の面積の約6分の1を占める。[[秩父山地]]等と合わせて[[関東山地]]とも呼ばれる。丹沢山地の大部分は山岳公園として[[丹沢大山国定公園]]と[[神奈川県立丹沢大山自然公園]]に指定されている<ref>[http://www.kanagawa-park.or.jp/miyagase/tanzawa.htm 丹沢大山国定公園、県立丹沢大山自然公園] 神奈川県立宮ケ瀬ビジターセンター(2018年3月14日閲覧)</ref>。 <!--「関東山地の一部を構成」という表現は適当ではない。自然の造形作用は意図をもって何かを構成するものではない。比喩的表現としても理解しがたい。関東山地とは関東平野の西に広がる山塊に付けられた名称でしかない。--> == 地理 == [[File:Tanzawa Mountains 2011-12-30.jpg|thumb|丹沢山地の鳥瞰]] 最高峰の[[蛭ヶ岳]]でも標高1,673mと標高では中級山岳程度であるが、[[尾根]]と[[谷|谷沢]]が成す地形は複雑である。登山口からの標高差が大きい山が多く(最も一般的な[[大倉尾根]]は標高差1200m)、地形が複雑なことと、東京都心部から行きやすく登山者から人気があることから、[[遭難]]事故も度々起きている。 [[地形輪廻#壮年期地形(mature)|壮年期]]の山であるが、[[関東大震災]]により大量のガレが発生した結果、[[玄倉川]](くろくらがわ)の上流は不相応に立派な河原を持つ。尾根の内、津久井青野原から[[焼山 (丹沢)|焼山]]、[[黍殻山]]、[[姫次]]、[[蛭ヶ岳]]、[[丹沢山]]を経て[[塔ノ岳]] (1491m) に至る尾根を'''主脈'''([[丹沢主脈]])、蛭ヶ岳から西に向かい、[[臼ヶ岳 (神奈川県)|臼ヶ岳]]、[[檜洞丸]]、[[犬越路]]を経て[[大室山 (丹沢)|大室山]] (1588m) に至る尾根を'''主稜'''([[丹沢主稜]])と称する。大室山は[[山梨県|山梨]]・[[神奈川県|神奈川]]県境上に位置する。この[[甲斐国|甲]][[相模国|相]]国境尾根は、東は山梨県[[道志村]]の月夜野地区、西は[[三国山 (神奈川県・山梨県・静岡県)|三国山]]までのことを言い、その尾根は[[籠坂峠]]で[[富士山]]と接続する。 [[塔ノ岳]]から南東に向かって[[ヤビツ峠]]に至る尾根を[[表尾根]]と言い、南下する[[大倉尾根]]と共に、[[小田急小田原線]]が開通して以来、手軽な登山コースとして親しまれている。また、神奈川県[[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]青野原から主脈を登り、[[袖平山]]から神ノ川(かんのがわ)に下り、[[犬越路]]を越え、中川を下り、大滝沢から[[畦ヶ丸]]に登り、甲相国境尾根を下って[[山中湖]]畔に至る経路が[[東海自然歩道]]として整備されている。 一般的に中央部の[[蛭ヶ岳]]を境に、交通アクセスが便利で開けている'''[[東丹沢]]'''と、山深く交通アクセスのやや不便な'''[[西丹沢]]'''の2つに区分される。また、[[塔ノ岳]]以南を'''表丹沢'''や'''南丹沢'''、丹沢主稜以北を'''[[北丹沢]]'''や'''裏丹沢'''と呼ぶこともある。 丹沢山地の北東部に[[宮ヶ瀬湖]]([[宮ヶ瀬ダム]])、南西部に[[丹沢湖]]([[三保ダム]])がある。 {| class="wikitable" width="800px" align="left" cellpadding="0" cellspacing="0" |- | align=center|<div style="width:800px;float:center;margin:0;position:relative;">[[ファイル:Tanzawa-map 02.png|800px]] <div style="position:absolute;left:90px;top:100px;font-size:16px">'''[[道志山塊|{{Color|yellow|道志山塊}}]]'''</div> <div style="position:absolute;left:284px;top:260px;font-size:16px">'''[[西丹沢|{{Color|yellow|西丹沢}}]]'''</div> <div style="position:absolute;left:625px;top:170px;font-size:16px">'''[[東丹沢|{{Color|yellow|東丹沢}}]]'''</div> <!--尾根--> <div style="position:absolute;left:480px;top:85px;font-size:14px">'''[[#丹沢主脈|{{Color|yellow|   丹<br /> 沢<br />主<br />    脈}}]]'''</div> <div style="position:absolute;left:310px;top:107px;font-size:14px">'''[[#丹沢主稜|{{Color|yellow|丹<br />     沢 主<br />          稜}}]]'''</div> <div style="position:absolute;left:513px;top:235px;font-size:14px">'''[[#表尾根|{{Color|yellow|表<br />    尾<br />      根}}]]'''</div> <div style="position:absolute;left:505px;top:260px;font-size:14px">'''[[大倉尾根|{{Color|yellow|大<br /> 倉<br />  尾<br /> 根}}]]'''</div> <div style="position:absolute;left:625px;top:70px;font-size:14px">'''[[#仏果連山|{{Color|yellow|仏<br />   果<br />      連<br />         山'''}}]]</div> <div style="position:absolute;left:150px;top:180px;font-size:13px">[[#甲相国境尾根|{{Color|yellow|'''甲'''}}]]</div> <div style="position:absolute;left:175px;top:173px;font-size:13px">{{Color|yellow|'''相'''}}</div> <div style="position:absolute;left:200px;top:165px;font-size:13px">{{Color|yellow|'''国'''}}</div> <div style="position:absolute;left:225px;top:157px;font-size:13px">{{Color|yellow|'''境'''}}</div> <div style="position:absolute;left:250px;top:149px;font-size:13px">{{Color|yellow|'''尾'''}}</div> <div style="position:absolute;left:275px;top:141px;font-size:13px">{{Color|yellow|'''根'''}}</div> <!--湖--> <div style="position:absolute;left:625px;top:84px;font-size:10px">'''[[宮ヶ瀬湖|{{Color|white|宮ヶ瀬湖}}]]'''</div> <div style="position:absolute;left:272px;top:315px;font-size:10px">'''[[丹沢湖|{{Color|white|丹沢湖}}]]'''</div> <!--山--> <div style="position:absolute;left:477px;top:145px;font-size:10px">[[蛭ヶ岳|{{Color|#FFFFFF|▲蛭ヶ岳}}]]</div> <div style="position:absolute;left:519px;top:177px;font-size:10px">[[丹沢山|{{Color|white|▲<br />丹沢山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:534px;top:221px;font-size:10px">[[塔ノ岳|{{Color|white|▲塔ノ岳}}]]</div> <div style="position:absolute;left:410px;top:164px;font-size:10px">[[檜洞丸|{{Color|white|▲檜洞丸}}]]</div> <div style="position:absolute;left:489px;top:245px;font-size:10px">[[鍋割山 (神奈川県)|{{Color|white|▲鍋割山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:669px;top:263px;font-size:10px">[[大山 (神奈川県)|{{Color|white|▲大山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:340px;top:92px;font-size:10px">[[大室山 (丹沢)|{{Color|white|▲大室山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:703px;top:85px;font-size:10px">[[仏果山|{{Color|white|▲仏果山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:265px;top:165px;font-size:10px">[[畦ヶ丸|{{Color|white|▲畦ヶ丸}}]]</div> <div style="position:absolute;left:157px;top:195px;font-size:10px">[[菰釣山|{{Color|white|▲菰釣山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:14px;top:350px;font-size:10px">[[三国山 (神奈川県・山梨県・静岡県)|{{Color|white|▲三国山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:498px;top:66px;font-size:10px">[[黍殻山|{{Color|white|▲黍殻山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:692px;top:203px;font-size:10px">[[大山三峰山|{{Color|white|▲大山三峰山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:196px;top:357px;font-size:10px">[[不老山 (神奈川県)|{{Color|white|▲不老山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:289px;top:395px;font-size:10px">[[大野山 (神奈川県)|{{Color|white|▲大野山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:68px;top:145px;font-size:10px">[[御正体山|{{Color|white|▲御正体山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:503px;top:168px;font-size:10px">[[不動ノ峰|{{Color|white|▲不動ノ峰}}]]</div> <div style="position:absolute;left:282px;top:96px;font-size:10px">[[加入道山|{{Color|white|▲<br />加入道山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:252px;top:278px;font-size:10px">[[権現山 (丹沢 世附)|{{Color|white|▲権現山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:454px;top:171px;font-size:10px">[[臼ヶ岳 (神奈川県)|{{Color|white|▲臼ヶ岳}}]]</div> <div style="position:absolute;left:588px;top:268px;font-size:10px">[[三ノ塔|{{Color|white|▲三ノ塔}}]]</div> <div style="position:absolute;left:453px;top:94px;font-size:10px">[[袖平山|{{Color|white|▲袖平山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:415px;top:191px;font-size:10px">[[同角ノ頭|{{Color|white|▲同角ノ頭}}]]</div> <div style="position:absolute;left:689px;top:72px;font-size:10px">[[高取山 (愛甲郡)|{{Color|white|▲高取山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:738px;top:116px;font-size:10px">[[経ヶ岳 (神奈川県)|{{Color|white|▲経ヶ岳}}]]</div> <div style="position:absolute;left:432px;top:279px;font-size:10px">[[檜岳|{{Color|white|▲檜岳}}]]</div> <div style="position:absolute;left:448px;top:334px;font-size:10px">[[シダンゴ山|{{Color|white|▲シダンゴ山}}]]</div> <div style="position:absolute;left:525px;top:42px;font-size:10px">[[焼山 (丹沢)|{{Color|white|▲焼山}}]]</div> <!--峠--> <div style="position:absolute;left:645px;top:293px;font-size:10px">[[ヤビツ峠|{{Color|white|●ヤビツ峠}}]]</div> <div style="position:absolute;left:348px;top:132px;font-size:10px">[[犬越路|{{Color|white|●<br />犬越路}}]]</div> <div style="position:absolute;left:51px;top:207px;font-size:10px">[[山伏峠 (山梨県)|{{Color|white|山伏峠<br />●}}]]</div> </div> |- |丹沢山地の地図。▲をクリックすると山のページにリンクします。<span style="font-size:90%;">※表示環境によっては文字がずれることがあります。</span> |} {{clear}} * [[:画像:Tanzawa mountains from Mt.Bukkasan.JPG|'''(写真)''']] [[仏果山]]から見た[[東丹沢]]の山々、中央に[[丹沢山]] * [[:画像:Bukka_from_Aikawa_06-Apr.JPG|'''(写真)''']] [[愛川町]]より仏果連山。左から[[高取山 (愛甲郡)|高取山]]、仏果山、[[経ヶ岳 (神奈川県)|経ヶ岳]]、[[華厳山]] * [[:画像:Sannotoh-tanzawasankai.JPG|'''(写真)''']] [[三ノ塔]]から望む[[表尾根]]、[[鍋割山稜|鍋割]]・[[檜岳山稜]] * [[:画像:Hinokidakka-sanryo.JPG|'''(写真)''']] [[シダンゴ山]]より檜岳山稜 * [[:画像:Tanzawa mountains from Mt.Takatori 07-Feb.JPG|'''(写真)''']] 高取山から望む[[大山 (神奈川県)|大山]]と[[表尾根]]と[[丹沢主脈]] * [[:画像:Tanzawamitsumine-tennohji.JPG|'''(写真)''']] 天王寺尾根から見た[[丹沢三峰]] * [[:画像:Tanzawa-shuryo from Hanadate.JPG|'''(写真)''']] [[花立 (丹沢)|花立]]付近から見た[[丹沢主稜]]。右から[[蛭ヶ岳]]、[[ミカゲ沢ノ頭]]、[[臼ヶ岳 (神奈川県)|臼ヶ岳]]、[[大室山 (丹沢)|大室山]]、[[檜洞丸]]。 * [[:画像:Tanzawa-shuryou from Mt.Hirugatake.JPG|'''(写真)''']] 蛭ヶ岳から見た丹沢主稜(左手前〜右奥)と[[石棚山稜|石棚]]・[[同角山稜]](左奥)、[[富士山]](最奥)。 * [[:画像:Hahu-nishitanzawa.JPG|'''(写真)''']] 大室山付近から見た[[甲相国境尾根]](中央)と[[道志山塊]](右奥) == 主要な山 == <table width=100%> <tr valign=top> <td> === 仏果連山 === * [[高取山 (愛甲郡)|高取山]] (706m) * [[仏果山]] (747m) * [[経ヶ岳 (神奈川県)|経ヶ岳]] (663m) * [[華厳山]] (602m) === 大山周辺 === * [[大山 (神奈川県)|大山]] (1,252m) * [[春岳山]] (949m) * [[岳ノ台]] (899m) * [[三峰山 (丹沢)|大山三峰山]] (935m) *三角山  ( m) *雨乞岳  ( m) === 表尾根 === * [[二ノ塔]] (1,144m) * [[三ノ塔]] (1,205m) * [[烏尾山]] (1,136m) * [[行者岳]] (1,209m) * [[新大日]] (1,340m) * [[木ノ又大日]] (1,396m) * [[塔ノ岳]] (1,491m) === 鍋割・檜岳山稜 === * [[大丸 (丹沢)|大丸]] (1,386m) * [[小丸]] (1,341m) * [[鍋割山 (神奈川県)|鍋割山]] (1,273m) * [[雨山]] (1,176m) * [[檜岳]] (1,167m) * [[伊勢沢ノ頭]] (1,177m) * [[シダンゴ山]] (758m) * [[高松山 (松田町・山北町)|高松山]](801m)  <td> === 丹沢主脈 === * [[塔ノ岳]] (1,491m) * [[日高 (丹沢)|日高]] (1,461m) * [[竜ヶ馬場]] (1,504m) * [[丹沢山]] (1,567m) * [[不動ノ峰]] (1,614m) * [[棚沢ノ頭]] (1,590m) * [[鬼ヶ岩ノ頭]] (1,608m) * [[蛭ヶ岳]] (1,673m) * [[姫次]] (1,433m) * [[袖平山]] (1,432m) * [[黍殻山]] (1,273m) * [[焼山 (丹沢)|焼山]] (1,060m) === 丹沢三峰 === * [[本間ノ頭|東峰]] (1,345m) * [[円山木ノ頭|中峰]] (1,360m) * [[太礼ノ頭|西峰]] (1,352m) === 大倉尾根 === * [[花立 (丹沢)|花立]] (1,370m) </td> <td> === 丹沢主稜 === * [[蛭ヶ岳]] (1,673m) * [[ミカゲ沢ノ頭]] (1,421m) * [[臼ヶ岳 (神奈川県)|臼ヶ岳]] (1,460m) * [[檜洞丸]] (1,601m) * [[熊笹ノ峰]] (1,523m) * [[大笄]] (1,510m) * [[小笄]] (1,288m) * [[大室山 (丹沢)|大室山]] (1,588m) === 石棚・同角山稜 === * [[テシロノ頭]] (1,491m) * [[石棚山]] (1,351m) * [[同角ノ頭]] (1,491m) * [[石小屋ノ頭]] (1,254m) * [[大石山 (神奈川県)|大石山]] (1,220m) </td> <td> === 甲相国境尾根 === * [[大室山 (丹沢)|大室山]] (1,588m) * [[加入道山]] (1,418m) * [[畦ヶ丸]] (1,293m) * [[大界木山]] (1,246m) * [[城ヶ尾山]] (1,199m) * [[菰釣山]] (1,379m) * [[石保土山]] (1,297m) * [[大棚ノ頭]] (1,269m) * [[高指山]] (1,174m) * [[明神山 (神奈川県・山梨県)|明神山]] (1,291m) * [[三国山 (神奈川県・山梨県・静岡県)|三国山]] (1,343m) === 丹沢湖周辺 === * [[権現山 (丹沢 世附)|権現山(世附)]] (1,019m) * [[不老山 (神奈川県)|不老山]] (928m) * [[大野山 (神奈川県)|大野山]] (723m) </td> </tr> </table> == 丹沢山地の生い立ち == 丹沢山地を構成する岩体の多くは、南の海で1700〜1200万年前に活発だった[[海底火山]]の噴出物からできている。1000万年前にはこの岩体の中心に上昇してきた[[マグマ]]が貫入し、少しずつ冷えて固まり、西丹沢山地の多くを構成する石英閃緑岩体などとなった。また、このマグマの貫入により岩体が大きく盛り上がり、[[太平洋]]に浮かぶ火山島(火山島といっても海上に少し頭を出すくらいの島)となった。この火山島が載っていた[[フィリピン海プレート]]が徐々に北上し、500万年前には日本列島と衝突して[[本州]]と一体化した。その後、追うように北上してきた[[伊豆半島]]の岩体が100〜70万年前にかけて本州と衝突、この圧力によって丹沢山地の岩体が隆起し、山地が形成された。 現在でも徐々に隆起を続けている。[[1923年]]の[[関東地震]]([[関東大震災]])やその余震の'''[[丹沢地震]]''' (M 7.3) では1m前後の隆起や沈降が起き、山肌も崩壊し荒廃した。 == 自然 == [[ファイル:Mt.Setozawanoatama 01.jpg|thumb|200px|拡大しないと分かりにくいが、両側にシカ柵が設置されている。また、右側の木には食害防止のネットが張られている。([[丹沢三峰|三峰尾根]]の[[瀬戸沢ノ頭]]付近にて)]] [[ファイル:Mt.Ryugabamba 01.jpg|thumb|200px|[[竜ヶ馬場]]付近の立ち枯れ]] === 生態系 === 丹沢山地は太平洋側の低い山であるが、標高800m以上では[[ブナ]]や[[ミズナラ]]を中心にした[[落葉広葉樹林]]が多く見られる。5月中旬から6月上旬にかけては[[シロヤシオ]]や[[トウゴクミツバツツジ]]の見頃となり、特に[[檜洞丸]]は登山者で賑わう。8月下旬から9月上旬にかけて、ごく一部の地域に丹沢山地[[固有種]]の[[サガミジョウロウホトトギス]]が咲くが、盗掘によって個体数が少なくなっている。 [[哺乳類]]は主に[[ニホンジカ]]、[[ニホンザル]]、[[イノシシ]]、[[タヌキ]]、[[ホンドギツネ]]、[[ニホンカモシカ]]、[[ツキノワグマ]]などが生息している。特にニホンジカの数が増加([[#環境問題]]を参照)しており駆除が必要とされているが、一方でツキノワグマは丹沢山地全域で30頭前後しか生息しておらず、絶滅の恐れもある。 === 環境問題 === 現在深刻化となっているのは尾根筋の森林の立ち枯れで、[[丹沢山]]から[[蛭ヶ岳]]にかけての稜線上や[[竜ヶ馬場]]付近では顕著に見られる。この原因は定かではないが、丹沢山地が都心に近い事から、自動車の[[排気ガス]]から来る[[光化学オキシダント]]等の原因が考えられている。 その他にシカの食害問題がある。<!-- 現在神奈川県では「食害」と言わず「採食」と言っているようです。確認願います⇒鹿の「採食による害」を「食害」または「採食害」といいます。-->昭和20年代後半には、狩猟の解禁により丹沢山地のシカは絶滅寸前となったため、 神奈川県は[[1960年]]から15年間、シカを禁猟とした。その後、シカが増えだしたため神奈川県が1968年から調査を開始、年間10%前後の勢いで増えていることが確認されてため、[[1970年]]から苗木や若木の食害の大きい地区に猟区を設定して保護一辺倒の政策を転換した<ref>シカよごめんよ 丹沢の狩猟認める『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月13日朝刊 12版 15面</ref>。 一方でシカの捕獲に胸を痛めた小学生の作文を横浜の合唱団が劇化するなど、様々な反対運動も行われた<ref>丹沢のシカは泣いている 「残酷な生どりかた」横浜の合唱団が劇化『朝日新聞』1970年(昭和45年)10月24日朝刊 12版 22面</ref>。 丹沢山地の稜線上では、シカの食害防止柵をいたるところに設置して植生保護がされているほか、草の少ない時期には木の皮までも食べるため、幹にネットを張り保護されている木まである。また[[ヒル (動物)|ヤマビル]]がシカに付着して生息範囲を広め、現在問題となっている丹沢のヒル増加の一因となった(詳しくは[[#ヒル問題]]を参照)。 == 歴史 == {{右| [[ファイル:Mt.Oyama from Mt.Sannoto 01.jpg|thumb|200px|none|古来から[[山岳信仰]]の対象となった[[大山 (神奈川県)|大山]]]] }} 丹沢山地は古来より信仰の山として知られ、[[山伏]]など[[修験者]]の修行の場でもあった。山岳や地名には[[仏果山]]、[[経ヶ岳 (神奈川県)|経ヶ岳]]、[[華厳山]]、[[行者ヶ岳]]、尊仏山([[塔ノ岳]])、薬師岳([[蛭ヶ岳]])、菩提、法輪堂(おろんど)など、信仰にちなんだ名前が数多くある。 丹沢山地のシンボル的存在である[[大山 (神奈川県)|大山(おおやま)]]は[[奈良時代]]、僧[[良弁]]により開山されたと伝わり、古くは「阿部利山」(「大福山」「如意山」)<ref>{{Cite book|title=『神奈川県語り物資料-相模大山縁起-』|date=|year=1970年・1971年|publisher=神奈川県教育委員会|last=瓔禮|first=小島}}</ref>とも言ったが、[https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story024/index.html 大山詣り] が盛んになった江戸時代後期には中世から使用されていた「雨降」という表記<ref>「役行者本記」(室町時代、『日本大蔵経』『修験道章疏』所収)</ref>と信仰を強調し「雨降山」という山号<ref>{{Cite book|title=『大山地誌調書上』|date=|year=天保六年(1835)|publisher=東京大学史料編纂所 蔵}}</ref>を掲げ[[雨乞い]]の霊場としての信仰を集めた。現在は、[[山頂]]に[[大山阿夫利神社]](おおやまあふり じんじゃ)、中腹に[[大山寺 (伊勢原市)|雨降山大山寺]](大山不動)、東麓に[[日向薬師]](ひなたやくし)がある。[[江戸時代]]には信仰の対象としての [https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story024/index.html 大山詣り] が盛んとなった。記録によると大山詣りのための大山[[講]]が江戸をはじめ関東一円・中部地方東部・東北地方南部にまで組織され、登山ができたのは夏場の短期間であったにもかかわらず、一夏に10万人近くもの参拝客があったという。大山は山頂からの眺望が良く、比較的手軽に登れるため現在も人気があり、登山口である表参道には多くの宿坊と土産物屋が軒を連ねている。 丹沢山地のうち清川村西部と秦野市丹沢寺山のエリアは幕府直轄領(「丹沢山[[御林]]」)、西丹沢の一部が小田原藩領であった。江戸幕府は、山麓の一部に設定された[[入会地|入会林]]以外の丹沢山地ほぼ全体を[[留山|御留山]]とし、山中にあった炭焼き小屋などを接収・廃止の上、伐採・入山を厳しく規制した。そのため、丹沢山中に入れるのは見回りの役人や修験者など一部の者に限られ、盗伐に対して非常に厳しい罰則を与え管理していた。<ref>[https://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f48/p4946.html 丹沢大山学術調査報告書] 1964年 神奈川県(2020年1月16日閲覧)</ref> 明治維新後、丹沢山地は皇室財産([[御料所|御料林]])に編入されたため手つかずの自然が多く残っていたが、明治の終わり頃から[[帝室林野局|御料局]]による開発や御料林の一部民間への払い下げによって伐採・植林が行われるようになった。残っていた御料林も東丹沢が昭和6年に神奈川県に下賜され、また西丹沢が国有林になったことにより本格的に開発されることになる。戦前、戦中、丹沢山地の豊かな木材が乱伐され一部の山が荒廃することになるが、当時の神奈川県職員の保護活動の結果、丹沢山地にはモミ、ツガ、スギの巨木が多数残ることになった。<ref>[https://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f48/p4947.html 丹沢大山自然環境総合調査報告書] 1997年 神奈川県(2020年1月17日閲覧)</ref> 現在、丹沢山地は[[首都圏 (日本)|首都圏]]近郊の山として、年間30万人以上の登山者、100万人以上の観光客が訪れる。[[登山]]、[[ハイキング]]、[[沢登り]]、[[渓流釣り]]、[[キャンプ]]、[[温泉]]([[飯山温泉]]・[[鶴巻温泉]]等)等、[[レジャー]]や保養[[レクリエーション]]のエリアとして賑っている。 == 特徴的な山名 == {{独自研究|date=2014年1月}} 丹沢山地の山名には、○○岳、○○山、○○ノ峰のように日本語の山名として一般的なもの以外に、○○丸、○○ノ頭と称するものがあり、以上の分類に当てはまらない山名もある。○○丸には、[[檜洞丸]]、[[畦ヶ丸]]、[[大丸 (丹沢)|大丸]]、[[小丸]](鍋割山の東方)などの例がある。○○ノ頭は、一般的に沢源頭の固有の名称を持たない峰を沢の名を借りて呼ぶ([[本間ノ頭]]→本間沢からなど)が、例外もあるようである。 以上の分類に当てはまらない山名としては、表尾根の[[岳ノ台]]、[[二ノ塔]]、[[三ノ塔]]、[[新大日]]、[[木ノ又大日]]、[[大倉尾根]]の[[花立 (丹沢)|花立]]、塔ノ岳から北に[[日高 (丹沢)|日高]](ひったか)、[[竜ヶ馬場]](りゅうがばんば)、檜洞丸の北西に[[大笄]](おおこうげ)、[[小笄]](ここうげ)、[[姫次]](ひめつぐ)から西に[[袖平山|袖平]](そでひら)、[[風巻ノ頭|風巻]](かざまき)、[[三峰山 (丹沢)|大山三峰山]]の北に[[鍋嵐]](なべわらし)、[[鍋割山 (神奈川県)|鍋割山]]の南に[[栗ノ木洞]](くりのきどう)、雨山山稜の[[檜岳]](ひのきだっか)がある。なお、檜洞丸(ひのきぼらまる)については、由来の異なる別名、檜洞(ひのきどう)と法螺丸(ほらまる)とが混合した結果だという説がある。 == 交通と登山 == {{独自研究|date=2014年1月}} 一般的には、[[新宿駅]]より約1時間で着く[[小田急小田原線]]の[[本厚木駅]]・[[伊勢原駅]]・[[秦野駅]]・[[渋沢駅]]・[[新松田駅]]([[東海旅客鉄道|JR東海]][[御殿場線]][[松田駅]])などが起点となる。本厚木駅からは1時間に1・2本の割合で宮ヶ瀬へのバス便が出ており、途中の煤ヶ谷(すすがや)・仏果山登山口・三叉路バス停などが主な登山口となっているほか、本厚木駅・伊勢原駅から七沢方面へ向かい、そこから入山することも出来る。大山へは伊勢原駅北口から毎時3本運行されており、大山を起点に[[七沢温泉]]やヤビツ峠方面への登山が可能である。秦野駅からはヤビツ峠へのバスが出ているが、便数が1日2〜5往復と少ないため、途中の蓑毛バス停から徒歩で柏木林道を登る人も多い。渋沢駅からは大倉へのバスが、新松田駅からは西丹沢へのバスが出ている。[[山中湖]]へは、[[静岡県]]側はJR御殿場線[[御殿場駅]]、[[山梨県]]側は[[富士山麓電気鉄道富士急行線]][[富士山駅]]からそれぞれバスが出ている。焼山方面へはJR[[横浜線]]・[[相模線]]・[[京王相模原線]]の[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]や[[中央本線]][[相模湖駅]]からバスに乗車し、一旦[[三ケ木]]で東野行・月夜野行のバスに乗り継ぐか、[[藤野駅]]からバスに乗車しやまなみ温泉で東野行に乗り継ぐことになるが、どちらも本数が非常に少ない。<br />2021年9月11日から[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]が丹沢登山向けに[[東京駅バス乗り場|東京駅]]~秦野丹沢登山口大山間で高速バス「秦野丹沢登山号」を土曜、日曜に運行している。<ref>{{Cite web|和書|title=高速バス「東京駅~秦野丹沢線」路線廃止について {{!}} ジェイアールバス関東 |url=http://www.jrbuskanto.co.jp/topics/post_831.html |website=www.jrbuskanto.co.jp |access-date=2022-11-02}}</ref> 自家用車は、[[宮ヶ瀬湖|宮ヶ瀬]]水の郷や[[ヤビツ峠]]へは普通に通行可能で、その先の富士見橋で左折すると広い駐車場がある菩提峠まで入れる。ヤビツ峠に登る途中で分岐する表丹沢林道にはゲートがある。富士見橋を直進すると札掛を経て宮ヶ瀬に至るが、途中で分岐する唐沢林道と本谷林道にはゲートがある。この本谷林道のゲートから400m程進むと[[塩水林道]]が分岐する。水無川左岸の市道52号(通称戸川林道)は戸沢出合まで車で入れる。戸沢出合から天神尾根か政次郎尾根を登るのが塔ノ岳への最短コースとなる。 西山林道([[四十八瀬川]]左岸)は二俣まで車で入れるが、未舗装である。源蔵畑林道([[四十八瀬川]]右岸)は舗装されていて、表丹沢県民の森まで車で入れる。寄(やどりぎ)方面は秦野峠林道の分岐まで入れる。秦野峠林道は両端にゲートがある。三保ダムから中川白石谷方面は用木沢出合まで車で入れるが、東の玄倉林道は小川谷出合の先、西の世附林道は大又沢の手前にゲートがある。 なお神奈川県自然環境保全センター(厚木市)では、[[烏尾山]]からの眺望を[[バーチャルリアリティ]](VR)で疑似体験できる機器を利用できる<ref>[https://www.sankei.com/article/20180302-NYQ25XH4ONL7BNPTH7S3HT4U3A/ VRで丹沢山地を体験 神奈川県自然環境保全センター]『産経新聞』ニュース(2018年3月2日)</ref>。 {{clear}} == ヒル問題 == 登山者や周辺住民に問題視されているのが、[[ヒル (動物)|ヒル]]([[ヤマビル]])の分布拡大と血を吸われる被害である<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f986/p10106.html ヤマビルにご注意を!] 神奈川県ホームページ(2015年6月1日)2018年3月14日閲覧</ref>。特に[[東丹沢]]と[[表丹沢]]で夏季に猛威をふるっており、入山すると必ずヒルが付くような地域もある。最近では、以前までほとんどヒルが見られなかった[[西丹沢]]山域でも少しずつ被害が出始めており、今後はさらに被害域が広がると予想されている。登山道入口には熊の出没に注意を促す立て札とともに、ヒルに対する注意や対処なども多く見られる。[[タッパーウェア|タッパ]]などにヒル除けの塩を入れて常備してある場所もある。 本来の生息域は山間部のみであったが、既に[[愛甲郡]][[清川村]]全域及び[[秦野市]]や[[相模原市]]など周辺市町村にまで拡大を続けており、農作業中に吸血される被害も多数報告されている。主に、野生動物がヒルを媒介する事が知られている。丹沢では、シカの個体数1500頭が目安とされている面積に対し、現在4000頭余が棲息していると推計されており、ヒルの生息地域拡大をもたらしていると考えられる。 === 対策 === 現在とられている対策の一つに、[[草刈り]]によってヒルが嫌う乾燥地帯を作り、生息域拡大の[[防波堤]]とするものがある。これは減少に一定の効果が上げられているが、根絶するまでには至らず、有効な決め手は見つかっていない。森林の食害を減らすことを主目的にシカの個体数調整が行われており、これも将来は副次的に平地に近いエリアでヒルを減らす効果が期待できる。 個人で出来る対策は新たな媒介主にならないことである。更に遠くへ運ばないためにも、ハイキングに限らず草むらなどに分け入った時は、丹念に靴下や脚などにヒルがついていないか確認することが望ましい。注意していてもヤマビルは靴の履き口やズボンの裾から容易に内側へ入り込み、また吸血されても痛みをほとんど感じないため、発見が遅れがちである。吸血されると小さな傷口に見合わないほど出血するので、服に出血痕がないかも併せて見ておく。吸血後の治療薬は特になく、[[感染症]]防止のため出血が自然に止まるまで患部を清潔に保つ程度である。ヤマビルの防護策や処置は[[ヒル (動物)|ヒル]]の項と同じでよい。 {{節スタブ}} == 丹沢山地を舞台とする作品 == * 『[[ゴジラvsモスラ]]』 * 『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』 * 『[[GODZILLA 怪獣惑星]]』 * [[中里介山]]『大菩薩峠』「無明の巻」「禹門三級の巻」「白骨の巻」「めいろの巻」 * [[非婚同盟]](主人公の伊庭由起子の別荘がある山として登場) ==脚注・出典== {{Reflist}} <!--== 関連項目 ==--> == 外部リンク == {{Commonscat|Tanzawa Mountains}} * [http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f48/ 丹沢大山自然環境情報ステーション](神奈川県公式ウェブサイト) * [http://www.kanagawa-park.or.jp/tanzawavc/ 神奈川県立 秦野ビジターセンター・西丹沢ビジターセンター] ** [https://nishitanzawashizenkyoushitsu.blogspot.com/ 西丹沢ビジターセンターブログ] * [https://www.kankou-hadano.org/hadano_mountain/index.html 表丹沢登山ガイド] - 秦野市観光協会 {{日本百名山}} {{日本の山脈と山地}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たんさわさんち}} [[Category:山岳名目録]] [[Category:日本の山地|たんさわ]] [[Category:神奈川県の自然景勝地|たんさわ]] [[Category:神奈川県の地形]] [[Category:丹沢の山|*たんさわ]]
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得川義季
新田 義季/得川 義季/世良田 義季(にった よしすえ / えがわ(とくがわ)よしすえ / せらだ よしすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期頃にかけての武士・御家人。得川氏・世良田氏の祖。のちに徳川家康が清和源氏を僭称する際に松平氏の遠祖とみなされる。また名字の表記について「得川」か「世良田」かで論争がある。 新田義重の四男として誕生。新田義兼の同母弟といい、新田一門でも地位はかなり高かったと言う。父・義重からは上野国新田郡(新田荘)世良田郷を譲られ、世良田郷の地頭となった。これにより世良田と称したともいわれる。また、新田郡得川郷を領有して、得川四郎を称したとされる(『群馬県百科事典』)。 義季の後は長子・頼有(下野四郎太郎)が得川郷を継承し、次子・世良田頼氏が世良田郷を継承した。『徳川実紀』にはもう一人頼成という子もいるとする。 承久3年(1221年)、栄西の弟子栄朝を住持に招いて世良田長楽寺を開基・建立した。 通説では、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』にその名が見出される徳河三郎義秀(とくがわさぶろうよしひで)なる御家人と同一人物と見なされる。義季の名は系図上にしかなく『吾妻鏡』に全く見られないため、系図上の「義季」は御家人としては「徳河義秀」だったのではと考える意見もある。しかし、義季の兄・義兼よりも義秀は席次が先になっており、弟が兄より席次が逆になるのは変として、実は徳河三郎義秀と義季は別人ではないかとする説が存在する。 有栖川宮詐欺事件の裁判において、「有栖川識仁」を僭称する被疑者男性の妻・有栖川宮妃を演じた被疑者女性が、「八百屋を営んでいる夫の実家は源義季(得川義季)の末裔である」旨を供述して話題になったが、そもそも主張していた高松宮のご落胤(非嫡出の隠し子)で江戸時代に創設された有栖川宮の末裔という主張と、源義季の末裔というのはなんら接点のない荒唐無稽な法螺話であるとして一笑に付された。
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新田 義季/得川 義季/世良田 義季は、平安時代末期から鎌倉時代初期頃にかけての武士・御家人。得川氏・世良田氏の祖。のちに徳川家康が清和源氏を僭称する際に松平氏の遠祖とみなされる。また名字の表記について「得川」か「世良田」かで論争がある。
{{基礎情報 武士 | 氏名 =新田 義季 / 得川 義季 / 世良田 義季 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[平安時代]]末期 - [[鎌倉時代]]中期 | 生誕 = 不明 | 死没 = [[寛元]]4年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]([[1247年]][[1月23日]])<ref>「新田松平家譜」(『系図綜覧』所収)</ref> | 改名 = 頼王御前(幼名)→義季 | 別名 = 得川四郎、世良田義季、通称:二郎/四郎 | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = | 霊名 = | 墓所 = | 官位 = | 幕府 = | 主君 = | 藩 = | 氏族 = [[清和源氏]][[新田氏]]流[[得川氏]] | 父母 = 父:[[源義重]] | 兄弟 = [[里見義俊]]、[[山名義範]]、[[新田義兼]]、'''義季'''、[[額戸経義]]、[[祥寿姫]]([[源義平]]正室)、<br/>[[源義清 (矢田判官代)|足利義清]]室、[[武田信光]]室、[[那須与一]]室?、[[得河義秀]]? | 妻 = | 子 = [[得川頼有|頼有]]、[[世良田頼氏]]、[[得河頼成|頼成]]? | 特記事項 = }} '''新田 義季/得川 義季/世良田 義季'''(にった よしすえ / えがわ(とくがわ)よしすえ / せらだ よしすえ)は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期頃にかけての[[武士]]・[[御家人]]。[[得川氏]]・[[世良田氏]]の祖。のちに[[徳川家康]]が清和源氏を僭称する際に[[松平氏]]の遠祖とみなされる。また名字の表記について「得川」か「世良田」かで論争がある<ref>系譜に記載される「得川(徳川)義季」に従う意見と、「世良田地頭」と推定される義季は「世良田義季」と名乗ったと考える意見がある(定方晟「特別招待席 徳川義季か世良田義季か」『歴史研究』45(9)、2003年9月)。</ref>。 == 経歴 == [[源義重|新田義重]]の四男として誕生。[[新田義兼]]の同母弟といい、新田一門でも地位はかなり高かったと言う。父・義重からは上野国[[新田郡]]([[新田荘]])[[世良田郷]]<ref>現在の[[群馬県]][[太田市]][[世良田町]]。徳川に北隣する地名である。</ref>を譲られ、世良田郷の[[地頭]]となった。これにより世良田と称したともいわれる。また、新田郡[[得川郷]]<ref>現在の[[太田市]][[徳川町 (太田市)|徳川町]]。</ref>を領有して<ref>義季の得川郷領有に関しては、父・義重やその妻である母親からの譲渡を示す史料は存在しない。父親からの伝領は押切・世良田・三木・上平塚・下平塚であった。 また、新田荘の成立過程で『得川郷』なる地名は存在せず、義季の開発によって出現した可能性が高い。</ref>、'''得川四郎'''を称したとされる(『群馬県百科事典』)。 義季の後は長子・[[得川頼有|頼有]](下野四郎太郎)が得川郷を継承し、次子・[[世良田頼氏]]が世良田郷を継承した。『徳川実紀』にはもう一人[[得河頼成|頼成]]という子もいるとする。 [[承久]]3年([[1221年]])、[[明菴栄西|栄西]]の弟子[[釈円栄朝|栄朝]]を住持に招いて世良田[[世良田長楽寺|長楽寺]]を開基・建立した。 == 得河義秀との関連 == 通説では、[[鎌倉幕府]]の史書『[[吾妻鏡]]』にその名が見出される[[得河義秀|徳河三郎義秀]](とくがわさぶろうよしひで)なる[[御家人]]と同一人物と見なされる<ref>『群馬県史』、[[久保田順一]]『新田一族の盛衰』など。</ref>。義季の名は系図上にしかなく『吾妻鏡』に全く見られないため、系図上の「義季」は御家人としては「徳河義秀」だったのではと考える意見もある<ref>久保田順一『中世前期上野の地域社会』岩田書院、2009年</ref>。しかし、義季の兄・[[新田義兼|義兼]]よりも義秀は席次が先になっており、弟が兄より席次が逆になるのは変として、実は徳河三郎義秀と義季は別人ではないかとする説が存在する<ref>加藤克巳「「徳河義秀」の素性-新田義季の所領拡大過程を考える」『群馬文化』232、[[1992年]]。[[清水昇 (作家)|清水昇]]『消された一族』[[1990年]]</ref>。 == 系譜 == *父:[[源義重]] *母:不詳 *妻:不詳 **男子:[[得川頼有]] **男子:[[世良田頼氏]] **男子:[[得河頼成]]? == 有栖川宮詐欺事件 == [[有栖川宮詐欺事件]]の裁判において、「有栖川識仁」を[[僭称]]する被疑者男性の妻・[[有栖川宮]]妃を演じた被疑者女性が、「八百屋を営んでいる夫の実家は源義季(得川義季)の末裔である」旨を供述して話題になったが、そもそも主張していた[[高松宮]]のご落胤(非嫡出の隠し子)で江戸時代に創設された[[有栖川宮]]の末裔という主張と、源義季の末裔というのはなんら接点のない荒唐無稽な法螺話であるとして一笑に付された<ref>有栖川宮の祭祀を継承した[[高松宮宣仁親王]]の妃[[宣仁親王妃喜久子|喜久子]]が源義季の末裔という徳川氏出身である点に着目して捏造したと思われる</ref>。 == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 参考文献 == * [[千々和実]]編 『新田氏根本史料』 [[国書刊行会]]、[[1974年]] * [[清水昇 (作家)|清水昇]] 『消された一族-清和源氏新田氏支流・世良田氏』 [[あさを社]]、[[1990年]] * [[久保田順一]] 『新田一族の盛衰』 [[あかぎ出版]]、[[2003年]] {{DEFAULTSORT:とくかわ よしすえ}} [[Category:平安時代の武士]] [[Category:鎌倉時代の武士]] [[Category:得川氏|よしすえ]] [[Category:世良田氏]] [[Category:上野国の人物]] [[Category:生年不明]] [[Category:1247年没]]
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得川氏
得川氏(えがわし、とくがわし)は、平安時代末から鎌倉時代初め頃の上野国の豪族。清和源氏新田氏の一族。新田義重の四男・義季とその子である得川頼有(下野守、下野四郎太郎)を祖とする。新田荘得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を本貫とした。書によっては得河・徳河・徳川とも表記される。 「得川」は本来は「えがわ」と読んでいたが、後に「とくがわ」と読むようになる。同族の世良田氏とは、始祖の義季の名乗りの関係から系譜上の位置づけに諸説ある。 義重の子義季が、得川郷の領主となり得川四郎と称したことに始まる。義季は新田郡世良田郷を父義重から譲られ、世良田郷もあわせて治めた。ただし、義季の得川四郎という名は系図にしかなく、『長楽寺文書』では「新田次郎」であり、また得川ではなく世良田義季と称していたとする説などもあって、得川と本当に名乗ったかはっきりしない。 義季の後は、得川郷は義季の長子頼有が継承し、得川四郎太郎と称した。一方、次子頼氏が世良田郷を継承して世良田氏の開祖となった。このため、得川義季表記の系譜では、世良田氏は得川氏から分かれた格好になり、世良田義季説では得川頼有が得川氏祖となって、得川氏は世良田氏から分立したことになる。 しかし、頼有は外孫(娘の子)で養子でもある岩松政経(岩松氏)に得川郷を含む所領を譲り、これにより得川郷領主の得川氏は消滅した。その後の得川氏については詳らかではないが、系譜類には頼有の子として頼泰という人物がみえる。 なお、頼泰の子の頼尚、孫の尚氏(頼氏)の代までの名が記されている系譜が見られる。しかし、それぞれの系譜によって大きく異同しており疑問視されている。以後、頼有が下野守であったことから伝えられている「下野」の通称は岩松氏に継承されていった。 また、戦国時代に常陸国の佐竹氏に仕えた徳川氏も、世良田義季(得川義季)の後裔と称した。常陸徳川氏は江戸時代に至って主君佐竹氏に従い出羽に移り、秋田藩に仕える。この徳川氏は水戸徳川家とは別系統の「徳川氏」として堂々と通した。 また、室町時代の因幡邑美郡(鳥取県岩美郡の一部)にも徳川氏がいた。これも新田氏流とされ、義季の玄孫にあたり、北朝方の世良田義政(上総国守護)の系統とする。後に森本氏と称したとされる(家老の森本将監などが出る)。 なお、のちに三河国に興った松平氏は、松平清康のとき、世良田氏の後裔だと源氏を称する。清康の孫である家康は、三河守任官を朝廷に働きかけて正親町天皇に「世良田源氏の三河守任官は前例が無い」との理由で拒否された。そのため近衛前久に対処を依頼し、世良田氏で、世良田義季(得川義季)の末裔ではあるが、世良田頼氏の嫡男と弟から、源氏から藤原氏支流へ分流したと称して得川氏の末裔として字を変え「徳川」への改姓と藤原氏への本姓変更ともに従五位下三河守に叙任された(近衛家文書)。30数年後に関ヶ原の戦いの勝利後、慶長年間に吉良家の系図を借用し細工して源氏に戻し、徳川氏は世良田氏直系の源姓で得川氏を復活した氏族であるということにして、家康は征夷大将軍に就任した。
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得川氏(えがわし、とくがわし)は、平安時代末から鎌倉時代初め頃の上野国の豪族。清和源氏新田氏の一族。新田義重の四男・義季とその子である得川頼有(下野守、下野四郎太郎)を祖とする。新田荘得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を本貫とした。書によっては得河・徳河・徳川とも表記される。 「得川」は本来は「えがわ」と読んでいたが、後に「とくがわ」と読むようになる。同族の世良田氏とは、始祖の義季の名乗りの関係から系譜上の位置づけに諸説ある。
{{脚注の不足|date=2017年7月}} {{日本の氏族 |家名=得川氏 |家紋=Unknown.jpg |家紋名称= |本姓=[[清和源氏]][[世良田氏|世良田氏流]] |家祖=[[得川義季]] |種別=[[武家]] |出身地=[[上野国]][[新田荘]] |根拠地=上野国新田荘[[世良田郷]] |人物=[[得河義秀]]? }} '''得川氏'''(えがわし、とくがわし)は、[[平安時代]]末から[[鎌倉時代]]初め頃の[[上野国]]の豪族。[[清和源氏]][[新田氏]]の一族。[[源義重|新田義重]]の四男・[[得川義季|義季]]とその子である[[得川頼有]](下野守、下野四郎太郎)を祖とする。[[新田荘]][[得川郷]]{{Efn|{{要出典範囲|date=2017年7月|義季の得川郷領有に関しては、父親である新田義重やその妻である母親からの譲渡を示す史料は存在しない}}。{{要出典範囲|date=2017年7月|父親からの伝領は押切・世良田・三木・上平塚・下平塚であった}}。 また、{{要出典範囲|date=2017年7月|新田荘の成立過程で『得川郷』なる地名は存在せず、義季の開発によって出現した可能性が高い}}。}}(現在の[[群馬県]][[太田市]][[徳川町 (太田市)|徳川町]])を[[本貫]]とした。書によっては'''得河・徳河・徳川'''とも表記される。 「得川」は本来は「えがわ」と読んでいたが、後に「とくがわ」と読むようになる。同族の[[世良田氏]]とは、始祖の義季の名乗りの関係から系譜上の位置づけに諸説ある。 {{Main|徳川氏}} ==概要== 義重の子[[得川義季|義季]]が、得川郷の領主となり'''得川四郎'''と称したことに始まる。義季は[[新田郡]][[世良田郷]]{{Efn|現在の[[太田市]][[世良田町]]は太田市[[徳川町]]に北隣する地名である。}}を父義重から譲られ、世良田郷もあわせて治めた。ただし、義季の得川四郎という名は系図にしかなく、『[[長楽寺 (太田市)|長楽寺文書]]』では「新田次郎」であり、また得川ではなく世良田義季と称していたとする説などもあって、得川と本当に名乗ったかはっきりしない。 義季の後は、得川郷は義季の長子'''[[得川頼有|頼有]]'''が継承し、'''得川四郎太郎'''と称した。一方、次子[[世良田頼氏|頼氏]]が世良田郷を継承して[[世良田氏]]の開祖となった。このため、得川義季表記の系譜では、世良田氏は得川氏から分かれた格好になり、世良田義季説では得川頼有が得川氏祖となって、得川氏は世良田氏から分立したことになる。 しかし、頼有は[[外孫]](娘の子)で養子でもある[[岩松政経]]([[岩松氏]])に得川郷を含む所領を譲り<ref>『得川頼有譲状』</ref>、これにより得川郷領主の得川氏は消滅した。その後の得川氏については詳らかではないが、系譜類には頼有の子として[[得川頼泰|頼泰]]という人物がみえる。 なお、頼泰の子の[[得川頼尚|頼尚]]、孫の[[得川尚氏|尚氏(頼氏)]]の代までの名が記されている系譜が見られる<ref>『[[系図纂要]]』、『[[長楽寺系図]]』、『[[系図綜覧]]』など</ref>。しかし、それぞれの系譜によって大きく異同しており疑問視されている。以後、頼有が下野守であったことから伝えられている「下野」の通称は[[岩松氏]]に継承されていった。 また、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[常陸国]]の[[佐竹氏]]に仕えた'''徳川氏'''も、世良田義季(得川義季)の後裔と称した。常陸徳川氏は[[江戸時代]]に至って主君佐竹氏に従い[[出羽国|出羽]]に移り、[[秋田藩]]に仕える。この徳川氏は[[水戸徳川家]]とは別系統の「徳川氏」として堂々と通した<ref>[[樋口清之]]監修・[[丹羽基二]]著 『姓氏 姓氏研究の決定版』 [[秋田書店]]、[[1970年]]、p.228</ref>。 また、[[室町時代]]の[[因幡国|因幡]][[邑美郡]]([[鳥取県]][[岩美郡]]の一部)にも徳川氏がいた。これも新田氏流とされ、義季の玄孫にあたり、[[北朝 (日本)|北朝方]]の[[世良田義政]]([[上総国]][[守護]])の系統とする{{Efn|『[[姓氏家系大辞典]]』の著者[[太田亮]]は、この得川氏は[[山名氏]]に従って下野国南西部から因幡に移住したものではないかと推定している。}}。後に[[森本氏]]と称したとされる(家老の森本[[将監]]などが出る)<ref> 太田亮『姓氏家系大辞典』{{要ページ番号|date=2017年7月}}</ref>。 なお、のちに[[三河国]]に興った[[松平氏]]は、[[松平清康]]のとき、世良田氏の後裔だと[[源氏]]を称する{{要出典|date=2021年11月}}。清康の孫である[[徳川家康|家康]]は、[[三河守]]任官を[[朝廷 (日本)|朝廷]]に働きかけて[[正親町天皇]]に「世良田源氏の三河守任官は前例が無い」との理由で拒否された{{要出典|date=2021年11月}}。そのため[[近衛前久]]に対処を依頼し、世良田氏で、世良田義季(得川義季)の末裔ではあるが、[[世良田頼氏]]の嫡男と弟から、源氏から[[藤原氏|藤原氏支流]]へ分流したと称して'''得川氏'''の末裔として字を変え「[[徳川氏|徳川]]」への[[改姓]]と[[藤原氏]]への[[本姓]]変更ともに[[従五位下]][[三河守]]に叙任された(近衛家文書)<ref>[[谷口研語]]『流浪の戦国貴族 近衛前久 - 天下一統に翻弄された生涯』<中公新書> 1994年pp.167-176、引用元は『岡崎市史』</ref>。30数年後に[[関ヶ原の戦い]]の勝利後、[[慶長]]年間に[[吉良家]]の系図を借用し細工して源氏に戻し<ref>谷口研語『流浪の戦国貴族 近衛前久 - 天下一統に翻弄された生涯』<中公新書> 1994年pp.167-176</ref>、徳川氏は世良田氏直系の源姓で得川氏を復活した氏族であるということにして、家康は[[征夷大将軍]]に就任した。 == 脚注 == ===注釈=== {{脚注ヘルプ}} {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * 『[[新田町]]誌』第1巻、新田町誌刊行委員会、1990年。 * 群馬県史編さん委員会編 『群馬県史』第3巻 [[群馬県]]、1977年。 * [[千々和実]]編 『新田氏根本史料』 国書刊行会、1974年。 * [[清水昇 (作家)|清水昇]] 『消された一族-清和源氏新田氏支流・世良田氏』 [[あさを社]]、1990年。 * [[久保田順一]] 『新田一族の盛衰』 [[あかぎ出版]]、2003年。 * [[太田亮]] 『[[姓氏家系大辞典]]』 [[角川書店]]、1963年。 * 平野明夫『三河松平氏一族』新人物往来社 2002年 ISBN 4-404-02961-6 C0021 == 関連項目 == * [[世良田氏]] * [[松平氏]]・[[徳川氏]] * [[江田氏]] * [[岩松氏]] {{DEFAULTSORT:とくかわし}} [[Category:得川氏|!]] [[category:日本の氏族|とくかわ]] [[Category:関東地方の氏族]] [[Category:太田市の歴史]]
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トヨタ生産方式
トヨタ生産方式(トヨタせいさんほうしき、Toyota Production System、略称TPS)は、トヨタ自動車の生み出した、工場における生産活動の運用方式の一つ。多くの企業がこれにならった方式を取り入れており、工場等の製造現場やそれに付随するスタッフ部門だけでなく、間接部門でも取り入れている企業も見られる。 河合満によると、TPSが普及する以前も「必要の時に必要なだけ作る」という考えが現場に浸透していたという。 トヨタ生産方式は第二次世界大戦前のアメリカの自動車産業におけるライン生産方式などを研究し、豊田喜一郎らが提唱していた考えを大野耐一らが体系化したものである。また、戦争中に熟練工を徴兵されたことによる生産力の低下を補う方法として開発されていた経緯もある。(トヨタ生産方式、40ページ) その柱となるのが“7つのムダ”削減、ジャストインタイム、標準作業時間に代表される現場主義、自働化である。 なお、トヨタ生産方式の確立にあたって、NPS(New Production System)研究会へと引き継がれ、現在に生きている。 トヨタ生産方式では、ムダを「付加価値を高めない各種現象や結果」と定義している。このムダを無くすことが重要な取り組みとされる。ムダとは、代表的なものとして以下の7つがあり、それを「7つのムダ」と表現している。 「手待ち(てまち)のムダ」は、「手持ち(てもち)のムダ」と誤表記・誤解される場合がある。また、上記のムダを改善しないことを8つ目のムダとすることもある。 「加工」の「か」、「在庫」の「ざ」、「作りすぎ」の「っ」、「手待ち」の「て」、「動作」の「と」、「運搬」の「う」、「不良」の「ふ」、と頭文字を取れることから、「飾って豆腐」とも呼ばれている。 一般にはジャストインタイム生産システムとして知られている。ジャストインタイムで生産するために考えられた方式で、元々は「スーパーマーケット方式」と呼ばれた。これは作業の前工程をスーパーマーケット、後工程をスーパーの顧客に見立て、スーパーマーケットである前工程は「顧客」にとって必要十分な量の部品を予想して生産し、顧客である後工程は必要に応じて「スーパーマーケット」に部品を受け取りに行くというもの。 これによりそれまで生じていた部品の需供の不一致の解消を図り、無駄を削減した。この方式で後工程が前工程に部品を受け取りに行くときに発行する帳票を「かんばん」と称したことから、この方式はかんばん方式と呼ばれる。 なお、サプライ・チェーン・マネジメントでは類似したアイデアを前工程・後工程の二段階ではなく多段の工程に対して連鎖的に適応する。またMRP/MPR2では前工程を基準に考えていく「押し出し方式」なのに対し、かんばん方式では後工程から遡って逆順に考えるので、かんばん方式は「引っ張り方式(プル方式)」とも呼ばれる。 1人の作業者が複数の工程の作業をこなせるようにトレーニングすることである。これにより 「無駄の徹底的な排除」を実現するための方法の一例として、「自動化」・「機械化」の意味合いを持つ言葉である、自働化がある。 無駄は排除しなければならないが、合理化を進めるあまりに従業員の人間性やインセンティブ(労働意欲)を無視してはならない。このことから、トヨタ自動車では自動化の事を自働化と呼んでいる。 「自働化」とは、不良が発生した際に機械が自動的に停止し、後の工程へ良品のみを送るようにすること、公式ページでは通常の加工が完了したら機械を安全に停止させることも指すとしている。 豊田佐吉が発明した自動織機に、稼動中に糸が切れた際に自動で停止する装置が組み込まれていたことに由来している。 自動機械は人が止めるまで動き続けるが、その最中に調整がずれたり、供給される材料に異常があっても止まることなく動きつづける。この結果、多くの不良品を作りつづけることとなり、7番目の無駄の元凶となってしまう。 最近でこそ各種センサが高性能・低価格で普及し、自動停止制御が浸透しているが、この言葉が言われ始めた1960(昭和40)年代は、「オートメーション」という言葉が「最先端=高効率」と同義語として受け取られる風潮があり、「止まらない」機械がほとんどであった。 トヨタ生産方式では、買ってきた機械類を何の工夫もせずにそのまま使うことは好ましいとはされていない。機械を買ってきて、そのまま組み合わせて使用しているだけの人は「カタログエンジニア」などと呼ばれる。買ってきた機械に人間の知恵を織り込み、カタログ通りに機械を使う他社に対して差をつけることが求められる。 人が関わらない自動化をしてしまうと、機械へカイゼン(改善)の知恵を織り込めなくなることから、カイゼンを持続的に行うためにも人が関わる自働化が重要となってくる。 トヨタ生産方式は非製造業にも適応可能であり、小売りであるイトーヨーカ堂やユニーが導入した例や、自治体では福島県伊達市が導入した例などがある。生産性の向上、コスト削減、窓口の待ち時間を削減、知識を全庁内で共有、職場環境の美化などに効果があった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "トヨタ生産方式(トヨタせいさんほうしき、Toyota Production System、略称TPS)は、トヨタ自動車の生み出した、工場における生産活動の運用方式の一つ。多くの企業がこれにならった方式を取り入れており、工場等の製造現場やそれに付随するスタッフ部門だけでなく、間接部門でも取り入れている企業も見られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "河合満によると、TPSが普及する以前も「必要の時に必要なだけ作る」という考えが現場に浸透していたという。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "トヨタ生産方式は第二次世界大戦前のアメリカの自動車産業におけるライン生産方式などを研究し、豊田喜一郎らが提唱していた考えを大野耐一らが体系化したものである。また、戦争中に熟練工を徴兵されたことによる生産力の低下を補う方法として開発されていた経緯もある。(トヨタ生産方式、40ページ)", "title": "基本概念" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その柱となるのが“7つのムダ”削減、ジャストインタイム、標準作業時間に代表される現場主義、自働化である。", "title": "基本概念" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、トヨタ生産方式の確立にあたって、NPS(New Production System)研究会へと引き継がれ、現在に生きている。", "title": "基本概念" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "トヨタ生産方式では、ムダを「付加価値を高めない各種現象や結果」と定義している。このムダを無くすことが重要な取り組みとされる。ムダとは、代表的なものとして以下の7つがあり、それを「7つのムダ」と表現している。", "title": "7つのムダ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「手待ち(てまち)のムダ」は、「手持ち(てもち)のムダ」と誤表記・誤解される場合がある。また、上記のムダを改善しないことを8つ目のムダとすることもある。", "title": "7つのムダ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「加工」の「か」、「在庫」の「ざ」、「作りすぎ」の「っ」、「手待ち」の「て」、「動作」の「と」、「運搬」の「う」、「不良」の「ふ」、と頭文字を取れることから、「飾って豆腐」とも呼ばれている。", "title": "7つのムダ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一般にはジャストインタイム生産システムとして知られている。ジャストインタイムで生産するために考えられた方式で、元々は「スーパーマーケット方式」と呼ばれた。これは作業の前工程をスーパーマーケット、後工程をスーパーの顧客に見立て、スーパーマーケットである前工程は「顧客」にとって必要十分な量の部品を予想して生産し、顧客である後工程は必要に応じて「スーパーマーケット」に部品を受け取りに行くというもの。", "title": "ジャストインタイム" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これによりそれまで生じていた部品の需供の不一致の解消を図り、無駄を削減した。この方式で後工程が前工程に部品を受け取りに行くときに発行する帳票を「かんばん」と称したことから、この方式はかんばん方式と呼ばれる。", "title": "ジャストインタイム" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、サプライ・チェーン・マネジメントでは類似したアイデアを前工程・後工程の二段階ではなく多段の工程に対して連鎖的に適応する。またMRP/MPR2では前工程を基準に考えていく「押し出し方式」なのに対し、かんばん方式では後工程から遡って逆順に考えるので、かんばん方式は「引っ張り方式(プル方式)」とも呼ばれる。", "title": "ジャストインタイム" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1人の作業者が複数の工程の作業をこなせるようにトレーニングすることである。これにより", "title": "ジャストインタイム" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "「無駄の徹底的な排除」を実現するための方法の一例として、「自動化」・「機械化」の意味合いを持つ言葉である、自働化がある。", "title": "自働化" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "無駄は排除しなければならないが、合理化を進めるあまりに従業員の人間性やインセンティブ(労働意欲)を無視してはならない。このことから、トヨタ自動車では自動化の事を自働化と呼んでいる。", "title": "自働化" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「自働化」とは、不良が発生した際に機械が自動的に停止し、後の工程へ良品のみを送るようにすること、公式ページでは通常の加工が完了したら機械を安全に停止させることも指すとしている。", "title": "自働化" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "豊田佐吉が発明した自動織機に、稼動中に糸が切れた際に自動で停止する装置が組み込まれていたことに由来している。", "title": "自働化" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "自動機械は人が止めるまで動き続けるが、その最中に調整がずれたり、供給される材料に異常があっても止まることなく動きつづける。この結果、多くの不良品を作りつづけることとなり、7番目の無駄の元凶となってしまう。", "title": "自働化" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "最近でこそ各種センサが高性能・低価格で普及し、自動停止制御が浸透しているが、この言葉が言われ始めた1960(昭和40)年代は、「オートメーション」という言葉が「最先端=高効率」と同義語として受け取られる風潮があり、「止まらない」機械がほとんどであった。", "title": "自働化" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "トヨタ生産方式では、買ってきた機械類を何の工夫もせずにそのまま使うことは好ましいとはされていない。機械を買ってきて、そのまま組み合わせて使用しているだけの人は「カタログエンジニア」などと呼ばれる。買ってきた機械に人間の知恵を織り込み、カタログ通りに機械を使う他社に対して差をつけることが求められる。", "title": "自働化" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "人が関わらない自動化をしてしまうと、機械へカイゼン(改善)の知恵を織り込めなくなることから、カイゼンを持続的に行うためにも人が関わる自働化が重要となってくる。", "title": "自働化" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "トヨタ生産方式は非製造業にも適応可能であり、小売りであるイトーヨーカ堂やユニーが導入した例や、自治体では福島県伊達市が導入した例などがある。生産性の向上、コスト削減、窓口の待ち時間を削減、知識を全庁内で共有、職場環境の美化などに効果があった。", "title": "非製造業へのトヨタ生産方式の適応" } ]
トヨタ生産方式は、トヨタ自動車の生み出した、工場における生産活動の運用方式の一つ。多くの企業がこれにならった方式を取り入れており、工場等の製造現場やそれに付随するスタッフ部門だけでなく、間接部門でも取り入れている企業も見られる。 河合満によると、TPSが普及する以前も「必要の時に必要なだけ作る」という考えが現場に浸透していたという。
{{出典の明記|date=2013年8月}} '''トヨタ生産方式'''(トヨタせいさんほうしき、Toyota Production System、略称TPS)は、[[トヨタ自動車]]の生み出した、[[工場]]における[[生産]]活動の運用方式の一つ。多くの企業がこれにならった方式を取り入れており、工場等の[[製造]]現場やそれに付随する[[スタッフ]]部門だけでなく、間接部門でも取り入れている企業も見られる。 [[河合満]]によると、TPSが普及する以前も「必要の時に必要なだけ作る」という考えが現場に浸透していたという<ref>{{Cite web|和書|title=【ものづくりに魅せられて52年(上)】「勉強が苦手でトヨタ養成校に一か八かで受験。技を盗んで仕事を覚えた」トヨタ初の技能出身役員・河合満氏に聞く|url=https://www.sankei.com/article/20150425-5DNPTRLQFNKJHEBZRSLT3H2CO4/2/|website=産経ニュース|date=2015-04-23|accessdate=2021-08-03|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。 == 基本概念 == トヨタ生産方式は[[第二次世界大戦]][[戦前|前]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[自動車産業]]における[[ライン生産方式]]などを研究し、[[豊田喜一郎]]らが提唱していた考えを[[大野耐一]]らが体系化したものである。また、戦争中に熟練工を徴兵されたことによる生産力の低下を補う方法として開発されていた経緯もある。(トヨタ生産方式、40ページ) その柱となるのが“7つのムダ”削減、[[ジャストインタイム生産システム|ジャストインタイム]]、標準作業時間に代表される現場主義、自働化である。 なお、トヨタ生産方式の確立にあたって、NPS(New Production System)研究会へと引き継がれ、現在{{いつ|date=2019年3月30日}}に生きている。 * [[ジャストインタイム生産システム|ジャストインタイム]]([[:en:Just In Time|Just In Time]];JIT) * [[かんばん]]([[:en:Kanban|Kanban]]) * ムダ([[:en:Muda (Japanese term)|Muda]]) * [[平準化]]([[:en:Heijunka|Heijunka]]) * [[アンドン]]([[:en:Andon|Andon]]) * [[ポカヨケ]]([[:en:Poka-yoke|Poka-yoke]]) * 自働化([[:en:Jidoka|Jidoka]]) * [[改善]]([[:en:Kaizen|Kaizen]]) * [[見える化]]([[:en:Visual_control|Mieruka]]) * 標準作業時間 == 7つのムダ == トヨタ生産方式では、ムダを「'''付加価値を高めない各種現象や結果'''」と定義している。このムダを無くすことが重要な取り組みとされる。ムダとは、代表的なものとして以下の7つがあり、それを「7つのムダ」と表現している。 # 作り過ぎのムダ # 手待ちのムダ # [[運搬]]のムダ # [[加工]]そのもののムダ # [[在庫]]のムダ # [[動作]]のムダ # [[不良品|不良]]をつくるムダ 「手'''待'''ち(て'''ま'''ち)のムダ」は、「手'''持'''ち(て'''も'''ち)のムダ」と誤表記・誤解される場合がある。また、上記のムダを改善しないことを8つ目のムダとすることもある。 「加工」の「か」、「在庫」の「ざ」、「作りすぎ」の「っ」、「手待ち」の「て」、「動作」の「と」、「運搬」の「う」、「不良」の「ふ」、と頭文字を取れることから、「飾って[[豆腐]]」とも呼ばれている。 == ジャストインタイム == {{main|ジャストインタイム生産システム}} === かんばん方式 === 一般には[[ジャストインタイム生産システム]]として知られている。[[ジャストインタイム]]で生産するために考えられた方式で、元々は「スーパーマーケット方式」と呼ばれた<ref name=":0">TOYOTA 『[http://www.toyota.co.jp/jpn/company/vision/production_system/just.html ジャスト・イン・タイムについて ムダを徹底的に排除するという思想]』。2016年9月29日閲覧 </ref>。これは作業の前工程をスーパーマーケット、後工程をスーパーの顧客に見立て、スーパーマーケットである前工程は「顧客」にとって必要十分な量の部品を予想して生産し、顧客である後工程は必要に応じて「スーパーマーケット」に部品を受け取りに行くというもの<ref name=":0" />。 これによりそれまで生じていた部品の需供の不一致の解消を図り、無駄を削減した。この方式で後工程が前工程に部品を受け取りに行くときに発行する帳票を「かんばん」と称したことから、この方式はかんばん方式と呼ばれる<ref name=":0" />。 なお、[[サプライ・チェーン・マネジメント]]では類似したアイデアを前工程・後工程の二段階ではなく多段の工程に対して連鎖的に適応する<ref name=":1">IT media エンタープライズ[https://www.itmedia.co.jp/im/articles/0410/01/news112.html 情報マネジメント用語辞典:『かんばん方式(かんばんほうしき)』]。2016年9月29日閲覧</ref>。また[[資材所要量計画|MRP/MPR2]]では前工程を基準に考えていく「押し出し方式」なのに対し、かんばん方式では後工程から遡って逆順に考えるので、かんばん方式は「引っ張り方式(プル方式)」とも呼ばれる<ref name=":1" />。 === 多能工 === 1人の作業者が複数の[[工程]]の[[作業]]をこなせるように[[トレーニング]]することである。これにより * 生産[[負荷]]が低い工程から高い工程へ人員を柔軟に移動させ、負荷の平準化を常に行えるようにする。 * 1人で複数の[[工作機械|加工機械]]を受け持ち、工程の少人化を実施する。 == 自働化 == 「無駄の徹底的な排除」を実現するための方法の一例として、「[[自動]]化」・「[[機械化]]」の意味合いを持つ言葉である、自働化がある。 無駄は排除しなければならないが、[[合理化]]を進めるあまりに[[従業員]]の[[人間性]]や[[インセンティブ (経済学)|インセンティブ]](労働意欲)を無視してはならない。このことから、[[トヨタ自動車]]では自動化の事を自働化と呼んでいる。 === にんべんのついた自働化 === 「自働化」とは、不良が発生した際に機械が自動的に停止し、後の工程へ良品のみを送るようにすること、公式ページでは通常の加工が完了したら機械を安全に停止させることも指すとしている。 豊田佐吉が発明した自動織機に、稼動中に糸が切れた際に自動で停止する装置が組み込まれていたことに由来している。 自動機械は人が止めるまで動き続けるが、その最中に調整がずれたり、供給される材料に異常があっても止まることなく動きつづける。この結果、多くの[[不良品]]を作りつづけることとなり、7番目の無駄の元凶となってしまう。 最近{{いつ|date=2019年3月30日}}でこそ各種[[センサ]]が高性能・低価格で普及し、自動停止制御が浸透しているが、この言葉が言われ始めた1960([[昭和]]40)年代は、「[[オートメーション]]」という言葉が「最先端=高効率」と同義語として受け取られる風潮があり、「止まらない」機械がほとんどであった。 === カタログエンジニア === トヨタ生産方式では、買ってきた機械類を何の工夫もせずにそのまま使うことは好ましいとはされていない。機械を買ってきて、そのまま組み合わせて使用しているだけの人は「カタログエンジニア」などと呼ばれる。買ってきた機械に人間の知恵を織り込み、カタログ通りに機械を使う他社に対して差をつけることが求められる。 人が関わらない自動化をしてしまうと、機械へ[[改善|カイゼン]](改善)の知恵を織り込めなくなることから、カイゼンを持続的に行うためにも人が関わる自働化が重要となってくる。 == よく使われる単語 == *[[アンドン]](特定の問題をフロアの監督者に警告するために使用される大きな照明付きボード。英語:Signboard) *着々(英語:Load-Load) *[[現場]](英語:On site) *現地現物(英語:Go and see for yourself) *[[反省]](英語:Self-reflection) *[[平準化]](英語: Production Smoothing) *自働化(英語:automation with human intelligence) *[[ジャストインタイム]](英語:Just-in-Time) *[[改善]](英語: Continuous Improvement) *[[カンバン]](英語:Sign, Index Card) *[[:en:Manufacturing supermarket|Manufacturing supermarket]] *[[ムダ]](英語:Waste) *ムラ(英語:Unevenness) *[[ムリ]]([[無理]])(英語:Overburden) *[[根回し]](英語:building consensus) *大部屋(英語:Manager's meeting) *ポカヨケ(英語:fail-safing) *[[整備]](英語:To Prepare) *[[整理]](英語:Sort, removing whatever isn't necessary.) *[[整頓]](英語: Tidy) *[[清掃]](英語:Cleaning) *[[清潔]](英語:Clean) *[[躾]](英語:Discipline) == 非製造業へのトヨタ生産方式の適用 == トヨタ生産方式は非製造業にも適用可能であり、小売りである[[イトーヨーカ堂]]や[[ユニー]]が導入した例<ref>図解 よくわかる非製造業もトヨタ生産方式 著者 トヨタ生産方式を考える会 第4章 トヨタ生産方式を生かす P108-P111</ref>や、自治体では[[福島県]][[伊達市 (福島県)|伊達市]]が導入した例などがある<ref name="jichitai_idate">[https://jichitai.works/article/details/189 「トヨタ生産方式」で業務効率をアップ | ジチタイワークス]</ref>。生産性の向上、コスト削減、窓口の待ち時間を削減、知識を全庁内で共有、職場環境の美化などに効果があった<ref name="jichitai_idate" />。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 大野耐一『トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして』ダイヤモンド社 * ジェフリー・K・ライカー『ザ・トヨタウェイ』日経BP社 * 堀切俊雄『トヨタ流の教科書 企業編』日経BP社 * トヨタ生産方式を考える会『トコトンやさしいトヨタ生産方式の本』日刊工業新聞社 * 松井順一『職場の「かんばん方式」トヨタ流改善術ストア管理』日経BP社 * 伊原亮司『トヨタの労働現場―ダイナミズムとコンテクスト』桜井書店 * 猿田正機『トヨタシステムと労務管理』税務経理協会 * 猿田正機『トヨタウェイと人事管理・労使関係』税務経理協会 == 関連項目 == * [[新郷重夫]] * [[新郷賞]] * [[生産革新]] * [[リーン生産方式]] * [[混流生産]] * [[大野耐一]] * [[張富士夫]] *[[イノベーションのジレンマ]] - 生産性を重視するトヨタ生産方式のカイゼンでは持続的イノベーションになるという欠点 * [[生産性のジレンマ]] * [[成果主義]] * [[製造に関する記事一覧]] * [[Japan Post System]] == 外部リンク == * [https://global.toyota/jp/ トヨタ自動車株式会社 グローバルサイト] ** [https://global.toyota/jp/company/vision-and-philosophy/production-system/ 企業方針>トヨタ生産方式] - トヨタ自動車によるトヨタ生産方式の紹介 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とよたせいさんほうしき}} [[Category:リーン生産方式]] [[Category:トヨタ自動車|せいさんほうしき]]
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安寧天皇
安寧天皇(あんねいてんのう、旧字体: 安寧󠄀天皇、綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年12月6日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日)。『日本書紀』での名は磯城津彦玉手看天皇。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。 神渟名川耳天皇(綏靖天皇)の皇子。母は事代主神の娘の五十鈴依媛命(『日本書紀』)。兄弟に関する記載は『日本書紀』『古事記』ともにない。父帝が崩御した年の7月に即位。即位2年1月、片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)に都を移す。即位3年2月、鴨王(事代主神の孫)の娘の渟名底仲媛命を皇后として息石耳命、大日本彦耜友尊(後の懿徳天皇)、磯城津彦命を得た。即位38年、崩御。 漢風諡号である「安寧」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。 『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。 磯城県主クロハヤの館で生まれ、そのときに朝日が輝いたのでこの名が付いた。 (名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載) 『日本書紀』本文では子を息石耳命・大日本彦耜友尊の2人とするが、同書一書や『古事記』では常津彦某兄・大日本彦耜友天皇・磯城津彦命の3人とする。 『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。 宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)、『古事記』では片塩浮穴宮。 宮の伝説地については、次の3説がある。 安寧天皇前後の諸宮が全て奈良盆地の中に位置することから、候補としては第1・2説が有力視されるが明らかでない。大和高田市では石園座多久虫玉神社境内に「片塩浮孔宮阯」碑が建てられている(北緯34度30分28.76秒 東経135度44分31.63秒 / 北緯34.5079889度 東経135.7421194度 / 34.5079889; 135.7421194 (伝・片塩浮孔宮阯))。なお、現在の大和高田市に残る「片塩」「浮孔」といった町名・施設名(例:浮孔駅)は、全て第2説を基にした近代以降の復古地名になる。 陵(みささぎ)の名は畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市吉田町にある俗称「アネイ山」に治定されている(北緯34度29分24.80秒 東経135度46分38.01秒 / 北緯34.4902222度 東経135.7772250度 / 34.4902222; 135.7772250 (畝傍山西南御陰井上陵(安寧天皇陵)))。宮内庁上の形式は山形。 陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山西南御陰井上陵」、『古事記』では「畝火山の美富登(みほと)」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「畝傍山西南御陰井上陵」として兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世に所伝は失われ、元禄修陵では所在を誤ったが、幕末修陵に際して現陵に治定された。陵号の由来になったとされる古井戸の「御陰井」が陵南の集落中にあり、陵と共に宮内庁によって管理されている。 また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに安寧天皇の霊が祀られている。 安寧天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、兄弟継承を父子継承に書き換えた可能性があること、磯城県主や十市県主=十市氏=中原氏との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もあり、安寧天皇と前後の3代は在位年数が短いことも指摘される(詳細は「欠史八代」を参照)。 和風諡号である「しきつひこ-たまてみ」のうち、「しきつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、安寧天皇の原像は「たまてみ(玉手看/玉手見)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "安寧天皇(あんねいてんのう、旧字体: 安寧󠄀天皇、綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年12月6日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日)。『日本書紀』での名は磯城津彦玉手看天皇。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "神渟名川耳天皇(綏靖天皇)の皇子。母は事代主神の娘の五十鈴依媛命(『日本書紀』)。兄弟に関する記載は『日本書紀』『古事記』ともにない。父帝が崩御した年の7月に即位。即位2年1月、片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)に都を移す。即位3年2月、鴨王(事代主神の孫)の娘の渟名底仲媛命を皇后として息石耳命、大日本彦耜友尊(後の懿徳天皇)、磯城津彦命を得た。即位38年、崩御。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "漢風諡号である「安寧」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。", "title": "名" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。 磯城県主クロハヤの館で生まれ、そのときに朝日が輝いたのでこの名が付いた。", "title": "事績" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)", "title": "后妃・皇子女" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『日本書紀』本文では子を息石耳命・大日本彦耜友尊の2人とするが、同書一書や『古事記』では常津彦某兄・大日本彦耜友天皇・磯城津彦命の3人とする。", "title": "后妃・皇子女" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)、『古事記』では片塩浮穴宮。", "title": "宮" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "宮の伝説地については、次の3説がある。", "title": "宮" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "安寧天皇前後の諸宮が全て奈良盆地の中に位置することから、候補としては第1・2説が有力視されるが明らかでない。大和高田市では石園座多久虫玉神社境内に「片塩浮孔宮阯」碑が建てられている(北緯34度30分28.76秒 東経135度44分31.63秒 / 北緯34.5079889度 東経135.7421194度 / 34.5079889; 135.7421194 (伝・片塩浮孔宮阯))。なお、現在の大和高田市に残る「片塩」「浮孔」といった町名・施設名(例:浮孔駅)は、全て第2説を基にした近代以降の復古地名になる。", "title": "宮" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "陵(みささぎ)の名は畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市吉田町にある俗称「アネイ山」に治定されている(北緯34度29分24.80秒 東経135度46分38.01秒 / 北緯34.4902222度 東経135.7772250度 / 34.4902222; 135.7772250 (畝傍山西南御陰井上陵(安寧天皇陵)))。宮内庁上の形式は山形。", "title": "陵・霊廟" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山西南御陰井上陵」、『古事記』では「畝火山の美富登(みほと)」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「畝傍山西南御陰井上陵」として兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世に所伝は失われ、元禄修陵では所在を誤ったが、幕末修陵に際して現陵に治定された。陵号の由来になったとされる古井戸の「御陰井」が陵南の集落中にあり、陵と共に宮内庁によって管理されている。", "title": "陵・霊廟" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに安寧天皇の霊が祀られている。", "title": "陵・霊廟" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "安寧天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、兄弟継承を父子継承に書き換えた可能性があること、磯城県主や十市県主=十市氏=中原氏との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もあり、安寧天皇と前後の3代は在位年数が短いことも指摘される(詳細は「欠史八代」を参照)。", "title": "考証" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "和風諡号である「しきつひこ-たまてみ」のうち、「しきつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、安寧天皇の原像は「たまてみ(玉手看/玉手見)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある。", "title": "考証" } ]
安寧天皇は、日本の第3代天皇。『日本書紀』での名は磯城津彦玉手看天皇。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。
{{基礎情報 天皇 | 名 =安寧天皇 | 代数=第3 | 画像=Tennō Annei thumb.jpg | 説明=『御歴代百廿一天皇御尊影』より「安寧天皇」 | 在位=綏靖天皇33年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]] - 安寧天皇38年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]<!--[[Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間]]に基づき、西暦表記は記載しない。以下同様。--> | 時代=[[原史時代|伝承の時代]] | 年号= | 首都= | 皇居=[[#宮|片塩浮孔宮]](片塩浮穴宮) | 漢風諡号=安寧天皇 | 和風諡号=磯城津彦玉手看天皇(紀)<br/>師木津日子玉手見命(記) | 諱 = | 幼称= | 別名= | 印 = | 生年=綏靖天皇5年 | 生地= | 没年=安寧天皇38年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]] 57歳{{efn2|『日本書紀』本文では57歳とするが、立太子時で21歳とする記載では67歳となる。}} | 没地= | 陵墓=[[#陵・霊廟|畝傍山西南御陰井上陵]] | 先代=[[綏靖天皇]] | 次代=[[懿徳天皇]] | 子 =[[息石耳命]]<br />大日本彦耜友尊([[懿徳天皇]])<br />磯城津彦命 | 皇后=[[渟名底仲媛命]](紀)<br />阿久斗比売(記) | 中宮= | 女御= | 更衣= | 夫人= | 夫 = | 父親=[[綏靖天皇]] | 母親=[[五十鈴依媛命]](紀)<br />[[河俣毘売]](記) | 注釈= [[欠史八代]]の1人。 }} {{座標一覧}} '''安寧天皇'''(あんねいてんのう、{{旧字体|'''安寧&#xe0100;天皇'''}}、綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]])は、[[日本]]の第3代[[天皇]](在位:綏靖天皇33年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]] - 安寧天皇38年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]])。『[[日本書紀]]』での名は'''磯城津彦玉手看天皇'''。[[欠史八代]]の一人で、実在性については諸説ある。 == 略歴 == 神渟名川耳天皇([[綏靖天皇]])の皇子。母は[[事代主|事代主神]]の娘の[[五十鈴依媛命]](『[[日本書紀]]』)。兄弟に関する記載は『日本書紀』『古事記』ともにない。父帝が崩御した年の7月に即位。即位2年1月、片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)に都を移す。即位3年2月、[[鴨王 (上古)|鴨王]]([[事代主|事代主神]]の孫)の娘の[[渟名底仲媛|渟名底仲媛命]]を皇后として[[息石耳命]]、[[懿徳天皇|大日本彦耜友尊]](後の[[懿徳天皇]])、[[磯城津彦命]]を得た。即位38年、崩御。 == 名 == * 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと) - 『[[日本書紀]]』 * 師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと) - 『[[古事記]]』 [[漢風諡号]]である「安寧」は、[[8世紀]]後半に[[淡海三船]]によって撰進された名称とされる<ref>[[上田正昭]] 「諡<!--おくりな-->」『日本古代史大辞典』 [[大和書房]]、2006年。</ref>。 == 事績 == 『[[日本書紀]]』『[[古事記]]』とも系譜の記載のみに限られ、[[欠史八代]]の1人に数えられる。 [[磯城]]県主[[クロハヤ]]の館で生まれ、そのときに朝日が輝いたのでこの名が付いた。 == 系譜 == === 系図 === {{皇室欠史八代}} == 后妃・皇子女 == {{Smaller|(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)}} * [[皇后]]:[[渟名底仲媛|渟名底仲媛命]](ぬなそこなかつひめのみこと、渟名襲媛) *: 『日本書紀』本文による。[[事代主神]]の子の[[天日方奇日方命]]の娘。 *: ただし、同書第1の一書では磯城県主[[葉江]]の娘の[[川津媛]]、第2の一書では大間宿禰の娘の[[糸井媛]]とし、『古事記』では師木県主波延([[河俣毘売]]の兄)の娘の[[阿久斗比売]](あくとひめ)とする{{Sfn|安寧天皇(古代氏族)|2010年}}。 ** 第一皇子:[[息石耳命]](おきそみみのみこと) **: 『紀』一書・『記』では、息石耳命に代えて[[常津彦某兄]](常根津日子伊呂泥命)を入れる。 ** 第二皇子:大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと、大倭日子鉏友命) - 第4代'''[[懿徳天皇]]'''。 ** 皇子:[[磯城津彦命]](しきつひこのみこと、師木津日子命) - 猪使連の祖(紀)。淡道の御井宮に子の和知都美命がおり、さらにその子に[[倭国香媛|蠅伊呂泥]](意富夜麻登久邇阿禮比賣命、おおやまとくにあれひめ)姉妹がおり、第七代孝霊天皇に嫁ぎ倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を生んだ。 『日本書紀』本文では子を息石耳命・大日本彦耜友尊の2人とするが、同書一書や『古事記』では常津彦某兄・大日本彦耜友天皇・磯城津彦命の3人とする。 == 年譜 == 『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである<ref name="iwanami">『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410</ref>。機械的に西暦に置き換えた年代については「[[上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧]]」を参照。 * 綏靖天皇5年 ** 誕生 * 綏靖天皇25年 ** 1月、21才で立太子 * 綏靖天皇33年 ** 7月、即位 * 安寧天皇2年 ** 1月、片塩浮孔宮に遷都 * 安寧天皇3年 ** 2月、[[渟名底仲媛|渟名底仲媛命]]を立后 * 安寧天皇11年 ** 1月、[[懿徳天皇|大日本彦耜友尊]]を立太子 * 安寧天皇38年 ** 12月、崩御。宝算は57歳、『古事記』では49歳という{{Sfn|安寧天皇(古代氏族)|2010年}} * 懿徳天皇元年 ** 8月、畝傍山南御陰井上陵に葬られた == 宮 == [[File:Legendary Imperial Palace of Emperor Annei.jpg|thumb|220px|right|{{center|安寧天皇 片塩浮孔宮阯碑<br />([[奈良県]][[大和高田市]])}}]] 宮([[皇居]])の名称は、『日本書紀』では'''片塩浮孔宮'''(かたしおのうきあなのみや)、『古事記』では'''片塩浮穴宮'''{{Sfn|片塩浮孔宮(国史)}}。 宮の伝説地については、次の3説がある{{Sfn|片塩浮孔宮(国史)}}。 # [[奈良県]][[橿原市]]四条町付近 (『[[帝王編年記]]』『[[和州旧跡幽考]]』) # 奈良県[[大和高田市]]三倉堂・片塩町 (『[[大和志]]』『古都略紀図』) # [[大阪府]][[柏原市]] (『[[古事記伝]]』『[[大日本地名辞書]]』) 安寧天皇前後の諸宮が全て[[奈良盆地]]の中に位置することから、候補としては第1・2説が有力視されるが明らかでない。大和高田市では[[石園座多久虫玉神社]]境内に「片塩浮孔宮阯」碑が建てられている({{Coord|34|30|28.76|N|135|44|31.63|E|region:JP-29|name=伝・片塩浮孔宮阯}})<ref>[http://ryobo.fromnara.com/palace/p003-1.html 片塩浮孔宮](陵墓探訪記<個人サイト>)。</ref>。なお、現在の大和高田市に残る「片塩」「浮孔」といった町名・施設名(例:[[浮孔駅]])は、全て第2説を基にした[[近代]]以降の復古地名になる。 == 陵・霊廟 == [[File:Tomb of Emperor An-nei, haisho.JPG|thumb|220px|right|{{center|安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵<br />(奈良県[[橿原市]])}}]] [[天皇陵|陵]](みささぎ)の名は'''畝傍山西南御陰井上陵'''(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)。[[宮内庁]]により[[奈良県]][[橿原市]]吉田町にある俗称「アネイ山」に治定されている({{Coord|34|29|24.80|N|135|46|38.01|E|region:JP-29|name=畝傍山西南御陰井上陵(安寧天皇陵)}})<ref>[https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/successive_list.html 天皇陵](宮内庁)。</ref><ref>宮内省諸陵寮編[{{NDLDC|1237123/8}} 『陵墓要覧』](1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。</ref>{{Sfn|畝傍山西南御陰井上陵(国史)}}。宮内庁上の形式は山形。 陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山西南御陰井上陵」、『古事記』では「[[畝傍山|畝火山]]の美富登(みほと)」の所在とあるほか、『[[延喜式]]』諸陵寮では「畝傍山西南御陰井上陵」として兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵としている{{Sfn|畝傍山西南御陰井上陵(国史)}}。しかし後世に所伝は失われ、元禄修陵では所在を誤ったが、幕末修陵に際して現陵に治定された。陵号の由来になったとされる古井戸の「御陰井」が陵南の集落中にあり、陵と共に[[宮内庁]]によって管理されている{{Sfn|畝傍山西南御陰井上陵(国史)}}。 また[[皇居]]では、[[宮中三殿]]の1つの[[皇霊殿]]において他の歴代天皇・皇族とともに安寧天皇の霊が祀られている。 <gallery> File:Tomb of Emperor An-nei, Mihodo-no-i.JPG|御陰井 File:An-nei-tenno-jinja, haiden.JPG|安寧天皇神社 </gallery> == 考証 == === 実在性 === 安寧天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「[[欠史八代]]」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、兄弟継承を父子継承に書き換えた可能性があること、[[磯城県主]]や[[十市御縣坐神社|十市県主]]=[[十市氏]]=[[中原氏]]との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もあり、安寧天皇と前後の3代は在位年数が短いことも指摘される<ref name="欠史八代">[[上田正昭]] 「欠史八代」『日本古代史大辞典』 [[大和書房]]、2006年。</ref>(詳細は「'''[[欠史八代]]'''」を参照)。 === 名称 === [[和風諡号]]である「しきつひこ-たまてみ」のうち、「しきつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、安寧天皇の原像は「'''たまてみ'''(玉手看/玉手見)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある{{Sfn|安寧天皇(古代氏族)|2010年}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=|author=|year=|chapter=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=}} ** {{Wikicite|reference=[[川副武胤]]「安寧天皇」|ref={{Harvid|安寧天皇(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=中村一郎「畝傍山西南御陰井上陵」(安寧天皇項目内)|ref={{Harvid|畝傍山西南御陰井上陵(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=岡田隆夫「片塩浮孔宮」|ref={{Harvid|片塩浮孔宮(国史)}}}} * {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2010|chapter=安寧天皇|title=日本古代氏族人名辞典 普及版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=9784642014588|ref={{Harvid|安寧天皇(古代氏族)|2010年}}}} == 関連項目 == * [[欠史八代]] * [[安帝 (漢)]] == 外部リンク == {{Commonscat|Emperor Annei}} * [https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/003/index.html 畝傍山西南御陰井上陵] - 宮内庁 {{歴代天皇一覧}} {{DEFAULTSORT:あんねいてんのう}} [[Category:古墳時代以前の天皇]]
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16,612
五十鈴依媛命
五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)は、『日本書紀』、『旧事本紀』に登場する綏靖天皇の皇后。 姉の姫踏鞴五十鈴媛命は神武天皇の皇后であり、豊玉姫・玉依姫姉妹と同じく、甥・叔母の異世代婚の系譜を伝える。 『日本書紀』の安寧紀によると、五十鈴依媛命は事代主神の少女(おとむすめ)とあり、これは綏靖紀二年条に「(安寧天皇の父である綏靖天皇は)五十鈴依媛を立てて皇后と為したまう。すなわち天皇の姨(みおば)なり」とあるのと合致する。なお、『古事記』には五十鈴依媛命は登場せず、河俣毘売が綏靖天皇の皇后である。
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五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)は、『日本書紀』、『旧事本紀』に登場する綏靖天皇の皇后。
{{基礎情報 皇后 |名 = 五十鈴依媛命 |立后根拠 = 第2代天皇后 |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |画像代替文 = |在位期間 = 綏靖天皇2年1月 - 綏靖天皇33年5月10日 |和暦在位期間 = |皇后 = 綏靖天皇2年1月 |皇太后 = 安寧天皇元年10月11日 |出生日 = |生地 = |死亡日 = |没地 = |陵所 = |諱 = |諡号 = |異称 = 五十鈴依媛、五十鈴依姫命 |幼称 = |氏族 = |父親 = [[事代主神]] |母親 = |配偶者1 = [[綏靖天皇]] |結婚 = |子女 = [[安寧天皇]] |養子女 = |皇居 = |空欄表題1 = 異説 |空欄記載1 = [[河俣毘売]](川派媛)、糸織媛 |脚注 = }} [[Image:Emperor family tree of Japan 1-10 (ja).svg|thumb|right|400px|天皇略系図(初代 - 第10代)]] '''五十鈴依媛命'''(いすずよりひめのみこと)は、『[[日本書紀]]』、『[[旧事本紀]]』に登場する[[綏靖天皇]]の[[皇后]]。 == 概要 == 姉の[[姫踏鞴五十鈴媛命]]<ref>姉姫踏鞴五十鈴媛命の母は『日本書紀』では[[三嶋湟咋|三島溝橛耳神]]の娘・[[玉櫛媛]]、『[[旧事本紀]]』では[[三嶋湟咋|三嶋溝杭]]の娘・[[玉櫛媛|玉依姫]]を母に事代主神との間に1男1女のうち妹姫となっている。</ref>は[[神武天皇]]の[[皇后]]であり、[[豊玉姫]]・[[タマヨリビメ (日向神話)|玉依姫]]姉妹と同じく、甥・叔母の異世代婚の系譜を伝える。 『日本書紀』の安寧紀によると、五十鈴依媛命は事代主神の少女(おとむすめ)とあり、これは綏靖紀二年条に「(安寧天皇の父である綏靖天皇は)五十鈴依媛を立てて皇后と為したまう。すなわち天皇の姨(みおば)なり」とあるのと合致する。なお、『[[古事記]]』には五十鈴依媛命は登場せず、[[河俣毘売]]が[[綏靖天皇]]の[[皇后]]である。 == 脚注 == {{Reflist}} == 注釈 == {{reflist}} {{歴代皇后一覧}} {{歴代日本の皇太后一覧}} {{Japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:いすすよりひめ}} [[Category:日本の皇后]] [[Category:日本の皇太后]] [[Category:古墳時代以前の女性皇族]] [[Category:生没年不詳]]
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16,613
河俣毘売
河俣毘売(かままたびめ、かわばたびめ)は、綏靖天皇の皇后で安寧天皇の母とされる人物。 『古事記』では河俣毘売、『日本書紀』第1の一書では川派媛といい、師木県主(磯城県主)の祖先である家系の出身。師木県主波延(安寧天皇皇后、阿久斗比売の父)の妹。 なお、『日本書紀』本文と第2の一書ではカワマタビメは登場せず、本文では五十鈴依媛命、第2の一では春日県主大日諸の娘である糸織媛が綏靖天皇の皇后とされる。
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河俣毘売(かままたびめ、かわばたびめ)は、綏靖天皇の皇后で安寧天皇の母とされる人物。
{{基礎情報 皇后 |名 = 河俣毘売 |立后根拠 = 第2代天皇后 |画像 = |画像幅 = |画像代替文 = |画像説明 = |出生日 = |生地 = |死亡日 = |没地 = |陵所 = |諱 = |諡号 = |異称 = 川派媛 |幼称 = |氏族 = |父親 = 師木県主(磯城県主)[[弟磯城]]か |母親 = |配偶者1 = [[綏靖天皇]] |子女 = [[安寧天皇]] |皇居 = |空欄表題1 = 異説 |空欄記載1 = [[五十鈴依媛命]]、糸織媛 |脚注 = 古事記、日本書紀の第1の一書による }} [[Image:Emperor family tree of Japan 1-10 (ja).svg|thumb|right|400px|天皇略系図(初代 - 第10代) [[media:Emperor family tree of Japan 1-10 (ja).svg|SVGで表示(対応ブラウザのみ)]]]] '''河俣毘売'''(かままたびめ、かわばたびめ)は、[[綏靖天皇]]の[[皇后]]で[[安寧天皇]]の母とされる人物。 == 概要 == 『[[古事記]]』では'''河俣毘売'''、『[[日本書紀]]』第1の一書では'''川派媛'''といい、[[磯城県主|師木県主]](磯城県主)の祖先である家系の出身。[[師木県主]][[葉江|波延]](安寧天皇皇后、[[阿久斗比売]]の父)の妹。 なお、『日本書紀』本文と第2の一書ではカワマタビメは登場せず、本文では[[五十鈴依媛命]]、第2の一では春日県主大日諸の娘である糸織媛が綏靖天皇の皇后とされる。 == 関連項目 == *[[弟磯城]] *[[磯城郡]] {{japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:かわまたひめ}} [[Category:古墳時代以前の女性皇族]] [[Category:生没年不詳]]
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世良田頼氏
世良田 頼氏(せらだ よりうじ)は、鎌倉時代の上野国の武士、鎌倉幕府の御家人である。 頼氏は新田義重の四男世良田義季の子、教氏・満氏らの父。 父から上野国新田荘世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)を譲られて世良田弥四郎と称し、世良田氏の祖となった。義季・頼氏父子は世良田郷近辺の所領の開発を進め、富を蓄えて新田氏一族中の実力者となっていたらしい。 1244年、新田義重の曾孫で新田氏本宗家の惣領、新田政義が京都大番役を任務途中で幕府に無断で放棄し、出家するという事件を起こした。幕府はただちに政義と新田本宗家から新田氏惣領職を没収し、頼氏と新田一族の岩松氏に分割して与えた。頼氏は将軍の近習として幕府に出仕し、高い地位に昇った。この頃、三河守に任官したようである。こののち、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』には頼氏を指して「新田三河前司」と呼んでいる。 しかし、1272年に執権の北条時宗が謀反を企てた異母兄北条時輔を討つ事件二月騒動が起こると、頼氏の正室は名越教時の姉妹であったため、事件に連座して失脚し、佐渡に流された。同年6月に同地で死去。
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世良田 頼氏は、鎌倉時代の上野国の武士、鎌倉幕府の御家人である。
{{出典の明記|date=2018年6月4日 (月) 14:19 (UTC)}} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 世良田 頼氏 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[鎌倉時代]] | 生誕 = 不明 | 死没 = [[文永]]9年([[1272年]])[[6月 (旧暦)|6月]] | 改名 = | 別名 = | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = | 霊名 = | 墓所 = | 官位 = | 幕府 = | 主君 = | 藩 = | 氏族 = [[世良田氏]] | 父母 = 父:[[得川義季|世良田義季]]<ref name="sonpi">『[[尊卑分脈]]』</ref> | 兄弟 = [[得川頼有]]、'''頼氏'''<ref name="sonpi"/> | 妻 = | 子 = [[世良田有氏|有氏]]、[[世良田教氏|教氏]]、[[江田満氏]]<ref name="sonpi"/> | 特記事項 = }} '''世良田 頼氏'''(せらだ よりうじ)は、[[鎌倉時代]]の[[上野国]]の[[武士]]、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]である。 == 経歴 == 頼氏は[[源義重|新田義重]]の四男[[得川義季|世良田義季]]の子、教氏・満氏らの父。 父から上野国[[新田荘]][[世良田郷]](現在の[[群馬県]][[太田市]][[世良田町]])を譲られて'''世良田弥四郎'''と称し、[[世良田氏]]の祖となった。義季・頼氏父子は世良田郷近辺の所領の開発を進め、富を蓄えて[[新田氏]]一族中の実力者となっていたらしい。 [[1244年]]、新田義重の曾孫で新田氏本宗家の[[惣領]]、[[新田政義]]が[[大番役|京都大番役]]を任務途中で幕府に無断で放棄し、出家するという事件を起こした。幕府はただちに政義と新田本宗家から新田氏惣領職を没収し、頼氏と新田一族の[[岩松氏]]に分割して与えた。頼氏は[[征夷大将軍|将軍]]の近習として幕府に出仕し、高い地位に昇った。この頃、[[三河守]]に任官したようである。こののち、鎌倉幕府の史書『[[吾妻鏡]]』には頼氏を指して「新田三河前司」と呼んでいる。 しかし、[[1272年]]に[[執権]]の[[北条時宗]]が謀反を企てた異母兄[[北条時輔]]を討つ事件[[二月騒動]]が起こると、頼氏の正室は[[北条教時|名越教時]]の姉妹であったため、事件に連座して失脚し、[[佐渡国|佐渡]]に流された。同年6月に同地で死去。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== *[[得川氏]] *[[松平氏]] *[[徳川氏]] *[[徳川実紀]] *[[世良田東照宮]] {{people-stub}} {{Japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:せらた よりうし}} [[Category:鎌倉幕府御家人]] [[Category:世良田氏|よりうし]] [[Category:上野国の人物]] [[Category:1272年没]]
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帯電
帯電(たいでん)は、物体が電気を帯びる現象である。 別の物体から電子を奪った場合には負に帯電し、逆の場合は正に帯電する。奪うことを引き起こす力は別に議論されなければならないが、帯電したまま動かずにいる電気を静電気という。絶縁体同士を摩擦することなどにより、この現象を起こすことができる。たとえばエボナイト棒を乾いた布でこすったり、プラスティックの下敷きで髪をこすったりすると、それぞれ帯電する。帯電した物体が他の物体を引き寄せるなどの性質(クーロン力)を持っていることは、古代から知られていた。近代になってから、この現象の本格的な研究が始まり、これをきっかけに、電磁気学が発展していった。近年ではこうした帯電現象を利用した様々な装置が日常生活に浸透してきている。
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大山
大山(おおやま、だいせん、だいさん)
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大山(おおやま、だいせん、だいさん)
'''大山'''(おおやま、だいせん、だいさん) == 山名 == * [[大山 (東京都)]](おおやま) - [[東京都]]・[[小笠原諸島]]の[[聟島]]にある標高88.4mの山。 * [[大山 (神奈川県)]](おおやま) - [[丹沢大山国定公園]]内、[[厚木市]]、[[伊勢原市]]、[[秦野市]]をまたぐ標高1,252mの山。 * [[大山 (愛知県)]](おおやま) - [[愛知県]][[田原市]]の[[渥美半島]]南西部にある標高320mの山。 * [[大山 (三重県)]](おおやま) - [[三重県]][[鳥羽市]]の[[菅島]]中央部にある標高237mの山。 * [[大山 (鳥取県)]](だいせん) - [[鳥取県]]と[[岡山県]]にまたがる標高1,729mの[[火山]]。[[中国地方]]の最高峰。伯耆大山、伯耆富士。 * [[大山 (岡山県)]](おおやま) - [[岡山県]]北東部にある標高342.5mの山。 * [[大山 (山口県)]](おおやま) - [[山口県]][[萩市]]の[[蓋井島]]北部にある標高252mの山。 * [[大山 (香川県・徳島県)]](おおやま) - [[香川県]][[東かがわ市]]と[[徳島県]][[板野郡]][[上板町]]の境界にある標高691.3mの山。 * [[松峰山信仰遺跡群#大山|大山(秋田県)]](おおやま) - [[秋田県]][[大館市]]にある標高375.6mの山。 * [[大山(鹿児島県)]](おおやま) - [[鹿児島県]][[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[知名町]]にある標高398mの山。 ==日本の自治体名== {{See|大山町 (曖昧さ回避)|大山村 (曖昧さ回避)}} ==中国の自治体名== *[[大山鎮 (盤州市)]] - [[貴州省]][[六盤水市]][[盤州市]]の[[鎮]]。 *[[大山鎮 (鎮寧プイ族ミャオ族自治県)]] - 貴州省[[安順市]][[鎮寧プイ族ミャオ族自治県]]の鎮。 *[[大山郷 (徳昌県)]] - [[四川省]][[涼山イ族自治州]][[徳昌県]]の[[郷]]。 *[[大山ミャオ族イ族郷]] - 貴州省[[畢節市]][[大方県]]の民族郷。 *[[大山郷 (興仁市)]] - 貴州省[[黔西南プイ族ミャオ族自治州]][[興仁市]]の郷。 *[[大山郷 (瀾滄ラフ族自治県)]] - [[雲南省]][[普洱市]][[瀾滄ラフ族自治県]]の郷。 *[[大山郷 (永徳県)]] - [[雲南省]][[臨滄市]][[永徳県]]の郷。 ==地名== {{See also|大山町 (曖昧さ回避)|大山寺 (曖昧さ回避)|大山小学校 (曖昧さ回避)|大山中学校 (曖昧さ回避)}} *大山(おおやま) - [[山形県]][[鶴岡市]]の地名。 *大山(おおやま) - [[福島県]][[安達郡]][[大玉村]]の地名。 *大山(おおやま) - 福島県[[岩瀬郡]][[鏡石町]]の地名。 *大山(おおやま) - [[茨城県]][[古河市]]の地名。 *大山(おおやま) - 茨城県[[潮来市]]の地名。 *大山(おおやま) - 茨城県[[稲敷郡]][[美浦村]]の地名。 *大山(おおやま) - [[栃木県]][[河内郡]][[上三川町]]の地名。 *大山(おおやま) - [[千葉県]][[成田市]]の地名。 *大山(おおやま) - [[神奈川県]][[伊勢原市]]にある地名。 ** [[大山観光電鉄大山鋼索線]] - [[大山観光電鉄]]の[[ケーブルカー]] *大山(おおやま) - [[新潟県]][[新潟市]][[東区 (新潟市)|東区]]の地名。 *大山(おおやま) - 新潟県[[長岡市]]の地名。 *大山(おおやま) - [[山梨県]][[南巨摩郡]][[身延町]]にある地名。 *大山(おおやま) - [[岐阜県]][[加茂郡]][[富加町]]の地名。 *大山(おおやま) - [[愛知県]][[小牧市]]の地名。[[小牧町|小牧地区]]及び[[篠岡村|篠岡地区]]に別々に所在する。 *大山(おおやま) - [[京都府]][[舞鶴市]]の地名。 *大山(おおやま) - [[兵庫県]][[神崎郡]][[神河町]]の地名。 *大山(だいせん) - [[鳥取県]][[西伯郡]][[大山町]]の地名。 *大山(おおやま) - [[山口県]][[岩国市]]の地名。 *大山(おおやま) - [[鹿児島県]][[姶良市]]の地名。 *大山(おおやま) - [[沖縄県]][[宜野湾市]]の地名。 *[[熊野川町大山]](くまのがわちょうおおやま) - [[和歌山県]][[新宮市]]の地名。 *[[作木町大山]](さくぎちょうおおやま) - [[広島県]][[三次市]]の地名。 *[[丹後町大山]](たんごちょうおおやま) - [[京都府]][[京丹後市]]の地名。 *[[山川大山]](やまがわおおやま) - 鹿児島県[[指宿市]]の大字。 ==交通施設名== ===駅名=== *[[大山駅 (東京都)]](おおやまえき) - [[東京都]][[板橋区]]にある[[東武鉄道]][[東武東上本線|東上本線]]の[[鉄道駅|駅]]。 *[[大山駅 (鹿児島県)]](おおやまえき) - [[鹿児島県]][[指宿市]]にある[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[指宿枕崎線]]の駅。 *[[羽前大山駅]](うぜんおおやまえき) - [[山形県]][[鶴岡市]]にある[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[羽越本線]]の駅。 *[[丹波大山駅]](たんばおおやまえき) - [[兵庫県]][[丹波篠山市]]にある[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[福知山線]]の駅。 *[[伯耆大山駅]](ほうきだいせんえき) - [[鳥取県]][[米子市]]にある西日本旅客鉄道(JR西日本)[[山陰本線]]・[[伯備線]]の駅。 *[[大山口駅]](だいせんぐちえき) - 鳥取県[[西伯郡]][[大山町]]にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。 * [[大山ケーブル駅]] (おおやまケーブルえき)- [[神奈川県]][[伊勢原市]]にある[[大山観光電鉄]][[大山観光電鉄大山鋼索線|大山鋼索線]] の駅。 * [[大山寺駅 (神奈川県)|大山寺駅]] (おおやまでらえき)- [[神奈川県]][[伊勢原市]]にある[[大山観光電鉄]][[大山観光電鉄大山鋼索線|大山鋼索線]] の駅。 * [[大山寺駅 (愛知県)|大山寺駅]] (たいさんじえき) - [[愛知県]][[岩倉市]]にある[[名古屋鉄道|名鉄]][[名鉄犬山線|犬山線]]の駅。 ===道の駅名=== *[[道の駅大山]](みちのえきおおやま) - [[高知県]][[安芸市]]にある[[国道55号]]の[[道の駅]]。 *[[道の駅大山恵みの里]](みちのえきだいせんめぐみのさと) - 鳥取県西伯郡大山町にある[[鳥取県道240号旧奈和西坪線]]の道の駅。 ===インターチェンジ名=== *[[大山インターチェンジ]](だいせんインターチェンジ) - 鳥取県西伯郡大山町にある[[山陰自動車道]]の[[インターチェンジ]]。 ===サービスエリア・パーキングエリア名=== *[[大山パーキングエリア]](だいせんパーキングエリア) - 鳥取県西伯郡[[伯耆町]]にある[[米子自動車道]]の[[パーキングエリア]]。 ===バス停名=== *大山バスストップ(だいせんバスストップ) - 鳥取県西伯郡伯耆町にある米子自動車道の[[バス停留所|バス停]]。[[大山パーキングエリア]]に併設されている。 ==その他== *[[大山氏]](おおやまうじ) - [[日本]]の[[氏姓制度|氏姓]]のひとつ。 *[[大山号]](だいせんごう) - [[高速バス]]の名。 *[[大山 (相撲)]](おおやま) - [[大相撲]]の[[年寄名跡]]の一つ。 *[[大山 (パフォーマー)]] - 中国([[中華人民共和国]])における、カナダ人パフォーマー。 *[[大山乳業農業協同組合]] - 鳥取県に本社がある乳製品のメーカー。 * 人名:[[大山のぶ代]]、[[大山康晴]]、[[大山悠輔]]、[[大山倍達]]、[[大山巌]]、[[大山捨松]]、[[大山千広]]、[[大山啓輔]]、他 == 関連項目 == * {{Prefix}} * [[小山 (曖昧さ回避)]] (おやま、こやま) * [[犬山 (曖昧さ回避)]] (いぬやま) * [[太山 (曖昧さ回避)]] (たやま、たいざん) * [[山大 (曖昧さ回避)]] (やまだい) * [[だいせん (曖昧さ回避)]] * {{仮リンク|ビッグマウンテン (曖昧さ回避)|en|Big Mountain}} {{aimai}} {{DEFAULTSORT:おおやま}} [[Category:同名の地名]] [[Category:日本語の姓]]
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大山 (鳥取県)
大山(だいせん)は、日本の鳥取県にある標高1,729mの山。成層火山であるが、活火山としては扱われていない。鳥取県および中国地方の最高峰でもある。角盤山(かくばんざん)とも呼ばれるほか、鳥取県西部の旧国名が伯耆国であったことから伯耆大山(ほうきだいせん)、あるいはその山容から郷土富士として伯耆富士や出雲富士とも呼ばれる。日本百名山や日本百景にも選定され、鳥取県のシンボルの一つとされている。 大山は中国山地の連なりからやや北に離れた位置にある独立峰の火山で、その裾野は日本海に達しており主峰の剣ヶ峰や三鈷峰、烏ヶ山や船上山などの峰を持つ。山体は東西約35km、南北約30km、総体積約120km。日本列島におけるデイサイト質火山の中でも最大級の規模である。 広義には南東側に連なる擬宝珠山・蒜山(上蒜山、中蒜山、下蒜山)・皆ヶ山などの蒜山火山群も大山火山の一部とされることが多いが、活動場の変遷からみて蒜山火山群を大山火山と区別する場合もある。 最高点は剣ヶ峰であるが、剣ヶ峰に至る縦走路が危険であることから古くから第二峰の弥山(みせん 1,709m)で祭事が行われたことから、一般には弥山を頂上としている。 一帯は大山隠岐国立公園に指定されており、標高800mから1,300mは西日本最大のブナ林に覆われ、その上部には亜高山針葉樹林帯がなく低木林や草原の高山帯になっている。山頂付近に見られるダイセンキャラボクの純林は国の特別天然記念物に指定されている。また、国の鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積5,156ha、うち特別保護地区2,266ha)。 周辺の地域では古くから大山信仰が根強い。現存する最古の記述は『出雲国風土記』の国引き神話で、三瓶山と同様に縄を引っ掛けて島根半島を引き寄せたとある。『出雲国風土記』では「火神岳」(ほのかみだけ)または「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代の養老年間に山岳信仰の山として開かれたとされる。北西の山腹には大神山神社奥宮や大山寺阿弥陀堂があり、明治の廃仏毀釈まで大山寺の寺領とされ、一般人の登山は禁止されていた。 大山山麓は昭和初期から開拓が始まったが因伯牛の放牧地が広がり土地利用は低位であった。1941年(昭和16年)からは旧日光村の標高600m付近の400町歩で松江刑務所の受刑者による開拓作業が始まったが十分な成果は得られなかった。 戦後、満州からの引き揚げ者などが入植し始めると開拓域は標高1000m付近にまで広がった。 山頂を保護するための取り組みとして、登山時に石を1つリュックに入れて登山し山頂に置いて下山するという「一木一石運動」が、1985年(昭和60年)に結成された「大山の頂上を保護する会」によって行われている。 約100万年前から40万年前に活動した蒜山火山群および古期大山と新期大山に大別される。約35万年以降に20回のプリニー式噴火があり、最新の活動は約2万800年前(三鈷峰溶岩ドームおよび阿弥陀川火砕流堆積物)と考えられている。 蒜山火山群の火山活動史については「蒜山」を参照。 活動を開始した約100万年前から、約21万年前に噴出した大山奥津降下火砕物(DOP)直前までの噴出物を古期噴出物と呼ぶ。 大山火山の北西部に、3つの溶岩ドームと1つの火砕丘が噴出した。最初期の噴出は鰐抜山溶岩ドーム(約96万年前)で、のちに鈑戸山溶岩ドーム(約68万年前)、孝霊山溶岩ドーム(約30万年前)が噴出した。鍋山火砕丘も同時期に形成されたと考えられているが、溶岩の年代値は得られていない。 約60万年前から約40万年前までを中心に、大山火山の広範囲でデイサイト質の溶岩が噴出した。大山火山の東部では、船上山溶岩(約102万年前~約35万年前)、甲ヶ山溶岩(約41万年前)、矢筈ヶ山溶岩(年代不明)、大山滝溶岩(約59万年前)が噴出した。南部では、城山溶岩(約51万年前)、笛吹山を構成する吉原溶岩(約51万年前)が噴出した。 古期大山の裾野には、西は米子市福市、北は大山町豊成海岸、東は倉吉市国分寺、南は真庭市蒜山上徳山延助まで至る、複数の広大な火山麓扇状地が形成された。これらの扇状地の構成物は土石流堆積物を主体とし、火山麓扇状地6堆積物、溝口凝灰角礫岩層、古期扇状地I面堆積物などの総称で呼ばれる。これらの火山麓扇状地はMIS8(約30万年前)には段丘化したと考えられており、地形面は侵食が進んでおり、下流部にわずかに原地形面を残すのみである。 約21万年前に噴出した大山奥津降下火砕物(DOP)以降の噴出物を新期噴出物と呼ぶ。 大山最下部テフラ層の形成期の噴出物は、その多くが広域テフラとして認められる降下火砕物からなり、溶岩流や溶岩ドームは認められていない。大山奥津降下火砕物(DOP:約21万年前)は、大山火山で認められる最初期の広域テフラであり、大山から東南東10km地点で層厚3m以上を示す。遠方では京都府綾部市(大山から東約150km)で層厚20cmを示す。大山別所降下火砕物(DBP:約19万年前)は、真庭市蒜山別所を模式地とする広域テフラであり、大山から東南東10km地点で層厚3m以上を示す。そのほか、大山淀江(樋谷)降下火砕物(DYP:約17万年前)など、複数回のプリニー式噴火による火砕物が噴出している。 大山下部テフラ層の形成期の噴出物は、火砕流堆積物と、広域テフラとして認められる降下火砕物、溶岩からなる。大山松江降下火砕物(DMP:約13万年前)は、大山から北西へと降下し、出雲市周辺(大山から西約80km)で層厚約20cmを示す。振子山溶岩ドーム(約11万年前)は、大山東方の振子山と振袖山を構成する溶岩ドームである。名和火砕流堆積物(約10万年前)は大山町名和を模式地とする火砕流堆積物である。名和軽石流とも呼ばれるが軽石は全く含まれず、典型的なブロックアンドアッシュフロー(英語版)(溶岩ドームの崩壊により発生した火砕流)による堆積物からなる。この火砕流は振子山溶岩ドームの崩壊により発生したものと考えられる。大山町のうち旧名和町の段丘面のほとんどを構成している。大山生竹降下火砕物(DNP:約8万年前)はプリニー式噴火による降下火砕物で、大山から東南東約10kmで層厚2m以上を示し、遠方では兵庫県北部(大山から東南東約90km)で層厚120cm、京都府越畑盆地(大山から東南東約190km)で層厚30cm、富士山東麓(大山から東約450km)でも確認されている。 大山中部テフラ層の形成期の噴出物は、火砕流堆積物と、広域テフラとして認められる降下火砕物からなる。大山関金降下火砕物(DSP:約7万年前)はプリニー式噴火による降下火砕物で、大山から東約10kmで層厚1m以上を示し、遠方では長野県木曽地域(大山から東約370km)で層厚1.5cmを示す。槇原火砕流堆積物(約4万年前)は大山町槇原を模式地とする火砕流(ブロックアンドアッシュフロー)堆積物(最大層厚約20m)である。 大山倉吉降下火砕物(DKP:約6万年前)は、大山中部テフラ層の1つであり、大山火山における最大規模の噴出物(岩石換算体積21km、早川法)である。日本列島を広く覆って降下しているため日本国内を代表する広域テフラの1つであり、後期更新世(約12万6000年前~1万1700年前)の時間指標面(鍵層)として重要性の高いものとされている。分布域は大山山麓から東方面に、山陰海岸、北陸、信州、北関東の各地に広がる。福島県西郷村真船(大山から東北東約620km)で層厚5cmを示す。 大山上部テフラ層の形成期の噴出物は、火砕流堆積物と、広域テフラとして認められる降下火砕物、溶岩からなる。烏ヶ山溶岩ドームと笹ヶ平火砕流堆積物(約2万9300年前)は大山南東部に噴出したデイサイト質溶岩ドームと、それの一部崩壊によって流下した火砕流(ブロックアンドアッシュフロー)堆積物である。笹ヶ平火砕流堆積物は江府町の船谷川上流および俣野川上流の谷底と、倉吉市関金町の野添川上流の谷底をそれぞれ埋積するように堆積し、最大層厚は100m以上を示す。弥山溶岩ドームと桝水原火砕流堆積物(約2万8600年前)は剣ヶ峰と弥山を構成する溶岩ドームと、それの一部崩壊によって流下した伯耆町金屋谷を模式地とする火砕流(ブロックアンドアッシュフロー)堆積物である。大山火山で最新の活動である三鈷峰溶岩ドームと阿弥陀川火砕流堆積物(約2万800年前)は、大山北東部に噴出したデイサイト質溶岩ドームと、それの一部崩壊によって阿弥陀川沿いに流下した火砕流(ブロックアンドアッシュフロー)堆積物である。なお、大山南麓の江府町御机で約3000年前の火砕流堆積物とその降下火砕物を発見したとする報告もある。しかし、現在のところ大山火山は活火山(概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山)に指定されていない。 日本海側気候の豪雪地帯であり、標高800m台の大山アメダスでも年降雪量は8mにも達する。 登山コースは複数あり、北側斜面を登る「夏山登山コース」と「ユートピアコース」が地元自治体により一般に紹介されている。夏山登山コースは佐陀川の源流となっている行者谷の西側尾根を登り、弥山に至るルートで初心者向きとされている。ユートピアルートは行者谷の東側尾根を経て、標高1,516mの三鈷峰付近にあるユートピア避難小屋に至るルートで、上級者向けとされている。弥山から三等三角点地点 (1,709.3m) や剣ヶ峰、天狗ヶ峰 (1,710m) を経てユートピア避難小屋に至る旧縦走路は、稜線が両サイドとも崩落しており通行が禁止されている。これは特に2000年に発生した鳥取県西部地震以降、山肌の崩落が激しくなって危険なためであり、死傷事故も発生している。 夏山でさえ危険なルートが存在する大山は独立峰ゆえ容赦なく吹き付ける強風や豪雪が襲いかかる冬にはさらに厳しさを増し、「東の谷川岳、西の大山」と呼ばれるほど冬山の遭難事故が多いことでも知られている。『関西山小屋』昭和13年新年号(朋文社)に寄稿した島根県の登山家・山本禄郎(草鳴社山岳会代表)はこの当時未だ遭難死亡事故が起きていなかった大山でもいつ冬の遭難事故が起こってもおかしくはないと警告を述べているが、同誌が販売される直前の1937年12月6日にその山本らのパーティ4名が下山中に天候の急変に巻き込まれて道を見失った結果、山本を含めた3名が大山における最初の遭難死亡者となるという皮肉な事態が発生している。この状況は現在も変わらず、鳥取県警も「いったん天候が崩れると標高3,000メートル級に匹敵する厳しい山となります」と注意を促している。 登山口まではJR米子駅やJR大山口駅から大山寺行きのバスが定期運行されている。また、自家用車で登山口付近まで行く場合、鳥取県立大山自然歴史館の近くに駐車場があり、米子自動車道の溝口インターチェンジから鳥取県道45号を経由しておよそ10kmである。
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大山(だいせん)は、日本の鳥取県にある標高1,729mの山。成層火山であるが、活火山としては扱われていない。鳥取県および中国地方の最高峰でもある。角盤山(かくばんざん)とも呼ばれるほか、鳥取県西部の旧国名が伯耆国であったことから伯耆大山(ほうきだいせん)、あるいはその山容から郷土富士として伯耆富士や出雲富士とも呼ばれる。日本百名山や日本百景にも選定され、鳥取県のシンボルの一つとされている。
{{Redirect|伯耆大山|[[米子市]]の[[鉄道駅|駅]]|伯耆大山駅}} {{Infobox 山 |名称 = 大山 |画像 = [[File:Daisen (mountain) in 2012.JPG|300px]] |画像キャプション = 西北西より望む |標高 = 1,729 |座標 = | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 22 | 緯度秒 = 16 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 133 |経度分 = 32 | 経度秒 = 24 | E(東経)及びW(西経) = E |所在地 = {{JPN}}<br />[[鳥取県]][[大山町]]・[[琴浦町]]・[[江府町]]など |山系 = [[独立峰]](大山山系) |種類 = [[成層火山]]・[[溶岩ドーム]] |最新噴火 = 約2万800年前 |初登頂 = |地図 = {{location map |Japan#Japan Tottori Prefecture |width=300 |relief=1 }} |OSMズーム = 9 }} '''大山'''(だいせん)は、[[日本]]の[[鳥取県]]にある[[標高]][[1729|1,729]]<nowiki/>mの[[山]]。[[成層火山]]であるが、[[活火山]]としては扱われていない<ref name=bullgsj.68.1 />。鳥取県および[[中国地方]]の最高峰でもある。'''角盤山'''(かくばんざん)とも呼ばれるほか、鳥取県西部の[[旧国名]]が[[伯耆国]]であったことから'''伯耆大山'''(ほうきだいせん)、あるいはその山容から[[郷土富士]]として'''伯耆富士'''や'''出雲富士'''とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.pref.shizuoka.jp/bunka/bk-223/furusato/chugoku01.html | title = 伯耆富士/出雲富士[大山] | publisher = 静岡県 | date = 2017-02-09 | accessdate = 2019-09-17 }}</ref>。[[日本百名山]]や[[日本百景]]にも選定され、鳥取県のシンボルの一つとされている<ref>出典: [[近畿中国森林管理局]][https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/koho/koho_si/morinohiroba/pdf/no1020.pdf 『森のひろば』No.1020] p3-4</ref>。 == 概要 == {{Location map many | 100x100 | AlternativeMap = Daisen Volcano & Hiruzen Volcano Group Relief Map, SRTM-1.jpg | float = right | width = 200px | caption = 大山周辺の地形図 | label1 = <small>大 山</small> | position1 = | background1 = | mark1size =0 | lat1_deg = 25 | lon1_deg = 30 | label2 =<small>蒜 山 火 山 群</small> | position2 = | background2 = | mark2size = 0 | lat2_deg = 17 | lon2_deg = 50 }} [[File:Daisen Volcano (SRTM-1).jpg|thumb|200px|right|弥山溶岩ドームの地形図]] 大山は[[中国山地]]の連なりからやや北に離れた位置にある[[独立峰]]の火山で、その裾野は[[日本海]]に達しており主峰の剣ヶ峰や[[三鈷峰]]、[[烏ヶ山]]や[[船上山]]などの峰を持つ。山体は東西約35km<ref name="tnn">津久井雅志、西戸裕嗣、長尾敬介、[https://ci.nii.ac.jp/naid/110003023603 蒜山火山群・大山火山のK-Ar年代] 地質學雜誌 91(4), 279-288, 1985-04-15, {{naid|110003023603}}</ref>、南北約30km<ref name="tnn"/>、総体積約120km<sup>3</sup><ref name="沢田ら"/>。日本列島における[[デイサイト]]質火山の中でも最大級の規模である<ref name="沢田ら"/>。 広義には南東側に連なる[[擬宝珠山]]・[[蒜山]](上蒜山、中蒜山、下蒜山)・[[皆ヶ山]]などの蒜山火山群<ref name="tnn" />も大山火山の一部とされることが多いが<ref name="bullgsj.68.1" /><ref name="tnn" />、活動場の変遷からみて蒜山火山群を大山火山と区別する場合もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/H16.html|title=第四紀火山 蒜山|accessdate=2020-06-21|publisher=産業技術総合研究所地質調査総合センター}}</ref>。 '''最高点は剣ヶ峰'''であるが、剣ヶ峰に至る縦走路が危険であることから古くから第二峰の'''弥山'''(みせん 1,709m)で祭事が行われたことから、一般には弥山を頂上としている<ref>出典: [http://www.daisen.jp/p/kyokai/1/ 不思議だいせん]大山観光局、2015年9月9日閲覧。</ref>。 一帯は[[大山隠岐国立公園]]に指定されており、標高800mから1,300mは西日本最大の[[ブナ林]]に覆われ、その上部には[[亜高山帯針葉樹林|亜高山針葉樹林帯]]がなく低木林や草原の高山帯になっている<ref>出典: 環境省による現地案内板より</ref>。山頂付近に見られる[[イチイ#キャラボク|ダイセンキャラボク]]の純林は国の[[特別天然記念物]]に指定されている<ref>出典: {{Cite web|和書|url=http://web.sanin.jp/p/daisenking/1/6/22/13/|title=ダイセンキャラボク純林(大山登山・大山山頂)|publisher=NPO法人大山中海観光推進機構|accessdate=2014-09-02}}</ref>。また、国の[[鳥獣保護区]](大規模生息地)に指定されている(面積5,156[[ヘクタール|ha]]、うち特別保護地区2,266ha)<ref>出典: {{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/nature/choju/area/area2-1.pdf|title=国指定鳥獣保護区一覧|publisher=環境省|accessdate=2014-09-30}}</ref>。 周辺の地域では古くから大山信仰が根強い<ref>出典: [http://www.shinbutsu.jp/40.html 「第九番 大神山神社」(出雲國神仏霊場公式ホームページ)]</ref><ref name="D-CLUB">出典: [http://www.daisen.jp/p/kankou/yama/ 「国立公園大山ってどんなとこ? 大山とは」(大山町公式観光サイトD-Club、大山町役場観光商工課)]</ref><ref name="naruhodo">出典: {{Cite web|和書|url=http://www.daisen.jp/p/kyokai/1/|title=あの噂って本当? 大山の「なるほど」を発掘|publisher=一般社団法人大山観光局|accessdate=2015-04-14}}</ref>。現存する最古の記述は『[[出雲国風土記]]』の[[国引き神話]]で、[[三瓶山]]と同様に縄を引っ掛けて[[島根半島]]を引き寄せたとある。{{要検証範囲|date=2014年9月|『出雲国風土記』では「火神岳」(ほのかみだけ)または「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ<ref>斎藤正二、「[https://hdl.handle.net/10911/4228 『人生地理学』 補注」 補遺 (第3回)], 創価教育,(7),87-127 (2014-03-16), {{hdl|10911/4228}}</ref><ref name="D-CLUB" />}}、[[奈良時代]]の[[養老]]年間に[[山岳信仰]]の山として開かれたとされる。北西の山腹には[[大神山神社]]奥宮や[[大山寺 (鳥取県大山町)|大山寺]][[阿弥陀堂]]があり、{{要出典範囲|date=2014年9月|[[明治]]の[[廃仏毀釈]]まで大山寺の[[寺領]]とされ}}、一般人の登山は禁止されていた<ref name="naruhodo" />。 大山山麓は昭和初期から[[開拓]]が始まったが因伯牛の[[放牧]]地が広がり土地利用は低位であった。[[1941年]](昭和16年)からは旧日光村の標高600m付近の400町歩で[[松江刑務所]]の[[受刑者]]による開拓作業が始まった<ref>受刑者も増産に一役、大山山麓を開墾『東京日日新聞』(昭和16年8月17日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p550 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>が十分な成果は得られなかった。 戦後、[[満州]]からの[[引き揚げ]]者などが入植し始めると開拓域は標高1000m付近にまで広がった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_siki/57_katori/ |title=大山山麓の美しい開拓村「香取(かとり)」 |publisher=農林水産省 |date= |accessdate=2022-07-24}}</ref>。 山頂を保護するための取り組みとして、登山時に石を1つリュックに入れて登山し山頂に置いて下山するという「一木一石運動」が、[[1985年]](昭和60年)に結成された「大山の頂上を保護する会」によって行われている<ref>{{Cite web|和書|title=頂上を保護する取り組み「一木一石運動」 |url=https://tourismdaisen.com/climb/9/ |website=鳥取大山観光ガイド |access-date=2022-08-21 |language=ja}}</ref>。 == 火山活動史 == [[File:Karasugasen.jpg|thumb|弥山溶岩ドーム(左)<br />烏ヶ山溶岩ドーム(右)]] 約100万年前から40万年前に活動した蒜山火山群および古期大山と新期大山に大別される<ref name=":0">{{PDFlink|[https://www.gsj.jp/data/openfile/no0613/47Daisen.pdf 日本の主要第四紀火山の積算マグマ噴出量階段図 大山火山]}} 産業技術総合研究所 地質調査総合センター研究資料集 no.613</ref>。約35万年以降に20回<ref name=":1">木村純一、岡田昭明、中山勝博 ほか、『大山および三瓶火山起源テフラのフィッショントラック年代とその火山活動史における意義』 第四紀研究 Vol.38 (1999) No.2 P.145-155, {{DOI|10.4116/jaqua.38.145}}</ref>の[[プリニー式噴火]]があり<ref name=bullgsj.68.1>山元孝広、『大山火山噴火履歴の再検討』 地質調査研究報告 Vol.68 (2017) No.1 p.1-16, {{DOI|10.9795/bullgsj.68.1}}</ref>、最新の活動は約2万800年前(三鈷峰溶岩ドームおよび阿弥陀川火砕流堆積物)と考えられている<ref name=bullgsj.68.1 />。 === 蒜山火山群 === 蒜山火山群の火山活動史については「[[蒜山]]」を参照。 === 古期大山噴出物(約100万年前~約21万年前) === 活動を開始した約100万年前から、約21万年前に噴出した'''大山奥津降下火砕物'''(DOP)直前までの噴出物を'''古期噴出物'''と呼ぶ<ref name="bullgsj.68.1" /><ref name=":2">{{Cite journal|author=津久井 雅志|year=1984|title=大山火山の地質|journal=地質学雑誌|volume=90|page=643-658}}</ref>。 ==== 側火山の形成 ==== 大山火山の北西部に、3つの[[溶岩円頂丘|溶岩ドーム]]と1つの[[火砕丘]]が噴出した<ref name="tnn" /><ref name=":0" />。最初期の噴出は'''鰐抜山溶岩ドーム'''(約96万年前)<ref name="tnn" />で、のちに'''鈑戸山溶岩ドーム'''(約68万年前)<ref name="tnn" />、'''[[孝霊山]]溶岩ドーム'''(約30万年前)が噴出した。'''鍋山火砕丘'''も同時期に形成されたと考えられているが、溶岩の年代値は得られていない。 ==== 古期溶岩類の噴出 ==== 約60万年前から約40万年前までを中心に<ref name=":0" />、大山火山の広範囲でデイサイト質の溶岩が噴出した。大山火山の東部では、'''[[船上山]]溶岩'''(約102万年前~約35万年前)<ref name="tnn" /><ref name=":3">{{Cite journal|author=Kimura et al.|year=2003|title=Late Cenozoic volcanic activity in the Chugoku area, southwest Japan arc during back‐arc basin opening and reinitiation of subduction|journal=Island Arc|volume=12|page=22-45}}</ref>、'''[[甲ヶ山]]溶岩'''(約41万年前)<ref name="tnn" />、'''[[矢筈ヶ山]]溶岩'''(年代不明)<ref name=":0" />、'''[[大山滝]]溶岩'''(約59万年前)<ref name="tnn" />が噴出した。南部では、'''城山溶岩'''(約51万年前)、笛吹山を構成する'''吉原溶岩'''(約51万年前)が噴出した。 ==== 大規模な火山麓扇状地の形成 ==== 古期大山の裾野には、西は[[米子市]]福市、北は[[大山町]]豊成海岸、東は[[倉吉市]]国分寺、南は[[真庭市]]蒜山上徳山延助まで至る、複数の広大な火山麓[[扇状地]]が形成された<ref name=":2" />。これらの扇状地の構成物は[[土石流]]堆積物を主体とし<ref name="bullgsj.68.1" />、火山麓扇状地6堆積物<ref name="bullgsj.68.1" />、溝口凝灰角礫岩層<ref name=":2" />、古期扇状地Ⅰ面堆積物<ref>{{Cite journal|author=荒川 宏|year=1984|title=大山火山北西部における火山麓扇状地の形成|journal=地理学評論|volume=57|page=831-855}}</ref>などの総称で呼ばれる。これらの火山麓扇状地は[[海洋酸素同位体ステージ|MIS]]8(約30万年前)には段丘化したと考えられており<ref name="bullgsj.68.1" />、地形面は侵食が進んでおり、下流部にわずかに原地形面を残すのみである<ref>{{Cite book|title=日本の地形6 近畿・中国・四国|date=2004年06月04日|year=2004|publisher=東京大学出版会|page=155}}</ref>。 === 新期大山噴出物(約21万年前~現在) === 約21万年前に噴出した'''大山奥津降下火砕物'''(DOP)以降の噴出物を'''新期噴出物'''と呼ぶ<ref name="bullgsj.68.1" /><ref name=":2" />。 ==== 大山最下部テフラ層(約21万年前~約15万年前) ==== 大山最下部テフラ層の形成期の噴出物は、その多くが[[テフラ|広域テフラ]]として認められる降下火砕物からなり、溶岩流や溶岩ドームは認められていない<ref name=":0" />。'''大山奥津降下火砕物'''<ref name=":4">岡田昭明、{{PDFlink|[http://www.lib.shimane-u.ac.jp/kiyo/c006/015/011.pdf 大山蒜山原軽石(DHP)と大山最下部火山灰hpm2軽石について]}} [https://www.geo.shimane-u.ac.jp/arch/report/gr_15.html 島根大学地球資源環境学研究報告], 15,53-60 (1996年12月)</ref><ref name=":5">{{Cite journal|author=岡田昭明・石賀 敏|year=2000|title=大山テフラ|journal=日本地質学会第107年学術大会見学旅行案内書|volume=|page=81-90}}</ref>(DOP:約21万年前<ref>{{Cite journal|author=加藤茂弘・山下 透・檀原 徹|year=2004|title=大山テフラの岩石記載的特徴と大山最下部テフラ層中のテフラの対比|journal=第四紀研究|volume=43|page=435-445}}</ref>)は、大山火山で認められる最初期の広域テフラであり<ref name="bullgsj.68.1" />、大山から東南東10km地点で層厚3m以上を示す<ref name=":5" />。遠方では[[京都府]][[綾部市]](大山から東約150km)で層厚20cmを示す<ref name="bullgsj.68.1" /><ref>{{Cite journal|author=小滝篤夫・古山勝彦・井上陽一|year=2002|title=京都府北部,福知山・綾部地域の高位段丘層中の含カミングトン閃石火山灰層と大山最下部火山灰層との対比|journal=地球科学|volume=56|page=35-48}}</ref>。'''大山別所降下火砕物'''<ref name=":4" /><ref name=":5" />(DBP:約19万年前<ref name=":0" />)は、真庭市蒜山別所を模式地とする広域テフラであり、大山から東南東10km地点で層厚3m以上を示す<ref name=":5" />。そのほか、'''大山淀江(樋谷)降下火砕物'''(DYP:約17万年前<ref name=":0" />)など、複数回のプリニー式噴火による火砕物が噴出している。 ==== 大山下部テフラ層(約15万年前~約8万年前) ==== 大山下部テフラ層の形成期の噴出物は、[[火砕流]]堆積物と、[[テフラ|広域テフラ]]として認められる降下火砕物、溶岩からなる<ref name=":0" />。'''大山松江降下火砕物'''<ref name="jgeography.88.5_313">町田洋、新井房夫、『大山倉吉軽石層-分布の広域性と第四紀編年上の意義』地学雑誌 Vol.88 (1979) No.5 P.313-330, {{DOI|10.5026/jgeography.88.5_313}}</ref>(DMP:約13万年前<ref name="bullgsj.68.1" />)は、大山から北西へと降下し、[[出雲市]]周辺(大山から西約80km)で層厚約20cmを示す<ref name="bullgsj.68.1" />。'''振子山溶岩ドーム'''<ref name="bullgsj.68.1" />(約11万年前<ref name=":3" />)は、大山東方の振子山と振袖山を構成する溶岩ドームである。'''名和火砕流堆積物'''<ref name=":2" />(約10万年前<ref name=":1" />)は大山町名和を模式地とする火砕流堆積物である。名和軽石流<ref name=":6">{{Cite journal|author=太田良平|year=1962|title=|journal=5万分の1地質図幅「赤崎・大山」および同説明書|volume=|page=37p}}</ref>とも呼ばれるが軽石は全く含まれず、典型的な{{仮リンク|ブロックアンドアッシュフロー|en|Block and ash flow|label=}}(溶岩ドームの崩壊により発生した火砕流)による堆積物からなる<ref name="bullgsj.68.1" />。この火砕流は振子山溶岩ドームの崩壊により発生したものと考えられる<ref name="bullgsj.68.1" />。大山町のうち旧名和町の段丘面のほとんどを構成している<ref name="bullgsj.68.1" /><ref name=":2" />。'''大山生竹降下火砕物'''<ref name="jgeography.88.5_313" />(DNP:約8万年前<ref name=":1" />)はプリニー式噴火による降下火砕物で、大山から東南東約10kmで層厚2m以上を示し<ref name=":5" />、遠方では[[兵庫県]]北部(大山から東南東約90km)で層厚120cm、京都府越畑盆地(大山から東南東約190km)で層厚30cm<ref>{{Cite book|title=京都北西部の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅)|date=|year=1989|publisher=地質調査所|author=井本伸広・清水大吉郎・武蔵野 実・石田志朗}}</ref>、[[富士山]]東麓(大山から東約450km)でも確認されている<ref>{{Cite book|title=富士山東山麓の富士テフラ群下部に見られる阿蘇4などの諸広域テフラ.第四紀露頭集−日本のテフラ|date=|year=1996|publisher=日本第四紀学会|author=町田 洋|page=36–37}}</ref>。 ==== 大山中部テフラ層(約8万年前~約4万年前) ==== 大山中部テフラ層の形成期の噴出物は、[[火砕流]]堆積物と、[[テフラ|広域テフラ]]として認められる降下火砕物からなる<ref name="bullgsj.68.1" />。'''大山関金降下火砕物'''<ref name="jgeography.88.5_313" />(DSP:約7万年前<ref name="bullgsj.68.1" />)はプリニー式噴火による降下火砕物で、大山から東約10kmで層厚1m以上を示し<ref name=":5" />、遠方では[[長野県]]木曽地域(大山から東約370km)で層厚1.5cmを示す<ref>{{Cite journal|author=竹本弘幸・百瀬 貢・平林 潔・小林武彦|year=1987|title=新期御岳テフラ層の層序と時代−中部日本における編年上の意義−|journal=第四紀研究|volume=25|page=337–352}}</ref>。'''槇原火砕流堆積物'''<ref name=":2" />(約4万年前<ref name=":7">{{Cite journal|author=Katoh et al.|year=2007|title=Estimation of eruptive ages of the late Pleistocene tephra layers derived from Daisen and Sambe Volcanoes based on AMS −14C dating of the moor sediments at Ohnuma Moor in the Chugoku Mountains, Western Japan.|journal=Nature and Human Activities|volume=11|page=29-50}}</ref>)は大山町槇原を模式地とする火砕流(ブロックアンドアッシュフロー)堆積物(最大層厚約20m)である<ref name="bullgsj.68.1" />。 ===== 大山倉吉降下火砕物(DKP:約6万年前) ===== '''大山倉吉降下火砕物'''<ref name="jgeography.88.5_313" />(DKP:約6万年前<ref>{{Cite journal|author=長橋 良隆, 深谷 桃子, 木村 純一, 常 青, 佐川 拓也, 中川 毅, 池原 研|year=2016|title=大山倉吉テフラと山陰1テフラの層序と年代:若狭湾沖堆積物コアと水月湖SG06コアによる検討|journal=日本地質学会学術大会講演要旨|volume=123|page=R21}}</ref><ref name=":8">{{Cite journal|author=山元孝広|year=2017|title=東北日本における大山倉吉テフラと山陰 1 テフラの降下層準|journal=地質調査研究報告|volume=68|page=223-235}}</ref>)は、大山中部テフラ層の1つであり、大山火山における最大規模の噴出物(岩石換算体積21km<sup>3</sup><ref name="bullgsj.68.1" />、早川法)である<ref name=":8" />。[[日本列島]]を広く覆って降下しているため日本国内を代表する広域テフラの1つであり、[[後期更新世]](約12万6000年前~1万1700年前)の時間指標面([[鍵層]])として重要性の高いものとされている<ref name="jgeography.88.5_313" /><ref name=":8" />。分布域は大山山麓から東方面に、山陰海岸、[[北陸地方|北陸]]、[[信濃国|信州]]、[[北関東]]の各地に広がる<ref>{{Cite book|title=新編火山灰アトラス−日本列島とその周辺|date=|year=2003|publisher=東京大学出版会|author=町田 洋・新井房夫|page=336p}}</ref><ref name=":8" />。[[福島県]][[西郷村]]真船(大山から東北東約620km)で層厚5cmを示す<ref name=":8" />。 ==== 大山上部テフラ層(約4万年前~現在) ==== 大山上部テフラ層の形成期の噴出物は、[[火砕流]]堆積物と、[[テフラ|広域テフラ]]として認められる降下火砕物、溶岩からなる<ref name="bullgsj.68.1" />。'''烏ヶ山溶岩ドーム'''<ref name=":2" />と'''笹ヶ平火砕流堆積物'''<ref name=":2" />(約2万9300年前<ref name=":7" />)は大山南東部に噴出したデイサイト質溶岩ドームと、それの一部崩壊によって流下した火砕流(ブロックアンドアッシュフロー)堆積物である<ref name="bullgsj.68.1" />。笹ヶ平火砕流堆積物は江府町の船谷川上流および俣野川上流の谷底と、倉吉市[[関金町]]の野添川上流の谷底をそれぞれ埋積するように堆積し、最大層厚は100m以上を示す<ref name="bullgsj.68.1" />。'''弥山溶岩ドーム'''<ref name=":6" /><ref name=":2" />と'''桝水原火砕流堆積物'''<ref name="bullgsj.68.1" />(約2万8600年前<ref name="bullgsj.68.1" />)は剣ヶ峰と弥山を構成する溶岩ドームと、それの一部崩壊によって流下した[[伯耆町]]金屋谷を模式地とする火砕流(ブロックアンドアッシュフロー)堆積物である<ref name="bullgsj.68.1" />。大山火山で最新の活動である'''三鈷峰溶岩ドーム'''<ref name=":6" /><ref name=":2" />と'''阿弥陀川火砕流堆積物'''<ref name="bullgsj.68.1" />(約2万800年前<ref name="bullgsj.68.1" />)は、大山北東部に噴出したデイサイト質溶岩ドームと、それの一部崩壊によって阿弥陀川沿いに流下した火砕流(ブロックアンドアッシュフロー)堆積物である<ref name="bullgsj.68.1" />。なお、大山南麓の江府町御机で約3000年前の火砕流堆積物とその降下火砕物を発見したとする報告もある<ref>奥野充、井上剛、{{PDFlink|[http://www2.jpgu.org/meeting/2012/session/PDF_all/S-VC53/SVC53_all.pdf 大山火山の完新世噴火]}} 日本地球惑星科学連合 2012年度連合大会予稿集</ref>。しかし、現在のところ大山火山は[[活火山]](概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山)に指定されていない。 == 大山火山の地形 == *弥山(剣ヶ峰含む)・孝霊山・豪円山・[[烏ヶ山]]・[[三鈷峰]] - [[溶岩ドーム]]<ref name="沢田ら">出典: [大山・大根島:山陰地方中部の対照的な第四紀火山(2009年)] - 沢田順弘ら、2017年4月閲覧</ref> *船上山・勝田ヶ山・甲ヶ山・矢筈ヶ山 - 古期溶岩類<ref name="沢田ら"/> == 気候 == [[日本海側気候]]の[[豪雪地帯]]であり、標高800m台の大山アメダスでも年降雪量は8mにも達する。 * 最大日降水量 - 524.0ミリ([[2011年]](平成23年)[[9月3日]]) * 最深積雪 - 302センチ([[2012年]](平成24年)[[2月19日]]) {{Weather box |location = 大山(標高875m) |metric first = yes |single line = yes |Jan precipitation mm = 229.9 |Feb precipitation mm = 188.7 |Mar precipitation mm = 192.3 |Apr precipitation mm = 164.1 |May precipitation mm = 190.5 |Jun precipitation mm = 241.0 |Jul precipitation mm = 327.6 |Aug precipitation mm = 236.9 |Sep precipitation mm = 384.7 |Oct precipitation mm = 271.9 |Nov precipitation mm = 203.1 |Dec precipitation mm = 248.4 |year precipitation mm = 2850.9 |Jan snow cm = 268 |Feb snow cm = 237 |Mar snow cm = 152 |Apr snow cm = 36 |May snow cm = 1 |Jun snow cm = 0 |Jul snow cm = 0 |Aug snow cm = 0 |Sep snow cm = 0 |Oct snow cm = 1 |Nov snow cm = 20 |Dec snow cm = 176 |year snow cm = 891 |Jan precipitation days = 21.7 |Feb precipitation days = 17.7 |Mar precipitation days = 16.4 |Apr precipitation days = 12.2 |May precipitation days = 11.5 |Jun precipitation days = 12.8 |Jul precipitation days = 15.0 |Aug precipitation days = 12.7 |Sep precipitation days = 14.2 |Oct precipitation days = 13.0 |Nov precipitation days = 15.3 |Dec precipitation days = 19.6 |year precipitation days = 181.5 |unit precipitation days = 1.0 mm |source = [https://www.jma.go.jp/jma/ 気象庁] }} == 登山 == 登山コースは複数あり、北側斜面を登る「夏山登山コース」と「ユートピアコース」が地元自治体により一般に紹介されている<ref name=tozan>出典: {{Cite web|和書|url=http://www.daisen.jp/p/2/special/tozan/|title=全コース詳細ガイド 大山登山マニュアル|publisher=大山町役場 観光商工課|accessdate=2014-09-09}}</ref>。夏山登山コースは佐陀川の源流となっている行者谷の西側尾根を登り、弥山に至るルートで初心者向きとされている<ref name=tozan/>。ユートピアルートは行者谷の東側尾根を経て、標高1,516mの三鈷峰付近にあるユートピア避難小屋に至るルートで、上級者向けとされている<ref name=tozan/>。弥山から三等[[三角点]]地点 (1,709.3m) や剣ヶ峰、天狗ヶ峰 (1,710m) を経てユートピア避難小屋に至る旧縦走路は、稜線が両サイドとも崩落しており通行が禁止されている。これは特に[[2000年]]に発生した[[鳥取県西部地震]]以降、山肌の崩落が激しくなって危険なためであり、死傷事故も発生している<ref>出典: [http://www.pref.tottori.lg.jp/67837.htm 大山山系での遭難状況] 鳥取県警察、2015年9月9日閲覧。</ref>。 夏山でさえ危険なルートが存在する大山は独立峰ゆえ容赦なく吹き付ける強風や豪雪が襲いかかる冬にはさらに厳しさを増し、「'''東の[[谷川岳]]、西の大山'''」と呼ばれるほど冬山の遭難事故が多いことでも知られている<ref>[https://yamatousagi.com/column-index/gakuzin-list/gakuzin-daisen/ 「岳人」][[東京新聞]]刊</ref>。『関西山小屋』昭和13年新年号(朋文社)に寄稿した[[島根県]]の登山家・山本禄郎(草鳴社山岳会代表)はこの当時未だ遭難死亡事故が起きていなかった大山でもいつ冬の遭難事故が起こってもおかしくはないと警告を述べている{{Efn|山本の寄稿は天候の問題に加えて「冬の大山は指導標も乏しく、山に通じたガイドたちがごく少ないうえに、山小屋も冬期においてはほとんど利用価値がうすい」と述べ、昭和初期の大山の状況を伝えている。}}が、同誌が販売される直前の1937年12月6日にその山本らのパーティ4名が下山中に天候の急変に巻き込まれて道を見失った結果、山本を含めた3名が大山における最初の遭難死亡者となるという皮肉な事態が発生している<ref>春日俊吉「暴雪にたおれたベテラン(伯耆大山)」『山の遭難譜』二見書房、1973年、pp.141-153.</ref>。この状況は現在も変わらず、鳥取県警も「'''いったん天候が崩れると標高3,000メートル級に匹敵する厳しい山となります'''」と注意を促している。 登山口までは[[西日本旅客鉄道|JR]][[米子駅]]やJR[[大山口駅]]から[[大山寺 (鳥取県大山町)|大山寺]]行きのバスが定期運行されている。また、自家用車で登山口付近まで行く場合、鳥取県立大山自然歴史館の近くに駐車場があり、[[米子自動車道]]の[[溝口インターチェンジ]]から鳥取県道45号を経由しておよそ10kmである。 == 画像解説 == <gallery mode="packed"> ファイル:Daisen 2007-09-19.jpg|北東上空より ファイル:Daisen 2016-03-21 (25887648161).jpg|北西より ファイル:Daisen 2014-10-28 (15475490550).jpg|西麓から ファイル:Daisen south wall.jpg|南壁([[鍵掛峠]]から) ファイル:North Wall of Mt. Daisenin.jpg|北壁 ファイル:Daisen highest peak.jpg|最高峰の剣ヶ峰 ファイル:Mount Daisen 2015-05-03 (17214768368).jpg|登山道より北西の眺望<br />右に[[孝霊山]]溶岩ド-ム ファイル:Mount Daisen 2015-05-03 (17376445066).jpg|夏山登山道の最高峰、弥山にある大山頂上避難小屋 ファイル:Daisen4.JPG|頂上付近のダイセンキャラボクの群生 </gallery> == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} {{Notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Daisen (mountain)}} * [[日本百名山]] * [[中国山地]] * [[郷土富士]] * [[各都道府県の最高峰]](鳥取県) * [[鳥取県の観光地]] * [[大山の背比べ]] * [[大山賛歌 わがこころの山]] * [[長山英一]] - [[1922年]]([[大正]]11年)松本秀松([[渡町 (境港市)|渡村]]出身)と[[鳥取県]]で初めて冬山大山登山に挑んだ<small>(『境港市史 下巻』昭和61年 393頁)</small>。 * [[だいせん (列車)|急行だいせん]] * [[伯耆大山駅]] * [[大山口駅]] == 外部リンク == * [http://tourismdaisen.com/ 大山観光] - 大山町役場 観光商工課 ** [http://tourismdaisen.com/climb/natsuyama/ 大山登山コース] * [https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/H17.html 大山] - 産業技術総合研究所 地質調査総合センター {{日本百名山}} {{中国百名山}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいせん}} [[Category:山岳名目録]] [[Category:大山隠岐国立公園]] [[Category:鳥取県の山]] [[Category:日本百名山]] [[Category:中国百名山]] [[Category:日本百景]] [[Category:日本の火山]] [[Category:日本の霊峰]] [[Category:大山町]] [[Category:伯耆町]] [[Category:江府町]] [[Category:倉吉市の地理]] [[Category:琴浦町]] [[Category:鳥取県の象徴]] [[Category:国指定鳥獣保護区]] [[Category:郷土富士]] [[Category:成層火山]] [[Category:1000メートル峰]] [[Category:複合火山]]
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立山
立山(たてやま)は、富山県の飛騨山脈(北アルプス)北部にある山。中部山岳国立公園に属する。雄山(おやま、標高3,003 m)、大汝山(おおなんじやま、3,015 m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、2,999 m)の三つの峰からなる。富山県の最高峰であり、日本海に面する道府県の最高峰である。また、日本の3,000 m級の山としては最北端・最西端に位置する。 日本三名山、日本三霊山(三大霊場、三大霊地)、日本四名山、日本百名山、新日本百名山および花の百名山に選定され、富山県のシンボルの一つとされている。 広義の立山は、一つの山脈が造山過程で東西に分かれ、立山連峰と後立山連峰と称す複列連峰である。 かつて山体は立山カルデラにあり、元の立山火山の山頂部は侵食で喪失している。弥陀ヶ原と五色ヶ原はこの火山の火砕流堆積物や溶岩の台地である。ミクリガ池、ミドリガ池は火口湖であり、現在の立山火山の主な火山活動は地獄谷周辺の火山性ガスの噴出と温泉噴出である。造山運動により形成された褶曲山脈であり、黒部川を挟んで後立山連峰と対峙している。 立山を源流とする主な河川は以下の通り。いずれも富山湾へ流れる。 雄山山頂にある雄山神社峰本社神殿右端の前には、測量の基準である大きな黒御影石の標石(標高点3,003 m)があり、その約70 m南南西に一等三角点(標高2,991.59 m、点名「立山」)の標石が設置されている。雄山は、一等三角点百名山に選定されている。 冬季はシベリアから吹く寒風によって日本海で発生した水蒸気が運ばれ、立山の3,000 m級の山々にぶつかることで大量の降雪をもたらす。世界有数の豪雪地帯であり、積雪は15 m以上、最低気温は氷点下20°C以下になる。 室堂周辺から上部は、森林限界のハイマツ帯で、多くのライチョウが生息している。花の百名山に選定されていて、室堂周辺などでは雪解けと共に多くの高山植物の開花が見られる。タテヤマリンドウ、タテヤマウツボグサ、タテヤマアザミ、タテヤマキンバイ、タテヤマオウギなどのタテヤマの名称が付く高山植物があるが、立山の固有種というわけではない。 登山者や観光客の増加により室堂周辺は外来植物や病原菌の侵入など、生態系の破壊が危惧され、全国的にも早い段階でマイカー規制が敷かれるようになった。 立山は、縄文の太古から自然崇拝の山として、また、奈良・平安時代以降は山岳信仰(立山信仰)による立山修験が現れて、日本三霊山の一つとされている。 立山について「万葉集」には「多知夜麻」と記された。国文学的表現として立山は「植うる剣」とされ、「荒城の月」の歌詞にある「ううる剣」のモチーフの基でもある。 越中の守として遣わされた国司大伴家持(天平18年〈746年〉- 天平勝宝3年〈751年〉以前在任)は、天平19年(747年)「皇神(すめかみ)の 頷(うしは)きいます 新川の その多知夜麻(たちやま)に〜」(国神の領有される新川のその立山に)と立山の霊性を詠んだ。「万葉集」に歌われた立山は、遥かに敬い拝む神山であり天皇も知るところであった。「立山賦」および「敬和立山賦」に片貝川が詠われたのは有力な拠点があったと伺える。現代まで片貝川の小石を持参して頂上に供える習俗は続いており、保の伏山や有頼柳などを伝え、大伴氏から別れた佐伯氏が片貝川、布施川の辺りに蕃衍(はんえん)している。山麓には信仰にかかわる立山の神霊を祀ったとみられ、この奈良時代(710年 - 794年)ごろは、古来の地主神とされる刀尾(たちお)天神を敬っていたと見られる。 一方、8世紀ごろに役小角を開祖とする修験道の広まりに加え、これを追いかけて9世紀初頭に空海・最澄らが密教(真言宗・天台宗)を日本に伝える。山中での修験の広まりと密教が結びつき、立山には、吉野・熊野三山、および、高野山金剛峯寺、比叡山寺門派などの修験修行僧が入ったと考えらる。開山の記に、大日岳・剣岳の両山頂付近では、奈良後期から平安初期の錫杖が見つかっている。秘峰であった立山は、9世紀中ごろに律令国家的な開山がなされ、併せて寺院などの建立が進んだことが伺える。 京の東方立山では、大日、および、不動明王、薬師浄土など真言密教系の修験に取り囲まれる一方で、円密一致をなす天台密教の修験の場である。中心には西方を司る阿弥陀が坐す。 最澄が修めることができなかった真言密教は、円仁から円珍と渡り補完された。佐伯一門で空海の甥の円珍は、役小角の後を慕い承和12年(845年)大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し修験道の発展に寄与し、承和13年(846年)延暦寺の学頭となって、仁寿3年(853年)唐に渡った。天台山に学ぶのみならず、青龍寺の法全から、伯父の空海と同じく密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)に帰国し、翌貞観元年(859年)に園城寺に入り、清和天皇より園城寺を賜わってこれを顕教、密教に加えて修験道を兼学する伝法灌頂の道場とし、唐から請来した経典や法具を園城寺唐院に収蔵した。円珍は、最澄が志した真言密教を修めた天台法華円宗の円密一致を補完した。 この円珍の弟子、康済(こうぜい、828年 - 899年)は、比叡山にて承和14年(847年)に受戒し、円珍が天安2年(858年)に唐から帰国したのち、円珍から伝法灌頂を授けられた律師(法橋)となる。康済は、「越中立山建立」と師資相承(ししそうじょう)しており、のちに天台座主第8世・園城寺長吏第4世(別当大師)に至る。高野山、比叡山と同規模以上の一大宗教山として立山(りゅうさん)信仰と共に施設や登山ルートなど形の整えは、在地の佐伯一門が中心に、また、叡山僧では師の円珍から相承けた康済に渡って行われたと見られる。立山の説話では、立山山麓に芦峅寺、岩峅寺(いわくらじ)、太田寺(おおたじ)、日中寺(にっちゅうじ)または森尻(もりじり)など広範囲に広がる六寺の宗教村落跡が伝わるものの、現在は天台の仏寺は残らず、芦峅、岩峅の両拠点の雄山神社のほかに、日中に日置神社が、森尻に神度神社が残ってわずかに往時を偲ばせている。雄山神社には、雄山の立山本峰に峰本社があり、山麓芦峅寺の中宮(祈願殿)、岩峅寺の麓大宮(前立社壇)とともに、三位一体の形を有し健在である。峰本社を見上げる室堂平には参籠の場として建てられた室堂が復元されている。このほかに、刀尾神社が点在しており、また、真言密教の仏寺に刀尾寺や不動明王を祭る日石寺などがわずかに現存している。 康済が律師となったころ、「雄山神」は、清和天皇から貞観5年(863年)9月条、初めて官位を授かり、三代実録「25日甲寅、越中国正五位下雄山神に正五位上を授く」とあり、その功績から律令国家の下におかれている。国司同様それ以上に遇される雄山神社の創建が伺え、この時までには開山していたと見られる。また、「雄山神」の功績から、宇多天皇寛平元年(889々)8月条、日本紀略「正五位上雄山神を従四位下に叙す」と昇進している。 国司の政務は、在地の佐伯一門の影響があったと想起され、何らか「雄山神」および「比叡山(寺門派)」ともおのおの強く関りあったと見られる。国司は8世紀の家持と池主のほか佐伯御形、佐伯鷹守、9世紀の大伴黒成、佐伯河雄などが続く。かつて魚津に蕃衍した在地の佐伯一門は、御形、鷹守の頃より拠点を移動して、森尻や日中を経て、開山の前には芦峅、岩峅の両拠点に移っていたと見られる。 開山縁起では、大宝律令施行の大宝元年(701年)に遡って、これら開山を大きく比喩した説話に替えられている。剣山刀尾天神(白鷹の剣岳)を目指して立山に入るも、不意に現れた阿弥陀仏(熊の雄山)に白羽の矢を立て感得して立山建立し、また、慈興律師らの寺院普及などを、国司の有若または子の有頼の功績として説話に祭ったと見られる。説話の基には、熊野三山、および、高野山金剛峰寺などの開山縁起に見られる修験説話形式を踏まえて、かつ、康済と在地の佐伯一門を天台上人系の通字の「慈」(この頃10世紀を例え、中興の祖、良源の諡号は慈恵のように)を名に当てはめて、慈朝と慈興などと准えたと見られる。 立山の中心となる神は、古来は「刀尾(たちお)神」が周知され剱岳などに坐すと考えられたが、それまで秘境であった立山において姿すら未知の秘峰、立山本峰(ほんみね)に坐す「雄山神」が、天台の立山開山に伴って周知されると信仰が改まったと見られる。「雄山神」は、日本神話の説話(古事記(712年)、日本書紀(720年)など)による天地開闢と黄泉の国、伊邪那岐命の黄泉帰りと神産みの禊などに根ざし、末法思想が広がる平安後期11世紀までには阿弥陀信仰と強く結びつき、立山地獄説話と共に西方極楽浄土の神山として立山権現が定着した。また、剣岳に刀尾(たちお)権現(本地、不動明王)として手力男命(たぢからおのみこと)を迎えて祭ったと見られる。 雄山神社の祭神は、主神に伊邪那岐命・阿弥陀如来、副神に手力雄命・不動明王が祭られ、本地垂迹による神仏混淆がみられ、岩峅寺の雄山神社の境内摂社にも刀尾(たちお)神社が祀られている。また「和漢三才図会」(1712年)巻六八に、立山(りゅうさん)・刀尾(とおび)両権現の祭神として伊邪那岐命、手力男命があがっている。なお平安以降、立山権現には現在と異なる姿がある。 芦峅寺泉蔵坊本「立山大縁起」には「立山禅定ノ濫觴トハ神祇五代ノ開基、伊弉冉・伊弉諾命ノ霊廟ニシテ則チ陰陽交愛ノ根元、衆生流出ノ本土也」とあり、国初の男女両神のみたま屋であって男女交愛の根元の山としている。元禄9年(1696年)、橘三喜は立山に登拝し絶頂の社図を描いており、祠を三間に仕切り、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)・瓊瓊杵(ににぎ)三尊を祀ったかたちである(諸国一宮巡詣記)。 明和7年(1770年)、京都の公卿町尻兼久が従臣を遣して岩峅寺の立山権現に参詣させた時、岩峅寺の社僧は立山は国初の男女両神を祀ると明言している(岩峅寺文書)。 岩峅寺の「立山略縁起」の一つにも「立山大権現は伊弉諾・伊弉冉の霊躰、一切男女の元神」と記されている(「越中国立山禅定名所附図」石川県金沢市立図書館蔵)。 「伊呂波字類抄」(平安末期という)の「立山大菩薩顕給本縁起」によると、越中守・佐伯有若宿禰が、仲春上旬の頃、鷹狩りのために山に入ったところ鷹が逃げてしまった。それを見つけに山中に入っていくと熊が現れ襲ってきたので、矢を射かけた。熊は、矢を受けたまま山中に逃げていった。それを追っていくと、その熊とみえたのは金色の阿弥陀如来で、その身には有若が射た矢が刺さっていた。これを見た有若は菩提心を発し、弓を折り髪を切って沙弥となり、慈興と名乗ったという。 「類聚既験抄」(鎌倉末期という)では、「越中国立山権現 文武天皇御宇・大宝元年(701年)始めて建立された。相伝に云う立山にいた狩人が、熊を矢で射て追いかけたところ、その熊は矢を受けて立ったまま死んでいた。しかし、その屍体を見ると、熊ではなく金色の阿弥陀如来であった、乃ち此を立山権現と云う」と記されている。 「和漢三才図会」巻六八(1712年・江戸中期)では、「立山権現 文武天皇・大宝元年(701年)、天皇は阿弥陀如来からの夢告により、佐伯宿禰有若を越中国国司に任じた。ある日、有若の子・有頼が、父が愛育していた白鷹を借りて鷹狩りをしたところ、鷹が逃げてしまった。鷹を行方を探している有頼の前に、右手に剣をさげ左手に数珠を持った翁(刀尾天神・たちおてんじん)があらわれ、「鷹は横江の森にいる」と教えて消えていった。なおも深山に入っていくと大熊が現れ襲いかかってきたので、有頼は弓に矢をつがえて熊の胸を射貫いた。熊は血を流しながら玉殿の岩屋のなかにに逃げ込んだので、有頼も続いて岩屋に駆け込んでみると、熊はおらず三尊が並び立っておられ、しかも阿弥陀如来像の胸には自分が射放った矢が突き立ち血が流れていた。驚いた有頼がその場に伏せていたら、阿弥陀如来があらわれ、『私は濁世の衆生を救おうとして、この山に十界を現して(地獄極楽をすっかりそろえて)、お前の来るのを待っていた。有若を国司にしたのもそのためである。鷹は剣山の刀尾天神で、熊は私である。お前は早く出家して此の山を開け』と告げた。これを聞いた有頼は感泣して山を下り、五智山の慈朝について仏門に入り、慈興と名乗って立山を開き、立山大権現の大宮などを建てた」と記されている。 有頼が、山に入って草をかみ元気を回復した坂を草生(くさおい)坂、妖気迫り、抜刀して切払った坂を断截(だんさい)坂、称名念仏の声に励まされてやすやすと登った坂を刈安(かりやす)坂といい、念仏の声は滝の音だったので、その滝を称名(しようみよう)滝といい、滝を伏拝んだ地を伏拝(ふしおがみ)というなどの地名説話がある。立山は山頂付近に地獄(古い日本語で温泉の意味)がある山としても知られていた。 立山三山をめぐる立山登拝は、須弥山の天界思想に到達するもので、地獄と浄土による生死観の対比、および、立山本峰に至って雄山の山頂(雄山神社峰本社)から北辰に重ねて大汝を拝むこと、これ即ち宇宙に己(大汝)を写して己を悟るものと考えられ、古来修験より信仰が広がっている。また、大日岳や雄山から剱岳(俱利伽羅不動明王)を拝むことも同様である。信仰上、大汝山や剱岳は拝む山であり自らが登る山ではない。 立山登拝の際に、河原で石を携えて雄山の山頂に石を供える習わしがある。天界浄土となる立山本峰は、富山城下から見ると、立山の大日岳による死角に隠れされている。登拝は、麓の岩峅寺に所在する雄山神社(旧称は立山権現・雄山権現)、「神様の降り立つ場所」の意味を含む芦峅寺の麓大宮(前立社壇)にて、立山に入山する者の身の穢れや罪を祓い、道中無事の祈願から始まる。雄山の山頂には、雄山神社本宮(峰本社)があり、霊山信仰を導いている。 古くから修験者が登山した山が、現代では立山黒部アルペンルートが開通し、高尾山や富士山に次ぎ、国内外から年間100万人に迫る観光客が訪れる山岳観光地である。また立山連峰(剱岳、雄山、富士ノ折立)には、日本では数少ない氷河が現存する。 立山アルペンルートが春に除雪され開通すると、室堂ターミナル付近の道路は両側が10-20 mの高さの雪の壁となり、「雪の大谷」と呼ばれている。 室堂の北側には、みくりが池の湖畔を通り地獄谷へ向かう遊歩道がある。地獄谷の北西にはほとんど草木が生えることができないエンマ山と呼ばれる硫黄を含んだ丘がある。地獄谷では、噴煙、火山ガスおよび温泉の源泉があり、有毒ガスの濃度によって遊歩道が通行禁止となる場合がある。この源泉が、周辺の宿泊施設で温泉施設に利用されている。 立山と弥陀ヶ原周辺は、3,000 m級の山々とはいえ古くから多くの人の参拝が可能であった。それに対して、剱岳を初めとする山々は近代になってようやく登山の対象となった。 江戸時代から旧越中国の多くの村では、男子は15歳または16歳になると成人儀礼として集団で立山(雄山神社)を登拝する風習があり、この立山詣りで一人前と認められた。明治以来、富山県内の小学校で、学校行事として立山で学校登山が行われてきた。富山県教育委員会によれば、富山県内で立山登山を行っっている小中学校は60 - 70校で推移している。 1964年(昭和39年)6月20日に高原バス全線(美女平 - 室堂)が営業を開始すると、標高2,450 mの室堂までバスで行くことができ、立山登山も手軽に行えるようになった。 また富山県教育委員会の主催で、富山県下から小学6年生を募集し「12歳立山夢登山」も行われた。しかし2003年(平成15年)7月、小学生が転落し収容先の病院で死亡が確認された事故の発生以後、学校からの登山の計画や届出での規則が強化され、小学校登山の安全対策として立山自然保護センターで登山用ヘルメットの貸出を開始した。 立山黒部アルペンルートの交通機関を利用し、室堂を立山や剱岳などの登山口とする場合が多い。立山室堂山荘と一ノ越を経由して、雄山神社まで往復するルートが最もよく利用されている。冬期は交通機関が途絶えるため、一般の登山は困難となる。春に立山黒部アルペンルートが開通すると、室堂周辺などで春山スキーが行われている。 室堂周辺や立山周辺の登山道上に、ホテルや山小屋などの多くの宿泊施設がある。大汝山および雄山への最寄りの山小屋は一ノ越山荘である。全ての山小屋は予約制となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "立山(たてやま)は、富山県の飛騨山脈(北アルプス)北部にある山。中部山岳国立公園に属する。雄山(おやま、標高3,003 m)、大汝山(おおなんじやま、3,015 m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、2,999 m)の三つの峰からなる。富山県の最高峰であり、日本海に面する道府県の最高峰である。また、日本の3,000 m級の山としては最北端・最西端に位置する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本三名山、日本三霊山(三大霊場、三大霊地)、日本四名山、日本百名山、新日本百名山および花の百名山に選定され、富山県のシンボルの一つとされている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "広義の立山は、一つの山脈が造山過程で東西に分かれ、立山連峰と後立山連峰と称す複列連峰である。", "title": "自然環境" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "かつて山体は立山カルデラにあり、元の立山火山の山頂部は侵食で喪失している。弥陀ヶ原と五色ヶ原はこの火山の火砕流堆積物や溶岩の台地である。ミクリガ池、ミドリガ池は火口湖であり、現在の立山火山の主な火山活動は地獄谷周辺の火山性ガスの噴出と温泉噴出である。造山運動により形成された褶曲山脈であり、黒部川を挟んで後立山連峰と対峙している。", "title": "自然環境" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "立山を源流とする主な河川は以下の通り。いずれも富山湾へ流れる。", "title": "自然環境" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "雄山山頂にある雄山神社峰本社神殿右端の前には、測量の基準である大きな黒御影石の標石(標高点3,003 m)があり、その約70 m南南西に一等三角点(標高2,991.59 m、点名「立山」)の標石が設置されている。雄山は、一等三角点百名山に選定されている。", "title": "自然環境" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "冬季はシベリアから吹く寒風によって日本海で発生した水蒸気が運ばれ、立山の3,000 m級の山々にぶつかることで大量の降雪をもたらす。世界有数の豪雪地帯であり、積雪は15 m以上、最低気温は氷点下20°C以下になる。", "title": "自然環境" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "室堂周辺から上部は、森林限界のハイマツ帯で、多くのライチョウが生息している。花の百名山に選定されていて、室堂周辺などでは雪解けと共に多くの高山植物の開花が見られる。タテヤマリンドウ、タテヤマウツボグサ、タテヤマアザミ、タテヤマキンバイ、タテヤマオウギなどのタテヤマの名称が付く高山植物があるが、立山の固有種というわけではない。", "title": "自然環境" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "登山者や観光客の増加により室堂周辺は外来植物や病原菌の侵入など、生態系の破壊が危惧され、全国的にも早い段階でマイカー規制が敷かれるようになった。", "title": "自然環境" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "立山は、縄文の太古から自然崇拝の山として、また、奈良・平安時代以降は山岳信仰(立山信仰)による立山修験が現れて、日本三霊山の一つとされている。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "立山について「万葉集」には「多知夜麻」と記された。国文学的表現として立山は「植うる剣」とされ、「荒城の月」の歌詞にある「ううる剣」のモチーフの基でもある。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "越中の守として遣わされた国司大伴家持(天平18年〈746年〉- 天平勝宝3年〈751年〉以前在任)は、天平19年(747年)「皇神(すめかみ)の 頷(うしは)きいます 新川の その多知夜麻(たちやま)に〜」(国神の領有される新川のその立山に)と立山の霊性を詠んだ。「万葉集」に歌われた立山は、遥かに敬い拝む神山であり天皇も知るところであった。「立山賦」および「敬和立山賦」に片貝川が詠われたのは有力な拠点があったと伺える。現代まで片貝川の小石を持参して頂上に供える習俗は続いており、保の伏山や有頼柳などを伝え、大伴氏から別れた佐伯氏が片貝川、布施川の辺りに蕃衍(はんえん)している。山麓には信仰にかかわる立山の神霊を祀ったとみられ、この奈良時代(710年 - 794年)ごろは、古来の地主神とされる刀尾(たちお)天神を敬っていたと見られる。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方、8世紀ごろに役小角を開祖とする修験道の広まりに加え、これを追いかけて9世紀初頭に空海・最澄らが密教(真言宗・天台宗)を日本に伝える。山中での修験の広まりと密教が結びつき、立山には、吉野・熊野三山、および、高野山金剛峯寺、比叡山寺門派などの修験修行僧が入ったと考えらる。開山の記に、大日岳・剣岳の両山頂付近では、奈良後期から平安初期の錫杖が見つかっている。秘峰であった立山は、9世紀中ごろに律令国家的な開山がなされ、併せて寺院などの建立が進んだことが伺える。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "京の東方立山では、大日、および、不動明王、薬師浄土など真言密教系の修験に取り囲まれる一方で、円密一致をなす天台密教の修験の場である。中心には西方を司る阿弥陀が坐す。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "最澄が修めることができなかった真言密教は、円仁から円珍と渡り補完された。佐伯一門で空海の甥の円珍は、役小角の後を慕い承和12年(845年)大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し修験道の発展に寄与し、承和13年(846年)延暦寺の学頭となって、仁寿3年(853年)唐に渡った。天台山に学ぶのみならず、青龍寺の法全から、伯父の空海と同じく密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)に帰国し、翌貞観元年(859年)に園城寺に入り、清和天皇より園城寺を賜わってこれを顕教、密教に加えて修験道を兼学する伝法灌頂の道場とし、唐から請来した経典や法具を園城寺唐院に収蔵した。円珍は、最澄が志した真言密教を修めた天台法華円宗の円密一致を補完した。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この円珍の弟子、康済(こうぜい、828年 - 899年)は、比叡山にて承和14年(847年)に受戒し、円珍が天安2年(858年)に唐から帰国したのち、円珍から伝法灌頂を授けられた律師(法橋)となる。康済は、「越中立山建立」と師資相承(ししそうじょう)しており、のちに天台座主第8世・園城寺長吏第4世(別当大師)に至る。高野山、比叡山と同規模以上の一大宗教山として立山(りゅうさん)信仰と共に施設や登山ルートなど形の整えは、在地の佐伯一門が中心に、また、叡山僧では師の円珍から相承けた康済に渡って行われたと見られる。立山の説話では、立山山麓に芦峅寺、岩峅寺(いわくらじ)、太田寺(おおたじ)、日中寺(にっちゅうじ)または森尻(もりじり)など広範囲に広がる六寺の宗教村落跡が伝わるものの、現在は天台の仏寺は残らず、芦峅、岩峅の両拠点の雄山神社のほかに、日中に日置神社が、森尻に神度神社が残ってわずかに往時を偲ばせている。雄山神社には、雄山の立山本峰に峰本社があり、山麓芦峅寺の中宮(祈願殿)、岩峅寺の麓大宮(前立社壇)とともに、三位一体の形を有し健在である。峰本社を見上げる室堂平には参籠の場として建てられた室堂が復元されている。このほかに、刀尾神社が点在しており、また、真言密教の仏寺に刀尾寺や不動明王を祭る日石寺などがわずかに現存している。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "康済が律師となったころ、「雄山神」は、清和天皇から貞観5年(863年)9月条、初めて官位を授かり、三代実録「25日甲寅、越中国正五位下雄山神に正五位上を授く」とあり、その功績から律令国家の下におかれている。国司同様それ以上に遇される雄山神社の創建が伺え、この時までには開山していたと見られる。また、「雄山神」の功績から、宇多天皇寛平元年(889々)8月条、日本紀略「正五位上雄山神を従四位下に叙す」と昇進している。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "国司の政務は、在地の佐伯一門の影響があったと想起され、何らか「雄山神」および「比叡山(寺門派)」ともおのおの強く関りあったと見られる。国司は8世紀の家持と池主のほか佐伯御形、佐伯鷹守、9世紀の大伴黒成、佐伯河雄などが続く。かつて魚津に蕃衍した在地の佐伯一門は、御形、鷹守の頃より拠点を移動して、森尻や日中を経て、開山の前には芦峅、岩峅の両拠点に移っていたと見られる。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "開山縁起では、大宝律令施行の大宝元年(701年)に遡って、これら開山を大きく比喩した説話に替えられている。剣山刀尾天神(白鷹の剣岳)を目指して立山に入るも、不意に現れた阿弥陀仏(熊の雄山)に白羽の矢を立て感得して立山建立し、また、慈興律師らの寺院普及などを、国司の有若または子の有頼の功績として説話に祭ったと見られる。説話の基には、熊野三山、および、高野山金剛峰寺などの開山縁起に見られる修験説話形式を踏まえて、かつ、康済と在地の佐伯一門を天台上人系の通字の「慈」(この頃10世紀を例え、中興の祖、良源の諡号は慈恵のように)を名に当てはめて、慈朝と慈興などと准えたと見られる。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "立山の中心となる神は、古来は「刀尾(たちお)神」が周知され剱岳などに坐すと考えられたが、それまで秘境であった立山において姿すら未知の秘峰、立山本峰(ほんみね)に坐す「雄山神」が、天台の立山開山に伴って周知されると信仰が改まったと見られる。「雄山神」は、日本神話の説話(古事記(712年)、日本書紀(720年)など)による天地開闢と黄泉の国、伊邪那岐命の黄泉帰りと神産みの禊などに根ざし、末法思想が広がる平安後期11世紀までには阿弥陀信仰と強く結びつき、立山地獄説話と共に西方極楽浄土の神山として立山権現が定着した。また、剣岳に刀尾(たちお)権現(本地、不動明王)として手力男命(たぢからおのみこと)を迎えて祭ったと見られる。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "雄山神社の祭神は、主神に伊邪那岐命・阿弥陀如来、副神に手力雄命・不動明王が祭られ、本地垂迹による神仏混淆がみられ、岩峅寺の雄山神社の境内摂社にも刀尾(たちお)神社が祀られている。また「和漢三才図会」(1712年)巻六八に、立山(りゅうさん)・刀尾(とおび)両権現の祭神として伊邪那岐命、手力男命があがっている。なお平安以降、立山権現には現在と異なる姿がある。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "芦峅寺泉蔵坊本「立山大縁起」には「立山禅定ノ濫觴トハ神祇五代ノ開基、伊弉冉・伊弉諾命ノ霊廟ニシテ則チ陰陽交愛ノ根元、衆生流出ノ本土也」とあり、国初の男女両神のみたま屋であって男女交愛の根元の山としている。元禄9年(1696年)、橘三喜は立山に登拝し絶頂の社図を描いており、祠を三間に仕切り、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)・瓊瓊杵(ににぎ)三尊を祀ったかたちである(諸国一宮巡詣記)。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "明和7年(1770年)、京都の公卿町尻兼久が従臣を遣して岩峅寺の立山権現に参詣させた時、岩峅寺の社僧は立山は国初の男女両神を祀ると明言している(岩峅寺文書)。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "岩峅寺の「立山略縁起」の一つにも「立山大権現は伊弉諾・伊弉冉の霊躰、一切男女の元神」と記されている(「越中国立山禅定名所附図」石川県金沢市立図書館蔵)。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "「伊呂波字類抄」(平安末期という)の「立山大菩薩顕給本縁起」によると、越中守・佐伯有若宿禰が、仲春上旬の頃、鷹狩りのために山に入ったところ鷹が逃げてしまった。それを見つけに山中に入っていくと熊が現れ襲ってきたので、矢を射かけた。熊は、矢を受けたまま山中に逃げていった。それを追っていくと、その熊とみえたのは金色の阿弥陀如来で、その身には有若が射た矢が刺さっていた。これを見た有若は菩提心を発し、弓を折り髪を切って沙弥となり、慈興と名乗ったという。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "「類聚既験抄」(鎌倉末期という)では、「越中国立山権現 文武天皇御宇・大宝元年(701年)始めて建立された。相伝に云う立山にいた狩人が、熊を矢で射て追いかけたところ、その熊は矢を受けて立ったまま死んでいた。しかし、その屍体を見ると、熊ではなく金色の阿弥陀如来であった、乃ち此を立山権現と云う」と記されている。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「和漢三才図会」巻六八(1712年・江戸中期)では、「立山権現 文武天皇・大宝元年(701年)、天皇は阿弥陀如来からの夢告により、佐伯宿禰有若を越中国国司に任じた。ある日、有若の子・有頼が、父が愛育していた白鷹を借りて鷹狩りをしたところ、鷹が逃げてしまった。鷹を行方を探している有頼の前に、右手に剣をさげ左手に数珠を持った翁(刀尾天神・たちおてんじん)があらわれ、「鷹は横江の森にいる」と教えて消えていった。なおも深山に入っていくと大熊が現れ襲いかかってきたので、有頼は弓に矢をつがえて熊の胸を射貫いた。熊は血を流しながら玉殿の岩屋のなかにに逃げ込んだので、有頼も続いて岩屋に駆け込んでみると、熊はおらず三尊が並び立っておられ、しかも阿弥陀如来像の胸には自分が射放った矢が突き立ち血が流れていた。驚いた有頼がその場に伏せていたら、阿弥陀如来があらわれ、『私は濁世の衆生を救おうとして、この山に十界を現して(地獄極楽をすっかりそろえて)、お前の来るのを待っていた。有若を国司にしたのもそのためである。鷹は剣山の刀尾天神で、熊は私である。お前は早く出家して此の山を開け』と告げた。これを聞いた有頼は感泣して山を下り、五智山の慈朝について仏門に入り、慈興と名乗って立山を開き、立山大権現の大宮などを建てた」と記されている。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "有頼が、山に入って草をかみ元気を回復した坂を草生(くさおい)坂、妖気迫り、抜刀して切払った坂を断截(だんさい)坂、称名念仏の声に励まされてやすやすと登った坂を刈安(かりやす)坂といい、念仏の声は滝の音だったので、その滝を称名(しようみよう)滝といい、滝を伏拝んだ地を伏拝(ふしおがみ)というなどの地名説話がある。立山は山頂付近に地獄(古い日本語で温泉の意味)がある山としても知られていた。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "立山三山をめぐる立山登拝は、須弥山の天界思想に到達するもので、地獄と浄土による生死観の対比、および、立山本峰に至って雄山の山頂(雄山神社峰本社)から北辰に重ねて大汝を拝むこと、これ即ち宇宙に己(大汝)を写して己を悟るものと考えられ、古来修験より信仰が広がっている。また、大日岳や雄山から剱岳(俱利伽羅不動明王)を拝むことも同様である。信仰上、大汝山や剱岳は拝む山であり自らが登る山ではない。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "立山登拝の際に、河原で石を携えて雄山の山頂に石を供える習わしがある。天界浄土となる立山本峰は、富山城下から見ると、立山の大日岳による死角に隠れされている。登拝は、麓の岩峅寺に所在する雄山神社(旧称は立山権現・雄山権現)、「神様の降り立つ場所」の意味を含む芦峅寺の麓大宮(前立社壇)にて、立山に入山する者の身の穢れや罪を祓い、道中無事の祈願から始まる。雄山の山頂には、雄山神社本宮(峰本社)があり、霊山信仰を導いている。", "title": "歴史・信仰" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "古くから修験者が登山した山が、現代では立山黒部アルペンルートが開通し、高尾山や富士山に次ぎ、国内外から年間100万人に迫る観光客が訪れる山岳観光地である。また立山連峰(剱岳、雄山、富士ノ折立)には、日本では数少ない氷河が現存する。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "立山アルペンルートが春に除雪され開通すると、室堂ターミナル付近の道路は両側が10-20 mの高さの雪の壁となり、「雪の大谷」と呼ばれている。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "室堂の北側には、みくりが池の湖畔を通り地獄谷へ向かう遊歩道がある。地獄谷の北西にはほとんど草木が生えることができないエンマ山と呼ばれる硫黄を含んだ丘がある。地獄谷では、噴煙、火山ガスおよび温泉の源泉があり、有毒ガスの濃度によって遊歩道が通行禁止となる場合がある。この源泉が、周辺の宿泊施設で温泉施設に利用されている。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "立山と弥陀ヶ原周辺は、3,000 m級の山々とはいえ古くから多くの人の参拝が可能であった。それに対して、剱岳を初めとする山々は近代になってようやく登山の対象となった。", "title": "登山" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "江戸時代から旧越中国の多くの村では、男子は15歳または16歳になると成人儀礼として集団で立山(雄山神社)を登拝する風習があり、この立山詣りで一人前と認められた。明治以来、富山県内の小学校で、学校行事として立山で学校登山が行われてきた。富山県教育委員会によれば、富山県内で立山登山を行っっている小中学校は60 - 70校で推移している。", "title": "登山" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1964年(昭和39年)6月20日に高原バス全線(美女平 - 室堂)が営業を開始すると、標高2,450 mの室堂までバスで行くことができ、立山登山も手軽に行えるようになった。", "title": "登山" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また富山県教育委員会の主催で、富山県下から小学6年生を募集し「12歳立山夢登山」も行われた。しかし2003年(平成15年)7月、小学生が転落し収容先の病院で死亡が確認された事故の発生以後、学校からの登山の計画や届出での規則が強化され、小学校登山の安全対策として立山自然保護センターで登山用ヘルメットの貸出を開始した。", "title": "登山" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "立山黒部アルペンルートの交通機関を利用し、室堂を立山や剱岳などの登山口とする場合が多い。立山室堂山荘と一ノ越を経由して、雄山神社まで往復するルートが最もよく利用されている。冬期は交通機関が途絶えるため、一般の登山は困難となる。春に立山黒部アルペンルートが開通すると、室堂周辺などで春山スキーが行われている。", "title": "登山" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "室堂周辺や立山周辺の登山道上に、ホテルや山小屋などの多くの宿泊施設がある。大汝山および雄山への最寄りの山小屋は一ノ越山荘である。全ての山小屋は予約制となっている。", "title": "登山" } ]
立山(たてやま)は、富山県の飛騨山脈(北アルプス)北部にある山。中部山岳国立公園に属する。雄山、大汝山、富士ノ折立の三つの峰からなる。富山県の最高峰であり、日本海に面する道府県の最高峰である。また、日本の3,000 m級の山としては最北端・最西端に位置する。 日本三名山、日本三霊山(三大霊場、三大霊地)、日本四名山、日本百名山、新日本百名山および花の百名山に選定され、富山県のシンボルの一つとされている。
{{otheruses|富山県にある飛騨山脈系の山|その他}} {{画像提供依頼|地獄谷へ向かう遊歩道|date=2023年8月|cat=富山県}} {{Infobox 山 |名称=立山本峰 |画像=[[ファイル:Mount Tate viewed from Midorigaike.jpg|300px]]<br />ミドリガ池から望む立山 |標高=3,015<ref name="kokudo">[https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41139.html 日本の主な山岳標高(富山県の山)]、国土地理院、2010年12月16日閲覧。</ref> |座標={{ウィキ座標2段度分秒|36|34|33|N|137|37|11|E}}<ref name="kokudo" /> |所在地=[[富山県]][[中新川郡]][[立山町]][[芦峅寺]] |山系=[[飛騨山脈]]([[立山連峰]]) |種類= |初登頂= |地図={{Location map|Japan Toyama Prefecture#Japan|float=center|relief=1|width=300}}{{日本の位置情報|36|34|33.5|137|37|11.2|立山(高山)|36.575961,137.619778|立山|nocoord=yes}} }} '''立山'''(たてやま)は、[[富山県]]の[[飛騨山脈]](北アルプス)北部にある[[山]]。[[中部山岳国立公園]]に属する。雄山(おやま、[[標高]]3,003 m)、大汝山(おおなんじやま、3,015 m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、2,999 m)の三つの峰からなる。富山県の最高峰であり、日本海に面する道府県の最高峰である。また、日本の3,000 m級の山としては最北端・最西端に位置する。 [[日本三名山]]、[[日本三霊山]](三大霊場、三大霊地)、[[日本四名山]]、[[日本百名山]]<ref name="fukada" group="図">『日本百名山』[[深田久弥]](著)、[[朝日新聞社]]、1982年、ISBN 4-02-260871-4、pp.188-191</ref>、[[新日本百名山]]<ref group="図">『新日本百名山登山ガイド〈上〉』 [[岩崎元郎]](著)、[[山と渓谷社]]、2006年、ISBN 4-635-53046-9、pp148-150</ref>および[[花の百名山]]<ref name="f100" group="図">『花の百名山』[[田中澄江]](著)、[[文春文庫]]、1997年、ISBN 4-16-352790-7、P213-216。その著書で代表する花として[[イワイチョウ]]を紹介した。</ref>に選定され、富山県のシンボルの一つとされている。 == 自然環境 == === 地勢 === 広義の立山は、一つの[[山脈]]が造山過程で東西に分かれ、[[立山連峰]]と[[後立山連峰]]と称す複列連峰である。 === 地理 === [[ファイル:Mount Tate and Tsurugi from Mount Goryu.jpg|サムネイル|[[五竜岳]]から望む御前沢氷河と[[剱岳]]]] [[ファイル:Tateyama from Raicho-zawa.JPG|サムネイル|雷鳥沢から望む立山雄山]] ; 山体 かつて山体は[[立山カルデラ]]にあり、元の立山火山の山頂部は[[侵食]]で喪失している。[[弥陀ヶ原 (立山)|弥陀ヶ原]]と[[五色ヶ原 (立山連峰)|五色ヶ原]]はこの火山の火砕流堆積物や溶岩の台地である。ミクリガ池、ミドリガ池は[[火口湖]]であり、現在{{いつ|date=2023年8月}}の立山火山の主な火山活動は[[地獄谷 (立山町)|地獄谷]]周辺の[[火山性ガス]]の噴出と温泉噴出である。[[造山運動]]により形成された[[褶曲山脈]]であり、[[黒部川]]を挟んで後立山連峰と対峙している。 ; 御前沢氷河 : 雄山の東側斜面にある御前沢氷河は全長約700 m、面積約0.1 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]の[[氷河]]である。日本に現存するものとしては数少ない氷河であり、黒部川の水源の一つとなっている<ref name="ice" group="報" />。 ; 内蔵助氷河 : 内蔵助カールにある日本で最小の氷河。日本に現存する7つの氷河のうち、一般登山者が踏み入れることができる唯一の氷河である<ref name="kitanihon180119" group="報" />。 ; 山崎カール : 雄山の西側斜面に[[圏谷]]があり、{{誰範囲2|一般には[[山崎カール]]と呼ばれている|date=2023年8月}}。[[1905年]]([[明治]]38年)、[[地理学者]]の帝国大学理科大学(現[[東京大学]])[[教授]]の[[山崎直方]]によって日本で初めて発見された氷河地形である。[[1945年]]([[昭和]]20年)、薬師岳東側の圏谷群{{efn|[[1952年]](昭和27年)に特別天然記念物に指定された。}}とともに国の[[天然記念物]]に指定されている。命名者は山崎の高弟である[[石井逸太郎]](1889年 - 1955年)で、「立山連峰の氷河作用‐特に山崎圏谷に就いて」([[地理学評論|地理評]]、1943年)などの論文で天然記念物指定のきっかけを作った。 === 周辺の主な峠 === * 室堂乗越 - 奥大日岳と剱御前との西寄りの鞍部 * 新室堂乗越 - 奥大日岳と剱御前との東寄りの鞍部 * 別山乗越 - 剱御前と別山との鞍部 * 真砂乗越 - 別山と真砂岳との鞍部 * [[一ノ越]] - 雄山と浄土山との鞍部 * [[ザラ峠]] - 獅子岳と五色ヶ原との鞍部 === 源流の河川 === 立山を源流とする主な[[河川]]は以下の通り。いずれも[[富山湾]]へ流れる。 * 黒部川 * 立山川([[早月川]]の[[支流]]) * [[常願寺川]] * [[称名川]](常願寺川の支流で、落差[[日本一の一覧|日本一]]の[[称名滝]]がある) === 基準点 === 雄山山頂にある[[雄山神社]]峰本社神殿右端の前には、測量の基準である大きな黒[[花崗岩|御影石]]の標石(標高点3,003 m)があり<ref name="toyama" group="図">『改訂版 富山県の山』山と渓谷社、2010年、ISBN 978-4-635-02367-2、pp.16-19</ref>、その約70 m南南西に一等[[三角点]](標高2,991.59 m、点名「立山」)の標石が設置されている<ref>[https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html 基準点成果等閲覧サービス]、国土地理院、2010年12月16日閲覧。</ref>。雄山は、[[一等三角点百名山]]に選定されている<ref>『一等三角点百名山』山と渓谷社、1988年、ISBN 4-635-17030-6</ref>。 === 気候 === 冬季は[[シベリア]]から吹く寒風によって日本海で発生した水蒸気が運ばれ、立山の3,000 m級の山々にぶつかることで大量の降雪をもたらす。世界有数の[[豪雪地帯]]であり、積雪は15 m以上、[[最低気温]]は[[氷点下]]20[[摂氏|℃]]以下になる。 === 植生 === 室堂周辺から上部は、[[森林限界]]の[[ハイマツ]]帯で、多くの[[ライチョウ]]が生息している。[[花の百名山]]に選定されていて、室堂周辺などでは雪解けと共に多くの[[高山植物]]の開花が見られる。[[タテヤマリンドウ]]、[[タテヤマウツボグサ]]、タテヤマアザミ、タテヤマキンバイ、タテヤマオウギなどのタテヤマの名称が付く高山植物があるが、立山の[[固有種]]というわけではない。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- |[[ファイル:Ptarmigan Raicyo in Tsubakurodake 2003-4-27.jpg|x80px]] |[[ファイル:Pinus pumila1.JPG|x80px]] |[[ファイル:Gentiana thunbergii Tateyamarindou in Gozaisyodake 2010-6-2.jpg|x80px]] |[[ファイル:Gentiana thunbergii var. minor in Mount Yakushi1996-08-02.jpg|x80px]] |[[ファイル:Geum pentapetalum 07.jpg|x80px]] |[[ファイル:Kuruma-yuri.jpg|x80px]] |- ![[ライチョウ]] ![[ハイマツ]] ! colspan=2 |[[タテヤマリンドウ]](青色・白色) ![[チングルマ]] ![[クルマユリ]] |} 登山者や観光客の増加により室堂周辺は外来植物や病原菌の侵入など、生態系の破壊が危惧され、全国的にも早い段階で[[マイカー規制]]が敷かれるようになった。 == 人に関わる歴史 == [[ファイル:NDL-DC 1307351 Utagawa Hiroshige 山海見立相撲越中立山 crd.jpg|サムネイル|[[歌川広重]]『山海見立相撲 越中立山』(1858年・安政5年)]] * [[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年) 国司(越中守)[[佐伯有若]]およびその子の有頼(慈興上人)により開山されたと伝わる(白鷹伝説)。 * [[1695年]]([[元禄]]8年) - [[加賀藩主]]が[[室堂平]]に立山寺(立山権現)参拝者のための参籠所(現在の室堂山荘の前身)を設置<ref name="sanmei" group="図">『コンサイエンス日本山名辞典』[[三省堂]]、1992年、ISBN 4-385-15403-1、P326-327</ref>。<!--室堂小屋は信仰施設であり、単純に「日本最古の山小屋」と言い切ってしまうのは誤解を招く。下の「1995年」の項を参照。-->[[江戸時代]]には、立山信仰が盛んになり、多くの[[信者]]が立山に登拝した。 * [[1858年]]([[安政]]5年)[[4月9日]](新暦) - [[飛越地震|安政飛越地震]]が起きて、[[鳶山]]の一部だった大鳶山と小鳶山が消滅し、立山カルデラに大量の土砂が流れ込む。これ以降、現在に至るまで砂防工事が続けられている<ref name="sangaku" group="図">『新日本山岳誌』[[ナカニシヤ出版]]、2005年、ISBN 4-779-50000-1、P914-916</ref>。 * [[1872年]]([[明治]]5年) - [[太政官]]通達により神社仏閣地の[[女人禁制]]が解かれる。それ以前の女性の登拝は、芦峅寺の姥堂までとされていた。 * [[1880年]](明治13年) - [[大町市]]野口 - [[針ノ木峠]] - ザラ峠 - 富山市原村を結ぶ[[有料道路]]の[[立山新道]]が開通。 * [[1894年]](明治27年) - [[陸地測量部]]の[[館潔彦]]らが立山を[[測量]]。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[5月12日]] - 頂上直下、三ノ越の巨岩に[[昭和天皇]]の[[御製]]「立山の空にそびゆる雄々しさにならえとぞ思ふ御代の姿も」を刻んだ[[石碑|歌碑]]が完成。 * [[1934年]](昭和9年)[[12月4日]] - 中部山岳国立公園に指定され、山域はその特別保護地区となる<ref name="park">[https://www.env.go.jp/park/chubu/intro/index.html 中部山岳国立公園]([[環境省]])、2010年12月16日閲覧。</ref>。 * [[1953年]](昭和28年)[[6月15日]] - 立山頂上郵便局を室堂に開設<ref name="kokuji770" group=" 郵">1953年(昭和28年)6月15日郵政省告示第770号「白山頂上郵便局等設置」</ref>。取扱開始日は同年[[7月5日]]<ref name="kokuji770" group=" 郵"/>。 * [[1954年]](昭和29年) - [[富山地方鉄道]][[立山駅]]から[[美女平駅]]までの区間の[[立山黒部貫光立山ケーブルカー|立山ケーブルカー]]が開業。 * [[1970年]](昭和45年)[[7月10日]] - 立山頂上郵便局を立山山頂郵便局へ改称<ref group=" 郵">1970年(昭和45年)6月4日郵政省告示第480号「郵便局改称の件」</ref>。 * [[1971年]](昭和46年)[[6月1日]] - [[立山黒部アルペンルート]]が全通開通。 * [[1981年]](昭和56年)[[7月18日]] - [[立山山頂簡易郵便局]]が室堂に開設される<ref name="kokuji534" group="郵">1981年(昭和56年)7月18日郵政省告示第534号「簡易郵便局を設置する件」</ref>。取扱開始日は同年[[7月20日]]<ref name="kokuji534" group="郵"/>。 * 1981年(昭和56年)7月20日 - 立山山頂郵便局が廃止され、引継局を小見郵便局とする<ref group="郵">1981年(昭和56年)6月17日郵政省告示第423号「郵便局を廃止する件」</ref>。なお2022年現在、立山山頂は[[日本郵便]]から[[交通困難地]]の指定を受けているため、地外から当地宛に郵便物を送付することはできない<ref group="郵">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/about/yakkan/1-7.pdf|title=別冊(内国郵便約款第79条及び第97条関係) 交通困難地・速達取扱地域外一覧|accessdate=2022-05-01|publisher=日本郵便|date=2022-02-21}}</ref>。 * [[1995年]]([[平成]]7年)[[6月27日]] - 解体修理の行われた室堂小屋が国の[[重要文化財]]に指定<ref>1995年(平成7年)6月27日文部省告示第100号「文化財を重要文化財に指定する件」</ref>。山小屋として使用されていた建物としては日本最古のものである。 * [[2000年]](平成12年)[[4月28日]] - [[郵政省]]が、『立山連峰と[[チューリップ]]畑・富山県』の50円[[切手]]を発売<ref group="郵">2000年(平成12年)4月11日郵政省告示第239号「ふるさと八十円郵便切手および五十円郵便切手(北陸)を発行する件」</ref><ref group="図">『切手と風景印でたどる百名山』ふくろう舎、2007年、ISBN 978-4-89806-276-0、P92</ref>。 * [[2008年]](平成20年)8月 - 富山県、地元市町が「立山・黒部〜防災大国日本のモデル―信仰・砂防・発電―〜」として、立山を[[世界遺産]]の[[文化庁]]暫定リスト公募に提案していたが、「国際評価が定まっていない」としてリスト入りが見送られた<ref group="報">富山新聞、2010年2月7日{{要ページ番号|date=2023-11}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年) ** 6月- [[日本雪氷学会]]により、御前沢雪渓に存在する氷体が日本では数少ない現存する氷河であることが確認され、「御前沢氷河」と命名される<ref group="富">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.toyama.jp/sections/1711/yuki/tateyama/tateyama_hyouga.html|title=国内初の現存する「氷河」を立山連峰で発見!|立山の雪|とやま雪の文化|富山県|publisher=富山県|accessdate=2018-06-22}}</ref>。 ** [[7月3日]] - 弥陀ヶ原と[[大日平]]が[[ラムサール条約]]湿地に登録<ref>{{Cite web|和書|title=Tateyama Midagahara and Dainichidaira {{!}} Ramsar Sites Information Service|url=https://rsis.ramsar.org/ris/2059|website=rsis.ramsar.org|accessdate=2023-04-14|date=2012-07-03}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[8月28日]] - [[立山黒部ジオパーク]]が[[日本ジオパーク]]に登録。 * [[2018年]](平成30年)1月 - 内蔵助雪渓に存在する氷体が氷河であることが確認される<ref name ="kitanihon180119" group="報">[http://webun.jp/item/7430350 立山で新たに氷河二つ 内蔵助と池ノ谷 県内計5カ所に] 北日本新聞社 2018年1月19日</ref>。 == 歴史・信仰 == {{出典の明記|section=1|date=2023-11}} {{独自研究|section=1|date=2023-11}} [[ファイル:Oyama Peak.jpg|サムネイル|雄山神社と登山者]] [[ファイル:Tateyama-jigokudani.jpg|サムネイル|地獄谷のイオウ塔]] 立山は、縄文の太古から[[自然崇拝]]の山として、また、奈良・平安時代以降は[[山岳信仰]]([[立山権現|立山信仰]]<ref name=":0"group="富">{{Cite web|和書|title=立山信仰の世界-第2展示室-|url=https://www.pref.toyama.jp/1739/miryokukankou/bunka/bunkazai/home/josetu2.html|website=富山県|accessdate=2021-04-26|language=ja}}</ref>)による[[立山修験]]が現れて、[[日本三霊山]]の一つとされている。 === 律令国家の立山開山 === 立山について「[[万葉集]]」には「多知夜麻」と記された<ref>万葉集 巻17、4000、4024</ref>。国文学的表現として立山は「植うる剣」とされ、「[[荒城の月]]」の歌詞にある「ううる剣」のモチーフの基でもある。 [[越中国|越中の守]]として遣わされた国司[[大伴家持]]([[天平]]18年〈746年〉- [[天平勝宝]]3年〈[[751年]]〉以前在任)は、天平19年(747年)「皇神(すめかみ)の 頷(うしは)きいます 新川の その'''多知夜麻'''(たちやま)に〜」(国神の領有される新川のその立山に)と立山の霊性を詠んだ<ref>万葉集 巻17 4000 立山賦一首</ref>。「万葉集」に歌われた立山は、遥かに敬い拝む神山であり天皇も知るところであった。「立山賦」および「敬和立山賦」に[[片貝川]]が詠われたのは有力な拠点があったと伺える。現代まで片貝川の小石を持参して頂上に供える習俗は続いており、保の伏山や[https://japanmystery.com/toyama/ariyori.html 有頼柳]<ref>{{Cite web|和書|title=有頼柳|url=https://japanmystery.com/toyama/ariyori.html|website=日本伝承大鑑|accessdate=2021-05-07|language=ja}}</ref>などを伝え、大伴氏から別れた佐伯氏が片貝川、布施川の辺りに蕃衍(はんえん)している。山麓には信仰にかかわる立山の神霊を祀ったとみられ、この奈良時代(710年 - 794年)ごろは、古来の地主神とされる刀尾(たちお)天神を敬っていたと見られる。 一方、8世紀ごろに[[役小角]]を開祖とする修験道の広まりに加え、これを追いかけて9世紀初頭に[[空海]]・[[最澄]]らが密教([[真言宗]]・[[天台宗]])を日本に伝える。山中での修験の広まりと密教が結びつき、立山には、吉野・熊野三山、および、高野山金剛峯寺、比叡山寺門派などの修験修行僧が入ったと考えらる。開山の記に、[[大日岳 (大日連峰)|大日岳]]・[[剱岳|剣岳]]の両山頂付近では、奈良後期から平安初期の[[錫杖]]が見つかっている。秘峰であった立山は、9世紀中ごろに[[大宝律令|律令国家的]]な開山がなされ、併せて寺院などの建立が進んだことが伺える。 === 修験道と密教 === 京の東方立山では、大日、および、不動明王、薬師浄土など真言密教系の修験に取り囲まれる一方で、円密一致をなす天台密教の修験の場である。中心には西方を司る阿弥陀が坐す。 最澄が修めることができなかった真言密教は、[[円仁]]から[[円珍]]と渡り補完された。佐伯一門で空海の甥の[[円珍]]は、役小角の後を慕い承和12年(845年)[[大峰山|大峯山]]・葛城山・[[熊野三山]]を巡礼し修験道の発展に寄与し、承和13年([[846年]])[[延暦寺]]の学頭となって、[[仁寿]]3年([[853年]])唐に渡った。天台山に学ぶのみならず、[[青龍寺 (西安市)|青龍寺]]の[[法全]]から、伯父の空海と同じく密教の奥義を伝授された。[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])に帰国し、翌[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])に[[園城寺]]に入り、[[清和天皇]]より[[仁寿殿|園城寺]]を賜わってこれを[[顕教]]、密教に加えて修験道を兼学する[[伝法灌頂]]の道場とし、唐から請来した経典や法具を園城寺唐院に収蔵した。円珍は、最澄が志した真言密教を修めた天台法華円宗の円密一致を補完した。 この円珍の弟子、康済(こうぜい、828年 - 899年)は、比叡山にて承和14年(847年)に受戒し、円珍が[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])に唐から帰国したのち、円珍から伝法灌頂を授けられた律師(法橋)となる。康済は、「越中立山建立」と師資相承(ししそうじょう)しており、のちに[[天台座主]]第8世・園城寺長吏第4世(別当大師)に至る。高野山、比叡山と同規模以上の一大宗教山として立山(りゅうさん)信仰と共に施設や登山ルートなど形の整えは、在地の佐伯一門が中心に、また、叡山僧では師の円珍から相承けた康済に渡って行われたと見られる。立山の説話では、立山山麓に[[芦峅寺]]、岩峅寺(いわくらじ)、太田寺(おおたじ)、日中寺(にっちゅうじ)または森尻(もりじり)など広範囲に広がる六寺の宗教村落跡が伝わるものの、現在は天台の仏寺は残らず、芦峅、岩峅の両拠点の雄山神社のほかに、日中に日置神社が、森尻に神度神社が残ってわずかに往時を偲ばせている。雄山神社には、雄山の立山本峰に峰本社があり、山麓芦峅寺の中宮(祈願殿)、岩峅寺の麓大宮(前立社壇)とともに、三位一体の形を有し健在である。峰本社を見上げる室堂平には参籠の場として建てられた室堂が復元されている<ref group="図">本郷真紹「古代社会の形成と展開」64ページ(深井甚三・本郷真紹・久保尚文・市川文彦『富山県の歴史』山川出版社 2003年11月)など</ref>。このほかに、刀尾神社が点在しており、また、真言密教の仏寺に刀尾寺や不動明王を祭る日石寺などがわずかに現存している。 康済が律師となったころ、「雄山神」は、[[清和天皇]]から貞観5年(863年)9月条、初めて[[神階|官位]]を授かり、[[日本三代実録|三代実録]]「25日甲寅、越中国[[正五位下]]雄山神に[[正五位上]]を授く」とあり、その功績から[[令制国|律令国家]]の下におかれている。国司同様それ以上に遇される雄山神社の創建が伺え、この時までには開山していたと見られる。また、「雄山神」の功績から、[[宇多天皇]]寛平元年(889々)8月条、[[日本紀略]]「正五位上雄山神を[[従四位下]]に叙す」と昇進している。 国司の政務は、在地の佐伯一門の影響があったと想起され、何らか「雄山神」および「比叡山(寺門派)」ともおのおの強く関りあったと見られる。国司は8世紀の家持と池主のほか[[佐伯御形]]、[[佐伯鷹守]]、9世紀の[[大伴黒成]]、[[佐伯河雄]]などが続く。かつて魚津に蕃衍した在地の佐伯一門は、御形、鷹守の頃より拠点を移動して、森尻や日中を経て、開山の前には芦峅、岩峅の両拠点に移っていたと見られる。 開山縁起では、[[大宝律令]]施行の大宝元年(701年)に遡って、これら開山を大きく比喩した説話に替えられている。剣山刀尾天神(白鷹の剣岳)を目指して立山に入るも、不意に現れた阿弥陀仏(熊の雄山)に白羽の矢を立て感得して立山建立し、また、慈興律師らの寺院普及などを、国司の有若または子の有頼の功績として説話に祭ったと見られる。説話の基には、熊野三山、および、高野山金剛峰寺などの開山縁起に見られる修験説話形式を踏まえて、かつ、康済と在地の佐伯一門を天台上人系の通字の「慈」(この頃10世紀を例え、中興の祖、良源の[[諡号]]は'''慈'''恵のように)を名に当てはめて、慈朝と慈興などと准えたと見られる。 === 日本神話の説話 === 立山の中心となる神は、古来は「刀尾(たちお)神」が周知され剱岳などに坐すと考えられたが、それまで秘境であった立山において姿すら未知の秘峰、立山本峰(ほんみね)に坐す「雄山神」が、天台の立山開山に伴って周知されると信仰が改まったと見られる。「雄山神」は、[[日本神話]]の説話([[古事記]](712年)、[[日本書紀]](720年)など)による[[天地開闢 (日本神話)|天地開闢]]と[[黄泉|黄泉の国]]、[[イザナギ|伊邪那岐命]]の[[黄泉]]帰りと[[神産み|神産みの禊]]などに根ざし、末法思想が広がる平安後期11世紀までには阿弥陀信仰と強く結びつき、立山地獄説話と共に西方極楽浄土の神山として立山権現が定着した。また、剣岳に刀尾(たちお)権現(本地、不動明王)として手力男命(たぢからおのみこと)を迎えて祭ったと見られる。 雄山神社の祭神は、主神に伊邪那岐命・阿弥陀如来、副神に手力雄命・不動明王が祭られ、本地垂迹による[[神仏習合|神仏混淆]]がみられ、岩峅寺の雄山神社の境内摂社にも刀尾(たちお)神社が祀られている。また「和漢三才図会」([[1712年]])巻六八に、立山(りゅうさん)・刀尾(とおび)両権現の祭神として伊邪那岐命、手力男命があがっている。なお平安以降、立山権現には現在{{いつ|date=2023年8月}}と異なる姿がある。 芦峅寺泉蔵坊本「立山大縁起」には「立山禅定ノ濫觴トハ神祇五代ノ開基、伊弉冉・伊弉諾命ノ霊廟ニシテ則チ陰陽交愛ノ根元、衆生流出ノ本土也」とあり、国初の男女両神のみたま屋であって男女交愛の根元の山としている。元禄9年(1696年)、橘三喜は立山に登拝し絶頂の社図を描いており、祠を三間に仕切り、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)・瓊瓊杵(ににぎ)三尊を祀ったかたちである(諸国一宮巡詣記)。 明和7年(1770年)、京都の公卿町尻兼久が従臣を遣して岩峅寺の立山権現に参詣させた時、岩峅寺の社僧は立山は国初の男女両神を祀ると明言している(岩峅寺文書)。 岩峅寺の「立山略縁起」の一つにも「立山大権現は伊弉諾・伊弉冉の霊躰、一切男女の元神」と記されている(「越中国立山禅定名所附図」石川県金沢市立図書館蔵)。 === 立山大権現の大宮開山縁起 === 「伊呂波字類抄」(平安末期という)の「立山大菩薩顕給本縁起」によると、越中守・佐伯有若宿禰が、仲春上旬の頃、鷹狩りのために山に入ったところ鷹が逃げてしまった。それを見つけに山中に入っていくと熊が現れ襲ってきたので、矢を射かけた。熊は、矢を受けたまま山中に逃げていった。それを追っていくと、その熊とみえたのは金色の阿弥陀如来で、その身には有若が射た矢が刺さっていた。これを見た有若は菩提心を発し、弓を折り髪を切って沙弥となり、慈興と名乗ったという<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=雄山神社(富山・立山町)|url=http://www.oyamajinja.org/|accessdate=2023-07-30}}</ref>。 「類聚既験抄」(鎌倉末期という)では、「越中国立山権現 文武天皇御宇・大宝元年(701年)始めて建立された。相伝に云う立山にいた狩人が、熊を矢で射て追いかけたところ、その熊は矢を受けて立ったまま死んでいた。しかし、その屍体を見ると、熊ではなく金色の阿弥陀如来であった、乃ち此を立山権現と云う」と記されている<ref name=":2" />。 「和漢三才図会」巻六八(1712年・江戸中期)では、「立山権現 文武天皇・大宝元年(701年)、天皇は阿弥陀如来からの夢告により、佐伯宿禰有若を越中国国司に任じた。ある日、有若の子・有頼が、父が愛育していた白鷹を借りて鷹狩りをしたところ、鷹が逃げてしまった。鷹を行方を探している有頼の前に、右手に剣をさげ左手に数珠を持った翁(刀尾天神・たちおてんじん)があらわれ、「鷹は横江の森にいる」と教えて消えていった。なおも深山に入っていくと大熊が現れ襲いかかってきたので、有頼は弓に矢をつがえて熊の胸を射貫いた。熊は血を流しながら玉殿の岩屋のなかにに逃げ込んだので、有頼も続いて岩屋に駆け込んでみると、熊はおらず三尊が並び立っておられ、しかも阿弥陀如来像の胸には自分が射放った矢が突き立ち血が流れていた。驚いた有頼がその場に伏せていたら、阿弥陀如来があらわれ、『私は濁世の衆生を救おうとして、この山に十界を現して(地獄極楽をすっかりそろえて)、お前の来るのを待っていた。有若を国司にしたのもそのためである。鷹は剣山の刀尾天神で、熊は私である。お前は早く出家して此の山を開け』と告げた。これを聞いた有頼は感泣して山を下り、五智山の慈朝について仏門に入り、慈興と名乗って立山を開き、立山大権現の大宮などを建てた」と記されている<ref name=":2" />。 有頼が、山に入って草をかみ元気を回復した坂を草生(くさおい)坂、妖気迫り、抜刀して切払った坂を断截(だんさい)坂、称名念仏の声に励まされてやすやすと登った坂を刈安(かりやす)坂といい、念仏の声は滝の音だったので、その滝を称名(しようみよう)滝といい、滝を伏拝んだ地を伏拝(ふしおがみ)というなどの地名説話がある。立山は山頂付近に地獄(古い日本語で温泉の意味)がある山としても知られていた。 === 参拝基本作法 === 立山三山をめぐる立山登拝は、須弥山の天界<ref name=":1"group="富">{{Cite web|和書|title=天界|url=https://www.pref.toyama.jp/1739/miryokukankou/bunka/bunkazai/home/g-mandaraen/tennkai.html|website=富山県|accessdate=2021-04-26|language=ja|last=富山県}}</ref>思想に到達するもので、地獄と浄土による生死観の対比、および、立山本峰に至って雄山の山頂(雄山神社峰本社)から[[北極星|北辰]]に重ねて大汝を拝むこと、これ即ち宇宙に己(大汝)を写して己を悟るものと考えられ、古来修験より信仰が広がっている。また、大日岳や雄山から剱岳([[倶利伽羅剣|俱利伽羅]][[不動明王]])を拝むことも同様である。信仰上、大汝山や剱岳は拝む山であり自らが登る山ではない。 === 参拝前の御祓 === 立山登拝の際に、河原で石を携えて雄山の山頂に石を供える習わしがある。天界<ref name=":1"group="富" />[[浄土]]となる立山本峰は、[[富山城]]下から見ると、立山の[[大日岳 (大日連峰)|大日岳]]による死角に隠れされている。登拝は、麓の岩峅寺に所在する雄山神社(旧称は立山権現・雄山権現)、「神様の降り立つ場所」の意味を含む芦峅寺の麓大宮(前立社壇)にて、立山に入山する者の身の穢れや罪を祓い、道中無事の祈願から始まる。雄山の山頂には、雄山神社本宮(峰本社)があり、霊山信仰を導いている。 == 観光 == 古くから修験者が登山した山が、現代では立山黒部アルペンルートが開通し、[[高尾山]]や[[富士山]]に次ぎ、国内外から年間100万人に迫る観光客が訪れる山岳観光地である<ref name="tateyama01">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2018feb/tokushu/index1.html|title=立山町の観光施策について~自然と文化の地域資源を活かした地域活性化策~|publisher=富山県立山町 商工観光課|accessdate=2023-08-05}}</ref>。また立山連峰(剱岳、雄山、富士ノ折立)には、日本では数少ない氷河が現存する<ref name="ice" group="報">{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/news/20120404k0000m040155000c.html |title=立山連峰:日本初の「氷河」、学会が認定|publisher=[[毎日新聞]]|date=2012-04-04|accessdate=2012-04-04}}{{リンク切れ|date=2018-06-22}}</ref><ref group="報">[https://www.sankei.com/life/news/191004/lif1910040054-n1.html 国内7カ所目の氷河確認 北アルプス、唐松沢雪渓] 産経新聞 2019年10月4日</ref>。 === 雪の大谷 === [[ファイル:20090503yukinoohtani02.JPG|サムネイル|雪の大谷]] 立山アルペンルートが春に除雪され開通すると、[[室堂駅|室堂ターミナル]]付近の道路は両側が10-20 mの高さの雪の壁となり、「雪の大谷」と呼ばれている。 === 弥陀ヶ原 === [[ファイル:tateyama-midagahara.JPG|サムネイル|弥陀ヶ原]] {{main|弥陀ヶ原 (立山)}} === 地獄谷 === [[ファイル:Tateyama-jigokudani.jpg|サムネイル|地獄谷のイオウ塔]] 室堂の北側には、みくりが池の湖畔を通り地獄谷へ向かう[[遊歩道]]がある。地獄谷の北西にはほとんど草木が生えることができないエンマ山と呼ばれる[[硫黄]]を含んだ丘がある。地獄谷では、[[噴煙]]、[[火山ガス]]および温泉の[[源泉]]があり、有毒ガスの濃度によって遊歩道が通行禁止となる場合がある。この源泉が、周辺の宿泊施設で温泉施設に利用されている。 === 黒部平 === [[ファイル:Kurobe-daira01st3200.jpg|サムネイル|[[黒部平]]駅 (1,828 m) から望む立山の裏側]] {{節スタブ}} == 登山 == 立山と弥陀ヶ原周辺は、3,000 m級の山々とはいえ古くから多くの人の参拝が可能であった。それに対して、[[剱岳]]を初めとする山々は[[近代]]になってようやく[[登山]]の対象となった。 江戸時代から旧越中国の多くの村では、男子は15歳または16歳になると[[通過儀礼|成人儀礼]]として集団で立山(雄山神社)を登拝する風習があり、この立山詣りで一人前と認められた<ref group="図">『名山の日本史』[[河出書房新社]]、2004年、ISBN 4-309-22410-5、p254</ref>。明治以来、富山県内の小学校で、学校行事として立山で[[学校登山]]が行われてきた。富山県教育委員会によれば、富山県内で立山登山を行っている小中学校は60 - 70校で推移している<ref group="報">『[[北日本新聞]]』2008年5月31日朝刊{{要ページ番号|date=2023-11}}</ref>。 1964年(昭和39年)6月20日に高原バス全線(美女平 - 室堂)が営業を開始すると、標高2,450 mの室堂まで[[バス (交通機関)|バス]]で行くことができ、立山登山も手軽に行えるようになった。 また富山県教育委員会の主催で、富山県下から小学6年生を募集し「12歳立山夢登山」も行われた。しかし[[2003年]](平成15年)7月、小学生が転落し収容先の病院で死亡が確認された事故の発生以後、学校からの登山の計画や届出での規則が強化され、小学校登山の安全対策として立山自然保護センターで[[ヘルメット (登山)|登山用ヘルメット]]の貸出を開始した<ref name="toyama103">{{Cite web|和書|url=https://tateyama-shizenhogo-c.raicho-mimamori.net/_wp/wp-content/uploads/2021/03/02.pdf|title=学校登山用ヘルメットの貸出し|format=pdf|publisher=富山県山岳遭難対策協議会|date=2021-03-02|accessdate=2023-07-23}}</ref>。 === 登山史 === * [[1873年]]([[明治]]6年) - 深見チエが女性として立山初登頂。 * [[1878年]](明治11年)- [[アーネスト・サトウ]]が針ノ木峠を越え立山に登頂し、『日本旅行日記』などを著した。 * [[1879年]](明治12年) - [[ウィリアム・ゴーランド]]が立山に登頂。 * [[1891年]](明治24年) - [[ヨハニス・デ・レーケ]]の娘ヤコバが外国人女性として立山初登頂<ref name="sangaku" group="図" />。 * [[1893年]](明治26年) - [[ウォルター・ウェストン]]が大町市の麓から針ノ木峠とザラ峠を越えて[[立山温泉]]に入り、室堂を経由して[[立山町]]の麓への探険的登山を行った。 * [[1896年]](明治29年) - [[日本山岳会]]の第3代会長[[木暮理太郎]]が針ノ木峠を越えて立山に登頂。 * [[1914年]]([[大正]]3年) - ウェストンが立山を再登頂。その後1918年に『The Playground of the Far East』(極東の遊歩場)を[[ロンドン]]で出版し、この山を世界に紹介した<ref name="sangaku" group="図" /><ref group="図">ウォルター・ウェストン『日本アルプス再訪』、水野勉訳、平凡社、1996年、ISBN 4-58-276161-5</ref>。 * [[1912年]](明治45年) - [[富山市立水橋中部小学校|東水橋尋常高等小学校]]の児童65名が4泊5日で立山に登る。これが立山における学校登山の始まり。 * [[1919年]](大正8年)7月 - [[富山県立富山いずみ高等学校|富山県立富山高等女学校]]と[[富山師範学校|富山県女子師範学校]]の女生徒<ref group="図">下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p333 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>ら49名(女学生38名と校長含む引率者11名)が、学校から3泊4日で立山に登頂。 * [[1923年]](大正12年)1月 - 雄山に冬季登頂した[[槇有恒]]、[[板倉勝宣]]、三田幸夫がスキーで下山中に猛吹雪に遭い遭難。板倉は立山カルデラの縁にあたる松尾峠付近で[[低体温症]]により死亡<ref>[http://www.tatecal.or.jp/tatecal/proceedings/11-19-55.pdf 立山カルデラ研究紀要第11号-芦峅ガイドの系譜p23] 五十嶋一晃 2017年12月2日閲覧</ref>。 * [[1947年]](昭和22年) - 佐伯房治が[[地獄谷 (立山町)|地獄谷温泉]]に房治小屋を建設<ref name="koya" group="図">『北アルプス山小屋物語』[[東京新聞]]出版局、1990年、ISBN 4-8083-0374-4、P161-178</ref>。 * [[1961年]](昭和36年) - 佐伯利雄が立山の北側にある[[真砂岳 (立山連峰)|真砂岳]]山頂直下の東側で内蔵助山荘を開業<ref name="koya" group="図" />。 * [[1967年]](昭和42年) - 立山駅前の千寿ヶ原に[[文部省]]登山研修所が開設<ref name="sanmei" group="図" />。 * [[1970年]](昭和45年)[[12月2日]] - 房治荘から撤収中の従業員、複数の大学などのスキー部員らが吹雪のため集団遭難、一時は23人が行方不明となった<ref group="報">23人遭難か ふぶきの立山『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月3日夕刊 3版 11面</ref>。後に、16人が無事下山するも<ref group="報">七人(同志社大)いぜん不明 十六人は無事に避難 吹雪の立山『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月3日朝刊 12版 3面</ref>同志社大学の学生7人が死亡。 * [[1972年]](昭和47年) - 山小屋であるニューサンブジ(現・雷鳥沢ヒュッテ)が、地獄谷温泉の北東端で開業<ref name="koya" group="図" />。 * [[1986年]](昭和61年) - それまで{{いつ|date=2023年8月}}山小屋として使用されていた[[室堂小屋]](立山室堂山荘)が富山県指定有形文化財に指定され、翌年西側に新たな山小屋の建物が造られた<ref name="koya" group="図" />。 * [[1989年]](平成元年)[[10月8日]] - 立山三山を縦走中のパーティ10名が悪天候に見舞われ遭難し、真砂岳で8人が凍死する[[立山中高年大量遭難事故|遭難事故]]が発生<ref name="toyama" group="図" />。 === 登山ルート === 立山黒部アルペンルートの交通機関を利用し、室堂を立山や剱岳などの登山口とする場合が多い<ref group="図">『ヤマケイ アルペンガイド8 剣・立山連峰』山と渓谷社、2008年、ISBN 978-4-635-01352-9</ref>。{{要出典範囲|[[室堂山荘|立山室堂山荘]]と一ノ越を経由して、雄山神社まで往復するルートが最もよく利用されている|date=2023年8月}}。冬期は交通機関が途絶えるため、一般の登山は困難となる。春に立山黒部アルペンルートが開通すると、室堂周辺などで春山スキーが行われている<ref name="toyama" group="図" />。 ; 室堂駅から立山(雄山)のコース * [[室堂駅]] - 立山室堂山荘 - [[一ノ越]] - 立山(雄山) * 室堂駅 - 立山室堂山荘 - 室堂山 - [[浄土山]] - 一ノ越 - 立山(雄山) * 室堂駅 - [[みくりが池温泉]] - 雷鳥沢 - 剱御前小舎 - [[別山]] - 真砂岳 - 立山(富士ノ折立・大汝山・雄山) * 室堂駅 - みくりが池温泉 - 雷鳥沢 - 賽の河原 - 大走り - 真砂岳 - 立山(富士ノ折立・大汝山・雄山) * 室堂駅 - みくりが池温泉 - 雷鳥沢 - 一ノ越 - 立山(雄山) ; 黒部ダムから立山(雄山)のコース * [[黒部ダム]] - ロッジくろよん - 黒部平 - 東一ノ越 - 一ノ越 - 立山(雄山) ; 称名滝バス停から立山(雄山)のコース * 称名滝バス停 - 称名滝 - 八郎坂 - [[弥陀ヶ原]] - 室堂 - 一ノ越 - 立山(雄山) ** 立山登山マラニック実行委員会によって、海岸から走り始め、八郎坂を通って雄山に登拝する登山マラソンも行われる。 ; 美女平駅バスターミナルから立山(雄山)のコース * [[美女平駅]]バスターミナル - 弥陀ヶ原 - 室堂 - 一ノ越 - 立山(雄山) === 周辺の宿泊施設 === 室堂周辺や立山周辺の登山道上に、[[ホテル]]や[[山小屋]]などの多くの[[宿泊施設]]がある<ref group="図">『剱・立山 (山と高原地図 36) 』 [[昭文社]]、2010年、ISBN 978-4-398-75716-6</ref>。大汝山および雄山への最寄りの山小屋は一ノ越山荘である。全ての山小屋は予約制となっている。 {| class="wikitable" |- !名称 !所在地 !大汝山からの<br />方角と[[距離]] ([[キロメートル|km]]) ![[標高]]<br />(m) !収容<br />人数 !備考 |- |国民宿舎天望立山荘 |弥陀ヶ原<br />日本最高所の国民宿舎 | |1,940 | 89 |富山県の学校登山が宿泊 |- |剱御前小屋 |別山乗越、剱御前と別山との鞍部 |{{direction|N}}北 2.4 |2,410 | 200 |剱岳の展望 |- |ロッジ立山連峰 |雷鳥平 |{{direction|NW}}北西 2.4 |2,330 | 200 | |- |雷鳥沢ヒュッテ | |{{direction|NW}}北西 2.3 |2,350 | 290 |東隣に[[テント]]250張の[[キャンプ場]]あり |- |[[ホテル立山]] |室堂バスターミナル |{{direction|W}}西 2.2 |2,420 | 289 |期間限定で[[立山山頂簡易郵便局]]が開設される |- |[[みくりが池温泉]] |みくりが池湖畔 |{{direction|NW}}北西 2.2 |2,410 | 120 | |- |雷鳥荘 |リンドウ池北 |{{direction|NW}}北西 2.1 |2,400 | 350 | |- |[[室堂山荘|立山室堂山荘]] |室堂平 |{{direction|W}}西 1.7 |2,450 | 200 | |- |内蔵助山荘 |真砂岳山頂の東側直下 |{{direction|N}}北 1.4 |2,790 | 120 | |- |一ノ越山荘 |一ノ越、雄山と龍王山との鞍部 |{{direction|SW}}南西 0.9 |2,705 | 200 |立山に最も近い山小屋 |} == アクセス == * 路線バス利用 ** JR[[富山駅]]–室堂直通バス(富山地方鉄道)7月中旬 - 9月下旬まで運行がある<ref name="tbck115">{{cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?page_id=6376|title=バス - 夏山バスのご案内(室堂線|publisher=富山地方鉄道株式会社|accessdate=2023-08-02}}</ref>。予約制。 * 夜行バス利用  ** 毎日新聞旅行が運行する登山バス「毎日あるぺん号」室堂行に乗車し、終点下車<ref>{{cite web|和書|url=https://bus.maitabi.jp/|title=登山バス<ホーム|publisher=まいたび|accessdate=2023-08-03}}</ref>。 * 車の利用 ** [[立山駅]]駐車場([[立山ケーブルカー]]乗り場)収容台数:207台<ref group="富">{{cite web|和書|url=https://www.pref.toyama.jp/1709/shizenkouen/senjugahara/gatekanri.html|title=立山駅前(千寿ケ原駐車場)の利用について|publisher=富山県|accessdate=2023-08-03}}</ref> ** [[扇沢駅|扇沢]]駐車場([[関電トンネル電気バス]]乗り場)収容台数:無料駐車場230台、有料駐車場350台、臨時駐車場600 - 800台<ref group="富">{{cite web|和書|url=https://www.alpen-route.com/access_new/access/parking.html|title=駐車場のご案内|publisher=立山黒部アルペンルート|accessdate=2023-08-03}}</ref>。 === 立山からの風景 === <!-- より記事に相応しい画像があれば、差替え願います。 --> {| class="wikitable" |- |[[ファイル:Dainichirenpo and Murodo from Tateyama 1995-8-20.jpg|x110px]] |[[ファイル:oonanji-tsurugi-tateyama.jpg|x110px]] |[[ファイル:tateyama-keshiki-toyama-heiya.jpg|x110px]] |[[ファイル:tateyama-keshiki-kurobeko.JPG|x110px]] |- | <small>大日岳と室堂</small> | <small>大汝山と剱岳</small> | <small>[[富山平野]]</small> | <small>[[黒部ダム|黒部湖]]と[[後立山連峰]]</small> |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 出典図書 {{Reflist|group="図"}} ; 出典報道 {{Reflist|group="報"}} ; 出典富山県 {{Reflist|group="富"}} ; 出典郵政省 {{Reflist|group="郵"}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2023-11}} * 『富山県山名録』橋本 廣、佐伯邦夫編、2001年、桂書房、ISBN 4-905-56429-8 * 『日本アルプスの登山と探検』[[ウォルター・ウェストン]](著)、青木枝朗(訳)、[[岩波文庫]]、1997年、ISBN 4-00-334741-2 == 関連項目 == * [[各都道府県の最高峰]](富山県)、[[日本の山一覧 (高さ順)]]・第20位、[[日本の山一覧 (3000m峰)]] * [[国土交通省立山砂防工事専用軌道]] * [[富山県立山博物館]] * [[富山県旗]] - 立山と平仮名の「と」を図案化 * [[きときと君]]・[[立山くん]] - 立山をモチーフにしたマスコット * [[件|クタベ]] * [[立山寺]](りゅうせんじ) - 立山および立山権現との関係が深い == 外部リンク == {{Commonscat}} * [https://kanko.town.tateyama.toyama.jp/pub/top.aspx 立山町観光サイト] * [https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.57611111111112,137.61972222222224&z=15#15/36.576111/137.619722/&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 国土地理院 地図閲覧システム 2万5千分1地形図名:立山(高山)] * [https://tateyama.niye.go.jp/ 独法国立立山少年自然の家] 開山縁起 * [https://staff.aist.go.jp/nakano.shun/Jap/Tateyama/tateyama.html 立山火山] * [https://www.sizenken.biodic.go.jp/view_new.php?no=83 北アルプス立山【環境省・インターネット自然研究所・ライブカメラ】] * [https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/309_Midagahara/309_index.html 気象庁 | 弥陀ケ原] * [http://www.pref.toyama.jp/branches/3043/home.html 立山博物館] {{日本百名山}} {{日本の山一覧 (3000m峰)}} {{一等三角点百名山}} {{富山の百山}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たてやま}} [[Category:山岳名目録]] [[Category:富山県の山]] [[Category:北アルプスの山]] [[Category:日本百名山]] [[Category:立山黒部アルペンルート]] [[Category:修験道]] [[Category:日本の霊峰]] [[Category:富山県の象徴]] [[Category:富山県の自然景勝地]] [[Category:立山町の地理]] [[Category:砂防]] [[Category:富山県の観光地]] [[Category:立山町の観光地]] [[Category:3000メートル峰]] [[Category:交通困難地]]
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16,620
優香
優香(ゆうか、1980年(昭和55年)6月27日 - )は、日本のタレント・女優。本名、青木 広子(あおき ひろこ、旧姓:岡部)。 東京都立川市生まれ、武蔵村山市・あきる野市育ち。ホリプロ所属。夫は俳優の青木崇高。 7歳上の姉と5歳上の兄の3人姉兄の次女として生まれる。 武蔵村山市立第八小学校入学、後に秋川市立(現・あきる野市立)西秋留小学校へ転校。藤村女子中学校・高等学校を経て、日出女子学園高等学校卒業。 1997年(平成9年)3月27日、池袋駅近くのピーダッシュパルコ前でスカウトされた。 デビュー当初は、ホリプロ初のグラビアアイドルとして話題となった。デビューから各種雑誌の表紙などを席巻し、グラビアクイーンとして人気者になる。優香の成功により、イエローキャブの全盛期であったグラドル界に新風が吹き込み、これをきっかけとして他の芸能事務所もグラビアアイドルを育てる流れが生まれた。ホリプロも、優香の妹分として翌年に堀越のりをデビューさせるなど攻勢を続け、積極的にグラビアアイドルを売り出すようになった。 1998年(平成10年)、当時のホリプロ所属のアイドルらとユニット「HiP」を結成。優香は初代メンバーとして参加し、後に2代目リーダーとなった。また、同年にマツモトキヨシでCM初出演。 1999年(平成11年)秋にはジョージアのCMで飯島直子と共演し、ブレイクを果たす。 1999年(平成11年)春には、堀越のり・吉井怜・唐沢美帆との1ヵ月の期間限定音楽ユニット「NITRO」として活動。 2000年(平成12年)からはグラビアアイドルを引退し、タレントとして活動。自然体で明るい性格を生かして番組の司会やコントをこなし、女優としての活動も広げはじめる。 2002年(平成14年)8月をもって、「HiP」メンバーを卒業。 2004年(平成16年)、大河ドラマ『新選組!』でヒロイン役に抜擢され、深雪太夫とお孝(深雪太夫の妹)の1人2役を演じた。 2005年(平成17年)、舞台版『電車男』にてエルメスの声役で舞台に初出演。 2007年(平成19年)、デビュー10周年を迎えたことを記念し、11月26日発売号の『週刊プレイボーイ』で記念グラビアに登場。同時にオフィシャルページ「優香くらぶ」もリニューアルされた。 2012年(平成24年)、デビュー15周年の年に連続ドラマとしては11年ぶりに「本日は大安なり」で主演、また12年ぶりに水着ありの写真集「優香グラビア」とダイエットに成功した理由などを書いたボディブックの「優香ボディ」を発売。同年3月31日をもって、9年間司会を務めた『王様のブランチ』を降板。 私生活では、NHK木曜時代劇『ちかえもん』での共演を機に交際していた俳優の青木崇高と、半年の交際期間を経て2016年(平成28年)6月27日に結婚。7月27日、明治神宮で挙式。 2019年(令和元年)11月20日、第1子妊娠を発表。2020年3月9日放送の『Qさま!!』で産休入りを報告。4月27日、第1子出産を夫・青木との連名で報告。11月9日放送分から『Qさま!!』に復帰。 芸名を『週刊プレイボーイ』(1997年11月25日発売号)やインターネットで一般公募し、最終候補の「優香」か「優奈」かで迷ったというが、「優香」のほうが響きが強い感じがするので「優香」に決定した。由来は、当時の若者言葉に「...って、言(ゆ)うか〜」が使われていたことや、優香の趣味がお香だったこともあり、「優しく香る」との意味も込めた。応募総数は約17,000通、この中には面白い名前もあった。名付け親に選ばれた人には「優香と1日デートできる権利(ただし近くにスタッフ付き)」が贈られた。 本人によれば芸名候補の一つに「パンサー舞」があったことを明らかにしている。
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優香は、日本のタレント・女優。本名、青木 広子。 東京都立川市生まれ、武蔵村山市・あきる野市育ち。ホリプロ所属。夫は俳優の青木崇高。
{{半保護}} {{混同|x1=日本の化粧品・医薬部外品会社|悠香}} {{別人|x1=日本のプロレスラー|優華|x2=シンガーソングライターの|由薫}} {{存命人物の出典明記|date=2015年7月}} {{TVWATCH|date=2015年7月}} {{女性アイドル | アイドル名 = 優香 | ふりがな = ゆうか | 画像ファイル = Yuka 20110208 purple tree 1.jpg | 画像コメント = [[2011年]][[2月8日]]、[[赤坂サカス]]にて | 別名義 = 岡部 広子(出生名) | 愛称 = ゆうかちゃん<br />ユッピー | 生年 = 1980 | 生月 = 6 | 生日 = 27 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]][[あきる野市]] | 死没地 = | 血液型 = O型 | 瞳の色 = | 毛髪の色 = | 時点 = <ref>[https://www.horipro.co.jp/yuka/ ホリプロ プロフィール]</ref> | 身長 = 157 | 体重 = | バスト = | ウエスト = | ヒップ = | カップ = | 身体備考 = | デビュー = [[1997年]] | ジャンル = [[グラビアアイドル]] | 所属グループ = | 活動期間 = 1997年 - | 著名な家族 = | 活動備考 = | 他の活動 = [[タレント]]、[[俳優#性別での分類|女優]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]] | 事務所 = [[ホリプロ]] | 音楽レーベル = | 公式サイト = | 主な出演作 = <!-- 映画・テレビドラマの誰もが認める代表作を3作程度まで記載。多い場合は出演欄にリンクするなど羅列にならないように注意。 --> | 主な楽曲 = <!-- 複数の二次情報源によってこの人物の代表的な曲として認められる楽曲を、出典を明記した上で3曲程度まで記載可能 --> | 受賞歴 = [[#受賞歴|受賞歴]]参照 }} '''優香'''(ゆうか、[[1980年]](昭和55年)[[6月27日]] - )は、[[日本]]の[[タレント]]・[[俳優#性別での分類|女優]]。本名、{{要出典範囲|'''青木 広子'''(あおき 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1998年(平成10年)、当時のホリプロ所属のアイドルらとユニット「[[HiP]]」を結成。優香は初代メンバーとして参加し、後に2代目リーダーとなった。また、同年に[[マツモトキヨシ]]でCM初出演。 1999年(平成11年)秋には[[ジョージア (缶コーヒー)|ジョージア]]のCMで[[飯島直子]]と共演し、ブレイクを果たす。 1999年(平成11年)春には、堀越のり・[[吉井怜]]・[[唐沢美帆]]との1ヵ月の期間限定音楽ユニット「[[NITRO]]」として活動。 2000年(平成12年)からはグラビアアイドルを引退し、[[タレント]]として活動。自然体で明るい性格を生かして番組の司会やコントをこなし、[[俳優#性別での分類|女優]]としての活動も広げはじめる。<!-- 近年は連ドラの出演はないが、24時間テレビのドラマのヒロインや、終戦記念戦争ドラマのヒロイン、美味しんぼシリーズ、など、単発スペシャルドラマのヒロインとして多く出演。2007年は出演5本(ドラマ欄参照) --> 2002年(平成14年)8月をもって、「HiP」メンバーを卒業。 2004年(平成16年)、[[大河ドラマ]]『[[新選組!]]』でヒロイン役に抜擢され、深雪太夫とお孝(深雪太夫の妹)の1人2役を演じた。 2005年(平成17年)、舞台版『[[電車男]]』にてエルメスの声役で舞台に初出演。 2007年(平成19年)、デビュー10周年を迎えたことを記念し、11月26日発売号の『[[週刊プレイボーイ]]』で記念グラビアに登場。同時にオフィシャルページ「優香くらぶ」もリニューアルされた。 2012年(平成24年)、デビュー15周年の年に連続ドラマとしては11年ぶりに「[[本日は大安なり]]」で主演、また12年ぶりに水着ありの写真集「優香グラビア」とダイエットに成功した理由などを書いたボディブックの「優香ボディ」を発売。同年3月31日をもって、9年間司会を務めた『王様のブランチ』を降板<ref>{{cite news |title=優香:「王様のブランチ」涙の卒業「幸せでした」 |publisher=毎日新聞社 |work=まんたんウェブ |date=2012-03-31 |url=https://mantan-web.jp/article/20120331dog00m200007000c.html |accessdate=2012-04-01}}</ref>。 私生活では、[[日本放送協会|NHK]][[土曜時代劇 (NHK)|木曜時代劇]]『[[ちかえもん]]』での共演を機に交際していた俳優の[[青木崇高]]と、半年の交際期間を経て2016年(平成28年)6月27日に結婚<ref>{{cite news |title=優香と青木崇高が結婚、幸せいっぱいの直筆メッセージ全文 |publisher=報知新聞社 |work=スポーツ報知 |date=2016-6-13 |url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160613-OHT1T50123.html |accessdate=2016-6-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160614123741/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160613-OHT1T50123.html|archivedate=2016-06-14}}</ref><ref>{{Cite news |title=青木崇高と結婚に優香「幸せ」 交際半年のスピード婚へ |newspaper=ORICON STYLE |publisher=[[オリコン]] |date=2016-06-13 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2073317/full/ |accessdate=2016-06-13}}</ref><ref>{{cite news |title=優香と青木崇高 “バースデー入籍” |publisher=デイリースポーツ |work= |date=2016-6-27 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2016/06/28/0009229372.shtml |accessdate=2016-6-27}}</ref>。7月27日、[[明治神宮]]で挙式<ref>{{Cite news|url= http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160727-OHT1T50066.html |title= 優香と青木崇高が明治神宮で“極秘挙式” 外国人観光客「ビューティフル」 |newspaper= スポーツ報知 |publisher= 報知新聞社 |date= 2016-07-27 |accessdate= 2016-07-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160728164554/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160727-OHT1T50066.html|archivedate=2016-07-28 }}</ref>。 2019年(令和元年)11月20日、第1子妊娠を発表<ref>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/gossip/2019/11/20/0012893646.shtml |title= 優香が第1子妊娠 青木崇高と結婚4年目、来春出産予定「一日一日を大切に」 |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2019-11-20 |accessdate= 2019-11-20 }}</ref>。2020年3月9日放送の『[[クイズプレゼンバラエティー Qさま!!|Qさま!!]]』で産休入りを報告<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2157110/full/ |title= 優香『Qさま!!』で産休入り報告 笑顔で「戻ってきます!」 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2020-03-09 |accessdate= 2020-03-10 }}</ref>。4月27日、第1子出産を夫・青木との連名で報告<ref>{{Cite news|url= https://www.sanspo.com/article/20200427-U5AVMOQWQBPM7N2KKF22QO7RDM/ |title= 優香、第1子の出産を報告 夫・青木崇高と連名で「無事に出産できたこと、心より感謝します」 |newspaper= SANSPO.COM |publisher= 産経デジタル |date= 2020-04-27 |accessdate= 2020-04-27 }}</ref>。11月9日放送分から『Qさま!!』に復帰<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/10/19/kiji/20201019s00041000440000c.html |title= 優香 産休から11月9日「Qさま」MC復帰、代役MC高山一実も“継続”発表 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2020-10-19 |accessdate= 2020-10-19 }}</ref>。 == エピソード == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2010年8月}} * 特技は、[[フェンシング]](中学時代の部活動)、[[バドミントン]]<ref name="y">{{Cite web|和書|url=https://www.horipro.co.jp/yuka/ |title=公式プロフィール |publisher=ホリプロ |accessdate=2015-7-11}}</ref>。趣味は、[[絵本]]を読むこと<ref name="y" />。 * [[池袋]][[パルコ]]前でスカウトされたとき、その池袋で同じ日、優香の数十分後に、ホリプロの別の社員によって[[藤原竜也]]もスカウトされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://datazoo.jp/tv/A-Studio/556042|title=2012年4月6日放送 TBS A-Studio|work=TVでた蔵|publisher=[[ワイヤーアクション (企業)|ワイヤーアクション]]|date=2012-04-06|accessdate=2016-04-17}}</ref>。スカウトから2ヶ月ほど経った後、社内でスカウトされた人達が集められて[[オーディション]]が行われたが、それに合格し、デビューしたのは優香だけだった。なお、スカウトされてからオーディションまで一切の連絡がなかったため、落選したと思い込んでいたと語っている<ref>オトナ優香([[宝島社]] 2013年7月)「Yuka's Works — 誕生秘話、仕事への想い。デビューからの軌跡。そしてこれから…」の章</ref>。ちなみに、スカウトされた時は当時付き合っていた男性に振られたばかりで落ち込んでいて、その男性を見返す意味もあって芸能界に入った<ref name="haran120422">{{Cite web|和書|url=http://tvtopic.goo.ne.jp/program/ntv/13466/559448/|title=誰だって波瀾爆笑 2012年4月22日(日)|publisher=gooテレビ|date=2012-04-22|accessdate=2016-04-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160508120324/http://tvtopic.goo.ne.jp/program/ntv/13466/559448/|archivedate=2016-05-08}}</ref>。 * 元祖「癒し系グラビアアイドル」として有名だが、最近のアイドルのように、最初から「癒し系」として売り出した訳ではなかった。「癒し系」と呼ばれるようになったのはジョージアのCMの影響が大きく、グラビアを引退する頃とほぼ重なっている<ref>[[LEE (雑誌)|LEE]]([[集英社]])2014年12月号 優香記事</ref>。優香自身は「癒し系」といわれる事については、まったくこだわっていないとのこと(本人談)。なお、実際に水着グラビアの活動を行っていた時期は、1997年(平成9年)冬から2000年(平成12年)春までである。 * [[お笑い]]好きで、本人曰く「テレビはいつもバラエティ番組を中心に見る」<ref>[[日刊ゲンダイ]] 2004年4月6日 芸能面記事より。</ref>。[[志村けん]]とはデビュー直後からコントをしており<ref name="bomb9910"/>(『[[志村けんのバカ殿様]]』で演じる優香姫が有名)、志村からの評価・信頼も厚く、「[[志村ファミリー]]の一員だ」と語っている。 * [[Mr.Children]]や[[aiko]]の大ファンで、aikoとはプライベートでも親交が深い。そして[[相川七瀬]]とは家族ぐるみの付き合いをしている親友。Mr.Childrenに関しては、インタビューなどで理想のタイプとして[[桜井和寿]]と名前を挙げるほどのファン。優香自身も、歌が上手いとは言い難いが[[カラオケ]]好きである<ref>オトナ優香([[宝島社]] 2013年7月)「Yuka's Culture — 好きな映画、リラックスできる音楽。優香の毎日を彩るもの」の章</ref>。 * 小学生、中学生の頃は女性芸能人が好きで、[[内田有紀]]や[[牧瀬里穂]]のポスターを自分の部屋に飾っていたことがあった<ref>{{Cite web|和書|url=http://fc.horipro.jp/yuka-club/blog/2014/11/post-1415.html|title=アーキ展示会|publisher=優香 official blog|date=2014-11-02|accessdate=2016-04-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160618213819/http://fc.horipro.jp/yuka-club/blog/2014/11/post-1415.html|archivedate=2016-06-18}}</ref>。 * 本人曰く食べ物は辛いものが苦手で、唐辛子・[[わさび]]は食べられない。子供の頃、近所の子たちと自宅裏の畑で[[ままごと]]遊びをやっていた時に唐辛子の葉を切った時、そのままの手で目をこすってしまったために目の前が赤くなり、それ以来苦手になった<ref name="bomb9910"/>。 * 中学生の頃に門限を破って帰宅したところ、[[空手]]をやっていた父親から蹴りを入れられたことがある<ref name="bomb9910"/>。 * 声優やナレーションと言った声の出演が多い。アニメ映画などの声優や、舞台版『[[電車男]]』のエルメス役の声だけの出演などの仕事に加え、『[[ポケットモンスター (劇場版)|ポケットモンスター]]』の映画のナレーションや、『[[ニュースステーション]]』のナレーションの仕事も経験している。2008年(平成20年)時で映画には8本出演しているが、その中の6本は声優やナレーターとしての出演である。 * タレント活動は高校時代から行っているが、スカウトされた当時に在学していた学校は芸能活動を許しておらず、2年次の途中にタレント活動専念のため[[目黒日本大学中学校・高等学校|日出女子学園高校]]に転校している。多忙のため単位が取れず補習を受ける事も多く、補習は卒業式の直前まで続いた。そのため、体育の授業は中学生と一緒のこともあった<ref name="bomb9910"/>。卒業式当日には、高校の屋上で単独記者会見を開いた<ref>1999年3月15日 [[日刊スポーツ]] 芸能面など</ref>。 * [[ビデオリサーチ社]]が年2回行なっている『好きなタレントランキング』では、ランキング上位入りする事が多い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.videor.co.jp/press/2012/120326.htm|title=プレスリリース 2012年|publisher=ビデオリサーチ|date=2012-03-26|accessdate=2016-04-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120507073841/http://www.videor.co.jp/press/2012/120326.htm|archivedate=2012-05-07}}</ref>。 * [[関根勤]]にデビュー時から可愛がられている。関根は熱烈な優香ファンで、優香の本名である「広子」の由来について「お父さんが『心が広い子に育つように』って付けたんです」と各所で語っている<ref>コサキンことわざ辞典 モレッ([[興陽館]])p.203 など</ref>。その由来については本当にそうであるが、本人曰く、祖父の名前から一字もらって名付けられたという説もある<ref name="bomb9910"/>。 * 一緒に番組の司会をしている[[さまぁ〜ず]]とはプライベートでも仲が良く、メイクなどが終わったらいつもさまぁ〜ずの楽屋に行くほどで、男性芸能人の中で変わらず仲良しである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2050971/full/|title=さまぁ~ず&優香、“仲良し”理由は「楽屋に来る」|publisher=[[オリコン]]|date=2015-04-01|accessdate=2016-04-17}}</ref>。 * [[世界水泳選手権|世界水泳]]では、2001年(平成13年)の[[福岡市|福岡]]を筆頭に2003年(平成15年)の[[バルセロナ]]、2005年(平成17年)の[[モントリオール]]、そして2007年(平成19年)の[[メルボルン]]大会と4大会連続で日本勢の応援サポーター(キャスター)として出演していた。その後もキャスターとしての取材活動、インタビュー取材も行っている。 * メスのミニチュアダックスフンドをペットとして飼っている。今でも元気に散歩をするが、散歩嫌いなところがある。このミニチュアダックスフンドのことを、『エアー』([[小学館]] ISBN 4094190260)と言うタイトルの絵本にして出版している。 * 仲の良い有名人は[[浜口京子]]で、番組での共演がきっかけで付き合いが始まった。[[南海キャンディーズ]]・[[山崎静代]](しずちゃん)とも仲が良い<ref name="haran120422"/>。 * 子供の頃から肉が好き<ref name="bomb9910"/>。一方で[[野菜嫌い|野菜が苦手]]<ref name="bomb9910"/>。野菜の代わりに[[グリーンスムージー]]をよく飲んでいる<ref name="haran120422"/>。 === 芸名について === 芸名を『[[週刊プレイボーイ]]』(1997年11月25日発売号)やインターネットで一般公募し、最終候補の「優香」か「優奈」かで迷ったというが、「優香」のほうが響きが強い感じがするので「優香」に決定した。由来は、当時の若者言葉に「…って、言(ゆ)うか〜」が使われていたことや、優香の趣味がお香だったこともあり、「'''優しく香る'''」との意味も込めた。応募総数は約17,000通、この中には面白い名前もあった。名付け親に選ばれた人には「優香と1日デートできる権利(ただし近くにスタッフ付き)」が贈られた。 本人によれば芸名候補の一つに「パンサー舞」があったことを明らかにしている<ref>{{Cite news2|title=優香 候補に挙がっていた“幻の芸名”告白 千鳥大悟「まじでよかったわ優香で」|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2021-04-20|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/04/20/kiji/20210420s00041000215000c.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2021-04-20}}</ref>。 == 出演 == === テレビドラマ === * [[青の時代 (テレビドラマ)|青の時代]] 第1・4話(1998年、TBS) - 女子高生 ユカ * [[太陽は沈まない]](2000年、フジテレビ) - 伊瀬谷亜美 役 * [[20歳の結婚]](2000年、TBS) - 主演・中願寺蓮子 役 * [[Love Story (テレビドラマ)|Love Story]](2001年、TBS) - 小林香乃 役 * [[平成夫婦茶碗|続・平成夫婦茶碗]](2002年、日本テレビ) - 結城灯 役 * 優香座シネマ(2002年、テレビ朝日) - 主演 *: 優香自身が主演するオムニバスドラマ6作を、新進気鋭の映像作家が競作する番組。 * [[世にも奇妙な物語]](フジテレビ) ** ドラマチックシンドローム(2001年) ** あけてくれ(2004年) * [[ほんとにあった怖い話]]3(2003年、フジテレビ) * [[大河ドラマ]]([[日本放送協会|NHK]]) ** [[新選組!]](2004年) - 深雪太夫(お幸)、お孝 役 ** [[花燃ゆ]](2015年) - 杉寿/小田村寿 役 * [[X'smap〜虎とライオンと五人の男〜]](2004年12月25日、フジテレビ) - ひばり 役 * ミスキャストシアター(2005年、フジテレビ) * ディズニードラマスペシャル [[星に願いを〜七畳間で生まれた410万の星〜]](2005年8月26日、フジテレビ) - 佐藤陽子 役 * スペシャルドラマ [[恋愛小説 (2006年のテレビドラマ)|恋愛小説 デューク]](2006年7月17日、TBS) - 立花香子 役 * [[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ29「愛は地球を救う」]]「[[ユウキ (テレビドラマ)|ユウキ]]」(2006年8月26日放送、日本テレビ) - ヨシエ 役 * [[美味しんぼ#テレビドラマ|新美味しんぼ]] - [[栗田ゆう子]] 役 :Part 1(2007年1月20日、フジテレビ) :Part 2(2007年11月17日、フジテレビ) :Part 3(2009年11月14日、フジテレビ) * [[まるまるちびまる子ちゃん]] 第3話(2007年、フジテレビ) - 雑貨屋店員 役 * [[真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎「私は貝になりたい」|終戦記念特別ドラマ・真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎「私は貝になりたい」]](2007年8月24日、日本テレビ) - 加藤不二子 役 * [[グータンヌーボ|グータンヌーボな女たち]](2007年10月3日放送、関西テレビ) - 田中優香 役 * [[魔王 (2008年のテレビドラマ)|魔王]] 第4話 - 第7話(2008年、TBS) - 成瀬真紀子 役 * [[恋のから騒ぎ|恋のから騒ぎ 〜Love Stories V〜]]「葬儀屋の女」(2008年10月10日、日本テレビ) - 主演・本田ユリ 役 * [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (テレビドラマ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]] 第8話(2009年9月26日、TBS) - 泉先生(小学生時代の先生) 役 * [[マイガール (漫画)|マイガール]](2009年、テレビ朝日) - 塚本陽子 役 * [[BUNGO -日本文学シネマ-]]「黄金風景」(2010年2月15日、TBS系) - 主演・お慶 役 * 終戦記念ドラマスペシャル [[この世界の片隅に#テレビドラマ(日本テレビ)|この世界の片隅に]](2011年8月5日、日本テレビ) - 白木リン 役 * T-UP presents サムズアップ!(2011年、[[BSフジ]]、見参楽) - 主演・はな 役 * [[本日は大安なり]](2012年、NHK総合) - 主演・山井多香子 役<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010470 番組エピソード 仕事&プライベートに奮闘!【働く女性特集】-NHKアーカイブス]</ref> * [[パパドル!]](2012年、TBS) - 花村遥 役 * [[悪夢ちゃん]](2012年、日本テレビ) - 平島琴葉 役 *[[ハクバノ王子サマ#テレビドラマ|ハクバノ王子サマ 純愛適齢期]](2013年、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) - 主演・原多香子 役<ref>[https://plus.tver.jp/news/19877/detail/ 『ハクバの王子サマ』秘密だった主演女優は優香!「私も一緒にドキドキしながら撮影しています」] - テレビドガッチ(2013年10月4日)2013年10月5日閲覧。</ref> * [[地獄先生ぬ〜べ〜#テレビドラマ|地獄先生ぬ〜べ〜]](2014年、日本テレビ) - 美奈子先生 役(友情出演) * [[キャロリング#テレビドラマ|キャロリング〜クリスマスの奇跡〜]](2014年、[[NHK BSプレミアム]]) - 主演・折原柊子 役 * [[木曜時代劇 (NHK)|木曜時代劇]]『[[ちかえもん]]』(2016年1月 - 3月、NHK) - お袖 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2061340/full/|title=青木崇高×松尾スズキ、『曾根崎心中』誕生秘話を創作|publisher=ORICON STYLE|date=2015-10-26|accessdate=2015-10-27}}</ref> * [[作家アリスシリーズ#テレビドラマ|臨床犯罪学者 火村英生の推理]](2016年1月 - 3月、日本テレビ) - 小野希 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2062530/full/|title=優香、連ドラ『火村英生の推理』で初刑事役|publisher=ORICON STYLE|date=2015-11-20|accessdate=2015-11-20}}</ref> *[[三屋清左衛門残日録#2016年版|三屋清左衛門残日録]] (BSフジ) - 里江 役 **登場編 (2016年2月6日、[[BSフジ]]) <ref name="BSフジ">BSフジ開局15周年記念特番</ref> **完結編 (2017年2月11日、BSフジ) <ref name="BSフジ" /> **三十年ぶりの再会 (2018年3月3日、[[時代劇専門チャンネル]]) <ref>時代劇専門チャンネル開局20周年記念番組</ref> **新たなしあわせ (2020年3月14日、時代劇専門チャンネル) **陽の当たる道 (2021年9月20日、時代劇専門チャンネル4K) **あの日の声 (2023年1月14日、時代劇専門チャンネル) * [[火の粉#テレビドラマ(2016年版)|火の粉]](2016年4月 - 5月、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]制作・フジテレビ系) - 梶間雪見 役<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2016021502000022.html|title=東海テレビ「火の粉」4・2から 土曜ドラマ第一弾 ユースケ主演|publisher=中日スポーツ|date=2016-02-15|accessdate=2016-02-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160214235357/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2016021502000022.html|archivedate=2016年2月14日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> * [[のぼせもんやけん#テレビドラマ|植木等とのぼせもん]](2017年9月2日 - NHK) - 植木登美子 役 * [[都庁爆破!#テレビドラマ|都庁爆破!]](2018年1月2日 - TBS) - 本郷麻由子 役<ref>{{cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20171201-550432/|title=優香、長谷川博己の妻役に!『都庁爆破!』和田正人・早見あかりらも出演|publisher=マイナビニュース|date=2017-12-01|accessdate=2017-12-01}}</ref> * [[記憶 (テレビドラマ)|記憶]](2018年、[[フジテレビNEXT]]/[[ジュピターテレコム|J:COM]]) - 本庄遥香 役 * [[家康、江戸を建てる]](前編)「水を制す」(2019年1月2日、NHK) - 伊可 役 * [[Living]] 第3話(2020年6月6日、NHK総合) - (声) *[[ムチャブリ! わたしが社長になるなんて]](2022年1月12日 - 3月16日、日本テレビ) - 桧山凛々子 役<ref>{{Cite web|和書|title=優香、水10ドラマ初出演 『ムチャブリ!』で“経営コンサルタント”役「作品に寄り添えたら」|url=https://www.oricon.co.jp/news/2217898/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2021-12-16}}</ref> * [[警視庁アウトサイダー#テレビドラマ|警視庁アウトサイダー]](2023年1月5日 - 、テレビ朝日) - 仁科素子 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/503519|title=西島秀俊主演ドラマ「警視庁アウトサイダー」に柳葉敏郎、優香、長濱ねるら5名|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-12-02|accessdate=2022-12-02}}</ref> * [[やさしい猫#テレビドラマ|やさしい猫]](2023年6月24日 - 7月29日、NHK総合) - 主演・奥山ミユキ 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2271828/full/|title=優香、シングルマザー役でドラマ主演 『やさしい猫』主要キャスト5人発表|date=2023-03-16|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|accessdate=2023-03-16}}</ref> * [[広重ぶるう#テレビドラマ|広重ぶるう]](2024年3月放送予定、[[NHK BSプレミアム4K]]) - 加代 役<ref>{{Cite news|url=https://www.crank-in.net/news/130538/1|title=阿部サダヲが歌川広重に! 梶よう子の小説『広重ぶるう』をドラマ化 妻役に優香|newspaper=クランクイン!|publisher=ブロードメディア|date=2023-07-13|accessdate=2023-07-13}}</ref> * [[ジャンヌの裁き]](2024年1月12日〈予定〉 - 、テレビ東京) - 草壁佐和子 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/552229|title=桜井ユキが「ジャンヌの裁き」で玉木宏をサポートする弁護士役、音尾琢真・優香ら出演|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-12-08|accessdate=2023-12-08}}</ref> === WEBドラマ === * [[女たちは二度遊ぶ]]「平日公休の女」([[NTTドコモ]]携帯電話TV「[[Bee TV]]」2010年4月7日) - 主演 * [[見参楽|T-UP presents サムズアップ!]] ([[フジテレビジョン|フジテレビ]]無料動画サイト「[[見参楽|見参楽(みさんが!)]]」 2011年10月25日 - 3か月配信) - 主演<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2002826/full/ |title= 優香、“中古車”役の主演ドラマに苦笑い「最初、正直わからなかった」 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2011-10-18 |accessdate= 2020-03-10 }}</ref> === 映画 === * [[恋に唄えば♪]](2002年)主演・桜井ユミ 役 * [[輪廻 (映画)|輪廻]](2005年)主演・杉浦渚 役 * [[体脂肪計タニタの社員食堂]](2013年)<ref>{{cite news|url=https://www.cinemacafe.net/article/2013/02/13/15469.html|title=485万部突破の大ベストセラーを映画化! 優香主演作『タニタの社員食堂』公開は5月|publisher=シネマカフェ|date=2013-2-13}}</ref> 主演・春野菜々子 役 * [[黒執事#テレビアニメ・劇場アニメ|黒執事]](2014年)若槻華恵 役 * [[悪夢ちゃん#映画|悪夢ちゃん The 夢ovie]](2014年)平島琴葉 役 * [[神去なあなあ日常#映画|WOOD JOB! 〜神去なあなあ日常〜]](2014年) 飯田みき 役 * [[ギャラクシー街道]](2015年) - レイ 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0072566|title=遠藤憲一が両性具有の宇宙人!三谷最新SFコメディーで出産シーンも|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-04-20|accessdate=2015-04-20}}</ref> * [[人生の約束]](2016年) 大場由希子 役<ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/news/20150318/3/|title=江口洋介は短髪!石橋冠監督作「人生の約束」に西田敏行&ビートたけしら主演級ずらり|publisher=映画.com|date=2015-03-18|accessdate=2015-03-18}}</ref> * [[オーバー・フェンス#映画|オーバー・フェンス]](2016年) - 尾形洋子 役 * [[羊の木#映画|羊の木]](2018年) - 太田理江子 役<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/202781|title=錦戸亮主演×吉田大八監督「羊の木」映画化!共演に木村文乃、松田龍平、市川実日子|newspaper=映画ナタリー|date=2016-09-23|accessdate=2016-09-23}}</ref> * [[ごっこ (漫画)#映画|ごっこ]](2018年) 戸神マチ 役 * [[君は月夜に光り輝く#映画|君は月夜に光り輝く]](2019年3月15日、東宝) - 岡崎 役<ref>{{Cite web|和書|date=2018-10-15 |url=https://natalie.mu/music/news/303694 |title=DISH//北村匠海「君は月夜に光り輝く」で永野芽郁とW主演、「キミスイ」監督と再タッグ |publisher=音楽ナタリー |accessdate=2018-10-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/kimitsuki0315/status/1055326148387733504?s=19 |title=小説から読むか映画から観るか… |accessdate=2019-01-05|last=映画『君は月夜に光り輝く』公式|date=2018-10-24|website=@kimitsuki0315|language=ja}}</ref> === バラエティ(レギュラー) === ;現在 * [[クイズプレゼンバラエティー Qさま!!]](2004年10月 - 、[[テレビ朝日]]) ;過去 * [[ミックスパイください]](1998年3月 - 9月、[[CBCテレビ|中部日本放送]]) * 今夜は帰して!!(1998年4月 - 9月、テレビ朝日) * [[集まれ!ナンデモ笑学校]](1998年10月 - 1999年3月、[[テレビ東京]]) - この番組で[[志村けん]]と初レギュラー共演 * ヴェルディが好きだ(1998年4月 - 1999年12月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * 全国制覇バラエティー [[ジパング大決戦!]](1998年10月 - 1999年2月、[[毎日放送]]) * [[バラエティ7|Gパラダイス]]・RAVE2001(1998年4月 - 2000年3月、テレビ東京) * [[ろみひー]](1998年10月 - 1999年12月、[[中京テレビ放送|中京テレビ]]) * [[恋ボーイ恋ガール]](1999年4月 - 9月、フジテレビ) * A・A・A(1999年4月 - 2000年3月、[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]) * u-k@(2000年1月 - 3月、フジテレビ) * [[ターニングポイント (バラエティ番組)|ターニングポイント]](1999年1月 - 2000年9月、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]) * [[おウチに帰ろう!]](2000年10月 - 2001年3月、TBS) * 優香のMusic Premium(2000年4月 - 2001年3月、[[北海道文化放送]]) * あごまくら(2002年4月 - 9月、名古屋テレビ) * [[笑う犬の発見]](2001年10月 - 2002年9月、フジテレビ) * [[ウルトラショップ]](2001年10月 - 2002年9月、日本テレビ) * [[ウンナンのホントコ!]](1998年10月 - 2002年3月、TBS) * ピンパパ(2001年4月 - 2002年3月、中京テレビ) * Chanoma girls(2002年4月 - 2002年9月、中京テレビ) * [[ウッチャきナンチャき]](2002年4月 - 2003年2月、TBS) * [[優香&ビビアンのムチャ修行!]](2002年10月 - 2003年3月、中京テレビ) * [[サムズアップ人生開運プロジェクト]](2003年4月 - 9月、朝日放送) * [[世界プチくら!]](2003年10月 - 11月、朝日放送) * [[さまぁ〜ずと優香の怪しい××貸しちゃうのかよ!!]](2002年4月 - 2004年9月 テレビ朝日) * [[ポップジャム]](2002年4月 - 2005年3月、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) * [[小学生クラス対抗30人31脚全国大会]](2001年 - 2005年、テレビ朝日) * [[志村X|Shimura-X天国]](1999年5月 - 2000年9月、フジテレビ) ** [[変なおじさんTV]](2000年10月 - 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福岡大会(2001年)、バルセロナ大会(2003年)、モントリオール大会(2005年)、メルボルン大会(2007年)。 ** 今日も感動。優香の世界水泳ハイライト(2001年 - 2005年、テレビ朝日) **: 世界水泳のダイジェスト番組。福岡大会、バルセロナ大会、モントリオール大会。 ** 優香のおはよう! 世界水泳 GO! GOLD! JAPAN!2007メルボルン(2007年、テレビ朝日) **: 世界水泳モントリオール大会のダイジェスト番組。 * [[旭山動物園日記|旭山動物園日記2008冬 〜雪景色の動物たちと飼育員の新たなる挑戦〜]]([[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]、2008年2月10日) * 決断の瞬間に密着!いきざま大図鑑(2022年12月14日、日本テレビ) - ナレーター === ドキュメンタリー === * [[人間ビジョンスペシャル]]「青いツバメ〜秋野豊 タジキスタンからのEメール〜」(2005年2月27日、北海道テレビ・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系]]全国ネット) - ナビゲーター * [[テレメンタリー|テレメンタリー2010]]「旭山動物園が描く未来〜消えゆく森のボルネオゾウを救え!〜」(北海道テレビ、2010年11月19日) - ナレーター * HTB環境スペシャル第2弾「ボルネオゾウを救え! 旭山動物園坂東園長の挑戦〜3年間の軌跡〜」(北海道テレビ、2010年11月27日) - ナレーター === 教育番組 === * [[てれび絵本]]「おばけちゃんシリーズ」([[松谷みよ子]]作、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]、2007年4月23日 - 5月11日) - 朗読 === ラジオ === * [[東芝|TOSHIBA]]優香@net (TOKYO FM) - テーマソングは[[稲田光穂]]担当。この番組で自ら初めて[[作詞]]を経験。 * HiP HOP パラダイス!! ([[文化放送]]) - [[HiP]]のメンバーとして出演 * [[古本新之輔 ちゃぱらすかWOO!]] (文化放送) * [[オレたちやってま〜す|オレたちXXXやってま〜す]] ([[MBSラジオ|毎日放送]]) * Bitter Sweet Cafe 〜忘れられない恋のうた〜([[ニッポン放送]]) * [[太田胃散]] presents 優香のI Feel You (2005年4月 - 2009年3月 [[エフエム東京|TOKYO FM]]ほか[[全国FM放送協議会|JFN]]系8局ネット) * [[優香 明日へSwitch!]](2009年10月 - 2011年9月30日 [[TBSラジオ]]) * [[筆まめ]] prestnts [[優香 やさしい時間]](2011年10月4日 - 12月30日 TBSラジオ) * 優香のココロ・カラダ・ゲンキ (2012年10月6日 - 2014年3月30日 TOKYO FM) * ハートホームダイアリー 〜緑山鳩子の不動産日記〜(2016年12月 - 、TOKYO FM) - 緑山鳩子 役<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/owarai/news/211148|title=不動産のお役立ち情報満載、藤井隆と優香のラジオドラマがスタート|newspaper=お笑いナタリー|date=2016-11-29|accessdate=2016-11-29}}</ref> === テレビアニメ === * [[スージー・ズー|Suzy’s Zoo だいすき!ウィッツィー]](2011年5月29日 - 、[[TBSテレビ|TBS]]) - ティッター&トッター 役 === 劇場アニメ === * [[チキンラン]](2001年) - 主役・ジンジャー役 * [[ピカピカ星空キャンプ]](2002年) - ナレーション * [[ぼくの孫悟空 (2003年の映画)|ぼくの孫悟空]](2003年) - 主役・[[孫悟空]](石猿) 役<ref>{{Cite web|和書| url = https://tezukaosamu.net/jp/anime/28.html| title = ぼくの孫悟空| publisher = 手塚治虫公式サイト| accessdate = 2016-05-21}}</ref> * [[ももへの手紙]](2012年) - 宮浦いく子 役 === 吹き替え === * [[コックリさん (2004年の映画)|コックリさん]](2005年) - 主役・イ・ユジン 役 * [[アイス・エイジ2]](2006年) - ヒロイン:マンモス・エリー 役 * [[ストリングス〜愛と絆の旅路〜]](2007年) - ジーナ 役 === 舞台 === * [[電車男]]([[2005年]]) エルメス役(声のみ出演) * 酒と涙とジキルとハイド([[2014年]]、[[2018年]]) イヴ 役 * 不信~彼女が嘘をつく理由([[2017年]]) 女1 役 === CM、広告 === * 「大召喚!!マジゲート」 [[gloops]] * 「筆まめシリーズ」[[筆まめ]] * 「サッポロ オフの贅沢 」 「ホップ畑の香り」[[サッポロビール]] * 「リセッシュ」 [[花王]] CMの他、店頭POP「さぁ、ワクワク楽しい大そうじ!」(2012年12月。[[阿部サダヲ]]、[[宮川大輔 (タレント)|宮川大輔]]、[[指原莉乃]]) * 「[[トモダチコレクション]]」 [[任天堂]] * 「Tropical SoftBank 823P」「MIRROR II SoftBank 824P」 [[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]]『王様のブランチ』司会の[[谷原章介]]と同じコンビで共演。(過去に「J-PHONE東海」時代のCMにも出演) * 「ジョインベスト証券」 [[ジョインベスト証券]] * 「テレ朝ごはんプロジェクト」[[テレビ朝日]]・米穀安定供給確保支援機構 * [[トヨタ自動車]] ** T-UP **「[[トヨタ・ヴォクシー|ヴォクシー]]」(2020年9月〜)- 夫の青木崇高と共演。 * 「デッセ・デサント」 [[デサント]] * 「太田胃散A錠剤」 [[太田胃散]] * 「スリムビューティハウス」 [[スリムビューティハウス]] * 「明光義塾」 [[明光義塾]] * 「Goo Cupシリーズ」 [[ほっかほっか亭]] * 「[[コミュファ]]」 [[中部テレコミュニケーション]] * 「カロリ。」「カクテルカロリ。」 [[サントリー]] * 「メンソレータム」 [[ロート製薬]] * 「午後の紅茶」 [[キリンビバレッジ]] * 「プレッセ」「セルディ」 [[ポーラ化粧品本舗|ポーラ]]・デイリーコスメ * 「ジョージア」 [[コカ・コーラ|日本コカ・コーラ]] * 「new balance」 サンワールドインターナショナル * 「どん兵衛」 [[日清食品]] ([[中村紀洋]]選手(当時[[大阪近鉄バファローズ]])・[[戸田和幸]]選手(当時[[清水エスパルス]]) と共演) * 「ジャイアントコーン」「パピコ」「ポイカジ」 「マカダミアチョコレート」 [[江崎グリコ]] * 「カラリオ」 [[セイコーエプソン|エプソン]] * 「Car Sensor」 [[リクルートホールディングス|リクルート]] * 「チキンフィレサンド」「チキングルメサンド」「チキンクリスピーピタ」など多数・・ [[日本ケンタッキー・フライド・チキン]]株式会社 * 「Elis(エリス)」 [[大王製紙]] * 「[[ダービースタリオン|ダービースタリオン99]]」 [[アスキー (企業)|アスキー]] * 「InfoSphere」 NTTPCコミュニケーションズ * 「マツモトキヨシ」 [[マツモトキヨシ]] * 「[[エールエール|広島エールエール専門店街]]」イメージキャラクター * 「不正改造車を排除する運動」キャンペーンポスター [[運輸省]] * 「旅券の日」キャンペーンキャラクター [[外務省]] * 「年金週間」キャンペーン広告 [[社会保険庁]] * 「風疹予防接種」キャンペーンポスター [[厚生省]] * 「所得税の確定申告書が新しくなります」キャンペーン広告 [[国税庁]]・[[税務署]] * 「全国労働衛生週間」キャンペーンポスター [[厚生労働省]] * 「圏央道([[首都圏中央連絡自動車道]])」 [[あきる野インターチェンジ|あきる野IC]]⇔[[八王子ジャンクション|八王子JCT]]開通広告 [[国土交通省]] * 「[[食事バランスガイド]]」「めざましごはんキャンペーン」[[農林水産省]] * 「パープルダイヤル」[[内閣府]] * 「[[ソフィーナ]]クッション泡洗顔料」「[[リーゼ]]」花王 * 「やすらぎ気分のコーン茶」 [[ポッカサッポロフード&ビバレッジ|ポッカコーポレーション]] * 「[[国民年金基金]]」[[国民年金基金連合会]] * 「オールブラン」[[日本ケロッグ]] * [[東芝]] 生活家電イメージキャラクター(2014年8月 - )<ref>{{Cite press release |和書 |title= 東芝 生活家電イメージキャラクターに大泉洋さん、優香さんを起用 |publisher= 東芝ライフスタイル株式会社 |date= 2014-08-21 |url= http://www.toshiba.co.jp/tha/about/press/140821_4.htm |accessdate= 2020-03-10 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20141006143559/http://www.toshiba.co.jp/tha/about/press/140821_4.htm |archivedate=2014-10-06 }}</ref> * 「ドリエル」[[エスエス製薬]](2017年8月 - )<ref>{{Cite press release |和書 |title= 「ドリエル」新TV‐CM 8月28日から全国でオンエア開始 |publisher= エスエス製薬 |date= 2017-08-08 |url= https://www.ssp.co.jp/nr/2017/20170808.html |accessdate=2020-03-10 }}</ref> * 「朝マック」[[日本マクドナルド]]<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20230124-2572893/|title=優香、“母親”としてCMストーリーに共感「ちょっと切なくなりますね」|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2023-01-23|accessdate=2023-01-23}}</ref> === その他 === * [[FUNKY MONKEY BABYS]]「[[LOVE SONG (FUNKY MONKEY BABYSの曲)|LOVE SONG]]」 - PV&ジャケットに出演(2011年) == DVD == * 優香 Breath([[ポニーキャニオン]]) * 優香 to(ポニーキャニオン) * 優香 be(ポニーキャニオン) * 優香 Yuka(ハピネット・ピクチャーズ) * 優香座シネマ(ポニーキャニオン) * ファイブスター 優香/Breath(ポニーキャニオン) 優香-Breathの廉価版 * TIME UP(NITRO)([[ビクターエンタテインメント]]) == 書籍 == * エアー([[小学館]] ISBN 4094190260) * ひるねのほんね([[角川書店]] ISBN 4048836293) === 写真集 === * ZIP([[英知出版]]) ISBN 4754211901 * VIM(英知出版) ISBN 4754211898 ※[[吉井怜]]と共演 * Sirena(テイアイエス) ISBN 4886181791 * Perfume([[ワニブックス]]) ISBN 4847025288 * CARAT([[双葉社]]) ISBN 4575472794 * Innocent([[集英社]]) ISBN 4087803058 * 優香裏写真集 Memories of Innocent(集英社) ISBN 4087803090 * 恋に唄えば♪(角川書店) ISBN 4048535269 * 超立体プライベートVIEW 優香 Pure&Lure([[新潮社]]) ISBN 4108990277 * 優香ボディー([[講談社]]) ISBN 4062175495 * 優香グラビア(講談社) ISBN 4062175487 * 優香グラビア特装版 (講談社) ISBN 4062176491 == 楽曲 == * CALLING(NITRO)(ビクターエンタテインメント) * 映画「恋に唄えば♪」オリジナルサウンドトラック(イディア/アルファ・エンタテインメント) * プラスねんきん([[国民年金基金]]CMソング)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pics.tokyo/works/cm_kokumin-nenkin-kikin_tvcm/ |title=全国国民年金基金「プラス」篇|publisher=P.I.C.S. |accessdate=2023-09-27}}</ref> * この恋届きますように([[稲田光穂]]) - 作詞(2007年4月時点で未CD化) == 受賞歴 == * 1997年 ** [[ファイブスターガール]]第1期生 * 1999年 ** 第36回[[ゴールデン・アロー賞]] '''グラフ賞''' ** 第6回[[みうらじゅん賞]] * 2000年 ** 第37回ゴールデン・アロー賞 '''最優秀新人賞''' ** 第25回[[ザテレビジョンドラマアカデミー賞]] '''新人俳優賞'''(『[[太陽は沈まない]]』) * 2001年 ** 第38回ゴールデン・アロー賞 '''放送賞''' ** [[二十歳のベスト・パール・ドレッサー]]2001 * 2003年 ** [[第26回日本アカデミー賞]] '''新人俳優賞'''(『[[恋に唄えば♪]]』) ** 第40回ゴールデン・アロー賞 '''ゴールデン・グラフ賞'''(40回記念の特別表彰)【※第31回〜第40回までの10年の『グラフ賞』の受賞者の中でもっともフォトグラファーな人に与えられる賞。】 ** [[ベスト・ヘア賞]] * 2007年 ** 第1回[[ブライダルジュエリープリンセス]] ** Eライン・ビューティフル大賞 * 2008年 ** ベスト食識オーナー賞(著名人部門) * 2010年 ** 第8回[[クラリーノ美脚大賞]] * 2011年 ** ベストレザーニスト2011 * 2012年 ** The Best of Beauty 2012 30代部門 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.horipro.co.jp/yuka/ 優香公式プロフィール] * {{Wayback|url=http://fc.horipro.jp/yuka-club/blog/|title=優香くらぶ(Official blog)|date=20170224114938}} * {{Kinejun name|149742}} * {{Allcinema name|292579}} *{{NHK人物録|D0009071293_00000}} * {{Wayback|url=https://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=selection062 |title=特集 あの人のとっておきセレクション 優香さん NHKアーカイブス |date=20150408042044}} {{Navboxes |list= {{優香}} {{ホリプロ}} {{王様のブランチ司会}} {{ポップジャム司会者}} {{PARCO SWIM DRESSキャンペーンガール}} {{ゴールデンアロー賞グラフ賞}} {{ザテレビジョンドラマアカデミー賞 新人俳優賞}} {{ゴチになります!メンバー}} {{NHK紅白歌合戦審査員}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆうか}} [[Category:優香|*]] [[Category:日本の女性アイドル]] [[Category:グラビアアイドル]] [[Category:日本のグラビアモデル]] [[Category:日本の女性タレント]] [[Category:日本の女優]] [[Category:日本の司会者]] [[Category:NHK紅白歌合戦審査員]] [[Category:ホリプロ]] [[Category:ファイブスターガール]] [[Category:目黒日本大学高等学校出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1980年生]] [[Category:存命人物]]
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地域高規格道路
地域高規格道路(ちいきこうきかくどうろ、Regional High-Standard Highways)とは、「高規格幹線道路を補完し、地域の自立的発展や地域間の連携を支える道路として整備することが望ましい路線」として建設省・国土交通省により指定された道路である。 2003年(平成15年)に構造要件の見直しが行われ、地域高規格道路の機能は確保しつつ、地域ごとに弾力的な基準を適用できるようになった。 地域高規格道路は、次のいずれかの機能を有する。 地域高規格道路の構造要件について、1994年(平成6年)11月1日の建設省通達では、60 - 80 km/h以上の速度サービス、4車線以上、原則80 km/hの設計速度、全ての交差点は立体交差とする、沿道アクセスは制限する、極力、自動車専用道路に指定し、歩行者・自転車の進入の恐れをなくするなどと定められていて、一般道路は除外されていた。 その後、2003年(平成15年)5月2日の国土交通省通達により、概ね60 km/h以上のサービス速度、車線数2以上、設計速度60 km/h以上、平面交差も可能、沿道アクセスも可能、交差点や沿道アクセス箇所を除き、本線車道と歩行者や自転車とを構造的に分離するなどに構造要件が緩和され、現道の活用も可能となった。 1992年(平成4年)6月22日の道路審議会建議「今後の道路整備のあり方」において地域高規格道路の導入が必要とされ、これを受けて、第11次道路整備五箇年計画においてその整備が定められた。 1994年(平成6年)12月16日に各地方建設局や都道府県等からの要望に基づいて地域高規格道路として整備を進める妥当性等についての基礎的な調査を行う候補路線107路線、地域高規格道路として整備を進める計画路線138路線が指定された。1998年(平成10年)6月16日に第2回指定として候補路線35路線、計画路線54路線が追加され、第1回指定と併せて候補路線110路線、計画路線186路線(約6,950 km)となった。 「計画路線」の中からルート選定、整備手法、環境影響評価、都市計画等の調査を進める調査区間、事業着手に向けて環境影響評価手続き、都市計画決定手続き、予備設計等を進める整備区間を指定している。2004年(平成14年)3月30日付けで調査区間約1,207 km、整備区間2,969 kmとなった。 都市圏自動車専用道路として仙台・東京・名古屋・大阪・広島・北九州・福岡のそれぞれの都市圏内の都市高速道路および重要路線が該当する。 また、都市圏自動車専用道路以外でも自動車専用道路の地域高規格道路も存在する(あぶくま高原道路、大分空港道路等)。 一般道路として整備される路線もあり現道活用も可能である。また、ランプ等による立体交差構造がとれない場合、速度低下の要因を検証した上で概ね60km/hを確保出来る場合に限り、信号等による交差点の設置も可能となっている。
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地域高規格道路とは、「高規格幹線道路を補完し、地域の自立的発展や地域間の連携を支える道路として整備することが望ましい路線」として建設省・国土交通省により指定された道路である。 2003年(平成15年)に構造要件の見直しが行われ、地域高規格道路の機能は確保しつつ、地域ごとに弾力的な基準を適用できるようになった。
{{出典の明記|date=2013年3月}} '''地域高規格道路'''(ちいきこうきかくどうろ、''Regional High-Standard Highways'')とは、「[[高規格幹線道路]]を補完し、地域の自立的発展や地域間の連携を支える道路として整備することが望ましい路線」<ref>[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha04/06/060330_3_.html 地域高規格道路の区間指定について - 国土交通省]</ref>として[[建設省]]・[[国土交通省]]により指定された[[道路]]である<ref>[[道路構造令]]の解説と運用〔2015〕改訂版/日本道路協会</ref>。 2003年(平成15年)に構造要件の見直しが行われ、地域高規格道路の機能は確保しつつ、地域ごとに弾力的な基準を適用できるようになった<ref>地域に応じた道路構造基準の導入(建設マネジメント技術 2003年11月号)、国土交通省道路局</ref>。 [[2023年]](令和5年)、国土交通省はそれまで計画策定手続きが異なっていた「高規格幹線道路」と「地域高規格道路」を統一し、両者を新たに「'''高規格道路'''」と位置付け、一体的な道路ネットワークとして路線網の[[スクラップアンドビルド]]を図る方針を示した<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.kentsu.co.jp/webnews/view.asp?cd=230706590002&area=0&yyyy=0&pub=1|title=地域高規格道路 計画策定プロセス見直しへ|newspaper=建設ニュース|date=2023-07-06|publisher=建通新聞社|accessdate=2023-12-01}}</ref>。 {{Wide image|High-standard roads in Japan.svg|800px|高規格幹線道路と地域高規格道路を統合した「高規格道路」ネットワーク(2023年)}} == 機能 == 地域高規格道路は、次のいずれかの機能を有する。 # 連携機能:[[通勤]]圏域の拡大や[[都市]]と農山村地域との連帯の強化により、[[地域集積圏]]の拡大を図る。 # 交流機能:高規格幹線道路を補完し物資の流通、人の交流の活発化を促し、地域集積圏間の交流を図る。 # 連結機能:[[空港]]・[[港湾]]などの広域的交流拠点や地域開発拠点などと連結する。 == 一覧 == {{see|地域高規格道路一覧}} == 構造要件 == 地域高規格道路の構造要件について、[[1994年]]([[平成]]6年)[[11月1日]]の建設省[[通達]]では、60 - 80&nbsp;km/h以上の速度サービス{{Efn|混雑状況等を考慮した平均旅行速度について[[高規格幹線道路]]は概ね80 - 100&nbsp;km/h、広域的な幹線道路(特に、広域道路整備基本計画における交流促進型に指定されていない路線)は概ね30 - 40&nbsp;km/h}}、4[[車線]]以上、原則80&nbsp;km/hの設計速度、全ての交差点は立体交差とする、沿道アクセスは制限する、極力、[[自動車専用道路]]に指定し、歩行者・自転車の進入の恐れをなくするなどと定められていて、一般道路は除外されていた。 その後、[[2003年]](平成15年)[[5月2日]]の国土交通省通達により、概ね60&nbsp;km/h以上のサービス速度、車線数2以上、設計速度60&nbsp;km/h以上、平面交差も可能、沿道アクセスも可能、交差点や沿道アクセス箇所を除き、本線車道と歩行者や自転車とを構造的に分離するなどに構造要件が緩和され、現道の活用も可能となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.aomori.lg.jp/kotsu/build/kokikaku_tikou-topi.html|title=地域高規格道路の構造要件の見直し(緩和)について/青森県道路課|date=2012-05-21|accessdate=2021-02-13}}</ref>。 == 指定 == [[1992年]](平成4年)[[6月22日]]の[[道路審議会]]建議「今後の道路整備のあり方」において地域高規格道路の導入が必要とされ、これを受けて、第11次[[道路整備五箇年計画]]においてその整備が定められた。 === 路線指定 === [[1994年]](平成6年)[[12月16日]]に各[[地方整備局|地方建設局]]や[[都道府県]]等からの要望に基づいて地域高規格道路として整備を進める妥当性等についての基礎的な[[調査]]を行う'''候補路線'''107路線、地域高規格道路として整備を進める'''計画路線'''138路線が{{要出典範囲|指定|date=2020年11月}}された。[[1998年]](平成10年)[[6月16日]]に第2回指定として候補路線35路線、計画路線54路線が追加され、第1回指定と併せて候補路線110路線、計画路線186路線(約6,950&nbsp;km)となった。 === 区間指定 === 「計画路線」の中からルート選定、整備手法、[[環境アセスメント|環境影響評価]]、[[都市計画]]等の調査を進める'''調査区間'''、事業着手に向けて環境影響評価手続き、都市計画決定手続き、予備[[設計]]等を進める'''整備区間'''を指定している。[[2004年]](平成14年)[[3月30日]]付けで調査区間約1,207&nbsp;km、整備区間2,969&nbsp;kmとなった。 == 種類 == === 自動車専用道路 === 都市圏自動車専用道路として[[仙台都市圏|仙台]]・[[首都圏 (日本)|東京]]・[[中京圏|名古屋]]・[[近畿圏|大阪]]・[[広島都市圏|広島]]・[[北九州都市圏|北九州]]・[[福岡都市圏|福岡]]のそれぞれの都市圏内の[[都市高速道路]]および重要路線が該当する。 また、都市圏自動車専用道路以外でも自動車専用道路の地域高規格道路も存在する([[あぶくま高原道路]]、[[大分空港道路]]等)。 === 一般道 === [[一般道路]]として整備される路線もあり現道活用も可能である。また、ランプ等による立体交差構造がとれない場合、速度低下の要因を検証した上で概ね60km/hを確保出来る場合に限り、信号等による交差点の設置も可能となっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[地域高規格道路一覧]] * [[日本の高速道路]] * [[日本の高速道路一覧]] * [[高規格幹線道路]] * [[自動車専用道路]] * [[その他の自動車専用道路一覧]] == 外部リンク == * [https://www.mlit.go.jp/road/index.html 国土交通省道路局] ** [https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/dorogyousei/index.html 施策紹介・道路行政の簡単解説] {{日本の高速道路}} {{DEFAULTSORT:ちいきこうきかくとうろ}} [[Category:地域高規格道路|*]] [[Category:日本の道路]]
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的場駅
的場駅(まとばえき)は、埼玉県川越市大字的場にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)川越線の駅である。 川越線開通以前には、東武東上線の霞ヶ関駅が「的場駅」を名乗っている時期があった(1916年10月27日 - 1930年1月14日)。 島式ホーム1面2線を有する地上駅。ホーム中央には待合室がある。開業以来の駅舎(木造駅舎)からホームへは構内踏切で連絡している。近年、上屋の増築とスロープの設置が行われ、バリアフリーに配慮しているホームの南側に駅舎が設置されている。隣の笠幡駅とよく似た駅舎を持つ。 川越駅管理の業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)。自動改札機は設置されていないが、簡易Suica改札機がある。自動券売機が設置されている。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は2,917人である。 JR東日本および埼玉県統計年鑑によると、近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通り。 『的場』停留所にて、西武バスが運行する路線バスが発着する。また、当駅より徒歩10分ほどの関越自動車道に「川越的場バスストップ」があり、信州、上越、北陸方面への高速バスが停車する。 かつては川越シャトルが『的場駅入口』停留所に乗り入れていたが、2018年4月1日のダイヤや路線などの見直しに伴い、取りやめられた。
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的場駅(まとばえき)は、埼玉県川越市大字的場にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)川越線の駅である。
{{Otheruses|JR川越線の駅|かつて的場駅と称した東武東上本線の駅|霞ヶ関駅 (埼玉県)}} {{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 的場駅 |画像 = JR Kawagoe-Line Matoba Station building.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 駅舎(2019年11月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|55|3.511|N|139|26|9.86|E}}}} |よみがな = まとば |ローマ字 = Matoba |副駅名 = |前の駅 = [[西川越駅|西川越]] |駅間A = 2.2 |駅間B = 2.9 |次の駅 = [[笠幡駅|笠幡]] |電報略号 = トハ←マトハ |駅番号 = |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{Color|#a8a39d|■}}[[川越線]] |キロ程 = 20.9&nbsp;km([[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]起点)<br />[[八王子駅|八王子]]から40.8 |起点駅 = |所在地 = [[埼玉県]][[川越市]]大字的場1314 |座標 = {{coord|35|55|3.511|N|139|26|9.86|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面2線<ref name="zeneki46">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =46号 甲府駅・奥多摩駅・勝沼ぶどう郷駅ほか79駅 |date =2013-07-07 |page =25 }}</ref> |開業年月日 = [[1940年]]([[昭和]]15年)[[7月22日]]{{R|zeneki46}} |廃止年月日 = |乗車人員 = 2,917 |乗降人員 = |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]] }} '''的場駅'''(まとばえき)は、[[埼玉県]][[川越市]]大字的場にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[川越線]]の[[鉄道駅|駅]]である{{R|zeneki46}}。 == 歴史 == 川越線開通以前には、東武東上線の[[霞ヶ関駅 (埼玉県)|霞ヶ関駅]]が「的場駅」を名乗っている時期があった{{R|zeneki46}}(1916年10月27日 - 1930年1月14日)。 === 年表 === * [[1940年]]([[昭和]]15年)[[7月22日]]:開業{{R|zeneki46}}<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=446}}</ref>。 * [[1963年]](昭和38年)[[3月16日]]:貨物の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。 * [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。 * [[2001年]]([[平成]]13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-29|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]{{R|zeneki46}}。ホーム中央には待合室がある。開業以来の駅舎([[木造駅舎]]){{R|zeneki46}}からホームへは構内[[踏切]]で連絡している。近年、上屋の増築と[[斜路|スロープ]]の設置が行われ、[[バリアフリー]]に配慮しているホームの南側に駅舎が設置されている。隣の[[笠幡駅]]とよく似た駅舎を持つ。 [[川越駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]([[JR東日本ステーションサービス]]委託)。[[自動改札機]]は設置されていないが、簡易[[Suica]]改札機がある。[[自動券売機]]が設置されている。 === のりば === {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!style="width:8em;"|路線!!style="width:2em;"|方向!!行先!!備考 |- ! 1 | {{Color|#a8a39d|■}}川越・[[八高線]] |style="text-align:center"|下り |[[笠幡駅|笠幡]]・[[高麗川駅|高麗川]]・[[八王子駅|八王子]]・[[高崎駅|高崎]]方面 |高崎方面({{Color|#a8a39d|■}}八高線毛呂駅以北)へは高麗川駅で乗り換え |- ! 2 | {{Color|#a8a39d|■}}{{Color|#00ac9a|■}}川越・[[埼京線]] |style="text-align:center"|上り |[[川越駅|川越]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]方面 |大宮・新宿方面(南古谷駅以東)へは川越駅で乗り換え |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1446.html JR東日本:駅構内図]) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR East Matoba Station Gate and Ticket Counter.jpg|改札口と切符売り場(2022年12月) JR Kawagoe-Line Matoba Station Premises railroad crossing.jpg|構内踏切(2019年11月) JR Kawagoe-Line Matoba Station Platform.jpg|ホーム(2019年11月) </gallery> == 利用状況 == 2022年(令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''2,917人'''である。 JR東日本および埼玉県統計年鑑によると、近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref><ref group="統計">[http://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/shisei/toukeidata/toukeikawagoe/index.html 統計かわごえ] - 川越市</ref> |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |1,449 |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成3年) - 149ページ</ref>--> |- |1991年(平成{{0}}3年) |1,640 |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成4年) - 149ページ</ref>--> |- |1992年(平成{{0}}4年) |1,910 |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成5年) - 159ページ</ref>--> |- |1993年(平成{{0}}5年) |2,222 |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成6年) - 163ページ</ref>--> |- |1994年(平成{{0}}6年) |2,434 |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成7年) - 163ページ</ref>--> |- |1995年(平成{{0}}7年) |2,475 |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成8年) - 169ページ</ref>--> |- |1996年(平成{{0}}8年) |2,685 |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成9年) - 169ページ</ref>--> |- |1997年(平成{{0}}9年) |2,707 |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成10年) - 174ページ</ref>--> |- |1998年(平成10年) |2,766 |<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成11年) - 182ページ</ref>--> |- |1999年(平成11年) |2,781 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 埼玉県統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>2,848 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 埼玉県統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>2,837 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 埼玉県統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_02.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>2,883 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 埼玉県統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_02.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>2,905 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 埼玉県統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_02.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>2,953 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 埼玉県統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_02.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>2,956 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 埼玉県統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_02.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>3,039 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 埼玉県統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_02.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>3,053 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 埼玉県統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_02.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>3,101 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 埼玉県統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_02.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>3,072 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 埼玉県統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_02.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>2,972 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 埼玉県統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_02.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>2,984 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 埼玉県統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_04.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>2,907 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 埼玉県統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_04.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>2,962 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 埼玉県統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_04.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>3,065 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_04.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>3,082 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_04.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>3,043 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_04.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>3,074 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_04.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>3,056 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和元年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_04.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>3,021 |<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_04.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>2,439 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_04.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>2,747 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_04.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>2,917 | |} == 駅周辺 == {{columns-list|2| * [[霞ヶ関駅 (埼玉県)|霞ヶ関駅]]([[東武東上本線]]) * 的場[[郵便局]] * 川越市立西図書館(徒歩15分) * [[東京国際大学]] * [[尚美学園大学]] * 的場[[工業団地]] * [[川越的場バスストップ]]([[関越自動車道]]) - 徒歩約10分 * [[BML]]総合研究所 * [[本田金属技術]]本社 * [[ゴードー]]埼玉工場 * [[日本ミルクコミュニティ]] 川越工場 * [[オザック精工]]本社工場 * [[通信興業]]川越工場 |}} == バス路線 == 『的場』停留所にて、[[西武バス]]が運行する路線バスが発着する。また、当駅より徒歩10分ほどの関越自動車道に「[[川越的場バスストップ]]」があり、信州、上越、北陸方面への高速バスが停車する。 かつては[[川越シャトル]]が『的場駅入口』停留所に乗り入れていたが、2018年4月1日のダイヤや路線などの見直しに伴い、取りやめられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kawagoe.saitama.jp/kurashi/kotsudorokasen/train_bus/shuttle/kotsu1706300000.html|title=「川越シャトル」の見直しについて|publisher=川越市|date=2017-06-30|accessdate=2021-03-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180211071716/https://www.city.kawagoe.saitama.jp/kurashi/kotsudorokasen/train_bus/shuttle/kotsu1706300000.html|archivedate=2018-02-11}}</ref>。 <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> * [[西武バス川越営業所#本川越駅 - かすみ野方面|川越35]]:かすみ野 / [[本川越駅]] == その他 == * 駅の出入口を降りてすぐのところに「的場の由来」と書いてある看板があり、その看板には「的場駅の[[乗車券]]を[[お守り]]として持ち帰る人もいる。」と表記してある。 * [[西武鉄道]][[西武安比奈線|安比奈線]]([[1963年]]休止、[[2017年]]廃止)が旅客線化された場合、当駅まで延伸する構想があった。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : {{Color|#a8a39d|■}}川越線 :: [[西川越駅]] - '''的場駅''' - [[笠幡駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ===== {{Reflist|group="広報"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 埼玉県統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{commonscat|Matoba Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[川越的場バスストップ]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1446|name=的場}} {{川越線・八高線}} {{DEFAULTSORT:まとは}} [[Category:川越市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 ま|とは]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:1940年開業の鉄道駅]] [[Category:川越線]]
2003-09-14T03:44:17Z
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敬老の日
敬老の日(けいろうのひ)は、日本の国民の祝日の一つ。高齢者を敬う日。 日付は9月の第3月曜日。 2002年(平成14年)までは毎年9月15日を敬老の日としていたが、2003年(平成15年)から現行の規定となっている。 敬老の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としている。 同様の趣旨の記念日として、老人福祉法によって定められた、老人の日(9月15日)、老人週間(9月15日より1週間)がある。 兵庫県多可郡野間谷村(後に八千代町を経て現在の多可町八千代区)で、1947年(昭和22年)9月15日に村主催の「敬老会」を開催したのが「敬老の日」の始まりであるとされる。これは、野間谷村の村長であった門脇政夫(1911年 - 2010年)が「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨から開いたもので9月15日という日取りは、農閑期にあたり気候も良い9月中旬ということで決められた。昭和22年当時は戦後の混乱期に当たり、子供を戦場へ送った親たちも多く、精神的に疲労の極にあった。門脇は、そうした親らに報いるべく「養老の滝」の伝説にちなみ、9月15日を「としよりの日」とし、55歳以上の人を対象に敬老会を開催した。 敬老の日の起源を野間谷村の敬老会に求めるならば、9月15日という日取りは上述の通り野間谷村の農事暦と気候に由来するものになる。門脇政夫の事績を伝える多可町広報の記事によれば、9月という開催時期には、農閑期であることや気候に加え、養老の滝伝説も参考にしたという(元正天皇が霊亀3年(717年)9月に滝を訪れて養老の滝と命名、同年に養老と改元し、全国の高齢者に賜品を下した。ただし『続日本紀』にはその日付は9月20日とあり、15日ではない。これは旧暦なので、ユリウス暦に換算すると10月28日、第4木曜日である)。 このほか、聖徳太子が四天王寺に悲田院を建立した日が593年9月15日であるとして、敬老の日をこれに由緒づける主張もある。『四天王寺縁起』によれば、聖徳太子が四天王寺建立(593年)と同時に悲田院を含む「四箇院」(現代でいう社会福祉施設)を設立したとあるが、「9月15日」という日付には根拠がない。四天王寺悲田院の伝統を継ぐとする四天王寺福祉事業団も、「敬老の日」由来の諸説のひとつとして挙げるにとどまる。なお、四箇院の創設者を聖徳太子とする伝承も、後年の太子信仰の中で仮託されたものと考えられている 2001年(平成13年)の祝日法改正(いわゆるハッピーマンデー制度の実施)によって、2003年(平成15年)からは9月第3月曜日となった。だが、初年度の2003年の9月第3月曜日が偶然9月15日であったため、敬老の日が9月第3月曜日へ変更されて9月15日以外の日付になったのは、2004年(平成16年)の9月20日が最初である。 敬老の日を第3月曜日に移すにあたっては、当時存命であった提唱者門脇政夫が日付の変更について遺憾の意を表明したほか、財団法人全国老人クラブ連合会(全老連)が反対を表明した。2001年(平成13年)に老人福祉法第5条を改正して9月15日を老人の日、同日より1週間を老人週間とした。 敬老の日は台風シーズンに当たり接近上陸が多くなる時期である。 中央社会福祉協議会が9月15日を「としよりの日」と定めた1951年(昭和26年)には、特殊通信日附印が使用されている。 また、1958年(昭和33年)には郵政省(当時)から、「としよりの日」の特殊はがきが発行されている。 復帰前の沖縄県でも「としよりの日」の名称のままでおなじ9月15日に祝日が制定され、1968年(昭和43年)、記念切手が発行された。 日本では当該年度中に100歳に到達する者(海外在留邦人及び永住している在日外国人を含む)に対して内閣総理大臣から「百歳を迎えられた方々の長寿を祝い、かつ、多年にわたり社会の発展に寄与してこられたことに感謝するとともに、ひろく国民が高齢者の福祉についての関心と理解を深める」という目的のもと、老人の日(9月15日)に、祝状と記念品として銀杯が贈呈されている。 銀杯は、当初は純銀製であったが、2016年度からは、洋銀製(銅、亜鉛、ニッケルの合金の表面を銀メッキ処理したもの)に変更されている。 東アジアで伝統的に祝われてきた五節句のひとつである9月9日(旧暦/陽暦)の重陽には、長寿を願って菊の花を浮かべたお酒を飲むなどの慣習があり、主旨が類似している。 老人に敬意を表する祝日・記念日は各国に存在する。 パラオでは5月5日が Senior Citizens Day とされ、祝日となっている。 アメリカ合衆国では、9月の第1月曜日の次の日曜日がNational Grandparents Day(祖父母の日)とされている。この記念日は1978年に始まった。カナダほか各国にも同趣旨の記念日がある(英語版 National Grandparents Day 参照)。 国際連合は、高齢者の権利や高齢者の虐待撤廃などの意識向上を目的として、1990年12月に毎年10月1日を「国際高齢者デー」とすることを採択し、1991年から国際デーとして運用されている。 イタリアでは、2005年に制定された法律により、10月2日が敬老の日となっておりFesta dei monni と呼ばれている。 中華人民共和国では、1989年に施行された中華人民共和国老年人権益保障法改正において、重陽にちなみ旧暦9月9日を「高齢者の日」(中国語: 老年节)と定めた。 大韓民国では、老人福祉法(朝鮮語: 노인복지법、原文)において、10月2日が「老人の日」(노인의 날)として記念日に、10月が「敬老の月」(경로의 달)として記念月間に指定されている。
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敬老の日(けいろうのひ)は、日本の国民の祝日の一つ。高齢者を敬う日。 日付は9月の第3月曜日。 2002年(平成14年)までは毎年9月15日を敬老の日としていたが、2003年(平成15年)から現行の規定となっている。
{{画像提供依頼|日本人の高齢者(イメージ画像)|date=2023年3月|cat=人物}} {{国民の祝日}} '''敬老の日'''(けいろうのひ)は、[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つ。[[高齢者]]を敬う日。 日付は[[9月]]の第3[[月曜日]]。 [[2002年]](平成14年)までは毎年[[9月15日]]を敬老の日としていたが、[[2003年]](平成15年)から現行の規定となっている。 == 趣旨 == 敬老の日は、[[国民の祝日に関する法律]](祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「多年にわたり社会につくしてきた[[老人]]を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としている<ref name="horitu178">{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC1000000178 |title=国民の祝日に関する法律(昭和二十三年法律第百七十八号)第二条 |website=e-Gov法令検索 |publisher=総務省行政管理局 |date=2018-6-20 |quote=2020年1月1日施行分 |accessdate=2020-04-01}}</ref>。 同様の趣旨の記念日として、[[老人福祉法]]によって定められた、'''老人の日'''(9月15日)、'''老人週間'''(9月15日より1週間)がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=338AC0000000133 |title=老人福祉法(昭和三十八年法律第百三十三号)第五条 |website=e-Gov法令検索 |publisher=総務省行政管理局 |date=2018-6-08 |quote=2018年10月1日施行分 |accessdate=2020-09-21}}</ref>。 == 歴史 == === 敬老の日の始まり === ==== 多可町が発祥の地 ==== [[兵庫県]][[多可郡]][[野間谷村]](後に[[八千代町 (兵庫県)|八千代町]]を経て現在の[[多可町]]八千代区)で、[[1947年]](昭和22年)[[9月15日]]に村主催の「敬老会」を開催したのが「敬老の日」の始まりであるとされる。これは、野間谷村の村長であった[[門脇政夫]](1911年 - 2010年)が「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨から開いたもので9月15日という日取りは、[[農閑期]]にあたり気候も良い9月中旬ということで決められた。昭和22年当時は戦後の混乱期に当たり、子供を戦場へ送った親たちも多く、精神的に疲労の極にあった。門脇は、そうした親らに報いるべく「[[養老の滝]]」の伝説にちなみ、9月15日を「としよりの日」とし、55歳以上の人を対象に敬老会を開催した<ref name="chosonkai">{{cite news|title=日本一の酒米「山田錦」と日本一の手漉き和紙「杉原紙」そして「敬老の日」発祥の地|publisher=|url=https://www.zck.or.jp/site/forum/1067.html|work=[[全国町村会]]|date=|accessdate=2021-09-21}}</ref><ref name="kohotaka-201609">{{Cite web|和書|url=http://www.town.taka.lg.jp/kouho/2016/09/201609.pdf#2 |title=「敬老の日」制定50周年 受け継がれる敬老の精神 |format=PDF |work=広報たか |publisher=兵庫県多可町 |date=2016-09-01 |accessdate=2016-09-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160915090426/http://www.town.taka.lg.jp/kouho/2016/09/201609.pdf#2 |archivedate=2016年9月15日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref><ref name="stat">[https://web.archive.org/web/20140414163820/http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d0915.htm 9月15日 敬老の日|なるほど統計学園] 総務省統計局</ref>。 * [[1985年]]([[昭和]]60年)9月15日 - [[八千代コミュニティプラザ]]の玄関脇に「敬老の日提唱の地」と刻まれた高さ約2mの石碑が建立される。 * [[2004年]] ([[平成]]16年)[[12月20日]] - 八千代ライオンズクラブ結成40周年記念「敬老の日発祥の町」モニュメント建立される(保木南交差点付近)。 * [[2010年]] (平成22年)[[2月19日]] -「敬老の日」提唱者の門脇政夫が兵庫県小野市の病院で永眠 (98才)<ref>{{Cite news |url=http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20100220000164 |title=門脇政夫氏死去/「敬老の日」提唱者 |newspaper=SHIKOKU NEWS |publisher=四国新聞社 |date=2010-02-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160915091643/http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20100220000164 |archivedate=2016年9月15日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)- 多可町では敬老の精神を未来に向けて受け継いでいく目的で、公募で作成した敬老のうた「きっとありがとう」を制作した。また、この歌を使って介護予防の目的で体操を作って公開した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=bI1AOyP-HX4 きっとありがとう](youtube)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://web.town.taka.lg.jp/915/|title=敬老のうた きっとありがとう - 多可町|accessdate=2018-6-26}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)9月15日 - [[秋篠宮]]夫妻、[[加藤勝信]]内閣府特命担当大臣(当時)が多可町にて「敬老の日制定50周年記念式典」出席<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/region/news/160916/rgn1609160058-n1.html |title=秋篠宮ご夫妻、多可町に「敬老の日制定50周年記念式典」ご出席 |publisher=産経新聞 |date=2016-09-16 |accessdate=2020-09-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160917141304/https://www.sankei.com/region/news/160916/rgn1609160058-n1.html|archivedate=2016-09-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20160916/ddl/k28/040/403000c |title=多可町発祥・50周年 秋篠宮ご夫妻、式典に出席/兵庫 |publisher=毎日新聞 |date=2016-09-16 |accessdate=2020-09-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190428133301/https://mainichi.jp/articles/20160916/ddl/k28/040/403000c|archivedate=2019-04-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cao.go.jp/minister/1608_k_kato/photo/2016-003.html |title=加藤内閣府特命担当大臣「敬老の日制定50周年記念式典」に出席 |publisher=内閣府 |date=2016-09-15 |accessdate=2020-09-21 }}</ref>。 <gallery> File:2020-09-21.八千代コミュニティプラザ.jpg|八千代コミュニティプラザ File:2020-09-21.八千代コミュニティプラザ玄関前.jpg|八千代コミュニティプラザ玄関前 File:2019-10-26八千代ライオンズクラブ敬老の日発祥の町モニュメント.jpg|八千代ライオンズクラブ敬老の日発祥の町モニュメント </gallery> ==== 全国への広がり ==== * [[1948年]] 7月 - [[こどもの日]]、[[成人の日]]が「国民の祝日に関する法律」に制定されるが、老人の日は制定されなかった。門脇は兵庫県の各市町村に呼びかけ、敬老会活動の輪を広げていく。 * [[1950年]](昭和25年)- 兵庫県は「としよりの日」を制定。 * [[1951年]](昭和26年)- 中央社会福祉協議会(現[[社会福祉協議会|全国社会福祉協議会]])が9月15日を「としよりの日」と定め、9月15日から21日までの1週間を運動週間とした<ref>[https://www.shakyo.or.jp/bunya/kourei/week/youkou.pdf 令和4年「老人の日・老人週間」キャンペーン要綱] 全国社会福祉協議会</ref>。 * [[1963年]](昭和38年) - 老人福祉法では、9月15日が'''老人の日'''、9月15日から21日までが'''老人週間'''として制定、翌年から実施された。 * [[1966年]](昭和41年)- 国民の祝日に関する法律が改正され国民の祝日「'''敬老の日'''」に制定される。老人福祉法でも「老人の日」が「敬老の日」に改められた<ref name="horitu178"/><ref name="kohotaka-201609" /><ref name="fukuoka">{{PDFlink|[http://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/attachment/12139.pdf 平成27年度老人の日・老人週間について (参考)老人の日について]}} 福岡県</ref><ref>{{CRD|1000025574|敬老の日が正式に国民の祝日に制定された年月日を知りたい。|県立長野図書館 }}</ref>。 === 9月15日という日付について === 敬老の日の起源を野間谷村の敬老会に求めるならば、9月15日という日取りは上述の通り野間谷村の農事暦と気候に由来するものになる。門脇政夫の事績を伝える多可町広報の記事によれば、9月という開催時期には、農閑期であることや気候に加え、[[養老の滝]]伝説も参考にしたという<ref name="kohotaka-201609" />([[元正天皇]]が[[霊亀]]3年(717年)9月に滝を訪れて養老の滝と命名、同年に[[養老]]と改元し、全国の高齢者に賜品を下した<ref name="gunma">{{cite news|url=http://www.pref.gunma.jp/02/d0110066.html|title=敬老の日長寿者慶祝訪問事業|publisher=群馬県|date=|accessdate=2016-9-15}}</ref>。ただし『[[続日本紀]]』にはその日付は9月20日とあり、15日ではない。これは旧暦なので、ユリウス暦に換算すると'''10月28日'''、'''第4木曜日'''である)。 このほか、[[聖徳太子]]が[[四天王寺]]に[[悲田院]]を建立した日が593年9月15日であるとして、敬老の日をこれに由緒づける主張もある<ref name="shitennoji-hidenin">{{cite news|url=http://www.shitennoji-fukushi.jp/hidenin-tokuyou/activity/post-242.html|title=敬老お食事会|publisher=社会福祉法人 四天王寺福祉事業団 四天王寺悲田院特別養護老人ホーム|date=2014-9-15|accessdate=2016-9-15}}</ref>。『四天王寺縁起』によれば、聖徳太子が四天王寺建立(593年)と同時に悲田院を含む「四箇院」(現代でいう社会福祉施設)を設立したとあるが<ref name="shitennoji">{{cite news|url=http://www.shitennoji.or.jp/shotokutaishi.html|title=聖徳太子について|publisher=四天王寺|accessdate=2016-9-15}}</ref>、「9月15日」という日付には根拠がない。四天王寺悲田院の伝統を継ぐとする四天王寺福祉事業団も、「敬老の日」由来の諸説のひとつとして挙げるにとどまる<ref name="shitennoji-hidenin" />。なお、四箇院の創設者を聖徳太子とする伝承も、後年の[[太子信仰]]の中で仮託されたものと考えられている<ref>{{Cite journal|和書|author=輪倉一広 |title=聖徳太子の福祉思想 : 四天王寺四箇院伝承と太子創建の意義 |journal=福井県立大学論集 |ISSN=0918-9637 |publisher=福井県立大学 |year=2012 |month=aug |issue=39 |pages=75-86 |naid=120005261519 |url=https://hdl.handle.net/10461/15008 |accessdate=2021-09-01}}</ref> === 9月第3月曜日への移動 === [[2001年]](平成13年)の祝日法改正(いわゆる[[ハッピーマンデー制度]]の実施)によって、[[2003年]](平成15年)からは9月第3月曜日となった。だが、初年度の2003年の9月第3月曜日が偶然[[9月15日]]であったため、敬老の日が9月第3月曜日へ変更されて9月15日以外の日付になったのは、[[2004年]](平成16年)の[[9月20日]]が最初である。 敬老の日を第3月曜日に移すにあたっては、当時存命であった提唱者[[門脇政夫]]が日付の変更について遺憾の意を表明したほか、財団法人全国老人クラブ連合会(全老連)が反対を表明した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tama-dhk.or.jp/aboutus/rinen.html|title=2014年9月 理事のリレーメッセージ 敬老の日から老人の日へ|author=鈴木恂子|publisher=社会福祉法人 多摩同胞会|date=2014-9|accessdate=2016-10-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikai.jp/news/news_20010526.htm|title=三連休化関連記者会見(2001/5/26)|publisher=[[二階俊博]]事務所|date=2001-5-26|accessdate=2016-10-13}}</ref>。[[2001年]](平成13年)に[[老人福祉法]]第5条を改正して9月15日を'''老人の日'''、同日より1週間を'''老人週間'''とした。 敬老の日は[[台風]]シーズンに当たり接近上陸が多くなる時期である。 == 敬老の日と郵趣 == {{main2|郵趣については[[郵便趣味]]を}} 中央社会福祉協議会が[[9月15日]]を「としよりの日」と定めた1951年(昭和26年)には、[[記念印#特印|特殊通信日附印]]が使用されている<ref>[{{NDLDC|2963955}} 官報 1951年09月12日]</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pfc.post.japanpost.jp/letter/doc/letterpark1009.pdf Letter Park 2010年10月号]}} 日本郵便</ref>。 また、[[1958年]](昭和33年)には[[郵政省]](当時)から、「としよりの日」の特殊[[はがき]]が発行されている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%83%B5%E4%BE%BF%E8%91%89%E6%9B%B8-144880 郵便葉書(ゆうびんはがき)とは] コトバンク</ref>。 復帰前の[[沖縄県]]でも「としよりの日」の名称のままでおなじ9月15日に祝日が制定され、[[1968年]](昭和43年)、[[切手|記念切手]]が発行された。 == 内閣総理大臣による記念品(銀杯) == 日本では当該年度中に100歳に到達する者(海外在留邦人及び永住している在日外国人を含む)に対して内閣総理大臣から「百歳を迎えられた方々の長寿を祝い、かつ、多年にわたり社会の発展に寄与してこられたことに感謝するとともに、ひろく国民が高齢者の福祉についての関心と理解を深める」という目的のもと、老人の日(9月15日)に、祝状と記念品として銀杯が贈呈されている<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000177628_00001.html 百歳高齢者に対する祝状及び記念品の贈呈について] 厚生労働省</ref>。 銀杯は、当初は純銀製であったが、2016年度からは、洋銀製(銅、亜鉛、ニッケルの合金の表面を銀メッキ処理したもの)に変更されている<ref>[https://www.dir.co.jp/report/column/20170926_012322.html 議論になる100歳のお祝いの銀杯] 大和総研グループ</ref>。 == 各国の敬老の日 == ===重陽=== 東アジアで伝統的に祝われてきた[[五節句]]のひとつである9月9日([[9月9日 (旧暦)|旧暦]]/[[9月9日|陽暦]])の[[重陽]]には、長寿を願って菊の花を浮かべたお酒を飲むなどの慣習があり、主旨が類似している<ref name="tenki_jp-150601" />。 === 祝日となっている国 === 老人に敬意を表する祝日・記念日は各国に存在する。 [[パラオ]]では[[5月5日]]が Senior Citizens Day とされ、祝日となっている。 === その他の記念日 === アメリカ合衆国では、9月の第1月曜日の次の日曜日が[[:en:National Grandparents Day|National Grandparents Day]](祖父母の日)とされている<ref name="tenki_jp-150601">{{cite news|url=http://www.tenki.jp/suppl/kana/2016/09/15/15601.html|title=国民の祝日「敬老の日」のあれこれ。名称がコロコロ変わったって本当?|publisher=日本気象協会|date=2016-9-15|accessdate=2016-10-13}}</ref>。この記念日は1978年に始まった<ref name="tenki_jp-150601" />。カナダ<ref name="tenki_jp-150601" />ほか各国にも同趣旨の記念日がある(英語版 [[:en:National Grandparents Day|National Grandparents Day]] 参照)。 [[国際連合]]は、高齢者の権利や高齢者の虐待撤廃などの意識向上を目的として、1990年12月に毎年10月1日を「[[国際高齢者デー]]」とすることを採択し、1991年から[[国際デー]]として運用されている<ref name="tenki_jp-150601" />。 [[イタリア]]では、[[2005年]]に制定された法律により、[[10月2日]]が敬老の日となっており[[:it:Festa_dei_nonni|Festa dei monni]] と呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|title=敬老の日は海外にもある?イギリスやアメリカの敬老の日の祝い方を紹介 - 花だより |url=https://www.i879.com/hanablog/gift/2022/08/15/13898/ |website=花だより - 花キューピットのブログでは「季節のイベントとお花」「誕生花」「お花のお手入れ方法」など、お花に関する様々な情報をご紹介しています。お花についてもっと知りたい…そんな時は花だよりへ。 |date=2022-08-15 |access-date=2022-09-19 |language=ja}}</ref>。 [[中華人民共和国]]では、1989年に施行された[[中華人民共和国老年人権益保障法]]改正において、重陽にちなみ旧暦9月9日を「高齢者の日」({{lang-zh|老年节}})と定めた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2013_7/china_05.html|title=「高齢者権益保障法」が7月に施行―「喜憂半々」の受け止め、期待と不安と|date=2013-07|publisher=[[労働政策研究・研修機構]]|accessdate=2016-01-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160117131729/http://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2013_7/china_05.html|archivedate=2016-01-17}}</ref>。 [[大韓民国]]では、老人福祉法({{lang-ko|노인복지법}}、[[:s:ko:대한민국 노인복지법|原文]])において、10月2日が「老人の日」({{lang|ko|[[:ko:노인의 날|노인의 날]]}})として記念日に、10月が「敬老の月」({{lang|ko|경로의 달}})として記念月間に指定されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[国際高齢者デー]] - 毎年[[10月1日]] * [[高齢者]] * [[60]]([[還暦]]) - [[70]] - [[77]] - [[80]] - [[88]] - [[90]] - [[99]] - [[108]] - [[111]] * [[シルバーウィーク]] * [[重陽]] == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#keirou 各「国民の祝日」について→敬老の日]([[内閣府]]) * [https://web.town.taka.lg.jp/915/ 多可町が誇る「敬老の日」-受け継がれる敬老の精神-敬老のうた「きっとありがとう」]([[兵庫県]][[多可町]]) * [https://www.youtube.com/watch?v=bI1AOyP-HX4 兵庫県多可町公式YouTube 「きっと ありがとう」] * {{Kotobank}} {{DEFAULTSORT:けいろうのひ}} [[Category:日本の祝日]] [[Category:9月の記念日]] [[Category:高齢者]] [[Category:兵庫県の歴史]] [[Category:移動祝日]] [[Category:秋の季語]]
2003-09-14T03:46:34Z
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イングランド
イングランド(英: England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(英: country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。 イングランドの名は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一支族で、ブリテン島南部にサクソン人と共に来航し定住した「アングル人の土地」を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。 日本においては「イングランド」または「イングランドおよびウェールズ」を指して、しばしば「イギリス」または「英国」という呼び方が用いられることがあり、このうち「英国」と言う場合は連合王国全体ではなく狭義に「イングランド」を指す意味で使用される場合がある(そもそも、日本の慣用である「イギリス」自体がイングランドのポルトガル語読みに由来する)。 又、日本語に限らず、様々な言語で文脈によってはイングランドを連合王国全体を指して用いることがあるが、これはイングランド以外の実情を考慮していないものであり、ポリティカル・コレクトネスに則していないといえる。従って、イングランド外(特にスコットランド)の出身者に対して「English(イングランド人)」という呼称を用いる事は間違いであり、民族感情的な反感を生む場合もあるので注意を要する。 イングランドの名はフランス語で「Angleterre」と言うように「アングル人の土地」という意味である。ローマ領ブリタニアからローマ軍団が引き上げた後、ゲルマン系アングロ・サクソン人が侵入し、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ・サクソン七王国が成立した。アングロ・サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けたが、878年にウェセックス王アルフレッドがエディントンの戦い(英語版)(古英語: Battle of Ethandun)でデーン人に打ち勝ってウェドモーアの和議を締結し、デーンロー地方を除くイングランド南部を統一した。886年にアルフレッドはロンドンを奪回。エドガー平和王の時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域となる。 927年にアゼルスタンがイングランド王国を建国。一時イングランド王国はデンマーク王クヌーズ(カヌート)に征服されるが(デーン朝)、その後再びアングロ・サクソンの王家(ウェセックス朝)が復興する。1066年ノルマンディー公ギヨーム2世に征服され、ギヨームがウィリアム1世(征服王)として即位、ノルマン朝が開かれた。ノルマン朝がスコットランドへのノルマン・コンクエストを開始し、アングロ・サクソン系の支配者層はほぼ一掃され、フランス語が国王・貴族の公用語となった。プランタジネット朝は英仏に広大な領土をもつ「アンジュー帝国」となるが、この時期になるとフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめた。スコットランド独立戦争は、13世紀から14世紀にかけて長期にわたりイングランド軍が北部を攻撃したが、1314年にロバート・ブルースがスコットランドの大部分を再征服し、スコットランドの独立を保った(バノックバーンの戦い)。 百年戦争(1337年 - 1453年)によってフランス領土はほぼ完全に失われた。薔薇戦争(1455年 – 1485年)の際、1485年のボズワースの戦いで勝利したヘンリー7世が、ウェールズ人のウェールズ大公の血統から出てイングランド王家に収まった(テューダー朝)。1536年のウェールズ法諸法(英語版)によるウェールズ統合により、単一国家「イングランドおよびウェールズ」とし、この王朝の家臣団ではウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は同王朝のヘンリー8世からエリザベス1世までの国王が推進したイングランド国教会創設などに協力的な姿勢を見せることになったのである。 1603年以来、ジェームズ1世がイングランドとスコットランドの両方を統治していた。スコットランドの宗教改革、清教徒革命(主教戦争、三王国戦争(スコットランド内戦(英語版)、イングランド内戦、アイルランド同盟戦争(英語版)(アイルランド反乱(英語版)、アイルランド侵略))、イングランド共和国の成立、イングランド王政復古)。殺戮時代にスコットランドを弾圧。大同盟戦争(1688年 - 1697年)、名誉革命(1688年 - 1689年)。ウィリアマイト戦争(1689年 - 1691年)でアイルランドを弾圧。1707年にイングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国を形成し、合同法によって両国の議会は統合された。ジャコバイトの反乱(1715年の反乱(英語版)、1745年の反乱(英語版))。 1798年のアイルランド反乱(英語版)をきっかけに、1800年の連合法がグレートブリテン議会およびアイルランド議会の双方で可決され、1801年にグレートブリテン王国とアイルランド王国が合併した(実質的にはイギリスによるアイルランド併合)。このような過程を経て現在に繫がる民族としてのイングランド人が誕生した。 アイルランド独立戦争(1919年 - 1921年)後、1922年に英愛条約でアイルランド自由国が独立し、北部は北アイルランドとしてイギリスに留まった(→北アイルランド問題)。 1996年に北部アイルランド、1999年にはスコットランドに292年ぶりに議会が復活しウェールズ議会も開設され、地方分権的自治が始まったが、「イングランド議会」は議会合同以来存在しない。 イングランドの地方行政制度は時の政府の政策によって変遷が激しく、歴史的な実態と必ずしも対応していない。たとえば、ロンドン市役所はサッチャー政権(保守党)によって廃止され、一種の区役所のみが正規の行政組織として機能していたが、2000年にブレア政権(労働党)によってグレーター・ロンドン地域として復活した。 現在のイングランドは行政的に9つの「地域」 に区分される。このうち大ロンドン地域のみが2000年以降市長と市議会を有するが、その他の地域には知事のような首長は存在せず、議会を設置するかどうかは住民投票によって決まるので、議会が存在しない地域もある。地域を統括する行政庁は存在するがそれほど大きな権限はない。 つまり「地域」は行政上存在してもあまり実体のある存在とはいえない。ブレア労働党政権は「地域」の行政的権限を強化したい意向だったが、保守党は反対していた。したがって現在のところ、実体のある地方行政組織は行政州または都市州であり、都市州の下級行政単位として区が存在する地域もあるが、都市州がなく区のみが存在する地域もある。行政州以外に伝統的な州も名目的ながら現在も使用されるが、行政的な実体はない。 イングランドはグレートブリテン島の南部約3分の2とランズエンド岬南西の大西洋上にあるシリー諸島、イギリス海峡にあるワイト島などの周辺の小さい島で構成されている。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。連合王国の中で最もヨーロッパ大陸に近く、対岸のフランスまで約 33km である。 東側は北海に面し、西側はトゥイード河口からスコットランドとの境界沿いに南西へむかい、アイリッシュ海沿岸部、ウェールズとの境界線をとおって、グレートブリテン島の西端ランズエンド岬に達する。北境に当たるスコットランドとの境界は、西のソルウェー湾からチェビオット丘陵にそって東のトゥイード河口まで、南はイギリス海峡に面している。 地形は変化に富む。ただし全体的には平坦な地形であり、最高峰のスコーフェル峰でも978mと、イングランドには標高1000mを超える地点はない。北部と西部は全般に丸みを帯びた山岳地帯で、ペナイン山脈がイングランド北部の背骨を形成している。北西部カンブリアにはカンブリア山地があり、ここは大小様々な湖が連なる湖水地方として知られ、ピーターラビットの舞台としても有名である。フェンと呼ばれる東部の湿地帯は農業用地になっている。森林が占める割合は低く、小規模な森が各地に点在する程度である。 イングランドの最大の都市はロンドンであり、世界でも最も繁栄した都市の一つである。第二の都市は蒸気機関で有名なジェームズ・ワットが生涯のほとんどを過ごしたバーミンガムである。英仏海峡トンネルによってイングランドは大陸ヨーロッパと繫がっている。イングランドで最も大きい天然港は南海岸のプールである。オーストラリアのシドニーに次いで世界で2番目に大きい天然港という主張もあるが、これには異論もある。 イングランドは温帯であり、海にかこまれているため気候は比較的穏やかであるが、季節によって気温は変動する。南西からの偏西風が大西洋の暖かく湿った空気を運んでくるため東側は乾燥し、ヨーロッパ大陸に近い南側が最も暖かい。高地地帯から離れた地域においては頻繁ではないが、冬や早春には雪が降ることがある。イングランドの最高気温の記録は2003年8月10日にケント州のブログデールの 38.5°Cである。最低気温の記録は1982年1月10日にシュロップシャー州のエドグモンドの −26.1°Cである。年平均気温は、南部で 11.1°C、北西部で 8.9°C。月平均気温は、最も暑い7月で約 16.1°C、もっとも寒い1月で約 4.4°Cある。−5°C以下になったり、30°C以上になることはほとんどない。ロンドンの月平均気温は、1月が 4.4°C、7月が 17.8°Cである。霧やくもりの天気が多く、特にペナイン山脈や内陸部で顕著である。年降水量は 760mm ほどで年間を通して降水量が豊富であるが、月別では10月が最も多い。 連合王国(イギリス)の中では最大である。ヨーロッパの上位500社のうち100社がロンドンに存在する。イングランドは高度に工業化されており、世界経済の中心の一つであった。化学工業、製薬、航空業、軍需産業、ソフトウェアなどが発達している。 イングランドは工業製品を輸出し、プルトニウム、金属、紅茶、羊毛、砂糖、木材、バター、肉のような資源を輸入している。ただし、牛肉に関してはフランス、イタリア、ギリシャ、オランダ、ベルギー、スペインなどへ輸出している。 ロンドンは国際的な金融市場の中心地であり、イギリスの金利と金融政策を決定する中央銀行であるイングランド銀行やヨーロッパ最大の証券市場であるロンドン証券取引所がある。 イングランドの伝統的な重工業はイギリス全体の重工業と同様に、急激に衰退した。一方でサービス業が成長し、イングランドの経済の重要な位置を占めている。たとえば観光業はイギリスで6番目に大きな産業であり760億ポンドの規模である。2002年時点では労働人口の 6.1% にあたる180万人をフルタイムで雇用している。ロンドンには世界中から毎年数百万人が観光に訪れる。 イングランドではポンドが法定通貨である。 かつてはイングランド国教会以外の宗教、とりわけローマ・カトリックが禁圧されたが、現在のイングランドには多様な宗教が存在し、特定の宗教を持たないあるいは無宗教の人の割合も多い。宗教的な行事の位置づけは低下しつつある。2000年時点のイングランドの宗教の比率は以下の通りである。キリスト教、75.6%;イスラム教、1.7%;ヒンドゥー教、1%;その他、1.6%;特定の宗教を持たないあるいは無宗教、20.1%。 キリスト教はカンタベリーのアウグスティヌス(初代カンタベリー大主教)の時代に、スコットランドやヨーロッパ大陸からイングランドへやってきた宣教師によって到来した。685年のウィットビー教会会議によってローマ式の典礼を取り入れることが決定された。1536年にヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚しようとした問題によってローマと分裂し、宗教改革を経てイングランド国教会と聖公会が生まれた。他のスコットランド、ウェールズ、北アイルランドとは違い、イングランドではイングランド国教会が国家宗教である(ただしスコットランド国教会は法律で定められた国家教会である)。 16世紀のヘンリー8世によるローマとの分裂と修道院の解散は教会に大きな影響を与えた。イングランド国教会はアングリカン・コミュニオンの一部であり、依然としてイングランドのキリスト教で最も大きい。イングランド国教会の大聖堂や教区教会は建築学上、意義のある重要な歴史的建築物である。 イングランドのその他の主なプロテスタントの教派にはメソジスト、バプテスト教会、合同改革派教会がある。規模は小さいが無視できない教派として、キリスト友会(通称クエーカー)と救世軍がある。 近年は女性聖職者を認める聖公会の姿勢に反発する信徒などによるローマ・カトリックへの改宗も少なくない。 20世紀後半から、中東や南アジアとりわけ英連邦諸国からの移民によりイスラム教、シーク教、ヒンドゥー教の割合が増加した。バーミンガム、ブラックバーン、ボルトン、ブラッドフォード、ルートン、マンチェスター、レスター、ロンドン、オールダムにはムスリムのコミュニティがある。 イングランドのユダヤ教のコミュニティは主にロンドン、特にゴルダーズグリーンのような北西部の郊外に存在する。 イングランドとウェールズでは義務教育は5歳から16歳までであり、学校は90%が公立である。 大学は全部で34あるが、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学を除いて、19〜20世紀に創設されている。大学以外の高等教育機関として、工業・農業・美術・商業・科学などの専門学校がある。 現代のイングランドの文化はイギリス全体の文化と分かち難い場合があり、混在している。しかし歴史的、伝統的なイングランドの文化はスコットランドやウェールズと明確に異なっている。 イングリッシュ・ヘリテッジというイングランドの史跡、建築物、および環境を管理する政府の組織がある。 イングランドには様々な食べ物がある。たとえばコーンウォール州の錫鉱山の坑夫の弁当から発達したコーニッシュ・パスティー (Cornish Pasty) には挽肉と野菜が入っている。縁が大きいのは錫を採掘したときに付く有害物質を食べないようにするためで、縁は食べない。また、レストランやパブのメニューにはシェパーズパイがあり、スコーンも有名である。 サッカー、ラグビーユニオン、ラグビーリーグ、クリケット、テニス、バドミントン、近代競馬といった数多くの現代のスポーツが19世紀のイングランドで成立した。その中でもサッカー、ラグビーユニオン、クリケット、競馬は依然としてイングランドで最も人気のあるスポーツとなっている。スヌーカーやボウルズといった競技も、イングランド発祥である。 オリンピックは、ロンドン大会が2012年7月26日から8月12日まで首都・ロンドンで開催された。ロンドンでは1908年大会と1948年大会の2度夏季オリンピックを開催しており、同一都市で3度目が開催されたのは史上初である(実際には1944年大会が予定されていたものの、第二次世界大戦による戦局悪化により返上された。夏季五輪は非開催となった大会も回次に加えるので、公には4度目の開催で史上最多であることには変わりはない)。 イングランドは現代サッカー発祥の地である。1863年10月26日にフットボール・アソシエーション(The FA)と12のクラブの間で会議が開かれ、同年12月までに6回のミーティングを行って統一ルールを作成した。この統一ルール作成により現代のサッカーが誕生した。イングランドにおいてサッカーを統括する"The FA"は、世界で唯一国名の付かない世界最古のサッカー協会である。 イングランド・プレミアリーグは世界中からスター選手を集め、世界最高峰のリーグと称されている。ビッグクラブも複数存在しており、マンチェスター・ユナイテッド、リヴァプール、チェルシー、アーセナル、さらに近年ではマンチェスター・シティなどが強豪として、国内のみならずヨーロッパの舞台でも大変活躍している。なお、欧州サッカー連盟(UEFA)の四ツ星以上のスタジアムの数はイングランドが最も多い。 サッカーイングランド代表はFIFAワールドカップには15度の出場歴があり、自国開催となった1966年大会で初優勝を果たしている。UEFA欧州選手権には10度出場しており、2021年大会ではキャプテンでエースのハリー・ケインを中心としたメンバー編成で過去最高成績となる準優勝に輝いた。 ラグビーユニオンも盛んであり、ラグビーイングランド代表は強豪国として知られている。ラグビーワールドカップの2003年大会で優勝し、1991年大会と2007年大会、2019年大会で準優勝に輝いた。ラグビーユニオンのプレミアシップではバース、ノーサンプトン・セインツ、レスター・タイガース、ロンドン・ワスプスといったクラブチームがハイネケンカップで優勝している。統括団体は「ラグビーフットボールユニオン」で、サッカーなどと同様に"England"の名は付かない。シックス・ネイションズでの優勝回数はウェールズ(39回)に次ぐ2位(38回)であり、女子シックス・ネイションズでは歴代最多の15回の優勝を達成している。 クリケットも人気の高いスポーツの一つである。イングランドで16世紀からプレーされており、18世紀末に人気スポーツとなり、植民地にも普及が進んだ。イングランド代表は1877年に史上初のテストマッチをメルボルンでオーストラリア代表と行った。19世紀のクリケット界を代表する名選手としてW・G・グレースが挙げられる。イングランド・ウェールズクリケット委員会が国内組織を統轄しており、イングランド代表はイングランドとウェールズの合同チームである。クリケット・ワールドカップには自国開催となった2019年大会で初優勝を果たしている。女子クリケット代表は、女子ワールドカップで4度の優勝経験をもつ。ロンドンにあるローズ・クリケット・グラウンドはクリケットの聖地と呼ばれ、クリケット・ワールドカップの決勝戦が史上最多の5度開催された。イギリスを代表する名門パブリックスクールであるイートン・カレッジとハロウスクールが対戦する伝統の試合は同スタジアムで200年以上行われている。国内リーグはカウンティ・チャンピオンシップがあり、イングランド所在の17クラブ及びウェールズ所在の1クラブ、合計18クラブにより編成されている。また2003年に従来のクリケットとは異なり3時間程度で試合が終了するトゥエンティ20形式が導入され、同年にプロリーグのトゥエンティ20カップが開始された。 今日のスタイルの競馬(近代競馬)は、16世紀のイングランドのチェスター競馬場で始まった。「サラブレッド」と呼ばれる品種が誕生したところでもある。アスコット競馬場で行われるロイヤルアスコットやエプソム競馬場で行われるオークスや、ダービーなどが有名である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イングランド(英: England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(英: country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イングランドの名は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一支族で、ブリテン島南部にサクソン人と共に来航し定住した「アングル人の土地」を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本においては「イングランド」または「イングランドおよびウェールズ」を指して、しばしば「イギリス」または「英国」という呼び方が用いられることがあり、このうち「英国」と言う場合は連合王国全体ではなく狭義に「イングランド」を指す意味で使用される場合がある(そもそも、日本の慣用である「イギリス」自体がイングランドのポルトガル語読みに由来する)。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "又、日本語に限らず、様々な言語で文脈によってはイングランドを連合王国全体を指して用いることがあるが、これはイングランド以外の実情を考慮していないものであり、ポリティカル・コレクトネスに則していないといえる。従って、イングランド外(特にスコットランド)の出身者に対して「English(イングランド人)」という呼称を用いる事は間違いであり、民族感情的な反感を生む場合もあるので注意を要する。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "イングランドの名はフランス語で「Angleterre」と言うように「アングル人の土地」という意味である。ローマ領ブリタニアからローマ軍団が引き上げた後、ゲルマン系アングロ・サクソン人が侵入し、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ・サクソン七王国が成立した。アングロ・サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けたが、878年にウェセックス王アルフレッドがエディントンの戦い(英語版)(古英語: Battle of Ethandun)でデーン人に打ち勝ってウェドモーアの和議を締結し、デーンロー地方を除くイングランド南部を統一した。886年にアルフレッドはロンドンを奪回。エドガー平和王の時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "927年にアゼルスタンがイングランド王国を建国。一時イングランド王国はデンマーク王クヌーズ(カヌート)に征服されるが(デーン朝)、その後再びアングロ・サクソンの王家(ウェセックス朝)が復興する。1066年ノルマンディー公ギヨーム2世に征服され、ギヨームがウィリアム1世(征服王)として即位、ノルマン朝が開かれた。ノルマン朝がスコットランドへのノルマン・コンクエストを開始し、アングロ・サクソン系の支配者層はほぼ一掃され、フランス語が国王・貴族の公用語となった。プランタジネット朝は英仏に広大な領土をもつ「アンジュー帝国」となるが、この時期になるとフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめた。スコットランド独立戦争は、13世紀から14世紀にかけて長期にわたりイングランド軍が北部を攻撃したが、1314年にロバート・ブルースがスコットランドの大部分を再征服し、スコットランドの独立を保った(バノックバーンの戦い)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "百年戦争(1337年 - 1453年)によってフランス領土はほぼ完全に失われた。薔薇戦争(1455年 – 1485年)の際、1485年のボズワースの戦いで勝利したヘンリー7世が、ウェールズ人のウェールズ大公の血統から出てイングランド王家に収まった(テューダー朝)。1536年のウェールズ法諸法(英語版)によるウェールズ統合により、単一国家「イングランドおよびウェールズ」とし、この王朝の家臣団ではウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は同王朝のヘンリー8世からエリザベス1世までの国王が推進したイングランド国教会創設などに協力的な姿勢を見せることになったのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1603年以来、ジェームズ1世がイングランドとスコットランドの両方を統治していた。スコットランドの宗教改革、清教徒革命(主教戦争、三王国戦争(スコットランド内戦(英語版)、イングランド内戦、アイルランド同盟戦争(英語版)(アイルランド反乱(英語版)、アイルランド侵略))、イングランド共和国の成立、イングランド王政復古)。殺戮時代にスコットランドを弾圧。大同盟戦争(1688年 - 1697年)、名誉革命(1688年 - 1689年)。ウィリアマイト戦争(1689年 - 1691年)でアイルランドを弾圧。1707年にイングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国を形成し、合同法によって両国の議会は統合された。ジャコバイトの反乱(1715年の反乱(英語版)、1745年の反乱(英語版))。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1798年のアイルランド反乱(英語版)をきっかけに、1800年の連合法がグレートブリテン議会およびアイルランド議会の双方で可決され、1801年にグレートブリテン王国とアイルランド王国が合併した(実質的にはイギリスによるアイルランド併合)。このような過程を経て現在に繫がる民族としてのイングランド人が誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "アイルランド独立戦争(1919年 - 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"tag": "p", "text": "イングランドの伝統的な重工業はイギリス全体の重工業と同様に、急激に衰退した。一方でサービス業が成長し、イングランドの経済の重要な位置を占めている。たとえば観光業はイギリスで6番目に大きな産業であり760億ポンドの規模である。2002年時点では労働人口の 6.1% にあたる180万人をフルタイムで雇用している。ロンドンには世界中から毎年数百万人が観光に訪れる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "イングランドではポンドが法定通貨である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "かつてはイングランド国教会以外の宗教、とりわけローマ・カトリックが禁圧されたが、現在のイングランドには多様な宗教が存在し、特定の宗教を持たないあるいは無宗教の人の割合も多い。宗教的な行事の位置づけは低下しつつある。2000年時点のイングランドの宗教の比率は以下の通りである。キリスト教、75.6%;イスラム教、1.7%;ヒンドゥー教、1%;その他、1.6%;特定の宗教を持たないあるいは無宗教、20.1%。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "キリスト教はカンタベリーのアウグスティヌス(初代カンタベリー大主教)の時代に、スコットランドやヨーロッパ大陸からイングランドへやってきた宣教師によって到来した。685年のウィットビー教会会議によってローマ式の典礼を取り入れることが決定された。1536年にヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚しようとした問題によってローマと分裂し、宗教改革を経てイングランド国教会と聖公会が生まれた。他のスコットランド、ウェールズ、北アイルランドとは違い、イングランドではイングランド国教会が国家宗教である(ただしスコットランド国教会は法律で定められた国家教会である)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "16世紀のヘンリー8世によるローマとの分裂と修道院の解散は教会に大きな影響を与えた。イングランド国教会はアングリカン・コミュニオンの一部であり、依然としてイングランドのキリスト教で最も大きい。イングランド国教会の大聖堂や教区教会は建築学上、意義のある重要な歴史的建築物である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "イングランドのその他の主なプロテスタントの教派にはメソジスト、バプテスト教会、合同改革派教会がある。規模は小さいが無視できない教派として、キリスト友会(通称クエーカー)と救世軍がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "近年は女性聖職者を認める聖公会の姿勢に反発する信徒などによるローマ・カトリックへの改宗も少なくない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "20世紀後半から、中東や南アジアとりわけ英連邦諸国からの移民によりイスラム教、シーク教、ヒンドゥー教の割合が増加した。バーミンガム、ブラックバーン、ボルトン、ブラッドフォード、ルートン、マンチェスター、レスター、ロンドン、オールダムにはムスリムのコミュニティがある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イングランドのユダヤ教のコミュニティは主にロンドン、特にゴルダーズグリーンのような北西部の郊外に存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "イングランドとウェールズでは義務教育は5歳から16歳までであり、学校は90%が公立である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "大学は全部で34あるが、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学を除いて、19〜20世紀に創設されている。大学以外の高等教育機関として、工業・農業・美術・商業・科学などの専門学校がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "現代のイングランドの文化はイギリス全体の文化と分かち難い場合があり、混在している。しかし歴史的、伝統的なイングランドの文化はスコットランドやウェールズと明確に異なっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "イングリッシュ・ヘリテッジというイングランドの史跡、建築物、および環境を管理する政府の組織がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "イングランドには様々な食べ物がある。たとえばコーンウォール州の錫鉱山の坑夫の弁当から発達したコーニッシュ・パスティー (Cornish Pasty) には挽肉と野菜が入っている。縁が大きいのは錫を採掘したときに付く有害物質を食べないようにするためで、縁は食べない。また、レストランやパブのメニューにはシェパーズパイがあり、スコーンも有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "サッカー、ラグビーユニオン、ラグビーリーグ、クリケット、テニス、バドミントン、近代競馬といった数多くの現代のスポーツが19世紀のイングランドで成立した。その中でもサッカー、ラグビーユニオン、クリケット、競馬は依然としてイングランドで最も人気のあるスポーツとなっている。スヌーカーやボウルズといった競技も、イングランド発祥である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "オリンピックは、ロンドン大会が2012年7月26日から8月12日まで首都・ロンドンで開催された。ロンドンでは1908年大会と1948年大会の2度夏季オリンピックを開催しており、同一都市で3度目が開催されたのは史上初である(実際には1944年大会が予定されていたものの、第二次世界大戦による戦局悪化により返上された。夏季五輪は非開催となった大会も回次に加えるので、公には4度目の開催で史上最多であることには変わりはない)。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "イングランドは現代サッカー発祥の地である。1863年10月26日にフットボール・アソシエーション(The FA)と12のクラブの間で会議が開かれ、同年12月までに6回のミーティングを行って統一ルールを作成した。この統一ルール作成により現代のサッカーが誕生した。イングランドにおいてサッカーを統括する\"The FA\"は、世界で唯一国名の付かない世界最古のサッカー協会である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "イングランド・プレミアリーグは世界中からスター選手を集め、世界最高峰のリーグと称されている。ビッグクラブも複数存在しており、マンチェスター・ユナイテッド、リヴァプール、チェルシー、アーセナル、さらに近年ではマンチェスター・シティなどが強豪として、国内のみならずヨーロッパの舞台でも大変活躍している。なお、欧州サッカー連盟(UEFA)の四ツ星以上のスタジアムの数はイングランドが最も多い。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "サッカーイングランド代表はFIFAワールドカップには15度の出場歴があり、自国開催となった1966年大会で初優勝を果たしている。UEFA欧州選手権には10度出場しており、2021年大会ではキャプテンでエースのハリー・ケインを中心としたメンバー編成で過去最高成績となる準優勝に輝いた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ラグビーユニオンも盛んであり、ラグビーイングランド代表は強豪国として知られている。ラグビーワールドカップの2003年大会で優勝し、1991年大会と2007年大会、2019年大会で準優勝に輝いた。ラグビーユニオンのプレミアシップではバース、ノーサンプトン・セインツ、レスター・タイガース、ロンドン・ワスプスといったクラブチームがハイネケンカップで優勝している。統括団体は「ラグビーフットボールユニオン」で、サッカーなどと同様に\"England\"の名は付かない。シックス・ネイションズでの優勝回数はウェールズ(39回)に次ぐ2位(38回)であり、女子シックス・ネイションズでは歴代最多の15回の優勝を達成している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "クリケットも人気の高いスポーツの一つである。イングランドで16世紀からプレーされており、18世紀末に人気スポーツとなり、植民地にも普及が進んだ。イングランド代表は1877年に史上初のテストマッチをメルボルンでオーストラリア代表と行った。19世紀のクリケット界を代表する名選手としてW・G・グレースが挙げられる。イングランド・ウェールズクリケット委員会が国内組織を統轄しており、イングランド代表はイングランドとウェールズの合同チームである。クリケット・ワールドカップには自国開催となった2019年大会で初優勝を果たしている。女子クリケット代表は、女子ワールドカップで4度の優勝経験をもつ。ロンドンにあるローズ・クリケット・グラウンドはクリケットの聖地と呼ばれ、クリケット・ワールドカップの決勝戦が史上最多の5度開催された。イギリスを代表する名門パブリックスクールであるイートン・カレッジとハロウスクールが対戦する伝統の試合は同スタジアムで200年以上行われている。国内リーグはカウンティ・チャンピオンシップがあり、イングランド所在の17クラブ及びウェールズ所在の1クラブ、合計18クラブにより編成されている。また2003年に従来のクリケットとは異なり3時間程度で試合が終了するトゥエンティ20形式が導入され、同年にプロリーグのトゥエンティ20カップが開始された。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "今日のスタイルの競馬(近代競馬)は、16世紀のイングランドのチェスター競馬場で始まった。「サラブレッド」と呼ばれる品種が誕生したところでもある。アスコット競馬場で行われるロイヤルアスコットやエプソム競馬場で行われるオークスや、ダービーなどが有名である。", "title": "スポーツ" } ]
イングランドは、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。
{{Otheruses|イングランドという国あるいは地域|その他の項目|イングランド (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 国 |略名 = イングランド |日本語国名 = イングランド |公式国名 = {{Lang|en|England}} |国旗画像 = Flag of England.svg |国章画像 = [[File:Royal Arms of England (1198-1340).svg|85px]] |国章リンク = [[イングランド王室紋章]] |標語 = {{lang|fr|<em>[[Dieu et mon droit]]</em>}}{{small|([[フランス語]])<br />神と我が権利}} |国歌 = 公式にはなし(詳細は「[[イングランドの国歌]]」参照)。 |国歌追記 = [[国王陛下万歳]]、[[希望と栄光の国]]、[[エルサレム (聖歌)|エルサレム]](いずれも非公式) |位置画像 = England in the UK and Europe.svg |公用語 = [[イギリス英語|英語]](事実上){{sup|1}} |首都 = [[ロンドン]](事実上) |最大都市 = ロンドン |元首等肩書 = [[イギリスの君主|連合王国国王]] |元首等氏名 = [[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]] |首相等肩書 = [[イギリスの首相|首相]] |首相等氏名 = [[リシ・スナク]] |面積順位 = |面積大きさ = 1 E11 |面積値 = 130,395 |面積追記 = |水面積率 = |人口統計年 = 2011 |人口順位 = |人口大きさ = 1 E7 |人口値 = 53,013,000 |人口密度値 = 407 |人口追記 = |GDP統計年元 = |GDP値元 = |GDP元追記 = |GDP統計年MER = |GDP順位MER = |GDP値MER = |GDPMER追記 = |GDP統計年 = 2006 |GDP順位 = 5 |GDP値 = 2.2兆[[米ドル|米]] |GDP/人 = 44,000米 |GDP追記 = |建国形態 = {{small|[[アゼルスタン (イングランド王)|アゼルスタン]]による統一{{sup|2}}}} |建国年月日 = [[927年]] |通貨 = [[スターリング・ポンド|UKポンド]] |通貨コード = GBP |通貨追記 = |時間帯 = 0 |夏時間 = +1 |時間帯追記 = |ISO 3166-1 = GB-ENG |ISO 3166-1追記 = &#x20;([[ISO 3166]]-[[ISO 3166-2|2]]:[[ISO 3166-2:GB|GB]]) |ccTLD = .uk |ccTLD追記 = |国際電話番号 = &#x2B;44 |国際電話番号追記 = |注記 = {{sup|1}}少数言語として[[コーンウォール語]]も存在する。コーンウォール語でのイングランドの呼称は「{{lang|kw|Pow Sows}}」。<br />{{sup|2}}[[839年]]の[[エグバート (ウェセックス王)|エグバート]]が初めてイングランドを統一した君主だが、肩書きはイングランド王ではなく、ブレトワルダ(覇王)であった。学校の歴史では、[[1066年]]の[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム征服王]]とされている。 }} '''イングランド'''({{lang-en-short|England}})は、[[イギリス|グレートブリテン及び北アイルランド連合王国]](イギリス)を構成する4つの「[[イギリスのカントリー|国]]」({{lang-en-short|country}})の一つである。人口は連合王国の83%以上<ref>{{Cite web |url=http://www.statistics.gov.uk/CCI/nugget.asp?ID=6 |title=Population Estimates UK population grows to 60.6 million |author=National Statistics Online |date=2007-08-22 |language=英語 |accessdate=2007-09-24 |archiveurl=http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20021202165044/http://www.statistics.gov.uk/CCI/nugget.asp?ID=6 |archivedate=2002-12-02}}</ref>、面積は[[グレートブリテン島]]の南部の約3分の2を占める。北方は[[スコットランド]]と、西方は[[ウェールズ]]と接する。[[北海]]、[[アイリッシュ海]]、[[大西洋]]、[[イギリス海峡]]に面している。 == 名称 == イングランドの名は、[[ドイツ]]北部[[アンゲルン半島]]出身の[[ゲルマン人]]の一支族で、ブリテン島南部に[[サクソン人]]と共に来航し定住した「[[アングル人]]の土地」を意味する「{{lang|en|Engla-land}}」に由来する。イングランドは、[[ウェールズ]]とともにかつての[[イングランド王国]]を構成していた。 [[日本]]においては「イングランド」または「イングランドおよびウェールズ」を指して、しばしば「イギリス」または「英国」という呼び方が用いられることがあり、このうち「英国」と言う場合は連合王国全体ではなく狭義に「イングランド」を指す意味で使用される場合がある(そもそも、日本の慣用である「イギリス」自体がイングランドの[[ポルトガル語]]読みに由来する)。 又、日本語に限らず、様々な言語で文脈によってはイングランドを連合王国全体を指して用いることがあるが、これはイングランド以外の実情を考慮していないものであり、[[ポリティカル・コレクトネス]]に則していないといえる。従って、イングランド外(特に[[スコットランド]])の出身者に対して「English(イングランド人)」という呼称を用いる事は間違いであり、民族感情的な反感を生む場合もあるので注意を要する。 == 歴史 == {{main|イングランドの歴史}} === 古代 === {{Main|ブリテンの先史時代|ブリタンニア}} === 中世 === {{See also|アンゲルン半島|ブルトン人}} イングランドの名は[[フランス語]]で「{{lang|fr|Angleterre}}」と言うように「[[アングル人]]の土地」という意味である。[[ローマ帝国|ローマ]]領[[ブリタンニア|ブリタニア]]からローマ軍団が引き上げた後、ゲルマン系[[アングロ・サクソン人]]が侵入し、[[ケルト]]系[[ブリトン人]]を征服または追放して[[七王国|アングロ・サクソン七王国]]が成立した。アングロ・サクソンの諸王国は[[デーン人]]を中心とする[[ヴァイキング]]の侵入によって壊滅的な打撃を受けたが、[[878年]]に[[ウェセックス]]王[[アルフレッド大王|アルフレッド]]が{{仮リンク|エディントンの戦い|en|Battle of Edington}}({{lang-ang|Battle of Ethandun}})でデーン人に打ち勝って[[ウェドモーアの和議]]を締結し、[[デーンロウ|デーンロー地方]]を除くイングランド南部を統一した。[[886年]]にアルフレッドはロンドンを奪回。[[エドガー (イングランド王)|エドガー]]平和王の時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域となる。 [[927年]]に[[アゼルスタン (イングランド王)|アゼルスタン]]が[[イングランド王国]]を建国。一時イングランド王国は[[デンマーク]]王[[クヌート1世 (イングランド王)|クヌーズ(カヌート)]]に征服されるが([[北海帝国|デーン朝]])、その後再びアングロ・サクソンの王家([[ウェセックス朝]])が復興する。[[1066年]][[ノルマンディー公]]ギヨーム2世に征服され、ギヨームが[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]](征服王)として即位、[[ノルマン朝]]が開かれた。ノルマン朝が[[スコットランド]]への[[ノルマン・コンクエスト]]を開始し、アングロ・サクソン系の支配者層はほぼ一掃され、[[フランス語]]が[[国王]]・[[貴族]]の公用語となった。[[プランタジネット朝]]は英仏に広大な領土をもつ「[[アンジュー帝国]]」となるが、この時期になるとフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめた。[[スコットランド独立戦争]]は、13世紀から14世紀にかけて長期にわたりイングランド軍が北部を攻撃したが、[[1314年]]に[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]]がスコットランドの大部分を再征服し、スコットランドの独立を保った([[バノックバーンの戦い]])。 [[百年戦争]]([[1337年]] - [[1453年]])によってフランス領土はほぼ完全に失われた。[[薔薇戦争]]([[1455年]] – [[1485年]])の際、[[1485年]]の[[ボズワースの戦い]]で勝利した[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]が、ウェールズ人の[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ大公]]の血統から出てイングランド王家に収まった([[テューダー朝]])。[[1536年]]の{{仮リンク|ウェールズ法諸法|en|Laws in Wales Acts 1535–1542}}によるウェールズ統合により、単一国家「[[イングランドおよびウェールズ]]」とし、この王朝の家臣団ではウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は同王朝の[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]から[[エリザベス1世]]までの国王が推進した[[イギリス国教会|イングランド国教会]]創設などに協力的な姿勢を見せることになったのである。 === 近世 === [[1603年]]以来、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]がイングランドとスコットランドの両方を統治していた。[[宗教改革#スコットランドの宗教改革|スコットランドの宗教改革]]、[[清教徒革命]]([[主教戦争]]、[[三王国戦争]]({{仮リンク|スコットランド内戦|en|Scotland in the Wars of the Three Kingdoms}}、[[イングランド内戦]]、{{仮リンク|アイルランド同盟戦争|en|Irish Confederate Wars}}({{仮リンク|アイルランド反乱 (1641年)|en|Irish Rebellion of 1641|label=アイルランド反乱}}、[[クロムウェルのアイルランド侵略|アイルランド侵略]]))、[[イングランド共和国]]の成立、[[イングランド王政復古]])。[[殺戮時代]]にスコットランドを弾圧。[[大同盟戦争]]([[1688年]] - [[1697年]])、[[名誉革命]]([[1688年]] - [[1689年]])。[[ウィリアマイト戦争]]([[1689年]] - [[1691年]])でアイルランドを弾圧。[[1707年]]にイングランドとスコットランドが連合して[[グレートブリテン王国]]を形成し、[[連合法 (1707年)|合同法]]によって両国の議会は統合された。[[ジャコバイト]]の反乱({{仮リンク|ジャコバイトの反乱 (1715年の反乱)|en|Jacobite rising of 1715|label=1715年の反乱}}、{{仮リンク|ジャコバイトの反乱 (1745年の反乱)|en|Jacobite rising of 1745|label=1745年の反乱}})。 === 近代 === [[1798年]]の{{仮リンク|アイルランド反乱 (1798年)|en|Irish Rebellion of 1798|label=アイルランド反乱}}をきっかけに、[[1800年]]の[[連合法 (1800年)|連合法]]が[[イギリスの議会|グレートブリテン議会]]および[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]の双方で可決され、[[1801年]]に[[グレートブリテン王国]]と[[アイルランド王国]]が合併した(実質的にはイギリスによるアイルランド併合)。このような過程を経て現在に繋がる民族としての[[イングランド人]]が誕生した。 [[アイルランド独立戦争]]([[1919年]] - [[1921年]])後、[[1922年]]に[[英愛条約]]で[[アイルランド自由国]]が独立し、北部は[[北アイルランド]]としてイギリスに留まった(→[[北アイルランド問題]])。 === 現代 === [[1996年]]に[[北アイルランド|北部アイルランド]]、[[1999年]]には[[スコットランド]]に292年ぶりに議会が復活しウェールズ議会も開設され、地方分権的自治が始まったが、「イングランド議会」は議会合同以来存在しない。 == 政治 == [[画像:PalaceOfWestminsterAtNight.jpg|200px|thumb|[[ウェストミンスター宮殿]]]] === 行政区画 === {{main|イングランドの行政区画}} [[イングランドのカウンティ|イングランドの地方行政制度]]は時の政府の政策によって変遷が激しく、歴史的な実態と必ずしも対応していない。たとえば、[[ロンドン]]市役所は[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]政権([[保守党 (イギリス)|保守党]])によって廃止され、一種の区役所のみが正規の行政組織として機能していたが、[[2000年]]に[[トニー・ブレア|ブレア]]政権([[労働党 (イギリス)|労働党]])によって[[グレーター・ロンドン]]地域として復活した。 現在のイングランドは行政的に9つの「地域」<ref group="注釈">{{lang-en-short|region}}</ref> に区分される。このうち大ロンドン地域のみが2000年以降市長と市議会を有するが、その他の地域には知事のような首長は存在せず、議会を設置するかどうかは住民投票によって決まるので、議会が存在しない地域もある。地域を統括する行政庁は存在するがそれほど大きな権限はない。 つまり「地域」は行政上存在してもあまり実体のある存在とはいえない。ブレア[[労働党 (イギリス)|労働党]]政権は「地域」の行政的権限を強化したい意向だったが、[[保守党 (イギリス)|保守党]]は反対していた。したがって現在のところ、実体のある地方行政組織は行政州<ref group="注釈">{{lang-en-short|county}}</ref>または[[都市州]]<ref group="注釈">{{lang-en-short|metropolitan county}}</ref>であり、都市州の下級行政単位として区<ref group="注釈">{{lang-en-short|borough}}</ref>が存在する地域もあるが、都市州がなく区のみが存在する地域もある。行政州<ref group="注釈">{{lang-en-short|administrative county}}</ref>以外に伝統的な州<ref group="注釈">{{lang-en-short|ceremonial county}}</ref>も名目的ながら現在も使用されるが、行政的な実体はない。 === 主要都市 === {|class=wikitable !都市!!州!!人口 |- |[[ロンドン]] |[[グレーター・ロンドン]] |align="right"|7,172,091 |- |[[バーミンガム]] |[[ウェスト・ミッドランズ]] |align="right"|970,892 |- |[[リヴァプール]] |[[マージーサイド]] |align="right"|469,017 |- |[[リーズ]] |[[ウェスト・ヨークシャー]] |align="right"|443,247 |- |[[シェフィールド]] |[[サウス・ヨークシャー]] |align="right"|439,866 |- |[[ブリストル]] |ブリストル |align="right"|420,556 |- |[[マンチェスター]] |[[グレーター・マンチェスター]] |align="right"|394,269 |- |[[レスター]] |[[レスターシャー]] |align="right"| 330,574 |- |[[コヴェントリー]] |[[ウェスト・ミッドランズ]] |align="right"|303,475 |- |[[キングストン・アポン・ハル]] |[[イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー]] |align="right"|301,416 |} * 人口は2001年国勢調査より。 == 地理 == {{Main|イングランドの地理}} イングランドは[[グレートブリテン島]]の南部約3分の2と[[ランズ・エンド (岬)|ランズエンド岬]]南西の[[大西洋]]上にある[[シリー諸島]]、[[イギリス海峡]]にある[[ワイト島]]などの周辺の小さい島で構成されている。北方は[[スコットランド]]と、西方は[[ウェールズ]]と接する。連合王国の中で最も[[ヨーロッパ大陸]]に近く、対岸のフランスまで約 33km である。 東側は[[北海]]に面し、西側は[[トゥイード]]河口からスコットランドとの境界沿いに南西へむかい、[[アイリッシュ海]]沿岸部、ウェールズとの境界線をとおって、グレートブリテン島の西端[[ランズ・エンド (岬)|ランズエンド岬]]に達する。北境に当たるスコットランドとの境界は、西の[[ソルウェー湾]]から[[w:Cheviot Hills|チェビオット丘陵]]にそって東のトゥイード河口まで、南は[[イギリス海峡]]に面している。 地形は変化に富む。ただし全体的には平坦な地形であり、最高峰の[[スコーフェル峰]]でも978mと、イングランドには標高1000mを超える地点はない。北部と西部は全般に丸みを帯びた山岳地帯で、[[ペナイン山脈]]がイングランド北部の背骨を形成している。北西部[[カンブリア (イングランド)|カンブリア]]にはカンブリア山地があり、ここは大小様々な湖が連なる[[湖水地方]]として知られ、[[ピーターラビット]]の舞台としても有名である。フェンと呼ばれる東部の湿地帯は農業用地になっている。[[森林]]が占める割合は低く、小規模な森が各地に点在する程度である。 イングランドの最大の都市は[[ロンドン]]であり、世界でも最も繁栄した都市の一つである。第二の都市は[[蒸気機関]]で有名な[[ジェームズ・ワット]]が生涯のほとんどを過ごした[[バーミンガム]]である。[[英仏海峡トンネル]]によってイングランドは[[大陸ヨーロッパ]]と繋がっている。イングランドで最も大きい[[港湾|天然港]]は南海岸の[[w:Poole|プール]]である。[[オーストラリア]]の[[シドニー]]に次いで世界で2番目に大きい天然港という主張{{要出典|date=2023年6月}}もあるが、これには異論{{要出典|date=2023年6月}}もある。 === 気候 === イングランドは[[温帯]]であり、海にかこまれているため気候は比較的穏やかであるが、季節によって気温は変動する。南西からの[[偏西風]]が[[大西洋]]の暖かく湿った空気を運んでくるため東側は乾燥し、ヨーロッパ大陸に近い南側が最も暖かい。高地地帯から離れた地域においては頻繁ではないが、冬や早春には雪が降ることがある。イングランドの最高気温の記録は[[2003年]][[8月10日]]に[[ケント州]]のブログデールの 38.5℃である<ref>{{Cite web |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/kent/3153532.stm |title=Temperature record changes hands |author=[[英国放送協会|BBC]] ニュース |date=2003-09-30 |language=英語 |accessdate=2007-09-24}}</ref>。最低気温の記録は[[1982年]][[1月10日]]に[[シュロップシャー州]]のエドグモンドの &minus;26.1℃である<ref>{{Cite web |url=http://www.metoffice.gov.uk/climate/uk/location/england/#temperature |title=English Climate |author=MET Office |language=英語 |accessdate=2007-09-24 |archiveurl=http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20080727045756/http://www.metoffice.gov.uk/climate/uk/location/england/#temperature |archivedate=2008-07-27}}</ref>。年平均気温は、南部で 11.1℃、北西部で 8.9℃。月平均気温は、最も暑い7月で約 16.1℃、もっとも寒い1月で約 4.4℃ある。&minus;5℃以下になったり、30℃以上になることはほとんどない。ロンドンの月平均気温は、1月が 4.4℃、7月が 17.8℃である。霧やくもりの天気が多く、特にペナイン山脈や内陸部で顕著である。年降水量は 760mm ほどで年間を通して降水量が豊富であるが、月別では10月が最も多い。 == 経済 == {{main|en:Economy of England}} [[画像:London.bankofengland.arp.jpg|thumb|[[イングランド銀行]]]] 連合王国(イギリス)の中では最大である。ヨーロッパの上位500社のうち100社がロンドンに存在する<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/ CIA &mdash; The World Factbook]</ref>。イングランドは高度に工業化されており、世界経済の中心の一つであった。[[化学工業]]、[[製薬]]、[[航空]]業、[[軍需産業]]、[[ソフトウェア]]などが発達している。 イングランドは工業製品を輸出し、[[プルトニウム]]、金属、[[紅茶]]、[[ウール|羊毛]]、[[砂糖]]、木材、[[バター]]、肉のような資源を輸入している<ref>{{Cite web |url=http://www.factmonster.com/ce6/world/A0859339.html |title=London, city, England/ Economy |author=Fact Monster.com |language=英語 |accessdate=2007-09-24}}</ref>。ただし、牛肉に関してはフランス、イタリア、ギリシャ、オランダ、ベルギー、スペインなどへ輸出している<ref>{{Cite web |url=http://news.eblex.org.uk/article2.asp?ID=277430 |title=Strong Start For English Beef Exports |author=EBLEX News |date=2006-06-06 |language=英語 |accessdate=2007-09-24}}</ref>。 ロンドンは国際的な金融市場の中心地であり、イギリスの[[利子|金利]]と金融政策を決定する中央銀行である[[イングランド銀行]]やヨーロッパ最大の[[証券市場]]である[[ロンドン証券取引所]]がある。 イングランドの伝統的な重[[工業]]はイギリス全体の重工業と同様に、急激に衰退した。一方で[[サービス]]業が成長し、イングランドの経済の重要な位置を占めている。たとえば[[観光業]]はイギリスで6番目に大きな産業であり760億ポンドの規模である。2002年時点では労働人口の 6.1% にあたる180万人をフルタイムで雇用している<ref>[http://www.visitbritain.com/ Visit Britain.]</ref>。ロンドンには世界中から毎年数百万人が観光に訪れる。 イングランドでは[[スターリング・ポンド|ポンド]]が[[法定通貨]]である。 == 国民 == {{Main|イングランド人|イギリスの人口統計}} === 宗教 === かつては[[イングランド国教会]]以外の宗教、とりわけ[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が禁圧されたが、現在のイングランドには多様な宗教が存在し、特定の宗教を持たないあるいは[[無宗教]]の人の割合も多い。宗教的な行事の位置づけは低下しつつある。2000年時点のイングランドの宗教の比率は以下の通りである。[[キリスト教]]、75.6%;[[イスラム教]]、1.7%;[[ヒンドゥー教]]、1%;その他、1.6%;特定の宗教を持たないあるいは無宗教、20.1%{{要出典|date=2023年6月}}。 ==== キリスト教 ==== [[画像:Canterbury Cathedral - Portal Nave Cross-spire.jpeg|200px|thumb|[[カンタベリー大聖堂]]]] キリスト教は[[カンタベリーのアウグスティヌス]](初代[[カンタベリー大主教]])の時代に、スコットランドやヨーロッパ大陸からイングランドへやってきた宣教師によって到来した。[[685年]]の[[ウィットビー教会会議]]によってローマ式の典礼を取り入れることが決定された。[[1536年]]に[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が[[キャサリン・オブ・アラゴン]]との離婚しようとした問題によってローマと分裂し、[[宗教改革]]を経て[[イングランド国教会]]と[[聖公会]]が生まれた。他のスコットランド、ウェールズ、北アイルランドとは違い、イングランドでは[[イングランド国教会]]が[[国家宗教]]である(ただしスコットランド国教会は法律で定められた国家教会である)。 16世紀のヘンリー8世によるローマとの分裂と修道院の解散は教会に大きな影響を与えた。イングランド国教会は[[アングリカン・コミュニオン]]の一部であり、依然としてイングランドのキリスト教で最も大きい。イングランド国教会の大聖堂や教区教会は建築学上、意義のある重要な歴史的建築物である。 イングランドのその他の主な[[プロテスタント]]の教派には[[メソジスト]]、[[バプテスト教会]]、[[w:United Reformed Church|合同改革派教会]]がある。規模は小さいが無視できない教派として、キリスト友会(通称[[クエーカー]])と[[救世軍]]がある。 近年は女性聖職者を認める聖公会の姿勢に反発する信徒などによるローマ・カトリックへの改宗も少なくない。 ==== その他の宗教 ==== 20世紀後半から、[[中東]]や[[南アジア]]とりわけ[[イギリス連邦|英連邦]]諸国からの移民により[[イスラム教]]、[[シーク教]]、[[ヒンドゥー教]]の割合が増加した。[[バーミンガム]]、[[ブラックバーン (イングランド)|ブラックバーン]]、[[ボルトン]]、[[ブラッドフォード]]、[[w:Luton|ルートン]]、[[マンチェスター]]、[[レスター]]、[[ロンドン]]、[[オールダム]]にはムスリムのコミュニティがある。 イングランドのユダヤ教のコミュニティは主にロンドン、特にゴルダーズグリーンのような北西部の郊外に存在する。 === 教育 === {{main|イギリスの教育#イングランドの教育制度}} イングランドとウェールズでは[[義務教育]]は5歳から16歳までであり、学校は90%が公立である。 大学は全部で34あるが、[[ケンブリッジ大学]]と[[オックスフォード大学]]を除いて、19〜20世紀に創設されている。大学以外の高等教育機関として、工業・農業・美術・商業・科学などの専門学校がある。 == 文化 == {{Main|en:Culture of England}} 現代のイングランドの文化はイギリス全体の文化と分かち難い場合があり、混在している。しかし歴史的、伝統的なイングランドの文化はスコットランドやウェールズと明確に異なっている。 [[イングリッシュ・ヘリテッジ]]というイングランドの史跡、建築物、および環境を管理する政府の組織がある。 === 音楽 === ==== クラシック音楽 ==== * イングランドの作曲家には[[ウィリアム・バード]]や[[ヘンリー・パーセル]]、[[エドワード・エルガー]]らがいる。 * イングランドの演奏家には[[クリフォード・カーゾン]]([[ピアニスト]])や[[ジョン・バルビローリ]]([[指揮者]])、[[サイモン・ラトル]](指揮者)、[[デニス・ブレイン]]([[ホルン]]奏者)、[[キャスリーン・フェリアー]]([[コントラルト]]歌手)らがいる。 ==== ポピュラー音楽 ==== * [[1960年代]]には[[ビートルズ]]が登場した。その後[[ローリング・ストーンズ]]や[[レッド・ツェッペリン]]等が現れた。[[ブリティッシュ・インヴェイジョン]]が起こる。 * [[1970年代]]には[[グラム・ロック]]や[[プログレッシヴ・ロック]]のバンドが現れた。 * [[1980年代]]には[[MTV]]ブームの中、[[デュラン・デュラン]]、[[カルチャー・クラブ]]等が登場した。 * [[1990年代]]には[[ブリットポップ]]ブームの中、[[オアシス (バンド)|オアシス]]、[[ブラー]]、[[スパイス・ガールズ]]等が登場した。 === 文学 === * [[ウィリアム・シェイクスピア]] * [[メアリー・シェリー]](『[[フランケンシュタイン]]』) === 食文化 === イングランドには様々な食べ物がある。たとえば[[コーンウォール|コーンウォール州]]の[[スズ|錫]]鉱山の坑夫の[[弁当]]から発達した[[パスティ|コーニッシュ・パスティー]] (Cornish Pasty) には[[挽肉]]と[[野菜]]が入っている。縁が大きいのは錫を採掘したときに付く有害物質を食べないようにするためで、縁は食べない。また、レストランや[[パブ]]のメニューには[[シェパーズパイ]]があり、[[スコーン]]も有名である。 == スポーツ == {{main|{{仮リンク|イングランドのスポーツ|en|Sport in England}}}} [[サッカー]]、[[ラグビーユニオン]]、[[ラグビーリーグ]]、[[クリケット]]、[[テニス]]、[[バドミントン]]、近代[[競馬]]といった数多くの現代の[[スポーツ]]が[[19世紀]]のイングランドで成立した。その中でもサッカー、ラグビーユニオン、クリケット、競馬は依然としてイングランドで最も人気のあるスポーツとなっている。[[スヌーカー]]や[[ローンボウルズ|ボウルズ]]といった競技も、イングランド発祥である。 [[近代オリンピック|オリンピック]]は、[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン大会]]が[[2012年]][[7月26日]]から[[8月12日]]まで首都・[[ロンドン]]で開催された。ロンドンでは[[1908年ロンドンオリンピック|1908年大会]]と[[1948年ロンドンオリンピック|1948年大会]]の2度[[夏季オリンピック]]を開催しており、同一都市で3度目が開催されたのは史上初である(実際には[[1944年ロンドンオリンピック|1944年大会]]が予定されていたものの、[[第二次世界大戦]]による戦局悪化により返上された。夏季五輪は非開催となった大会も回次に加えるので、公には4度目の開催で史上最多であることには変わりはない)。 === サッカー === {{main|{{仮リンク|イングランドのサッカー|en|Football in England}}}} イングランドは'''現代[[サッカー]]発祥の地'''である<ref Name=History> [http://www.thefa.com/about-football-association/history The History of The FA] TheFA.com(FAの公式サイト)より。2015年12月31日閲覧。</ref>。[[1863年]][[10月26日]]に[[フットボール・アソシエーション]](The FA)と12のクラブの間で会議が開かれ、同年12月までに6回のミーティングを行って統一ルールを作成した。この統一ルール作成により現代のサッカーが誕生した。イングランドにおいてサッカーを統括する"The FA"は、世界で唯一国名の付かない'''世界最古のサッカー協会'''である。 イングランド・[[プレミアリーグ]]は世界中からスター選手を集め、'''世界最高峰のリーグ'''と称されている。[[ビッグクラブ]]も複数存在しており、[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]、[[リヴァプールFC|リヴァプール]]、[[チェルシーFC|チェルシー]]、[[アーセナルFC|アーセナル]]、さらに近年では[[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]などが強豪として、国内のみならず[[ヨーロッパ]]の舞台でも大変活躍している。なお、[[欧州サッカー連盟]](UEFA)の四ツ星以上の[[スタジアム]]の数はイングランドが最も多い。 [[サッカーイングランド代表]]は[[FIFAワールドカップ]]には15度の出場歴があり、自国開催となった[[1966 FIFAワールドカップ|1966年大会]]で初[[優勝]]を果たしている。[[UEFA欧州選手権]]には10度出場しており、[[UEFA EURO 2020|2021年大会]]ではキャプテンでエースの[[ハリー・ケイン]]を中心としたメンバー編成で過去最高成績となる[[準優勝]]に輝いた。 {{See also|ノースウェスト・ダービー|ヒルズボロの悲劇|フーリガン}} === ラグビーユニオン === ラグビーユニオンも盛んであり、[[ラグビーイングランド代表]]は強豪国として知られている。[[ラグビーワールドカップ]]の[[ラグビーワールドカップ2003|2003年大会]]で優勝し、[[ラグビーワールドカップ1991|1991年大会]]と[[ラグビーワールドカップ2007|2007年大会]]、[[ラグビーワールドカップ2019|2019年大会]]で準優勝に輝いた。ラグビーユニオンの[[プレミアシップ (ラグビー)|プレミアシップ]]では[[w:Bath Rugby|バース]]、[[ノーサンプトン・セインツ]]、[[レスター・タイガース]]、[[ロンドン・ワスプス]]といったクラブチームが[[ハイネケンカップ]]で優勝している。統括団体は「ラグビーフットボールユニオン」で、サッカーなどと同様に"England"の名は付かない。[[シックス・ネイションズ]]での優勝回数はウェールズ(39回)に次ぐ2位(38回)であり、[[女子シックス・ネイションズ]]では歴代最多の15回の優勝を達成している。 === クリケット === {{main|{{仮リンク|イングランドのクリケット|en|Cricket in England}}}} [[File:2019 World Cup winning England Cricket team with PM Theresa May.jpg|right|thumb|250px|[[2019 クリケット・ワールドカップ|クリケットW杯]]で初優勝したイングランド代表メンバーと[[テリーザ・メイ]][[イギリスの首相の一覧|首相]](2019年)]] [[クリケット]]も人気の高いスポーツの一つである。イングランドで[[16世紀]]からプレーされており、[[18世紀]]末に人気スポーツとなり、植民地にも普及が進んだ<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/europe/full/11 England and Wales Cricket Board] 国際クリケット評議会 2023年9月29日閲覧。</ref>。[[クリケットイングランド代表|イングランド代表]]は1877年に史上初の[[テスト・クリケット|テストマッチ]]を[[メルボルン]]で[[クリケットオーストラリア代表|オーストラリア代表]]と行った<ref name="ICC"/>。19世紀のクリケット界を代表する名選手として[[W・G・グレース]]が挙げられる。[[イングランド・ウェールズクリケット委員会]]が国内組織を統轄しており、イングランド代表はイングランドと[[ウェールズ]]の合同チームである。[[クリケット・ワールドカップ]]には自国開催となった[[2019 クリケット・ワールドカップ|2019年大会]]で初優勝を果たしている。女子クリケット代表は、[[女子クリケット・ワールドカップ|女子ワールドカップ]]で4度の優勝経験をもつ。ロンドンにある[[ローズ・クリケット・グラウンド]]はクリケットの聖地と呼ばれ、クリケット・ワールドカップの決勝戦が史上最多の5度開催された。イギリスを代表する名門[[パブリックスクール]]である[[イートン・カレッジ]]と[[ハロウスクール]]が対戦する伝統の試合は同スタジアムで200年以上行われている<ref>[https://www.telegraph.co.uk/news/2022/02/15/200-year-old-eton-harrow-lords-cricket-match-cancelled-wider/ 200-year-old Eton and Harrow Lord’s cricket match cancelled for a ‘wider range of players’] The Telegraph 2023年9月29日閲覧。</ref>。国内リーグは[[カウンティ・チャンピオンシップ]]があり、イングランド所在の17クラブ及びウェールズ所在の1クラブ、合計18クラブにより編成されている。また2003年に従来のクリケットとは異なり3時間程度で試合が終了する[[トゥエンティ20]]形式が導入され、同年にプロリーグの[[トゥエンティ20カップ]]が開始された。 === 競馬 === 今日のスタイルの競馬(近代競馬)は、[[16世紀]]のイングランドの[[チェスター競馬場]]で始まった。「[[サラブレッド]]」と呼ばれる品種が誕生したところでもある。[[アスコット競馬場]]で行われる[[ロイヤルアスコット開催|ロイヤルアスコット]]や[[エプソム競馬場]]で行われる[[オークス]]や、[[ダービーステークス|ダービー]]などが有名である。 == 日本との関係 == === 日本の姉妹都市 === ;「県名、都市名」 - 都市名「リージョン(地方名)、カウンティ(州・県名)」 *{{Flagicon|栃木県}}[[栃木県]][[益子町]] - [[セント・アイヴス]]([[サウス・ウェスト・イングランド|サウス・ウェスト・イングランド地方]] [[コーンウォール州]]) *{{Flagicon|東京都}}[[東京都]] - [[ロンドン]]([[グレーター・ロンドン|ロンドン地方]] [[グレーター・ロンドン|グレーター・ロンドン州]]) *{{Flagicon|神奈川県}}[[神奈川県]][[川崎市]] - [[シェフィールド]]([[ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー|ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー地方]] [[サウス・ヨークシャー|サウス・ヨークシャー州]]) *{{Flagicon|神奈川県}}[[神奈川県]][[横須賀市]] - [[:en:Medway|メドウェイ]]([[サウス・イースト・イングランド|サウス・イースト・イングランド地方]] [[ケント州]]) *{{Flagicon|新潟県}}[[新潟県]][[新潟市]] - [[キングストン・アポン・ハル|キングストン・アポン・ハル]]([[ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー|ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー地方]] [[イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー|イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー州]]) *{{Flagicon|長野県}}[[長野県]][[小谷村]] - [[:en:Ottery St Mary|オタリーセメントリー]]([[サウス・ウェスト・イングランド|サウス・ウェスト・イングランド地方]] [[デヴォン州]]) *{{Flagicon|静岡県}}[[静岡県]][[伊東市]] - [[:en:Medway|メドウェイ]]([[サウス・イースト・イングランド|サウス・イースト・イングランド地方]] [[ケント州]]) *{{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]][[新城市]] - [[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル・アポン・タイン]]([[ノース・イースト・イングランド|ノース・イースト・イングランド地方]] [[タイン・アンド・ウィア|タイン・アンド・ウィア州]]) *{{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]][[新城市]] - [[ニューカッスル=アンダー=ライム|ニューカッスル・アンダー・ライム]]([[ウェスト・ミッドランズ (リージョン)|ウェスト・ミッドランズ地方]] [[スタッフォードシャー州]]) *{{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]][[豊田市]] - [[ダービーシャー州]]([[イースト・ミッドランズ|イースト・ミッドランズ地方]]) *{{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]][[豊田市]] - [[ダービー (イギリス)|ダービー]]([[イースト・ミッドランズ|イースト・ミッドランズ地方]] [[ダービーシャー州]]) *{{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]][[豊田市]] - [[:en:South Derbyshire|南ダービーシャー]]([[イースト・ミッドランズ|イースト・ミッドランズ地方]] [[ダービーシャー州]]) *{{Flagicon|石川県}}[[石川県]][[小松市]] - [[ゲーツヘッド]]([[ノース・イースト・イングランド|ノース・イースト・イングランド地方]] [[タイン・アンド・ウィア|タイン・アンド・ウィア州]]) *{{Flagicon|石川県}}[[石川県]][[白山市]] - [[ボストン (イングランド)|ボストン]]([[イースト・ミッドランズ|イースト・ミッドランズ地方]] [[リンカンシャー州]]) *{{Flagicon|京都府}}[[京都府]][[舞鶴市]] - [[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]([[サウス・イースト・イングランド|サウス・イースト・イングランド地方]] [[ハンプシャー|ハンプシャー州]]) *{{Flagicon|大分県}}[[大分県]][[別府市]] - [[バース (イングランド)|バース]]([[サウス・ウェスト・イングランド|サウス・ウェスト・イングランド地方]] [[サマセット州]]) *{{Flagicon|鹿児島県}}[[鹿児島県]] - [[ロンドン]][[カムデン区]]([[グレーター・ロンドン|ロンドン地方]] [[グレーター・ロンドン|グレーター・ロンドン州]]) *{{Flagicon|鹿児島県}}[[鹿児島県]] - [[マンチェスター]]([[ノース・ウェスト・イングランド|ノース・ウェスト・イングランド地方]] [[グレーター・マンチェスター|グレーター・マンチェスター州]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} {{Commonscat|England}} * [[イギリス]] * [[イングランドの州]] * [[イギリスのカントリー]] ** [[ウェールズ]] ** [[スコットランド]] ** [[北アイルランド]] * [[サッカーイングランド代表]] * [[ラグビーイングランド代表]] * [[アルビオン]] == 外部リンク == * [https://www.visitengland.com/global イングランド観光局]{{en icon}} * [https://www.visitbritain.com/jp/ja/ 英国政府観光庁 - イングランド]{{ja icon}} {{連合王国構成国と王室領}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いんくらんと}} [[Category:イングランド|*]] [[Category:ケルト]]
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中川区
中川区(なかがわく)は、愛知県名古屋市にある行政区。名古屋市を構成する16区のうちのひとつで、1937年(昭和12年)10月1日に誕生した。 中川の名は中川運河から。中川区荒子は金沢100万石加賀藩の始祖前田利家の生まれ故郷である。区の西側は市内でも有数の田園地帯が広がっているが、近年になって宅地化が進んだ。庄内川の西に位置する富田地区(旧海部郡富田町)は、1955年(昭和30年)10月1日に名古屋市と合併、中川区に編入された。なお富田地区には富田支所が設置されている(分区問題も参照)。 名古屋市西部に位置し、全域が平坦である。ほとんどの地域が海抜ゼロメートル地帯であり、海水面より低い地域も多い。 中川区は、人口が市内の行政区の中で緑区に次いで多いことや、富田地区と残部とがおおよそ庄内川によって区切られており、歴史的にも富田地区は旧海部郡、残部は旧愛知郡であることから、分区がたびたび議論となっている。 2009年には、富田支所管内より分区を求める要望書が議長及び市長に提出されており、この申し入れには、この地区に住む1万7000人以上の署名が行われている。また、2005年の富田地区合併50周年に行ったアンケートによると、アンケート回答者のうち83.7%の人が分区について必要と考えていると回答している。 また、富田地区の名古屋市合併50周年記念誌には、50年後の富田地区の夢の一つとして分区が挙げられている。 なお、市当局は、行政区の適正規模は人口おおむね10万人から20万人程度であり、分区は25万人から30万人を超える状況でかつ現状の問題が区の再編によってしか解消できない場合に検討していくこととしており、当面は現行の16行政区を維持する方針である。 中川区に大学は設置されていない。ちなみに、1950年10月、当時の名古屋ミシン工芸女学校を母体に翌年、文部省(当時に)名古屋服装短期大学の設置認可の申請を行っていたが不認可となり、設立を断念した。詳細は同記事を参照のこと。 名古屋市営バスの路線が区内全域に運行されており、区内南部の国道1号沿いに名古屋市営バス中川営業所が所在する。そのほか、区内北東部・北西部に名鉄バスセンターと津島市方面を結ぶ名鉄バスの路線が、区内東部(江川線)と南部(国道1号など)に名阪近鉄バス名古屋営業所などの三重交通の路線がある。 またジェイアール東海バスの本社・名古屋支店が小本三丁目(あおなみ線沿い)にある。始発・終着地点(主に名古屋駅周辺)との回送で、共同運行会社を含めた多くの高速バス車両が区内を走行する姿が見られる。 <南北の道路> <東西の道路> 主な城郭 主な寺院 主な神社 主な公園
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中川区(なかがわく)は、愛知県名古屋市にある行政区。名古屋市を構成する16区のうちのひとつで、1937年(昭和12年)10月1日に誕生した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "中川の名は中川運河から。中川区荒子は金沢100万石加賀藩の始祖前田利家の生まれ故郷である。区の西側は市内でも有数の田園地帯が広がっているが、近年になって宅地化が進んだ。庄内川の西に位置する富田地区(旧海部郡富田町)は、1955年(昭和30年)10月1日に名古屋市と合併、中川区に編入された。なお富田地区には富田支所が設置されている(分区問題も参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "名古屋市西部に位置し、全域が平坦である。ほとんどの地域が海抜ゼロメートル地帯であり、海水面より低い地域も多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中川区は、人口が市内の行政区の中で緑区に次いで多いことや、富田地区と残部とがおおよそ庄内川によって区切られており、歴史的にも富田地区は旧海部郡、残部は旧愛知郡であることから、分区がたびたび議論となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2009年には、富田支所管内より分区を求める要望書が議長及び市長に提出されており、この申し入れには、この地区に住む1万7000人以上の署名が行われている。また、2005年の富田地区合併50周年に行ったアンケートによると、アンケート回答者のうち83.7%の人が分区について必要と考えていると回答している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、富田地区の名古屋市合併50周年記念誌には、50年後の富田地区の夢の一つとして分区が挙げられている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、市当局は、行政区の適正規模は人口おおむね10万人から20万人程度であり、分区は25万人から30万人を超える状況でかつ現状の問題が区の再編によってしか解消できない場合に検討していくこととしており、当面は現行の16行政区を維持する方針である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "中川区に大学は設置されていない。ちなみに、1950年10月、当時の名古屋ミシン工芸女学校を母体に翌年、文部省(当時に)名古屋服装短期大学の設置認可の申請を行っていたが不認可となり、設立を断念した。詳細は同記事を参照のこと。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "名古屋市営バスの路線が区内全域に運行されており、区内南部の国道1号沿いに名古屋市営バス中川営業所が所在する。そのほか、区内北東部・北西部に名鉄バスセンターと津島市方面を結ぶ名鉄バスの路線が、区内東部(江川線)と南部(国道1号など)に名阪近鉄バス名古屋営業所などの三重交通の路線がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "またジェイアール東海バスの本社・名古屋支店が小本三丁目(あおなみ線沿い)にある。始発・終着地点(主に名古屋駅周辺)との回送で、共同運行会社を含めた多くの高速バス車両が区内を走行する姿が見られる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "<南北の道路>", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "<東西の道路>", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "主な城郭", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "主な寺院", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "主な神社", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "主な公園", "title": "観光" } ]
中川区(なかがわく)は、愛知県名古屋市にある行政区。名古屋市を構成する16区のうちのひとつで、1937年(昭和12年)10月1日に誕生した。
{{日本の行政区 |画像 = {{Multiple image | border = infobox | total_width = 280 | image_style = border:1; | perrow = 2/2 | image1 = Matsushige Lock Gate s3.jpg{{!}} | image2 = Kannon-ji Temple Keidai, Miyamado Arako-cho Nakagawa Ward Nagoya 2022.jpg{{!}} | image3 = Otobashi Shopping Street 20190309-01.jpg{{!}} | image4 = Entrance of the Nagoya Baseball Stadium was renewed in 2010.JPG{{!}} }} |画像の説明 = <table style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse"> <tr><td style="width:50%">[[中川運河]][[松重閘門]]<td style="width:50%">[[荒子観音|荒子観音寺]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[尾頭橋]]<td style="width:50%">[[ナゴヤ球場]] </table> |区旗 = |区章 = |自治体名 = 中川区 |都道府県 = 愛知県 |支庁 = |市 = 名古屋市 |コード = 23110-0 |隣接自治体・行政区 = ''名古屋市''([[熱田区]]、[[中区 (名古屋市)|中区]]、[[中村区]]、[[港区 (名古屋市)|港区]])<br>[[あま市]]、[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[大治町]]、[[蟹江町]] |木 = [[クロマツ]] |花 = [[ハボタン]] |シンボル名 = |鳥など = |郵便番号 = 454-8501 |所在地 = 中川区高畑一丁目223番地<br><small>{{ウィキ座標度分秒|35|8|29.4|N|136|51|17.3|E|region:JP-23_type:adm3rd|display=inline,title}}</small><br>[[ファイル:Nagoya-City-Nakagawa-Ward-Office.jpg|220px|center|中川区役所]] |外部リンク = [https://www.city.nagoya.jp/nakagawa/ 名古屋市中川区] |位置画像 = [[ファイル:地図-愛知県名古屋市中川区-2006.png|250px|中川区の県内位置]][[ファイル:Location of Nakagawa ward Nagoya city Aichi prefecture Japan.svg|320x320px|中川区位置図]] |特記事項 = }} '''中川区'''(なかがわく)は、[[愛知県]][[名古屋市]]にある[[行政区]]。名古屋市を構成する16区のうちのひとつで、[[1937年]](昭和12年)[[10月1日]]に誕生した。 ==概要== 中川の名は[[中川運河]]から。中川区荒子は[[金沢市|金沢]]100万石[[加賀藩]]の始祖[[前田利家]]の生まれ故郷である。区の西側は市内でも有数の田園地帯が広がっているが、近年になって宅地化が進んだ。庄内川の西に位置する富田地区(旧海部郡[[富田町 (愛知県)|富田町]])は、[[1955年]](昭和30年)10月1日に名古屋市と合併、中川区に編入された。なお富田地区には富田支所が設置されている([[中川区 #分区問題|分区問題]]も参照)。 == 地理 == [[File:View of Nakagawa Canal from the Top of Nagara-hashi Bridge (1), Nakagawa Ward Nagoya 2021.jpg|thumb|180px|[[中川運河]](長良橋にて)]] ===位置=== 名古屋市西部に位置し、全域が平坦である。ほとんどの地域が[[海抜ゼロメートル地帯]]であり、海水面より低い地域も多い。 ===地形=== ====河川==== ;主な川 *[[庄内川]] *[[新川 (庄内川水系)|新川]] *[[戸田川]] *[[福田川 (愛知県)|福田川]] *[[荒子川]] *[[中川運河]] *[[堀川 (名古屋市)|堀川]] ===地域=== {{Main|名古屋市の地名#中川区}} ====地名==== *[[荒子]](あらこ) *[[打出 (名古屋市)|打出]](うちで) *[[江松]](えまつ) *[[尾頭橋]](おとうばし) *[[かの里]]・包里(かのさと) *[[小本 (名古屋市)|小本]](こもと) *[[山王 (名古屋市)|山王]](さんのう) *[[四女子町]](しにょしちょう) *[[下之一色町 (名古屋市)|下之一色]](しものいっしき) *[[千音寺]](せんのんじ) *[[高杉町|高杉]](たかすぎ) *[[高畑 (名古屋市)|高畑]](たかばた) *[[中郷 (名古屋市)|中郷]](ちゅうごう) *[[露橋]](つゆはし) *[[戸田 (名古屋市)|戸田]](とだ) *[[戸田明正]](とだめいせい) *[[富永 (名古屋市)|富永]]・冨永(とみなが) *中島(なかじま) *[[長須賀]](ながすか) *[[新家 (名古屋市)|新家]](にいえ) *[[野田 (名古屋市)|野田]](のだ) *[[服部 (名古屋市)|服部]](はとり) *[[春田 (名古屋市)|春田]](はるた・はるだ) *[[伏屋]](ふしや) *[[法華 (名古屋市)|法華]](ほっけ) *[[前田 (名古屋市)|前田]](まえだ) *[[万場]](まんば) *[[水里 (名古屋市)|水里]](みずさと) *[[八熊]](やぐま) *[[柳森町 (名古屋市)|柳森]](やなもり) ===人口=== {|style="font-size:smaller" |- |colspan="2" style="text-align:center;"|中川区の人口の推移 {|class="wikitable" style="margin:auto" {{人口統計/fluctuation/item|2000|210220|220079}} {{人口統計/fluctuation/item|2005|216008|220079}} {{人口統計/fluctuation/item|2010|221620|220079}} {{人口統計/fluctuation/item|2015|220181|220079}} {{人口統計/fluctuation/item|2020|220079|220079}} |} |- |colspan="2" style="text-align:right"|[[総務省]][[統計局]] [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]より<ref>[https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/67-5-5-0-0-0-0-0-0-0.html 「毎月1日現在の世帯数と人口(全市・区別)」] 名古屋市、2021年8月15日閲覧</ref> |} === 隣接自治体・行政区 === ;名古屋市の行政区 *[[中村区]] *[[中区 (名古屋市)|中区]] *[[熱田区]] *[[港区 (名古屋市)|港区]] ;他の市町村 *[[あま市]] *[[海部郡 (愛知県)|海部郡]]:[[大治町]] *海部郡:[[蟹江町]] ==歴史== ===古代=== *[[729年]]([[天平]]元年) - [[泰澄]]により[[荒子観音]]が草創される。 ===中世=== ;戦国時代 *[[1584年]]([[天正]]12年)[[6月16日]] - [[小牧・長久手の戦い]]の1つ[[蟹江城合戦]]により、[[織田信雄]]・[[徳川家康]]の連合軍に[[下之一色城]]が攻められた。本拠の下之一色城にいた[[前田長種]]は降伏し、加賀の前田家を頼り落ち延びた。 ===近世=== ;江戸時代 *[[1634年]]([[嘉永]]11年) - [[佐屋街道]]の[[宿場町]]として[[万場宿]]が設置される。 ===近代=== ;大正時代 *[[1921年]]([[大正]]10年)[[8月22日]] - [[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[愛知町]]・[[常磐村 (愛知県愛知郡)|常磐村]]・荒子村が名古屋市に[[日本の市町村の廃置分合#合体(新設合併)と編入(編入合併)|編入合併]]。[[南区 (名古屋市)|南区]]の一部となる(それぞれ現在の中川区のうち、おおよそ庄内川より東側にあたる)。 ===近現代=== ;昭和時代(戦前) *[[1930年]]([[昭和]]5年) - [[中川運河]]が竣工する。 *[[1931年]]([[昭和]]6年)[[5月1日]] - 愛知郡[[下之一色町]]の一部が名古屋市に編入合併。南区の一部となる。 *[[1937年]]([[昭和]]12年) **[[3月1日]] - 愛知郡[[下之一色町]]の全域が名古屋市に編入合併。南区の一部となる(現在の中川区のうち、庄内川と新川に挟まれた地域の南部にあたる)。 **[[10月1日]] - 名古屋市が10区制を実施。中川区が発足する。 ;昭和時代(戦後) *[[1955年]]([[昭和]]30年)[[10月1日]] - 海部郡[[富田町 (愛知県)|富田町]]が[[名古屋市]]に編入合併。中川区の一部となる(現在の中川区のうち、おおよそ庄内川より西側にあたる)。このとき富田地区には富田支所が設置された。 ==政治== ===行政=== ====役所==== ;区役所 *[[名古屋市|名古屋]]中川区役所 **中川区役所富田支所 *露橋コミュニティーセンター <gallery> File:Nagoya-City-Nakagawa-Ward-Office.jpg|中川区役所 File:Nagoya City Nakagawa Ward Office Tomida Branch 20150919.JPG|中川区役所富田支所 File:Tsuyuhashi Community Center 20140417.JPG|露橋コミュニティーセンター </gallery> ====分区問題==== 中川区は、人口が市内の[[行政区#行政区の一覧|行政区]]の中で[[緑区 (名古屋市)|緑区]]に次いで多いことや、富田地区と残部とがおおよそ庄内川によって区切られており、歴史的にも富田地区は旧[[海部郡 (愛知県)|海部郡]]、残部は旧[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]であることから、分区がたびたび議論となっている。 2009年には、富田支所管内より分区を求める要望書が議長及び市長に提出されており、この申し入れには、この地区に住む1万7000人以上の署名が行われている。また、2005年の富田地区合併50周年に行ったアンケートによると、アンケート回答者のうち83.7%の人が分区について必要と考えていると回答している<ref>[https://ssp.kaigiroku.net/tenant/nagoya/SpMinuteView.html?council_id=296&schedule_id=5&minute_id=59&is_search=true 「名古屋市会会議録・委員会記録検索システム」平成26年11月定例会 12月02日-25号]</ref>。 また、富田地区の名古屋市合併50周年記念誌には、50年後の富田地区の夢の一つとして分区が挙げられている<ref>富田地区名古屋市合併50周年記念事業実行委員会記念誌部会『水と緑と幸せのまち富田』(2005)p.61</ref>。 なお、市当局は、行政区の適正規模は人口おおむね10万人から20万人程度であり、分区は25万人から30万人を超える状況でかつ現状の問題が区の再編によってしか解消できない場合に検討していくこととしており、当面は現行の16行政区を維持する方針である<ref>[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000010/10920/kangaekata.pdf 『名古屋市中期戦略ビジョン(案)に対する市民意見の内容及び市の考え方』(2010)]</ref>。 ==出先機関・施設== ===国家機関=== [[File:Aichi Provincial Cooperation Office 20140417.JPG|thumb|180px|[[自衛隊愛知地方協力本部]]]] ====国土交通省==== *[[愛知運輸支局]]本庁舎 ====厚生労働省==== *[[愛知労働局]] ====防衛省==== ;自衛隊 *[[自衛隊愛知地方協力本部]] ====財務省==== ;国税庁 *[[名古屋国税局]] [[名古屋国税局#愛知県|中川税務署]] ===施設=== ====警察==== ;本部 *[[中川警察署|愛知県中川警察署]] ;交番 *八熊交番([[尾頭橋]]3丁目) *八幡交番([[五女子]]2丁目) *昭和橋交番([[福船町]]5丁目) *中島交番([[中島新町]]2丁目) *下之一色交番([[下之一色町 (名古屋市)|下之一色町]]) *豊治交番([[かの里]]3丁目) *戸春橋交番([[戸田 (名古屋市)|戸田]]1丁目) *富田交番([[島井町]]) *伏屋交番([[助光]]2丁目) *野田交番([[野田 (名古屋市)|野田]]2丁目) *常磐交番([[長良町]]3丁目) *篠原交番([[太平通]]4丁目) *荒子交番([[中郷 (名古屋市)|中郷]]3丁目) <gallery> File:Aichi Nakagawa Police Station 20141007.JPG|中川警察署 File:Aichi Nakagawa Police Station Tokiwa Koban 20141010.JPG|中川警察署常磐交番 File:Aichi Prefectural Police Nakagawa Police Office Toharu-bashi Koban 20150919.JPG|中川警察署戸春橋交番 </gallery> ====消防==== ;消防署 *名古屋市中川消防署 ;出張所 *日置出張所([[福住町 (名古屋市)|福住町]]6-39) *尾頭橋出張所([[尾頭橋]]1-1-41) *下之一色出張所([[一色新町]]3-105) *富田出張所([[東春田]]2-41) ====医療・福祉==== ;主な病院 *[[太平病院]] *[[名古屋掖済会病院]] *[[名古屋共立病院]] *名古屋西病院 *[[藤田医科大学ばんたね病院]] *松蔭病院 *共愛病院 <gallery> File:Ekisaikai.jpg|名古屋掖済会病院 File:Fujita Bantane Hospital 20140417.JPG|藤田医科大学ばんたね病院 </gallery> ====郵便局==== ;主な郵便局 *[[中川郵便局]] *名古屋愛知町郵便局 *名古屋助光郵便局 *名古屋千音寺郵便局 *名古屋戸田郵便局 **名古屋戸田団地内郵便局 *名古屋中郷郵便局 *名古屋西日置郵便局 *名古屋春田郵便局 <gallery> File:Nakagawa post office 21612.JPG|中川郵便局 File:Nagoya Aichi-cho Post Office 20141010-01.JPG|名古屋愛知町郵便局 File:Nagoya Nishi-Hioki Post Office 20141010.JPG|名古屋西日置郵便局 </gallery> ====文化施設==== ;図書館 *[[名古屋市図書館]] **[[名古屋市中川図書館]] **[[名古屋市富田図書館]] <gallery> File:Nagoya city Nakagawa library and Nakagawa Playhouse-20150211.jpg|名古屋市中川図書館 File:Nagoya city Tomita library-20150203.jpg|名古屋市富田図書館 </gallery> ;劇場 *[[名古屋市文化小劇場|名古屋市中川文化小劇場]] <gallery> File:Nagoya city Nakagawa library and Nakagawa Playhouse-20150211.jpg|[[名古屋市中川図書館]] </gallery> ;博物館・記念館 *[[横井庄一記念館]] ====運動施設==== *[[ウインズ名古屋]] *[[露橋スポーツセンター]] *[[ナゴヤ球場]] <gallery> File:JRA Wins Nagoya 20170724.jpg|[[ウインズ名古屋]] File:Nagoya City Tsuyuhashi Sports Center 20140417.JPG|[[露橋スポーツセンター]] File:Nagoya Baseball Stadium 05.jpg|[[ナゴヤ球場]] </gallery> ==対外関係== ===国際機関=== ====領事館==== ;名誉領事館 *{{Flagicon|NZL}}在名古屋[[ニュージーランド|ニュージーランド王国]]名誉領事館 *{{Flagicon|MGL}}在名古屋[[モンゴル国]]名誉領事館 ==経済== [[File:Maeda Toshiie Statue 01-0.jpg|thumb|180px|[[荒子駅|荒子]]にある[[前田利家]]の騎馬像]] ===第二次産業=== ====工業==== * [[東海旅客鉄道名古屋工場|JR名古屋工場]] * [[日清製粉]] * [[アルプススチール]] * [[リンナイ]] * [[中部鋼鈑]] * [[中部経済新聞社]]本社工場([[前並町 (名古屋市)|前並町]]) * [[新星工業]] ===第三次産業=== ====商業==== ;主な繁華街 *[[荒子駅|荒子]] *[[尾頭橋駅|尾頭橋]] *[[高畑駅|高畑]] *[[八田駅|八田]] ;主な商店街 *尾頭橋商店街 ;主な商業施設 *[[アオキスーパー|アズパーク]] *[[DCMカーマ]]中川富田店 *[[フィールコーポレーション|フィール]]スマイルプラザ *[[平和堂]] 豊成店 *[[ヤマナカ]] 新中島フランテ館 *[[ヨシヅヤ]] 太平通店 *ザ・チャレンジハウス太平通 ;主な娯楽施設 *[[中川コロナワールド]] *[[ラウンドワン]]スタジアム 中川1号線店 *ジョビアルパラッツォ([[名鉄交通|名鉄交通ビル]]) ===本社を置く企業=== {{See also|Category:中川区の企業}} ;上場企業 *[[太洋基礎工業]] *[[中部鋼鈑]] *[[名古屋木材]] *[[パブリック (企業)]] *[[リンナイ]] ;その他の主な企業 *[[アーク引越センター]] *[[馬印 (企業)|馬印]] *[[ジェイアール東海バス]] *[[スーパージャンボ]] *[[中日本氷糖]] *[[引越社]] *[[名鉄交通]] *[[株式会社 岡忠工作所  本社工場・養老工場・多度工場]] ===拠点を置く企業=== *[[パイロットコーポレーション]][[中京]]支社 ==情報・生活== [[File:Chubu Electric Power Company Nagara-cho Substation 20141010.JPG|thumb|180px|[[中部電力]]長良町変電所]] [[File:Tsuyuhashi Water Treatment Center 20190511-03.jpg|thumb|180px|[[露橋水処理センター]]]] ===ライフライン=== ====電力==== *[[中部電力]] **長良町変電所 ====ガス==== *[[東邦ガス]] ====上下水道==== *[[名古屋市上下水道局]] **[[露橋水処理センター]] ====電信==== *[[NTT西日本]] ====処理施設==== *名古屋市富田清掃工場 == 教育 == [[File:Bantane Hospital 20181021-01.jpg|thumb|180px|[[藤田医科大学]] [[藤田医科大学ばんたね病院|名古屋教育病院]]]] [[File:Aichi Prefecture Nakagawa Commercial High School 20141007.JPG|thumb|180px|[[愛知県立中川商業高等学校]]]] [[File:Nagoya City Tomida High School, 2014.jpg|thumb|180px|[[名古屋市立富田高等学校]]]] [[File:Nagoya City Nishi Special School 20151024.JPG|thumb|180px|[[名古屋市立西養護学校]]]] ===大学=== 中川区に大学は設置されていない。ちなみに、1950年10月、当時の[[名古屋ミシン工芸女学校]]を母体に[[1951年|翌年]]、[[文部省]](当時に)[[名古屋服装短期大学]]の設置認可の申請を行っていたが不認可となり、設立を断念した。詳細は同記事を参照のこと。 ;私立 *[[藤田医科大学]] [[藤田医科大学ばんたね病院|名古屋教育病院]] ===専修学校=== *えきさい[[看護専門学校]] *まつかげ[[看護専門学校]] *[[名古屋鍼灸学校]] === 高等学校 === ;県立 *[[愛知県立中川商業高等学校]] ;市立 *[[名古屋市立富田高等学校]] *[[名古屋市立工業高等学校]] === 中学校 === ;市立 *[[名古屋市立一色中学校]] *[[名古屋市立一柳中学校]] *[[名古屋市立供米田中学校]] *[[名古屋市立山王中学校]] *[[名古屋市立昭和橋中学校]] *[[名古屋市立助光中学校]] *[[名古屋市立高杉中学校]] *[[名古屋市立富田中学校]] *[[名古屋市立長良中学校]] *[[名古屋市立はとり中学校]] *[[名古屋市立八幡中学校]] === 小学校 === ;市立 *[[名古屋市立愛知小学校]] *[[名古屋市立赤星小学校]] *[[名古屋市立荒子小学校]] *[[名古屋市立篠原小学校]] *[[名古屋市立正色小学校]] *[[名古屋市立昭和橋小学校]] *[[名古屋市立千音寺小学校]] *[[名古屋市立玉川小学校]] *[[名古屋市立露橋小学校]] *[[名古屋市立常磐小学校]] *[[名古屋市立戸田小学校]] *[[名古屋市立豊治小学校]] *[[名古屋市立中島小学校]] *[[名古屋市立長須賀小学校]] *[[名古屋市立西中島小学校]] *[[名古屋市立西前田小学校]] *[[名古屋市立野田小学校]] *[[名古屋市立春田小学校]] *[[名古屋市立広見小学校]] *[[名古屋市立万場小学校]] *[[名古屋市立明正小学校]] *[[名古屋市立八熊小学校]] *[[名古屋市立八幡小学校]] === 特別支援学校 === ;市立 *[[名古屋市立西養護学校]] ;私立 *[[見晴台学園]] ===学会=== *[[日本意識障害学会]] == 交通 == [[File:JR Central of Hatta Station 01.JPG|thumb|180px|[[八田駅]]]] [[File:Higashiyama Line Takabata Station 01.JPG|thumb|180px|[[高畑駅]]出入口]] === 鉄道 === ====鉄道路線==== ;[[東海旅客鉄道]](JR東海) : {{JR海駅番号|CA}} [[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]]:(名古屋市中村区)- [[尾頭橋駅]] -(名古屋市中区) : {{JR海駅番号|CF}} [[中央線 (名古屋地区)|中央本線]]:(名古屋市中村区)-([[山王信号場]])-(名古屋市中区) : ※ 区内には中央本線も通るが、駅はない(山王信号場がある。尾頭橋駅には中央本線のホームはなく、停車しない)。最寄りは[[金山駅 (愛知県)|金山駅]](金山総合駅)。 : {{JR海駅番号|CJ}} [[関西線 (名古屋地区)|関西本線]]:(名古屋市中村区) - [[春田駅]] -(海部郡蟹江町) ;[[名古屋鉄道]](名鉄) : {{名鉄駅番号|NH}} [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]:(名古屋市中村区)- [[山王駅 (愛知県)|山王駅]] -(名古屋市熱田区) ;[[近畿日本鉄道]](近鉄) : {{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]]:(中村区)- [[近鉄八田駅]] - [[伏屋駅]] - [[戸田駅 (愛知県)|戸田駅]] -(海部郡蟹江町) ;[[名古屋臨海高速鉄道]] : {{Color|navy|■}}[[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線|西名古屋港線(あおなみ線)]]:(名古屋市中村区)- [[小本駅]] - [[荒子駅]] -([[名古屋貨物ターミナル駅]])- [[南荒子駅]] - [[中島駅 (愛知県)|中島駅]] -(名古屋市港区) : ※ このほか、金山駅(金山総合駅)も区境に近い。 : ※ 区役所は地下鉄高畑駅とあおなみ線荒子駅の中間あたりに位置する。 ====地下鉄==== ;[[名古屋市交通局]](名古屋市営地下鉄) : [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]:[[高畑駅]] - [[八田駅]] : ※ 東山線の[[高畑車庫|車庫]]が高畑に存在する。 : ※ 地下鉄東山線の八田駅は中川区にあるが、JR八田駅と近鉄八田駅は区境付近の中村区にある。 : ※ 区の東部の柳川町に[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]]が約100m通っているが、駅はない。この付近の最寄り駅は金山駅・日比野駅。 : ※ また同じ地下鉄名港線の[[六番町駅]]も熱田区にあるものの、区境に近い。 ====貨物路線==== ;[[日本貨物鉄道]](JR貨物) : {{Color|black|■}}[[名古屋港線]]:(名古屋市中村区)-([[山王信号場]])- [[ナゴヤ球場正門前駅]](廃止)-([[八幡信号場]])-(名古屋市港区) <!-- その他、[[東海道新幹線]]が[[名古屋駅]] - [[三河安城駅]]間で当区を前述の名古屋港線に並行する形で通過している。 --> === バス === [[File:Nagoya City Bus Nakagawa Garage 20160729.jpg|thumb|180px|[[名古屋市営バス中川営業所]]]] [[名古屋市営バス]]の路線が区内全域に運行されており、区内南部の[[国道1号]]沿いに[[名古屋市営バス中川営業所]]が所在する。そのほか、区内北東部・北西部に[[名鉄バスセンター]]と[[津島市]]方面を結ぶ[[名鉄バス]]の路線が、区内東部([[名古屋市道江川線|江川線]])と南部(国道1号など)に[[名阪近鉄バス名古屋営業所]]などの[[三重交通]]の路線がある。 また[[ジェイアール東海バス]]の本社・名古屋支店が小本三丁目(あおなみ線沿い)にある。始発・終着地点(主に[[名古屋駅]]周辺)との回送で、[[共同運行]]会社を含めた多くの[[高速バス]]車両が区内を走行する姿が見られる。 ==== 路線バス ==== * [[名古屋市営バス]] ====営業所==== * [[名古屋市営バス中川営業所]] * [[名阪近鉄バス名古屋営業所]] ====バスターミナル==== * [[名古屋市営バス#バスターミナル|高畑バスターミナル]] ====交通広場==== * [[名古屋市営バス#交通広場|八田交通広場]] * [[名古屋市営バス#交通広場|春田交通広場]] === 道路 === [[File:Nagoya-nishi JCT 20150510A.JPG|thumb|180px|[[名古屋西ジャンクション|名古屋西JCT]]]] [[File:Sanno JCT 20150824A.JPG|thumb|180px|[[山王ジャンクション|山王JCT]]]] ==== 高速道路 ==== ;[[中日本高速道路]](NEXCO中日本) *[[名古屋第二環状自動車道]]:([[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[大治町]]) -(22)[[大治南インターチェンジ|大治南IC]] - (海部郡大治町) - (23)[[名古屋西ジャンクション|名古屋西JCT]] - (24) [[千音寺南インターチェンジ|千音寺南IC]] - (25) [[富田インターチェンジ|富田IC]] *[[東名阪自動車道]]:(23)名古屋西JCT - (24)[[名古屋西インターチェンジ|名古屋西IC]]/[[名古屋西本線料金所|TB]] - ([[あま市]]) ;[[名古屋高速道路]] *[[名古屋高速5号万場線|5号万場線]]:([[名古屋市]][[中村区]]) - (501/511)[[黄金出入口]] - (名古屋市中村区) - (TB)[[千音寺料金所|千音寺TB]] - (503/513)[[千音寺出入口]] - 名古屋西JCT *[[名古屋高速都心環状線|都心環状線]]:(名古屋市[[中区 (名古屋市)|中区]]) - [[山王ジャンクション|山王JCT]] - (名古屋市中村区) *[[名古屋高速4号東海線|4号東海線]]:山王JCT - (401)山王入口 - (411)尾頭橋出口 - (名古屋市[[熱田区]]) ==== 国道 ==== ; 一般国道 * [[国道1号]] * [[国道302号]]([[名古屋環状2号線]]) ==== 県道 ==== ; 主要地方道・主な市道 * [[愛知県道29号弥富名古屋線]]([[八熊通]]) * [[愛知県道40号名古屋蟹江弥富線]] * [[愛知県道59号名古屋中環状線]] ; 一般県道 * [[愛知県道106号鳥ヶ地名古屋線]] * [[愛知県道107号中川中村線]](八熊通の一部・江川線の一部が重複) * [[愛知県道115号津島七宝名古屋線]](一部環状線重複) * [[愛知県道117号西条中川線]] * [[愛知県道190号名古屋一宮線]] * [[愛知県道227号港中川線]] * [[愛知県道228号下之一色港南陽線]] * [[愛知県道229号八田停車場線]] * [[愛知県道456号高速名古屋新宝線]](名古屋高速4号東海線) ==== 市道 ==== ; 主な市道 * [[名古屋市道名古屋環状線]](環状線) * [[名古屋市道山王線]]([[名駅通]]・山王通) * [[名古屋市道江川線]](江川線) * 名古屋市道愛知名駅南線([[大須通]]) ==== 幹線道路の道路通称名 ==== '''<南北の道路>''' * [[名古屋環状2号線|環状2号]] * [[名古屋市道名古屋環状線|環状線]] * [[名駅通]] * [[名古屋市道江川線|江川線]] '''<東西の道路>''' * [[大須通]] * [[名古屋市道山王線|山王通]] * [[八熊通]] ==観光== ===名所・旧跡=== '''主な城郭''' *[[下之一色城]] *[[前田城]]([[前田速念寺]]) '''主な寺院''' *[[荒子観音寺]] - [[尾張三十三観音]]第十二札所、[[尾張四観音]] *[[西光寺]] *[[四門寺 (名古屋市)|四門寺]] *[[寶珠院 (名古屋市)|寶珠院]] - [[なごや七福神]] *[[前田速念寺]] - [[前田利家]]縁の寺院 *[[妙光寺]] *[[陽泉寺]] *[[龍潭寺]] <gallery> File:Arako kannon 02.JPG|[[荒子観音寺]] File:Saiko-ji Temple 20140417.JPG|[[西光寺]] File:Houju-in Temple 20141007.JPG|[[寶珠院 (名古屋市)|寶珠院]] File:Sokunenji.JPG|[[前田速念寺]] File:Yosen-ji Temple 20140417.JPG|[[陽泉寺]] </gallery> '''主な神社''' *[[神明神社#中部地方|愛知神明社]] *尾頭橋神社 *[[神明神社#中部地方|高畑神明社]] *[[ナゴヤ球場|球場神社]] *長良八幡社 *西古渡神社 *富士大権現天満天神宮 <gallery> File:Shinmei-sha Shinto Shrine (Aichi Nakagawa-ku Nagoya-City) 20141010.JPG|[[神明神社#中部地方|愛知神明社]] File:Takabata Shinmei-sha Shinto Shrine 20141010.JPG|[[神明神社#中部地方|高畑神明社]] File:Nagoya Baseball Stadium 04.jpg|[[ナゴヤ球場|球場神社]] File:Nagara Hachiman-sha Shinto Shrine 20141010.JPG|長良八幡社 File:Nishi Furuwatari Shinto Shrine 20140417.JPG|西古渡神社 File:Fuji-daigongen & Tenman-tenjingu Shinto Shrine 20141010.JPG|富士大権現天満天神宮 </gallery> ===観光スポット=== *[[キャナル・リゾート]] *[[松重閘門]] *[[中川運河]] *[[ナゴヤ球場]] - [[中日ドラゴンズ]][[二軍]]の本拠地球場 '''主な公園''' *荒越公園 *荒子公園 *高畑公園 *[[戸田川緑地|戸田川緑地公園]] *西古渡公園 *野田公園 *八家公園 *八幡南公園 *広見公園 *[[松葉公園]] *的場公園 <gallery> File:Todagawa Green.JPG|[[戸田川緑地|戸田川緑地公園]] File:Todagawa Ryokuchi-04.jpg|とだがわこどもランド File:Nishi Furuwatari Koen Park 20140417.JPG|西古渡公園 File:Hachiman-minami Koen Park 20140417.JPG|八幡南公園 File:Hiromi-koen Park 20141010.JPG|広見公園 File:Matsuba-koen Park 20141010.JPG|松葉公園 File:Matoba-koen Park 20141010.JPG|的場公園 </gallery> ==出身・関連著名人== [[File:Maeda Toshiie.jpg|thumb|180px|[[前田利家]]]] ===歴史上人物=== * [[前田利家]]([[武将|戦国武将]]) - [[加賀藩]]初代藩主。[[尾張国]][[海東郡]]荒子村生まれ。 * [[前田長種]](戦国武将) ===政治家=== * [[木村隆秀]](元[[衆議院]][[国会議員|議員]]) * [[斎藤嘉隆]]([[参議院]]議員) ===学界=== * [[饗庭孝男]]([[文芸評論家]]、[[青山学院大学]]名誉教授) * [[益川敏英]]([[物理学者]]、[[ノーベル物理学賞]]受賞者) ===芸能=== * [[上田定行]]([[俳優]]、[[ラジオパーソナリティ]]) * [[森本レオ]](俳優、[[ナレーター]]、[[タレント]]) * [[いとうまい子]]([[俳優|女優]]、タレント) * [[加藤和樹]]([[歌手]]、俳優) * [[市川紗椰]]([[ファッションモデル]]、タレント) ===スポーツ選手=== * [[栃司哲史]](元[[大相撲]][[力士]]、現[[年寄]]・[[入間川 (相撲)|入間川]]) * [[祖父江大輔]]([[プロ野球選手]]、[[中日ドラゴンズ]]) * [[濱田達郎]](元プロ野球選手、中日ドラゴンズ) * [[深町亮介]](元プロ野球選手) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat|Nakagawa-ku, Nagoya}} * [https://www.city.nagoya.jp/nakagawa/ 名古屋市中川区]<!-- 「公式ウェブサイト」と表記されるテンプレートは貼付しないこと --> * {{Twitter|nakagawa_nagoya}} {{Geographic Location |Centre = 中川区 |North = [[大治町]] [[中村区]] |Northeast = [[中区 (名古屋市)|中区]] |East = [[熱田区]] |Southeast = |South = [[港区 (名古屋市)|港区]] |Southwest = |West = [[蟹江町]] |Northwest = [[あま市]] |image = }} {{名古屋市中川区の町・字}} {{愛知県の自治体}} {{Japan-area-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:なかかわく}} [[Category:名古屋市の区]] [[Category:中川区|*]] [[Category:1937年に成立した行政区画]]
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勤労感謝の日
勤労感謝の日(きんろうかんしゃのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。日付は11月23日。 昭和時代(昭和23年以降)および令和時代においては1年で最後の祝日となる。 勤労感謝の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年法律第178号)第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」ことを趣旨としている。同法により制定された。 日本では古くから、天皇が新穀などの収穫物を神々に供えて感謝し、自らも食する「新嘗祭」(にいなめさい)という祭事が行われてきた。 新嘗祭は、1872年(明治5年)までは旧暦11月の二回目の卯の日に行われていた。太陽暦(グレゴリオ暦)が導入された1873年(明治6年)になって、旧暦11月の二回目の卯の日は新暦の翌年1月に当たり都合が悪いということで、同年11月の二回目の卯の日であった11月23日に行われた。同年公布の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官第344号布告)によって、祭祀と同名の休暇日(休日)となった。本来、11月の二回目の卯の日は11月13日 - 11月24日の間で変動するが、翌1874年(明治7年)以降も祭祀・休日ともに11月23日に固定した。 第二次世界大戦後、新たに日本国憲法が制定され、祝祭日から国家神道の色彩を払拭するという方針のもとで新たに祝祭日を選定し直すことになった。1947年(昭和22年)に召集された第2回国会で祝祭日の名称の全面的な見直しが行われる中、衆議院では新嘗祭が新穀の収穫に対する感謝の日であることからそれに代わる名称として「新穀祭」「生産感謝の日」などの案が検討された結果、「感謝の日」案が有力となった(なお、省庁(官僚)の間では、GHQの命令により米国のThanksgiving Dayに相当する祝日を設けることとなったことが由来と伝わっている)。その後の衆参合同委員会で「感謝の日」では漠然としていて何に対する感謝かわからないという理由で「勤労感謝の日」と「労働感謝の日」の二つの案が出され前者の案が有力となり、衆議院文化委員会において日本社会党などの委員による賛成多数で「勤労感謝の日」が採択された。この決議を踏まえて国民の祝日に関する法律に規定された。
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勤労感謝の日(きんろうかんしゃのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。日付は11月23日。 昭和時代(昭和23年以降)および令和時代においては1年で最後の祝日となる。
{{画像提供依頼|イメージ画像|date=2023年3月}} {{国民の祝日}} '''勤労感謝の日'''(きんろうかんしゃのひ)は、[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つである。日付は[[11月23日]]。 [[昭和]]時代(昭和23年以降)および[[令和]]時代においては1年で最後の[[祝日]]となる<ref group="注釈">[[平成]]時代は[[天皇誕生日]]([[12月23日]])が1年で最後の祝日であった。</ref>。 == 概要 == 勤労感謝の日は、[[国民の祝日に関する法律]](祝日法、昭和23年法律第178号)<ref group="注釈">[[1948年]](昭和23年)[[7月20日]]公布。</ref>第2条によれば、「[[労働|勤労]]をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」ことを趣旨としている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC1000000178 国民の祝日に関する法律]</ref>。同法により制定された。 == 前史 == 日本では古くから、[[天皇]]が新穀などの収穫物を神々に供えて感謝し、自らも食する「[[新嘗祭]]」(にいなめさい)という祭事が行われてきた。 新嘗祭は、[[1872年]]([[明治]]5年)までは[[旧暦]][[11月 (旧暦)|11月]]の二回目の[[卯]]の日に行われていた。[[太陽暦]]([[グレゴリオ暦]])が導入された[[1873年]](明治6年)になって、旧暦11月の二回目の卯の日は新暦の翌年1月に当たり都合が悪いということで、同年11月の二回目の卯の日であった11月23日に行われた。同年公布の[[年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム]](明治6年太政官第344号布告)<ref group="注釈">1873年(明治6年)[[10月14日]]公布。</ref>によって、祭祀と同名の休暇日([[休日]])となった。本来、11月の二回目の卯の日は11月13日 - 11月24日の間で変動するが、翌[[1874年]](明治7年)以降も祭祀・休日ともに11月23日に固定した<ref name="注釈" group="注釈">ただし[[大嘗祭]]は11月の二回目の卯の日に行われたために、大正・昭和の大嘗祭が行われた[[1915年]](大正4年)と[[1928年]](昭和3年)は11月23日は休日とはならなかった。</ref>。 == 制定 == [[第二次世界大戦]]後、新たに[[日本国憲法]]が制定され、[[祝祭日]]から[[国家神道]]の色彩を払拭するという方針のもとで新たに祝祭日を選定し直すことになった<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100105069X01619471202 第1回国会 文化委員会 第16号]</ref><ref name=":0">[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100205069X01319480619 第2回国会 文化委員会 第13号]</ref>。[[1947年]](昭和22年)に召集された[[第2回国会]]で祝祭日の名称の全面的な見直しが行われる中、[[衆議院]]では新嘗祭が新穀の収穫に対する感謝の日であることからそれに代わる名称として「新穀祭」「生産感謝の日」などの案が検討された結果、「感謝の日」案が有力となった{{要出典範囲|(なお、省庁(官僚)の間では、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の命令により米国の[[感謝祭|Thanksgiving Day]]に相当する祝日を設けることとなったことが由来と伝わっている)|date=2022年11月}}。その後の衆参合同委員会で「感謝の日」では漠然としていて何に対する感謝かわからないという理由で「勤労感謝の日」<ref group="注釈">衆参合同委員会における「勤労感謝の日」案は[[参議院]]議員の[[羽仁五郎]]の動議による。</ref>と「労働感謝の日」の二つの案が出され前者の案が有力となり、衆議院文化委員会において[[日本社会党]]などの委員による賛成多数で「勤労感謝の日」が採択された<ref name=":0" /><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100215069X00719480618&current=52 第2回国会 文化委員会 第7号]</ref>。この決議を踏まえて[[国民の祝日に関する法律]]に規定された。 == 関連項目 == * [[労働者]] * [[メーデー]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{DEFAULTSORT:きんろうかんしやのひ}} [[Category:日本の祝日]] [[Category:11月の記念日]] [[Category:日本の労働]] [[Category:冬の季語]]
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成人の日
成人の日(せいじんのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。ハッピーマンデー制度により、1月の第2月曜日があてられている。なお、1999年(平成11年)までは1月15日だったが、2000年以降からは、祝日法により、旧・成人の日の祝日が平日となっている。 成人の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としている。この日には、各市町村で新成人を招いて成人式が行われる。(ただし、豪雪の影響や帰省しやすい時期等を考慮して大型連休中やお盆に行われる地方も多い) 1948年公布・施行の祝日法によって制定された。制定から1999年までは毎年1月15日だった。成人の日を1月15日としたのは、この日が小正月であり、かつて元服の儀が小正月に行われていたことによるといわれている。 1月15日が成人の日として固定されていた時代、1983・84年には共通一次試験が、1994・95年にはセンター試験がそれぞれ行われた。 かつてラグビー日本選手権は1月15日に開催されたため、成人を迎える選手が出場していた事例もある。 ハッピーマンデー制度導入に伴い、2000年から1月第2月曜日、つまり、その年の1月8日から14日までのうち月曜日に該当する日に変更された。本来の「15日のある週でない」のは、17日が1995年に阪神・淡路大震災の起きた日、つまり防災とボランティアの日のため。 1月1日(元日)が第1月曜日の場合、1月8日が第2月曜日の成人の日となる。さらに1月8日が第2月曜日となる年には、企業によっては年末年始休暇を1月8日まで延長するケースもある。 地方などでは、帰郷する新成人が参加しやすいよう、ゴールデンウィーク・お盆・年末年始・成人の日の前々日となる土曜日か前日となる日曜日(土曜日は1月6日 - 1月12日、日曜日は1月7日 - 1月13日の間のいずれか)に成人式を開催する自治体も多い。 1999年までは、1日のみの休みで交通事情等の理由から、故郷での成人式への出席が困難な成人も多かったが、週休二日制の定着や祝日法の改正に伴い、ゴールデンウィーク・お盆・年末年始に成人式を開催していた自治体も、1月の成人の日(またはその前々日か前日)の開催に戻したところもある。一方、多くが都市部に就職・進学するなどしており、当日参加できる対象者が少ないため、ゴールデンウィーク・お盆・年末年始に開催する自治体が、郡部を中心に依然として多い。 2022年4月1日から成人対象者が18歳に変更されたが、高校3年生中心で、就職・進学・部活動で忙しく、参加が難しい対象者が多いことから、同年3月31日以前の成人対象者だった20歳を維持、「20歳の集い」として開催する自治体が殆どである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "成人の日(せいじんのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。ハッピーマンデー制度により、1月の第2月曜日があてられている。なお、1999年(平成11年)までは1月15日だったが、2000年以降からは、祝日法により、旧・成人の日の祝日が平日となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "成人の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としている。この日には、各市町村で新成人を招いて成人式が行われる。(ただし、豪雪の影響や帰省しやすい時期等を考慮して大型連休中やお盆に行われる地方も多い)", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1948年公布・施行の祝日法によって制定された。制定から1999年までは毎年1月15日だった。成人の日を1月15日としたのは、この日が小正月であり、かつて元服の儀が小正月に行われていたことによるといわれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1月15日が成人の日として固定されていた時代、1983・84年には共通一次試験が、1994・95年にはセンター試験がそれぞれ行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "かつてラグビー日本選手権は1月15日に開催されたため、成人を迎える選手が出場していた事例もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ハッピーマンデー制度導入に伴い、2000年から1月第2月曜日、つまり、その年の1月8日から14日までのうち月曜日に該当する日に変更された。本来の「15日のある週でない」のは、17日が1995年に阪神・淡路大震災の起きた日、つまり防災とボランティアの日のため。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1月1日(元日)が第1月曜日の場合、1月8日が第2月曜日の成人の日となる。さらに1月8日が第2月曜日となる年には、企業によっては年末年始休暇を1月8日まで延長するケースもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "地方などでは、帰郷する新成人が参加しやすいよう、ゴールデンウィーク・お盆・年末年始・成人の日の前々日となる土曜日か前日となる日曜日(土曜日は1月6日 - 1月12日、日曜日は1月7日 - 1月13日の間のいずれか)に成人式を開催する自治体も多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1999年までは、1日のみの休みで交通事情等の理由から、故郷での成人式への出席が困難な成人も多かったが、週休二日制の定着や祝日法の改正に伴い、ゴールデンウィーク・お盆・年末年始に成人式を開催していた自治体も、1月の成人の日(またはその前々日か前日)の開催に戻したところもある。一方、多くが都市部に就職・進学するなどしており、当日参加できる対象者が少ないため、ゴールデンウィーク・お盆・年末年始に開催する自治体が、郡部を中心に依然として多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2022年4月1日から成人対象者が18歳に変更されたが、高校3年生中心で、就職・進学・部活動で忙しく、参加が難しい対象者が多いことから、同年3月31日以前の成人対象者だった20歳を維持、「20歳の集い」として開催する自治体が殆どである。", "title": "歴史" } ]
成人の日(せいじんのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。ハッピーマンデー制度により、1月の第2月曜日があてられている。なお、1999年(平成11年)までは1月15日だったが、2000年以降からは、祝日法により、旧・成人の日の祝日が平日となっている。
{{出典の明記| date = 2014年1月}} [[File:Young_ladies_at_Harajuku.jpg|thumb|成人の日。[[東京]]・[[原宿]]。([[2008年]])]] {{国民の祝日}} '''成人の日'''(せいじんのひ)は、[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つである<ref>[https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号],内閣府,2019年10月4日閲覧。</ref>。[[ハッピーマンデー制度]]により、[[1月]]の第2[[月曜日]]があてられている。なお、[[1999年]]([[平成]]11年)までは[[1月15日]]だったが、[[2000年]]以降からは、[[祝日法]]により、旧・成人の日の[[祝日]]が[[平日]]となっている。 == 意義 == {{See also|成人式}} 成人の日は、[[国民の祝日に関する法律]](祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としている。この日には、各[[市町村]]で新[[成年|成人]]を招いて[[成人式]]が行われる。(ただし、豪雪の影響や帰省しやすい時期等を考慮して大型連休中や[[お盆]]に行われる地方も多い) <!-- ここでは祝日の意義についてだけ記述すればよく、成人式に関する事項は当該項目で記述した方がよい削除。:本来、成人の日は、前年の成人の日の翌日からその年の成人の日までに誕生日を迎える人(例:1998年の新成人の場合は1997年1月16日から1998年1月15日までに20歳になった人)を祝う日だったが、時期は特定できないながらも今日では、前年の4月2日からその年の4月1日に成人する人を式典参加の対象にする、いわゆる学齢方式が定着するようになっている --> == 歴史 == === 1999年まで === [[1948年]]公布・施行の祝日法によって制定された。制定から[[1999年]]までは毎年[[1月15日]]だった。成人の日を1月15日としたのは、この日が[[小正月]]であり、かつて[[元服]]の儀が小正月に行われていたことによるといわれている。 1月15日が成人の日として固定されていた時代、[[1983年|1983]]・[[1984年|84年]]には[[大学共通一次試験|共通一次試験]]が、[[1994年|1994]]・[[1995年|95年]]には[[大学入試センター試験|センター試験]]がそれぞれ行われた。 かつて[[日本ラグビーフットボール選手権大会|ラグビー日本選手権]]は1月15日に開催されたため、成人を迎える選手が出場していた事例もある。 === 2000年から === [[ハッピーマンデー制度]]導入に伴い、[[2000年]]から1月第2[[月曜日]]、つまり、その年の[[1月8日]]から[[1月14日|14日]]までのうち月曜日に該当する日に変更された。本来の「15日のある週でない」のは、[[1月17日|17日]]が1995年に[[阪神・淡路大震災]]の起きた日、つまり[[防災とボランティアの日]]のため。 [[1月1日]](元日)が[[月曜日から始まる平年|第1月曜日の場合]]、1月8日が第2月曜日の成人の日となる。さらに1月8日が第2月曜日となる年には、企業によっては年末年始休暇を1月8日まで延長するケースもある。 [[File:Seijin no Hi - tokyo - 2009.ogv|thumb|left|thumbtime=3|成人の日。[[東京都]]。日付: 2009]] 地方などでは、帰郷する新成人が参加しやすいよう、[[ゴールデンウィーク]]・[[お盆]]・[[年末年始]]・成人の日の前々日となる土曜日か前日となる日曜日(土曜日は[[1月6日]] - [[1月12日]]、日曜日は[[1月7日]] - [[1月13日]]の間のいずれか)に[[成人式]]を開催する自治体も多い。 1999年までは、1日のみの休みで交通事情等の理由から、故郷での成人式への出席が困難な成人も多かったが、[[休日|週休二日制]]の定着や祝日法の改正に伴い、ゴールデンウィーク・お盆・年末年始に成人式を開催していた自治体も、1月の成人の日(またはその前々日か前日)の開催に戻したところもある。一方、多くが都市部に就職・進学するなどしており、当日参加できる対象者が少ないため、ゴールデンウィーク・お盆・年末年始に開催する自治体が、[[郡|郡部]]を中心に依然として多い。 === 2023年から === [[2022年]][[4月1日]]から成人対象者が18歳に変更されたが、高校3年生中心で、就職・進学・[[クラブ活動|部活動]]<ref group="注">高校サッカーやバレーボール、ラグビー全国大会参加チームが対象。</ref>で忙しく、参加が難しい対象者が多いことから、同年[[3月31日]]以前の成人対象者だった20歳を維持、「20歳の集い」として開催する自治体が殆どである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[成人式]] * [[小正月]] * [[成年]] == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#seijin 各「国民の祝日」について - 内閣府] {{DEFAULTSORT:せいしんのひ}} [[Category:日本の祝日]] [[Category:1月の記念日]] [[Category:通過儀礼]] [[Category:移動祝日]] [[Category:新春の季語]]
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首都圏新都市鉄道TX-1000系電車
首都圏新都市鉄道TX-1000系電車(しゅとけんしんとしてつどうTX-1000けいでんしゃ)は、首都圏新都市鉄道の直流通勤形電車。 首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス(以下、つくばエクスプレス)開業時に導入された車両で、路線内のうち直流電源で電化されている東京都心側の秋葉原駅 - 守谷駅間での運用を担う。交流電源に対応していないため守谷駅 - つくば駅間の入線はできない。形式称号の "TX" はつくばエクスプレスのローマ字表記"Tsukuba Express"に由来する。 2003年(平成15年)3月に先行試作車6両編成1本が、2004年(平成16年)3月から2005年(平成17年)1月にかけて量産車6両編成13本(78両)が川崎重工業兵庫工場にて落成した。 車体は片側4か所の両開き客用扉を有する。車体のサイズ(車両限界)はJRの在来線と同等の全長20m級、幅2,950mm級で他の私鉄や地下鉄車両に比べて大きなものとなっている。 材質はアルミニウム合金で、最新のダブルスキン構造を採用した。塗装はされておらず地金の色が銀色に輝き、アクセントとして車体側面上部に赤色のテープによるラインを張り付けている。これらは日立製作所の開発した「A-train」の技術を用いており、これを川崎重工がライセンス生産するという形になっている。前面デザインは鋭いラインとV字型のガラスが特徴で、高速感を出したものとなっており、路線内のトンネル区間、地下区間で非常時の避難を目的に貫通扉を持つ。 屋根上に空調装置を1基搭載し、冷房時の能力は42,000kcal/hである。空調装置内には通年稼働する空気清浄機を併設する。集電装置は東洋電機製造製でPT7149-B型を名乗り、シングルアーム型でばね上昇、圧縮空気下降式で、片側にしか集電装置がない車両では増設の準備工事がされており、台座もある。 車内は白色を基調とし、客用ドアにも同色の化粧板仕上げである。各ドア下部には滑り止めを兼ねた黄色の点字ブロックが貼り付けされているほか、ドアの開閉に合わせてドアチャイムが鳴動するなど視覚障害者に配慮したものとなっている。また、編成中2両(2号車と5号車)に車椅子スペースを持つ。 座席は全車両が住江工業製のロングシートで通勤需要に対応したものとなっており、一人分の着席区画を明確化したバケットシート仕様であるほか、座席を壁面だけで支えることによって足元を広く使えるようになっている。また、着席区画の明確化と同時に混雑時につかまったり、着席・起立の補助となる握り棒(スタンションポール)が設置されている。 側面の窓は大きな1枚ガラスを用いている(はめ殺し窓)。1990年代以降の新型車両では紫外線カット機能付きのガラスを採用する代わりにカーテンを廃するものも出てきたが、本系列では透明ガラスと巻き上げカーテンを採用した。この窓は開閉不能であるが、空調設備が故障した時の換気用として車両連結面(妻面)に開閉可能な小窓を設置している。ただこれでは不十分である(最近、他線区で、特に真夏、空調故障のときに熱中症や体調不良者が多くでている)。 乗客用車内案内表示装置としてLED式の文字スクロールによるものと路線図式のものが設置されている。他事業者では路線図式のものはLED式の文字スクロールによる表示に取って代わったところが多く、新たに採用しているところは少ない。また、自動放送を搭載しており、日本語と英語に対応している。 つくばエクスプレスではワンマン運転を行う列車としては日本最速となる最高速度130km/hで運行されており、それに対応した設備を有する。 運転台のマスター・コントローラーはワンハンドル仕様で、力行とブレーキが一体化しており左手だけで操作する。また、ワンマン運転対応のために客用ドア開閉スイッチを運転台に併設する。運転台にはTIS(車両制御情報管理装置)と呼ばれる三菱電機製のモニタ装置があり、各車両の状態が一目でわかるようになっている。 主制御機器(走行用モーターの制御装置)には東芝製IGBT方式のVVVFインバータ(回生ブレーキ対応)を採用した。1基のVVVFインバータが制御する主電動機の数を2台に制限することで、制御装置が故障した時も自力走行できることを目標にしている。主電動機(走行用モーター)も東芝製のかご形三相誘導電動機・SEA-397形を、電動車1両に4台搭載する。車軸への動力伝達はTD平行カルダン駆動方式、歯車比は1:6.53で起動加速度3.0km/h、最高速度130km/hに対応している。台車は川崎重工製で電動車がKW167、付随車がKW168を名乗る。 車内照明や冷暖房の電源として東芝製静止形インバータ (SIV) を搭載、ブレーキなどに用いる圧縮空気を供給する電動空気圧縮機 (CP) はクノールブレムゼ製SL22系を搭載する。 ATCとATO・TASCを搭載し、運転士のボタン操作一つ(マスコンのレバーを引く操作のみ)で加速から停車までを自動で行うようになっている。 つくばエクスプレスでは沿線の利用客増加に伴い、2030年代の前半を目安に8両編成へ増強する。そのため、当形式も中間に電動車と付随車各1両を挿入した8両編成の増強が予定されている。 秋葉原駅 - 守谷駅間で、普通列車を中心に、一部の区間快速列車にも運用されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "首都圏新都市鉄道TX-1000系電車(しゅとけんしんとしてつどうTX-1000けいでんしゃ)は、首都圏新都市鉄道の直流通勤形電車。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス(以下、つくばエクスプレス)開業時に導入された車両で、路線内のうち直流電源で電化されている東京都心側の秋葉原駅 - 守谷駅間での運用を担う。交流電源に対応していないため守谷駅 - つくば駅間の入線はできない。形式称号の \"TX\" はつくばエクスプレスのローマ字表記\"Tsukuba Express\"に由来する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)3月に先行試作車6両編成1本が、2004年(平成16年)3月から2005年(平成17年)1月にかけて量産車6両編成13本(78両)が川崎重工業兵庫工場にて落成した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "車体は片側4か所の両開き客用扉を有する。車体のサイズ(車両限界)はJRの在来線と同等の全長20m級、幅2,950mm級で他の私鉄や地下鉄車両に比べて大きなものとなっている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "材質はアルミニウム合金で、最新のダブルスキン構造を採用した。塗装はされておらず地金の色が銀色に輝き、アクセントとして車体側面上部に赤色のテープによるラインを張り付けている。これらは日立製作所の開発した「A-train」の技術を用いており、これを川崎重工がライセンス生産するという形になっている。前面デザインは鋭いラインとV字型のガラスが特徴で、高速感を出したものとなっており、路線内のトンネル区間、地下区間で非常時の避難を目的に貫通扉を持つ。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "屋根上に空調装置を1基搭載し、冷房時の能力は42,000kcal/hである。空調装置内には通年稼働する空気清浄機を併設する。集電装置は東洋電機製造製でPT7149-B型を名乗り、シングルアーム型でばね上昇、圧縮空気下降式で、片側にしか集電装置がない車両では増設の準備工事がされており、台座もある。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "車内は白色を基調とし、客用ドアにも同色の化粧板仕上げである。各ドア下部には滑り止めを兼ねた黄色の点字ブロックが貼り付けされているほか、ドアの開閉に合わせてドアチャイムが鳴動するなど視覚障害者に配慮したものとなっている。また、編成中2両(2号車と5号車)に車椅子スペースを持つ。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "座席は全車両が住江工業製のロングシートで通勤需要に対応したものとなっており、一人分の着席区画を明確化したバケットシート仕様であるほか、座席を壁面だけで支えることによって足元を広く使えるようになっている。また、着席区画の明確化と同時に混雑時につかまったり、着席・起立の補助となる握り棒(スタンションポール)が設置されている。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "側面の窓は大きな1枚ガラスを用いている(はめ殺し窓)。1990年代以降の新型車両では紫外線カット機能付きのガラスを採用する代わりにカーテンを廃するものも出てきたが、本系列では透明ガラスと巻き上げカーテンを採用した。この窓は開閉不能であるが、空調設備が故障した時の換気用として車両連結面(妻面)に開閉可能な小窓を設置している。ただこれでは不十分である(最近、他線区で、特に真夏、空調故障のときに熱中症や体調不良者が多くでている)。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "乗客用車内案内表示装置としてLED式の文字スクロールによるものと路線図式のものが設置されている。他事業者では路線図式のものはLED式の文字スクロールによる表示に取って代わったところが多く、新たに採用しているところは少ない。また、自動放送を搭載しており、日本語と英語に対応している。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "つくばエクスプレスではワンマン運転を行う列車としては日本最速となる最高速度130km/hで運行されており、それに対応した設備を有する。", "title": "運転・走行機器" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "運転台のマスター・コントローラーはワンハンドル仕様で、力行とブレーキが一体化しており左手だけで操作する。また、ワンマン運転対応のために客用ドア開閉スイッチを運転台に併設する。運転台にはTIS(車両制御情報管理装置)と呼ばれる三菱電機製のモニタ装置があり、各車両の状態が一目でわかるようになっている。", "title": "運転・走行機器" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "主制御機器(走行用モーターの制御装置)には東芝製IGBT方式のVVVFインバータ(回生ブレーキ対応)を採用した。1基のVVVFインバータが制御する主電動機の数を2台に制限することで、制御装置が故障した時も自力走行できることを目標にしている。主電動機(走行用モーター)も東芝製のかご形三相誘導電動機・SEA-397形を、電動車1両に4台搭載する。車軸への動力伝達はTD平行カルダン駆動方式、歯車比は1:6.53で起動加速度3.0km/h、最高速度130km/hに対応している。台車は川崎重工製で電動車がKW167、付随車がKW168を名乗る。", "title": "運転・走行機器" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "車内照明や冷暖房の電源として東芝製静止形インバータ (SIV) を搭載、ブレーキなどに用いる圧縮空気を供給する電動空気圧縮機 (CP) はクノールブレムゼ製SL22系を搭載する。", "title": "運転・走行機器" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ATCとATO・TASCを搭載し、運転士のボタン操作一つ(マスコンのレバーを引く操作のみ)で加速から停車までを自動で行うようになっている。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "つくばエクスプレスでは沿線の利用客増加に伴い、2030年代の前半を目安に8両編成へ増強する。そのため、当形式も中間に電動車と付随車各1両を挿入した8両編成の増強が予定されている。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "秋葉原駅 - 守谷駅間で、普通列車を中心に、一部の区間快速列車にも運用されている。", "title": "運用" } ]
首都圏新都市鉄道TX-1000系電車(しゅとけんしんとしてつどうTX-1000けいでんしゃ)は、首都圏新都市鉄道の直流通勤形電車。
{{鉄道車両 |車両名 = 首都圏新都市鉄道TX-1000系電車 |社色 = #ff3540 |画像 = TX Series1000-1609.jpg |pxl = |画像説明 =TX-1000系電車<br />(2023年5月 [[柏たなか駅]]) |unit = self | 運用者 = [[首都圏新都市鉄道]] | 運用開始 = [[2005年]][[8月24日]] | 製造年 = [[2003年]] - [[2005年]] |製造数 = 14編成84両 |編成 = 6両(3M3T) |起動加速度 = 3.0 km/h/s |営業最高速度 = 130 km/h |設計最高速度 = |最高速度 = |定格速度 = |減速度(常用最大)= 4.2 km/h/s |減速度(非常) = 4.4 km/h/s |編成定員 = 926(うち座席306) |車両定員 = |編成長 = |最大寸法 = |全長 = 20,000 mm(中間車)<br />20,800 mm(先頭車) |全幅 = 2,950 mm |全高 = |車体 = [[アルミニウム合金]]([[A-train (日立製作所)|A-train]]) |車体長 = |車体幅 = |車体高 = |編成質量 = 186.4 t |車両質量 = |軸配置 = |軌間 = 1,067 mm |電気方式 = [[直流電化|直流]] 1,500 V<br />([[架空電車線方式]]) |出力 = |主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]<br />[[東芝]] SEA-397形 |モーター出力 = 190 kW |機関出力 = |編成出力 = 2,280 kW |定格出力 = |定格引張力 = |駆動装置 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式中実軸平行カルダン駆動]] |歯車比 = |変速段 = |台車 = 川崎重工業KW167(電動車)<br />川崎重工業KW168(付随車)<br />[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]]、[[蛇行動#ヨーダンパ|ヨーダンパ]]付き |制御装置 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]<br />([[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT、IEGT]][[半導体素子|素子]])<br />[[東芝]] SVF063-A0形 |ブレーキ方式 = [[自動列車制御装置#つくばエクスプレス|CS-ATC]]連動[[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ]]<br />[[純電気ブレーキ|全電気ブレーキ]] |保安装置 = CS-ATC, [[自動列車運転装置|ATO]]([[ワンマン運転]]実施) |製造メーカー = [[川崎車両|川崎重工業]] |備考 = [[警笛|ミュージックホーン]]搭載<br/>日立製作所の開発した「A-train」の技術を用いている。 |備考全幅 = }} [[ファイル:TX-1000-1101.jpg|thumb|right|250px|TX-1000系先行試作車(2003年4月 車両基地公開イベントにて)]] '''首都圏新都市鉄道TX-1000系電車'''(しゅとけんしんとしてつどうTX-1000けいでんしゃ)は、[[首都圏新都市鉄道]]の[[直流電化|直流]][[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]。 == 概要 == [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]](以下、つくばエクスプレス)開業時に導入された車両で、路線内のうち直流電源で電化されている東京都心側の[[秋葉原駅]] - [[守谷駅]]間での運用を担う。[[交流電化|交流電源]]に対応していないため守谷駅 - [[つくば駅]]間の入線はできない<ref>このため、守谷駅 - つくば駅間の列車は全て[[首都圏新都市鉄道TX-2000系電車|TX-2000系]]および[[首都圏新都市鉄道TX-3000系電車|TX-3000系]]で運用されている。</ref>。形式称号の "TX" はつくばエクスプレスのローマ字表記"Tsukuba eXpress"に由来する。 [[2003年]]([[平成]]15年)3月に先行試作車6両編成1本が、[[2004年]](平成16年)3月から[[2005年]](平成17年)1月にかけて量産車6両編成13本(78両)が[[川崎車両|川崎重工業兵庫工場]]にて落成した。 == 車体 == 車体は片側4か所の両開き客用扉を有する。車体のサイズ([[車両限界]])はJRの在来線と同等の全長20m級、幅2,950mm級で他の私鉄や地下鉄車両に比べて大きなものとなっている。 材質は[[アルミニウム合金]]で、最新の[[ダブルスキン構造]]を採用した。塗装はされておらず地金の色が銀色に輝き、アクセントとして車体側面上部に赤色のテープによるラインを張り付けている。これらは[[日立製作所]]の開発した「[[A-train (日立製作所)|A-train]]」の技術を用いており、これを川崎重工が[[ライセンス生産]]するという形になっている。前面デザインは鋭いラインとV字型のガラスが特徴で、高速感を出したものとなっており、路線内の[[トンネル]]区間、地下区間で非常時の避難を目的に[[貫通扉]]を持つ。 屋根上に[[エア・コンディショナー|空調装置]]を1基搭載し、冷房時の能力は42,000[[カロリー|kcal/h]]である。空調装置内には通年稼働する[[空気清浄機]]を併設する。[[集電装置]]は[[東洋電機製造]]製でPT7149-B型を名乗り、シングルアーム型でばね上昇、圧縮空気下降式で、片側にしか集電装置がない車両では増設の準備工事がされており、台座もある。 == 車内 == 車内は白色を基調とし、客用ドアにも同色の化粧板仕上げである。各ドア下部には滑り止めを兼ねた黄色の[[視覚障害者誘導用ブロック|点字ブロック]]が貼り付けされているほか、ドアの開閉に合わせて[[ドアチャイム]]が鳴動するなど[[視覚障害者]]に配慮したものとなっている。また、編成中2両(2号車と5号車)に[[車椅子スペース]]を持つ。 [[鉄道車両の座席|座席]]は全車両が[[住江工業]]製のロングシートで通勤需要に対応したものとなっており、一人分の着席区画を明確化した[[バケットシート]]仕様であるほか、座席を壁面だけで支えることによって足元を広く使えるようになっている。また、着席区画の明確化と同時に混雑時につかまったり、着席・起立の補助となる握り棒([[スタンションポール]])が設置されている。 側面の窓は大きな1枚ガラスを用いている([[はめ殺し]]窓)。[[1990年代]]以降の新型車両では[[紫外線]]カット機能付きのガラスを採用する代わりに[[カーテン]]を廃するものも出てきたが、本系列では透明ガラスと巻き上げカーテンを採用した。この窓は開閉不能であるが、空調設備が故障した時の換気用として車両連結面(妻面)に開閉可能な小窓を設置している。ただこれでは不十分である(最近、他線区で、特に真夏、空調故障のときに熱中症や体調不良者が多くでている)。 乗客用[[車内案内表示装置]]として[[発光ダイオード|LED]]式の文字[[スクロール]]によるものと[[路線図]]式のものが設置されている。他事業者では路線図式のものはLED式の文字スクロールによる表示に取って代わったところが多く、新たに採用しているところは少ない。また、[[車内放送|自動放送]]を搭載しており、[[日本語]]と[[英語]]に対応している。 <gallery> TX Series1000-1101 Inside.jpg|車内(1101) TX Series1000-1301 Priority-seat.jpg|優先席(1301) TX Series1000-1501 Wheelchair-space.jpg|車椅子スペース(1501) TX Series-1000-1501 LCD.jpg|LCD式の車内案内表示器(1501) TX Series-1000-1501 Route-map.jpg|路線図式の行先表示器(1501) </gallery> == 運転・走行機器 == つくばエクスプレスでは[[ワンマン運転]]を行う列車としては日本最速となる最高速度130km/hで運行されており、それに対応した設備を有する。 [[操縦席|運転台]]の[[マスター・コントローラー]]はワンハンドル仕様で、力行とブレーキが一体化しており左手だけで操作する。また、ワンマン運転対応のために客用ドア開閉スイッチを運転台に併設する。運転台にはTIS(車両制御情報管理装置)と呼ばれる三菱電機製の[[鉄道車両のモニタ装置|モニタ装置]]があり、各車両の状態が一目でわかるようになっている。 主制御機器(走行用モーターの制御装置)には[[東芝]]製[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]方式の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ]]([[回生ブレーキ]]対応)を採用した。1基のVVVFインバータが制御する[[主電動機]]の数を2台に制限することで、制御装置が故障した時も自力走行できることを目標にしている。主電動機(走行用モーター)も東芝製の[[かご形三相誘導電動機]]・SEA-397形<ref>定格出力190kW、定格回転数2,310rpm</ref>を、[[動力車|電動車]]1両に4台搭載する。[[車軸]]への動力伝達は[[TD平行カルダン駆動方式]]、歯車比は1:6.53で[[起動加速度]]3.0km/h、最高速度130km/hに対応している。[[鉄道車両の台車|台車]]は川崎重工製で電動車がKW167、[[付随車]]がKW168を名乗る。 車内照明や冷暖房の電源として東芝製[[静止形インバータ]] (SIV) を搭載、ブレーキなどに用いる圧縮空気を供給する[[圧縮機|電動空気圧縮機]] (CP) は[[クノールブレムゼ]]製SL22系を搭載する。 <gallery> TX Series1000-1104 Cab.jpg|運転台(1104) </gallery> == 保安装置 == [[自動列車制御装置|ATC]]と[[自動列車運転装置|ATO]]・[[定位置停止装置|TASC]]を搭載し、[[運転士]]のボタン操作一つ([[マスコン]]のレバーを引く操作のみ)で加速から停車までを自動で行うようになっている。 == 編成 == === TX-1000系編成表 === {| style="text-align:center;" style="text-align:center; font-size:80%;" |- |colspan="3"| {| class="wikitable" |- |colspan="2" style="background-color:#ccc; width:10em"|&nbsp; |colspan="6"|{{TrainDirection| [[守谷駅|守谷]] | [[秋葉原駅|秋葉原]] }} |colspan="2" style="background-color:#ccc; "|&nbsp; |-style="border-top:solid 3px white;" !colspan="2"|号車 |1||2||3||4||5||6 !rowspan="7"|製造年 |- !colspan="2"|形式 |'''TX-1100形'''<br />(CT1) |'''TX-1200形'''<br />(M1) |'''TX-1300形'''<br />(T') |'''TX-1400形'''<br />(M1') |'''TX-1500形'''<br />(M2') |'''TX-1600形'''<br />(CT2) |- !colspan="2"|搭載機器 |CP,BT||CONT,SIV,PT||&nbsp;||CONT,SIV,PT||CONT||CP,BT |- !colspan="2"|重量 |30.3t||33.6t||26.5t||33.8t||31.3t||30.9t |- !colspan="2"|定員 |147人||colspan="4"|158人||147人 |- !colspan="2"|座席定員 |48人||51人||colspan="2"|54人||51人||48人 |- !colspan="2"|備考 |&nbsp; |車椅子 |[[弱冷房車]] |&nbsp; |車椅子 |&nbsp; |-style="border-top:solid 5px #000084;" !rowspan="2"|車番 !試作車 | TX-1101 || TX-1201 || TX-1301 || TX-1401 || TX-1501 || TX-1601 || [[2003年]]<br />(平成15年) |- !量産車 | TX-1102<br />:<br />TX-1114 || TX-1202<br />:<br />TX-1214 || TX-1302<br />:<br />TX-1314 || TX-1402<br />:<br />TX-1414 || TX-1502<br />:<br />TX-1514 || TX-1602<br />:<br />TX-1614 || [[2004年]]<br />(平成16年)<br />:<br />[[2005年]]<br />(平成17年) |} |- |style="text-align:left; vertical-align:top;"| '''形式''' *CT:[[制御車]] *T:付随車 *M:電動車 |style="text-align:left; vertical-align:top;"| '''機器''' *CONT:VVVFインバータ装置 *CP:電動空気圧縮機 (Compressor) *SIV:静止形インバータ *PT:集電装置 (pantograph) *BT:蓄電池(バッテリー) |style="text-align:left; vertical-align:top;"| '''設備''' *<nowiki>車椅子</nowiki>:車椅子スペース |} *両先頭車には保安装置としてATC/ATO装置、ATO車上子、ATO送受信装置、戸閉制御切換装置を搭載。 *静止形インバータのほか、両先頭車には排気扇用インバータを搭載。 *TX-1600形には列車無線装置と床下に無線アンテナ4基を設置。 つくばエクスプレスでは沿線の利用客増加に伴い、2030年代の前半を目安に8両編成<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190926/k00/00m/040/046000c つくばエクスプレス6両から8両編成に 混雑緩和へ沿線自治体は歓迎] {{Wayback|url=https://mainichi.jp/articles/20190926/k00/00m/040/046000c |date=20190930163932 }} 毎日新聞2019年9月26日 09時32分</ref>へ増強する。そのため、当形式も中間に電動車と付随車各1両を挿入した8両編成の増強が予定されている。 == 運用 == 秋葉原駅 - 守谷駅間で、普通列車を中心に、一部の区間快速列車にも運用されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat|TX-1000 series}} * [http://www.mir.co.jp/feature/about_tx/index.html#CAR つくばエクスプレス公式サイト内での車両紹介] {{clear}} {{首都圏新都市鉄道の車両}} {{デフォルトソート:しゆとけんしんとしてつとうTX-1000けいてんしや}} [[category:首都圏新都市鉄道の電車|1000]] [[Category:2003年製の鉄道車両|しゆとけんしんとし電TX1000]] [[Category:川崎重工業製の電車]]
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建国記念の日
建国記念の日(けんこくきねんのひ)は、日本の国民の祝日の一つ。 国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条は、建国記念の日の趣旨について、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日(政令により規定)から適用された。 世界で「建国記念日」を法律で定めて祝日とする国家は多いが、何をもって建国記念日とするかは、国によって異なる。日本では、建国の日が明確ではないが、建国をしのぶ日として法律に基づき「建国記念の日」が定められた。日付は政令に基づき、建国神話(日本神話)を基に日本建国日とされていた紀元節(1948年(昭和23年)7月、祝日法制定に際し廃止)と同じ2月11日にされた。 2月11日は、神武天皇(日本神話の登場人物であり、古事記や日本書紀で初代天皇とされる)の日本書紀における即位日(辛酉年春正月、庚辰朔、すなわち、旧暦1月1日(『日本書紀』卷第三、神武紀 「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」))の月日を、明治時代にグレゴリオ暦での具体的な日付として推定したものである。 他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、本日のみが「政令で定める日」と定められている(経緯は#沿革を参照)。この規定に基づき、佐藤内閣が建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定め、「建国記念の日は、二月十一日」とした。 戦前は宮中三殿において、大祭の紀元節祭が行われていたが、GHQの圧力で1948年(昭和23年)に停止された。ただし、昭和天皇は翌年から、2月11日に宮中三殿で「臨時御拝」として、旬祭と同じ作法で祭祀を行った。平成以降は「三殿御拝」に名称が改められ、同様に祭祀が行われている。この日、天皇は橿原神宮に勅使を派遣する。 当日は、各地の神社仏閣(神道神社・仏教寺院)にて「建国祭」などの祭りが執り行われる。 政府主催の式典はないが、「日本の建国を祝う会」が主催する「建国記念の日奉祝中央式典」が2020年頃には毎年開かれ、駐日大使の参列もある。 旧日本海軍の技術・伝統を継承している海上自衛隊では、基地・一般港湾等に停泊している自衛艦において満艦飾が行われる。 上述のとおり「建国記念の日」と定められた2月11日は紀元節と同日である。この祝祭日は、1948年(昭和23年)に制定された国民の祝日に関する法律附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。 紀元節復活に向けた動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第1党の日本社会党が保守政党の反動的行為であるとして反対した為、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となった。 その後、「建国記念日」の設置を定める法案は、9回の提出と廃案を繰り返すも、成立には至らなかった。1963年(昭和38年)6月20日には、衆議院内閣委員会において、委員長永山忠則が法案の強行採決を行ったが、これに抵抗した社会党議員らに体当たりされ、入院するという一幕もあった。 具体的に何月何日を記念日とするかについても、議論があった。日本社会党は日本国憲法が施行された5月3日(憲法記念日)、公明党(旧・公明政治連盟)設立者、創価学会会長の池田大作はサンフランシスコ講和条約が発効した4月28日をそれぞれ提案した。民社党は聖徳太子が十七条憲法を制定したとされる4月3日を主張し、朝日新聞も社説で同じ日付を提案した。 結局、名称に「の」を挿入した「建国記念『の』日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。 同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めた。当の「建国記念日審議会」は、学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が1966年(昭和41年)12月9日に提出された。同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定めて公布し、即日施行した。 建国記念の日制定に至る活動で神社本庁が1955年に紀元節奉祝国民大会運営委員会を設立するなど、主要な役割を果たした。さらに日本郷友連盟、日本遺族会、生長の家など保守系団体が加わり、建国記念の日制定を求める世論形成に寄与した。 サンフランシスコ講和条約が成った1951年前後から神道界、保守系・右翼系の人物や団体が「紀元節復活運動」を始めた。神社界をはじめとする諸団体が「紀元節奉祝会」を結成(事務局は神社本庁)し、全国的に活動した。1954年に神社本庁は紀元節祭を行い、傘下の神社に2月11日を紀元節という名前で祝うよう通達した。生長の家の谷口雅春が1955年(昭和30年)に「日本建国の理想の復活」を謳って以後、生長の家信者は紀元節の復活を求める運動をした(谷口にとって、建国記念の日制定は明治憲法復活と日本国憲法廃止のための第一歩であった)。これに対し、野党、民主団体、労働組合、キリスト教者、歴史学者などが紀元節復活反対を表明した。
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建国記念の日(けんこくきねんのひ)は、日本の国民の祝日の一つ。 国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条は、建国記念の日の趣旨について、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日(政令により規定)から適用された。
{{Otheruses|日本の祝日|世界の祝日|建国記念日}} {{出典の明記|date=2017年9月5日 (火) 02:03 (UTC)}} {{Law}} [[File:National-Foundation-Day-of-Japan-Mikoshi-Feb-11-2016.png|thumb|220px|[[東京]]で祝う[[神輿]]([[2016年]][[2月11日]])]] {{国民の祝日}} '''建国記念の日'''(けんこくきねんのひ)は、[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つ。 [[国民の祝日に関する法律]](祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条は、建国記念の日の趣旨について、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。[[1966年]](昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌[[1967年]](昭和42年)[[2月11日]]([[政令]]により規定)から適用された。 == 制定 == 世界で「[[建国記念日]]」を法律で定めて[[祝日]]とする[[国家]]は多いが、何をもって建国記念日とするかは、[[国]]によって異なる。日本では、建国の日が明確ではないが、建国をしのぶ日として[[国民の祝日に関する法律|法律]]に基づき「'''建国記念の日'''」が定められた。日付は[[s:建国記念の日となる日を定める政令|政令]]に基づき、[[建国神話]]([[日本神話]])を基に日本建国日とされていた[[紀元節]]([[1948年]](昭和23年)7月、祝日法制定に際し廃止<ref>{{Cite web|和書|title=紀元節(きげんせつ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E7%B4%80%E5%85%83%E7%AF%80-50249 |website=コトバンク |access-date=2023-05-21 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ) |last=第2版 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|url=https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E7%A5%AD%E7%A5%80-62192 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,世界大百科事典 |last=第2版}}</ref>、GHQの圧力で[[1948年]](昭和23年)に停止された<ref>{{Cite web|和書|title=「皇室祭祀と建国の心」 « 日本会議 |url=https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/888 |website=www.nipponkaigi.org |access-date=2023-02-07 |publisher=日本会議}}</ref>。ただし、昭和天皇は翌年から、2月11日に宮中三殿で「臨時御拝」として、旬祭と同じ作法で祭祀を行った<ref>大岡弘「『元始祭』並びに『紀元節祭』創始の思想的源流と二祭処遇の変遷について」『明治聖徳記念学会紀要』、復刊第46号、2009年、p113</ref>。平成以降は「三殿御拝」に名称が改められ、同様に祭祀が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/searchresult.html?q=宮中祭祀のお出まし|title=宮中祭祀のお出まし|publisher=宮内庁 |accessdate=2023-10-25}}</ref>。この日、天皇は[[橿原神宮]]に[[勅使]]を派遣する<ref>{{Cite web|和書|title=「皇室祭祀と建国の心」 « 日本会議 |url=https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/888 |website=www.nipponkaigi.org |access-date=2023-02-07 |publisher=日本会議}}</ref>。 当日は、各地の神社仏閣([[神道]][[神社]]・[[日本の仏教|仏教]][[寺院]])にて「建国祭」などの祭りが執り行われる。 政府主催の式典はないが<ref>{{Cite web|和書|title= 衆議院議員滝沢幸助君提出國史と國語に關する質問に対する答弁書|url= https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b110004.htm|date=1987-11-17|website=衆議院|accessdate=2021-10-10 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210124093459/http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b110004.htm |archive-date=January 24, 2021}}</ref><ref name="rengo">{{cite news|title= 政府主催の奉祝式典を要望/日本の建国を祝う会/憲法改正への訴え相次ぐ|url= https://www.rengo-news-agency.com/2020/02/13/政府主催の奉祝式典を要望-日本の建国を祝う会-憲法改正への訴え相次ぐ/|date=2020-02-13|accessdate=2021-10-10|publisher=機関紙連合通信社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210411062826/https://www.rengo-news-agency.com/2020/02/13/政府主催の奉祝式典を要望-日本の建国を祝う会-憲法改正への訴え相次ぐ/ |archive-date=April 11, 2021}}</ref>、「日本の建国を祝う会」が主催する「建国記念の日奉祝中央式典」が2020年頃には毎年開かれ<ref name="rengo" /><ref>{{cite news|title= 建国記念の日奉祝中央式典/神社本庁|publisher=宗教新聞|accessdate=2021-10-10|date=2021-03-18|url= https://religion-news.net/2021/03/18/773-1/ 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|archive-date=August 5, 2021}}</ref>。 == 沿革 == [[File:Kigensetsu-Celebration-National-Holiday-Japan.png|thumb|220px|1940年頃の紀元節]] [[File:National-Foundation-Day-of-Japan-2019.png|260px|thumb|東京で建国記念の日(2019年2月11日)]] {{See also|紀元節}} 上述のとおり「建国記念の日」と定められた2月11日は紀元節と同日である。この祝祭日は、[[1948年]](昭和23年)に制定された[[国民の祝日に関する法律]]附則2項で、「[[s:休日ニ關スル件|休日ニ關スル件]]」(昭和2年[[勅令]]第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。 ===国会での審議=== 紀元節復活に向けた動きは、[[1951年]](昭和26年)頃から見られ、[[1957年]](昭和32年)[[2月13日]]には、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の[[衆議院]][[国会議員|議員]]らによる[[議員立法]]として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時[[野党]]第1党の[[日本社会党]]が[[保守政党]]の[[反動]]的行為であるとして反対した為<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102605254X04119570515 第26回国会本会議議事録第41号]、[[1957年]](昭和32年)5月15日、国会会議録検索システム。</ref>、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となった。 その後、「建国記念日」の設置を定める法案は、9回の提出と廃案を繰り返すも、成立には至らなかった。[[1963年]](昭和38年)[[6月20日]]には、[[内閣委員会|衆議院内閣委員会]]において、委員長[[永山忠則]]が法案の強行採決を行ったが、これに抵抗した社会党議員らに体当たりされ、入院するという一幕もあった<ref>[[ケネス・ルオフ]] [[高橋紘]]監修 木村剛久・福島睦男訳 『国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制』 [[岩波現代文庫]] {{ISBN2|978-4006002145}}、264p。</ref><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104304889X02919630620 第43回国会内閣委員会議事録第29号]、[[1963年]](昭和38年)6月20日、国会会議録検索システム。開始10分で議場が騒然となり委員長が退室している。</ref>。 具体的に何月何日を記念日とするかについても、議論があった。[[日本社会党]]は[[日本国憲法]]が施行された[[5月3日]]([[憲法記念日]])、[[公明党]](旧・公明政治連盟)設立者、[[創価学会]]会長の[[池田大作]]は[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]が発効した[[4月28日]]<ref group="注">{{要出典|date=2023-04|現代でも一部、「主権回復記念日」として国民の祝日への制定を目指す動きがある}}。</ref>をそれぞれ提案した。[[民社党]]は[[聖徳太子]]が[[十七条憲法]]を制定したとされる[[4月3日]]を主張し、朝日新聞も社説で同じ日付を提案した<ref>[https://digital.asahi.com/articles/DA3S12765086.html (あのとき・それから)1967年 最初の「建国記念の日」]朝日新聞 2017年1月25日夕刊</ref>。 結局、名称に「の」を挿入した「建国記念『の』日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。[[1966年]](昭和41年)[[6月25日]]、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。 同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定め、同附則3項は「[[内閣総理大臣]]は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めた。当の「[[#建国記念日審議会|建国記念日審議会]]」は、学識経験者等からなり、[[総理府]]に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が[[1966年]](昭和41年)[[12月9日]]に提出された。同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定めて公布し、即日施行した。 ===建国記念日制定運動=== 建国記念の日制定に至る活動で[[神社本庁]]が1955年に紀元節奉祝国民大会運営委員会を設立するなど、主要な役割を果たした<ref name="koo">具裕珍『保守市民社会と日本政治』、25-30ページ</ref>。さらに[[日本郷友連盟]]、[[日本遺族会]]、[[生長の家]]など保守系団体が加わり、建国記念の日制定を求める世論形成に寄与した<ref name=koo/>。 [[サンフランシスコ講和条約]]が成った1951年前後から神道界、保守系・右翼系の人物や団体が「紀元節復活運動」を始めた<ref>[[塚田穂高]]『宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学』p.39</ref><ref>『新編 日本史辞典』p.232</ref><ref name=murakami/>。神社界をはじめとする諸団体が「紀元節奉祝会」を結成(事務局は[[神社本庁]])し、全国的に活動した<ref>『近代神社神道史』p.299</ref>。1954年に神社本庁は紀元節祭を行い、傘下の神社に2月11日を紀元節という名前で祝うよう通達した<ref name=murakami>村上重良『現代宗教と政治』p.111-114</ref><ref name=koo/>。[[生長の家]]の[[谷口雅春]]が1955年(昭和30年)に「日本建国の理想の復活」を謳って以後、生長の家信者は紀元節の復活を求める運動をした<ref name=seichonoie>生長の家五十年史 p.489-492</ref>(谷口にとって、建国記念の日制定は明治憲法復活と[[日本国憲法]]廃止のための第一歩であった<ref name=seichonoie/>)。これに対し、野党、民主団体、労働組合、キリスト教者、歴史学者などが紀元節復活反対を表明した<ref name=murakami/>。 == 建国記念日審議会 == * 総理府の附属機関として1966年(昭和41年)[[7月11日]]発足、同年[[12月15日]]限り廃止(委員定数10人以内)。 * 同年7月28日から12月8日まで計9回の会議を開催し、12月9日付けで内閣総理大臣宛て「二月十一日」<!--縦書き答申の原形引用部分としてあえて漢数字使用-->とする答申(個別意見付記)。 * 第5回会議は「建国記念の日に関する公聴会」として同年[[10月24日]]、[[仙台市|仙台]]、[[東京都|東京]]、[[大阪市|大阪]]、[[広島市|広島]]で同時開催(委員2人ずつ参加)。 * [[佐藤栄作]][[内閣総理大臣]](当時、[[第1次佐藤内閣 (第3次改造)|第1次佐藤第3次改造内閣]])からの諮問に対する答申(昭和41年12月28日付け官報資料版No.453掲載)には、会長・会長代理の職に関係なく委員が五十音順で個別意見を記載。 === 委員 === * [[菅原通済|菅原通濟]](会長。全回出席。2月11日) * [[吉村正]](会長代理。全回出席。2月11日) * 阿部源一(第5回会議のみ欠席。祝日化は望ましくない。強いて挙げるなら1月1日が無難) * [[大宅壮一|大宅壯一]](第2回会議のみ出席。最終の第9回会議直前に辞任のため答申に個別意見記載なし) * [[奥田東]](全回出席。[[立春]]の日。人間社会でなく国土に重きをおくべき) * [[桶谷繁雄]](第1回会議のみ欠席。2月11日) * [[榊原仟]](全回出席。2月11日) * [[田辺繁子|田邊繁子]](第6回会議のみ欠席。2月11日) * [[舟橋聖一]](全回出席。2月11日。政府の行事としないことが条件) * [[松下正寿|松下正壽]](第1・2・6回会議のみ欠席。2月11日) === 建国記念の日に関する世論調査 === * 建国記念日審議会の依頼により内閣総理大臣官房広報室が実施。昭和41年11月30日付け官報資料版No.449掲載 * 各党案(自民党:2月11日、社会党:[[5月3日]]、[[公明党]]:[[4月28日]]、[[民社党]]:[[4月3日]])等を選択肢に加える。 * 同年[[9月29日]]から[[10月6日]]まで全国の20歳以上の男女1万人を対象(有効回収票:8,700人)、[[社団法人]][[中央調査社]]の調査員による面接聴取。 * 同年[[11月4日]]の第6回会議に報告。 # 2月11日 - もとの紀元節の日:47.4% (4,124人) # いつでもよい:12.1% (1,053人) # 5月3日 - 1948年(昭和23年)5月3日:日本国憲法施行の日 - [[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]]:10.4% (909人) # わからない:7.5% (651人) # 4月3日 - [[聖徳太子]]の[[十七条憲法]]発布の日:[[推古天皇]]12年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[ユリウス暦]][[604年]][[5月6日]]):6.1% (529人) # 4月28日 - 1952年(昭和27年)4月28日:[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]発効の日:5.8% (507人) # 特定の日ではなく、[[季節]]、[[月 (暦)|月]]などを回答した者([[春]]、[[秋]]、[[4月]]、[[9月]]など):3.1% (271人) # 質問の趣旨にそわない回答をした者(「(政府が)建国記念の日を([[国民の祝日]]として)設けることに反対」など):2.1% (186人) # [[8月15日]]:2.1% (183)<!--官報掲載には「終戦記念日」のような意味合いを明示した記述がない(なぜ回答者が8月15日を選んだのかの理由開示が省略されている)ので、ここには付記しないほうが無難。もしかしたら回答者の中には終戦とは全く無関係にこの日を選んでいた人がいたかもしれないので、官報にない意味合いを付記するのは独自研究になるおそれがある。--> # その他の日([[旧正月]]、[[4月1日]]、[[11月3日]]、その他):1.4% (124) # [[元日]]:1.3% (109)<!--官報掲載には「1月1日」のような日付の明示がないので、付記しないほうが無難。もしかすれば回答者の中には旧暦の元日だ、という意味合いで回答した者も存在した可能性も否定できないため、官報にない日付を付記するのは独自研究になるおそれがある。--> # [[立春]]の日:0.5% (43) # もとの[[元始祭]]の日:0.1% (11)<!--官報掲載には「1月3日」のような日付の明示がないので、付記しないほうが無難。もしかしたら回答者の中には新暦の1月3日でなく「元始祭発足時の旧暦の1月3日だ」という意味合いで答えていた人がいるかもしれないので、官報にない日付を付記するのは独自研究になるおそれがある。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wikisource|建国記念の日となる日を定める政令}} * [[建国記念日]] - 世界各国の建国記念日を掲載。 * [[神武天皇即位紀元]](皇紀) * [[神武東征]] - 否定説もある(詳細は当項目参照)。 * [[上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧]] * [[橿原神宮]] - [[例祭]]([[大祭]])である紀元祭が斎行される。 * [[国民の祝日に関する法律]] * [[国家の日]](ナショナル・デー) * [[主権回復の日]] == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#kenkoku 各「国民の祝日」について - 内閣府] * [http://kenkoku.web.fc2.com/kenkoku.htm 日本の建国を祝う会] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けんこくきねんのひ}} [[Category:日本の祝日]] [[Category:2月の記念日]]
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首都圏新都市鉄道TX-2000系電車
首都圏新都市鉄道TX-2000系電車(しゅとけんしんとしてつどうTX-2000けいでんしゃ)は、首都圏新都市鉄道の交直流通勤形電車。 首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線(以下、つくばエクスプレス)開業時に導入された日立製作所製のA-trainである。同時期に導入されたTX-1000系をベースに設計されたが、主に電装品が異なり、茨城県内(守谷駅 - つくば駅間)で採用する交流電化区間にも対応したものとなっている。形式称号の "TX" はつくばエクスプレスのアルファベット表記 "TSUKUBA EXPRESS" に由来する。 2003年(平成15年)3月に先行試作車6両編成1本(6両)、翌2004年(平成16年)1月から7月にかけて量産車6両編成15本(90両)が落成し、いずれも2005年(平成17年)8月24日のつくばエクスプレス開業と同時に営業運行を開始した。 その後、全線での利用客の増加に伴って輸送力増強のための車両増備が必要となったことから、2008年度に開業時の量産車をマイナーチェンジした1次増備車6両編成4本(24両)を新製した。この増備車は2008年(平成20年)8月12日より営業運転を開始しており、その後の10月1日のダイヤ改正より朝ラッシュ時の列車増発が図られた。 さらにその後、2012年度には1次増備車を基本とした2次増備車6両編成3本(18両)を新製した。この増備車は2012年7月上旬より営業運転を開始しており、その後の10月15日に行われたダイヤ改正より列車増発が図られた。 なお、本系列の輸送力増強に伴う増備車は首都圏新都市鉄道が監修した資料(2012年度増備車落成時点)において、2008年度増備車は1次増備車(一次増備車)、2012年度増備車は2次増備車(二次増備車)との記載があり、本項目ではこの呼称(太字の呼称)を用いる。 車体は片側4か所の両開き客用扉を有する。車体のサイズは全長20m・幅2950mm級で、その幅は日本の軌間1067mm路線の中では最大級、いわゆる「幅広車体」を採用している。材質はアルミニウム合金で、最新のダブルスキン構造を採用した。表面に酸化被膜を形成する加工を施して腐食を防いでおり、無塗装である。アクセントとして車体側面上部に赤色のテープによるラインを貼り付けている。前面デザインは鋭いラインとV字型のガラスが特徴で、高速感を出したものとなっており、路線内のトンネル区間や地下区間で非常時の避難を目的に貫通扉を持つ。 TX-1000系とはほぼ同じ外観で一見すると見分けが付かないが、本系列は高圧の交流電化区間を走行するため、屋根上の集電装置(パンタグラフ)周囲は絶縁のための碍子が多数設置されている。また、車両番号を表示するプレートの色が、TX-1000系の紺色に対して、本系列では赤色である。 1次増備車からは外観デザイン(形状)に変更はないが、前面フロントガラス下部にスピード感を表すスカーレットのVラインを配置した 。側面は駅停車時に車両と可動式ホーム柵を識別しやすくなるよう車体全長に白色とスカーレットのラインを配置したほか、戸袋部TXマークの上にもスカーレットのラインを追加している。 内装に関する記述は先行試作車・量産車を基本とし、増備車の変更点については別途記載する。 車内は白色を基調とし、客用ドアも同色の化粧板仕上げである。各ドア下部には滑り止めを兼ねた黄色い点字ブロックが貼り付けられているのに加え、ドアの開閉に合わせてドアチャイムが鳴動するなど視覚障害者にも配慮したものとなっている。また、編成中2両(2・5号車)に車椅子スペースを持つ。 座席は全車両住江工業製であり、ロングシートを基本とするが、編成の中央部分の2両(3・4号車)はボックスシートとロングシートの混在するセミクロスシート配置とした。なお、混雑緩和を目的として23編成のうち16編成においてボックスシートをロングシートに改造することが首都圏新都市鉄道より発表されており、2017年4月27日の時点で第54編成と第56編成の2編成がロングシート化の改造を終えて運用に就いている。2018年6月には中期経営計画で未改修の7編成についてもロングシート化が発表されており、2020年までに後述の事故で休車中の71編成を除いた全車が施工された。 また、着席区画の明確化と同時に混雑時につかむことが出来たり、着席・起立時の補助とすることも出来る握り棒(スタンションポール)が設置されている。つり革は握りやすい三角形タイプで、優先席部分はオレンジ色としてある。 側面の窓は大きな1枚ガラスを用いている(はめ殺し窓)。窓が大きくて枚数が少ないのは、車両建造費を節約するためのやむを得ない措置でもある(本来は開閉できる窓のほうがいいが、当社の財務状況から仕方がないともいえる)。1990年代以降の新型車両では紫外線カット機能付きのガラスを採用する代わりにカーテンを廃するものも出てきたが、本系列では透明ガラスと巻き上げカーテンを採用した。この窓は開閉不能であるが、空調設備が故障した時の換気用として車両連結面(妻面)に開閉可能な小窓を設置している。 乗客用車内案内表示装置としてLED式の文字スクロールによるものと路線図式のものが設置されている。他事業者では路線図式のものはLED式の文字スクロールによる表示に取って代わったところが多く、新たに採用しているところは少ない。また、自動放送装置を搭載しており、日本語と英語に対応している。 1次増備車から火災対策の強化として天井部の空調装置ルーバの材質をアルミ合金製に変更したほか、床敷物を塩化ビニル材からゴム材に変更した。ドア戸袋部の引き込まれ防止ゴムの材質を硬くし、乗客の荷物等が引き込まれるのを防止できるようにした。座席モケットのクッション材を改良し、より柔らかいものにした。なお、このグループの床敷物設置方法には、のちに不備があることが判明し、国土交通省から改善指示が出されている(後述)。 また、安全対策から7人掛け座席間の枕木方向につり革を増設、女性専用車にもなるつくば方先頭車1号車と優先席部にある一部のつり革(落成時からオレンジ色)のつり高さを50mm低くした。このほか、車内の非常用ドアコックなどの、車内ステッカーの一部を蓄光式ステッカーに変更、乗務員室背後の電磁鎖錠用の通行表示灯(仕切開戸解錠時に通行可を表示)を大型化した。 1次増備車以降は座席やガラスに記載される「優先席」のロゴが異なり、また携帯電話のマナーを記載したステッカーも別のものに変更されている。 2次増備車では省エネルギー化のため、室内灯を蛍光管式からLED照明に変更した 。LED照明を採用することで消費電力は蛍光灯よりも約23%削減されている。座席については座り心地を改善するために座席構造を根本的に見直している。ロングシート、クロスシートともに座席フレームの構造を改良することで座席詰め物を厚くさせた他、バケット形状が変更されており、座席座り心地の大幅な改善が図られている。 冬期の車内環境を改善するため、ロングシート車では約20%(1基あたりの容量は750W→960Wまたは750Wに)、クロスシート車では約10%(1基あたりの容量は400W→750Wまたは450Wに)暖房容量の増加が図られている。同時に取り付け位置を若干下げたことにより、床面付近の足元温度を約3°C向上させ、車内輻射熱の増加が図られている。 視覚障害者への配慮として従来からのドア開閉チャイムに加えてドア開案内チャイムを付加し、駅停車中に5秒間隔でチャイムを鳴動させている。つり革はロングシート一般席部のつり革のつり位置を50mm下げ、床面高さ1,600mmに統一した。また、車内換気量増加のため、各車の車端部優先席部と車椅子スペース部の側窓を200mm開閉できるように改良した。 第60編成は落成時から、他編成は改造により無線LAN機器を搭載。2005年8月24日の開業日から翌2006年(平成18年)7月31日まで列車内無線LAN接続トライアル用に供された。 無線LAN接続商用サービス開始の決定により、2006年7月31日までに全16編成が無線LAN接続対応となり、商用サービスは同年8月24日から開始された。当初はNTTドコモの「Mzone」と「moperaU「公衆無線LAN」コース」のみが提供されていたが、同年11月9日からは東日本電信電話(NTT東日本)の「フレッツ・スポット」も提供が開始された。なお、トライアルユーザーに対しては8月24日から1か月間商用環境の体験キャンペーンなどが実施された。 運転台のマスター・コントローラーはワンハンドル仕様で、力行とブレーキが一体化しており、左手だけで操作する。また、ワンマン運転対応のために客用ドア開閉スイッチを運転台部分に併設する。運転台にはTIS(車両制御情報管理装置)と呼ばれる三菱製のモニタ装置があり、各車両の状態が一目でわかるようになっている。 1次増備車からは運転士用放送操作器のマイクのコードを延長して利便性を向上させたほか、右側面部に携帯無線機の置き台を新設、非常ブレーキ押しボタンの形状が変更されている。また、遮光対策として、フロントガラス上部に遮光フィルムの貼り付けを実施したほか、光線ヨケ(遮光板)を透明品から黒色の不透明品に変更・サイズを大型化した。 主制御機器(走行用モーターの制御装置)には日立製のIGBT素子によるVVVFインバータ(回生ブレーキ対応)を採用しており、主変換装置にPWMコンバータとともに搭載されている。1基のVVVFインバータが制御する主電動機の数を2台に制限することで、制御装置が故障した時も自力走行出来ることを目標にしている。主電動機(走行用モーター)も日立製のかご形三相誘導電動機で、EFO-K60形を電動車1両に4台搭載する。車軸への動力伝達はTD平行カルダン駆動方式、歯車比は1:6.53で起動加速度3.0km/h、最高速度130km/hに対応している。台車は川崎重工業製のヨーダンパ付きのボルスタレス台車であり、電動車がKW167、付随車がKW168を名乗る。 交直流電車であるため、直流1,500Vと交流50Hz 20,000Vとの両方の電源に対応出来るように、屋根上に交直切換器・交流遮断器・直流・交流避雷器などの電源切替に必要な機器類を搭載している。床下には主変圧器を搭載しており、直流区間では、架線からの電源が直接に主変換装置に搭載されているVVVFインバータに送られているが、交流区間では交流電源を主変圧器により降圧させ、主変換装置に搭載されているPWMコンバータで直流に変換された後にVVVFインバータに送られている。また、交直切替は自動切り替え機能を搭載し、TX-1000系と同じく車内の照明や冷暖房の電源用として静止形インバータ (SIV) を搭載。交流区間でSIV装置が使用出来るように、補助回路用の交直切替器と主変圧器の2次側にある3次巻線からの交流1,444Vを直流1,250Vに変換する高圧補助整流装置を搭載している。 増備車において機器類に大きな変更点はないが、2次増備車ではそれまでのスクリュー式空気圧縮機(除湿装置一体型・吐出量1,600L/min)からオイルレス式空気圧縮機(除湿装置一体型・吐出量1,600L/min)に変更されている。 ATCとATO・TASCを搭載し、運転士のボタン操作(マスコンのレバーを引く、つまりノッチ4に入れる)一つで加速から停車までを自動で行うようになっている。 つくばエクスプレスでは沿線の利用客増加に伴い、2030年代の前半を目安に8両編成へ増強する。そのため、当形式も中間に付随車2両を挿入した8両編成の増強が予定されている。 秋葉原駅 - つくば駅の全区間で運用されており、全ての列車種別(快速・通勤快速・区間快速・普通)に充当される。特に快速・通勤快速の全列車と大半の区間快速には本系列が充当される。また、過去にはお召し列車として運用されたこともある。詳細は該当項目を参照。 本系列に『チャギントン』のキャラクターを装飾した「TXチャギントントレイン」が、2016年2月27日から4月10日までは第51編成、2017年2月25日から4月9日までは第64編成を使用して運行された。 2次増備車である第71編成は2019年2月28日に発生したつくばエクスプレス総合基地構内での脱線事故により、被災したTX-2171とTX-2271が同年7月に廃車となった。またTX-2271とユニットを組んでいたTX-2371についても2020年3月24日付で廃車となった。残った3両については社員、乗務員が研修等で使用出来る「実物教材車」として使われている。その後、内装の一部が撤去され、その内装部品がTBSテレビのテレビドラマ「ペンディングトレイン」の撮影に使用された。 1次増備車24両の床敷物は本来はアルミ材を敷いた上でゴム製の床敷物を貼り付けるものであるが、現車ではアルミ材が敷かれておらず、鉄道車両の火災対策基準を満たさないことから、国土交通省より改善指示が出された。これに対し、首都圏新都市鉄道は2011年(平成23年)度末までの予定で取り替えを回答している。 2019年5月10日に、2次増備車である第73編成の全般・重要部検査を行った際に、主変換装置の機器吊り用レールの取り付け部においてひび割れが発見された。これを受けてTX-2000系およびTX-1000系の全編成について取り付け部を確認したところ、同じく2次増備車である第72編成においても同様のひび割れが発見された。それ以外のTX-2000系およびTX-1000系の編成についてはひび割れがないことが確認された。 その後、当該2編成の製造の過程において、車体側の機器吊り用レールの位置と主変換装置の取り付け穴位置が合わなかったのを修正するために矯正作業を行なった結果ひび割れが発生し、その状態で主変換装置を取り付けたため主変換装置の重量によりひび割れが拡大したとの調査結果が発表された。 不具合が発見された第72・73編成については直ちに営業線での運転が取りやめられた。機器吊り用レールの変形部分を除去し、正常な機器吊り用レールに補強材を追加した上で主変換装置を付け直す作業を実施し、検証試験で安全性を確認したため、順次運行を再開させるとした。
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"p", "text": "なお、本系列の輸送力増強に伴う増備車は首都圏新都市鉄道が監修した資料(2012年度増備車落成時点)において、2008年度増備車は1次増備車(一次増備車)、2012年度増備車は2次増備車(二次増備車)との記載があり、本項目ではこの呼称(太字の呼称)を用いる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "車体は片側4か所の両開き客用扉を有する。車体のサイズは全長20m・幅2950mm級で、その幅は日本の軌間1067mm路線の中では最大級、いわゆる「幅広車体」を採用している。材質はアルミニウム合金で、最新のダブルスキン構造を採用した。表面に酸化被膜を形成する加工を施して腐食を防いでおり、無塗装である。アクセントとして車体側面上部に赤色のテープによるラインを貼り付けている。前面デザインは鋭いラインとV字型のガラスが特徴で、高速感を出したものとなっており、路線内のトンネル区間や地下区間で非常時の避難を目的に貫通扉を持つ。", "title": "車体外観" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "TX-1000系とはほぼ同じ外観で一見すると見分けが付かないが、本系列は高圧の交流電化区間を走行するため、屋根上の集電装置(パンタグラフ)周囲は絶縁のための碍子が多数設置されている。また、車両番号を表示するプレートの色が、TX-1000系の紺色に対して、本系列では赤色である。", "title": "車体外観" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1次増備車からは外観デザイン(形状)に変更はないが、前面フロントガラス下部にスピード感を表すスカーレットのVラインを配置した 。側面は駅停車時に車両と可動式ホーム柵を識別しやすくなるよう車体全長に白色とスカーレットのラインを配置したほか、戸袋部TXマークの上にもスカーレットのラインを追加している。", "title": "車体外観" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "内装に関する記述は先行試作車・量産車を基本とし、増備車の変更点については別途記載する。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "車内は白色を基調とし、客用ドアも同色の化粧板仕上げである。各ドア下部には滑り止めを兼ねた黄色い点字ブロックが貼り付けられているのに加え、ドアの開閉に合わせてドアチャイムが鳴動するなど視覚障害者にも配慮したものとなっている。また、編成中2両(2・5号車)に車椅子スペースを持つ。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "座席は全車両住江工業製であり、ロングシートを基本とするが、編成の中央部分の2両(3・4号車)はボックスシートとロングシートの混在するセミクロスシート配置とした。なお、混雑緩和を目的として23編成のうち16編成においてボックスシートをロングシートに改造することが首都圏新都市鉄道より発表されており、2017年4月27日の時点で第54編成と第56編成の2編成がロングシート化の改造を終えて運用に就いている。2018年6月には中期経営計画で未改修の7編成についてもロングシート化が発表されており、2020年までに後述の事故で休車中の71編成を除いた全車が施工された。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、着席区画の明確化と同時に混雑時につかむことが出来たり、着席・起立時の補助とすることも出来る握り棒(スタンションポール)が設置されている。つり革は握りやすい三角形タイプで、優先席部分はオレンジ色としてある。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "側面の窓は大きな1枚ガラスを用いている(はめ殺し窓)。窓が大きくて枚数が少ないのは、車両建造費を節約するためのやむを得ない措置でもある(本来は開閉できる窓のほうがいいが、当社の財務状況から仕方がないともいえる)。1990年代以降の新型車両では紫外線カット機能付きのガラスを採用する代わりにカーテンを廃するものも出てきたが、本系列では透明ガラスと巻き上げカーテンを採用した。この窓は開閉不能であるが、空調設備が故障した時の換気用として車両連結面(妻面)に開閉可能な小窓を設置している。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "乗客用車内案内表示装置としてLED式の文字スクロールによるものと路線図式のものが設置されている。他事業者では路線図式のものはLED式の文字スクロールによる表示に取って代わったところが多く、新たに採用しているところは少ない。また、自動放送装置を搭載しており、日本語と英語に対応している。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1次増備車から火災対策の強化として天井部の空調装置ルーバの材質をアルミ合金製に変更したほか、床敷物を塩化ビニル材からゴム材に変更した。ドア戸袋部の引き込まれ防止ゴムの材質を硬くし、乗客の荷物等が引き込まれるのを防止できるようにした。座席モケットのクッション材を改良し、より柔らかいものにした。なお、このグループの床敷物設置方法には、のちに不備があることが判明し、国土交通省から改善指示が出されている(後述)。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、安全対策から7人掛け座席間の枕木方向につり革を増設、女性専用車にもなるつくば方先頭車1号車と優先席部にある一部のつり革(落成時からオレンジ色)のつり高さを50mm低くした。このほか、車内の非常用ドアコックなどの、車内ステッカーの一部を蓄光式ステッカーに変更、乗務員室背後の電磁鎖錠用の通行表示灯(仕切開戸解錠時に通行可を表示)を大型化した。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1次増備車以降は座席やガラスに記載される「優先席」のロゴが異なり、また携帯電話のマナーを記載したステッカーも別のものに変更されている。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2次増備車では省エネルギー化のため、室内灯を蛍光管式からLED照明に変更した 。LED照明を採用することで消費電力は蛍光灯よりも約23%削減されている。座席については座り心地を改善するために座席構造を根本的に見直している。ロングシート、クロスシートともに座席フレームの構造を改良することで座席詰め物を厚くさせた他、バケット形状が変更されており、座席座り心地の大幅な改善が図られている。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "冬期の車内環境を改善するため、ロングシート車では約20%(1基あたりの容量は750W→960Wまたは750Wに)、クロスシート車では約10%(1基あたりの容量は400W→750Wまたは450Wに)暖房容量の増加が図られている。同時に取り付け位置を若干下げたことにより、床面付近の足元温度を約3°C向上させ、車内輻射熱の増加が図られている。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "視覚障害者への配慮として従来からのドア開閉チャイムに加えてドア開案内チャイムを付加し、駅停車中に5秒間隔でチャイムを鳴動させている。つり革はロングシート一般席部のつり革のつり位置を50mm下げ、床面高さ1,600mmに統一した。また、車内換気量増加のため、各車の車端部優先席部と車椅子スペース部の側窓を200mm開閉できるように改良した。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "第60編成は落成時から、他編成は改造により無線LAN機器を搭載。2005年8月24日の開業日から翌2006年(平成18年)7月31日まで列車内無線LAN接続トライアル用に供された。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "無線LAN接続商用サービス開始の決定により、2006年7月31日までに全16編成が無線LAN接続対応となり、商用サービスは同年8月24日から開始された。当初はNTTドコモの「Mzone」と「moperaU「公衆無線LAN」コース」のみが提供されていたが、同年11月9日からは東日本電信電話(NTT東日本)の「フレッツ・スポット」も提供が開始された。なお、トライアルユーザーに対しては8月24日から1か月間商用環境の体験キャンペーンなどが実施された。", "title": "内装" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "運転台のマスター・コントローラーはワンハンドル仕様で、力行とブレーキが一体化しており、左手だけで操作する。また、ワンマン運転対応のために客用ドア開閉スイッチを運転台部分に併設する。運転台にはTIS(車両制御情報管理装置)と呼ばれる三菱製のモニタ装置があり、各車両の状態が一目でわかるようになっている。", "title": "乗務員室" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1次増備車からは運転士用放送操作器のマイクのコードを延長して利便性を向上させたほか、右側面部に携帯無線機の置き台を新設、非常ブレーキ押しボタンの形状が変更されている。また、遮光対策として、フロントガラス上部に遮光フィルムの貼り付けを実施したほか、光線ヨケ(遮光板)を透明品から黒色の不透明品に変更・サイズを大型化した。", "title": "乗務員室" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "主制御機器(走行用モーターの制御装置)には日立製のIGBT素子によるVVVFインバータ(回生ブレーキ対応)を採用しており、主変換装置にPWMコンバータとともに搭載されている。1基のVVVFインバータが制御する主電動機の数を2台に制限することで、制御装置が故障した時も自力走行出来ることを目標にしている。主電動機(走行用モーター)も日立製のかご形三相誘導電動機で、EFO-K60形を電動車1両に4台搭載する。車軸への動力伝達はTD平行カルダン駆動方式、歯車比は1:6.53で起動加速度3.0km/h、最高速度130km/hに対応している。台車は川崎重工業製のヨーダンパ付きのボルスタレス台車であり、電動車がKW167、付随車がKW168を名乗る。 交直流電車であるため、直流1,500Vと交流50Hz 20,000Vとの両方の電源に対応出来るように、屋根上に交直切換器・交流遮断器・直流・交流避雷器などの電源切替に必要な機器類を搭載している。床下には主変圧器を搭載しており、直流区間では、架線からの電源が直接に主変換装置に搭載されているVVVFインバータに送られているが、交流区間では交流電源を主変圧器により降圧させ、主変換装置に搭載されているPWMコンバータで直流に変換された後にVVVFインバータに送られている。また、交直切替は自動切り替え機能を搭載し、TX-1000系と同じく車内の照明や冷暖房の電源用として静止形インバータ (SIV) を搭載。交流区間でSIV装置が使用出来るように、補助回路用の交直切替器と主変圧器の2次側にある3次巻線からの交流1,444Vを直流1,250Vに変換する高圧補助整流装置を搭載している。", "title": "走行機器など" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "増備車において機器類に大きな変更点はないが、2次増備車ではそれまでのスクリュー式空気圧縮機(除湿装置一体型・吐出量1,600L/min)からオイルレス式空気圧縮機(除湿装置一体型・吐出量1,600L/min)に変更されている。", "title": "走行機器など" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ATCとATO・TASCを搭載し、運転士のボタン操作(マスコンのレバーを引く、つまりノッチ4に入れる)一つで加速から停車までを自動で行うようになっている。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "つくばエクスプレスでは沿線の利用客増加に伴い、2030年代の前半を目安に8両編成へ増強する。そのため、当形式も中間に付随車2両を挿入した8両編成の増強が予定されている。", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "秋葉原駅 - つくば駅の全区間で運用されており、全ての列車種別(快速・通勤快速・区間快速・普通)に充当される。特に快速・通勤快速の全列車と大半の区間快速には本系列が充当される。また、過去にはお召し列車として運用されたこともある。詳細は該当項目を参照。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "本系列に『チャギントン』のキャラクターを装飾した「TXチャギントントレイン」が、2016年2月27日から4月10日までは第51編成、2017年2月25日から4月9日までは第64編成を使用して運行された。", "title": "ラッピングトレイン" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2次増備車である第71編成は2019年2月28日に発生したつくばエクスプレス総合基地構内での脱線事故により、被災したTX-2171とTX-2271が同年7月に廃車となった。またTX-2271とユニットを組んでいたTX-2371についても2020年3月24日付で廃車となった。残った3両については社員、乗務員が研修等で使用出来る「実物教材車」として使われている。その後、内装の一部が撤去され、その内装部品がTBSテレビのテレビドラマ「ペンディングトレイン」の撮影に使用された。", "title": "廃車" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1次増備車24両の床敷物は本来はアルミ材を敷いた上でゴム製の床敷物を貼り付けるものであるが、現車ではアルミ材が敷かれておらず、鉄道車両の火災対策基準を満たさないことから、国土交通省より改善指示が出された。これに対し、首都圏新都市鉄道は2011年(平成23年)度末までの予定で取り替えを回答している。", "title": "不具合" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2019年5月10日に、2次増備車である第73編成の全般・重要部検査を行った際に、主変換装置の機器吊り用レールの取り付け部においてひび割れが発見された。これを受けてTX-2000系およびTX-1000系の全編成について取り付け部を確認したところ、同じく2次増備車である第72編成においても同様のひび割れが発見された。それ以外のTX-2000系およびTX-1000系の編成についてはひび割れがないことが確認された。", "title": "不具合" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その後、当該2編成の製造の過程において、車体側の機器吊り用レールの位置と主変換装置の取り付け穴位置が合わなかったのを修正するために矯正作業を行なった結果ひび割れが発生し、その状態で主変換装置を取り付けたため主変換装置の重量によりひび割れが拡大したとの調査結果が発表された。", "title": "不具合" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "不具合が発見された第72・73編成については直ちに営業線での運転が取りやめられた。機器吊り用レールの変形部分を除去し、正常な機器吊り用レールに補強材を追加した上で主変換装置を付け直す作業を実施し、検証試験で安全性を確認したため、順次運行を再開させるとした。", "title": "不具合" } ]
首都圏新都市鉄道TX-2000系電車(しゅとけんしんとしてつどうTX-2000けいでんしゃ)は、首都圏新都市鉄道の交直流通勤形電車。
{{鉄道車両 |車両名 = 首都圏新都市鉄道TX-2000系電車 |社色 = #ff3540 |画像 = TX Series2000-2654.jpg |pxl = 300px |画像説明 =TX-2000系量産車(2023年5月 [[柏たなか駅]]) |unit = self | 運用者 = [[首都圏新都市鉄道]] | 運用開始 = [[2005年]][[8月24日]] | 製造年 = [[2003年]] - [[2004年]]・[[2008年]] ・[[2012年]] |編成両数 = 6両(4M2T) |起動加速度 = 3.0 km/h/s |営業最高速度 = 130 km/h |減速度(常用最大)= 4.2 km/h/s |減速度(非常) = 4.4 km/h/s |編成定員 = 916(うち座席318) |車体長 = 中間車 20,000 mm<br />先頭車 20,800 mm |車体幅 = 2,950 mm |車体高 = 4,070 mm |車体 = [[アルミニウム合金]]([[A-train (日立製作所)|A-train]]) |編成重量 = 206.3 t |軌間 = 1,067 mm |電気方式 = [[直流電化|直流]] 1,500 V<br />[[交流電化|交流]] 20,000 V / 50 Hz<br />([[架空電車線方式]]) |モーター出力 = 190 kW |主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]<br />[[日立製作所]] EFO-K60 |編成出力 = 3040 kW |歯車比 = 98:15 (6.53) |制御方式=[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]][[パルス幅変調|PWM]][[コンバータ]]+[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]] |制御装置=日立製作所 CII-HR2420A · B |台車 = [[川崎車両|川崎重工業]]KW167(電動車)<br />川崎重工業KW168(付随車)<br />[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]]、[[蛇行動#ヨーダンパ|ヨーダンパ]]付き |駆動装置 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式中実軸平行カルダン駆動]] |ブレーキ方式 = [[自動列車制御装置#つくばエクスプレス|CS-ATC]]連動[[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ]]<br />[[純電気ブレーキ|全電気ブレーキ]] |保安装置 = [[自動列車制御装置|CS-ATC]], [[自動列車運転装置|ATO]] |製造メーカー = [[日立製作所笠戸事業所]] |備考 = [[警笛|ミュージックホーン]]搭載 }} '''首都圏新都市鉄道TX-2000系電車'''(しゅとけんしんとしてつどうTX-2000けいでんしゃ)は、[[首都圏新都市鉄道]]の[[交直流電車|交直流]][[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]。 == 概要 == [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]線(以下、つくばエクスプレス)開業時に導入された[[日立製作所]]製の[[A-train (日立製作所)|A-train]]である。同時期に導入された[[首都圏新都市鉄道TX-1000系電車|TX-1000系]]をベースに設計されたが、主に電装品が異なり、[[茨城県]]内([[守谷駅]] - [[つくば駅]]間)で採用する[[交流電化]]区間にも対応したものとなっている。形式称号の "TX" はつくばエクスプレスのアルファベット表記"Tsukuba eXpress" に由来する。 [[2003年]]([[平成]]15年)3月に先行試作車6両編成1本(6両)、翌[[2004年]](平成16年)1月から7月にかけて量産車6両編成15本(90両)が落成し、いずれも[[2005年]](平成17年)[[8月24日]]のつくばエクスプレス開業と同時に営業運行を開始した。 その後、全線での利用客の増加に伴って輸送力増強のための車両増備が必要となったことから、2008年度に開業時の量産車をマイナーチェンジした'''1次増備車'''6両編成4本(24両)を新製した<ref name="PIC2009EX"/>。この増備車は2008年(平成20年)[[8月12日]]より営業運転を開始しており、その後の[[10月1日]]のダイヤ改正より朝[[ラッシュ時]]の列車増発が図られた<ref name="PIC2009EX"/>。 さらにその後、2012年度には1次増備車を基本とした'''2次増備車'''6両編成3本(18両)を新製した<ref>[http://www.mir.co.jp/company/release/2012/3182000.html 輸送力増強に向けて車両を増備! 3編成18両(TX-2000系車両)を導入します。] {{Wayback|url=http://www.mir.co.jp/company/release/2012/3182000.html |date=20121007224957 }}(首都圏新都市鉄道株式会社 ニュースリリース)</ref>。この増備車は2012年7月上旬より営業運転を開始しており、その後の10月15日に行われたダイヤ改正より列車増発が図られた<ref name="DJ2008-8"/><ref name="PIC2009EX"/>。 なお、本系列の輸送力増強に伴う増備車は首都圏新都市鉄道が監修した資料(2012年度増備車落成時点)<ref>2008年度増備車については、交通新聞社「鉄道ダイヤ情報」2008年8月号において'''TX-2000系増備車両'''ならびに鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2009年10月臨時増刊号鉄道車両年鑑2009年版において'''TX-2000系増備車'''との記載がある。ただし、2012年度増備車の解説記事『レールアンドテック出版「鉄道車両と技術」No.192』ならびに『日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」2013年1月号』においては2008年度増備車は'''1次増備車'''(一次増備車)、2012年度増備車は'''2次増備車'''(二次増備車)との記載がある。</ref>において、2008年度増備車は'''1次増備車'''(一次増備車)、2012年度増備車は'''2次増備車'''(二次増備車)との記載があり、本項目ではこの呼称(太字の呼称)を用いる。 == 車体外観 == [[ファイル:TX Series2000-2672.jpg|300px|thumb|スカーレットのVラインを配した増備車(2023年5月 柏たなか駅)]] 車体は片側4か所の両開き客用扉を有する。車体のサイズは全長20m・幅2950mm級で、その幅は日本の[[3フィート6インチ軌間|軌間1067mm]]路線の中では最大級、いわゆる「幅広車体」を採用している。材質は[[アルミニウム合金]]で、最新の[[ダブルスキン構造]]を採用した。表面に[[不動態|酸化被膜]]を形成する加工を施して[[腐食]]を防いでおり、無塗装である。アクセントとして車体側面上部に赤色のテープによるラインを貼り付けている。前面デザインは鋭いラインとV字型のガラスが特徴で、高速感を出したものとなっており、路線内の[[トンネル]]区間や地下区間で非常時の避難を目的に[[貫通扉]]を持つ。 TX-1000系とはほぼ同じ外観で一見すると見分けが付かないが、本系列は高圧の交流電化区間を走行するため、屋根上の[[集電装置]](パンタグラフ)周囲は絶縁のための[[碍子]]が多数設置されている。また、[[鉄道の車両番号|車両番号]]を表示するプレートの色が、TX-1000系の[[紺色]]に対して、本系列では[[赤色]]である。 1次増備車からは外観デザイン(形状)に変更はないが、前面フロントガラス下部にスピード感を表すスカーレットのVラインを配置した<ref name="DJ2008-8">交通新聞社「鉄道ダイヤ情報」2008年8月号「TX-2000系増備車両について(第67 - 70編成)」記事。</ref><ref name="PIC2009EX">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2009年10月臨時増刊号鉄道車両年鑑2009年版「首都圏新都市鉄道TX-2000系増備車」記事。</ref> 。側面は駅停車時に車両と[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式ホーム柵]]を識別しやすくなるよう車体全長に白色とスカーレットのラインを配置したほか、[[戸袋]]部TXマークの上にもスカーレットのラインを追加している<ref name="DJ2008-8"/><ref name="PIC2009EX"/>。 == 内装 == 内装に関する記述は先行試作車・量産車を基本とし、増備車の変更点については別途記載する。 車内は白色を基調とし、客用ドアも同色の化粧板仕上げである。各ドア下部には滑り止めを兼ねた黄色い[[視覚障害者誘導用ブロック|点字ブロック]]が貼り付けられているのに加え、ドアの開閉に合わせて[[ドアチャイム]]が鳴動するなど[[視覚障害者]]にも配慮したものとなっている。また、編成中2両(2・5号車)に[[車椅子スペース]]を持つ。 [[鉄道車両の座席|座席]]は全車両[[住江工業]]製であり、ロングシートを基本とするが、編成の中央部分の2両(3・4号車)はボックスシートとロングシートの混在するセミクロスシート配置とした。<!--クロスシートのうち通路側の座席には肘掛部分に収納式テーブルを装備していた。これらの座席はいずれも表面に凹凸をつけることで着席区画を明確化した[[バケットシート]]仕様であるほか、座席を壁面だけで支えることによって足元を広く使えるようになっている。-->なお、混雑緩和を目的として23編成のうち16編成においてボックスシートをロングシートに改造することが首都圏新都市鉄道より発表されており<ref>{{Cite web|和書|title=平成31年度末の輸送力増強に向けて車両5編成(30両)を増備します |publisher=首都圏新都市鉄道 |date=2016-10-19 |accessdate=2019-01-03 |url=http://www.mir.co.jp/company/release/2016/3131.html }} {{Wayback|url=http://www.mir.co.jp/company/release/2016/3131.html |date=20190111020141 }}</ref>、2017年4月27日の時点で第54編成と第56編成の2編成がロングシート化の改造を終えて運用に就いている<ref>{{Cite web|和書|title=TX-2000系にロングシート改造車が登場 |work=鉄道ファン・railf.jp |publisher=交友社 |date=2017-4-28 |accessdate=2017-04-29 |url=http://railf.jp/news/2017/04/28/180000.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170429021848/http://railf.jp/news/2017/04/28/180000.html |archivedate=2017-04-29 }} {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2017/04/28/180000.html |date=20170429021848 }}</ref>。2018年6月には中期経営計画で未改修の7編成についてもロングシート化が発表されており<ref>{{Cite web|和書|title=つくばエクスプレス 中期経営計画(2018〜2020年度)|publisher=首都圏新都市鉄道|date=2018-06|accessdate=2019-01-03|url=http://www.mir.co.jp/company/pdf/plan_2018-2020.pdf|format=PDF}} {{Wayback|url=http://www.mir.co.jp/company/pdf/plan_2018-2020.pdf |date=20181122192331 }}</ref>、2020年までに後述の事故で休車中の71編成を除いた全車が施工された。 また、着席区画の明確化と同時に混雑時につかむことが出来たり、着席・起立時の補助とすることも出来る握り棒(スタンションポール)が設置されている。[[つり革]]は握りやすい三角形タイプで、[[優先席]]部分はオレンジ色としてある{{Efn|落成当初は白色だった。}}。 側面の窓は大きな1枚ガラスを用いている([[はめ殺し]]窓)。窓が大きくて枚数が少ないのは、車両建造費を節約するためのやむを得ない措置でもある(本来は開閉できる窓のほうがいいが、当社の財務状況から仕方がないともいえる)。[[1990年代]]以降の新型車両では[[紫外線]]カット機能付きのガラスを採用する代わりに[[カーテン]]を廃するものも出てきたが、本系列では透明ガラスと巻き上げカーテンを採用した。この窓は開閉不能であるが、[[エア・コンディショナー|空調]]設備が故障した時の換気用として車両連結面(妻面)に開閉可能な小窓を設置している。 乗客用[[車内案内表示装置]]として[[発光ダイオード|LED]]式の文字スクロールによるものと路線図式のものが設置されている。他事業者では路線図式のものはLED式の文字スクロールによる表示に取って代わったところが多く、新たに採用しているところは少ない。また、自動放送装置を搭載しており、[[日本語]]と[[英語]]に対応している。 <gallery> TX-2000 interior 200710.JPG|ボックス式クロスシートを備えていた時期の車内 TX Series2000-2469 Inside.jpg|ロングシート車内(2469) TX Series2000-2469 Priority-seat.jpg|優先席(2469) TX Series2000-2569 Wheelchair-space.jpg|車椅子スペース(2569) TX Series-2000-2669 Inside-LED.jpg|LED式の車内案内表示器(2669) TX Series-2000-2669 Route-map.jpg|路線図式の車内案内表示器(2669) </gallery> === 増備車の変更点 === ==== 1次増備車より ==== 1次増備車から[[火災]]対策の強化として天井部の空調装置ルーバの材質をアルミ合金製に変更したほか、床敷物を[[合成樹脂|塩化ビニル]]材から[[ゴム]]材に変更した<ref name="DJ2008-8"/><ref name="PIC2009EX"/>。ドア戸袋部の引き込まれ防止ゴムの材質を硬くし、乗客の荷物等が引き込まれるのを防止できるようにした<ref name="DJ2008-8"/>。座席モケットのクッション材を改良し、より柔らかいものにした<ref name="DJ2008-8"/><ref name="PIC2009EX"/>。なお、このグループの床敷物設置方法には、のちに不備があることが判明し、[[国土交通省]]から改善指示が出されている(後述)。 また、安全対策から7人掛け座席間の枕木方向につり革を増設、[[女性専用車両|女性専用車]]にもなるつくば方先頭車1号車と優先席部にある一部のつり革(落成時からオレンジ色)のつり高さを50mm低くした<ref name="DJ2008-8"/><ref name="PIC2009EX"/>。このほか、車内の[[ドアコック|非常用ドアコック]]などの、車内ステッカーの一部を[[蓄光]]式ステッカーに変更、乗務員室背後の[[オートロック#鉄道車両の電磁鎖錠システム|電磁鎖錠]]用の通行表示灯(仕切開戸解錠時に通行可を表示)を大型化した<ref name="DJ2008-8"/><ref name="PIC2009EX"/>。 1次増備車以降は座席やガラスに記載される「優先席」のロゴが異なり、また[[携帯電話]]のマナーを記載したステッカーも別のものに変更されている{{Efn|1次増備車以外ものちに優先席付近は1次増備車と同じものに交換されている。}}。 ==== 2次増備車より ==== 2次増備車では省エネルギー化のため、室内灯を[[蛍光灯|蛍光管]]式から[[LED照明]]に変更した<ref name="Tech192">レールアンドテック出版「鉄道車両と技術」No.192「つくばエクスプレスTX-2000系 2次増備車の概要」記事。</ref><ref name="R&M2013-1">日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」2013年1月号研究と開発「TX-2000系 二次増備車の概要」記事。</ref> 。LED照明を採用することで[[消費電力]]は蛍光灯よりも約23%削減されている<ref name="Tech192"/><ref name="R&M2013-1"/>。座席については座り心地を改善するために座席構造を根本的に見直している<ref name="Tech192"/><ref name="R&M2013-1"/>。ロングシート、クロスシートともに座席フレームの構造を改良することで座席詰め物を厚くさせた他、バケット形状が変更されており、座席座り心地の大幅な改善が図られている<ref name="Tech192"/><ref name="R&M2013-1"/>。 冬期の車内環境を改善するため、ロングシート車では約20%(1基あたりの容量は750W→960Wまたは750Wに)、クロスシート車では約10%(1基あたりの容量は400W→750Wまたは450Wに)暖房容量の増加が図られている<ref name="Tech192"/><ref name="R&M2013-1"/>。同時に取り付け位置を若干下げたことにより、床面付近の足元温度を約3℃向上させ、車内輻射熱の増加が図られている<ref name="Tech192"/>。 視覚障害者への配慮として従来からのドア開閉チャイムに加えてドア開案内チャイムを付加し、駅停車中に5秒間隔でチャイムを鳴動させている<ref name="Tech192"/>。つり革はロングシート一般席部のつり革のつり位置を50mm下げ、床面高さ1,600mmに統一した<ref name="Tech192"/>。また、車内換気量増加のため、各車の車端部優先席部と車椅子スペース部の側窓を200mm開閉できるように改良した<ref name="Tech192"/><ref name="R&M2013-1"/>。 === 無線LAN === 第60編成は落成時から、他編成は改造により[[無線LAN]]機器を搭載。2005年8月24日の開業日から翌[[2006年]](平成18年)[[7月31日]]まで列車内無線LAN接続トライアル用に供された。 [[公衆無線LAN|無線LAN接続]]商用サービス開始の決定により、2006年7月31日までに全16編成が無線LAN接続対応となり、商用サービスは同年8月24日から開始された。当初は[[NTTドコモ]]の「[http://www.nttdocomo.co.jp/service/data/mzone/ Mzone]」と「[[mopera]][http://www.mopera.net/plan/mzone/ U「公衆無線LAN」コース]」のみが提供されていたが、同年[[11月9日]]からは[[東日本電信電話]](NTT東日本)の「[[フレッツ#フレッツ・スポット|フレッツ・スポット]]」も提供が開始された。なお、トライアルユーザーに対しては8月24日から1か月間商用環境の体験キャンペーンなどが実施された。 == 乗務員室 == [[操縦席|運転台]]の[[マスター・コントローラー]]はワンハンドル仕様で、力行とブレーキが一体化しており、左手だけで操作する。また、[[ワンマン運転]]対応のために客用ドア開閉スイッチを運転台部分に併設する。運転台にはTIS(車両制御情報管理装置)と呼ばれる三菱製の[[鉄道車両のモニタ装置|モニタ装置]]があり、各車両の状態が一目でわかるようになっている。 1次増備車からは運転士用放送操作器のマイクのコードを延長して利便性を向上させたほか、右側面部に携帯無線機の置き台を新設、[[非常ブレーキ]]押しボタンの形状が変更されている<ref name="DJ2008-8"/>。また、遮光対策として、フロントガラス上部に遮光フィルムの貼り付けを実施したほか、光線ヨケ(遮光板)を透明品から黒色の不透明品に変更・サイズを大型化した<ref name="DJ2008-8"/><ref name="PIC2009EX"/>。 <gallery> TX Series2000-2669 Cab.jpg|運転台(2669) </gallery> == 走行機器など == 主制御機器(走行用モーターの制御装置)には日立製の[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]]による[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ]]([[回生ブレーキ]]対応)を採用しており、主変換装置に[[パルス幅変調|PWM]][[コンバータ]]とともに搭載されている。1基のVVVFインバータが制御する[[主電動機]]の数を2台に制限することで、制御装置が故障した時も自力走行出来ることを目標にしている。主電動機(走行用モーター)も日立製の[[かご形三相誘導電動機]]で、EFO-K60形<ref>定格出力190kW、定格回転数2,310rpm</ref>を[[動力車|電動車]]1両に4台搭載する。[[車軸]]への動力伝達は[[TD平行カルダン駆動方式]]、歯車比は1:6.53で[[起動加速度]]3.0km/h、最高速度130km/hに対応している。[[鉄道車両の台車|台車]]は[[川崎車両|川崎重工業]]製のヨーダンパ付きのボルスタレス台車であり、電動車がKW167、[[付随車]]がKW168を名乗る。 交直流電車であるため、[[直流電化|直流]]1,500Vと交流50Hz 20,000Vとの両方の電源に対応出来るように、屋根上に交直切換器・交流[[遮断器]]・直流・交流[[避雷器]]などの電源切替に必要な機器類を搭載している。床下には[[変圧器|主変圧器]]を搭載しており、直流区間では、架線からの電源が直接に[[主変換装置]]に搭載されている[[VVVFインバータ]]に送られているが、交流区間では交流電源を主変圧器により降圧させ、主変換装置に搭載されているPWMコンバータで直流に変換された後にVVVFインバータに送られている。また、交直切替は自動切り替え機能を搭載し、TX-1000系と同じく車内の照明や冷暖房の電源用として[[静止形インバータ]] (SIV) を搭載。交流区間でSIV装置が使用出来るように、補助回路用の交直切替器と主変圧器の2次側にある3次巻線からの交流1,444Vを直流1,250Vに変換する高圧補助[[整流器|整流装置]]を搭載している。 増備車において機器類に大きな変更点はないが、2次増備車ではそれまでのスクリュー式空気圧縮機(除湿装置一体型・吐出量1,600L/min)からオイルレス式空気圧縮機(除湿装置一体型・吐出量1,600L/min)に変更されている<ref name="R&M2013-1"/>。 <gallery> TX-2000 main Transformer.JPG|TX-2000系の床下に搭載されている主変圧器 </gallery> == 保安装置 == [[自動列車制御装置|ATC]]と[[自動列車運転装置|ATO]]・[[定位置停止装置|TASC]]を搭載し、[[運転士]]のボタン操作(マスコンのレバーを引く、つまりノッチ4に入れる)一つで加速から停車までを自動で行うようになっている。 ==編成== {| style="text-align:center;" style="text-align:center; font-size:80%;" |- |colspan="3"| {| class="wikitable" |- |colspan="2" style="background-color:#ccc; width:10em"|&nbsp; |colspan="6"|{{TrainDirection| [[つくば駅|つくば]] | [[秋葉原駅|秋葉原]] }} |colspan="2" style="background-color:#ccc; "|&nbsp; |-style="border-top:solid 3px white;" !colspan="2"|号車 |1||2||3||4||5||6 !rowspan="7"|製造年 |- !colspan="2"|形式 |'''TX-2100形'''<br />(CT1) |'''TX-2200形'''<br />(M1) |'''TX-2300形'''<br />(M2) |'''TX-2400形'''<br />(M1') |'''TX-2500形'''<br />(M2') |'''TX-2600形'''<br />(CT2) |- !colspan="2"|搭載機器 |CP,BT||MTr,CI||CI,SIV||MTr,CI||CI,SIV||CP,BT |- !colspan="2"|重量 |30.3t||38.1t||34.1t||38.1t||34.1t||30.9t |- !colspan="2"|定員 |147人||colspan="4"|158人||147人 |- !colspan="2"|座席定員 |48人||51人||colspan="2"|54人||51人||48人 |- !colspan="2"|備考 |&nbsp; |車椅子 |(セミクロス)<br />[[弱冷房車]] |(セミクロス) |車椅子 |&nbsp; |-style="border-top:solid 5px #ff3540;" !rowspan="4"|車番 !試作車 | TX-2151 || TX-2251 || TX-2351 || TX-2451 || TX-2551 || TX-2651 || [[2003年]]<br />(平成15年) |- !量産車 | TX-2152<br />:<br />TX-2166 || TX-2252<br />:<br />TX-2266 || TX-2352<br />:<br />TX-2366 || TX-2452<br />:<br />TX-2466 || TX-2552<br />:<br />TX-2566 || TX-2652<br />:<br />TX-2666 || [[2004年]]<br />(平成16年) |- !1次増備車 | TX-2167<br />:<br />TX-2170 || TX-2267<br />:<br />TX-2270 || TX-2367<br />:<br />TX-2370 || TX-2467<br />:<br />TX-2470 || TX-2567<br />:<br />TX-2570 || TX-2667<br />:<br />TX-2670 || [[2008年]]<br />(平成20年) |- !2次増備車 | TX-2171<br />:<br />TX-2173 || TX-2271<br />:<br />TX-2273 || TX-2371<br />:<br />TX-2373 || TX-2471<br />:<br />TX-2473 || TX-2571<br />:<br />TX-2573 || TX-2671<br />:<br />TX-2673 || [[2012年]]<br />(平成24年) |} |- |style="text-align:left; vertical-align:top;"| '''形式''' *CT:[[制御車]] *T:付随車 *M:電動車 |style="text-align:left; vertical-align:top;"| '''機器''' *MTr:主変圧器 (Main-Transformer) *CI:主変換装置 (Converter・Inverter) *CP:電動空気圧縮機 (Compressor) *SIV:静止形インバータ *BT:蓄電池(バッテリー) |style="text-align:left; vertical-align:top;"| '''設備''' *車椅子:車椅子スペース *(セミクロス):セミクロスシート (一部編成を除き、順次ロングシートに改造) |} *パンタグラフはTX-2200形、TX-2400形に搭載。 *両先頭車には保安装置としてATC/ATO装置、ATO車上子、ATO送受信装置、戸閉制御切換装置を搭載。 *静止形インバータのほか、両先頭車には排気扇用インバータを搭載。 *TX-2600形には列車無線装置と床下に無線アンテナ4基を設置。 つくばエクスプレスでは沿線の利用客増加に伴い、2030年代の前半を目安に8両編成<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190926/k00/00m/040/046000c つくばエクスプレス6両から8両編成に 混雑緩和へ沿線自治体は歓迎] {{Wayback|url=https://mainichi.jp/articles/20190926/k00/00m/040/046000c |date=20190930163932 }} 毎日新聞2019年9月26日 09時32分</ref>へ増強する。そのため、当形式も中間に付随車2両を挿入した8両編成の増強が予定されている。 == 改造工事 == === 内装 === * 朝夕[[ラッシュ時]]に[[女性専用車両]]を設定(2005年9月1日 - ) * 乗務員室内に無線LAN (NTT, WIPAS) の[[アンテナ]]を設置(2005年夏 - 2006年夏) * 第51 - 第59編成のボックスシート部にテーブルを設置(2006年1月 - 2006年3月) * 優先席付近のつり革の色の変更(2007年頃) * 開閉扉上部への小型LCD設置(2018年頃〜) === 運転・走行機器 === * マスター・コントローラーの取っ手部分の交換(2010年) *行先表示機のフルカラーLED化(2017年 - ) <gallery> TX Series2000-2672 Outside-LED.jpg|未改造のLED式の行先表示器(2672) TX Series2000-2658 Outside-LED.jpg|改造後のLED式の行先表示器(2658) </gallery> == 運用 == [[秋葉原駅]] - [[つくば駅]]の全区間で運用されており、全ての[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス#列車種別|列車種別]](快速・通勤快速・区間快速・普通)に充当される。特に快速・通勤快速の全列車と大半の区間快速には本系列が充当される。また、過去には[[お召し列車]]として運用されたこともある。詳細は該当項目を参照。 == ラッピングトレイン == 本系列に『[[チャギントン]]』のキャラクターを装飾した'''「TXチャギントントレイン」'''が、2016年2月27日から4月10日までは第51編成<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mir.co.jp/company/release/2016/10_227410.html|title=開業10周年記念 春休み特別企画 2月27日(土)〜4月10日(日)まで『TXチャギントン スタンプラリー』を開催します。-TXチャギントントレインが運行します-|publisher=首都圏新都市鉄道|date=2016-02-12|accessdate=2017-02-27}} {{Wayback|url=http://www.mir.co.jp/company/release/2016/10_227410.html |date=20170114185226 }}</ref>、2017年2月25日から4月9日までは第64編成を使用して運行された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mir.co.jp/company/release/2017/2_4_2017.html|title=春休み特別企画 2月25日(土)〜 4月9日(日)までの期間『TXチャギントン スタンプラリー2017』を開催!〜期間中、TXチャギントントレインを運行!!〜|publisher=首都圏新都市鉄道|date=2017-02-20|accessdate=2017-02-27}} {{Wayback|url=http://www.mir.co.jp/company/release/2017/2_4_2017.html |date=20170228075025 }}</ref><ref>[http://railf.jp/news/2017/02/26/192500.html つくばエクスプレスで「TXチャギントントレイン」運転] {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2017/02/26/192500.html |date=20170227232110 }} - 交友社『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース 2017年2月26日</ref>。 == 廃車 == 2次増備車である第71編成は2019年2月28日に発生したつくばエクスプレス総合基地構内での脱線事故により、被災したTX-2171とTX-2271が同年7月に廃車となった。またTX-2271とユニットを組んでいたTX-2371についても2020年3月24日付で廃車となった。残った3両については社員、乗務員が研修等で使用出来る「実物教材車」として使われている。その後、内装の一部が撤去され、その内装部品が[[TBSテレビ]]のテレビドラマ「[[ペンディングトレイン]]」の撮影に使用された。<ref>[https://twitter.com/TX_speefy_info/status/1659536692561465344 TX(つくばエクスプレス)を運営する首都圏新都市鉄道(株)の公式Twitterです。]</ref> == 不具合 == 1次増備車24両の床敷物は本来はアルミ材を敷いた上でゴム製の床敷物を貼り付けるものであるが<ref name="mlit20101115">[https://web.archive.org/web/20110323175351/https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo01_hh_000027.html 鉄道車両の床材料の交換指示について](国土交通省報道発表資料・インターネットアーカイブ)。</ref><ref name="mlit20101217">[https://web.archive.org/web/20110111140506/http://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo01_hh_000029.html 鉄道車両の床材料の改良計画について](国土交通省報道発表資料・インターネットアーカイブ)。</ref>、現車ではアルミ材が敷かれておらず、鉄道車両の火災対策基準を満たさないことから、[[国土交通省]]より改善指示が出された<ref name="mlit20101115"/><ref name="mlit20101217"/>。これに対し、首都圏新都市鉄道は[[2011年]]([[平成]]23年)度末までの予定で取り替えを回答している<ref name="mlit20101115"/><ref name="mlit20101217"/>。 2019年5月10日に、2次増備車である第73編成の全般・重要部検査を行った際に、主変換装置の機器吊り用レールの取り付け部においてひび割れが発見された<ref name="mir20190718">{{Cite web|和書|url=http://www.mir.co.jp/company/release/upload/13efa3fc120250e9abd5a4556a6ffd13_2.pdf |title=TX 交直流車の構体床板(機器吊り用レール)の不具合対策とその後について |publisher=首都圏新都市鉄道 |date=2019-07-18 |accessdate=2019-10-12 |format=PDF }} {{Wayback|url=http://www.mir.co.jp/company/release/upload/13efa3fc120250e9abd5a4556a6ffd13_2.pdf |date=20191012140950 }}</ref><ref name="response20190527">{{Cite news |url=https://response.jp/article/2019/05/27/322804.html |title=重要機器を固定するボルトを支えるパーツに異常…つくばエクスプレスのTX-2000系 |publisher=レスポンス |date=2019-05-27 |accessdate=2019-10-12 |archive-date=2019年10月12日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20191012140949/https://response.jp/article/2019/05/27/322804.html }}</ref>。これを受けてTX-2000系および[[首都圏新都市鉄道TX-1000系電車|TX-1000系]]の全編成について取り付け部を確認したところ、同じく2次増備車である第72編成においても同様のひび割れが発見された<ref name="mir20190718" /><ref name="response20190527" />。それ以外のTX-2000系およびTX-1000系の編成についてはひび割れがないことが確認された<ref name="mir20190718" /><ref name="response20190527" />。 その後、当該2編成の製造の過程において、車体側の機器吊り用レールの位置と主変換装置の取り付け穴位置が合わなかったのを修正するために矯正作業を行なった結果ひび割れが発生し、その状態で主変換装置を取り付けたため主変換装置の重量によりひび割れが拡大したとの調査結果が発表された<ref name="mir20190718" /><ref name="response20190719">{{Cite web|和書|url=https://response.jp/article/2019/07/19/324598.html |title=原因は製造過程に…不具合が発生したTX-2000系電車のその後 |publisher=レスポンス |date=2019-07-19 |accessdate=2019-10-12 }} {{Wayback|url=https://response.jp/article/2019/07/19/324598.html |date=20191012140952 }}</ref>。 不具合が発見された第72・73編成については直ちに営業線での運転が取りやめられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mir.co.jp/company/release/upload/2019.05.24_1.pdf |publisher=首都圏新都市鉄道 |title=TX 交直流車の構体床板(機器吊り用レール)の不具合について |date=2019-05-24 |accessdate=2019-10-12 |format=PDF }} {{Wayback|url=http://www.mir.co.jp/company/release/upload/2019.05.24_1.pdf |date=20191012140952 }}</ref>。機器吊り用レールの変形部分を除去し、正常な機器吊り用レールに補強材を追加した上で主変換装置を付け直す作業を実施し、検証試験で安全性を確認したため、順次運行を再開させるとした<ref name="mir20190718" /><ref name="response20190719" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]「[[鉄道ピクトリアル]]」 ** 2009年10月臨時増刊号鉄道車両年鑑2009年版「首都圏新都市鉄道TX-2000系増備車」(首都圏新都市鉄道(株)鉄道事業本部運輸部車両課 志田秀行 著) * [[交通新聞社]]「[[鉄道ダイヤ情報]]」 ** 2008年8月号「開業3周年を迎えるつくばエクスプレス(TX)」(首都圏新都市鉄道株式会社) * レールアンドテック出版「鉄道車両と技術」 ** No.192「つくばエクスプレスTX-2000系 2次増備車の概要」(森田雅義 首都圏新都市鉄道株式会社 技術部 車両課) * 日本鉄道車両機械技術協会「ROLLINGSTOCK&MACHINERY」 ** 2013年1月号研究と開発「TX-2000系 二次増備車の概要」(福士勝昭 首都圏新都市鉄道(株)鉄道事業本部技術部車両課) == 関連項目 == * [[首都圏新都市鉄道TX-1000系電車]] * [[首都圏新都市鉄道TX-3000系電車]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * [http://www.mir.co.jp/feature/about_tx/index.html#CAR つくばエクスプレス公式サイト内での車両紹介] {{首都圏新都市鉄道の車両}} {{デフォルトソート:しゆとけんしんとしてつとうTX-2000けいてんしや}} [[category:首都圏新都市鉄道の電車|2000]] [[Category:2003年製の鉄道車両|しゆとけんしんとし電TX2000]] [[Category:日立製作所製の電車]]
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紀元節
紀元節(きげんせつ)は、古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。日付は紀元前660年2月11日。1873年(明治6年)に定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。 1948年7月20日の「国民の祝日に関する法律」公布・施行により、紀元節を含む四大節は廃止された。1966年(昭和41年)に同じ2月11日が「建国記念の日」として国民の祝日となり、翌年から適用された。 2月11日の日付は、日本書紀で神武天皇が即位したとされる神武天皇元年(紀元前660年)1月1日の月日を、明治に入りグレゴリオ暦に換算したものである。 8世紀初めに編まれた『日本書紀』によれば、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔」であり、日付は正月朔日、すなわち1月1日となる。 しかし、明治5年11月15日(1872年12月15日)、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め(明治5年太政官布告第342号)、同日には「第一月廿九日」(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344号)。(新暦による表示である)1873年1月29日は、新暦(太陽暦:グレゴリオ暦)で旧暦(太陰太陽暦:天保暦)のまま変えなかったときの明治6年1月1日に当たる日付(並行して二つの暦を進めた時に重なる日)である。折柄、明治5年12月2日(1872年12月31日)の翌日をもって明治6年1月1日(1873年1月1日)とし、新暦が施行されることになっていた。 今般太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事 但當日服者参朝可憚事 第一月廿九日 神武天皇御即位相當日ニ付祝日ト被定例年御祭典被執行候事 1873年(明治6年)1月29日、神武天皇即位日を祝って、神武天皇御陵遙拝式が各地で行われた。同月、神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日)を祝日とする布告を出している。同年3月7日には、神武天皇即位日を「紀元節」と称することを定めた(明治6年太政官布告第91号)。 今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事 神武天皇御即位日紀元節ト被稱候事 ところで、これらの太政官布告に先立って、明治5年11月9日(1872年12月9日)に出されていた太陽暦を施行する旨の太政官布告では、祭典等の日付は、旧暦の月日を新暦の月日には換算せずまったく同じ数字になるように施行するものと定めていた(明治5年太政官布告第337号)。 (略) 一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事 (略) これは、祭典の執行日を新暦で固定し、毎年旧暦の月日から新暦の月日に換算する煩雑さを避けるための規定である。例えば、例年1月1日に新年を祝って行われる歳旦祭は、旧暦1月1日の新暦相当日ではなく新暦1月1日に行うということになる。 この規定の影響などもあって、紀元節は旧暦1月1日、すなわち旧正月を祝う祝日との誤解が国民のあいだに広まった。国民のこの反応を見て政府は、紀元節は神武天皇即位日を祝う祝日であるという理解が広まらないのではないかと考えた。また、1月29日では、孝明天皇の命日(慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった。 そこで、政府は、1873年(明治6年)10月14日、新たに神武天皇即位日を定め直し、2月11日を紀元節とした(明治6年太政官布告第344号)。 年中祭日祝日等ノ休暇日左ノ通候條此旨布告候事 (略) 孝明天皇祭 一月三十日 紀元節 二月十一日 神武天皇祭 四月三日 (略) 2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した。その具体的な計算方法は明らかにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。 干支紀年法は、後漢の元和2年(ユリウス暦85年)に三統暦を廃止して以降は、60の周期で単純に繰り返すようになっている。神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の編年(720年(養老4年)に成立)を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦(先発グレゴリオ暦)で紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」にならない。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日とした。なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。なお、現代の天文知識に基づき当時の月齢を計算すると、この日は天文上の朔に当たるが、これは天文上の朔にあわせるため、庚辰の日を即位日としたと考えられている。 紀元節には、宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行われた。1889年(明治22年)には、この日を期して大日本帝国憲法が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなった。1891年(明治24年)には小学校祝日大祭儀式規程(明治24年6月17日文部省令第4号)が定められ、天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などからなる儀式を小学校で行うことになった。1914年(大正3年)からは全国の神社で紀元節祭を行うこととなった。1926年(大正15年)からは青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになった。 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、片山哲内閣により、日本国憲法にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれていたが、連合国軍最高司令官総司令部により削除され、法は1948年(昭和23年)7月に施行された。日本が独立を回復した1952年(昭和27年)から復活運動がおき、1957年2月13日自民党纐纈弥三らは、建国記念日法案を国会に提出し、5月15日衆議院で可決(のち審議未了)、また1958年(昭和33年)に国会へ議案が提出された。その後、「紀元節」の復活に賛否両論あるなか数度の廃案と再提案を経て、1965年2月3日首相佐藤は全国知事会議で建国記念日は2月11日が適当、祝日法改正案は政府立法で国会に提出すると所信を表明、1966年(昭和41年)に、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」という趣旨の「建国記念の日」を定める国民の祝日に関する法律の改正が成立した。同改正法では、「建国記念の日」の具体的な日付について定めず、政令によって定めることとしていた。そのため、同年12月、佐藤栄作内閣は、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定めて、「建国記念の日」を2月11日とした。同政令は即日施行され、翌1967年(昭和42年)の2月11日に実施された。こうして、紀元節の祭日であった2月11日は、「建国記念の日」として祝日となった。 1966年12月8日建国記念日審議会は建国記念日を2月11日と答申し、12月9日公布された(政令)。 紀元節が祭日とされていたときには、その当日、宮中の賢所、皇霊殿、神殿では、紀元節祭が行われ、紀元節の祝宴も行われた。また、全国の神社においても、紀元節祭が行われた。 紀元節祭は、初めて紀元節とされた1873年(明治6年)1月29日に、宮中の皇霊殿において行われたのが最初である。このときには皇霊殿においてのみ祭祀が行われ、賢所には便りの御拝が行われただけであった。1914年(大正3年)から、全国の神社でも紀元節祭を行うように定められ、1927年(昭和2年)の皇室祭祀令の一部改正によって、賢所、皇霊殿、神殿の宮中三殿において行われるようになった。 皇室祭祀令が定める大祭のひとつで、天皇が皇族および官僚を率いて親ら祭典を行う。天皇の出御は午前9時30分で、御拝礼御告文を奏して入御。ついで皇后、皇太后の御拝、皇族の御拝がある。参列員は文武高官有爵者優遇者、勅任待遇までの官僚で、正午から午後3時30分まで、有資格者の参拝が許された。当夜は賢所御神楽の儀に準じて皇霊殿に御神楽の奏楽があり、このとき天皇が御拝して、入御ののち神楽に移った。天皇は、神楽が終わるまで就寝しなかった。伊勢神宮、官国幣社以下の神社においては、1914年(大正3年)から、中祭式で祭典が行われた。 1947年(昭和22年)5月2日の皇室祭祀令廃止、1948年(昭和23年)7月20日の休日ニ関スル件廃止を受けて、1949年(昭和24年)以降、大祭としての紀元節祭は行われなくなった。ただし、昭和天皇は同年より、2月11日に宮中三殿で臨時御拝(りんじぎょはい)として、旬祭と同じ作法で祭祀を行った。平成以降は三殿御拝に名称が改められ、同様に祭祀が行われている。橿原神宮へも勅使が派遣され、御神楽奉納は神武天皇祭(4月3日)に併せて行われている。 民間では、一部の有志によって建国祭などと名称を変えて式典が行われている。また、1967年(昭和42年)の建国記念の日制定以降、全国の神社でも再び紀元節祭が行われるようになった。神社本庁などから宮中での紀元節祭復活の要求があるが、宮内庁はこれを拒否している。右翼団体は21世紀にも建国記念の日に「紀元節」を奉祝する集会や街宣活動を日本各地で行う。 高崎正風作詞、伊沢修二作曲の唱歌「紀元節」が1888年(明治21年)に発表され、1893年(明治26年)には文部省によって祝日大祭日唱歌に選定された。 紀元節の2月11日という日付の由来については、「建武年間記」「建武年中行事」によると、延喜式神名帳筆頭にある宮中内の座神「韓神社」の祭りを、建武2年2月11日に後醍醐天皇が執り行ったことに由来するとする説がある。 紀元節の日には、社会事業奨励を目的に宮内省から、業績が顕著な病院(財団法人)等に対し、金一封が下賜された。また、都道府県単位で社会事業功労者、教育功労者、産業功労者等に対する表彰伝達が行われていた。表彰制度の多くは、第二次世界大戦後も続けられているが、表彰日は他の節目に行われる例も多くなった。 天皇の即位など節目の年の紀元節には恩赦が行われた。 具体的には1934年(昭和9年)の紀元節では明仁親王誕生を記念した恩赦が、1938年(昭和13年)の紀元節では憲法発布50年を記念した恩赦が行われている、当時服役していた五・一五事件の首謀者の例では、刑期をそれぞれの恩赦時に1/4減刑されるなどの恩恵を得ている。
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"干支紀年法は、後漢の元和2年(ユリウス暦85年)に三統暦を廃止して以降は、60の周期で単純に繰り返すようになっている。神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の編年(720年(養老4年)に成立)を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦(先発グレゴリオ暦)で紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」にならない。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日とした。なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。なお、現代の天文知識に基づき当時の月齢を計算すると、この日は天文上の朔に当たるが、これは天文上の朔にあわせるため、庚辰の日を即位日としたと考えられている。", "title": "紀元節の制定まで" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "紀元節には、宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行われた。1889年(明治22年)には、この日を期して大日本帝国憲法が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなった。1891年(明治24年)には小学校祝日大祭儀式規程(明治24年6月17日文部省令第4号)が定められ、天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などからなる儀式を小学校で行うことになった。1914年(大正3年)からは全国の神社で紀元節祭を行うこととなった。1926年(大正15年)からは青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになった。", "title": "制定後から「建国記念の日」に変わるまで" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、片山哲内閣により、日本国憲法にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれていたが、連合国軍最高司令官総司令部により削除され、法は1948年(昭和23年)7月に施行された。日本が独立を回復した1952年(昭和27年)から復活運動がおき、1957年2月13日自民党纐纈弥三らは、建国記念日法案を国会に提出し、5月15日衆議院で可決(のち審議未了)、また1958年(昭和33年)に国会へ議案が提出された。その後、「紀元節」の復活に賛否両論あるなか数度の廃案と再提案を経て、1965年2月3日首相佐藤は全国知事会議で建国記念日は2月11日が適当、祝日法改正案は政府立法で国会に提出すると所信を表明、1966年(昭和41年)に、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」という趣旨の「建国記念の日」を定める国民の祝日に関する法律の改正が成立した。同改正法では、「建国記念の日」の具体的な日付について定めず、政令によって定めることとしていた。そのため、同年12月、佐藤栄作内閣は、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定めて、「建国記念の日」を2月11日とした。同政令は即日施行され、翌1967年(昭和42年)の2月11日に実施された。こうして、紀元節の祭日であった2月11日は、「建国記念の日」として祝日となった。", "title": "制定後から「建国記念の日」に変わるまで" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1966年12月8日建国記念日審議会は建国記念日を2月11日と答申し、12月9日公布された(政令)。", "title": "制定後から「建国記念の日」に変わるまで" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "紀元節が祭日とされていたときには、その当日、宮中の賢所、皇霊殿、神殿では、紀元節祭が行われ、紀元節の祝宴も行われた。また、全国の神社においても、紀元節祭が行われた。", "title": "紀元節祭" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "紀元節祭は、初めて紀元節とされた1873年(明治6年)1月29日に、宮中の皇霊殿において行われたのが最初である。このときには皇霊殿においてのみ祭祀が行われ、賢所には便りの御拝が行われただけであった。1914年(大正3年)から、全国の神社でも紀元節祭を行うように定められ、1927年(昭和2年)の皇室祭祀令の一部改正によって、賢所、皇霊殿、神殿の宮中三殿において行われるようになった。", "title": "紀元節祭" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "皇室祭祀令が定める大祭のひとつで、天皇が皇族および官僚を率いて親ら祭典を行う。天皇の出御は午前9時30分で、御拝礼御告文を奏して入御。ついで皇后、皇太后の御拝、皇族の御拝がある。参列員は文武高官有爵者優遇者、勅任待遇までの官僚で、正午から午後3時30分まで、有資格者の参拝が許された。当夜は賢所御神楽の儀に準じて皇霊殿に御神楽の奏楽があり、このとき天皇が御拝して、入御ののち神楽に移った。天皇は、神楽が終わるまで就寝しなかった。伊勢神宮、官国幣社以下の神社においては、1914年(大正3年)から、中祭式で祭典が行われた。", "title": "紀元節祭" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)5月2日の皇室祭祀令廃止、1948年(昭和23年)7月20日の休日ニ関スル件廃止を受けて、1949年(昭和24年)以降、大祭としての紀元節祭は行われなくなった。ただし、昭和天皇は同年より、2月11日に宮中三殿で臨時御拝(りんじぎょはい)として、旬祭と同じ作法で祭祀を行った。平成以降は三殿御拝に名称が改められ、同様に祭祀が行われている。橿原神宮へも勅使が派遣され、御神楽奉納は神武天皇祭(4月3日)に併せて行われている。", "title": "紀元節祭" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "民間では、一部の有志によって建国祭などと名称を変えて式典が行われている。また、1967年(昭和42年)の建国記念の日制定以降、全国の神社でも再び紀元節祭が行われるようになった。神社本庁などから宮中での紀元節祭復活の要求があるが、宮内庁はこれを拒否している。右翼団体は21世紀にも建国記念の日に「紀元節」を奉祝する集会や街宣活動を日本各地で行う。", "title": "紀元節祭" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "高崎正風作詞、伊沢修二作曲の唱歌「紀元節」が1888年(明治21年)に発表され、1893年(明治26年)には文部省によって祝日大祭日唱歌に選定された。", "title": "唱歌「紀元節」" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "紀元節の2月11日という日付の由来については、「建武年間記」「建武年中行事」によると、延喜式神名帳筆頭にある宮中内の座神「韓神社」の祭りを、建武2年2月11日に後醍醐天皇が執り行ったことに由来するとする説がある。", "title": "諸説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "紀元節の日には、社会事業奨励を目的に宮内省から、業績が顕著な病院(財団法人)等に対し、金一封が下賜された。また、都道府県単位で社会事業功労者、教育功労者、産業功労者等に対する表彰伝達が行われていた。表彰制度の多くは、第二次世界大戦後も続けられているが、表彰日は他の節目に行われる例も多くなった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "天皇の即位など節目の年の紀元節には恩赦が行われた。 具体的には1934年(昭和9年)の紀元節では明仁親王誕生を記念した恩赦が、1938年(昭和13年)の紀元節では憲法発布50年を記念した恩赦が行われている、当時服役していた五・一五事件の首謀者の例では、刑期をそれぞれの恩赦時に1/4減刑されるなどの恩恵を得ている。", "title": "その他" } ]
紀元節(きげんせつ)は、古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。日付は紀元前660年2月11日。1873年(明治6年)に定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。 1948年7月20日の「国民の祝日に関する法律」公布・施行により、紀元節を含む四大節は廃止された。1966年(昭和41年)に同じ2月11日が「建国記念の日」として国民の祝日となり、翌年から適用された。 2月11日の日付は、日本書紀で神武天皇が即位したとされる神武天皇元年(紀元前660年)1月1日の月日を、明治に入りグレゴリオ暦に換算したものである。
{{皇室祭祀}} '''紀元節'''(きげんせつ)は、[[古事記]]や[[日本書紀]]で[[日本]]の初代[[天皇]]とされる[[神武天皇]]の[[即位]]日をもって定めた[[祝日]]。日付は[[紀元前660年]][[2月11日]]。[[1873年]]([[明治]]6年)に定められた。かつての[[祝祭日]]の中の[[祝祭日#祝日|四大節]]の一つ<ref>[[四大節]]は、旧制度の4つの祭日で、紀元節(2月11日)、[[元日|四方節]](1月1日)、[[天皇誕生日#近世・現代|天長節]]、[[明治節]]を指す。</ref>。 1948年7月20日の「[[国民の祝日に関する法律]]」公布・施行により、紀元節を含む四大節は廃止された<ref>{{Cite journal|和書|author=小野雅章 |date=2021-03 |url=https://doi.org/10.20554/nihondaigakukyouikugakkai.57.0_1 |title=象徴天皇制下における祝日学校儀式の展開過程 : 復古的天皇観と象徴天皇観との相克 |journal=教育學雑誌 |ISSN=02884038 |publisher=日本大学教育学会 |volume=57 |page=1 |doi=10.20554/nihondaigakukyouikugakkai.57.0_1 |id={{CRID|1390850578954444160}}}}</ref>。[[1966年]](昭和41年)に同じ2月11日が「'''[[建国記念の日]]'''」として[[国民の祝日]]となり、翌年から適用された。 2月11日の日付は、[[日本書紀]]で[[神武天皇即位紀元|神武天皇が即位したとされる神武天皇元年]]([[紀元前660年]])[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]の月日を、[[明治]]に入り[[グレゴリオ暦]]に換算したものである。 == 紀元節の制定まで == [[8世紀]]初めに編まれた『[[日本書紀]]』によれば、[[神武天皇]]の即位日は「[[辛酉]]年春正月、[[庚辰]][[朔]]」であり、日付は正月朔日、すなわち'''[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]'''となる。 {{Quotation| 辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮|『日本書紀』卷第三、神武紀}} しかし、[[明治5年]][[11月15日 (旧暦)|11月15日]]([[1872年]][[12月15日]])、明治政府は[[神武天皇]]の即位をもって「紀元」と定め(明治5年[[太政官布告]]第342号)、同日には「第一月廿九日」('''1月29日''')を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344号)。(新暦による表示である)[[1873年]][[1月29日]]は、[[新暦]]([[太陽暦]]:[[グレゴリオ暦]])で[[旧暦]]([[太陰太陽暦]]:[[天保暦]])のまま変えなかったときの[[明治6年]]'''1月1日'''に当たる日付(並行して二つの暦を進めた時に重なる日)である。折柄、明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]([[1872年]][[12月31日]])の翌日をもって明治6年[[1月1日]](1873年1月1日)とし、新暦が施行されることになっていた。 {{Quotation| 今般太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事<br /> 但當日服者<ref>「服者」(ぶくしゃ)とは、近親が死んだために、喪に服している者のこと。</ref>参朝可憚事 |「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)|<ref>[{{NDLDC|787952/198}} 内閣官報局編『法令全書』、国立国会図書館・近代デジタルライブラリー]</ref>}} {{Quotation| 第一月廿九日 神武天皇御即位相當日ニ付祝日ト被定例年御祭典被執行候事 |「神武天皇御即位祝日例年御祭典」(明治5年太政官布告第344号)}} [[1873年]](明治6年)1月29日、神武天皇即位日を祝って、神武天皇御陵遙拝式が各地で行われた。同月、神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日)を祝日とする布告を出している。同年3月7日には、神武天皇即位日を「'''紀元節'''」と称することを定めた(明治6年太政官布告第91号)。 {{Quotation| 今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事 |「五節ヲ廃シ祝日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第1号)}} {{Quotation| 神武天皇御即位日紀元節ト被稱候事 |「神武天皇御即位日紀元節ト稱セラル」(明治6年太政官布告第91号)}} ところで、これらの太政官布告に先立って、明治5年11月9日(1872年12月9日)に出されていた[[太陽暦]]を施行する旨の太政官布告では、祭典等の日付は、旧暦の月日を新暦の月日には換算せずまったく同じ数字になるように施行するものと定めていた(明治5年太政官布告第337号)。 : {{Quotation| (略)<br /> 一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事<br /> (略) |「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号)抜粋}} これは、祭典の執行日を新暦で固定し、毎年旧暦の月日から新暦の月日に換算する煩雑さを避けるための規定である。例えば、例年1月1日に新年を祝って行われる[[歳旦祭]]は、旧暦1月1日の新暦相当日ではなく新暦1月1日に行うということになる。 この規定の影響などもあって、紀元節は旧暦1月1日、すなわち[[旧正月]]を祝う祝日との誤解が国民のあいだに広まった。国民のこの反応を見て政府は、紀元節は神武天皇即位日を祝う祝日であるという理解が広まらないのではないかと考えた。また、1月29日では、[[孝明天皇]]の命日([[慶応]]2年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]](1867年[[1月30日]])、孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった<ref>この不都合を回避するため、[[1873年]]([[明治]]6年)の「孝明天皇御例祭」(孝明天皇の命日の祭祀)は、1月23日と定められた。</ref>。 そこで、政府は、[[1873年]](明治6年)10月14日、新たに神武天皇即位日を定め直し、'''2月11日'''を紀元節とした(明治6年太政官布告第344号)。 {{Quotation| 年中祭日祝日等ノ休暇日左ノ通候條此旨布告候事<br /> (略)<br /> 孝明天皇祭 一月三十日<br /> 紀元節 二月十一日<br /> 神武天皇祭 四月三日<br /> (略) |「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344号)}} 2月11日という日付は、[[文部省]]天文局が算出し、暦学者の[[塚本明毅]]が審査して決定した。その具体的な計算方法は明らかにされていないが、当時の説明では「[[干支]]に相より簡法相立て」としている。 [[干支#干支紀年法|干支紀年法]]は、[[後漢]]の[[元和 (漢)|元和]]2年([[ユリウス暦]][[85年]])に[[三統暦]]を廃止して以降は、60の周期で単純に繰り返すようになっている<ref>[[三統暦]]までは[[木星]]の運行を考慮する「超辰法」が用いられた。</ref>。[[神武天皇]]の即位年の「辛酉年」は『[[日本書紀]]』の編年([[720年]](養老4年)に成立)を元に計算すると[[西暦]][[紀元前660年]]に相当し、即位月は「春正月」であることから[[立春]]の前後であり、即位日の[[干支]]は「庚辰」である。そこで[[西暦]]([[先発グレゴリオ暦]])で[[紀元前660年]]の[[立春]]に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」にならない。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日とした。なお、『日本書紀』はこの日が「[[朔]]」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。なお、現代の天文知識に基づき当時の[[月齢]]を計算すると、この日<ref>天文学上の記法では−659年2月18日、[[ユリウス通日]]は1480407、[[ユリウス暦]]では紀元前660年2月18日となる。</ref>は天文上の朔に当たるが、これは天文上の朔にあわせるため、庚辰の日を即位日としたと考えられている。 == 制定後から「建国記念の日」に変わるまで == {{Main|建国記念の日}} 紀元節には、宮中[[皇霊殿]]で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行われた。[[1889年]](明治22年)には、この日を期して[[大日本帝国憲法]]が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなった。[[1891年]](明治24年)には小学校祝日大祭儀式規程(明治24年[[6月17日]]文部省令第4号)が定められ、天皇皇后の[[御真影]](写真)に対する最[[敬礼]]と万歳奉祝、校長による[[教育勅語]]の奉読などからなる儀式を小学校で行うことになった。[[1914年]](大正3年)からは全国の神社で紀元節祭を行うこととなった。[[1926年]](大正15年)からは[[青年団]]や[[在郷軍人会]]などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになった。 [[第二次世界大戦]]後の[[1947年]](昭和22年)、[[片山哲]]内閣により、[[日本国憲法]]にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれていたが、[[連合国軍最高司令官総司令部]]により削除され、法は[[1948年]](昭和23年)7月に施行された。日本が独立を回復した[[1952年]](昭和27年)から復活運動がおき、1957年2月13日自民党[[纐纈弥三]]らは、建国記念日法案を国会に提出し、5月15日衆議院で可決(のち審議未了)、また[[1958年]](昭和33年)に国会へ議案が提出された。その後、「紀元節」の復活に賛否両論<ref>たとえば、[[三笠宮崇仁親王]]は、科学的根拠に欠けると歴史学者としての立場から復活に批判的であった。</ref>あるなか数度の廃案と再提案を経て、1965年2月3日首相佐藤は全国知事会議で建国記念日は2月11日が適当、祝日法改正案は政府立法で国会に提出すると所信を表明、[[1966年]](昭和41年)に、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」という趣旨の「建国記念の日」を定める[[国民の祝日に関する法律]]の改正が成立した。同改正法では、「建国記念の日」の具体的な日付について定めず、[[政令]]によって定めることとしていた。そのため、同年12月、[[第2次佐藤内閣 (第1次改造)|佐藤栄作内閣]]は、[[s:建国記念の日となる日を定める政令|建国記念の日となる日を定める政令]](昭和41年政令第376号)を定めて、「建国記念の日」を2月11日とした。同政令は即日施行され、翌[[1967年]](昭和42年)の2月11日に実施された。こうして、紀元節の祭日であった2月11日は、「建国記念の日」として祝日となった。 1966年12月8日建国記念日審議会は建国記念日を2月11日と答申し、12月9日公布された(政令)。 == 紀元節祭 == 紀元節が祭日とされていたときには、その当日、宮中の賢所、皇霊殿、神殿では、紀元節祭が行われ、紀元節の祝宴も行われた。また、全国の神社においても、紀元節祭が行われた。 紀元節祭は、初めて紀元節とされた1873年(明治6年)1月29日に、宮中の皇霊殿において行われたのが最初である。このときには皇霊殿においてのみ祭祀が行われ、賢所には便りの御拝が行われただけであった。1914年(大正3年)から、全国の神社でも紀元節祭を行うように定められ、1927年(昭和2年)の[[皇室祭祀令]]の一部改正によって、賢所、皇霊殿、神殿の宮中三殿において行われるようになった。 皇室祭祀令が定める大祭のひとつで、天皇が皇族および官僚を率いて親ら祭典を行う。天皇の出御は午前9時30分で、御拝礼御告文を奏して入御。ついで皇后、皇太后の御拝、皇族の御拝がある。参列員は文武高官有爵者優遇者、勅任待遇までの官僚で、正午から午後3時30分まで、有資格者の参拝が許された。当夜は賢所御神楽の儀に準じて皇霊殿に御神楽の奏楽があり、このとき天皇が御拝して、入御ののち神楽に移った。天皇は、神楽が終わるまで就寝しなかった。[[伊勢神宮]]、官国幣社以下の神社においては、1914年(大正3年)から、中祭式で祭典が行われた。 [[1947年]](昭和22年)5月2日の[[皇室祭祀令]]廃止、[[1948年]](昭和23年)7月20日の[[休日ニ関スル件]]廃止を受けて、[[1949年]](昭和24年)以降、大祭としての紀元節祭は行われなくなった<ref>大岡弘「『元始祭』並びに『紀元節祭』創始の思想的源流と二祭処遇の変遷について」『明治聖徳記念学会紀要』、復刊第46号、2009年、p113</ref>。ただし、昭和天皇は同年より、2月11日に宮中三殿で'''臨時御拝'''(りんじぎょはい)として、旬祭と同じ作法で祭祀を行った<ref>大岡弘「『元始祭』並びに『紀元節祭』創始の思想的源流と二祭処遇の変遷について」『明治聖徳記念学会紀要』、復刊第46号、2009年、p113</ref>。平成以降は'''三殿御拝'''に名称が改められ、同様に祭祀が行われている<ref>{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/searchresult.html?q=宮中祭祀のお出まし|title=宮中祭祀のお出まし|publisher=宮内庁 |accessdate=2023-10-25}}</ref>。[[橿原神宮]]へも勅使が派遣され<ref>[http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/888 「皇室祭祀と建国の心」] 日本会議</ref>、御神楽奉納は[[神武天皇祭]](4月3日)に併せて行われている。 民間では、一部の有志によって建国祭などと名称を変えて式典が行われている。また、[[1967年]](昭和42年)の建国記念の日制定以降、全国の神社でも再び紀元節祭が行われるようになった。[[神社本庁]]などから宮中での紀元節祭復活の要求があるが、宮内庁はこれを拒否している。[[日本の右翼団体|右翼団体]]は21世紀にも[[建国記念の日]]に「紀元節」を奉祝する集会や[[街宣活動]]を日本各地で行う<ref>[https://www.moj.go.jp/psia/201702naigai.html 最近の内外情勢 2017年2月]</ref><ref>[https://www.moj.go.jp/content/001311500.pdf#page=79 内外情勢の回顧と展望 令和二年(二〇二〇年)一月]</ref>。 == 唱歌「紀元節」 == {{Wikisource|祝日大祭日歌詞並楽譜}} [[高崎正風]]作詞、[[伊沢修二]]作曲の唱歌「紀元節」が[[1888年]](明治21年)に発表され、[[1893年]](明治26年)には文部省によって祝日大祭日唱歌に選定された。 {{Quotation|一、雲にそびゆる髙ちほの髙ねおろしに艸も木も<br>  なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ<br>二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき<br>  めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ<br>三、天つひつぎの髙みくら千代よろづ世に動きなき<br>  もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ<br>四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき<br>  國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ|紀元節 高崎正風}} == 諸説 == 紀元節の2月11日という日付の由来については、「建武年間記」「建武年中行事」によると、[[延喜式神名帳]]筆頭にある宮中内の座神「[[園韓神社|韓神社]]」の祭りを、建武2年2月11日に[[後醍醐天皇]]が執り行ったことに由来するとする説がある<ref name="shokiangou1990">{{Cite book|和書|author=林青梧|year=1990|title=「日本書紀」の暗号―真相の古代史|publisher=講談社|location=日本|isbn=4062049635}}</ref>。 ==その他== 紀元節には、[[社会事業]]奨励を目的に[[宮内省]]から、業績が顕著な病院(財団法人)等に対し、金一封が下賜された<ref>富山市史編纂委員会編『富山市史 第二編』(p842)1960年4月 富山市史編纂委員会</ref>。また、都道府県単位で社会事業功労者、教育功労者、産業功労者等に対する表彰伝達が行われていた<ref>富山市史編纂委員会編『富山市史 第二編』(p900)1960年4月 富山市史編纂委員会</ref>。表彰制度の多くは、第二次世界大戦後も続けられているが、表彰日は他の節目に行われる例も多くなった。 天皇の即位など節目の年の紀元節には[[恩赦]]が行われた。 具体的には[[1934年]](昭和9年)の紀元節では明仁親王誕生を記念した恩赦が、[[1938年]](昭和13年)の紀元節では憲法発布50年を記念した恩赦が行われている、当時服役していた[[五・一五事件]]の首謀者の例では、刑期をそれぞれの恩赦時に1/4減刑されるなどの恩恵を得ている<ref>山岸ら海軍側の三人も仮出所『東京朝日新聞』(昭和13年2月2日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p133 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *日本文化研究会『神武天皇紀元論・紀元節の正しい見方』立花書房、[[1958年]](昭和33年)3月。 == 関連項目 == *[[神武天皇即位紀元]] *[[グレゴリオ暦]] *[[橿原神宮]] - [[例祭]]([[大祭]])である紀元祭が斎行される。 *[[上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きけんせつ}} [[Category:日本の皇室]] [[Category:戦前日本の祝祭日]] [[Category:2月]]
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周(しゅう、拼音: Zhōu、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、古代中国の王朝。国姓は姫。当初は殷(商)の従属国だったが、紀元前1046年に革命戦争(牧野の戦い)で殷を倒し周王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都までを西周、遷都から秦に滅ぼされるまでを東周(春秋戦国時代)と区分される。 周の歴史は春秋時代以降に成立した書経や『史記』などに記されていて、かつては周代に関する研究やイメージのほとんどはそれらを準拠したものであった。一方で、現代では考古学調査の進展により、史書において知ることができなかった数々の新事実が判明し、人々の周代へのイメージは急速に変遷しつつある。 周国の伝説上の始祖は后稷であり、五帝の舜に仕えて、農政に功績があったという。 古公亶父の時代に周の地に定住したとされる。古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴に息子が誕生する際、さまざまな瑞祥(吉兆。聖人が生まれる際に起こるとされる)が起こったため、古公亶父は「わが子孫のうち最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。その期待を察した太伯と虞仲は、季歴に継承権を譲るため自発的に出奔した。南方の僻地に赴いた太伯は句呉と号して国を興し、その地の蛮族(荊蛮)は皆これに従った。なお、この南方の僻地は日本だったという伝説もある(太伯・虞仲#日本に関する伝承)。周王朝の祖である后稷の母である姜嫄の「姜」は「羌」と同じで、 このことから周は元々羊の遊牧文化を持つ非定住農耕民であったという説がある。 中国戦国時代の儒学者である孟子は『孟子』において、「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として、舜は「東夷」の人、文王は「西夷」の人であると述べている。 遺跡からの出土品に記された銘文の中での周は、殷の外地に位置する方国の一つとして位置付けられ、時には殷による征伐の対象となった、しかし一方で、周に命令を下した甲骨文や「周侯」と記された甲骨文も残されており、周は殷に服属していたことを表している。また、殷王の妃に「婦周」という人物が見るため、周は武丁期以降に殷への服属と通婚を経て、殷王室の親族の一つとして上層貴族の地位を獲得し、言語文化信仰を殷と同じくするようになっていったと考えられる。また、周王(文王あるいは武王)は、帝乙の宗廟で殷王朝初代の湯王を祀っている。 季歴の息子姫昌(後の文王)が王位を継ぐと、古公亶父の期待通り周国を繁栄させ、ついには宗主国の殷から「西伯」の地位を賜るにいたる。姫昌と同時代の殷の紂王は暴君だったため、諸侯は姫昌に頼って革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。 姫昌の死後、後を継いだ姫発(武王)は、周公旦・太公望・召公奭ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、前1046年に革命戦争(牧野の戦い)を起こす。武王は殷の紂王に打ち克ち(克殷)、周王朝を創始した。 武王は建国後すぐに死去する。後を継いだ成王(在位:前1042年 - 前1021年)は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱)。周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。 成王の後を継いだのが康王(在位:前1020年 - 前996年)である。康王は召公奭と畢公高を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。 その後は徐々に衰退する。4代目の昭王(在位:前995年 - 前977年)は南方へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。5代目の穆王(在位:前976年 - 前922年)以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。 6代共王(在位:前922年 - 前900年)、7代懿王(在位:前899年 - 前892年)、8代孝王(在位:前891年 - 前886年)、そして9代目の夷王(在位:前885年 - 前878年)までの王は影が薄いが、この時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た。しかし、夷王は紀侯(中国語版)靖公の讒言を信じて斉の哀公を釜茹での刑(烹)に処しており、その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった。 10代厲王(在位:前877年 - 前841年)は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在のあいだ、周定公と召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。ちなみに、現代において英語の「republic」を「共和制」と訳すのは、この故事を由来としている(共和制#語源・用法)。なお、実際は「共に和して」ではなく、「共伯和」という名の人物(「共」を封地または諡号として「伯」の爵位を持つ「和」という名の人物)が執政したので、それを略して「共和」と呼んだ、という説もある。 やがて大臣らは太子静(11代宣王、在位:前827-前782)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、宣王中興と呼ばれた。しかし宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。12代幽王(在位:前781年 - 前771年)の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、申侯の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、褒姒の子の伯服(中国語版)(伯盤)も殺されてしまう。(申侯の乱)。そこで、次代として携王(在位:前770年 - 前750年)が即位した。これに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王(在位:前771年 - 前720年)として立てて対立した。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。 春秋時代の周は、往時と比するべくもない程まで没落した。平王の孫である桓王は王権の再強化を図ったが、繻葛の戦い(中国語版)(前707年)で一諸侯に過ぎない鄭に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。 さらに、王室内で幾度も王位継承争いが発生したために周王室の力は弱体化し、洛邑(王城・成周)周辺のみを支配する小国となっていった。現代の湖北省随州市付近にあった曽(中国語版)の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。周王室側も覇者をはじめとする諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主催する立場の維持を図った。 しかし、その権威も春秋時代後半からは低下していった。例えば春秋時代の秦の景公の墓の出土品の銘文では秦の君主を本来周王の称号であったはずの「天子」と称している。また孔子の登場以降、西周の時代を理想化した礼制の整備が儒家や諸侯によって行われていくが、それらに対して周王室は全く主導権を発揮しておらず、祭祀を主催する立場すら失っていた。 戦国時代に入ると、かつての覇者・晋や太公望の子孫である斉(姜斉)といった周王室と歴史的に結びつきが強い諸侯が滅び、周王の権威や存在意義はますます低下していった。魏の惠王は「夏王」・「天子」を称し、周王朝に取って代わる意思を示すほどであった。東周23代目の王顕王は秦に対して春秋時代に覇者に対して行っていた儀礼を行うことで、秦の保護を受けようとしたが、既に春秋時代に天子を称していた秦の恵文王は王を称し、後には七雄の諸侯のみならず小国の宋や北辺の中山国の君主までもが王を称するようになった。秦の昭襄王と田斉の湣王に至っては一時「西帝」「東帝」と帝号を称した。 周王室の力は上述のように衰微し、影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定されていた。ただでさえ衰えていた周王室であるが、末期には貞定王の末子掲(桓公(中国語版))を始祖とする西周公(武公(中国語版))とそこから分裂した東周君(昭文君)の勢力によって分裂していた。周王朝最後の王である赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都し、元の成周は東周君が支配した。周王室の領土は東西に分裂し、狭い範囲で互いに争い合う有様であった。 赧王の在位は59年に及んだが紀元前256年、西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害したため秦の将軍楊摎の攻撃を受けた。西周の文公(武公の子)は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入ったがまもなく崩御し、程なくして西周の文公も死去した。西周の文公が死去すると、その民は堰を切ったように東周へ逃亡し、秦は九鼎と周王室の宝物を接収し、文公の子を移した。こうして、秦が王畿を占拠したことで、西周と周王室本家は滅亡することとなった。 その後も昭文君の東周は7年間存続したが、紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされた。『史記』の秦本紀では昭文君は殺されたと伝えられているが、東周君に土地を与えて周の祭祀を続けさせたとも書かれており、この場合昭文君の子が封じられたと考えられる。 秦の始皇帝の死後、すなわち楚漢戦争期には、各地で戦国諸侯の王族が再び擁立されたが、周の末裔を擁立して周王室を復興しようという動きはなかった。 前漢の武帝以降、儒学が尊重されるようになると、周王室の子孫も尊重されるようになり、姫嘉(中国語版)という人物が周子南君(中国語版)に封じられた。姫嘉の子孫は元帝の時代には周承休侯へ昇格され、平帝の時には鄭公に、後漢の光武帝の時代には衛公に封じられている。 周の官制については周の諸制度について周公旦が纏めたとされる『周礼』に非常に詳しい記述があるが、この書物の成立は戦国時代以降と見られているのでこれを以って周の官制を論ずるには無理がある。金文によると周には卿事寮(けいじりょう)・太史寮(たいしりょう)と呼ばれる2つの組織があった。卿事寮の長官は太保・太師の2つがあり、のちに太師だけになる。下に司馬(軍事担当)・司土(司徒、土地管理担当)・司工(司空)の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった。太史寮の長官を太史と呼び、歴史の編纂・各種儀礼・祭祀などを行う。 身分制度については『春秋左氏伝』によると、王の下に諸侯がおり、その下に大夫(たいふ)と呼ばれる一種の貴族層があり、その下に士と呼ばれる層があり、その下が庶民となっている。ただし大夫と士と言う階級は金文には無い。前述したように取引される対象である一種の奴隷階層があったことは間違いなく、主に主人に代わって農作業を行っていた。この中には職工と思われる職もあり、青銅器の鋳造に関わっていたと考えられる。 土地制度については井田制が行われていたとされるが、この制度も実際に行われていたかは疑問視する声が多い。。 王国維は「殷周制度論」において、殷と周の間で諸制度の大変革があり、周の制度は周公によって定められたと主張したが、実際は、周王朝は殷王朝の礼制を踏襲し、その基礎の元に発展させていったことが、遺跡やそこから出土する青銅器によって判明している。礼制に変革が起こったのは、西周後半期であると考えられる。 殷は武丁や帝乙のように、十干で祖先を呼ぶ十干諡号を使用していた。従来の研究では、周の人は十干で祖先を呼ぶことはなく、西周期に金文において十干諡号を用いているのは殷系の人々であると考えられていた。しかし、河南省平頂山市応国墓地八号墓で出土した「05応公鼎」の銘文には、応公の号として「珷帝日丁」と見え、『春秋左氏伝』僖公二十四年の記述によれば、応国の君は武王の子孫とされているため、「珷帝日丁」とは武王のことを指してあり、周が殷と同様に十干諡号を有していたことになる。 また、2008年から2010年にかけて、山東省高青県陳荘村で西周斉国の貴族の墓群が発掘されたが、18号墓からは「祖甲斉公」という銘文が記された青銅器が発見されている。この銘文は、十干諡号を用いているのが注目される。『史記』斉太公世家によると、斉の国君は2代目の丁公から4代目の癸公まで十干諡号を用いており、佐藤信弥は、これを初代斉侯の号であると主張した。 殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。 この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。 またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。 これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。 建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。 投壺(とうこ)が始まったのも周代とされる。 殷代から春秋時代にかけての華北は、邑と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。殷代、西周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。 東周時代には、外壁が強化され、内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、つまり、「内城外郭式」がとられるようになった。華北の城壁は、無尽蔵にある黄土を木の枠にしっかりとつき固め、堅い層を作りそれを重ねてゆく版築という工法によって築造されている。こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となる。水には弱いが、もともと華北は雨量が少ない上、磚と呼ばれる、黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い防水加工を施すため、あまり水の浸食を受けることもない。人為的破壊が無い限り城壁はかなり長い寿命を維持することができる。 邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。彼らは「夷」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、略奪を行った。また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って武力を用いた紛争が行われていた。こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に政治的に従属するようになっていった。さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともにそれまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って中央から役人が派遣されて統治を受ける「県」へと変えられていった。こうして、春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は、都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。 史記三世表には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。 山西省で発見された周代倗国(中国語版)遺跡の人骨からは、ハプログループQ (Y染色体)が約59%の高頻度で観測された。なお、現代漢民族の晋語話者にも約14%程度のパプログループQが観測されている。 一部の周代諸侯国にハプログループQの集団が存在したことも考えられる。
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"中国戦国時代の儒学者である孟子は『孟子』において、「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として、舜は「東夷」の人、文王は「西夷」の人であると述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "遺跡からの出土品に記された銘文の中での周は、殷の外地に位置する方国の一つとして位置付けられ、時には殷による征伐の対象となった、しかし一方で、周に命令を下した甲骨文や「周侯」と記された甲骨文も残されており、周は殷に服属していたことを表している。また、殷王の妃に「婦周」という人物が見るため、周は武丁期以降に殷への服属と通婚を経て、殷王室の親族の一つとして上層貴族の地位を獲得し、言語文化信仰を殷と同じくするようになっていったと考えられる。また、周王(文王あるいは武王)は、帝乙の宗廟で殷王朝初代の湯王を祀っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "季歴の息子姫昌(後の文王)が王位を継ぐと、古公亶父の期待通り周国を繁栄させ、ついには宗主国の殷から「西伯」の地位を賜るにいたる。姫昌と同時代の殷の紂王は暴君だったため、諸侯は姫昌に頼って革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "姫昌の死後、後を継いだ姫発(武王)は、周公旦・太公望・召公奭ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、前1046年に革命戦争(牧野の戦い)を起こす。武王は殷の紂王に打ち克ち(克殷)、周王朝を創始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "武王は建国後すぐに死去する。後を継いだ成王(在位:前1042年 - 前1021年)は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱)。周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "成王の後を継いだのが康王(在位:前1020年 - 前996年)である。康王は召公奭と畢公高を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その後は徐々に衰退する。4代目の昭王(在位:前995年 - 前977年)は南方へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。5代目の穆王(在位:前976年 - 前922年)以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "6代共王(在位:前922年 - 前900年)、7代懿王(在位:前899年 - 前892年)、8代孝王(在位:前891年 - 前886年)、そして9代目の夷王(在位:前885年 - 前878年)までの王は影が薄いが、この時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た。しかし、夷王は紀侯(中国語版)靖公の讒言を信じて斉の哀公を釜茹での刑(烹)に処しており、その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "10代厲王(在位:前877年 - 前841年)は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在のあいだ、周定公と召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。ちなみに、現代において英語の「republic」を「共和制」と訳すのは、この故事を由来としている(共和制#語源・用法)。なお、実際は「共に和して」ではなく、「共伯和」という名の人物(「共」を封地または諡号として「伯」の爵位を持つ「和」という名の人物)が執政したので、それを略して「共和」と呼んだ、という説もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "やがて大臣らは太子静(11代宣王、在位:前827-前782)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、宣王中興と呼ばれた。しかし宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。12代幽王(在位:前781年 - 前771年)の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、申侯の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、褒姒の子の伯服(中国語版)(伯盤)も殺されてしまう。(申侯の乱)。そこで、次代として携王(在位:前770年 - 前750年)が即位した。これに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王(在位:前771年 - 前720年)として立てて対立した。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "春秋時代の周は、往時と比するべくもない程まで没落した。平王の孫である桓王は王権の再強化を図ったが、繻葛の戦い(中国語版)(前707年)で一諸侯に過ぎない鄭に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", 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"王国維は「殷周制度論」において、殷と周の間で諸制度の大変革があり、周の制度は周公によって定められたと主張したが、実際は、周王朝は殷王朝の礼制を踏襲し、その基礎の元に発展させていったことが、遺跡やそこから出土する青銅器によって判明している。礼制に変革が起こったのは、西周後半期であると考えられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "殷は武丁や帝乙のように、十干で祖先を呼ぶ十干諡号を使用していた。従来の研究では、周の人は十干で祖先を呼ぶことはなく、西周期に金文において十干諡号を用いているのは殷系の人々であると考えられていた。しかし、河南省平頂山市応国墓地八号墓で出土した「05応公鼎」の銘文には、応公の号として「珷帝日丁」と見え、『春秋左氏伝』僖公二十四年の記述によれば、応国の君は武王の子孫とされているため、「珷帝日丁」とは武王のことを指してあり、周が殷と同様に十干諡号を有していたことになる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、2008年から2010年にかけて、山東省高青県陳荘村で西周斉国の貴族の墓群が発掘されたが、18号墓からは「祖甲斉公」という銘文が記された青銅器が発見されている。この銘文は、十干諡号を用いているのが注目される。『史記』斉太公世家によると、斉の国君は2代目の丁公から4代目の癸公まで十干諡号を用いており、佐藤信弥は、これを初代斉侯の号であると主張した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "投壺(とうこ)が始まったのも周代とされる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "殷代から春秋時代にかけての華北は、邑と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。殷代、西周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。", "title": "都市と領土" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "東周時代には、外壁が強化され、内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、つまり、「内城外郭式」がとられるようになった。華北の城壁は、無尽蔵にある黄土を木の枠にしっかりとつき固め、堅い層を作りそれを重ねてゆく版築という工法によって築造されている。こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となる。水には弱いが、もともと華北は雨量が少ない上、磚と呼ばれる、黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い防水加工を施すため、あまり水の浸食を受けることもない。人為的破壊が無い限り城壁はかなり長い寿命を維持することができる。", "title": "都市と領土" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。彼らは「夷」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、略奪を行った。また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って武力を用いた紛争が行われていた。こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に政治的に従属するようになっていった。さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともにそれまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って中央から役人が派遣されて統治を受ける「県」へと変えられていった。こうして、春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は、都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。", "title": "都市と領土" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "史記三世表には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。", "title": "都市と領土" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "山西省で発見された周代倗国(中国語版)遺跡の人骨からは、ハプログループQ (Y染色体)が約59%の高頻度で観測された。なお、現代漢民族の晋語話者にも約14%程度のパプログループQが観測されている。", "title": "遺骨の遺伝子" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一部の周代諸侯国にハプログループQの集団が存在したことも考えられる。", "title": "遺骨の遺伝子" } ]
周は、古代中国の王朝。国姓は姫。当初は殷(商)の従属国だったが、紀元前1046年に革命戦争(牧野の戦い)で殷を倒し周王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都までを西周、遷都から秦に滅ぼされるまでを東周(春秋戦国時代)と区分される。 周の歴史は春秋時代以降に成立した書経や『史記』などに記されていて、かつては周代に関する研究やイメージのほとんどはそれらを準拠したものであった。一方で、現代では考古学調査の進展により、史書において知ることができなかった数々の新事実が判明し、人々の周代へのイメージは急速に変遷しつつある。
{{Otheruses|紀元前の中国の王朝|その他の用法|周 (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 過去の国 |略名 = 周 |日本語国名 = 周 |公式国名 = [[File:Zhou dynasty (Chinese characters).svg|20px]] |建国時期 =[[紀元前1046年|前1046年]] |亡国時期 =[[紀元前256年|前256年]] |先代1 = 殷 |先旗1 = blank.png |次代1 = 秦 |次旗1 = blank.png |位置画像 = China 2a.jpg |位置画像説明 = 紀元前771年頃の周の領土 |公用語 =[[上古音|古代中国語]] |首都 = {{仮リンク|豊鎬|zh|豐鎬}}<ref>[[長安]]北西の[[:zh:灃河 (渭河)|灃水]]両岸にあった双子都市。</ref><br>([[豊京]]及び[[鎬京]])<small><br/>([[紀元前1046年|前1046年]] – [[紀元前771年|前771年]])</small><br/>[[洛陽市|洛邑]]<small><br/>([[紀元前770年|前770年]] – [[紀元前256年|前256年]]) |元首等肩書 = 王 |元首等年代始1 = [[紀元前1046年|前1046年]] |元首等年代終1 = [[紀元前1043年|前1043年]] |元首等氏名1 = [[武王 (周)|武王]] |元首等年代始2 = [[紀元前314年|前314年]] |元首等年代終2 = [[紀元前256年|前256年]] |元首等氏名2 = [[赧王]] |人口測定時期1 = [[紀元前273年|前273年]] |人口値1 = 約30,000,000 |変遷1 = [[牧野の戦い]] |変遷年月日1 = [[紀元前1046年|前1046年]] |変遷2 = [[共和 (周)|共和]]<ref name="名前なし-1">王が不在</ref> |変遷年月日2 = [[紀元前841年|前841年]] - [[紀元前828年|前828年]] |変遷3 = [[洛陽市|洛邑]]遷都 |変遷年月日3 =[[紀元前771年|前771年]] |変遷4 = 滅亡 |変遷年月日4 = [[紀元前256年|前256年]] |通貨 = [[刀銭]] |national_motto 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|stat_pop1 = 30,000,000 |stat_year2 = 230 BC |stat_area2 = |stat_pop2 = 38,000,000 }} {{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}}{{ウィキポータルリンク|中国}}{{中国の歴史}} '''周'''(しゅう、{{ピン音|Zhōu}}、[[紀元前1046年]]頃 - [[紀元前256年]])は、[[古代中国]]の[[王朝]]。[[国姓]]は[[姫 (姓)|'''姫''']]。当初は[[殷|殷(商)]]の[[従属国]]だったが、紀元前1046年に[[革命]][[戦争]]([[牧野の戦い]])で殷を倒し周王朝を開いた。[[紀元前771年]]の[[洛邑]][[遷都]]までを'''[[西周 (王朝)|西周]]'''、遷都から[[秦]]に滅ぼされるまでを'''[[東周]]'''('''[[春秋戦国時代]]''')と区分される。 周の歴史は[[春秋時代]]以降に成立した[[書経]]や『[[史記]]』などに記されていて、かつては周代に関する研究やイメージのほとんどはそれらを準拠したものであった<ref>{{Wikisource-inline|史記/卷004|『史記』周本紀}}</ref>。一方で、現代では[[考古学]]調査の進展により、史書において知ることができなかった数々の新事実が判明し、人々の周代へのイメージは急速に変遷しつつある<ref>{{Cite book |title=中国周文化考古学研究 - 株式会社 同成社 考古学・歴史・特別支援教育図書の出版社 |url=http://www.douseisha.co.jp/book/b244819.html}}</ref><ref>{{Cite thesis|和書|author=譚永超 |url=https://hdl.handle.net/2324/4784370 |title=殷周時代における長江中流域の青銅器文化の形成と展開 |volume=九州大学 |series=博士(文学) 甲第15836号 |year=2022 |hdl=2324/4784370 |id={{naid|500001497171}} |access-date=2023-06-28}}</ref>。 == 歴史 == === 周の始まり === 周国の伝説上の始祖は[[后稷]]であり、[[五帝]]の[[舜]]に仕えて、農政に功績があったという。 [[古公亶父]]の時代に周の地に定住したとされる。古公亶父には3人の息子があり、上から[[太伯・虞仲]]・[[季歴]]と言った。季歴に息子が誕生する際、さまざまな瑞祥(吉兆。[[聖人]]が生まれる際に起こるとされる)が起こったため、古公亶父は「わが子孫のうち最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。その期待を察した[[太伯・虞仲|太伯と虞仲]]は、季歴に継承権を譲るため自発的に出奔した。南方の僻地に赴いた太伯は[[句呉]]<ref>[[紀元前586年]]、[[寿夢]]が国号を[[句呉]]から[[呉 (春秋)|呉]]に改めた。</ref>と号して国を興し、その地の蛮族(荊蛮)は皆これに従った。なお、この南方の僻地は[[日本]]だったという伝説もある([[太伯・虞仲#日本に関する伝承]])。周王朝の祖である[[后稷]]の母である[[姜嫄]]の「姜」は「[[羌]]」と同じで、 このことから周は元々羊の遊牧文化を持つ[[チベット系民族|非定住農耕民]]であったという説がある。<ref>{{Cite web|和書|title=シナ・チベット語族の起源(追記有) |url=https://sicambre.seesaa.net/article/201904article_37.html |website=雑記帳 |access-date=2023-03-11 |language=ja}}</ref> [[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[儒学者]]である[[孟子]]は『[[孟子 (書物)|孟子]]』において、「[[舜]]は[[諸馮]]に生まれて[[負夏]]に移り、[[夏県|鳴條]]で亡くなった[[東夷]]の人である。[[文王 (周)|文王]]は[[岐周]]に生まれ、[[畢郢]]に死した[[西夷]]の人だ」として<ref>{{quotation|{{lang|zh-Hant|孟子曰:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘歲。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」}}|孟子|離婁下}}{{Wikisourcelang|ja|孟子/離婁下}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[王徳威]] |date=2020-03-16 |url=http://id.nii.ac.jp/1082/00010030/ |title=基調講演記録 華夷の変 ―華語語系研究の新しいビジョン― |journal=愛知大学国際問題研究所紀要 |ISSN=0515-7781 |publisher=愛知大学国際問題研究所 |volume=155 |pages=10-11 |id={{CRID|1050566774754673792}} |naid=120006849679}}</ref>、[[舜]]は「[[東夷]]」の人、[[文王 (周)|文王]]は「[[西夷]]」の人であると述べている<ref>{{Cite news|author=[[韓東育]]|date=2018-09|title=清朝の「非漢民族世界」における「大中華」の表現 : 『大義覚迷録』から『清帝遜位詔書』まで|publisher=[[島根県立大学北東アジア地域研究センター]]|newspaper=北東アジア研究 = Shimane journal of North East Asian research (別冊4)|url=http://id.nii.ac.jp/1377/00001920/|page=17}}</ref><ref>{{Cite news|author=[[杉山清彦]]|date=|title=第8回 「中華」の世界観と「正統」の歴史|publisher=[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]]|newspaper=「正統」の歴史と「王統」の歴史|url=https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_1087/|page=6}}</ref>。 === 銘文から見る当時の周 === 遺跡からの出土品に記された銘文の中での周は、殷の外地に位置する方国の一つとして位置付けられ、時には殷による征伐の対象となった、しかし一方で、周に命令を下した甲骨文や「周侯」と記された甲骨文も残されており、周は殷に服属していたことを表している。また、殷王の妃に「婦周」という人物が見るため、周は[[武丁]]期以降に殷への服属と通婚を経て、殷王室の親族の一つとして上層貴族の地位を獲得し、言語文化信仰を殷と同じくするようになっていったと考えられる<ref name="名前なし-2">佐藤信弥 「周―理想化された古代王朝」(中央公論新社、2016年)</ref>。また、周王([[文王]]あるいは[[武王]])は、[[帝乙]]の宗廟で殷王朝初代の[[湯王]]を祀っている<ref name="名前なし-2"/>。 === 克殷 === {{main|殷周革命}} 季歴の息子[[文王 (周)|姫昌(後の文王)]]が王位を継ぐと、古公亶父の期待通り周国を繁栄させ、ついには[[宗主国]]の[[殷]]から「西伯」<ref>国を東西南北に分けた時に西を管轄する権限を持つ諸侯。王の判断を待たずに独断で武力を用いてその地方を治めることを許される。</ref>の地位を賜るにいたる。姫昌と同時代の[[殷の紂王]]は暴君だったため、諸侯は姫昌に頼って革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。 姫昌の死後、後を継いだ[[武王 (周)|姫発(武王)]]は、[[周公旦]]・[[呂尚|太公望]]・[[召公奭]]ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、前1046年に革命戦争([[牧野の戦い]])を起こす。武王は殷の紂王に打ち克ち([[武王克殷|'''克殷''']])、周王朝を創始した。 === 成康の治 === {{main|成康の治}} 武王は建国後すぐに死去する。後を継いだ[[成王 (周)|成王]](在位:前1042年 - 前1021年)は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで[[周公旦]]が[[摂政]]として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた[[武庚]]禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ[[管叔鮮]]と[[蔡叔度]]が共謀して乱を起こす([[三監の乱]])。周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。成長した成王は周公旦・[[召公奭]]を左右に政務に取り組み、[[東夷]]を討って勢威を明らかにした。 成王の後を継いだのが[[康王 (周)|康王]](在位:前1020年 - 前996年)である。康王は召公奭と[[畢公高]]を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという('''[[成康の治]]''')。 === 衰退 === {{Main|共和 (周)}} その後は徐々に衰退する。4代目の[[昭王 (周)|昭王]](在位:前995年 - 前977年)は南方へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。5代目の[[穆王 (周)|穆王]](在位:前976年 - 前922年)以降、王は[[親征]]することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった{{sfn |佐藤信弥|2016| p=72-79}}。 6代[[共王 (周)|共王]](在位:前922年 - 前900年)、7代[[懿王]](在位:前899年 - 前892年)、8代[[孝王 (周)|孝王]](在位:前891年 - 前886年)、そして9代目の[[夷王]](在位:前885年 - 前878年)までの王は影が薄いが、この時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た{{sfn |佐藤信弥|2016| p=82-107}}。しかし、夷王は{{仮リンク|紀 (春秋)|label=紀侯|zh|纪国}}靖公の讒言を信じて[[哀公 (斉)|斉の哀公]]を[[釜茹で]]の刑(烹)に処しており、その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の[[厲王]]らへと受け継がれていった{{sfn |佐藤信弥|2016| p=108}}。 10代[[厲王]](在位:前877年 - 前841年)は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在のあいだ、[[周定公]]と[[召穆公]]の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。ちなみに、現代において[[英語]]の「republic」を「'''共和制'''」と訳すのは、この[[故事]]を由来としている([[共和制#語源・用法]])。なお、実際は「共に和して」ではなく、「共伯和」という名の人物(「共」を[[封地]]または[[諡号]]として「伯」の[[爵位]]を持つ「和」という名の人物)が執政したので、それを略して「共和」と呼んだ、という説もある。 やがて大臣らは太子静(11代[[宣王 (周)|宣王]]、在位:前827-前782)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、'''宣王中興'''と呼ばれた。しかし宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。12代[[幽王 (周)|幽王]](在位:前781年 - 前771年)の時代、[[申 (春秋)|申]]から迎えていた皇后を廃し[[褒姒]]を皇后としたため、[[申侯 (周幽王時代)|申侯]]の怒りを買い、申は[[犬戎]]を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、褒姒の子の{{仮リンク|姫伯服|label=伯服|zh|伯服}}(伯盤)も殺されてしまう。([[申侯の乱]])。そこで、次代として[[携王]](在位:前770年 - 前750年)が即位した。これに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の[[河南省]][[洛陽市]]付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を[[平王 (周)|平王]](在位:前771年 - 前720年)として立てて対立した。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、ここから周は'''東周'''と呼ばれ、時代区分では[[春秋時代]]に移行する。 === 春秋戦国時代 === {{main|春秋戦国時代|春秋時代|戦国時代 (中国)}} 春秋時代の周は、往時と比するべくもない程まで没落した。平王の孫である[[桓王]]は王権の再強化を図ったが、{{仮リンク|繻葛の戦い|zh|繻葛之战}}([[紀元前707年|前707年]])で一諸侯に過ぎない[[鄭]]に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。 さらに、王室内で幾度も王位継承争いが発生したために周王室の力は弱体化し{{sfn |佐藤信弥|2016| p=166-169}}、洛邑(王城・成周)周辺のみを支配する小国となっていった。現代の[[湖北省]][[随州市]]付近にあった{{仮リンク|曽 (春秋)|label=曽|zh|曾国 (姬姓)}}の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている{{sfn |佐藤信弥|2016| p=146}}。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした([[春秋五覇]])。周王室側も[[覇者]]をはじめとする諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主催する立場の維持を図った{{sfn |佐藤信弥|2016| p=172-175}}。 しかし、その権威も春秋時代後半からは低下していった。例えば春秋時代の[[秦]]の[[景公 (秦)|景公]]の墓の出土品の銘文では秦の君主を本来周王の称号であったはずの「[[天子]]」と称している{{sfn |佐藤信弥|2016| p=178-179}}。また[[孔子]]の登場以降、西周の時代を理想化した礼制の整備が[[儒家]]や諸侯によって行われていくが、それらに対して周王室は全く主導権を発揮しておらず{{sfn |佐藤信弥|2016| p=182-202}}、祭祀を主催する立場すら失っていた。 [[画像:战国形势图(前350年)(简).png|right|thumb|300px|戦国時代初期の情勢]] [[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に入ると、かつての覇者・[[晋 (春秋)|晋]]や[[呂尚|太公望]]の子孫である[[斉 (春秋)|斉(姜斉)]]といった周王室と歴史的に結びつきが強い諸侯が滅び、周王の権威や存在意義はますます低下していった。[[魏 (戦国)|魏]]の[[恵王 (魏)|惠王]]は「[[夏 (三代)|夏]]王」・「[[天子]]」を称し、周王朝に取って代わる意思を示すほどであった{{sfn |佐藤信弥|2016| p=205-206}}。東周23代目の王[[顕王]]は秦に対して春秋時代に覇者に対して行っていた儀礼を行うことで、秦の保護を受けようとしたが、既に春秋時代に天子を称していた秦の[[恵文王 (秦)|恵文王]]は王を称し、後には七雄の諸侯のみならず小国の[[宋 (春秋)|宋]]や北辺の[[中山国]]の君主までもが王を称するようになった。秦の[[昭襄王]]と[[田斉]]の[[湣王]]に至っては一時「西帝」「東帝」と帝号を称した{{sfn |佐藤信弥|2016| p=206-208}}。 === 滅亡 === 周王室の力は上述のように衰微し、影響力はわずかに王畿(現在の[[洛陽]]附近)に限定されていた。ただでさえ衰えていた周王室であるが、末期には[[貞定王]]の末子掲({{仮リンク|桓公 (西周)|label=桓公|zh|西周桓公}})を始祖とする[[西周公]]({{仮リンク|武公 (西周)|label=武公|zh|西周武公}})とそこから分裂した[[東周公|東周君]]([[昭文君]])の勢力によって分裂していた。周王朝最後の王である[[赧王]]は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都し、元の成周は東周君が支配した。周王室の領土は東西に分裂し、狭い範囲で互いに争い合う有様であった{{sfn |佐藤信弥|2016| p=208-209}}。 赧王の在位は59年に及んだが[[紀元前256年]]、西周は諸侯と通じて韓と交戦中の[[秦]]軍を妨害したため秦の将軍[[楊摎]]の攻撃を受けた。西周の[[文公 (西周)|文公]](武公の子)は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入ったがまもなく崩御し、程なくして西周の文公も死去した。西周の文公が死去すると、その民は堰を切ったように東周へ逃亡し、秦は[[九鼎]]と周王室の宝物を接収し、文公の子を移した。こうして、秦が王畿を占拠したことで、西周と周王室本家は滅亡することとなった{{sfn |佐藤信弥|2016| p=209-210}}。 その後も[[昭文君]]の東周は7年間存続したが、紀元前249年、秦の[[呂不韋]]によって攻め滅ぼされた。『[[史記]]』の秦本紀では昭文君は殺されたと伝えられているが、東周君に土地を与えて周の祭祀を続けさせたとも書かれており、この場合昭文君の子が封じられたと考えられる{{sfn |佐藤信弥|2016| p=210-211}}。 秦の[[始皇帝]]の死後、すなわち[[楚漢戦争]]期には、各地で戦国諸侯の王族が再び擁立されたが、周の末裔を擁立して周王室を復興しようという動きはなかった{{sfn |佐藤信弥|2016| p=212}}。 [[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]以降、[[儒学]]が尊重されるようになると、周王室の子孫も尊重されるようになり、{{仮リンク|姫嘉|zh|姬嘉}}という人物が{{仮リンク|周子南君|zh|周子南君}}に封じられた。姫嘉の子孫は[[元帝 (漢)|元帝]]の時代には周承休侯へ昇格され、[[平帝 (漢)|平帝]]の時には鄭公に、[[後漢]]の[[光武帝]]の時代には衛公に封じられている{{sfn |佐藤信弥|2016| p=212-213}}。 == 政治 == 周の官制については周の諸制度について周公旦が纏めたとされる『[[周礼]]』に非常に詳しい記述があるが、この書物の成立は戦国時代以降と見られているのでこれを以って周の官制を論ずるには無理がある。[[金文]]によると周には卿事寮(けいじりょう)・太史寮(たいしりょう)と呼ばれる2つの組織があった。卿事寮の長官は太保・太師の2つがあり、のちに太師だけになる。下に[[大司馬|司馬]](軍事担当)・司土(司徒、土地管理担当)・司工(司空)の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった。太史寮の長官を太史と呼び、[[歴史]]の編纂・各種儀礼・祭祀などを行う。 身分制度については『[[春秋左氏伝]]』によると、王の下に諸侯がおり、その下に大夫(たいふ)と呼ばれる一種の貴族層があり、その下に士と呼ばれる層があり、その下が庶民となっている。ただし大夫と士と言う階級は金文には無い。前述したように取引される対象である一種の奴隷階層があったことは間違いなく、主に主人に代わって農作業を行っていた。この中には職工と思われる職もあり、[[青銅器]]の[[鋳造]]に関わっていたと考えられる。 {{要出典|date=2020年5月|範囲=土地制度については井田制が行われていたとされるが、この制度も実際に行われていたかは疑問視する声が多い。}}<!-- 念のため文献の提示をお願いします。 -->。 == 文化 == === 殷周の文化の変化 === [[王国維]]は「殷周制度論」において、殷と周の間で諸制度の大変革があり、周の制度は周公によって定められたと主張したが、実際は、周王朝は殷王朝の礼制を踏襲し、その基礎の元に発展させていったことが、遺跡やそこから出土する青銅器によって判明している<ref name="名前なし-2"/>。礼制に変革が起こったのは、西周後半期であると考えられる<ref name="名前なし-2"/>。 ==== 周と十干諡号 ==== 殷は[[武丁]]や[[帝乙]]のように、[[十干]]で祖先を呼ぶ十干諡号を使用していた。従来の研究では、周の人は十干で祖先を呼ぶことはなく、西周期に金文において十干諡号を用いているのは殷系の人々であると考えられていた。しかし、[[河南省]]平頂山市応国墓地八号墓で出土した「05応公鼎」の銘文には、応公の号として「珷帝日丁」と見え、『[[春秋左氏伝]]』僖公二十四年の記述によれば、応国の君は[[武王]]の子孫とされているため、「珷帝日丁」とは武王のことを指してあり、周が殷と同様に十干諡号を有していたことになる<ref name="名前なし-2"/>。 また、2008年から2010年にかけて、[[山東省]]高青県陳荘村で西周斉国の貴族の墓群が発掘されたが、18号墓からは「祖甲斉公」という銘文が記された青銅器が発見されている。この銘文は、十干諡号を用いているのが注目される。『[[史記]]』斉太公世家によると、斉の国君は2代目の丁公から4代目の癸公まで十干諡号を用いており、[[佐藤信弥]]は、これを初代斉侯の号であると主張した<ref name="名前なし-2"/>。 === 青銅器文化 === 殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。 この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。 またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。 これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。 建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから[[瓦]]が一般的になったことがわかっている。 [[投壺]](とうこ)が始まったのも周代とされる。 == 都市と領土 == [[画像:China_map0420.gif|left|thumb|300px|西周王朝、この時代、領土は点と点とを結んだネットワーク状のもので面領域ではない。よって周王朝の勢力領域を確定するのは困難であるので領域は設定せず、邑名だけ記入した。]] 殷代から春秋時代にかけての[[華北]]は、[[邑]]と呼ばれる[[都市国家]]が多数散在する時代であった。殷代、西周時代の邑は君主の住まいや[[宗廟]]等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。 東周時代には、外壁が強化され、内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、つまり、「内城外郭式」がとられるようになった。華北の城壁は、無尽蔵にある[[黄土]]を木の枠にしっかりとつき固め、堅い層を作りそれを重ねてゆく[[版築]]という工法によって築造されている。こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となる。水には弱いが、もともと華北は雨量が少ない上、[[磚]]と呼ばれる、黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い防水加工を施すため、あまり水の浸食を受けることもない。人為的破壊が無い限り城壁はかなり長い寿命を維持することができる。 邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。彼らは「[[夷狄|夷]]」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、略奪を行った。また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って武力を用いた紛争が行われていた。こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に政治的に従属するようになっていった。さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともにそれまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って中央から役人が派遣されて統治を受ける「[[県]]」へと変えられていった。こうして、春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は、都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。 {{-}} === 主要諸侯 === [[史記]]三世表には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。 *'''[[魯]]'''-姫姓[[侯爵]] 開祖:[[周公旦]]([[武王 (周)|武王]]の同母弟) *:現在の[[山東省]]南部を領す。都城は[[曲阜]](現在の[[山東省]][[済寧市]][[曲阜市]])。 *'''[[斉 (春秋)|斉]]'''-姜姓呂氏侯爵 開祖:[[呂尚]] *:現在の[[山東省]]北部を領す。都城は[[臨淄区|営丘]](現在の[[山東省]][[淄博市]][[臨淄区]])。 *'''[[晋 (春秋)|晋]]'''-姫姓侯爵 開祖:[[唐叔虞]]([[成王 (周)|成王]]の同母弟) *:現在の[[山西省]]一帯、[[黄土高原]]東部の[[汾河|汾水]]河谷周辺を領す。都城は唐(後に「晋」に改称、現在の[[山西省]][[太原市]][[晋源区]])。 *'''[[秦]]'''-嬴姓趙氏[[伯爵]] 西周代では[[大夫]]・東周にいたり侯爵 開祖:[[非子]] *:現在の[[甘粛省]]西部、東に周の根拠地である[[陝西省]]の渭水盆地を望む高地を領す、周王室の東遷に伴い[[権力の真空|政治権力の空白]]となった渭水盆地に勢力を伸ばし、やがてこの盆地の政治的中枢部である[[関中]]に重心を移す。当初の都城は{{仮リンク|秦邑|zh|秦亭镇}}(現在の[[甘粛省]][[天水市]][[張家川回族自治県]])。 *'''[[楚 (春秋)|楚]]'''-羋姓熊氏[[子爵]] 開祖:[[熊繹]] *:現在の[[河南省]]西部から[[湖北省]]・[[湖南省]]一帯、概ね[[漢江 (中国)|漢江]]以南の[[長江]]中流域を領す。都城は[[淅川県|丹陽]](現在の[[河南省]][[南陽市 (河南省)|南陽市]][[淅川県]])。 *'''[[宋 (春秋)|宋]]'''-子姓[[公爵]] 開祖:[[微子啓]]([[殷]]の[[帝辛]](紂王)の異母兄) *:現在の[[河南省]]東部一帯を領す。都城は[[睢陽区|商邱]](現在の[[河南省]][[商丘市]][[睢陽区]])。 *'''[[衛]]'''-姫姓伯爵(後に侯爵、さらに公爵へと陞爵) 開祖:[[康叔]]([[武王 (周)|武王]]の同母弟) *:現在の[[河南省]]北部[[黄河]]北岸部を領す。都城は[[朝歌]](現在の[[河南省]][[鶴壁市]][[淇県]])。 *'''[[陳 (春秋)|陳]]'''-嬀姓侯爵 開祖:[[胡公 (陳)|胡公]]([[五帝]]の一人である[[舜]]の末裔と伝えられる) *:現在の[[河南省]]中部一帯を領す。都城は[[淮陽区|宛丘]](現在の[[河南省]][[周口市]][[淮陽区]])。 *'''[[蔡]]'''-姫姓侯爵 開祖:[[蔡叔度]]([[武王 (周)|武王]]の同母弟) *:現在の[[河南省]]南部を領す、都城は当初[[上蔡]](現在の[[河南省]][[駐馬店市]][[上蔡県]])、[[新蔡県|新蔡]](現在の[[駐馬店市]][[新蔡県]])に遷都後、[[鳳台県|下蔡]](現在の[[安徽省]][[淮南市]][[鳳台県]])に遷る。 *'''[[曹 (春秋)|曹]]'''-姫姓[[伯爵]] 開祖:[[曹叔振鐸]]([[武王 (周)|武王]]の同母弟) *:現在の[[山東省]]西部を領す、都城は[[定陶区|陶丘]](現在の[[山東省]][[菏沢市]][[定陶区]])。 *'''[[燕 (春秋)|燕]]'''-姞姓伯爵 開祖:[[召公奭]](周王朝姫氏の同族) *:現在の[[河北省]]北部を領す、都城は[[房山区|薊]](現在の[[北京市]][[房山区]])。 == 歴代王 == {{col-begin}} {{col-3}} ;{{big|先王}} # [[后稷]] # {{仮リンク|不窋|zh|不窋}} # {{仮リンク|鞠 (周)|label=鞠|zh|鞠}} # [[公劉]] # {{仮リンク|慶節|zh|庆节}} # {{仮リンク|皇僕|zh|皇仆}} # {{仮リンク|差弗|zh|差弗}} # {{仮リンク|毀隃|zh|毁隃}} # {{仮リンク|公非|zh|公非}} # {{仮リンク|高圉|zh|高圉}} # {{仮リンク|亜圉|zh|亚圉}} # {{仮リンク|公叔祖類|zh|公叔祖类}} # [[古公亶父]] # [[季歴]] # [[文王 (周)|文王]] ;{{big|西周}} # [[武王 (周)|武王]] # [[成王 (周)|成王]] # [[康王 (周)|康王]] # [[昭王 (周)|昭王]] # [[穆王 (周)|穆王]] # [[共王 (周)|共王]] # [[懿王]] # [[孝王 (周)|孝王]] # [[夷王]] # [[厲王]] #* [[共和 (周)|共和]](前841年 - 前828年)<ref name="名前なし-1"/> # [[宣王 (周)|宣王]](前827年 - 前782年) # [[幽王 (周)|幽王]](前781年 - 前771年) #* [[携王]](前770年 - 前750年) {{col-3}} ;{{big|東周}} # [[平王 (周)|平王]](前770年 - 前720年)<ref>[[洛邑]]遷都(東遷)</ref> # [[桓王]](前719年 - 前697年) # [[荘王 (周)|荘王]](前696年 - 前682年) # [[釐王 (周)|釐王]](前681年 - 前677年) # [[恵王 (周)|恵王]](前676年 - 前652年) #* {{仮リンク|王子頽|label=弭叔頽|zh|王子颓}}(前675年 - 前673年) 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B., Zhang, Y., Li, H. J., Cui, Y. Q., Zhu, H. & Zhou, H. Ancient DNA evidence reveals that the Y chromosome haplogroup Q1a1 admixed into the Han Chinese 3 000 years ago. Am. J. Hum. Biol. 26, 813–821 (2014).</ref>。なお、現代[[漢民族]]の[[晋語]]話者にも約14%程度のパプログループQが観測されている。<ref>{{Cite web |title=汉族各方言区与南北少数民族的父系血统(Y染色体单倍体) |url=https://zhuanlan.zhihu.com/p/104303329 |website=知乎专栏 |access-date=2023-03-11 |language=zh}}</ref> 一部の周代諸侯国にハプログループQの集団が存在したことも考えられる<ref>{{Cite web |title=目前全部发表的中国古代Y染色体 |url=https://zhuanlan.zhihu.com/p/26698329 |website=知乎专栏 |access-date=2023-03-11 |language=zh}}</ref>。 == 備考 == * {{要検証|=周人は元々[[赤髪]]の人達であったという言い伝えがある<ref>[[陳舜臣]] 『中国の歴史 (三)』 [[講談社文庫]] 11刷1997年(1刷1990年) ISBN 4-06-184784-8 p.344.</ref>。|date=2023年3月}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor1-first=勇|editor1-last=尾形|editor1-link=尾形勇|editor2-first=美緒|editor2-last=岸本|editor2-link=岸本美緒|date=1998-06-01|title=中国史|series=[[世界各国史]]|publisher=[[山川出版社]]|ISBN=978-4634413306}} * {{Citation|和書|author=[[佐藤信弥]]|title=周-理想化された古代王朝|volume=|volume-title=|publisher=[[中央公論新社]]|date=2016|isbn=978-4-12-102396-4 |id={{全国書誌番号|22799711}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/027586785}} == 関連項目 == * [[三代 (中国史)]] * [[夏商周年表プロジェクト]] * [[夏商周年表]] * [[周原]] {{Wiktionary|周}} {{周の王}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆう}} [[Category:周|*しゆう]] [[Category:中国の王朝]]
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端午
端午(たんご)は、五節句の一つ。端午の節句(たんごのせっく)、菖蒲の節句(しょうぶのせっく)とも呼ばれる。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ、国民の祝日「こどもの日」になっている。少ないながら旧暦や月遅れの6月5日に行う地域もある。なお、日本以外では現在も旧暦5月5日に行うことが一般的である。 旧暦では午の月は5月に当たり(十二支を参照のこと)、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初の午の日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった。同じように、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっている(節句の項目を参照のこと)。 端午節に菖蒲などの多種の薬草を厄除けに用いることは中国の南朝梁・隋朝の文献に記されており、菖蒲は刻んで酒に混ぜて飲む、とある。 日本では、菖蒲を髪飾りにした人々が宮中の武徳殿に集い、天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、奈良時代に既に「菖蒲のかずら」等の記述が見られる。 鎌倉以降の時代になると、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、又、菖蒲の葉の形が剣を連想させる事などから、端午は男の子の節句とされたと仮説されている。そして男の子の成長を祝い、健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、現在に至る典型的な祝い方である(但し「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが、京都を含む上方では、当時は見られない風習であった)。鎧兜には、男子の身体を守るという意味合いが込められている。 江戸時代迄、端午の日に子供は河原などで石合戦をする「印地打ち」という風習があったが、負傷者や死亡者が相次いだ為に禁止となった。また、印地打ちが禁止になった後、菖蒲を刀の代わりにした「菖蒲切り」というチャンバラが流行した。 端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習がある。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。 なお、男の赤ん坊を持つ家庭にとっては初節句となるため、親族総出で盛大に祝われる事も多い。特に、家意識が強い地域ではその傾向が顕著である。5月5日が祝日であり、更に、前後に祝日を伴う春の大型連休期間中であるため、雛祭り以上に親族総出で祝われる。 日本においては、女性が田植えの前に穢れを祓う斎戒を五月忌み(さつきいみ)と呼ばれた。また「フキゴモリ(葺き籠り)」と称して、5月4日(端午節の前夜にあたる)には、男性が戸外に出払い、女性だけが菖蒲やヨモギで葺いた家の中に閉じこもって過ごす習俗があった。尾張(愛知県)や伊勢(三重県)らのフキゴモリ例が挙げられているが、5月5日を女の家と称する風習は、中部地方以外にも四国地方の一部にみられる。近松門左衛門(1725年没)が晩年の作中で、五月五日のことを「女の家(おんなのいえ)」と言及しているが、これは女性がこの日に家籠りする風習をさしているとされていて、この風習が少なくとも江戸中期に遡ることがわかる。 一部の学者は、女性の葺き籠りや菖蒲湯の沐浴として、中世以前から確立していると主張し、本来は女性にまつわる習俗から、男児にまつわるものへと中世末期から近世にかけて移行したと論説する。すなわち「菖蒲の節供」は元々女性の節句だったとする。 また、5月4日の夜から5月5日にかけてを「女天下」と称し、家の畳の半畳分ずつあるいは家全体を女性が取り仕切る日とする慣習を持つ地域がある。 中国の端午節には様々な禁忌が布かれ、五色の糸で縫った香袋を身に着ける、ちまきを食す、雄黄酒を顔に塗布する、艾草(チョウセンヨモギ(中国語版))を人型にの束ねた人形や菖蒲の剣を戸口に飾るなどの慣習がおこなわれ、龍舟競渡(ドラゴンボートレース)が開催されてきた。 端午節の由来の仮説としては、夏殷周代の暦法で夏至であったという説、5月を「悪月」、5日を「悪日」としいう説(『荊楚歳時記』五月の条)などが存在する。 中国で端午についての古い文献記録は、後漢末の応劭による『風俗通義』であるが、端午と夏至にちまき(「粽」、別名を「角黍」とも称した)を食する習慣が記される。また、晋の周処による『風土記』にも記載があり、この時節にはアヒルを煮、ちまきを食べる(「仲夏端午、烹鶩角黍」)と記される。ちまきの言及こそあるものの、俗にちまきの考案者とされる屈原との関係(後述)については一切言及されていない。 この後漢末の『風俗通義』(『風俗通』とも)には、「五月五日、五綵の糸を以て臂にかけ、鬼を辟くれば、人をして瘟を病まざらしむ」と書かれている。異本には五月五日の人命を伸ばすご利益があるとされる「続命縷」とも称されていたが、引用に残るだけで現存の『風俗通義』は見えない記述である。 中国で広く知れわたっているのは、戦国時代の楚の家臣の屈原が失意のうちに汨羅江に身を投げたのが5月5日であり(紀元前278年没)、後代の人がこれを供養するのが端午節となった、という縁起伝説である。だが、この習俗が古代(漢代以前)より執り行われたものかについては、信ぴょう性が疑われている(以下、その考察)。 史実として屈原がこの日に入水自殺したことを裏付ける史料はなにもない。だが縁起伝説によれば(楚の人々は漢代以前より)端午節を屈原の命日として竹筒につめた米を供えていた、それが後漢の初めの建武(25年-56年)の頃になって、長沙の某人の夢に三聞大夫(屈原)が現れ、そのままでは供物は蛟竜に横取りされるので、これを厄除けするためには、供えるもち米を楝樹の葉でふさぎ、五色の糸で巻け、と指示したと語られている。 この起源説話は『続斉諧記』(6世紀)、あるいは南朝梁の宗懍(そうりん)の『荊楚歳時記』(6世紀)にも転載される記述であるが、これが数世紀前の漢代にさかのぼる伝説だという確証はない(屈原の崇拝が6世紀より前に民間で広く行われたという傍証はないとされる)。ちまきと屈原の故事は端午とは元来無関係であったと考えられる。 隋の杜公瞻(中国語版)による『荊楚歳時記』注釈本における考証では(題材が端午節の競渡(競漕)に変わるが)、その当時の巷では「俗に」五月五日のボートレースが屈原の入水自殺にまつわるものと信じられているが、実は春秋時代の伍子胥にまつわるもので、「屈平(屈原)とは関せざるなり(不關屈平也)」と断じている。そして後漢の頃にはおそらく端午節に(屈原でなく)伍子胥を祀っていただろうことを、具体的な傍証(伝・邯鄲淳がつくったとされる「孝女曹娥碑」)で指し示している。 現在、中国語圏では、龍船節として手漕舟(龍船あるいはドラゴンボート)の競漕(競渡)が行われ、屈原を偲んでの行事であるとされている。しかし、そもそも「(屈原の)遺体を救うために競渡するとされるのは俗説」に過ぎない。 端午節について(20世紀までは)高く評価支持されたのが、聞一多 の「端午考」(1947年)他、そして黄石の『端午礼俗史』(1963年)に見られる諸学説だが、競渡の起源についての見解は各々であり、以下の通り、年代なども相反している。 聞一多は、長江下流の呉越の民族の蛟竜除けの風習の延長線上にあり、彼らが龍を避けるために体に文身(いれずみ)をしていたことは記録されているが、同様に船にも龍をかたどっていたのだろうという仮説を立てた。即ち古代の呉越民族の龍図騰(トーテム)崇拝よりの由来説であり、競渡に発展したのは戦国時代以前とした。これと似て凌純声(中国語版)も、古代の百越民族のあいだで船に乗り水神を祀った行事が、やがて競渡に転じたと説き、雲夢大沢()(汨羅江が注ぐ洞庭湖の北部地域)より出土した銅鼓の船形文様は、後に競渡に使われた龍船によく似ているとも主張した。 黄石は、龍舟競渡のルーツを送瘟船の儀礼と捉えており、確立年代としては「龍頭龍尾を象った龍舟による龍舟競渡は、中唐以後である」と考証した。 こうした両氏の競漕に関する考察については、近年では再検討が見られており、聞氏らの築いた礎石のままでは中国の時節祭についての理解は不十分で刷新が必要であると説かれており、また、黄石が主張するように端午節の全ての行事が「避瘟・避邪」の為であるとするのは受容れがたいとも説かれる。 『荊楚歳時記』注釈本が、五月五日の競漕が屈原よりもむしろ伍子胥に関連すると説いていることは既に述べたが、更に加えて(伍子胥が仕えた呉の夫差とは仇敵である)越の勾践が競漕の習わしの開祖であると『越地伝』に記されたと付記する。しかし注釈者も「詳らかにすべからず」とこの説に否定的で、近年の学者(守屋美都雄)も信ぴょう性は乏しいとした。 いまでも(汨羅付近では)端午節に、菖蒲やチョウセンヨモギ(中国語版)の束を魔よけとして戸口に飾る風習が、広く行なわれているが、以下その遡源について、および薬草狩り・薬湯・厄除けの風習について述べる。 薬草風呂をこの時節に浴びる風習は古い。前漢の『大戴礼記』(『大戴礼』とも)巻二「夏小正」の条(前1世紀)には、五月の五日(午日)に「蘭を蓄え沐浴を為すなり」とみえるが、この頃の「蘭」とはフジバカマを指すというのが通説である。後世の菖蒲風呂は、この「蘭」の沐浴の遺風であろう。 『荊楚歳時記』には五月五日を「浴蘭節」と称すとあり、「... 四民並蹋百草之戯 採艾以為人 懸門戸上 以禳毒気 以菖蒲或縷或屑 以泛酒」と続く。すなわち、四つの階級の民は「百草踏み」という遊戯にふけり、チョウセンヨモギで作った人形()を門に掛けて邪気を払い、菖蒲は刻むか粉末にして酒に混ぜて飲んだ。また『歳時記』ないし『歳時雑記』からの引用として、菖蒲を小人や胡蘆(ひょうたん)の形に彫刻して、これを帯びて辟邪(厄除け)したと『山堂肆考(中国語版)』に見える。 古代より菖蒲は効能がある薬草とされていた。『風俗通』(後漢末)には、食せば長寿につながると説く。 これらについては、現代日本においても菖蒲や蓬を軒に吊るし、菖蒲の束を浮かべる菖蒲湯に入る風習が残っている。 韓国の端午(朝鮮語版)は、「タノ」(단오)と言い、旧暦の5月5日に行われる。この日に女性がブランコに乗る風習がある。 朝鮮では、端午(タノ)は旧正月(ソルラル)、秋夕(チュソク)、寒食(ハンシク)と並ぶ四大名節とされ、田植えと種まきが終わる時期に山の神と地の神を祭り、秋の豊作を祈願する日とされる。李氏朝鮮時代には、男子はシルム、女子はクネ(鞦韆、ブランコ)を楽しみ、厄除けの意味を込めて菖蒲を煮出した汁で洗髪し、女子は菖蒲の茎のかんざしを、男子は腰飾りを身につける習慣があった。端午の伝統料理には、ヨモギやチョウセンヤマボクチを練り込んで車輪の型で押したトック(車輪餅 チャリュンビョン)やユスラウメのファチェ(花菜、冷たい飲み物)がある。 2005年11月、大韓民国の江陵端午祭(英語版、朝鮮語版)がユネスコによる「人類の口承及び無形遺産の傑作」への認定を宣言された(第3回傑作宣言)。この事を受けて、端午祭の本家である中国のマスコミをはじめとする諸団体は「韓国起源の節句として無形文化遺産登録された」などと猛反発した。 さらに韓国の報道によると、傑作宣言の5ヶ月前に、中国国内から「湖北省で行われている自国の江陵端午祭を、韓国の江陵端午祭との共同で世界文化遺産に登録しよう」という声が上がっていたが、韓国の学界から「中国の江陵端午祭は、韓国の江陵端午祭と名前だけは同じだが、完全に違うもの」と反発されていた経緯があるという。 琉球諸島の端午の節句にはドラゴンボートを漕ぐ風習があり、魔除けとして「矢数」(琉球語:ヤカジ)という紙人形を家に掲示している。娘のいる家には紙雛箱、つまり紙人形を載せたダンボール箱が置かれている。ドラゴンボートの型と琉装、三線弾き、太鼓叩き、琉球伝統舞踊を踊る土人形も置かれている。琉球ヒヒ(ポーポー、黒糖菓子)、琉球煎餅(チンピン)などを食べる。 ベトナムでは、「コムジウ(en:Cơm rượu)」と「ジウネップ(en:Rượu nếp)」というもち米の発酵食品が果物とともに祭壇に供えられる。また、別名「殺虫節(Tết giết sâu bọ/節𢷄螻蜅)」とも言われ、この日に果物を食べると、体内の虫が退治されるともされ、農村部では、樹木の殺虫対策を行う地域もある。
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"ベトナムでは、「コムジウ(en:Cơm rượu)」と「ジウネップ(en:Rượu nếp)」というもち米の発酵食品が果物とともに祭壇に供えられる。また、別名「殺虫節(Tết giết sâu bọ/節𢷄螻蜅)」とも言われ、この日に果物を食べると、体内の虫が退治されるともされ、農村部では、樹木の殺虫対策を行う地域もある。", "title": "ベトナム" } ]
端午(たんご)は、五節句の一つ。端午の節句(たんごのせっく)、菖蒲の節句(しょうぶのせっく)とも呼ばれる。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ、国民の祝日「こどもの日」になっている。少ないながら旧暦や月遅れの6月5日に行う地域もある。なお、日本以外では現在も旧暦5月5日に行うことが一般的である。
[[画像:Zongzi3.JPG|200px|right|thumb|この日に食べられる[[ちまき]](粽)]] {{節句}} '''端午'''(たんご)は、[[五節句]]の一つ。'''端午の節句'''(たんごのせっく)、'''菖蒲の節句'''(しょうぶのせっく)とも呼ばれる。[[日本]]では端午の節句に[[少年|男子]]の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在では[[グレゴリオ暦]]([[新暦]])の[[5月5日]]に行われ、国民の[[祝日]]「[[こどもの日]]」になっている。少ないながら[[旧暦]]や[[月遅れ]]の[[6月5日]]に行う地域もある。なお、日本以外では現在も旧暦[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]に行うことが一般的である。 == 端午の意味 == 旧暦では午の月は5月に当たり([[十二支]]を参照のこと)、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初の[[午]]の日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった<ref>[[阿辻哲次]]「端午節にちまき食べるのは」、「遊遊漢字学」、日本経済新聞2018年5月6日最終面 (文化面)、2018年5月7日閲覧。</ref>。同じように、奇数の月番号と日番号が重なる[[3月3日]]、[[7月7日]]、[[9月9日]]も節句になっている([[節句]]の項目を参照のこと)。 == 日本 == [[Image:Koinobori4797.jpg|thumb|right|220px|[[こいのぼり]]]] [[File:五月人形.jpg|thumb|right|220px|五月人形]] [[画像:Japanese Festival in Honor of the Birth of Children.jpg|thumb|220px|江戸時代の節句の様子。左からこいのぼり、[[家紋|紋]]をあしらった幟(七宝と丁字)、[[鍾馗]]を描いた旗、吹流し。『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版]] [[File:Utagawa Hiroshige - Suido Bridge and Surugadai, from the series One Hundred Famous Views of Edo (Edo Meisho Hyakkei) - Google Art Project.jpg|thumb|right|220px|[[歌川広重]]によるこいのぼりの絵]] [[ファイル:Children's Festival Dolls.jpg|220px|サムネイル|大正から明治初期の頃の五月人形([[東京国立博物館]]所蔵)]] [[Image:Children's Day (Japan).jpg|thumb|right|220px|五月人形の段飾り(昭和初期)]] [[File:Japanese Boys Festival 1957.jpg|thumb|right|220px|1957年頃]] [[File:Helmet for the Boy's Festival,Katori-city,Japan.jpg|thumb|right|220px|兜の飾りもの]] [[File:Tango no sekku meal.jpg|thumb|right|220px|端午の料理]] ===菖蒲の節供=== 端午節に[[ショウブ|菖蒲]]などの多種の薬草を厄除けに用いることは中国の南朝梁・隋朝の文献に記されており{{efn2|『荊楚歳時記』。南朝梁の宗懍(498年-502年)によるが、隋の杜公瞻(とこうせん)による注釈本が残る。}}、菖蒲は刻んで酒に混ぜて飲む、とある{{sfn|任|1995|p=4}}<ref name=jingchu-suishiji/>{{efn2|英訳では菖蒲は"sweet flag"。}}。 日本では、菖蒲を髪飾りにした人々が宮中の[[武徳殿]]に集い、天皇から[[薬玉]](くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、[[奈良時代]]に既に「菖蒲のかずら」等の記述が見られる{{efn2|『続日本紀』天平十九(747)年。聖武天皇の[[端午節会]]。}}{{sfn|任|1995|p=4}}。 [[鎌倉時代|鎌倉]]以降の時代になると、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、又、菖蒲の葉の形が剣を連想させる事などから、端午は男の子の節句とされたと仮説されている<ref name=yoshikai/>{{sfn|八木|2019|pp=90-91}}。そして男の子の成長を祝い、健康を祈るようになった。[[鎧]]、[[兜]]、[[刀]]、武者人形や[[金太郎]]・[[武蔵坊弁慶]]を模した'''五月人形'''などを室内の飾り段に飾り、庭前に[[こいのぼり]]を立てるのが、現在に至る典型的な祝い方である(但し「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが、京都を含む上方では、当時は見られない風習であった)。鎧兜には、男子の身体を守るという意味合いが込められている。 江戸時代迄、端午の日に子供は河原などで[[石合戦]]をする「[[印地]]打ち」という風習があったが、負傷者や死亡者が相次いだ為に禁止となった。また、印地打ちが禁止になった後、菖蒲を刀の代わりにした「菖蒲切り」という[[チャンバラ]]が流行した<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%88%87%E3%82%8A-533145 |title=菖蒲切り |work=デジタル大辞泉 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2016-04-19 }}</ref>。 端午の日には[[柏餅]](かしわもち)を食べる風習がある。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、[[カシワ|柏]]は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。 なお、男の赤ん坊を持つ家庭にとっては[[初節句]]となるため、親族総出で盛大に祝われる事も多い。特に、[[家意識]]が強い地域ではその傾向が顕著である。5月5日が祝日であり、更に、前後に祝日を伴う[[春の大型連休]]期間中であるため、雛祭り以上に親族総出で祝われる。 === 女性の節句 === 日本においては、女性が[[田植え]]の前に[[穢れ]]を祓う斎戒を'''五月[[忌み]]'''(さつきいみ)と呼ばれた。また「フキゴモリ(葺き籠り)」と称して、5月4日(端午節の前夜にあたる)には、男性が戸外に出払い、女性だけが菖蒲やヨモギで葺いた家の中に閉じこもって過ごす習俗があった<ref name=seisen_nihon_minzoku_jiten/><ref name=nihon_minzokugaku_jiten-onnanoie/>{{efn2|このとき屋根を葺く菖蒲やヨモギなどの薬草はいずれも厄払いの効能があるとされていたものである。}}。尾張([[愛知県]])や伊勢([[三重県]])らのフキゴモリ例が挙げられているが<ref name=seisen_nihon_minzoku_jiten/>、5月5日を'''女の家'''と称する風習は、中部地方以外にも四国地方の一部にみられる<ref name=nihon_rekishi_daijiten-onnanoie/>。近松門左衛門(1725年没)が晩年の作中で{{efn2|『女殺油地獄』 }}、五月五日のことを「女の家(おんなのいえ)」と言及しているが、これは女性がこの日に家籠りする風習をさしているとされていて<ref name=seisen_nihon_minzoku_jiten/>、この風習が少なくとも江戸中期に遡ることがわかる。 一部の学者は、女性の葺き籠りや菖蒲湯の沐浴として、中世以前から確立していると主張し{{sfn|八木|2019|pp=90-91}}{{Refn|group="注"|『枕草子』に「節は五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる」等と言及されるが、特に女性の行事とはされず、また貴賤のへだたりなく行われていた{{sfn|許|2007|p=103}}。}}、本来は女性にまつわる習俗から、男児にまつわるものへと中世末期から近世にかけて移行したと論説する{{sfn|八木|2019|pp=90-91}}{{efn2|「菖蒲」が「尚武(武を重んじること)」に変じた。}}。すなわち「菖蒲の節供」は元々女性の節句だったとする。 また、5月4日の夜から5月5日にかけてを「'''女天下'''」と称し、家の畳の半畳分ずつあるいは家全体を女性が取り仕切る日とする慣習を持つ地域がある<ref name=seisen_nihon_minzoku_jiten/>。 == 中国 == {{Also|ちまき#歴史(中国)|龍舟競漕|ドラゴンボート}} 中国の端午節には様々な禁忌が布かれ、五色の糸で縫った香袋を身に着ける、ちまきを食す、[[雄黄]]酒を顔に塗布する、艾草({{仮リンク|チョウセンヨモギ|zh|艾草}})を人型にの束ねた人形や菖蒲の剣を戸口に飾るなどの慣習がおこなわれ、龍舟競渡(ドラゴンボートレース)が開催されてきた{{sfn|許|2004|p=39}}。 端午節の由来の仮説としては、{{cn-span|[[夏 (王朝)|夏]][[殷]][[周|周代]]の暦法で[[夏至]]であったという説|date=2020年8月}}、5月を「悪月」、5日を「悪日」としいう説(『[[荊楚歳時記]]』五月の条)などが存在する{{sfn|張|2012|p=193}}<ref>{{harvnb|許|2004|p=42}}, 注1、注7。</ref>。 === 後漢・晋 === 中国で端午についての古い文献記録は、[[後漢]]末の[[応劭]]による『[[風俗通義]]』であるが、端午と夏至にちまき(「粽」、別名を「角黍」とも称した)を食する習慣が記される<ref name=gujin_tushu_jicheng-bk51-fsty/>。また、[[晋 (王朝)|晋]]の[[周処]]による『[[風土記 (中国)|風土記]]』にも記載があり、この時節にはアヒルを煮、ちまきを食べる(「仲夏端午、烹鶩角黍」)と記される{{sfn|許|2004|pp=39-40}}。ちまきの言及こそあるものの、俗にちまきの考案者とされる屈原との関係(後述)については一切言及されていない{{Refn|group="注"|屈原と粽が結びつけた最古史料は『[[世説新語]]』(5世紀前半)とされる{{sfn|林|1990|p=119}}。}}。 この後漢末の『風俗通義』(『風俗通』とも)には、「五月五日、五綵の糸を以て臂にかけ、鬼を辟くれば、人をして瘟を病まざらしむ」と書かれている<ref name=gujin_tushu_jicheng-bk51-fsty/>{{sfn|張|2012|p=195}}。異本には五月五日の人命を伸ばすご利益があるとされる「続命縷」とも称されていたが、引用に残るだけで現存の『風俗通義』は見えない記述である{{sfn|許|2004|p=42}}。 === 屈原崇拝は6世紀 === 中国で広く知れわたっているのは、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[楚 (春秋)|楚]]の家臣の[[屈原]]が失意のうちに[[汨羅江]]に身を投げたのが[[5月5日]]であり(紀元前278年没)、後代の人がこれを供養するのが端午節となった、という縁起伝説である{{sfn|林芬蓉|1990|pp=118-119}}。だが、この習俗が古代(漢代以前)より執り行われたものかについては、信ぴょう性が疑われている(以下、その考察)。 史実として屈原がこの日に入水自殺したことを裏付ける史料はなにもない{{Refn|group="注"|たとえば司馬遷の『史記』にも屈原が没した日までは記していない{{sfn|林芬蓉|1990|pp=118-119}}。}}{{sfn|林芬蓉|1990|pp=118-119}}。だが縁起伝説によれば(楚の人々は漢代以前より)端午節を屈原の命日として竹筒につめた米を供えていた、それが[[後漢]]の初めの[[建武 (漢)|建武]](25年-56年)の頃になって、長沙の某人の夢に三聞大夫(屈原)が現れ、そのままでは[[供物]]は[[蛟竜]]に横取りされるので、これを厄除けするためには、供えるもち米を楝樹の葉でふさぎ、五色の糸で巻け、と指示したと語られている{{sfn|小林|冨安|2009|p=23}}<ref name=gujin_tushu_jicheng-bk51-xqjj/>。 この起源説話は『[[呉均|続斉諧記]]』(6世紀){{sfn|小林|冨安|2009|p=23}}<ref name=gujin_tushu_jicheng-bk51-xqjj/>、あるいは[[南北朝時代 (中国)|南朝]][[梁 (南朝)|梁]]の[[宗懍]](そうりん)の『荊楚歳時記』<!--既述-->(6世紀)にも転載される記述であるが<ref>{{harvnb|林芬蓉|1990|p=119}}の注20(p. 130)</ref>{{sfn|守屋|1954|p=107}}、これが数世紀前の漢代にさかのぼる伝説だという確証はない(屈原の崇拝が6世紀より前に民間で広く行われたという傍証はないとされる<ref>{{harvnb|Chittick|2010|p=111}}: "there is no evidence that he was widely worshiped or much regarded in popular lore prior to the sixth century CE".</ref>)。ちまきと屈原の故事は端午とは元来無関係であったと考えられる。 [[隋]]の{{仮リンク|杜公瞻|zh|杜公瞻}}による『荊楚歳時記』注釈本における考証では(題材が端午節の競渡(競漕)に変わるが)、その当時の巷では「俗に」五月五日のボートレースが屈原の入水自殺にまつわるものと信じられているが、実は[[春秋時代]]の[[伍子胥]]にまつわるもので、「屈平(屈原)とは関せざるなり(不關屈平也)」と断じている{{sfn|林芬蓉|1990|p=120}}{{sfn|吉井|2015|pp=189-190}}<ref name=jingchu-suishiji/>。そして[[後漢]]の頃にはおそらく端午節に(屈原でなく)伍子胥を祀っていただろうことを、具体的な傍証(伝・[[邯鄲淳]]がつくったとされる「[[王義之#主な法帖|孝女曹娥碑]]」)で指し示している{{sfn|吉井|2015|pp=189-190, 192}}<ref name=jingchu-suishiji/>。 === 端午の競渡の起源 === [[File:Dragon boat - Cantonese.JPG|200px|thumb|ドラゴンボート([[中国]]・[[広東省]])]] 現在、中国語圏では、龍船節として手漕舟(龍船あるいは[[ドラゴンボート]])の[[競漕]](競渡)が行われ、屈原を偲んでの行事であるとされている。しかし、そもそも「(屈原の)遺体を救うために競渡するとされるのは俗説」に過ぎない{{sfn|張|2012|p=194}}{{Refn|group="注"|あるいは屈原を溺死さまいと救助するため船を出したというが、神話/俗説("myth")である{{sfn|Chittick|2011|p=1}}。}}。 端午節について(20世紀までは)高く評価支持されたのが、[[聞一多]] の「端午考」(1947年)他、そして黄石の『端午礼俗史』(1963年)に見られる諸学説だが{{sfn|林芬蓉|1990|pp=118-119}}、競渡の起源についての見解は各々であり{{sfn|林芬蓉|1990|p=122}}、以下の通り、年代なども相反している。 聞一多は、長江下流の呉越の民族の蛟竜除けの風習の延長線上にあり、彼らが龍を避けるために体に文身([[いれずみ]])をしていたことは記録されているが、同様に船にも龍をかたどっていたのだろうという仮説を立てた<ref>{{harvnb|林曦中|1990|p=23}}; {{harvnb|林芬蓉|1990|p=122}}、注31。いずれとも聞一多「端午考」に拠るとするが、頁の指定を欠く。</ref>。即ち古代の呉越民族の龍図騰([[トーテム]])崇拝よりの由来説であり、競渡に発展したのは[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]以前とした{{sfn|Chittick|2011|p=1}}。これと似て{{仮リンク|凌純声|zh|凌纯声}}も、古代の[[百越]]民族のあいだで船に乗り水神を祀った行事が、やがて競渡に転じたと説き、{{読み仮名|雲夢大沢|うんぼうだいたく}}(汨羅江が注ぐ[[洞庭湖]]の北部地域)より出土した[[銅鼓]]の船形文様は、後に競渡に使われた龍船によく似ているとも主張した<ref>{{citation|和書|last=凌 |first=純声 |authorlink=:zh:凌纯声 |title=記本校二銅鼓兼論銅鼓的起源及其分布 |journal=文史哲学報 |volume=1 (第1期) |year=1950}}。{{harvnb|林曦中|p=23}}に拠る</ref>{{sfn|林芬蓉|1990|p=122}}。 黄石は、龍舟競渡のルーツを送瘟船の儀礼と捉えており{{sfn|吉井|2015|pp=189-190, 192}}、確立年代としては「龍頭龍尾を象った龍舟による龍舟競渡は、[[中唐]]以後である」と考証した{{sfn|林曦中|1990|p=23}}。 こうした両氏の競漕に関する考察については、近年では再検討が見られており、聞氏らの築いた礎石のままでは中国の時節祭についての理解は不十分で刷新が必要であると説かれており{{sfn|Chittick|2011|pp=1-2}}、また、黄石が主張するように端午節の全ての行事が「避瘟・避邪」の為であるとするのは受容れがたいとも説かれる{{sfn|林芬蓉|1990|p=122}}。 『荊楚歳時記』注釈本が、五月五日の競漕が屈原よりもむしろ[[伍子胥]]に関連すると説いていることは既に述べたが、更に加えて(伍子胥が仕えた[[呉 (春秋)|呉]]の[[夫差]]とは仇敵である)越の[[勾践]]が競漕の習わしの開祖であると『越地伝』に記されたと付記する。しかし注釈者も「詳らかにすべからず」とこの説に否定的で、近年の学者([[守屋美都雄]])も信ぴょう性は乏しいとした{{sfn|林芬蓉|1990|p=120}}<ref name=jingchu-suishiji/>。 === 薬草 === いまでも(汨羅付近では)端午節に、菖蒲や{{仮リンク|チョウセンヨモギ|zh|艾草}}の束を魔よけとして戸口に飾る風習が、広く行なわれているが<ref>{{harvnb|林曦中|1990|p=36}}、丘恒輿『中国民族采英録』、1987年、236-246頁に拠る。</ref>{{Refn|group="注"|他、近年までの台湾の例{{sfn|林芬蓉|1990|p=113}}。}}、以下その遡源について、および薬草狩り・薬湯・厄除けの風習について述べる。 薬草風呂をこの時節に浴びる風習は古い。前漢の『[[大戴礼記]]』(『大戴礼』とも)巻二「夏小正」の条(前1世紀)には、五月の五日(午日)に「蘭を蓄え沐浴を為すなり」とみえるが{{sfn|張|2012|pp=192, 195-6}}<ref name=taiping_yulan(4ku)-bk0983-dadaili/>{{sfn|任|1995|p=4}}、この頃の「蘭」とは[[フジバカマ]]を指すというのが通説である{{sfn|張|2012|p=195}}<ref name=kotobank-fujibakama/>{{Refn|group="注"|ただし『[[太平御覧]]』では「蘭香」の条にこの引用があり<ref name=taiping_yulan(4ku)-bk0983-dadaili/>、「[[:zh:蘭香|蘭香]]」は 段菊 Caryopteris incana を指すようである。}}{{Refn|group="注"|より古く『楚辞』九歌・雲中君篇にも「蘭湯に浴し」とあるのだが、時節の記述がないのでここでは置く{{sfn|張|2012|p=195}}{{sfn|任|1995|p=4}}。}}。後世の菖蒲風呂は、この「蘭」の沐浴の遺風であろう{{sfn|張|2012|p=195}}{{sfn|任|1995|p=4}}。 『荊楚歳時記』には五月五日を「浴蘭節」と称すとあり{{sfn|任|1995|pp=3-4}}{{sfn|張|2012|pp=192, 195-6}}、「… 四民並蹋百草之戯 採艾以為人 懸門戸上 以禳毒気 以菖蒲或縷或屑 以泛酒」と続く。すなわち、四つの階級の民は「百草踏み」という遊戯にふけり、チョウセンヨモギで作った{{読み仮名|人形|ひとがた}}を門に掛けて邪気を払い、菖蒲は刻むか粉末にして酒に混ぜて飲んだ{{sfn|任|1995|pp=3-4}}。また『歳時記』ないし『歳時雑記』からの引用として、菖蒲を小人や胡蘆(ひょうたん)の形に彫刻して、これを帯びて辟邪(厄除け)したと『{{仮リンク|山堂肆考|zh|山堂肆考}}』に見える{{sfn|張|2012|p=198}}{{sfn|守屋|1954|p=108}}。 古代より菖蒲は効能がある薬草とされていた。『風俗通』(後漢末)には、食せば長寿につながると説く<ref>『太平御覧』巻九百九十九、百草部、菖蒲の条所引の『風俗通』に「菖蒲花を放つ、人得て之を食えば長年なり」と。{{harvnb|張|2012|p=201}}注16</ref><ref name=taiping_yulan(4ku)-bk0999-fengsutong/>。 これらについては、現代日本においても菖蒲や蓬を軒に吊るし、菖蒲の束を浮かべる[[菖蒲湯]]に入る風習が残っている。 == 朝鮮・韓国 == [[ファイル:Hyewon-Dano.pungjeong.jpg|サムネイル|[[蕙園伝神帖]]「端午風情」]] [[ファイル:Korea-Andong-Dano Festival-Swinging-02.jpg|サムネイル|{{仮リンク|安東民俗博物館|ko|안동민속박물관}}の端午祭]] {{仮リンク|韓国の端午|ko|한국의 단오}}は、「タノ」(단오)と言い、旧暦の5月5日に行われる。この日に女性が[[ブランコ]]に乗る風習がある。 [[朝鮮]]では、端午(タノ)は[[旧正月]]([[ソルラル]])、[[秋夕]](チュソク)、[[寒食節|寒食]](ハンシク)と並ぶ四大名節とされ、田植えと種まきが終わる時期に山の神と地の神を祭り、秋の豊作を祈願する日とされる。[[李氏朝鮮]]時代には、男子は[[シルム]]、女子はクネ(鞦韆、ブランコ)を楽しみ、厄除けの意味を込めて菖蒲を煮出した汁で洗髪し、女子は菖蒲の茎のかんざしを、男子は腰飾りを身につける習慣があった。端午の伝統料理には、ヨモギや[[チョウセンヤマボクチ]]を練り込んで車輪の型で押した[[トック]](車輪餅 チャリュンビョン)や[[ユスラウメ]]の[[ファチェ]](花菜、冷たい飲み物)がある<ref>[http://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=2158 韓国旅行「コネスト」韓国の文化と生活:端午(タノ)]</ref>。 [[2005年]]11月、[[大韓民国]]の{{仮リンク|江陵端午祭|en|Gangneung Danoje|ko|강릉 단오제}}が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]による「[[無形文化遺産#人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言|人類の口承及び無形遺産の傑作]]」への認定を宣言された(第3回傑作宣言)<ref>一部報道には「この年月に[[無形文化遺産]]に登録された」としているものもあるが、これは厳密には誤りである。当時はまだ[[無形文化遺産保護条約]]が発効しておらず、江陵端午祭が無形文化遺産の代表一覧表に掲載されたのは[[2008年]]。</ref>。この事を受けて、端午祭の本家である[[中華人民共和国|中国]]のマスコミをはじめとする諸団体は「[[韓国起源説|韓国起源]]の節句として[[無形文化遺産]]登録された」などと猛反発した{{Refn|group="注"|韓国の報道によれば、実際には「端午の起源が韓国」との主張は傑作宣言にも一覧表にも存在せず、韓国が「江陵端午祭」を申請した際、「もともとは中国の行事。韓国に伝わって1500年以上が経過した」等の説明をしたとしている<ref>[https://web.archive.org/web/20090810175159/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0527&f=national_0527_030.shtml ''中国躍起「端午節の元祖は韓国でなくウチ」―登録申請'' - サーチナニュース 2009年5月27日付]</ref>。}}。 さらに韓国の報道によると、傑作宣言の5ヶ月前に、中国国内から「[[湖北省]]で行われている自国の[[荊州区|江陵]]端午祭を、韓国の江陵端午祭との共同で世界文化遺産に登録しよう」という声が上がっていたが、韓国の学界から「中国の江陵端午祭は、韓国の江陵端午祭と名前だけは同じだが、完全に違うもの」と反発されていた経緯があるという<ref>{{Cite news|author=변영주|url=http://news.kukinews.com/article/view.asp?page=1&gCode=kmi&arcid=0919825690&code=11131400|title=단오제 유네스코 등록 중국 딴지|publisher=국민일보([[国民日報]])|date=2005-06-08|accessdate=2010-05-06|language=韓国語}}</ref>。 == 琉球諸島 == 琉球諸島の端午の節句にはドラゴンボートを漕ぐ風習があり<ref>{{Cite web |title=[刘晓峰]琉球端午节俗初探 · 中国民俗学网-中国民俗学会 · 主办 · |url=https://www.chinesefolklore.org.cn/web/index.php?NewsID=9423 |website=www.chinesefolklore.org.cn |access-date=2023-06-22}}</ref>、魔除けとして「矢数」(琉球語:ヤカジ)という紙人形を家に掲示している<ref>{{Cite web|和書|title=みやげもんコレクション 166 犬のぴぃぴぃ |url=https://magazineworld.jp/brutus/miyagemon/miyagemon-166/ |website=マガジンワールド |access-date=2023-06-22 |language=ja}}</ref>。娘のいる家には紙雛箱、つまり紙人形を載せたダンボール箱が置かれている<ref>{{Cite web|和書|title=その他の人形 |url=http://www.extension.ne.jp/hariko/sonota.htm |website=www.extension.ne.jp |access-date=2023-06-22}}</ref>。ドラゴンボートの型と琉装、三線弾き、太鼓叩き、琉球伝統舞踊を踊る土人形も置かれている。琉球ヒヒ(ポーポー、黒糖菓子)、琉球煎餅(チンピン)などを食べる。 == ベトナム == [[ベトナム]]では、「コムジウ([[:en:Cơm rượu]])」と「ジウネップ([[:en:Rượu nếp]])」という[[もち米]]の[[発酵食品]]が[[果物]]とともに祭壇に供えられる。また、別名「殺虫節({{lang|vi|Tết giết sâu bọ/節𢷄螻蜅}})」とも言われ、この日に果物を食べると、体内の虫が退治されるともされ、農村部では、樹木の殺虫対策を行う地域もある<ref>[http://www.vietnam-sketch.com/archive/north/alacarte/2009/05/001.html ベトナム風に「端午の節句」を過ごしてみない?]</ref>。 == 端午や五月に関連した作品 == * [[落語]] ** [[五月幟]](ごがつのぼり) ** 菖蒲売の咄(しょうぶうりのはなし) ** 人形買い(にんぎょうかい) * 能 * 狂言 * 随筆 ** [[枕草子]]「節は五月に」の段で端午の節句をほめたたえている。 * 小説 ** [[魯迅]]『端午の節季』1922年 * 絵画 ** [[申潤福]]『端午風情』 * 絵本 ** 常光徹『なぜ、おふろにしょうぶをいれるの? なぜ?どうして?たのしい行事(こどもの日)』童心社 2001年 *写真集(文・英語,子供向け) ** {{Cite book |author=石井美奈子 |title=Girls' Day / Boys' Day |publisher=ベス・プレス |date=2007年月 |isbn=9781573062749}} * 映画 ** [[春香伝]](韓国・2000年)監督イム・グォンテク、出演チョ・スンウ、イ・ヒョジョン * 楽曲 ** [[背くらべ]](唱歌。作詞:[[海野厚]]、作曲:[[中山晋平]]) ** [[鯉のぼり (弘田龍太郎)|鯉のぼり]](唱歌。作詞者不詳、作曲:[[弘田龍太郎]]『こいのぼり』とは別の曲) ** [[こいのぼり (近藤宮子)|こいのぼり]](唱歌。作詞:近藤宮子、作曲者不詳) ** 五月人形の行進 (サトウハチロー)(童謡。作詞:[[サトウハチロー]]、作曲:[[服部隆之]]) * [[狂歌]] ** 江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、口先ばかりで腹わたは無し * [[絶句]] **杜甫「端午日賜衣」 :宮衣亦有名、端午被恩栄。({{読み仮名|宮衣亦|きゅういま}}た{{読み仮名|名有|なあ}}り、{{読み仮名|端午|たんご}}に{{読み仮名|恩栄|おんえい}}を{{読み仮名|被|こうむ}}る。) :細葛含風軟、香羅畳雪軽。({{読み仮名|細葛風|さいかつかぜ}}を{{読み仮名|含|ふく}}みて{{読み仮名|軟|やわ}}らかに、{{読み仮名|香羅雪|こうらゆき}}を{{読み仮名|畳|たた}}みて{{読み仮名|軽|かる}}し。) :自天題処湿、当暑著来清。({{読み仮名|天|てん}}よりして{{読み仮名|題|だい}}する{{読み仮名|処湿|ところしめ}}り、{{読み仮名|暑|しょ}}に{{読み仮名|当|あ}}たりて{{読み仮名|著|つ}}け{{読み仮名|来|き}}たれば{{読み仮名|清|すず}}し。) :意内称長短、終身荷聖情。({{読み仮名|意内長短称|いないちょうたんかな}}う、{{読み仮名|終身聖情|しゅうしんせいじょう}}を{{読み仮名|荷|こうむ}}る。) == 注釈 == {{notelist2}} == 出典 == ; 脚注 {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em|refs= <ref name="gujin_tushu_jicheng-bk51-fsty">『[[古今図書集成|古今圖書集成]]』 巻51、[[:zh:s:Page:Gujin Tushu Jicheng, Volume 019 (1700-1725).djvu/89#《風俗通義》|《風俗通義》]]<!--Fengsu Tongyi-->の引用。</ref> <ref name="gujin_tushu_jicheng-bk51-xqjj">『[[古今図書集成|古今圖書集成]]』 巻51、[[:zh:s:Page:Gujin Tushu Jicheng, Volume 019 (1700-1725).djvu/89#《續齊諧記》|《續齊諧記》]]<!--Xu Qixieji-->の引用。</ref> <ref name="jingchu-suishiji">{{citation|editor-last=Chapman |editor-first=Ian |editor-link=<!--Ian Chapman (Sinologist)--> |others=Wendy Swartz; Robert Ford Campany; Yang Lu: Jessey Choo (gen. edd.) |chapter=28 Festival and Ritual Calendar: Selections from ''Record of the Year and Seasons of Jing-Chu'' |title=Early Medieval China: A Sourcebook |publisher=Columbia University Press |year=2014 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=AeiIl2y6vJQC&pg=PA479 |page=479 <!--468-493--> |isbn=<!--0231531001, -->9780231531009}}</ref> <ref name="kotobank-fujibakama">{{citation|和書|last=小町谷 |first=照彦 |authorlink=小町谷照彦 |title=フジバカマ |work=日本大百科全書(ニッポニカ) |publisher=小学館 |year=1994 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%B8%E3%83%90%E3%82%AB%E3%83%9E-1585969}}</ref> <ref name="nihon_minzokugaku_jiten-onnanoie">{{citation|和書|last=中山 |first=太郎 |authorlink=中山太郎 (民俗学者) |title=オンナノイヘ|work=日本民俗学辞典 |publisher=昭和書房 |year=1933 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1443868/194 |pages=193-196}}</ref> <ref name="nihon_rekishi_daijiten-onnanoie">[[倉石忠彦]]「女の家」『日本歴史大事典 1』小学館、2000年 {{ISBN2|978-4-095-23001-6}} 566頁</ref> <ref name="seisen_nihon_minzoku_jiten">{{citation|和書|editor1-last=福田 |editor1-first=アジオ |editor1link=福田アジオ |editor2-last=神田 |editor2-first=より子 |editor2link=神田より子 |editor3-last=新谷 |editor3-first=尚紀 |editor3link=新谷尚紀 |title=端午節 |work=精選日本民俗辞典 |publisher=吉川弘文館 |year=2006 |url=https://books.google.com/books?id=9wcMAAAAYAAJ&q=%22五月忌%22 |pages=193-196}}</ref> <ref name="taiping_yulan(4ku)-bk0983-dadaili">『[[太平御覧|太平御覽 (四庫全書本)]]』 巻983、香部三 [[:zh:s:太平御覽 (四庫全書本)/卷0983#蘭香|《大戴禮》]]<!--Dadai Li[ji]-->の引用。</ref> <ref name="taiping_yulan(4ku)-bk0999-fengsutong">『[[太平御覧|太平御覽 (四庫全書本)]]』 巻999、百卉部三 [[:zh:s:太平御覽 (四庫全書本)/卷0999#菖蒲|《風俗通》]]<!--Fengsu Tong[yi]-->の引用。</ref> <ref name="yoshikai">{{citation|和書|last=吉海 |first=直人 |authorlink=吉海直人 |title=「端午の節句」について |website=同志社女子大学 |date=2018-04-18 |url=https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2018-04-18-12-32}}</ref> }} ; 参考文献 {{refbegin}} * {{citation|和書|last=許 |first=曼麗 Hsu ManLi |authorlink=<!--許曼麗--> |title=端午風物詩語小考 |trans-title=A study about poems of 'Duan-wu' |journal=藝文研究 <!--The geibun-kenkyu: journal of arts and letters --> |year=2004 |publisher=<!--Keio 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|journal=比較民俗研究 |ISSN=09157468 |publisher=筑波大学比較民俗研究会 |year=1995 |month=sep |issue=12 |pages=1-6 |naid=110000531071 |url=https://hdl.handle.net/2241/14342 |ref={{harvid|任|1995}} }} * {{citation|和書|last=守屋 |first=美都雄 |authorlink=守屋美都雄 |title=荊楚歳時記の資料的研究 |trans-title=A Study of the Ching-Ch'u Sui-Shih-Chi (荊楚歳時記) Based on Original material |journal=大阪大學文學部紀要 |volume=3 |date=1954-03-25 |url=https://hdl.handle.net/11094/11497 |pages=45-113 |accessdate=2020-5-10}} * {{citation|和書|last=八木 |first=透 |authorlink=八木透 |title=民俗芸能と年中行事断章 : シアター公演の回顧と記録 |trans-title=A censure of Folk performing arts and Annual event |journal=佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 <!--Bulletin of Nishogakusha University--> |number=15 |year=2019|url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_SB001500009272 |pages=83-94}} * {{citation|和書|last=吉井 |first=涼子 |authorlink=<!--吉井涼子 Yoshii Ryoko--> |title='屈原'に就いて |trans-title=A Study on 'Qu Yuan' |journal=二松学舎大学論集 <!--Bulletin of Nishogakusha University--> |number=58 |year=2015 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風俗営業
風俗営業 (ふうぞくえいぎょう) とは、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(以下、風適法と略記)第2条第1項で定義されている一定の営業をいう。キャバレー・料亭・クラブ・パチンコ店・ゲームセンターなどが該当する。 風適法第2条第1項では、次の各号のいずれかに該当する営業を風俗営業と定義して、業務適正化の措置を図っている。
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風俗営業 (ふうぞくえいぎょう) とは、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(以下、風適法と略記)第2条第1項で定義されている一定の営業をいう。キャバレー・料亭・クラブ・パチンコ店・ゲームセンターなどが該当する。
{{otheruseslist|[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風適法]]第2条'''第1項'''に定義された営業形態|風適法第2条'''第5項'''に定義された、いわゆる性風俗店の営業形態|性風俗関連特殊営業|性風俗店そのもの|風俗店}} {{law}} '''風俗営業''' (ふうぞくえいぎょう) とは、[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]](以下、風適法と略記)第2条第1項で定義されている一定の[[営業]]をいう。[[キャバレー (接待飲食店) |キャバレー]]・[[料亭]]・[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]・[[パチンコ]]店・[[ゲームセンター]]などが該当する。 == 風俗営業の定義 == 風適法第2条第1項では、次の各号のいずれかに該当する[[営業]]を風俗営業と定義して、業務適正化の措置を図っている。 # キヤバレー([[キャバレー (接待飲食店) |キャバレー]])、[[待合]]、料理店([[料亭]])、カフエー([[カフェー (風俗営業)|カフェー]])その他設備を設けて客の'''接待'''をして客に'''遊興又は飲食'''をさせる営業 - 接待飲食店。[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]](従業員が接待をする業態のもの)や[[ホストクラブ]]なども該当する。 # [[喫茶店]]、[[バー (酒場)|バー]]その他設備を設けて客に'''飲食'''をさせる営業で、国家公安委員会規則で定めるところにより計つた営業所内の[[照度]]を'''10ルクス以下'''として営むもの(前号に該当する営業として営むものを除く。) - '''接待をしない'''低照度飲食店。低照度の[[ライブハウス]]やクラブ(客がダンスをする業態のもの。いわゆる[[ディスコ]])なども該当する。 # 喫茶店、バーその他設備を設けて客に'''飲食'''をさせる営業で、'''他から見通すことが困難'''であり、かつ、その広さが'''5平方メートル以下'''である'''客席'''を設けて営むもの - 区画席飲食店。[[カップル喫茶]]などが該当する。 # まあじやん屋([[麻雀#雀荘|雀荘]])、ぱちんこ屋([[パチンコ店]])その他設備を設けて客に'''[[射幸心]]をそそるおそれ'''のある遊技をさせる営業 - [[風俗第四号営業]]。 # [[スロットマシン]]、[[テレビゲーム]]機その他の遊技設備で'''本来の用途以外の用途として射幸心をそそるおそれ'''のある遊技に用いることができるもの(国家公安委員会規則で定めるものに限る。)を備える店舗その他これに類する区画された施設(旅館業その他の営業の用に供し、又はこれに随伴する施設で政令で定めるものを除く。)において当該遊技設備により客に遊技をさせる営業(前号に該当する営業を除く。) - [[風俗第五号営業]]。[[ゲームセンター]]などが該当する。 * 上記のうち第1号から第3号までを'''接待飲食等営業'''と呼ぶ(風適法第2条第4項)。 * 『'''接待'''』とは、「歓楽的雰囲気を醸し出す方法により客をもてなすこと」をいう(風適法第2条第3項)。警察庁の解釈基準を含めた詳細については、[[接待#風俗営業法の定義]]を参照されたい。 == 風俗営業に対する規制 == * 風俗営業を営むには、所在地を管轄する都道府県[[公安委員会]]の許可を受けなければならない(風適法第3条第1項)。 * 営業所の設置場所は、都道府県の条例により制限を受ける(風適法第4条第2項第2号)。大阪府の条例では営業ができない場所として、[[都市計画法]]で定める住居系の用途地域、[[学校]]など保護対象施設から100メートル以内の区域等が相当するが、これらについても別途、大阪府公安委員会が営業を許可を認めている地域がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/reiki/reiki_honbun/k201RG00001068.html |title=○大阪府風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例(第2条) |publisher=大阪府 |date= |accessdate=2022-10-11}}</ref>。 * 風俗営業者は'''午前0時から午前6時までの深夜に営業してはならない'''(風適法第13条第1項)。ただし、都道府県が条例で日や地域を定めて営業時間を延長すること(同項ただし書)や、地域を定めて営業時間をさらに制限すること(同条第2項)ができる。詳細については、各都道府県の条例を参照されたい。 * 風俗営業者は'''18歳未満の者を客として店舗に立ち入らせてはならない'''(風適法第22条第1項第5号)。ただし、第2条第5号に該当する営業([[ゲームセンター]]など)では、午後10時までは立ち入りが認められる(同号)が、都道府県は条例でさらに必要な制限を定めることができる(第22条第2項)。 * [[暴力団排除条例]]に基づく暴力団排除特別地域で営業する風俗営業者は、[[暴力団]]員らに対して [[みかじめ料]]の支払いを行ってはならない<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/anzen/tsuiho/haijo_seitei/haijo_q_a.html#cms58FE1|title=東京都暴力団排除条例 Q&A |publisher=警視庁 |date=2022-07-04 |accessdate=2022-08-20}}</ref>。 == 近接する業態 == * 接待を行わない『[[酒類提供飲食店営業]]』は、風適法第33条第1項に定める届出をすれば、午前0時以降の営業も可能であるが、風俗営業の営業時間制限逃れに利用されることを防止するため、深夜における酒類提供飲食店営業の届出と風俗営業許可の併用は認められていない。2006年頃から広まりを見せている[[ガールズバー]]の多くは、『深夜における酒類提供飲食店営業』として営業しているが、風俗営業に近い営業形態のため規制強化の傾向にある。 * [[メイド喫茶]]や[[コスプレ系飲食店]]は、通常、風俗営業にはならないが、店員の接客形態によっては(警察から指導を受けるなどして)風俗営業許可を取得して営業しているところもある。風俗営業となった場合、18歳未満の客の入店はできず、18歳未満の従業員に接客させることもできず、経営者は従業員名簿を整備しなければならない。そのため、風俗営業許可を取得していない店舗も多く、そのような店舗では「風俗店ではございません」等の注意書きや張り紙がなされている場合もある。 * 接待飲食店を営む場合は風俗営業の許可を要するが、性的なサービスを伴う場合は風適法第2条第6項で定義される店舗型[[性風俗関連特殊営業]](いわゆる[[性風俗店]])となり、所定の届出をする必要がある(第27条第1項)。{{要出典範囲|ただし、[[ピンクサロン]]や[[セクキャバ]]は性的サービスがありながら、接待飲食店として(性風俗店としては未届けで)営業していることが多い|date=2014年1月}}。近年はサービスが多角化しその区別が曖昧になっている。 * 2016年に施行された改正風適法で、深夜営業を行うクラブ(ディスコ)やライブハウスなどを念頭に「特定遊興飲食店営業」の形態が新たに設けられ、「[[ナイトクラブ]]その他設備を設けて客に遊興をさせ、かつ、客に飲食をさせる営業(客に酒類を提供して営むものに限る。)で、午前6時後翌日の午前0時前の時間においてのみ営むもの'''以外'''のもの(風俗営業に該当するものを除く。)」(風適法第2条第11項)と定義された。2018年1月29日までに、警視庁は「特定遊興飲食店」としての許可を得ないまま深夜にダンス営業をしたとして、東京のクラブ「青山蜂」を風適法違反容疑(無許可営業)で摘発し、経営者ら3人を逮捕したと発表した<ref>[https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/aoyama-hachi?utm_term=.pmMv01mYk#.jv3xVKD0a クラブ「青山蜂」摘発に波紋 水曜日のカンパネラ、コムアイも思い吐露] BuzzFeed(2018年1月30日)</ref>。改正法施行後、クラブの摘発は全国で初めてで、同店は「特定遊興飲食店」の営業禁止地域にあり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL1Y3SJGL1YUTIL00L.html |title=渋谷でクラブ無許可営業、3人に容疑 改正風営法初適用 |date=2018年1月29日 |accessdate=2018年1月30日 |}}</ref>、店内の明るさが10ルクスを超えない低照度であるため「特定遊興飲食店」に該当せず、摘発となった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]] * [[性風俗関連特殊営業]] * [[風俗店]] * [[飲食店]] * [[歓楽街]] * [[風俗街]] * [[日の出営業]] * [[社交ダンス]] == 外部リンク == * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000122 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律] {{DEFAULTSORT:ふうそくえいきよう}} [[Category:外食産業]] [[Category:風俗営業|*]]
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風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律
風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(ふうぞくえいぎょうとうのきせいおよびぎょうむのてきせいかとうにかんするほうりつ)は、日本の法律。法令番号は昭和23年法律第122号、1948年(昭和23年)7月10日に公布された。略称は風営法、風適法、風俗営業法など。 風俗営業に関する営業時間(営業開始時刻 - 午前0時または1時まで。ただし午前0時または1時 - 午前6時までの深夜時間は都道府県により異なる)における酒類提供飲食店営業の許可を受けた店を除く。営業場所(住宅地や学校、病院)付近の営業を禁止し、年少者(18歳未満)の立ち入りを規制することにより、風俗業務の適正化を図ることを目的としている。 5号営業など一部業種に、1984年の新法制定時に「対象設備の概念が不明確であり、犯罪構成要件を規則や政令等に委ねているため、罪刑法定主義に反し、違憲立法である」という批判があった。 営業時間および営業区域は各都道府県の条例で定められることになっており、地域によっては祭礼等で営業時間の延長が公安委員会によって認められている。 例として、石川県のパチンコ店は4月から5月のゴールデンウィーク、6月の金沢百万石まつりの期間中(金沢市内に限る)、8月の旧盆、12月21日から1月10日、はそれぞれの期間で午前1時までの営業が認められている。三重県は12月31日から1月1日にかけて終夜営業が認められている。 法第40条が定める『全国風俗環境浄化協会』は、全国防犯協会連合会である。 本法律は性風俗関連特殊営業の範疇を「異性を相手にした性的サービスを行う店」としているため、同性相手の性的サービスを行う店は対象に含まれず、戸籍上男性のニューハーフが男性客を相手にする場合は対象外で、JKビジネスも本法律の対象外である。 第2条において定義している。店舗所在地の各都道府県公安委員会の許可を受け営業。 営業する各都道府県公安委員会に届出をして営業。 2015年(平成27年)法改正で制定。店舗所在地の各都道府県公安委員会の許可を受け営業。事業者・地域住民・警察などで設立する「風俗環境保全協議会」の設置が義務づけられた。 ナイトクラブ・ディスコその他の設備を設けて深夜に客に遊興をさせ、酒類を提供する営業のうち、風俗営業でないものが対象となる。上映前の映画館に相当する照度10ルクス以下の店は、低照度飲食店として風俗営業の対象となり、特定遊興飲食店営業ではない。旧風俗第3号営業(ダンス飲食店・66平方メートル以下の営業禁止)の規制撤廃を目的に施行された法律改正であるが、ダンスに限らず「遊興」が対象となった。 しかし、第189回国会での審議でも警察庁答弁では「遊興の定義」について曖昧な答弁に終始し、具体的な言及を一切していない。政省令の内容次第では、これまで規制対象ではなかった、スポーツバー・ライブハウス・カラオケパブなどが、新たに規制強化対象となる可能性がある。 ライブハウスは本来「興行場」として興行場法の適用対象であるが、規制が厳しいことからより許可されやすい「飲食店」として営業する例が多く、「ワンドリンク制」という手法により客が必ず飲食する状態にさせている。行政でも「演奏は飲食店の集客手段」という解釈で運用している。 深夜営業する場合は、各都道府県公安委員会に届出をして営業。 午前0時から午前6時まで酒類を提供できない業種は本法33条で規定されており、本法33条に該当する店舗は深夜における酒類提供飲食店営業を行うための届出ができない。風俗営業に該当する業種が多く該当している。ファミリーレストランが22時から翌日の6時まで保護者同伴のない18歳未満の青少年の入店を禁止しているのは、本法32条や都道府県によっては青少年保護育成条例の規制による。 上記の「風俗営業」を行う場合には、店舗所在地の都道府県の公安委員会に許可申請を行い、許可を受けることを要する。「性風俗関連特殊営業」及び「深夜における酒類提供飲食店営業」を行う場合は、許可ではなく公安委員会への届出を要する。 風営法の改正時に性風俗関連特殊営業の許可制について議論されたが、性風俗営業を公安委員会が「許可」することは適当でなく、実態として性的なサービスを行っているか否かの把握には届出制が妥当とされた。 廃業した場合に公安委員会へ「廃業届」提出を義務付けておらず、届出数と営業店舗数は一致しない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(ふうぞくえいぎょうとうのきせいおよびぎょうむのてきせいかとうにかんするほうりつ)は、日本の法律。法令番号は昭和23年法律第122号、1948年(昭和23年)7月10日に公布された。略称は風営法、風適法、風俗営業法など。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "風俗営業に関する営業時間(営業開始時刻 - 午前0時または1時まで。ただし午前0時または1時 - 午前6時までの深夜時間は都道府県により異なる)における酒類提供飲食店営業の許可を受けた店を除く。営業場所(住宅地や学校、病院)付近の営業を禁止し、年少者(18歳未満)の立ち入りを規制することにより、風俗業務の適正化を図ることを目的としている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "5号営業など一部業種に、1984年の新法制定時に「対象設備の概念が不明確であり、犯罪構成要件を規則や政令等に委ねているため、罪刑法定主義に反し、違憲立法である」という批判があった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "営業時間および営業区域は各都道府県の条例で定められることになっており、地域によっては祭礼等で営業時間の延長が公安委員会によって認められている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "例として、石川県のパチンコ店は4月から5月のゴールデンウィーク、6月の金沢百万石まつりの期間中(金沢市内に限る)、8月の旧盆、12月21日から1月10日、はそれぞれの期間で午前1時までの営業が認められている。三重県は12月31日から1月1日にかけて終夜営業が認められている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "法第40条が定める『全国風俗環境浄化協会』は、全国防犯協会連合会である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本法律は性風俗関連特殊営業の範疇を「異性を相手にした性的サービスを行う店」としているため、同性相手の性的サービスを行う店は対象に含まれず、戸籍上男性のニューハーフが男性客を相手にする場合は対象外で、JKビジネスも本法律の対象外である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "第2条において定義している。店舗所在地の各都道府県公安委員会の許可を受け営業。", "title": "対象" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "営業する各都道府県公安委員会に届出をして営業。", "title": "対象" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)法改正で制定。店舗所在地の各都道府県公安委員会の許可を受け営業。事業者・地域住民・警察などで設立する「風俗環境保全協議会」の設置が義務づけられた。", "title": "対象" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ナイトクラブ・ディスコその他の設備を設けて深夜に客に遊興をさせ、酒類を提供する営業のうち、風俗営業でないものが対象となる。上映前の映画館に相当する照度10ルクス以下の店は、低照度飲食店として風俗営業の対象となり、特定遊興飲食店営業ではない。旧風俗第3号営業(ダンス飲食店・66平方メートル以下の営業禁止)の規制撤廃を目的に施行された法律改正であるが、ダンスに限らず「遊興」が対象となった。", "title": "対象" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかし、第189回国会での審議でも警察庁答弁では「遊興の定義」について曖昧な答弁に終始し、具体的な言及を一切していない。政省令の内容次第では、これまで規制対象ではなかった、スポーツバー・ライブハウス・カラオケパブなどが、新たに規制強化対象となる可能性がある。", "title": "対象" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ライブハウスは本来「興行場」として興行場法の適用対象であるが、規制が厳しいことからより許可されやすい「飲食店」として営業する例が多く、「ワンドリンク制」という手法により客が必ず飲食する状態にさせている。行政でも「演奏は飲食店の集客手段」という解釈で運用している。", "title": "対象" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "深夜営業する場合は、各都道府県公安委員会に届出をして営業。", "title": "対象" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "午前0時から午前6時まで酒類を提供できない業種は本法33条で規定されており、本法33条に該当する店舗は深夜における酒類提供飲食店営業を行うための届出ができない。風俗営業に該当する業種が多く該当している。ファミリーレストランが22時から翌日の6時まで保護者同伴のない18歳未満の青少年の入店を禁止しているのは、本法32条や都道府県によっては青少年保護育成条例の規制による。", "title": "対象" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "上記の「風俗営業」を行う場合には、店舗所在地の都道府県の公安委員会に許可申請を行い、許可を受けることを要する。「性風俗関連特殊営業」及び「深夜における酒類提供飲食店営業」を行う場合は、許可ではなく公安委員会への届出を要する。", "title": "許可と届出" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "風営法の改正時に性風俗関連特殊営業の許可制について議論されたが、性風俗営業を公安委員会が「許可」することは適当でなく、実態として性的なサービスを行っているか否かの把握には届出制が妥当とされた。", "title": "許可と届出" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "廃業した場合に公安委員会へ「廃業届」提出を義務付けておらず、届出数と営業店舗数は一致しない。", "title": "許可と届出" } ]
風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(ふうぞくえいぎょうとうのきせいおよびぎょうむのてきせいかとうにかんするほうりつ)は、日本の法律。法令番号は昭和23年法律第122号、1948年(昭和23年)7月10日に公布された。略称は風営法(ふうえいほう)、風適法(ふうてきほう)、風俗営業法(ふうぞくえいぎょうほう)など。
{{law}} {{日本の法令 | 題名 = 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律 | 通称 = 風営法・風適法・風俗営業法・<br />風俗営業適正化法・風営適正化法 | 番号 = 昭和23年法律第122号 | 効力 = 現行法 | 種類 = 行政手続法 | 所管 = [[国家公安委員会]]<br>[[警察庁]]<br>([[国家地方警察|国家地方警察本部刑事部]]→[[警察庁刑事局|刑事局]]→[[生活安全局]]) | 内容 = 風俗営業に対する規制・適正化 | 制定時題名 = 風俗営業取締法 | 関連 = [[売春防止法]]、[[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律|児童ポルノ禁止法]]、[[職業安定法]]、[[労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律|労働者派遣法]]、[[AV出演被害防止・救済法]] | リンク = [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000122&openerCode=1 e-Gov法令検索] }} [[ファイル:No dancing.jpg|サムネイル|ダンス禁止の看板|代替文=|314x314ピクセル]] '''風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律'''(ふうぞくえいぎょうとうのきせいおよびぎょうむのてきせいかとうにかんするほうりつ)は、[[日本]]の[[法律]]。[[法令番号]]は昭和23年法律第122号、1948年(昭和23年)7月10日に[[公布]]された。略称は'''{{Ruby|風営法|ふうえいほう}}'''、'''{{Ruby|風適法|ふうてきほう}}'''、'''{{Ruby|風俗営業法|ふうぞくえいぎょうほう}}'''など。 主務官庁は[[警察庁]][[生活安全局]]保安課で、[[厚生労働省]][[社会・援護局]]総務課、[[内閣府]][[男女共同参画局]]推進課、[[法務省]][[人権擁護局]]調査救済課と連携して執行にあたる。 == 歴史 == * [[1948年]] - 「風俗営業取締法」として制定 * [[1954年]] - 風俗営業に「[[パチンコ店]]」を追加 * [[1955年]] - 玉突場([[ビリヤード]])を、風俗営業取締法の取締りから除外 * [[1959年]]4月1日 - 「風俗営業等取締法」に題名改正 * [[1966年]] - [[トルコ風呂 (性風俗)|トルコ風呂]](現[[ソープランド]])が、同法の規制対象となる。 * [[1984年]]8月14日 - 大幅改正([[1985年]]2月13日施行) ** 題名を「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」に改正。営業時間は午前0時まで、のぞき部屋、ファッションマッサージなども届出対象となる。この影響で[[ノーパン喫茶]]が姿を消す。 ** 麻雀店などを対象に遊技の結果に応じた賞品の提供や換金が禁止されたことにより、賞品を介した賭博が禁止となった。 * [[1998年]]5月 - 大幅改正(一部の規定を除き[[1999年]]4月施行) ** 出張マッサージなど無店舗型の営業や、[[インターネット]]での[[アダルトビデオ]]送信営業が届出対象となる。 ** [[デリバリーヘルス]]の解禁となった。 ** [[社交ダンス]]が一定の条件下で規制除外となった。 * [[2005年]]11月 - 大幅改正(一部の規定を除き[[2006年]]5月1日施行) ** 罰則強化 ** [[公安委員会]]に営業届を行い、届出確認書を店に備え、客や警察など関係者から提示を求められたら、直ちにそれを提示しなければならない。 ** 営業に関し、[[客引き]]をすること、そのために人の前に立ちふさがる・つきまとうなどの行為も禁止。 ** 派遣型[[ファッションヘルス]]([[デリバリーヘルス|デリヘル]])や[[SMクラブ]]に関しては、'''受付所は店舗'''とみなされ、住所などの公安委員会への届出が必要となり、営業禁止区域内にある施設は、摘発対象となる。 * [[2015年]]6月 - 大幅改正(一部の規定を除き[[2016年]][[6月23日]]施行) **[[ダンス]]や[[ディスコ]]が風俗営業の構成要件から外れ、以下のように変更される。 *** 1号営業(キャバレー)と2号営業(クラブ・ホストクラブ、キャバクラなど)が新1号営業として統合される。 *** 3号営業(ダンス飲食店)と4号営業(ダンスホール)の規定が廃止。3号営業のうち低照度(10[[ルクス]]以下)で営業する店舗のみ「低照度飲食店」として、引き続き風俗営業の許可対象となる。深夜に酒類を提供する場合は、後述の「特定遊興飲食店営業」の対象となる。 *** 5 - 8号営業が新2 - 5号営業となる。 ** 「特定遊興飲食店営業」の規定が追加。深夜に客に遊興をさせ、[[アルコール飲料]]を提供する営業が対象となる。 ** 風俗営業における[[日の出営業]]の開始時刻が「[[日の出]]」から「午前6時」に変更された。 == 概要 == 風俗営業に関する営業時間(営業開始時刻 - 午前0時または1時まで。ただし午前0時または1時 - 午前6時までの深夜時間は[[都道府県]]により異なる)における酒類提供飲食店営業の許可を受けた店を除く。営業場所([[住宅地]]や[[学校]]、[[病院]])付近の営業を禁止し、年少者(18歳未満)の立ち入りを規制することにより、風俗業務の適正化を図ることを目的としている。 5号営業など一部業種に、[[1984年]]の新法制定時に「対象設備の概念が不明確であり、犯罪構成要件を規則や[[政令]]等に委ねているため、[[罪刑法定主義]]に反し、[[違憲]]立法である」という批判があった<ref>[[日本アミューズメントマシン工業協会]]による批判。赤木真澄『それは『ポン』から始まった』[[アミューズメント通信社]]、317 - 318ページ。ISBN 4-9902512-0-2。</ref>。 営業時間および営業区域は各[[都道府県]]の条例で定められることになっており<ref>{{PDFlink|[http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/seian/gujourei/image/fuuteki_jorei.pdf 東京都における法律施行条例]}}{{リンク切れ|date=2015年6月}} - [[東京都]]での営業時間および営業区域([[警視庁]])</ref>、地域によっては祭礼等で営業時間の延長が[[公安委員会]]によって認められている。 例として、[[石川県]]の[[パチンコ店]]は4月から5月の[[ゴールデンウィーク]]、6月の[[金沢百万石まつり]]の期間中([[金沢市]]内に限る)、8月の旧盆、12月21日から1月10日、はそれぞれの期間で午前1時までの営業が認められている<ref>[http://www.pref.ishikawa.jp/reiki/reiki_honbun/i1010950001.html 石川県風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例]{{リンク切れ|date=2015年6月}}</ref>。[[三重県]]は12月31日から1月1日にかけて終夜営業が認められている<ref>{{PDFlink|[http://www.police.pref.mie.jp/wp/wp-content/uploads/siryou_jourei.pdf 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例]}}{{リンク切れ|date=2015年6月}} - 三重県警察</ref>。 法第40条が定める『全国風俗環境浄化協会』は、[[全国防犯協会連合会]]である。 {{要検証範囲|本法律は性風俗関連特殊営業の範疇を「異性を相手にした性的サービスを行う店」としているため、同性相手の性的サービスを行う店は対象に含まれず、戸籍上男性の[[ニューハーフ]]が男性客を相手にする場合は対象外で<ref>{{cite news |title=【関西の議論】無法地帯「ニューハーフヘルス」 取り締まれない風営法の“無力” |newspaper=[[産経新聞]]|date=2013-2-2|url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130202/waf13020212010014-n1.htm |accessdate=2013-2-2 }}</ref>、[[JKビジネス]]も本法律の対象外である。|date=2023年1月}} == 対象 == === 風俗営業 === [[ファイル:Kita shinchi(night).JPG|thumb|right|240px|[[接待]][[営業]]第1号営業店が林立する[[大阪府]][[北新地]]]] {{See|風俗営業}} 第2条において定義している。店舗所在地の各都道府県[[公安委員会]]の許可を受け営業。 * [[接待]]飲食等営業 ** 1号営業 - 客を接待して飲食させる営業する、キヤバレー、待合、料理店、カフエーその他設備([[キャバレー (接待飲食店) |キャバレー]]、[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]、[[ホストクラブ]]、[[キャバクラ]]など) ** 2号営業 - 低照度飲食店(10[[ルクス]]以下の暗い[[喫茶店]]・[[バー (酒場)|バー]]。店員による接待は出来無い。1号営業を除く。) ** 3号営業 - 区画席飲食店。他から見通すことが困難で広さが五平方メートル以下である客席を設けて営むもの([[カップル喫茶]]) *** 2005年10月27日の[[参議院]][[内閣委員会]]における[[黒岩宇洋]]の質問によれば、許可を受けている2号営業(当時は5号営業)は17店、3号営業(当時は6号営業)は6店である。 * その他([[遊技場]]営業) ** [[風俗第四号営業|4号営業]] - まあじやん屋([[雀荘]])、ぱちんこ屋([[パチンコ店]])など ** [[風俗第五号営業|5号営業]] - [[ゲームセンター]]など *** 「4号営業」と「5号営業」の違いは、「4号営業」が「設備を設けて客に射幸心をそそる恐れのある遊技をさせる営業(遊技方法自体が射幸心をそそる恐れがあるもの)」、「5号営業」は 「遊技設備で本来の用途以外の用途として射幸心をそそる恐れのある遊技に用いることができるもの(遊技方法は射幸心をそそるつもりはないが、遊技設備が本来の用途と別に射幸心をそそる可能性があるもの)」とされている。 === 性風俗関連特殊営業 === {{See|性風俗関連特殊営業}} 営業する各都道府県公安委員会に[[届出制|届出]]をして営業。 * 店舗型性風俗特殊営業 ** 1号営業 - [[ソープランド]] ** 2号営業 - 店舗型性風俗店([[ファッションヘルス]]など) ** 3号営業 - [[ストリップティーズ|ストリップ]]劇場・[[ポルノ映画]]館など ** 4号営業 - [[ラブホテル]] ** 5号営業 - [[アダルトショップ]]など ** 6号営業 - 政令で定める(2011年1月1日から[[出会い喫茶]]が指定された) * 無店舗型性風俗特殊営業 ** 1号営業 - [[デリバリーヘルス|派遣型ファッションヘルス]] ** 2号営業 - [[アダルトビデオ]]など[[通信販売]]営業 * 映像送信型性風俗特殊営業([[インターネット]]を利用した画像・映像配信など、性風俗店を紹介する風俗情報の[[ウェブサイト]]も、これに含まれる場合がある) * 店舗型電話異性紹介営業([[テレフォンクラブ]]など) * 無店舗型電話異性紹介営業(携帯電話を利用したテレフォンクラブなど) === 特定遊興飲食店営業 === 2015年(平成27年)法改正で制定。店舗所在地の各都道府県公安委員会の許可を受け営業。事業者・地域住民・警察などで設立する「風俗環境保全協議会」の設置が義務づけられた。 [[ナイトクラブ]]・[[ディスコ]]その他の設備を設けて深夜に客に遊興をさせ、酒類を提供する営業のうち、風俗営業でないものが対象となる。上映前の映画館に相当する[[照度]]10[[ルクス]]以下の店は、低照度飲食店として風俗営業の対象となり、特定遊興飲食店営業ではない。旧風俗第3号営業(ダンス飲食店・66平方メートル以下の営業禁止)の規制撤廃を目的に施行された法律改正であるが、ダンスに限らず「遊興」が対象となった。 しかし、[[第189回国会]]での審議でも[[警察庁]]答弁では「遊興の定義」について曖昧な答弁に終始し、具体的な言及を一切していない。政省令の内容次第では、これまで規制対象ではなかった、スポーツバー・[[ライブハウス]]・カラオケパブなどが、新たに規制強化対象となる可能性がある。 [[ライブハウス]]は本来「興行場」として[[興行場法]]の適用対象であるが、規制が厳しいことからより許可されやすい「[[飲食店]]」として営業する例が多く、「ワンドリンク制」という手法により客が必ず飲食する状態にさせている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ライブハウス、法律上は「飲食店」 1ドリンク制をめぐる誤解を弁護士が斬る - 弁護士ドットコムニュース |url=https://www.bengo4.com/c_23/n_7978/ |website=弁護士ドットコム |access-date=2022-12-29 |language=ja}}</ref>。行政でも「演奏は飲食店の集客手段」という解釈で運用している<ref name=":0" />。 === 深夜(午前0時 - 午前6時)における酒類提供飲食店営業 === 深夜営業する場合は、各都道府県公安委員会に[[届出制|届出]]をして営業。 午前0時から午前6時まで酒類を提供できない業種は本法33条で規定されており、本法33条に該当する店舗は深夜における酒類提供飲食店営業を行うための届出ができない。風俗営業に該当する業種が多く該当している。[[ファミリーレストラン]]が22時から翌日の6時まで保護者同伴のない18歳未満の青少年の入店を禁止しているのは、本法32条や都道府県によっては[[青少年保護育成条例]]の規制による。 == 許可と届出 == 上記の「風俗営業」を行う場合には、店舗所在地の都道府県の[[公安委員会]]に[[許可]]申請を行い、許可を受けることを要する。「性風俗関連特殊営業」及び「深夜における酒類提供飲食店営業」を行う場合は、許可ではなく公安委員会への[[届出制|届出]]を要する。 風営法の改正時に性風俗関連特殊営業の許可制について議論されたが、性風俗営業を公安委員会が「許可」することは適当でなく、実態として性的なサービスを行っているか否かの把握には届出制が妥当とされた。 廃業した場合に公安委員会へ「廃業届」提出を義務付けておらず、届出数と営業店舗数は一致しない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[風俗店]] * [[風俗営業]] * [[風俗街]] * [[売春防止法]] * [[日の出営業]] * [[性風俗産業に対する差別]] * [[セックスワーカー]] * [[Shall we ダンス?]] * [[Hoo! Ei! Ho!]] * [[興行場法]] == 外部リンク == * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000122 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律] - e-Gov法令検索 * {{PDFlink|[http://www.npa.go.jp/laws/notification/seian/hoan/hoan20191202-2.pdf 「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律等の解釈運用基準について」]}}(警察庁生活安全局、2019年12月2日) * {{PDFlink|[https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/wg2/sogyo/140120/summary0120.pdf 第15回 創業・IT等ワーキング・グループ議事概要]}} {{性}} {{DEFAULTSORT:ふうそくえいきようとうのきせいおよひきようむのてきせいかとうにかんするほうりつ}} [[Category:日本の行政規制法]] [[Category:日本の法律]] [[Category:風俗営業|*]] [[Category:性風俗関連特殊営業|*ふうそくえいきようとうのきせい]] [[Category:1948年の法]]
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海の日
海の日(うみのひ)は、日本の国民の祝日の一つ。7月の第3月曜日と定められている。 海の日は、1995年(平成7年)に制定されて1996年(平成8年)から施行された日本の国民の祝日の一つである。制定当初は7月20日であったが、2003年(平成15年)に改正された祝日法のハッピーマンデー制度により、7月の第3月曜日となった。 国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条は、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。国土交通省は「世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけ」としている。 2007年(平成19年)に制定された海洋基本法第13条は、海の日の行事を「国及び地方公共団体は、国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)第2条に規定する海の日において、国民の間に広く海洋についての理解と関心を深めるような行事が実施されるよう努めなければならない」と定めている。 海上自衛隊は、基地や一般港湾などに停泊する自衛艦が満艦飾を行う。 海の日が制定された1996年(平成8年)以降、7月20日から31日までの12日間を「海の旬間(じゅんかん)」とし、国土交通省海事局が自治体や諸団体とともに海事思想を普及している。 国民の「海」に対する理解と認識を高めるため、海の日の三連休化に伴い2003年(平成15年)以降は海の日を含む7月1日から31日までの1か月間を「海の月間」と定め、国土交通省海事局を中心に「海フェスタ」などを催している。 2014年に「海の恩恵に感謝する日だったはずが、単なるお祭りになってしまった」として、超党派の国会議員からなる海事振興連盟により7月20日に固定化する議案が出され、2016年から8月11日の「山の日」が施行されることをきっかけに当初の7月20日に戻そうとする流れがあったものの、実現には至っていない。 2015年に海の日20回目を記念して「海でつながるプロジェクト」が発足する。総合海洋政策本部参与会議座長・日本郵船顧問の宮原耕治を会長に、日本政府、東京海洋大学、日本財団、民間法人らが『「海の日」特別行事実行委員会』を結成し、「海の日」の意義や海に対する好奇心を高揚させる催しを開催し、日本財団会長笹川陽平、山谷えり子海洋政策担当大臣、アショク・マハパトラ国際海事機関上級次長、川島海荷、服部幸應、石原良純らが登壇した。 2020年(令和2年)は東京五輪・パラリンピック特措法により、東京オリンピックの開会式の当初の予定日の前日に当たる7月23日(木曜日)にこの年に限り変更された。その後、東京オリンピックは新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行のため、翌年に延期が決まったが、国民生活への影響を考慮し、2020年の海の日は7月23日のままとされた。 2021年(令和3年)は令和三年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法により、前年から1年延期された東京オリンピックの開会式前日の7月22日(木曜日)にこの年に限り変更された。しかし決定がカレンダーの作成に間に合わなかったので、本来の海の日である7月19日は平日となった。 祝日化される前は「海の記念日」と呼ばれていた。海の記念日は、1876年(明治9年)に明治天皇が東北地方に巡幸した際、従来の軍艦ではなく灯台視察船「明治丸」で航海し、7月20日に横浜港に入港して横浜御用邸伊勢山離宮へ還幸した史実から、1941年(昭和16年)に逓信大臣の村田省蔵が提唱して制定された。 明治丸はその後、東京商船学校の練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存されている。 海が無い内陸県の奈良県は、7月第3月曜日を「奈良県山の日・川の日」と条例で定めている。
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海の日(うみのひ)は、日本の国民の祝日の一つ。7月の第3月曜日と定められている。
{{Otheruses|日本の祝日|[[ボリビア]]の記念日|海の日 (ボリビア)|[[パチンコ]]店のイベント|海物語}} [[File:2018-01-13 Shirahoreef & New Ishigaki Airport by Peach Airbus A320-214 白保海岸珊瑚礁と新石垣空港 DSCF9566a.jpg|thumb|200px|[[サンゴ礁]]に囲まれた[[石垣島]]の海]] {{国民の祝日}} '''海の日'''(うみのひ)は、[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つ。[[7月]]の第3[[月曜日]]<ref>7月15日から同月21日までのうち月曜日に該当する日</ref>と定められている。 == 概要 == [[ファイル:Odaiba marine day light up.jpg|thumb|230px|海の日、お台場(2011年)]] 海の日は、[[1995年]]([[平成]]7年)に制定されて[[1996年]](平成8年)から[[施行]]された[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つである。制定当初は[[7月20日]]であったが、[[2003年]](平成15年)に改正された祝日法の[[ハッピーマンデー制度]]により、[[7月]]の第3[[月曜日]]となった。 [[国民の祝日に関する法律]](祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条は、「[[海]]の恩恵に感謝するとともに、[[海洋国家|海洋国]]日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。[[国土交通省]]は「世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけ」<ref>[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha02/10/100425_2_.html 平成14年「海の旬間」実施要領]</ref>としている。 [[2007年]](平成19年)に制定された[[海洋基本法]]第13条は、海の日の行事を「[[国]]及び[[地方公共団体]]は、国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)第2条に規定する海の日において、国民の間に広く海洋についての理解と関心を深めるような行事が実施されるよう努めなければならない」と定めている。 [[海上自衛隊]]は、基地や一般港湾などに停泊する自衛艦が[[満艦飾]]を行う。 海の日が制定された[[1996年]](平成8年)以降、7月20日から[[7月31日|31日]]までの12日間を「海の旬間(じゅんかん)」とし、国土交通省[[海事局]]が自治体や諸団体とともに海事思想を普及している。 国民の「海」に対する理解と認識を高めるため、海の日の三連休化に伴い[[2003年]](平成15年)以降は海の日を含む[[7月1日]]から31日までの1か月間を「海の月間」と定め、国土交通省海事局を中心に「[[海フェスタ]]」など<ref>[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha03/10/100513_.html 平成15年「海の月間」の実施について]</ref>を催している。 2014年に「海の恩恵に感謝する日だったはずが、単なるお祭りになってしまった」として、超党派の国会議員からなる[[海事振興連盟]]により7月20日に固定化する議案が出され、[[2016年]]から[[8月11日]]の「[[山の日]]」が施行されることをきっかけに当初の7月20日に戻そうとする流れがあった<ref>[https://www.sankei.com/article/20140924-QDW2U5D6HFMO5EH4EULS6DOWSQ/ 「海の日」はやっぱり7月20日がいい!? 超党派議連、祝日法改正案提出へ] 産経ニュース 2014-9-24</ref>ものの、実現には至っていない。 [[2015年]]に海の日20回目を記念して「海でつながるプロジェクト」が発足する。[[総合海洋政策本部]]参与会議座長・[[日本郵船]]顧問の宮原耕治を会長に、日本政府、[[東京海洋大学]]、[[日本財団]]、民間法人らが『「海の日」特別行事実行委員会』を結成し、「海の日」の意義や海に対する好奇心を高揚させる催しを開催し<ref>[https://uminohi.jp/ 海でつながるプロジェクト - 海に想いを。 - ]</ref>、日本財団会長[[笹川陽平]]、[[山谷えり子]]海洋政策担当大臣、アショク・マハパトラ[[国際海事機関]]上級次長、[[川島海荷]]、[[服部幸應]]、[[石原良純]]らが登壇した<ref>[https://uminohi.jp/eventreport/%e3%80%8c%e6%b5%b7%e3%81%ae%e6%97%a5%e3%80%8d20%e5%9b%9e%e3%82%92%e8%a8%98%e5%bf%b5%e3%81%97%e3%80%81%e3%80%8c%e6%b5%b7%e3%81%a7%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%8c%e3%82%8b%e3%83%97%e3%83%ad%e3%82%b8%e3%82%a7/ 「海の日」20回を記念し、「海でつながるプロジェクト~海に想いを。~」スタート!] 海でつながるプロジェクト </ref>。 [[2020年]]([[令和]]2年)は[[平成三十二年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法|東京五輪・パラリンピック特措法]]により、[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[2020年東京オリンピックの開会式|開会式]]の当初の予定日の前日に当たる[[7月23日]](木曜日)にこの年に限り変更された。その後、東京オリンピックは[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行]]のため、翌年に延期が決まったが、国民生活への影響を考慮し、2020年の海の日は7月23日のままとされた<ref>{{Cite web|和書|title=五輪で祝日移動、閣議決定…来年の「海の日」は開会式前日7月22日 : 東京オリンピック2020速報 : オリンピック・パラリンピック|url=https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20200529-OYT1T50137/|website=読売新聞オンライン|date=2020-05-29|accessdate=2020-07-23|publisher=読売新聞|archiveurl=https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20200529-OYT1T50137/|archivedate=2020/07/23}}</ref>。 [[2021年]](令和3年)は[[令和三年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法]]により、前年から1年延期された東京オリンピックの開会式前日の[[7月22日]](木曜日)にこの年に限り変更された<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.kantei.go.jp/jp/headline/tokyo2020/shukujitsu.html| title=2021年の祝日移動について | work=[[首相官邸]] 内閣官房 東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局| accessdate=2020-12-13}}</ref>。しかし決定がカレンダーの作成に間に合わなかったので、本来の海の日である7月19日は平日となった<ref>{{Cite web|和書|title=今年の「海の日」は7月22日 カレンダーにない祝日移動に要注意 |url=https://kahoku.news/articles/20210625khn000038.html |website=河北新報オンラインニュース |date=2021-06-25 |access-date=2022-06-06 |language=ja}}</ref>。 == 海の記念日 == [[ファイル:満船飾の明治丸.JPG|サムネイル|right|230px|「海の記念日」の由来となった明治丸]] 祝日化される前は「'''海の記念日'''」と呼ばれていた。海の記念日は、[[1876年]]([[明治]]9年)に[[明治天皇]]が[[東北地方]]に[[行幸|巡幸]]した際、従来の[[軍艦]]ではなく[[灯台]]視察船「[[明治丸]]」で航海し、7月20日に[[横浜港]]に入港して横浜御用邸[[伊勢山皇大神宮#伊勢山離宮|伊勢山離宮]]へ還幸した史実から、[[1941年]]([[昭和]]16年)に[[逓信省#歴代大臣|逓信大臣]]の[[村田省蔵]]が提唱して制定された。 明治丸はその後、[[高等商船学校|東京商船学校]]の[[練習船]]として使用され、現在は[[東京海洋大学]][[越中島]]キャンパスに保存されている。 == 内陸県 == 海が無い[[内陸県]]の[[奈良県]]は、7月第3月曜日を「奈良県山の日・川の日」と条例で定めている<ref>[https://www.pref.nara.jp/14568.htm 奈良県山の日・川の日条例] - 奈良県公式ホームページ</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本の記念日一覧]] * [[海フェスタ]] - 海の日の意義を再認識するため記念式典などを実施。 * [[灯台記念日]] - [[11月1日]]。海の日と並ぶ海に関する記念日。 * [[海上保安庁]] - 海の日に各種祝賀行事を行う。 * [[灯台]] - 参観灯台では海の日に各種祝賀行事を行う。 * [[海上保安の日]] - [[5月12日]]。海上保安庁の開庁記念日。 * [[水路記念日]] - [[9月12日]]。海上保安庁海洋情報部の前身海軍水路局の創設日。海軍記念日の廃止により[[運輸省]]水路部によって制定。 * [[海の安全祈念日]] - [[2月10日]]。[[えひめ丸事故]]の慰霊と航海安全の祈りの日。 * [[海軍記念日]] - [[5月27日]]。[[1945年]](昭和20年)の終戦後に廃止。 * [[海上自衛隊の日]] - [[4月26日]]。前身である海上警備隊の創設記念日であり、海上自衛隊の歴史と伝統を考える日。 * [[宮崎カーフェリーの日]] - [[4月15日]]。[[宮崎カーフェリー]]が制定し日本記念日協会が登録した。 * [[内航船の日]] - [[7月15日]]。日本記念日協会が登録した。 * [[太平洋行進曲]] - [[毎日新聞]]が制定した祝賀曲。 * [[オーシャンカップ競走|オーシャンカップ]] - 海の日誕生を記念して、[[1996年]](平成8年)に新設された[[競艇|ボートレース]]の[[スペシャルグレード|SG]]競走。 * [[ap bank fes]] - [[2005年]](平成17年)から毎年、海の日を含む3日間に開催。 * [[全国水産・海洋高等学校カッターレース大会]] - 海の日に開催 * [[ミス日本]] - 表彰項目に「ミス日本・海の日」というのがあり、海上・海洋レジャーの保全活動のアピールを務めている。 * [[海の日特別番組]] - [[中京テレビ放送|中京テレビ]]制作・[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]で年1回、この日に放送される特別番組。 * [[日本旅行業協会]] - 旅行代理店の業界団体。2021年以降に海の日を元の7月20日にすることに対して反対している。 * [[山の日]] - 海の日があるなら、という主張も一因として制定。 * [[お盆]] - 新暦7月15日にお盆行事を行う地域では7月15日もしくは7月16日が海の日に重なる年もある(但しその場合でもお盆休みとは呼ばない)。 == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#umi 各「国民の祝日」について - 内閣府] {{Japan-culture-stub}} {{デフォルトソート:うみのひ}} [[Category:日本の祝日]] [[Category:7月の記念日]] [[Category:ミス日本]] [[Category:海]] [[Category:移動祝日]]
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紀元前771年
紀元前771年(きげんぜん771ねん)は、西暦による年。
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紀元前771年(きげんぜん771ねん)は、西暦による年。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|9}} | 世紀= {{紀元前/世紀|8}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|7}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|790}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|780}} | 10年紀= {{紀元前/年代|770}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|760}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|750}} | 3年前= {{紀元前/年|774}} | 2年前= {{紀元前/年|773}} | 1年前= {{紀元前/年|772}} | 1年後= {{紀元前/年|770}} | 2年後= {{紀元前/年|769}} | 3年後= {{紀元前/年|768}} |}} '''紀元前771年'''(きげんぜん771ねん)は、[[西暦]]による年。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[庚午]] * [[中国]] ** [[周]] - [[幽王 (周)|幽王]]11年 ** [[魯]] - [[孝公 (魯)|孝公]]36年 ** [[斉 (春秋)|斉]] - [[荘公贖]]24年 ** [[晋 (春秋)|晋]] - [[文侯 (晋)|文侯]]10年 ** [[秦]] - [[襄公 (秦)|襄公]]7年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[若敖]]20年 ** [[宋 (春秋)|宋]] - [[戴公 (宋)|戴公]]29年 ** [[衛]] - [[武公 (衛)|武公]]42年 ** [[陳 (春秋)|陳]] - [[平公 (陳)|平公]]7年 ** [[蔡]] - [[釐侯 (蔡)|釐侯]]39年 ** [[曹 (春秋)|曹]] - [[恵伯]]25年 ** [[鄭]] - [[桓公 (鄭)|桓公]]36年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[頃侯 (燕)|頃侯]]20年 * [[朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]1563年 * [[ユダヤ暦]] : 2990年 - 2991年 == できごと == * 申侯と[[犬戎]]が[[周]]の都の[[鎬京]]を襲い、[[幽王 (周)|幽王]]と伯服は[[驪山]]の麓で殺害された。申侯は[[平王 (周)|宜臼]]を周王として擁立した。 == 誕生 == == 死去 == * [[周]]の[[幽王 (周)|幽王]] * {{仮リンク|伯服|zh|伯服}} * [[鄭]]の[[桓公 (鄭)|桓公]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{デフォルトソート:きけんせん771ねん}} [[Category:紀元前771年|*]]
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紀元前11世紀
紀元前11世紀(きげんぜんじゅういちせいき)は、西暦による紀元前1100年から紀元前1001年までの100年間を指す世紀。
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紀元前11世紀(きげんぜんじゅういちせいき)は、西暦による紀元前1100年から紀元前1001年までの100年間を指す世紀。
{{出典の明記|date=2013年6月}} {{Centurybox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 11 | BC = 1 }} [[ファイル:FengShen.jpg|thumb|right|250px|殷周革命。殷は西方から興った周に滅ぼされた。これは典型的な易姓革命として後世に語り継がれている。画像は[[明]]代の小説『[[封神演義]]』に描かれた挿絵で、右頁の二人が[[殷]]の最後の王[[帝辛|帝辛(紂王)]]と[[妲己]]。]] [[ファイル:Ahiram Sarcophagus 1.JPG|thumb|right|250px|[[アヒラム王の石棺|ビブロス王アヒラムの石棺]]([[サルコファガス]])。紀元前1000年前後に作られたもので[[フェニキア文字]]による墓碑銘が刻まれている([[ベイルート]]国立博物館蔵)。]] [[ファイル:Caillou Michaux CdM.jpg|thumb|right|200px|[[バビロニア]]のクドゥル。[[カッシート]]時代後期からバビロニアではクドゥルと呼ばれる境界石が作られるようになる。画像はこの世紀に作られたパリの[[フランス国立図書館]]メダル陳列室(コイン・メダル博物館)所蔵の「ミショー・ストーン」。]] '''紀元前11世紀'''(きげんぜんじゅういちせいき)は、[[西暦]]による紀元前1100年から紀元前1001年までの100年間を指す[[世紀]]。 == 出来事 == * フェニキア人が[[カナリア諸島]]に来航。 * フェニキア人が南[[スペイン]]([[カディス]])に入植。 === 紀元前1100年代 === * 紀元前1100年頃 ** [[ギリシア]]の「[[暗黒時代 (古代ギリシア)|暗黒時代]]」。 ** [[フェニキア]]で[[アルファベット]]の使用が始まる。 ** [[カナン]]人による「{{仮リンク|メギドの遺宝|en|Megiddo Treasure}}」はこの時代のもの。 ** [[イタリア]]で{{仮リンク|原ヴィラノーヴァ文化|en|Proto-Villanovan culture}}(ヴィラノーヴァI期 - 紀元前900年頃)。 ** [[サルデーニャ島]]で{{仮リンク|モンテプラマの巨人像|en|Giants of Mont'e Prama}}が作られる( - 紀元前800年頃)。 ** 黒海北岸から中央ウクライナまで[[チェルノレス文化]](黒森文化 - 紀元前300年頃)。 === 紀元前1090年代 === * 紀元前1098年 - エジプト王[[ラムセス11世]]が即位( - 紀元前1070年)。 ** この時期に木材([[レバノン杉]])獲得のため[[ビブロス]]に派遣されたエジプト人が記録したのが『{{仮リンク|ウェンアメンの物語|en|Story of Wenamun}}』。 === 紀元前1080年代 === * 紀元前1082年 - アッシリア王[[ティグラト・ピレセル1世]]がイシン第2王朝のマルドゥク・ナディン・アヘ王を破り、北部バビロニアを獲得。 * 紀元前1080年頃 - [[ペリシテ人]]が[[ガリラヤ]]を制圧し[[古代イスラエル|イスラエル]]人との対立が始まる。 === 紀元前1070年代 === * 紀元前1077年 - アッシリア王ティグラト・ピレセル1世が暗殺される。 ** この後、アッシリアの国力は低迷し、[[アラム人]]の侵入にも悩まされる。 * 紀元前1070年頃 - エジプトで[[エジプト第20王朝|第20王朝]]の終わり。[[エジプト第3中間期|第3中間期]]が始まる。 ** 下エジプトでは[[タニス]]で[[エジプト第21王朝|第21王朝]]が、上エジプトでは[[テーベ]]で[[アメン大司祭国家]]が成立。 ** 第3中間期の混乱のため歴代ファラオの遺体は神官団の指揮でこの時期デル・エル・バハリの墳墓に移送された。 === 紀元前1060年代 === * 紀元前1068年頃 - 伝承ではアテナイ王{{仮リンク|コドロス|en|Codrus}}がドーリア人の侵入で殺害されアテナイで王制が廃絶。 ** コドロスの息子{{仮リンク|メドン|en|Medon (mythology)}}はアテナイ最初の[[アルコン]]に選出される。 === 紀元前1050年代 === * 紀元前1050年頃 - [[カナン]]で制海権を得ていた[[チェケル人]]の都市[[ドル (イスラエル)|ドル]]が破壊される。 * 紀元前1050年頃/1020年頃 - [[ギリシア]]で陶器の{{仮リンク|原幾何学様式|en|Protogeometric style}}がはじまる。 === 紀元前1040年代 === * 紀元前1046年 - [[武王 (周)|武王]]が[[牧野の戦い]]で[[殷]]を滅ぼし[[周]]を興す([[武王克殷]]・[[殷周革命]])。 ** 周の武王が殷を滅ぼした事績は[[陝西省]]臨潼県から出土した「{{仮リンク|利簋|zh|利簋}}」に記録が残る。 ** 『[[史記]]』では周の武王が、殷の紂王の叔父[[箕子]]を朝鮮に封じたと伝わる([[箕子朝鮮]])。 * 紀元前1045年 - 魯、燕、衛、晋、曹、蔡、陳、宋の[[諸侯|諸侯国]]が成立、斉や楚など殷の[[藩属国]]も周に帰順。 * 紀元前1040年頃 - 「[[イオニア人]]の移動(Ionic migration)」。 ** 伝承ではアテナイ王{{仮リンク|コドロス|en|Codrus}}の子ネイレウスおよびアンドロクロスがイオニアの植民市を建設。 === 紀元前1020年代 === * 紀元前1025年頃 ** {{仮リンク|シンパル・シパク|en|Simbar-shipak}}がバビロン第5王朝(海の国第2王朝)を建てる。 * 紀元前1021年頃 ** [[サウル]]がイスラエル王国の王に選ばれる。 *** 周辺民族の[[アンモン人]]・[[アマレク人]]と戦うが、アマレク人の[[聖絶]]をめぐって[[士師]][[サムエル]]と対立する。 ** 周の武王死去。息子の[[成王 (周)|成王]]が即位し叔父の[[周公旦]]らが補佐する(成康の治)。 *** 周公旦に対立する三監([[管叔鮮]]・[[蔡叔度]]・[[霍叔処]])が殷の紂王の子禄父([[武庚]])を擁して反乱を起こすが鎮圧される([[三監の乱]]・禄父の乱)。 *** 三監の乱の後、殷の故地は東西に分断され、西側(衛)を周公旦の弟[[康叔]]に、東側(宋)を殷の紂王の庶兄[[微子啓]]に支配させる。 *** 成王の時代に造られた「[[何尊]](宝鶏市博物館蔵)」には「[[中国]]」の名が含まれた最古の銘文が刻まれている。 === 紀元前1000年代 === [[ファイル:大盂鼎 Da Yu ding.jpg|thumb|right|大盂鼎]] * 紀元前1004年頃 - バビロン第5王朝からバビロン第6王朝(バズ王朝)に交代。 * 紀元前1002年頃 - 周の成王死去。息子の[[康王 (周)|康王]]が即位。 ** 「{{仮リンク|大盂鼎|zh|大盂鼎}}([[北京]][[中国国家博物館]]蔵)」が鋳造される。康王が将軍の盂に与えた辞令が銘文に残る。 ** [[西安]]市の「灃西車馬坑」は西周初期の成王から康王の時代にかけてのもの。 * 紀元前1000年代末 - 東部[[バレアレス諸島]]の[[マヨルカ島]]や[[ミノルカ島]]で{{仮リンク|タライオテック文化|en|Talaiotic culture}}の巨石建造物が現れる。 == 人物 == * [[ティグラト・ピレセル1世]] - アッシリア王(在位紀元前1115年 - 紀元前1077年)。 * [[サムエル]] - [[古代イスラエル]]の[[預言者]]・[[士師]]。[[旧約聖書]]では「最後の裁き人」とされる。 * [[サウル]] - 古代イスラエルの最初の王(在位前1021年頃 - 前1000年頃)。 * コドロス - [[アテナイ]]の最後の王(在位前1089年 - 前1068年)。 * メドン - アテナイの最初の[[アルコン]](在任前1068年 - 前1048年)。 * [[帝辛]](紂王)(前11世紀頃) - [[殷]]の最後の王・[[牧野の戦い]]で敗北し自殺した。 * [[箕子]](前11世紀頃) - 殷の王族・帝辛の叔父・[[箕子朝鮮]]を建国。 * [[伯夷・叔斉]](前11世紀頃) - 殷末の[[孤竹国]]の王子二人。隠者となり[[儒教]]では[[聖人]]とされる。 * [[呂尚]](太公望)(前11世紀頃) - [[周]]の[[軍師]]・後に[[斉 (春秋)|斉]]の始祖。 * [[文王 (周)|文王]](西伯昌)(前11世紀頃) - 周王朝の始祖・武王の父。 * [[武王 (周)|武王]]( - 前1021年?) - 周王朝の創始者で初代王。 * [[周公旦]](前11世紀頃) - 周の武王の弟・甥の[[成王 (周)|成王]]を補佐する。 * [[召公奭]](前11世紀頃) - 周の武王の弟・周公旦の協力者・践奄の役で活躍。 == 架空のできごと == * 紀元前11世紀 - タイムロードの再生の謎を暴こうとしたターローら囚人が無限に再生させられる。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)。 * 紀元前11世紀 - [[九尾の狐]]は美女の[[妲己]]になりすまして、殷の[[紂王]]を誘惑し、賢臣を殺害させて暴政を敷かせ、[[酒池肉林]]などの乱行を唆して国を傾けたが、周の[[武王]]の放伐により紂王ともども成敗される([[元 (王朝)|元]]代の歴史講談小説群である『全相平話』の一節「武王伐紂平話」が初出、以後は[[明]]代の伝奇小説『[[封神演義]]』などに発展)。 == 関連項目 == {{Commonscat|11th century BC}} * [[年表]] {{世紀}} {{history-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:-89}} [[Category:紀元前11世紀|*]]
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キュクロープス
キュクロープス(古代ギリシャ語: Κύκλωψ、Kýklōps)は、ギリシア神話に登場する卓越した鍛冶技術を持つ単眼の巨人であり、下級神である一族である。あるいは、これを下敷き及びベースとして後世に誕生した伝説の生物をも指す。 長母音を省略してキュクロプスとも表記される。英語読みのサイクロプス (Cyclops) でも知られる。 ギリシア語 Κύκλωψ の原義は "κύκλος"(kýklos、 円、丸)と "ὤψ"(ṓps、 眼)から求められる「丸い眼」にあり、額の中央に丸い眼が1つだけ付いていることに由来する。 ラテン語名 Cyclops(キュクロープス)。英語名は Cyclops(サイクロプス)であり、この英語名の発音も仮名転写され、日本語では一般的となっている。フランス語では cyclope (スィクロプ)、ドイツ語では Kyklop (キュクロープ)。中国語では「独眼巨人」、もしくは、音訳で「基克洛普斯」と記す。 天空神ウーラノスと大地母神ガイアの息子たちで、アルゲース(落雷・稲妻)、ステロペース(電光・雷光)、ブロンテース(雷鳴)の3兄弟から構成される。いずれも雷に関連する名前であり、雷の精だったのではないかといわれる。 彼らは父神に嫌われ、兄弟族のヘカトンケイル族とともに奈落タルタロスへ落とされた。弟族のティーターン神の1人クロノスが政権を握ったあとも、久しく拘禁されたままであった。しかし、ティーターノマキアーの時、ゼウスらによって解放される。キュクロープス達はその礼として、ゼウスには雷霆を、ポセイドーンには三叉の銛を、ハーデースには隠れ兜を造った。 以後はヘーパイストスのもとで鍛冶業を続けたといわれる。その一方で、息子アスクレーピオスをゼウスの稲妻で失ったアポローンの八つ当たりを食らい、虐殺されたという悲劇的な異伝もある。 ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の第9歌に登場するキュクロープス族は、上述の高次元的存在としてのキュクロープスとは大きく異なり、旅人を食らうただ粗暴なだけの怪物である。ポセイドーン神を父に持つポリュペーモスも含めて、そうであった。 イオーニア人・アカイア人・ドーリア人という第3派ギリシア人より前の時代のペロポネーソス半島ではミュケーナイ(ミケーネ)、ティーリュンス、アルゴスなどに代表されるミュケーナイ文明が栄えたが、それらは巨石によって城砦その他を築き上げるものであった。 遅れてこの地に入り定着した第3派ギリシア人は、先人が残した大掛かりな巨石建造物の数々を見るにつけ、これらを巨人キュクロープスの手になるものと考え、「キュクロープスの石造物(英語版)」と呼び倣わすようになったらしい。これは英国のストーンヘンジに代表されるストーンサークルやヨーロッパ各地のメンヒル、ドルメンといった巨石記念物が神秘的に見られ、巨人の遺した物と考えられたのに似ている部分がある。 天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)と天津麻羅(アマツマラ)はともに日本神話に登場する製鉄と鍛冶の神であり、キュクロプスと同じく、1つ眼である。同様に、たたら製鉄に関連して神に近い巨人であるダイダラボッチも隻眼(せきがん)とされる場合がある。また、妖怪・一本だたらは先の天目一箇神が凋落した姿とも考えられている。これら、製鉄(全世界的にはさらに古きを含めて「製錬」と言うべき)と隻眼(単眼)の関連性は注目に値する。「隻眼#神話・伝説の中の隻眼」も参照。 このほかにも、日本の妖怪・一つ目小僧がそうであるように、逃亡を防ぐ目的で故意に片目を潰した人身御供用の人間を神格化したことに起源するとも言われる存在も、世の中にはある。 関連性は証明されないが、可能性として無視のできないものに、先天性奇形の1形態である単眼症(cyclopia)がある。これは、前脳胞の発育異常によって眼胞が左右に分離しなかったために、不完全な眼球を1個だけ本来鼻ができるはずの付近に持っているという奇形である。単眼症は、上述の隻眼(後天性の隻眼)とは異質である。差別され排斥される対象であった異形の人間は、どのような時代にも、口伝する人々の傍らにいたのであり、伝承上の異形の存在との関係を、無いとばかりは言えないであろう。ちなみに、既述の通り、英語ではキュクロープスのことをサイクロプス(cyclops)と読む。単眼症がキュクロープスのモデルであるかどうかは別として、単眼症を英語では「cyclopia」と命名されているのは、1つ目の巨人サイクロプスに由来してのことである。 地質学的知見からは、「出土したゾウの頭蓋骨化石に由来がある」との説が唱えられている。ゾウの頭蓋骨の正面には、長大な鼻に見合う巨大な鼻腔が1つ開いている。彼らの眼窩(がんか)は側面に位置している上、鼻腔に比べて遥かに小さい。そのため、「ゾウを見たことの無かった当時の人々が鼻腔を眼窩と勘違いし、“頭部前面に1つ眼を具えた怖ろしげな巨人像”を想起したのではないか」という推論である。なお、ここで言う「当時の人々」とは、よく知られている“自然科学の発達した全盛期のギリシア文明期の人々”のことではなく、“ギリシア文化に連なる不特定のきわめて古い時代に生きた人々”を指す。
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キュクロープスは、ギリシア神話に登場する卓越した鍛冶技術を持つ単眼の巨人であり、下級神である一族である。あるいは、これを下敷き及びベースとして後世に誕生した伝説の生物をも指す。 長母音を省略してキュクロプスとも表記される。英語読みのサイクロプス (Cyclops) でも知られる。
{{出典の明記|date=2016年10月22日 (土) 13:29 (UTC)}} [[ファイル:Libr0328.jpg|thumb|200px|[[エラスムス・フランキスキ]]([[w:Erasmus Finx|Erasmus Francisci]])の著書に見られるキュクロープスの[[挿絵]]]] {{Greek mythology}} '''キュクロープス'''({{翻字併記|grc|Κύκλωψ|Kýklōps|n|区=、}})は、[[ギリシア神話]]に登場する卓越した[[鍛冶]]技術を持つ単眼の[[巨人 (伝説の生物)|巨人]]であり、下級[[神]]である一族である。あるいは、これを下敷き及びベースとして後世に誕生した[[怪物|伝説の生物]]をも指す。 [[長母音]]を省略して'''キュクロプス'''とも表記される。[[英語]]読みの'''[[サイクロプス]]'''{{Enlink|Cyclops}}でも知られる。 == 呼称 == [[ギリシア語]] {{Lang|grc|Κύκλωψ}} の原義は "{{Lang|grc|κύκλος}}"({{lang|grc-latn|kýklos}}、 円、丸)と "{{Lang|grc|ὤψ}}"({{lang|grc-latn|ṓps}}、 [[目|眼]])から求められる「'''丸い眼'''」にあり、額の中央に丸い眼が1つだけ付いていることに由来する。 [[ラテン語]]名 {{La|Cyclops}}(キュクロープス)。英語名は '''{{En|Cyclops}}'''('''サイクロプス''')であり、この英語名の発音も[[仮名 (文字)|仮名]][[転写 (言語学)|転写]]され、[[日本語]]では一般的となっている。[[フランス語]]では [[wikt:fr:cyclope|cyclope]] (スィクロプ)、[[ドイツ語]]では {{de|Kyklop}} (キュクロープ)。[[中国語]]では「{{lang|zh-hans|独眼巨人}}」、もしくは、音訳で「{{lang|zh-hans|基克洛普斯}}」と記す。 :''なお、その名に因んだ事象、および、ここから派生した二次創作物については「[[サイクロプス]]」を参照'' == 神としてのキュクロープス == 天空神[[ウーラノス]]と大地母神[[ガイア]]の息子たちで、[[アルゲース]](落雷<ref name="excite01">フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、[[青土社]] 1991、23頁。</ref>・稲妻<ref name="excite02">[[山北篤]]、[[細江ひろみ]]『1日3分読むだけで一生語れる モンスター図鑑』[[すばる舎]] 2020、148頁。</ref>)、[[ステロペース]](電光<ref name="excite01" />・雷光<ref name="excite02" />)、[[ブロンテース]](雷鳴<ref name="excite01" /><ref name="excite02" />)の3兄弟から構成される。いずれも[[雷]]に関連する名前であり、雷の精だったのではないかといわれる。 彼らは父神に嫌われ、兄弟族の[[ヘカトンケイル]]族とともに奈落[[タルタロス]]へ落とされた。弟族の[[ティーターン]]神の1人[[クロノス]]が政権を握ったあとも、久しく拘禁されたままであった。しかし、[[ティーターノマキアー]]の時、ゼウスらによって解放される。キュクロープス達はその礼として、[[ゼウス]]には雷霆を、[[ポセイドーン]]には[[トリアイナ|三叉の銛]]を、[[ハーデース]]には隠れ[[兜]]を造った。 以後は[[ヘーパイストス]]のもとで鍛冶業を続けたといわれる。その一方で、息子[[アスクレーピオス]]をゼウスの稲妻で失った[[アポローン]]の八つ当たりを食らい、虐殺されたという悲劇的な異伝もある。 == 怪物としてのキュクロープス == [[File:OdysseyPolyphemos.png|thumb|right|180px|『オデュッセイア』に登場する単眼巨人ポリュペーモス。]] [[ホメーロス]]の[[叙事詩]]『[[オデュッセイア]]』の第9歌に登場するキュクロープス族は、上述の高次元的存在としてのキュクロープスとは大きく異なり、旅人を食らうただ粗暴なだけの怪物である。ポセイドーン神を父に持つ[[ポリュペーモス]]も含めて、そうであった。 == キュクロープスの巨石建造物 == <!--[[ファイル:MicenePortaLeoniMura.jpg|thumb|left|150px|第3派ギリシア人にとっては巨人の遺跡であったところの、ミュケーナイ遺跡の獅子門の一部]]--> [[イオーニア人]]・[[アカイア人]]・[[ドーリア人]]という第3派ギリシア人より前の時代の[[ペロポネーソス半島]]では[[ミュケーナイ]](ミケーネ)、[[ティーリュンス]]、[[アルゴス (地名)|アルゴス]]などに代表される[[ミケーネ文明|ミュケーナイ文明]]が栄えたが、それらは巨石によって城砦その他を築き上げるものであった。 遅れてこの地に入り定着した第3派ギリシア人は、先人が残した大掛かりな巨石建造物の数々を見るにつけ、これらを巨人キュクロープスの手になるものと考え、「{{仮リンク|キュクロープスの石造物|en|Cyclopean masonry}}」と呼び倣わすようになったらしい。これは英国の[[ストーンヘンジ]]に代表される[[ストーンサークル]]や[[ヨーロッパ]]各地の[[メンヒル]]、[[ドルメン]]といった[[巨石記念物]]が神秘的に見られ、巨人の遺した物と考えられたのに似ている部分がある。 == 芸術作品の中のキュクロープス == <gallery widths="180px" heights="180px"> ファイル:Odysseus Polyphemos Cdm Paris 190.jpg|[[ラコーニア]]陶器の大皿に描かれたポリュペーモス(右)とオデュッセウスの部下達。部下達は2人ずつ食われていきながら、[[ワイン]]で酔わせて裏をかこうとしている。[[紀元前6世紀|紀元前565 - 560年]]。 ファイル:Polyphemos-MuseumOfFineArtsBoston-March25-07.png|[[タソス島]]出土のポリュペーモスの[[大理石]]像。[[紀元前2世紀]]、[[古代ローマ]]による模造(あるいは、ギリシア人によるオリジナルの作)。 ファイル:Ercole de' Roberti settembre schifanoia.jpg|[[コズメ・トゥーラ]]の筆による[[スキファノイア宮殿]]の壁画、その一部より。キュクロープスとして描かれた鍛冶職人 (1469年 - 1471年) 。 ファイル:Odilon Redon - The Cyclops, c. 1914.jpg|[[オディロン・ルドン]]作「[[キュクロープス (ルドン)|キュクロープス]]」。1914年。[[オランダ]]・[[オッテルロー]]の[[クレラー・ミュラー美術館]] 所蔵。 </gallery> == 単眼巨人は何であったのか == [[File:Cyclops P6110086.JPG|thumb|150px|英国は[[ロンドン自然史博物館]]の地質博物館内、[[ロンドン自然史博物館#展示|地球ギャラリー]]に展示されているキュクロープスの模型(なぜこれが[[地質学]]関連の展示物なのかについては、[[#単眼巨人は何であったのか]]を参照のこと)。]] === 製鉄の神 === [[天目一箇神]](アメノマヒトツノカミ)と[[天津麻羅]](アマツマラ)はともに[[日本神話]]に登場する[[製鉄]]と鍛冶の神であり、キュクロプスと同じく、1つ眼である。同様に、[[たたら製鉄]]に関連して神に近い巨人である[[ダイダラボッチ]]も[[隻眼]](せきがん)とされる場合がある。また、[[妖怪]]・[[一本だたら]]は先の天目一箇神が凋落した姿とも考えられている。これら、製鉄(全世界的にはさらに古きを含めて「[[製錬]]」と言うべき)と隻眼(単眼)の関連性は注目に値する。「[[隻眼#神話・伝説の中の隻眼]]」も参照。 このほかにも、日本の妖怪・[[一つ目小僧]]がそうであるように、逃亡を防ぐ目的で故意に片目を潰した[[人身御供]]用の人間を神格化したことに起源するとも言われる存在も、世の中にはある。 === 先天性の1つ眼、ほか === 関連性は証明されないが、可能性として無視のできないものに、[[先天奇形|先天性奇形]]の1形態である[[単眼症]]({{en|cyclopia}})がある。これは、前脳胞の発育異常によって眼胞が左右に分離しなかったために、不完全な眼球を1個だけ本来鼻ができるはずの付近に持っているという奇形である<ref name="K_Y_BBG17_p669">菊地 浩吉、吉木 敬 監修 『病態病理学 (改訂第17版)』 p.669 南山堂 2004年4月14日発行 ISBN 4-525-15147-1</ref>。単眼症は、上述の隻眼(後天性の隻眼)とは異質である。差別され排斥される対象であった異形の人間は、どのような時代にも、[[口伝]]する人々の傍らにいたのであり、伝承上の異形の存在との関係を、無いとばかりは言えないであろう。ちなみに、既述の通り、英語ではキュクロープスのことをサイクロプス({{en|cyclops}})と読む。単眼症がキュクロープスのモデルであるかどうかは別として、単眼症を英語では「{{en|cyclopia}}」と命名されているのは、1つ目の巨人サイクロプスに由来してのことである<ref name="K_Y_BBG17_p669">菊地 浩吉、吉木 敬 監修 『病態病理学 (改訂第17版)』 p.669 南山堂 2004年4月14日発行 ISBN 4-525-15147-1</ref>。 === ゾウの頭蓋骨に由来か === [[ファイル:Dwarfelephant.jpg|right|140px|thumb| コビトゾウ{{Enlink|Dwarf elephant}}の頭蓋骨化石標本。ドイツ、[[ミュンヘン]]のヘラブルン動物園 ([[w:Hellabrunn Zoo|Tierpark Hellabrunn]]) 所蔵。]] 地質学的知見からは、「出土した[[ゾウ]]の[[頭蓋骨]][[化石]]に由来がある」との説が唱えられている{{誰|date=2021年6月28日 (月) 08:35 (UTC)}}。ゾウの頭蓋骨の正面には、長大な鼻に見合う巨大な[[鼻腔]]が1つ開いている。彼らの[[眼窩]](がんか)は側面に位置している上、鼻腔に比べて遥かに小さい。そのため、「ゾウを見たことの無かった当時の人々が鼻腔を眼窩と勘違いし、“頭部前面に1つ眼を具えた怖ろしげな巨人像”を想起したのではないか」という推論である。なお、ここで言う「当時の人々」とは、よく知られている“[[自然科学]]の発達した全盛期の[[ギリシア文明]]期の人々”のことではなく、“ギリシア文化に連なる不特定のきわめて古い時代に生きた人々”を指す。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』[[高津春繁]]訳、[[岩波文庫]](1953年) * [[ヘシオドス]]『[[神統記]]』[[廣川洋一]]訳、岩波文庫(1984年) * 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』[[岩波書店]](1960年) * フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、[[青土社]](1991年) == 関連項目 == {{Commonscat|Cyclops}} * その他の関連する名称 ** [[キクロプス目]] - [[ケンミジンコ]] :{{sname|Cyclops}} の[[学名]]を持つ動物性[[プランクトン]]の1種([[目 (分類学)|目]]・[[科 (分類学)|科]]・[[属 (分類学)|属]])。 ** [[ヒメアリクイ]] - {{la|Cyclops}} の異形 {{snamei|Cyclopes}} を学名に持つ[[哺乳類]]の1種(属)。 ** [[Cyclops64]] - スーパーコンピュータの名称。 * 一つ目の神や想像上の生物 ** [[天目一箇神]] - [[日本神話]]の一つ目の[[鍛冶]]の神。 ** {{ill2|テペゴズ|en|Tepegoz}} - トルコの叙事詩『{{ill2|デデ・コルクート|en|Book of Dede Korkut}}』に登場するキュクロープス ** [[一つ目小僧]]、[[のうま]]、[[一目人]] * [[松果体#哲学との関連]] == 外部リンク == * {{Kotobank|キュクロプス}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きゆくろおふす}} [[Category:ギリシア神話の巨人]] [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:鍛冶神]] [[Category:オデュッセイア]]
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ソープ
ソープ(Soap, Thorpe, Thorp)
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ソープ イアン・ソープ - オーストラリアの競泳選手 ウィラード・ロング・ソープ - アメリカ合衆国の経済学者。 エドワード・オークリー・ソープ - アメリカの数学者。ブラック・ジャック必勝法を編み出した。 エリオット・ソープ - アメリカ陸軍の軍人。 ジム・ソープ - アメリカのスポーツ選手 シャロン・ソープ - アメリカ合衆国のポルノ女優。 トレーシー・ソープ - アメリカ合衆国の野球選手。 ベンジャミン・ソープ - イングランドの古英語研究者。 リチャード・ソープ - アメリカ合衆国の映画監督。 ロデリック・ソープ - アメリカの作家。 ソープランド - 浴槽のある部屋(浴室)で女性従業員(風俗嬢)が、男性客に対し性的なサービスを行う風俗店。 ソープオペラ - 平日昼間に放映する主婦層をターゲットにしたテレビドラマジャンルのアメリカでの通称。日本での昼ドラに相当。 ソープ再処理工場 - 酸化物燃料再処理プラント の略 SOAP (プロトコル) - Webサービスのための通信プロトコル SOAP (テレビドラマ) - アメリカの1970年代のテレビドラマ。東京12チャンネルで放映。 問題指向(型)医療記録の略 1980年に結成されたコーラス・グループ。有澤孝紀、長谷川久恵等が在籍。 L'Arc〜en〜Cielのkenを中心に結成されたバンドSONS OF ALL PUSSYSの略称。 吉本興業に所属していた女性アイドル・グループ。1996年12月に『Loveって何よ』でデビュー。
'''ソープ'''(Soap, Thorpe, Thorp) ; 人名 * [[イアン・ソープ]] - オーストラリアの競泳選手 * [[ウィラード・ロング・ソープ]] - アメリカ合衆国の経済学者。 * [[エドワード・オークリー・ソープ]] - アメリカの数学者。ブラック・ジャック必勝法を編み出した。 * [[エリオット・ソープ]] - アメリカ陸軍の軍人。 * [[ジム・ソープ]] - アメリカのスポーツ選手 * [[シャロン・ソープ]] - アメリカ合衆国のポルノ女優。 * [[トレーシー・ソープ]] - アメリカ合衆国の野球選手。 * [[ベンジャミン・ソープ]] - イングランドの古英語研究者。 * [[リチャード・ソープ]] - アメリカ合衆国の映画監督。 * [[ロデリック・ソープ]] - アメリカの作家。 ; [[石鹸]] * [[ソープランド]] - [[浴槽]]のある部屋([[浴室]])で女性従業員([[風俗嬢]])が、男性客に対し性的なサービスを行う[[風俗店]]。 * [[ソープオペラ]] - 平日昼間に放映する主婦層をターゲットにした[[テレビドラマ]]ジャンルのアメリカでの通称。日本での[[昼ドラ]]に相当。 * [[ソープ再処理工場]] - 酸化物燃料再処理プラント (Thermal Oxide Reprocessing Plant) の略 ; SOAP * [[SOAP (プロトコル)]] - [[Webサービス]]のための[[通信プロトコル]] * [[SOAP (テレビドラマ)]] - アメリカの1970年代の[[テレビドラマ]]。[[東京12チャンネル]]で放映。 * [[診療録#問題指向型診療録|問題指向(型)医療記録]]の略 * [[1980年]]に結成された[[コーラス・グループ]]。[[有澤孝紀]]、[[長谷川久恵]]等が在籍。 * [[L'Arc〜en〜Ciel]]の[[ken]]を中心に結成されたバンド[[SONS OF ALL PUSSYS]]の略称。 ;soap * [[吉本興業]]に所属していた女性アイドル・グループ。[[1996年]]12月に『Loveって何よ』でデビュー。 {{aimai}} {{デフォルトソート:そおふ}} [[Category:英語の姓]]
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ヘファイストス
ヘファイストス(Hephaistos)
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ヘファイストス(Hephaistos) ギリシア神話に登場する神、ヘーパイストス。ローマ神話ではウゥルカーヌスに相当する。 ヘファイストス (小惑星)。
'''ヘファイストス'''(Hephaistos) * [[ギリシア神話]]に登場する[[神]]、[[ヘーパイストス]]。[[ローマ神話]]では[[ウゥルカーヌス]]に相当する。 * [[ヘファイストス (小惑星)]](2212 Hephaistos)。 == 関連項目 == * [[バルカン]] *{{Prefix}} *{{intitle}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:へふあいすとす}}
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イメージクラブ
イメージクラブとは、風俗嬢と呼ばれる女性従業員が様々なコスチュームを着て性的なサービスを提供する風俗店。一般的にイメクラと略される。 実現し難い行為を疑似体験出来るところに特徴がある。ただし、性行為の伴わないコスプレを行う店舗も存在するなど、イメージクラブとしての明確な定義は存在しない。そのため、イメージクラブ的なサービスを取り入れたファッションヘルス、ピンサロとの境界は曖昧であり、各店舗がそれぞれのサービス内容に応じて自称するに任せられている。 基本的なサービスはファッションヘルスと同様だが、イメクラの場合、男性客の希望に基づいて女性従業員が制服・レディーススーツなどの様々なコスプレを行う。日常では有り得ないシチュエーション(「教師と生徒の性行為」や「(特に列車内での)痴漢(痴女)と被害者」、「上司の露骨なセクハラを受けるOL(秘書)」など)を演じる点に特徴がある。ヘルス店のため、本番行為は禁止されている。 一般に風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)に定める、店舗型性風俗特殊営業店の営業形態に該当する。風適法第2条第6項第2号では、「個室を設け、当該個室において異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業」のうち、前号に該当する営業(すなわちソープランド)を除いたものと定義されている。 イメージクラブと呼ばれる業態は、この定義に当てはまるものとして営業されることが一般的であるが、まれに、個室を設けず、風適法第2条第6項第6号の、「前各号に掲げるもののほか、店舗を設けて営む性風俗に関する営業で、善良の風俗、清浄な風俗環境又は少年の健全な育成に与える影響が著しい営業として政令で定めるもの」として営業するものや、性風俗特殊営業に該当しない店舗として営業されることもある。 本格的にイメクラができたのはバブル崩壊後、1990年代初頭といわれる。それまで会員制で「夜這いクラブ」という業態でアングラに活動していた。この頃は夜這いプレー後に客がマスターベーションするといったサービス内容であった。 赤羽に「トゥルーラブ」大久保に「ティアラ」歌舞伎町に「ハレンチ女学園」池袋に「ハロウィン」や「ACC企画」、「ペントハウス」、「ぱおぱお」、「狙われた学園」、「痴漢倶楽部」浜松町「ももいろ白書」といった店舗ができ、一般に普及していった。新宿では、素股と全身リップを売り物とする性感ヘルスが流行し始め、大久保、高田馬場、池袋がイメクラのメッカとして成熟を始める。 その後、色々なイメージプレイや、様々なオプションが考案され発展していったが、マニア向けのイメージプレイを主眼に置いた店舗と、一般に受け入れやすいコスプレを着たヘルスというライトな感覚のものに分離していった。近年ではヘルスとイメクラの区別は曖昧となっている。
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イメージクラブとは、風俗嬢と呼ばれる女性従業員が様々なコスチュームを着て性的なサービスを提供する風俗店。一般的にイメクラと略される。
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テレフォンクラブ
テレフォンクラブとは、電話を介して女性との会話を斡旋する店である。通称はテレクラ。基本的には個室で女性から店に電話がかかってくるのを待ち、その女性との会話を楽しむもの。個室にはティッシュペーパーなどが配置されており、テレフォンセックスが行われる場合もある。女性との交渉次第では、機会を改め店の外でデートや性行為を行うことなども可能である。 1985年の風俗営業法改正後に注目され、流行した業態。日本で最初に登場した店は1985年に小林伴実により開業された新宿「アトリエキーホール」、もしくは同年秋に同じ新宿に開業した「東京12チャンネル」と諸説ある。別冊宝島には1986年のサブカル・流行の1つとしてテレフォンクラブが紹介されている。 テレフォンクラブは売春の温床ともなっていた。現在はパソコンやインターネットの一般化に伴い、出会い系サイトが普及したために、テレフォンクラブは衰退している。 店によって、店員が順番に客に女性からの電話を回すシステムと、早く受話器を上げた客が電話をとることが出来るシステムの大きく二つに分けられる。なお、東京都など一部の自治体では条例により「早取り」形式は禁止されている。 店によってはSM回線、3P回線を設置してあるところもある。 朝日新聞 1986年4月3日夕刊(東京版)の「テレホンクラブ」(テレクラ)の記事に、テレクラで男性客とデートをしていた家出中の女子高生が補導されたという内容が掲載された。同記事によれば、テレクラは1985年秋頃から新宿・渋谷などに急増し、この頃までに100軒ほどあったという。 1990年代初頭には、一般の女性も多数参加し、同様の店が全国各地に広がり、流行していた。女性は無料であるため、女子中高生がいたずらでかける場合も多数あった。始めはいたずらでかけているつもりでも、度々かけているうちに相手に興味を持ったり、金銭を提示されたりして、実際に会ってみる気になることは十分ありうることであった。女子中高生の援助交際が問題になると、テレクラがその温床ではないかとの批判が強まった。 1990年頃には、レディースコミックに10-15ページほどのテレクラ広告が掲載されていたという。宮台真司は多摩地域のテレクラの状況を調査して、近年の若者の状況を社会学的に考察した(『制服少女たちの選択』1994年)。テレクラは1980-90年代の日本独特な出会いの文化として位置づけられる。 1995年に岐阜県で青少年のテレクラを規制する青少年保護育成条例が改正されて以降、全国の自治体でテレクラ規制条例が制定されていき、年齢確認や営業地域が限定されるなどの規制の強化によって衰退傾向が見られた。2002年には風俗営業法の改正で「店舗を設けて、専ら、面識のない異性との一時の性的好奇心を満たすための交際を希望する者に対し、会話の機会を提供することにより異性を紹介する営業で、その一方の者からの電話による会話の申込みを電気通信設備を用いて当該店舗内に立ち入らせた他の一方の者に取り次ぐことによつて営むもの」という性風俗関連特殊営業の「店舗型電話異性紹介営業」してテレクラを規制し、テレクラの利用者(男性・女性は問わない)全てに対し、18歳以上であることを示す身分確認を求めることが付けられた。さらに深夜0時から日の出(2016年6月23日からは午前6時)までの間はテレクラとしての営業が禁止されたことから、より一層利用者が減少し多くのテレクラが廃業した。しかし、現在もテレクラは各地に存在しており、男女の出会いの場を提供している。 1980年代後半から1990年代以降のテレクラ全盛期には、全国展開を行い最多店舗数を誇ったリンリンハウスの現在店舗数は僅か2店舗となっている。2002年の風俗営業法の改正以降、ほぼその機能は失われた状態ではあるが、全国的には営業を継続している少数の小規模店舗は存在する。現在では、かつてのテレクラの機能はいわゆるツーショットダイヤルへと移っている。 テレクラは厳密には「店舗型ツーショットダイヤル」と「無店舗型ツーショットダイヤル」に分けられる。無店舗型ツーショットダイヤルとは、単にツーショットダイヤルのことを意味する。ツーショットダイヤルも同時に規制を受けたが、衰退した店舗型のテレクラに対して逆に進化発展を遂げている。店舗型であるテレフォンクラブからの従来ユーザーの取り込み、3G携帯電話時代から提供されてきたWEBサイトからの利用の便の良さ、更にはスマートフォンの普及にあわせて専用の通話アプリの開発提供など、ツーショットダイヤルの利用環境は格段に整っている。 現在、無店舗型のテレクラについては、単に「ツーショットダイヤル」という呼称と同時に、かつてのテレフォンクラブを想起させる「テレクラツーショットダイヤル」という呼称もよく使用される。テレクラツーショットダイヤルは、かつて隆盛を誇ったテレフォンクラブの機能を受け継ぎ進化している。
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テレフォンクラブとは、電話を介して女性との会話を斡旋する店である。通称はテレクラ。基本的には個室で女性から店に電話がかかってくるのを待ち、その女性との会話を楽しむもの。個室にはティッシュペーパーなどが配置されており、テレフォンセックスが行われる場合もある。女性との交渉次第では、機会を改め店の外でデートや性行為を行うことなども可能である。 1985年の風俗営業法改正後に注目され、流行した業態。日本で最初に登場した店は1985年に小林伴実により開業された新宿「アトリエキーホール」、もしくは同年秋に同じ新宿に開業した「東京12チャンネル」と諸説ある。別冊宝島には1986年のサブカル・流行の1つとしてテレフォンクラブが紹介されている。 テレフォンクラブは売春の温床ともなっていた。現在はパソコンやインターネットの一般化に伴い、出会い系サイトが普及したために、テレフォンクラブは衰退している。
{{性的}} {{出典の明記|date=2009年12月}} [[File:Rinrin house No1.jpg|thumb|right|200px| テレクラ店舗の一例]] '''テレフォンクラブ'''とは、電話を介して女性との会話を斡旋する店である。通称は'''テレクラ'''。基本的には個室で女性から店に電話がかかってくるのを待ち、その女性との会話を楽しむもの<ref name = nagasawa1997.11 />。個室にはティッシュペーパーなどが配置されており<ref name = nagasawa1997.11 />、[[テレフォンセックス]]が行われる場合もある<ref name = nagasawa1997.15 />。女性との交渉次第では、機会を改め店の外でデートや[[性行為]]を行うことなども可能である<ref name = nagasawa1997.11 />。 [[1985年]]の[[風俗営業法]]改正後に注目され、流行した業態。日本で最初に登場した店は1985年に[[小林伴実]]により開業された[[新宿]]「アトリエキーホール」、もしくは同年秋に同じ新宿に開業した「[[テレビ東京|東京12チャンネル]]」と諸説ある。[[別冊宝島]]には[[1986年]]の[[サブカルチャー|サブカル]]・流行の1つとしてテレフォンクラブが紹介されている<ref>別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.93.</ref>。 テレフォンクラブは[[売春]]の温床ともなっていた<ref name = nagasawa1997.12 />。現在は[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]や[[インターネット]]の一般化に伴い、[[出会い系サイト]]が普及したために、テレフォンクラブは衰退している。 == システム == [[File:Telephone club in residential quarter along trunk road of Osaka1207313.jpg|thumb|240px|right|[[大阪]]の幹線道路沿い住宅地にあるテレクラ看板。その下には店名とともにフリーダイヤル電話番号が大きく書かれており、それを見た女性から電話がかかると同時に、男性客側からは[[サクラ (おとり)|サクラ]]ではない女性から電話がかかるのでは、という期待を抱かせる[[広告]]の役割を果たす。]] * 男性は店に行って時間ごとの料金を払い、狭い個室の中で電話がかかってくるのを待つ。 * 女性は自宅や[[公衆電話]]、[[携帯電話]]等から店に電話をかける。女性用ダイヤルは普通[[フリーダイヤル]]となっている。一般女性がテレクラの番号を知るのは、[[雑誌]][[広告]]や街頭で配布されるティッシュ、道路・鉄道の[[鉄道駅|駅]]付近の看板などである。 * 男性は利用時間の途中で約束した女性と会うために外出できる。その日のうちならば再入店し、残り時間<ref>この際外出時間を利用時間に含めない店(タイムキープ制)と、外出時間を利用時間に含める店(こちらが一般的)がある。</ref>も引き続き利用できる店舗が多い<ref>ただし店舗によっては再入店を認めないところや、特定のコースでのみ再入店を認めるところがあるので、利用の際は確認が必要。</ref>。 店によって、店員が順番に客に女性からの電話を回すシステムと、早く受話器を上げた客が電話をとることが出来るシステムの大きく二つに分けられる<ref name = nagasawa1997.11 />。なお、東京都など一部の[[地方公共団体|自治体]]では[[条例]]により「早取り」形式は禁止されている。 店によっては[[SM (性風俗)|SM]]回線、[[グループセックス|3P]]回線を設置してあるところもある。 == 歴史 == [[朝日新聞]] [[1986年]]4月3日夕刊(東京版)の「テレホンクラブ」(テレクラ)の記事に、テレクラで男性客とデートをしていた家出中の女子高生が[[補導]]されたという内容が掲載された。同記事によれば、テレクラは[[1985年]]秋頃から新宿・[[渋谷]]などに急増し、この頃までに100軒ほどあったという。 [[1990年代]]初頭には、一般の女性も多数参加し、同様の店が全国各地に広がり、流行していた。女性は無料であるため、女子中高生がいたずらでかける場合も多数あった。始めはいたずらでかけているつもりでも、度々かけているうちに相手に興味を持ったり、金銭を提示されたりして、実際に会ってみる気になることは十分ありうることであった。女子中高生の[[援助交際]]が問題になると、テレクラがその温床ではないかとの批判が強まった。 [[1990年]]頃には、[[レディースコミック]]に10-15ページほどのテレクラ広告が掲載されていたという<ref name = nagasawa1997.15 /><ref>なお、永沢 (1997) p.11によれば、当時の男性の利用料は800-1500円程度であったらしい。</ref>。[[宮台真司]]は[[多摩地域]]のテレクラの状況を調査して、近年の若者の状況を社会学的に考察した(『制服少女たちの選択』[[1994年]])。テレクラは1980-90年代の日本独特な出会いの文化として位置づけられる。 [[1995年]]に[[岐阜県]]で青少年のテレクラを規制する[[青少年保護育成条例]]が改正されて以降、全国の自治体でテレクラ規制条例が制定されていき、年齢確認や営業地域が限定されるなどの規制の強化によって衰退傾向が見られた。[[2002年]]には[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風俗営業法]]の改正で「店舗を設けて、専ら、面識のない異性との一時の性的好奇心を満たすための交際を希望する者に対し、会話の機会を提供することにより異性を紹介する営業で、その一方の者からの電話による会話の申込みを電気通信設備を用いて当該店舗内に立ち入らせた他の一方の者に取り次ぐことによつて営むもの」という[[性風俗関連特殊営業]]の「店舗型電話異性紹介営業」してテレクラを規制し、テレクラの利用者(男性・女性は問わない)全てに対し、18歳以上であることを示す身分確認を求めることが付けられた。さらに深夜0時から日の出(2016年6月23日からは午前6時)までの間はテレクラとしての営業が禁止されたことから<ref>このため、深夜帯に女性からかかってきた電話については[[ツーショットダイヤル]]に回されている。また深夜帯については、電話機を取り外し'''レンタルルーム'''として営業を行っている店舗が多い。</ref>、より一層利用者が減少し多くのテレクラが廃業した。しかし、現在もテレクラは各地に存在しており、男女の出会いの場を提供している。 == テレコミ == *テレクラやパーティーライン、[[ツーショットダイヤル]]等、電話を介した[[コミュニケーション]]の総称を「テレコミ」と表現する事がある。 == 2022年(令和4年)最新の状況 == === テレクラの衰退 === 1980年代後半から1990年代以降のテレクラ全盛期には、全国展開を行い最多店舗数を誇った[http://rrh.jp/ リンリンハウス]の現在店舗数は僅か2店舗となっている。[https://books.google.co.jp/books?id=5SPDDAAAQBAJ&pg=PA43&lpg=PA43&dq=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%A9%E8%A6%8F%E5%88%B6%E3%80%80%E9%A2%A8%E5%96%B6%E6%B3%95+%E6%94%B9%E6%AD%A3&source=bl&ots=p3npVaTI6r&sig=ACfU3U137vcfUbrpUCXYwQd5hV52fUWDag&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiPnOnzm6v0AhXEZt4KHQMWAv0Q6AF6BAgPEAM#v=onepage&q=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%A9%E8%A6%8F%E5%88%B6%E3%80%80%E9%A2%A8%E5%96%B6%E6%B3%95%20%E6%94%B9%E6%AD%A3&f=false 2002年の風俗営業法の改正]以降、ほぼその機能は失われた状態ではあるが、全国的には営業を継続している少数の小規模店舗は存在する。現在では、かつてのテレクラの機能はいわゆる[[ツーショットダイヤル]]へと移っている。 === テレクラは店舗型ツーショットダイヤル === テレクラは厳密には「店舗型ツーショットダイヤル」と「無店舗型ツーショットダイヤル」に分けられる。無店舗型ツーショットダイヤルとは、単に[[ツーショットダイヤル]]のことを意味する。ツーショットダイヤルも同時に規制を受けたが、衰退した店舗型のテレクラに対して逆に進化発展を遂げている。店舗型であるテレフォンクラブからの従来ユーザーの取り込み、3G携帯電話時代から提供されてきたWEBサイトからの利用の便の良さ、更にはスマートフォンの普及にあわせて専用の通話アプリの開発提供など、ツーショットダイヤルの利用環境は格段に整っている。 === テレクラツーショットダイヤル === 現在、無店舗型のテレクラについては、単に「[[ツーショットダイヤル]]」という呼称と同時に、かつてのテレフォンクラブを想起させる「テレクラツーショットダイヤル」という呼称もよく使用される。テレクラツーショットダイヤルは、かつて隆盛を誇ったテレフォンクラブの機能を受け継ぎ進化している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist | refs = <ref name = nagasawa1997.11>永沢 (1997) p.11</ref> <ref name = nagasawa1997.12>永沢 (1997) p.12</ref> <ref name = nagasawa1997.15>永沢 (1997) p.15</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp | author = 永沢光雄 | title = 風俗の人たち | year = 1997 | publisher = 筑摩書房 | isbn = 4-480-81807-3}} - ただし脚注で明記されている範囲のみ。 == 関連項目 == * [[ツーショットダイヤル]] * [[ダイヤルQ2]] * [[テレクラ放火殺人事件]] (テレクラ店の競合がきっかけで発生した放火殺人事件) * [[伝言ダイヤル]] {{DEFAULTSORT:てれふおんくらふ}} [[Category:性風俗関連特殊営業]] [[Category:電話を利用した情報サービス]] [[Category:日本の通信]]
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1984年ロサンゼルスオリンピック
1984年ロサンゼルスオリンピック(1984ねんロサンゼルスオリンピック)は、1984年(昭和59年)7月28日から8月12日までの16日間、アメリカ合衆国のロサンゼルスで開催されたオリンピック競技大会。一般的にロサンゼルスオリンピックあるいはロス五輪と呼称される。 規定の変更により、この大会から夏季オリンピックの入賞枠が6位までから8位までに拡大された。 この大会は1セントも税金を使わずに行われた。スタジアムも1932年ロサンゼルスオリンピック時のものを使っている。それまでの大会は、スタジアムの建設や環境整備などで開催都市が多額の費用を負担し赤字が続いたことや、1972年ミュンヘンオリンピックのイスラエル選手団に対するテロ攻撃や、1976年モントリオールオリンピックの巨額赤字が開催都市に大きなダメージを残したことなどもあり、1984年大会の開催都市立候補はロサンゼルス市だけ、とオリンピック開催は不人気だった。 税金を使わなければ、政治的介入を阻止できると、南カリフォルニアオリンピック委員会は考えたのである(大会委員長はピーター・ユベロス)。 開催するために必要な費用は、以下の4本柱を立てて賄った。 かくして最終的にはこの大会は、およそ400億円の黒字で終了かつ成功し、その全額がアメリカの青少年の振興とスポーツのために寄付された。この大会の成功が、その後の五輪に影響を与える商業主義の発端となった。 1980年に行われたモスクワオリンピックに、その前年に行われた「ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する」という理由で、アメリカが西側諸国とイスラム諸国にボイコットを呼びかけた結果、日本、西ドイツ、大韓民国、サウジアラビア、トルコ、エジプト、インドネシアなどの国々が参加しなかった。その報復として東側諸国は本大会をボイコットした(表向きの理由は1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻に対する抗議)。 なお、ロサンゼルス大会の不参加国はソビエト連邦、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イラン などであった。不参加国は本大会に対抗する形でフレンドシップ・ゲームズを開催した。 一方、社会主義陣営の国のうちソ連と距離を置いていたユーゴスラビアとニコラエ・チャウシェスク政権のルーマニアはモスクワオリンピックとロサンゼルスオリンピックの双方に参加してロサンゼルスオリンピックではルーマニアは開催国である米国に次ぐ数の金メダルを獲得し、中華人民共和国は中ソ対立でアメリカと接近したため、モスクワオリンピックは不参加、ロサンゼルスオリンピックは参加して金メダルはルーマニアと西ドイツに次ぐ数を獲得した。 大会委員長のピーター・ユベロスは一般市民の聖火ランナーからも、参加費用を徴収しようと計画。一緒にオリンピックを作る一員として、聖火ランナーに参加してくれる人なら、資金的な協力もしてくれる、というのがユベロスの考えだったのだが、聖火を運ぶのは、もともとギリシャ委員会の管轄で、ギリシャ委員会は「聖火を商品化するとは五輪を冒涜する行為」と待ったを掛けてきた。 しかし結局、ユベロスがギリシャ委員会を説得して有料聖火ランナーは実施された。この時には1936年のベルリンオリンピックで、日本代表でマラソン競技に優勝した孫基禎も聖火ランナーの一員として走っている。 イーグルサムは鷲をモチーフにしたマスコットで、これを主人公にしたテレビアニメも製作、放映された。 オリンピックエンブレムの星にある13本の横線は、米国独立時の13州を表しているという。赤・白・青は、アメリカの国旗の色を表しているという。 ソ連・東欧圏の選手が出場しなかった結果、射撃の蒲池猛夫(日本)、体操女子個人総合のレットン(アメリカ)など、幾つかの競技で、それまでメダルに縁の無かった国に金メダルをもたらした。特にレットンの金メダル獲得はアメリカで体操のブームを呼び、多くの子供達が体操競技を始めた結果、のちの体操競技におけるアメリカ勢の躍進の原動力となった。また、「女子選手には危険過ぎる」との理由で長年開催されていなかった女子マラソンがこの大会から公式競技となったが、8月開催の大会のため酷暑の中でのレースとなり、温度を下げるためにコース中にシャワーを設置するなど対策を行ったものの、ガブリエラ・アンデルセン(スイス)が脱水症状により千鳥足でゴールする事となった。ソ連や東ドイツが不参加した結果、アメリカ合衆国は、自国開催であるからこそ、最大限に力を発揮した。 開会式はアメリカ東部時間に合わせて午後5時から開式。 ロナルド・レーガンによる開会宣言、ジョン・ウィリアムズによるオリンピックテーマ曲、風船を持った人間による人文字、軽飛行機による「WELCOME」の文字の描かれた幕を牽引した展示飛行、飛行船2隻による巨大な「WELCOME」の幕の上空掲揚、ビル・スーターの操縦する個人用ジェット推進飛行装置・ロケットベルトを使った空中遊泳(俗にロケットマンと呼ばれた)、多数のピアノを使用したラプソディ・イン・ブルーの演奏などが催され、とくにロケットマンの演出は大きな話題を呼んだ。 閉会式は8月12日午後6時30分に開式通告され、五輪旗がロサンゼルスのトーマス・ブラッドリー市長からIOCのサマランチ会長に、そしてソウル市の廉普鉉市長に手渡された。また、大会委員長のユベロスにオリンピックオーダーの称号が与えられた。聖火が消灯された後、UFOとの音と光の交信が行われ、宇宙人が登場。そして花火で大会が締めくくられた。 本大会は主にロサンゼルス郡、オレンジ郡、サンバーナーディーノ郡、サンディエゴ郡、ベンチュラ郡の5郡にまたがって開催された。一部、他州で開催された種目もあった。
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1984年ロサンゼルスオリンピック(1984ねんロサンゼルスオリンピック)は、1984年(昭和59年)7月28日から8月12日までの16日間、アメリカ合衆国のロサンゼルスで開催されたオリンピック競技大会。一般的にロサンゼルスオリンピックあるいはロス五輪と呼称される。 規定の変更により、この大会から夏季オリンピックの入賞枠が6位までから8位までに拡大された。
{{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1984年ロサンゼルスオリンピック |英称・別称 = 第23回オリンピック競技大会<br/>Jeux de la XXIII<sup>e</sup> olympiade<br/>Games of the XXIII Olympiad |画像 = Olympic Torch Tower of the Los Angeles Coliseum.jpg |ロゴ = |開催都市 = {{USA}} [[ロサンゼルス]] |参加国・地域数 = 140 |参加人数 = 6,829人(男子5,263人、女子1,566人) |競技種目数 = 21競技221種目 |開会式 = [[1984年]][[7月28日]] |閉会式 = [[1984年]][[8月12日]] |開会宣言 = [[ロナルド・レーガン]] [[アメリカ合衆国大統領|大統領]] |選手宣誓 = [[エドウィン・モーゼス]] |審判宣誓 = [[シャーロン・ウェーバー]] |最終聖火ランナー = [[レイファー・ジョンソン]] |主競技場 = [[ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム]] |夏用前夏 = [[1980年モスクワオリンピック|1980年モスクワ]] |夏用次夏 = [[1988年ソウルオリンピック|1988年ソウル]] |夏用前冬 = [[1984年サラエボオリンピック|1984年サラエボ]] |夏用次冬 = [[1988年カルガリーオリンピック|1988年カルガリー]] }} '''1984年ロサンゼルスオリンピック'''(1984ねんロサンゼルスオリンピック)は、[[1984年]]([[昭和]]59年)[[7月28日]]から[[8月12日]]までの16日間、[[アメリカ合衆国]]の[[ロサンゼルス]]で開催された[[夏季オリンピック|オリンピック競技大会]]。一般的に'''ロサンゼルスオリンピック'''あるいは'''ロス五輪'''と呼称される。 規定の変更により、この大会から夏季オリンピックの入賞枠が6位までから8位までに拡大された。 == 商業五輪 == この大会は1セントも税金を使わずに行われた。スタジアムも[[1932年ロサンゼルスオリンピック]]時のものを使っている。それまでの大会は、スタジアムの建設や環境整備などで開催都市が多額の費用を負担し赤字が続いたことや、[[1972年ミュンヘンオリンピック]]の[[ミュンヘンオリンピック事件|イスラエル選手団に対するテロ攻撃]]や、[[1976年モントリオールオリンピック]]の巨額赤字が開催都市に大きなダメージを残したことなどもあり、1984年大会の'''開催都市立候補はロサンゼルス市だけ'''<ref group="注釈">ただし当初[[テヘラン]]([[イラン]])も立候補していたものの、1977年6月の段階で立候補を撤回し、1978年のIOC総会における決定段階では単独立候補となっていた。なお[[1932年ロサンゼルスオリンピック]]でも単独立候補、[[2028年ロサンゼルスオリンピック]]は[[2024年パリオリンピック]]との同時選考で、立候補はこの2つの都市しかなかった。</ref>、とオリンピック開催は不人気だった。 税金を使わなければ、政治的介入を阻止できると、南カリフォルニアオリンピック委員会は考えたのである(大会委員長は[[ピーター・ユベロス]])。 開催するために必要な費用は、以下の4本柱を立てて賄った。 # テレビ放映料:テレビ放映権は、それまでの常識を超える金額を最低価格として提示、アメリカ4大ネットワークのうちで一番高い金額を示したABCと約450億円で契約。放映権料を前払いとして、利息を稼ぐ徹底ぶりだった。 # スポンサー協賛金:それまで多くのスポンサー企業がマークを使用し、多種多様な活動をしたが、スポンサー数があまりにも多すぎたので、メリットが半減していると判断し、スポンサーは1業種1社、合計で30社と数を減らして価値を高めた。ロサンゼルス五輪のマークを自由に使える、というのが条件だった。[[コカ・コーラ]]と[[ペプシ]]が激しいスポンサー争いを演じ、他業種もスポンサーに次々に名乗りを上げ、高額の協賛金が集まった。 # 入場料収入 # 記念グッズの売上 かくして最終的にはこの大会は、およそ400億円の黒字で終了かつ成功し、その全額がアメリカの青少年の振興とスポーツのために寄付された。この大会の成功が、その後の五輪に影響を与える商業主義の発端となった。 == ボイコット == {{see|{{仮リンク|1984年ロサンゼルスオリンピックのボイコット|en|1984 Summer Olympics boycott|redirect=1}}}} [[画像:Olympic boycotts 1976 1980 1984.PNG|thumb|360px|right|{{legend|#e4e454|size=.5em|[[1976年モントリオールオリンピック]]をボイコットした国}}{{legend|#5454e4|size=.5em|[[1980年モスクワオリンピック]]をボイコットした国}}{{legend|#d45c4c|size=.5em|'''1984年ロサンゼルスオリンピックをボイコットした国'''}}{{legend|#828282|size=.5em|上記3大会とも参加した国}}]] [[1980年]]に行われた[[1980年モスクワオリンピック|モスクワオリンピック]]に、その前年に行われた「[[ソ連のアフガニスタン侵攻]]に抗議する」という理由で、アメリカが[[西側諸国]]と[[イスラム諸国]]に[[1980年モスクワオリンピックのボイコット|ボイコット]]を呼びかけた結果、[[日本]]、[[西ドイツ]]、[[大韓民国]]、[[サウジアラビア]]、[[トルコ]]、[[エジプト]]、[[インドネシア]]などの国々が参加しなかった。その報復として[[東側諸国]]は本大会をボイコットした(表向きの理由は[[1983年]]の[[アメリカ軍]]による[[グレナダ侵攻]]に対する抗議)。 なお、ロサンゼルス大会の不参加国はソビエト連邦、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[ハンガリー]]、[[ブルガリア]]、[[ベトナム]]、[[モンゴル]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[キューバ]]、[[エチオピア]]、[[アフガニスタン]]、[[アンゴラ]]、[[イラン]]<ref group="注釈">モスクワオリンピックも不参加。</ref> などであった。不参加国は本大会に対抗する形で[[フレンドシップ・ゲームズ]]を開催した<ref group="注釈">もっとも公式筋は[[IOC]]との摩擦を避けるために、ロサンゼルスオリンピックの対抗大会であることを否定している。</ref>。 一方、社会主義陣営の国のうちソ連と距離を置いていた[[ユーゴスラビア]]と[[ニコラエ・チャウシェスク]]政権の[[ルーマニア]]はモスクワオリンピックとロサンゼルスオリンピックの双方に参加してロサンゼルスオリンピックではルーマニアは開催国である米国に次ぐ数の金メダルを獲得し、[[中華人民共和国]]は[[中ソ対立]]でアメリカと接近したため、モスクワオリンピックは不参加、ロサンゼルスオリンピックは参加して金メダルはルーマニアと西ドイツに次ぐ数を獲得した。 == 聖火ランナー == 大会委員長の[[ピーター・ユベロス]]は一般市民の聖火ランナーからも、参加費用を徴収しようと計画。一緒にオリンピックを作る一員として、聖火ランナーに参加してくれる人なら、資金的な協力もしてくれる、というのがユベロスの考えだったのだが、聖火を運ぶのは、もともとギリシャ委員会の管轄で、ギリシャ委員会は「聖火を商品化するとは五輪を冒涜する行為」と待ったを掛けてきた。 しかし結局、ユベロスがギリシャ委員会を説得して有料聖火ランナーは実施された。この時には[[1936年]]の[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]で、日本代表でマラソン競技に優勝した[[孫基禎]]も聖火ランナーの一員として走っている。 == 大会マスコット == [[イーグルサム]]は[[鷲]]をモチーフにしたマスコットで、これを主人公にした[[テレビアニメ]]も製作、放映された。 == エンブレム == [[オリンピックエンブレム]]の星にある13本の横線は、米国独立時の13州を表しているという。赤・白・青は、アメリカの国旗の色を表しているという<ref>[http://beijing2008_j.people.com.cn/94333/94339/6446773.html 歴代五輪エンブレム(5)ロサンゼルス] 人民網 日本語版</ref>。 デザイナーは[[ロバート・マイルズ・ラニアン]]。 == ハイライト == ソ連・東欧圏の選手が出場しなかった結果、射撃の蒲池猛夫(日本)、体操女子個人総合のレットン(アメリカ)など、幾つかの競技で、それまでメダルに縁の無かった国に金メダルをもたらした。特にレットンの金メダル獲得はアメリカで体操のブームを呼び、多くの子供達が体操競技を始めた結果、のちの体操競技におけるアメリカ勢の躍進の原動力となった。また、「女子選手には危険過ぎる」との理由で長年開催されていなかった女子[[マラソン]]がこの大会から公式競技となったが、8月開催の大会のため酷暑の中でのレースとなり、温度を下げるためにコース中にシャワーを設置するなど対策を行ったものの、[[ガブリエラ・アンデルセン]]([[スイス]])が[[脱水症状]]により千鳥足でゴールする事となった。ソ連や東ドイツが不参加した結果、アメリカ合衆国は、自国開催であるからこそ、最大限に力を発揮した。 == 開会式 == 開会式はアメリカ東部時間に合わせて午後5時から開式。 ロナルド・レーガンによる開会宣言、[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]によるオリンピックテーマ曲、風船を持った人間による人文字、軽飛行機による「WELCOME」の文字の描かれた幕を牽引した展示飛行、飛行船2隻による巨大な「WELCOME」の幕の上空掲揚、ビル・スーターの操縦する個人用ジェット推進飛行装置・ロケットベルトを使った空中遊泳(俗に[[ロケットマン]]と呼ばれた)、多数のピアノを使用した[[ラプソディ・イン・ブルー]]の演奏などが催され、とくにロケットマンの演出は大きな話題を呼んだ<ref name="mainichi20210319">{{Cite newspaper|url=https://mainichi.jp/articles/20210319/k00/00m/050/004000c|title=口パク、ハト焼死… 物議や話題呼んだ五輪開会式の演出あれこれ|newspaper=毎日新聞|date=2021-3-19|accessdate=2021-3-19}}</ref>。 == 閉会式 == 閉会式は8月12日午後6時30分に開式通告され、五輪旗がロサンゼルスのトーマス・ブラッドリー市長からIOCの[[フアン・アントニオ・サマランチ|サマランチ]]会長に、そしてソウル市の廉普鉉市長に手渡された。また、大会委員長のユベロスにオリンピックオーダーの称号が与えられた。聖火が消灯された後、UFOとの音と光の交信が行われ、宇宙人が登場。そして花火で大会が締めくくられた。 == 競技会場 == 本大会は主に[[ロサンゼルス郡]]、[[オレンジ郡 (カリフォルニア州)|オレンジ郡]]、[[サンバーナーディーノ郡 (カリフォルニア州)|サンバーナーディーノ郡]]、[[サンディエゴ郡 (カリフォルニア州)|サンディエゴ郡]]、[[ベンチュラ郡]]の5郡にまたがって開催された。一部、他州で開催された種目もあった。 <!--各節内で50音順。ウィキペディア日本語版に記事がない場所については、その所在地を付記。--> === ロサンゼルス郡 === ==== ロサンゼルス市内 ==== * イーグルス・ネスト・アリーナ([[カリフォルニア州立大学]]ロサンゼルス校のキャンパス内) - 柔道 * ガーステン・パビリオン(ロヨラ・メリーマウント大学のキャンパス内) - ウエイトリフティング * [[ドジャー・スタジアム]] - 野球(公開競技) * [[ポーリー・パビリオン]] - 体操 * [[ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム]] - 開・閉会式、陸上競技、マラソン・ゴール * [[ロサンゼルス・メモリアル・スポーツ・アリーナ]] - ボクシング * マクドナルド・オリンピック・スイム・スタジアム([[南カリフォルニア大学]]のキャンパス内) - 競泳、飛込、シンクロナイズドスイミング ==== その他のロサンゼルス郡内 ==== * アーテシア・フリーウェイ(91号フリーウェイ) - 自転車競技団体ロードレース * ウェインガート・スタジアム([[モントレーパーク (カリフォルニア州)|モントレー・パーク市]]、イースト・ロサンゼルス・カレッジのキャンパス内) - ホッケー * エル・ドラド・パーク([[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ市]]) - アーチェリー * オリンピック・ベロドローム(セブン-イレブン・ベロドローム、[[カーソン (カリフォルニア州)|カーソン市]]、カリフォルニア州立大学ドミンゲスヒルズ校のキャンパス内) - 自転車競技トラックレース * [[グレート・ウェスタン・フォーラム|ザ・フォーラム]] - バスケットボール * [[サンタアニタパーク競馬場]] - 馬術 * [[サンタモニカ・カレッジ]] - マラソン・スタート<ref name="marathon">[http://www.runscore.com/coursemeasurement/Articles/LA84.pdf 1984 Olympic Marathon Reference Points] ''RunScore'' 2012年8月20日閲覧</ref> * サン・ヴィセンテ通り、オーシャン・アヴェニュー、90号ハイウェイ、エクスポジション大通りなど - マラソン<ref name="marathon"/> * [[ローズボウル (競技場)|ローズボウル]] - サッカー決勝 * ローリー・ラネルズ・メモリアル・プール([[ペパーダイン大学]]のキャンパス内) - 水球 * ロサンゼルス・テニスセンター([[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]]のキャンパス内) - テニス * ロングビーチ・コンベンションセンター([[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]]市) - フェンシング ** ロングビーチ・アリーナ(ロングビーチ・コンベンションセンター内) - バレーボール * ロングビーチ・ショアライン・マリーナ(ロングビーチ市) - セーリング === オレンジ郡 === * アナハイム・コンベンションセンター([[アナハイム]]市、[[ディズニーランド・リゾート]]の隣) - レスリング * コト・デ・カザ<ref group="注釈">ミッションビエホ近隣の地域。2012年現在、市として独立しておらず、郡の管理下にある。</ref> - 近代五種フェンシング、射撃、ランニング、馬術 * タイタン・ジム([[カリフォルニア州立大学フラトン校]]のキャンパス内) - ハンドボール * ヘリテイジ・パーク水泳センター([[アーバイン (カリフォルニア州)|アーバイン]]市) - 近代五種水泳 * [[ミッションビエホ (カリフォルニア州)|ミッション・ビエホ]] - 自転車競技個人ロードレース === サンバーナーディーノ郡 === * プラド・リージョナル・パーク([[チノ (カリフォルニア州)|チノ]]市) - 射撃 === サンディエゴ郡 === * フェアバンクス・ランチ・カントリークラブ(ランチョ・サンタ・フェ市) - 馬術 === ベンチュラ郡 === * カシータス湖(ロス・パドレス国有林内の人工湖) - カヌー、ボート === その他の地域 === * [[スタンフォード・スタジアム]](カリフォルニア州[[サンタクララ郡]]) * ハーバード・スタジアム([[マサチューセッツ州]][[ボストン]]市、[[ハーバード大学]]所有<ref group="注釈">ハーバード大学のほぼ全ての建物は[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]市内にあるが、ハーバード・スタジアムは隣のボストン市内にある。</ref>) * 海軍海兵隊記念スタジアム([[メリーランド州]][[アナポリス (メリーランド州)|アナポリス]]市) == 実施競技 == {| | * [[1984年ロサンゼルスオリンピックの陸上競技|陸上競技]] * [[水泳]] ** [[1984年ロサンゼルスオリンピックの競泳競技|競泳]] ** [[1984年ロサンゼルスオリンピックの飛込競技|飛込]] ** [[1984年ロサンゼルスオリンピックの水球競技|水球]] ** [[1984年ロサンゼルスオリンピックのシンクロナイズドスイミング競技|シンクロナイズドスイミング]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのサッカー競技|サッカー]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのボート競技|ボート]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのホッケー競技|ホッケー]] |width=20| |valign=top| * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのボクシング競技|ボクシング]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのバレーボール競技|バレーボール]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックの体操競技|体操]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのバスケットボール競技|バスケットボール]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのレスリング競技|レスリング]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのセーリング競技|セーリング]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのウエイトリフティング競技|ウエイトリフティング]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのハンドボール競技|ハンドボール]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックの自転車競技|自転車競技]] |width=20| |valign=top| * [[1984年ロサンゼルスオリンピックの馬術競技|馬術]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのフェンシング競技|フェンシング]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックの柔道競技|柔道]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックの射撃競技|射撃]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックの近代五種競技|近代五種]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのカヌー競技|カヌー]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのアーチェリー競技|アーチェリー]] * [[1984年ロサンゼルスオリンピックのテニス競技|テニス]](公開競技) * [[1984年ロサンゼルスオリンピックの野球競技|野球]](公開競技)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/olympics/2020/game/baseball/|title=東京オリンピック2020|野球|競技紹介|publisher=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-12-31}}</ref> |} == 各国・地域のメダル獲得数 == {{main|1984年ロサンゼルスオリンピックのメダル受賞数一覧}} {| {{RankedMedalTable}} |- style="background-color:#ccccff" | 1 ||align=left| {{flagIOC|USA|1984夏季}}(開催国) || 83 || 61 || 30 || 174 |- | 2 ||align=left| {{flagIOC|ROU|1984夏季}} || 20 || 16 || 17 || 53 |- | 3 ||align=left| {{flagIOC|FRG|1984夏季}} || 17 || 19 || 23 || 59 |- | 4 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[[カルロス・ロペス]]([[ポルトガル]]、陸上競技男子[[マラソン]]) ** アメリカ(陸上競技男子[[400メートルリレー走|4×100mリレー]]) ** [[エドウィン・モーゼス]](アメリカ、陸上競技男子[[400メートルハードル|400mハードル]]) ** [[ピエール・キノン]]([[フランス]]、陸上競技男子[[棒高跳]]) ** [[ロルフ・ダンネベルク]]([[西ドイツ]]、陸上競技男子[[円盤投]]) ** [[デイリー・トンプソン]](イギリス、陸上競技男子[[十種競技]]) ** [[ドイナ・メリンテ]](ルーマニア、陸上競技女子[[800メートル競走|800m]]) ** [[マリチカ・プイカ]](ルーマニア、陸上競技女子[[3000メートル競走|3000m]]) ** [[ジョーン・ベノイト]](アメリカ、陸上競技女子[[マラソン]]) ** [[ウルリケ・マイフェルト]](西ドイツ、陸上競技女子[[走高跳]]) ** [[テッサ・サンダーソン]](イギリス、陸上競技女子[[やり投]]) ** [[ミヒャエル・グロス]](西ドイツ、[[競泳]]男子200m[[自由形]]、100m[[バタフライ]]) ** アメリカ(競泳男子4×100mリレー) ** [[メアリー・マーハー]](アメリカ、競泳女子100mバタフライ、200mバタフライ) ** アメリカ(競泳女子4×100m[[メドレーリレー]]) ** [[グレゴリー・ローガニス]](アメリカ、[[飛込競技|飛び込み]]男子3m[[飛板飛び込み]]、10m[[高飛び込み]]) ** [[李寧]]([[中国]]、[[体操]]男子[[ゆか]]、[[あん馬]]、[[つり輪]]) ** [[楼雲]](中国、体操男子[[跳馬]]) ** [[メアリー・ルー・レットン]](アメリカ、体操女子個人総合) ** アメリカ(バスケットボール男子) ** [[ライナー・クリンケ]](西ドイツ、[[馬術]][[馬場馬術]]個人) ** 西ドイツ(馬術馬場馬術団体) ** イギリス([[ボート競技]]男子かじつきフォア) ** [[イタリア]]([[フェンシング]]男子[[サーブル]]団体) ** [[フランス]]([[サッカー]]) * {{Silver medal}} ** 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1980年モスクワオリンピック
1980年モスクワオリンピック(1980ねんモスクワオリンピックロシア語: И́гры XXII Олимпиа́ды)は、1980年(昭和55年)7月19日から8月3日までの16日間、ソビエト連邦(現:ロシア連邦)の首都・モスクワで開催されたオリンピック競技大会。一般的にモスクワオリンピックと呼称される。 共産圏、社会主義国では初の開催となった。後述するボイコット問題で、政治とスポーツ(英語版)の関係が問われた大会でもあった。 ソ連は、1952年ヘルシンキオリンピックでオリンピックに初参加してから常に国別のメダル争いで上位に立ち、ステート・アマと呼ばれるトップ選手の金メダル獲得を国威発揚に活用していた。その集大成として、自国の首都であるモスクワでのオリンピック開催を目指すようになった。 一方で、オリンピック自体は巨大化の弊害が見え始め、1972年ミュンヘンオリンピックでのテロ事件(ミュンヘンオリンピック事件)などもあり、開催都市への負担が大きくなってきた。 その中で、スポーツ大国のソ連が運営を全面的に担うというモスクワ開催は多くの支持を集め、1974年10月23日、オーストリアのウィーンで開かれた第75回国際オリンピック委員会総会でモスクワでの1980年夏季五輪の開催が決定された。 モスクワでの初の開催決定を受けて大会施設の建設が急ピッチで行われたほか、旧態化していたモスクワの当時の空の玄関であるシェレメーチエヴォ国際空港の空港ターミナルビルが大幅改修されるなど行われた。 しかし、冷戦下において東側諸国の盟主的存在であるソ連で行われたこの大会は、前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、集団ボイコットという事態に至った。 冷戦で、ソ連と対立していたアメリカ合衆国は1979年のソ連のアフガニスタン侵攻を口実に、五輪からソ連を締め出すことを決断しアメリカオリンピック委員会もこれを了承した。ブレジネフ政権は見返りも提示して説得工作を行ったが失敗に終わり、最終的にアメリカのカーター大統領が1980年1月にボイコットを主唱したことから、日本、分断国家の西ドイツや韓国、それに1979年10月の国際オリンピック委員会 (IOC) 理事会(名古屋開催)でIOC加盟が承認されていたが、1960年代以降ソ連と対立関係にあった中国やイラン、サウジアラビア、パキスタン、エジプトなどといったアフガニスタンでムジャーヒディーンを支援するイスラム教諸国、および反共的立場の強い諸国など50カ国近くがボイコットを決めた。アメリカはコートジボワール、イタリア、日本、西ドイツ、中国といったボイコットした国々に対してモスクワ五輪に対抗した競技大会を準備し、陸上競技のリバティ・ベル・クラシックや体操競技のUSGF国際招待大会(英語版)をアメリカで開催した。 一方、イギリス、フランス、イタリア、オーストラリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、スペインなどの西欧・オセアニアの西側諸国の大半は参加した。イギリスではボイコットを指示した政府の後援を得られず、オリンピック委員会が独力で選手を派遣した。フランス、イタリア、オランダなど7カ国は競技には参加したものの、開会式の入場行進には参加せずイギリス、ポルトガルなど3カ国は旗手1人だけの入場行進となった。 これらの参加した西側諸国は概ね国旗を用いず、優勝時や開会式などのセレモニーでは五輪旗と五輪賛歌が使用された。ただし、ギリシャだけは国旗を用いている。 このボイコット問題は、IOCの責任能力ならびに統率力の限界を露呈させた。当時IOCのマイケル・モリス会長はこのボイコット問題に関して、「この問題に対してIOCはコメントする立場にない。よって、IOCは一切関わらず、責任は負わない」として関与を拒絶した。しかも建前上は各国の意志の尊重を掲げていたため、IOC及びモリス会長に批判が集中した。IOCがこのボイコット問題に関して言及したのは、この時が唯一であり、これ以降は2023年現在に至るまで一切声明を発していない。 モスクワオリンピックへのボイコットを呼びかけ、中心的存在であったアメリカが開催する予定になっていた、次(1984年)の夏季オリンピックであるロサンゼルスオリンピックには、アメリカ軍のグレナダ侵攻を理由に多くの東側諸国が報復としてボイコットした。中でも、イランはモスクワオリンピックとロサンゼルスオリンピックを両方ともボイコットしている。 なお、前回のモントリオールオリンピックでは、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策に絡みアフリカ諸国の多くがボイコットをしたが、今回の五輪では主にイスラム圏を除いたアフリカ諸国が復帰した。 一方で、モスクワオリンピックをボイコットした韓国で次々回1988年に開催されたソウルオリンピックには、中華人民共和国をはじめほとんどのアフリカ諸国もソ連をはじめとする東側諸国(北朝鮮とキューバを除く)も参加し、大規模なボイコット合戦にようやく終止符が打たれた。 1979年に西ドイツのポップグループでもあるジンギスカンがモスクワをモデルにして作った曲『めざせモスクワ』が世界的にヒットした。西ドイツはモスクワオリンピックをボイコットしたにもかかわらず、これが縁でジンギスカンはモスクワオリンピックに招待された。 日本でも、バオバブシンガーズ(ぷろだくしょんバオバブ所属声優のユニット)やダークダックスによってカバーされた。前者はオリンピックを強く意識した歌詞で、後者はオリンピックと全く関係ないモスクワ観光的な歌詞だった。 西側諸国の多くがボイコットした事で、大会は東側諸国のメダルラッシュとなった。キューバを含めた東側諸国の経済協力機構であるコメコン加盟国全体では161個と、全204個の金メダルのうち79%を占めた。 特にソ連は自国開催の強みを最大限に発揮し、元来の得意種目の重量挙げや射撃に加え、アメリカが不参加の競泳や陸上、日本が不参加の男子体操やバレーボールで順調に金メダルを獲得した。金メダル80個は、1984年ロサンゼルスオリンピックでのアメリカの83個に次いで一つの大会での2番目の獲得記録となっている。 ソ連と同じく「ステート・アマ」が選手のほとんどを占める東ドイツもボートで14種目中11個の金メダルを稼ぎ、47個と第2位の金メダルを獲得した。 一方で、東側諸国に押され気味の西側諸国の中ではイギリスが陸上男子のトラック競技で健闘し100mのウェルズ、800mのオヴェット、1500mのコーと3つの金メダルを獲得している。 ・現在のウクライナ、モルドバ、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア、ベラルーシ、エストニア、ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、ラトビア、リトアニアに競技場が置かれた。 ソ連国内では全連邦ラジオで、欧州ではユーロビジョン(31カ国)とインタービジョン(11カ国)、中南米ではOTIを通じて放送された。オーストラリアではチャンネル7、アメリカ国内ではNBCで放映したが、一部の国では放送体制を大幅縮小した。また、カナダは当初CBCで放送予定だったが、カナダのボイコットを受け中止が決定した。 日本では1977年にテレビ朝日系列が独占放映権を獲得した。しかし、日本のボイコットが決まったため中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなった。視聴率は開会式が11.2%と過去最低を記録し、競技1日目となった7月20日23:50からの中継も1.5%(いずれもビデオリサーチ、日本・関東地方)と低迷した。放映権料についてはジャパンコンソーシアムを参照のこと。 なお、この前にテレビ朝日の重役で「怪物」と呼ばれた三浦甲子二がソ連の高官と会っていたことからチュメニ油田に絡む黒い噂を含む怪文書が流れたことがある。 五輪期間中、モスクワではモノ不足による店の行列が消えた。外国人の目に実態が触れぬよう、当局がフィンランドで商品を買い占め、店の棚に並べさせていた。街中では、清涼飲料水のコカ・コーラやファンタが当時のソ連にはなかった使い捨てコップで売られた。缶ビールやたばこのマールボロも現れた。外国製のガムはソ連製と違って味が長持ちした。一般市民はつかの間、西側の豊かさを実感した。もっとも、子供たちは五輪中、サマーキャンプなどに送り出された。犯罪歴のある者や反体制派知識人は100キロ以上離れた僻地に隔離された。住民がだいぶ少なくなったモスクワには、全国から私服の秘密警察要員が集められた。 大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットによりその権威が失墜したことは疑いようがなかった。ソ連の失望と怒りは深く、次のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながった。それを暗示するように、閉会式での電光掲示板では「ロサンゼルスで会いましょう」という文字が一切出なかった。 大会後、第3代キラニン男爵マイケル・モリスがIOC会長を退任し、後任にフアン・アントニオ・サマランチが新会長となった。これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向し結果的にテレビ放映権や大型スポンサー契約に依存する商業主義への傾斜を強め、プロ選手の出場解禁に道を付けた。 種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。 モスクワは2012年夏季オリンピックの開催地に立候補したが、最初の投票で落選した。なお、同年の開催地となったロンドンの招致委員長がこの五輪で男子陸上1500m金メダリストのセバスチャン・コーであった。
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"特にソ連は自国開催の強みを最大限に発揮し、元来の得意種目の重量挙げや射撃に加え、アメリカが不参加の競泳や陸上、日本が不参加の男子体操やバレーボールで順調に金メダルを獲得した。金メダル80個は、1984年ロサンゼルスオリンピックでのアメリカの83個に次いで一つの大会での2番目の獲得記録となっている。", "title": "大会の結果" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ソ連と同じく「ステート・アマ」が選手のほとんどを占める東ドイツもボートで14種目中11個の金メダルを稼ぎ、47個と第2位の金メダルを獲得した。", "title": "大会の結果" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一方で、東側諸国に押され気味の西側諸国の中ではイギリスが陸上男子のトラック競技で健闘し100mのウェルズ、800mのオヴェット、1500mのコーと3つの金メダルを獲得している。", "title": "大会の結果" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "・現在のウクライナ、モルドバ、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア、ベラルーシ、エストニア、ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、ラトビア、リトアニアに競技場が置かれた。", "title": "主な競技会場" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ソ連国内では全連邦ラジオで、欧州ではユーロビジョン(31カ国)とインタービジョン(11カ国)、中南米ではOTIを通じて放送された。オーストラリアではチャンネル7、アメリカ国内ではNBCで放映したが、一部の国では放送体制を大幅縮小した。また、カナダは当初CBCで放送予定だったが、カナダのボイコットを受け中止が決定した。", "title": "テレビ放映" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本では1977年にテレビ朝日系列が独占放映権を獲得した。しかし、日本のボイコットが決まったため中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなった。視聴率は開会式が11.2%と過去最低を記録し、競技1日目となった7月20日23:50からの中継も1.5%(いずれもビデオリサーチ、日本・関東地方)と低迷した。放映権料についてはジャパンコンソーシアムを参照のこと。", "title": "テレビ放映" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、この前にテレビ朝日の重役で「怪物」と呼ばれた三浦甲子二がソ連の高官と会っていたことからチュメニ油田に絡む黒い噂を含む怪文書が流れたことがある。", "title": "テレビ放映" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "五輪期間中、モスクワではモノ不足による店の行列が消えた。外国人の目に実態が触れぬよう、当局がフィンランドで商品を買い占め、店の棚に並べさせていた。街中では、清涼飲料水のコカ・コーラやファンタが当時のソ連にはなかった使い捨てコップで売られた。缶ビールやたばこのマールボロも現れた。外国製のガムはソ連製と違って味が長持ちした。一般市民はつかの間、西側の豊かさを実感した。もっとも、子供たちは五輪中、サマーキャンプなどに送り出された。犯罪歴のある者や反体制派知識人は100キロ以上離れた僻地に隔離された。住民がだいぶ少なくなったモスクワには、全国から私服の秘密警察要員が集められた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットによりその権威が失墜したことは疑いようがなかった。ソ連の失望と怒りは深く、次のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながった。それを暗示するように、閉会式での電光掲示板では「ロサンゼルスで会いましょう」という文字が一切出なかった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "大会後、第3代キラニン男爵マイケル・モリスがIOC会長を退任し、後任にフアン・アントニオ・サマランチが新会長となった。これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向し結果的にテレビ放映権や大型スポンサー契約に依存する商業主義への傾斜を強め、プロ選手の出場解禁に道を付けた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "モスクワは2012年夏季オリンピックの開催地に立候補したが、最初の投票で落選した。なお、同年の開催地となったロンドンの招致委員長がこの五輪で男子陸上1500m金メダリストのセバスチャン・コーであった。", "title": "再招致" } ]
1980年モスクワオリンピックは、1980年(昭和55年)7月19日から8月3日までの16日間、ソビエト連邦の首都・モスクワで開催されたオリンピック競技大会。一般的にモスクワオリンピックと呼称される。 共産圏、社会主義国では初の開催となった。後述するボイコット問題で、政治とスポーツの関係が問われた大会でもあった。
{{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1980年モスクワオリンピック |英称・別称 = 第22回オリンピック競技大会<br/>Jeux de la XXII<sup>e</sup> olympiade<br/>Games of the XXII Olympiad<br/>{{Lang-ru| И́гры XXII Олимпиа́ды}} |画像 = RIAN archive 487039 Opening ceremony of the 1980 Olympic Games.jpg |ロゴ = |開催都市 = {{SSR}} [[モスクワ]] |参加国・地域数 = 80 |参加人数 = 5,217人(男子4,093人、女子1,124人) |競技種目数 = 21競技203種目 |開会式 = [[1980年]][[7月19日]] |閉会式 = [[1980年]][[8月3日]] |開会宣言 = [[レオニード・ブレジネフ]] [[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]] |選手宣誓 = [[ニコライ・アンドリアノフ]] |審判宣誓 = [[アレクサンドル・メドベド]] |最終聖火ランナー = [[セルゲイ・ベロフ]] |主競技場 = [[ルジニキ・スタジアム|レーニン・スタジアム]] |夏用前夏 = [[1976年モントリオールオリンピック|1976年モントリオール]] |夏用次夏 = [[1984年ロサンゼルスオリンピック|1984年ロサンゼルス]] |夏用前冬 = [[1980年レークプラシッドオリンピック|1980年レークプラシッド]] |夏用次冬 = [[1984年サラエボオリンピック|1984年サラエボ]] }} '''1980年モスクワオリンピック'''(1980ねんモスクワオリンピック{{Lang-ru|И́гры XXII Олимпиа́ды}})は、[[1980年]]([[昭和]]55年)[[7月19日]]から[[8月3日]]までの16日間、[[ソビエト連邦]](現:[[ロシア連邦]])の首都・[[モスクワ]]で開催された[[夏季オリンピック|オリンピック競技大会]]。一般的に'''モスクワオリンピック'''と呼称される。 [[共産圏]]、[[社会主義国]]では初の開催となった<ref name="shashin">『昭和55年 写真生活』p14-15(2017年、ダイアプレス)</ref>。後述する[[#ボイコット問題|ボイコット問題]]で、{{仮リンク|政治とスポーツ|en|Politics and sports}}の関係が問われた大会でもあった。 == 大会開催までの経緯 == ソ連は、[[1952年ヘルシンキオリンピック]]で[[近代オリンピック|オリンピック]]に初参加してから常に国別の[[メダル]]争いで上位に立ち、[[ステート・アマ]]と呼ばれるトップ選手の[[金メダル]]獲得を国威発揚に活用していた。その集大成として、自国の首都であるモスクワでのオリンピック開催を目指すようになった。 一方で、オリンピック自体は巨大化の弊害が見え始め、[[1972年ミュンヘンオリンピック]]での[[テロリズム|テロ事件]]([[ミュンヘンオリンピック事件]])などもあり、開催都市への負担が大きくなってきた。 その中で、スポーツ大国のソ連が運営を全面的に担うというモスクワ開催は多くの支持を集め、[[1974年]][[10月23日]]、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で開かれた第75回[[国際オリンピック委員会総会]]でモスクワでの1980年夏季五輪の開催が決定された。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small" |-bgcolor="#efefef" |+ 1980年夏季オリンピック 開催地投票 |- !都市 !国 !style="background-color:silver;"|1回目 |- |[[モスクワ]]||{{SSR}} |'''39''' |- |[[ロサンゼルス]]||{{USA}} |20 |- |} モスクワでの初の開催決定を受けて大会施設の建設が急ピッチで行われたほか、旧態化していたモスクワの当時の空の玄関である[[シェレメーチエヴォ国際空港]]の[[空港ターミナルビル]]が大幅改修されるなど行われた。 == ボイコット問題 == [[File:1980 Summer Olympic games countries.png|360px|thumb|{{legend|#0f85ff|size=.5em|オリンピック初参加国}}{{legend|#42e375|size=.5em|2回目以降の参加国}}{{legend|#bff166|size=.5em|自国旗を用いず[[五輪旗]]を用いた参加国}}{{legend|#cec5ce|size=.5em|不参加国}}]] しかし、[[冷戦]]下において[[東側諸国]]の盟主的存在であるソ連で行われたこの大会は、前年1979年12月に起きた[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連のアフガニスタン侵攻]]の影響を強く受け、集団[[ボイコット]]という事態に至った<ref name="shashin"/>。 === 主な国の動向 === [[File:Bundesarchiv Bild 183-W0803-0106, Moskau, XXII. Olympiade, Abschlussfeier.jpg|220px|right|thumb|開会式に入場する[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]代表チームの旗手。]] 冷戦で、ソ連と対立していた[[アメリカ合衆国]]は1979年のソ連のアフガニスタン侵攻を口実に、五輪からソ連を締め出すことを決断し[[アメリカオリンピック・パラリンピック委員会|アメリカオリンピック委員会]]もこれを了承した。[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]政権は見返りも提示して説得工作を行ったが<ref name="ロシア革命">『プーチンとロシア革命: 百年の蹉跌』p213 遠藤良介著、ISBN 4309227554</ref>失敗に終わり、最終的にアメリカの[[ジミー・カーター|カーター]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が1980年1月にボイコットを主唱したことから、[[日本]]、[[分断国家]]の[[西ドイツ]]や[[大韓民国|韓国]]、それに1979年10月の[[国際オリンピック委員会]] (IOC) 理事会(名古屋開催)でIOC加盟が承認されていたが、[[1960年代]]以降ソ連と対立関係にあった[[中華人民共和国|中国]]や[[イラン]]、[[サウジアラビア]]、[[パキスタン]]、[[エジプト]]などといった[[アフガニスタン]]で[[ムジャーヒディーン]]を支援する[[イスラム教]]諸国、および[[反共主義|反共]]的立場の強い諸国など50カ国近くがボイコットを決めた<ref name="shashin"/>。アメリカは[[コートジボワール]]、[[イタリア]]、日本、西ドイツ、中国といったボイコットした国々に対してモスクワ五輪に対抗した競技大会を準備し<ref>[http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/russia/1470489/Secret-US-plot-to-steal-Moscows-Olympic-flame.html Secret US plot to steal Moscow's Olympic flame, Daily Telegraph]</ref>、陸上競技の[[リバティ・ベル・クラシック]]や体操競技の{{仮リンク|USGF国際招待大会|en|USGF International Invitational 1980}}をアメリカで開催した。 一方、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[オーストラリア]]、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ポルトガル]]、[[スペイン]]などの[[西ヨーロッパ|西欧]]・[[オセアニア]]の西側諸国の大半は参加した<ref name="shashin"/>。イギリスではボイコットを指示した政府の後援を得られず、オリンピック委員会が独力で選手を派遣した。フランス、イタリア、オランダなど7カ国は競技には参加したものの、開会式の入場行進には参加せずイギリス、ポルトガルなど3カ国は旗手1人だけの入場行進となった<ref name="shashin"/>。 これらの参加した西側諸国は概ね[[国旗]]を用いず、優勝時や開会式などのセレモニーでは[[オリンピックシンボル#オリンピック旗|五輪旗]]と[[オリンピック賛歌|五輪賛歌]]が使用された。ただし、[[ギリシャ]]だけは国旗を用いている。 ==== 日本 ==== * 1979年 - オリンピック協賛企業のテレビCMでは「[[選手強化キャンペーン|頑張れニッポン!]] [[モスクワ]]は近い!」というフレーズが盛り込まれ、プレイベントが各媒体で大々的に行なわれていた。 * 1980年2月 - 前月のアメリカからの西側諸国への要請を受け、[[日本国政府]]は大会ボイコットの方針を固めた<ref name="shashin"/>。一方、[[日本オリンピック委員会]] (JOC) は大会参加への道を模索した。 * 1980年4月 - 日本国政府の最終方針としてボイコットがJOCに伝えられた。多くの選手はJOC本部で大会参加を訴えた。 * 1980年[[5月24日]] - JOC総会の投票(29対13)でボイコットが最終的に決定された。この採決は挙手によるもので、[[伊東正義]][[内閣官房長官|官房長官]](当時)も出席しており、各競技団体の代表者には参加に投票した場合には予算を分配しないなどの圧力がかけられていたことが明らかになっている<ref name="shashin"/><ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/society/news/2019/12/23/kiji/20191222s00042000438000c.html|title=モスクワと東京、重なる権力の影 80年ボイコットから来年で40年|newspaper=スポニチ|date=2019-12-23|accessdate=2023-07-04}}</ref>。 * 1980年[[6月11日]] - JOC常任委員会が[[1980年モスクワオリンピックの日本選手団|モスクワ五輪日本選手団]](幻のメンバー)、同時に大会への不参加を承認する。 === IOCの動向 === このボイコット問題は、IOCの責任能力ならびに統率力の限界を露呈させた。当時IOCの[[マイケル・モリス (第3代キラニン男爵)|マイケル・モリス]]会長はこのボイコット問題に関して、「この問題に対してIOCはコメントする立場にない。よって、IOCは一切関わらず、責任は負わない」として関与を拒絶した。しかも建前上は各国の意志の尊重を掲げていたため、IOC及びモリス会長に批判が集中した。IOCがこのボイコット問題に関して言及したのは、この時が唯一であり、これ以降は2023年現在に至るまで一切声明を発していない。 === 前後のボイコットとの関連 === [[画像:Olympic boycotts 1976 1980 1984.PNG|thumb|360px|right|{{legend|#e4e454|size=.5em|[[1976年モントリオールオリンピック]]をボイコットした国}}{{legend|#5454e4|size=.5em|'''1980年モスクワオリンピックをボイコットした国'''}}{{legend|#d45c4c|size=.5em|[[1984年ロサンゼルスオリンピック]]をボイコットした国}}{{legend|#828282|size=.5em|上記3大会とも出場した国}}。]] モスクワオリンピックへのボイコットを呼びかけ、中心的存在であったアメリカが開催する予定になっていた、次([[1984年]])の夏季オリンピックである[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]には、[[アメリカ軍]]の[[グレナダ侵攻]]を理由に多くの東側諸国が報復としてボイコットした。中でも、イランはモスクワオリンピックとロサンゼルスオリンピックを両方ともボイコットしている。 なお、前回の[[1976年モントリオールオリンピック|モントリオールオリンピック]]では、[[南アフリカ共和国]]の[[アパルトヘイト]]政策に絡み[[アフリカ]]諸国の多くがボイコットをしたが、今回の五輪では主に[[イスラム圏]]を除いたアフリカ諸国が復帰した。 一方で、モスクワオリンピックをボイコットした韓国で次々回[[1988年]]に開催された[[1988年ソウルオリンピック|ソウルオリンピック]]には、中華人民共和国をはじめほとんどのアフリカ諸国もソ連をはじめとする[[東側諸国]]([[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]と[[キューバ]]を除く)も参加し、大規模なボイコット合戦にようやく終止符が打たれた。 === めざせモスクワ === 1979年に西ドイツのポップグループでもある[[ジンギスカン (グループ)|ジンギスカン]]がモスクワをモデルにして作った曲『[[めざせモスクワ]]』が世界的にヒットした。{{要出典範囲|西ドイツはモスクワオリンピックをボイコットしたにもかかわらず、これが縁でジンギスカンはモスクワオリンピックに招待された。|date=2023年1月}} 日本でも、[[バオバブシンガーズ]]([[ぷろだくしょんバオバブ]]所属声優のユニット)や[[ダークダックス]]によってカバーされた。前者はオリンピックを強く意識した歌詞で、後者はオリンピックと全く関係ないモスクワ観光的な歌詞だった。 == 実施競技 == {{col| * [[1980年モスクワオリンピックの陸上競技|陸上競技]] * [[水泳]] ** [[1980年モスクワオリンピックの競泳競技|競泳]] ** [[1980年モスクワオリンピックの飛込競技|飛込]] ** [[1980年モスクワオリンピックの水球競技|水球]] * [[1980年モスクワオリンピックのサッカー競技|サッカー]] * [[1980年モスクワオリンピックのボート競技|ボート]] * [[1980年モスクワオリンピックのホッケー競技|ホッケー]] * [[1980年モスクワオリンピックのボクシング競技|ボクシング]] * [[1980年モスクワオリンピックのバレーボール競技|バレーボール]] * [[1980年モスクワオリンピックの体操競技|体操]] * [[1980年モスクワオリンピックのバスケットボール競技|バスケットボール]] | * [[1980年モスクワオリンピックのレスリング競技|レスリング]] * [[1980年モスクワオリンピックのセーリング競技|セーリング]] * [[1980年モスクワオリンピックのウエイトリフティング競技|ウエイトリフティング]] * [[1980年モスクワオリンピックのハンドボール競技|ハンドボール]] * [[1980年モスクワオリンピックの自転車競技|自転車競技]] * [[1980年モスクワオリンピックの馬術競技|馬術]] * [[1980年モスクワオリンピックのフェンシング競技|フェンシング]] * [[1980年モスクワオリンピックの柔道競技|柔道]] * [[1980年モスクワオリンピックの射撃競技|射撃]] * [[1980年モスクワオリンピックの近代五種競技|近代五種]] * [[1980年モスクワオリンピックのカヌー競技|カヌー]] * [[1980年モスクワオリンピックのアーチェリー競技|アーチェリー]] }} == 大会の結果 == [[File:Bundesarchiv Bild 183-W0719-102, Moskau, XXII. Olympiade, Eröffnung.jpg|thumb|220px|right|開会式に入場する東ドイツ代表チーム。<br/>この開会式は、ソ連のアフガン侵攻に抗議して各国の旗が自国のものを掲げずバラバラになっていた。]] [[File:1980 Summer Olympics bronze medal.JPG|thumb|220px|right|モスクワオリンピックの[[銅メダル]]。]] 西側諸国の多くがボイコットした事で、大会は[[東側諸国]]のメダルラッシュとなった。キューバを含めた東側諸国の経済協力機構である[[経済相互援助会議|コメコン]]加盟国全体では161個と、全204個の金メダルのうち79%を占めた。 特にソ連は自国開催の強みを最大限に発揮し、元来の得意種目の重量挙げや射撃に加え、アメリカが不参加の競泳や陸上、日本が不参加の男子体操やバレーボールで順調に金メダルを獲得した。金メダル80個は、[[1984年ロサンゼルスオリンピック]]でのアメリカの83個に次いで一つの大会での2番目の獲得記録となっている。 ソ連と同じく「ステート・アマ」が選手のほとんどを占める[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]もボートで14種目中11個の金メダルを稼ぎ、47個と第2位の金メダルを獲得した。 一方で、東側諸国に押され気味の西側諸国の中ではイギリスが陸上男子のトラック競技で健闘し100mのウェルズ、800mのオヴェット、1500mのコーと3つの金メダルを獲得している。 == 主な競技会場 == ・現在のウクライナ、モルドバ、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア、ベラルーシ、エストニア、ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、ラトビア、リトアニアに競技場が置かれた。 * [[ルジニキ・スタジアム|グランド・アリーナ]] * マイナー・アリーナ * オリニピック・プール * スポーツパレス * ドルジバ・マルチプロセス・アリーナ * [[オリンピック・スタジアム (モスクワ)]] * [[CSKAモスクワ]] * [[ディナモ・スタジアム (モスクワ)]] * [[ディナモ・スタジアム (ミンスク)]] * [[オリンピスキ・スタジアム|リパブリカン・スタジアム]](キエフ) * [[キーロフ・スタジアム]](サンクトペテルブルク) * ピリタ川(タリン) == 各国・地域のメダル獲得数 == {{main|1980年モスクワオリンピックのメダル受賞数一覧}} {| {{RankedMedalTable}} |-style="background-color:#ccccff" | 1 || style="text-align:left" | {{flagIOC|URS|1980夏季}}(開催国) || 80 || 69 || 46 || 195 |- | 2 || style="text-align:left" | {{flagIOC|GDR|1980夏季}} || 47 || 37 || 42 || 126 |- | 3 || style="text-align:left" | {{flagIOC|BUL|1980夏季}} || 8 || 16 || 17 || 41 |- | 4 || style="text-align:left" | {{flagIOC|CUB|1980夏季}} || 8 || 7 || 5 || 20 |- | 5 || style="text-align:left" | {{flagIOC|ITA|1980夏季}} || 8 || 3 || 4 || 15 |- | 6 || style="text-align:left" | {{flagIOC|HUN|1980夏季}} || 7 || 10 || 15 || 32 |- | 7 || style="text-align:left" | {{flagIOC|ROU|1980夏季}} || 6 || 6 || 13 || 25 |- | 8 || style="text-align:left" | {{flagIOC|FRA|1980夏季}} || 6 || 5 || 3 || 14 |- | 9 || style="text-align:left" | {{flagIOC|GBR|1980夏季}} || 5 || 7 || 9 || 21 |- | 10 || style="text-align:left" | {{flagIOC|POL|1980夏季}} || 3 || 14 || 15 || 32 |} == 主な金メダリスト == * [[アラン・ウェルズ]]([[イギリス]]、[[陸上競技]]男子[[100メートル競走|100m]]) * [[ピエトロ・メンネア]]([[イタリア]]、陸上競技男子[[200メートル競走|200m]]) * [[スティーブ・オベット]](イギリス、陸上競技男子[[800メートル競走|800m]]) * [[セバスチャン・コー]](イギリス、陸上競技男子[[1500メートル競走|1500m]]) * [[ミルツ・イフター]]([[エチオピア]]、陸上競技男子[[5000メートル競走|5000m]]、[[10000メートル競走|10000m]]) * [[リュドミラ・コンドラチェワ]](ソビエト連邦、陸上競技女子100m) * [[マリタ・コッホ]]([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、陸上競技女子[[400メートル競走|400m]]) * [[ナデジダ・オリザレンコ]](ソビエト連邦、陸上競技女子800m) * [[ユーリ・セディフ]](ソビエト連邦、陸上競技男子[[ハンマー投]]) * [[デイリー・トンプソン]](イギリス、陸上競技男子[[十種競技]]) * [[ルディ・フィンク]](東ドイツ、ボクシングフェザー級) * [[アレクサンドル・ディチャーチン]] - (ソビエト連邦、男子体操団体総合、個人総合他。金3個、銀4個、銅1個を獲得し、[[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]]のアメリカの[[マイケル・フェルプス]]と並ぶ個人の一大会最多獲得メダル記録を持つ。) * [[ニコライ・アンドリアノフ]]([[ソビエト連邦]]、体操男子団体総合、種目別[[跳馬]]) * [[ナディア・コマネチ]] - 女子体操の[[平均台]]と[[ゆか|床運動]]。「白い妖精」。[[ルーマニア]]。 * [[ウラジミール・サルニコフ]] - 男子競泳自由形1500m。人類史上初の「14分台スイマー」。ソビエト。 * [[ビルギット・フィッシャー]] - 女子[[カヤック]]。この大会から[[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]]まで金8個、合計12個のメダルを獲得。東ドイツ。 * [[ワルデマール・チェルピンスキー]] - 男子マラソン。[[1976年モントリオールオリンピック|モントリオールオリンピック]]に続く2連覇。東ドイツ。 * [[テオフィロ・ステベンソン]] - 男子ボクシングヘビー級。ミュンヘン以来の3連覇。キューバ。 * [[ジンバブエ]][[ホッケー|女子ホッケー代表]] - 西側諸国のボイコットにより急遽繰り上げ出場となり、オリンピック初実施の同種目で同国として初の金メダルを獲得。 == 大会マスコット == [[File:RIAN archive 488322 Flag-bearers of states-participants of the XXII Summer Olympic Games.jpg|150px|right|thumb|閉会式のマスゲームで別れの涙を流すミーシャ。]] {{main|ミーシャ (マスコットキャラクター)}} ; ミーシャ : [[クマ|熊]]をモチーフにした[[マスコット]]。日本では、[[テレビ朝日]]系列(製作は[[朝日放送テレビ|朝日放送]])にて、開催の前年からこのマスコットを主人公とした『[[こぐまのミーシャ]]』という[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]が放映されていた。主題歌には[[ロシア語]]の[[語|単語]]も使われていた。 : 開会式では、ミーシャの着ぐるみを着た子供たちが[[マスゲーム]]を披露した。閉会式では最後に登場し、レフ・レシチェンコらが歌うデュエット曲「ダスビダーニャ、モスクワ! (さよなら、モスクワ!)」が流れる中ミーシャのマスコットが風船で打ち上げられ、森へ帰るミーシャの演出で大会を締めくくった。このときミーシャが別れの涙を流すマスゲームが行われた。<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=mZ1vnjFaCvM |title={{Lang|ru|О спорт, ты — мир! 2 серия (док., реж. Юрий Озеров, 1981)}} |accessdate=2021-11-1 |publisher={{Lang|ru|Киноконцерн "Мосфильм"}}}}</ref>(アメリカや日本といった[[西側諸国]]が大会をボイコットした事に対して涙を流した、という俗説は誤りである。) : それから34年後の[[2014年]]、[[ソチ]]で開かれた[[2014年ソチオリンピック|ソチオリンピック]]の閉会式にてミーシャの孫とされるホッキョクグマのマスコットが現れ、モスクワオリンピック閉会式の映像を流した後、スタジアムに設けられた小さな聖火台の聖火を吹き消すと共に一筋の涙をこぼすという場面が演出された<ref>[https://www.nikkansports.com/sochi2014/general/news/f-sochi-tp0-20140224-1261988.html ミーシャの孫、ソチ五輪終幕告げる] 日刊スポーツ 2014年2月24日閲覧</ref>。 == テレビ放映 == ソ連国内では全連邦ラジオで、欧州では[[ユーロビジョン・ネットワーク|ユーロビジョン]]<ref name="Brc">[http://www.la84foundation.org/5va/reports_frmst.htm 1980 Summer Olympics Official Report from the Organizing Committee], vol. 2, p. 379</ref>(31カ国)とインタービジョン<ref name="Brc"/>(11カ国)、中南米ではOTIを通じて放送された。オーストラリアでは[[Seven Network|チャンネル7]]<ref name="Brc"/>、アメリカ国内では[[NBC]]<ref name="Brc"/>で放映したが、一部の国では放送体制を大幅縮小した。また、カナダは当初[[カナダ放送協会|CBC]]で放送予定だったが、カナダのボイコットを受け中止が決定した<ref name="Brc"/>。 日本では[[1977年]]に[[テレビ朝日]]系列が独占放映権を獲得した<ref name="Brc"/><ref name="shashin"/>。しかし、日本のボイコットが決まったため中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなった。[[視聴率]]は開会式が11.2%と過去最低を記録し、競技1日目となった7月20日23:50からの中継も1.5%(いずれも[[ビデオリサーチ]]、日本・関東地方)と低迷した<ref>[[週刊TVガイド]] 1980年8月8日号 p.30「REPORT」</ref>。放映権料については[[ジャパンコンソーシアム]]を参照のこと。 なお、この前にテレビ朝日の重役で「怪物」と呼ばれた[[三浦甲子二]]がソ連の高官と会っていたことから[[チュメニ油田]]に絡む黒い噂を含む[[怪文書]]が流れたことがある。 == 影響 == === 大会期間中 === 五輪期間中、[[モスクワ]]ではモノ不足による店の行列が消えた。外国人の目に実態が触れぬよう、当局が[[フィンランド]]で商品を買い占め、店の棚に並べさせていた<ref name="ロシア革命"/>。街中では、[[清涼飲料水]]の[[コカ・コーラ]]や[[ファンタ]]が当時のソ連にはなかった[[使い捨て]][[コップ]]で売られた。[[缶ビール]]や[[たばこ]]の[[マールボロ]]も現れた。外国製の[[ガム]]はソ連製と違って味が長持ちした。一般市民はつかの間、[[西側諸国|西側]]の豊かさを実感した<ref name="ロシア革命" />。もっとも、子供たちは五輪中、[[サマーキャンプ]]などに送り出された。[[犯罪]]歴のある者や反体制派[[知識人]]は100キロ以上離れた僻地に隔離された。住民がだいぶ少なくなったモスクワには、全国から私服の[[秘密警察]]要員が集められた<ref name="ロシア革命" />。 === 国際的影響 === 大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットによりその権威が失墜したことは疑いようがなかった。ソ連の失望と怒りは深く、次の[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]では東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながった。それを暗示するように、閉会式での[[電光掲示板]]では「'''ロサンゼルス'''で会いましょう」という文字が一切出なかった。 大会後、[[マイケル・モリス (第3代キラニン男爵)|第3代キラニン男爵マイケル・モリス]]がIOC会長を退任し、後任に[[フアン・アントニオ・サマランチ]]が新会長となった。これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向し結果的に[[放映権|テレビ放映権]]や大型スポンサー契約に依存する[[商業主義]]への傾斜を強め、プロ選手の出場解禁に道を付けた。 === 日本国内の影響 === 種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。 ; 団体競技の影響 * 男子体操団体総合 - [[1960年]]の[[1960年ローマオリンピック|ローマオリンピック]]から[[1976年]]の[[1976年モントリオールオリンピック|モントリオールオリンピック]](以下モントリオール)まで続いた5連覇が自動的に途絶え、金メダル奪回は[[2004年]]の[[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]]にて実現した<ref name="shashin"/>。 * バレーボール - その後、男女とも未だに金メダルの再獲得には至っていない。 * 男子ハンドボール - [[1984年]]の[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]](以下、ロサンゼルス)、[[1988年]]の[[1988年ソウルオリンピック|ソウルオリンピック]](以下、ソウル)と2大会連続出場を果たすも、モントリオールの9位には及ばず。その後、自国開催の[[2020年東京オリンピック]](以下、東京)まで33年間出場が途絶えた。 * 女子バスケットボール - ボイコットへ動き出していた最中に世界予選出場も敗退。モントリオール以来の2度目の出場は[[1996年]]の[[1996年アトランタオリンピック|アトランタオリンピック]]まで20年を要した。 * 男子バスケットボール、同ホッケー、女子ハンドボール - 自国開催の東京まで出場権獲得はならなかった。特に男子バスケットボールは開催国枠も失う危機に見舞われた。 ; 個人競技の影響 * [[赤井英和]] ([[ボクシング]]) - 補欠として代表の可能性を残していたが完全消滅。その後、大学生の身分のままプロに転向した<ref name="shashin"/>。 * [[石原敬士 (射撃選手)|石原敬士]]([[クレー射撃]]) - [[1968年]]の[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコシティーオリンピック]]を協会の不祥事で出場を閉ざされて以来機会に恵まれず、念願の代表選出だったが、これも幻に終わった。[[2016年]]の[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロオリンピック]]では、次女である{{仮リンク|石原奈央子|en|Naoko Ishihara}}がオリンピック出場を果たした<ref>[https://www.sanspo.com/article/20200524-XPVLCBR2EROF5BTFXIOZVBGQBU/ “最もついていない男”クレー射撃元日本王者・石原敬士さん「神様がくれた機会、しっかりやれ」] SANSPO.COM 2020年5月24日</ref>。その後、東京の[[聖火ランナー]]に内定し、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19]]の影響による開催延期を経ながらも[[2021年]]にランナーとして参加、延べ53年越しで祈願の'''オリンピック関係者'''となった。 * [[香月清人]] ([[柔道]]) - 前年の[[世界柔道選手権大会|世界柔道選手権]]71kg級で優勝。代表が内定していたがボイコットを契機に一度は現役引退。その後、[[大阪府警]]の柔道師範として[[警察官]]を指導していたこともあった<ref>[http://mainichi.jp/sports/news/20150327k0000m050013000c.html 柔道:幻の五輪代表が定年 大阪府警の師範・香月さん] - 毎日新聞 2015年03月26日 18時32分</ref>。 * [[蒲池猛夫]]([[ライフル射撃]]) - 現役引退。後に復帰し、ロサンゼルスにて日本最年長記録で金メダルを獲得する。2014年に死去。 * [[具志堅幸司]]([[体操競技]]) - ロサンゼルスに出場し、金メダルを獲得。 * [[坂本典男]]・[[坂本勉]] ([[トラックレース]]) - 自転車初の兄弟五輪代表選手となるはずだったが、幻に終わった<ref>{{Cite news |title=【二十歳のころ 坂本勉氏<1>】伸び盛り高校生…あっという間にモスクワ代表に |url=https://cyclist.sanspo.com/359426 |newspaper=Cyclist |date=2017-09-16 |accessdate=2021-05-03 }}</ref>。その後、典男は競輪に転向。勉はロサンゼルスで日本自転車初メダルとなる銅メダルを獲得している。 * [[瀬古利彦]] ([[マラソン]]) - その後、ロサンゼルス、ソウルと2大会連続出場を果たしたものの、ソウルで9位にとどまった<ref name="shashin"/>。 * [[宗茂]]・[[宗猛]] (マラソン) - 一卵性双生児の五輪代表選手は幻に終わったが、ロサンゼルスで実現。しかし茂は17位、猛は4位とともにメダルには届かなかった。 * [[高田裕司 (レスリング選手)|高田裕司]] ([[レスリング]]) - 現役引退。後に復帰しロサンゼルスで銅メダルを獲得したが、「優勝したら表彰台から金メダルを投げていた」と後年語っている<ref name="Numberweb">{{Cite news |title=「お前は国に従いなさい」「いつか復讐したい」41年前モスクワ五輪ボイコット、人生を狂わされた選手たちの“その後” |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/847873?page=2 |newspaper=NumberWeb |date=2021-04-24 |accessdate=2021-05-03 }}</ref>。 * [[長義和]] (トラックレース) - 1977年に[[日本競輪学校]]に合格しながらも、それを辞退して当大会にかけたものの出場は叶わず。当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)のため競輪選手への道も閉ざされたことから、このまま現役を退いた。 * [[津田真男]] (ボート、[[ボート競技|シングルスカル]]) - ほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、幻の出場に終わった<ref group="注釈">後に[[山際淳司]]の短編集「[[スローカーブを、もう一球]]」(「[[江夏の21球]]」が収録)で「たった一人のオリンピック」として紹介された。</ref>。その後、国内各地のレガッタに出場した。 * [[長崎宏子]] ([[水泳]]) - 当時11歳。夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手だった<ref group="注釈">冬季は1936年の[[稲田悦子]] ([[フィギュアスケート]]) がいる。</ref>が幻に終わった<ref name="shashin"/>。その後、ロサンゼルス、ソウルと出場したが、いずれもメダル獲得は果たせなかった。 * [[藤猪省太]] (柔道) - 世界柔道選手権4回優勝の実績者で、代表が内定していたものの出場叶わず。その後指導者となり、[[2008年]]の[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]では審判員としてオリンピックの舞台に立った。 * [[宮内輝和]] (レスリング) - 大学を中退し、大相撲に転向。 * [[谷津嘉章]] (レスリング) - プロレスに転向。1986年に復帰するもオリンピック出場果たせず。 * [[山下泰裕]] (柔道) - ボイコット決定のショックから翌日に全日本体重別選手権で骨折を追う不運も重なるが、当時の東海大学総長[[松前重義]]の勧めで現地観戦。ロサンゼルスに出場し、金メダルを獲得。現在は日本オリンピック委員会の会長を務める<ref name="shashin"/><ref name="Numberweb" />。 ; テレビ朝日 * 1977年の社名変更に続く大改革の柱だったオリンピック独占中継の価値が大暴落し、大きなダメージを負った<ref name="shashin"/>。ただ、この中継の留守番予備軍として大量に採用したアナウンサー達から[[古舘伊知郎]]、[[南美希子]]、[[佐々木正洋 (1954年生)|佐々木正洋]]、[[宮嶋泰子]]、[[吉澤一彦]]、[[渡辺宜嗣]]といった、のちに活躍することになる局アナを多く輩出した。 ; その後のJOCの対応 * 不本意ながら、政府のボイコット指示を受け入れざるを得なかったJOCは政府([[文部省]])から自立する形での組織の基盤強化の必要性を痛感し、[[1989年]]に[[日本スポーツ協会|日本体育協会]]から独立、[[財団法人]]としての活動を行うこととなった。 == 再招致 == モスクワは[[2012年夏季オリンピックの開催地選考|2012年夏季オリンピックの開催地に立候補]]したが、最初の投票で落選した。なお、同年の開催地となったロンドンの招致委員長がこの五輪で男子陸上1500m金メダリストのセバスチャン・コーであった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[池井優]]『オリンピックの政治学』(丸善ライブラリー、1992年) {{ISBN2|4-621-05053-2}} * [[谷口源太郎]]著「[[堤義明]]とオリンピック。」 == 関連項目 == {{commonscat|1980 Summer Olympics}} * [[国際オリンピック委員会]] * [[夏季オリンピック]] * [[アーネムパラリンピック]] * [[1980年モスクワオリンピックの日本選手団]] * [[プロジェクト:オリンピック]] * [[めざせモスクワ]] * [[家族対抗オリンピッククイズ]] - [[テレビ朝日]]系で1979年8月 - 10月に月曜19:00 - 19:30(JST)に放映された[[クイズ番組]]。タイトルはモスクワオリンピックにちなんだもの。司会は[[長門裕之]]。 * [[オリンパソン'80]] - [[1980年]][[5月5日]]から翌[[5月6日]]にかけて、テレビ朝日系29局ネットで放映された、17時間(8:30 - 25:30=[[日本標準時|JST]])にわたる長時間特別番組。司会は[[久米宏]]と[[ジュディ・オング]]。当初はモスクワオリンピックに向けて(同時にテレビ朝日の独占中継を)盛り上げる企画を予定していたが、日本政府の参加ボイコット方針により大幅に変更され、参加ボイコットの是非を問う企画がメインとなった(一部のバラエティ的な企画を除く)。番組内では終始、参加の賛否についての視聴者アンケートも行われた。なお、この番組のなかで「モスクワオリンピック応援歌」として初めて(生で)披露されたのが、「[[俺たちの時代 (西城秀樹の曲)|俺たちの時代]]」(歌・[[西城秀樹]])である。 * [[栄光と狂気]] == 外部リンク == * [https://www.olympic.org/moscow-1980 IOC Moscow 1980 Page] * [https://www.joc.or.jp/column/olympic/history/ JOCオリンピックの歴史] * [http://80.ruz.net/pesni.htm モスクワオリンピックのテーマソング] {{ru icon}} * {{YouTube|F5QvGawX1Us|{{Lang|ru|Олимпиада-80. День открытия (1980)}}}} - [[ソビエト連邦中央テレビ]]{{ru icon}} * {{YouTube|lDm-7eSV3J8|{{Lang|ru|Олимпиада - день закрытия. Олимпиада-80 (1980)}}}} - [[ソビエト連邦中央テレビ]]{{ru icon}} * {{YouTube|rx6d8cKCFPE|1980年 モスクワ五輪開幕へ ソ連のアフガニスタン侵攻で西側各国がボイコット(1980年7月)【映像記録 news archive】}} - ANNnewsCH * {{YouTube|1drtdeN7bdY|1980年 モスクワ五輪 選手村は厳重警戒 選手も出入りのたび検問 武装兵士も(2022年2月19日)}} - ANNnewsCH {{オリンピック}} {{1980年モスクワオリンピックの実施競技}} {{authority control}} {{デフォルトソート:もすくわおりんひつく1980}} [[Category:1980年モスクワオリンピック|*]] [[Category:夏季オリンピックの歴代大会|1980]] [[Category:冷戦]] [[Category:ボイコット]] [[Category:レオニード・ブレジネフ]]
2003-09-14T07:50:31Z
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逗子・葉山駅
逗子・葉山駅(ずし・はやまえき)は、神奈川県逗子市逗子五丁目にある、京浜急行電鉄逗子線の駅。逗子線の終着駅である。駅番号はKK53。 8両編成対応の単式ホーム1面1線を有する地上駅。逗子線は全線複線だが、当駅を設置する際に従前の下り側(東側)の線路を一部撤去し、その部分にホームを構築したため、駅構内では単線となっている。 前述の通り2駅を統合した駅のため、改札口は南北二か所の旧駅付近に設置されている。北口の駅ビル「ニート」2階の改札からは約100メートル程の高架連絡橋を経由してホームに達する。一方、南口はホーム端から直接出入りが可能である。 北口側には上りエスカレーターが設置されているが、エレベーター等の昇降設備がないため、バリアフリールートは南口側に限定される。 ホームには4両・6両・8両編成の最後部付近に車掌用の発車用スイッチがある。これは、踏切と信号機、電子電鈴装置と連動している。 統合前の京浜逗子駅・逗子海岸駅は、共に相対式ホーム2面2線を有する地上駅であった。 1面1線のみであり、案内サインには番線表記がないが、LED式発車標には「1」と番号が付番されている。 2008年11月21日から、逗子市出身の音楽ユニット・キマグレンの楽曲「LIFE」をアレンジしたものを接近メロディとして使用している。メロディはスイッチの制作で、編曲は塩塚博が手掛けた。 2021年(令和3年)度の1日平均乗降人員は20,830人であり、京急線全72駅中25位。 近年の1日平均乗降人員と乗車人員の推移は下記の通り。 逗子市の市街地が広がる。南口から15分程歩くと逗子海岸海水浴場に達する。 駅前に設置されている「逗子・葉山駅」が最寄りバス停。バス停は北口付近と南口付近にそれぞれ設置され、方面別に停留所が分かれている。南口付近には停留所の他、旧逗子海岸駅の敷地跡を活用したバス車庫があり、バスターミナルのようになっている(北方向へは県道24号上の停留所発着)。なお、当駅を経由するバスはすべてJR逗子駅を起・終点としており、ターミナル機能は持たない。全路線京浜急行バスによる運行。発着する路線の詳細は、京浜急行バス逗子営業所・京浜急行バス鎌倉営業所・京浜急行バス衣笠営業所を参照。 駅名標や車両の方向幕などでは、逗子の「逗」の字のしんにょうの点の数が一点ではなく二点になっている。方向幕では長らく一点しんにょうが使われていたが、2000年代に入った頃からは二点しんにょうに変更されている。なお、どちらのしんにょうを使っても構わないとされており、どちらも間違いではない。 逗子線の終点が逗子海岸駅だったときの方向幕には、「逗子」の二文字のみが表示されていた(「逗」の字は一点しんにょう)。
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逗子・葉山駅(ずし・はやまえき)は、神奈川県逗子市逗子五丁目にある、京浜急行電鉄逗子線の駅。逗子線の終着駅である。駅番号はKK53。
{{統合文字|逗}} {{駅情報 |社色 = #00bfff |文字色 = white |駅名 = 逗子・葉山駅 |画像 = Zushi-Hayama Station.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅舎南口(2021年10月) |地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = ずし・はやま |ローマ字 = Zushi・Hayama |副駅名 = 【旧駅名 新逗子】 |前の駅 = KK52 [[神武寺駅|神武寺]] |駅間A = 1.8 |駅間B = |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|KK|53|#00bfff|4||#00386d}} |所属事業者 = [[京浜急行電鉄]] |所属路線 = {{color|#00bfff|■}}[[京急逗子線|逗子線]] |キロ程 = 5.9&nbsp;km([[金沢八景駅|金沢八景]]起点)<br />[[品川駅|品川]]から46.8 |起点駅 = |所在地 = [[神奈川県]][[逗子市]][[逗子 (逗子市)|逗子]]五丁目1番6号 |座標 = {{coord|35|17|40|N|139|34|49.5|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=新逗子駅}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面1線 |開業年月日 = [[1930年]]([[昭和]]5年)[[4月1日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="京急" name="handbook2022" />20,830 |統計年度 = 2021年 |乗換 = [[逗子駅]]([[横須賀線|JR横須賀線]]) }} {{座標一覧}} '''逗子・葉山駅'''(ずし・はやまえき)は、[[神奈川県]][[逗子市]][[逗子 (逗子市)|逗子]]五丁目にある、[[京浜急行電鉄]][[京急逗子線|逗子線]]の[[鉄道駅|駅]]。逗子線の[[終着駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KK53'''。 == 歴史 == * [[1930年]]([[昭和]]5年)[[4月1日]] - [[湘南電気鉄道]]の'''湘南逗子駅'''として開業<ref name="public-relations">{{Cite web|和書|url=https://www.city.zushi.kanagawa.jp/global-image/units/90123/1-20200227095517.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200303052627/https://www.city.zushi.kanagawa.jp/global-image/units/90123/1-20200227095517.pdf|title=広報ずし2020年3月号 No.937|format=PDF|archivedate=2020-03-03|accessdate=2020-03-03|publisher=逗子市企画課|page=2}}</ref>。現在地より200m金沢八景寄り({{Coord|35|17|45|N|139|34|52|E|region:JP_type:railwaystation|name=新逗子駅北口(旧・京浜逗子駅)}})にあった。 * [[1931年]](昭和6年)4月1日 - 路線を0.4km延伸し'''湘南逗子葉山口乗降場'''({{Coord|35|17|34|N|139|34|48.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=旧・逗子海岸駅}})を開設<ref name="public-relations"/>。従来の駅は'''湘南逗子沼間口乗降場'''と改称<ref name="public-relations"/>。 * [[1942年]](昭和17年) ** [[5月1日]] - 会社併合により、[[東京急行電鉄]]([[大東急]])の駅となる。 ** [[9月1日]] - 葉山口乗降場を廃止し、路線を元の沼間口乗降場まで短縮して湘南逗子沼間口乗降場を'''湘南逗子駅'''に戻す<ref name="public-relations"/>。 * [[1948年]](昭和23年) ** [[6月1日]] - 東急からの分離独立により、再び京急の駅となる。 ** [[7月3日]] - 路線延長の形で'''逗子海岸駅'''として旧葉山口乗降場を復活させる<ref name="public-relations"/>。 * [[1963年]](昭和38年)[[11月1日]] - 湘南逗子駅を'''京浜逗子駅'''に改称<ref name="public-relations"/>。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月2日]] - 輸送力増強により最大8両編成の列車に対応するため再び京浜逗子駅と逗子海岸駅を廃止・統合し、中間地点に'''新逗子駅'''を設置<ref name="public-relations"/>。北口は旧京浜逗子駅舎をそのまま流用、南口は新設した。南口駅舎は[[ダンスホール]]もあったかつての旧湘南逗子駅舎の形を模している。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月15日]] - 駅ビル「ニート新逗子」が北口に開業し、旧京浜逗子駅の駅舎は解体された。 * [[1999年]](平成11年)[[7月31日]] - 京急線の白紙[[ダイヤ改正]]により、京急蒲田駅 - 当駅間の急行を廃止。 * [[2008年]](平成20年)[[11月21日]] - [[接近メロディ]]を導入。「[[LIFE (キマグレンの曲)|LIFE]]」が採用される。 * [[2010年]](平成22年)[[5月16日]] - ダイヤ改正により、新設されたエアポート急行の発着駅となる。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]] - '''逗子・葉山駅'''に改称し<ref name="Rename">{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20191216HP_19166TS.pdf|format=PDF|language=日本語|title=京急線6駅の駅名を2020年3月14日(土)に変更します|publisher=京浜急行電鉄|date=2019-12-16|accessdate=2019-12-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191216064450/https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20191216HP_19166TS.pdf|archivedate=2019-12-16}}</ref><ref name="public-relations"/>、副駅名に'''旧駅名 新逗子'''が追加される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2018/20190125HP_18229TS.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200309182021/https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2018/20190125HP_18229TS.pdf|format=PDF|language=日本語|title=沿線地域の活性化を目的に2020年3月 4駅の駅名を変更します|publisher=京浜急行電鉄|page=2|date=2019-01-25|accessdate=2020-03-09|archivedate=2020-03-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.hamakei.com/column/316/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200320053807/https://www.hamakei.com/column/316/|title=特集)京急開業120年 仲木戸駅誕生から115年 生まれ変わった京急6駅 歴史と全駅ビフォア&アフター|newspaper=ヨコハマ経済新聞|date=2020-03-14|accessdate=2020-03-27|archivedate=2020-03-20}}</ref>。 <gallery widths="640px" heights="390px"> KQ-Zushi Station-Aerial photography.gif|新逗子駅に至る駅廃統合の変遷<br /><small>帰属:国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」 配布元:[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]</small> </gallery> [[ファイル:ShinZushi next.jpg|サムネイル|242x242ピクセル|逗子・葉山駅への駅名変更を告知するポスター]] == 駅構造 == 8両編成対応の[[単式ホーム]]1面1線を有する[[地上駅]]。逗子線は全線[[複線]]だが、当駅を設置する際に従前の下り側(東側)の線路を一部撤去し、その部分にホームを構築したため、駅構内では[[単線]]となっている。 前述の通り2駅を統合した駅のため、[[改札|改札口]]は南北二か所の旧駅付近に設置されている。北口の[[駅ビル]]「ニート」2階の改札からは約100メートル程の高架連絡橋を経由してホームに達する。一方、南口はホーム端から直接出入りが可能である。 北口側には上り[[エスカレーター]]が設置されているが、[[エレベーター]]等の昇降設備がないため、バリアフリールートは南口側に限定される。 ホームには4両・6両・8両編成の最後部付近に車掌用の発車用スイッチがある。これは、[[踏切]]と[[鉄道信号機|信号機]]、電子電鈴装置と連動している。 統合前の京浜逗子駅・逗子海岸駅は、共に[[相対式ホーム]]2面2線を有する地上駅であった。 === のりば === 1面1線のみであり、案内サインには番線表記がないが、[[発光ダイオード|LED]]式[[発車標]]には「1」と番号が付番されている。 {|class="wikitable" !番線!!路線!!行先 |- ! 1 |[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 逗子線 |[[横浜駅|横浜]]・[[品川駅|品川]]方面 / [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]方面 |} === 接近メロディ === [[2008年]][[11月21日]]から、逗子市出身の[[音楽ユニット]]・[[キマグレン]]の楽曲「[[LIFE (キマグレンの曲)|LIFE]]」をアレンジしたものを[[発車メロディ#接近メロディ|接近メロディ]]として使用している<ref>[https://web.archive.org/web/20081201154848/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/081114.shtml 「16駅の駅メロディ採用曲が決定いたしました!」] 京急電鉄</ref>。メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、編曲は[[塩塚博]]が手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=テレビ、出ちゃいました。|url=https://blog.goo.ne.jp/tetsunomusician/e/dcf0b1804b8a18f6c1d4b6dee76440af|website=☆♪☆ 鉄のみゅーじしゃん ☆♪☆|accessdate=2020-03-14|language=ja|publisher=塩塚博}}</ref>。 <gallery> ファイル:Zushi-Hayama station north gate 20210216.jpg|北口改札(2021年2月) ファイル:Keikyu-Shin-Zushi Station-platform.jpg|ホーム(2007年10月) ファイル:Zushi・Hayama Station sign.jpg|駅名標(2020年7月28日) ファイル:連絡橋2.jpg|北口とホームを結ぶ連絡橋(2021年10月) </gallery> == 利用状況 == [[2021年]](令和3年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''20,830人'''<ref group="京急" name="handbook2022" />であり、京急線全72駅中25位。<!--近接する[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[横須賀線]][[逗子駅]]の約9割弱の乗降人員である。--> 近年の1日平均'''乗降'''人員と'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/soumu/tokei/ 統計ずし] - 逗子市</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/yoran.html 神奈川県県勢要覧] - 神奈川県</ref> !出典 |- |1995年(平成{{0}}7年) | |13,353 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/784899.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}} - 24ページ</ref> |- |1998年(平成10年) | |11,739 |<ref group="*">神奈川県県勢要覧(平成12年度)224ページ</ref> |- |1999年(平成11年) | |11,399 |<ref group="*" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 神奈川県県勢要覧(平成13年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2000年(平成12年) | |11,202 |<ref group="*" name="toukei2001" /> |- |2001年(平成13年) | |11,064 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 神奈川県県勢要覧(平成14年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2002年(平成14年) |21,740 |11,023 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 神奈川県県勢要覧(平成15年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref>[http://www.train-media.net/report/0411/0411.html 平成15年度1日平均乗降人員・通過人員]</ref>22,118 |11,097 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 神奈川県県勢要覧(平成16年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref>[http://www.train-media.net/report/0511/0511.html 平成16年度1日平均乗降人員・通過人員]</ref>21,982 |11,026 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 神奈川県県勢要覧(平成17年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref>[http://www.train-media.net/report/0611/0611.html 平成17年度1日平均乗降人員・通過人員]</ref>22,172 |11,142 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 神奈川県県勢要覧(平成18年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2006年(平成18年) |22,331 |11,222 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 神奈川県県勢要覧(平成19年度)]}} - 228ページ</ref> |- |2007年(平成19年) |22,594 |11,280 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 神奈川県県勢要覧(平成20年度)]}} - 232ページ</ref> |- |2008年(平成20年) |22,969 |11,418 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 神奈川県県勢要覧(平成21年度)]}} - 242ページ</ref> |- |2009年(平成21年) |22,805 |11,319 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 神奈川県県勢要覧(平成22年度)]|1.38MB}} - 240ページ</ref> |- |2010年(平成22年) |23,143 |11,477 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 神奈川県県勢要覧(平成23年度)]|2.36MB}} - 240ページ</ref> |- |2011年(平成23年) |22,990 |11,378 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 神奈川県県勢要覧(平成24年度)]|830KB}} - 236ページ</ref> |- |2012年(平成24年) |23,318 |11,574 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 神奈川県県勢要覧(平成25年度)]|509KB}} - 238ページ</ref> |- |2013年(平成25年) |24,184 |12,004 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/762227.pdf 神奈川県県勢要覧(平成26年度)]}} - 240ページ</ref> |- |2014年(平成26年) |23,857 |11,854 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/821900.pdf 神奈川県県勢要覧(平成27年度)]|536KB}} - 240ページ</ref> |- |2015年(平成27年) |24,518 |12,156 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 神奈川県県勢要覧(平成28年度)]|533KB}} - 248ページ</ref> |- |2016年(平成28年) |25,128 |12,478 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 神奈川県県勢要覧(平成29年度)]}} - 240ページ</ref> |- |2017年(平成29年) |25,315 |12,583 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 神奈川県県勢要覧(平成30年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2018年(平成30年) |25,273 |12,561 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 神奈川県県勢要覧(令和元年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2019年(令和元年) |25,136 |12,489 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202015.pdf 神奈川県県勢要覧(令和2年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="京急" name="handbook2021">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/pdf/handbook2021-2022_P019-042.pdf|archiveurl=|title=京急グループ会社要覧 2021 - 2022|archivedate=|page=31|accessdate=2021-09-27|publisher=京浜急行電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>18,330 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="京急" name="handbook2022">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/pdf/handbook2022-2023_all.pdf|archiveurl=|title=京急グループ会社要覧 2022 - 2023|archivedate=|page=28|accessdate=2023-06-25|publisher=京浜急行電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>20,830 | | |} == 駅周辺 == 逗子市の市街地が広がる。南口から15分程歩くと[[逗子海岸海水浴場]]に達する。 * [[横須賀線]][[逗子駅]] - 北口から300m程(徒歩5分)。[[連絡運輸]]は定期券のみ。 * ニート - 北口駅ビル。名前は「洗練された」などの意味を持つ Neat から採られている。 * 逗子市役所 * 逗子文化プラザホール ** [[逗子文化プラザ市民交流センター]] * 逗子市民体育館 * 逗子市立図書館 * [[逗子市消防本部]] * 逗子銀座商店街 * 亀岡八幡宮 * [[逗子郵便局]] * 逗子桜山郵便局 * [[逗子開成中学校・高等学校]] * [[聖マリア小学校]] * [[神奈川県道24号横須賀逗子線]] == バス路線 == 駅前に設置されている「'''逗子・葉山駅'''」が最寄り[[バス停留所|バス停]]。バス停は北口付近と南口付近にそれぞれ設置され、方面別に停留所が分かれている。南口付近には停留所の他、旧逗子海岸駅の敷地跡を活用したバス車庫があり、[[バスターミナル]]のようになっている(北方向へは県道24号上の停留所発着)。なお、当駅を経由するバスはすべてJR逗子駅を起・終点としており、ターミナル機能は持たない。全路線[[京浜急行バス]]による運行。発着する路線の詳細は、[[京浜急行バス逗子営業所]]・[[京浜急行バス鎌倉営業所]]・[[京浜急行バス衣笠営業所]]を参照。 === 北口=== * [[田浦駅]]方面(逗子橋側踏切渡りすぐ) ** [[京浜急行バス逗子営業所#田浦線|逗17]] - 葉桜行 ** 逗18 - [[伊藤忠都市開発|イトーピア]]中央公園行 ** 逗19 - グリーンヒル行 ※平日のみ ** 逗20 - 田浦駅行 ※平日のみ ** 逗21 - 田浦駅行(グリーンヒル経由) ※土休日のみ * 2番乗り場(逗子市役所真向かいすぐ) ** [[京浜急行バス鎌倉営業所#小坪線|鎌40]] - 鎌倉駅行([[小坪]]経由) * 3番乗り場(逗子市役所真向かいすぐ) ** [[京浜急行バス逗子営業所#ハイランド線|逗22]] - ハイランド循環 ** [[京浜急行バス逗子営業所#亀が岡循環線|逗29]] - 亀が岡団地循環 === 南口 === * 1番乗り場 ** [[京浜急行バス逗子営業所#長井線|逗1]] - [[葉山町]][[福祉]][[文化]][[会館]]行(長柄橋経由) ※平日のみ ** 逗2 - 葉山行(長柄橋経由) ※平日日中以外・土休日16時台以降 ** 逗4 - [[大楠山|大楠]]芦名口行 ※平日は朝のみ・土休日は日中1本 ** 逗5 - [[横須賀市立市民病院|横須賀市民病院]]行 ** 逗6 - 長井行 ** 逗7 - 佐島[[マリーナ]]入口行 ※朝のみ ** 逗8 - [[電力中央研究所]]行 ※平日朝夕のみ ** [[京浜急行バス逗子営業所#海岸線|逗10]] - 元町循環 ※平日朝のみ ** [[京浜急行バス衣笠営業所#逗子線|逗15]] - [[衣笠駅]]行(葉山大道経由) ** [[京浜急行バス逗子営業所#湘南国際村線|逗16]] - [[湘南国際村]]センター行(葉山大道経由) ** 逗25 - 衣笠駅行([[神奈川県道217号逗子葉山横須賀線|南郷トンネル]]経由) ※平日朝夕のみ ** 逗26 - 湘南国際村センター行(南郷トンネル経由) ※平日朝のみ ** [[京浜急行バス逗子営業所#南郷中学線|逗28]] - [[葉山町立南郷中学校|南郷中学校]]行(長柄[[交差点]]経由 / [[切通し]]下経由) ※切通し下経由は平日朝1本 ** 逗71 - 佐島マリーナ入口行([[湘南]]佐島なぎさの丘経由) ** 逗72 - 湘南佐島なぎさの丘行 ※午後のみ * 2番乗り場 ** 逗11 - 葉山町福祉文化会館行(元町経由) ※平日のみ ** 逗12 - 葉山行(元町経由) == 駅名表記 == {{出典の明記|date=2020年9月|section=1}} [[ファイル:Keikyu-600.jpg|サムネイル|180x180ピクセル|参考:京急600形]] [[駅名標]]や車両の[[方向幕]]などでは、逗子の「'''逗'''」の字の[[辵部|しんにょう]]の点の数が一点ではなく二点になっている。方向幕では長らく一点しんにょうが使われていたが、2000年代に入った頃からは二点しんにょうに変更されている。なお、どちらのしんにょうを使っても構わないとされており、どちらも間違いではない。 逗子線の終点が逗子海岸駅だったときの方向幕には、「逗子」の二文字のみが表示されていた(「逗」の字は一点しんにょう)。 == その他 == * 日本の鉄道駅では[[アルファベット]]順で最後に来る駅である(最初は[[北海道旅客鉄道|北海道旅客鉄道(JR北海道)]][[石北本線]]・[[釧網本線]]の[[網走駅]])。 == 隣の駅 == ; 京浜急行電鉄 : [[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 逗子線 :: {{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#006cb8|■}}急行・{{Color|#595757|■}}普通 ::: [[神武寺駅]] (KK52) - '''逗子・葉山駅 (KK53)''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 京浜急行電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="京急"|22em}} ;神奈川県県勢要覧 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[新馬場駅]] - 同じ京急の駅で、『2つの駅を統合した上で、高架化によりその中間点に新駅を設置する』形により開業した。 == 外部リンク == {{commonscat|Zushi-Hayama Station}} * {{外部リンク/京浜急行電鉄駅|駅番号=KK53}} {{京急逗子線}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1 = 逗子海岸駅 |1-1 = 神奈川県の廃駅 |1-2 = 日本の鉄道駅 す |1-3 = 京浜急行電鉄の廃駅 |1-4 = 1948年開業の鉄道駅 |1-5 = 1985年廃止の鉄道駅 |1-6 = 逗子市の歴史 }} {{DEFAULTSORT:すしはやま}} [[Category:神奈川県の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 す|しはやま]] [[Category:京浜急行電鉄の鉄道駅]] [[Category:1930年開業の鉄道駅]] [[Category:逗子市の交通|すしはやま]] [[Category:逗子市の建築物|すしはやま]] [[Category:交通に関する呼称問題]]
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風俗店
風俗店(ふうぞくてん、英: custom shop)とは、一般に性的なサービスを行う店のこと。性風俗店。日本では主に法律上「性風俗関連特殊営業」に分類されている店を指す。 元来風俗とは、生活上見られる風習や慣わしの事を意味する。ダンスや麻雀など、善良な風俗に影響を及ぼすとされた営業が「風俗営業」として都道府県の公安委員会への届出を要するようになり、1980年代に流行したノーパン喫茶、テレクラなど性風俗の多様化と共に、これら性風俗営業の店が単に「風俗店」(フーゾク店)と呼ばれ一般に定着してきた。 日本の法律の上の位置付けでは、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)において性風俗関連特殊営業に含まれる業種・店舗、キャバクラやセクシーパブ、ピンクサロン等といった風俗営業(接待飲食等営業)に分類される店舗のほか、ナイトクラブやゲームセンター、パチンコ店なども風俗営業として定義されている。 江戸時代には、城下町の外や街道沿いの宿場町に遊廓が設けられ、制限された地域に立地していた。戦後は赤線地帯に立地が制限された。近年では、飲み屋が集中する歓楽街の中や隣接地に立地する事が多い。 現在日本においては、建築基準法により商業地域以外では建設できない上、風適法第28条の定めにより、官公庁施設や学校・図書館・児童福祉施設から半径200m以内において新たに店舗型性風俗関連特殊営業を行うことは禁止されている(対象施設の設置前から既に営業している店に関してはその限りではない)。また別途都道府県条例によって対象施設を追加している場合も多い。 日本では性風俗店以外に性的サービスを行っている所は少ないが、アジアの各国では、理髪店や喫茶店、カラオケボックス、スポーツジムなどが売春のための施設を併設しているところがあり、日本のように自治体の条例などの規制が進んでいない場合が多い。 今日の風俗店にはサービス内容により様々な店がある。女性が男性にサービスする業態の店がほとんどであるが、中には出張ホストクラブのように男性から女性へのサービス、ニューハーフから男性へのサービス、男性から男性へのサービス(いわゆるゲイ向け風俗店)、女性から女性へのサービスなどの業態も存在する。変わった処では、ラブドールデリヘル等身大の高級ダッチワイフ(ラブドール)を時間レンタルするサービスもある。 風営法上のデリヘル(無店舗型ヘルスサービス)の定義では 「人の住居又は人の宿泊の用に供する施設において異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業で、当該役務を行う者を、その客の依頼を受けて派遣することにより営むもの」となっており、異性でないニューハーフや性道具ある人形を派遣、若しくはレンタルする事がデリヘルに当たるかは判断が分かれる。 サービスの内容は、アダルトビデオを個室で鑑賞する店から、実際に性行為を行う店まで幅広い。日本では売春防止法の制定により、売春サービスの提供を業務として行うことは禁止されており、性風俗店で性交を行うこと(本番行為)は禁止されている。しかし実際にはソープランドでの本番行為は黙認されていることが多く、建前上は店は関知していない(女性店員と男性客の合意の上で行われる営業外行為=自由恋愛とみなされる)ことになっている。 日本では本番行為が行える所はソープランド以外少なく、逆に非本番系風俗の業種が豊富である。 風俗店で一部の顧客には、悪意を持ってもしくは自覚なく、従業員に嫌がられる行動を取る者がいる。店は円満な経営を維持する為に、前記のような客に対して店舗の利用禁止を行う。出入禁止を略して出禁と呼ばれる。特に悪質な客に対しては、その店舗だけでなく系列店・姉妹店・その地域に存在する他の店舗にも利用禁止措置を取る場合がある。 また、特定の風俗嬢に対して異常行動をする客に対しては、該当の風俗嬢に対してのみ利用を禁止することがある。この場合は、対象の客が精神的ショックを受けることに配慮して、知らされることは少ない。 出禁対象となる客は、禁止事項を侵している、犯罪行為がある、また犯罪行為を示唆する言動・行動が見られる、などに該当するとされる。 一般的なサービス内容を風営法に照らし合わせて分類したものであり、実際の届出の有無や届け出内容は店舗により異なることがある。
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風俗店とは、一般に性的なサービスを行う店のこと。性風俗店。日本では主に法律上「性風俗関連特殊営業」に分類されている店を指す。
{{出典の明記|date=2018-03}} {{性的}} '''風俗店'''(ふうぞくてん、{{lang-en-short|custom shop}})とは、一般に性的なサービスを行う店のこと。[[性風俗]]店。日本では主に法律上「[[性風俗関連特殊営業]]」に分類されている店を指す。 [[画像:Fuzokuten2021.JPG|thumb|[[ストリップ劇場]]([[岡山県]][[美作市]])]] == 概要== 元来[[風俗]]とは、生活上見られる[[風習]]や慣わしの事を意味する。[[ダンス]]や[[麻雀]]など、善良な[[風俗]]に影響を及ぼすとされた営業が「[[風俗営業]]」として都道府県の[[公安委員会]]への届出を要するようになり、[[1980年代]]に流行した[[ノーパン喫茶]]、[[テレフォンクラブ|テレクラ]]など性風俗の多様化と共に、これら性風俗営業の店が単に「風俗店」(フーゾク店)と呼ばれ一般に定着してきた。 日本の法律の上の位置付けでは、[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]](風適法)において[[性風俗関連特殊営業]]に含まれる業種・店舗、[[キャバクラ]]や[[セクシーパブ]]、[[ピンクサロン]]等といった[[風俗営業]](接待飲食等営業)に分類される店舗のほか、[[ナイトクラブ]]や[[ゲームセンター]]、[[パチンコ店]]なども風俗営業として定義されている。 == 立地 == [[江戸時代]]には、[[城下町]]の外や街道沿いの宿場町<!--江戸では根岸・千住・品川・新宿・板橋が有名-->に[[遊廓]]が設けられ、制限された地域に立地していた<!--昭和になるにつれて、大規模[[病院]]の周辺、港町の商店の裏道などにも立地した([[ヨーロッパ]]も同様の傾向) ←日本全国共通の傾向でもないし世界共通でもない-->。戦後は[[赤線]]地帯に立地が制限された。近年では、飲み屋が集中する[[歓楽街]]の中や隣接地に立地する事が多い。 現在日本においては、[[建築基準法]]により[[商業地域]]以外では建設できない上、風適法第28条の定めにより、官公庁施設や[[学校]]・[[図書館]]・[[児童福祉施設]]から半径200m以内において新たに店舗型性風俗関連特殊営業を行うことは禁止されている(対象施設の設置前から既に営業している店に関してはその限りではない)。また別途都道府県条例によって対象施設を追加している場合も多い。 日本では性風俗店以外に性的サービスを行っている所は少ないが、[[アジア]]の各国では、[[理髪店]]や[[喫茶店]]、[[カラオケ]]ボックス、[[スポーツ]]ジムなどが売春のための施設を併設しているところがあり、日本のように自治体の条例などの規制が進んでいない場合が多い。 == 営業内容 == 今日の風俗店にはサービス内容により様々な店がある。[[女性]]が[[男性]]にサービスする業態の店がほとんどであるが、中には[[出張ホストクラブ]]のように男性から女性へのサービス、[[ニューハーフ]]から男性へのサービス、男性から男性へのサービス(いわゆる[[ゲイ向け風俗店]])、女性から女性へのサービスなどの業態も存在する。変わった処では、[[ラブドールデリヘル]]等身大の高級[[ダッチワイフ]]([[ラブドール]])を時間レンタルするサービスもある。 風営法上の[[デリヘル]](無店舗型ヘルスサービス)の定義では 「人の住居又は人の宿泊の用に供する施設において異性の客の[[性的好奇心]]に応じてその客に接触する役務を提供する営業で、当該役務を行う者を、その客の依頼を受けて派遣することにより営むもの」となっており、異性でないニューハーフや性道具ある人形を派遣、若しくはレンタルする事がデリヘルに当たるかは判断が分かれる<ref group="注">ラブドールのデリバリーサービスは2013年現在東京都に1店舗のみ確認されているが、風俗営業の届出はラブドール業界のポリシーや営業上の便宜を図るためという側面もある。</ref>。 サービスの内容は、アダルトビデオを個室で鑑賞する店から、実際に性行為を行う店まで幅広い。日本では[[売春防止法]]の制定により、[[売春]]サービスの提供を業務として行うことは禁止されており、[[性風俗]]店で[[性行為|性交]]を行うこと(本番行為)は禁止されている。しかし実際には[[ソープランド]]での本番行為は黙認されていることが多く、建前上は店は関知していない(女性店員と男性客の合意の上で行われる営業外行為=自由恋愛とみなされる)ことになっている。 日本では本番行為が行える所はソープランド以外少なく、逆に非本番系風俗の業種が豊富である。 == 出入り禁止 == 風俗店で一部の顧客には、[[悪意]]を持ってもしくは自覚なく、[[従業員]]に嫌がられる行動を取る者がいる。店は円満な経営を維持する為に、前記のような客に対して店舗の利用禁止を行う。[[出入禁止]]を略して出禁と呼ばれる。特に悪質な客に対しては、その店舗だけでなく系列店・姉妹店・その地域に存在する他の店舗にも利用禁止措置を取る場合がある。 また、特定の風俗嬢に対して異常行動をする客に対しては、該当の風俗嬢に対してのみ利用を禁止することがある。この場合は、対象の客が精神的ショックを受けることに配慮して、知らされることは少ない。 出禁対象となる客は、禁止事項を侵している、[[犯罪]]行為がある、また犯罪行為を示唆する言動・行動が見られる、などに該当するとされる。 == 日本の風俗店の種類 == 一般的なサービス内容を風営法に照らし合わせて分類したものであり、実際の届出の有無や届け出内容は店舗により異なることがある。 === 性風俗関連特殊営業 === ==== 店舗型性風俗特殊営業 ==== ===== 1号営業 ===== * [[ソープランド]] ===== 2号営業 ===== * [[ファッションヘルス]] ** [[イメージクラブ]] * [[エステ (風俗店)|エステ]](回春エステ) * [[風俗店の歴史#ノーパン喫茶|ノーパン喫茶]]<ref group="注">[[1984年]]の改正風俗営業法が施行後消滅</ref>、 [[ノーパンしゃぶしゃぶ]] * [[SMクラブ]] ** [[M性感]] * ヌキキャバ * [[手コキ風俗店]] * [[ゲイ向け風俗店]](売り専) ===== 3号営業 ===== * [[ストリップティーズ|ストリップ劇場]] * [[個室ビデオ]](ビデオボックス) ** [[ビデオパブ]](名古屋とその周辺のみに存在) * [[のぞき部屋]] * [[オナニークラブ]] * [[秘宝館]] ===== 4号営業 ===== * [[ラブホテル]] ** [[クルージングスペース]](有料発展場) ===== 5号営業 ===== * [[アダルトショップ]] ===== 6号営業 ===== * その他、政令で定めるもの ** [[出会い喫茶]] ** [[ハプニングバー]] ==== 無店舗型性風俗特殊営業 ==== * [[エステ (風俗店)|出張エステ]] * [[出張ホスト]] * [[デリバリーヘルス|デリヘル]](出張ヘルス) * [[ホテトル]] * [[ホテルヘルス|ホテヘル]] ==== 映像配信型性風俗特殊営業 ==== * [[インターネット]]でアダルト映像、[[アダルトビデオ]]作品の配信やアダルト系[[ライブチャット]]。日本では2000年ぐらいから本格的に始まっている。2000年代前半が全盛期で、有象無象のライブチャットサイトが乱立していた。 ==== 店舗型電話異性紹介営業 ==== * [[テレフォンクラブ]] ==== 無店舗型電話異性紹介営業 ==== * 店舗を構えずに電話を通じて異性を紹介するテレフォンクラブ。 === 接待飲食営業店 === * [[キャバクラ]] * [[セクシーパブ]](セクキャバ・お触りキャバクラ) * [[クラブ (接待飲食店)]] * [[キャバレー (接待飲食店)|キャバレー]] * [[ラウンジ (接待飲食店)|ラウンジ]] * [[ピンクサロン]] * [[ホストクラブ]] * [[メンズキャバクラ]] === 遊技場営業店 === * [[ゲームセンター]](ゲーセン) * [[パチンコ店]](パチ屋) * [[麻雀|麻雀屋・雀荘]]など == 日本以外の風俗店 == * [[マッサージパーラー]](タイ) * [[ゴーゴーバー]]([[タイ王国|タイ]]) * [[ルームサロン]](韓国) * [[チケット茶房]](韓国) * [[テタルバン]](韓国) * [[頽廃理髮所]](韓国) * [[按摩施術所]](韓国) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> == 関連項目 == * [[性風俗関連特殊営業]] * [[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]] * [[風俗営業]] * [[風俗店の歴史]] * [[風俗街]] * [[風俗嬢]] * [[性風俗用語一覧]] * [[セックスワーカー]] * [[日の出営業]] * [[不法就労]] * [[遊廓]] * [[素股]]:風俗店でのみ行われる性行為 * [[コスプレ系飲食店]]・[[メイド喫茶]]:出入禁止のシステムや、従業員の[[源氏名]]の付け方などに共通点が見られる。 == 外部リンク == * [https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/tetsuzuki/fuzoku/gyoshu_ichiran.html 風俗営業等業種一覧] - 警視庁 {{デフォルトソート:ふうそくてん}} [[Category:風俗営業|*ふうそくてん]] [[Category:性風俗関連特殊営業|+ふうそくてん]]
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風俗嬢
風俗嬢(ふうぞくじょう)とは、風俗店に勤務し性的サービスを提供する風俗店(女性)従業員の俗称。ホストクラブの貢ぎ資金稼ぎのために隠れ副業として勤務後に出勤する女性もいる。ニューハーフも含める場合がある。 業態別にソープランドなどでは「ソープ嬢」「泡姫」、ファッションヘルス、デリバリーヘルスなどでは「ヘルス嬢」「デリヘル嬢」、SM業界においては 「SM嬢」などと呼ばれる。単に「コンパニオン」や「キャスト」などと呼ばれることもある。求人広告や店内の掲示物などでは用いられない呼称であり、女子従業員は「コンパニオン」「社交」などと表記される。逆に風俗情報誌など客の立場からは「姫」(ソープランド嬢の場合「泡姫」)とも呼ばれる。 かつて娼婦・遊女などと呼ばれてきた職業としての売春婦は現代日本では法的に禁止されている存在であり、サービスとして膣性交を行わない風俗嬢も多く、風俗嬢イコール売春婦とはいえない。風俗嬢からAV女優になったり、逆にAV女優から風俗嬢に転身したりといった業種間交流が盛んである(兼務の場合もある)。風俗嬢にとっては、アダルトビデオ出演は良い宣伝になる。 性風俗産業に従事していることは社会規範に照らすと好ましく思われないことも多く、彼氏や知人や家族などに知られること(いわゆる「顔バレ」「親バレ」など)を避けるために、雑誌や店のウェブサイトに詳しいプロフィールを載せない、顔を載せていない(いわゆる「顔出しNG」)、上記のような積極的な宣伝行為に参加しない風俗嬢も多くいる。 最近、風俗嬢を労働者として積極的にとらえ、「風俗ユニオン」などの労働組合に組織しようとする動きもある。とはいえ勤務先と雇用関係を結ぶと管理売春に該当するため雇用関係を結ぶことは基本的にできない。そのため、風俗嬢自体は業務委託の関係を持つ個人事業主である場合が殆どである。この場合、風俗嬢が客に性的サービスを行うのは店舗側の業務命令ではなく風俗嬢個人の判断であり、店舗側はその場所を提供しているに過ぎないという体裁が取られる。 風俗嬢となるきっかけは、「推し」や借金返済のためなどといった昼職より収入が多いから、という金銭理由が大多数を占める。特に意中の男に貢ぐ資金稼ぎために風俗を始める女性は多い。2010年時点では「容姿が一定以上の女性」ならば、僅か週3日勤務だけでも月30万円程度は稼げる 。 風俗嬢となった理由としては収入が大きいという理由が多く、最多の理由は「贅沢な生活をしたい」「生活費のため」「推しのため」を含む昼職よりも多額の金銭を稼げるからであり、ほぼ全ての風俗嬢がこの理由である。営利目的での副業を禁止されている公務員であっても隠れて働くものもいると思われる。 風俗落とし ホストも貢がせる資金を増やすために、スカウトと協力して自分を推してくれている女性を風俗落としすることが主流となっている。また、本人が恋人と思っている男性、推している担当ホストなど男性貢ぐために働くケースが見られる。ホストのために風俗嬢となっていた坂口杏里はホスト依存した経緯について、「彼に夢中になることで、母親を失った寂しさと、マスコミに叩かれることへのストレスから、一時的にでも逃避することが出来た」と語っている。そして、そのホストに対して、「彼が喜ぶことなら、なんでもしてあげよう。全力で応援しよう。」「これまでは、ずっとママに守ってもらってた。そんなあたしが、誰かの役に立ってる。あたしが育ててあげてる。もっともっと、できるかぎりのことをしてあげたい。」「あたしにできることは、全部、全部、ぜーんぶしてあげたい! 心からそう思った」と決意していたと述べている。そして、「彼をナンバーワンにしてあげるために、シャンパンタワーをガンガンやり、何十万もする高いシャンパンをオーダーします。売り上げのいい新入りホストを蹴落とすため、誕生日会、昇格祭......と、惜しみなくお金を使います。そしてある日、貯金は尽きてしまいます。売掛もどんどん膨らんでいき、借金返済のために高級デリヘル嬢に転身、そしてついにはアダルトビデオ出演を決意します。」と風俗嬢となった流れを語っている。 昼職と異なる稼ぎの大きさへの慣れ・理由の変化 風俗嬢の生活に慣れてしまい、ほかの職業に就こうと考えても、収入が減少することを理由に躊躇する傾向が見られる。一般的にイメージされる「多額の借金を返済する」という理由は、実際には少数派である。中には20万円から30万円程度の僅かな借金を理由に風俗嬢になることを決めた例もある。ただし、「借金返済」を理由に風俗嬢をしていたのに、風俗開始後に風俗嬢業務における精神的な疲れから、ホストやメンズバーなどイケメン男性との交流へお金がかかる場に通い出し、貢ぎだし、その資金稼ぎのために理由が変化するケースも多々見られる。 「推し」など金銭目的以外の選択理由 このほか、SMクラブの場合のS嬢の場合は、「趣味を楽しんだ上にお金が稼げる」という理由も見受けられるから。風俗嬢の中にも「自分の価値を試したい」という理由がきっかけという女性も0ではない。ただし、働く理由について客から質問をされることは、「上から目線で好奇の目で見られていると感じる」という理由から、風俗嬢にとっては好ましくない質問のトップでもあるという。リーマン・ショック以降、性風俗のデフレ化が進み、風俗業界の単価が下がっただけでなく客数も減少し、需要と供給のバランスが崩れ、「売れない風俗嬢」だと収入が毎日働いて月15万円という例もある。かつては、容姿問わず、誰でも女性なら風俗で一定期間だけ働けば借金も完済でき、そこそこ優雅な暮らしを送れたものだったが、デフレにより客単価が大きく下がった今、専業か副業を問わず風俗嬢という職業は、女性のセーフティネットとして機能しなくなったとの意見もある。 風俗嬢の仕事は肉体労働であると同時に、感情労働の要素も強い。感情労働とは社会学者のホックシールド(Arlie Russell Hochschild)が提唱した労働のあり方で、相手に感謝や安心の気持ちを引き起こすために、「公的に観察可能な表情や身体的表現をつくるために行う感情の管理」と定義される。 風俗嬢やホステスのような「ヒューマン・サービス」では、客の心を満たす為に、親しみを感じさせる言動や振る舞いをする。しかしサービスを提供する側も人間であるため、マナーを知らない客に苛立ったり、悲しんだりすることも当たり前にある。そうした負の感情を制し、様々な客に対していかに臨機応変に接することができるか、という点が感情を制御して労働している状態ということになる。このような労働は高度になるほど、一時の感情に振り回されず冷静に対応することが求められる。 感情労働が求められる職場では、過剰適応の状態が続くため注意が必要である。過剰適応とは、自分の気持ちを押し殺して相手に合わせる心理状態のことを指す。一見うまくいっているように見えても、内面的には全く良くない状態がつづけば、抑うつ傾向が高くなるなどメンタルヘルスにマイナスの影響が出る。過剰適応を改善するには、アサーティブな自己表現が有効とされる。アサーティブな自己表現には、自分も他人も許す、自分の感情も他人の感情も大事にする心掛け、折り合いをつける、過剰な要求は断る、などの考え方がある。
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風俗嬢(ふうぞくじょう)とは、風俗店に勤務し性的サービスを提供する風俗店(女性)従業員の俗称。ホストクラブの貢ぎ資金稼ぎのために隠れ副業として勤務後に出勤する女性もいる。ニューハーフも含める場合がある。
{{出典の明記|date=2018年4月}} {{性的}} '''風俗嬢'''(ふうぞくじょう)とは、[[風俗店]]に勤務し[[性行為|性的サービス]]を提供する'''風俗店([[女性]])従業員'''<ref>{{Cite web|和書|title=風俗店員の女性に覚醒剤注射、ホテルで乱暴か…男「弁護士が決まってから話す」(読売新聞オンライン) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/7bb320ad027a89f4c389d39082c613ee6d5860bf |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-07-06 |language=ja}}</ref>の[[俗称]]。[[ホストクラブ]]の貢ぎ資金稼ぎのために隠れ[[副業]]として勤務後に出勤する女性もいる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「ホストクラブで遊ぶため」市職員が風俗勤務 30日間ほどで50万円稼ぐ |url=https://news.livedoor.com/article/detail/22408769/ |website=ライブドアニュース |access-date=2022-06-28 |language=ja}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=女性税務署員が「ソープ副業」で懲戒処分、納税でバレる可能性もあったのか?(税理士ドットコム) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/1a66d16828abb1cf17dcc32b698b6ab423a4b13c |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-06-28 |language=ja}}</ref>。[[ニューハーフ]]も含める場合がある<ref>{{Cite web|和書|title=「なぜか公務員ばっかり来るんです」カリスマニューハーフ嬢が明かす“業界の意外な特徴”とは |url=https://bunshun.jp/articles/-/45552 |website=文春オンライン |access-date=2022-08-28 |first=中塩 |last=智恵子}}</ref>。 == 概説 == 業態別に[[ソープランド]]などでは「ソープ嬢<ref name="HP">{{Cite web|和書|title=あわや国際問題 トルコ風呂からソープランドに名称変更をした事情|url=https://news.livedoor.com/article/detail/16029681/|website=ライブドアニュース|accessdate=2020-04-29|language=ja}}</ref>」「泡姫」、[[ファッションヘルス]]、[[デリバリーヘルス]]などでは「ヘルス嬢」「デリヘル嬢」、SM業界においては 「[[SM嬢]]」などと呼ばれる。単に「コンパニオン」や「キャスト」などと呼ばれることもある<ref name="HP" />。求人広告や店内の掲示物などでは用いられない呼称であり、女子従業員は「[[コンパニオン]]」「社交」などと表記される。逆に風俗情報誌など客の立場からは「姫」(ソープランド嬢の場合「泡姫」)とも呼ばれる。 かつて[[娼婦]]・[[遊女]]などと呼ばれてきた職業としての売春婦は現代日本では法的に禁止されている存在であり、サービスとして[[性交|膣性交]]を行わない風俗嬢も多く、風俗嬢イコール売春婦とはいえない。風俗嬢から[[AV女優]]になったり、逆にAV女優から風俗嬢に転身したりといった業種間交流が盛んである(兼務の場合もある)。風俗嬢にとっては、[[アダルトビデオ]]出演は良い宣伝になる。 性風俗産業に従事していることは[[性風俗産業に対する差別|社会規範に照らすと好ましく思われないことも多く]]、彼氏や知人や家族などに知られること(いわゆる「顔バレ」「親バレ」など)を避けるために、雑誌や店の[[ウェブサイト]]に詳しいプロフィールを載せない、顔を載せていない(いわゆる「顔出しNG」)、上記のような積極的な宣伝行為に参加しない風俗嬢も多くいる。 最近、風俗嬢を[[労働者]]として積極的にとらえ、「風俗ユニオン」などの[[労働組合]]に組織しようとする動きもある。とはいえ勤務先と雇用関係を結ぶと[[管理売春]]に該当するため雇用関係を結ぶことは基本的にできない。そのため、風俗嬢自体は業務委託の関係を持つ個人事業主である場合が殆どである。この場合、風俗嬢が客に性的サービスを行うのは店舗側の業務命令ではなく風俗嬢個人の判断であり、店舗側はその場所を提供しているに過ぎないという体裁が取られる。 == 動機・ホストやスカウトとの関連 == {{更新|date=2020年11月|section=1}} 風俗嬢となるきっかけは、「推し」や借金返済のためなどといった昼職より収入が多いから、という金銭理由が大多数を占める。特に意中の男に貢ぐ資金稼ぎために風俗を始める女性は多い<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=坂口杏里が告白。ホスト狂い、風俗勤めの根っこにあった“寂しさ”とは {{!}} 女子SPA! |url=https://joshi-spa.jp/971674 |website=女子SPA! |date=2019-12-12 |access-date=2022-06-28 |language=ja |last=女子SPA!編集部}}</ref>。2010年時点では「容姿が一定以上の女性」ならば、僅か週3日[[労働|勤務]]だけでも月30万円程度は稼げる<ref name="oretabi63-87">ミリオン出版『[[俺の旅]]』2010年12月号(通巻63号) p87</ref> 。 風俗嬢となった理由としては[[収入]]が大きいという理由が多く、最多の理由は「贅沢な生活をしたい」「[[生活]]費のため」「[[推し]]のため」を含む昼職よりも多額の金銭を稼げるからであり、ほぼ全ての風俗嬢がこの理由である<ref name="oretabi63-87" />。営利目的での副業を禁止されている[[公務員]]であっても隠れて働くものもいると思われる。 '''風俗落とし''' ホストも貢がせる資金を増やすために、[[スカウト (勧誘)|スカウト]]と協力して自分を推してくれている女性を'''風俗落とし'''することが主流となっている<ref>{{Cite web|和書|title=1カ月で女性を「落とす」 風俗店スカウトの誘い文句とうまみ:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ314R5NQ2XOIPE00L.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |access-date=2022-06-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=25歳ホームレス風俗嬢が0歳愛児を窒息死させた「悲しい背景」 |url=https://friday.kodansha.co.jp/article/177651 |website=FRIDAYデジタル |date=2021-05-07 |access-date=2022-06-28}}</ref>。また、本人が恋人と思っている男性、[[推し]]ている担当ホストなど男性貢ぐために働くケースが見られる。ホストのために風俗嬢となっていた[[坂口杏里]]はホスト依存した経緯について、「彼に夢中になることで、母親を失った寂しさと、マスコミに叩かれることへのストレスから、一時的にでも逃避することが出来た」と語っている。そして、そのホストに対して、「彼が喜ぶことなら、なんでもしてあげよう。全力で応援しよう。」「これまでは、ずっとママに守ってもらってた。そんなあたしが、誰かの役に立ってる。あたしが育ててあげてる。もっともっと、できるかぎりのことをしてあげたい。」「あたしにできることは、全部、全部、ぜーんぶしてあげたい! 心からそう思った」と決意していたと述べている<ref name=":2" />。そして、「彼をナンバーワンにしてあげるために、シャンパンタワーをガンガンやり、何十万もする高いシャンパンをオーダーします。売り上げのいい新入りホストを蹴落とすため、誕生日会、昇格祭……と、惜しみなくお金を使います。そしてある日、貯金は尽きてしまいます。[[売掛]]もどんどん膨らんでいき、借金返済のために高級デリヘル嬢に転身、そしてついにはアダルトビデオ出演を決意します。」と風俗嬢となった流れを語っている<ref name=":2" />。 '''昼職と異なる稼ぎの大きさへの慣れ・理由の変化''' 風俗嬢の生活に慣れてしまい、ほかの職業に就こうと考えても、収入が減少することを理由に躊躇する傾向が見られる<ref name="oretabi63-86">ミリオン出版『俺の旅』2010年12月号(通巻63号) p86</ref>。一般的に[[イメージ]]される「多額の[[借金]]を返済する」という理由は、実際には少数派である。中には20万円から30万円程度の僅かな借金を理由に風俗嬢になることを決めた例もある。ただし、「借金返済」を理由に風俗嬢をしていたのに、風俗開始後に風俗嬢業務における精神的な疲れから、ホストやメンズバーなどイケメン男性との交流へお金がかかる場に通い出し、貢ぎだし、その資金稼ぎのために理由が変化するケースも多々見られる<ref name="oretabi63-87" />。 '''「推し」など金銭目的以外の選択理由''' このほか、SMクラブの場合のS嬢の場合は、「趣味を楽しんだ上にお金が稼げる」という理由も見受けられるから<ref name="oretabi63-87" />。風俗嬢の中にも「自分の価値を試したい」という理由がきっかけという女性も0ではない<ref name="oretabi63-87" />。ただし、働く理由について客から[[質問]]をされることは、「上から目線で好奇の目で見られていると感じる」という理由から、風俗嬢にとっては好ましくない質問のトップでもあるという<ref name="oretabi63-87" />。[[リーマン・ショック]]以降、性風俗のデフレ化が進み、風俗業界の単価が下がっただけでなく客数も減少し、需要と供給のバランスが崩れ、「売れない風俗嬢」だと収入が毎日働いて月15万円という例もある<ref>{{Cite web|和書|title=「格安デリヘル」に流れ着いた25歳女性の現実 {{!}} 貧困に喘ぐ女性の現実|url=https://toyokeizai.net/articles/-/115480|website=東洋経済オンライン|date=2016-04-27|accessdate=2020-04-29|language=ja}}</ref>。かつては、容姿問わず、誰でも女性なら風俗で一定期間だけ働けば借金も完済でき、そこそこ優雅な暮らしを送れたものだったが、デフレにより客単価が大きく下がった今、専業か副業を問わず風俗嬢という職業は、女性のセーフティネットとして機能しなくなったとの意見もある<ref>{{Cite web|和書|title=風俗嬢にもデフレの寒風「18歳でも客が付かず40歳で路頭に迷う」|url=https://diamond.jp/articles/-/105477|website=ダイヤモンド・オンライン|accessdate=2020-04-29}}</ref>。 == 感情労働者と感情管理 == 風俗嬢の仕事は[[ブルーカラー|肉体労働]]であると同時に、[[感情労働]]の要素も強い。感情労働とは社会学者の[[アーリー・ラッセル・ホックシールド|ホックシールド]]([[:en:Arlie Russell Hochschild|Arlie Russell Hochschild]])が提唱した労働のあり方で、相手に感謝や安心の気持ちを引き起こすために、「公的に観察可能な表情や身体的表現をつくるために行う[[感情]]の管理」と定義される。 風俗嬢や[[ホステス]]のような「'''ヒューマン・サービス'''」では、客の心を満たす為に、親しみを感じさせる言動や振る舞いをする。しかしサービスを提供する側も人間であるため、マナーを知らない客に苛立ったり、悲しんだりすることも当たり前にある。そうした負の感情を制し、様々な客に対していかに臨機応変に接することができるか、という点が感情を制御して労働している状態ということになる。このような労働は高度になるほど、一時の[[感情]]に振り回されず冷静に対応することが求められる。 感情労働が求められる職場では、'''過剰適応'''の状態が続くため注意が必要である。過剰適応とは、自分の気持ちを押し殺して相手に合わせる心理状態のことを指す。一見うまくいっているように見えても、内面的には全く良くない状態がつづけば、抑うつ傾向が高くなるなどメンタルヘルスにマイナスの影響が出る。過剰適応を改善するには、アサーティブな自己表現が有効とされる。アサーティブな自己表現には、自分も他人も許す、自分の感情も他人の感情も大事にする心掛け、折り合いをつける、過剰な要求は断る、などの考え方がある。 == 歴史 == {{独自研究|section=1|date=2020年10月}} * 1930年代 - 廃娼運動の成果として[[公娼]]制度に対する批判意識が強まり、廃娼論が政府内でもかつてないほど高揚した反面、私娼の増加や氾濫が社会現象となり、この時期に新たなる性風俗産業の1つとしてカフェーが台頭した。実質的人身取引、[[前借金]]による年期契約に縛られる芸娼妓とは異なり、カフェーで働く女給には契約証や前借金が存在せず、生活に困窮する女性には手軽に従事することのできる高給な職として受け入れられ、男性客からは「自由意志」による疑似恋愛気分を体験できるとして人気を博した<ref>{{Cite journal|和書|author=寺澤ゆう|date=2014-02|title=1930 年代のカフェーにみる性風俗産業界 : 動揺の裏側にある女給の労働実態|journal=  立命館大学人文科学研究所紀要|volume=103|pages=113-140|publisher=立命館大学人文科学研究所|ref=harv}}</ref>。 *[[1946年]] [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の指導により遊女が禁止。戦前までは、[[遊女]]の項目を参照。 * [[1947年]] - [[1958年]] 遊女が禁止された後、[[ダンサー]]や[[パンパン]]が出現し、公然と売春行為が問題化、赤線地域の治安悪化が大きく社会問題として扱われ、多く新聞やラジオ等のメディアが多く扱うようになる。 * [[1958年]] - [[1965年]] [[売春防止法]]が成立。多くの[[娼館]]が料亭、カフェーへと姿を変え、隠れて売春する若い女性が出現し、問題化。公安委員会が一斉捜査を行い、20代から30代の女性(36,000人)、未成年の少女(14 - 19歳)を保護。[[婦人補導院]]、[[女子少年院]]、[[感化院]]に送致。[[ピンクサロン]]も出現し、多様化する。 * [[1966年]] - [[1977年]] トルコ風呂(現在の[[ソープランド]])、[[ノーパン喫茶]]が京都に出現し、ブームになる。 * [[1978年]] - [[1989年]] [[ダイヤルQ2]]、[[テレフォンクラブ|テレクラ]]が出現し、ブームになったものの問題が起きやすくなる。[[新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件]]が発生。 * [[1990年]] - [[2001年]] [[出会い系サイト]]、[[援助交際]]が出現、発生し、問題化。[[家出|家出少女]]が多く発生するようになる。 * [[2002年]] - [[2011年]] [[出会い喫茶]]が出現する。未成年の少女の利用が問題化する。 == 有名な風俗嬢 == * [[アボット (風俗嬢)|アボット]] * [[かなた美緒]] * [[水嶋かおりん]] * [[紅子 (人物)|紅子]] * [[山口珠理]] * [[涼森れむ]] * [[蓮実クレア]] * [[菜摘ひかる]] * [[乙葉ななせ]]<ref>[https://tora-ana.jp/detail.php?id=11377 乙葉ななせ - 渋谷デリヘル風俗 CLUB 虎の穴 青山店]</ref> * [[槙いずな]]<ref>{{Cite tweet|author=槙いずな |user=maki_izuna |number=1562751914458361857 |title=今後の活動について |date=2022-08-25 |accessdate=2022年11月21日|archivedate=|archiveurl=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://tora-ana.jp/detail.php?id=11019 |title=槙いずな |work= |publisher=CLUB 虎の穴 青山店 |accessdate=2022-11-21}}</ref> * [[桜井風花]] * [[長谷川瞳]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[フードル|フードル(風俗アイドル)]] * [[ホストクラブ]]/[[ホスト (接客業)|ホスト]] * [[スカウト (勧誘)|スカウト]]/[[迷惑防止条例]]/[[職業安定法]] * [[セックスワーカー]] * [[性風俗産業に対する差別]] * [[風俗店]] * [[性風俗関連特殊営業]] * [[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]] * [[風俗営業]] * [[風俗店の歴史]] * [[風俗街]] * [[性病]]/[[コンドーム]]/[[素股]]/[[セーファーセックス]] {{デフォルトソート:ふうそくしよう}} [[Category:性風俗関係者|*ふうそくしよう]] [[Category:売買春]] [[Category:セックスワーカー]] [[Category:女性職]]
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防衛大学校
防衛大学校(ぼうえいだいがっこう、英語: National Defense Academy of Japan)は、神奈川県横須賀市走水1-10-20に本部を置く日本の省庁大学校である。1952年に創立、1954年に現校名になった。略称は防衛大、防大。 防衛大学校は防衛省の施設等機関のうち、自衛隊の幹部自衛官を養成する教育・訓練施設である。したがって、学校教育法第1条に規定する学校(一条校)としての「大学」ではない。 全学共通基盤教育として、国内で唯一防衛学が学べる。諸外国における士官学校に位置づけされ、幹部自衛官の教育と育成を目的としている。教育課程としては、学校教育法の大学の学部に相当する課程として修業年限4年の「本科」と、大学院相当の「理工学研究科」「総合安全保障研究科」の3科が設置されている。一般的に「防衛大学校」は「本科」のみを指すことも多い。 令和6年度入校の第72期一般採用試験の募集人員は、人文・社会科学専攻が約45名(うち女子約10名)、理工学専攻が約195名(うち女子約30名)だった。平成23年度予算額は約147億円である。本科の「卒業式典」(卒業式)においては、内閣総理大臣や防衛大臣が出席して訓示することが慣例である。 募集人員でもわかるように、防衛大学校は理系大学の要素が強い。 本科学生は、幹部自衛官となるべき者の教育が前提で、卒業後は陸上・海上・航空自衛官(幹部候補生たる曹長)に任官し、原則各幹部候補生学校(陸上・海上・航空)へ入校する。幹部候補生学校卒業後に3尉に任官し一般部隊・術科学校等に配属される。学生の身分は特別職国家公務員たる「自衛隊員」であるが「自衛官」ではなく階級は指定されない。 防衛大学校は一般大学と同様に入校試験に合格する必要があるが、一般の大学入試とは異なり、入校後は国家公務員として『課業(業務)』を務めるため、入学試験ではなく「採用試験」が正式な呼称である。いわゆる国家公務員試験に相当する。卒業後は任官が前提であるので、入校時21歳未満(すでに自衛官である場合は23歳未満)であることを要する。 学生が受ける講義や訓練は課業であるため学費は徴収されず、「学生手当」の名目で給与が支給される。 応募条件は年齢や日本国民であることなど自衛官となる条件を満たしていることが必要であり、一般的な大学の出願条件とは異なる。かつては男子限定であったが、1992年度(平成4年度)以降は女子も応募が可能である。募集は専攻単位で行われ、自衛官募集のウェブサイトに募集要項が掲載されている。 2012年度(平成24年)入試から、これまでの一般採用試験、推薦採用試験のほか、総合選抜採用試験を導入し、一般採用試験も前期と後期に分けて実施する。一般採用試験(前期日程)は、防衛医科大学校と同様に秋頃、日本各地で行われる。1次試験は3教科の学科試験がマークセンス・記述方式で実施されるほか、小論文試験も課せられる。1次試験に合格すると2次試験では身長・体重・視力・尿検査などの身体検査、及び口述試験が科される。試験にかかる費用は無料で、一般採用試験は原則として各都道府県に1ヶ所以上の会場が設けられていることから、防衛医科大学校、陸上自衛隊看護学生、航空学生と共に大学入試の実践模試として利用されており、高倍率が続いている。 理工学専攻が人文社会学専攻より募集人数が約4倍多いため、両者の入試難易度には大きな開きがある。例えば、理工学の公募推薦は2倍程度に対し、人文社会学は5倍である。 採用後は国家公務員となるため、給与や被服が支給される。2018年11月30日現在、学生手当は月額115,800円、賞与(6月と12月)が年額387,930円と自衛官候補生よりもやや低い。自衛隊法に基づく職務専念義務によりアルバイトなどの副業は禁止されている。 防衛大学校学生は、「自衛隊法第53条」及び「自衛隊法施行規則第40条」に則り、入隊時(入校時)に服務の宣誓をする(宣誓書に署名捺印をして朗読する。朗読者は新入生総代)ことが義務付けられている。これは防衛医科大学校学生又は陸上自衛隊高等工科学校生徒と同様である。 卒業後は三自衛隊において陸曹長、海曹長または空曹長に任官されて各幹部候補生学校に入校し、将来の幹部自衛官となるべく自衛官としての人生を歩むことになるが、様々な理由で任官辞退する者もいる。 第二次世界大戦以前の日本軍では、現役兵科将校の養成は陸軍と海軍とで別個に、陸軍士官学校・陸軍航空士官学校及び海軍兵学校で行われていた。この様に軍種によって士官学校を分別する事は、19世紀の古くから欧米の近代的な軍隊では一般的であり、21世紀の現在も世界各国で不変である。しかしながら、戦前の日本は陸海軍相互で人事交流が少なく、一体となって総力戦を遂行すべき大東亜戦争(太平洋戦争)期も、相互の不信から不協和音が生じることが少なくなかった。 その反省に鑑み、第二次大戦敗戦による陸海軍の解体を経て警察予備隊/保安隊・海上警備隊/警備隊を再編成する過程で、士官学校相当の教育機関は陸海に分別せずに同じ学校の学生とし(現在は第2学年進級時に「要員配分」と称し、本人の希望・適正・成績等を踏まえた上で陸上・海上・航空の各要員が決定される)、1952年(昭和27年)8月1日に保安庁の新設と共に保安大学校が設置された。陸海の個別の専門教育は卒業後に総隊学校/普通科学校・術科学校(のちの陸海の幹部候補生学校)で行われた。1954年(昭和29年)7月1日、保安庁と保安隊・警備隊は防衛庁と自衛隊へと改編され、保安大学校も防衛大学校に改名し現在に至る。 旧陸海軍では選抜された大尉級を対象とする高級将校養成・教育機関として、陸軍大学校と海軍大学校が存在し、ともに大学校を称するが、これに相当する自衛隊の教育機関は陸上自衛隊教育訓練研究本部教育部(旧:陸上自衛隊幹部学校)・海上自衛隊幹部学校・航空自衛隊幹部学校であり、陸海空が共同で運用する自衛隊の最高教育機関としては統合幕僚学校が設置されている。 1953年(昭和28年)4月1日に入校した本科第1期学生は、在校中に保安庁から防衛庁への改編を経て、新たに宣誓を行うなどの体験を経ながら4年後の1957年(昭和32年)に卒業した。設立からの教育の特徴として、戦前の精神主義への反省とともに、近代戦の遂行は作戦、管理、兵站部門なども含めて数理的素養及び知識が絶対的に必要であることから理工系を重視している。 1964年東京オリンピックの開会式では各国選手団が入場する際、防衛大学校学生が国名のプラカードを持って先導した。 防衛大学校は、学校長(防衛教官、現職は久保文明)の下に、副校長3名(防衛事務官(企画・管理担当)1名、防衛教官(教育担当)1名、及び陸将である自衛官(訓練担当)1名(2021年(令和3年)4月1日付をもって自衛官のポストである「防衛大学校幹事」が「防衛大学校副校長」に職名が変更された)。その他、総務部等の各部と教育学群等が置かれている。 副校長は、学校長の命を受け、学校長を助け、主として、それぞれ特定の事項を整理する職として置かれており、教官をもって充てる副校長は教務部に関する事項を、自衛官をもって充てる副校長は訓練部に関する事項を、防衛事務官をもって充てる副校長はそれらの事項以外の事項をそれぞれ整理するものとされている。自衛官をもって充てる副校長は、主に師団長経験者が充てられ、大学校教職員である自衛官の中では最も高位である。 大学と同様に教授会も置かれているが、教授会は、防衛大学校長、教官及び自衛官をもつて充てる副校長並びに教授をもって組織されている。 訓練部長は将補が充てられる。総括首席指導教官(1佐)の下には首席指導教官(各大隊に1人計4人、主に2佐)がおり、さらにその下に次席指導教官、中隊指導教官(各中隊に1名計16名、主に3佐)がいる。 防衛学教育学群長は空将補が充てられ、各室長には1佐が充てられている。 防衛大学校の教育は、教育課程と訓練課程からなる。 文部科学省の定める大学設置基準に準拠し、教養教育、外国語、体育、専門基礎の科目と、人文・社会科学専攻及び理工学専攻の専門科目を、それぞれ一般大学と同様に教育し、防衛大学校独自の防衛に関する学術分野として防衛学を教育する。教養教育は「文理交差教育」が行われ、人文・社会科学専攻学生は「数学」、「物理学」、「化学」などの理工系教育、理工学専攻学生は「思想と文化」、「歴史学」、「心理学」、「政治学」、「経済学」、「法学」などの人社系教育が行われる。 本科学生は、専門区分や要員区分(陸上、海上、航空の各自衛隊要員別)に関わらず、原則として共通した内容の防衛学を履修する。ただし、要員別の科目や選択科目もある。2年次に陸上、海上、航空へと要員配分が行われる。個別科目を以下に記す。 ※以上、「防衛大学校規則」を参照 防衛学は、一般に軍事学と呼ばれているものに相当し、その具体的内容の一端は、防衛学の教官を中心にしたグループの著作『軍事学入門』により知ることができる。 過去、防衛学は陸上防衛学、海上防衛学、航空防衛学の三つに区分され各要員別の履修となっていた。その内容は、現行の防衛学と同様のもののほかに、それぞれ個別の内容(例えば陸上防衛学では築城、通信、戦術等、海上防衛学では航海学、機関学、運用学等、航空防衛学では警備、整備、搭乗等)が相当程度含まれていた。現行の要員共通の防衛学を導入するに当たって、これらの要員別の教科内容は、防大の訓練課程及び防大卒業後の幹部候補生学校に振り替えられた。 人社系・理工系にまたがり、学科・学群を横断する柔軟な履修を可能とする教育プログラムが、2012年度から導入された。「危機管理」(公共政策学科、国際関係学科対象)、「安全科学」(理工学専攻の全学科対象)、「生命科学」(応用化学科対象)、「国際交流」(全学科対象)の4プログラムがあり、プログラム履修生は、専攻に所属しつつ、プログラムごとに指定された講義科目群の中から必要な授業科目を、2-4年次の3年間、継続して履修する。所属する学科での学士号のほかにプログラム修了証書を受け取ることができる。 各学年全員が同じ訓練を行う共通訓練と、陸上・海上・航空要員に指定された後に行う専門(要員)訓練に区分される。訓練は、毎週2時間程度実施される課程訓練と、年間を通じ集中して実施される定期訓練(1ヶ月の訓練を1回、1週間の訓練を2回程度)がある。 防衛大学校本科は1992年から「大学の学部に相当する教育課程」として認定されており、卒業に際しては、それぞれの専攻に応じて「学士」の学位が、独立行政法人大学改革支援・学位授与機構から文部科学省所管の大学と同様に授与される。実践的な面での能力を身に付けるため、大学相当のカリキュラムに加え各種訓練も行われる。授与される学位は次のとおり。 学位授与機構の定める単位を4年間で確保するために、課業終了後も「自習」が義務付けられている時間がある。 研究科として、理工学研究科及び総合安全保障研究科が置かれている。これは、学校教育法上の大学院に相当するものである。修了後、大学改革支援・学位授与機構の審査に合格すると学位が授与される。原則として自衛隊員の内部選抜者が入学するが、自衛隊員以外の者も入学することがある。 現在は隊員以外は「特別研究員」として若干名募集され、身分は非常勤職員の自衛隊員として扱われる。在籍中は時給制で給与が支払われる。学費は無料。専攻は理工学と安全保障学の2種類で、区分は研究補助(RA、修士課程に相当)と教育補助(TA、博士後期課程に相当)がある。 授与される学位の種類は以下の6種。 本科学生全員(2000人弱)で連隊規模の「学生隊」を編成する。学生隊は4個大隊からなり、大隊は4個中隊、中隊は3個小隊、小隊は約30~40名からなる(分隊・班はない)。それぞれに学生長が置かれる。2004年(平成16年)度までは1個中隊に1~4学年までが混合で所属しており、2005年(平成17年)度からは学年ごとに1個小隊を組むようになった。ただし、学生長は4学年が務める。しかし、2018年現在ではまた各小隊に1~4学年が混合で所属するようになっている。 卒業式では時の内閣総理大臣が訓示を述べ、閉式直後に本科卒業生総代である後期学生隊学生長の「n期学生隊解散!」の号令とともに本科卒業生一同が一斉に制帽を宙に放り投げ、講堂から飛び出して行く光景が例年テレビ放送されることで有名。2013年に防衛大学校学生保険金詐欺事件が発覚したことを契機として、第2次安倍内閣が2014年春から任官辞退者に対する卒業式への出席を認めていない(任官辞退者は卒業式とは別の「卒業証書授与式」を前日に行い、私服姿で大学校裏門から帰宅させている。防大創設当初も任官辞退者は卒業式に出席できない分離方式だったが、元警視総監の土田国保が1978年に学校長に就任してからは、任官辞退者も卒業式に出席できるようになった歴史がある)。制帽は官給品であり、在校生によって回収され大学校に返納されるが、私物として購入することもできるので、記念として手元に残しておく者も多い。 防大における課外活動である。 本科の学生は、必ず体育系の「校友会」に入部することとなっている。 大学ではないが海上保安大学校とともに参加を認めている大会もあり、参加時には国立大学と見なされる(全国国公立大学選手権水泳競技大会など)。ただし、防衛大学校では各種行事の準備や練習は校友会の時間を削って行うため、練習時間の確保が難しく、部の方針として外部の競技会への参加を禁止する部もある。 応援団リーダー部と短艇委員会は、部ではなく委員会の扱いを受けている。また、儀仗隊は紹介ページにおいて運動部や文化部、同好会ではなく『その他』に分類されている。 吹奏楽部が体育系の扱いを受けているが、観閲式や開校記念祭での行進曲等の演奏その他、学校の顔として大きな役割を果たしており、それゆえ、練習時間を確保する必要があるからである。ただし紹介ページでは文化部に纏められている。 部に昇格していない同好会も多数存在する。 その他、特徴のある校友会は以下の通りである。 毎年11月に、学園祭に相当する行事として「開校記念祭」が開催される。そこで行われる競技の中に棒倒しがあり、第一回開校祭から続いている。 新型コロナウイルス感染症流行にともない、2020年度は開催中止となった。また、2021年度は家族を対象とした限定公開とし、代替として観閲式および棒倒し競技会(決勝)をライブ配信した。2022年度も家族・来賓等を対象とした限定公開とし、創立70周年記念式典、観閲式および棒倒し競技会(予選・決勝)をライブ配信した。2023年度は4年ぶりに一般公開での開催となった。 全学生が一斉に喫食可能な規模の食堂が整備されている。 収納することにより席数が増減可能となっている。卒業式などに際しては前列を格納し、卒業生は折りたたみ椅子に着席する。 地下1階・地上4階の建物に学生生活に必要な物品・サービスを販売する売店が入店している。 地上1階の第二売店では文房具、スポーツ用品、日用品、生活用品などを販売しており、学生生活に必要な物品やサービスを販売している。2010年から「ファミリーマート 防衛大学校店」が入店し、通常コンビニ業務の他、「防衛大学校グッズ」も販売している。一部の防衛大学校グッズはファミマ・ドット・コムでも購入可能。 学生は防衛省共済組合員になることから地上2階に入居する「厚生課事務室」で貯金業務を受けることができる。ATMが設置されており現金の預入・引出も可能。防衛省職員は自動車購入資金・住宅購入資金・学資金などの貸付業務を受けることができる。 敷地内に学生舎が4棟ある。全寮制で、1年生から4年生までが同室で生活する。 人材獲得の競争力を失わないための魅力化施策として、8人部屋から4人部屋を経て2人部屋へと移行したことがあったが、規律の緩みを招いたため、4人部屋を経て、現在は8人部屋(各学年2人ずつ)に戻っている。調理室があり、簡単な食事なども寮の中で作れるが、使用は制限される。1年生は、冠婚葬祭など特別の理由がない限り、外泊出来ない。学生間指導が実施されている。「学生間指導のガイドライン」では暴力、威圧、精神的圧迫、いじめに依らない指導となっている。約2000人の学生寮生活の監督には指導教官の幹部自衛官約70人が行っている。平成23年6月1日付の「防衛大学校改革に関する報告書」(防衛大学校改革に関する検討委員会)では、集団による不適切な学生間指導などの事案(集団リンチ)を問題視し、「学生間指導の在り方」(指導教官等用教材資料)では世界一の士官学校を目標に、口頭による指導を行い、威圧的な指導や暴力的指導に陥ることがあってはならないとされている。 航空要員訓練のためグライダー(ASK 21、SZD-51 Junior)が配備されているが、自衛隊でグライダーに搭乗できるのは防衛大学校のみである。 防衛大学校は外国軍から長期留学生を受け入れている。長期留学生を受け入れたことのある国は以下の通りである。 また、短期留学生も受け入れている。短期留学生を受け入れたことのある国は以下の通りである。 平成23年度(2011年度)現在は、タイ王国5名・フィリピン2名・インドネシア4名・アメリカ合衆国5名・フランス7名・ベトナム5名・大韓民国6名・モンゴル4名・カンボジア2名・東ティモール2名の全42名を受け入れている。 上級生から暴行など受けたとして、元学生が国と在学時に学生だった8名に対して損害賠償を求めた件で、2019年2月に福岡地裁は8名のうちの7名に対しては損害賠償金計95万円の支払いを命じ、判決が確定した。判決によると男性は入学以降、上級生らに顔を殴られたり、アルコールを吹きかけられ陰毛に火をつけられたりする暴行を受けたとされる。一方、訴訟が分離されていた国については同年10月に地裁は「教官らは暴行を予見できなかった」として男性の請求を棄却した。防衛大が事件後に学生1874を対象に行った調査によると、12人のみが「暴力は許されない」と回答し、この結果に被害者の母は「人権意識の低い人たちが幹部になっていく。このままで良いはずがない」と話している。 2020年5月、新型コロナウイルスにより、学生は防衛大の敷地から出られないと言った事実上の「軟禁生活」状況が続いており、4月の新入生たちは精神的にかなり不安定になっており、ストレスからか、首つりやリストカット、飛び降りといった自殺未遂、自傷行為が複数起きていると報道される。原則上級生から下級生まで8人単位の居室で生活するといった厳しい上下関係に戸惑う新入生のストレス軽減のために、指導教官から「呼び出し指導(部屋長〈各居室の上級生指導役〉から下級生を居室に呼び出して指導すること)」をやめるように指示があったとされる。また、5月25日には、リストカットをして自宅に一度帰った後、学内に戻っていた学生が脱柵する騒ぎが起き、同日夜にはその学生が所属する中隊の学生舎で放火が疑われるボヤ騒ぎが起きたとされる。 学内で遊ばれていたトランプの大富豪で負けた学生は、学内にある売店(通称:PX)で菓子や煙草などを買って差し出していたことから、「PX富豪」の呼び名がついた。そのうちにどんどん大きな金額を賭けだし、新入生が約50万円の負けを抱えてしまい、発覚したとされる。2020年5月27日の報道によると、賭博行為の疑いで陸上自衛隊第129地区警務隊が調査を開始したとされる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "防衛大学校(ぼうえいだいがっこう、英語: National Defense Academy of Japan)は、神奈川県横須賀市走水1-10-20に本部を置く日本の省庁大学校である。1952年に創立、1954年に現校名になった。略称は防衛大、防大。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "防衛大学校は防衛省の施設等機関のうち、自衛隊の幹部自衛官を養成する教育・訓練施設である。したがって、学校教育法第1条に規定する学校(一条校)としての「大学」ではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "全学共通基盤教育として、国内で唯一防衛学が学べる。諸外国における士官学校に位置づけされ、幹部自衛官の教育と育成を目的としている。教育課程としては、学校教育法の大学の学部に相当する課程として修業年限4年の「本科」と、大学院相当の「理工学研究科」「総合安全保障研究科」の3科が設置されている。一般的に「防衛大学校」は「本科」のみを指すことも多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "令和6年度入校の第72期一般採用試験の募集人員は、人文・社会科学専攻が約45名(うち女子約10名)、理工学専攻が約195名(うち女子約30名)だった。平成23年度予算額は約147億円である。本科の「卒業式典」(卒業式)においては、内閣総理大臣や防衛大臣が出席して訓示することが慣例である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "募集人員でもわかるように、防衛大学校は理系大学の要素が強い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本科学生は、幹部自衛官となるべき者の教育が前提で、卒業後は陸上・海上・航空自衛官(幹部候補生たる曹長)に任官し、原則各幹部候補生学校(陸上・海上・航空)へ入校する。幹部候補生学校卒業後に3尉に任官し一般部隊・術科学校等に配属される。学生の身分は特別職国家公務員たる「自衛隊員」であるが「自衛官」ではなく階級は指定されない。", "title": "身分・採用試験" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "防衛大学校は一般大学と同様に入校試験に合格する必要があるが、一般の大学入試とは異なり、入校後は国家公務員として『課業(業務)』を務めるため、入学試験ではなく「採用試験」が正式な呼称である。いわゆる国家公務員試験に相当する。卒業後は任官が前提であるので、入校時21歳未満(すでに自衛官である場合は23歳未満)であることを要する。", "title": "身分・採用試験" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "学生が受ける講義や訓練は課業であるため学費は徴収されず、「学生手当」の名目で給与が支給される。", "title": "身分・採用試験" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "応募条件は年齢や日本国民であることなど自衛官となる条件を満たしていることが必要であり、一般的な大学の出願条件とは異なる。かつては男子限定であったが、1992年度(平成4年度)以降は女子も応募が可能である。募集は専攻単位で行われ、自衛官募集のウェブサイトに募集要項が掲載されている。", "title": "身分・採用試験" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2012年度(平成24年)入試から、これまでの一般採用試験、推薦採用試験のほか、総合選抜採用試験を導入し、一般採用試験も前期と後期に分けて実施する。一般採用試験(前期日程)は、防衛医科大学校と同様に秋頃、日本各地で行われる。1次試験は3教科の学科試験がマークセンス・記述方式で実施されるほか、小論文試験も課せられる。1次試験に合格すると2次試験では身長・体重・視力・尿検査などの身体検査、及び口述試験が科される。試験にかかる費用は無料で、一般採用試験は原則として各都道府県に1ヶ所以上の会場が設けられていることから、防衛医科大学校、陸上自衛隊看護学生、航空学生と共に大学入試の実践模試として利用されており、高倍率が続いている。", "title": "身分・採用試験" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "理工学専攻が人文社会学専攻より募集人数が約4倍多いため、両者の入試難易度には大きな開きがある。例えば、理工学の公募推薦は2倍程度に対し、人文社会学は5倍である。", "title": "身分・採用試験" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "採用後は国家公務員となるため、給与や被服が支給される。2018年11月30日現在、学生手当は月額115,800円、賞与(6月と12月)が年額387,930円と自衛官候補生よりもやや低い。自衛隊法に基づく職務専念義務によりアルバイトなどの副業は禁止されている。", "title": "身分・採用試験" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "防衛大学校学生は、「自衛隊法第53条」及び「自衛隊法施行規則第40条」に則り、入隊時(入校時)に服務の宣誓をする(宣誓書に署名捺印をして朗読する。朗読者は新入生総代)ことが義務付けられている。これは防衛医科大学校学生又は陸上自衛隊高等工科学校生徒と同様である。", "title": "身分・採用試験" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "卒業後は三自衛隊において陸曹長、海曹長または空曹長に任官されて各幹部候補生学校に入校し、将来の幹部自衛官となるべく自衛官としての人生を歩むことになるが、様々な理由で任官辞退する者もいる。", "title": "身分・採用試験" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦以前の日本軍では、現役兵科将校の養成は陸軍と海軍とで別個に、陸軍士官学校・陸軍航空士官学校及び海軍兵学校で行われていた。この様に軍種によって士官学校を分別する事は、19世紀の古くから欧米の近代的な軍隊では一般的であり、21世紀の現在も世界各国で不変である。しかしながら、戦前の日本は陸海軍相互で人事交流が少なく、一体となって総力戦を遂行すべき大東亜戦争(太平洋戦争)期も、相互の不信から不協和音が生じることが少なくなかった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "その反省に鑑み、第二次大戦敗戦による陸海軍の解体を経て警察予備隊/保安隊・海上警備隊/警備隊を再編成する過程で、士官学校相当の教育機関は陸海に分別せずに同じ学校の学生とし(現在は第2学年進級時に「要員配分」と称し、本人の希望・適正・成績等を踏まえた上で陸上・海上・航空の各要員が決定される)、1952年(昭和27年)8月1日に保安庁の新設と共に保安大学校が設置された。陸海の個別の専門教育は卒業後に総隊学校/普通科学校・術科学校(のちの陸海の幹部候補生学校)で行われた。1954年(昭和29年)7月1日、保安庁と保安隊・警備隊は防衛庁と自衛隊へと改編され、保安大学校も防衛大学校に改名し現在に至る。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "旧陸海軍では選抜された大尉級を対象とする高級将校養成・教育機関として、陸軍大学校と海軍大学校が存在し、ともに大学校を称するが、これに相当する自衛隊の教育機関は陸上自衛隊教育訓練研究本部教育部(旧:陸上自衛隊幹部学校)・海上自衛隊幹部学校・航空自衛隊幹部学校であり、陸海空が共同で運用する自衛隊の最高教育機関としては統合幕僚学校が設置されている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1953年(昭和28年)4月1日に入校した本科第1期学生は、在校中に保安庁から防衛庁への改編を経て、新たに宣誓を行うなどの体験を経ながら4年後の1957年(昭和32年)に卒業した。設立からの教育の特徴として、戦前の精神主義への反省とともに、近代戦の遂行は作戦、管理、兵站部門なども含めて数理的素養及び知識が絶対的に必要であることから理工系を重視している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1964年東京オリンピックの開会式では各国選手団が入場する際、防衛大学校学生が国名のプラカードを持って先導した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "防衛大学校は、学校長(防衛教官、現職は久保文明)の下に、副校長3名(防衛事務官(企画・管理担当)1名、防衛教官(教育担当)1名、及び陸将である自衛官(訓練担当)1名(2021年(令和3年)4月1日付をもって自衛官のポストである「防衛大学校幹事」が「防衛大学校副校長」に職名が変更された)。その他、総務部等の各部と教育学群等が置かれている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "副校長は、学校長の命を受け、学校長を助け、主として、それぞれ特定の事項を整理する職として置かれており、教官をもって充てる副校長は教務部に関する事項を、自衛官をもって充てる副校長は訓練部に関する事項を、防衛事務官をもって充てる副校長はそれらの事項以外の事項をそれぞれ整理するものとされている。自衛官をもって充てる副校長は、主に師団長経験者が充てられ、大学校教職員である自衛官の中では最も高位である。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "大学と同様に教授会も置かれているが、教授会は、防衛大学校長、教官及び自衛官をもつて充てる副校長並びに教授をもって組織されている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "訓練部長は将補が充てられる。総括首席指導教官(1佐)の下には首席指導教官(各大隊に1人計4人、主に2佐)がおり、さらにその下に次席指導教官、中隊指導教官(各中隊に1名計16名、主に3佐)がいる。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "防衛学教育学群長は空将補が充てられ、各室長には1佐が充てられている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "", "title": "学科構成" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "防衛大学校の教育は、教育課程と訓練課程からなる。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "文部科学省の定める大学設置基準に準拠し、教養教育、外国語、体育、専門基礎の科目と、人文・社会科学専攻及び理工学専攻の専門科目を、それぞれ一般大学と同様に教育し、防衛大学校独自の防衛に関する学術分野として防衛学を教育する。教養教育は「文理交差教育」が行われ、人文・社会科学専攻学生は「数学」、「物理学」、「化学」などの理工系教育、理工学専攻学生は「思想と文化」、「歴史学」、「心理学」、「政治学」、「経済学」、「法学」などの人社系教育が行われる。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "本科学生は、専門区分や要員区分(陸上、海上、航空の各自衛隊要員別)に関わらず、原則として共通した内容の防衛学を履修する。ただし、要員別の科目や選択科目もある。2年次に陸上、海上、航空へと要員配分が行われる。個別科目を以下に記す。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "※以上、「防衛大学校規則」を参照", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "防衛学は、一般に軍事学と呼ばれているものに相当し、その具体的内容の一端は、防衛学の教官を中心にしたグループの著作『軍事学入門』により知ることができる。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "過去、防衛学は陸上防衛学、海上防衛学、航空防衛学の三つに区分され各要員別の履修となっていた。その内容は、現行の防衛学と同様のもののほかに、それぞれ個別の内容(例えば陸上防衛学では築城、通信、戦術等、海上防衛学では航海学、機関学、運用学等、航空防衛学では警備、整備、搭乗等)が相当程度含まれていた。現行の要員共通の防衛学を導入するに当たって、これらの要員別の教科内容は、防大の訓練課程及び防大卒業後の幹部候補生学校に振り替えられた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "人社系・理工系にまたがり、学科・学群を横断する柔軟な履修を可能とする教育プログラムが、2012年度から導入された。「危機管理」(公共政策学科、国際関係学科対象)、「安全科学」(理工学専攻の全学科対象)、「生命科学」(応用化学科対象)、「国際交流」(全学科対象)の4プログラムがあり、プログラム履修生は、専攻に所属しつつ、プログラムごとに指定された講義科目群の中から必要な授業科目を、2-4年次の3年間、継続して履修する。所属する学科での学士号のほかにプログラム修了証書を受け取ることができる。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "各学年全員が同じ訓練を行う共通訓練と、陸上・海上・航空要員に指定された後に行う専門(要員)訓練に区分される。訓練は、毎週2時間程度実施される課程訓練と、年間を通じ集中して実施される定期訓練(1ヶ月の訓練を1回、1週間の訓練を2回程度)がある。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": 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"本科学生全員(2000人弱)で連隊規模の「学生隊」を編成する。学生隊は4個大隊からなり、大隊は4個中隊、中隊は3個小隊、小隊は約30~40名からなる(分隊・班はない)。それぞれに学生長が置かれる。2004年(平成16年)度までは1個中隊に1~4学年までが混合で所属しており、2005年(平成17年)度からは学年ごとに1個小隊を組むようになった。ただし、学生長は4学年が務める。しかし、2018年現在ではまた各小隊に1~4学年が混合で所属するようになっている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "卒業式では時の内閣総理大臣が訓示を述べ、閉式直後に本科卒業生総代である後期学生隊学生長の「n期学生隊解散!」の号令とともに本科卒業生一同が一斉に制帽を宙に放り投げ、講堂から飛び出して行く光景が例年テレビ放送されることで有名。2013年に防衛大学校学生保険金詐欺事件が発覚したことを契機として、第2次安倍内閣が2014年春から任官辞退者に対する卒業式への出席を認めていない(任官辞退者は卒業式とは別の「卒業証書授与式」を前日に行い、私服姿で大学校裏門から帰宅させている。防大創設当初も任官辞退者は卒業式に出席できない分離方式だったが、元警視総監の土田国保が1978年に学校長に就任してからは、任官辞退者も卒業式に出席できるようになった歴史がある)。制帽は官給品であり、在校生によって回収され大学校に返納されるが、私物として購入することもできるので、記念として手元に残しておく者も多い。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "防大における課外活動である。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "本科の学生は、必ず体育系の「校友会」に入部することとなっている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "大学ではないが海上保安大学校とともに参加を認めている大会もあり、参加時には国立大学と見なされる(全国国公立大学選手権水泳競技大会など)。ただし、防衛大学校では各種行事の準備や練習は校友会の時間を削って行うため、練習時間の確保が難しく、部の方針として外部の競技会への参加を禁止する部もある。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "応援団リーダー部と短艇委員会は、部ではなく委員会の扱いを受けている。また、儀仗隊は紹介ページにおいて運動部や文化部、同好会ではなく『その他』に分類されている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "吹奏楽部が体育系の扱いを受けているが、観閲式や開校記念祭での行進曲等の演奏その他、学校の顔として大きな役割を果たしており、それゆえ、練習時間を確保する必要があるからである。ただし紹介ページでは文化部に纏められている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "部に昇格していない同好会も多数存在する。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その他、特徴のある校友会は以下の通りである。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "毎年11月に、学園祭に相当する行事として「開校記念祭」が開催される。そこで行われる競技の中に棒倒しがあり、第一回開校祭から続いている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "新型コロナウイルス感染症流行にともない、2020年度は開催中止となった。また、2021年度は家族を対象とした限定公開とし、代替として観閲式および棒倒し競技会(決勝)をライブ配信した。2022年度も家族・来賓等を対象とした限定公開とし、創立70周年記念式典、観閲式および棒倒し競技会(予選・決勝)をライブ配信した。2023年度は4年ぶりに一般公開での開催となった。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "全学生が一斉に喫食可能な規模の食堂が整備されている。", "title": "施設・備品" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "収納することにより席数が増減可能となっている。卒業式などに際しては前列を格納し、卒業生は折りたたみ椅子に着席する。", "title": "施設・備品" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "地下1階・地上4階の建物に学生生活に必要な物品・サービスを販売する売店が入店している。", "title": "施設・備品" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "地上1階の第二売店では文房具、スポーツ用品、日用品、生活用品などを販売しており、学生生活に必要な物品やサービスを販売している。2010年から「ファミリーマート 防衛大学校店」が入店し、通常コンビニ業務の他、「防衛大学校グッズ」も販売している。一部の防衛大学校グッズはファミマ・ドット・コムでも購入可能。", "title": "施設・備品" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "学生は防衛省共済組合員になることから地上2階に入居する「厚生課事務室」で貯金業務を受けることができる。ATMが設置されており現金の預入・引出も可能。防衛省職員は自動車購入資金・住宅購入資金・学資金などの貸付業務を受けることができる。", "title": "施設・備品" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "敷地内に学生舎が4棟ある。全寮制で、1年生から4年生までが同室で生活する。 人材獲得の競争力を失わないための魅力化施策として、8人部屋から4人部屋を経て2人部屋へと移行したことがあったが、規律の緩みを招いたため、4人部屋を経て、現在は8人部屋(各学年2人ずつ)に戻っている。調理室があり、簡単な食事なども寮の中で作れるが、使用は制限される。1年生は、冠婚葬祭など特別の理由がない限り、外泊出来ない。学生間指導が実施されている。「学生間指導のガイドライン」では暴力、威圧、精神的圧迫、いじめに依らない指導となっている。約2000人の学生寮生活の監督には指導教官の幹部自衛官約70人が行っている。平成23年6月1日付の「防衛大学校改革に関する報告書」(防衛大学校改革に関する検討委員会)では、集団による不適切な学生間指導などの事案(集団リンチ)を問題視し、「学生間指導の在り方」(指導教官等用教材資料)では世界一の士官学校を目標に、口頭による指導を行い、威圧的な指導や暴力的指導に陥ることがあってはならないとされている。", "title": "施設・備品" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "航空要員訓練のためグライダー(ASK 21、SZD-51 Junior)が配備されているが、自衛隊でグライダーに搭乗できるのは防衛大学校のみである。", "title": "施設・備品" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "防衛大学校は外国軍から長期留学生を受け入れている。長期留学生を受け入れたことのある国は以下の通りである。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、短期留学生も受け入れている。短期留学生を受け入れたことのある国は以下の通りである。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "平成23年度(2011年度)現在は、タイ王国5名・フィリピン2名・インドネシア4名・アメリカ合衆国5名・フランス7名・ベトナム5名・大韓民国6名・モンゴル4名・カンボジア2名・東ティモール2名の全42名を受け入れている。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "上級生から暴行など受けたとして、元学生が国と在学時に学生だった8名に対して損害賠償を求めた件で、2019年2月に福岡地裁は8名のうちの7名に対しては損害賠償金計95万円の支払いを命じ、判決が確定した。判決によると男性は入学以降、上級生らに顔を殴られたり、アルコールを吹きかけられ陰毛に火をつけられたりする暴行を受けたとされる。一方、訴訟が分離されていた国については同年10月に地裁は「教官らは暴行を予見できなかった」として男性の請求を棄却した。防衛大が事件後に学生1874を対象に行った調査によると、12人のみが「暴力は許されない」と回答し、この結果に被害者の母は「人権意識の低い人たちが幹部になっていく。このままで良いはずがない」と話している。", "title": "不祥事・事件・問題・批判" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2020年5月、新型コロナウイルスにより、学生は防衛大の敷地から出られないと言った事実上の「軟禁生活」状況が続いており、4月の新入生たちは精神的にかなり不安定になっており、ストレスからか、首つりやリストカット、飛び降りといった自殺未遂、自傷行為が複数起きていると報道される。原則上級生から下級生まで8人単位の居室で生活するといった厳しい上下関係に戸惑う新入生のストレス軽減のために、指導教官から「呼び出し指導(部屋長〈各居室の上級生指導役〉から下級生を居室に呼び出して指導すること)」をやめるように指示があったとされる。また、5月25日には、リストカットをして自宅に一度帰った後、学内に戻っていた学生が脱柵する騒ぎが起き、同日夜にはその学生が所属する中隊の学生舎で放火が疑われるボヤ騒ぎが起きたとされる。", "title": "不祥事・事件・問題・批判" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "学内で遊ばれていたトランプの大富豪で負けた学生は、学内にある売店(通称:PX)で菓子や煙草などを買って差し出していたことから、「PX富豪」の呼び名がついた。そのうちにどんどん大きな金額を賭けだし、新入生が約50万円の負けを抱えてしまい、発覚したとされる。2020年5月27日の報道によると、賭博行為の疑いで陸上自衛隊第129地区警務隊が調査を開始したとされる。", "title": "不祥事・事件・問題・批判" } ]
防衛大学校は、神奈川県横須賀市走水1-10-20に本部を置く日本の省庁大学校である。1952年に創立、1954年に現校名になった。略称は防衛大、防大。
{{Redirect|保安大学校|その他の保安大学校|保安大学校 (曖昧さ回避)}} {{Infobox |above=防衛大学校 |image=[[画像:NDAJ Main Building.JPG|250px|center|防衛大学校本部]] |caption=防衛大学校本部 {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=250}}<br />{{Right|{{location map |Japan Kanagawa#Japan#World|relief=1|width=200}}}} |label1=創立 |data1=[[1952年]] |label2=大学校種別 |data2=[[省庁大学校]] |label3=設置者 |data3=[[File:Symbol of Japanese MOD.svg|20px]] [[防衛省]] |label4=本部所在地 |data4={{flag|神奈川県}}<br>[[ファイル:Flag_of_Yokosuka,_Kanagawa.svg|border|25px]] [[横須賀市]]走水1-10-20 |label5=キャンパス |data5=横須賀(神奈川県横須賀市) |label6=学群 |data6=理工学専攻<br />人文・社会科学専攻 |label7=研究科 |data7=理工学研究科<br />総合安全保障研究科 |label8=ウェブサイト |data8=[https://www.mod.go.jp/nda/ 防衛大学校公式サイト] }} <!-- 一般の大学の記事と同じ書式となるように、この記事の冒頭は[[Wikipedia:ウィキプロジェクト 大学/大学テンプレート (日本国内)]]に倣って作成されています。 --> '''防衛大学校'''(ぼうえいだいがっこう、{{lang-en|National Defense Academy of Japan}})は、[[神奈川県]][[横須賀市]][[大津 (横須賀市)|走水]]1-10-20に本部を置く[[日本]]の[[省庁大学校]]である。[[1952年]]に創立、[[1954年]]に現校名になった。[[大学の略称|略称]]は<!--'''防衛大学'''、-->'''防衛大'''、'''防大'''。 == 概要 == 防衛大学校は[[防衛省]]の[[施設等機関]]のうち、[[自衛隊]]の[[幹部自衛官]]を養成する教育・訓練施設である<ref>[[防衛省設置法]]第14条および第15条</ref>。したがって、[[学校教育法]]第1条に規定する[[学校]]([[一条校]])としての「[[大学]]」ではない。 全学共通基盤教育として、国内で唯一[[防衛学]]が学べる。諸外国における[[士官学校]]に位置づけされ、幹部自衛官の教育と育成を目的としている。[[教育課程]]としては、[[学校教育法]]の[[大学]]の[[学部]]に相当する課程として[[修業年限]]4年<ref>防衛大学校規則第7条</ref>の「本科」と、[[大学院]]相当の「理工学[[研究科]]」「総合安全保障研究科」の3科が設置されている<ref>防衛大学校、防衛医科大学校、防衛研究所及び防衛監察本部組織規則第2条の2</ref>。一般的に「防衛大学校」は「本科」のみを指すことも多い。 令和6年度入校の第72期一般採用試験の募集人員は、人文・社会科学専攻が約45名(うち女子約10名)、理工学専攻が約195名(うち女子約30名)だった。平成23年度予算額は約147億円である。本科の「卒業式典」([[卒業式]])においては、[[内閣総理大臣]]や[[防衛大臣]]が出席して訓示することが慣例である。 募集人員でもわかるように、防衛大学校は理系大学の要素が強い。 == 身分・採用試験 == 本科[[学生]]は、幹部自衛官となるべき者の教育が前提で、卒業後は[[陸上自衛隊|陸上]]・[[海上自衛隊|海上]]・[[航空自衛隊|航空]][[自衛官]]([[幹部候補生 (自衛隊)|幹部候補生]]たる[[曹長]])に[[任官]]し、原則各[[幹部候補生学校]]([[陸上自衛隊幹部候補生学校|陸上]]・[[海上自衛隊幹部候補生学校|海上]]・[[航空自衛隊幹部候補生学校|航空]])へ入校する。幹部候補生学校卒業後に[[少尉|3尉]]に任官し一般部隊・[[術科学校]]等に配属される。学生の身分は[[特別職]][[国家公務員]]たる「[[自衛隊員]]」であるが「[[自衛官]]」ではなく[[自衛隊の階級#自衛隊|階級]]は指定されない。 防衛大学校は一般大学と同様に入校試験に合格する必要があるが、一般の[[大学入試]]とは異なり、入校後は国家公務員として『[[課業]](業務)』を務めるため、[[入学試験]]ではなく「[[採用試験]]」が正式な呼称である。いわゆる[[公務員試験#国家公務員試験|国家公務員試験]]に相当する。卒業後は任官が前提であるので、入校時21歳未満(すでに自衛官である場合は23歳未満)であることを要する。 学生が受ける講義や訓練は課業であるため[[学費]]は徴収されず、「学生手当」の名目で[[給与]]が支給される。 応募条件は年齢や日本[[国民]]であることなど自衛官となる条件を満たしていることが必要<ref>第58期 防衛大学校学生募集要項 2009年12月14日(JST)閲覧 防衛大学校HPより閲覧可能</ref>であり、一般的な大学の出願条件とは異なる。かつては男子限定であったが、1992年度(平成4年度)以降は女子も応募が可能である。募集は専攻単位で行われ、自衛官募集の[[ウェブサイト]]に募集要項が掲載されている。 [[2012年]]度([[平成]]24年)入試から、これまでの一般採用試験、推薦採用試験のほか、[[AO入試|総合選抜採用試験]]を導入<ref>[https://www.mod.go.jp/gsdf/jieikanbosyu/recruit/03.html 自衛官募集(防衛大学校学生)]総合選抜試験受験要綱を参照</ref>し、一般採用試験も前期と後期に分けて実施する。一般採用試験(前期日程)は、[[防衛医科大学校]]と同様に秋頃、日本各地で行われる。1次試験は3教科<ref group="注釈">理工学専攻は英語・数学・物理または化学。人文・社会科学専攻は英語・国語・地歴または公民または数学。</ref>の学科試験がマークセンス・記述方式で実施されるほか、[[論文|小論文試験]]も課せられる。1次試験に合格すると2次試験では身長・体重・視力・尿検査などの[[身体検査]]<ref group="注釈">かつては一般の自衛官採用時と同じく、肛門・陰部の検査を含む[[身体検査]]([[M検]])も行われていた時期があったが、現在は問診で代用されている。</ref><ref>[http://www.clearing.mod.go.jp/kunrei_data/a_fd/1954/ax19540913_00014_000.pdf 自衛官等の採用のための身体検査に関する訓令](附表第3「11 消化器系の疾患(腹壁の異常を含む)」、「14 尿路、男性生殖器系の疾患」、「15 女性生殖器(乳房を含む)の疾患等」)を参照。</ref>、及び[[面接|口述試験]]が科される。試験にかかる費用は無料で、一般採用試験は原則として各都道府県に1ヶ所以上の会場<ref group="注釈">多くは駐屯地の講堂や会議室を使用する。</ref>が設けられていることから、防衛医科大学校、[[防衛医科大学校看護学科学生|陸上自衛隊看護学生]]、[[航空学生]]と共に大学入試の実践模試として利用されており<ref>[http://www.hibari.jp/weblog00/archives/2011/12/post_1064.html 校長通信: 防衛大学校関係の受験結果を受けて] - [[雲雀丘学園中学校・高等学校]]校長のブログ</ref>、高倍率が続いている。 理工学専攻が人文社会学専攻より募集人数が約4倍多いため、両者の入試難易度には大きな開きがある。例えば、理工学の公募推薦は2倍程度に対し、人文社会学は5倍である。 採用後は国家公務員となるため、[[給与]]や[[防衛大学校本科学生の制服|被服]]が支給される。2018年11月30日現在、学生手当は月額115,800円、[[賞与]](6月と12月)が年額387,930円<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=327AC0000000266 昭和二十七年法律第二百六十六号 防衛省の職員の給与等に関する法律]第二十五条 平成三十年十一月三十日公布(平成三十年法律第八十七号)改正</ref>と[[自衛官候補生]]よりもやや低い<ref group="注釈">支給される学生手当からは、共済組合掛金、福祉貯金、団体保険掛け金等が差引かれる。</ref><ref group="注釈">学生に給与が支給される省庁大学校は、他に防衛医科大学校、[[気象大学校]]、[[海上保安大学校]]、[[航空保安大学校]]がある。</ref>。[[自衛隊法]]に基づく職務専念義務により[[アルバイト]]などの[[副業]]は禁止されている。 === 学生の宣誓 === 防衛大学校学生は、「[[自衛隊法]]第53条」及び「自衛隊法[[省令|施行規則]]第40条」に則り、入隊時(入校時)に[[服務の宣誓]]をする(宣誓書に署名捺印をして朗読する。朗読者は新入生総代)ことが義務付けられている。これは防衛医科大学校学生又は[[陸上自衛隊高等工科学校]]生徒と同様である。 {{Quotation|私は、防衛大学校学生たるの名誉と責任を自覚し、[[日本国憲法]]、法令及び校則を遵守し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、知識を[[涵養|かん養]]し、政治的活動に関与せず、全力を尽して学業に励むことを誓います。}} === 卒業後 === 卒業後は三自衛隊において陸曹長、海曹長または空曹長に任官されて各幹部候補生学校に入校し、将来の幹部自衛官となるべく自衛官としての人生を歩むことになるが、様々な理由で[[任官辞退]]する者もいる。 == 沿革 == [[File:1st NDA graduation and commissioning ceremony.jpg|thumb|250px|right|1957年(昭和32年)3月26日<br>第1回防衛大学校卒業式]] [[第二次世界大戦]]以前の[[大日本帝国|日本]]軍では、[[役種|現役]][[兵科]][[将校]]の養成は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]と[[大日本帝国海軍|海軍]]とで別個に、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]・[[陸軍航空士官学校]]<ref group="注釈">[[陸軍予科士官学校]](旧:陸軍士官学校予科)は主に将来の陸士・航士生徒たる[[士官候補生]]を養成し普通学を特に教授する[[予科]]たる教育機関であり、防衛大学校はこの予士に相当する。陸軍士官学校(旧:陸軍士官学校本科)・陸軍航空士官学校は主にその士官候補生に対して軍事学を特に教授する本科たる教育機関であり、陸上自衛隊幹部候補生学校・航空自衛隊幹部候補生学校がこの陸士・航士に相当する。</ref>及び[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]で行われていた。この様に[[軍種]]によって士官学校を分別する事は、[[19世紀]]の古くから欧米の近代的な軍隊では一般的であり、[[21世紀]]の現在も世界各国で不変である。しかしながら、戦前の日本は陸海軍相互で人事交流が少なく、一体となって[[総力戦]]を遂行すべき[[太平洋戦争|大東亜戦争(太平洋戦争)]]期も、相互の不信から不協和音が生じることが少なくなかった。 その反省に鑑み、[[日本の降伏|第二次大戦敗戦]]による陸海軍の解体を経て[[警察予備隊]]/[[保安隊]]・[[海上警備隊]]/[[警備隊 (保安庁)|警備隊]]を再編成する過程で、士官学校相当の教育機関は陸海に分別せずに同じ学校の学生とし(現在は第2学年進級時に「要員配分」と称し、本人の希望・適正・成績等を踏まえた上で陸上・海上・航空の各要員が決定される)、[[1952年]]([[昭和]]27年)8月1日に[[保安庁]]の新設と共に'''保安大学校'''が設置された。陸海の個別の専門教育は卒業後に[[陸上自衛隊幹部候補生学校|総隊学校/普通科学校]]・[[海上自衛隊幹部候補生学校|術科学校]](のちの陸海の幹部候補生学校)で行われた。[[1954年]](昭和29年)7月1日、保安庁と保安隊・警備隊は[[防衛庁]]と自衛隊へと改編され、保安大学校も'''防衛大学校'''に改名し現在に至る。 旧陸海軍では選抜された[[大尉]]級を対象とする高級将校養成・教育機関として、[[陸軍大学校]]と[[海軍大学校]]が存在し、ともに大学校を称するが、これに相当する自衛隊の教育機関は[[陸上自衛隊教育訓練研究本部|陸上自衛隊教育訓練研究本部教育部]](旧:[[陸上自衛隊幹部学校]])・[[海上自衛隊幹部学校]]・[[航空自衛隊幹部学校]]であり、陸海空が共同で運用する自衛隊の最高教育機関としては[[統合幕僚学校]]が設置されている。 [[1953年]](昭和28年)4月1日に入校した本科第1期学生は、在校中に保安庁から防衛庁への改編を経て、新たに宣誓を行うなどの体験を経ながら4年後の[[1957年]](昭和32年)に卒業した。設立からの教育の特徴として、戦前の精神主義への反省とともに、近代戦の遂行は作戦、管理、[[兵站]]部門なども含めて数理的素養及び知識が絶対的に必要であることから理工系を重視している<ref group="注釈">平成23年度入校の一般採用試験による募集人員は、人文・社会科学専攻が約65名、理工学専攻が約285名である。その他推薦採用試験がある。</ref>。 [[1964年東京オリンピックの開会式]]では各国選手団が入場する際、防衛大学校学生が国名のプラカードを持って先導した。 * [[1952年]](昭和27年){{0}}8月{{0}}1日 - [[保安庁]]の附属機関として保安大学校設置<ref name="enkaku">[https://www.mod.go.jp/nda/about/history.html 防衛大学校HP 沿革]</ref> * [[1953年]](昭和28年){{0}}4月{{0}}1日 - 横須賀市[[久里浜駐屯地|久里浜]]の仮校舎にて開校<ref name="enkaku"/> * [[1954年]](昭和29年){{0}}7月{{0}}1日 - 「防衛大学校」に改名<ref name="enkaku"/> * [[1955年]](昭和30年){{0}}4月{{0}}1日 - 横須賀市[[小原台]]の新校舎に移転<ref name="enkaku"/> * [[1962年]](昭和37年){{0}}4月{{0}}1日 - 理工学研究科を開設<ref name="enkaku"/> * [[1974年]](昭和49年){{0}}4月{{0}}1日 - 人文・社会科学専攻課程を開講<ref name="enkaku"/> * [[1984年]](昭和59年){{0}}7月{{0}}1日 - 防衛庁設置法の改正により、施設等機関となる(防衛庁設置法第17条)<ref name="enkaku"/> * [[1989年]](平成元年){{0}}4月{{0}}1日 - 本科の教育課程の改革を実施し、専門区分を学科に再編成<ref name="enkaku"/> * [[1991年]](平成{{0}}3年)12月18日 - 本科及び理工学研究科学生に学位を授与することを決定する。従来は[[大学校]]で学位は得られなかった。 * [[1992年]](平成{{0}}4年){{0}}4月{{0}}1日 - 初めて女性入校(第40期)<ref group="注釈">[[防衛医科大学校]]では、昭和60年(1985年)入校の第12期から共学化されている。</ref>。 * [[1996年]](平成{{0}}8年){{0}}4月{{0}}1日 - 理工学研究科教育課程の改革を実施し、専門・系列を専攻・大講座に再編成<ref name="enkaku"/> * [[1997年]](平成{{0}}9年){{0}}4月{{0}}1日 - 総合安全保障研究科を開講<ref name="enkaku"/> * [[2000年]](平成12年){{0}}4月{{0}}1日 - 人文科学教室等の16教室を廃止し、6学群21教育室・学科に組織改編<ref name="enkaku"/>。理工学研究科に前期課程及び後期課程を設置<ref name="enkaku"/> * [[2001年]](平成13年){{0}}4月{{0}}1日 - 理工学研究科後期課程が開講<ref name="enkaku"/>。 * [[2008年]](平成20年){{0}}4月{{0}}1日 - 総合安全保障研究科に前期課程及び後期課程を設置<ref name="enkaku"/>。 * [[2009年]](平成21年){{0}}4月{{0}}1日 - 総合安全保障研究科後期課程が開講<ref name="enkaku"/>。 * [[2015年]](平成27年){{0}}4月10日 - 教養教育センター及び国際交流センターを設置<ref name="enkaku"/>。 * [[2016年]](平成28年){{0}}4月{{0}}1日 - グローバルセキュリティーセンターを設置<ref name="enkaku"/>。 * [[2018年]](平成30年){{0}}4月{{0}}1日 - 先端学術推進機構を設置<ref name="enkaku"/>。 * [[2022年]](令和{{0}}4年) - 創立70周年<ref>[https://www.mod.go.jp/nda/times/no238.html 防大タイムズNo.238] - 防衛大学校(2022年12月5日)、2023年2月1日閲覧。</ref>。 == 基礎データ == === 所在地 === * 横須賀キャンパス(神奈川県横須賀市走水1-10-20) <!-- === 象徴 === --> == 組織 == 防衛大学校は、学校長(防衛教官、現職は[[久保文明]])の下に、副校長3名(防衛[[事務官]](企画・管理担当)1名、防衛教官(教育担当)1名、及び[[陸将]]<ref group="注釈">初期は陸将補。1名だけ海将補が充てられたことがある([[防衛大学校の人物一覧#副校長]]参照)。</ref>である自衛官(訓練担当)1名(2021年(令和3年)4月1日付をもって自衛官のポストである「防衛大学校幹事」が「防衛大学校副校長」に職名が変更された<ref>[https://www.mod.go.jp/nda/information/20210507.html 防衛大学校幹事の職名変更について]</ref>)。その他、総務部等の各部と教育学群等が置かれている。 副校長は、学校長の命を受け、学校長を助け、主として、それぞれ特定の事項を整理する職として置かれており、教官をもって充てる副校長は教務部に関する事項を、自衛官をもって充てる副校長は訓練部に関する事項を、防衛事務官をもって充てる副校長はそれらの事項以外の事項をそれぞれ整理するものとされている<ref>[http://www.clearing.mod.go.jp/kunrei_data/a_fd/1958/ax19580529_00034_000.pdf 防衛大学校の副校長の職務に関する訓令]</ref>。自衛官をもって充てる副校長は、主に[[師団長]]経験者が充てられ、大学校教職員である自衛官の中では最も高位である。 大学と同様に[[教授会]]も置かれているが、教授会は、防衛大学校長、教官及び自衛官をもつて充てる副校長{{Efn|2021年3月31日以前は幹事}}並びに教授をもって組織されている<ref>[http://www.clearing.mod.go.jp/kunrei_data/a_fd/1955/ax19550907_00061_000.pdf 防衛大学校の教授会の組織及び運営に関する訓令]</ref>。 {{see also|防衛大学校の人物一覧}} === 総務部 === *総務課 **企画室 **社会連携推進室 *厚生課 *会計課 **経理室 *管理施設課 *衛生課 === 教務部 === *教務課 **教育研究支援室 *入学試験課 *理工学研究科長 *総合安全保障研究科長 *入試統括官 === 訓練部 === 訓練部長は[[将補]]が充てられる。総括首席指導教官([[1佐]])の下には首席指導教官(各大隊に1人計4人、主に[[2佐]])がおり、さらにその下に次席指導教官、中隊指導教官(各中隊に1名計16名、主に[[3佐]])がいる。 *訓練課 *学生課 **補導室 *総括首席指導教官 === 先端学術推進機構 === *教養教育センター *国際交流センター *先端学術推進機構事務室 === 総合情報図書館 === *学術情報官 **遠隔・マルチメディア教育研究部門 **IT技術研究部門 **情報システム活用研究部門 *総合情報図書館事務室 === 総合教育学群 === *外国語教育室 *体育学教育室 *数学教育室 === 人文社会科学群 === *人間文化学科 *公共政策学科(旧管理学科) *国際関係学科 === 応用科学群 === *応用物理学科 *応用化学科 *地球海洋学科 === 電気情報学群 === *電気電子工学科 *通信工学科 *情報工学科 *機能材料工学科 === システム工学群 === *機械工学科 *機械システム工学科 *航空宇宙工学科 *建設環境工学科 === 防衛学教育学群<ref group="注釈">創設以来、「陸上防衛学教室」、「海上防衛学教室」及び「航空防衛学教室」に分かれていたが、2000年(平成12年)4月1日に科目別による3つの教育室に再編された。</ref> === 防衛学教育学群長は[[空将補]]が充てられ、各室長には[[1佐]]が充てられている。 *国防論教育室 *戦略教育室 *統率・戦史教育室 == 学科構成 == === 本科 === *人文・社会科学専攻 **人間文化学科 **公共政策学科(旧管理学科) **国際関係学科 *理工学専攻 **応用物理学科 **応用化学科 **地球海洋学科 **電気電子工学科 **通信工学科 **情報工学科 **機能材料工学科 **機械工学科 **機械システム工学科 **航空宇宙工学科 **建設環境工学科 :※注:学科の選択は2年進級時 === 研究科 === *[[理工学研究科]] **電子工学専攻([[前期課程]]) ***電気システム工学大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、電気物理工学、電気エネルギー工学、電機システム制御がある。</ref> ***電子機能大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、固体電子工学、電子回路、電子機能デバイスがある。</ref> ***情報通信工学大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、情報伝送工学、光波工学、電波応用工学がある。</ref> **機械工学専攻(前期課程) ***材料・加工システム大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、機械材料、構造力学、精密工学がある。</ref> ***熱・流体応用工学大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、エネルギー工学、流体力学、船舶海洋工学がある。</ref> ***動力学システム大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、機械ダイナミクス、システム制御、車両工学がある。</ref> **航空宇宙工学専攻(前期課程) ***機体システム大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、空気力学、推進工学、構造材料学がある。</ref> ***飛行システム大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、航空力学、宇宙・飛翔システム、飛行制御がある。</ref> **物質工学専攻(前期課程) ***材料工学大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、材料特性学、材料計測学、特殊材料学、機能材料学がある。</ref> ***素材・エネルギー化学大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、無機素材化学、有機素材・生命機能化学、反応制御化学、火薬学がある。</ref> **情報数理専攻(前期課程) ***数理科学大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、数理構造、数理解析、応用数理がある。</ref> ***情報システム大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、応用システム・セキュリティ工学、知能情報、ロボット、オペレーション・リサーチがある。</ref> **境界科学専攻(前期課程) ***応用物理大講座<<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、応用物理情報、生体人間情報、応用弾道、シミュレーション科学がある。</ref> ***基礎物理大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、理論物理、放射線科学、固体構造物性、電子物性がある。防衛大学校理工学研究科学修規程では、「放射線計測」という名称である。</ref> **地球環境科学専攻(前期課程) ***地球宇宙科学大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、気象学、地球・海洋システム、宇宙科学及び地球リモートセンシング、水中音響・海洋情報工学がある。</ref> ***土木環境工学大講座<ref group="注釈">27年度入校生用の前期課程受験案内によると、教育研究分野は、構造工学、衝撃工学、地盤工学、水工学がある。</ref> **電子情報工学系専攻<ref group="注釈">27年度入校生用の後期課程受験案内によると、教育研究分野は、エレクトロニクス工学、情報通信工学、情報知能メディア学、海洋音響環境工学がある。</ref>([[後期課程]]) **装備・基盤工学系専攻<ref group="注釈">27年度入校生用の後期課程受験案内によると、教育研究分野は、装備システム工学、装備生産工学、航空飛翔システム、防災工学がある。</ref>(後期課程) **物質・基礎科学系専攻<ref group="注釈">27年度入校生用の後期課程受験案内によると、教育研究分野は、高エネルギー・物質工学、先端機能材料工学、応用・基礎物理学、地球宇宙科学がある。防衛大学校理工学研究科学修規程では、「基礎物理学」という名称である。</ref>(後期課程) *総合安全保障研究科 **総合安全保障専攻(前期課程、後期課程) ***国際安全保障コース ***戦略科学コース ***安全保障法コース :※注:後期課程にコースの区分はなし <!-- == 研究 == --> == 教育 == 防衛大学校の教育は、教育課程と訓練課程からなる。 === 教育課程 === 文部科学省の定める大学設置基準に準拠し、教養教育、外国語、体育、専門基礎の科目と、人文・社会科学専攻及び理工学専攻の専門科目を、それぞれ一般大学と同様に教育し、防衛大学校独自の防衛に関する学術分野として[[防衛学]]を教育する。教養教育は「文理交差教育」が行われ、人文・社会科学専攻学生は「数学」、「物理学」、「化学」などの理工系教育、理工学専攻学生は「思想と文化」、「歴史学」、「心理学」、「政治学」、「経済学」、「法学」などの人社系教育が行われる。 ==== 防衛学 ==== 本科学生は、専門区分や要員区分(陸上、海上、航空の各自衛隊要員別)に関わらず、原則として共通した内容の防衛学を履修する。ただし、要員別の科目や選択科目もある。2年次に陸上、海上、航空へと要員配分が行われる。個別科目を以下に記す。 *防衛学基礎 *国防論 *軍事史序論 *戦略 *軍事と科学技術 *作戦 *陸上作戦・海上作戦・航空作戦(各要員別に履修) *統率 *その他 ※以上、「防衛大学校規則」<ref>[http://www.clearing.mod.go.jp/kunrei_data/a_fd/1961/ax19611222_00081_000.pdf 防衛大学校規則](昭和36年12月22日防衛庁訓令第81号)</ref>を参照 防衛学は、一般に[[軍事学]]と呼ばれているものに相当し、その具体的内容の一端は、防衛学の教官を中心にしたグループの著作『軍事学入門』により知ることができる。 過去、防衛学は陸上防衛学、海上防衛学、航空防衛学の三つに区分され各要員別の履修となっていた。その内容は、現行の防衛学と同様のもののほかに、それぞれ個別の内容(例えば陸上防衛学では築城、通信、戦術等、海上防衛学では航海学、機関学、運用学等、航空防衛学では警備、整備、搭乗等)が相当程度含まれていた。現行の要員共通の防衛学を導入するに当たって、これらの要員別の教科内容は、防大の訓練課程及び防大卒業後の幹部候補生学校に振り替えられた。 ==== プログラム ==== 人社系・理工系にまたがり、学科・学群を横断する柔軟な履修を可能とする教育プログラムが、2012年度から導入された。「危機管理」(公共政策学科、国際関係学科対象)、「安全科学」(理工学専攻の全学科対象)、「生命科学」(応用化学科対象)、「国際交流」(全学科対象)の4プログラムがあり、プログラム履修生は、専攻に所属しつつ、プログラムごとに指定された講義科目群の中から必要な授業科目を、2-4年次の3年間、継続して履修する。所属する学科での学士号のほかにプログラム修了証書を受け取ることができる。 === 訓練課程 === 各学年全員が同じ訓練を行う共通訓練と、陸上・海上・航空要員に指定された後に行う専門(要員)訓練に区分される。訓練は、毎週2時間程度実施される課程訓練と、年間を通じ集中して実施される定期訓練(1ヶ月の訓練を1回、1週間の訓練を2回程度)がある。 *共通訓練 *:部隊見学、基本教練、各個戦闘訓練、[[小銃]]、野外勤務、[[カッターボート|カッター]]、[[衛生]]、[[体育]]、[[水泳]]、[[スキー]]、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]研修、教育法、富士登山 等 *陸上要員訓練 *:戦闘訓練、野戦築城、歩哨・斥候、各種武器、通信、指揮運用基礎、部隊実習 等 *海上要員訓練 *:航海概論、水泳、気象、信号通信、海事法規、運用、カッター、[[ヨット]]、 機動艇、乗艦実習、航空実習 等 *航空要員訓練 *:[[滑空機]]訓練、航空作戦、指揮幕僚活動、基地警備、航空機整備、通信電子、航法、保命、航空交通管制、部隊実習 等 === 学位 === ==== 本科 ==== 防衛大学校本科は1992年から「大学の[[学部]]に相当する教育課程」として認定されており、卒業に際しては、それぞれの専攻に応じて「[[学士]]」の[[学位]]が、[[独立行政法人]][[大学改革支援・学位授与機構]]から[[文部科学省]]所管の[[大学]]と同様に授与される。実践的な面での能力を身に付けるため、大学相当のカリキュラムに加え各種訓練も行われる。授与される学位は次のとおり。 * [[学士(人文科学)]] * [[学士(社会科学)]] * [[学士(理学)]] * [[学士(工学)]] 学位授与機構の定める単位を4年間で確保するために、課業終了後も「自習」が義務付けられている時間がある。 ==== 研究科 ==== 研究科として、理工学研究科及び総合安全保障研究科が置かれている。これは、[[学校教育法]]上の[[大学院]]に相当するものである。修了後、大学改革支援・学位授与機構の審査に合格すると学位が授与される。原則として自衛隊員の内部選抜者が入学するが、自衛隊員以外の者も入学することがある<ref>総合安全保障研究科第3期に留学した[[朝日新聞社]]谷田邦一記者の体験記が公開されている[http://www.nda.ac.jp/cc/users/asanoa/nda_study 防衛大学『留学』記]。</ref>。 現在は隊員以外は「特別研究員」として若干名募集され、身分は非常勤職員の自衛隊員として扱われる。在籍中は時給制で給与が支払われる。学費は無料。専攻は理工学と安全保障学の2種類で、区分は研究補助(RA、修士課程に相当)と教育補助(TA、博士後期課程に相当)がある。 授与される学位の種類は以下の6種。 * [[修士(理学)]] * [[修士(工学)]] * [[修士(安全保障学)]] * [[博士(理学)]] * [[博士(工学)]] * [[博士(安全保障学)]] **平成14年度までは「修士(安全保障学)」ではなく、「[[修士(社会科学)]]」が授与されていた。 == 学生生活 == * 本科学生は、入校後は敷地内の学生舎での集団生活が義務付けられており、集団行動と規則正しい生活により、将来の幹部自衛官たる礼儀作法を身に付ける。 * 制服については[[防衛大学校本科学生の制服]]を参照。 * 課業行進曲として防衛大学校行進曲が使用されている。 * 在校中に同一理由で二度留年することは許されない(二度目の留年=[[分限処分|分限免職]])。 * 1年生は陸海空の区別はなく、1年生の間に様々な適性検査や試験で進路が決められ2年進級時に陸海空に分かれる<ref name="名前なし-1">[[FLASH (写真週刊誌)]]2014年4月8日号[[桜林美佐]]取材・文『自衛隊「将校」の出世、カネ、私生活」</ref>。 === 学生隊 === 本科学生全員(2000人弱)で[[連隊]]規模の「学生隊」を編成する。学生隊は4個大隊からなり、[[大隊]]は4個中隊、[[中隊]]は3個小隊、[[小隊]]は約30~40名からなる([[分隊]]・[[班]]はない)。それぞれに学生長が置かれる。[[2004年]](平成16年)度までは1個中隊に1~4学年までが混合で所属しており、[[2005年]](平成17年)度からは学年ごとに1個小隊を組むようになった。ただし、学生長は4学年が務める。しかし、2018年現在ではまた各小隊に1~4学年が混合で所属するようになっている。 [[卒業式]]では時の[[内閣総理大臣]]が訓示を述べ、閉式直後に本科卒業生総代である後期学生隊学生長の「''n''期学生隊解散!」の号令とともに本科卒業生一同が一斉に制帽を宙に放り投げ、講堂から飛び出して行く光景が例年テレビ放送されることで有名<ref group="注釈">これは、[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ陸軍士官学校(ウェストポイント)]]等の「ハット・トス」を真似たものといわれている。</ref>。2013年に[[防衛大学校学生保険金詐欺事件]]が発覚したことを契機として、[[第2次安倍内閣]]が2014年春から任官辞退者に対する卒業式への出席を認めていない(任官辞退者は卒業式とは別の「卒業証書授与式」を前日に行い、私服姿で大学校裏門から帰宅させている<ref>[https://lite-ra.com/2016/03/post-2102_2.html 安倍首相が防衛大卒業式で自衛隊を「私兵」扱い…裏では任官拒否者の隠蔽工作や自衛隊“皇軍化”も進行中(2/3)] リテラ、やはり防衛大卒で毎日新聞記者・瀧野隆浩のレポート</ref>。防大創設当初も任官辞退者は卒業式に出席できない分離方式だったが、元警視総監の土田国保が1978年に学校長に就任してからは、任官辞退者も卒業式に出席できるようになった歴史がある<ref><防衛大>任官拒否者の卒業式締め出し 詐欺事件が契機 毎日新聞 2017年3月17日</ref>)。制帽は官給品であり、在校生によって回収され大学校に返納されるが、私物として購入することもできるので、記念として手元に残しておく者も多い。 === 校友会(クラブ活動) === 防大における課外活動である。 本科の学生は、必ず体育系の「校友会」に入部することとなっている<ref group="注釈">ただし、「事故」つまり規則違反で処分されるなどの理由で退部したりするなどして、再入部しない者もいる。</ref>。 大学ではないが[[海上保安大学校]]とともに参加を認めている大会もあり、参加時には国立大学と見なされる([[全国国公立大学選手権水泳競技大会]]など)<ref>[http://www.nda.ac.jp/ed/suiei/about.html 防衛大学校水泳部]</ref>。ただし、防衛大学校では各種行事の準備や練習は校友会の時間を削って行うため、練習時間の確保が難しく、部の方針として外部の競技会への参加を禁止する部もある。 [[応援団]]リーダー部と[[短艇]]委員会は、部ではなく委員会の扱いを受けている。また、[[儀仗隊]]は紹介ページにおいて運動部や文化部、同好会ではなく『その他』に分類されている。 [[吹奏楽]]部が体育系の扱いを受けているが、[[観閲式]]や開校記念祭での行進曲等の演奏その他、学校の顔として大きな役割を果たしており、それゆえ、練習時間を確保する必要があるからである。ただし紹介ページでは文化部に纏められている。 部に昇格していない同好会も多数存在する。 その他、特徴のある校友会は以下の通りである。 * ヨット部 - J-24を運航するヨット部(クルーザー)と、スナイプ・470・レーザーを操船するヨット部([[ディンギー]])がある。 ヨット部(クルーザー)は日本学生外洋帆走連盟(anioru)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/ANIORU/|title=日本学生外洋帆走連盟(anioru)|accessdate=2018-05-05|website=www.facebook.com|language=ja}}</ref>に所属し、全日本選手権第2位(2017、2018)、フランス世界選手権への出場実績<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/nda/obaradai/boudaitimes/btms200212/yachtman.htm|title=夢は世界に -世界学生ヨット選手権奮闘録-|accessdate=2018-05-05|website=www.mod.go.jp|publisher=}}</ref>もある。ヨット部(ディンギー)は関東学生ヨット連盟に所属するほか、インド海軍が主催する士官候補生のヨット競技アドミラルズカップに参加している。最高順位は総合5位<ref>{{Cite web|和書|url=http://bulkhead.jp/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%A4%A7%E3%83%A8%E3%83%83%E3%83%88%E9%83%A8%E3%81%8C%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E9%81%A0%E5%BE%81%EF%BC%81%E7%AC%AC8%E5%9B%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E4%B8%BB/|title=防衛大ヨット部がインド遠征!第8回インド海軍主催アドミラルズカップ・レポート {{!}} BULKHEAD Magazine バルクヘッドマガジン|accessdate=2018-05-05|website=bulkhead.jp|language=ja}}</ref>。 * [[射撃競技|射撃]]部 - 校内に射場やガンロッカーなどの設備が整っている。 * [[銃剣道]]部<ref group="注釈">[[国士舘大学]]や[[山梨学院大学]]にもあるが、競技人口が少ないため、部員全員が[[全日本学生選手権]]に出場できる現状である。</ref> * [[防衛大学校ラグビー部|ラグビー部]] - 1953年に創部。1958年には[[関東大学ラグビーフットボール連盟]]へ加盟。 * [[アメリカンフットボール|アメフト]]部 - 1954年に創部。1957年には[[関東学生アメリカンフットボール連盟]]へ加盟(8番目)。 * [[グライダー]]部 - 航空要員訓練で使われる機体を利用する。主に[[富士川滑空場]]で活動しているが、アメリカに合宿し、[[連邦航空局]]のライセンスを取得する部員もいる<ref>[http://www.nda.ac.jp/ed/glider/report/report20150805.html report20150805 of 防衛大学校グライダー部HP GLIDER WING] - アメリカに合宿のレポート</ref>。 * [[スカイダイビング|パラシュート]]部 - 降下訓練ではなく[[スカイスポーツ (競技)|スカイスポーツ]]の部活動。 * 紅太鼓同好会 - [[和太鼓]]の同好会。女子学生のみで構成される。 === 開校記念祭 === [[File:NDAJ Bo-taoshi 3.JPG|thumb|200px|right|防衛大学校の棒倒し]] 毎年11月に、[[大学祭|学園祭]]に相当する行事として「開校記念祭」が開催される。そこで行われる競技の中に[[棒倒し#防衛大学校の棒倒し|棒倒し]]があり、第一回開校祭から続いている。 [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症流行]]にともない、2020年度は開催中止となった<ref>[https://www.mod.go.jp/nda/information/20201016003.html 令和2年度 開校記念祭の中止について] - 防衛大学校(2020年10月16日)、2022年10月12日閲覧。</ref>。また、2021年度は家族を対象とした限定公開とし<ref>[https://www.mod.go.jp/nda/information/20211025001.html 令和3年度 開校記念祭について] - 防衛大学校(2021年10月25日)、2022年10月12日閲覧。</ref>、代替として観閲式および棒倒し競技会(決勝)をライブ配信した<ref>[https://www.mod.go.jp/nda/information/20211113001.html 令和3年度 開校記念祭 ライブ配信について(11月13日現在)] - 防衛大学校(2021年11月13日)、2022年10月12日閲覧。</ref>。2022年度も家族・来賓等を対象とした限定公開とし<ref>[https://www.mod.go.jp/nda/information/20221018001.html 令和4年度 開校記念祭について] - 防衛大学校(2022年10月18日)、2022年10月19日閲覧。</ref>、創立70周年記念式典、観閲式および棒倒し競技会(予選・決勝)をライブ配信した<ref>[https://www.mod.go.jp/nda/information/20221122002.html 令和4年度第70回防衛大学校開校記念祭ライブ配信(アーカイブ)について] - 防衛大学校(2022年11月22日)、2023年2月1日閲覧。</ref>。2023年度は4年ぶりに一般公開での開催となった<ref>[https://www.mod.go.jp/nda/times/no251.html 防大タイムズNo.251・第71回 開校記念祭を開催](防衛大学校、2023年11月22日閲覧)</ref>。 == 大学校関係者 == {{main|防衛大学校の人物一覧}} == 施設・備品 == === キャンパス === [[File:Obaradai.JPG|thumb|250px|right|飛行機上から撮影したキャンパス]] *交通アクセス:[[JR]][[横須賀線]][[横須賀駅]]、[[京急本線]][[横須賀中央駅]]・[[馬堀海岸駅]]から[[京浜急行バス久里浜営業所|京浜急行バス防衛大学校行]]終点下車。 *京急本線[[浦賀駅]]から徒歩15分 === 学生食堂 === 全学生が一斉に喫食可能な規模の食堂が整備されている。 === 講堂 === 収納することにより席数が増減可能となっている。卒業式などに際しては前列を格納し、卒業生は折りたたみ椅子に着席する。 === 学生会館 === 地下1階・地上4階の建物に学生生活に必要な物品・サービスを販売する売店が入店している。 *地下1階 - 理髪店(営業終了)、宅配便取扱店、クリーニング店 *地上1階 - 第二売店、コンビニエンスストア *地上2階 - 厚生課事務室、飲食店 *地上3階 - 部室、校友会学生委員会室、開校記念祭学生委員会室 *地上4階 - ホール、和室、学生相談室、連絡調整室(訓練部学生課が使用) 地上1階の第二売店では文房具、スポーツ用品、日用品、生活用品などを販売しており、学生生活に必要な物品やサービスを販売している。2010年から「[[ファミリーマート]] 防衛大学校店」が入店し、通常コンビニ業務の他、「防衛大学校グッズ」も販売している。一部の防衛大学校グッズは[[ファミマ・ドット・コム]]でも購入可能。 学生は防衛省共済組合員になることから地上2階に入居する「厚生課事務室」で貯金業務を受けることができる。[[現金自動預け払い機|ATM]]が設置されており現金の預入・引出も可能。防衛省職員は自動車購入資金・住宅購入資金・学資金などの貸付業務を受けることができる。 === 寮 === 敷地内に学生舎が4棟ある。全寮制で、1年生から4年生までが同室で生活する。 人材獲得の競争力を失わないための魅力化施策として、8人部屋から4人部屋を経て2人部屋へと移行したことがあったが、規律の緩みを招いたため、4人部屋を経て、現在は8人部屋(各学年2人ずつ)に戻っている<ref>[https://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/meeting/board/boudai-kaikaku/pdf/report/230601_report.pdf 防衛大学校改革に関する報告書(平成23年6月1日)]</ref>。調理室があり、簡単な食事なども寮の中で作れるが、使用は制限される。1年生は、冠婚葬祭など特別の理由がない限り、外泊出来ない<ref name="名前なし-1"/>。学生間指導が実施されている<ref>2019年2月7日中日新聞朝刊28面</ref>。「学生間指導のガイドライン」では暴力、威圧、精神的圧迫、[[いじめ]]に依らない指導となっている。約2000人の学生寮生活の監督には指導教官の幹部自衛官約70人が行っている。平成23年6月1日付の「防衛大学校改革に関する報告書」(防衛大学校改革に関する検討委員会)では、集団による不適切な学生間指導などの事案([[集団リンチ]])を問題視し、「学生間指導の在り方」(指導教官等用教材資料)では世界一の士官学校を目標に、口頭による指導を行い、威圧的な指導や暴力的指導に陥ることがあってはならないとされている。 === 備品 === 航空要員訓練のため[[グライダー]]([[アレキサンダー・シュライハー ASK 21|ASK 21]]、[[PZL (航空機メーカー)|SZD-51 Junior]])が配備されている<ref>[http://www.nda.ac.jp/ed/glider/gliderwinch.html Glider/Winch of 防衛大学校グライダー部HP GLIDER WING] - グライダー部の備品紹介</ref>が、自衛隊でグライダーに搭乗できるのは防衛大学校のみである。 == 対外関係 == 防衛大学校は外国軍から長期留学生を受け入れている。長期留学生を受け入れたことのある国は以下の通りである。 *[[インドネシア]] *[[ベトナム]] *[[タイ王国]] *[[大韓民国]] *[[ルーマニア]] *[[モンゴル]] *[[シンガポール]] *[[ミャンマー]] *[[東ティモール]] *[[フィリピン]] *[[カンボジア]] また、短期留学生も受け入れている。短期留学生を受け入れたことのある国は以下の通りである。 *[[アメリカ合衆国]] *[[フランス]] *[[カナダ]] 平成23年度(2011年度)現在は、タイ王国5名・フィリピン2名・インドネシア4名・アメリカ合衆国5名・フランス7名・ベトナム5名・大韓民国6名・モンゴル4名・カンボジア2名・東ティモール2名の全42名を受け入れている。 <!-- === 地方自治体との協定 === === 他大学との協定 === === 姉妹校 === === 系列校 === --> === 関係校 === *[[防衛医科大学校]] - 例年7月に約1週間、研修生を受け入れる。 *[[陸上自衛隊幹部候補生学校]] *[[海上自衛隊幹部候補生学校]] *[[航空自衛隊幹部候補生学校]] *[[陸上自衛隊高等工科学校]] - 例年10名程度の生徒が推薦入学する。 <!-- == 社会との関わり == == 附属学校 == == 関連項目 == ※関連項目は原則として使用しない。 --> ==不祥事・事件・問題・批判== ;保険金詐欺事件 {{see|[[防衛大学校学生保険金詐欺事件]]}} ;防衛大いじめ訴訟 {{section-stub|date=2020-7-5}} 上級生から暴行など受けたとして、元学生が国と在学時に学生だった8名に対して損害賠償を求めた件で、2019年2月に福岡地裁は8名のうちの7名に対しては損害賠償金計95万円の支払いを命じ、判決が確定した。判決によると男性は入学以降、上級生らに顔を殴られたり、[[アルコール]]を吹きかけられ[[陰毛]]に火をつけられたりする暴行を受けたとされる。一方、訴訟が分離されていた国については同年10月に地裁は「教官らは暴行を予見できなかった」として男性の請求を棄却した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASMB346TQMB3TIPE00S.html 防衛大いじめ訴訟、国の責任認めず 元学生の請求棄却:朝日新聞デジタル]</ref>。防衛大が事件後に学生1874を対象に行った調査によると、12人のみが「暴力は許されない」と回答し、この結果に被害者の母は「人権意識の低い人たちが幹部になっていく。このままで良いはずがない」と話している<ref>[https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/172948 顔殴られ、陰毛に火… 防衛大でいじめ、元学生の母講演「あしき伝統断ち切りを」|社会|地域のニュース|京都新聞]</ref>。 ;新型コロナの影響 {{section-stub|date=2020-7-5}} 2020年5月、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]により、学生は防衛大の敷地から出られないと言った事実上の「[[軟禁]]生活」状況が続いており、4月の新入生たちは精神的にかなり不安定になっており、[[ストレス (生体)|ストレス]]からか、[[首つり]]や[[リストカット]]、[[飛び降り]]といった[[自殺未遂]]、[[自傷行為]]が複数起きていると報道される<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20200615_1570144.html/4 防衛大が軟禁状態で異常事態 脱走、不審火、自殺未遂、賭博|NEWSポストセブン - Part 4]</ref>。原則上級生から下級生まで8人単位の居室で生活するといった厳しい上下関係に戸惑う新入生のストレス軽減のために、指導教官から「呼び出し指導(部屋長〈各居室の上級生指導役〉から下級生を居室に呼び出して指導すること)」をやめるように指示があったとされる<ref>[https://www.ne00525_1566327.html?DETAIL 防衛大、学生2000人外出禁止 ストレスで自殺未遂者情報も|NEWSポストセブン]</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20200514/k00/00m/040/175000c 4月から続く防大生「3密、軟禁生活」 自傷行為も発生「ストレスは限界に」 - 毎日新聞]</ref>。また、5月25日には、リストカットをして自宅に一度帰った後、学内に戻っていた学生が脱柵する騒ぎが起き、同日夜にはその学生が所属する中隊の学生舎で放火が疑われるボヤ騒ぎが起きたとされる<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20200615_1570144.html/5 防衛大が軟禁状態で異常事態 脱走、不審火、自殺未遂、賭博|NEWSポストセブン - Part 5]</ref>。 ;賭博行為の疑い(PX富豪) {{section-stub|date=2020-7-5}} 学内で遊ばれていたトランプの[[大富豪]]で負けた学生は、学内にある売店(通称:PX)で菓子や[[煙草]]などを買って差し出していたことから、「PX富豪」の呼び名がついた。そのうちにどんどん大きな金額を賭けだし、新入生が約50万円の負けを抱えてしまい、発覚したとされる。2020年5月27日の報道によると、[[賭博]]行為の疑いで陸上自衛隊第129地区[[警務隊]]が調査を開始したとされる<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20200615_1570144.html/6 防衛大が軟禁状態で異常事態 脱走、不審火、自殺未遂、賭博|NEWSポストセブン - Part 6]</ref><ref>[https://www.kanaloco.jp/article/entry-364670.html 防大生が賭博の疑い 陸自が捜査 | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞]</ref>。 == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2014年9月29日 (月) 12:35 (UTC)}} === 学校史 === *防衛大学校10年史編集委員会『防衛大学校十年史』防衛大学校、1965年 *防衛大学校20年史編集委員会『防衛大学校20年史』防衛大学校、1974年 *防衛大学校五十年史編纂事業委員会編『防衛大学校五十年史』防衛大学校、2004年 === 防衛大学校全般に関する文献 === *[[槙智雄]]『防衛の務め-防衛大学校における校長講話』甲陽書房、1965年 *岡田俊恒『防衛大学校-その教育と学生生活の全貌』教育社(教育新書)、1979年 *村上竜「防衛大学校-純粋培養は避け「文」を重視」『[[朝日ジャーナル]]』1980年8月22日 *四方洋、飯島一孝『青春の小原台-防大一期の三十年』毎日新聞社、1986年 *田谷史郎『俺の青春-防大生の赤裸々日記』エイデル研究所、1986年 *[[小川和久]]『リーダーのいない経済大国-日本を救う国家的リーダーシップ』太陽企画出版、1987年 *土屋道雄『小原台の青春-防衛大学生の日記』高木書房、1997年 *中森鎭雄『防衛大学校の真実-矛盾と葛藤の五〇年史』経済界、2004年 *永澤勲雄「防衛学教育の50年の歩みと研究活動」『防衛学研究』第30号、2004年3月 *鈴木健一、鈴木普慈夫『陸士・海兵・防衛大の教育史論』ぶんしん出版、2006年 *井上勝夫『落ちこぼれ防大生』(電子書籍)、2006年 *[[国分良成]]『防衛大学校 知られざる学び舎の実像』[[中央公論新社]]、2022年 === 防衛大学校の教育を反映した文献 === *防衛大学校防衛学研究会編『軍事学入門』かや書房、1999年 *防衛大学校安全保障学研究会編著『新訂第4版 安全保障学入門』亜紀書房、2009年 === 学風・同窓生等に関する参考資料・出典等 === *セキュリタリアン(各号) *Soyou - 2000年頃に将官のドライバー等を行っていた隊員による手記 *ヒゲの隊長 絆の道 ~果たしたい約束がある - [[佐藤正久]]の防大時代における先輩後輩の関係や、現在における防大同窓生の関係等も一部触れられている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[幹部候補生 (自衛隊)|幹部候補生]] * [[自衛官]] * [[航空学生]] - 高卒者を対象とし将来の航空機搭乗者を養成する航空自衛隊・海上自衛隊の訓練制度。防大生と同じ幹部候補であるが、こちらは階級が指定される自衛官であり海空に直接入隊する。 * [[高等工科学校生徒]] - 中卒者を対象とし陸曹候補者を養成する陸上自衛隊の教育制度。防大生と同じく、在学中は自衛官ではなく[[自衛隊員]]([[少年兵]]問題)。 * [[防衛大学校学生保険金詐欺事件]] * [[あおざくら 防衛大学校物語]] - 同校を舞台とした[[二階堂ヒカル]]原作の漫画作品 * [[小原台]] * [[夢見波事件]] * [[陸軍予科士官学校]] == 外部リンク == {{Commonscat|National Defense Academy of Japan}} * [https://www.mod.go.jp/nda/ 防衛大学校] * [https://www.bodaidsk.com/ 防衛大学校同窓会] * [https://boudaisinkoukai.or.jp/ 公益財団法人防衛大学校学術・教育振興会] * {{Twitter|mod_nda|防衛大学校【公式}} * {{Twitter|NDA_GoH|防衛大学校儀仗隊}} {{coord|35|15|27.6|N|139|43|19.1|E|display=title|region:JP_type:landmark}} {{防衛省}} {{陸上自衛隊の学校}} {{省庁大学校}} {{大学eラーニング協議会}} {{大学宇宙工学コンソーシアム}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほうえいたいかつこう}} [[Category:防衛大学校|*]] [[Category:自衛隊の学校]] [[Category:施設等機関]] [[Category:神奈川県の軍事施設]] [[Category:神奈川県の大学]] [[Category:大津 (横須賀市)]] [[Category:学校記事]] [[Category:1952年設立の政府機関]] [[Category:防衛省]]
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1610年
1610年(1610 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。 全て月日不詳
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1610年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1610}} {{year-definition|1610}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶長]]15年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2270年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]38年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[光海君]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3943年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[弘定]]11年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]18年 * [[仏滅紀元]] : 2152年 - 2153年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1018年 - 1019年 * [[ユダヤ暦]] : 5370年 - 5371年 * [[ユリウス暦]] : 1609年12月22日 - 1610年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1610}} == できごと == 全て月日不詳 * [[フランス]]国王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]が{{仮リンク|アンリ4世暗殺事件|label=暗殺|fr|Assassinat d'Henri IV}}され、息子の[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]が即位{{要出典|date=2021-03}}。 * [[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]において[[ポーランド王国|ポーランド]]軍が[[モスクワ]]市を占領する。([[1612年]]まで) * [[ガリレオ・ガリレイ]]が[[木星]]を観測し[[月]]以外の[[衛星]](4つ)を初めて発見する。 * [[田中勝介]]が[[ノビスパン]]([[メキシコ]])に渡航。彼は日本人では初めて[[太平洋]]を横断した。 * [[日本]]の[[下野国]][[阿蘇郡]]足尾村(現:[[栃木県]][[日光市]])にて地元の百姓2人により[[足尾銅山]]が発見される。 * 日本の[[尾張国]][[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]那古野[[菅原町 (名古屋市)|菅原町]](現:[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]錦二丁目)にて竹中藤兵衛正高が[[竹中工務店]]を創業する。 == 誕生 == {{see also|Category:1610年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月18日]](慶長15年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[山本春正]]、[[蒔絵]]師(+ [[1682年]]) * [[4月22日]] - [[アレクサンデル8世 (ローマ教皇)|アレクサンデル8世]]、[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1691年]]) * [[5月10日]](慶長15年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]) - [[角屋七郎兵衛]]、[[貿易]][[商人]]。[[安南]]に永住(+ [[1672年]]) * [[7月10日]] - [[ポール・スカロン]] - [[フランス]]の[[劇作家]](+ [[1660年]]) * [[7月14日]] - [[フェルディナンド2世・デ・メディチ]]、[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]](+ [[1670年]]) * [[9月24日]]([[万暦]]38年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[黄宗羲]]、[[儒学者]](+ [[1695年]]) * [[10月19日]] - [[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)]]、[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]](+ [[1688年]]) * 月日不明 - [[アドリアーン・ファン・オスターデ]]、[[オランダ]]の[[画家]](+ [[1685年]]) * 月日不明 - [[ダフィット・テニールス (子)]]、[[フランドル]]の画家(+ [[1690年]]) * 月日不明 - [[安原貞室]]、[[俳人]](+ 1673年) * 月日不明 - [[松平定政]]、[[三河国]][[刈谷藩]]主(+ [[1673年]]) == 死去 == {{see also|Category:1610年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月6日]](慶長14年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[牧野康成 (大胡藩主)|牧野康成]]、[[上野国]][[大胡藩]]主(* [[1555年]]) * [[3月7日]](慶長15年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[市姫]]、[[徳川家康]]五女(* [[1607年]]) * [[3月19日]](慶長15年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]) - [[長谷川等伯]]、画家(* [[1539年]]) * [[3月21日]](慶長15年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[滝川雄利]]、[[常陸国]][[片野藩]]主(* [[1543年]]) * [[4月1日]](慶長15年[[2月8日 (旧暦)|閏2月8日]]) - [[本多俊政]]、[[大和国]][[高取藩]]主(* [[1551年]]) * [[5月11日]](慶長15年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]) - [[生駒一正]]、[[讃岐国]][[丸亀藩]]主(* 1555年) *5月11日 - [[マテオ・リッチ]]、司祭(* [[1552年]]) * [[5月14日]] - [[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]、[[ブルボン朝]]フランス国王(* [[1553年]]) * [[5月18日]](慶長15年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]) - [[中院通勝]]、公家・歌人(* [[1556年]]) * [[5月31日]](慶長15年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]) - [[島津以久]]、[[日向国]][[佐土原藩]]主(* [[1550年]]) * [[7月18日]] - [[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]、画家(* [[1573年]]) * [[8月1日]](慶長15年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[伊奈忠次]]、[[関東郡代]]・武蔵国[[武蔵小室藩|小室藩]]主(* 1550年) * [[8月7日]](慶長15年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]) - [[那須資晴]]、[[戦国大名]](* [[1557年]]) * [[8月31日]](慶長15年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - [[高木清秀]]、戦国武将(* [[1526年]]) * [[9月18日]](慶長15年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]) - [[太田重正]]、戦国武将(* [[1561年]]) * [[9月24日]](慶長15年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[織田秀雄]]、戦国武将(* [[1583年]]) * [[10月6日]](慶長15年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - [[細川幽斎]]<ref>{{Kotobank|細川幽斎}}</ref>、戦国武将・歌人(* [[1534年]]) * [[10月14日]](慶長15年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]) - [[尼子義久]]、戦国大名(* [[1540年]]) * [[11月13日]](慶長15年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]) - [[溝口秀勝]]、[[越後国]][[新発田藩]]主(* [[1548年]]) * [[12月3日]](慶長15年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]) - [[本多忠勝]]、[[伊勢国]][[桑名藩]]主(* 1548年) * [[12月11日]] - [[アダム・エルスハイマー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Adam-Elsheimer Adam Elsheimer German artist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](* [[1578年]]) * [[12月23日]](慶長15年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[島津忠長 (宮之城家)|島津忠長]]、戦国武将(* 1551年) * 月日不明 - [[小田守治]]、戦国武将(* 1557年) * 月日不明 - [[木造長政]]、戦国武将(* 1561年) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|date=2015年5月}} * デューン率いる「砂漠の使徒」のサラマンダー男爵、[[パリ]]に現れるが、初代プリキュア・キュアアンジェによって「[[モン・サン=ミシェル]]」に封印される。(『[[映画 ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー…ですか!?]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1610}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1610ねん}} [[Category:1610年|*]]
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京急東神奈川駅
京急東神奈川駅(けいきゅうひがしかながわえき)は、神奈川県横浜市神奈川区東神奈川一丁目にある、京浜急行電鉄(京急)本線の駅である。駅番号はKK35。 旧駅名の「仲木戸」は、江戸時代この近辺に「神奈川御殿」と呼ばれていた将軍の宿泊施設があり、木の門を設けて警護していた。そのためこの一帯が「仲木戸」と呼ばれていたことに由来している。 改称にあたっては前述の東神奈川駅と隣接していながら、駅名が異なることで乗り換え可能駅として旅客から十分に認知されていないことから、「京急」を冠した上で同駅名とし、乗り間違いを防ぎつつ利便性を高めたものとされているが、新横浜駅近くにある横浜国際総合競技場へ向かう客のことも考えていたという。 相対式ホーム2面2線を有する盛土上の高架駅であり、有効長は8両である。駅舎は2番線ホーム側の地上部に設置されている。改札口は地上部と2番線ホームの横浜方にある。2番線ホームの改札口はペデストリアンデッキに直結している。 かつて待避設備を有していた名残でホームは幅が広い。 1番線へはいずれの改札口を利用するにも、1番線側・2番線側の双方で階段またはエレベーターを経由する必要がある。 1番線と2番線との連絡通路は地上より若干高くなったところにある。 駅員が常駐するのは、ペデストリアンデッキと直結する二階の改札口のみである。 横浜市統計書によると2022年度の1日平均乗降人員は21,311人(乗車人員:10,726人、降車人員:10,585人)である。 2020年度の1日平均乗降人員は18,022人であり、京急線全72駅中28位。近年は利用者数が増加傾向にある。 近年の1日平均乗降人員と乗車人員の推移は下表の通り。 駅の二階から出ると東日本旅客鉄道(JR東日本)京浜東北線・横浜線の東神奈川駅と連絡するペデストリアンデッキ「かなっくウォーク」がある。屋根はないが東神奈川駅まで数十メートルであり、容易に乗り換えが可能である。かつて連絡運輸は存在しなかったが、2008年3月15日より定期券に限り連絡運輸を開始した。なお、最終列車の接続待ちは相互に行っていない(当駅構内にその旨の注意書きがある)。
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京急東神奈川駅(けいきゅうひがしかながわえき)は、神奈川県横浜市神奈川区東神奈川一丁目にある、京浜急行電鉄(京急)本線の駅である。駅番号はKK35。
{{駅情報 |社色 = #00bfff |文字色 = white |駅名 = 京急東神奈川駅 |画像 = Keikyū Higashi Kanagawa Station Upper Deck Entrance 2020.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅舎(2020年6月7日) |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|35|28|38.3|N|139|38|4.1|E}}|title=京急東神奈川駅|coord2={{coord|35|28|40.5|N|139|38|0|E}}|title2=東神奈川駅|marker-color=00bfff|marker-color2=008000}}左上は乗換駅の東神奈川駅 |よみがな = けいきゅう ひがしかながわ |ローマ字 = Keiky&#363; Higashi-kanagawa |副駅名 = 【旧駅名 仲木戸】 |前の駅 = KK34 [[神奈川新町駅|神奈川新町]] |駅間A = 0.5 |駅間B = 1.0 |次の駅 = [[神奈川駅|神奈川]] KK36 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|KK|35|#00bfff|4||#00386d}} |所属事業者 = [[京浜急行電鉄]](京急) |所属路線 = {{color|#00bfff|■}}[[京急本線|本線]] |キロ程 = 20.5 |起点駅 = [[品川駅|品川]] |所在地 = [[横浜市]][[神奈川区]][[東神奈川]]一丁目11-5 |所在地幅 = |緯度度 = 35 |緯度分 = 28 |緯度秒 = 38.3 |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 139 |経度分 = 38 |経度秒 = 4.1 |E(東経)及びW(西経) = E |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1905年]]([[明治]]38年)[[12月24日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = 21,311 |統計年度 = 2022年 |乗換 = [[東神奈川駅]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200408015123/https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|title=●JR線と連絡会社線との乗り換え駅|archivedate=2020-04-08|accessdate=2020-04-08|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref><br/>([[京浜東北線|JR京浜東北線]]・[[横浜線|JR横浜線]]) |備考 = |備考全幅 = * 改称経歴<br /><span style="font-size:90%">- 1915年 中木戸駅→仲木戸駅<br />- 2020年 仲木戸駅→京急東神奈川駅</span> }} '''京急東神奈川駅'''(けいきゅうひがしかながわえき)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[神奈川区]][[東神奈川]]一丁目にある、[[京浜急行電鉄]](京急)[[京急本線|本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KK35'''。 == 歴史 == * [[1905年]]([[明治]]38年)[[12月24日]] - '''中木戸駅'''(なかきどえき)として開業。当時は地上駅だった<ref name="RF656">[[電気車研究会]]発行「[[鉄道ピクトリアル]]」1998年7月臨時増刊号(通巻656号)129ページ</ref>。 * [[1910年]](明治43年)8月 - 横浜鉄道(現JR[[横浜線]])の[[貨物線]](現在廃線)を敷く際に高架駅となった<ref name="RF656"/>。 * [[1915年]]([[大正]]4年) - '''仲木戸駅'''に改称(改称された日は不明)<ref name="RF656"/>。 * [[1936年]]([[昭和]]11年)12月 - 待避設備が新設され、急行の待避を開始。だがそれは戦時中に撤去される<ref name="RF656"/>。 * [[1945年]][[5月29日]] - [[横浜大空襲]]で駅舎とともに焼失。 * [[1957年]](昭和32年)7月 - 駅舎を地上部に復旧。 * [[1971年]](昭和46年)2月 - [[ホーム有効長]]を6両編成対応に延長。 * [[2004年]]([[平成]]16年) - [[ペデストリアンデッキ]]に直結した改札口の使用を開始する。 * [[2010年]](平成22年) ** 5月 - [[エアポート急行]]の停車に備え、ホーム有効長を8両編成対応に延長。 ** [[5月16日]] - [[ダイヤ改正]]により新設されたエアポート急行の停車駅となる。これは[[東日本旅客鉄道]][[横浜線]]から[[東神奈川駅]]乗換での利用を狙ったと見られている<ref>鶴通孝「横浜起点に見た首都圏鉄道の現実」『[[鉄道ジャーナル]]』第50巻第1号、鉄道ジャーナル社、2016年、27頁。</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]] - '''京急東神奈川駅'''に改称し<ref name="2020-03-14">{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20191216HP_19166TS.pdf|format=PDF|language=日本語|title=京急線6駅の駅名を2020年3月14日(土)に変更します|publisher=京浜急行電鉄|date=2019-12-16|accessdate=2019-12-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191216064450/https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20191216HP_19166TS.pdf|archivedate=2019-12-16}}</ref>、副駅名に'''旧駅名 仲木戸'''が追加される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2018/20190125HP_18229TS.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200309182021/https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2018/20190125HP_18229TS.pdf|format=PDF|language=日本語|title=沿線地域の活性化を目的に2020年3月 4駅の駅名を変更します|page=2|publisher=京浜急行電鉄|date=2019-01-25|accessdate=2020-03-09|archivedate=2020-03-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.hamakei.com/column/316/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200320053807/https://www.hamakei.com/column/316/|title=特集)京急開業120年 仲木戸駅誕生から115年 生まれ変わった京急6駅 歴史と全駅ビフォア&アフター|newspaper=ヨコハマ経済新聞|date=2020-03-14|accessdate=2020-03-27|archivedate=2020-03-20}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[7月2日]] - [[ホームドア]]の使用を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/report/2022/20227212.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220702111401/https://www.keikyu.co.jp/report/2022/20227212.html|title=お知らせ 2022年7月2日(土)始発より京急東神奈川駅1・2番線のホームドアの運用を開始いたします|date=2022-06-22|archivedate=2022-07-02|accessdate=2022-07-02|publisher=京浜急行電鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 === 駅名の由来 === 旧駅名の「仲木戸」は、江戸時代この近辺に「[[神奈川御殿]]」と呼ばれていた将軍の宿泊施設があり、木の門を設けて警護していた。そのためこの一帯が「仲木戸」と呼ばれていたことに由来している<ref>{{Cite web|和書|title=東神奈川駅と仲木戸駅はあんなに近いのになんで駅名が違うの? - はまれぽ.com 神奈川県の地域情報サイト|url=http://hamarepo.com/story.php?story_id=2261|website=はまれぽ.com|accessdate=2019-02-04}}</ref>。 改称にあたっては前述の東神奈川駅と隣接していながら、駅名が異なることで乗り換え可能駅として旅客から十分に認知されていないことから、「京急」を冠した上で同駅名とし、乗り間違いを防ぎつつ利便性を高めたものとされているが、[[新横浜駅]]近くにある[[横浜国際総合競技場]]へ向かう客のことも考えていたという<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/283686?page=3 一挙に6駅、駅名変更は京急の得意技だった] 東洋経済オンライン 2022年10月1日閲覧</ref>。 == 駅構造 == [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[盛土]]上の[[高架駅]]であり、有効長は8両である。駅舎は2番線ホーム側の地上部に設置されている。[[改札#改札口|改札口]]は地上部と2番線ホームの横浜方にある。2番線ホームの改札口はペデストリアンデッキに直結している。 かつて待避設備を有していた名残でホームは幅が広い<ref name="RF656"/>。 === のりば === <!--ホーム上の案内標識、ならびに公式サイトの駅構内図の表記に基づく--> {|class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 本線 |style="text-align:center"|下り |[[横浜駅|横浜]]・[[三浦海岸駅|三浦海岸]]方面 |- !2 |style="text-align:center"| 上り |[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]方面 / [[品川駅|品川]]方面 |} 1番線へはいずれの改札口を利用するにも、1番線側・2番線側の双方で[[階段]]または[[エレベーター]]を経由する必要がある。 1番線と2番線との連絡通路は地上より若干高くなったところにある。 駅員が常駐するのは、ペデストリアンデッキと直結する二階の改札口のみである。 <gallery> Keikyu-railway-KK35-Keikyu-higashi-kanagawa-station-platform-20230708-162403.jpg|ホーム(2023年7月) Nakakido sta2.jpg|延長工事中のホーム(2010年5月) Nakakido sta1.jpg|エアポート急行停車標識(2010年5月) 京急東神奈川 駅名標.jpg|駅名標(2020年3月) 仲木戸駅:JR東神奈川駅方面出口.JPG|2番線ホーム端の改札口(2012年7月) NakakidoSt.jpg|改良前の駅舎(2005年11月) </gallery> == 利用状況 == 横浜市統計書によると2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''21,311人'''(乗車人員:10,726人、降車人員:10,585人)である<ref>{{Cite web|和書|url=https://view.officeapps.live.com/op/view.aspx?src=https%3A%2F%2Fwww.city.yokohama.lg.jp%2Fcity-info%2Fyokohamashi%2Ftokei-chosa%2Fportal%2Ftokeisho%2F09.files%2Ft091305.xlsx&wdOrigin=BROWSELINK |title=京浜急行線乗降車人員/最新掲載:令和5年3月(エクセル:260KB) |access-date=2022-5-25 |publisher=横浜市}}</ref>。 2020年度の1日平均乗降人員は18,022人であり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/pdf/handbook2021-2022_P019-042.pdf|archiveurl=|title=京急グループ会社要覧 2021 - 2022|archivedate=|page=31|accessdate=2021-09-25|publisher=京浜急行電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>、京急線全72駅中28位。近年は利用者数が増加傾向にある。 近年の1日平均'''乗降'''人員と'''乗車'''人員の推移は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/tokei-chosa/portal/tokeisho/09.html 横浜市統計書] - 横浜市</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/yoran.html 神奈川県県勢要覧] - 神奈川県</ref> !出典 |- |1980年(昭和55年) | |4,729 | |- |1981年(昭和56年) | |4,901 | |- |1982年(昭和57年) | |4,967 | |- |1983年(昭和58年) | |6,653 | |- |1984年(昭和59年) | |4,808 | |- |1985年(昭和60年) | |4,471 | |- |1986年(昭和61年) | |4,455 | |- |1987年(昭和62年) | |4,475 | |- |1988年(昭和63年) | |4,422 | |- |1989年(平成元年) | |4,384 | |- |1990年(平成{{0}}2年) | |4,425 | |- |1991年(平成{{0}}3年) | |4,391 | |- |1992年(平成{{0}}4年) | |4,195 | |- |1993年(平成{{0}}5年) | |4,011 | |- |1994年(平成{{0}}6年) | |3,937 | |- |1995年(平成{{0}}7年) | |3,645 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/992578_3227111_misc.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}} - 23ページ</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | |3,471 | |- |1997年(平成{{0}}9年) | |3,424 | |- |1998年(平成10年) | |3,482 |<ref group="*">神奈川県県勢要覧(平成12年度)224ページ</ref> |- |1999年(平成11年) | |3,589 |<ref group="*" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 神奈川県県勢要覧(平成13年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2000年(平成12年) |7,701 |3,987 |<ref group="*" name="toukei2001" /> |- |2001年(平成13年) |8,323 |4,290 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 神奈川県県勢要覧(平成14年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2002年(平成14年) |9,072 |4,701 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 神奈川県県勢要覧(平成15年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2003年(平成15年) |10,578 |5,586 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 神奈川県県勢要覧(平成16年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2004年(平成16年) |11,972 |6,340 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 神奈川県県勢要覧(平成17年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2005年(平成17年) |12,838 |6,799 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 神奈川県県勢要覧(平成18年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2006年(平成18年) |13,424 |7,045 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 神奈川県県勢要覧(平成19年度)]}} - 228ページ</ref> |- |2007年(平成19年) |13,902 |7,177 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 神奈川県県勢要覧(平成20年度)]}} - 232ページ</ref> |- |2008年(平成20年) |15,457 |7,696 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 神奈川県県勢要覧(平成21年度)]}} - 242ページ</ref> |- |2009年(平成21年) |15,915 |7,929 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 神奈川県県勢要覧(平成22年度)]|1.38MB}} - 240ページ</ref> |- |2010年(平成22年) |16,910 |8,436 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 神奈川県県勢要覧(平成23年度)]|2.36MB}} - 240ページ</ref> |- |2011年(平成23年) |17,728 |8,858 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 神奈川県県勢要覧(平成24年度)]|830KB}} - 236ページ</ref> |- |2012年(平成24年) |18,692 |9,355 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 神奈川県県勢要覧(平成25年度)]|509KB}} - 238ページ</ref> |- |2013年(平成25年) |20,325 |10,163 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/762227.pdf 神奈川県県勢要覧(平成26年度)]}} - 240ページ</ref> |- |2014年(平成26年) |20,818 |10,429 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/821900.pdf 神奈川県県勢要覧(平成27年度)]|536KB}} - 240ページ</ref> |- |2015年(平成27年) |21,904 |10,997 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 神奈川県県勢要覧(平成28年度)]|533KB}} - 248ページ</ref> |- |2016年(平成28年) |22,556 |11,331 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 神奈川県県勢要覧(平成29年度)]}} - 240ページ</ref> |- |2017年(平成29年) |22,996 |11,547 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 神奈川県県勢要覧(平成30年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2018年(平成30年) |23,567 |11,824 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 神奈川県県勢要覧(令和元年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2019年(令和元年) |23,821 |11,907 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202015.pdf 神奈川県県勢要覧(令和2年度)]}} - 224ページ</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |18,022 | | |} == 駅周辺 == 駅の二階から出ると[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[京浜東北線]]・[[横浜線]]の[[東神奈川駅]]と連絡する[[ペデストリアンデッキ]]「かなっくウォーク」がある。屋根はないが東神奈川駅まで数十メートルであり、容易に乗り換えが可能である。かつて[[連絡運輸]]は存在しなかったが、[[2008年]][[3月15日]]より[[定期乗車券|定期券]]に限り連絡運輸を開始した。なお、最終列車の接続待ちは相互に行っていない(当駅構内にその旨の注意書きがある)。 === 周辺施設 === * [[かなっくシティ]] ** かなっくホール ** かなっくシティ東部療育ビル * [[横浜市立神奈川小学校]] * かながわ保育園 * 神奈川警察署東神奈川駅前交番 * 東神奈川駅前郵便局 * [[CIAL PLAT]](東神奈川駅ビルに[[2009年]][[10月7日]]開業) * [[神奈川警察署|神奈川県神奈川警察署]] *[[成仏寺 (横浜市)|成仏寺]] * [[国道15号]](第一京浜) * [[首都高速道路]][[首都高速神奈川1号横羽線|横羽線]][[東神奈川出入口]] * 東海プラザ * 神奈川公会堂 * 神奈川図書館 * 神奈川区総合庁舎 ** 横浜市神奈川区役所 ** 横浜市神奈川消防署 * 神奈川簡易裁判所 * 神奈川区検察庁 * 横浜西神奈川郵便局 * [[北陸銀行]]横浜支店 * 孝道山([[孝道教団]]) * [[反町公園]] - 隣駅の[[神奈川駅]]からも徒歩圏内である。 * 済生会東神奈川リハビリテーション病院(旧・横浜逓信病院) * [[済生会神奈川県病院]] * [[国道1号]](第二京浜)・[[神奈川県道12号横浜上麻生線]]・[[横浜新道]] * [[東急東横線]][[東白楽駅]] * [[神奈川県立神奈川工業高等学校]] * [[神奈川県立神奈川総合高等学校]] * [[学校法人大原学園|大原学園]]横浜校 - 隣の神奈川駅からも徒歩圏内である。 * [[スシロー]] 東神奈川店 === バス路線 === {{See|東神奈川駅#バス路線}} == 隣の駅 == ; 京浜急行電鉄 : [[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 本線 :: {{Color|#049c5e|□}}「[[ウィング号 (京急)|モーニング・ウィング号]]」・{{Color|#049c5e|□}}「[[ウィング号 (京急)|イブニング・ウィング号]]」・{{Color|#049c5e|■}}快特・{{Color|#e8334a|■}}特急 :::; 通過 :: {{Color|#006cb8|■}}急行 ::: [[神奈川新町駅]] (KK34) - '''京急東神奈川駅 (KK35) ''' - [[横浜駅]] (KK37) :: {{Color|#595757|■}}普通 ::: 神奈川新町駅 (KK34) - '''京急東神奈川駅 (KK35) ''' - [[神奈川駅]] (KK36) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 出典 == {{Reflist|group="*"|23em}} == 関連項目 == {{Commonscat|Nakakido Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == {{Osm box|w|190141625}} * {{外部リンク/京浜急行電鉄駅|駅番号=KK35}} * [http://www1.c3-net.ne.jp/hamachan/tetudou-yokohama-2.htm 横浜と鉄道 京浜急行「仲木戸駅」の謎](「ハマちゃん」のがらくた箱) {{京急本線}} {{DEFAULTSORT:けいきゆうひかしかなかわ}} [[Category:神奈川区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 け|いきゆうひかしかなかわ]] [[Category:京浜急行電鉄の鉄道駅]] [[Category:1905年開業の鉄道駅]]
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16,671
SM嬢
SM嬢(えすえむ じょう)は、一般的にSMクラブやSMバーで働く女性のことを指す。 サディズム (S) もマゾヒズム (M) も兼ねる人もいれば、どちらか片方だけの人もいる。特にS専門の女性を「女王様」と呼び、M専門の女性を「M嬢」と呼ぶ。女王様もM嬢も入店当時はそれほどのプレイはできない者が多いが、その後の“調教”(研修)によってかなりのプレイができるようになる。
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SM嬢は、一般的にSMクラブやSMバーで働く女性のことを指す。 サディズム (S) もマゾヒズム (M) も兼ねる人もいれば、どちらか片方だけの人もいる。特にS専門の女性を「女王様」と呼び、M専門の女性を「M嬢」と呼ぶ。女王様もM嬢も入店当時はそれほどのプレイはできない者が多いが、その後の“調教”(研修)によってかなりのプレイができるようになる。
{{出典の明記|date=2011年9月}} {{性的}} '''SM嬢'''(えすえむ じょう)は、一般的に[[SMクラブ]]や[[SMバー]]で働く[[女性]]のことを指す。 [[サディズム]] (S) も[[マゾヒズム]] (M) も兼ねる人もいれば、どちらか片方だけの人もいる。特にS専門の女性を「[[女王#女王様|女王様]]」と呼び、M専門の女性を「M嬢」と呼ぶ。女王様もM嬢も入店当時はそれほどのプレイはできない者が多いが、その後の“[[調教]]”([[研修]])によってかなりのプレイができるようになる。 == 関連項目 == * [[BDSM]] * [[SM (性風俗)]] * [[性的ロールプレイ]] * [[ドミナ]]({{仮リンク|ドミナトリックス|en|Dominatrix}}) * {{仮リンク|ドミノマスク|en|Domino mask}} * [[フェムドム]] * [[ボンデージ]] * [[ミストレス]] {{Porn-stub}} {{DEFAULTSORT:えすえむしよう}} [[Category:性風俗関係者|*えすえむしよう]] [[Category:職業別の女性]] [[Category:BDSM]]
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16,672
1635年
1635年(1635 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1635年(1635 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "フィクションのできごと" } ]
1635年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1635}} {{year-definition|1635}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]12年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2295年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[崇禎]]8年 *** [[高迎祥]] : [[興武]]元年 ** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天聡]]9年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]13年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3968年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[徳隆]]7年、[[陽和]]元年10月 - * [[仏滅紀元]] : 2177年 - 2178年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1044年 - 1045年 * [[ユダヤ暦]] : 5395年 - 5396年 * [[ユリウス暦]] : 1634年12月22日 - 1635年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1635}} == できごと == * [[2月10日]] - [[アカデミー・フランセーズ]]創立 * [[5月19日]] - [[三十年戦争]]: [[ブルボン朝|フランス]]が介入して[[スペイン帝国]]に宣戦布告 * [[5月30日]] - 三十年戦争: [[プラハ条約 (1635年)|プラハ条約]]締結 * [[9月12日]] - 三十年戦争: [[ポーランド・リトアニア共和国]]と[[バルト帝国|スウェーデン帝国]]が休戦協定 ([[:w:en:Treaty of Stuhmsdorf]]) * [[9月18日]] - 三十年戦争: [[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]がフランスに宣戦布告 * [[チャハル]]の[[エジェイ]]が[[後金]]に降伏。[[元 (王朝)|元朝]]伝来の[[玉璽]]が後金にわたる。 === 日本 === * [[8月3日]](寛永12年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]) - [[武家諸法度]]の改正で[[参勤交代]]の義務化と[[大船建造の禁]]が盛り込まれる。 *第3次[[鎖国]]令によりすべての日本人の東南アジア方面への海外渡航と帰国を全面的に禁止。外国船の入港を[[長崎港|長崎]]のみに限定。それによる[[朱印船貿易]]の終末。 * [[江戸幕府]]が[[寺社奉行]]を設置。 * 江戸幕府が[[諸士法度]](旗本法度)を公布。 * [[松前藩]]の[[松前公広]]が[[村上掃部左衛門]]を[[樺太]]巡察に派遣し、[[ウッシャム]]に至る。 == 誕生 == {{see also|Category:1635年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月6日]] - [[ヨハン・ベッヒャー]]、[[ドイツ]]の[[化学者]]、[[錬金術|錬金術師]](+ [[1682年]]) * [[7月18日]] - [[ロバート・フック]]、[[イギリス]]の[[物理学者]]、[[生物学者]](+ [[1703年]]) * [[11月27日]] - [[マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ]]、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の妻(+ [[1719年]]) * [[フランソワ・ロロネー]]、[[海賊]](+ [[1667年]]) * [[ヘンリー・モーガン]]、[[私掠船]]船長、海賊(+ [[1688年]]) == 死去 == {{see also|Category:1635年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月]] - [[トーマス・ランドルフ]]([[w:Thomas Randolph (poet)|Thomas Randolph]])、[[詩人]]、[[劇作家]](* [[1605年]]) * [[3月24日]] - [[ジャック・カロ]]、[[画家]](* [[1592年]]頃) * [[4月25日]] - [[アレッサンドロ・タッソーニ]]([[w:Alessandro Tassoni|Alessandro Tassoni]])、詩人(* [[1565年]]) * [[8月27日]] - [[ロペ・デ・ヴェガ]]、スペインの劇作家(* [[1562年]]) * [[9月30日]](寛永12年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]) - [[狩野山楽]]、[[狩野派]]の絵師(* [[1559年]]) * [[10月]] - [[松山主水]]、剣客(* 生年不明) * [[10月23日]] - [[ウィルヘルム・シッカート]]、初めて自動計算機を作った[[技術者]](* [[1592年]]) * [[11月14日]] - [[トーマス・パー]]、152歳まで生きたとされる人物(* [[1483年]]?) * [[12月7日]](寛永12年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[神屋宗湛]]、[[博多]]の[[商人|豪商]](* [[1551年]]) * [[12月25日]] - [[サミュエル・ド・シャンプラン]]、[[フランス]]の[[探検家]]、[[地図]]製作者(* [[1567年]]または[[1570年]]) * [[ラジャ・ウング]]、[[パタニ王国]][[女王]](* 生年不明) == フィクションのできごと == * ドクターが友人のチベット僧から宝物ガンダを預かるよう依頼される。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1635}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1635ねん}} [[Category:1635年|*]]
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16,673
1637年
1637年(1637 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1637年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1637}} {{year-definition|1637}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[丁丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]14年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2297年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]]:[[崇禎]]10年 *** [[張普薇]]:[[天運 (張普薇)|天運]]元年 ** [[清]]{{Sup|*}}:[[崇徳]]2年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]:[[仁祖]]15年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3970年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]]:[[陽和]]3年 * [[仏滅紀元]]:2179年 - 2180年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1046年 - 1047年 * [[ユダヤ暦]]:5397年 - 5398年 * [[ユリウス暦]]:1636年12月22日 - 1637年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1637}} == できごと == * [[2月3日]] - [[オランダ]]で[[チューリップ・バブル]]事件{{要出典|date=2021-02}}。 * [[12月11日]](寛永14年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[島原の乱]]勃発( - 1638年)。 * [[ルネ・デカルト]]の著書『[[方法序説]]』公刊。 * [[三田渡の盟約]]締結、[[朝鮮]]が[[清]]の[[属国]]となる。 * [[明]]の[[宋応星]]が産業技術書『[[天工開物]]』公刊。 * [[月桂冠 (企業)|月桂冠]]の前身である酒屋「笠置屋」が開業。 * [[タージ・マハル]]着工([[1653年]]完成)。 == 誕生 == {{see also|Category:1637年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月26日]]([[寛永]]14年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[松下見林]]、[[儒学者]]・[[医者]]・[[歴史学者]](+ [[1704年]]) * [[2月12日]] - [[ヤン・スワンメルダム]]、[[オランダ]]の[[博物学者]](+ [[1680年]]) * [[5月31日]](寛永14年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - [[祐天]]、[[浄土宗]]の[[僧]](+ [[1718年]]) * [[6月10日]] - [[ジャック・マルケット]]、[[宣教師]]、ヨーロッパ人として初めて[[ミシシッピ川]]に到達(+ [[1675年]]) * [[ディートリヒ・ブクステフーデ]]、[[ドイツ]]の[[作曲家]]・[[オルガン]]奏者(+ [[1707年]]) == 死去 == {{see also|Category:1637年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月15日]] - [[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1578年]]) * [[2月27日]] (寛永14年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[本阿弥光悦]]、[[書家]](* [[1558年]]) * [[4月5日]](寛永14年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[本多正純]]、幕臣(* [[1565年]]) * [[4月30日]](寛永14年閏[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]) - [[丹羽長重]]、[[武将]]、[[大名]](* [[1571年]]) * [[8月6日]] - [[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]、[[詩人]](* [[1572年]]) * [[10月14日]] - [[ガブリエッロ・キアブレーラ]]、詩人(* [[1552年]]) * [[アーティッタヤウォン]]、[[アユタヤ王国]]第26代[[国王]](* 生年不明) * [[覚海 (中国)|覚海]]、来日した中国僧(* 生年不明) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1637}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1637ねん}} [[Category:1637年|*]]
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16,674
1557年
1557年(1557 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1557年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1557}} {{year-definition|1557}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[弘治 (日本)|弘治]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2217年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]36年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]12年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3890年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[光宝]]4年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[天祐 (黎朝)|天祐]]元年 * [[仏滅紀元]] : 2099年 - 2100年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 964年 - 965年 * [[ユダヤ暦]] : 5317年 - 5318年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1557|Type=J|表題=可視}} == できごと == * ポルトガルが[[マレー半島]]・[[セイロン島]]に侵略、[[マカオ]]に[[要塞]]を築いて[[極東]]の拠点とした{{要出典|date=2021-04}}。 === 日本 === * [[4月30日]]([[弘治 (日本)|弘治]]3年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]) - [[毛利元就]]が[[福原貞俊]]に命じ[[大内義長]]と[[内藤隆世]]の籠る[[長門国|長門]][[勝山城 (長門国)|且山城]]を包囲する。義長を助命するという条件で開城し隆世が自刃する。義長は長門[[功山寺|長福院]]に入る。 * [[5月1日]]([[弘治 (日本)|弘治]]3年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]) - 福原貞俊が長門長福院を包囲する。大内義長が自刃する。[[大内氏]]滅亡。毛利元就が[[周防国|周防]]と長門を平定する。 * [[9月21日]](弘治3年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]) - [[川中島の戦い]](3回目) * [[9月28日]](弘治3年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]<ref>荒川秀俊ほか編「日本高潮史料 13頁~14頁:弘治三年八月二十六日」、池田正一郎著「日本災変通志>中世 戦国時代>弘治三年 315頁」、小倉一德編、[[力武常次]]+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>1.上代 中世の災害>南北朝・室町時代の主要災害一覧 68頁:近畿諸国大風雨」[http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_7821.html]</ref>) - 9月26日から28日にかけて[[暴風雨]]が[[近畿]]を襲い、[[大阪湾]]では[[高潮]]が発生。大阪湾周辺で数千人が死亡した<ref>{{Cite book|和書|title=明日の[[防災]]に活かす[[災害]]の歴史〈2〉[[平安時代]]~[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]|page=42|date=2020年4月7日|publisher=[[小峰書店]]|isbn=978-4-338-33702-1|author=[[伊藤和明]]}}</ref>。 * [[11月22日]](弘治3年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]) - [[織田信長]]が再び謀反を企てる弟の[[織田信行]]を[[尾張国|尾張]][[清洲城]]で暗殺する。 * [[12月15日]](弘治3年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - 毛利元就が三人の息子([[毛利隆元]]・[[吉川元春]]・[[小早川隆景]])に対して[[三子教訓状]]を書く。 * 日本初となる西洋式[[手術|外科手術]]が豊後・府内(現在の大分県庁の所在地)でポルトガル人医師1名と、日本人医師2名で行われた。当時の国主であった大友宗麟が許可したもので、大分県庁前には記念碑が立っている。 == 誕生 == {{see also|Category:1557年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月16日]] - [[アゴスティーノ・カラッチ]]、[[画家]]・[[版画家]](+ [[1602年]]) * [[仁科盛信]]、戦国武将(+ [[1582年]]) * [[見性院 (山内一豊室)|見性院]]、[[山内一豊]]室(+ [[1617年]]) == 死去 == {{see also|Category:1557年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月2日]] - [[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]、[[画家]](* [[1494年]]) * [[5月1日]]([[弘治 (日本)|弘治]]3年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]) - [[大内義長]]、[[周防国|周防]]の[[戦国大名]](* [[1532年]]?) * [[9月27日]](弘治3年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]) - [[後奈良天皇]]、第105代[[天皇]](* [[1497年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|1557}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1557ねん}} [[Category:1557年|*]]
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16,675
1594年
1594年(1594 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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1594年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1594}} {{year-definition|1594}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[文禄]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2254年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]22年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]27年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3927年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]17年 *** [[武登]] : [[羅平 (武登)|羅平]]元年6月 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2136年 - 2137年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1002年 - 1003年 * [[ユダヤ暦]] : 5354年 - 5355年 * [[ユリウス暦]] : 1593年12月22日 - 1594年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1594}} == できごと == * [[2月27日]] - [[フランス]][[国王|王]][[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]、正式に[[戴冠式]]を執り行う。 * [[10月8日]](文禄3年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]) - [[石川五右衛門]]、三条河原で釜茹での刑に処せられる。 * [[豊臣秀吉]]が僧侶の女犯肉食を禁止し、破戒僧を追放するよう、各寺に法令を出す<ref>『性と宗教』、2022年1月発行、島田裕巳、講談社現代新書、P85</ref>。 * オランダの[[ウィレム・バレンツ]]が、東アジアに至る[[北東航路]]探検のため、2隻の船でアムステルダムを出航。ノヴァヤゼムリャの西岸に達した。 * イギリスの[[ジョン・デイヴィス (探検家)|ジョン・デイヴィス]] が実践的な航海術についての論文 『船乗りの秘密』(The Seamans Secrets)を出版する。 * [[パドヴァ大学]]に公開で解剖を行い講義を行う[[解剖劇場]]が作られた。 == 誕生 == {{see also|Category:1594年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月16日]](文禄2年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[前田利常]]、[[加賀藩]]第3代[[藩主]](+ [[1658年]]) * [[2月19日]] - [[ヘンリー・フレデリック・ステュアート]]、[[イングランド王国|イングランド]]・[[スコットランド王国|スコットランド]][[王太子]]、[[プリンス・オブ・ウェールズ]](+ [[1612年]]) * [[6月]] - [[ニコラ・プッサン]]、[[画家]](+ [[1665年]]) * [[8月2日]](文禄3年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]) - [[五郎八姫]]、[[伊達政宗]]の娘(+ [[1661年]]) * [[12月9日]] - [[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]、[[スウェーデン]]王(+ [[1632年]]) * [[今川直房]]、[[旗本]]、[[高家 (江戸時代)|高家]](+ [[1662年]]) == 死去 == {{see also|Category:1594年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月2日]] - [[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ|ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ]]、作曲家(* [[1525年]]頃) * [[2月23日]](文禄3年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[曲直瀬道三|曲直瀬正盛(道三)]]、[[医師]](* [[1507年]]) * [[5月30日]] - [[バラッシ・バーリント]]、[[詩人]](* [[1554年]]) * [[5月31日]] - [[ティントレット]]、画家(* [[1518年]]) * [[6月14日]] - [[オルランド・ディ・ラッソ]]、作曲家(* [[1532年]]頃) * [[7月]] - [[ジローラモ・メーイ]]([[w:Girolamo Mei|Girolamo Mei]])、[[歴史家]](* [[1519年]]) * [[10月8日]](文禄3年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]) - [[石川五右衛門]]、[[盗賊]](* [[1558年]]) * [[10月28日]](文禄3年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[大久保忠世]]、[[武将]]、[[蟹江七本槍]]のひとり(* [[1532年]]) * [[11月6日]](文禄3年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]) - [[簗田晴助]]、[[古河公方|古河公方家]]重臣、[[関宿城]]城主(* [[1524年]]) * [[12月2日]] - [[ゲラルドゥス・メルカトル]]、[[地理学者]](* [[1512年]]) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|date=2015年5月}} * 初代・鶴姫と[[猿飛佐助]]・[[真田十勇士#三好清海入道|三好晴海入道]]・[[真田十勇士#霧隠才蔵|霧隠才蔵]]・[[児雷也]]の計5名、妖怪忍者[[ぬらりひょん|ヌラリヒョン]]率いる妖怪軍団と戦い、妖怪たちを「封印の扉」に閉じ込める。(『[[忍者戦隊カクレンジャー]]』) == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1594}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1594ねん}} [[Category:1594年|*]]
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16,676
1599年
1599年(1599 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1599年(1599 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。", "title": null } ]
1599年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1599}} {{year-definition|1599}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶長]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2259年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]27年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]32年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3932年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]22年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]7年 * [[仏滅紀元]] : 2141年 - 2142年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1007年 - 1008年 * [[ユダヤ暦]] : 5359年 - 5360年 * [[ユリウス暦]] : 1598年12月22日 - 1599年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1599}} == できごと == * [[7月22日]] - [[ティコ・ブラーエ]]がプラハで日食を観測する{{要出典|date=2021-03}}。 * [[フランス王国]]、シュリーの財政改革。 * イタリアの[[ウリッセ・アルドロヴァンディ]]が鳥類譜"''Ornithologiae''"を出版する。 * [[グローブ座]]が開業。 * [[1月10日 (旧暦)|1月10日]] - [[豊臣秀頼]]が[[前田利家]]の後見の下、[[伏見城]]から[[大坂城]]に移る。 * 閏[[3月3日 (旧暦)|3月3日]] - [[加藤清正]]・[[福島正則]]ら[[七将]]が、[[五奉行]]の[[石田三成]]を伏見に襲撃する。 * 閏[[3月10日 (旧暦)|3月10日]] - 石田三成が[[奉行]]職を罷免されて、居城の[[近江国]][[佐和山城]]に[[蟄居]]する。 == 誕生 == {{see also|Category:1599年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月22日]] - [[アンソニー・ヴァン・ダイク]]、[[画家]](+ [[1641年]]) * [[4月25日]] - [[オリバー・クロムウェル]]、[[イングランド]]の[[政治家]]、[[軍人]](+ [[1658年]]) * [[6月6日]] - [[ディエゴ・ベラスケス]]、画家(+ [[1660年]]<ref>「スペイン文化事典」pp122-123 川成洋・坂東省次編 丸善 平成23年1月31日発行</ref>) == 死去 == {{see also|Category:1599年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月27日]]([[慶長]]4年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[前田利家]]、[[武将]](* [[1539年]]) * [[7月11日]](慶長4年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[長宗我部元親]]、[[大名]](* [[1539年]]) * [[11月22日]](慶長4年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[南部信直]]、[[陸奥国]]の[[武将]]・[[戦国大名]](* [[1546年]]) == フィクションのできごと == * キャリオナイトがグローブ座を設計する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1599}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1599ねん}} [[Category:1599年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1599%E5%B9%B4
16,679
SMクラブ
SMクラブとは、サドやマゾのSM嬢からSMサービスが提供される性風俗店である。これらの店では主に男性を顧客として想定しており、「女王様」と一般に呼ばれるサディスト役、「M嬢」や「M女性」、「M子」などと呼ばれるマゾヒスト役によってサービスが行われる。 大多数のSMクラブにおいて、プレイの前に客の側から店舗ないしSM嬢に対して希望するプレイ、または希望しないプレイ(「NG」)が伝えられる。これらの意思の伝達は、カウンセリング、インタビュー、または書面を通じて行われる。 プレイ時間は60分以上を基本とし、準備・プレイ内容・後片付けに応じて数時間以上にわたりうる。 プレイ内容の基本的なものとしては、「緊縛、鞭、低温ローソク、アナル責め、言葉責め、スパンキング、顔面騎乗、浣腸、標準的なセックストイ(手枷・足枷・ピンクローター・アナルバイブ・ペニスバンドなど)、聖水、 手コキ、足コキ」などが挙げられる。なお、プレイ内容に関する同意の形成過程を放棄し、SM嬢に対してこれを求めない、いわゆる「真性マゾヒスト」の場合、上記の内容に関して時間以外についてはSM嬢に一任されることとなる。 日本においてSMクラブは、一般に風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)に定める無店舗型性風俗特殊営業店の営業形態(の一つ)に該当する。2005年の風適法改正により、プレイ用の設備・空間が設けられているSMクラブ、すなわちの店舗型性風俗特殊営業としては事実上消滅した。 ジェンダーおよびサドマゾヒズム研究を専門とする、福岡女子大学の河原梓水によれば、商業的なBDSMコミュニティであるSMクラブの興隆は、1970年以降にプライベートのBDSMコミュニティを衰退させる一要因であったと指摘している。 また、河原は、サディスト役の「女王様」とマゾヒストである顧客との関係が、取引関係かつ(BDSM文脈における)主従関係となりうることについて説明・報告を行っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "SMクラブとは、サドやマゾのSM嬢からSMサービスが提供される性風俗店である。これらの店では主に男性を顧客として想定しており、「女王様」と一般に呼ばれるサディスト役、「M嬢」や「M女性」、「M子」などと呼ばれるマゾヒスト役によってサービスが行われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大多数のSMクラブにおいて、プレイの前に客の側から店舗ないしSM嬢に対して希望するプレイ、または希望しないプレイ(「NG」)が伝えられる。これらの意思の伝達は、カウンセリング、インタビュー、または書面を通じて行われる。", "title": "プレイ内容" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "プレイ時間は60分以上を基本とし、準備・プレイ内容・後片付けに応じて数時間以上にわたりうる。", "title": "プレイ内容" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "プレイ内容の基本的なものとしては、「緊縛、鞭、低温ローソク、アナル責め、言葉責め、スパンキング、顔面騎乗、浣腸、標準的なセックストイ(手枷・足枷・ピンクローター・アナルバイブ・ペニスバンドなど)、聖水、 手コキ、足コキ」などが挙げられる。なお、プレイ内容に関する同意の形成過程を放棄し、SM嬢に対してこれを求めない、いわゆる「真性マゾヒスト」の場合、上記の内容に関して時間以外についてはSM嬢に一任されることとなる。", "title": "プレイ内容" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本においてSMクラブは、一般に風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)に定める無店舗型性風俗特殊営業店の営業形態(の一つ)に該当する。2005年の風適法改正により、プレイ用の設備・空間が設けられているSMクラブ、すなわちの店舗型性風俗特殊営業としては事実上消滅した。", "title": "法律上の位置づけ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ジェンダーおよびサドマゾヒズム研究を専門とする、福岡女子大学の河原梓水によれば、商業的なBDSMコミュニティであるSMクラブの興隆は、1970年以降にプライベートのBDSMコミュニティを衰退させる一要因であったと指摘している。", "title": "BDSM文化内での位置づけ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、河原は、サディスト役の「女王様」とマゾヒストである顧客との関係が、取引関係かつ(BDSM文脈における)主従関係となりうることについて説明・報告を行っている。", "title": "BDSM文化内での位置づけ" } ]
SMクラブとは、サドやマゾのSM嬢からSMサービスが提供される性風俗店である。これらの店では主に男性を顧客として想定しており、「女王様」と一般に呼ばれるサディスト役、「M嬢」や「M女性」、「M子」などと呼ばれるマゾヒスト役によってサービスが行われる。
{{性的}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2019年11月 | 国際化 = 2022年7月9日 (土) 03:33 (UTC) | 独自研究 = 2019年11月 }} '''SMクラブ'''とは、[[サディズム|サド]]や[[マゾヒズム|マゾ]]の[[SM嬢]]から[[SM (性風俗)|SM]]サービスが提供される[[風俗店|性風俗店]]である。これらの店では主に男性を顧客として想定しており{{Sfn|河原|2021|p=159}}{{Refnest|河原梓水(2021年)は、近年女性の利用者が増加しつつあることを指摘している{{sfn|河原|2021|p=159}}。|group=注釈}}、「女王様」と一般に呼ばれるサディスト役、「M嬢」や「M女性」、「M子」などと呼ばれるマゾヒスト役によってサービスが行われる{{Sfn|河原|2021|p=159}}。 == プレイ内容 == 大多数のSMクラブにおいて、プレイの前に客の側から店舗ないしSM嬢に対して希望するプレイ、または希望しないプレイ(「NG」)が伝えられる{{Sfn|河原|2021|p=160}}。これらの意思の伝達は、[[カウンセリング]]、インタビュー、または書面を通じて行われる{{Sfn|河原|2021|p=160}}。 プレイ時間<ref group="注釈">セッション時間とも。</ref>は60分以上を基本とし、準備・プレイ内容・後片付けに応じて数時間以上にわたりうる{{Sfn|河原|2021|p=159}}。 プレイ内容<ref group="注釈">ここでは、いわゆるロールプレイや大まかな流れではなく、個々の行為を指す。</ref>の基本的なものとしては、「[[緊縛]]、[[鞭打ち|鞭]]、[[ろうそくプレイ|低温ローソク]]、アナル責め、[[羞恥プレイ|言葉責め]]、[[スパンキング]]、[[顔面騎乗]]、[[浣腸プレイ|浣腸]]、標準的な[[性具|セックストイ]](手枷・足枷・[[バイブレータ (性具)|ピンクローター]]・アナルバイブ・[[ペニスバンド]]など)、[[糞尿愛好症|聖水]]、 [[手コキ]]、[[足コキ]]」{{Sfn|河原|2021|p=159}}などが挙げられる。なお、プレイ内容に関する同意の形成過程を放棄し、SM嬢に対してこれを求めない、いわゆる「真性マゾヒスト」{{Sfn|河原|2021|pp=161-162}}の場合、上記の内容に関して時間以外についてはSM嬢に一任されることとなる{{Sfn|河原|2021|p=164}}。 == 法律上の位置づけ == 日本においてSMクラブは、一般に[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]](風適法)に定める無店舗型性風俗特殊営業店の営業形態(の一つ)に該当する{{Sfn|河原|2021|pp=158-159}}。2005年の風適法改正により、プレイ用の設備・空間が設けられているSMクラブ、すなわちの店舗型性風俗特殊営業としては事実上消滅した{{Sfn|河原|2021|p=169}}。 == BDSM文化内での位置づけ == {{Seealso|奇譚クラブ}} [[ジェンダー研究|ジェンダー]]および[[サドマゾヒズム]]研究を専門とする、[[福岡女子大学]]の河原梓水によれば、商業的なBDSMコミュニティであるSMクラブの興隆は、1970年以降にプライベートのBDSMコミュニティ{{Sfn|河原|2021|p=153}}を衰退させる一要因であったと指摘している{{Sfn|河原|2021|pp=168-169}}。 また、河原は、サディスト役の「女王様」とマゾヒストである顧客との関係が、取引関係かつ(BDSM文脈における)主従関係となりうることについて説明・報告を行っている{{Sfn|河原|2021|p=161}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite journal|author=河原梓水|date=2021-03-31|title=現代日本のSMクラブにおける「暴力的」な実践:女王様とマゾヒストの完全奴隷プレイをめぐって|doi=10.18910/79260|journal=臨床哲学ニューズレター|volume=3|pages=148-171|publisher=[[大阪大学大学院文学研究科・文学部]]|ref={{SfnRef|河原|2021}}|NCID=AA11130116}} == 関連項目 == * [[イメージクラブ]] * [[ごっこ遊び]] * [[性的ロールプレイ]] * [[性的同意]] * [[SMバー]] * [[ピンクサロン]] * [[ファッションヘルス]] {{Culture-stub}} {{デフォルトソート:えすえむくらふ}} [[Category:性風俗関連特殊営業]] [[Category:BDSM]]
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16,681
藤田雅矢
藤田 雅矢(ふじた まさや、1961年 -)は、日本の小説家、植物育種家。京都市に生まれる。京都大学農学部卒、農学博士。京都大学SF研究会OB。日本SF作家クラブ会員。 学生時代より、SF同人誌『零』をのちにエッセイスト・小説家となる入江敦彦と主宰。 ♯印の作品は、電子化。
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藤田 雅矢は、日本の小説家、植物育種家。京都市に生まれる。京都大学農学部卒、農学博士。京都大学SF研究会OB。日本SF作家クラブ会員。
{{読み仮名_ruby不使用|'''藤田 雅矢'''|ふじた まさや|1961年 - }}は、日本の[[小説家]]、植物[[育種家]]。[[京都市]]に生まれる。[[京都大学大学院農学研究科・農学部|京都大学農学部]]卒、[[博士(農学)|農学博士]]。[[京都大学SF研究会]]OB。[[日本SF作家クラブ]]会員。 == 略歴 == 学生時代より、SF[[同人誌]]『零』をのちにエッセイスト・小説家となる[[入江敦彦]]と主宰<ref>井上雅彦:監修『[[異形コレクション]] 物語のルミナリエ』[[光文社]]〈[[光文社文庫]]〉ISBN 978-4-334-76344-2、p.483。</ref>。 * 1986年 「一万年の貝殻都市」で第12回[[ハヤカワ・SFコンテスト]]参考作。 * 1995年 『糞袋』で第7回[[日本ファンタジーノベル大賞]]優秀賞受賞<ref>[[井上雅彦]]:監修『異形コレクション 物語のルミナリエ』光文社〈光文社文庫〉ISBN 978-4-334-76344-2、p.481。</ref>。デビュー作となる。 * 1995年 童話「月当番」で第26回[[JOMO童話賞]]佳作。 * 2000年 短編「奇跡の石」で第12回[[SFマガジン読者賞]]国内部門1位。 * 2007年 短編「ダーフの島」で第18回SFマガジン読者賞国内部門1位。 * 2015年 『クサヨミ』で、[http://www.sakuramedal.com/ Sakura Medal] 2015 (Japanese MS Books) 受賞。 == 作品一覧 == === 長編 === * 糞袋(1995年12月、[[新潮社]])ISBN 4104092010 ♯(2018年8月、惑星と口笛ブックス) * 蚤のサーカス(1998年8月、新潮社)ISBN 4104092029 ♯(2014年4月、アドレナライズ) * 星の綿毛(2003年10月、[[早川書房]])ISBN 4152085266 ♯(2014年5月、アドレナライズ) * クサヨミ(2013年8月、[[岩崎書店]])ISBN 4265075037 ♯印の作品は、電子化。 === 絵本 === * つきとうばん(2006年6月、[[教育画劇]])ISBN 4774607126 * キャベツめキャベツ([[福音館書店]])『ちいさなかがくのとも』2007年12月号 === 園芸実用書 === * 捨てるな、うまいタネ(2003年5月、[[WAVE出版]])ISBN 487290155X * ひみつの植物(2005年4月、WAVE出版)ISBN 4872902203 * まいにち植物(2007年5月、WAVE出版)ISBN 4872902998 * 捨てるな、うまいタネ NEO(2010年6月、[[WAVE文庫]])ISBN 978-4872904758 === 電子版短篇集 === *植物標本集(ハーバリウム)(2018年8月、アドレナライズ) ::(収録作品)*ダーフの島 *世界玉 *口紅桜 *トキノフウセンカズラ *植物標本集(ハーバリウム) *ブルームーン *計算の季節 *スヴァールバルからの便り * 鬼になる(2018年8月、アドレナライズ) ::(収録作品)*鬼になる *暖かなテント *引きだし刑 *幻肢(ファントム)の左手 *釘拾い *舞花 *Dovey Junction *最後の象 *おちゃめ *銀のあしの象 *歯神社 *鉄塔の記憶 * エンゼルフレンチ(2018年8月、アドレナライズ) ::(収録作品)*奇跡の石 *エンゼルフレンチ *飛行螺子 *地球の裏側 *こだま *RAIN *SHS88 === 短編 === * 螺旋の記憶 [[SFワールド]]6号(1984年) * 計算の季節 『日本SF短篇50 IV』([[ハヤカワ文庫JA]])(初出 [[S-Fマガジン]] 1996年6月号) * 引きだし刑 S-Fマガジン 1997年6月号 * ファントムの左手 S-Fマガジン 1998年11月号 * 鬼になる『現代の小説2000』([[徳間書店]])(初出 S-Fマガジン 1999年8月号) * 奇跡の石 SFマガジン 2000年2月号、『日本SFの臨界点[恋愛篇] 死んだ恋人からの手紙』(ハヤカワ文庫JA) * 暖かなテント [[異形コレクション]]14『世紀末サーカス』([[廣済堂文庫]])(2000年) * 世界玉 異形コレクション16『帰還』([[光文社文庫]])(2000年) * 舞花 異形コレクション綺賓館III『櫻憑き』(光文社ノベルズ)(2001年) * ぬへこ SFマガジン 2001年9月号 * RAIN『SFバカ本 電撃ボンバー編』([[メディアファクトリー]])(2002年)、『日本SF・名作集成(第9巻)』([[リブリオ出版]]) * 飛行螺子 SFマガジン 2003年5月号 * 月当番 SFマガジン 2003年12月号(JOMO童話賞佳作で、絵本「つきとうばん」の原型) * 地球の裏側 SFマガジン 2004年12月号 * ダーフの島 SFマガジン 2006年2月号 * 口紅桜 SFマガジン 2007年2月号 * トキノフウセンカズラ『短篇ベストコレクション―現代の小説2009』([[徳間文庫]])(初出 SFマガジン 2008年5月号) * ブルームーン [[ビッグ・イシュー]]日本版103号(2008年) * 釘拾い [[異形コレクション]]41『京都宵』(光文社文庫)(2008年) * Dovey Junction 「はじめて降りた駅」webアンソロジー(2009年) * エンゼルフレンチ [[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション]]『NOVA1』([[河出文庫]])(2009年) * おちゃめ 異形コレクション48『物語のルミナリエ』(光文社文庫)(2011年) * 植物標本集(ハーバリウム)[[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション]]『NOVA7』(河出文庫)(2012年) * こだま IHI空想ラボラトリー掲載(2014年) * 最後の象 人工知能 Vol.30 No.3 (2015年) * 銀のあしの象 ベネッセコーポレーション「小学5年生 フシギ大発見ブック」(2016年) * スヴァールバルからの便り『植物標本集(ハーバリウム)』(アドレナライズ)(2018年) * 歯神社(第2回大阪てのひら怪談)『鬼になる』(アドレナライズ)(2018年) * 鉄塔の記憶(短歌)『鬼になる』(アドレナライズ)(2018年) * SHS88『エンゼルフレンチ』(アドレナライズ)(2018年) * ZOO『万象』([[惑星と口笛ブックス]])(2018年) *贋冬『万象ふたたび』([[惑星と口笛ブックス]])(2021年) *シダーローズの時間『京都SFアンソロジー:ここに浮かぶ景色』(Kaguya Books)(2023年) *ブランコ『万象3』([[惑星と口笛ブックス]])(2023年) === コラムなど === * 変わりダネ植物誌 日経サイエンス 2007年3月号~8月号 *父の友(エッセイ)母の友 2010年12月号、2011年1月号、2月号 *みちくさ野の草 なごみ 2011年1月号~12月号 *特集 変化朝顔の不思議 なごみ 2012年8月号 *みちくさ植物 読売新聞金曜夕刊(週一コラム)2011年10月-2013年9月 *ハヤカワ文庫SF総解説 ジョナサンと宇宙クジラ、都市、瞬きよりも速く SFマガジン2015年4月号,6月号,8月号(『ハヤカワ文庫SF総解説2000』) *オールタイム・ベストSF映画総解説 サイレント・ランニング、幻の湖、サマータイムマシン・ブルース、ハプニング SFマガジン2017年10月号、12月号、2018年2月号 === 翻訳作品 === *「エンゼルフレンチ」’Angel French' Speculative Japan 3: Silver Bullet and Other Tales (Kurodahan Press) *「奇跡の石」《奇跡之石》風間 訳《科幻世界·訳文版》2010年10号 *「キャベツめキャベツ」韓国版  「양배추와 방울양배추」(ヨウォンメディア) *「キャベツめキャベツ」繁体版 「和爺爺一起種菜」(小行星) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://fujitama3.hatenadiary.jp/ ふじたまの日々] *[https://note.com/fujitam3/ 藤田雅矢 note]  {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふした まさや}} [[Category:日本の小説家]] [[Category:日本のSF作家]] [[Category:京都大学出身の人物]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]]
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950年
950年(950 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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950年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|950}} {{year-definition|950}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[庚戌]] * [[日本]] ** [[天暦]]4年 ** [[皇紀]]1610年 * [[中国]] ** 五代 *** [[後漢 (五代)|後漢]] : [[乾祐 (五代後漢)|乾祐]]3年 ** 十国 *** [[南唐]] : [[保大 (南唐)|保大]]8年 *** [[呉越]] : 乾祐3年(後漢の元号を使用) *** [[南漢]] : [[乾和]]8年 *** [[楚 (十国)|楚]] : 乾祐3年(後漢の元号を使用)、保大8年(南唐の元号を使用) *** [[後蜀 (十国)|後蜀]] : [[広政]]13年 ** その他 *** [[遼]] : [[天禄 (遼)|天禄]]4年 *** [[大理国]] : [[至治 (大理)|至治]]5年 *** [[于闐]] : [[同慶 (于闐)|同慶]]39年 * [[朝鮮]] ** [[高麗|高]] {{see also|Category:950年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月12日]]([[天暦]]4年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[冷泉天皇]]、第63代[[天皇]](+ [[1011年]]) * [[昌子内親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]]、冷泉天皇の[[中宮]](+ [[1000年]]) * [[広平親王]]、平安時代の皇族(+ [[971年]]) == 死去 == {{see also|Category:950年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月24日]](天暦4年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[煕子女王]]、[[平安時代]]の[[皇族]](* 生年未詳) * [[ファーラービー]]、[[イスラーム]]の[[哲学者]]、[[数学者]]、[[科学者]]、[[音楽家]](* [[870年]]) * [[劉承祐]]、[[五代十国時代|五代]][[後漢 (五代)|後漢]]の第2代[[皇帝]](* [[931年]]) * [[ロターリオ2世 (イタリア王)|ロターリオ2世]]、[[イタリア王国 (中世)|イタリア王]](* 926年/928年) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|950}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=10|年代=900}} {{デフォルトソート:950ねん}} [[Category:950年|*]]
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性風俗関連特殊営業
性風俗関連特殊営業(せいふうぞくかんれんとくしゅえいぎょう)とは、日本において、ソープランドやファッションヘルスなど、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風営法)2条5項が定義し、同法などが規制する営業。営業には都道府県公安委員会への届出を要する。この届出をしている店舗を一般に性風俗店または風俗店という。 これらの営業を営む店舗は、立地面では建築基準法の規制で商業地域以外の用途地域では建築できない。これは全ての建築物の中で最も厳しいものである。 性風俗関連特殊営業は、自治体が定める暴力団排除条例において特定営業の一つとされることがある。同条例に基づく暴力団排除特別地域内で営業する性風俗関連特殊営業者は、暴力団員らに対して みかじめ料の支払いや便宜供与を行ってはならないとされており、違反者には支払った側であっても罰則が科される。
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性風俗関連特殊営業(せいふうぞくかんれんとくしゅえいぎょう)とは、日本において、ソープランドやファッションヘルスなど、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風営法)2条5項が定義し、同法などが規制する営業。営業には都道府県公安委員会への届出を要する。この届出をしている店舗を一般に性風俗店または風俗店という。
{{law}} {{性的}} '''性風俗関連特殊営業'''(せいふうぞくかんれんとくしゅえいぎょう)とは、日本において、[[ソープランド]]や[[ファッションヘルス]]など、[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]](風営法)2条5項が定義し、同法などが規制する営業。営業には[[都道府県]][[公安委員会]]への届出を要する。この届出をしている店舗を一般に[[風俗店|性風俗店または風俗店]]という。 == 性風俗特殊営業 == ; 店舗型性風俗特殊営業 - 次のいずれかに該当する営業 # 浴場業([[公衆浴場法]]1条1項に規定する[[公衆浴場]]を業として経営することをいう。)の施設として個室を設け、当該個室において異性の客に接触する役務を提供する営業 - [[ソープランド]] # 個室を設け、当該個室において異性の客の[[性的好奇心]]に応じてその客に接触する役務を提供する営業(前号に該当する営業を除く。)- 店舗型[[ファッションヘルス]] # 専ら、性的好奇心をそそるため衣服を脱いだ人の姿態を見せる興行その他の善良の風俗又は少年の健全な育成に与える影響が著しい興行の用に供する興行場(興行場法1条1項に規定するものをいう。)として政令で定めるものを経営する営業 - [[個室ビデオ]]、[[ストリップ劇場]]など # 専ら異性を同伴する客の宿泊(休憩を含む。以下この条において同じ。)の用に供する政令で定める施設(政令で定める構造又は設備を有する個室を設けるものに限る。)を設け、当該施設を当該宿泊に利用させる営業 - [[ラブホテル]]、[[レンタルルーム]]、[[モーテル]]など # 店舗を設けて、専ら、性的好奇心をそそる写真などを販売・貸し付ける営業 - [[アダルトグッズショップ]] # 店舗を設けて営む[[性風俗]]に関する営業で、善良の風俗、清浄な風俗環境又は少年の健全な育成に与える影響が著しい営業として、専ら、面識のない異性との一時の性的好奇心を満たすための交際を希望する者に対し、当該店舗内においてその者が異性の姿態若しくはその画像を見てした面会の申込みを当該異性に取り次ぐこと又は当該店舗内に設けた個室若しくはこれに類する施設において異性と面会する機会を提供することにより異性を紹介する営業 - [[出会い喫茶]] これらの営業を営む店舗は、立地面では[[建築基準法]]の規制で[[商業地域]]以外の[[用途地域]]では建築できない。これは全ての建築物の中で最も厳しいものである。 ; 無店舗型性風俗特殊営業 - 次のいずれかに該当する営業 # 人の住居又は人の宿泊の用に供する施設において異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業で、当該役務を行う者を、その客の依頼を受けて派遣することにより営むもの - [[デリバリーヘルス]](派遣型ファッションヘルス) # 電話その他の国家公安委員会規則で定める方法による客の依頼を受けて、専ら、前項5号の政令で定める物品を販売し、又は貸し付ける営業で、当該物品を配達し、又は配達させることにより営むもの - [[アダルトグッズ]]の[[通信販売]] ; 映像送信型 : 専ら、性的好奇心をそそるため性的な行為を表す場面又は衣服を脱いだ人の姿態の映像を見せる営業で、電気通信設備を用いてその客に当該映像を伝達すること(放送又は有線放送に該当するものを除く。)により営むもの - [[アダルトサイト]] == 電話異性紹介営業 == ; 店舗型電話異性紹介営業 : 店舗を設けて、専ら、面識のない異性との一時の性的好奇心を満たすための交際(会話を含む。次項において同じ。)を希望する者に対し、会話(伝言のやり取りを含むものとし、音声によるものに限る。以下同じ。)の機会を提供することにより異性を紹介する営業で、その一方の者からの電話による会話の申込みを電気通信設備を用いて当該店舗内に立ち入らせた他の一方の者に取り次ぐことによつて営むもの(その一方の者が当該営業に従事する者である場合におけるものを含む) - [[テレフォンクラブ]](入店型) ; 無店舗型電話異性紹介営業 : 専ら、面識のない異性との一時の性的好奇心を満たすための交際を希望する者に対し、会話の機会を提供することにより異性を紹介する営業で、その一方の者からの電話による会話の申込みを電気通信設備を用いて他の一方の者に取り次ぐことによつて営むもの(その一方の者が当該営業に従事する者である場合におけるものを含むものとし、前項に該当するものを除く。) - [[ツーショットダイヤル]]、携帯電話を利用した[[テレフォンクラブ]]など == 暴力団排除条例との関係 == 性風俗関連特殊営業は、自治体が定める[[暴力団排除条例]]において特定営業の一つとされることがある。同条例に基づく暴力団排除特別地域内で営業する性風俗関連特殊営業者は、[[暴力団]]員らに対して [[みかじめ料]]の支払いや便宜供与を行ってはならないとされており、違反者には支払った側であっても罰則が科される<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/anzen/tsuiho/haijo_seitei/haijo_q_a.html#cms58FE1|title=東京都暴力団排除条例 Q&A |publisher=警視庁 |date=2022-07-04 |accessdate=2022-08-20}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== {{Commonscat|Sex business}} *[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]] *[[風俗店]] *[[風俗営業]] *[[風俗街]] *[[風俗嬢]] *[[公衆道徳上有害業務]] *[[風俗店の歴史]] * [[性風俗用語一覧]] ==外部リンク== *[https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/tetsuzuki/fuzoku/gyoshu_ichiran.html 風俗営業等業種一覧] - 警視庁 {{性}} {{デフォルトソート:せいふうそくかんれんとくしゆえいきよう}} [[Category:性風俗関連特殊営業|*]] [[Category:日本の行政規制法]]
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2002年ソルトレークシティオリンピック
2002年ソルトレークシティオリンピック(2002ねんソルトレークシティオリンピック)は、2002年2月8日から2月24日までアメリカ合衆国・ユタ州のソルトレークシティで開催された21世紀最初のオリンピックであり、2000年代最初の冬季オリンピックでもある。前々回のノルウェーのリレハンメルが冬季五輪開催地で最も北、前回の日本の長野が冬季五輪開催地で最も南だったのに対し、今回のソルトレークシティは冬季五輪開催地としては最も標高の高い都市(約1,300 m)での大会として話題を呼んだ。なお、アメリカでは夏季の1996年アトランタオリンピックに続いて、最も直近に開催されたオリンピックでもあった。 テーマ(キャッチフレーズ)は、"Light the Fire Within."(心に火を灯せ)。同名のテーマ曲をデイヴィッド・フォスターが作曲、カントリー歌手のリアン・ライムスが開会式で披露した。 1995年にハンガリーのブダペストで行われたIOC総会にて、1回目の投票で開催が決定した。ソルトレークシティでのオリンピック招致は1932年レークプラシッドオリンピック、1972年札幌オリンピック、1992年アルベールビルオリンピック、1998年長野オリンピックの大会に立候補したが、いずれも落選している。特に1998年のオリンピック開催招致では、決選投票で日本の長野市に敗れた。 2000年代最初の冬季オリンピックは、テロリズムを警戒する厳重な警備体制の中開催された。本大会は、ジャック・ロゲ氏が国際オリンピック委員会の会長に就任してから初のオリンピックとなった。 開会式では、前年の9月11日に起きた同時多発テロの中心地、ニューヨーク世界貿易センタービルの跡地から発見したアメリカ国旗が入場し、冬季オリンピックでは初めて大統領が出席した。アメリカのスケルトン代表のジム・シェイ選手による選手宣誓、そして1980年レークプラシッドオリンピック男子アイスホッケー優勝のアメリカ代表チームによる聖火の点火が行われた。 ショートトラックスピードスケートの男子1000 mの決勝で選手が次々と転倒する中、オーストラリアのスティーブン・ブラッドバリーが南半球勢として初の冬季オリンピック金メダルを獲得した。この模様は日本ではNHK「ピタゴラスイッチ」の「○と△のしゅうだん」でも取り上げられている。 日本勢では、地元開催だった長野オリンピックに比べて不振で金メダルは1個も獲得することができず、前回長野の金メダリストであった2人(男子スピードスケート500 m・清水宏保の銀、女子モーグル・里谷多英の銅)の獲得した2個にとどまった。お家芸ともいわれたジャンプも、団体で5位入賞止まりに終わった。前回、長野では男女ともに5位だったカーリング(この大会は女子のみ出場権)も初戦から連敗続きで、早々にメダル争いから脱落するなど結果は全く残せなかった。 ソルトレイクシティ内の会場の他、ユタ州内北部に点在するいくつかの会場に分かれて開催された。 ソルトレークシティオリンピックでは、以下のようにトラブルがたびたび発生していた。
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2002年ソルトレークシティオリンピック(2002ねんソルトレークシティオリンピック)は、2002年2月8日から2月24日までアメリカ合衆国・ユタ州のソルトレークシティで開催された21世紀最初のオリンピックであり、2000年代最初の冬季オリンピックでもある。前々回のノルウェーのリレハンメルが冬季五輪開催地で最も北、前回の日本の長野が冬季五輪開催地で最も南だったのに対し、今回のソルトレークシティは冬季五輪開催地としては最も標高の高い都市での大会として話題を呼んだ。なお、アメリカでは夏季の1996年アトランタオリンピックに続いて、最も直近に開催されたオリンピックでもあった。 テーマ(キャッチフレーズ)は、"Light the Fire Within."(心に火を灯せ)。同名のテーマ曲をデイヴィッド・フォスターが作曲、カントリー歌手のリアン・ライムスが開会式で披露した。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 2002年ソルトレークシティオリンピック |英称・別称 = 第19回オリンピック冬季競技大会<br/>XIX Olympic Winter Games |画像 = SL Cauldron park.JPG |ロゴ = [[File:2002 Winter Olympics logo.svg | 220px]] |開催都市 = {{USA}} [[ソルトレイクシティ]] |参加国・地域数 = 77<ref name="com.olympics/salt-lake-city-2002">{{Cite web|和書|url=https://olympics.com/ja/olympic-games/salt-lake-city-2002 |title=ソルトレークシティ2002 冬季オリンピック - アスリート、メダル&結果 |accessdate=2022-03-29}}</ref> |参加人数 = 2,399人{{R|com.olympics/salt-lake-city-2002}} |競技種目数 = 7競技78種目 |開会式 = [[2002年]][[2月8日]] |閉会式 = 2002年[[2月24日]] |開会宣言 = [[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]{{R|com.olympics/salt-lake-city-2002}} |選手宣誓 = ジム・シェイ{{R|com.olympics/salt-lake-city-2002}} |審判宣誓 = [[アレン・チャーチ]]{{R|com.olympics/salt-lake-city-2002}} |最終聖火ランナー = [[1980年レイクプラシッドオリンピックのアメリカ合衆国選手団|1980年のアイスホッケーアメリカ五輪代表チーム]]{{R|com.olympics/salt-lake-city-2002}}<br/>(主将:[[マイク・エルジオーニ]]) |主競技場 = [[ライス・エクルズ・スタジアム]] |冬用前冬 = {{flagicon|JPN}}[[1998年長野オリンピック|1998年長野]] |冬用次冬 = {{flagicon|ITA}}[[2006年トリノオリンピック|2006年トリノ]] |冬用前夏 = {{flagicon|AUS}}[[2000年シドニーオリンピック|2000年シドニー]] |冬用次夏 = {{flagicon|GRE}}[[2004年アテネオリンピック|2004年アテネ]] }} '''2002年ソルトレークシティオリンピック'''(2002ねんソルトレークシティオリンピック)は、[[2002年]]([[平成]]14年)[[2月8日]]から[[2月24日]]まで[[アメリカ合衆国]]・[[ユタ州]]の[[ソルトレイクシティ|ソルトレークシティ]]で開催された[[21世紀]]最初の[[近代オリンピック|オリンピック]]であり、[[2000年代]]最初の[[冬季オリンピック]]でもある。前々回の[[ノルウェー]]の[[リレハンメル]]が冬季五輪開催地で最も北、前回の[[日本]]の[[長野市|長野]]が冬季五輪開催地で最も南だったのに対し、今回のソルトレークシティは冬季五輪開催地としては最も標高の高い都市(約1,300 m)での大会として話題を呼んだ。なお、アメリカでは夏季の[[1996年アトランタオリンピック]]に続いて、最も直近に開催されたオリンピックでもあった。 テーマ(キャッチフレーズ)は、"Light the Fire Within."(心に火を灯せ)。同名のテーマ曲を[[デイヴィッド・フォスター]]が作曲、カントリー歌手の[[リアン・ライムス]]が開会式で披露した。 == 開催招致まで == [[1995年]]に[[ハンガリー]]の[[ブダペスト]]で行われた[[国際オリンピック委員会|IOC]]総会にて、1回目の投票で開催が決定した。ソルトレークシティでのオリンピック招致は[[1932年レークプラシッドオリンピック]]、[[1972年札幌オリンピック]]、[[1992年アルベールビルオリンピック]]、[[1998年長野オリンピック]]の大会に立候補したが、いずれも落選している。特に1998年のオリンピック開催招致では、決選投票で日本の長野市に敗れた。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small" |-bgcolor="#efefef" |+ 2002年冬季オリンピック開催地投票 |- ! 都市 ! 国 ! 1回目 |- |style="background:#ccffcc;"|'''[[ソルトレイクシティ]]'''||style="background:#ccffcc;"|'''{{USA}}''' |style="background:#ccffcc;text-align:right"|'''54''' |- |[[シオン (スイス)|シオン]]||{{CHE}} | style="text-align:right"|14 |- |[[エステルスンド]]||{{SWE}} | style="text-align:right"|14 |- |[[ケベック (ケベック州)|ケベックシティ]]||{{CAN}} | style="text-align:right"|7 |- |} == ハイライト == [[ファイル:2002 Winter Olympics flame.jpg|thumb|200px|「氷上の奇跡」と言われた1980年レークプラシッド大会アメリカ代表の[[アイスホッケー]]チームが聖火台に点火した。]] [[2000年代]]最初の冬季オリンピックは、[[テロリズム]]を警戒する厳重な警備体制の中開催された。本大会は、[[ジャック・ロゲ]]氏が[[国際オリンピック委員会]]の会長に就任してから初のオリンピックとなった。 開会式では、前年の[[9月11日]]に起きた[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]の中心地、[[ニューヨーク世界貿易センタービル]]の跡地から発見したアメリカ国旗が入場し、冬季オリンピックでは初めて[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が出席した。アメリカのスケルトン代表のジム・シェイ選手による選手宣誓、そして[[1980年レークプラシッドオリンピックのアイスホッケー競技|1980年レークプラシッドオリンピック男子アイスホッケー]]優勝のアメリカ代表チームによる聖火の点火が行われた。 ショートトラックスピードスケートの男子1000 mの決勝で選手が次々と転倒する中、[[オーストラリア]]の[[スティーブン・ブラッドバリー]]が[[南半球]]勢として初の冬季オリンピック金メダルを獲得した。この模様は日本では[[日本放送協会|NHK]]「[[ピタゴラスイッチ]]」の「○と△のしゅうだん」でも取り上げられている。 日本勢では、地元開催だった長野オリンピックに比べて不振で金メダルは1個も獲得することができず、前回長野の金メダリストであった2人(男子スピードスケート500 m・[[清水宏保]]の銀、女子モーグル・[[里谷多英]]の銅)の獲得した2個にとどまった。お家芸ともいわれた[[スキージャンプ|ジャンプ]]も、団体で5位入賞止まりに終わった。前回、長野では男女ともに5位だった[[カーリング]](この大会は女子のみ出場権)も初戦から連敗続きで、早々にメダル争いから脱落するなど結果は全く残せなかった。 {{clear}} == 実施競技と日程 == {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small" |- !colspan="2"|競技名 / 日付!!style="width:1.5em"|8!!style="width:1.5em"|9!!style="width:1.5em"|10!!style="width:1.5em"|11!!style="width:1.5em"|12!!style="width:1.5em"|13!!style="width:1.5em"|14!!style="width:1.5em"|15!!style="width:1.5em"|16!!style="width:1.5em"|17!!style="width:1.5em"|18!!style="width:1.5em"|19!!style="width:1.5em"|20!!style="width:1.5em"|21!!style="width:1.5em"|22!!style="width:1.5em"|23!!style="width:1.5em"|24 |- |colspan="2"|開閉会式||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|• |- |rowspan="6"|[[スキー]]||style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのアルペンスキー競技|アルペンスキー]]|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのクロスカントリースキー競技|クロスカントリースキー]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのスキージャンプ競技|スキージャンプ]]||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || |- |style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのノルディック複合競技|ノルディック複合]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || |- |style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのフリースタイルスキー競技|フリースタイルスキー]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || |- |style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのスノーボード競技|スノーボード]]|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || |- |rowspan="3"|[[スケート]]||style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのスピードスケート競技|スピードスケート]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのフィギュアスケート競技|フィギュアスケート]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||ex|| || |- |style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのショートトラックスピードスケート競技|ショートトラックスピードスケート]]|| || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのアイスホッケー競技|アイスホッケー]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |rowspan="2"|[[ボブスレー]]||style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのボブスレー競技|ボブスレー]]|| || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのスケルトン競技|スケルトン]]|| || || || || || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのリュージュ競技|リュージュ]]|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのバイアスロン競技|バイアスロン]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[2002年ソルトレークシティオリンピックのカーリング競技|カーリング]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || |} == 競技会場 == [[ソルトレイクシティ]]内の会場の他、[[ユタ州]]内北部に点在するいくつかの会場に分かれて開催された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.joc.or.jp/games/olympic/saltlake/map/ |title=ソルトレークシティー2002 競技会場 - JOC |publisher=[[日本オリンピック委員会]] |accessdate=2021-10-11}}</ref>。 *ソルトレイクシティ **[[ライス・エクルズ・スタジアム|ライスエクレス・オリンピック・スタジアム]] - 開・閉会式 **[[ビビント・スマート・ホーム・アリーナ|ソルトレーク・アイス・センター]] - [[フィギュアスケート]]、[[ショートトラックスピードスケート]] *[[ウェストバレーシティ (ユタ州)|ウェストバレーシティ]] **{{仮リンク|マヴェリック・センター|en|Maverik Center|label=Eセンター}} - [[アイスホッケー]] *{{仮リンク|カーンズ (ユタ州)|en|Kearns, Utah|label=カーンズ}} **[[ユタ・オリンピックオーバル]] - [[スピードスケート]] *[[オグデン (ユタ州)|オグデン]] **{{仮リンク|ジ・アイス・シート・アット・オグデン|en|The Ice Sheet at Ogden|label=ザ・アイスシート・アット・オグデン}} - [[カーリング]] *{{仮リンク|ハンツビル (ユタ州)|en|Huntsville, Utah|label=ハンツビル}} **{{仮リンク|スノーベイスン|en|Snowbasin|label=スノーベイスイン・スキー・エリア}} - [[アルペンスキー]]([[スーパー大回転]]、[[滑降]]、[[アルペンスキー複合|複合]]) *[[パークシティ (ユタ州)|パークシティ]] **{{仮リンク|ユタ・オリンピック・パーク|en|Utah Olympic Park}} - [[スキージャンプ]]、[[ノルディック複合]](ジャンプ)、[[ボブスレー]]、[[スケルトン (スポーツ)|スケルトン]]、[[リュージュ]] **{{仮リンク|パークシティ・マウンテン・リゾート|en|Park City Mountain Resort}} - アルペンスキー([[大回転]])、[[スノーボード]] **{{仮リンク|ディア・バレー・リゾート|en| Deer Valley Resort|label=ディアー・バレー・リゾート}} - アルペンスキー([[回転 (スキー)|回転]])、[[フリースタイルスキー]] *{{仮リンク|ミッドウェイ (ユタ州)|en|Midway, Utah|label=ミッドウェイ}} **{{仮リンク|ソルジャーホロー|en|Soldier Hollow}} - [[クロスカントリースキー]]、ノルディック複合(クロスカントリー)、[[バイアスロン]] *[[プロボ (ユタ州)|プロボ]] **{{仮リンク|ピークス・アイス・アリーナ|en|Peaks Ice Arena|label=ザ・ピークス・アイス・アリーナ}} - アイスホッケー == 各国・地域の獲得メダル数 == {{Main|2002年ソルトレークシティオリンピックのメダル受賞数一覧}} {| {{RankedMedalTable}} |- | 1||style="text-align:left"| {{flagIOC|NOR|2002冬季}} ||13|| 5|| 7||25 |- | 2||style="text-align:left"| {{flagIOC|GER|2002冬季}} ||12||16|| 8||36 |- style="background-color:#ccccff" | 3||style="text-align:left"| {{flagIOC|USA|2002冬季}}(開催国) ||10||13||11||34 |- | 4||style="text-align:left"| {{flagIOC|CAN|2002冬季}} || 7|| 3|| 7||17 |- | 5||style="text-align:left"| {{flagIOC|RUS|2002冬季}} || 5|| 4|| 4||13 |- | 6||style="text-align:left"| {{flagIOC|FRA|2002冬季}} || 4|| 5|| 2||11 |- | 7||style="text-align:left"| {{flagIOC|ITA|2002冬季}} || 4|| 4|| 5||13 |- | 8||style="text-align:left"| {{flagIOC|FIN|2002冬季}} || 4|| 2|| 1|| 7 |- | 9||style="text-align:left"| {{flagIOC|NED|2002冬季}} || 3|| 5|| 0|| 8 |- |10||style="text-align:left"| {{flagIOC|AUT|2002冬季}} || 3|| 4||10||17 |} == 主なメダリスト == *[[ファイル:Med 1.png]] 金メダル **[[チェーティル・アンドレ・オーモット]](ノルウェー、アルペンスキー男子スーパー大回転、男子複合) **[[ヤニツァ・コステリッチ]](クロアチア、アルペンスキー女子大回転、女子回転、女子複合) **カナダ(アイスホッケー男子、女子) **[[ケーシー・フィッツランドルフ]] (アメリカ、スピードスケート男子500m) **[[スティーブン・ブラッドバリー]](オーストラリア、ショートトラックスピードスケート男子1000m) **[[アポロ・アントン・オーノ]] (アメリカ、ショートトラックスピードスケート男子1500m) **[[シモン・アマン]](スイス、スキージャンプノーマルヒル、ラージヒル) **[[アレクセイ・ヤグディン]](ロシア、フィギュアスケート男子シングル) **[[サラ・ヒューズ]](アメリカ、フィギュアスケート女子シングル) *[[ファイル:Med 2.png]] 銀メダル **[[清水宏保]](日本、スピードスケート男子500m) **[[ボディー・ミラー]](アメリカ、アルペンスキー男子大回転、男子複合) **ヤニツァ・コステリッチ(クロアチア、アルペンスキー女子スーパー大回転) **[[ゲオルク・ハックル]](ドイツ、リュージュ男子1人乗り) **[[トッド・ヘイズ]]、[[ランディ・ジョーンズ]]、ビル・シュッフェンハウエル、ギャレット・ハインズ(アメリカ、ボブスレー男子4人乗り) *[[ファイル:Med 3.png]] 銅メダル **[[里谷多英]](日本、フリースタイルスキー女子モーグル) **[[ジョーイ・チーク]](アメリカ、スピードスケート男子1000m) == 大会に関するトラブル == {{出典の明記|date=2022-03|section=1}} ソルトレークシティオリンピックでは、以下のようにトラブルがたびたび発生していた。 * 開催地決定後の[[1998年]]、ソルトレークシティ招致委員会によるIOC委員の買収疑惑が持ち上がった。その後、過去の招致レースでも各都市による買収工作が行われていたことが発覚し、IOC全体を巻き込む一大スキャンダルとなった。 * 開会式の[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領の開会宣言も、本来ならば[[オリンピック憲章]]第58条3項の規定で定められている「私は、第○回オリンピック冬季競技大会(開催都市名)大会の開会をここに宣言いたします」とするところをブッシュ大統領が宣言の前に、'''「誇り高く、優雅なこの国を代表して」'''(“On behalf of a proud, determined and grateful nation”)と政治的色彩のある言葉を付け加えてこれが物議となり、[[国際オリンピック委員会|IOC]]副会長が批判したほか、オリンピック憲章に違反するという指摘などが各方面で相次いだ。 * 開会式では、[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|世界貿易センタービル]]の残骸から出てきた[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]が掲揚された。これをアメリカのマスメディアが取り上げ、同大会のアメリカの政治利用という負の面を象徴していると報じられたこともあった。さらに、最終聖火ランナーとして聖火台点灯を行った[[1980年レークプラシッドオリンピック]][[アイスホッケーアメリカ合衆国代表|代表アイスホッケーチーム]]も、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[アフガニスタン]]侵攻直後に[[氷上の奇跡|米ソの対決で勝った]]ことから政治的に利用されたと見る向きもある。 * 前年の[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]の影響による厳しい警備とそれに伴う[[渋滞|交通渋滞]]、ソルトレークシティが飲酒を禁忌とする[[モルモン教]]の聖地(宗教都市)であるため、[[アルコール飲料|アルコール]]を提供する飲食店が高級ホテルのレストランなど、ごく一部に限られていたことも大会関係者や報道陣の[[ストレス (生体)|ストレス]]を増幅させる原因の1つとなった。 === 不可解な判定 === * フィギュアスケートのペア競技において、「フランスの審判員に不適切な行為があった」とされ、IOCによって2位のチームにも金メダルが与えられた{{R|com.olympics/salt-lake-city-2002}}。この事件は、後にフィギュアスケート競技の採点方法が根本的に変更される契機ともなった。(詳細は、「[[2002年ソルトレークシティオリンピックのフィギュアスケート・スキャンダル]]」の項を参照のこと。) * [[オーストラリア]]の[[スティーブン・ブラッドバリー]]が優勝したショートトラックでは、転倒や判定トラブルが多発した。[[大韓民国|韓国]]の[[金東聖]]が失格の判定を受け、韓国の[[ネチズン]]がこれを不服としIOCなどに対し、サイバーテロを行い問題になった。[[アポロ・アントン・オーノ]]や[[寺尾悟]]も不可解な失格となったことが問題視され、次回のトリノオリンピックからはビデオ判定が導入された。なお、優勝したブラッドバリーは終始集団から離れており、判定トラブルは全く無かった。 * ロシアの[[ラリサ・ラズチナ]]がレース前の血液検査で失格となり、一時選手団の引き上げを検討した。ただ、どちらも最終的には閉会式に出席した。 * 大会終盤になってもアルペン、クロスカントリーの選手が[[ドーピング]]で大量失格になるといったこともあった。 * スピードスケート男子500mにて、優勝したケーシー・フィッツランドルフの一本目のスタートがフライングではないかとの疑惑が持ち上がった。([[ケーシー・フィッツランドルフ#フライング疑惑]]を参照。) * 他にもアメリカ寄りと見られた判定が多く目立ったことなどから、会期の後半ならびに閉会後には地元のマスメディアからも、[[エイブラハム・リンカーン]]の演説を捩った'''「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための五輪」'''と揶揄された。さらには、一部の選手や役員が閉会式を実際にボイコットした。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[国際オリンピック委員会]] * [[冬季オリンピック]] * [[ソルトレイクシティパラリンピック]] * [[ミット・ロムニー]] - 大会組織委員長、後に[[マサチューセッツ州]]知事、[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙]][[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補。 * [[プロジェクト:オリンピック]] == 外部リンク == *[https://web.archive.org/web/20060813091231/http://www.saltlake2002.com/noflash/ ソルトレイクシティ・オリンピック公式サイト][https://web.archive.org/web/20000302203923/http://www.slc2002.org/home.html] {{en icon}} *[http://www.olympic.org/uk/games/past/index_uk.asp?&OLGT=2&OLGY=2002 IOC ソルトレイクシティ 2002] *[http://www.joc.jp/saltlake/index.asp JOCソルトレイクシティ・オリンピック(2002)特集] {{オリンピック}} {{2002年ソルトレークシティオリンピックの実施競技}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:そるとれいくしていおりんひつく}} [[Category:冬季オリンピックの歴代大会|2002]] [[Category:2002年ソルトレークシティオリンピック|*]]
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69
69(六十九、ろくじゅうきゅう、ろくじゅうく、むそじあまりここのつ)は、自然数、また整数において、68の次で70の前の数である。
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{{整数|Decomposition=3 × 23}} '''69'''('''六十九'''、ろくじゅうきゅう、ろくじゅうく、むそじあまりここのつ)は、[[自然数]]、また[[整数]]において、[[68]]の次で[[70]]の前の数である。 == 性質 == * 69は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[3]], [[23]], 69 である。 **[[約数の和]]は[[96]]。 *** 自身の約数の和が自身を並べ替えた数になる2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[258]]。({{OEIS|A115920}}) * 24番目の[[半素数]]である。1つ前は[[65]]、次は[[74]]。 * {{sfrac|1|69}} = 0.{{underline|0144927536231884057971}}… (下線部は[[循環節]]で長さは22) ** [[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が22になる3番目の数である。1つ前は[[46]]、次は[[92]]。 * 69 = (6 + 9) + (6 × 9) ** [[各位の和]]と各位の積を加えてできる6番目の数である。1つ前は[[59]]、次は[[79]]。({{OEIS|A038364}}) * [[各位の和]]が15になる最小の数である。次は[[78]]。 ** 各位の和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の14は[[59]]、次の16は[[79]]。({{OEIS|A051885}}) * 各位の[[平方和]]が117になる最小の数である。次は[[96]]。({{OEIS|A003132}}) ** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の116は[[468]]、次の118は[[169]]。({{OEIS|A055016}}) * [[1]]から[[9]]までの[[約数]]の和である。1つ前は[[56]]、次は[[87]]。 * [[約数]]の和が[[完全数]][[496]]になる唯一の数[[427]]と[[496]]との差が69である。 * [[倍積完全数]]の約数の総和で表せる数である。σ([[1]]) + σ([[6]]) + σ([[28]]) = 1 + 12 + 56 = 69 (ただし σ は[[約数関数]]) * 69 = 1<sup>2</sup> + 2<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> = 2<sup>2</sup> + 4<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> ** 3つの[[平方数]]の和2通りで表せる9番目の数である。1つ前は[[62]]、次は[[74]]。({{OEIS|A025322}}) ** 異なる3つの[[平方数]]の和2通りで表せる2番目の数である。1つ前は[[62]]、次は[[74]]。({{OEIS|A025340}}) ** 69 = 1<sup>2</sup> + 2<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> *** ''n'' = 2 のときの 1<sup>''n''</sup> + 2<sup>''n''</sup> + 8<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[11]]、次は[[521]]。({{OEIS|A074504}}) ** 69 = 2<sup>2</sup> + 4<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> *** ''n'' = 2 のときの 2<sup>''n''</sup> + 4<sup>''n''</sup> + 7<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[13]]、次は[[415]]。({{OEIS|A074534}}) * 69 = 7{{sup|2}} + 5{{sup|2}} − 3{{sup|2}} + 2{{sup|2}} ** ''n'' = 2 のときの 7{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} − 3{{sup|''n''}} + 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[11]]、次は[[449]]。({{OEIS|A135166}}) * 69 = 4{{sup|3}} + 4 + 1 ** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} + ''n'' + 1 の値とみたとき1つ前は[[31]]、次は[[131]]。({{OEIS|A071568}}) * 69 = 3{{sup|4}} − 3 × 4 ** ''n'' = 4 のときの 3{{sup|''n''}} − 3''n'' の値とみたとき1つ前は[[18]]、次は[[228]]。({{OEIS|A107583}}) * 69 = {{sfrac|1{{sup|5}} + 2{{sup|5}} + 3{{sup|5}}|7{{sup|0}} + 7{{sup|1}} + 7{{sup|2}} + 7{{sup|3}}}} × 10{{sup|2}} == その他 69 に関連すること == * [[中山道六十九次]]:[[中山道]]の[[宿場]]の数は、[[江戸]]〜[[京都]]間で69箇所。 * [[原子番号]] 69 の[[元素]]は[[ツリウム]] (Tm)。 * 俗に、[[性交]]時に互いの[[性器]]に顔を近づける体位を[[シックスナイン]]という。 ** [[セルジュ・ゲンスブール]]の楽曲「’69はエロな年 - 69, année érotique([[:fr:69 année érotique|fr]])」はこれにちなんで[[1969年]]に発表された。 ** [[みなもと太郎]]の「[[風雲児たち]]」では、子供が55人いたので有名な十一代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家斉]]の死去の際「享年はスケベの家斉にふさわしく69歳」というネタが描かれている。 * [[年始]]から数えて69日目は、[[平年]][[3月10日]]、[[閏年]][[3月9日]]。 * [[クルアーン]]における第69番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[真実 (クルアーン)|真実]]である。 * [[69 sixty nine]] は[[村上龍]]の小説。また同作品を原作とする映画。 * [[69★TRIBE ロック族]]は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[音楽番組]]。69(ロック)と読む。 * [[120フィルム]]、[[620フィルム]]での画面サイズ → [[中判カメラ#69判(ロクキュウ)|69判]] * 第69代[[天皇]]は、[[後朱雀天皇]]である。 * [[日本]]の第69代[[内閣総理大臣]]は、[[大平正芳]]である。 * [[大相撲]]の第69代[[横綱]]は、[[白鵬翔]]である。 * 第69代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ボニファティウス5世 (ローマ教皇)|ボニファティウス5世]](在位:[[619年]][[12月23日]]~[[625年]][[10月25日]])である。 * [[第69回選抜高等学校野球大会]]の優勝校は、奈良代表の[[天理高等学校|天理]]。 * [[第69回全国高等学校野球選手権大会]]の優勝校は、大阪代表の[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]。 * [[双葉山]]の69連勝は大相撲の最多連勝記録である。 * [[イチロー]]の69試合連続出塁は日本プロ野球の最多記録である。 * [[第六十九国立銀行]]は、[[北越銀行]]の前身となった明治期の[[銀行]]である。 * [[69 (AK-69のシングル)]]は、[[AK-69]]のシングルである。 * 交通事故死した[[ニッキー・ヘイデン]]が付けていたゼッケン番号は69で、[[motoGP]]の[[永久欠番]]である。 * [[69号室の住人]]は[[TOKYO MX]]の音楽番組。 * [[6ix9ine]]は[[アメリカ合衆国]]の[[ラッパー]]。 == 関連項目 == {{数字2桁|6|}} * [[6月9日]] {{自然数}}
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68
68(六十八、ろくじゅうはち、むそじあまりやつ)は、自然数、また整数において、67の次で69の前の数である。
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68(六十八、ろくじゅうはち、むそじあまりやつ)は、自然数、また整数において、67の次で69の前の数である。
{{整数|Decomposition=2{{sup|2}} × 17}} '''68'''('''六十八'''、ろくじゅうはち、むそじあまりやつ)は、[[自然数]]、また[[整数]]において、[[67]]の次で[[69]]の前の数である。 == 性質 == *68は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[4]], [[17]], [[34]], 68 である。 **[[約数]]の和は[[126]] 。 *{{sfrac|1|68}} = 0.01{{underline|4705882352941176}}… (下線部は[[循環節]]で長さは16) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が16になる4番目の数である。1つ前は[[51]]、次は[[85]]。 *[[約数]]の和が68になる数は1個ある。([[67]]) 約数の和1個で表せる21番目の数である。1つ前は[[63]]、次は[[74]]。 * [[偶数]]の内7番目の[[ノントーティエント]]である。1つ前は[[62]]、次は[[74]]。 ** 4の倍数という条件をつけると最小のノントーティエントである。 *[[各位の和]]が14になる2番目の数である。1つ前は[[59]]、次は[[77]]。 ** [[偶数]]という条件をつけると各位の和が14になる最小の数である。 *各位の[[平方和]]が100になる最小の数である。次は[[86]]。({{OEIS|A003132}}) ** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の99は[[177]]、次の101は[[168]]。({{OEIS|A055016}}) **各位の[[平方和]]が[[平方数]]になる18番目の数である。1つ前は[[60]]、次は[[70]]。({{OEIS|A175396}}) *各位の[[立方和]]が728になる最小の数である。次は[[86]]。({{OEIS|A055012}}) ** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の727は125557、次の729は[[9]]。({{OEIS|A165370}}) * 最小の[[完全数]][[6]]と2番目の完全数[[28]]の[[約数の和]]が68である。σ(6) + σ(28) = [[12]] + [[56]] = 68 (ただし σ は[[約数関数]]) *異なる2つの[[素数]]の和2通りで表せる最大の数である。1つ前は[[62]]。({{OEIS|A077914}})<br>68 = [[7]] + [[61]] = [[31]] + [[37]] **2つの[[素数]]の和2通りで表せる最大の数である。1つ前は[[38]]。({{OEIS|A067188}}) * 68 = 2{{sup|2}} + 8{{sup|2}} ** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる20番目の数である。1つ前は[[65]]、次は[[73]]。({{OEIS|A004431}}) ** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 8{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[10]]、次は[[520]]。({{OEIS|A074603}}) *68 = 4{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる32番目の数である。1つ前は[[67]]、次は[[70]]。({{OEIS|A025321}}) * 68 = 2{{sup|2}} × 17 ** ''n'' = 2 のときの 17 × 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[34]]、次は[[136]]。({{OEIS|A110287}}) **2つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' の形で表せる10番目の数である。1つ前は[[63]]、次は[[75]]。({{OEIS|A054753}}) * 68 = 4{{sup|3}} + 4 ** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} + ''n'' の値とみたとき1つ前は[[30]]、次は[[130]]。({{OEIS|A034262}}) *7乗した数の各位の和が元の数になる最大の数である。1つ前は[[58]]。({{OEIS|A226971}}) *:68{{sup|7}} = 6722988818432 → 6 + 7 + 2 + 2 + 9 + 8 + 8 + 8 + 1 + 8 + 4 + 3 + 2 = 68 ** ''n'' = 7 のときの ''n'' 乗した数の各位の和が元の数になる最大の数とみたとき1つ前の6乗は[[64]]、次の8乗は[[63]]。({{OEIS|A046000}}) * ''n'' = 68 のとき ''n'' と ''n'' + 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' + 1 を並べた数が素数になる10番目の数である。1つ前は[[62]]、次は[[78]]。({{OEIS|A030457}}) == その他 68 に関連すること == *10{{sup|68}} を[[無量大数]]と言い、[[漢数字]]で表現できる最大の位。 *[[原子番号]] 68 の[[元素]]は[[エルビウム]] (Er)。 *2002年から2004年まで放送された、[[BS-TBS|BS-i]] と[[BSフジ]]の共同制作[[テレビ番組]]。毎回[[フジテレビジョン|フジテレビ]]と [[TBSテレビ|TBS]] の両局[[アナウンサー]]が出演し、新進気鋭のクリエイターが制作した主に短編映画中心にを放送していた。タイトル名は両局の[[リモコンキーID]](BS-i が6、BSフジが8)に由来する。 *[[シャープ]]のパソコン、[[X68000]] は「ロクハチ」と呼ばれることがある。 *第68代[[天皇]]は、[[後一条天皇]]である。 *[[大相撲]]の第68代[[横綱]]は[[朝青龍明徳]]である。 *第68代[[教皇|ローマ教皇]]は[[アデオダトゥス1世 (ローマ教皇)|アデオダトゥス1世]](在位:[[615年]][[11月13日]]~[[618年]][[11月8日]])である。 *[[年始]]から68日目は[[平年]][[3月9日]]、[[閏年]][[3月8日]]。 *[[120フィルム]]での画面サイズ → [[中判カメラ#68判(ロクハチ)|68判]] *[[正規分布]]では、約68%が ±1''σ'' (±1[[標準偏差|S.D.]]) 以下の範囲に入る。 *[[User Datagram Protocol|UDP]] では [[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]] [[クライアントサイド|クライアント]]の[[ポート番号]]。 *[[クルアーン]]における第68番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[筆 (クルアーン)|筆]]である。 == 関連項目 == {{数字2桁|6|}} *[[6月8日]] {{自然数}}
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16,687
チップセット
チップセット(英: Chipset)とは、原義では、ある機能を実現するために組み合わされた複数の集積回路 (IC) の集まりであり、広義ではPC/AT互換機(に類似したパーソナルコンピュータ)のマザーボードに実装される、CPUの外部バスと、メモリや周辺機器を接続する標準バスとのバスブリッジなどの機能を集積した、少数の大規模集積回路 (LSI) をチップセットと呼ぶ。 2017年現在は集積化が進み一個である事が多いがチップセットという呼称を続けている。 2010年前後には、RFなどの高機能LSIとバスコントローラ、さらにマイクロコントローラ(に、さらに周辺を集積したSoC)などが連携し、スマートフォン等、ビジネスになる製品をワンストップで実装できる「ターンキー」システムとして設計されたLSIのセットを指しても「チップセット」という語が使われるようになっている。 本項では主として、前述のパーソナルコンピュータにおけるチップセットについて説明する。 当初のPC/AT互換機では、CPUメーカーが供給する標準的なCPU周辺ICと複数の汎用ICの組み合わせ(こちらが原義のチップセット)によって、制御回路を構成していた。チップセットは、低価格化や実装面積の削減などをはかるために、それら複数の周辺ICや汎用LSIを、より高集積で少数の専用LSIに統合したものである。 コンピュータシステムを都市にたとえるなら、チップセットの持つ高度なインタフェース機能は、都市における交通結節点に相当し、ある意味では、情報処理に特化しているCPUよりも、システムにおいて主要であると言える。実際に、1990年代以降のPC/AT互換機やそれに類似したマシン(PC-9800など)のマザーボードは特殊な場合を除き、CPUが設計の中心ではなく、チップセットが設計の中心である。特に32ビット時代の後半からは、CPUの交換が想定されているシステムは珍しくないが、チップセットのみの交換を想定しているシステムは存在しない。 チップス・アンド・テクノロジーズ(後の1997年にインテルに買収された)などが初期の代表的なメーカで、初期には、単に統合ASICと呼ばれることが多く、PCやマザーボードのカタログでも、取り立てて強調するようなことはなかった。チップセットという言葉が広く認知され始めたのは、PCIへの移行の初期頃の、インテルのi420TX (Saturn) やi430NX (Neptune) あたりからであり、PCの機能や性能への影響が大きくなったことと、パソコン自作のためにあまり表に出ないパーツが意識されるようになったためである。 1990年代のi430LX (Mercury) やi430FX (Triton) の時代になると、2チップ構成が一般的になった。ノースブリッジがCPUに統合されるまでは、CPUやメモリバスに近い側をノースブリッジ、遠い側で(比較的)低速な外部I/Oとのインタフェースの側をサウスブリッジと呼んでいた。 ノースブリッジには、CPUインタフェース、メモリコントローラ、グラフィックインタフェース(90年代 - 00年代前半はAGP、その後PCI Expressの一番上のx16スロット)が含まれ、更にGPUの機能を統合した統合チップセット(後述)などが存在した。現在では集積化が進み、従来のノースブリッジの機能はCPUに統合されていき、インテルプラットフォームでは2010年のNehalemマイクロアーキテクチャのLGA1156版より、AMDプラットフォームではAPUでは2011年のLlano(Socket FM1)、CPUでは2017年のRyzen(Socket AM4)にてすべての機能がCPUに統合されたため、現在では中古市場を除くパーソナルコンピューターのマザーボードにノースブリッジは存在しない。 サウスブリッジには、かつてのPCIやその後の一番上のPCI Express x16スロットを除くPCI Expressスロット、ATA、USB、EthernetなどのI/Oやサウンド機能が搭載されている。前述の通り現在のパーソナルコンピューターにはノースブリッジが存在しないため、旧来のサウスブリッジは単純にチップセットと呼ばれるようになり、拡張スロット及びオンボードデバイス用のPCI Expressコントローラ、SATAやNVMe及びそれらに接続されたストレージを管理するRAIDコントローラー、高速なUSBインタフェースが主な機能として搭載されている。初期には汎用のI/OバスであるPCIバスでノースブリッジとの接続が行われる事もあったが、その後は米インテル社のDMIや、米AMD社のUnified Media Interface、VIA社のV-Linkなど、ノースブリッジ接続用の高速バスを排他的に用いて高速化が図られていた。ノースブリッジがCPUと統合された後も、サウスブリッジとCPU間は専用の高速バスで接続されている。 高速な動作が必要でない、あるいは不可能であるようなレガシーデバイス(PS/2ポート、フロッピーディスクドライブ、シリアルポート、パラレルポート、ISAバス)をサポートする回路を組み込むことは、チップセット自体の高速化の足かせとなるため、1980年代後半以後はサウスブリッジのチップから分離させ、スーパーI/Oチップと呼ばれる別のLSIに担当させることが増えている。スーパーI/Oチップは、CPUから見ればサウスチップのさらに向こうにつながっていることになる。スーパーI/Oチップもチップセットの重要な一部であるが、その役割がPCの性能向上に寄与せず、現在ではあまり利用されることのないレガシーポートの管理であるため、マザーボードのスペックなどではあまり注目されない。 かつて製造販売されていたノースブリッジにグラフィックス機能を統合したチップセットを、統合チップセットと呼ぶ(「グラフィックス」または「ビデオ」を冠することもある)。オンボードグラフィックスに分類される。 一般的にGPUチップを搭載するよりも低コストであり、また省スペース性・省電力性にも優れていたため、それらのスペックが重視されるノートパソコン等では特に採用が多かった(たとえばMacBookで、多くの時期のモデルにおいてそうである)。 ビデオメモリはメインメモリの一部領域を共有するUnified Memory Architecture (UMA) が主流であったが、専用の外部メモリをサポートする製品もあった。 初期は性能が単体GPUに比べ劣ることもあったが、帯域幅的に外付けより有利な統合チップセットも存在し、マルチディスプレイ機能やDVI出力、Shader Model 4.0対応などの単体GPUと遜色ない機能と性能を持つようになっていた。 ノースブリッジ機能のCPUへの統合に伴い、統合グラフィックもCPUに移っている。 インテルやAMDなどのCPUメーカーは、自社製の純正チップセットを開発、供給している。これにより信頼性やブランドイメージを上げる事に貢献している。 x86以外のプラットフォームのチップセットについて。
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チップセットとは、原義では、ある機能を実現するために組み合わされた複数の集積回路 (IC) の集まりであり、広義ではPC/AT互換機(に類似したパーソナルコンピュータ)のマザーボードに実装される、CPUの外部バスと、メモリや周辺機器を接続する標準バスとのバスブリッジなどの機能を集積した、少数の大規模集積回路 (LSI) をチップセットと呼ぶ。 2017年現在は集積化が進み一個である事が多いがチップセットという呼称を続けている。 2010年前後には、RFなどの高機能LSIとバスコントローラ、さらにマイクロコントローラ(に、さらに周辺を集積したSoC)などが連携し、スマートフォン等、ビジネスになる製品をワンストップで実装できる「ターンキー」システムとして設計されたLSIのセットを指しても「チップセット」という語が使われるようになっている。 本項では主として、前述のパーソナルコンピュータにおけるチップセットについて説明する。
{{出典の明記|date=2021年5月}} [[ファイル:Intel82443bx_agpset.jpg|thumb|right|チップセットに用いられるLSI例]] '''チップセット'''({{lang-en-short|Chipset}})とは、原義では、ある機能を実現するために組み合わされた複数の[[集積回路]] (IC) の集まりであり、広義では[[PC/AT互換機]](に類似した[[パーソナルコンピュータ]])の[[マザーボード]]に[[実装]]される、[[CPU]]の外部[[バス (コンピュータ)|バス]]と、[[主記憶装置|メモリ]]や[[周辺機器]]を接続する標準バスとのバスブリッジ<ref>CPU-PCIバスブリッジなどのチップはコンパニオンチップとも呼ばれる。</ref>などの機能を集積した、少数の大規模集積回路 (LSI) をチップセットと呼ぶ。 2017年現在は集積化が進み一個である事が多いがチップセットという呼称を続けている<ref>1個で果たして「セット」(集合)という呼称が正しいものか悩ましいが、数学的には含まれる[[元 (数学)|要素]]が1個という「一者集合」も[[集合]]ではある。</ref>。 2010年前後には、RFなどの高機能LSIとバスコントローラ、さらに[[マイクロコントローラ]](に、さらに周辺を集積した[[System-on-a-chip|SoC]])などが連携し、[[スマートフォン]]等、ビジネスになる製品をワンストップで実装できる「ターンキー」システムとして設計されたLSIのセットを指しても「チップセット」という語が使われるようになっている<ref>[http://eetimes.jp/ee/articles/1605/19/news033.html この10年で起こったこと、次の10年で起こること(5):半導体業界の秩序を変えた「チップセットの支配力」 (1/3) - EE Times Japan]</ref>。 本項では主として、前述のパーソナルコンピュータにおけるチップセットについて説明する。 == 概要 == [[File:Chicony CH-286N-16 (1280x700 deutsch).jpg|thumb|4チップ構成のチップセットを用いた初期のPC/AT互換マザーボード]] 当初の[[PC/AT互換機]]では、CPUメーカーが供給する標準的なCPU周辺ICと複数の汎用ICの組み合わせ(こちらが原義のチップセット)によって、制御回路を構成していた<ref>[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]コントローラ、i8257[[Direct Memory Access|DMA]]コントローラ、INS8250シリアルI/O、パラレルI/O、μPD765A[[フロッピーディスク|FDD]]コントローラなど。</ref>。チップセットは、低価格化や[[実装]]面積の削減などをはかるために、それら複数の周辺ICや汎用LSIを、より高集積で少数の専用LSIに統合したものである。 [[コンピュータシステム]]を都市にたとえるなら、チップセットの持つ高度な[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]機能は、都市における[[交通結節点]]に相当し、ある意味では、[[情報処理]]に特化している[[CPU]]よりも、システムにおいて主要であると言える<ref>もう少し歴史的な観点から見ると、マイクロプロセッサ以前のコンピュータ([[メインフレーム]]や[[ミニコンピュータ]])ではCPUの一部であったチャネルコントローラなどが、CPU性能の向上が重視されたパーソナルコンピュータにおいて分離されたものとも言える。逆にコストが重視された分野では、[[マイクロコントローラ]]のように周辺も集積する方向性が進んだ。</ref>。実際に、1990年代以降のPC/AT互換機やそれに類似したマシン([[PC-9800]]など)のマザーボードは特殊な場合を除き、CPUが設計の中心ではなく、チップセットが設計の中心である。特に[[32ビット]]時代の後半からは、CPUの交換が想定されているシステムは珍しくないが、チップセットのみの交換を想定しているシステムは存在しない。 [[チップス・アンド・テクノロジーズ]](後の1997年に[[インテル]]に買収された)などが初期の代表的なメーカで、初期には、単に統合[[ASIC]]と呼ばれることが多く、PCやマザーボードの[[カタログ]]でも、取り立てて強調するようなことはなかった。チップセットという言葉が広く認知され始めたのは、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]への移行の初期頃の、インテルのi420TX (Saturn) やi430NX (Neptune) あたりからであり、PCの機能や性能への影響が大きくなったことと、[[パソコン自作]]のためにあまり表に出ないパーツが意識されるようになったためである。 == 構成 == 1990年代のi430LX (Mercury) やi430FX (Triton) の時代になると、2チップ構成が一般的になった。ノースブリッジがCPUに統合されるまでは、CPUやメモリバスに近い側を'''ノースブリッジ'''<ref>組み込みシステムや[[Macintosh]]ではシステムコントローラと呼ばれる。なお、システムコントローラにはI/Oコントローラなどの周辺チップやCPUを統合している場合もある。</ref>、遠い側で(比較的)低速な外部I/Oとのインタフェースの側を'''サウスブリッジ'''<ref>MacintoshではI/Oコントローラと呼ばれる。</ref>と呼んでいた。 ノースブリッジには、CPUインタフェース、[[メモリコントローラ]]<ref>AMD系チップセットはメモリーコントローラーはCPU内蔵</ref>、[[グラフィック]]インタフェース(90年代 - 00年代前半は[[Accelerated Graphics Port|AGP]]、その後[[PCI Express]]の一番上のx16スロット)が含まれ、更に[[Graphics Processing Unit|GPU]]の機能を統合した統合チップセット([[#統合チップセット|後述]])などが存在した。現在では集積化が進み、従来のノースブリッジの機能はCPUに統合されていき、インテル[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]では2010年の[[Nehalemマイクロアーキテクチャ]]の[[LGA1156]]版より、[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]プラットフォームではAPUでは2011年のLlano([[Socket FM1]])、CPUでは2017年の[[Ryzen]]([[Socket AM4]])にてすべての機能がCPUに統合されたため、現在では中古市場を除くパーソナルコンピューターのマザーボードにノースブリッジは存在しない。 サウスブリッジには、かつての[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]やその後の一番上のPCI Express x16スロットを除くPCI Expressスロット、[[Advanced Technology Attachment|ATA]]、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]、[[イーサネット|Ethernet]]などのI/Oや[[オンボード#チップセット統合機能によるオンボードサウンド機能|サウンド機能]]が搭載されている。前述の通り現在のパーソナルコンピューターにはノースブリッジが存在しないため、旧来のサウスブリッジは単純にチップセットと呼ばれるようになり、拡張スロット及びオンボードデバイス用のPCI Expressコントローラ、[[SATA]]や[[NVMe]]及びそれらに接続されたストレージを管理する[[RAID]]コントローラー、高速なUSBインタフェースが主な機能として搭載されている。初期には汎用のI/OバスであるPCIバスでノースブリッジとの接続が行われる事もあったが、その後は米インテル社の[[Direct_Media_Interface|DMI]]や、米AMD社のUnified Media Interface、[[VIA_Technologies|VIA]]社のV-Linkなど、ノースブリッジ接続用の高速バスを排他的に用いて高速化が図られていた。ノースブリッジがCPUと統合された後も、サウスブリッジとCPU間は専用の高速バスで接続されている。 高速な動作が必要でない、あるいは不可能であるような[[レガシーデバイス]]([[PS/2ポート]]、[[フロッピーディスク|フロッピーディスクドライブ]]、[[シリアルポート]]、[[パラレルポート]]、[[Industry Standard Architecture|ISA]]バス<ref>ごく一部の組み込み用マザーボードにはまだ採用されている。</ref>)をサポートする回路を組み込むことは、チップセット自体の高速化の足かせとなるため{{要出典|date=2019年6月|title=半導体製造プロセスが異なる?}}、1980年代後半以後はサウスブリッジのチップから分離させ、'''[[スーパーI/O]]チップ'''と呼ばれる別のLSIに担当させることが増えている。スーパーI/Oチップは、CPUから見ればサウスチップのさらに向こうにつながっていることになる。スーパーI/Oチップもチップセットの重要な一部であるが、その役割がPCの性能向上に寄与せず、現在ではあまり利用されることのないレガシーポートの管理であるため、マザーボードのスペックなどではあまり注目されない。 <gallery> ファイル:Chipset schematic.svg|2チップ構成のチップセット模式図 ファイル:Motherboard diagram.svg|2チップ構成チップセットを用いたマザーボード[[ブロック図]] ファイル:Intel G45 Chipset(ASUS P5Q-EM).jpg|ノースブリッジの一例。インテル製G45チップ ファイル:Schipset Sul South Bridge.jpg|サウスブリッジの一例。インテル製ICH5R </gallery> == 統合チップセット == [[ファイル:Sis_760gxlv.jpg|thumb|right|統合チップセットの例 (SiS760)]] {{see also|オンボードグラフィック#グラフィックス統合チップセットによるオンボードグラフィックス}} かつて製造販売されていた[[ノースブリッジ]]に[[コンピュータグラフィックス|グラフィックス機能]]を統合したチップセットを、'''統合チップセット'''と呼ぶ(「グラフィックス」または「ビデオ」を冠することもある)。[[オンボードグラフィック|オンボードグラフィックス]]に分類される。 一般的に[[Graphics Processing Unit|GPU]]チップを搭載するよりも低[[コスト]]であり、また省スペース性・[[省電力]]性にも優れていたため、それらの[[スペック]]が重視される[[ノートパソコン]]等では特に採用が多かった(たとえば[[MacBook]]で、多くの時期のモデルにおいてそうである)。 [[ビデオメモリ]]は[[メインメモリ]]の一部領域を共有する'''[[ユニファイドメモリアーキテクチャ|Unified Memory Architecture]]''' (UMA) が主流であったが、専用の外部メモリをサポートする製品もあった。 初期は性能が単体GPUに比べ劣ることもあったが、[[eDRAM|帯域幅的に外付けより有利な統合チップセット]]も存在し、[[マルチディスプレイ]]機能や[[Digital Visual Interface|DVI]]出力、[[DirectX|Shader Model 4.0]]対応などの単体GPUと遜色ない機能と性能を持つようになっていた。 ノースブリッジ機能のCPUへの統合に伴い、[[オンボードグラフィック|統合グラフィック]]もCPUに移っている。 == 代表的なメーカーとチップセット == インテルやAMDなどのCPUメーカーは、自社製の[[純正]]チップセットを開発、供給している。これにより[[信頼性]]や[[ブランドイメージ]]を上げる事に貢献している。 ; サードパーティーメーカーの撤退 : [[サードパーティー]]のメーカーは、統合型のチップセットによる実装[[工数]]の削減や、価格的なアドバンテージをマザーボード製造メーカーにアピールする傾向にあり、低価格PC向けに採用されることが多かった。一方で、[[ベンチマーク]]性能やインターフェイスの充実を重視する製品を積極的に投入しているメーカーもあった。 : サードパーティー製チップセットは、[[不具合]]や[[相性]]問題を抱える製品が少なからず存在<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980819/hot003.htm ■元麻布春男の週刊PCホットライン■ AGPの互換性]</ref>し、特に[[Peripheral_Component_Interconnect|PCI]]インターフェイス搭載の拡張カードは、[[インテル]]純正チップセットでのみ動作保証するという製品が多数見かけられた(ただし、各CPUメーカーの純正品が必ずしも安定しているという訳でもない)。チップセットドライバ、[[Basic Input/Output System|BIOS]]の更新や調整、各[[拡張カード]]の[[デバイスドライバ]]や[[ファームウェア]]の更新で安定することもある。 : サードパーティーのチップセットメーカーは常に熾烈な競争を繰り広げていた。かつては台湾系チップセットメーカー (ALi (ULi), SiS, VIA) が主なサードパーティーメーカーとして競争を繰り広げていた。2000年代前半より、ATIやNVIDIAといった大手グラフィックス専業メーカーがチップセット製造販売に参入し、マザーボードへの採用数も急増した。こうして、古くからあるチップセット専業メーカーは新参のメーカーにシェアを奪われた。そして2005年、この業界で古参にあたるULiがNVIDIAに買収され、NVIDIAのアジア地区営業担当とチップセット開発に携わるようになった。2006年にはAMDがATIを買収し、ATIチップセットがAMD純正として扱われるようになる。そのため、ATIのインテル向け新製品供給は無くなった。VIAはインテル、AMD向けの開発から撤退し、自社CPU向けチップセットのみの開発となる。NVIDIAとSiSもチップセットの開発から撤退した。 === PC/AT互換機用 === * インテル(詳細については[[インテル チップセット]]の項目を参照) ** [[Intel 440BX|i440BX]],i440MX,i440GX (Pentium Pro/Pentium II向け) ** [[Intel 810|i810]],[[Intel 815|i815]],[[Intel 820|i820]],[[Intel 830|i830]] ** i840,[[Intel 845|i845]],[[Intel 850|i850]],i860,i865 ** i855,i915,i945 ** i925,i955,i965,i975 ** P3x,G3x,Q3x,X3xシリーズ ** P4x,G4x,Q4x,X4xシリーズ ** E7200/E7500/E8500 シリーズ ** P55,H55,H57,Q57,X58 ** Z68,P67,H67,H61など * [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]](詳細については[[AMD チップセット]]の項目を参照) ** AMD690G,690V ** AMD740G,750,760G,770,780G,780V,785G,790GX,790X,790FX ** AMD870,AMD880G,AMD890GX,AMD890FX ** AMD970,AMD990X,AMD990FX ; 撤退、又は買収されたメーカー * [[ATI Technologies]] - AMDに買収され、事実上AMD製品専門となる ** RADEON IGP/XPRESS シリーズ * [[ALi (企業)|ALi]]/[[ULi]] - ULiはALiのチップセット部門が[[スピンオフ]]した子会社。2005年にNVIDIAに買収された ** ALADDiN5,ALADDiN-Pro5,ALiMAGiK1 (ALi) ** M1683,M1689,M1695,M1697 (ULi) * [[NVIDIA]] ** nForce シリーズ ** GeForce GT 9400M, 320M * [[SiS]] ** SiS530,630,650,660,735,745,746,751,755,761 * [[VIA Technologies|VIA]] ** Apollo MVP3,Pro133A,KT266A,KT400,KT600 ** K8T/K8M シリーズ ** P4X/P4M シリーズ === サーバ、ワークステーション向け === * [[ブロードコム]] (Broadcom) ** HT-2000,HT-2100 * [[ServerWorks]] ** ServerSet === x86以外 === [[x86]]以外のプラットフォームのチップセットについて。 * [[Apple|Apple Computer]] - [[x86]]化以前、[[PowerPC]]を搭載した[[Macintosh]]向けにチップセットを独自開発していた。[[IBM]]と共同開発したシステムコントローラは、Apple ComputerがMacintoshに搭載するCPUをインテル製品に移行した後も、IBMの一部製品に使われている。 * [[日本電気|NEC]] * [[東芝]] * [[IBM]] - 自社開発の[[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]]・PowerPC搭載システム向けのチップセットを開発・製造している。 * [[シリコングラフィックス]] - chapter11適用前は[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]系[[RISC]] CPU最強を誇るチップセットメーカーでもあった。 * [[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション]] - 買収前は[[DEC Alpha|Alpha]]向け、現在は[[ヒューレット・パッカード]]となり[[Itanium]]系チップセットメーカーである。 == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == * [[オンボード]] * [[High Precision Event Timer]] (HPET) * [[インテル チップセット]] ** [[I/O コントローラー・ハブ]] (ICH) ** [[プラットフォーム・コントローラー・ハブ]] (PCH) ** [[Direct Media Interface]] (DMI) * [[AMDチップセット]] ** [[HyperTransport]] (HT) {{デフォルトソート:ちつふせつと}} [[Category:チップセット|*]] [[Category:ハードウェア]] [[Category:マザーボード]]
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2023-04-05T11:54:11Z
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